西洋文明 雑話 [3]

リヴァイアサン書評1書評2書評3リヴァイアサン1リヴァイアサン2ホッブズの思想ホッブズ評価ロックの社会思想ルソーの思想・・・
「自由」論 / 日本本来の自由西洋哲学の自由西洋式「自由」論西洋古代キリスト教ホッブズロックルソーアダムスミスカントヘーゲルシェリングミルフロムハイエクバーリンロールズ西洋「自由」の考察明治以降の自由飜訳された自由穢された自由護られた自由現日本の自由言葉という「自由」・・・
リヴァイアサンの人間論「文化」 論スピノザスピノザ「神学政治論」の歴史的背景スピノザにおける資本主義批判自由意志の主体と統治Newton's「Principia」・・・
 

雑学の世界・補考   

リヴァイアサン(Leviathan) / 書評1

ホッブスの政治思想
トーマス・ホッブス Thomas Hobbesは、政治理論に関する最初の近代的な思想を展開した人である。ホッブス以前にマキャヴェリがいて、古い因習から開放された新しい権力のあり方を論じていたが、それはまだ近代的な国家というものと結びついていなかった。政治を国家論とからめながら、そこに近代的な考えを持ち込んだのはホッブスが初めてなのである。
プラトンとアリストテレス以来、政治学には二つの大きなテーマがあった。一つは最良の国家の形態とは何かということであり、もうひとつは国家の権力はいかにあるべきかということであった。
これらの問いに対してホッブスは、最良の国家の形態は君主制であり、その権力は絶対的でなければならないと答えた。その限りでは、ホッブスはアリストテレスの問題意識と大して変わらないともいえる。だが彼のユニークな点は、たとえ君主制の国家であっても、その正当性の根拠を人々相互の間の契約、つまり人民の自由な意志に求めたことであった。
国家というものは天から降って湧いたものではない。また外部から強制されるものでもない。それはあくまでも成員の自由な意思に基づいて成立する。こう考えるところがホッブスの政治理論の新しさである。
ホッブスは国家が成立する必然性を、人間の本性のうちに求めた。そこで援用される人間の見方は、彼の哲学理論と密接に結びついている。人間とは生まれた状態では何らの観念をも抱いておらず、経験によって少しずつ利口になっていく生き物である。だから原始的な状態における人間相互の関係というものは、あらかじめ定められた客観的な規範もなく、したがって無秩序そのものである。このような状態では、人々は自分の自己保存のために、それぞれ勝手に動き回るようになる。その結果が果てしない争いにつながるのは容易に見て取れる。
ホッブスの有名な命題、「人間は互いに対して狼である」というのは、このようなホッブスの人間観を政治の側面から説明した言葉である。
人々が国家というものを作るのは、原始的な無秩序を脱却して、安心して生きていくためである。そのために人々は自分の自由の一部を国家に預けるような契約を互いに決め交わす。肝心なのは、この契約が人々相互の間でなされるという点であり、人民と国家の間でなされる点ではないことだ。国家はあくまで人民の自発的な意思に根拠を有しているのである。
こうして生まれた国家は、 Commonwealthと称され、またリヴァイアサン Leviathan と呼ばれる。リヴァイアサンは不死ではない神である。つまり人々の公の行為を律する天の声なのだ。
人民から委託を受けた国家には、その権力を行使する主権者が生まれる。ホッブスはその主権者を、一人の君主であるべきで、その権力は絶対的でなければならないと考えた。
ホッブスがそう考えた理由は、彼が生きた時代背景のなかに潜んでいる。ホッブスはもともと王党派的な考え方を持っていたが、クロムウェルによる政治を目にしてからは、政治的なアナーキーに対する憎悪感をいっそう強めた。彼にとっては、クロムウェルの支配は無政府状態そのものだった。彼はだから、少しくらい圧制的な僭主政治でも、無政府状態よりはましだと思うようになったのだろう。
クロムウェルの時代にイギリスに内乱が起こったのは、権力が国王、貴族、平民の間に分割されていたからだ、権力は分割されるべきではなく、主権者の一身に集中されなければならぬ。こう考える点で、ホッブスはロックやモンテスキューとは違った思想を抱いていた。
人民は自分の自由な意志に基づくとはいえ、いったん権力を主権者に手渡した上は、主権者の命令には無条件に従わねばならない。それは、主権者の利害と人民の利害とは必ず一致するという、暗黙の前提があって始めていえたことだろう。
しかし、主権者は常に正しいことのみをなすとは限らない。馬鹿げた命令でも常に従えということになれば、どんな圧制でもまかりとおることになる。だからホッブスは、そこに一つの例外を認める。それは人間の自己保存はあらゆるものに優先するという考えだ。
人間には人間として生きていくうえで譲れない最低の条件がある。それは自己保存をする上での安全な生き方の保証である。何人もこれを侵害することはできない。
人民には、主権者が自分たちの安全を脅かすような場合には、それに抵抗する権利がある。なぜなら人民が国家を作り出したのは、そもそも自分たちの安全を確保するのが目的だったのだから。
これは基本的人権と抵抗権の思想につながる考えだ。ホッブスがこの考えを述べる時には、申し訳程度に聞こえるのであるが、その後の政治思想家たちによって改めて取り上げられ、近代政治学にとっての核心的な思想へと発展していく。
ホッブスが「リヴァイアサン」を出版したのは1651年である。そのとき彼は、クロムウェルから逃れてフランスに亡命していた。ところがこの書物は、誰にも喜ばれなかったばかりか、フランス政府を怒らせもした。無神論とカトリック攻撃がその理由である。そこでホッブスはフランスを逃げ出し、イギリスに戻ってクロムウェルに屈服せざるを得なくなった。
彼が生きた時代には、政治的な発言は命がけだったのである。  
 
リヴァイアサン / 書評2

 

生存は譲渡不可能なものである。だからこそアナキストが「さあ、この命、もっていけ」というのやテロリストの自爆は、この原則を大幅にくつがえすものとしての意味をもつ。
しかしこれは例外であって、どんなシステムやステートにおいても生存権は譲れないということが大前提になる。それゆえ自身の生存は自身で保つ以外はない。これが自己保存権である。ホッブズの政治思想はここから出発する。
ところが、心身の健全な個人が自己保存権を守りきろうとすれば、どこかで別の個人との自己保存との摩擦や競争がおこることは避けられない。憎悪も対立も殺害も、このためおこる。これらの個人の生存保存欲が個々ばらばらにつながれば、そのうち集団間での戦争まで発展しかねない。これが社会の自然状態というものだ。
この自然状態から生まれる対立と混乱を解消するには、村落や自治都市などを想定することになるが、これを最大限に拡張すれば、そこに国家主権を設定することになる。このとき個人に発生する人権と国家に発生する国権はどのような緊張関係をもち、どのような調整をはかるべきなのか。そこにどのような政治社会システムがあるべきなのか。
これが『リヴァイアサン』という大著のテーマになった。時代は17世紀のイギリスを舞台にしている。
ポール・オースター(第243夜)に『リヴァイアサン』(新潮文庫)がある。一人の男が道端で爆死して、その死体が15メートル四方に散乱した。
この男ベンジャミン・サックスは自由の女神像を爆破しようとしていたテロリストだった。アメリカには自由の女神が各地に何体も何十体もあって、それをことごとく爆破しようというテロリストである。男は何度かの成功で「ファントム・オブ・リバティ」(自由の怪人)を名のっていた。この男と作家である「私」は、ある朗読会で一緒になったことがあった。ちょっと親密感も感じていた。それに「私」は彼の女房が好きだった。それにしても、その男がどうしてテロリストなどになったのか。その男が追いつめたかったリヴァイアサンとは何か。「私」はその謎を追ってさまざまな人物たちに出会っていく。なぞは深まるばかりだが、「私」は国というものの本質にどこかで触知したように思った。そういう小説である。
リヴァイアサンは旧約聖書に登場する巨大な幻獣のことであるが、当然、ポール・オースターはホッブズの『リヴァイアサン』を下敷きにしている。すなわち近代国家の先駆体としてのリヴァイアサンである。
そこには絶対の権力が秘められている。どんな個人も、その根本の生存を追求すれば、いつかリヴァイアサンに出会うことになる。
オースターはこの問題を20世紀末のアメリカ社会に蘇らせようとした。小説冒頭のエピグラムに、エマーソンの「すべての現実の国家は腐敗している」を引いているのも、オースターの言いたかったことを暗示する。プロットやテーマからして、映画にすればおもしろくなるだろう。
さて、ホッブズが『リヴァイアサン』で設定した問題は、国家が個人を圧殺する宿命をもっているということではなかった。
ホッブズの時代の国家は王権時代である。王権が主権であるような社会では、この自然的な生存権を保証しようとするときにどういう問題がおこるのか。ホッブズはそこを考えたかった。
王権は臣民の生存保存権を保証しなければならない。そのためには人権は絶対視されなければならない。ときには臣民に絶対服従をしてもらわなければ、王権下の人権は統制できない。しかし、王権が臣民の生命と身体を傷つけるようになるなら、その者は絶対服従を解除されて抵抗または逃亡する権利があるはずだ。それが生存権というものである。けれども、このように考えると主権と人権はどこかでどうしても矛盾する。そこをどう考えればいいか。
そこでホッブズは、国家というものは人権が寄り集まって国家をつくるのだと考えた。すなわち国家機構は、厖大な人間が集まってつくりあげられた巨大な“人工人間装置”のようなものではないか、それは幻獣リヴァイアサンのようなものではないかと考えたのである。
このことは、『リヴァイアサン』の第1部で国家の諸機能を人体と比較していることにもよく象徴されている。
あまりにアナロジカルな“国権−人権近似説”のようにも思われるかもしれないが、このような国家機構観はそれまでまったくなかったものだった。独創的だった。そのため、発表当時は次世代の理神論者やデヴィッド・ヒュームなどをのぞいてまったく理解されなかったのだが、やがて啓蒙時代がやってくると、ルソー(第663夜)やモンテスキューによって「社会契約説の先駆理論」として評価されるようになった。
ホッブズが幻獣国家リヴァイアサンを“発見”したのは、ホッブズがフランスに亡命していたときのことである。
クロムウェル率いる議会軍隊によってチャールズ1世が断頭台で処刑されるという前代未聞の“市民革命”のなか、ホッブズが陰謀をたくらんでいるとか無神論者扱いされたからだった。10年以上の亡命生活だった。が、そこでホッブズは近代国家の怪物たるリヴァイアサンを“発見”する。
ホッブズがリヴァイアサンを“発見”したのは、社会に自然状態というフィクションを想定できたからだった。国家も法律もない社会に裸の人間をおいてみる。このフィクションからスタートをして、何がおこるかというシナリオを考えた。
このシナリオでは生命原理がエンジンである。それが生存権にあたる。ところがこれでは「万人の万人による闘争」に陥ってしまう危険性がある。これを克服するには、個人はいったん個々の生存権をどこかに“おあずけ”し、万人闘争を休止させる必要がある。単なる“おあずけ”では誰も承服しない。それは封建制への逆戻りになる。人民の徒手空拳の“おあずけ”を保証する機構が必要である。ホッブズはそれがリヴァイアサンとしての国家だとみなしたのだ。ルソーはこの“おあずけ”に社会契約説の先駆性を見た。
このリヴァイアサンとしての国家機構は、以上の理由からもわかるように、個々のすべての生命と身体をすべて吸収したものである。そのため、国家機構のどんな部位にも個々の生命や身体の代理機関や代償部品がびっしり装着されることになる。そういう意味では、これは無数の人間を集合させた化け物である。
そうなのだ。リヴァイアサンはちっぽけな人間を無数に集めて造られた巨大なトロイの木馬であり、人間まがいのチップを集積した巨大な回路であり、人体をばらばらに部分解体してこれを別のプログラムで再生させた超大型マシーンであって、つまりは、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』(第883夜)あるいは大友克洋の『AKIRA』でもあったのである(第800夜)。
スペインの無敵艦隊がイギリスを侵攻しようとしている噂がもちきりの1588年、トマス・ホッブズはブリストル近郊に国教会牧師の子として生まれた。この1588年がちょっとした暗示的な年だった。
レギオモンタヌス(ヨハネス・ミューラー)の予言ではマリアの処女出産から1588年目に世界大混乱が到来し、メランヒトンによれば1518年にルターが法王に反逆してから70年目にアンチキリストが倒されて最後の審判がくだることになっていた。そういう1588年だ。こんな時代にホッブズは91歳もの長い生涯をおくった。ただし有為転変は激しいものだった。
キャリアのスタートはオックスフォードのプレイズノーズ・カレッジである。当時のオックスフォードはまだスコラ哲学一辺倒で、プトレマイオスやプリニウスの自然観・宇宙観が大学に覆いかぶさったまま、むろんコペルニクスの天体回転論などまったく無視されていた。
ルネサンス期とちがって、少数のエリート学生たちはろくに勉強をしていない。過渡期社会が来ていたことをあらわしている。
ホッブズもきっとつまらない学生生活を送ったと思われるけれど、そこへちょっとした幸運が転がりこんだ。イングランド有数の名門キャヴェンディッシュ家の初代ハードウィック男爵が長男ウィリアムの家庭教師としてホッブズを選んだ。これでホッブズは長きにわたってキャベンディッシュ家の庇護をもらえることになった。もうひとつ、ふたつ、退屈なホッブズを変えてくれた幸運がある。
1610年、ホッブズはウィリアム・キャベンディッシュと大陸旅行をした。アンリ4世が暗殺されたフランスにもいた。このときホッブズはカトリックというものが狂暴になりうることを見る。宗教が人民を統括していないことを知ったのは収穫だった。
この旅行から帰って、ホッブズはフランシス・ベーコンの秘書の一人になった。すでにベーコンはジェームズ1世の大法官になっていたが、スコラ哲学とは正面から対決しようとしていた。このベーコンに従事したことが大きかった。庭園を散歩しながら口述するベーコンの思想をずうっと筆記したことだ。
ベーコンの著述をラテン語に翻訳する機会も得た。ベーコンの指示でツキディデスの『ペロポネソス戦史』も訳した。ベーコンは幾何学にひそむ方法に深い可能性を感じていたので、ホッブズもユークリッド幾何学を初めて知った。こんな機会を得て哲学や思想というものを歴史的に見るというバネと、幾何学的な方法で社会を見るというバネをつけたホッブズは、しだいに政治思想というものに関心を寄せていく。『リヴァイアサン』はベーコン流の社会幾何学を下敷きにした政治哲学書だったともいえる。
ベーコンはまたウィリアム・ハーヴェイをホッブズに紹介した。血液循環論のハーヴェイである。これでホッブズは科学にめざめた。のちにガリレオやガッサンディなどともサロンで出会っている。ホッブズが『リヴァイアサン』で見せた一種の冷徹な客観主義は、こうした科学への共感にも、もとづいていた。
イギリスのウェストミンスター国会議事堂へ行ってみると、正面にオリバー・クロムウェルの銅像が立っている。日本の国会議事堂の正面ホールには板垣退助と伊藤博文が両側に立っているのだが、クロムウェルは右手を剣の束に置き、左手に聖書を携えている。
1642年から48年におよんだクロムウェルの革命、いわゆるピューリタン革命(最近はイギリス市民革命と呼ばれるが、はたしてそうなのかどうか)については、ホッブズは懐疑か憎悪かをもったにせよ、その動向の意味がよくわからなかったのではないかと思われる。
いや、クロムウェルという人物がわからなかったのではないか。なんといっても国王を処刑してしまった男なのである。いったい何がおこったのか。イギリスにおいても長らく評価が定まらず、最近になって市民革命の嚆矢であったろうことが定説になってきたのだが、これに納得できないものも少なくない。ましてホッブズの同時代では何がおこっているか、納得はできなかったはずである。
そもそもチャールズ1世が1640年に招集した議会が、なんと11年ぶりのことだった。たちまち国王と議会が対立し、国王大権に対する徹底制限を求める抗議文が下院を通過した。ここで国王派(長老派)がこの危機に押されて逆に結集した。クロムウェルは議会派に立ち、鉄騎隊を組織してしだいに激化する対立を内戦に導き、チャールズ1世を捕らえるにいたった。
これで万事は一段落と判断したクロムウェルが軍隊を解散させようとすると、兵士たちの反発が高まり、ここからクロムウェルは軍への懐柔と議会の強化の両方をハンドリングしていく。
その後、クロムウェルはしだいに権力志向を逞しくして、とくに反議会派の拠点であるアイルランドやスコットランドの征圧を遂行してからは、自身を「護国卿」に任命すると、新たな護国卿を頂点とする新体制を樹立することに邁進するようになった。
途中、一時はクロムウェルを国王にする動きもあったのだが、これは反対派に潰された。結局、広範な支持がないままに軍事独裁型の護国卿政権を維持して、1658年に死んだ。
こういう動向をホッブズは亡命先のフランスでじっと見ていたのである。チャールズ1世がルーベンスやヴァン・ダイクをロンドンに招いたことも(この招聘によってイギリスの芸術活動はこのあと隆盛期を迎える)、クロムウェルが議会軍の指導者として進軍していったことも、国王が処刑されたことも、クロムウェルの「章典」の発布も、また言論の自由を押さえる議会派に対してジョン・ミルトンが『アレオパジティカ』を刊行したことも、対岸からことごとくじっと眺めていた。いや、最近の研究によるとホッブズはかなりの情報を母国から取り寄せていた。
こうして、このとうてい理解しがたい故国の動向の一部始終を凝視できたことによって、『リヴァイアサン』という反撃が執筆されたのだ。ぼくには、これはクロムウェルによる「血を見る革命」に対するにホッブズの「血を出さない国家」の提案だったとも思える。
一言加えておく。ホッブズの政治思想は「死への嫌悪」をもっている。社会におけるタナトスの徹底排除をなしとげたのが『リヴァイアサン』だった。
これは生命原理だけで環境社会を保護しようとしている今日の環境倫理思想に似ていなくもない。ポール・オースターも登場人物の会話で仄めかせていたことであったが、全体の健康や全体の保護を考えることは、ある意味では狂気の発動に近いものでもあったのである。
同じことを稲垣足穂は「全体の病気を持ち出そうとする者ほど、病気にかかっている奴はいない」と書いた。ホッブズの提案は社会契約としての国家として近代国家のモデルになったけれど、その国家が一度だって出来がよかったためしなど、なかったのである。
 
リヴァイアサン / 書評3

 

1−1 『リヴァイアサン』の扉絵には、いかなる意味があるのか  
扉絵の解釈 今日から、トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588-1679)の『リヴァイアサン』(Leviathan, 1651)を読んでいくことにしたい。まず最初に、『リヴァイアサン』初版に載った有名な扉絵について考えてみたい(資料1)。この扉絵は、高等学校の『政治経済』にも載っているので、見覚えのある人も多いであろう。しかし、この扉絵にいかなる意味があるのか、ということについて考えたことのある人は少ないのではないのだろうか。ここで、幾つかのポイントを確認しておくことにしたい。第一に、王冠をかぶった巨人は、右手に剣(王権)を握り、左手に司教杖(教権)を握っている。そして、それぞれの下には、王権の諸要素と、教権の諸要素が並べられている。すなわち、剣の下には、・城塞、・王冠、・大砲、・軍旗と銃、・戦闘の場面が描かれており、司教杖の下には、・教会堂、・司教帽、・教皇による破門の形象化、・三段論法やディレンマなど論証とデマゴギーの形象化、・教会会議の場面が描かれている(宮田光雄『宮田光雄集<聖書の信仰>・ 平和の福音』岩波書店、78頁)。第二に、見えにくいかもしれないが、巨人は、あたかも鎧(よろい)のように、無数の小さな人間によって覆われている。しかも、小さな人間の視線は、すべて巨人の顔に向けられているが、巨人の視線は、小さな人間には向けられていない。ところで、ホッブズは「国家」=「リヴァイアサン」を「人工人間」(artificial man)と規定している(資料2)。このことと併せて考えるならば、扉絵が「国家」=「リヴァイアサン」を象徴しているものであることは明らかであろう。今後、この扉絵の理解が深まるように、『リヴァイアサン』を読んでいくことにしたい。
古典を読む方法 扉絵のように文章以外のものであっても、意味を解釈できる場合がある。
資料1 『リヴァイアサン』扉絵 [省略]
資料2 「国家」=「人工人間」
「<自然>[すなわち神がこの世をつくり統治する技]は、人間の「技術」によってしばしば模倣される。人間はその技術によって人工的動物をもつくることができる。・・・・・・「技術」はこれにとどまらず、自然のつくった理性的でもっともすぐれた作品である「人間」さえも模倣する。すなわち、<コモンウェルス>とか<国家>[ラテン語では<キウィタス>]と呼ばれる偉大な<リヴァイアサン>を創造するが、それは疑いなく一個の人工人間にほかならない。ただ、この人工人間は、自然人よりは大きくて強く、自然人を保護し防御することを意図している」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
"NATURE (the Art whereby God hath made and governes the World) is by the Art of man, as in many other things, so in this also imitated, that it can make an Artificial Animal. ...... Art goes yet further, imitating that Rationall and most excellent worke of nature, Man. For by Art is created that great Leviathan called a COMMON - WEALTH, or STATE, (in latine CIVITAS) which is but an Artifitiall Man; though of greater stature and strength than the Naturall, for whose protection and defence it was intended; ...... "  
1−2 『リヴァイアサン』の文体上の特徴は何か

 

『リヴァイアサン』の文体 次に、『リヴァイアサン』の文体を「読む」ことを試みることにしたい。すでにみたように、マキアヴェッリの『君主論』は、過去と現在の具体的事例に事欠かない。しかし『リヴァイアサン』の趣は、それとは相当に異なっている。ホッブズも、人文主義的な歴史の理念にコミットした時期もあったが、1629年の「幾何学との恋」(資料3)以降は、そうした人文主義の伝統と決別している(レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』みすず書房)。ホッブズは「最近の慣わしに反して、古代の詩人や雄弁家、哲学者を引用して飾りたてることを私が軽視した」(『世界の名著28 ホッブズ』中央公論社、522頁)と述べている。その代わりに、『リヴァイアサン』で際立っているのは「異常なほどの定義の羅列に始まっている」(藤原保信『近代政治哲学の形成──ホッブズの政治哲学』早稲田大学出版部、43頁)事実である。ここに、幾何学の影響があったことは疑いない。しかし、幾何学の影響ということで片づけたのでは、何も言っていないに等しい。なぜホッブズは、幾何学のように厳密に定義をする文体を採用したのであろうか。
ホッブズ:恐怖との双生児 ここで、少し回り道をして、ホッブズの生涯をごく簡単に見ておくことにしたい(参考資料:Richard Tuck, "Hobbes, Thomas," The Blackwell Encyclopaedia of Political Thought, Blackwell)。ホッブズは、1588年にイングランドのマームズベリーにおいて、下級牧師の息子として誕生した。伝えられるところでは、スペインの無敵艦隊襲来の噂を聞いた母親は、ホッブズを予定よりもはやく出産したという(資料4)。ホッブズは、オックスフォード大学を卒業し、貴族のキャヴェンディッシュ家の「家庭教師」になる。「幾何学との恋」は、キャベンディシュ家の息子を連れて、大陸旅行(遊学)していた時の出来事であった。ところで、当時のイングランドは「ピューリタン革命」(1642-1649年)の前夜であり、ホッブズ自身もそれとは無関係ではいられなかった。1640年、王党派の支持者であったホッブズは、身の危険を感じてパリに亡命した。リチャード・タックの推定では、ホッブズが『リヴァイアサン』を書き始めたのは、1649年初頭であるという(ホッブズは1650年5月の手紙において、約50章中の37章を書き終えたと書いている)。この1649年という年は、クロムウェルを指導者とする独立派がチャールズ・世を処刑し、共和政を宣言した年である。1651年には『リヴァイアサン』を出版し、共和政のイングランドへと帰国することになる。こうした生涯を考えるならば、「恐怖との双生児」というホッブズの言葉も、あながち誇張とばかりはいえない。
定義と再定義 こうしたホッブズの生涯を踏まえつつ、『リヴァイアサン』のなかの、ある文章を読んでみることにしたい(資料5)。ここでホッブズは、言葉を厳密に定義しないことが無意味な教義をうみだすことを指摘している。明らかに、イングランドの内乱を念頭に置いているといえるであろう。ホッブズは、幾何学のように厳密な定義と正しい推論によって、誰でも認めざるをえない政治学を構想し、平和を樹立しようとしたのではないのだろうか。もとより、ホッブズ自信も認めているように、現実には難しいかもしれない(138頁)。しかし、定義を多用する文体には、たしかに説得を容易にする面があることは間違いない。しかし同時に、定義を多用する文体には、危険がはらまれているのではないのだろうか。そこでは、ソクラテスの問答法とは反対に、ホッブズが定義を独占しており、対話を通じて定義それ自体を変更する余地が残されていない。これでは、ホッブズの意図とは裏腹に、ホッブズの定義に同意しえない人との対立を、かえって深めることになりはしないだろうか。このように考えるならば、定義する文体の重要性を認めつつも、定義にとどまらない「再定義」(redefinition)の文体へと進むことが、重要になってくるのではないのだろうか。
資料3 「幾何学との恋」(ジョン・オーブリィ)
「ある貴族の図書館に入っていくと ・・・・・・そこにユークリッドの幾何学原理が開かれたままになっていた。それは第1巻の定理47であった。『絶対に──、』とかれは叫んだ。『こんなことはありえない。』そこで彼はその証明を読み、さらにその命題へまでさかのぼりそれをも読んだ。そしてかれはさらにつぎの命題へとつぎつぎにさかのぼり読み進んでいった。そしてついに、それが真理であるという事を証明によって納得せしめられたのである。このようにしてかれは幾何学との恋に陥ったのである」(藤原保信『近代政治哲学の形成──ホッブズの政治哲学──』)。
資料4 恐怖との双生児(ホッブズ『自伝』)
「艦隊が、わが国民に破局をもたらすだろうという噂によって、私の母は私と恐怖という双生児を生んだ。このことのために、私は祖国の敵を憎み、穏やかな平和と私の学問芸術とは結合している」(『世界人物逸話大事典』)。
資料5 定義
「「真理」とは私たちが断定を行なうさいに名称を正しく並べることである。故にこのことを知るならば、正確な「真理」を探究する者は自分の用いるすべての名称が何を表わすかを記憶し、それに従って正しく配置しなければならない。もしさもないと鳥もちにかかった鳥同様、ことばのわなに巻きこまれてしまい、もがけばもがくほどことばにとらえられる。そのため[神が人類に与えたもうた唯一の学問(サイエンス)である]幾何学においては、ことばの意味を定めることから始めるのである。意味を定めることを人は『定義』と呼び、計算のはじめに置く。/このことからしても、真の知識にあこがれる者にとって過去の著作者たちの定義を検討し、もしもいい加減なものであるばあいにはこれを訂正し、自身で定義を与えることがどれほど必要かが明らかになる。定義に誤りがあれば計算が進むにつれてその誤謬は増加し、まったくばかげたことになるからである。最後にそれに気づいたとしても、はじめから計算し直さなければ、誤謬を取り除くことはできない。なぜなら端緒に誤謬の根があるからである。・・・・・・/したがって言語(スピーチ)の最初の効用は、名称の正しい定義にある。それこそが学問(サイエンス)の獲得である。名称についての誤った定義と無定義とに、ことばの最初の誤用があり、そこからすべての虚偽、あるいは無意味な教説が生じる」(『世界の名著28 ホッブズ』)。 
2−1 自然状態 / なぜ平等が戦争状態をもたらすのか

 

自然状態 我々は『リヴァイアサン』の人間理論に深入りせずに、第13章の自然状態論から読んでいくことにしたい。ホッブズによれば、自然状態とは「万人が恐れをいだく共通の力が存在しない」(158頁)状態である。周知のように、ホッブズは「自然状態」を「戦争状態」として描きだしている(資料1)。自然状態では、人間は「自己保存」のために、いかなることをもなしうる「自由」を持っている。ホッブズは、この自由を「自然権」と命名している(*)。「《自然権》とは、各人が自分自身の自然すなわち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用いうるよう各人が持っている自由である」(159頁)。ホッブズは、こうした自然権を持った人々から構成される自然状態を、単なる思考上の仮定としてではなく、歴史上の実在として捉えている。
* 「人権。人間が人間であるだけで持っている権利。「人権」という用語が前面に浮上したのは、今世紀になってからである。それ以前の世紀においては、それらの権利は「自然権」「人間の権利」と呼ばれることのほうが多かった。・・・・・・[自然権]理論は17世紀初頭に、特にフーゴ・グロチウスの著作において実質的に新しくなった。その後、自然権に関する二つの学派が起こった。保守的な学派は、セルデンやホッブズに例示されるものである。それは、「自然」(前政治的)状態における人間には、実質的に無制限な自由への権利があると考えた。しかし、人間が政治社会(civil society)に入ると、その権利は、多かれ少なかれ完全に譲渡(surrender)されると主張した。それゆえこの見解では、自然権の理論を受容することは、政府の絶対的権威を唱道することと完全に両立した。対照的に、ラディカルな理論家たちの主張では、若干の自然権は社会平和のために政府に譲渡されるが、それ以外の自然権は譲渡されずに、抑圧的政府に反対する人民によって訴えられることができる。・・・・・・優勢な自然権理論になったのは、こうしたラディカルな理論である。その最も影響力ある表現は、17世紀末のジョン・ロックの著作である」(The Blackwell Encyclopaedia of Political Thought, p. 222)。
平等→戦争状態 ホッブズは、戦争の原因として、「競争」「不信」「自負」という「人間の本性」を挙げている(資料2)。ホッブズは、「恐怖との双生児」であるホッブズ自身を、その人間理論に投影してしまっているのであろう(資料3)。しかしここでは、そのことには立ち入らない。ここでは、戦争状態の条件である「平等」ということについて考えてみることにしたい(資料2再読)。ホッブズに言わせれば、平等であるから戦争状態に陥る。逆に言えば、不平等であるなら、強者の支配=弱者の服従という平和状態になる。──この視座は、我々にとって意外に感じるのではないのだろうか。我々は、マルクス主義者でなくても、戦争は不平等に起因すると考えやすい。しかし、ホッブズが指摘しているのは、平等であるから戦争になるという事態にほかならない。
応用 この平等ゆえの戦争という視座は、我々の身近な出来事を理解する手がかりになるに違いない。たとえば、受験「戦争」。「テストなどでみんな同じ問題を解くが、その順位をめぐって1点の争いになり、それが受験戦争になる」(アンケート)。あるいは、田中真紀子・外務大臣と外務省官僚との「戦争」。官僚の言いなりになっていた大臣の時代には、平和が保たれていた。しかし、官僚と対等(平等)に渡りあう田中大臣になったため、戦争が勃発したのである、と。
資料1 戦争状態
「自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。・・・・・・旅に出るとき、人は武装して、さらに十分な仲間をつれて行きたいと思う。また、睡眠をとるときにはドアに鍵をかける。自分の家のなかですら、金庫に鍵をかける。しかも法律があり武装した公吏がいて、権利侵害がなされたばあいにはその復讐をしてくれることがわかっているのにそうするのである」(『世界の名著28 ホッブズ』中央公論社、156-157頁)。
資料2 平等と戦争状態
「《自然》は人間を身心の諸能力において平等につくった。・・・・・・たとえば肉体的な強さについていえば、もっとも弱い者でもひそかに陰謀をたくらんだり、自分と同様の危険にさらされている者と共謀することによって、もっとも強い者をも倒すだけの強さを持っている。・・・・・・この能力の平等から、目的達成にさいしての希望の平等が生じる。それゆえ、もしもふたりの者が同一の物を欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは敵となり、その目的[主として自己保存であるがときには快楽のみ]にいたる途上において、たがいに相手をほろぼすか、屈服させようと努める。・・・・・・このような相互不信から自己を守るには、機先を制するほど適切な方法はない。すなわち力や策によってできるだけすべての人間の身体を、じぶんをおびやかすほど大きな力がなくなるまで支配することである。・・・・・・また、すべての人間を畏怖させうる権力のないところでは、人間は仲間をつくることになんの喜びも感じない[どころか、逆にひじょうな悲哀を覚える]。・・・・・・すなわち、人間の本性には、争いについての主要な原因が三つある。第一は競争、第二は不信、第三は自負である。/第一の競争は、人々が獲物を得るために、第二の不信は安全を、第三の自負は名声を求めて、いずれも侵略を行なわせる」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料3 「汝みずからを読め」
「それは、「ノスケ・ティプスム」すなわち「汝みずからを読め」である。・・・・・・むしろそれが教えているのは、ひとりの人間の思考や情念は他の人間のそれに類似している、したがって、人が自分自身の内部を深く見つめるならば、自分がたとえば「思い」「考え」「推論し」「希望し」「恐怖する」ときに何をしているのか、また何に基づいてそうしているのかを考察するならば、同じようなばあいにおける他のすべての人々の思考や情念を、そこから読みとりまた知ることができるということである。・・・・・・一国民全体を統治しようとするほどの者は、自分自身のなかにあれこれの個々の人間ではなく人類全体を読みとらなければならない。それがどんなにむずかしく、どのような言語あるいは科学を学ぶより困難であろうとも、私は私自身の読み方を理路整然と明瞭に書き記してみよう」(『世界の名著28 ホッブズ』)。  
2−2 自然法 / ジレンマがあるのではないか

 

自然権の放棄 ホッブズは、自然状態から脱却する契機として、「死の恐怖」といった「情念」とともに、「理性」の命令である「自然法」を挙げている(159頁)。シュトラウスが指摘しているように、ホッブズの特質は「自然権」が「自然法」に先行していることである(資料4)。ホッブズは第14章と第15章において、合計19の自然法を挙げているが、なかでも重要なのは、最初の三つの自然法であろう。
ジレンマ ここで考えたいのは、第二の自然法にはジレンマがあるのではないか、という問題である。それは、自然権を相互に放棄することが望ましいにしても、自分だけが放棄したのでは、自然状態よりも悪い事態を招きかねない、というジレンマである。ホッブズ自身も、こうしたジレンマを認識している(資料6)。ゴティエは、こうしたジレンマをゲーム理論を使って説明している(下図;David P. Gauthier, The Logic of Leviathan, Clarendon Press, p. 79)。こうしたジレンマがあるとすれば、自然権を放棄したがらない人が残ったとしても不思議ではない。契約を結ばない者は「臣民」にはならず、依然として戦争状態にとどまっている、と考えることもできるのかもしれない。しかしそれでは、フリーライダー(ただ乗り)の問題が生じることになる。同一の領土に住んでいるのであれば、国家の恩恵は、全面的にではないにしても、契約を結んでいない者にも及ぶことになる。そもそも、契約をしない自由を認めたのでは、戦争状態から脱却しえないことになる。たしかに、契約を結んだ人々同士のあいだでは、戦争状態は終わることになるが、契約を結んだ人々と契約を結んでいない人々とのあいだでは、戦争状態は続くことになる。
多数決の導入 私の解釈では、ホッブズは巧妙なトリックによって、こうしたジレンマを回避しようとしている。それは、多数決によって国家を設立する、という論理の導入である(資料7)。ルソーが指摘しているように、多数決を採用するにしても、多数決を採用するという最初の決定だけは、全員一致でなければならないはずである。「事実、もし先にあるべき約束ができていなかったとすれば、選挙が全員一致でないかぎり、少数者は多数者の選択に従わなければならぬなどという義務は、一体どこにあるのだろう? ・・・・・・多数決の法則は、それ自身、約束によってうちたてられたものであり、また少なくとも一度だけは、全員一致があったことを前提とするものである」(ルソー『社会契約論』岩波文庫、28頁)。しかしホッブズは、多数決による意思決定方法を自明の前提として、契約を結びたがらない者までも国家に取り込もうとしている。我々はホッブズに騙されることなく、多数決は、多数決を決定する全会一致が前提になっていることを確認しておくことにしたい。
古典を読む方法 古典だからといって、ごまかしがないとはかぎらない。「著者への信」と同時に「自分への信」が必要である(内田義彦『読書と社会科学』)。
資料4 自然権と自然法
「この問題について論ずる人たちは、よく「ユス」と「レクス」すなわち「権利」(ライト)と「法」(ロー)を混同するが、それは区別されるべきものである。なぜならば、《権利》はある行為をやったりやらなかったりする自由であり、《法》は、そのどちらかに決定し、それを拘束するものだからである」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料5 自然法
1)「各人は望みのあるかぎり、平和をかちとるように努力すべきである。それが不可能のばあいには、戦争によるあらゆる援助と利益を求め、かつこれを用いてもよい」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
2)「平和のために、また自己防衛のために必要であると考えられるかぎりにおいて、人は、他の人々も同意するならば、万物にたいするこの権利を喜んで放棄すべきである。そして自分が他の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいして持つことを自分が進んで認めることのできる範囲で満足すべきである」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
3)「結ばれた契約は履行すべし」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料6 自然権放棄のジレンマ
「しかし、もしも他の人が彼のようにみずからの権利を放棄することを欲しないならば、だれもその権利を放棄すべき理由はない。なぜなら、そのときには自分を平和に向かわせるより、むしろ餌食にさらす[そうする義務はだれにもない]ことになるからである」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料7 国家の設立と多数決
A 「「コモンウェルスが設立された」といわれるのはつぎのようなときである。「多数」の人々の合意および「各人相互の契約」によって、すべての人々の人格を「表わす」[「代表者」としての]権利が、ある「一個人」または「合議体」に多数決によって与えられて、その人間または合議体に「賛成投票」した者も「反対投票」した者もすべて等しく彼の行為と判断を、あたかも自分自身のそれであるかのごとくに「承認」し、そうすることによってたがいに平和に暮らし、他の人々から保護してもらうことを目的としたときである」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
B 「多数の者が同意して主権を宣言した以上、反対した者も、他の者に同意しなければならない。・・・・・・というのは、かりに彼がみずからの自由意志で集会に参加したのであれば、それは多数者の決定を守る意志を十分示した[したがって暗黙のうちに契約した]のであり、・・・・・・彼は、その集会に属すると否とにかかわらず、また同意を求められると否とにかかわらず、法令に従うか、以前の戦争状態にとどまるかのどちらかしかない」(『世界の名著28 ホッブズ』)。 
3−1 国家 / 絶対国家を擁護する論法は好戦的なのではないか

 

国家 今日は「国家」について考えていくことにしたい。ホッブズによれば、自然状態=戦争状態における人間は、理性によって、自然権の放棄などを命じる自然法を発見する。だが、自然法は「内的法廷において」はともかく、「外的法廷において」は拘束力を持たない(資料1)。「剣(Sword)を伴わぬ契約は、たんなることば(Words)にすぎず、人間の生命を保障する力をまったく持たない」(192頁)。それゆえ、「契約」によって「国家」=「「永遠不滅の神」のもとにあって、平和と防衛とを人間に保障する地上の神」(196頁)を設立しなければならない(資料2)。国家の「人格」の担い手である「主権者」は、絶対的「権利」を持っている(第18章)。こうした絶対国家では、主権者は「市民法」には拘束されることはない(資料3)。たしかにホッブズは、主権者も「自然法」には服さなければならないとしている。しかし実際には、自然法の解釈権は主権者に属するとしているため、主権者を拘束するものとはいえない。
1) 国民は統治の形態を変更できない
2) 主権を剥奪することはできない
3) 大多数によって宣言された主権の設立にたいして抗議することは不正である
4) 主権者の行為を国民が非難することは正当ではない
5) 国民は主権者のどのような行為も処罰することはできない
6) 主権者は国民の平和と防衛に何が必要かを判断する
  主権者はまた国民にどんな教義を教えるべきかを判断する
7) 他の人間が正当には奪うことができない個人の不可侵の権利とは何か。これを国民にたがいに理解させる規則をつくる権利について。
8) 主権者はまた紛争の裁判、判決の権利を持つ
9) また、主権者には、彼が最善と考えるところに従って戦争を起こし、平和をもたらす権利がある
10) また、平時戦時を問わず、顧問、大臣を選ぶ権利
11) また報償、処罰を行う権利。[その方法を定めた法律がないばあいには]これを自由に裁量する権利
12) 栄誉と序列を決定する権利
ホッブズの論法の好戦性 こうした絶対国家の擁護論にたいしては、当然のごとく、国民の自由を侵害するのではないのか、という反論が起こるに違いない。ホッブズ自身、こうした反論を予測して、主権のない戦争状態に比べればマシではないか、と予防線を張っている(資料4)。ここで問題にしたいのは、ホッブズが絶対国家を擁護することそれ自体ではなく、絶対国家を擁護する際の「論法」である。ホッブズは、絶対国家を制限国家と比べるべきなのに、絶対国家を無政府状態と比べている。これは、極論との二者択一を設定して、その極論に比べればマシではないか、とする論法である。しかし、こうした論法は「戦争」を誘発する危険性がはらまれているのではないのだろうか。福沢諭吉が述べているように、「異説の両極相接するときは、その勢(いきおい)必ず相衝(あいつい)て相近(あいちか)づくべからず、遂に人間(じんかん)の不和を生じて世の大害を為(な)すことあり」(福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫、19頁)。このように考えるならば、ここでのホッブズの論法──極論との比較──は、好戦的な論法であるといえるのではないのだろうか。
資料1 内的法廷/外的法廷
「自然法は「内的法廷において」(イン・フォロ・インテルノ)拘束力を持つ。換言すれば、そう行なわれるべきだという意欲を持つように拘束する。しかし、自然法は「外的法廷において」(イン・フォロ・エクステルノ)、すなわちそれが行為に移されるところでは、必ずしもつねに拘束しない。というのは、だれひとりとして謙虚でも従順でもなく、また約束を果たさない時代と場所において、人がもしそれらを守るならば、彼は他人の餌食にならなければならず、破滅を招くこと必定である。それは、自然の維持を志向するあらゆる自然法の根本に反する」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料2 国家の設立
「コモンウェルスの生成 人々が外敵の侵入から、あるいは相互の権利侵害から身を守り、そしてみずからの労働と大地から得る収穫によって、自分自身を養い、快適な生活を送ってゆくことを可能にするのは、この公共的な権力である。この権力を確立する唯一の道は、すべての人の意志を多数決によって一つの意志に結集できるよう、一個人あるいは合議体に、かれらの持つあらゆる力と強さとを譲り渡してしまうことである。・・・・・・コモンウェルスの定義 「コモンウェルス」は[定義すれば]、つぎのとおりである。「それは一個の人格であり、その行為は、多くの人々の相互契約により、彼らの平和と共同防衛のためにすべての人の強さと手段を彼が適当に用いることができるように、彼ら各人をその(行為の)本人とすることである」 主権者および国民とは何か そして、この人格を担う者が《主権者》と呼ばれ、「主権」を持つといわれる。そして彼以外のすべての者は、彼の《国民》である」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料3 主権者と市民法
「コモンウェルスの主権者は、合議体であるとひとりの人間であるとを問わず、市民法には服さない。というのは、法律をつくり、廃止する権限は彼のものであるから、彼は自分を悩ます法を廃して新たな法をつくることによって、いつでも好きなときに、その法にたいする服従から自由になりうるからである」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料4 論法
「主権がないばあいにくらべれば強大な権力もけっして有害ではない。多くのばあい、害悪は少数者に快く服従しないことから生じる しかし、人はここで異議を唱えるかもしれない。国民の状態はあまりにも惨めだ、無制限の権力をその手中におさめた人間、あるいは人間たちの情欲に、そして乱れた情念に、私たちは甘んじて服さなければならないのか、と。・・・・・・それは、人間のどんな地位にもなんらかの不都合はつきものであり、また、政治形体のいかんを問わず、一般に人間が受ける最悪の不都合も、内乱に伴う悲惨や恐るべき災害とくらべれば大したものではないことについて、そして、法にたいする服従も、強奪や復讐に向かわぬよう人々の手をしばる強制力も存在しない、支配者無き人人の分裂状態にくらべれば大したものではないことについて、人々が考えていないからである」(『世界の名著28 ホッブズ』)。 
3−2 思想統制は思想戦争を抑えることができるか

 

思想統制→平和 すでにみたように、ホッブズは第18章で、主権者の権利を具体的に列挙している(3−3−1)。なかでも注目に値するのは、主権者には「国民にどんな教義を教えるべきかを判断する」(201頁)権利がある、としていることである(資料5)。ホッブズは、「善悪についての私的判断」は「国家」の「病気」であるとさえ述べている(資料6)。扉絵で、巨人(=主権者)が剣だけではなく司教杖をも握っていたことを想起してほしい。このことは、ホッブズが全体主義者であることを意味しているようにみえるかもしれない。しかしここで注意すべきは、思想統制があくまでも平和のための手段であることである(資料7)。特定の思想(イデオロギー)が自己目的化しているところに全体主義の本質があるとするならば、ホッブズは全体主義者とはいえない。とはいえ、ホッブズも思想統制を提唱していることに変わりはない。
思想統制→戦争 ここで問題提起したいのは、思想統制はかえって戦争を激化させる場合があるのではないのか、ということである。ここで、思想統制→平和、思想統制→戦争の両面を指摘した、ある受講生のアンケートを紹介することにしたい(資料8)。たしかに、たとえば北朝鮮のように、思想統制が平和をもたらす場合もあることは否定できない。しかし、特定の思想にコミットすることが国家を思想戦争の当事者にし、かえって思想戦争を激化させる場合もあるのではないのだろうか。一つの事例としては、中華人民共和国における「法輪功」を挙げることができるであろう(cf. 『朝日新聞』2001年2月7日朝刊)。ここでは、排除されることでかえって戦闘的になるという心理的メカニズムが作用しているように思われる。ホッブズは、このような思想統制による戦争という事態は見落としているように思えてならない。
中立国家の理念 このように考えるならば、必要なのは「国家」を「中立的」にすることではないだろうか。現代の「中立国家」は、特定の「善」(good)にコミットすることなく、各人が自由に善を追求するのを可能にする枠組みにとどまろうとする。そうすることで、少数派とのあいだに思想戦争が勃発するのを回避しようとしている(下図)。こうした「中立国家」のほうが、思想戦争を回避するには有効なのではないのだろうか。たしかに思想統制は、短期的には成功を収めるかもしれない。また思想統制は、例外状況では正しいのかもしれない。しかし長期的には、かえって平和を脅かす危険性がはらまれているのではないのだろうか。
資料5 思想統制
「第六に、どんな意見や教義が平和に反し、あるいは貢献するのか。また人人は、どんなばあいに、どの程度、何を、多数の人々に話すことを許されるべきか。出版前にあらゆる書物の教説を検閲するのはだれか。これらについて判断するのは主権者である。/というのは人間の行為は、そのいだく思想に由来する。だから平和と和合のために人々の行動をうまく統御するには、その意見をも巧みに治めることが必要である。そして教義上の問題にかんしては、真理以外、何ものも尊重されるべきではないが、そのことは平和のために教義を規制することと何ら矛盾するものではない。平和に悖(もと)る教義が真理でありえないのは、平和と和合が自然法に反しえないのと同様である」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料6 善悪の私的判断=「国家」の「病気」
「第二に、私が注意するのは、煽動的な学説の害毒から生ずるコモンウェルスの「病気」であり、その一つの現われが「各私人は行為の善悪の判定者である」という考えである。それは、市民法が存在しないまったくの自然状態においては真実である。否、市民政府のもとにおいてさえ、もし善悪が法によって決定されていないならば真実である。しかしそれ以外のばあいには、市民法に善悪の尺度があり、その判定者は立法者すなわちつねにコモンウェルスの代表者であることは明白である。このような誤った学説から、人々はコモンウェルスの命令について論議をかわし、これに反駁(はんばく)し、自分らの個人的判断によって適当と思うところに応じて服従したりしなかったりする。その結果、コモンウェルスは混乱させられ、「弱体化」することになる」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料7 思想統制と平和
「したがって平和の必要のために、意見や学説の可否を判断し、そのための審判者をもうけて不和と内戦を防ぐのは、主権を持つ者の仕事である」(『世界の名著28 ホッブズ』)。 
4−1 自己保存を根拠に抵抗権を認めることにはジレンマがあるのではないか

 

絶対国家の論理 すでにみたように、ホッブズは、主権者は思想統制をはじめとする絶対的権利を持っている、と述べている。ホッブズは、こうした絶対国家を弁証するために、独自の契約論を採用している。ホッブズ以前の契約論、モナルコマキ(暴君放伐論者)の統治契約論では、人民は、君主と支配=服従契約を結ぶとされていた。そして、君主が契約違反をした場合には、人民は、当然にも君主に抵抗する権利を持っているとされていた。だが、宗教戦争を目の当たりにしたホッブズは、そうした人民の抵抗権を認めるわけにはいかなかった。このようにしてホッブズは、人間と人間との水平的関係には相互的な契約関係を認めるけれども、国民と主権者との垂直的関係は一方的な譲渡関係しか認めない(資料1)。ホッブズはまた、主権者の質の問題を捨象し、人民の抵抗権を排除しようとする。ホッブズにとって大事なのは、いかなる主権者がいるかということではなく、とにかく主権者がいることである(資料2)。その結果、その主権者が暴君であったとしても、既存の主権者にたいする抵抗は、否認されることにならざるをえない。
抵抗権の有無? しかしここで、一つの疑問が生じるに違いない。ホッブズにとって、国家の目的は、人々の自己保存に置かれていた。それでは、主権者が自己保存に反する命令を下したとしても、国民には服従する義務があるのだろうか、と。ホッブズは『リヴァイアサン』第14章において、生命を奪おうとする者に抵抗する権利は放棄しえないと述べている(資料4)。また、第21章においては、「主権者の命令であっても国民が正当に拒否できることはなんであるか」(235頁)と問い、たとえば自殺の命令には服従する義務はないと述べている(資料5)。こうした議論を根拠にして、ホッブズにおける「抵抗権」の存在を論じる研究者もいる(マイヤー=タッシュ『ホッブズと抵抗権.』木鐸社)。しかし、抵抗権を認めるならば、ジレンマが生じざるをえない。ここで、たとえば反ファシズム解放戦争のように、国民全体の自己保存のために一部の国民(青年)の自己保存が危険にさらされる状況を考えてみてほしい。抵抗権(徴兵拒否)を認めなければ、国民全体の自己保存のために、一部の国民(青年)の自己保存が危険にさらされることになる。しかし反対に、抵抗権(徴兵拒否)を認めるならば、十分な兵士が集まらずに、国民全体の自己保存が危険にさらされるかもしれない。ホッブズは、このジレンマに十分に答えているようにはみえない。ここで、ホッブズの文章同士が矛盾していることに留意してほしい。
徴兵制・徴兵拒否の是非 ホッブズが十分に答えていない以上、我々は『リヴァイアサン』解釈を越えて、徴兵制の是非、徴兵拒否の是非について考えていくことにしたい。前回のアンケートでは、徴兵拒否が正しいと答えた人と、正しくないと答えた人が拮抗していた。以下では、それらの見解を整理しつつ、徴兵制の是非、徴兵拒否の是非について考えていくことにしたい。もちろん、戦争それ自体に異議を唱える見解もあるだろう。しかしここでは、正しい戦争(たとえば反ファシズム解放戦争)があると「仮定」して、議論を進めていくことにしたい。
A 徴兵制 まず最初に確認すべきは、我々は、自由民主主義を原則とする社会に生きていることである。自由民主主義社会では、いかなる生き方をするかは、各人の自由に委ねられている。そのためには、なるべく義務は少ないほうがよい。しかるに、兵役を強制する徴兵制は、各人が自由に生き方を選択する余地を狭めるであろう。そこで自由民主主義社会では、志願制を採用すべきことになる。志願兵を集める一つの方法は、戦争の正当性や兵士の必要性を訴えかけことである(コトバ)。それでも集まらなければ、高額な報酬を支払い、兵士を募るという方法もある(カネ)。これらの方法では、心理的「強制」や経済的「強制」はあるものの、文字どおりの物理的強制はないため、兵士は自由を奪われているとは感じないであろう。これら二つの方法は、普通の仕事の場合と変わらない。しかし、兵士という仕事にともなう危険は、とてつもなく大きい。コトバやカネという方法では、十分な兵士を集められないかもしれない。その場合には、徴兵という方法に訴えるしかないのではないのだろうか(チカラ)。この点、一定数の兵士が必要であるのに、非権力的方法では集められない場合には、徴兵制は、やむをえない方法なのではないのだろうか。
B 徴兵拒否 だが、生命の危険にさらされる以上、召集に応じたがらない人も多いに違いない。徴兵に応じないことは、正しいことなのであろうか。ここで、納税の義務と比べてみることにしたい。ほとんどの人は、脱税は正しくないと考えるであろう。脱税者は、税金を納めていないのに、様々な公共サービスを享受するからである。徴兵拒否も、同じなのではないのだろうか。危険を支払っていないのに、平和というサービスを享受しているのではないのだろうか(「ただ乗り」)。たしかに両者は、根本的に違っているようにもみえる。徴兵の場合には、納税の場合と違って、戦死してしまえばサービスを享受することはできない。このように考えるならば、脱税の事例でもって徴兵拒否を否定することはできないようにもみえる。しかしこれにたいしては、次のように反論することができるであろう。たしかに、徴兵された人は、平和というサービスを享受できないようにもみえる。しかし徴兵された人も、子供時代には、平和というサービスを享受していた。そのサービスは、上の世代の危険によってまかなわれていた以上、自分が大人になれば、次の世代のために危険を支払うのは当然の義務である、と。このように考えるならば、徴兵拒否は正しくないのではないのだろうか。
C 補足 以上の「結論」はあくまでも、正しい戦争があるという「仮定」のうえに成り立っている。正しくない戦争であれば、徴兵拒否は、正しくない戦争を終わらせるための正当な──合法的ではないかもしれないが──方法であるかもしれない。
資料1 相互契約
「すべての人々の人格を担う権利が主権者に付与されているのは、主権者と人々とのではなく、人々相互の契約によるものであり、したがって、主権者の側から契約を破棄することはありえない。またしたがって、国民の側から、主権が失われたという口実のもとに、服従の義務を免れることもできない」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料2 主権者の質
「けれども、政治形体のいかんを問わず、国民を守るうえで十分でさえあれば、権力はすべて同じである。/・・・・・・人間のどんな地位にもなんらかの不都合はつきものであり、また、政治形体のいかんを問わず、一般に人間が受ける最悪の不都合も、内乱に伴う悲惨や恐るべき災害とくらべれば大したものではない・・・・・・そして、法にたいする服従も、強奪や復讐に向かわぬよう人々の手をしばる強制力も存在しない、支配者なき人人の分裂状態にくらべれば大したものではない・・・・・・」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料3 既存の主権者の正当化
「したがって、すでに主権が確立されているところでは、同じ人民のために他の代表者が現われることはありえない。もしあるとすれば、主権者が限定した、特定の目的のために設けられたものである。さもなくば二つの主権が存在し、各人の人格が二人の代理人によって代表され、その結果、両者の対立をみることとなり、主権の分割が必要になる。しかし[人々が平和に生きるためには]それは不可能である。もしもそれを行なえば、多数の人々は戦争状態におとしいれられ、主権設立の目的に反する結果を招くことになる」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料4 抵抗権(1)
「すべての権利が譲渡されうるわけではない ・・・・・・したがって、どのようなことば、あるいはその他のしるしをもってしても、放棄または譲渡されたとは解しえないなんらかの権利が万人にあるはずである。/第一に、人はその生命を奪おうとして、力によって襲いかかる敵にたいして、抵抗する権利を放棄することはできない」(『世界の名著28 ホッブズ』)。
資料5 抵抗権(2)
「国民は、合法的な侵害にたいしても、自分の身体を防衛する自由を持つ ・・・・・・国民は、契約によってその権利を他に譲渡することができないすべてのことがらにたいして、自由を持つ。・・・・・・したがって、かりに主権者がある人に〔たとえ正当に有罪判決を受けた者であっても〕自殺を命じたり、自分を傷つけたり、不具にしたり、あるいは攻撃を加える者に抵抗しないよう命じたり、また、食物、空気、薬など、生きていくのに不可欠なものを禁じたとしても、彼は服従しない自由を持つのである。・・・・・・国民は自発的に参加するばあい以外は、戦争することを拘束されてもいない この根拠によって、人がたとえ一兵士として敵と戦うことを命じられ、また、彼が拒否すれば主権者が死刑をもって処罰する権利を持っているとしても、多くのばあい、彼はなお拒否することを許されており、しかも、それはけっして不正ではない。・・・・・・戦いがはじまると、一方または双方に、逃亡者が現われる。しかし、彼らが裏切りではなく恐怖から逃げるのであれば、それは不正ではなく不名誉な行為と見なされるべきである。・・・・・・もっとも、兵士として登録している者、前払いの徴兵金を受けとっている者には生来臆病であるという口実は許されない。彼らは戦場へ行くだけではなく、隊長の許可なしには逃亡しないという義務を負っている。また、コモンウェルスの防衛のために、武器を取りうる者すべての協力が必要なときには、すべての人に義務がある」(『世界の名著28 ホッブズ』)。 
4−2 西欧政治思想史における『リヴァイアサン』の意義

 

以上、第二部を中心に、ホッブズの『リヴァイアサン』を読んできた。最後に、西欧政治思想史における『リヴァイアサン』の意義について簡単に整理しておくことにしたい。すでにみたように、マキアヴェッリの『君主論』は、利己的人間像のうえに、権力装置としての「国家」(stato)概念を提示した。しかしそこでは、国家の正統性の根拠が論じられていたわけではない。これでは「勝てば官軍」といったことになりかねない。これにたいして『リヴァイアサン』は、国家の正統性の根拠を、自然状態における人間の契約に求めていった。ここに、西欧政治思想史における『リヴァイアサン』の画期的意義があったといえるであろう。しかし同時に、『リヴァイアサン』は、決定的な難点を抱え込んでいる。すでにみたように、ホッブズは、自己保存の問題に焦点を合わせている。その結果、たとえば精神的自由のない国家でも、それに抵抗する権利は認めないことになる。これでは、既存の国家を正当化するイデオロギーであると言われても仕方がない。ホッブズの政治思想を中国の天安門事件(1989年)に適用するならば、中国の平和を脅かした学生・市民を武力で弾圧した中国共産党幹部は正しかった、といった結論になりかねない。しかしこうした結論は、我々の正義感覚に反しているのではないのだろうか。我々のほとんどは、たとえ混乱が生じたとしても、人権を無視した国家にたいする革命は正しい、と感じるのではないのだろうか。ここに、ホッブズからロックへと進む必然性がある。ロックは、ホッブズの契約論という理論構成を継承しつつも、抵抗権・革命権を導出するような契約論へと転換していくのである。次回からは、岩波文庫版をテクストにしつつ、ロックの『市民政府論』を読んでいくことにしたい。 
 
リヴァイアサン 1

 

・トーマス・ホッブズ(Thomas Hobbes 1588-1679):英国国教会の田舎牧師の二男。オックスフォード大学卒業、フランシス・ベーコンの秘書を務める。三回におよぶ大陸旅行で、デカルトやガリレオらと交流した。
・「コモン-ウェルス」:ラテン語のキウィタス(都市)に当たる。ローマの都市国家に代表される政治社会。
・「リヴァイアサン」:人工生命の技術知によって創造された、人工的人間としてのコモン-ウェルス(ないし国家)。ホッブズはコモン-ウェルスを、一方では人体との対比によって、他方では機械との対比によって捉えた。聖書「ヨブ記」によれば、「地上にはかれ(リヴァイアサン)とならぶものはなく、かれはおそれをもたないように作られている。かれはすべての高いものごとを軽蔑し、あらゆる高慢の子たちの王である」とされる。聖書におけるリヴァイアサンは、人間の力をこえた、きわめてつよい動物であるが、神の力はこの動物をもたおすのだとされ、神の偉大さを示す例とされる。本書『リヴァイアサン』は、この人工人間の本性を探究する。リヴァイアサンの「素材」と「制作者」がいずれも人間であるとして、どのようにして、どういう諸信約によって、それらは作られるか、主権者の諸権利および正当な権力あるいは権威とは何か。そして何がそれを維持し、解体するのか、ということが探究されている。 
第一部 人間について(第一巻)
第 13 章 人類の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について
人々は生まれながら平等である
「自然は人々を、心身の諸能力において平等に作ったのであり、その程度は、ある人が他の人よりも肉体においてあきらかに強いとか、精神の動きがはやいとかいうことが、ときとぎきみられるとしても、すべてをいっしょにして考えれば、人と人とのちがいは、あるひとがそのちがいに基づいて、他人がかれと同様には主張してはならないような便益を、主張できるほど顕著なものではない、というほどなのである。すなわち、肉体の強さについていえば、もっとも弱いものでも、ひそかなたくらみにより、あるいはかれ自身とおなじ危険にさらされている他の人々との共謀によって、もっとも強いものを殺すだけの強さをもつのである。
そして精神の諸能力についていえば、(語にもとづく諸学芸、とくに科学とよばれる普遍無謬の諸法則にもとづいてことを処理する技量をのぞいてのことであり、その技量は、われわれとともにうまれる生得の能力でもなく、[慎慮のように]なにか他のものをわれわれが追求しているあいだに取得されるものでもないから、きわめてわずかの人が、わずかなものごとについて、有するにすぎない)、私はむしろ、つよさについてよりもさらに大きな平等性が、人々のあいだにあるのを、見いだすのである。というのは、慎慮は経験にほかならず、それは、ひとしい時間がすべての人に、ひとしく専念するものごとについて、ひとしく与えるものだからである。おそらく、そのような平等性を信じがたくするかもしれないのは、人が自分の賢明さについて有するうぬぼれにすぎないのであって、ほとんどすべての人は、自分が大衆よりも大きな程度の賢明さをもつと、思っているのである。」(207-208)
平等から不信が生じる
「能力のこの平等から、われわれの目的を達成することについての、希望の平等が生じる。したがって、もしだれかふたりが同一のものごとを意欲し、それにもかかわらず、ふたりがともにそれを享受することができないとすると、かれらはたがいに敵となる。そして、かれらの目的(それは主としてかれら自身の保存conservation であり、ときにはかれらの歓楽delectation だけである)への途上において、たがいに相手をほろぼすか屈服させるかしようと努力する。」(208)
不信から戦争が生じる
「この相互不信から自己を安全にしておくには、だれにとっても、先手を打つことほど妥当な方法はない。それは、自分をおびやかすほどの大きな力を、ほかにみないように、強力または奸計(わるだくみ)によって、できるかぎりのすべての人の人格を、できるだけながく支配することである。……[人々は]征服によって力を増大させなければ、守勢にたつだけでは、ながく生存することができないであろう。その帰結として、人々に対する支配のこのような増大は、人の保存のために必要なのだから、かれに対して許容されるべきなのである。」(209)「われわれは、人間の本性のなかに、三つの主要な、あらそいの原因を見出す。第一は競争、第二は不信、第三は誇り(glory)である。/第一は、人々に、利息をもとめて侵入をおこなわせ、第二は安全を求めて、第三は評判を求めて、そうさせる。」(210)
諸政治国家のそとには、各人の各人に対する戦争がつねに存在する
「人々が、かれらすべてを威圧しておく共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということである。すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは闘争行為にあるのではなく、先頭によって争おうという意志が十分に知られている一連の時間にある。」(210)
そのような戦争の諸不便
「[戦争]状態においては、勤労のための余地はない。なぜなら、勤労の果実が確実ではないからであって、したがって土地の耕作はない。航海も、海路で輸入されうる諸財貨の使用もなく、便利な建築もなく、移動の道具および多くの力を必要とするものを動かす道具もなく、地表についての知識もなく、時間の計算もなく、学芸もなく文字もなく社会もなく、そしてもっとわるいことに、継続的な恐怖と暴力による死の危険があり、それで人間の生活は、孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい。……われわれのうちのどちらも、それによって人間の本性を非難しているのではない。人間の諸意欲およびその他の諸情念は、それら自体では罪ではない。それらの情念からでてくる諸行為も、人々が、それらを禁止する法を知るまでは、おなじく罪ではなく、そのことは、諸法が作られるまえには、かれらが知りえないし、どんな法も、それを作るべき人格についてかれらが同意するまでは、つくられないのである。/このような戦争の時代の状態も、けっしてそんざいしなかったと、おそらく考えられるかもしれない。また私は、全世界にわたって普遍的にそうだったのでは、けっしてないと信じる。しかし、かれらが今日、そのような生活している、多くの地方があるのだ。すなわち、アメリカのおおくの地方における野蛮人は、自然の情欲にもとづいて和合する小家族をのぞけば、まったく統治をもたず、今日でも私がまえに言ったような残忍なやり方で生活している。」(212-213)
このような戦争においては、なにごとも不正ではない
「各人の各人に対するこの戦争から、なにごとも不正ではありえないということも帰結される。正邪(Right and Wrong)と正不正(Justice and Injustice)の観念は、そこには存在の余地をもたない。共通の権力がないところには、法はなく、法がないところには、不正はない。強力と欺瞞は、戦争において二つの主要な特性である。……そこには所有(Property)も支配(Dominion)もなく、私のものとあなたのものとの区別もなくて、各人が獲得しうるものだけが、しかもかれがそれを保持しうるかぎり、彼のものなのである。」(213-214)
人々を平和に向かわせる諸情念
「人々を平和に向かわせる諸情念は、死への恐怖であり、快適な生活に必要なものごとに対する意欲であり、それをかれらの勤労によって獲得する希望である。そして理性は、つごうのよい平和の諸条項[自然の諸法]を示唆し、人々はそれによって、協定へとみちびかれうる。」(214)
第 14 章 第一と第二の自然法について、および契約について
自然の権利とは何か
「著作者たちがふつうに自然権(Jus Naturale)と呼ぶ自然の権利(Right of Nature)とは、各人が、かれ自身の自然すなわちかれ自身の生命を維持するために、かれ自身の意志するとおりに、かれ自身の力を使用することについて、各人がもっている自由であり、したがって、かれ自身の判断力と理性において、かれがそれに対する最適の手段と考えるであろうような、どんなことでもおこなう自由である。」(216)
自由とは何か
「外的障碍が存在しないこと」
自然の法とは何か
「自然の法(Law of Nature)(自然法Lex Naturalis)とは、理性によって発見された戒律すなわち一般法則であって、それによって人は、かれの生命にとって破壊的であること、あるいはそれを維持する手段を除去するようなことを、おこなうのを禁じられ、また、それをもっともよく維持しうるとかれが考えることを、回避するのを禁じられる。」
権利と法のちがい
「権利は、おこなったり差し控えたりすることの自由に存し、それにたいして法は、それらのうちのどちらかに決定し拘束するのであって、したがって法と権利は、義務(Obligation)と自由が違うようにちがい、同一の事柄については両立しない……」(217)
各人は自然的に、あらゆるものに対して権利をもつ
「人間の状態は、……各人の各人に対する戦争の状態なのであり、このばあいに各人は、かれ自身の理性によって統治されていて、……各人はあらゆるものに、相互の身体に対してさえ、権利をもつのである。それだから、各人のあらゆるものに対するこの自然権が存続するかぎり、どんな人にとっても(かれがいかに強力または賢明であるにしても)、自然が通常、人々に対して生きるのを許している時間を、生きぬくことについての保証はありえない。」
基本的自然法
「『各人は、平和を獲得する希望があるかぎり、それにむかって努力すべきであり、そして、かれがそれを獲得できないときには、かれは戦争のあらゆる援助と利点を、もとめかつ利用していい』というのが、理性の戒律すなわち一般法則である。この規律の最初の部分の内容は、第一のかつ基本的な自然法であり、それは、『平和をもとめ、それにしたがえ』ということである。第二の部分は、自然権の要約であって、それは『われわれがなしうるすべての手段によって、われわれ自身を防衛する権利』である。」
第二の自然法
「『人は、平和と自己防衛のためにかれが必要だと思うかぎり、他の人々もまたそうであるばあいには、すべてのものに対するこの権利を、すすんですてるべきであり、他の人々に対しては、かれらがかれ自身に対してもつことをかれがゆるすであろうのと同じおおきさの、自由をもつことで満足すべきである。』というのは、各人が、何でも自分の好むことをするというこの権利を保持するかぎり、そのあいだすべての人々は、戦争状態にあるのだからである。」(218)
権利を放棄するとは何か
「ある人のあるものに対する権利を放棄する(lay down)とは、他人がそのものに対する自分の権利からえる便益を、さまだける自由をすてる(devest)ことである。」(218)
権利を放置/譲渡するとは何か
「権利は、たんにそれを放置することによってか、あるいは、それを他人に譲渡することによって、除去される。たんに放置すること(Renouncing)によってというのは、それについての便益がだれに帰するかを、かれが顧慮しないばあいである。譲渡によってとは、かれがそれについての便益を、ある特定の人または人々のものとする意図をもっている場合である。」(219)
すべての権利が譲渡可能なのではない
「だれも、どんなことばまたは他のしるしによっても、それらの権利を譲渡したとか理解されることができないような、いくつかの権利がある。第一に人は、かれの生命をうばおうとして力ずくでかれにおそいかかる人々に、抵抗する権利を、放棄することはできない。……同じことは、傷害、鎖による拘束、投獄についていわれうる。……最後に、権利のこの放置と譲渡が引き起こされる動機と目的は、かれの身がらを、その生命において、また生命を嫌悪すべきものとしてではなく維持する手段において、安全に確保することにほかならない。」(220-221)
契約/信約/贈与
「権利の相互的な譲渡は、人々が契約(Contract)と呼ぶものである。」(221)「さらに、契約者の一方が、かれの側では契約されたものをひきわたして、相手を、ある決定された時間ののちにかれのなすべきことを履行するまで放任し、その期間は信頼しておくということも、ありうる。そしてこの場合には、かれにとってこの契約は、協定(Pact)または信約(Covenant)と呼ばれる。あるいは、きたるべき時に履行するはずの人は、信頼されているのだから、かれの履行は約束の遵守あるいは誠実とよばれ、不履行は(もしそれが意志によるのであれば)誠実の放棄とよばれる。」「権利の譲渡が相互的でなく、当事者の一方が、相手かその友人たちから友情または便宜(service)を獲得することを希望して、あるいは、慈善または度量についての評判を獲得することを希望して、あるいは、かれの心を同情の苦痛から解放されるために、あるいは天上でのむくいを希望して、譲渡する場合には、これは契約ではなくて、贈与(Gift)無償贈与(Free-Gift)恩恵(Grace)であり、これらの言葉は、まったく同一のことを表す。」(222)
相互の信頼による信約が、無効な場合
「当事者のいずれもが現在は履行せず、相互に信頼するという、信約がむすばれるとすれば、まったくの自然の状態(それは各人の各人に対する戦争の状態である)においては、なにかもっともな疑いがあれば、それは無効になる。しかし、もし双方のうえに、履行を強制するのに充分な権利と強力を持った共通の権力が設定されていれば、それは無効ではない。すなわち、はじめに履行するものは、相手があとで履行するであろうという保証をなにももたないのであって、なぜなら、ことばの束縛は、なにかの強制的な力への恐怖なしには、人々の野心、貪欲、怒り、およびその他の諸情念をおさえるには弱すぎるからである。そういう権力は、すべての人が平等で、自分自身の恐怖の正当性についての裁判官である、まったくの自然の状態においては、とうてい想定されえない。それで、したがってはじめに履行するものは、かれの生命と生存手段をまもる権利(かれはそれをけっして放棄しえない)に反して、自己をうらぎってその敵にひきわたすのである。/しかしながら、一つの権力が設定されて、さもなければ自分たちの誠実を放棄しようとする人々を拘束する、社会状態(civil estate)においては、その恐怖はもはや、もっともなものではない。そうしてそういう理由で、その信約によってはじめに履行することになっている人は、そうする[権利を放棄する]ように義務づけられるのである。」(226-227)
恐怖によって強要された信約は、有効である
「まったくの自然状態で、恐怖によってむすばれた信約は、義務的である。例えば、私が敵に対して、自分の生命とひきかえに、身代金または役務を支払うことを信約すれば、私はそれに拘束される。……またもし弱い王侯が恐怖によって、強い王侯と不利な講和をするならば、……かれはそれをまもるように拘束される。そして、コモン-ウェルスのなかにおいてさえ、……なにごとであれ私が義務づけなしに合法的に行ないうることならば、私はそれをすることを恐怖によって信約しても合法的なのであり、そして私が合法的に信約することを、私は合法的にやぶりえないのである。」(229-230)
市民社会における宣誓の空虚さ
「ことばの力は、人々をかれらの信約を履行するように拘束するには、よわすぎるので、それを強化するには、人間本性のなかに、二つの手段しか考えられない。そしてそれらは、かれらの約束を破棄することの帰結への恐怖か、あるいは、それを破棄する必要がないようにみえることの自慢や誇りかである。この後者は、あまりにまれにしかみられないので、あてにすることができないような、寛大さ(Generosity)であって、人類の最大部分である富や支配や肉体的快楽の追求者たちにおいては、とくにそうである。あてにされるべき情念は、恐怖であり、それについてはふたつのきわめて一般的な対象がある。ひとつは、みえない霊の力、もうひとつは、かれがそうすることによって立腹させるであろう人々の力である。これら二つのうちで、前者のほうが力は大きいのだが、後者への恐怖のほうが、ふつうは大きい恐怖である。前者への恐怖は、各人におけるかれ自身の宗教であり、それは市民社会の[時代の]まえの人間本性のなかに、その場所をもっている。後者はそういう場所をもたず、すくなくとも、人々にかれらの約束をまもらせるに十分な場所を持っていない。」(232)
第 15 章 その他の自然法について
正義と所有権はコモン-ウェルスとともにはじまる
「相互信頼による信約は、いずれかの側に不履行についてのおそれがあれば無効であるから、正義の起源は信約の成立ではあっても、そういうおそれの原因が除去されるまでは、そこには、実際には、なにも不正義はありえない。その除去は、人々が戦争という自然状態にあるあいだは、おこなわれえないのである。したがって、正と不正という名辞が場所をもつためには、そのまえに、ある強制権力が存在して、人々がかれらの信約の破棄によって期待するよりも大きな、なんらかの処罰の恐怖によって、彼らが自分たちの信約を履行するように、平等に強制しなければならず、かれらが放棄する普遍的権利のつぐないとして、人々が相互契約によって獲得する所有権(Propriety)を確保しなければならないのであり、そしてそういう権力は、コモン-ウェルスの設立のまえには、なにもないのである。……したがって、自分のものがないところ、すなわち所有権がないところでは、なにも不正義はなく、強制権力がなにも樹立されていないところ、すなわちコモン-ウェルスがないところでは、所有はない。すべての人がすべてのものに対して、権利をもつのだからである。」(236-237)
第 16 章 人格、本人、および人格化されたものについて
人格とはなにか
「人格(Person)とは、『かれの言葉または行為が、かれ自身のものとみなされるか、あるいはそれらの言葉または行為が帰せられる他人またはなにか他のもののことばまたは行為を、真実にまたは擬制に代表するものとみなされる』人のことである。」(260)
自然的人格と人為的人格
なにかを代表するものを人為的人格と呼ぶ。
人格という語はどこからきたか
「人格という語は、ラテン語である。そのかわりにギリシャ人は、プロソーポンという語をもっていて、それは顔をあらわし、ラテン語のペルソナ(Persona)が、舞台上でまねられる人間の仮装や外観をあらわし、ときには、もっと特殊的に、仮面や瞼甲のように、それの一部分で顔を仮装するものを、あらわすのとおなじである。そして、それは舞台から、劇場においてと同様に法廷においても、ことば(speech)と行為を代表するすべてのものに、転化した。それだから、人格とは、舞台でも日常の会話でも、役者(Actor)とおなじであって、扮する(Personate)とは、かれ自身や他の人を演じる(Act)こと、すなわち代表する(Represent)ことであり、そして他人を演じるものは、その人の人格をになうとか、かれの名において行為するとかいわれる。」(260-261)
行為者と本人
「人為的人格のうちあるものは、かれらの言葉と行為が、かれらが代表するものに帰属(Owned)する。そしてそのばあい、その人格は行為者[役者]であって、かれのことばと行為が帰属するものは、本人(Author)であり、こういうばあいに、行為者は、本人の権威(authority)によって行為するのである。」(261)
第二部 コモン-ウェルスについて(第二巻)
第 17 章 コモン-ウェルスの諸原因、発生、定義について
人は「うまれつき、自由と、他人に対する支配とを愛する」。コモン-ウェルスの目的は「諸個人の安全保障」であるが、これは自然の諸法によって得られるものではない。「自然の諸法が、なにかの権力の威嚇なしに、それ自身だけで、守られるようになるということは、われわれのうまれつきの諸情念に反するからであって、それらの情念は、われわれを、えこひいき、自慢、復讐、および、その他の類似のものへと、導くのである。」(28)
コモン-ウェルスの生成
「かれら[人々]を外国人の侵入や相互の侵入から防衛し、それによって彼らの安全を保障してかれらが自己の勤労と土地の産物によって自己をやしない、満足して生活できるようにするという、このような能力のある共通の権力を樹立するための、ただひとつの道は、かれらすべての権力と強さとを、ひとりの人間に与え、または、多数意見によってすべての意志を一つの意志とすることができるような、人々の一つの合議体に与えることであ」る。「これは同意や和合以上のものであり、それは、同一人格による、かれらすべての真の統一であ」る。「これが、あの偉大なリヴァイアサン、むしろ(もっと敬虔にいえば)あの可死の神の、生成であり、われわれは不死の神のもとで、われわれの平和と防衛についてこの可死の神のおかげをこうむっているのである。」(32-33)
コモン-ウェルスの定義
「それは『一つの人格であって、かれの諸行為については、一大群衆がそのなかの各人の相互信約によって、かれらの各人すべてを、それらの行為の本人としたのであり、それは、この人格が、かれらの平和と共同防衛に好都合だと考えるところにしたがって、かれらすべての強さと手段を利用するようにするためである。』」(34)
第 18 章 設立による主権者の諸権利について
コモン-ウェルスを設立する行為とは何か
「ひとつのコモン-ウェルスが、設立されたといわれるのは、人々の群衆の、各人と各人とが、つぎのように協定し信約するばあいである。すなわち、かれらすべての人格を表現(Present)する権利(いいかえればかれらの代表(Represent)となること)を、多数派が、どの人または人々の合議体に与えるとしても、それに反対して投票したものも賛成したものとおなじく、各人は、かれらのあいだで平和に生活し、他の人々に対して保護してもらうために、その人またはその人々の合議体のすべての行為や判断を、それらがちょうどかれ自身のものであるかのように、権威づける、ということである。」「このコモン-ウェルスの設立から、合議する人民の同意によって主権者能力を与えられた人または人々の、すべての権利と能力(Facultyes)がひきだされる。」(36)
(1)「臣民たちは統治形態を変更しえない。」
(2)「主権者権力は剥奪されえない。」
(3)「多数派によって宣告された主権設立に対して、抗議することは、だれも不正義なしにはできない。」
(4)「主権者の諸行為が臣民によって、正当に非難されることはありえない。」
(5)「主権者がすることは何でも、臣民によって処罰されえない。」
(6)「主権者は、かれの臣民たちの平和と防衛に必要なことがらに関する、判定者である。」
(7)「主権者は、所有権などの諸規則を作る権利をもつ。」
などなど。
→「これらの諸権利は、分割されえない。」
→「臣民たちの権力と名誉は、主権者権力のまえでは消失する。」
→「主権者権力は、それの欠如ほど有害ではなく、害はほとんどすべて、少数者にこころよく服従しないことから生じる。」
第 19 章 設立によるコモン-ウェルスのいくつかの種類について
コモン-ウェルスの三つの形態
「代表がひとりの人である場合には、このコモン-ウェルスは君主政治であり、それがそこに集まってくる意志をもつすべてのものの合議体である場合には、それは民主政治すなわち民衆的コモン-ウェルスであり、それが一部分だけの合議体である場合には、それは貴族政治と呼ばれる。この他の種類のコモン-ウェルスというものは、ありえない。」(52)
「権力を制限されている王は、それを制限する権力を有する人または人々に、優越しないし、そして、優越しないものは至高ではなく、いいかえれば主権者ではない。」(61)
「継承の処置が、現在の主権者の手中にない場合には、完全な統治形態はない。」(63)
  
リヴァイアサン 2

 

   T ホッブズ『リヴァイアサン』の思想 
   U ホッブズと民主主義 / ホッブズ評価
   V.ロックの社会思想
   IV ルソーの思想
T ホッブズ『リヴァイアサン』の思想 

 

一、ホッブズの人間観
ホッブズ(1588〜1679)は、人間を欲望機械として捉えています。ホッブズの場合は人間が機械であるばかりでなく、コモン・ウェルス(国家)も機械です。しかもコモン・ウェルスは機械であるばかりでなく人工的な機械人間でもあるとしたのです。彼は『リヴァイアサン』(1651)を著わしましたが、この題名はバイブルのヨブ記に登場する怪獣の名前から採りました。これは神が創造された巨大な怪獣に倣って、人間がコモン・ウェルスという巨大な人工機械人間を造ったのだという譬えなのです。
人間や国家が機械だというと奇異に感じられるかも知れません。今日の常識では、人間は生物であって機械ではありませんし、国家も社会組織であって機械ではないからです。ホッブズの時代ですと自動で動く複雑な仕組を持った装置としては「生命体」もオートマトン(自動機械〉に含まれていたのです。(『リヴァイアサン』序説、53頁上、頁数は中央公論社版『世界の名著28』による)
ホッブズは、感覚的な刺激が体内に印象を残し、それがイマジネーション(メモリィ)となって互いに結び付くとします。イマジネーションの複雑で秩序だった連結に思考の原型を見出すのです。刺激情報は映像や信号の形をとって様々に連結して意識内容を構成します。また意識内容は脳裏に刻印されていて、その時々の意識内容に応じて連関の度合によっては、焼き直されて再生します。特に言語中枢では各々のイマジネーションが、組み合された特定の音声のイマジネーションと対応します。またイマジネーション間の連関に対応して音声のイマジネーション間の連関が起こりますと、言語表現がなされたことになります。ホッブズにすれば意識内容が存在するということは、デカルトのように意識内容から超越した意識主体の存在を明晰判明にするわけではないのです。(同上、第一部「人間について」、第二章「イマジネーションについて」)
ホッブズは、動物の運動をヴァイタル(生命的)な運動とアニマル(意志的)な運動に区別しています。ヴァイタルな運動の方は血行、脈博、呼吸、消化、栄養、排池等の過程です。これにはイマジネーションは不要です。これに対してアニマルな運動は意志による運動ですから、予めイマジネーションに基づいて行います。アニマルな運動の場合は、行為を開始する前に行為の端緒になる運動がイマジネーションの連結運動として人体内で行われると仮定しています。この運動を「努力(effort)」と呼びます。例えば、獲物を見つけた狼が脳裏で獲物に向かっていく動作を思い浮かべます。脳裏で対象獲得動作を一応予行演習しているわけです。つまり意志とは、動作に入る前にその動作をイマジネーションのレべルで行うことなのです。何故そんな事をホッブズは考えるのでしょうか。きっと意志の主体が先ずあって、それが様々な行為を命じるという捉え方を退けているのでしょう。
この努力がそれを引き起こす対象に向かうときは、欲求(appetite)とか意欲(desire)とか呼ばれます。逆に努力が対象から離れるために為されるときには嫌悪と呼ばれます。愛は意欲が具体的な対象に向かっている場合で、憎しみは嫌悪が具体的に対象に向かっている場合にあたります。そこでプロタゴラスのような相対的な善悪説が帰結します。意欲や欲求の対象は、衆人にはどんなつまらないものであれ、当人にとっては善なのです。そして、憎悪や嫌悪の対象は、衆人にはどんな素晴らしいものであっても、当人にとっては悪なのです。善悪はあくまで当人との関係において相関的に成り立つのです。それ自体でよいものとか悪いものとかは一切認めないのです。欲求の対象に対しては期待をもって眺めます。この欲求している状態はだから対象に美を感じている状態なのだ、とホッブズは語ります。更に、対象の享受によって欲求を充足しつつある状態が歓喜なのです。これらの心の運動は、脳の中に一定の場所があって、そこで感覚によって造られたイマジネーションが運動していると考えられます。この運動が様々な心の動き並びに情念の実体なのです。ホッブズは、生理的感覚的な状態と心(あるいは魂)を区別するのは間違いだと考えました。
それに善悪、美醜、快・不快のレベルは欲求レベルであって、動物でもこのレベルの情念を抱くのです。動物には物質的な身体機械以外の精神的実体としての霊魂をデカルトは認めませんでした。ですから欲求レベルの心の活動を展開することで、ホッブズは心を精神的実体として捉える議論に反駁したのです。希望、絶望、恐怖、勇気、怒り、信頼、不信、憤慨、仁慈、強欲、野心、小心、大度、勇敢、吝嗇、親切、自然の情欲、愛の情念、復讐心等の情念を動物ももっているのだそうです。
思考に関しても、「熟慮」まで動物に認めます。脳裏で一つのイマジネーションが生じますと、それに引き続いて別のイマジネーションが生じます。これが連想です。(初めのイマジネーションが強い場合は、それに関連したイマジネーションが生じるわけです。そこに関連性が明らかな場合は「規制された思考」と呼びます。特に欲求や恐怖を伴うイマジネーションは強烈で永続性があります。かつての同様の状況が思い浮かんで、それに対処する為の様々 な手段が思い浮かぶのです。それでホッブズは、予見、慎慮、知恵、意見等を動物の能力として認めています。物事が行われるまでか、不可能と分かるまで継続する意欲、嫌悪、希望および恐怖の総計を「熟慮」と言い、獣もまた熟慮すると主張しているのです。
そして熟慮における最後の欲求が「意志」だとしたのです。こうして動物を意志的行為の主体として認めました。だから動物は意志的行為の主体としてアニマを持ちます。このアニマはしかし決して非物質的な実体なんかじゃなく、身体内で形成されるイマジネーンョンの運動として捉えられているのです。それで霊魂はあくまで身体の機能に過ぎないのです。(同上、第六章「一般に情念と呼ばれる、意志を持った運動の内的発端について、また、その表現としてのスピーチについて」)
ホッブズもデカルト同様、言語を人間と動物を分ける決定的な契機として捉えています。音声のイマジネーションを他のイマジネーションの記号として用い、イマジネーションの連結が音声のイマジネーションの連結を連想させるようになりますと、言語活動が発生します。生のイマジネーション間の連結をそのまま記憶したり、複雑な組み合わせに生理的に対応するのは大変ですから、簡潔な言語を用いた知識の形で表現できれば、複雑な状況を把握するにも、伝達するにも、記憶するにもとても便利になります。その場合でもホッブズは、この活動をイマジネーション自身の活動の発展として捉えています。このようなイマジネーションの活動がある一貫した個性的傾向を示す場合に、この傾向を実体化して自我が見出されるのです。こうして彼は人間精神の活動まで含め、一種の物質に他ならないイマジネーションの運動として、機械論的に説明してしまおうとしたのです。そこで霊魂を精神的実体として、物質一般と峻別する発想を迷信として退けているのです。(第四章「言語(スピーチ)について」)
社会形成を行う場合に、諸個人の間での力関係が前提になります。ホッブズはパワー(力)を「近い将来に善となるものを獲得するために現在所有している手段」であると定義しています。オリジナルなパワーには、肉体的精神的能力の優秀さ、例えば、異常な強さ、優れた容姿、深慮、技芸、雄弁、気前の良さ、高貴等があげられます。そしてインストルメンタル(道具的)なパワーには、富、評判、友人、幸運等があげられます。パワーは更にパワーを手にいれる手段にもなります。たとえオリジナルなパワーは少なくても、インストルメンタルなパワーで多くの人々のパワーを結集させて、支配することも可能になります。
オリジナルなパワーでもインストルメンタルなパワーでもパワーに違いないのでから、内面的な能力や資質、気品等はそれがいかに主観的にはバリューがあると思っていても、プライスとして外面的に力を評価されない限り通用しません。ホッブズはプライスになっていないバリューは認めません。ホッブズではオリジナルなものはインストルメンタルなもので代替可能なのです。(同上、第十章「力、価値、位階、名誉、ふさわしさについて」)
人間にとって生きるとは意欲の対象であるものを獲得しようとすることだとホッブズは受け止めていますから、そのためには自分が支配できるパワーを拡大し続けることが必要です。決して自分の能力や地位に応じた分相応の社会的パワーに甘んじたり、出来るだけパワー獲得競争から身を引いて、魂のアタラクシア(平静)やアパティア(情念没却)を求めたりするべきではないのです。
「至福とは一つの対象から、他の対象への意欲の継続的な進行であり、一つの対象の獲得は更にもう一つの対象の獲得への過程に過ぎないのである。」
ホッブズは、意欲は次から次に力を求め死ぬまで止むことがないとしています。その理由は、現在の保有している力を確保するためには、更にそれ以上の力を獲得しなければならないからなのです。それをホッブズは、競争の原理で説明しています。ライバルよりも強い社会的力を持つことによって、ライバルの力を排除したり、屈服させてその力をも統合したりして、より豊に対象を獲得しなければなりません。互いに凌駕しようとし合うので、滅ぼされないためにはどうしても自分の力を拡大することに血道をあげざるをえないのです。
これは社会的な力関係からくるものでして、人間の強欲や性悪の所為ではないんです。ホッブズは、人間が本性的に欲求充足の拡大を求めて、脂ぎって活動することをむしろ生命力の発現として、社会の活力として大いに肯定しているのです。ところで皆が自己の社会的な力の拡大に血道をあげれば、どうしても「万人に対して万人が狼」の状態になってしまいます。しかし不安定な戦争状態にいつまでも堪えられるわけではありません。そこで、人類が一緒になって、平和な統一を持った生活をすることに関する諸々のマナーを必要とするのです。(第十一章「態度(マナーズ)の相違について」)
戦争をいつまでも継続すれば、人類は共倒れになるしかありません。特に戦争をするパワーが余り強くない人は、永く生きられません。そこで強力な権力者に服従を誓い、身の安全を保証してもらうことになります。この服従は命乞いによるのですから、権力者の命令には絶対服従ですが、そのかわり権力者は服従者に対して不当に命を奪ってはいけません。そうなれば約束違反ですから、元の戦争状態に逆戻りになってしまいます。服従者は、支配者の恩恵によって暮せるのです。安心して家業に精を出し、自分達の技芸を熟練させることができるのです。そこでこの支配者の恩義に感謝し、支配者に対する義務を忠実に果たすことがマナーなのです。(同上、第十一章「態度(マナーズ)の相違について」)
ホッブスは、自然状態を分析して、戦争状態に陥らざるをえない原因を詳しく検討しています。先ず人間が本来平等であることを指摘します。肉体的能力では、個人的な差が認められますが、束になってかかったり、刃物をつかえば、必ずしも強い者が弱い者と戦って勝つとは限りません。精神的知的な能力も時間さえかければ誰でも学問や技芸が身につくとしています。ただ自惚れが人間の平等性を信じさせなくしているのだそうです。
「自分自身の知力は直ぐ手近く見ているのに、他人の知力は遠くに見ているから」
自分の知力が一番だと思ってしまうのです。しかし、皆がそう思っているのですから、皆大差ないのです。人間機械論から解釈しますと、人間は同じ機種の自動機械ですから、その性能に大差はないということでしょう。
この能力の平等は、目標達成についての希望の平等を生みます。そこでみんなが同じ事を意欲するので、どうしても奪いあいになってしまいます。そうなりますと互いにライバルたちが何人か手を組んで自分をやっつけに来るのではないか、寝込みを襲われるのではないか、と相互不信に陥り、機先を制しようと戦争を始めるのです。
ホッブズは、人間本性の中の争いの三大要因を見出しました。1獲物を求める競争、2安全を求める余りの不信、3評判を求める誇りの三つです。この本性によって自然状態の間は、人間は「万人の万人に対する戦争状態」から脱け出せません。そのことはなにも四六時中戦っていたというわけではありません。というのは戦争とは戦闘や闘争行為だけではなく、闘争への明らかな志向の内にあるものだからです。戦争によって欲求が充足できるという可能性を断念させるだけの強力な共通の権力が成立するまでは、ですから戦争状態なのです。
自然状態である戦争状態では、おちおち働いていられません。とても田畑を耕したり、建物を立てたり、便利な乗り物を造る事などできません。様々な知識や技術を学んだり、発展させることもできません。
「技術も文字も社会もない。… 継続的な恐怖と暴力による死の危険とが存在し、人間の生活は孤独で貧しく、険悪で残忍でしかも短いことである。」
このような戦争状態を終わらせ、平和に暮すために「自然法」があるのです。(同上、第十三章「人間の自然状態、その至福と悲惨について」) 
二、自然法について

 

ホッブズは、自然権をこう定義しています。
「自然権とは、各人が自分自身の自然すなわち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用い得るように各人がもっている自由である。従ってそれは自分自身の判断と理性とにおいて、そのために最も適当な手段であると考えられるあらゆる事を行う自由である。」
簡単に言えば、誰でも生きているのだから生きようとする権利がある。生きるためのあらゆる行為は生まれてきた以上当然の権利だ、ということでしょう。このようにホッブズは自然権を生存権あるいは自己保存権として捉えています。
さてホッブズは自己保存権を自然権の定義だとして、その実現のためにはどんな事をしてもよいとしましたが、皆が自分勝手に自己保存のために活動しますと、限られた富の奪い合いになり、戦争状態に陥ります。この戦争状態にあってはまさしく自己保存が不可能になりますから、反って自然権が否定されてしまいます。そこで「理性の戒律あるいは一般法則」として次の「基本的自然法」が確認されるのです。
「各人は平和を獲得する望みが彼にとって存在する限り、それに向かって努力するべきであり、そして彼がそれを獲得できないときには、戦争のあらゆる援助と利益を求めかつ用いてもよい。」
平和への努力が実らなければ戦争してもよいというのでは、互いに相手の意図を警戒して戦争の準備を怠るわけにはいかず、それが余計に不信を募らせてうまくいきません。そこで第二の自然法はこうです。
「平和のために、また自己防衛のために必要と考えられる限りにおいて、人は他の人々も同意するならば、万物に対するこの権利を進んで放棄すべきである。そして自分が他の人々に対して持つ自由は、他の人々が自分に対して持つことを自分が進んで認めることができる範囲で満足すべきである。」
これはお互いに敵意のないことを確認しあい、自分がされたくないことを人にしないと約束しあう事です。これがいわゆる「万人の法」です。(同上、第十四章「第一、第二の自然法と契約について」)しかし互いに不可侵というのでは、孤立して暮すことになります。困ったとき、飢えているとき、危険に遭遇したときなど、見殺しにするようでは、自己保存のために他者のものを奪うことも仕方ありません。困ったときには助けあうところまで含めて、約束が必要です。ですから第二の自然法に基づいて社会契約が為され平和がもたらされるとは、ホッブズも考えてはいなかったのです。ホッブズが実際に平和をもたらすと考えていた契約は、強制的な契約にあたる支配・服従の契約です。
支配・服従の契約でも、力による襲撃に対して抵抗する権利は放棄できません。支配・服従契約もあくまで自己保存の為に契約したのですから、この目的が反故にされれば戦争状態に逆戻りです。自発的にせよ、力関係から強制されたにせよいったん結ばれた契約が履行されることが平和の維持を保証します。ですから第三の自然法は「結ばれた契約は履行すべし。」ということです。ホッブズは、第三の自然法によってはじめて「正義」が成り立つとしています。契約がなければあらゆる権利は譲渡されていないので何をしても不正ではないからというのです。そこで不正とは契約の不履行であるとされます。ところでこの「契約の履行」は何によって保証されるでしょうか。
ただの口約束や契約書ではいつ破棄されないとも限りません。契約の履行を強制するような共通の権力、つまりコモン・ウェルス(国家権力)が存在してはじめて、信頼に基づく契約が有効になるのです。正・不正や所有権が成立するのもそれからです。支配・服従契約のように不平等な契約でも、履行しないのは不正なのです。もし服従を誓わなければ、強者は弱者を敵として抹殺するか鎖に繋げておくしかありません。服従契約によって安全に生活をすることができているのですから、これはひとえに支配者の恩恵なのです。
そこでホッブズは、第四の自然法を「報恩」とします。これに対して忘恩は自然法の侵害です。被支配者が支配者の隙を窺ってやっつけることも可能です。そんなことになればまた戦争状態に逆戻りですから、忘恩は最も不正な事に当たるのです。
第五の自然怯は、「相互順応、従順」です。契約を守り、平和な社会を維持するためには互いに協調し合い、掟や支配者の命令に対して従順でなければならないのです。
第六は「許容」です。過去の罪を悔い改めた者に対しては、平和を堅固にするためにはいたずらに敵視することを止め、許容してやるべきです。
第七は「報復においては将来の善だけを尊重すること。」
第八「傲慢であるな」、第九「自惚れるな」、第十「尊大であるな」、第十一「公平」、第十二「公共の物を平等に用いること」等が続きます。
一つ一つの自然怯を暗記していなくてもいいのです。ある行いが自然法に叶っているかどうかは、
「自分自身にして欲しくないことを、他人にもしてはいけない。」
という「万人の法」によって判定されます。彼は、人格的対等の原理を基づく倫理を強調します。
「他の人々の行為と自分自身の行為とを比較考量し、もしも前者が余りに重いように思えたならば、前者を秤の反対側に掛け直し、自分自身の行為を前者の代わりに掛ける。そして自分自身の情念や自己愛が、全く秤に掛からないようにする。こうしてみれば、これまで述べた自然法のうち、一つとして極めて当然でないものはないことが明らかになる。」
互いに相手を尊重し合い、融和し合う事がなければ争いが絶えず、戦争状態に戻ってしまいます。ですからこれらの自然法は永遠なのです。しっかりしたコモンウェルスの下では、平和を求める気持ちさえあれば、その遵守は易しい筈だというのです。ホッブズが道徳哲学だとするのはこのような自然法についての学問なのです。(同上、第十六章「他の自然法について」) 
三、コモンウェルス(国家)について

 

コモンウェルスの目的は、ホッブズによれば戦争状態を脱して人間生活の安全を保障することにあります。人間は互いに自然法を尊重して助け合い、「己れの欲するところを人にも為せ」というバイブルの黄金律を実践していれば、平和に幸福に暮せるのです。実際には、他の人々が自分と同様に自然法を守るという保障があるときだけしか拘束力を持ちません。というのは他の人々が自分に敵意を持ち、攻撃しようと待ち構えているところに丸腰で出て行けば、自己破壊であって、自然法の目的に背きます。また反対に他の人々が自然法を遵守する十分な保障があるのに法を守らないのなら、その人は平和でなく戦争を求めていることになります。
では少数者が結合することで安全が保障されるでしょうか。元々戦争状態にあるのですから、相対的に優位な集団ができれば侵略に乗り出す事になってしまいます。また多数の人々が結合する場合でも、同一判断によって、つまり一つの意思によって統御されていない限り、安全保障は得られません。同じ集団でもばらばらの判断や欲求によって動かされるならば、互いに内部対立を深刻化させることになり、全く無力になります。コモンウェルスの生成は、すべての人の意思を一個人あるいは合議体に結集することによって可能になります。
その為にはすべての人はあらゆる力と強さを譲り渡してしまうことが必要です。多数の人々が一個の人格に結合し、統合されるのです。コモンウェルスにおいては、彼らは自分達が、自発的かどうかにはかかわらず、承認した主権者の行為・判断の総べてを承認し、自己の行為・判断と見なさなければならないのです。つまり主権者に対して絶対服従の義務があるのです。
彼は、人格は代理され得ると考えています。主権者は人民の意思の代理人ですから、主権者の行為や意思の本人は人民自身です。(同上、第十六章「人格、本人および人格化されたもの」)ということは人民自身の意思に反した行為や意思決定を、主権者が行ってはならない事ではないのです。その反対に、一度主権者を自分達の代理人として承認した以上、主権者の行為・判断を作り出した本人としての義務や責任を、人民自身が負わなければならないということなのです。(同上、第二部「コモンウェルスについて。」、第十七章「コモン・ウェルスの目的、生成、定義について」)
ホッブズは国民が主権者に、生命に関わること以外、一切反抗してはならないことを熱弁しています。たとえ主権者が異教徒であっても、カエサルに従えとバイブルにもあるのですから。ましてキリスト教国ならば、神は神の代理人契約を国民の代理人である主権者をさしおいて、主権者以外と結ぶわけがないのです。ですから主権者が、教義解釈権を持っており、教会に対する支配権も持つべきだというのです。(同上、第三部「キリスト教的コモンウェルスについて」、第四十二章「教会の権力について」)
いったん譲り渡した自然権は戦争状態に戻る以外に取り戻すことは出来ません。ですから主権者がどんなに横暴な政治をしたり、犯罪的な行為をしても国民はそれを処罰することも、非難することすら正当ではないのです。だってその行為や判断の本人は自分達自身なのですから、あたかも他人に対するような態度は取れないのです。ではコモンウェルスの設立に同意していなかった人は、コモンウェルスの主権者に反抗してもよいのでしょうか。ホッブズによれば戦争状態が最悪なのですから、コモンウェルスの設立に反対することは不正です。ある人を主権者として認めないという態度もやはり不正です。誰かが主権者にならなければコモンウェルスを設立できないのですから、いったん主権者になった人を認めないのなら、また戦争状態に逆戻りだからです。
また彼は、主権がばらばらに分解して統一性を失い弱くなることを警戒していますから、主権は分割できないというボーダンの主権論に立っています。主権者は軍事統帥権、イデオロギー統合・支配権、市民法制定権、裁判権、報償・処罰権を一手に握るべきだというのです。市民法とは主権者に第一次所有権があることを前提に、所有権および善・悪、合法・非合法に関する諸規則のことです。
では無制限に近い主権者の強大な権力を認めることは、コモンウェルスの目的である平和の維持と国民の安寧を危うくするのではないでしょうか。古来様々な暴君の存在がそのことを示唆しているように思われます。ところがホッブズは如何なる暴君といえども、戦争状態よりはましだと考えています。といいますのは、専制君主の強大な権力は国民が悲惨で貧しい生活をすることによって維持されるのではないからです。国民が産業を発達させ、豊かな暮らしをしていればこそ、コモンウェルス全体の健康が保たれ、その上に強大な権力を築くことができるのです。苛政誅求によって国民を疲弊させますとコモンウェルスの体力が弱ってしまうので、専制君主にとっても都合が悪いのです。
むしろ君主が強大な権力をもっていることは、国力の充実を示しており、国民の活力なのです。国民の福利と君主の強権を矛盾対立させて捉え、国民の間に不満や反抗が起こりますが、それは国民が自分自身を護るために力を貸そうとしない御し難さを示しています。国民は情念と利己心という二つの拡大鏡を持っていて、ほんの少しの支出でも大きな不満の種になり、将来の悲惨を見通すことができないのです。(同上、第二部、「設立された主権者の権利について」)ホッブズは主権の絶対性に関する議論や国民の権利に関する否定的態度から、一般に専制君主政治の代表的なイデオローグと見なされています。しかし彼は決して専制君主制が最良だと言ったわけではないのです。彼によるとコモンウェルスには三つの政体があります。代表者が一人の場合は君主政(モナキィ)、代表者が一部の者の合議体の場合は貴族政(アリストクラシィ)、代表者が総べての者の合議体の場合は民主政(デモクラシィ)です。(同上、第十九章「設立によるコモン・ウニルスの種類と主権の継承」)
政体はホッブズに言わせれば、いまさら選び直せるものではないのでどれでもよいのです、主権が絶対性を持ち、国民を護るために充分な力を備えているのなら。ただよその国民や古代ギリシアの政体等に憧れて、政治体制を変更しようとすることが最もいけないことなのです。コモンウェルスの頭脳にあたり、唯一の意志決定機関である主権者は取り換え不能なのです。個体の場合頭脳の取り換えは確かに個体の死をもたらしますが、コモンウェルスの場合も同様だとホッブズは言いたいのでしょう。古来政治体制の変更は数多く為されてきましたか、その為にコモンウェルス全体が崩壊するとは限りません。主権者が打倒され、新しい体制に生まれ変わってかえってコモンウェルス全体が活性化することも大いに考えられます。コモンウェルスを人体に誓えるのは、発想は斬新ですが、ここまでやればこじつけです。(同上、第二十章「父権的および専制的支配について」)  
四、国民の自由について

 

ホッブズの「自由人」の定義はこうです。
「自らの強さと知力において、自分でやろうとすることを妨げられていない人間」
です。ですから恐怖から行う行為も自由だと言います。コモンウェルスにおいて法に対する恐怖から為される行為も、すべてそれをしないで刑罰に服する自由をも含んだ行為ですから、自由なのです。必然性と自由も両立します。人間の行為はそれをしなければならない諸事情によって行われる必然的な行為ですが、そのような事情を理解した人間の自発的な自由な行為なのです。
人間は契約によって自分達の行為を制約しますが、そのことによって平和に生きる事ができるのです。だから契約は理性的な自由な行為なのです。社会契約に基づいて作られる市民法は人工の鎖であり、これによって不問に付されたことについて自分の判断で行う自由を持っています。例示されているのは、売買、契約を結ぶ自由、住居・食事・生業の選択、子どもの教育などです。もちろん市民法の内容は主権者が制定しますので、いくらでも市民の自由を制約できます。その上、主権者は自分の制定した市民法によって拘束される義務はないのです。とはいえ余りに厳しく経済面での市民的自由を制約しすぎますと、萎縮して産業が発達しませんから、自ずから限界があります。
思想信条の自由についても何を考えても、考えること自体は禁じようがありません。その意味では内心の自由は不可侵なのです。しかし宗教的な教義や守るべき道徳や賞揚すべき正義の内容は、主権者が決定することができるのです。ですからそれに反する意見の表明や行動を取り締まることができるのです。これは自然法思想の精神とは逆行しています。(同上、第二十一章「国民の自由について」)
国民が団体を形成して行動することには、ホッブズはかなり神経質です。国民の団体には主権者の権力によって作られるポリティカルな団体と、民間で作られるプライべイトな団体があります。その内コモンウェルスの承認がある合法団体と、承認のない非合法団体に分かれます。もちろんホッブズは非合法団体は、悪い体液が不自然に合流した結果生じたのう膿瘍(のうよう)だとして認めません。政治団体の代表者の権力は、主権者の許可する範囲内に制限されています。秘密結社は主権のある合議体でイニシアチブを取るために仲間で協議する団体ですから、非合法な分派であり、陰謀の徒です。統治の為の諸党派をホッブズは不正だとします。
「それらは人民の平和と安全に反し、主権者の手から剣を奪うものである。」
というのです。これらに対して合法的な諸団体、諸集会はコモンウェルスの筋肉だとして重要視しているのです。(同上、第二十二章「公的および私的、従属団体について」)  
U ホッブズと民主主義 / ホッブズ評価

 

はじめに
社会契約論の代表的思想家としてホッブズ・ロック・ルソーがあげられます。ただし同じ社会契約論と言いましても、かなり思想傾向は異なっています。ロックやルソーは、人民がお互いの契約によって社会を形成したのだから、主権は人民に属しており、多数決原理が貫徹されるべきだと主張していました。それに反してホッブズは、社会契約で自然権を譲渡したのだから、主権者には絶対的に服従すべきだと説いたのです。それで一般にはホッブズは絶対王政の擁護者であり、アンチ・デモクラシィーの代表者のごとく見なされていました。私も、実際に『リヴァイアサン』 を読んでみてそのような感想をもっています。
ところが、このたびNHK市民大学のテキスト『近代国家と個人―デモクラシー思想の変遷―』 で田中浩一橋大学教授は、なんとホッブズを民主主義思想家として位置付けています。専制政治の擁護者を民主主義思想家に入れますと、一体民主主義や基本的人権とは何か分からなくなります。田中はどんな理由でホッブズを民主主義思想家と認めているのでしょうか。またそのような理由で民主主義思想家と認める事は、果たして民主主義の正しい理解と言えるのでしょうか。
たとえば六月四日の天安門事件の評価を巡って、社会主義者の見解が割れていますが、無防備の民衆に発砲する事を肯定しても、民主主義思想と言えるのかどうかは大いに疑問です。やはり基本的人権の尊重が謳われていなければ、現在では民主主義思想には入れられないでしょう。現代と同じ基準でイギリスの市民革命期の思想を評価するのは妥当ではありません。やはり市民革命の進展と関連して、ホッブズの果たした思想的役割を見直し、彼の民主的要素と言われている思想内容がどのような意図の下に、どのような文脈で語られているのかが具体的に検討されなければなりません。そのことを通して民主主義とは何かが問い直されることになるでしょう。田中は『近代国家と個人』では、NHK市民大学テキストということもあり、『リヴァイアサン』からきちんと論拠を示しているわけではありません。必要に応じて田中浩著『ホッブズ研究序説―近代国家論の生誕―』(御茶の水書房、1982年刊)を参照しながら、「ホッブズと民主主義」を探究することにしましょう。 
一、コモン・パワーについて

 

「政治学の研究書や教科書の中で、今日の権力主義的な巨大国家を指して、かの『リヴァイアサン』のような強大な国家といったような表現をよく見かけるが、かれの政治論を少しでも立ち入って読めば、こうした用語法が全くの誤解に基づくものであることはすぐさまわかるはずである。なぜならホッブズのいう国家最強論とは、人間が自分の生命や自由を守るために、自分たちの力を合わせて(同意契約)設立した共通権力(コモンパワー)をもつ政治共同体=国家(コモンウェルス)が国王・議会・教会・ギルト等の他の政治・社会権力よりも上位あるいは優越的地位にあることを意味していたからである。すなわち彼の政治原理に基づいて新しく作られた政治共同体(国家・政治権力)こそが、真に全構成員の利益を代表するものであり、したがってそれは最強・最高であるべきだ、というわけなのである。憲法や政治学において、国家には主権(最高権力)がある、という表現が用いられるが、それは、本来、いま述べたような意味に解さなければならない。」(『近代国家と個人』16〜17頁)
この田中の解釈では、国家は人間が力を合わせて共同で作ったものだから、真に構成員全体の利益を代表している。それであらゆる権力に優っており、その意味で最強だと主張していることになります。ところでこの利益代表者である権力者は、かれの政治的な意志決定を、全構成員あるいは全構成員から民主的な手続きで選出された代表の意志によって拘束されると説いているのか、それとも拘束されてはならないと説いているのか、この点がホッブズの思想が民主的か、民主的でないかの判定基準になるはずです。全国民の利益代表を名乗っても、権力者の自由な裁量に国民的な利益の判断が委ねられている国家は、とても民主的とは言えないはずです。また果たしてホッブズは社会契約を全国民の自由で自発的な意志により、強制される事なく行ったと説いているのか、それとも戦争状態から逃れるために弱者が強者の支配を受け入れることによって成立したと説いているのかも、ホッブズの思想の民主性の度合を決める参考になるでしょう。
「ところで、人びとが契約を結び、『共通権力』(主権)を設立したとしても、それだけでは政治社会=国家は運営されない。そこで契約を結ぶと同時に全員の『多数決』によって、『共通権力』設定の目的を遂行するための代表としての『主権者』が選ばれる。この手続きが完了したとぎ事実上、国家(コモンウェルス)が誕生したといえる。ホッブズによれば、主権者の数は一人でも少数の会議体でもよい。当時の状況からみて、そうした主権者としては新しい国王(当時チャールズ一世は処刑されていたから)、クロムウェル、議会にかわる新しい会議体などがホッブズの念頭にあったのかもしれない。
しかし、ここで重要なことは、主権者の数が問題なのではなく、主権者たるものが、契約者全員が『力を合成』して作った統一体としての『共通権力』の一致した意志を真に『代表』しえるかどうかという点にある。すなわち主権者が全成員の『代表』であるという資格をもつということは、かれが、全成員の利益を守るために、すぐれた法を制定し、正しく法律を執行し、公正な裁判を行うように配慮することを義務づけられている、ということを意味する。この『代表概念』こそ、すべての近代国家における政治運営の基本概念であることはいまさら指摘するまでもあるまい。そこで、主権『共通権力』は、ルソーの『一般意志』と同じく最高・絶対・唯一不可分であるが、代表たる主権者(今日風にいえば政治の衝にあたるもの)の行為にはおのずから限界がある、ということになる。」(同上、36〜37頁)
ここでキーワードは、「代表としての主権者」です。これを「多数決」によって選ぶとはどういう事なのでしょうか。『リヴァイアサン』に直接当たって確認してみましょう。
「そして大衆(Multitude)は本来『ひとり』ではなく『多数(Many)』であるから、代表者が彼らの名においていったりしたりすることについては、すべてひとりではなく、多数の本人(many Authors)と解することができる。各人は彼らの共通の代表者に各自、個別的に権限を与える。彼らが代表者に無制限に権限を与える場合には代表者がなすすべての行為を自己のものとして認めている。」(第一部、人間について第十六章、人格、本人、人格化されたもの)
各人が自己の人格の権限を代表者に与えてしまうと、代表者が代表してなす行為は、代表されている大衆自身の行為である、ということです。代表者の判断が代表されている者の判断とずれていても、いったん判断を任せたのですから、今更文句は言えないということになっています。これが下敷きになって、ホッブズ独特の社会契約が成立するのです。
「人々が外敵の侵入から、あるいは相互の権利侵害から身を守り、そして自らの労働と大地から得る収穫によって、自分自身を養い、快適な生活を送っていくことを可能にするのは、この公共的な権力(Common Power)である。この権力を確立する唯一の道は、すべての人の意志を多数決によって(by plurality of voice)一つの意志に結集できるよう、一個人あるいは合議体(Assembly of men)に、かれらの持つあらゆる力と強さを譲り渡してしまうことである。」(第二部、コモンウェルスについて、第十七章、コモンウェルスの目的、生成、定義について)
この力と強さの譲渡によって、コモンパワーは強大な力を持つ、結集された意志になります。そしてこの意志の決めたことは人々の意志を代表しているのですから、人々は決して逆らってはならないことになります。自分たちで意志決定を任せておいて、後になってそれは我々の意志でないと言っても遅いのです。ですから続いてこう述べています。
「ということは、自分たちすべての人格を担う一個人、あるいは合議体を任命し、この担い手が公共の平和と安全のために、何を行い、何を行わせようとも、各人がその行為をみずからのものとし、行為の本人は自分たち自身であることを、各人が責任をもって認めることである。そして、自分たちの数多くの判断を彼の一つの判断に委ねる。」
大衆は自分たちが権限を譲り渡した一個人あるいは合議体に対して、本人は自分たちなのだからという理由で、その意志決定に介入することは出来ないのです。コモンパワーとして意志決定する力自体が主権者に委ねられているのです。こうしてすべての構成員が一個の同じ人格に結合されて合体するわけです。多数決でこの合体が行われるというのは、自然状態から脱してコモンウェルスを作ろうという声がその地域で強くなって一人格への合体が行われたという意味なのです。このコモンウェルスの形成は、ふた通りあります。一つは、有力な一個人あるいは合議体がある地域に覇権を確立し、その住民に服従を条件に生命を保障する場合です。ホッブズはこれを「獲得された」コモンウェルスと呼びます。
もう一つは、人々が、他のすべての人々から自分を守ってくれることを信じて、一個人あるいは合議体に自発的に服従したことを同意した場合です。これは「設立された」コモンウユルスと呼ばれます。いずれにしてもコモンウェルスに合体してしまえば、個々の国民や人民全体には全く、コモンウェルスの意志決定権はないのです。そこに人民主権の原型を見出そうとする田中の次の解釈は全くの誤解なのです。
「ホッブズは、契約によるこの全構成員の『力の合成』を『共通権力』と呼んでいるが、これこそが、最強の権力(リヴァイアサン)つまり最高権力=主権である。したがって、この『共通権力』=『力の合成』という考え方は、のちにルソーの『社会契約論』にもみられるように、今日の国民(人民)主権の原型をなすものといえよう。社会契約によって、一つの政治共同体に、全構成員の生命の安全を保障するための一つの権力(権威)が設立されたことをもってホッブズは、国家(コモンウェルス)誕生の指標としている。国家には主権がある、また、主権は最高・唯一・絶対であるという概念・定義はこの意味に解さなければならない」 
二、ホッブズの「代表」概念

 

田中の誤解の原因は、社会契約における「合意」や「代表」の意味の取り違えにあります。ホッブズは、独立平等な人格の平和を求める意志の結集として、近代的にコモンウェルスの形成を説きますが、そのような装いのもとで実際に出来上がる国家は、絶対にして不可侵の主権を持つ者が支配するのです。ホッブズの狙いは、古い絶対主義的な専制支配を合理化する振りをして、近代的な民主主義の原理を説いたのではないのです。民主主義の動機となる要素までうまく取り込んで絶対専制を合理化するのが、彼自身の意図したところです。それが有産階級のみを代表する議会権力の長老派や、普通選挙に基づく民主政治を求めた平等派等との対決を通して、鍛えられた王党派の中の異端理論の立場なのです。
田中によれば、主権者は「人々が自発的な同意によって選んだ」のだから、「代表人格(主権者)の定める命令っまり市民法」は、一主権者の意思であり、同時にそれは、主権者を選んだ契約当事者全員の意思でも」ある、としています。それで「ここに、治者と被治者の同一性という近代国家原理が定式化されているのであって、これは、ルソーの『一般意志』という考えにきわめて近い。」(『ホッブズ研究序説』33〜35頁)というのです。ルソーの「一般意志」の場合は、立法権は譲渡できないという立場に立っています。みんなの幸福を実現するためにどうするのが最善か、徹底的に話し合って、意志を統一し、そのもとに力を合わせようというのが「一般意志」の立場です。意志を一つにするという点で似ているように見えるかも知れませんが、ホッブズの場合は、意志を一つにするには一つの意志を持った主権者(個人あるいは合議体)に無条件にしたがえ、と説いているのです。もちろんホッブズはそのことをはっきりと疑問の余地なく説明しています。
「第十八章、設立された主権者の権利について」では、まず主権者に賛成投票をした者も反対投票をした者も、等しく主権者の行為と判断をあたかも自分自身のそれであるかのごとくに「承認」するとあります。主権者への服従が契約によって義務づけられているので、他の何者かに服従する契約を結ぶことは出来ないし、政体を変更したり、主権者を取り換えたりできないとしています。主権者を設立した人々は、主権者の行為や判断をすべて承認することを相互に誓い合い契約し合ったのですから、主権者のいかなる行為も不正であると非難すべきではないというのです。これに対する違反は、自分自身に対する裏切りであり、自分自身で自分を罰することになるといいます。これはコモンウェルスが構成員にとっては自分自身であり、その主権者の支配は自己支配に当たると見なすからです。だからといって個々の人々が主権者の意志決定に介入できるということは全然ないのです。
コモンウェルスが一つの巨大な人工機械人間としてリヴァイアサンであり、主権者はその司令中枢であって、構成員はその細胞のようなものと捉える事で、この論理がはっきりするのです。コモンウェルスをジャイアンツとして捉えることによって、主権者の意志の本人が各構成員であるとか、主権者の力や支配力は全構成員の力であるとか、主権者への服従は自己自身への服従であるとか、主権者の目的は平和と国民の福祉であるとかの意味が理解できるのです。またそれでいて、各細胞が前頭葉の意志決定の本人でありながら、実際の意志決定には全く介入できないのと同じで、各構成員は主権者の意志決定には全く参与できないということも「国家=巨人」論ではっきりします。リヴァイアサンを強大な怪獣というマイナスイメージだけで捉えてはいけません。政治的にみて、専制的か民主的かは主権者が人民の福祉のために政治を行っているかどうかによってではなく、意志決定過程で人民の意志がいかにまたどの程度反映しているかで計られるのです。いかに王党派の理論であっても、王は私利私益のために政治をするべきだと考えているわけではありません。王党派は、国家の重大事に関しては主権者が議会に諮らず決定すべきだという国王大権を強く擁護したのです。それは真に公の立場に立つことができるのは、国王のみだという考えからくるのです。 
三、主権の絶対性と「制限」

 

国民は主権者のいかなる行動も非難したり、処罰したりできないというのですから、善良な人民本位の主権者だけを予想しているのではなく、主権者にはきわめてたちの悪い暴君や特権によって私腹を肥やす利権集団も予想されているのです。しかし主権者は苛政を行うあまり国内の平和を乱し、国民の活力を喪失させては、かえって自分の支配力を弱めることになってしまいます。ですから苛政には限界があるのです。主権者がいないと自然状態に逆戻りで、最も悲惨な「万人の万人に対する戦争状態」になりますから、どんなに悪い王でも王がいないよりはましだということです。
現代人ですと王政→貴族政→民主政という展開は、歴史的な進歩と思われ、よりよい政治が行われるようになると、思い込みがちですが、それは近代民主政治の発展を体験した上で言えることです。それに現代の民主政治にしても、その実は官僚独裁であったり、一部の利権集団が多数党と癒着して金権政治が幅をきかしていると言われています。それぞれの政体には一長一短があってどれか最善かはいちがいに決定できません。ギリシアのポリスの政治体制はアテナイなどで王政→貴族政→民主政という発展が見られましたが、プラトンに典型的に見られますように、民主政治の衆愚政治への堕落が非難の的になっていました。ローマではこの三つの政体を混合し、調和させた政治体制として人民集会・元老院・皇帝が牽制し合っていたといわれています。
ですからホッブズの生きたピューリタン革命期のイギリスにおいては、どの政体が最善かは未決の事項でした。そこでホッブズは政治体制の変更はコモンウェルスを作ったときの契約への裏切りと見なし、道徳的に否定したのです。いったん契約を破って主権者を取り換えますと、契約のやり直しになり、新しい主権者はまた裏切りに合う危険を抱えます。結局自然状態への逆戻りを意味するから、一切、正統な継承によらない主権者の変更は認められないとしたのです。
ホッブズは、主権者への批判や反抗を一切認めなかったのですが、このことについて田中は次のように述べてホッブズの自然権の立場を強調します。
「とはいえ、たとえ主権者の命令であっても、『自己保存の原理』からして、それに反抗できる例外があることをホッブズは認めている。たとえば、戦場におもむくことを命ずる主権者の命令にたいしては、理由はさまざまであれ、それに異議があるときは従わなくてもよいとか、あるいは死刑囚といえどもチャンスがあれば逃亡してもよい、とかの発言がそれである。この趣旨はあくまでも『人命の尊さ』を主張しようとしたものと思われるが、前者については現代の英米における良心的徴兵忌避の思想につながるものとして、また後者については死刑廃止論にもつながる思想として見逃しえない貴重な提言であったといえよう。」
「人命の尊さ」の立場にたって、平和主義を訴えたのではありません。あくまでも人間を科学的に考察して社会の原理を解明しようとしただけです。自然状態では互いに自己保存の為に自己のテリトリーの維持・拡大に努めなければなりません。コモンウェルスが成立していないと、互いにやられる前にやるしかないということで戦争状態に陥ります。これでは落ち着いて生産や流通および消費ができず、文明の発展も望めません。共倒れに終わってしまい、人類の衰退滅亡は避けられなくなってしまいます。そこで最有力者の覇権を承認し、服従を誓うことによって、コモンウェルスを形成し、生存を保障してもらう代わりに、その主権の絶対的支配に服することになるのです。
この契約は命乞いの契約ですから、主権者が国民の命を取り上げたり、危険に陥れたりするのは契約の蹂躙だというわけです。あくまでも自己保存のために服従契約を結んだのですから、服従するのは自己保存のためでなくてはなりません。ですからこれではとても自己保存が覚束無いと考えたなら、出兵を拒否したり、命令に背いたり、逃亡してもよいのです。犯罪を犯して捕まえられている場合でも、坐して死を待つ事はなく、逃亡してもよいのです。最低限の自己保存の権利だけは、決して譲渡され得ないというのがホッブズの立場です。ぎりぎりに追い詰められれば契約は消滅し、自然状態に逆戻りするといっているだけですから、やられるれるまえにやるという「闘争の原理」であり、良心的徴兵忌避の思想や死刑廃止論と全く繋がりませんし、平和主義でもなんでもないのです。
「この根拠によって、人がたとえ一兵士として敵と戦うことを命じられ、また、彼が拒否すれば主権者が死刑をもって処罰する権利を持っているとしても、多くの場合、彼はなお拒否することを許されており、しかもそれは不正ではない。… 中略… 戦いが始まると、一方または双方に逃亡者が現われる。しかし、彼らが裏切りではなく恐怖から逃げるのであれば、それは不正ではなく不名誉な行為と見なされるべきである。同じ理由によって、戦闘を回避することも、不正ではなく臆病である。もっとも、兵士として登録している者、前払いの徴兵金を受取っている者には生来臆病であるという口実は許されない。彼らは戦場へ行くだけではなく、隊長の許可なしには逃亡しないという義務を負っている。また、コモンウェルスの防衛のために、武器をとりうる者すべての協力が必要なときには、すべての人に義務がある。」(第二十一章、国民の自由について)
このようにホッブズは、自己保存のためのぎりぎりの選択は道徳的に不正ではないと説いているのです。これにたいしては主権者が死刑を含む罰則を定めることも、主権者の当然の権利だとしています。ですから死刑囚や兵士の逃亡は道徳的に承認されているだけで、これを阻止することも主権者の権利に入っているのです。ただし、職業兵士については、逃亡は職務契約の違反として不正だとしているのです。またコモンウェルスはすべての構成員が自己保存のために造ったものだから、根本的には全員に防衛義務があるのです。ですからホッブズの考えたことは、主権の制限ではありません。
実際、人民は自分たちの生存が脅かされるぎりぎりの状態では契約は消滅したのですから、主権者に抵抗してもよいのですが、この抵抗に対して主権者は、契約が消滅し、自然状態に戻ってこの敵と戦争状態に入るのです。その場合、強大なリヴァイァサンに人民が互角に戦うのは無理があります。それでもホッブズは主権者に絶対権を与えよといいます。強大な主権なしではコモンウェルスの平和は成り立たないからです。それでは自然状態に逆戻りし、人間が絶滅するからです。それよりはいかに暴君といえども人民の力なしでは強大な権力は成り立たないのだから、人民の福祉を目的にせざるを得ないという、主権者の公的性格に信頼していたのです。それでホッブズに言わせれば、君主のやり方に一々反撥する連中は、コモンウェルスによっていかに恩恵をこうむっているか見ることができない狭量に陥っている、主権者の権力を妬んで契約を忘れた忘恩・亡国の輩だ、野心の虜だ、ということになります。 
四、自然法と市民法

 

ところで田中は、ホッブズが主権者の制定する市民法は自然法に反する場合は無効だとしていることを取り上げ、彼を民主的思想家に仕立あげようとしています。
「ホッブズは主権者の行為の限界を指摘した例をいくつかあげているが、たとえば重要なものとしては、自然法(自然権)の内容に反する市民法(各国ごとの法律)を制定することは無効である、という言葉がある。ここには、『実定法』の背後に、生命を尊重し、自由を保障せよ、というイギリスの伝統の『法の支配』観念が鋭く眼を光らせ、『悪法』の出現を監視する精神が働いている。この点、ホッブズの法思想は、法律という形式さえとっていればいかなる法律も合法的であり服従しなければならない、としてきた戦前のドイツや日本に色濃くみられた悪しき法万能主義とはまったく無縁である。だからこそホッブズは主権者の定めた法律や命令には国民は反抗してはならない、と言い切ることができた。この文言を指して、ホッブズの思想は絶対主義的であるとの批判がしばしばなされてきたが、主権者は全国民の意志を代表すべき存在であるとホッブズが考えている以上、代表の意志はすなわち全構成員の意志であるから、それに積極的に従うことこそ『社会契約』の精神に沿うものであろう。」(『近代国家と個人』)
「では、ホッブズの考えるより高次な規範とは何か。それは、理性の声=自然法である。より具体的にいえば、自然権=自己保存権である。ホッブズは『自然の法と市民法は相互に他を含む』と、述べているから、このことは、つまり、人々の生命を危うくするような命令や法律はいくら制定しても無効である、というわけである。ここに主権者による法律制定の限界があるのである。」(『ホッブズ研究序説』)
では『リヴァイアサン』「第二十六章、市民法について」にあたって、ホッブズの真意を探ってみましょう。
「《市民法》とは、すべての国民にとってコモンウェルスが善悪の区別、すなわち何が規則違反で何がそうでないかを区別するのに用いるよう、ことば、文書、その他意志を示すのに十分なしるしによって彼らに命じた諸規則である。」
と定義されます。ホッブズによりますと、コモンウェルスの命令である法を制定する権利を持っているのは主権者のみです。なぜならコモンウェルスを人格的に代表するのが主権者だからです。主権者は従って法を自由に改廃できるので、法に従う必要はないのです。慣習は長く続くと法になりますが、これは主権者が沈黙によって同意を与えてきたからです。もちろん慣習を法によって禁止する権限も主権者は持っているのです。
「自然法と市民法は互いに相手を含み、その範囲は等しい。自然法とは、公平、正義、感謝およびそれらにもとづく道徳的善であるが、それはまったく自然の状態では、もともと法ではなく、人々を平和と服従に向かわしめる本来の性質なのである。ひとたびコモンウェルスが設立されるや、それらは現実に法となるが、それまでは法ではない。というのはそのとき自然法はコモンウェルスの命令となるから、その結果市民法ともなる。すなわち人々をしてこれらの法に服従させるのは、主権者に他ならない。
なぜかといえば、私的な人間に種々意見の相違があるときに、公平、正義また道徳的善とはなんであるかを宣言し、それに拘束力を持たせるには、主権者による命令と、その違反者にたいする罰則を定める必要があるからである。したがってこれらの命令は市民法の一部である。このようにみれば、自然法は世界のすべてのコモンウェルスにおいて市民法の一部であり、また、これに対応して市民法も自然の諸命令の一部である。
なぜなら、正義、即ち、契約の履行および各人に各人のものを与えることは、自然法の命令の一つである。ところで、コモンウェルスの国民はすべて市民法に服従することを契約した。〔その契約が共通の代表を得るために集まったとき相互に結ぶものであろうとも、あるいは剣によって屈服させられ生命と交換に服従を誓う場合のように、ひとりずつ代表自身と結ぶものであろうとも変わりはない。)したがって市民法への服従は、同時に自然法の一部でもある。市民法と自然法は異なる種類の法ではなく、法の異なる部分である。すなわち一方は成文法で「市民的」、他方は不文法で「自然的」と呼ばれる。
しかし自然的権利、即ち人間の自然的自由は、市民法によって縮小され、また抑制されるであろう。否、法制定の目的はそもそもそうした抑制にほかならない。そして、それなしには、いかなる平和もありえない。法が地上に持ち込まれたそもそもの理由は、個々人の自然の自由を制限し、互いをそこなわず、むしろ助けあい、共同の敵に対しては結束し得るような方法をとることにほかならなかったのである。」(第二十六章、市民法について) 
五、自然法の解釈権

 

物事には従うべき道理があります。これが自然法です。しかし人によってその解釈は様々です。何が善で何が悪が統一しておきませんと社会の秩序は保てません。そこでコモンウェルスができますと、主権者によってこれらが解釈され、コモンウェルスの命令として成文化されて市民法になるのです。コモンウェルスの命令はこの他にもあるとしますと、自然法に関して主権者が行った解釈は、市民法の一部分だということになります。つまり、市民法は自然法を含んでいるのです。
他方、「結ばれた契約は履行すべし」というのはホッブズによれば、第三の自然法です。国民はすべて主権者の命令である市民法には服従することを契約しているのですから、市民法に従うことも自然法に従うことに入るのです。その意味で自然法は市民法を含みます。さて、市民法と自然法は互いに他を含むのですが、そこから悪法は法でないという結論が導けるでしょうか。たしかに主権者にとっては、これこそ自然法に基づいているのだという確信のもとに法を制定するわけです。しかし、主権者がよかれと思って制定した法が悪法でないという保証はどこにあるのでしょう。国民は自然法の解釈権を主権者に委ねる契約をしてしまったのですから、主権者が国民を代表していかなる解釈をして市民法を定めても、主権者の意志の本人は国民自身なのですから、従う義務があるのです。「代表」「本人」というタームの用法はホッブズ独特なのであり、田中は自分流にごく常識的に受け止めているので、とんでもない誤解を生じているのです。主権者は自然法を正しく解釈して、悪法を制定しないようにする義務があるのです。しかし何が正しい解釈か国民自身が議論し、決定してはならないというのがホッブズの立場です。もし国民に解釈権を認め、その討論の結果を国民の多数決でとってもよいのなら、国論は分裂し、主権者はどちらかの側につくことになり、公正ではなくなります。主権者は常にいずれかの側から非難され、攻撃されることになるでしょう。それではとても主権者の威信と地位は保てない、自然法に関する解釈権を一手に握っているからこそ主権者なのだと言うのです。
一般国民から見て悪法は無効ですが、それでももし主権者が同じ内容を自然法に叶っていると解釈すれば、社会契約を
廃棄しない限り(生命に関わる以外は破棄するのは不正です)反抗できないのです。そしてたとえ主権者が自己の良心に反して、情念の赴くままに、意図的に自然法に反して命令したとしても、反抗してはならないのです。このことは「第二十四章、コモンウェルスの栄養摂取と生殖作用について」で次のように述べられています。
「国民の一人が彼の土地内に持つ所有権(propriety)は、他のすべての国民がそれを使用することを排除するが、合議体と君主とを問わず、主権者を排除するものではない。なぜならば主権者つまり〔彼がその人格を代表する〕コモンウェルスは、共同の平和と安全のためだけに行動するものであり、土地の配分もまた同じ目的のために行われるものと解すべきだからである。
したがって、この目的をそこなうような配分はすべて国民の意志に反する。国民は自分の平和と安全を、主権者の裁量と良心に託しているのだからである。それゆえ、国民それぞれの意志によって、それは無効と見なされるべきである。主権を持つ君主、あるいは合議体の多数派が、自己の良心に反し、情念のおもむくままに、多くのことを国民に命じることは確かである。しかし、それは背信行為であり、また自然法に反している。しかし、それだけでは主権者に戦争をしかけたり、彼を不正行為のかどで訴えたり、あるいは非難するのに十分な権限が国民に与えられはしない。国民は主権者のすべての行為を承認したのであり、彼に主権を与えるとき、その行為を自分たちのものとしたのである。」
これらのホッブズの叙述は、主権の絶対性を前提にしています。田中は主権が人民の合意に基づく契約によっており、主権者の意志は人民を代表しているので人民自身の意志だとして人民主権論の先駆とみなしているのです。田中の解釈はまったくべーコンのいうエセ帰納法の典型です。自分の立てた解釈に都合のよい片言隻語だけ取り出して、いかにもホッブズを民主主義的に解釈可能なように言うのですから。 
六、ホッブズの党派的立場

 

主権の絶対性自体は政治体制の選択に当たっては中立的だと仮にします。ホッブズは主権を持つ者の数によって、単数の場合は君主政、少数の合議体の場合は貴族政、人民全体から公正に選出された合議体の場合は民主政だとしています。ホッブズはしかし、ほとんど主権者を君主あるいは合議体として展開しており、それらの権力が絶対的であるべきで、国民はコモンウェルスの意志決定過程に、発言権や決定権を完全に排除されているのです。ですからこのような論理は、先ず民主政とは両立しません。そして主権の絶対性を否定する議論に反駁するために『リヴァイアサン』を書いているのです。この議論をイギリスの市民革命の中で位置付けますと、明らかに平等派の急進的民主主義、独立派の人民主権論、長老派の特権階級中心の議会主権論、イギリスの伝統的な「制限・混合王政」論などをすべて退け、当時王が元来は保持していると考えられた主権の絶対性と不可侵性(不可変更性)を主張したのですから、明らかに王党派の立場だったと言えます。
ただし元々が民主主義派の用いていた契約論を用いたり、平等な人間観を前提に自然法を説いたりして、主権の絶対性の主張に近代的・合理的そして科学的な説得力を持たせようとしたので、部分的には後の人民主権論と共通するような表現が散見されるのです。「多数決による合意」で「コモンウェルス」を形成したので「共同権力」であるという外見も、実は独特の「代表」概念で専制権力の合理化に過ぎなかったのです。自然権の強調も人権尊重の立場を打ち出しているように見えて、少しも専制権力を実質的に制約しようとはしていません。だから基本的人権を憲法によって保障し、それを蹂躙しようとする専制権力から護ろうとする「法の支配」の立場ともまるで違っているのです。
ホッブズは、その唯物論的な発想から危険視され、英国国教会と対立しました。それで王党派の中でも孤立しました。そしてロンドンで『リヴァイアサン』を出版するためにクロムウェルから帰国許可を得たのです。それが『リヴァイアサン』解釈にクロムウェル独裁を正当化する論理や、王党派の帰順を正当化する論理を読み取る解釈を生んだのです。クロムウェルは、ホッブズから見れば主権の纂奪者ですから、主権者は取り換えてはならないという立場からは認められません。ピューリタン革命で新しいコモンウェルスが設立されたとしますと、王党派の帰順は正当です。ホッブズ自身の行動もイギリス本土で生きていくために、クロムウェルの支配を認めたことになります。しかし政体は変更すべきでないという著作全体のテーマから考えて、やはり王党派の絶対主権論の一典型だと言えるでしょう。 
七、王権神授説とホッブズ

 

田中は、フィルマーの『パトリアーカ(家父長制論)』の王権神授説と、ホッブズの社会契約論を対極的にだけ捉えています。フィルマーは、各国の王をアダムの直系と認め、家父長が家族に対して絶対的な支配権を持つべきだという封建的な家族意識に立脚して、民族の家父長である王の支配権は、絶対的であるべきだと主張したのです。その合理化のために、神はアダムやアブラハムなどの族長にのみ部族の支配権を与えた事を『バイブル』に即して証明したのです。フィルマーの論理でいきますと、王権は直接神から授けられていることになりますから、人民の合意や人民の福祉などによって王権の意義を説く必要がなくなります。神を信仰している以上王権には逆らえないことになるのです。
これに対してホッブズは、田中の解釈では、主権は人民の多数意志に基づく共同権力だから、あくまで人民の合意を実行するものであり、人民の福祉に意義があることになります。全くフィルマーとホッブズは正反対だと見なしているのです。フィルマーはホッブズを評して、
「自分は、ホッブズの言う政府の権限については満足だが、それを獲得する手段については満足できない。」「彼の建築物は称賛するが、その土台には反対である。」(『ホッブズ研究序説』)
と述べていたそうです。つまり主権の絶対性の強調には満足でしたが、社会契約説には納得できなかったのです。
しかしホッブズは、いわゆる王権神授説に全く無縁だったわけではないのです。たしかにフィルマーのように王がアダムの直系だという論理は使いません。彼は地上における支配権は主権者のものであることは神も認めていると考えています。『バイブル』には「カエサル(皇帝)のものはカエサルへ、神のものは神へ」とあります。たとえ異教徒が主権者であっても、その支配に逆らってはならないのです。ましてキリスト教国であれば、主権者が神の意志を解釈する教義解釈権を持つべきであるとしたのです。彼はキリスト教国における新たな預言や啓示の可能性を否定した上で、次のことを確認します。
「国家についても宗教についても、この世においては現世的な統治以外はなく、国家および宗教の統治者が教えることを禁じている教義を教えることは、国民のだれにとっても合法的ではない。そしてその統治者は一人でなければならない。さもなければコモンウェルスのなかで、『教会』と『国家』、『霊主義者』と『現世主義者』、『正義の剣』と『信仰の楯』、そのうえ各キリスト教徒の胸の中では『キリスト教徒』と『人間』の、分裂と内乱が起こることは必然だからである。教会の博士たちがバースター(牧者)と呼ばれているように、政治的主権者たちもバースター(指導者)の名で呼ばれる。しかしもしも、一方のバースターたちが他方に従属し、ひとりの主導者ができるのでなければ、人々は相反する教義を教えられることになる。そしてその場合、教義はいずれも間違いであるか、少なくとも一方は間違っているはずである。自然法にしたがって、だれがそのひとりの主導者であるかについてはすでに示した。すなわち、それは政治的主権者である。では『バイブル』は、その政治的主権者の職務を誰に割り当てるのか。」(第三十九章) 
八、信教の自由と統制

 

もちろんホッブズによれば政治的主権者は社会契約によって権力を獲得したわけです。キリストは彼の使徒たちやキリスト教会に対して地上の支配権を与えたのではないのです。信仰は強制や命令によって広められるものではありません。キリストは彼らにはただ教える力を与えただけなのです。キリストは地上の主権者の支配権についてはその支配が神によって建てられたことを認め、良心のためにも服従が必要だと説いています。ホッブズは政治的主権者がキリスト教信仰を禁圧した場合も従うべきかどうかという問には、強制や命令によっては信仰は妨げることは出来ないとして、信教の自由の不可侵性を主張します。その際も、信教の自由を侵害から護ろうとする立場ではないのです。むしろ信教の自由などいくら禁じられても、表面的に主権者の信仰に合わせておいて、心の中で真実の神を信じていればいいじゃないかという論理なのです。この立場は、ストア派の「魂の自由」、魂の不可侵性の立場です。奴隷哲学者エピクテートスやマルクス・アウレリウスなどが強調していた思想です。もちろん近代自然権における信教の自由をこの程度に解釈するのは、とんでもない誤解です。国家や国民相互の間で信仰の自由を認め、信仰が異なることを理由に一切の迫害や政治的、社会的、経済的差別を加えないのが信教の自由です。
ホッブズは、信教は命令や強制の対象ではないと、一見『バイブル』の個人解釈権を認めた独立派とまぎらわしい主張をしながら、国王の『バイブル』独占解釈権を認めており、それに基づく宗教統制の権限を全く否定していません。これはもちろん英国国王ならびに英国国教会の立場を代弁しています。異教徒の王といえども反抗してはならないし、まして同じキリスト教徒ならば王の解釈に従うべきだというのは、法王に忠誠を尽すジェスイット派のみならず、ピューリタン諸派にも対抗する主張です。信教の自由に関してもピュ―リタンの独立派等の主張に比べれば極めて反動的です。
信教の自由は、自分が信じていることを口に出し、表現する自由と切り離せません。江戸時代、日本のキリスタンは密かにキリスト教を信仰していましたが、そのことを口に出せませんでした。一切の表現の自由、それに基づく結社や集会の自由がなかったのです。ホッブズは恐怖から法に従うのも、自分の判断に基づいた行為なので自由であるとします。そして主権者が法律によって禁じていない事柄に市民の自由を認めているのです。こうして専制と自由を両立させたホッブズを、田中は人民主権の立場にたった民主的な思想家と見なすのです。
自由や民主主義をいくらでも制限できるとするのが民主的な思想だとはとても思えません。民主的な思想とは主権の意思決定に国民が平等な資格で参加できること、その際、自由な発言が認められ、信教・表現・結社の自由が尊重されていなければなりません。その意味ではホッブズは代表的なアンチ・デモクラートなのです。民主的な思想と反民主的な思想を混同する思想研究家も、やはり民主的な思想をもっているかどうか疑われることになりかねません。特にホッブズの場合は、当時のイギリスの民主主義派に対して、それに対抗する党派的な立場から立論していることは、田中自身の研究『ホッブズ研究序説』から明らかです。ですから既成の理論に対してより科学的な面は認められるとしても、民主的だとはいえないのです。よくそれまではフィルマーのような王権神授説が有力だったので、それに比べれば画期的だと誤解されますが、フィルマーの理論は議会主権論や制限・混合主権論等に対する極端な反動として生まれた理論です。 
V.ロックの社会思想

