現代西洋・諸説

社会主義とソヴェト経済覇権と国際秩序冷戦体制解体と東アジア中国 とグローバル経済21世紀のアメリカと中国9/11恐怖襲撃プーチンのロシアアタチュルク と現代トルコ欧州通貨統合ケネディと公民権法案社会資本とソーシャルキャピタルネオリベラル型グローバリズム宥和と抑止アメリカ孤立主義グロ−バル経済と新興市場21 世紀イノベートアメリカ2010年外為市場アメリカ競争力法平和のための思想潮流グローバル社会の共和主義ブッシュの単独主義外交アラブ諸国 の宗教とナショナリズム欧米政治の近代から現代アイルランド義勇軍ブルツクスのロシア革命論副大統領ウォーレスユダヤ系アメリカ人のアイデンティティポスト冷戦時代のグローバリズム再考サイエンスウォーズ歴史とは何か文化のリアリティ歴史主義の貧困民主主義の天使アメリカ知識人の思想オリエンタリズムペレストロイカもうひとつの声・・・
 

雑学の世界・補考   

社会主義とソヴェト経済 / ブルツクス晩年の思索

はじめに
ソヴェト・ロシアにおける内戦が終わりにさしかかった1920年8月、ロシアの農業問題の研究者ボリス・ブルツクス(1874-1938)は、ペトログラードの知識人の非公式の会合において、ロシア革命の経験に照らした社会主義経済の理論的批判を詳述した。その内容に基づいてネップ開始後の1922年はじめにソヴェト国内の雑誌に公表され、1935年にハイエクの序文を付して英語の著書『ソヴェト・ロシアにおける経済計画』の第2部に収録された彼の論文は、今日では、社会主義経済批判の古典として確固たる地位を占めている(Brutzkus、1922、1935b)2)。
ペトログラードでの報告から17年後の1937年、ブルツクスはエルサレムにおいて「ソヴェト・ロシアと社会主義」という草稿を執筆し、翌年12月に病により64年の生涯を閉じた3)。彼自身が「ソヴェト・ロシアの経済とその生活の他のいくつかの面に関する、私のほぼ20年にわたる研究活動を締めくくり、私の社会主義に関する考察を要約するもの」(Brutzkus、1995c、p. 221)と呼ぶこの重要な論考は、彼の死から半世紀以上後の1995年に、V. カガンの手でブルツクスの論文集の一編としてはじめて公刊された。
本稿の課題は、この草稿を含む晩年のいくつかの著作で展開されたブルツクスの社会主義とソヴェト経済に関する議論を再構成し、その特徴と意義を論じることである。筆者はかつて1922年の論文について詳しい検討を行ったが(森岡、1995a)、今回改めて晩年の時期の考察をとりあげるのは、それが十月革命以降のソヴェト体制の20年間の歴史をふまえた分析や洞察を数多く含んでいるからである。具体的には、以下の4つの著作をとりあげる。a上述の「ソヴェト・ロシアと社会主義」、s「協同組合について」、d「ソヴェト・ロシアの経済における市場と経済」、f「ロシアにおける計画経済の帰結」4)。sはやはり1937年に執筆された未完の草稿であり、N. ロガーリナによって1995年に公表された。これはごく短いが、協同組合を通してみた比較体制論と呼ぶべき省察である。dは1936年の夏に執筆され、1937年にポーランドの経済誌に掲載された5)。この論文は、ソヴェト経済の具体的事実に言及したブルツクスの著作としては最後のもので、計画経済の枠内での市場取引の拡大の試みに大きな関心が払われている。fはブルツクスの上述の1935年の英語による著書の第2部をなす論文としてよく知られているが、そのソヴェト経済に関する独自の考察はまだ十分に評価されていない。
本稿の構成は次の通りである。第I節では総論として、ソヴェト経済の社会主義的性格とその評価についてのブルツクスの基本的観点をみる。続く2つの節では、歴史的存在としてのソヴェト経済の固有の特徴に関するブルツクスの認識を、形成過程(第II節)と構造的な諸特質(第III節)の両側面から明らかにする。第IV節ではファシズムについての、第V節では社会主義と協同組合の関係についてのブルツクスの見解を紹介する。最後に結びとして、ブルツクスの貢献とその今日的な意味について筆者の考えを述べる。 
T.社会主義としてのソヴェト経済

 

1.社会主義の規定的標識
ソ連が社会主義であるか否かという問題を考えるにあたり、ブルツクスはまず、ロシアや西欧に広くみられる、社会主義を「あらゆる社会的理想、すなわち普遍的な物質的富、平等、生活の完全な保障、最大限の自由と文化、等々の実現」とみなす理解を批判する(Brutzkus、1995c、207)。もし社会主義をこのように社会的善の体化ととらえるならば、ソ連で至福の状態が達成されない限り、そこにはまだ社会主義は存在しないということになる。しかし、「あれこれの社会体制の規定的標識をなすのは、その実現に結びつけられた期待ではなく、そのいくつかの客観的特徴」である。それゆえ、「もしわれわれが、ソヴェト経済は社会主義経済か否かという問いに答えようとするならば、それが住民に多くの幸福を与えたか否かによっては、われわれの答えを決めることはできない」(Ibid.)。
では社会主義―ただし「社会主義一般ではなく、マルクス主義的社会主義、すなわち集産主義」―の規定的標識は何か6)。ブルツクスによれば、それは「生産手段の社会化」と「計画経済」である(Ibid.)。すなわち、集産主義は、生産手段の私的所有とそれに伴う不労所得を廃止することに加えて、「市場の調整力を、統計に基づく計画に置き換えようとする」(Ibid)。
そこでソヴェト経済を見ると、まず生産手段の社会化については、ソ連では社会化された部門が圧倒的な比重を占め、私的所有に基づく不労所得は廃絶されている。確かに1930年代の前半には、農業を含む「社会化があまりにも破局的な帰結を招いた若干の分野」で私的所有や市場の部分的な復活を認める改革が行われた。しかし、コルホーズ農民がわずかな家畜や菜園を持っていることは、ソヴェト経済の社会主義的性格を否定する根拠とはならない(p. 208)。この点をより詳しく説明するために、彼は次のように論じる。
もしわれわれが西欧や米国での資本主義の支配について語るとしても、それは、資本主義がそこで経済の全ての要素を掌握していることを意味するわけではけっしてない。多くの西欧諸国では、農業はいまだ農民経営の手中にあり、手工業は消滅しておらず、協同組合はますます新しい地位を獲得しつつある。これらの経済組織は全て、資本主義が立脚する原理とは異なる原理によって構成されている。さらに、どこでも、またいつでも、国家は「夜警」の役割に甘んじたことはなく、多かれ少なかれ国民経済の発展過程に影響を及ぼしてきた。(Ibid.)
西欧諸国の国民経済を資本主義と呼ぶのは、そこに存在する多様な非資本主義的制度を無視するためではなく、「この呼称によって国民経済における資本主義の決定的な意義を指し示すため」である(Ibid.)7)。ソヴェト経済では、私的所有や市場の諸要素の存続にもかかわらず、社会化された部門が支配的である点で、生産手段の社会化という第一の指標は満たされている。
もう一つの指標である計画経済については、ソ連では計画がごく部分的にしか実現されていないことは、注意深い観察者にとっては周知の事実である。しかし、ブルツクスは計画経済を、計画通りに運営される経済ではなく、資源の移動において市場取引や企業の利潤動機に代わって計画が支配的な役割を演じる経済として理解している。ソヴェト経済では「企業の基本的任務は課せられた生産計画の遂行であり、この基本的目的が利潤の獲得という任務を全く後景に追いやっている」。また投資財の配分においても、「ソヴェト権力は一定の事前に基礎づけられた国民経済の計画から出発し、企業の収益性はこの配分に少しも関与しない」(p. 210)。それどころか、設備投資が集中している巨大企業の大半は「恒常的に巨額の損失を生んで」おり、それらの損失は、「大衆消費向けの工業生産物に対する信じがたいほど高い率の課税(取引税)と、農業生産物のほとんど無償での取得」によって支えられた国家予算から補填される8)。したがってソヴェト経済は上の意味での計画経済である(p. 210)。
かくして、ソヴェト経済は確かに社会主義経済の二条件を満たしており、この意味で、ソ連ではすでに社会主義が実現している。以上の議論は、結論だけを取り出すならば、当時のソ連の公式宣伝と一致する。しかしもちろん、彼の意図は、公式宣伝とは全く反対に、社会主義の実現のうちにソ連のあらゆる困難の源泉を求めることにある。  
2.政治化された経済
五カ年計画は、「対外戦争、社会革命、国内戦争による荒廃から回復するいとまもなかった貧しい国」における巨大な規模での工業化という点で世界の注目を集めた(1935c、p. 194)。ブルツクスによれば、この発展は、経済のとらえ方しだいで全く異なった意味をもつ。すなわち、もし経済が何か全く客体的な、マルクス主義者が言う「生産力」、すなわち、工場、鉱山、発電所、等々の総和であるならば、われわれは五カ年計画の結果をきわめて高く評価するであろう。戦前と比較すると、採掘される石炭、採掘される石油、銑鉄の精錬、貨物輸送は四倍に増えた9)。これが成功でなくて何であろうか? しかし、経済は何か客体的なものでも自己目的でもなく、人民大衆の欲求を充足する手段にすぎないと考える者にとっては、上記の事実は魅力的ではない。誰もが知っているように、第一次五カ年計画は、労働者と農民大衆の生活水準の著しい低下を伴い、無数の人々の生命を奪った1932年と1933年の破局的な飢餓によって終わった。さらに、二つの五カ年計画には、強制労働のカインの印が刻まれている。(1995c、p. 217)
諸々の生産設備は、人々の欲求充足と無関係にそれ自体で価値をもつわけではない。にもかかわらず、五カ年計画期のソヴェト経済では「工業化に絶対的な価値が認められ」、巨大な建設が「それ自体が目的とみなされているかのよう」に取り扱われた(1935c、pp. 214、216)。
五カ年計画のもとで行われた設備投資は、収益性の原理によって支配されておらず、欲求充足との結びつきに関する保証を欠いている。そのため「沸き立つような経済活動があり、巨大な工場が休みなく操業し、戦前のロシアには見られなかった膨大な貨物輸送がありながら、住民大衆の生活は貧しく灰色のままである、という奇妙な光景が生じる」(1995c、p. 217)。
過大な設備投資とその重工業への集中は、投資の対象が需要の裏付けを持たないことに加えて、現在の消費の著しい抑制を伴う点でも正当化できないとブルツクスは主張する。もちろん、将来のために現在において一定の節欲を行うという課題は、どのような経済にも存在する。
しかし、ソヴェト経済における資源配分は「将来の一面的な強調」を、より端的には「人民の現在の必要を完全に無視する」ことを特徴としている(1935c、p. 227)。
住民の欲求の充足という側面から、ブルツクスは次のように二大経済システムを対比する。
資本主義経済では、企業の直接の目的は最大限の利潤の獲得であるが、市場とその競争の諸条件のもとでは「企業にとって、住民の欲求を最も完全に、最も安価な方法で充足する以外に、最大限の利潤を獲得する方法はない」。この点で企業は「消費者に従属しており、その欲望に、さらにはその気まぐれさえにも、巧みに奉仕する」。これに対して、社会主義経済では「人民の生産力が大衆の物質的必要と無関係な目的に利用される危険性が高い」(1995c、p. 212)。そこでは「経済が全体として国家権力の内にある」ため、「権力を持つグループは経済の諸力を自らの勢力の強化に使おうとする強い誘惑に駆られる」。また実際に、共産党の指導者は常に自らの利益を「世界のプロレタリアート、世界革命、等々の大きな理想」と同一視してきた(p. 218)。
これらの点からすれば、資本主義を「利潤の獲得のみを目的とする経済」、社会主義を「住民の欲求の充足を任務とする経済」として対置することは「根本的に誤っている」(p. 212)。ブルツクスの考えでは、社会主義経済は、けっして住民の欲求の充足を任務とする経済ではなく、支配党の政治的目的によって経済資源の利用と配分が決定される「隅々まで政治化された」経済にほかならない(p. 218)。人民の必要の充足が第一の目的とされていないという資本主義批判から出発したはずの社会主義が、「住民の必要の充足を徹底的に軽視する」という逆説的な事態は、この経済の政治化に起因する(1935、p. 234)10)。以上の議論において、ブルツクスが指導者(集団)の能力を問題にしていない点は注意が必要である。経済政策で誤りをおかさないような政府はない。社会主義における経済の政治化がとりわけ危険であるのは、そこでは国家が「誤りが破局へと発展しうる」ほどの広大な権力を持っていながら、なおかつ、どんな誤りをおかしてもそれによって「政府の立場が危うくなることがない」からである(p. 232)。  
3.社会主義と民主主義
ソ連で人民大衆の欲求の充足が顧慮されていないのが事実だとしても、それは社会主義のためではなく、共産党の独裁と民主主義の欠如のためではないか? ブルツクスからすれば、これは社会革命の何たるかを理解しないナイーブな議論である。思想上の根本的な相違にもかかわらず、彼は、社会革命の遂行は過酷な国内戦争ぬきには不可能であり、この戦争を民主主義の方法によって勝利することはできない、というレーニンの諸命題を完全に受け入れる11)。この命題に従うならば、権力の奪取から強制的な集団化に至る社会革命とそれに伴う国内戦争の過程では、国全体の民主主義だけでなく「党内民主主義もまた不可能」となる。それゆえ、共産党が社会革命の遂行機関であり続ける限り、党内民主主義が党幹部の寡頭制に代わり、党幹部の寡頭制が個人独裁に代わることは、「革命的社会主義の内的必然」である(p. 220)。
マルクス主義は市場に対して否定的な態度をとったが、ブルツクスにとって、私的所有を伴う自由な市場は、「複雑な分業に立脚する国民経済」の不可欠の調整手段であるだけでなく、「社会における個人の自由の最も重要な保障の一つ」でもある(p. 212)。私的所有と自由な市場を破壊すれば、独立した社会運動の「物質的前提条件」が失われる。このため、社会主義の建設過程に限らず、一般的に、「社会主義的専制の盾のもとでは、社会運動は発展しえない」(p. 220)。実際に、ソヴェト体制の統治は「その残虐さや原始的な野蛮さにおいてツァーの専制の統治方法とは比較にならない」ものであったにもかかわらず、地下闘争に熟達したロシアの知識人をもってしても、この圧政に対する抵抗は「ごく早い時期に止み、もはや再開されることはなかった」(Ibid.)。
社会主義における国家の機能の無制約性はまた、国家の役割に関するマルクス主義者の過大な期待とも無関係ではない。この点について、ブルツクスは次のように論じる。
私有財産制に立脚し、市民を幸福にすることを約束するのではなく人々が自らの手で自分を幸福にできるための諸条件の確立のみを任務とする、いわゆるブルジョア国家のみが法治国家であり得るのであり、そのような国家の枠内でのみ、人間と市民の権利の宣言が可能であった。しかし、もし国家に市民を幸福にする義務が課せられるならば、そのような国家の権力機関には道を譲らなければならないし、あらゆる権力を与えなければならない(Ibid.)。
プロレタリアートに至福をもたらす任務をもつ社会主義国家では、些事は法律や規則に委ねられても、最も重要なことは常に、「革命的良心」の名のもとに、「権力の裁量」によって決定される(Ibid.)。それゆえ、レーニンが「プロレタリアートの独裁」を、どんな法律にも、自らが作った法律にすらも拘束されない支配として特徴づけたことは、「全く筋が通っている」。
搾取なき世界の実現のためには生産手段の社会化が必要であるというマルクス主義の中心的命題をひとたび認めるならば、数十万もの農民家族を辺境に追放して強制労働を行わせるという「最も恐るべき蛮行」ですらも、正当化の理由を見つけ出すことは難しくない(p. 221)12)。
ブルツクスは、ウェッブ夫妻がそのソ連に関する大著の副題に掲げた「新しい文明か?」という問いかけに言及して、ソヴェト社会主義が世界史における一つの「新しい文明」であることを認める。ただし、それは個人の自由や法の支配というヨーロッパ文明の達成を根本的に否認する文明であり、「これらのヨーロッパ文明の諸原理に至上の価値を認める者は、この新しい文明をけっして受け入れることができない」(Ibid.)。ソヴェト社会主義の受容を断固として拒否するこの立場は、ソヴェト・ロシアを論じた彼のあらゆる著作に貫かれている。  
U.ソヴェト経済の発展過程  

 

1.ネップへの歩み
五カ年計画を「突然現れたものではなく、11年間の発展の結果である」とみるブルツクスの観点に立てば(Brutzkus、1935c、p. 99)、五カ年計画を経て確立した経済体制の特質をとらえるためには、ソヴェト経済の発展の諸段階を理解することが不可欠である。ブルツクスは、五カ年計画の作成に先立つ、国家資本主義、戦時共産主義、新経済政策(ネップ)という3つの主要な段階を、それぞれ次のように特徴づける。
(a)国家資本主義は、ソヴェト権力と武装した労働者集団の下で銀行と大工業を管理するという革命直前のレーニンの構想に基づく政策である。それは、金融資産や法の無効を宣告する布告や財産収奪の扇動により「私的所有権の原理と法治国家の全基盤を否定」する一方で、国有化された銀行と大工業を引き続き高度な経済機関として革命政府の目的のために利用することをめざすものであった(1995b、p. 184)。しかし、私的所有と法の支配はまさに「ブルジョア社会の本質をなすもの」であり、「これらの諸原理が否認された瞬間に、ブルジョア社会は存在しなくなる」(1935c、p. 101)。このため、ソヴェト政府は、銀行と大工業を物質的に占拠したものの、その経済的機能を掌握することはできず、結局この政策は半年足らずで放棄された。
(b)1918年の半ばから3年間足らずの、後に戦時共産主義と呼ばれるソヴェト政府の経済政策は、戦争遂行に必要な程度をはるかに越えて市場と貨幣の廃止をめざす政策を推し進めた点で、「現物経済的社会主義の一貫したシステムを樹立する試み」である(1995b、p. 184)。
この試みは経済計算を不可能にし、生産財の移動を麻痺させることにより、大工業を完全な瓦解に導いた。またこの政策の一環である穀物の割当徴発は、すでに1917年冬から1918年春にかけての農業革命(地主経営および独立農民経営の解体とその土地の再分配)により余剰穀物の供給能力を著しく低下させていた農村に大きな荒廃をもたらした13)。
(c)1921年春のネップへの転換は、現物経済的社会主義の完成を目指すソヴェト政府の政策が内戦の終結後に「社会のあらゆる部分からの必死の抵抗」に直面したことから生じた(1935c、p. 105)。ネップの本質は、「市場、すなわち別々の企業間の水平的な結合の回復」である。共産党独裁とソヴェト権力による経済の「管制高地」(大工業・輸送・外国貿易・信用等)の支配は維持されたが、市場を通じた私的な経済活動に広範な自由が与えられたことにより、ロシア経済はまもなく1921-22年の飢饉の惨禍から立ち直り、その後の数年間に急速な復興を遂げた(p. 109)。この復興は、農民経営と私的商人・手工業者からなる私的部門の回復と発展によるものであるが、私企業には「法的な保障が全く欠けており」、共産党権力に対して無防備であるという弱点があった。一方、国営企業は、「あらゆる面での優遇」にもかかわらず、製品の販売や原料の調達をめぐる私企業との市場での競争に十分適応できなかった(pp. 111-112)。
ブルツクスの考えでは、「熟慮された経済計画の作成は、第一の前提条件として、貨幣単位での適切なバランスシートを必要とする」。それゆえ、国民経済規模での計画の作成は、ネップへの移行後の改革により「1924年に通貨が正常化してはじめて現実的な問題になった」(p.115)。ただし、ゴスプラン(国家計画委員会)が準備した計画―それは1925年にはじめて「統制数字」として公表された―は、当初、「国家組織の活動を調和させ、それらと私的経済、とりわけ急速に回復しつつある農民経営との関係を調整する」ための共通の予測ないし指針という性格を持っており、「計画価格を市場に押しつけることは全く想定されていなかった」(1995b、p. 190)。統制数字がこのように命令ではなく国営企業の活動の誘導を目的とするものであったことについて、ブルツクスは、ゴスプランや同機関と関係の深い景気研究所の非党員専門家のはたした役割を強調する。彼の見るところでは、これらの非党員専門家はネップ体制の存続と発展を前提として、「市場における供給と需要の均衡を維持し、私的部門と社会化部門の自由な結びつきを維持する」観点から計画を構想していた(1935c、p. 116)14)。しかし、非党員専門家は「支配党の圧力のもとにあり」、後者は私的部門主導の復興に満足せず、「国営工業部門の大規模な発展、とりわけ社会主義体制の最も重要な基礎としての新しい重工業の確立」を志向し(1995b、p. 190)、これに伴って統制数字はしだいに拘束的な性格を帯びるようになる。  
2.ネップの終焉
経済復興の本格的な進展からわずか数年でネップが崩壊したのはなぜか? ブルツクスによれば、その過程は以下のようなものであった。
ソヴェト政府は、国営工業部門の飛躍的な拡大の源泉を、農民が「工場労働者の食糧、工場の原材料の供給、輸出のために大量の農産物をきわめて低い価格で引き渡す」ことに求めた(p. 190)。ところが、国営商業機関は、ネップ下での「自由商業のめざましい発展」のもとで、私的商人との競争に直面し、その結果、計画よりも高い価格で計画よりも少ない量の穀物しか購入することができなかった。「私的商業が存在する限り、『計画に基づく』価格の強要は不可能である」ことを悟ったソヴェト政府は、「私的商業を経済のあらゆる分野から放逐」し、「大工業と競争する小規模工業企業の大半を、あれこれの口実で閉鎖」した。これにより1927年にかけて国家の穀物購入価格は低下したが、同時に「市場は農民にとってその魅力の大半を失った」(1935c、p. 119)。農民の販売量を増やすためには「穀物その他の農産物価格」の引き上げが不可欠であったが、1927年末から1928年はじめにソヴェト政府が選んだのは、「『戦時共産主義』の時代に行われた農産物の強制的な徴発に立ち戻る」道であった(1995b、p. 191)。私的小工業の排除に続く、自由市場の閉鎖と低い固定価格での穀物と原料作物の徴発により、「ネップ・システムの最後の支柱が崩れ去った」(1935c、p. 122)。
穀物徴発への復帰についてブルツクスは、「生起した出来事の意味は、いまだソヴェト政府にとっても明瞭ではなかった」と指摘する。自由市場の閉鎖は「はじめ一時的なものと考えられており」、実際に1928年には「市場的関係を回復する試み」がなされた。しかし、低い固定価格で予定した数量の穀物を買い付けようとすれば、結局強制に訴えるほかない。それゆえ、ソヴェト政府が公定価格の引き上げによって「自らの要求を抑制し、計画をもっと住民の当面の必要に適応させる」のではなく、大規模な工業化を目指す計画に経済を従わせようとする限り、強制徴発が恒常化することは避けられない(1995b、p. 191)。結局のところ、ネップの崩壊の主要な原因は、市場的諸条件のもとでの経済の自然な発展が、経済を社会主義的理想に近づけるのではなく遠ざけたこと、また、あらゆる法の上に立つ全能の共産主義権力が、経済関係の発展のこの自然発生的な傾向を受け入れることを望まなかったということにある。(p. 188)
農業政策をめぐる共産党内部での論争は、右派の失脚とスターリン独裁の確立で決着し、その過程で多数の非党員専門家が、穀物の強制徴発は農業生産力の重大な減退をもたらすと「警告を発した」かどで、ゴスプランをはじめとする政府機関から放逐された(1935c、p. 120)。
同じ時期に作成作業が行われた第一次五カ年計画は、当初は統制数字と同様に現実の経済発展の趨勢を綿密に考慮したものであったが、共産党の圧力により「投資計画を極度に拡大し、しかもそれをきわめて一面的に、巨大な重工業の創設に振り向ける」方向での修正が重ねられた。
ブルツクスは、1929年5月末に最終的に承認された計画を、「入念に作成された最初の計画の上に建て増された、粗略に作成された楽観的な計画」と評している(1995b、p. 193)。  
3.農業集団化
政治的圧力による歪曲を伴いながらも、第一次五カ年計画はなおネップの堅持を前提しており、農民経営については15%程度の自発的な集団化が想定されていたにすぎない。このことから、ブルツクスは、1930年初頭から大々的に展開された全面的集団化(彼はそれを1917-18年の農業革命に続く「第二次農業革命」と呼ぶ)を、「五カ年計画では全く予見されていなかった巨大な激変」ととらえる(1935c、p. 154)。しかしながら彼はまた、そのような課題を提起できるのは、「自らの理想の実現のために大量テロルのどんな方法も辞さない全能の社会主義政府のみ」であるとも主張する(1995b、p. 194)。土地や家畜をもつ農民は「自分の経営を進んで手放そうとはしなかった」から、集団化は彼らに対する「強制によってのみ」可能であり、実際に、集団化と並行して実施された「富農撲滅」の過程では、「富裕な農民および集団化に反対する全ての者」がその家屋から追い立てられ、全財産を奪われたうえに辺境の収容所に追放されて強制労働に従事した(1935c、p. 155)。農民は「家畜の大量屠殺」や「放火、共産党員の殺害」、さらには「最後の一頭に至るまでの雌牛の社会化」に憤激した農婦の暴動を含む「公然たる反乱」によって集団化に抵抗した。これらの抵抗は「常にたやすく鎮圧されたわけではなかった」とはいえ、1931年までに主要な穀物生産地域での集団化は完了した(p. 156)15)。
ソヴェト政府は当初目指していた完全な社会化を断念し、農民がコルホーズでの耕作とは別に「菜園、葡萄畑、家禽、各種の小型家畜および雌牛」を限られた規模で私的に保有することを認めた。ブルツクスの考えでは、コルホーズが協同組合の形式をとり、農民に私的経営の要素が残されたのは、国家が農民を扶養する義務を免れ、「経済的責任を〔コルホーズの〕構成員に転嫁する」ためである。コルホーズはこの自己責任という点では本来の協同組合に似ていたが、他の点ではそれは「賦課を期日通りに調達する」義務を負った国家機関であり、その生産活動に関する決定権は「構成員ではなく政府の手中に」あった(pp. 158-159)。
集団化は、大規模な機械化と結びついて農業の生産性の飛躍的な上昇をもたらすと期待されていた。しかし、ブルツクスによれば、この期待は、「農業と工業を同一視」し、「農業に適用される機械化は、土壌の合理的で注意深い耕作を保証する耕作システムにおいてのみ有益である」ことを無視する点で、はじめから「根拠のない」ものであった。集団化が農民を「茫然自失の状態」に陥れ、その労働意欲を決定的に低下させたことを別にしても、トラクターによる耕作の導入は「ソヴェト政府が考えていたよりもはるかに困難」であり、「機械を迅速に修理し、必要な交換用部品を供給する」体制も欠けていた(p. 175)。ソヴェト政府が規模と機械の利益を実証すべく設立した巨大な穀物農場も、生産性の点では「収穫は国内の平均よりもかなり低い」というありさまだった(p. 176)。畜産の分野では、農民による屠殺に加えて、コルホーズでの家畜の粗雑な管理や重い賦課による飼料不足のために、各種の家畜が半減するという「破局的な衰退」が生じ、これはトラクターの増産では到底補えない「牽引力の破壊的な減少」や、動物性肥料の深刻な不足を通じて、農業生産に重大な否定的影響を及ぼした(p. 212)。畜産の復興は長い時間を要する過程であることから、「強制的集団化はロシア農業の長期にわたる病という結果をもたらした」とブルツクスは診断する(pp. 213)。
穀物の調達と輸出の増大という点での集団化の成果も最初の2年間だけにとどまり、旱魃による凶作を無視して大規模な徴発が強行された1932年冬に、「ステップ地域とウクライナ全域は、1921-22年以来ソヴェト・ロシアが経験したことのない飢饉に落ち込んだ」(p. 177)16)。
飢餓の農村では、農民はコルホーズの作物を収穫前に窃取し、あるいは逃散して都市の鉄道駅周辺を埋め尽くした。これらの事態に対応してソヴェト政府が1932年後半から1933年はじめにかけてとった、コルホーズ財産の窃盗に対する死刑の導入、監督・治安機関としての「政治部」の機械トラクター・ステーションへの設置、農民の移動を制限する旅券制度の導入などの措置を、ブルツクスは、「農民を都市から隔離」し、「農民を飢えるに任せる」ことを目的とする「農業に対するある種の包囲の制度」ととらえている(p. 183)。  
4.五カ年計画の遂行
第一次五カ年計画は、西欧諸国の最新技術の導入による生産性の飛躍的上昇を予定していたが、ブルツクスはこの「技術への絶対的な依存」は農業のみならず、工業でも誤りであったと指摘する。実際に、「新しく複雑な機械の適切な操業は、その据え付けよりもはるかに困難」であり、「複雑な機械が驚くほどすぐに摩損し故障した」ために、新たに設立された重工業部門では、「最新の設備を備えた工場がしばしば以前よりも劣悪な商品を生産し、その一方でほとんど常に生産費用は高くつく」という状況が広く見られた(p. 159)。
ソヴェト政府は1933年初頭に五カ年計画の達成を宣言した。しかし、ブルツクスは、計画生産総額の97%が遂行されたというゴスプランの報告を「何の信頼性も認められない」ものとみなし、物量面からみた達成状況について次のように言う。建設業では、「新たな建物のかなりの部分は五カ年計画の終了時点では未完成だった」(p. 199)。集中的な投資が行われた重工業では、「大半の部門で生産は倍増し、多くの部門ではそれ以上に増加した」が、「計画が多少とも達成されたのは燃料業においてのみ」であり、しかも、想定をこえる需要増大により石炭や鉄鋼についてきわめて深刻な不足が生じた(p. 200)。軽工業の生産は総じて停滞し、国営工場の生産増大は多くの場合、「行政的手段による家内工業の破壊」を伴っていた(p. 204)。
労働者の生活について言えば、五カ年計画の楽観的想定に反して、「巨額の資本支出」が「一般的な生活水準の同時的な改善とは両立不可能である」ことは明らかであった(p. 136)。
ブルツクスの観察では、名目賃金の上昇にもかかわらず、実質賃金の低下、消費財の慢性的不足(「商品飢饉」)に伴う「割当、食糧配給、行列」、労働者数の急増につれて「悲惨の度を増す住宅条件」などの要因により、計画の遂行過程で労働者の状態は急速に悪化した(pp. 143、219、221)。
これらの全ての留保にもかかわらず、ブルツクスは、五カ年計画が完全には達成されなかったことは「五カ年計画の結果を評価するうえで決定的な意義をもつものではなく」、計画の主要目的である「大規模な重工業の発展」については、「この目的が達成されたことは認められなければならない」と主張する(p. 198)。前節で見たように、彼が問題としているのは、計画がその通りに実行されないことではなく、計画に基づく重工業の急激な拡大によって、ただでさえ貧しい住民の現在の欲求が徹底して無視されることである。工業化をそれ自体として進歩とみなし、五カ年計画を転機としてソヴェト経済への態度を懐疑から称賛へと転換した人が少なくなかったことを考えるならば、この批判がもつ意味はけっして小さくない。
五カ年計画の遂行に伴う強制労働の広範な利用について、ブルツクスはそれを単なるテロルとみなすのは「きわめて一面的」であり、「社会主義の建設は、数十万人、あるいは数百万人の強制労働ぬきには不可能であった」と論じる。五カ年計画には強制労働の利用は明記されていなかったが、「遠く離れた無人のロシアの辺境地にある自然資源を利用する大がかりな計画」は、大規模な強制労働ぬきには考えられない事業であった(1995c、p. 217)、そのため「『富農撲滅』により追放された農民と種々の政治的危険分子」からなる「強制労働者の巨大な一団」が編成された。外国の注目を集めた五カ年計画の壮大な建設事業の中には、白海運河のように、極度に困難な自然条件と政治警察の監督のもとで、「最も原始的な道具だけ」を使って「全面的に囚人労働によって遂行された」ものも少なくない(1935c、pp. 181-182)。それゆえ、ドニエプル発電所やマグニトゴルスク製鉄工場の偉業を称える者は、チェキスト〔政治警察の機関員〕の監視の下で、あるいは北方の森林を伐採し、あるいは僻遠の鉱山に送られて鉱物を掘り出し、あるいは「泥とぬかるみの中で」運河を敷設した、数十万の何の罪もない人々のことを忘れてはならない。(1995c、p. 217)
1930年代には、ソ連における強制労働の広範な利用に注目する人はごく少数であった。この問題への関心は第二次大戦後に急速に高まるが、集団化に伴う「非富農化」と強制労働の深い結びつきが広く認識されるようになるのは、比較的最近のことと言ってよい17)。  
5.知識人の弾圧
計画が多くの点で失望を生みつつあった1929年末から1931年にかけて、ソヴェト政府はすでにそれ以前に経済機関を追われていた非党員専門家に対して一連の大規模な弾圧を行った。ブルツクスによれば、この弾圧には二つの側面がある。すなわち、一面ではそれは、現在の困難の責任を非党員専門家に転嫁し、彼らを「人民を宥めるための生け贄」として利用しようとする政治的策謀である。しかし他面では、ソヴェト政府による告発は、個々の事実の捏造にもかかわらず、非党員知識人にとって「この時期の政府の経済政策は是認できないものであった」という一点では真理を含んでいた(1935c、 p. 233)。ブルツクスは、ソヴェト政府が市場の破壊や集団化に突き進むことを抑止しようとしたこれらの非党員知識人の努力をきわめて貴重なものと考え、「[N. D.]コンドラチェフ、[A. L.]ヴェインシュタイン、[A. V.]チャヤーノフ、[N. P.]マカロフ、[N. P.]オガノフスキー、[V. G.]グローマン、[V. A.]バザロフ、[A. M.]ギンツブルグら全ての傑出した経済学者たちがこの迫害の犠牲となった」ことを深く惜しんだ(p. 234)18)。
彼らの追放に伴って経済機関の多くの専門誌の刊行が停止し、残った文献が政府の政治的宣伝物に退化したことは、ソヴェト経済の研究者に対して、「基本的資料の不足と信頼性の欠如」という大きな困難を作り出した。このため、五カ年計画期以降のソヴェト経済の研究は、種々の集会での党指導者の発言を注意深く読み、雑多な扇動的記事の山から「貴重なニュースや調査結果」を発見するという方法に頼らざるを得ない(p. 133)。1936年夏に書いた論文の末尾でブルツクスがソヴェト権力に対する「ささやかな希望」としてあげたのは、「国民経済の状況に関する最新の資料の公表を再開すること、五カ年計画の期間のはじめの時期からソヴェト権力を包んでいる秘密のベールを取り除くこと、たとえ最小限のものであっても、経済問題を考察する専門的な出版の自由を保障すること」であった(1937a、p. 77)19)。  
V.ソヴェト経済の構造  

 

1.不足とその帰結
五カ年計画を経て確立したソヴェト経済の構造的な諸特質に関するブルツクスの考察のうちでもとりわけ興味深いのは、当時広く「商品飢饉」と呼ばれた財の慢性的な不足現象とその帰結に関する分析である。その内容は以下のように整理することができる。
計画経済では、個々の産業や企業の設備投資は、その内部で蓄積される利潤ではなく、政府の計画機関の決定に依存し、「ひとたび計画が政府に承認されれば、その遂行に必要な貨幣はいつでも国立銀行から獲得できる」(1935c、p. 163)20)。しかも、この信用は「実際上返済する必要がない」ものであるから、管理者の間では、「生産手段や労働の節約ぬきに計画を遂行することが慣習化」し、「経済計算の消滅」が進行する(1995b、p. 199; 1935c、p. 163)。国営企業の管理者が最も優先するのは「計画の量的な達成」であり、そのために彼らは「できるだけ多量の生産手段を購入してそれを倉庫に蓄えようと」する。というのも、ソヴェト経済では「貨幣はいつでも手に入るが、生産手段は不足しており、いつでも手に入るとは限らない」からである。どの企業もこのように溜め込み行動をとる限り、「生産手段はたちまち買い尽くされて最初の買手の倉庫に移り、後続の買い手には利用できなくなる」。その結果、「いくつかの工場がある財について膨大な在庫を保有する傍らで、他の工場はそれらを全く手に入れることができない」という事態が生じる(1935c、p. 164)。このようにして、量的拡大の一面的追求と費用の節約への無関心を土台に、生産財の慢性的な不足と溜め込み行動の円環的な関係が形成される。これは、「生産手段の大部分が生産者の倉庫にあり」、買い手は支払手段さえあれば他の買い手と競争せずともそれらを速やかに購入できるという資本主義経済の通常の状況と全く対照的である(1995b、197)。以上は生産財の不足についてであったが、消費財についても、固定価格制や農産物の強制徴発による消費財価格の抑制に加えて、輸入に際しての投資財の優先や、国家機関を通じた財の配分(流通)の著しい不効率性などの要因によって、「必要な商品を現金で買うことができない」という現象が広がる(1995b、p. 191)。
財市場全般にわたる不足は、第一次五カ年計画の時期だけにとどまらず、「今日でもなお見られる、計画経済に独特の現象」である(Ibid.)。それは、「割当、食糧配給証、行列を伴う生活」を強いることによって消費者の厚生を損なう(1935c、p. 222)。さらに、慢性的な不足のもとでは希望する商品を購入できる確率が著しく小さくなるため、「住民の貨幣に対する主観的評価」が、「最も不適当な商品に対する主観的評価よりもなお低くなる」。その結果、「商品の組み合わせがどんなものでも、またその質がどんなに悪くても、それらは販売される」という状況が生じる。売手は「強制的抱き合わせ」の方法を用いることによって、買手に対してどんな商品でも購入を押しつけることができる(1995b、p. 197)。したがって買手には実質的な選択の自由はなく、人々は「提供されたものをその品質を考慮することなく進んで受け取るし、またそうせざるをえない」(1935c、p. 206)。いったんこのような状況が生じると、財の品質は企業の管理者によって優先度の低い問題となり、粗悪で種類の乏しい商品の大量生産が恒常化する。
ソヴェト政府はこの状態に満足しているわけではなく、反対に「ロシアでは財の品質問題ほど広く議論されていることはない」。新聞には品質改善への叫びがあふれており、1933年末には、粗悪な財を生産する工場の管理者に刑事罰を課すという法律が公布されたほどであるが、何ら改善は見られなかった。このことは、生産物の品質の粗悪性が、「社会主義計画経済にとって本質的であることを証明する」(p. 207)。品質の低さは、ロシアの企業管理者の能力の問題ではない。なぜなら、輸出向けの生産の場合には、「ソヴェト工業といえども、どのように売れる商品を作るべきかを知っている」からである(Ibid.)。
以上のブルツクスの理論は、十分に体系化されたものではなく、論理構成の個々の環には明確でない点も存在する。しかしそれは、不足を計画経済に特徴的な現象とみなし、品質の低下をその避けがたい帰結ととらえる点で、約40年後にJ. コルナイが精緻に展開した「不足の経済分析」に通じる先駆的な貢献をなすものである21)。  
2.貨幣と価格
戦時共産主義期と異なり、五カ年計画を経て確立したソヴェト社会主義経済は、貨幣と価格の存在を前提としており、それらの廃絶を現時点での課題とみなす理論は、一時再燃したものの、最終的には異端を宣告された。ブルツクスの考えでは、貨幣と価格の存在は、ソヴェト経済を「現物経済的社会主義の諸条件のもとでは避けることができない最終的な退化から救った」。それゆえ、「この経済における貨幣と価格の意義を完全に否定することはできない」(1995b、p. 203)。とはいえ、ソヴェト政府が定める価格は計画達成の手段であって需要や費用を反映する指標ではない。またソヴェト経済には「単一の価格システムは存在せず」、価格の水準と機能は、生産者と消費者の間、配給と自由市場の間で全く異なっている(Ibid.)。さらに、財の不足と配給制度のもとでは、貨幣は一般的交換手段としての機能のかなりの部分を失う。それゆえ、資本主義経済での貨幣と価格の機能を前提とした分析方法を社会主義経済に直接適用することは誤っている。特に、価格に基づいて集計された数量を取り扱う場合には、「正常な通貨がなく、正常な市場取引のない経済では、価格の操作によってあらゆることが証明可能となる」ことに留意する必要がある(1935c、p. 199)
この点に関する具体例としてブルツクスは、外国貿易の問題をあげる。ソヴェト経済の外国貿易は、まず輸入されるべき財の種類とその量が特定され、「これらの財の外貨建ての価格がカバーされるように」輸出の計画が立てられるという形で行われる。そのため、「輸出財の国内価格はそれらと交換に獲得される外貨を評価するうえでどんな意味ももたない」し、「国内市場の状況に照らして当該の財を輸出することが適当かどうかという問題が考慮されることはない」。したがって「生産費用を販売額と比較できるような経済制度」を前提するダンピングの概念は、ソ連の輸出には適用できない(pp. 151-152)。以上の考察は、後の時期に行われたソヴェト経済に関する諸論争を考えるうえでも示唆的である。
貨幣と価格の機能についてブルツクスはさらに、五カ年計画の終わりの時期に「取引税の急速な引き上げ」や自由市場の部分的な復活に伴って生じた急激な物価上昇が、国営企業と消費者に全く異なった影響を及ぼしたことを指摘する(1995b、 p. 203)。というのも、ソヴェト政府は「賃金水準を低く抑え、農産物原料を低価格で工業に引き渡し、生産手段の価格をその生産費よりも著しく低く定める」ことや、「重工業への国家補助金」の供与によって、国営企業を「ある程度インフレーションの影響から隔離する」ことができたからである。このような価格操作は「大工業の最終的な解体を未然に防ぐ」ことを可能にするが、それによって、物価上昇の最終的な負担はもっぱら消費者に転嫁されることになる(p. 204)。  
3.賃金と労働
社会主義は「労働に対する平等な報酬を求めるものではない」と考えるブルツクスにとって、貨幣賃金の格差や出来高賃金の存在は、ソヴェト経済の社会主義的性質と何ら矛盾するものではない(1995c、p. 208)。ただし、「貨幣賃金の格差が実質的な意義をもつ」のは、五カ年計画末期からの改革により、(現物配給に代わって)配給外で販売される消費財が労働者の消費の主要部分を占めるようになってからのことである。この時期には「貨幣賃金引き上げの獲得に対する労働者の利害関心」が急速に高まり、個々の企業は労働者の側からの強い賃金上昇圧力に直面した(p.209)。ソヴェト政府は個々の企業による勝手な賃金引き上げを厳禁し、実質賃金を引き続き低い水準に抑えたが、名目賃金の上昇を阻止することはできなかった。
そもそも、社会主義国家では「労働組合は国家機関であり、その活動は政府に従属する」から、個々の企業と労働組合の間には対等の交渉は成立しない(1995b、p. 189)。にもかかわらず、企業がこのように労働者の賃金要求を考慮せざるをえないのはなぜか。ブルツクスはその基本的な理由を、労働力の不足と労働者の大規模かつ恒常的な移動に求める。財の不足の場合と同様の諸要因が企業の管理者を労働者の溜め込みに駆り立てることに加えて、工業化の歴史の浅いロシアでは、技能や経験をもつ労働者は「至るところで歓迎された」(1935c、p. 181)。
さらに、ロシアの労働者の多くはなお「農村との結びつき」を維持しており、帰郷を別の地域での新たな職探しの準備期間として利用することができたから、ソヴェト政府が離職を抑制するためにとった失業保険の停止などの措置は、十分な効果を発揮しなかった(p. 222)。
このような労働者の頻繁な移動は、国家が定めた生産計画の実行に大きな障害をもたらす。
欠勤に対する配給証剥奪などの厳罰の導入や、(労働力の確保のためではなく、飢餓に沈む農村から押し寄せた「未熟練労働者の巨大な集団」を追い返すための)農村の都市からの隔離などの諸政策は、「計画経済を自由な労働のみに基づかせることは不可能である」ことを示すものである(pp. 182、225)。特に、前節でもみたように、自然条件が厳しい辺境での建設事業は、集団化に伴って追放された農民の強制労働に全面的に依存していた。
資本主義諸国での世界恐慌後の大量失業を背景に、ソ連における失業の一掃は、当時広く社会主義の優位性の証拠であるとみなされた。これに対してブルツクスは、そのような見方では双方の「経済システムの構造が大きく異なる」こと、特に社会主義国家が(労働力の移動や貨幣賃金率の上昇を完全に阻止することはできないとはいえ)「生活水準の改善を見合わせるだけでなく、それを引き下げる」のに十分な権力を持っていることが無視されていると指摘する(p. 136、222)。彼の観点からすれば、ソ連における失業の克服は、労働者の恒常的な不足と移動に加えて、実質賃金の低下と強制労働を伴っているがゆえに、称賛に値しない。  
4.経済改革
五カ年計画と強制的集団化に伴う全般的な混乱と危機に直面したソヴェト政府は、企業管理者に経済計算制(ホズラスチョート)の強化を求めた1931年6月のスターリンの演説を契機として、市場や私的経済の部分的再建を試みた。1931年の後半から1934年にかけての改革では、企業への信用供与に制約が課され、配給外店舗の開設が広がり、コルホーズ農民に賦課納入後に余剰生産物を自由市場で販売する権利が認められ、私的な手工業者の活動が復活し、国営工業による日常的な消費財の生産が拡大した。
ブルツクスはこれらの経済改革を、客観的な効果という点から次のように評価する。まず成果の面では、これらの「社会主義の枠内で一定の資本主義的諸制度を維持しようとする」試みは、「ソヴェト経済を最終的な崩壊から救った」。改革により、「信用は以前ほど気前よく供与されなくなり」、工業管理者は「貨幣をある程度考慮する」ようになり、資財の溜め込みは緩和され、生産物の流通組織はいくらか改善された(1935c、pp. 169-170)。さらに、数年に渡る過酷な弾圧の後にようやくコルホーズ農民に対して与えられた譲歩は、「どんなにはかないものであったにせよ、影響を及ぼさずにはおかなかった」。それはコルホーズ農民の心理に「一定の転換」をもたらし、ネップ崩壊後の農業生産の深刻な衰退に歯止めをかける効果をもった(1937a、p. 72)。
次に限界の面では、上述の諸成果にもかかわらず、全体として「成功はごく小さなものであった」(1995b、p. 202)。市場の部分的導入により経済の秩序を回復するという改革のねらいが十分に実現しなかったのは、経済的合理性への要求が「何があろうと五カ年計画を遂行せよという、赤い独裁者のもう一つの執拗な要求」と両立し得ないからである(Ibid)。「計画経済は再三再四、社会主義企業に対して利潤獲得と両立しない課題を押しつけた」ために、「新たな傾向は、システムに十分深く浸透するには至らなかった」(1935c、p. 171)。さらに、この時期の自由市場の機能は、「私的商業は許されなかっただけでなく、最も厳しく抑圧された」点で、ネップ期に比べてはるかに限定的であった(p. 185)。
当初の予定を一年遅らせて1934年から開始された第二次五カ年計画の下でも、上述の方向での改革はなおしばらく継続された。ブルツクスは、1935年から1936年にかけて実施された食料品・日用品の配給制の廃止、国営企業に対する補助金の追加的支給の停止、取引税の軽減、固定価格と自由市場価格の乖離の縮小などの政策を、「疲弊し苦しんできた人民大衆との和解」や「人民大衆の当面の需要に関する配慮」への志向を示すものとして歓迎している。ただし、彼の見るところでは、それらは貨幣と価格の機能を強化し、経済計算の条件を拡大したとはいえ、大衆の生活水準を実際に引き上げるには至っていない(1937a、p. 73)。 
5.長期的展望
改革の長期的な展望について、ブルツクスはこう論じる。もしソヴェト政府が「強制的集団化とそのあらゆる災厄」を忘れず、人民大衆との和解の道を本当に進もうとするのであれば、それは工業の「これほど大きな規模での拡張」が「住民の必要のごく控えめな充足」とさえ両立しえないことを認めなければならない(p. 76)。その場合、何よりもまず、「共産主義の高慢の産物である巨大な建設計画を放棄」し、「少なからぬ巨大企業を精算」することが必要である(1995c、pp. 217-218)。また、配給や割当から「商業に真剣に移行しようと望むならば、商品の固定価格のシステムと手を切らなければならない」(1935c、p. 172)。
では、これらを実行することで、ソヴェト経済にはどのような可能性が開かれるのか。この問題について彼は次のように考える。
ソヴェト権力が社会主義的計画と市場取引との和合という原理を維持し続けようとするならば、ソヴェト経済の拡大のテンポは減速し、共産主義者は、経済的には極度に冒険的な多くの巨大な事業を誇示することをやめるであろう。その代わり、五カ年計画の期間にソヴェト権力が関心ある外国人の目から厳重に秘匿した、あの恐るべき破局に国が導かれることはなくなるだろう。(1937a、p. 77)
この一節は、ソヴェト経済が市場を部分的な構成要素としながら長期的に存続する可能性を認めている点で、きわめて興味深い22)。投資を減速し、市場的諸制度を拡大しても、それによって社会主義経済の根本的諸困難が解決されるわけではない。しかしそのような改革は、少なくともソヴェト経済を多くの人々の生活と生命の犠牲を要求する「恐るべき破局」から遠ざけ、このシステムが多少とも平穏に機能するための条件を作り出すことはできるというのが、1936年までの観察に基づくブルツクツの結論であった23)。
社会主義経済の諸困難の克服は、最終的には、資本主義の再建によってのみ可能である。しかし、五カ年計画で建設された巨大な工業は、革命以前の工業とは全く別の新しい要素であり、それに対しては「ロシア国家以外の何人も権利を主張できない」。また家畜の半数が失われ、耕作においてトラクターに依存し、家族経営の伝統が断ち切られた農業では、コルホーズを「農民経営の再生によって速やかに取り換える」ことは不可能であり、「農業集団化の帰結は長期にわたるとみなければならない」。したがって、ブルツクスの考えでは、経済的な面だけに限っても、ロシアにおける資本主義の再建は「一挙に行われるものでも、単純なものでもありえず、長期にわたる複雑な過程となるにちがいない」(1995c、p. 211)。政治的な面での困難はいっそう大きい。というのも、ソヴェト体制はすでに十分に強化されており、「内的な崩壊」「自然発生的な国内の爆発」「対外的な破局」などによって崩壊することはありえても、「組織的な社会運動によって打倒されると期待することはできない」からである(p. 220)。
資本主義の再建の可能性についてのブルツクスのこうした悲観的とも言える慎重な見方の背後には、十月蜂起から五カ年計画と集団化に至るおよそ20年間に生じたロシアの社会経済の変化を根底的かつ不可逆的なものととらえる彼の認識がある。彼がロシア革命の最も徹底した批判者の一人であったのは、革命がもたらした変化の深さと広がりを誰よりも深刻に受け止めたからにほかならない。  
W.社会主義とファシズム  

 

ファシズム、とりわけ反ユダヤ主義を掲げるナチズムの興隆は、晩年のブルツクスが最も懸念した問題の一つである。1936年には彼はすでに、ヒトラーを「ヨーロッパ文明にとっての最大の危険」とみなし、「ヨーロッパはヒトラーを嘲笑するのではなく、危険を悟らなければならない」と危機観をつのらせていた24)。1937年の草稿の中で、ブルツクスは、自らのソヴェト社会主義批判が「ファシズムの弁護論と解釈されることを望まない」とはっきり述べたうえで(1995c、p. 221)、ファシズムについて以下のような考察を行っている。
ファシズムは「無制限の(ドイツにおいては野獣的ですらある)民族主義」を中心思想としているが、それは同時に「単一の党によって代表される全体主義的国家というボリシェヴィズムの中心思想」を吸収しつつある。ファシズムは現時点では私的所有を承認しており、そのことが国家権力に一定の制約を課してはいる。しかし、ファシズムには、国によって程度は異なるとはいえ「社会主義に向かう傾向が内在して」おり、この方向に向かって進むほど、ファシズム国家の破壊力はいっそう大きくなる(p. 222)25)。共産主義とファシズムはともに「現代の文明を破滅させかねない脅威」であり、双方から逃れる道として筆者が期待できるのは、ただ強化された民主主義のみである。
そのためには、民主主義は、社会主義による誘惑を断ち切らなければならない。われわれには、ミーゼスが行っているように、いま「レッセフェール・レッセパッセ!」を説こうという気は少しもない。現代の民主主義は、社会主義的であってはならないが、社会的でなければならない。それは、人民大衆の利益の擁護者でなければならない。(p. 223)
上の議論において重要なのは、ブルツクスが共産主義-ファシズムを資本主義とではなく民主主義と対置していることである。すでに見たように、ブルツクスの考えでは、民主主義とそれを支える独立した社会運動は、市場と私的所有に立脚する資本主義のもとでのみ可能である。
民主主義を掲げる運動の参加者は何よりもその点を理解すべきであるが、同時にこの運動は、資本主義の必要性を抽象的・原理的に説くものではなく、資本主義のもとでの人民大衆の利益の擁護という具体的課題に応えるものでなければならない―民主主義が「社会的」であることを求めるブルツクスの主張は、このように解釈することができる。
共産主義とファシズムの勢力拡大の一因が、当時の資本主義世界を覆っていた深刻な危機にあったことは間違いない。資本主義は景気循環を伴い、その下降局面はしばしば危機的な様相を呈するが、「危機が資本主義経済の自己発展に役立ち、資本主義によって自生的に克服される限り、危機の後にはより高い水準での経済の高揚が訪れる」(p. 213)。ところが、世界恐慌では、危機は「世界戦争〔第一次世界大戦〕の致命的な諸帰結」と結びつくことによって、「自生的諸力ではその発展の歩みにおける深刻な解体を未然に防ぐことができない」ほどの規模に達し、各国政府に「危機がもたらした否定的な結果を緩和するための措置からなる一連の制度の考案を余儀なくさせた」(p. 222)。こうしてとられた対策の中には、一定の成果を収めたものもあれば、失敗に終わったものもある。何より重要なのは、資本主義の枠内での危機への対応と、ソ連やファシスト国家が進める全面的な計画化とをはっきり区別することである。
後者は、経済の政治化と世界貿易の寸断をもたらし、「全ての文明諸国の人民大衆の生活水準を低下させる」危険性を高めた。危機を克服するために改革が必要であるとしても、「私的所有を廃止したり、私的創意を押さえ込んだりする必要はない」。これは、ブルツクスの一貫した基本的信念であり、彼の観点からは、これらの原理を否定する傾向こそが、民主主義を滅ぼし、O. シュペングラーの予言する「西洋の没落」を現実のものとしかねない「深淵」であった(Ibid.)。 
X.社会主義と協同組合

 

協同組合に関するブルツクスの1937年の短い草稿は、ソヴェト経済を直接の対象とするものではない。しかしそれは、経済組織としての協同組合および協同組合運動と資本主義・社会主義の二大体制の関係についての重要な考察を含んでおり、ブルツクスの晩年の社会主義論を理解するうえで、逸することができない。以下にその概要を述べよう。
ブルツクスによれば、協同組合とは「交換経済の枠内でその構成員の個人的需要を最も完全かつ安価に充足すること」を目的として「意識的に設立された統一体」であり、加入と脱退の自由を本質的要件としている。資本主義の経済体制が意図的な設計の産物ではなく「自生的に発達し、誰に導かれることもなく地球上でのその凱旋行進を成し遂げた」のに対して、協同組合の発展は常に、「その構成員を具体的な諸目的のために統一する意識的な努力」を必要とする(1995d、p. 125-126)。資本主義企業(以下単に営利企業と呼ぶ)と協同組合の根本的な相違は、住民の個人的需要の充足が「利潤獲得のための手段にすぎない」か、それとも組織の「自己目的」となっているかにあり、法律上の形式は二義的な意味しかもたない(p. 126)。
社会運動としての協同組合は、購入や販売の協同組合から出発して労働者の生産協同組合の大規模な設立へと進み、最終的に、協同組合の連合体が経済全体を掌握することを展望する「協同組合主義」の思想と結びついている。協同組合主義とマルクス主義的社会主義(集産主義)は、資本主義の克服をめざす点で一致していることから、しばしば一括して社会主義と呼ばれる。しかしブルツクスは、両者の間には、前者が「経済的創意の自由と経済的財貨の自由な交換、すなわち市場に基づいて経済生活を改造する可能性を認める」のに対して、後者が生産手段の社会化と計画経済の確立をめざすという、本質的な相違があることを強調する。集産主義は、「協同組合を単一の経済計画を遂行するための手段、すなわち国有企業に転化」するから、それが経済体制として確立した時点では、協同組合の存続の余地はない(pp. 126-127)。
一方、資本主義と協同組合主義は、「ともに経済的自由に立脚している」点で共存可能であり、「協同組合企業は資本主義体制の中に根を下ろすことができる」。その結果、協同組合企業と営利企業の間には「力の均衡および分業」が成立する。ただし、これは営利企業が「経済における指導的役割を維持」する分業であり、協同組合の役割は、副次的なものにとどまる(pp.127-131)。
市場での競争における営利企業の協同組合企業に対する優位を、ブルツクスは顧客と労働者に対する両組織の関係の相違という点から説明する。すなわち、まず顧客との関係では、営利企業の「唯一の組織者は企業家であり、顧客はいかなる規律にも服する必要がない」。買手は売手企業の選択において自由であり、ある店で買い物をするときに「この店の他の買手と何らかの関係を結ぶ義務はない」。一方、消費組合の組合員は、他の組合員と関係を結び、「購入に際して一定の規律を遵守しなければならない」(p. 130)。次に労働者との関係では、営利企業は企業家の権限によって「いわゆる権威的な分業を組織し、各人をしかるべき位置につけ、各人の労働の熟練度と生産性に応じて賃金を定める」ことができる。しかるに、協同組合では分業の編成や報酬の決定を「下から、民主主義的に」行う必要があり、これは組織が多少とも大きな規模をもつ場合には「きわめて困難」である。これらの競争上の弱点のために、期待に反して、「協同組合は資本主義を克服しなかった」し、またそもそも基軸的な生産財部門のように「協同組合が総じて少しも浸透しなかった経済領域も存在する」(p. 131)。
しかしながら、購入協同組合(特に消費協同組合)をはじめ、協同組合が事業として成功した分野が存在することも確かである。ブルツクスの考えでは、購入協同組合の成功は、資本主義経済では通常「買手の間には競争がなく完全な利害の一致が存在」するがゆえに、購入者の組合では「組合員の利害の一致の程度」が最も大きく、「組合員から要求する規律の程度」が最小で済むことに基づいている(Ibid.)。また、小規模信用や家畜保険などの分野は、「企業と顧客の間に特に緊密な結びつきを必要」とするため、顧客にあたる人々が構成員となるという協同組合の特性が有利に作用する。販売協同組合の発展は、一般的には同種の財の売手の間に強い競争関係が存在することによって制約される。しかし、「農民の間では競争の契機は大きな意義をもっていない」ため、農業では販売協同組合は顕著な成功を収めた(p. 130)26)。
協同組合主義者が最大の期待をかけた労働者の生産協同組合について言えば、それは「その構成員に最大の要求を行う」組織であることから、ほとんど発展しなかった(Ibid.)。しかし、ブルツクスにとって、労働者協同組合の失敗は、協同組合運動の破産を意味するものではない。
というのも、協同組合は「資本主義を多くの領域から押しのけ、資本主義が遂行できない多くの機能を遂行して」おり、とりわけ農業では「協同組合は農民経営を強化し、その大規模資本主義経営に比しての優位を保障する」という大きな役割を担っているからである(p. 131)。彼はまた、これらの経済的機能に加えて、協同組合は「競争に基づく経済生活に、新しく道徳的により高潔な空気を吹き込む」という意義も持っていると書いている(Ibid.)。
以上のブルツクスの議論は、資本主義の克服をめざす協同組合主義の運動と非資本主義的生産組織としての協同組合の活動を区別し、後者のいくつかの分野での成功をその道徳的な役割を含めて高く評価する点で、きわめてユニークである。また、各種の協同組合の成功と失敗についての彼の経済学的考察は、不足の分析でもふれた、資本主義経済での競争は主として売手の間で行われるという、売手と買手の非対称性に注目する市場認識に基づいている。 
おわりに