 

一、ロックのフィルマー『家父長制論』批判 
ロックの『統治論(TWO TREATISES OF GOVERNMENT)』程、市民革命の世界史的な展開に大きな影響を与えた著作はないでしょう。この著作は市民革命のなかから生まれました。名誉革命の翌々年1690年に名誉革命を擁護するために書かれたものです。
前編は、フィルマーの『パトリアーカ(家父長制論)』を論駁したものです。フィルマーは『パトリアーカ』をピューリ夕ン革命の武力闘争が起こる1642年以前に仕上げていました。この著作は王党派の間で回覧され、好評を博しました。それでフィルマーは、議会派から一時投獄されるなど弾圧を受けたのです。彼は、神はアダムに妻子を支配する権利を与え、アダムの直系の子孫をそれぞれ各部族や民族の長にし、専制的な支配権を与えたというのです。各民族の王はアダムの直系の子孫だから王権は神から与えられたものであると断言しました。これがかの有名な「フィルマーの王権神授説」です。王権は神聖不可侵とされ、王権に対する反抗は、神に対する反抗を意味するとされたのです。
『パトリアーカ』は、王政復古から20年後、チャールズU世と議会の対立が頂点に達した1680年に再刊されたのです。ところで、イギリスは伝統的には、専制君主政ではなかったのです。国王が国民の福利に反する政治を強行しますと、『マグナ・カルタ』の制定の場合には武力行使を含む議会からの強い反撥に遭いました。なかなか思うようには、権力を行使できなかったのです。そこで議会の了解を取り付けておくのがうまい国王が、名君と呼ばれたのです。ですから国王の主権は完全ではなく、制限王政・混合王政等と呼ばれていました。このように制限された主権の下では、国王と議会の利害が衝突するとたちまち国政が混乱し、内乱まで招来しかねなかったのです。
そこで主権は絶対で分離できないとするフランスのボダン『国家論』(1576年)に倣って、専制主義的な主権国家論が王党派の中で摸索されたのです。その代表格がフィルマーの『パトリアーカ』とホッブズの『リヴァイアサン』だったのです。ロックは、表面的には『パトリアーカ』の王権神授説に基づく絶対王政の理論を専ら論駁しています。でも『リヴァイアサン』をも常に念頭に置いているのです。ホッブズによって反動的に解釈された社会契約論を本来の進歩的な姿に蘇らせるべく苦闘しています。
『統治論』の「前編」は『パトリアーカ』に対する批判に集中しています。これは「後編」の冒頭で次のように要約されています。
「一、私は前編で次のことを明らかにした。第一に、アダムには彼の子ども達を支配する権威や世界を治める支配権があったようにいわれているが、彼にはそんなものは父親であることによる自然の権利によっても認められていなかったし、また神から明らかに贈与されたという形跡もない。第二に、かりにアダムにあったとしても、彼の後継者達にはその権利はなかった。第三に、かりにアダムの後継者たちにその権利があったとしても、だれが正当な後継者であるかについて疑いが生じたいちいちの場合、それを決定する自然の法も神の定めたもうた明文の法もない。それゆえ相続権、したがってまた支配権を確定することはできなかっただろう。第四に、かりにそれが決定されたとしても、アダムの子孫のうちだれが直系の子孫であるか、はるか以前から全く分からなくなっているので、人類の諸種族と世界の諸家族のうちでだれも他に抜きん出て自分こそが直系であるとか、相続権を持つとか主張できる根拠は少しも残っていないのである。」
フィルマーは、家父長の絶対的支配を前提した古代家族や中世の大家族の古い家族観に立って論じています。古い家族観は、家族中心の考え方でして、家族構成員は家族の存続と繁栄の為に生きたのでした。一個の独立した人格としての権利が認められていなかったのです。家族の利害を対外的に代表し、家族を統率する家父長の下に常に共同で行動する必要があったのです。ところが近代市民の近代家族では、家族は独立した人格の共同体です。子に対する親の権利は夫婦が共同して行使すべきで、父権として男が独占するのは不当です。
古い家族では家族の存続の為に、家父長に従わない構成員を勘当したり、家計が破綻しますと、構成員のだれかを家族の為の犠牲として借金のかたに取られることもあったのです。それを決定する家父長の権威は絶大で、生殺与奪権さえ持つと考えられていたのです。これに対して近代家族は、あくまで構成員が共同生活を営むことによって、助け合い、互いに幸福にしあう為にあります。家族の存続自体はその為の手段に過ぎないのです。家族は皆個人としては平等に尊い存在です。子どもは決して親や家の道具や所有物ではないのです。
たしかに親は子どもを養育する義務があります。その為には子どもを躾け、教育しなければなりまぜん。その限りで子どもに命令し、服従させる権利が親に帰属しているのです。また子どもがやがて成長して独立して生計を営むようになるまでは、親は子どもの財産を管理し、子どもの行動を監督する権利があります。しかしこれらの親の権利は、あくまで親としての義務を果たすためであり、子に対する愛情からきています。決して政治権力のように暴力装置を背景にして、子どもに家族に対する義務を果たさせようとするものではないのです。成人すれば父と子は平等であり、互いに自由になります。子は成人すれば、養育してくれた親に感謝し、常に親を援助し、老後の世話をする義務がありますが、それは決して権力に対して服従することを意味しないのです。
ロックはこのように、フィルマーの家父長的な家族観に近代的な家族観を対置することによって、家族における父権と国家権力の根本的な相違を鮮明にしたのです。そして家父長的な専制をモデルにして、国家権力の専制を合理化する論理を斥けています。つまりアダムに与えられた権力をその直系の子孫である民族の王が受け継いでいるというのは、なんの根拠もないことだとしています。家系の連続性で言えば、どの家族も皆、アダムの直系家族です。ですから、だれが王になっても差し支えないはずです。王の家系がアダム以来ずっと家督相続してきた特別の家族だとする証拠があれば、あるいは王権神授説も説得力を持つかも知れません。けれども、歴史的にみて、古代専制王権の成立や王朝交替に当たって、王位についたのは、権力闘争を勝ち抜いてきた策謀家たちです。決して家系がその才能を保証したわけではありません。
神から続く家系を強調して、王家の神聖さを焼き付けようとした好例に、マックス・ウェーバーは『支配の社会学』で日本の天皇制を挙げています。日本の場合は、天皇の支配権自体は永く喪失していて、血統だけが保存されてきたことになっています。この血統にカリスマとしての神に与えられた権威が物件化して付着し、継承されてきた事になります。このカリスマの物件化を象徴するのがいわゆる「三種の神器」です。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は兵権を、八咫鏡(やたのかがみ)は祭司権つまり統治権を、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)は自然統御能力をひいては治水治山の統率権を象徴します。これら三つの能力(能力は権力でもあります。)が天皇の血統には神から授かったものとして受け継がれるという信仰に基づいて、天皇による支配の合理化がなされたのです。
フィルマーの場合は、各民族の王がアダムの直系の子孫であるという証拠は示せないままですから、説得力に欠けます。とはいえ神はアダムの直系の子孫を各民族の王にしたに違いないと信仰すれば、別段証拠は要らないことになります。
ロックにすれば、フィルマーの論理で支配を合理化するのなら、だれでも自分がアダムの直系の子孫だと名乗ることによって、為政者になってよいことになるし、為政者の権威を否定するためには、為政者がアダムの直系の子孫ではないと主張すればよいことになります。それこそ内乱のもとです。フィルマーの論法では、結局、神はいつもアダムの直系の子孫だけを為政者にしていると人民は信じて、為政者にはいつも従順であるべきだということになります。事実の吟味は必要ないのですから、人民に従順を説くための便法とも受け取れます。 
二、ロックの政教分離論

 

フィルマーの論理は、議会主権論や制限・混合王政論に対する高飛車な反論であるとともに、神から地上の権力を合理化するもう一つの論法である「教会からの授権」に対抗するものでもありました。教会からの授権を認めますと、教権が王権の上に立ち、民族主権が制約されることになります。教会からの破門は直ぐさま王位の剥奪に結び付くのです。イギリスの宗教改革は、へンリー八世の離婚をローマ教会が認めなかったことから起こりました。彼はイギリス国内の教会をローマ教会から切り離し、国王が教義解釈権を握ったのです。
国王の権威があくまで教会から来るとしますと、上位の教会を差し置いて教義解釈権を国王が握るのは不当ですから、王権の基礎を家父長に対する神の授権に置いたのです。『リヴァイアサン』では更にキリスト教国では神が教義解釈権を教会に授けたのではなく、政治的主権者に授けたのだと強弁しています。そうでないと、国王を背教者として教会がいつでも破門でき、それを理由に追放できることになります。
ロックは明確に政治と宗教の分離を打ち出すことによって、この問題切解決を計ろうとしました。政治は国民の所有を守り、公共の福祉を計ることが使命です。宗教上の教義に口を出すべきではないのです。また教会は国王が政治的に責務を果たしていれば、私的にどんな宗教上の見解をもっていても、そのことを理由に政治的に追い詰めるべきではありません。正しい教えに導くのは魂に触れる説教を行い、信仰心に訴える以外に教会の採るべき方怯はないのです。狂信者を扇動して国王を政治的に排撃しようとするのはもっての外なのです。
ロックは『寛容についての書簡』で、宗教活動の自由を認めるよう強く主張しました。宗教的な騒乱が起こるのは、宗教活動を野放しにするからではなく、宗教活動を制限し、宗教的集会を取り締まろうとするからなのです。国教会に認めていることを他の宗派にも認めてやれば、その政権は今まで攻撃されてきた宗派からも擁護されるようになり、安定するはずです。ただし、ロックの寛容論にも重大な限界がありました。彼は、カトリックと無神論に対しては寛容出来ないと考えていたのです。カトリックは法王によって授権されていない君主は、君主たる資格がないと考えていましたから、カトリックの勢力が強くなりますと国王は当然退位を迫られることになります。カトリック自体が主権に対抗して政治的な存在である以上、主権者はカトリックを容認できないことになります。
ところでこの論理には身勝手なところがあります。ロックはユダヤ教やイスラム教に対する寛容を説いているのです。これらの宗教もイギリスでの勢力は小さいにせよ、政教一致原則を持っています。イギリスにとっては、ジュスイット教団のように現実の脅威ではありませんが、同じように政教一致の宗教なのに、政治的に差別してカトリックだけ排斥するとすれば、寛容も本物とは言えません。政教一致を唱え、宗教上の支配者が政治も支配すべきだと説く宗派にも寛容を示してこそ、はじめて本物の信教の自由を認めたと言えるでしょう。もちろんその場合、布教が平和的に行われ、論争の自由が保障され、政権の交替は正規の法定の手続きが守られるという前提のもとにおいてのみです。
ロックは無神論には大変な偏見を抱いていたようです。
「最後に、神の存在を否定する人々は、決して寛容に扱われるべきではありません。人間社会の絆である約束とか契約、誓約とかは、無神論者を縛ることはないのです。たとえ思想の中だけのことにしても、神を否定することは、すべてを解体してしまいます。その上にまた、無神論によってあらゆる宗教を掘り崩し、破壊する者は、寛容の特権を要求する基礎となる宗教というものを引き合いに出してくることが出来ないわけです。」
神の存在を否定することが人間相互の信頼を否定することに繋がるという議論は、神が見ていなければ人間は悪いことをする者だという性悪論に立っています。愛し合い助けあう喜び、信頼しあう喜び、約束を果たし、責任を全うすることの充実感は神を信じるか信じないかにかかわらず感じるものです。その反対に約束を果たせなかったときの罪悪感、信頼を裏切ったときの後ろめたさ、いわゆる罪の意識も、神に対してではなく、人間に対して抱く感情です。神に頼らないと善を行えないという独断こそ、その善行の偽善性を示していると言えるでしょう。しかし、この無神論非難の念頭にロックは、ホッブズの『リヴァイアサン』を思い浮かべていたのかも知れません。ホッブズは神への信仰を預言者への信仰に還元してしまう傾向がありましたから。 
三、自然状態論と『人間悟性論』

 

ではいよいよ社会契約論の本論に入っていきましょう。ホッブズは「自然状態は、万人の万人に対する戦争状態」と規定しました。この戦争状態のままでは生産活動もままならず、文明も発展せず、共倒れになって人類は滅亡するしかありません。そこで自然法という理性が働いて、社会契約が結ばれ、国家すなわちリヴァイアサンの強権の下で平和な生活が確保されるわけです。ホッブズの狙いは国家主権の絶対性を強調するところにありました。
これでは始めに結論ありきです。ホッブズは、戦争で滅びるかそれとも絶対的主権の下に、生命の安全と引き換えに服従を誓うか、二つに一つだとしたのです。そのために自然状態の人間は欲望機械でしかなく、理性は欲望機械の自己統御機能に過ぎないことを強調したのです。自己保存のためには欲望を充足させなければならず、その為に自然や人間を支配しなければなりません。ところが人間同志は肉体的にも知的にも持てる力は平等ですから、限られた富を巡って織烈な闘争に陥りがちなのです。強権による支配に服従して始めて、それぞれの個性と能力に応じた仕事で生きていくことが出来るようになるというわけです。
これに対してロックは、自然状態でも理性的に争いよりも協力によって生きていたと考えました。だから社会契約は文明の発達によって利害関係が複雑になったので、私有財産の保全と公共の福祉の必要上、公共機関に立法権、執行権、同盟権を信託し、国家社会を形成したものだと解釈できたのです。あくまで自然権の保全の為に信託したのですから、権力機関がその信託に背いて、自然権を侵害し、人民を圧政で苦しめるようなことになれば、人民は契約が破棄されていると見なして、そのような政府を解体して、新たな人民の為の政府を樹立する当然の権利があるのです。その場合、人間の理性の欲望に対する自立性、能動性が強調される必要があります。ロックの人間論は、そこで知覚に対する悟性の能動性の強調に特徴がみられるのです。
ロックの『人間悟性論』の特徴に生得観念の否定があげられます。ロックは、プラトンのイデア論のように生まれる前から正しい観念が魂に備わっていて、その観念を基準にして物事を認識することが出来るという考え方を否定しているのです。それで「すべての観念は経験から」という有名な命題が確認されています。たとえば「AはAである」という同一律や「AはAであって非Aではない」という矛盾律も、子供や白痴では自明ではありません。やはり経験によって知られたことなのです。
デカルトは神の存在証明に生得観念を使いました。不完全な存在でしかない人間は自分だけの能力で完全な存在を思い浮かべることは出来ないというのです。ところが誰でも神の観念を生まれつき持っているのは何故かと問います。それは生まれる前に完全な存在である神が、人間の魂の中に神の観念を置き入れたからであると断定しました。それで神は存在することは確かだというのです。
他方、ロックは、未開人や幼児の中に神の観念が明らかに認められない者の存在を指摘して、「神」も経験的な観念だとしたのです。更に正義や約束遵守といった実践原理にしても、決して生得的な原理などないと言います。盗賊の巣窟でもお互いに信義を守り、正義の規則を守りますが、それは決して、それらの規則を生得の自然法として受け容れてのことではありません。ロックはこう言います。
「この徒輩は、自分たち自身の共同体内部の便宜の法則として実践するのである。が、詐欺と強奪で日を送る者が誠実や正義の生得原理を持ち、これを容認し、これに同意すると言う者があるだろうか。」
ただしロックも生得のものとして認めている実践原理があります。それは
「人間には幸福の欲望と不幸の嫌悪とが自然にそなわっている。」
ということです。しかし
「この原理はグッド(善福)を嗜欲する心的傾性であって、悟性に真理が印銘されたのではない」
のです。つまり快・不快原理は生理的なものであって、観念ではないということです。よく人間だれしも生まれつき良心があると言われます。でもロックは良心も生まれつきではないと考えています。
「かりにもし道徳原理が生得で、人々の心に捺印されていたとしたら、どうして人々が自信を以て平然とそうした道徳規則にそむくか、私には分からない。町を略奪する軍隊を眺めて、その行うあらゆる悪逆に対してどんな道徳原理が守られ、感じられているか、一片の良心だに動いているか」
と問い掛けています。
全く白紙の心に理知的推理と知識のすべての材料を提供するのは、ロックによれば「経験」に尽きます。可感的事物は感官に感覚という刺激を与え、物事の様々な知覚を心に伝えます。色・味・硬さ等です。これらの外からの情報と、考えたり疑ったり信じたり推理したり知ったり意志したりする心の作用が働きあって観念が生じると言うわけです。
可感的事物の性質は先ず、第一次性質と第二次性質に分けられます。
第一次性質は「固性、延長、形状、運動あるいは静止、数等」です。つまり物自体の固有の属性と言えます。
第二次性質は、第一次性質に基づいて、それらが感官に働き掛けて知覚される性質つまり「色・音・味・匂い・硬さ等」などのです。
更に、他の事物に働き掛けてその第一次性質を変化させ、別の観念を産み出す第三次性質があります。これは間接に知覚できる第二次性質とも呼ばれます。ロックによりますと、第一次性質はその事物の実在性質だが、第二次は人間の感官に働き掛ける力能、第三次は他の事物を変化させる力能に過ぎないのです。
このように事物の性質でも、ただ第一性質のように事物それ自体に固有の性質とそれが知覚に現われる場合の性質を区別して、主観の働きを強調します。そこから悟性が、知覚に様々な反省を加えるという内感を働かせて観念を構成するのです。物体の運動に関する観念を得るのは、次々と生じる物体の知覚を反省によって比較する心の働きによるのだとしています。このように感性と理性では理性の比重を大きく考えようとしていると言えましょう。ロックも経験論に立つ以上、快楽を求め、不快を嫌悪する快楽説を採ります。生得的な善は否定されていますから、経験的には快・不快原理が人間の行動原理になります。この原理がなければ人間の行動自体が成り立ちませんから、快の対象は善で、不快の対象は悪だというホッブズの主張は一応認めているのです。しかし、ロックの場合、様々な快楽を比較吟味する心の働きを重視しますから、物質的快楽よりも精神的快楽を強調します。五つの永続的快楽、すなわち「健康・名声・知識・善行・至福」を重視します。
自由を論じる際も、ロックは心の力能を強調しています。
「人間が自分自身の心の選択ないし指図にしたがって、考えたり考えなかったり、動かしたり動かさなかったりする力能を持つかぎり、人間は自由である。」(『人間悟性論』第二十一章)
人間は様々な欲望を抱き性急に行動しようとします。その時にもっと他に優先すべきことはないか、もっと別のより良い方法はないか、その行動の結果引き起こされる事態について考え及んでいない点はないか等、反省し熟慮してから行動するのが自由なのです。このように悟性の働きで欲求や衝動を制御し、理性によって感性を統御するのがあるべき人間の姿なのです。
人間の本性を理性だと捉えたロックは、自然状態においても人間同志の関係は互恵的で友好的であったとしています。人間は自然の恵みを等しく享受し、同じ能力を行使するのですから平等です。それでお互いの気持ちがよく分かりあえるので良い人間関係ができるのです。自然状態を戦争状態として描き出したホッブズに対抗してロックは、十六世紀後半に活躍したフッカーの『教会組織論』から社会契約論を学んでいます。平等互恵の立場から同意によって政治組織と政治権力が成立するという論理はホッブズからでなくフッカーによるのです。
「あの賢明なフッカーは、このような人間の自然の平等な姿を全く明白で疑いもないここと見なし、このことを人々が交す愛情の義務の基礎とし、その上に人々が互いに負うている義務を築き上げ、そしてそこから正義と慈愛という偉大な原理を導きだしたのである。」(『統治論、第二編』第二章、五)
自然状態において人間は自由だったのですが、決して放縦だったわけではありません。自然法という理性の法に支配されていたのです。自分自身や自分の所有物を処分する権利をもっていたと言いましても、それはあくまでもっと立派な用途に役立てる限りにおいてなのです。お互いの身体を傷つけ合ったり、財産を奪い合ったりすべきではないのです。この自然法の違反者に対して自然状態ではだれが法の執行者になるべきでしょうか。自然法を執行する権利はだれにも委任していませんから、当然すべての人が自らの判断で自然法を解釈し、執行してよいことになります。
その場合の自然法適用の原則は「償いと制止」です。過少な処分は再発を招きますし、過剰な処分は報復を招きます。ところで人は、他人の自然法違反には厳しすぎる態度をとりながら、自分自身が自然法に違反していることはなかなか認めようとはしません。他人の処罰を納得しないものです。個人の自然法に基づく処罰権が非現実的だとしますと、自然状態はホッブズの説くように戦争状態だったのでしょうか。それともフィルマーの説くように自然状態という仮定自体が間違いで、人類ははじめから主権の統治下にあったのでしょうか。
ロックは理性や平等そして愛を説くことによって、自然法に基づく各人による処罰の混乱が甚だしくならない段階、つまり統治なき平和を仮定したのです。自然状態では弱者が報復を懼れるので、強者は自然法違反の処罰を免れるのではないかという批判があります。これに対して、ロックは、そのように論じる者が専制君主を擁護する矛盾を衝きます。
「一人の人間が多数の者を支配し、自分自身に関する事件の裁判官になる自由をもち、何なりと勝手なことを全国民に押しつけておきながら、彼の勝手な意向を執行する人々に異議を申し立てたり、それを制御したりする自由を全く認めないような場合、そして彼のやることならそれが理性によるものであろうと、間違いや激情によるものであろうと、どんなことでも服従しなければならないような場合、果たしてそれは自然の状態に比べてどれほど優っているというのであろうか。それよりは人々が不正な意志に服従しなくてもよい自然の状態の方がはるかに優っている。」(『統治論』第一章、三)
この箇所などは自然状態が戦争状態でないことを前提としており、明らかにホッブズの『リヴァイアサン』を標的にしています。 
四、自己労働に基づく所有

 

ロックは自然状態において既に所有権が存在したとして、それを論証しています。神は世界を共有物として人類に与えました。ところが別段人々の間でなんらかの契約がなされた節もないのに、どうして個人に所有権が帰属したのでしょうか。ロックは「自己労働による所有」と呼ばれる論理でこれを説明しています。自然法により、他人は自分の身体を自由に処分できません。まず自分の身体は自分自身の所有なのです。そこで次に身体の働きも自分に帰属します。だからたとえ人類の共有物であっても、労働によって個人が手に入れたものは当人の所有物になるのです。
「泉の中を流れる水は万人のものであるが、しかし水差しの中の水が、それを汲み出した人のものであることをだれが疑うことができようか。」(同上、第五章、29)
もちろん神は全人類の共有物として自然の資源を与えたのですから、労働によって有限な資源をいくらでも採って自分だけの所有にしてもよいわけではありません。自然状態では自然は有り余っていましたから、労働によっていくらでも獲得できたわけです。それに自然法という理性の法に支配されていましたから、きままな所有は許されません。所有物はそれが痛んでしまわないうちに生活に有効に利用しなければなりません。腐らせたりするのはせっかくの神の恵みを無駄にしますし、他の人の所有に任せば無駄な労力を省けたことになります。無駄な所有は自然法に違反するというわけです。こうして人々は自然状態においても互いに所有を侵し合うことなく平和に共存できたのです。
ところが腐らないでしかも人々に愛好されるような物は、いくら手にいれて貯蔵してもだれにも迷惑をかけることもないので、自然法からもその所有は制限を受けないとロックは説明します。そこで人々は腐り易くて余ったものはこれと取り換えようとし、貨幣が発生したのだというのです。貨幣の発生により、人々の間で私有財産の蓄積に不平等が生じるようになります。そこで他人の所有権を侵害する者も多くなってきます。自然状態ではそれを処罰する共通の権力がありませんので、所有権の保全のためにそのような政治権力を作って、法を執行し、処罰を行う権利をそこに委任しようということになったと言うことです。 
五、社会契約と多数決原理

 

ところで、独立した平等な人々が社会契約を結んでコモンウェルスを形成したということは、歴史的事実としてあったでしょうか。社会契約論を単なる理念的な議論に過ぎない、非科学的な国家論だと非難する人々は、社会契約を歴史的事実ではなく、非現実で、空想的な仮説だと指摘します。確かにロックも歴史的文書に社会契約の記事が余り無いことを認めています。しかしそれは市民社会が永く続いてから文字が発明されたからだと弁明しています。歴史的伝説によれば
「ローマとヴェニスの起原は、互いの間に生まれながらの優越とか服従の関係を持たない、相互に自由で独立した人々幾人かの結合によるものだった。」(同上、第八章、102)
としています。また当時のアメリカで全く統治が存在していない集団がいることを指摘し、人間は元々自由で平等であり、合意に基づいて国家を創設したことの論拠にしています。社会科学からは未開の部族社会から国家への成長転化にあたって、「人格的に独立した平等な個人」が存在し、その合意が形成されたとするのは、近代的な「個人」の観念を過去に投影するものとして批判されています。しかし部族社会の解体、古代商業の発達、地縁的結合による地方国家の成立、集住によるポリスの形成などを考えますと、あながち「合意による社会形成」という捉え方も的外れとばかりは言えません。もちろん地縁的な覇権の確立による「獲得されたコモンウェルス」も多かったでしょうが。いずれにしても、コモンウェルスは合意によって設立されたかどうかにかかわらず、その運営が多数決原理で行われた民主国家はむしろ例外的な存在だったとは言えるでしょう。
ホッブズは、「設立されたコモンウェルス」の場合、多数の合意で主権者が選ばれます。「獲得されたコモンウェルス」の場合は、強者が地域的に覇権を樹立して主権者になります。いずれにしてもいったん成立した主権は絶対的でなければならないというのがホッブズの考えでした。ですから多数決原理というのは、だれが主権者かが決定するまでのことだったのです。もっとも主権者が少数あるいは多数の場合は多数決原理が採用される場合もありますが。これに対してロックの場合には、多数決原理はコモンウェルス運営の基本原則ということになります。
各人は社会契約によって構成員になった以上多数決に従う義務を負います。どんな集まりにも利害の対立、意見の不一致は避けられません。自分の意見が容れられなければ承知できないとしますと、せっかく団体を作っても直ぐに解体してしまいます。ですから多数決の決定に従って、その団体に加入している方が脱退するよりはメリットが大きい限り、進んで脱退する人は余りいないでしょう。とくにコモンウェルスのようにそこから抜けることが相当困難な場合には、多数決原理にしておけば解体することは、よほどのことのない限りまず有り得ないのです。
ホッブズは、多数決原理では多様な意見に分裂し、国家意志の統一が取れなくなることを懸念します。政党が生まれ各勢力が競い合うことになります。互いに譲れない重大問題では、内乱に発展する可能性があるのではと心配なのです。しかしそれはコモンウェルスを解体させるよりも多数決に従う方がはるかにメリットが大きいことを理解していないから起きる心配なのです。無理やり国家意志の一体性を守るためと称して、国政に関する自由な討論を禁止し、主権者の専決に委任する体制を採れば、反って不満分子が専制体制を覆そうとし、内乱が避けられないのです。
ただしロックの場合の多数決原理も、議会制民主主義を国政の機構として採用するように迫ったものではないのです。国民の多数の支持の下に運営されなければ、安定した政治は行えないという意味なのです。ロックの場合、国民は統治権を権力者に信託しているわけですから、権力者は自分の判断で、公共の福祉にとって最善と信じる統治を行えば良いわけで、個々の政策決定にいちいち多数決原理を使う必要はないのです。ただし彼の統治が全体として国民の信託を裏切っていると多数の国民に判断された場合には、立法権者であろうと執行権者であろうとその地位に留まるのは難しいことになります。なぜなら国民は天に訴えて、信託を裏切った為政者を強制的に罷めさせる権利があるというわけですから。
多数決原理の普遍性を強調しながら、実際の国家には政治体制の中に多数決原理を要求しないことによって、ロックの政治理論は国家理論としての普遍性を確保しようとしたのでしょう。それはホッブズが「主権の絶対性」を普遍原理に掲げながら、国家体制としては君主制、貴族制、民主制のいずれをとっても、この原理が貫かれると主張したようなものです。ロックの場合も、君主制、貴族制、民主制のいずれをとっても実際の運営に用いられるかどうかにかかわらず、究極において国家は多数決原理で成り立っているというわけです。またどの政治体制を選択するかも、究極的な意味での国民の多数決に依存していると言えましょう。国民が政治体制の選択権を持っているというロックの議論に対して、「人はみな生まれながらにして何等かの統治に服している。したがっていかなる人も自由ではありえず、また結合して新しい統治を始めたり、合法的な統治をうち立てることができるなどということは決してありえない。」という反論が予想されます。フィルマーならさらに「人はだれでも生まれながらにして、その父あるいは国王の臣下であり、したがって服従と忠誠という永遠の紳のもとにある」と続くでしょう。
しかし歴史的にみて人々は、自分の家族や国を捨てて見知らぬ他国へ移住したり、国の体制を様々に変革してきました。同じ体制がいつまでも続くなら、フィルマーの論法で行けば、アダム以来一つの君主制しか地上に存在しないことになってしまいます。ホッブズはコモンウェルスを一種のジャイアンツに譬えることによって、その司令中枢である主権者の取り換えは、人間の頭脳を取り換えるのと同じで、コモンウェルスの死即ち解体を意味すると強弁しました。でも、暴君の放伐、王朝の交替、体制の変革などが爛熟し、衰退しつつあるコモンウェルスに活力を与えて、新鮮に蘇らせた例も多いのです。 
六、立法権と政治体制

 

ホッブズは、本音は専制王政の擁護者でありながら、主権が絶対性を持てば、君主制でも貴族制でも民主制でもよいとしました。ただしいったん成立した政体は決して変更してはならないとしました。ロックは、本音は多数決原理の政治機構内での貫徹である議会制民主主義を将来的には展望しながら、やはりどの政治体制をとっても、究極的には自然法即ち理性の法が支配し、多数決原理が貫徹するとしましたのです。
ロックは、最高権力は立法権だとしました。この立法権にはすべての国民は服従の義務があります。法律を制定してもだれも遵守しなければ法律はないのと同じです。法律に基づいて刑罰が行われてこそ治安が維持されます。執行権はあくまで法律の定めた枠内での政治を行うべきなのです。ですから立法権がだれに属するかによって政治体制が決まるとロックは考えたのです。でも立法権が最高権力であるということは必ずしも議会が国権の最高機関であることを意味しないのです。
議会が立法権を独占している場合に議会主権だと言えるのです。立法権が君主に属していて、議会はその協賛機関でしかなければ、君主制だと言えます。少数の特権階級の合議体に立法権が帰属すれば貴族制です。議会主権体制でもそれが平等派が要求していたように、普通選挙によって選出された議会ならば議会制民主主義だと言えますが、制限選挙で特権階級だけが選出された場合は、パーラメンタリアリストクラシィ(議会貴族制)と呼ばれます。君主に立法権が帰属している場合でも、法律の制定には議会の協賛が不可欠であったり、君主の制定した法律や命令に対して議会が無効にできるシステムがあれば、君主だけに立法権があるとは言えません。また議会に立法権が帰属している場合でも、君主が議会に対して法案提出権や拒否権を持ち、解散権をもっているのなら、立法権は議会だけにあるとは言えません。これらを制限・混合王政といいます。議会と君主の力関係や議会の構成次第で様々な政治体制が考えられるわけです。
国民は立法権がだれに帰属していようと、立法部によって制定された法には忠誠の義務があるのです。ただし立法部はあくまで自然法に従ってのみ法を作るのであり、気ままに法を制定してはならないのです。ホッブズの場合も、自然法に基づいて主権者が法を制定します。市民法は自然法を、主権者が主権者の命令の形で明文化したものだというのです。その場合自然法の解釈権は主権者のみが持っており、臣民は自分の判断で自然法を勝手に解釈し、主権者の解釈が正しいのかどうか議論してはならないのです。
これに対してロックの場合は、立法権者は自分の自然法解釈に基づいて法を制定しますが、この法の遵守にあたって臣民も自然法を解釈します。立法部と異なる自然法解釈がなされる事もあり得ます。そして立法部の自然法解釈が余りにも臣民の自然権を蹂躙する内容であり、信託を裏切り、立法部の存在が人民に敵対的だと感じられるようになりますと、人民は立法部を解体する権利をもっているのです。
自然状態においては、人はだれも自分自身や他人を傷つけたり、生命・財産・自由を奪ったりする権限を持っていません。ですから各成員の権力を集めて、個人や集会に委ねて成立した立法部も同じように、そのような気ままな権限を持っていないのです。
「立法部の権力は、どんなに大きくても、社会の公共の福祉に限定される。それはただ保全以外どんな目的も持たない権力であり、したがってそれは、臣民を殺したり、奴隷にしたり、あるいは故意に貧困にさせたりする権利を決して持つことができない」のですから、立法部は国民の所有権を気ままに侵害することは出来ないのです。代議政治ではその心配は余りありませんが、貴族制や絶対君主制ではその危険はあるとロックは指摘しています。
「もし臣民を支配する者がいかなる個人からでも、勝手にその所有物の一部を取り上げ、自分で適当と思うままにそれを利用し、処分する権力を持っているとすれば、臣民相互の間に所有の限界を定める適切で公正な法があっても、人々の所有は少しも安全でないからである。」
そこでロックは課税に関してはとくに慎重です。立法部といえども国民の代表者の合意なしでは、国民の所有物の上に税を課してはいけないとしています。 
IV ルソーの思想

 

第一部、『人間不平等起原論』について 
一、ルソーの論壇デビュー

 

ルソーは、38歳の年に、つまり1750年に、ディジョンのアカデミーの懸賞論文に『学問・芸術論』で当選しました。彼はこれまでの学問・芸術の進歩を無条件に賛美してきた啓蒙思想を厳しく批判しました。学問・芸術の進歩は道徳的退廃と政治的隷属をもたらすと告発したのです。学問・芸術は人間の知的欲求を解放します。そのことによって学問的・芸術的才能が重んじられ、人間の差別を生みます。人々 は虚栄心の虜になり、良心を麻庫させられるのです。自分の知や才能に驕って、同胞との連帯感情を喪失してしまうというのです。
元々、学問・芸術の進歩というものは、勤労から解放された人々によって担われました。そこでルソーは、学問・芸術の進歩は無為の産物であり、無為を育てるものである、そのために魂は柔弱となり、祖国愛は減退したと論じました。こうして人々は徳を失っていったので、政治権力も少数の支配者に牛耳られてしまいました。政治的自由は奪われ、祖国は弱体化して外国に隷属するようになってしまったというのです。さらに学問・芸術のイデオロギー機能の面も見逃せません。学問・芸術はルソーによれば、政治的自由の喪失を観念の世界であがなおうとするものなのです。政治的な鉄鎖を粉飾する役割を担っているのです。
ルソーは学問・芸術の進歩が奢侈によって可能となったものであることを鋭く見抜いていました。奢侈は当然経済的な不平等つまり貧富の差を前提にしているのです。富者や富者のために学問・芸術に携わる者は、彼らのために彼らの分も生活資料を生産する貧者の労働に依存しているのです。ルソーは学問・芸術に対する批判から経済的な不平等に対する批判へと向かったのです。1753年ディジョンのアカデミーは、今度は「人々の間における不平等の起原は何であるか、それは自然法によって是認されるか」という論題で懸賞論文を募集しました。それで『人間不平等起原論』が書かれたのです。 
二、自然状態における人間の特性

 

ルソーは、自然状態の人間を歴史的な資料や史実に基づいて述べるのではないのです。自然が人間の種族に与えただろう性格を森の中でじっくり冥想し、推理した結果を展開したのです。先ず、人間の特性として「模倣能力」を挙げています。
「人間は、それらの動物の間に分散して彼らの生きる巧智を観察し模倣し、かくして禽獣の本能の域までのぼる。しかも、動物はどの種も自分固有の本能しかもっていないのに、人間は恐らく自分に特有の本能は何も持たないで、すべての本能を自分のものにし、他の動物がそれぞれ分かち合っている様々な食物の大部分を同じように自分の食物にし、その結果、他のどの動物よりも容易に生活の資を見出すという有利な点をももっている。」(『人間不平等起原論』本論、第一部)
ルソーは、自然状態の人間は動物たちから様々な生活様式を学びとっていたと考えました。身体の運動能力はですから大変発達していたのです。当時医者はいませんでしたが、人間にももともと自然治癒力が発達していて、医者など不要だったのです。彼らは文明によってもたらされた各種の伝染病や、運動不足、栄養失調、精神的ストレス、睡眠不足、不節制等による虚弱体質や慢性病にはほとんど縁がありませんでした。そして未開生活では触覚と味覚は極端に粗野になり、視覚と聴覚と臭覚は、はなはだ鋭敏になるのです。
ホッブズは自然状態を戦争状態と考えました。ロックは自然状態でも人間は理性的な存在であり、自然法に従って互いの人権と所有を尊重し合い、必要以上に取ろうとしないから平和に友好的に暮せたと考えました。ルソーの考えでは、自然状態では普段は、互いに孤立して独立して暮しており、他人に依存していませんでした。しかし他人に対して全く無関心というのではなく、同じように人間として自己保存のために生活していることから、他人の苦しみや悲しみに対して共感による憐憫の情を抱きました。それで自然状態を戦争状態とは捉えなかったのです。
ルソーは模倣能力に加えて、未開人の動物に対する優位性として「自由な行為」をあげています。
「動物の間で特別に人間を区別するものは知性ではなくて、むしろ彼の自由な能因という特質である。自然は総べての動物に命令し、禽獣は従う。人間も同じ印象を経験する。しかし彼は自分が承諾するも抵抗するも自由であることを認める。そして特にこの自由の意識において彼の魂の霊性が現われるのである。なぜなら自然学はある意味で感覚の構造と観念の形成を説明するけれども、意志する力、というより選択する力に、またこの力の自覚に見出されるものは、力学の法則によっては何も説明されない純粋に霊的な行為にほかならないからだ。」
この立場にはロックの影響が見受けられます。ロックはこう言いました。
「人間が自分自身の心の選択ないし指図に従って、考えたり考えなかったり、動かしたり動かさなかったりする力能を持つかぎり、人間は自由である。」
原始未開の状態にあって人間が他の動物とはっきり区別できるほど自由であったかどうかは、論議の余地があります。未開・原始に遡るに従って、人間も動物的な自然との融合の論理に従わざるを得なかったからです。ルソーもこの議論の余地を認めていますが、これだけは動物から人間を区別する何等異議のあり得ない特質だとしたのが「自己改善能力」です。動物達は相当高等な動物でも数カ月後には一生涯変わらないような姿に成長し、それ以降は向上しようとする能力を喪ってしまうとします。また動物の種は千年たっても変わらないというのです。人間だけは一生を通じて常に向上しようとし、人類全体としても永い年月の間にどんどん能力を発展させ文化を築くのです。
「この特異なほとんど無制限な能力が人間のあらゆる不幸の源泉であり、平穏で無事な日々 が過ぎて行くはずのあの原初的な状態から、時の経過とともに人間を引き出すものがこの能力であり、また、人間の知識と誤謬、悪徳と美徳を、幾世紀の流れのうちに瞬化させて、ついには人間を彼自身と自然とに対する暴君にしているものこそ、この能力であることは、われわれにとって悲しいことながら認めないわけにはいかないだろう。」 
三、孤立状態から未開社会へ

 

ルソーは、人間の最初の状態を孤立状態として描き出しています。みんな一人で暮していたというのです。子供でさえ母親がなくても済ませるようになれば、母親にとってもう何者でもなかったというのです。最初は他の動物の模倣による生活だったのが、やがて自然の事物を武器として利用するようになり、やがて道具を製作して狩猟や漁猟を始め、寒さや怪我を防ぐために衣服を造ったり、火を利用するようになりました。このような知識の発展によって人間同志がお互いに同じような行動と意識をもっているものと認め合い、協力しあえる相手としても、また警戒すべき競争相手としても認知し合ったのです。こうして人間間の交渉が始まるわけですが、それには言語の形成が必要です。叫び声や模倣音に加えていくつかの慣例的な音節のある音声が設定され、未開言語が造られたとルソーは推理しています。
次の段階が家屋の建築であり、それに伴う家族の設立です。そしてルソーはこの段階で一種の私有財産の導入を認めます。家族の協同生活は家族内の愛情を育て、家族内および近隣家族間のコミュニケーションとしての言語使用を盛んにし方言を形成したというのです。人々が交流を盛んにし、共通の観念を言語によって確かめ合い、共通の評価基準を形成することによって、互いに評価しあうようになり、他人の評価を気にして、虚栄心や軽蔑心を抱くようになりました。ここに「不平等への同時に悪徳への第一歩」が踏み出されたのです。その結果だれもが尊敬を受けることを求め、礼儀作法が生まれたということです。
こうして純粋の自然状態である孤立状態から未開社会が形成されました。人間どうしの協同により、人間能力は発達していったのです。この段階では法律はまだ形成されていませんので、ルソーによると道徳が侮辱に対する審判者でした。そして復讐の恐怖が後の法律の役目を果たしていたのです。ルソーはこの時期をこう表現しています。
「最も幸福で最も永続的な時期だったに違いない。これについてよく考えれば考えるほど、この状態が最も革命の起こりにくい、人間にとって最良の状態であった」
としています。そして未開人のほとんどすべてがこの段階にあることから、人類は永久にこの人類の青年期の地点に停まるように造られていた、だから「それ以後の一切の進歩は… … 種の老衰への歩みであった」と類推し、嘆いているのです。 
四、農耕と冶金、土地私有の発達

 

人類を堕落させた忌まわしい偶然は、
「詩人から見れば金と銀とであるが、哲学者から見れば鉄と小麦である。」
「一口で言えば、彼らがただ一人でできる仕事や、数人の手の協力を必要としない技術にだけ専心していた限り彼らはその本性によって可能だった程度には、自由に、健康に、善良に、幸福に生き、そして互いに、独立の状態での交流の楽しさを享受し続けたのであった。ところが、一人の人間が他の人間の援助を必要とするやいなや、またただ一人のために二人分の貯えをもつことが有効であると気付くやいなや、平等は消え失せ、私有が導入され、労働が必要になった。そして広大な森林は美しい原野と変わって、その原野を人々の汗でうるおさなければならなかったし、やがてそこには収穫とともに奴隷制と貧困が芽生え、成長するのがみられるようになった。冶金と農業とは、その発明によってこの大きな革命を生み出した二つの技術であった。」
「土地の耕作から必然的に土地の分配が起こり、そして、私有がひとたび認められると、そこから最初の正義の規則が生じた。」
土地を耕作して得た収穫物は耕作者の物だと認められます。これはロックの労働による所有の原理と同じです。そしてこれが繰返されると土地の継続的な占有権が認められ、やがて自然法から生まれる権利とは違った私有権が認められるのです。そうするとこれが人々の才能の不釣合や状況の相違から、やがては極端な富の不平等を生むのです。富の不平等がさらに対抗意識を刺激し、利害対立を厳しくしました。
可耕地がすべてだれかの私有となりますと、奪わなければ土地の所有者になれません。奪う力がなければ支配の下に屈従するしかありません。こうして暴力と掠奪や支配が始まりますと、余計に人々 は財産に固執し、強欲に、野心家に、邪悪になります。
「強者の権利と最初の占有者の権利との間に、果てしのない紛争が起こり、それは闘争と殺害によって終息するほかなかった。生まれたばかりの社会はこの上もなく恐ろしい戦争状態に席を譲った。堕落し、悲嘆にくれる人類は、もはやもと来た道へ引き返すこともできず、不幸にして自ら獲得したものを捨てることもできず、自分の名誉になる諸能力を濫用することによって、ただ恥をかくことに努めるばかりで、みずから滅亡の前夜に臨んだ。」 
五、共通権力の樹立

 

冶金と農業の段階になって、土地の私有が発達しました。冶金で製造した武器を用いるようになり、戦争状態に陥ったのです。それで未開社会が解体していったということになります。私有財産を求める自己利害のあくなき追求が、善き未開の共同社会を悪しき戦争状態に導き、結局富者の財産の維持すら困難にしたわけです。そこでいよいよ社会契約によって共通権力を樹立し、それが制定する法律の強制力で戦争状態を終わらせるのです。ルソーは富者が隣人達を次のように説得したと言います。
「弱い者たちを抑圧から護り、野心家を抑え、そして各人に属するものの所有を各人に保証するために団結しよう。正義と平和の規則を設定しよう。それは、すべての者が従わなければならず、だれにもえこひいきをせず、そして強い者も弱い者も平等にお互いの義務に従わせることによって、いわば運命の気紛れを償う規則なのだ。要するに、われわれの力をわれわれの不利な方に向けないで、それを一つの最高の権力に集中しよう、賢明な法に則ってわれわれを支配し、その結合体の全員を保護防衛し、共通の敵を斥け、われわれを永遠の和合のなかに維持する権力に。」
社会的不平等をそのままにして、人々を私有財産の下で労働と隷属と貧困の下に縛り付ける政治制度が共通の権力の名の下に生まれたのです。新たに政治的な権力の鉄鎖が人々を以後苦しめることになったのです。
「この社会と法律が弱い者には新たなくびきを、富める者には新たな力を与え、自然の自由を永久に破壊してしまい、私有と不平等の法律を永久に固定し、巧妙な簒奪をもって取り消すことのできない権利としてしまい、若干の野心家の利益のために、以後全人類を労働と隷属と貧困に屈服させたのである。」
一つでも強力な共通権力が設立されますと、それに対抗し、その侵略から身を護る為にも共通権力を造る必要があります。こうして国家が全世界を支配するようになりました。
出来たばかりの公権力は、若干の一般的な協約から成り立っていて、それを守らせるのは協同体の役目でした。つまり公衆だけがその証人であり、裁判官だったのです。これでは違反者はうまく言い逃れて法の網を潜ろうとします。そこで公権力を保管し、人民の議決を守らせる仕事を為政者に委任することになったのです。決して始めから絶対君主の腕のなかに権力を授け、屈服したわけではなかったとルソーは強調します。
「人民たちが首長を自分たちのために設けたのは、自分たちを奴隷とするためではなく、自分たちの自由を守るためであったということは異論のないところであり、またそれは、一切の国法の根本的な格率である。プリニウスはトラヤヌスに言った、『われわれが君主をもつとすれば、それはわれわれが主人をもたないように彼に予防してもらうためである。』」
ですからルソーは、一方で国家が社会的な矛盾を温存し、新たに政治的なくびきを付け加えるものだと批判しながら、他方では国家の公的性格を評価してることになります。ホッブズやフィルマーのように専制君主制を国家の本来の姿として擁護することには強く反撥しているのです。
「どこまでも権利=法によって事実を検討してゆけば、専制政治の自発的設立という説には確実性も真実性も見出されないだろう。そして当事者のなかの一方だけしか拘束せず、一方にはすべてがあり、他方には何もなく、それに拘束されるものだけが損になるような、そんな契約の有効性を示すことは難しいだろう。この呪わしい制度は、今日でも、賢明で善良な君主たち、とりわけフランスの国王たちの制度とは極めて縁遠いのであって、そのことは彼ら国王たちの勅令の随所に、そして特にルイ十四世の名の下にまたその命によって1667年に発表された有名な勅令の次の文章のなかに見ることができる。すなわち『それゆえ主権者は、その国家の法律に従わないなどと言ってはならぬ。その反対の命題が国際法の真理なのであり、阿諛追従の輩が時としてこの真理を攻撃したけれども、善良な君主たちはいつもこれを国家の守護神として擁護したからである。賢者プラトンとともに次のように言うほうが、いかにより正当であろうか。「王国の完全な福祉は、君主がその臣民に心服され、その君主は法律に服従し、そして法律は正しく、常に公共の福祉を目指している、ということである。」と。』」
ルソーは検閲をおそれてフランスの専制政治を美化しているのですが、これはイロニーとしての効果を持ったと言われています。それはともかくルソーは君主国でも国家の法律は人民の意志に基づいて公共の福祉に合致しなければ正当とは言えないと主張しているのです。逆に言えば、ルソーは君主制それ自体を問題視しているわけではないのです。そもそも政府は公共の意志を執行するための存在ですから、専制的な権力というのは本来正当性を持たず、非合法なのです。政府は、為政者が一人だけ選ばれれば君主制、少数者が為政者になれば貴族制、人民が共同で行政権を保持すれば民主制なのです。いずれにしてもあくまで人民の総意としての法律に従い、法律を執行するのが政府の役割なのです。その意味ではだれに政府を任せるかは人民の総意で決定されるべきです。だからルソーはつぎのように指摘しています。
「これらのさまざまな政府において、一切の為政者の職はまず選挙によるものであった。」 
六、権力の専制化

 

ところが元々《社会契約》は、未開社会が私有財産の発展に伴って戦争状態に陥り、解体させられてきたことから起ったものです。社会的な矛盾は温存され、権力闘争や階級対立は解決されていないのです。そこで国家のなかでは策謀が渦巻き徒党が作られ、党派の軋轢が激しくなり、内乱が勃発する有様でした。このような混乱を利用して選挙が平穏に行われなくなり、首長の地位がいつしか世襲されるようになったのです。
「世襲となった首長たちは、その為政者の職を家の財産の一つと見なし、最初は国家の役人にすぎなかったのに、自分を国家の所有者と見なすことに慣れ、同胞の市民たちを奴隷と呼び、彼らをあたかも家畜のように、自分の所有物のなかに数え入れ、さらに自分を神に等しきものとか王の中の王などとみずから称するのに慣れてしまったのである。」
ルソーは不平等の進展を三つの時期に区分します。第一期は法律と所有権との設立、富者と貧者との状態が容認されます。第二期は為政者の職の設定、強者と弱者との状態が容認されます。第三期は合法的な権力から専制的権力への変化、主人と奴隷との状態が容認されるのです。
「これがすなわち不平等の到達点であり、円環を閉じ、われわれが出発した起点に触れる終極の点である。ここではすべての個人が再び平等となる。というのは、今や彼らは無であり、家来はもはや主人の意志の他になんらの法律ももたず、主人は自分の欲情の他なんらの規則をもたないので、善の観念や正義の原理が再び消滅してしまうからである。すなわち、ここでは万事がただ最強者の法だけに、従って一つの新しい自然状態に帰結しているのだが、この自然状態がわれわれの出発点とした自然状態と異なるのは後者が純粋な形で自然状態であったのに対して前者が過度の腐敗の結果だ、いうことである。とはいえ、この二つの状態の凹はほとんど相違がなく、政府の契約は専制主義によって甚だしく破棄されているので、専制君主は最強者である間だけしか支配者でないし、人々が彼を追放することができるようになればたちまち、彼はその暴力に対して異議を申し立てる理由がなくなってしまうのである。ついには、サルタンを殺したり、退位させたりするような暴動も彼がその前日臣民たちの生活や財産を処理した行為と同じように法律的な行為なのである。ただ力だけが彼を支えていたのだからただ力だけが彼を倒させる。万事はこのように自然の秩序に従って行われる。そしてこうした短い、頻繁な革命の結果がどうであろうと、何人も他人の不正を嘆くわけにはいかない。ただ自分の油断か、不運をかこつべきである。」
公的権力と法の設定によって社会状態は決定的になりますが、結果になります。社会状態が自然状態から離れれば離れるほど、それは私有財産に基づく不平等をより大きく展開させる人々の不平等は拡大し、公的権力は人民自身のものではなくなり、法は専制的な恣意のもとで疎外され支配の道具にされてしまいます。そうなれば自然状態への回帰であり、人民は専制君主の暴力に対して、公的権力を取り戻すための革命的暴力を行使せざるを得なくなります。これは正当な法律的行為だというわけです。 
第二部、『社会契約論』の読み方

 

一、あるべき国家および法律 
『人間不平等起原論』では社会契約による国家形成は私有財産の発展により生じた不平等が、戦争状態に陥った事態を収拾するための妥協として捉えられていました。公的権力は各人の財産を保全するとともに、人民全体が安寧に生活できるように社会の矛盾を調整する役割を担っていたのです。それは私有財産制を温存し、国家的規模で発展させ、更には世界中に国家形成を促して、世界的規模で文明の矛盾を展開するという意味では、否定的な性格をもっていましたが、同時に人民自身が理性的な合意によって公共の福祉をもたらすための権力機構を造りあげたという意味では、大いに祝賀すべき画期的な出来事だったのです。
ルソーは、国家を公的権力として本来公共の福祉を実現すべきものとして前提しています。そして法律は公共の福祉を計るための公の意思として捉えられているのです。この公共の福祉とは、国家を形成している人民全体の福祉に他なりませんから、法律はだれの意思かと言えば当然人民全体の意思だということになります。もし公共の福祉が人民全体の福祉ではなく、一部の特権階級やひとりの君主あるいは人民とは無縁の国家自体の福祉だとしますと、そのような福祉は普遍性をもつことができません。そのようなものを公共的とは言えないでしょう。それに法は元々正しさや権利という意味も含んでいます。正しさは普遍性と切り離せないでしょうし、権利は人民の立場と結び付きます。ですからたとえ国家が歴史的事実として特権階級の支配の道具として生まれ、法律も元来専制権力の意思であったとしましても、ルソーの立場からはそれは間違った国家あるいは法律の姿だということになります。
ルソーは次のような書き出しで始めています。
「人間をあるがままのものとして、また、法律をありうべきものとして取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な何らかの政治上の法則があり得るかどうか、調べてみたい。」(『社会契約論』)
自由な市民のための人民の総意としての法律を前提として国家理論を構築しようとしたのだと言えるでしょう。ですからそれはあるべき国家および法律の姿を論じているで、現実の国家や法律とは乖離します。そのために、ルソーの議論は観念的で、現実の国家や法律を理解するのには役に立たないという批判もあります。しかし普遍的な意味での国家ならびに法律を識ることが、現実の国家ならびに法律を理解し、評価するために正しい基準を与えることになるのです。その意味ではルソーの方法はプラトン的なのです。(原田鋼『西洋政治思想史』) 
二、人民と国家の直接的一致

 

『人間不平等起原論』では、完全な孤立状態から出発し、狩猟など労働において力を合わせる状態、住居を造って家族を形成する状態を経て、地縁的な未開社会を形成し、更に冶金と農業によって私有財産を発展させ、更には戦争状態に陥ることになり、その結果、社会契約によって公的権力を造り国家を形成しました。国家社会の以前に未開社会があったので、社会契約によって自然状態から社会状態に移行したという論理にはなっていません。しかし国家形成以前は自然的要素が強かったし、漸次的に移行していましたから、自然状態が次第に気の遠くなるような時間をへて解体していった過程だと見なせるでしょう。そこで社会契約の意義を論じる『社会契約論』では、社会契約を自然状態から社会状態への画期として捉え返したのです。
社会契約による国家形成は歴史的事実ですが、すべての古代国家が社会契約によって人民の総意に基づいて形成されたという事実を主張しているのではないのです。地域的な覇権の確立や侵略による帝国の形成等、ホッブズの指摘した「獲得されたコモンウェルス」の形成を歴史的事実として否定しているわけではありません。それは人民の総意に基づく法律による支配が国家の普遍的な在り方であると規定したからといって、現実の歴史的な諸国家が専制的であり得ないことにはならないのと同様です。
自然状態の破綻に直面して、人々は皆の力を結合して皆の身体と財産を護り保護しようとしました。しかも
「それによって各人が、すべての人々と結び付きながらしかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。」
が条件です。そのためにはルソーによれば
「各構成員を戸の総べての権利とともに、共同体の全体に対して全面的に譲渡す」べきだということになるのです。ルソーは社会契約の本質を次の言葉に帰着させました。
「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受け取るのだ。」
それまでの孤立したばらばらの個人から、社会契約によって新しい全体としての国家の不可分の一部としての社会的人間に生まれ変わるのです。この発想はホッブズの『リヴァイアサン』近いのです。『リヴァイアサン』では、戦争状態でばらばらだった孤立した個人が、コモンウェルスを設立することによって、生きた人工機械人間であるコモンウェルスつまり「リヴァイアサン」の生きた一小部品になってしまうのです。ただしリヴァイアサンの意志は絶対的な主権者の意志だったのですが、ルソーのいう生命体としての国家の意志は人民全体の総意としての一般意志なのです。
「この結合行為は、直ちに、各契約者の特殊な自己に代わって、一つの精神的で集合的な団体を作り出す。その団体は集会における投票者と同数の構成員からなる。それはこの同じ行為から、その統一、その共同の自我、その生命および意志を受け取る。このように、すべての人々の結合によって形成されるこの公的な人格は、かつてはシテ(都市国家)という名前をもっていたが、今では共和国または政治体という名前をもっている。それは受動的には、構成員から国家とよばれ、能動的には主権者、同種のものと比べるときは国とよばれる。構成員についていえば、集合的には人民という名をもつが、個々には、主権に参加する者としては〈市民〉、国家の法律に服従するものとしては〈臣民〉とよばれる。」
人民は政治体の有機的な一部なのですから、全体のために貢献してこそ自分の利益に叶うことになります。政治体全体つまり主権者は、各構成員を自己の内部に含んでおり、その意味では自己の利益を計ることが各構成員の利益にもなるのです。ですから主権者は人民の利益に反するように行動することは出来ないことになります。
ルソーの立場は人民主権だからそんな事は当然だ、で済まさないで下さい。ルソーの議論は、国家には主権があって、その主権を握っている者がだれかで国家形態が決まると説いているのではないのです。ホッブズは国家には三形態しかないといいました。主権がただ一人に握られていれば君主制、少数者の掌中にあれば貴族制、多数者が押さえていれば民主制です。ロックは立法権の所在で国家の諸形態を分類したのです。ルソーでは、主権者は国家自体の能動的な性格なのです。ですから国家を構成している人民の総体が主権者だというわけです。主権があって、それが人民に帰属するから人民主権なのではないのです。国家と主権者と主権は切り離せません。直接的に国家と人民の総体と主権者は一致しているのです。そこから国家の意思である法律は人民の総体の普遍的な意思、つまり一般意志であることになるのです。 
三、特殊意志と一般意志

 

主権者の意志は人民全体の利益になるしかない一般意志ですが、
「各個人は、人間としては、一つの特殊意志を持ち、それは彼が市民としてもっている一般意志に反する。あるいは、それと異なるものである。彼の特殊な利益は、公共の利益とは全く違ったふうに彼に話しかけることもある。」
元々、社会契約自体が人間相互の厳しい利害対立、戦争状態を収拾したものでした。出来上がった国家は公共の利益を計るためのものですが、国家の内部には私有財産制に基づいて、様々な階級的あるいは私的な利害対立が繰り広げられています。各個人は、市民として公共の福祉の立場に立とうと努力しますが、私人としては自己の特殊な利害の貫徹を計ろうとします。それが同時に公共の福祉に叶うのなら何等問題ではありませんが、往々にして公共の福祉を損なうことになりがちです。そうであるからこそ一般意志への服従が社会契約を結ぶに際しての約束として重要なのです。
個人の特殊意志からは一般意志に服従することは、大変な損失であるように思えるかも知れません。しかし既に政治体なしでは生きていけない立場であることは市民である以上確かなのです。国家の法律に服従する臣民としての義務を果たしてこそ、主権者として合法的に正しく生きることができるのです。ルソーは一般意志への服従こそが市民としての自由であると捉えています。市民は、ですから自由であるべく強制されているのです。
ルソーの言葉として「自然に帰れ」がいわれ、ルソーは社会契約による社会状態よりも自然状態の方が人間本来の姿としてよいものだと考えているかのような解釈も見受けられます。カッシーラーの『人間―シンボルを操る動物―』でもそのような誤解が認められます。たしかにルソーは自然状態に対するロマンティークな憧景を抱いています。文明によって人間性がいかに堕落したかについて常に情熱的に語っています。しかし『社会契約論』は社会契約によって、人間が孤立した欲望の衝動に従うだけの奴隷的状態から抜け出して、理性に従って正義と道徳的自由に生きる事ができるようになったこと、自然的自由とそれに基づく自己保存のための無制限の自然権は失ったけれど、市民的自由と合法的な所有権を得たことで、馬鹿で劣等な動物から、自己を知性あるものつまり人間たらしめたことを強調しているのです。
ルソーは、主権は譲り渡せないことを強調しています。というのは、社会を形成するきずなは様々な利害のなかにある共通な一致する利害です。皆の利益が一致する共通の利害つまり公共の福祉を目指す一般意志に基づいて、社会は治められなければなりません。ですから常に人民全体の集合的な意志が主権を担います。特殊意志によっては主権は担われ得ないのです。ある個人が支配者となって彼の意志によって支配すれば、個人の意志は一般意志ではないのですから、もはや主権者は存在せず、国家は破壊されていることになります。このルソーの論理を素直に展開すると、専制国家はもはや国家ではないということです。人民はその場合、国家を回復するためにみずから総体として結合して、主権者にならなければなりません。専制権力に対する革命は国家を再構築する法律的行為なのです。 
四、一般意志のアポリア

 

次にルソーは、一般意志は誤ることは出来ないと結論します。皆の利益になることが一般意志の正しさですから、人民全体が皆の利益になるのは何かについて入手可能なあらゆる情報を寄せ合い、皆の利益を目指す立場で検討し合えば、正しい方向でまとまらないわけはないということです。ですから会議では特殊意志に基づく特殊利益になることを尋ねられているのではなく、一般意志に基づく公共の福祉になることを尋ねられているのです。そこでルソーは会議の秩序を守るための法として次のことを要求します。
「その会議において、一般意志を維持するためのものであるよりは、むしろ一般意志が常に意見を求められ、常に答えるようにすべきものである。」
ところがこの法には大変重大な欠陥があります。だれしも会議において市民の自覚があれば、自分は公共の福祉のためにのみ発言しているつもりになっています。ところが他人の意見を聞いていると、何か大変本人の私的利益には叶っているけれど、どうも公共の福祉とはかけ離れているように思われるものです。お互いにそう思っていますから、相手は会議のルールにはずれた不法な発言を行っていると非難し合い、発言を互いに禁止しようとしあって混乱に陥ったり、多数が少数の発言を止めさせる結果になりかねません。これではかえって一般意志を形成できないことになります。
この会議のルールが、フランス大革命を恐怖政治に変質させていく役割を果たしたように思われます。ルソー自身は、会議で主観的には一般意志に基づいて発言しているつもりでも、実際は特殊意志の主張でしかないことを見抜いています。そして特殊意志の主張であるからこそ、共通の意見以外は相殺されて、一般意志のみが残る事が可能だと考えたのです。
「全体意志と一般意志の間には、時にはかなり相違があるものである。後者は、共通の利益だけを心がける。前者は、私の利益を心がける。それは、特殊意志の総和であるにすぎない。しかし、これらの特殊意志から、相殺しあう過不足を除くと、相違の総和として、一般意志が残ることになる。」
議論から特殊意志の総和により一般意志が残るためには、議論にすべての特殊意志が参加しなければ相殺が不完全になり、一般意志が残らないことになりますので、立法権は譲渡され得ないということになります。政治体の意志を決定する権利は立法権とよばれ、実行する権利は執行権と呼ばれます。立法権は人民に属しますが、執行権は一般的な法律を特殊な事例に適応する特殊的な行為ですから、事例の特殊性を相殺して一般原則を見出す立法行為とは正反対です。ですからこれは主権者である人民に属すべきではないのです。両方担当しますと、立法に際しても特殊的な利害にこだわりをもってしまうからでしょう。そこで一般意志の指導によって公的な力を動かす、主権者の代理人、公僕である政府が必要になります。
「代理人」という言葉はホッブズでは人民全体の意志を主権者が白紙委任される形を取りました。それで主権者の意志の本人は人民であるが、人民は主権者の意志決定には一切干渉する権利がないことになっていたのです。ルソーでは個人や少数者の意志は個別性、特殊性を持たざるをえないから特殊意志にならざるを得ないとし、一般意志を決定することはできないと考えたのです。そのかわり、個人や少数者が主権者の意志の実行を請負うことはできるのです。 
五、政体の分類

 

ルソーは、執行権をだれが担当するかによって、政体を分類します。一人に任されれば王制、少数者に任されれば貴族制、多数の人民が執行権も保持すれば民主制です。ルソーは直接民主主義者だとよく言われていますが、それは立法権は譲渡できないという意味においてです。決して王制や貴族制より民主制の方がよいことを主張したわけではないのです。
彼は行政官の数は人民の数に逆比例するのがよいとしました。なぜなら国土が広く、人口が大きければ主権者の意志が政府を通じて行き渡るためには行政権はそれだけ強大でなければなりません。そのためには一人に行政権が集中し、強力に実行される必要があるのです。法律を具体的な事例にいかに適用すべきか議論していたり、複数の異なった適用が行われたりして、政府の団体意志が分散していますと行政が行き届かなくなってしまうということです。
もちろん一人に権力が集中しますと、杓子定規に官僚的に行政が行われるため、事例の特殊性を充分配慮した心配りに欠けますから、小さな少人数の都市国家では民主制が適していることになります。民主制が適しているのは次の条件を満たしていなければなりません。
「第一に非常に小さい国家で、そこでは人民をたやすく集めることができ、また各市民は容易に他のすべての市民を知ることができるということ。第二に、習俗が極めて単純で、多くの事務や面倒な議論をはぶきうること。次に、人民の地位と財産が大体平等であること。」
実は、ルソーはこの行政の民主制には余り賛成ではないのです。統治者と主権者が同一だということは、いわば政府のない政府を作っているようなものだとします。立法者は本来一般的なことがらに注意すべきなのに、特殊なことがらに注意が向き、公務に私的利害が悪影響を及ぼす危険を指摘しています。また多数者が統治して少数者が統治されるのは自然の秩序に反するとも言います。公務を処理するために人民が常に集まるのも非現実的です。公務処理の委員会を設けるとしますと、それは少数者による行政ですから貴族制になるというのです。ですから現在の民主制はルソーの分類では貴族制だということになります。
そして民主制もしくは人民政治ほど、内乱・内紛の起こりやすい政治はないのです。ルソー日く
「もし神々からなる人民があれば、その人民は民主制をとるであろう。これ程に完全な政府は人間には適しない。」
貴族制には、三つの種類があります。自然的な貴族制は長老たちが行政を担当します。選挙による貴族制は最もよい本来の貴族制だとされています。
「誠実、知識、経験、またその他、その人を選び、その人に公の尊敬を捧げる様々の理由が、この選挙という方法によって、将来の善政の新たな保障となるのである。」
「なお、この政体がある程度の財産の不平等を許すとしても、それはまさに、一般に公共の仕事の処理が自分の時間の総べてをもっともよくそれに捧げることのできる人々に委ねられるためであって、アリストテレスがいうように、金持ちが常に選ばれることのためではない。逆に貧しい人々が選ばれることによって人間の値打には、選ばれる理由として富よりもっと重要なものがあることを、人民はしばしば教えられる、ということが大切だ。」
君主制は、「人民の意志と統治者の意志、国家の公共の力と政府の特殊な力とが、すべて同一の原動力に動かされ、国家機関のあらゆるバネが同一人の手に握られ、すべてが同じ目的に向かって動いてゆくのである。そこには、お互いに傷つけあうような相反する運動は全くない。そこで、われわれは、君主制ほど少ない努力を以て大きな働きを起こさせる、いかなる種類の制度も想像し得ないのだ。」
もちろんよき君主が公共の福祉のためにのみ、統治すればこれにこしたことはないのですが、実際には君主の個別意志が他の意志に対して支配的になり、一般意志を踏み躙ることが多いのです。ホッブズは君主がいかに悪人でも、彼が強大な権力を望めば望ほど、国の富が豊でなければならない。国民が貧しければ国も貧しく弱小だから、君主は国民の福祉を目的にした政治を行わざるをえないと楽観的に捉えました。ルソーはそれはウソだと言います。君主は人民が貧しいほど抑えつけ易いと考えているのです。人民が豊になりますと国の富も豊になりますが、その場合は人民が強力になって君権が脅かされます。
君主制の下で立身出世するのは、君主の個別意志に取り入る「小乱暴者、小悪党、小陰謀家」だけです。そこが共和政治では偉大な政治家が輩出したのと比べ見劣りするということです。また君主制も君主を選挙で選んでいるうちはまだいいのですが、世襲制になってしまえば、支配された経験のない者が、支配者になるための教育のみを受けるのですから、人民の立場、公共の福祉にはますます関心がなくなり腐敗します。
どの政府がよいかはそれぞれ一長一短がありますので、その国の人口、産業、文化等の状態によって決まるのです。ルソーは次のような判断基準を提出しています。
「政治的結合の目的は何か?それは、その構成員の保護と繁栄である。では、彼らが保護され繁栄していることを示す、最も確実な特長は何か?それは、彼らの数であり、人口である。だから、論争の的になっているこの特長を、よそへ探しに行く必要はない。他のすべての条件が等しいとすれば、外からの方策、帰化、植民などによらずに、市民が一段と繁殖し増加してゆくような政府こそ、紛れもなく、もっともよい政府である。人民が減少し、衰微してゆくような政府は、もっとも悪い政府である。統計家諸君、これからは諸君の仕事だ。計算し、測定し、比較されよ。」
善政を行えば、人民に活力がついて繁殖するだけでなく、燐国の人民も慕って、人口が増大するという考えは『孟子』などにもよく見られます。当時は生活水準を測定する経済統計が整備されていなかったので、人口しか判断材料がなかったのかも知れません。それにしても一般に通用しているルソーのイメージなら、人権がどれだけ保障されているかなどをもっと重視する筈なのですが。 
六、立法権は代理できない

 

ルソーは、立法権は国家の心臓であり、執行権は国家の脳髄であるとしています。脳髄が麻痺してしまっても、個人はなお生き得る。馬鹿になっても生命は続くが、心臓が停まればすぐに死んでしまうといいます。立法権は、絶対に譲渡できない人民の権利ですから、立法権を行使するために、人民は集会を開かなくてはなりません。立法権は代理できませんから、議会制民主主義のように選挙で代議士を選んで、立法権を任すわけにもいかないのです。
「主権は譲り渡され得ない。これと同じ理由によって主権は代表されない。主権は本質上、一般意志の中に存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない。一般意志はそれ自体であるか、それとも、別のものであるからであって、決してそこには中間はない。人民の代議士は、だから一般意志の代表者ではないし、代表者たり得ない。彼らは、人民の使用人でしかない。彼らは、何ひとつとして決定的な取り決めを為し得ない。人民みずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかをみれば、自由を失うのも当然である。」
公共の福祉のためにあらゆる情報を寄せあい、すべての特殊意志が表明されて始めて、しかも建設的な徹底討論を通して、人民全体の一般意志が明らかになるというルソーの立場から、代表者への委任は立法権の否定であり、議会で作られる法律は真の法律ではないということになります。直接人民全体が集会に集まらなくては主権者の集会とは言えず、一般意志は形成されないのです。
それでは真の国家は、古代ギリシアやローマのアゴラで集会が開かれていた頃しかなかったことになります。人民が直接集会を開いて、徹底的に話し合うとしても、本当に一般意志は明らかになるでしょうか?まず人民は全員極めて政治的自覚が強く、しかも長時間討論に堪える精神力と体力を持たなければなりません。階級対立や部族対立、宗教対立などを内部に抱えていますと、冷静な討議が可能かどうか危ぶまれます。特に党派対立が生じますと、特殊意志同志のぶつかり合いになってしまい、いつまでも結論が出ないか、妥協によって一般意志が歪められることになるでしょう。大衆が集まれば集まるほど扇動政治家が幅をきかし、背後で特権階級が民衆を操作する結果になりがちです。このような問題のある人民集会で立法を行わなければ真の国家ではないと考えたルソーの発想は、かなり短絡的です。しかし人民の総意に基づく政治を基本に据えたという点においては不滅の意義を認めなければなりません。
七、人民集会

 

ルソーも、国中の人民全員の集会を想定したわけではありません。ルソーの一番のモデルはローマの民会です。各地区毎に集会を開き法律を制定し、首長たちを選出していたのです。現在の日本に置き換えてみますと、町内会で法律を制定し、総理大臣を指名するようなものです。そのようなシステムは不可能とは言えないでしょう。しかし果たして町内の議論で出された結論が一般意志と言えるでしょうか?
それぞれの町内会の決議を全国的に加算して、法律案の採択の可否を決定することになります。その場合、余り細かい内容にわたる議論は、各町内会ではとても無理です。憲法・軍事条約・兵制・税制・教育ならびに社会保障制度の骨子程度に限定されるでしょう。問題は全国的に同じ議案が提出されなければならないことです。ルソーは、客観的にその国家の課題を捉えることができるように、立法者は主権者すなわち立法権者とは別の方がよいとしています。一般意志の草案を作成する以上、特殊な事例への適用に取り組む行政官に作成させるわけにもいかないのです。立法者は主権者がだれかに委任すべき筋合のものです。当然立法委員の選挙が必要でしょう。
ローマの民会では各地区の民会の期日をずらして、先に開かれた民会の結論を参考にしたとされています。一般意志はルソーの考えでは、元々存在していて、それが討議の末に明らかになるとされています。しかし、他の地区の討議や結論を参考にして審議をやり直そうとする地区が出てくると収拾がつきません。しかしそれを認めないと一般意志との一致は望めないでしょう。現実には全国一斉にして集計するほかありません。町内での討議など各地区の有力者や能弁家に丸め込まれたりして、建設的で積極的な討論が期待できるかどうか疑問の地区も多いでしょう。
それでは、今日ではマス・メディアが発達しているので、新聞やテレビで放映される討論を参考にして、可否を問う国民投票をおこなった方が、よほど有益だということになりかねません。もちろんその場合には、マス・メディアを通した世論操作をどう防ぐのかという厄介な問題を抱え込むことになります。ルソーの人民集会による立法の理念は一般意志の形成がいかにすれば可能かという問題提起として受け止めるべきでしょう。その一つの試みが、ロシア革命で実践されたソビエト制度です。直接民主主義の精神を活かすために地域的な人民会議を基礎にした、ピラミッド的会議システムを造ったのです。つまり各地域に人民会議(ソビエト)を形成し、全員参加の討論で国の政策や法律が審議され、その結論を地方の上級ソビエトに、代議員が持ち寄って討議し、全国の最高ソビエトが最終決定を下すというものです。
この方法も代議員に立法権を代理させますから、ルソーの考えた人民集会での立法とは違います。それに立法権と執行権の分離がなされていない点も異なります。それに現実のソビエトは、地域や職場のソビエトは消滅しました。各共和国のソビエトも共産党の独裁を認めてしまったので、人民の権力機関ではなくなっていたのです。ソビエトが人民の権力であるためには、共産党を含め政党一般を廃止する必要があります。とはいえ、考えを同じくする者たちが会議をリードするために協力しあうことを規制するのは困難です。やがて密かに党派が形成されることになります。それを弾圧することは、様々な政治的活動の自由を否定することに繋がるでしょう。次善の策として自由で対等な複数政党制の導入が必要です。ですからわれわれは、現実的には、ルソーの国家理念を民主政治の一つの評価軸として受け止める以外にありません。
ルソーの精神に則って、現実政治を評価する場合、人民集会のない代議政治、人民集会のない君主政治などいずれもそこで通用している法律は、主権者の意志としての一般意志とは言えません。真の立法権に基づいていない以上、真の法律ではないのです。そんな自分たちが決定したものではない法律に従っているのは、ルソーの表現では奴隷状態なのです。
ですから人民は人民集会を開いて、まず自分たちが社会契約を結び国家を形成した主権者であることを再確認し、現行の憲法や法律を承認するかどうか検討すべきだということになります。人民集会を定期的に開催し、その際、常に次の二議案を優先的に討議すべきだとだとルソーは強調しています。
「第1議案―主権者は、政府の現在の形態を保持したいと思うか、第2議案―人民は、現に行政を任されている人々に、今後もそれを任せたいと思うか」
たとえ人民集会で決定されなくても、現行の法律には強制力がともないます。その法律は成立過程からみればルソー流には無効ですが、必ずしも公共の福祉から掛け離れた悪法ばかりとは限りません。なかには公共の福祉を推進する内容のものもあります。それはまだ表明されていない一般意志と同じ内容をもっているのです。ですから現行法に対する人民の受け止め方により、現行法を通して一般意志の内容を探ることも可能なのです。その意味ではロックの論理は、現実的で鋭いものがあります。ロックは、立法権を全国民から正当に選挙された代表者の議会にのみ認めるべきだとは言いませんでした。君主や少数者の代表から成る議会に立法権が属していてもいいのです。もし最大多数の国民の福祉を無視した立法を行い、その結果国民から猛烈な反発をくらい、それでも世論を無視すれば、多数決原理は天に訴える形で貫かれるとしたのです。  
 
「自由」論

 

序論 「自由」という言葉  
日本語には、「自由」という言葉があります。
しかし、現在日本で使われている「自由」という言葉はひどく曖昧です。現在日本では、「自由」は素晴らしいものだと言われています。学校でも、そう習いました。しかし、私には何が素晴らしいのか、よく分かりませんでした。「自由」を巡る言葉遣いや、人々の振る舞いに対し、常に違和感がありました。
言葉の意味を知るには、辞書を引いてみるのが第一です。『日本国語大辞典[第二版](小学館)』では、「自由」は次のように定義されています。
(1) 自分の心のままに行動できる状態
(イ) 思いどおりにふるまえて、束縛や障害がないこと。また、そのさま。思うまま。
(ロ) (特に、中古・中世の史文書などで)先例、しかるべき文書、道理などを無視した身勝手な自己主張。多くのその行為に非難の意をこめて使われる。わがまま勝手。
(2) ある物を必要とする欲求。需要。
(3) 便所。はばかり。手水場(ちょうずば)。
(4) (英liberty,freedomの訳語)政治的自由と精神的自由。一般にlibertyは政治的自由をさし、freedomは主に精神的自由をさすが、後者が政治的自由をさすこともある。政治的自由とは、王や政府の権力、社会の圧力からの支配、強制、拘束をうけずに、自己の権利を執行すること。たとえば、思想の自由、集会の自由、信仰の自由、移住・移動の自由、職業選択の自由などの市民的自由をいう。精神の自由とは、他からの拘束をうけずに、自分の意志で行動を選択できること。
(5) 人が行為をすることのできる範囲。法律の範囲内での随意の行為。これによって完全な権利、義務を有することになる。
辞書で「自由」を見てみると分かるように、「自由」という言葉は、二つの言語の意味が交わっています。「自由」という言葉は、本来は漢語です。その昔、日本に伝わり日本語として定着しました。そのため「自由」は、日本語としての「自由」の意味を持っています。ですが、明治維新に伴い、「自由」は「フリーダム(freedom)」や「リバティ(liberty)」の訳語に割り当てられました。そのため日本語における「自由」は、日本語本来の意味と、「フリーダム」や「リバティ」としての意味が混在することになりました。もちろん、日本語本来の「自由」の意味と、「フリーダム」・「リバティ」の意味が、近しい関係にあれば何も問題はありません。しかし、私には、それぞれの意味するところは、まったく異なっていると思われるのです。
人格的な唯一創造主「ゴッド(God)」に「神」という訳語を当てたことは、日本の翻訳史上最大の失策であったという意見があります。それに同意しますが、「フリーダム」・「リバティ」に「自由」という訳語を当てたことも、それに匹敵する失策だと思うのです。
日本語本来の自由は、「フリーダム」・「リバティ」の意味に侵食され、不正確な言葉に成り下がってしまったと思われるのです。ですから、「自由」を考えるときには、三つの段階において考えてみる必要があると思うのです。
まずは、日本本来の「自由」です。この自由を、第一部で論じます。次に、西欧哲学における「フリーダム」や「リバティ」としての「自由」です。この自由を、第二部で論じます。最後に、日本の「自由」が西欧の「フリーダム」・「リバティ」の訳語として用いられた後の「自由」です。この自由を、第三部で論じます。  
第一部 日本本来の自由  
第一章 「自由」の構造

 

自由を論じるために、まずは日本本来の自由の構造を示す必要があります。
第一節 「自由」の起源
日本語の「自由」という言葉は、元々は漢語です。漢語としての「自由」を歴史に探ると、「自(みずか)らに由(よ)る」、つまり自己に本(もと)づくという意味を持つ、次の二つの「自由」が先駆となります。
一つ目は、『孟子』の[公孫丑下]に〈吾が進退は豈に綽綽(しゃくしゃく)然として余裕有らざらんや〉とあり、その文章に対する後漢の趙岐の注として、〈進退すること自由、豈に綽綽(しゃくしゃく)たらざらんや〉という表現を見つけることができます。綽綽(しゃくしゃく)とは、落ち着いてゆとりがあるさまです。余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)な自らに由っているため、肯定的な意味を持ちます。
もう一つは『後漢書』の[皇后紀十下閻皇后紀]に、〈兄弟、権要にして、威福自由なり〉とあります。この自由は、自分の思い通りにする、勝手気ままに振舞うなどの否定的な意味で用いられています。
この二つの自由を見て分かるように、自由は肯定にも否定にも使われています。この自由は、「束縛の不在」を意味する西欧の「フリーダム」や「リバティ」としての自由とは別物です。そのため、この「自(みずか)らに由(よ)る」という漢語由来の自由について、日本語における用いられ方を見ていくことが必要になります。
第二節 「自由」の基本構造
日本語における「自由」を知るためには、「自(みずか)らに由(よ)る」という自由の構造を理解することが必要です。
第一項 自と他の「自由」
自由とは、読んで字のごとく「自(みずか)らに由(よ)る」ことです。つまり、自分に本(もと)づいているということです。自由の「自」とは、「自(みずか)ら」や「自己」と表現される「自分」のことであり、自分とは「この心」のことです。
自分は、「あの心」や「その心」の見ることを通して、「この心」としての自覚に到達します。つまり、見えたものが、見返してくることで、この視点が意識でき、「この心」の自覚に至り、見返してきたものが「あの心」や「その心」として意識でき、「あの心」や「その心」が、「この心」と同じ心であると思うようになるのです。「心」は、「この心」が自分を指し示し、「あの心」や「その心」や「どの心」が他者を指し示すことで、世界を観るものを、世界に複数あることにするのです。
それぞれの心は、相互に影響し合っています。そのため、「この心」による自由を、「あの心」や「その心」や「どの心」にも適用することができます。人間ではないものを人間のように見なす方法を「擬人法」と言いますが、自分ではないものを自分のように見なす方法を、便宜的に「擬自法」と名づけてみます。擬自法は、自分自身について思うことを、他者に当てはめて考えてみたときに可能になります。そこでは他者の自分において、「自」が「自(みずか)らに由(よ)る」ように「他」が「(他としての)自(みずか)らに由(よ)る」ことを想像することで、他者の自由を論じることができます。擬自法によって、自分の自由と他者の自由を想像でき、自由という言葉の一般的な用法が可能になるのです。
第二項 善と悪の「自由」
基本的に自由は、「自(みずか)らに由(よ)る」ことを言いますが、肯定されるときもあれば否定されるときもあります。それが肯定されるか否定されるかは、その自分が、何に本(もと)づいているかに由ります。
自分が善に基づいているのなら、その「自由」は肯定されます。自分が悪に基づいているのなら、その「自由」は否定されます。
[図1-1] 「自由」の基本構造
第三項 具体と抽象の「自由」
自由を考える上で、具体的な場合と抽象的な場合の区別は重要です。
もちろん、具体的な場合でも抽象的な場合でも、自分が善に由っていれば肯定的な自由になり、悪に由っていれば否定的な自由になります。
例えば、古代国家の基本法である『律令』(7世紀後半~8世紀)では、具体的な場合に自由が許容されています。戸令の棄妻手続きの例外を規定している箇所において、〈凡そ妻棄つることは、先づ祖父母、父母に由れよ。若し祖父母、父母無くは、夫自由することを得む〉とあります。妻と別れる場合、祖父母や父母の意見を聞くべきだというのです。親族がいない場合に限り、夫が自(みずか)らに由(よ)って判断を行ってよいと規定されているのです。
このように、法律的に具体的な状況が示され、自由の範囲が肯定されるときには自由が許容されるのです。
ただし、善悪に言及されていないときには注意が必要です。抽象的な場合で善悪に言及がないとき、その自由は、肯定でも否定でもない価値中立の自由です。例えば、「日本には昔から自由という言葉がある」というとき、この自由は抽象的な価値中立な自由です。
ですが、具体的な場合で善悪に言及がないとき、その自由は、我儘勝手な自由になります。なぜなら、具体的な場面では、その状況や条件に対する解釈や態度の表明が要求されるからです。自分が何に基づいているのか言えない、もしくは言わないのなら、その「自由」は我侭勝手です。例えば、「私は自分に基づいて考えて行動していますよ。ただし、自分が何に基づいているかは言いませんよ」などと言う人など、信じられないと思うからです。
具体的な場合と抽象的な場合の自由をまとめると、次のようになります。
[表1-1] 「自由」の価値分類
第三節 「自由」の応用構造
日本語における「自由」では、「自(みずか)らに由(よ)る」ことを細分化した場合に、応用の構造が現れてきます。
第一項 「自由」の応用区分
自由の応用構造においては、「自(みずか)らに由(よ)る」ことの細分化が行われ、より状況に即した使われ方が出てきます。
自由の「自」とは、「自分」のことであり、精神と肉体という分類を持ち、内面と外面という分類も持ちます。内面とは、自分自身の内部状態のことであり、外面とは、世の中との関わり方のことです。そこで「自」は、精神・肉体の軸と、内面・外面の軸の交わりとして捉えることができます。
[図1-2] 「自」の応用軸
第二項 「自由」の要素意味
「自」分は、精神・肉体の軸と、内面・外面の軸の交わりにおいて、四つの領域を持ちます。精神・内面の領域は、心の中で思うことであり心理状態のことです。精神・外面の領域は、世の中での他人との関わり方であり、共同関係になります。肉体・内面の領域は、体の調子であり、身体状態のことです。肉体・外面の領域は、外界への干渉であり、環境対応になります。
[図1-3] 「自」分の要素
「自」に交わる二つの軸の交差によって、心理状態・身体状態・共同関係・環境対応という四つの領域が成り立ちます。これらの領域において、自由の内実が出てきます。心理状態は、信仰および志向としての自由になります。身体状態は、健康および能力としての自由になります。共同関係は、立場および役割としての自由になります。環境対応は、可能および容易としての自由になります。
例えば、自由の境地などと言うとき、それは心理状態の自由です。みんなで何かを自由に行うというときは、共同関係の自由です。また、足が自由になるとか不自由だとか言うときは、身体状態の自由になります。歩行が自由にできるとか不自由だとか言うときは、環境対応の自由になります。
ちなみに、「金に不自由する」や「金に不自由しない」という用法は、西欧哲学における自由(「フリーダム」や「リバティ」)では直接表現できない言い方なのだそうです。この場合の自由は、共同関係に関わる自由です。
第三項 「自由」の価値判断
自由の応用例においても、その自由が善か悪かによって、肯定されたり否定されたりします。心理状態(信仰・志向)、身体状態(能力・健康)、共同関係(立場・節制)、環境対応(可能・容易)などに対して価値判断を行うためには、文脈を踏まえる必要があります。その場面や状況や条件を踏まえて上で、その自由を、肯定すべきなのか否定すべきなのかが決まるのです。
そこで次のように、精神-肉体の軸と、内面-外面の軸に加え、垂直方向に肯定-否定の軸が加わります。
[図1-4] 「自」の価値判断軸
その自由がどのような意味で用いられていて、かつ、どのような文脈上で表現されているかを判断することで、その自由が肯定されるべきか否定されるべきかが分かるのです。
第四節 不「自由」
不自由は、不・自由ですから、自由の否定を表しています。そのとき、自由の基本構造を否定している場合と、自由の応用構造を否定している場合があります。
第一項 基本構造における不「自由」
自由の基本構造は「自(みずか)らに由(よ)る」ことですから、それを否定している不自由の意味は、「自らに由らない」ことや「自らに由れない」こととなります。
「自らに由らない」場合は、由ろうと思えば由れるが、意思的に由ろうとしないことを意味しています。「自らに由れない」場合は、原理的に由れないときや能力的に由れないときなどがあります。これらの不自由は、その文脈により肯定的にも否定的にもなります。
第二項 応用構造における不「自由」
自由の応用構造を否定している不自由の意味は、心理状態・身体状態・共同関係・環境対応のそれぞれの場合に、「自らに由らない」ことや「自らに由れない」ことを言います。
この不自由の場合も、自分が何に基づいているかによって、肯定的にも否定的にもなります。自由と不自由の関係は、例えば次のように示されます。
[図1-2] 応用構造における自由と不自由の関係
傾向的には、不自由は否定的な意味合いで使用される場合が多いと言えます。それは、文章の否定形が、倫理的な否定に結び付けられて論じられる傾向が高いことに関係しています。もっと簡単に言うと、否定文は、物事を否定するときに用いられることが多いということです。ですから、自由を否定している不自由は、否定的な意味で用いられることが多いのです。
第三項 自由と不「自由」
自由と不自由について考えてみるためには、天保年間(1830~1843)に記録された『塚田家覺書』などが参考になります。そこには、〈今日衣食住の三つに不自由なきは、全く御得意の贔屓による故也。夫を思ひば勿躰なし。天道を恐れ慎むべき事也〉とあります。自分が天道に基づいているという大前提によって、衣食住に対して不足することがないと考えられています。その上で、〈何事も自由をせんと思ふなよ不自由するがやはり自由ぞ〉と記されています。この一つの文章に登場する自由・不自由・自由は、それぞれ異なる意味を持っています。その意味は、文脈を押さえることで理解することができます。
最初の「自由」は、自分が自(みずか)らに由(よ)って行為することを意味する基本構造における自由です。この自由を戒めた上で、次の「不自由」は共同関係や環境対応などの外面の自由の否定形です。この不自由を自覚することで、最後の「自由」は心理状態や身体状態などの内面の自由に至っているのです。この最後の自由は、天道に基づく自由であり、自分自身に基づく最初の自由とは別物なのです。
まとめると、自分は自分に基づいていると思うのではなく、世の中は何でも自分の思い通りにはいかないと知るべきだというのです。そうすれば、天道によって自分が支えられていると知ったとき、自分が自分に由ることができる境地に至れるというのです。  
第二章 仏教伝来における「自由」

 

日本の自由は、仏教における「自由」の用法から強い影響を受けています。仏教の教典において「自由」もしくは「自由自在」が、悟りの境地として、つまり心理状態の自由として用いられているのは、唐宋の禅学文献からになります。禅家では、「自由」と「自在」が同じ意味として使われる場合があります。
第一節 『摩訶止観』
隋の仏教書である『摩訶止観(594)』は、灌頂(かんじょう)によって筆録されました。
作中に「自在」の文字を見ることができます。例えば、〈かの経に広く自在の相を説けり〉とあります。具体的には、〈法に始終なく、法に通塞なし、もし法界を知れば、法界には始終なく通塞なく、豁然として大いに朗かにして無礙自在なり〉と語られています。ここでの自在は、肯定的な意味合いを持っています。なぜなら、ここでの自在の「自」は、法界を知っている「自」だからです。
第二節 『臨済録』
唐の法語集である『臨済録(1120)』は、臨済義玄の法語を慧然が編集しました。
[示衆]では、〈師乃ち云く、今時、仏法を学する者は、且(しばら)く真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解を得れば、生死に染まず、去住自由なり〉とあります。臨済は、仏教の修行者が法について真の理解に達したなら、生死に執着しないで行くも留まるも自由な境地に達すると説いています。ここでの自由は、「自」が法の真の理解に達した「自」ですから、もちろん肯定的な意味を持っています。
また、〈若し生死去住、脱著自由ならんと欲得すれば、?今聴法する底の人を識取せよ〉とあります。自由になろうとするなら、法の深い理解に達している人の言葉を聴くべきことが語られています。法の理解に基づいて自(みずか)らに由(よ)るため、肯定的な意味で用いられていることが分かります。
第三節 『碧巌録』
宋の仏教書である『碧巌録(1125)』は、圜(えん)悟(ご)克(こく)勤(ごん)の著です。
[第七則・慧超念仏]において、〈一毫頭上に於いて透得して大光明を放つて七縦八横、法に於いて自在自由ならば、手に信せて拈(ねん)じ来るに不是あることなし〉とあります。ここでの自在自由は、法における「自」なので、肯定的な意味を持っています。
[第十六則・鏡?啐啄]においては、〈便ち以て自由自在に啐啄の機を展べ、殺活の劍を用うべし〉とあります。外からの啐(ついばむ)と内からの啄(たたく)の両方の機会が一致したとき伝授は成就するというのであり、肯定的な自由です。 
第三章 日本史における「自由」

 

本章では、日本史の時代区分ごとに、日本人が書き記した文書中の「自由」の使用例を見ていきます。江戸時代までの日本の自由を見ていくと、第一章で示した自由の構造に基づいて用いられていることが分かります。
第一節 奈良時代・平安時代
第一項 六国史
奈良・平安時代に編纂された六国史には、自由の用例がいくつか見られます。日本の史書における「自由」は、中国の史書における「自由」の用例が踏まえられています。史書の自由は、王位簒奪者や反逆や専横や犯罪を表現する否定的な意味で用いられています。
日本最初の勅撰正史である『日本書紀(720)』では、まず[綏靖天皇紀即位前紀]に、〈遂に以て諒闇(みものおもひ)の際(きは)に、威(いき)福(ほひ)自由(ほしきまま)なり〉とあります。ここでの「自由」は、『後漢書』の[皇后紀十下閻皇后紀]にある〈兄弟、権要にして、威福自由なり〉という用法を踏まえ、勝手気ままという否定的意味を持っています。
[清寧天皇紀]においても、〈権勢自由、費用官物(いきほひほしきままにして、官物(おほやけもの)をつひやす)〉とあります。「ほしきまま」という勝手な振る舞いを非難の意味合いで用いています。
また、[孝徳紀大化二年三月]には、天皇の原則が〈天地(あめつち)の間(あひだ)に君(きみ)として万民(よろづのおほみたから)を宰(をさ)むることは、独り制(をさ)むべからず。要(かなら)ず臣(まへつきみ)の翼(たすけ)を須(もち)ゐる〉と記載されています。天皇の統治下においては、天皇の独裁が禁止され、臣下の助けを用い、民を宝とすることが原則となっているのです。『日本書紀』において既に、日本では独裁政治が禁止されているということは特筆に値します。
次は、平安初期の歴史書である『続日本紀(797)』です。[光仁天皇・宝亀八年九月の条]に、〈中納言より内臣を拝し、職封一千戸を賜りき。政を専とし、志を得て升降(しやうかう)自由なり〉とあります。升降自由とは、官人の昇進や降格を意のままにするという共同関係における自由です。良継の官吏としての人事権の恣意擅断に対して、非難の意味で用いられています。
平安前期の歴史書である『日本後紀(840)』には、〈百司衆務、吐納自由、威福之盛、熏灼四方〉とあります。共同関係の自由です。政務を勝手に行い、権力を乱用して勢力を伸ばしたことが非難の意味で記されています。
『日本三代実録(901)』の[清和天皇紀]には、〈往来意に任せ、出入自由なり〉とあります。ここでの自由は法令無視です。共同関係や環境対応の自由です。
また[清和天皇紀]には、〈諸々の余の名神をして神力自在ならしむ〉や〈庶幾(こひねが)はくは神威を自在に増し〉と「自在」の文字が見えます。禅学の中では、自由と自在をほぼ同じ用法で用いることがありますが、『日本三代実録』では「自由」と「自在」が区別されています。ここでの「自在」は、比較的穏当な肯定的な意味で、心理状態の自由について用いられています。ここでの「自」は、単なる「自」ではなく、神の助けを借りた「自」であることが述べられているため、肯定的な意味合いになっているのです。
[陽成天皇紀]にも「自由」があり、〈此の職、太上天皇の拝受せし所、豈に是れ朕の自由にすべけんや〉とあります。天皇にも自由にはならない領域があるというのです。その限界は、先帝陛下の御遺志だとされています。ここでは先例の遵守が、天皇の自由を制限するものとして示されています。天皇自身が、自ら「自由」ではないと宣言しているのです。自分が自由ではないという自覚が、その人を偉大ならしめえるという実例が示されているのです。
[光孝天皇紀]では、〈追捕罪人、拷掠違法、放免自由〉とあります。拷問も放免も、法を破って好き勝手に行うという共同関係における自由であり、当然ながら否定的な意味合いです。
以上のように、六国史の中の「自由」は、悪しきことに基づいていたり、何に由っているかを示していないため、否定的な使用例が多いことが分かります。
第二項 天平文化
天平文化における自由の用法としては、菅原道真(845~903)が白詩の『白氏文集』の影響を受け、「自由」を肯定的に使用しています。
[秋夜、宿弘文院]という題で、〈脚に信(まか)せて涼しき風に自由を得たり〉とあり、肯定的な意味で用いられています。環境対応の自由が、心理状態の自由につながっていることが分かります。
また、[舟行五事]という題で、〈虚心の者は自由なり〉とあります。煩わしいことにとらわれていない心が、精神の自由として肯定的に用いられています。
第三項 平安仏教
仏教においても、自由が盛んに用いられています。そこで、平安仏教における自由を見ていきます。
最澄(767~822)の『注無量義経』には、〈自由は大唐の俗語にして、文語には云ひて自在と為す〉とあります。自由は俗語であり、文字で書き記すときは自在を使うと述べられています。自在については、〈是故に今自在力を得れば法に於いて自在にして法王と為り〉とあります。ここでの自在の「自」は、法においての「自」であるため、肯定的な意味を持っています。
空海(774~835)の『平安遺文・補遺』には、〈悉く天心に繫(かか)り、若(もし)くは大若くは小、敢へて自由なりとせず〉とあります。自分の上にある現世の法秩序に対しては、自由だと言うことはできないとの意識が見られます。法における自分が尊いのですから、自分は法に対して自由になってはいけないのです。ここでの自由は法に対するものなので、否定的な意味を持ちます。
また、『秘密曼荼羅十住心論』には、〈経に自然と云ふは、謂はく、一類の外道の計すらく、一切の法は皆自然にして有なり〉とあります。自然とは、他より何らの力を加えられることなく、自ら然ることです。法は、それ自身で然らしむものなのだと語られています。この「自然」は、法が自ずから然らしむるものなので肯定的な意味を持ちます。
源信(942~1017)の『往生要集』には、『西方要決釈疑通規』からの引用で、〈久しく生死に沈んで制すること自由ならず〉とります。生死に執着して身の行いを慎むことができない、自(みずか)らに由(よ)ることができないという意味です。
『大日本国法華経験記(法華験記)』は平安朝の末頃、比叡山横川に住する一沙門が編集した法華経信仰者の霊験記です。この中で、〈仏を見法を聞くこと、心に自在を得たり〉とあります。ここでの自在は、仏の法を開いた「自」であり肯定の意味であり、心が煩悩を離れた通達無礙の境地のことです。
注目すべき点として、最澄と空海の「自」の用法が挙げられます。その「自」が法における「自」ならば肯定され、法に対する「自」ならば否定されるのです。あくまでも「自」は、「自」を超えた法によって判定されていることが分かります。
第二節 鎌倉時代
第一項 『御成敗式目』
鎌倉幕府の基本法典である『御成敗式目(1232)』には、自由の用例が数多く示されています。
[四条]では〈理不尽の沙汰甚だ自由の姦謀なり〉とあります。ここでの自由は、謂れのないという否定的な意味です。[第三十七条]では〈しかるに近年より以降、自由の望みを企て〉とあります。ここでの自由は、我儘勝手に所有欲を充たすということで否定的なものです。[第四十条]では〈猥りに自由の昇進を求むる〉とあります。我侭勝手な自由であり非難の意味で使われています。
『御成敗式目』の[御成敗式目追加]においても、多くの自由が示されています。〈而して地頭等自由のままに相論の条、慥かに停止さるべし〉、〈左右無く出家せしめ、なほ所領を知行する事、甚だ自由の所行なり〉、〈禁忌を称して自由に帰国の条〉、〈自由の対捍(不服従・抵抗)を致し〉、〈自由に任せて上洛遠行あるべからず〉、〈今更自由の新儀を致すべからず〉、〈領家預所の免許を蒙らずして、自由に任せ立用に任せ及ばず〉、〈或いは自由に洛中に横行の由あまねくその聞えあり〉などが挙げられます,
また、[建武以来追加]においても、〈近年禁制に背き、自由の競望を致すか〉、〈自由の横領を致すの由その聞えあり〉、〈その外の自由の新関は厳密に停廃すべきの由、仰せ下されうべきか〉、〈左右無く庭中を企つるの条自由の至りなり〉、〈洛中辺土ならびに田舎に居住せしむる云々、自由の至りなり〉などが挙げられます。
『御成敗式目』は、道理という規範が基と成っています。如何に強大な権力者といえども、自らの自由によって振舞うことは禁止されているのです。『御成敗式目』では、道理に由ることを善しとし、道理に由らない行為を「自由」としています。〈ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞を出すべきなり〉とあり、道理によって言葉を発すべきことが述べられています。そこでは、他人の目や権力よりも道理が優先されるべきことが明記されています。よって、道理に由らない自由は、否定的な意味として使われているのです。
第二項 『吾妻鏡』
鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』は、治承4年(1180)源頼政の挙兵から、文永3年(1266)までの87年間を変体漢文の日記体で記しています。『吾妻鏡』の中には、〈恣に私威を耀かし、自由の下知を成して〉、〈定めて自由の沙汰に似候か〉、〈由緒無く自由の押領に任するの由〉、〈自由の押領〉、〈自由の任官〉、〈自由の狼藉〉、〈自由の張行〉、などの「自由」の用法が見られます。これらの自由も六国史における自由と同様に、「ほしきまま」としての放縦であり糾弾対象となっています。特定の権威に対立した、悪しきことに基づいて行う行動が「自由」として捉えられているため、否定されるのです。
また、〈自専の慮を挿み〉や〈動もすれば自専の計有り〉などのように「自専」という言葉も用いられています。自主独立・独断専行といった意味で「自専」が用いられているようです。
第三項 鎌倉文化
鎌倉文化における自由として、狛近真による雅楽書である『教訓抄』(1233)を挙げることができます。例えば、〈是偏ニ名利ノ罪、自由ノ科ノガレガタキユヘ也〉とあります。財物を貪ることは、自由の一つであり、悪しきこととされています。また、〈自由ノ案立〉は、習も説もなく我説を立てることを言い、〈自由ノ今案〉で、説もなく習もない自分勝手な演奏法を指しています。
鎌倉中期の説話集である『十訓抄(1252)』には、〈あるいは自由のかたにておだやかならず。これ、わが涯分をはからず、さしもなき身を高く思ひ上げて、主をも軽め、傍人をも下ぐるなり〉とあります。この自由は、身の程を弁えずに思い上がることであり、否定的なものです。
無住(1226~1312)の仏教説話集『沙石集(1283)』には、〈賢遁の門に入りて、僅かに寒を防ぎ、飢ゑを休めて、心安く身自在にして、一生を送らんと思ふ、まめやかに賢き心なり〉とあります。ここでの自在は、心が安らかな上での身の自在であり、肯定的な意味です。また、〈楽天云はく、「富貴にして苦あり。苦は心の危く愁ふるにあり。貧賤にしても楽あり。楽は身の自由に有り」と云へり〉とあります。貧しいから楽なこともあり、身体的に楽が出来ることが身体の自由として述べられています。また、〈自由ノ邪推〉という記述もあり、この自由は放埓なわがままです。
吉田兼好の随筆『徒然草(1330~31)』の第六十段に、〈この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・弁説、人にすぐれて、宗の法灯なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、よろづ自由にして、大方、人に従ふといふ事なし〉とあります。他人を気にせず、自らに由って行動している人に対して言及されています。
第四項 鎌倉仏教
鎌倉仏教においても、自由が数多く論じられています。
法然(1133~1212)の『選択本願念仏集』には、源信の『往生要集』と同じく『西方要決釈疑通規』からの引用で、〈久しく生死に沈んで制すること自由ならず〉とあります。生死に執着してしまうと、自己を制することができないというのです。
また、『七箇条制誡』では、〈黒闇の類、己が才を顕はさむと欲し、浄土の教えをもつて芸能として、名利を貪り檀越を望み、ほしいままに自由の妄説をなして、世間の人を誑惑す〉とあります。ここでの自由は、妄説で他人をたぶらかすのですから否定的な意味を持っています。ちなみに、〈黒闇の類〉は正しい行ないをせぬ者です。〈芸能として〉とは、和讃とか礼讃にふしをつけてとなえるのを指すとされています。〈檀越〉は、相に衣食などを施す供養主で、施主・檀那とも言います。〈誑惑〉とは、たぶらかしまどわすということです。
親鸞(1173~1262)の『教行信証』には、自在が語られています。〈諸仏の大法を念ぜば、略して諸仏の四十不共法を説かむと。一つには自在の飛行意に随ふ、二つには自在の変化辺なし、三つには自在の所聞無閡なり、四つには自在に無量種門を以て一切衆生の心を知ろしめすと〉とあります。四十不共法とは、仏だけがもっている勝れた四十種の特質です。そのうちのいくつかが自在として語られています。ちなみに、無閡は無礙と同じ意味で、さわりのないことです。また、〈豪貴富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉(まぬか)るることを得ず〉とあります。自分に富や楽があるからといっても、その自分は生老病死の四苦を逃れることができないと語られています。ここでの自在の「自」に掛かるものは、富や楽などのため、ここでの自在の評価は低いものとなっています。
親鸞の『末燈抄』の[自然法爾の事]では、〈自然といふは、自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ〉とあります。自然法爾とは、自己の力で仏になろうとしたり、善行を積んで仏に救われようとしたりする人為をすて、ひたすら仏の願力のままに身をゆだねることです。親鸞の弟子にの唯円による『歎異抄』には、〈わがはからはざるを自然とまうすなり。これすなはち他力にまします〉とあります。
中世において「自然」には「ジネン」と「シゼン」という二つの訓み方がありました。「ひとりでに」や「おのずから」を意味する場合にはジネンとよまれ、「もしも」や「万一」を意味する場合にはシゼンと読まれていました。
道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[仏性]では、〈百丈山大智禅師、衆ニ示シテ云ク〉とし、禅師の言葉を引用して自由の語が出てきます。〈於後能く因果を使得す、福智自由なり〉や〈五陰に礙へられず、去住自由にして、出入り無難なり〉とあります。福智とは、菩薩の善を行なって徳を積む福行と、自己の悟りを完成するための智行のことです。その福智が自らに由るのですから、肯定的な意味です。また去来自由とは、出入りが可能であるという意味で、環境対応の自由に関わっています。
[阿羅漢]には、〈諸の漏を已に尽し、また煩悩無く、己の利を逮得し、諸の有結を尽して、心は自在を得たり〉とあります。煩悩がない状態になれば己の利はついてきて、諸々の煩悩の束縛が解けてしまへば心は自在を得るというのです。また、〈心得自在の形段、これを高処自高平、低処自低平と参究す。このゆゑに、墻壁瓦礫あり。自在といふは、心也全機現なり〉ともあります。心は自在なることを得たということは、高処にあれば高処にあって平らかに、低処にあれば低処にあって平らかなことです。だから、高処には墻壁(隔てるもの)があり、低処には瓦礫があるのです。心の自在というのは、心のすべてのはたらきが自由に現れることだと示されています。
[唯仏与仏]には、〈得道のあしたより、涅槃のゆふべにいたるまで、一字をもとかざりけるとも、とかるることばの自在なりける〉とあります。仏が悟りを開いて涅槃に入られるまで、生涯一字も説かなかったといいますが、説かれた言葉は自由自在であったというのです。
明恵(1173~1232)の『梅尾明恵上人遺訓』には、〈先づ身心を道の中に入れて、恣(ほしいまま)に睡眠せず、引くままに任せて雑念をも起さず、自由なるに随ひて坐相をも乱らず〉とあります。ここでは精神状態の自由が環境対応の自由に繋がっており、肯定的に用いられています。自由になるにつれ、自らに由るにつれて、坐相(坐禅の姿勢)は乱れなくなるということです。『鎌倉遺文』では、〈若(も)し数日京に住(とど)まる要事有らば、或いは同法或いは侍者・下僧等・一身に相具すること自由なるべからず〉とあります。規則違反をするなという意味で用いられています。誰でも良いから必ず同行者を連れて行け、単身で出京してはならぬ、その点を自由に考へてはならぬという意味です。
第五項 軍記物語
『長門本・平家物語(1177~84)』では、〈自由に任せて延暦寺の額を興福寺の上に打せぬるこそ安からね〉と有ります。ここでの自由は、共同関係における乱暴狼藉を意味しています。その乱暴狼藉を咎めています。
鎌倉中期から後期の作である『源平盛衰記』では、〈自由の京(きょう)上(のぼり)も其(それ)恐(おそれ)ありと存(ぞんじ)、〉とあります。勝手に京都に向かうことが憚られたことが語られています。ここでの自由は勝手な判断という意味で、否定的な意味合いを持ちます。
第三節 室町時代・安土桃山時代
第一項 中世仏教
中世仏教においても自由の言葉を見ることができます。
一休宗純(1394~1481)の『狂雲集』には、〈奪人奪境 事なほ稠し、幽谷閑林も自由ならず〉とあります。盗人や越境者がびっしり集まり、どこもかしこも自分の思うままに動けないと語られています。この自由は、環境対応に関する自由です。
蓮如(1415~1499)は室町中期の浄土真宗の僧です。『蓮如文集』には、〈一念をもてば往生治定の時剋とさだめて、そのときのいのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理なり〉とあり、「自然」が語られています。南無阿弥陀仏の一念を起こすことをもって往生決定の時点と定めて、その時以後に命がながらえれば、おのずと念仏を積み重ねるので、多念の称名になるという理屈です。
第二項 戦国時代
戦国武将の著作の中にも、自由の用法を見ることができます。
大内家歴代が発布した『大内家壁書』には、1439年~1529年に出された法令がまとめられており、〈若し猶自由の族あらば、殊に御成敗あるべきの旨〉や〈或いは自由の進退を邪意(我意)に任せ〉とあります。ここでの自由は、法の違反や秩序の混乱を指し、否定的意味を持ちます。
結城政勝(1503~1559)の法度『結城氏新法度』には、〈銭撰り候てよく存候哉。万事是者不自由にて候〉とあります。ここでの不自由は、不便・不都合とほぼ同じ意味です。
武田信玄(1521~1573)が制定した分国法『信玄家法(甲州法度之次第)』には、〈私に没収せしむるの条甚だ自由の至りなり〉や〈意趣なくして寄親を嫌ふ事、自由の至りなり〉とあります。私(わたくし)という自らに由るという自由であり、否定の意味です。
今川氏の家法『今川仮名目録』には、〈自今以後、自由之輩は罪過に処すべし〉という表現があります。自由之輩とは、我儘勝手の者です。先例・法令などによってつくられた秩序を乱す行為は、すべて「自由」と表現され非難の対象となっています。また、〈寺を他人に譲与の一筆を出す事、甚だ以て自由の至り曲事なり〉ともあります。この自由も我儘勝手です。
本多正信(1538~1616)の著作であると言われている『治國家根元』では、〈智恵ノ自由〉として精神的な自由が、〈是ヲ救ヒ玉フニ自由ナリ〉として能力があるという意味の身体状態の自由が用いられています。また、〈自由ヲフルマフモノナリ〉ともあり、こちらは勝手氣儘の否定的自由です。
別所長治(1558~1580) について記された『別所長治記』には、〈一旦ノ合戦勝負難決(けっしがたし)、然(され)バ駆引為自由、〉や〈川ヲ渡ス方ハ引方不自由ナルニヨツテ諸卒強キ物ト聞〉とあります。ここでの自由・不自由は、可能・不可能、容易・困難の意味で用いられています。自由の応用的用法であり、自分の環境対応における自由です。
伊達政宗(1567~1636)の老臣伊達成実(1568~1646)の筆録である『伊達日記』には、〈自由ニ通路を任候〉、〈通路不自由ニ成候〉、〈早通路不自由ニ成候間〉、〈通路自由候故〉などの用法があります。この自由と不自由は、通行可能・不可能という意味に限定されています。この自由も環境対応における自由です。
黒田長政(1568~1623)の遺言『黒田長政遺言』には、〈自由ヲ働キ、掟ヲ守ラズ〉とあります。この「自由」は、「勝手気侭」の意味で「掟」に反するものです。
甲州武田武士の事績や心構えや武将の条件などが記されている『甲陽軍鑑』には、〈国中の地頭人、子細を申さずして、恣に罪科の跡と称し、私に没収せしむるの条、甚だ自由の至なり〉とあります。領国内の地頭が、事情を明らかにしないまま、好き勝手に罪科の跡と称し、私意を以て所領や財物を没収することは勝手もはなはだしい、ということです。
第三項 桃山文化
桃山文化における自由の用例として、千利休の茶の湯論を伝える茶書『南方録』があります。
[墨引]には、〈ねんごろに根源をきはめぬれば、いかやうにも自由なることと云々。たとへば、真の文字を知て、行草に至れば、いかほど自由にくづしやつしても本性たがはず〉とあります。根源を極めた心理状態の自由が肯定的に語られています。
他にも、〈向炉にては、道具の座せばく不自由なれども、元来向炉は丸畳にて、居座はくつろぎあり〉とあり、不自由が環境対応において困難の意味で用いられています。また、〈柱なし自由なるゆへ、休の作事に所々これ有り〉ともあります。台目切の茶席に台目柱をたてるのは最も複雑な茶室の構造の一つで、紹鷗時代にはむしろ柱なしの台目切が主で、柱を立てるようになるのは利休時代と考えられています。〈されども大名高家の自由なるには、南面、北面、別々の諸具用ひたるることなれば、取捨に及ばず〉とあるのは、共同関係の自由が諸々の条件によって肯定され許容されることが示されています。
[滅後]には、〈めたと雨さへふれば、小雨にも自由して玄関へ手水出すにては更になし〉や、〈囲の類にて、諸事不自由なり〉や、〈また台目だゝみ広く自由なるゆへ種々の置合も出来、さまざまの道具をも取出し、無益のことになりぬ〉などがあります。いずれも、環境対応における自由が語られています。
第四節 江戸時代
江戸時代の文献には、自由の文字がたくさん記されています。その数は膨大であり、全てを示すことは不可能ですが、有名な人物の作品の中から、いくつか自由の用例を江戸の前期・中期・後期に分けて見ていきます。
第一項 江戸前期・寛永文化
江戸前期および寛永文化における自由の用例を見ていきます。
柳生宗矩(1571~1646)は江戸時代初期の武将、大名、剣術家です。『兵法家伝書』には、〈放心心を具せよとは、心を放すこころをもて、心に綱をつけて恒に引きて居ては、不自由なぞ。放しかけてやりても、とまらぬ心を放心心と云ふ。此放心心を具すれば、自由がはたらかるゝなり〉とあります。この自由は、心理状態の自由が肯定的に述べられています。心を客観的に冷静に突き放して見つめることができる心があれば、自由となるというのです。
江戸初期の臨済宗の僧である沢庵(1573~1645)の『不動智神妙録』には、〈一所に定り留りたる心は、自由に働かぬなり〉や〈稽古、年月つもりぬれば、心を何方へ追放してやりても、自由なる位に行く事にて候〉とあります。これは精神の内面における心理状態の自由です。『澤菴和尚書簡集』には、〈文字之力自由に御座候〉とあり、精神の外面における共同関係に関わる自由も語られています。また、〈行歩不自由〉とあり、身体状態と環境対応に関わる自由も語られています。
鈴木正三(1579~1655)は禅僧で仮名草子作者です。『萬民徳用』には、〈商人なくして世界の自由成べからず〉とあります。これは環境対応の自由が商人によって可能になるということです。そこでは、〈売買の作業は、国中の自由をなさしむべき役人に天道よりあたへたまふ所也と思定て、此身は天道に任て得利を思念を休、正直の旨を守て商せん〉と述べられています。商人は、環境に対応するための自由を役人を通して天道から与えられると思い、利益よりも正直を守って商売すべきだと語られています。環境対応の自由は、具体的には〈通路自由〉や〈渡世のいとなみ品々自由〉とあり、人的および物的な空間的移動の自由を意味しています。武士については、〈己が心に勝ち得る〉こととして、〈万事に勝ちて、物の上と成て自由なり〉と語られています。心理状態の自由が、身体状態・共同関係・環境対応の自由とつながることが語られています。
同じく鈴木正三の『驢鞍橋』にも、たくさんの自由が語られています。〈各々もなにとも思わず、自由に捨らるゝ程さまざま工みて、此身を捨習わるべし。なる程強き心を用いずして叶べからずと也〉や〈自由に死程に成たさに修する也〉、〈心を自由に使ふて、世界の用に立が正法也〉や〈自由に舞べき心有〉などは、心理状態において自由があるということです。心理状態の自由な力があれば、為すべきことを為すことができ、死ぬべきときに死ぬことができるというのです。また、金銭的なことにおいて、〈自由に使ふ事はならず〉と、共同関係における自由の用例もあります。〈我法も武勇には自由に使るべしと思ふ也〉や〈何と自由に書出す人あらんや〉も、共同関係の自由です。〈若し外道中中我手裡殺活自由也と云て、殺しも仕、放ちも仕たらば、でかい佛の耻也〉とあるのは、共同関係における我儘勝手な否定的な自由です。〈智勝ト者、萬法の上と成て、萬事を使ふて自由の義なり〉は、知識がある人は全ての法則の上で物事を使うことができるとの意味で、内面的な自由が外面的な自由につながることが語られています。〈修行の功にて、世間を次第に自由に使ふ也。佛法なくして世間自由に使るべからず〉というのも同様です。仏法により、世間を容易に渡ることができる自由です。〈我執さゑ切れば、萬念に勝て自在也。苦楽ともに何ともなし〉は、心理状態の自由であり、〈無我の心に到て、私なく物に任て自由也〉も同様です。〈只道理を以て、自由に成様に計り教ゑ來れり〉は、自由が道理に基づいており肯定されています。
宮本武蔵(1584~1645)の『五輪書』には、〈一人の敵に自由に勝つ時は、世界の人に皆勝つ所也〉とあり、外面における自由が語られています。また、〈兵法の道に、おのれと自由ありて〉とは、兵法の道に基づいた自らに由ることであり、肯定的な自由です。〈両手に物を持つ事、左右共に自由には叶ひがたし〉では、左右両手を思いのままに振ることが至難な業であることが意味され、身体状態の自由が語られています。〈太刀の道を知るといふは、常に我さす刀をゆび二つにてふる時も、道すぢ能くしりては自由にふるもの也〉や〈おもき太刀自由にふらるゝ所也〉というのも同様に、身体状態の自由です。〈兵法自由の身になりては、敵の心をよく計りて勝つ道多かるべき事也。工夫有るべし〉とあるのは、共同関係の自由であり、〈敵を自由にまはさんと思ふ所、我は将也、敵は卒なり。工夫あるべし〉とあるのは、環境対応の自由です。
第二項 江戸中期・元禄文化
次は、江戸中期および元禄文化における自由の用例を見ていきます。
中江藤樹(1608~1648)の『翁問答』には、いくつか共同関係における「自由」の用法があります。〈文のよみかき自由にせざるはなし〉や〈文字之力自由に御座候〉とあり、文章の読み書きの自由が語られています。また、〈大軍を自由自在にとりまはし武略をめぐらし〉とあるのも、大軍を自分の思うがままに動かして戦略を立てる共同関係の自由です。〈才とは武略かしこく人数を自由自在にとりまはし〉とあり、多数の人を自分の思うがままに動かす自由が示されています。
熊沢蕃山(1619~1691)の『集義和書』には、〈政の才ある人を本才と申候。其人に学あれば、国・天下・平・治仕候。本才ありても学なければ、やみの夜にともし火なくして行がごとくにて候。しかれども、ありきつけたる道なる故ありき候。されど、前後左右を見ひらきて自由のはたらきはならず候〉とあります。共同関係における自由が、環境対応における自由で例えられて論じられています。続いて、〈才知なくして学ある人の政をするは、盲者の昼ありくがごとくにて候〉とした上で、〈不自由にても、みづから見てありくと、見ずしてありくとは、見てありくはまさり申すべき候〉とあるのも同様です。
水戸藩主である徳川光圀(1628~1700)の『徳川光圀教訓』には、〈大兵は三四尺之刀をも自由に振廻し〉とあり、身体状態の自由が語られています。
臨済宗の僧である盤珪永琢(1622~1693)の『盤珪禅師語録』には、〈只生じたる體を一心が家といたして、住まするによつて、其内はものを聞、香をかぎ知り、物いふ事の自由なれども、かりあつめ生じたる此體が滅しますれば、一心の住家がなく成ますゆへに、見聞物いふ事ならぬまでの事でござる〉とあります。心が体という家に住んでいれば、自由に動かせるというのです。心理状態の自由が、身体状態の自由に繋がることが示されています。それゆえ、〈自由に道をあるきますわひの〉ということが可能になるのです。
また、〈行さきが不自由にござつて、道中も人が宿を借せば、有がたく〉とあるのは、環境対応における不自由です。〈自由に問たがよふでござる〉というのは、言論における共同関係における自由です。
盤珪が、〈日本の平話で結句よふ自由に問れて相すむに、間にくひ語で問ふは、下手な事でござる〉と述べている箇所は、漢文の語録にもとづく漢語の問答に反対し、日本語でしかも平話で問答すべきことを説いています。つまり、〈自由な平話で問ふて、埒明さつしやれい〉というわけです。日本語で分かりやすく話せば、問題が生じることもなく、意味も明らかに分かるようになるというのです。
貝原益軒(1630~1714)の『和俗童子訓』では、〈筆のはたらき自由〉と共同関係の自由が肯定すべきものとして語られています。しかし、〈物ごとゆたかに、自由なるゆへに、このむかたに心はやくうつりやすくして、おぼれやすし。はやくいましめざれば、後にそみ入ては、いさめがたく、立かへりがたし〉と言うとき、その自由は共同関係において戒めるべきものとして語られています。また、共同関係における自由は、『大和俗訓』においても、〈富貴なる人は、ひとにほどこしすくふこと自由にして、ひろく行ひやすし〉と例が挙げられています。
井原西鶴(1642~1693)は江戸前期の浮世草子作者で俳人です。西鶴の作品の中には、自由という言葉が数多く語られています。その中でも特筆すべきこととして、『日本永代蔵』では「万事の自由」と「万物の自由」が語られています。前者は、〈諸大名には、いかなる種を前生に蒔き給へる事にぞ有りける。万事の自由を見し時は、目前の仏というて又外になし〉とあります。後者は、〈世に舟あればこそ、一日に百里を越し、十日に千里の沖をはしり、万物の自由を叶へり〉とあります。
また、『本朝二十不幸』では、〈銀(かね)程自由なる物はなし〉とあり、『好色一代男』でも、〈金銀をちりばめ。自由を仕懸〉とあります。金に関わる共同関係における自由が語られています。『好色一代女』では、〈立つ事、不自由なり〉とあり、身体状態の自由について述べられています。
天文地理学者である西川如見(1648~1724)の『町人囊』には、〈或人の云、よろづの事、余りに自由なるはよからぬ事也。近代は物事巧みに自由なる物多く出来たりといへ共、人間はむかしの実儀に及ぶ事なし。古の人は無欲実儀にして、世智弁にたくみ成事なし〉とあります。実儀とは実体なことで、世智弁とは小才をきかすことです。共同関係や環境対応において、あまりに自由すぎることに警鐘を発しています。
佐藤直方(1650~1719)の『学談雑録』には、〈タトヘバ人ノ路ヲ行ニ、左ノ足バカリニテモ右ノ足バカリニテモ行レズ。異端ハ片足デ行ト云タモノナリ。然レドモユカレヌユヘニ、一方ノ足ノ代リニ木カ竹ニテ足ヲコシラヘタレドモ、後ニ附タ仮リモノナレバ、根本ノ足ノヤウニハタラカレズ、不自由ナリ。ココガ理ノ似セモノナリ。儒ノ方ニ不自由ナルコトハナシ〉とあります。肉体的な自由の例を用いることにより、精神的な自由を論じています。
俳人である向井去来(1651~1704)の『去来抄』には、〈和歌優美の上にさへ、かくまでかけり作したるを、俳諧自由の上に、ただ尋常の気色を作せんは、手柄なかるべし〉とあります。趣向を働かせて自らに由った表現を生命とする俳諧においては、平凡な景色を詠むだけでは作者の手柄はないというのです。
浅見絅斎(1652~1711)の『絅斉先生敬斉箴講義』には、〈耳デ聞ト云モ、是ガキカス。手ガ動ト謂テモ、手計ガ自由ニ動ク物デナシ。足デ歩ムモ、足ガヒトリ自由ニアルク物デナシ〉とあり、それに対し、〈日用万事全体、心ノ為業、心ノ動クナリ〉と語られています。肉体の自由は、心に由ることが示されています。
佐賀藩士である山本常朝(1659~1719)の『葉隠』では、〈毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりてゐる時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり〉とあります。常に死と一つになり切っている時に、武道に基づいた自らに由る境地となり、為すべきに定められた職務を果たせるというのです。
俳人である服部土芳(1657~1730)の『三冊子』には、〈中頃、難波の梅翁、自由をふるひて世上にひろしといへども、中分以下にして、いまだ詞を以てかしこき名なり〉とあります。中堅どころに難波の西山宗因という人がおり、自らに由って作品を広めていますが、力量は中以下であり、言葉遣いのうまさで評価を得ているというのです。また、〈高く位に乗じて、自由をふるはんと根ざしたる詞ならんか〉とあります。自らに由ったことに根差した作人は、高い句境や句位を獲得してはじめて得られるというのです。
荻生徂徠(1666~1728)の『ツ録』には、〈習伝授有て畢竟の処士卒をよく修練させて、如何程の大勢にても手もつれなく自由に取てまはし乱れさる様にする仕形なり〉とあります。また、〈下知迅速ニテ手モツレナク分合自在ナリ〉ともあります。どちらも身体状態の自由が語られています。また、同じく荻生徂徠の『政談』では、〈自由便利ナルコト言計リナシ〉や、〈店替ヲ自由ニシ、他国ヘモ自由ニ行キ、他国ヨリ来リ其所ニ住コト自由ナレバ、日本国中ノ人入乱レ、混雑シ〉とあります。〈出入自由ニナル也〉ともあります。これは外面における共同関係や環境対応の自由です。
太宰春台(1680~1747)の『経済録』では、〈掌ニ握タルガ如クニ自由ヲナスハ、党ヲ結ブト、駅使ノ往来便利ナルトノ故也、茲ニ至テハ、上ヨリ厳令ヲ出シ、刑罰ヲ立テ威セドモ、如何トモスベキ様ナシ〉とあります。共同関係の自由を、身体状態の自由で例えています。また、〈利権トイフハ、物ノ利ヲ自由ニスル権利ナリ〉ともあります。ここでは共同関係の自由が、環境対応の自由につながることが示されています。
石門心学の始祖である石田梅岩(1685~1744)の『斉家論』には、〈士農工商をのれをのれが業に心をいるれば、何の不自由なきやうにとの御仁政〉とあります。各職業において各々が役割を果たすなら、共同関係において不自由のない世の中になるというのです。『莫妄想』では、〈言語ヲ以テ自由ヲナシ、手ニ持、足行テ自在スル〉とあり、精神の自由と肉体の自在が語られています。身体状態の自由については、〈眼耳鼻ヨリ手足ニ至迄斯ノ如ク自由スル事ハ、目ニ見ト謂モ目ニ見ル所以ナシ〉とあります。身体を自由にしていることは目に見ることができますが、その基となる所以は目には見えないというのです。また、〈眼耳鼻ヨリ手足ノ自由スルハ唯自由スル事ニ候哉。亦自由サスル所以ノ者有リヤ如何〉とあり、身体を自らに由るようにすることはただ自由にすることであり、その自由にさせる基となる所以は何かと問うています。『都鄙問答』では共同関係における親孝行の面より、〈親ニ不自由ヲサセマジキ為ナリ〉とあります。また梅岩の思想では儒仏神道が渾然一体となっていますが、神道については、〈天神地祇は如斯、自由ナル御神ナリ。ソノ自由ノ口ヨリ生ズルユヘニ、生ズル物モ又自由ナリ〉とあります。神は自ずからなる神であり、その神より生じた物もまた、自ずからなるというのです。
室鳩巣(1658~1734)の『鳩巣先生文集』には、〈人となれば自由ならず、自由は人をなさず〉とあります。この言葉が意味するところは、〈安んぞ自由にして悪に流れざるものあらんや〉とあるように、自分が由って立つところが自分自身の判断だけならば、悪へと流れてしまうという考え方に立脚しています。自らが由るところが、自分を超えた善であるならば人間であると言えて、自分自身でしかないなら悪になり人間とは言えないということです。ですから、〈一つの自由は凶刃となるの端なり。一つの不自由は吉人となるの端なり〉と語られているのです。
同じく室鳩巣の『駿台雑話』には、〈むかしよりもろこしやまとゝもに、世の英雄豪傑、多くは己が武勇智謀に誇て天のいまだ定まらざるを見て、天道は人力をもて自由になるものとおもひつゝ、猛威を逞うし、詐力を恣にして、一且は志を得るに似たりといへども、程なく天定まりぬれば、忽に天罰にあたりて、身うせ家滅ぶる事、古今歴々として、そのためしすくなからず〉とあります。天道は、人間の力でどうとでもなるという考え方を否定しています。逆に、自分の判断が天道に由っているなら、それは聖人の心だというのです。ですから、〈聖人の心のとまる所は自由を得て廻る事、ものゝ掌にあるがごとし〉とあり、天道に基づいた自らに由る自由が肯定されているのです。室鳩巣の述べていることは、自分が何に基づいているかを述べていない自由は、自分自身の価値判断にのみ基づいている自由であるから、否定すべきだということです。聖人は、天道に基づいていますから、その自由は善きものに基づいている自由なので肯定されているのです。
江戸中期の俳人である横井也有(1702~1783)の『鶉衣』には、〈さるを聖人も右の袂の自由を物ずけり〉とあります。孔子も右手の自由のため、わざわざ右の袂を短くしたことが語られています。肉体における身体状態や環境対応の自由です。
俳人である蕪村(1716~1783)の『むかしを今』の序に、〈予、此一棒下に頓悟して、やゝはいかいの自在を知れり〉とあります。蕪村は俳諧の自在、つまり心のままなる世界を知ることができたというのです。また、『洛東芭蕉庵再興記』には、〈されば詞人吟客の相往来して、半日の閑を貪るたよりもよく、飢をふせぐまうけも自在なるべし〉とあります。この自在は、食事の支度をするのも望みしだいという意味です。
三浦梅園(1723~1789)の『三浦梅園集』には、〈天下の勢をとる事を権柄といへり。権とは秤の錘なり。柄とは其錘を自在によくつり合はするなり。今衡は持すれども、懸る者の軽重を秤錘をもて自由にする事あたはずんば、権柄を何にかせん〉とあります。天下を取るには、平衡が大事であり、その平衡は自らに由って取らないでどうするのか、と語られています。
第三項 江戸後期・化成文化
最後に、江戸後期および化政文化における自由の用例を見ていきます。
心学者である中沢道二(1725~1803)の『道二翁道話』では、〈肝心の死ぬる事さへおれが自由にならぬもの〉と語られています。中沢道二は、死ぬということでは自由にならず、身体面で動くことでは自由になると考えています。例えば、〈天の心で育て上られ、次第々々に成人するほど、見たり聞いたり、飛んだりはねたり、自由自在が出来るものゆへ〉とあります。大人になるにつれ、天の心によって身体状態を自由に制御できるようになるというのです。そこでは、〈天徳が備はりて有る故、見聞覚知の自由が出来る〉とあり、天の徳に基づいて見る・聞く・覚える・知るという自由が可能になると言います。さらには、〈世界中が心じやによつて、自由が出来たものじや〉とあるように、世界に心があることにより自由が可能になると言い、〈互に道があつて和合するから、萬事萬端用も足り自由ができる〉と語られています。
国学者の本居宣長(1730~1801)の『秘本玉くしげ』には、次のように自由が論じられています。
交易のために商人もなくてはかなはぬものにて、商人の多きほど、国のためにも、民間のためにも自由はよきもの也。然れども、惣じて自由のよきは、よきほど損あり。何事も自由よければ、それだけ物入多く、不自由なれば物入はすくなし。然るに今の世は、人ごとに我おとらじとよきものをのぞみ、自由なるうへにも、自由よからんとするから、商人、職人、年年月月に、便利よく自由なる事、めづらしきものなどを考へ出し、作り出して、これを売ひろむるゆゑに、年年月月に、よきもの、自由なるもの出来て、世上の物入は、漸漸に多くなること也。すべて何事も、今までなければなくて足りぬる事も、あるを見ては、無が不自由に覚え、又今までは麁相なる物にてことたれるも、それより美物出れば、麁相なるは甚わろく思はるる故に、次第次第に事も物も数数おほくなり。美麗になりゆくこと也。かくて事も物も一つにても多くなり華美になれば、それだけ世話も多く、物入は勿論おほき也。これみな、世中の奢りの長ずるにて、畢竟は困窮の基となることぞ。
宣長が論じている自由は、商人によって可能となる共同関係における自由です。その自由について、必要性を認めた上で、自由すぎるときに弊害が起こることが指摘されています。例えば通貨については、〈此金銀通用始まりては、甚世上の便利にして、尤自由よろしき事也、さて通用の金銀は、随分多きほど便利にして自由は宜しき也、然れ共、それに付て又失ある事多く、返て世上の困窮に及ぶ基ともなる也〉と述べられています。金銀の流通が多くなれば、それ故に便利になりますが、その過剰供給ゆえに問題が起こることもあるというのです。宣長は、〈自由便利になるにつきては、其失も甚多けれ共、年久しく馴来りたる事なれば、此ならひは、俄には改めがたし〉と言い、自由の領域が大きくなるにつれて多くを失いますが、馴染みのあるものを改めるのは困難だと考えています。
蘭方医である杉田玄白(1733~1817)の『蘭東事始』には、〈当時は其人々の門人なれば同道し給へる事も自由なり〉とあり、共同関係における自由が語られています。
儒学者で経済学者でもある海保青陵(1755~1817)の『経済話』には、〈上に権なふて、下に権あるなり。下に権あるとは、下が上の御自由にならぬ也〉とあります。下々に臨機応変に対応する構えがあるとき、政府が自由に民衆を支配できないというのです。『富貴談』には、〈同格なるものを自由自在にせんとする事、ちからの勝たる事也〉とあり、同格の者同士で相手を意のままにするには、力で勝つことが必要だと語られています。『洪範談』には、〈己れが心でさへ己れが自由にはなりかぬるものなり。左れば他人を自由にせんとするは無理なる事なり〉とあり、心理状態の自由が難しいため、共同関係における自由も難しいことが述べられています。また、〈事物を己れが自由自在にとりまわすは、自由になるべきものを自由にするなり、自由になるまじきものを自由にするにてはなし〉ともあります。これは、そもそも自由にするということは、自由にできる可能性があることが対象であり、自由が不可能なものは対象外だということです。他にも、〈聖人はなんでも知りており、何事をも自由にするものなり〉や、〈智がくわしいゆへに、万物をつかふ事が自由になるゆへなり、天理にあるだけの事は自由になる理なり〉とあり、知識によって、自らに由ることができるという考え方が見られます。『天王談』には、〈天下の人はみな天より生を受けて居るゆへに、人は人の自由にはならず、理の自由になること也〉とあります。つまり、人間は天より生を受けるがゆえに、自分自身に基づくのではなく、理に基づいているというのです。『善中談』には、〈智民が愚士を自由自在に欺く〉とあり、知恵のある者が、知恵のない者を好きにできるという共同関係における自由が語られています。
江戸時代の農学者である大蔵永常(1768~1861)の『広益国産考』には、〈農家にて漉立てても捌口不自由にては?と成らざれば〉とあり、〈板にて造りたるものを下駄のごとくはき、深田に入りて自由に働くなり〉とあります。環境対応の自由についてであり、道具がうまく動かないときの不自由と、うまく作用するときの自由が語られています。
心学者である柴田鳩翁(1783~1839)の『続鳩翁道話』には、〈この本心は手まえ勝手にこしらえたものではなく、則ち天より禀得ましたもので、仁義礼智信の徳をそなえ、親にむかえば孝、主人にむかえば忠、兄弟仲よう、夫婦はむつまじう、朋友には真実のまじわり、何ひとつ不自由なことなく、物に応じて自在なるゆえ、明徳とも申します〉と語られています。簡単に言えば、皆のおかげで不自由せずに自在でいることができるということです。また、〈つかんだものをはなしさえすれば、自由自在に、手はぬけるものを、一度つかんだら、首がちぎれても離すまいと、かた意地なうまれつき、それで自由自在の、大安楽ができぬのじゃ〉とあります。ここでは、心理状態が身体状態の自由に影響することが示されています。『続々鳩翁道話』では、〈道とは自由自在のできるという名じゃ。無理すると自由自在はできぬ。無理のない本心にしたがえば、自由自在で安楽にござります。これを道と申しまする〉とあります。道は、自らに由っているというのです。また、〈人と道と合せものではござりませぬ、道は性にしたがうの道で、うまれつきのとおりにするのが道じゃ。道のほかに物なく、もののほかに道はござりませぬ。また古人の説に、心は道なり、道は天なりともみえまして、心をしれば道をしります、道をしれば天をしります。これをしれば、天人一致、万物一体の道理がしれます。よしまたこの道理はしらいでも目は見る、耳はきく、手はもつ、足はゆく、訳を知ったもしらぬも、生れつきの道じゃによって、自由自在にできまする〉と語られています。道理に基づいて、自由が可能になるというのです。 
第四章 キリスト教の受容における「自由」

 

日本におけるキリスト教の受容に際して、キリスト教文献の日本語への翻訳の中に、自由の文字を見ることができます。このキリスト教受容における「自由」の用法によって、明治期にフリーダムやリバティが「自由」の訳語となる遠因が生まれました。
カトリック教会の教理本『ドチリナ・キリシタン(ポルトガル語:Doctrina Christão、ラテン語:Doctrina Christiana)』を日本語に翻訳した『どちりいな?きりしたん』(1590)には、〈万事叶ひ玉ふ御自由自在の御主でうす御一体まします事〉とあります。自由自在が「全能」という意味で用いられています。
さらに、自由が「制限の不在」である「解放」を意味する用例もあります。師弟の会話として、次のように解放である自由が語られています。
弟 解脱とは何事ぞや。
師 自由の身となる事也。
弟 何たる人が自由に成ぞ。
師 囚はれ人、すでに奴の身と成たる者が自由に成る也。
ここでの「囚はれ人」は自由を束縛された人で、「奴」は他者に使役され自由を失った奴隷のことです。キリスト教の影響によって、日本人の「自由」に「制限の不在」である「解放」という意味が付け加えられたことが分かります。
イエズス会が1593年に刊行したと考えられる『病者を扶くる心得』にも、〈貴とび敬ひ申べき真の御主は、でうす御一体にておはしまし、初まり終りと申事なく、万事かなひ玉ふ御自由自在の源〉とあり、自由が使われています。全能としての自由です。
スペインの神秘神学者ルイス・デ・グラナダ著(Guia de Pecadores)の訳書『ぎやどぺかどる』(1599)には、〈人は自由の分別を体し、既に万の物の霊長と定め給へば〉とあります。人は自由であり、それゆえに万物の霊長なのだと語られています。すなわち、意志の自由です。
16世紀末頃の日本のキリシタン関連の古文書『エヴォラ屏風文書』には、造物主デウスの全知全能といふ属性に対して、〈御智恵御自由ノ量ナキヲ以テ治メ計イ玉フ〉、〈万事叶イ玉フ御自由ノ彼御精力〉、〈万事叶イ玉フ御自由ノ御源〉というように「自由」の文字が使われています。
ハビアン著作の江戸初期のキリシタン教理書『妙貞問答』(1605)には、〈万事御自由ノ主トモ申也〉とあります。ここでも、「全知全能」としての自由が示されています。
これらのキリスト教文献における自由は、当たり前の話ですが、キリスト教の教義に基づいた自由です。キリスト教によって、自由に「全能」という意味、および「制限の不在」である「解放」という意味が付加されたことによって、明治に「フリーダム」や「リバティ」の訳語として「自由」が用いられる下地が生まれたのです。 
第五章 「自」分の理「由」

 

日本語の「自由」とは、読んで字のごとく「自(みずか)らに由(よ)る」ことです。つまり、自分の理由のことなのです。では、自分とは何でしょうか?
世阿弥(1363,64~1443,44)の『遊楽習道風見』には、〈有は見、無は器なり。有を現はす物は無なり〉とあります。その上で、〈四季折々の時節により、花葉、雪月、山海、草木、有情、無情に至るまで、萬物の出生をなす器は天下なり。此の萬物を遊楽の景躰として、一心を天下の器になして、廣大無風の空道に安器して、是得遊楽の妙花に至るべき事を思ふべし〉と語られています。
自分が、無私になることにおいて、私は無になります。そこで私は、器になります。ですから、そこで問われるべきことは、その器に何を入れるかなのです。
私がただ自由であるとき、それは自分の理由が私(わたくし)であることになりますから、それは否定されるのです。私の器に、道理や天道が入っている場合、自分の理由は道理や天道に基づいていることを意味しますから、その自由は肯定されるのです。
自分の「自」は、自(みずか)らと読めますが、「自(おの)ずから」とも読めます。自分は、おのずからとみずからの重なりにおいて成り立っています。おのずから道理あり、みずから道理を行うとき、日本の自由は、素晴らしいものとなるのです。
[図1-5] 素晴らしき自由の構造
自由を否定すべきは、ただ「自(みずか)らに由(よ)る」だけの我儘勝手な場合です。自由を肯定すべきは、おのずから道理あり、その道理に基づいてみずから行う場合です。これが、日本本来の自由の用法なのです。 
第二部 西洋哲学の自由  
第一章 西洋式「自由」論

 

西洋における自由は、一言で表すと「制限の不在」という意味の言葉になります。
その歴史をさかのぼると、古くはギリシア語のeleutheria(エレウテリアー)やラテン語のlibertas (リーベルタース)を見つけることができます。その後、キリスト教における自由意志の問題を経て、近代的自由と呼ばれる考え方に到達します。その自由は、英語で言えば「Liberty」と「freedom」、フランス語では「Liberté」、ドイツ語では「Freiheit」として論じられています。
西欧哲学の伝統では、自由についての数多くの哲学的思索が展開されています。その中には、自由が称賛語として論じられている場合が多々あります。そのとき、儒教における中庸の思想に馴染んだ日本人なら違和感を覚えます。状況や条件から、どのような制限が必要かどうかを検討することが重要なのであり、単にある制限が不在であるということだけでは中庸を外れてしまいます。中庸を外れている概念が、称賛語として肯定されていることは異様に思えます。
また、それぞれの哲学者が語る自由についての、いわゆる哲学的定義はバラバラです。それらの無秩序な自由の定義から、自由一般を論じることはほとんど不可能です。ですから必要な作業は、西欧哲学における自由の代表的論者の言い分を個別に検討し、それらを一つずつ判定していくことです。西洋古代の自由についての考え方、キリスト教における自由意志の問題、西洋近代哲学における自由論を見ていき、それらが妥当であるかどうかを判断していきます。 
第二章 西洋古代の「自由」