 

以上にみたブルツクスの晩年の社会主義論およびソヴェト経済論の特徴として、改めて以下の諸点をあげることができる。
1.ブルツクスの議論は、経済システムを種々の異質な原理を内包する複合体としてとらえる多元的かつ歴史的な体制把握に立脚している点で、自由至上主義的な社会主義批判にない奥行きを持っている。こうした体制把握は歴史研究に通じた者にあっては当然のものとはいえ、彼のようにそれが明晰な論理展開や資本主義の擁護と結びついている例は少ない27)。
2.ブルツクスは、生産手段の私的所有と自由な市場を、人々の欲望充足という点で適応的・革新的な制度であるだけでなく、個人の自由と民主主義の不可欠の前提条件ととらえている。彼が生産手段の社会化と計画経済に基づく経済システムとしての社会主義を否定するのは、それが人々の欲望充足を政治目的に従わせることに加えて、民主主義を支え民衆の利益を擁護する役割をもつ独立した社会運動を不可能にするからでもある。
3.ネップ崩壊過程の考察が示すように、彼はソヴェト経済の歴史を論じる際に、イデオロギーの役割のみを強調する意図主義の立場をとらず、予期せぬ困難を伴う客観的状況と、あらゆる権力を自らに集中する共産党指導者の政治的決断の相互作用に大きな関心を払っている。これはソヴェト経済の発展の諸段階を理解するうえで、有力な接近方法である。
4.集団化に伴う農民の収奪と追放、過酷な辺境での強制労働の広範な利用、非党員専門家に対する大規模な弾圧などのソヴェト経済の最も非人間的側面への言及において、ブルツクスは自らの原則的な立場を明確に表明しつつも、批判や糾弾のみに終わることなく、ソヴェト経済の機構と動態に即してこれらの諸現象の客観的な考察を行っている。
5.ソヴェト経済の構造的な諸特質についての彼の理論は、理念においてではなく現実に存在する社会主義経済を対象とする経済理論における開拓者的な貢献である。なかでも、慢性的な不足とその帰結としての財の品質の劣化に関する分析は、純理論的な考察では予見されていなかった社会主義経済に固有の困難を取り扱ったものとして、大きな意味をもつ。
6.ブルツクスは貨幣と市場の存在を、社会主義経済が麻痺と崩壊を免れるうえで絶対に必要な要因とみなしており、過大な拡大を抑制し市場の機能を拡大することで社会主義経済が大規模な破局に陥ることなく存続しうる可能性を認めている。これは、ソヴェト社会主義がともかくも七十余年にわたって存続できた理由を考える上で、きわめて重要な論点である28)。
個々の事実認識や主張の妥当性についてはなお検討の余地があるにせよ、ブルツクスの晩年の社会主義論は、上記の諸点において、この分野での最も卓越した貢献の一つとみなしうる業績である。1930年代後半という時期に、ソヴェト社会主義というきわめて論争的な事象の本質についてここまで透徹した認識が存在していたことに、率直に言って筆者は驚嘆を禁じ得ない。
マルクス主義的社会主義経済の構想に内在する諸困難の理論的解明に寄与した経済学者は少なくないが、そうした理念次元での批判と現存するソヴェト経済の歴史的-構造的分析を統一的観点から、しかもきわめて高い水準において展開した点でも、ブルツクスは希有の存在である。
本稿の最後に、21世紀の現代にブルツクスの社会主義論をとりあげる意味について一言述べておこう。ソ連・東欧の社会主義の崩壊後、社会主義批判の論点の多くは、ある面では常識になったと言えなくもない。とはいえ、資本主義のグローバルな拡大に伴う競争の激化や社会政策の後退を批判する思想と運動の中には(かつてのマルクス主義のように明確な形でではなく、概して暗黙的にではあるが)依然として、資本主義それ自体に対する敵意が潜んでいる。筆者の考えでは、資本主義経済における社会的規制や非資本主義的諸制度の役割に関する議論を有効に展開するためには、まず、私的所有と市場が経済発展にとってだけでなく、個人の自由と民主主義にとっても不可欠な制度であることを明確に認めなければならない。近年、市場原理の一面的拡大が引き起こす諸問題に再び関心が向けられつつあるがゆえに、このことはかえっていっそう重要である。ブルツクスの思想は、このように私的所有と市場の承認を前提とする社会改革の探求に対して、間接的にではあるが、豊かな示唆を与えるであろう。 

1)本稿は日本学術振興会科学研究費補助金による研究成果の一部である(課題番号19530174)
2)この論文は1923年にベルリンでモノグラフとして刊行され、1928年にはブルツクス自身によってドイツ語版が刊行された(Brutzkus、1923、1928)。『ソヴェト・ロシアにおける経済計画』は2000年にP.J. ベッキ編集の経済計算論争に関する叢書『社会主義と市場』全7巻中の一巻として復刊されている(Boettke、2000)。
3)ブルツクスはネップの開始後ロシア経済の復興について公的な場で積極的に発言したが、1922年8月に逮捕され、11月にドイツに追放された。1923年にベルリンのロシア学術研究所(亡命ロシア知識人の拠点の一つ)の教授となり、その後の10年ほどの期間に革命前後のロシア経済とユダヤ人問題に関する多くの著作を精力的に発表した。しかし資金不足による研究所の閉鎖(1932年)やヒトラー政権の成立によりドイツを去り、最終的に、ヘブライ大学の招請により1935年に同大学の農業経済学担当の教授としてパレスチナに移住した。以上については、Kagan、(1989)、小島(1996)、Rogalina(1998)、森岡(1999、2004、2006)を参照。なお、ブルツクスの晩年の思索にはパレスチナの経済問題の考察も含まれるが、本稿では社会主義に関するものだけを取り扱う。ユダヤ人問題に関するブルツクスの著作の本格的な検討は今後に残された課題である。
4)aとfへの言及を含む注目すべき研究として、小島(2005a)がある。ただし、それは1922年の論文に始まるブルツクスのソヴェト社会主義論の全体を対象とするものであり、また小島の主たる関心は、この時代の(亡命ロシア人を含む)ロシア人経済学者の群像の中にブルツクスを位置づけることに置かれている。
5)1937年11月21日付および1938年2月5日付のブルツクスのS. N. プロコポーヴィチ宛の手紙によれば、この論文は元来フランスの雑誌での公表を予定して書かれたが、フランスでは結局1937年に小冊子として出版された(Rogalina、1996、pp.159-160; Brutzkus、1937d)。ブルツクスは校正刷りを読むことができず、上の手紙で翻訳に不満をもらしている。この論文のロシア語原稿はその第V節の途中までが1995年にV. I. カガンによって(誤って)未完の草稿として公表された(Brutzkus、1995b)。本稿でのこの論文からの引用は、ロシア語版に含まれる部分についてはそこから、含まれない部分についてはポーランド語版(Brutzkus、1937a)から行う。
6)「集産主義」(collectivism)とは19世紀末から20世紀の前半にかけて主としてマルクス主義的社会主義を指して広く用いられた言葉である。すでに1884年にはP. ルロワ-ボーリューが『集産主義』と題する大著できわめて包括的かつ先駆的なマルクス主義的社会主義の批判を展開しており(Leroy-Beaulieu、1884)。また、F. ハイエクが編集した経済計算論争に関する有名な論集も『集産主義中央計画の理論』と題されている(Hayek、1935)。
7)経済システムの複合的・多元的性格の強調は、ブルツクスを含め、農業問題に関心を抱いていた当時の多くのロシアの経済学者に共通する見方といってよい(小島、1987)。現代の経済理論との関係では、それはG. ホジソンが提唱している「混成原理」に通じるものがある(Hodgson、1988)。
8)このように国営企業の利潤が投資財の配分や国家予算において何らの役割を果たしていないということから、ブルツクスはソヴェト経済を「国家資本主義」ととらえる一部の社会主義的知識人の議論を批判している(Brutzkus、 1995c、p. 210-211)。
9)ここでブルックスが諸生産の増加について「四倍」と言っているのは比喩的な意味においてであり、五ヶ年計画による生産の物的な増加率はそれよりもはるかに小さい。
10)A. ノーヴはソ連崩壊前に書かれた最もすぐれた概説書の一つである『ソヴェト経済史』の結論部分で、ソ連の支配層は下級官吏に至るまで「大衆の福祉に著しく無関心」であり「人々の最も基本的な要求でさえ、ほとんど信じられないぐらい無視した」と述べている(ノーヴ、1982、p. 469)。
11)ブルツクスは、レーニンがこのことを理解し、なおかつその実行をためらわない強靱な意志を持っていたことを革命諸派の権力闘争における彼の最大の強みとみなしている。彼の考えでは、こうしたレーニンの思想は、革命思想としてのマルクス主義の精神を正しく継承するものである。
12)ブルツクスのこの主張の背景には、彼が人道的見地から強制的集団化を告発する運動の組織を試みた際に、ドイツの人権団体や知識人が積極的な反応を示さなかったという、彼自身の苦い経験がある。この問題でのブルツクスの活動については、Kagan(1989)、Wilhelm(1993)を参照。またこの時期の西欧の左派知識人のソ連認識については、水谷(1994)を参照。
13)農業革命は共同体農民自身の要求に根ざす自然発生的な過程であり、ソヴェト政府は(エスエル党の農業政策を一時的に借用して)これを承認・奨励したにすぎない。ブルツクスはこの農業革命による先進的経営の破壊と農民経営の全般的な零細化を1921-22年の農業の破局の最大の原因とみなしている。この点については、森岡(2004、2006)を参照。
14)ネップ期のソヴェト経済機関の中には、経済のさまざまな問題に対して「市場を基礎とした解決法を支持」する人々の一団が存在しており、とりわけN. D. コンドラチェフは市場の維持という点で「最も首尾一貫し、確固とした信念を持った経済学者の一人」であった(バーネット、2002、p.146)。
15)今日では機密解除された文書を集めた記念碑的資料集『ソヴェト農村の悲劇―集団化と富農撲滅、1927-1939年』全5巻によってその詳細を知ることができる(Danilov et al、1999-2006)。農民の抵抗の規模はおそらくブルツクスの推測を上回るものである。治安機関は1930年の1年間だけで実に13754万件の「集団的な抵抗」の発生を記録しており、これらの反乱への参加者はのべ248万人に達した(Vol. 2、pp. 801-803)。農民の抵抗についてはさらにViola(1996)を、また集団化の過程と帰結に関しては、奥田(1996)を参照。
16)1932-33年の飢饉による死者は正確には不明であるが、少なくとも400万人以上であるとみられている。
17)ノーヴは1976年の時点で、白海運河と異なりマグニトゴルスクは労働者と技術者の「熱狂」を伴う努力によって建設されたと書いている(ノーヴ、1982、p. 222。これが誤りであることを指摘したp. 488の訳者注も参照)。ソ連における強制労働については、機密解除文書から編集された全7巻からなる強制収容所に関する資料集のうちの一巻である『収容所の経済』(Khlevniuk、2005)でその詳細を知ることができる。また、Borodkin、 Gregori and Khlevniuk(2005)も参照。集団化に伴う農民の追放は1930-31年だけで38万家族180万人、1934年までに総計400万人に達し、その多くがマグニトゴルスク、ウラル、西シベリアにおいて建設事業のための強制労働に従事した(Sokolov、2005、p. 24)
18)ここでブルツクスがあげているのはいずれも1920年代にゴスプランを含む種々の経済機関で活動した著名なソ連の経済学者たちであり、彼らのうちマカロフとヴェインシュタインを除く人々は、全て1930年代のうちに銃殺、獄死、流刑地での病死など、悲劇的な最後を遂げた。各人の業績については、Jasney(1972)を参照。
19)ブルツクスは散在する情報の収集・整理・検討という「骨の折れる作業をきわめて正確かつ忍耐強く行っている」点で、S. N. プロコポーヴィチによる月刊の『ブレティン』の刊行の意義を高く評価し、それを「ロシア経済のあらゆる学徒にとって著しく有益」なものとして推奨している(1935c、p. 133)。プロコポーヴィチについては、小島(2005b、2006)を参照。
20)これは後にコルナイが「予算制約のソフト化」と呼んだ現象である(Kornai、1980、1992)。
21)Kornai(1980)。ただし、慢性的な不足が社会主義経済において不可避的に生じる現象であることが明確に述べられたのは、東欧革命後に書かれたKornai(1992)においてである。
22)ソヴェト経済の存続可能性については、1935年以前に書かれた「経済計画の帰結」と1936年夏に書かれた「市場と計画」の間でブルツクスの見解はいくらか変化している(前者では彼はどちらかといえば懐疑的であった)。この変化は、1935年以降の改革にブルツクスが大きな重要性を認めていたことを示すものであろう。
23)パレスチナへの移住後、ブルツクスはソ連の情報をほとんど入手できなくなり、1937-38年の大粛清とそれによる経済改革の途絶について知ることなく没した。1937年11月21日付のプロコポーヴィチへの手紙では、彼は「当地ではソヴェト・ロシアについて資料を入手することは困難だ。私はこれ以上ソヴェト経済の諸問題を研究することはできない」と書いている(Rogalina、1997、p. 159)。
24)1936年3月14日付のプロコポーヴィチ宛書簡(Rogalina、1997、p. 158)。この手紙には、ヒトラーの反ユダヤ主義が「自国だけでなく全ての近隣諸国のユダヤ人の根絶」を志向するものだという指摘がある。さらに、死の2ヶ月余り前の1938年9月23日にハイエクに宛てた書簡では、「攻撃はユダヤ人で止まることなく、ヒトラーの行く手にある他の民族(まずチェコ人)は早晩、人種的に劣等であると宣告され、その絶滅が始まるだろう」と述べて、人種主義を弾劾する知識人の国際世論の形成に協力を求めた(Kagan、1989、pp. 36-37)。
25)国際主義と民族主義は一見対極にある思想のようであるが、国境をこえた人種主義という点で、ナチズムにもまた(逆説的ではあるが)一種の国際主義の要素がある。
26)農村における協同組合の発展においては、ブルツクスは経済的要因と並んで、協同組合活動家の献身的な活動が決定的な役割をはたしたと考えている。同時に彼は、これらの活動家の多くが協同組合の独立性と自由な市場の不可分の結びつきを理解していなかったことを、ロシア革命での協同組合の悲劇的な運命の一因とみなした。この点については、森岡(2006)を参照。
27)ロガーリナによって「ロシア国民経済の歴史家」と呼ばれているように、ブルツクスはすぐれた経済史家でもある。1934年の論文「ロシアにおける社会経済発展の特質」では彼は、ソヴェト社会主義の勝利を可能にしたロシアに固有の歴史的な諸要因について、ロシアにおける国家と国民経済の形成過程をたどりながら、きわめて興味深い考察を展開している(Brutzkus、1934)。
28)L. ミーゼスは、Mises(1922)において現物経済的社会主義の批判についてブルツクスと多くの点で一致する議論を展開し(この点で両者は互いを高く評価している)、貨幣と市場の存在を前提する社会主義の種々の構想に対しても鋭い批判を行った。しかし彼は、「社会主義経済は不可能である」という命題自体は堅持し、この命題とソヴェト経済の存続という事実の整合性について十分な説明を与えなかった(Mises、1949)。 
 
覇権と国際政治経済秩序 / 覇権安定論の批判的評価

 

1.はじめに 
21世紀の国際経済秩序はどのような方向へ向うのか。グローバル化と新自由主義が地理的にも質的にも拡大・深化すると同時に、反グローバル化やリージョナル化の兆候も見られる。市場と資本は国家と政治の統制から再び解放されたかのようであるが、自律的な市場(selfregulating market)による傷跡が各所に広がっている限り、ナショナリズムとポピュリズムは2度と登場しないと展望することはできない。
国際経済秩序の性格に影響を及ぼす要因は多様であり、これまで様々な理論が提示されてきた。しかし、 国際政治経済学( International Political Economy) が国際関係学(International Relations)の分科学問として定立した1970年代以降、最も注目を集めてきた理論は覇権安定論(hegemonic stability theory)である。多様なヴァリエーションはあるものの、覇権安定論では、国際経済秩序の開放と閉鎖、安定と不安定を決定する変数は覇権の有無であると考えられている。これまでにも多くの経験的検証と理論的な批判とが行われてきた。
今、改めて覇権安定論を再検討しなければならない理由は2つある。第1に、覇権安定論は国際政治経済学のシステム理論の中で非常に精巧な理論であるからである。国際政治経済秩序のレジームと国際協力を説明する主要な理論のほとんどが覇権安定論と関連している。したがって、覇権安定論を中心に国際経済秩序の性格を決定する多様な要因を検討することができる。
第2に、新自由主義的なグローバル化が深まっている今日の国際経済秩序の性格を見定め、その変化を展望するためである。米国によって主導されている新自由主義的なグローバル化を説明する上で、覇権安定論に対する批判的検討は一定の貢献をするものと考えられる。
本稿は次のとおり3つの部分から構成される。第1に、理論が登場・展開してきた理論史的な文脈と実際の歴史に照らし合わせて覇権安定論の性格を分析する。第2に、代表的な理論の特徴を検討し、これまでの主要な批判と論争を整理する。第3に、今日の国際経済秩序の性格との関連の中で再検討しなければならない点を析出し、理論的な修正の方向を提示する。 
2.覇権安定論の性格 

 

国際経済秩序の性格については様々に規定することができる。しかし、直感的にも理論的にも現実的にも、最も重要なのは次の3点である。第1に、国際経済秩序の具体的内容である貿易・金融・通貨の秩序がどのように規定されているのかという点において、開放の程度とそのあり方が鍵となる。例えば、19世紀中後期の古典的な自由主義秩序は国家間の商品と富の流れが自由で、各国通貨の価値が固定されていた秩序だった。第2次世界大戦後の30年間の国際経済秩序は「より自由な貿易(freer trade)」と「調節可能な固定為替」、そして貿易以外の国家間の富の移動を防止する「資本統制(capital control)」の秩序だった。それ以降の国際経済秩序は自由貿易が地理的にも質的にも深まり、変動為替、金融自由化によって特徴づけられるグローバル化の激変を経ている。
第2に、国際経済秩序の安定性の問題である。19世紀の自由主義秩序は世紀後半の不安定期にもかかわらず第1次世界大戦まで比較的安定して維持されてきた。反面、戦間期の国際貿易と通貨秩序は極度の混乱に陥った。第2次世界大戦以降復旧された自由主義秩序は10年あまりの間安定して持続したが、1960年代から揺らぎ始め、1970年代以降不安定さが増大した。最近の国際経済秩序は開放性がはるかに増大しているが、外債や金融危機の頻発に見られるように、不安定さも高まっていると考えられる。
第3に、国際経済秩序の性格は国家間のパワーの分布状態によっても規定することができる。
国際経済秩序においてパワーをどのように規定するかは依然として議論の対象である。パワーをどのように規定しようが、国際経済秩序において各国間にはパワーの大小が存在している。
19世紀半ばの国際経済秩序において英国は産業生産と金融の面で圧倒的なパワーを保有していた。第2次世界大戦直後、米国は圧倒的なパワーの優位を誇っていた。他方、19世紀末から戦間期にいたる時期にはいくつかの国の経済力が英国と対等か上回ろうとしていた。1970年代、1980年代にもパワーは分散していたとみなすことができるだろうが、1990年代以降、米国の相対的な経済的優位が回復したと評価できる。
システム水準の3つの性格の間に一定の関連性があると想定することができる。すなわち、特定のパワーの分布状態と開放や安定の間には相関関係があるかもしれず、開放と安定の間にも相関関係があるかもしれない。こうした関連性に関する理論化が試みられたのは1970年代初めだった。この時期にキンドルバーガー、ギルピン、クラズナーなどが歴史的な経験に基づいた帰納的な仮説と演繹的な仮説を提示した。彼らは国際経済秩序内の覇権的なパワーの分布が安定や開放をもたらすと主張したが、このことをコヘインは覇権安定論(hegemonic stability theory)と呼んだ1)。 
(1)歴史的文脈と理論的性格
1970年代初めに覇権安定論が台頭したのは偶然ではない。1970年代初めには2つの重大な意味があるが、覇権安定論の性格を把握するためには1970年代初めの国際経済の現実の文脈と国際関係学の理論史的な文脈を理解しなければならない。
まず、この時期の国際経済秩序の現実を検討する。周知の通り、1970年代初めは戦後の国際経済秩序全体が揺らいだ時期である。ラギーが「埋め込まれた自由主義(embedded liberalism)」と呼んだ戦後国際経済秩序は次のような矛盾を有していた。第1に、貿易秩序において、戦前の自由貿易が復旧したが、国内政治上敏感な農業やサービスなどを除いた製造業部門における自由化が漸進的に進んだ。19世紀の自由放任的な自由貿易秩序は輸入に敏感な国内産業に被害をもたらした結果、国内政治上の抵抗を受けることになったためである。しかし、この秩序は成功するほど崩壊の危険が大きくなるという内的矛盾を有していた。幾度の多角的交渉を通じて関税率が引き下げられ自由貿易が深まれば、貿易によって被害を受ける集団が多くなり、その結果この秩序も国内政治上の抵抗を避けがたくなったということである。さらに、戦争被害から復旧した西側経済が本格的に成長し国際経済がさらに深まると、各国内に保護主義勢力が強まることになった。
第2に、国際通貨秩序の不安定さが深まった。戦後の通貨秩序は調整可能な固定為替制であり、ドル本位制であった。ドルの価値を固定し、国際通貨秩序の安定を図ると同時に、ドルに対して固定された各国通貨の価値を国内のマクロ経済政策の必要に応じて調整することが認められていたわけである。この制度が機能するためには、ドルの価値が安定して維持されるように米国経済が頑強でなければならないと同時に、ドルが米国国外で十分に流通し流動性の供給が担保されなければならない。大戦直後のように米国経済が圧倒的に優位にあった状況では可能な制度だったかもしれないが、西側諸国の通貨の兌換性が回復した1960年代末から深刻な矛盾が露呈した。この制度は本質的に「トリフィン・ディレンマ(Triffin dilemma)」を内包していたわけである。すなわち、国際経済の成長が維持されるためには持続的にドルが米国国外に流出するように米国の国際収支の赤字が漸増しなければならないが、そうすることで究極的にはドルに対する信頼が喪失しドルの価値が低下することになる。さらに、ジョンソン政権期の「偉大な社会」プロジェクトのようなニューディール社会政策と冷戦の軍事支出及びベトナム戦争によって米国の財政赤字と国際収支赤字が膨大に増え、ドルの価値を維持することができない状況になった。結局、1971年、ニクソンは金兌換の停止を宣言し、戦後のブレトンウッズ国際通貨体制が崩壊した。これ以降、国際通貨秩序は何度か混乱を繰り返し、変動為替制へと転換した。少なくとも短期的でより頻繁な混乱の可能性を内包するようになった。
第3に、国際金融秩序も混乱に直面した。戦後金融秩序は厳格な資本統制に基づいていた。
国際投資資本がもたらす国際金融秩序の混乱を防ぐために貿易と関連する場合を除いて資本の国際的な移動を徹底して封鎖した。しかし、1950年代末以降、西側経済が復旧し米国系多国籍企業の資本に対する必要が拡大し資本統制が次第に難しくなった。1960年代、ロンドンにユーロ・ドル市場が開設され、資本統制に深刻な問題が生じ始めた。1970年代前半石油価格の引き上げ以降膨大なオイルマネーが域外市場に流入し、変動為替制による為替市場が生み出され国際金融の混乱が頻発するようになった。
さらに、国際経済秩序のパワーの分布も大きく変化した。特に、米国の経済力は相対的な規模の面において大きく後退し始めた。第2次世界大戦後米国の経済力は西側経済全体の国民総生産の3分の2を占めるほど圧倒的だった。しかし、西側経済が戦争の廃墟から復旧し始め、こうした優位は当然なくなった。国際競争が熾烈化していく中で、ドイツと日本などいくつかの国家が急速に成長し、米国経済の相対的な優位も崩れていった。それだけでなく、ドルの金兌換停止や米国の貿易収支赤字の増大などに象徴されているように、米国の絶対的な経済力も大きく損なわれていった。
覇権安定論はこうした国際経済状況の下で台頭した。戦後の国際経済秩序が混乱に陥り、戦後の秩序を主導してきた米国の相対的な経済力が急速に後退していく中で、両者間の関連性が問題になったのである。このことは当時の現実を反映したものと見ることができる。第2次世界大戦直後10年あまりの「米国の圧倒的な経済力→米国主導の国際経済秩序の安定」と1960年代台後半以降の「米国経済の衰退→国際経済の不安定」の2つの現象が対比され、国際経済の安定と覇権の存在の間の関連性が問題として浮上したわけである。
こうした現実の文脈ゆえに、覇権安定論の背後に隠された意図、あるいは理論的な偏向性があるのではないかという疑惑が提起された。米国の覇権が戦後国際経済秩序の開放と安定をもたらし、米国の衰退が国際経済秩序の不安定をもたらしているという主張は、米国の覇権の正当化とその衰退に対する憂慮につながる。まさしく米国中心の論理であるというわけである。
より批判的な観点からは、覇権安定論がそもそも提起された理由に対しても疑問が提起される。
米国経済の衰退に対する憂慮が国際経済も不安定になるだろうという展望につながり、国際経済の安定が米国によってもたらされていることを想起させ、そのためには米国経済が復旧しなければならないという必要性が見え隠れしている。ここに、米国中心のイデオロギーの性格があるというのである。
覇権安定論がこの時期に主に米国の学界で提示され議論されたという点を勘案すると、こうした疑惑は根拠のないものではない。後述するが、覇権安定論に対する論争過程においても、こうした理論的性格が反映されている。例えば、覇権が国際経済秩序の開放を追求することを公共財の提供と理解する点や、開放を安定と同一視する点などは覇権に対する価値偏向が反映されたものと考えられる。米国の衰退について議論されなくなると、覇権安定論に対する議論が進展していないことも一つの証左である。 
(2)理論史的文脈と意味
覇権安定論が台頭した理論史的な文脈もこの理論の性格を理解するうえで重要な意味を持つ。周知の通り、第2次世界大戦以降国際関係学はリアリズムが支配してきた。リアリズムはウェストファリア条約によって主権国民国家システムが成立して以降、近代国際システムは基本的に国家によって構成されるとみなしている。こうした国家から構成される国際システムは中央の権威が存在する位階的な秩序ではなく、アナーキーである。そこは各々独立的な国家が自らの利益を追求するという自助構造である。こうした自助構造において国家は自らの生存のためにパワーに依存するしかない。したがって、国家間の関係は相互不信と疑心から抜け出すことができない。国家間の交流と協力によって葛藤が緩和されることはありえても、相対的な利得の相異によって完全な国際協力は成立しないものとされる。
第2次世界大戦とそれに続く冷戦下において、リベラリズムは大きく萎縮したが、完全になくなったわけではない。例えば、国家間の非政治的で機能的な交流を通じて究極的には平和を実現できるという機能主義統合理論がミトラニーによって提起され、ヨーロッパ統合の過程が始まった1950年代末にはハースによってより精巧な統合理論が開発された2)。国家間の経済・社会・文化といった側面で協力と交流が深まれば、政治の領域でも協力と共存、平和、そして究極的には統合も可能であるという主張である。
1970年代になると、国家間の協力と交流が経済の領域だけでなく社会・文化の領域でも広がり、GATTや多国籍企業など非国家アクターが国際関係に大きな影響を及ぼすようになった。
冷戦の中でパワー対決は持続したが、少なくとも西側諸国の間では協力は増大し戦争の可能性はほとんどなくなった。このように、国家間の相互依存が深まる中で国際関係をリアリズムのように単純にパワーの政治としてのみ理解することはできないという批判が広がった。コヘイン、ナイ、ハースなどに代表されるリベラリズムは国際貿易レジームや海洋問題の解決など多様な事例を通じて、国家間協力の可能性と非国家アクターの影響、その結果として国際関係の本質が変化する可能性について理論化し始めた。
例えば、国際関係において経済関係など非安保領域の重要性が高まり、こうした領域では国家間の対立より協力、各国の国益より国際制度、そして国家の行為より非国家アクターの役割が重視されるようになった。これはリアリズムの基本前提に対する反証であり、重大な挑戦である。国家がパワーによって定義される国益と相対的な利得を追求するのならば、国際関係において実際に見られる協力や公益の追求をどのように説明することができるのだろうか。国際秩序がアナーキーならば、GATTのような国際制度はどのように存続することができるのだろうか。リアリズムの理論的前提の下では、こうした現象をどのように説明するのかという課題が提起されたというわけである。
覇権安定論の理論史的な意味はここにある。覇権安定論は国際協力の制度化が最も進んでいる貿易分野を主な分析対象とし、国際協力の説明においても、パワーの概念が欠かせないということを明らかにした。したがって、覇権安定論が究極的に提示しようとした命題とは、覇権というパワーの分布の下でのみ、国際協力や国際制度の供給が可能であるということである。
こうした主張が妥当であるならば、安保はもちろんのこと、非安保の領域においても国際関係を説明する上でリアリズムの優越さが立証されることになる。 
3.覇権安定論の展開 

 

覇権安定論の主張も多様である。理論化の水準が異なるだけでなく、覇権の概念すら異なる場合がある。勢力転移論(power transition theory)に関連する議論まで含める場合、さらに多様になる。単純化の危険は伴うものの、これまでの議論を公共財論の覇権安定論とネオリアリズムのシステム理論の2つに大きく分けることができる。これら2つは前述した2つの性格をそれぞれ現している。前者は、1970年代の国際政治経済の現実を反映し、米国の覇権が国際経済秩序の安定を供給してきたということを公共財理論に基づいて明らかにしようとする。後者は、国際経済領域における国際協力を国家間のパワーの分布という構造的な変数で説明しようとするリアリズムの理論的関心に符合する。これら2つの理論の特徴について検討する。  
(1)公共財論の覇権安定論
一般的に、覇権安定論の端緒とみなされるのはキンドルバーガーの『大恐慌の世界1929-1939』である3)。この本でキンドルバーガーは1930年代の大恐慌がなぜそれほどまでに悪化し、長い間持続したのかについて説明しようとしている。大恐慌の発生と悪化の要因として米国の通貨政策、金融政策、需要管理からスムート・ホーリー関税法にいたるまで多様な要因が指摘され、多くの研究が蓄積されてきた。キンドルバーガーは既存の経済学の説明は十分でないとし、新しい要因に注目した。国際経済の安定を維持するためのリーダーシップの役割である。
キンドルバーガーによれば、大恐慌以前の国際経済が安定的だったことと大恐慌の拡散を防止できなかったことの違いは国際経済を管理するリーダーシップの存在如何であった。第1次世界大戦以前の国際経済が幾度かの危機にもかかわらず安定して維持されたのは、圧倒的な経済力を有していた英国がリーダーシップの役割を積極的に果たしたからである。他方、大恐慌のときに英国はリーダーシップを発揮できないほど経済力が衰退していて、そうした能力を有していた米国はリーダーシップを発揮しようとする意図に欠けていた。国際経済の危機を管理する能力と意思を有したリーダーシップが不在だったため、大恐慌は悪化し拡散したというわけである。
キンドルバーガーが大恐慌について新しい解釈を試みたのは、当時の国際経済の現実を念頭に置いてのことである。また、彼の研究が米国の学界で大きな関心と後続研究を触発したのも米国経済の衰退という現実の要因に拠るところが大きい。大恐慌の経験に見られるように、国際経済の安定にリーダーシップが不可欠であるという論旨は、第2次世界大戦以降の国際経済の安定を維持してきた米国の衰退によってリーダーシップの不在の状況がもたらされ、その結果、大恐慌のような国際経済の不安定が惹き起こされるかもしれないという警告になった。ここに、前述した米国のイデオロギーという性格が窺える。
キンドルバーガーの命題は経済学の公共財理論(public goods theory)と結びついて精巧になり、多様な経験的かつ理論的な修正を経て精緻化された4)。公共財は私有財とは異なって「便益の非排除性(non-excludability of benefits)」と「消費の非競合性(non-rivalry of consumption)」の性格を有する。すなわち、公共財の提供に寄与しないメンバーも便益を享受することができ、あるメンバーの消費が別のメンバーの消費と競合的でないため、公共財を提供しようとする動機が刺激されないということである。こうした性格ゆえに、公共財の供給は市場の論理によって効率的に行われない。公共財の提供に寄与せず、ただ乗り(free-ride)しようとする集合行為の論理(logic of collective action)が働くというわけである。
公共財が効率的に提供されるための有力な条件は「支配的な受益者(dominant beneficiary)」の存在ということである。支配的な受益者は公共財からの便益が極めて大きいため、他のメンバーの意思とは無関係に公共財の提供の費用を負担しようとする。したがって、支配的な受益者が存在する場合、集合行為の論理は克服され公共財が提供される。
公共財理論を国際経済秩序に適用すると、覇権と国際経済の開放や安定を関連づける論理を見出すことができる。例えば、国際貿易秩序の場合、自由貿易は公共財であり、圧倒的な経済力を有する国家は支配的な受益者の性格を有すると考えられる。国家は自由貿易によって富が増進されるという便益を受けることができ、自由貿易秩序は理論的には全ての国家に開放されなければならない公共財の性格を有する。しかし、個別国家は自由貿易の便益を得ると同時に自国産業を保護するため自国市場は閉鎖しようとするただ乗りの動機を有している。こうした集合行為の論理ゆえに自由貿易秩序の成立は困難である。しかし、圧倒的な経済力を有する国家が存在する場合、自由貿易から得られる便益が大きいため、その国家は支配的な受益者の性格を帯びることになる。自由貿易秩序を成立させ管理する費用を負担しようとする動機と能力を有することになる。
つまり、覇権国が存在してはじめて自由貿易秩序が成立し維持されるというわけである。
公共財理論に依拠することで覇権安定論は理論的精巧さを有し、国際協力の多様な側面を新たに照射することができるようになった。事実、覇権安定論に対する検証や批判、そして理論的な修正は公共財理論を中心に展開してきたといっても過言ではない。公共財論の覇権安定論について、多様な理論的前提や論理が検討され、歴史的事例を通じて検証されてきた。これまでの論争の中で特に次の2点が重要である。
第1に、覇権安定論の主たる研究対象である国際自由貿易秩序が果たして公共財なのかという問題である5)。そもそも、公共財理論の中でも疑問が提起されている。自由貿易が公共財たりうるには、前述の通り、その便益が非排除的で消費が非競合的でなければならない。しかし、直感的にも、こうした前提には問題がある。周知の通り、WTOの便益は非加盟国には与えられていない。また、ある加盟国が関税を引き上げれば、他の加盟国は制裁を加え、便益を排除することができる。さらに、自由貿易秩序の下である国はより貿易に依存的で世界市場の多くの部分を占めている反面、別の国はそうでないということもある。つまり、消費も競合的である。こうして見ると、公共財理論を国際貿易秩序に適用する上で問題があるということが分かる。ただ、国際貿易の幾つかの側面は公共財の性格を帯びていると言える。例えば、国際貿易の規則を破った国家に対して制裁をする場合、集合行為の論理が発生するし6)、国際貿易秩序の周辺部に位置する小国の場合、ただ乗りが放置される場合もある7)。
こうして見ると、公共財理論を覇権安定論に適用するためには2つの作業が必須的である。
第1に、この理論がより妥当性を有するためには、理論的な前提に対するより綿密な検討と修正が必要である。公共財理論の前提を柔軟に適用することができるのか、その場合、理論の諸要素をどのように変化させることができるのかについて明らかにしなければならない。第2に、公共財理論の前提を厳格に守らなければならないとしたら、国際協力の多様な領域の中でどの領域が公共財の性格を帯びているのかをまず明らかにしなければならない。非排除性と非競合性の性格を有する領域についてのみ公共財論の覇権安定論は妥当であるかもしれない。
公共財論の覇権安定論に対するこれまでの論争の中で注目しなければならない第2の点は、果たして公共財の供給が覇権によってのみ可能なのかという問題である。覇権安定論では、各国の主権を譲渡された世界政府のような存在がない以上、圧倒的なパワーの優位に立つ覇権国の存在だけが公共財の提供の必須の条件であると主張されてきた。多数の国家はもちろん、少数の強大国の協力によっても公共財が供給されえないというわけである。キンドルバーガーは経済理論に基づき2者独占の状況(duopoly)においても効率的にリーダーシップが発揮されないと断定している。
こうした主張は理論的にも経験的にも問題がある。まず、公共財理論で提起されている支配的な受益者は必ずしも一つの国家である必要はない。利害が似ている少数の強大国ならば、寡頭的支配によって公共財を提供するということもありうる8)。また、ネオリベラル的な制度主義で提起されているように、国際関係は多様な領域における反復される国家間関係で構成されているため、囚人のディレンマと集合行為の論理が克服され、国際協力が可能になる9)。経験的にも、1970年代以降いくつかの領域で米国のパワーの衰退にもかかわらず、国際協力が拡大してきた。自由貿易の深化が公共財ならば、国際貿易構造において米国の明らかな衰退にもかかわらず公共財が効率的に供給されている。
全体的に評価すると、公共財理論の導入は覇権安定論の米国偏向性をある程度是正し理論的に精緻化する役割を果たしたと言える。覇権国は利他心や責任感ではなく支配的な受益者であるため国際経済の開放と安定を維持する費用を負担しようとする。また、公共財理論は、極めて少数の事例に基づいた非理論的な主張にすぎないかもしれない覇権安定論に理論的な精緻さと頑強さを付与したと評価できる。しかし、公共財論の覇権安定論について、研究対象それ自体である国際経済秩序の開放が公共財であるかどうかという問題に対して綿密に検討することと同時に、覇権が開放的な国際経済秩序の必要条件なのか十分条件なのかについて更に研究することが必要である。  
(2)ネオリアリズム覇権安定論
もう一つ別の覇権安定論のことをネオリアリズム覇権安定論、あるいは構造的な覇権安定論とよぶことができる。国際システムの安定をシステム水準におけるパワーの分布によって説明するネオリアリズムの理論と同一の理論体系で構成されているためである。クラズナーによって精巧な理論として提起されたネオリアリズム覇権安定論は、国際協力を説明するリベラルで多元主義的な視角による挑戦に対するリアリズムの対応であった。国家を分析単位とし、国際経済秩序の開放をシステム水準におけるパワーの分布によって説明しようとする。クラズナーの「国力と国際貿易の構造」という論考はこうした覇権安定論の理論的試みを代表するものと評価される。この論考を中心に、ネオリアリズム覇権安定論を検討する。
クラズナーは分析単位を国家とし、国際貿易構造において各国は自らの国益を追求するという典型的なリアリズムの前提に立つ。しかし、ウォルツのような単純な前提とは異なり、クラズナーには国家行動の理論(theory of state action)がある。国家は貿易政策において国民所得の増加と経済成長の達成だけでなく、自らの政治的パワーの増大と社会的な安定の維持という多様な目標を追求している。開放によってこうした目標がどのように達成されるのか、さらには開放するかどうかは各国の規模と発展水準によって異なる。例えば、発展した小国ならば、開放がもたらす経済的な利得が大きく構造調整の社会的費用を負担することができるため社会的安定が維持され、他国に対する政治的なパワーは元々小さかったため問題にならない。低発展の大規模国家の場合、所得と経済成長の増大が予想されるものの、開放によって社会的費用と不安定が増大し他国に対する政治的地位が脆弱になるかもしれない10)。
このため、国際貿易秩序の開放の程度は経済力の国際的分布構造によって決定される。高度に発展した小国で構成されるシステムの場合、開放的な国際貿易構造が成立する可能性が高い。
全ての国家に対して開放が利益をもたらすからである。他方、発展水準の異なる大国で構成されるシステムの場合、自由貿易秩序の成立は困難である。社会的不安定と政治的なパワーの喪失を憂慮する大国は開放を受容しようとしないからである。
開放的な秩序が成立する可能性が最も高いのは、他の国家に比べて圧倒的に大きく発展した単独の国家が上昇期にある覇権システムである。上昇期にある覇権国は開放によって所得の増大と経済成長の効果を得、開放による社会的な費用も負担することができ、国際政治上のパワーも強化される。小国の場合、経済的な便益が大きく政治的なパワーは元々制限的であるため開放を選好する。他方、中程度の規模の国家は経済的な便益と社会的な費用、そして国際政治上のパワーの変化を考慮し、開放に反応する。覇権国はこうした諸国に開放システムを受容するように誘導あるいは強制することができる経済・軍事・シンボル上の能力を有していて、それらを適切に使用することで開放的な秩序を生み出し維持することができる。
他方、覇権が衰退期に入ると、開放的な貿易秩序の維持は困難である。他国を開放的な秩序へと誘導することができる経済・軍事上の資源の動員が効果的に行われなくなるためである。さらに、衰退期の覇権国は開放システムに対する国益の計算が変化する。短期的な所得増大と経済成長の効果がにぶる中で、社会的費用を負担することは次第に難しくなる。長期的にも、商品・資本・技術の開放は国内経済から資源を流出させ潜在的な競争国を利することになるという否定的な効果をもたらすかもしれない。したがって、衰退期の覇権国は開放を選好しないようになり、開放的な秩序を維持する役割を期待どおり果たさなくなり、国際経済秩序は衰退していく。
この理論はウォルツが『国際政治理論(Theory of International Politics)』で提起したネオリアリズムのシステム理論と同じくらい簡潔で美しいシステム理論である。国際経済システムにおけるパワーの分布によって国際経済システムの開放の程度が決定されるというのである。
国益の多様性を認め国家の規模と発展水準という2つの変数を追加することでウォルツ理論の単純さを克服し、より精巧な理論を作り出したと評価できる。
にもかかわらず、ネオリアリズム覇権安定論には2つの致命的な欠陥がある。第1に、この理論は「覇権安定論」ではなく「覇権開放論(hegemonic openness theory)」であるという点である。クラズナーの演繹的な試みや経験的な検証の対象は国際貿易構造の開放の程度であり、安定性ではない。事実、両者を同一視するという誤謬によって論理の飛躍と実証の不一致が惹き起こされた。この点については後述する。
第2に、衰退期の覇権国が開放的な政策を放棄すると直ちに国際経済秩序の閉鎖が生じるという命題に対して、経験的にも理論的にも多様な反論と批判が提起されてきた。まず、クラズナー自身が述べているように、19世紀半ば以降の歴史的事実によって反証されている。英国の覇権の衰退が加速化していた19世紀末から第1次世界大戦直前までの時期と米国の覇権が衰退し始めた1970年代以降、両覇権国は覇権の衰退にもかかわらず既存の自由主義政策を持続させ、開放的な国際貿易秩序が維持された。したがって、クラズナーは覇権国内部の既得勢力ゆえに政策の変化が遅滞(lag)しているか、システムの変化には外的な衝撃が必要なのかもしれないと認めるほど論旨を後退させている。
理論的にもクラズナーの「衰退-覇権論」に対して疑問が提起されている。衰退期覇権国の政策にもかかわらず開放的な国際経済秩序が維持されるという理論的な根拠は、前述したように、ネオリベラリストによって十分に提示されている。また、衰退期の覇権国が閉鎖を追求するという主張も論理的根拠に乏しい。コヘインが指摘するように、衰退期に入った覇権国にとって閉鎖へと政策を変更することは国益に符合するよりもむしろ衰退を早めることになるかもしれない。覇権国が閉鎖したとしても、新しい技術と知識は競争国へと拡散し覇権国だけが孤立しさらに衰退が早まる結果がもたらされるかもしれない11)。国内政治の次元を考慮すると、クラズナーの主張はさらに妥当でなくなる。衰退期に入った覇権国が知識と技術の外部流出を防ぐために輸出規制を選択するというのは非常に難しい。開放を選好する国内利害勢力による抵抗が予想されるからである。それよりも経済状況の悪化の中で国内企業と労働集団が輸入の規制を要求するようになり、覇権国の政策変化は輸入規制を試みる方向で行われる可能性が高い12)。
例えば、上昇期覇権国が開放を選好し、国際経済秩序の開放を主導するとしても、衰退期覇権国の政策が閉鎖へと変化するという主張は論理的にも経験的にも根拠がない。閉鎖は一つの可能性であるにすぎない。覇権安定論のもう一人の理論家であるギルピンはこの点を認識している13)。ギルピンは覇権国が産業の相対的衰退に対応して採用することができる戦略について様々に想定している。既存市場の維持、新しい市場の開拓、あるいは海外ポートフォリオ投資の持続や多国籍企業による海外直接投資戦略の強化などがありうる。また、新しい技術や産業を発展させ、資本の流れを再調整することで覇権国の経済を再活性化することもできるし、保護主義やブロック化のような閉鎖の道もありうる。しかし、ギルピンはどのような政策対応がなぜ選択されるのかについては分析せずに、米国の場合、自由主義政策の弱化を選択したと指摘しているだけである14)。
ネオリアリズム覇権安定論の問題の本質は分析の単位が国家にあり、構造の変化に対して国家は国益を確保するために戦略的に対応すると措定している点にある。国際構造、特にパワーの分布に基づいて個別国家の対応を演繹的に導出するネオリアリズムのミクロ経済理論的な推論の隘路がそのまま見られるということである。国際経済秩序と対外経済政策の開放や閉鎖には様々な費用と機会が結合しており、それによる国内政治上の対立も起きる。経済力の相対的な衰退を経験している覇権国の場合にも、開放の便益を維持しようする勢力と国内市場の保護を要求する勢力、最低限の海外市場を確保しようとする勢力などが存在する。さらに、衰退の程度と原因、そしてその対応策と費用負担のあり方について国内アクターごとに見解と利害関係の相違がある15)。したがって、相対的な衰退という構造的な条件の下で、こうした諸勢力間の政治的な対決の様相によって衰退に対する覇権国の対応が決定されると考えなければならない。個別国家の行動を説明するために外交政策理論が必要であるように、単純にパワーの分布の変化だけで衰退期覇権国の対応を説明することはできない。
全体的に評価すると、ネオリアリズム覇権安定論は一般のシステム理論と同じように理論的な簡潔さ(parsimony)が極めて高く堅固な理論である。また、公共財論の覇権安定論と異なり国際経済秩序の開放を公共財とみないため規範性とイデオロギー的な性格が薄い。しかし、システム水準の理論が有する問題をそのまま有していて、安定と開放を混同し、開放の多様性を認識できていないなど重大な欠点が見られる。残念なことに、クラズナーが提起した理論的命題に対する十分な検討が行われていないためこうした問題が未解決のまま残っている。だからこそ、覇権と安定の間の因果関係に対する議論は前述の公共財論だけを軸にして展開してきたのである。  
4.国際政治経済秩序の現実と覇権安定論 

 

ここまで覇権安定論の性格と主要な論旨、そして問題点を検討してきた。もう一度強調すると、覇権安定論は戦後国際秩序が揺らぎ米国の経済力が衰退していく状況に対する米国的な問題意識に基づいているという根本的な欠点がある。米国中心の理念的な偏向性から自由でないため、結果的に国際経済秩序のある特定の性格を単純に公共財として理解し、開放と安定を混同するという誤りを犯していると考えられる。また、システム水準の理論にとどまっていて、それ以上議論が進展していないため、システム水準の理論全般に見られる説明の限界を克服できていないと評価することができる。
こうした問題を内包している覇権安定論を今、再検討する理由は何なのか。政治経済学的には、国際経済秩序の性格はどのようなかたちであれシステム内のパワーの分布を反映していると考えられる。新自由主義的なグローバル化として特徴付けられる1970年代以降の国際経済秩序の変化と国際経済システム内におけるパワーの分布の間には相関性が存在する。覇権安定論
は両者間の因果関係を本格的に説明しようとした試みである。したがって、これまで指摘してきた問題点を解決した上で覇権安定論を再適用する必要がある。すなわち、覇権と安定の概念を修正し、分析の水準をより具体的なところにまで下げると、20世紀後半以降の変化する国際経済秩序の性格を説明する上でこの理論は依然として有用であるというのが本稿の主張である。
まず、覇権の概念を修正しなければならない。覇権安定論の中でも覇権を正確にどのように定義しなければならないのかについては見解の相違がある。覇権概念自体が価値評価的な属性を有していることに加え、内包的な含意(connotation)と外延的な適用(denotation)も曖昧であるためである16)。国際政治経済システムにおける圧倒的な優位とは何をもって規定することができるのだろうか。生産力の優位なのか。金融の支配力なのか。先端技術の優位なのか。
また、どの程度の優位が覇権と非覇権を区分する基準なのか。パワーの優位がどの程度衰退するともはや覇権でなくなるのか。こうした基準で考えると、1970年代、1980年代の米国は覇権的な存在なのか。1990年代以降の米国はどうなのか。
パワーを物理的な能力に限って定義するネオリアリズムと同じように覇権を客観的な経済力だけで定義しようとする場合、明確な定義や論者間の合意は不可能である。物理的な能力も覇権の重要な構成要素であるが、それ以外の属性が必ず含まれなければならない。特に次の2つの次元を重視しなければならない17)。第1に、循環論的な誤謬が付随するかもしれないが、覇権の最も重要な属性は国際政治経済秩序の構造を選択し形成することができる能力である。すなわち、国際経済秩序の規範や規則、それに手続きを変更することができるパワーが覇権の本質である。こうした構造的なパワーは物理的な能力の相対的な衰退にもかかわらず持続しうる。
国際経済システムにおける構造的な覇権は圧倒的な物理的な能力に基づく場合もあるが、経済力が衰退した状況でも、それまでの国際経済秩序を維持できなくすることで行使されることもある。こうした拒否権的な覇権の行使は1970年代米国のドルの金兌換停止や資本統制の撤廃にも見られる。前者はブレトンウッズ通貨体制を崩壊させ変動為替制への転換をもたらした。後者は他国に資本自由化を強制し、戦後の埋め込まれた自由主義によって統制されてきた国際金融秩序を自由化・グローバル化へと変更させた18)。
第2に、国際経済秩序における覇権は国際システムの別の領域、特に安保の領域とイデオロギーの領域における覇権的な能力によって強化され維持されうる。ストレンジの指摘通り、国際システムの安保・生産・金融・知識の領域における構造的な覇権は互いに密接に関連している19)。一つの領域における衰退は別の領域における覇権によって補完されうる。特に米国の場合、冷戦期西側陣営における安保上の役割、ポスト冷戦以降圧倒的な軍事力の保有という安保領域における覇権が他の領域におけるパワーの資源になっていると評価することができる。また、先進資本主義国家では新自由主義イデオロギーの拡散とそれに対する同意や合意の形成によって、米国のイデオロギー的な覇権が生産と金融の領域でも強化される役割を果たしている。
つまり、国際経済秩序における覇権の概念は単純に物理的な能力だけではなく、国際経済秩序を変更しうる構造的な側面を含まなければならず、安保とイデオロギーの領域における覇権との関連性を考慮しなければならない。このように理解すると、経済的な衰退を経験している覇権国が構造的な覇権を行使し国際経済秩序の性格を自らに有利なように変更する現象を理解することができる。
覇権安定論の従属変数も修正しなければならない。前述したように、ネオリアリズム覇権安定論が説明するのは国際経済秩序の安定(stability)ではなく開放(openness)であった20)。公共財理論の場合、多様な領域における国際レジームの供給を説明する枠組みへと拡大したが、一義的な分析対象は国際貿易構造の開放性であり、開放と安定を同一視するという誤りは同じである。
国際経済秩序の開放と安定の間の関係は複雑である。開放的な秩序が維持される場合、安定的かもしれない。しかし、閉鎖的な秩序が開放的な秩序へと転換するとき、一定の不安定さが発生する。開放的な秩序がより開放的な秩序へと変化する場合にも、安定を損なう場合がある。
例えば、1970年代以降、国際経済秩序は貿易・金融・通貨の各領域において開放が進んだが、混乱と不安定は続いている。
覇権国は国際経済の各領域で自らが占める位置によって多様な開放的な秩序を追求し、その秩序が自らに有利である以上、そして変更の費用が便益より大きい場合に限って、その秩序を安定して維持しようとすると考えなければならない。この限られた意味において、覇権が安定を追求すると言える。しかし、覇権が追求する基本的な目標は自らに有利な開放的な秩序である。既存秩序の下で不均等成長によって自らの相対的な地位が深刻な水準で傷つく場合、覇権は別のかたちの開放的な秩序を追求するかもしれない。また、覇権国は国内政治上の要因によって既存秩序を維持しようとする政策を追求するかもしれない。前者の例として1970年代以降の米国の例を挙げることができ、後者の例として19世紀末以降の英国の場合が該当する。
さらに2つの点を追記しなければならない。第1に、従属変数としての国際経済秩序の開放の程度は多様であるということである。国際経済秩序の開放の程度や様式も多様であり、各下位領域における開放の水準と様式の組み合わせも様々であるということを認識しなければならない。同じ自由主義国際経済でも、19世紀末の自由主義秩序と第2次世界大戦以降の自由主義秩序、そして1970年代以降現在に到る自由主義国際経済秩序は異なる。それぞれ古典的自由主義秩序、埋め込まれた自由主義秩序、新自由主義秩序と呼ぶ理由は、開放の程度と様相、そして貿易・通貨・金融の秩序の性格が異なるからである。
覇権国は単純に「より」開放的な秩序を追求しているのではなく、「自らに有利な」開放的な秩序を追求している。自らに有利な開放的な秩序は様々な要因によって決定される。まず、世界経済の生産、金融、通貨などで覇権国が占める位置によって開放の性格が決定される。それだけではなく、覇権国の国際政治上の利害も国際経済秩序の性格を決定する上で考慮され、覇権国の国内の利害もこれに影響を及ぼす。これらの要因によって規定される国際経済秩序の性格は異ならざるをえない。
つまり、覇権的パワーの分布によって説明しなければならない国際経済秩序の性格は、単純に「開放-閉鎖」の二分法的な従属変数ではなく、多様な開放の様相によって規定しなければならない。覇権と開放あるいは安定との間のシステム水準における理論から抜け出し、覇権的パワーの分布、その構成上の変化によってどのような性格の開放的な秩序が追求され国際経済秩序の安定にどのような結果がもたらされるのかを説明しなければならない。
また、覇権安定論のリアリズム的な性格に対する重大な修正は国家中心主義という問題と関連している。先に検討したように、覇権安定論におけるアクターは国家であり、国家以外に分析の単位は設定されていない。国家は演繹的に推論された国益を追求する。こうしたリアリズムの前提に基づいて、「覇権国は開放を追求する」という前提が導き出されている。
こうした前提に対する経験的な反証についてはすでに検討した。さらに、開放の多様性を考慮すると、「なぜ特定の性格の開放を追求するのか」という問題が提起される。これについては国家中心主義的なアプローチでは説明できない。なぜ20世紀初め英国は覇権の衰退にもかかわらず古典的な自由主義秩序を維持しようとしたのか。なぜ第2次世界大戦以降米国は埋め込まれた自由主義秩序を主導したのか。なぜ覇権の衰退を経験しながらも米国は新自由主義的な国際経済秩序への転換を追求したのか。こうした問題に対する回答は国家中心的な見方においても部分的には得ることができるかもしれない。しかし、多様な開放的な秩序の中で特定の形態が選択された理由については、国内政治を分析することではじめて理解できる。
つまり、覇権と開放の間のシステム水準の分析は国家レベルの分析と組み合わされなければならないというわけである。そうすることで、ある覇権がどのような国内政治過程を経て特定の政策を選択するようになり、特定の性格の開放的な国際経済秩序を追求するのかを説明することができる。今の国際経済秩序を理解するために必要なのはまさにこうした作業である。
覇権安定論は1970年代の国際経済秩序の中で米国的な問題意識に基づいて台頭し、米国の社会科学の方法論によって展開してきた理論である。反面、国際経済領域における国際関係をパワーの概念で説明しようとするのはリアリズムの大きな課題であり、国際経済システムの諸性格、すなわち、パワーの分布と開放と安定の間の関係を理論化しようとする試みである。この点において、覇権安定論の問題意識は依然として重大な意味を有している。覇権的パワーの分布が国際経済秩序の性格をどのように規定しているのか、前者の変化が後者の変化にどのようにつながるのかといった問題は1970年代以降国際経済秩序の変化を説明する上で鍵となるものである。しかし、そのためには、これまで論じてきたように、独立変数と従属変数の両方を修正し、より下位の水準に対する研究プロジェクトとして設定し直さなければならない。 

1)Joseph M. Grieco、 “ntroduction、”in Grieco (ed.)、 The Internatinal System and the International Political Economy、 Vol. I: State Structure and Strategoies、 Edward Elgar、 1963、 p.x.. 覇権安定論というのは誤った名称(misnomer)である。この点については後述する。しかし混同を避けるため、本稿ではこの名称をそのまま用いる。
2)David Mitrany、 A Working Peace System、 Quadrangle Press、 1943; Ernst B Haas、 The Uniting of Europe: Political、 Economic、 and Social Forces 1950-1957、 Stanford University Press.
3)Charles P. Kindleberger、 The World in Depression、 1929-1939、 University of California Press、1973.覇権と国際政治経済秩序:覇権安定論の批判的評価(白・中戸・浅羽)( 583 ) 257
4)公共財理論の適用については、Mancur Olson、 The Logic of Collective Action、 Harvard University Press、1973を参照せよ。
5)John C. Conybeare、 “ublic Goods、 Prisoner’ Dilemmas and the International Political Economy、”par International Studies Quarterly、 28-1 (1984)、pp.5-22; Duncan Snidal、 “he Limits of Hegemonic Stability Theory、”Internaitonal Organization、 39-4 (1985)、 pp.579-614
6)この点において自由貿易は依然として公共財であるとする覇権安定論からの反論が提起されている。例えば、Joanne Gowa、 “ational Hegemons、 Excludable Goods、 and Small Groups: An Epitaph for Hegemonic Stability Theory?”World Politics、 XLI (1989)、 pp.307-324.
7)国際制度の供給が公共財なのかという問題についてリアリズム内でも批判することができる。国際制度の公共財的な性格を強調すると、分配の問題が後景かするという点である。ある領域では国家間の共同の問題や葛藤を解決するための国際制度の創出が公共財的な性格を有しているとみなすことができる。しかし、国際的な法制化(legalization)に対する最近の研究が示すとおり、多くの領域で国際制度の便益は国家間に不均等に配分される。、こうした領域における国際制度についてパワーの論理を反映しているものとみなさず公共財として判断すると、便益と費用の不均等な配分という国際関係の根本的な性格を看過することになる。
8)Duncan Snidal、 op. cit.
9)Robert Keohane、 After Hegemony、 Princeton University Press、1984.
10)Stephan D.Krasner、 “tate Power and the Structure of International Trade、”World Politics、 28-3 (1976)、pp.319-21.
11)Robert Keohane、 “roblematic Lucidity: Stephen Krasner’ ‘tate Power and the Structure of International Trade’”World Politics、 50-1 (1997)、 p.155
12)Ibid.、 p.155.
13)Robert Gilpin、 U.S.Power and the Multinational Corporation、 Basic Books、1976、pp.63-67.
14)Robert Gilpin、 The Political Economy of Interenational Relations、Princeton University Press、1987、pp.221-30
15)この問題について19世紀後半から20世紀初盤の英国を事例にした優れた研究として、Aaron Friedberg、 The Weary Titan: Britain and the Experience of Relative Decline、 1895-1905、 Princeton University Press、 1985を参照せよ。英国の関税改革運動と米国の総合貿易法を比較し衰退期覇権国の対外経済政策を分析した論考としては、白昌宰「衰退期は建国の対外経済政策の国内政治的基盤【韓国語】」『韓国と国際政治』17-2 (2001) pp.1-37を参照せよ。
16)この点については、白昌宰・孫浩哲「覇権の浮沈と国際秩序:パックスブリタニカとパックスアメリカーナ、そしてその後【韓国語】」オギピョン編『21世紀米国の覇権と国際秩序』(オルム、2000年)pp.99-152を参照せよ。
17)この点についてはストレンジの優れた分析を参照せよ。ラセットとナイも類似した点を指摘している。Susan Strange、 “he Present Myth of Lost Hegemony、”International Organization、 41-4 (1987)、pp.551-574; Bruce Russett、 “he Mysterious Case of Vanishing Hegemony? Or、 Is Mark Twain Really Dead?”International Organization、 39-2 (1985)、 p.207-231; Joseph S. Nye、 Jr.、 Bound to Lead: The Changing Nature of American Power、 Basic Books、 1990
18)この点については、Eric Helleiner、 States and the Reemergence of Global Finance: From Bretton Woods to the 1990’、 Cornell University Press、 1994を参照せよ。
19)この点に関する詳細な論議については、Susan Strange、 The Retreat of the State、 Cambridge University Press、 1996を参照せよ。
20)この点についてはコヘインも認識していた。op. cit.、pp.150-170. 
 
冷戦体制解体と東アジア地域再編の課題
 東アジア冷戦構造の特徴と再編の展望  

 

はじめに
戦後日本経済の構造(三層の格差系列編制1))は、90 年代初頭バブルの破綻と冷戦体制の解体によって生じた構造不況により転換をせまられ、2000 年代初頭小泉改革によってグローバル型構造への転換が図られた。小泉改革の特徴は、新自由主義的改革による「小さな政府」への転換と市場原理主義の導入にあった。改革の結果、むきだしの競争原理にさらされる一方で、勝ち組の企業もリストラによって大幅に人員が削減され、残った少数の正社員と派遣や臨時・パート等の非正規社員からなる新たな従業員構成に再編される。しかも、正社員は過重労働、非正規従業者は低賃金・無権利の不安定雇用という、格差と過酷で劣悪な労働条件にさらされている2)。こうした過酷な競争社会への編成替えは、社会的な荒廃を深め、親子・親族殺し、友人殺し等家庭と人間の解体現象をもたらしている。小泉改革と並行して興隆したナショナリズムは、過当競争とそれがもたらした社会的荒廃の帰結に他ならない。ナショナリズムの高揚は、追い詰められた弱者の集団が生み出す負のエネルギーの発露であり、新自由主義的政策によってバラバラにされて放り出された個人が、自らの弱さを強者(国家)の意識に仮託して補完しようとする観念の表出である。
1990 年代末以降におけるナショナリズムの高揚は、したがって戦後日本経済の強さの反映というよりも、弱さの投影なのである。それは戦後日本経済が、決して「高度に発達した資本主義」ではなく、戦後冷戦体制の申し子として、奇形的な発展をとげた資本主義であったことを示している。戦後日本経済の奇形性と特殊性については、拙著(『戦後日本経済の構造と転換』日本経済評論社、2005 年)で示したが、この特殊な内的構造は、冷戦体制下における対米従属という対外関係の戦後的特殊性によって規定されて出来上がったものである3)。ところが、今回の構造改革においては、対米従属構造には全く手がつけられなかった4)のである。構造改革が失敗した原因も、この対米従属構造の改革に手をつけなかった点にあることを銘記すべきである。 筆者は、構造改革の目的は、持続可能な地域自立循環型社会の形成に向けて、戦後冷戦体制の下で、促成栽培的に重化学工業化を進めるために中央政府に集中させていた権限を、上方に向かって広域経済圏(「東アジア共同体」)に、下方に向かって地方に、上と下の両者に分権することにある5)と考えている。新たに形成される広域経済圏(東アジア共同体)と国家は、グローバル化に抗して、東アジア地域を地域自立循環型社会に転換するための「原蓄国家」の役割を果たすことを目的とするものと位置づけうる。
東アジアにおける広域経済圏の形成を考える場合の障害は、東アジアにおける冷戦構造の残存である。周知のように、1980 年代末から90 年代初頭にかけて、冷戦体制は解体した。ソ連・東欧は社会主義を離脱し「移行経済」、つまり市場経済に転換した。しかし、東アジアでは、中国に代表されるように、市場経済を導入する一方で、政治形態は社会主義を維持するという社会主義的市場経済の形をとり、依然として社会主義を維持している。これを東アジアの遅れの問題として見る見解が多い6)。前者を市民革命による体制転換を伴なうビッグ・バン型改革とし、後者を体制内での漸進的改革方式とみる7)のである。
しかし、この違いは単なる遅れの問題ではなく、根底には、東アジア固有の歴史的地盤の問題があると考える。その点は、戦後一貫して西側陣営に属し、資本主義的発展をとげた日本の場合についてもいえる。両者には東アジア的地盤がかかえる共通した問題がある。これを単に冷戦構造の遺制の問題としてみるか、より基底的な問題とみるか、東アジアの今後の再編を展望する場合、きわめて重要な問題だと考える。
従来、東アジアの特殊性の問題は、二段階・二様に取り扱われてきた。当初は、東アジア社会の停滞の原因としてのアジア的低位地盤の問題として論じられた8)。しかし、東アジアNIESが登場した80 年代になると、今度は一転して「成長のアジア」の秘密を探ることが課題となった9)。工業化が達成され、「世界の工場」と賞賛される現段階になると、今度は成長要因を問うというよりも、環境問題や不安定性の要因を探り、いかにして安定した「持続可能な発展」軌道に転換するかが問われ始めている10)。いまや、「成長のアジア」か「持続可能なアジア」かが、東アジアの今後の発展路線をめぐる主要な対抗軸となったのである。したがって東アジアにとっての「持続可能な社会」とはいかなる内実を持った社会か。それはいかにして可能か、が問われる必要がある。本稿は、東アジアにおける「持続可能な発展」の途への転換のプロセスとして、東アジアに残存する冷戦構造を分析し、日本を含む東アジア地域再編の方向と展望を探ることを目的とするものである。
構成は、T 東アジア冷戦構造の特徴。U 東アジアにおける冷戦体制の成立過程。V 冷戦体制の解体過程と東アジア地域。W 東アジア冷戦構造の特徴と再編の展望、である。 
T 東アジア冷戦構造の特徴

 

ソ連・東欧社会主義の崩壊によって、米ソ対抗を主軸とする冷戦体制は終焉したといわれている。しかし、東アジアの社会主義国は、市場経済の導入を図る一方で依然として社会主義体制を継続している。その理由は何か。日本を除く東アジア諸国・地域は国民国家の成立を待たずに帝国主義に支配され、戦後その中の幾つかの国・地域は、ただちに社会主義に移行した。
中ソ対立や中越戦争に示されるように、東アジアでは当初から社会主義国は多元かつ多様化していた。こうした事情が冷戦の終焉に時差と多様性をもたらした11)、というのである。
しかし、東アジア社会主義の場合、近代化、つまり国民国家の形成の遅れに問題を収斂させていいのかは疑問である。市場経済の導入による急激な工業化の成功が、格差を広げ、より一層混迷を深めたかにみえる中国をみれば、工業化による国民国家基盤形成の遅れということによっては片付けられない、より根源的な問題があるように思われる。それは一言でいって東アジア社会の構造、つまり歴史的地盤の問題である。封建農奴制社会から市民革命によって独立自営農民が生まれ、その後の農民層分解によって都市労働者が形成されて始まった西欧近代12)に比べ、東アジアでは市民革命が行われないまま、上からの国家主導の改革が行われた。土地革命は戦後日本、韓国、台湾においては、中国革命の波及をさけるために米占領軍主導の農地改革によって上から行われる13)。しかし、中国革命による土地国有化、日本、韓国、台湾の農地改革による農地解放によっても、独立自営農民は形成されず、農業・農民問題は解決されないまま、工業化を支えるための低賃金労働力の供給基盤とされていった14)。西欧的な意味での近代的個人を生み出す基盤が形成されなかったことが、日本を含む東アジア社会全域で、個人が共同体(国家や企業)に埋没し、国家体制を下から変える力にならない最大の要因ではないか、と考える。
「東方では国家がすべてであり、市民社会は幼稚でゼラチン状のものであった」15)というグラムシ・テーゼは今でも生きている、と考える。確固たる自立した市民層を生み出すことが出来ない基礎は、東アジアに一般的な自立する基盤とはなりえない零細地片所有に制縛された零細農民の存在である。近年「三農問題」16)として騒がれているが、農業問題は中国の人民民主主義革命による土地国有によっても解決されなかった問題といえよう。
表−1によれば、中国、韓国、日本の農民一人当り耕地面積は、アメリカ、EUに比べて破格に小さい。特に中国の狭隘さは際立っている。農業人口の多さが原因だが、農業人口を半分に減らしたとしても、なお一人当り耕地面積は韓国の水準にすら達しない。現状では食糧の自給率100%をかろうじて維持しているが、元が多少でも切り上げられると、工業は生産性の上昇によって対応できるが、農業は相当な打撃を受けるであろうことは容易に想像される。元切り上げは、工業で人減らしを進める一方で農業からは大量の離農者を生み出さずにはおかない17)。
この矛盾を果たして社会主義政府は解決しうるであろうか疑問である。
日本や韓国の場合は、政府の補助金政策に守られた米単作農業と、兼業や出稼ぎにより低賃金労働力の供給基盤となることによって工業化を支え、工業製品輸出の代償としてアメリカの農作物を輸入するという形で成り立つ、対米従属構造に組み込まれて存続してきた。しかし、円高転換による製造業企業の対外進出後は兼業機会が失われ、公共事業という形に変わった財政補助に支えられることになったが、財政が破綻した90 年代後半以降は、財政リストラ・地方切捨て政策によって切り捨ての対象になる。日本や韓国のように、規模が小さく農業人口も比較的少ない国だから何とか農業を支えることができたが、60 数%の農業人口をかかえる中国の場合、そう簡単にはいかない。
以上にみたように、東アジアにおける冷戦構造残存の基礎には、東アジア的地盤としての零細農耕という構造問題がある18)。日本政府は高度成長が始まった60 年代初頭に、農業基本法を制定し農業の構造政策を策定し、農業の規模拡大を図ってきた。90 年代における戦後構造の破綻以降は、農業の株式会社化等による企業的農業への転換を進めようとしている。しかし、このいずれの政策によっても太刀打ちできなかったし、問題の解決になっていない19)。中国の場合も同様に、財政補助や多少の規模拡大によっては対応できない状態にある。
こうした東アジアに共通する基底的な問題を回避して、工業化による中産階層の増加が、民主化を進め開発独裁(社会主義)体制を打ち破り、民主国家への転換を実現する、と考えるのは早計な議論である。東アジア社会における人口問題、土地問題、農業問題をどう解決するか。
その展望なしに東アジアの問題は解決しえない。東アジアにおける冷戦構造残存の基底には、こうした東アジア独自の難問があるのである。
後述するが、東アジア諸国・地域は、北朝鮮を除きアメリカのドル基軸通貨特権と強大な軍事力に守られた浪費経済に依存する形で存在している。この冷戦が創り出した構造から自立する意思と展望なしに冷戦構造からの脱却はない。この相互依存の歪んだ構造自体、ドル暴落という経済的暴力か、環境問題の悪化のいずれかによって崩壊するのは時間の問題だと思われる20)。
第一次大戦後は国際連盟を、第二次大戦後は、IMF・ガット体制と国連という戦後ヴィィジョンを提起して世界をリードしてきたアメリカは、冷戦後はヴィジョンを提示出来なくなっている21)。そうである以上、ヨーロッパが拡大EUを結成したように、東アジアは東アジアの冷戦後のヴィジョンを自ら描く以外にないのである。
表−1 東アジアの零細農業(農民一人当り耕地面積ha)
      1980     1990     2000 (参考)2002 年(%)
                             農業就業者比率自給率
世界平均 1.25      1.13      1.03
中国    0.24      0.25      0.24      65.5     101.0
韓国    0.36      0.55      0.72      7.7      26.6
日本    0.78      1.02      1.62      3.4      24.0
EU     5.3       7.2       9.9       −      −
USA    48.6       51       58.5      2.1      118.9 
U 東アジアにおける冷戦体制の成立過程

 

冷戦とは、ソ連を中心とする東欧社会主義国と、中国、北朝鮮、ベトナム等東アジア社会主義国からなる社会主義体制とこれに連帯する民族解放運動、先進国の労働運動の一部が加わった東側陣営とアメリカを基軸国とした西欧諸国と日本他の西側資本主義陣営の世界的な階級対抗であり、米ソ対立を軸とする世界的な階級対抗が創り出した体制が冷戦体制であった22)。
1980 年代末から90 年代初頭にかけてのソ連・東欧社会主義の崩壊によって、冷戦体制は解体した。しかし、東アジアにおいては、中国、北朝鮮、ベトナムが依然として社会主義を続けており、冷戦構造は残存している。日本も冷戦体制下で創出された政治・経済構造が継続している、という意味で冷戦構造が残存しているといっていい。東アジアの冷戦構造の特質については前章でみた。このような特徴を持つ東アジア諸国・地域は、冷戦体制の中にどう位置づけられていたのか。東アジア諸国・地域の位置と特徴を東アジアにおける冷戦体制の成立過程を見ることによって明らかにしたい。
冷戦体制は、核とミサイルの開発競争を軸に展開された米ソ対抗が中心軸であり、アメリカと西欧諸国で構成されたNATO軍とソ連・東欧社会主義を構成国とするコメコン、ワルシャワ条約機構の対峙が主要な対立軸であった。東アジアの場合は、東西両陣営は共に制度化された軍事機構や集団的安全保障体制もなく、日米安全保障条約に象徴される2国間安全保障体制があるだけであった23)。その点は社会主義陣営の場合も変わらない。
ソ連崩壊後、冷戦時代の機密文書が公開され、ベールに包まれていた社会主義国の内実が明らかにされつつある24)。これらの文書とそれらに依拠した研究成果を手がかりに、社会主義の祖国であり盟主であったソ連が、東アジア社会主義国・地域をどう見、位置付けていたかを検討する。第二次世界大戦中、ソ連はドイツとの戦争に主力をそそいでおり、日本に対しては41年4月に締結した日ソ中立条約を盾に、連合国の要請にもかかわらず、対日戦に参戦しなかった。それは戦線を二つに分けることの不利をさけるためであったにすぎず、極東に対する関心がなかったためではない。しかし、スターリンとソ連の関心は、東アジアを社会主義化しようとするものではなく、ソ連の太平洋への出口を塞いでいる千島列島と中国東北部を通じた旅順、大連への交通回路の確保にあった。中国に対する対応と関心も、したがって中国共産党や八路軍への支援と連帯ではなく、蒋介石率いる国民党政府に対する国家間の対応が中心であった25)。
東アジアにおける冷戦体制の成立は、1949 年10 月の中国革命の成功による中華人民民主主義共和国の成立と翌年2月の中ソ友好同盟条約締結を契機としてだといわれている26)。第二次大戦の大きな被害からの復興に追われていたソ連は、東欧支配で精一杯であり、東アジアの支配にまで手を廻す余力はなく、東アジアの社会主義国支配は中国共産党にゆだねる方針をとった。スターリン以下、ソ連の幹部が中国はもちろん、占領していた北朝鮮を含めて、社会主義建設の基盤が形成されていないと考えていたからでもあった27)。当時のソ連にとって、極東地域への関心は太平洋側への出口の確保という地理的要因以上に出るものではなかった。
アメリカも、50 年2月の中ソ同盟の締結までは、新中国に対する態度を決めかねていた。中ソ同盟の締結をみて、台湾国民党への支持を明確にする28)。直後の50 年6月に始まる朝鮮戦争によって、東アジアの冷戦は決定的になるが、ソ連のスターリンは、北朝鮮の南進論に対して第三次大戦の開戦を恐れて賛成しなかった。中国の台湾武力統一論に対しても、同様に第三次大戦の勃発を恐れて反対した。したがって、朝鮮戦争開戦後も、ソ連は武器を(有償)供与しただけで派兵はしなかった。一方、中国は国境線近くまで後退した北朝鮮軍を100 万の解放軍を送ってバックアップし、参戦した29)。
中国も北朝鮮も、社会主義建設の当初はソ連の指導と援助を受けるが、スターリンの死と56年のフルシチョフによるスターリン批判以後、ソ連離れを起こし中ソ対立の結果ソ連が専門家を引き上げたこともあって、それぞれに独自路線を進み、独自の社会主義建設に向かうことになる。スターリン批判後、ソ連が「平和共存路線」に転ずると、中国はこれをソ連修正主義とはげしく批判し、北朝鮮と共に独自路線を追求し、国際的に孤立を深める30)ことになる。
東アジア社会主義は、ソ連・東欧以上に社会主義の条件が整わない段階で、ソ連の指導者スターリンの官僚独裁型社会主義をモデルに、社会主義建設を行おうとしたものである。コミンフォルムの失敗もあり、国際的組織を持ち相互に協調・連帯することもできなかった31)。つまり、市民社会の未熟さが、冷戦体制解体後も、冷戦構造を残存させる主要な要因になっているといえよう。国際的に孤立した中での独自路線の追及は、結局は精神主義的な独裁体制の培養器に変質せざるをえず、中国の文革、ベトナム統一後のボートピープル、北朝鮮の工業化と核開発の無理による飢餓等による知識階層の追放・衰退を招き、社会的疲弊を招く結果に帰着した。 
V 冷戦体制解体課程と東アジア地域

 

中ソ対立後、中国が孤立主義路線を歩んで文革に走り、アメリカがベトナム戦争に介入し北爆を始めた60 年代後半、東アジアでは日本が高度成長をとげ、後の東アジアNIESが成長軌道に乗るための基本的枠組みを築いていた。韓国は、1961 年軍事クーデターにより大統領に就任した朴大統領が、翌62 年から第一次5ヵ年計画を開始する。期待していた外資が集まらなかったために、急去日韓条約の締結に踏み切り日本からの賠償金に原資を求める方向に転換し、65 年日韓条約の締結によって日本から8億ドルの有償(5億ドル)無償(3億ドル)の賠償金を獲得した。これにベトナム戦争参戦兵士の外貨収入を加えて、工業化の原資とした32)。
台湾の場合、アメリカ政府の財政危機による政府援助を民間資本の進出に切り替える意向にそって、65 年「輸出加工区」を開設し、外資導入の受け皿を創った。当初は零細な華僑資本以外の進出はみられなかったが、アメリカ政府が進出企業の保障を決めて後、米日企業の進出が始まった。輸出加工区は、ソ連留学を経験した将経国による「4ヵ年計画」と合わせて、台湾の工業化促進に重要な役割を果たした33)。
香港も文革を逃れて本土から流入した亡命中国人実業家を中心に輸出加工区を創り、イギリスのバックアップの下でベトナム特需に依存する形で工業化を開始した。シンガポールは、1963 年マレーシァ連邦としてのイギリス植民地からの独立後、すぐに中国人を主体とするシンガポールを単独で独立させ、リーカンユーの指導の下で工業化に乗り出した34)。ベトナム周辺諸国は、ベトナム特需を享受する一方で、ベトナムに対抗すべくASEANを結成した。こうして、後の東アジアNIES諸国・地域は、60 年代後半アメリカの援助政策の転換とベトナム特需に依拠して工業化と経済建設の基礎を築いたのである35)。  
1.冷戦体制解体第一階梯
東アジア冷戦体制の転換の始まりは、69 年ニクソンのグァム・ドクトリンによるデタント路線への転換と、71 年米貿易収支赤字転落による金・ドル交換停止を契機とした冷戦体制解体第一階梯への転換のひとこまとして行った、72 年ニクソンの中国訪問による米中和解であった。
突然の米中和解は、アメリカとの戦争の渦中にあったベトナムは勿論、「平和共存」路線をとってきたソ連にも大きな衝撃を与えた。また、世界のベトナム反戦運動にも大きな衝撃を与えた。しかし、米中接近を自らの存亡にかかわる重大な脅威として受け止めたのは、中国周辺の冷戦の最前線に位置する韓国、台湾、香港等の国・地域であった36)。これらの国・地域は、米中和解によって、中国封じ込めの最前線に位置する自国・地域の役割が失われ、アメリカから見捨てられるのではないかという危惧をいだいたのである。日本も突然のニクソン訪中に驚いて、すぐに後を追い中国との国交回復に走った。
米中和解ショックを受けて、韓国と台湾は、対北朝鮮、対中国の戦争に備えて単独で戦える軍備の基盤を築くべく、重化学工業化計画に乗り出す37)。73 年第三次中東戦争をきっかけにOPEC諸国が行った石油価格引き上げ(オイル・ショック)がもたらした先進諸国の不況は、OPEC諸国に流入したオイルマネーの投資先を失くし、多国籍銀行を通じて韓国や台湾等の新興工業諸国・地域に貸し付けられ、これらの国・地域の重化学工業化を支える資金源となった。
ようやく借りることが出来たオイルマネーに依拠して、韓国、台湾、香港、シンガポールは、70 年代工業化を達成し、79 年OECD報告を通じて、中南米、南欧、東欧諸国と並んで東アジアNICS(NIES)の登場が世界に知らしめられることになる38)。
1979 年イギリスのサッチャー首相は新自由主義政策に転じた。81 年にはアメリカのレーガン大統領が後にレーガノミックスとして知られる新自由主義政策によってこれに続くが、その背景には、日本の台頭と併せて東アジアNIESの登場があった。79 年の中国の改革・開放政策への転換と、86 年に始まるソ連のペレストロイカも、東アジアNIES登場の衝撃によるところが大きかった。東アジアNIESの登場は、日本経済のME化による躍進と合わせて冷戦体制の両側を大きく揺さぶり、やがてソ連・東欧社会主義を解体に導く導火線となったのである39)。  
2.冷戦体制解体第二階梯
1979 年に起った第二次石油危機に対してレーガン政権がとった高金利・ドル高政策は、新興工業諸国・地域(NIES)を、高金利政策によって重債務国に転落した中南米諸国と、ドル高が引き起こした米製造業の内製から外注への転換と、ME企業の進出や部品の外注・委託生産の増加によって、成長を加速した東アジアNIESとに両極分解させる40)。ドル高によって国際競争力を失ったアメリカは、産業を「空洞化」することになる。それに加えて、減税下での新冷戦政策の推進によって財政歳入を減らす一方で軍事支出を増やした結果、大幅な財政赤字に見舞われ、「双子の赤字」に陥る。この赤字を金融の自由化により、外国資金の導入によって補填したために、85 年アメリカは第一次大戦以来71 年ぶりに債務国に転落し、85 年9月プラザ合意によりドル安・円高政策への転環をせまられる。ソ連も、85 年に書記長に就任したゴルバチョフが、レーガンの新冷戦によって疲弊したブレジネフ時代の負の遺産と、東アジアNIESの台頭に触発されて、86 年ペレストロイカに踏み切る41)。
1985 年の円高転換は、韓国、台湾等の東アジアNIESに「三低景気」(自国通貨安、金利安、原油安)をもたらし、成長を刺激する。この成長により韓国、台湾は独裁体制を脱却し、民主化を達成する。中国は79 年に改革・開放に転じ、特区への外資の導入を図ったが、基本的には借款による中国国営企業を担い手とした経済建設路線をとっていた。89 年のゴルバチョフ訪中直後に起った天安門事件は、こうした中国の借款による経済建設路線の破綻を示すものでもあった。天安門事件という挫折を経験し、冷戦体制崩壊と、80 年代後半における東アジアNIESの躍進を踏まえて、92 年外資導入によるNIES型の輸出主導型工業化路線への転換を図る42)。
中国の借款による国営企業主導の工業化が失敗したのは、文革期に科学者、技術者、知識人を迫害した後遺症でもある。92 年小平が外資導入路線に転換したのは、外資導入によってこの欠落をカバーし、その間に科学者・技術者の教育体制を整えるためでもあった。ベトナムや北朝鮮の工業化がうまくいかなかったのも、ボートピープルや孤立下での工業化と核開発による飢餓で知識人や技術者を失ったためでもある。
[ 表−2 食料・原燃料と機械機器の輸出入(米中心→アジア中心へ) ]  
3.ポスト冷戦政策の展開
1993 年米クリントン政権によるポスト冷戦政策の展開43)は、日本の「55 年体制」を崩壊させる。94 年中国元の単一為替レート化による切り下げは中国の輸出競争力を強めたため、NIES・ASEANの貿易収支の悪化を招き、97 年のタイ・バーツの下落に始まる東アジア通貨危機を引き起こすことになる。東アジア通貨危機は韓国にも及び、外貨危機とIMF管理下でのリストラ改革を強制する。また、日本の金融危機を誘発し、不良債権問題と長期不況の悪化を招く44)。
2000 年アメリカのIT バブルが破綻、2001 年ブッシュ政権に変わるが、9月テロ事件の勃発によって世界は対テロ戦争の渦中に巻き込まれる。一方、中国は2001 年にWTOに加盟し、外資のより一層の導入によって成長を加速することになる。2001 年以降の小泉改革期における日本の成長は、中国特需によって支えられた、といえる。中国の躍進はアメリカのより一層の産業の「空洞化」をもたらし、2005 年アメリカの経常収支赤字は8000 億ドルを超え、対テロ・イラク戦争による軍事支出増による財政赤字3500 万ドルと合わせて新「双子の赤字」をかかえることになる。
クリントン政権のポスト冷戦政策による第二次円高(95 年4月、1ドル≒ 80 円)と中国のWTO加盟によって、日本企業の中国進出に拍車がかかり、日本経済は中国を中心とする東アジア地域との関係を強化した結果、対アジア貿易は対米貿易を逆転する。90 年代初頭におけるソ連の解体後、ソ連からの援助を断ち切られた北朝鮮は、90 年代核開発という瀬戸際戦略に走り、生き残りを図るが、それは同時に国内の飢餓状態を生み出している45)。ベトナムもベトナム戦争の勝利が老齢支配という後遺症をもたらし、ドイモイ政策も機能しないまま停滞を続けている。97 年の外貨危機により、IMF管理下におかれた韓国は、IMFリストラによってIT 大国として復活し、不況下における改革で疲弊した日本経済の停滞の間隙をぬって、中国特需の恩恵にあずかりつつ世界市場に進出して跳梁している。  
W 東アジア冷戦構造転換の展望

 

2000 年代、日本も中国も、冷戦構造を引きずったまま最終的にはアメリカの浪費構造への依存をより強める形で進んでいる。アメリカは中国への企業進出を強める一方、巨額な対中貿易赤字を生み、日本に対しても大幅貿易赤字を続けつつ、両国からの資本の輸入によって赤字をカバーしている。中国は米日資本を導入し、日本から部品・材料、製造装置を輸入し、組み立てた製品をアメリカに輸出、獲得した貿易黒字は、アメリカの財務省証券の購入にあててアメリカの資金不足を補っている。日本は対米貿易の黒字、対中貿易の僅かな赤字、全体としての大幅黒字分を同様にアメリカに還流させている。
問題の核心が、アメリカのドル垂れ流しによる浪費構造にあることは明白であるが、中国、日本にも問題がある。中国は2000 年代WTO加盟以後9%近い成長をとげているが、経済を支えているのは、進出外資による設備投資であり、個人消費の水準が低いため内需が制約されることによって過剰圧力にさらされ、市場を海外、特にアメリカに求めざるをえない構造になっている46)。日本も中国ほどではないが、設備投資の比重が高い。中国の場合、輸出志向の外資依存の度合いが強いことに加えて、都市部と農村部の所得格差が大きく、生産力に比べて消費水準が低く、国内市場が狭隘であるという構造的な問題を抱えている。人口の60 数%の農業人口を抱え、しかも農業の規模は日本よりもさらに小粒で零細である。加えて生産自体も低賃金労働力と資源・エネルギーの多投入型であり、生産量の増大は即環境問題の悪化につながっている。
米中の経済関係が深まれば深まるほど、一方ではアメリカの貿易赤字が増加し、他方ではアメリカの浪費の増加と中国の資源・エネルギーのムダ使いによって、環境問題の悪化が進む、という悪循環に陥っている47)。中国の貿易黒字削減のために元を切り上げれば、輸入農産物価格の値下がりによって農家所得が圧迫され、離農による余剰労働力の増加(失業問題)をひきおこさずにおかない。
[ 表−3 国民総支出構成日米中比較 ]
人民元の漸次的切り上げというソフトランディング方式が成功すればいいが、エネルギー・資源価格の高騰やドル暴落という事態が発生すれば、対米依存構造は一挙に崩壊する危険性をはらんでいる。いずれにしても外部の経済に依存せざるをえない設備投資主導型の経済では安定出来ないし、資源・エネルギー問題、環境問題に対応出来ない。
人口が多く、可耕地が少ない東アジアの場合、輸出に依拠する巨大工業に依存した経済構造は存続しえない。環境問題への対応と経済の安定のためには、それぞれの地域の自然的歴史的条件に適合的な経済構造への転換が不可避である。エネルギーと食糧の地域内自立を基本とした地域自立循環型社会への回帰である48)。どの国・地域も、近代以前には地域自立型経済が基本であった。稲作農業をベースにしてきた東アジアの場合は、これに立ち返った時に、初めて持続可能で安定した経済基盤を樹立することが出来る。
東アジアにおける広域経済圏(東アジア共同体)の結成は、東アジアの工業化社会を地域自立循環型社会に転換するための「原蓄国家」の創設に他ならない。この広域経済圏に守られることによって、初めてグローバル化の時代に、地域自立循環型経済構造への転換が可能になると思われる。
ドル暴落か環境悪化か、いずれにしてもアメリカへの輸出に依存する東アジア冷戦構造の継続は最早許されないところにきている。この危機を回避し乗り切るために、持続可能な東アジア経済への転換を一刻も早く提起し、転換を進めるべきである。日本はそのために率先して人、技術、資金を提供する必要がある。  

1)久保新一『戦後日本経済の構造と転換』日本経済評論社、2005 年7月、37 頁。
2)特集・「過労死大国」『エコノミスト』2006 年7月25 日号、「無理な作業や残業を申告しないサービス残業が増加。開発設計や生産技術部門も超多忙が続いている」「非正規雇用の拡大でコミュニケーションがうまくいかない職場が増加している」30 頁。非正規労働者1001 万人(95 年)→1591 万人(05 年)、1.5 倍へ。
3)五十嵐武士『対日講和と冷戦』東京大学出版会、1986 年7月。日本は「戦後第一の国際社会への出発を行うに当って、極めて特異な国際的・国内的条件を負わされていた。国際的条件とは、言うまでもなくアメリカを主力とする連合軍の占領下におかれていたことであり、そこでは内政が国際関係から自生して営むことを許されず、国際情勢の動きから影響を受けやすい状態にされていた。国際社会への再出発は、同時に国内体制の確立という課題と不可分に結びつけて捉えられていた。」「戦後第一の国際社会への出発点で生み出された日本の国際関係においては、アメリカとの二国間関係が圧倒的な比重を占めてきた。」(™頁)、「アメリカは国際冷戦の観点から日本を極東軍事戦略の一端に組み込み、両国間の関係に外交や安全保障から、経済や文化の分野までわたる複合的な構造を設定して、同盟国として系列下しようとした」(264 頁)「占領の遺産と冷戦外交とからなる二重の日米関係」(272 頁)、「吉田の実利的な現実主義は、保守本流の外交政策を形作っていたとはいえ、国際秩序の形成に積極的に貢献する構想を持たなかった」(272 頁)
4)寺島実郎「脱9・11 の時代に向けて」『世界』2006 年8月号、「冷戦が終わってからの90 年代、政界再編、政局不安定の状態にあり、冷戦後の世界における日米関係について本質的な見直しをしなかった」そのため「97 年の日米安保ガイドラインの見直しに象徴されるように「極東条項」の拡大解釈など米国の世界戦略に共同歩調をとる方向付けを加速させた。」(71頁)。
5)地方分権については、神野直彦『システム改革の政治経済学』岩波書店、1998 年6月、210 頁、参照。拙著(2005 年)254 頁。
6)下斗米伸夫『アジア冷戦史』中公新書、2004 年9月、「東アジアでは帝国の歴史やその興亡などはあったものの、いわゆる国民国家体系が成立する前に帝国主義の支配、次いで社会主義の体制が導入され、これらをめぐる対立に巻き込まれる」(ii 頁)。上原一慶『中国の経済改革と開放政策』青木書店、1987 年12 月、「今日の中国は、後進性の克服と近代化という課題に直面している」(£頁)参照。
7)Nicholas R.Lardy、 China’s Unfinished Economic Revolution、 Brookings Institution Press Washington、 D.C.、 1998.参照。
8)いわゆる「アジア的生産様式論争」:アジア的生産様式を歴史的基本法則として捉えようとする塩沢君夫(『アジア的生産様式』御茶ノ水書房、1970 年11 月)とアジアの歴史的特質として捉える芝原拓自、羽仁五郎(『明治維新史研究』岩波書店、1956 年)等の間で行われた論争。塩沢(1970 年)4-9 頁参照。
9)世界銀行『東アジアの奇跡』東洋経済新報社、1994 年。渡辺利夫『成長のアジア停滞のアジア』東洋経済新報社、1985 年5月。
10)凌星光「新自由主義論を巡る中国での論争(上)(下)」『世界経済評論』2006 年6、7月号
11)下斗米伸夫(2004 年)£頁。社会主義陣営のみならず、資本主義の側も多様である。
12)藤瀬浩司『欧米経済史』放送大学振興会、1999 年3月、39-41 頁。
13)久保新一『戦後世界経済の転換─ME化・NIES化の線上で─』白桃書房、1993 年11 月、18-19頁、51 頁。戴国輝『台湾』岩波新書、1988 年、147-148 頁。
14)山田盛太郎「戦後再生産構造の段階と農業形態」『山田盛太郎著作集・5巻』岩波書店、1984 年9月、「戦後における巨大、新鋭な重化学工業の体系的な創出と旧来からの一般的、低位産業との間にえがく開差の成立。―したがってまた、それだけ加重された工・農開差の必然。―で、系列化の傾向と厳しい格差(付加価値生産性格差と賃金格差)─その底に工・農開差。」(35 頁)「格差は強蓄積の要因でもあり、逆に強蓄積が格差の要因でもある相互規定。その一番底にある工・農格差と一般・農業における解体の傾向。そこに問題の枢要点がよこたわる。」(31-32頁)
15)グラムシ「新君主論」『グラムシ選集・第一巻』合同出版社、180 頁。南克己「戦後重化学工業段階の歴史的地位」『新マルクス経済学講座・5戦後日本資本主義の構造』84 頁。アジア的共同体論については、小谷汪之『共同体と近代』青木書店、1988 年。中村哲『近代世界史像の再構成―東アジアの視点から―』青木書店、1991 年、参照。中村は「非資本主義的伝統部門(零細農業)」が不断に豊富な低賃金労働力を供給する「中進資本主義」概念を提示した。
16)興梠一郎『中国激流』岩波新書、2005 年7月。厳善平「三農問題のいま」渡辺利夫他編『大中華圏』岩波書店、2004 年所収論文、参照。
17)関志雄「日中通貨問題─上昇圧力にさらされる人民元─」渡辺利夫他編(2004 年)61 頁。そこで関は「農村部の余剰労働力を吸収するためには20 年を要する」と述べている。
18)保志恂「零細農耕とは何か」磯部俊彦他編『日本農業論』有斐閣、1986 年2月。「東アジアの農業は、日本を典型とし、中国を含めて、この開華がなく、それで一段低位の生産力構造の小経営が農業を担ってきた。これを〈零細農耕〉と呼んでいる。」(10 頁)。日本を含む東南アジアの土地所有については、梅原弘光編『東南アジアの土地制度と農業変化』アジア経済研究所、1991 年2月、参照。
19)田代洋一『「戦後農政の総決算」の構図』筑波書房、2005 年。同『集落営農と農業生産法人─農の協同を紡ぐ─』筑波書房、2006 年8月、参照。
20)浪費経済の米国と爆食型成長の中国は、経常収支赤字8000 億ドルと外貨準備高9000 億ドルで相対し、Co2排出量世界1位と2位で並んでいる。中国経済の現状については、雑誌『エコノミスト』10 月9日臨時増刊号、特集「2016 年の中国」を参照されたい。
21)寺島実郎(2006 年8月)は「イラク戦争を通じて米国は指導国としての理念的正当性を失った」(69 頁)と指摘している。
22)山田盛太郎(1984 年)「第二次大戦をさかいとして資本主義の体制が、基本的に変化した。a社会主義国家の躍進、世界工業生産の中に占めるその比重は、戦前の9%から、戦後は33 %に増大し、b植民地体制の崩壊で、植民地および半植民地の人口が、40 年前世界人口の70%以上を占めたものが、現在は6%以下に低下し、c資本主義国の内部における民主勢力の成長、以上の3点がそれである。」(37 頁)。坂本義和「日本における「国際冷戦」と「国内冷戦」」『岩波講座・現代・6』岩波書店、1963 年、の視点もこれに対応している。
23)大西康雄編『冷戦後の北東アジア―新たな相互関係の模索―』アジア経済研究所、1993 年12 月、「北東アジアの冷戦は、米ソと地域構成諸国の個別的安全保障体制の集合で構成されていた。」(3頁)
24)下斗米伸夫(2005 年)38 頁、206-207 頁。トルクノフA.V.『朝鮮戦争の謎と真実』下斗米伸夫、金成浩訳、草思社、2002 年。和田春樹『朝鮮戦争全史』岩波書店、2003 年等、参照。
25)下斗米伸夫(2004 年)24-25 頁。
26)東アジアの冷戦が何時から始まったかについては、必ずしも一致してはいない。小野直樹(2002年)「冷戦の成立にとって最も重要な出来事は、トルーマン・ドクトリンと朝鮮戦争であった」(44 頁)「特に1950 年6月の朝鮮戦争の勃発は、それまでヨーロッパに限定されていた米ソ対立をグローバル化させ、戦後の国際システム全体が冷戦をベースとした二極構造として確立するきっかけをもたらした」(44 頁)とする見解が主流である。
27)下斗米伸夫(2004 年)48 頁。
28)大西康雄(1993 年)、アメリカの対中華人民共和国政策は「中華人民共和国成立後も必ずしも敵視していたわけではない。決定的な転換をもたらしたのは、朝鮮戦争の勃発と中国の参戦であった」(139 頁)。マイケル・シヤラー「日米中関係、この50 年」入江昭、ロバート.A.ワンプラー編『日米関係、1951-2001』講談社インターナショナル、2001 年9月。「F.ルーズベルト大統領は、国民党中国が戦後のアジアにおいて、親米「警察官」として枢要な役割を担うだろうと予測したが、45 年以降、中国の内戦と米ソ対立がその予測の変更をせまった。」(39 頁)「47 年までにワシントンの政策決定者は見方を根本的に変えた。西ドイツと日本の経済復興が優先されると論じた。」(39 頁)「52 年9月アメリカは日本の対中輸出にココム・チンコムの輸出制限を上回る制限を課す秘密協定に調印するよう主張した。」(48 頁)、としている。
29)下斗米伸夫(2004 年)74-83 頁。
30)大西康雄(1993 年)9 頁。
31)下斗米伸夫(2004 年)「冷戦当初、モスクワにとっての優先度が低かった東アジアでは、共産党との関係はまだ制度化されていなかった。」40-41 頁。
32)久保新一(1993 年)48-49 頁。涌井秀行『情報革命と生産のアジア化』中央経済社、1997 年4月、は「ベトナム特需(兵員送金)、参戦から71 年までの間に7億5700 万ドル」(126 頁)という。
33)久保新一(1993 年)49 頁。
36)同上、49 頁。大西康雄(1993 年)10 頁。韓国への影響については涌井秀行(1997 年)130 頁。
37)涌井秀行(1997 年)「1972 年10 月『維新』以降「重化学工業化計画」を樹立」(130 頁)。
38)OECD(1979)、 The Impact of the Newly Industrializing Countries on Production and Trade in Manufactures、 大和田直朗訳『新興工業国の挑戦』東洋経済新報社、1980年。
39)Goldman、Marshal.I.(1987)、 Gorbachev’s Challenge: Economic Reform in the Age of High Technology.、 W.W.Norton.、(大朏人一訳『ゴルバチョフの挑戦―ハイテク時代の経済改革―』岩波書店、1988 年)参照。中国に与えた影響については、上原一慶(1987 年)£頁、参照。
40)久保新一(1993 年)53 頁。
41)大西康雄(1993 年)13 頁。
42)古澤賢治『中国経済の歴史的展開―原蓄路線から改革・開放路線へ―』ミネルヴァ書房、1993 年11 月。涌井秀行『東アジア経済論―外からの資本主義発展の途―』大月書店、2005 年3月、参照。
43)冷戦の終焉は、政治的には1989 年12 月のブッシュ・ゴルバチョフのマルタ会談だが、経済的には93 年のクリントン政権によるポスト冷戦政策を待たなければならなかった。クリントン政権の外交上の問題については、ウイリアム・G・ハイランド『冷戦後のアメリカ外交』明石書店。ここでは2005 年1月、「アメリカ外交は90 年代初めの冷戦終結で大きな転機を迎えた。・・・アメリカにも確たる処方箋はなかった。処方箋の欠如が冷戦後のアメリカ外交を分かりにくくしている。クリントン政権が積み残した課題をブッシュ政権が引き継いだ」(305 − 306 頁)としている。
44)久保新一(2005 年)135 頁。
45)下斗米伸夫(2004 年)198 頁。
46)『エコノミスト』(2006 年10 月9日)「2016 年の中国」参照。
47)OECD環境局『世界環境白書― 2020 年の展望―』中央経済社、2002 年8月、参照。
48)久保新一(2005 年)253 − 255 頁。ヴォルフガング.パーペ編(田中素香、佐藤秀夫訳)『東アジア21 世紀の経済と安全保障―ヨーロッパからの警告―』東洋経済新報社、1997 年9月、ここで東アジアの貿易主導型開発の問題点(20 頁)が指摘されている。
 
中国のグローバル経済への参入・統合

 

T はじめに―小論の課題 
1)中国は1978 年末の改革開放政策の導入後、高度成長を持続して「世界の工場」「世界の市場」と呼ばれる「経済大国」に地位を高めてきた。この過程は、多くのばあい、グローバル経済への中国の主体的参入として論じられる。小論では米国主導グローバリゼーションへの統合1)という視点を加えて、複眼的に検討する。
2)中国の経済発展は「外資依存輸出工業化」路線を特徴とするが、工業化に必要な資本、技術、労働力および販売市場を中国がどのように獲得したかについて考察する。1979 年以降の円借款による経済インフラ整備にも留意したい。
3)中国の輸出大国化は貿易相手国、とりわけ最大経常収支赤字国アメリカとの間で摩擦を引起してきた。中国の大幅貿易黒字はアメリカにとってどのように脅威なのか。日米経済摩擦と比較しながら、摩擦品目、着地パターン、直接投資受入れ、為替相場制度、外貨運用などを取り上げ、競争関係とともに米中補完関係が存在することを検証する。
4)中国のWTO(世界貿易機関)への加盟(2001 年末)は、「社会主義市場経済」を標榜する中国が、米国が優位を持つ農業・サービス・知的所有権を含みこんだ資本主義世界経済の通商・投資ルールのシステムに参入/統合を進めるプロセスであった。移行経済国の資本主義的改造、法整備・制度構築の側面を検討する。
5)中国の高度成長は順風満帆であったわけではなく、国有企業のリストラにともなう失業の増大や都市内部での格差、沿岸部と内陸部との格差拡大を生んできた。中国政府「第11 期5カ年計画」の重点課題のなかで、国内所得格差に関わる三農問題と国際技術格差是正のための自主技術開発についてコメントを述べてむすびとする。 
U 中国の外資依存「経済大国」化

 

1)中国経済の国際的地位の現局面
いくつかの数字を見ることから始めよう。まず「世界の工場」としての製造業の生産力をみると、世界第1位の生産高となっている商品が多くある。2003 年の数字であるが、素材では粗鋼23.3 %、アルミ19.0 %、化学繊維36.5 %、セメント41.9 %など、また消費財ではオートバイ46.7 %、カラーテレビ41.0 %、DVD再生機88.1 %、電子レンジ42.2 %、エアコン45.9 %、冷蔵庫29.0 %、デスクトップ・パソコン44.1 %、ノート型パソコン51.5 %、デジタルカメラ35.8 %、携帯電話51.7 %という数字が並んでいる2)。また広大な裾野産業を必要とする自動車でも05 年の中国での自動車販売台数は572 万台強であり、アメリカ、日本に次いで世界第3位に躍り出た。06 年に日本を抜き、世界第2位になるのはほぼ確実視されている。
また05 年の中国のGDP総額は2万2、290 億米ドルで、前年の7位からイタリア、フランス、英国を抜いて世界ランキング第4位に浮上した(世界銀行統計)。ただし1人あたりGDPは1、740 米ドルで128 位にとどまる。04 年の統計で1人あたり名目GDPは中国平均で1、272 米ドルであるが、東部沿海地区の大都市は深で7、161 ドル、上海が6、682 ドル、江蘇省2、502 ドルとなっており、貴州省の509 ドルは上海の13 分の1にとどまり、都市と農村の格差が浮き彫りになる3)。
外国直接投資の受入れでは、90 年代後半には毎年400 〜 500 億ドル水準に達していたが、WTO加盟後増加傾向をたどって05 年には724 億ドルと過去最高を記録し、首位争いを演じている。貿易収支では対アジア諸国ではアブソーバーとして赤字を出しており、2005 年統計では台湾581.4 億ドル、韓国417.1 億ドル、アセアン196.3 億ドル、日本164.6 億ドルの赤字となっている。他方、対アメリカ1、141.7 億ドル、EU701.2 億ドル、香港1、122.5 億ドルと巨額の黒字となっており、アジア諸国から機械・中間財・部品を輸入し加工して米欧に輸出するという、生産工程の分業・加工貿易ネットワークと三角貿易の形成が見られる。2005 年の経常収支は1、609 億ドルの黒字、資本・金融収支が629.6 億ドルの黒字であり、外貨準備は急増を続けている。2006 年9月末には9、879 億ドルにのぼり、日本を1、000 億ドル以上上回って世界1位にランクされるに及んでいる。ただしその大半を米ドル建て金融資産で運用しているとされる4)。 
2)円借款と外国直接投資、労働力
歴史的展開を見ていくと画期をなすのは、1978 年末に始まった中国の改革開放政策と1992年小平の「南巡講話」以降の外資進出の加速、70 年代後半に中国からの繊維輸出急増で浮上してきた米中経済摩擦、2001 年に承認されるWTO(世界貿易機関)への加盟の3つが重要であろう。改革開放政策の採用の時期、1980 年4月にIMF、5月に世界銀行に加盟したことにも留意しておきたい。加盟後、@IMF・世銀の専門家からの中国経済に関する詳細な研究報告の提供、A短期の国際収支の赤字についてはIMFからの支援、Bインフラ・プロジェクトでは世銀やIDA(第2世銀)から長期・低金利融資、C急速に拡大しつつある民間部門の活動については、IFC(国際金融公社)とMIGA(多数国間投資保証機関)の保証、Dさまざまな訓練・教育機会の提供、を受けることが可能になった5)。あわせて両機関から自由化圧力をかけられることにもなった。以下では、導入外資のなかで量的にも質的にも重要な役割を演じた日本からの円借款、外国直接投資について検討し、米中経済摩擦、WTO加盟問題は節を替えて後述する。
日本からの円借款
まず改革開放政策は、1960 年代の米ソ2超大国を敵に回しての「備戦体制」づくりにともなう資源の消耗、60 年代後半から70 年代前半は「文化大革命」が経済発展を阻害し、近隣アジアNIEsだけでなくアセアン諸国にも遅れをとったとの反省から、路線転換が図られたものであった。経済発展という構造転換、計画経済から市場経済への転換、前近代社会から近代社会への転換という3つの転換6)を、対外開放によって目指すことになったのである。アセアン諸国の先例に倣って外資依存輸出工業化戦略が導入された。
外国直接投資導入の露払いの役割を演じたのが日本からの円借款であった。外国技術・プラントの導入による近代化は、1970 年代前半に周恩来と小平、1976 年華国鋒の「国民経済発展10 ヵ年計画(1976-85)」によって試みられたが、前者は4人組の批判にあい、後者は外貨の不足から対外債務一部不履行によって挫折した。この反省にたって行われたのが、日本からの円借款であった。1979 年8月谷牧副首相が訪日して円借款の供与を要請し、年末に大平正芳首相が訪中して供与を決定して開始された。
対中ODAは1979 〜 2005 年の間に有償資金協力(円借款)約3兆1、331 億円、無償資金協力1457 億円、技術協力1446 億円、総額約3兆円以上のODAが供与された。DAC(開発援助委員会)諸国の2国間援助の中で、日本の支援は常時半分以上、近年は60 %以上を占め、またIDAなど国際機関のそれよりも大きかった。当初は中国の5ヵ年計画に対応したラウンド方式で提供され、第1次円借款(1979 〜 84 年度)は北京―秦皇島と石臼所などの鉄道建設と港湾整備、第2次(1984 〜 89)は引き続き鉄道と港湾整備に重点がおかれた。北京市の上下水道や地下鉄など大都市の基盤整備や沿岸部の電話網拡充事業も行われた。第3次(1990 〜 94)でも輸送インフラのプロジェクトが多かったが、件数では内陸部が半数以上に達した。第4次(1996 〜 2000)では内陸部の酸性雨対策や水質改善など環境関連プロジェクトや黒龍江省での穀物開発など、内容に大きな変化があった7)。
こうしたもののうち、具体例として次の事業がある。空港では、上海浦東国際空港(400 億円=約34 億元、総工費130 億元のうち外貨部分の全額)、北京市首都空港(300 億円)など総額1、116 億円;鉄道では、貴陽−婁底鉄道建設事業(300 億円)、重慶モノレール(271 億円)など6、418 億円;道路では杭州−衢州高速道路建設事業(300 億円)、梁平―長寿高速道路(240 億円)など総額1、951 億円;港湾では、青島港(597 億円)、深港(147 億円)など総額2、726 億円;発電所では天生橋水力発電(1、180 億円)など総額4、882 億円;肥料では内蒙古化学肥料工場(214 億円)など総額1、063 億円;製鉄所では上海宝山(310 億円)などである8)。中国のインフラ投資金額のデータが入手できなかったので円借款との分担関係を明確化できないが、重要プロジェクトが目白押しで経済発展の触媒となったことは疑いない。一定額が日本からの輸出支払いに充当されてはいるが、日本だけでなく米欧企業も利用できる産業基盤が形成された。円借款を触媒とするインフラ整備は、中国のグローバル経済への参入準備と米日欧による中国の統合に向けた緒戦の姿として位置づけられよう。
外国直接投資
アセアン諸国は、工業団地を造成して保税加工区をつくって税制優遇措置を講じ、労働者の諸権利を制限して外資誘致合戦を演じたが、中国も基本的にこの方式を踏襲した。外資進出がアジアNIEs、アセアン、中国の順序で進み、経済発展も「雁行形態的発展論」の説くとおりに進んだ。90 年代半ばに外国直接投資が中国にシフトして新規資本の流入が激減した諸国は、通貨投機に襲われてアジア通貨・金融危機に突き落とされた。いま直接投資企業の新商品開発・投入における技術移転のスピード化と順序変更により、中国が先を行く諸国に追いつき追い越しながら、三農(農業、農村、農民)問題や内陸開発問題を抱えて後から来るものに労働集約産業を譲れない状況があり、「雁行形態論」の適用が困難になる事態が生じてきている。
中央政府および「諸侯経済」を率いる地方政府の外資政策では、まず1980 年に福建省厦門(アモイ)、広東省深、珠海、汕頭(スワトウ)の4都市に「経済特区」が設置され、1983 〜84 年に大連を始め、沿海14 都市が開放都市に拡大され、誘致競争が始まる。外資導入額の86 %は東部地域に集中している(05 年)。香港資本や台湾資本は珠江デルタでの委託加工から直接投資に進み、日系企業は戦前に在華紡のあった上海、天津、青島や、旧満州で経営経験のあった瀋陽(奉天)、大連などから投資を始めたが、政府の選別政策では中国が必要とする産業や企業を優遇してきた。
近代的な工業の移植において外資が果たした役割は、必要な資金とくに外貨、技術、経営ノウハウを持込んだことであり、アジア系外資企業の場合には自前の販路を使って持ち帰り輸出および第3国への迂回輸出を行って外貨獲得に貢献した。中国が得たものは、上に加えて市場経済の実験、資本主義的ビジネスや大規模な地域開発の学習機会であった。また多国籍流通資本は、委託加工などを通じて中国商品を購入して世界市場に供給した。米ウォルマート1社で、04 年に中国から180 億ドル(米国の対中輸入の約10 %)の商品を輸入している9)。
1979 年の改革・開放実施から2004 年までの25 年間に、累計で5、621 億ドル(実行ベース)の直接投資を受入れた。96 年以降は毎年400 〜 500 億ドル前後にのぼり、IT バブルが弾けた後アメリカを抜き、イギリスやアメリカと直接投資最大受入国の地位を争うに至っている。またフォーチュン500 社のうち450 社が中国に投資進出をしている。2003 年末の累計受入れ実績(実行ベース)の上位10 カ国は、@香港44.4 %、A米国8.8 %、B日本8.2 %、C台湾7.3 %、Dバージン諸島6.0 %、Eシンガポール4.7 %と続き、以下韓国3.9 %、英国2.3 %、ドイツ1.8 %、フランスの順である。華人系3地域合計で56.4 %と多いが、香港とバージン諸島には中国本土資本による税制優遇をねらった偽装外資も含まれていると推定される。米国と日本を比較すると、米国はほとんどの地域で日本を凌駕しており、日本が米国を上回るのは、都市では上海、青島、大連(件数、金額ともに)のみであり、省別では遼寧省のみである10)。「アジア共同体」「アジア経済連携」に関する議論で、アジア諸国・地域の貿易および投資において域内比率の高まり、ひいては「アジア圏の成立」が強調される傾向がある11)が、米国のプレゼンスを過小評価すべきではない。ただし米国の対中直接投資に占める製造業は57 %(2002 年)と低く、化学、輸送機器、石油産業、金融サービス、コンピュータなどでシェアが高く、アジアの生産工程間分業=貿易方式とは異なり、中国国内市場向けビジネスが多いのが特徴である。
近年の対中投資の特徴として、@ 100 %外資(独資)による進出が急増しており、A業種的には3分の2が製造業で、とくに半導体、通信機器、化学分野、自動車、研究開発(R&D)センターの設置が増大し、BWTO加盟以降はサービス分野の進出も増大していると指摘されている12)。またCアジア諸国からも含め、「世界の工場」への最小生産コスト立地型進出から、「世界の市場」への消費市場立地型=内販型投資への比重が増大している。こうした中で、外国留学経験者の幹部登用が顕著になっている。
外資企業が中国経済に占める位置に関しては、国内投資に占める役割は94 年の14 %から05年には5.6 %に低下している。しかしなお、外資企業は工業付加価値額の28.6 %、輸出の58.3 %と突出した地位を占めている。ハイテク輸出でも05 年には前年比31.9 %増、2、183 億ドルと好調であったが、外資企業が全体の88.0 %を占め、国内企業は比較的大型企業の多い国有企業でさえ輸出シェアは7.4 %にとどまっており13)、外資技術への依存が根強いことを物語る(外資によるR&Dセンター設立については後述)。
低賃金労働力
外資系企業は資金・技術・経営ノウハウを国内に波及させたが、「世界の工場」における労働力は東部沿海部の労働者および内陸部からの「農民工」が担った。農民工とは通俗的には、農村部から出て都市の非農業領域に従事する出稼ぎ労働者である。1949 年まで中国の人口移動は比較的自由であったが、新社会主義中国は、重工業建設を重視して資本の原始的蓄積を農業に求めて低い農産物価格政策を実施し、農民を農村にとどめるために農村戸籍制度を都市部住民の都市戸籍とは分離してつくった。戸籍制度は消費財配給制度とセットで運用されたため、現金を持っていても配給切符がなければ消費財を買えない仕組みであった。1984 年以前は、農村労働力の非農業生産への転移は郷鎮企業に対してのみ行われ、「土を離れても土地を離れず、工場入りしても都市入りせず」の状況であった。
沿海14 都市の開放が行われた84 年に農民の都市入り制限が緩和された。四川省、安徽省、湖南省、江西省、河南省、湖北省など内陸部から中学(一部高校)卒の青壮年農民が東部沿岸の諸都市に大量に流入し、建設業、工業、飲食サービス業などにおいて、きつい・汚い・危険な3K肉体労働に従事した。農村戸籍の農民工の就業には、職種など就業制限があり、労働契約を結ばないことが一般的で、労働報酬が低く現地の最低賃金基準を下回ったり、賃金未払い現象が常態化し、1日10 時間以上はざらで6分の1が14 時間以上働いているなど時間外労働問題が非常に深刻であった。また労働保護が劣悪で、鉱山の採掘、建設現場、化学品工場などで2003 年に労働事故で死亡した労働者数13.6 万人のほとんどが農民工であった。また「挙家離村」家族の子女は公立学校への就学が認められなかった。さらに失業保険、医療保険など社会保障の対象外であった。都市戸籍をもたない移動人口は、公安部の発表によれば04 年に1億3、000 万人、うち5、000 万人が都市臨時居住人口として登録されている。00 年の数字によれば農民工の1人あたり平均年収5、597 元、郷里への平均送金額3、472 元は小さくとも、中国全土では年収総額5、278 億元、送金総額は3、274 億元に達し、国家財政の農業向け総支出1、232 億元、農家固定資産原値4、884 億元と比べるといかに巨額かがわかる14)。
前述の円借款による経済インフラ建設の重労働は農民工によって支えられた。農村部から無限供給される低賃金労働と強いられた前近代的無権利状態は、労賃を含む都市労働者の労働基準を低いレベルに維持し、社会セーフティネットの導入を先送りする役割を果たした。このなかで外資系企業は、幹部やR&D部門には外国留学からの頭脳還流者を登用する一方で、従来の国家による人事・労働市場システムに入っていないため、大量の出稼ぎ労働者を下層部門に雇い入れて低賃金労働を利用した。米国でのパソコン・マウスの販売価格40 ドルのうち、ブランド・メーカーであるロジテクが8ドル、流通企業が15 ドル、部品メーカーが14 ドルを取り、中国の生産工場が手に入れるのは3ドルにしか過ぎない15)という低付加価値構造は、このような仕組みから生まれる。中国がグローバル経済への参入のために「基本的人権」以下の労働力を提供し、人権批判を行う国の企業と消費者が低価格商品を享受するという構図である。
また外資の中には労働組合の設置を認めない企業も多い。低賃金で有名な世界最大の小売業ウォルマートは全世界に4、300 支店、従業員60 万人を擁するが、06 年7月に福建省晋江市で30 名の従業員が中国国内支店で初めて労働組合の設立に成功し、世界有数の外資にひざを曲げさせたとして注目を集めた16)。 
V 米中経済摩擦