 

西洋古代における自由は、古くはギリシャ語のeleutheria(エレウテリアー)、およびラテン語のlibertas(リーベルタース)を挙げることができます。
古代ギリシャ語のeleutheriaは民主制と結びついており、プラトン(BC427頃~BC347)やアリストテレス(BC384~BC322)が論じています。また、他者を奴隷として所有することが許されている人は、自由人と呼ばれていました。自由な人とは、奴隷ないしは隷属状態にある人々と対比される概念です。
ラテン語のlibertasも、ギリシア語におけるeleutheriaと同じく、民主制における国民の特徴や奴隷と比したときの自由人の身分として論じられています。この古代ローマの自由については、キケロ(BC106~BC43)が論じています。
第一節 プラトンの「自由」
プラトン(BC427頃~BC347)は、古代ギリシャの哲学者です。ソクラテスの弟子で、アテナイ郊外に学園アカデメイアを創設しました。西欧における「自由」を考える上で、プラトンの『国家』を外すことはできません。
『国家』ではプラトンが、ソクラテスの口を借りて様々な国家制度について言及しています。その中で、奴隷でない人間として自由な人間が語られています。〈自由な人間たるべき者は、およそいかなる学科を学ぶにあたっても、奴隷状態において学ぶというようなことは、あってはならないからだ〉とあります。
また、民主制国家については、〈この国家には自由が支配していて、何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに、そこでは何でも思いどおりのことを行なうことが放任されているのではないかね?〉と問われています。民主制国家では「自由」とともに「平等」も基本理念とされています。民主制は、〈快く、無政府的で、多彩な国制であり、等しい者にも等しくない者にも同じように一種の平等を与える国制〉として語られています。民主制の問題点については、〈国事に乗り出して政治活動をする者が、どのような仕事と生き方をしていた人であろうと、そんなことはいっこうに気にも留められず、ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄なのだ〉と語られています。この指摘は当たっています。現に、今の日本がその通りだからです。
民主制国家における個人については、〈そのときどきにおとずれる欲望に耽ってこれを満足させながら、その日その日を送って行くだろう〉とされ、〈こうして彼の生活には、秩序もなければ必然性もない。しかし彼はこのような生活を、快く、自由で、幸福な生活と呼んで、一生涯この生き方を守りつづけるのだ〉と語られています。この指摘も当たっています。まさに、現に、民主制国家の個人が、その通りだからです。ここで述べられているような人物の例を、私たちは今現在、いくらでも見ることができます。
この幸福な生活を送ることができる民主制に対し、〈民主制国家が善と規定するところのものがあって、そのものへのあくことなき欲求こそが、この場合も民主制を崩壊させるのではあるまいか?〉という疑問が挙げられています。
〈「自由」こそは、民主制国家がもっている最も善きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのは、ただこの国だけである〉とありますが、その先に待っている結末に対して、〈思うに、民主制の国家が自由を渇望したあげく、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々があまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者たいちをけしからぬ連中だ、寡頭制的なやつだと非難して迫害するだろう〉と述べられています。
その上、〈国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは、彼らは君の知るとおり、最後には法律さえも、書かれた法であれ書かれざる法であれ、かえりみないようになるからだ。絶対にどのような主人をも、自分の上にいただくまいとしてね〉とあります。そのため、〈その自由放任のために、さらに大きく力強いものとなって、民主制を隷属化させることになる。まことに何ごとであれ、あまりに度が過ぎるということは、その反動として、反対の方向への大きな変化を引き起しがちなものだ〉と考えられています。〈過度の自由は、個人においても国家においても、ただ過度の隷属状態へと変化する以外に途はないもののようだからね〉と述べられ、〈最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ〉と語られています。
民主制から独裁制が生まれることが指摘され、〈僭主(独裁制)が生まれるときはいつも、そういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって、ほかのところからではないのだ〉と語られています。
第二節 アリストテレスの「自由」
アリストテレス(BC384~BC322)は、古代ギリシアの哲学者です。プラトンの弟子であり、アテネに学校リュケイオンを開きました。
『政治学』には、民主制における自由が示されています。民主制については、〈民主制は貧困者の利益を目標とするもの〉とあり、〈民主制は財産を大してもたずに困っている者が国制の主権者である時に存する〉とされています。民主制について、〈役人たちを非難する人々は民衆が決定しなければならないと言い、また民衆は喜んでこの申入れを受入れるのである、そのため役人たちの威信はことごとく失墜する〉と述べられています。
それぞれの政治制度については、〈貴族制の徴(しるし)は徳であり、寡頭制のそれは富であり、民主制のそれは自由である〉と考えられています。その上で、〈国民の凡てがそして凡てのことについて評議するのは民主制的である、というのは民衆はこのような平等を求めるからである〉とあります。民主制は自由と平等という考え方に基づいた制度だというのです。
アリストテレスは、〈最も民主制的であると思われているところの民主制においては、それにとって有益なこととは反対なことが起きている〉と言います。その理由は、〈何故なら正しいことは等しいことであると思われ、等しいことは何ごとによらず大衆によって決定されることが権威をもつことであると思われているのに、自由なこととは何ごとによらず人の好むことを為すことであると思われているからである〉と述べられています。そのため、〈従ってこのような民主制においては各人は彼の欲するままに、そしてエウリピデスの言うように、「何でもその気になったもののために」生活する。しかしこのことはよろしくない〉と結論付けています。
アリストテレスは、〈民主制的国制の根本原理は自由である〉と言い、自由の徴(しるし)として二つのことを述べています。まず、〈自由の一つは順番に支配されたり支配したりすることである。というのは民主制的「正」は人の値打に応じてではなくて、人の数に応じて等しきものをもつことであるが、これが「正」だとすれば、大衆は必然に主権者であり、また何ごとによらず、より多数の者の決定することが最終的なものであり、またそれが正しいことであるということにならなければならないからである、何故なら彼らは国民のそれぞれの者が等しきものを持たなければならぬと主張しているからである〉とあります。次に、〈他の一つは人が好むままに生きるということである。というのはいやしくも好むままに生きることの出来ないことが奴隷たる者の定めなら、好むままに生きることは自由の働きだと人々は言うからである〉とあります。これらから、〈支配されないこと――出来れば何人によってもそうされないこと、しかしそれがかなわなければ、順番で支配され支配すること、に対する要求が起ってきたのである〉と語られています。
アリストテレスは、〈大衆にとっては節度のある生活よりも無秩序な生活の方が楽しいもの〉と述べた上で、〈最善の生活とは、それぞれ個人にとっても、一般に国にとっても、徳に即した行為に与かり得るだけの外的善を備えた徳と結びついた生活である〉と語っています。
第三節 キケロの「自由」
キケロ(Marcus Tullius Cicero, BC106~BC43)は、共和政ローマ期の政治家であり、文筆家であり、哲学者でもあります。
『国家について』では、〈自由は、国民の権限が最大である国を除いて、いかなる定住地ももたない。たしかに自由より甘美なものは何一つありえないし、またそれは公平でなければ、けっして自由ではない〉と語られています。
しかし、自由な国民については、〈もし自由な国民が自己を委ねようとする人々を選び、また安泰であることを望むかぎり、およそ最善の人を選ぶなら、たしかに国の安全は最善の人々の思慮に任されることになる〉とありますが、〈自由な国民がよろこんで受け入れる法の公平自体は維持することはできない〉と語られています。なぜなら、〈人物や身分について大きな区別〉があるからです。そのため、〈公平と呼ばれているものはもっとも不公平である。なぜなら、名誉が、国民全体の中にかならずいる最高の者と最低の者に等しいものとみなされるなら、公正そのものはもっとも不公平だからである。だが、そのことは貴族によって治められている国においては起こりえない〉と考えられているからです。
また、奴隷ではないことが自由であることとして、〈王であれ貴族であれ、その奴隷となれば、すべての者は自由を失うのだ〉と語られています。
政治については、〈王は敬愛によって、貴族は思慮によって、国民は自由によって、わたしたちの心をとらえる〉とありますが、自由については、〈指導者のあまりにも大きな権力から彼らの破滅が生じるように、自由そのものがこのあまりにも自由な国民を隷属に陥れる〉と語られています。なぜなら、〈すべて極端なものは、天候であれ、農地であれ、身体であれ、あまりにもうまくいったとき、たいてい反対のものに変わる〉からです。つまり、〈あのあまりにも大きな自由は国民にとっても私人にとってもあまりにも大きな隷属となるのだ。こうしてこの最大の自由から僭主と、あのもっとも不公正でもっとも厳しい隷属が生じる〉と考えられています。
『法律について』では、自由人と奴隷について、〈休日と祭日の制度は、自由人には訴訟と争いの休止を、奴隷には仕事と労働の休止を意味する〉とあります。
投票については、〈わたしがその自由を国民に惜しまずに与えるのは、貴族が権威を維持し、それを行使することができるという範囲においてである。じっさい、投票にかんする法律としてわたしがあげたのは次のようなものである。「投票は貴族には公開され、平民には自由でなければならない」〉とあります。その上で、〈国民には面目を保ちながら貴族たちを満足させる権利が与えられること、まさにそのことの中に、自由があるということになる〉と語られています。そのため、〈わたしたちの法律では、外見上の自由が与えられ、貴族の権威が保持され、紛争の原因が取り除かれることになるのだ〉と述べられています。
第四節 西欧古代の「自由」についての考察
プラトン、アリストテレス、キケロの述べている「自由」についての意見は、妥当であると思われます。自由を賛美することは、独裁による隷属に繋がるか、逆に欲するままに振る舞うことで無秩序を招くという危険性が認識されているからです。
ちなみにプラトンの民主制批判および自由批判は、大筋において正しいと私は思いますが、プラトンの掲げる哲学者王の政治(王者支配制)が正しいかというと、そうは思いません。
その点において、プラトンの敵対者としてカール・R・ポパー(Sir Karl Raimund Popper, 1902~1994)を挙げることができます。ポパーの『開かれた社会とその敵』では、プラトン批判が繰り広げられています。ポパーが述べている「哲学者王」批判は、頷ける部分があります。例えば、表現の誇張が見られるとしても、〈われわれはプラトン自身以外の誰も真の守護者心得の秘密を知らず、その鍵ももたないことが分かる。だがこれが意味しうることは一つだけである。哲学者王とはプラトン自身であり、『国家』はプラトン自身の王権要求である〉という意見は当たっていますし、〈地上に天国を作ろうとする最善の意図をもってしてさえ、それが成功するのは、この世を地獄――人間だけが人間仲間に用意するあの地獄――に変えることだけである〉という意見も重要だと思います。
ですが、哲学者王の政治を否定したポパーは、民主主義(民主制)を賞賛していることには注意が必要です。〈民主主義だけが暴力抜きの改革、それゆえ政治問題における理性の使用、を許容する制度的枠組を与える〉と述べ、〈人間であり続けたいと望むならば、そのときには唯一の道、開かれた社会への道があるのみである。われわれは安全および自由の両者のための良い計画を立てるために、持ち合わせの理性を用いて、未知と不確実と不安定の中へ進み続けなければならない〉と語っています。この抽象的で具体性を欠いた民主主義の肯定意見では、プラトンの民主制批判に対する反論になっていません。民主制の問題点を解決する論理も提出できていません。そもそも、民主主義は暴力による革命を平然と行います。
つまり、プラトンの『国家』と、ポパーの『開かれた社会とその敵』は、互いの掲げる政治制度を批判する形になっており、その批判がそれなりの妥当性を有しているため、互いが推奨している政治制度がどちらも致命的な欠陥を抱える結果になっているのです。それゆえ、プラトンの言う意味での哲学者王の政治と、ポパーの民主主義は、ともに選択肢から除外されます。 
第三章 キリスト教の「自由」

 

キリスト教においては、神の前における自由が問題となります。全知全能の神という設定において、自由意志の問題が発生するからです。
全知全能の神という設定の前では、人間の意志による選択ということが不可能になると考えられます。なぜなら、神が全てを知っていて、全てを行う能力を有しているなら、神は人間の全てを司るため、人間が何かを判断して選択を決断することはできないからです。私の考えを神は既に知っており、私の為すことを神が全て差配しているのなら、私の判断はあり得ず、私の意志は存在しないことになります。キリスト教神学における自由意志の問題は、この問題に対する取り組みとして展開されています。
第一節 オリゲネスの「自由」
オリゲネス(Origenes Adamantius,185頃~254頃)は、ギリシャ思想による聖書解釈を試みた、古代キリスト教最大の神学者です。
『諸原理について』には、[自由意志について]という章があり、自由意志について論じられています。まず、〈神によって与えられた動きを善に向けるか、悪に向けるかは我々によることである〉という前提が置かれています。それは、〈我々は意思の能力を神から受けているが、あるいは良い願望に、あるいは悪い願望に向かうように、この意思を用いるのは我々である。行為(effectus)についても、同様に考えねばならない〉という考え方です。その意思については、〈我々の自由意志にかかっていることが、神の助けなしに成し遂げられうると考えてはならないし、神のみ手の果たすことが、我々の行動、努力、意図を伴わないで成し遂げられるとも考えてはならない〉と語られています。
第二節 アウグスティヌスの「自由」
アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354~430)は、初期キリスト教の西方教会最大の教父です。青年期にマニ教を信奉し、次いで新プラトン学派哲学に傾倒し、32歳でキリスト教に回心しました。
『神の国』には、〈わたしたちは、神の予知を認めても、意志の自由を廃棄せねばならぬわけではなく、また、意志の自由を認めても、神の予知を否定する(それは不敬である)必要もない〉とあります。それは、〈意志の自由を告白するのは、よく生きんがためである〉からとされています。つまり、〈わたしたちは、自由に生きんがために、その扶助によってわたしたちが自由であり、あるいは自由になるであろうもの[神]の予知を否定することをけっしてしてはならない〉というわけです。
このことは、〈神はこの知性的本性に自由意志を与えられたが、そのため、かれらがもしも選ぶなら、神を、すなわち自分の至福を捨てて、ただちに悲惨がつづくということがありえたのである〉と語られています。〈神は人間自身をも同じように自由意志をもつ正しいものとしてつくられた〉と見なしているのです。
そのため、〈神は、人間が神の法に違反して神を捨て罪を犯すであろうことを予知しておられたが、天使のばあいと同様、人間から自由意志の力を奪いとることはされなかった。神はそれを予知すると同時に、神がその悪からも何らかの善をつくるであろうことを予見されたからである〉と語られています。
第三節 トマス・アクィナスの「自由」
トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225頃~1274)は、イタリアの哲学者で神学者です。キリスト教とアリストテレス哲学を総合し、スコラ学を集大成しました。
『神学大全』には、〈われわれは、必然的な仕方で意志するのでないことがら、ないし自然本性的衝動によって意志するのでないことがらに関しては、自由意志を有している〉とあります。人間には自由意志があると述べた上で、神については、神は〈御自身の善性は必然的にこれを意志するが、御自身以外のものは必然的に意志するのではない。それゆえ神は、必然的に意志するのではないことがらに関して、自由意志を有するのである〉と考えられています。そのため、〈神はその善性によってすべてを意志し給うのであるから、神が罪という悪を意志することが不可能であることはあきらかである〉と語られています。
第四節 ルターの「自由」
ルター(Martin Luther, 1483~1546)は、ドイツの宗教改革者です。
『キリスト者の自由』においては、二つの原則として、〈キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない〉ということと、〈キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している〉ということが同時に示されています。この矛盾すると思われる二つの原則が、キリスト者においては両立すると考えられています。
そのためルターは、〈きみはしっかりした信仰をもってキリストに自分をゆだね、ためらわず彼を信頼すべきである。そうすれば、その信仰のゆえに、きみのすべての罪は赦され、きみの滅びはみな克服されよう。そしてきみは、正しく、真実に、平和に、義とされ、またすべての掟が満たされ、すべてのものから自由にされよう〉と述べています。〈われわれは、キリスト者は信仰で十分であり、義とされるために何の行ないも必要としなければ、たしかにすべての戒めと掟とから解放されてもいる。彼が解放されているなら、たしかに自由であるのだ。これがキリスト者の自由であり、唯一の信仰である〉という考えの上に立っているからです。そのため、〈彼の考えはあらゆる行ないにおいて自由でなければならず、ただ行ないをもってほかの人々に仕えて役に立つように、ほかの人々に必要なことのほかは何も念頭に置かないように、注意すべきである〉ということが、真のキリスト者の生活として説かれています。
ルターは、〈キリスト者は自分自身のうちに生きるのでなく、キリストと自分の隣人とにおいて生きる。すなわち、キリストにおいては信仰を通して、隣人においては愛を通して生きるのである。彼は信仰によって自分を越えて神へとのぼり、神のところから愛によってふたたび自分のもとへとくだり、しかも常に神と神の愛のうちにとどまる〉と考えています。その上で、〈見よ、これが真の、霊的なキリスト者の自由であって、心をあらゆる罪と律法と戒めから自由にする。それは天が地より高いように、ほかのあらゆる自由にまさるものである。神よ、どうかわれわれがこの自由を正しく理解し、これを保つことを許したまえ。アーメン〉と語っています。
第五節 キリスト教の「自由」についての考察
キリスト教における自由意志の問題に触れたとき、日本人なら疑問を抱きます。「意志は意志」なのであり、「意志は、自由意志である」というように、意志に「自由」を付け加えることに違和感を覚えるからです。
『古今和歌集』の[仮名序]には、〈やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける〉とあります。心とは、生まれることで世界が芽生え、死ぬことで世界が枯れ果てるものを、世界にたくさん居ることにする、世界のために必要な考え方なのです。
伊藤仁斉(1627~1705)の『語孟字義』には、〈心とは、人の思慮運用するところ〉とあり、〈情はただ是れ性の動いて欲に属する者、わずかに思慮に渉るときは、すなわちこれを心と謂う〉とあります。意志に関しては、〈意とは、心の往来計較する者を指して言う〉とあり、〈心の之くところ、これを志と謂う〉とあります。往来計較とは、あれこれくらべあわせて考慮することです。選択肢を考慮した上で決定を下すのが、意志の働きだというわけです。
日本人の世界観においては、制限の不在を意味する自由を用いて、「意志」を「自由意志」と表現することに違和感を覚えます。違和感を覚えない人は、少なからずキリスト教的世界観(もしくは一神教的世界観)に染まっているからです。日本人が世界を観るとき、意志は、(制限の不在を意味する)自由であるか自由でないかという問題の場にはないのです。
世界観の前提として、キリスト教のように全知全能の絶対者を設定した場合に、意志は自由であるか否かが問題となるのです。日本人のように、絶対や究極を設定しない、もしくは想定に留めておくならば、意志は自由である否かの問題は発生しないのです。
例えば、人間が人形を操るとき、人間には意志があり、人形には意志がないと感じられます。この内在の原理を、超越の設定により、階層をずらして「人間→人形」の関係を「神→人間」の関係へと移行させます。そうすると、自分は人形ではないと言い張る必要が出てくるのです。
この問題に対して日本思想の中に類例を探すと、江戸後期の儒学者である佐藤一斎(1772~1859)の思想を挙げることができます。『言志四録』には、〈人の富貴貧賤、死生寿殀、利害栄辱、聚散離合に至るまで、一定の数に非ざるは莫し。殊に未だ之を前知せざるのみ。譬えば、猶お傀儡の戯の機関已に具われども、而も観る者知らざるがごときなり〉とあります。人の貧富・死生・寿命・利害・名誉・縁などの運命は、既に定まっているという考え方が示されています。ただ人間は、その運命を知らないだけだというのです。そのことが、あやつり人形の芝居に例えられています。あやつり人形のからくりは定まっていますが、観客はそれと知らずに見ているようなものだというのです。
キリスト教においては、この人間とあやつり人形の関係が、全知全能の神と人間という関係に階層をずらした形で現れます。そのため、キリスト教において人間の自由意志の問題が発生し、意志は、自由な意志であることが必要になり、それゆえ自由は、肯定すべき概念となってしまうのです。 
第四章 ホッブズの「自由」

 

ホッブズ(Thomas Hobbes,1588~1679)は、英国の哲学者で政治思想家です。著作である『リヴァイアサン』から、ホッブズの自由について見ていきます。
第一節 『リヴァイアサン』
『リヴァイアサン』には、〈≪自由≫(リバティ)とは、この語の本来の意味に従えば、外的な障害の存在しないこと〉と定義されています。すなわち、〈「リバティ」、あるいは「フリーダム」というのは、[本来]対立物がないことを意味する〉のであり、〈≪自由人≫とは、「みずからの強さと知力によってなしうる種々のことがらにおいて、自分でやろうとすることを妨げられない人間」である〉とされています。
『リヴァイアサン』の世界観では、〈自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある〉と考えられています。そこでは、〈絶えざる恐怖と、暴力による死の危険がある。そこでは人間の生活は孤独で貧しく、きたならしく、残忍で、しかも短い〉とされています。この戦争状態はまったくの自然状態であり、自然権という考え方に基づいています。〈≪自然権≫とは、各人が自分自身の自然すなわち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用いうるよう各人が持っている自由である。したがって、それは自分自身の判断と理性とにおいて、そのためにもっとも適当な手段であると考えられるあらゆることを行なう自由である〉とあります。
この自然状態から人間が脱するためには、〈部分的には情念に、部分的には理性〉が必要とされ、〈人々に平和を志向させる情念には、死の恐怖、快適な生活に必要なものを求める意欲、勤労によってそれらを獲得しようとする希望がある。また人間は理性の示唆によって、たがいに同意できるようなつごうのよい平和のための諸条項を考えだす。そのような諸条項は自然法とも呼ばれる〉と語られています。〈≪自然法〉[レクス・ナトゥラリス]とは、理性によって発見された戒律または一般法則であり、それによって人はその生命を破壊したり、生命維持の手段を奪い去るようなことがらを行なったり、また生命がもっともよく維持されると彼が考えることを怠ることが禁じられる〉とあります。
ちなみに、〈≪権利〉はある行為をやったりやらなかったりする自由であり、≪法≫は、そのどちらかに決定し、それを拘束するもの〉と定義されています。
自然法については、基本的なものとして、〈各人は望みのあるかぎり、平和をかちとるように努力すべきである。それが不可能のばあいには、戦争によるあらゆる援助と利益を求め、かつこれを用いてもよい〉とあります。第二の自然法として、〈平和のために、また自己防衛のために必要であると考えられるかぎりにおいて、人は、他の人々も同意するならば、万物にたいするこの権利を喜んで放棄すべきである。そして自分が他の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいして持つことを自分が進んで認めることのできる範囲で満足すべきである〉とあります。第三の自然法として、〈結ばれた契約は履行すべし〉があります。ちなみに、〈人々が≪契約≫(コントラクト)と呼ぶところのものは、権利の相互譲渡のことである〉とあります。
自然法を有効たらしめるためには、(イギリス連邦などの政治共同体である)コモンウェルスが必要であるとホッブズは考え、〈コモンウェルスの目的は、人間の安全の保障にある〉と述べています。なぜなら、〈自然法[「正義」「公平」「謙虚」「慈悲」など、[要するに]「おのれの欲するところを人にもなせ」]が、何かの力にたいする恐怖なしに、ひとりでに遵守されることは、私たちの自然の情に反している〉と考えられているからです。コモンウェルスは、〈それは一個の人格であり、その行為は、多くの人々の相互契約により、彼らの平和と共同防衛のためにすべての人の強さと手段を彼が適当に用いることができるように、彼ら各人をその(行為の)本人とすることである〉と定義されています。
また、ホッブズの考えでは、〈国民は統治の形体を変更できない〉とされています。なぜなら、〈すでにコモンウェルスを設立した人々は、主権者の行為、判断を認めることを契約により義務づけられているのだから、彼の許可なしには、いかなるばあいであれ、他の何者かに新しく服従する契約を彼らのあいだで合法的に結ぶことはできない〉と考えられているからです。
ホッブズは、〈人間は平和を獲得し、それによって自己保存をはかるために、私たちがコモンウェルスと呼ぶ人工の人間をつくりあげた。同じように人間は、「市民法」と呼ばれる人工の鎖をつくった。そして彼ら自身の相互契約によって、鎖の一方の端を主権者の権力を与えられた人間または合議体の口に、他方の端を彼ら自身の耳に結びつけた〉と述べています。そこでは、〈国民の自由は契約から生じた自由にある〉とされています。それは、〈法律が不問に付したあらゆる種類の行為において、人間は理性が自分にとってもっとも有利だと示唆することを行なう自由を持つ〉ということを意味しています。そのため、〈国民の自由は、主権者が彼らの行為を規制したさいに、不問に付したことがらにのみある〉ということになります。
この段階においては、自然権・自然法に加えて市民法が重要な役割をはたします。〈≪市民法≫とは、人があれこれの特定のコモンウェルスではなく、コモンウェルス一般の構成員であるがゆえに守らねばならぬ法律である、と私は理解している〉とホッブズは述べています。〈≪市民法≫とは、すべての国民にとってコモンウェルスが善悪の区別、すなわち何が規則違反で何がそうでないかを区別するのに用いるよう、ことば、文書、その他意志を示すに十分なしるしによって彼らに命じた諸規則である〉と定義されています。〈「権利」とは「自由」すなわち市民法が私たちに残した自由であるが、これにたいして「市民法」とは、「義務」であり、自然法が私たちに与えた自由を私たちから取り去るものだからである。自然は各人に、自分自身の力によってみずからを維持し、また予防のためには疑わしい隣人を侵略する権利を与えた。しかし、市民法は、法の保護が安全に持続されうるばあいには、すべてこの自由を取り去るのである〉とあります。
以上をまとめると、〈まったくの自然状態、いいかえれば、絶対的自由の状態、たとえば主権者も国民もないような状態は、無政府状態であり、また戦争状態であるということ。その状態を避けるために人々が導かれる戒律は自然法であること。主権者権力を伴わないコモンウェルスは、実体のないことばにすぎず、存立しえないこと。国民は、その服従が神の法に反しないかぎり、すべてのことがらにおいて、主権者に単純に服従すべきであるということ〉が示されています。
第二節 ホッブズの「自由」についての考察
ホッブズは自由について論じていますが、自由に優先権を与えていないため、自由主義者ではありません。
ホッブズは、自然権である自由は、自然法と市民法によって制限すべきだと考えています。権利とは、市民法によって許容された自由を意味しています。市民法は義務であり、義務は自由や権利より高い優先度を与えられています。そのため、義務によって、自由や権利を制限できるのです。ホッブズの権利は、日本では楽市楽座の語に見られるように、「楽」の文字が近い意味で用いられてきました。
自由の優先は、次章のジョン・ロック(John Locke, 1632~1704)の論理によって登場します。ホッブズの議論では、人間の安全保障を前提にしていながら、国民は統治の形体を変更できないとしていますが、ロックは異なる考えを提示しています。 
第五章 ロックの「自由」

 

ジョン・ロック(John Locke, 1632~1704)は、英国の哲学者であり、イギリス経験論の代表者です。著作である『人間知性論』と『統治論』から、ロックの自由について見ていきます。
第一節 『人間知性論』
『人間知性論』には、〈人間が自分自身の心の選択ないし指図に従って、考えたり考えなかったり、動かしたり動かさなかったりする力能をもつかぎり、そのかぎり人間は自由である〉とあります。そのため、〈自由の観念は、ある行動者のうちにある力能、すなわち、ある特定の行動を行なうと抑止するのとどちらかを他方より選択する心の決定ないし思惟に従って、この行動を行なったり抑止したりする力能の観念なのである〉と定義されています。
そのため、〈ある思惟を心の選択に従って取り上げたり捨てたりする力能が私たちにある、そういった思惟である場合、私たちは自由である〉とあり、〈人間は、行動するか行動しないかのどちらかを選択する自分自身の思惟の決定によって行動したりしなかったりするというこの力能の及ぶかぎり、自由なのである〉と述べられています。
自由の例を挙げると、〈じっと座っている人間は、それでも自由だと言われる。というのは、もし歩こうと意志すれば、歩けるからである。が、もしじっと座っている人間が自分自身を移動する力能をもたなければ、その人は自由でない。同じように、崖から落ちている人間は、運動中でも自由ない。なぜなら、たとえ意志しても、その運動を止められないからである〉とあります。その上でロックは、〈心は、大部分の場合、経験上明白なように、欲望のあるものの実行・満足を停止する力能をもっており、ひいては、すべての欲望について順々に停止する力能をもっている。そこで、心は自由にそれら欲望の対象を考察し、あらゆる面にわたって検討し、相互に思い量るのである。ここに、人間のもつ自由がある〉と述べています。つまり、〈だれしも自分自身のうちに日々実地経験できようが、私たちは、あれこれの欲望の遂行を停止する力能をもっている。私にはこれがいっさいの自由の原泉と思われる〉というわけです。
ロックは、〈私たち自身の判断で決定されることは自由の拘束でない〉と言い、〈私たちの自由の縮小でなく、自由の目的であり、自由の使用である〉と述べています。そのため、〈[たとえば、囚人で]鎖をはずされ、牢獄の扉が開けられてある者は、たとえ自分の選択が、夜の暗さや天候の悪さや他に宿る所のないことやでとどまる方に決定されるとしても、出てゆくかとどまるかを自分のもっとも好きなとおりにできるのだから、完全に自由なのだ〉ということになります。
まとめると、〈自由というのは、心の指図するとおりに行動したり行動しなかったりする力能である〉とされ、〈無差別の及ぶかぎり、人間は自由であり、それ以上には自由ではない。たとえば、私には自分の手を動かしたり静止させたりする性能がある。この作用力能は、私の手を動かすのと動かさないのとに対して無差別である。そのとき、その点にかんして、私は完全に自由である〉と語られています。
第二節 『統治論』
『統治論』では、〈自然の状態〉について、〈人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態〉と定義されています。そこでは、〈すべての者が相互に平等であって、従属や服従はありえない〉ことになっています。なぜなら、〈自然の状態にはそれを支配する自然の法があり、それはすべての人を拘束している。そして理性こそその法なのだが、理性にちょっとたずねてみさえすれば、すべての人は万人が平等で独立しているのだから、だれも他人の生命、健康、自由、あるいは所有物をそこねるべきではないということがわかるのである。なぜなら人間は皆、唯一全能でかぎりない知恵を備えた造物主の作品だからである〉と考えられているからです。
そこでは、〈自分自身の保全が脅かされないかぎり、できるだけ他の人々をも保全すべきである〉とされています。自然の状態について、〈すべての人は自分自身の同意によってある政治社会の成員となるまでは、その状態に自然にあり、またそこにとどまる、と確言する〉とロックは述べています。
ただし、〈私を奴隷化しようと企てる者は、そのことで私と戦争の状態に入るのである〉とあります。自然の状態は、〈人々が理性にしたがって一緒に生活し、しかも彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者を地上にもたない状態〉とあり、戦争の状態は、〈他人に暴力を用いたり、そういうもくろみを宣言する者があっても、救助を訴えるべき共通の優越者が地上にいない状態〉とあります
この考え方に立った上で、ロックは「人間が生来もっている自由」と、「社会における人間の自由」と、「政府のもとでの人間の自由」について次のように述べています。
まず、〈人間が生来もっている自由とは、地上のどのような優越した権力からも自由であるということであり、人間の意志や立法権に従属することなく、ただ規則として自然の法だけをもっているということである〉とあります。
次に、〈社会における人間の自由とは、人々の同意によって国家のなかに確立された、立法権以外のどのような権力にも従属しないということであり、また立法部が自分に寄せられた信託に従って制定するもの以外のどのような意志の支配にも、あるいはどのような法の拘束にも従属しないということである〉とあります。
最後に、〈政府のもとでの人間の自由とは、その社会のすべての人に共通で、そこに立てられた立法権によって制定された、一定の規則に従って生活することであり、規則に定められていない場合は、万事に自分自身の意志に従い、他人の気紛れな、不確かな、測り知れない、勝手気ままな意志には服従しないという自由である〉とあります。
ロックは法と自由の関係について、〈法の目的は、自由を廃止したり制限したりすることではなく、自由を保全し拡大することなのである〉と述べています。〈自由は法のないところには存在しえない〉と考えられていて、〈自由とは他人から拘束や暴力を受けないことであるから、そのような自由は法のないところには存在しえないのである〉とあります。
つまり、〈自由とは、自分が支配下にある法の許す範囲内で、自分の身体、行為、および全所有物を、自分の好むままに処理し、整理し、その際、他人の勝手気ままな意志には服従せず、自由に自分の意志に従う自由のことである〉と定義されているのです。これは、〈人間の自由、すなわち自分自身の意志に従って行動する自由は、人間が理性をもっているということに根拠を置いている。そして理性は、人間に自分自身を支配すべき法を教え、どの程度まで自分の意志の自由が許されているかを知らせてくれるのである〉という考え方によっています。
ロックは、〈政治社会というものは、それ自体のうちに、所有物を保全する権力と、そのための、社会の人々のすべての犯罪を処罰する権力をもたなければ、存在することも存続することもできない〉とした上で、〈政治社会が存在するのは、その成員のだれもが、社会によって樹立された法に保護を求めることを拒否されないかぎり、この自然的な権力を放棄して、その権力を共同社会の手に委ねるという場合、そんな場合だけなのである〉と述べています。さらに、〈人がその生来の自由を放棄し、市民社会の拘束を受けるようになる唯一の方法は、他人と合意して一つの共同社会に加入し、結合することであるが、その目的は、それぞれ自分の所有物を安全に享有し、社会外の人に対してより大きな安全性を保つことをつうじて、相互に快適で安全で平和な生活を送ることである〉とされています。そのため、〈すべての人は、一つの統治のもとで一つの政治体をつくることに他人と同意することによって、その社会の各人が負わねばならない義務、すなわち多数派の決定に従い、それに拘束されるという義務に服することになるのである〉とあります。
ロックは、統治に対する〈暗黙の同意〉においては、〈自由にそこを立ち去ってほかのどんな国家に加わってもよく、あるいは他人との合意のもとに、世界中のどの部分でも、自分で見つけることのできる自由で無所有の無人の地方に新しく国家をつくってもよい〉と述べています。それに対して〈国家の一員となるという同意〉においては、〈何かの災難によって自分の服している統治が瓦解するにいたるか、あるいは何か公的な決議によって彼がそれ以上国家の成員であることを絶ってしまわないかぎり、永遠に、そしていやおうなくその国家の臣民でなければならないし、またその状態を変えてはならない〉と述べています。その場合は、〈自然の状態の自由にふたたび復帰することはできない〉とされています。
人々が自然状態から抜け出し社会に入る理由は、〈所有者の保全〉であり、人々が立法部に権限を与える目的は、〈社会の全成員の所有物の番人や防壁として、社会の各部分、各成員の権力を制限し、その支配を適度に抑えるために法をつくり、規則を定めることにある〉とされています。そのため、〈立法部が社会のこの基本的な規則を犯し、国民の生命、自由、資産に対する絶対権力を、その野心や恐怖や愚かさや堕落から、みずから握ろうとしたり、あるいはだれか他人の手に委ねようとつとめる場合〉には、〈国民はその根源的な自由を回復する権威〉と〈自分たち自身の安全と保証のために備える権利〉によって、〈国民は至高の存在として行動する権利をもち、立法権を自分たちの手の中にもち続けるか、あるいは新しい統治の形体を樹立するか、あるいはまた、古い統治の形態のまま立法権を新しい人々の手に委ねるか、自分たちがよいと思うところに従って決定する権利をもつのである〉とされています。
第三節 ロックの「自由」についての考察
ロックは自由を、個人の能力や力能とする一方で、社会の状態の意味でも論じています。
『人間知性論』においては、欲望を停止させる意志による行動したりしなかったりする力能が自由であり、能力を発揮するための制約がない無差別な状態において自由であるとされています。制約がないという自由を論じることで、ロックは自由主義者としての顔をのぞかせています。
『統治論』においては、自然状態が完全に自由な状態と定義されています。ホッブズの想定とは、まったく異なっています。ロックの自然状態は、全能の造物主の作品である人間には理性があるため、万人が平等で独立しているという幼稚な設定の上で展開されています。そのため、自然状態において当たり前に発生する野蛮性を、戦争状態として区別し、自然状態から分離して論じているのです。
この致命的におかしな設定の上で、ロックは自由の状態について詳しく論じています。「人間が生来もっている自由」には「自然の法」が対応し、「社会における人間の自由」には、「国家のなかに確立された立法権」が対応し、「政府のもとでの人間の自由」には「立法権によって制定された一定の規則」が対応しています。規則に定めがない場合は、万事に自分自身の意志に従う自由があるとされています。これらの対応関係から分かるように、ロックの自由は法の範囲内で自分の好むままに、他人の意志に服従せず、自分の意志に従うことを意味しています。
ここで注意が必要なのは、法は、ほぼ全ての社会や統治で問題になる概念ですが、そこに自由主義が出てくる場合と出てこない場合があるということです。自由主義者によって法と自由が語られるとき、ある特別な条件が加えられているのです。例えばロックの場合、次の三点を自由主義の特徴として挙げることができます。
(1) 法の目的は、自由を廃止したり制限したりすることではなく、自由を保全し拡大することなのである。
(2) 人間の自由、すなわち自分自身の意志に従って行動する自由は、人間が理性をもっているということに根拠を置いている。
(3) すべての人は、一つの統治のもとで一つの政治体をつくることに他人と同意することによって、その社会の各人が負わねばならない義務、すなわち多数派の決定に従い、それに拘束されるという義務に服することになるのである。
これら三点は、全て間違っています。
まず(1)に対して、法は状況や条件によって、自由を廃止することも、制限することも、保全することも、拡大することも必要になります。それらの試行錯誤を適宜行うことが重要なのです。廃止と制限を除外していることから、ロック自身に都合の良いように、世界を単純化してとらえていることが分かります。世界の複雑性は、そのような水準では対処できません。(2)に対しては、人間の理性は間違うことがあります。理性は大切ですが、理性が間違うことを考慮に入れなければ、理性とすら言えません。(3)に対しては、デモクラシー(民衆政治)の理念が加えられています。しかし、多数派は、間違えることが多々あるのです。
以上から、ロックの自由主義は欠陥品です。
ちなみに立法部が絶対権力を握ろうとした場合、抵抗の根拠は、根源的な自由を回復する権威や、自身の安全と保証のために備える権利などではありません。抵抗の根拠は、善きものを先祖から受け継ぎ、子孫へ受け渡すという国民の役割にこそあるべきなのです。そこにおいて、悪しきものを防ぐという役割も生まれるのです。
自分たちがよいと思うところに従って決定する権利など、傲慢以外のなにものでもないのです。そのような権利があると思う者は、国民ではなかったのです。 
第六章 ルソーの「自由」

 

ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712~1778)は、フランスの啓蒙思想家です。著作である『人間不平等起源論』・『社会契約論』・『エミール』から、ルソーの自由について見ていきます。
第一節 『人間不平等起源論』
『人間不平等起源論』には、〈けだものの活動においては自然だけがなにもかも行ない、それに対して人間は、自由な動因として自然の活動に協力するという相違はある。一方は本能によって、他方は自由行為によって、選んだり捨てたりする〉とあります。さらに、〈自然はすべての動物に命令し、けだものは従う。人間も同じ印象を経験する。しかし彼は自分が同意するか抵抗するかは自由であると認める。そしてとくにこの自由の意識のなかに、彼の魂の霊性が現われる〉とあります。ルソーは、人間だけに備わる意志の特性として、自由という言葉を用いています。
そのためルソーは、〈自由は人間のさまざまな能力のうちで最も気高いものであるから、狂暴なあるいは無分別な一人の主人を喜ばせるために、この創造主が与えたもののなかで最も貴重なものを無条件であきらめたり、創造主がわれわれに禁じているあらゆる罪を身を屈して犯したりするのは、人間の自然を堕落させ、本能の奴隷であるけだものの水準に身をおき、自己の存在の創造者までも侮辱することにはならないだろうか〉と述べています。
第二節 『社会契約論』
『社会契約論』では、〈人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている〉という有名な言葉に次いで、社会契約について論じられています。
社会契約では、〈多数決の法も合意によって成立したもので、すくなくとも一回だけは全員の一致を前提にしている〉とされています。社会契約が解決する基本問題については、〈共同の力をあげて、各構成員の身体と財産を防禦し、保護する結合形態を発見すること。この結合形態によって各構成員は全体に結合するが、しかし自分自身にしか服従することなく、結合前と同様に自由である〉とあります。社会契約の本質としては、〈われわれのだれもが自分の身体とあらゆる力を共同にして、一般意志の最高の指揮のもとにおく。そうしてわれわれは、政治体をなすかぎり、各構成員を全体の不可分の部分として受け入れる〉とあります。
社会契約においては、一般意志・特殊意志・全体意思の区別が重要になります。〈特殊意志はその性質から不公平を、一般意志は平等を志向する〉とあります。〈主権は一般意志の行使〉であり、〈主権者は集合的存在〉であるとされ、〈人民の一部の意志である場合、それは特殊意志か、あるいは統治機関の行為にすぎない〉とされています。そこでは、〈一般意志は常に正しく、常に公共的利益を志向する〉とあり、〈一般意志のあらゆる合法的行為は、全市民にひとしく義務を負わせ、恩恵を与える〉とされています。〈一般意志がよく表明されるためには、国家のなかに部分的社会がなく、各市民が自己の意志だけに従って意見を述べることが肝心である〉とあり、〈意志を一般意志たらしめるのは、投票者を結合する共同利益で、投票者の数ではない〉とも語られています。〈一般意志は共同利益にしか注意しないが、全体意志は私的利益を注意するもので、特殊意志の総和にすぎない。しかし、この特殊意志から、相殺される過剰の面と不足の面を除去すれば、一般意志がその差の合計として残るのである〉と考えられています。
自由と社会契約の関係については、〈人間が社会契約によって喪失するものは、その生来の自由と、彼の心を引き、手の届くものすべてに対する無制限の権利とである。これに対して人間の獲得するものは、社会的自由と、その占有するいっさいの所有権とである〉とあります。つまり、〈個人の力だけに制約されている生来の自由を、一般意志によって制限を受ける社会的自由から明白に区別すること〉が必要だというのです。その上で、〈社会状態において得たものには、精神的自由を加えることができよう。精神的自由のみが、人間を真に自己の主人たらしめる。これを加える理由は、単なる欲望の衝動は人間を奴隷状態に落とすものであり、自分の制定した法への服従が自由だからである〉と語られています。
社会契約の目的については、〈社会契約は、契約当事者の生命維持を目的とするものである〉とあります。ただし、〈他人に損害を与えて生命を維持しようとする者は、必要とあらば、他人のためにも生命を与えなければならない〉ともあります。〈執政体が「おまえの死ぬのは、国家のためになる」と言えば、市民は死ななければならない。それまで彼が安全に生活してきたのは、そういう条件下においてのみであり、その生命はもはや単に自然の恵みでなく、国家の条件つきの贈り物であるからである〉とあります。
ルソーは、〈法は一般意志の行為〉とし、〈私はどういう行政形態をとろうと、すべて法によって支配される国家を共和国(国家の意)と呼ぶ〉と述べています。そのため、〈君主政さえ共和政なのである〉ということになります。ルソーの用法では、〈民主政〉は〈施政者としての市民のほうが多くなる〉ことであり、〈貴族政〉は〈施政者よりも単なる市民のほうが多い〉ことであり、〈君主政〉は〈政府全体をただ一人の施政者の手に集中〉することなのです。その上で、〈もしも神々からなる人民があるとすれば、この人民は民主政をもって統治を行なうであろう。これほど完璧な政体は人間には適さない〉と述べています。それからルソーは、〈絶対的な基準において最もよい政府とは何であるかと、問う人があるとすれば、その人は、あやふやであるばかりか、解決しえない問題を提出していることになる。あるいは、こう言ってよければ、この問題には、さまざまな人民がおかれている絶対的状況と相対的状況との可能なかぎりの組み合わせと、同じ数だけの正しい解答がある、とも言える〉と述べています。
ルソーは、〈その本性からして、全員一致の同意を絶対に必要とする法は、ただ一つしかない。それは社会契約である〉と述べています。その上で、〈もし、社会契約の際に反対者が存在するとしても、その反対は契約を無効にしはしない。その反対は、単に反対者が契約に含まれることを妨げるにすぎない。つまり、その反対者は市民のあいだに存在する異邦人である。国家が設立されたならば、同意はそこに居住しているという事実により成立する。領域内に住んでいるということは、主権に服従していることである〉と語っています。
第三節 『エミール』
『エミール』には、〈自分の意志を行なうことのできるのは、そのために他の人の腕を自分の腕の先に継ぎ足す必要のない人間だけだ。そういうわけで、あらゆる幸福のなかで第一のものは、権力ではなくて自由であるという結論が生じる。真に自由な人間は、自分のできることしか望まず、自分の好きなことを行なう〉とあります。
第四節 ルソーの「自由」についての考察
ルソーの自由の観念について、『社会契約論』をまとめると次のようになります。
社会契約により、人間は生来の自由を失い、社会的自由と精神的自由を獲得します。生来の自由を失うことで、すべてに対する無制限の権利を喪失します。社会的自由は一般意思から制限を受け、精神的自由は自分の制定した法への服従を意味します。
一般意思は常に正しく、公共的利益を志向します。一般意思の行為は法となります。全員一致の同意を絶対に必要とする法が、社会契約です。設立している国家に住んでいる人は、社会契約の同意が成立しているとみなされています。多数決の法も、少なくとも一回だけは全員一致を前提としています。一般意思は、国家の中に部分社会がなく、各市民が自己の意志に従い意見を述べることで表明されます。その際、意志が一般意思であるためには、投票者を結合する共同利益が必要になり、投票者の数は問題になりません。
さらに『人間不平等起源論』や『エミール』の自由を加味すると、人間は自由によって同意や抵抗を為し、自由な人間は自分のできることを望み、自分の好きなことを行なうとされています。
ルソーの自由を考察すると、意志が自由であるため、キリスト教における自由意志の影響下にあることが分かります。その上で、社会契約における一般意志において、社会的自由と精神的自由の両方が成り立つことが示されています。これは、危険な考えであり、間違っています。
一般性とは、各人の意見が一致していることでも、各意見を合計して算出した平均値のことでもありません。異なる意見間の平衡や調和の中に、一般性は生まれるのです。国家は、国家内にいくつかの部分的な意見を持ち、それらを平衡させ調和させることで安定を得るのです。各市民が自己の意志だけに従って意見を述べるのではなく、各人の意志も考慮し、特殊な状況も想定して意見を述べることが肝心なのです。
同様に国際社会は、国家が国家ごとの思想を考慮し、国家間において調整し合うことで、安定状態を保つことができるのです。 
第七章 アダム・スミスの「自由」

 

アダム・スミス(Adam Smith, 1723~1790)は、英国の経済学者で古典派経済学の創始者です。著作である『国富論』から、アダム・スミスの自由について見ていきます。
第一節 『国富論』
『国富論』では、経済における自由が語られています。
アダム・スミスは、〈各個人は、自分の自由にできる資本があれば、その多少を問わず、最も有利に使おうといつも努力している。かれの眼中にあるのは、もちろん自分自身の利益であって、社会の利益ではない。けれども、かれ自身の利益を追求してゆくと、かれは、自然に、というよりもむしろ必然的に、その社会にとっていちばん有利なような資本の使い方を選ぶ結果になるものなのである〉と述べています。このような考え方に立って、有名な「見えざる手」が示されています。
生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、みずからは意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会のほうが、これを意図していた場合にくらべて、かならずしも悪いことではない。自分の利益を追求することによって、社会の利益を増進せんと思い込んでいる場合よりも、もっと有効に社会の利益を増進することがしばしばあるのである。
アダム・スミスは、この「見えざる手」の導きによって、経済における自由を唱えます。例えば、〈特恵あるいは制限を行なういっさいの制度がこうして完全に撤廃されれば、簡明な自然的自由の制度がおのずからできあがってくる。そうなれば、各人は正義の法を侵さないかぎりは、完全に自由に自分がやりたいようにして自分の利益を追求し、自分の勤労と資本をもって、他のだれとでも、他のどの階級とでも、競争することができる〉とあります。そこでは、〈自然的自由の制度によれば、主権者が配慮すべき義務はわずかに三つである〉とされています。
(一) 自分の国を他の独立?社会からの暴力と侵略にたいして防衛する義務
(二) 社会の成員ひとりひとりを、他の成員の不正や抑圧から、できるかぎり保護する義務、つまり、厳正な司法行政を確立する義務
(三) ある種の公共土木事業と公共施設を起こし、また維持する義務
これらの義務の理由は、〈どんな個人、あるいは少人数の集団でも、そこからあがる利益では、出費を償うことはできないからである〉とされています。
第二節 アダム・スミスの「自由」についての考察
アダム・スミスの自由については、容易に否定することができます。
自身の利益追求が、必然的に社会に有利な資本の使い方を選ぶ結果になるというのは間違いです。確かに、自身の利益追求が、社会の有利になることはありえます。しかし、自身の利益追求が、社会の不利になることも当然あります。そして、自身の利益追求によって社会が有利になる可能性が、不利になる可能性を上回る保障はないのです。
「見えざる手」の導きは、働く場合もあるし、働かない場合もあるのです。自分の利益を追求することが、社会を良くすることもあり、悪くすることもあるのです。同様に、社会の利益を増進せんとすることが、社会を良くすることもあり、悪くすることもあるのです。そしてその比率は、状況や条件によって変動するのです。ただ、それだけのことです。
また、いっさいの制度を撤去しようとすれば、新たな抑圧的な制度を生み出すか、無秩序な状態を招くかのどちらかです。当たり前の話です。公正は、様々な制度を組み合わせ、ときには制定し、ときには廃止していくという試行錯誤の中にあるのです。単に、現実の制度を次々と撤廃していくのなら、正義の法そのものが破壊されてしまいます。
蛇足かもしれませんが、ケインズ(John Maynard Keynes、1883?1946)の『自由放任の終焉(The End of Laissez-Faire)』における言葉を次に示しておきます。
自由放任の論拠とされてきた形而上学ないしは一般的原理は、これをことごとく一掃してしまおうではないか。個々人が、その経済活動において、長い間の慣習によって「自然的自由」を所有しているというのは本当ではない。持てるものに、あるいは取得せる者に永久の権利を授ける「契約」など一つもない。世界は、私的利害と社会的利害とがつねに一致するように天上から統治されているわけではない。世界は、現実のうえでも、両者が一致するように、この地上で管理されているわけでもない。啓発された利己心は、つねに社会全体の利益になるようにはたらくというのは、経済学原理からの正確な演繹ではない。また、利己心が一般に啓発された状態にあるというのも本当ではない。個々人は、各自別々に自分の目的を促進するために行動しているが、そのような個々人は、あまりにも無知であるか、あるいは、あまりにも無力であるために、たいてい自分自身の目的すら達成しえない状態にある。経験によれば、個々人が一つの社会単位にまとまっているときのほうが、つねに、各自別々に行動するときよりも明敏さを欠くということは証明されていない。 
第八章 カントの「自由」

 

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724~1804)は、ドイツの哲学者です。カント哲学における自由では、大きく分けて超越論的意味の自由と、実践的意味の自由が論じられています。著作である『純粋理性批判』・『プロレゴーメナ(序説)』・『人倫の形而上学の基礎づけ』・『実践理性批判』・『人倫の形而上学』から、カントの自由について見ていきます。
第一節 『純粋理性批判』
『純粋理性批判』においては、主に超越論的な意味における自由が語られています。
カントは超越論的という語について、〈対象にではなく、むしろ[その認識様式がア・プリオリに可能であるべきであるかぎりにおいての、対象についての私たちの認識様式に]一般にたずさわるすべての認識〉と定義しています。ア・プリオリとは、経験に先立つ認識・概念のことです。
カント哲学においては、〈人間的認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって私たちには対象が与えられるが、しかし後者によって対象が思考される〉とされています。そこでは、〈対象によって触発される仕方によって、表象をうる性能(受容性)は、感性〉であり、〈悟性は総じて判断する能力〉と定義されています。その判断する能力において、〈悟性を規則の能力〉とした上で、〈理性を原理の能力〉と定義しています。
超越論的意味において、〈生起するものの条件は原因と呼ばれ、また現象における原因の無条件的原因性は自由と呼ばれる〉とあります。そこで自由は、〈自然の諸法則に依存せずに作用する或る能力〉と定義されています。カントは〈生起するものに関しては、自然にしたがう原因性が、あるいは自由からの原因性か、これら二種類の原因性しか考えられえない〉とした考えに立ち、カントの自由が、〈一つの純粋な超越論的理念であって、第一には、この理念は経験からえられたものを何ひとつとして含まず、第二には、この理念の対象はいかなる経験においても規定されて与えられることはありえない〉と述べられています。
そのため、〈感性的な諸衝動に依存せずに規定されうるような選択意志、したがって、理性によってのみ表象される諸動因によって規定されうるような選択意志は、自由な選択意志(arbitrium brutum)と呼ばれる〉とあります。
カントの〈超越論的自由〉では、〈理性自身が(諸現象の或る系列を始める理性の原因性に関して)感性界のあらゆる規定的原因に依存しないことを要求〉すると考えられています。
第二節 『プロレゴーメナ(序説)』
『プロレゴーメナ(序説)』においても、超越論的な意味における自由が語られています。〈自由は、出来事としての現象に関して、現象をみずから[自発的に]始める能力でなければならない〉、あるいは、〈自由とは出来事をみずから始める能力である〉と定義されています。
第三節 『人倫の形而上学の基礎づけ』
『人倫の形而上学の基礎づけ』では、〈一つの法則が、道徳的なもの、いいかえれば、責務の根拠とみとめられるもの、たるべきであるならば、必ず絶対的な必然性を帯びねばならないということ〉が語られています。そのため、〈道徳的に善であるといわれるものにあっては、それが法則に合致しているだけでは十分でなく、さらにそれは道徳法則のためにおこなわれるのでなくてはならない〉とされています。そこでカントは、同情心による行為の格率に対して、〈こういう格率には、傾向にもとづいてではなく義務にもとづいてそういう行為を行なうという、道徳的内容が欠けている〉と述べています。
〈意志の原理〉については、〈行為一般の普遍的法則性〉のみであり、それは〈私がことを行なうに当たっては必ず、私はまた私の格率が普遍的法則となることを意志しうるのでもなければならないということ〉が挙げられています。
そのためカントの用語法では、仮言的と定言的という区別が立てられます。〈その行為が、単に何か他のもののために手段として善なのであるならば、その命法は仮言的である。その行為が、それ自身において善である、と考えられ、したがって、本性上理性に従うところの意志においてそういう意志の原理として必然的である、と考えられるならば、その命法は定言的である〉とされています。その上で、〈道徳的命法したがって定言的命法はいう、「私は他の何かを欲しなくとも、或る仕方で行為すべきである」と。たとえば仮言的命法は「私が対面を維持しようと欲するなら、私は嘘をつくべきではない」というが、定言的命法は「たとえ嘘が私に不名誉を少しも招かなくとも、私は嘘をつくべきではない」という。それゆえ定言的命法は、あらゆる対象から十分に離れて、対象が意志に全く影響を及ぼさぬようにしなければならない〉と語られています。
この考え方から、〈その行動を直接に命令するところの、命法が存在する。この命法は定言的である〉とされ、〈この命法は道徳の命法と呼ばれてよいであろう〉と語られています。
カントは〈道徳の原理〉を、〈同一の法則をあらわす三つの公式〉によって示しています。一つ目は〈定言的命法〉であり、〈「汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ」〉とあります。二つ目は〈実践的命法〉であり、〈「汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ」〉とあります。三つ目は、〈すべての人間意志がそれのすべての格率によって普遍的に立法する意志であるという原理〉があります。
これらの公式は、〈定言的命法の普遍的公式〉であり、〈「同時にそれ自身普遍的法則たりうるような格率によって行為せよ」〉と言い表されています。別の表現では、〈「それ自身を同時に普遍的自然法則と見なしうるような格率に従って行為せよ」〉ともあります。
この道徳の原理により、〈義務の普遍的命法〉が、〈「汝の行為の格率を汝の意志によって普遍的自然法則とならしめようとするかのように行為せよ」〉と示されています。具体的には、〈自己に対する完全義務〉として自殺の禁止などが、〈他人に対する完全義務〉として嘘の禁止などが、〈自己に対する不完全義務〉として才能を伸ばすことなどが、〈他人に対する不完全義務〉として困っている他人を助けることなどが挙げられています。
これらを踏まえた上で、〈意志とは、理性的である限りでの生物のもつ原因性の一種である。そして自由とは、この原因性が、それを限定する外的原因から独立にはたらきうるとき、その原因性のもつ特質をいう〉と定義されています。そして、〈自然に対しての理性の理論的使用は、世界の何らかの最高原因のもつ絶対的必然性に達する。自由に関しての理性の実践的使用もまた、絶対的必然性に、ただし理性的存在者そのものの行為の法則の絶対的必然性に達する〉と語られています。
第四節 『実践理性批判』
『実践理性批判』には、〈格律の単なる立法形式だけを自分の従うべき法則たらしめ得るような意志は、取りも直さず自由な意志である〉とあります。そこでは、〈純粋実践理性の根本法則〉が、〈君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ〉と示されています。〈純粋理性は、それ自体だけで実践的であり、我々が道徳的法則と名づけるような普遍的法則を(人間に)与える〉と考えられています。そこでカントは、〈道徳性の原理の正反対は、自分自身の幸福という原理を意志の規定根拠とする場合である〉と述べています。
〈自由の概念〉は〈実践的法則の現実的存在〉であり、〈実践的法則は、実践的要請として必然的であるから、自由が必然的なのである〉とあります。〈自由のカテゴリーには、直観の形式(空間および時間)の代りに、実践的な基本的概念として純粋意志の形式が理性において――従ってまた思考能力そのものにおいて与えられたものとしてその根底に置かれているのである〉とあります。
カントは、〈我々は実践的自由を定義して、――意志は、道徳的法則以外のいかなる法則[自然法則]にもまったくかかわりがない〉と述べています。その上で、〈神の現存を想定することは、道徳的に必然的なのである〉とされ、〈道徳的法則は、[感性にかかわりのない]自由な意志としての人間の意志の自律にもとづいている〉と考えられています。そして、〈自由な意志は、かかる意志の普遍的法則[格律の普遍的立法の形式]に従って、意志が服従すべきもの[道徳的法則]に、同時に一致し得ねばならない〉とも考えられています。
第五節 『人倫の形而上学』
『人倫の形而上学』には、〈選択意志は、それが純粋理性によって規定されうる場合には、自由な意志と呼ばれる〉とあります。〈意志の自由〉については、〈感性的衝動による規定から独立であるということ〉が〈自由の消極的概念〉として定義され、〈積極的概念〉として、〈自分自身だけで実践的でありうるという純粋理性の能力〉が示されており、それは〈各人の行為の格率を、それが普遍的法則になりうるという条件のもとに服させること〉とされています。そのため、〈自由の法則は、自然法則と区別して道徳的(モラーリッシュ)と呼ばれる〉と語られています。
さらに、〈定言命法を可能にする根拠は、その命法がもっぱら意思の自由にかかわり、それ以外のいかなる他の意思規定[或る意図を意思の基礎におくような]にもかかわらないという点にあるのである〉とされています。〈法則は意志から生じ、格率は意思(選択意思)から生ずる。この意思は、人間においては自由なる意思である〉とあります。つまり、〈ただ意思だけが自由と呼ばれうる〉とカントは述べているのです。ちなみに、〈法則[道徳的=実践的な]とは、一つの定言命法[命令]を含む命題である〉と定義されています。
他人の自由を考慮する段階においては、〈自由[他人の強要的意思からの独立性]こそは、それが普遍的法則に従ってあらゆる他人の自由と調和しうるものであるかぎりにおいて、この唯一・根源的な、その人間性のゆえに万人誰しもに帰属するところの権利である〉と語られています。〈人間は、何といっても自由な[道徳的]存在者であるから、内的な意志規定[動機]をめざす場合には、義務概念の含む強要は、自己強要[ひとり法則の表象だけによる]でしかありえない〉と考えられているのです。その上で、〈行為者の自由は、すべての他人の自由と、普遍的法則に従って両立することができることである〉と述べられています。
カント哲学の自由の考え方によると、中庸は間違っているとされています。カントは、〈徳を二つの悪徳の中間に置くという、[アリストテレスの]うけのよい原則は間違っているのである〉と述べています。
第六節 カントの「自由」についての考察
カント哲学においては、意思だけが自由であるとされ、二つの自由概念が提示されています。
一つ目は、超越論的意味の自由です。超越論的自由は、自然の諸法則に依存せずに出来事をみずから始める能力であり、現象における原因の無条件的原因性のことです。
二つ目は実践的意味の自由です。実践的自由の消極的概念として、感性的衝動による規定から独立であることが、積極的概念として、自分自身の純粋理性の能力により、行為の格率が普遍的法則になることが示されています。
普遍的法則は道徳的であり、自然法則のように絶対的な必然性を持ち、定言命法を含み、それ自身のために為されなければならないとされています。選択意志が純粋理性によって規定されるとき、意志は、自由な意志であるとカントは言います。なぜなら、意志は理性ある生物の原因性の一つであり、自由は原因性が外的要因から独立に働くときの特質であると考えられているからです。
以上を考慮し、カントの自由について考えてみます。
まず、自然法則と意思は区別することができます。ですから、意思は自然法則と一致していない、意思は自然法則に完全に束縛されてはいないという意味で、意思に自由(liberty from)という言葉を冠することは、数多ある世界の観方において、一つの限定された視点における用語法としては成り立ちます。しかし、意思は自然法則などの条件の影響下で働くものであり、外的要因から独立であることはできません。このことは、肉体の状態が精神に及ぼす影響を考えてみると良く分かります。
精神については、条件における判断から、条件を除くと、意志が浮かび上がります。ただし、浮かび上がるものは、浮かぶための何かを必要とします。そのため、そもそも条件がなければ、意志はありえないのです。意志とは、外的要因から独立に働くものではなく、外的要因を判断して決断を下し、状況における徳性を示すものだからです。
「有ったものを無かったと見なすとき」に浮かび上がるものは、「無かったとき」には浮かび上がれないのです。「有ったものを無かったと見なすとき」と「無かったとき」は、区別する必要があるのです。道徳や法は、歴史や伝統などの条件を含んだ内容によって偉大でありえるのであり、歴史や伝統を離れて、ただ単に善があると思うのは思想的に幼稚です。
そのため定言命法は、厳密に言えばありえません。世界の豊饒性が、定言命法という安易な解決を許さないのです。提示された定言命法に対して、極めて有効な反論が可能です。ですから、嘘や自殺が必要なときがあるばかりか、嘘や自殺が道徳的であり善であるときがありえるのです。ですから、条件における判断の傾向性があり、それらを統合した中庸が大切なのです。ですから、仮言的な命法内における優劣が重要になるのです。
そのため、仮言的な命法内において優劣を判断している場合、つまり、この世界でみんなと共に真剣に生きている場合、定言命法を提案することは愚かなことだといわざるをえなくなるのです。 
第九章 ヘーゲルの「自由」

 

ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770~1831)は、ドイツの哲学者です。世界を、矛盾を止揚しながら発展する弁証法的過程としてとらえました。著作である『精神現象学』と『法の哲学』、講義録の『歴史哲学講義』から、ヘーゲルの自由について見ていきます。
第一節 『精神現象学』
『精神現象学』には、〈内的な変革から、現実を現実的に変革すること、意識の新しい形態、すなわち絶対的自由が現われ出てくる〉とあります。意思から自由が現れるので、〈精神は、絶対的自由として現存することになる〉と語られています。そこでは、〈意識して自ら自由となるとき、自由が果たしうる仕事は、一般的実体としての自由が自ら対象となり、永続する存在となる点に、在ることになろう〉と語られています。
また、ヘーゲルは、〈絶対的自由は、一般的意志と個別的意志の対立を、自分自身と和解させる〉とも述べています。この絶対的自由は、ドイツという国において論じられています。すなわち、〈絶対的自由は、自己自身を破壊する現実から出て、それとは別の自己意識的精神の国[ドイツ]に移る。この国で絶対的自由は、この非現実にいながら真と認められ、この真理を思想とすることにおいて、精神は、思想であり、思想に止める限り、元気をとりもどし、自己意識のなかに閉じこめられた存在を、完全で充分な本質であると知るのである。つまり、道徳的精神という新しい形態が生じたのである〉というわけです。
ヘーゲルは、〈自己意識は、自らの自由を知っている点で、絶対に自由であり、自らの自由をかく知っていることこそは、その実体であり、目的であり、唯一の内容である〉と考えています。
第二節 『法の哲学』
『法の哲学』には、〈法の地盤は総じて精神的なものであって、それのもっと精確な場所と開始点は意志である。これは自由な意志である。したがって自由が法の実体と規定をなす〉とあります。そこにおいて、〈意志は自由であるということ〉と〈自由なものは意志である〉ことが共に示されています。
自我における意志の自由ついては、〈自我は自分を規定しながら、しかもなお依然として自分のもとにありつづけ、普遍的なものを固持することをやめない。これが自由の具体的な概念である〉とされています。そこでは、〈自由は、規定されていないことにあるのでもなければ、規定されていることにあるのでもなくて、この両方である〉と語られています。
法と権利については、〈およそ現存在が、自由な意志の現存在であるということ、これが法ないし権利である。――法ないし権利はそれゆえ総じて自由であり、理念として有る〉と言われ、〈法ないし権利はなにか総じて神聖なものであるが、その理由はもっぱらただ、法ないし権利が、絶対的な概念の現存在、自己意識的な自由の現存在であるからである〉と述べられています。その権利については、〈(主観的)道徳、(客観的)倫理、国家利益は、それぞれ一つの独自の権利である。なぜなら、これらの形態のどれもが自由の規定であり自由の現存在であるからである〉とあります。
善については、〈善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的である〉とされています。倫理については、〈倫理とは生きている善としての自由の理念である〉とされ、また、〈倫理とは、現存世界となるとともに自己意識の本性となった、自由の概念である〉ともあります。義務については、〈義務は自由の制限ではなくて、自由の抽象的観念の制限、つまり不自由の制限にすぎない。義務とは本質への到達、肯定的自由の獲得なのである〉とあります。そこで、〈奴隷は義務をもつわけがない。ただ自由な人間だけがこれをもつ〉と述べられています。この自由な人間については、〈個々人のおのれのうちでの無限な自立的人格性という原理、すなわち主体的自由の原理は、内面的には、キリスト教において出現し、外面的には、したがって抽象的普遍性と結びついたかたちでは、ローマ世界において出現した〉と語られています。
そして国家については、〈国家は具体的自由の現実性である。だが具体的自由とは、人格的個別性とそれの特殊的利益とが余すところなく発展して、それらの権利がそれ自身として独立に[家族および市民社会の体系において]承認されるとともに、またそれらが一面では、おのれ自身を通じて普遍的なものの利益に変わり、他面では、みずから了解し同意してこの普遍的なものを承認し、しかもおのれ自身の実体的精神として承認し、そしておのれの究極目的としてのこの普遍的なもののためにはたらくということにある〉と語られています。
第三節 『歴史哲学講義』
『歴史哲学講義』は、ヘーゲルの死後に、ヘーゲル学派の弟子たちによって、ヘーゲルの講義ノートと聴講生のノートを中心に編纂されたものです。
まず理性について、〈理性とは、まったく自由に自己を実現する思考なのです〉と定義されています。ヘーゲルは、〈物質の実体が重さであるとすれば、精神の実体ないし本質は自由であるといわねばなりません〉と述べ、〈自由こそが精神の唯一の真理である、というのが哲学的思索のもたらす認識です〉と語っています。〈物質の実体は物質の外部にあるが、精神は自分のもとで安定している。それこそがまさに自由です〉とあります。そのため、〈自由であるのは、自分のもとにあるときです〉と考えられています。そこにおいて、〈精神は自由だ、という抽象的定義にしたがえば、世界の歴史とは、精神が本来の自己をしだいに正確に知っていく過程を叙述するものだ、ということができる〉と語られています。
ヘーゲルは、〈世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、わたしたちはその過程の必然性を認識しなければなりません〉と述べています。ヘーゲルは世界史について、〈東洋人はひとりが自由だと知るだけであり、ギリシャ人とローマの世界は特定の人びとが自由だと知り、わたしたちゲルマン人はすべての人間が人間それ自体として自由だと知っている〉と考えています。
ヘーゲルは、〈精神の自由についての意識と精神の自由の実現〉は、〈世界の究極目的〉だと考えているのです。〈自由とは、自分みずからを目的としてそれを実現するものであり、精神の唯一の目的なのです〉とあります。つまりヘーゲルは、〈人間が自己を目的とするといえるのは、人間のうちに神々しいものがあるからで、それは、もともとは理性と名づけられ、それが活動力として明確なすがたをとると、自由と名づけられるものです〉と考えているのです。
この考え方を展開していくと、〈共同意思としてあるのは、むしろ、法、道徳、国家であって、それこそが自由をなりたたせる積極的現実です〉ということになります。〈国家こそが、絶対の究極目的たる自由を実現した自主独立の存在であり、人間のもつすべての価値と精神の現実性は、国家をとおしてしかあたえられないからです〉と述べられています。
ヘーゲルは次のように言います。
かくて、世界史の対象を明確に定義すれば、自由が客観的に存在し、人びとがそこで自由に生きる国家がそれだ、ということになる。というのも、法律とは精神の客観的なあらわれであり、意思の真実のすがたであって、法律にしたがう意思だけが自由だからです。意思が法律にしたがうことは、自分自身にしたがうこと、自分のもとにあって自由であることです。父なる国家が共同の生活を保障し、人びとの主観的意思が法律にしたがうとき、自由と必然の対立は消滅します。理性的な共同体が必然的なものであり、共同体の法律を承認し、その共同精神を自分の本質でもあると考えてそれにしたがう人間が、自由であるとすれば、ここでは、客観的意思と主観的意思が調和し、純一な全体がなりたっているのです。
ヘーゲルは、〈自由とは、その概念からして、法や道徳をふくむものであり、法や道徳は、感覚とはべつの、感覚と対立しつつ発展していく思考の活動によって見いだされ、やがては感覚的な意思にも適用され、感覚的意思を理性的なものへとかえていくような、そういう普遍的かつ本質的な対象であり、目的です〉と述べています。このことから、〈世界史は、自由の意識を内容とする原理の段階的発展としてしめされます〉とあります。第一段階は、〈精神が自然のありかたに埋没した状態〉であり、第二段階は、〈自由を意識した状態〉であり、第三段階は、〈精神の本質が自己意識および自己感情としてとらえられた状態〉であるというのです。その上でヘーゲルは、〈東洋は過去から現在にいたるまで、ひとりが自由であることを認識するにすぎず、ギリシャとローマの世界は特定の人びとが自由だと認識し、ゲルマン世界は万人が自由であることを認識します〉と考えています。そのことについて、〈ゲルマン精神は新しい世界の精神であり、その目的は、自由が無限に自己をあきらかにするところにうまれる絶対の真理を実現すること、いいかえれば、形式と内容が絶対的に統一された自由そのものを実現することにあります〉と語られています。
ヘーゲルの自由が消極的か積極的かどうかというと、〈自由とはその本質からして積極的なものでなければなりません〉とあります。そのため、〈おのれを意思する意思――意思を意思する意思――だけが自由です。絶対の意思とは、自由であろうとする意思のことです。おのれを意思する意思は、すべての権利と義務、すべての法律と義務命令と強制義務の基礎をなします。他の特殊な権利とならべてみれば、意思の自由は、それ自体が原理であり、すべての権利の実体的な基礎であり、永遠不変の絶対かつ最高の権利です。それはまさに人間を人間たらしめるものであり、精神の根本原理です〉と語られています。
自由と平等の関係については、〈自然法とは自由のことであり、さらにこまかく定義すれば、法のもとでの平等ということです。自由と平等は直接にむすびつきます。なぜなら、平等とは多くの人をくらべるところになりたつが、くらべられるどの人間も自由を基本的な使命としているからです〉とあります。
第四節 ヘーゲルの「自由」についての考察
ヘーゲル哲学においては、意志が自由であり、自由なものが意志であるとされています。そのため精神は絶対的自由であり、それは一般的意志と個別的意志の対立を和解させ、ゲルマン人の精神の国ドイツで実現するとされています。自由の具体的概念は、自我が自分のものであり、かつ普遍的なものでもあることです。
自由があらわれると法や権利となります。善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的だとされています。倫理は自由の理念や概念であり、義務とは肯定的自由の獲得であり不自由の制限だとされています。国家は具体的自由の現実性だとされています。ヘーゲルにとって、自由は目的であり、自分と普遍が一致に近づいていくことで実現できるものなのです。
以上を考慮するなら、ヘーゲルの自由が欠陥品であることが分かります。
自分と普遍が一致していくと考えることは傲慢です。世の中は、静態的ではなく動態的であり、不確実性が存在するからです。ヘーゲルの論理では、ヘーゲルの言うことが自由であるとして他者へ押し付けるか、ドイツの言うことが自由であるとして他国へ押し付けるかして、世界における軋轢を高めてしまいます。世界の安定は、それぞれの言い分の調和にかかっているのであり、それぞれの言い分が一つに一致することではありません。そんな簡単な解決は、世界の豊穣性が許さないのです。 
第十章 シェリングの「自由」

 

シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling, 1775~1854)は、ドイツの哲学者です。著作である『人間的自由の本質』から、シェリングの自由について見ていきます。
第一節 『人間的自由の本質』
『人間的自由の本質』には、〈人間の自由は神の全能に対立するという形では考えられることができないから、人間をその自由と一緒に、神的存在者そのもののうちへと救いあげて、人間は神のそとに存在せずに、神のうちに存在するのであると言い、また人間の活動そのものが神の生にともに属しているのである〉とあります。
それゆえ自由と不自由について、〈神のうちにおける内在と、自由とは、相互に少しも矛盾しないのであって、こうして、ほかでもないただ自由なもののみが、しかもそれが自由なものであるかぎりにおいて、神のうちにあり、不自由なものが、しかもそれが不自由なものであるかぎりにおいて、必然的に神のそとにあるのである〉と語られています。
シェリングは、〈実在的で生きいきとした自由の概念は、自由とは善と悪との能力である〉と定義しています。そのため、〈自由な行為は、人間の叡知的なものから直接的に生じてくる。しかしその自由な行為は、必然的に、ひとつの規定された行為であり、たとえば、身近な例をあげれば、ひとつの善い或いは悪い行為である〉と語られています。また、〈自由なるものとは、自分自身の本質の諸法則にのっとってのみ行為し、自分のうちおよびそとのいかなる他のものによっても規定されていないもののことだからである〉とも語られています。
シェリングは、〈ただ人間のみが、神のうちにあり、まさしくこの神のうちに在るというその存在によって、自由の能力をもったものなのである〉と言います。それゆえ、〈理性は、人間においては、神秘主義者たちの言うような、神のうちにおける受身ノ原初もしくは原初的知恵をなすものであり、この知恵においては、一切の諸事物が寄り集まりながらそれでいてより分けられ、一つに合体しつつしかもそれぞれのものが各自の仕方で自由であるのである〉と語られています。
第二節 シェリングの「自由」についての考察
シェリングの『人間的自由の本質』では、自由が神の内にあるとされ、自由とは善と悪との能力だと定義されています。その上で、人間は神の内にあるとされ、それゆえ人間は自由の能力を持つと語られています。これは明らかに、キリスト教における自由意志の伝統の延長線上にある考え方です。キリスト教徒ではない、もしくは、全知全能の絶対者という仮定の設定を行っていない者にとっては、考慮すべき対象ではありません。 
第十一章 ミルの「自由」

 

ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806~1873)は、イギリスの哲学者で経済学者です。社会民主主義や自由主義思想に多大な影響を及ぼしました。晩年は自ら社会主義者を名乗っています。日本では明六社の中村敬太郎[正直・敬宇](1832~1891)が、ミル存命中イギリスに留学し、帰国に際して友人より贈られたミルの『自由論(On Liberty)On Liberty』を『自由之理』として明治五年に訳出しています。本章では、『自由論(On Liberty)』から、ミルの自由について見ていきます。
第一節 『自由論』
『自由論(On Liberty)』には、〈個人に対する社会の取り扱いを絶対的に支配する資格のある、一つの非常に単純な原理〉として、〈人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということ〉が示されています。このことは、〈文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人にたいする危害の防止である〉と言い表されています。
この原理の上で、ミルは〈人間の自由に固有の領域〉として三つの領域を挙げています。第一は、〈意識という内面の領域〉における〈もっとも広い意味での良心の自由〉であり、〈意見と感情の絶対的自由〉です。第二は、〈嗜好の自由、職業の自由〉における〈われわれ自身の性格に合った生活のプランをたてる自由〉であり、他人に〈害を与えないかぎりは、彼らから妨害されることなく、その結果は自分で引き受けて、自分のしたいことをするという自由〉です。第三は、〈個々人の間の団結の自由〉であり、〈他人への害を含まなければ、いかなる目的のために結合してもよいという結合の自由〉です。
この三つの自由の領域に対して、〈これらの自由が、全体として尊重されていない社会は、その政治形態がどんなものであろうと、自由ではない〉とされています。そこでは、〈自由は、われわれが他人から彼らの幸福を奪おうとしたり、それを得ようとする彼らの努力の邪魔をせぬかぎり、われわれ自身の幸福をわれわれ自身の仕方で追求する自由である〉と語られています。なぜなら、〈人類は、各人が自分でよいと思う生き方をお互いに許し合うことによって、彼以外の他に人々がよいと思う生き方を彼に強いることによってよりも、ずっと大きな利益をかちうるのである〉とミルが考えているからです。
ミルは、〈われわれの意見に反論し反証する完全な自由を認めることこそが、行動の目的のためにわれわれが自己の意見の正しさを仮定することを正当化する条件〉だと述べています。そこでは、〈四つの明白な根拠にもとづき、意見の自由と意見の発表の自由が、人類の精神的幸福[彼らの他の幸福がすべてこれに依存する]にとって必要〉だとされています。その四つの根拠は、次の通りです。
第一、もしある意見が沈黙を強いられるとしても、ことによったらその意見は正しいかもしれない。これを否定することは、われわれ自身の無誤謬性を仮定することである。
第二、沈黙させられた意見が、たとえ誤謬であるとしても、それは真理の一部を含んでいるかもしれないし、また実際含んでいることがごくふつうである。そして、ある問題についての一般的ないし支配的な意見も、真理の全体であることは、めったに、あるいはけっしてないのだから、残りの真理が補足される機会をもつのは、相反する意見の衝突によってだけである。
第三、たとえ一般に受け入れられている意見が、真理であるのみならず真理の全体であるとしても、それが精力的にかつ熱心に論争されることを許されず、また実際論争されるのでないかぎり、それは、その意見を受け入れている人々のほとんどによって、その合理的な根拠についてはほとんどなんの理解も実感もなしに、偏見のような形でいだかれることになるであろう。
第四、もし自由な討論がなければ、教説そのものの意味が、失われるか弱められるかして、人格と行為に与えるその重要な効力をうばわれてしまう、という危険にさらされることになるであろう。教義は、永遠に無力な単なる形式的告白となり、しかもいたずらに場所をふさぎ、理性や個人的体験から、なんらかの真実なそして衷心からの確信が生まれるのを妨害するものとなるのである。
また、自由の制限に対しては、〈正当な理由なしに他人に害を与えるような行為は、どんな種類のものであれ、これに反対する感情によって、また必要ならば人々の積極的干渉によって抑制されてよいし、またより重要ないくつかの場合には抑制されることが絶対に必要である。個人の自由はここまでは制限されなければならない〉とあります。
そのためミルは、自由の制限となる伝統や慣習について論じます。〈第一義的に他人に関係しない事がらにおいては、個性が自己を主張することが望ましい。その人自身の性格ではなくて他の人々の伝統や慣習が行為の規則となっているところでは、人間の幸福の主要な構成要素の一つであり、かつ個人的社会的進歩のまさに第一の構成要素をなすものが、欠けていることになるのである〉とあります。〈他の人々の伝統や習慣〉について、ミルは三つの否定的意見を述べています。第一として、〈彼らの経験はせますぎるかもしれぬし、また彼らはそれを正しく解釈してこなかったかもしれない〉とあります。第二として、〈経験についての彼らの解釈は正しいかもしれぬが、彼には適当でないかもしれない〉とあります。それは、〈習慣は通例の環境と通例の性格とのためにつくられるものであるが、彼の環境や彼の性格は通例のものでないかもしれない〉という理由によります。第三として、〈その習慣が習慣としてよいものであり、また彼に適合するとしても、ただ単に習慣だからという理由でそれに同調することは、人間にのみ与えられた諸能力のどれをも彼の中に育成し発展させることにはならない〉とあります。これらを踏まえ、〈何事であれそうするのが習慣だからといってする人は、なんの選択もしない。彼は最善のものを見わけたり望んだりする練習ができない〉とまでミルは言います。
ミルは、伝統や習慣の否定の上で、自由を肯定します。〈改善を生む唯一の確実で永続的な源泉は、自由である〉と言ったり、〈進歩的原理は、自由への愛、あるいは改善への愛のいずれの形をとるにもせよ、習慣の支配に敵対し、少なくともそのくびきからの解放を含むものである〉と述べたりしています。さらには、〈世界の大部分は、正確にいうならば、歴史をもっていない。習慣による専制的な支配が完璧だからである。これが東洋全体の状態である〉とまで述べています。
伝統を否定するミルは、〈その違背者は、法によってではなくとも、世論によって当然罰せられてよい〉とあるように、世論による攻撃は肯定した上で、個人の決定を重んじます。〈自分自身に関する事がらにおいては、各人の個人的自発性が自由に活動する権利をもっている。彼の判断を助けるための配慮や、彼の意志を強固にするための忠告は、他人によって彼に提供されてよいし、強く主張されてもよい。しかし、彼自身こそが最終の決定者である。忠告や警告にもかかわらず、彼が犯しがちなすべての誤りも、他人が彼の幸福だと思うことを彼に強制するのを許す害悪にくらべれば、はるかにましである〉とあります。
以上から、ミルは『自由論』における〈この論文の全主旨を構成する二つの公理〉を述べています。第一の公理として、〈個人は自己の行為について、それが自分以外の人の利害に関係しないかぎり社会に対して責任をとる必要はない〉とあります。第二の公理として、〈他人の利益に損害を与えるような行為について個人は責任があり、もし社会が、社会的あるいは法的刑罰のいずれかを自己防衛のために必要とすると考えるならば、個人はその刑罰のうちのどちらかを受けてもさしつかえない〉とあります。そのため、〈自由とは、人が欲することを行なうことの中に存する〉とミルは言うのです。
ただし、ミルの自由においても、自由そのものに違反する自由は禁止されています。〈自由の原理は、彼が自由でなくなる自由をもつべきだ、と要求することはできない。自己の自由を放棄するのを許されることは、自由ではない〉とあります。
ミルはアメリカ人について、〈アメリカ人を政府なしに放置せよ。アメリカ人のどの集団も、ただちに政府をつくり、政治やその他のいかなる公務をも十分な知性と秩序と決意をもって遂行することができる〉と言い、〈これこそ、すべての自由な民衆のあるべき姿である。また、これをなしうる民衆は、まちがいなく自由である〉と述べています。さらに、〈そのような民衆は、いかなる人や団体が中央行政の手綱を掌握し、それを制御することができるからといって、彼らの奴隷になることをけっしてみずからに許しはしないであろう〉と述べています。
第二節 ミルの「自由」についての考察
ミルは、人々がよいと思っていることを自身に強いられることよりも、自分がよいと思うことを各人が許しあうことの方が利益を得られると考えています。ミルは、自由は人が欲することを行なうことの中にあると言います。そのため、他人からの配慮や忠告や警告は構わないのですが、自分自身で決定することをミルは説いています。自身の行為は、他人の利害に関係しないかぎり責任が発生しないというのです。なぜなら、自身が犯す全ての誤りより、他人が自分のために強いるという害悪の方がはるかに大きいとミルは考えているからです。
ミルは、人間の自由を三つの領域に分類しています。良心による意見や感情の自由、嗜好や職業などの生活の自由、目的のための団結や結合の自由です。これら三つの自由が尊重されたとき、自由な社会であるとミルは述べています。
ただし、他人の利益に損害を与えるような行為については責任があり、社会的な世論による罰や法的刑罰を受けることが示されています。危害の防止のみが他者の自由に干渉できるのであり、他人の幸福を奪ったり、他人の努力を邪魔したりする自由はないということです。正当な理由なしに他人に害を与えるような行為は、干渉によって抑制されるため、個人の自由は制限されるというのです。
ミルは、自由は改善を永続的に確実に生み出すと考えています。自由は、習慣や伝統と敵対し、そこから人々を解放するものだと言います。習慣による状態は歴史ではないとさえ述べています。ミルの自由においては、ミルが考える自由の原理を放棄する自由を認めてはいません。
以上を考慮し、ミルの自由について考えてみます。
自分の私的側面から考えると、公的に善いとされることを強いられることよりも、私的に良いと思うことが許されていることの方が、利益があるといえます。しかし、自分の公的側面から考えると、私的欲求が引き起こす誤りは、公的善の暴走と同じく、ときにはそれより酷く、世の中に被害を撒き散らします。少なくとも、自身の犯す過ちが、公共性による規制よりもはるかに被害が少ないなどと述べる人物は、疑わしいと思うのが普通です。私が好き勝手にすることが、皆にとっても良いことになるのだという話は、おそらく皆は信じてくれないでしょう。
ミルの提案している自由の制限についても、ミルが世の中を極めて単純化しているため不十分です。悪しき行為には、直接的な危害が現れる行為だけではなく、潜在的に世の中の危険性を上げてしまうような行為もあるのです。例えば、少女売春や危険薬物の乱用、「危害が直接的でなければどのような行為をしてもいいじゃないか」と言うこと、などが挙げられます。これらの行為は、世の中の危害の発生率を上げてしまうのです。
また、ミルは自由のために伝統や慣習に否定的ですが、それも間違っています。慣習や経験は、正しさを解釈するための重要な財産です。それらを否定することは、解釈のための材料を減らしてしまうことになります。仮に、今まで正しく解釈されてこなかったのだとしても、それは今後の正しく適切な解釈のために用いることができるものなのです。その慣習が善いものならば、その理由により、それに同調することは正しいことなのです。その慣習がよい慣習だから従うのは正しく、悪い慣習なのに従うことは間違いだという簡単な話です。その判断が、伝統によって可能になるのです。
自由の原理については、ミルはそれを放棄する自由を認めていません。つまり自由とは、自由を肯定する者が認める価値の中でしか、認められないものなのです。その範囲は、当然ながら、自由を肯定する者が自由に決めるのです。このことが、どれだけ悪用できるか、また歴史的に悪用されてきたことか。
以上のように、ミルの自由の肯定は失敗しています。
言論の自由についても、正しさについての言論を護るためには不十分です。ミルの『自由論』には意見や発表の自由が必要である四つの根拠が示されていますが、次のように簡単に反論を挙げることができます。
【根拠1】もしある意見が沈黙を強いられるとしても、ことによったらその意見は正しいかもしれない。これを否定することは、われわれ自身の無誤謬性を仮定することである。
【反論1】ある意見に沈黙を強いることが許されないなら、そのことを利用して、別の意見を封じることができるかもしれない。正しいかもしれない意見を潰すことが、くだらない意見や間違った意見を意図的に乱用することで可能になるかもしれない。これを否定することは、われわれ自身の無誤謬性を仮定することである。
【根拠2】沈黙させられた意見が、たとえ誤謬であるとしても、それは真理の一部を含んでいるかもしれないし、また実際含んでいることがごくふつうである。そして、ある問題についての一般的ないし支配的な意見も、真理の全体であることは、めったに、あるいはけっしてないのだから、残りの真理が補足される機会をもつのは、相反する意見の衝突によってだけである。
【反論2】意見に沈黙を命じることが、たとえ誤謬であるとしても、それは真理に有益な結果を含んでいるかもしれないし、また実際含んでいることがよくあるのである。そして、相反する意見の衝突によって真理が遠ざかる場合もあれば、邪魔で有害な意見に沈黙を命じることで真理が補足される機会が得られるかもしれない。
【根拠3】たとえ一般に受け入れられている意見が、真理であるのみならず真理の全体であるとしても、それが精力的にかつ熱心に論争されることを許されず、また実際論争されるのでないかぎり、それは、その意見を受け入れている人々のほとんどによって、その合理的な根拠についてはほとんどなんの理解も実感もなしに、偏見のような形でいだかれることになるであろう。
【反論3】たとえ一般に受け入れられている意見が、真理であるのみならず真理の全体であるとしても、それが精力的にかつ熱心に論争を持ちかけられ、沈黙を強いることを禁止されているのなら、それは、その意見を受け入れていた人々の幾人かによって、その合理的な根拠の理解があるにもかかわらず、衝動的で感情的な反感をいだかれることになるであろう。
【根拠4】もし自由な討論がなければ、教説そのものの意味が、失われるか弱められるかして、人格と行為に与えるその重要な効力をうばわれてしまう、という危険にさらされることになるであろう。教義は、永遠に無力な単なる形式的告白となり、しかもいたずらに場所をふさぎ、理性や個人的体験から、なんらかの真実なそして衷心からの確信が生まれるのを妨害するものとなるのである。
【反論4】もし沈黙の強制がなければ、教説そのものの意味が、失われるか弱められるかして、人格と行為に与えるその重要な効力をうばわれてしまう、という危険にさらされることになるであろう。教義は、永遠に無力な単なる形式的告白となり、しかもいたずらに場所を混乱させ、理性や個人的体験から、なんらかの真実なそして衷心からの確信が生まれるのを妨害するものとなるのである。
以上の反論は、一種の言いがかりに聞こえるかもしれませんが、真実の一部が含まれています。ミルの提示している根拠も、真実の一部が含まれていますが、それらは別の真実の一部によって反論可能なものでしかありません。ここで示されている根拠と反論は、状況や条件により、正否が入れ替わります。それゆえ中庸が大事なのであり、自由の擁護は失敗します。
言論は、制限を設けることで正しさを妨害することができ、また、自由を用いることで正しさを妨害することもできるのです。逆に、言論は制限を設けたり外したりすることで、その試行錯誤において、正しさの合意に達する可能性があるのです。 
第十二章 フロムの「自由」

 

フロム(Erich Fromm, 1900~1980)は、米国の精神分析学者で社会思想家です。著作である『自由からの逃走』と『人間における自由』から、フロムの自由について見ていきます。
第一節 『自由からの逃走』
『自由からの逃走』の主題は、次のように述べられています。
本書の主題は、次の点にある。すなわち近代人は、個人に安定をあたえると同時にかれを束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していないということである。自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。
フロムは、〈近代のヨーロッパおよびアメリカの歴史は、ひとびとをしばりつけていた政治的・経済的・精神的な枷から、自由を獲得しようとする努力に集中されている〉と述べています。つまり、〈人間性は人間進歩の産物である〉と考えているのです。
その考え方に立って、〈自由は人間存在そのものを特質づけているということ、さらに、自由の意味は、人間が自分を独立し、分離した存在として意識する程度にしたがってちがってくるということ〉が述べられています。フロムの目からは、〈中世末期以来のヨーロッパおよびアメリカの歴史は、個人の完全な解放史〉と見えているのです。
フロムの用語法では、消極的な自由と積極的な自由が、〈「・・・・・・からの自由」と「・・・・・・への自由」〉として示されています。フロムは積極的な自由を肯定し、〈すべてはみずからの努力にかかっており、伝統的な地位の安定にかかっているのではない〉と述べています。その上で、〈われわれみずからの自我を実現させ、この自我と人生とを信ずることができるような、新しい自由を獲得しなければならない〉と語っています。積極的自由へ進むか、自由から逃避するかが、二つの道として示されているのです。
具体的には、〈一つの道によって、かれは「積極的自由」へと進むことができる。かれは愛情と仕事において、かれの感情的感覚的および知的な能力の純粋な表現において、自発的にかれ自身を世界と結びつけることができる〉とあります。一方、〈もう一つの道は、かれを後退させ、自由をすてさせる。そして個人的自我と世界とのあいだに生じた分裂を消滅させることによって、かれの孤独感にうちかとうと努力する〉とあります。
フロムは、〈人類の歴史は個性化の成長の歴史であり、また自由の増大していく歴史である〉と述べています。さらに、〈われわれは一つの積極的な解答の存在すること、自由の成長する過程は悪循環とはならないこと、人間は自由でありながら孤独ではなく、批判的でありながら懐疑にみたされず、独立していながら人類の全体を構成する部分として存在できることを信じている。このような自由は、自我を実現し、自分自身であることによって獲得できる〉とも述べています。つまり、〈積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する〉とフロムは考えているのです。
そこでは、〈人生の意味がただ一つあること、それは生きる行為そのものであること〉が示され、〈自我の実現としての積極的な自由は、個人の独自性を十分に肯定する〉とされています。〈人間は自分自身よりも高いいかなるものにも従属してはならないということは、理想の尊厳を否定しはしない。反対に、それは理想をもっとも強く肯定することである〉と述べられています。そして、〈真の理想とは、自我の成長、自由、幸福を促進するすべての目標であり、仮想の理想とは、主観的には魅惑的な経験(服従への衝動のように)でありながら、じっさいには生に有害であるような、脅迫的な非合理的な目標と定義するにいたる〉と語られています。
フロムは、〈もし人間の自由が......への自由として確立されるならば、もし人間がその自我を十分に妥協なしに実現できるならば、かれの社会的な衝動の根本的な危険性は消滅し、ただ病人と異常人だけが危険なものとなるであろう〉と述べています。〈積極的な自由は、能動的自発的に生きる能力をふくめて、個人の諸能力の十分な実現と一致する〉とされています。〈デモクラシーの未来は、ルネッサンスこのかた近代思想のイデオロギー的目標であった個人主義の実現にかかっている〉とあります。
その実現の基準として、〈自由の勝利は、個人の成長と幸福が文化の目標であり目的であるような社会、また成功やその他どんなことにおいても、なにも弁解する必要のない生活が行われるような社会、また個人が国家にしろ経済機構にしろ、自己の外部にあるどのような力にも従属せず、またそれらに操られないような社会、最後に個人の良心や理想が、外部的要求の内在化ではなく真にかれのものであって、かれの自我の特殊性から生まれてくる目標を表現しているというような社会にまで、デモクラシーが発展するときにのみ可能である〉とあります。さらに、〈自由の実現の唯一の標識は、個人が自分の生活および社会の生活の決定に積極的に参加しているかどうか、しかもこれがたんに投票という形式的な行為によってだけでなく、日々の活動において、仕事において、他人にたいする関係においてもなされているかどうかということである〉とあります。
第二節 『人間における自由』
『人間における自由』は、フロム自身によって『自由からの逃走』の続編であることが明言されています。この著作の中で、〈実に自由は、徳の必須条件であるとともに幸福の必須条件である。しかし、その自由は、気ままな選択をゆるす能力という意味でもなく、また必然からの自由というものでもなく、人間が、可能性として持っているものを実現する自由であり、人間存在の法則にしたがって、真の人間性を充実する自由である〉と定義されています。
第三節 フロムの「自由」についての考察
フロムは、自由を消極的な「・・・からの自由」と積極的な「・・・への自由」に分けています。自由は徳と幸福の必須条件だと考えられており、フロムは積極的な自由の完全な実現へと進んでいきます。
フロムの言う積極的な自由とは、個人的自我の実現であり、個人の諸能力の表現であり、個人の独自性の肯定であり、全的統一的な個性の自発的な行為のことです。つまり、人間の可能性を実現する自由であり、人間存在の法則により真の人間性を充実する自由だとされています。
フロムにとって人類の歴史は、個性化の成長の歴史であり、自由の増大していく歴史なのです。この自由は、伝統をかなぐり捨て、人間が自身より高いものに従うことを拒みます。自由が実現した社会とは、個人主義が実現しデモクラシーが発展しており、個人が自己の外部に従属せず、自我の特殊性によって生活の決定に参加する社会のことです。それが妥協無く実現できたとき、病人と異常人の危険性を除き、社会的衝動の根本的な危険性が消滅すると考えられています。
フロムは、自由の成長過程が悪循環にはならず、人間は孤独にもならず、懐疑に陥ることもなく、独立していながら人類全体を構成する部分として存在できると信じているのです。
以上を考慮し、フロムの自由について考えてみます。
フロムの述べている自由は、具体性を欠いた抽象的なお題目です。具体性を示さないその手法によって、いくらでも中身の無い空虚な綺麗事をわめき散らすことが可能になっています。
つまり、フロムは自身の肯定する自由の内容について、具体的に語れないのです。語ってしまうと、それに対する反論がなされてしまうため、自由の肯定が不可能になってしまうからです。フロムの著作に具体的な自由の内実がない、そのことの異常さに気づいた者は、フロムの自由に賛同することができません。この異常さに気づかない者だけが、フロムの自由に賛同できてしまうのです。
仮にフロムの積極的自由を目指した場合、社会は壊滅的で致命的な被害を受けます。なぜなら、自身の外部を認めず、伝統を投げ捨ててしまうような自我は、自身の欲望を撒き散らすことに終始するからです。歴史の縦軸(過去→現在→未来)と横軸(私の周りの人たち)を排除するとき、人間は、自己の欲望を独善的に振りかざします。人間存在の法則により真の人間性を充実する自由とは、そんなものなのです。 
第十三章 ハイエクの「自由」

 

ハイエク(Friedrich August von Hayek, 1899~1992)は、オーストリアの経済学者です。著作である『隷従への道』・『自由の条件』・『法と立法と自由』から、ハイエクの自由について見ていきます。
第一節 『隷従への道』
『隷従への道』には、〈自由主義的立場の真髄はすべての特権の否定である〉とあります。また、〈自由主義の基本原理〉として、〈事象の秩序づけに際し、社会の自発的な力をできるだけ多く利用し、強制に訴えることをできるだけ少なくするという基本原理〉が示されています。
ハイエクの自由主義は、法の支配と結びついています。〈法の支配は立法の範囲の制限を意味する。法の支配は、立法を形式化された法として知られている一般規則の種類のものに限定し、直接に個々の人々をめざす立法、またはかかる差別のために、だれかの国家の強制権を行使させることをめざす立法を排除する〉とあります。そのとき、〈法律によって前もって定められた場合にのみ、国家の強制権が行使されうること、したがって国家の強制権がどのようにして、行使されるかが予見されうるということ〉が示されています。
自由主義者であるハイエクは、〈イギリスやアメリカをして自由と公正、寛大と独立の国とした伝統に対する揺るがぬ信念〉を掲げています。
第二節 『自由の条件』
『自由の条件』には、〈われわれは自由が単にある特定の価値であるばかりでなく、大部分の道徳的価値の源泉であり、条件であることを明らかにしなければならない〉とあります。ハイエクにとって、〈自由とは強制がないこと〉であり、〈社会において、一部の人が他の一部の人によって強制されることができるかぎり少ない人間の状態〉を、〈自由(libertyあるいはfreedom)の状態〉と定義しています。
ハイエクは、〈自由のための政策課題は強制あるいはその有害な影響を最小にすることでなければならない〉と述べています。そのため、〈「抑制」という言葉は、主として人びとがあることをするのを妨げることをわれわれに思い出させてくれる点では有益であるのにたいし、「強制」は人びとが特定の行動をさせられることを強調する。この両面は等しく重要である。正確にいえば、自由を定義して抑制と拘束がないこととするのがたぶんよいであろう〉と述べています。また、〈強制とは、害を与えるという脅迫と、それによってある種の行為をさせようとする意図との双方を含んでいる〉とも述べています。
ハイエクが自由を肯定するのは、〈自由にたいするわれわれの信仰は、特定の事情の下での予見できる結果にあるのではなく、差し引きして悪に向かう力よりも善に向かう力を多く解放するであろうという信念にもとづいている〉ためです。そこでは、〈自由のための闘いの偉大な目的は、法の前の平等である。国家が強制する規則のもとにおけるこの平等は、人びとが他の人との関係において自発的に従う規則のもつ同様の平等によって補うことができるであろう〉と考えられています。この提案においては、〈公正は人びとの生活条件のうち政府によって決定されるものが全員にとって平等に与えられることを要求する。しかし、これらの条件の平等は必ず結果の不平等を招く〉とされています。
自由主義と民主主義の相違については、〈自由主義は法がどうあるべきかについての主義であり、民主主義はなにが法となるであろうかを決定する方法に関する一つの教義である〉とあります。つまり、〈自由が意味しさらに意味しうることは、われわれのおこなってよいことがいかなる人、いかなる権威者の許可によるものでもなく、すべての人びとに等しく適用される同一の抽象的な規則によってのみ制限されるということだけである〉というわけです。
ハイエクは、〈現代のおける個人的自由については、十七世紀のイギリスより以前に遡ることはほとんど不可能である〉と述べ、〈二○○年以上にもわたり個人的自由の維持と保護はこの国の指導理念となり、その制度と伝統は文明世界にとっての模範となった〉と語っています。
ハイエクの自由主義は法の支配と結びついており、〈法の支配とは法それ自体による支配ではなく、法がどうあるべきかに関する規則、すなわち超-法的原則あるいは政治的理念である〉とあります。
ハイエクは、〈自由の究極の目的は人間がその祖先に優越する能力の拡大であり、各世代はそれぞれ相応の貢献――知識の成長と道徳的ならびに美的信念における漸進的進歩に見あった貢献――に努めなくてはならない〉と述べています。また、〈人間が現在の自分を超えるところに到達し、新しいものがあらわれ、そして評価を将来に待つというところにおいて、自由は究極的にその真価をあらわすのである〉とも述べています。
経済と自由の関係については、〈とくに経済の分野において市場の自己調整力が特定の事例において、どのように働くかを誰も予言できないとしても、それが新しい状態にたいして必要な調整をどうにかしてもたらすであろう、と想定するのは自由主義的態度の一面をなすものである〉とあります。
ハイエクは、〈われわれの文明を変化させている思想はいかなる国境をも考慮しないという事実〉を述べています。さらに、〈人間の愚行がもたらした障害と危険物から自制的な成長過程を解き放つことが、十九世紀初頭のころと同じくふたたび主要な必要事となっている世界において、その希望は性質上「進歩的」である人びとを説得し支持を得ることにもとづかなければならない〉とも述べています。
第三節 『法と立法と自由』
『法と立法と自由』には、〈より有効な行為秩序をもたらすルールをたまたま取り入れた集団が有効性の劣る秩序をもつ他の集団より優位に立つ傾向がある〉という考えが示され、自由主義について語られています。〈個人への強制は、一般的福祉または公共善に貢献するのに必要とされる場合にのみ許容されうるというのが、自由の伝統の公理の一つである〉とあり、〈自由とは運命を制御できない?力にある程度まで委ねてしまうことを意味する〉とあります。
ハイエクは、〈ルールはある行為を課するよりもむしろ禁止するという意味でほとんど消極的である〉と述べ、〈正しい行動ルールは自らの行為によって義務を引き受けるのでないかぎり、誰にも積極的な義務を課さないという意味で消極的である〉と語っています。そこでは、〈強制は全員にたいして等しく適用可能である一様なルールによって必要とされる場合にしかもちいられないのである〉とあります。その上で、〈そこにおける地位がくじ引きによって決定されることを知っているならば自分の子供をそこにおくほうがよいと考える社会が最善の社会であるということになろう〉と述べています。ハイエクは、〈共通の具体的な狙いについての合意を必要とせずにただ抽象的行動ルールにしたがいさえすれば、人びとが平和裏にしかも相互に有利になるように一緒に生活できるという可能性は、おそらく人類史上最大の発見であった〉と考えているのです。
そのためハイエクは、〈全人類を単一の社会に統合できるような普遍的な平和的秩序にわれわれが近づくことができるのは、正しい行動ルールを他の人びとすべてとの関係にまで拡張し、普遍的に適用することができないルールからその義務的性格を取り除くことによる以外にはない〉という結論に至っています。なぜなら、〈政府が自由人の大きな社会に与えることのできる最良のものがなぜ消極的なのか、その基本的理由は、どんな単一の人間も、あるいは人間行動を管理することのできるどんな組織も、社会の活動全体の秩序を決定するにちがいない無数の特定事実についてはつねに無知であるからだ。愚かな人だけが自分はなんでも知っていると信じている。だが、以外とそういう人が多くいる〉と考えているからです。
ハイエクは、〈開かれた自由社会の唯一の共通価値は達成されるべき具体的目標ではなく、ある抽象的な秩序の不断の維持を保証する共通の抽象的な行動ルールだけである〉と述べています。さらに、〈伝統はなにか不変なものではなく、成功によって(理性によってではなしに)導かれる選択過程の産物である。それは変化するが、故意に変えることはほぼできない。文化的選択は理性的過程ではない。それは導かれるのではなく、それが理性を創造するのである〉と述べています。ハイエクは、〈進歩はその量を定めることができない(それなら、経済成長もそうだ!)。われわれがなしうることはたかだが進歩に有利な条件を創出して、最良のものを期待することだけである〉と考えているのです。
第四節 ハイエクの「自由」についての考察
ハイエクは、自由を強制がないことや、抑制と拘束がないこととして定義しています。ハイエクの自由主義は、強制を最小にすることであり、個人への強制は一般的福祉または公共善に貢献する場合にのみ許容されています。ハイエクの擁護する自由は、義務を課さずに行為を禁止することから、消極的なものです。その理由は、どんな人間や組織も、社会の活動全体の秩序を決定する無数の特定事実について常に無知だからだと語られています。
ハイエクの自由は、差し引きによって、悪に向かう力よりも善に向かう力を多く解放するという信念に基づいています。そのため、自由が大部分の道徳的価値の源泉であり条件であるとされています。経済の分野における自由については、新しい状態にたいして必要な調整をどうにかしてもたらすであろうと想定されています。
ハイエクの自由主義は、法がどうあるべきかについての主義であるため、法の支配および法の前の平等と結びついています。法の支配とは、法がどうあるべきかに関する超-法的原則のことであり、立法から全ての特権を排除し、立法を一般規則の種類のものに限定します。法律は前もって定められた場合にのみ国家の強制権が行使されるため、どのように行使されるかが予見できると考えられています。法の前の平等は、政府による強制が、全員に等しく適用可能である同一な抽象的な規則によって制限されるという条件のことです。この機会の平等は、必ず結果の不平等を招くとされています。
ハイエクは自由主義について、十七世紀のイギリスより以前に遡ることはほとんど不可能と述べています。その自由の維持と保護はイギリスの指導理念となり、その制度と伝統は文明世界にとっての模範となったと考えられています。その自由はアメリカにも存在しているため、ハイエクはイギリスやアメリカをして自由と公正、寛大と独立の国とした伝統に対する揺るがぬ信念を掲げています。この自由主義は、いかなる国境をも考慮しないとハイエクは考えています。自由の究極の目的は、人間がその祖先に優越する能力の拡大だとされています。
ハイエクは、進歩的である人々を説得し、共通の抽象的な行動ルールを拡張し、普遍的でないルールから義務的性格を取り除くことによって、全人類を単一の社会に統合できるような普遍的な平和的秩序に近づけると言います。有効な行為秩序をもたらすルールを取り入れた集団が、有効性の劣る秩序をもつ他の集団より優位に立つ傾向があると考えられているからです。社会的地位がくじ引きによって決まるなら、自分の子供をそこにおきたいと考える社会が、最善の社会だとハイエクは述べています。
以上を考慮し、ハイエクの自由について考えてみます。
まず、強制を「適切」にするのではなく、「最小」にするということは中庸を外れています。短期的には余計に思われても長期的には有効に働くような強制に対し、「適切」では残したり限定的に停止したりするのに対し、「最小」では排除する傾向があります。短期的には有効に思われても、長期的には有害に働く可能性が高いのが自由という概念の怖いところなのです。短期的には有効性の劣る秩序が、長期的には安定化をもたらすということも大いにありえる話なのです。期間をどのくらいに設定するか、どのような状況を想定するかによって評価は変化します。例えば、経済的効率性と社会的安全性はトレードオフの関係が発生するため、「適切」では両者の間でバランスを取りますが、「最小」では効率性を追求して安全がおろそかになるといった事態を招きます。
また、私たちは無知であるため、「?すべし」という義務を誤って定めてしまうように、「?することなかれ」という禁止も誤って定めてしまうことがあります。義務は間違えるけれど、禁止は間違えないなどということはありえないのです。そのため、義務の間違いを禁止によって、禁止の間違いを義務によって掣肘する必要があるのです。
同様に、私たちには完全な知識がないからこそ、特権が有害に働くだけではなく、社会の安定化にとって有効に働くこともあると考えるのです。ですから、すべての特権を否定してはならないのです。世の中の安定は、一般的で抽象的なルールと、個別的で具体的なルールの間において見いだされるものなのです。私は、私たちには完全な知識がないからこそ、一般的で抽象的なルールが完全になることはなく、個別的で具体的なルールで掣肘する必要があると思うのです。一般的で抽象的なルールを定め、個別的で具体的な状況に適用するとき、そこに解釈が入り込みます。実際の現実においては、この解釈によって、いくらでもルールの悪用が可能になるのです。
法の前の平等については、その機会の平等が結果の不平等を招き、結果の不平等が機会の平等そのものを切り崩していきます。機会の平等を唱えるのも、結果の平等を唱えるのも、ともにまちがっています。機会の平等と不平等、および結果の平等と不平等の間で調整を行うこと、それこそが公正と呼ばれるものの役割なのです。
ハイエクとは、十七世紀イギリスに発生した自由主義は、いかなる国境をも考慮しないで全人類を単一の社会に統合できる、そう考えている人なのです。ハイエクとは、マルクス主義という名の全体主義を批判した、自由主義という名の全体主義者なのです。異なる文化圏は、それぞれ自身の社会を最善と感じる傾向があるため、ハイエクのくじ引き案は成り立ちません。ただしハイエクは、イギリスとアメリカの伝統が考える社会が最善なのだと言うのでしょう。強制を最小にすること、その基準はイギリスとアメリカの伝統であること、そうすると人間は進歩すること。これらは、致命的な思いあがりです。 
第十四章 バーリンの「自由」

 

アイザィア・バーリン(Isaiah Berlin, 1909~1997)は、イギリスの政治哲学者です。著作である『自由論』から、バーリンの自由について見ていきます。
第一節 『自由論』
『自由論』では、〈自由とは行為する機会〉や〈行動の可能性〉として考えられており、〈自由の基本的な意味は、鎖からの、投獄からの、他人への隷属からの自由であり、これ以外の意味は、この意味の拡張か、さもなければ比喩である〉と定義されています。そのため、〈自由になろうとつとめるとは、妨害を取り除こうとすることであり、個人の自由のために戦うとは、その人の目的ならぬ他人の目的のために、他人に干渉され搾取され隷属させられるのを抑制しようとすることである〉と考えられています。その上でバーリンは、〈自由とは、少くとも政治的な意味では、弱い者いじめ・抑圧の不在と完全に重なる〉と述べています。
バーリンの用語法では、積極的自由と消極的自由という二つの自由の概念が有名であり、まとめると次のようになります。
「積極的(positiveな)」自由の観念
・〈...への自由( freedom to )〉
・〈誰が主人であるか〉という問いに答えるもの
・〈自分自身の主人でありたいという個人の側の願望からくるもの〉
・ 信奉者は、〈権威をわが手中に〉しようとする
「消極的(negativeな)」自由の観念
・〈...からの自由( liberty from )〉
・〈私はどれだけの領域で主人であるか〉という問いに答えるもの
・〈あるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のこと〉
・ 信奉者は、〈権威そのものを抑圧〉しようとする
この二つの相違の上で、〈自由の擁護とは、干渉を防ぐという「消極的」な目標に存する〉とバーリンは主張しています。なぜなら、〈そのひとのまえの他のすべての扉を閉ざしてしまってただひとつの扉だけを開けておくこと、それは、その開いている扉のさし示す前途がいかに立派なものであり、またそのようにしつらえたひとびとの動機がいかに親切なものであったにしても、かれが人間である、自分自身で生きるべき生活をもった存在であるという真実にたいして罪を犯すことである〉からです。
消極的自由と積極的自由に対しては、〈一つの概念についての二つの異なった解釈というのではなく、人生の目的に対する二つのまったく相異なる、和解せしめがたい態度なのである〉とあります。その上で、〈そのそれぞれが満足させることを求めているところのものは、歴史的にも道徳的にも、人類の最深・最大の関心事のうちにあって同等の権利をもつ究極的な価値なのだということを認めないのは、社会および道徳の理解における重大な欠陥なのである〉と述べられています。
バーリンは、〈人間の思い描くさまざまな目的のすべてが調和的に実現されうるような唯一の定式のごときものが、原理的に発見可能であるという信仰は、明らかに誤りであると思うのだ〉と述べています。また、〈絶対的な諸要求の間での選択を余儀なくされるという事態は、人間の状態の不可避的な特徴であることとなる〉とも述べています。
自由を抑制する場合については、〈もっとも自由主義的な社会においてさえ、個人的自由が、社会的行動の唯一の基準であるとか、さらに支配的な基準であるとかいうつもりはわたくしには毛頭ない。われわれは子供たちが教育を受けるように強いるし、また公開の死刑執行を禁止する。それはおそらく、自由に対する抑制であるだろう。われわれがそれを正当化するのは、無知、あるいは野蛮な養育、あるいは残酷な娯しみや刺戟は、それを抑止するに必要な制限の総計よりもわれわれにとってより悪いものだという理由によっている〉とあります。
バーリンは自身の見解として、〈[事実を尊重するひとびと]がその実現につとめている「消極的」自由は、訓練のよく行届いた大きな権威主義的構造のうちに、階級・民衆・全人類による「積極的」な自己支配の理想を追求しているひとびとの目標よりも、わたくしにはより真実で、より人間味のある理想であるように思われる。より真実であるというのは、それが、人間の目標は多数であり、そのすべてが同一単位で測りうるものでなく、相互にたえず競いあっているという事実を認めているからである〉と述べています。
第二節 バーリンの「自由」についての考察
バーリンは自由について、「...への自由( freedom to )」という積極的自由と、「...からの自由」という消極的自由を区別して定義しています。その上で、自由の基本的な意味は消極的自由であり、自由の擁護は消極的な目標にあると述べています。消極的自由は、積極的自由よりも、真実で人間味がある理想だというのです。なぜなら人間の目標は多数であり、そのすべてが同一単位で測りうるものでなく、相互にたえず競いあっているという事実があるからだというのです。
消極的自由は、妨害の除去や隷属の抑制を目的とし、行為する機会や行動の可能性を示します。消極的自由の信奉者は、権威そのものを抑圧しようとします。
以上が、バーリンの考える自由ですが、いくつかの点で間違っています。
例えば、権威は調整が必要なものであり、状況や条件によって、廃止することも、制限することも、抑圧することも、強化することも、保全することも、拡大することも必要になります。単に権威を抑圧しようとすれば、無秩序を招くか、反動で暴走するかのどちらかになるおそれがあります。
また、バーリンの『自由論』の構造上、消極的自由そのものに反する自由は認められていません。そのため、その自由の判定は、消極的自由の信奉者に委ねられます。それを自由とするか、それを自由に対する抑圧として認めないかは、結局、消極的自由の信奉者が決めることになります。他の価値観に対して、それを無知や野蛮や残酷と呼ぶことで正当化することによってです。 
第十五章 ロールズの「自由」

 

ロールズ (John Rawls,1921~2002)は、アメリカの政治学者です。『正義論』などで公正としての正義の説を唱えて功利主義を批判し、広範な議論を引き起こしました。著作である『正議論』から、ロールズの自由について見ていきます。
第一節 『正義論』
『正議論 改訂版』には、〈社会の基礎構造に関わる正義の諸原理こそが原初的な合意の対象となる。それらは、自分自身の利益を増進しようと努めている自由で合理的な諸個人が平等な初期状態において(自分たちの連合体の根本条項を規定するものとして)受諾すると考えられる原理である〉とあります。その上でロールズは、〈正義の諸原理をこのように考える理路を<公正としての正義>と呼ぶことにしよう〉と述べています。
公正としての正義においては、〈平等な<原初状態>(original position)〉が〈純粋に仮説的な状況〉として提示されています。その具体的内容は、〈誰も社会における自分の境遇、階級上の地位や社会的身分について知らないばかりでなく、もって生まれた資産や能力、知性、体力その他の分配・分布においてどれほどの運・不運をこうむっているかについても知っていないというものがある。さらに、契約当事者たち(parties)は各人の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向も知らない、という前提も加えよう。正義の諸原理は<無知のヴェール>(veil of ignorance)に覆われた状態のままで選択される〉とあります。
無知のヴェールとは、〈多種多様な選択候補が各自に特有の情況にどのような影響を与えるのかを知らないまま、当事者たちはもっぱら一般的な考慮事項に基づいて?原理を評価することを余儀なくされる〉ものであり、〈当事者たちはある種の特定の事実を知らないと想定されている〉ものです。
原初状態において無知のヴェールを被り、正義の原理を選択することで、〈制度に関する正義の二原理の最終的な言明〉が提示されています。〈第一原理〉として、〈各人は、平等な基本的?自由の最も広範な全システムに対する対等な権利を保持すべきである〉とあります。〈第二原理〉として、〈社会的・経済的不平等〉に対して、〈最も不遇な人びとの最大の便益に資するように〉ということと、〈公正な機会均等の諸条件のもとで、全員に開かれている職務と地位に付帯するように〉ということが挙げられています。
その際、〈第一の優先権ルール〉として〈他の何ものよりも自由が優先すべきこと〉が示され、〈第二の優先権ルール〉として〈効率と福祉よりも正義が優先すべきこと〉が示されています。
第一の優先権ルールは、〈正義の?原理は辞書式順序でもってランクづけられるべきであり、よって基本的な?自由は自由のためにのみ制限されうる〉というものです。二つのケースがあり、一つ目は、〈[あくまでも平等に分配しつつも]自由の適用範囲を縮減することを通じて、全員が分かち合っている自由の全システムを強化するものでなければならない〉というものです。二つ目は、〈[自由をいったん]不平等に分配した上でその適用範囲を縮減することは、自由の適用範囲が縮減された人びとにとって受け入れ可能なものでなければならない〉というものです。
第二の優先権ルールは、〈正義の第二原理は、効率性原理および相対的利益の総和の最大化原理よりも辞書式に優先する。そして公正な機会[均等原理]は、格差原理よりも優先する〉というものです。こちらも二つのケースがあり、一つ目は、〈機会の不平等が認められたとしても、それは機会が縮減された人びとの?機会を増強するものでなければならない〉というものです。二つ目は、〈過度な貯蓄率が課されたとしても、それは[後継世代のための貯蓄によって]困窮生活を強いられている人びとの重荷を結局のところ軽減するものでなければならない〉というものです。
これらの原理を提示した上でロールズは、〈原初状態で正義の原理を選択することの合理性には、まったく疑いをはさむ余地がない〉と述べています。
『正議論』における自由については、〈自由の一般的な記述は、<あれこれの人(もしくは人びと)は、それこれする(もしくはしない)際に、しかじかの制約(もしくは複数の制約)から自由である(もしくは自由ではない)>という形態をとる〉とあります。〈自由は制度の一定の構造、すなわち権利と義務を定める公共的ルールのシステムのひとつ〉とされ、〈人びとは、何かをするかしないかに関する一定の制約から自由であるとき、またその何かをすることやしないことが他の人びとの干渉から保護されているとき、その何かを為しうる自由な状態にある〉とされています。そこから、〈自由とは、制度が規定する権利と義務の腹蔵体のことを指す〉とされ、〈自由の制限の擁護論は、自由の原理それ自体から生じる〉と主張されています。
〈自由の優先権〉について詳しく見ていくと、〈基本的な諸自由が実効的に確立されうるときはいつでも、経済的な暮らしよさの増進のために自由の削減もしくは不平等な自由を受諾することはできない〉とあります。ただし、〈社会的な情況がそうした基本的な諸権利の実効的な確立を許さない場合に限り、自由の制限は認められうる。だがそのときでさえも、自由の制限は、その制限がもはや正当化されなくなるにいたる道筋を準備するのに必要である範囲でしか認められない。平等な自由の否定論が擁護されうるのは、やがてそうした自由が享受されうるように、文明の諸条件を変革することが必要である場合に限られる〉とあります。
第二節 ロールズの「自由」についての考察
ロールズは、原初状態において無知のヴェールを被ることで、正義の原理を選択することができると述べています。しかし、当たり前のことを指摘しておきますが、無知な人は正しい判断をくだせません。よって、正しい原理に到達できません。
では、何故『正議論』がロールズの言う正義の二原理に至っているのか。それは、ロールズの無知のヴェールは、ロールズにとって都合の良い考えを通し、ロールズにとって都合の悪い考えを遮断するフィルターだからです。
ロールズの『公正としての正義 再説』には、〈われわれは、民主的な市民は自由で平等であるだけではなく、合理的で道理に適ってもいて、誰もが社会の協働的な政治権力を等しく共有しており、そして、誰もが判断の重荷を等しく背負っていると考える〉とあります。この欧米特有の自由主義万歳とデモクラシー礼賛の伝統は、世界史におけるローカルな(日本人には歪に見える)価値観でしかありません。そのローカルな価値観を普遍的な価値観に見せかけること、それが『正議論』でなされていることなのです。
自由の制限の擁護を、自由の原理それ自体から生じさせることは、論理的に不可能です。ですから、自由および自由の優先権も、ロールズのフィルターによって、ロールズの信奉者の価値観に都合の良いように設定されます。そして、ロールズの信奉者は、それが普遍的な価値だとして、他の価値観へ押し付けるのです。 
第十六章 西洋「自由」についての考察

 

前章までで、西洋における自由の代表的な意見について見てきました。本章では、それぞれの自由を考慮し、西洋の自由一般について振り返ります。
第一節 西洋「自由」の定義について
西洋における自由の代表的論者は、それぞれ自身の考える自由について論じています。それらを比較検討してみると、各人が自由に好き勝手な定義を与え、好き勝手に自分の自由は素晴らしいと述べている場合があります。
このような言葉の使い方では、まともな議論が成り立ちません。ですから、自由の定義が、自由という言葉の意味からみて正しい必要があります。各論者の自由の定義が、自由の意味として相応しいことを確かめる必要があるのです。
そこで参考になるのは、アイザィア・バーリン(Isaiah Berlin)の『自由論』です。そこで示されている積極的自由と消極的自由の区別は重要です。さらに、自由の本来の意味は、消極的自由の意味であるという見解は傾聴に値します。この見方は、基本的に正しいと思われます。そのため、消極的自由とは異なる意味で自由を定義している論者の自由は、自由の定義として不適切だと判断できます。
自由意志については、特殊な状況設定の上でしか成り立ちません。意志が自由であるということは、予めその特殊性にとらわれている場合はともかく、そこに居ないのであれば、もしくはそこに入ろうと思わなければ、その定義の妥当性が保障できなくなります。
また、奴隷という概念と対比される意味での自由の意味については、消極的な意味の自由に属するので正しい使用法だと思われます。
第二節 西洋「自由」が称賛語であることについて
自由の定義が消極的な意味でなされているとき、その自由の価値について論じることが必要になります。西洋の自由論においては、自由が称賛語として論じられている場合がほとんどです。そのとき、その自由が、本当に価値あるものであるか否かを判定する必要があります。
例えば、バーリンの言う消極的自由は、自由の定義としては妥当ですが、それが称賛語として用いられているため間違っています。消極的自由を論じているロック・ミル・ハイエクなども、その定義の意味は妥当かもしれませんが、自由が賞賛されているため間違っています。
ただし、自由が奴隷と比較された上で、奴隷ではないという意味での自由と定義されている場合、その自由を称賛語として用いることは理のあることです。このとき、奴隷制そのものを肯定していても否定していても、自由は称賛語として成り立ちます。
第三節 西洋「自由」の相対性を装った絶対性について
自由主義者が、自由を消極的な意味で定義し、称賛語として用いている場合があります。このとき、その自由主義者は、一種の全体主義者でもあるのです。
例えばミルの意見に賛同する自由主義は、他人を害しないかぎり、どのような価値の追求も許されるとされています。しかし、その行為が自由主義そのものに反するものなら、それは認められないのです。自由主義者は、自分の定義する自由を信奉する者以外の自由など、認めないのです。
ハイエクは『致命的な思いあがり』という著作の中で、市場秩序〈競争市場の創りだす自生的で拡張した人間の秩序の擁護者〉と社会主義〈中央当局が人間の相互作用を計画的に整備することを要求する人びと〉の立場を対比させています。前者を自身の立場とし、後者を〈人間はその周りの世界を望みどおりにつくることができるという致命的な思いあがり〉として、徹底的に批判しています。
確かに、この致命的な思いあがりに対する批判は妥当です。ですが、この「致命的な思いあがり」批判を行う市場秩序の擁護者(=自由主義者)の立場は、間違っていると思います。強制を最小にすること、その基準はイギリスとアメリカの伝統であること、そうすると人間は進歩すること。これらは、致命的な思いあがりです。
つまり、「致命的な思いあがり」批判を行うハイエクの立場は、致命的な思いあがりなのです。そのためハイエク批判を行う者は、「致命的な思いあがり批判」批判を行うことになります。
ただし、ここでもう一段階だけ思想の深化が必要です。それは、ハイエク批判を行う者の立場も、致命的な思いあがりかもしれないという可能性です。誤謬性(間違える可能性があること)は人間が避けることのできない条件です。あなたの考えは致命的な思いあがりだけど、私の考えは致命的な思いあがりではない、そういう考えが既に致命的な思いあがりなのかもしれないのです。極論ですが、あらゆる主義主張は全体主義の一つだということも可能なのです。自身の意見が致命的な思いあがりかもしれないという点を考慮しながら言動を行うという立場は、「致命的な思いあがり批判批判」批判に移行します。人間が何かを言ったり行ったりする上で、完全な知識があるという前提に基づいている可能性は、排除できないと思われるからです。
要は、「私は傲慢ではないという傲慢」を持つか、「私は傲慢かもしれないけれども、それでも言論を行うという傲慢」を持つか、そのどちらに与するかということです。
第四節 西洋「自由」の問題点について
西洋における自由は、その言葉の意味から「制限の不在」を表し、「制限の不在」そのものは価値にはなりえません。必要な制限もあり、不必要な制限もあります。善い制限もあれば、悪い制限もあるのです。制限に対して、必要の有無やその善悪を決めるための何かに価値があるのであって、「制限の不在」そのものは価値にはなりえません。
善いと思われる価値を、「制限の不在」を意味する語である「自由」に付加することは、まったくもって不合理です。自由が称賛語である十分な理由が、自由主義者によって提示されていないからです。
西洋の歴史を参照した際に、「制限の不在」を意味する「自由」を正しい言葉遣いで使用している例としては、古代の自由と、ホッブズの自由を挙げることができます。古代の自由は、奴隷ではないという点で肯定されますが、自由すぎる場合は悪しきこととして警戒されています。ホッブズは、自由を自然法と市民法によって制限すべきだと考え、義務に自由より高い優先度が与えられています。この見解は妥当だと思われます。
つまり、西洋「自由」を正しい言葉遣いで使用している者は、自由主義者ではないのです。自由主義者は、西洋「自由」という言葉を、間違って使っているのです。よって、いわゆる自由主義者やリベラリストは、信用できない人たちだと考えられるのです。 
第三部 明治以降の自由 
第一章 飜訳された「自由」

 

第一部では、日本本来の自由を、第二部では、西洋哲学の自由を見てきました。この二つの自由は、日本におけるキリスト教の歴史においてわずかに交錯し、明治維新において強く作用し合いました。日本語の自由が、日本語としての意味をほとんど無視された挙句、「フリーダム」・「リバティ」の訳語として用いられたのです。語源が全く異なる二つの自由が、同じ日本語の「自由」で語られるようになったことで、日本における言語活動に歪みが生じました。
第一節 訳語としての類似性
日本本来の「自由」は「自らに由る」ことであり、西欧の「自由」は「制限の不在」を意味しています。これらの二つの自由は、まったく異なる意味であると思えますが、物事の見方によっては類似性を指摘することができます。
「自らに由る」ためには、それを妨げる妨害がないことが条件の一つであるからです。ただし、「自らに由る」ためには、必要な制限があり、邪魔となる制限があるのです。様々な制限は、個別に検討する必要があるのです。単に制限がなければ、自らに由れると考えるのは、あまりにひどい考え方です。
「自らに由る」という「自由」は、自らに由れるためには、邪魔な制限が不在であるという側面において、わずかな類似性を示すことが出来ます。しかし、この類似性をもって訳語とするのには無理があります。つまり、日本の「自由」を「フリーダム」や「リバティ」の訳語としたことは、失敗だったのです。
第二節 訳語定着の歴史
明治以前にも、キリスト教における自由の受容を遠因とし、翻訳に自由が使用されている例を見つけることができます。例えば、文化七年(1810)に刊行された『蘭語訳撰』では、オランダ語「vrij」に「自由」の語があてられています。
嘉永6年(1853年)の黒船来航以降では、元治元年(1864)に刊行された『仏語明要』に、フランス語「liberte」に「自由」があてられています。
堀達之助(1823?1894)編の慶応二年(1866)『改正増補英和対訳袖珍辞書』には、「liberty」の訳語として「自由」が掲載されています。袖珍はポケットを意味しています。
福沢諭吉は慶応二年(1866)『西洋事情初編』において、〈自主任意〉や〈自由〉の語に対して、〈英語に之をフリードム又はリベルチと云ふ。未だ的当の訳字あらず〉とあります。明治三年(1870)の『西洋事情二編』では、〈「リベルチ」とは自由と云ふ義〉とあり、自由について詳しく解説されています。フリーダムやリバティの訳語として「自由」が定着したのには、福沢諭吉の果たした役割が大きいと言えます。
中村敬太郎[正直・敬宇](1832?1891)は、明治五年(1872)にミル(John Stuart Mill)の『On Liberty』を『自由之理』の表題で訳出しています。これ以降は、日本語の「自由」が、西洋「自由」の翻訳語として認定されたと見なすことができます。そのため明治六年頃から、少なくとも英和辞書の訳語は「自由」に絞られています。 
第二章 穢された「自由」

 

日本語の「自由」が、西洋「自由」の翻訳語として用いられたため、日本語本来の「自由」の意味はほとんど忘れられていきました。自由を声高に叫ぶ論者は、フリーダムやリバティとしての自由を叫ぶのであり、その自由を素晴らしいと称賛するのです。まさに、日本語の「自由」は穢されていったのです。その、あまりに無残な光景が、明治以降から、今現在に至るまで続いているのです。ただし、西洋自由を、日本本来の自由に転用したとき、元の意味はほとんど忘れられましたが、全く忘れられるわけではありませんでした。西洋自由を称賛する論者の中に、ふいに、かすかに、日本語の自由の意味が表れる場合も、少ないながらも見つけることができます。
第一節 福沢諭吉の「自由」
福沢諭吉(1835~1901)は、啓蒙思想家で教育家です。蘭学を学び、江戸に蘭学塾を、後の慶応義塾を開設しました。その後、独学で英学を勉強し、幕府遣外使節に随行して欧米を視察しました。維新後、教育と啓蒙活動に専念し、明六社を設立しました。
福沢諭吉の『西洋事情初編』には、〈本文、自主任意、自由の字は、我侭放蕩にて国法をも恐れずとの義には非らず。総て其国に居り人と交て気兼ね遠慮なく自力丈け存分のことをなすべしとの趣意なり。英語に之をフリードム又はリベルチと云ふ。未だ的当の訳字あらず〉とあります。続編である『西洋事情二編』には、〈「リベルチ」とは自由と云ふ義にて、漢人の訳に、自主、自専、自若、自主宰、任意、寛容、従容、等の自を用ひたれども、未だ原語の意義を盡すに足らず〉とあり、その上で、〈自由とは、一身の好むまゝに事を為して窮屈なる思なきを云ふ。古人の語に、一身を自由にして自から守るは、万人具はりたる天性にして、人情に近ければ、家財富貴を保つよりも重きことなりと〉と述べられています。つまり、〈自由とは何ぞや。我心に可なりと思ふ所に従て事を為すを云ふ。其事を為すや、只天地の定理に従て取捨するのみにして、其他何等の事故あるも、分毫も敢て束縛せらるゝこと無く、分毫も敢て屈撓すること無し〉とされているのです。『西洋事情』において福沢が論じている自由は、ブラックストーン(1723?1780)の『イギリス法釈義(1765?1769)』のように自由を歴史と慣習に根を張るイギリス人の自由として捉えるものではなく、ウェーランドの『道徳科学論』(1835)に示される普遍性を持つ自由として捉えられています。
『学問のすゝめ』では、〈分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。自由とわがままとの界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり〉とあります。その具体例として、〈譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽り放蕩を尽くすもの自由自在なるべきに似たれども、けっして然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず〉と語られています。その上で、〈天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり〉と語られ、〈人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず〉と語られています。ここで重要な点は、福沢は西洋自由を論じていながら、行為が手本となることを指摘することで、ミルの『自由論』の欠陥を克服している地点に達しているところです。
『文明論之概略』では、〈我に全勝の勢を得ずして他の所為を許すの場合に至れば、各自家の説を張て文明の一局を働き、遂には合して一と為る可し。是即ち自主自由の生ずる由縁なり〉とあります。これは、ギゾーの『ヨーロッパ文明史(1828)』に基づいたものです。そこにおいて、〈抑も文明の自由は他の自由を費して買ふ可きものに非ず。諸の権義を許し諸の利益を得せしめ、諸の意見を容れ諸の力を逞ふせしめ、彼我平均の間に存するのみ。或は自由は不自由の際に生ずと云ふも可なり〉と語られています。
『福翁百話』には、〈自由は不自由の間に在りと云う〉とあります。ここでの自由は、〈人々自からこの名誉生命私有の権利を衛るこそ、即ちその人に属する自由なれば、人生の自由と云えば勝手次第に我思う所を行うて妨なきが如くに聞ゆれども、自分の自由を逞うすると同時に他の自由を重んずるに非ざれば、平等の自由は見るべからず。他の自由を重んずるとは自分の勝手自儘を慎しむの義にして、銘々に多少の不自由を忍んで始めて社会全体の自由を得ることゝ知るべし〉と語られています。ここでの自由は、西洋自由というよりは、日本本来の自由について論じられているかのようです。
福沢は「フリーダム」や「リバティ」としての自由を論じているのですが、そこに日本語の自由の意味が混じっています。福沢の述べる自由について、善いと思われる面は日本の自由の意味であり、悪いと思われる面は西洋の自由の意味になっていると思えるのです。それならば、それらの自由は別物として、個別に論じてほしかったと思わずにはいられません。
第二節 中村正直の「自由」
中村敬太郎[正直・敬宇](1832~1891)は幕末・明治の洋学者で教育家です。明六社の設立に参加し、啓蒙思想の普及につとめました。ミル存命中イギリスに留学し、帰国に際して友人より贈られたミルの『On Liberty』を『自由之理』として明治五年(1872)に訳出しています。『自由之理』には、〈英國?ニ歐羅巴諸國ニテ、他邦ノ書ヲ広ク飜譯スル事ヲ務メタリ。コノ書ニ論ズル自由ノ理(又曰自主ノ理)トイフ事ハ、皇國ニテハ、固ヨリ関係ナキ事ナレドモ、歐羅巴諸國ニテハ至要至緊ナルモノト為シテ、常ニ言フ事ナルガ故ニ、コレヲ譯シテオカバ、外國ノ政體ヲ穿鑿スル人ノタメニ、萬一ノ裨補トモナルベシト思ヒ、拙劣ヲカヘリミズ、コレヲ譯シタリ〉とあります。ここで注目すべきことは、中村は、イギリスやヨーロッパの自由について、日本には関係がないことだと認識していることです。ただ外国を知るために、西洋の自由を知っておくべきだと考えているのです。この考えは、正確な判断であり妥当です。しかし、この日本には関係ないはずの自由が、以降の日本を浸食していくことになるのです。
第三節 津田真道の「自由」
津田真道(1829~1903)は、明六社に参加した法学者です。『学者職分ノ評』には、〈故ニ力ヲ尽シテ人民自由自主ノ説ヲ主張シテ、喩ヘ政府ノ命ト雖無理ナルコトハ之ヲ拒ム権アルコトヲ知ラシメ、自主自由ノ気象ヲ我人民ニ陶鋳スルハ、我輩ノ大ニ望ム所ナリ〉とあります。この自由は西洋自由として論じられているのですが、無理か否かを判断した上での自由なので、日本本来の自由の意味も仄見えています。拒むべきときは拒むことを説いているのであり、それ自体は正しいことです。現に、江戸時代の農民は一揆などの手段を用いて、拒むべきときは拒んでいました。しかし、その自由が解放の肯定となったとき、悪用されることは予想できたはずなのです。
第四節 加藤弘之の「自由」
加藤弘之(1836~1916)は、明六社の一員の思想家で教育者です。加藤は、「liberty」の訳語として明治元年に「自主」と「自在」を、明治三年には「不羈」を用いていますが、「自由」が訳語として定着した後は、自由の語を用いています。『国体新論(1874)』には、〈近今ノ制度ハ代理者ノ法ヲ立テ総人民ヲシテ直ニ国事ヲ議セシメズ且ツ大小ノ事悉公議ヲ以テ定ムルノ法ニアラザルガ故、人民公事ノ自由権ハ太古ノ如ク大ナラズト雖モ私事ハ大抵本人ノ自由ニ任スルガ故ニ私事ノ自由権ハ太古ノ制度ニ数倍スルニ至レリ、蓋シ近今ノ制度至当ト云フベシ〉とあります。この時点では、西洋自由を肯定的に論じています。しかし、『人権新説(1882)』では、〈天賦人権とは、妄想論者の説によるに、すなわち吾人人類が人々個々生まれながらにして固有するところの自由自治の権利と平等均一の権利にして、実に造化の賦与するところに係わるものなれば、この権利は他よりあえて犯すをえず、あえて奪うをえざるものなりという〉とあります。この時点では、社会進化論の立場から、西洋自由に対して否定的に論じています。
第五節 板垣退助の「自由」
板垣退助(1837~1919)は、自由党を結成し自由民権運動を指導した政治家です。板垣退助が監修を行った『自由党史』では、「自由」が高らかに語られています。まず[題言]において、〈自由党の主義は一以て之を貫けり、何ぞや、曰く、国家観念によりて調節せられたる個人自由の主義即是なり。抑も人は個人性と社会性との二面を有し、其配合調和によりて甫(はじ)めて一個の完體を為すものにして、其享くる所の自由に於ても、亦た個人自から得る所の自由と、社会団結の力によりて得る所の自由とあり。一は発して遠心力となり、一は約して求心力となる。政治の要は人をしてこの二力抱合の程度を謬らざらしむるに在り〉とあります。この文だけを読めば、この自由は「自(みずか)らに由(よ)る」という意味の日本本来の自由であるかのようです。しかし、この自由は、「リバティ」や「フリーダム」としての自由なのです。そのため[第一章 維新改革の精神]では、〈維新の改革は、たゞに元首統治権の回復のみならずして、亦た実に国民自由の回復なりき〉と語られているのです。そのためこの自由は、やはり底が知れています。[第二章 総理外遊の内訌]には、〈明かに知るべし、自由主義は已に大勢を制して、五畿八道悉く其雰囲する所となれるを。政府党の頼んで纔かに城壘とする所は、唯だ武力と金力あるのみ、勢已に此の如し、海内競ふて自由の二字を寶愛し、独り政治社会に之を慣用するのみならず、浴場に自由湯、自由温泉あり、菓子に自由糖あり、薬鋪に自由丸あり、割烹店に自由亭あり、其他自由講釈、自由踊、自由帽子等、挙げて算すべからず。以て民心向背の一斑を証すべし〉とあります。これでは、この自由が中身の無いことを告白しているも同然です。
第六節 伊藤博文の「自由」
伊藤博文(1841~1909)は内閣制度を創設し、初代総理大臣となった政治家です。『憲法義解』では、[第二十二条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ移住及移転ノ自由ヲ有ス]において、〈而して憲法に其の自由を制限するは必ず法律に由り、行政処分の外に在ることを掲げたるは、此れを貴重するの意を明にするなり〉とあります。〈自由は秩序在る社会の下に棲息する者なり〉ともあります。この自由は、明確に西欧哲学の自由です。
第七節 中江兆民の「自由」
中江兆民(1847~1901)は、『東洋自由新聞』を創刊した自由民権運動の理論的指導者です。
『東洋自由新聞』の兆民の論説には、〈自由の主旨には二種類ある。つまり、リベルテ・モラル[すなわち、心神の自由]と、リベルテ・ポリチック[すなわち、行為(政治)の自由]である〉とあります。その詳細は、〈第一のリベルテ・モラルとは、わが精神や思想が、けっして他のものの束縛をうけず、完全に発達しきって、あますところがないのをいうのである〉とあります。また、〈第二のリベルテ・ポリチックは、「行為の自由」であり、人びとがおのずからしようとするもの、また他人とともにするものは、みなこの中に入る。種類をあげよう。すなわち、「一身の自由」、「思想の自由」、「言論の自由」、「集会の自由」、「出版の自由」、「結社の自由」、「民事の自由」、「政治に参加する自由」である〉とあります。
他にも、〈ことがらによってやり方を規制するのを義といい、事物に応じてその本性を達成するのが自由というものである〉とあります。これは日本の自由の意味に近しいですが、続く意見では西洋自由の意味に近く、〈自由は、もとより干渉をいさぎよしとするものではない。しかし、ことがらによっては、干渉しなければ自由をまっとうできないものもある。こういうものに干渉しなければ、結局、そのことがらに自由をあたえることができなくなるだけでなく、また、自分の自由をまっとうすることもできないばあいもある。だから、干渉してことを処理する。このことを「干渉もまた自由を求める道である」という。ちがうだろうか〉とあります。
『続一年有半』には、〈われわれが目的を選ぶとき、はたして意思の自由があるとすれば、それは何をするのも自由だというのではなく、平生習ってきたものに決める自由があるというにすぎないのである〉とあります。また、〈意思の自由を軽視し、行為の理由を重用視して、平生の修養を大切にすることが、われわれの過ちを少なくする唯一の手段である〉とあります。西洋のおける自由意思の問題について、日本的な考え方を交えて論じられています。
第八節 植木枝盛の「自由」
植木枝盛(1857~1892)は、自由民権論者です。『言論自由ノ論』には、〈自由ニ生長スル所ノ人民ガ国事ヲ論ズルノ自由ヲ得ル、是レ之ヲ真ノ自由ト謂フ也ト〉とあり、西洋の自由について論じられています。例えば、〈言論ノ自由ナルモノハ、吾儕人間ガ相生相養ノ道ヲ為スニ須要ニシテ、智識ヲ開発シ心術ヲ研磨スルニ欠キ難ク、万事ヲ成達スルニ要用ナルベク、言論ノ自由アリテコソ人ノ人タル大徳ヲ全フシ其本分ヲ誤マルコトナキヲ得ベク、人間ニシテ受クルコトヲ得ベキノ幸福ヲ享クベケレ〉とあります。言論の自由により、人は大徳を行い、幸福を受けることができるというのです。
第九節 幸徳秋水の「自由」
幸徳秋水(1871~1911)は中江兆民の門下で社会主義者です。大逆事件で検挙され、主犯として死刑になりました。『社会主義神髄』には、〈それは、ただ「自由の王国」である。社会主義は国家の保護・干渉にたよるものではない。少数階級の慈善・恩恵に期待するものではない。その国家は、人類全体の国家である。その政治は、人類全体の政治である。社会主義は、一面において、うたがいもなく、民主主義(デモクラシー)なのである。自治の制度なのである〉とあります。自由の王国・社会主義・民主主義について、根拠に乏しい礼賛がなされています。
第十節 吉野作造の「自由」
吉野作造(1878~1933)は、大正時代の代表的政治思想家です。民本主義を唱えました。『憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず』には、〈思想の自由、言論の自由を尊重して、人民をして妨げなく各種の意見に接し、その間に自由の選択、自由の判断をなすことを得せしむることが必要である〉とあります。その詳細については、〈いわゆる「自由」とは、ただに法律上の自由ばかりではない、社会上の自由をも意味する。元来、思想・言論の自由に対する圧迫は、ひとり政府よりのみ来ると思うならば誤りである。しばしばまた民間よりも来るものである。政府の圧迫は比較的これを指摘しこれを防御するに易いが、民間の圧迫は、往々輿論のかたちにおいて発現するがゆえに、これを戒むること、時としてはなはだ困難である〉と述べられています。西洋自由が肯定的に紹介されています。
第十一節 北一輝の「自由」
北一輝(1883~1937)は、国家主義者です。二・二六事件に連座して死刑になっています。『国体論及び純正社会主義』には、次のように意志自由論と意志必致論について、北一輝の独特な論理が展開されています。意志自由論は意志の自由とは最も多き内心の必致なりという点において意志必致論と合致し、意志必致論はまた等しく意志の必致とは最も多き内心の自由なりという点において意志自由論と合致す。すなわち、吾人が道徳を行なうは最も多き内心の必致に駆られたるにて、吾人の罪悪を犯すは最も多き内心の自由にしたがいたるなり。人は内心において社会性と個人性とを有す。内心において社会性が最も強盛にして他の個人性を圧して働くときにおいては人はその最も多き社会性の必致に駆られて道徳をなし、社会性はここに自由を観じて意志自由論となる。しかしながら圧伏せられたる個人性はその自由を失うがゆえにこの意味において意志必致論なり。これと同じく、その内心において個人性が最も強盛にして他の社会性を圧して現るる時においては人は最も多き個人性の自由に打ち勝たれて社会性は必致を観じ意志必致論となる。しかしながら打ち勝ちたる個人性はその自由を得たるがゆえにこの意味において意志自由論なり。
第十二節 大杉栄の「自由」
大杉栄(1885~1923)は、社会運動家です。関東大震災直後、憲兵に虐殺されました。『僕は精神が好きだ』には、〈思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ〉とあります。『生の闘争』には、〈よしすでに受け入れているある判断があったところで、さらにみずからの観察と実験とによって、再び判断し正さなければいけない。本当にみずから刻苦して、骨身にまでも徹する、僕ら自身の判断を造り上げてゆかなければいけない〉とあります。その上で、〈この個人的思索の成就があって、はじめてわれわれは自由なる人間となるのだ。いかに自由主義をふり回したところで、その自由主義そのものが他人の判断から借りてきたものであれば、その人はあるいはマルクスの、あるいはクロポトキンの、思想上の奴隷である〉と主張されています。 
第三章 護られた「自由」