 

第2次世界大戦後の米中経済関係はアメリカの対中国禁輸措置で幕を開ける。中国の国際経済への参入/統合は、途上国の典型的輸出工業品である繊維輸出、それによって引起された米中繊維摩擦から始まり、非市場経済国の認定と絡んだアンチ・ダンピング問題の頻発に特徴づけられる。また「経済大国」化する中国は、パクス・アメリカーナの基盤と多くの世界標準を作ったアメリカとの間で摩擦を引起していくが、この過程を日米摩擦と比較することによってその特徴を検討することにしよう。 
1)繊維摩擦、ダンピング、非市場経済国
小見出しの3つの言葉は米中摩擦を特徴づけている。「ワンダラー・ブラウス」事件の翌1957 年に日本が輸出自主規制に踏み切った結果、アメリカの繊維製品の市場は、香港、台湾、韓国が圧倒的なシェアを握ることになったが、中国もまた短期間のうちにテキスタイルからアパレルまで、世界屈指の生産・輸出国に成長した。1970 年代後半の中国の対米輸出の急増を受けて、1978 年には米中繊維交渉が非公式な形で始められ、アメリカは輸入クォータの設定を主張するにいたる。原産地規制も問題となる。香港から中国本土への委託加工や対外直接投資の増加にともない、香港と中国の間では広範かつ複雑な産業内分業、企業内分業、工程間分業が発達したため、その製品を輸入するアメリカ政府にとって「中国製」「香港製」の原産地の認定はきわめて困難な作業となった17)。
途上国の工業品輸出、先進国のアンチ・ダンピング課税による自国産業保護の対象の典型事例が繊維である。ダンピングとは、ある外国製商品の輸入国市場での販売価格が生産国における販売価格よりも低い場合を言う。しかし「非市場経済国」からの輸入商品については、「公正」な価格の算出はきわめて困難である。価格が国家の統制下にあるのかどうか、価格を比較する際に同等の経済・生産力水準にある代替国をどこに求めるか、アンチ・ダンピング調査は適切に行われているかなどの点で、輸入国の恣意的な判断が入り込む惧れがある18)。しかしWTO加盟後も、米欧日は中国の非市場国認定を変えていないので、不利益をはねのけるため「社会主義市場経済」中国がいかに市場経済として発展したかの広報・交渉を強めており、中国はオーストラリアやアセアン諸国からは市場経済国の認定を得るに至った19)。
アメリカは繊維の巨大輸入国であると同時に、今なお繊維多国籍企業が健在でカナダの5倍、メキシコの2倍、インドの1.5 倍以上の輸出規模がある。しかし戦後長期にわたってアメリカや西欧の繊維市場を保護してきた多国間繊維協定が、2005 年1月に廃止となった。米国の輸入金額に占める中国のシェアは04 年で既に38 %と高い(MFAを使ってこなかった日本では73 %)が、予想されたとおり、中国からの輸出の伸びが急増している20)。
最近の米国の対中赤字拡大の主因は家電、オフィス機器、通信・AV機器の輸入拡大に集約される。対中輸入に占める在中国米系子会社生産品のシェアは04 年時点で25 %前後にまで高まっていると言われ、子会社からの輸入は問題化しないのが普通である。そうした中で米中間の貿易摩擦品目には、繊維に加えて木製家具、半導体・電子機器、カラーテレビが加わった。
中国家具の対米輸出は2000 年に始まったばかりだが、米国の住宅ブームに押されて急増し03年には輸入家具シェアの半分近くを占めるに至り、替わりに原料である木材の米国から中国への輸出が増加している。米国家具製造業者の多くは流通・販売業に転業している21)。カラーテレビ問題は、03 年5月、米国テレビ関連企業は長虹を含む中国カラーテレビ企業に対してアンチ・ダンピング課税を申請し、米国商務省は04 年5月に長江テレビ26.37 %、TCL21.25 %、康佳9.69 %など課税の最終決定を下した22)。米国のカラーテレビ業界は、日米摩擦のさい輸出企業の対米進出による現地生産への移行で着地をして以後、米国テレビ製造企業は消滅し、日本とヨーロッパの企業が市場を握ってきた。中国からの輸入品には米国電子機器メーカーから購入した部品も使われており、米国市場を舞台にした日欧中の家電資本のぶつかり合いの様相を見せている。 
2)日米摩擦との比較で見る米中経済摩擦
第2次大戦後、パクス・アメリカーナの世界を築いたアメリカは、経済の相対的地位の低下にともない多くの諸国と経済摩擦を引き起こした。ここでは第2次大戦後の経済摩擦の典型事例である日米間のそれと対比しながら、米中摩擦の特徴を描いてみよう23)。
政治外交関係
小論の対象外であるが少しだけ触れておく。第2次大戦後、日本は連合国の占領下に置かれ、サンフランシスコ講和条約締結後、経済協力条項を含む日米安保条約の下でアメリカのジュニア・パートナーとなった。他方、中国は社会主義の道を歩み、東西冷戦の初期においては多くの品目においてアメリカの禁輸対象国とされ、現在も非市場経済国の認定によってアンチ・ダンピング問題などでは一定の差別的措置が行われている。外交関係ではアメリカには、中国は中長期的にはアメリカの脅威と見るA「対中安保封じ込め派」から、対中関与で対決回避可能とするB「対中関与派」、中国との通商・投資で利益を期待するC「対中経済推進派」、中国との貿易で被害を受けている繊維業界や労働者・組合などのD「経済リベラル・人権派」などが存在する。最近は「競争的パートナー」または「責任ある利害関係者」(responsible stakeholder)へと議論が広がり、BおよびCへ認識がシフトしてきている。米中共同軍事演習も部分的に実施されるに至っている。
摩擦商品群と着地パターン
摩擦発生の年代では、単品としての繊維の対米輸出増大による摩擦は両国とも1950 年代後半に発生するが、多くの品目や問題にまたがる貿易紛争は、日米では1970 年代から90 年代にかけて起こり、米中では80 年代後半に始まり現在に至るまで続いている。対米摩擦を引き起こした輸出商品群は、日本では労働集約的な繊維に始まり、鉄鋼、テレビ、半導体、工作機械、自動車などの高付加価値・ハイテク・組み立て産業へ移行したのに対して、中国からの輸出品では繊維など低付加価値商品が長期間にわたって主役を演じ続けた。
問題発生から着地に至るパターンでは、日米間では集中豪雨的に輸出が急増して打撃を受けた産業や地域が、連邦上下院議員を動かして政府間交渉に持ち込み、自由貿易を標榜する米国の面子をたてて最終的には日本側が輸出自主規制に踏み切る事例が多かった。また米国は在米現地生産という土俵では日本企業は競争優位に立てないだろうとの読みから、日本企業の対米直接投資を奨励した。そうしたなかで家電や自動車などの日本企業は、時間がかかったものの相対的高賃金や企業経営文化の相違を克服して米国に根を下ろし、生産と雇用を拡大していった。
他方、米中間では中国からの輸出品である低付加価値製品のダンピングをめぐる提訴が頻発し、アンチ・ダンピング課税と相互の報復措置の応酬のあと妥協が成立する事例が多く起きた。
貿易不均衡が目立ち政治問題化してくると、中国は大口買付ミッションを派遣して米国産業界のご機嫌をとった。現在でも中国首脳の訪米や米欧首脳の訪中のさいには、航空旅客機の商談や経済協力に関する取り決めがあわせて結ばれることが多い。中国企業の対米進出と現地生産による摩擦克服は、家電産業の海爾(ハイアール)集団に萌芽がみられるが、全体としてはまだその発展段階には達していない。今後、中国自動車企業の対米進出が試金石となろう。
相手国市場の開放要求
貿易赤字が増大してくると、米国は相手国市場が閉鎖的であると批判し、市場開放を要求し始める。70 年代末には建設、金融サービス、牛肉・オレンジ、電電公社の資材調達問題などで米国が日本の市場開放を要求し、80 年代半ばには市場重視型個別協議として電気通信、電子、木材製品、医薬品・医療機器の分野で米国製品の購入拡大を迫るにいたる。
時期が少しずれるが、対中貿易赤字が1980 年代後半に拡大すると、米国は貿易不均衡の原因を中国の貿易障壁に求め始めた。米国の批判は、a)関税・輸入課徴金の水準が高くかつ課税基準に一貫性が欠如し企業活動の予測可能性が低下している、b)輸入許可証の対象品目が輸入総額の半分近くを占め、かつ制度自体が複雑・不透明で外国人には理解できない、c)第7次5カ年計画期(1986-90 年)にテレビ、ラジカセ、洗濯機、エアコンの生産ラインの輸入制限・禁止措置をとり続けた、d)中国は輸入商品に差別的な基準・検査・認証制度を設けている、などである24)。
直接投資受入れ要求
日本の直接投資受入れは、1967 年から自由化が進展し80 年の外為法改正で原則自由化されたが、本音が「フルセット自前主義」の日本は、技術導入は図っても外資の直接投資の増大を回避する姿勢を続けた。日本が門戸を開放した頃には、賃金や地価の高騰によって投資環境が悪化しており、米国の対日投資額は対GDP比で先進国中最低ラインに位置する。
他方、中国は外資誘致による輸出工業化路線を採用してきた。投資国としてアメリカは香港・マカオに次ぎ、日本、台湾、バージン諸島よりも多い(2003 年末累計)。また個別事例であるが、自動車のGMや通信機器のモトローラなど日本進出を果たせなかった企業が中国に進出し、巨大市場で有力な地位を占めた。また中国で後塵を拝していた米国のイーストマン・コダック・フィルムやペプシ・コーラの対中進出においては、徹底した「競合他社排除の論理」を貫き、「向こう何年間は、競合他社の同一事業への参入を認めない」という契約内容を中国に認めさせるという辣腕振りを発揮した25)。1986 年と2003 年の直接投資受入れ残高を比較すると、日本では440 億ドル(対GDP比0.03 %)から596 億ドル(0.02 %)への変化であったのに対し、中国は1億ドルから4、479 億ドル(0.35 %)へ伸び、中国の開放性が際立つ。中国の開放性については、アメリカも好意的に評価している26)。
相手国経済の構造改革
市場開放要求や直接投資受入れ要求だけではなお米国資本の自由な活動には制約が多いとして、 米国はさらなる要求を迫る。1 9 8 9 年に始まった日米構造障壁協議(Structural Impediments Initiative)がそれである。日本の貯蓄・投資バランス、系列、談合、流通制度など日本経済の構造的特質に問題があるとして米国は攻撃をかけた。日本の公共投資を増大させ、また米国小売ビジネスの参入を支援するなど、包括的政策協調はマクロ政策からミクロの構造政策を含むものとなった。さらに1993 年の日米包括経済協議では内需拡大や構造障壁の改善に関する「数値目標」「客観基準」の導入を主張し、米国は「結果重視」を迫るに至った。
中国経済の構造改革に対する要求は、WTO加盟交渉によって始まる。
知的所有権
日本は応用技術・周辺技術開発につとめたものの基礎技術を米国に依存していたため、80 年代前半に米国は基本特許やソフト著作権など知的所有権の利用料を高めれば稼げると判断し、知的所有権で攻勢をかける一連の法整備作業(特許保護の強化、ソフトウェアの著作権による保護、半導体回路設置法)をすすめた。80 年代初めのIBM産業スパイ事件やミノルタ・ハネウェル自動焦点カメラ訴訟を背景に、1988 年には日米知的所有権協議を開始し、92 年には特許庁の抜本改革方針を引き出した。
社会主義国では発明・発見は人類の共有財産との考えがあった。知的所有権に関わる制度整備では、改革開放政策導入後、中国は1980 年に世界知的所有権機関(WIPO)に、85 年に工業所有権パリ条約に加盟し、また89 年には米中知的所有権覚書を交換して著作権法案の制定とコンピュータ・ソフトを著作権の保護対象とすることを約束した。しかし知的所有権に関する意識が社会に根づくには時間を要し、政府が法律を制定しても執行力が弱いことから、中国は違法コピー、著作権侵害問題の最大発生国となっており、WTO加盟交渉前から最大課題となっている。
通貨調整
通貨調整では、1971 年、金ドル交換停止後のスミソニアン合意で、日本は1ドル=360 円から308 円へ主要国のなかで最大の16.88 %の切上げを迫られた。また73 年には日本は主要国とともに変動相場制に移行した。さらに85 年にはプラザ合意においてドル安・円高の通貨調整と協調利下げ要求を呑み、急激な円高高進に襲われた。円高不況を回避するための低金利政策は、80 年代後半の資産バブルをもたらし、その崩壊は90 年代以降の長期不況を招来することになる。しかし円高の進行によっても日米貿易不均衡は是正されなかった。不況のなかで日本は輸出依存体質から抜け出すことはできず、米国経済が製造業からサービス経済に軸心をシフトさせ、また貯蓄を上回る消費を続けたからである。
中国は1994 年に1ドル= 8.7 人民元水準にレートを統一して以降、事実上のドル・ペッグを維持してきた。人民元切上げ・為替相場制度改革が問題になるのは21 世紀にはいってからであるが、中国は日本の経験から多くのことを学んだに違いない。人民元切上げ要求を呑めば、巨額の不良債権を抱える国有銀行中心の金融システムを不安定化させる惧れがあり、繊維、衣類、軽工業品、オートバイ、家電製品などを輸出する中国地場企業、小麦、大豆、植物油などの輸入拡大から農業への影響が懸念された。「自主的・制御可能的・漸進的」改革の原則を掲げつつ、2005 年7月、外貨準備の増大にともなう過剰流動性がもたらす景気過熱を抑制するためもあり、中国は初めて小幅ながら元切上げに踏み切った。ただ人民元切上げが米中貿易不均衡を是正することになるかと言えば、それは疑問である。円切り上げに関して述べた事情に加えて、中国を中心に東アジア域内で拡大している生産工程の分業・加工貿易ネットワークの形成が対米貿易黒字の背景に関わっている。加工貿易に従事する外資系企業は米国へ最終製品を輸出するだけでなく、日本、韓国、台湾、シンガポールなどから機械や中間財・部品を輸入し、東南アジア諸国からは部品、錫、天然ゴムなどを輸入している。人民元の切上げが輸出企業にマイナスの影響を与えても、輸入価格の低下などによって容易に相殺できるからである27)。
米国は日本や中国が為替相場を不当に操作して過小評価にしていると批判することが多いものの、その外貨準備が米国債などドル建て金融資産に投じられることによってアメリカの財政赤字と経常収支赤字を埋め、米国の株価上昇に貢献していることに自ら言及することはほとんどない。 
W WTO加盟による中国経済の構造改革

 

1)中国のWTO 加盟交渉
資本主義世界の貿易は、1960 年代のGATT(関税・貿易一般協定)ケネディ・ラウンドによる関税一括引下げ交渉の進捗、70 年代の東京ラウンドによる非関税貿易の障壁削減によって大きく拡大した。さらにウルグアイ・ラウンド交渉(1986-94 年)は、農産物貿易、サービス貿易、知的所有権といったこれまでGATTの管轄外に置かれてきた分野で国際的ルール・世界標準を作ろうとする意欲的な取組みであった。これら分野は、製造業の国際競争力において相対的地位の低下を続けてきた米国経済が優位を誇る残された牙城であり、パクス・アメリカーナの復活・再編をねらう米国にとっての主戦場でもあった。ウルグアイ・ラウンドの交渉は難航したが、1995 年にジュネーブに本部を置くWTO(世界貿易機関)の発足をみた。鉱工業品の関税を引き下げること、農産物における輸入数量制限を関税化すること、これまで義務ではなかったアンチ・ダンピング税や補助金・相殺措置、輸入許可手続きなどに関する12 の協定をWTO加盟の義務とすることを決め、モノの貿易に関するWTOのルールが加盟国全体に及ぶことになった。また紛争処理手続きが明記された。サービス貿易については市場参入保証、最恵国待遇と内国民待遇を内容とした協定が結ばれた。知的財産権についても、最恵国待遇と内国民待遇を原則とする協定が締結された。また自国に進出した外国企業に現地製品の使用を強制したり輸出義務を課すことが禁止され、外資を利用して工業化を図ろうとする途上国にとって厳しい規則が追加された。新ラウンド交渉が難航しているが、加盟国は既存ルールに従う義務を有しており、WTOの役割を過小すべきでない。
中国は、中華民国が1950 年5月にGATTを脱退した後、86 年に復帰申請という形でGATT加盟を申請した。改革開放に踏み出したばかりの中国にとって、協定改正によって変貌を遂げようとしていたGATT加盟へのハードルは高かった。全国共通の単一貿易政策に関して中国が統一的な関税地域を形成しているかどうか、貿易管理体制の透明性が弱いのではないか、市場アクセスが確認のすべがない「内部規定」によって制限されている、などとの批判を浴びて交渉は難航した。結局GATT時代に加盟は認められず、WTOへの加盟交渉に移ったが、WTOルールに合致しているかどうかを審査するマルチ交渉と主要貿易相手国が市場アクセスについておこなうバイラテラル交渉が繰り広げられた。日中交渉は99 年7月に大筋妥結、米中では99 年11 月に農産品、サービス(銀行・証券・音響映像)、繊維などで基本合意が成立し、足掛け15 年にわたる交渉を経て最終的に2001 年12 月に加盟が実現した。
中国はWTO加盟に際して次のことがらを約束した。
@工業品の平均関税率を2005 年までに単純平均で10.8 %、加重平均で6.6 %に引き下げる。
A農産品では、輸入数量制限等の国境措置を関税に置き換える。
B輸入制限措置を2005 年までに撤廃する。
C金融サービス業では、保険業の外資出資規制と地理的範囲制限の3年以内の撤廃、銀行サービスの地理的制限撤廃と人民元業務の5年以内開放、証券会社の外資規制を49 %に引上げる。
D貿易権の取得は、3年以内に外資を含む中国国内のすべての企業に認可する。
E知的所有権の保護については、経過措置をとらず加盟後ただちにTRIPS協定を完全遵守し、専利法、商標法、著作権法などの法整備を進める、など28)。
これにより、中国はアメリカ主導グローバリゼーションへの参加/統合に向かって大きく歩を進めることになった。中国の工業生産力や農業生産力の水準や金融サービス業などにおける市場化の遅れから、中国経済に深刻な影響が及ぶことも懸念されたが、中国が得られるメリットとして、最恵国待遇(MFN)と一般特恵制度(GSP)の利益の享受、多国間枠組みのなかでの通商問題の処理、外圧利用による経済改革の推進、中国の国際的地位と発言力の強化などが期待された。また先進国の投資家は、中国がWTOに加盟して後戻りのできない市場経済化に踏み出したことを好感して、対中直接投資を増大させたのである。ただし資本取引自由化が残されており、WTO加盟によって「対外開放政策が完成した」29)わけではない。 
2)WTO 加盟時の約束履行状況
中国はこれまでWTO加盟時の約束に準じて、関税の引き下げ(加盟時平均13.6 %→ 2006 年9.9 %)や、法の整備(貿易権、投資、サービスなど)をスケジュール通りに進めてきた。しかし許認可に関する透明性の問題や中央と地方間の齟齬、法の恣意的な解釈など運用・実施面で多くの課題を残しており、国内政策上の制限的な措置も注視する必要がある、というのが一般的評価であろう。
国内政策の視点からの制限的な措置の導入については、例えば、2005 年4月に「完成車の特徴を有する自動車部品の輸入管理弁法」が公布された。この法によると、輸入部品の価格総額が同車種完成車価格総額の60 %に達した場合、10 %であるはずの自動車部品関税に、完成車関税の25 %が適用される。これは実質的なローカルコンテント要求に当たることから貿易関連投資措置(TRIM)違反の可能性がある30)。米欧の提訴を受けて、WTOの紛争処理機関は2006 年10 月26 日、中国の自動車部品関税に対する米欧の訴えを受けて紛争処理小委員会(パネル)設置を決めた。中国を相手取った提訴でパネルの設置は初めてである。また日米欧などの主要国は、中国が違法な海賊版や模倣品の製造・販売に十分な対策を講じていないとして、WTOを通じて知的財産制度の是正を求めて提訴する方針を固めた、と新聞は報じている31)。
金融部門の対外開放は、不良債権を抱えた国有銀行の改革と企業統治の改善が前提となる。
外国銀行への個人向け人民元業務解禁については、支店ではなく中国での現地法人設立を条件にすることや、外銀向けの低い法人税率の撤廃などを中国政府が打ち出したのは、国内銀行の保護をねらったもので約束違反の疑いも指摘されている32)が、各国銀行は自行のリテール業務の位置づけに応じて対応を進めている。ただし、銀行部門への外資の資本参加は大幅に容認された。交通銀行に英HSBCが19.9 %の出資をしたのを皮切りに、米欧銀行は中国4大国有銀行に対しても資本参加を進め、中国工商銀行には米ゴールドマンサックスなどが10 %、中国銀行には米メリルリンチなどが10 %、シンガポールのテマセックが10 %、中国建設銀行に米バンク・オブ・アメリカが10 %を出資することになった33)。
またWTOの約束事項ではないが、資本取引規制の緩和が漸進的・継続的におこなわれ、対外直接投資枠の拡大、国際機関による人民元建て債券発行認可、適格機関投資家(QDII)の対外証券投資解禁がすすめられた。さらに現段階では試行とはいえ、リスク・ヘッジ手段拡充への取組みが開始され、為替先物取引に関して取扱い機関と許容量の拡大、上海市場での外貨と人民元の銀行間取引の値付けにマーケットメーカー制度が導入された。人民元の資金市場においても、金利変動リスクや資産・負債管理をおこなう人民元金利スワップ取引が、また銀行間の人民元通貨スワップ取引も解禁された34)。
農業では、中国政府は先進国並みの農産物の市場開放を約束した。それまで輸入制限を行っていたコメ、小麦、トウモロコシなどの品目は関税化をおこない、また関税割当量・枠外税率を設定した。農産物の平均関税率は、01 年の19.9 %から04 年の15.6 %まで下がり、コメ、小麦、トウモロコシにこれまでの輸入量を超える関税割当量が設定され、2000 年の生産量に対してそれぞれ2 %、9 %、6 %の割当量が設定された。実際に輸入したコメ、小麦の数量は、2003年まではわずかな額にとどまったが、04 年の実行率は小麦73 %、コメ13 %、大豆油80 %、パーム油130 %など穀物と油料の輸入が急増した。輸出振興計画補助金を穀物輸出企業に付与して農産物輸出を拡大してきたアメリカが断トツで最大の輸入相手国となっている35)。また対米輸入の影響を緩和するために、日本への野菜・冷凍野菜の輸出を拡大するという新しい米中日トライアングル貿易が形成されつつある。  
3)資本主義的法整備
WTO加盟に際し約束したことを実現するためには国内法の改正を行う必要がある。2003 年12 月の全人代常務委員会は、2007 年までに制定すべき立法計画を発表し、その後も法整備をすすめている。まず憲法改正であるが、2004 年3月の全人代で、「3つの代表」思想(中国共産党は、「先進的な社会的生産力発展の要請」「先進的文化の発展」「広範な人民の根本的利益」の3つを代表するという)と、「私有財産保護」が明記された憲法改正案が正式に可決された。
後者に関する従来規定は「国は公民の合法的収入、貯蓄、家屋とその他の合法的財産権の所有権を保護する」であり、保護すべき私有財産の範囲が生活手段だけなのか生産手段を含めたものなのかはっきりしなかったが、「合法的に獲得された私有財産は侵害されてはならない」(第13 条1項)と規定し、「私有財産」の保護を明確にした。ただし、私有財産の完全な不可侵を定めたものではなく、「国家は公共の利益のために、法律の定めるところに従い、私有財産を収容することができるが、補償を行う」(第13 条2項)との但し書きがある。またこのときの改正では、「国家は非公有制経済の発展を奨励、支持し、指導する」(第11 条2項)の規定も追加され、資本主義的な色彩を持つ私有経済が奨励されている36)。
次に、民法の一部としての会社法の改正、破産法の制定、独占禁止法の制定、物権法の制定などがある。2006 年1月に新しい「会社法」が施行され、資本金最低限度額の規制緩和などにより、会社設立を容易にした。同年8月に成立した「企業破産法」により、国有企業が市場から退場を余儀なくされる際に労働者の再就職や銀行債務の減免といった特別扱いをしないことになった。また「独占禁止法」は、市場競争を保護し独占行為を抑制するものであるが、中国の独自の事情を考慮して、地方政府の保護主義政策による国内市場分断など行政の権力を乱用して競争を排除・制限することを禁止する条項が入っている。「物権法」は04 年の憲法改定による私有財産保護の規定を具体化するものであり、国有財産と同じように、集団所有の財産も私有財産も同様に保護されるという原則が確認され、国民の生活が直接かかわっている農家の土地徴用や都市部における土地の使用権の期限延長と住宅立ち退きなどの規定が焦点となっている。市場流通関連法に関しては、06 年12 月の流通サービス分野の全面的な開放にあわせ、様々な流通形態からすでに生じている市場の混乱や消費者被害の実態を把握・整理し必要となる行政法規を策定する準備が進められている37)。
会計基準についても、国内条件が整い次第、減損損失の戻入額の算定、関連当事者の関係および取引に関する開示、政府補助の会計処理など中国特有の方式を国際標準へ収束させる方針が発表されている。  
X 改革開放の深化と格差是正―むすびに代えて

 

中国のグローバル経済への参入の成果として、改革開放の深化による生産力の増大と「経済大国」化が挙げられよう。また米日欧からの統合の面では、計画経済に後戻りできない水準に達した市場化の制度構築の進展は、グローバル競争の熾烈化をもたらすものの資本主義体制の維持・拡大の面で大きな成果である。他方、都市と農村間の所得格差拡大、および都市内部格差の拡大、社会保障制度の未整備(競争に負ける弱者層を保障するセーフティネットが用意されていなかった)によって中国人口の多くが不安と不満を抱えるに至っており、放置すれば社会的不安定による持続的な経済成長を阻害する惧れがあり、また食料・資源・エネルギー面で世界経済への不安定要因をもたらしており、「社会主義」の真価が問われる事態となっている。
こうしたなかで2006 年3月に全人代で採択された「第11 次5カ年計画」は、胡錦濤・温家宝政権による江沢民・朱鎔基政権の経済成長路線のモデル・チェンジの性格をもつ。具体的には、@環境への配慮を強め、従来の投資一辺倒の経済成長路線を見直して、全面的で調和のとれた持続可能な発展を目指す「科学的発展観」が提起されている。また、A国民の不満を宥めるために、「調和の取れた社会作り」が提唱されている。重点戦略のうち、国内所得格差と国際技術格差問題の2つにコメントしておきたい。
三農問題への取組
第11 次5カ年計画では、三農(農業、農村、農民)問題および農民工問題の解決と「社会主義新農村建設」が最大の戦略的任務とされている。今後、農民の所得向上を積極化する構造政策として挙げられているのは、@農業の法人経営を強力に推進する、A農村部の第2次、第3次産業の発展と小都市建設を加速する、B戸籍制度の改革や職業訓練、出稼ぎ労働者の身分保障などを通じて、農村余剰労働力の他産業への移動を促進する、C貧困農村地域への支援を拡大する、などである。「社会主義市場経済」のもとで農民の土地所有権を明確に保護し、農地の有償譲渡を可能にすれば、農民がそれを元手に新しい事業を起こしたり都市部に移動して新たな職業を求めることが容易になる、との期待がある38)。
しかし農村でも高齢化と少子化や若年・壮年層の都市流出によって核家族世帯は増大傾向にある。農村貧困層は、貯蓄や資産が少なく所得源が限られており、リスクの多様化に対して脆弱性が増大している39)。社会セーフティネットの整備は遅れており、さらにこの数年、地方政府は公共の利益という名目で農民から僅かな補償で土地を徴用し、高値で不動産開発業者などへ売却する行為をエスカレートさせており、農村の失業者を増大させて農民暴動を頻発させてきたと報道されている。中央政府と地方政府の財政トランスファー問題を改善し、新たな土地なし貧困層を生み出さないで格差を是正する政策が求められる。
自主技術開発
中国が経済力を強化する上で必要なことは、国際技術格差をうずめうる自主技術と自主ブランドの開発を進めることであり、そこに力点が置かれるのは自然なことである。現状ではハイテク製品の生産においては海外への巨額の特許料支払を余儀なくされており、科学技術面で先進国に追いつくには長期間を要すると認識されている。こうした現状を打開するための鍵として浮上しているのが中国独自規格という作戦で、その一つに第3世代携帯電話(3G)がある40)。
この方式で中国市場は防衛できても、世界市場に攻勢をかけるには迫力に欠ける。
外資の動きでは、技術漏洩と人材の流出を懸念して本格的な対中国R&D活動を控えている日系企業とは対照的に、モトローラ、ルーセント、マイクロソフト、IBMなどの米系多国籍企業は、知的財産権管理を強化するため100 %自己資本のR&D投資を強化しており、中国は「世界のR&Dセンター」化へ進みつつある41)。そうした中で外資依存を脱却し自主技術を開発できるのか、の懸念が依然としてある。政府の政策支援と教育活動の2つの条件はよく整備されているけれども、技術進歩、技術革新を図るメカニズムの中核をなす市場の技術競争、企業外R&D活動、および企業活動=生産技術の3つの要素条件が有機的に醸成・結合されない限り、システムが形成・機能しないとの指摘もある42)。
米日欧による中国のグローバル経済への統合は大いに進んだといえる。他方、近年、中国もアフリカや中東、中央アジアにおいてエネルギー権益の確保にむけて、またオーストラリアや中南米で鉱産物資源や食料の安定購入にむけて積極的に動き、成果をあげ影響力を拡大してきている。中国によるグローバル経済の取り込みと活用も注目されるところであるが、これらの検討は今後の課題としたい。 

1)筆者は、グローバリゼーションを「モノ、カネ、人、サービスにかかわる活動が、各国の規制緩和/撤廃により自由化され、地球規模で、市場原理にのっとって利潤の最大化を追求する資本の運動」と定義している。それは、多国籍企業の活動の質的発展に加え、1990 年代の冷戦終結にともなうアメリカ軍事技術の民間開放によるIT(情報通信)革命の進展を背景とした金融グローバル化によって特徴づけられ、パクス・アメリカーナの再編であることを重視している。毛利良一『グローバリゼーションとIMF・世界銀行』大月書店、2001 年、pp.1-17。
2)日本貿易振興機構『ジェトロ貿易投資白書2004』2004 年、p.4。
3)日本貿易振興機構北京事務所資料、2006 年。
4)みずほ総合研究所「中国金融経済動向データ月報 C.対外経済編」、2006 年各号。
5)大橋英夫『米中経済摩擦:中国経済の国際展開』勁草書房、1998 年、pp.22-23。
6)中兼和津次「中国経済―3つの転換」毛里和子編『現代中国の構造変動 第1巻 大国中国への視座』東京大学出版会、2000 年、pp.92-93。
7)丸川知雄「日本の対中国政府開発援助の検討」国際金融情報センター・開発援助の新しい課題に関する研究会、2004 年。
8)外務省「対中ODA実績概要」2005 年5月。
9)AFLCIO、 “Wal-Mart Imports from China、 Exports Ohio Jobs”、 2005
10)稲垣清「中国の外資受入れ状況と日本企業の進出」21 世紀中国総研編『中国進出企業一覧 上場会社編』蒼蒼社、2005 年p.15。
11)例えば、渡辺利夫編『東アジア経済連携の時代』東洋経済新報社、2004 年、序章「アジア化するアジア」。
12)稲垣、前掲。
13)日本貿易振興会北京事務所、前掲。
14)厳善平『現代中国経済 2 農民国家の課題』名古屋大学出版会、2002年;同「中国における農業、農村、農民および農民工―四農問題の実態と政策転換のプロセス」日本記者クラブ研究会「中国経済」2006 年2月17 日、同「中国における農業、農村、農民および農民工」2006 年、中国のグローバル経済への参入/統合(毛利)( 567 ) 147 山本恒人「中国における農民工の規模とその存在形態」『大阪経大論集』第54 巻第2号、2003 年7月姜穎(JiangYing)「農民工の権利保障の現状および発展」自治労、2004 年などによる。
15)朱炎「中国経済の対外依存構造の現状と課題」富士通総研・研究レポート、No.259、2006年4月。
16)『日本経済新聞』2006 年7月30 日。
17)大橋英夫、前掲、p.118。
18)大橋英夫、前掲、pp.137-140。
19)毛利良一「中国の『経済大国』化と通貨・金融問題」『経済』2004 年11 月号。
20)萩原陽子「摩擦に直面する中国貿易とその実態」『東京三菱レビュー』no.11 2005 年7月。
21)萩原陽子、同上;Hufbauer、 G.Clide and Yee Young、 2004、 China Bashing、 IIE Policy Briefs 04-5。
22)柯隆「中国企業の対外直接投資に関する考察」富士通総研・研究レポート、No.235、2005 年。
23)日米経済摩擦については、以下を参照。関下稔『現代世界経済論―パクス・アメリカーナの構造と運動』有斐閣、1986 年;同『日米経済摩擦の新展開』大月書店、1989 年;坂井昭夫『日米経済摩擦と政策協調―揺らぐ国家主権』有斐閣、1991 年;同『日米ハイテク摩擦と知的所有権』有斐閣、1994 年、など。
24)大橋英夫、前掲、pp.176-179。
25)稲垣、前掲、p.27。
26)Hufbauer、 op.cit.、 p.27.
27)白井早由里『人民元と中国経済』日本経済新聞社、2004年、pp.11-12.
28)中国WTO加盟に関する日本交渉チーム『中国のWTO加盟』蒼蒼社、2002 年、第2章。
29)座間紘一「中国経済」松村文武ほか編『現代世界経済をとらえる Ver.4』東洋経済新報社、2003年。
30)日本貿易振興機構『ジェトロ貿易投資白書2006』p.21。
31)『日本経済新聞』2006 年10 月28 日。
32)同上、2006 年8月16 日。
33)関志雄「本格化する外資の国有銀行への資本参加─根拠の乏しい「安売論」」2006 年2月。
34)伊藤さゆり「加速する中国の金融改革」ニッセイ基礎研REPORT、2006 年9月。
35)銭小平「中国の対外貿易戦略における農産物輸出」農水省『アジア・大洋州地域食料農業情報調査分析検討事業報告書』、2004 年、毛利良一「WTO農業交渉と東アジアにおける農産物・食料貿易」『日本福祉大学経済論集』第33号、2006 年8月。
36)鮫島敬治・日本経済研究センター編『資本主義へ疾走する中国』日本経済新聞社、2004 年、p.203。
37)関志雄「急がれる市場経済化のための法整備─高まる企業破産法、独占禁止法、物権法への期待」2006 年9月
38)黒岩達也「中国の第11 次5か年計画と今後の経済発展戦略」信金中央金庫『内外経済・金融動向』No.18-2、2006 年6月。
39)三浦有史「中国の社会不安定化リスクをどう読むか」『環太平洋ビジネス情報RIM』Vol.6No.23、2006 年10 月。
40)萩原陽子「第11 次5カ年計画に示された中国経済の方向性」『東京三菱レビュー』、No.5、2006 年3月。
41)金堅敏「中国における外資企業のR&D活動と日系企業」富士通総研・研究レポート、No.270、2006 年7月
42)韓金江「技術進歩の理論」、安藤哲生/川島光弘/韓金江『中国の技術発展と技術移転』ミネルヴァ書房、所収、2005 年、p.73。 
 
21世紀の双頭・アメリカと中国 / スーパーキャピタリズム論序説(1)

 

はじめに─問題把握と基本視角─
1991年のソ連の崩壊は20世紀の終焉を物語る象徴的な出来事であった。アンゲロプロスの名作『ユリシーズの瞳』は船に乗せられてドナウ川を引かれていく、解体された巨大なレーニン像を両側の村人達が立ち竦んだようにして見守る象徴的なシーンを映し出した。もっとも印象的なシーンである。社会主義ソ連とその衛星国群としての東欧諸国の崩壊を、かの地の多くの人々はこの映画のように、呆然と立ち竦してみていたのではないだろうか。その意味では、これはまさにホブズボームのいうように1)、1917年から1991年までの短い20世紀の終わりを告げる象徴的な出来事であったといえよう。
さてこの20世紀をホブズボームは「両極端の時代」(Age of Extremes)とも描いている。
その意味について少し考えてみよう。19世紀はフランス市民革命とイギリス産業革命によって先導された近代社会が、国民国家(ネイションステート)の枠組みの下で資本主義経済システムとして発達を遂げた時代で、それはヨーロッパを源流とし、その地で構築された横並び的な諸国家の体系、つまりはウェストファリア体制を国際体制の基本としていた。20世紀はその中から社会主義の国ソ連が生まれ、新たな体制間の対抗と共存が併走し始めた時代で、とりわけ、第二次大戦後はアメリカとソ連がその両端の極として覇権を競い、お互いに自己の陣営に包摂しようとして躍起になって競争しあった時代であった。この時代はまた民族単位でのまとまりをもち、国民国家を構築した資本主義諸国内の強国が、ヨーロッパ的な地理的制約から脱却しようとして帝国主義的膨張を図り、植民地を領有し合った時代、あるいは旧来からの植民地に新たな意味を見いだした時代でもあり、それには、かろうじて資本主義の国際体制に最後に参加しえた日本が急速な資本主義強国への道を辿って、列強に互して植民地争奪戦に加わったことも含まれている。そして列強間の対抗が激しくなり、その確執は二度にわたる世界戦争となって現出したが、その中からまずロシアが離脱して、社会主義への道を取り始めた。第二次大戦後はさらにアジア、アフリカ、ラテンアメリカの植民地が次々と独立を遂げていったが、その中にはソ連型の社会主義の道をとる国々も少なからずあったが、多くはアメリカ主導の資本主義への道を展望していた。
その結果、資本主義の中心としてのアメリカと社会主義陣営の中核としてのソ連をそれぞれの極とする、体制間の対抗の時代が到来した。この背景には、アメリカが民族自決権を擁護して分離独立を認め、その点で旧来の西欧型植民地列強とは一線を画する独自のスタンスを旧植民地地域にたいして持ったことの意義も大きい。しかし、イギリス、フランスに代わって資本主義の組織化と途上国の経済開発の資本主義的方向への領導の責任を引き受けたアメリカは、インドシナで躓きを見せることになる。両体制間の激突の焦点となったインドシナ三国からのアメリカの撤退は、致命的な痛手となってアメリカ国内社会にも跳ね返り、厭戦気分と敗北感を蔓延させた。しかし勢いに乗って覇権主義的な社会主義衛星国家群の拡大に狂奔したソ連も中ソ対立でその一枚岩的団結にひびが入り、さらにアフガニスタンで大きく躓くようになる。
それは、その本質が一党独裁と強大な官僚支配の下での社会主義「計画」経済の推進とソ連を中心とする衛星国群の国際体制にあり、その支配の中心が核兵器体系に象徴される軍事力とマルクス=レーニン主義なるものの一手解釈権の独占に基づくイデオロギー支配にあったため、国内的にも国際的にも破綻していかざるをえなかった。とりわけ、膨大な官僚層の維持・扶養と言論統制と指令経済強要と巨額の軍事費捻出はこの国を疲弊させ、ついには崩壊へと突き進むようになる。
さて、ソ連の崩壊後唯一の覇権国となったアメリカは、国内ではIT革命に基礎をおくニューエコノミーによって、日本などの不況を尻目に、大きくサービス経済化へと重心を移動させながら経済的巻き返しを図り、さらにはそれに続く長期繁栄を誇るようになった。しかし、アメリカ経済のお題目となった市場原理とグローバリゼーションの推進は、世界を一つに強引に結び合わせ、アメリカ流原理の標準化と画一化を押しつける傾向があり、それはさまざまな装いを持つアンチグローバリズムをその対抗軸として生み出すことになる。一方、文化大革命なる不毛な国内争乱に終わりを告げた中国は、社会主義「計画」経済に代わる社会主義「市場」経済の導入によって開放化と民営化を進め、今や「世界の工場」=モノ作りの拠点に成長してきている。筆者の理解する21世紀は、ホブズボームになぞらえて、1991年のソ連崩壊後の世界を指しているが、この21世紀は唯一の覇権国で経済のソフト化・サービス化の一大中心地、多国籍知識集積体の本拠地としてのアメリカと、世界のモノ作りの拠点、「世界の工場」中国を双頭として進められる世界だと考えられる。そして20世紀が、「自由」の名の下に貧富の差をも能力差に解消するアメリカ的世界観と、「平等」の名の下に言論統制とマルクス=レーニン主義の強要を合理化するソ連流社会主義像との両極端の併走をもたらし、後者の自滅を招いたとすれば、21世紀はどんな原理と折り合いがつけられ、新しい世界を構想することができるのだろうか。ここではホブズボームの
ひそみに倣って、 それを相互転化の時代( Age of Interchangeability)と名づけてみよう。
そこで小論は、この21世紀初頭の双頭を構成するアメリカと中国の経済的特徴と、それがもたらす将来の世界経済の行方について、ごく予備的、概括的に考察してみたい。それは筆者の当面の計画である「スーパーキャピタリズム」の構想の基本内容と枠組みを語ることになるだろう。というのは、アメリカで新たに展開されつつある、オープンアーキテクチャア型ビジネスモデルと知識の商品化とネットワーク化とセキュリタイゼーション(あるいはキャピタライゼーション)との結合、つまりはニューエコノミーの奔流は、これまでのモノ作りに基礎をおく資本主義とは格段に相違するものだからである。またアメリカのモノ作りからの脱却がその担い手を他ならぬ社会主義「市場」経済の国、中国に移植させている。一方中国では自前の技術と情報体系ではなく、西側世界の作った技術や資本を使って、それを自国の格安の労働力と合体させて「世界の工場」に浮上してきている。かくして両者は自国だけでは完結し得ない「不完全なもの」として、互いを一面では必要としつつも、他面では反発し合う両面を持つ、ひとつのものの双頭を担うことになる。そしてその総体を筆者はスーパーキャピタリズムと名付けてみた。あるいは別名は資本主義から別の生産体制への過渡期、あるいは両者の並存期もしくは資本主義の最後の段階と名付けてもよい2)。というのは、資本主義のニューエコノミーと社会主義市場経済との合成物は、どう見ても奇怪な異物としてしか、筆者には見えてこないからである。しかしその内容はこれから順次深めていかなければならないが、さしあたって、ここではその序論的な導入部を論じてみたい。なお紙数の関係上、本稿ではアメリカについてニューエコノミーの内容と特徴を概観し、それに続く、「世界の工場」中国の特徴については次の稿で果たしたい。 
1.ニューエコノミーの定義
1990年代以降、とりわけクリントン政権下のアメリカ経済を語る際、「ニューエコノミー」という言葉が枕詞のようにして使われてきた。しかしそれが含む内容は曖昧である。たとえば『経済新語辞典』(日本経済新聞社)によれば、ニユーエコノミーとは「生産性の上昇によって米国経済からは景気循環が消滅してしまい、インフレなき長期景気拡大が実現したとする考え方。情報技術の発展による在庫管理の効率化や規制緩和による企業間競争、労働市場の柔軟性などが米国経済の質を変貌させ、理想的な経済構造をもたらしたとされる。1990年代の景気拡大を背景にした米国の自信の表れと言えるが、学会でコンセンサスが得られているわけではない」3)としている。景気変動が消滅したというのは言い過ぎではあっても、情報技術の発達に先導された設備投資の促進、在庫管理の効率化、企業組織の再編、労働市場の柔軟化などが、政府の規制緩和と連動して新たな企業間の提携と競争の姿を生み出したのは確かである。そしてそれらがアメリカ経済にかつてない活力を与え、その成果が現れたことを全体として総称する言葉として、このニューエコノミーなる言葉が使われている。したがって、学問的な試練を経た厳密な概念というよりは、あれこれの表象的な特徴を集めてつなぎ合わせ、それを多分に情緒的で感覚的な、あるいはイデオロギー的で宣伝的なとでもいうべきか、そうした用語として使ってきたというのが真相であろう。したがって、その後のアメリカの景気後退にともなって、この言葉が次第に使われなくなり、それどころか、今度は一転してネットバブルといったように、ニューエコノミーの終焉が叫ばれたりしてきている。あるいは9.11以降はむしろ経済問題はどこかに吹き飛んで、アメリカを語る際には、もっぱらアメリカ国内の安全保障一色になったかのような印象すらある。
しかし筆者はそうは考えない。ニューエコノミー論には過度の強調や超楽観的な見通しがあるとはいえ、それらは事柄の本質的な部分ではなく、この中には今日のアメリカ経済が踏み込みつつある、そして世界全体に波及する勢いのある、新しい面を確かに表している部分があり、その実体を表現した概念として、このニューエコノミーなる言葉は使われる必要があるし、したがってまた、この概念の本来の意味合いを正確に定義し、位置づけなければならないと考えている。さらにこうしたアメリカ経済のこの10年間の歩みはその政治姿勢と分かち難く結びついているし、その意味ではクリントン政権とブッシュ政権の間の断絶よりは、むしろその継続を強調したい気分である。もっとも、クリントン政権は経済的には成功したが、軍事的・外交的には失敗ないしは挫折を繰り返してきたとみられており、反対にブッシュ政権は軍事的には攻勢にでて大勝利を誇示しているものの、経済的には景気後退や失業率の増大、さらにはコーポレートガバナンスの低下に悩まされ続けているという内容の違いをもっているし、またその経済政策実施の手法も市場原理を優先させて最新鋭の産業群の先導に期待するか、それとも伝統的な巨大産業ーとりわけ軍産複合体や石油産業ーの安定した力に依拠するのかの違いもあるし、政治・外交・軍事の手法にいたっては、政治外交を中心にするのか、それとも軍事的行動を優先させるのか、それこそ180度もの違いをもっている。したがって、両者の違いや質的な差を強調するのが一般的な風潮だが、筆者は敢えてその底に流れるものの共通性や連続性、つまりはグローバリゼーションやニューエコノミーや単独覇権といった共通基盤に目を向け、それらの共通性を確認した上で、それぞれの違いをみていきたいと考えている。これらのことを読み解いていくことも当然にスーパーキャピタリズムの重要な課題であるが、本稿ではニューエコノミーそのものに焦点をあててみたい。
そこで、最初にこの言葉の定義から入ってみよう。ニューエコノミー現象とそれを推進するニューエコノミー論はクリントン政権の8年間に花開いたものだが、在任中はクリントン政権、少なくとも大統領経済諮問委員会はこれを正式には認めてこなかった。しかし、政権を去る最後の年である2001年度の大統領経済諮問委員会(CEA)報告ー日本では、大統領経済報告や関連する統計資料と一緒にして『米国経済白書』という名前で毎年、『エコノミスト』の臨時増刊として翻訳出版されているーは実体としてのニューエコノミーを確認し、それを定義し、そしてその活動を総括して、かつまた自画自賛とでもいえるほどの賛美を行っている。それによれば、ニューエコノミーとは「テクノロジー、ビジネス慣行と経済政策における相互補強的な前進の結合から生じたパフォーマンスにおける顕著な成果―急速な生産性成長、所得の増加、低い失業率と適度なインフレーション―によってニューエコノミーを定義する」4)としている。
これがニューエコノミーの定義とその特徴づけである。それは、技術、ビジネス慣行、政府の経済政策が一体となって生み出した新しい結果であり、生産性増大、所得増加、低失業率、そして低インフレ率に代表されるものだということになる。この定義そのものについては、行論の展開にともなって、度々立ち戻ることになろう。
ところで、一般的にはニューエコノミーが生み出した経済的パフォーマンスに関心が集まっているが、筆者の関心事は、むしろそれを生み出す要因にある。それに関しては、報告書の第3章の「ニューエコノミーの創造と伝播」において詳しく論じられているので、次にそれをみていくことにしよう。そこでは、第1にITセクターそのものの確立過程、第2にアメリカにおいてこうしたイノベーションが隆盛になった原因、第3に企業によるニューエコノミービジネスの展開、そして第4にその結果としての業績改善の状況把握という、四つの要因を取り出して、論じている。順次、みていこう。 
2.ニューエコノミーの経済的基礎 / IT化とインターネットの出現
まず第1の経済のIT化の確立と定着の様子に関して、その論理をフォローしてみよう。ニューエコノミーと関連した生産性の上昇はITの進歩によってもたらされたが、それは1990年代に情報処理、記憶、伝達のコストが劇的に低下したこと、とりわけインターネットの出現がその最大の要因になったとしている。このことは、具体的には対GDP比率に占めるITセクターの割合の上昇(8.3%)5)やIT投資そのものの増大傾向(第1図)、そして技術進歩の実現(速度、記憶容量、データ伝達能力などのハード面ならびに、それに続くソフト分野におけるモジュール化と洗練度)として現れている。こうしたことは当然に、企業にたいして業務の洗練、拡大、統合といった形でのビジネス慣行の変更を迫ることになる。またこの点では創業企業の方が新製品開発や生産工程や市場開拓で大いに野心的な意欲や利点をもっているため、これらの分野での新たな企業群の群生をよんだ。そしてこうした企業活動の活発化の結果、雇用増加が爆発的に起こることになる。そこでの特徴はインターネットへのアクセス、つまりはネットワーク効果の増大にある(第1表)。こうして情報化時代が到来するが、ここでは速い処理、安価なデータ記憶、急速な通信の収斂化が決め手になるが、それはネットワーク外部性と呼ばれる、このインターネットで結ばれた組織外の契約者を活用することができるときに、もっとも効果的になるという。
こうした論理展開からも明らかなように、IT化の進行は単にハード面やソフト面での前進に止まらず、インターネットで結ばれた契約者の多さ、つまりは双方向での利用可能性の拡大をもたらし、そしてそれが一定の量、つまりはクリティカルマス(閾値)に達したところから、加速度的にその利便性が高まる。つまり、ネットワーク外部性の活用が最大のメリットということになる。それは相互需要という概念で把握しなければならないものであり、これまでの経済学の一般的な論理には馴染まない、特殊なケースに該当するものだともいえる。強いていえば、輸出の有利さのみならず、輸入のメリットをも説いた比較生産費原理によく似た概念だともいえるが、電話などの公共性をもった「クラブ財」的なものには、従来から適用されてきた経緯があるし、それが独占的な事業ーつまりは一人勝ちーに成り易いことも指摘されている。
そしてそのことは社会化と公共性の証でもある。この特異性と独特の論理にまず着目する必要がある。 
3.ニューエコノミーの推進 / 技術革新とその制度的・金融的支援
第2はアメリカでこうしたイノベーションが生じた理由である。それにはインセンティブの面からと制度面とからの、両面からの検討が必要だが、いずれにせよ、政府による支援・促進策が大事になる。ここではクリントン政権が行った、これに関連する内外政策が列記されている。インターネット非課税法(インターネット課税猶予)、WTOでの電子取引への関税凍結を実現するための努力、情報技術協定(ハイテク財とサービスの開放のために600億ドルほどの関税撤廃を行う)、WTOの基礎テレコム協定(1兆ドルのグローバル・テレコムサービス市場の民営化を促す協定)への署名、1996年テレコム法(最初の包括的テレコム改革法)、連邦通信委員会および民間セクターへの政府機関の参加・協力を認めた行政命令(第三世代無線テクノロジーに必要な電波スペクトルの特定化)、研究試験税控除を2004年まで延長(民間セクターのR&Dを鼓吹するため)、全米科学財団(NSF)予算の大幅増額(13%増)などの、政府措置の実施である。まさにニューエコノミー推進本部だといいたいほどの、クリントン政権下での政府の政策誘導の列記である。
そしてこうした政府の支援策の下でニューエコノミーが誕生し、花開いていくことになるが、そのための第一の要因は新しいテクノロジーに対する需要である。激しい競争とフィードバック機能がこの新しいテクノロジーの採用を促すが、それにはネットワーク効果、規模に対する収穫逓増もしくは強い学習効果、それにコンポの相互補完性が需要の相互依存システムを生むことが、特にあげられている。まずネットワーク効果だが、電話(家庭での95%の普及度)、ファクシミリ(900万台以上)、eメイル(1億人以上のアカウント)、インスタント・メッセージ(6000万人以上)6)などはそれを使うユーザーが増えれば増えるほど、すでにそれに加入している既存のユーザーにとっては価値あるものになっていく。これはネットワーク型の商品・サービス市場では、その利用者増加が正のーポジティブなーフィードバック効果を与えることになる。規模に対する収穫逓増では半導体が代表的である。マイクロプロセッサやメモリーチップの生産は高い固定費用と低い可変費用によって特徴づけられる─たとえば、半導体製造工場建設の固定費は1980年代初めの1億ドルから90年代後半には12億ドルに増大した7)─が、そこでは企業の販売が増えれば増えるほど、チップの価格が下がり、投資からの利益が増大するというメカニズムが働く。最後に需要の相互依存性だが、コンピュータの需要はソフトウェア、プリンター、モデム、スキャナーなどの周辺機器の価格や品質に依存しているが、同時にソフトと周辺機器に対する需要もある程度までコンピュータの価格と品質によって決定される。こうした関係は、コンポ間や製品全体の間での共通の標準インターフェイスが確立されると、より効率的になるので、その結果、これらの間の需要は相互依存的になっていく。つまりインターフェイスの標準化形成が生む各製品・コンポ間の相互依存性の増大と相乗効果という要素である。
以上のところでは、加入者が増加すればするほど、そこに加入しているもののネットワーク効果が高まるという点、半導体産業に特有な技術革新スピードの速さーつまり集積度が18ヶ月ごとに二倍になるという「ムーアの法則」が貫徹する分野ーが固定費用の高さを呼び、そこから規模に対する収穫逓増あるいは強い学習効果が作用するという点、そして標準インターフェイスの確立による各製品・コンポ間の相互依存性の増大あるいは相乗効果の発揮という点が、特に強調されている。この三点はニューエコノミーを考える際の重要なキータームとなるので、それらの是非についての評価は慎重に行いたい。
第二の要因は金融市場の発展がこの分野の新企業の資本コストを軽減させていることである。特にベンチャーキャピタルとIPO(新規株式公開)とはそこでの大事な要素である。アメリカに独特な小規模で革新的な創業企業にたいする支援策は、まず個人投資家「エンジェル」の存在で、彼らは萌芽段階の企業に資金を投資し、その企業の新製品開発の内容を明確にさせて、起業が可能かいないかを判断させる。それが可能なら、引き続いて限られた範囲の株式公開を行う私募株市場で追加的資金を得ることができる。そして企業の存続が可能となっていく。
同時に政府も「小規模イノベーション研究プログラム」を通じてイノベーションの開発・促進を行ってきている。こうした枠組みが作られてきた。
しかしながら、この面でもっとも重要なのは、ベンチャーキャピタルの存在とその積極的な役割である。彼らは単に資金を提供するばかりでなく、投資家(個人、銀行、年金基金機関)と起業家とを引き合わせ、かつプロジェクトへの助言、監視、支援をも行っている。そしてこれが新規のテクノロジー企業のプロジェクトの収益性にたいする評価の難しさや、起業家の行動の監視のしにくさを補っている。その結果、1980年代にベンチャーキャピタル投資は年平均で17%も伸びたが、1990年代にはさらにその倍になった。そして1998年には総額で143億ドルであったのが、2000年の最初の四半期だけで実に545億ドルにも達している(第2図)。これには、連邦政府がベンチャーキャピタル事業への支援を積極的に行ってきたことも与っていて、1958年に小企業投資会社(SBIC)プログラムを作り、1999年には37億ドルを3700社に与えるという実績を示している8)。ただしこのベンチャーキャピタルが投資家の純資金源の増大なのか、それとも従来企業内投資されてたものがこちらにまわされるようになったのかは、残念ながら判然としないとしている。ベンチャーキャピタルは公募株市場(株式・債券)とは異なる私募株市場の一部だが、それには大きく分けて、ベンチャーキャピタルと専門的な投資集団(レバレッジを利かせた買収、資本再構成、MBO、リストラなどを扱う買収専門会社)という、異なる二つのタイプのものがある。しかし現実には、両者の区別は不明確になってきており、ベンチャーキャピタルがすでにある企業の買収を行ったり、買収専門会社がインターネット創業への投資を行ったりしていて、相互浸透的になっている。
もうひとつのIPO(新規株式公開)も1990年代後半以降、極めて重要な資金源となってきた。1993年から2000年11月までの間にIPOは3190億ドルで、それ以前の20年間の2倍以上増加した(インフレ調整済の数字で)9)(第3図)。特にこれはITとバイオテクノロジー分野において、新企業の重要な資金源であった。この活発なIPO市場は新企業に資本を提供すると同時に、初期段階の高リスクにたいして投資家に格好の退出路を与えることにもなった。それは同時に、部分的な支配と引き換えに自己の企業起こしを成功させるという形で、起業家に大いに流動性を与えることにもなった。しかしこれがバブルにならないという保証はない。というのは、1999年と2000年には初日の売出価格と終値との差額、つまり初日収益率が69%という極端に高い率を記録し、その後急速に下落したからである。その原因は投資家の根拠なき熱狂か極端な安売りかの、いずれかであると推測されるとしている。
ここからみられることは、ベンチャーキャピタル市場の繁栄とIPO市場の活発化であり、それはアメリカ以外にはない、アメリカ経済に独特の特徴である。したがって、ニューエコノミーが何故アメリカにおいて出現したかを説明する重要な手掛かりを金融面で与えるのが、これらのものである。そしてわれわれにとって重要なことは、IT化・情報化におけるイノベーションの過程が資本市場の独特の構造やその動向と不可分に結びついて現れてきていることであり、したがって、資本のこうした独特の運動の下支えなくしては、これらのイノベーションの成功と興隆はあり得なかったといっても過言ではないことである。しかしその過熱が金融の新規株式公開で集められた資金額は増加し、公開数は多かった。 
バブル化を呼び起こしがちな脆弱な基盤の上に成り立っていることにも、同時に留意しておかなければならない。つまりは不安定化の中での繁栄というもろい基盤であり、またこうしたもろい基盤の上に成り立っているからこそ、急速に成長・肥大化したともいえよう。これは今日のアメリカ経済の最大の特徴の一つである。 
4.イノベーションの爆発 / 知識資本の台頭と知的所有権保護
第三の要因はR&D資金供給方法とその主体の変化である。連邦政府の資金供給の重点はこれまでの国防関連テクノロジー中心から非軍事製品ならびにサービスへと大きくシフトしてきており、また小企業による民間R&Dが急増してきている。しかもそこでは基礎研究に重点が置かれているという特徴がある。より少ない物的資本とより多くの「知識資本」(Intellectual Capital)ーこの概念は重要な概念なので、その内容は厳密にされなければならないがーを結合させるという新しい生産のやり方が立ち上がり、それが次第に興隆していくのにつれて、知識資本が創出される手段としてのR&D支出は劇的に増大してきている。その結果、そのプロセスも大規模な研究所によって行われる垂直統合型モデルから、小企業を巻き込んだ企業間共同開発による分権型モデルへと大きく転換してきている。1995年から99年までの間に実質R&D支出は年率6%の伸びを見せたが、このうち民間セクターによる急速な伸張(年率8%)がこの間の特徴となっている(第4図)。さらに科学者・技術者の数もこの間に34%も増加した(うち外国生まれの人は13%を占めている)10)。さらに、これまでは基礎研究が商業的に利用できる結果をあまり生まず、またそれが実を結んだ場合でも、競争企業がただ乗りしてくることを恐れて、民間企業は基礎研究に余り投資しないと考えられてきたが、90年代には民間セクターの基礎研究の支援が増加した。その理由は、特許出願の際に、既存特許ばかりでなく、科学研究の成果を参照するようになってきたからである。つまりこのことは、基礎研究がテクノロジーの変化にとって重要になってきたことを示しているし、それが科学者・研究者の雇用増加にも反映されてきていると考えられるからである。
しかしもっとも大事な要因は、この報告書が明示的に示していないが、研究開発活動が多額の資金導入、科学者・技術者の集団的・個人的営為、そして発明・発見の結果としての特許取得と結びついて、IT化の中で知識資本として確立され、その資本の運動がこの分野での競争の帰趨を決めるほどの重要な要素になってきたという事情である。知が資本として確立されるというこの過程こそは、新しい時代の誕生を刻印する確かなものである。それによって、科学的・技術的な知的営為が大きな力を持ち、知を中心にしてまわる世界が現出し始めている。このことは銘記されねばならない。
ところで、こうした民間優位のR&D投資の増大の中で、小企業の占める割合は急速に高まっていて、500人未満の企業のそれは93年から98年までの間に二倍になり、全体の18%を占めるにまで至った(第5図)。このことが意味するものは、複数の独立企業横断的なイノベーション活動が活発化してきたという事実である。たとえば、かつてならコンピュータ企業はハードとソフトの両方を含む完全に統合された特許取得済のシステムを販売していて、自社内でそのシステムの大部分のコンポを開発・製造していた。しかし今日では多くのシステムはモジュラーアーキテクチャーによっている。そしてソフトとハードの生産は分離され、ハードの製造には多数の異なる企業によって設計・開発されたコンポが使われている。また半導体設計会社は製造設備を所有せず、設計それ自体に集中して、知的所有権の創出に専念している。これにたいして、それ以外の会社が設計会社から契約生産を引き受けている。また医療品分野でも、かつてはランダム選別法とよばれるものに新薬発見は依存していて、大規模製薬会社がその革新者であったが、今日では分子生物学の革命の結果、企業は薬の検査を先導するために、病気の生物学的基礎についての深い理解力を利用するようになった。バイオテクノロジーが新薬の発見ばかりでなく、その生産のためのテクノロジーともなり、その双方を行う企業の参入が盛んになっている。そして主要製薬会社(臨床試験とマーケティング能力)、バイオテクノロジー企業(R&D能力)、学術機関(保有特許の商業化のために企業とのライセンス契約の締結を模索する)の共同研究は当たり前になっている。さらに工業技術ならびに経営サービス企業によるR&Dも95年から98年までに倍加して80億ドルに、ビジネスサービス会社の場合は69%増加して150億ドルにもなった11)。これらの企業はデータ処理や製品開発用のソフトを提供している。
ITの発展はこれまでの集権的モデルとは異なるR&Dプロセスを可能にしていて、プログラムのソースコードを修正し、他者と改善を共有するオ−プンソースのソフト設計をユーザーに奨励している。テレコムコストの低下とソフト改善によって、地球上の空間的に離れたところ同士でも、仮想のバーチャル空間を作り出すことによって研究者の共同研究が可能になった。
しかし容易に成文化しえない暗黙知の波及には地理的集中化が必要で、それがクラスターの形成にもつながっている。たとえば、シリコンバレー(サンフランシスコ)、リサーチトライアングル(ノースカロライナ)、ルート128号線(マサチューセッツ)、それにオースチン(テキサス)などが著名である。
とはいえ、連邦政府のR&D分野における重要な役割を忘れてはならないという。連邦政府は第二次大戦後、アメリカの全基礎研究資金の半分以上を供給してきた。その結果、ウェブ・ブラウザ、インターネット、バーコード、光ファイバー、データ圧縮などは連邦政府の基礎研究支援で生まれたニューエコノミー・テクノロジーである。特にクリントン政権は「21世紀ITイニシアティブ」(Information Technology for the 21st Century Initiative)を設定して、ソフト開発、スーパーコンピュータ化、インフラのネットワーク化を強力に進めている(2000会計年度には3億900万ドル、2001会計年度には7億400万ドルの予算計上)12)。また税法上の優遇策を通じて民間のR&Dを奨励する措置もとってきた。さらに独立企業間の戦略的技術提携の形成を奨励している(第6図)。特に研究共同事業体の形成は大事である。これによって参加企業はリスクを分散し、重複を避け、補完的能力を活用し、資源の共同負担をすることができるからである。その点では、1984年の全国共同研究法、93年の全国共同研究生産法などによって、反トラスト法の適用の限定や民事訴訟での最高刑罰の引き下げなどが規定され、規制の緩和と活動環境の整備がなされてきたことも大きな意義を持っている。
このようにみてくると、最後の締めは強力な知的所有権保護策の実施である。これが第四の要因である。知的所有権の保護によってイノベーションによる報酬や利益の獲得という直接の経済的誘因ばかりでなく、法的保護をも得られることになり、安心して活動を行えるようになる。特に人間の実質的な介在の結果得られる生物学的素材の特許登録を認めたことは、バイオテクノロジー産業の急速な発達を促した。しかしながら、EUでは現存植物種に対する特許を与えておらず、また日本は病気の診断もしくは処置のための人体に関連したバイテク発明の保護を禁じている。またアメリカではコンピュータに関連したイノベーションに明確な保護を与えているが、ヨーロッパ特許会議はコンピュータプログラムそれ自体を発明とはみなしていない。そのため、ソフトの特許保護の範囲に関しては、ヨーローッパや日本との間で解釈の違いが存在する。こうした新しい事態には、既存の知的所有権の枠組みを拡大適用させて、順応させていくことが大事だが、ソフト利用の拡大は特許制度によって伝統的にカバーされている物理的転換と、それでカバーされていない概念の間の境界線を不鮮明にしてきた。とりわけ、事業方法特許に関する解釈が分かれるため、特許商標局は事業方法特許イニシアティブを2000年に発表して、二段階の特許再申請を含む新しい手続きを確立し、審査官の訓練を強化し、先行業績の探索を拡大した。著作権および商標に関しては「ピア・トウ・ピア」ファイル共有システムが音楽、ソフト、ビデオ、および文章を含む著作権のある媒体の容易な交換を可能にした。
またデジタル領域での著作権保護の拡大に努め、デジタルミレニアム著作権法(DMCA)という成果をあげた。これは著作権条約と世界知的所有権機関(WIPO)の実演・音楽レコード条約を実行しているものである。またこれはユーザーによる著作権侵害にたいするインターネットサービスのプロバイダーの責任の範囲を限定している。また電子認証法も最近実施されるようになった。このように、クリントン政権は知的所有権保護強化のために努力してきたが、それがヨーロッパや日本との間の調整を必要とし、ハーモナイゼーションの確立が求められている。
以上、新しいイノベーションに関わる問題に関して報告書は多くのスペースを割いて論じているが、ここでの最大の要素は知識資本であろう。経済のソフト化・サービス化といわれたり、知識中心の世界へのパワーシフトと呼ばれたりしているが、その中心はこの知識資本の誕生にある。この報告書は従来の物的資本との対比でこの知識資本を使っていて、軽い感じである。
しかし、知識資本の概念はもっと本格的に、かつ厳密に使われる必要がある。というのは、それが21世紀世界のスーパーキャピタリズムの基本を構成するからである。知識が資本として取り扱われるには、実体的な確認がなされること、法的保護が加えられること、所有権の移転が可能になること、マネーとの合体がなされて値段を付けて売買されるようになることなどの、それに必要な要素が具備されてこなければならない。そしてその上で、知識資本としての君臨がこれまでの物的資本にたいして確立されてこなければならない。さらにいえば、それに固有の論理と説明原理が用意されなければならないだろう。これらのことを深めることが、21世紀のアメリカ経済とそれが切り開きつつある世界経済の新事態を解明する鍵となろう。 
5.ニューエコノミーのビジネス展開
これまではITセクターの確立とその特色、そしてイノベーションの進展の過程を検討してきたが、今度はそれがどのようにして他の分野に広がっていったかを検討するのが、第3の課題となる。ここでの特徴は以下の諸点である。ITは、企業が事業を行う方法を変化させることによって、生産性を高めている。製造業では計算力上昇とコスト軽減がオートメーション、NC(数値制御)、CAD/CAM(コンピュータによる設計・製造)などによって推進されている。同時にこの過程は現場でのより大きな決定権を労働者に与えることになった。また技術力に報奨金を与え、ストックオプションなどの成果ベースでの報酬制度を採用するようになった。サプライヤー契約も自動調達システムによって、より密接に統合と調整が行われるようになった。データの共有による在庫の縮小や顧客管理の徹底化も進んだ。さらにネットワーク効果を発揮した戦略提携が進められ、より柔軟な協力関係が企業間に出来上がってきている。
そして最後に、ここは新規設立ばかりでなく倒産も頻発するダイナミックな市場であるため、起業家的な性格ー別様に表現すれば、ハイリスク・ハイリターン的な体質ーが全体的に強まってきている。これらが主な特徴点だが、以下で少し項目別に踏み込んで検討してみよう。
第一は工場や企業内での展開である。IT投資は企業内での計算力を向上させた。その結果、オートメーションが可能になり、生産工程のフレキシビリティ、スピード、信頼度を高めた。
それは工程数を減らし、注文調達の時間を短縮し、事態に素早く対応する、より多くのサービスを供給できるようになった。その事例は工作機械(CNCやマシニングセンター)、鉄鋼(自動制御システムの開発)、トラック輸送(衛星を使った位置把握システム、リアルタイムでの交通・天候・工事情報把握、搭載のコンピュータ利用、複雑なソフトとアルゴリズム、顧客・積荷を組織する支援ハードウェア)、銀行(小切手のデジタル映像による読み取りと記録)などにみられる。また生産現場ではライン要員に大きな意思決定権を与えるようになった。これは日本的慣行によって先鞭がつけられたもので、それがIT化と結合して、アメリカではさらに有意義なものになった。さらに成果ベースでの報償制度の採用である。これは従業員に企業業績改善への連帯感を育み、さらにはそれが動機となって、労働移動を促進することになる。
特にストックオプションはインセンティブ支払いの重要な形態となっていて、経営者のみならず、非経営者層にも広がってきている。第7図によると、変動支払いの利用を報告した企業の88.4%の中で、過去2年以内にストックオプション計画を導入したものは17.7%で、利益分配は8.2%、賞与を出したのは13.8%であった13)。またそれはハイテク部門に集中しているようにみえる。とはいえ、報酬にたいするオプションの純効果に関しては、株価の上昇時にそれが使われてきたこともあって、確かな結論は現状ではまだだせないとしている。その意味では経営陣による意図的な株価操作と利益獲得の一種と考える方が妥当かもしれない。
第二は企業の境界の変化である。垂直統合企業は自社固有の供給源、マーケティング、流通ネットワークを持つが、垂直統合されていない企業は独立の取引業者から補充品を購入し、小売業者にマーケティングや流通を下請させることになる。水平統合企業もごく少数だが大規模企業に存在するが、多数の比較的小規模の企業が市場で競争し合っている場合も多い。IT化の進行は企業間の情報交換コストを低下させるので、企業内から外部委託への道を拡大するが、同時にテレコムや金融サービスでは水平統合が増加している。したがって、IT化の進展は一方的な外部化採用と分散化をもたらすわけではなく、その反対の集中化と統合をも進める、二方向的なものである。またサプライヤー関係では、原料、部品・中間財、最終製品の配送・流通にわたるサプライチエーンマネージメントが進んでいる。これによって、在庫量の縮小や流通過程の効率化とコスト削減が図られている。ECR(効率的顧客対応システム)によって、個別店舗レベルでの迅速な顧客対応が可能になった。さらにインターネットを利用した企業間のオンライン取引(B2B)も現れるようになった(推定で1998年の400億ドルから2000年には2000億ドルに増加)14)。ITとフレキシビリティを高めるモジュール式のチーム型生産システムを採用することによって、在庫量の減少(アパレル産業では年平均1.2%の減、また売上高在庫比率を年5.2%減)をはたし、また外部委託や下請化が進んでいる。外部委託は営業費の削減、中核事業への集中、専門的スタッフ養成のための時間的猶予、そしてフレキシビリティの発揮などのために行われるが、同時に、枢要な営業機能への、経営陣の支配力の喪失や臨時雇用者の待遇上の不利などのリスクも負うことになる。さらに企業は企業内生産や外部委託以外に、設備、専門的知識、およびその他の資源を分担する、企業間の長期協定である戦略提携も新たに進めるようになった。したがって、今やこれら三つの選択肢が企業の前には広がっているといえよう。したがって、そのことは企業の境界を不鮮明にし、それらのどれを選択するかの意思決定に関わる理論が求められるようになる。さらに顧客関係ではこれまでの、不特定多数を相手にするマスマーケティングから、より閉じられた顧客を相手にした、双方向的なミクロマーケティングへのシフトが起きている。さらに強いネットワーク効果を持つ市場では、「チッピング」(勝ち馬を事前に秘かに教えること)や「一人勝ち」が生まれる傾向がある。特にテレコム、エネルギー、金融などではM&Aが盛んで集中化が起きやすい。それは政府の規制緩和措置によってさらに促進されるようになった(金融面では銀行の地理的多角化と統合と拡大を誘発し、銀行持株会社のノンバンク活動を開始・活発化させた)。
なお企業境界の変化に関する理論的説明には、R.コースの有名な取引コスト論がある。彼は、企業内か公開市場かのいずれで取引を組織するのかの意思決定(購買や生産の)は内部取引と外部取引の相対コストに依存すると説いた。市場メカニズムの利用は一定のコスト、たとえば適切な価格の発見、契約交渉ならびにその執行を伴っている。起業家は企業内においてこれらの活動を自分自身で調整することによって、これらの取引コストを削減できるかもしれない。しかし内部化は他の種類の取引コスト、特に情報の流れ、インセンティブの保持、努力の監視、そして業績の評価を必要とする。このとき、企業の境界は外部コストと内部コストの相対取引コスト間のトレードオフ関係によって決定される。したがって、企業の境界はテクノロジーだけではなく、組織的配慮、つまりは代替的契約の費用と便益にも依存していることになる。これがコースのいわんとしたところである15)。
第三は競争優位の源泉としての知識の存在と意義である。知識中心の新たな経済では無形資産(組織慣行、人的資源、R&D能力、評判など)は企業の競争優位の極めて重要な武器となる。新しい組織慣行は新しい機会に素早く対応できる能力を与えるし、訓練やインセンティブ重視の人的資本の慣行はそれを発展させることができる。アイディアを思いつき、それを製品に転換できるR&Dプログラムはイノベーションの機会を用意する。ブランド名、商標、顧客への好ましい評判はこうしたイノベーションを顧客が受容でき易くする信頼感を与える。さらに情報財(書籍、音楽、テレビ番組、職業別電話帳、即時株価通報など)は複製、保管、伝達
におけるイノベーションによって、消費者への伝達コストが急速に低下した。その結果、新規参入企業が増大した。情報の生産は高い固定費用と低い可変費用によって特徴づけられるが、コンピュータの使用とインターネットの普及は後者をほぼゼロにした。そして消費者の選好が類似してくると、情報財市場は高度に集中する可能性をもち、しばしば「一人勝ち」の世界を作り出す。そしてこれらの全体をとりまとめるのが知識資本である。
なお最後の第4の課題としての業績改善の把握に関しては、報告書は歯切れが悪い。ニューエコノミーはハイリスク・ハイリターンによって特徴づけられる。したがって、ニューエコノミーによってそれぞれの業績改善がどのような状況にあるかは、一概には測れない。またITの導入がそれぞれの産業では生産性に与えるインパクトも異なるし、そこには時間的なずれもある。したがって、ニューエコノミーの計測的な評価は難しいというのが、この報告書の結論である。 
おわりに─若干のまとめ─
以上、大統領経済諮問委員会報告という、いわばニューエコノミー推進本部の告白の形をとって、その核心部分について検討した。その中には、傾聴すべき優れた点と自己弁護的宣伝文句との双方が混在している。そこで両者を峻別しながら、今後われわれが深めていかなければならないと思われる主な点に関して、最後に列記しておこう。
第1に、ニューエコノミーに特有といわれるネットワーク効果、規模に対する収穫逓増、そして標準的インターフェイスの確立による互換性や相互需要の増大という主張ならびにこのネットワーク外部性を利用した企業活動のやり方である。これらはニューエコノミーを在来型のオールドエコノミーから区別する最大の特色だとされている。したがって、これらの是非を確かめることは、ニューエコノミーの核心に迫る近道だということになる。
第2に、その資本的・金融的下支えとしての、そしてまたそれ自体の運動としての、ベンチャーキャピタルとIPOである。ニューエコノミーといった場合、ともすると、上に指摘した第1の特徴が話題になるが、しかし実質からいうと、この金融面の問題の方が大事な気がする。
アメリカ経済を覆う金融的熱狂を考えると、これはニューエコノミーという幻を追う夢芝居のような気がしてならない。その点ではまさに資本の曖昧さや多面性を表現している象徴的なものだといえよう。
第3に、イノベーションを生み出すための、民間の小企業も参加した、基礎研究を中心とし、企業間での分散型の共同研究体制を基にしたR&D開発とその結果としての知識資本の確立である。この知識資本は知的営為を中心にして、情報財や無形資産を含めた、売買可能な、それでいて強力なパワーを持ったものとして、21世紀世界に君臨しようとしている。ただし、知識を資本として概念規定するには、それ相応の検討が必要になる。
第4に、IT時代における企業の組織と企業間関係のあり方として、内部化、外部委託、戦略提携のうちのどれを企業組織として選択するかである。これについてはコースの取引コスト論があるが、それは妥当か、あるいはそれをどう発展させるかが問題になろう。なお、外部委託と戦略提携を区別することの是非も問われなければならないだろう。
第5に、政府の政策誘導、法的整備、財政支援などの制度・政策面の問題と国家間の調整・ハーモナイゼーションの確立のための国際交渉である。これは国際政治経済学の対象とも重なり合うが、アメリカ流のスタンダードが行き渡るか否かという点では、グロ−バリゼーションの意味合いとその形式を語ることになる。
以上の諸課題が浮上してくるが、それらを要約すれば、ITインフラの整備、資本市場、知識資本、企業組織、政府の役割ということになろう。そしてそれらに答えられないと、スーパーキャピタリズムの内実は判明しないし、したがって、21世紀世界も見えてこない。それは筆者の当面の課題となるが、ここではニューエコノミーとグローバリゼーションとの関係、特にアメリカがそれをどう考えているかに関しては割愛した。いずれ折を見て、論じてみたい。 
21世紀の双頭・アメリカと中国 / スーパーキャピタリズム論序説(2)

 

はじめに
「東アジア共同体」という言葉が盛んに使われるようになった。そこには経済のみならず、政治や文化などの多様な意味合いが込められているとみてよいだろう。事実、東アジアの国々は歴史的に長くかつ深い、多面的・多層的・多重的な繋がりを持ってきた。しかし、第二次大戦後の冷戦体制の下で、この地は政治的に分断され、その交流は断ち切られ、むしろ鋭く深刻な対立を経験してきた。東西冷戦の終焉はこの地に本来の平和的交流と経済協力の繋がりを取り戻す絶好の機会になるはずであったが、様々な事情からそれが直ちには実現できずにきた。
しかしながら、グローバル化の進展と新たなパワーシフトは中国、インドなどBRICsと総称される国々の力の台頭をもたらし、また、企業活動のグローバル化は従来の国民国家の枠を超えたトランスナショナルな経済的な生産・流通・決済の枠組みを模索させるようになってきた。中国のWTOへの加盟に加えて、二国間でのFTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)の試みも急速に進展しつつあり、またASEANを中心とする地域協力の流れも拡大・深化しつつある。そして今年末にはマレーシアで「東アジアサミット」が開催される予定である。
このように、東アジアの協力・共同体制が急速に模索、進展されだしたという状況には、イデオロギー的な対立の解消ないしは縮小化という要因の基礎にある、今日のグローバルな政治・経済環境の変化、つまりは「地球体制」とでもいうべきものへの一体化とそこに込められた諸国民の願いが色濃く反映されているとみることができよう。このことは、「東南アジア」とか「東北アジア」といった従来からの地域区分の概念を使わずに、それらを包括する「東アジア」という言葉を使っていることにも、今日のグローバル化の進展が地域を広げ、オープンにしていこうとする共通の意気込みの端的な現れとみることができよう。同一の土俵の上での共通の基盤作りとその下でのヒト、モノ、カネ、そして技術や情報の自由な移動が保障されることが今日ほど強く求められている時代はない。そしてそれが企業活動を活発化し、科学と学術・文化の発展をもたらし、経済的繁栄と生活の向上を促し、そして平和的な共存・共栄を定着させることに繋がると多くの人々は期待している。もちろん、その前途には長年にわたって堆積されてきた「負の遺産」ともいうべき、克服すべき課題ないしは障害も多く待ち受けており、また各国の発展水準の違いが共通の目標作りや役割分担、そしてその間の調整の難しさをもたらしているともいえよう。
だが、このことを考える上で、今年が「バンドン会議」の50 周年の年でもあることを改めて想起する必要があろう。そこには今日でも参考にすべき貴重な教訓や原理がちりばめられている。そしてこのことを記念して、4月にはゆかりの地インドネシアで60 カ国以上の首脳が集まってAA(アジア・アフリカ首脳)会議が開かれ、注目すべき宣言と行動計画が作られた。
今日、この地には地球人口のおよそ半分近くの30 億人もの人々が暮らしている。そこには、一方では世界の経済成長の牽引車となる国や地域があるかと思えば、他方では極端な貧困にあえぐ地域や国も数多く存在しており、そうした貧富の格差が社会不安や紛争や衝突の温床にもなりかねないし、またそれらと相まって歴史的・宗教的・文化的・政治的などの要因が入り組んで、一触即発ともいうべき状況があちこちに生み出されている。だから、今こそ経済発展と成長の恩恵をこれらの地域に行き渡らせ、30 億人の人々の平和的な繁栄と共存共栄の「楽土」を築く責務をわれわれが共有すべき時期が来ている。とはいえ、東アジア共同体の構想は現在模索中のものであり、どの方向に向かうかは定まっていない。そこには様々な見取り図やそれらをめぐる駆け引きがある。にもかかわらず、その実体化は急速に進もうとしている。したがって、こうした時期だからこそ、そのビジョンに関して確認できる方向性に向けた全体の合意が必要であり、そのためには様々な創意工夫と率直な意見交換が求められてこよう。
そこで、ここでは東アジアにおける共同化の促進と発展の基本線に関して、以下の三つの線から考察してみたい。第1に今日のグローバル化の進展がもたらしている東アジアの協力、共同への動きの背景にある政治経済状況に関して概観し、第2にその中での経済のグローバル化が求める新たなトランスナショナルな生産・流通のシステムに関して検討し、最後に東アジアの協力体制の構築に向けて、どのような課題があるかについて、その基本線を述べてみたい。
そのことによって、スーパーキャピタリズムと名付けた、今日の世界経済の双頭のうちのもう一つの頭について解明したい。 
1.グローバル化の進展と東アジア
第1に今日の世界情勢に関していえば、ソ連・東欧の崩壊後、グローバル時代の唯一の覇権国となったアメリカの際だった地位と突出した行動が目立つようになっている。そこでは、アメリカは自国の利益を世界の共通益の皮膜に包んでその世界戦略を展開することを常套とすることには依然として変わりがないが、その進め方は、かつてのように、場合によっては譲歩や妥協をも辞さないような、自制心を発揮して慎重かつ自重に基づく合意形成に腐心してヘゲモニーを発揮するというやり方ではなく、力を背景にして強引に自国の主張を他国に押しつけようとする傾向が強まり、その結果、逆に相手国からの反発を買うという皮肉な結末をしばしばもたらしている。しかもそうした企てが不調に終わった場合にも、強大な軍事力にものをいわせた露骨な干渉と好戦的な姿勢を貫き、場合によっては戦争という手段に訴えてでも自己の主張を通そうとするようになってきた。そしてこうした強引な手法がより一層の反発を招き、事態の泥沼化をもたらし、次第に孤立化していくようにすらなっている。このことは、世界がアメリカの統治下に平和になっていく─パクスアメリカーナーというよりは、アメリカの過干渉と自己中心的行動によってかえって世界の不安定性が強まってきていることを物語っている。つまりアメリカのやり方はバイラテラリズム(二国間主義)をマルチラテラリズム(多国間主義)へ広げるのではなく、それをユニラテラリズム(一国中心主義)へ引き寄せ、アメリカ単極(ユニポーラー)の世界を構築しようとしているかのようである。
だがグローバル化の進展は世界の隅々にまで資本主義的企業経営を支配的なものにして行き渡らせ、あらゆるものの商品化・市場化の流れを拡大・普及していくことになる。そしてそれは大局的には世界の平準化に繋がるものである。ただしここで注意すべきは、現在進められている市場化は必ずしも「市場原理」を行き渡らせることにはならないという点である。今日のグローバル化の主要な担い手としてのトランスナショナルな巨大企業は、企業内国際分業や企業内技術移転、さらには企業内資金移動のメカニズムを活用した排他的な支配圏の確立に向かいがちで、そうした、彼らの間のグローバル市場をアリーナ(競争場)とした激烈な競争の結果、画一化と標準化の世界が一見ブランド愛好という多様化、個性化の装いをこらして蔓延していくことになる。その結果、多国籍企業の企業内貿易や同関連貿易といった、独占的な市場に囲い込まれ、そして区枠された、事実上の排他的な市場圏と強制領域が支配するところとなっている。しかも実際のモノ作りの現場は世界中に拡散し、とりわけ東アジアにおいては「世界の工場」としての中国の急成長やそれに続くASEAN諸国の台頭など、経済=生産面での新たなパワーシフトが生じている。したがって、こうしたことが意味しているものは、ローカルなところに足をつけたグローバルな展開であり、グローバル(企画・デザイン・コンセプト)─ローカル(生産)─グローバル/ローカル(流通・マーケティング・販売)─グローバル(回収・資本蓄積)という筋道をたどる。これは富の源泉をローカルなところにおいているという意味では、グローカリゼーションの進行の姿である。つまり、司令塔はアメリカを中心とする先進国にあるが、実際の生産現場とその作業はアジアにおかれているわけで、後者で生み出された富の大半を前者が吸収してしまうということでは、前者をabove the line(利益の保証された領域)、後者をbelow the line(それを工面する領域)と言い換えてもよい。あるいは前者を知財とサービス経済の支配する領域、後者を製造と物流の支配する領域とも表現できようし、そして世界中に点在するグローバルシティが一大消費拠点として浮かび上がり、その間をグローバルなネットワークが張り巡らされている。そういう形での世界のグローバル化・一体化が表面的には進行している。
だが、それにもかかわらず、東アジアにおいては冷戦時代の負の遺産が依然として残っており、ヴェトナム統一がなされたとはいえ、中国と台湾、南北朝鮮の分断、さらに西にはカシミールの帰属をめぐるインドとパキスタンの間の紛争など、21 世紀において解決しなければならない政治的課題は多い。こうした東アジアとその隣接地における新たなパワーの配置状況の変化と、依然として残されてきた政治的課題とを総合的に考えた場合、多くの困難があるとはいえ、その解決に向けた関係国の努力と自主的・主体的解決やそれに対する周辺地域の理解、そして何よりも平和的な交渉や相互理解、さらには友好的な協力の枠組み作りと連帯精神がまずもって必要になろう。というのは、アジアにおいてはアメリカの関与と影響力が大きく、とりわけ日本は「日米安保」の下でアメリカとの強固な同盟を築いてきたが、そのことが「経済力に見合った政治的役割を果たすのを妨げてきた」(C.ラジャ・モハン)1)とみられてきた。しかしアジアにおけるパワーシフトがそうした「心理的抑圧から脱しはじめる」(同上)きっかけになるだろうと期待されているからである。しかしながら、現実の日米関係はそうした選択肢を日本に簡単にとらせるほどには脆弱でも、単純でもないように思われる。むしろ、日本の経済力が強まり、アメリカの世界的な孤立化が深まれば深まるほど、アメリカの日本への依存と掣肘はかえって強まるのがこの間の状況である。しかも日本の歴代政府の対米外交姿勢はアメリカとの間にいたずらな摩擦や軋轢を生むよりは、アメリカの要求をのみ、「自由世界の維持」という大義名分を掲げて国民を鎮撫した方が得策だとの判断を一貫して取ってきた。しかし、そうした「アメリカファースト」の外交姿勢ではアジアの国々が日本に向けた期待に添えないことになるし、むしろ反発や疑心暗鬼が高まることをわれわれは日々思い知らされている。
そのことを考える際には、バンドン会議の精神が今日でも依然として有意義であり、依然として光彩を放っていることに再度留意する必要があろう(第1図ならびに第2図)。
[ 第1図 アジア・アフリカを中心とする主な国際協力の枠組み ]
[ 第2図 東アジアサミットの枠組みを巡る主な動き ]
戦後新たに独立をとげたアジア・アフリカの新興の29の国・地域の首脳が1955年に非同盟主義や反植民地主義を掲げて会盟し、基本的人権と国連憲章の尊重、主権と領土の保全、人権と国家間の平等、内政不干渉、自衛権の尊重など、有名な「平和十原則」を表明・採択した。今回のAA会議ではその精神を受け継ぎ「新アジア・アフリカ戦略的パートナーシップ宣言」と「行動計画」、そして「津波と地震、その他の自然災害に関する共同声明」を採択した。中心をなす「新アジア・アフリカ戦略的パートナーシップ」は政治的連帯、経済協力、社会・文化関係の、三つの分野にわたってアジア・アフリカに強固な架橋をする枠組み作りが基本で、それを通じて平和、繁栄、進歩を達成しようとする目標を掲げている。そこでは、貧困、低開発、性差別、伝染病、環境破壊、自然災害、干ばつと砂漠化、情報格差、不平等な市場アクセス、対外債務などの、共通の関心事の解決に向けて緊密な協力と集団的行動が必要なことを認め、そのためにバンドン十原則、地域的な多様性の承認、開かれた対話、排他的でない協力促進、地域的イニシアティブに基づく持続的可能なパートナーシップ、協力体制、公正・民主・透明・調和のとれた社会の建設、開発の権利を含む人権と基本的自由の促進、多国間主義的な話し合いの場での集団的努力などの原則を謳っている。こうした参加国の合意に基づく集団主義的な共同行動こそが21 世紀の世界の一大潮流であることは疑い得ないだろう。だからこそ、この流れは先進諸国にも影響を与え、本年の「グレンイーグルズ・サミット」でもアフリカ支援が重要な議題になった。このように、アジア・アフリカの連帯と共同行動の緊密化はいま世界の注目を集めている。
もちろん、そうしたことを嫌い、アメリカ主導でこの地の平和と安全保障を維持しようとする覇権主義的な傾向も強く残っており、アメリカでは東アジアにおける「中国の覇権」の台頭を危惧する「中国脅威論」の論調も多い。こうしたことから、米中間の関係は、イデオロギー的対立は既に去っていて問題外だが、軍事、経済両面において一面での協力・協調と他面での角逐・対抗という相反する傾向を伴いながら進んでいる。その結果、上記の集団的な方向ではない、アメリカの覇権国的傾向とそれに対する中国の国益重視的対応との対決が進みつつある部面もある。この10 月にはラムズフェルド国防長官の中国訪問がなされたが、そこでは相互の軍事力の確認と共に、懸案の台湾海峡の問題にとどまらず、中東、アフリカでの石油資源の開発と確保をめぐる両国間の熾烈な競争や角逐までもが話題にされた。このように、米中の安全保障─実はエネルギー資源の確保の別名にすぎないが─問題はアジア、アフリカに跨る広大な地域を巻き込んだ、両者の熾烈な主導権争いにまで発展している側面もでている。
第2に経済のグローバル化が進展し、トランスナショナルな企業活動が活発化してきた結果、既存の国民国家の枠を超えた東アジアにおける域内での経済協力の必要が一段と高まっている。なおここでトランスナショナルと呼んだのは、不断に進行するグローバリゼーションのプロセスを断面的に捉えて、現在までの進行度合、つまりはグローバリティを測ってみると、今日ではFDIを中核とした国際生産と国際投資が隆盛を極めており、これはグローバリティのトランスナショナル段階(=「フェイズU」)と呼ぶ方が適切だと考えられるからである。この段階ではトランスナショナルな企業(Transnational Corporations、TNC)は国民国家(nation state)の枠組みを基礎に、それを事実上無力化する方向で行動し、自己のトランスナショナルな利益(transnational interest)を追求・確保しているが、だからといって、ネイションステートが完全になくなったわけではない。そこには両者の綱引きがあり、そして全体としての流れは国家の後退(retreat)や主権の衰微(sovereignty at bay)の方向へと傾いている。
さて『日本経済新聞』はこの10 月にゼミナール欄で「日本の東アジア戦略」という特集を連載しはじめたが、その中で、たとえば、域内貿易比率で測ると、東アジアでは54 %(2003年)にも達していて、これはEUには劣るものの、NAFTA(同じく2003 年で45 %)よりは高く、EUの単一市場形成時(93 年)の63 %に迫っている状況であると指摘している2)。このことの背景には、グローバルな単一の組織や枠組みの実効性が直ちには期待できないという現実の中では、一方では二国間での交渉による打開をFTAやEPAといったバイラテラリズムに基づいて行おうとする志向を強めているが、他方ではそうしたことが実際に可能なのは、強大な経済力を持った一部の国や地域に集中されざるを得ないし、したがってそれがしばしば自国本意のユニラテタリズムに傾斜しがちだということから、こうしたことに止まらない地域的共同化の動きがEUの先駆的な経験に学んで様々なレベルで展開されるようになってきたという状況がある。さらには、その基底に上記の企業のトランスナショナル化が国を跨る国際生産の枠組みを生み出すため、そこでの部品や原材料の頻繁な国を越えた移動を保障する枠組みを多国間=地域内でつくらなければならないという前提がある。これは、こうした集団的マルチラテラリズムの活発化の現れでもある。
ところで、現在急速に進み始めたFTAは、そのタイプからすると、1)アメリカが進める知財保護と安保条項の承認を条件とする「覇権国型」、2)日本とメキシコとの間のような、工業国と農業国との間の伝統的な国際分業関係を基礎にした「産業補完型」、3)企業の国際生産と共に盛んになりだした、日本と韓国との間のような工業国同士の、主に部品と完成品との間の同一産業内での水平的な「相互依存型」、4)そしてEUがアフリカを中心とした途上国との間で進めている「地域共同型」などの型に分けることができる。そして今特に注目を集めているのは、第4の「地域共同型」である。その理由は、個別的にではなく、地域に共通の恩恵を参加国が共有し、広く均霑できるからである。
そして東アジアにおいてはアメリカやロシアを含めたAPECではなく、ASEAN(10 カ国・地域)+3(日・中・韓)の協力体制を基本に据える構想(同じく第1図および第2図参照)が力を得てきているが、その際に、それに加えて、インドやオーストラリアなどの周辺国にまで、これを拡大すべきであるとする機運も高まっている。それはオープンリージョナリズムともいうべき集団的で開放的な視点を大切にしようとする考えの現れだが、その理由の一端には経済のグローバル化は地球を一つにしていく強烈な志向性をもっており、地域的な限定はとりあえずの第一歩ではあっても、そこで終わるわけではなく、さらに可能な範囲での拡大が常に求められるからだという事情がある。したがって、グローバル化の達成は一挙に行われるわけではなく、こうした地域的連帯や共同化の積み重ねと拡大の過程を経て、徐々に実現していくとみる考え、つまりは漸進主義がそこにはある。そうすると、それぞれ別個に発展していく地域共同体間の競合と調整、そしてそれぞれの原理や利害の摺り合わせが将来的には大きな課題になるだろうし、さらには強力な指導原理とイニシアティブによって一挙的にグローバリゼーションを達成しようとする傾向─たとえばアメリカナイゼーションに基づくパクスアメリカーナ的なグローバリズムの考え─との衝突や対抗の可能性もあるだろう。前者をリージョナリズムと呼んで、後者こそがグローバリズムだとする論調もあるが、そうではなく、いずれもグローバリズムであり、前者が地域に足をおいたグローバリズム、つまりはグローカリズム─すなわちボトムアップ方式─であるとすれば、後者は覇権主義的グローバリズム、つまりはパクスアメリカニズム─すなわちトップダウン方式─だと峻別することができるだろう。そして多様性と多重性を基礎においた前者こそが多くの国が望むものであるとすれば、一枚岩的・単線的・権威主義的な後者を凌駕するためには、できるだけその輪を広げ、参加国を増やし、パワーフルにすることが肝要になり、そのためにはバンドン会議の設立に大きく寄与し、21 世紀に確実に大きなパワーを持つことが予想されているインドの参加が、中国に加えて必要だという考えがあり、そしてそれがこの地域の政治的な安定に大きく貢献するだろうとみられている。
だがそれには、東アジア諸国・地域間に思惑の違いがある。中国はオーストラリアの参加には肯定的だが、インドの参加には消極的である。というのは、中国とインドとの間の競争関係が、たとえばオフショアリングの基地などをめぐって激烈に展開されているからである。これに対して、日本、韓国はインドを参加させるべきだと考えている。その方がグローバル化が進むとみているからである。しかし、日韓の間にもASEANとの関係では一緒ではない。それぞれに狙うところが違うからである。そうしたことなどを考えると、ASEAN+3(日、中、韓)という枠組みも確定的なものではない。現状はASEANとの協力・共同をそれぞれが競い合っている状況で、その実態からいえば、ASEAN+1が三つあるというのが実情である。こうした思惑の違いを少しずつ調整して、最終的な合意形成を作り上げていく努力や姿勢が大事になる。
第3に東アジアの協力、協調を考える際には、経済的な課題だけに限定することは正当ではないだろう。政治、経済、そして文化・社会までもを含む包括的な視野や総合的な観点が必要になる。それは、東アジアには地域的な近接性ばかりでなく、歴史的に形成されてきた生活習慣や言語や風俗などの文化的・社会的な近似性ないしは共通性が今もって濃厚に残存しており、また逆に宗教の違いなどからくる異質性も少なからず存在していて、それらを十分に考慮ないしは配慮してかかることが大事だからである。というのは、戦後の国家的な統一は必ずしも単一民族による形成を生まず、国内に多くの少数民族の存在や国を跨った同一民族の分散を生んでいて、これらは植民地支配の遺制として今日でも民族紛争の火種になりかねないからである。そして地域に基礎をおいた共同体の場合は、地縁的要素を大事にすることがEUその他の先行例でも証明済みである。また経済に限定しても、貿易(モノの移動)ばかりでなく、資本の移動やヒトの往来(一時的な移動ならびに定住的な移民)、そして情報や技術に関する移動と管理、とりわけ知的財産権に関わる共通のルール作りなどが大切になる。というのは、現在のようにトランスナショナルな企業体がこの地を闊歩している下では、様々な要素が一体となって展開されているため、それらの諸要因が国を跨って錯綜して現れ、かつ全体としては複合化された関係となって現れることを総合的に判断する姿勢が不可欠になるからである。したがって、それらを全体として総合するような視点からみれば、従来の貿易、決済、投資、そして知的財産権に象徴的に現れるニューサービス、さらには技術移転などをそれぞれ別々の国際経済機関が別個に、独立的に管理するようなシステムでは自ずと限界がきてしまう。加えて、各国の経済的発展段階の違いをも考慮するとなると、総合性と同時に多様性をも承認した、柔軟な対応が求められることになる。とりわけ、海外投資を中心に据えた貿易、金融、サービス取引、技術移転などの包括的なプログラムとその管理がその要諦となろう。
さらにもっと注意しなければならないことは、NGOやNPOなどの非国家的アクター、とりわけ「草の根」の運動が活発化していることを十分に視野に収めることである。政府がこぞって競争国家化し、外資導入と門戸開放、そして民間主導と「市場原理」に基づくグローバル化に狂奔している現状では、国家の不十分さや役割後退を補うのは民間ボランティアの活動である。また産業クラスターやグローバルシティの勃興は、移民のうねりや企業活動の活発化によって国家の境界を越えてグローバルな場で直接にヒトと情報と技術と資本が結びつく傾向を強めている。こうした脱国家化の流れに十分に注意しなければならない。そしてヒトの交流の要素こそがその中でももっとも大事な要素である。なぜなら、モノ、カネ、情報に比べてヒトの移動の自由は国家によって厳しく制限されてきたし、そのことが今やグローバル化の一大潮流の中で怒濤のように解き放されようとしているからである。これは人間の本来の姿であり、これを加速化させることが今強く求められている。 
2.グローバル経済の生産・流通システム
東アジア経済共同体を構想する際には、今日のグローバル経済の枠組みとその特徴をしっかりと把握してかからないと、有効かつ適切なものにはならないだろう。というのは、現代のグローバル化の最大の担い手とその具体的な場はまさに東アジアにあるからだ。そして東アジアでのグローバル化の進展には、西欧型システムの移植という一般的な形式に関わる側面と、同時に東アジア固有の形式という特殊要因に関わる側面とがあり、そしてその両者がミックスされて、独特の「東アジア方式」とでもいうべきものを生み出し、しかもそれが優勢を極めているという特徴を持っている。このことに特に留意しなければならないだろう。これは、現代のグローバル化、とりわけ最大の構成人口を抱え、したがって巨大な潜在的パワーを秘めた東アジアでの展開を考える際には大事な視点である。このことを生かし、それを十全に解明していくためには、生産、流通(貿易)、金融などの諸側面からの総合的な接近が必要になるが、ここでは第1次的な接近として、焦点を絞ってみていきたい。そこで為替─通貨面に関する考察はとりあえずは除外しておこう。もちろん人民元の切り上げ問題や、東アジアにおける通貨・為替・金融上の協力や、さらには共通通貨作りなど、そこには独自に検討しなければならない重要な課題がある。それらは優に一個の研究対象になるが、これらの課題の検討は別に行うことにして、ここでは第1次的な接近として、生産・流通面に限定して考えてみると、以下の諸点が主要に検討しておくべきものとして浮上してくる。
第1にグローバル経済は伝統的な国民国家の枠を超えたモノ(貿易)、ヒト(移民)、カネ(資本移動)、そして技術(技術移転)や情報サービス(サービス取引)などの頻繁な移動と、そしてそれらを用いた国を跨る生産(transnational production)の流行となって現れる。そこでは国家による規制から自由な取引が基本であり、経済のボーダーレス化が一般的となる。
したがって、伝統的に国家の経済主権に属するとされてきた関税や外国為替の管理、あるいは資本移動の制限や移民の制限などを取り除く「門戸開放」が進められてきた。その根底には、グローバリゼーションの進展は各国間の相互依存関係を深めるが、そのことは、後発国が先進国の資本や商品の進入を保護主義的に一方的に阻止しておいて、自国の商品や資本の相手国への進出をめざすというやり方や、あるいはその逆に先進国が途上国からの移民流入を制限しながら、途上国で低廉な労働力を利用したりすることが、国際的な合意を取りにくくなってきているという事情がある。したがって、双務主義的な相互交流、相互浸透が進められることになるし、このことは世界の経済成長と全体としての平準化作用をもたらし、商品生産と市場原理を世界中に行き渡らせることにも繋がる。つまり、一言で言えば、相互依存世界と呼ばれる、独立国家間の、形式的には対等・平等な関係が支配する事態が進行している。このことは、皮肉なことに、反面では国家主権の後退ないしは変容といわれる事態が進行していくことにもなる。この国家主権の後退を促す最大のものは資本の力(power of capital)であり、それは一個の権力(パワー)としてグローバル世界を睥睨している。したがって、資本の国際的な展開の中心的な要素である海外直接投資(Foreign Direct Investment、FDI)に関しても、外国への対外直接投資(outward FDI)ばかりでなく、外国からの対内直接投資(inward FDI)もまた活発になり、そして両者が全体としては一体的なものとして展開されるので、それを表現する国際直接投資(International Direct Investment、IDI)という概念が新たに確立されるようになった3)。
ところで、このようなグローバル化の進展(=グローバリゼーション)は一挙的ではなく段階的なものであり、それをグローバリティで測ると、貿易と通貨を中心にしたフェイズT、国際投資と国際生産が活発化するフェイズU、そして知識や情報が頻繁に国を越えて交換され合うフェイズVの段階に、そして最後には国内と国外の区別がなくなり、居ながらにして日々グローバル化の恩恵を享受でき、そしてまた実践できるグローバリティの最終段階(フェイズW)にやがては到達するだろう。この段階にくれば、国民国家はおろか、連邦国家や国家連合体も姿を消し、世界は確実に一つに統合されているだろう。それは人類の悲願でもある。グローバリゼーションはこれらの諸段階に区分することができる4)。その理由は、これらのフェイズごとにグローバル化の主要な手段が異なり、その内容も異なり、そして国家の役割や国家との対抗のあり方も異なってくるからであり、そして最後に、こうした過程を経て段階的にグローバル化は発展し、全面的なものになってきたからである。このことを明確にすることは、歴史的な違いを考慮せずに、一律に近世から─場合によってはもっと古くから─一貫してグローバリゼーションが存在していたといった、超歴史的で無概念的な考えに適切に反論することができるし、そうした批判は大事な視点でもある。というのは、国家は一面では国を超えたモノ、カネ、ヒトの移動を奨励したが、他面ではそれらを厳しく制限して、国富と国力を自己の内部に閉じこめておこうとした─つまりは「国家形態による総括」をおこなった─が、それは人々の本来的なグローバル化への志向性を人為的に歪め、また押しとどめる役割を果たしてきたからである。それを突破してきたのは、人々の営為であり、資本の飽くなき欲望である。
ともあれ、人類の長い長いグローバル化への宿願の中で、今日では、総体としてはフェイズUの段階にあるといえよう。ここでは国際投資と国際生産が問題になる。そこで第2に、そのことを明らかにするために、ぞの前提として、生産と資本との関係に関して概観してみよう(第3図)。まず、資本の運動は集中・集積と分裂・分散の対極的な二方向で進行する。したがって、一路集中化していくわけではないが、資本の主要な傾向は、不断の価値増殖というその本能からして、集中・集積にある。その過程で中小資本の多くは吸収や没落の憂き目にあうが、完全になくなるわけではなく、また新たな新興の資本が市場に参入するという、不断の簇生の過程を繰り広げる。同様に生産も統合・結合と分離・分割のこれまた対極的な二方向で行われる。この場合も中小の資本でも可能な領域が分業の深化にともなって、絶えず生まれることになる。そしてこの生産の集積は上流から下流までの垂直統合、同一産業内での水平統合、それから異業種かつ相異なる生産・流通の諸段階に跨るコングロマリット型統合の三つの型に大別されるが、最近ではIT 産業に典型的なものだが、新たな産業形成が相異なる生産諸段階を異種産業に跨って、再編・新設されるという意味で、これを産業融合という言葉で表わされる事態も出現してきた。それはコングロマリット型統合を生産の範疇と捉えずに、資本の範疇として捉える考えが一般的には多く、そうすると、生産範疇としては産業融合という言葉のほうが適切だと考えるのだろう。しかし、筆者は生産範疇としてのコングロマリット型統合を第1種の本来的多角化、それに対して資本範疇としてのそれを第2種多角化ないしは非関連的多角化と名付けて、一定の区別をおこなった5)、後者は二次的・派生的多角化と言い換えてもよいかもしれない。そうすると、産業融合は新たな産業の形成・誕生であって、経営の多角化ないしは製品の多様化ではない。そして今日の企業は多品種・多仕様・多段階・多工場・多事業部に跨る複合企業が主流であり、それをコングロマリット企業と総称することも多い。この複合企業の概念は生産・流通の範疇であり、産業融合ないしは融合企業とは異なるものである。ともあれ、生産の集積は資本の集積を生み、資本の集積は資本の集中へと向かう。広くいえば、資本の集積も資本の集中化の一過程であるが、その場合には生産の集積を基礎にしている。しかし資本の集中は生産の集積を基礎にしておらず、その意味では本来的集中と表現することもある。そしてここまでくると、生産の範疇から資本の範疇への離脱・転化が生じる。そして生産から離脱した資本の運動はそれ独自で固有の運動、つまりは純粋に価値増殖の本能に従って、吸収や合併を通じた巨大化とその反対の離合・分割によるスリム化に向かう。M&Aの隆盛である。そしてこの運動は、企業が株式会社の形態を取っていることに最大の利便性と盛行の根拠を求めている。
[ 第3図 グローバル資本=多国籍企業(TNC)・多国籍銀行(TNB)・多国籍金融コングロマリット(TNFC)概観図 ]
さて、生産・流通などの活動と資本の運動との統合体としては、企業の形─特に株式会社の形態─を取るが、今日では、その活動は国を跨った(トランスナショナルな)ものになる。そうしたものとしては、世界的集積体(多国籍製造企業)、多国籍知識集積体(ブランド依存型・ネットワーク型多国籍サービス企業)、そして多国籍金融コングロマリットという形態を順次取りながら、脱皮・転態していく。そして次第に生産活動からの離脱と純粋資本範疇への昇華がなされていく。そうした統合体を別様に規定すれば、産業ないしは金融の独占体ないしは寡占体ということになる。だが今日の独占体は旧来のように、産業独占が金融独占の中に掌握される、いわば包括的タイプの、企業グループとしての堅固な結束を誇るものとは一線を画し、そこから脱皮したものだという意味では、それを「ニューモノポリー」と総称できるだろう。というのは、産業融合によって旧来の産業区分を乗り越え、複合化(コングロマリット化)によって多産業・多段階・多事業部を網羅し、ネットワーク化によってファミリー化を進めるためにFDIのみならず、FPIを活用した少数株での繋がりを広範に持ち、さらにはコアコンピタンスへの集中化と事業分割(divestiture)や分社化による整理を合わせて実施している企業体、しかもグローバル化の中で世界的に展開しているクロスボーダーM&Aを梃子にして、企業グループを越えた超巨大なネットワーク型のルーズな結合関係をもち、かつバーチャル空間を結んだ架空の現実の中にのみ存在する、企業実体が不透明な知識・情報サービス中心の「多国籍金融コングロマリット」は、純粋な、それでいて融通無碍な資本の致富運動として「ニューモノポリー」と呼ぶのにふさわしいものである。特に、今日の金融活動が利子中心のものから、各種手数料収入に依拠し、そのためのアクセスと人脈作りに最大の重心を置いた投資顧問会社の跋扈をみていると、このことはさらに該当性が高い。なお、ここで寡占と独占とを当該産業内での企業数の多寡によって区分することが常識的理解だが、筆者はそうではなく、全体を原子論的な競争からの離脱と考えて、それを資本主義の独占段階とした上で、そのうち巨大企業間の競争が中心になる競争的独占、つまりは寡占段階と、競争が後退して静止的な市場支配が確立する固有の独占段階に、両者を細分して考えることにしている。そうすることで、競争の有効性と独占段階でのその制約性を明らかにし、またグローバルな規模での寡占的大企業による激烈な競争と独占化への志向という、今日の多国籍企業の寡占状況をより正確に説明できると考えられるからである。最後に多国籍企業と日本語で一括されているものは、その進展度合からすると、international、multinational、transnational、そしてsupernational ないしはglobal の諸段階を順次たどるか、あるいは適宜選択することになる今日の巨大企業体6)の総称だと言い換えてもよいだろう。
以上定義したこの統合体を現在の代表的な企業形態であるTNC(Transnational Corporation)で代表させれば、その内容は1.資本要因(国際投資)と2.技術要因(国際生産)とに細分できる。そこでまず、技術要因としての国際生産から考察してみよう。TNCは垂直統合的な全体としての生産システムを個々に分割した上で、資本や労働の豊富さや優位の度合いに応じてそれらを各国に配置するようになる。これが基本的には自社組織の海外への拡大、つまりは海外子会社網の敷設として行われるため、それを企業内国際分業体制(International Intra-firm Division of Labor、IIDL)と呼んでいるが、企業活動の分離・分割と再統合・再結合という意味ではアンバンドル化ともいわれ、そうした国際的な結合生産のシステムをIT産業分野ではCPN(Cross-national Production Network)と呼んだりしている7)。
こうした多国籍企業の活動は相対的に低い労働コストの存在や外資の進出を保障する政府の優遇策などによって、とりわけものづくりの拠点としての中国への進出とその地の隆盛を生みだし、その結果、今日では「世界の工場」と比喩的に表現されるまでになった。なかでも、改革・開放政策の実施以後の中国のめざましい工業化の進展は、13 億もの巨大な人口を抱え、かつそれらの労働力を沿岸地域に数年間という、年限を区切って吸収するというやり方で雇用するという政策を実施したため、いわば低賃金労働力が事実上「無尽蔵に供給される」ことになるという評価8)すら生まれている。こうした労働の豊富さと安さ、そして流動化に依拠した生産体制が製造業を中心にして展開され、たちまちのうちに中国は外資の金城湯池に変わり、世界の一大成長軸になった。このことは反面では多国籍企業の本社所在国における生産(=製造活動)の停滞と「空洞化」を生み、その結果、次第にサービス経済化への傾斜を強めることになる。あるいは司令塔、統括本部としての本社は知識集積体の内実を備えるようになり、その下で海外子会社網は企業内貿易(原材料、部品中間財、完成品の流通ルート)、企業内融資(本社─海外子会社間ならびに海外子会社相互間の資金移動ルート)、企業内技術移転(ノウハウを含む枢要技術の企業内での情報移動)のメカニズムを使って縦横に張り巡らされ、外部に公開されず、秘匿されたまま、その優位性を維持するために保持される。ここでは情報・通信技術上の発達が重要な促進要因になった。その意味では、今日のTNCはネットワーク型企業組織と言い換えてもよいだろう。
ところで、今日の企業活動は自社内での垂直統合的な生産・流通システムの構築と展開ばかりではない。もちろん、企業の多国籍化は海外直接投資(FDI)を通じる海外子会社、孫会社網の世界的な配置、つまりは企業内国際分業体制を敷くことになるが、同時に、最近では地場企業との多様で多重的な結合・提携関係をも行うようになってきた。その底流には途上国での急速な工業化の進展があり、いわゆるグローバル化が世界的に波及しつつあることの結果、こうした新たな事態が出現するようになったともいえる。これを企業間提携とか、戦略的提携というが、この企業間提携には生産委託(OEM)、販売委託(特約店や代理店)、業務委託(サービス)などの「委託」、ライセンシング(技術提携)、フランチャイジング(販売提携)、プロダクトシェアリング(工程間の生産分担)などの「提携」、そして下請=系列化にみられる「長期取引関係」などの多様な形態があり、それらが国内のみならず、広く海外でも国際的に展開されるようになってきた9)。これは外国の多国籍企業と受け入れ国の地場企業との間の多様で多彩な国際的な企業間提携を意味するが、前者の側からみれば、海外進出を自己の子会社を通じて行うか、それとも現地の地場企業を利用するのかの戦略的課題の問題であるが、後者の立場からみれば、外国企業の持っている優位性をどう利用し、学ぶか、そしてそれを活用して自国の経済発展をどう企図するかの選択問題でもある。たとえば、これを先進技術の習得と技術開発という面で考えると、ライセンシングを通じる技術導入、ODMといった形での共同開発、合弁企業形態を通じる外国技術の獲得、そして場合によっては外国企業の買収による手っ取り早い技術獲得(これをA&Mという)などがある。だがもっと簡単な方法もあり、それは外国製品を購入して、それを分解して模倣し、改造し、そして国内向けに量産化するというやりかたである。これを一般的にはリバースエンジニアリング(RE)というが、かつての日本もしばしばこの方法を使ったし、今日の中国においてもオートバイなどで行われてきた。こうした技術習得が生産能力を高め、そして労働力の陶冶と結合されると、巨大な生産力の増強となり、輸出競争力向上のための大きな武器になり、やがては逆転へと繋がることにもなる。
ただし、それが外国技術のフリーライダーになるということで、今日では違法として厳しく制限しようとする傾向が先進国側に強い。
企業内国際分業(内部化)を取ろうが、企業間提携(外部化)を選ぼうが、いずれにせよ技術の世界的な伝播・普及は自然の成り行きである。そうすると、先進技術を持ち、競争上優位にある企業は重要技術を秘匿して外部には出さず、出すとすれば企業内技術移転のルートを通じてのみ行うか、あるいは模倣化と陳腐化を避けるために、進んで外部企業に伝播させてロイヤルティ収入を稼ぐライセンシング戦略をとるのかの、いずれかの技術戦略を立てるだろう。
このことを考える際には、オープンアーキテクチャと呼ばれる標準化された部品類をモジュールとして、それをインターフェイスで結んで組み合わせる生産設計のシステムが盛んになり出していることについて留意しなければならない。そこではスタンダード(標準・規格)が業界全体か企業内かで確立されることが肝要で、それが今日の企業間の競争の極めて重要な要素になっている。業界標準が確立される(デファクト・スタンダード)か、制度的に保証される(デジュリスタンダード)か、あるいは激烈な競争の生み出すサンクコストやスイッチコストなどのリスクを回避するために、事前の協調=連合(コンソーシアム)化を図るかが、企業間で、グローバルな規模で熾烈に展開されるようになる。したがって、スタンダードをめぐる問題は、一方では企業間の競争と提携、そしてその結果としての妥協を盛んにするが、同時に、他方では国家間の交渉を介して、国際機関による制度的な認定と保証を求めるようにもなる。
したがって、そこでは国家による媒介と後援が必要になり、その結果、グローバルなスタンダードの確立をめぐる国家間の対抗と協調のタフな交渉が舞台裏で続けられ、最終的には一定の妥協が図られることになる。その際に今日の国際経済交渉の特徴は、専門の外交官が政府の代表として交渉のテーブルに就いて、「国益」のために丁々発止の外交戦を繰り広げるという、いわば伝統的な形式ではなく、業界の代表が直接に政府の代表になり、国旗を纏って、その実、自己の利益を少しでも多く確保するために、第三者機関や下位の作業グループの技術的・暫定的な勧告や検討結果などを参考にしつつ、熾烈な角逐を通じた対抗と妥協を繰り返すという、いわば通常の企業競争の修羅場が国際的に現出することになる。そしてスタンダードをめぐる競争はいかに素早く自己のスタンダードをマジョリティにするかであるため、自ら率先してファミリー化による抱え込みを精力的に行い、そのため、OEMも自ら製造したものを相手先ブランドで販売することを許可する「出荷型」のものが、IT産業では多くおこなわれている。
第3に企業の生産・流通活動は同時に資本の運動(国際投資)としても行われており、そこでは一方におけるFDI を通じた海外子会社ー孫会社網の設置、つまりは系列連鎖の経済性(Economy of Affiliation、EA)の追求と、他方では少数株での経営参加の方式が取られるようになり、そこでは海外証券投資(Foreign Portfolio Investment、FPI)の形態が使われる。
そしてその中間には合弁事業という形での共同経営の形式が取られることもある。これらFPI以下をここでは、FDIによる直接支配型と区別して、一括して「参加・共同経営」というカテゴリーに分類した。また前者のFDIにおいても、海外子会社の新設というグリーンフィールド投資に加えて、既存企業の買収というクロスボーダーM&Aも盛んになっている。しかも、それが株式交換を使っておこなわれる場合には、旧会社ではいずれもFDIであったものが、統合された新会社においてはFDI(多数株支配側企業)とFPI(少数株参加側)に分かれることになり、したがって両者がクロスされた形をとることもあり、しかも国を跨っておこなわれるクロスボーダーM&Aにおいては、国際と国内との概念区別が独特であるため、FDIとは数字的に照応しない場合もでてくる10)。これらを含めて、FDIとFPIとが相互に錯綜しあい、渾然一体となって展開されていることをクロス投資という概念でおさえるが、こうしたことは現実の企業支配においては頻繁におこなわれている。そのため、実際の資本の運動として考えると、FDIとFPIの区別は曖昧であり、相互に錯綜して展開され、また複雑な経緯と脈絡をたどることになる。それが今日のクロスボーダーM&Aの実態であり、資本範疇としての多国籍金融コングロマリットの姿である。
さらにそのことは、上述の先進技術の獲得にあたっても、ライセンス協定の締結、共同開発、合弁企業の設立、完成品の購入と分解・改造による模倣化、そのためのリバースエンジニアリング(RE)の活用などに加えて、このM&Aを利用した技術保有企業の買収(Acquisitions and Mergers、A&M)など多様な形態がとられていることの中にも現れてくる。その意味では、企業の技術戦略といえども資本の運動としての側面を看過することはできない。また、提携や委託や長期取引関係に関しても、概念としては資本関係上の繋がりを持たない、技術的要因のものだとして説明したが、実際には一定の資本関係を有するものもある。むしろ、支配(コントロール)を万全なものにするためには、資本所有による保証が求められるのが普通であろう。そして下請・系列化を「疑似外部化」と名付けたのは、資本関係上はFDI(国内企業の場合は直接投資)にならず、また全く資本関係を持たなくても、実質的には生産過程上は一個の企業の内部に統合され、アセンブリーメーカーの部品サプライヤーに対する生産の指揮・命令系統は厳然として貫徹されているにも拘わらず、形式的には別個の外部組織のような外観を取っているためである。そしてこれを巧みに利用していることに、トヨティズムに典型的にみられるように、日本企業の強みがあることもよく知られている。その意味では、「企業による支配」という概念には、資本によるものと、資本以外による─たとえば、生産体系上、技術体系上、販路・マーケティング上、あるいはブランド支配など─ものとがあり、その両者が現実には混じり合っているということでは、定量的な分析の域を超えた定性的な分析の必要とその解釈の精度を研ぎ澄ますことが求められてくる。
以上みたように、こうした複雑な形態が入り交じっているのは、今日の巨大化された株式会社システムの隆盛の下では、株主資本利益率(ROE)を高め、株価を高くすることが多くの株主を引き付け、自己資本を潤沢にし、巨額の資金調達を行うための重要な経営方針となる。
そのためには固定費部分を少なくして変動費部分を増やすやり方が一つの効率的な企業経営の方策だと考えられてきた。その結果、企業は中核的な優位部門に集中・特化して、周辺部分を外部に委託する(アウトソーシング)志向を強める。つまりは統合・結合ばかりでなく、分離・分割をも積極的におこなっていく。したがって、M&Aも吸収型ばかりでなく、売却・整理型のものも数多くあるのが実情である。このように、資本支配の貫徹という傾向と、できるだけ効率的な経営をめざすという、相反する二傾向が綱引きをし合うことになり、状況に応じた選択が選ばれることになるが、全体としては支配の貫徹が目指されている。それは、株主が企業の所有者だというのは一個の擬制にすぎず、実際はその中の最大株主集団や個人が経営の実権を握って実効支配をおこなっており、そうした形式と内容の齟齬を隠蔽して、より一層不透明にするのが、資本独占の常套手段であること、それにもかかわらず、独占体制下での激烈な競争─上で寡占的競争段階と名付けた─はその形式部面で行われるため、効率化とスリム化がたえず要求されることを反映している。競争と独占が相並んで鎬合ってるという意味でも、これはニューモノポリーの世界である。
これらによって、今日では企業活動のグローバル化は形態的にもカテゴリー的にも複雑に入り組んでおり、一筋縄ではいかない。貿易、投資、技術移転、知財サービス、移民などが複雑に絡み合い、錯綜し合いながら、展開されている。また企業の展開も企業内と企業間の二方向での展開が、さらに資本面と生産・流通面(技術面)の双方で複雑に入り組んで展開されるようになる。したがって、それらを捕捉し、管理し、誘導していくことは大変難しい課題でもある。東アジアの経済共同体を展望する際には、こうした要素を内包して分析・解明していかなければならないため、包括的な枠組みと目配りが特に重要になる。というのは、東アジア、とりわけ中国においては、国家による組織的な外資導入と市場整理と労働力配置とインフラ整備と社会主義計画経済の遺物としての国有企業の民営化などが、半ば強制的におこなわれてきた。
これは資本主義の歴史上、本源的蓄積期に出現し、また後発国ではアメリカや日本において多く取られてきたおなじみの手法である。それは資本不足や技術不足を補うための、国家という要素の独自的で積極的な役割の発揮であり、それによって、下からの自然的な資本主義システムの成長という本来的・王道的なやり方に代位・補完しようとする工夫である。それを中国も使っているわけだが、しかし今日の中国においては、それを「社会主義市場経済」の名の下に進めているという特異性がある。これが資本主義、社会主義を問わず、グローバリゼーション時代の「世界の工場」たるべき原蓄方式11)だとすれば、それは資本主義と社会主義とが相互に転化され合う(interchangeability)様相であり、そしてそこから共通性を引き出すとすれば、そこには権威主義的で秘密主義的で、多分に反民主主義・独裁的な国家の先導性が不可欠だということである。そうすると、グローバリゼーションが経済成長を促し、民主主義を進め、そして平和をもたらすだろうという「神話」は再考されねばならない。というのは、そこには抑圧、強制、利益誘導と、そこからの反発、抵抗、不服従が当然に生じるからである。かつて輸出主導型工業化路線を取った途上国の「開発独裁」が問題になったと同様に、今日、中国の国家指導部の「上からの改革路線」なるものにたいする冷静で客観的で科学的な評価が必要になっている。同様に、画一的・権威主義的なグローバル化を推進するアメリカの秘密主義や利益独占や反民主主義・寡頭制的支配への正確な評価もまた大事になるだろう。そこには一種のミラーイメージ(相似性)がある。それがまた、両者を束ねて「スーパーキャピタリズム」と呼んだ最大の理由でもある。 
3.東アジアの協力体制構築への試みとその主要課題
さてそこで、最後に東アジア経済共同体の課題とその展望に関してごく要約的に考察してみたいが、最初のところで述べた基本的な考え方と原則的な基準に関しては措くとして、ここでは課題となる重要項目について、やや問題提起的に述べてみよう。
第1の検討課題はキャッチアップ型の経済発展を図る際に、リバースエンジニアリング(RE)を利用した外国製品の分解─模倣─改造を通じた大衆商品(コモディティ)の量産化戦略をしばしばとるが、その功罪と将来性についてである。こうした安売り戦略は利潤を減少させ、不十分な資本蓄積をもたらし、その結果、製品開発のための資金不足のために、技術のロックインに陥ってしまって、差別化戦略に移行できないというコモディティトラップ論がエルンスト12)などによって主張されている。そしてその対極には先進国におけるブランドに基づく差別化戦略による顧客需要の新たな掘り起こしと継続化(シリーズ化)があり、こちらを王道とみる考えが先進国では支配的である。前者は主に市場の未成熟と潜在的需要の存在、それに低所得水準に依拠し、後者は市場の飽和化と精緻化(リピーターの開拓)、そして高所得化に期待している。なるほど事態は、生産設計や新製品開発のためのR&D能力と流通におけるブランド力を握った先進国企業の高付加価値=高利潤確保と、実際の製造活動を担う後発国企業の低付加価値=低利潤を証明しているかにみえる。そしてそれを説明したのが、半導体産業を典型とするスマイルカーブセオリーである。さらにオープンアーキテクチャと呼ばれる生産設計思想とそのシステムの確立・制置が、REでは自前技術の発展的拡大を困難にして、その将来性を失わせると説かれている13)。しかしこれは果たして法則的で固定的なものであろうか。
まずこのことが成立するためには、私的所有に基づく知的財産権の絶対視と、モノの生産によってではなく、それの複製と使用からのほうが巨額の利益が発生するというからくり、さらに特に消費者のブランド信仰ともいうべき、制限のない欲望の増大と、実際はそれが永遠に満たされず、常に欲望の部分的な充足に終わらざるえないこととの間のギャップがあり、それがさらなる欲望の充足に向かうというリピーター心理が働くことが前提である。しかもブランド信仰を消費者の法則的な行動原理だとするには、一定の社会的合意が必要になる14)。つまりは企業の商品差別化戦略と消費者による差異化意識とが合致し、ブランドとしての認知が後者側に芽生えることが前提になる。そうした社会的合意の下においてのみ初めて成立するものである。またこれは知的財産権を基礎に、携帯電話にみられるように、無料で配って使用料で儲けるという、いわば「所有」の経済学から「使用」の経済学への転換、さらにはレジャーなどのサービス産業における本物に似た疑似体験によって満足が得られるという「経験」の経済学への転換でもある15)。これらの保証の下で、差別化と高付加価値が先進国・高所得国の主要な行動原則になり、そこでかろうじて成立する、いわばフィクション(仮象)にすぎないのではないかと思われる。
また半導体におけるEMSの形態での製造活動のアジア─とりわけ台湾部品メーカー─への発注とそれへの特化は、全体としてのスマイルカーブの存在を証明しているようにも見える。しかし、企画・研究開発・基本設計などの生産前段階とブランド・広告宣伝・マーケティングなどの生産後の段階に高付加価値が保証されるというのは、なにも法則的なことではない。
これらの過程がすべてバリュウチェーンとして一続きのものになり、その主導権を生産前と生産後を支配する企業が握っているから成り立つのである。そうすると、両者の力関係が変われば、付加価値部分の配分は変わってくることになろう。というのは、台湾のEMSの企業が中国本土に子会社を設置し、そこに実際の作業を行わせたり、さらに中国の地場企業に下請に出したりするケースも出てきていて、そうなると、前者であれば内製化、後者に委ねれば外注化であるが、いずれにせよ、先進国の依頼主の主導権がいつまでも続く保証はない。ここでは、外国の発注会社(ブランド企業)─台湾のEMS企業(OEMメーカー)─中国のその子会社─中国の地場企業という生産の発注系統が作られるが、そうすると、台湾のメーカーは実際の生産加工を行わず、部品に関する全体の生産の指揮と調整と受け渡しを担う、いわばターンキー・サプライヤー(完成品の受け渡しサプライヤー)の役割を果たすことになる16)(第4図)。
[ 第4図 パソコン産業のブランド企業─ OEM メーカー関連図 ]
そうすると、このEMSメーカーが次の段階ではターンキーサプライヤーとして世界大でEMS生産体系の組織化と子会社配置を行うようになり、たとえば、台湾には開発・試作・ハイエンド製品の製造と本社機能を、中国には量産工程の生産配置を、そしてアメリカ・ヨーロッパにはモジュール最終組み立てとアフターサービスの子会社を置くようになれば、これはもう立派なTNCである。そしてさらに中国にはこの量産工程の一部を下請化するための協力工場・地場企業を組織していけば、ネットワーク型の企業間提携をも利用することになる。そうなると、ブランドを持った巨大な先進国多国籍企業から離脱(de-linkage)したり、あるいは彼らとの間の交渉力(negotiation)を強化したりして、力関係を変えたりすることは大いに期待できる。
以上みた高付加価値─差別化戦略とは異なり、低所得層向けの標準化された大量商品の世界もなくならずに独自の領域として存在し続けている。とりわけ、「世界の工場」の最大の条件は低賃金にある。しかもそれには13億人もの巨大な後背地が存在する。したがって、薄利多売を生業とする低廉な量産型製品の世界は魅力的であり、もしそれの国際的な標準化に成功すれば、その一大生産中心地・中心企業に特定の後発国とそこの企業がのし上がることは大いにあり得ることだし、それ自体に独自性もあるし、また意義もあるだろう。しかも中国のオートバイ産業は世界最大の生産台数を誇っているが、それはREを巧みに利用し、国有企業が作り出した、国家公認のまがい物の世界である。すなわちホンダのエンジンとスズキの車体を組み合わせて、基本となる中国標準車種を作りだし、これを基にして、付属品と部品の組み合わせによる様々なバリエーション(同型化)を誕生させた。これが競争場である。ここで各メーカーは鎬を削ることになる。そこでは部品メーカーに直接に発注する場合もあれば、一次の部品メーカーがさらに二次以下の零細部品サプライヤーに下請けさせる場合もある。そして生産量の変動に応じて契約と解約を行う。こうして外国品の分解─模造─改造─量産化という過程をとって、低価格品が大量に販売されることになり、たちどころに市場を席巻することになった17)。
[ 第5図 コモディティトラップとブランドトラップ関連図 ]
ところで、消費者はいつまでも盲目的な欲望の奴隷であり続け、企業の差別化戦略とブランド支配の言いなりになっているわけではない。消費者自身による、廉価、高質、迅速、正確、適量といった規範が次第に育ってくる。こうした消費者の自覚が欲望に歯止めをかけ、ブランドへの需要が低下すれば、高研究開発費、高広告費・宣伝費をかけた高額品は競争力を失い、過剰になり、経営内容を圧迫するという「ブランドの罠(トラップ)」に陥らないとも限らない(第5図)。しかもブランド間の激烈な競争はブランド商品の一般商品(コモディティ)への転落の危機をたえず孕んでいるので、商品ブランドから企業ブランドへの昇華やたえず新たなブランド確立に狂奔することになる。だが今度は企業の評判(レピュテーション)という足枷が足を引っ張ることになる。これらのことから、現実には低価格の偽ブランド商品や、大幅にディスカウントされた「去年物」や「季節はずれもの」が大いに売れているという事実がある。またコンピュータの世界でもIBM純正品がより低額なIBM互換機に圧倒されて敗北していった(1986 年)という事例がある。ここでは迅速さに基づくファミリー化が成功しないと、「デジタルトラップ」に陥ることもでてくる。したがって、安売りだけが「コモディティトラップ」に陥るということはなく、差別化された高額品もいつ何時「ブランドトラップ」に陥るかもしれず、逆に両者とも共存・共栄して販売に成功することもある。だから、両者はそれぞれに固有の領域において並存すると考える方が妥当であり、とりわけ、当面は低賃金に依拠する「世界の工場」においては、低価格品の標準化と大量販売が幅をきかせることになろう。
第2の課題は特に中国に対していわれている「無尽蔵な低賃金の供給」という労働力流動化政策の適否である。年数を区切った出稼ぎ労働の供給はその背後に13 億という巨大な人口があることを考えると、一種の回転ドアのように次々と送り出すことが可能なもののようにみえて、説得力を持っているようにも思われる。少なくとも、こうした不熟練労働を雇用する外資にとっては労働問題はあってなきがごとくに見えるだろう。しかし、数年して故郷に帰宅した労働者の再雇用はどうなるか。彼らの習得した技能力はどう生かせるのか。その受け皿がなければ、失業の増大などの社会問題を発生させるし、国の生産力の向上もない。したがって、地方での産業波及効果を必ず持ちうるし、それが需要を生み出していくだろう。つまり作るだけの「世界の工場」から消費需要を持った「世界の市場」へと次第に発展していくだろう。そして全体としての所得水準を押し上げることになるので、それに代わる後背地は必ずしも中国の農村に限定されるものではなく、アジア全域へと拡大していくだろう。また外資のほうも中国に定着し、国有企業や新興の地場企業との間の激烈な競争を生き抜いていくためには、当然に得意とする差別化戦略を取り入れるし、そうなれば熟練労働を必要とするし、回転ドア方式ではない、定着型の雇用政策を加味したりするようになるだろう。つまり、そうしたダイナミックな過程として捉える方がこの場合には自然である。
資本の創出と動員、大量の低賃金労働者の配備と整理、そしてインフラ整備といった、グローバル化時代の「世界の工場」としての原蓄過程を中国政府が演出していると上で規定した。
その内容は、第1に国有企業の民営化にあたって、一部経営者の株式取得を認め、彼らが事実上、そこで創業者利得を法外に取得していることを容認している。本来、経営者といわれる人々は経営を国家から委託されるという限定的な立場にあったはずなのに、いつの間にか、株式取得による所有者に、しかも国有企業の民営化を利用した「濡れ手で粟」式の多大な利得を得ている。これは資本家としての原始的な資本蓄積過程である。第2に出稼ぎ労働者の低賃金は外資による格好の利益獲得機会になっている。それを準備したのは中国政府であり、これは農民の賃労働者への転換、つまりは農民層分解として経済史にお馴染みの事態である。第3にインフラ整備に伴う土地開発業者(ディベロッパー)の一攫千金的な利益確保を生み出している。そして都市化、とりわけグローバル都市を人為的に造り出している。これらのことは原蓄期に特有のものであるが、それを実施している中国政府はそれを社会主義市場経済化を称しているが、それが資本主義の原蓄とどこが違うのかは判然としない。そうみると、これが社会主義の発展の一こまに包摂されるものなのか、それとも資本主義的な成熟化に向かうのか、それを決めていくのは、下からの監視と参加、つまりは民主主義の浸透と向上・拡大である。そこでは当然に資本対労働の対抗が生じるが、グローバル時代にあっては、それは全世界的な規模と範囲で行われざるを得ない。それはグローバルな規模での資本と労働の対抗と攻防の壮大なドラマの中の一コマとなろう。
第3に外資導入を促進するとなると、投資保証協定の締結とその内容が問題になる。投資保証協定には、まず戦後アメリカが対外援助の供与と引き替えに相手国に半ば強要した二国間投資保証協定(BIT)がある。それはアメリカ資本と企業の営業の自由を保証させたもので、アメリカ企業の海外進出のための格好の衝立となった。第2はOECDの場でアメリカが作ろうとした多国間投資保証協定(MAI)がある。これは企業が国を訴える権利を持つという内容、つまり国よりも企業の位置が上位にくることになるという点が途上国の反発を招き、流産に終わった。第3は地域内での投資保証協定の締結である。これが現在東アジアでも検討の俎上に載せられている。多国籍企業の国を超えた活動を保証するためには、この方式は多くの期待を集めている。
さらに投資保証協定を考える際には、もう一つの課題として、投資保証協定はどうあるべきか、そしてどんな投資保証協定が望ましいかという問題がある。今日の東アジアなどでの投資保証協定の締結に当たっては、多国籍企業の活動を保証するため、もっぱら内国民待遇(national treatment)だけが問題にされているようだが、実はそれだけにとどまらない、多くの検討すべき課題がある。それについて、UNCTADは国際投資保証協定(IIA)に含まれる内容として、以下の7項目をあげている18)。まず第1に国際投資概念の正確な定義である。アジア通貨危機に現れたように、投機的・攪乱的な短期資金の闖入が一国の経済運営と為替政策に重大な影響を与える。この短期の投機資金をどう排除するか、あるいはどう上手に管理するかは東アジアの国々にとって極めて重要かつ緊要な課題である。というのは、1997 年のアジア通貨危機の後、こうした危機に即座に対処するためにアジア通貨基金が構想され、IMFとアメリカの反対で一旦は頓挫したが、2000 年5月にASEAN+3でチェンマイ・イニシアティブとして実現した。こうした緊急対処ばかりでなく、長期的には投機資金の乱入を阻止できるような日頃の健全な経済運営が大事である。そのためにも、そもそも国際投資の正確な定義が必要で、市場、資源、効率といった基準を設けて、全体として適切に判断する必要がある。第2に内国民待遇の供与である。これは多国籍企業が特に求めているものである。第3は環境その他の規制内容の明確化である。環境保全を明確にしていかなければならないというのは、世界的な基準になっている。第4は紛争の調停である。第5は外資の活動の実績に対する評価(performance requirement)である。第6に投資インセンティブをどうつけて、魅力的なものにするかである。そして最後は競争政策の実施である。外資が独占的で硬直的なものにならないためには、上手な競争政策の実施が必要になる。こうした内容をもった総合的な投資保証協定の実現が大事になろう。そして進め方としてはネガリスト方式とポジリスト方式があるが、途上国にとっては後者の方が望ましいと考えられる。その理由は、途上国がおかれてい状況によって、外資に対する要求も違い、それらを適切に反映させるためには、ポジティブリストによって、自国の要求と範囲を明確にし、それに向けてどう準備していくかを展望できるからである。
第4の課題は東アジアの国々の間の発展段階の差異や国力の相違をどう考えるかである。こうしたことを心配する人々は特定の国の支配的地位を懸念する。しかしここで考えてほしいのは、グローバリゼーションの進展は国家単位ではなく、特定の産業集積地(クラスター)を突出させる傾向を持ち、多国籍企業は各国に点在するクラスターに拠点を置いた生産配置と消費地としてのグローバルシティへの販売拠点作りを進め、その結果、これらのグローバルシティや産業集積地へ人口が移動するようになり、それらに様々なノウハウや知識などの知財や生活力などが集積されていく。つまりはそれらがパワーを持つようになる。そしてグローバル時代の世界市民的な共通意識を次第に共有するようになる。かくて、伝統的な国民国家のしがらみは徐々に失われていき、やがては解体しないまでも、液状化していくと考えた方がよいだろう。
各国の企業が相互に乗り合わせ合い、錯綜し合いする中では、国の経済力といっても、どれだけ正確にナショナルな要素─たとえば国益といったもの─を反映できるか疑問である。政府はこうした中で、企業活動のトランスナショナル化と住民の利益擁護の間に立って調整を行い、助成や促進や規制などの適切な政策を打ち出し、スムーズな行政を運営するという新たな役割を担うようになる。つまりは分権化(中央政府よりも地方政府の台頭や自主的裁量権の拡大)は避けて通れない道である。このように国家機能の変容が進展していくことになる。したがって、しばらくの間は各国間の力の相違は無視できない要素ではあるが、グローバリゼーションの進展と共同化の発展はこうしたことを次第に場違いなもの、不適切なもの、そして時代遅れなものにしていくだろう。少なくとも、グローバル時代の地球市民はナショナリズムやステイティズムを後景に退かせるような強力な自覚と連帯感を持つべきである。おそらくはそうした自覚的な運動なくしては、ネイションステート的な干渉と行動が自然消滅はしないだろう。
ただし、その途上ではグローバリゼーションの利益を最大限に享受する部分とそれから取り残される部分との間の格差を際だたせるので、両者を統合するグローカリゼーション(グローバリゼーション+ローカリゼーション)の考え、つまりは地域を基礎にしたボトムアアプ型のグローバル化が、一つの解決策として提唱されてよいだろう。そして何よりも大事なことは、人間の移動の自由を保障することである。モノ、カネ、情報の自由に比べて、ヒトの移動の自由は厳しく制限されてきた。これを打破することがグローバリゼーションを次の段階に引き上げていくための極めて大事な要素である。そしてグローカリズムにあっては人間の連帯、つまりはエガリテ精神(人類愛)が特別に重要になるだろう。そうでないと、グローバルシティに流れ込んだ外国移民は異物として排斥されるだけであり、そしてまた民族的、人種的、宗教的、ジェンダー的、社会的、階級的、職業的などの多数の差別やそこからくる紛争や摩擦や軋轢を逃れることはできない。
さらに今日の企業活動に当たっては、参加と異議申し立ては当然になってきている。その中で企業活動にも人々の要求が多く取り入れられようとしている。CSRとかSRI と呼ばれ、企業の社会的責任と総称されるものへの株主=所有者の参加要求がますます強くなっている。そこではこれまで、労働、とりわけ非人道的な児童労働の使用や極端な搾取、労働現場や工場の安全衛生、環境保護、企業倫理の遵守などが求められてきたが、それに加えて、戦争遂行企業への投資廃止なども謳われるようになった。これは人々が労働を大事にすることからくる倫理要求であり、そしてまた仕事場としての企業への厳しい姿勢の表れでもある。こうした基準を守れない企業と経営者は、いかに利益獲得に成功しようとも、社会から脱落していかざるを得ない。そうした時代の到来でもある。そうした意味では、グローバルコミュニティの下でのグローバルコモンズとグローバルシチズンシップの確立が目指されよう。それはアソシエーション(あるいはアソシエ)の世界でもあろう。
グローバリゼーションの進展は国内問題をグローバルな問題にする傾向を強める。グローバルな規模での資本と労働の対抗関係が強まることになる。その際に、先進国=民主主義国家、途上国=独裁国家という分類法は今日の状況を正確には反映していない。今日起きているのは、途上国におけるグローバル下での未曾有の民主主義の高揚と、民主主義の中核と自認してきたアメリカにおける民主主義の形骸化・後退である。その両者は国連の場や国際組織の場で大いに競い合っている。そして1国1票方式をとっているところでは、途上国の力は強く、先進国は評決に持ち込めないケースが多い。とりわけ、アメリカにおいては、今日ではアメリカあっての世界ではなく、世界あってのアメリカであり、だからこそ、アメリカは友邦国・同盟国への寄生と依存を深めていかざるをえない。つまり、アメリカの対外「依存」(dependence)とアメリカへの同盟国の「従属」(dependence)とが切り離しがたく結びついている。そしてアメリカの中枢にあっては、アクセスキャピタリズムと呼ばれる、人脈重視の秘密主義的な、閉ざされた利益獲得機会への寄生が蔓延している。そこでは機会の自由どころか、アクセスの自由さえ多くの人々と企業には奪われている。それは多国籍金融コングロマリットの代表例としての投資顧問会社の興隆に典型的に現れている。他方で、途上国においても、少数の王族や官僚や資産家や政治家や軍人への富の集中がおき、それらはクローニーキャピタリズムと呼ばれている。しかしアクセスキャピタリズムもクローニーキャピタリズムもネポティズムであることに変わりない。そうすると、これらの富と権力の独占者たちによる、米国を中核にして先進国や途上国を結んで張り巡らされた、閉鎖的で秘密主義的で縁故主義的な人的ネットワークは、まさに「悪の枢軸」を形成することになりかねない。それは形のない、いわば見えない帝国(invisible empire)のバーチャル空間とその輪郭を作っているとみることも、あながち的はずれではないだろう。 
おわりに
21 世紀世界を資本主義と社会主義が相互に転化され合う(interchageability)グローバル化の新たな段階と考え、それをその中心となるアメリカ(知識集積地)と中国(生産集積地)とを双頭とするスーパーキャピタリズムと規定して、前稿19)では主にアメリカを、そして今回は中国と東アジア経済共同体を俎上に乗せて論じた。その適否は読者の皆さんに委ねたい。 