 

日本語の「自由」が、西洋「自由」の翻訳語として用いられたため、日本語本来の「自由」の意味は忘れられていきました。しかし、日本本来の自由の正しい言葉遣いをもって、西洋自由の欠陥を指摘する日本人がいました。つまり、護られた日本本来の自由があるのです。その戦いは、戦いとは呼べぬほどに多勢に無勢な戦いでした。ですが、確かに、誇るべき戦いがあったのです。
第一節 山岡鉄舟の「自由」
山岡鉄舟(1836~1888)は、江戸末期から明治の剣術家です。『剣禅話』では、日本の自由が論じられています。例えば、〈病に罹りしときは身体自由ならず〉とあるのは、身体状態の自由を論じています。鉄舟は、西欧自由の欺瞞を的確に見抜き、〈盛に欧州の文明を称揚して大に米国の自由を喝采し〉と指摘しているように、西洋文明をもてはやして、アメリカの自由がよいなどという風潮を嘆いています。ですから、〈汝が文明は何の辺にかある、汝が自由は何の処にかある〉と述べ、西欧崇拝者の言う文明が、いったい何の役に立つのかを問い、日本の自由がどこかへ行ってしまったのかと憂いています。そのため、〈野蛮を視て文明と為し、不自由を自由と誤り〉と述べています。西洋に接した日本人は、野蛮を文明とし、不自由を自由と誤認してしまっているというのです。日本本来の自由の見地からは、西洋自由を自由とするのは、まさしく不自由なことだからです。
第二節 岡倉天心の「自由」
岡倉天心(1862~1913)は、美術評論家で思想家です。米国のフェノロサ(1853~1908)に師事し、英文著書による日本文化の紹介者として活躍しました。岡倉天心は『東洋の目覚め』において、〈自由という、全人類にとって神聖なその言葉は、彼らにとっては個人的享楽の投影であって、たがいに関連しあった生活の調和ではなかった。彼らの社会の力は、つねに、共通の餌食を撃つためにむすびつく力にあった。彼らの偉大さとは、弱者を彼らの快楽に奉仕させることであった〉と述べています。ここで述べられている彼らとは、西洋を指しています。西洋の自由を、個人的な享楽の結果として批判しているのです。ですから、〈西洋は、東洋には自由が欠けているといって、たびたび非難してきた。なるほど、西洋の光栄であるように思われているあの粗末な観念――人ごみをどこまでも押しわけて通るような、肉のついた骨をあらそってたえずいがみあうような――相互の主張によってまもられている個人的権利の観念は、われわれにはない。われわれの自由の観念は、こうしたものよりはるかに高いものである。われわれにあっては、自由とは、古人の思想をそれ自身のなかで完成する力である。真の無限は円であって、線の延長ではない。すべての有機体は、部分の全体への従属をあらわしている。真の平等は、それぞれの機能を十分にはたすことにある〉と述べているのです。この意見は、日本本来の自由に基づいたものです。
第三節 徳富蘇峰の「自由」
徳富蘇峰(1863~1957)は、平民主義や国家主義を唱えた評論家です。『将来の日本』には、〈吾人が先祖の抑圧をこうむりたるは吾人をしてこれをこうむらざらしめんがためなり。すなわち吾人をして自由を得せしめんがためなり〉とあります。この考え方の上では、〈実に自由の世界すなわち平民的の社会はかのルソーが夢想したるごとき質朴野蛮の社会において決して行なうべきものにあらず〉とあり、ルソーの自由と区別されています。また、『家族的専制』では、〈人或は云ふ、専制政体に於ては、自由は独り君主の私有に属す、他は皆奴隷のみと。専制君主果して自由を有する乎、彼が一方に於ける自由は、他方に於て、無限の責任と、恐怖と、懊悩とを意味するを知らずや〉と述べています。ヘーゲル的な自由の考え方に対して、否定的な意見が述べられています。
第四節 清沢満之の「自由」
清沢満之(1863~1903)は、近代の仏教思想家で真宗大谷派の僧です。東西諸思想に通じ、真宗信仰に新たな地平を開きました。『精神主義』には、〈何が修養の方法であるか。ほかでもない、すべからく自己を省察すべきである、大道を知るべきである。大道を知れば、自己にあるものに不足を感じることはないであろう。自己にあるものに不足を感じなければ、他人にあるものを求めないであろう。他人にあるものを求めなければ、他人と争うことはないであろう。自己に充足して、求めず、争わなければ、天下のどこにこれより強いものがあろうか、どこにこれより広大なものがあろうか。こうしてこそはじめて、人間界にあって、独立自由の大義を発揚することができるはずである〉とあります。
第五節 鈴木大拙の「自由」
鈴木大拙(1870~1966)は、近代の仏教学者です。既成の宗派敵対立場を超えて、禅・浄土・華厳などの大乗仏教の諸思想について幅広く論じました。また、禅を中心に欧米に仏教思想を紹介しました。『日本的霊性』には、〈禅などでいう心は、もっともっと深い意味のものである。分別心でも、思慮心でも、集起心でもない。これを無分別心と呼んでいるが、分別を超起したところに働く心である。分別心または分別意識というが、こういうものの底に無弁別心が働いていると自分は言うのである。この無分別心の働きを見ないで、ただ分別心だけを見ている時に、われらは本具底の自由を失うのである〉とあります。『無心ということ』には、〈自由は人間としてのわれらがその本然に帰るとき自ら出て来るところのものである〉とあります。『自由・空・只今』には、日本の自由と西洋の自由が、次のように正確に論じられています。
まず自由という文字とその本来の意義について少しく弁じてみたい。
元来自由という文字は東洋思想の特産物で西洋的考え方にはないのである。あっても、それはむしろ偶然性をもっているといってよい。それを西洋思想の潮のごとく輸入せられたとき、フリーダム(freedom)やリバティ(liberty)に対する訳語が見つかれないので、そのころの学者たちは、いろいろと古典をさがした末、仏教の語である自由を持って来て、それにあてはめた。それが源となって、今では自由をフリーダムやリバティに該当するものときめてしまった。
西洋のリバティやフリーダムには、自由の義はなくて、消極性をもった束縛または牽制から解放せられるの義だけである。それは否定性をもっていて、東洋的の自由の義と大いに相違する。
自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない、「自(みづか)ら」または「自(おのづか)ら」出てくるので、他から手の出しようのないとの義である。自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、制裁もなく、自(おのづか)ら出るままの働き、これを自由というのである。
『このままということ』には、本来の自由というものについて、大拙の考えが示されています。
われら人間は、こうして生きてゆくとき、なんとなく束縛を四面に受けている、政治的にも、経済的にも、心理的にも、物理的にも、なんだか不自由を感じ、不自然な思いをする。これがわれらをして一般的に不安を感ぜしめるのである。これを離れて自由に、創造的に、自主的に、一生を過ごしたいとねがう。必ずしも悉くがこのように自覚しなくても、一種の煩悶・懊悩・憂心・不安の念を抱くのが、人生の常である。それで何かの方法で、これらの制約から離れたいとする。これが第一段である。それが、師匠につくなり、自分で考えたりなどして、何かの知解覚悟があったとする。これが第二段。次には、その知解なるものに執著して、「自分にはこれがわかった、これが悟れた」などいう意識が出てくる。そうすると、その意識に執著しようとする。最初の執著とはちがうが、その執著たるに至りては、同格である。これがまた禍いの基となりて、本来の自由を拘束する。それで第三段として、この執著からまた離脱しなくてはならないのである。そうしないと本当の自由、本当の自主性を体得することが不可能である。
このようにして、第三段をも乗り越えることができると、ここにはじめて「自由の分」、「自由独立の分」ありということになる。
『「自由」の意味』には、本来の自由を積極的なものとして、西洋の自由を消極的なものとする見方が示されています。
「自然」と同じく「自由」の自の字の意味を、はっきりはっきり知っておかなくてはならぬ。この自には自他対立の意義を含まないで、ただ一面の自である、すなわち絶対性を持つ自であることを心得ておくべきだ。「自由」は、この絶対の自がそれ自らのはたらきで作用するのをいうのである。それゆえ、ここには拘束とか羈絆とか束縛などという思想は微塵もはいっていない。すなわち「自由」は、積極的に、独自の立場で、本奥の創造性を、そのままに、任運自在に、遊戯三昧するの義を持っている。
「自由」は、今時西洋の言葉であるフリーダムやリバティのごとき消極的・受身的なものではない。はじめから縛られていないのだから、それから離れるとか、脱するなどいうことはない。
『日本再発見』には、〈「自由」も、近時一般にフリーダムまたはリバティの義に使われるが、本来の意義と大いに逕庭あることを認識しておかなければならぬ〉とあります。
『明治の精神と自由』には、〈「自由」とは、自らに在り、自らに由り、自らで考え、自らで行為し、自らで作ることである。そうしてこの「自」は自他などという対象的なものでなく、絶対独立の「自」――「天上天下唯我独尊」の我である、独であり、尊である――であることを忘れてはならぬ。これが自分の今まで歩んで来て、最後に到達した地点である〉とあります。
第六節 柳宗悦の「自由」
柳宗悦(1889~1961)は美術評論家で宗教哲学者です。
『工藝文化』には、〈自己を主とする自由は真の自由であろうか。それは自己に拘束される新たな不自由ではなかったろうか。自己を越えずば真の自由はないともいえよう。自己への執着は自己への束縛ではないか〉とあります。この考え方の基で、〈不自由というのは人間の立場からの嘆きに過ぎない。自然の側からすると、人間が不十分により働けないだけに、自然が自由に働く余地が出るのだと説いていい。人間が不自由にさされるのは、彼の過ちが出ないように抑えてくれるからだともいえる。それだけ過ちのない自然が加担してくれるのだともいえる〉と述べられています。
『工藝の道』では、〈だが私たちには伝統を破壊する自由が与えられているのではなく、伝統を活かす自由のみが許されているのである〉とあります。つまり、〈放縦は自由ではない。自由は責任である〉というのです。これは、明確に日本本来の自由を指しています。
『茶道論集』の[寂の美]には、〈今日ほど、「自由」の二字が乱用されている時代は少く、従って誤用されている場合が極めて多い。自由主義などというが、それ自身自家撞着した言葉で、主義ともなれば既に不自由ではないか〉とあります。〈近代で用いられる自由という言葉には、「誰からも拘束を受けぬ自分」という意味がありがちで、それでは「他に対する自」で、まだ二元に縛られた姿に過ぎまい〉というわけです。ですから、〈我儘と変りのない自由では、決して自在ではない。むしろ他から拘束されても、意に介さなければ自由であるし、他からの拘束を一切拒けても、自分に縛られるなら、それこそ不自由ではないか。それゆえ、仏教は自他の二を超えることを要請する。これのみが無碍を得る道だからである〉と語られています。
他にも、『美の浄土』には〈本当の自由は、いつも自由主義からも解放されたものでなければなりません〉とあります。『不二美』には、〈自由への道に、自力他力の二道がある。自力は個人の道、他力は大衆の道と云って、よい。他力は非個人的故、伝統と深い結縁を生じる〉とあります。『安心について』には、〈自由とは、他人から自由になる事を意味するよりも、何より先ず自我から自由になる事である。不自由とは、他人の奴隷になる事よりも、自分自身の奴隷になる事を意味する。常に自分の主人であればよい〉とあります。『無謬の道』には、〈「自由」という言葉は、今は大変乱用されておりますので、内容が、あまり確かではありません。私は之を「一切の執心を離れる」意味にとりたく、何事にも「こだわらぬ心」と云ってよいと思います〉とあります。
第七節 西田幾多郎の「自由」
西田幾多郎(1870~1945)は、日本近代の代表的哲学者です。西田哲学と言われる独自の哲学大系を打ち立てました。西田の自由についての論考は、当初は西洋自由における積極的自由に添って行われています。しかし、思索が進むにつれ、日本本来の自由の深化へと向かっています。
『善の研究(1911)』には、〈ただ或る与えられた最深の動機に従うて働いたときには、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、これが自由の真意義である〉とあります。〈ただ実在の統一が内に働くときにおいて、われわれは自己の理想のごとく実在を支配し、自己が自由の活動をなしつつあると感ずるのである〉ということです。〈ただ観念成立の先在的法則の範囲内において、しかも観念結合に二つ以上の途があり、これらの結合の強度が脅迫的ならざる場合においてのみ、ぜんぜん選択の自由を有するのである〉というわけです。
この時点での西田の自由では、〈我々が或る理由より働いたときすなわち自己の内面的性質より働いたとき、かえって自由であると感ぜられるのである。つまり動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でた時、最も自由と感ずるのである。しかしそのいわゆる意志の理由なる者は必然論者のいうような機械的原因ではない。われわれの精神には精神活動の法則がある。精神がこのおのれ自身の法則に従うて働いたときが真に自由であるのである。自由には二つの意義がある。一は全く原因がない即ち偶然ということと同意義の自由であって、一は自分が外の束縛を受けない、おのれ自らにて働く意味の自由である。即ち必然的自由の意義である。意志の自由というのは、後者における意味の自由である〉とあります。ここでは、カントの自由との類似性が認められます。ですから、〈それで意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、かえって自己の自然に従うが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、よく理由を知るが故に自由であるのである。我々は知識の進むとともに益々自由の人となることができる〉と述べられているのです。また、〈真の自由とは自己の内面的性質より働くといういわゆる必然的自由の意味でなければならぬ。全く原因のない意志というようのことはただに不合理であるばかりでなく、かくの如きものは自己においても全く偶然の出来事であって、自己の自由的行為とは感ぜられぬであろう。神は万有の根本であって、神の外に物あることなく、万物悉く神の内面的性質より出づるが故に神は自由である、この意味においては神は実に絶対的に自由である〉とも語られています。
『自覚に於ける直観と反省(1917)』では、〈自由ということは肯定の中に否定を含み、否定の中に肯定を含むことである〉とあります。この時点における自由には、ヘーゲルの自由との類似性が認められます。
『場所(1926)』においては、〈唯、真の無の場所に於てのみ自由なるものを見ることができる。限定せられた有の場所に於て単に働くものが見られ、対立的無の場所に於て所謂意識作用が見られ、絶対的無の場所に於て真の自由意志を見ることができる〉とあります。無の場所については、〈自己同一なるもの否自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むものすら之に於てある場所が私の所謂真の無の場所である〉と語られています。また、〈述語面が主語面を離れて見られないから、私は之を無の場所というのである〉とも語られています。この時点の西田の自由において、日本本来の自由の用法との接近が認められます。
『一般者の自覚的体系(1930)』においては、〈自己が自己の底に自己を超越するということは、自己が自由となることである、自由意志となることである、自由意志とは客観的なるものを自己の中に包むことである〉とあります。さらに、〈真に自由なる自己は自己自身の内容を有たねばならない(内容なき意志は意志ではない)、しかもこれを自己自身の内容として内に包むものでなければならない、即ち自己自身の於てある場所となるものでなければならぬ〉とあります。西洋における積極的自由と、日本の自由の混合的な意見が見られます。
『永遠の今の自己限定(1931)』では、〈真に無にして自己自身を限定するものというのは、自由なる人というべきものであろう。絶対の無によって限定せられるものは自由なる人という如きものでなければならない〉と語られています。ここにおいて、仏教において論じられてきた日本の自由に到達したといえます。
『日本文化の問題(1940)』では、〈創造に於て、人間は何処までも伝統的なると共に、過去未来と同時存在的なるものに、即ち永遠なるものに、何物かを加えるのである。新しく創造せられるものは、過去のものに同時存在的に生ずるのである。そこに真の人間の自由があるのである〉と語られています。自由が、日本本来の自由として論じられています。
『場所的論理と宗教的世界観(1945)』には、〈自己自身の本質から働くこと、自己自身の本質に従うことが自由と考えられる〉とあります。その詳細は、〈絶対否定即肯定的に、かかる逆対応的立場に於て、何処までも無基底的に、我々の自己に平常底という立場がなければならない。而してそれが絶対現在そのものの自己限定の立場として、絶対自由の立場と云うことができる〉と語られています。この自由は西洋の自由と区別され、〈此に私の云う所の自由は、西洋の近代文化に於ての自由の概念と対蹠的立場に立つものがあるのである〉と述べられています。ここにおいては、〈私の平常底と云うのは、我々の自己に本質的な一つの立場を云うのである。我々の人格的自己に必然的にして、人格的自己をして人格的自己たらしめる立場を云うのである。則ち真の自由意志の立場を云うのである〉と語られています。
西田の自由に対する論考は、西洋自由そのものの考察とも思える立場から始まりながら、最終的には西洋自由とは区別できる、日本の自由に到達しているのです。
第八節 九鬼周造の「自由」
九鬼周造(1888~1941)は哲学者です。ヨーロッパに留学して実存哲学を学び、解釈学的手法を用いて日本文化を究明しました。『日本的性格』には、〈西洋の観念形態では自然と自由とはしばしば対立して考えられている。それに反して日本の実践体験では自然と自由とが融合相即して会得される傾向がある。自然におのづから迸り出るものが自由である。自由とは窮屈なさかしらの結果として生ずるものではない。天地の心のままにおのづから出て来たものが自由である。自由の「自」は自然の「自」と同じ「自」である。「みづから」の「身」も「おのづから」の「己」もともに自己としての自然である。自由と自然とが峻別されず、道徳の領野が生の地平と理念的に同一視されるのが日本の道徳の特色である〉とあります。実に見事な日本の自由の説明です。
第九節 小林秀雄の「自由」
小林秀雄(1902~1983)は、近代批評を確立した評論家です。
『歴史と文学』には、〈封建制度は、人間の自由を拘束したという。だが、この拘束の下に、山本常朝が、どんなに驚くべき自由を掴んだかは、歴史家は見逃してよいのでしょうか。彼の体得した自由は、現代の講壇歴史家が、社会制度と照し合わせて考えている様な自由とは、同日の談ではない。お月様とすっぽん位の違いはあります〉とあります。ここで語られているのは、山本常朝の『葉隠』における、〈毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりてゐる時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり〉という箇所のことです。見事に日本の自由をとらえています。
『自由』では西洋の自由について、〈リバティーは市民の権利だ。だが、フリーダムという言葉は、そういう社会的な実際的な自由を指さない。それは、全く個人的な態度を指す。フリーダムとはもともと抽象的な哲学的な語であって、フリーダムが外部から与えられるというようなことはない。与えられたリバティーというものを、いかに努力して生かすかは、各人のフリーダムに属する〉と述べています。
『常識』においては、〈そういう主義を発明し、実行に移してみて、苦労した国民にとっては、自由主義も民主主義も、恐らく、思想や知識として理解されているというより、道徳として感じられているであろう。彼等に「行過ぎ」という言葉がわからないのは、うかうかしていれば、行過ぎてしまう道徳などというものが理解出来ないからだ、と私は思う〉とあります。 
第四章 現在の日本の「自由」

 

現在の日本において、自由は素晴らしいものとされています。少なくとも、そのような意見が大多数であることは間違いありません。そして、その自由は、リバティやフリーダムとしての西洋自由のことなのです。
ここで忠告しておきますが、西洋自由を素晴らしいという者、自由主義者やリベラリストを名乗るものを、安易に信用してはいけません。なぜなら、その人は論理的に間違っている、もしくは意図的に卑劣であるという可能性が考えられるからです。
現在の日本の状況を省みるに、自由がまずもって西洋自由を意味し、それが称賛語として通用している状況において、日本語本来の自由の用語法に戻すことは極めて困難です。ですから、「自由」という言葉を日本本来の意味で使用するようにしようなどとは言いません。ただ、「自由」という言葉の意味しているところを正確に判断すべきだと、不遜にも指摘しておきたいのです。
現在の日本、および現在の国際社会においては、「自由」を巡る言葉づかいにおいて、その人間の程度を知ることができるのです。 
終論 言葉という「自由」

 

私が生まれてから今まで、日本での「自由」は、「フリーダム」や「リバティ」としての「自由」でした。世間では、「フリーダム」や「リバティ」としての「自由」が、素晴らしいものだと語られていました。
私は、そのことが全く理解できませんでした。なぜ「自由」が素晴らしいのかが分からなかったのです。自由主義者やリベラルを名乗る人の著作を読んでみても、なぜ自由が素晴らしいのか納得できる理由は提示されていませんでした。それどころか、自由を賛美する人の考えは間違っているとさえ思えたのです。
そのため、日本史における「自由」と西洋史における「自由」を参照し、考察を行いました。その結果、日本本来の自由は、正しい言葉づかいがなされている言葉だということが分かりました。それに対して、西欧哲学の自由は、称賛語としてその根拠が足りていないことが分かりました。そして、現在の日本の自由は、正しい言葉遣いを歪ませる、極めて不適切な言葉となっていることが分かりました。
かつての日本では、ただ自分自身に基づいているだけの自由は、我侭勝手として非難されてきました。しかし現代では、自分を歴史や伝統から解放し、自分が自身にのみ基づいている自由を称賛する場合すらあるのです。このことは、時代が進むと人間は進歩するということが、間違った考えであるという一つの証拠となっています。
自由という言葉の考察により分かったことは、言葉という自由は、究極的には、自分にはないということです。言葉を自由に使いこなせるということは、その言葉を可能にした言葉の歴史があるということです。その歴史において、正しい言葉遣いの伝統があるため、私たちは、言葉によって、自由に表現を行うことができるのです。
そのため、「自由」という言葉についても、正しい言葉づかいを行うべきだと思うのです。それが、言葉という「自由」に繋がると思うからです。 
 
ホッブズ『リヴァイアサン』の人間論

 

 欲望機械と人工機械人間  
第一節動物機械論から人間機械論へ

 

一、国家は巨大な人工機械人間である
人間機械論と言えぼ思想史的にはフランス唯物論のラ・.メトリが著わした『人間機械論』が有名です。彼は人間を無数の発条(ぜんまい)の組み合わせとして説明しました。ホッブズ(1588〜1679)は、社会契約論であまりに名を轟かせてしまって、人間機械論の元祖とLては忘れられがちです。レかし私に言わせれば、人間機械論としてもホッブズの方がはるかに重要です。
ホッブズは人間を欲望機械として捉えています。ホッブズの場合は、人間が機械であるばかりでなく、コモンウェルス(国家)も機械です。しかもコモンウェルスは機械であるばかりでなく、人工的な機械人間でもあるとしたのです。彼は『リヴァイアサン』(1651)を著わしましたが、この題名は『バイブル』.の「ヨブ記」に登場する怪獣の名前から採りました。これは神が創造された巨大た怪獣に倣って、人間がコモンウェルスという巨大な人工機械人間を造ったのだという譬えなのです。ホッブズの社会契約論を正しく解釈する為にも、個々の人間が欲望機械であり、国家が一個の人格を持つ巨大な人工機械人間であることを押さえておくことが決定的に重要です。
二、生体も国家も同じように機械として捉えられる
人間や国家が機械だというと奇異に感じられるかも知れません。今日の常識では、人間は生物であって機械ではありませんし、国家も社会組織であって機械ではないからです。ホッブスの時代ですと自動で動く複雑な仕組を持った装置としては「生命体」もオートマシソ(自動機械)に含まれていたのです(『リヴァイアサン』序説、53頁上、頁数は中央公論社版『世界の名著28』による)。逆に言いますと時計のような自動機械も動物に含まれます。機械概念や動物概念自体が今日とは違ったパラダイムで使用されているのです。重要な思想が語られるときには、その思想体系に固有のパラダイムが展開しています。そのことを無視して、読み手が自分自身のバラダイムに合わせて解読してしまいますと、極端な誤読に陥ることになるのです。『リヴァイアサン』にしても『資本論』にしても百人百様の読まれ方をされているのが実情です。
最近、人間機械論が盛んに唱えられるようになりまLた。自然科学分野の人間論では既に主流だと思われます。もちろんコンピュータ(電子頭脳)が急速に発達し、ロポツト技術が長足の進歩を遂げたことによります。頭脳及び身体をメカニックなシステムとして理解することができれぼ、その知識をロポット製作に応用できる理屈です。それに自動機械の発達に伴い、人間と機械の新Lい合理的な関係を模索する視点が重視されています。マン・マシンシステムと呼ばれるもので、これを対象にする分野を人間工学と言います。
また分子生物学の分野が発達し、高分子を部品にした機械システムとLて細胞を理解することも可能になってきたのです。その応用分野としては遺伝子工学があります。遺伝子操作によって品種改良を行ったり、新しい繊維や薬品の原料を開発する技術が日進月歩の勢いを示しています。これは生物機械論ですが当然人間機械論の基礎に置かれます。
三、デカルトの動物機械論
ホッブズが人間を欲望機械と捉える背景に、デカルトの動物験械論があります。デカルトは、動物を内燃機関を持つ自動機械であると見なしたのです。普通機械と言えば人工的なもので、動物は自然に増殖するものだから機械ではないと思われるかも知れません。ところが超越的な創造神を信仰していますと、神が造られた非常に精巧な機械であると見なすことができるのです。それじゃあ人間も神によって造られた機械じゃないかと疑問になります。ところがデカルトは人間だけは別だと主張したのです。
それはいかに精巧に造られた機械でも単純な自動応答ならできるだろうが、状況を判断して、会話を交すことはできないだろうという理由からです。同じ理由で動物も人間の言葉の真似はできても、機械的な応答だげで、状況判断や価値判断を伴う会話は決してできないというのです。だから人間も身体だけ取れぼ、動物と同じで機械と見なす事ができます。でも身体的な欠陥から言葉が不自由な人間でも状況に応じた会話や価値判断を示すことができるので、人間だけは機械ではないと断定したのです。(デカルト『方法序説』)
四、デカルトによれば、言語能力を持つのは身体ではなくて、実体としての霊魂である
このデカルトの判断は、人の思考は身体が行っているのではないことを意味します。動物の知能が発達して会話が自由にできるようになるとは考えられないと言うわけですから、当時解剖学が発達しまして、人間と他の動物を比較しますと外見的にはかなり違っていても、身体の構造はほとんど異ならないことがわかりまLた。脳髄だって大きさは猿に比べて少し大きいだけで、それだけで言語能力ができるとはとても考えられないと思われたのです。
言語能力がどうLて人間だけに備わったのかという疑問に対して科学的に解明することができませんでした。『バイブル』では神がアダムに動物たちに対する名づけの能力を与えたとあります。これをアダム語と呼びます。べーコンは言語能力の付与を認識能力の付与と受け止めています。そこで神が創造され、隠された自然の秘密を人間が暴くことを、神の創造を讃えることとして、科学の発達を宗教的にも意義づけたのです。デカルトは身体と絶対的に区別される実体が身体に入っているから、言語能力があるのだと主張したのです。
その実体とは身体と絶対的に区別されるのですから、非物質的な霊魂だということになります。
五、疑っている以上、疑っている私は存在する
意識主体としての霊魂とは「考える私」つまり自我を意味します。デカルトは、身体に依存しないで、むしろ身体に先立って自我が絶対確実に存在する事を論証Lました。その方法が「方法的懐疑」なのです。先ず彼は絶対確実なものから出発しなけれぼ、真理の体系は演緯できないと言明します。その為には少しでも疑わしいものは真理とは認めないことにしようと言います。現実的な事物ぱ、錯覚や夢も同様に本当らしく思える事があるのでひとまず疑わしいとします。数学的な論証もいずれ誤りが発見される可能性がないとは言い切れないという理由を挙げて疑います。このように疑うことができる全てを疑った後で、疑い得ないことが一つある、それは私が疑っているという事実だと気付いたのです。これは現に疑っているのだから疑えないという道理です。そこで「疑っている私」は絶対確実に存在する真理だというわけです。
六、疑っている不完全者は、完全者(神)無しには存在できない
そこでこの「疑っている私」即ち「考える私」の存在は、ただ疑っている事実だけから証明されたのですから、他の疑わしい全てのものに依存しないで、他の疑わしいものに先立って存在する筈だという帰結が導かれたのです。だから身体なしでも「考える私」としての自我、即ち霊魂は存在することになったのです。ただし「疑っている私」は不完全な存在です。もし完全な存在なら疑う必要もないでしょうから。そこで不完全な存在は完全な存在である「神」に依存している筈だということになり、「神」の存在が論証されます。
この論証の仕方は、実は、既にとっくの昔にアウグスチヌスが懐疑主義批判で行っているのです。懐疑主義者たちはなんでも疑って真理など無いと言っているが、疑っている自分が存在することは否定できないだろう。そしてそうした自分は疑っているのだから不完全な存在で、完全な存在である「神」によって存在を支えられているじゃないかと指摘していたのです。
デカルトはさらに不完全な存在者は、不完全なのだから完全な存在者について考え及ばない筈なのに、完全者である「神」の観念を持っているのは、自分で考え付くわけはないから、きっと神が先天的に神の観念を置き入れたに違いないとして、回りくどい神の存在証明もしています。この神観念が生得観念であるというデカルトの論証をロックは否定して、「全ての観念は経験から」というイギリス経験論の立場を確立Lたのです。
七、では「私(コギト)」はどんなメカニズムで疑うことができるのか?
ところで「考える私」は「私が疑っている」という事実から自明のごとく論証されたのですが、果たしてこの論証は疑問の余地の無いものでしょうか。「私が疑っている」という命題には初めから「私」が含まれていますから、「私」の存在は疑い得ないものとして最初から前提されているわげです。その結果「私」の存在は疑えないと言っても、同義反復でしかありません。「私」の存在は論証すべき内容たのですから、
前もって前提してはならないのです。方法的懐疑を掲げながら、実際は独断論でしかないと言わざるを得ません。ホッブズにとっては、「私が疑っている」という「思考」の事実からは、思考主体として自我が実体的に存在するとは言えないのです。
「私が疑っている」ということが事実だとしたら、どのようにしてそのような思惟活動が行われているのかが明らかにされなければならない、とホッブズは考えたのでしょう。つまり「私」の存在の内容を思考のメカニズムを解明することで示すべきだという立場です。そうでないと「私」がどうして疑ったりすることができるのかが、一向に明らかになりません。なにしろデカルトの論証した「私」は物質と絶対的に区別される精神的実体としての霊魂ですから、霊魂がどうして思考することができるのかは決して対象化できないのです。
デカルトは心の主座は、脳髄のてっぺんの松果腺にあり、そこに全身からの情報が体液の循環によって齋されるので、感覚を素材にした思考活動ができるとしています。ではそれらの感覚素材に対して霊魂はどのようなメカニズムで思考できるのでしょう。また霊魂は身体に依存しなくても存在できると言うのですから、身体から分離した状態でも考えることができる筈です。その時はどのようなメカニズムで何を思考できるのでしょう。霊魂は物質とは絶対的に区別されていますから、物質のように空間的に構造を成すとは考えられないのです。それでは人間の思惟の対象にはなり得ません。霊魂が考える主体なのは、霊魂の存在を前提したとしたら、それが考えているという事実から自明と言えるのであって、どのような仕組で考えることができるのかに答えるのは原理的に不可能なのです。
ホッブズは名指しのデカルト批判は行っていません。しかし人間論の展開全体が、思考過程を物質的な運動として説明しています。そして思考する主体として、何か物質的な思考過程とは別の精神主体の存在は全く想定していません。その上『バイブル』解釈でも、『バイブル』の中に出てくる、霊魂を実体的に捉えて、それが身体に出入りするように取れる表現を総べて比喩的に解釈すべきだとしています。ホッブズの課題は、動物機械がいかに発達しても言語活動が出来るようになり得ないとするデカルトに反論して、動物機械論を人間機械論にまで発展させることにあったのです。 
第二節 イマジネーションの運動としての認識過程

 

一、イマジネーションの運動
ホッブズは人体が認識するメカニズムを「イマジネーション」をキーワードにして説明Lます(『リヴァイアサン』〈『世界の名著』第一部、人間について、第二章、イマジネーションについて60頁上)。外界からの感覚刺激は、風に吹かれて水面に起こった波は風が止んでもしばらくは止まないようにイマジネーション(心像)を残します。イマジネーションは「衰えゆく感覚」なのです。このイマジネーションは時がたつにつれて衰えていくという面から見れぱメモリィです。脳裏には様々なイマジネーションが犇いているわけです。
そしてイマジネーション自体が互いに似ているとか、正反対であるとか、継起的になりやすいとか、その他様々な連想で結びついたり、組み合ったり、離れたりするのです。その状態が心の状態だと考えているわけです。ですから「あらゆる観念は経験から」というイギリス経験論の立場が明確に主張されています。またイマジネーションは外的刺激によって造られ、自ら運動する主体ですから物質として捉えられています。この物質的な心的過程とは別に精神的実体があるとは全く想定されていません。もちろんここまでは動物にも共通していますから、当然ですが。
二、アニマ(霊魂)の正体
思考に関Lては「熟慮」まで動物に認めます(第六章、98頁)。脳裏で一つのイマジネーションが生じますと、それに引き続いて別のイマジネーションが生じます。これが連想です。初めのイマジネーションが強い場合ぱ、それに関連したイマジネーションが生じるわけです。そこに関連性が明らかな場合は「規制された思考」と呼びます(第三章、67頁)。
特に欲求や恐怖を伴うイマジネーションは強烈で永続性があります。かつての同様の状況が思い浮かんで、それに対処する為の様々な手段が思い浮かぶのです。それでホッブズは、予見、慎慮、知恵、意見等を動物の能力とLて認めています。物事が行われるまでか、不可能とわかるまで継続する意欲、嫌悪、希望および恐怖の総計を「熟慮」と言い、獣もまた熟慮すると主張しているのです。そして熟慮におげる最後の欲求が「意志」だとしたのです。こうして動物を意志的行為の主体とLて認めました。だから動物は意志的行為の主体としてアニマを持ちます。
三、ヴァイタルな運動とアニマルな運動
ホッブズは動物の運動をヴァイタル(生命的)な運動とアニマル(意志的)な運動に区別しています(同上、第六章、89頁)。ヴァイタルな運動の方は血行、脈拍、呼吸、消化、栄養、排泄等の過程です。これにはイマジネーションは不要です。これに対してアニマルな運動は意志による運動ですから、予めイマジネーションに基づいて行います。アニマルな運動の場合は、行為を開始する前に行為の端緒になる運動がイマジネーションの連結運動として体内で行われると仮定しています。この運動を「努力(effort)」と呼びます。例えば、獲物を見つけた狼が脳裏で獲物に向かっていく動作を思い浮かべます。脳裏で対象獲得動作を一応予行演習しているわげです。つまり意志とは、動作に入る前にその動作をイマジネーションのレベルで行うことなのです。
四、アニミズムの脱構築
何故そんな事をホッブズは考えるのでしょうか。きっと意志の主体が先ずあって、それが様々な行為を命じるという捉え方を退けているのでしょう。それに「アニマ」というのは「霊魂」のラテン語です。「アニマル」は「動物」を意味する英語ですね。っまり動物は霊魂を持っているというヘレニズムの伝統が、「アニマル」という言葉には籠もっているのです。デカルトは動物を機械論的に説明することによって、動物にアニマを認めなくてもよいように処理してしまったのです。これに対して霊魂=アニマをイマジネーションの運動という物質的な過程として捉え返したホッブズは、動物機械論に立ちながら動物の意志的行動をアニマルな活動として認めたのです。
これは一見、ヘレニズム的伝統の継承のように見えますが、ヘレニスムで.ぱアニマ(プシケー)ぱ同時に生命を意味していました。意志というのは派生的な意味に過ぎなかったのです。ところがホッブズはアニマルをヴァイタルに対置することによって、アニマルを「意志的」という意味に限定Lています。またヘレニズムではアニマはそれ自体自然的な元素でした。デカルトはこれを精神的実体と捉えたので、動物には認めません。ホッブズは、アニマの活動をイマジネーションの運動として物質的に説明することによって、動物にも認め、これを一つの根拠に人簡の精神的活動も物質的過程として説明するつもりなのです。
ホッブズはヘレニズムのアニミズム(霊魂万有説)的伝統をいったん解体し、かなりずらして継承しているのです。このように解体した上で、ずらしながらも何とか形は保持して、現代的に活かして継承する事を、デリダのタームではディコンストラクション(脱構築)と言うようです。
ホッブズは脱構築が巧みなのです。社会契約論は元々はもっと民主主義的な内容で主張されていたのですが、それを脱構築して専制的な主張の合理化に使ったのです。そこが読めないと、ホッブズを人民主権の民主主義的思想家のごとく正反対に誤読してしまうようなホッブズ研究のオーソリティが現れることになります。その人が天下のNHKの市民大学講座で、堂々と、ホッブズは民主主義思想家です、平和主義者です、良心的徴兵拒否思想の元祖です、と感動的に解説するのが、日本の現実の一つなのです。(田中浩『近代国家と個人ーデモクラシー思想の変遷ー』NHK市民大学テキスト)。
五、欲求の対象は当人にとっての善である
この努力がそれを引き起こす対象に向かう場合には、欲求(appetite)とか意欲(desire)とか呼ばれます。逆に努力が対象から離れるために為されるときには嫌悪と呼ばれます。愛は意欲が具体的な対象に向かっている場合で、憎しみは嫌悪が具体的な対象に向かっている場合にあたります。そこでブロタゴラスのような相対的な善悪説が帰結します。意欲や欲求の対象は、衆人にはどんなつまらないものであれ、当人にとっては善なのです。そして憎悪や嫌悪の対象は、衆人にはどんな素晴らしいものであっても、当人にとっては悪なのです。善悪はあくまで当人との関係において相関的に成り立つのです。それ自体で善いものとか悪いものとかは一切認めないのです(第六章、91頁)。
欲求の対象に対しては期待をもって眺めます。この欲求している状態はだから対象に美を感じている状態なのだ、とホッブズは語ります。更に対象の享受によって欲求を充足しつつある状態が歓喜なのです。これらの心の運動は、脳の中に一定の場所があって、そこで感覚によって造られたイマジネーションが運動していると考えられます。この運動が、様々な心の動き並びに情念の実体なのです。ホッブズは、生理的・感覚的な状態と心(あるいは魂)を区別するのは簡違いだと考えたのです。
それに善悪、美醜、快・不快のレベルは欲求レベルであって、動物でもこのレベルの情念を抱くのです。ホッブズは次のような情念を動物も抱くと指摘しています。希望・絶望・恐怖・勇気・怒り・信頼・不信・憤慨・仁慈・強欲・野心・小心・大度・吝薔・親切・自然の情愛・愛の情念・復讐心等です。どこまで認めてよいの.か速断は禁物です。でも子供の頃、よく学校から鑑賞に行ったディズニーの動物映画を想い出して懐かしくなります。動物の心の世界を大幅に認めることは、霊魂を人間固有のものと考えるデカルトに対する強烈パソチだと、ホッブズはほくそ笑んでいたかも知れません。これが同時に人間の理性が欲望機械の自己制御機能に過ぎないという論点の伏線になっているのです。
アニマルな運動はヴァイタルな運動に規定されます。食欲、飢え、渇き等を充たそうとアニマルな運動を開始する場合に、ヴァイタルな活動を維持しようとする動機が働いています。快・不快や善・悪にしても生の必要からくる欲求を充足させるかどうかに、最終的な判断の基準が置かれる場合が多いのです。生体は環境の中で自己制御を行いながら環境との質料交換・熱交換によって自己の同一性を維持する装置ですから、その目的に添う形でヴァイタルな活動が行われ、それに基づいてアニマルな活動も行われるのです。アニマルな活動がヴァイタルな活動と大きくずれるようですと、生体の維持ができなくなります。そのような傾向の生体は滅びますから、現存している動物たちはヴァイタルな活動に基づくアニマルな欲望によって行動しています。これは基本的には人間にも妥当Lます。ですから大多数の人間の理性はヴァイタルな活動から要請されるアニマルな欲望の自己制御に過ぎないという限界を持つのです。
六、言語能カ=音声のイマジネーションを他のイマジネーションの記号として用いる能カ
ホッブズもデカルト同様、言語を人間と動物を分ける決定的な契機として捉えています。音声のイマジネーションを他のイマジネーションの記号として用いるネーミングの仕方を、アダムに教えたのは神自身だったとホッブズも言語神授説を採っています(第四章、72頁)。ネーミングさえできればイマジネーションの連結をネイムの組み合わせに置き換えることができますから、言語が成立するとホッブズは理解しました。生のイマジネーション間の連結をそのまま記憶した.り、さらにその複雑な組み合わせに生理的に対応するのは大変です。簡潔な言語を用いた知識の形で表現できれば、複雑な状況を把握するにも、伝達するにも、記憶するにもとても便利になります。この置き換えの主体も連結したイマジネーションが組み合わされた名前を呼び起こすと考えれば、イマジネーションのメカニックな運動の外に精神的実体を想定しなくてもよいことになります。
高等動物の中でどうして人間だけが言語を使えるのかは、動物と人間の親近性を強調するホッブズにとっては説明困難なことだったのでしょう。デカルトのような心身二元論を拒否している以上、『バイブル』を持ち出して逃げを打つしかなかったのです。.もし人間の心と高等動物の心が大して違わないとすれぱ、神が人間に名付けカを与えたように人間が高等動物に名付け方を教えてやれぱ高等動物も話せるようになる筈です。
人間の言語を状況判断の為の記号として理解する能力は、犬などには発達していますが、自分の意思表示に言語を使えるには程遠いのが実状です。やはり動物と人間に言語能力の有無で象徴されるなんらかの断絶が存在するのです。その断絶の論理をデカルトもホッブズも正しく捉えることができなかったのです。
七、自我の構造
ホッブズは、精神的な活動を否定したのではありません。ただ精神的活動をしている主体を物質的な心的過程と区別して、精神的な実体として捉えてはならないと考えただけです。そこで意識を統合し、意識に統一性を持たせる自我が確立しなければ、人格が成り立たないのではたいかという疑問が起こります。でもこの疑問は方法的懐疑と同じです。自我が確立しなければ人格が成り立たないというのは同義反復なのです。自我が確立しているということは人格が成り立っていることを意味するのですから。イマジネーションの活動がある一貫した個性的傾向を示す場合に、この傾向を実体のように捉えて自我が見出されるのです。 
第三節 パワー(力)への意志

 

一、オリジナルなパワーとインストルメンタルなパワ
意欲や欲求の対象をホッブズは善だとしまLた。生きていくには善をできるだけ多く手に入れる必要があります。そこでホッブズはパワー(力)を「近い将来に善となるものを獲得するために現在所有している手段」と定義したのです(第十章、122頁)。彼はパワーをオリジナルな(自前の)パワーとインストルメンタルな(道具的な)パワーに分類します。オリジナルなパワーには、精神的肉体的能力の優秀さ、例えば異常な強さ・優れた容姿・深慮・技芸・雄弁・気前の良さ・高貴等があげられます。そしてインストルメンタルなパワーには富・評判・友人・幸運等があげられます。
パワーは更にバワーを手に入れる手段にもなります。たとえオリジナルなパワーは少なくても、インストルメンタルなバワーで多くの人々のパワーを結集させて、支配することも可能になります。インストルメンタルなパワーをあまり持っていない人は、オリジナルなバワーを磨いて、それで欲求充足のための糧を手に入れなければなりません。ただしどんなオリジナルな能力が社会的な力を発揮できるのかは、時代の二ーズに応えられるかどうかにかかっているのです。オリジナルなパワーはインストルメンタルなパワーとセットになって、始めて発揮できる場合が多いのです。労働者は、労働カは持っていても、生産手段を持っていなければ労働できませんから、労働力を資本家に売って、資本家の支配の下で労働せざるを得ないのです。
逆に言えばインストルメンタルなパワーさえあれば、オリジナルなパワーはなくても、強力な社会的支配力を誇ることができることにもなります。つまりオリジナルなパワーはインストルメンタルなパワーで代替可能なのです。それに個人が持てるオリジナルなパワーは身体的な能力ですから極めて限定されています。これに対してインストルメンタルなパワーは無制限に所有可能なのです。
二、バリューとプライス
パワーは客観的にプライス(価格)によって評価されます。主観的にいくらバリュー(価値)があると思っていても、プライスが付かなければパワーになりません。ホッブズは「人間のバリューは、他のすべてのものと同様に彼のプライスである。すなわちそれは彼の力の使用に対して支払われるであろう額である。したがってそれは絶対的なものではなく、他人の必要と判断に依存している」(第十章、123頁)
と述べています。カントはプライスでは測れない人格的な尊厳を強調しましたが、ホッブズのこの議論に反撥しているのです。『論語』にも「人知れずして慍みず、亦君子ならずや」とあります。ホッブズはオリジナルなパワーがインストルメソタルなパワーに代替され、バリューがプライスに還元される近代市民社会の原理をクールに捉え返しているのです。
三、悪無限的パワー獲得競争
根底的にはパワーは生きるパワーです。生きようとする限りパワーを獲得し、増大させなげればなりません。自分の能力や地位に応じた分相応の社会的パワーに甘んじたり、パワー獲得競争から身を引いて、魂のアタラクシア(平静)やアパティア(情念没却)を求めたりするべきではないのです。
ホヅブズは意欲は次から次にパワーを求め、死ぬまで止むことがないとしています。その理由は、現在保有Lているパワーを確保する為には、さらにそれ以上のパワーを獲得しなければならないからです。何故ならライバルよりも強い社会的パワーを持たなけれぼ、ライバルのパワーで排除され、屈服させられてしまうからです。競争社会では互いに凌駕しようとし合うので、減ぼされない為には、どうしても自分のパワー拡大に血道をあげざるを得ないのです。これは社会的な力関係からくるものでして、人間の強欲や性悪の所為ではないんです。
よく人間の欲望が無制限に肥大していくことが競争社会を産み出し、人間同志の闘争や搾取等の社会矛盾を齎したと性悪説で説明する人がいます。ホッブズは、人間が本性的に欲求充足の拡大を求めて、脂ぎって活動することをむしろ生命力の発現として、社会の活力として大いに肯定しているのです。「至福とは一つの対象から、他の対象への意欲の継続的な進行であり、一つの対象の獲得は更にもう一つの対象の獲得への過程に過ぎないのである。」(第十一章、133頁)と述べています。
四、「万人の万人に対する戦争状態」と「平和的マナー」
ところで皆が自己の社会的なパワーの拡大に血道をあげれば、どうしても「万人に対して万人が狼」の不安定な戦争状態になってしまいます。戦争をいつまでも継続すれば、人類は共倒れになるしかありません。そこで人類が一緒になって、平和な統一を持った生活をすることに関する諸々のマナー(態度)を必要とするのです。戦争から逃れる為にコモン・パワー(共通権力)に服従しようということになります。ですから「社会的服従の動機は安楽や感覚的快楽を求めることから、死と傷害に対する恐怖から逃れようとすることから、技芸に安心して熟達しようとすることから」生じます。
戦争の緊張と危険はそのゆとりを与えないからです。このような平和的マナーと反対に、権力拡大競争に執着することから論争・反目・戦争が起こるわけです。争いに繋がるものとして返済不能な債務を負うことによる憎悪、自分の知力に対する劣等感、自惚れ、野心等が挙げられます。
ホッブズは自然状態を分析して、戦争状態に陥らざるを得ない原因を詳しく検討しています(第十三章、人間の自然状態、その至福と悲惨について)。先ず人間が本来平等であることを指摘します。肉体的能力では個人的な差が認められますが、束になってかかったり、刃物を使えば必ずしも強い者が弱い者と戦って勝つとは限りません。精神的能力でも時間さえかければ誰でも学問や技芸が身につくとしています。ただ自惚れが人間の平等性を信じなくさせているのだそうです。「自分自身の知力は直ぐ手近く見ているのに、他人の知力は遠くに見ているから」(第十三章、155頁)、自分の知カが一番だと思ってしまうのです。でも皆がそう思っているのですから、大差がないのです。人間機械論から解釈しますと、人間は誰でも同じ機種の自動機械ですから、その性能に大差は無いということでしょう。.
五、能カの平等と闘争への本性
ホッブズはここで人間の平等を説いています。しかし民主主義思想とは直接繋がりません。むしろ人間の平等が戦争を齋す原因だと説いているのです。民主主義思想の諸契機を分解すれば、人格の平等、権利の平等、権カの意思決定への参与の平等、基本的人権の保障等が挙げられますが、それらは有機的な全体を成しています。人の平等を指摘することは、ホッブズの思想の近代性を示してはいますが、それを専制権力擁護の論理に利用しているので、民主的だと評価するのは見当違いです。
この能力の平等は、目標達成についての希望の平等を生みます。そこで皆が同じ事を意欲するのでどうしても奪い合いになってしまいます。そうなりますと互いにライバルが何人か手を組んで自分をやっつけに来るのではないか、寝込みを襲われるのではないかと、相互不信に陥り、機先を制しようと戦争を始めるのです。
ボッブズは人間の本性の中に争いの三大要因を見出しました。1獲物を求める競争、2安全を求める余りの不信、3評判を求める誇りの三つです(第十三章、156頁)。この本性によって自然状態の間は、人間は「万人の万人に対する戦争状態」(同上)から脱け出せません。とはいえ常に戦闘状態にあったという意味ではないのです。彼の言う戦争とは戦闘や闘争行為だげではなく、闘争への明らかな志向の内にあるものなのです。戦争による欲求充足の可能性を断念させるコモン・パワー(共通権力)が成立するまでは、ですから戦争状態なのです。
自然状態である戦争状態ではおちおち働いていられません。とても田畑を耕したり、建物を立てたり、便利な乗り物を造ることなどできません。様々な知識や技術を学んだり、発展させることもできないのです。「技術も文字も社会もない。…継続的な恐怖と暴力による死の危険とが存在し、人間の生活は孤独で貧しく、険悪で残忍でしかも短いことである」(第十三章、157頁)このような戦争状態を終わらせ、平和に暮すために「自然法」があるのです。 
第四節  自然法について

 

一、自然権の定義は自己保存権
ドイツ語でレヒトと言えば「法」であり「権利」であり「正しさ」なのですが、ホッブズはレクス・ナトゥラリス(自然法)とユス・ナトゥラレ(自然権)を区別しています。法は当為として拘束する性格を持っていますが、権利はある行為をしたりしなかったりする自由であると考えたからです。自然法は、生命を破壊したり、生命維持の手段を奪ったり、生命を最良に維持する努力をネグレクトしたりすることを禁じるものです。それは理性が発見した戒律であり一般法則であるとしています。これに対Lて自然権は、自然法に基づいたあらゆる事を行う自由です。「自然権とは、各人が自分自身の自然即ち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用い得るように各人が持っている自由である。従ってそれは自分自身の判断と理性とにおいて、その為に最も適当な手段であると考えられるあらゆる事を行う自由である」(第十四章、159頁)と定義されます。人間は生きようとするように造られた自己保存装置=欲望機械なのですから、人間である限り生きようと最大限の努力をするのは当然の権利だということです。
古代ストア派では自然権は何よりも理性の神聖不可侵を意味していました。人間の本質は理性と欲望に分けた場合、理性だからです。欲望の方は身体と共に可死であり、滅びますが、理性は不死であり、永遠不滅ですから神聖にして不可侵であると捉えたのです。他人は自分の身体や行動の自由を束縛することはできても、私自身である理性には指一本触れることはできないのだ、と精神的自由を主張Lたのです。これに対してホッブズは自己を身体としての欲望機械と考えていますから、生きようとする権利つまり自己保存権を自然権の定義にしたのです。ホッブズは最も基本的な権利を確認したのですが、これを絶対視させることによって、権力者は人民の生命さえ保障すれば他はどんなに人権を制限してもよいという主張の根拠にするのです。
二、「平和への努力義務」と「万人の法」ー「基本的自然法」と「第二の自然法」
自分が生きる為だといって自分勝手に自己保存活動を行いますと、限られた富の奪い合いになり、戦争状態に陥ります。それでは反って白已保存ができなくなり、自然権が否定されてしまいます。そこで次の「基本的自然法」が確認されるのです。「各人は平和を獲得する望みが彼にとって存在する限り、それに向かって努力するべきであり、そして彼がそれを獲得できないときには、戦争のあらゆる援助と利益を求めかつ用いてもよい」(第十四章、160頁)。平和への努力が実らなければ戦争をしてもよいというのでは、互いに相手の意図を警戒して戦争の準傭を怠るわけにはいかず、それが余計に不信を募らせてうまくいきません。
そこで第二の自然法はこうです。「平和の為に、また自己防衛の為に必要と考えられる限りにおいて、人は他の人六も
同意するならば、万物に対するこの権利を進んで放棄すべきである。そして自分が他の人々に対して持つ自由は、他の人々が自分に対して持つことを自分が進んで認めることができる範囲で満足すべきである」(第十四章、160〜161頁)。これはお互いに敵意のないことを確認し合い自分がされたくないことを人にしないと約束しあうことです。これをいわゆる「万人の法」で『論語』では「己れの欲せざるところ人に施すこと勿れ」と教えています。
第二の自然法では互いに侵し合わないことの約束ですから、これだけでは平和を齋すには不充分です。何故なら困ったときに助けてくれなければ、自己保存の為に第二の自然法をやむを得ず蹂躙してしまうからです。「バイブルの黄金律」である「すべて自分にして欲しいことは、あなた方もそのようにせよ」まで含まなければなりません。ホッブズは、第二の自然法の説明にこれを入れています。これは第三の自然法として独立させるか、第二の自然法に書き込むべきだったのです。
三、「正義」の定義は「契約の履行」である
コモン・ウェルス(共同団体=国家)が設立される以前の自然状態でも、平和で友好的な人間関係が成立していれば、それは「万人の法」と「バイブルの黄金律」が曲がりなりにも慣行的に人々の生活を律していたことになります。ロックは、理性との働きを重視していましたから、自然状態でも互いに人格を尊重し合い、私有財産を尊重し合う人間関係が成り立っていたと主張します。しかしホッブズは、第二の自然法はコモン・ウェルスの設立以前には守られなかったと言うのです。
折角第二の自然法を守る約束をお互いに交しても、その約束を履行する保証がしっかりしていなければ、いつ約束が破られて戦争状態に逆戻りするかもしれないという不安に取り付かれて、警戒を怠ることができません。結局互いに機先を制しないとやられると考えて、自分から約束を破ることになるのです。そこで「結ばれた契約は履行すべし」という第三の自然法が生まれます。彼は「正義」の定義を「契約の履行」とし、「不正」の定義を「契約の不履行」としました。正義と所有権は契約の履行を強制するコモン・ウェルス無しでは守られない、と指摘Lます(第十五章、一七二頁)。
コモン・ウェルスがなければ正義もないのですから、約束を守らないことは自己保存権から擁護される場合もあり得ます。しかしコモン・ウェルスがあれば第三の自然法に従うことは正義であると共に絶対的な義務です。あらゆる契約の破棄は不正であるばかりでなく、コモン・ウェルスの権威に対する無視であり、コモン・ウェルスの解体に繋がります。その結果戦争状態への逆戻りになってしまうのです。
彼は契約に従うメリヅトと従わない場合のメリットを天秤に掛けるような考えに反対しているのです。そしてたとえ契約の相手が
悪人であっても、また宗教上の信念からであっても、契約の不履行は許さないとして.います。
四、服従契約は子子孫孫、永久に破棄すべきではない
支配・服従契約のように不平等な契約でも、履行しないのは不正なのです。もし服従を誓わなければ、強者は弱者を敵として抹殺するか鎖に繋げておくしかありません。服従契約によって安全に生活をすることができているのですから、服従契約は理性的な契約であり、有効なのです。しかしこのような論理を認めますと、いったん成立した服従契約には有効期間に制限がありませんから、たとえ弱者が自己の努力によってパワーを強めても、いつまで経っても支配から脱出できなくなってしまいます。契約を絶対視する思想はヘブライズムの伝統から由来していますので、説得力があったかもしれませんが、力関係の変動を無視Lた保守的な議論です。
ホツブスは、第四の自然法を「報恩」とします。これに対して忘恩は自然法の侵害です。被支配者が支配者の隙を窺ってやっつけることも可能です。そんなことになればまた戦争状態に逆戻りですから、こんな命乞いを認めてもらい、生存を保障されたことに対する忘恩は最も不正な事に当たるのです。一般的には「報恩」は、他人から恩恵を受けた者は、相手にその行為を後悔させないように努力しなげればならない、という意味です。そうしないと結局自分の身が危うくなります。ホッブズは「あらゆる意志的行為の目的は万人にとって自分自身の利益である」(第十五章、178頁)と断言しています。ここからも人間を自己保存装置=欲望機械として捉える立場が窺えます。
五、自然法に適っているかどうかは「万人の法」によって判定できる
第五の自然法は、「相互順応、従順」です。契約を守り、平和な杜会を維持するためには互いに協調L合い、掟や支配者の命令に対して従順でなげれぼならないのです。
第六は「許容」です。過去の罪を悔い改めた者に対Lては、平和を堅固にするためにはいたずらに敵視することを止め、許容してやるべきです。
第七は「報復においては将来の善だけを尊重すること」。
第八「傲漫であるな」、第九「自惚れるな」、第十「尊大であるな」、第十一「公平」、第十二「公共の物を平等に用いること」等が続きます。
一つ一つの自然法を暗記していなくてもいいのです。ある行いが自然法に叶っているかどうかは、「自分自身に」て欲しくないことを、他人にもLてはいけない」という「万人の法」によって判定さます。彼は、人格的対等の原理に基づく倫理を強調します。「他の人々の行為と自分自身の行為とを比較考量し、もしも前者が余りに重いように思えたならば、前者を秤の反対側に掛け直」、自分自身の行為を前者の代わりに掛ける。そして自分自身の情念や自己愛が、全く秤に掛からないようにする。こうしてみれぼ、これまで述べた
自然法のうち、一つとして極めて当然でないものはないことが明らかになる」(第十五章、184頁)。
互いに相手を尊重し合い、融和し合う事がなげれば争いが絶えず、戦争状態に戻ってしまいます。ですからこれらの自然法は永遠なのです。しっかりしたコモンウェルスの下では、平和を求める気持ちさえあれば、その遵守は易しい筈だというのです。ホッブズが道徳哲学だとするのはこのような自然法についての学問なのです。 
第五節 アクター(代理人)とオーサー(本人)

 

一、フェインド・パーソン(擬制人格)とナチュラル・パーソン(自然人格)
彼は「欲望機械としての人間」論から「人工機械人間としての国家」論に移る繋ぎに、人格論を展開しています(第十六章、「人格、本人および人格化されたもの」187頁〜191頁)。実はこの繋ぎの人格論が『リヴァイアサン』解読の鍵を提供しているのです。ここで個人だけでなく、国家にも人格が成立する論理を説いているのです。その際、「人格」の意味は倫理的主体や「人となり」というよりも「代表」の意味で使っているのです。
アクター(俳優=代理人)の言葉や行為は彼自身のものではありません。他人を演じて、代表しているわけです。これは一種の擬制人格(フェイソド・パーソソ)もしくは人為人格(アーティフィシャル・パーソソ)です。自分自身を演じて、代表していると自然人格(ナチュラル・パーソソ)なのです。パーソソの語源のベルソナは元来が舞台上での人間の「仮装」や「外観」を意味していて、そこから転じて法廷においても言葉や行為の代表者の意味で使われるようになったのです。アクターはオーサー(本人)の権眼に基づいて、権限を委任された範囲で行為します。アクターがその範囲で行為したことの責任はオーサーが負わなければならないのです。
ナチュラル・パーソソを持っていない無生物でも擬制人格で代表されることができます。教会は教区長が代表するというように。また子どもは後見人によって人格化され、偶像は神官によって人格化されるのです。そして真の神はモーセやイエス・キリストによって人格化されたとしています。
そしていよいよ群衆が一人の人間または人格によって代表されるとき「一つの人格」になります。もし群衆が代表者に無制限の代
表権を与えてしまえぼ、代表者の為すすべての行為を自分たちのものと認めていることになります。
二、主権者の意志の本人は人民
彼はこの「代理人」(アクター)と「本人」(オーサー)の関係を使って、後でコモンウェルスの論理を展開するのです。主権者が全人民の代理人であるから主権者の意志の本人は全人民であるとします。そして契約によって主権者は全人民の代理人になったのであるから、いったん代理人に意志決定を任せた以上、代理人の意志に本人として従わなげればならないという論理です。その際代理人の意志が本人と異なることを理由に代理契約を取り消したり、代理人として認めないことは契約自体の破棄になって不正なのです。この論理を取り間違えて代理人である主権者の意思の本人は人民なのだから、人民主権の立場であると解釈すれぼ、専制体制を擁護しても人民主権の立場に立っていることになり、きっとホッブズもびっくりするでしょう。  
第六節コモンウェルスの設立

 

一、コモンウェルスの設立は総べての人々のあらゆるカを主権者に譲渡して可能になる
コモンウェルスの目的は、ホッブズによれば戦争状態を脱して人間生活の安全を保障することにあります。人間は互いに自然法を尊重して助け合い、「己れの欲するところを人にも為せ」というバイブルの黄金律を実践していれば、平和に幸福に暮せるのです。実際には、自然法は他の人々が自分と同様に自然法を守るという保障があるときだけしか拘束力を持ちません。というのは他の人々が自分に敵意を持ち、攻撃しようと待ち構えているところに丸腰で出て行けぼ、自己破壊であって、自然法の目的に背きます。また反対に他の人々が自然法を遵守する十分た保障があるのに法を守らないのなら、その人は平和でなく戦争を求めていることになります。
では少数者が結合することで安全が保障されるでしょうか。元々戦争状態にあるのですから、相対的に優位な集団ができれば、侵略に乗り出す事になってしまいます。また多数の人々が結合する場合でも、同一判断によって、つまり一つの意思によって統御されていない限り、安全保障は得られません。同じ集団でもばらばらの判断や欲求によって動かされるならば、互いに内部対立を深刻化させることになり、全く無力になります。
コモンウェルスの生成は、すべての人の意思を一個人あるいは合議体に結集することによって可能になります。その為にはすべての人はあらゆる力と強さを譲り渡してしまうことが必要です。多数の人々が一個の人格に結合し、統合されるのです。コモンウェルスにおいては、彼らは自分達が、自発的かどうかにはかかわらず、承認した主権者の行為・判断の総べてを承認し、自己の行為・判断と見なさなければならないのです。つまり主権者に対して絶対服従の義務があるのです。
二、「設立されたコモンウェルス」と「獲得されたコモンウェルス」
ホッブズはコモンウェルスの形成の仕方を二つに分けています。一つは全ての人の意思を多数決によって一つの意思に結集する仕方です(第十八章、197頁)。これは地縁的な繋がりで人々が国家形成を行う場合で、「設立されたコモンウェルス」と呼ぼれます。もう一つは、有力な個人や団体が一定の地域に軍事的な覇権を確立して、その地域の人々を服従させることによる場合で、これを「獲得されたコモンウェルス」と呼びます。自分たちの多数決で主権者を選んでも、武力による強制を背景に主権者として承認させられても、どちらでも主権者に対Lて人民が絶対服従の義務を負うことには違いはないのです。「多数決で」という表現からいかにも人民主権論と紛らわしいわけですが、これはたとえ「総意で」となっていても同じ事です。主権者というのは人民の意思を無制限に代理する権限を与えられた者のことなのです。しかもこの主権者の絶対的な地位は変更してはならないというのがホッブズの立場なのです。
三、主権者と人民の代理関係
繰返Lますが、ホッブズは、人格は代理され得ると考えています。主権者は人民の意思の代理人ですから、主権者の行為や意思の本人は人民自身です(第十六章、190頁)。ということは人民自身の意思に反した行為や意思決定を、主権者が行ってはならない事ではないのです。その反対に、一度主権者を自分達の代理人として承認Lた以上、主権者の行為・判断を作り出した本人としての義務や責任を、人民自身が負わなげればならないということなのです(第十七章、196頁)。
ホッブズは国民が主権者に、生命に関わること以外では、一切反抗してはならないことを熱弁しています。たとえ主権者が異教徒であっても、カエサル(皇帝)に従えとバイブルにもあるのですから。ましてキリスト教国ならば、神は神の代理人契約を国民の代理人である主権者をさしおいて、主権者以外と結ぶわけがないのです。ですから主権者が、教義解釈権を持っており、教会に対する支配権も持つべきだというのです(第三部「キリスト教的コモンウェルスについて」、第四十二章「教会の権力について」478頁)。
いったん譲り渡した自然権は戦争状態に戻る以外に取り戻すことはできません。ですから主権者がどんなに横暴な政治をしたり、犯罪的な行為をしても、国民はそれを処罰することも、非難することすら正当ではないのです。だってその行為や判断の本人は自分達自身なのですから、あたかも他人に対するような態度は取れないのです。
四、如何なる暴君といえども戦争状態よりはましである
ではコモンウェルスの設立に同意していなかった人は、コモンウェルスの主権者に反抗してもよいのでしょうか。ホッブスによれぼ戦争状態が最悪なのですから、コモンウェルスの設立に反対することは不正です。ある人を主権者として認めないという態度もやはり不正です。誰かが主権者にならなければコモンウェルスを設立できないのですから、いったん主権者になった人を認めないのなら、また戦争状態に逆戻りだからです。
また彼は、主権がばらばらに分解して統一性を失い弱くなることを警戒していますから、主権は分割できないというボーダソの主権論に立っています。主権者は軍事統帥権、イデオロギー統合.支配権、市民法制定権、裁判権、報償・処罰権を一手に握るべきだというのです。市民法とは主権者に第一次所有権があることを前提に、所有権および善・悪、合法・非合法に関する諸規則のことです。
では無制限に近い主権者の強大な権力を認めることは、コモンウェルスの目的である平和の維持と国民の安寧を危うくするのではないでしょうか。古来様々な暴君の存在がそのことを示唆しているように思われます。ところがホッブズは如何なる暴君といえども、戦争状態よりはましだと考えています。といいますのは、専制君主の強大な権力は国民が悲惨で貧しい生活をすることによって維持されるのではないからです。国民が産業を発達させ、豊かな暮らしをしていればこそ、コモンウェルス全体の健康が保たれ、その上に強大な権力を築くことができるのです。苛政誅求によって国民を疲弊させますとコモンウェルスの体力が弱ってしまうので、専制君主にとっても都合が悪いのです。むしろ君主が強大な権力をもっていることは、国カの充実を示しており、国民の活力なのです。国民の福利と君主の強権を矛盾対立させて捉え、国民の間に不満や反抗が起こりますが、それは国民が自分自身を護るために力を貸そうとしない御し難さを示しています。国民は情念と利己心という二つの拡大鏡を持っていて、ほんの少しの支出でも大きた不満の種になり、将来の悲惨を見通すことができないのです(第十八章、二〇七頁)。
ボッブズは主権の絶対性に関する議論や国民の権利に関する否定的態度から、一般に専制君主政治の代表的なイデオローグと見なされています。しかし彼は表立って専制君主制が最良だと言ったわけではないのです。彼によるとコモンウェルスには三つの政体があります。代表者が一人の場合は君主政(モナキィ)、代表者が一部の者の合議体の場合は貴族政(アリストクラシィ)、代表者が総べての者の合議体の場合は民主政(デモクラシィ)です(第十九章「設、Vによるコモンウェルスの種類と主権の継承」208頁)。 
第七節 巨大な人工機械人間としての国家

 

一、主権者の取り換えはコモンウェルスの死を意味する
政体はホッブズに言わせれぼ、いまさら選び直せるものではないのでどれでもよいのです、主権が絶対性を持ち、国民を護るために充分な力を備えているのなら。ただ、よその国民や古代ギリシアの政体等に憧れて、政治体制を変更しようとすることが最もいげないことなのです。
コモンウェルスの頭脳にあたり、唯一の意志決定機関である主権者は取り換え不能なのです。個体の場合、頭脳の敢り換えは確かに個体の死を齋しますが、人工機械人間であるコモンウェルスの場合も同様だとホッブズは言いたいのでしょう。古来政治体制の変更は数多く為されてきましたが、そのためにコモンウェルス全体が崩壊するとは限りません。主権者が打倒され、新しい体制に生まれ変わってコモンウェルス全体が活性化することも大いに考えられます。コモンウェルスを人体に譬えるのは、発想は斬新ですが、ここまでやればこじつげです。
二、国家は生きた人工のジャイアント(巨人)である
人間は技術によって時計のような自動機械を造りますが、これは人工的な生命を持つ物だ、とホッブズは捉えています。人間の技術はさらに「人間」すら模倣してコモンウェルスとか国家(ステイト)と呼ばれる人工機械人間を造ったというのです。これを彼は「リヴァィァサソ」と名付けたのです。
リヴァイアサンは地上で最大、最強の怪物という意味ですが、人間ですからジャイアントです。「コモンウェルス」同団体という意味ですから、専制的な主権者による絶対的な支配のイメージは浮かびません。これは国家が全人民が本人であり^全人民の社会契約によって身体が構成されている一人の人工機械人間である面を強調しているのです。これに対して、国家が強大なジャイアントであり、絶対的な主権の支配の下で統一された意思を形成している面を表現したのが「リヴァイアサン」です他「コモンウェルス」的な言葉づかいで元々はもっと民主的だった既成の社会契約論の論点を取り込み、「リヴァイアサン」的な塗言葉づかいで国家の専制的構造を明らかにしようとしたのです。
「人工人間にあっては、『主権』が人工の『魂』であり、それが全身に生命と運動を与える。『施政官』とその他の司法行政上の『役人たち』は人工の『関節』である。また『賞罰』〔これによってあらゆる関節や器官か主権の座に結び付けられ、それぞれの義務を遂行させられる〕.は『神経』あり、それは自然的肉体におげる神経と同じ働きをする。また個々の成員が所有する『富』と『財宝』は『体力』であり、『人民の安全』が人工人間の仕事である。さらに人工人間にとって知る必要があるあらゆる事柄を提示してくれる『顧間官たち』は『記憾』であり、『公平』と『法律』は、人工の『理性』と『意思』、『和合』は『健康』、『暴動』は『病い』、『内乱』は『死』である」(序説、53頁)
三、コギト的・身体主義的人間観の超克一
ホッブズは国家を人間に譬えているのではないのです。本気で国家を人工機械人間だと主張しているのです。自己保存の為のセルフ・コソトロールシステムを持ち、この装置を人格的に代表する意思決定機能をもっているので、身体的個人ばかりではなく、コモンウェルスも人間なのです。同じ論理で言えぽ、企業等の社会団体も人間だと言えるでしょう。実際、現代では法人という言葉が低抗感なく使われています。
プロタゴラスはプロメテウス(構想カ)だけでは、人間はサバイバルできないので、ポリスを不可欠な契機として人間を捉えまLた。アリストテレスも人間はポリス的動物だと指摘.したのです。それでも彼らはポリス自体を人間だと考えていたわけではありません。近代ではマルクスが『フォイエルバッハ・テーゼ』で「人間の本質は現実的には社会的諸関係のアンサンブル(総和)である」と規定しています。マルクスにしても、商品や資本や企業や市民社会や国家を人間として捉え返したわけではないのです。反対に、社会的な事物が人間的な諸関係を取り結ぶ主体であるかのように現われる事態を、物神性的倒錯として暴露しました。つまり社会関係や事物の社会的規定を現実的諸個人の相互関係として捉え返しました。マルクスにとっても人間は現実的諸個人として捉えられていたのです。
実存主義者のコギト中心主義に反撥して、構造主義者フ一コーは「人間の死、言語の支配」を語りました。彼は言語体系として現われる権力的な社会システムによって、諸個人の意識が規制されていることをシビアに説得したのです。それでも構造主義者は社会システムを人間として捉え返し、それを主体的に引き受ける思想的立場に到達したわげではありません。いわゆるフラソス現代思想の限界は社会を貫くコードを対象化するものの、それを自己自身として人間として捉え返すのではなく、むしろ人間の否定として捉え、そこからのゴダール監督『気違いピエロ』のような狂気による包摂拒否や、「砂漠への逃走」にはしってしまうところにあるのです。
それは高度に管理された情報化社会の気分を反映しているだけに、ある程度の共感を得る事はできます。しかし現代社会を自己自身とLて引き受け、システムの主体としてシステムを変革して成長しなければならない時代の課題に応えることはできません。
〈身体あるいは身体に内在する自我>を人間と捉える人間観を身体主義的人間観と規定しますと、身体主義的人間観の枠を突破できたのは、ホッブズの他にはパースが挙げられるだけです。パースは「人間=記号」論を展開しました。彼は記号を事物が他の事物を指し示す性質として規定しましたから、記号的性質を持つ事物の関係として人間を規定していたことになります。ホッブズとバースの人間観の再評価が、二千年代の新しい人間観を構想する際の出発点になるのです。
四、恐怖による強制的な服従も自由である
ホッブズの「自由人」の定義はこうです。「自らの強さと知力において、自分でやろうとすることを妨げられていない人間」です。ですから恐怖から行う行為も自由だと言います。コモンウェルスにおいて法に対する恐怖から為される行為も、すべてそれをしないで刑罰に服する自由をも含んだ行為ですから、自由なのです。必然性と自由も両立します。人間の行為はそれをしなければならない諸事情によって行われる必然的な行為ですが、そのような事情を理解した人間の自発的な自由な行為なのです。ホッブズは権力的な強制を伴わないことを自由と受げ止めていません。権力的に強制されていても、それに従うか従わないかは、自分の理性の判断だから自由だというわけです。これでは自由と不自由が混同されています。基本的な人権としてどのような権利が権力の干渉から護られるべきか明確に打出さない限り、近代的な自由論としては失格です。
ホッブズの自由論は、人間は自由の刑に処せられているとしたサルトルと一見似ていますが、実は正反対です。サルトルの場合は、権力による自由の圧殺に対して、人間は本質的に自由な意識なのだから、これに嘔吐し、自由回復のために立ち上がらざるを得ないとしました。これが自由の刑に処せられているという意味です。ホッブズの場合は、服従契約はそれを結ばないで玉砕する自由も含んでいる理性的な契約であり、いったんこれを結ぶと、生命を奪われるようなことがない限り、半永久的に支配者に絶対服従すべきだとしたのです。
ホッブズによりますと、人間は契約によって自分達の行為を制約しますが、そのことによって平和に生きる事ができるのです。だから契約は理性的な自由な行為なのです。社会契約に基づいて作られる市民法は人工の鎖であり、これによって不問に付されたことについて自分の判断で行う自由を持っています。例示されているのは、売買、契約を結ぶ自由、住居・食事・生業の選択、子どもの教育などです。もおろん市民法の内容は主権者が制定しますので、いくらでも市民の自由を制約できます。その上、主権者は自分の制定した市民法によって拘束される義務はないのです。とはいえ余りに厳しく経済面での市民的自由を制約しすぎますと、萎縮して産業が発達しませんから、自ずから限界があります。
五、モナルコマキに対する反駁
ホッブズはモナルコマキ(暴君放伐論)に反対しています。彼は暴政には限界があるという立場です。主権者はリヴァイアサンの指令中枢に当たる地位を占めていますから、リヴァイアサソが強大でなければ主権者の権力も小さくなってしまいます。リヴァイアサソが強大であるためには、国民が豊かで富を蓄えていなければいけません。でないといざ戦争の際に、強力な軍隊も造れないし、豊かな生活を護ろうとする積極的な国防意識を枕え付けることもできません。ですから国内での収奪を強めて私腹を肥やし、賛沢三昧をして国力を衰退させるたどということは君主にとって自分の首を締めるようなものなのです。
しかし現実にモナルコマキの議論が絶えなかったのは、国家の指令中枢というよりは、国家に巣くう寄生虫のような暴君がいたからなのです。彼らは自分のきらびやかな放蕩生活を続ける為には、国力の衰退たど気にならないとばかり、課税や賦役を強化したのです。そこでモナルコマキに反対する最後の論拠として、コモンウェルス自体が人工人間なのだから、人体においては首のすげ替えは不可能なように、コモンウェルスの首のすげ替えも不可能だ、コモンウェルス自体の死を意味するぞと強迫じみた強引な理屈を、ホッブズは考えていたようです。
六、内心で何を考えても自由だが、表現は取り締まる
思想信条の自由については何を考えても、考えること自体は禁じようがありません。その意味では内心の自由は不可侵なのです。しかし宗教的な教義や守るべぎ道徳や賞揚すべき正義の内容ぱ、主権者が決定することができるのです。ですからそれに反する意見の表明や行動を取り締まることができます。この論理は自然法思想の精神とは逆行しています(第二十一章「国民の自由について」)。
当時内面の信仰の純粋性を重要視するピューリタンはピューリタンによる教会と国家の支配を目指していた長老派と、政教分離による信教の自由を確立しようとしていた独立派に分かれていました。英国国教会はピューリタンのような内面信仰を重視しますと、教義解釈を巡って分裂抗争を繰り広げることになるのを危惧したのです。そこで英国国教会の礼拝に出席して、そのしきたりに従って祈りを捧げれば、内面の信仰の純粋性は問い詰めないで教会員として認めることにしたのです。ホッブズの立場は、この英国国教会の論理を合理化Lているのです。
七、諸党派は禁止されるべきである
国民が団体を形成して行動することには、ホッブズはかなり神経質です。国民の団体には主権者の権力によって作られるポリティカルな団体と、民間で作られるプライベイトな団体があります。その内コモンウェルスの承認がある合法団体と、承認のない非合法団体に分かれます。もちろんホッブズは非合法団体は、悪い体液が不自然に合流した結果生じた膿瘍だとして認めません。
政治団体の代表者の権力は、主権者の許可する範囲内に制限されています。秘密結社は主権のある合議体でイニシアチブを取るために仲間で協議する団体ですから、非合法な分派であり、陰謀の徒です。統治の為の諾党派をホッブズは不正だとします。「それらは人民の平和と安全に反し、主権者の手から剣を奪うものである」というのです。これに対して合法的な諸団体、諸集会はコモンウェルスの筋肉だとして重要視しているのです(第二十二章「公的および私的、従属団体について」253頁)。
ホッブズは国家を人工人間として捉えていますから、国家意思が幾つもに分かれれば、全体として一つの人格で行動できなくなります。あくまでも国家意思の決定は国家の主権者の専決に任せるべきだとしたのです。主権者が意思決定するための材料を提供し、主権者に意見を具申する機関は、主権者に下属する合法的団体でなければなりません。
主権者から離れて国家の政策の是非を論じたりすれば、国論が二分し、主権者の意見はどちらかに属する相対的で党派的な意見だと受け取られてしまいます。そうしますと主権者は絶対的な主権者としての立場を保てなくなってしまいます。そこで統治のための諸党派を否定してしまったのです。
仮に人体で脳髄以外のところでも様々な意思が形成されているとしますと、人体はどの意思に従えばよいのでLよう。やはり脳髄以外の意思は棚上げにして、脳髄だけの思考に基づかなけれぼなりません。脳髄以外の意思は自分の代わりに好きなように決定してくれるように脳髄に任せることになります。ですから人工人間としてコモンウェルスを捉える限り、各人は政治的な意思の代理人を共同で立てて、その人の意思に統合されなけれぼならないというのです。
八、普遍的なコモンウェルスのモデルとしての「リヴァイアサン」
このように主権者が専制的な権力を振うのが当然であることが、コモンウェルスをリヴァイアサソという、巨大な人工機械人間として説明することによって、とてもよく理解できるようになっています。ホッブズはこのリヴァイアサンモデルは、普遍的なコモンウェルスのモデルであると主張したのです。つまり君主制のみならず貴族制、民主制にも適応できるモデルだという意味です。しかし主権者と主権を持たない人民という対置で全編が構成されているので、とても民主制のモデルにはなれないものです。そしてリヴァイアサンの論理から見れぼ、最も君主制が理性的な制度に思われるように書かれています。そこでわれわれに残された課題は、民主制国家をリヴァイアサン(=人工機械人間)として捉える論理を構築することです。しかも二千年代を迎えようとしている今日では、民族国家の枠を超えた世界秩序の論理としても展開されなければならないのです。
九、リヴァイアサンの獲得
われわれは国家をも巨大た人間として捉えることの積極的な意義を理解する必要があります。われわれはややもすると個人的な身体的自己だげを自己と捉えがちです。しかしわれわれのアイデソティティは、決して個体的な身体の枠内に納まってはいないのです。家族、集団、職場、企業、地域、郷土、民族、国家、地球環境等様々な集団的意識、集合的意識を自己自身の意識として生活Lています。国家も拡大された自己の一つの在り方なのです。リヴァイアサンは決して自分にとって他人ではないのです。リヴァイアサソの意志の本人は好むと好まざるに拘らずわれわれ自身なのです。
ですからわれわれはリヴァイアサソを超越的な権力としての疎外された形態のままにLておくのではなく、自己の意志が同時にリヴァイアサソの意志であり、自己はたんに個体的個人であるだけではなくて、リヴァイアサンでもあるのだと実感できるようなものに獲得しなければなりません。 
 
「文化」論

 

序章 文化と価値観
T ユネスコにて 
国連の専門機関のひとつにユネスコ(国連教育・科学・文化機関)がある。第二次世界大戦を引き起こした主要要因の中に、好戦的な思考・行動様式を育てた専制主義的な社会背景があったとの認識の上に立ち、教育、科学および文化の分野での国際協力を通じて民主主義、すなわち社会の構成員が自分自身で考え、判断し、政治に参加する思考・行動様式を普及させることによって、国際平和に貢献することを活動目標として設立された国際機関である。
私は、一九九三年から九五年にかけて約一年九ヶ月間にわたって、このユネスコで日本政府常駐代表(大使)を勤める機会に恵まれた。大部分の加盟国はパリに常駐の政府代表を置いているが、常駐代表の主な仕事は、総会や執行委員会をはじめとする各種国際会議に出席してユネスコの活動方針を策定し、活動状況を監督することと、本国政府とユネスコ事務局との連絡に当たることである。
執行委員会は、総会でアジア、アフリカ、欧米等の地域的配分を考慮に入れて選出された執行委員国(当時は五十一ヵ国)によって構成される実質的な政策決定機関であり、年二回、春と秋にそれぞれ三週間前後ずつ開催される。これに出席して、ユネスコの活動全般について本国政府を代表して発言し、政策決定に参加することが、執行委員国の政府代表の最も重要な任務であるといってよい。
私にとって、実は初めての国際機関関係の勤務であったが、国連など他の国際機関を経験してきた他国の常駐政府代表は口々に、ユネスコは政治中心の国連や、農業、厚生、労働などの行政分野を取り扱う他の国際機関とも異なる独特な思考・行動様式をもった機関であると教えてくれたものである。
実際、初めて出席した一九九三年五月の執行委員会で、各国代表が展開する議論に接して受けたカルチュア・ショックには、強烈なものがあった。発言者はユネスコの公用語である英、仏、中、露、西およびアラビア語のいずれかを用い、いずれも他の五ヶ国語に同時通訳される。いずれも母国語でない日本人にとっては、それだけでも不利な条件である。
その上、それぞれの議題にはそれぞれ独特の、これまで聴いたこともないような専門用が頻繁に飛び交い、最初は何とも言えない疎外感に悩まされるが、これは一旦覚えてしまえばどうということはない。しかし、この人たちが好んで用いる「文化」とか「民主主義」とか「普遍性」とか「知的」とかいう言葉を連ねて展開する議論の、内容の希薄さは何なのであろうか。このような、美辞麗句がちりばめられて実体がなく、従ってお互いに噛み合うこともない自称「知的」な議論を、果てしなく続けるところにユネスコの特異性があるのであろうか。そうであるとすれば、ユネスコの存在意義そのものにさえ疑問が出て来ても不思議はない。
これまで、文化について深く考える機会がなかった私にとって、「文化」とは、「文化交流」や「文化事業」の対象である芸術やスポーツあるいは伝統的ないし歴史的な遺産などを意味するにすぎなかった。これらは、個人生活での出世や収入の増加、あるいは国家間の領土や資源の取り合いとか経済的利益の保護・増大などの、いわゆる実利のためには余り役立たない活動ないし文物であると一般にみなされている。そのためもあって、教育と科学はともかくとして、「文化」を通じて民主主義を普及し世界平和に貢献するというユネスコの活動目的と、日本政府代表としての自分自身の活動をどのように噛み合わせるか、当初、少なからぬ戸惑いがあったことを告白しなければならない。
ユネスコの予算は、日本の中規模国立大学の予算とほぼ同額(一九九五年当時で約250億円)であり、そこから六割前後を占める人件費を引くと、事業活動に使える額は微々たるものである。しかし、教育の分野で、開発途上国の教育の基本とも言うべき識字(読み書き)教育に焦点を定めた活動は、及ばずとはいえ評価に値する。科学は、自然科学に限らず社会科学も含めた学問一般と解釈されるので、民主主義と世界平和に役立つ学問を支援する活動は、それなりに意味があるであろう。それでは、文化の分野での活動はどう考えればよいであろうか。
ユネスコの文化の分野での活動で最も知られているのは、遺跡ないし文化遺産の保存・修復のための事業であろう。これは、民主主義や世界平和と関連づけなくても、それ自身で十分意味のある活動であり、日本も、ユネスコ加盟国としての分担金のほかに、アンコール・ワットの修復等の個別の事業に信託基金の形で支出し協力している。そのほかにも芸術など一般的に文化に属すると考えられる分野で、ユネスコは支援活動を行なっているが、いずれについても、民主主義の普及や世界平和への貢献と結びつけて説明するためには、かなりの回り道が必要である。
ユネスコが、その専門の教育、科学そして文化の分野で、それぞれそれだけ活動しているのであれば、それで十分ではないかとの考え方もあり得るであろう。事実、文化関係の予算不足に悩む国々の政府代表は、ユネスコの細々とした事業資金を少しでも多く自分の国に導入するために、各種会議を通じて、あるいは直接に事務局に働きかけることを主たる任務とし、それで功績をあげて本国政府にアピールすることで満足感を得ているように見えた。しかし、ユネスコの分担金最大拠出国である日本の政府代表の任務が、拠出した分担金を少しでも多く取り戻してくることであるわけがない。
日本を筆頭とする、ユネスコでは極く小数派の分担金大口拠出国は、ユネスコのささやかな資金が、多数の加盟国を少しずつ満足させるための微少な事業にばらまかれて無駄使いされたりすることのないように、執行委員会等を通じて監視する役割を自らに課している。それも確かに大切な仕事であるが、私の場合、それだけでは満足できなかった。五十才台の半ばでユネスコと関わり合うこの二年ないし三年(実際には一年九ヶ月であったが)は、残された人生から考えれば貴重な時間である。ユネスコでのこの程度の活動とパリでの日常生活に満足して、漫然と過ごしてしまうわけには行かない。ユネスコ日本政府代表の任務を、教育、科学特に文化を通じての民主主義の普及と世界平和への貢献という、ユネスコの本来の壮大な活動目的に、なんとか結びつけられないであろうかと、大それたことを考えたのである。それにこの活動目的には、ユネスコ関係の任務から離れたのちにも、何らかの形で自分の残りの人生を関わり合わせても惜しくない価値が十分あるように思えた。
これまで文化について深く考えたことがなかったとはいえ、文化が、芸術だけではなく、人間の生活の広い分野を包含し、生き甲斐、民主主義あるいは世界平和といった、個人、国家あるいは国際社会の各レベルでの価値観に密接に関係する重要な何かであることには、ユネスコでの思索のかなり早い段階で気がついていた。しかし、文化をどうすれば民主主義の普及に役立てられ、国際平和に貢献することができるのであろうか。異文化間の交流が相互理解を増進し、紛争の防止に役立つとよく言われるが、同質の文化と、更にその文化間の交流の永い歴史とを持つヨーロッパの国々の間でさえ、さまざまな紛争が繰り返されて来たことを考えると、文化であれば何でも役に立つというわけでもなさそうである。
それよりも何よりも、他の人々が使っている「文化」という言葉が意味する概念と、私自身の「文化」についての漠然としたイメージとは、同じものなのであろうか。
ユネスコには、冷戦時代に、当時のソ連と第三世界が連携して多数派となったグループのイデオロギー攻勢に反発して脱退した米、英およびシンガポールの三ヶ国を除き、世界の殆んどの国が加盟している。軍事的独裁国家も世襲的独裁国家もイデオロギー的あるいは宗教的専制国家も、民主主義の普及と世界平和への貢献を活動目的とするユネスコの加盟国になっている。そして、それらの国々の政府代表たちも臆することなく、文化や民主主義や普遍性や知性といった言葉を押し立てて、自国の主張を展開する。これらの言葉が表わす内容は、この人たちと私たちの間で明らかに異なっているのである。あるいは、殆んど全ての人たちの間で、それぞれ異なった意味で使われているのかもしれない。そうであるとしたら、先に述べた執行委員会での政府代表たちの発言が実体性を欠き、議論が噛み合わない理由も理解できてくる。先ず、お互いに使用している言葉が持つ概念をはっきりさせないと、文字通り、話にならないのである。
こうして私の、ユネスコ日本政府代表としての一年九ヶ月間の最大の課題は、「文化とは何か」という問いに対する答えの探究となった。 
U 文化の多様性と共通性
ところが、文化という言葉が町にも書店にもあふれているにもかかわらず、総論としての「文化とはなにか」という問いに答えてくれる書物がなかなか見つからないのである。哲学をはじめとして文学、政治学、経済学、心理学あるいは医学、工学、天文学等、人間生活のあらゆる分野に学問が成立しているのに、文化学という学問分野だけは存在しないことを知るまでに時間はかからなかった。愕然としながらも手探りで思索を開始しつつ、それでも参考文書をいろいろ探す内に、「文化人類学」という比較的新しい学問が、総論的な文化の問題を取り扱っていることがわかった。
書物で読む限り、文化人類学は、いわゆる未開社会、いわば人間の最も原初的な本質を保っていると思われる社会のあらゆる様相を克明に調査・記録・分析し、人類の文化の普遍的な部分と特殊・個別的な部分とを識別することを通じて、人間についての理解を深めることを主要なテ−マとする学問である。文化人類学的研究によって、地球上の文化の多様性に対する認識が高まり、それぞれの文化は進歩の度合いによって一直線上に序列づけられるものではなく、それぞれ独自の、優劣をつけがたい価値を持つものであるという、いわゆる文化相対主義的考え方が広く受け入れられるようになったと言われている。
これに対して、文化研究に対する私の関心は、少なくとも当初はユネスコでの体験に基ずく実際的な必要性から生じたものであった。すなわち、各国の政府代表の主張の対立は、異なる文化に根差す思考様式の対立であり、ひいてはそれぞれの文化の根源に横たわる、「何のために、それをするのか」という価値観の間の対立である。従って、個別的な価値を追求する個々の主張間の対立を調整するためには、それぞれが追求する価値に共通する、より上位の、あるいはより基本的な価値(「何のために」)を見つけ、いずれの主張がその共通の価値を実現するに当たってより妥当かを判定して、対立調整の糸口にしなければならない。目先の、限定された個別的価値に共通点が見つからなければ、それらの個別的価値追求の動機にさかのぼって、その動機に価値の共通点がないかどうか探し求めなければならない。それでもだめならばというので更にさかのぼって行くと、最後には、原初、人間の祖先が、それを追求したからこそ人間たり得た、あるいは人間の文化を形成する端緒となった、「人は何のために生きるか」という人類共通の根源的価値に行き着くはずである。それが明らかになれば、今度は、その普遍的な根源的価値を共通の価値の基準にし、個別的な価値の追求をそれに合致させるように方向づけることによって、目先の、異なる価値観に基ずく主張間の対立の調整を、多少なりとも促進することが可能になるのではないであろうか。もちろんそれは、関係者が、共通の価値を実現するための方法について、理論的により妥当性があれば他者の主張でも受け入れるだけの、知的誠実さを持っている場合には、という条件つきなのであるが。 このような思考過程を経て、私の主たる関心は、文化の多様性を見つけ出し評価することよりも、むしろ、表面的には多様な文化の根底にある、人類共通の根源的価値に向けられることとなる。この結果、個別の文化の特殊性の克明な実証的研究を特徴とする文化人類学に一歩距離を置いた視点から、文化についての考察を進めなければならなかった。
とは言え、文化人類学によって積み上げられてきた貴重な研究は、文化を総合的に理解するために極めて有用かつ不可欠と考えられるので、本書においても、先ず、文化人類学的な文化の研究を概観することから始めることとする。  
第一部 文化の構造  

 

第一章 文化人類学と文化  
T フィールドワーク
カメルーンは、アフリカ大陸の中部、赤道のやゝ北側に位置しており、国の西側は大西洋の一部であるギニア湾に面し、そこから周囲を時計回りにナイジェリア、チャド、中央アフリカ、コンゴそして再びギニア湾に面するガボンといった国々に囲まれている。その国土は、アフリカというと一般的に頭にうかぶ熱帯雨林(ジャングル)だけではなく、サハラ砂漠の南端に近い北部の乾燥地帯や、涼しく爽やかな高原地帯、あるいは野性の動物たちが遊ぶサファリ・パークなどが混在して変化に富み、ミニ・アフリカとも呼ばれている。
このカメルーンが、毎年七月から八月にかけて、大学の夏休みを利用して訪れる日本の文化人類学者や学生たちで時ならぬ賑わいを見せる。この人たちの多くは、中部アフリカ一帯に居住するバーカ族(一般的にはピグミー族という呼び名が使用されているが、彼ら自身の呼称はバーカ族である)の生活を調査、研究の課題としている。十年以上も継続して毎年訪れている学者もいれば、半年ないし一年の長期間にわたってバーカ族の村落に住みつき、彼らと同じ生活をしながら調査、研究を続ける学者や学生もいる。これが文化人類学の、フィールドワークないし野外調査と呼ばれる、現地に密着した研究活動である。
何を調査するのかというと、バーカ族の人々の生活の全てなのだそうである。この人々の体型や顔つき等の外観から始まって、住居の作り方、朝起きてから夜寝るまでの生活習慣の一切、ものの見方考え方、数のかぞえ方、狩猟採集の仕方、食べ物の種類や保存方法、他の部族との関係、冠婚葬祭の決まり、音楽やダンスなどの娯楽、病気の種類や治療法、生活用品や道具の種類や使い方などなど、あらゆることをノートに記述し、写真に撮り、テープに記録する。そして、このような観察の結果をとりまとめて、民族誌と呼ばれるレポートを作成すると、フィールドワークは一応完了する。
このフィールドワークは、今や、文化人類学者になるために不可欠な通過儀礼のようであり、それだけに、フィールドワークをするだけの体力も気力もなくなった中年以降に文化に関心を持った人間は、文化人類学から門前払いされているような寂しさを感じないでもない。フィールドワークをしないと、本当に文化の研究はできないのであろうか。逆に、フィールドワークをすれば、必ず文化の本質が見えてくるのであろうか。バーカ族についてフィールドワークをしている若い研究者のひとりが、「このフィールドワークが何のためになるのか、ふと疑問に思うこともあるのです」と洩らすのを聞いて親しみを覚えたのは、フィールドワークの比重が余りにも大きい伝統的な文化人類学に反発を感じる人間の、ひがみの裏返しなのかもしれないが。
人類学の起源は古く、世界各地の古代の人たちも、自分たちと異なる民族や、野蛮人とみなした人種の体型や習俗に興味をもって研究したようである。しかし、人類学が科学の一分野として認識されるようになったのは、ヨーロッパから見た「未開地域」の植民地化が進み、「未開人」に接する機会が増大してきた十八世紀末から十九世紀以降で、主として欧米の学者による「未開人」の研究の進展に負うところが大きい。それが更に、人間の体型や頭蓋骨の形などの生物的側面と、思考・行動様式などの文化的側面のいずれを研究対象とするかによって、自然人類学と文化人類学とに分類されることとなった。このように人類学は、元来、人間そのもの及びその生活習慣の観察と記録を主たる研究の手法としており、従って、その人類学の一分野である文化人類学が、ある人間集団の実証的な調査、研究のために、その究極的な手法としてフィールドワークを重視するのは、当然のことなのであろう。  
U 文化人類学の理論
文化の研究に際して、植民地主義の進行と歩調を合わせて十九世紀後半に登場し、人々の人種観ないし人種差別観に大きな影響を及ぼした社会進化論を忘れることはできない。 社会進化論とは、ひとことで言えば、個々の生物の進化の原理を説いた「種の起源」で知られるチャールズ・ダーウィンの進化論を、人間社会に適用するものである。社会進化論派の多くの学説は、人間社会は野蛮→未開→文明の段階を経て進化すると説いた。これに、三大人種とされる白人種、黒人種そして黄色人種の間には、生物的進化の観点から生理学的な根拠に基ずく優劣の差があると主張する「学説」が加わる。このふたつの学説を、様々な発展段階にある現実の諸社会と、それを構成する諸民族に当てはめて検証すると、世界の諸民族を、ヨーロッパの近代文明を頂点として、進化の度合いによって序列化することができるというわけである。このような人種差別観が、未開民族を文明化するのは文明国の責務であるとする主張につながって、植民地主義の理論的根拠となり、更に特定の民族の優秀性の主張に基ずく他民族の支配と迫害を招く一因となったことは、二十世紀を生きてきた人々の記憶に、未だに生々しい歴史的事実として刻み込まれている。
ただし、社会進化論だけが無批判にもてはやされていたわけではない。これらの社会進化論者の多くが、むしろ頭の中だけで理論を組み立てる傾向が強かったのに対し、二十世紀に入る頃から、フィールドワークによる実証的調査を重視する研究者がふえ始め、その研究の中から、社会進化論とは相容れない文化の様相が、相次いで発見されて来た。そこから生まれてきた最も重要な視点のひとつが、文化相対主義的なものの見方、考え方であると言ってよいであろう。   
既に序章でも触れたように、文化相対主義とは、個々の文化はそれぞれ固有の価値を持っており、その間に優劣の差をつけるのは不適当であるという考え方である。多くのフィールドワークを通じて、現存する個々の社会集団の文化は、一見して野蛮ないし未開に見えるものでさえ、決して過去に存在した文化の化石ではなく、実際には、与えられた条件に最大限に適応しつつ、今日まで発達してきたものであることが見出された。仮に科学・技術面での格差や貧富の差に基ずく生活様式の違いはあっても、それぞれに固有な歴史の上に築き上げられて来た社会組織や人間関係は、それぞれの社会の価値観に対応して高度に発達しており、例えば金銭的に豊かな社会が、貧しい社会に比べて、人間性の観点からも常に豊かであると断定することはできないことが明らかになった。それぞれの人にとって、それぞれの価値観に最も合致した文化が最も優れた文化なのであり、いずれの文化がより優れているかを客観的に決定できるような基準は、存在しないのである。このような文化相対主義的考え方は、文化人類学者の間では既に二十世紀前半には主流になっていたようであるが、世界的に広まったのは第二次大戦後であり、文化に多少なりとも関心を持つ一般の人々の間では、二十世紀後半の支配的な考え方になっていると言うことができるであろう。
文化相対主義は、熟練した研究者による、主として未開社会の文化すなわち思考・行動様式の全てについての克明な調査・研究の賜物である。それに、地球上を覆う近代化の波にいずれは埋没し、消えて行く可能性の高い未開社会の文化を記録に残しておくことは、人類の歴史を研究するための、貴重な資料としても重要である。この意味でフィールドワークを通じての詳細な民族誌の作成は、それ自体が学問的に十分な意味を持ち、そこに、多くの研究者がこれに全力を投じてきた理由を見出すことができる。学問の主要な手法のひとつに知識の集積があるが、民族誌の作成は、その手法から生まれた成果である。
他方、学問には、同時に、ものごとの意味を論理的に執拗に問いつめて行く側面もある。この傾向が強い人にとっては、未開社会の文化の詳細な研究から、何を、何のために導き出すかが、より重要な課題であろう。確かに、民族誌による知識の集積の結果、人類は、文化の多様性と、それをお互いに尊重し合うことの必要性を学び取ることができた。しかし、それぞれの文化が、それぞれの歴史的条件の下で発達させて来た固有の価値を持ち、これまでと同様にこれからも、外部からの干渉なしにそれぞれに与えられた環境条件に適応して行けば、他の文化と優劣のつけがたい固有の文化を更に発展させて行くことができるのであるとしたら、お互いに干渉せずに棲み分けることこそ、お互いの幸福を保障する道であるということになってしまうのではないであろうか。これでは、植民地主義肯定の極端に走った社会進化論を折角克服した文化相対主義が、逆に、文化鎖国主義の理論的根拠として利用されることになりかねないが、それは文化相対主義の理論が心に描いた終着点ではないであろう。
実際、文化間の優劣はつけがたいと言っても、個々の文化のいろいろな側面を比較してみると、ある文化ではある側面が優れ、他の文化では別の側面が優れていると考えざるを得ないケースを挙げるのは、さほど難しくない。一般的には、優れた側面を多く持つ文化が、優れた側面の少ない文化よりも優れた文化であると考えるのが、常識であろう。もちろん、優れているかいないかの基準を何に求めるかは、文化の本質である価値観に関わる重要な問題である。
同時に本書の主題のひとつでもあるので、これについては、文化相対主義の問題と共に章を改めて考えてみることとしたい。
以上のように、文化相対主義が、重要な歴史的使命を果たしたことは否定できないところであるが、今や、人類社会の文化の一層の理解と発展のために、文化相対主義を乗り越えた理論の構築が、文化人類学の新たな課題として求められているように思われる。もっとも、文化人類学者の間では、既に二十世紀の半ば頃から、社会や文化の進化ないし変化についての新しい考え方の探究が始まっている由であるが、未だ明確な理論として提示されるところまでには至っていないようである。社会進化論が提示されたのが十九世紀後半で、現実の社会風潮となって猛威をふるったのが二十世紀前半であり、そのころ既に文化人類学者の間では主流となっていた文化相対主義的考え方が一般に広まったのが二十世紀後半であったことを考えると、文化人類学の新しい理論がわれわれの常識となるのは、早くても二十一世紀に入ってからということになるのであろう。
本書において、私は、文化とは何かという問題から始めて、文化を形作り、変化させる要因を探り、文化の優劣を左右する基準にまで迫ってみたいと考えている。その意味では、及ばずながら文化人類学の末端をけがすことになるが、他方、文化人類学の専門的訓練を全く経ていないこともあってか、例えば、「挨拶」の仕方ひとつとっても、多くの文化人類学者の関心事である、民族や社会による相違や多様性よりも、むしろ、誰もが挨拶をするという共通性の方に関心が向く傾向が強い。共通性ないし普遍性の研究も、文化人類学の研究方法に既に含まれているのかもしれないが、本書では、必ずしも文化人類学の枠や方法にこだわることなく、独自の視点で文化の問題を考えてみたい。  
第二章 文化とは何か

 

一般に「文化」と言う言葉から先ず頭に浮かぶのは音楽、美術、演劇等を中心とする芸術、あるいは文芸などであろう。しかし、文化と言う言葉は食文化、服飾文化さらには霞ヶ関の文化などと言う形でまで、非常に広い意味で日常使用されているので、それら全てに共通する本質的な要素で文化を定義すると、文化とは結局「知的思考・行動様式」ということになる。ただし、このように定義すると、人間以外の動物、たとえばサルやハチなどの、本能だけではなく知的な要素もあるといわれる行動様式も文化の範疇に入ってくるので、混乱を避けるために、ここでは文化を「人間の知的な思考・行動様式」と定義することとしたい。
人間が人間と呼ばれるにふさわしい発展段階(原人)に到達した時点(約百五十万年ないし百万年前頃と見られる)では、如何に原始人といえども、狩猟や採集を中心とする活動や人間関係で、かなり多彩な知的行動様式を持っていたに違いない。しかし、形に表われた行動様式が如何に多彩であったとしても、その行動の本来の根源的な目的はただひとつ、生活における快適さ(便利さも含む)の追求であったはずである。すなわち、より快適に生活するために、知能を使って行動する様式が「文化」の始まりなのである。人類の祖先達は、食料を得るための狩猟や採集を少しでもやり易くするという、あるいは猛獣や厳しい気候などから身を守るという、最も基本的な快適さを求めて文化を形作り始めたのであり、従って、人類最初の文化は、まさに、日常生活を快適にするための原始的な道具や技術を使って形成された「生活の文化」であったと言って良いであろう。
ただし、それと並行して、精神的な思考・行動様式も発展し始めたはずであり、それは恐らく、雷や山火事、洪水といった人間の力をはるかに超えた自然の力に対する恐れ、あるいは肉親や仲間の死という人生最大の衝撃に直面して心の内部から沸き上げてくる、人間の運命を左右する目に見えない力に対する畏敬の念をきっかけにして芽生えたもの、すなわち原始的な宗教心と言って良いであろう。そのようにして発生した原始的宗教心は、精神的な思考・行動様式の面で、ふたつの大きな流れを作り出して行くことになる。ひとつは、宗教的儀式に際しての音楽あるいは壁画等の美術で代表され、感性に訴える部分が大きい思考・行動様式、いわば「感性の文化」である。他のひとつは、集団的動物としての人間の集団の中で、暴力的な力や宗教的儀式を通じながら支配者の権威が形作られ、さらに支配力を強化して行くための統治技術すなわち、のちの政治につながって行く思考・行動様式である。この思考・行動様式を発展させるためには知的な裏づけが不可欠であり、また、統治される側の人間それ自身についての研究が必要になってくる。約六千年前頃に発明されたものと考えられる文字の使用によって、知的活動の蓄積と深化が急速に進むこととなったが、その最も発展し洗練された形態が哲学をはじめとする学問の領域であり、すなわち「知性の文化」と呼んで良いと思われる。従って、人類の歴史の長さから考えると、「知性の文化」は、人類にとって、ごく新しい文化の領域であると言うことができるであろう。
以上のように、人間の文化は、まず基盤としての生活の文化があり、そこから派生した感性の文化と知性の文化とも相互に影響を及ぼし合いながら発展して来たわけで、われわれが文化について語る場合には、これらの中のどの文化を念頭に置いているのかを明確にしておかないと、話しは仲々かみ合わないことになる。例えば、日本国憲法の「健康で文化的な最低限度の生活」という一節の「文化的」という言葉が意味するのは、恐らく主として「生活の文化」であり、生活の基礎である衣・食・住が、その時代およびその地域での平均的な水準に達しているということではないかと思われる。従って、こういう意味の文化を語っているときに、美術や哲学の話を持ち出すと焦点が定まらなくなってしまうであろう。そこで、文化を考えるための前提条件として、「生活」、「感性」および「知性」のそれぞれの文化の概念について、もう少し明確にしておくこととしたい。 
第三章 生活の文化

 

T 快適さの追求
人間の文化の基盤である「生活の文化」には、われわれのの日常生活の殆んどの思考様式や行動様式が含まれている。いわゆる食文化をはじめとして、衣服、住居のような最も基本的な物質的生活の手段は勿論、言語や宗教のように内面的、精神的生活を規定するものや、冠婚葬祭のように生活に彩りを添えるもの、更には生産、販売、消費等の物的あるいは金銭的な経済活動や経済制度、教育、通信、運輸、厚生、法務等の社会活動や社会制度、および国民生活のあり方の枠組みを作り、方向づけをするものとしての政治活動や政治制度まで、われわれの日常生活の全てが生活の文化の構成要素となっている。そして、この生活の文化は、既に述べたように、日常生活をより快適にしたいという欲求を主たる動機として発展して来たものであるが、動機はともかくとして、発展してきた結果を個々に取り上げて検討してみると、日常生活をより快適にしたと言えるかどうか疑問が生じるものも少なくない。
極端な例をあげると、人類の歴史の中で、幼い子供(例えば、最初に生まれた子供)の命を神に捧げる生けにえにした社会があった。しかし、如何に宗教心を満足させるためとは言え、このような思考・行動様式が、少なくとも母親を始めとする肉親たちの日常生活、特に精神生活を快適にしたとは考えられない。それであるからこそ、他の社会に広まることなく、人類の歴史の途上に出現した種々の特異な事例と同じように、いつしか消えて行ってしまったのである。
これほど極端な事例でなくても、われわれの日常生活を規定している社会制度や習慣の中に、われわれの日常生活や、あるいは社会全体を、快適どころか不快にしている事例はいくらでも挙げることができる。
そのような事例が出現する根本的原因は、端的に言ってしまえば、われわれ個々人が、真の快適さが何かを洞察し、獲得するために必要な能力を、十分に開発していないことにある(この問題については、第七章「アイデンティティ」で詳細に検討する)。この結果、個々人レベルでその能力不足の程度に応じてもたらされる快適さの欠如は、自業自得と言えないこともない。しかし、社会的次元では、個々人が「自分だけの」快適さ(この「自分だけの」の部分をカッコに入れて強調したのは、本書において順次論証するように、真の快適さの獲得のためには「社会性」が不可欠であり、「自分だけの」快適さを追求する限り、大部分の人々は目的を十分達成できないことに、読者の注意をこの段階から引いておきたかったからである)を追求して努力するだけではどうしても乗り越えられない苦痛が存在する。それは、次のような原因によるものである。
第一に、人類の歴史上のいつごろかはわからないが、宗教的試練や、個人的な修業や苦行の中に、特に心理的、精神的な快感ないし快適さを求める人々が現れて来たことである。もっとも、それらが反社会的な行為につながらず、個人の信仰や主義や信念にとどまっている限りは、社会全体に及ぼす影響は限られたものであろう。
ところが、これらの人々が権力を持っていたり、あるいは権力者に対する影響力を持っていたりすると、時に、特異な思考・行動様式が優勢になって、生けにえの例のように、宗教的あるいは社会的思い込みのために、社会全体がとんでもない方向に突っ走ってしまうことがある。
この現象は、他の社会との接触が少なく孤立した社会に起きることが多いようであるので、あまりにも特異な思考・行動様式は、他の正常な社会との交流が深まれば、いつまでも継続することは困難になってくる可能性が大きい。
しかし、中には、女性の割礼のように、弱者が抵抗できないのをよいことに、しぶとく生き延びている思考・行動様式も少なくないので、民族の独自の伝統や文化といっても、永く伝えられて来たという理由だけで、今後も保存して行くべきであるとは断定できないものもあることがわかる。文化にも、良いものだけではなく、迷走したものや、人類や社会にとって有害なものもあるのである。
第二は、ある制度や習慣が出来た当時は、その当時の人々の感覚に根差す社会的快適性の観点からそれなりの存在理由があったものが、時がたち、社会全体が変わったのに、制度や習慣だけ残っているために不都合が生じている場合であり、たとえば封建制度に由来する生活習慣などが考えられる。たとえ、多くの人々に不都合が生じていても、その社会で政治的、経済的あるいは社会的な影響力を持っているグループが、その制度や習慣が存続していることで利益を得ている場合には、それを変えるのは必ずしも簡単ではない。
第三は、その社会で政治的、経済的あるいは社会的な影響力をもっているグループが、自らの利益を守るのに都合のよい制度を、その影響力を通じて作り上げている場合である。この場合、利益を受けるグループが小さければ小さいほど、そしてその力が大きければ大きいほど、残りの大多数の人々は、制度によって不当に拡大された不利益を押しつけられることになる。この社会的な強者と弱者とのあいだの利益の配分の問題こそ、人類がその永い歴史を通じて取り組んで来ながら、未だ最終的な回答を得られないでいる問題なのである。 
U 功利性の原理
このように、生活の文化は国により、民族により、地域によりそれぞれ異なっており、中には快適さを妨げる要素を少なからず含んでいるものもある。従って、生活の文化が、日常生活をより快適にしたいという個々人の意欲を動機として発展してきたものである以上、その中に快適さをもたらす要素が多いか少ないか、あるいは快適さを妨げる要素が多いか少ないかは、それぞれの社会の生活の文化の質の高低を判定する有力な基準になり得ると言ってよいであろう。
とは言え、快適さというのは必ずしも自明な概念ではなく、かなり主観的な部分もあるので、本書の最初から最後まで頻繁に使用されるこの概念について、もう少し説明しておきたい。
本書で使用している「快適さ」という言葉は、哲学史ないし思想史をたどれば、いわゆる功利主義哲学で使用されてきた「快楽」と重なる部分が多いが、本書での快適さの概念は、精神的充実感が果たす役割をかなり重視しているので、むしろ実体面の比重が大きいような印象を与える可能性がある快楽という言葉は、敢えて使用しないこととした。なお、本書の内容に功利主義に共通する部分があるとしても、それは、私が、功利主義哲学を専門的に研究した結果として、その系譜の上に導き出されたものではなく、先ず「快適さ」の発想があって、そこから功利主義哲学への関心が芽生え、その中で自分の思考に必要な部分だけ垣間見たという程度で、功利主義哲学の正統な学徒には程遠いことを告白しておかなければならない。さて、功利主義哲学の創始者であるイギリスの思想家ベンサム(1748−1832)は、「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた」(ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』、山下重一訳)と述べ、人間の行為を根底で動機づけているのは、苦痛を避け、快楽(または利益あるいは幸福)を求めようとする意欲であると主張した。そして、この考え方を功利性(utility)の原理と名付け、「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を・・・・促進するようにみえるか、それともその幸福に対立するようにみえるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。」(前掲書)と定義した。すなわち、幸福をもたらす行為は道徳的であり、それを阻んで苦痛を生むような行為は非道徳的であると言う。更に、「社会とは、いわばその成員を構成すると考えられる個々の人々から形成される、擬制的な団体である。それでは、社会の利益とはなんであろうか。それは社会を構成している個々の成員の利益の総計にほかならない。」(前掲書)とし、社会の利益(幸福)を最大にするためには、社会を構成する個々人の利益(幸福)の総計を最大にしなければならないと説く。
実際、一人の人間が感じ取ることのできる幸福感には限りがあり、例えば、既に巨万の富を持っている人が更に富を積み増しても、幸福感はそれに比例して高まるわけではない(限界効用逓減の法則)。他方、未だ十分な富を持っていない人々には、比較的少額の積み増しでも大きな幸福感がもたらされる。従って、一定量の富が積み増しされる場合に、比較的少額でも大きな幸福感を得られる人々に、広く分配されれば、個々の幸福感の総計すなわち社会全体の幸福感は、ひとりの人に集中して積み増しされる場合よりも、はるかに大きくなるはずである。
ベンサムが生きていた当時のイギリスのように、一人の国王と少数の貴族・支配階級だけが幸福を最大限に享受して、残りの大多数の幸福が無視ないし軽視されている専制的な社会では、社会全体の幸福の総量はたかがしれたものであろう。同じ人間である以上、一人一人が感じ取れる幸福感の上限に大きな差がないとすれば、社会全体の幸福の総量が最大になるのは、社会の最大多数の成員の幸福が、できる限り平等に保障される場合であるということになる。
これが、ベンサムの功利性の原理ないし最大多数の最大幸福の原理の核心である。ベンサムの理論構成については、学問としての完成度の観点から種々批判はあるとしても、今日に至るイギリスの福祉政策の根底には、この功利主義思想の伝統が脈々と流れているのである。 
V 最大多数
これまでに人類が考え出した制度の中で、最大多数の最大幸福の原理のうちの「最大多数」を保障する観点から、比較的に最も有効なものは、民主主義体制であろう。民主主義体制をとっていない国、あるいは民主主義を標榜していても国民の意識および制度において成熟度の低い国のほうが、権力と富が一部の特権階級に集中し易く、その分、多数を占める一般市民の、自由権や経済力に基ずく快適な生活が制約を受ける傾向が大きいからである。言い換えれば、民主主義度が高い方が権力や富の過度の集中に歯止めがかかり易く、その分、多数を占める一般市民が、自由権や経済力に基ずく快適な生活を享受し易いということになる。
この点については、民主主義は西洋で生まれた西洋的な理念であり、他の地域においてまで普遍的な価値を持つわけではない、との主張も時に聞かれる。しかし、そのような主張は、実際には、一部の特権階級の権威主義的支配体制を擁護するためか、精々、人権の尊重よりも当面の経済開発を重視する統制主義的開発(開発独裁)体制を正当化するためのものに過ぎず、客観的かつ長期的に見て、社会の構成員の「最大多数」の人権と快適な生活の確保を目的とする民主主義の理念に対抗して、国際社会で多数の支持を得ることができるとは思えない。
民主主義との関連で留意すべきは、これに対抗する理念の有無の問題よりも、むしろ、民主主義の実現のためには、複数政党制や選挙制度などの民主的制度の整備だけでは足りず、社会の構成員のひとりひとりが、自分自身の快適さを獲得するためにはどうすればよいか、どのような社会であるべきかについての、個々人の考え方と判断力を確立しなければならないという前提条件があることである。確かに、これは容易ならざる条件であるが、かと言って、欧米人以外の人々が、個人の確立のようなことが出来るのは欧米人だけであり、従って欧米以外の地域では民主主義は不適当であると言いつのるのは、逆からの人種偏見であり、自らをおとしめる思考方式である。
人間を人間たらしめてきた原動力が、個々人の快適さの飽くなき追求であった以上、個々人が満ち足りるためには、それぞれが、自分の求める快適さは何であって、どうすれば手に入れることができるのかを、自分自身で考え判断するほかない。この判断を他人に委ねれば、委ねられた人は、必ず、獅子の分け前を自分にもたらそうという誘惑に抵抗できなくなる。これは、いかなる人種や民族といえども、人間である限り逃れられない本性である。従って、社会の個々の構成員がその求める正当な快適さを手に入れるためには、個人の確立が必須条件であることは、全ての人種や民族に共通する原理なのであり、現時点で、たまたま国により社会によって個人の確立の成熟度が低いからといって、その人々に個人の確立の可能性を否定するのは、人間性を否定することにつながる。
このような理由で、個人の確立、および、そこから導き出される民主主義の原理は、人類全体の理念としての普遍性を持っていると考えることができるであろう。 
W 最大幸福 
「最大幸福」のほうは、必ずしも簡単ではない。人類が快適さを追求して文化を発展させてきたと言っても、人類の歴史を通じて、快適さが常に右上がりに上昇してきたと言えるかどうかについては疑問が残る。
人類はこれまで、目に見える身の回りの快適さの追求には熱心であっても、真の快適さとは何かを洞察し、それを獲得する能力を十分に開発してこなかったことは既に述べたところである。その結果、個人レベルでの快適さの追求に際してしばしば計算や見通しを誤り、快適さを手にいれるつもりの行為が、逆に苦痛の種をまいただけに過ぎなかった事例は、枚挙にいとまがない。わかり易いように極端な例をあげれば、快適な生活に必要な物やお金を手にいれようとして、強盗や殺人を犯した結果、刑罰を受けて自由も、時には生命までも失う人々は、今日でもあとを絶たない。ベンサム流の考え方をすれば、これは、快楽の追求に当たって、他人(被害者)の快楽が平等に考慮されておらず、従って、最大多数の幸福の総計を最大にしないから、功利性の原理に反する利己主義的・非道徳的な行為であるということになるであろう。
ベンサムは、個別の快楽を量的に計算して、それぞれのあいだに優劣をつけることが可能であると考えた。すなわち強さ、持続性、確実性、遠近性、多産性、純粋性および範囲の七つの基準によって、快楽の大小が計算できると考えたのである。そして、全ての人々が、最も大きい快楽を選択すれば、社会全体の快楽も最大になるはずである。本当に、それが可能であるとすれば、われわれは、真の快適さを見定める能力を、ついに開発できたことになる。
実際には、ベンサムは、具体的な計算法を示さなかったし、その後、今日にいたるまで、人類が、真の快適さを洞察し、獲得する能力を格段に発展させたと考えるべき根拠も見当たらない。それどころか、美食や喫煙による一時的な快楽と、それがもたらす永続的な苦痛(病気)のような最も単純な損得関係でさえ、しばしば目先の快楽に幻惑されて計算ミスを犯している。
多くのベンサム批判が指摘しているように、あらゆる種類の快楽を数量化することは、そもそも不可能なのである。 それでは、われわれは、これまで同様これからも、目に見える範囲の快適さを、かなりの部分直感に頼りながら追求し、計算ミスの思わぬ結果に悩まされながら生きて行かなければならないのであろうか。世の中が複雑になればなるほど、計算ミスも多くなり、快適さを追求しているつもりの個々人の行動の集積の結果も、快適さを増大させるよりも妨げる要素の方が大きくなることもあり得よう。
それを少しでも防ぐように、ベンサムのようなあまりにも正確を期す数量化の試みは現実的ではないとしても、もう少し行動の幅を持たせた、しかし明らかに反社会的な行動、あるいは社会的な快適さを妨げるような方向への行動には一定の枠をはめるような、真の快適さに向けての追求指針ないし方向づけのようなものは、考えられないものであろうか。
本書では、第二部「文化の向上」で、このような方向づけを文化と関連させて考察することとしているので、ここでは問題提起にとどめる。その前に、この問題に迫るためには、文化についての共通の認識を持っておくことが不可欠であるので、今しばらくは、快適さの概念を足がかりにして、文化そのものについての理解を更に深めて行きたい。 
X 快適さの再点検
さて、個々人は、その快適さ追求の過程で、一方では快適さを獲得しつつも、他方でいろいろな判断のミスを犯し、その結果、個人レベルの様々な悲喜劇が生み続けられて来たわけであるが、社会の進歩と拡大につれて、個々人あるいは社会自身(政府等)による快適さ追求の活動が、社会全体に及ぼす悪影響(社会的苦痛)が無視できないものになって来た。結果として社会的に悪影響をもたらした、快適さ追求の全ての活動を判断ミスと決めつけるのは酷かもしれないが、将来の活動における判断ミスを少しでも減らすための反省材料として、また、そのための緊張感を維持するためにも、ある程度の結果責任は相互に問われるべきであろう。
いずれにしても、ベンサムの功利性の原理は、基本的には経済の視点に立った理論であり、また社会の快楽は個人の快楽の総計と考えて敢えて両者を区別することはしていないが、本書では、これまで功利性の原理を借りながら見てきた個人の快適さに加えて、ここからは、それとのズレが目立ち始めた社会的快適さの問題に、特に「文化」の視点から接近を試みることとする。
改めて指摘するまでもなく、一般的に、科学・技術の進歩や衣・食・住をはじめとする物質面での豊かさの向上が、日常生活の快適さや便利さをもたらすことは否定しえないところであるが、ある種の快適さには、半面としての不快適さをもたらす必然性があることも無視できない。
身近な例をとれば、クーラーが室内に快適な冷気を送り出すためには、室外に熱気を吹き出さなければならないが、今日では、そのようにして吹き出された熱気の総量は、都市部の気温を更に上昇させ、室外での不快感をますます増大させかねない程度にまで達している。地球的規模でも、石油の利用は多様な分野で生活を豊かにしてくれたが、同時に、排気ガス等の副産物は、環境破壊の大きな原因となっている。
このように科学・技術の進歩や物質的繁栄が、その半面として、人間と社会さらには地球全体に大きな不利益をもたらし始めていることが実感されるようになったために、科学・技術の進歩や物質的繁栄を快適さを計る唯一の指標とすることが、二十一世紀を目前に控えて疑問視され始めたのである。
実際、つい最近まで、科学・技術の発展度と経済的繁栄度によって国や社会の優劣が測られ、開発途上国にとって、これらを向上させて先進国に追いつくことが、進歩への唯一の道筋であるとみなされて来た。
ところが、文化人類学者によって、地球上の多くのいわゆる未開社会の研究が進むにつれて、これらの社会が決して原始社会の化石ではなく、それぞれが与えられた環境条件のもとで、極限まで発達した社会であることが明らかにされて来た。すなわち、最も未開とみなされていた社会でさえ、その地域の気候条件や入手し得る物資に適応して、それなりに快適に生活できる技術や知恵が産み出されて来たのみならず、特に精神面では、他人に対する思いやり、やさしさ、自然に対する高い感受性など、先進社会ではむしろ退化し始めているのではないかと思われるような人間性が、豊かに育まれ保持されていることが認識されたのである。
ましてや、個々の村落ではなく、国家のレベルで社会を観察した場合、冷房も暖房もない、あるいは自動車も高層ビルもない最貧社会といえども、永い歴史を通じてその気候風土に十分に順応して作り上げられた生活様式や、独自の伝統芸能および美術・工芸品、あるいは固有の宗教観や思考様式に基ずく社会秩序等は、そこで現に生きている人々にとっては最も暮らしやすく、最も心が休まる文化の形態なのかもしれない。
そうであるとすれば、先進国の文化の方が、開発途上国の文化より優れており、従って人種的にも、最も進歩した文化を作り上げた白人種が最も優れ、次に黄色人種が来て、そのあとに何々人種が順位づけられるといった、恐らく近代以降の西欧で生まれた文化観、人種観はおかしいのではないかという疑問が出て来ても不思議ではない。
実際、経済的繁栄、技術的進歩の度合いだけで先進度を判定する場合でも、人類の歴史を通じて見れば白人種が常に優越していたわけではない。黒人種、黄色人種あるいは褐色人種等が、その時々の歴史的偶然や環境条件に助けられ、あるいはこれらを活用して、地球上の各地で交互に、あるいは突出した、あるいは並行した繁栄を享受して来たのであり、近代以降だけの繁栄度で人種の優劣を判定するのは、無知に基ずく独断と偏見以外のなにものでもないであろう。
このように考えてくると、経済的要因だけではなく人間生活のあらゆる要素を包含する文化、すなわちある社会の思考様式や生活様式に優劣をつけるのはますます無意味であり、地球上の全ての文化はそれぞれ固有の価値を持っていて、等しく尊重されるべきであるという考え方に到達する。これが「文化相対主義」または「多元文化主義」と呼ばれる文化観であり、自国文化の絶対的優越性を信じて他国の文化を排斥する文化観に対坑する、有力な論理的根拠となっている。 
第四章 文化相対主義 

 

ただ、この文化相対主義については、そうは言っても、いろいろな文化を比較してみると、実感として、やはりなんらかの優劣があるのではないかという疑問を、完全にぬぐい去ることは仲々むずかしい。音楽、美術あるいは芸能等の感性の文化に属するものについては、確かに各地の文化がそれぞれ固有の価値を持っており、これに優劣をつけるのが困難であることは、それこそ実感として納得できるのであるが、「生活の文化」の、特に経済的、技術的側面には、ある程度客観的な優劣の存在を認めざるを得ないのではないであろうか。
仮に、ある未開あるいは開発途上社会のあるがままの生活様式が、環境に適応して可能な限り独自の向上を遂げたものであり、先進国の生活様式と同等の価値を持つ以上、先進国の生活様式に近づける必要はないと認識する場合には、先進国による経済・技術協力の必要性はどのように理論づけられることになるのであろうか。やはり、ある開発途上国の生活様式が、いかに環境に適応して最大限まで磨き上げられて来たものであると言っても、本当は先進社会のレベルにまで向上させたいのに、「貧困」の故に、現在のレベルにとどまらざるを得ないと云うのが実態なのではないであろうか。
多くの開発途上国が経済・技術協力を求めるのは、まさに貧困から脱却して、現状よりもより快適な生活環境を得たいからである。健康な生活のためには上・下水道施設や清潔な住宅、病院等が必要であり、より文化的な生活のためにはテレビや冷蔵庫等の家電製品も欲しくなる。そのためには発電所が必要になり、電気が使えるようになると、使用可能な製品は飛躍的に増加する。これらの購入を可能にするためには、工業化による経済開発が不可欠であり、経済開発に成功して貧困から脱却した国が作り上げるのは、結局、先進国的な生活環境であり生活様式である。このように考えると、今日の人類社会で人間の経済発展がたどる道筋は、それに使用される技術、資材、施設あるいは製品等が殆んど共通して来ているところから、ほぼ决まっているのではないかという点に思い至る。
ただし、経済開発の進展で急速に変化するのは先ず生活環境であり、生活環境の変化に合わせて生活様式も変化してくるが、一般的に言って変化が最も遅いのが思考様式である。思考様式の変化には、世代の交代を待たなければならないことも少なくない(このように、環境の変化に文化の変化が追いつかない現象は「文化遅滞」とも呼ばれる)。このような、その社会固有の思考様式の存続と、気候風土等のその地域独特の生活条件から、経済発展の結果として作り上げられる各先進国の社会環境や生活様式といえども、高層ビルやハイウエイあるいは一定の勤務時間等、外観は似通っていながら、実際には、それぞれの社会の固有の伝統の上に多くの独自性を保っているのである。そして、そのような生活様式や思考様式すなわち文化の独自性は、その人々の生き方の違いであって、それに優劣をつけるのは困難であり、人種差別の道具にしようという目的でもない限り無意味でもある。実際、パリには、旧式のエレベーターをはじめ、趣はあってもいささか不便な古いものがいろいろ残されており、他方、東京は便利で機能的であるが、急速な近代化のために歴史を感じさせる部分が少なくなっている等の比較に基ずく批評がよく聞かれる。しかし、これは発展の重点の置き所や快適さの感覚が異なっていることによるものであって、優劣の比較には必ずしもなじまない論点であろう。
このように、先進国社会と開発途上国社会の文化の比較ではいささか疑問がないでもなかった文化相対主義も、同程度の経済的・技術的水準にある国々の特に物質的日常生活の分野、すなわち「生活の文化」のひとつの側面には、十分該当し得るかもしれない。ただし、文化相対主義的観点からは、同程度の経済的・技術的水準にある人々の生き方の違いにまで優劣をつけるのは余計なお世話かも知れないが、実際には、同程度の経済的・技術的水準にある先進諸国のあいだにも、文化の程度になんらかの優劣の差があるような気がする、というのが世間一般の率直な、直感的な印象なのではないであろうか。
それでは、世間一般が複数の国ないし社会の文化の優劣を比較する場合に、何を基準にして判断するかというと、先ずはそこに、できることならば自分も住んでみたい、言葉ができないから住むのは難しいとしたら、せめて訪れてみたいと憧れるような快適な生活の場すなわち生活の文化があるかどうかであろう。自分は先進国よりも未開社会の方に憧れるという人がいるとしても、多くは珍しいものを見てみたいという観光願望であろう。中には、永住したいという人もいるが、それは少数派であるので世間一般には含まれない。 世間一般は、自分自身はそれほど文化的に開発されていない人も含めて、より洗練された快適な文化を意外なほどよく見分け、評価するのである。
ある国、ある社会の文化を際立たせている要素をひとつひとつ選び出し並べてみて比較し、その数が多い方がより優れた文化であるとするのも、分析のひとつの手法かもしれない。しかし、ここではその手法はとらないで、マクロの視点から、それぞれの文化の質を総合的に規定するものは何であるのか考えてみたい。
結論から言ってしまえば、それぞれの国の総合的な文化の質を左右し優劣をもたらすものは、経済的・物質的な豊かさだけではなく、従来は看過されがちであった感性、知性さらには品性等の、目に見えにくい要因なのである。 
第五章 感性の文化 

 

T 対物的感性と対人的感性 
ところで、先進国社会と開発途上国社会の生活の文化の、特に経済的、技術的側面には明らかに優劣が存在すると先に述べたが、他方、音楽、美術等の芸術あるいは一般的な娯楽や芸能ないし民芸等の「感性の文化」については、事情はいささか異なってくる。
感性というのは、人間の五感に入ってくる印象をうけとめる能力、もっと端的に言えば、美しいものを美しいもの、心地よいものを心地よいもの、あるいは醜いものを醜いものとして認識し、判定する能力である。このような感性に訴える文化の中心に位置するのは、言うまでもなく音楽や美術をはじめとする、いわゆる芸術である。オペラや歌舞伎などの舞台芸術ももちろん芸術の範疇に入るし、詩も知的な要素が少なくないとはいえ、感性の文化に属するであろう。
ただし、小説となると、ものによっては知性の文化とかなり重なる部分が出て来るし、建築の場合には生活の文化および知性の文化とも関わり合ってくる。
すなわち、感性の文化、知性の文化、生活の文化と分類しても、ひとつひとつの知的思考様式や行動様式がこの三つに常に明瞭に分類できるわけではなく、この三つの分野に重なり合うものも少なくない。しかし、文化の構造を理解するためには、それぞれの知的思考・行動様式の構成要素を勘案して分類しておくことが必要である。
なお、感性を、右のような五感で感じ取れる実体の美醜を判定する能力と、人間性のような精神的存在の美醜を判定する能力に分類して考えることも、感性の文化の働きを理解するに当たって役立つことがある。その場合には、前者を対物的感性、後者を対人的感性と呼んでもよいかもしれない。このように分類する理由は、美術や音楽などの鑑賞能力すなわち対物的感性を磨いても、当然に対人的感性も平行して磨かれるわけではないことを認識しておく必要があるからである。
対物的感性は、一般的に、美しいものを繰り返し鑑賞したり創作したりすることによって磨かれる性格が強い。これに対して、対人的感性は、人間ひとりひとりの生命ないし人生そのものを慈しむ感情を基盤にしており、このような対人的感性を既に身につけている人々(幼いころは肉親、成長するに伴って友人や人生の先輩など)との触れ合いや、自分自身の知的な思索を通じて高められて行く傾向をもっている。従って、心の荒んだ人々に囲まれて成長したり、人間についての理解を深めるような文学や思索と縁のない生活を送って来た場合、たとえ個人的には素晴らしい対物的感性を身につけた芸術家や鑑賞家になったとしても、社会的には、思いやりとか優しさといった内面的な価値ないし人間性を感じ取る能力に欠けた、一種の欠陥人間になってしまうことも十分あり得るのである。
一般的に言って、美醜が比較的にはっきりしている芸術的基準で判定し易く、経済的価値につながり得ることもあって、社会的にもそれなりに評価される対物的感性と比べて、これといった判定の基準がなく、経済的価値も生み出さない対人的感性は、社会的評価も低く、人々に、これを身につけようと努力させる動機づけに乏しい。しかし、社会の構成員の対人的感性の高さが、その社会生活の快適さを大きく左右することを考慮すれば、対人的感性に対する社会的な評価が低ければ低いほど、その社会の感性の文化はバランスを欠いていると言わざるを得ないであろう。  
U うるおいの文化
いずれにしても、このような感性を主体にして形成される文化は、人間に感動や快感をもたらし、生活の文化にうるおいを与えてくれるものである。もともと生活の文化から派生した感性の文化は、生活の文化が高まることによって生じるゆとりにより更に洗練される性格を持っている一方、洗練された感性の文化により育まれる個々人の感性を、今度は生活の文化に反映させることによって、生活の文化をより洗練させ豊かにすることができる。ただし、生活の文化にゆとりが出ても、感性の文化が自動的に発達するというわけではない。生活のゆとりを感性の文化に反映させるためには、それなりの意識ないしは努力を必要とする一方、感性の文化が発達しても、それを生活の文化に反映させるためには、やはり意識的な努力が同じように必要なのである。そのような意識が欠けていると、せっかく生活の文化が向上して物質的には豊かになっても、感性の文化は停滞したままで、従って、感性の文化から生活の文化への再反映も期待し得えず、生活の文化の物質的な繁栄の中で、何か索漠とした心の渇きが癒やされないという社会的な状況が生じることになりがちである。
このような状況に陥らないためには、あるいは陥ってもそこから脱出するためには、社会の構成員のひとりひとりが、中でもその社会で指導的立場にある人々が、生活の文化の質的向上に果たす感性の文化の大きな役割を認識して、物質的繁栄により生じたゆとりが感性の文化の向上に出来るだけ多く向けられるよう、意識的に努力することが必要である。感性の文化の重要な構成要素である芸術や文学の分野の活動は、決してヒマ人の遊びにとどまるものではなく、われわれの生活や人生を質的に豊かにするために欠かせない存在であることを、あらためて認識することが大切なのである。  
V 感性の文化と文化相対主義
感性の文化も人類の永い歴史を通じて発展して来たという点は生活の文化と共通している。
しかし、生活の文化が技術やモノという世代間で順次積み上げて行くことのできる社会的基盤の上に築かれるものであるのに対し(例えば現代人は、祖先の穴居生活をまったく経験することなしに、先人が作り上げた高層住宅に生まれた時から住むことができ、それを基盤に更に新しい技術や生活様式を作り上げて行くことができる)、感性の文化には属人的な部分が多い。
特に感性の文化への積極的な参加者(芸術家等)は、先人が経てきた永い道のりを、個人の人生の中でひと通りたどり直さないと、より洗練された技術(芸)の修得ができないという性格を強く持っている。すなわち、どんな天才画家といえども、幼児の時代に最初に描く絵は、原始時代の祖先たちが描き始めた絵と同じものであり、どんな天才音楽家といえども、最初に出す音は祖先たちと同じく、たたくかこするかすることから始まるのである。ここでは、先進国の芸術家も途上国の芸術家も、同じ条件でスタートすることになる。
もちろん、そのあとの成長過程では先人の開発した技術を参考にできるので、先人が歩んで来た道程を圧縮して習得できるが、その際、優れた指導者や豊富な作品に接する機会の多い先進国の芸術家が、より恵まれた環境に置かれていると言うことはできるかもしれない。また、経済的繁栄が芸術家に、より多くの活動の機会をもたらすことも否定できない。しかし、感性の文化では個人的才能の占める比重が大きいため、途上国出身の芸術家が才能を発揮できる機会は十分残されている。いずれにしても、こうして従来の技術を習得した芸術家の中で特に才能のある人々は、更にその上に自分自身の新しい技術を加えて、一層の洗練を図ることが可能になる。その結果、感性の文化の評価は、通常、その「洗練度」を基準にして行なわれるのが最も一般的となっている。
ところが、感性の文化の発展ないし洗練の方向は、技術的・物質的な制約からいずれの社会でも比較的に類似した発展の方向(都市化)をたどる生活の文化と異なり、個人ないし社会の個性に応じて非常に多岐にわたる特徴がある。また、時間の流れと共に発達する科学技術と異なり、感性の文化の技術(芸)は、歴史のある時点で洗練の頂点に達したのち停滞あるいは退化することも稀ではない。このため、優れた作品が地球上のあちこちの社会に、あるいは文化遺産として残され、あるいは伝統芸術として伝えられていることも少なくない。更に、洗練度があまり高くない作品や芸能も、逆にその素朴さゆえに、鑑賞する人の心に強く訴える例も珍しくない。
このような感性の文化の特徴のため、文化相対主義は、生活の文化よりも感性の文化の分野で、より妥当性をもって適用される理論であると言うことができよう。ただ、文化相対主義の感性の文化の分野における妥当性の故に、この理論が拡大解釈され、今や、論理的思考を混乱させかねない様相を呈しているので、第四章に続いて、文化相対主義に関する考察をもう一歩進めておきたい。  
W 文化相対主義の陥穽
実際、文化相対主義が、文化の相違に根差す人種差別観に対抗する効果的な論拠として役立っている間は良いのであるが、本来、文化相対主義の適用が必ずしもふさわしくない生活の文化に属する事柄にも、文化相対主義的考え方で対処しようとすると、いささか煩わしい状況が現出してくる。この傾向は、途上国側の議論によく見られるのであるが、しばしば「アイデンティティ(「自我同一性」、「存在証明」等と訳される)」の概念とあわせて展開される。この概念はいろいろな意味で使用されているが、文化の分野でしばしば使われる「アイデンティティ」の概念は、ある国(社会集団)が他の国(社会集団)と異なっていることを示すいわば「独自性」あるいは「固有の文化」を意味することが多い。個々の国民は、そのような固有の文化を自らも共有していることを認識することによって、その国ないし社会との一体感を持つことができ、「自分が何者あるいは何国人であるか」という自分自身の独自性も確認できるとされる。
そして、その構成員にそのような一体感を保持させるために、国や社会は、その固有の文化や伝統を守らなければならないとされるのである。このアイデンティティの概念と文化相対主義を合わせ、つきつめて行くと、いずれの国の文化も対等であり、国はその固有の文化を守らねばならないのであるから、その文化を変えるような外国からの影響は排除されなければならないという、いわば鎖国の論理に行き着く。鎖国まで踏み切る国は多くないが、外国との交流に警戒心と猜疑心をもって対応する国は少なくない。
他方、先に述べたように、少なくとも生活の文化には先進国と途上国との間に優劣の差がある。それだからこそ途上国は先進国に追いつくために経済開発に努め、先進国からの経済協力を求めているのである。しかし、経済開発とは言い換えれば近代化への協力のことであり、近代化とは変化させて新しくすることである。そして、変化させるものは、伝統的生活や文化、特に生活の文化である。従って、経済開発が進んで生活が豊かになれば、生活の文化も変わってくるのはいかなる国といえども避けることのできない道筋なのである。しかも、変わるのは、貧困により余儀なくされていた生活様式であることが多く、気候風土など固有の条件に適応してきた部分は、その条件が変わらない限り存続するはずである。
それでも、いかなる変化をも避け、旧来の文化と伝統をそのまま保持しようと思うならば、経済開発をあきらめなければならない。それはそれでひとつの生き方ではあろうが、他の国々の豊かな生活を否応なしに見聞せざるを得ない現代社会で、それだけの決断を社会として集団的に永続させることができるかどうか疑問である。
とは言え、経済開発が変化を意味する以上、開発の規模が大きくなるほど自然環境に及ぼす影響も大きくなり、環境破壊をもたらすことも稀ではない。そのために、環境破壊をできる限り少なくし、固有の自然環境に適応して形作られてきた文化や伝統を住民に保持させながら、同時に、豊かで快適な生活を保障するような経済開発を如何に実施して行くかが、今日、人類的規模の課題となっているのである。それは、文化の視点から端的に言えば、守るべき文化と捨てるべき文化の選択の問題であり、本書に一貫して流れる問題意識でもある。  
このような視点に立つと、文化鎖国の理論で外国の影響から守ろうとしている文化や伝統と称するものが、本当にその国民大多数の生活の量的・質的向上を支えているものなのかどうかは大いに疑問である。伝統が、その時代に生きている二ないし三世代の、ほんの数十年来の生活習慣や思い込みでしかなかったり、文化が、実は少数の特権階級の存続や利益を確保するためだけの政治・社会体制にすぎない例も珍しくない。特に、独裁的あるいは専制的な政治体制をとっている国では、一般的に耳当たりがよい文化や伝統といった言葉が、その体制を維持するための手段として恣意的に使われる傾向が強い。
「文化相対主義」の概念は、自分たちの文化の優位性を信じる人々に、それを他の人々に押しつけることの不条理を教える上で有用であった。しかしそれは、全ての文化が完全無欠であるという意味ではない。従って、社会的後進性などを指摘され易い立場にある国の指導者が、この概念を、外国からの批判を封じることによって、自らの文化の短所に対する謙虚な反省と、その質的向上を図る努力のいずれをも怠る口実として使用する場合には、かえって有害であろう。文化についての明確な認識や学問的研究が未だ十分に普及していない状況では、「文化相対主義」とか「アイデンティティ」といった一見もっともらしい文化用語が、使っている本人の概念規定もはっきりしないままに、とんでもない方向に独り歩きし始めることがあるので注意が必要である。
敢えて言えば、文化は、それ自体で究極的な価値を持つ存在ではない。文化の価値は、それより上位にある価値の実現に役立つかどうかによって判定されるべきものなのである。その価値とは、個人レベルでは精神的充実感を含めた快適さであり、社会的には最大多数の最大幸福である。それに合致する文化は、国家なり社会なりが積極的に保護・育成することが望ましい。それを損なうものは、いかに伝統的であり固有であっても、守るに値しない文化であると言わざるを得ない。そのいずれでもない大部分の文化、あるいは生活習慣を守るか捨てるかの選択は、その文化に関わっている人々の選択に委ねれば良い。 文化の専門家を自認する人々の中にさえ、世界中どこに行ってもマクドナルドが繁盛し、テレビではアメリカ映画ばかり見せられるのは、各国固有の文化に対する侵略であるといった議論を展開する向きが見られる。これなどは、なまじ文化意識を持ったために、それに振り回されて不必要に排外的になってしまっている一例であり、文化意識が徒に感情を刺激すると、文化摩擦の原因にもなりかねないことを示している。とりわけ、外国人が、自分は近代的で快適な都会生活を享受しながら、他の国民特に開発途上国の人々に対して、快適さを犠牲にしても伝統的な生活習慣を守れとお説教するのは、余計なお世話というものであろう。
マクドナルドもアメリカ映画も、生活の文化を多彩にするための選択肢のひとつに過ぎず、これを受け入れるかどうかは、最終的には、生活者である一般国民の判断次第である。仮に、文化意識の高い人々がこれらを俗悪であると判断する場合にも、この人々の為すべきことは、これらの外国文化の侵入を公権力によって阻止するよう煽り立てることではなく、これらに代わって一般国民を魅了する文化を提示するか、あるいは俗悪なものを受け付けないように一般国民の文化意識を高めるよう努力するかの、いずれかであろう。今や、国家は無菌保育器ではあり得ず、俗悪なもの、危険なものに対する免疫と抵抗力を身につけない限り、国民として、民族として生き延びて行くことはむずかしい。
制度や生活慣習等、人類の過去の文物全てを維持・保存することが不可能である以上、何を守り何を変えるかの選択は避けることができないのであるが、その時に求められるものは、独り善がりの思いつきや思い込みではなく、歴史に対する深い洞察、文化に関する高い見識、および国家や社会のあるべき姿とその文物との関連についての冷静な判断である。今日ほどコミュニケーション(通信・運輸)の手段が発達した人類社会での生存競争を生き抜いて行くためには、文化的鎖国は自殺的選択であり、知性の文化と感性の文化を磨き上げることによって、多様な文化活動の中からより優れた生活様式を選択する能力を養い、生活の文化を向上させて行く以外に道はないのである。むしろ、そのようにして、諸外国の最も優れた文化を取り入れて、新しい文化の創造に成功する国や民族が、次の時代のトップ・ランナーになれるのではないであろうか。  
第六章 知性と知恵