1)『日本経済新聞』2005 年5月23 日。
2)同上、2005 年10 月21 日。
3)国際直接投資の概念やその意味に関しては、関下稔『現代多国籍企業のグローバル構造─国際直接投資・企業内貿易・子会社利益の再投資─』文眞堂、2002 年、参照。
4)詳しくは関下稔「グローバリゼーションの今日」、関下、小林編『統合と分離の国際経済学』ナカニシヤ出版、2004 年、序章、参照。
5)詳しくは関下稔『現代多国籍企業のグローバル構造』前掲、第7章、165 頁、参照。
6)多国籍企業の海外への進展度合をこれらの言葉で表しているが、それが歴史的な発展の方向、つまりは必然的な法則性の貫徹なのか、それとも企業のその時々の戦略による選択の問題なのかはいまだ学会では確定していない。論争中の問題である。ただし、筆者は前者の問題として理解している。詳しくは関下稔「多国籍企業の海外子会社とはなにか(1)─ミシャレの世界経済認識と海外子会社把握に関する批判的検討─」『立命館国際地域研究』第21 号、2003 年3月、同「多国籍企業の海外子会社とはなにか(2)─企業組織論的アプローチの批判的検討─」『立命館国際地域研究』第22 号、2004 年3月、同「現代多国籍企業の組織構造の考察「多国籍企業の海外子会社とはなにか(3)─」『立命館国際研究』16 巻3号、2004 年3月、同「人的ネットワーク重視型多国籍企業の台頭とその組織理論─多国籍企業の海外子会社とは何か(4)─」『立命館国際研究』17 巻1号、2004 年6月、同「多国籍企業の海外子会社に関する原理的考察」『立命館国際研究』17 巻2号、2004 年10 月、7)スティーブン・コーエン、マイケル・ボラス「米国エレクトロニクス産業の復活 Asian Production Network とWintelism の台頭」『FRI Review』1998 年10 月号。なおこれは栗原潤氏による、両氏の講演の要旨の翻訳である。
8)森谷正規『中国経済 真の実力』文藝新書、2003年。
9)詳しくは関下稔「多国籍企業の国際事業提携に関する予備的考察─提携・委託・系列化・資本参加・共同経営の象限的確定─」『立命館国際地域研究』第23 号、2005 年3月、参照。
10)詳しくは関下稔『現代多国籍企業のグローバル構造』前掲、第10 章、参照。
11)資本主義のグローバル化と原蓄を結びつける視点は村岡俊三氏の考えにヒントをえた。詳しくは村岡俊三「マルクス経済学と現代のグローバリゼーション」『経済』2001 年2月号、同「マルクス後半体系と帝国主義」『経済』2005 年12 月号、参照。
12)Ernst、 Dieter (2001)” Moving beyond the Commodity Trap ? Trade Adjustment and Industrial Upgrading in East Asia’s Electronics Industry、” East ─ West Center Working Papers (Economic Series No. 10)
13)藤本隆宏、新宅純二郎『中国製造業のアーキテクチャ分析』東洋経済新報社、2005年。
14)これに関しては関下稔「余暇の拡大と多国籍レジャーサービス企業の台頭」関下稔、板木雅彦、中川涼司編『多国籍サービス企業の台頭とアジア』ナカニシヤ出版、2006 年(予定)、第12 章、参照。
15)B.J.パインU、J.H.ギルモア『新訳・経験経済』岡本慶一、小高尚子訳、ダイヤモンド社、2005 年、ならびにジェレミー・リフキン『エイジ・オブ・アクセス』渡辺康雄訳、集英社、2001年、参照。
16)川上桃子「価値連鎖の中の中小企業」小池洋一、川上桃子編『産業リンケージと中小企業』アジア経済研究所、2003 年、第2章、参照。
17)大原盛樹「オープンな改造競争─中国オートバイ産業の特質とその背景」ならびに葛東昇、藤本隆宏「疑似オープン・アーキテクチャと技術的ロックイン─中国オートバイ産業の事例から」いずれも藤本隆宏、新宅純二郎『中国製造業のアーキテクチャ分析』前掲、第3章ならびに第4章、参考。
18)UNCTAD (2003)、 World Investment Report 2003、 FDI Policies for Development : National and International Perspectives、 United Nations、New York and Geneva、part two.
19)関下稔「21 世紀の双頭:アメリカと中国─スーパーキャピタリズム論序説─(1)」『立命館国際研究』15 巻3号、2003 年3月。 
 
9. 11恐怖襲撃の様々な既視感(1)

 

1.「力・欲の枢軸」の陥穽と歴史「演変」(変易)の「天網」 
2001年9月11日(火曜)朝、イスラム過激派恐怖分子19人が民間航空機4機を強奪し、米国の経済・軍事の中枢に対して同時多発的「神風特攻」を敢行した。紐育の世界貿易中心ビルの倒壊や華盛頓の国防総省ビルの炎上が、中継映像で忽ち世界に広がり地球規模の同時多発の衝撃を惹起した。日付は奇しくも米国の緊急通報用電話番号1)と吻合したが、2000、’01年頭に2度楽しんだ新千年紀祭の余韻が猶少し残り、他国に波及した情報技術企業株の泡沫崩壊も未だ底打ちに程遠かった此の国には、其の思わぬ激震は警鐘乱打の観が強い。
米国は事前に多くの徴兆を把握したのに機敏に反応せず、不逞の徒の襲撃を座視する破目に陥った2)が、前年暮れの大統領選のフロリダ州手作業再集計の後進性が連想された。20世紀最大級の不意討ちを真珠湾で受けた国が再び世紀的奇襲で遣られたのは、「力の枢軸」3)に付き纏う地政学的危険を思わせる歴史の巡り合わせだ。世界最強の故に本土が侵攻を免れて来た事が免疫力の低下に繋がり、足元の隙間に対して鈍感な体質が出来たのも皮肉だ。滅亡体験の質的欠如と対を成した落し穴は、全的視野・仮想力の意外な不足である。
米国は世界最強の傍受体系を持ち、同時多発の通話の洪水から鍵言葉に即した断片を瞬時に拾える。老子の「天網恢恢、疎而不漏」(天網恢恢、疎にして漏れず)を絵に描いた様に、巨細漏らさず4)網羅し得る「隠形網絡」(姿無きネットワーク)5)は物凄いが、機械の発達に反比例して人的接近は疎かに成ったと言う。宋の哲学者・王陽明は反体制蜂起の鎮圧を指揮した実践に基づいて、「破山中賊易、破心中賊難」(山中の賊は破り易く、心中の賊は破り難し)と喝破したが、今次の被害で表面化した疎漏や弱点は其の逆説の通りだ。
今の世界で目に余る「心中賊」として、邪気の傲慢・偏見と無邪気な慢心・偏頗が思い当る。
悪意を持たぬ後者は自覚も罪悪感も無いだけに、歯止めが掛からず往々にして却って始末が悪い。
「山中賊」に由る9.11の理不尽な暴力で紐育証券取引所は暫く閉鎖に追い込まれたが、1987、’98年の米国発の世界的金融動乱は欲望の不条理な暴走だ。前者の暴落は新人類基金運用者時代の電脳自動売買が一斉防御に走った合成の誤謬6)で、後者の破綻はノーベル経済学賞受賞者の米国教授の参画した投資基金の一方向的賭けの外れが起因だ。
初回の悲劇と2回目の喜劇は同工異曲で、「超級大国」(super power)・「極超大国」(hiper power)7)の米の脆弱を露呈させた。壮麗な「鳥籠構造」で出来た世界貿易中心ビルの悲愴な溶解・崩落も、設計時に強震や飛行機衝突事故を想定したものの、狂信者が飛ばす大型航空機の突貫・全面火災までは想到しなかった点が禍した。心の隙間を端的に物語る事象として、其の辺りに本拠を据えた某金融会社の顧客情報や取引記録の保全複製は、有事に備える危険分散の宗旨に反して、事も有ろうに至近距離の別のビルに置かれていた8)。
此の話にぴったり合う中国語の「偏偏」(事も有ろうに。選りに選って)は、「選ばれし者」の自惚れに因る一極偏重を言い得て妙だ。2003年8月13日、マイクロソフトの基本ソフトの設計上の欠陥を衝く病毒が蔓延し、世界の6桁に上る電脳を使用不能にした9)。ビル・ゲーツの金儲け主義とウィンドウズの不備を嘲笑う愉快犯の落書き10)は、「米国の夢」の成功者の裏面や情報技術の覇者のアキレス腱を覗かせた。悪戯された標的の中国語訳名の「微軟」「視窓」は、微小な衝撃にも堪え得ぬ「裸の王様」の笑劇と字面で対応する。
翌日に北米東部で起きた大停電は、忽ち農業社会へ逆戻りさせた点で好一対だ。先進7ヶ国首脳会議で3割弱の比重を占める米・加は、電力自由化の綺麗事とは裏腹に電力設備の途上国並みの老朽化を曝け出した。5千万人に迷惑を掛け両国の紛糾を招いた事故の引き金は、オハイオの電力会社が剪定を怠った枝が伸びて送電線に接触した事だ。複数の機関の監視装置が故障等で作動せず連鎖災害を許したのは、些末な外因と粗末な内因に因る誤謬の合成だ。11)無形な「柔力」に対する人間の無力は、其の悲喜劇で改めて示された。
歴史は1回目が悲劇で2回目が喜劇の形で繰り返す、と古代希臘の賢者は言った12)が、中国の陰陽原理や西洋哲学の「正→反→合」13)の様に、両者の接点と延長には更に循環が有り得る。
9.11 と違って残忍さや悪意を伴わぬ真夏の悪夢の次に、再び多事の秋が遣って来た。2003 年10月27日の赤十字国際委バグダッド本部爆破を皮切りに、断食月入り後イスラム過激派が中東で連続破壊を仕掛けた。駐土耳古英総領事館への自爆攻撃の翌々日の11月22日、ベルギーに本拠を置く国際大手宅配便会社の貨物機がイラクで導弾を被弾した。
米国の中枢に照準を定めた同時多発襲撃の反転・拡散の如く、一連の典型例は其々国際機関、反「悪の枢軸」連盟と外国企業を狙った。占領と復興を阻止する為に全世界との対決も辞さぬ決意が噴き出たが、同じく民間機を巻き込んだ最後の1件は、「軟目標」(ソフト・ターゲット)への無差別攻撃として目を引く。「軟」は民間と守備軟弱の両義を含む14)が、常識的に「非攻」(非戦)15)のはずの前者と物理的な「薄弱環節」(手薄な処。弱点)の後者への打撃は、米国防省の「硬目標」を含めた9.11と一緒の「非対称戦争」だ。
米大統領訪英の時機に合わせた英国在外機構への攻撃は、地理的域外と心理的圏内に跨って意地悪い。心臓を抉る様な9.11急襲に対して、指を切り付け爪を剥がす類の真似だが、指は神経末梢が集中した故に酷刑の格好な対象に成る16)。1995 年の阪神大震災の半分に当る3千余りの死者を出した9.11の大量破壊は、一挙に成し遂げた処でも広島・長崎の原爆投下と通じる非日常性が有るが、「常規武器」(通常兵器)に由る時間・地域・標的分散の殺傷は、一挙手一投足に恐怖を覚えさせる神経戦の恒常化で増幅・累積の効果が高い。
広島原爆に因る死者数の24 万人余りは奇しくも、31年後の毛沢東死去の直前の唐山大地震と同じだ。両国の軍事独裁体制の終焉の駄目押しと成った2回の災禍に比べて、日本の「第二の敗戦」や世界の「第二の冷戦」を兆した阪神大震災と9.11事件は、犠牲者が其の数十分の1に止まり且つ同等の精神的創傷を遺した点で後冷戦時代らしい。英米聯軍のイラク攻落後に華南発の致死性新型肺炎(S A R S)の拡散が極みに達したが、胡錦涛が「硝煙無き戦争」と称した17)騒乱の人類を戦慄させる猛威は、4桁に届かぬ死者数では量り切れぬ物が有る。
西洋の先哲は人を一吹きの蒸気や一滴の水でも潰される思索の葦に譬えた18)が、現代では情報の肥大化と人間の弱体化の進行に因り、僅かな破壊要因でも共振→強震が起き易い。「葦」を靡かせる「風」19)の一例は、風説の流布や世論の操作も可能な「第4権力」20)だ。「軟目標」の鍵言葉を大写しした外国物流企業の貨物機の被弾は、ケネディ暗殺40周年の出来事だが、曾て初の日米間テレビ衛星中継で其の訃報が大洋を越えて飛び込み、脳味噌が飛び散る光景が後に世界で再生・拡大されて来た事は、電波の伝播の「柔力」を思わせる。
証拠物件・書類の封印が2039 年に解かれても、其の超「硬標的」を消した黒幕は判明する保証が無い21)が、取り沙汰された「邪の枢軸」22)の範囲内だろう。軍産複合体やCIAに纏わる噂の真相はともかく、ケネディ大統領就任30周年の3日前に勃発した湾岸戦争では、利権と利剣、殺戮の利器と情報の利器が見事に相乗した。精密誘導装置が付いた導弾の標的撃破に到る軌跡を示す内蔵カメラ映像は、古典的遊撃戦と対照的に科学幻想風の「遊芸戦」23)を見せた。
20世紀の戦争観を破った其の奇観は、新世紀の劈頭で一矢を報いられた。
2機目の突入も2棟の摩天楼の炎上・倒壊も、テレビ中継で天下の視聴を集める中で起きた。
「意図」の文字通り恐怖組織の意の儘の図と成ったが、煉獄の「活動写真」24)は余りにも超日常的な故に、此は映画ではありませんと放送側が随時断った程だ25)。衆人環視の中の白昼堂々の犯行は、「意・図」に対応した激情・劇場型と言える。此の図式・命題を絵に描いた様に、翌年10月23日(水曜)のモスクワ文化宮殿劇場に、迷彩服を纏い銃・爆薬を持つチェチン決死隊26)が雪崩れ込む際に、一部の観客が芝居の一部と錯覚し拍手した。
米ソ「両覇」(二大覇権)が米「独覇」(単独覇権)27)に取って代られただけに、東西陣営の雄として角逐していた両国の中枢への襲撃は意味深長な対を成す。片方は出勤時に金融街の象徴と軍事指揮機関が狙われ、犯人の遣り放題で瞬時に結末を迎え被災側は呆気を取られた。片方は余暇時に国の文化の「顔」が単発の打撃を食い、密室状態で58時間に亘る占拠が特殊部隊の突入で呆気無く幕を落したが、人質129 人を死なせた催眠剤入りの特殊ガスの違法化学兵器容疑に因り、鮮烈な制圧で辣腕を振った当局は悪い後味を遺した28)。
後者の方で現れた冷戦時代の遺伝子には、大統領の国家保安委員会29)要員と在外諜報活動の経歴30)も有る。冷戦後の最初の米大統領も中央情報局長経験者31)で、其の老ブッシュの湾岸戦争の圧勝はプーチンの躍進と共に、「情報を制す者は天下を制す」原理を立証した。1991年に米は超絶の軍事力・情報技術力で中東への快進撃を遂げ、ソは理想主義者の領袖の決断で自滅的解体をした。其の伏線の意味を現わす様に、国力が衰退気味の露のチェチン占領も文民政治家・小ブッシュのイラク征服も、不如意の「渋勝」32)に止まった。
湾岸戦争では米軍の戦死者は限り無く無に近かった33)が、10 年後の9.11 の民間人多数死亡は、言わば江戸の仇が長崎で討たれた代償にも思える。イスラム過激派が満を持して放った其の驚天動地の仕業は、「十年磨一剣」(十年一の剣磨とぐ)の結果と視て能い。賈島の此の句34)は隠忍精神の格言としても名高いが、狂人が揮った凶刃も善悪を超える強靭さを見せた。下の句は「霜刃未曾試」( 霜刃未だ曾も試さず)と言うが、湾岸戦争で米が顕示した未曾有の「天兵」35)めく神業も、長年研いだ利剣36)を試しに実戦に投じた物だ。
其の「試鋒芒」(矛先の鋭さを試す。腕を見せる)は「開刃」(刃を立てる)、「開刀」(斬刑にする。血祭りに上げる。手術する)を連想させる。「開刀」の比喩や類義の「開殺戒」(殺戮の戒律を破る)と言えば、同じ1989年の冷戦終結に逆行した天安門事件の武力鎮圧が思い浮かぶ。
「非正常死亡」者数が8桁と推定される「文化大革命」の「紅色恐怖」(赤いテロ)37)と共に、前代未聞の首都戒厳と戦車出動・軍隊発砲は、「禍匣」(パンドラのはこ)の開封とも形容できるが、20世紀の世界史に於いて究極の「禍匣」の炸裂は2度だけだ。
奇しくも仇討ちに関する上記の諺の長崎と江戸が舞台と成ったが、其は他ならぬ1945年の原爆投下と恰度50 年後の東京地下鉄サリン事件だ。死者10 人、重軽傷5000 人余りの2回目は、規模こそ前者の両地被災に遠く及ばぬものの、禁断の兵器で無辜の市民を無差別に殺傷した点が一緒だ。半世紀を隔てて大戦終盤と世紀末の人々の度肝を抜かせた両者は、「末日之門」(末日[終末]への扉)38)の彼方を覗かせたが、20世紀の初頭を飾ったノーベル賞の登場も、 炸薬の発明者が贖罪を兼ねて案出した科学・文化創造と平和維持の顕彰だ。
彼の化学者・工業家の逝去と其の名を冠す桂冠の創設(1896 年)から、半世紀毎に科学者が造った「禍匣」が国家や邪教に由って開かれた事は、技術・実力万能の風潮が益々強まり、倒錯や錯乱の亢進に伴い精神的制御が一層難しく成る21 世紀には、不吉な暗示と思えて成らない。9.11襲撃の直後ノーベル賞は授与百周年を迎えたが、未だに動乱の渦中に居るパレスチナ解放機構議長・アラファトの平和賞受賞(1994 年)や、1969年新設の経済賞の意義に抱く関係者の疑念は、善良な願望の限界に気付かせる指摘として傾聴に値する。
2002 年ノーベル平和賞をカーター元米大統領に授けた選考委員会は、米現政権のイラク政策を批判する意図を表明した。ノーベル賞の選考は主に故人の祖国・スウェーデンの王家科学院等が司り、平和賞は諾威の議会が委託するが、北欧や永世中立国の属性は米国の独善・「独覇」への対抗を成す39)。最高の理知の結晶を表彰する其の冬の儀典の対として、最高の感性の開花を展示する米国映画アカデミー賞の春の祭典40)が思い浮かぶ。倶に「学院」所縁の両者は領分の違いだけでなく、価値観に於ける米国色の濃淡でも対照的だ。
2003年3月21日の米英聯軍イラク侵攻に抗議して、2日後のアカデミー賞授賞式で批判が飛び出、更に3日後に紐育の示威行進で2人のノーベル平和賞受賞者が逮捕された41)が、力・欲に敵わぬ理・情の非力を印象付けた。20 世紀前半の熱戦と後半の冷戦を経て、新世紀の平和・繁栄への期待が高まったが、相変わらず力・欲が歴史の枢軸を為している。カーターの懇切な斡旋に拘らず、朝鮮半島の「悪の枢軸」の矛先は弱まらず、彼の平和賞受賞決定の翌日(10 月12日)、バリ島でイスラム過激派が豪の観光客等184人を爆死した。
21世紀の基調に影を落した9.11襲撃は、奇想天外の様ながら前世紀的特質が濃い。祖型と思われる太平洋戦争末期の「神風」特攻は、中世的蛮性に於いて歴史の沈澱とも未来の狂気とも繋がる。9.11 犯行集団は初めに米・日への同時攻撃を計画した42)が、2回の世紀的「禍匣」の開封と共に日本の受難の宿命を思わせる。米国の対外攻略と日本の内憂・内乱の連鎖を象徴する様に、「沙漠の嵐」作戦開始日の恰度4年後に阪神大震災が起き、同年3月20 日の地下鉄サリン事件は、8年後の「高貴な鷲」43)作戦発動と日付が隣り合う。
春分頃の其の災厄は秋分前後の「多事之秋」に対して、多難の春の蠢動と言えようが、オウム真理教が露で武器を購入し軍事訓練を受けた事で、其の猛毒ガスの撒布は巡り巡って、昨秋のモスクワ事件の特殊ガス投入と重なる。「蘇東波」(蘇聯・東欧の社会主義崩壊の衝撃波)44)は、斯くして思わぬ方向へ飛び火して了った。1998 年の米国ヘッジファンド破綻危機も、露国債への無謀な投資が失敗の元だった。敵の「和平演変」(平和的変質)45)を導いた米国は「平和の配当」46)を享受した後、不当な享受の代償を支払う番に成った。
米国は1991 年に「兵不血刃」(兵刃に血塗らず)の理想に近い形47)で、湾岸戦争の快勝とソ連消滅の宿願を無血で実現させたが、敵失も手伝った完全無欠の神話や霊験の実績は長続きしなかった。干支の一小循環(12 年)後の今次のイラク侵攻は、速戦速決の青写真の通り忽ち全土制圧を遂げたものの、敗者の粘り強い抵抗で犠牲者が続出し有志連合の他国まで損害を蒙った48)。二匹目の泥鰌を狙った強攻はソ連のアフガン出兵の二の舞いに成る恐れも出たが、湾岸戦争と同じ12年離れた両者の類似は歴史の振り子原理を感じさせる。
其の反転を物語る事象の1つは、アフガン侵攻の翌月に天井を付け後に価格の低迷が続いた金の復活だ。米国株の「根拠無き熱狂」49)相場が続いた1990 年代に、金は利息や配当が付かぬ故に人気が離散したが、一躍脚光を浴びた契機は他ならぬ9.11 襲撃だ。「安心の配当」を含んだ「質への逃避」先として選好される傾向は、2003 年のイラク戦争の直前や中東連続恐怖活動の中の高騰で鮮明と成った。11月26日に紐育地下鉄の異臭発生が米国版サリン事件と疑われた事から、先物1オンス=400jの大台が7年8ヶ月ぶり突破された50)。
噂は幸い「虚驚」(空騒ぎ)に終ったが、地下鉄世界貿易中心ビル駅再開51)の直後の事だけに、廃墟再建の「好事多磨」(好事魔多し52))を実感させた。市場に付き物の此の種の根拠無き驚異は、実在の脅威を映し出す鏡なのだ。金の蘇生は戦争と恐怖活動に怯える心理の所産であり、虚業への不信に因る実物への再評価と言える。湾岸戦争後も信奉され続けた「有事のドル」の常識の崩れ、対抗軸の「有事の金・瑞西フラン」の浮上は、米国の独り勝ちや情報技術万能の信仰を疑問視し、世界秩序の再構築を催促する信号に思える。
ノーベル賞と米国の基準は違いながらも共に欧米の枠内に収まるが、金とドルや株の相場の逆相関は世界と米国、伝統と現代、実と虚の対を成す。人類最古・万国共通の代替貨幣なる金の最大原産国が南アフリカ・露で、国際価格を決める業界談合の場が倫敦である53)事は、米国の絶対的優位の裏付けの相対的不足を思わせる。新・旧国際基軸通貨の連動・両立は、経済面でも「独覇」を図る米国が打破したのだ。1971年8月15日に打ち出された米の新経済政策の目玉は、ドル防衛策の一環として金・ドルの一時交換を停止する事だ。
ノーベル経済賞の新設は経済の難題が前面に出た時代の要請と言えるが、其の年に大統領に就任したニクソンは、遂に経済の自律調節の持論を曲げて国家介入に踏み切った。世界大戦終結26周年の時機が象徴する様に、武力衝突の解決よりも経済秩序の維持が難しい。其の恰度1ヶ月前の別の「ニクソン衝撃」は、キッシンジャー秘密訪中で合意した米中接近の公表だ。米国の核実験初成功の26周年の前日に当る時機は、対立→和解の反転を鮮明に告げたが、国際収支の不均衡の改善を狙う米国の経済防御は世界に金融混乱を輸出した。
1973 年2月、西独のドル売り・マルク買いに端を発した国際通貨危機で、ドルは前回の暴落に次いで1割切り下げと成り、各国の為替市場の閉鎖や変動相場制への移行で再び激震が走った。30 年後の今や又ドル安政策が人為的に施され、逆に米国発の人民元引き上げ圧力が高まった。栄枯盛衰の推移を言う中国の諺には、「三十年河東、三十年河西」と有る。覇者が30 年毎に黄河以東から以西の方へと交替する意で、盛者必衰の教訓として知られるが、人生の「而立の年」に当る此のスパンから振り返れば、多くの巡り合わせに気が付く。 
2.安全保障の盲点 / 「防山中賊易、防心中(身辺)賊難」

 