 

T 知性の誕生
感性が物事の美醜を直感的に感じ取る能力であるとすれば、知性は物事を論理的に考える能力であると言うことができる。従って、知性の文化の中核を成すのは、論理的な思考を体系づけ、深めてゆく知的な活動である。人間は、二百万年ないし百五十万年前頃までには直立歩行の体型ができあがり、自由になった両手で道具を使えるようになって以来、快適な生活を求めて、知恵と呼ばれる能力を駆使した知的活動を展開してきた。しかし、知性という、論理的な思考を体系づけ、深める能力に基ずく知的な活動を開始したのは、人間の歴史から見ればごく最近の精々三、四千年前くらいからではないかと思われる。なぜならば、古代ギリシャに記録に残る最初の哲学者たちが現れたのは、今から約二千六百年前の紀元前六世紀頃である。ほぼ同じ時代に中国には孔子が、そしてインドには釈迦が現れている。もちろん、こうした哲学者や宗教家たちは突発的に現れたわけではなく、それ以前の、人間の精神生活の中で神話と現実が渾然一体となっていた世界から、哲学に代表される論理的思考が精神生活に重要な位置を占める世界に移行し始めるまでには、名前こそ残っていないが多数の人々による知的活動の、何世紀にもわたる積み重ねがあったに違いない。 
それでは、なぜ、三、四千年ないし二千六百年ほど前に、お互いに遠く離れた世界の各地で、時を同じくしてこのような知的な移行が開始されたのであろうか。原人から現代の人間(ホモ・サピエンス)への進化が完成したのが、十万年ないし五万年前だとしたら、歴史に残る偉大な哲学者や思想家あるいは宗教家たちは、なぜ、ある地域には一万年前に、別の地域には七千年前に、そしてまた別の地域には五千年前にというようにバラバラに現れず、東洋でも西洋でも、紀元前六百年前後を境にして輩出し始めたのであろうか。
知性と呼ばれる、論理的な思考を体系づけ、深めてゆく能力の開発を可能にしたのは、文字の発達であった。アメリカの英語学者ウォルター・J・オングの著書「声の文化と文字の文化」によれば、人間の歴史でこれまで知られている最も古い文字はメソポタミアの楔形文字で、今から約五千五百年前の紀元前三千五百年頃までに形成されたと見られる。インドでは紀元前三千ないし二千五百年前、エジプトで紀元前三千年前、ギリシァのミュケナイで紀元前千二百年前、そして中国では紀元前千五百年前頃までに、それぞれ独自の文字を発展させている。同書によれば、メソポタミアのシュメール人の文字は、少なくとも部分的には、都市生活における毎日の経済交易を記録するために生まれたとされているが、世界各地で発達したその他の文字も、当初は、商売や行政を始めとして、日々の生活と密接に関連しながら形成されて来たものと考えられる。 
このようにして作り出された文字の用途は、経済活動や行政通達に限定されることなく、永い年月を通じて生活のあらゆる分野の記録に拡がって行く。それに伴って言葉(単語)、特に抽象的な言葉の数が飛躍的に増加して行ったものと思われる。なぜならば、オングが「声の文化」と名付けた、文字を使わず音声だけで意思の疎通が行なわれていた状況では、使用される言葉の数も限定されざるを得なかったからである。すなわち、音声で発せられた言葉の特徴は、発せられると同時に消えてしまうことである。それを聞いた相手の記憶に、かろうじて残るだけである。足とか水とか走るとかいうような具体的なものや事柄を意味する言葉であれば、
誰でも実物と言葉を容易に結びつけて理解できるので、共通の言葉として使用できる。しかし、例えば誰かが「悟性」というような抽象的な言葉を思いついたとしても、その内容を音声の言葉だけで相手に理解させ、更に一般に普及させるのは、至難の技であろう。複雑な内容を、声の届く範囲でいちいち説明できる相手の数、その中でそれを理解できる能力を持つ相手の数にはただでさえ限度がある上、その相手が更に別な人々に、その言葉の意味を正確に次々と伝達し、共通の言葉にすることができるかどうか、大いに疑問である。伝言ゲーム(数人が一列に並び、一定のメッセージを先頭から順番に耳打ちして行くと、最後には、最初のメッセージとは似ても似つかぬ内容になっているのを見て楽しむゲーム)でもお馴染みなように、口頭だけで複雑な内容を正確に伝達するのは、かなり困難であるからである。このような事情があるために、声の文化で使用される言葉は、比較的に具体的で、誰にでも共通に認識できるような意味を持つ言葉に限定される傾向があるのである。
それに対して、「書くということは、ことばを空間にとどめることである。こうすることによって、言語の潜在的な可能性がほとんど無限に拡大し、思考は組み立てなおされ、そうしたなかで、ある少数の方言〔地域言語〕が文字言語〔文字をもった言語〕になる‥‥。文字言語とは、書くことと深く結びつくことによって、個々の方言〔地域方言や社会方言〕を貫く〔支配的な〕言語として形成されたものを言う。文字言語は、書かれることを通じて、ただ話されるだけのどんな方言も遠くおよばないほどの力を手にいれるのである。『標準英語』として知られる文字言語は、使用可能な語彙として、すくなくとも百五十万にのぼる語を登録している。これらの語については、その現在の意味ばかりか、過去の何十万という意味も知られている。話されるだけの方言には、ふつう、わずか二、三千語のたくわえしかなく、実際、その方言の話し手といえども、これらの語のどれ一つとして、その意味の実際の歴史を知らないだろう」(オング『声の文化と文字の文化』、桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳)。  
このようにして、最初は五、六千年前頃に、そしてその後次々に、世界の主要な文化発生地あるいはその近辺で発明された文字は、永い時間をかけながら整理・統合・洗練され、その過程でいくつかの文字言語を形成して行った。こうして形成された文字言語は、抽象的な言葉も含めて飛躍的に増大した語彙によって、人間が論理的に考え、それを体系づけ、深めることを、そして更に、それを記録し、他の人々や次の世代に伝達して洗練して行くことを可能にする。逆に言えば、文字言語なしには、哲学をはじめとする学問や、アニミズムを超えた宗教思想の発展は不可能なのであり、これが、一万年前にも七千年前にも、あるいは五千年前にさえ、歴史の評価に耐え得るような哲学者や宗教家が生まれなかった理由である。ちなみに考古学者によれば、神と未だに直接語り合っていたモーゼが生きたのは、知性の文化が誕生しつつあった、今から三千三百年ほど前の時代である。
文字言語の形成は、約二百万年前から百万年前にかけての直立歩行の完成による、人類の、サルの仲間から人間への質的転換に次いで、三、四千年前からの、精神的人間への再度の質的転換をもたらした、または、もたらしつつある、あるいは、もたらし始めた、と言うことができるかもしれない。この点についてオングは、次のように述べている。「『一次的な声の文化』、つまり、書くことの知識をまったくもたない声の文化から、文字の文化への移行は、人間の生活のなかで生じた非常に大きな変化です。それが、人類全体の歴史のなかで生じたもっとも重要な移行の一つであることはまちがいありません。書くことは、思考のかたちを変え、また、ほんの六千年ほどまえに最初の書かれたものが出現して以来、社会の過程や構造にかぎりない影響をあたえてきました。もちろん、声の文化から文字の文化への移行が、人間の文化のすべての変化を説明するわけではありません。しかし、この移行は、過去何世紀ものあいだの非常に多くの変化に関係し、また、そうした変化に影響をあたえてきました。しかも、書くことから印刷が生まれ、さらにそこから、現在の電子的なコミュニケーションが生まれてくるのです。電子的なコミュニケーションは、ラジオやテレビによる『二次的な声の文化』を生みだすとともに、一種の新しい電子的な視覚中心の考えかた‥‥を生みだします。」(前掲書)。
ただし、声の文化から文字の文化への移行に伴う、精神的人間への移行が終了したのかどうかは、はなはだ疑問である。精神的人間とは、欲望の物質的ないし体感的充足の追求だけでは満ち足りず、人生や社会の事柄やあり方を、より広い視点からより深く考え、その結果を現実の人生や社会に少しでも反映させるための努力に、精神的充実感を覚える人間である。
そうであるとすれば、精神的人間への移行は、むしろ、まだ始まったばかりなのかもしれない。なぜならば、自分自身を振り返ってみても、われわれの多くは、読み書きができるにもかかわらず、論理的思考という知性の本質を第二の天性として身につけるには至らず、オングが指摘する一次的な声の文化の、生活の知恵主体の次のような人生とあまり差のない日々を、相変わらず送っているように思えるからである。  
すなわち、「一時的な声の文化における思考も含め、およそすべての思考は、ある程度分析的である。すなわち思考は、その材料をさまざまな成分に分解する。しかしながら、さまざまな事実や、真偽にかかわる言明を、抽象的に順序づけ、分類し、説明して分析することは〔すなわち、それが研究するということなのだが〕、書いたり読んだりすることなしには不可能である。
一次的な声の文化のなかで生活する人びとは、つまり、どんなかたちであれ書くことにふれたことがない人びとは、多くのことを学び、おおいなる知恵を身につけ、それを実践している。しかし、かれらは『研究』することはない。  
このような人びとは、見習い修業によってものごとを学ぶ。たとえば、経験ある猟師のあとについて猟を学ぶように。また、これも一種の見習い修業である徒弟奉公によって学ぶ。さらにまた、ことわざをおぼえ、それらをたがいに結びつけたり組みかえたりするしかたを身につけることによって、また、ことわざ以外のきまり文句的な言いかたを自分のものにすることによって学び、一種の集団的な過去に参加することによって学ぶ。しかしかれらは、厳密な意味での研究によって学ぶことはない。」(前掲書)。  
文字を使用することによって、人間の知的活動は飛躍的な拡大、深化が可能になったのであるが、他方、文字の文化の中で生きているからといって、論理的思考という知性の本質を、自然に身につけるわけではない。読み書きの能力を身につけさえすれば、自然に知性が発達するわけではないのである。この点、知性は、直立歩行するようになった人間が、手を使えるようになったことによって、食欲や性欲といった本能的欲望や、それを軸にして更に社会生活の中で多様化された物欲、金銭欲、出世欲、支配欲といった諸々の欲望を満たすために、自然に身につけてきた(悪知恵もふくめた)生活の知恵とは異なっている。また、五感という肉体的な感覚や、喜怒哀楽という生まれつき持っている感情の働きを通じて、生きているだけで自然に、多少なりとも育まれてくる感性とも異なっている。人間であれば、社会集団の中で成長する過程で、程度の差こそあれ、誰にでも身についてくる生活の知恵やある種の感性と異なり、知性は、読み書きの能力の上に、論理的思考能力を積極的に開発する努力をしないと身につかない特性を持っているのである。従って、心身に特別な障害がない限り、知恵も感性もない人間というのは考えられないのであるが、読み書きもでき、活発に活動していながら知性のひとかけらもないという人間は、いくらでも存在しうるのである。この場合、知性がないと言っても、知的活動がないということではない。広く、深く、かつ長期的視野に立った論理的思考がなくても、知恵を駆使した知的活動は妨げられないからである。むしろ、われわれの日常の知的活動の大部分は、知性よりも知恵の要素が圧倒的に大きい活動であると言っても言い過ぎではないであろう。
自然に身についた知恵だけで楽しい人生を送ることができるのであれば、なにも知性などいらないではないかという考え方があるかもしれない。しかし、ここ三、四千年の間に、人間には、知性の働きを借りないと、一時的にはともかく継続的な安心感や充実感を得られないような精神構造の基本的な変化が、文字の文化によってもたらされてしまったのである。人生のいずれかの時点で、「この生き方で良いのであろうか」という疑問や迷いを一瞬たりとも抱いたことのない人はいるであろうか。その回答を宗教のような外部の力に求める人も少なくないし、根本的な解決にはならないのであるが、仕事や娯楽に没頭して、疑問や迷いなど、できるだけ忘れてしまおうとする人も多い。その中で、自分自身で考えて何とか答えを探し求めようとする人々に、考え方の筋道なりとも示してくれるのは、知恵ではなく知性なのである。
このように、同じ知的活動といっても、知性と知恵の果たす役割は、本質的と言ってもよいほど異なっている。そこで、知性の役割をより鮮明に描き出すためには、知的活動のもうひとつの構成要素である知恵の働きについて、観察を進めることが有益である。
なお、知性の本質が筋道の通った論理的思考であるといっても、ある事柄に関する論理が常にひとつしか成立しないというわけではない。異なる視点から始まる筋道をたどっていくつかの論理が組み立てられる状況は、いくらでも考えられる。この場合の視点や論理に生じる優劣の差は、それらを側面から支える感性の働きに負うところが大きい。高い感性の支えなしに高い知性を構築することはできず、高い知性の支援なくして高い感性は育まれ得ない。本章で知性の役割を明らかにしようとしているからといって、知性の万能性を主張しているわけではなく、知性と感性の相互支援の必要性については、追って詳述するつもりである。 
U 知的活動としての知恵
以上で明かにしたように、知的活動は常に深い論理的思考を伴っているわけではない。われわれは、日常生活でもさまざまな知的活動を行なっているが、その活動の主な目的は生活を快適にすることであって、論理的思考よりも、利害得失についての、経験的な状況判断に基ずく、どちらかと言えば直感的な対処活動の性格が強い。従ってこの活動は、知性というよりも、一般的に「知恵」ないし「才覚」と呼ばれている知的活動に属すると言うべきであろう。
大学での学問はかなり高度の知的活動のように思えるが、学歴社会の大学では、多くの学生は、論理的思考によって真理を追求する学問よりも、学歴を得るための、記憶中心の試験勉強に偏りがちである。その結果、学歴を得て社会に出た途端に勉強とは縁を切るか、勉強する場合でも読書の対象は、実際の仕事にすぐ役に立つ実用書に切り替えてしまう傾向が強い。この結果、われわれの多くは、論理的に思考するという知的活動能力(すなわち知性)から生まれる精神的充実感を経験する機会を十分に得ないまま、同じ知的活動能力でも、仕事なり収益なりに役に立つ知的活動能力、すなわち「生活の知恵」ないし「才覚」にしか価値を見いださない人生を送ることになる。
もちろん、生活の文化は、このような知恵の集積から成り立っており、個々人の生活の善し悪しも、少なからずこの知恵の働き如何にかかっているとも言えるので、知恵の有る無しは、その人の人生を左右するほどの重要性を持っている。しかし、日常生活における知恵とは、基本的には、与えられた条件の中でどれだけ巧みに行動出来るかという、いわば状況対処能力のことであるので、目の前の利害関係の処理が何よりも重視される傾向は否定しえない。すなわち、目の前の実益の追求という知的活動(知恵の働き)に没頭すると、人生の、あるいは社会の、長期的ないしは哲学的なあり方に思いを馳せる知的活動(知性の働き)は鈍らざるを得ないのである。このような人生では、人生の最高の価値は、実利的な経済的収益とか社会的地位の獲得と云うことになるのであろうし、そのための仕事こそ人生そのものであると思い込む人も出てくることになる。そして、ついには何のための仕事かは問わず、仕事と名のつく活動のためには命も惜しまないほど、価値観が倒錯してしまっているのではないかと思われる人々を、われわれのまわりに見つけるのは、それ程むずかしいことではない。
それにもかかわらず、このような価値観の持ち主が、特に第二次世界大戦後の復興期に大多数を占めたことによって、あるいは、国民の大多数にこのような価値観を持たせたことによって、日本の経済的大発展がもたらされ、生活の文化の経済的・物質的な部分が格段に向上したことは、否定しえない事実である。ただ、問題は、このようにして達成された現代日本の生活の文化こそ、世界のどの国の生活の文化と比較しても最も快適なものであると、われわれが胸を張ることができるかどうか、あるいは、現在は未だ最高のものでないとしても、これまでの経済的効率第一主義の価値観で突き進んで行けば、いずれは世界で最も快適な生活の文化を築き上げることができると確信できるのかどうかという点である。
生活の文化は、日常生活をより快適にしたいと云う欲求を主たる動機として発展してきたものであるが、先に、第三章のベンサム主義の項で触れたように、人類が発展して日常生活も複雑になってくると、何が、どうするのがより快適かの判断も簡単ではなくなってくる。あるひとつの事柄だけをとって最も快適な条件を求めても、それが別の幾つかの要素に影響を及ぼし反作用を生じて、最初は最も快適であると思われた条件でさえも、実際には不快な状況以外のなにものをももたらさなくなってしまう事態さえ発生しかねない例は、環境問題をはじめあとを絶たない。目の前の快適さの飽くなき追求が、必ずしも恒久的な快適さをもたらすとは限らなくなっている傾向は、科学・技術の発達に伴い、ますます強まるものと思われる。更に、快適さの条件に、内面的な充実感や安心感まで含めると、経済的・物質的な豊かさの追求だけで真の快適さを獲得することが困難であることは明白であろう。 
V 知恵の働き       
ある社会が住みやすいかどうか、住民が快適に生活できるかどうかを決定づける大きな要因のひとつは、その社会の生活の文化のバックボーンを成している、国民あるいは住民の価値観である。
これまで述べて来たように、ある社会集団を構成する個々人は、その社会集団の生活の文化が許容する枠内で、自分自身の最大の快適さを求めて活動する。もちろん、快適さはそれ自体として存在しているわけではなく、快適さをもたらすと思われている具体的な何かを通じて獲得される。その何かとは、一般的には先ず物(衣・食・住を始めとする商品)であり、物の購入を可能にする「お金」であろうが、人によっては権力や地位であり、男女関係や上下関係を含む良好な人間関係であったりもする。個々人は、これらを獲得するために知恵を働かせる。
一党独裁国家では党員になることが、軍事国家では軍人になることが、そのための近道であるから、能力に恵まれた若者の多くがその道を志す。そこには、一党独裁や軍事政権が、社会にとって望ましいあり方か否かについての、あるいはそうした体制の将来性についての深い考察すなわち知性の働きが欠けているが、一般的にはこの選択が、与えられた環境のもとで取り敢えずの快適さを獲得するための、人生の知恵なのである。
他方、学歴社会では、より好ましい職業に就くためには高い学歴が有利であると信じられているので、小学校いや幼稚園から大学まで、受験競争に全力を投入するよう指導される。受験競争に勝ち抜くために必要なことは、出来るだけ多くの知識を吸収することである。暗記科目ではないとされている数学ですら、試験問題を分類し、それぞれのグループに特有の解答法のパターンを知識として記憶しておかないと、決められた時間内に解答するのは困難である。しかし、このようにして蓄えた知識を受験以外の目的に活用しようという意識は余りない。
受験競争で問われるのは知識の量である以上、学校では、この知識を何のために使うのか疑問を持つことなどに時間を浪費しないで、ひたすら知識をふやすために努力するよう指導される。これらは、受験競争を勝ち抜いてゆくための知恵である。
学校生活を終えて社会に出ると、より高い収入や、より高い地位を得るためには、受験競争での知恵などと比較にならないほど高度な知恵比べにさらされる。受験時代は、ひたすら自分自身の知識量を増やすためだけに知恵を使えばよかったのであるが、社会での生存競争では、競争相手の出方を見ながら、臨機応変に対処して行かなければならない。受験時代に蓄えた知識よりも、処世術と呼ばれる生活の知恵ないし才覚が威力を発揮する場面が、しばしば出現する。
これは学歴社会に限らず、あらゆる社会に当てはまる現象である。一党独裁国家でめでたく入党できても、あるいは軍事国家で軍人になれても、その中で昇進し出世してゆくためには、特に人間関係をめぐる生活の知恵を発揮して、厳しい競争に勝ち抜いて行かなければならない。如何に知識の量を誇る学校秀才といえども、この知恵がなければ出世競争に勝ち抜いて行くことは困難である。逆に、知恵と運に恵まれれば、さしたる家柄も財産も学歴もなくても、太閤(豊臣秀吉)や皇帝(ナポレオン)の地位にまで駆け登ることもできるのである。運の方は自分の力ではどうしようもないとも言えるが、時と場合によっては、知恵と才覚で運を作り出すことも、ある程度までは可能なのではないかとさえ思われる。個々人の人生は、その人の知恵の働きによって、決定的に左右されるのである。 
W 生活の知恵
他方、知恵には、人生競争の側面だけではなく、日常生活を円滑にする側面もある。 既に述べたように、知恵ないし才覚とは、目の前の利害・得失・強弱を見極めて、自分にとって最も快適と思われる状況を求め、実利的に対処する能力である。人間は、この知恵によって、道具を作り出し、技術を発展させ、時には助け合い譲り合い、時にはだまし合い争い合いながら、生活の文化を作り上げてきた。
もちろん、実際の生活の文化は、実利を求める知恵だけで構成されているわけではない。知恵は意識的な知的活動であるが、われわれの日常生活の可成りの部分は、むしろ、あまり頭を使わない習慣的な行為で占められている。
朝起きてから出勤まで、特別に頭を使わないとできないことは殆んどない。遅刻の言い訳に、初めて知恵を出すくらいであろう。午前中の仕事も、ルーティン・ワークである限り、いつもの手順でさばいて行くだけである。 昼食はどこに行こうかと考えるのは、確かに頭の働きではあるが、知恵どころか、知的活動と呼ぶことさえいささか気恥ずかしい。
道を歩いて、他の通行人にぶつからないようにしたり、赤信号で止まったりするのは、ようやく歩き始めたばかりの幼児にとっては知恵の芽生えであろうが、成人の場合には、むしろ、習慣的、反射的な行動であり、殆んど無意識的に対処している。
昼食後、コーヒーを飲みながら新聞を読むのは一見かなり知的な活動に思えるが、読んで取り入れた情報に反応して頭が積極的に活動しない限り、新聞を読み流すこと自体の知的活動のエネルギー水準はそれほど高いものではない。もちろん、読むという行為それ自体に、知恵の出る幕は殆んどない。テレビを見るのも、似たようなものである。
さて、仕事のパートナーや商売相手との折衝や駆け引きが始まって、ようやく知恵の出番がくる。相手を説得し、こちらの術中に引き入れ、出来るだけ自分に有利な決着に持ち込むために、頭をフル回転させる。相手に応じて、誠心誠意対応したり、都合の良い情報だけを見せて錯覚を起こさせたり、脅したりすかしたり、知恵の見せ所である。人によっては、賄賂を使ったり、だましたり、暴力を行使することさえ辞さないかも知れない。それがどこまで許容されるのか、手段を選ばず目的を達成する行為がどの程度まで評価されるのか等は、その人が属している集団や社会の文化によって左右される。従って、ある集団や社会では有能と評価されても、別の集団や社会では不道徳とみなされるような事例は珍しくない。
知恵は、外部との折衝のためだけではなく、その人の属している集団や組織の中での、人間関係の維持のためにも必要である。上役の機嫌を損ねると、居心地は悪くなるし、昇進にも差し支えるので、ご機嫌伺いに知恵をしぼる。文書作成の際の文体や言葉づかいを、上役の趣味に合わせて変えるのは、かなり高度な知恵であり才覚である。夜、上役や同僚に酒や麻雀に誘われて、その日、結婚記念日の夕食を妻が楽しみにしているのを知っていながら断れないのが、人間関係維持のための知恵なのか、単に優柔不断なだけなのかは分からない。それでも、午前様の帰宅に際して、ささやかなプレゼントを持って帰るのは、家庭の平和維持のための生活の知恵であろう。
科学技術も含め、最高の知的活動と考えられる学問のかなりの部分は「知識」の集積であるが、その知識を、日常生活の実利的な快適さを求めるために使う知的活動能力は「知恵」であり、その知識を基に、思考を論理的に発展させて行く知的活動能力が「知性」である。もちろん、知識と知恵と知性は、お互いに重なり合っている部分があるが、学問をする場合に、知識と知恵と知性のいずれに重点を置くかは、学問を通じて何を求めようとしているかによって異なってくるであろう。一般的に、われわれの日常生活では、知識の集積も、学問的情熱というよりも、入学や就職を有利にするための知恵に基ずく部分が大きいし、その知識を実利的に活用する知恵の要素を多く含む学問の方を、知性を育てる学問よりも大事にする傾向が見られる。
このように、われわれの日常生活は主として、もともとは快適さを求める知恵であったものが、繰り返しているうちに一種のマニュアルとなって習慣化し日常化した殆んど無意識的な活動と、日々、目の前に出現してくる様々な状況の中で、より多くの実利的な快適さを求めて対処する、いわば生きた知恵ないし才覚に基ずく活動から成っている。ただし、以上からも明らかなように、現代社会の生活の文化の中で観察される知恵は、既に、その社会が育んできた知性や感性を反映するものである。その知性や感性のおかげで、実利を求める個々の知恵と知恵との衝突が回避され調整されて、それなりの秩序と快適さを保った社会生活が維持されることになるのである。 
第七章 知性の文化

 

前章で指摘した、実利を求める知恵と知恵との衝突を回避し調整するような知性や感性は、もちろん、自然に育まれてきたものではない。人類の歴史の大部分、すなわち文字の文化、そしてそれに触発された知性の文化が形成されるまでの百数十万年のあいだ、人間は、生き残るために、必死になって知恵を磨いてきた。生き残るために必要であれば、殺人も辞さず、敵を殺せば英雄になった。現代でも同じではないかという声があがるかもしれないが、戦いで人を殺傷するにも、それなりの手続きが導入され、また少なくとも先進社会では、時に逆行することもあるとはいえ、犯罪行為に対する社会的な規制も強まる傾向にある。日常生活に関する限り、人々は、過去と比べて格段に安心感を持って生活していると言えるのではないであろうか。
人間の社会を、不十分とはいえ、そのように変えてきたのは、知性と感性の力である。暴力と知恵だけに頼って、利己的な利益を追求し続けることによってもたらされる多くの不幸から、われわれ自身を守るためにはどうしたら良いか、それが、特に知性に恵まれた人々が自分自身に、そして社会に問いかけてきた、大きな論理的課題であった。 知性の文化は、自然現象の観察・研究に始まり、人間の存在そのものの意味や、社会制度のあり方に思いを巡らせる哲学・思想、社会現象を研究対象とする政治学や経済学、あるいは人間性に焦点を合わせた人文科学等、あらゆる分野を覆っている。本章では、そのうち特に、個人と社会との関係に関する哲学的・思想的研究を幾つか取り上げて、知性の文化が人間社会で果たす役割の重要性を明らかにする。 
T 万人の万人に対する戦い
イギリスの哲学者トマス・ホッブス(1588〜1679)は、その著書「リヴァイアサン」の中で、個々人が他人を顧みずに利己的欲望を追求する自然状態を想定し、それは「万人の万人に対する戦い」の状態であると考えた。そこには、人間の心身の諸能力は、多少の違いはあっても、自然によって基本的には平等に作られているという前提がある。能力が平等なのであるから、どちらが強いかは戦ってみなければわからない。「それゆえ、もしもふたりの者が同一の物を欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは敵となり、その目的(主として自己保存であるがときには快楽のみ)にいたる途上において、たがいに相手をほろぼすか、屈伏させようと努める」(ホッブス『リヴァイアサン』、永井道雄・宗片邦義訳)。
しかし、実際には、ホッブスが考えたような状態は、特定の人間同士の間で生じることはあっても、万人の間で生じることはない。人間の心身の諸能力は、それほど平等には作られていないし、人間は本能的にそれを知っているからである。身のほどを知らずに無鉄砲に戦いを挑めば、弱いものから次々に殺されて、最後に、最強の一人だけが残るまで戦い続けなければならないであろう。それでは、殺された者にとっては、なんのために戦ったのかわからない。死んでは元も子もないので、特に弱者の側に、生きるためなら自分の利己的欲望を我慢するのもやむを得ないという知恵が働くことになる。どんな社会にも強者と弱者が存在する以上、戦いは(多くは実際に戦われるまでもなく)、強者(知的強者も含む)が弱者を支配する形で決着がつくのである。
人間だけではなく、サルやライオンの集団でも、餌にありつける順番は、強い者からに決まっているようである。この掟を破り、序列を無視して先に餌に手を出そうとする者は、強い者から制裁を受ける。そこで、弱い者が制裁を恐れて掟を守ることにより、集団の秩序が維持されるのである。そうであるとすれば、人間が人間(原人)になる前(猿人、類人猿あるいはもっと前)から、強者が弱者を支配する形での秩序は成立していたはずで、従って、人類の歴史上、万人が万人と戦うような自然状態は存在したことがなかったと言うことができるのである。
しかし、万人の万人に対する実際の戦いはなかったとは言え、人の心を覗いて見ることができれば、人は一般に、自分に不利益となって跳ね返って来ない限り、自己の利己心を満たし、他者への優越を追求するために争おうとする潜在的な意志を持っていることを認めることができるであろう。これに関してホッブスは、「戦争とは、闘争つまり戦闘行為だけではない。闘争によって争おうとする意志が十分に示されていさえすれば、そのあいだは戦争である。」(前掲書)と述べている。争うまでもなく強者の支配に甘んじている弱者でさえ、自分よりも弱いものに対しては、争ってでも自分の目的を達成しようという意志を持っているのである。自分にはそんな意志はない、と言う人がいるかもしれないが、それは既に身につけた知性や感性のおかげで利己心や支配欲が適度に抑制され、更には昇華されて、自然状態の人間ではなく、十分社会的な人間になっているからなのである。 
しかし、知性や感性が不十分で、利己心や支配欲が自律的に抑制されていない多くの人々の場合には、利己的な目的のための闘争を抑制しているのは、闘争に破れることへの、あるいは社会的な制裁を受けることへの恐怖心であり、そのような結果を避けようとする知恵である。従って、その心配さえなくなれば、闘争によって争おうとする意志は、いつでも行為に転じる可能性を潜めているのである。それどころか、知性や感性のみならず、敗北を避けるための知恵さえ持ち合わせず、目先の利己的な目的に目が眩んで本当の闘争に突入し、悲惨な結末を迎える人々も後を絶たない。こうして、利己的な目的のために実際に闘争する人々と、相手が弱ければ闘争によって争おうとする意志を持っている人々の数を合わせれば、万人とまでは言わないまでも、かなり多数の人々のあいだで、自然状態ではない場合でも、戦いは少なくとも潜在していると言うことができるであろう。 
それでは、このような戦いの顕在化を防ぎ、秩序を保つためには、どうしたらよいのであろうか。ホッブスは「自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある」(前掲書)と分析する。そして「この権力を確立する唯一の道は、すべての人の意志を多数決によって一つの意志に結集できるよう、一個人あるいは合議体に、かれらの持つあらゆる力と強さとを譲り渡してしまうことである。
‥‥これが達成され、多数の人々が一個の人格に結合統一されたとき、それは《コモンウェルス》‥‥と呼ばれる。かくてかの偉大なる《大怪物》(リヴァイアサン)が誕生する。否、むしろ『永遠不滅の神』のもとにあって、平和と防衛とを人間に保障する地上の神が生まれるのだと〔畏敬の念をもって〕いうべきであろう。それが『地上の神』と呼ばれるのは、コモンウェルスに住むすべての個人によって与えられたこの権限を持って、彼は自分に付与された強大な権力と強さを生かし、国内の平和を維持し、そして、団結して外敵に対抗するために、人々を威嚇することによって多くの異なった意志を一つに結集させることができるからである。」(前掲書)と述べる。因みに、ホッブスの著書のタイトルにもなっているリヴァイアサンというのは、聖書にでてくる海の巨大な怪獣である。ホッブスは、人間は大怪物のような「何か恐ろしい力が目に見えて存在し、人間がその力を畏れ、懲罰にたいする恐怖から諸契約を履行し、‥‥種々の自然法を遵守しないかぎり」(前掲書)戦争を避けられないものであると考えたのである。
ホッブスのコモンウェルスは、国民から統治権を譲渡された「一個人」または「合議体」を主権者とし、国民は契約によってひとたび権利を譲渡したからには、その主権者に絶対の服従を誓わなければならない。「合議体」というからには、共和制の可能性も考えていたのであろうが、ホッブスが生きた十六世紀のヨーロッパでは、このような思想は、実際には、「一個人」である国王に絶対権力を集中する専制君主国家の擁護にならざるを得ない。この場合、外敵に対しては、効果的に対抗できるかもしれないが、専制君主と国民との関係は、どうなるのであろうか。
かつてプラトン(紀元前429〜347)は、哲学者が支配するか、支配者が哲学するかのいずれかでなければ、国々に災いがなくなることはないとして、哲学者王の思想を述べたが、理想的な哲学者王の育成はプラトンの夢に終った。歴史の現実は、支配の実権を持つ君主は専制的にならざるを得ないこと、そして、専制君主のもとでは、最大多数の最大幸福は決して実現しないことを示している。 
なぜならば、どんな専制君主のもとでも、機会さえあれば、君主を倒し、権力を奪取しようとする勢力が出てくる可能性は否定できない。そこで、強者は、更にその支配をできる限り永続させるために、知恵をしぼることにならざるを得ない。その行き着く所は、「由らしむべし、知らしむべからず」あるいは「生かさぬように、殺さぬように」という、支配する側の究極の知恵である。これに抵抗すれば徹底的に弾圧し、場合によっては斬って捨てる。これに対して弱者の側は、強者と争って元も子も時には命までも失うよりは、強者のご機嫌を伺って少しでもおこぼれにあずかった方が良いという知恵を働かせ、「長いものには巻かれろ」主義で対処し、この双方の究極の知恵で、ひとつの秩序が成立する。しかし、これは、一人ないし少数の支配者が、その利己的欲望を最大限に充足して快適さを確保する一方、大多数の被支配者にとっては、快適さを極限まで抑制される秩序であり、支配者にならない限り浮かばれない秩序なのである。
ホッブスの知性は、人間が自然によって本来平等に作られていることを洞察した。この能力の平等から、目的(利益)達成のための希望の平等が生じ、そこから争いと相互不信が、そして戦争が起きる。他方、各人は、自分自身の生命を維持するために、自分自身の判断と理性とにおいて、もっとも適当な手段であると考えられるあらゆることを行なう自由としての「自然権」を持つ。そこで各人は、戦争から生命を守るため、他の人々も同意するならば、この自然権を、互いに契約を結ぶことによって、一個人あるいは合議体に譲り渡し、そこに成立する主権国家に平和と防衛の保障を求めることができると、ホッブスは考えた。ここには人間の平等性とか社会契約の考え方など、知性なしには到達できない思想が含まれている。しかし、主権を一個人や少数の支配者からなる合議体に譲り渡して保障される秩序が、支配者だけに都合のよい秩序になってしまうことは、既に指摘した通りである。封建的社会から近代国家に移行する混乱期のイギリスに生きたという時代背景から、やむを得ないところがあるとはいえ、怪獣リヴァイアサンにたとえられるような専制的国家による秩序に、個人と社会との関係の究極的な解決を委ねなければならなかったところに、ホッブスの限界があったと言わざるを得ない。
本書では先に(第三章で)取り上げたが、ホッブスが死んでから七十年後に生まれたベンサムが、個人の功利主義的活動と社会全体の利益との調和を、強権にではなく、むしろ道徳と立法の力に求めているところに、この時代の知性の文化の、着実な発展の跡をたどることができるのである。 
U 君主論の教訓
先に、専制君主はその権力を維持するために、圧制を敷かざるを得なくなると述べたが、どんな君主制国家や社会でも、強圧政治だけで秩序が保てるというわけではない。例えば、ニッコロ・マキアヴェッリ(1469〜1527)が生きた十五、六世紀のイタリアでは、都市国家が分立し、都市国家間あるいは周辺の国々との間で、侵略や交易を通じての人的交流が頻繁に行なわれ、支配される側も、必ずしも唯々諾々と長いものに巻かれることなく、外部の勢力と呼応して支配者に抵抗することができた。そのため、支配者側としても、無闇に弾圧したり、従わなければ斬って捨てるという酷薄な統治方針を貫き通すことは困難であった。そのような状況の下で、安定した支配を永続させるための、極限まで洗練された統治の知恵としての「君主論」が著述されたのである。 
この「君主論」は、表面は確かに、君主に対して統治の知恵を伝授する形をとっているのであるが、支配される側もここから教訓を得ることができる。その教訓とは、支配者側の専制を抑制するためには、支配される側も力を持たなければならないということである。マキアヴェッリは、世襲による君主、制服者としての君主、庶民から身を起こした君主などに分類して、それぞれの特質と統治政策のあり方について論じている。ここでは、ひとつだけ、フィレンツェのメディチ家のような庶民の一人が、市民一般の行為によってその国の主権者になった場合についての一節を引用してみたい。この中の、君主を大統領ないし首相等に、貴族を政治家ないし財閥や会社経営者等に置き換えて読むと、庶民が権力者を選ぶ力を持つに至った二十世紀の現代国家における、統治者の心構えと共通する部分が少なくないことに驚かされる。 
「こうした主権者になるには庶民の好意によるか、貴族の推挽によるかである。‥‥貴族が庶民に対抗することが不可能であると見ると、彼らはその中のある一人に好意を向けてそれを君主に推し、この影にかくれて自分らの野心の吐口を求める。庶民の方でも貴族に抵抗することが不可能だと知ると、庶民の間から誰か一人をかつぎ上げて君主にいただき、その保護によろうとする。貴族の援助によって主権を得るものは、庶民によって君主となるものに比して、主権を保有することはさらに困難である。何となれば、前者はその周囲に君主と同等であると考えるものが多数いて、自分の意のままに彼らを支配し操縦することはできない。
これに反し、庶民によって君主となる者はまったく自由で、その周囲に服従しない者は殆んどなく、あるいはあってもきわめて少数である。加うるに君主が公平をもってしても、庶民に損害を与えることなしには貴族を満足させることはできないが、庶民はそれで満足する。そのゆえは、庶民の目的は貴族のそれよりも正しく、貴族は彼らに圧迫を加えようとするのに対して、庶民は何とかしてこれを免れようとするからである。そればかりではなく、庶民を敵とする君主は、敵の数が多いから安全ではあり得ない。貴族を敵とする者はその数が少ないから心配する要はない。君主が庶民を敵に廻わしたとき予期すべき最悪なものは、庶民に見放されるということである。敵としての貴族に対しては、彼らが見棄てることをおそれなくてはならぬが同時に彼らの反抗をおそれなくてはならぬ。というのは彼らはよく目さきが利いてずるくて、たえずみずからを救う機会を巧みにとらえ、そして勝目のありそうな者に取入るからである。君主は親しく庶民とともに生活しなくてはならぬが、貴族には頓着しないでいい。それは君主はいつでも自分の意のままに貴族を造ったり取消したりすることができ、かれらに権力を与えることも奪うこともできる。  
・・・  
民衆の好意によって君主となる者はとくに民衆と親しくして行かなくてはならぬ。彼らはただ君主が圧制を加えないことを願っているのであるから、これと親しくなることは困難ではない。しかし民衆を敵として貴族の好意によって君主となった者は、とりわけ民心を収纜するようにつとめなくてはならぬが、彼らを自分の保護の下に置いたなら、こうすることは別に困難ではない。何となれば、危害を受けると思っていた者からかえって恩恵を受けると、人間はその恩人にたいしていっそう強く義理を感じるものであるからである。いったい人民の好意で君主に挙げられた者に対してよりも、むしろこうした君主に民衆はさらに親しみを持つものである。君主が民衆の好意を得る道は幾つもあるが、事情によってそれぞれ違っているから、ここで一定の法則を与えることはできない、よってそれは省略する。」(マキアヴェッリ『君主論』、黒田正利訳)。  
このように、マキアヴェッリの場合、支配者の側に身を寄せながら、他方では、支配される側の庶民といえども、ささやかながら自分たちの幸福を希求する存在であることを当然の前提とし、君主論の中でも、君主が地位と権力を維持するための必要条件として、繰り返し君主側の圧制を戒めているのである。とは言え、それは庶民の幸福願望を当然の権利として認識しているわけではなく、そのささやかな幸福ですら、どこまで保障されるかは、庶民の側に、支配者の地位や権力を左右する力がどれだけあるかにかかっている。その意味で、君主論は、個々人の幸福追求の権利を一種の自然権として認識し、それを最大限に実現するために人間と社会はいかにあるべきかを探究したベンサムやホッブスの論理展開とは全く異質である。しかしながら、個々人の生き方と社会との関係のあり方を「論理的に」考察しようとする時にしばしば忘れられがちな、現実の力関係が実生活に占める決定的な重みを思い出させてくれるマキアヴェッリの洞察力は、知性の文化に独自の足跡を残したと言うことができるであろう。 
V 社会契約論 
個々人の生き方と社会との関係のあり方を考察する分野で、先に取り上げたホッブスやベンサムたちの知性がそれぞれの思想を生み出し、イギリスの国家と社会にそれなりの影響を及ぼしていたころ、フランスの知性の文化も、この分野に大きな成果をもたらしていた。  
ジャン・ジャック・ルソー(1712〜1778)はスイスのジュネーブで生まれたが、青年期以降はフランスで生活し、フランスの知性の文化の中で活動した。ルソーの主著は「社会契約論」である。
ルソーの思想の根本にあるのは、人間は、自然状態では本来自由で平等であるという確信である。ところが、実際には、至るところで鎖につながれて、自由を奪われているのはなぜであろうかという問いかけから、「社会契約論」は始まる。われわれは「社会契約論」が書かれたのが、一七八九年のフランス革命のわずか三十年ほど前の、国王が国民の生殺与奪の絶対権を握っていた時代であったことを、知っておかなければならない。もっとも、この最初の問いかけに対する答えを、ルソーは、既に出版されていた「不平等起源論」の中で出している。  
ルソーによれば、人間が本来自由で平等であった自然状態を変化させ、不平等な政治社会を作り出したのは、土地や物を自分だけのものとして所有したいという欲望である。私有が始まると、富を巡っての争いと貧富の差が生じる。そこで富者は、自分たちの利益を守るために、全体の利益のためであると人々を言いくるめ、自分たちに都合のよい法律や制度に同意させ、こうして社会が成立する。そこでの人間関係は、先ず富者と貧者の、次いで強者と弱者の、そして最後には主人と奴隷の専制状態にまで行き着く。そしてそれが、「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている」(ルソー『社会契約論』、桑原武夫・前川貞次郎訳)という「社会契約論」の出だしの一節で表わされた、フランス革命直前のフランス国家の状況だったのである。  
そのような国家ではあるが、支配者になるほどに暴力的な力の強い者でも、その力を「権利」に、そして支配される者の服従を「義務」に変えない限り、いつまでも支配者であり続けることはできない。しかし、暴力的な力は一つの物理的な力に過ぎないのであるから、その働きから権利というような道徳的なものが生まれるわけがない。また、支配される者が暴力に屈するのは、身を守るためのやむを得ない行為であって、強制によらない、道徳的な意志による義務の遂行とは全く異なるものである。従って、力だけで権力を握っている支配者は、力がなくなると滅んでしまうのである。そこで、人間は本来平等に生まれついているのだとすれば、「いかなる人間もその仲間にたいして自然的な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利をも生みだすものでない以上、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、約束だけがのこることになる。」(前掲書)。 
しかし、約束ならば何でもよいというわけではない。「約束するとき、一方に絶対の権威を与え、他方に無制限の服従を強いるのは、空虚な矛盾した約束なのだ。」(同)。「自分の自由の放棄、それは人間たる資格、人類の権利ならびに義務さえ放棄することである。‥‥こうした放棄は、人間の本性と相いれない。そして、意志から自由を全くうばい去ることは、おこないから道徳性を全くうばい去ることである。」(同)。そこで、人間が人間性を失うことのないような社会を作るためには、社会の「各構成員をそのすべての権利とともに、共同体の全体にたいして、全面的に譲渡することである。その理由は、‥‥各人は自分をすっかり与えるのだから、すべての人にとって条件は等しい。」(同)からである。ホッブスのように、契約によるとはいえ、統治権を一個人ないし合議体に譲渡し、それを主権者にするようなことはしない。ここでは、個々人は契約によって社会ないし国家の構成員となると同時に、主権者の一部でもある。こうして、社会契約が成立する。
そして、ルソーは、国家の構成員である人民が、契約によって結合した総体としての主権者の意志を「一般意志」と名付け、国家の全ての権力と機構および機能の根源であるとした。これが人民主権論と呼ばれる考え方であり、ルソーにおいては、社会契約論と不可分の一体を成している。 
このような基本的思想から導き出された、立法や政府のあり方をはじめとする民主主義の諸原理は、その後の人類の思考様式や生活の文化に限りない影響を及ぼし、現在も及ぼし続けているのである。 
W 知性の文化の拡大 
人類の知性的探究の発展の道筋をたどると、個々人の生き方に関するもの、社会ないし国家のあり方に関するもの、及び、それらから中立の自然科学等に関するものの三つに大別できる。もちろん、この三つをそれぞれ組み合わせて研究課題とすることもできる。 
この章で概観してきた幾つかの論理的考察は、「君主論」は別として、個々人の生き方と社会との関係のあり方を、それぞれの視点によっていずれを重視するかの違いはあるとはいえ、研究の主題としている。ホッブスとルソーの論理展開で、社会契約の必要性までは一致していたのに、結論では、一方は専制国家、他方は民主国家という全く反対の選択に到達したのは、生きた時代の違いのほかに、人間観の違いもあったのであろう。ルソーが、抽象的な人民にではなく、その時代の一般庶民に、民主国家の担い手としての能力をどの程度まで期待していたのかは分からないが、ホッブスの時代の一般庶民の多くが、むしろ「声の文化」の日常生活に近い思考・行動様式に従っていたであろうということは、容易に想像できる。そのような一般庶民に、国家の秩序維持の役割を期待するなど、ホッブスにとっては論外であったに違いない。しかし、ホッブスには、専制君主に支配される一般庶民が、どのような生き方を強いられるかについての、洞察と同情が欠けていた。専制政治がもたらす秩序は、一般庶民にとっては、奴隷の秩序以外の何ものでもないのである。 
ベンサムとルソーは、社会の構成員である個々人の幸福の確保を重視し、そのための制度的保障を考えた。ベンサムは、道徳を基盤とする法律制度を整備することによって、最大多数の最大幸福を実現することを主張し、イギリスの福祉国家への道に大きく貢献した。ルソーは、人民の自由と平等の実現のために、民主主義制度の必要性を説き、民主主義は、今や、人類普遍の理念とされるまでに至った。人類は、ついに、幸福実現の方法を見い出したのであろうか。 
ベンサムもルソーも触れていない問題がある。制度を作り、動かす人々の能力の問題である。法律制度の整備はある程度まで専門家の仕事であろうが、大きな方向づけのためには、国民の意志を無視できない。ルソーの場合には、国家のあらゆる方向の選択に、国民の意志が決定的な重要性を持つ。国民は、正しい判断をするための十分な能力と見識を備えているのであろうか。それがなければ、制度をどんなに整備しても、真の幸福への道は開けないのではないであろうか。 
ルソーは、決して誤ることなく、常に正しく、常に公の利益を目指す「人民の一般意志」という概念を想定して、これに国家の方向づけを委ねた。ルソーによれば、個々人の意志は特殊意志であり、特殊意志の総和は全体意志であって、いずれも私的な利益が関心の対象である。
これらの特殊意志の、お互いに対立する利害の部分を相殺して取り除いたあとに残るのが一般意志であり、従って、一般意志は共通の利益だけを心に掛けることになる。もっとも、一般意志は常に正しいのであるが、それが人民の判断を経由して具体的に表明された結果も、常に正しいという保障はない。人は、常に自分の幸福を望むが、本当の幸福が何かを、常に見分けることができるわけではないからである。人民が、徒党を組んだり部分的団体の特殊意志に影響されたり、欺かれたりすることなく、十分に情報をもって判断し、自分自身の意見だけで決定に参加する場合にのみ、一般意志は十分に表明されるのである。そうでなければ、私的利益を代表する特殊意志が優勢を占めることになり、一般意志は姿を隠す。このような事態を招かないようにするためには、どうすれば良いのか。ルソーは言う。 
「個人は、幸福はわかるが、これをしりぞける。公衆は、幸福を欲するが、これをみとめえない。双方ともひとしく、導き手が必要なのである。個人については、その意志を理性に一致させるように強制しなければならない。公衆については、それが欲することを教えてやらなければならない。そうすれば、公衆を啓蒙した結果、社会体の中での悟性と意志との一致が生まれ、それから、諸部分の正確な協力、さらに、全体の最大の力という結果が生まれる。この点からこそ、立法者の必要が出てくるのである。」(前掲『社会契約論』)  
この場合の立法者とは、神のようなすぐれた知性をもって法律を編むもの、法典を作成する者であって、法律を成立させる権利は持たず、また持ってはならない。「ローマは、そのもっとも栄えた時代に、内部に専制のあらゆる犯罪が復活し、今にも亡びそうになったが、それは、同じ人々の手中に、立法の権威と主権とを集中したためであった。」(同)。立法者により提出された法案を決定するのは人民自身でなければならない。人民自身が、たとえそれを望んでも、この不可譲の権利を捨てることはできないのである。  
しかし、そのような立法者は、実際に存在するであろうか。仮に、堯幸によってそのような立法者に恵まれたとしても、その立法を受け入れるかどうかを最終的に決定するのは人民自身である。先に、決して誤ることのない一般意志の十分な表明のためには、人民は、徒党や部分的団体の利益関係に影響されることなく、自分自身の意見を出すことが求められた。それでも、十分啓蒙されていない人民が誤りを犯す可能性は、人民に深い信頼を置いたルソーですら否定し得なかっため、ルソーは、人民の弱点を補う役割を、天才的な立法者に求めたのである。 
このようにルソーは、人民を主権者の地位に置いた上で、実際には誤りやすい人民を導くものとして、一般意志の概念や崇高な立法者を想定し、民主主義思想の基礎固めをしようと試みた。民主主義思想がここまで普及したことを考えれば、ルソーの功績の偉大さは否定しようがない。他方、選挙や議会などの民主主義的制度がこれほど多くの国々で採用されながら、民主主義思想が理想とする社会の実現には程遠いという現実は、ルソーの、あるいはルソー以後の民主主義思想にも、民主主義実現のための最も根本的な要素についての考察が欠けていることによるものと考えざるを得ない。  
繰り返すが、ルソーは、人民の能力ないし見識という民主主義実現の根幹を成す要因を、誤ることのない一般意志や崇高な立法者という、いわば実体のない概念で補強しようとした。現実の民主主義国家の多くは、複数政党制度、選挙制度、議会制度あるいは法治制度といった各種の民主主義的制度を整えることで、民主主義を実現しようとしているか、実現しようとしている振りをしている。ルソーがそうしたのは、予見しうる将来に、人民自身が一般意志を十分に表明したり偉大な立法者になったりする能力を備えるようになるという見通しを、持てなかったからに違いない。また、われわれの現実の社会も、民主主義の最終目的である最大多数の最大幸福を実現するために必要な見識と判断力を、主権者である社会の構成員たる個々人に備えさせるにはどうしたらよいか考えあぐねている。そして、実際には、選挙をしたからといって、議会があるからといって、かならずしも民主主義が実現するわけではないことを十分承知しながらも、制度の整備をもって良しとしようとしている。
しかしながら、民主主義によって最大多数の最大幸福の実現を目指すからには、国家が正しい方向を選択するために、あるいは制度が正しく運用されるために、究極的には、主権者である個々人の能力と見識を高めなければならないという課題を、避けて通るわけにはいかないのである。
それは、知性の文化を、特定の優れた人々の能力による創造と、限られた人々の努力による維持に依存するだけではなく、できる限り多くの人々に拡大することによってのみ達成される。それでは、知性の文化をできる限り多くの人々に拡大するためには、どうすればよいのであろうか。次章ではこの問題を、「アイデンティティ」の概念を手がかりにして考えてみたい。 
第八章 アイデンティティ 

 

T アイデンティティの概念
アイデンティティについては、既に、第五章の「文化相対主義の陥穽」の項で、民族のアイデンティティについて触れ、この言葉の使い方には注意が必要である旨指摘したが、ここで取り上げるのは、個人のアイデンティティの問題である。
民族のアイデンティティが民族の独自性という意味で使われることが多いのに対し、個人のアイデンティティは「自分は何者か」という意識と関連しており、日本語では「自我同一性」とか「存在証明」とかいう言葉で表わされている。「自分は何者か」という問いに対する最も単純な解答は、アイデンティティ・カード(身分証明書)によって得ることができる。すなわち、身分証明書を発行できるような組織に属していれば、「自分は何者か」を本人が特に意識しているかどうかにかかわらず、その組織が証明してくれるのである。ただし、現在の日本では、政府が国民に身分証明書を発行する制度をとっていないので、組織に属していない自由業の人々や主婦たちが、本来の意味の身分証明書を取得することは必ずしも簡単ではないが、運転免許証やパスポートがその役割を代行してくれることもできる。いずれにしても、この場合に証明されるべき身分は、最低限、国籍、氏名、性別、生年月日であり、それに職業と写真が加われば十分であろう。この場合のアイデンティティは、他人と区別された自分の存在という客観的事実であると言ってよい。 
しかし、現代の社会では、両親の国籍が異なり、更に自分は、両親の国籍以外の国で生まれ育ったというような例も、ますます珍しくなくなってきている。このようなケースでは、複数の国籍を持つ可能性もあるし、法律上の国籍は決まっても、文化的には他の国や他の民族に対する帰属意識の方が強い場合もありうる。そうなると「自分が何者か」を証明してくれる相手は必ずしも自明ではなく、先ず自分が選ばなければならない。この場合には、法律上か制度上か、あるいは個人の意識上かの違いはあっても、結局は、いずれの国、社会、あるいは個別の組織ないし集団に帰属しているかという個々人の「帰属意識」が、アイデンティティの重要な要素になってくる。
それでは、帰属すべき国や集団が決まれば、アイデンティティの問題は解決するのかというと、必ずしもそうではない。国や集団は、それぞれ独自の文化すなわち価値観ないし思考・行動様式を持っているが、いずれかの国や集団に帰属したとしても、その価値観に全面的に適応できるとは限らない。それに、帰属先が国や社会のように大きくなればなるほど、また、民主化が進めば進ほど、その価値観すなわち思考・行動様式も多様化し、選択の余地が大きくなって来る。更に、既存のいずれの思考・行動様式にも満足できず、従ってそれに同一化することに抵抗を感じる場合すら出てくるであろう。その時にどうするかは人によって異なるが、一般的には、自分を曲げて、国や集団の既存の思考・行動様式に合わせるか、あるいは、自分自身の価値観に従って行動するか、更には、強い信念の持ち主の場合には、国や集団の既存の思考・行動様式を、自分自身の価値観に合わせて変えるように働きかけるかのいずれかである。
民族のアイデンティティを強調する立場からは、前者の、集団の文化に個人の価値観を合わせることを求める傾向が強い。しかし、既に見てきたように、文化にも迷走したり暴走しているものもあり、常に誰にでも良いものであると言えない以上、集団の文化に無条件に同一化することを拒む人がいても不思議はない。もっとも、既存の価値観に満足できず、それに順応したくない場合でも、常に自分自身の価値観が確立されているわけではない。それを確立するためには、「本当のところ、自分は何をしたいのか」「何をすれば、充実感を得られるのか」ひいては「いかに生きるべきか」という内面的対話、哲学的な思考が必要になる。そして、その結果導き出された自分自身の価値観に忠実に行動すること、すなわち自己の価値観に同一化することが、個人のアイデンティティの確立なのである。そして、この種の思考は、目先の利益や力関係をいかに素早く見て取り、有利に立ち回るかという生活の知恵とは異質の、より長期的、より精神的視点からの論理的考察が核心となる知性の文化に属する知的活動である。  
いずれにしても、ここまでたどってきて初めて、個人のアイデンティティは、自分を他者と区別するための「身分証明」から、国や民族等の既存の実体ないし価値観への「帰属意識」を経て、自分自身の内面への問いかけを通じて確立された「自我への同一化」を意味する概念に到達したわけである。
なお、民族のアイデンティティ(独自性)を、時に見られるような、主観的かつ日常的な価値観にまで広げることなく、共通の歴史や言語といった客観的かつ限定的な実体にとどめておけば、民族のアイデンティティと個人のアイデンティティ(帰属意識ないしは自我同一性)の衝突を避けることは可能であろう。 
U 自我同一性としてのアイデンティティ 
人間は、この世に生を受けてから、親や周囲の年長者の影響を受けながら成長して行く。一般的には、幼年期・少年期ごろまでは、物の見方、考え方も身近な親や年長者の影響を強く受け、自分から、それに同調ないし同一化しようとする傾向が強い。これによって社会性を身につけて行く。しかし、自我の発達に伴って、自分自身の物の見方、考え方すなわち価値観が形成され始めると、周囲の影響から離れて、内的な自分自身に同一化しようとし始める。こうして、他人にではなく、自分自身に同一化した、言い換えれば自分だけの物の見方、考え方が、自我同一性すなわち本来のアイデンティティなのである。ただし、これは丁度、思春期あるいは反抗期の頃に強まる心の動きであるが、未だに人生経験も浅いため、気持ちははやっても、まだ、はっきりとした自分自身は見い出せていないのが普通である。そこで、人間は、自分だけの物の見方、考え方、ひいては「自分は何者か」「如何に生きるべきか」「何をなすべきか」等の、自分自身への問いに対する答えを求めるために、通常、次のような過程のいずれかをたどることになる。
1 自分自身だけにかかわる個人的な問題として、突き詰めて考えて行く。この場合、先人が切り開いてきた哲学や宗教が、ヒントを与えてくれることもあるであろう。うまく行けば、高度の個の確立を達成できるかもしれないが、行き詰まって心の支えを失うと、最悪の場合には、自殺などによる思考の停止に救済を求めることもある。実際には、この内面的な問いかけに、心から納得できる解答を得ることは、必ずしも簡単ではない。その時点では、これこそ自分が求めていた解答だと思っても、暫くすると、周囲の状況が変わったり疑問が生じて来たりして、再び問いかけを始めなければならないことも珍しくない。しかし、この問題に繰り返し真正面から取り組み、論理的思考力を鍛え上げて行くことによって、知性も高められて行く。従って、アイデンティティはひとたび確立されれば不変というものではなく、内面的な成長に伴って新たに変化することもあり得るのである。
なお、アイデンティティと宗教との関係は必ずしも簡単ではないが、個々人の内面を通じての神との直接の対話を認める宗教が、信者のアイデンティティの確立を助長する役割を果たす可能性を持っているのに対し、神自身あるいはその代理人の一方的な命令への無条件の服従を求めるだけの宗教は、信者のアイデンティティの確立をむしろ妨げる方向に作用する傾向があるということができるであろう。
2 「如何に生きるか」といった、自分自身の内面との(あるいは神との)対話に関心のない人や、論理的に突き詰めて考えるのが苦手な人も、なんらかの価値観なしに生きて行くことはできない。そのような場合に、特定の人(指導者、師、ボス等)あるいは自分の所属する国家や組織(会社、官庁、宗教団体、各種グループ等)に同一化し、そのような特定の人物や組織の価値観を、そのまま自分のものとして受け入れるという選択がある。ただし、本人は、借り物の価値観ではなく、あくまでも自分自身の価値観であると信じている、あるいは信じようとしている場合が多く、一見アイデンティティが確立しているように見える。しかし、自分自身への内面的問いかけを通じて確立されたものではなく、実際には他者の価値観に左右されるという意味で、「仮のアイデンティティ」と呼ぶべきであろう。身近なところではいわゆる会社人間等がその例であるが、実際には、人類の歴史を通じて、このタイプの人間が圧倒的に多かったものと思われる。
何故ならば、元来、「自分は何者か」「何をなすべきか」との問いかけに対する解答を模索する意味があるのは、その問いに対して複数の解答の可能性がある場合のみである。古代国家成立以来の人類の歴史の大部分を占める、生まれた時から、氏素性によって生涯の職業や地位が予め決められていたような固定社会では、大部分の人々にとって、自分は何者で何をしなければならないかは、予め定められており、自分では殆んど選択の余地はない。実際、洋の東西を問わず、封建制度の下では、生まれた時から予定されている自分の社会的役割に同一化するほかに道はなく、その役割を超えて自我を発揮しようとすれば、しばしば周囲との摩擦が生じ、社会的に排斥されることも少なくなかった。それを避けようと思えば、分をわきまえて、自我を抑制するほかない。自我を捨てて、君主の意思に自分を同一化することが忠誠心として高く評価される社会では、自我同一化は、平穏な人生に波乱をもたらしかねない危険な精神活動である。そのために、多くの人々は、生活の知恵として、ほとんど無意識の内に、内面的な問いかけに目をつむる習性を身につけて来たのであろう。
このような、特定の人物や組織の価値観に同一化する「仮のアイデンティティ」の問題は、うまく行けば、大きな悩みもなく人生を送ることができるかも知れないが、その特定の人物や組織が消滅した場合には、それに依存していた自己も崩壊しかねないリスクを負う危険があることである。これは、アイデンティティ・クライシスすなわちアイデンティティの危機ないし崩壊と呼ばれる状況である。
更に具合の悪いことは、このような人々が多ければ多いほど、確立した個人により構成されることを前提とする民主主義社会の形成・維持が困難になり、全体主義指向になりがちなことである。全体主義社会は、基本的に、少数の支配者に多数の大衆が、よく言っても同一化、事実上は盲従することを強制する社会である。軍事的に強くなることはあっても、最大多数の最大幸福とは無縁の社会であると言う意味で、文化的に民主主義社会より劣った存在であることは、これまでの考察から、また歴史的事実からも明らかであろう。
それにもかかわらず、アイデンティティという言葉が、この、自分自身以外の何か、例えば国家や民族あるいはもっと広く、アジア人種といった集団の価値観への「帰属意識」ないし同一化の意味で用いられることがしばしばあるのは、われわれ自身が、その属する集団から独立した個人としてのアイデンティティすなわち自我同一性を意識する傾向が一般的に強くないこと、あるいはもっと積極的に、自我同一性よりも集団ないし強者との同一性を求めたがる傾向が強いことを示しているのかもしれない。
3 ところで、この1にも2にも該当しないケース、例えば、このような内面的な問いかけと取り組む意思や、あるいはそのために必要な知力がなかったり、そうかと言って、帰属し得る特定の人物も集団もない人々が存在する。これらの中には、かつてはそれなりのアイデンティティあるいは仮のアイデンティティを持っていたのが、何らかの理由で、それを失い、いわゆるアイデンティティ・クライシスに陥っている人々も含まれている。
このような場合には、はっきりした価値観がないため、この人々の思考や行動の基準は、その時々の気分や欲望が中心となり、気の強い人は自分勝手に、気の弱い人は不特定の周囲の影響に左右されて、いずれも首尾一貫しなくなりがちである。この場合の気分や欲望も、確かに自我の一種なのではあろうが、気分や欲望だけであれば、人間以外の動物にも見られる自我である。従って、「今その欲望を満たすのと抑制するのと、どちらが自分の人生全体にとって、より大きな意味を持つのであろうか」等の、多少なりとも知性的・哲学的な内面的対話に基ずく価値観の選択を経ていない自我の場合には、如何にそれに忠実に同一化して行動したとしても、これをしもアイデンティティと呼ぶのは適切ではないであろう。自我にも質の高低があるのである。 しかし、実際には、このような人々も、社会の中で生活している限りは、その社会の価値観ないし規範に、進んで同一化しないまでも消極的には従っている場合が多い。従って、この人々がどこまで健全な社会生活を送れるかどうかは、その社会の文化自体の健全さと規範力の強さにかかっていると言うことができるであろう。特に、ある程度以上の知力がありながら、自己の内面との対話などには関心が薄いために、価値観が確立していなかったり希薄であったりする場合には、生活の知恵は十分働くのみならず、余計な内面的拘束が少ないだけに融通無碍に、良くも悪しくも、世俗的にはむしろ活発に活動する人々も少なくない。このような人々は、社会的規範を逸脱しない限り、その知恵と才覚で、世俗的な成功を収めることも珍しくないが、内面的拘束力に欠けるところがあるため、周囲の状況次第では、しばしば脱線したり、社会的規範を無視したりして、時には犯罪行為に走ってしまうこともある。
人類の永い歴史の中で、国家や社会集団の拘束力が圧倒的に強い期間が大部分を占めていたこともあり、これまで生を受けた人類の大多数は、前記2のような、社会集団ひいてはその支配者の価値観に同一化した、仮のアイデンティティを心の支えとして生活して来たのであろう。
しかし、民主主義思想およびその前提である人権思想が普及するのに伴い、国家や社会集団の拘束力・強制力がゆるんで来た社会では、前記3のような、真剣な内面的対話を経て確立されたアイデンティティは言うに及ばず、仮のアイデンティティすら希薄な人々がますます増加している。そして、これらの人々が、その時々の気分とむき出しの欲望に従って行動する場合には、社会の健全な秩序が乱され、結局、社会全体の快適さではなく、不快感が増大する結果をもたらしかねない。 そうかといって、ひとたび民主主義的政治を経験した社会では、もはや、再び国家や社会集団の強制力を強めて、その構成員に対する強度の締め付けを復活させるわけには行かないであろう。それでは、アイデンティティが希薄で、むき出しの欲望と衝動で行動する人々が増えている社会では、社会の健全な秩序を維持するためにはどうすれば良いであろうか。それは先ず、これらの人々に、その属する社会の文化に誇りを持たせ、それに同一化することが、精神的充実感も含めた最大の快適さを享受するための最善の道であると思わせるような、質の高い文化を作り上げることである。そして、その文化の、柔らかく包み込むような、しかも毅然とした道徳的拘束力と方向づけに期待するほかに、特効薬は無いのではないであろうか。 
V アイデンティティの確立
以上のように、アイデンティティの確立は決して容易ではないことを考えると、中世から近世にかけての典型的な封建制度下に限らず、大多数の個々人の自我が徹底的に抑圧されてきた人類の永い歴史を通じて、その時代時代の社会常識や固定観念に抗してアイデンティティを敢えて追求し、人間のあるべき生き方を探ろうとしたのは、人類全体から見ればごく少数の、特殊な意識を持った人々であったと言うことができよう。しかし、このような人々の中の、特に才能に恵まれた一握りの人々の知性から、多くの試行錯誤的考察を経て、ついに現代の人類社会の基盤となっている民主主義思想が生み出されて来たことは、社会を発展させる知性を育むために、アイデンティティの確立が不可欠であることを示している。
ひるがえって、今日の社会を考えてみると、国によって違いはあるが、少なからぬ社会で、その構成員は、自分自身の能力に応じて自分の人生を選択する自由を享受している。従って、本来は、自分自身を、自分がどのような生き方をしたいかを知っていないと、人生の選択もできないはずである。しかし、実際には、自分自身を常にしっかりと把握して、これこそ自分が求める人生であると確信を持って生き抜ける人は、必ずしも多くない。
先ず、思春期ないし青年期までは、殆んどの人は、それぞれの生まれと育ちの中で、親をはじめとする周囲の人々や社会環境によって、本人にとって望ましいとみなされる成長コースをたどる。この時期には、通常、進学先等の選択に際しての価値観は、主として親や周囲の示唆や指示あるいは期待に大きく影響され、はっきりした自我は、普通は、まだ姿を現わしていない。 
「自分は何者か」「何をなすべきか」という根源的な問いかけに、個人差はあるとはいえ、人生で初めて真剣に直面するのは、一般的には思春期から青春期にかけてである。異性、しかも決して自分の思い通りにならない異性の存在を意識することを通じて、他人と異なる自分の存在が意識の表面に現れてくるのがこの時期であるからなのかもしれない。
この時期は、人生で最も多感な時期であり、将来の職業の選択とも関連して、自分自身の関心事や価値観すなわち自我が、具体的に形造られ始める時期でもある。現代の社会では、就職してしまうと、日々の仕事に追われて、内面的な問いかけなどしている心のゆとりは殆んどなくなってしまうので、思春期から、就職するまでの青年期の数年間は、自我の形成にとって、極めて大切な時期なのである。
ところが、少なからぬ若者たちが、この時期に、入学試験勉強で知識の詰め込みに忙しく、内面的な思考は停止を強いられ、あるいは入学後は、受験勉強の反動かもしれないとしても、遊びにかまけて自ら思考を放棄したりで、明確な自我ひいては自我同一性、すなわちアイデンティティの確立に至らないまま過ごしてしまう傾向が強い。その状態で就職すると、今度は、じっくりと思考する時間が殆んどないため、大部分が、就職した組織や所属した集団の価値観を、取り敢えずそのまま自分の価値観として取り入れ、自我の肩代わりをさせることになる。そのように本当の自我が確立していないと、他者との関係を通じてしか自分の存在を確認することができないので、しばしば、人生競争で「他人に勝つ」ことによる優越感によって、他者と異なる自分を確認しようとしがちにもなる。そのような人にとっては、出世競争に破れることは、自分の存在意義を全面的に否定されるほどの打撃であろうが、一般的には、組織や集団の中で無我夢中で働き、順調に昇進して行く限り、普通の人の場合、その組織や集団の価値観が本当に自分の価値観なのだろうかなどと疑問を抱くこともなく、それなりに幸せな一生を送ることができるかもしれない。
しかし、残念なことに、ピラミッド型の人間社会では、最後まで順調に上昇し続けることのできる人は、決して多くはない。大部分の人は、人生のどこかで挫折したり、失意を味わったりするのが普通である。そして、多くの人にとって、挫折や失意が、改めて自分の人生の意味を問い直すきっかけになることが少なくない。もちろん、輝かしい前途を約束されているにもかかわらず、常時、内面的な問いかけを怠らない、極めて優れた知性の持ち主もいないでもないが、このような人々は、現在も含め、人類の歴史を通じて、常に、極く限られた存在でしかなかった。
普通の人の場合、就職し、結婚し、子供を育てている間は、少しぐらいつまづいても、人生の意味を問い直しているゆとりなどはない。自分が夫であり、妻であり、あるいは親であることは紛ごう方なき事実であり、自分の人生は、家族のため、自分自身のためにもかけがえのないものであることは、自明の理なのである。ここには、自分は何のために生きているのかなどという疑問が生じる余地はない。従って、久しく忘れていた自分のアイデンティティを改めて意識するのは、通常、子供が親の手を離れ、経済的にもゆとりができ、夫婦の絆も多少なりとも弛んでくる中年以降であろう。この時期、ふと自分の過ごしてきた人生を振り返って見て、これで良かったのだろうか、何かし残していることがあるのではないであろうかと自問する人は少なくないようである。しかし、その内面的問いかけに適切な解答を見い出し、新たなアイデンティティを確立できる人は必ずしも多くない。大部分の人々は、何か満ち足りない思いを抱きながらも、充実感を得る方法を探しあぐね、これまでの延長の人生を送ることになる。 
しかし、人間の寿命がこれだけ延びて、体力や経験等が、少なくとも前半と後半で別人のように変わり得ることを考えれば、これからは、ふたつの人生を生きるつもりで人生設計をする必要が出て来ているのかもしれない。すなわち、主として知恵と体力を基礎に、専門的能力や特技を身につけ、他人と競い合いながら快適な生活の基盤を固めることにエネルギーを注ぐ前半部分と、他人と比較した地位や経済力の高低に一喜一憂する競争的価値観に距離を置き、知性や感性の文化を通じて、自分自身の内面的な充実や社会への貢献に価値を見いだす後半部分である。そして、このふたつの部分を悔いなく生き抜くためには、前半部分の更に前半、すなわち、社会に出るまでの青春期に、人生の前半部分だけではなく、後半部分についても、いずれはアイデンティティを確立できるようにする基礎を作っておくことが必要である。
人間の一生には、「鉄は熱い内に打て」という諺もあるとおり、その時々にしておかないと、時宜を逸する事柄がいくつかあるようである。幼児期に、親や周囲の大人たちの豊かな愛情に包まれて育つことは、その後の感性の発達に大きく影響すると言われている。同時に、この時期のしつけも、将来の人間形成にとって極めて重要である。記憶力旺盛な学令期に、人間として必要な知識を植えつけることや、肉体的成長期に身体を鍛えておくことは不可欠である。そして、自我が発達する青年期は、未だ現世的利害にとらわれることなく、自分の内面と正面から向き合っての対話を通しての論理的思考力を培っておかなければならない時期である。とりわけ、現代は、ひとたび社会に出ると、余程そのつもりで努力しないと、自分の内面との論理的な対話能力を伸長させることなど困難な時代である。従って、この時期に、自分の内面と論理的に対話する能力を十分に養っておかないと、周囲の状況に適応し対処することに殆んどのエネルギーを注ぎ込んで来たのちに、中年期以降になって、再び自己と向き合う状況に置かれた時、内面との対話によって本当の自分を見い出すことは、かなり困難な作業になってくる。
実際、自分の内面と対話する能力にしても、論理的に考える能力にしても、ほかの計算する能力や読む能力、あるいは走ったり、跳んだり、泳いだりする肉体的能力と同様に、繰り返し練習しない限り向上は期待できない。ところが、酒は練習すれば強くなると言って、不条理な無理強いをする人や、ゴルフは数をこなさなければ上手くならないという正論で、練習の必要性を強調する人は少なくないが、毎日短時間でも良いから内面的対話や論理的思考の練習をたゆまず続けることの大切さを説く声はあまり聞こえてこない。しかも、思考能力も分野によって異なり、自然科学分野の論理的思考能力が高まったからといって、社会科学分野や人文科学分野の論理的思考能力が高まることにはならない。従って、アイデンティティを確立するためには、日頃から、個人と社会との関係についての論理的思考と、それを基盤にした「如何に生きるべきか」という内面的対話を怠らないことが必要であり、特に青年期に、この分野での思考能力すなわち知性の基礎を作っておくことが必要なのである。
また、自我を形成する過程で、知性だけでは足りない部分や行き詰まった部分を埋め合わせ、方向づけてくれるものとしての豊かな感性を養っておくための努力も欠かすことができない。そして、このような知性と感性の相互作用で確立された個々人のアイデンティティが、更に高い知性と感性を磨き上げ、それが再び日常生活に反映されて、社会の基盤である生活の文化が向上させられることになるのである。
こうして、アイデンティティと知性および感性との関係、ひいては、それらと文化との関係が明らかになって来たが、更に、知識や知恵にくらべて見えにくい知性や感性よりも、もっと目に入りにくく、しかも生活の文化の質的向上に不可欠な「品性」についても触れておきたい。 
第九章 品性 

 

「品性」とか「品位」あるいは「上品」といった言葉は、日常生活でもよく使われるわりに、具体的なイメージとしてはなかなか描き出しにくい概念である。しかし、それが実際に存在することも、大多数の人々が実感しているところである。実際、ただ美しいというのとは異なる上品な顔というのは、確かに存在するのであるが、どこがどうだから上品なのだと分析するのは、かなりむずかしい。 一般に、品位の有無を最も判定し易いのは、人の挙措動作からであろう。すなわち、時と場所と状況にふさわしい礼儀作法ないしマナーを心得て、優雅に振舞う人からは、確かに品位が感じられる。これは、知性の文化と感性の文化の(実生活に関係の深い)下部構造と、生活の文化の上部構造とが重なる部分での、洗練された日常生活の中で育まれる教養を通じて身につけられるものである。一般的には、成長過程の家庭教育あるいは躾(しつけ)によって習得されるものであるが、その機会に恵まれなかった人でも、その後の人生のどの段階ででも身につけることは可能であるし、その気になって努力すれば、それほどむずかしいことでもない。しかし、一見優雅な挙措動作で品位を感じさせるその同じ人が、目下の人に傲慢な態度をとったりすると、品性に疑問が生じてくる。その上、目上の人にはへつらっているのを目撃したりすると、むしろ品性低劣と感じたりする。してみると、「優雅な立居振舞い」は、品性の必要条件ではあっても、十分条件ではないようである。
右の例から類推すると、身分制度が厳しかった過去はとも角、現代の文化環境の中では、相手によって露骨に態度を変えるようなことをしないことが、品性が保たれるための要件ということになる。もっとも、この場合の態度とは、見下したりへつらったりという種類の態度であって、相手の立場や能力等を考慮して、善意で態度を変えるのはこれには当たらず、場合によっては必要ですらある。要は、相手の地位や財力や能力すら劣っている場合でも、人間の基本的な部分、すなわち人間としての尊厳は平等であるという意識と、相手も自分と同じように、一度だけのかけ替えのない大切な人生を生きているのであり、その近親者たちにとってもかけ替えのない大切な存在なのだという想像力といたわりの気持ちを、知性部分だけではなく感性部分でも身につけ、それが対人関係ににじみ出て来る時に、品性が感じられるのであろう。すなわち、品性の二番目の必要条件は、砕けた言葉で言えば、相手に「思いやり」を持って向かい合えることである。
品性を感じさせる三番目の条件は、適度の自制心である。金銭欲、物欲、権力欲、支配欲、性欲さらには食欲ですら、ギラギラと度を越すと貪欲となり、品性とは反対の卑しさを感じさせる。そのほかにも、妬み、恨み、憎しみなどの敵対的感情も、余りにも明からさまになると醜さが目についてくる。どれだけ度が過ぎると卑しさや醜さを感じるかは、見る人の感性や社会の許容度すなわち文化によっても異なる。ある社会では、覇気の表れとして評価される欲求の強さが、別の社会では、貪欲として軽蔑の対象となることも珍しくない。そのように、文化による違いはあるとはいえ、個人や社会に、過度の欲望や敵対的感情に接して多少なりとも卑しさや醜さを感じ取る感性がある限り、適度に抑制された欲求や感情は好ましいものとして受けとめられ、卑しさや醜さの対極にある品性の構成要件となるのである。
更に、品性の第四の構成要件は、高い知性と豊かな感性に裏づけられた自分自身の確固たる価値観すなわちアイデンティティに支えられて、目先の利害で右顧左眄しない毅然とした姿勢である。このような姿勢に対して、「毅然とした」という形容詞をつけるのが一般的となっている文化では、そのこと自体が、このような姿勢が品性の構成要素であることを示している。それは、知性が生みだす論理を世俗的な損得勘定に優先させる、知的誠実さが作り出す姿勢である。 
このように、品性とは、人間性に関わる高い知性と深い感性が互いに支え合って醸し出す、ひとつの人間的な価値である。そして、この価値は、これに接する人に殆んど例外なく好ましい印象を与え、人間の尊厳を実感させてくれるという意味で、社会的にも高く評価され、大切にされるべきものであろう。もっとも、個人的レベルでは、品性のある人あるいは品性それ自体に反感を示す人が存在することも、否定できない。ひとつには、自分に欠けているものを持っている人に対する妬みと反発によるものかもしれないし、他方では、品性が無制限の欲望の追求を制約するものであることを直感的に感じ取り、無意識的に抵抗しているのかもしれない。
実際、このような人たちにとっては、自分たちがやりたい放題できて、しかも周囲の人たちは紳士的あるいは淑女的に振舞ってくれれば、これほど快適なことはないであろう。しかし、周囲人たちも、自分たちがやりたい放題のことをしたいと考えている場合には、話が違ってくる。品性のある人や品性それ自体に反発している人でも、他人が品性を欠いたり身勝手な振舞いをしているのを見ると、癇にさわるものである。そこで、こうしてやりたい放題している人たち同士が接触すると、争いが発生することになる。これでは、既に触れたホッブスの「万人の万人に対する戦い」への逆戻りである。このような事態を防ぎ、できる限り多くの人々の快適さを確保するためには、社会が個々人の品性を高く評価して、品性を否定する人々を包み込み抵抗できなくしてしまう、質の高い文化を作り上げることが必要であろう。
品性は、個人だけでなく、社会自体も備えることのできる価値である。社会の構成員たる個々人が、教養に裏打ちされたマナーと、高い知性、豊かな感性に育まれた思いやりや自制心を以て行動する社会からは、個人の場合と同様に、心地よい品性を感じ取ることができるのである。
もちろん、個々人が品性を身につけることは、決して容易なことではないが、ある程度までは誰でも、心構え次第で身につけることは可能であろう。そして、個々人がほんの少しずつでも自分の品性を上乗せするだけでも、その集積によって社会全体の住みやすさ、快適さは格段に高まるのである。 
これに対しては、品性の高い人間ばかりになったら活力のない面白くもない社会になってしまう、と反発する評論家タイプの人がいるかもしれないが、心配は無用である。現実の世の中は、それぞれが最大限の努力をしても、漸くほどほどの品性が身につくかもしれないという程度であって、品性の高い人間であふれかえることなど、あるわけがないからである。そのような、品性を身につけるために努力しようとする、社会にとって大切な人々の足を引っ張るよりも、その人たちを少しでも勇気づけることの方が、余程大切なのである。  
このように品性は、知性の文化と感性の文化の中でも特に人間性に関わる部分と、生活の文化の中で教養によって洗練された部分との重なり合いの中から育まれてくるものであり、個人および社会に品性の有る無しによって、生活の文化の質は大きく左右されることになる。生活の文化は、科学・技術の進歩によって物的に繁栄し向上するが、その中で質的に快適に生活できるかどうかは、個々人の人間性および社会の人間関係の成熟度、ひいては全体としての品性の高さによって制約されてしまうのである。
それでは、高い知性の文化と豊かな感性の文化を育み、社会の構成員である個々人の資質を高めて、いささかなりとも品性の感じられる社会を作り上げ、生活の文化を質的に向上させるためには、どうすれば良いのであろうか。 
第二部 文化の向上

 

第一部では、文化の構造と文化を形作る主要な要素を概観して来たが、これを基礎にして、第二部では、文化を向上させて、より快適な社会を作るためには、誰が、何をすることが必要かについて考察する。 
第十章 社会的中核集団の行動様式    
人間集団としてのひとつの社会がまとまり存続して行くためには、その社会のあり方(価値観)を方向づける中核的な存在が不可欠である。人類の永い歴史を通じて、それぞれの社会の極く少数の権力者集団(国王と貴族集団等)がその役割を果たして来たが、今日の特に先進国社会では、権力の行使者ないし、それに影響を及ぼす集団が拡散する傾向が強まっているようである。
どのような集団がより強い権力や影響力を行使しているかは、それぞれの国家社会により異なるが、日本の場合、社会のあり方を方向づけている中核として、政・財・官の三極構造がしばしば指摘される。また、これら三極に劣らない社会的影響力を行使する存在として、マス・メディアも忘れることはできない。他方、途上国には、ときおり独裁的な権力者が出現したり、軍が圧倒的な権力を掌握している例も珍しくない。
いずれの場合にも、これら中核集団の価値観の基礎を成しているのは、その社会の生活の文化である。言い換えれば、これら中核集団の構成員たちは、その生活の文化が評価する価値(金銭、土地、物などの経済的価値、特定の思想や伝統ないし宗教等に基ずく各種の政治的、社会的制度など)の実現を求めて、その生活の文化が許容するルールの範囲内で活動するのである。
中核集団に対する生活の文化の規制力が弱い場合には、通常、中核集団は、何の遠慮もなく自らだけの利益、すなわち経済的利益や強権的支配力の獲得およびそれを保障する政治的ないし社会的地位の確保に専念できるであろう。それどころか、生活の文化を自らの都合に合わせて、好きなように変えてしまう程の力を持っている中核集団も存在する。少数の独裁的ないし専制的グループが権力と富、そしてそれに伴う快適な生活を独占し、大多数の一般国民が貧困と悲惨な生活にあえいでいる例は、程度の差こそあれ、今日の国際社会でも珍しくない。それどころか、国の数から見れば、その方が一般的であると言ってもよいほどである。 他方、生活の文化がその構成員ひとりひとりの快適な生活の実現を重視し、中核集団による権力の行使を厳しく規制している場合には、中核集団といえども、その規制に服して社会全体の利益に配慮しなければ、その権力や影響力を維持できない。しかし、今日の国際社会では、経済面に限っても、中核集団だけでなく、大多数の国民にそれなりに快適な生活を保障できる生活の文化を持っている国は決して多くない。それに、経済的には豊かになっても、過去の貧困だった時代や封建的あるいは専制的であった時代の心理的、精神的あるいは制度的な「伝統・習慣」、ないし文化遅滞に基ずく、個人の信条、言論、表現等に対する種々の社会的規制が生活の文化の中に残存し、個々人のアイデンティティの確立を通じて得られる内面的な充実感まで含めた快適な生活の確保を困難にしているケースもしばしば観察される。
しかも、この場合には、必ずしも中核集団が自らの利益のためのみにそのような社会的規制を維持、強制しているとは限らず、中核集団自身も、その生活の文化の中に残存する封建的価値観のような社会的規制によって、真の快適さの追求を制約されていることが少なくない。このように、経済力だけではなく社会的にもかなり発展していると考えられる多くの先進国でも、今日の生活の文化は、最大多数の最大幸福を保障する水準には未だ到達していないのである。
このような生活の文化の中で、それぞれの社会の中核集団は、その持てる知恵と才覚を最大限に活用して、先ずは自分自身、および、中核集団に直接所属してはいないが中核集団に影響力をもつ集団や人々の利益のために、また、その生活の文化の水準に応じて、ある程度は社会全体の利益のためにも、権力ないし影響力を競っている。
もちろん、中核集団の行動は、その構成員である個々人の行動の集積ないし反映であり、従って個々人も、その属する生活の文化の影響と規制の中で行動していることは言うまでもない。そして、中核集団のような、権力や影響力の行使に特に関係する集団や組織に所属している個々人の最大の関心事項は、極く単純化して言えば、その集団や組織の中で、より大きな権力や影響力および快適な処遇を保障してくれる「地位」である。
生活の文化が、中核集団の目指すべき高次元の社会的価値、例えば「最大多数の最大幸福」といった理念をはっきりと指示している場合には、中核集団を構成する個々の集団や組織あるいは更にそれを構成する個々人は、その理念の実現のために、自らの地位に応じて自らが享受する権力や影響力を行使することを求められる。そして、この大きな理念の幅の中で個々人や集団が行使する権力や影響力によって、その社会の具体的な進路が方向づけられて行くのである。このように、個人や組織ないし集団の利害関係をこえた高次元の社会的価値の実現を目指す個々人が、その手段としての権力や影響力ひいては地位を求めて知恵と才覚で競い合うのは、社会にとっても有益かつ好ましい姿であろう。
他方、生活の文化が、金儲けや享楽あるいは世俗的上昇志向といった個人次元での価値観しか提示できない場合には、中核集団にしても、その構成員たる個々人にしても、個人的利害関係ないし精々所属組織の利害関係までしか視界に入らず、社会ないし国全体の利害はなおざりにされ勝ちになる。ここでは、社会全体の目指すべき理念が明らかでないため、個々人の活動の最終目的も、個人次元での価値すなわち権力や影響力あるいは地位そのもの、及びそれに伴う特権や利益の追求になってしまうのである。実現すべき社会的価値が明白でなければ、中核集団の権力や影響力の行使も、その時々の利己的な力関係によって大きく左右され、社会の具体的進路の方向づけもご都合主義でわけのわからないものになることが多い。それに、個々人や組織・集団の活動が専ら個別利益の追求に向けられる限り、その活動は「万人の万人に対する戦い」の本質を免れ得ない。現代社会は自然状態とは異なり種々の制約があるために、「万人の万人に対する戦い」も、武器を使わない権力闘争や出世争いあるいは利権分捕り合戦等の隠微な戦いになる傾向があり、また、そのような戦いも一時的には社会の活力として経済的繁栄に役立つこともあるが、高い水準の社会的価値観を欠いている社会ではこのような戦いに歯止めがかかりにくく、行き過ぎが生じると社会的不公正や専制主義的強権秩序の温床にもなりかねない。
このように、社会のあり方すなわち生活の文化にとって、その社会の中核集団の思考・行動様式は決定的な重要性を持っている一方、中核集団の思考・行動様式も生活の文化の制約を受けている。従って、生活の文化の質的水準が低いと、中核集団の思考・行動様式の質的水準も低くなり、それに応じて生活の文化の質的水準が更に低くなるという悪循環に陥るか、少なくとも停滞する可能性は少なくない。逆に、生活の文化の質的水準が高ければ、中核集団の思考・行動様式の質的水準もそれなりに維持されるであろうが、権力や影響力の維持・強化およびそれによる利益の拡大が最大の関心事である中核集団の本質から見て、生活の文化の量的(経済的)水準の向上はともかく、質的水準の引き上げまで中核集団自身に期待することはむずかしい。
それでは人類は、生活の文化の水準低下や停滞に、どのように対処して来たのであろうか。
先ず、社会の弱点につけこまれて外敵に滅亡させられたり支配されたりしながらも、相手の文化を取り入れたり新しい指導者を立てたりして生活の文化の立て直しを繰り返すか、あるいは、そのような試練を経ることもなく、低い水準に停滞したまま存続して来た民族や国家が圧倒的に多い。その中にあって、生活の文化の向上に成功し、更にその成果を周辺の民族や国家に及ぼすことによって、人類の文化の発展に貢献して来た民族や国家も幾つかある。このような民族や国家の生活の文化を引き上げるに力があったのは、その時々のその社会の知性の文化であり感性の文化であった。そして、その知性の文化や感性の文化の内、特に、生活の文化の質的向上に直接貢献した知性の文化の担い手は、哲学者や思想家あるいは学者たちを中心とする知識人たちであったのである。それに、往時、少なからぬ知識人たちは、同時に文学や芸術等の感性の文化の担い手でもあったことを考えれば、人類の文化全般に対する知識人の貢献の重要性は、いくら強調しても、し過ぎることはないであろう。  
第十一章 生活の文化の質的向上とは

 

ここで、生活の文化の質的向上のために知識人が果たす役割について述べる前に、これまでに見て来たような最大多数の最大幸福、すなわち快適さと精神的充実感の獲得度を価値の基準とすれば、生活の文化の質的向上とはどのようなことなのかを、もう少し具体的に示しておきたい。
生活の文化の質的向上とは、先ず第一に、衣・食・住という人間の生存の基本となる経済的要素が、その社会の富の総量と発展段階にふさわしい水準で、その社会の大多数の構成員に対して、(必ずしも「平等に」する必要はないにしても)「公正に」確保されるよう常時調整されて行くことを意味する。これは経済活動の、分配面の思考・行動様式の問題である。
個々人の収入は、本人の能力だけではなく、経済・社会政策や税制などが国民のどの階層やどの要因(特定の能力や、資本ないし資産など)を優遇しているかによって大きく左右される。「公正に」とは、このような政策や制度が、一部の人々だけに特別に有利なものであってはならないという意味である。現代の日本では想像しにくいことであるが、世界的に見れば、富の大部分が一握りの特権階級に集中し、その社会の大多数の構成員は貧困に苦しんでいる国の方が圧倒的に多い。それが国内社会ひいては国際社会に不安定をもたらす大きな要因となっていることを考えると、この意味での生活の文化の質的向上は、人類社会全体の、最大と言ってもよい共通の課題である。
第二に、生活の文化の質的向上とは、経済活動の発展に伴って生じてくる環境問題を解決し、豊かさや快適さを、物の量だけではなく、自然環境および生活環境の維持・改善も含めた観点から実現することを意味する。これは、経済活動の、主として生産面および需要面の思考・行動様式に関わってくる問題であろう。
第三に、生活の文化の質的向上とは、その社会の構成員が経済的のみならず、精神的な充実感をも得ることを可能にする社会的生活環境の構築を意味する。それは、学問、思想、信仰あるいは表現等の、精神的価値の追求に不可欠な基本的自由権が、社会全体によっても、また個々人が属する個々の集団や組織からも実質的に認められるのみならず、積極的に保障される社会的生活環境の構築である。
第四に、生活の文化の質的向上とは、社会とその構成員とのあいだの利害関係を合理的に調整、解決する能力を、権力や影響力を行使する側とされる側の双方が習得することを意味する。それは、権力を行使する側に対しては、統治される個々人の権利を正当に尊重することを求める一方、個々人に対しては、個人と社会との関係についての理解を深めることを通じての、社会全体の利益への配慮を求める。
第五に、生活の文化の質的向上とは、文化遅滞によって時代の変化に対応できなくなり、社会および個人の快適な生活の追求の足かせになっているような思考様式や行動様式を、将来のあるべき姿をも視野に置きつつ、その時代の現実の社会・生活環境の中での最大の快適さと精神的充実感を得ることを可能にするようなものに変えてゆくことを意味する。
第六に、生活の文化の質的向上とは、個々人ひいては社会全体の感性を洗練し高めることによって、個々人の特に精神的生活を豊かにするのみならず、更にそれを通じて、潤いのある人間関係と社会・生活環境を構築することを意味する。潤いのある人間関係とは、敵意や無関心あるいは利己主義といった感情ないし思考様式とは反対の、人間性に関わる知性に裏づけられた対人的感性、すなわち善意や好意あるいは思いやりの精神等に基ずいた、相互の触れ合いを通じて作り出される人間関係である。
生活の文化の質的向上とは概ね以上のような意味を持っているのであるが、これらは同時に、生活の文化の質的向上に向けて個々の活動を方向づけるための大きな枠組みと考えることもできる。すなわち政治、経済、文化をはじめとするあらゆる社会的、個人的活動が、このような枠組みの中で方向づけられ、組織的にあるいは個々に展開される場合に、生活の文化が質的に向上して行くことになるのである。
逆に、個々の活動がこのような枠組みから外れたり、方向づけに逆行したりする場合には、生活の文化は質的に停滞したり低下したりすることになるが、このような枠組みや方向づけが社会的に確固としたものであればあるほど、個々の活動がこのような枠組みから外れたり、方向づけに逆行したりすることはむずかしくなるであろう。従って、生活の文化の質的向上を可能にする枠組みないし方向づけは、同時に、生活の文化を質的に停滞させたり低下させたりする、いわば反社会的な活動を抑制する働きも果たしているのである。 このような意味からも、ある社会がその生活の文化に与える枠組みないし方向づけは、その社会の生活の文化の質、すなわちその社会の構成員が精神的充実感を伴った快適な生活を送ることができるかどうかを左右する重要性を持っている、と言うことができるであろう。
もっとも、右に六つ列挙した枠組みないし方向づけ程度では、個々の自由な活動の余地が大幅に残されていて、中核集団や個々人の具体的な活動の指針にはなり得ないのではないかとの疑問が残るかもしれない。しかし、この程度の緩い枠組みないし方向づけでも、社会的合意として確立されれば、その中での個々の具体的活動は自ずからそれに沿った、少なくとも逆行しない方向を志向することが期待される。従って、更に具体的な活動方針ないし個別の政策については、その都度検討しながら決定して行っても、何の方向性もない場合に比べれば、反社会的な部分は減少するであろう。また、そのようにして安定した社会での、幅広い自由な活動から、更に豊かな知性と感性の文化が生み出されてくることも期待できる。このためにも、社会が順守すべき基本的原則についての社会的合意を確立することが、何よりも大切なのである。
そして、そのような基本的原則は、長期的かつ普遍的な視点から論理的に構築されて初めて、多くの人々に受け入れられることになる。その構築には知性の文化の側からの関与が不可欠であるが、そこで最も大きな役割を果たすことを期待されるのは、知識人である。 
第十二章 知識人の役割

 

今日、知性の文化と感性の文化の担い手は分化する傾向にある。学問にしても芸術にしても、専門化と細分化が進み、双方について広汎かつ十分な知識ないし技能を習得することは、現代社会では困難になっているのであろう。従って、等しく磨き上げられて程よく融和した知性の文化と感性の文化が、生活の文化を引き上げてくれることを期待するのは仲々むずかしい時代なのであるが、それでも生活の文化の質的向上を可能にするのは、知性の文化と感性の文化以外にはあり得ない。そして、今日の社会で、主として知性の文化を担う人々が知識人ないし有識者と呼ばれている以上、知性の文化を生活の文化に反映させ向上させるのは、第一義的にこれらの人々の役割である。
なお、ここでは、知識人ないし有識者を著名な学者や文筆家等に限定せず、更に広く、知性の文化の分野で相当程度の水準に到達している、すなわち高度の論理的思考能力と言語的表現能力を備えている人々を全て含めることとする。従って、このような知識人ないし有識者は、学界や文壇以外にも、社会の中核集団、更にはそれらのいずれにも属さない人々の中にも、あるいは顕在的にあるいは潜在的に少なからず散在しているはずである。
それでは、これらの知識人の知性すなわち論理性は、生活の文化にどのようにして反映されるのであろうか。 
T 中核集団との関係」
中核集団間の調整 / 強権
先ず、既に見てきたように、生活の文化を作り上げているのはその社会の全構成員であるが、それを意識的に変化させる力(権力や影響力等)を持っているのは、その社会の中核集団である。中核集団は、その活動目的に社会の思考・行動様式を合致させるために、法律や制度を制定したり影響力を行使したりする。中核集団ないし中核集団を構成する下部集団(日本の場合は政・財・官およびマス・メディア等)が確固とした方向性をもってその権力と影響力を行使すれば、その社会の思考・行動様式をかなりの程度まで変えることも可能である。
しかし、明確な方向性がないままに、下部集団がそれぞれの利害関係に従って恣意的に活動する場合には、それぞれの下部集団に関係する更に下部の集団や個人の活動もそれに連動して、相互に激しい競争関係に置かれるため一見活気のある社会に見えるかもしれないが、実際には、お互いの勝手な活動がお互いの足を引っ張り合ったり活動の効果を打ち消し合ったりして、社会全体から見ると無目的的に右往左往しているだけという状況に陥る危険性がある。また、そのような状況では、社会全体の思考・行動様式も支離滅裂になり、それに伴って社会の構成員同士の利害の衝突が多くなって、生活の文化が停滞したり低下したりすることになりがちである。
このように、特に、中核集団や下部集団の価値観ないし利害関係が対立し混乱している場合には、生活の文化の停滞や低下を防ぐために社会全体の立場から何らかの調整が必要となる。最も簡単なのは、ホッブスが「リヴァイアサン」で主張したように、中核集団の上に独裁者のような更に上部の権威が現れて、価値観や利害関係を強制的に統一し調整することである。このやり方で社会の秩序を辛うじて維持している国や社会は、人類の歴史上はもちろん、現代の社会でも珍しくない。しかし問題は、このようにして統一された価値観や利害関係が、統一前よりも社会全体にとって好ましい結果をもたらすという保障は全くないことである。
既に学んできたように、このような強権によって保たれる秩序が、いずれは富の偏在や人権の抑圧につながらざるを得ないのは、人間の本性に基ずく歴史の必然であり、そうなれば生活の文化の質的低下は免れない。そうかと言って、現在の強権を別の強権に代えても、この泥沼から脱出することはできない。強権に頼らなくても、秩序の保持と生活の文化の維持・向上ができるような、社会の価値観を造り出す以外に道はないのである。人類の永い歴史を通じて、高い論理性に裏づけられた普遍性のある価値観を提示して来たのは、常に、哲学者や思想家あるいは宗教家をはじめとする知識人たちであった。
中核集団間の調整 / 論理
他方、このような知識人たちの知的努力の成果を受け入れて、取り敢えず強権的政治体制を卒業した先進国社会ないし民主主義社会では、複雑な社会的利害関係の調整は関係集団の間で相互に行なわれなければならない。しかし、利害関係者というものは、特に関係者が多くなればなる程、簡単には引き下がれないものである。そこでこの場合に、強権に頼れない以上、利害関係者の主張の理不尽な部分を抑制する役割を担うことができるものがあるとすれば、民主主義社会では、それは普遍性を持った論理以外に考えられない。利害関係者は一般に、自らの主張の論理的根拠が独り善がりで普遍性を欠き、無理押しすれば社会的支持を失うと悟ったときに初めて、自らの利益と社会的利益との調整を受け入れる傾向がある。そして、いずれの利害関係者の立場にも片寄らず、社会全体の利益に通じるような普遍性を持った論理を提供できるのは、現代の社会でも知識人以外にあり得ないのである。
ただし、このような知識人の論理が、直ちに中核集団さらには社会全体に受け入れられて、生活の文化の向上に貢献できるというわけではない。まず、知識人側の問題から言えば、当然のことながら、知識人の論理が常に正しいという保障は全くないからである。同じ現象の分析・解釈や同じ目的を実現するための論理でも、より上位の価値に対する視点ないし配慮の違いによって論理構成は如何ようにも変ってくることは、ホッブスとルソーとの比較でも見てきた通りである。知性の文化で、長期的かつ広い視野に基づいた、バランスのとれた論理を生み出すためには、豊かな感性、特に対人的感性と、更には最低限度の品性による方向づけが不可欠の基礎的条件であり、これを欠くと、論理が途方もない方向に迷走する可能性は否定できない。 
また、知識人の専門化が進んでいるため、例えば経済政策の問題を論じる際に、人権や環境等の自分の専門分野以外の要因に十分な配慮を欠く場合には、自分の専門分野の範囲内では理路整然としていても他の専門分野の論理と連結できず、従って、全ての要因を包含する現実の社会への適用は不適切になる。すなわち、論理の価値は、どれだけ広く関連分野を視野に収め、その中から重要度のより高い要因をどれだけ深い洞察をもって選び出し、目指す結論に向けて、どれだけ整合性のある論理を構成できるかに掛かっていると言うことができる。専門化が進めば進むほど、専門家は、社会全体の枠組みすなわち文化についての最低限の素養を身につけておかないと、大局を見失うことが多くなるのである。
それに、本書では快適さと精神的充実感の追求を、人間ないし人生の究極的目標として話を進めているが、仮に、人間は神の栄光を地上に具現するために存在するというような仮説を唱える人がいるとすれば、この人にとっては生活の文化の質的向上の意味も全く異なってくるかもしれない。神の栄光とは何か、それを誰が解釈するのかという問題から始まって、両者の議論を噛み合わせることはむずかしいであろう。どちらも歩みよれず、しかも社会全体としてどちらかを選択しなければならないような場合には、選択の基準は究極的目標の普遍性の有無ないし高さに求めるほかない。この意味でも、論理を構成し議論する場合には、その論理の根源にある究極的目標ないし原理は何であるのかを、常に自覚し明らかにしておくことが大切である。
論理の優劣の基準 / 普遍性
また、知識人も人間である以上、自分自身が何らかの利害関係に関わっている場合には、論理を曲げてでも自分の利益を守りたいと思うこともあるであろう。その場合、自我を確立した人であれば、自分を偽って論理を曲げたことについて自責の念に駆られるであろうが、中途半端な自我しか確立できていない二流、三流の知識人にとっては、論理を曲げることくらいはさほど気にするほどのことではなく、鉄面皮に強弁するか、これこそ知恵と才覚の見せ所と開き直ることもあるであろう。この種の人は、知力に比較して、特に人間性に対する感性の成熟度に問題があり、知的誠実さの面で品性に欠けるところがあるのかもしれない。そして、現実にはその程度の知識人と、その程度の論理が圧倒的に多いのであるが、それでもその程度の知識人でも、直接利害関係がない場合には、時に知性の高みに立って立派な論理を導き出すこともあるので、知識人の層は厚ければ厚いほど良いのである。
ただ、このように、知識人の論理にもいい加減なものがあるし、そこにつけ込んで、知恵者の集まりである中核集団が世論操作に利用したくなることもある以上、知識人の質、論理の質および社会がそれらを受けとめ判定する能力如何によっては、生活の文化が歪められる可能性もなきにしもあらずである。従って、論理は常に、知識人と中核集団との間で、また知識人同士の間でも点検され、評価され磨き上げられなければならない。主張と主張が対立した時に、その優劣を判定する基準は論理性の高さであり、論理と論理が対立した時の判定の基準は普遍性の高さなのである。
中核集団の抵抗
ところが、そのようにして磨き上げられた論理でも、必ずしも中核集団が受け入れるとは限らない。中核集団の側にも問題があるからである。もっとも、中核集団の構成員と知識人との間には、知恵の分野で活動したいと思ったか、知性の分野に関心を持ったかという性向の違いはあっても、知能的にはさほど差があるとは考えられないので、中核集団側の論理受信能力自体に特に問題があるわけではない。問題は、中核集団が高度の知恵者の集団であることにあるのである。
知恵の本質は、状況対処能力である。知恵者にとっては将来起こるかどうかわからない状況を考えることよりも、現在起きている状況をできる限り自分たちに有利に処理することの方がはるかに重要である。その際に特に留意するのは関係者の広い意味の力関係であって、その力関係をどれだけ正確に測定でき、その力関係にどれだけ正確に比例させて、支配関係などまで含む広い意味の利害を配分できるかによって、状況対処の成否が左右される。
これに対して、知識人の拠り所としての知性の本質は、論理性である。知恵の働きが、力関係に応じた利害の配分で一段落つくのに対して、知性は、そのような配分は社会的観点から見て公正なのか、長期的に見て過不足ないのか等、論理的な考察を求めて止まない。その考察のひとつの結果が、前項「生活の文化の質的向上とは」で示されたような枠組みないし方向づけの必要性の指摘につながってくるのであるが、これらの枠組みないし方向づけを改めて見直してみると、現実問題として、中核集団の短期的状況対処の知恵と相容れない部分が少なくないことがわかってくる。 
先ず第一の、経済活動における分配の問題であるが、中核集団が権力集団ないし権力を志向する集団である以上、富の分配も中核集団およびそれに影響力を持つ関係集団等、力や影響力を持つ集団に有利に行なわれる傾向があることは否定し得ない。そこに、力関係だけではなく、社会発展の長期的観点から、社会的公正の観念も視野にいれた知性の論理が介入してくることは、いささか迷惑であろう。しかし、特に先進民主主義諸国では、中核集団自身が、富の過度な集中の排除等の知性の論理を積極的に取り入れた分配政策を実施している例も見られる。これは、知性の文化が社会の構成員すなわち市民の知的水準と政治への参加意識を高め、それが中核集団も無視できない圧力となって作用した結果、生活の文化の質的向上をもたらした例である。ただしこれも、知性の論理の圧力が弱まれば、いつでも、強者の知恵が勢いを盛り返してくるであろう。
第二の、生産活動や消費行動から発生する資源問題や環境問題も、長期的観点からは人類の生存に関わる重要問題である。そこから、物資の大量生産は永久に続けられるのであろうか、人間の生産活動(労働)は多ければ多いほど(逆に言えば、趣味や文化的活動などの経済的利益を伴わない活動は少なければ少ないほど)良いのであろうか、購入できる物の量に比例して消費者の満足感は増大するのであろうかといった、知性の文化の側からの疑問が生じてくる。先進国か開発途上国かによって程度の違いはあるとしても、長期的かつ論理的に考える限り、いずれについても否定的な答えが出る可能性が高い。しかし、短期的には、中核集団の構成員特に企業とその関係者の利害に大きく影響するので、中核集団としても、知性の論理をそのまま受け入れることは簡単ではない。
知性の側からは、消費者に対しては、将来の資源問題や環境問題も考慮に入れた上で、より大きな快適さと精神的充実感をもたらすような思考・生活様式はどのようなものか幾つかの選択肢を提供し、他方、生産者に対しては、このような生活様式に沿った物資ないしサービスの合理的な生産こそ、結局は社会にも生産者自身にも最大の利益になるものであることを説得し、更に為政者に対しては、これを促進するような政策を提示することができれば、問題の解決に少なからず役立つであろうが、これは知性をもってしても容易なことではない。従って、これからも長期にわたって、知性と知恵の押し合いが続くことになるであろう。
第三の精神的充実感の追求に関連する学問、思想、信仰あるいは表現等の基本的人権の保障は、独裁国家や専制国家の中核集団にとっては論外であろう。民主主義国家の中核集団にとっては、これらは個人の確立を前提条件とする民主主義の実現のために不可欠な要因のはずである。しかし、それでも、構成員があまり個人を確立してしまうとコントロールがむずかしくなるという、いわば支配する側の知恵の論理からか、中核集団のみならず極く私的な小グループに至るまでの多くの集団や組織で、社会の構成員に対する情報の提供のみならず、その内面に関わる権利にすら少なからざる制約を課したくなる誘惑に駆られている傾向が見受けられる。
第四は、個人と社会との関係の問題であって、権力側が個人の権利を尊重し、個人は社会的利益のために、ある程度の権利の制約を受け入れるという原則は、民主主義社会の総論としては誰も異論のないところであろう。しかし、各論となると日常生活に密接に関係しており、具体的な局面ではしばしばトラブルにつながる可能性があるため、中核集団としては、知性の論理もさることながら、関係者の力関係に配慮した、知恵による取り敢えずの解決を優先せざるを得ない。
それに、以上の第三までは、知性側による方向づけの対象が主として中核集団であったのに対し、ここでは、中核集団も含めた社会全体の構成員たる、個々人に対する直接的な働きかけも重要になって来る。ところが、自分の生活と自分の利益を守ることが個々人の最大の関心事であるような社会で、その個々人に、ある種ある程度の個人的利益は社会全体の利益のために制約されざるを得ないという知性の論理を納得させるのは、必ずしも容易なことではないのである。
第五の、時代の変化に合わなくなった思考・行動様式の改革も中核集団だけではなく、社会の構成員ひとりひとりに直接関わってくる問題である。しかし、中核集団のような上部集団からその下部集団さらにはその関係集団・組織等の、複雑に絡み合って動きがとれなくなった利害関係のしがらみや思考・行動様式が、文化遅滞の大きな要因になっており、改革が容易でないことは否定できないであろう。
第六の、感性の文化の向上を通じての潤いのある社会の構築については、物質的繁栄の追求に忙しい中核集団ほど、経済的利益に直接つながらないこの種の問題に対する関心が薄いという傾向があるが、感性の文化の向上それ自体が中核集団の知恵の論理と相反するわけではないことは、感性の文化の大切さを説く知性の論理にとって、不幸中の幸いであろう。
一般大衆との連携
以上のように、知識人の知性を中核集団に反映させて、生活の文化の質的向上を図ろうとする試みは、一方では、知識人自身の資質の問題と、他方では、中核集団の知恵の文化の壁に阻まれて、どんな社会でもうまく行くという保障は全くない。
しかし、生活の文化を維持・形成しているのは中核集団だけではない。中核集団に属していない多くの人々や、中核集団に属してはいても、そこから離れた私的な立場も持っている人々は、生活の文化に及ぼす直接の影響力は中核集団のそれにはるかに及ばないとはいえ、これらの人々が何らかの動機で知性と感性を磨く機会を得、これを基にそれぞれの立場を通じて生活の文化にひとつの方向性を与えることができれば、中核集団にさえ影響を及ぼすことも可能なのである。そして、知識人からであれ、一般大衆を通じてであれ、中核集団の思考・行動様式に反映される知性と感性の文化の割合が多くなれば多くなるほど、その社会の質は高まり、住み易くなるということができる。
この観点から、知性の文化の働きかけの対象として、一般大衆と呼ばれる人々を忘れるわけには行かない。 
U 一般大衆との関係
知性の文化への誘(いざな)い / 価値観の確立
本書においては、これまでに取り上げてきた知性の文化の担い手としての知識人、および権力ないし影響力の行使者として広義のエリート集団である中核集団に実質的に属さない人々を、一般大衆と総称する。従ってここで言う一般大衆には、知識人とは呼ばれないまでもそれに準ずる見識を持っている人や、中核集団には属していても、そこでの地位等の関係で中核集団の構成員としての意識が薄い人から、知識人見習い中の学生や、漫然と遊び暮らしている若者たちまで、全てが含まれている。これは、知性の文化の側からの働きかけの内容ないし都合に合わせた、いわば文化政策の視点からの分類であり、必ずしも知的水準や社会的階級に対応した分類ではない。仮に、知的水準だけを基準にすれば、中核集団に属するか否かは問わず知識人と一般大衆に大別され、しかも、中核集団の大部分の構成員は一般大衆に含められることになるであろう。
一般大衆をこのように考えた場合、実際問題として、これらの人々の全てに同じ手法で知性の論理を提示しても、期待通りに受けとめてもらえるかどうか疑問である。経験や知的能力の違いから受け手の受信態勢ないし理解能力に余りの差があるので、対象に応じて説明の仕方を変える必要があるであろう。実際、私自身にとっても、少なからぬ哲学書は理解困難であり、より噛み砕いた解説書が必要である。従って、多くの人々に知性の論理を発信するためには、上級、中級、入門の三段階くらいに分けて難易度を調節するような配慮が求められるのである。
一般大衆への働きかけの目的が、この人々を知性の文化に誘(いざな)うことにあるのであるとしたら、中核集団に対しての、権力や影響力の行使に一定の枠をはめ方向づけることを主目的とするアプローチと異なり、一般大衆に対する知性の文化の側からのアプローチは、知性の前提条件とも言うべき個人レベルの自我ないし価値観の確立を促し助長するところから始めないと、効果は余り期待できないであろう。自分自身への内面的な問いかけが、知性の文化への入り口であるからである。
しかし、これは、口で言うのは易しいが、実際には極めてむずかしい作業であり、結局は個々人の自覚に待つほかないと投げ出してしまうのが、苦労も少なく正解なのかもしれない。
そして個々人も、命令型の宗教や権威に仮のアイデンティティを見い出し、現在の生活の文化が与えてくれる生活条件をあるがままに受け入れ、その中で自分の知恵や才覚に応じたほどほどの人生を送ることができるのであれば、何も内面的な問いかけなどという七面倒臭い問題に関わる必要などないのではないであろうか。
ところが、現実はそう簡単ではない。現代は、一般大衆といえども、質の高低はあるとはいえそれなりの自我も持っているので、仮のアイデンティティに安住して、ものを考えずに無抵抗な一生を送り通すことは困難な時代なのである。実際、まわりを見回しても我慢できないような不条理が満ち満ちている。国際的には武力衝突や経済紛争の問題から、国内の経済不安や治安問題、そして職場での不満や家庭内の不和あるいは子供の教育問題など、どれひとつとっても、快適さや精神的充実感を逆なでする問題であり、権利意識に目覚めた人間としては、あるがままに受け入れて諦めてなどいられるわけがない。   
職場での価値観
卑近な例で考えてみると、会社や官庁をはじめとする集団や組織に所属した経験のある人は誰でも感じたことがあるはずであるが、指導者や上役が設定する目標がしばしば目先の些細な利害にこだわって哲学を欠く一方、その指導方針は、仕事の質よりも、残業や休日出勤等の目に見える量的な部分を高く評価したがる傾向が見られる。このような指導者や上役の下では、部下は、快適な職場環境や仕事を通じての精神的充実感を得ることは殆んど不可能である。
それでは、指導者や上役は、いつでもどこの社会でもそんなものなのかというと、必ずしもそうではなく、大局的視点と明確な目的意識に基づいて仕事の重要度を判定できる、いわゆる将の器が指導者や上級の地位に就く割合が高い社会もある。これは、結局、その時代と社会の文化が、どのような資質をより高く評価するかに掛かっているのである。その評価基準は、恐らく歴史的、社会的背景の中から造り出されるものなのであろう。
急速な工業化を伴う経済成長期に、全人生を生産活動ないし仕事に投入することも厭わない多数の勤労者の存在、あるいはそれを高く評価する生活の文化の存在は、なにものにも代えがたい資産である。これを欠くばかりに、多くの資源を持ちながら、経済成長が離陸できないでいる国は数知れない。ただ、人生の全てをいわゆる「仕事」に捧げるとなると、失うものも少なくない。
ここで「仕事」というのは、経済的利益を生み出す活動ないし所属する集団や組織の勢力拡張の為になると見なされる活動であり、急激な経済成長期には、そのいずれにも属しない活動は、どれほど情熱を傾けようと「仕事」としては評価されない傾向が見られる。そこで、社会全体がこのような「仕事」だけを高く評価し、「仕事」に注ぐ時間とエネルギーで自分の社会的評価も決まるとなれば、「仕事」の時間を削って内面的な問いかけをすること、すなわち内面的な活動などなかなかする気にならず、従って、知性の文化や感性の文化に対する関心も芽生えない。
この場合の価値観は、集団や組織ひいては社会の価値観すなわち経済的利益あるいはそれに直結する「仕事」にぴったり同一化した、いわゆる仮のアイデンティティなのであるが、経済成長期には、それで十分、誰にも昇進や収入増加の機会が保証され、それなりに満足した人生を送ることができるので、「仕事」に仮のアイデンティティを見出す人々が大量生産されることになる。
仮のアイデンティティの問題点は、内面的な対話を経ずに他の価値観を借用する場合が多いために、価値観に奥行きないし深さがないことである。経済団体や会社に代表される集団や組織が追求する価値が経済的利益にあることは、その存立の動機からして当然なのであるが、個人が追求する価値は、本書の立論の筋道に沿えば、個々人の快適な生活と精神的充実感のはずである。個人のレベルでも、経済的利益は快適な生活確保のための必要条件ではあるが、それだけでは精神的充実感を得ることができないことは、これまで見て来たとおりである。ところが、個人の価値観を、経済的利益や勢力拡張を存立目的とする集団や組織の価値観に同一化した場合には、精神的充実感を得るためには何が必要か、何を為すべきかという、人間の部分の価値観が全く欠落してしまうのである。
その上、与えられた自然環境や資源状況あるいは社会制度の中で相互に影響し合い、相乗効果や相殺効果を生み出す、集団や組織の経済的利益の追求や勢力拡大のための個別の活動が、最終的に個々人に常に最大の快適さをもたらすためには、このような種々の与件や効果を計算に入れた、緻密な生産ないし活動目標の設定が必要である。周囲の状況を顧みないやみくもな生産の拡張や、がむしゃらなだけの活動は、資源の浪費や時に経済的な損失さえ発生させるのみならず、時に、そこに関与する個々人に過重な労働を課し、また、社会とのつながりを意識することのできない労働は精神的な空虚感をもたらしたりする。
仕事依存症
このように、元々、集団や組織の存立目的でしかない価値観に個々人が仮のアイデンティティを託し、更にそれが、長期的、社会的な展望がないまま目先の事柄を処理するだけの「仕事」、にまで矮小化されてしまっているような状況の下では、個々人の視野が社会に向かって広がることはむずかしく、木を見て森を見ない、重箱の隅を突つくような仕事ぶりが蔓延せざるを得ない。そしてついには、「仕事のための仕事」すなわち「仕事」そのものが目的となってしまい、何でも良いから兎に角「仕事」と名のつくことをしていないと不安で仕方がないという「仕事依存症」に行き着くことになる。
精神病理学によれば、この仕事依存症というのは歴とした心の病気なのだそうであり、そこから、過度の完璧主義とか、それを達成するために自分のやり方を他人にも強制したがる支配欲といった、いろいろな症候群が出てくるのだそうである。ひとつの社会の中である種の病人が圧倒的に多くなれば、むしろ、それが普通の人ということになり、「その仕事は本当に必要か」「何のためにするのか」などという疑問を持つ人間は、「やる気がない」「変わっている」などというレッテルを貼られ、病人仲間から排除されたりする。それでは、病人仲間に入っていれば問題ないかというと、「仕事依存症」に特有な支配欲のために、お互い同士の悶着は避けられず、特に立場の弱い者は強いストレスを受け続けるであろう。しかし、同じ病に冒されている以上、弱い者も、いずれ指導者や上役という強い立場になれば、その時点での弱い立場の者を、仕事依存症症候群で悩ませることになるのである。しかも、仕事依存症患者は、その「やる気」と「勤勉さ」および、内面的な問いかけなどという余計なことをしないで上からの命令だけを忠実に実行する「使い易さ」を評価されて、しばしば昇進の機会に恵まれるため、予備軍は後を絶たない。
先に卑近な例として取り上げた、集団や組織内の指導者や上役に部下が感じる不満や反発は、たまたま知恵や才覚に優れた民族性に、急激な経済成長が重なった結果形作られた、このような生活の文化に起因するものであると言うことができるであろう。
封建制度や専制体制の下でも弱い者は苦しめられたのであるが、この場合は苦しめる者と苦しめられる者が明確に分かれていたために、解放の追求に際して敵・味方の区別は比較的簡単であった。それに対し、近代国家のこのような生活の文化の下では、お互い同士立場を入れ替えながら締め付け合い、窮屈にし合っているようなもので、ここから抜け出すためには誰に照準を合わせて闘ったら良いのか、判断に窮するところがある。ひょっとしたら、自分自身の生活を不快にし精神的充実感を得にくくしている張本人は、このような生活の文化に適応しながら少しでも有利な立場に立とうと、仕事依存症症候群に振り回されている自分自身なのかもしれないのである。
もちろん、知恵や才覚と併せて、個人と個々の集団の目先の利益を超えた、より高い次元の価値を考える能力にも優れた人物が、指導者や上役になる例も少なくない。そして、このような人々の下では、良好な職場環境も期待できないわけではない。しかし、このような指導者や上役といえども、短期的利益および労働の質より量を重視するのがその社会の多数派の思考・行動様式および評価基準である場合には、基本的にそこから逸脱することはできない。むしろ、地位が上がれば上がるほど、それを保持するためにも、その思考・行動様式は、その社会の生活の文化の枠によってしっかり制約されてしまうのである。
そのため、長期的かつ社会的視野に立ち、目的と状況に応じて物事の軽重を判断できる、いわゆる将の資質をより高く評価する社会と、仕事依存症症候群を勤勉の証としてより高く評価する社会とでは、同じ程度の能力を持ちあわせて生まれても、成長の過程で身につける「器」の大きさに少なからざる差が生じてくる。そして、社会を構成する集団や組織のなかの枢要な地位をより多く占めるのが、高い判断力の基礎となる「知性、感性および品性」を備えた将の器か、あるいは目先の利害に敏感な「才覚」と、目的意識の薄い「勤勉さ」が取り柄の仕事依存症型指導者なのかによって、その社会の住み心地は大きく変わってくるのである。
それでは、自分が属する社会や集団や組織が、そして多分自分自身も、全体として知性、感性、品性に乏しく、住み心地が悪いとしたら、このような状況の下で、快適さと精神的充実感を求めるにはどうすればよいのであろうか、と、自分自身への問いかけが始まれば、そこに、知性の文化への展望が開けてくる。
アイデンティティの渇望
かつて石原莞爾(1889〜1949)という軍人がいた。石原は、1904年の日露戦争の一年前に、14歳で陸軍幼年学校に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、1941年に中将で予備役に編入され敗戦を迎えるまで、すなわち生涯の大部分を帝国軍人として過ごした。30歳の頃、中国に駐屯していた日本軍の司令部に派遣されたが、その時、妻に次のような手紙を書いている。
「実を申せば私も信仰心のない、はかない男です。然しつくづく此頃考えますと、これから先も今日迄の様な空虚な生活はどうしても送って行きたくないのです。世の波にもみ流されて一生を送るようなことはどうしてもしたくありませぬ。よかれ悪かれ堅い根底ある地盤を踏みしめながら意義のある生を送りたいものだ。」
この頃から石原は、日蓮宗の信仰生活に入り、また、軍事学を修めて、ヨーロッパ戦史の研究に基づく世界最終戦争論を樹立、満州での戦争に指導的役割を果たすことになる。その後、中国の民族運動に目を向け、日中提携により和平を探るための方策として東亜連盟論を主唱し、41年の予備役編入後は、東亜連盟運動の指導に専念した。そして、敗戦後は、全面的武装放棄を唱えるに至る。 
石原の軍人としての経歴は、最高ではないとしても、それなりのエリート・コースをたどったと言ってよいであろう。それが、軍人として純粋培養され、社会を見る目は国家主義と皇国史観に凝り固まり、個人としては階級社会の軍隊で出世階段を昇ることが生きがいといった帝国軍人の一般的イメージと異なり、われわれと同じように、仮のアイデンティティで送る人生に虚しさを感じていたという事実は興味深い。
知性の文化に足を踏み入れた石原の思想は、時代的、社会的な背景や軍人としての人間形成の制約もあったためか、人類共通の知的財産の域にまで高められることはなかったが、日本の歴史に名を残したことにより、われわれは、知性の文化に関わりを持った帝国軍人がいたことをしることができた。
してみると、名前も残さず、結局は世の流れにもみ流されてしまったかもしれないが、時には自分の人生に疑問を持ち虚しさを感じた帝国軍人たちも、少なからずいたのではないかとも考えられる。そのような人々が、真のアイデンティティを求めて知性の文化に足を踏み入れようとした時に、その人々に考え方の道筋を正しく示し導いてくれるような、また、知性の論理を損得計算に優先させる知的誠実さを評価するような、高い知性の文化が存在していたら、日本が歩んだ方向も少しは違っていたのではないであろうか。知識人の役割と責任は重いのである。
他方、その思想自体に対する評価は別として、仮のアイデンティティでがんじからめになっていた典型のように思える帝国軍人でさえ、真のアイデンティティを求めていたことを教えてくれる、石原莞爾のような人物の存在には勇気づけられるものがある。どのような教育も、どのような社会環境も、真のアイデンティティに対する人間の渇望を、完全に抑圧することはできないことを示しているからである。まして、そのような抑圧のない社会では、驚くほど多くの人々が、顕在的あるいは潜在的にアイデンティティを求め、あるいはそのための道しるべを求めているに違いないのである。
知性の文化への入り口
知性の文化への第一歩が、人間の成長の一過程としての青春期のアイデンティティ追求の衝動であるとしたら、一定の水準以上の知能(たぶん、読書能力)を持っている青年たちは、学生をはじめすべてが知性の文化に足を踏み入れる可能性を持っているのである。実際には、かなり多くの青年たちが、知性軽視の風潮や生活の文化の影響を受けて、知性の文化に背を向けたまま社会に出てゆく。
この人たちが社会の荒波に揉まれ種々の不条理を体験して、自分の人生のあり方を自分自身に再び問い直す時が、知性の文化に目を向ける第二の機会である。この人たちは各年代にまたがって存在するが、特に、広い意味の中年層が多数を占めているはずである。ただし、少なからざる人たちは、知恵と才覚万能の社会生活の中で、まとまった論理的思考の習慣を失っているために、自分だけの力では、この自分自身への問いかけに対する答えを探しあぐね、知性の文化に触れることなく、「仕方がない」というあきらめと共に生活の文化の世界に戻り、一生を送ることになる。
しかし、この人たちの、自分自身に対する問いかけは、実体験からでてきたものであるだけに切実であり、また、自分自身に問いかけるだけの知的能力を備えているのであるから、思考の方法や道筋についての適切な助言や示唆があれば、かなり高度のアイデンティティにたどりつくことも期待できるはずである。特に、中核集団に属しながら改めて自分のアイデンティティを問い直そうとしている人たちが、自分自身で考え判断する能力と習慣を取り戻すことができれば、中核集団の知恵の文化に、この人たちを通じて知性の文化を注ぎこむことも可能になる。
それでは、そのような適切な助言や示唆とは具体的には何かということになると、これは知識人の出番なのであるが、知識人の助けを待つまでもなく、この人たちあるいは私たち自身で始めることができることもある。それは、職場をはじめとして自分自身が属する集団や組織で体験した不快感を、自分自身も他の人々に及ぼしているのではないか、もしそうであるとしたらどうすればよいのかと自分自身に問いかけることから始まる。
最も単純な解答は、他人からされたくないことは自分も他人に対してしない、ということである。ところが、何をされたくないか、何をしてはならないかということになると、その時々、場面場面で千差万別であり、ひとつひとつ列挙するのは困難である。そこで、あらゆる場合に通用する判断の具体的基準が欲しいのであるが、そんなものは存在しない。ただ、少し遠回りではあるが、その判断を、より適切にすることができるようにするものはある。それが知性であり、感性特に対人的感性であり、そして品性なのである。
新しい価値体系の発見
そうすると、知性、感性、品性を身につけるにはどうしたらよいか、というのが次の問いかけになる。これもまた、具体的な解答はさまざまであり、そろそろ知識人の助けが必要になるのであるが、最も一般的には、まず本を読むということに尽きるであろう。仕事に直接役に立つ本を離れて、そうかといって最初から難解な哲学書に取り組む気にもなれないというのであれば、古典として既に評価が確立している東西の小説から始めるのもよいかもしれない。
それに、一般に哲学書というものは、それを読むこと自体に喜びを覚える人すなわち哲学的訓練を受けた人は別として、そこからすぐに何か役に立つ示唆を得ようとして読む人は、期待を裏切られることが少なくない。哲学専攻者でないわれわれ一般人には、はっきりした問題意識に基づいて特定の本を読む場合を除き、論理的思考の訓練以上の具体的果実を哲学書から摘みとることは、なかなかむずかしそうである。
小説と哲学書の中間には、それぞれの読者の能力と関心に合致したさまざまな種類の本が存在している。いずれをとるにしても、知性の文化が文字の文化から発展したことを考えれば、知性を求める人にとって、本を読むことの重要性は改めて指摘するまでもないであろう。
いろいろ読んだり考えたりしているうちに、自分の知性や感性は、目先の利害にしか関心のない上役たちのそれよりも高くなっているのではないかという自信がついてくると、今まで癇にさわるばかりであったその人たちの行動様式を客観的に見て、自分がしなくてはならない行動、してはならない行動の参考にすることができるようになってくる。また、学歴や地位や財産のような目に見える世俗的な価値体系以外にも、知性や感性あるいは品性といった、内面的な価値の系統があることがわかってくる。
更に、自分をとりまくさまざまな不快な事柄の改善は、個人レベルだけではなく、その社会の生活の文化の質的向上を通じてのみ期待できるものであることに気づいて、関心の対象が社会レベルに広がると、そこに新しい世界が開けてくる。生活の文化の質的向上を目指して知性の文化や感性の文化の分野で活動する、志を同じくする人々の存在を知り、この人々と直接連帯できればもちろんのこと、心の連帯感を持つだけでも、百万の味方を得たように感じることができる。ここまでくれば、個人にとって新しい人生への開眼であると同時に、社会にとっても、生活の文化の質的向上のための新しい貢献者の誕生ということができるであろう。
このように、自分自身への問いかけを始めた人々が、知性の文化および感性の文化という共通の道筋をたどって、ついに社会的人間としての自覚に到達し、その社会の文化を向上させることによって、自分だけでなく他の人々と共に快適な生活を分かち合うことに精神的充実感を持つことができるようになるために、知識人側からの適切かつ具体的な助言や示唆が強く期待されるのであるが、今日の社会でその成否を大きく左右するのがマス・メディアの働きである。
第十三章 マス・メディアの役割

 

マス・メディアは影響力の行使者として、中核集団の重要な一角を構成しているが、とりわけ文化との関連で特別な役割を果たしている。もちろん、中核集団の構成員である以上、短期的利害関係や力関係を最優先する状況対処主義が経営活動の基本原則であるという性格は歴然としており、知性の文化とは相容れない部分も少なくない。ただ、他の集団がそれぞれ経済的価値や権力関係を実質的に体現しているのに対し、マス・メディアはそれ自体が知性の文化や感性の文化の体現者ではないとはいえ、メディア(媒体)として行なう媒介の中身が文化そのものであるために、これらの文化と、他の集団には見られない密接な関係を持っているところに大きな違いがある。
実際、生活の文化の枠内で主として活動している他の集団の活動が、現在の生活の文化に適応しそれを保持する性格を持つ傾向が強いのに対し、マス・メディアの場合には、活動の質が高くなればなるほど、すなわち、知性の文化や感性の文化を媒介する力が高まれば高まるほど、マス・メディア自身が意識するとしないとにかかわらず、それを通じて生活の文化を変える効果を及ぼす可能性を持っていると言うことができるのである。
マス・メディアの中でも特に影響力を持つ新聞、テレビ、ラジオ等の報道機関の特色は、本来、事実の客観的報道を出発点として発達してきたこともあってか、絶大な社会的影響力を享受するに至った今日でも、影響力行使の目的すなわちどのような結果をもたらすことを期待して影響力を行使しようとしているのかが、必ずしも明瞭には示されないことである。あるいは、報道機関自身、事実の報道以上の目的を特に意識して活動しているわけではないのに、報道機関の活動範囲が単なる事実の報道以外にも拡大した結果、予期せぬ影響だけが一方的に増大しているのかもしれない。
また、一般企業と同じように経済的利潤の獲得が究極の目的になると、販売部数や視聴率を上げることが最優先され、購読者や視聴者の文化水準や嗜好に合わせようとする傾向が強まってくる。販売部数や視聴率は数の勝負であり、ひとつの社会で多数を占めるのは、当然のことながら文化水準の平均的階層であるが、そこに平均以下の階層も加われば、圧倒的多数を制することになる。
従って、平均的階層とそれ以下の階層に水準を合わせたメディア活動の影響は、生活の文化の質的水準を保持することが精々で、向上させる方向に作用することはできず、場合によってはそれを低下させることもある。「一億総白痴化」などと呼ばれる現象は、マス・メディアのこのような側面を突いたものであろうが、比較的短期間にこのような結果をもたらす荒業は、民主主義国家では、中核集団の構成者の中でもマス・メディア以外には為しうるものではない。
それだけにマス・メディアが、経済目的を追求する企業としての側面を強調するだけでなく、文化の伝達機関としての社会的責任を自覚し、活動するかどうかが、その社会の文化の水準やあり方を決定すると言っても言い過ぎではないのである。
マス・メディアが文化に影響を及ぼすに際しては、自分自身すなわち幹部や記者の考え方や判断を直接提示する方法と、外部の人々が寄稿者や出演者としてその考え方や判断を提示できる機会を提供する方法がある。そして、印刷されたものや放送されたものが、社会風潮や世論の動向に及ぼす大きな影響力を考慮すれば、前者の場合はもちろん、後者の場合でも、誰に機会を提供するかの第一次的判断を行なうに当たってのマス・メディア側の見識は重要である。
寄稿者や出演者の知性や感性の水準が、平均的読者や視聴者のそれと同程度か、それ以下でも余りひどくない程度であれば、大多数の読者や視聴者は安心して、時には楽しみながらついて行けるし、販売部数や視聴率もそこそこに保てるであろう。しかし、それだけに、知性の文化や感性の文化からの知的刺激に欠け、文化水準の向上に果たす役割は期待できない。
文化水準の向上を促すことが期待できる、平均的読者や視聴者の文化水準以上の寄稿者や出演者となると、広い意味の知識人ということになるのであろうが、それについて行くためにはある程度の知的緊張を強いられることになる、平均ないしそれ以下の読者や視聴者が、こうした知識人にどこまで付き合ってくれるかが大きな問題になってくる。これは、ひとつには、普通の人がこうした知識人を受け入れ易いようにどのように料理するかというメディア側の腕にかかる部分が大きいが、同時に、その社会が日頃、知識人をあるいは知性ないし感性そのものをどれだけ評価しているかという、より根本的な文化の問題に関わっている。
すなわち、知性や感性を高く評価する文化を持つ社会では、当然のことながら知性や感性に関わる職業に携わる人物に敬意を持ち、その言葉に耳を傾ける。知恵や才覚が万能の社会に住んでいる人には、知性や感性などというものを高く評価するのは馬鹿げて見えるかもしれない。しかし、この地球上には、そのような、知性や感性が高く評価される社会も現実に存在するのである。
そのような社会では、メディアも進んで、知識人や感性の文化に主として関わる文化人の参加を求め、他方、読者や視聴者の側も、社会的に評価される知性や感性を少しでも良いから身につけることによって、対人関係でより心地よい、少なくとも眉をひそめられることがないような立場に自分自身を置けるようにするため、自分の時間の一部分なりともこの種の知的緊張を伴う精神的活動に割くことを惜しまない。しかも、始めは見栄でやっていたのが、その内に知性の文化や感性の文化の魅力に捉えられて、本物の知性や感性を育て始める人も少なくない。このように、知性や感性を高く評価する社会では、人々もそれを身につけようと務め、その結果、知性の文化や感性の文化が厚みを増して生活の文化に強く反映し、その質を向上させることになる。
知性や感性を高く評価する社会の成立は、従来は、その社会の歴史的、伝統的、文化的要因に負うところが大きかったのであるが、マス・メディアの高度な発達は、社会の形成に、歴史的、伝統的、文化的要因に劣らない影響力を持つまでに至っている。そのため、従来、知性や感性を余り評価してこなかったような社会でも、マス・メディアの働きかけ如何によっては、既存の、知性や感性を高く評価する社会の成立に要した歴史的時間よりもはるかに短時間で、知性や感性をそれなりに評価する社会に変身することが可能になっているのである。
それでは、マス・メディアがどのように働きかければ、社会は知性や感性を評価するようになるのであろうか。
前提条件がふたつあり、第一は、マス・メディア自身すなわちマス・メディアの幹部と職員が、人間の個人生活と社会生活に知性と感性が果たす役割の重要性を、先ず認識することである。マス・メディアが未だ知性と感性の価値を十分に認識していない社会では、マス・メディアにそれを認識させることができるのは、力による強制ではなく説得力のある論理だけであり、その意味で知識人の力量が問われることになる。
マス・メディアが、ひとたび知性と感性の重要性を認識すれば、その活動の少なくとも一部分は、知性と感性に関わりを持つ分野や事柄に向けられることになるはずであるが、その場合に問題になるのは、それが、販売部数や視聴率に及ぼす影響であろう。知性や感性が評価されない社会では、その分野に対する関心も薄いからである。従って、マス・メディア側に、販売部数や視聴率をある程度犠牲にしても、敢えて知性の文化や感性の文化を取り上げる社会的責任を自覚するだけの知性ないし見識があることが、マス・メディアからの社会に対する働きかけが実現するための第二の前提条件である。
マス・メディアからの社会に対する働きかけといっても、それは必ずしも、知性や感性を高く評価するよう社会に直接呼びかけることを意味するわけではない。マス・メディア自身が余程高い知性や感性を備えているのであればともかく、中核集団の一角を占め、知恵や才覚が物を言う生活の文化のチャンピオンの側面を持つマス・メディアからの、この分野での呼びかけが訴える力にはどうしても限界がある。むしろ、その表現活動の中で知性の文化や感性の文化を高く取り扱うことによって、その重要性や価値を読者や視聴者に無言の内に印象づける方が、より効果的であろう。
その場合に、寄稿者や出演者の選択は、読者や視聴者の、知性や感性の価値に対する評価に決定的な影響を及ぼす。実際、知性や感性の具現者のはずである知識人や文化人が、非論理的なことや普遍性に欠けることばかり言ったり書いたりしたら、その人たちだけではなく、知性や感性そのものに対する社会の評価も地に落ちるであろう。そのような状況は、販売部数や視聴率を伸ばすという観点だけが突出して、論理性や普遍性ひいては品性等よりもむしろ一般受けを狙った人選が優先されたり、知的誠実さに欠け、特定の集団の利益のためには自分自身の知性や感性を歪めても恥じるところのない、いわゆる御用学者や御用評論家が多用されるような場合に発生する。
従って、マス・メディアに登場させるべき知識人や文化人の選択に際しては、マス・メディア側自身の評価能力や見識、更にはその基盤をなす知性、感性そして品性の程度も同時に問われることになる。それのみならず、選択の基準となる何らかの価値観すら必要であろう。それは、先に「生活の文化の質的向上とは」で述べた程度の緩い方向性で十分であり、選択の範囲がせめてこの程度の方向性の幅から外れないことが、論理の普遍性の確保のためにも、あるいは質の高い知識人や文化人を育てて行くためにも必要である。
もちろん、何の価値観も何の方向性もなくてもマス・メディアとして営業、活動してゆくことは可能であろうが、それは、マス・メディアとして折角具備している、知性の文化や感性の文化の普及を通じて生活の文化の質的向上に貢献するという潜在的能力と社会的責任を放棄することを意味し、そのようなマス・メディアしか持つことのできない社会の将来は決して明るいとは言えない。
「生活の文化の質的向上とは」で挙げた緩い方向性ですら第十一章(知識人の役割)の「中核集団との関係」で見たとおり、中核集団の活動とは相容れないところがある。従って、中核集団の構成員であるマス・メディアにとっても、このような方向性は、仮に建て前としては賛成できても、経営政策上は受け入れかねるところがあるかもしれない。ただ、中核集団の他の構成員の場合には、仮に建て前としてでもある方向性に賛成すれば、それはそれぞれの活動である経済的価値や権力関係の追求の方向性を直接制約するのに対し、マス・メディアの場合には、経済的価値の追求と共に、それとは分離した活動の部分すなわち媒体としての活動形体を持っている。このため、経営活動の面では受け入れにくい方向性でも、建て前ないし理念として賛同できれば、寄稿者や出演者などの第三者を通じて、その伝達の任にあたるという媒体としての活動の面では、経営活動を制約することなく受け入れることができるのである。
これこそが、文化の質的向上のためにマス・メディアが果たすことのできる役割を特に拡大している、媒体としての側面が持つ特質であるということができる。マス・メディアがこの目的のために、知識人や文化人と高いレベルで歩調を合わせて活動する社会こそ、知性の文化と感性の文化を更に発展させ、それを生活の文化に反映させることによって、個々人に快適かつ精神的にも充足した生活を保証することができるのである。 
第十四章 女性の役割