1973年3月29日、ニクソンは米軍撤退完了・越南戦争終結を宣言した。同年のノーベル平和賞はキッシンジャー国務長官に与えられたが、其の「忍者外交」で実現した米・南北越の平和協定は結局反故にされた。翌々年4月30日の共産軍サイゴン攻落で、退場済みの米国は不名誉な烙印を又も押された。越南の30年内戦の結末は其の後も不変の儘だが、5万人弱の戦死と千4百億jの戦費を払った12 年間の介入の敗北は、米国民に心的外傷と厭戦情緒を植え付けた。
ところが、30年後の同じ3月下旬に米国はイラク侵攻を断行した。
湾岸戦争で膨らんだ自信に因る反転は、サイゴン陥落の日付と隣り合う5月1日のブッシュの勝利宣言にも示された。只、尖端兵器を過信し兵力を過度に抑えた裏目で統治が手薄と成り、抵抗の続発で越南戦争の様な泥沼に陥る懸念も出た。歴史は風車の様に緩慢ながら循環的波動を繰り返すが、2003年の中東連続自爆襲撃と世界的商品相場上昇は、30年前の10月の第4次中東戦争と第1次石油危機の残像と重なる。商品市況の好転は実物経済の復権の賜物だが、「世界の工場」なる最大の実需国の今日も30年前に伏線が敷かれた。
カーターのノーベル平和賞受賞決定の翌日のバリ島爆弾襲撃は、平和の理想と動乱の現実の背中合わせを示唆したが、石油輸出国機構(OPEC)加盟の波斯湾岸6カ国が原油価格を21 %引き上げ、石油危機の引き金を引いたのも、キッシンジャーの同賞受賞決定の翌日(10月17日)の事だ。一方、キッシンジャーの国務長官就任の2日後の1973年8月24日、林彪事件後の初めの中共党大会が開幕した。同じ22日で69歳に成った小平が晴れて登場した事は、中国の長い雌伏を経て其の2世代後の胡錦涛体制の至福54)の起点と思える。同月8日に東京で韓国中央情報部に拉致された金大中は、南北首脳会談の貢献で2000年ノーベル平和賞に輝いた。時代の波浪式の前進や螺旋状の上昇に符合して、韓国は其の15 年後に五輪開催で民主化・高成長を展示し、更に15年後に金大中の対北寛容を継承する新大統領が就任した。与野党の逆転も含む其の変貌に対して、半島の北側は韓国要人暗殺(’68、’74 年・ソウル、’83年・ビルマ55))、日本人拉致(1970年代中期以降56))、大韓航空機爆破(’87年)等の越境恐怖活動、及び近年の核開発恐喝で、凶悪57)の道を走り続けた。
盧武鉉政権への支持率は発足時の8割から半年で2割まで下がったが、清新な形象を裏切った選挙中の側近の贈収賄醜聞が大きな痛手だ。韓・米・日の現代史の連環を現わすかの如く、金大中事件1周年の1974 年8月8日に米大統領が選挙絡みの水門
事件で引責辞任し、其のニクソンが新経済政策で衝撃を起した恰度3年後の同8月15日に、朴正煕大統領が光復節記念式典で在日韓国人青年に狙撃された。夫人の身代りで難を逃れた彼は5年後の10月26日、曾て日本で金大中を誘拐した中央情報部での夕食会で同部長に射殺された。
其の背景には諜報部中枢と大統領側近の確執、経済失速に対する社会の不満、独裁体制に抱く米国の不快が有った。同じ独裁開発途上の台湾でも、諜報機関の独走に由る米国在住作家・江南の暗殺(1984 年)が導火線で、1970年の訪米で台湾青年に狙撃された蒋経国は米の圧力で民主化を決断した。一連の出来事で思い付いた逆説は、「防山中賊易、防家中賊難」(山中の賊は防ぎ易く、家中の賊は防ぎ難い)だ。「寧贈友邦、不賜家奴」(家来に下賜するよりも、友邦に贈呈する58))も、部下の反逆を考えれば売国の論理とは言い切れぬ。
朴正煕の実権掌握の起点は1961年5月16日の軍事政変だが、5年後の此の日に中国で「文革」が始まった。毛沢東が大乱を覚悟して発動した一種の政変は、「我々の身辺で寝ているフルシチョフの如き人物」の政変への警戒が動機だが、政権簒奪の野心で「清君側」(君主の側近の粛清59))を進め、政変や領袖暗殺を企てたのは、皮肉にも党・軍の副統帥・林彪の一味である。林は失脚後に蒋介石と同じ「〜賊」の蔑称で呼ばれたが、身から出た錆の「林賊」の「灯下黒」(灯台下暗し)は、熟語の「家賊難防」(家[内]の賊は防ぎ難い)の通りだ。
「文革」の全面的内戦は1967年夏に頂点に達したが、同年6月の第3次中東戦争と6年後の第4次中東戦争は、時期的に中国と世界の相関を示唆する。埃及・シリアがイスラエルに奇襲を掛けた後者は、ユダヤ教の浄めの儀式の祭日を狙い虚を突いた事が有名だ。同じ10月6日は3年後の「4人組」失脚で、20 世紀中国史にも鮮やかに刻み込まれた。第3、4の四半世紀の交の同じ日付の2つの劇変を経て、中東の火薬庫は間歇的爆発が止まらず今日に至ったが、「文革」派粛清後の中国は人為的動乱や地政学的危険を回避できた。
其の無血革命で健全な転変が始まったのは天意の妙だが、毛沢東が懸念した「宮廷政変」は皮肉にも彼の死の直後に起きた。軍を後ろ盾とする中央警備部隊の出動で、極左派の首領が抵抗できず権勢を失った展開は、毛の「槍杆子里出政権」(鉄砲から政権が生まれる)の持論に合う。「明槍易躱、暗箭難防」(見える槍は躱し易く、見えぬ箭は防ぎ難い60))の通り、会議招集を装った電撃逮捕は身内を疑う毛の正しさを証明した。因みに、朴正煕射殺は此の成語に当て嵌れば、密室の中の「手槍」(拳銃)使用につき「暗槍」劇と言えよう。
第4次中東戦争の埃及(エジプト)・シの不意討ちは「暗箭」の部類に入るが、 以(イスラエル)は「明槍」の応戦で制空権を握り戦車戦でも優勢を占めた。アラブ側8ヶ国の増援も米国の武器供与に恵まれた敵に敵わず、16 日に侵攻側の停戦の申し入れが以に拒否された。翌日に湾岸6ヶ国が伝家の宝刀を抜き原油価格を引き上げたのは、自慢の資源力に物を言わせる必殺の一撃であり、軍事力が足りぬ故の窮余の一策でもあったが、巡り巡って、3年前の同じ10月17日に埃及大統領に就任したサダトは、開戦8周年に身内の「明槍+暗箭」で命を落とした。
埃及は以が占領地を更に広げた結果にも関らず、同じ古代文明大国の中国・イラクと似た自負からか勝利を主張した61)。其の後10 月6日に戦勝記念の意を付与したから、弱小や敗北を誤魔化す阿Qの「精神勝利法」(勝者を以て自任する流儀62))を超えて、本心で善戦を喜ぶ節も有った様だが、1981 年の此の日の戦勝記念軍事パレードの最中、サダトは対戦車部隊の過激派イスラム教徒将兵に射殺された。外交政策や宗教対立の絡みこそ異なるが、不満を買った独裁体制や経済不振、部下の絶対忠誠を信じた脇の甘さは朴正煕と似通う。
「文革」の発動に関する党内の5.16 通達に対して、国民に「文革」を煽動する党中央総会決議は、1966年8月8日に採択された63)。中国の「吉祥数」(ラッキー・ナンバー)の6と8が重なった縁起と、10年続いた民族の災難とは揶揄的対照を成した。禍福交々
こもごもの8月8日は1970年の中東に於いて、第3次アラブ・以戦争後の久々の停戦の始まりと成ったが、緊張緩和の方向を作ったアラブ連合国初代大統領・ナセルは、直後の9月28日に急死した。其の後任の和平の努力も内部の破壊で中断されたので、好事こそ邪魔が多いと思われる。
サダトに向けた凶弾は観閲席の外国使節に及び、「平和国家」・日本の大使も被弾した。1997年11 月17 日、ルクソールで原理主義過激組織が欧・米・日等の観光客62 人を虐殺した。2002年秋のインドネシアの観光地で起きた無差別爆殺より質が悪い64)が、国家が恐怖活動に関与しない処が救いだ。共に第4次中東戦争の急襲を仕掛けたシリアは、「悪の枢軸」や「無頼国家」の一員と睨まれているが、両国の待遇の差は米国の許容範囲を浮き彫りにする。埃及の其の後の小康は或いは、サダトの惨死の代償に対する返報と言えよう。
9.11 襲撃や政変、大統領射殺の文脈と30 年前の歴史の節目との交差点に、1973 年9月11 日のチリの軍事政変が大写しに成って来る。サダト大統領就任の1週間後に西半球初の社会主義者大統領と成ったアジェンデは、マルクス主義政権の実験を3年以上続けられず、陸海空3軍と警察の叛乱で潰された。自ら銃撃戦で応酬した末の死亡は、「明槍」に因る「死於非命」(非業の死を遂げること)の典型だが、同じソ連絡みの政変・元首処刑として、1979年12月27日のアフガンと、’89年12月25日のルーマニアの事例が思い浮かぶ。
10 年を隔てた死滅劇の前者は親ソ派の台頭とソ連の侵攻に直結し、後者は特に中国で「蘇東波」への恐怖を増幅させた65)。2つの日付の間の12月26日が誕生日である毛沢東は、物故のスターリンに政治的処刑を施したフルシチョフを毛嫌いした。彼が1957年に起した「反右派闘争」の思想弾圧は、戦後第1次「蘇東波」の自由化を阻む闘いに他ならぬ。同じ1894年に農村で生まれた2人は、倶に大衆の人気を集め政敵を倒す事に長けた。中ソの長年の「1陣営2軌道」の対立・統一に合致して、彼等の激突も近親憎悪の性質が強い。
降誕節を軸に件の2回の処刑と対称の分布を成して、フルシチョフは1953 年12 月23 日にベリヤの命を絶った。彼の秘密警察の長は其の前の政治局会議で突然断罪されたが、前代の恐怖政治の急先鋒を消す宮廷政変66)は、「以眼還眼」(目には目)の類義語の「以血洗血」(血を以て血を洗う67))と別の意味で、血を以て血の粛清の伝統を洗い落とした。両党の反転を象徴する様に、中共の建国後の血の粛清は翌日に幕を開けた。政治局会議で毛沢東に「反党分裂」と糾弾された中央政府副主席・高崗は、翌夏に自殺に追い込まれた。
50 年後の第4世代指導部は開国世代の政争の教訓を汲んで、政治局・総書記活動報告の新設を始め党内民主化を鋭意推進中だ。胡錦涛・温家宝体制が誕生した2003年の全国人民代表大会は、朱鎔基が首相に選出された前回(1998 年)と同じ3月5日に開幕した。周恩来生誕百周年に合わせた5年前の時機への踏襲68)は、実務優先や穏健志向の意志表示と視て能い。社会主義
陣営の両雄の逆相関を暗示する様に、共産党中国の「大儒」宰相の誕生日はソ連の「鉄人」独裁者69)の命日で、スターリンの死は正に1953年の此の日の事だ。
其の4ヶ月後の朝鮮戦争終結を織り込む形で、軍需の特需「神風」で潤った日本は即ちに株の暴落に見舞われた。半世紀後のイラク戦後の世界的株高が抵抗の続行で軟調に転じたのは、百年単位の歴史循環の折り返しに映る。隔世の観は1世代と共に1世紀の隔たりも有るが、長短はともかく連環の律儀さが好く現れる。曾て中央委員会での多数を以て政治局での少数を凌いだフルシチョフは、再び裏技を弄じる余裕も無く宮廷政変で失脚した70)。1953年9月12日に総書記と成った彼は、奇しくも18年後の9月11日に世を去った。
彼の盛衰の一巡に付いた終止符の恰度30 年後の9.11 襲撃は、迂回ながら「三十年河東、三十年河西」を思わせる。原爆開発で遅れを取ったソ連は天外への進出で一日の長が有り、1961年4月12日の初有人宇宙飛行で優位の挽回を主張できた。米国は翌月2月20日に漸く同じ土俵に登れたが、ソ連空軍少佐の「地球は青かった」が世界中を感激させた30 年後、「改革(ペレストロイカ)・透明性(グラスノスチ)」の合言葉で清新な印象や初心な期待を膨らませ、フルシチョフ再来の改革派旗手と目されたゴルバチョフ書記長の逆噴射に因り、ソ連は74年の歴史の幕を閉じた。
米国は競争相手の初有人宇宙飛行の5日後、CIAが集めた反カストロ勢力のキューバ侵攻でも敗北を喫したが、翌年10月22 日に勃発したキューバ危機で逆転勝ちを遂げた。1991年の湾岸戦争の快挙は30年来の雌雄の決定的格差を最大限に見せ付け、引いては50年前の真珠湾襲撃の雪辱も再び果した。同時代中国の場合も1世代や半世紀毎の変易を観れば、1997、’99 年の香港・澳門返還は、30 年前の「文革」内乱と中ソ武力衝突、50年前の国・共内戦と建国、百年前の「維新変法」の失敗と民族主義の台頭71)、等の総決算と思える。ケネディがキューバでのソ連導弾基地建設の事実を暴く3日前、中・印辺境戦争が全面的に勃発した。11月21日に中国は余裕の勝利で停戦を導いたが、弱い印度が相手なので自慢に値しない。海上封鎖で世界を核戦争の瀬戸際に追い込みソ連を譲歩させた米国に比べるまでもなく、大飢饉のどん底に苦しむ最中の中国は世界の枢軸から遠く離れていた。其の30 年後の1992 年に小平の南巡で改革・開放が再点火され、宇宙航空開発計画が策定された等、新世紀の飛躍への助走が一気に加速したが、「三十年磨一剣」の原理も思い当る。
ソ連初の有人宇宙飛行の日付は中共にとって、1927年の同じ4月12日に蒋介石の政変で国民党と決裂した忌々しい記憶が付く。其が象徴した受難の宿命に対して、米国初の其の10周年の翌日のニクソン訪中で、中国は内乱・鎖国から脱し世界進出の途に着いた。前年の4月24日に中国も宇宙へ頭角を伸したが、毛沢東賛歌・『東方紅』の名を冠す人工衛星の発射の前年に、米国は月での小さくて大きな一歩で天下を圧倒した。老大国を照らした「紅太陽」(赤い太陽)の光輝も、新帝国の「太陽神」(アポロ)の威光に及ばなかった。
月面に着陸した米国飛行士が国旗を立て、「人類を代表して平和に遣って来た」と刻まれた銘板を置き、衛星中継で自国の覇者の絶対性を印象付けた。其の1969年7月20日の余りの異彩に因り、4日前の打ち上げは影が薄れたが、米の初核実験の24周年に当る時機は制覇の執念を隠し持った。其の野望と意地を張る様に中・北越・北朝鮮・キューバは、人類が初めて他の天体に足跡を印した此の壮挙を伝えなかった72)。世界人口の4分の1を情報封鎖の壁の内に閉じた其の「孤立の枢軸」73)は、10年も経たずに大分化・大変貌が起きた。
1969 年9月に立て続け現れた其の前触れの第一弾は、1日にリビアで青年将校集団が起した王制打倒の政変だ。革命評議会議長・カダフィ大佐の恐怖活動の実施・支援に因り、「孤立・悪の枢軸」は北アフリカ・西亜細亜へ集中した。其の直後74)、彼が心酔したナセルと同じ心臓発作で胡志明が逝った。越南は建国の父の死を境に急速に中国と疎遠に成り、キューバと同様ソ連に軍事基地建設等の優遇を与えた。一方、中国は国際孤立と経済不振を打開すべく1979年に改革・開放を始めたが、同年2月17日に「対越自衛反撃戦」を挑んだ。
中ソは倶に越南の対米戦争を支援しつつ呉越共舟には成らず、周恩来が胡の弔問に一番乗りしたのもソ連代表団との対面を避ける為であった75)。但し、数日後に一転してハノイから帰国中のソ連首相を招き76)、半年来の国境衝突の解決に就いて会談した。9月11日に北京の首都空港で行なった首脳折衝は、戦乱から和解への急展開として劇的色彩が濃い。32 年後の此の日の米国の不意な被害と同時期の中国の順調な発展と合わせて、中国と世界の逆相関を思わせるが、国際関係の変幻の常として中ソの接近も分離の裏返しに他ならぬ。建国の1949年に始まった2国の蜜月は、恰度10年後にソ連の経済援助停止で破局を迎え、更に10年後に武力衝突まで発展した。全面戦争が回避された後に小康状態が続き、10年後の中越戦争終結の直後に腐れ縁は正式に解消された。中ソ友好同盟相互支援協定が満30年を迎える前に、中国は其を更新しないと発表した。日本を仮想敵とする条項が含まれた条約は、前年に締結した日中友好条約の障碍をも為しており、途中の有名無実化は日中関係の将来像にも成りかねない77)が、中ソは又10年後の1989年に歴史的和解を遂げた。
毛沢東はキューバ危機終息後の詞78)でソ・米への敵視と蔑視を吐いたが、結びの「要掃除一切害人虫、全無敵」(掃除するを要す一切の人を害する虫、全て敵無し)の豪語は、彼の闘争心の正直な発露と共に国力の裏付けが無い「空砲」79)なのだ。冒頭の「小小寰球、有幾個蒼蝿壁」(小さき小さき寰球に、幾個かの蒼蝿え有りて壁にち)は、彼と中国人が好む「白髪三千丈」的誇張であり、中国の領袖に相応しい地球規模の眼光であるが、気宇壮大な啖呵が自らへ撥ね返って来る様に、中国は其の頃も其の後も壁にぶつかり続けた。
毛は「国門」(国の門戸80))が未開放だった1950年代に、中国の「球籍」(地球に於ける戸籍。国際社会に於ける存在資格)に就いて懸念を吐露した。50〜60年経っても米国に追い付かぬ様では「開除球籍」(地球から除籍)されて了うと言う警告は、 小平時代末期の1988 年の「球籍」論争81)で現実味が増した。「生存・発展」を鍵観念とする長期高成長戦略の策定と共に、物価体系改革の「禍匣」が開かれ金融動乱が誘発された。其の’88 年8月の凶変82)は’66 年6月の「文革」始動83)と共に、「吉祥数」の非絶対性84)を証明した。
国際社会との「接軌」(軌道の接続。基準の共有85))で障碍に遇う事は、翌年のゴルバチョフ訪中の際にも現れた。の中ソ和解宣言の時機が5月16 日に設定されたのは、23年前の同日に「文革」を起した毛の過激路線への清算も意図されたろうが、人民大会堂の外で民主化請願の人海が溢れ、異国の党首・元首に人気が集まった異常事態は、彼と中国の折角の貫禄発揮を台無しにした86)。中国史の法則の通り外憂よりも内患が深刻だが、秩序回復の為の実弾鎮圧は前年の経済戦争の空振りよりも酷く壁にぶつかる事に成った87)。
キューバ危機での後退が下降帰趨を作ったソ連は、ゴルバチョフの「一念之差」(一念の違い。
決断の誤り88))で解体した。価格体系改革の「闖関」(強硬突破)89)や「政治風波」平定の「開刀」等、経済自由化・政治民主化の時流に対するの対応は、一歩も退かぬ頑固さでソ連との力関係を逆転に至らせた。2001年の江沢民訪露と中ソ善隣友好条約の締結90)は、両国関係の10年毎の更新の道標と成ったが、其の頃の露は内発・外来の経済危機で元気を失い、中国は独裁開発・移行経済と亜細亜金融危機の防衛に成功し勢いが付いた。
「痩死的駱駝比馬大」(駱駝は痩せて死んでも馬より大い。腐っても鯛91))の通り、露は猶も軍事大国で「資源の枢軸」92)の強味も持つが、胡錦涛訪露の’03年に中国は軍事面で比肩の程に迫った。ソ連様式を手本に世界3位と成った有人宇宙飛行は、「青は藍より出でて藍より青し」の可能性を示した93)。其の凱旋日が初核実験の39周年に合わせられた94)事には、初核実験と同じ日付けで〈アポロ11号〉を発射した米国と通じる気負いが漂った。有人月面探査で2番手に成る見込みと共に、21世紀の新強豪の出現が予感される95)。 
3.「酷」(cool)の冷厳・精彩の両面と「硬実力・軟実力」の相乗

 

毛は1965 年5月に38 年ぶり赤軍根拠地の江西・井崗山の土を踏んだ時、「可上九天攬月、可下五洋捉」の豪語を詞96)の中で発した。九天に上って月を攬る事も五洋にすっぽんを捉える事も可能だとは、中国の人工衛星や潜水艦の地球内外での活躍を観れば納得できる。本歌取りが好きな毛の此の句の下敷は、李白の「倶懐逸興壮思飛、欲上青天攬明月」(倶に逸興を懐いて壮思飛び、青天に上って明月を攬らんと欲す)97)だ。彼が「酷愛」(越よ無き愛好)を示した李白・李賀・李商隠は、倶に壮麗な奇想と茫洋たる風格が特長を為す鬼才だ。
其の「酷」は「越ゆ無し」と同じ善悪を問わぬ極限を表わす98)が、直近の中国でcool クール(格好好い)の音訳として流行語に成ったのは、西洋で嗜虐趣向と誤解された「痛快」に似た正・負同居の発想が根底に有る。毛が自讃した詩作は長征中に党首と推された遵義会議99)の翌月の『憶秦娥・婁山関』で、結びの「蒼山如海、残陽如血」(蒼き山海の如く、残陽血ちの如し100)は、戦争中の長年の観察で脳裡に蓄積した自然景色と戦闘の勝利の突然の交合の所産だと述懐した101)が、其の絶唱は正に「酷」の冷厳+見事の重奏である。国家の文化的影響力を言うGross National Cool は、日本では「国民総精彩」の訳し方が有る102)。対概念の「国民総生産」とは字面に「生・彩」の対も含むが、中国語で素晴らしい様を表わす「精彩」はcoolの美的一面として、「硬実力」と対立・統一の関係に在る「軟実力」の特質を言い得て妙だ。「酷」の両面性と通じて「柔」も「矛+木」の字形の通り硬質性を秘め103)、非即物的「柔力」は生産力と成り得る。形而上の領分に属する「着想・構想・発想」の文字が示唆する様に、着実な構築や発信の可能性が基点に仕組んである。
「物質は精神に変り、精神は物質に変る」104)と唱えた毛は、浪漫の「逸興・壮思」へ傾斜した余り現実から逸脱した。治世の壮大な実験が壮大な失敗に終ったのは、建設的「精彩」を欠く破壊的「酷」の結果に他ならぬ。「文化大革命」も大義名分とは裏腹の武闘・政争に化した処が酷く、「残陽如血」の茶化の様に陽気・血気の氾濫で無残な廃虚を遺した。但し、其の反面教師は寧ろ文化力の重みを浮き彫りにし、次の命題の妨げにも成るまい。即ち、偉大な創造は偉大な想像から生まれ、偉大な現実は偉大な理想を母胎と為すのだ。
1964 年10 月16 日、大学在学中の胡錦涛は人民大会堂で大型音楽舞踏史詩・『東方紅』に出演した後、毛沢東と共に観覧した周恩来に由る核実験成功の宣言を聞いた105)。39年後の同じ日に有人宇宙飛行が彼の立会いで凱歌を奏でた事は、文化力が熟成し生産力に転化した好例だ。周の母校・天津南開中学を初代首相より43 年後に出た106)温家宝が新世紀の初代首相に成った事も、原点や原動力と為せる理想の創成力の証だ。「時勢は英雄を造り、英雄は時勢を造る」107)と併行して、「時勢は時勢を造り、英雄は英雄を造る」も有り得る。
「航天英雄」108)と命名された有人宇宙飛行士の空軍中佐・楊利偉の出自も、時代や地政学・人類地文学の因縁を思わせる。彼は中国の「核倶楽部」入り109)の翌年の6月に生まれたが、其の前月に赤軍の揺り籠を再訪した毛は斯く詠んだ。「久有凌雲志、重上井崗山。(略)三十八年過去、弾指一揮間。」長らく凌雲の志を蓄えて再び井崗山に上った彼は、38年間の経過を弾指の間と感じたが、「上九天攬月」の夢は奇しくも38 年後に実現した。楊が其の直後に此の世に遣って来たのは、「天遣」(天の手配)110)の所産とさえ思える。
「天遣洪荒」(天が洪荒を遣らす)と言う様に天は混沌・蒙昧をも造る111)が、天は絶えず禍福の反転を導くのだ。1965年に毛は劉少奇打倒を決意し中国は越南で米国と対決したが、「文革」の惨劇と対米交戦の代償の結果として、38 年後に初めて平和的党首交代が果され、米英のイラク侵攻を横目に国力を着々と増強している。中国に降り掛かった新型肺炎を退治する「硝煙無き戦争」で、人災の元なる元老院政も解消され、同じ頃に中国が米・朝・韓・日・露を集めて朝鮮核開発を巡る協議を主催したとは、正しく隔世の観が有る。
抗日戦争勝利20周年に当る1965年9月、国防相・林彪の名に由る論文・「人民戦争勝利万歳」112)は、内戦時代の「農村から都会を包囲する」戦法を世界に用いるよう113)と主張した。海外では革命輸出の野望や前近代的発想への固執と捉えられたが、38 年後の中国は「世界の工場」の異名の通り、国際社会の辺地から中心への移行を急速に進めている。草創期の粟+歩兵銃114)→建国後の高射砲+核兵器115)→ 21 世紀の電脳+宇宙飛行船、という中共軍の約38 年毎の2段飛びめく躍進は、熱戦→冷戦→冷戦後の時代の大勢にも合致する。
38は中共の軍・国の歴史に於いて、実に因縁の深い数字である。建国世代には抗日戦争勃発の翌1938年に入党・入隊の者が多く、其の異名も日本軍の38式歩兵銃に因んだ「38式幹部」だ116)。
38 度線の両側が争う朝鮮戦争で立てた殊勲に因り、第38 軍が最強「王牌」(エース)の地位を不動にした。其の一部隊に異例の「万歳」の賛辞を贈った117)志願軍総司令・彭徳懐は、建党38周年の1959年に国防相在任中に粛清された。建国10周年に当る其の年は毛沢東独裁の起点に当り、中ソの決裂と大飢饉の到来で受難の序幕と成った。
38 歳の楊中佐が初代宇宙飛行士に選ばれたのは、其の年功から最適と言われる118)が、黄金分割率の38.2 119)は此処で天数の妙を示した。極めて短い時間を形容する「弾指」は仏教用語として、許諾・歓喜・警告の為に指を弾いて音を出す事にも言う120)。38年は毛の感嘆の通り歴史の大河の一滴と見做せるが、悲喜交々の人間劇や様々な葛藤で織り成された重厚な年輪に違い無い。最終「梯隊」(梯団121))から楊が一足先に抜きん出た122)のは、人為的努力に因る抜群な資質の賜物と共に、風土の遺伝子の結晶とも考えられる。
同じ領分の人類初の先駆者の返還後第一声の地球礼讃を意識したのか、彼は天外から妻子と交信する際、「景色非常美」(景色は非常に素晴らしい)と地球の印象を述べ、「我看到們美麗的家了」(我々の美しい家が見えた)と付け加えた。司馬遼太郎は『この国のかたち』の「国」を当初「土」と表記したかった123)が、此の「家」も国家・郷土の両義が取れる。地球を表わす「星球」(天体)の出番が無かったのは、毛沢東の浪漫主義や江沢民の美辞麗句124)と補完する中国人の素朴な現実主義を垣間見せた。「感覚良好」(気分は良好)と言う発射後の第一声も、中国的主我意識を如実に現わした125)。
経済の泡沫・敗戦期の数人の改憲派首相が心酔した126)司馬は、前世紀日本の最大の歴史小説・「大説」127)家の名に値する。其の史観は親台湾や脱亜細亜の政治・文化志向128)に拘らず、民族主義や英雄主義で中共・中国人と波長が合う。複雑な地形を持つ日本の各地の文化の多様性こそが此の「土」の形だと考えた彼は、地方文化の色彩が薄れた1980年代以降129)、母国の狂騒と「漸退」130)に苛立ったが、出身地の「国」の特徴が稀薄化した日本に対して、宇宙飛行で民族英雄と成った隣国の「士」131)の「土」は深意を持つ。
〈神舟5号〉は内蒙古の草原に着地したが、司馬は蒙古語を専攻し草原を好んだ132)。遼遠の空間・境地への憧れを込めて筆名に付けた「遼」133)は、巡り巡って楊利偉の広域故郷・遼寧省の略称だ。此の地名は隣の吉林省や楊の名と同じ「取(図)吉利」(縁起を担ぐ)の色を帯びるが、域内の中朝国境の重鎮・丹東の旧称・「安東」134)と合わせて、中国的安寧願望・安定志向を窺わせる。江沢民は同音の「神州」に因んで宇宙飛行船を命名したが、日本と似て非なる此の「神の国」135)の意志・意思136)は其の名・実に凝縮された。
宇宙飛行の完遂は「利偉」の通りに成ったが、其の「旅途順利」(旅行順調)は類義の「一路平安」と共に、遼寧・旅順の地名の寓意に他ならぬ。「順利」の「利」は鋭利・営利の両面を兼ねるが、今次の偉業は虚栄だけでなく「順便」(次いで。附帯)の実利も多い137)。中国の事象や原理に好く有る対や連環を現わす様に、内外で有名な遼東半島の軍港・旅順に対して、楊中佐の生地・葫蘆島138)は遼西の隠し玉めく軍港だ。湾岸で突出した「瓢箪」から駒ならぬ「千里駒」139)が出た事は、歴史の隠し味を含んだ興味津々の一齣だ。
旅順が日露戦争の戦場に化し後の半世紀で日、ソの軍事基地と成り、丹東が朝鮮戦争中も半世紀後の今も対朝の軍事・政治・経済の要衝を成す等、遼東は中・朝・日・露/ソ・米の権益・利害が絡み易く地政学的危険が高い。上記の3つの38は正に此の地域と周辺の紛争と関わるが、世界史で滅多に脚光を浴びぬ遼西は別の38が象徴する様に、数多い滅亡劇・残酷史を有している。中華民国38年に国民党が大陸から撤退したのは、遼(西)瀋(陽)戦役での大敗が最初で最大の決定打だ140)が、主戦場・天王山141)は遼西に集中した。
両党の軍事的強弱を逆転させた戦役の鍵は、錦州へ向う国民党の援軍を阻止する塔山防衛戦だ。東北野戦軍総司令・林彪は戦争演義の故事に倣って142)、万一守れねば警備兵が私の首をぶら提げて毛主席に会いに行くと誓約した、と言う143)。攻落できねば軍法で裁くと蒋介石に厳命された144)敵の精鋭部隊は、6昼夜も突撃・爆撃を繰り返した後に撥ね返された。其の死闘は中共軍史上「最も精彩に満ち最も輝かしい防衛戦例」145)を遺したが、蒼き山が血の海と化した無残な光景146)と共に、非情+精彩の「酷」の好例に成る。
「模範の力は無限なり」と言う今も健在する毛沢東時代の言葉147)を証す様に、頭を担保とする古人の「軍令状」(戦勝を確約する誓文148))は林彪の脳裏に刷り込まれ、彼の麾下の「塔山英雄団(聯隊149))」の伝説は全軍で勇猛精神を再生産して来た150)。「一将功成りて万骨枯る」151)の法則に通じて、弱冠で其の戦功に因り林に表彰された張万年は、半世紀後に党中央軍事委員会常務副主席と成った152)。英雄と歴史の相互創出を思わせて、江沢民時代の国防相・遅浩田153)も20歳の時、上海奪取で軍史上空前の殊勲を立てた154)。
塔山に近い葫蘆島から宇宙航空英雄が出た事は、地縁と「史縁」(歴史の縁。筆者の造語)が相乗した結果と思える。此の両「縁」は地文化学或いは人類地文学155)で横・縦軸を織り成し、更に広義の「血縁」でも貫かれる。「酷」の原義の「冷厳」、転義の「精彩」と其の対概念の「生産」、「酉+酷」の字形の「時報」等の寓意156)と重なるが、「血」は此処で熱血・冷血の両面を持つ。狭義の血縁は水より濃い血の繋がりを指すが、中国語の「縁」と「原・源・援・円・遠・怨」の同音と符合して、繁殖も破壊も血の縁に帰着できる。
墨で綴る文章に対して歴史は血で記す物で、天下の生死流転は血の熱(意欲・闘争)と冷(自然・残酷)の相剋相生に尽きる。日本軍に爆殺された生母の墓に「以血洗血」の誓いを刻んだ蒋経国は戦後、中共に対抗すべく日本に接近した。中共は米国への敵愾心から朝鮮戦争に介入したが、毛沢東の長男の爆死を含む代償で結ばれた中朝の「鮮血で凝結した友誼」157)も、何時の間にか凍解に至った。其の同族嫌悪と表裏一体の文化的同根性として、蒋介石の「千里駒師団」158)も金日成の「千里馬運動」159)も漢籍に祖型が在る160)。
中・日の「語縁」(言語の縁。筆者の造語)を示す様に、淵源の「淵」は両国の言語で「縁」と同音だが、淵に行き付いた後に反落へ転じる光景は「周縁・終焉」の文脈に暗合する161)。楊の故郷の隣で塔山と反対側に在る遼西の端の山海関で、曾て遼瀋戦役後に軍を率いて此処を通り平津(北京・天津)戦役の戦場へ赴いた林彪は、海軍航空兵基地からソ連へ亡命し蒙古の草原に墜落し命を亡くした。東北と華北の分水嶺と成る山海関では抗日戦争終結の301 年前に、守備軍将領・呉三桂の寝返りで満族軍の侵入が許され明が滅ぼされた。
清朝の寿命は中華民国の大陸時代の7倍に当り162)、少数民族に由る全土征服は又も遼の地政学的重みを窺わせる。遼西で特に熾烈だった国共内戦や満漢抗争は、中共や康煕の観方の通り中華民族の大家庭内の兄弟の争いで、遼東紛争に絡んだ対外折衝に比べて、恩讐は激化し易く「淡化」(稀薄化)もし易い163)。康煕の権限削減策で雲南に飛ばされた呉三桂は再び裏切り帝を称えたが、同じ漢族が主体を為す中共の史観でも国家への反逆と視られ164)、明太祖の後裔と言われる朱鎔基も前清3帝の統治術に興味を感じた様だ165)。
抗戦勝利後の蒋経国は経済不正取締の指揮で「雍正帝」の異名を得たが、半世紀後の朱鎔基も類似の理由で「経済沙皇」(経済ツァーリ)と呼ばれた。「沙皇」は西域の沙漠の厳酷と皇帝の聖域の威厳が字面に出た妙訳で、「酷」の破壊と建設、物質と文化、「乾燥無味」と「富麗堂皇」(絢爛・立派)も連想される。中ソ友好条約の望ましい姿を「好看又好吃」(見た目が好くて又美味しい)とした毛沢東の比喩も、「酷」の生産・精彩の両面である。其の真意が即座に解った唯一のソ連首脳は、「酷」の権化たる秘密警察の長・ベリヤだ。166)小平は建国35 周年祝典で大学生から「ニイハオ」(今日は)と祝福され、5年後の天安門事件で「ニイハオヘン」(お前は何と悪辣だ)と罵倒された167)。威信超絶の後の人気離散は正に頂点からの反転168)で、崖っ淵で放った禁じ手が招いた「狠」は「好」と共に「酷」の両面だ。1926 年頃モスクワ中山大学で蒋経国と同窓だった彼は、37年後の中ソ思想論争での活躍169)も含めて、「新沙皇」170)のソ連と縁が深い。一方、「盛清」(清の強盛期。筆者の造語171))の康煕・雍正・乾隆と毛・・江の対応では、彼は蒋の件の綽名に当て嵌まる。
建国後第1〜3世代指導部の多くの方策は、山海関の南の隣の北戴河(河北省)で生まれた。
避暑を兼ねて要人が其処で党・国の青写真を描く流儀は、首都や事務から超脱した高次の生産性が合理性に成るが、清末に避暑地として開放された観光地172)の利用は、党中央と指導者が紫禁城内に本拠を構える事と共に、「改朝換代」(王朝・政権の交替173))を超えた政治文化の不易を示す。北戴河が属する秦皇島市の地名は中国初代の帝の巡視が由来で、現代の秦始皇と自任した中共開国の「祖龍」174)も此の地に足・筆の跡175)を遺した。
毛は1954年夏の『浪淘沙・北戴河』で、「往事越千年、魏武揮鞭、東臨碣石有遺篇」(往きし事千年を越え、魏武鞭を揮い、東に碣石に臨みて遺せし篇有り)176)と詠んだ。彼の独特な歴史観・英雄観の典型は、秦始皇の偉業・非情と曹操の武功・文才への肯定177)だが、秦皇島で曹に思いを馳せた詞では3覇者が合流した。其の恰度1800年前に生まれた魏武帝178)は、「治世之の能臣、乱世之の奸雄」の評179)の通り「酷」の両面を持つ。光と影を相容れ善と悪を相対化する中国的「対」の発想180)も、重層的「酷」の趣向の根底を成す。
毛の資質の遺伝子を用意して置いたかの如く、千載前の曹操は戦災の発動→鎮火を繰り返し、豪快で繊細な「芸術細胞」(文芸の天分)を見せた。其の激烈・風流を現わした「揮鞭・遺篇」は、北征途中の連作詩・『歩出夏門行』(207 年)の第2首である。別名・『観滄海』の由来と成る「東臨碣石、以観滄海」(東のかた碣石に臨み、以て滄海を観る181))の他、「秋風蕭瑟、洪波湧起」(秋風蕭瑟、洪き波湧き起る)も本歌取りの種と成り、毛の「蕭瑟秋風今又是、換了人間」(蕭瑟たる秋風よ今又是にふきくれど、人間を換え了ぬ)を生んだ。
自然の不易と世相の変易を謳う其の結びは、「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」(年年歳歳花相似て、歳歳年年人同じからず)を連想させる。劉希夷が墨で書き血で塗った此の名句182)は、時・事の多変数の環を思わせる。『北戴河』→「秋風」→「年年」の延長で、毛が好きな李賀の「不見年々遼海上、文章何処哭秋風」(見ずや年年遼海の上、文章は何の処にか秋風を哭す)183)を想起する。其の述懐は「遼海・哭」に縁って、金昌緒の「啼時驚妾夢、不得到遼西」(啼く時妾は夢を驚かして、遼西に到るを得ざらしむ)184)と繋がる。
憤怒から詩人が生まれる古今の常理に通じて、地政学的危険は地文化の起爆剤と成り得る。
地・血・言・文の縁の広さを示す様に、唐にも戦乱が多発した遼海へ思いを馳せた李賀の詩の丸1100年後に辛亥革命が起き、後に其の中華民国の大陸統治を終らせた毛は、遼西が登場した金昌緒の『春怨』と似通う『新婚別』を含む杜甫の「三別」185)を評価した。彼は杜の『北征』を姪に薦めた186)が、北方軍閥を打つ国・共初期連合の北伐、三国時代の魏を撃つ蜀の北征、烏桓を討つ曹操の上記の北征は、其の題に既視感が埋められた。
曹の「酷」の両面が端的に現れた物語は、『夏門を歩み出ずる行』を書いた翌年の赤壁大戦の前夜、自作の中の「月明星稀、烏鵲南飛。繞樹三匝、何枝可依」(月明き星稀、烏鵲南に飛りぬ。樹を繞ること三匝におよぶも、何の枝にか依る可き187))を不吉とした部下を、酒の勢いで刺し殺した事188)だ。結びの「周公吐哺、天下帰心」(周公哺を吐きたければ、天下心帰せたりとかや)を否定する暴挙だが、其の『短歌行』の価値は些かも損なわれまい。天が更に用意した皮肉な反転として、彼が忌み嫌った件の苦言の通り南征は頓挫した。
呉蜀聯軍が弱を以て強に勝った戦例と敗者の秀作が千年近く発酵した結果、哲学・歴史・詩歌の滋味に満ちた蘇東坡の名文・『赤壁賦』が生まれた。作者が左遷先・黄州(今の湖北省黄岡)の赤壁を廻ったのが前・後2篇の機縁だが、実際の赤壁会戦の戦場は辛亥革命勃発の地・武昌に近い189)ので、或る意味では「合成の誤謬」と対蹠に在る「創造的誤解」と言えなくもない。
其の誤解の創造性を正当化するかの如く、曹操の「東臨碣石・南下赤壁」から正に1700年後の1907年暮れ、黄岡で「奸・雄」両面倶有の名将・林彪が生まれた。 

 