 

これまで、文化の向上に果たす知識人の役割とマス・メディアの役割について考察してきた。
この知識人とマス・メディアを構成している人々を、知識人あるいはマス・メディアとしての機能の面から捉える限り、特に男女を区分して考える必要は全くないので、本書でもそうしなかった。しかし、社会の構成員として、あるいは文化の形成者として果たす役割には、男女を区別して考える必要があるように思われる。
その第一の理由は、人類の文化の形成の歴史を通じて、女性は、どちらかと言うと従属的な役割しか果たしてこなかった、あるいは、そのように強いられてきたと考えられるからである。
その結果、男女社会というよりも男性社会の色合いが鮮明な現実の社会は、最大多数の最大幸福という観点からは、甚だ歪んだ様相を呈している。
第二の理由は、女性が従属的な役割しか果たせなかった社会環境が変化し、男性と対等な役割を果たせる可能性が高まってきたのみならず、女性の特性によって、これからの社会と文化の形成に、男性には期待できない役割を果たしうる可能性が考えられるようになって来たからである。 
T 女性の従属性の起源
人類の社会と文化の形成の過程で、女性はなぜ、従属的な役割しか果たせなかったのであろうか。それについてはいろいろな説があるが、細かい部分を取り除けば、次の三つに大別されるであろう。
第一は、男女の体力、特に攻撃的な暴力行使の手段としての腕力の差によって、従属させられて来たとする見方である。
どのような理由によるのかはわからないが、人間以外の動物でも、かなり多くの種類で、オスの方がメスよりも強く作られている例が多いことを考えると、この差は、人類の発展過程での役割分担によって生じて来たものというよりも、生物としての男女の、本来的な資質の違いであると言ってもよいであろう。もちろん、体力には、腕力だけではなく耐久力や生命力などの側面があるので、これらを総合的に比較した場合に、生物として男女のどちらが体力的に優れているかを判定することができるかどうか、甚だ疑問である。
しかし、他人を従属させるという観点からは、暴力的な力こそ最も直接的かつ効果的な手段であることを考えると、かなり本質を衝いた説であると言うことはできよう。特に、人間が集団同士で戦争し合う発展段階に到達して以降、集団の運命を左右する戦士としての男性の優位が社会的にも認められるようになり、相変わらず戦い合っている今日まで引き継がれて来ていると考えることは十分可能である。
第二の説は、やはり男女の本質的な体力差に根本的な原因を見るが、それが経済的な生産力に及ぼした影響に着目する。
アメリカの人類学者ヘレン・E・フィッシャーは、人類の永い歴史を通じて、極く最近まで(と言っても、数千年単位の最近なのであるが)男女間に、生活上の役割の分担はあったにしても、明白な従属関係はなかったと考えている。狩猟採集の時代には、男性が獲物を狩り立てている間、女性は果実を採集し、生活のためにどちらも同じように大切であった。肉や果実は集団の中で分け合ったから、生きるために、女性が特定の男性に、嫌でも縛り付けられなければならない理由もなかった。一万年ないし八千年ほど前に、原始的な農耕が始められてからも、鍬(くわ)や棒を使ってする農作業に特別な男女差は生じず、従って、従属関係も未だ生まれなかった。しかし、とフィッシャーは言う。  
「鋤(すき)。人類史上、女性と男性のあいだをこれほどまでに崩壊させ、ひとの性と愛のパターンに多くの変化をもたらした道具はほかにない。鋤がいつ登場したのか、正確なところはわからない。最初の農民は鍬や棒で土を掘っていた。紀元前三○○○年ごろ、だれかが石刃に柄をつけた原始的な鋤『アード』を考え出した。  
これが、すべてを一変させた。  
鍬で畑を耕している文化圏では、女性が農耕作業の大半をこなし、同時に社会で相対的にかなりの力をもっている。だが、そうとうの腕力を必要とする鋤が使われるようになって、農業労働の大半は男性の仕事になった。しかも、女性は独立した採集者、食事供給の担い手という古代の名誉ある役割を失った。鋤が生産に不可欠な道具となってまもなく、農耕民族のあいだに性の二重基準が生じた。女性は男性よりも劣る存在とみなされるようになったのだ。  
・・・
鋤は重い。引くのに大きな動物がいるし、男の力を必要とする。狩人として、夫は日常の必需品の一部のほか、毎日の生活を活気づけるぜいたく品を供給していたが、耕作が始まると、生存のために不可欠の存在となった。いっぽう女性の採集者としての重要な役回りは、食物供給源が野性の植物から栽培作物に移るにつれて小さくなっていった。長いあいだ毎日の主たる食物の提供者だった女性が、今度は草とりや摘みとり、食事の支度といった二次的な仕事にたずさわるようになった。男性の農業労働が生存に不可欠になったとき、生活の第一の担い手が女性から男性に移ったという見かたで、人類学者は一致している。
この生態学的要因−−男女間のかたよった分業と、主要な生産資源の男性による支配−−だけでも、女性の社会権力からの脱落を説明するには充分だ。財布のひもを握っている者が、世界を支配する。だが、女性の凋落にはもうひとつの要因がはたらいていた。鋤を使用する農業の発展とともに、夫も妻も簡単に離婚できなくなり、力をあわせて土地を耕して働かなければならなくなった。パートナーのいずれも、土地の半分を掘り起こしてもっていくわけにはいかなかったからだ。夫も妻も共通の不動産にしばりつけられていた。
恒久的な一夫一妻制である。  
鋤と恒久的な一夫一妻制が女性の地盤沈下にどんな役割を果たしたか。農業社会に特有なもうひとつの現象を考えるとさらにわかりやすい。階級である。太古の昔から、移動民のあいだにも狩猟や採集、交易の旅などのあいだに「ビッグ・マン」が生まれていたにちがいない。だが狩猟・採集民族には平等と分かち合いの強い伝統がある。人類の大きな遺産である公的な階級はまだ存在しなかった。だが、毎年収穫の計画をたて、穀物や飼料を貯蔵し、余った食物を分配し、長距離の組織的な交易を監督し、宗教的な集まりで共同体を代表して発言するために、長が登場してきた。  
・・・
こうして、定住社会、恒久的な一夫一妻制、そして階級ができあがった。  
もうひとつ、女性の社会的、性的権利の低下に、戦争が一役買ったのもまちがいない。村が豊かになって人口がふえると、ひとびとは財産を守らなければならなくなり、さらには可能な場合には所有地を広げようとしたため、戦士が社会生活で重要な地位を占めるようになった。人類学者のロバート・カーネイロは、世界のどこでも、日常生活で敵との闘いが重要になると、男性が女性を圧して力をもつようになると指摘している。  
男性の農民としての経済的役割が重要になり、夫婦がいっしょに同じ家にとどまらなければならなくなり、村人が労働を組織するために村長を必要とし、土地を守るために社会に戦士が生まれる。これで、いよいよ舞台はととのった。片方の性がもう一方の性を支配するうえで、このうえない環境ができあがったのである。  
じっさい、そのとおりのことが起こった。家父長社会がヨーロッパに誕生し、深く根をおろしていく。」(ヘレン・E・フィッシャー『愛はなぜ終わるのか』、吉田利子訳)。
ヨーロッパだけではなく、地球上のあらゆる農耕社会で、そのとおりのことが起こったのである。  
第三は、女性は本来的に、知的な面で男性より劣って生まれついている、という考え方である。
この説の主張者は、古来、偉大な哲学者、科学者、芸術家、政治家あるいはその他の、知的活動の分野で活躍した人々の圧倒的多数が男性であったことを挙げる。しかし、それだけでは、男性の知的優秀性の証明にはならないであろう。なぜならば、第一の説と第二の説のようにして、主として体力的な理由で女性が従属的な立場に押しやられたのだとしたら、そのことによって女性は、本来持っていたかもしれない知的能力を発揮する機会を、社会的に奪われて来ていただけなのかもしれないからである。 
そうは言っても、実際に、男と女は違うと、この説の主張者は言う。そして、前出のヘレン・フィッシャーによれば、科学的な調査・研究によっても、一般的かつ平均的に、男性は数学的、(地図を読んだり、迷路を抜けたりという)空間的問題解決能力が高く、女性は言語能力(言語的論理、記憶、表現等の能力)に優れている。また、男性は、スピードと力を必要とする大きな運動の能力に優れ、他方、女性は、こまかい連携運動が上手で、小さなものを操るのが巧みだという。更に、平均して、男性の方が攻撃的で、女性は直感的かつ養育者という性質が強いという違いも観察されている。フィッシャーは、これらの違いを、人類の永い歴史を通じての男女の役割分担に基づき、その役割をより効率的に果たすことのできる資質を身につけた男女が生き残ってきたことによって作り上げられてきた違い、すなわち性差であると説明している。
男が狩りをするという役割が、地形を読み方向を見定めるという空間的能力、攻撃性、大きな動きの巧みさの発達を促し、果実を採集し子供を育てるという女の役割から、こまかな動き、言語能力、養育能力、直感力などが発達してきたというわけである。
それでは、性差というのは役割分担から派生したもので、本来男女には根本的な違いはないのかというとそうでもなく、男性ホルモンのテストステロンは、肉体的な男を作るのと同時に性格に攻撃性を与え、他方、女性ホルモンのエストロゲンも、女性の肉体を作ると共に脳にも働きかけて言語能力を刺激するなど、生物学的な男女の違いから生じる本質的な性差もあるようである。
このように、男女の性差の存在は、男女同権論者といえども否定し得ないとして、その結果、女性は知的な面で男性に劣っているという説に軍配が挙がるのであろうか。
ひとことで言えば、知力に性差があるという科学的根拠はない。フィッシャーも言うように、知力はさまざまに異なった能力の寄せ集めであって、単一の資質ではない。その上、腕力は別として、男女の性差として挙げられているものの多くは、違いではあっても優劣の比較にはなじまない。他人と比較して自分のあらゆることを自慢の種にするタイプの人がいるが、自分が持っている特性を持っていないからといって相手を劣った者と決めつけるのは、酒飲みが下戸をダメ人間扱いし、毛深い男が髭の薄い男を軟弱扱いするのと同レベルの、無意味かつ馬鹿げた比較である(因みに、私は、酒は飲まないが髭は濃い)。
それに、男女の知力を敢えて比較しようとすると言語能力の問題に触れないわけには行かないが、言語こそ、人間に他の動物に卓越する知力を与えた根源的要因であることを考えると、女性ホルモンが脳に働きかけ言語能力を刺激する作用を持っていることは、女性は生物学的に、従って本質的に、知力の面で男性より優れていることを意味するという、男性にとって甚だ都合の悪い結論に結びつきかねない。
そんなことを言っても、これまで知的活動の分野で活躍した人々の圧倒的多数は男性だったではないかという反論で、最初の議論に戻ることになる。しかし、われわれは今や、暴力と経済力、そしてそれらに支えられた社会制度によって女性が従属的立場に追いやられ、知力を始めとする能力を発揮する機会を永い間奪われて来た仕組みを知った。特に、文字の文化そして知性の文化が発達し始めたまさにその時期に、農耕社会の発展に伴う女性の従属化が進展し始めたのは、歴史の偶然とはいえ、人類の半分を占める女性の知性の文化への参入を妨げることとなり、女性のみならず人類にとっても大きな知的損失をもたらしたと言わざるを得ない。
男性優位の社会は、男性にとって捨て難い住み心地の良さを保障してくれるが、人類全体の文化の向上、最大多数の最大幸福を考えれば、女性の知力の本質的劣等性という、何の理論的根拠もない主張は潔く撤回するだけの知的誠実さが、男性の側にも必要である。 
U 男性社会の弊害
知性の文化への女性の参加が大幅に制約されて来たために、人類の文化のあちこちに、男性社会の歪みとも言ってよい歪みが生じた。 男と女の性質の違いを作る根源的な要因はホルモンである。性差には、男性ホルモンと女性ホルモンがそれぞれ直接作用して作り上げる本質的なものと、男らしさと女らしさの社会的イメージに合わせて習得される後天的なものとがあり、更にそれぞれの社会の文化に応じて、本来の違い以上に増幅されたり誇張されたりするものもある。 
男性ホルモンによって作られる性質で特徴的なものは攻撃性であり、それと表裏の関係にある支配欲である。これに対して女性ホルモンは、子供に対する関心の強い養育的性格を作り出す。これはニホンザルの世界でも観察される性質で、子ザルは一歳ころまではオスもメスもなく一緒に遊ぶが、三歳くらいになるとそれぞれのグループに分かれ、雄ザルは追いかけっこや取っ組み合いをして遊ぶのに対して、雌ザルはそのようなことよりも赤ん坊ザルに関心を示し、可愛がって遊ぶのを好むようになるそうである。
このような男女の本来的特質が組み合わされると、夫である男が狩りをし、外敵と戦って縄張りを守り、妻である女が子育てをしながら果実を採集するという家族の原形ができる。ここでは、血のつながった家族同士の愛情や信頼関係で、曲がりなりにも幸福が分かち合われる。
農耕社会になると、幾つかの家族が集まって集団になり、社会あるいは国家になって、家父長的首長を中心に、男は生産活動に従事し、あるいは外敵と戦う戦闘集団を構成し、女は家庭を守り子育てをするという、いわば拡大された家族モデルができあがる。しかし、家族の原形との最大の違いは、社会が大きなればなるほど、その構成員同士の愛情や信頼関係が希薄になり、支配・従属関係で社会が維持されるようになっていることである。そして、従属させられた女性の養育的性格とそこから派生する優しさや思いやりは家庭内に閉じ込められ、家庭の外では、強い者すなわち男性の攻撃性や支配欲という本性が、賞賛すべき資質として社会的にも認知され、ホッブスのリヴァイアサンのような別のもっと強い者からの制約を受けない限り、猛威を振るう。その結果が、闘争であり、抑圧であり、隷従であり、強奪であり、搾取であり、そして究極的には征服であり、戦争である。こうしてみると、諸悪の根源は男性であり、男性ホルモンではないか。
もちろん、そうではない。男性の体内でも女性ホルモンは生産されているし、女性の体内でも男性ホルモンが生産されている。攻撃性にしても養育的性格にしても、男女それぞれの独占的な特質ではなく、前者が男性に、後者が女性に比較的強く現れるという程度の違いである。
女性にも、可能性さえ開かれれば、抑圧されて潜在していた闘争心や、支配欲が顕在化してくる。現代の社会でも、男性社会である限り、女性が男性に伍して活動するためには、男性社会で評価される資質すなわち攻撃性、時に覇気とも呼ばれる貪欲さ、あるいは徹夜も厭わない仕事師ぶりを示さなければならない。現に、そのようにして、有能な女性たちが、男性に一歩も引けをとらない活動をしている。しかし、身体の機能も体力も男性とは異なる女性が、男性と同じような活動をしなければ従属性から開放されることができない社会は、女性が快適さを追求するに当たって、女性であるというだけで不当なハンディキャップを負わせていると言わざるを得ない。諸悪の根源があるとすれば、それは、男性でも男性ホルモンでもなく、男性の特質だけがアンバランスに拡大され評価される文化なのである。
男性社会では、女性ホルモン効果の優しさや思いやりが、強くなり過ぎた男性ホルモン効果の攻撃性や支配欲を抑制し切れず、科学技術の発展と相まって、人類の運命さえ危うくしかねない状況を招いている。それでは、女性社会になれば良いかというと、人類は未だ経験したことがないので想像しにくいが、暴力沙汰は少なくなるとしても、全体として何となく、人類の半分を占める男性にとって居心地が悪くなりそうな感じはする。
やはり、女性ホルモンから生じる特質が行き過ぎるのを抑制し、あるいは補うために、男性ホルモンも必要であろう。人類が男女で構成されている以上、男性社会でも女性社会でもなく、男女が適度に補い合い刺激し合う男女社会が、人類全体の快適さ、最大多数の最大幸福にとって、最も望ましいあり方なのである。そして、男性社会を男女社会に変えられるかどうかは、女性が、社会的従属性を強いられた結果生じた知性の文化の分野での遅れを、取り戻すことができるかどうかに掛かっている。 
V 日・仏女性の文化活動の歴史
過去五千年来、女性が社会的に従属化され抑圧されて来たといっても、知性を発揮し、文化に影響を及ぼす機会が全くなかったわけではない。
五世紀頃に渡来した漢字によって、文字の文化が発展した日本では、八世紀に編纂された万葉集に既に女性の和歌が収められているが、九世紀から十世紀にかけてかな文字が作られたことにより、上流階級の女性たちの、和歌や物語、随筆などを通じての知的活動がますます盛んになった。十一世紀に書かれた紫式部の源氏物語や清少納言の枕草子は、当時の宮廷文化に果たした女性の役割が決して小さくなかったことを示している。しかし、武士が出現し、朝廷そして社会全体に対する影響力を増大するのと並行するように、女性の知的な活動は日本の歴史から殆んど姿を消してしまった。
紫式部や清少納言が活躍していた頃、中世の初期にあったフランスでは、未だ無知で粗野で文化などとは縁遠かった王や貴族や騎士たちが、教養に邪魔されることなくあらゆる欲望を剥き出しにし、知恵と暴力の限りを尽くして権力闘争に熱中していた。たまたま美しくかつ有能に生まれた女性たちも、女性であることを武器にして、宮廷を舞台とする権力闘争や陰謀に参加し、それなりに活躍したようであるが、知性の文化や感性の文化の面では、これといった名前は残していない。
しかし、戦争に明け暮れた時期が一段落ついた十二世紀頃になると、日常生活に平穏な時間が増えてくる。槍や刀を振り回すのに忙しかった王候・貴族・騎士たちの間に、価値観の基準、行動規範としての騎士道が形を整えて来た。騎士道には、日本の武士道と共通する点も多いが、女性との関連で最も大きな違いは、キリスト教との関連から、心も身体も弱く作られたイブの末裔である女性は守ってやらなければならないという掟と、聖母マリアに対する崇拝から発展した女性崇拝の精神が形作られたことであろう。もちろん、と言っては語弊があるかもしれないが、保護や崇拝の対象になったのは、主として美しい女性や、王妃を始めとする貴婦人たちであった。それに該当しない多くの女性たちは、相変わらず、騎士たちに劣らず無知で野卑な平民も含めた男性たちの、侮蔑や隷従や強姦や暴行の対象にされていた。それにしても、大切にされ崇拝された女性の一群が存在していたことは、その後のフランスひいてはヨーロッパの文化の発展に大きな影響を及ぼすことになる。
ヨーロッパの騎士たちに比べると、読み書きができ、和歌を詠んだ日本の武士たちは、教養面でも文化面でも、より高い水準に到達していた。しかし、天照大御神が女性であったにもかかわらず、支配階級の価値観であった儒教と武士道が女性を徹底的に蔑視したため、十一、二世紀以降の日本の文化の発展に及ぼした女性の影響を見いだすのは困難である。女性は、男性の性欲を満たし、子供を産み育て、家事労働をするためだけの存在になってしまったのである。騎士道と武士道の優劣や善悪の比較は無意味であるが、才能のあるフランスの女性にとって、騎士道が女性の活動の余地を残しておいてくれたことは幸運であり、他方、武士道によってその可能性を殆んど摘み取られた日本の女性は不運であったと言うことはできるであろう。 
初期の文化活動では日本女性に遅れをとったフランス女性ではあるが、十二世紀以降から発達し始め、十七世紀から十九世紀にかけて最盛期を迎えた「サロン」を通じて、他の追随を許さない文化活動を展開した。サロンとは客間のことであり、そこに気の合った友人が集まって余暇を過ごす風習が、フランスの上流階級の文化活動の核となったのである。初めは、吟遊詩人の詩を聴くために宮廷で開かれた集まりは、徐々に王妃を中心とする貴婦人たちによって洗練され、活動内容も座談や知的な議論あるいは音楽や文化的な娯楽などに拡大されて行った。
十七世紀頃には、宮廷だけではなく、貴族や金持ちの平民(ブルジョワ)の邸宅や、更には貴族や金持ちのパトロンをもった高級娼婦の邸宅でもサロンが開かれるようになり、最盛期を迎える。当時最も一般的であった、権力志向で傲慢で虚勢ばかり張りたがり、そのくせ知性はなく趣味も低劣な俗物の亭主たちには到底サロンの主人役は勤まらず、必然的に女主人がサロンを主催するケースが多くなった。それらの中には、○○夫人のサロンとか○○嬢のサロンと呼ばれて、今日まで名前を残しているものもある。集まる客は、女主人の趣味と人脈と魅力によって異なるが、男性も女性も、王族、大貴族からブルジョアまで、文化人や学者から聖職者、軍人までさまざまで、有名なサロンに招かれることはステイタス・シンボルにもなった。
十七世紀後半に、ルイ十四世が王権を確立し、宮廷の礼儀作法が細かく定められ、壮麗な宮殿や華やな生活など贅を尽くした宮廷文化が作り上げられたが、生まれと地位が決定的にものを言う権威主義的縦社会であり、その知的、精神的内容は決して高くなかった。そのような宮廷の外で、さまざまな人々を横断的に集め、階級や職業よりも精神的価値を評価したことによって、知的、精神的文化の発展に大きく貢献したのが、才気にあふれた女性たちが主催したサロンなのである。
二十世紀に入ると、サロンの風習は時代の波に逆らえず急速に衰えたとはいえ、サロンはフランス文化に女性の特質と感性を適度に反映させ、十分とは言えないまでも、ほどほどの知性と潤いを与えるのに大きな役割を果たしたと言うことができるであろう。日本でも、平安時代に花開いた女性の知的文化が受け継がれ発展させられる土壌があったら、更に幅と潤いのある日本文化が育っていたのではないかと残念がるのは、死んだ子の年を数えるようなものであろうか。 
ただし、フランスの貴婦人たちが、知的な活動により文化の向上に貢献したからと言って、フランスの女性が先頭を切って従属性から開放されたというわけではない。サロンを主催した、社会的地位もあり才気にあふれた女性たちでさえ、基本的には男性優位のフランス社会で、女性であるという理由だけで、屈辱的な扱いを受けたり不快な思いをさせられたりしたことも、稀ではなかったようである。まして、名もなく、地位もなく、財産もなく、これといつた才能も腕力もない多くの女性たちを蔑視する、四、五千年来の男性の意識を変えるのは、容易なことではない。フランスの女性が参政権を得たのは、日本の女性と同様に、第二次世界大戦が終わってからのことである。 
W 女性の復権
第二次世界大戦後、人類社会特に先進諸国の社会は、女性の地位の大きな変化を経験しつつある。女性に従属化を強いてきた暴力的な力と経済的な要因が、ベンサムやルソーが期待した民主的な法律や制度の整備が進むにつれて、曲がりなりにも社会の管理下に置かれるようになり、女性も、男性に全面的に依存することなく生きて行けるようになった。戦争も、兵器はボタンを押すだけで発射できる科学技術戦であり、かつ総力戦である時代には、戦士としての男性にだけ特権的な地位を認める理由にはなり難い。
とは言え、女性が男性と実質的にも対等な地位を獲得するためには、まだまだいろいろな困難を乗り越えなくてはならない。中でも、男性の意識の変革と女性の知的向上は、最も重要な課題である。
男性の意識については、興味深い資料がある。
一九四五年の敗戦後、日本は新憲法の起草作業に入り、憲法改正案は翌四六年六月に衆議院本会議での質疑を経て、「帝国憲法改正小委員会」(秘密会)での修正作業に付された。
四月には、初めて女性の参政権が認められた総選挙で、三十九人の女性議員が当選していたが、この小委員会の委員十四人は全て男性であった。憲法改正案の第二四条は「両性の本質的平等」をうたったが、これに関する議論を記録した速記録(九五年九月に公開)について報じる九五年九月三十日付けの朝日新聞の記事を引用してみる。  
「敗戦直後の日本に、『人権』は新しい概念として登場した。『男女平等』は、その柱の一つだ。新憲法は二四条で、家族に関する法律は『個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して』制定することを義務づけた。
しかし、旧体制からの脱皮は、すんなりいったわけではない。『男女は本質的に平等と言えるのか』。条文をめぐり、小委員会ではそんな議論が白熱した。 
北委員『(ドイツの哲学者の言を引いて)性的ニ堕落スル女ハ全人格ガ堕落シ易イ、男ハ性的生活ハ末梢的生活デアル、性的ニ少々汚レテ居ッテモ人格ハ堕落シテオラヌ、例エバ伊藤(博文)公ノ如キハ女道楽ヲシタガ人格ハ立派デアッタ』 
森戸委員『性生活ガ中心デ男ト非常ニ違フト云フコトハ其ノ通リ』
第四回委員会では、こんなやりとりの末、大勢が『男女は本質的に平等ではない』に傾いていく。芦田委員長は『基本的平等』としてはどうか、と提案。しかし、単に、『両性の平等』でいいとする意見も出て、折り合いがつかない。第七回委員会に持ち越されたが、結局は『本質的平等ト云フノハ、差別アル平等ト云フ意味デス、ダカラ最モ良イ言葉ナンデスヨ』(鈴木委員)。」
ここに発言を引用されている委員たちは、それぞれ学者から政界入りした、知的には当時の日本の最高レベルにあったと目される人々である。しかし、それにしては、思い込みと牽強付会の発言内容、ものごとの本質を見る目ひいては知性の欠如には驚かされる。その後の社会全体の意識の変化から、日本の男性の女性観も当然変わって来ているはずではあるが、男女の平等性を男性に心底から認識させ、男性社会を男女社会に変えるのは、並大抵のことではないであろう。
ところで、今、「その後の社会全体の意識の変化」と書いたが、それでは、その変化はどのようにして生じたのであろうか。
ひとことで言えば、女性が強くなったからである。参政権を得たことで、女性議員の発言はもちろん、女性有権者の一票も、社会を動かす力を持つようになった。日常生活でも、経済力を持ったことによって、横暴な上役や夫たちに絶縁状を突きつけることも可能になった。スキャンダルが女性を傷つけたのは昔の話で、今や女性は泣き寝入りしなくなり、痛手は男性の方が大きい場合も少なくない。それやこれやで、男性は女性の力を認識し、時には恐れ、そして気を使うようになった。それが、意識の変化である。マキァヴェッリは、市民が抵抗する力を持っている場合には、君主は市民に気配りしなければならないと示唆したが、その教訓は、君主を男性に、市民を女性に置き換えた場合にも該当する。女性が更に力をつけて行けば、男性と本当に対等になることも可能かもしれない。
それでは女性は、男性に劣らない力を持つようになることはできるのであろうか。
社会的な力の根源として、かつては決定的な重要性をもっていた腕力ないし暴力が占める割合は、極端に低下した。経済力の差も縮小する方向にある。しかし、知恵や才覚となるとどうであろうか。
男性優位の社会が成立してから四、五千年来、男性たちは、男性ホルモンの命ずるまま、大物から小物までそれぞれの立場に応じて、暴力と知恵の限りを尽くして闘争し、欲望の充足を追求して来た。これに対して、大部分の女性の知恵は、身の回りの快適さの追求と利害関係の処理に関わる範囲に限定されて来た。女性の関・頂蛋喇・欝・慥に広がらないような社会の仕組みになっていたのであるから、やむを得ないのであるが、この積み上げの差は馬鹿にできない。女性も、社会のあらゆる局面で男性と対等に権力・権限闘争に参加するようになれば、権謀術数の知恵も磨かれるであろうが、そうなるまでには相当な時間を要するであろう。 
それに、男性の特質である攻撃性や闘争心あるいは支配欲に突きあげられて、放っておけば際限なく暴走しかねない男性の知恵と、養育的性格に起因する根源的な優しさが無意識のブレーキとなって、例外はもちろんあるとはいえ苛酷さを究極まで貫徹しきれないところのある女性の知恵との間には、本質的な違いがあるように思われないでもない。女性には、知恵の(豊かさではなく)苛酷さに、あるいはその苛酷さを引き出す男性ホルモン効果の強さに、結局男性に対抗できない本質的な弱点(見方を変えれば、美点かもしれない)があるのではないであろうか。そうであるとすれば、知恵に知恵で対抗して対等な力を持とうとするのは、女性にとって得策ではない。しかし、知恵、特に実利と権力至上主義の男性の知恵を野放しにしておいては、ちょっと油断すると、社会の権威主義化ひいては女性の従属化に再び逆戻りしかねない。
知恵の暴走に対抗できるような、女性が発揮できる力はないのであろうか。 
X 女性の役割
その答えは、本書がこれまでたどってきた考え方の中で、既に出されている。それは、第一部で研究した知性の力と感性の力にほかならない。以下ここまで、知性と感性の力に特に男女の区別をつけず、一般的な観点から考察を進めてきた。その考察の大部分は女性にも当てはまることであるので繰り返しは避け、ここでは、知恵の暴走に歯止めをかけ、方向づける力としての知性と感性の分野で、文化の向上のために女性が果たすことを期待される役割に焦点を絞って考えてみることとする。
社会的中核集団で活躍している数少ない女性については、第十二章で分析したとおり、中核集団の活動の性格上、文化の向上のためには多くを期待できないが、それでも女性の本質的特性が中核集団の行動様式に少しでも反映されれば、権力志向で弱者軽視に走りがちな中核集団の暴走が多少なりとも抑制される可能性は期待できるかもしれない。
知識人としての女性は、知性の文化を通じて生活の文化の質的向上への貢献が最も期待される人々である。知性の文化では、洞察力と論理性が生命であり、優れた論理であれば男女の区別なく評価される。女性が知的訓練を受ける機会が広く開かれた現代社会では、知性の文化の分野こそ、感性の文化の分野と並んで、女性がその能力を十分に発揮できる可能性を秘めた分野であると言うことができるのである。特に、女性の本質的特性である養育的性格が、知識人にふさわしい高い知性と感性によって磨かれ、自分の身内だけでなく弱い者一般に対する思いやりにまで拡大され高められて、知性の文化での論理構築に反映されれば、実利志向的な男性の論理に欠けがちなゆとりや潤いを、生活の文化にもたらすことができるであろう。
それは、実利と力の論理に徹底的に支配され、今や理想像を失ったかに見えないでもない現代社会に、革命的な意識改革をもたらしてくれるかもしれない。また、そうならないと、現代社会がその行き詰まりから脱け出すことはむずかしい。そんな大転換が起こるわけがないという見方もあるかもしれないが、革命は、実際に起こるまでは、起こると思う人は少ないものなのである。
それを可能にするためには、一般大衆としての女性が、多少なりとも知性の文化に関心を持ち、知性の文化からの呼びかけを受信する能力を身につけることが必要である。先に第十二章で、一般大衆を知性の文化に誘(いざな)うきっかけとして、職場での不条理をとりあげた。
女性を知性の文化に誘うきっかけとして、ここでは、女性が共通して感じる不条理としての暴力の問題をとりあげてみたい。
有史以来、人間性を最も踏みにじり、屈辱感を与えてきたものは、暴力である。男性も強い者の暴力の犠牲になってきたが、相手が弱ければ容易に加害者に転じた。女性こそ常に、弱い者も含めた男性の暴力の、絶好の対象であった。女性であり弱かったということだけで、個人的に、あるいは戦争などを通じて集団的に、襲われ、殴られ、傷つけられ、犯され、強奪され、搾取され、そして殺されていった女性は数知れず、今日も後を絶たない。女性にとって暴力は、根絶すべき第一目標であって不思議はない。ところが、地球上の多くの社会で、暴力はいまだに大手を振ってのし歩いている。なぜであろうか。
答えは簡単である。犠牲者があきらめてきたからである。なぜあきらめてきたかといえば、女性の場合、抵抗するための十分な力がなかったからである。男性にも犠牲者はいたが、自分も加害者になれる可能性があり、また、男性ホルモンがもたらす闘争本能は、むしろ「力」に憧れ、賛美する方向に男性一般を導く傾向があるので、反暴力はなかなか強い流れにはならなかった。こうして、抑えるものがなかったから、暴力はいまだに、日常生活をはじめとする、人間の生活のあらゆる局面で猛威を振るっているのである。
それでは、暴力を抑えるにはどうしたらよいのであろうか。特に、最大の被害者である女性に、できることはあるのであろうか。この問いかけに対する答えを考えることから、知性の文化への入り口が開かれる。女性にとって、考える価値が十分ある問いかけではないであろうか。
まず、暴力の問題は、すぐれて文化の問題であることを、認識する必要がある。自分の欲望を暴力で達成するのも仕方がない、場合によってはよいではないか、強い者の当然の権利だ、自分も強くなってそうしたい、と考えるような文化がある限り、警察力や軍事力をいくら増強しても、力による直接的な抑圧はモグラ叩きのようなもので、根本的な解決にはならないであろう。暴力に訴えるのは卑劣である、破廉恥である、人間の屑であり男の腐ったのがする行為であると、多数の人々が考え、厳しい目で咎めるような文化に変えていくしかないのである。
そんなことが、できるのであろうか。
今まで文化について学んだことから、考えてみよう。
現在ここにある文化から実利を引き出すものは、知恵とも呼ばれる状況対処能力であった。
次に、現在の文化を動かし変えるものは、変えようという個々人の意欲と、その意欲を集団の力に変えるための組織化である。意欲が、知恵と、より強い者への忠誠心とに結びつき組織化されると、文化は動き、変わり始める。
そして意欲が、個人と個々の集団の目先の利害を超えた、より高い次元の価値を考える能力としての知性と、同じような知性を持つ人々との連帯感と結びつき組織化されると、文化は向上するのである。
そこで、人類の半数を占める女性が、暴力を徹底的に否定し軽蔑して、暴力許容文化を変えようという意欲を持ち、女性だけでなく、暴力を嫌悪する少なからざる男性たちとも連帯して行動すれば、文化を変え、向上させることも可能になる。しかも、この変化は、男性の潜在的な力信仰の強さを考えれば、女性が男性を巻き込んで動き出さない限り期待できない。他方、暴力を否定するこのような意識が、ひとたび社会的な力になり文化になると、次には、物理的な暴力だけでなく、個人や圧力団体が利己的欲望を達成するための横車や理不尽な行為、経済力や権力を乱用しての、思想や行動などに対する各種抑圧あるいはセクシャル・ハラスメントなど、いろいろな社会的不条理が目についてくる。多数の女性が、このような社会的不条理に気がつき、それを改めようという意欲を持ち、志を同じくする男性とも連帯して社会的な力となることができれば、不条理な力による支配や無理押しが抑制され、より公正な民主主義社会への道が開かれることになる。暴力が横行している限り民主主義の実現は期待できないという意味で、暴力は民主主義の敵なのである。 暴力は、もちろん、国際平和の敵でもある。国際社会での暴力は、小紛争から戦争に至るまでの、全ての武力行使である。この武力行使も、それぞれの国家や社会の暴力容認の文化に根ざしている。国内で、ものごとを暴力で処理することに慣れている国民や政府は、国際関係でも暴力で片を付けることに躊躇しない。これが「戦争は人間の心の中で生まれる」という、ユネスコ憲章の意味するところである。
国内で暴力否定の文化を持っている国も、理不尽に武力を行使されたり、戦争を仕掛けられたりしたら、無抵抗ではいられない。腕力のない私ですら、不当に暴力を振るわれたら、自分あるいは家族を守るために抵抗するであろう。もっとも、まともに格闘しては勝ち目がないので、相手が足場の悪い所に立った時にうしろから体当たりで突き落とすとか、包丁でも手に入れば、相手が隙を見せた時に頸動脈をかき切るとか、あるいはみぞおちに突き立てるとか、いずれにしても一撃で相手の攻撃力を奪える可能性がない限りは、じっと機会が来るのを待つほかないという条件つきの反撃なのではあるが。その反撃の結果、場合によっては相手が死ぬようなことになっても、相手に非がある限りは後悔することはないであろう。反撃しなければ、こちらが死んでいたかもしれないのだから。
国家の場合も考え方は同じであり、無法な武力行使に対しては、戦略・戦術の違いはあっても、最終的には武力で反撃するというのが、地球上のほとんどの国家の思考・行動様式である。これが反転して、大部分の国家が、攻撃されても無抵抗で、侵略者の言うなりに奴隷の平和を甘受するようになるという思考・行動様式に宗旨変えすることは、人間が変質しない限り考えられないであろう。したがって、理不尽に攻撃される可能性がある限りは、暴力行使の手段である軍事力も、防衛すなわち反撃の手段として保持する必要があるということになる。
すなわち、国際社会に、個別の武力行使を許さないような強力なリヴァイアサン的権力ができるか、あるいは、自国の意思を武力によって他国に押しつけることはけっしてしない、できないという文化を、まずそれぞれの国が国内に作り上げ、次いで諸国家が相互にその文化の存在を確認できるようにならない限り、戦争の根絶はできないであろう。そして、そのような文化が本当に形成されているかどうかは、政府の宣言や議会の決議ではなく、それぞれの政府や国民の実際の思考・行動様式によって、国際社会の前に歴然と示されてしまう。相互信頼の基本は、今や、条約や首脳同士の口約束ではなく、国の文化そのものなのである。
このように、戦争を究極的に根絶するためには、国内に暴力否定の文化を形成する必要があること、そしてそのためには、女性がそれぞれ自分の身を暴力から守ろうとする意欲を、知性と感性とに結びつけて、社会的な力に具体化する必要があることが明らかになった。女性の積極的な参加がない限り、暴力否定の文化の形成ひいては戦争の根絶は困難なのである。
それでは女性は、具体的には何をすればよいのか。
まず何よりも、暴力を憎み、暴力的な人間を心から軽蔑し、それを日頃の言動で、周辺の友人や恋人や夫や子供たちに、常に表明し続けることによって、暴力を振るえば嫌われ軽蔑されるという、社会的な雰囲気を育てるよう努めることである。男性の攻撃性のエネルギーは、他人に対する支配や意思の強制を伴わないスポーツやお祭り騒ぎなどで、ルールに則って発散してもらえばよいのである。
組織化は、すぐにはむずかしいとしても、各種選挙での一票の行使は、多くの女性の投票者に、暴力否定の連帯感で一定の方向づけがされている場合には、組織化に準じる効果を発揮する。日本の女性の場合、自ら獲得したというよりも、与えられたものの性格が強い参政権ではあるが、それであるからこそ、ますます大切に行使すべきであろう。
大切な一票を、どのように行使したらよいのか。
暴力否定の観点だけから言えば、他人を支配したり意思を強制する手段として、暴力を実際に使用する人はもちろん、いかなる理屈をつけようとも、正当防衛以外の暴力行使を肯定するような人には、それがどれほど有名で、どれほど有能であるといわれている人物であっても投票しないことである。このような人々を見分けるのは、わずかな対人的感性があればむずかしいことではない。
更に、物理的な暴力の行使だけではなく、特定の意思や行為を、理由を論理的に説明することなく、脅迫や経済力や権力ないし権威などの力をかりて理不尽に押しつけようとする人々に対しても、投票しないことである。このような思考様式は、暴力容認と紙一重だからである。
このあたりの判断からは、不条理を見分ける知性が必要になってくるかもしれない。
最低限これだけでも、多数の女性が実行すれば、志を同じくする男性がこれに呼応して、生活の文化に全般に好ましい 波及効果をもたらすことになるであろう。
文化の向上に果たす女性の役割が、なぜこれほどまでに期待されるのであろうか。
第一に、快適な社会の構築には思いやりの心が不可欠であるが、女性の本質的資質である養育的性格は、女性の地位と意識の向上に伴って社会性が備われば、近親者に対するだけでなく、より博愛的な思いやりの心に育つ可能性を持っているからである。
第二は、まだ多くの女性は、中核集団に属していないか、属していても意思決定にまで参画することは少ないが、まさにその理由で、第十二章でとりあげた一般大衆の一員として、組織の論理に縛られずに、知性の文化の神髄に迫ることができるからである。このような女性たちが知性の文化を身につけたときには、社会のあり方について、組織の利益や論理よりも、自分自身の判断を優先することができるであろう。快適な社会の構築には、知性の論理を組織や個人の私利私欲の論理に優先させる知的誠実さも、思いやりの心と共に、不可欠なのである。
最後に、このような女性の知的活動によって、国内社会については、暴力否定の文化が少しずつでも根づくとして、他の国も同じように根づかせてくれなくては、国際社会に暴力否定の文化は根づかず、戦争の根絶も期待できない。しかし、今日の国際社会では、原則として、他国のことまで口出しすることはできない。ただ、他の国の女性の知性の向上を手助けすることによって、間接的にその国の文化の向上に貢献することはできる。そのために基本的なことは、特に開発途上国に多い、読み書きのできない女性の識字率を高めることである。読み書きのできない女性をなくして、文字の文化の世界に招き入れない限り、知性の文化の入り口さえ示すことはできず、したがって、女性の組織かはおろか、向上しようとする意欲も、他の女性たちとの連帯感も育てることはできないであろう。日本の知的な女性たちに、女性の国際的連帯にまで目を向けるゆとりがある場合に、世界平和の達成のため最も遠回りであるが最も必要であり、かつ実行可能な活動は、開発途上国に集中している読み書きのできない女性たちの識字率向上のための支援である。 
第三部 国際関係と文化 

 

終章 国際関係を左右する基盤としての文化力  
前章において、文化の向上に果たす女性の役割との関連で、暴力否定の文化を育成することが、戦争の根絶という人類の悲願の達成に不可欠であることを指摘した。ただし、女性の役割との関連で取り上げたこともあり、国際関係に関わる具体的な活動としては、特に開発途上国の女性の識字率を向上させることによる、知性の文化形成への女性の参加の必要性を指摘するにとどめた。本書の最終章である本章では、国家と国家との関係である国際関係において文化が果たす役割と、今後ますます増大するその重要性を、特に、国際社会における日本の、国家としての立場と関連させながら考察して、終ることとする。 
T 成長した象  

 

第二次世界大戦で荒廃した日本の国土と国民生活は、全国民一丸となっての経済活動によって、戦後半世紀を経ずして経済大国と呼ばれるまでに発展し、国民は空前の経済的繁栄を享受するに至った。この経済的発展にともなって、その成果を他国にも分与すべきであるとする内外からの声に応え、日本の経済協力は飛躍的に増大して来た。その結果、経済に限らず政治的にも応分の国際貢献をすべきであるとの国際社会からの要請が強まる一方、国際社会において日本の実力にふさわしい役割を果たす必要についての、国内の認識も高まりつつある。このため、従来は与件として対応してきた国際社会の政治・経済秩序を、これからは自らも参加して形成して行く立場を求めるべきか否かの意思決定が、大きな課題となって現れて来ているのである。
確かに、戦後の復興期を通じて、日本国民が、国際社会の動きに巧みに対処しながら、経済的繁栄を築き上げて来たことは事実である。そのため、少なからぬ国民にとって、できることならば、時には強い風当たりを受けることもある秩序形成国グループの一員としての責任を負うよりも、従来どおり、持ち前の対処能力すなわち知恵を発揮して繁栄の維持を図って行きたいという心情は、捨て難いものがあるかもしれない。
しかし、日本自身が国際社会や国際情勢に影響を与える意思がなく、状況対処に徹しているつもりでも、その対処行動自体が外部世界に対する大きなインパクトとして作用するほど、今日の日本は大きくなってしまっているのである。しかも、状況対処行動の性格上、行動の方向は状況に応じて随時変化するとなると、まわりの国から見れば、成長した大きな象が自分ではまだ子象の頃のつもりでチョコマカ動きまわっているようなもので、そばにいる者にとっては危なっかしくて仕方がないということになる。
すなわち、ちょっとした動きでも他者に影響を及ぼすまでに大きくなった存在は、自分が動こうとする方向を予め明らかにしておく社会的責任があるということであろう。そうであるとすれば、既に十分巨大化した日本にとって、状況に巧みに対処することだけを念頭においた行動は、社会的責任の放棄を意味することとなり、国際社会で胸を張って生きて行くこともむずかしくなってくる。従って、国際社会における自分自身の重量を勘案した場合、日本にとっては、自らが追求しようとする国際社会及び日本社会自身の理想像を明白に提示し、その実現を可能にするような状況ないし秩序を自ら形成して行く選択しか、もはや残されていないものと考えなければならない。 
U 秩序形成者の要件
秩序形成者は、従来、軍事力と経済力の両者またはいずれかをその政治力ないし外交力の根源として、秩序の形成に参画して来た。
軍事力
人類の歴史では、軍事力だけで近隣諸国を制圧し、制服者の思いのままの秩序を押しつけることが可能な時代が永く続いたが、二十一世紀を目前に控えた国際社会は、軍事力だけで秩序形成者になろうとしたソ連の挫折を目の当りにして、そのような時代の終りを認識した。砲艦外交によるパワー・ポリティクスが効果を発揮する時代が終りを迎える一方で、いまだに主権国家で構成され、世界政府に統合された軍事的強制力が存在しない今日の国際社会において、秩序の形成に必要な政治・外交力を持つことができるかどうかは、自らの提唱する秩序の構想にどれだけ多数の主権国家の支持ないし共感を獲得できるかどうかに掛かっている。
軍事力は、二国間あるいは周辺諸国間の関係では、未だに、政治・外交力の基盤のひとつであると言えるであろう。しかし、地球規模の国際社会では、軍事力の行使が秩序形成のために有効であるためには、それが「正当な」秩序の形成のために行なわれたと、国際機関や国際会議の場などで大多数の国々から認識されることが必要である。すなわち、従来、主権国家間の戦争ないし軍事力の行使で、いずれの側に「正義」があるかの判定者が存在しなかった人類の歴史で、国際社会という判定者が漸く形成され始めたのである。
もちろん、このことは、国際社会の判定が常に正しいかどうかとは別の問題であり、軍事力を行使する場合に国際社会の支持を得なければ、目的の達成が困難な時代になってきたという意味である。従って、正当な秩序の形成という目的以外のために、保持する軍事力を行使する気遣いはない国と言う信頼を国際社会から得ることができることが、秩序形成に参画できるための条件のひとつになる。
経済力
二十一世紀の秩序形成者であるための条件として、経済力ははるかに重要である。たとえ公正な秩序の維持・形成のためではあっても、軍事力の行使がもたらすものは人的・物的破壊以外の何ものでもないのに対し、経済力は正しく行使されれば、関係国ひいては国際社会全体の利益を増進し、少なくとも貧困に起因する紛争の予防に貢献することができる。これは国際社会の構成国が等しく歓迎するところであり、また国際社会に及ぼす影響も大きいので、経済大国は、それだけで秩序形成者となるための条件を備えていると言ってよいであろう。もちろん、軍事力同様、経済力も、使い方を誤れば秩序破壊を招くことになる。従って、大きな経済力を持つ秩序形成者は、政府のみならず民間企業も含め、経済の運営と活動に際して、自国の経済力が国際社会に及ぼす影響の大きさを常に念頭に置いて行動しないと、秩序破壊者ないし秩序撹乱者の汚名を着ることになりかねない存在なのである。その上、経済大国になることができたこと自体が、その国にとって好ましい国際秩序が維持されて来た結果であるので、そのような秩序が破壊されることは、自分自身の足元が脅かされることを意味する。
このように、今日の国際社会においては、経済大国は、自らが好むと好まざるとにかかわらず、秩序形成者としての責任を負わなければならないのである。しかも、経済大国であるからといって経済分野での活動だけでは責任を果たしたとはみなされず、政治分野での、あるいはPKO等を通じた軍事分野での活動にも参加して、場合によっては血を流す覚悟さえ求められるのが、今日の国際社会での秩序形成者の立場である。
日本が経済大国である限り、秩序の形成者か破壊者または攪乱者のいずれかにしか成り得ないとすれば、これからの国際社会で生き延びて行くためには、秩序形成者の道を選ばざるを得ないのは自明の理であろう。そして、ひとたび秩序形成者の道を選んだ以上は、国際社会が許容する範囲内で、できる限り日本にとって望ましい国際社会秩序の形成を希求すべきことも当然の理である。そこで出てくる問いは、それでは日本にとって望ましい国際社会の秩序とはどのようなものか、また、日本が目指す秩序構想の実現に多数の国家の共感と支持を獲得するためには何が必要かの二点である。
前者は、基本的には、第十一章で指摘した生活の文化の質的向上の諸条件を、日本も他の諸国も満たすことが可能になるような国際秩序である、と言うことができるであろう。後者については、従来必ずしも顧みられることの多くなかった、「文化」が果たす役割が重要である。 
V 国際政治力・外交力の基盤としての文化 
秩序の形成を目指す国の政治力・外交力の基盤として、大きな経済力とある程度の軍事力(ないし、それに準じる実力)が有力であることは、既に考察した通りである。
ただ、理屈ではそうであるとしても、巨額に上る経済協力や、世界で一、二位を誇る国際機関への分担金の拠出、あるいは、武力紛争解決のためのPKOを通じての血を流す覚悟にもかかわらず、たとえば国際会議の場などにおいて、日本のそれなりに筋の通った主張が、必ずしも多数の支持を得られるわけではないのは何故であろうかというのが、かつてユネスコ日本政府代表として日頃出席していた国際会議で、私が実感してきた問題である。それに対して、経済力も軍事力も日本に比べて特に大きいとは言えないフランスが、国際社会で発揮する影響力あるいは政治・外交力の根源はどこにあるのであろうか。
このところ衰えつつあるとはいえ、フランスが従来誇ってきた高い外交能力(対外的影響力)は大方の認めるところである。一般に、その能力は、ヨーロッパの真ん中に位置するフランスが、その歴史的・地理的環境の中で揉まれて来たことによって獲得されたものとして説明されるが、実際には、技巧だけで外交的成果は挙げられるものではなく、背後でそれを支える力ないし基盤が必要である。ところが、過去はともかくとして、現代のフランスの経済力や軍事力が、他の先進諸国に比べて特に大きなものでないことは周知の通りなので、このふたつの力だけではフランスの高い外交能力を説明することは困難であり、他の要因も求めなければならない。
そこで、フランスを他の国から際立たせている特徴としての文化国家、文化大国としての側面が注目されるのであり、その文化の力にフランスの外交能力ないし対外的影響力を支える大きな基盤を見い出すことができるであろう。従って、仮に、何らかの理由でその文化が衰退し、フランス的な思考・生活様式が魅力を失うような状況が生じれば、フランスの対外的影響力も減殺されるざるを得なくなることも、十分予想されるのである。
実際、国際世論が正義の在りかを判定する傾向がますます強まるこれからの国際社会では、ある国が国際秩序形成者グループの一角を占めて相応の影響力を発揮するためには、他の国からの、経済力や軍事力に対してのみならず、その国への全人格的な信頼と共感が必要である。そして、これを獲得するためには、経済的貢献と軍事ないし政治面での「血を流す覚悟」(人的貢献)だけでは未だ足りず、経済力や軍事力を如何に行使するかの判断に密接に関係する、国民の生活様式も含めた思考・行動様式すなわち文化が、高い成熟度を示していることが肝要である。
すなわち、多数の国ないし人々が憧れ共感するような文化を、ある国が保持し、さらに、そのような文化を保持する国ならば、経済力や軍事力もあからさまに邪まな目的のために使用することはないであろう、との信頼感を与えることができてこそ、その国の言い分は、多数の国からの共感と支持を期待することができるのである。しかも、そのような文化は、時に、あからさまでない程度に邪まな目的ならば、大目に見させるくらいの効果も発揮してくれる。いわば、普段の行ないというレンズで、信頼感を実際以上に拡大して見せる役割さえ果たしてくれるのである。
しかし、伝統的な国際政治学においては、国際関係に影響を与える要因としての軍事力や経済力は十分すぎるほど分析の対象となってきたが、文化力が果たす役割については殆んど看過されてきたと言っても言い過ぎではないであろう。その理由としては、文化を扱う学問が未発達で、文化の概念そのものが理論的に必ずしも十分に確立されていなかったために、国際関係に直接に影響を与えうる実体としての文化が認識されにくかったことが挙げられる。
そのために、国際秩序形成のために必要な外交力あるいは国際的影響力を支える要因としての軍事力や経済力の重要性は、国際関係を論じるものに対して改めて指摘する必要もないほどであるが、文化力の重要性については必ずしも自明の理と言うわけには行かなかった。しかし、本書の序章から第十四章までを通じて、文化が、われわれの社会や国家のあり方を根源で規定していることを改めて認識した今、そのような国家群で形成されている国際関係も、根底では、それぞれの社会や国家の文化の影響を抜きにしては考えられないことは明らかであろう。  
すなわち、より水準の高い文化を育んだ社会ないし国は、他の社会や国からの憧れと敬意の対象となって、国際社会で名誉ある地位を占めると共に、自らの高い文化を他の社会や国に伝播することを通じて、それに基ずく影響力を行使し、国際社会の発展に貢献することができることとなる。このような文化の力は、その時々の直接的利害関係の調整を図る外交の場では、軍事力や経済力の陰に隠れがちであるが、今や、国際関係を根底において左右する基盤となりつつあり、二十一世紀の国際社会では、文化力なくして、対外的影響力を長期的に保持することはできなくなるであろう。    (了) 
 
スピノザ

 

Baruch de Spinoza (1632-1677) 主著「エチカ」で展開した方法とともに、その思想も余りにもユニークだったので、哲学史の上では孤立した思想家と見られがちだった。しかし難解なヴェールをはいでその思想を丹念に追っていくと、そこには尽きせぬ和泉が脈打っていることが分かる。
スピノザの思想はなるほど、西洋哲学の王道には位置しないかもしれないが、西洋哲学が抱えていたさまざまな問題をあぶり出し、それらについて改めて考察することを迫る。
哲学史の流れに即していえば、スピノザはデカルトの問題意識を受け継いで、それを極端な形に推し進めたという位置づけを与えられる。つまりデカルトの実体概念を洗練しなおして、世界を唯一の実体としての神の偶有性として解釈しなおしたのだ。
今日の世界観からすれば、これはナンセンスのようにも映る。しかし、世界を単純な原理にもとづいて統一的に説明しようとする姿勢は、いつの時代にあっても、人類を突き動かしてきた知的な傾向であるといえる。
スピノザの思想には、アナクロニックなものとして捨て切れない部分が多く含まれている。 
哲学史上の位置づけ
スピノザ Baruch De Spinoza(1632-1677) の哲学を正しく理解するためには、時代的背景との関連を考慮に入れなければならない。
「エチカ」を始めとしたスピノザの哲学上の主要な著作が生前には出版されなかったことに伺われるように、彼の思想は存命中に広く受け入れられることはなかった。そればかりか、死後間もなくして、スピノザの思想は世界から抹消されたも同然の扱いを受けたのである。
スピノザの思想を掘り起こして、これを西洋哲学上に改めて位置づけ直したのは、ドイツ観念論の哲学者たちだった。スピノザの思想を最初に高く評価したメンデルスゾーンは、スピノザをデカルトとライプニッツの中間に位置する偉大な哲学者だと評価し、以後この位置づけがドイツ観念論の哲学者たちの中で定着する。
この見方によれば、スピノザはデカルトの問題意識を引き継ぎ、それを後世へつなぐ役割を果たしたとされる。
デカルトにあっては、世界は思考と延長という二つの実体に分断され、それを相互につなぐものは何もなかった。神という至高の実体が想定されはしたが、それはあくまでも信仰の中においてであって、哲学上においては何らの意味ももたなかった。
スピノザはこれに対して、世界には神という唯一の実体しか存在しないのであり、人間の意識や事物の存在のように別の実体として見えるものは、実は実体などではなく、唯一の実体である神の属性或いは様態を示しているに過ぎないとした。こうすることでデカルトの二元論をあっさりと乗り越えてしまったのである。
スピノザが提出した神の概念は、ドイツ観念論のいう絶対者の概念と極めて類似したものと受け取られた。ドイツ観念論の最大の特色は、世界をある一つの絶対的なものの働きあるいは現われとしてみることである。この絶対的なものとは、ヘーゲルの絶対的精神に見られるように、人間の精神の理想的なあり方を現している。世界は、この絶対的精神が自己実現していく過程と理解されるのである。
ドイツ観念論にとって、スピノザの神は、彼らの絶対的精神の先駆的形態を表していた。スピノザの神は唯一の実体であり、世界には神以外の実体は存在しない。しかも神は万物の内在因であり、それ自身のうちに根拠を有するとともに、そこからすべてのものが生起する根源である。
あらゆるものは神のうちにあり、神を原因とするというこの考え方は、一種の汎神論である。だからドイツ観念論がスピノザのうちに読み取ったのは、絶対精神のバリエーションとしての、汎神論的な世界観であったといえる。
だがドイツ観念論は、スピノザの神を手放しで評価したわけではなかった。彼らがスピノザの汎神論に嗅ぎ取った否定的な部分は、そこにみられる唯物論的な傾向と、人間の意志の自由を軽視する決定論的な色彩であった。
スピノザによれば、世界は神の現れであるから、そこには善もなければ悪もない。そう見えるのは人間の意識による相対的な働きによるのだ。また世界の動きは神の働きによって必然的に定められているから、そこには偶然的なものは何も存在せず、したがって人間の意志の自由も働く余地がない。人間が自由に意思した結果生じたと思われるものも、神の摂理の中であらかじめ予定されていたことなのだ。
神をこのようにとらえることは、神を世界の秩序そのものと一体化させるものだという批判を招くことにつながる。神は自然法則と同じようなものと解釈され、そこには人格神としての面影は感じられない。
スピノザが長い間排斥されてきた理由は、彼が神を説きながら、実はその神が似て非なる神であり、同時代人が信仰していた神とはおよそ異なったものを意味していたからだ。このことから、スピノザは神を説きながら、実は無神論者だというレッテルを貼られたのである。
スピノザはまた人間の意志の自由を尊重しなかった。世界は厳然たる法則に支配されており、人間のなす決定もその法則にしたがっているに過ぎないと語った。このことは、世界の出来事を物質的な法則によって説明する態度と似通ったものだとの批判を招いた。スピノザには唯物論者としてのレッテルも付け加えられたのである。
スピノザに対する同時代人のこのような反感を、ヘーゲルは「精神現象学」の序論の中で次のように解釈している。
「かつて神を唯一の実体と考えるという規定がなされたため、その時代の人々が憤慨したことがあった。その理由は、一方では、そう考えると自己意識が捨てられることになってしまい、維持されないと本能的に感じられたからである。」(樫山欽四郎訳)
つまりスピノザは、神を語りながら、その神は自然法則のように潤いのない神であり、他方では人間の精神が不当に軽視されて、物のように扱われることに、同時代人たちは本能的に反発したのだとする見方である。
以上は主にドイツ観念論の立場からするスピノザ哲学の解釈である。
だがスピノザの思想は、このような解釈の枠に収まるほど単純なものではない。デカルトとの関係についても、直線的な相互関係のみではとらえきれぬものがあるし、その神の概念も、もっと広い文明論的な視野から解釈しなおす必要がある。
というのも、ドイツ観念論は、自分たちの問題意識にスピノザの思想を当てはめるに急なあまり、その時代性を超えたユニークな部分を十分とらえきれているとはいえないからだ。 
形而上学 / 論理的一元論
スピノザの世界観は、神の形而上学ともいうべきものである。スピノザは、人間の精神の働きを含めた、この世界のあらゆる営みや出来事を神の働きあるいは現われとして説明する。言い換えれば、全体としての世界が神という単一の実体をなしており、その部分はいずれも単独では存在しえず、全体の一部としてのみ存在すると説明する。このような教説を、バートランド・ラッセルは論理的一元論と表現した。
スピノザが神という概念を用いて、この世界を一元論的に説明しようとした態度は、デカルトの二元論を克服するひとつの試みとして、哲学史上では一定の意義をもったかもしれない。しかし、それは今日の科学的な思考法にとっては、到底受け入れられるものではないと、ラッセルはいっている。
スピノザが持ち出している実体という概念は、デカルトやスピノザの時代までは意味を持ったかもしれないが、それは形而上学が世界の説明原理として一定の意味をもっていた限りであるに過ぎない。今日では誰も形而上学によって世界を説明しようとはしないし、世界の説明原理として実体概念などを持ち出すものはいない。
ラッセルのこの批判を脇へおいていえば、スピノザの哲学は、西洋の思想の歴史の中での、ある一つの方向性を極限まで押し詰めたものだといえる。
それはまず、初期のギリシャ哲学に始まる存在論の巨大な流れの上に立っている。デカルトは思考と物体とを分裂させ、しかも思考による認識の学つまり認識論に優位を与えた結果、存在に関する学としての存在論を軽視した。スピノザはこの存在論を改めて重視することで、世界を人間の思考の随伴者としてではなく、それ自体に根拠を内有する独立した実体としてとらえなおしたのである。
次にスピノザの思想には、パルメニデスに遡る、世界を一元的に説明しようとする態度が脈打っている。パルメニデスやプラトンは、この一元的な説明原理として、精神的なものを考えていた。プラトンの場合にはイデアが、世界を説明するための一貫した原理になったが、スピノザはそれを神に置き換えたのだといえる。
しかもスピノザの説明法は、プラトンとは比較にならぬほど緻密で徹底したものである。スピノザは究極の実体としての神の存在を証明すると、そこから下降する形で、世界のあらゆる事象について、演繹的に証明していく。そこにはいささかの漏れもなく、世界についての完結した説明となっている。体系というものが意味を持つとしたら、これほど完璧で壮大な体系はないであろう。
世界観あるいは形而上学としてのスピノザの体系には、三つの重要な概念がある。実体、属性、様態である。
実体とは、その存在のために他のものを必要としないものである。実体をこのように考えれば、それは必然的に無限であって、他のものによって限定されたり、条件付けられたりしないはずである。ところで無限はいくつもあるものではない。もしそうなら、無限のもの同士が互いに限定しあうことになり、無限の概念と抵触するからだ。こうして無限の実体は一つであることが強調され、それが神であることが証明される。スピノザによれば、この世界にはただひとつ、神という実体が存在するだけなのである。
属性とは、実体の本質を構成していると人間の悟性が認めるところのものである。その属性のうち、我々は思考と延長とを認めているが、実体の属性はそれにとどまるわけではない。そうだとすれば、実体の本質規定は限定されたものとなり、実体の永遠性と矛盾することになろう。この二つの属性は、それ自身では無限である実体が、すべてを思考と延長の相のもとで見ようとする人間の悟性の主観的認識に現れる形態であるに過ぎない。
ところで思考と延長というこの二つの属性相互の関係については、スピノザもデカルト同様独立であると考えていた。物質的なものは物質的なものしか原因にもつことができず、精神的なものは精神的なものしか原因に持つことができない。精神が物質に作用したり、その反対に物質が精神に作用したりすることはない。しかしその両者には、平行関係と思われるものも存在する。たとえば円の観念と現実の円とは同じものであるが、それは同一の実体が、思考にあっては観念として、延長にあっては現実の円として、異なった属性のもとで現れるのである。
様態とは、実体という普遍的存在が特殊化した個別的な存在形態である。個々の事物や観念は、普遍的な実体が個別化したものであり、その限りで限定された有限な存在である。そして我々が世界という言葉で理解しているものは、この実体の個別化した様態をさしていっているのである。
以上のように、スピノザの世界観は、唯一の実体に基づいて、世界全体を一元論的に説明しようとする壮大な体系をなしている。その体系を支えているのは、論理的な必然性であり、それにもとづく演繹的な説明である。
このようなことからして、スピノザの体系を論理的一元論というには、それなりの理由があるといえる。 
「エチカ」の方法論 / 演繹的説明原理
スピノザの主著「エチカ」を読むと、まずその独特の構成に驚かされる。全体は第一部の「神について」に始まり、5部に分かれているが、いずれの部も、定義に始まり、公理、定理、証明の連鎖からなっており、あたかもユークリッド幾何学の論文でも読んでいるような感じをさせられる。
これは現代の我々には奇異に写るが、スピノザ自身にとっては必然的な方法であった。なぜなら、世界とは神という実体そのものと同じものであり、その属性が我々の意識のもとに思考や延長として表れ、その特殊化したものが個別的な事物や観念としてわれわれの思考のなかにもたらされるのだから、この世界のうちには論証できないものはひとつもない。そしてその論証の方法として、演繹的な推論に増した方法はないのだ。
それにしても、この特殊な叙述形式は、我々現代人にとっては読みづらい。というのも、スピノザにとって必然的だったものを我々は必然的とは感じず、したがって基礎の危うい土台の上で展開される演繹的推論の連鎖に、まじめに付き合う気にならないからだ。
そのことを割り引いて読めば、内容そのものには無論、読むに耐えるものが多く含まれている。だから我々は、スピノザの演繹の必然性などは無視して、書かれていることをそれ自体として読み取ればよい。むしろ、定理や公理などより、注釈の部分にそのような卓見が多く見られるのである。
スピノザの演繹的推論の出発点をなすのは定義である。そこでスピノザは、扱おうとする対象について、それがどのような本質を有するかについて定義する。幾何学において、三角形とは三つの辺によって囲まれ、あるいは同じことだが三つの角を有する図形だと定義するようなものである。このように定義すれば、三つの角の和が180度になるとか、正三角形は同じ長さの辺からなるとか、もろもろの定理が論理必然的に導き出されてくる。
これと同じような手順を踏んで、スピノザは、実体としての神についての自分の考えを定義としてあらわし、それにもとづいて、世界についての自分なりの認識を、論理必然的に導き出している。そしてそれを読者にも信じさせようとしているのだ。
だがスピノザの同時代人は、この著作をスピノザの思うようには読んでくれなかったし、まして現代人の我々はそれ以上に、スピノザの推論を信じ込む気にはなれない。
それは何故か。
演繹的推論が意味を持つのは、定義の中に意味のある内容が含まれている場合だけだ。意味があるとは、我々は簡単に言う場合が多いが、実はなかなかむつかしい問題をはらんでいる。
たとえば法律が、人を殺せば死刑にすると書いてあるとすれば、これはそれなりに意味のある内容といえる。これを定義として前提にすれば、現実に殺人を犯したものには、三段論法の助けによらずとも、論理的に死刑にすべきとの結論がもたらされる。
ところが、神とは永遠にして完全なものであると定義するとして、それが現実に意味を持つのかどうか、我々にはそれを十全な明証性を伴って確信できるとは限らない。我々はそれをあやふやな定義、ないしは混迷した議論といわざるをえない場合もある。
三角形のような、幾何学な定義においては、図形の性質のうち誰もが反論し得ないような部分を選んでそれを定義に含めるから、そこから導かれる演繹的な推論は破綻することが少ない。
ところがUFOについて、それは地球以外の宇宙から来た生命体であると定義しても、それが実際に存在するかどうかは別の話だ。だからその定義に基づいて、UFOというものについて、その属性やら様態やらについてどのように演繹しても、我々は明晰かつ確実な表象をもつことができない。
誰もが納得できる事実とは、定義によって与えられるものではなく、経験によって確信されるものだということを、我々は知っている。石を現実に見たことがないものには、それをいかように定義しても、石についての正確な表象をもつことができない。
普通の辞書には、石とは岩の細かいものと説明し、岩とは石の大きなものと説明しているものが多いが、これはそもそも石や岩について読者が確固とした表象を持っていることを前提にしたものだ。そうでなければ単なる循環論法に過ぎない。
それと同じように、神をどのように定義したところで、我々が神についてすでに知っていることがなければ、我々は神についてそれ以上の表象をもつことはできまい。
それは論理によってではなく、パスカルが言うように、飛躍によって、あるいは啓示によって、我々のうちにもたらされるものだ。  
スピノザの神
デカルトの心身二元論によれば、人間は精神という実体と延長としての身体という実体とが何らかの形で結合したものであった。そして神は、これら二つの実体に根拠を与えるところの第三のしかも高次の実体とされた。だがスピノザにいわせれば、精神と身体とは実体とはいえない。なぜなら、デカルトも認めるように、実体とは唯一にして無二の、それ自身の中に自分の根拠を有する存在であって、厳密にそういえるのは神しかないからだ。
スピノザによれば、この世界でただひとつ自己充足的で確実な実体は神のみである。それ以外のすべてのものは、神に依存して存在している。我々人間の精神も、また身体も、そのほかのすべての事象も神に存在の根拠を有している。神は無限の属性をもっていて、その属性の一つ一つの表れが、この世界で我々が個物とかそれについての人間の認識とかいっているものなのだ。
デカルトは、人間の心の働きとそれが対象としている事物とを、まったく異なった実体として区別した上で、それら相互の関係について苦しい議論を展開していた。だがスピノザによれば、思考する実体と延長した実体とはそもそも同一の実体であって、それが時にはこの属性、時にはあの属性として現れるだけなのである。その同一の実体が神をさすことはいうまでもない。
スピノザは神を前にして、人間の存在者としての主体性を消去してしまったわけである。
スピノザは、人間の精神とは人間の身体の観念あるいは認識に異ならないといっている。どういうことかというと、スピノザはデカルトのように精神と身体とを峻別した上で、その両者の関係を考えるのではなく、人間の精神も身体も、神という実体の属性としての表れなのであり、もともとひとつの実体であったものがその属性を通じて、精神として現れたり、身体として知覚されるにすぎないと考えるのだ。
神という実体においては、精神と身体とは融合しており、それが人間という個別的な場において、精神としてまた身体として認識されるというわけである。
このように、神においてはすべての観念とすべての対象とが完全に一致している。この観念と対象の連鎖は無限に広がっており、それを観念の面から即して捉えると無限の知的空間とでもいうべきものが存在している。それが神の存在者としてのあり方である。
我々人間が何かを知覚しているというのは、この無限の知的空間の中で生じている局所的な知覚の一部なのだ。つまり人間を含めた個別的な存在者は、神の活動の局所的な現われなのであり、神は我々一人一人の動きの中に遍在している。
では、神に誤謬がありえないのに、なぜ人間は誤りやすいのか。この問いに対してスピノザは、全体としての神が客観的であのに対して、その局所的な現れである人間の精神は主観性を免れぬとからだという。主観性とは制約された状態をさす言葉である。制約されたことによって、主観性は情報不足や情報漏れを免れない。そこから誤謬といわれるものが生じるが、それはあくまでも主観の側から見た見方であって、神にとってはすべては必然であり、したがって真理である。
善や悪についても同じことが言える。我々はあることがらが自分自身から生じている限りそれを善とし、自分の外部からやってきて自分の意にならないことがらが起こったときにそれを悪という。しかし人間にとって外的な条件と思われるものは、人間が局所的な存在であることに起因している。全体としての世界には外部というものはないのであるから、したがって悪も起こる余地をもたない。神においてはすべては善なのである。
このようにスピノザの説は、人間を含めて宇宙のすべてのものは神のの属性の一部が現れたものだという考えに立っている。一種の汎神論といえるだろう。またスピノザは、全体としての神を重んじる余り人間の主体性を極度に軽視したとも受け取られる。とりわけスピノザは精神の自主性を尊重すること甚だ薄かった。そんなところから唯物論者ともいわれた。
だがスピノザの神への愛は、どんな宗教家よりも強かったのである。神は我々一人一人にとって外的な信仰の対象ではない。神は我々自身の中にそのままに現れているのであり、したがって我々自身に命を授けてくださっている。有機体の一部が全体あって初めて存在できるように、我々は神が存在の一部なのである。だから我々は神を愛すべき十分な理由がある。精神の最高善とは神についての知識であり、最高の徳とは神を知ることである。こうスピノザはいう。
こんなところから、スピノザを称して「神に酔える哲学者」というようになった。だがスピノザの神は、キリストの神を含めてこの地上で信じられているどんな神とも似ていなかった。彼の思想が長い間誰からも評価されなかった所以である。 
人間観
スピノザの人間観あるいは倫理思想のユニークな点は、人間の自由な意思を否定するところである。スピノザによれば、世界のあらゆる事柄は、それを全体としてみればひとつの必然性に貫かれている。どんな出来事も偶然におきることはなく、必然の糸によってつながれている。人間の起こす出来事もそうだ。たとえある人間が恣意にもつづいて行なったと思われるものも、その裏には必然性が貫徹している。
偶然と思われるものは、個物のおかれた制約によるのだ。個物は全体を知りえないから、必然の出来事も偶然起こったように感じるのである。だから個々の人間が、自分の行為を自由な意思に基づいて決定していると考えるのは、錯覚に過ぎない。
スピノザは次のように言う。
「自分は、自分の精神の自由な決意にしたがって、何かをしゃべったり、黙っていたり、その他等々のことをしていると信じているものは、目を開けながら夢を見ているにちがいないのである」(第三部定理2の備考 / 高桑純夫訳、以下同じ)
とはいえ、現実に生きている人間は、あることがらについて意思をもったり、衝動を感じたりするし、それに付随して自由やその反対の束縛を感ずることがある。だから自分の意思が自由であったり、制約されていると感じるのは夢を見ているのだといわれれば、多くの人は納得しないだろう。
このギャップを埋めるためには、スピノザが人間をどうとらえているかを、見なければならない。
スピノザは、個々の事物には自己の存在に固執するように努める性質があると見ていた。なにやら目的論を連想させもするが、要するに物質の慣性の法則をスピノザ流に言い換えたものと受け取ればよい。外的な事情が作用しない限り、物質はその存在をあるがままに維持し続けるという意味である。
このことを人間に即して表現すると、次のように言い換えられる。
「何人も、或る事物のために、自己の有を維持しようと努力しはしない。」(第四部定理25)
逆説的に表現されているが、要するに人間も物質と同じように、自己の存在に固執し、自分が持続する限りその存在を維持するように努めるといっているのである。
「その努力が、精神だけのものであるならば、私たちはそれを意思と呼ぶ。それに対して、もしそれが、精神にも身体にも関係あるものなら、衝動と呼ばれるのである。衝動は、それゆえ、人間の本質にほかならず、その本質の本性から、衝動を保持するに役立つものが、必然的に生じてくる。そして、それによって人間は、衝動の要求するところを行うように決定されているのである。」(第三部定理9の備考)
意思といい、衝動といい、人間が自己を肯定し、それを維持するために、必然的に組み込まれた作用だというわけである。だから我々の意思は、我々自身の想念の中では自由に見えても、実は存在を維持するために必然的になされる行為なのだ、こうスピノザはいいたいのだろう。
だがそれでも我々人間は、ひとつの決定をなすときに、たとえそれが必然に迫られてなすものであるとしても、そこに自由や束縛の観念を伴うことがある。だから自由な意思にも存在の余地があるのではないか。
この疑問に対してスピノザは、人間の様態に現れる能動と受動とに言及し、自由と束縛とをそれらに関連付けることによって、回答を与えようとしている。
「我々が、それの十全原因であるような何物かが、我々のなかもしくは外に生ずる場合、換言すれば我々の本性によってのみ明晰かつ判明に理解されうるような何物かが、我々の中もしくは外に我々の本性から生ずる場合、私はそれを呼んで、我々は行為する、という。それに対し、我々が、それの単なる部分原因に過ぎないような或る物が、我々の中もしくは外に我々の本性から生ずる場合、私はそれを、我々は何々される、と呼ぶ。」(第三部定義2)
能動とは外部の力の作用を受けず、人間が自分自身の力のみによってなす行為であり、受動とはその反対に、外部の力に作用されてなす行為であると言い換えられる。能動には精神の能動もあり、身体の能動もある。精神の能動は理性と呼ばれ、身体の能動はのびのびとした自然な運動をさす。反対に精神の受動はパッションと称されるような心の情動をさし、身体の受動は心の命令によってなされる運動をさす。
スピノザにあっては、究極的な能動的精神は理性そのものと考えられている。それはある意味で精神の自由な動きでもある。この自由な精神がなにものかを意思するとき、そこに自由意志とよばれるものが成立するように思われるが、それはスピノザにとっては、精神が外部のものによってではなく、自分自ら意思する限りにおいてそう見えるに過ぎない。その自由なるものは、世界全体の必然性の前では、仮象に過ぎないのである。
スピノザはこう考えつつも、精神の自由に一定の活躍の余地を与えた。精神は人間が世界の一部として、言い換えれば神の表れとして行為する次元においては、必然性に貫かれているが、個々の人間の観念の中にあっては、一定程度自由であったり、その反対に束縛されていたりする。
人間にとっての善や悪、愛や憎しみ、喜びや悲しみといったものは、世界の一部としての人間の次元ではなく、個別的な存在者としての人間、いいかえれば主観性の局面において意味を持ってくる。主観性の相においては、人間は自由にかなうものを善とし、そこに喜びを感じ、愛を抱く。逆に自分を束縛するものを悪とし、それに悲しみや怒りを感じ、憎しみを抱くようになる。
こうした感情は個人の内部におきるものとしては矮小なものにすぎない。だが愛が神に向けられ、そこに喜びと慰藉を感ずるとき、人間は単なる個別的な存在としてのあり方を超え、神と一体化することができるようになる。
このようにスピノザは、全体から出発して個別性へと下降しながらも、その個別性の中から再び全体としての神に向かう回路を設けている。 
永遠
スピノザの神はキリスト教が教えるような人格神ではなく、宇宙の存在そのものと不可分なもの、あらゆる事象の根拠となって、しかもその事象のうちに顕現しているものであった。この神は理念的には必然性をあらわし、存在性格としては永遠性という形をとる。だから我々が神について想念するとき、我々は永遠の相の下に世界を見ることになる。
ところで永遠とは何か。普通我々は、永遠を時間と関連付けて考える。一つには始めも終わりもない無限の時間といったものがある。それは過去、現在、未来からなる線的な時間の流れを前後に無限に引き延ばしたものといえる。反対にこうした時間の流れを超越した無時間的なものを永遠と考えることもあるが、これも時間に関連付けて永遠を定義していることに変わりはない。
しかしスピノザが考える永遠は、こうした時間の観念とはかかわりがない。そもそもスピノザは時間というものを非実在的なものと考えていた。したがって過去あるいは未来としての出来事にかかわることは、理性が関知すべき事柄ではないと考えていた。出来事は常に現在としての出来事であり、過去とか未来とか呼ばれるものは人間の表象の中にしか存在しない。
こうした考えからスピノザは、未来に対する希望とか恐怖とかいった感情を軽蔑する。それは必然性に対する我々の無知から起こることなのであり、我々は無知のゆえに未来を変えられると思ったり、逆に恐れたりするのだ。
生起するものはすべて、必然性に基づいて生起する。そこには偶然はなく、したがって人間が恣意的に介入できる余地はない。
この必然性は時間の流れに従って継起するのではなく、神の存在の中であらかじめ決定されているものだ。それは時間の流れとは無縁であり、時間を超越している。この超越した必然性のあり方を表す言葉が、スピノザのいう永遠なのである。
スピノザはいう。
「永遠性によって、私は、永遠な事物の定義だけから、必然的に出てくると考えられるかぎりの存在そのものを理解する。
「なぜといって、かかる存在は、事物の本質と同じく、永遠の真理と考えられるから、まさにそれゆえに、たとえば、持続に始めや終わりがないと考えても、持続または時間によって説明されえないものだからである。」(エチカ第一部定義八 / 高桑純夫訳)
事物の本質が時間を超越しているように、必然性も時間を超越している。そこには以前も以後もない。あるのは現在だけである。そしてこの現在のうちに顕現している必然を、スピノザは永遠というのである。
この考えはアウグスティヌスの時間論に似たところがある。アウグスティヌスはいわば入れ物としての時間の中で出来事が生起するのではなく、出来事の生起が人間によって時間として理解されるのだといった。だから厳密な意味で存在しているのは出来事が生起しているその現在だけなのであり、我々が過去と呼ぶのは過ぎ去った現在を、また未来と呼ぶのは想定上の現在を意味しているに過ぎない。
スピノザがアウグスティヌスと異なるところは、世界の存在を一瞬のうちに捉えようとするところにある。必然性は無時間的なものなのであるから、それには以前もなければ以後もなく、およそ時間的な契機といったものの入り込む隙がない。おそらく神は宇宙を、一瞥で捉えることができるに違いないのだ。 
政治思想
スピノザには政治を論じた著作が二つある。ひとつは「神学・政治論」であり、彼の生前に刊行された唯一の体系的著作である。二つ目は「政治論」であるが、これは「エチカ」執筆後に書かれ、死後遺作集のなかに収められた。同じく政治を論じており、思想的な内容には共通するものがあるが、構成や問題提起の面で、多少の相違がある。
スピノザが「神学・政治論」を執筆した時期は、オランダはスペインから独立して共和制の政治が行われ、ヨーロッパでもっとも自由な国であった。それでも政治的な抗争は存在し、カルヴァン派と結びついたオランイェ公の一派と、ヤン・デ・ウィットを中心とする州会派との間で、熾烈な勢力争いが続いていた。
ヤン・デ・ウィットはきわめて自由主義的な思想を持っていて、政治と宗教との分離、教会に対する国家の優位を主張していた。これに対してカルヴァン派は、イギリスにおける清教徒革命の影響もあって、政治と宗教との融合を目指し、カルヴィニズムに基づく政治のあり方を追求していた。
カルヴァン派は、デ・ウィットを無神論者だとして激しく批判し、その政権を転覆させようと執拗な攻撃をかけてきたが、これに対してデ・ウィットは自由主義的な思想家たちを動員して、カルヴィン派の主張を論駁しようとした。そのなかに、スピノザも含まれており、「神学・政治論」もそうした実践的意図に基づいて書かれたのである。
「神学・政治論」は聖書の批判的研究という体裁をとっている。スピノザの時代にあっては、カトリックはもとよりプロテスタントにとっても、聖書は絶対的な権威を持っており、世界を解釈するについての導きの糸であった。だから政治も聖書の教えるところにしたがって行われねばならない、これがカルヴァン派の主張であった。
これに対してスピノザは、聖書を歴史上の書物として捕らえなおした上で、そこに書かれている内容を、批判的に検討する。そして特に旧約聖書を対象に行った検討をもとに、スピノザは、聖書に書かれている内容と、自由主義的体制の国家とは両立するのだという結論を導き出す。
この書物のなかでスピノザは、神学者たちの偏見を指摘し、哲学と神学を分離する。そして教会に対する国家の優位を主張し、思想と言論の自由を確立しようとした。こうすることで偏狭なカルヴィニズムを反駁し、デ・ウィットの進める自由主義的な政治を擁護しようとしたのである。
「神学・政治論」が実践的な意図に基づくポレミカルな書物だったとすれば、「政治論」は政治についての体系的な考察である。
「政治論」で展開されたスピノザの政治思想は、主著「エチカ」と深い関連を持っている。それはエチカの中で論じられた人間の感情生活に関する部分の延長だということができる。また、そこにはホッブスの政治思想の反響も見られる。
スピノザはホッブス同様、自然状態における人間から出発する。自然な状態においては正義も犯罪もない。なぜならそれらは規範としての法律の存在を前提にしているからだ。自然状態の人間が社会的な結びつきを達成するためには、国家というものを作らなければならない。この国家にはさまざまなあり方が考えられる。スピノザが理想とするのは個人の自由を最大限尊重するような国家である。この点で彼は、徹底した共和主義者だった。
スピノザは一方で、国家と個人との関係にも思いを致した。国家に代表される政治的な生活は、人間の外面的な結びつきに関することである。これに対して、人間の内面を追及するのは哲学の役割である。両者は峻別されなければならない。
スピノザは個人の自由の確保こそ政治の最大の使命であるとした。自由を確保された個人が、自分の内面生活のなかで、哲学を追求できるような体制、それこそが政治の究極のあり方だと、そう考えていたのである。 
 
スピノザ『神学政治論』の歴史的背景

 

はじめに
スピノザ(Baruch de Spinoza, 1632-77)が『神学政治論』Tractatus Theologico-Politicus を書き始めたのは1665 年であった。デン・ハーフ近郊のフォールブルフで暮していた時期である。すでに『エティカ』Ethicaを執筆しているさなかであったが、スピノザはあえてそれを中断した。同年9月( または10 月)のオルデンブルク(Heinrich Oldenburg)宛書簡で、スピノザは『神学政治論』執筆の動機を次のように語っている。
「私は目下聖書に関する私の解釈について一つの論文を草しています。私にこれを草させるに至った動機は、第一には、神学者たちの諸偏見です。この偏見は私の見るところによれば、人々の心を哲学へ向わせるのに最大の障害となっています。ですから私はそれらの偏見を摘発して、それをより賢明な人々の精神から取り除くように努力しているのです。第二には、民衆が私について抱いている意見です。民衆は私に絶えず無神論者という非難を浴びせているのです。私はこの意見をも出来るだけ排撃せねばなりません。第三には、哲学するこ
との自由並びに思考することを言う自由です。この自由を私はあらゆる手段で擁護したいと思います。当地では説教僧たちの過度の勢力と厚かましさのために、この自由がいろいろな風に抑圧されているのです。」(1)神学者たちの「偏見」、民衆から浴びせられる「無神論者」という非難、「哲学することの自由並びに思考することを言う自由」の「抑圧」。スピノザはなぜこのような言葉を書き留めなければならなかったのか。『神学政治論』はどのような歴史的文脈のなかで書かれ、出版されたのか。本稿はその点を考察する。
『神学政治論』は1670 年、著者名を伏せて、かつ発行者と発行所を偽って世に出た。だが、著者は直ちに「フォールブルフの無神論者のユダヤ人」と見なされた(2) 。1670 年6月30 日、アムステルダムのカルヴァン派長老法院は臨時の会議を開き、同書を「卑猥で? 神の」書とした。1672 年のあるパンフレットは、『神学政治論』を「異端のユダヤ人と悪魔が地獄で作り出した」書として扱っている。同書は非難の的となり、非難は容易に消え去ることはなかった。やがて1674 年、ホラント州の裁判所は発禁処分と押収という措置を講じる(3) 。
スピノザはライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)に『神学政治論』を一部送ったのだが、当初はスピノザの著作に熱狂していたことを認めながらも、ライプニッツは「恐るべき書」と決めつけ、後にはスピノザについて否定的判断を下すに至った(4) 。また、『歴史批評辞典』Dictionnaire historique et critique ( 1695-1697)の著者ピエール・ベール( Pierre Bayle ) は、「スピノザ」の項で「有害で唾棄すべき本」と表現した(5)。かくして『神学政治論』は1世紀にわたり、告発と反駁の跡を長くとどめることとなったのである。
スピノザはこれらの激しい反応に不意をつかれたのであろうか。おそらくそうではあるまい。『神学政治論』の「緒言」から第20 章に至る叙述には、著者が現実社会の中で感じとっていたであろう極度の緊張がにじみ出ている。歴史的情勢の刻印は『神学政治論』のいたるところに見出されるのである(6) 。
それでは、スピノザが生きていた時代のオランダの歴史的情勢はどのようなものであったか。まず、スペインからの独立の過程とそこに潜んでいた問題を明かにしておきたい。 
1 オランダの独立・繁栄と二大勢力間の対立

 

『神学政治論』が書かれた時期は、ヨーロッパ全体が反乱、革命、戦争、疫病など、危機的状況に置かれていた。とりわけオランダにとってはそうであった。オランダは、折から姿を整えつつあったヨーロッパのバランス・オブ・パワーに対して極めて重要な意味をもっており、同国の統治者たちは、このシステムに対する主導権を発揮する日が到来することを願ってさえいた。この時代を歴史家たちは後に「オランダの黄金時代」と呼ぶようになる(7) 。
オランダは15 世紀後半から16 世紀にかけてとくに漁業、海運業、毛織物業などの分野で目覚しい発展を遂げた。しかし、1555 年、スペイン王位を継承したフェリペ2世はオランダに対する支配を強化するため、大勢の軍隊と官吏を派遣する。それに加えて、狂信的なカトリック信者であった王は、オランダのカルヴィニズムを撲滅すべく、宗教裁判を復活して苛酷な弾圧を行なった。これに対抗してオランダは、1572 年、オランイェ公ヴィレムを指導者として反スペイン戦争に立ち上がったのである(8) 。
1579 年、北部7州(ホラント、ゼーラント、フリースラント、ユトレヒト、ヘルデルラント、フローニンゲン、オーフェルアイセルの7州)はユトレヒト同盟を結び、81 年には、デン・ハーフで開催された連邦議会がフェリペ2世の廃位を宣言し、もはや外国の君主には主権を渡さぬことを決議した。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の誕生である。その初代総督に選ばれたのがオランイェ公ヴィレムであった。やがてヴィレムがスペインにそそのかされたカトリック教徒に暗殺されると、息子マウリッツが遺志を継ぐ。当時スペインと対立していた英国が独立運動を援助したという事情もあって、オランダはスペインに対してしだいに優勢となり、1609 年の休戦条約によって事実上の独立を達成した。その後、1648 年のウェストファリア条約により、対スペイン戦争に終止符が打たれるとともに、オランダはスペインの支配から完全に独立を果たす。その間、オランダは世界第一の繁栄を誇る貿易国となり、アムステルダムは世界貿易の中心となった(9) 。
1585 年、アントウェルペン(アントワープ)がカトリック教徒のスペイン人たちの手に落ちると、多数のプロテスタントの商人たちは、鰊漁とバルト海貿易の拠点をなしていた港町アムステルダムに向うようになった。
小さな町であったアムステルダムも、この商人たちの流入により活動範囲を拡大し、半世紀の間にオランダで最も新興の機運に満ちた町となった。貿易の近代化を図るべく、1602 年には東インド会社が、1609 年には割引銀行が設立された。大きな利潤を約束してくれるこの町には、多くの外国人が移り住み、1600 年には50000人であった人口が1620 年には105000 人にまで増加する。都市圏の拡張が進み、新参者たちは実業で活気づく新しい地区に定住した。やって来たのはフランス人、ドイツ人、ポルトガル人、スペイン人だけではない。
とりわけスペイン、ポルトガルの異端審問の勅令によって追放されたユダヤ人が、1602 年以降、ユダヤ人共同体を形成した(10)。因みに、スピノザの父祖もこのようにして移住してきたユダヤ人である。
1609 年の休戦条約は12 年間の休戦を取り決めたものであり、オランダの経済にとっては恵みであった。というのも、これによりポルトガル、スペインへの直結の貿易ルートが開かれ、西半球のスペイン、ポルトガルの植民地やヨーロッパ沿岸から北アフリカ、イタリアへの通商貿易が促進されたからである。アムステルダムにとっては最も急速で活発な発展を遂げた時期であり、「オランダの黄金時代」に起動力を与えたほどの急発展であった(11) 。
対スペイン戦争でのオランダの勝利は、権力と富の勝利のように見えるだけでなく、それらに自由と寛容が結びつくことによってもたらされた勝利の観があった(12) 。スピノザは『神学政治論』第20 章で、「人間に判断する自由をより少く許容すればするだけ自然状態から一層多く遠ざかる」ことになり、したがって「一層多く圧制的な支配になる」と述べた後、手近にある例の一つとしてアムステルダム市を挙げている。「この都市はその見事な繁栄とあらゆる民族の驚嘆との中にこの自由の果実を享受している。この栄ゆる国家、この卓越した都市においてはあらゆる種類の民族・あらゆる種類の宗派に属する人間が皆極めて和合的に生活しており、又彼らが人に信用貸をするに当ってはその人間が富者か貧者か、又その人間の平素の行動が信義的か欺瞞的かを知れば足るのである。宗教のことや宗派のことは彼らは少しも顧慮していない。宗教や宗派の如何は裁判官のもとで訴訟の勝ち負けを決めるに当り何ら影響するところがないからである。どんなに憎まれている宗派でも、その信奉者たちは、何びとをも損わず各人に対して各人の持分を認め且つ端正に暮しさえするなら、政府の公的権威と助力とによって護られるのである。」(13) 同書の「緒言」にも、「我々は、判断の自由と神を自らの意向に従って礼拝する自由とが何人にも完全に許されている国家に、――自由が何ものにもまして高貴であり、甘美であると思われている国家に生を享くるという稀なる幸福に恵まれている」(14) という叙述が見出される。当時のオランダは、外国人の眼にも自由の国と映っていた。オルデンブルクは1663 年7月31 日付のスピノザ宛書簡で、「わけても貴国は、人々がその欲することを考えその考えることを言うことの出来る極めて自由な国ではございませんか。」(15) と書いているほどである。しかしながら、このことはオランダ国内に何ら問題がなかったことを意味するわけではない。宗教に携わる多くの人々が、「厚かましさと専横さを以って」国家主権の権利の大部分を自己の手に奪取しようと努め、まだ「異教徒的迷信」に囚われている「大衆の心」を、「宗教の口実の下に、国家の最高権力から離れさせようと努力している」という状況があった(16) 。オランダの独立と繁栄は、実はその裏側に極めて深刻な問題を抱えていたのである。
1566 年に「乞食党(Geuzen)」がスペインに反旗を翻して以来、オランダはほぼ常に戦争状態にあった。市場と植民地の独占の確立を基礎に商業が拡大し、そうした発展のダイナミックスが恒常的な戦争状態を招来したのである。海軍は強力であったにも拘らず、連邦は数度にわたり侵略を受けた。各州はかなりの自律性を獲得していたが、侵略を受けるたびに、真の国民国家の確立が議題に上った。連邦全体として見れば、外交においても内政においても、支配階層内部で対抗関係にある二大勢力に支持された政策間の争いがあった(17) 。二大勢力とは、オランイェ家と「レヘント(regent)」(執政)である。オランダの歴史はこの二大勢力の対立・抗争の歴史であり、「それに拍車をかけたのがカルヴィニズムの介在」であった(18)。
かつての伯爵の家系であるオランイェ・ナッサウ家は、代々、軍隊および「州総督(staathouder)」という行政上の機能を支配していた。「州総督」という地位は、ネーデルラントがブルゴーニュ公の領地の一部であった時代の名残りである。ブルゴーニュ公は常に北部の臣民を監視するための統治者を任命した。ハプスブルク家が領地を継承すると、スペイン王は、貴族の一人を指名して主権者の代理人として振舞わせるのが通例であった。すでに述べたように、ネーデルラントの住民は1581 年に主権者の廃位を宣言したが、その時点で「主権者の代理人としての総督の制度」(19) を廃止したのではなく、この制度を温存し、皮肉にもスペインに対してそれを利用したのである。最もよく知られている州総督がヴィレム1世であり、彼は1570 年代と80 年代に、スペインに対する反乱において指導的役割を果たした。対スペイン戦争が開始されて以降、17 世紀を通じて、一般にオランイェ家出身の誰かが同時に多くの州で総督の地位に就き、二人が7州の州総督を独占したこともあったとはいえ、州総督は各州議会が個別に任命する官吏であって、共和国全体の統治権はもたなかった。しかしながら、1650 年から72 年までの州総督なき期間を除けば、優勢な州総督が常にいた。ホラント州の総督もその一人である。それは、実際には君主制にも似た国家的な職として機能し、とりわけオランダ統一のシンボルの機能を果たした。州総督は職務上、ホラント州裁判所の長官であり、州の公共の秩序と正義を維持すべき立場にあった。真の宗教たる改革派教会を擁護する責任をも負っていたのであり、さらには共和国の陸海軍の司令官であった(20) 。
このように軍隊および州総督という行政上の機能を支配するオランイェ家と並んで存在した「レヘント」とは、どのような集団であったか。レヘントは、基本的に、都市の最も富裕な幾つかの家系の出身者であり、都市の寡頭制的階層を構成していた。知的職業人、商工業者などがそれであったが、必ずしも最も富裕な家系の出身であったわけではない。富はこの階層の一員となるには確かに必要な条件であったが、財力だけでは十分ではなかった。この派に属することのできなかった富裕な一族も多い。それは社会的地位、政治的なつながりに関わる問題でもあり、また歴史的偶然も作用した。レヘントは、截然と区別された階層ではなく、「上層ブルジョアジーの政治的特権階層」であった。彼らは貴族ではなく、単に政治的権力を独占する、財政的に成功を収めた一族であった。その構成員が、ある時期、現に町の参与の地位に就いているか、あるいは、過去においてその地位にあり、将来もその地位にとどまることが確実視されている場合もあった。政治的激変期にはレヘントの階層の構成に著しい変化はあったけれども、通常は閉鎖的なシステムであった(21) 。
彼らレヘントは都市の管理と財政の運営を担当した。州レヴェルでは、これらの任務は「州会議長」として知られる官吏に委ねられていたが、連邦全体の財政は「法律顧問」(raadpensionaris)に委託されていた。法律顧問も総督と同様、本来、州の官吏であり、「議員を補佐し、法令を起草し、議会の運営を円滑にする助言者」であった。ところが「任期が長かったため、政府の重要な決定に加わることになり、やがて政府の指導者となり、州議会議長の役割を果たすことになった」(22) 。なかでも早くから都市化が進んでいたホラント州が他の6州に比べて圧倒的に強い勢力をもっていたため、同州の法律顧問は共和国全体の政治を動かすことができた。そういう法律顧問として代表的な人物がオルデンバルネフェルト(Jan van Olden-Barneveld)とヤン・ドゥ・ヴィット(Jan de Witt)である。彼ら法律顧問の主な支持層がレヘントであった。
さて、レヘントとオランイェ家との間で繰り返される衝突は、17 世紀に出来した三つの大きな危機によって特徴づけられる。1619 年、法律顧問オルデンバルネフェルトは反逆罪とアルミニウス派牧師たちとの共謀の罪で告発され、州総督マウリッツ・ドゥ・ナッサウの煽動で死刑を宣告された。オランイェ家は国家を支配しようとする野心を抱いていたのである。しかし、それと同時に、東西インド会社やアムステルダム銀行などの新興市民階層の企業が影響力を急速に増していた。1650 年から54 年にかけて、ちょうど連邦が決定的な独立を勝ち取った後、新たな危機が生じ、勢力の均衡が覆される。オランイェ家が初めて国家を君主制へと押し動かそうとしたが、その企ては失敗し、レヘント派の指導者ヤン・ドゥ・ヴィットがホラント州の法律顧問になり、次のことを定めた。第一に、オランイェ家は軍事上の職務から永久に排除されるべきこと、第二に、州総督という職は廃止されるべきこと、である。しかし、1660 年以降、オランイェ派は若きヴィレム3世のもとでレヘントの勢力を徐々に弱体化させようとした。その動きは、1672 年、フランス軍の侵入と同時に起こった大衆の暴動で頂点に達する。ヤン・ドゥ・ヴィットの軍備縮小政策が外国の侵入を許し、共和国を危機に陥れたとの理由で大衆の激しい怒りを買い、彼は兄のコルネリス・ドゥ・ヴィット(Cornelis de Witt)と共に、オランイェ派に煽動された暴徒によって虐殺された。ヴィット兄弟の死後、州総督のポストが復活し、以前にもまして強い権力をもつようになる。結局、「州総督なき共和国」が存続したのはわずか20 年であった(23) 。
スピノザはオランダの国家形態の実相を看破して、未完の著作『国家論』(Tractatus Politicus) 第9章14節で次のように言う。「オランダ人たちは自由を確保するためには、伯爵〔スペイン王フェリペ2世―― 引用者注〕を退かせ国家の身体から頭を切りとるだけで十分であるとし、新しく国家をつくり変えることは考えなかったのである。むしろ彼らは国家の一切の肢体を、それが前に組織されていたままに放置したので、オランダの伯爵領は、あたかも頭を欠く身体のごとくに伯爵を欠き、統治様式そのものが何とも名づけようのないものとなっていたのである。だから臣民の多くが、誰のもとに統治の最高権力があるのかを知らなかったのも怪しむに足りない。またたとえそれほどではなかったとしても、実際に統治権を握っていた人々〔ヤン・ドゥ・ヴィットを指導者とする議会派――引用者注〕の数があまりに少なくて、民衆を治めることも強力な反対者たち〔オランイェ派――引用者注〕を威圧することもできない事情にあった。この結果反対者たちはしばしばはばかりもなく彼らに罠をかけ、ついには彼らを倒しえたのである。ゆえにこの共和国の突然の倒壊〔1672 年の暴動――引用者注〕は、時をもろもろの協議に空しく費やしたことに由来したのではなく、かえって同国家の不備な組織と為政者の数の僅少とに由来したのである。」(24)独立後のオランダは、まさしく「頭を欠く身体」であり、数度にわたる危機はその国家組織の「不備」を露呈したものであったと言えよう。この政治上の問題には、カルヴィニズムと反カルヴィニズムとの宗教的対立が深く関わっている。オルデンバルネフェルトやヤン・ドゥ・ヴィットの横死も、政治的な利害対立と宗教的対立が複雑に絡んだ事態であった。 
2 オランダ・カルヴィニズムの分裂

 

カルヴィニズムの最大の特色は「救霊予定説」である。神は己が栄光を顕わさんとして、世界の礎の据えられぬ前に、自らの決意によってある人々を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定し給うた。「神への服従こそ真の自由」(Servire Deo, vera libertas )であり、あらゆる存在はただ神の栄光という究極目的の実現のためにのみあると説く。このように神の絶対性を強調する教説は、人間の自由意志の容喙をゆるさぬものではあったが、神の絶対的支配を確信することこそが、当時の民衆にとっては自己の生活の精神的原動力となった。
E・カッシーラーは、「封建制度という国家的・社会的な秩序、階層制という教会的な秩序が個人を包み込み、彼に対して一回限りの決定的な位置を指定する」中世的なシステムとの対比で、宗教改革の根本理念を次のように叙述している。「ルターは中世的な信仰論の全体系、確然と規定され、客観的に伝達し得る救済利福による宗教的媒介の体系を廃棄することによって、個人を新しい巨大な課題の前に立たしめたのである。こうして今や個人そのものの中で、物という形で固定され得る助けが何も無くても、無限者との繋がりが達成されることになる。(中略)世俗とその秩序に対して、また国家的・社会的生活に対して個人がもつ関係は、彼が宗教的確信という原理の中から自分自身に与えるものだけである。もとよりこういう確信を与えるものは、自己決定という根源的で自律的な行為でなくて、超越的な恩寵の作用である。しかしそれがいったん得られたからには、まさにこの点から、精神的な存在の内容と組織全体を独立のものとして建立することが大切なのである。絶対者との関係においては、意志は自分が拘束されていると感ずるが、まさにそのことによって、それはあらゆる経験的な現実に対する自由、外物と外的権威の強制に対する自由を闘いとるのである。神によって制約されることは、有限な事物とこれから現われる不安定な衝動とに対する無制約性であることが明らかになる。」(25) このカッシーラーの的確な分析をふまえて言えば、出立点におけるプロテスタンティズムの特質は、絶対者による制約が、世俗的現実に立ち向かう個人意志の無制約性へと転換される、その動的転換の地平の創出にあった。
カルヴィニズムは、こうした宗教改革の根本理念を継承しつつ、神の超越性・絶対性を一段と徹底する方向で形成された教説である。
カルヴィニズムは、ひたすら「神の栄光」の実現のために奉仕すべく選ばれた神の道具として、自分が召されている職業労働に精励することを教えた。かくして職業労働は人間が自分の救いへの予定を確証する場面となる。カルヴィニズムが商業国オランダで広く受け入れられたのは、それが民衆の社会的向上の倫理的エネルギーたりえたからである。こうした教義を精神的支柱として、オランダ国民はカトリックの国スペインの圧制に抗して粘り強く戦うこともできたのである。
オランダでは、カルヴァン主義的な改革により、ローマ崇拝の拒否は反スペインの愛国的感情と結びつき、カルヴィニズムはいつしか国教と見なされるようになる。カルヴィニズムは国の公認宗教となったが、唯一の宗教というわけではなかった。カトリックは少数派ではあったが、かなりの数の人々が団体を組織する権利を主張した。類似の保護は、アムステルダムで繁栄の時代を迎えていた、主としてスペイン・ポルトガル系のユダヤ人共同体にも認められた。しかし、この時代を通じて、社会的紛争の性質と政治的党派のアイデンティティーを過剰に決定づける役割を果たしたのは、オランダ・カルヴィニズムの二分派への分裂であった(26) 。
第一の分派は、レモンストラント派である。その名称は、アルミニウス主義の支持者たちが1610 年の国会に「抗議文」(Remonstrantia)を提出し、政治的・宗教的立場の輪郭を明らかにしたことに由来する。オランダの神学者アルミニウス(Jacobus Arminius )は、ライデン大学で神学を学んだ後、スイスのジュネーヴとバーゼルでも学問を続け、1588 年、アムステルダムの改革派教会の牧師になった。やがてカルヴァン派に共通の信仰である予定説に疑問をいだくようになり、彼の信仰は正統的でないとの疑いが濃厚になったが、ライデン大学は彼を教授として迎えた(1603 年)。正統カルヴァン派の有力な指導者ゴマルス(Franciscus Gomarus)は、最初は彼の就職を承認したが、予定説をめぐって両者の間で論争が起こり、その論争はまたたくまに尖鋭化した。アルミニウスは、「神の恵みは万人に及ぶばかりでなく、人間はその恵みに積極的に協力する自由意志をもっている」と説き、また、「国家と教会の関係についても、両者を切り離し国家を教会の上におく考えをもっていた」。これに対してゴマルスは、「神の恵みは神の意志によって選ばれた者だけに与えられ、人間には自由意志はないという正統派カルヴィニズムの立場を堅持して譲らなかった」(27) 。アルミニウスは論争中に世を去ったが、彼の死後、その教説を支持する牧師40 名が抗議文を提出し、国家にアルミニウス主義の認許を求めた。ゴマルスは「反抗議文」を提出してこれに反駁し、全国聖職者会議を開催してこの論争に決着をつけることを要求したのである。
論争が激烈を極めるなか、ホラント州会議長オルデンバルネフェルトは、「もし全国の聖職者会議が召集されて、その決定によって抗議派が敗れるならば、カルヴィニズムが名実共に国教の地位を占めることは確実となるので、極力これに反対した」(28) 。教義上の対立に端を発した両派の争いは政治的抗争にまで発展し、「数年に亘ってオランダ共和国を根底からゆさぶり、内乱の危険すら生じてきた」(29) 。こうした動きに対して、オランイェ公マウリッツ(Jan Mauritz)は1618 年、ついに非常手段を講じ、「バルネフェルト以下四人の指導者を逮捕し――グロティウスもその一人であった――、バルネフェルトを死刑に、他の二人を終身刑に処した」(30) 。この問題を解決するため、1618 年から19 年にかけてドルト会議が開かれ、アルミニウス主義は排斥され、レモンストラント派の牧師の多くが国外に追放されたのである。
政治権力が神学上の問題に介入すれば、党派の怒りを刺激し、信仰心を憤激へとかえてしまう。そういう悲劇的な実例をオランダの歴史は示していた。レモンストラント派と反レモンストラント派との争いがそれである。スピノザは『神学政治論』でこのことに言及している。「レモンストラント派と反レモンストラント派の宗教論争に対して政治家たち及び州会が干渉し出すや、論争はついに分派となり終った。そして当時の数々の出来事からして、論争を裁こうとして宗教に関して設ける法律は人々を矯正するよりは挑発すること、又他の人々はそうした法律を利用して目にあまる勝手な行いをあえてすること、尚又分派は真理への熱意(それはむしろ友愛と寛厚の源泉である)からよりも支配への熱望から生ずることが明かになる。」(31) この争いは、自由な思想の持主であった当代屈指の政治家、オルデンバルネフェルト( レモンストラント派)を死に至らしめ、ホラント州を奈落の淵へと追いやった。「敢えて言う、人々が何らかの犯罪或は悪行の故にではなく単に自由な精神の持主であるという理由で敵と見なされて処刑され、又悪人たちの恐怖の対象たる断頭台が忍耐と勇気の見事な例と主権者の著しい恥辱とを示す美しい劇場となることほど有害なことがあろうか。」(32) という『神学政治論』の一節は、この政治家の死にまつわる問題を仄めかしている。スピノザはアムステルダムのポルトガル系ユダヤ人の共同体の一員として、特に州当局のひどいやり方を経験してきたわけではなかった。スピノザは同市を、「あらゆる種類の民族・あらゆる宗派に属する人間が皆極めて和合的に生活」している都市とさえ見ていたのである。しかし、1660 年代後半、アムステルダムは依然として寛容な都市であったのだろうか。スピノザが『神学政治論』を書いているとき、深刻な経済的停滞と共和国の政治的孤立のゆえに、状況は悪化し、不寛容もその度を増したのである(33) 。
ところで、レヘント派のエリートたちは伝統により、また信念により、アルミニウス主義に近づいた。オランダを近代科学の中心にしつつあった数学者、医者、発明家はこの階層の出身であった。ドゥ・ヴィット自身やホイヘンス(Christian Huygens )などがそうである。これら科学者たちは、しばしば熱烈なデカルト主義への改宗者であり、自由意志の神学は自由な知的探究の要求、「明晰かつ判明な観念」の形而上学、合理的な神の概念と両立すると考えた。彼らの中には、さらに進んで、一種の宗教的懐疑主義の傾向さえ示し、古代の自然主義を、英国の同時代人ホッブズ(Thomas Hobbes)によって広まっていた科学的政治学と結合させる者もいた。彼らの没頭ぶりの中心にあったのは、「自然権」の概念である。この概念は道徳性と法の、そして通商と所有の普遍的な根拠であった。彼らが厳密には何を考えていたにしても、レヘント派はレモンストラント派と二つの点で一致していた。すなわち、世俗社会と宗教界の平和の条件、したがって国家的統一の条件としての寛容、そして、教会のヒエラルキーに対する市民の権威の優越性の二点である。後者の原理は、民衆の運動が国家に対立するのを防ぐ意図をもそなえていた。それは、グロティウス(Huig de Groot)の『宗教的事柄における主権者の権力について』De imperio summarum potestarum circa sacra (1647)をはじめとする一連の理論的著作の主題を提供することになった(34) 。
これらすべての点で、レモンストラント派は、同国人の多数派でありゴマルス派として知られる一派と執拗に反目していた。正統カルヴァン派をもって任じるゴマルス派の主張によれば、すべてのキリスト者は二重の意味で忠誠を尽す義務がある。現世の事柄においては為政者ないし君主に、霊的な事柄においては教会に、ということである。教会は国家から全く独立しており、聖職者を選び、信徒を集め、宗教を説き教える絶対的な権利をもつ。しかし、もし市民が二重の忠誠を尽す義務があるとすれば、法そのものはあらゆる権威の一なる源泉、すなわち神自身から発するのである。このことは教会と国家との関係がなぜ対称的でないかを説明している。というのも、現世の支配者が自らの臣民に服従を課する絶対的権利をもつのは、彼が真にキリスト教的君主であり、真の信仰が国民全体に流布するように保証することに熱心な場合だけだからである。実際、牧師たちは、地方自治体や国家の当局は神の民である彼らの教会員を待ち伏せする異端者を監視すべきだと主張した。かくして、「別の文脈であれば絶対主義に対する抵抗の砦たりえた宗派が、オランダでは抑圧的な機能を果たすことになった」のである(35) 。
しかしそれでも、ゴマルス派の運動は依然として、一般民衆の願望の表現に焦点を提供した。地方の貧民と都会の賃金労働者はいずれも大半がカルヴァン派であった。下層ブルジョアジーもまたそうであり、反レモンストラント派は彼らの中から牧師を補充した。これら説教者たちはレヘント派の神学的放縦を非難しただけでなく、彼らの贅沢な生き方や公務に対する抑圧をも非難した。そうして彼らの説教は民主的要素さえも含むようになったのである(36) 。
しかし、正統派の敵はアルミニウス派だけではなかった。正統派の眼前にあったのは、他の多くの「異端者」、「第二の宗教改革」に期待を寄せる人々であった。これらの諸々の動きは、大雑把に括れば、「教会なきキリスト者」と呼ぶことができる。この単純なフレーズの背後には、多数の異なったグループが潜んでおり、多くの信仰箇条については互いに不一致であった。彼らを結び付けていたのは、信仰の内面化、したがってまた信仰の個性化の主張であった。彼らの大部分は、アルミニウス主義者の自由意志に対する信念と予定説の拒否を共有していた。神秘的傾向をもつ者もいれば、反対に「自然宗教」の形態に近い者もいた。ソッツィーニ派(ポーランドに暮すイタリア人改革者ファウストゥス・ソツィヌスの信奉者たち。彼の名は、当代ヨーロッパで正統派の神学者たちに恐怖の念を注ぎ込むのに十分であった)は、三位一体説と原罪の教義を、教会が神的存在の一性に押し付けた迷信だと考えていた。この観点に立てば、キリストはもはや神的人格ではなく、精神的徳と内的完全性のアレゴリーであり、人類の救い主としてのキリストの役割はその意義を剥奪された。偉大な信仰の神秘が殺ぎ落とされたこの種の新しい神学は、デカルト的なインスピレーションを吹き込まれた合理主義的哲学と容易に結合しえた(37) 。
このような「教会なきキリスト者」のコミュニティー、例えばメンノー派やコレギアント派は、教会的なヒエラルキーをもたぬ、信者の自由な集合体として組織された。これは「民主主義のもう一つの形態」であり、カルヴァン主義に対抗して発展しただけでなく、幾つかの社会集団に影響を与えることにもなった。再洗礼派、とりわけコレギアント派は、同じ組織モデルが市民社会に適用されるべきだと主張し、国家がその臣民に「汝殺すなかれ」という戒律を破るよう命じる権利をもつことを否定して、「労働と隣人愛に基づく共産制、平等主義的な社会」(38) を待ち望んだ。
1619 年、ドルト教会会議はアルミニウス主義のテーゼを非難し、信者の世話をするためにそのテーゼを告白した牧師を締め出したが、アルミニウス派は国の知的生活において指導的役割を演じ続け、他の宗派の学者や神学者と論争した。正統派の牧師たちは、教会会議の指令の執行が市当局に委ねられるにつれて、いっそう警戒を怠らぬようになったが、多くの町で事実上の寛容が優勢であった。1650 年までには、アルミニウス主義はオランダという国の生活においてそれ自身の居場所を作り上げていた。アムステルダムで優勢な出版の自由は、当時、他のどこにも類を見ないものであり、自由な思考と寛容の雰囲気を促進するのに貢献した。再洗礼派、英国からのクエーカー教徒、至福千年を信奉する人々はこの自由を大いに享受した。そして彼らの生き生きとした活動は、神学者を苛立たせ、しかも政治的権威を動揺させたのである(39) 。
いち早く1610 年には、オランイェ家の諸侯は宗教的確信よりはむしろ打算から自分たちをカルヴァン教会の庇護者であると宣言していた。それ以来、彼らは継続的に教会の影響を利用してレヘントの側に圧力をかけた。その間、とりわけゴマルス派はそれ自身の教義上の目的を成就することに専念していたけれども、それにも拘らず「州総督なき共和国」に対して君主制的傾向を支持することを選び取っていた。どちらの側でも、この同盟関係は真の思想的共同体よりはむしろ戦術上の決定に相当するものであった。しかし、一般の人々の大多数が厳格なカルヴァン主義に傾き、少なくとも危機の時にはたいていレヘントよりはむしろ君主に信頼をおくにつれて、同盟はなおさら必要であった。人々はレヘントが国家の利害よりも自分たち自身の個人的利害を優先しているのではないかと疑っていたのである。結果はいささか入り組んだ忠誠の配置になった(40) 。 
結び

 

このように複雑で流動的な情勢の中で、スピノザ個人およびその思想はどのように位置づけられうるのであろうか。
スピノザはアムステルダムのポルトガル系ユダヤ人の共同体で生を享けた。この共同体は、オランダの指導的階層の権力基盤を構成する商業的植民的活動と緊密に結びついており、彼の父はその有力者の一人であった。
スピノザは1656 年にユダヤ教から「破門」されてのち、開明的な小市民の階層、とりわけコレギアント派やデカルト派のグループに迎え入れられ、死に至るまで、彼らの中に友人や弟子を見出すことになる。スピノザの哲学を、単純な無神論としてではないにせよ、超デカルト的な合理主義として解釈し、その影響の下で急進的な立場をとる者たちもいた(41) 。
とくにアドリアーン・クールバッハ(Adriaan Koerbagh)という人物は、ユトレヒトとライデンで医学・法律学を学び、やがてスピノザの思想に傾倒して、1665 年以降、スピノザの理論体系の要点を公言し始めた。
1668 年にはそれを平易なオランダ語で書いて出版し、スピノザの秘教的で難解な思想を『神学政治論』以上に公然と語った。スピノザの名は著書のどこにも見られなかったけれども、その思想は随所で苦心して仕上げられていた。しかしながら、当の著者はスピノザほど用心深くはなかった。説教者や神学者を激しく攻撃したため不敬虔の罪で逮捕されたとき、彼はスピノザとの関わりも告白してしまう。自由の町アムステルダムではあったが、当局は改革派の圧力のもとで有罪判決を下す。彼は獄中生活を余儀なくされ、1669 年に獄死した(42) 。
スピノザが『神学政治論』を匿名で出版せざるをえなかったのも、おそらくこのクールバッハの獄死が心に深く刻み込まれていたからであろう(43) 。
こうしたコレギアント派やデカルト派の中にスピノザの思想の理解者がいたことは確かだが、同時に、それとは別の関係――まずはじめに学問的活動から生まれたものである――が、レヘント派に直に関わる活動範囲にスピノザを招き入れることになった。レヘント派の指導者となるヤン・ドゥ・ヴィットは、ライデン大学で数学を学び、円錐曲線論や確率論の領域で優れた業績を残しており、スピノザも早くから注目していた。すでに22 歳で「オランダの驚異(het wonder van Holland)」と言われたほどの人物である。そのドゥ・ヴィットはやがて共和派の大政治家となり、オランダの黄金時代を築くことに大きく貢献した。1664 年には、アムステルダムのコレギアント派の仲間を通じて、スピノザはドゥ・ヴィットの知遇を得た。ルカスの書いたスピノザの伝記は、ドゥ・ヴィットがスピノザから数学を学ぼうとしただけでなく、重要な問題についてもしばしばスピノザの意見を求めたこと、ドゥ・ヴィットがスピノザに年金を贈っていたことなどを伝えている(44) 。スピノザは厳密にはヤン・ドゥ・ヴィットの助言者であったとは言えないにしても、レヘント派との間に接点は存在したのである。そして、スピノザや他の急進的な民主主義擁護者が、オランイェ派に対抗して連邦共和国の利害を代表するドゥ・ヴィットのグループと政治的な同盟関係にあったのも不自然なことではなかった。しかしながら、両者の間には根本的な政治上・イデオロギー上の境界線があったことは否めない。『神学政治論』を読んだドゥ・ヴィットは、その民主主義的見解を認めず、スピノザに会うことを拒否したという(45) 。
E・バリバールの指摘によれば、あとから振り返って分るのは、スピノザが「異種の要素から成る三重の哲学的要求」――たとえその要求が時には同じ人たちから向けられたにしても――の対象となったことである。
つまり、「科学に由来する要求、非宗派的宗教に由来する要求、そして共和政治に由来する要求」(46) である。
スピノザはこれらのすべての要求に気づいていたであろうが、彼はそれらを脇道にそらして、背後の期待のどれかに応じるようなことはしなかった。
『神学政治論』が書かれ出版された情勢の中では、反対者の名を挙げるだけで十分であるならば、スピノザがどの「陣営」に属していたかは明白である。スピノザの「神学的・政治的」介入は、少なくともグロティウスにまで遡る系譜に含まれており、共和派の宣言であるように見える。しかしだからといって、スピノザはレヘント派のイデオロギーと利害に自己を同一化したわけではなく、科学者や「教会なきキリスト者」のイデオロギーと利害に進んで結びついたわけでもない。実際、これらの異なった立場が首尾一貫したやり方で結集してはいないときに、スピノザはどうしてそのようなことができたであろうか。ある意味で、真の「自由派」は構築されるべきものであった(47) 。その信条を構成するであろう諸要素は様々な場所に散見するが、それらを結合するための明確な合意の道筋はなかったのである。スピノザは自分自身の精神生活の孤塁を守るほかなかったように思われる。 

 

(1)書簡30、『スピノザ往復書簡集』、畠中尚志訳、岩波文庫、165-166 頁。
(2)Etienne Balibar, Spinoza et la politique , Paris 1996, p.9.
(3)Myriell Pardo, Traite theologico-politique( Preface et chapitre]]), Paris 2000, p.47.
(4)ibid.
(5)ピエール・ベール著作集第5巻、『歴史批評辞典』V、野沢協訳、法政大学出版局、639 頁。
(6)Balibar, p.11.
(7)ibid., p.26.
(8)ルカス、コレルス『スピノーザの生涯と精神』、渡辺義雄訳、理想社、65-66 頁参照。以下、同訳書は『生涯と精神』と略記。同訳書の訳註から多くの示唆を得たことを付言しておく。
(9)同上書、66 頁参照。
(10)Pardo, p.53.
(11)Steven Nadler, Spinoza: A Life , Cambridge 1999, p.35.
(12)Pardo, p.53.
(13)『神学政治論』、畠中尚志訳、岩波文庫下、285-286 頁。尚、『神学政治論』からの引用に際しては、畠中訳の岩波文庫版に依拠したが、かなと漢字を現代のものに改めた箇所があることをお断りしておく。
(14)岩波文庫上、45 頁。
(15)書簡14、岩波文庫、78 頁。
(16)岩波文庫上、45-46 頁。
(17)Balibar, p.26.
(18)『生涯と精神』、93 頁。
(19)工藤喜作『スピノザ』、清水書院、19 頁。
(20)Nadler, p.74.
(21)ibid., p.58.
(22)工藤、前掲書、20 頁。
(23)Balibar, pp.26-27.
(24)『国家論』、畠中尚志訳、岩波文庫、172-173 頁。
(25)『自由と形式』、中埜肇訳、ミネルヴァ書房、9-10 頁。
(26)Balibar, p.28.
(27)『生涯と精神』、94 頁。
(28)同上。
(29)同上。
(30)同上。
(31)岩波文庫下、286-287 頁。
(32)同、284 頁。
(33)W.N.A.Klever, Spinoza’s Life and Works, in The Cambridge Companion to Spinoza , edited by Don Garrett,New York 1996, p.38.
(34)Balibar, p.29.
(35)ibid., pp.29-30.
(36)ibid., p.30.
(37)ibid. , pp.30-31.
(38)ibid., p.31.
(39)ibid.
(40)ibid., pp.31-32.
(41)ibid.,pp.32 -33.
(42)The Cambridge Companion to Spinoza , pp.38-39.
(43)Balibar, p.33.
(44)『生涯と精神』、44 頁。
(45)Nadler, p.256.
(46)Balibar, p.33.
(47)ibid., pp.33-34.  
 
スピノザにおける資本主義批判とは

 

『野生のアノマリー』と『神学政治論』の[あいだ]を読む
私にとって、ネグリとは、1970年代のアウトノミア運動のなかで、左右の権力支配(「左」とはいうまでもなく、イタリア共産党のことだが)や政治弾圧と闘いながら、党の神話と労働イデオロギーに挑戦する異例な知識人であり活動家だった。「拒否の戦略」「社会化された工場」「社会化された労働者」「危機国家」「労働者による価値創造」といった刺激的なパラダイムとともに、労働者階級のオートノミー、つまり、資本蓄積と資本の文化から切断された労働者階級の集団的な創造性を打ち出したネグリの構想力は、教条主義とは無縁の刺激を与えてくれた。『野性のアノマリー』の存在を知ったのは、まだ『<帝国>』も『マルチチュード』も出版される前のことで、たぶん90年代半ばころに英語版を手にしていたと思う。本書は、右のような私自身の問題関心からみたネグリとは幾分かけ離れた印象をもつ。なぜ、スピノザという異端ではあっても、17世紀の思想家にこだわったのか、私には気にかかることだった。
この問いのヒントとなるのは、『野生のアノマリー』第六章「野性の異形」のなかでネグリが「17世紀の思想は、デカルトからホッブスにいたるまで、直接間接を問わず、領有化という概念そのものを無化するような視点から、世界の情念的領有化というテーマ設定を展開してきたこと」(p.304)に注目するなかでスピノザを位置づけけている点だ。この点に本稿ではこだわりながら、ネグリが光をあてようとしたスピノザの意義を私なりの観点から考えてみたい。 

 

ネグリは『エチカ』から次の箇所を引用している。
「感情ならびに人間の生活法について記述したたいていのひとびとは、共通した自然の法則に従う自然物について論じているのではなくて、自然の外にあるものについて論じているように見える。実に彼らは自然の中の人間を国家の中の国家のごとく考えているように思われる。なぜならかれらは、人間が自然の秩序に従うよりもむしろこれを乱し、また人間が自己の行動に対して絶対の能力を有して自分自身以外の何ものからも決定されない、と信じているからである。それからかれらは、人間の無能力および無常の原因を、共通の自然力には帰さないで、人間本性の欠陥--どんな欠陥のことかわたしは知らない--に帰している。だからかれらは、こうした人間本性を泣き・笑い・侮蔑し・あるいは--これがもっともしばしば起こることであるが、--呪詛する。そして人間精神の無能力をより雄弁にあるいはより先鋭に非難することを心得ているひとは神のように思われている。」[1]
感情や生活法(ライフスタイル)についての従来の支配的な論じられ方では、人間の感情やライフスタイルを人間もその中にふくまれる自然法則一般にかなうものとしてではなく、自然とは別の存在とみなす一方で、人間は、自然の法則に従う必要はなく、人間は自らの行動を自ら決定できる「絶対の能力」をもつもの、言い換えれば人間には自然を支配できる能力があるとして絶対視する。しかし、この人間による絶対的な自己決定能力がもたらす自然の秩序への撹乱に対して、天災のように人間の能力では対処できないような例外的な事柄が起きたとき、あるいは、感情的で非理性的な振る舞いを人間自らがコントロールできないような状態に陥ったとき、人間の絶対的な自己決定能力という前提は、逆に解決不可能な人間本性の欠陥とみなされ、人間の「無能力」を示すものになってしまう。こうして、人間がその絶対的な力を維持できず無能力をさらけだす時、これは人間本性の欠陥とみなされ、人間は自然に対して絶対的能力を持つはずの存在であるにもかかわらず、無能力な己れの存在を自嘲し呪詛する以外にないことになる。スピノザにとって、人間のあらゆる振る舞いは、自然の秩序にかなうものであるから、この前提からすると、人間の行為を自然の秩序を乱すものとみなすことそれ自体が、自然の名を僭称して、現にある「秩序」なるものを頑に保守しようとするものであって、この秩序からの逸脱に含まれている可能性を削ぐものだということになる。したがって、「神」を登場させて人間の自然への逸脱に対して非難することは正当化しえない。これはスピノザからすれば「神」とは何の関係もないものであって、権力者による意図的な「神」の誤用であるということになる。こうしてスピノザにあっては、教会や聖職者たちが持ち出す「神」は否定される。この限りで、スピノザは無神論者である。
スピノザは、今ここにある社会制度(とりわけ政治体制)を与件とし、この社会制度からの逸脱をあたかも自然の秩序を乱す人間の無能力によるものであるかのようにみなして、社会の秩序を肯定する考え方を否定した。スピノザは人間が理性に従う存在としてよりも、むしろ理性では統御しえない感情を必然的に伴う存在であるという側面を重視する。国家の限界は、このように人々が理性を越える存在であることに求められている。契約であれ法であれ、人々が自らの権利を国家に委ねる社会契約では、人々の理性を超える欲望や非合理とみなされる感情などをも移譲することはできないからである。この理性では統御できない部分は、自然を乱す逸脱でもなければ人間本性の欠陥でもない。むしろそれこそが人間の自然的な本性の一部であり、それ自体が自然の秩序そのものでもあるというのがスピノザの観点である。
とはいえ情念、感情、あるいは欲望といった人間の非理性的な属性は、しかし、それ自体としてはあいまいなものであって、普遍的な形をもつものとは言いがたい。その曖昧さゆえに、こうした人間の属性は、社会の支配的な構造を脅かす要因とみなされ、社会的な統制の中心的な課題をなしてきた。超越的な「神」という観念も、ナショナリズムや商品の物神性という近代社会が生み出したある種の世俗的な「神」観念(普遍性と最高の力をその力の構成−−憲法ないしは貨幣−−において体現する存在としての国家ないしは資本)も、人々を集団として組織し統合する場合の中心的な課題は、この感情の要素であったことは間違いない。とりわけ資本主義は、この感情の部分を市場経済における商品の価値と使用価値がもたらす特異な欲望の構造を通じて、近代資本主義の支配を可能とする感情の「形」を形成してきた。これは、市場経済が支配的ではない社会には見いだせないきわめて特殊な感情のあり方だといえる。[2]
ネグリは、右の『エチカ』からの引用に続いて、彼特有のスピノザ解釈を展開するのだが、そのなかで、彼が読み込もうとしたことは、まさにこの資本主義的な感情の構築にまつわる問題だった。ネグリは、この問題を「領有化」という観点から捉えようとした。なぜなら、「スピノザは、自らの哲学の中心的・独占的テーマを領有化というテーマから作り出すことに固執し、自己中心的な利益という地平でそれを脱自然化することを拒否する」[3]とみているからだ。ネグリは、まず先に引用した感情と生活についての既存の支配的な考え方へのスピノザの批判の文章に対して次のように論評している。
「17世紀の哲学者は、概してこの領域を承認していた。自然の情念的領有化(これは資本主義市場と本源的蓄積のイデオロギー的メタファーである)は、社会や国家による価値の流れの組織化の必要性に服従せねばならない。こうした考えは哲学を世俗化するものだと主張されていたのだ。だれがそれを否定できよう。しかし同時に、そうした考えは、哲学者を権力の限定されたイメージのなかに引き込むことによって、この時点までに見いだされていた唯物論的な組織体が持つ創造性を否定してしまう。あるいは少なくとも、哲学の本質や影響につて誤ったヴィジョンを与えてしまう。想像力、情念、そして領有化はブルジョア的な市場イデオロギーと実体をともにするものとなる。秩序に従う創造性、それは剰余価値に従う価値と同じようなものだろうか」[4]
「自然の情念的領有化」とは、それまでの社会とは大きく異なって、新しく登場した近代資本主義が自然を支配する欲望に囚われてきたことを意味している。だから、デカルトからホッブスまで、この自然支配への欲望という新しい人間のあり方を正当化するための哲学=世俗的な基礎を与えることに寄与したとネグリは理解したのである。つまり、神が背景に退き人間が主体となり、さらにこの人間が自然を目的意識的に支配しうる存在であるという考え方それ自体が極めて新しいのだが、さらにこの人間一般と自然との関係は、現実の近代資本主義の形成では、国家と資本の利害への従属として形成されてきたということだ。「価値の流れ」がそれまでの中世的な神観念と教会による世界観の支配から転換して、近代国家と資本による物質的な生産を支える方向に転換する。こうした流れを反映した哲学は確かに世俗化を意味するとはいえ、しかし、この世俗化としての哲学は同時に、資本と国家を、階級も性別も人種も捨象された「個人」としての「人間」というこの世のどこにも存在しない抽象的な「個体」に媒介させることによって、現にある統治とイデオロギーを巧妙に正当化するような価値の流れを支えた。階級、ジェンダー、エスニシティそして自然を捨象した哲学的人間類型の誕生である。こうした役割を担うことで、哲学は宗教に替わってその権威と正統性を支配的なイデオロギーの中で獲得する。ネグリは、こうした世俗化を「誤ったヴィジョン」を与えるものだとして否定するが、スピノザから受け取った重要な観点は、この誤ったヴィジョンとしての哲学の世俗化に内包されている「想像力、情念、そして領有化」という要素への注目である、なぜなら、これらの要素が「秩序に従う創造性」としての形を与えられるとき、これらは剰余価値に従属する(使用)価値となるからだ。言い換えれば、「想像力、情念、そして領有化」が秩序に抗ってその創造性を発揮するとき、そこには全く新しい可能性もまた拓かれるということである。「想像力、情念、そして領有化」が秩序の側に回収されるのか、それともこれに抗うものとなるのか、これがスピノザの主題であると同時に、ネグリがスピノザに着目した重要なモチーフの一つだったといえる。
市場経済における商品の使用価値は、欲望の特殊な形態をなす。人々がその欲望の充足を商品の取得を通じてのみ実現可能であると感じるとき−−言い換えれば、市場こそが欲望を充足できる唯一の制度であると実感してしまうとき−−資本主義は普遍性の神話を獲得する。満たされることのない欲望に呑み込まれながら、人々はこの欲望を資本主義が構造的に生み出した特殊歴史的な性質のものであると理解することなく、逆に、人間の本性に由来するものであるという錯誤に陥る。この錯誤としての欲望は、商品の使用価値として具体的な形が与えられることによって現実的な根拠を与えられる。なぜなら、欲望の充足は、商品の使用価値を取得することによって実現されるからであり、また、欲望はこの商品の使用価値として供給可能な条件−−資本に利潤をもたらすような生産物の供給条件−−の範囲によってその輪郭が与えられ(その外部では欲望は充足され得ないものであるか、あるいはそもそも欲望すること自体が抑圧される)、また、この使用価値を獲得しうる唯一の条件が、一般的等価物としての貨幣の取得であることから、貨幣的な欲望によって条件づけられるからである。貨幣は、市場における富を抽象的な「量」に還元して体現するものとして、使用価値の質ではなく、この使用価値を規定する商品の(交換)価値に対する無限の欲望を人々の内面に形成する。より多くの貨幣を手にすることがより多くの使用価値を獲得することであり、貨幣的な欲望には上限はなく、したがって使用価値欲望も無限の拡大を促される。こうして生存のための経済は資本の価値増殖によって支配され、危うくされる。欲望の資本主義的特殊性と貨幣計算的な意味での合理的経済人(近代社会の理性主義)は、資本主義的市場経済における価値増殖を支える弁証法的な条件になる。価値を排除して使用価値を救い出そうという使用価値主義による資本主義的な価値批判(資本主義における価値による使用価値支配の単純な転倒図式、あるいは資本なき生産力主義)は、20世紀の支配的な「社会主義」イデオロギーにその典型例を見いだすことができるが、資本主義市場経済に固有の使用価値の問題を理解していない。使用価値は価値に従属してるのではない。使用価値は価値による支配の必要条件であり、資本主義に固有の欲望を具体化したものであって、資本主義の否定は当然のこととして使用価値の否定を要求するものにならざるをえない。
自然同様、情念であれ想像力であれ、理性からの逸脱あるいはこれを超越する人間の属性に対して近代資本主義は、自らの制度を維持再生産できるような枠組のなかに押さえ込む必要があった。もちろん、押さえ込みは完全には可能ではないから、現にある秩序への逸脱が繰り返されることになるのだが、この押さえ込みを担うのが、ネグリのいう資本主義的な「領有化」の役割ということになる。資本主義社会は−−他のあらゆる社会と同様−−社会を成り立たせるために必要な秩序の維持・再生産のために物事相互の間の価値の序列化を必要とし、人々の行動や価値観をこの序列化された枠組の中に押さえ込んで再生産しようとする。まず、人間が自然の上位に立ち、人間のなかの感情的な要素に対して理性を上位に置き、理性に感情を支配する役目を負わせる。理性は国家によって具体化される(これは現実の国家の非理性的な本質を隠蔽するイデオロギーを構成するが)ことによって、こうした価値の序列化が諸個人に内面化され、自明視されることによって、この押さえ込みは、むしろ自発的で自然なものとして受け取られ、必ずしも自由を抑圧するものとは感じ取られるべきではない、とされるのである。「領有化」は、一般論としていえば、情念を現にある秩序へと媒介する役割をになうことによって、情念に一定の形を与えるものだが、これを資本主義的な「領有化」は、もっぱら資本のもとでの労働を通じた自然に対する支配と商品化=私的所有という一連の(使用)価値の流れを通じて秩序化し、制度化する。こうして資本主義的な「領有化」が自然や人間の身体に及び、全てに超越する位置を獲得する。これは、近代社会もまた超越的なものの支配を免れないということを意味すると同時に、こうした意味での超越的なものを覆す契機もまた、この超越的なものの支配の綻びを生み出す人々の逸脱する−−あるいは支配的な認識の限界を超える−−情念や想像力なくしては成り立たないということを意味している。
「領有化」としての方法論によって、スピノザは哲学的な世界から距離を置き、ラディカルな一義的な存在の概念を、無神論と唯物論的な人間観に求めたというのがネグリのスピノザ解釈である。スピノザの唯物論、あるいは(異論があるだろうが)無神論を支えたのは、徹底した人間の「経験」への信頼である。反プラトン主義であり反キリスト教主義から「領有化の力能としての人間」という唯物論的な人間概念が生じるとみるネグリの読みは、スピノザを哲学の系譜のなかに位置づけようとするいかなる試みをも拒絶することにならざるをえない。
ネグリがスピノザから導きだしたこの「領有化の力能としての人間」あるいは「領有化の活動としての人間」は、人間と自然との物質代謝過程を通じて自然から人間が必要とするものを獲得する行為=労働の担い手としての人間をそのなかに含むものとみていい。「自然」なくしてはありえないこの過程において、労働する人間を「主体」として立て、自然を労働対象として受動的な位置に置くことによって、人間による自然の支配を正当化する労働に基づく社会観が形成されるわけだ。他方で、伝統的な共同体の世界観の多くに共通してみられるのは、人間は、人間と自然の物質代謝過程の主体の位置を独占することはなかった、ということだろう。共同体に基づく物質代謝過程の主体的な担い手の位置に「自然」を置くことすらまれではない。また、「領有化」それ自体には、労働の成果物が、その労働を担った個人としての労働者に帰属するといったことは何も規定されていない。むしろ労働は集団性抜きにはいかなる意味においても成り立たず、この集団性を前提としない個人もありえない。このことが個人の自由を大きく抑圧したことは言うまでもない。これらのことは、共同体的な経済においては自明の経験的事実だった。しかし、共同体の解体と資本の本源的蓄積過程を通じて、この自明の経験は、むしろ資本による労働の組織化と個としての労働力の商品化を通じて必ずしも自明とはいえなくなる。労働者はまずもって「個人」として、労働市場に参入し、資本によって集団的に組織化され、結合労働力となる。資本に媒介されてのみ労働はその集団的性格を経験の層において表すことになる。この共同体の解体から資本主義の立ち上げにいたるわずかな歴史的間隙が、文字通りの意味における個人と領有化をめぐるある種の近代性のユートピアを生み出した。自己労働に基づく「所有」は、近代社会がその初期に抱いたユートピア、前近代社会の共同体の束縛からの解放のユートピアとして、近代的個人というオルタナティブとしての人間観に基づいて提示された理念型だが、これは、結果的には、資本によって個人の自由が救済されるという労働力商品化を促す資本のイデオロギー、資本のメシア思想に回収された。思想史的なアプローチでいえば、あるいは、哲学が垣間見たある種の「夢」に沿って歴史を再解釈するとすれば、このような自己労働に基づく所有は、資本による労働力の商品化を通じて横領されたという、マルクスのいうところの領有法則の転換に通じる解釈にも一定程度の妥当性があるようにみえる。しかし、これはあくまでもイデオロギーの世界での「歴史」でしかない。ネグリはこのことに半ば気づきつつも、しかし、近代初期にありえたかもしれないもう一つの近代内部におけるオルタナティブ―資本なき近代?--の夢には肯定的だったといえそうだ。ネグリのオプティミズムは、「拒絶と抵抗の連続線」を求めて次のような問いを発している。
「現実の階級闘争の歴史、つねに必然的な生産力の復活の動きを見てとり、(形而上学の枠内で)拒絶と逸脱の道を描き出すとともに瞞着を打破し、理論−実践的オルタナティブの道をたどっていくことはできないのだろうか。人文主義的革命をもとに、領有化の人文主義的概念を中心に据えることで、革命の危機という観念を否定し、資本主義的利益や、個体化というイデオロギー的運動へと領有化を後退させることを拒むような思想は存在しないのだろうか。逆に、物質的、集合的、構成的な領有化の力能を再確認してくれるような思想は存在しないのだろうか」[5]
いうまでもなく、この問いに対して支配的な哲学は応答不能であって、17世紀にあっては、スピノザだけが(さしあたりは)資本主義的なありとあらゆる前提(社会と国家の分離、ホッブス−ルソー−ヘーゲルに示される「ブルジョワ的欺瞞」)を打破し、「生産力を何らかの秩序へ、何よりもブルジョワ的秩序へ還元することの不可能さを明白に、明確に、明瞭に表明」[6]し、「ブルジョワジーが自らの支配組織を隠すためにでっち上げた大いなるフィクションすべてをはっきりと否定」[7]する思想家として登場する。たしかにスピノザは、理性から成り立つブルジョワ的秩序に生産力を還元できるとは考えていない。他方で支配的な哲学では、理性による社会の秩序化が可能であるかのようにして構築され、非理性的・情念的な人間の−−大衆の、というべきか−−欲望を敵視し、拒否する一方で、資本主義的市場経済による欲望の資本の価値増殖への媒介という仕掛け(ブルジョワジーによる「支配組織」)を支持してきた。スピノザの情念や欲望をめぐる議論がこうした枠組みと真っ向から対立するものだということを読み取ろうとしたネグリの観点は、スピノザの思惑を超えた資本主義批判の重要な論点として受け止める必要がある。
こうした観点は、他方でネグリが強調するもう一つのスピノザの意義、「スピノザの思想の基礎には、媒介という概念そのものの拒絶」[8]、すなわち市民社会と国家の区別を「生産関係というイデオロギーに用いられる別の虚構」[9]への否定と結びつけられている。しかし、ネグリのようにスピノザは領有化=ブルジョワ的媒介を拒否したという解釈は、スピノザの唯物論的な再解釈を通じて、マキャベリからマルクスへと至る政治思想にスピノザを位置づける戦略的な”読み”であって、スピノザを唯物論の「土台」の領域に引き寄せたネグリ特有に解釈だ。こうした解釈の背後には、ネグリのある種の土台主義、あるいはオーソドクスともいえるマルクス主義の隠された前提があるように思える。しかし、スピノザの異例性の意義は、こうした土台還元主義的な解釈に基づく必要は必ずしもない。 

 

ネグリが強調するように、『神学政治論』、『エチカ』、そして晩年の未完成の作品『国家論』に一貫しているテーマは、まさに媒介の拒否である。ここでいう媒介とは、現実の政治の制度でいえば、王政や貴族政であり、イデオロギーの領域では教会と教会による聖書や神観念についての解釈支配であった。これに対して、スピノザが対置したのは、大衆みずからによる統治としての民主政であり、いっさいの媒介的な制度や権威を伴わない神観念の獲得である。スピノザが自らの思想の前提においた人間の問題とはまさに理性によって完全に自己統制することができない人間存在と理性をめぐる確執という難問だった。端的に言って、スピノザにとっての人間とは、理性的に思考し行動する存在ではないく、むしろ迷信にとらわれる存在である。
「例えば彼らは恐怖の状態にある場合においては、何か過去の幸福あるいは不幸を思いださせるような事柄に遭遇するとそれを幸福なあるいは不幸な結果を暗示するものと考え、その故にそれを、--これまでそういうことで幾度も幾度も欺かれてきたにもかかわらず、--善きあるいは悪しき前兆と名づける。もしそれ、異常な、一見奇異な事柄でも起こると、彼等はそれを神々または最高神性の怒りを表示する異変と思い込み、迷信的で真の宗教を知らない彼等は、これを犠牲と誓願とによって償わなければならぬと考える。このようにして彼等は、実に色々なことを虚構し自然を種々の珍奇な方法で解釈する、あたかも全自然がかれらとともに狂いでもしたかのように。」[10]
このような迷信にとらわれた民衆に対して、「君主政治の最大の関心事」とは次のようなものだと言う。
「もし、人間を誤謬のなかに留め置き、恐怖心を宗教の美名で彩って人間を抑制するに利用し、かくて人々をして隷属のために戦うこと恰も福祉のための戦うごとくならしめ、且つ一人の人間の名誉心のために血と生命とを捨てることを恥としてでなくかえって最大の誉と思わしめるといったような、そうした事どもがもし君主政治の最高の秘訣であり、君主政治の最大の関心事であるとしたら、反対に、自由なる国家においては、これ以上不幸なことが考えられることもできないし、試みられることも出来ないのである。各人の自由なる判断を諸々の先入見によって籠絡したり、これを何らかの方法で制限したりするということは、一般的自由と全然矛盾するのであるから。」[11]
スピノザは同時に、「人間の精神は一般に多種多様であってすべての人が均しく同じ思念の中に安住しているのではなく、むしろ種々の考えが色々違った風に人間を支配して」[12]いること、「民衆から迷信を取り去ることは恐怖を取り去ることと同様に不可能であること」、「民衆はものを賞賛したり非難したりするのに理性によって導かれず衝動によって動かされること」[13]、「大抵の人々は法の目的を把握することができないしまた大抵の人々は少しも理性によって生活しない」「すべての人間はなるほど自己の利益を求めはするが、しかしそれは決して健全な理性の指令に依ってではない。」[14]こうしてスピノザがえがく大衆像とはつぎのようなものとなる。
「大衆は理性に依ってではなく単に感情のみに依って操縦される。彼らは何でも向こう見ずにやり、貪欲や奢侈に極めて容易に蝕まれる。めいめい自分が何事をも心得ていると考え、すべてを自分の意向通りに御したがり、物はそれが自分の利益或は損害になると判断する限りにおいてのみそれを公平あるいは不公平、正当あるいは不正当なものと評価する。虚栄心の故に自分と同等の者を軽蔑し、同等の者から指導されることを潔しとしない。また他人の名声や財産(これは決して誰も同等ではありえない)を妬んで他人の不幸を願い、他人の不幸を喜ぶ。」[15]
これは「大衆」に固有な属性ではなく、むしろ人間の本性だというのがスピノザの基本的な人間観をなしている。[16] スピノザは、人間の理性を逸脱する感情が犯罪へと駆り立てる一方で、「国家を人が犯罪を犯す余地がないような風に建てること」あるいはすべての人を私利よりも公益を重んじるように制度化することが必要であるとする一方で、その国家にとってすらこのような感情は「果たすべき困難な課題」だと言うのである。理性は感情を制御できるかもしれないが、このことを民衆が会得し、「理性そのものの教える道」は極めて「峻険なもの」[17]という観点を強調している。
「事の必要に迫られて人々は多くのことを案出はした。しかし依然として国家の安全は外敵からと同様に国民から危うくされていたし、また統治権の把握者は外敵をと同様に国民を恐れざるを得ぬ状態にあったのである」[18]
大衆とは、理性よりも感情に支配され、迷信から抜け出す事のできない存在であって、これは自然状態に限られるのではなく、むしろ社会契約が成り立ち、国家が形成された後にあっても残る問題である。スピノザは、こうした大衆に対して宗教(教会)と国家がとった支配のありかたを、前者については聖書に体現されている物語[19]や奇跡、教会の祭式[20]といった大衆の感性に訴える言説や仕掛けを通じたある種のイデオロギー操作の問題として捉え、後者については、法による強制の問題として捉えた。同時に、宗教であれ国家であれ、大衆の同調を獲得するためには、外形的な同調を超えて、内面的な同調の形成の必要を認識していた。しかし、国家も教会も、大衆をその内面から完全に自らの支配に服させることはできないというのがスピノザの強い確信でもあった。だからこそ、内面の自由を抑圧しようとする国家や教会の意図は実現されず、むしろ人々をその多様な存在や多様な価値観、考え方のままに自由にしておくことの方が好ましいと考えたのだ。
ネグリがスピノザの「大衆」から「マルチチュード」の概念を導いたといわれるが、しかし、ネグリのマルチチュードにはスピノザが目の当たりにしていた迷信や自己の欲望と利益にとらわれ、他人を妬んだり蔑んだりするような大衆のネガティブな側面はほとんど強調されていないようにみえる。この違いは決定的だ。スピノザは、こうしたネガティブな側面こそが国家と教会による支配の困難な課題を構成し、支配の基本的な性格を規定するものだとみるとともに、こうした大衆をまるごとそれ自体として受け入れる側に立つ。スピノザは大衆を無知や迷信に囚われた存在としながらも、必ずしもこうした大衆を、理性のもとにある哲学者や知識人の高みに立って蔑み、否定することはなく、むしろ、理性を絶対視する哲学者や、こうした大衆の感情を統制し、みずからの支配の手段にしようとする国家と教会に対して冷やかだ。だからこそ民主政とそのもとでの自由に期待するわけだ。ネグリと比べてスピノザの方がある意味で、大衆の非合理的な逸脱に期待しつつ、現に存在する国家と教会の重圧の前に立ちすくんでいたのかもしれない。
先にも指摘したように、ネグリはスピノザの形而上学をある種の土台還元主義的な方法論(唯物論と言い換えてもいいが)で再解釈しようとしたように思われる。しかし、むしろスピノザの核心にあるのは、イデオロギー装置批判であったというのが私の見方だ。近代初期に登場した国家と教会にとって、大衆への支配の核心にあるのは、理性による支配ではなく、非理性的なるものをめぐる支配の問題であって、まさにこの問題が近代の入り口において難問として突きつけられていることをスピノザは理解していた。欲望や情念といった感情の問題は、この近代の始まりの時期に、市場経済がもたらした新しい経済人の感性の中核をなすものであるが、ネグリのように、この問題を資本による領有化と生産力の問題へとつなげるよりも、むしろ構成された権力としての国家とイデオロギー装置としての教会(そして近代化の進展のなかで、この教会の位置に、まさに市場経済のイデオロギー、商品という新たな神がとってかわるのだが)が再構成しようとした人間の問題、つまり労働する身体としての人間の再構成の問題へとつなげることの方がより意義のある方法だったと思う。
とはいえ、国家と教会(宗教)に対する重大な疑義にとらわれたスピノザには、固有のジレンマがある。スピノザは国家の目的を次のように述べている。
「国家の究極の目的は支配することでなく、また人間を恐怖によって制御して他者の権利のもとに立たしめることでもなく、むしろ反対に、各人を恐怖から解放し、かくて各人が出来るだけ安全に生活できるようにすること、換言すれば存在と活動に対する彼の自然権を自己並びに他者を害することなしに最もよく保持するようにすることである。あえて言う、国家の目的は人間を理性的存在者から動物或は自動機械にすることではなく、むしろ反対に、人間の精神と身体が確実にその機能を果たし、彼ら自身が自由に理性を使用し、そして彼らが憎しみや怒りや詭計をもって争うことなく、また相互に悪意を抱き合うことのないようにすることである。故に国家の目的は畢竟自由に存するのである」[21]
しかしこの国家の目的は完全に果たすことはできない。もろもろの人間的感情を人間の本性とする以上、この感情から逃れることはできないし、そうであれば、迷信からも解き放たれることはなく、したがって、理性によって行動することを通じて獲得されるであろう自由を完全に我がものとすることもできない。こうして国家は、法による強制をさけられないのである。
同様に、宗教についても、スピノザは神の認識へと至る上で理性が果たす役割を不可欠なものと考え、理性によってのみ神についての完全な理解を獲得することができると考えていた。しかし、感情や迷信にとらわれざるを得ない人間は、神の観念を教会が与える物語や祭式によって実感するように促されるが、これらによって人間は神の本質に近づくことができるわけではない。スピノザにとって、職業的な聖職者は、神の認識を導く存在としてよりも、神について大衆の感情に訴え、諸々の「外的記号」を駆使して大衆による教会への同調を獲得し、大衆を迷妄のなかにおしとどめることによって、教会の権威を再生産するにすぎない存在でしかなく、彼らに依拠する限り、神の認識には決して至ることがないのである。したがって、教会は「無知蒙昧」な民衆を神の名によってみずからの権威の下に組織化するためのイデオロギー装置に他ならない。他方で、非理性的な感情を人間の本性とする以上、こうした制度化された宗教の存在をなくすことも不可能となる。その内実がいかなるものであれ、理性ではなく感情によって支配される状態にあっては、神と名指されるいかがわしい存在を完全に払拭することは不可能となる。
こうして、スピノザにとって、抑圧装置としての国家、イデオロギー装置としての教会は、非理性的な存在としての人間を近代社会が統御するうえで不可欠な社会的な条件とみなされることになる。しかしスピノザは、国家や教会の廃棄を模索するのではなく、これらをある種の宿命として受け入れつつ、もっとも抑圧の少ない、またもっとも真理に近づく道として、彼は自由の意義を主張したように思う。
資本主義は、この体制に固有の方法で非理性的な存在としての人間を統御しようとしてきた。スピノザが初期の資本主義に見いだした国家と教会の役割以上にその後数世紀の歴史のなかで重要な位置をしめてきたのは、いうまでもなく市場経済(商品化された労働力にもとづく資本による市場の組織化)の存在だ。すでに述べたように、資本主義は人間の非理性的な側面としての欲望に商品の使用価値的な欲望という枠をはめる一方で、貨幣的な富への無限の欲望によって、欲望そのものを資本主義の制度の内部に押しとどめ、資本蓄積の原動力となるように動員する。社会が人間の組織であり、人間が理性の統御を逸脱しうる存在であることを前提として、資本主義は、この非理性的な要素を資本蓄積に媒介する仕掛けを用意したのである。こうして、欲望は、資本主義の制度的な檻のなかでその「自由」を与えられ、この意味での「自由」こそが真の「自由」であるとして自由の意味が横領される。
他方で、理性は市場経済を前提とした経済合理性と国家を前提とした法合理性に還元される。理性は資本主義的な欲望を正当化するものとなり、真理とは資本主義の正統性のなかにのみ見いだせるということを示唆するために動員される。この理性を司るのは、宗教や教会ではなく、世俗的な科学や学問、会社組織、官僚制、司法や立法の制度といったもろもろの合理主義的な人間組織である。これらの組織は、商品の使用価値と貨幣とともに、理性を動員して大衆の迷信を再生産し、大衆を迷妄のなかに押しとどめることになり、その限りにおいて、大衆の非理性的な側面は、社会の変化を促す要因となる以前に、資本主義を正当化するように仕組まれた理性に媒介されて、社会の秩序から逸脱しないように制御されてしまう。資本主義は、大衆のもっとも危険な側面が理性にではなく感情にあることを知っているからこそ、この非理性的な側面をターゲットとする支配の制度を構築してきたのだといえる。
もちろんこうした資本主義の大衆支配の仕掛けが完全にその目的を達成することはありえなかった。資本主義のなかで繰り返しあらわれる危機の歴史は、この仕掛けの矛盾と不十分さを証明している。では、なぜ資本主義は、人間の非理性的な側面の統御の技術を編み出し、しかも無限の欲望を市場の秩序に媒介する強力な制度を擁しながらも、その大衆支配を完全なものにできず、繰り返し危機にみまわれるのか。その理由のひとつは、市場も国家も人間のすべてを覆い尽くすことのできる制度ではないことによる。これらの制度を超越する部分がもたらすかく乱要因(空間的に言えば、「第三世界」であり、構造的に言えば私的な領域としての労働力の再生産)を排除することは論理的に不可能だ。しかし、さらに根本的な限界がある。それは、資本主義が社会支配の前提として設定した人間観そのものに関わる。このことは本稿の課題を超えるので、ごく簡単に一点だけ指摘する。それは、スピノザが格闘した理性と感情という二分法に基づく近代の人間観そのものの妥当性という問題である。感情とは区別された理性という人間の側面は、実在のものといえるのかどうか、逆に、理性とは区別された感情とよばれてきたものもまたその実在性を証明できるのか、といういう疑義である。むしろ、理性と感情は相互に分離可能な二つの要素ではないのではないか。もしこれらが不可分一体のものであるとすれば、これらをそれぞれ独立に取り出して論ずる方法そのものが間違っているし、理性と呼ばれているものの存在そのものも疑うべきであろうし、感情に属するもろもろの人間の側面もまた、それ自体としてはその存在を疑わなければならない。スピノザもネグリもこのことに半ば気づいているのだが、しかし、方法論として明確に両者の不可分性、あるいはそれらの概念の否定に基づいた人間と社会についての理解を示すところには至っていない。スピノザもネグリも人間の多様性を文字通り人間の本質的なものとして強調しつつ、集団性の意義を論じる。そうだとすれば、理性と感情の不可分一体性、あるいは理性とか感情として名づけるべきではない人間の属性こそが本源的な多様性の根源にあり、この多様性に基づく社会変化の可能態としての支配に抗する集団のダイナミズムを生み出すものであるということが明瞭となるのではないか。この観点は、もはや迷信にとらわれた無知蒙昧な大衆といった大衆に対する規定そのものを不要とするだけでなく、逆に、このように大衆を見る知識人の側の迷信や無知蒙昧をあからさまなものとする。迷信にとらわれてはいるが多様性を保持しつつも社会変革の主体としては登場しえないスピノザ的な意味での大衆=マルチチュードからネグリのいう大衆的前衛とでもいうべきマルチチュードを架橋しうる唯一の係留点は、理性と感情の二分法を成り立たせているこれら両者の存在そのものへの根底からの懐疑に基づいた「人間」観であろう。
この理性と感情という二分法による人間観の拒否に基づく新しい「人間観」を記述するためには新しいディスクールの方法論が要求される。これは、人文主義への回帰でもなければ、単純な科学主義の拒絶でもないが、他方で、言語や数学という限られた手段によって長年表現されてきた哲学・思想から科学に至る社会・自然認識の方法そのものの妥当性すら問わなければならないものだ。このことは、同時に、人間の実践的な行為をある種の表現に媒介・還元して今ある言説の秩序に回収することではなく、逆に実践性がもたらす社会変化それ自体の営みの側に言説を投げ入れることを意味するものかもしれない。ここでは、言説の実践からの分離にもとづく自由、つまり、スピノザがあえて「自由」を言論の内部に限定したその限界を超えて進むべき問題が立ち現れることにならざるをえない。 
付記

 

私はネグリ研究者であろうとしたこともなければ、スピノザ研究の専門家でもないが、私の問題意識の射程からみて、率直に言って、本書の位置づけは大変難しいと感じている。本書の日本語版を改めて読んでみたが、その難しさの印象は変わっていない。本書は、多分、彼が後に出版することになる『構成的権力』につらなる著作として理解するのがもっとも自然な解釈のように思われる。しかし、『構成的権力』は、マキャベリからスピノザへとは向かわず、スピノザと同時代のジェームズ・ハリントンを経て米国の独立宣言へと至る近代市民革命の系譜にむしろ力点が移っているように思う。ハリントンの主著『オシアナ』が出版されたのは、17世紀半ばであり、スピノザの『神学・政治論』や『エチカ』などの主著に先立つ。スピノザは、当時のオランダとイギリスの戦争状態(ネグリは繰り返しスピノザの時代を「危機の時代」として描いている)と教会の権力と世俗的な近代国家の権力の相克のなかで、教会を「神」をめぐる言説を再生産するイデオロギー装置への批判として展開しつつ、「自由」の問題を中心に据えて、オルタナティブとしての民主主義を模索した。そしてイギリスの植民地としての北米を視野に入れて、君主政よりも民主政を高く評価した。こうしてみると、スピノザの政治学と唯物論的な色彩の色濃い形而上学をマキャベリに対する有効なオルタナティブ権力論として位置付けることは可能であったように思う。しかし、『構成的権力』においては、スピノザは脇に追いやられ、ハリントンや米国のフェデラリストへの流れに注目し、同時に近代革命の系譜も、米国の独立戦争、フランス革命、パリコミューン、ロシア革命を--その敗北にまみれた未来形の「構成されるべき権力」を視野に収めてはいるものの--構成的権力論の中心に据えてしまった。とはいえ、マルチチュード(多数者)の概念をスピノザから見出し、その後のネグリの展開にとって重要な意味を持つようになったことを私は軽視しているわけではない。そうだとしても、いや、そうであるからこそ、スピノザは何処へ行ってしまったのか、という思いもある。
[1]『野生のアノマリー』、杉村昌昭、信友建志訳、作品社、p.306から再引用
[2]小倉利丸『商品 ーー 自明性の罠』、『情況』1994年5月号参照。
[3]『野生のアノマリー』、同上、p.323。
[4]同上、pp.306-7。
[5]同上、p.320
[6]同上。
[7]同上、p.322。
[8]同上。
[9]同上、p.323。
[10]スピノザ『神学政治論』、畠中尚志訳、岩波文庫、上巻、p.40。以下、本書から引用した訳文は、現代文に変え、漢字をひらがなにするなどしている。
[11]同上、p.44。
[12]同上、下巻、p.136。
[13]同上、上巻、p.56。
[14]同上、p,182。
[15]同上、下巻、p.194。
[16]こうした観点は『国家論』にも受け継がれている。「私は、人間的感情、たとえば、愛・憎・怒・嫉妬・名誉心・同情心およびその他の心のさまざまの激情を人間の本性の過誤としてではなく、かえって人間の本性に属する諸性質として観じた」。「人間は必然的に諸感情に従属する。また人間の性情は、不幸な者を憐れみ、幸福な者をねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになっている」。スピノザ『国家論』畠中尚志訳、岩波文庫、p.14)
[17]スピノザ『国家論』、同上。
[18]『神学政治論』、前掲、下巻、p.195。
[19]「民衆はその心を服従と敬神とへ最も強く動かしてくれるような物語だけを知れば沢山なのである。然し民衆自身はそうした物語について判断する十分な能力をもたない。彼らは物語の中にある教えそのものよりも話の筋とか事件の珍しい・思いがけない顛末とかに多く興味を引かれるからである。だから彼らは物語を読んだだけでは足りないのであって、その上彼らの精神の弱さを補ってくれる教会の牧師や役者たちを必要とする」しかし「史的物語への信憑は神の法と何のかかわりもないこと、物語への信憑はそれ自身は人間を幸福ならしめ得ないこと、またそれは教えを説くに役立つ限りにおいてのみ有益性を持つ」(同上、p.193。)
[20]「キリスト教徒たちの祭式−−例えば洗礼、聖晩餐、諸祝日、外的祈祷、その他キリスト教全体に前から行われ今も行われている数々の事柄に関して言うに、それらがもしキリストあるいは使徒たちによって制定された(略)とするならば、それは教会一般の外的記号として制定されたのであって、福祉に何らかの寄与をなす事柄として、或はそれ自らに何らかの聖なるものを秘めている事柄として制定されたのではない」(同上、p.187)
[21]同上、p.275。
 
自由意志の主体と統治 / スピノザ政治思想の位置づけをめぐって

 

はじめに
スピノザの政治思想史における位置づけは、もっぱら自由主義の先駆というものであった(1)。確かにスピノザは『神学政治論』では言論・思想の自由を擁護しているし、絶筆となった『政治論』においても君主制や貴族制という国家体制を論じながら、自由な民衆を依然として重視する。
たとえば、国家の統治権がいかに絶対的なものであろうとも、各人の「すべてを自由に推論し判断する能力を他者に委譲することも、そのように強制されることもできない」とスピノザはいう。各人の言論の自由は国家の最高権力や平和と相反するどころか、国家維持の必須条件でもある。国家は人間の精神と身体の働きを増大させて、各人が自由に理性を行使しながら和合して生活できるようしなければならない。「じつに国家の目的は自由である」。理性と真の精神生活から規定される人間生活を目的とする国家は「自由な民衆・多数者」のたてる国家である。
このようなテキスト上の文言を素直に読むならば、スピノザの政治思想を自由主義と呼ぶことはもっともであろう。実際多くのスピノザ研究者も、スピノザの政治思想を、それぞれになんらかの留保をつけながらも、自由主義に分類してきた(2)。
だが、その一方でスピノザは、人間の自由意志を否定してやまない哲学者でもあった。哲学史上有名な比喩であるが、人間が自由であると思うのは、運動中の石が意識をもって「自分は自由に運動している」と考えているのと同じくらい滑稽だとスピノザはいうのである。自由意志を持たない人間像と自由主義的な政治思想とは、簡単には調和しないように思われる。スピノザの真意はいったい奈辺にあったのか。
本稿の課題は、以上のスピノザの政治学的思考とその哲学との不調和を解きほぐし、一貫した解釈を試みることにある。具体的には『エチカ』と『政治論』をあわせ読むことで、この自由意志の主体と統治の間にある関連を解明したい(3)。論じられる事柄は、国家統治者がいかにして公民から服従を調達できるかにかかわっている。そこで第一に、『政治論』での国家の形成原理を、公民の統治者への服従という観点から整理する。第二に、『エチカ』における自由意志批判を展開する部分の読解を通じて、「自由意志を有する」と思い込んでいる主体こそが、統治者への服従を調達する条件となっていることを論証する。第三に、国家秩序の維持という観点から「自由に国家に服従している」との信念を捉え返す。
(1) see J. Gray, Liberalism (Milton Keynes: Open University Press) 1986, pp.9-11.(藤原・輪島共訳『自由主義』昭和堂、一九九一年、二一〜二三頁)。グレイによれば、スピノザはホッブズよりは自由主義に近いが、自由主義の改革主義的立場に与みしない以上はホッブズ同様「自由主義者であるよりむしろ自由主義の先駆者であった」p.11.(邦訳二三頁)。
(2)古典的な仕事としてはフォイアーのものがある。L. S. Feuer, Spinoza and the Rise of Liberalism (New Brunswick: Transaction Books)1987(original ed. 1958), esp. ch.4. 最近ではスミスがユダヤ教の伝統との関連からスピノザ政治思想を新たに考察している。「スピノザにとっては、キリスト教ではなく、ユダヤ教が自由主義のパラダイムである」S. T. Smith, Spinoza, Liberalism and the Question of Jewish Identity (New Haven: Yale University Press)1997, p.23.もっとも、スピノザを自由主義者とみなす通説に懐疑的な論者もいる。see D. J. Den Uyl & S. D. Warner, Liberalism and Hobbes and Spinoza, in Studia Spinozana, 3, 1987, pp.307
(3)本稿では『神学政治論』を副次的にしか扱わない。というのも、『神学政治論』と『政治論』では国家状態を形成するにあたって、無視できない相違があるからである。前者では各人の理性的判断と社会契約が、後者では人々に共通の感情が、それぞれ国家形成の原理となる。相違点が生じる理由は、感情論の違いにあると思われるが、ここで詳述する余裕はない。スピノザ政治理論の発展史としては、さしあたり次のマトゥロンの論考を参照。A. Matheron, Le probleme de l'evolution de Spinoza du Traite Theologico-Poltique au Traite Poltique, in E. Curley & P.-F. Moreau (eds.) Spinoza: issues and directions (Leiden: E. J. Brill) 1990, pp.258-70., esp.pp.267-8. 

 

スピノザはみずからの政治論とホッブズのそれとの差異を「私は自然権を常にそっくりそのまま保持する」点にあると述べている。スピノザにとって、自然権(法)とは「すべての事物が生起する自然の諸法則・諸規則、すなわち自然の力そのもの」である。これは人間の現実的本質たるコナトゥス起源の法則であって、理性から生じる欲望も他の原因から生じる欲望も「それによって人間が自己の存在に固執しようと努力する自然の力を表現している」以上は区別されない。人間は「理性によって導かれようと欲望によってのみ導かれようと、自然の諸法則・諸規則にしたがってのみ、すなわち自然権によってのみ行動している」のである。スピノザによれば、われわれの行為はその動因がいかなるものであれ、力の及ぶ範囲でなし得る限りのことをなしているのであり、それが自然権の行使そのものなのである。本来「権利の行使」や「権利の委譲」といった法学的用語法は適切ではない(1)。『政治論』におけるスピノザの主要な関心は、国家設立の物語を自然法学の用語で記述することではなく、むしろ国家存立の現実的条件を解明することであった。自然状態と截然と区別された国家の状態というものは存在しない、との『政治論』におけるスピノザの主張がその一つの証左である。およそ人間は「野蛮人であろうと文明人であろうと、いたるところで互いに結合し、なんらかの国家状態を形成する」のである。
それゆえ本節では、国家状態の成立を、被治者の統治者への服従という観点から分析する。ごく普通に考えても、国政が滞りなく運営され、国家体制が維持されるためにはそれに帰属している人々の(少なくとも大多数は)国家の定める法体系に従わなくてはならないだろう。統治者の側から一般的にいえば、被治者の服従を十分に調達できなくてはならない(2)。私のみるところでは、『政治論』のユニークさは、まさに国家公民の国法への服従という問題に典型的に現れている。
スピノザは服従を「法的に見てよいこと、また共同の決定に従ってなすべきことを遂行しようとする恒常的意志」と定義している。スピノザによれば、公民の服従を確保するのは国家の力以外ではあり得ない。人間が他のものの意向にそって生きるということは「他人の力のもとにある」あいだのことであり、その間だけ人は「他人の権利のもとにある」ことになる。人を従わせるためには、たとえば縛っておくとか、武器のたぐいを奪った上で逃亡もできないように拘束するといった手段も考えられる。だがこういった方策を使うものは相手の身体を束縛できても「精神を支配することはできない」。望ましいのは、精神も身体も併せて自らの権利のもとにおくことであろう。相手に恩恵を与えたり、恐怖を感じさせて意のままにするならば、恐怖と(恩恵を被りたいという)希望という感情が続く限りは心身共に自己の権利のもとにおくことができる。実に国家状態と自然状態との差異は、前者においては「すべての人々が同じものを恐れ、同一の安全な原因と生活様式をもつ」という点にしかない。国家状態とは恐怖と希望という共通の感情によって結びついた一つの共同体に他ならない。
ところで、国家の最高権力とは「あたかも一つの精神によってのように導かれる多数者の力」によって定義される。スピノザは国家の権利(個々人の権利と同じく)に、この力とは別の根拠や正統性を認めないので、国家状態の維持はひとえにこの多数者の共同の力にかかっている。服従の調達も同様である。というのも、人々が「あたかも一つの精神によってのように導かれる」という事態は、一人一人の観点からみると「自分以外の他の人々」の総体的な力が自分より強力である場合を意味する。その場合に各人はより少ない権利を持つ、つまり共同の意志に従うとされるからである。共同の意志つまりは国法に従う理由が、国家の力を恐れたためであろうが平穏な生活を望んだからであろうが、それが各人の判断に基づき、利害得失を考量した上で自らの意向によってのことであることにかわりはない。この事情は自然状態でも国家状態でも同じである。「精神を支配する」とは、このように各人が自らの意向でもって国家に服従していることの謂と解することができよう。本稿冒頭で紹介したように、スピノザは各人の思想の自由をほぼ無条件に擁護する。というのも、各人の判断力を放棄させて、真を偽と信じこませるごとき所業は、国家権力をもってしても不可能だからである。国家がなし得ることは、あくまでも各人の意向にしたがった服従を調達することだけである。
結局のところ、国家への公民の服従を確保するという課題は、国家の最高権力たる統治権を国家自身が独占することで解決する。「統治権の独占」とは同語反復のようだが、スピノザは『政治論』で統治権の分割について語っている。もし国家が一人の、あるいは二人以上複数の人々に対して、国家の意に反してでも各々の意向のままに生きることを許すならば、国家の権利はそういう人々の人数分だけ少なくなる。国家はそれだけ自分の力、権利を委譲してしまうことになるのであり、それは統治権の分割とよびうるのである。もし人々を憤慨させて、国家に対する恐怖や復讐への希望によって一つに結託させてしまうと、国家はその力を大幅に減じてしまう。あげくに国家が公民全員に同様の力を与えるときは、国家状態は解体し、いっさいの自然状態への復帰を惹起する。
それでは、国家状態の維持と公民の服従の調達を確保するためにはどうすればよいのか。次のような説得を公民一人一人が受容すればよいだろう。「君以外の他のものたちの力は完全にわれわれの手中にある」(3)。換言すると、自分自身をのぞいたほかのすべての人々が国家に服従していると信じるように、公民一人一人を促せばよいのである。統治権が制限されてしまうのは、公民のある部分が国家を意に介せず生活するときであった。一人や二人ならばあまり実害はないかもしれない。だが、相当数の人間が恐怖や希望という感情によって結びついて、国家の内部にもう一つの共同体のごときものが出現すると、統治権は有名無実と化す。統治者にとってもっとも恐ろしいのは、公民を構成する人々がなんらかの理由で、国家とは別様に「あたかも一つの精神によってのように」結合することなのである。統治者としては、人々の結合の仕方がいくつもあっては困るのであって、結合の機縁をただ一つに限定しなくてはならない。そこで「君以外の他の人々はみな私に従っているのだ」と各人に想像してもらおうとするだろう。この説得が成功すれば、一人一人は自分を除外したすべての人々がもつ総体的な力を前にして、自らの力と権利を減じることになる。この場合、各人が恐れる原因はただ一つとなっている。すなわち、それは私以外のすべての人々の力=権利である。「私を除外したすべての人々」の数とは、公民総数を所与のものとすると、ただ一通りにしか決まらないのだから。
(1)ここでスピノザ政治思想における「契約」について少しだけ触れておく。スピノザは『神学政治論』第十六章で、社会契約と各人の自然権の国家へのに委譲に基づく国家設立について述べている。ところが『政治論』に至ると、社会契約論を想起させる議論は消滅してしまう。この変化をスピノザ政治思想の断絶と解するのか、それとも発展と解するのかは議論の分かれるところである。指摘さるべきは『神学政治論』の段階においてさえ「いかなる契約も、利益に関してのみ力もちうるのであり、利益が失われると契約も失われ無効となる」(TTP16/192)と述べられていたことである。かかる契約観をもっていたがゆえに、スピノザが後に『神学政治論』での社会契約論的議論が余計であったことに気づいたのだというワーナムの見解が妥当であろう。see A .G. Wernham (ed. and tr.), Benedict Spinoza: The Political Works (Oxford: Clarendon Press), 1958, p.131. footnote 3. cf. TP4/6/294
(2)次の『神学政治論』での表現も参照。「臣民を作るのは服従の理由ではなく、服従そのものである」。
(3)A. Matheron, "Spinoza et pouvoir", in Matheron, Anthropologie et politique au XVIIe siecle (Paris: Vrin ), 1986, p.115.(真田・桜井共訳「スピノザと権力」工藤・桜井編『スピノザと政治的なもの』平凡社、一九九五年、一二四頁)。 

 

前節で確認されたのは、公民の服従を調達するには各人が「自分自身を除外した他の人すべて」が「統治権のもとにある」あるいは「国家の意志に従っている」と想像することが必要だということであった。かかる想像には「他の人々」と彼(女)らからは区別される「私」という二項からなる表象が含まれている。本節で私が論証したいのは、この表象を抱くものこそまさに「自由意志の主体」だということである。ところが、よく知られているように、スピノザは人間に自由意志を認めない。自分が自由だと思う、つまり自由意志によってあることをなすこともなさぬこともできると思っている人は、自分の意欲や衝動、あるいは行動を意識はするが、自分をそういったものへと決定している原因を知らない。スピノザによれば無知としかいいようのない人々が、みずからを自由であると信じこむのである。だが私は、この意味での「自由意志の主体」が国家に服従するはずだと考える。鍵はスピノザの感情論にある。
自分が自由であると信じている人は、認識においては想像知にとらわれており、常に受動感情に翻弄されている人でもある。国家状態を形成する感情は希望と恐怖であったが、この二つの感情は元来が受動感情であり、「われわれがその結果について幾分疑っている未来あるいは過去のものの観念から生じる」喜びや悲しみである。定義上恐怖なき希望も希望なき恐怖もないのであって、とりわけ未来に関する疑念という点では両者は同じ感情の二側面である。この喜びや悲しみにとらわれた人間に関するスピノザの分析を追うことで、「他の人々」と「私」からなる二項図式を説明してみよう。
スピノザが「人々」という言葉を、わざわざ「われわれがどのような感情にもとらわれていない」人々のことだと但し書きを付しながら、導入するのは『エチカ』で「感情の模倣」という感情伝播の原理を扱う第三部定理二九以降の諸定理においてである。われわれは複数の人間とともにある感情を共有することができるとスピノザはいう。
「もしあるものがあることをなしたために、自分以外の人々に喜びを与えると想像するときには、彼は喜びに動かされ、その際には原因としての自己の観念が伴っているだろう」 この定理にはすでに「他の人々」と「私」が二つそろって登場している。以下定理の証明を検討してみる。他の人々に喜びを与えていると想像するものは、まさにその行為のゆえに喜びに包まれる。というのは、われわれはわれわれに似ているものが「ある感情に動かされるのを想像すると、そのことだけでそれと似た感情に動かされる」からである。そして人間は自分の行為を決定する(身体の)変様を通じて自己を意識するのだから、この場合には彼は他の人々を喜ばせる「原因として自己」を意識し、喜びに動かされる。事態は悲しみを共有する場合でも、議論の方向は正反対ではあれ、論理としては全く同様である。
みずからをなんらかの事象の原因であるとみなすこと、ここに自分が自由意志を持つと思いこむ発端の一つがある。シュラーあて書簡で紹介された同時代の論者のスピノザへの批判の例を引いてみよう。それによると、われわれがたとえば「書くことを欲しまた欲しないようになんらかの絶対的思惟能力をもつ」と意識することが、人間が自由意志を有している証拠だとされる。スピノザは、この意識が先の「運動している石」のそれに等しいのではないかと揶揄しつつ次のように述べる。すなわち、別の場合には彼を強制しなかったであろう諸原因が、この場合には彼を必然的に書こうとする欲望をもつべく強制した(外部の諸原因が彼の意志に反して書くよう強制したという意味ではなく)のだと。この反論がどこまで妥当かは、当面棚上げしてよい。それよりも、スピノザの批判を逆に取ってみたい。すると、自由意志を持つと思いこむものは、自分を強制している外部の諸原因を知らないからこそ、自分を原因だとみなすことになるのではないか。つまり、ある欲望をもつことそれ自体に対して、みずからがその原因であるのだから、当の欲望からも自由であると思うのである。自分のある欲望に加えて、さらにその欲望を「欲する」ことも「欲しない」こともできると考えること、これがみずからを原因とみなす信念の内容であって、ひいては自由意志をもつとの思いこみを生み出すのである(1)。
私は他の誰かを喜ばせる原因であり、そのかぎりで実際に喜ばせようと行為する。私にはそういった行為を可能とする能力と、それを行使する自由意志があると思いこんでしまう。だがこの思いこみは次の二点から誤りであることがわかる。第一に、そのような喜びはたんに想像上のものにすぎないことがあり得る。第二に、感情の模倣によって共有される感情、あるいはそこから導かれる行為をなそうとする欲望は、それを感じている人の排他的所有物というわけではない。われわれはなんらかの基準でもって「われわれに似ているもの」の類似点を数え上げ、しかる後に感情を共有するのではない。まず最初に、誰のものかはわからないがある感情におそわれて、それを事後的に誤って自己に帰属させてしまうのが実相である。
以上の議論はややわかりづらいかもしれないので、ここでスピノザのいう「感情の模倣」の機制を明らかにしておきたい。それにはヒュームの「共感」論との比較が好適である。
ヒュームはおおよそ次のように共感を説明する。ある人がなんらかの情念を抱くとき、その結果としての「顔つきや会話などにおける外的記号」を通じて当の情念の観念がわれわれの心に伝達される。この観念は直ちに印象に転換してもとの情念に等しい情動を生み出す。このように他者の情念を伝達する原理が共感である(2)。ところでヒュームによれば、われわれは他者の情念を直接認知することはできず、その原因や結果に気づくだけである。これら原因と結果からわれわれは他者の情念を「推し量り」、その原因と結果がわれわれの共感を引き起こす(3)。ヒュームの共感は情念伝達の原理であるが、推量の過程を経るところからいって、それ自体が情念であるかどうかは疑わしい(4)。さらに、後にスミスが「公平な観察者」という概念に仕上げていった、個々人の特殊事情を越えた「一般的で不変の基準」をも、ヒューム共感論は補正手段として準備している(5)。
ヒュームの共感と比較すると、スピノザの感情の模倣には他者の「感情の推量」などが介在する余地はない。むしろ他者の感情の認知と、われわれが同様の感情に包まれることとはまったく同じことである。スピノザは感情の模倣の実例を人の幼少時代に求めている。子供は、他の子供が泣いたり笑ったりすると、一緒になって泣きあるいは笑い出す。子供にとって、他者の感情を認知することがすなわちその感情を模倣してしまうことである。これは子供のみならず、多かれ少なかれ人間すべてに当てはまるはずである。というのも、ものの像とは人間身体の変様そのものであり、このために人間身体はあることをなすべく方向づけられているからである。かくして、ヒュームとは違って、スピノザの感情の模倣は、直接的に他者の感情を我がものとしてしまうという意味で、同情に近い(6)。細かな用語上の差異にこだわる必要はない。スピノザにとっては、他者の感情認知と感情の模倣とのあいだには何の懸隔もないことだけを確認しておけば十分である。
また、感情の模倣もまた特定の状況を離れて、自己運動する。だがそれは、感情の模倣が、一般的な視点を各人の内に植え付けるといったものではない。感情の模倣にかぎらず、スピノザ感情論に特徴的なのは、感情を引き起こす外的な原因がとめどもなくずれていくことにある。われわれがある事物と出会うとき、それを原因としてわれわれの身体は動かされ、変様を被る。ところが、ある事物がかつてわれわれをある感情をもつように動かした別の事物となんらかの類似点をもつと想像されるだけで、それが実際の感情の動因でなくとも、それどころか通常は反対の感情をもたらす場合でさえも、われわれはかつて抱いたのと同じ感情をもつようになる(7)。
このような事態が生じるのは、人間の感情が想像知という非十全な観念を媒介にしているからである。われわれが感情を抱くときに、精神が形成する想像は、外的原因の本性よりも、身体の変様状態を示している。それゆえ、われわれが諸事物に見いだす類似点は、諸事物の実在的性質をあるがままに表示するわけではない。そこから、われわれが偶然にであろうとひとたび抱いた感情は、類似点という事物間の共通性の想像をわれわれがもつことで、別の事物へとずれていく。この「ずれ」は、共通性の想像が部分的な類似にすぎず、実際の事物のあり方とは必ずしも合致しないので、無限に拡大していく。そしてついてに感情は、それが当初結びついていた想像とは全く無関係の想像に結びついてしまう。したがって、われわれの感情は外的な事物と、その想像のずれを通じて、無限に拓かれた結合関係の網の目に組み込まれていくことになる。スピノザは、感情論において、人間が感情のネットワークに否応なく巻き込まれていることを論証したのである。
かかる事情に感情の模倣が加わると、われわれは意図せざる争いをある種不可避的に起こしてしまう。たとえば、感情の模倣を扱う定理からはまずは憐憫が演繹されていたのだが、憐憫からは妬みが生じる。というのは、われわれは誰かが独占的にあるものを享受しているのを想像すると、感情の模倣によって、彼が享受している当のものを欲するようになり、われわれの同情心(8)同じ本性上の特質から、われわれの妬み深さが導き出されるからである(9)。
以上の迂回路を通ることで、感情の模倣にとらわれているものは、その感情から導かれる行為の支配者とはいえないことがより明晰に理解されるだろう。だが、受動感情にとらわれている限り、かかる転倒は解消されるどころか強化されてしまう。というのも、われわれが自己を意識するのは感情を抱いた状態を経る以外には道はないからである。感情とは身体の活動力の増減を伴う身体の変様とその観念であるが、「精神は身体の変様を知覚する限りにおいてのみ、自分自身を認識する」のである。この自己認識は、身体の変様を引き起こす外部の諸原因についての認識を含まないので、それだけで考えられると必然的に非十全である。とはいえ「私がみずからの存在を肯定できるのは、他者との関係において以外にはあり得ない」(10)。なぜなら、私に固有の活動力は外的原因との相互作用のなかではじめて、増大したり減少したりするのだから。相互作用の過程のなかで「精神は自分自身とその活動力を観想するときに喜ぶ。そして自分自身とその活動力をより判明に想像すればそれだけ大きな喜びを感じる」。しかも、自分の活動が他から区別されて独自のものであると観想することができればそれだけ喜びは増し、逆に自分自身について肯定している事柄が人間の一般概念に関係づけられるときにはそれほど喜ばない。つまり、自分自身を他の人から画然と区別し、「私だけは」特別な存在者であると考えたがるのが受動感情にとらわれた人間の常なのである。
他方「他の人々」という表象は、同じく感情の模倣に媒介されて「階級」「民族」といった一般概念ではあるものの、一定の内実をもつことになる。もちろんこれらは一般概念である以上は毀損した認識である。スピノザは一般概念を混乱した認識だと批判している。一般概念の代表として「人間」が例示されていたことは重要である。「人間」なる記号は、ある身体が一定数の個人によって、偶然一致して触発され、刺激を受けた点を指しているにすぎない。きわめて多様な対他関係を、そのような像に代表させることはできないし、現に「人間」の指示する像はまちまちであり役には立たない。とはいえ、想像知をもっぱらとし、受動感情にとらわれたままの人々、みずからが自由であると信じている人々の眼には、「他の人々」は国家においては「人間」ならぬ「民族」や「階級」としての同胞に映ることは容易に推察される。
こうして先述の「私」と「他の人々」からなる二項図式は、自由意志の主体が常に持ち続ける表象であることが明らかになった。かかる二項図式が頭から離れないからこそ、人は自分を自由であると信じることができる。不特定の人々と共通の感情という絆でつながりあいながら、「原因としての自己」を自分以外の人々から抜き出して思い描き、しかもそうすることでしか自己を意識できない。こういう人間が、スピノザが批判的に分析した「自由意志の主体」である。
(1)スピノザは「原因としての自己」を意識する人について、詳しい説明を残していないので、このように解釈してみた。この解釈にあたって、私はフランクファートのいう「第二階の秩序の欲求(second-order desires)」を念頭に置いている。スピノザの自由意志批判論が、フランクファートの立論を脅かすかどうかは全くの別問題であることはいうまでもない。H. G. Frankfurt, "Frredom of the will and the concept of a person" in his The importance of what we care about (Cambridge: Cambridge University Press), 1988, p.12.
(2)D. Hume, A Treatise of Human Nature, ed. by P. H. Nidditch (Oxford: Clarendon Press), 1978, p.317.
(3)D. Hume, Treatise, p.576.
(4)杖下隆英『ヒューム』頸草書房(新装版)一九九四年、一五六〜七頁参照。
(5)D. Hume, Treatise, p.603.
(6)ヒュームのいう「sympathyは共感(Mitgefuhl)ではあっても同情(Mitleid)ではない」J. L. Mackie, Hume's Moral Theory (London: Routledge & Kegan Paul), p.120. ちなみにに、スピノザが感情の模倣を語るときに最初に出す例は「憐憫(Commiseratio)」(E3P27S)である。
(7)この結果、二つの対立する感情におそわれた精神の状態である「心の迷い」が生じる。
(8)これは憐憫とほぼ同質。cf. E3AD18, AD24
(9)もう一つ興味深いのは、須藤がスピノザの感情の模倣を分析する際に紹介している「みにくいアヒルの子」定理である。この定理を簡単にまとめると「すべての二つの物件は、同じ度合いの類似性をもっている」となる。すると感情の模倣における「われわれ」と「われわれに似たもの」との間の類似性は、身体の現実的本性に基礎づけることはできなくなる。なんとなれば「一切は一切に似ている」からである。須藤訓任「感情伝染」現象学・解釈学研究会編『プラクシスの現象学』世界思想社、一九九三年、二一二〜二一四頁参照。
(10)M. Bertrand, Spinoza et l'imaginaire (Paris: PUF), 1983, p.120. 

 

もはや国家によく服従するものが、自由意志の主体であることは明らかであろう。公民総体から自分だけを差し引きながら、各人はみずからを意識し、ひいては自由であると想像する。しかも、一人一人が同様に「私だけは」と想像するならば、そのことは同時に表象にすぎなかった「他の人々」の力を自動的に現実化してしまう。一人一人がみな「自分以外の他の人々はみな国家に服従している」と想像すると、「他の人々」の総体的な力の前に圧倒されて、その結果として彼(女)らは実際に国家の意志に従うだろう。そうすることによって彼(女)らの想像に過ぎなかった信念が現実的に真となってしまう。そこからふたたび同じように各人が国家への服従に動機づけられていき…以下無限に続く(1)。一般的にいって想像知は、非十全で混乱した認識様式であって、虚偽の唯一の原因である。にもかかわらず、あるいはそうであるがゆえに、自由意志の主体がもつ想像は現実を構成していくのである(2)。国家への服従と自由意志の主体との共犯関係が、国家形成と維持の根幹にあることを、スピノザは見抜いていたのだと私は思う。少なくとも、『政治論』において語られる「自由な意向」とか「自由な民衆・公民」といった言葉には本稿で分析したような意味を読みとることができるし、そうすべきなのである(3)。
ところで本稿の以上の分析は、国家統治の必要条件を述べたにすぎない。それでは、その十分条件はなんであろうか。それは「理性の指導」にそった国家体制の整備と賢明な諸施策である。各人が「自由な意志の決定によって国家に服従している」と想像することは、確かに国家への公民全体の服従を保証はする。だが、この条件がひとたび成立したからといって、統治者は最高権力をほしいままにして、専制政治を敷くことは許されないのである。統治者の乱行や圧制は国家状態の解体をもたらしてしまうからである。スピノザの言葉によれば「それがなくては国家が国家として存在しない諸法則あるいは諸規則に国家が少しも拘束されないとすれば、その場合国家は自然物としてではなく、キマイラとしてみなされねばならない」。そして、人間の場合は理性に導かれるものがもっとも力があり、もっとも自己の権利のもとにあるのと同様に「理性に基づき、理性に従う国家はもっとも力があり、もっとも自己の権利のもとにある」のである。
ここでは「理性の指導」の具体的内容を詳述する余裕はないが、雑ぱくにまとめるならば、それは各人が「喜びをもち、自らの意向に従って国法を遵守している」と想像できるような国家を、君主制と貴族制の別に関わらず構築するということであり、総じて自由主義的(その限りでは民主的)な内容をもつ(4)。最後に一つだけ『神学政治論』における思想の自由擁護論を再検討しておきたい。
われわれが自己の権利のもとにあるものを好きなようにできるという場合、そのことはたとえば「机に草を食べさせる」ことができるという意味ではない。それと全く同様に、国家が自己の権利のもとにある人々に、嘲笑され軽蔑さるべきことがらを尊敬させることは不可能である。それゆえ、公民を虐殺したり、略奪するような統治者は「恐怖を憤激に変え、したがって国家状態を敵対状態に転化させる」ことになる。国家はついには崩壊することになるだろう。こうした「それがなくなれば国家も消滅してしまうような一定の諸事情」に、『神学政治論』は思想と言論の自由を含めていたと解釈できると思う。
スピノザによれば、思想・言論の自由は国家の平和、安寧、さらには最高権力を損なうどころか、それらを維持するための必須条件である。というのは「この自由を人々から奪おうとしたり異なる考えをもつ人々の意見を裁判の対象とする」ところでは、正しい人がやり玉に挙がって、殉教の観を呈し、それをみた他の人々を憤慨させて復讐へと向かわせるからである。さらに宗教上の対立が加わると「国家の安寧に矛盾する」事態が招来される。スピノザが思想・言論の自由を擁護したのは、それらの保証が国家秩序の安寧につながるからであって、それ以上の理由(たとえば宗教上の寛容主義)があるわけではない。かかる発想は、『神学政治論』と『政治論』とに共通の現実主義と呼べるだろう。
本稿が以上のように明らかにしてきた意味では、スピノザ政治思想を自由主義の陣営に列することは、通説を踏襲して、妥当だといえる。だが、そこでスピノザが擁護した自由とは、彼の自由意志批判に裏打ちされたものだと認めることが付帯条件となる。
もとよりスピノザが人間に認める真の自由、つまり「自己の本性から必然的に導かれることをなす自由」と、政治学的思考において要請されてきた、本稿が解明した限りでの、自由とはまったく別物である。この二つの自由の関係を、スピノザ政治学において、またその哲学全体の見取り図において明るみに出す作業は本稿の問題設定の範囲を超えている。後日の課題としておきたい。
(1)cf. A. Matheron, "Spinoza et pouvoir" p.115.(邦訳一二四頁)
(2)「そうやって各人は互いにとっての〈残りの者〉の力を、実のところはなんの保証もないまま、相互に対して実現しあってしまうわけである」上野修「二つのあたかも─スピノザ『政治論』のために」前掲『スピノザと政治的なもの』一八九頁。本稿はこの上野論文の多大な影響下に書かれている。上野が周到に分析してみせた「残りの者」(本稿では「自分をのぞいた他の人々」。原語は同じ。)の論理につけ加えるべきものを、私は知らない。私は「残りの者」の論理に否応なく巻き込まれてしまう人々の主観的側面を強調したいと考える。
(3)柴田はスピノザの欲望論を論じながら、自律的主体としての自己の成立構造に「他者への服従を再生産するメカニズム」を読みとっている。結論には大いに同意するが、スピノザ感情論の具体的検討にはやや粗雑な点が見受けられる。柴田寿子「スピノザ主義者は『自由主義』の何を批判するか─『自由な自己』のアイデンティティと社会権力」鬼塚ほか共編『自由な社会の条件』ライブラリ相関社会科学3、新生社、一九九六年、一七七〜一八二頁参照。
(4)実は統治者と被治者の間にも先述の感情の模倣が働いている。各人が国家に服従するときに抱く感情が、希望であるのか、恐怖であるのかで、国家秩序の安定性に大きな違いが生まれる。国家秩序をより安定したかたちで維持するためには自ずと「理性の指導」に従わざるを得なくなる事情がある。詳しくは、拙論「スピノザにおける理性と感情」北海道大学哲学会『哲学』第三○号、一九九四年、九五〜九七頁参照。 
 
Newton's Philosophiae Naturalis Principia Mathematica

 

No work of science has drawn more attention from philosophers than Newton's Principia. The reasons for this, however, and consequently the focus of the attention have changed significantly from one century to the next. During the 20th Century philosophers have viewed the Principia in the context of Einstein's new theory of gravity in his theory of general relativity. The main issues have concerned the relation between Newton's and Einstein's theories of gravity and what the need to replace the former with the latter says about the nature, scope, and limits of scientific knowledge. During most of the 18th Century, by contrast, Newton's theory of gravity remained under dispute, especially because of the absence of a mechanism — in particular, a contact mechanism — producing gravitational forces. The philosophic literature correspondingly endeavored to clarify and to resolve, one way or the other, the dispute over whether the Principia should or should not be viewed as methodologically well founded. By the 1790s Newton's theory of gravity had become established among those engaged in research in orbital mechanics and physical geodesy, leading to the Principia becoming the exemplar of science at its most successful. Philosophic interest in the Principia during the 19th Century therefore came to focus on how Newton had achieved this success, in part to characterize the knowledge that had been achieved and in part to pursue comparable knowledge in other areas of research. Unfortunately, a very large fraction of the philosophic literature in all three centuries has suffered from a quite simplistic picture of the Principia itself. The main goal of this entry is to replace that simplistic picture with one that does more justice to the richness of both the content and the methodology of the Principia.
・1. Overview: The Importance of the Work
・2. The Historical Context of the Principia
・3. The Three Editions of the Principia
・4. “Definitions” and absolute space, time, and motion
・5. Newton's Laws of Motion
・6. Book 1 of the Principia
・7. Book 2 of the Principia
・8. Book 3 of the Principia
・9. The Scientific Achievement of the Principia
・10. The Methodology of the Principia
•Bibliography   ◦Primary Sources ◦Secondary Sources
•Other Internet Resources
•Related Entries  
{ @nifty 翻訳 }
科学のどんな仕事もニュートンのプリンキピアより哲学者からの注意を引いていません。 この理由、しかしながら、その結果、注意の焦点は1世紀から次にかなり変化しました。 20世紀哲学者の間、アインシュタインの彼の一般相対性理論の重力の新しい理論の文脈のプリンキピアを見ています。 本題は重力と前者を後者に取り替える必要性が自然、範囲、および限界に関して何で言うかに関するニュートンとアインシュタインの理論の関係に関係がありました。科学知識。 対照的に、18世紀の大部分、ニュートンの重力の理論は、論争の下にあり続けました、特に重力を発生させるメカニズム(特に接点機構)の欠如のため。 哲学的な文学は、はっきりさせて、どちらかの方向にプリンキピアを見なすべきであるか、または方法論的によく設立されていると見なすべきでないかどうかに関する論争を解決するよう対応する努力しました。 1790年代までには、ニュートンの重力の理論は軌道力学と物理測地学における研究に従事しているもので確立するようになりました、最もうまくいくところの科学の手本になるプリンキピアに通じて。 したがって、19世紀にプリンキピアへの哲学的な関心はニュートンがどうこの成功を遂げたかに焦点を合わせて、一部達成された知識を特徴付けて、研究の他の部門で一部匹敵する知識を追求することになりました。 残念ながら、すべての3世紀の哲学的な文学の非常に大きい部分はプリンキピア自体のかなり安易な絵が欠点でした。 このエントリーの第一目的はその安易な絵を内容とプリンキピアの方法論の両方の豊かさをより多く公平に扱うものに取り替えることになっています。 
1. Overview: The Importance of the Work

 

Viewed retrospectively, no work was more seminal in the development of modern physics and astronomy than Newton's Principia. Its conclusion that the force retaining the planets in their orbits is one in kind with terrestrial gravity ended forever the view dating back at least to Aristotle that the celestial realm calls for one science and the sublunar realm, another. Just as the Preface to its first edition had proposed, the ultimate success of Newton's theory of gravity made the identification of the fundamental forces of nature and their characterization in laws the primary pursuit of physics. The success of the theory led as well to a new conception of exact science under which every systematic discrepancy between observation and theory, no matter how small, is taken as telling us something important about the world. And, once it became clear that the theory of gravity provided a far more effective means than observation for precisely characterizing complex orbital motions — just as Newton had proposed in the Principia in the case of the orbit of the Moon — physical theory gained primacy over observation for purposes of answering specific questions about the world.
The retrospective view of the Principia has been different in the aftermath of Einstein's special and general theories of relativity from what it was throughout the nineteenth century. Newtonian theory is now seen to hold only to high approximation in limited circumstances in much the way that Galileo's and Huygens's results for motion under uniform gravity came to be seen as holding only to high approximation in the aftermath of Newtonian inverse-square gravity. In the middle of the nineteenth century, however, when there was no reason to think that any confuting discrepancy between Newtonian theory and observation was ever going to emerge, the Principia was viewed as the exemplar of perfection in empirical science in much the way that Euclid's Elements had been viewed as the exemplar of perfection in mathematics at the beginning of the seventeenth century. Because of the extent to which Einsteinian theory was grounded historically on Newtonian science, the Principia has retained its unique seminal position in the history of physics in our post-Newtonian era. Perhaps more strikingly, because of the logical relationship between Newtonian and Einsteinian theory — Einstein showed that Newtonian gravity holds as a limit-case of general relativity in just the way Newton showed (in Book 1, Section 10) that Galilean uniform gravity holds as a limit-case of inverse-square gravity — even though the Principia can no longer be regarded as an exemplar of perfection, it is still widely regarded by physicists as an exemplar of empirical science at its best.
回顧的に見られて、現代物理学と天文学の開発ではどんな仕事もニュートンのプリンキピアほど発達の可能性がありませんでした。 それらの軌道で惑星を保有する力が、本質的な地球引力がある1であるという結論は、いつまでも、天の分野が1つの科学と月下の分野(別のもの)を求めるという少なくともアリストテレスとデートして戻られる意見を終わらせました。 ちょうど初版へのPrefaceが提案したように、ニュートンの重力の理論の終局の成功は基本的な自然の力の識別と法における彼らの特殊化を物理学の第一の追求にしました。 また、理論の成功は観測と理論の間のあらゆる系統的な食い違いがどんなに小さくても世界に関して何か重要なものを私たちに言うとみなされる精密科学の新しい概念につながりました。 そして、一度、重力の理論がちょうどニュートンが月の軌道の場合におけるプリンキピアで提案したように、正確に複雑な公転運動を特徴付けるための観測よりはるかに効果的な手段を提供したのは、明確になりました--物理的な理論は世界に関する具体的な質問に答える目的のための観測に第一を獲得しました。プリンキピアの回顧的展望は19世紀の間中それが何であったかからのアインシュタインの特別で一般的な相対性理論の余波において異なっています。 ニュートンの理論は今、方法による限られた事情で一定の重力の下の動きのためのガリレオとホイヘンスの結果がニュートンの逆さの正方形重力の余波で高い近似だけに成立するのが見られるようになったと高い近似だけに主張するのを見られます。 19世紀の中頃では、ニュートンの理論と観測の間のどんな弁駁食い違いも今までに現れるつもりであったと考える理由が全くなかったときのプリンキピアが経験科学における、完全性の手本としてどのように方法で見なされたとしても、そのユークリッドのElementsが17世紀の始めに数学の完全性の手本として見なされました。 アインシュタインの理論はニュートンの科学で歴史的に根拠があった範囲のため、プリンキピアは私たちのポストニュートンの時代の物理学の歴史のユニークな発達の可能性がある見解を保有しました。 おそらくよりきわだって、ニュートンの、そして、アインシュタインの理論の間の論理的関係性のため? アインシュタインは、ニュートンがそのガリラヤの一定の重力を示した(Book1のセクション10)まさしく方法における、一般相対性理論に関する限界ケースが逆さの正方形重力に関する限界ケースとして持ちこたえるとき、ニュートンの重力が成立するのを示しました--もうプリンキピアを完全性の手本と見なすことができませんが、それは最善で物理学者によってまだ広く経験科学の手本と見なされています。 
In spite of extravagant claims made about the Principia by some in the years after it first appeared — “… he seems to have exhausted his Argument, and left little to be done by those that shall succeed him”[1] — the most positive view of it that anyone could have substantiated during the first half of the eighteenth century would have emphasized its promise more than its achievements. The theory of gravity had too many loose ends, the most glaring of which was a factor of 2 discrepancy in the mean motion of the lunar apogee, a discrepancy that undercut the claim that the Moon is held in orbit by an inverse-square force. No one knew these loose ends better than Newton himself, yet no one had a greater sense of the potential of the theory of gravity to resolve a whole host of questions in planetary astronomy — which may well explain why he made these loose ends difficult to see except by the most technically skilled, careful readers. Between the late 1730s and the early 1750s the situation changed dramatically when several of the loose ends were tied up, in some cases yielding such extraordinary results as the first truly successful descriptive account of the motion of the Moon in the history of astronomy. During the second half of the eighteenth century the promise of the Principia was not only universally recognized by those active in empirical research, but a large fraction of this promise was realized. What we now call “Newtonian mechanics” emerged in this process, as did the gravity-based accounts of the often substantial divergences of the planets from Keplerian motion, the achievement of Newton's theory of gravity that ultimately ended all opposition to it.
During the eighteenth century the Principia was also seen as putting forward a world view directly in opposition to the broadly Cartesian world view that in many circles had taken over from the Scholastic world view during the second half of the seventeenth century. Newton clearly intended the work to be viewed in this way when in 1686 he changed its title to Philosophiae Naturalis Principia Mathematica, in allusion to Descartes's most prominent work at the time, Principia Philosophiae. (The title page of Newton's first edition underscored this allusion by placing the first and third words of the title in larger type.) The main difference in the world view in Newton's Principia was to rid the celestial spaces of vortices carrying the planets. Newtonians subsequently went beyond Newton in enhancing this world view in various ways, including forces everywhere expressly acting at a distance. The “clockwork universe” aspect of the Newtonian world view, for example, is not to be found in the Principia; it was added by Laplace late in the eighteenth century, after the success of the theory of gravity in accounting for complex deviations from Keplerian motion became fully evident.
最初に現れた後に、数年間いくつかによってプリンキピアに関してされた法外な要求にもかかわらず? 「… 彼は、彼のArgumentを消耗させて、彼の後任となるものとするものが、少ししか完了しないのを残したように思える」という1? それのだれでも18世紀の前半に実体化したかもしれない中で最も積極的な視点は約束を業績よりもう少し強調したでしょう。 重力の理論には、あまりに多くの未処理事項がありました。その最も多くのにらみが2食い違いの月の遠地点(月が軌道に逆さの正方形力によって保持されるというクレームを切り落とした食い違い)の平均の動きの要素でした。 これらの未処理事項をニュートン自身よりよく知りませんでしたが、だれでも重力の理論が惑星の天文学たぶん(彼が、なぜ大部分を除いて、これらの未処理事項を見るのを難しくしたかを説明する)での多くの質問を決議する可能性の、よりすばらしい感覚は技術的に熟練するようになりませんでした、慎重な読者。1730年代後半と1750年代前半の間では、状況は、いくつかの未処理事項がいつ片づけられたかを劇的に変えました、いくつかの場合、天文学の歴史における、月の動きの最初の本当にうまくいっている描写的な話のような並はずれた結果をもたらして。 18世紀の後半に、プリンキピアの約束は実証的研究でアクティブなものによって一般に認識されただけではなく、この見込みの大きい部分が実現されました。 私たちが現在「ニュートン力学」と呼ぶものは、この過程で現れました、Keplerian動きからの惑星のしばしばかなりの分岐の重力ベースの話のように、ニュートンの結局それのすべての反対を終わらせた重力の理論の達成。
また、18世紀にプリンキピアが直接反対する世界観について提唱するのが見られた、広く、多くで旋回するCartesian世界観は、17世紀の後半の間のScholastic世界観から引き継ぎました。 彼が1686年にタイトルをPhilosophiae Naturalisプリンキピアマテマテイカに変えたとき、仕事はニュートンによって明確にこのように見られるつもりでした、当時デカルトsの最も際立った仕事への言及で、プリンキピアPhilosophiae。 (ニュートンの初版のタイトル・ページは、タイトルの1番目と3番目の単語をより大きいタイプに置くことによって、この引用を強調しました。) ニュートンのプリンキピアにおける世界観の主な違いは、惑星を運ぶ渦を天の空間から取り除くことでした。 ニュートン説信奉者は、次にいろいろこの世界観を強める際にニュートンを越えました、離れたまま明白に行動しながら、いたる所に力を含んでいます。 探しても、例えば、ニュートンの世界観の「時計仕掛け宇宙」局面がプリンキピアにはありません。 それは18世紀遅くラプラスによって加えられました、Keplerian動きからの複雑な逸脱のための会計における重力の理論の成功が完全に明白になった後に。 
In addition to viewing the theory of gravity as potentially transforming orbital astronomy, Newton saw the Principia as illustrating a new way of doing natural philosophy. One aspect of this new way, announced in the Preface to the first edition, was the focus on forces:
For the whole difficulty of philosophy seems to be to discover the forces of nature from the phenomena of motions and then to demonstrate the other phenomena from these forces. It is to these ends that the general propositions in books 1 and 2 are directed, while in book 3 our explication of the system of the world illustrates these propositions. For in book 3, by means of propositions demonstrated mathematically in books 1 and 2, we derive from celestial phenomena the gravitational forces by which bodies tend toward the sun and toward the individual planets. Then the motions of the planets, the comets, the moon, and the sea are deduced from these forces by propositions that are also mathematical. If only we could derive the other phenomena of nature from mechanical principles by the same kind of reasoning! For many things lead me to have a suspicion that all phenomena may depend on certain forces by which particles of bodies, by causes not yet known, either are impelled toward one another and cohere in regular figures, or are repelled from one another and recede. Since these forces are unknown, philosophers have hitherto made trial of nature in vain. But I hope that the principles set down here will shed some light on either this mode of philosophizing or some truer one. [P, 382][2]
A second aspect of the new method concerns the use of mathematical theory not to derive testable conclusions from hypotheses, as Galileo and Huygens had done, but to cover a full range of alternative theoretical possibilities, enabling the empirical world then to select among them. This new approach is spelled out most forcefully at the end of Book 1, Section 11:
I use the word “attraction” here in a general sense for any endeavor whatever of bodies to approach one another, whether that endeavor occurs as a result of the action of the bodies either drawn toward one another or acting on one another by means of spirits emitted or whether it arises from the action of ether or of air or of any medium whatsoever — whether corporeal or incorporeal — in any way impelling toward one another the bodies floating therein. I use the word “impulse” in the same general sense, considering in this treatise not the species of forces and their physical qualities but their quantities and mathematical proportions, as I have explained in the definitions. Mathematics requires an investigation of those quantities of forces and their proportions that follow from any conditions that may be supposed. Then, coming down to physics, these proportions must be compared with the phenomena, so that it may be found out which conditions of forces apply to each kind of attracting bodies. And then, finally, it will be possible to argue more securely concerning the physical species, physical causes, and physical proportions of these forces. [P, 588]
重力の理論を潜在的に軌道の天文学を変えるとみなすことに加えて、ニュートンはプリンキピアを自然哲学をする新しい方法を例証するとみなしました。 Prefaceで初版に発表されたこの新しい方法の1つの局面が、力の焦点でした:
哲学の全体の困難が動きの現象から自然の力を発見して、そして、これらの力からの他の現象を示すことになっているように思えるので。 これらにはそれが第1巻と第2巻の一般命題が指示されていることの終わりにあります、私たちの世界のシステムの解説は第3巻でこれらの提案を例証しますが。 私たちが第1巻と第2巻に数学的に示された提案によって第3巻で天象にボディーは太陽と個々の惑星の傾向がある重力に由来しているので。 そして、惑星、彗星、月、および海の動きは、また、数学である提案によってこれらの力から推論されます。 私たちが自然の他の現象に機械的原理に同じ種類の推理で由来さえできれば、よいでしょうに! 多くのものには、私にすべての現象がボディーの粒子がまだ知られていなかった原因によってお互いに向かって推進されて、レギュラーの数字でまとまるか、またはお互いから不快にさせられるある力に依存して、後退するかもしれないという疑念があるように導いてください。 これらの力が未知であるので、哲学者は、これまで、空しい自然のトライアルをしました。 しかし、ここに設定された原則が、哲学するこのモードかいくつかの、より本当の1つのどちらかをいくつか解明することを願っています。
新しい方法の第2の面は、数学の理論の使用がガリレオとホイヘンスがしたとき、仮説から試験できる結論を得るのではなく、そして、それらの中で選択する実証的な世界を可能にする代替の理論上の可能性の最大限の範囲をカバーするのが関係があります。 この新しいアプローチはBook1、セクション11の終わりに最も力強く詳しく説明されます:
私はここ、司令官の「アトラクション」が、何か努力のためにスピリッツによるお互いに関するお互い、その努力がお互いに向かって引かれたボディーの機能の結果、起こるかどうか、または芝居がアプローチするボディーの何でも放ったか、または何らかの方法でそこに浮くボディーをお互いに向かって推進して、肉体的であるか、または無形であることにかかわらずそれが全くエーテルか空気かどんな媒体の作用からも起きるかどうかと感じるという単語を使用します。 私は同じ一般的な意味で「衝動」という言葉を使用します、この論文で力とそれらの物理的品質の種ではなく、それらの量と数学の部分を考えている場合、私が定義で説明したように。 数学はそれらの量の力の調査と思われるどんな状態からも続くそれらの割合を必要とします。 次に、物理学に落ちて、これらの割合を現象と比較しなければなりません、力のどの状態がボディーをちょっと引き付けながらそれぞれに適用されるか見つけることができるように。 そして、そして最終的に、これらの力の物理的な種、身体的原因、および物理的な割合に関して、よりしっかりと論争するのは、可能でしょう。
A third aspect of the new method, which proved most controversial at the time, was the willingness to hold questions about the mechanism through which forces effect their changes in motion in abeyance, even when the mathematical theory of the species and proportions of the forces seemed to leave no alternative but action at a distance. This aspect remained somewhat tacit in the first edition, but then, in response to criticisms it received, was made polemically explicit in the General Scholium added at the end of the second edition:
I have not as yet been able to deduce from phenomena the reason for these properties of gravity, and I do not feign hypotheses. For whatever is not deduced from the phenomena must be called a hypothesis; and hypotheses, whether metaphysical or physical, or based on occult qualities, or mechanical, have no place in experimental philosophy. In this experimental philosophy, propositions are deduced from the phenomena and are made general by induction. The impenetrability, mobility, and impetus of bodies and the laws of motion and law of gravity have been found by this method. And it is enough that gravity should really exist and should act according to the laws that we have set forth and should suffice for all the motions of the heavenly bodies and of our sea. [P, 943][3]
During most of the eighteenth century the primary challenge the Principia presented to philosophers revolved around what to make of a mathematical theory of forces in the absence of a mechanism, other than action at a distance, through which these forces work. By the last decades of the century, however, little room remained for questioning whether gravity does act according to the laws that Newton had set forth and does suffice for all the motions of the heavenly bodies and of our sea. No one could deny that a science had emerged that, at least in certain respects, so far exceeded anything that had ever gone before that it stood alone as the ultimate exemplar of science generally. The challenge to philosophers then became one of spelling out first the precise nature and limits of the knowledge attained in this science and then how, methodologically, this extraordinary advance had been achieved, with a view to enabling other areas of inquiry to follow suit. 
当時、最も論議を呼ぶと判明した新しい方法の3番目の局面は力が動いているそれらの変化に作用するメカニズムに関する質問を停止しているとして保持する意欲でした、種の数学の理論と力の部分が離れたまま動作以外の代替手段を全く残さないように思えたときさえ。 それが受けた批評に対応して、この局面を初版でいくらか暗黙のままでしたが、第2版の端で加えられた司令官のScholiumで明白に議論好きにしました: 私は、まだ現象から重力のこれらの特性の理由を推論できませんでした、そして、仮説のふりをしません。 現象から推論されないことなら何でも仮説と呼ばなければならないので。 そして、仮説には、形而上学的か、物理的であるか、オカルトの品質に基づく、または機械的であることにかかわらず実験哲学の場所が全くありません。 この実験哲学では、提案を現象から推論して、一般的に誘導でします。 動きと重力の法則のボディーと法則の不可入性、移動性、および起動力はこの方法によって見つけられました。 そして、重力が本当に存在するべきであり、私たちが旅に出たという法によって行動するべきであり、天体と私たちの海のすべての動きに十分であるのは、十分です。 18世紀の大部分、プリンキピアが哲学者に提示した第一の挑戦は、メカニズムがないとき力の数学の理論で作るべきものを中心題目としました、距離での動作を除いて。(そこでは、これらの力が働いています)。 しかしながら、世紀の最後の数10年間で、余地は、重力がニュートンが旅に出たという法によって行動して、天体と私たちの海のすべての動きに十分であるかどうかと疑うためにほとんど残っていませんでした。 だれも、一般に、科学が少なくともある点、それが単独で立てた、その前にそれまでに行ったことがあった遠くに科学の究極の手本と同じくらい超えられているものは何のもそれとしても現れたことを否定しない場合がありました。 そして、哲学者への挑戦は先例に従うために問い合せについて最初に、この科学で達する知識の正確な自然と限界について詳しく説明して次に、方法論的に、この並はずれた進歩が他の領域を可能にするためにどう達成されたかを詳しく説明する1つになりました。 
2. The Historical Context of the Principia

 

The view is commonplace that what Newton did was to put forward his theory of gravity to explain Kepler's already established “laws” of orbital motion; and the universality of the law of gravity then ended up explaining the deviations from Keplerian motion by attributing them to gravitational interaction of the planets. This is wrong on several counts, the most immediate of which is that Kepler's “laws” were by no means established before the Principia. The rules for calculating orbital motion that Kepler put forward in the first two decades of the seventeenth century had indeed achieved a spectacular gain in accuracy over anything that had come before. Kepler's rules, however, did not yield comparable accuracy for the motion of the Moon, and even in the case of the planets the calculated locations were sometimes off by as much as a fourth of the width of the Moon. More importantly, by 1680 several other approaches to calculating the orbits had been put forward that achieved the same level of not quite adequate accuracy as Kepler's. In particular, Newton was familiar with seven different approaches to calculating planetary orbits, all at roughly the same accuracy. Only two of these, Kepler's and Jeremiah Horrocks's, used Kepler's area rule — planets sweep out equal areas in equal times with respect to the Sun — to locate planets along their trajectories. Ismaël Boulliau and, following him, Thomas Streete (from whose Astronomia Carolina Newton first learned orbital astronomy) replaced the area rule with a geometric construction. Vincent Wing had adopted still another geometric construction in the late 1660s after having earlier used a point of equal angular motion oscillating about the empty focus of the ellipse; and Nicolaus Mercator in 1676 added still a further geometric construction.[4] Of these six alternative approaches, only Horrocks and, following him, Streete, took Kepler's 3/2 power rule — the periods of the planets vary as the square root of the cube of their mean distances from the Sun — seriously enough to use the periods rather than positional observations to determine their mean distances.[5]
ニュートンがしたことが、ケプラーが既に公転運動の「法」を設立したと説明するために彼の重力の理論について提唱することになっていたという意見は平凡です。 そして、重力の法則の普遍性は、結局、それらを惑星の重力の相互作用の結果と考えることによって、Keplerian動きからの逸脱について説明しました。 これはケプラーの「法」がプリンキピアの前に決して設立されなかったという中でそれのもの最も即座であることであるいくつかのカウントのときに間違っています。 本当に、ケプラーが前方に17世紀の最初の20年間を入れたという計算の公転運動のための規則は前に来たものは何でも上の精度における壮観な利得を獲得しました。 しかしながら、ケプラーのやり方は月の動きのための匹敵する精度をもたらしませんでした、そして、惑星の場合ではさえ、月の幅の最大4分の1に従って、計算された位置は時々オフでした。 より重要に、1680年までには、軌道について計算することへのケプラーのものへの同じレベルのどんなかなり適切な精度も実現しなかった他のいくつかのアプローチが、進められていました。 ニュートンはおよそ同じ精度がすべて計算の惑星軌道への7つの異なるアプローチに特に、詳しかったです。 これらの2(ケプラーとエレミヤ・ホロックスのもの)だけが、それらの軌道に沿って惑星の場所を見つけるのに、惑星が等しい時代に太陽に関して等しい領域を一掃するというケプラーのエリアルールを使用しました。 イシュメイル・ブーヨと彼に続くトーマスStreete(だれのAstronomiaカロライナニュートンが最初に軌道の天文学を学んだかからの)はエリアルールを幾何学上工事に取り替えました。 ヴィンセントWingは前にポイントを使用した後に、1660年代後半の楕円の空焦点の周りの等しい角張っている動き振動のさらに別の幾何学上工事を採用しました。 そして、1676年のニコラウスMercatorはまだ更なる幾何学上工事を加えていました。 これらの6つの代替的アプローチでは、ホロックスと彼に続くStreeteだけがケプラーの3/2パワー定規を取りました--惑星の期間は太陽からのそれらの平均距離の立方体の平方根として異なります--それらの平均距離を測定するために位置の観測よりむしろ期間を費やすために真剣に十分です。 
All these approaches followed Kepler in using an ellipse to represent the trajectory. (The primary historical reason for this was Kepler's success in predicting the 1631 transit of Mercury across the Sun.) This, however, does not mean that the ellipse was established as anything more than a mathematically tractable close approximation to the true orbit. In fact, the planetary orbits known then are not all that elliptical. The minor axis of Mercury is only 2 percent shorter than the major axis, the minor axis of Mars, only 0.4 percent shorter, and in all other cases the difference between an ellipse and an eccentric circle was beyond detection. Newton had real grounds for claiming in a letter to Halley in June 1686 a “right” to the ellipse, remarking that “Kepler knew the Orb to be not circular but oval, and guest it to be Elliptical” [C, II, 436]. Entirely independently, the most judicious reader of the first edition of the Principia, Christiaan Huygens, wrote the following summary of the Principia‘s achievement in his notebook upon reading the complimentary copy Newton had sent him:
The famous M. Newton has brushed aside all the difficulties together with the Cartesian vortices; he has shown that the planets are retained in their orbits by their gravitation toward the Sun. And that the excentrics necessarily become elliptical. [OH, XXI, 143]
So, all three of Kepler's rules that came to be called “laws” after the Principia were known to be nothing more than holding to high approximation when Newton started on the project in 1684. And the leading issue in orbital astronomy at the time was not why Kepler's rules hold, but rather which, if any, of the comparably accurate different approaches to calculating orbits was to be preferred.
これらのすべてのアプローチが軌道を表すのに楕円を使用する際にケプラーに続きました。 (日曜日の向こう側に1631年の水星の通過を予測するのにこの第一の歴史的な理由はケプラーの成功でした) しかしながら、これは、楕円が数学的に御しやすい厳密な近似より何も多いものとして本当の軌道に確立されたことを意味しません。 事実上、知られている惑星軌道は、その時、そんなに楕円ではありません。 水星の短径は主軸より2パーセント短いだけです、火星の短径、0.4パーセントさらに短いだけです、そして、他のすべての場合では、検出を超えて楕円と離心円の違いはいました。 Ellipticalになってください。ニュートンは1686年6月のハレーへの「権利」という手紙における要求の本当の根拠を楕円に持っていました、それを述べさせて「ケプラーが円形であるのではなく楕円形であるOrb、およびお客様を知っていた、それ、」 . 完全に独自に、プリンキピアの初版の最も賢明な読者(Christiaanホイヘンス)は‘ニュートンを贈呈本に読み込むときの彼のノートにおけるs達成は彼を送ったこと'をプリンキピアの以下の概要に書きました。
有名なM.ニュートンはCartesian渦と共にすべての困難を払いのけました。 彼は、惑星がそうであることを示しました。それらの軌道では、それらの引力で、変人が必ず楕円になるのは、日曜日のAndに向かって保有されています。
それで、ニュートンが1684年にプロジェクトを始めたとき、プリンキピアの後に「法」と呼ばれるようになったケプラーのすべての3つのやり方が、ただ高い近似に成立しているのが知られていました。 そして、当時軌道の天文学の主要銘柄はむしろ、もしあれば計算の軌道への比較できるほどに正確な異なるアプローチのどれがケプラーのやり方がなぜ成立するかではなく、好まれることであったかということでした。 
The distinct possibility of the ellipse being only an approximation to the true trajectory explains the appropriateness of the question Hooke put to Newton in 1679 and Halley put to him again in 1684 — what trajectory does a body describe when moving under an inverse-square force directed toward a central body? The inverse-square part of this question came from combining the mathematical theory of uniform circular motion, which Huygens had published in his Horologium Oscillatorium of 1673, with Kepler's 3/2 power rule: the force in a string retaining a body in a uniform circular orbit varies directly as the radius of the circle and inversely as the square of the period; but the squares of the periods of the planets vary as the cubes of their mean distances; and hence, at least to a first approximation, the forces retaining the planets in their orbits vary inversely with the square of the radii of their nearly circular orbits. But now allow the distance of the orbiting body from the center to vary rather than remaining constant, as in a circle. What trajectory would result if the force toward the center varies as the inverse-square of the distance from the center toward which the force is always directed? The answer in the nine page tract “De Motu Corporum in Gyrum” that Newton sent to Halley in November 1684 is, an ellipse, provided the velocity is not too high (and if it is, then instead a parabola or a hyperbola, depending on the velocity). The key step in developing this answer is a generalization of uniform circular motion to the case of motion under a “centripetal” force — a term Newton coined from Huygens's “centrifugal” force, by which he meant the tension in the string keeping the body in a circle; and a key to this step was the discovery that a body moving under any form of centripetal force always sweeps out equal areas in equal times with respect to that center, so that the appropriate geometrical representation of time for generalizing uniform circular motion is area swept out rather than angle or arc length. The tract also confirms that Kepler's 3/2 power rule continues to hold for bodies orbiting in confocal ellipses governed by inverse-square centripetal forces.
These were remarkable steps forward at the time, but they and the questions behind them form only an initial part of the context in which Newton went on to write the Principia. Shortly after the “De Motu” tract went off to London, Newton revised the tract and added two further passages. The question precipitating this revision appears to have been about the effect the inverse-square centripetal forces directed toward Jupiter, as implied by its satellites, have on the Sun. Newton first added two principles that he first called “hypotheses” and then changed to “laws”:
Law 3: The relative motions of bodies enclosed in a given space are the same whether that space is at rest or moves perpetually and uniformly in a straight line without circular motion.
本当の軌道への近似であるにすぎない楕円の異なった可能性は1684年に再び彼につけられたフックが1679年にニュートンにした質問とハレーの適切さについて説明します--中央のボディーに向けられた逆さの正方形力の下で動くとき、ボディーは、どんな軌道について説明しますか? この質問の逆さの正方形部分はホイヘンスが1673年の彼のOscillatoriumとけい座の中で発行した等速円運動の数学の理論を結合するのから来ました、ケプラーの3/2パワー定規で: 期間の正方形として周回軌道が直接円の半径として変えるユニフォームに逆にボディーを保有するストリングにおける力。 しかし、惑星の期間の正方形はそれらの平均距離の立方体として異なります。 そして、したがって、少なくともまず得られた近似の結果に、それらの軌道で惑星を保有する力は、それらのほとんど円形の軌道の半径の正方形で逆に異なります。 しかし、中心からの軌道に乗っているボディーの距離を現在一定のままで残っているよりむしろ異ならせてください、円のように。 センターに向かった力が力がいつも向けられる中心からの距離の逆さの二乗として異なるなら、どんな軌道が結果として生じるでしょうか? ニュートンが1684年11月にハレーに送った9ページの広がり「GyrumのDe Motu Corporum」の答えはそうです、楕円、速度がそれほど速くないなら(そして、それがそうであるかどうか次に、代わりに放物線か速度に依存する双曲線)。 この答えを開発することにおける重要段階は「求心的な」力の下の動きに関するケースへの等速円運動の一般化です--ニュートンがボディーを輪になって保ちながらストリングで緊張を言っていたホイヘンスの「遠心性」の力から鋳造した用語 そして、このステップのキーはどんなフォームの求心力の下でも動くボディーが、等しい時代にいつもそのセンターに関して等しい領域を一掃するという発見でした、等速円運動を一般化するための時間の適切な幾何学的な表現が傾けるよりむしろ一掃された領域かアーク長であるように。 また、広がりは、ケプラーの3/2パワー定規が逆さの正方形求心力によって決定された共焦点楕円で軌道に乗るボディーのためにずっと成立すると確認します。
これらは当時、前進の顕著なステップでしたが、それらの後ろのそれらと質問はニュートンがプリンキピアを書き続けた文脈の初期の部分だけを形成します。 "De Motu"広がりがロンドンへ去ったすぐ後に、ニュートンは、広がりを改訂して、一層の2つの節を加えました。 この改正を沈殿させるのが逆さの正方形求心力が木星に向けた効果に関してあったように見えるという質問、衛星のそばで日曜日に、ニュートンがいるように含意するとき、彼が最初に、「仮説」と呼んで、次に、「法」に変化したという2つの原則が最初に、加えました:
法3: そのスペースが一筋に円運動なしで絶えず、一様に静止しているか、または動くことにかかわらず特定のスペースに同封されたボディーの相対運動は同じです。 
Law 4: The common center of gravity does not alter its state of motion or rest through the mutual actions of bodies. [U, 267]
The second of the two added passages concerns motion in resisting media; it provides a context in which to read Book 2 of the Principia.
The first added passage, which has become known as the “Copernican scholium,” we here quote in full because it, better than anything else, explains what led Newton into the further research that turned the nine-page tract into the five hundred page Principia. It occurs as a single long paragraph, but is here broken into three segments in order to facilitate commenting on it:
Moreover, the whole space of the planetary heavens is either at rest (as is commonly believed) or uniformly moved in a straight line, and similarly the common centre of gravity of the planets (by Law 4) is either at rest or is moved at the same time. In either case the motions of the planets among themselves (by Law 3) take place in the same manner and their common centre of gravity is at rest with respect to the whole space, and so it ought to be considered the immobile center of the whole planetary system. Thence indeed the Copernican system is proved a priori. For if a common centre of gravity is computed for any position of the planets, this either lies in the body of the Sun or will always be very near it.
By reason of this deviation of the Sun from the center of gravity the centripetal force does not always tend to that immobile center, and hence the planets neither move exactly in ellipses nor revolve twice in the same orbit. Each time a planet revolves it traces a fresh orbit, as happens also with the motion of the Moon, and each orbit depends upon the combined motions of all the planets, not to mention their actions upon each other. Unless I am much mistaken, it would exceed the force of human wit to consider so many causes of motion at the same time, and to define the motions by exact laws which would allow of an easy calculation.
Leaving aside these fine points, the simple orbit that is the mean between all vagaries will be the ellipse that I have discussed already. If any one shall attempt to determine this ellipse by trigonometrical computation from three observations (as is usual) he will be proceeding without due caution. For these observations will share in the very small irregular motions here neglected and so cause the ellipse to deviate somewhat from its actual magnitude and position (which ought to be the mean among all errors), and so there will be as many ellipses differing from each other as there are trios of observations employed. Very many observations must therefore be joined together and assigned to a single operation which mutually moderate each other and display the mean ellipse both as regards position and magnitude. [U, 280]
法4: 一般的な重心は、動きの状態を変更もしませんし、ボディーの互いの機能で休息もしていません。 U、2回の加えられた通路関心の2番目が抵抗メディアで身ぶりで合図する267。 それはプリンキピアのBook2を読む文脈を提供します。
ここで、引用してください。1番目が節を加えた(「コペルニクスの例証」として知られるようになりました)、 私たち、良い他の何よりもそれによって何がニュートンを更なる研究に導いたかがわかったので、すべて、それは9ページの広がりを500ページのプリンキピアに変えました。 それは、1つの長いパラグラフとして起こりますが、それを批評するのを容易にするためにここで3つのセグメントに壊れています:
そのうえ、惑星の天上の全空間が静止(そのままで一般的に信じられている)または一様に一筋に動かされて、惑星(法4による)の一般的な重心は、同様に、静止しているか、または同時に、動かされます。 どちらの場合ではも、自分たち(法3による)の中の惑星の動きが同じ方法で行われて、それらの一般的な重心が全空間に関して静止しているので、それは全体の太陽系の不動のセンターであると考えられるべきです。 本当に、そこから、地動説は先験的であると証明されます。 重力の一般的なセンターが惑星のどんな位置にも計算されるなら、これがそれの近くでいつも太陽のボディーに横たわっているか、またはまさしくそのであるなるので。
重心からの太陽のこの逸脱の理由で、求心力はいつもその不動のセンターの傾向があるというわけではなくて、したがって、惑星は、同じ軌道でちょうど楕円に入って来ないで、また二度回転しません。 また、月の動きで起こるのに応じて、惑星がそれを回転させる各回は新鮮な軌道をたどります、そして、各軌道はすべての惑星の結合動作によります、お互いに彼らの動作は言うまでもなく。 私があまり間違えていない場合、それは、同時に、動きのとても多くの原因を考えて、簡単な計算を許容する正確な法で動きを定義するために人間の機知の力を超えているでしょう。
これらの委細は別にして、すべての気まぐれの間の平均である簡単な軌道は私が既に議論した楕円になるでしょう。 いくらか1つが、3つの観測(ご多分に漏れず)から3角法の計算でこの楕円を決定するのを試みるものとすると、彼は相当の注意なしで続くでしょう。 これらの観測のために、ここで無視されていた状態で非常に小さい不規則な動きを分担するので、楕円がその実際の大きさと位置(すべての誤りの中の平均であるべきである)からいくらか逸れることを引き起こすので、お互いに異なっている観測の採用している三つ組がいるのと同じくらい多くの楕円があるでしょう。 したがって、非常に多くの観測をただ一つの操作に結合して、割り当てなければなりません(ともに位置と大きさを見なすように、互いにお互いを加減して、意地悪な楕円を表示します)。 
The first segment highlights a further component of the historical context in which the Principia was written and read. Galileo's discovery of the phases of Venus in 1613 had provided decisive evidence against the Ptolemaic system,[6] but it could not provide grounds favoring the Copernican over the Tychonic system. In the latter, Mercury, Venus, Mars, Jupiter and Saturn circumnavigate the Sun, and the Sun circumnavigates the Earth, with the consequence that these seven bodies are at all times in the same position in relation to one another as they are in the Copernican system. Whether any decisive empirical grounds could be found favoring the Copernican over the Tychonic system became one of the most celebrated issues of the seventeenth century. Kepler, Galileo, and Descartes all published major books in the first half of the century purporting to resolve this issue,[7] Kepler and Descartes basing their arguments on the physical mechanism each had proposed as governing the orbital motion. Nevertheless, the leading observational astronomer of the second half of the century, G. D. Cassini, was a Tychonist. In the first segment of the “Copernican Scholium” Newton identifies the center of gravity of the planetary system as the appropriate point to which all the motion should be referred — the technical issue behind the issue over the two systems — and then announces that the centripetal forces identified in the text of “De Motu” as governing the orbital motion open the way to establishing a slightly qualified form of the Copernican system.[8] Newton's discovery of this line of reasoning was surely a major factor urging him on to the Principia.
The second segment of the “Copernican Scholium” addresses an issue in orbital astronomy that forms a still further component in the historical context of the Principia. Separate from the question whether Kepler's or some other approach was to be preferred was the question whether the true motions are significantly more irregular and complicated than the calculated motions in any of these approaches. The complexity of the lunar orbit and the continuing failure to describe it within the accuracy Kepler had achieved for the planets was one consideration lying behind this question. Another came from Kepler's own finding, noted in the Preface to his Rudolphine Tables[9] and subsequently supported by others, that the true motions may involve further vagaries, as evidenced by apparent changes in the values of orbital elements over time. The most important consideration behind this question, however, came from Descartes' claim that, in keeping with the changing motions of his vortices over long periods of time, the orbits are not mathematically perfect and “they are continuously changed by the passing of the ages” [D, 3, 34]. In the second segment of the quoted Scholium, Newton concludes that, in contrast to the ellipse that answered the mathematical question put to him by Hooke and Halley, the true orbits are not ellipses, but are indeed indefinitely complex. This conclusion is nowhere so forcefully stated in the published Principia, but knowledgeable readers nonetheless saw the work as answering the question whether the true motions are mathematically perfect in the negative.
最初のセグメントはプリンキピアが書かれて、読まれた歴史的背景の更なる成分を強調します。 ガリレオの1613年のビーナスのフェーズの発見は天動説、6に対して確証を提供しましたが、それはTychonicシステムよりコペルニクス説信奉者を好む根拠を提供できませんでした。 後者、水星、金星、火星、木星、および土星の中では、太陽を周航してください。そうすれば、太陽は地球を周航します、地動説にそれらがあるとき、これらの7つのボディーが同じ位置にいつもお互いと関連している結果で。 何か決定的な実証的な根拠をTychonicシステムよりコペルニクス説信奉者を好んでいるのを見つけることができたかどうか17世紀の最も名高い問題の1つになりました。 7のこの問題、ケプラー、およびそれぞれ物理学的機構に基づいている彼らの議論デカルトが公転運動を治めるとして提案したと決議することを意味しながら、ケプラー、ガリレオ、およびデカルトは、世紀の前半に主要簿をすべて発行しました。 それにもかかわらず、世紀の後半の主な観察の天文学者(G.D.カッシーニ)はTychonistでした。 「コペルニクスの例証」の最初のセグメントでは、ニュートンは、太陽系の重心がすべての動きが参照されるべきである(2台のシステムの上の問題の後ろの専門的な問題)適切なポイントであると認識して、次に、公転運動を治めるとして"De Motu"のテキストで特定された求心力が、地動説のわずかに適切なフォームを確立することへの道を切り開くと発表します; 8 ニュートンの推理のこの線の発見は、確実にプリンキピアに彼を促す重要な要因でした。
「コペルニクスの例証」の2番目のセグメントはプリンキピアに関する歴史的背景でまだ更なるコンポーネントを形成する軌道の天文学で問題を扱います。 ケプラーかある他のアプローチが好まれることになっていたかどうかことであったかどうかが、本当の動きがこれらのアプローチのどれかにおける計算された動きよりかなり不規則であって、複雑であるかどうかという質問であったという質問から、分離してください。 月の公転軌道の複雑さとケプラーが惑星に達成した精度の中でそれについて説明しない継続することはこの質問の後ろにある1つの考慮でした。 別のものは本当の動きが更なる気まぐれにかかわるかもしれないというPrefaceに彼のRudolphine Tables9に述べられて、次に他のものによって支持されたケプラーの自己の調査結果から来ました、時間がたつにつれて軌道要素の値における見かけの変化によって証明されるように。 しかしながら、この質問の後ろの最も重要な考慮すべき事柄が長期間の間の彼の渦の変化動きを踏まえて軌道が数学的に完全でなく、「時代の通過で絶え間なくそれらを変える」というデカルトのクレームから来た、D、3、34 引用されたScholiumの2番目のセグメントでは、ニュートンは、本当の軌道がフックとハレーによって彼につけられた数学の質問に答えた楕円と対照して楕円ではありませんが、本当に、無期限に複雑であると結論を下します。 この結論は発行されたプリンキピアで力強く述べられましたが、博識な読者がそれにもかかわらず、仕事を質問に答えるとみなした本当の動きが否定的で数学的に完全であるどこにもありません。 
Finally, the second and third segments together not only point out that Keplerian motion is only an approximation to the true motions, but they call attention to the potential pitfalls in using the orbits published by Kepler and others as evidence for claims about the planetary system. For example, if the true motions are so complicated, then it is not surprising that all the different calculational approaches were achieving comparable accuracy, for all of them at best hold only approximately. Equally, the success in calculating the orbits could not serve as a basis to argue against Cartesian vortices, for the irregularities entailed by them could not simply be dismissed. The spectre raised was the very one Newton had objected to during the controversy over his earlier light and color papers: too many hypotheses could be made to fit the same data.[10] Worse, the multiplicity of tenable hypotheses was a spectre haunting mathematical astronomy as a discipline from the end of the sixteenth century forward.[11] So, the conclusion that calculated orbits can at most be mere approximations would have been seen as raising the possibility that truth and exactness were beyond the reach of mathematical astronomy. The main reason why the Principia includes so much beyond the “De Motu” tract is Newton's endeavor to reach conclusions that had claim to being exact and true in spite of the inordinate complexities of the actual motions.
The historical context in which Newton wrote the Principia involved a set of issues that readers of the first edition saw it as addressing: Was Kepler's approach to calculating the orbits, or some other, to be preferred? Was there some empirical basis for resolving the issue of the Copernican versus the Tychonic system? Were the true motions complicated and irregular versus the calculated motions? Can mathematical astronomy be an exact science? No reader of the Principia at the time had the benefit of seeing how Newton had these questions tied together in the “Copernican Scholium” because it did not appear in print until two hundred years later.[12] Nothing, however, brings out more clearly the extent to which the expanded scope of the Principia stemmed from Newton's preoccupation with the problem of reaching conclusions that had claim to being exact from evidence that, by his reckoning, held at best to high approximation. This is why the “Copernican scholium” provides the most illuminating context for reading the Principia. Equally, its being unknown for so long helps to explain why the Principia has generally been read so simplistically. 
最終的に、一緒に2番目と3番目のセグメントは、Keplerian動きが本当の動きへの近似にすぎないと指摘するだけではなく、それらが太陽系に関するクレームに関する証拠としてケプラーと他のものによって発行された軌道を使用する際に潜在的な落とし穴に注意を促します。 例えば、本当の動きがとても複雑であるなら、すべての異なったcalculationalアプローチが匹敵する精度を実現していたのは、驚くべきものではありません、皆が周囲でせいぜい成立するので。 等しく、成功は軌道について計算するのを、それらによって伴われた不規則のためにCartesian渦について反対の議論をする基礎を絶対に捨てることができなかったように、役立つことができませんでした。 提起された亡霊は、ニュートンが、前に彼のものの上の論争の間、火が付くために反対して、色が紙を張るまさしくそのものでした: あまりに多くの仮説を同じデータに合わせることができました。したがって、16世紀の終わりからの規律が. 11を進めるとき、10よりひどく、支持できる仮説の多様性は亡霊の忘れられない数理天文学でした、計算された軌道が高々単なる近似であるかもしれないという結論が真実と正確さが数理天文学の範囲を超えていた可能性を上げるのが見られたでしょう。 プリンキピアが"De Motu"広がりを超えたとても多くを含んでいる主な理由は、クレームを正確で実運動の過度の複雑さにもかかわらず、本当にした結論に達するニュートンの努力です。
ニュートンがプリンキピアを書いた歴史的背景は初版の読者がそれをアドレシングであるとみなしたという1セットの問題にかかわりました: または、計算へのケプラーのアプローチがオービッツであった、ある他の好まれるために? コペルニクス説信奉者対Tychonicシステムの問題を解決する何らかの経験的基礎がありましたか? 本当の動きは、計算された動きに対して複雑であって、不規則でしたか? 数理天文学は精密科学であるかもしれませんか? プリンキピアのどんな読者にも、何年も後の200まで. 12を出版しなかったので、ニュートンが「コペルニクスの例証」でこれらの質問をどう結びつけさせたかを見る利益が当時ありませんでした。しかしながら、何もより明確に、プリンキピアの拡大スコープがクレームをそれが彼の計算でせいぜい成立したという証拠から高い近似まで正確にした結論に達するという問題でニュートンの先取に由来した範囲を持ち出しません。 これは、「コペルニクスの例証」が提供する中でプリンキピアを読むための文脈最も啓発的である理由です。 等しく、それがかなりの間未知であることがなぜ一般にそれほどsimplisticallyにプリンキピアを読んであるかを説明するのを助けます。 
3. The Three Editions of the Principia[13]

 

Newton originally planned a two-book work, with the first book consisting of propositions mathematically derived from the laws of motion, including a handful concerning motion under resistance forces, and the second book, written and even formatted in the manner of Descartes's Principia, applying these propositions to lay out the system of the world. By the middle of 1686 Newton had switched to a three-book structure, with the second book devoted to motion in resisting media. What appears to have convinced him that this topic required a separate book was the promise of pendulum-decay experiments to allow him to measure the variation of resistance forces with velocity.[14] When Hooke raised a priority issue on inverse-square forces, Newton dropped the original version of the last book, switching to presenting the system of the world in a sequence of mathematically argued propositions, many of which demand far more of the reader than anything in the original version. The original “System of the World” did appear in print the year after Newton died. No complete text for the original version of Book 1 has ever been found.
Newton was disappointed in the critical response to the first edition. The response in England was adulatory, but the failure to note loose ends must have led Newton to doubt how much anyone had mastered technical details. The leading scientific figure on the Continent, Christiaan Huygens, offered a mixed response to the book in his Discourse on the Cause of Gravity (1690). On the one hand, he was convinced by Newton's argument that inverse-square terrestrial gravity not only extends to the Moon, but is one in kind with the centripetal force holding the planets in orbit; on the other hand,
ニュートンは、元々2本の仕事を計画していました、最初の本が運動の法則から数学的に得られた提案から成っていて、力、および2番目の本がデカルトsのプリンキピアの方法で書いて、フォーマットさえした抵抗で動きに関する一握りを含んでいます、世界のシステムを広げるためにこれらの提案を適用して。 1686のなかばまでには、ニュートンは3ブック構造に切り替わりました、抵抗メディアで動きにささげられた2番目の本で。 この話題が別々の本を必要としたと何に彼に納得させたように見えるかは、フックが逆さの正方形力に優先課題を提起したとき彼が振り子腐敗実験で速度14で抵抗力の変化を測定できる約束でした、ニュートンが最後の本のオリジナルバージョンを落としました、次々にのそれの多くが遠くにオリジナルバージョンにおける何読者の以上でも要求する数学的に論争された提案の世界のシステムを提示するのに切り替わって。 ニュートンが死んだ後に、オリジナルの「世界のシステム」は、1年を出版しました。 Book1のオリジナルバージョンのための全文は全く今までに、見つけられたことがありません。
ニュートンは初版への限界応答で失望しました。イギリスでの応答は追従的でしたが、未処理事項に注意しないことは、ニュートンが、だれか技術的詳細をどれほど習得したかと疑問に思っているように導いたに違いありません。 ヨーロッパ大陸の上の主な科学的図形(Christiaanホイヘンス)は彼のDiscourseのGravity(1690)のCauseに関する本へのまちまちの反応を提供しました。 一方では、逆さの正方形地球引力が月に達するだけではなく、本質的に求心力が軌道に惑星を保持している1であるというニュートンの主張で彼は確信していました。 他方では 
I am not especially in agreement with a Principle that he supposes in this calculation and others, namely, that all the small parts that we can imagine in two or more different bodies attract one another or tend to approach each other mutually. This I could not concede, because I believe I see clearly that the cause of such an attraction is not explicable either by any principle of Mechanics or by the laws of motion. Nor am I at all persuaded of the necessity of the mutual attraction of whole bodies, having shown that, were there no Earth, bodies would not cease to tend toward a center because of what we call their gravity. [HD, p.159]
Others on the Continent pressed this complaint even more forcefully. The response that may well have bothered Newton most was the review in Journal des Sçavants:
The work of M. Newton is a mechanics, the most perfect that one could imagine, as it is not possible to make demonstrations more precise or more exact than those he gives in the first two books…. But one has to confess that one cannot regard these demonstrations otherwise than as only mechanical; indeed the author recognizes himself at the end of page four and the beginning of page five that he has not considered their Principles as a Physicist, but as a mere Geometer….
In order to make an opus as perfect as possible, M. Newton has only to give us a Physics as exact as his Mechanics. He will give it when he substitutes true motions for those that he has supposed.[15]
Complicating the matter further was the publication in 1689 of Leibniz's “Essay on the causes of celestial motions,” which offered a vortex theory in which “a planet moves with a double motion composed of the harmonic circulation of its fluid deferent orb, and the paracentric motion, as if it had a certain gravity of attraction, namely an impulsion towards the Sun” [L, 132].[16] Leibniz further concluded that when the body “is carried in an ellipse (or another conic section) with a harmonic circulation, and the centre both of attraction and of circulation is at the focus of the ellipse, then the attractions or solicitations of gravity will be directly as the squares of the circulations, or inversely as the squares of the radii or distances from the focus” [L, 137]. So, within a year and a half of the publication of the Principia a competing vortex theory of Keplerian motion had appeared that was consistent with Newton's conclusion that the centripetal forces in Keplerian motion are inverse-square. This gave Newton reason to sharpen the argument in the Principia against vortices.
私たちは、私が特に彼がこの計算と他のもので思うPrincipleに合意していないで、すなわち、すべての小ささがそれを分けるのが、2つ以上の異なったボディーでお互いを引き付けるか、または互いにお互いに近づく傾向があると想像できます。 認めることができなかったこれ、信じているので、私はそのようなアトラクションの原因がMechanicsのどんな本質か運動の法則でも説明できないのが明確にわかります。 また、地球が全くなければボディーが、いわゆるそれらの重力のためセンターの傾向があるのをやめないのを示したので、私は全身の互いのアトラクションの必要性について全く説得されません。
ヨーロッパ大陸の上の他のものはさらに力強くこの苦情を押しました。 たぶんニュートンを最も苦しめただろう応答は、Journal des Scavantsでのレビューでした:
M.ニュートンの仕事は整備士です、それが想像できた中で最も完全なもの、デモンストレーションをそれらよりさらに正確であるか正確にするように、彼は1番目で2冊の本を与えます… しかし、1つが、人が機械的であるだけのそうでないこれらのデモンストレーションを見なすことができないのをざんげしなければならないのが、可能でないときに。 本当に、作者は、5ページの4ページと始まりの彼が、それらのPrinciplesがPhysicistであるとみなしていない端のときに自分を見分けますが、単なるGeometerとして見分けます… 作品をできるだけ完全にするように、M.ニュートンは彼のMechanicsと同じくらい正確なPhysicsを私たちに与えるだけでよいです。 本当の動きを彼が思ったものの代わりに用いるとき、彼は、それを与えるでしょう。
さらにその件を複雑にするのは、ライプニッツの1689「天体運動の原因に関する随筆」での公表でした。(それは、その「惑星が流体の輸送の球の倍音の流通で構成された、二重動き、およびparacentric動きと共に動きます、まるですなわち、アトラクション、衝動のある重大性を太陽に向かって持っているかのように」ライプニッツで渦理論を提供しました); ボディーによる「倍音の流通と、センターのアトラクションの両方で楕円(または、別の円すい曲線)で運ばれて、半径の正方形か焦点からの距離として逆に次に、重力のアトラクションか懇願が直接循環の正方形として楕円の焦点に、あるという流通のことである」ときに、さらに、それを結論づけました; それで、半のプリンキピアの1年公表以内に、Keplerian動きにおける求心力が逆さに正方形であるというニュートンの結論と一致したKeplerian動きの競争している渦理論は現れました。 これは渦に対してプリンキピアにおける議論を鋭くする理由をニュートンにあげました。 
The second edition appeared in 1713, twenty six years after the first. It had five substantive changes of note. First, the structure of the argument for universal gravity at the beginning of Book 3 was made more evident, and the word ‘hypothesis’ was dropped from it. Second, because of disappointment with pendulum-decay experiments and an erroneous claim about the rate a liquid flows vertically through a hole in the bottom of a container, the second half of Section 7 of Book 2 was entirely replaced, ending with new vertical-fall experiments to measure resistance forces versus velocity and a forcefully stated rejection of all vortex theories.[17] Third, the treatment of the variation of surface gravity with latitude (Book 3, Proposition 20) was significantly extended, partly in response to Huygens's alternative treatment of this variation, but also because of more recent data from near the Equator. Fourth, the treatment of the wobble of the Earth producing the precession of the equinoxes was revised in order to accommodate a much reduced gravitational force of the Moon on the Earth than in the first edition. Fifth, several further examples of comets were added at the end of Book 3, taking advantage of Halley's efforts on the topic during the intervening years. In addition to these, two changes were made that were more polemical than substantive: Newton added the General Scholium following Book 3 in the second edition, and his editor Roger Cotes provided a long anti-Cartesian (and anti-Leibnizian) Preface.
The third edition appeared in 1726, thirty nine years after the first. Most changes in it involved either refinements or new data. The most significant revision of substance was to the variation of surface gravity with latitude, where Newton now concluded that the data showed that the Earth has a uniform density. Subsequent editions and translations have been based on the third edition. Of particular note is the edition published by two Jesuits, Le Seur and Jacquier, in 1739-42, for it contains proposition-by-proposition commentary, much of it employing the Leibnizian calculus, that extends to roughly the same length as Newton's text. 
第2版は26年に第1時1713分に現れました。 それには、注意の5回の実質的な変化がありました。 まず最初に、Book3の始めにおける万有引力のための議論の構造をより明白にしました、そして、それから‘仮説'という単語を落としました。 2番目に、振り子腐敗実験とレートに関する誤ったクレームがある失望のため、液体は容器の下部の穴を通して垂直に流れて、Book2のセクション7の後半を完全に取り替えました、速度とすべての渦理論の力強く述べられた拒絶に対して抵抗力を測定するために新しい垂直な秋の実験で終わって。 3(緯度(第3巻、Proposition20)に従った重力がかなり広げられますが、一部この変化に関するホイヘンスの代替の処理に対応したより最近のデータのためもEquatorの近くで来ていた表面の変化の処理)番目。 4番目に、春分点歳差を起こす地球のウォッブルの処理は、地球への月の多くの減少している重力を収容するために初版より改訂されました。 黙秘権、彗星の更なるいくつかの例がBook3の端で加えられました、介在する数年間話題に関してハレーの努力を利用して。 これらに加えて、実名詞より議論好きであった2つの変更が行われました: 第2版でBook3に続いて、ニュートンは司令官のScholiumを加えました、そして、彼のエディタのロジャー・コーツは長く反Cartesianの、そして、(反Leibnizian)の序文を提供しました。
3番目の版は39年に第1時1726分に現れました。 それにおけるほとんどの変化が気品か新しいデータのどちらかにかかわりました。 緯度に従った表面重力の変化には物質の最も重要な改正がありました、ニュートンが、今やデータが、地球に一様密度があるのを示したと結論を下したところで。 その後の版と翻訳は3番目の版に基づきました。 特に注目すべきなのはそれのための1739-42の2人のイエズス会士、Le Seur、およびJacquierによって発行された版は、提案ごとの論評、およそニュートンのテキストと同じ長さに達する、Leibnizian微積分学を使うそれの多くを含んでいます。 
4. “Definitions” and absolute space, time, and motion

 

The Principia opens with a section called “Definitions” that includes Newton's discussion of absolute space, time, and motion. No part of the Principia has received more discussion by philosophers over the three centuries since it was published. Unfortunately, however, a tendency not to pay close attention to the text has caused much of this discussion to produce unnecessary confusion.[18]
The definitions inform the reader of how key technical terms, all of them designating quantities, are going to be used throughout the Principia. In the process Newton introduces terms that have remained a part of physics ever since, such as mass, inertia, and centripetal force. The emphasis in every one of the definitions is on how the designated quantity is to be measured, as illustrated by the opening definition: “Quantity of matter [or mass] is a measure of matter that arises from its density and volume jointly.” (Because a primary measure of density was then specific gravity, no circularity arises here.) Newton distinguishes among three ways of quantifying centripetal forces: the absolute quantity, which corresponds to what we would call the field strength of a central force field; the accelerative quantity, which “is the measure of this force that is proportional to the acceleration generated in a given time;” and the motive quantity, which is the measure of the force proportional to what we would call the change in linear momentum in a given time.
It is important to recognize that, in calling the referents of the defined terms “quantities,” Newton is assigning them to the ontological category of quantity in Aristotle's sense. Thus force and motion are quantities that have direction as well as magnitude, and it makes no sense to talk of forces as individuated entities or substances. Newton's laws of motion and the propositions derived from them involve relations among quantities, not among objects. In place of “no entity without identity,” we have “no quantity without definite proportions;”[19] and the demand on measurement is to supply values that unequivocally yield an adequate approximation to these definite proportions.
セクションがニュートンの絶対スペース、時間、および動きの議論を含んでいる「定義」と呼ばれている状態で、プリンキピアは開きます。 プリンキピアのどんな一部もそれが発行されて以来の3世紀に、哲学者による、より多くの議論を受けていません。 残念ながら、しかしながら、テキストへの周到な注意を支払わない傾向で、この議論の多くが無用の混乱を起こしました。
彼らが皆、量を指定して、主要な専門用語がプリンキピア中でどう使用されるかについて定義は読者に知らせます。 過程で、ニュートンは以来ずっと物理学の一部のままで残っていた用語を紹介します、固まりや、慣性や、求心力などのように。 どう測定されるかに関して指定された量がことである定義の皆の強調があります、初めの定義で例証されるように: 「件固まりの量は、その密度とボリュームから共同で起こる件の測定です。」 (密度の第一の基準が当時の比重であったので、円形は全くここに起こりません。) ニュートンは求心力を定量化する3つの方法の中で区別します: 絶対量(それは、私たちが中央の力場の磁場強度を呼ぶものに対応します)。 速度を増す量(それは、「特定の時間で発生する加速に比例しているこの力の基準です」)。 そして、原動力になっている量。(その量は私たちが特定の時間で線運動量における変化を呼ぶものに比例している力の基準です)。
ニュートンが「量」という定義された用語の指示物を呼ぶ際にアリストテレスの意味における、量の存在範疇にそれらを割り当てていると認めるのは、重要です。 したがって、力と動きは大きさと同様に指示を持っている量です、そして、それは個別化されるように力について話す意味を全く実体か物質にしません。 ニュートンの運動の3法則とそれらから得られた提案は、物の中で伴うのではなく、量の中で関係を伴います。 「アイデンティティがなければ実体がありません」に代わって、私たちには、「定比例がなければ量がありません」があります。 そして、測定の要求は、明確にこれらの定比例に適切な近似を譲る値を供給することです。 
Immediately following the eight definitions is a Scholium on space, time, and motion. One source of confusion in the literature on this scholium is not paying attention to the primary distinction Newton is drawing, which is between “absolute, true, mathematical” motion versus “relative, apparent, common” motion. The naive distinction between true and apparent motion was, of course, entirely commonplace. Moreover, Newton is scarcely introducing it into astronomy. Ptolemy's principal innovation in orbital astronomy — the so-called bi-section of eccentricity — entailed that half of the observed first inequality in the motion of the planets arises from a true variation in speed, and half from an only apparent variation associated with the observer being off center. Similarly, Copernicus's main point was that the second inequality — that is, the observed retrograde motions of the planets — involved not true, but only apparent motions. And the subsequent issue between the Copernican and Tychonic system concerned whether the observed annual motion of the Sun through the zodiac is a true or only an apparent motion of the Sun. So, what Newton is doing in the scholium on space and time is not to introduce a new distinction, but to explicate with more care a distinction that had been fundamental to astronomy for centuries.
The distinctions between “absolute, true, and mathematical” and “relative, apparent, and common” time and space are the conceptual basis Newton employs in laying out the corresponding distinction for motion. He says, “relative, apparent, and common time is any sensible and external measure (precise or imprecise) of duration by motion,” adding a parallel point about absolute space. He points out that the distinction between absolute and relative time has long been part of astronomy insofar as astronomers have long introduced corrections (via the equation of time) to the natural day “in order to measure celestial motions on the basis of a truer time,” and he raises the possibility of there being “no uniform motion by which time may have an exact measure.” Absolute motion is defined as change from one place in absolute space to another. “But since these parts of space cannot be seen and cannot be distinguished from one another by our senses, we use sensible measures in their stead,” adding “it is possible that there is no body truly at rest to which places and motions may be referred” [P, 410]. In short, both absolute time and absolute location are quantities that cannot themselves be observed, but instead have to be inferred from measures of relative time and location, and these measures are always only provisional; that is, they are always open to the possibility of being replaced by some new (still relative) measure that is deemed to be better behaved across a variety of phenomena in parallel with the way in which sidereal time was deemed to be preferable to solar time.
すぐに8つの定義に続くのは、スペース、時間、動きでのScholiumです。 この例証の文学の混乱の1つの源はニュートンが引き起こしている第一の区別に関する注意を向けていません。(それは、「絶対で、本当で、数学」の動きの間に「相対的で、明らかで、一般的な」動きに反対しています)。 本当の、そして、見かけの動きのナイーブな区別はもちろん完全に平凡でした。 そのうえ、ニュートンは天文学にそれをほとんど取り入れていません。 軌道の天文学におけるプトレマイオスの主要な革新--いわゆる両性愛者のセクションの風変わり--惑星の動きにおける観測された最初の不平等の半分が本当の変化からセンターにいる観察者に関連している唯一の見かけの変化から速度、および半分で起こるのは、伴われます。 同様に、コペルニクスsの要点は、2番目の不平等(すなわち、惑星の観測された後退している動き)が本当であるのではなく、見かけだけの動きにかかわったということでした。 そして、コペルニクス説信奉者と、黄道帯を通した太陽の観測された例年の動きが日曜日のSoの本当の仮現運動であるか仮現運動であるにすぎないことにかかわらず関するTychonicシステムと、ニュートンがスペースで例証でしていることと時間の間のその後の問題は、新しい区別を導入するのではなく、より多くの注意で何世紀もの間天文学に基本的であった区別を解明することです。
「絶対、本当で、および数学」と、「相対的で、明らかで、一般的な」時間と空間の区別はニュートンが動きのための対応する区別を広げる際に使う概念的基礎です。 「相対的で、明らかで、一般的な時間が持続時間における動きによる(正確であるか不正確)の分別があって外部の測定のいずれかです」と、彼は言います、絶対スペースに関する平行なポイントを加えて。 天文学者が、「より本当の時間に基づいて天体運動を測定する」ために、長い間自然な日まで修正(時間の方程式を通した)を導入していて、「時間には正確な測定があるかもしれない等速直線運動がありません」であるそこの可能性を上げる限り、彼は、絶対の、そして、相対的な時間の区別が長い間天文学の一部であると指摘します。 絶対運動は絶対スペースの1つの場所から別の場所までの変化と定義されます。 加えて、「しかし、スペースのこれらの地域を見ることができないで、私たちの感覚がお互いと区別できないので、私たちはそれらの代わりに分別がある測定を使用します」が「本当に、どの場所と動きが参照されるかもしれないかに静止したどんなボディーもないのは、可能です」。要するに、絶対時間と絶対位置の両方が自分たちでそうすることができない量です。観測されてくださいが、代わりに相対的な時間と位置の測定から単に推論してもらってください、そして、これらの測定はいつも暫定的です。 すなわち、それらはいつもより良いと考えられる何らかの新しい(まだ相対的な)測定に取り替えるさまざまな現象の向こう側に恒星時が太陽時より望ましいと考えられた方法と平行して振る舞った可能性に開かれています。 
Notice here the expressed concern with measuring absolute, true, mathematical time, space, and motion, all of which are identified at the beginning of the scholium as quantities. The scholium that follows the eight definitions thus continues their concern with measures that will enable values to be assigned to the quantities in question. Newton expressly acknowledges that these measures are what we would now call theory-mediated and provisional. Measurement is at the very heart of the Principia. It pervades the definitions and scholium on space and time precisely because the primary point of this section is to spell out (in Howard Stein's words) “the empirical content of a set of theoretical notions” [Stein, 1967, 281].
Accordingly, while Newton's distinctions between absolute and relative time and space provide a conceptual basis for his explicating his distinction between absolute and relative motion, absolute time and space cannot enter directly into empirical reasoning insofar as they are not themselves empirically accessible. In other words, the Principia presupposes absolute time and space for purposes of conceptualizing the aim of measurement, but the measurements themselves are always of relative time and space, and the preferred measures are those deemed to be providing the best approximations to the absolute quantities. Newton never presupposes absolute time and space in his empirical reasoning. Motion in the planetary system is referred to the fixed stars, which are provisionally being taken as an appropriate reference for measurement, and sidereal time is provisionally taken as the preferred approximation to absolute time. Moreover, in the corollaries to the laws of motion Newton specifically renounces the need to worry about absolute versus relative motion in two cases:
Corollary 5. When bodies are enclosed in a given space, their motions in relation to one another are the same whether the space is at rest or whether it is moving uniformly straight forward without circular motion.
Corollary 6. If bodies are moving in any way whatsoever with respect to one another and are urged by equal accelerative forces along parallel lines, they will all continue to move with respect to one another in the same way as they would if they were not acted on by those forces.
ここで測定が絶対での表現された関心、本当の、そして、数学の時間、スペース、および動きに注意してください。そのすべてが例証の始めに量として特定されます。 その結果8つの定義に続く例証は、値が問題の量に割り当てられるのを可能にする手段がある彼らの関心を続けています。 ニュートンは、これらの測定が、私たちが現在理論によって調停されていて暫定的であると呼ぶものであると明白に認めます。 測定がプリンキピアのまさしくその心にあります。 このセクションの原生品集産地がまさに「1セットの理論上の概念の実証的な内容」について詳しく説明する(ハワード・シタインの言葉で)ことであるので、それは、スペースと時に定義と例証を瀰漫させます。. それに従って; 絶対の、そして、相対的な時間と空間のニュートンの区別が彼が区別を解明する概念的基礎を絶対の、そして、相対的な動きの間に提供している間、それらが自分たちで経験してアクセスしやすくない限り、絶対時間とスペースは直接実証的な推理に入ることができません。 言い換えれば、プリンキピアは測定の目的を概念化する目的のために絶対時間とスペースを予想しますが、測定値自体はいつも相対的な時間と空間のものです、そして、都合のよい測定は、絶対量に最良近似を提供していると考えられたものです。 ニュートンは彼の実証的な推理における絶対時間とスペースを決して予想しません。 太陽系における動きは恒星を参照されます、そして、恒星時は都合のよい近似として臨時に絶対時間までみなされます。(恒星は測定の適切な参照として臨時にみなされています)。 そのうえ、運動の法則への推論では、ニュートンは明確に2つの場合における相対運動に対してほとんど絶対で心配する必要性を放棄します:
推論5。 ボディーが特定のスペースに同封されるとき、スペースが静止しているか、または円運動なしでまっすぐ前方に一様に動いていることにかかわらずお互いと関連した彼らの動きは同じです。
推論6。 ボディーがお互いに関して何らかの方法で全く動いていて、平行線に沿って等しい加速力によって促されると、それらは皆、それらがそれらの力によって作用されないなら続けるように、同様にお互いに関して動き続けるでしょう。 
So, while the Principia presupposes absolute time and space for purposes of conceptualizing absolute motion, the presuppositions underlying all the empirical reasoning about actual motions are philosophically more modest.
If absolute time and space cannot serve to distinguish absolute from relative motions — more precisely, absolute from relative changes of motion — empirically, then what can? Newton answers, “The causes which distinguish true motions from relative motions are the forces impressed upon bodies to generate motion. True motion is neither generated nor changed except by forces impressed upon the moving body itself.” The problem then becomes one of distinguishing the forces impressed on bodies, where forces are quantities; and hence the key issue is whether there are theory-mediated measures of them that yield unequivocal values — in contrast to different measures of the same force that yield different values, the hallmark of relative motion. The famous bucket example that follows is offered as illustrating how forces can be distinguished that will then distinguish between true and apparent motion. The final paragraph of the scholium begins and ends as follows:
It is certainly very difficult to find out the true motions of individual bodies and actually to differentiate them from apparent motions, because the parts of that immovable space in which the bodies truly move make no impression on the senses. But the situation is not utterly hopeless…. But in what follows, a fuller explanation will be given of how to determine true motions from their causes, effects, and apparent differences, and, conversely, of how to determine from motions, whether true or apparent, their causes and effects. For this was the purpose for which I composed the following treatise. [P, 414f]
What does follow are two books of propositions that provide means for inferring forces from motions and motions from forces and a final book that illustrates how these propositions can be applied to the system of the world first to identify the forces governing motion in our planetary system and then to use them to differentiate between certain true and apparent motions of particular interest. In this respect, the empirical content of the theoretical concepts that Newton has explicated in the section called “Definitions” is inextricably linked with the physical theory presented in the rest of the Principia.
The contention that the empirical reasoning in the Principia does not presuppose an unbridled form of absolute time and space should not be taken as suggesting that Newton's theory is free of fundamental assumptions about time and space that have subsequently proved to be problematic. For example, in the case of space, Newton presupposes that the geometric structure governing which lines are parallel and what the distances are between two points is three-dimensional and Euclidean. In the case of time Newton presupposes that, with suitable corrections for such factors as the speed of light, questions about whether two celestial events happened at the same time can in principle always have a definite answer. And the appeal to forces to distinguish real from apparent non-inertial motions presupposes that free-fall under gravity can always, at least in principle, be distinguished from inertial motion.[20]
それで、プリンキピアが絶対運動を概念化する目的のために絶対時間とスペースを予想する間の実運動に関してすべての実証的な推理の基礎となる「前-仮定」は、哲学的に控え目です。絶対時間とスペースが、相対運動と絶対的なものをより正確に区別するのに役立つことができないなら、親類からの絶対的なものは動きを経験して変えて、その時は何の缶ですか? ニュートンは、「相対運動と本当の動きを区別する原因は、動きを発生させるようにボディーで感銘を与えられた力です。」と答えます。 「動体自体で感銘を与えられた力以外に、本当の動きは、発生しないで、また変えられません。」 次に、問題は力が量であるボディーの上で感銘を与えられた力を区別する1つになります。 そして、したがって、主要な問題は異価(相対運動の顕著な特徴)をもたらす同じ力の異なった基準と対照してはっきりしている値をもたらすそれらの理論で調停された手段があるかどうかということです。 どう次に本当の、そして、見かけの動きを見分ける力は区別できるかを例証するとして以下の有名なバケツの例を提供します。 例証の最終節は、始まって、以下の通り終わります:
確かに、個々のボディーの本当の動きを見つけて、実際に仮現運動とそれらを区別するのは、非常に難しいです、本当に、ボディーが動くその不動のスペースの地域が感覚で印象を全く与えないので。 しかし、状況は全く絶望的ではありません… しかし、以下のことでは、逆に動きから本当であるか、または明らかであることにかかわらずそれらの原因と効果をそれらの原因、効果、および見掛け上の差から本当の動きをどう決定するか、そして、どう決定するかをよりふくよかな説明に与えるでしょう。 これが私が以下の論文を構成した目的であったので。
以下のことは、動きと動きから力から力を推論するための手段を提供する提案の2冊の本とどう私たちの太陽系における動きを治める力を特定して、そして、ある本当の、そして、見かけの特別に関心の動きを区別するのにそれらを使用する世界初のシステムにこれらの提案を適用できるかを例証する最終的な本です。 この点で、ニュートンが「定義」と呼ばれるセクションで解明した理論の実証的な内容は解決できなくプリンキピアの残りで提示される物理的な理論にリンクされます。
ニュートンの理論には次に問題が多いと判明した基本的仮説そろそろ時間とスペースがないのを示すとプリンキピアにおける実証的な推理が放逸なフォームの絶対時間とスペースを予想しないという主張をみなすべきではありません。 例えば、スペースの場合では、ニュートンは、どの直線が平行であるか、そして、2ポイントの間の距離がどのくらいであるかを治める幾何学構造が、立体的であって、ユークリッドであることを予想します。 時間の場合では、ニュートンは、2回の天の出来事が同時に起こったかどうかに関する質問が光速のような要素のための適当な修正によって原則としていつも確答を持つことができるのを予想します。 そして、見かけの非慣性運動と全く区別する力への上告は、少なくとも原則として慣性運動と重力の下の自由落下をいつも区別できるのを予想します。 
Equally, the contention that the empirical reasoning in the Principia does not presuppose an unbridled form of absolute space should not be taken as denying that Newton invoked absolute space as his means for conceptualizing true deviations from inertial motion. Corollary 5 to the Laws of Motion, quoted above, put him in a position to introduce the notion of an inertial frame, but he did not do so, perhaps in part because Corollary 6 showed that even using an inertial frame to define deviations from inertial motion would not suffice. Empirically, nevertheless, the Principia follows astronomical practice in treating celestial motions relative to the fixed stars, and one of its key empirical conclusions (Book 3, Prop. 14, Corol. 1) is that the fixed stars are at rest with respect to the center of gravity of our planetary system. 
等しく、ニュートンが慣性運動からの真の逸脱を概念化するための彼の手段として絶対スペースを呼び出したことを否定するとプリンキピアにおける実証的な推理が放逸なフォームの絶対スペースを予想しないという主張をみなすべきではありません。 上で引用されたMotionの法への推論5は慣性のフレームの概念を紹介する立場に彼を置きますが、彼はそうしませんでした、おそらくCorollary6が、慣性運動からの逸脱を定義するのに慣性のフレームを使用さえする十分でないことを一部示したので。 それにもかかわらず、プリンキピアは恒星に比例して天体運動を扱う際に天文学の習慣に経験して、続きます、そして、主要な実証的な結論の1つは、恒星が私たちの太陽系の重心に関して静止しているということです。
5. Newton's Laws of Motion

 

The designation “laws of motion” had been used in the Philosophical Transactions of the Royal Society in the late 1660s for principles governing motion under impact put forward by Christopher Wren, John Wallis, and Christiaan Huygens. Only the first of the three laws Newton gives in the Principia corresponds to any of these principles, and even the statement of it is distinctly different: Every body perseveres in its state of being at rest or of moving uniformly straight forward except insofar as it is compelled to change its state by forces impressed. This general principle, which following the lead of Newton came to be called the principle or law of inertia, had been in print since Pierre Gassendi's De motu impresso a motore translato of 1641. Newton probably first encountered it in print when he read Descartes' Principia, where it is comprised by his first two “laws of nature” and is used immediately to assert “that any body which is moving in a circle constantly tends to move away from the center of the circle which it is describing.” This is the basis for Descartes concluding that some form of unseen matter (namely the vortices) must be in contact with the planets, for otherwise they would go off in a straight line. It is the first of the three hypotheses from which Huygens develops his theory of “falling heavy bodies and their motion in a cycloid” in his Horologium Oscillatorium of 1673: If there were no gravity, and if the air did not impede the motion of bodies, then any body will continue its given motion with uniform velocity in a straight line. Newton had adopted it as a “hypothesis” in the registered version of “De Motu,” though stated without reference to impressed forces: Every body under the sole action of its innate force moves uniformly in a straight line indefinitely unless something extraneous hinders it. The striking difference in the formulation in the Principia versus the one in “De Motu” — and, for that matter, versus all earlier formulations in print — is the reference to impressed forces. In all earlier formulations, any departure from uniform motion in a straight line implied the existence of a material impediment to the motion; in the more abstract formulation in the Principia, the existence of an impressed force is implied, with the question of how this force is effected left open.
The modern F=ma form of Newton's second law nowhere occurs in any edition of the Principia even though he had seen his second law formulated in this way in print during the interval between the second and third editions in Jacob Hermann's Phoronomia of 1716. Instead, it has the following formulation in all three editions: A change in motion is proportional to the motive force impressed and takes place along the straight line in which that force is impressed. In the body of the Principia this law is applied both to discrete cases, in which an instantaneous impulse such as from impact is effecting the change in motion, and to continuously acting cases, such as the change in motion in the continuous deceleration of a body moving in a resisting medium. Newton thus appears to have intended his second law to be neutral between discrete forces (that is, what we now call impulses) and continuous forces. (His stating the law in terms of proportions rather than equality bypasses what seems to us an inconsistency of units in treating the law as neutral between these two.)
名称「運動の法則」は1660年代後半にクリストファー・レン、ジョン・ワリス、およびChristiaanホイヘンスによって進められた衝撃の下で動きを治める原則に王立協会のPhilosophical Transactionsで使用されました。 ニュートンがプリンキピアで与える3つの法の1番目だけがこれらの原則のどれかに対応しています、そして、それの声明さえ明瞭に異なっています: それが力による州が感銘を与えた変化に強制される限り、あらゆるボディーが静止しているかまたは一様にまっすぐ前方に動く状態を辛抱強く続けます。 この一般的な原則、ピアー・ガッサンディのDe motu impresso以来ニュートンのリードに続くのは原則か運動の第1法則と呼ばれるようになって、あったものは1641年のmotore translatoを印刷します。 デカルトのプリンキピア(それは、彼の最初の2「自然法則」で包括されて、すぐに、「円に入って来ているどんなボディーも、絶えずそれが説明している円の中心から遠くに動く傾向があります」と断言するのに使用される)を読んだとき、ニュートンは、最初に、たぶんそれに印刷して遭遇しました。 これは何らかのフォームの見えない問題(すなわち、渦)が惑星に接触しているに違いないと結論を下すデカルトの基礎です、さもなければ、一筋にから去るでしょうから。 それはホイヘンスが1673年の彼のOscillatoriumとけい座の中で「降下している高粘稠度とサイクロイドにおける彼らの動き」に関する彼の理論を開発する3つの仮説の1番目です: 空気がボディーの動きを妨害しなかったなら重力が全くないと、一定の速度が一筋にある状態で、どんなボディーも特定の動きを続けるでしょう。 ニュートンは"De Motu"の登録済みのバージョンにおける「仮説」としてそれを採用しました、感動している力の参照なしで述べられていますが: 異質な何かがそれを妨げない場合、生まれながらの力の唯一の動きでのあらゆるボディーが一様に無期限にまっすぐに動きます。 プリンキピアにおける定式化の衝撃的な違いは対"De Motu"(そして、さらに言えば、印刷しているすべての以前の定式化に対して)のもの感動している力の参照です。 すべての以前の定式化では、等速直線運動からのどんな出発も一筋に動きの物質的な障害の存在を含意しました。 プリンキピアにおける、より抽象的な定式化では、感動している力の存在は含意されます、この力が左でどう開いた状態で作用するかに関する質問で。
彼は、ヤコブ・ヘルマンの1716年のPhoronomiaにおける2番目と3番目の版の間隔の間彼の第二法則が印刷しているこのように定式化されるのを見ていましたが、Fがどこにもニュートンの第二法則のmaフォームと等しくない現代はプリンキピアのどんな版にも起こります。 代わりに、それには、すべての3つの版における以下の定式化があります: 動いている変化は、感銘を与えられた原動力に比例していて、その力が感動している直線に沿って起こります。 プリンキピアのボディーでは、この法は離散的な場合と、そして、絶え間なく代理である場合に適用されます、抵抗媒体に入って来るボディーの連続した減速における動きにおける変化などのように。そこでは、衝撃などの瞬時に起こっている衝動が動いている変化に作用しています。 その結果、ニュートンは、彼の第二法則が離散的な力(すなわち、私たちが現在衝動と呼ぶもの)と連続した力の間で中立であることを意図したように見えます。 (彼が平等よりむしろ割合に関して法を述べると、私たちにとってこれらの2の間の同じくらい中立の法を扱うことにおける、ユニットの矛盾を思えることが、迂回します。)  
The obvious question with the second law is what Newton means by “a change in motion.” If he had meant a change in what we call momentum — that is, if he had meant, in modern notation, Δmv — the proper phrasing would have been “a change in the quantity of motion.” In a passage composed in the early 1690s when Newton was intending to restructure the Principia, he explained what he meant:
If the body A should [see Fig. 1], at its place A where a force is impressed upon it, have a motion by which, when uniformly continued, it would describe the straight line Aa, but shall by the impressed force be
   Figure 1
deflected from this line into another one Ab and, when it ought to be located at the place a, be found at the place b, then because the body, free of the impressed force, would have occupied the place a and is thrust out from this place by that force and transferred therefrom to the place b, the translation of the body from the place a to the place b will, in the meaning of this Law, be proportional to this force and directed to the same goal towards which this force is impressed. Whence, if the same body deprived of all motion and impressed by the same force with the same direction, could in the same time be transported from the place A to the place B, the two straight lines AB and ab will be parallel and equal. For the same force, by acting with the same direction and in the same time on the same body whether at rest or carried on with any motion whatever, will in the meaning of this Law achieve an identical translation towards the same goal; and in the present case the translation is AB where the body was at rest before the force was impressed, and ab where it was there in a state of motion. [M, 541]
In other words, the measure of the change in motion is the distance between the place where the body would have been after a given time had it not been acted on by the force and the place it is after that time. This is in keeping with the measure universally used at the time for the strength of the acceleration of surface gravity, namely the distance a body starting from rest falls vertically in the first second. The only special provision that Newton has to make is for non-uniform continuously acting forces, for which, in accord with Lemma 10, he takes the distance AB to vary “at the very beginning of the motion in the squared ratio of the times.”[21]
If this way of interpreting the second law seems perverse, keep in mind that the geometric mathematics Newton used in the Principia — and others were using before him — had no way of representing acceleration as a quantity in its own right. Newton, of course, could have conceptualized acceleration as the second derivative of distance with respect to time within the framework of the symbolic calculus. This indeed is the form in which Jacob Hermann presented the second law in his Phoronomia of 1716 (and Euler in the 1740s). But the geometric mathematics used in the Principia offered no way of representing second derivatives. (Newton employed curvature — that is, the circle “touching a curve” — in place of the second derivative with respect to distance throughout the Principia). Hence, it was natural for Newton to stay with the established tradition of using a length as the measure of the change of motion produced by a force, even independently of the advantage this measure had of allowing the law to cover both discrete and continuously acting forces (with the given time taken in the limit in the continuous case).
第二法則がある明白な疑問は、ニュートンが「動いている変化」で言っていることです。 すなわち、現代の記法でΔmvを言っていたなら彼がいわゆる勢いにおける変化を言っていたなら--適切な言い回しは「運動量における変化」でしょう。 ニュートンがプリンキピアを再構築するつもりであった1690年代前半に構成された通路で、彼は自分が言っていたことについて説明しました:
ボディーAが力がそれで感銘を与えられる場所Aで図1を参照するなら、便通があってください、どれ、一様に続けられていると、それはまっすぐな線Aaについて説明するでしょうが、感動している力によって説明されるだろうか。図1がこの線から別の1Abにそれて、それであるときに、場所に位置するべきである、場所bで見つけられてください、感動している力を持っていないボディーがそして、場所を占領しただろうからここからその力が突き出して、そこから場所b、場所からのボディーに関する翻訳に移す、bがこの法の意味でこの力に比例してこの力が感動しているのと同じ目標に向けられるようになる場所に。 同じボディーがすべての動きを奪って、同じ指示で同じ力に感銘を与えるなら、同時間、2の場所B、直線AB、および腹筋へのAが平行であって、等しくなる場所から起源を輸送できるでしょうに。 静止しているか否かに関係なく、同じ指示と同時間同じボディーに行動するか、または続けられた、同じ力のために、すべてのどんな動き、この法の意味における意志も同じ目標に向かって同じ翻訳を実現します。 そして、力が感動する、腹筋になるそれがそこ、動きの状態にあった前に、この場合は翻訳はボディーが静止していたところのABです。
言い換えれば、動いている変化の測定はそれが力によって作用されなかったなら特定の時の後に、ボディーがあった場所と場所の間その時以降、それがある距離です。 すなわち、表面重力の加速の強さに一般に当時、使用される測定、距離でボディーに休息滝から最初の秒に垂直に始めさせ続けるのにおいてこれがあります。 ニュートンが作らなければならない唯一の特別条項が、不均等な絶え間なく代理の力のためのものである、どれ、Lemma10に合います、彼が異なるように距離ABを取るか、「開口一番、現代の二乗された比率における動き、」
第二法則を解釈するこの方法がへそ曲がりに思えるなら、ニュートンがプリンキピア、および他のもので使用した幾何学上数学は彼の前での使用でした--量としてそれ自体で加速を表す方法を全く持っていないのを覚えておいてください。 ニュートンはもちろん距離の二次導関数としてシンボリックな微積分学の枠組みの中で時間に関して加速を概念化したかもしれません。 本当に、これは、ヤコブ・ハーマンが彼の1716年(そして、1740年代のオイラー)のPhoronomiaの第二法則を提示したフォームです。 しかし、プリンキピアに使用される幾何学上数学は、二次導関数を表す方法を全く提供しませんでした。 (ニュートンはプリンキピア中で距離に関する二次導関数に代わってすなわち、円が「カーブに触れている」湾曲を使いました。) したがって、ニュートンが運動変化の測定が力によって生産されながら長さを使用する確立された伝統で滞在するのは、当然でした、この測定が持っていた法が離散的で、かつ絶え間なく代理である力(特定の時間が連続した場合における限界でかかっている)をカバーするのを許容する利点の如何にかかわらずさえ。 
Under this interpretation, Newton's second law would not have seemed novel at the time. The consequences of impact were also being interpreted in terms of the distance between where the body would have been after a given time, had it not suffered the impact, and where it was after this time, following the impact, with the magnitude of this distance depending on the relative bulks of the impacting bodies. Moreover, Huygens's account of the centrifugal force (that is, the tension in the string) in uniform circular motion in his Horologium Oscillatorium used as the measure for the force the distance between where the body would have been had it continued in a straight line and its location on the circle in a limiting small increment of time; and he then added that the tension in the string would also be proportional to the weight of the body. So, construed in the indicated way, Newton's second law was novel only in its replacing bulk and weight with mass.[22]
In the early stages of his work on the Principia Newton had identified three logically equivalent alternatives for the third law: the action-reaction principle he ultimately chose, the principle we call conservation of linear momentum (Corollary 3 in the Principia), and the principle that “the common center of gravity of two or more bodies does not change its state whether of motion or of rest as a result of the actions of the bodies upon one another” (Corollary 4). Huygens had stated that both of these principles follow from his solution for spheres in collision, and the center of gravity principle, as Newton emphasizes, amounts to nothing more than a generalization of the principle of inertia. Even though his third law was novel in comparison with these other two,[23] Newton nevertheless chose it and relegated the other two to corollaries. Two things can be said about this choice. First, the third law is a local principle, while the two alternatives to it are global principles, and Newton, unlike those working in mechanics on the Continent at the time, generally preferred fundamental principles to be local, perhaps because they pose less of an evidence burden. Second, with the choice of the third law, the three laws all expressly concern impressed forces: the first law authorizes inferences to the presence of an impressed force on a body, the second, to its magnitude and direction, and the third to the correlative force on the body producing it. In this regard, Newton's three laws of motion are indeed axioms characterizing impressed force. Real forces, in contrast to such apparent forces as Coriolis forces (of which Newton was entirely aware, though of course not under this name), are forces for which the third law, as well as the first two, hold, for only by means of this law can real forces and hence changes of motion be distinguished from apparent ones.
この解釈で、ニュートンの第二法則は当時、目新しく見えていないでしょう。 また、衝撃の結果はところの間特定の時の後に、ボディーがあった距離で解釈されていました、衝撃を受けていなくて、今回以降、あったところで、衝撃に続いて、この距離の大きさを影響を与えるボディーの相対的な嵩に依存していて。 そのうえ、彼のOscillatoriumとけい座における等速円運動における遠心力(すなわち、ストリングでの緊張)に関するホイヘンスのアカウントは力に測定として時間の制限わずかな増加にボディーが円で直線とその位置で続けられていた状態で主張されたところの間の距離を使用しました。 そして、彼は、また、ストリングでの緊張もボディーの重さに比例していると言い足しました。 それで、示された方法で解釈されていて、ニュートンの第二法則は単に大量と重さを固まりに取り替えるのは、目新しかったです。
プリンキピアに対する彼の仕事の初期段階に、ニュートンは、3番目の法に関する3つの論理的に同等な選択肢を特定しました: 彼が結局選んだ動作反応原則、私たちが、線運動量の保護を(プリンキピアにおける推論3)と呼ぶという原則、および「2つ以上のボディーの一般的な重心は動きか休息にかかわらずお互いにボディーの機能の結果、状態を変えない」という原則; ホイヘンスは、ニュートンが強調するように、ともに原則が彼の衝突における球、および重心の解決策から続くこれらでは、原則がただ慣性の原理の一般化に達すると述べました。 彼の3番目の法則はこれらの他の2との比較が目新しかったのですが、ニュートンは、それにもかかわらず、それを選んで、他の2を推論に左遷しました。 この選択に関して2つのことを言うことができます。 まず最初に、3番目の法はローカルの原則です、それへの2つの選択肢が、グローバルな原則と、ニュートンですが、整備士で当時ヨーロッパ大陸に働いているものと異なって、ローカルである一般に都合のよい原理、おそらく証拠負担の以下にポーズをとらせるので。 2番目に、3番目の法の選択で、すべてが明白に関する3つの法が力の感銘を与えました: 第一法則はボディーへの感動している力、その大きさと方向への2番目、およびそれを生産するボディーへの相関物の力への3の番目ものの存在に推論を認可します。 この点で、本当に、ニュートンの3つの運動の法則が、感動している力を特徴付ける原理です。 コリオリの力(もちろんですが、どのニュートンが何かこの名前の下を完全に意識していなかったかに関する)のような見かけの力と対照して、本当の力は力です。缶の本物が単にこの法によって強制されるので、3番目の法、および最初の2が保持するものとしたがって、動きの変化に関しては、見かけのものと、区別されてください。 
Newton presents his first two laws as already “accepted by mathematicians and confirmed by experiments of many kinds” [P, 424].[24] For the third law, by contrast, he offers a variety of forms of support, including experiments on impact. One important element that becomes clear in his discussion of evidence for the third law — and also in Corollary 2 — is that Newton's impressed force is the same as static force that had been employed in the theory of equilibrium of devices like the level and balance for some time. Newton is not introducing a novel notion of force, but only extending a familiar notion of force. Indeed, Huygens too had employed this notion of static force in his Horologium Oscillatorium when he identified his centrifugal force with the tension in the string (or the pressure on a wall) retaining an object in circular motion, in explicit analogy with the tension exerted by a heavy body on a string from which it is dangling. Huygens's theory of centrifugal force was going beyond the standard treatment of static forces only in its inferring the magnitude of the force from the motion of the body in a circle. Newton's innovation beyond Huygens was first to focus not on the force on the string, but on the correlative force on the moving body, and second to abstract this force away from the mechanism by which it acts on the body. Three steps were thus involved in passing from the already familiar static forces to the more abstract Newtonian “dynamic” forces, one by Huygens and two by Newton.[25]
既にP、424を「数学者で受け入れて、多くの種類の実験で確認する」ので、ニュートンは彼の最初の2つの法則を提示します。3番目の法のための24、対照的に、彼はさまざまな形式のサポートを提供します、衝撃の実験を含んでいます。 彼の3番目の法(そして、Corollary2でも)に関する証拠の議論で明確になるある重要な要素は、ニュートンの感動している力がしばらくレベルとバランスのような装置の均衡理論で使われていた静的力と同じであるということです。 ニュートンは、力の目新しい概念を紹介しませんが、力の身近な概念を広げているだけです。 本当に、彼が円運動で物を保有しながらストリング(または、壁に対する圧力)での緊張と遠心力を同一視したとき、ホイヘンスも、彼のOscillatoriumとけい座における静的力のこの概念を使いました、高粘稠度によってそれがぶらぶらされているストリングに出される緊張への明白な類推で。 単に身体運動からの力の大きさを輪になって推論する際にホイヘンスの遠心力の理論は静的力の標準的に用いる治療法を越えていました。 ホイヘンスを超えたニュートンの革新は、ストリングへの力ではなく、動体への相関物の力に焦点を合わせる1番目と、これがそれがボディーに影響するメカニズムから遠くに強制する要約に2番目でした。 3ステップはこのようにして既に身近な静的力から、より抽象的ニュートン「ダイナミックな」軍まで通る、ホイヘンスによる1、およびニュートンによる2にかかわりました。 
The continuity with Huygens's theory of centrifugal force is important in another respect. In his brief defense of the first two laws of motion Newton remarks, “What has been demonstrated concerning the times of oscillating pendulums depends on the same first two laws and first two corollaries, and this is supported by daily experience with clocks” [P, 424]. In Huygens's Horologium Oscillatorium, the only place any counterpart to the second law surfaces is in the theory of centrifugal force and uniform circular motion. The theory Huygens presents extends to conical pendulums, including a conical pendulum clock that he indicates has advantages over simple pendulum clocks. In the 1670s Newton had used a conical pendulum to confirm Huygens's announced value of the strength of surface gravity as measured by simple cycloidal and small-arc circular pendulums.[26] (Huygens himself had measured the strength of surface gravity with a conical pendulum, obtaining the same value to four significant figures as he had obtained with simple pendulums.[27]) The precise agreement between these two theory-mediated measures of surface gravity, one of them predicated on Newton's first two laws of motion and the other not, in fact constituted the strongest evidence for the first two laws at the time the Principia was first published. For, the simple pendulum measure was known to be stable and accurate into the fourth significant figure. The evidence in hand for the first two laws, taken as a basis for measuring forces, was thus much stronger than has often been appreciated.
Save perhaps for the attribution of the F=ma form of the second law to the Principia, the most widespread mistake about Newton's three laws of motion is that they alone sufficed for all problems in classical mechanics. Those who developed what we now call Newtonian mechanics during the eighteenth century at all times appreciated how far from the truth this is. Newton's three laws of motion suffice for problems involving what Euler dubbed “point-masses.” Indeed, once given the forces acting on a point mass, the three laws hold for all point-masses, including those that lie within bodies. But the three laws must be supplemented by further principles for a whole host of celebrated problems involving bodies, rigid or otherwise, that are not mere point-masses. Perhaps the simplest prominent example at the time was the problem of a small arc circular pendulum with two (or more) point-mass bobs along the string. Huygens had solved this problem in the part of his Horologium Oscillatorium entitled “The Center of Oscillation,” in the process providing the theoretical basis for using added masses to tune pendulum clocks.[28] The reason why Newton's three laws of motion have to be supplemented to solve this problem is easy to see. Consider the case of a pendulum with two point-masses along the length of a rigid string. The outer point-mass has the effect of reducing the speed of the inner one, versus what it would have had without the outer one, and the inner point-mass increases the speed of the outer one. In other words, motion is transferred from the inner one to the outer one along the segment of the string joining them. Once the force transmitted to each point-mass along the string is known, Newton's three laws of motion are sufficient to determine the motion. But his three laws are not sufficient to determine what this force transmitted along the string is. Some other principle beyond them is needed to solve the problem. Which principle is to be preferred in solving this problem became a celebrated issue extending across most of the eighteenth century.[29] 
ホイヘンスの遠心力の理論がある連続は別の観点から言えば重要です。 彼の動きニュートン所見の最初の2つの法の簡潔なディフェンスでは、「振動振り子の倍に関して示されたことは、同じ最初の2つの法と最初の2つの推論によります、そして、これは時計の毎日の経験で支持されます」。P、424。 ホイヘンスのとけい座Oscillatoriumに、遠心力と等速円運動の理論には第二法則へのどんな対応者も表面化する唯一の場所があります。 ホイヘンスが提示する理論は円錐振り子に達します、彼が単振子時計の上でうま味があるのを示す円錐振り子時計を含んでいます。 1670年代に、ニュートンは、ホイヘンスが簡単なcycloidalと小さいアーク円振り子26によって測定されるように、表面重力の強さの値を発表したと(ホイヘンス自身は円錐振り子で表面重力の強さを測定しました、単振子で得て、彼が得たとき、同じ値を4つの有効数字まで得て。)確認するのに円錐振り子を使用しました。 表面重力のこれらの2つの理論で調停された基準の間の正確な協定、彼らのひとりがニュートンの1番目で2つの運動の法則ともう片方を叙述した、事実上、プリンキピアが最初に発行されたとき、最初の2つの法の最も強い証拠を構成しました。 4番目の有効数字に安定していて単振子測定が正確であることが知られていました。 その結果、手の測定力の基礎としてみなされた最初の2つの法の証拠はしばしば感謝したよりはるかに強かったです。
おそらく第二法則のF=ma形式の属性のためにプリンキピアに貯蓄してください、そして、ニュートンの動きの3つの法則に関する最も広範囲の誤りは、古典力学のすべての問題に十分であったということです。 私たちが18世紀に現在ニュートン力学と呼ぶものを開発した人は、いつもこれが真実からどれくらい遠いかを理解しました。 ニュートンの3つの運動の法則がオイラーが「ポイント大衆」と呼んだことにかかわることにおける問題に十分です。 本当に、一度ポイント固まりに作用する力に与えます、3つの法がすべてのポイント大衆のために成立します、ボディーに属すものを含んでいます。 しかし、単なるポイント大衆でない堅いかそうでないボディーにかかわることにおける多くの名高い問題によって更なる原則で3つの法を補わなければなりません。 おそらく当時最も簡単な際立った例は2(さらに)のポイント固まりがある円振り子がストリングに沿ってたたく小さいアークの問題でした。 ホイヘンスは「振りの中心」と題する彼のOscillatoriumとけい座の地域でこの問題を解決しました、振り子時計を調整する加えられた大衆を使用する理論的基礎を提供する過程で。 ニュートンの3つの運動の法則がこの問題を解決するために補われなければならない理由は見やすいです。 堅いストリングの長さに沿って2人のポイント大衆がいる振り子のケースを考えてください。 外側のポイント固まりには、内側のものの速度を落とすという効果があります、それが外側のもの、および外側のものの速度の内側のポイント質量増加なしで持っていたものに対して。 言い換えれば、それらを接合しながら、ストリングのセグメントに沿って内側のものから外側のものまで動きを移します。 ストリングに沿ったそれぞれのポイント固まりに伝えられた力が、いったん知られていると、ニュートンの3つの運動の法則が、動きを決定するために十分です。 しかし、彼の3つの法則は、ストリングに沿って伝えられたこの力が、何であるかを決定するために十分ではありません。 それらを超えたある他の原則が、問題を解決するのに必要です。 どの原則がこの問題を解決する際に好まれるかことであるかは18世紀の大部分に達する名高い問題になりました。 
6. Book 1 of the Principia

 

Book 1 develops a mathematical theory of motion under centripetal forces. In keeping with the Euclidean tradition, the propositions mathematically derived from the laws of motion are labeled either as theorems or as problems. The theorems all have an “if-then” form, enabling them to authorize inferences of their consequents, given their antecedents.[30] But then so too do the problems in effect have an “if-then” logical form, for the (geometric style) solutions they provide authorize inferences from given information to unknowns. The best way to think of the derived propositions, therefore, is as “inference-tickets.” As such, the propositions fall into three categories: (1) ones that license conclusions about forces from information about motions, (2) ones that license conclusions about motions from information about forces, and (3) ones that license conclusions about (net) forces directed toward whole bodies from information about (contributing) forces directed toward the individual parts of the bodies.
A fundamental contrast between Newton's mathematical theory of motion under centripetal forces and the mathematical theories of motion developed by Galileo and Huygens is that Newton's is generic. Galileo and Huygens examined one kind of force, uniform gravity, with a goal of deriving testable consequences. Newton's theory covers not only forces that vary as 1/r2, for which the Principia is famous, but also forces that vary as r, as 1/r3, and even as any arbitrary function of r. At the end of Section 11 he gives a reason, quoted earlier:
Mathematics requires an investigation of those quantities of forces and their proportions that follow from any conditions that may be supposed. Then, coming down to physics, these proportions must be compared with the phenomena, so that it may be found out which conditions of forces apply to each kind of attracting bodies. And then, finally, it will be possible to argue more securely concerning the physical species, physical causes, and physical proportions of these forces. [P, 588f]
He had other reasons as well. The theory of gravity entails that gravity below the surface of a uniformly dense sphere varies linearly with the distance from the center, and hence, at least to a first approximation, this is how gravity varies below the surface of the Earth. Centripetal forces that vary as 1/r3 hold if and only if the trajectory is a spiral;[31] and, given any stationary orbit governed by centripetal forces, superposition of a 1/r3 centripetal force will cause that orbit to precess, as in the case of the lunar orbit.[32] Still, Newton's main reason appears to have been the one given in the quotation.
第1巻は求心力の下で動きの数学の理論を開発します。 ユークリッドの伝統を踏まえて、運動の法則から数学的に得られた提案は、定理として、または、問題としてラベルされます。 定理にはすべて、それらの前例を考えて、それらの結果の推論を認可するのを可能にして、「-その時ならば」フォームがあります。 しかし、またので非常に事実上、問題には(幾何学様式)のための「-その時ならば」論理的なフォームがあるそして、それらが提供する解決法は既知情報から未知までの推論を認可します。 「推論チケット」としてしたがって派生している提案を考える最も良い方法があります。 そういうものとして、提案は3つのカテゴリになります: (1) (2) 力の情報からの動きに関して結論を認可して、力が身体の個々の部分に向けた(貢献)に関して(3) (ネット)の力に関するライセンス結論が情報から全身に向けたものを認可するものという動きの情報からの力に関する結論を認可するもの。
ニュートンの求心力の下の動きの数学の理論とガリレオとホイヘンスによって開発された動きの数学理論の間の基本的なコントラストは、ニュートンが一般的であるということです。 ガリレオとホイヘンスは試験できる結果を引き出すという目標のために1種類の力、一定の重力を調べました。 ニュートンの理論はプリンキピアが有名である1/r2として異なる力だけではなく、1/r3としてのrとしてrのどんな任意の機能としてさえ異なる力もカバーしています。 セクション11の終わりでは、彼は、より早く引用された、理由をあげます:
数学はそれらの量の力の調査と思われるどんな状態からも続くそれらの割合を必要とします。 次に、物理学に落ちて、これらの割合を現象と比較しなければなりません、力のどの状態がボディーをちょっと引き付けながらそれぞれに適用されるか見つけることができるように。 そして、そして最終的に、これらの力の物理的な種、身体的原因、および物理的な割合に関して、よりしっかりと論争するのは、可能でしょう。
彼には、また、他の理由がありました。 重力の理論は以下の距離に従って一様に濃い球の表面が中心から直線的に変えるその重力を伴います、そして、したがって、少なくともまず得られた近似の結果に、これは重力が地球の表面の下でどう異なるかということです。 そして、1/r3保持として異なる求心力、軌道がらせんである場合にだけ。 そして、求心力によって治められたどんな静止軌道も考えて、1/r3求心力の重ね合わせはその軌道を「前-課税」に引き起こすでしょう、月の公転軌道に関するケースのように。 それでも、ニュートンの主な理由は引用で与えられたものであるように見えます。 
In one curious respect that Newton mentions only once in passing, the theory does not cover all “conditions that may be supposed.” Newton's theory treats centripetal forces that vary only with the distance from the force center, that is, ones for which the force on two bodies equally distant from that center is always the same. It does not treat centripetal forces that vary with θ and φ, the two angular components of (r, θ, φ) spherical coordinates. This is notable for two reasons. First, the central forces arising in Cartesian vortices would almost certainly have varied with both of these angular components, and hence Newton is tacitly begging a question. Second, as Newton himself realized and noted in Section 13 of Book 1, gravity around a spheroid does not vary simply as 1/r2, but must also vary with latitude.[33] From Newton's point of view, therefore, gravity around Jupiter and the Earth, and surely the Sun as well, does not vary simply as 1/r2. This is one of many often ignored cues pointing to the extent to which the evidential reasoning in the Principia has to be more intricate and subtle than was appreciated at the time, or for that matter even now.
Up to the end of Section 10, Book 1 considers forces that are directed toward geometric centers rather than bodies. As a consequence, only the first two laws of motion enter into any of the proofs until late in Book 1. Even further, as Newton develops the theory to that point, only the accelerative measure of force is employed, and hence even mass plays no role. Included in this segment are by far the most widely read parts of Book 1, then and now: Section 2, which deals with centripetal forces generally, and Section 3, which develops Newton's fundamental discovery that a body moves in a conic section, sweeping out equal areas in equal times about a focus, if and only if the motion is governed by an inverse-square centripetal force directed toward this focus. The stick-figure picture of Book 1 that results from viewing these two sections as its high point blinds the reader not only to the richness of the theory developed in it, but also to several no less important results derived in the rest of it.
The paragraph that opens Section 11 announces, “Up to this point I have been setting forth the motions of bodies attracted toward an immovable center, such as, however, hardly exists in the natural world…. I now go on to set forth the motion of bodies that attract one another” [P, 561] The section first successfully solves the problem of the motion of two bodies under inverse-square mutual attraction. It then turns to the case of more than two bodies, for which Newton can solve only the case of mutual attraction that varies linearly with the distance between bodies. For the inverse-square case, Newton gives only qualitative results, most of them in 22 corollaries to Proposition 66 that Newton calls “imperfect” in the Preface to the first edition. All of these corollaries identify qualitative tendencies in the motions of a body orbiting a second body and attracted to a third, with the majority of the results directed specifically to the perturbing effects of the Sun on the motion of our Moon. It is with Section 11, then, that the Principia departs from the realm of the “De Motu” tract and begins to consider the complexities of the true motions.
ニュートンが通過で一度だけ言及する1つの好奇心の強い点で、理論はすべての「思われるかもしれない状態」を覆っていません。 ニュートンの理論はすなわち、力のセンター、その中心から等しく離れた2つのボディーへの力がいつも同じであるものから距離だけに従って異なる求心力を扱います。 それはθとφ((r、θ、φ)球座標の2個の角度成分)で異なる求心力を扱いません。 これは2つの理由で注目に値します。 まず最初に、Cartesian渦で起こる中央の力はこれらの角度成分の両方でほぼ確実に異なったでしょう、そして、したがって、ニュートンは暗に質問を請っています。 2番目に、ニュートン自身がBook1のセクション13でわかって、注意したように、球体の周りの重力は、単に1/r2として異なりませんが、また、緯度に従って、異ならなければなりません。 したがって、ニュートンの観点と、また、木星、地球、および確実に太陽の周りの重力は単に1/r2として異なりません。 これは、プリンキピアにおける証拠推論が当時、または今でも、さらに言えば、感謝したより複雑であって、微妙でなければならない範囲を示す多くのしばしば無視された手がかりの1つです。
セクション10の終わりまで、Book1はボディーよりむしろ幾何学中心に向けられる力を考えています。 結果として、最初の2つの運動の法則だけがBook1に遅れるまで証拠のいずれにも入ります。 さらにさえ、ニュートンがそのポイントに理論を開発するとき、力の速度を増す基準だけが採用しています、そして、したがって、固まりさえ役割を全く果たしません。 このセグメントで含まれていて、Book1の部分は当時も今も、広く断然大部分に読み込まれますか: そして、セクション2とセクション3、動きがこの焦点に向けられた逆さの正方形求心力によって治められる場合にだけ。一般に、それは、求心力に対処します。(等しい時代に焦点に関して等しい領域を一掃して、セクションは、ボディーが円すい曲線に入って来るというニュートンの基本的な発見を開発します)。 これらの2つのセクションを頂点であるとみなすのから結果になるBook1の深みのない人物の絵は単にそれで開発された理論の豊かさに目をくらますのではなく、それの残りで引き出されたいくつかのおまけに、重要な結果にも読者の目をくらまします。
セクション11を開くパラグラフは、セクションが最初に逆さの正方形の互いのアトラクションの下で2つのボディーの動きの問題を首尾よく解決すると「私が持っている、不動のセンターに向かって引き付けられたボディーの動きについて詳しく説明することであるこのポイント」まで発表します。(しかしながら、辛くも、ポイントは世界的の自然に…. 私が、今お互いを引き付けるボディーの動きについて詳しく説明するのを先へ進むのを存在します)。 そして、それは2つ以上のボディーに関するケースに変わります。(ニュートンはボディーに関して物体間の距離に従って直線的に異なる互いのアトラクションに関するケースしか解決できません)。 逆さの正方形ケースのために、ニュートンはそれらの大部分がニュートンがPrefaceに初版に「不完全である」と呼ぶProposition66に22推論する定性的結果だけを与えます。 これらの推論のすべてが3分の1に2番目のボディーの周囲を軌道を描いて回って、引き付けられたボディーの動きにおける質的な傾向を特定します、結果の大部分が特に私たちの月の動きへの太陽の混乱した効果に向けられている状態で。 プリンキピアは、それがセクション11、その時をもってあって、"De Motu"広がりの分野から出発して、本当の動きの複雑さを考え始めます。 
Sections 12 and 13 treat attractive forces between bodies that result from — are composed out of — centripetal forces between each of the individual microphysical particles forming them. Section 12 treats spherical bodies, and Section 13, non-spherical bodies. As Newton anticipated, this was the part of Book 1 that would arouse the strongest complaints from readers committed to the view that all forces involve contact between bodies. On top of this, nowhere in Book 1 did the mathematics become more demanding than here. These two sections give primary attention to inverse-square forces and forces that vary linearly with distance, but, just as earlier in Book 1, some results pertain to forces that vary in other ways, included among which are results pointing to experiments that might differentiate between inverse-square and any alternative to it. In the Scholium to Proposition 78 Newton singles out the result of this inquiry that he regarded as most notable:
I have now set forth the two major cases of attractions, namely when the centripetal forces decrease in the squared ratio of the distances or increase in the simple ratio of the distances, causing bodies to revolve in conics, and composing centripetal forces of spherical bodies that decrease or increase in proportion to the distance from the center according to the same law — which is worthy of note. [P, 599][34]
This is one of the few places in the Principia where Newton singles out a result in an aside in this way. That an attracting sphere can be treated as if the mass were concentrated at its center in the case of attractive forces that vary linearly with the distance was not so notable, for as Newton shows in Section 13, in this case of attractive forces an attracting body always can be treated as if the mass were located at its center of gravity, regardless of shape. The truly notable finding is that it is also true of spheres in the case of inverse-square forces. The subsequent results in Sections 12 and 13 indicate that, in the case of all other kinds of centripetal force, the attraction toward a sphere is not the same as attraction toward all its mass concentrated in the center; and even in the inverse-square case, the result does not hold for other shapes or for spheres that do not have spherically symmetric density.
Although Newton does not so expressly single out other results of Book 1, a few deserve comment here. The key that opened the way to Newton's theory of motion under centripetal forces was his discovery of how to generalize to non-circular trajectories the solution that he and Huygens had obtained for the central force in uniform circular motion. Figure 2 shows Newton's diagram for this generalization from the first edition. Suppose first that the trajectory APQ is part of a circle of radius SP along which the body at P is moving uniformly. Both Newton and Huygens had reasoned that the displacement QR from the tangent is proportional to the product of the force retaining the body in its circular orbit and the square of the time t for the body to
   Figure 2
move from P to Q, and hence the force varies as QR/t2. But the time is proportional to PQ divided by the velocity v, and in the limit as Q approaches P, PQ approaches PR, so that t2 becomes equal to PR2/v2. Proposition 36 of Book 3 of Euclid entails that in this limit PR2 is equal to the product of QR and twice the radius SP, and hence the force for uniform motion in a circle varies as v2/SP or v2/r.[35]
セクション12と13はそれが生じるボディーの間で引力を扱います--求心力から、それらを形成しながら、それぞれの個々のmicrophysical粒子の間で構成されます。 セクション12は球体、およびセクション13、非球体を治療します。 ニュートンが予期したように、これはすべての力がボディーとの接触にかかわるという意見に送られた読者から最も強い苦情を喚起するBook1の部分でした。 これの上では、Book1では、どこにも、数学はここより過酷になりませんでした。 これらの2つのセクションが逆さの正方形力に関する第一の注意を与えます、そして、しかしちょうどいくつかの結果が、より早くBook1で他の方法で異なる力に関するとき、距離に従って直線的に異なる力は、それがどれが実験を示す結果であるかの中で逆さの正方形とそれへのどんな選択肢も区別するかもしれないかを含んでいました。 Proposition78へのScholiumでは、ニュートンは彼が最も注目に値すると見なしたこの問い合せの結果を選び抜きます:
私は、今アトラクションの2つの主要なケースかすなわち、求心力がいつ距離の二乗された比率に縮小するか、ボディーが円錐曲線論で回転する距離の簡単な比率の増加について詳しく説明しました、そして、減少するか、または同じ法()によると、中心から同行して距離を広げる球体の求心力を構成するのは注意にふさわしいです。
これはニュートンがこのように余談における結果を選び抜くプリンキピアにおけるわずかな場所の1つです。 まるで固まりがセンターに集結されるかのように、距離に従って直線的に異なる引力の場合で引き付ける球を扱うことができるのは、それほど注目に値しませんでした、ニュートンがセクション13に示すように、まるで固まりが重心に位置するかのように、引力では、この場合引き付けるボディーをいつも治療できるので、形にかかわらず。 本当に注目に値する調査結果は、また、それも球に関して逆さの正方形力の場合に当てはまるということです。 すべての固まりに向かったアトラクションがセンターで集中したので、セクション12と13におけるその後の結果は、球に向かったアトラクションは他のすべての種類の求心力の場合が同じでないことを示します。 そして、逆さの正方形場合ではさえ、結果は他の形か球面に左右対称の密度を持っていない球に当てはまりません。
ニュートンはそれほど明白にBook1の他の結果を選び抜きませんが、いくつかはここでコメントに値します。 求心力の下でニュートンの動きの理論への道を切り開いたキーは、どう、彼とホイヘンスが等速円運動で中央の力に得た解決策を非円形軌道に広めるかに関する彼の発見でした。 図2は初版からこの一般化のためのニュートンのダイヤグラムを示しています。 最初に、軌道APQがPのボディーが一様に動いている半径SPの円の一部であると仮定してください。 ニュートンとホイヘンスの両方が、接線からの置換えQRが周回軌道でボディーを保有する力の生成物とボディーのための現代tの正方形に比例していると推論しました。図2はPからQまで動きます、そして、したがって、力はQR/t2として異なります。 QがPにアプローチするとき、時間は速度v、および限界で分割されたPQに比例しています、しかし、PQはPRにアプローチして、したがって、そのt2はPR2/v2と等しくなります。 これでPR2を制限するユークリッド限嗣相続のBook3の提案36はQRの製品と半径SPの2倍と等しいです、そして、したがって、輪になっている等速直線運動のための力はv2/SPかv2/rとして異なります。 
Newton's Proposition 6 generalizes this result to not necessarily uniform motion under centripetal forces along an arbitrary trajectory in which equal areas are swept out in equal times with respect to S, in accord with Proposition 1 of Book 1. The central force at P is again proportional to the displacement from the tangent QR over a short increment of time divided by the square of this time; but now the time is proportional not to the arc PQ, but to the area swept out, which in the limit as Q approaches P, is the triangular area SPxQT/2. Therefore, to keep a body moving along a given non-circular trajectory, the centripetal force must vary along the trajectory as (1/SP2) — that is, 1/r2 — times the limit of (QR/QT2) as Q approaches P. In the second edition Newton adds a corollary that displays another way of seeing the result as a generalization of uniform circular motion: the centripetal force along the trajectory must everywhere vary as v2/(ρsinSPR), where ρ is the radius of curvature of the trajectory at P. With this, the body can be viewed as driven from one instantaneous circle to the next by the component of force tangential to the motion, a component that disappears in the case of uniform circular motion.
Newton illustrates the value of Proposition 6 with a series of examples, the two most important of which involve motion in an ellipse. If the force center is at a focus S of the ellipse, then the limit of (QR/QT2) is everywhere equal to half the constant latus rectum of the ellipse, and hence the force varies as 1/SP2, or 1/r2. But if the force center is at the center C of the ellipse, the force turns out to vary as PC, that is, linearly with r. This contrast raises an interesting question. What conclusion can be drawn in the case of motion in an ellipse for which the foci are very near the center, and the center of force is not known to be exactly at the focus? Newton clearly noticed this question and supplied the means for answering it in the Scholium that ends Section 2.
Section 10 includes a philosophically important result that has gone largely unnoticed in the literature on the Principia. Newton's argument that terrestrial gravity extends to the Moon depends crucially on Huygens's precise measurement of the strength of surface gravity. This theory-mediated measurement was based on the isochronism[36] of the cycloidal pendulum under uniform gravity directed in parallel lines toward a flat Earth. But gravity is directed toward the center of the (nearly) spherical Earth along lines that are not parallel to one another, and according to Newton's theory it is not uniform. So, does Huygens's measurement cease to be valid in the context of the Principia? Newton recognized this concern and addressed it in Propositions 48 through 52 by extending Huygens's theory of the cycloidal pendulum to cover the hypocycloidal pendulum — that is, a cycloidal path produced when the generating circle rolls along the inside of a sphere instead of along a flat surface. Proposition 52 then shows that such a pendulum, although not isochronous under inverse-square centripetal forces, is isochronous under centripetal forces that vary linearly with the distance to the center. Insofar as gravity varies thus linearly below the surface in a uniformly dense sphere, the hypocycloidal pendulum is isochronous up to the surface, and hence it can in principle be used to measure the strength of gravity. A corollary to this proposition goes further by pointing out that, as the radius of the sphere is increased indefinitely, its surface approaches a plane surface and the law of the hypocycloidal asymptotically approaches Huygens's law of the cycloidal pendulum. This not only validates Huygens's measurement of surface gravity, but also provides a formula that can be used to determine the error associated with using Huygens's theory rather than the theory of the hypocycloidal pendulum.
ニュートンのProposition6は等しい領域がSに関して等しい回で一掃される任意軌道に沿った求心力の下でどんな必ず一定の動きにもこの結果を一般化しません、Book1のProposition1に合います。 Pにおける中央の力は再び、今回の正方形が割られた時間の短い増分の上で接したQRからの置換えに比例しています。 しかし、現在、時間はアークPQではなく、一掃された領域に比例しています。(QアプローチPとしての限界では、それは、三角野SPxQT/2です)。 したがって、ボディーに特定の非円形軌道に沿って動かせ続けるために、QがP.In第2版ニュートンに近づくとき、(1/SP2)--すなわち、1/r2--掛ける(QR/QT2)の限界が結果を等速円運動の一般化であるとみなす別の方法を表示する推論を加えるとき、求心力は軌道に沿って異ならなければなりません: いたる所の軌道必須に沿った求心力はv2/(ρsinSPR)として異なります。(そこでは、ρがP.Withの軌道の湾曲の半径です)。これ、動きに付随的な力のコンポーネントによって1つの瞬時に起こっている円から次の円まで運転されるようにボディーを見ることができます、等速円運動の場合で見えなくなるコンポーネント。
ニュートンは一連の例、2を最も重要な状態でProposition6の値に入れます(動きに楕円にかかわります)。 力のセンターが楕円の焦点Sにあるなら、(QR/QT2)の限界はいたる所で楕円の一定の通径の半分と等しいです、そして、したがって、力は1/SP2、または1/r2として異なります。 しかし、力のセンターが楕円のセンターCにあるなら、力は、すなわち、PC、rがある直線的として異なるように判明します。 このコントラストは面白い質問を提起します。 センターであり増殖巣がどれであるかために非常に近い楕円では、力の中心がちょうど焦点にあるのが知られないという動きの場合でどんな結論に達せられることができますか? ニュートンは、セクション2を終わらせるScholiumでそれに答えるのに明確にこの質問に気付いて、手段を供給しました。
セクション10はプリンキピアに関する文学で主に見つからずに済んだ哲学的に重要な結果を含んでいます。 地球引力が月に達するというニュートンの主張は重要にホイヘンスの表面重力の強さの正確な寸法に依存します。 この理論で調停された測定は平行線で平坦な地球に向けられた一定の重力の下でサイクロイド振り子の等時性に基づきました。 しかし、重力はお互いには、平行でない直線に沿って(ほとんど)球体の地球の中心に向けられます、そして、ニュートンの理論によると、それは一定ではありません。 それで、ホイヘンスの測定は、プリンキピアの文脈で有効であることをやめますか? ニュートンは、Propositions48〜52にhypocycloidal振り子を覆うためにホイヘンスのサイクロイド振り子の理論を広げることによって、この関心を認めて、それを記述しました--すなわち、転がり円が平面の代わりに球の内部に沿って回転するとき生産されたcycloidal経路。 そして、提案52は、逆さの正方形求心力の下で同一時間ではありませんが、そのような振り子が距離に従って直線的にセンターに異なる求心力の下で同一時間であることを示しています。 その結果、重力が一様に濃い球で表面の下の直線的を変える限り、hypocycloidal振り子は表面まで同一時間です、そして、したがって、重力の強さを測定するのに原則としてそれは使用できます。 この提案への推論はhypocycloidal asymptoticallyアプローチの球の半径が無期限に増加するのに応じて表面が平面にアプローチすると指摘して、法でホイヘンスのサイクロイド振り子の法則を促進しに行きます。 これは、ホイヘンスの表面重力の測定を有効にするだけではなく、hypocycloidal振り子の理論よりむしろホイヘンスの理論を使用すると関連している誤りを決定するために、使用できる公式を提供もします。 
Thus, what Newton has taken the trouble to do in Section 10 is to show that Huygens's theory of pendulums under uniform parallel gravity is a limit-case of Newton's theory of pendulums under universal gravity. At the end of Section 2 he points out in passing that this limit strategy also captures Galileo's theory of projectile motion. In other words, Newton took the trouble to show that the Galilean-Huygensian theory of local motion under their uniform gravity is a particular limit-case of his theory of universal gravity, just as Einstein took the trouble to show that Newtonian gravity is a limit-case of the theory of gravity of general relativity. Newton's main reason for doing this appears to have been the need to validate a measurement pivotal to the evidential reasoning for universal gravity in Book 3. From a philosophic standpoint, however, what is striking is not merely his recognizing this need, but more so the trouble he went to to fulfill it. Section 10 may thus illustrate best of all that Newton had a clear reason for including everything he chose to include in the Principia.
Section 9 includes another often overlooked result that is pivotal to the evidential reasoning for universal gravity in Book 3. Proposition 45 applies the result on precessing orbits mentioned earlier to the special case of nearly circular orbits, that is, orbits like those of the then known planets and their satellites. This proposition establishes that such orbits, under purely centripetal forces, are stationary — that is, do not precess — if and only if the centripetal force governing them is exactly inverse-square. It does this by deriving a formula relating the exponent n in the force law to the angle θ between the point where the orbiting body is furthest from the force center to the point where it is nearest, that is, the apsidal angle: n = (180/θ)2-3. (To illustrate, if the apsidal angle is 180 degrees, as in a Keplerian ellipse, then the exponent in the force law is -2, and if the apsidal angle is 90 degrees, as in an ellipse for which the force center is in the center, the exponent is +1.) This result is striking in three ways. First, insofar as the cumulative effect of even a very small precession is detectable after several revolutions, this formula turns the rate of precession (2θ per revolution) into a sensitive measure of the exponent in the force law. Second, it yields a conditional beyond “If the orbit is stationary, then the centripetal force is inverse-square,” namely, “If the orbit is nearly stationary, then the centripetal force is nearly inverse-square.” Using Newton's preferred phrasing, quam proxime (literally, “most nearly as possible”), this latter conditional has an “If…quam proxime, then…quam proxime” form. Newton illustrates this by taking the mean precession rate of the lunar orbit, 3 degrees per revolution, to conclude that the exponent for the net centrifugal force acting on the Moon is -2 and 4/243. Third, even when an orbit does precess, once such a fractional departure of the exponent from -2 is shown to result from the perturbing effect of outside bodies, then one can still conclude that the force toward the central body is exactly -2. This is precisely the strategy Newton follows in concluding that the centripetal force on the Moon, once a correction is made for the perturbing effects of the Sun, is inverse-square.
したがって、ニュートンがセクション10でわざわざしたことは、ホイヘンスの一定の平行な重力の下の振り子の理論がニュートンの万有引力の下の振り子の理論に関する限界ケースであることを示していることになっています。 セクション2の終わりでは、彼は、通過でまた、この限界戦略がガリレオの発射体の動きの理論を得ると指摘します。 言い換えれば、ニュートンは、それらの一定の重力の下の局所運動のガリラヤのHuygensian理論が彼の万有引力の理論の特定の限界ケースであることをわざわざ示しました、ちょうどアインシュタインが、ニュートンの重力が一般相対性理論の重力の理論に関する限界ケースであることをわざわざ示したように。 ニュートンのこれをする主な理由はBook3の万有引力のための証拠推論に重要な測定を有効にする必要性であったように見えます。 しかしながら、哲学的な見地からは、衝撃的なことは単にこの必要性を認識するという彼のものではありませんが、より多くのそうは彼がそれを実現させに行った問題です。その結果、セクション10は、ニュートンには彼がプリンキピアに含んでいるのを選んだすべてを含む明確な理由があったのを最もよく例証するかもしれません。
セクション9はBook3の万有引力のための証拠推論に重要な別のしばしば見落とされた結果を含んでいます。 より早くほとんど周回軌道の特別なケースに言われた軌道、すなわち、当時の知られている惑星のものとそれらの衛星のような軌道をprecessingするとき、提案45は、結果を当てはまります。 そして、この提案は、そのようなオービッツが純粋に求心力の下で静止しているのを確証します--すなわち、「前-課税」がそうしないか、それらを治める求心力が、まさに逆さに正方形である場合にだけ。 それは、力の法ですなわち、ポイントの間の軌道に乗っているボディーがそれが最も近いところで肝心の力の中心から最も遠い角度θ、後陣の角度に解説者nを関係づけながら、公式を引き出すことによって、これをします: nは(180/θ)2-3と等しいです。 (解説者を、次に、Keplerian楕円では、力の法による解説者が-2であるので、後陣の角度が180度であり、後陣の角度が力のセンターがセンターにある楕円のように90度であれば例証するのは、+1です。) この結果は3つの方法で衝撃的です。 まず最初に、非常に小さい前進さえの累積している効果が数回の革命の後に検出可能である限り、この公式は、前進(1革命あたりの2θ)の速度を力の法による解説者の敏感な基準に変えます。 2番目に、「軌道による静止しています、次に、求心力が逆さに正方形であるということです」なら条件付きの以遠をもたらします、すなわち、「軌道がほとんど静止しているなら、求心力は逆さにほとんど正方形です」。 ニュートンの都合のよい言い回し、quam proxime(文字通り「ほとんど可能であるとしての大部分」)を使用して、この後者は条件付きです。「…quam proxime、当時…quam proximeであれば」フォームを持っています。 ニュートンは、月に影響するネットの遠心力のための解説者が-2と4/243であると結論を下すために月の公転軌道の平均の前進率、1革命あたり3度取ることによって、これを例証します。 軌道が「前-課税」をしさえするときの3番目、そして、-2からの解説者のそのような断片的な出発が外のボディーの混乱した効果から生じるようにいったん示されると、人は中央のボディーに向かった力がまさに-2であるとまだ結論を下すことができます。 これは正確に太陽の混乱した効果のためにいったん修正をすると月の求心力が逆さに正方形であると結論を下す際にニュートンが従う戦略です。 
This is not the only place in Book 1 where Newton takes the trouble to derive an “If…quam proxime, then…quam proxime” version of an exact “If…, then…” proposition. Propositions 1 and 2 establish that a motion is governed purely by centripetal forces if and only if equal areas are swept out in equal times. The second and third corollaries of Proposition 3 then yield the conclusion that a motion is quam proxime governed purely by centripetal forces if and only if equal areas are quam proxime swept out in equal times. Again, after establishing that Kepler's 3/2 power rule holds exactly for concentric uniform circular motions if and only if an exact inverse-square centripetal force holds across all the orbits, he adds the generalization, “And universally, if the periodic time is as any power Rn of the radius R, … the centripetal force will be inversely as the power R2n-1 of the radius, and conversely.”[37] This result holds for non-integer values of n, and hence it yields the further result that the 3/2 power rule holds quam proxime for uniform circular orbits if and only if the centripetal force is quam proxime inverse-square. These propositions— which Newton has taken the trouble to show still hold in a quam proxime form — are the very ones he invokes in Book 3 to conclude that the forces retaining bodies in their orbits in our planetary system are all centripetal and inverse-square. (By contrast, as noted earlier, while the proposition, “if a Keplerian ellipse exactly, then inverse-square exactly,” is true, the proposition, “if a Keplerian ellipse quam proxime, then inverse-square quam proxime,” is not true when the eccentricity of the ellipse is not large, as explained in Smith, 2002.) A failure to notice these quam proxime forms in Book 1 blinds one to the subtlety of the approximative reasoning Newton employs in Book 3. 
これは、Book1でニュートンがわざわざ「…quam proxime、当時の…quam proximeであれば」「次に、……であれば」正確な提案のバージョンを引き出す唯一の場所ではありません。 提案1と2が、動きが求心力によって純粋に治められるのを確証する、等しい領域である場合にだけ、等しい回による掃かれたアウトはそうです。 次に、Proposition3の2番目と3番目の推論が動きが求心力によって純粋に治められたquam proximeであるという結論をもたらす、等しい領域である場合にだけ、等しい回で一掃されたquam proximeは、そうです。 そして、そして、そのケプラーを設立した後に一方、3/2パワー定規がちょうど同心の等速円運動を保持する、正確な逆さの正方形求心力がすべてのオービッツの向こう側に成立する場合にだけ、彼が一般化を加える、「一般に、半径RのどんなパワーRn、求心力が望んでいる…も逆にあるように、半径のパワーR2n-1として周期的な時間が逆にある、」 そして、この結果がnの非整数値に当てはまって、したがって、3/2パワー定規が一定の周回軌道へのquam proximeを支えるという更なる結果をもたらす、求心力がquam proximeの逆さの正方形である場合にだけ。 これらの提案は私たちの太陽系のそれらの軌道でボディーを保有する力がすべて求心的であって、逆さに正方形であると結論を下すためにBook3に呼び出すまさしくそのものです。(ニュートンはquam proximeフォームにわざわざまだ保持を提案に示しています)。 (より早く提案である間の「Keplerian楕円であれば、ちょうど、その時、まさに逆さに二乗してください」と述べるので、対照的に、楕円の風変わりが大きくないときに、本当に、提案は「Keplerian楕円quam proxime、当時の逆さの正方形quam proximeです」なら正しくはありません、スミス、2002で説明されるようにことです。) Book1でこれらのquam proximeフォームに気付かない場合、ニュートンがBook3で使う近似的な推理の微妙さに1つの目をくらまします。 
7. Book 2 of the Principia

 

The purpose of Book 2 is to provide a conclusive refutation of the Cartesian idea, adopted as well by Leibniz, that the planets are carried around their orbits by fluid vortices. Newton's main argument, which extends from the beginning of Section 1 until the end of Section 7, occupies 80 percent of the Book. Section 9, which ends the Book, offers a further, parting argument. We best dispense with this second argument before turning to the first.
The thrust of the argument in Section 9 is that fluid vortices are incompatible with Kepler's area and 3/2 power rules. The argument has two shortcomings, both of them recognized by Newton's opponents at the time. First, the entire argument is predicated on a hypothesis: “The resistance that arises from want of slipperiness of the parts of the fluid is, ceteris paribus, proportional to the velocity with which the parts of the fluid are separated from one another.” Fluids of this sort are now called “Newtonian.” The absence of evidence for the hypothesis left Newton's opponents free to adopt other rules for the velocity gradient in a vortex generated around a rotating cylinder or sphere, rules that could undercut his conclusions. Second, his analysis of the vortex generated around a rotating cylinder or sphere involves fundamentally wrong physics: it defines steady state in terms of a balance of forces instead of torques across each shell element comprising the vortex. To use Johann Bernoulli's words from 1730, Newton “completely neglects to take into account the action of the lever, the consideration of which however is absolutely necessary here, it being obvious that the same force, applied along the tangent to the circumference of a large wheel, has a greater efficacity for making it turn than it has when applied to the circumference of a smaller radius.”[38] (This is not the only place in the Principia where it is clear that Newton had not thought through the mechanics of angular motion.)
The argument that carried much more weight at the time — it convinced Huygens, for example — is the one that extends across the first seven sections of the Book. The thrust of this argument is clear from its conclusion, as stated more forcefully in the second and third editions than in the first:
And even if air, water, quicksilver, and similar fluids, by some infinite division of their parts, could be subtilized and become infinitely fluid mediums, they would not resist projected balls any the less. For the resistance which is the subject of the preceding propositions arises from the inertia of matter; and the inertia of matter is essential to bodies and is always proportional to the quantity of matter. By the division of the parts of a fluid, the resistance that arises from the tenacity and friction of the parts can indeed be diminished, but the quantity of matter is not diminished by the division of its parts; and since the quantity of matter remains the same, its force of inertia — to which the resistance discussed here is always proportional — remains the same. For the resistance to be diminished, the quantity of matter in the spaces through which bodies move must be diminished. And therefore the celestial spaces, through which the globes of the planets and comets move continually in all directions freely and without any sensible diminution of motion, are devoid of any corporeal fluid, except perhaps the very rarest of vapors and rays of light transmitted through those spaces. [P, 761]
Book2の目的は、流体渦で惑星がそれらの軌道まで運ばれるというまた、ライプニッツによって採用されたCartesian考えの決定的な論破を提供することです。 ニュートンの主な議論(セクション1の始まりからセクション7の終わりまで広がる)はBookの80パーセントを占領します。 セクション9(Bookを終わらせます)は一層の、そして、別れの議論を提供します。 1番目に変わる前に、私たちは、この2番目の議論を最もよく省きます。セクション9の議論の突きは、流体渦がケプラーの領域と3/2のパワー規則と非互換であるということです。 それらの両方が、当時ニュートンの相手で議論には2つの短所があると認めました。 まず最初に、全体の議論は仮説で叙述されます: 「起こる抵抗が、必要である、流体の部分について滑りやすさはそうです、ceteris paribus、流体の部分がお互いと切り離される速度に比例している、」 この種類の流体は現在、「ニュートンである」と呼ばれます。 仮説が自由に採用できるニュートンの相手を他でおいたので、証拠の欠如は回転シリンダか球(彼の結論を切り落とすことができた規則)の周りで発生する渦で速度勾配に統治されます。 2番目に、彼の回転シリンダか球の周りで発生する渦の分析は基本的に間違った物理学にかかわります: それは、各シェル要素の向こう側のトルクの代わりに渦を包括しながら、力のバランスに関して定常状態を定義します。 1730年からのヨハン・ベルヌーイの言葉を使用するために、ニュートンは「より小さい半径の円周に適用されると持っているよりレバーの機能を考慮に入れるのを完全に忘れます」。しかしながら、それの考慮がレバーにここで、同じ接線に沿って大きいホイールの円周に適用された力にはターンさせるための、より大きい効力があるのが、明白であることが絶対に必要です。 (これは、プリンキピアでニュートンが角張っている動きの整備士を通して考えていなかったのが、明確である唯一の場所ではありません。)
ホイヘンスに納得させました、例えば当時ずっと多くの重さを運んだ主張は、Bookの最初の7つのセクションに達するものです。 この議論の突きは結論によって明確です、1番目より2番目と3番目の版では、力強く述べられているように:
霊媒、そして、空気(彼らの部品のいくつかの無限の分裂の水、水銀、および同様の流体)が精妙にされ、無限に流動的になったことができるとしても、彼らは映し出されたボールに抵抗しないでしょうに。少しもより少ないです。 抵抗のために、どれが前の提案の対象であるかは件の慣性から起こります。 そして、件の慣性は、ボディーに不可欠であり、いつも件の量に比例しています。 流体の部分の分裂が、本当に部品の固執と摩擦から起こる抵抗を減少させることができますが、部品の分裂は件の量を減少させません。 そして、件の量が同じままで残っているので、慣性力は同じままで残っています。(ここで議論した抵抗は、それをいつも比例させています)。 抵抗が減少するように、ボディーが動く空間の件の量は減少しなければなりません。 そして、したがって、天の空間(惑星と彗星の地球は自由と動きの少しも分別がある減少なしであらゆる方向に絶えず入って来る)はどんな肉体的な流体にも欠けています、おそらくそれらの空間を通して伝えられた光の非常に最も希薄な蒸気と光線を除いて。 
To reach this conclusion Newton had to show that (1) the inertia of the fluid does indeed produce a resistance force proportional to its density, a force that (2) is independent of the tenacity (that is, surface friction) and the friction of the parts (that is, viscosity) of the fluid. Perhaps in part in emulation of the approach to centripetal forces that appeared to have succeeded so well in Books 1 and 3, the approach Newton takes in Book 2 is to develop, so far as he can, a generic mathematical theory of motion under resistance forces and then turn to experimental phenomena so that, in the words of Book 1, “it may be found out which conditions of forces apply” to different kinds of fluids. The theory in Book 1 is generic in that it examines centripetal forces that vary as different functions of the distance from the force center. The theory in Book 2 is generic in that it examines motion under resistance forces that vary as the velocity, the velocity squared, the sum of these two, and ultimately even the sum of two or three independent contributions, each of which is allowed to vary as any power of velocity whatever. Because Newton's goal was to reach a conclusion about the contribution to the total resistance made by the inertia of the fluid, and he recognized that surface friction and viscosity can contribute to the resistance as well, his empirical problem became one of disaggregating the inertial contribution from the total resistance, that is, the contribution that alone varies with the density of the fluid. Fortunately, because gravitational forces so totally dominate celestial motions, this need to disaggregate different sorts of forces did not arise in Book 3.
From Newton's point of view, then, the basic problem — assuming that three independent mechanisms contribute to the total resistance forces, only one of which is proportional to the fluid density ρf — was to find an experimental phenomenon that would allow him to determine (1) the three exponents in the following schema, and (2) laws defining the three coefficients — or, more minimally, at least the variation of the coefficient of the last term for the specific case of spheres:
   Fresist = a0vn0 + a1vn1 + b2ρfvn2
Some preliminary pendulum-decay experiments showed promise for doing this, leading him in the first edition to rely solely on this phenomenon. The idea was to start a pendulum from several different heights in order to cover a range of velocities and then to use simultaneous algebraic equations to fit a two or three term polynomial to two or three lost-arc data-points, changing the exponents until the polynomial achieved good agreement with the other lost-arc data points. The theoretical solutions for pendulum motion under resistance forces in Section 6 would then allow him to infer the forces from the rate of decay of the pendulum. These theoretical solutions covered resistance forces that vary not only as velocity to the powers 0, 1, and 2, but also as any power at all of velocity. In principle, therefore, he saw himself in a position to infer laws for resistance forces on spheres from the phenomenon of pendulum decay in full parallel with his deduction of the law of universal gravity from the phenomena of orbital motion in Book 3. And he could then conclude from the total absence of signs of resistance forces acting on the planets and, most especially, comets that the density of any fluid in the celestial regions must be exactly or very nearly zero.
(1) 本当に、流体の慣性が密度に比例している抵抗力を発生させるというニュートンが示さなければならなかったこの結論、力に達するように、その(2)は固執(すなわち、表面摩擦)と流体の部分(すなわち、粘着性)の摩擦から独立しています。 一部おそらく、求心力へのアプローチのエミュレーションで、それはBook2は展開することになっています、彼がそれほど遠くにそうすることができるように、動きの一般的な数学の理論でBooks1と3、ニュートンが中に入れるアプローチでよくそれほど抵抗力の下に成功して、次に、実験的な現象に変わるようにBook1の単語で異種の流体に「力のどの状態が適用されるかが見つけられるかもしれない」ように見えました。 力の中心から距離の異なった関数として異なる求心力を調べるので、Book1の理論は一般的です。 それのそれぞれが速度のどんなパワーとしても何でも変えることができる、速度か、二乗された速度か、これらの2の合計と、結局合計2かさえ3つの独立している貢献として異なる抵抗力の下で動きを調べるので、Book2の理論は一般的です。 ニュートンの目標が流体の慣性によってされた全抵抗への貢献に関して結論に達することであり、彼が、面摩擦と粘着性がまた、抵抗に貢献できると認めたので、彼の実証的な問題は全抵抗、すなわち、流体の濃度に従ってそれだけが変える貢献から慣性の貢献を成分に分ける1つになりました。 幸い、重力が非常に完全に天体運動を支配するので、異なった種類の力を成分に分けるこの必要性はBook3に起こりませんでした。
次に、ニュートンの観点からは、基本的問題(3台の非依存性機構がそれの1つだけが流体密度ρfに比例している全抵抗力に貢献すると仮定する)は、彼が以下の図式、および3つの係数を定義する(2)法で(1) 3つの解説者を決心できる実験的な現象、または少なくとも球の特定のケースのための最後の学期の係数の、より最少量で変化を見つけることでした:
b2ρfvn2 Someの予備のa0vn0+a1vn1+振り子腐敗Fresist=実験は、唯一この現象を当てにするために初版で彼を導いて、これをするための見込みを示しました。 考えは、さまざまな速度をカバーするためにいくつかの異なった高さから振り子を始動して、そして、2か3つの無くなっているアークデータポイントに2か3用語多項式に合うのに同時の代数式を使用することでした、多項式が他の無くなっているアークデータポイントとの良い協定を実現するまで解説者を変えて。 そして、セクション6の抵抗力の下の振り子運動の理論上の解決策で、彼は振り子の崩壊速度からの力を推論できるでしょう。 これらの理論上の解決策は強国0、1、および2への速度だけとして異なるのではなく、全く速度のどんなパワーとしても異なる抵抗力をカバーしました。 したがって、原則として、彼は彼の万有引力の法の控除による平行に全部の振り子腐敗の現象からBook3の公転運動の現象から球への抵抗力に関する法を推論する立場で自分を見ました。 そして、抵抗のサインの完全欠損から惑星に芝居を押しつける、次に、そして、彼が、結論づけることができただいたい、特に天の領域のどんな流体の濃度もまさにそうであるに違いない彗星かおよそゼロ。 
Unfortunately, pendulum-decay turned out not to be as well behaved a phenomenon as Newton anticipated it was going to be while he was working on the first edition. The problem, as he later realized, was that he had to let the pendulum swing many times in order to measure the rate of decay, and in the process it gave rise to a “to and fro” motion in the surrounding fluid, so that the relative velocity between the bob and the fluid, which is the velocity that matters in resistance, could not be determined or controlled. The General Scholium following Section 6[39] reports detailed decay-rate data for an impressive range of experiments, including different size bobs in air and bobs moving as well in water and mercury. The reader is also shown in detail how to proceed from the data in each case to a polynomial as above defining the resistance force. Any reader who worked through the data discovered what Newton knew, but was less than candid about: no polynomial fit the data. The experiments did clearly indicate that resistance forces involve no power of velocity greater than 2, and they provided good evidence that a velocity squared effect was dominant, even to the extent of masking any effect involving some other power. Newton also managed to extract some highly qualified evidence that the velocity squared effect varies as the density of the fluid and the frontal area (that is, the square of the diameter) of spheres.
The approach to resistance in the first edition relied entirely on pendulum-decay experiments. The disappointing evidence they yielded led to a far weaker statement of the conclusion about the absence of fluid in the celestial regions in the first edition than the conclusion in the subsequent editions quoted above. Not long after the first edition was published, Newton initiated some vertical-fall experiments in water that persuaded him that the phenomenon of vertical-fall in resisting media would yield much better behaved data. In the second and third editions, therefore, even though the pendulum-decay experiments are still fully reported, the central argument in Book 2 relies on vertical-fall experiments (including ones from the top of the dome of the newly completed St. Paul's Cathedral) to establish a resistance effect on spheres that is proportional to the density of the fluid, the square of the diameter, and the square of the velocity. The data from these experiments were very good — indeed, even better than Newton realized, for small vagaries in them that he dismissed as experimental error were in fact not vagaries at all, but evidence that no polynomial of the sort he was seeking is adequate for resistance forces.
残念ながら、振り子腐敗は、ニュートンが、彼が初版に取り組んでいた間それがあるつもりであると予期したとき、現象をよく振る舞わせるように、ないように判明しました。 問題は、彼が後でわかったように、彼が振り子に崩壊速度を測定するために何回も揺らさせなければならなくて、過程では、周囲の流体で「あちらこちら」という動きをもたらしたということでした、ボブと流体の間の相対的な速度(抵抗で重要な速度である)が決定するか制御できないように。 一般Scholium次のセクション6 39のレポートが印象的な範囲の実験のための崩壊定数データを詳しく述べました、また、水と水銀に入って来ながら、空気とボブに異なったサイズボブを含んでいます。 また、読者は、抵抗力を定義するように、データからその都度多項式までどのように続くかが詳細に示されています。 データを終えたどんな読者も、ニュートンが何を知ったかを発見しますが、以下に関してあまり率直ではありませんでした。 どんな多項式もデータに合いませんでした。 実験は、抵抗力が2以上の速度のパワーに全くかかわらないのを明確に示しました、そして、速度の二乗された効果が優位であったという良い証拠を前提としました、ある他のパワーにかかわるどんな効果にもマスクをかける範囲にさえ。 また、ニュートンは何とか、速度の二乗された効果が流体の濃度と球の正面の部門(すなわち、直径の正方形)として異なるという何らかの非常に適切な証拠を抜粋しました。
初版における抵抗へのアプローチは完全な振り子腐敗実験に依存しました。 彼らがもたらしたという期待はずれの証拠は上で引用されたその後の版における結論より初版の天の領域での流体の不在に関する結論のはるかに弱い声明につながりました。 幾許もなく、初版は発行されて、ニュートンは抵抗メディアの垂直な秋の現象がはるかによく振る舞っているデータをもたらすと彼を説得した水におけるいくつかの垂直な秋の実験を開始しました。 2番目と3番目の版では、振り子腐敗実験はまだ完全に報告されていますが、したがって、Book2の主要な議論は、球への流体の濃度、直径の正方形、および速度の二乗に比例している抵抗効果を証明するために、垂直な秋の実験(新たに完成したセント・ポール大聖堂のドームの先端からものを含んでいる)に依存します。 これらの実験からのデータは非常に良かったです、本当に、ニュートンが気付いたよりさらに良いです、事実上、それらの彼が実験誤差として捨てた小さい気まぐれが、全く気まぐれではなく、抵抗力には、彼が求めていた種類のどんな多項式も適切でないという証拠であったので。 
While the vertical-fall experiments put Newton in a position to make his concluding rejection of vortex theories more forceful, they also posed a methodological complication. The vertical-fall experiments offered no way of disaggregating the contribution to resistance made by the inertia of the medium from the total resistance. But the argument against vortices required him to show that, no matter how perfectly free of friction and viscosity the celestial fluid might be, its inertia would still give rise to resistance forces that would affect the motions of comets, if not planets as well. From the resistance measured in the pendulum-decay experiments, Newton could conclude that the forces in air and water are dominated by a contribution that varies as the velocity squared. In the vertical-fall experiments in air and water the measured forces varied to first approximation as the product of the density and the velocity squared, but only to a first approximation, leaving room to question whether a purely inertial contribution had been isolated. Newton dealt with this problem by offering a rather ad hoc theoretical derivation for the purely inertial contribution, showing how closely it agreed with the vertical-fall results, and proposing that the differences between the theoretical and the measured resistances could be used to investigate other contributions. Success of such a program in characterizing the contributions made by surface friction and the viscosity would have provided compelling support for Newton's theory of the inertial contribution. Still, the approach left Newton with not so straightforward a derivation of the laws of resistance forces from phenomena as he had hoped for in the first edition.[40]
In fact, there is a deep mistake in Newton's approach to resistance forces that came to be understood only at the beginning of the twentieth century. Resistance forces do not arise from independent contributions made by such factors as the viscosity and inertia of the fluid. Consequently, no polynomial consisting of a few always positive terms in powers of velocity can ever be adequate for resistance forces. The first indication of this came when d'Alembert, unhappy with Newton's ad hoc theory for the inertial contribution, analyzed the flow of what we now call a perfect fluid about spheres and bodies of other shapes, discovering in all cases that the net force of the fluid is exactly zero. Consequently, contrary to Newton, there is no such thing as the contribution made to resistance purely by the inertia of the fluid. Resistance forces always arise from a combination of viscous and inertial effects, however low the viscosity of the fluid may be. Newton's assumption that resistance forces can be represented as a sum, one term of which gives the contribution made purely by the inertia of the fluid, was wrong empirically, much as his assumptions about simultaneity and space being Euclidean turned out to be wrong. Unlike the latter assumptions, however, the assumption about resistance amounted to a dead end. All Newton achieved in Book 2 with resistance forces was merely a curve-fit. 
垂直な秋の実験は彼の渦理論の結論を下す拒絶をより力強くする立場にニュートンを置きますが、また、それらは方法論の複雑さを引き起こしました。 垂直な秋の実験は媒体のものぐさによって全抵抗からされた抵抗への貢献を成分に分ける方法を全く提供しませんでした。 しかし、渦に対する議論は、彼が、天の流体に摩擦と粘着性がどんなに完全にさえないかもしれないかなら慣性がまだまた、彗星、または惑星の動きに影響する抵抗力を起こしているのを示すのを必要としました。 振り子腐敗実験で測定された抵抗から、ニュートンは、空気と水における力が速度が二乗されたとき、異なる貢献で支配されると結論を下すことができました。 空気と水における垂直な秋の実験では、測定力は密度と速度の製品が二乗されましたが、まず得られた近似の結果だけにまず得られた近似の結果に変化しました、純粋に慣性の貢献が隔離されたかどうかと疑う余地を残して。 純粋に慣性の貢献のためにかなり臨時の理論的導出を提供することによって、ニュートンはこの問題に対処しました、それがどれくらい密接に垂直な秋の結果に同意したかを示していて、理論上の手向いと測定手向いの違いが他の貢献を調査するのに使用されるかもしれないよう提案して。 面摩擦と粘着性によってされた貢献を特徴付けることにおけるそのようなプログラムの成功はニュートンの慣性の貢献の理論の無視できないサポートを提供したでしょう。 それでも、事実上、アプローチは現象からの抵抗力の法則の彼が初版で期待したのと同じくらい簡単な派生でないののニュートンを. 40に出て、単に20世紀の始めに理解されるようになった抵抗力へのニュートンのアプローチにおける深い誤りがあります。 抵抗力は流体の粘着性と慣性のような要素によってされた独立している貢献から起こりません。 その結果、抵抗力に、速度の強国におけるいくつかのいつも積極的な用語から成るどんな多項式も適切であるはずがありません。 慣性の貢献に、ニュートンの臨時の理論に不幸なd'Alembertが私たちが現在他の形の球とボディーに関して完全な流体を呼ぶものに関する流れを分析したとき、この最初のしるしは来ました、すべての場合で流体の真の力がちょうどゼロであると発見して。 その結果、流体の慣性によって純粋に抵抗にされた貢献のようなものでないのはニュートンに合いません。 抵抗力は粘着性の、そして、慣性の効果の組み合わせからいつも起こります、流体の粘着性がどんなに低くても。 合計(それのある用語は流体の慣性によって純粋にされた貢献を与える)が経験して間違っていたとき、抵抗が強制するニュートンの仮定を表すことができます、非常にユークリッドである同時性とスペースに関する彼の仮定が間違っていると判明したので。 しかしながら、後者の仮定と異なって、抵抗に関する仮定は行き止まりに達しました。 ニュートンが抵抗力と共にBook2で達成したすべてが単にカーブ発作でした。 
8. Book 3 of the Principia

 

Save for the short opening sections, “Regulae Philosophandi” and “Phenomena,” Book 3, in contrast to Books 1 and 2, is not marked off into sections. Nevertheless, the main body of it does consist of four clearly separate parts: (1) the derivation of the law of gravity (Props. 1-8); (2) implications of this law for orbital and rotating bodies (from the corollaries to Prop. 8 through Prop. 24); (3) a quantitative derivation of select lunar inequalities and the precession of the equinoxes from the law of gravity (Props. 25-39); and (4) a solution for comet trajectories, with examples and comments (Props. 40-42). These parts will be discussed in sequence below.
Newton's first two rules of reasoning appeared in the first edition (there labeled as hypotheses[41]), the third rule was added in the second edition, and the fourth rule, in the third edition. These are rules intended to govern evidential reasoning in natural philosophy, akin to rules of deductive reasoning except for their very much not guaranteeing true conclusions from true premises. In particular, Rule 2 authorizes the inference from same effect to same cause, a notoriously invalid inference, and Rule 3 authorizes inductive generalization to all bodies universally of those qualities of bodies “that belong to all bodies on which experiments can be made.” Newton's phrasing carries no suggestion that these rules yield truths or even a high probability of truth. The operative phrase in both Rules 3 and 4, for example, is properly translated “should be taken,” and Rule 4 makes the provisional character of the authorized inferences explicit:
In experimental philosophy, propositions gathered from phenomena by induction should be taken to be either exactly or very nearly true notwithstanding any contrary hypotheses, until yet other phenomena make such propositions either more exact or liable to exceptions.
The philosophic question why Newton's rules are appropriate is best addressed not by asking how they increase the probability of truth, but by asking whether there is some strategy in ongoing research for which these rules will both promote further discoveries and safeguard against dead-end garden paths that ultimately require all the supposed discoveries to be discarded.
短い初めのセクション以外に、"Regulae Philosophandi"と「現象」(Books1と2と対照してBook3)はセクションに区画されません。 それにもかかわらず、それの本体は4つの明確に別々の部分から成ります: (1) 重力の法則(支柱1-8)の派生。 (2) 軌道の、そして、回転するボディー(Prop推論からProp24を通した8までの)のためのこの法の含意。 (3) 選んだ月差の量的な派生と重力の法則からの春分点歳差(支柱25-39)。 (4) そして、彗星軌道の解決策であり、例とコメントと、以下で連続して. これらの部品について議論するでしょう。ニュートンの推理の最初の2つのやり方が初版に載っていた、(仮説としてそこをラベルされる、)、3番目の規則は第2版、および4番目の規則で加えられました、3番目の版で。 これらは自然哲学における証拠推論を治めることを意図する規則です、本当の構内から本当の結論をあまり保証しないのを除いた演繹法の規則と同系です。 特に、Rule2は同じ効果から悪名高く無効の同じ原因、推論までの推論を認可します、そして、Rule3は「実験をすることができるすべてのボディーに属す」ボディーのそれらの品質について一般にすべてのボディーに帰納的一般法則化を認可します。 ニュートンの言い回しはどんなこれらの規則が真をもたらすという提案も真実の高い確率もさえ運びません。 例えば、両方のRules3と4の影響を及ぼしている句は適切に翻訳されて、「取るべきである」ということです、そして、Rule4は認可された推論の暫定的なキャラクタを明白にします:
実験哲学では、どんな反対の仮説にもかかわらずも、ちょうどまたはほとんど本当になるように現象から誘導で集められた提案を取るべきです、そのような提案がまだ他の現象で例外により正確であるか責任があるようになるまで。
これらの規則が更なる発見を促進して、結局すべての想定された発見が捨てられるのを必要とする行き止まりの園路を守る継続中の研究には何らかの戦略があるかを尋ねることによってそれらが真実の確率をどのように増加させるかを尋ねることによって記述するのではなく、ニュートンのやり方がなぜ適切であるかという哲学的な質問を記述するのが最も良いです。 
Six astronomical phenomena are listed and discussed in the section called “Phenomena” — most importantly, that Mercury, Venus, Mars, Jupiter, and Saturn, and the satellites of the latter two sweep out equal areas in equal times with respect to the central bodies of their respective orbits, and their periods vary as the 3/2 power of their mean distances from these bodies. The ellipse, by the way, is not one of the phenomena. In Phenomenon 3 Newton rules out the Ptolemaic system, just as Galileo had in his Dialogue Concerning the Two Chief World Systems, by appealing to the phases of Mercury and Venus and their absence in the case of Mars, Jupiter, and Saturn to conclude that these five orbits encircle the Sun. But this Phenomenon and all the others are carefully formulated to remain neutral between the Copernican and Tychonic systems. In Phenomenon 4 Boulliau's calculated orbits are treated on a par with Kepler's, indicating that the phenomena do not rule out the possibility that Boulliau's alternative to the area rule is correct. Phenomenon 6 explicitly grants that the area rule holds only approximately for the Moon, with a further remark indicating that none of the phenomena are being put forward as holding exactly. This points the way to the most reasonable reading of all of the phenomena: they describe to reasonably high approximation, but not more than that, the observations of the planets and their satellites made by Tycho and others over a finite period of time — roughly from 1570 to the time of Newton's writing. On this way of viewing the Phenomena, they are in no way contentious or problematic. They leave entirely open not only questions about whether any claims concerning the orbits made by Kepler and his contemporaries hold exactly, but also questions about whether any of these claims hold even remotely in other eras, past or future. The Phenomena are thus not inconsistent with Descartes' insistence that the motions are constantly changing.
The “deduction” of the law of universal gravity from the phenomena in the first eight propositions of Book 3 has provoked a great deal of controversy in the philosophical literature over the last century or so.[42] At the heart of this controversy is the challenge posed by Pierre Duhem: how can a deduction proceed from premises (the planets sweep out equal areas in equal times and their orbits are stationary) to a conclusion, the law of gravity, that then implies that the premises are false (the planets do not sweep out equal areas in equal times and the orbits are not stationary, but instead precess)?[43] The answer is simple: Newton's reasoning is approximative. He is using “if, then” statements that have been shown in Book 1 to hold in “if … quam proxime, then … quam proxime” form to infer conclusions from premises that hold at least quam proxime over a restricted period of time. Of course, this means that the deduction shows only that the conclusions, most notably the law of gravity, hold quam proxime over the restricted period of time for which the premises hold. The Rules of Reasoning then license the conclusion to be taken exactly, without restriction of space or time. The conclusions, so taken, do indeed then show that the premises hold only quam proxime, and not exactly. This conclusion in no way contradicts the premises.
「現象」と呼ばれるセクションで、6回の天文学の現象について、記載されていて、議論します--最も重要に、その水星、金星、火星、木星、土星、および後者の2つのものの衛星は、等しい時代にそれらのそれぞれの軌道の中央のボディーに関して等しい領域を一掃して、彼らの期間はこれらのボディーからのそれらの平均距離の3/2パワーとして異なります。 楕円はところで、現象の1つではありません。 Phenomenon3では、ニュートンは天動説を除外します、ちょうどガリレオが彼のDialogue ConcerningにTwo Chief World Systemsを持っていたようにこれらの5つの軌道が日曜日のButを包囲すると結論を下すように水星と金星のフェーズと火星、木星、および土星の場合が彼らの不在に求めることによって、このPhenomenonとすべての他のものがコペルニクス説信奉者とTychonicシステムの間で中立のままで残るために慎重に定式化されます。 Phenomenon4では、ブーヨの計算された軌道はケプラーのものと共に平価で扱われます、現象がエリアルールへのブーヨの代替手段が正しい可能性を除外しないのを示して。 現象6は、エリアルールがおよそ月を保持するのを明らかに与えます、更なる注意が、現象のいずれもまさに成立しながら前方にみなされていないのを示していて。 これは現象のすべての最も妥当な読書に道を向けます: 彼らは1570年からニュートンの執筆の時間まで手荒く有限期間の間にティコと他のものによって作られた惑星と自分達の衛星の観測についてそれ以上ではなく、かなり高い近似に説明します。 Phenomenaを見るこの方法では、それらは、決して議論好きでもなくて、また問題が多くもありません。 何かケプラーと彼の同時代の人が回らせた軌道に関するクレームがまさに成立するかどうかに関して質問だけではなく、完全に戸外を出ますが、それらはこれらのどれかが離れて他の時代、過去または未来さえの保持を要求するかどうかを質問を出もします。 その結果、Phenomenaは動きが絶えず変化するというデカルトの主張に矛盾していません。
Book3の最初の8つの提案における現象からの万有引力の法の「控除」はここ約1世紀に、哲学的な文学における大きな論争を引き起こしています。 ピアー・デュエムによって引き起こされた挑戦は、この論争の中心です: 控除は構内(惑星は、等しい時代に等しい領域を一掃します、そして、それらの軌道は静止している)から結論、重力の法則までどうしたら続くことができるか、次に、それが構内が誤っているのを含意します。(惑星が等しい時代に等しい領域を一掃しないで、また軌道が静止していない、代わりに「前-課税」だけ) 43 答えは簡単です: ニュートンの推理は近似的です。 彼が使用している、「そして、」 「…quam proxime、当時の…quam proximeです」なら成立する、Book1に示されている声明は、時間の限定期間の間に少なくともquam proximeを維持する構内から結論を推論するために形成されます。 もちろん、これは控除が、結論(最も著しく重力の法則)が構内が成立する時間の限定期間の間quam proximeを維持するだけであるのを示すことを意味します。 そして、ReasoningのRulesは、結論がまさにスペースか時間の制限なしで取られるのを認可します。 本当に、そして、そのように取られた結論は、構内がまさにないquam proximeだけを持っているのを示しています。 この結論は構内に決して矛盾しません。 
Recognizing that Newton's reasoning is approximative answers another complaint about the “deduction” of universal gravity: Newton invokes the proposition, if bodies move uniformly in concentric circular orbits whose periods vary as the 3/2 power of the radii, then the centripetal forces acting on these bodies vary as the inverse-square of the radii of the orbits, knowing full well that observation had established for centuries that the planets do not move uniformly in circular orbits.[44] Newton does indeed invoke this proposition first to conclude (in Prop. 1) that, in modern parlance, there is an inverse-square centripetal acceleration field around Jupiter and Saturn and next to conclude (in Prop. 2) that there is an inverse-square centripetal acceleration field around the Sun.[45] The orbits of the satellites of Jupiter were then considered to be circular, and hence Newton's inference from their motion was not so problematic. While, however, the orbits of Venus, Jupiter, and Saturn were considered to be very nearly circular, the motion in them had been known from before Ptolemy not to be uniform. Newton expressly concedes that his inference of the inverse-square from the 3/2 power rule for the planets is only approximate when, in the very next sentence, he remarks, “But this second part of the proposition is proved with the greatest exactness from the fact that the aphelia are at rest.” The absence of precession, however, can be used to infer the inverse-square only for each orbit individually, not a single, unified inverse-square centripetal acceleration field encompassing all of the orbits. Newton is accordingly using the 3/2 rule for circular orbits to establish that an inverse-square field holds around the Sun to at least a first approximation, and then using the absence of precession of the individual orbits to tighten the approximation.
Interpreting Newton's deduction of universal gravity as an exercise in approximative reasoning answers a further complaint of Duhem's: insofar as the area rule holds only to high approximation, so too do any number of alternatives to it, such as Boulliau's geometric construction, and hence Newton's “deduction” begs the question of why the area rule is to be preferred to these alternatives.[46] This question, however, is irrelevant so long as the conclusion remains in the weak form, the law of gravity holds quam proxime for the planets and their satellites over the time period for which observations have shown the phenomena to hold quam proxime. The phenomena really are sufficient to reach the conclusion in this weak form. So, the complaint has bite only when the law of gravity is taken to be exact. But there, however, Newton does provide a response to it when he concludes in Propositions 13 and 14 that the planets would describe areas exactly proportional to the times in stationary orbits if “the Sun were at rest and the remaining planets did not act upon one another.”[47] The reason, then, why the phenomena from which Newton proceeded in the deduction have claim to being preferred to alternatives to them is that the theory deduced from them, when taken to hold exactly, identifies circumstances under which the phenomena would hold exactly, as well. That this be the case amounts to a requirement on the deduction from phenomena: the leap to taking the law of gravity as exact is justified only if it yields circumstances in which the phenomena from which it was inferred would hold exactly.[48]
ニュートンの推理が近似的であると認めるのが万有引力の「控除」に関する別の苦情に答えます: ニュートンは提案を呼び出して、ボディーが一様に、期間が半径の3/2パワーとして異なる同心の周回軌道に入って来るなら、これらのボディーに影響する求心力は、軌道の半径の逆さの正方形として異なります、観測が、何世紀もの間惑星が一様に周回軌道に入って来ないのを確証していたのをいっぱいによく知っていて。 本当に、ニュートンは、最初に、逆さの正方形の求心的な加速場が次に木星の衛星の軌道が円形であると考えられていた日曜日頃にあると結論を下す(Prop2で)ために逆さの正方形の求心的な加速場が木星と土星の周りと次に現代の言い方ではあると結論を下す(Prop1で)ためにこの提案を呼び出します、そして、したがって、彼らの動きからのニュートンの推論はそれほど問題が多くはありませんでした。 しかしながら、金星、木星、および土星の軌道がほとんど円形であると考えられていましたが、それらの動きから、プトレマイオスの前で一定でないことが知られていました。 次のまさしくその文で「しかし、提案のこの第二部は最もすばらしい正確さでapheliaが静止しているという事実から立証されます」と述べるとき、ニュートンは、彼の惑星への3/2パワー定規からの逆さの正方形の推論が大体であるだけであると明白に認めます。 しかしながら、個別に各軌道だけに逆さの正方形を推論するのに前進の欠如を使用できます、どんな単一の、そして、統一された逆さの正方形求心的な加速場も軌道のすべてを取り囲まないで。 ニュートンは、周回軌道が、逆さの正方形分野が太陽の周りで少なくともまず得られた近似の結果に成立すると証明するのにそれに従って、3/2定規を使用して、次に、近似をきびしくするのに個々の軌道の前進の欠如を使用しています。
近似的な推理における運動としてニュートンの万有引力の控除を解釈すると、デュエムの更なる苦情は答えられます: またそれほど、エリアルールが高い近似だけに成立する限り、それへのいろいろな選択肢をしてください、ブーヨの幾何学上工事などのように、そして、したがって、ニュートンの「控除」はエリアルールがこれらの代替手段より好まれることになっていることである理由を論点を巧みに避けさせます。 しかしながら、結論が弱形に残っている限り、この質問は無関係です、重力の法則が観測がquam proximeを持つために現象を示した期間の上間、惑星とそれらの衛星のためのquam proximeを維持します。 現象は、この弱形で結論するために本当に十分です。 それで、厳密に言えば重力の法則を取るときだけ、苦情は辛らつです。 しかし、しかしながら、Propositions13と14で「太陽は静止しています、そして、残っている惑星はお互いに作用しなかった」なら惑星がまさに静止軌道で回に比例している領域について説明すると結論を下すとき、そこに、ニュートンが、それへの応答を提供します。 まさに成立するように取ると、次に、ニュートンが控除で続いた現象がそれらへの代替手段より好まれるのにクレームを持っている理由がある理論がそれらから推論した理由は、またちょうど、そして、、現象が成立する事情を特定します。 これがそうであることは、現象から控除に関する要件に達します: それが推論された現象がまさに成立する事情をもたらす場合にだけ、正確な同じくらい重力の法則を取ることへの飛躍は正当です。 
This analysis of the “deduction” of universal gravity does not answer two further complaints lodged against it. First, in concluding that the centripetal force acting on the Moon is inverse-square, Newton grants that the precession of the lunar orbit implies an exponent of -2 and 4/243 for the force rather than exactly -2, but then claims that the small fraction can be accounted for by the perturbing action of the Sun's gravity. But the magnitude for the action of the Sun that he gives in Proposition 3[49] is twice the value he later in Book 3 indicates is the correct value. This lacuna was not resolved by Alexis-Claude Clairaut until two decades after Newton died. Second, when Newton invokes the third law of motion in the corollaries to Proposition 5, he is tacitly assuming that, for example, Jupiter and the Sun are, in effect, directly interacting. In other words, he is ignoring the alternative favored by Huygens that some unseen medium is effecting the centripetal force on Jupiter, a medium that can in principle absorb the linear momentum which Newton is assuming is being transferred to the Sun. Huygens may well have perceived this lacuna, to which Cotes explicitly called Newton's attention while he was preparing the second edition.[50]
The group of propositions following the deduction of universal gravity gives indications of the evidential strategy that lies behind the leap to taking this law to be exact. Immediately upon concluding first that the planets would sweep out equal areas in equal times in exact ellipses and then that the orbits would be exactly stationary were it not for the gravitational interactions among the planets, Newton calls attention to the easiest to observe deviations from this idealization, the then still mysterious vagaries in the motions of Jupiter and Saturn which Newton attributes to their gravitational interaction. Because, according to the theory, the idealization would hold exactly in the specified circumstances, these and all other deviations must result from further forces not taken into account in the idealized case. Identifying these forces and showing that, according to the theory, they do produce the deviations is a way for ongoing research to marshal continuing evidence to bear on the theory of gravity. To put the point differently, the initial idealizations that Newton identifies can serve as the starting point for a process of successive approximations that should yield increasingly close agreement with the complex true motions. These idealizations are especially well suited for this purpose precisely because, according to the theory, they would hold exactly were no other forces at work, and hence every deviation from them should be physically telling, and not just, for example, an accidental feature of a curve-fit. Pursuit of such a research program of successive approximations promises to yield either further evidence for the theory of gravity when the program is successful or the exceptions Newton speaks of in Rule 4 that require the theory to be revised.
万有引力の「控除」のこの分析はそれに対して宿を貸された更なる2つの苦情に答えません。 まず最初に、月に影響する求心力が逆さに正方形であると結論を下す際に、ニュートンは、月の公転軌道の前進がまさに-2よりむしろ力のために-2と4/243の解説者を含意するのを与えますが、太陽の重力の混乱した動作でわずかな断片の原因にならされることができると主張します。 しかし、彼がProposition3で与えるという太陽の動作のための大きさは値の2倍です。後で彼は中のBook3が、示す正しい値です。 ニュートン後の20年間が消え失せたとき、この脱落は初めて、アレックサス-クロード・クレローによって決議されました。 ニュートンがProposition5へ推論における運動の第3法則を呼び出すとき、2番目に、彼は、暗にそれを仮定しています、例えば、事実上、木星と太陽は直接相互作用しています。 見えない媒体はホイヘンスに好かれた代替手段ですが、彼は、木星で求心力に作用しながら、言い換えれば、原則として移されているどのニュートンが日曜日のホイヘンスに仮定している線運動量を吸収できる媒体が、たぶん、この脱落を知覚しただろうというのを無視しています。(彼が第2版を準備していた間、コーツは明らかに脱落にニュートンの注意と呼びました)。
万有引力の控除に続く提案のグループは飛躍の後ろに厳密に言えばこの法を取るのにある証拠の戦略のしるしを与えます。 すぐ、最初に惑星が等しい時代に正確な楕円で等しい領域を一掃して、重力の相互作用がなければ、そして軌道がまさに惑星の中に静止していると結論を下すと、ニュートンは、この理想化からの逸脱、動きにおける当時のまだ神秘的な気まぐれを最も観測しやすい木星と土星の注意をそれらの重力の相互作用にどのニュートン属性かと呼びます。 理論によると、理想化がちょうど指定された事情を抑制するでしょうから、これらと他のすべての逸脱が理想化された場合で考慮に入れられなかった更なる力から生じなければなりません。 これらの力を特定して、理論によると、それらが逸脱を生産するのを示しているのは、継続中の研究が重力の理論を圧迫するために継続する証拠を整理する方法です。 ポイントを異なって置くために、ニュートンが特定する初期のidealizationsは、複雑な本当の動きとのますます厳密な協定をもたらすべきである連続した近似の過程のための出発点として機能できます。 まさに他のどんな力も仕事していないなら理論に従った彼らがまさに成立するので、これらのidealizationsは特によくこのために合っています、そして、したがって、それらからのあらゆる逸脱が物理的に言うべきですが、例えば、まさしくカーブ発作の偶然の特徴は言うべきではありません。 連続した近似に関するそのような研究計画の追求は、重力のプログラムがいつうまくいっているか、例外ニュートンの理論に関する更なる証拠が理論が改訂されるのを必要とするRule4で話すどちらかをもたらすと約束します。 
Of the other results developed in the group of propositions following the deduction of universal gravity, the most heralded at the time were the defense of Copernicanism in Proposition 12 and the identification of the cause of the tides in Proposition 24 — two topics that Kepler, Galileo, and Descartes had all addressed. Nevertheless, the two Propositions that proved most important were 19 and 20, which respectively derive the non-spheroidal figure of the Earth and the variation of surface gravity with latitude under the assumption that the density of the Earth is uniform. This is the only passage in the Principia that Newton reworked extensively in both the second and then again in the third edition. As Newton was fully aware, and Huygens and a few others realized, these are the only results in the Principia that depend on universal gravity — that is, inverse-square gravity directed toward every particle of matter forming the Earth — and not merely macroscopic celestial gravity — inverse-square gravity directed toward celestial bodies. In his Discourse on the Cause of Gravity, Huygens offered an alternative theoretical account of the figure of the Earth and the variation of surface gravity, and he claimed to have evidence confirming it and hence refuting Newton's universal gravity.[51] In part because evidence on the figure of the Earth and the variation of gravity with latitude were accessible in expeditions to the equator, these were the results in the Principia that were the first to receive concerted critical attention during the 1730s and 1740s. There was a complication in all this, however. The extremely precise results for both the figure of the Earth and the variation of gravity that Newton tabulated in the second and third editions were based on uniform density, and hence, just like Keplerian motion, represented an idealization, departures from which would point to non-uniformities of density. Not until Clairaut's Theory of the Figure of the Earth did means become available to calculate the effects of non-uniformities in the density.[52]
Propositions 25 through 35 derive quantitative results for three lunar inequalities — the systematic departure from the area rule called the “the variation,” the 18 year motion of the line of nodes, and the fluctuating inclination of the orbit — from the perturbing action of the Sun. For all three Newton starts with a circular orbit, so these too involve departures from an idealization. The values he obtained for the different components of the solar perturbing force in Proposition 25 and subsequently, as needed, were accurate to several significant figures. All three derivations, which are mathematically demanding, were successful in obtaining agreement with the values of the inequalities obtained from observation, especially so the derivation for the recession of the lunar nodes, for which he achieves agreement with the known value to better than 98 percent. (Newton must have been mystified by the failure of his seemingly parallel derivation of the 9 year precession of the line of apsides to achieve better than 50 percent agreement.)
大部分は、Proposition12の「コペルニクス説信奉者-主義」のディフェンスとPropositionでの潮の原因の識別がケプラー、ガリレオ、およびデカルトがすべて記述した24--2つの話題であったならば結果が万有引力の控除に続く提案のグループでもう片方では、展開したのを当時、告知しました。 それにもかかわらず、最も重要なものであることを判明した2Propositionsが、19と20歳でした。(その歳はそれぞれ地球の非球状の図と地球の密度が一定であるという仮定での緯度に従った表面重力の変化を引き出します)。 これは、プリンキピアでニュートンが再び3番目の版で秒とその時の両方で手広く作りなおした唯一の通路です。 ニュートンが百も承知していて、ホイヘンスと数人の他のものが気付いたので、これらはプリンキピアで単に巨視的な天の重力ではなく、万有引力(すなわち、逆さの正方形重力は件の形成のあらゆる粒子に地球を向けた)に依存する唯一の結果です--天体に向けられた逆さの正方形重力。 GravityのCauseの上の彼のDiscourseでは、ホイヘンスは地球の図と表面重力の変化の代替の理論的説明を申し出ました、そして、彼はそれを確認して、したがってニュートンの万有引力を反駁させる証拠を持っていると主張しました。 地球の図に関する証拠と緯度に従った重力の変化が遠征で赤道に一部アクセス可能であったので、これらはプリンキピアで1730年代と1740年代の間に協定している批判的な配慮を受ける1番目であった結果でした。 しかしながら、複雑さがこのすべてにありました。 まさしくKeplerian動きのように、地球の図と重力の変化の両方のためのニュートンが2番目と3番目に版について表にしたという非常に正確な結果は、一様密度に基づいて、したがって、理想化(どれが指すだろうか、そして、密度の非uniformitiesまでの出発)を表しました。 クレローの地球の図のTheoryまで、手段は密度における、非uniformitiesの効果について計算するために利用可能になりませんでした。
「変化」と、18年はノードの線、および軌道の変動傾向について日曜日のForの混乱した機能から身ぶりで合図します。提案25〜35は3つの月差のために量的な結果を引き出します--エリアルールからの系統的な出発が呼んだ、周回軌道があるすべての3つのニュートン始め、したがって、これらも理想化から出発にかかわります。 彼がProposition25と次に太陽の摂動力の異なったコンポーネントに得た値は必要に応じていくつかの有効数字に正確でした。 すべての3回の派生。(その派生はしたがって特に観測から不平等の値を得ていて合意を得るうまくいっているコネが彼が98より良いパーセントに既知数との協定を達成する月のノードの不況のための派生であったのを数学的に要求しています)。 (ニュートンは彼の9年間の50パーセントの協定よりよく達成する長軸の前進の外観上平行な派生の失敗によって当惑されたに違いありません。)  
The Scholium following Proposition 35 opens with the explanation for the preceding efforts on the lunar inequalities: “I wished to show by these computations of the lunar motions that the lunar motions can be computed from their causes by the theory of gravity” [P, 869]. Newton never found a way of deriving the precession of the lunar apogee from the theory of gravity, and consequently he never succeeded with a complete, gravity-derived account of the lunar orbit.[53] The mathematical treatment of the three lunar inequalities nevertheless did provide added support for his theory of gravity. It also introduced the idea of attacking the problem of the true orbit in a sequence of successive approximations by calculating perturbations in motion in an assumed orbit caused by the gravitational action of the Sun. This was not only an entirely new approach to the then unsolved problem of simply describing the motion of the Moon, an approach that proceeded from the physical cause to the motion; it was also the beginnings of the perturbational approach that dominated all of celestial mechanics from the middle of the eighteenth century until late in the twentieth.[54] As difficult as Propositions 25 through 35 were for readers at the time — and still are for readers now — they crucially promoted the further research on the complicated orbital motions that ultimately supplied overwhelming support for Newton's theory of gravity.
It was a real breakthrough when Newton discovered that the gravitational forces of the Sun and Moon acting on an oblately spheroidal Earth would produce a wobble of the Earth that, at least qualitatively, could account for the precession of the Equinoxes. No physical explanation for this phenomenon had been proposed before. Newton faced a problem, however, in trying to carry out a quantitative derivation of the precession: he knew the magnitude of the gravitational action of the Sun on the Earth but not that of the Moon, for he could not obtain the mass of the Moon in the way he had for the Sun, Jupiter, and Saturn insofar as no bodies orbit the Moon. Propositions 36 and 37 endeavor to infer the force of the Moon on the Earth from the difference in the heights of the tides when the Sun and Moon are in conjunction and in opposition. In the first edition Newton managed to derive a value for the rate of the precession in good agreement with the known value, but during the quarter century between the first and second editions he concluded that the value he had used for the Moon's force (6 and 1/3 times the Sun's force) was much too large. The derivation of the precession was therefore extensively revised in the second edition, using a new value for the Moon's force (4.4815 times the Sun's force, still more than a factor of 2 greater than the correct value). In all editions the derivation in Proposition 39 treated the wobble not directly as the motion of a rigid body, but by analogy with the motion of the lunar nodes. By the standards of our present physics, no part of Book 3 is further off-base than Newton's solution for the precession. The phenomenon, however, subsequently provided important evidence for Newton's theory of gravity when d'Alembert in 1749 carried out a successful derivation based on rigid body motion and a correct value of the Moon's force derived from the then recently discovered phenomenon of the nutation of the Earth.
Scholiumの次のProposition35は月差における前の努力のための説明で開きます: 「私は、重力の理論がそれらの原因から月の動きを計算できるのを月の動きのこれらの計算で示したかったです」。重力の理論からの月の遠地点の前進を引き出す方法と、その結果、ニュートンは、彼が月の公転軌道の完全で、重力で派生しているアカウントで決して成功しなかったのが決してわかりませんでした。 それにもかかわらず、3つの月差の数学の処理は彼の重力の理論の加えられたサポートを提供しました。 また、それは単に月の動きについて説明する当時の未解決の問題への完全に新しいアプローチだけではなく、日曜日のThisの重力の機能で引き起こされた想定された軌道の動きにおける摂動があったと見込むことによって次々にの連続した近似の本当の軌道の問題を攻撃するという考えを紹介しました、身体的原因から動きまで続いたアプローチ。 また、それは、18世紀の中頃から天体力学のすべてを20番目に遅れるまで支配したperturbationalアプローチの始まりでした。 Propositions25〜35と同じくらい難しいのは、読者のために当時、あって、まだ今、読者に関して、彼らが重要に結局ニュートンの重力の理論の圧倒的なサポートを供給した複雑な公転運動の更なる研究を促進したということです。
ニュートンが、扁球に球状の地球に影響する太陽と月の重力が地球のウォッブルを起こすと発見したとき、少なくとも質的にEquinoxesの前進を説明できたのは、大躍進でした。 この現象のための物理的解釈は全く以前、提案されたことがありませんでした。 しかしながら、ニュートンは前進の量的な派生を行おうとする際に問題に直面していました: 彼は月についてそれではなく、地球への太陽の重力の動きの大きさを知っていました、彼がどんなボディーも月の周囲を軌道を描いて回らない限り、彼が太陽、木星、および土星に持っていた方法で月の量を得ることができなかったので。 提案36と37は、潮の高さの違いからの地球の接続詞と太陽と月に反対する月の力を推論するよう努力します。 初版では、ニュートンは既知数との良い合意における、前進の速度のために何とか値を引き出しましたが、1番目と第2版の間の四半世紀に、彼は、彼が月の力(太陽の力の6と1/3倍)に使用した値が非常に大き過ぎると結論を下しました。 したがって、前進の派生は第2版で手広く改訂されました、月の力に新しい値を使用して(4.4815は正しい値よりすばらしい状態で太陽の力、1以上が因数分解する2のスチール写真を調節します)。 すべての版では、Proposition39での派生は直接剛体の動きで扱ったのではなく、月のノードの動きへの類推でウォッブルを扱いました。 私たちの現在の物理学の規格で、Book3のどんな部分もニュートンの前進の解決策よりさらに基地外ではありません。 現象、しかしながら、1749年のd'Alembertが地球の転頭の当時の最近発見された現象から得られた堅い体動に基づくうまくいっている派生と月の力の正しい値を行ったとき、ニュートンの重力の理論に関する重要証拠は次に、提供されました。 
Newton's account of the tides in Propositions 24, 36, and 37 was much heralded not only at the time, but still today. He is nevertheless receiving more credit for this than he is due. He did identify solar and lunar gravity as the forces driving the tides, but this is all he did. He ignored the rotation of the Earth, and worse he considered only the radial component of the solar and lunar gravitational forces in these three propositions. In fact, the radial component of these forces has a very small effect compared with the transradial component, that is, the component perpendicular to the radial component. All of this became clear in the 1770s when Laplace developed the mathematical theory of tidal motion from which all subsequent work has proceeded.
Book 3 ends with a revolutionary analysis of comet trajectories that occupies roughly one-third of the total length of the Book in all three editions. This analysis was slow in coming. As late as June 1686, Newton wrote: “the third [book] wants the Theory of Comets” [C, II, 437]. What made the problem difficult, as compared to planet trajectories, was the need to work from a small number of imprecise one-shot observations made from a moving Earth. The method presented in the Principia fits a parabola iteratively to the observations, employing novel finite-difference methods that Newton later expanded into a full tract in mathematics, “Methodis Differentialis.” The method presupposes the theory of gravity first in opting for a parabola and second in assuming that the inverse-square centripetal forces known from the planets act on comets along their entire trajectory. The text notes that the trajectories may well be ellipses, but the period of return in that case would be the best way of determining the ellipse. (The parabola approximates the high-curvature end of ellipses with high eccentricity.) The proposal that comets may return was novel, but even more revolutionary at the time was the claim that they button-hook around the Sun, implying that what had sometimes in the past been taken for two distinct comets were really one comet before and after perihelion.
In the first edition the method was applied only to the comet of 1680-81. The results are presented in a one-foot long diagram on the only fold-out page in the edition. Nothing like this diagram, shown in Figure 3, had ever appeared in print before. The diagram continued to appear in the next two editions, though in reduced form not requiring a fold-out in the third. In the second edition the method was refined and applied as well to the comets of 1664-65, 1683, and 1682 reflecting research Halley had carried out and published in his Astronomiae Cometicae Synopsis of 1705. The comet of 1682, now known as Halley's comet, was singled out as being sufficiently similar in trajectory to the comet of 1607 to warrant the proposal that it returns every 75 years.
   Figure 3
Propositions24、36、および37の潮に関するニュートンの説明は今日まだ、単に時間ではなく、たくさん告知されていました。 彼はいます、それにもかかわらず、これのための彼より多くのクレジットを受けるのが当然です。 彼は、太陽の、そして、月の重力が潮を運転する力であると認識しましたが、これは彼がしたすべてです。 彼は地球の回転を無視しました、そして、これらの3つの提案で、よりひどく、太陽の、そして、月の重力の半径のコンポーネントだけを考えていました。 事実上、これらの力の半径のコンポーネントはすなわち、経橈骨動脈的なコンポーネント、コンポーネントにたとえられた非常に小さい影響を半径のコンポーネントに垂直に与えます。 これのすべてがラプラスがすべてのその後の仕事が続いた潮の動きの数学の理論を開発した1770年代に明確になりました。第3巻はおよそすべての3つの版のBookの全長の1/3を占める彗星軌道の革命の分析で終わります。 この分析はなかなか浮かびませんでした。 ニュートンは1686年6月には以下を書きました。 「3番目の本はCometsのTheoryを必要とします」。惑星軌道と比べて、問題を難しくしたことは、1回限りの観測が地球を動きからした不正確の少ない数から働く必要性でした。 プリンキピアで提示された方法は、繰り返しに観測に放物線に合います、ニュートンが後で数学の完全な広がり、「Methodis Differentialis」に広げた目新しい有限差分法を使って。 方法は惑星から知られている逆さの正方形求心力が、それらの全軌跡に沿って彗星に影響すると仮定する際に最初に放物線と2番目を選ぶ際に重力の理論を予想します。 テキストは、軌道がたぶん楕円であるだろうことに注意しますが、リターンの一区切りはその場合楕円を決定する最も良い方法でしょう。 (放物線は高い風変わりと共に楕円の高湾曲終わりに近似します。) 彗星が戻るかもしれないという提案が目新しかったのですが、当時、さらに革命であることが、クレームであった、それ、それら、時々過去に2つの異なった彗星に取られたものが、近日点の前後に本当に1つの彗星であったのを含意する太陽の周りのボタンエイド。
初版では、方法は1680-81の彗星だけに適用されました。 結果は版の唯一の折りたたみ式のページの1フィートの長いダイヤグラムで提示されます。 図3に見せられていたこのダイヤグラムのような何でも以前、印刷しているように見えたことがありませんでした。 もっとも、ダイヤグラムは3番目で折り込みページを必要としない誘導形に次の2つの版にずっと現れました。 第2版では、方法は、洗練されて、また、ハレーが行った研究を反映する1664-65、1683、および1682年の彗星に適用されて、彼の1705年のAstronomiae Cometicae Synopsisで発行されました。 1682年の今ハレー彗星として知られている彗星は、75年毎に戻るという提案を保証するために軌道で十分同様であるとして1607年の彗星に選び抜かれました。図3 
Added in the third edition was the retrograde comet of 1723, for which Bradley had supplied comparatively accurate observations and the method correspondingly displayed its most impressive success, with no discrepancies between the calculated and observed positions exceeding 1 minute of arc in either longitude or latitude. This suggested that the more exacting the observations entering into the calculation, the more accurate was the method.
Because Newton's theory of comet trajectories depended only on that part of the theory of gravity that was least controversial — inverse-square centripetal accelerations everywhere around the Sun — it did not provoke much philosophical resistance. The success of the method provided evidence that these centripetal forces act equally on comets, contrary to Hooke's proposal in his Cometa of 1678 that comets must consist of a fundamentally different kind of material from the planets insofar as they do not respond to the forces directed toward the Sun in the same way. The success of the method also provided strong evidence that inverse-square forces toward the Sun hold throughout the space surrounding it, for not only do comets traverse the spaces between the planet orbits, but also their trajectories, in contrast to those of the then known planets, are often highly inclined with respect to the plane of the ecliptic. Most of all, however, the success of the method provided the most compelling evidence against not only Cartesian vortices, but all theories claiming that the planets are carried around the Sun by fluid vortices. Corollary 3 to Proposition 39 in all three editions summarizes the argument:
Hence also it is manifest that the heavens are lacking in resistance. For the comets, following paths that are oblique and sometimes contrary to the course of the planets, move in all directions very freely and preserve their motions for a very long time even when these are contrary to the course of planets. [P, 895].
This was the argument that convinced Huygens when he read the first edition, and it became all the more compelling thereafter as the method was so successful with further comets.[55]
The added evidence supplied by the theory of comets highlights a sometimes overlooked aspect of Book 3. The development of evidence for the theory of gravity in it does not end with the “deduction” of the law of universal gravity at the beginning, but continues all the way through the Book. During the eighteenth century attention focused overwhelmingly on the evidence supplied by Newton's theory of the figure of the Earth and the variation of surface gravity, the theory of the tides, the quantitative derivations of select lunar inequalities, the derivation of the precession of the equinoxes, and the theory of comets. This suggests that, both then and now, the “deduction” of universal gravity should not be read in isolation from the rest of Book 3, but instead the entire Book should be seen as offering a sustained evidential argument for the theory. Read this way in the context of the rest of the Book, the “deduction” is most appropriately viewed as intended to establish universal gravity, but only provisionally, as a theory on which further research is to be predicated, research that will continue to bring evidence to bear on the theory. 
3番目の版で加えられているのは、1723年の後退している彗星でした、計算されて観測された位置の間の食い違いが経度か緯度のどちらかにおける1分のアークを超えずに。(ブラッドリーは比較的正確な観測を供給して、方法は年のために対応する表示しました中で成功最も印象的である)。 これは、計算に入る観測がさらに強要すれば強要するほど、方法が、より正確であると示唆しました。ニュートンの彗星軌道の理論が最も論議を呼んでいない重力(太陽の周りのいたる所の逆さの正方形の求心的な加速度)の理論のその部分だけによったので、それは多くの哲学的な抵抗を引き起こしませんでした。 方法の成功はこれらの求心力が等しく彗星に影響するという証拠を提供しました、彼らが同様に太陽に向けられた力に応じない限り、彗星が基本的に惑星と異なった種類の材料から成らなければならないという彼の1678年のCometaでのフックの提案とは逆に。 また、方法の成功が太陽に向かった逆さの正方形力がそれを囲むスペース中で成立するという有力な証拠を提供した、当時の知られている惑星のものと対照して、彗星は惑星軌道の間の空間を横断するだけではなく、それらの軌道が黄道の飛行機に関してしばしば非常に傾きもします。 しかしながら、特に、方法の成功はCartesian渦だけではなく、惑星が流体渦による太陽まで運ばれると主張するすべての理論に対しても最も無視できない証拠を提供しました。 すべての3つの版のProposition39への推論3は議論をまとめます:
したがって、また、天上が抵抗に欠けているのも、明白です。 彗星に関しては、斜線であって時々惑星のコースに反対の経路に続いて、非常に自由にあらゆる方向に入って来てください、そして、これらが惑星のコースとは逆にありさえするときには非常に長い時間、彼らの動きを保存してください。
これは彼がいつ初版を読んだかをホイヘンスに納得させた議論でした、そして、方法が一層の彗星によって非常にうまくいったので、それはその後、ひとしお無視できなくなりました。
彗星の理論によって提供された付記された証拠は、Book3の時々見落とされた局面を目立たせます。 それでの重力の理論に関する証拠の開発は、始めにおける万有引力の法の「控除」で終わりませんが、Bookを通したいっぱいに続きます。 18世紀に、注意は、ニュートンの地球の図、表面重力の変化、潮の理論、選んだ月差の量的な派生、春分点歳差の派生、および彗星の理論の理論によって提供された証拠に圧倒的に焦点を合わせました。 これはそれを示しますが、分離してBook3の残りから当時も今もの万有引力の両方の「控除」を読むべきではありませんが、代わりに、全体のBookが持続している証拠の議論に理論を出そうと申し出るのを見るべきです。 Bookの残りの文脈でこのように読まれて、万有引力を確立しますが、更なる研究が叙述されることになっていることである理論として臨時に研究するだけであることを意図するので、理論で証拠を生かし続けている「控除」は、最も適切に見られます。 
9. The Scientific Achievement of the Principia

 

From Halley's anonymous review of the first edition of the Principia forward, there has been a marked tendency to overstate what the Principia achieved, glossing over the many loose ends it left for others to recognize and address. A consequence of this is an equal tendency to distort the context of the enormous advances made in both mechanics and orbital astronomy during the eighteenth century, diminishing the difficulties those following Newton faced and their accomplishments in resolving them. The Principia is peculiar in this regard, for a list of its achievements without mentioning their loose ends overstates what it accomplished, but a list of its loose ends risks understating its extraordinary achievements. In an effort to strike a balance we here list eleven major scientific issues of the time to which Book 3 supplied answers in the sequence listed, the answers, and the most important loose ends in the reasoning offered in the evidential arguments for those answers.
1. What physically retains the planets in orbits around the Sun and their satellites in orbit around them? Newton's answer — inverse-square gravity, one in kind with everyday terrestrial gravity — turned on a largely suppressed failure to account for more than half of the precession of the lunar orbit, it tacitly assumed interaction between the Sun and Jupiter and the other individual planets, and it raised unanswered questions about whether the perihelia of the planetary orbits do or do not precess.
2. How does gravity vary, both below and above the surface of the Earth? In the absence of confirming data, Newton's answer — to a first approximation, linearly with distance to the center below the surface, and inversely with the square of the distance above it — presupposed uniform density in the first part and a spherical Earth with spherically symmetric density in the second, and therefore left open the possibility that gravity is constant near the surface of the Earth, just as Huygens continued to claim in his response to the Principia [HD, 153], citing supporting evidence.
3. What are the relative densities of the planets, with respect to one another and to the Sun? Newton gives theory-dependent answers for Jupiter, Saturn, and the Earth in the corollaries to Proposition 8, but the one for the Earth, even in the third edition, depended on a still questionable value for the horizontal solar parallax (required to determine the distance of the Moon from the Earth in astronomical units), and no corroborating evidence for these answers had emerged, such as from the actions of Jupiter and Saturn on one another.
ハレーのプリンキピアフォワードの初版の匿名のレビューから、プリンキピアが実現したことを言いすぎる著しい傾向は来ていました、それが見分ける他のものとアドレスに残した多くの未処理事項を言い繕って。 この結果は莫大な進歩の文脈を歪める等しい傾向で次のニュートンが直面していたものと困難のそれらを決議することにおいて整備士と18世紀、減少の間の軌道の天文学の両方での彼らの達成であったということです。 それらの未処理事項について言及することのない業績の一覧表がそれが達成したことを言いすぎますが、未処理事項のリストが、並はずれた実績を控え目に言う危険を冒すので、プリンキピアはこの点で奇妙です。 バランスをとるための取り組み、私たち、系列におけるBook3の供給された答えが記載した現代のリスト11ここで主要な科学的問題、答え、およびそれらの答えのために証拠の議論で提供された推理で最も重要な未処理事項。
1. 何が物理的に太陽の周りの軌道の惑星とそれらの周りの軌道のそれらの衛星を保有しますか? 月の公転軌道の前進の半数以上を占めない主に抑圧されたことに変わるニュートンの答え(逆さの正方形重力、本質的な毎日の地球引力がある1)、それは暗に太陽と木星との相互作用と他の個々の惑星を仮定しました、そして、それは惑星軌道のperiheliaがするかどうかに関する答えられていない質問を挙げましたか、「前-課税」を挙げませんでしたか?
2. 重力は表面の下と、そして、地球の表面の上でどのように異なりますか? 確認が不在のとき、それの上に距離の二乗がある状態で、データ(ニュートンのまず得られた近似の結果の答え)は距離で表面と、逆にセンターに直線的です--最初の部分と球面がある球体の地球の中で一様密度を予想します。2番目の左右対称の密度、およびしたがって、補強証拠を引用して、プリンキピアへの彼の応答で要求する重力がちょうどホイヘンスとして地球の表面の近くで一定である可能性を続けていた左の戸外。
3. 惑星の相対密度はお互いと太陽への何ですか? ニュートンはProposition8への推論で理論依存する答えを木星、土星、および地球に与えますが、地球と、3番目の版さえのものを水平な太陽視差(天文単位の地球からの月の距離を測定するのが必要である)のためにまだ疑わしい値に依存しました、そして、これらの答えに関する補強証拠は全く現れていませんでした、木星の動作やお互いの上の土星などのように。 
4. Is there some principled way to resolve the dispute between the Copernican and Tychonic systems and thereby settle the question of the proper center to which all the motions in our planetary system should be referred? Newton's answer — the center of gravity of the system, about which the Sun circulates at comparatively small distances — depended on the assumed applicability of the third law of motion in claiming that the Sun is in motion, and the precise location of the center of gravity remained open in the absence of values for the relative masses of Mercury, Venus, and Mars.
5. What are the true motions of the planets, and which, if any, of the schemes for calculating planet locations is to be preferred, Kepler's or one of the alternatives to it? Newton's answer was not simple: “If the sun were at rest and the remaining planets did not act upon one another, their orbits would be elliptical, having the sun in their common focus, and they would describe areas proportional to the times;” and the aphelia and nodes would be stationary. The Keplerian system, amended in the manner of Horrocks to infer mean distances from the periods, is therefore the preferred approximation to the true motions. The main loose-end in this answer was whether the actual motions do deviate from the Keplerian ideal, and if so, whether all the deviations could be attributed to specific forces, gravitational or otherwise. A further loose-end, addressed in part in Book 3, was whether the non-Keplerian motion of the Moon can be shown not to be a counterexample to Newton's argument in the case of the planets.
6. Is the motion of Jupiter and Saturn aberrant and, if so, what are the inequalities in it and what causes them? Newton answered yes, because they interact gravitationally, and the dominant inequality has a period corresponding to the 19 years between their consecutive conjunctions. (The second part of this answer did not appear in the first edition.) By the early 1720s it had become clear that the dominant period in the anomalies of motion of these two planets is not that of the time between conjunctions, but something of much longer duration, giving rise to the questions of what the vagaries actually are and whether they can truly be derived from Jupiter's and Saturn's gravitational forces.
7. How, if at all, does the Earth's surface gravity vary with latitude, and how, if at all, does the Earth's figure differ from a sphere? Newton's answer changes from the first to the second to the third edition, but in all cases vagaries in the cited data raise the question of what the actual variations are. Also, because his idealized theoretical calculation assumes uniform density, his answer raises the questions whether the density of the Earth is uniform and whether the true figure of the Earth and variation of surface gravity can be reconciled with non-uniformities in density.
8. What precisely is the motion of the Moon, and what gives rise to the inequalities in it, inequalities not observed in the motions of the satellites of Jupiter and Saturn? Newton's answer to the second part is the perturbing effect of the Sun's gravity, leaving the answer to the first in the form of a promissory note: work out all the perturbations from solar gravity, and you will have the answer. The major open question was whether the complex motion of the line of apsides and the inequality known as the evection — the two features for which the Horrocksian cinematic model that Newton had employed in the Scholium to Book 3, Proposition 35 had resorted to an old-fashoined epicycle — can be derived from the action of solar gravity.
4. コペルニクス説信奉者とTychonicシステムとの論争を解決して、その結果適切なセンターの問題に決着をつける、私たちの太陽系におけるすべての動きが参照されるべきである何らかの主義に基いている方法がありますか? 太陽が動いていると主張する際にニュートンの答え(太陽が比較的わずかな距離を循環するシステムの重心)は運動の第3法則の想定された適用性によりました、そして、重心の正確な位置は水星、金星、および火星の相対論的質量のための値がないとき開いたままで残っていました。
5. 惑星の本当の動きは何です、そして、もしあれば計算の惑星位置の計画のどれが、ケプラーかそれへの代替手段の1つで好まれることですか? ニュートンの答えは簡単ではありませんでした: 「太陽が静止していて残っている惑星であれば、それらの一般的な焦点に太陽を持っていて、お互いの行為、それらの軌道は楕円でないだろう、また回に比例している領域について説明しません」。 そして、apheliaとノードは静止しているでしょう。 したがって、期間から平均距離を推論するためにホロックスの様式で修正されたKeplerianシステムは、本当の動きへの都合のよい近似です。 この答えにおける主な未処理事項はそうだとすれば、すべての逸脱が実運動がKeplerian理想から逸れるかどうかと、特定の力の結果と考えられる、重力である、またはそうでないかもしれないということでした。 Book3に一部記述された更なる未処理事項は、惑星の場合におけるニュートンの議論への反例でなくなるように月の非Keplerian動きを示すことができるかどうかということでした。
6. 木星と土星の動きは常軌をはずしています、そして、そうだとすれば、それとそれらを引き起こすことにおける不平等は何ですか? ニュートンは、はいと答えました、重力に相互作用して、期間がそれらの連続した接続詞の間で優位な不平等で19年まで対応するようになるので。 (この答えの第二部は初版に載っていませんでした。) これらの2つの惑星の動きの例外における優位な期間が接続詞の間の現代のものではなく、はるかに長い持続時間について何かであることが、1720年代前半までに明確になりました、気まぐれが実際に何であるか、そして、本当に、木星と土星の重力からそれらを得ることができるかどうかに関する質問をもたらして。
7. 緯度に従って、せいぜい、地球の表面重力はどのように異なりますか、そして、せいぜい、地球の図はどのように球と異なっていますか? ニュートンの答えは1日から3番目の版への2番目に変化しますが、全部で、引用されたデータにおけるケース気まぐれは実際の変化が何であるかに関する疑問を挙げます。 また、彼の理想化された理論上の計算が一様密度を帯びるので、彼の答えは地球の密度が一定であるかどうかと、地球の真の数字と表面重力の変化が密度で非uniformitiesと仲直りできるかどうかという疑問を引き起こします。
8. 正確に月の動きです、そして、何がそれ、木星の衛星の動きで観測されなかった不平等、および土星の中で不平等をもたらしますか? ニュートンの第二部の答えは太陽の重力の混乱した効果です、約束手形の形で1日の答えを残して: 太陽の重力からのすべての摂動を解決してください。そうすれば、あなたは答えを持つでしょう。 主要な未決問題は太陽の重力の動作からそのHorrocksianの映画のようなモデルニュートンがそうした、ScholiumでBook3に使われた2つの特徴、Proposition35が古くfashoinedされた周転円に訴えたという出差として知られている長軸と不平等の複雑運動を得ることができるかどうかということでした。 
9. What causes the tides, and why do they vary in time as well as from place to place in the way they do? Because Newton's answer — the gravitational action of the Sun and the Moon — was merely qualitative, it left room to question whether the Moon attracts the Earth and, if so, by how strong a force. Also left open was the question of how the inertia and viscosity of the seas and the rotation of the Earth affect the tides, a question requiring a dynamic analysis of the motions of the seas in response to solar and lunar gravity.
10. What physically produces the precession of the equinoxes? Newton's derivation of the precession from the gravitational action of the Moon and Sun raised three unresolved questions: What are the correct values for the mass of the Moon and the oblateness of the Earth? Is the resulting motion of the Earth really analogous to that of the lunar nodes? How does the varying inclination of the Moon affect the calculated motion?
11. What trajectories do comets describe? Newton's answer — conic-sections that can at least be approximated by parabolas in the region in which they are observable — gave weight to the question whether the parabolic trajectory works for all comets, and not just the comet of 1680-81 in the case of the first edition, the three others analyzed in the second, and the additional one in the third. The Principia also left open questions about how the gravity of Jupiter and Saturn might affect comet motions, whether any significance should be attached to the residual discrepancies between theory and observation in Newton's results, and which, if any, comets do return in some regular fashion.
Careful reading of the Principia makes clear that, although unforthcoming about any of the loose ends, Newton was perfectly aware of them all, in one way or another flagging each for the benefit of the highly astute reader. An instructive way to present the history of eighteenth century research in the wake of the Principia is to trace how each of the loose ends became a prominent matter of concern and was then resolved, at least to the point of being removed as in any way a threat to Newton's theory of gravity. This process of addressing the loose ends in Book 3 did not get underway until the 1730s, after Newton had died. During his lifetime the most pressing complaint against the Principia was the absence of a mechanism to account for its action save for action at a distance, which Newton himself regarded as “so great an absurdity, that I believe no man who has in philosophical matters a competent faculty of thinking can ever fall into it.”[56] The absence of a mechanism, however, was not something that Newton himself regarded as a loose-end in the Principia, for he insisted that all the conclusions listed above could be established, and any loose ends in them resolved, through the law of universal gravity alone, independently of the mechanism responsible for it. Over the decades after he died, those engaged in research predicated on his theory of gravity came increasingly to this same view of the question of mechanism. 
9. 何が潮を引き起こしますか、そして、また、それらはなぜそれらがする方法で入賞する場所付けで、時間内に、異なりますか? ニュートンの答え(太陽と月の重力の動き)が単に質的であったので、それはそうだとすれば、月が地球を引き付けて、どのようにが強いかか否かに関係なく、質問する余地を力に残しました。 また、開くままにされているのは、海の慣性と粘着性と地球の回転がどう潮に影響するかに関する質問でした、質問が太陽の、そして、月の重力に対応して海の動きの動態分析を必要として。
10. 何が物理的に春分点歳差を起こしますか? ニュートンの月と太陽の重力の動きからの前進の派生は3つの未解決の問題を提起しました: 月の量と地球の偏平率のための正しい値は何ですか? 地球の結果として起こる動きは本当に月のノードのものに類似していますか? 月の異なった傾斜はどのように計算された動きに影響しますか?
11. 彗星はどんな軌道について説明しますか? ニュートンの答え(それらが観察可能である領域の放物線で少なくとも近似できる円すい曲線)は放物線の軌道が彗星だけではなく、初版の場合、2番目で分析された、3人の他のもの、および追加ものにおける、1680-81のすべての彗星のために3番目で働いているかどうかという質問を補強しました。 また、プリンキピアは何らかの通常のファッションでどんな意味もニュートンの結果における理論と観測の間の残りの食い違いに付けられるべきであるか否かに関係なく、木星と土星の重力がどう彗星動きに影響するかもしれないかに関する未決問題と彗星が、どんなであるもそうするものをリターンに出ました。
プリンキピアの熟読は、未処理事項のどれかに関して不親切ですが、ニュートンがそれらを皆、完全に意識していたことを明らかにします、非常に抜け目のない読者の利益のためにそれぞれにどうかして旗を揚げさせて。 プリンキピアの後で18世紀研究の歴史を提示するためになった方法はそれぞれの未処理事項がどう際立った懸念材料になって、次に、決心していたかをたどることです、少なくともどんな方法でニュートンの重力の理論への脅威としても取り除くまで。 Book3に未処理事項を記述するこの過程は1730年に初めて始まりました、ニュートンが死んだ後に。 彼の生涯、プリンキピアに苦情を押した大部分は、動作を除いて、離れたまま動作を説明するメカニズムの欠如でした。(ニュートン自身はそれを「とてもすばらしい不条理、私が考えの哲学的な件に関する有能な教授陣がいる男性を全く信じていないのがそれになることができます」と見なしました)。 しかしながら、メカニズムの欠如は上に記載されたすべての結論は確立できると主張したので、ニュートン自身が、プリンキピアにおける未処理事項と見なして、それらのどんな未処理事項も決議した何かではありませんでした、万有引力だけの法で、それに原因となるメカニズムの如何にかかわらず。 彼が死んだ後に数10年間、彼の重力の理論で叙述された研究に従事しているものはますますメカニズムの問題のこの同じ眺めに来ました。 
10. The Methodology of the Principia

 

In two passages that remained word for word the same in all three editions Newton announced that the Principia was meant to illustrate a new approach to empirical inquiry. Neither the remark about deriving forces from phenomena of motion and then motions from these forces in the Preface to the first edition nor the remark about comparing a generic mathematical theory of centripetal forces with the phenomena in order to find out which conditions of force actually hold at the end of Book 1, Section 11, however, shed much light on just what this new approach is supposed to be. Other than these two passages, the only notable remark about methodology is the famous passage, quoted earlier, from the General Scholium added in the second edition as a final, parting statement:
I have not as yet been able to deduce from phenomena the reason for these properties of gravity, and I do not feign hypotheses. For whatever is not deduced from the phenomena must be called a hypothesis; and hypotheses, whether metaphysical or physical, or based on occult qualities, or mechanical, have no place in experimental philosophy. In this experimental philosophy, propositions are deduced from the phenomena and are made general by induction. The impenetrability, mobility, and impetus of bodies, and the laws of motion and law of gravity have been found by this method. And it is enough that gravity should really exist and should act according to the laws that we have set forth and should suffice for all the motions of the heavenly bodies and of our sea. [P, 943]
Much of the discussion of the methodology of the Principia in the philosophical literature, from the eighteenth century down to the present time, has taken this clearly polemical passage as the starting point, generating unfortunately more heat than light.[57] This is not the place to grapple with all the controversies surrounding this passage. Some guarded comments about the methodology of the Principia may nevertheless prove helpful.
It is scarcely surprising that the unprecedented success of Newton's theory of gravity stimulated interest in the methodology of the Principia. The obvious thought was to emulate this success in other areas by following the same method. But then, even independently of questions about what the method was, one has to consider exactly how it contributed to the success. Viewed in retrospect, Book 2 makes clear that this question has no simple answer. If Newton followed the same method in Book 2, then the failure of his effort on resistance forces — even worse, the failure that he did not recognize — shows that the method was no guarantee of success. The empirical world must cooperate for it to succeed.
すべての3つの版で一語一語同じままで残っていた2つの通路では、ニュートンが、プリンキピアが経験的調査への新しいアプローチを例証することになっていると発表しました。 どちらも動きと次に、動きのPrefaceのこれらの力から初版までの現象から力を得ることに関する注意か力のどの状態が実際にBook1の端で成立するかを見つけるために求心力の一般的な数学の理論を現象と比べることに関する注意、しかしながら、この新しいアプローチによるいったい何と思われるかに関してセクション11は多量の光をはじきました。 これらの2つの通路以外の、方法論に関する唯一の注目に値する注意が、より早く最終的で、別れの声明として第2版で加えられた司令官のScholiumから引用された、有名な節です:
私は、まだ現象から重力のこれらの特性の理由を推論できませんでした、そして、仮説のふりをしません。 現象から推論されないことなら何でも仮説と呼ばなければならないので。 そして、仮説には、形而上学的か、物理的であるか、オカルトの品質に基づく、または機械的であることにかかわらず実験哲学の場所が全くありません。 この実験哲学では、提案を現象から推論して、一般的に誘導でします。 不可入性、移動性、ボディーの起動力、運動の法則、および重力の法則はこの方法によって見つけられました。 そして、重力が本当に存在するべきであり、私たちが旅に出たという法によって行動するべきであり、天体と私たちの海のすべての動きに十分であるのは、十分です。
哲学的な文学における、プリンキピアの方法論の議論の多くが出発点として明確に議論の通路をこれに18世紀から現在までみなしました、光より残念ながら多くの熱を発生させて。 これは、すべての論争周辺とこの通路を格闘させる場所ではありません。 それにもかかわらず、プリンキピアの方法論に関するいくつかの用心深いコメントが役立つと判明するかもしれません。
ニュートンの重力の理論の空前の成功がプリンキピアの方法論への関心を刺激したのは、ほとんど驚くべきものではありません。 明白な考えは、同じ方法に従うことで他の領域のこの成功を見習うことでした。 しかし、そして、方法が何であったかに関する質問の如何にかかわらずさえ、人は、それがちょうどどのように成功に貢献したかを考えなければなりません。 追憶で見られて、Book2は、この質問にはどんな簡単な答えもないことを明らかにします。 ニュートンがBook2の同じ方法に従ったなら、抵抗力における彼の努力の失敗(より悪い彼が認めなかった失敗さえ)は、方法が成功の保証でなかったのを示しています。 実証的な世界は協力して、成功しなければなりません。 
Two aspects of the general thrust of the method are perfectly clear. First, Newton viewed it as contrasting with what was then called the method of hypotheses — that is, the method of putting forward hypotheses that reached far beyond the available data and then marshalling evidence for them by deducing testable conclusions from them.[58] Second, Newton viewed the method as requiring that questions be regarded as open when empirical considerations had not yet yielded answers to them. Whatever may have been required for empirical consideration to establish a theoretical conclusion, and whatever the status, provisional or otherwise, any such established conclusion was supposed to have, Newton viewed the method as allowing — even mandating — that theoretical answers to some questions could be established even while other closely related questions remained in abeyance. In particular, to use Newton's phrasing from the Scholium that ends Section 11, the physical species and physical proportions of forces could, in the appropriate sense, be established even though the question of their physical causes remained open. The clear aim of the method was accordingly to limit theoretical claims to “inductive generalizations,” as specified by the Rules of Reasoning, of conclusions dictated by experiment and observation.
Newton's eschewing the method of hypotheses produced no controversy at the time. In a manuscript revision of his “Essay on the causes of celestial motions” Leibniz even adopted Newtonian phrasing: “What follows is not based on hypotheses but is deduced from phenomena by the laws of motion” [Aiton, 1972, 132]. A large fraction of those who had read at most small portions of the Principia and depended on others for their knowledge of it most likely saw Newton as having hypothesized inverse-square attraction and hence as in fact following the method of hypotheses. In the years after Newton died, the most celebrated issues receiving concentrated research arose not from how Newton had arrived at universal gravity, but from the claims he had derived from it concerning the figure of the Earth, the vagaries in the motions of Jupiter and Saturn, and the motion of the Moon. The individuals at the center of this research certainly saw these issues as a test of Newton's theory of gravity, but the distinction between taking the theory as a hypothesis and taking it as a provisionally established conclusion was a distinction without much difference for them. Still, it is worth noting that the conclusion Clairaut first drew from the factor of 2 discrepancy in the motion of the lunar apogee was not that Newton's theory of gravity was false, but that the inverse-square needed to be supplemented by a 1/r4 term — a response fully in keeping with Newton's fourth rule of reasoning.
The aspect of Newton's method that did produce controversy at the time was his insisting that he had established conclusions about the physical species and physical proportions of celestial forces while holding questions about their physical causes in abeyance. This was the core of the complaint by Cartesians that the Principia was a work of mathematics, not physics. For Newton's two most important critics, however, Huygens and Leibniz, the objection was not to holding the question of physical causes open, but to accepting certain conclusions that in their mind ruled out the very possibility of a proper answer to the question of physical cause. The defect in Newton's method lay in its not imposing the constraint on theory that all action be through contact, and not at a distance. The violation of this constraint lay behind Huygens's remarking,
方法の一般的な突きの2つの局面が澄み渡っています。 まず最初に、ニュートンは、それを次に仮説の方法と呼ばれたものを対照をなすとみなしました--すなわち、遠くに有効データで達した仮説について提唱して次に、それらから試験できる結論を推論することによってそれらに関する証拠を整理する方法。 2番目に、実証的な問題がまだもたらされていなかったとき、戸外がそれらに一致するので、質問が見なされるのが必要であるとニュートンは方法をみなしました。 経験的考察が理論上の結論を確立するのに何でも必要であり、そのようなどんな確立した結論も持つべきであった暫定的であるかそうでない状態が何であっても、ニュートンは方法を許容?強制でさえあるとみなしました--他の密接に関係づけられた問題が停止していたままで残りさえした間いくつかの質問の理論上の答えを確立できました。 それらの身体的原因の問題は開いたままで残っていましたが、特に、力のセクション11、物理的な種、および物理的な割合を終わらせるScholiumからニュートンの言い回しを使用するのを適切な意味に設立できました。 「帰納的一般法則化」への限界の理論上のクレーム、Reasoning、実験と観測で書き取られた結論のRulesによって指定されるように、方法の明確な目的はそれに従って、そうでした。
ニュートンが仮説の方法を避けるのが当時論争を全く起こしませんでした。 彼の「天体運動の原因に関する随筆」の原稿改正では、ライプニッツはニュートンの言い回しを採用さえしました: 「以下のことは、仮説に基づいていませんが、運動の法則によって現象から推論されます」。プリンキピアの少量を高々読んで、それに関する自分達の知識のためにたぶん人頼みした人の大きい部分は、逆さの正方形アトラクションを仮定して、したがって、事実上、仮説の方法に従うのをニュートンを見ました。 ニュートンが死んだ後に数年間、集中研究を受け取る最も名高い問題が、ニュートンがどう万有引力に達したかから起こったのではなく、彼が地球の図、木星と土星の動きにおける気まぐれ、および月の動きに関してそれから引き出したクレームから起こりました。 この研究の中心の個人は確かにこれらの問題をニュートンの重力の理論のテストであるとみなしましたが、仮説として理論をみなして、臨時に確立した結論としてそれをみなすところの区別はそれらのためのかなりの違いがなければ区別でした。 それでも、クレローが最初に2食い違いの月の遠地点の動きの要素から達した結論がニュートンの重力の理論が誤っていませんでしたが、逆さの正方形が、/r4用語?応答あたり1つの1時までにニュートンの推理の4番目のやり方を踏まえて完全に補われる必要があったということであったことに注意するのは価値があります。
それらの身体的原因に関する質問を停止しているとして保持している間、当時論争を起こしたニュートンの方法の局面は、天の力の彼が、物理的な種に関する結論を確立したと主張して、物理的な割合でした。 これはプリンキピアがあったCartesiansによる苦情のコアでした。物理学ではなく、数学の仕事。 しかしながら、ほとんどの重要な評論家でありホイヘンスとライプニッツ、異論はニュートンの2のための、ものでした。身体的原因の問題を開けておくのではなく、ある結論を受け入れるのに、彼らの心におけるそれは身体的原因の適切な質問の答のまさしくその可能性を除外しました。 すべての動作が離れたままであるのではなく、接触である理論に規制を課さないのにおいてニュートンの方法における欠陥がありました。 ホイヘンスの異状の後ろにこの規制の違反がありました。 
Concerning the Cause of the tides given by M. Newton, I am by no means satisfied, nor by all the other Theories that he builds upon his Principle of Attraction, which seems to me absurd, as I have already mentioned in the addition to the Discourse on Gravity. And I have often wondered how he could have given himself all the trouble of making such a number of investigations and difficult calculations that have no other foundation than this very principle. [OH, IX, 538]
This, then, was the truly controversial aspect of Newton's method in the Principia with which the next generation had to come to some accommodation before research on its loose ends could become respectable.[59]
The idea of developing a mathematical theory in order to enable experiment and observation to provide theory-mediated answers to questions did not originate with the Principia. In his Horologium Oscillatorium, the work the Principia most emulates, Huygens had developed a mathematical theory of pendulum motion that enabled measurement of the length and period of pendulums to provide a robust precise answer to the question, how far does an object fall in the absence of air resistance in the first second? — the measure then of the strength of surface gravity; and he had developed a mathematical theory of uniform circular motion that enabled measurement of the height and period of conical pendulums to provide a second answer to this question. By the time Newton started on the Principia pendulums had been used for more than a decade to answer questions about how surface gravity varies between Paris and other locations. The special problem Newton saw himself as having to face in using mathematical theory to a comparable end in the Principia stemmed from his realization, expressed in the “Copernican scholium,” that the phenomena of orbital motions are inordinately complicated and hence open to multiple competing descriptions. The problem thus became one of finding a way to use mathematical theory to draw definite robust answers to questions about the physical species and proportions of forces from these phenomena. These answers opened the way to pursing the true motions in a sequence of successive approximations, in the process of which continuing evidence could be brought to bear on the theory, potentially delimiting its exactness and its universal applicability in the manner Newton had noted in his fourth rule of reasoning. Because the “Copernican scholium” was unknown at the time, the subtleties of the new method Newton followed to get around this problem went largely unnoticed.
Needless to say, these comments do not answer the philosophically most interesting question of how the method of the Principia contributed to the unprecedented success of its theory of gravity. Hopefully, however, they do remove some sources of confusion that have distorted so much of the philosophical discussion of the Principia. 
M.ニュートンによって与えられた潮のCauseに関して、私は決して満たされていない、および彼が私にとってとんでもなく思えるAttractionのPrincipleに造る他のすべてのTheoriesでいます、私がGravityの上のDiscourseへの添加で既に言及したように。 そして、私は、しばしば彼がどのように、そのような多くの調査といいえを持っている難しい計算をこのまさしくその原則以外の基礎にするというすべての問題を自分に与えたかもしれないかと思いました。
その時、これは未処理事項の研究が立派になることができる前に、次世代がいくつかの宿泊設備に来なければならなかったプリンキピアにおけるニュートンの方法の本当に論議を呼んだ局面でした。
実験と観測が質問の理論で調停された答えを提供するのを可能にするために数学の理論を開発するという考えはプリンキピアの発案ではありませんでした。 彼のOscillatoriumとけい座、仕事における大部分が見習うプリンキピア、ホイヘンスは質問の体力を要している正確な答えをどれくらい遠くに提供するか振り子の長さと期間可能にする測定が最初の2番目における空気抵抗がないとき物の低下をするという振り子運動の数学の理論を開発しましたか? ? そして、表面重力の強さの基準。 そして、彼は円錐振り子の高さと期間の測定がこの質問の2番目の答えを提供するのを可能にする等速円運動の数学の理論を開発しました。 始められたニュートンが、10年間以上の間、プリンキピア振り子の上に使用されている時までには、表面重力がパリと他の位置の間でどう異なるかに関して答えるのは質問されます。 ニュートンが、自分が持っているとみなしたことにおけるプリンキピアへの匹敵する終わりまで数学の理論を使用する際に直面している特別な問題は公転運動の現象が過度に複雑であって、したがって、開いているという「コペルニクスの例証」で表現された彼の認識に複数の競争している記述によりました。 その結果、問題は明確な体力を要している答えをこれらの現象から力の物理的な種と割合に関する質問に引きつけるのに数学の理論を使用する方法を見つける1つになりました。 これらの答えは次々にの連続した近似の本当の動きをすぼめることへの道を切り開きました、理論でどの継続する証拠を生かすことができたかの途中に、彼の推理の4番目のやり方でニュートンが注意した方法で潜在的に正確さとその普遍的な適用性を区切って。 「コペルニクスの例証」が当時、未知であったので、ニュートンがこの問題を逃れるために従った新しい方法の微妙さは主に見つからずに済みました。
言うまでもなく、これらのコメントはプリンキピアの方法がどう重力の理論の空前の成功に貢献したかに関する哲学的に最もおもしろい質問に答えません。 しかしながら、うまくいけば、彼らはとてもプリンキピアの哲学的な議論の多くを歪めた混乱の何人かの源を取り外します。 
Bibliography

 

Primary Sources
・Newton, Isaac, Philosophiae Naturalis Principia Mathematica (“Mathematical Principles of Natural Philosophy”), London, 1687; Cambridge, 1713; London, 1726. (Pirated versions of the 1713 edition were also published in Amsterdam in 1714 and 1723.)
・---, The Mathematical Principles of Natural Philosophy, tr. Andrew Motte, to which is added “The Laws of the Moon's Motion, according to Gravity,” by John Machin, London 1729. (The Motte translation of the 1726 edition, without Machin's addendum, has been reissued as The Principia, Amherst, NY: Prometheus, 1995.)
・---, Philosophiae Naturalis Principia Mathematica, 1726 edition with commentary by Thomae Le Seur and Francisci Jacquier, S.J., Geneva, 1739-1742.
・---, Principes Mathématiques de la Philosophie Naturelle, tr. Madame la Marquise du Chastellet, with commentary by Alexis-Claude Clairaut and the translator, Paris, 1759.
・---, Sir Isaac Newton's Mathematical Principles of Natural Philosophy and his System of the World, tr. Andew Motte, revised Florian Cajori, Berkeley: University of California Press, 1934. (Includes “System of the World,” the original draft version of Book 3.)
・---, [V] Isaac Newton's Philosophiae Naturalis Principia Mathematica, the Third Edition with Variant Readings, ed. A. Koyré and I. B. Cohen, 2 vols., Cambridge: Harvard University Press and Cambridge: Cambridge University Press, 1972.
・---, [P] The Principia: Mathematical Principles of Natural Philosophy: A New Translation, tr. I. B. Cohen and Anne Whitman, preceded by “A Guide to Newton's Principia” by I. B. Cohen, Berkeley: University of California Press, 1999.
・---, The Preliminary Manuscripts for Isaac Newton's 1687 Principia, 1684-1686, Cambridge: Cambridge University Press, 1989.
・---, [M] The Mathematical Papers of Isaac Newton, ed. D. T. Whiteside, vol. 6, 1684-1691, Cambridge: Cambridge University Press, 1974. (Includes detailed commentary on much of the mathematics of the Principia.)
・---, [U] Unpublished Scientific Papers of Isaac Newton, ed. A. R. Hall and M. B. Hall, Cambridge: Cambridge University Press, 1962. (Contains several manuscripts associated with the Principia.)
・---, [C] The Correspondence of Isaac Newton, ed. H. W. Turnbull, J. F. Scott, A. R. Hall, and L. Tilling, 7 vols., Cambridge: Cambridge University Press, 1959-1984.
・---, Philosophical Writings, ed. A. Janiak, Cambridge: Cambridge University Press, 2004.
・Descartes, René, [D] Principles of Philosophy, tr. V. R. Miller and R. P. Miller, Dordrecht: Reidel, 1983. (Citations are to Part and Article, not to page.)
・Huygens, Christiaan, [OH] Oeuvres Complètes de Christiaan Huygens, 22 vols., The Hague: Martinus Nijhoff, 1888-1950.
・---, [HO] The Pendulum Clock or Geometrical Demonstrations Concerning the Motion of Pendula as Applied to Clocks, tr. Rcihard J. Blackwell, Ames: Iowa State University. (Translation of Horologium Oscillatorium, Paris,1673, [OH], vol. 18.
・---, [HD] Discours de la Cause de la Pesanteur, Leiden, 1690; [OH], vol. 21; reprinted in Traité de la lumiére (with which it originally appeared), Paris: Dunod: 1992. (Translations by Karen Bailey, citations to 1690 page numbers.)
・Leibniz, G. W., [L] “Tentamen de Motuum Coelestium Causis,” Acta Eruditorum, 1689; translation in Bertoloni Meli 1993. (Citations are to page numbers in the translation.)
Secondary Sources
・Aiton, E. J., 1972, The Vortex Theory of Planetary Motions, London: Macdonald.
・Ball, W. W. R., 1893, An Essay on Newton's Principia, London: Macmillan; reprinted 1972, New York: Johnson Reprint Corporation
・Bertoloni Meli, D., 1993, Equivalence and Priority: Newton versus Leibniz, Oxford: Oxford University Press.
・Buchwald, J. Z. and Cohen, I. B. (ed.), 2001, Isaac Newton's Natural Philosophy, Cambridge: MIT Press.
・Cohen, I. B., 1971, Introduction to Newton's ‘Principia’, Cambridge: Harvard University Press.
・---, 1980, The Newtonian Revolution, Cambridge: Cambridge University Press.
・Cohen, I. B. and Smith, G. E. (ed.), 2002, The Cambridge Companion to Newton, Cambridge: Cambridge University Press.
・Disalle, 2006, Understanding Space-Time: The Philosophical Development of Physics from Newton to Einstein, Cambridge: Cambridge University Press.
・Guicciardini, Niccolò, 1999, Reading the Principia: The Debate on Newton's Mathematical Methods for Natural Philosophy from 1687 to 1736, Cambridge: Cambridge University Press.
・Herivel, J., 1965, The Background to Newton's Principia: A Study of Newton's Dynamical Researches in the Years 1664-84, Oxford: Oxford University Press.
・Palter, R. (ed.), 1970, The Annus Mirabilis of Sir Isaac Newton, Cambridge: MIT Press.
・Smith, G. E., 2002, “From the Phenomenon of the Ellipse to an Inverse-Square Force: Why Not?”, in Reading Natural Philosophy: Essays in the History and Philosophy of Science and Mathematics to Honor Howard Stein on his 70th Birthday, ed. D. B. Malament, La Salle: Open Court, pp. 31-70..
・---, 2005, “Was Wrong Newton Bad Newton?”, in Wrong for the Right Reasons, eds. J. Z. Buchwald and A. Franklin, Berlin: Springer, pp. 127-160.
・Stein, H., 1967, “Newtonian Space-Time,” in Palter 1970, pp. 258-284.
・---, 1990, “From the Phenomena of Motions to the Forces of Nature: Hypothesis or Deduction?”, PSA 1990, Proceedings of the 1990 Biennial Meeting of the Philosophy of Science Association, vol. 2, East Lansing, MI: Philosophy of Science Association, pp. 209-222.
・Taton, R. and Wilson, C. (ed), 1989, Planetary Astronomy from the Renaissance to the Rise of Astrophysics, Part A: Tycho Brahe to Newton, Cambridge: Cambridge University Press
・---, 1995, Planetary Astronomy from the Renaissance to the Rise of Astrophysics, Part B: The Eighteenth and Nineteenth Centuries, Cambridge: Cambridge University Press.
・Westfall, R. S., 1971, Force in Newton's Physics: The Science of Dynamics in the Seventeenth Century, London: Macdonald.
・---, 1980, Never at Rest: A Biography of Isaac Newton, Cambridge: Cambridge University Press.
・Yoder, J. G., 1988, Unrolling Time: Christiaan Huygens and the Mathematization of Nature, Cambridge: Cambridge University Press. 
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。