1)米国の911 や英国の999 の一本化に対して、多くの国・地域では内容に因って番号が違う。仏蘭西の17(警察)・18(消防)・15(救急)は、分業化と2桁の両方で米・英と対蹠に在るが、此の2極の其々の3桁番号と3本立ては世界の主流の様だ。東北亜細亜の方を点検すると、大同小異から地文化圏の存在と内部の断層が目に付く。中国の110(警察)・119(消防)・120(救急)・122(交通事故)は、中身は仏に近く番号は日本に近い。
日本の110(警察への事件・事故の急報)・119(火災・救急・救助)・118(海の事件・事故の通報)は、海洋国家の特質を浮き彫りにする。台湾の110(警察・交通事故)・119(火事・救急・救助)は、大陸との同根性を窺わせる一方、2本立ては韓国の112(警察)・119(消防・救急)と通じる。北朝鮮では電話帳は国家機密扱いで、国外への持ち出しは極刑の対象にも成るらしいが、此の「鉄幕(てつのカーテン)」自体は周辺国との断層を構成する。
興味深い事に、日・中・台・韓共通の119 は米の911 と逆様で、日本の警察総合相談室の♯9110 は米国との接点を見せる。更に、倶に少数派と成る英米の共通は、今次のイラク攻略での同盟関係や相対的国際孤立に符合する。但し、此の2国の仕組みは繋ぎ先を確認する手間が掛かる反面、利用者には憶え易い利点も有る。穿った観方をすれば、他所で3本化が多いのは其だけ事件・事故が多く、別々に捌く体制を明確化する必要が有る事か。
2)新聞等で多く報道されているが、体系的に叙述した日本語文献として、『ニューズウィーク』日本版紐育支局長経験者で米国在住の作家・青木冨貴子の『FBIはなぜテロリストに敗北したのか』(新潮社、2002 年)が挙げられる。
3)所謂「悪の枢軸」(Axis of Evil)を擬った筆者の造語。ブッシュ大統領は2002 年初の一般教書演説で、此の名称でイラク・イラン・朝鮮を呼んだ。レーガンがソ連を非難した「悪の帝国」と、第2次世界大戦中の枢軸国と3重写しに成る処は、1992 年旧ユーゴ紛争の際にベーカー国務長官の示唆を受けて、米国大手PR会社が「民族浄化」の殺し文句を編み出し、依頼主のボスニア・ヘルツェビナの敵に甚大な打撃を与えた一幕(高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』、講談社、2002 年)と同様に、米国一流の老獪な宣伝戦略、巧妙な情報作戦の好例であり、古今東西を問わぬ言説の「寸鉄殺人」(寸鉄人を殺す)の威力の証である。
「枢軸国」(the Axis)は中国語で「軸心国」と言うが、固有名詞の「邪悪軸心」から直ちに悪の形象が涌き拒否反応を起す中国人は、「悪心」(吐き気がする)を字面に含んだにも関わらず少ない。第1、中国では「軸心国」よりも「徳意日」(独伊日)の総称が馴染まれ、中共の史観でも「枢軸国vs.同盟国」より「ファシズム陣営vs.反ファシズム陣営」が普通だ。其の上、「悪の枢軸」の諸国は枢軸国や同盟国の様な連合関係が薄く、大義を虚構する為の方便の匂いが嗅ぎ取れる。本稿筆者が別の論考で米国を「欲の枢軸国」の代表格と規定したのも、左様な反撥が根底に有る。当の米国でも民主党の重鎮は、副大統領と国務長官・副長官を「戦争の枢軸」と糾弾した(『日本経済新聞』2004 年1月16 日)。
「〜の枢軸」は中国的語感では余り手垢が付いておらず、日本語の「癒し系・出会い系」等の「〜系」と似た概括力が有るので、筆者は是非・善悪を度外視して此を重宝し、本稿で「邪の枢軸」(註22 参照)、「孤立の枢軸」(註73 参照)、「資源の枢軸」(註92 参照)、「覇道の枢軸」(註170参照)等の造語を使った。何れも中枢・中軸・中心を表わす中性的意味であり(日本では「Axis」という小・中・高校生指導塾[全国会員数9千人、『読売新聞』2004 年2月11 日広告]が有り、元々「枢軸」に対応する英語にはthe center も有る)、米国の独善を揶揄する意図も其の政治的必要が理解できる故に中性的だ。論座・視点の基軸の一部を成す方法論は、拙論・「“儒商・徳治”の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化」(本誌14 巻4号〜 15 巻2号[2002 年]連載)の論座と通じる。
4)中国語の「事無巨細」に当る表現。日本語にも「巨細」は有るが、「巨細漏らさず」ならぬ「細大漏らさず」が日本流だ。微妙な違いではあるが、語順に象徴される出発点の相異が興味深い。実際にも、中国的発想は巨視から始まる故に細部に行き渡らぬ場合が儘有り、日本的発想は逆に細部に囚われる余り全体に及ばぬ事が多い。
5)「網絡」(ネットワーク)に引っ掛けた筆者の造語。「隠形」(形[姿]を隠す)の熟語には、「隠形眼鏡」(コンタクトレンズ)、「隠形戦闘機」(ステルス戦闘機)、「隠形人」(透明人間)等が有り、地下経済を「隠形経済」と形容する用法も有る。
6)「合成の誤謬」は昨今の日本の新聞に好く出る経済学者の用語で、個々の合理的行動が全体的に間違った結果を招く事を指す。自衛の為の個人・企業の支出・設備投資の抑制が景気を停滞させ、通貨緊縮を加速させた直近の日本が好例とされるが、中国の社会現象も此の逆説で色々考えさせられた。曾て複数の教え子の日本人は北京駅の切符売り場で、我先に窓口へ殺到する人々の姿に文化的衝撃を受け、仮に逸早く買えても出て来られぬ不便を何故自覚しないのか、と筆者に疑問をぶつけた。「醜い中国人」の無秩序・自己中心の縮図とも見て取れるが、1人1人の利己心が共倒れに繋がる図式は正に「合成の誤謬」だ。近来の家電メーカーの値引き合戦も日本と同じ「利益無き繁忙」に陥ったが、「合成の誤謬」から脱し難いのは「心中賊」(本文参照)の所為でもある。
7)米国はソ連解体後super power(超大国)からhiper power(ハイパイ超大国)に変ったと言われるが、其々此の2つの言葉に対応する中国語の「超級大国」と「極超大国」は、同音文字の反転に其の変貌を表わす妙味が有る(徐勝・松野周治・夏剛編『東北アジア時代への提言――戦争の危機から平和構築へ』、平凡社、2003 年、220 頁、本稿筆者の訳注参照)。
8)2つの事例は別々の角度から、米国の安全神話に頼った故の安全対策の弱点や盲点を示した。前者は本稿で後述する(注127 参照)新世紀の戦争の「超限」(限度への超越)性への想定の不十分に他ならず、「鳥籠構造」の構造的脆弱は大震災で露呈した上辺重視の神戸開発の不備と重なる。
後者は世界一の金融・情報技術王国の名を泣かせ、米・加大停電事故と似た途上国並みの粗末(本文・註11 参照)が表面化した。曾て毛沢東時代に或る田舎の郵便局が洪水に襲われた際、職員が必死に帳簿類を持ち出し後に表彰された。現金よりも取引記録が金融機関にとって遥かに価値が大きいと言う常識は、専門外の筆者でも鎖国時代の少年だった頃に其の報道で教えられた。
猶、分散投資を勧める欧州の金言とウォール街の鉄則は、「全ての玉子を1つの籠に入れるな」と言う。中国流の「不在一顆樹上吊死」(1本の樹に首を吊る[1つの可能性に全てを賭ける。独りの人物や勢力に頼り切る]]な)も、同じ危険分散を諭す警句である。後者の事象は米国の「大樹」を過信した故に、此の東西共通の知恵に反した。
9)被害が米・加や日・中・韓に特に集中した事は、9.11犯行集団の当初の米・日への同時襲撃計画(註42 参照)と共に、北米と東北亜の地政学的危険を物語っている。筆者が昨秋購入した新型の個人用電脳も第1波で被害を受けたが、起動も出来ぬ其の2日間には別の中古品で急場を凌いだ。
「時代遅れ」の固定形象の裏のアナログ的物の利点(拙論・「時間観念を巡る日中の“ 文化溝”の実態とデジタル時代に於ける伝統回帰の展望(上)」[本誌16 巻2号]参照)と共に、国際社会との「接軌」(註85参照)の落し穴を実感させられた。註8に対応する本文で取り上げたデータ保全と関連して、筆者は「国際互聯網」との遮断を防波堤と考えて、大事なデータを古い文字処理機専用機にも取っている。
10)金儲けを止めてソフトを改善せよと言うメッセージを書き込んだ犯行者は、データの破壊や改竄を伴わず只パソコンを再起動の循環に陥らせたので、善意的愉快犯とも見られなくはない。「網民」(インターネット利用者)の立場から言えば、此の一件でマイクロソフトは被害者と加害者の両面が有った。誤植の不可避を説く『夢渓筆談』([北宋]沈括)の「校書如掃塵」(書を校するは塵を掃うが如し)と通じて、「軟件」(ソフトウェア)も病毒が付き物で「軟標的」に成り易いが、対策広報の不十分は同社の吝嗇と言われても仕方が無い。
11)米・加政府の合同調査委員会は11 月19 日、134 頁に上る事故原因究明報告書を発表した。其に拠ると、オハイオ州の電力会社が保安規則に反して木の定期剪定を怠った為、伸び過ぎた枝が同社の送電線に接触しショートと連鎖的遮断が発生したが、同社の電脳の監視用ソフトや警告装置は機能せず、中西部の送電状況を監視する別の機関でも設備故障の故に対応が取れなかった。停電を連鎖的に拡げた人為的ミスに就いて米エネルギー省長官は、「大部分は予防可能だった」として電力会社を非難した。(『読売新聞』2003 年11 月20 日夕刊)其の漫画的不条理劇から汲み取れる安全管理の教訓は、「千里之堤、潰於蟻穴」(千里の堤も、蟻の穴に潰える)の警句(出典=『韓非子・老』の「千丈之堤、以之穴漏」)が先ず思い当る。又、「万能」の過信から防波堤に用いられる電脳系統の落し穴、即ち広域連動(註85「掛鉤」参照)故の災禍波及の裏目も実感できた。
12)曾てマルクスも此の格言を引いた事は、マルクス主義史観の深層の循環論と共に、西欧共産主義と西洋古代文明との内在的繋がりを示すが、此の2点は中共の史観や中共領袖の発想と東洋古代文明の伝統との相関にも通じる。
13)中共がマルクス主義に共鳴した深層的理由として、其の弁証法的思考の基に有るヘーゲルの「正→反→合」が中国の陰陽原理に合う事も考えられる。
14)「軟」は中国で否定的・肯定的の両面を持ち、「軟弱」と「柔軟」が其々の代表例である。Microsoft の中国語訳・「微軟」は、男の性器短小・勃起不全を揶揄する俗語にも成ったが、其の名称や「軟件」(software)、「軟科学」(soft science)等の用語に因り、最近は肯定的色彩が増した。
民間企業や守備軟弱の両義で思い浮かぶ「軟」は、大手ソフトウェア企業の「東軟集団」(本社=瀋陽)の社名や、特許問題や技術には余り金を掛けぬ事を中国の情報技術産業の弱点とした指摘だ。後者の一例は豊島信彦(藍沢証券リサーチセンター部長)の苦言(『宝島別冊943 中国株投資で大儲けできる!』、2003 年、73 頁)で、複製商品で儲かり国際競争力が付かないと言った主旨も同感できる。但し、製品の完成度に極度に拘る日本の企業も、特許や安全等の「軟領域」では甘さが内外から好く槍玉に上がる。
其の五十歩百歩は措て置き、日本人が西洋流の表現の真似で言う「アキレス腱」に対して、中国語には独特な「軟腹部」の比喩が有る。工業が密集し台湾の軍事的脅威を直に受ける東南沿海地域は、中国版図の鶏めく形の下腹部に当り、富の蓄積も脂が載った下腹・大腿部に似ている事から、国防上の「軟腹部」と見られる。因みに、中国では鶏肉は栄養豊富とし長らく重宝されて来て、特に腿肉に人気が集まる物だ。
猶、鶏の部位に譬えた価値判断で人口に膾炙する例は、『三国演義』第72 回・「諸葛亮智取漢中・曹阿瞞兵退斜谷」の故事だ。戦闘の膠着で進退を決めかねる曹操が「鶏肋」を合言葉にした処、行軍主簿・楊修は「鶏肋者、食之無肉、棄之有味」(鶏の肋骨は、食べようとしても肉が無く、然し棄てるには味が有る)と、彼の迷いと撤退の気持ちを喝破した。楊は結局「惑乱軍心」(軍気を惑乱した)の罪名で処刑されたが、赤裸々な真実を突いた其の言は血の代償の甲斐も有って、「進退両難」(ジレンマ)の比喩として語り継がれて来た。
中国は生産性の低い西域を何故切り捨てないのかという疑問が海外に有るが、国家主権や民族自尊の問題はともかく、資源や軍事等の「硬実力」に繋がる利用価値も、鶏の肋骨と類似の棄て難い隠し味に思える。此も楊修の「鶏肋」論と同じ禁忌の部類に入ろうが、各地域を版図の形に依って鶏の部位に見立てれば、一味違った価値判断が出て来よう。
例えば、東北と華北は其々「頭」と「胸」に当るが、東北が基礎と成り北京が基準を為す標準語発音の構造は、「喉舌」に当る2広域の位置に合致する。本稿で光を当てた軍事戦略要地・遼西と政治発信基地・北戴河も、領分の違いに関らず「咽喉」らしい役割が一緒だ。其の反面、2003 年に中央が東北を第4極として開発する方針を打ち出した事は、毛沢東時代の重工業・農業の「帯頭」(牽引)役だった当該地域の弱味を示した。重厚長大の故に方向転換が鈍く時代に取り残されて了い、厄介な難題が山積し国民経済に於ける寄与度が低い現状は、旨味が乏しく食べるのに面倒な鶏の頭部に似通うと観れなくもない。因みに、一歩先行した経済成長第3極の北京・天津・唐山地域は、第1、2極の珠江三角洲、長江三角洲に遅れているが、中国人の鶏肉の格付けで腿・腹部に劣る胸の位置に符合する。
15)「非攻」は『墨子』卷5の題として攻伐を非とする意で、他国への攻略・兼併を不義と非難するのは墨家思想の重要な一部だ。系列論考で湾岸戦争以降の武器の「慈化」(仁慈化)を考える予定だが、慈悲の「悲」の「非+心」の字形は此の文脈で「非攻の心」と解すれば面白い。但し、1990 年代中期の日本で起きた連続列車顛覆事件(未遂)の犯人が「墨子」と名乗った事(系列論考で後述)が象徴する様に、墨子一門は高度な規律・技術力を持つ武装集団の側面も有った。
其処で連想した「非」絡みの字として、「排」は軍隊の単位(小隊。註149 参照)や排除の意で墨家の在り方に通じ、「輩」は軍隊の序列や社会の秩序の意で「排」に繋がる。因みに、和製漢語の「年功序列」に当る中国語は、「論資排輩」(「資歴」[キャリア]を重んじ「輩分」[世代]で序列を決める)と言う。天安門事件で軍が先ず徒手で排除し最後に戦車の出動に踏み切ったが、其々「(手)」「車」偏が付く此の2字との相関は、漢字の「天網」の広大を思わせる。猶、周恩来がニクソンに紹介した通り、国民党と共産党は長年に亘って相手を「匪」と罵り合ったが、此の侮辱語は形・意倶に「非」を内包し、「排・輩」や「悲」と違って「非」と同音だ。
16)和製漢語の「挨拶」の字面を見て中国人が吃驚するのは、「拶」は中国語で「押し迫る」の他に、5本の小木で編み指の間に挟み引き絞める拷問道具の指詰めをも指し、「挨」(遣られる)との組み合わせは其の刑を受ける意と成る故だ。少なくとも国民党時代に有った左様な拷問法は、「十指連心」(10 本の指は心[心臓]に繋がる)の原理に合う。此の4字熟語自体は負の意味が無く、人と人の絆の緊密さ、特には子女に対する親の情の深さを表わす。後者に関連する成語の「手心手背都是肉」(手の平も手の甲も皆我が身の肉)は、複数の子女を平等視せねば成らぬ事に言う格言である。
日本語の「手の甲」と中国語の「指甲」(爪)は、両国の言語の似て非なる関係の例に挙げられるが、1番・上等の意を持つ「甲」が手の表面に集中するのは面白い。「甲」の兵器・軍人(鎧、又は其を着けた兵)の含みと「十指連心」の接点で、毛沢東の「傷其十指、不如断其一指」(敵の10 本の指を傷付けるよりも、其の1本の指を断つ[方が打撃が大きい])の持論が思い浮かぶ。中共軍の殲滅戦志向は其の発想に基づくが、政争や粛清の「残酷闘争、無情打撃」も根底が通じ合う。
17) 小平も天安門事件後の1989 年11 月23 日、「没有硝煙的第三次世界大戦」の比喩を以て、帝国主義の「和平演変」(註45 参照)への対抗を表わした(「堅持社会主義、防止和平演変」、『小平文選』、人民出版社、1993 年、344 頁)。敵の「兵不血刃」(註47 参照)の顛覆に因る変質への懸念は、偏執的虚構と視られ天安門事件後は余り唱えられなくなったが、胡錦涛が自国発の怪病災厄の退治を「硝煙無き戦争」と称したのは、表紙を変えず中身を変えた平和的変容の結果と言えよう。
18)17 世紀仏蘭西の哲学者・数学者・物理学者のパスカルの命題(『パンセ』、1670 年)。人間は神の恩寵を通じて現れる愛の世界に憧れるのが主旨だが、彼の重んじた反理性の体験や直感的「繊細の精神」と結び付けば、不条理の戦災で瞬時に滅ぼされる人間の繊細さも考えさせられる。
19)石川達三の長篇小説・『風にそよぐ葦』(1949 〜 51 年)の題を下敷きにした表現。横浜事件(1942年)等の知識人弾圧に触れ、戦中・戦後を生きる人間像を描いた此の作品は、内容と「そよぐ」の当て字・「戦」に因って、「戦」の闘争と恐怖の両面を思わせる(註50「戦戦兢兢[恐恐]」、註146「悪戦」参照)。
20)立法・司法・行政の3権に因んで報道機関は「第4権力」と呼ばれ、記者も「無冠の王」の異名が付き其を気取る輩も居る。言説の威力を形容する「寸鉄殺人」(註3参照)や「刀筆」(註69 参照)の通り、社会の空気や時代の流れを造り上げる報道機関の「柔力」は極めて大きい。本稿筆者は中国の現状と日本語の「輿論・世論」(「世論」は「輿論」の代替表記として同じ「よろん」と読み、独立した語彙として「せろん」と読む)を手掛りに、21 世紀の「第4権力」の二重構造を指摘して置きたい。
毛沢東は建国後初の本格的言論弾圧(1955 年)で、文芸評論家・胡風等の逮捕を命じ其の自由化の主張を糾弾した。報道が全て党の指針に従う「輿論一律」の堅持も毛が強調したが、中国語で「世論」は余り聞かず専ら「輿論」の表記と成る事も、「輿論一律」の素地と捉えられる。中国語の「輿・御」の同音は、御用の制御道具に成り易い輿論の宿命を思わせる。此の2字の組み合わせは日本語で「御輿」(「神輿」とも書く)に成るが、輿論操作は御輿を担ぐ事にも見立てられよう。「輿論」の日本流俗字・「与論」と和製漢語の「与党」(中国流は「執政党」)の接点は、巡り巡って「輿・御」に通じるが、「第4権力」も政治と同じ統治・祭祀の両面を持つ。
但し、胡風逮捕の40 年後に始まった「国際互聯網」の普及に伴って、中国では官の輿論管理の対蹠に民の言説主張が急速に台頭した。個人のネット取引が市場を大きく動かし、市井の発信が巨大組織をも潰し得る日本の現状は、中国でも見られている。「風に戦ぐ葦」(註19 参照)に引っ掛けて言えば、「考える葦」の風説・風評の威力こそ、『詩経・鄭風』が出典の「人言可畏」(人の言葉は無視できぬ。噂は畏るべし)の通りだ。系列論考では「N(ネット)世代」の勃興や、「網上(ネット上)民族主義」の「猛状・盲情」(「網上」の音読みに因んだ筆者の造語)を材料に、「新人類」の言行が新世紀に及ぼす影響を分析したい。
21)大統領の命を受けて事件を調査したウォーレン委員会の全文書・証拠品は、ジョンソンの指示で2039 年(下院調査委員会の分は2029 年)に完全に封印を解く事と成っている。情報公開の先進国を標榜している癖に76 年もの経過が要るのは、其の半分の38 年を「弾指一揮間」と観た毛沢東(本文・註110 参照)の感覚からすれば、大した事ではないかも知れないが、当事者の他界を待つ意図も邪推される。尤も、「文革」や天安門事件の徹底解明の壁にも当事者の生存が有るので、歴史の暗部の宿命と言えよう。
技術の進歩に因り証拠品散逸の危険が少ない故、米国では殺人事件(及び遺伝因子証拠が保管された場合の強姦事件)の時効は此の頃無くなり、日本でも其に共鳴する向きが出て、遺族の心には時効が無いと言う声も上がった(『読売新聞』2003 年12 月21 日)が、本稿で指摘した「身内賊難防」の通り、ケネディ暗殺事件の証拠物件はニクソン時代に国家記録保存所から多く盗み出された(落合信彦『決定版2039 年の真実』[小学館、1993 年]等)。国家の管理下にも拘らぬ怪事と言うよりも、国家の管理下だからこその結果と観るべきかも知れない。但し、仮に完璧な保存が出来ても中身の無欠を意味しない。元英国皇太子妃・ダイアナの変死(1998 年)に関する仏当局の調査報告書も、各方面から疑念が持たれて来て、2004 年頭に遂に英司法当局が再調査に乗り出した次第だ。
折しも中国外交部は’04 年1月に民衆奉仕の主旨で、建国〜 1955 年の外交文書を約1万点公開した。先進国を真似た情報開示は歴史の進歩に違い無いが、「竹幕」(竹のカーテン)の裏に隠れる部分も猶多いはずだ。1954、’55 年のジュネーブ会議、亜細亜・アフリカ会議関係が中心と成るので、朝鮮戦争の内幕の解明は先ず期待できない。一万歩譲って、過去の公文書が全て無修正で日の目を見るに至っても、深層の真相の完全把握には直結するまい。
1965 年12 月の上海会議で総参謀長・羅瑞卿が逮捕された(註66 参照)契機は、林彪が妻・葉群を派遣し毛沢東に彼を誣告した事だ。後に中央警備団の責任者は回想録(『張耀祠回憶毛沢東』、中央党校出版社、1996 年)で、途中3回入室した際に聞いた断片を綴ったが、5時間に及んだ密談の中身はもはや明るみに成れない。林夫妻は先見の明が有って「口対口」の告発方式を取り、如何なる文字の「档案」(ファイル)も遺さなかった所以だ(羅点点『紅色家族档案 羅瑞卿女児的点点回憶』、南海出版公司、1999 年、183 頁)。
林彪は「文革」発動を可決する政治局拡大会議での演説(註59、70 参照)で、古今中外の例を挙げて宮廷政変を警戒しようと述べた。古代の宮廷暗殺疑獄に由来した「燭影斧声、千古之謎」(蝋燭の影、斧の音、千古の謎)も引いたが、現代史でも林彪事件前後の疑獄に永久の迷宮に入った例が有る。1970 年12 月にビルマから帰国中の周恩来が昆明で戦闘機に緊急着陸を強制され、撃墜命令を受けた雲南軍区政治委員・譚甫仁が直後に警備隊長に暗殺された(系列論考で後述)が、此の破天荒な一件も当初から「千古之謎」と成った。羅瑞卿の娘は当事者の「作古」(物故)を真相解明の決定的障碍に挙げたが、死没すれば歴史の彼方に逝くと言う「作古」の発想は、和製の婉曲語・「他界」に類似する。
22)軍産複合体やCIAの他、ジョンソン副大統領やマフィア、キューバ等が取り沙汰されたが、恐怖活動支援の所為で30 年後に改めて米から「不法国家」と指定されたキューバを除けば、外敵の「山中賊」ならぬ国内の「家中賊」ばかりで、而も米の「欲の枢軸」(註3参照)の国柄に似合う野望が動機と推測される。犯人とされた元海兵隊員が諜報工作の為ソ連に渡り自国の情報を提供した経歴にも関わらず、ソ連の関与を信じる向きが最初から余り無いのは、大義を虚構する小細工に関係者も大衆も厭気が差した故か。オウム真理も露西亜で軍事訓練を受けヘリコプターを購入したが、問題の国は「悪の帝国」(註3参照)時代から、「世界憲兵」(国際警察)の心・技・体を持っていない。ソ連解体後の「中国脅威論」に就いても、同じ事は言える。
因みに、事件30 周年の際に一層浮上した副大統領主謀説は、林彪に抱いた毛沢東の警戒の支援材料にも成るが、ジョンソンの遺族の反論は林彪の遺族の不服とも通じる。林彪集団は毛に対する「架空」(有名無実化の棚上げ)工作が失敗した後に暗殺を計画した、と公式に断罪されたが、架空(虚構)の要素を疑う観方も水面下で濃厚に成りつつある様だ。
23)「遊芸戦」は其の戦のテレビ遊戯風の印象に即して、中国語で「遊芸」同音の「遊弋」に引っ掛けた筆者の造語。
24)早くに死語化した「活動写真」は、「映画」や中国流の「電影」に比べて、映画の本質の一端を表わす妙味が有る。
25)本稿筆者は当日の夜9時過ぎ、教授会を終えて帰宅後NHKを観た処、そんな光景と解説が飛び出た。
26)死の決意を抱いた点で此の名称が相応しいが、「決死隊」は中国流で「敢死隊」と言い、正義か不義かとは関係無く使える。国民党軍には「奮勇隊」も有り(註144 参照)、イラクのフセイン政権を守る「挺身隊」は戦争中の日本にも存在したが、何れも名称には「必死」(必ず死ぬ)の明示が無い。
27)日本語に無い「独覇」は「独占」よりも横着な語感で、今の米国の「単独主義」・覇権志向に妙に吻合する。
28)此の一幕で最も不可解な当局の対応は、解毒剤の準備が無かった事である。中国的「対の思想」(註180 参照)を引き合いに出すまでもなく、「以毒攻毒」(毒を以て毒を制す)に対する安全装置が欠けた事は、大変な片手落ちと言わざるを得ない。当局にも不本意な市民の犠牲を多数招いた天安門事件の武力鎮圧の事例と共に、危機管理の不備の教訓と受け止めたい。ソ連時代に開発した新型特殊ガス兵器の使用が事実なら、恐怖活動平定の勝利の裏に隠れた平気な人命軽視の発想は、将来の禍根として警戒すべきである。
29)此の組織がスターリン死後の翌1954 年に設立された事は、個人独裁から集団独裁への移行を物語る事象と思える。略称が有名過ぎる故に影が薄れた全称は、「ソ連邦閣僚会議国家保安委員会」と言う。1983 年に新設した中国の中央省庁・国家安全部(俗称・「国安部」)も、其の「蘇連部長会議国家安全委員会」(全称の中国語訳)の「翻版」(焼き直し)の性格が一部有る。
但し、専ら字面に不気味・強硬の形象が濃い「克格勃」(KGBの音訳)で呼ぶ処に、恐怖政治に対する中国人の「同圏嫌悪」(同じ共産圏の故の嫌悪。「同族嫌悪」を擬った筆者の造語)が滲み出る。一方のCIAは中国で「美国中央情報局」の全称表記が普通だが、音訳や略称を付け難い技術的要因はともかく、米国を真似た蒋介石時代の特務機関・国民党中央執行委員会統計調査局の悪名を想起させる効果が有る。
30)プーチンは1975 年にレニングラード大法学部卒後、’91 年の辞任までKGBで対外情報収集や諜報員養成を担当し、’85 年から旧東独に駐在しベルリンの壁の崩壊の時も現地に居た(『読売新聞』2003 年3月10 日等)。其の後の経歴で興味深いのは、地方行政の責任者を経て’98 年に連邦保安局(KGBの後身の1つ)長官と成り、翌年に首相に任命された事である。2000 年に彼は大統領に選出されたが、内外の安全保障こそ此の国の最大な問題だから必然性が有る。其の2日前の3月24日に台湾の「総統」選で野党党首・陳水扁が当選したが、彼は2歳年上の陳と違って、前年末に健康上の不安で辞任したエリツィンや、彼が生まれた年に逝ったスターリンの様な独裁性を隠し持つ。
31)ブッシュは1971 年に国連大使、2年後に共和党全国委員長、’74 年に駐北京連絡事務所所長、翌年に中央情報局長官、’81 年に副大統領、’89 〜’93 年に大統領を担当したが、権力の頂点に至るまでの国連→党務→中国→情報は、21 世紀の国家戦略の指向性を先取りした様に思える。安全保障に対する超大国の超重視(註29 参照)を反映して、「忍者外交」で国務長官に成ったキッシンジャーも米大統領国家安全保障補佐官の出身だ。
32)「渋勝」は日本語の「辛勝」と中国語の「惨勝」に因んだ筆者の造語。「惨勝」ほど「惨重」(悲惨で重大)な代償を伴うわけでもなく、辛労の末の辛うじての勝利とも若干違う。「渋」は予想外の抵抗に因る苦渋な渋滞と共に、湾岸戦争の華麗さを欠いた渋味も有る。
33)ほぼ百時間で終った湾岸戦争の地上戦では、米軍は僅か148 名戦死の代償でイラク軍を完膚無きまでに打ちのめし、数万人の軍隊、其々3千余りの戦車・火砲を無力化した。第2機甲師団タイガー旅団の戦闘支隊が敵を263 人殺害し4千人俘虜にしたが、自隊の損害は戦死2名、負傷5名に止まった。(F.N.シューベルト・T.L.クラウス編、滝川義人訳『湾岸戦争 砂漠の嵐作戦』、東洋書林、1998 年、252 頁)其の頃の解放軍総参謀長・遅浩田は42 年前の内戦で、2人の戦友と共に千人以上の国民党軍を降伏に追い込んだが、中共軍史上の大殊勲の持ち主(註154 参照)だけに、米軍の離れ業の凄さを膚で分ったのであろう。
34)賈島の七絶・『剣客』の冒頭の句。後半の一聯は、「今日把示君、誰為不平事。」(今日把り君に示す、誰ぞ不平事を為。)訳=竹内実・吉田富夫『志のうた 中華愛誦詩選』、中公新書、1991 年、121 頁。小室直樹は『史記』の刺客列伝に中国人の行動原理の原点を見出し、本稿筆者は系列論考で其を掘り下げる予定だが、此の詩は序説の伏線と成る。
35)「天兵」は天(神)が遣らした兵の意で、日本語では「神兵」(神の兵士。神の加護有る兵)が其に対応する。湾岸戦争で米国が放った利器は厳密に言えば、「天兵」ならぬ「天遣神器」(天が遣らした神掛り的兵器。註36、111 参照)だが、其に対する人々の畏服は古の「天兵」神話の効果に似ている。因みに、ソ連の初有人宇宙飛行士・ガガーリンは空軍降下部隊の操縦士教官であり(注118 参照)、米軍や日本自衛隊の最強兵種に空挺部隊が有る事も「天兵」に符合する。
36)Americaの中国語訳は「美国」「阿美利加」の他に、「〜合衆国」の場合に使う「美利堅」が有る。中国人は外国(特に強国)の訳名に美的配慮を施す傾向が有るが、音訳の此の3文字は考案者の意図はともかく、其々彼の国の強い文化力・経済力・軍事力の表徴に成る。湾岸戦争で米国が映像で見せた精密破壊導弾の神業は、「剣・堅」の同音に因んで「美利堅」の「美利剣」とも言え、世界に与えた衝撃も軍事・経済・文化の総合力の賜物だ。
37)「文革」初期に紅衛兵が提起した標語。無辜の人々に対する殴打・非合法的家宅捜査等の暴力行為は、此の大義名分の下で行われた一時期が有る。陳東林・苗棣・李丹慧主編『中国文化大革命事典』(西紀昭等訳、中国書店、1996 年)では、毛沢東が「砲打司令部――我的一張大字報」(司令部を砲撃せよ――私の一枚の壁新聞。1966年8月5日)の中で劉少奇批判に使った「白色恐怖」が背景に有り、’66 年8〜9月に特に「紅色恐怖」の風潮が強く、西安等で「紅色恐怖隊」が成立した、と解説された(388頁)。
付け加えるなら、毛の「白色恐怖」云々は蒋介石が大陸時代と台湾統治初期に行なった弾圧・粛清の俗称だ。反革命的「白」を革命的「紅」に換えた同工異曲の反転は、紅衛兵運動勃興の40年前に毛が唱えた「革命は暴動なり」に源流が遡れる。其の『湖南農民運動考察報告』(1926 年)の「痞子(成らず者)運動」礼讃は、昨今の米国の「無頼(無法)国家」糾弾と対で捉えれば興味深い。西安が「紅色恐怖隊」結成の典型例に挙げられたのも、2003 年秋に同市で起きた反日暴動を思い起せば、地政学・地文化学的蓋然性が感じられる。
筆者は1966 年秋の上海の外灘辺りで、ビルの壁に書かれた「紅色恐怖万歳」の標語を見たが、1平米bも有る大字の殴り書きは、血の裏付けが有るだけに強烈な印象を遺した。其の「紅色恐怖」現象の表層と深層、大衆の暴走と当局の制御を、系列論考で詳解したい。
38)「末日之門」は、本稿で後に論じる『超限戦』(註127参照)の筆頭著者・喬良の近未来戦争模擬長篇小説(解放軍文芸出版社、1995年)の題。
39)但し、此の見解はあくまでも米国と欧州、欧米の中心と辺境の二極図式に基づく。政治や文化の東と西(東側と西側、東洋と西洋)に基軸を移せば、北欧と北米の「地文化縁」(註155、161 参照)や価値観の共有も目に付く。1964 年ノーベル文学賞の受賞を辞退した哲学者・作家のサルトルは、同賞は西側の文化を意図的に擁護し東西対立を推し進めていると批判した。同賞を偏見の塊と断じる事自体は色眼鏡に成るが、米国映画アカデミー賞(註40 参照)と共通する西側文化の擁護の意図も、共産圏作家への授賞が促した東西対立の結果も、同賞の瑕疵として否定し難い。
猶、次の仏作家受賞(1985 年、シモン)まで21 年も経った事は、サルトル辞退に懲りた選考側の俗物性の現れと邪推する向きも有る。同賞受賞者の国籍に仏が最も多い(21 人)だけに、其の長い断絶は不自然と言わざるを得ないが、西洋の文化老大国を自認する仏の異端の学識者と欧州の周縁の権威的機関との葛藤は、多重の捉え方が有り得る奇観だ。
40)アカデミー賞授賞式は最近3月下旬が多く、春分と新学年開始の間に当る点で日本的季節感に妙に合うが、初回は1929 年5月16 日に行なわれたのだ。37 年後の此の日に「文革」が幕を開けた(註63 参照)が、「文革旗手」の毛沢東夫人・江青は元映画女優で、建国後の最初の職務も党中央宣伝部映画局次長だった。毛が三流女優に魅せられ中国が此の2人に翻弄されたのは、不条理劇的悲劇映画と観られなくもない。
アカデミー賞の俗称・「オスカー賞」の由来は、金像は自分の伯父・オスカーに似ていると言う或る図書館司書の一言だった。北京大学図書館で管理係を務めた頃の毛の欲求不満は、知識階級に対する彼の歪んだ感情の根底とされる。其の羨望と憎悪が混じり合った「情結」(コンプレックス)は、今の中国も様々と抱いているが、最大の対象として御三家を挙げるなら、一に米国、二にノーベル賞、三にアカデミー賞であろう。
現代中国の其の「情結」に関する論考は後に譲るが、北朝鮮の国家犯罪にも然様な動機が窺われる。1978 年1、7月に韓国の映画監督・女優が香港から平壌に誘拐され、数本の作品を作らされた後’85 年にウィーンで奇跡的脱出を遂げた。申相玉・崔銀姫夫妻が手記・『闇からの谺――
拉致・監禁・脱出』(池田書店、1988 年)で暴露した金正日の素顔には、自国の映画の芸術性を高める為の拉致を素直に認めた処が印象的だ。世襲の領袖に成る前の彼の実績は映画製作の指導ぐらいしか無く、故に同時代の中国人には往年の「文革旗手」と二重映しに成りがちだが、精神→物質の転化(註104 参照)を促す意識形態工作の効用は、政治と文化の相関を思わせる。「国民総精彩」(註102 参照)の生産力を図る金王朝2代目の暴挙は、「酷」の非情・見事の両面と「羨憎相織」(羨望・憎悪が織り混じる。註167 参照)の葛藤を内包した故に興味深い。
猶、ノーベル賞授賞式を「冬の儀典」と表現したのは、創設者に律儀に義理を立てた開催日・開始時刻(逝去と同じ12 月10 日午後4時30 分)、主な開催場所(瑞典の首都)に引っ掛ける意図も有るが、対概念としてアカデミー賞授賞式を冠した「春の祭典」は、ストラビィンスキーのバレー音楽の題を借りた形容である。1913 年の初演で観客の拒否反応に遭った此の作品は、やがて20 世紀の新古典の声価を欲しい儘にしたが、此処で引き合いに出した理由は別の領分に在る。彼の露西亜作曲家の3大名作の先駆けは『火の鳥』(1910 年)だが、周恩来は中国の究極の防衛利器なる戦略導弾を「火鳥」の美称で呼んだ(後述)。
41)銃社会批判の主題でドキュメンタリー部門賞を受けたムーア監督は、アカデミー賞授賞式の挨拶で毒舌を巻いた。「我々はノンフィクションが大好きなのに、今はイカサマ選挙で決まったイカサマの大統領を頂いて、作り物の世界に生きている。」「イカサマの理由に拠って戦争が始まり、イカサマの情報が流れている。」「ブッシュよ、恥を知れ。お前の持ち時間は終りだ。」会場でブーイングと拍手が交錯したが、イラク攻略後も大量破壊兵器が発見されず今日に至った現実を観れば、米国の「虚構の大義」(自ら中国東北で体験した日中戦争を描いた五味川純平の長篇小説[文藝春秋、1973 年]の題[副題=関東軍私記])、ブッシュ政権自体の「偽」性に対する痛快な喝破と思える。中国の初核実験→有人宇宙飛行の時期と重なるが、戦争の口実を捏造する米国の常習犯ぶりを示す一例は、北爆の本格化を狙って1964 年8月2、4日にトンキン湾で北越の魚雷攻撃を受けたと虚報を打った事だ。
猶、3月26 日に紐育の反戦示威行進で逮捕された2人のノーベル平和賞受賞者は、暴力追放デモ等の非暴力運動の実績で1976 年に受賞した北アイルランドの女性平和運動家・マグワイア(旧姓=コリガン)、対人地雷禁止活動に因り1997 年に受賞した米国のウィリアムズだ。
42)複数の報道に拠れば、左様な計画は9.11 のみならず1990 年代にも計画された。具体的に米・日で各6機の旅客機乗っ取り計画まで有ったと言うが、日本の方で不発と成った理由に、若し円高や排他的人種の壁が有ったならば、発展格差や「文化溝」が地政学的危険を緩衝し得る例証に成ろう。
43)重要な作戦に立派な名称を付ける流儀は米国に有る様で、大統領が自ら公表する例として記憶に新しいのは、2001 年10 月8日に対タリバン政権掃蕩開始を伝える演説で作戦名の〈不朽の自由〉を宣言し、’03 年5月1日の対イラク戦争の終結宣言で〈自由イラク作戦〉の名を出した事だ。中国でも「“名”の文化」に因り「師出有名」(出征するには必ず大義名分が付く)の伝統が有る(系列論考で詳述)が、米国に比べて命名・宣揚に余り熱心でない理由として、老子の「名可名、非常名」(名付けられる名は、恒常不変の名に非ず)や、俗諺の「会咬的狗不叫」(吠えぬ犬ほどきつく噛む。能有る鷹は爪を隠す)等に通じて、名称が勝って結果が見掛け倒れに成る事を防ぐ実用主義も考えられる。
〈高貴な鷲〉の寓意を説明する資料は見当らないが、小ブッシュが’03 年3月19 日の対イラク開戦宣言で出征部隊に語り掛けた言葉に手掛りが有る。「君たちが対決する敵は、君たちの手腕と勇気を思い知る事に成ろう。君たちが解放する人々は、高貴で礼儀正しい米軍精神を目の当りにする事に成ろう。」中国の智・勇・仁「三達徳」が揃った点で、筆者にも共感し易く且つ論考の好材料に成る礼讃・顕示だが、其の攻略と統治、非情と仁慈の対立・統一は、半月前の4日から始まった米韓合同軍事演習の名・〈禿げ鷲〉と此の〈高貴な鷲〉の対にも見られる。泥臭い前者と優雅な後者は正に、「酷」の冷厳・精彩の両面を構成する。
44)「蘇東波」は「蘇東坡」の語呂合わせ。「日本語は洒落と駄洒落を構造的に内に秘めた言語であり、日本は“駄洒落”によって生れた国と言っていいほどだ」(石川九楊『二重言語国家・日本』、日本放送出版協会、1999 年、154 頁)が、中国語と中国も全く同じである。「蘇東波」の考案者と思想傾向き不明だが、中国的「幽黙」(ユーモア)の伝統に沿う軽妙な諧謔と思える。
「日本語は、洒落や駄洒落、地口落ちや、“○○と掛けて××と解く。心は△△”という、謎謎など言葉遊びによって生れた言葉であり、いわば日本は“吉本興業”立国なのである」(同上、154 頁)が、中国人の思考・言説にも左様な知的遊戯が一杯有る。風馬牛の様な「蘇東波」と「蘇東坡」を連想遊戯的に考えれば、ソ連・東欧の平和的変質(註45 参照)は、長時間の弱火で出来た「東坡肉」(蘇東坡が考案した肉の煮込み料理)の「漸老漸爛」(徐々に煮詰まり徐々に爛熟すること)に似ている。猶、本稿で蘇東坡の『赤壁賦』を取り上げたが、「蘇東波」の表徴と成るモスクワの赤い広場とベルリンの壁は正に其の字面に対応する。
45)「和平演変」は「平和的顛覆」や「平和的変化」とも訳せるが、筆者は激しい前者と穏やかな後者の中間を取って、「平和的変質」「平和的変容」「平和的移行」を好む。
此の用語は天児慧・朱建栄等編『岩波現代中国事典』(岩波書店、1999 年)で、次の様に説明されている。「1980 年代末より中国共産党が主張している、西側資本主義勢力による社会主義体制の平和的顛覆という論理。46 年米国の駐ソ大使ジョージ=ケナンは封じ込め戦略を提起し、“非軍事手段”によって社会主義国家を変質させることを主張した。」(執筆者=伊藤信之、1339頁)基本的主旨は其の通りであるが、毛沢東の「文革」の動機には既に「和平演変」の防止が有った。『毛主席語録』の「29 幹部」に収録された1964 年の言説は、「帝国主義の予言者たちはソ連に生じた変化に基づいて、“平和的変化”の希望を中国の党の第三代または第四代の上に託している」と言う(竹内実訳、平凡社ライブラリー、1995 年、254 〜 255 頁)。1992 年初の小平南巡以降は「和平演変」は余り言及されなく成ったので、「1980 年代末より」よりも「1980 年代末まで」の方が実情に合おう。因みに、中国ではダレス国務長官の発想と認識する向きが多い。
46)冷戦終結・湾岸戦争勝利後の米国株式市場の10 年近くの上昇は、「平和の配当」と形容された。
平和と繁栄の相関を思わせる此の比喩は、同時期の中国にも適用できる。2000 年春の米・欧・日の情報技術産業株の暴落は、株式市場の先見性を以て1年半後の米中枢襲撃を予見した様にも見えるが、中国の安定成長が其の後も続けて来たのは、地政学的危険の解消に因る平和の果実と言える。
猶、中共は建国後の私営企業の「公私合営」→ 国有化の改造に際して、所有権を買い取る代償として資本家に「定息」(資産評価に応じた固定利息配当、一般的に年利5%)を一定期間に亘って払う事を約束した。1956 年から実施後10 年経って、「文革」の動乱に伴い’66 年9月に中断した事が示す通り、此も「平和の配当」の類いであろう。
47)血戦を経ずに勝利を収める意の「兵不血刃」は、出典の『荀子・議兵』の「故近者親其善、遠方慕其徳、兵不血刃、遠邇来服」の通り、徳を以て敵を制すのが原義であるが、戦術の巧者が兵器に血を塗らずして勝ちを得る比喩として好く使う。其の転義と選好は王道の衰微と覇道の強盛を映し出すが、中共軍の「不戦而勝」(戦わずして勝つ)の快挙には、仁・勇の両方が見られる。
米国の湾岸戦争の勝利は直接の交戦がほぼ無く、神掛り的利器の投下で決着した事から、兵器の強者の「兵不血刃」(兵隊が武器に血を着けず)の結果と思える。対して今次のイラク占領は、現地の多くの民衆の解放感が示した様に、国際社会の道義的懐疑論に関わらず、無血の日本本土占領と通じて、徳の「隠形」戦力(註5参照)も見過ごせない。
猶、「兵不血刃」と対照的に、熾烈な戦闘で死傷者が多数出る様を言う成語には、「血流成河」(血流れて河に成る。註146 参照)、「血流漂杵」(血流れて杵を漂わす)等が有る。類義の「血雨腥風」(血の雨が降り血腥い風が吹く)は、「白色恐怖」(註37 参照)の類の虐殺・粛清の形容に好く使う。
48)武装襲撃に因る死者は欧米先進国の軍人に止まらず、泰の復興支援部隊や日本の外交官、国連機関の幹部・職員まで及んだ。朝鮮・越南戦争やアフガン侵攻に対する抵抗も其まで至らなかったが、イスラム世界の信仰の力が思い知らされた。
49)米国連邦準備制度理事会議長・グリーンスパンが1996 年12 月5日の講演で発した警告。皮肉な事に、合理性が無いと見られながら熱狂は其の後も数年続き、「市場制御の神様」と尊ばれる当人が強気相場の持続に合理的講釈として、百年に1度の情報技術革命の神通力を認めた(2000 年3月6日の講演等)直後、9年続きの上昇は終止符が打たれた。
50)金先物1オンス= 400 jの大台は其の数日前にも一瞬付けられたが、26 日の再度突破が特筆されたのは其の誘因の故だ。紐育地下鉄の異臭発生は単純な事故に過ぎないと直ぐ判明したが、恐怖活動発生への警戒は一過性の問題ではない。折しもブッシュが軍の士気と自分の人気を浮揚すべく秘密裏バクダッドに飛び、空港内で進駐軍兵士と感謝祭の夕食を共にした(27 日)が、同じ感謝祭休暇中の偶発事件に対する市場の過剰反応は、敵地での襲撃を恐れた大統領の蜻蛉帰りの電撃訪問の極度な厳戒と共に、「戦戦兢兢」(日本語では「戦戦恐恐」とも書く)の字面が示唆する戦勝者の代償を思わせた。
米国は12 月13 日のフセイン拘束で気勢を揚げたが、米国の弱含みに対する市場の想定は全く変るまい。国際恐怖組織「アル・カーイダ」の首領・ビンラーディンの肉声とされる談話が放送された事から、 紐育商品取引所の金相場は2004 年の初営業日(1月5日)に一段と騰勢を強め、1988 年12 月以来の高値(1オンス= 425 j)を記録した。同日の米ドルは対ユーロで同通貨導入(1999 年元日)来の最安値(1ユーロ= 1.26 j台)、対円でも3年4ヵ月ぶりの106 円台まで下落した。
「米国売り」の帰趨の強さと共に、金と米ドルの逆相関関係は再び確認できた。其にしても、1996 年3月の水準の久々の回復から僅か1ヶ月余りで、更にほぼ同期間の7年4ヵ月前の高値が再現されたとは、歴史の振り子の振幅の激しさを物語る壮大な巻き戻しと言えよう。尤も、ヘッジファンド等の投機筋の資金投下に因り、規模の小さい市場が大きくぶれた節も看過できぬ。 
51)2003 年11 月23 日、9.11襲撃に因るビル崩落現場の「グラウンド・ゼロ」の地下に、世界貿易中心ビル駅が再オープンし列車の運行が再開された。事件後2年以上も歳月を費やした事は復興の困難さと共に、同時代中国との政治・文化の相違を思わせる。仮に北京で類似の被害が発想した場合は、恐らく国家が威信に掛けて突貫工事を推進し、而も統治的祭祀の効果を計算し尽し、満を持す時機に蘇生を宣揚するだろう。ニクソン等は中国指導者の巧緻な演出に東洋的繊細を感じたが、逆に中国的感覚では11 月23 日の意味は掴めない。尤も、ケネディ大統領暗殺30 周年の翌日に当る点も、当事者の意図と関係無く再生の象徴性を有す。
52)『広辞苑』の「好事魔多し」の語釈は、「〔琵琶記・幾言諌レ父〕よい事、うまくいきそうな事には、とかく邪魔がはいりやすいものである」だが、『西廂記』が出典の「好事多磨」は、特に縁談の波乱を形容する事が多く、「磨」は人生の磨錬・試練の寓意を持つ。
53)国際金価格(j/オンスは倫敦に在るロスチャイルド銀行の通称・「黄金の間」で決まり、参加成員5社が午前と午後の2回其々の顧客の注文を突き合わせ、売買が折り合った処で価格を決め世界に発信する。業者間の利権の盥回しの観が強い日本流の談合と違って、市場の実勢に基づく国際協議の性質が濃いが、 電脳で繋ぎ刻々と動く為替・株式等の市場に比べて、格式張った古
典的印象が目立つのは無理も無い。英国は欧州通貨発足後5年経った今も加入せず、老帝国の矜持と島国の孤独を思わせる。英国が金の基準価格の決定・発信の基地と成るのは、欧州で米国の対立軸の表徴の一部を為し得る資格に相応しいが、ドル建ての表示は金も欧州通貨も崩せぬ「米国通貨=国際基軸通貨」の構図を浮き彫りにする。
此と共に世界の多極化を象徴する事象として、国際標準時間が倫敦附近のグリニッジ天文台の所定を尺度としており、情報技術革命を導く米国も超精密時刻の発信元に成る努力をしつつ、其に従わざるを得ない。国際孤立を恐れず今次のイラク侵攻を敢行した同志だけに、其々19、20 世紀の世界覇者だった両国の競合は興味深い。
54)小平は天安門事件後の国際孤立を凌ぐ為に隠忍の方針を示し、江沢民時代の安定・成長は其を貫徹させた成果に他ならぬ。同時期の米国が享受した「平和の配当」(註46 参照)に対して、長期投資の返報を形容する「忍耐の報酬」と思える。内外に言われる胡錦涛の好運の証として、党首就任の翌年の有人宇宙飛行の成功、予定任期内の北京五輪・上海万博開催、人民元「昇値」(引き上げ)に因る国民総生産・所得成長目標の早期実現の可能性、等が挙げられるが、何れも先々代・先代の辛抱・蓄積の御蔭だ。
日本語の「雌伏・至福」の語呂合わせに因んだ筆者の此の見解は、日・中の深層原理の解明に於ける言語遊戯の洒落の有効性(註44 参照)の例証に成る。此の2語は中国語では同音ではないが、中華民族を象徴する想像上の動物・龍が蛇を原型と為す事は、「雌伏→至福」の飛躍に吻合する。
中国語で「至福」と同音の「制服」は動詞として制圧を表わすが、 の武力鎮圧の禍が転じて福と成ったのも此の文脈に合う。因みに、毛沢東政権末期の第1次天安門事件では首都民兵が大衆を弾圧したが、当時の党中央政治局委員候補・首都労働者民兵総指揮の倪志福の名も、「制服・至福」と同音である。中国人の「諧音」(語呂合わせ)好きを物語る様に、彼は其の頃にも巷で「ニージーフー」(ラシャ制服)と巫て呼ばれた。
「ニージーフー」は蒋介石時代と毛沢東時代に於いて、「身分標志」(ステータス)の形象が強かった。
代表格の「将校子軍官服」に纏わる悲喜劇は、蒋が校長を務めた黄埔軍官学校の1期生で毛の愛将・林彪に起きた。開国世代の征服欲と「暴発戸」(成り上がり)心理の事例として、系列論考の本体部分に回すが、「諧音」(語呂合わせ)と高官の意に引っ掛けて「ニージーフー」と呼ばれた倪志福に対して、筆者は揶揄の心算も無く否定的捉え方もしない。
只、名前と同音の「至福」が彼にも見られた事を指摘して置く。全国労働模範から「文革」後期の風雲児に成った彼は、新体制の「文革」否定の影響を受けないばかりか、「4人組」失脚後に上海、北京のNo.2と天津のNo.1を歴任し、’78 年に全国総工会主席(全国労働者組合委員長)に就任し、5年後に政治局委員に昇格された。第1次天安門事件の鎮圧で首都労働者民兵の指揮者は副総指揮・馬小六であり、彼は寧ろ極左派の牙城・上海の政治的空白を埋める手柄が遺ったので、自然な成り行きと言える。其の処遇は政治家個人の運・不運を超えて、無産階級の前衛部隊を自任した中共らしい。「産業労働者大軍」の基地・上海に地元労働者出身の彼を送り、準軍事管制の為に市党委第1書記を兼務する海軍政治委員・蘇振華を輔佐させた中央の采配も、地の利・人の和を計算した妙が有る。
倪は’87 年に世代交替の流れで政治局から退いたが、15 年後の党大会で其の「先鋒隊」の所属は中華民族に変った。彼と入れ替る形で政治局に入った全国労働模範経験者の李瑞環は、政治局常務委員・全人代委員長の職を退いたが、無産階級の付加価値の剥落も感じ取れる。工業革命に次ぐ情報技術革命の潮流に対応する様に、政治局常務委員の9人衆は理科出身の高学歴者の集団だ。「文革」中「臭老九」(9番目の鼻撮み者[悪名高い人種])として軽蔑された知識人(連載次回分参照)も、雌伏の末に至福の番に成った。
猶、「志福」の「志」は「士・心」から成り知識人の精神の理想を成す(註131 参照)が、「志」と「心」を共有し画数が同じの「忍」も、「雌伏→至福」の文脈に現れる(後述)。
55)1968 年1月21 日、朝鮮特殊部隊がソウルの大統領官邸から数百bの処で警官隊と銃撃戦を展開し、休戦以来の最大事件として韓国に衝撃を与えた。翌日に逮捕された人民軍少尉は記者会見で、第1の目的は朴大統領の暗殺だと述べ、韓国陸軍情報部隊と偽って38 度線の検問所で難無く通過したと説明した。本稿筆者は昨年観光バスで青瓦台の正門前を通った際に、周辺の厳重な警備ぶりを観て3分の1世紀前の一幕を実感できなかった。侵入を軽易に許した南側の「心中賊」の慢心と共に、簡単に白状した北側の「山中賊」の「心中賊」の恐怖も、本稿では重要な意味を持つ。
但し、本質的示唆は言うまでもなく敵の頭の首を取る執念だ。歴史の螺旋状的展開を思わせる波状攻撃として、1974 年の在日韓国人青年に由る朴大統領暗殺(未遂、夫人死亡。本文参照)に続いて、1983 年10 月9日に全斗煥大統領も訪問先のビルマで狙われた。国立墓地内の殉難者廟で閣僚多数を爆死した蛮行は、国際社会に対する朝鮮の挑戦と断じ得る。米国はクリントン時代の1994 年初に朝鮮を、イラン・イラク・キューバ・リビア・シリア・スーダンと共に「無法(成らず者)国家」に数えたが、年央に死去した金日成の時代の彼の国は、「恐怖活動支援国家」の定義を超えた恐怖活動実施も目に余る。
本稿筆者は此の事件で韓国側への同情を禁じ得ないが、朝鮮の仕業と断定した彼等の「北傀」の表現が腑に落ちない。毛沢東政権も韓国を合法国家と認めず、米国の代理人の意で「南朝鮮傀儡政権」と呼んだので、冷戦時代の左様な蔑称はお互い様で一笑に付すが好いが、北朝鮮をどの国の傀儡と視たのかが気懸りだ。若し中国を指したのなら全くの買い被りで、「枉担虚名」(徒に虚名を負う)と言いたく成る。『紅楼夢』第77 回・「鬟抱屈夭風流 美優伶斬情帰水月」に出た「担了虚名」(浮名を立てられた)は、賈宝玉との恋情を勘繰られ追放の身に成った晴が臨終の際に、其なら成る様に成れば好かったのにと言う後悔を込めて吐いた恨み言だ。中国は「実恵」(実利)志向に徹する今も、其の類いの「枉担虚名」の誤認を免れ切れていない。仮面を脱いで離縁するわけには行かぬ宿命であり、「中国脅威論」と同じ過大視され易い老大国の悲劇である。
56)朝鮮の日本人拉致工作の全容は明らかではないが、越南統一の刺激で武力統一の意欲が湧き、中国の支持を取り付ける為に対韓顛覆工作を強化するのが契機だった、と言う説(重村智計。『現代用語の基礎知識、2004』、自由国民社、2004 年、11 頁)は、共産主義運動内の「“左翼主義”小児病」(註86 参照)や「窮鼠」の冒険(註57 参照)を思わせる。但し、欧州まで越境した行動力や日本語教育係の需要は、善悪は別として国際社会との「掛鈎」(連結。註85 参照)の変種に思える。其の意味では此の国は国際社会に於いて、「孤児」と共に「畸形児」の性質も有る。
57)「悪の枢軸」「成らず者(無頼)国家」のレッテルは、和製漢語の「極悪非道」を連想させるが、此の熟語に当る中国流の「窮凶極悪」(凶暴・邪悪の限りを尽くす。王を評した『漢書』の賛が出典。類義語に「窮極凶暴」「窮極凶虐」)は、「窮極凶悪」に直せば朝鮮の極貧→冒険の実態に合う。
58)「寧贈友邦、不賜家奴」の出処は調査中だが、外国に屈した領土割譲を正当化する為の西太后の言とされ、蒋介石の対日譲歩の発想も中共側の文献で斯く記述されたりした。筆者が文化的見地から興味を覚えたのは、「寧〜不〜」の発想と「贈・賜」の表現である。
事を決断する中国人の基準には、「両害相衡取其軽」(2つの害を天秤に掛けて其の軽い方を取る)と有るが、其に沿う様な「〜より寧ろ〜」は、消去法的「避悪」(「選好」と表裏一体の危険回避。筆者の造語)だ。
一方、「贈・賜」は自他の優劣・親疎に関わらず、待遇表現として中国社会の原理の基軸の一部を成す「礼」の働きを思わせる。倶に「貝」偏が付く字形は「礼物」(贈り物)の字面・語意と共に、中国の礼法感覚の即物的側面を示唆するが、其々の右の「曾・易」は「滄海之変」(後出本文参照)と結び付けて吟味すれば面白い。
59)『辞海』(上海辞書出版社)の語釈に拠ると、君主の側近の悪人を意味する此の熟語は、『公羊伝・定公13 年』の「此逐君側之悪人」が原型だ。李商隠『有感』詩の「古有清君側、今非乏老成」、『新唐書・仇士良伝』の「如奸臣難制、誓以死清君側」が古例に挙げられたが、李は毛沢東が好きな詩人で『新唐書』は彼の愛読書だ(逝去直後の『人民日報』に載った蔵書写真は、其の「中国的マルクス・レーニン主義」の二重性を写して、『資本論』と『新唐書』の組み合わせだ)。
林彪は「文革」初期に此の成句も用いて、古今・中外の例を挙げ宮廷政変への警戒を唱えた(註21、63 参照)。歴史の鑑は最後に彼自身の「奸臣」(註179 参照)の正体を照らし出したが、古典の引用は中国の言説の頂点と基盤に有る政治思想の影響力を思わせた。
60)正面からの攻撃は防ぎ易く闇討ちは防ぎ難いと言う此の熟語は、多くの俗諺と同じく元曲が出典である。「槍」は近代以降に鉄砲の意が持たれ、現代の「火箭」(ロケット)も「箭」の派生語なので、漢語の戦闘的激情を増した塞外の騎馬民族(註132 参照)の影響が感じられる。
61)第4次中東戦争の勝敗は諸説が有り、専門外の筆者は当然ながら断定し難いが、埃及の勝利は初期の奇襲効果ならともかく、敵の占領地拡大を許した最終結果から観れば鵜呑みに出来ない。
62)阿Qの「精神勝利法」は造形者・魯迅の意図の通り、国民性の弱点として認識されているが、本稿筆者は其の体面に拘る自己欺瞞の部分と共に、字面が示唆する精神主義や勝利願望の側面にも注目したい。
63)1966 年5月16 日に政治局拡大会議が採択した『中共中央通知』(通称・「5.16 通知」)は、「文革」の思想的綱領に当る。8月8日に中央総会が可決した『中共中央の無産階級文化大革命に関する決定』(通称・「16 条」)は、具体的実施指針の性格が強い。
64)多数の観光客の命を奪った点が一緒であるが、即死しなかった者を1人1人至近距離から止めを刺す形で処刑した手口が特に残忍だ。犯行現場のハトシェプスト女王葬祭殿を訪れた事が有るだけに、筆者は其の古代文明の遺蹟との落差に戦慄を禁じ得なかった。猶、近年インドネシアで起きた特に質が悪い恐怖活動として、1998 年の中国系住民に対する現地人の集団虐待が真っ先に思い浮かぶ。衆人環視の中の懲罰的輪姦の同時多発は、コソボ内戦中の「民族浄化」の大義を掲げた強姦よりも卑劣だ。
65)張涛之『中華人民共和国演義(6)毛沢東時代の終焉』に拠れば、「4人組」逮捕直後の政治局会議で、党中央弁公庁(事務局)主任で要人警備の総責任者・汪東興は、「4人組」の政変計画や粛清予定者の一覧表を示し斯く述べた。「此処に居る委員の皆さんは、処刑予定の一覧表に載っているのです。彼等の反革命政変が成功したら、貴方たちは1人残らず断頭台に上る事に成っています。」此の情報には全員が怒りに震え、お蔭で誰もが我先に態度を表明し逮捕が満場一致で支持された、と言う。(海江田万里監修、伏見茂・陳栄芳・陳宝慶訳、冒険社、1997 年、141 〜142 頁)
著者は中国新聞史学会副秘書長も務める教授だから、演義の体裁を取った記述とは言え完全な虚構とは考え難い。他の書物にも散見される(青野・方雷『小平在1976 下 懐仁堂事変』、春風文芸出版社、1993 年、353 頁)が、公式発表ではないし具体性も乏しい(青野・方雷の記録小説では、関係者の告発を基にした「在座的全得上断頭台!」の殺し文句が出たが、処刑予定表の提示云々は無い)ので、信憑性に疑問が付く。仮に事実であるならば、自ら陣頭指揮を執った政変を肯定する情報操作として理解できるが、処刑計画とは大義を虚構する細工であろう。党中央が「4人組」逮捕後に出した断罪の通達の中で、彼等に対する毛の非難が断片的に織り込まれたが、断章取義とする批判が江沢民時代に出た(青野・方雷『小平在1976 下』、267 頁)。
尤も、処刑は林彪が提案し毛沢東が却下した王光美処刑の様な銃殺刑とは限らぬ。王の夫・劉少奇の軟禁後の獄死は、「軟刀子殺人」(軟らかい刀で人を殺す。真綿で首を絞める。陰謀で人を殺す[陥れる])の通り、実質が変らない「軟処刑」と言える。其の陰湿な「殺人不見血」(人を殺して血を見せぬ)も、「兵不血刃」(註47 参照)の変種に数えられる。故に上記の嚇かしは真偽はともかく、恐怖心を煽り自衛本能を擽る効果が十分有ったはずだ。
風説に拠れば、汪の前任として党中央弁公庁主任を務め、「文革」中「中国のベリヤ」と糾弾された楊尚昆も、動乱が成功すれば我々は1人残らず断頭台に上る事に成ろう、と天安門事件の際に党中央軍事委員会のNo.2として言った。噂かも知れないし言葉の綾に過ぎぬ可能性も有るが、上記の台詞と共に被害妄想を誘発する既視感が窺われ、ルーマニア共産党党首の処刑への「兎死狐悲」(兎死すれば狐これを悲しむ)心理の理解に役立つ。
66)汪東興等は「4人組」一掃の方策として、ベリヤ粛清の方法で会議を名目に極秘に逮捕しよう、と華国鋒に提案した(註65 文献、108 頁)。曾て毛沢東はソ共党史の研究を提唱したが、中共が「老大哥」(兄貴)と尊んだ世界初の社会主義国家の歴史は、此の様に諸々の形で中国の鑑と成った。毛も1965 年に上海で会議を名目に総参謀長・羅瑞卿を拘禁したが、ベリヤ逮捕劇が無くても老大国自身の歴史に手本が幾らでも有る。猶、羅瑞卿粛清と「4人組」逮捕は、先ずは悲劇で次に喜劇の形で現れる歴史の再演(本文・註12 参照)に映る。
67)「以血洗血」は『旧唐書・源休伝』が語源で、類義語には「以血濯血」(血を以て血を濯う)、「以血還血」(血を以て血の仇に還す)、「以血償血」(血を以て血を償う)が有る。英語の“Blood will have blood”(血は血を求める)も同じ発想だが、殺戮を以て殺戮に報いる事を主張する此の種の成句は、血腥さを嫌う日本人の感覚には馴染まない。「血債要用血来償(還)」(血の債務は血で償還せねば成らぬ)の熟語は勿論、「血債」の語彙も日本語には無い。
戦争の匂いがする「血債」は巡り巡って、円建て外債の異名・「サムライ債」を連想させるが、此の頃に有力視された人民元立て外債の愛称案・「熊猫(パンダ)債」は、敵を造らず憎みを買わぬ憎らしい微笑戦術の知恵が滲み出る。
猶、サムライ債の初登場は1970 年12 月の亜細亜開発銀行の発行だが、’87 年に世界銀行が最初に発行した特別円貨債券の別名・「大名債」は、高度成長期の猛烈さに似合う「サムライ債」と比べて、泡沫経済期の優越感を漂わせた観が有る。此も筆者の個人的感想であるが、人民元立て外債が2004 年中に世界銀行の発行で初めて世に出る見通しは、日中の約3分の1世紀ほどの発展時差の一例に成る。
68)年1回開催の全人代の開幕日を調べた処、興味深い発見が有った。第7期第1〜5回(1988 〜’92年)は3月下旬に集中し(其々25 日、20 日、20 日、25 日、20 日)、第8期第1、2回(’93、94年)の3月15 日を経て、’95 年以降は1回(’97 年の3月1日)を除いて全て3月5日と成った。周恩来所縁の此の日付は定番として今後も定着していきそうだが、 小平が表舞台から身を引いた後に中旬へ繰り上げ、江沢民体制の完全自立の直後に実務派名宰相の名残を強調したのは、漸進的脱皮(拙論・「共産党中国の4世代指導者の“順時針演変(時計廻り的移行)”(1)――理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化新論」[本誌16 巻1号、2003 年]参照)を映す変遷に思える。政治的祭祀の時機設定は此の様に深意を持つ場合が多く、其の符号の読解も演出者の心底を覗き得る効果が儘有る。
69)「4人組」は1974 年の林彪・孔子キャンペーンで、周恩来を「当代の大儒」として槍玉に上げた。極左派が貶す意で用いた「大儒」は本来、非凡な教養・度量を礼讃する言葉だ。本稿でも「周公吐哺、天下帰心」(本文参照)と呼応して、原義を以て其の名宰相ぶりを賞讃するのだ。一方、大戦・冷戦時代に跨ったソ共党首を「鉄人」の異名を付けたのは、本名を変えて自ら命名したStalin の「鋼鉄の人」の意と、共産党員は特殊な材料で造られた者だと言う彼の主義に因る。
剛と柔の対に映る2人は対立・統一の弁証法を現わす様に、独裁者の「裁」と「宰相」の「宰」は通じ合う。スターリンは靴屋の息子で周は官僚家庭の出身だが、後者の「刀筆」(筆で人を斬る。官吏や法曹者の辣腕の形容)は、靴屋や独裁者の刃物と同じ鋭さを持つ。
猶、東北亜細亜の共産圏内の相剋を象徴する類似の「天数」として、朝鮮民主主義人民共和国の建国(1948 年)記念日(9月9日)と毛沢東の命日(1976 年)の重畳も思い浮かぶ。逆に、中国の国慶節と韓国の建軍節が同じ10 月1日である事は、国交樹立(1992 年)後の2国の親和の必然性を思わせる。
70)其の逆転勝利と「油断大敗」(「油断大敵」に因んだ筆者の造語)は、中共の指導者に貴重な経験と強烈な教訓を遺した様だ。毛沢東も「文革」発動の際に政治局での劣勢を懸念し、林彪の軍隊の力を借りて優位に立った、と言う観測が有る。小平は葉剣英に「4人組」逮捕を提案する際に、正常の手続きを踏んで政治局会議で評決に掛け彼等を罷免するのを、逆に敵の陰謀に掛かった了いかねない「下策」とし、フルシチョフが中央委員会でマレンコフを倒したソ連の教訓には目を背けぬと言った(張涛之『中華人民共和国演義(6)』、101 頁)。
胡錦涛の総書記就任後に側近集団は江沢民の院政を打ち破る為、フルシチョフの成敗を研究し中央委員会と政治局の勢力図を分析した、と海外で報じられた。「他山之石、可以攻玉」(他山の石以て玉を攻むべし。出典=『詩経・小雅・鶴鳴』)の伝統や、中共・ソ共の同根性を思えば、事実だとしても大袈裟な事ではない。一方、〈神舟号〉の名付け親で党中央軍委主席の江が有人宇宙飛行の発射現場に現れず、党首・国家元首の胡が民族の盛典の画龍点睛の主役と成った一幕は、海外の指摘以上の意味が有ろう。江→胡の権力移行の順調や政治民主化の進展を示す事例として、系列論考で後に改めて取り上げるが、歴史の既視感に重点を置く本稿で注目したい現象は、39 年前のソ共の権力闘争でも有人宇宙飛行の出征式が暗示的役割を果した事だ。
1964 年10 月11 日の有人宇宙船〈ボストーク〉発射の直前、フルシチョフがクレムリンからテレビ中継で飛行士・カマロフ大佐に壮行の辞を送った処、第2書記・ブレジネフが側で突然割り込んで、地上に戻って来る時には私が迎えに行くよと口を出した。不快そうに其の場を後にした党首は2日後、軍・KGBに別荘から中央委員会臨時総会に連行され、劈頭の党中央書記・スースロフの問答無用の動議で解任された。当人も動転の余り挙手し満場一致の賛成と成り、歴史の笑い種を遺した。此の一幕を冒頭(8〜 10 頁)に飾った張涛之の『中華人民共和国演義(4)文化大革命』(註65 文献と同系列、1996 年刊行)は、新華社と外交部はフルシチョフ退陣の数日前の其の出来事から、ソ連指導部に地滑り的交代劇が起るだろうと踏んでいた、と言う。
自国の洞察を誇る最後の記述は後講釈の可能性も有るが、歴史物語や人間劇は好く然様な「細節」(細部)に鍵が隠れる物だ。林彪は1966 年5月18 日の政治局拡大会議で宮廷政変の危険を警告し(註21、59 参照)、蘇洵『辨奸篇』の「月暈而風、礎潤而雨」(月に暈が掛かると風が吹き、礎が湿ると雨が降る。事が生ずる前に必ず徴候が有る譬え])を引いた。彼も5年後に「奸」と辨別されたのは誠に歴史の諷刺だが、「蘇東波・蘇東坡」の連環(註44 参照)と絡んで、蘇聯(ソ連)の件の異変の前触れは蘇東坡の父の此の命題を裏付けた。
1969 年の党大会の主席(議長)団選挙で毛沢東は、林彪を主席に推し自分は副主席に成ると唐突に提案し、林は慌てて辞退した。此の逸話は演義小説の効用(註74 参照)を示す様に、多くの「大説」(註127 参照)に典型例として盛り込まれたが、No.2に掛けた忠誠試験と捉えれば、上記のソ共の政争の一齣も1つの誘因に思える。林彪の自己防衛とブレジネフの自己顕示は、中国的老成と露西亜的単純を物語る事例に成るが、既視感や擬似既視感の再生・拡大が被害妄想の台頭・増幅に繋がる危険と共に、系列論考で詳解したい。
71)1898 年、明治維新に倣った「変法」(制度・体制変革)運動が起き、維新派の宮廷政変は守旧派の逆宮廷政変で百日足らずで頓挫した。翌年、梁啓超が「中華民族」の概念を打ち出し、民族主義の高揚を点火した。
72)其を裏付ける資料は手元に無いが、1969 年7月下旬、恰度15 歳を迎えた筆者は当局の禁令を顧みず、「敵国放送」のVoice of America(中国語名=〈米国之音〉)を秘かに聴いた処、彼の歴史的出来事と共に此の諷刺的論評に接した。同時代の中国人が其の出来事から受けた衝撃や、情報封鎖に愚弄された悔しさの証言として、内蒙古の生産建設兵団に在籍した或る紅衛兵が後年の自伝で斯く書いた。1969 年の夏・秋の交に我々は烏梁素海畔に赴き、無類の情熱と盲従を発揮し血と肉で「修正主義を阻止する鉄鋼の長城」の建設に取り掛かった。後で知った事だが、其の年に米国の〈阿波羅号〉が月に登った。地球の此方側で我々は未だ嬉々として、「刀耕火種」(焼き畑作業)を遣っていた。(暁峰・明軍編『毛沢東之謎』、中国人民大学出版社、1992 年、322 頁)
本稿筆者は黒龍江省小興安嶺の営林所に行かされる前に其の情報を耳にしたが、中国最大の都会・上海に居ながら月面着陸の光景と意義が実感できなかった処に、当時の鎖国「防火墻」の厚さが窺われる。農村での住み込みを強いられた「知識青年」は其の時代でも、左様な原始的畑仕事を「修地球」(地球の修理)と自嘲した。毛沢東の「地球籍」維持の掛け声(註81 参照)は所詮、敵と己の両方を知らぬ「空砲」(註79 参照)に過ぎなかった。
猶、学術的に「火耕農業」と言う「刀耕火種」は、『旧唐書・厳震伝』の「梁漢之間、刀耕火耨」が語源だ。其の記述は梁・漢時代の陜西省南部の有様だったが、毛沢東時代の同地域も原始的耕作方式から余り脱していなかった。陜西の中心・西安で2003 年10 月に起きた反日暴動の背景には、近代化・全球化の潮流に落伍した窮乏も指摘された(註37 参照)が、中共開国世代の負の遺産と言わざるを得ない。逆に、内蒙古の草原が同月の有人宇宙飛行の離陸・着陸の舞台と成った事は、米国の有人飛行船月面着陸の頃の同自治区の生産建設兵団の「修地球」を思い起せば、大変な飛躍と言えよう。
73)「孤立の枢軸」は筆者の造語だが、曾て「鉄(竹)幕」(鉄[竹]のカーテン)と呼ばれた共産圏や、今の所謂「悪の枢軸」諸国だけでなく、「栄光有る孤立」を志向せぬ国・地域も切り口に因っては、此の範疇に入れる。日本も孤島の属性や文化の特異性、一国平和主義の故に、「世界の孤児」の性質を一部帯びている。
74)公式的に9月3日と成っている胡志明の逝去は、実際は建国記念日の2日であり、越南は祝典と弔問が同日に出来ないと考慮し、意図的に死亡日を1日ずらした、と言う(張涛之『中華人民共和国演義(5)』、14 〜 15 頁)。著者の経歴・立場(註65 参照)や中国での許容(原典は1995 年本国で刊行)から、事実無根の「國際玩笑」(飛んでもない冗談。天下の笑い草)とは思えないが、中国や世界では越南の公式発表が定説として認識されている。
小説より奇なる事実に基づく故「大説」は次元が高い、と筆者は別の文脈で仮説を立てた(註155 参照)が、「大説」(註127 参照)にも伝奇小説的部分が儘有る。毛沢東は野史小説の受け止め方として、「不可全信、不可不信」(全て信じても行けず、全く信じぬのも行けない)と唱えたが、正史にも「不可全信」の節が多い。
2000 年南北朝鮮首脳会談の歴史的合意文書も、実際の調印は6月14 日23 時30 分の事だが、「北朝鮮が縁起を担いで“4”が入っている14 日を避け、15 日に拘った為」、日付けは通称・「6.15共同宣言」の通りに成った(崔源起・鄭昌鉉著、福田恵介訳『朝鮮半島のいちばん長い日』、東洋経済新聞社、2002 年[原典= 2000 年]、111 頁)。
歴史は然様に虚実皮膜の処が多いが、忌避理由の「四・死」の同音は中国語も一緒だ(註84 参照)。司馬遼太郎は亜細亜的専制の根強さを説いた(註128 参照)が、地文化学の面では亜細亜的「言霊」も変り難い。復帰後の日本初登場の面会人に彼を指名した張学良(註155 参照)も、張作霖が1928 年6月4日に関東軍に爆死された後は自分の誕生日(6月3日)祝いを止めたが、親子の生死の日付の連環は演義・縁起の相関を示唆する。71 年後の天安門事件の日付とも成った6.4は、中国語の語呂合わせで「路死」を連想させるが、2回の惨劇の形態と不気味に符合する。
阪神大震災の死者数の6433 も「三・散」の同音から、中国的感性でも不憫な印象が涌き易い。日本の政治の世界でも大安を選び仏滅を避ける傾向が強いが、縁起担ぎの動機には滅亡の既視感に囚われた被害妄想も有り得る。政治的「図強」(強盛を図る)と文化的「図吉利」(縁起を担ぐ)は、不安と健気の同居が共通する。
75)中国医療チームが胡主席の臨終に立ち会った関係も有り、周は逝去の情報を即時に把握した。直ちに毛と相談した結果、ソ連首相を避けるよう自分が先ず告別式に赴き、葬儀には李先念副総理を派遣する事に成った。訃報が正式に発表された(註74 参照)翌日にハノイへ飛び、遺体との対面を済ませると直ぐ帰国した。因みに、葬儀は9月9日に執り行なわれたが、7年後の同じ日に毛沢東が死去し、此の日は東北亜細亜の2つの共産党国家の葛藤が絡む因縁の日と成った(註69参照)。
76)コスイジン首相はハノイを離れる前に、北京に寄って周恩来と会談する用意が有ると中国駐越大使に伝えたが、経由地のドゥシャンべ(タジク共和国首都)で同意の電報を受け、急遽東へ折り返した。東南亜細亜→中央亜細亜→東北亜細亜の迂回は、広くて狭い亜細亜の中の近くて遠い両国の離・合を示した逸話だ。
77)中日平和友好条約締結の2日前(1978 年8月10 日)、 小平副総理(当時)は園田直外相に対して、中ソ友好同盟条約は早くに効力を失っているとの見解を正式に表明し、翌年4月の廃棄宣言の予定を披露した。此までに失効の実態を言明していないのは、当条約を重視していない事の証拠だ、とも語った。(外務省極秘公電。石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光編『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』、岩波書店、2003 年、190 〜 191 頁)当時の外務省アジア局長で、後に駐中国大使(1984 〜 87 年)を務めた中江要介は、此の一齣を振り返って次の様に述べた。日本側は平和友好条約締結の前提として、日本を敵視する中ソ友好同盟の破棄を主張したが、中国側は此の理屈を素直に認めながら、廃棄の手続きを取ろうとせず、逆に露わにソ連を標的とする「反覇権条項」の挿入を強く主張した。左様な二重基準・二枚舌は許せないと言う日本の反論に対して、中国側は到頭「名存実亡」を唱え、日本側も残存期限の僅少や長年の中国の反ソ政策を勘案して、其を公式記録に止めて置こうとの事に落ち着いた。「しかし、しかし、である。この論法は、将来某年某月某日、中国が突如として日中平和友好条約の反覇権条約は今や“名存実亡”であると言い出し、覇権主義に走る余地を残してはいないか。約束はあっても(名存)、守らなくてもよい(実亡)、という手前勝手を是認した訳ではないことを肝に銘じておく必要がある。」(「日中平和友好条約締結交渉の頃――4つのエピソード」。同上、299 頁)誠に鋭い見解ではあるが、其の認識を持ちながら何故もう少し待ち切れず敢えて「禍根」を遺したのか、と聞きたく成る。更に指摘したいのは、本当の有名無実化の危険は部分的「反覇権条項」よりも寧ろ、自ら容認した中ソ間の前例の様に日中平和友好条約の方ではないか。日本人は全体を断片の堆積と視る傾向が有りそうだが、常識の枠内で几帳面に思考・行動しがちな其の気質は、「超限戦」(註127 参照)を生んだ中国の精神風土と対極に在る。
78)『満江紅・和郭沫若同志』(1963 年1月9日)。日本語訳=竹内実(武田泰淳・竹内実『毛沢東その詩と人生』、文藝春秋新社、1965 年、385 〜 386 頁)。
79)毛沢東はニクソンとの会見で、革命を呼び掛ける自分の色々な標語を「空砲」と自嘲した。
80)『周礼・地官』が出典の「国門」は、古代では都の城門や其を司る神、其を守る官を指し、今は専ら国の境・入口を表わす。毛沢東が「冒険主義」として批判した赤軍時代の「御敵於国門之外」(敵を国門の外に阻止する)戦略は、中共が江西省に創設した「中華蘇維埃(ソビエト)共和国」を基にしたので、日本語の「国境」と同じ地方を指す場合も有るが、東・南の国防要地(註134参照)を「東大門」「南大門」と言う形容の様に、全土の門戸が一般的である。
日本でも「開国」「門戸開放」の表現が有るのに、「国門」の語彙が無い事は、島国故の国境意識の曖昧さの証と取れる。島田雅彦の『美しい魂』(新潮社、2003 年)の主人公は、先ず家庭内での背徳行為に因り家から勘当され、更に後で皇太子妃に選ばれる事に成った不二子との禁断の恋の所為で権力から海外に追放された。前者では親が「二度とこの家の敷居を跨がないように告げるつもり」(247 頁)と有るが、後者の場合は「国の敷居」云々は出て来ない。因みに、「国門」と一対の「家門」は日本語にも有るものの、一家一門を表わす抽象的用法が多い様だ。
81)1988 年春節頃に上海の『世界経済導報』が論説キャンペーンを張り、中華民族の最も喫緊の課題は依然として「球籍」の維持だと主張した。改革・開放が9年経ったのに窮乏の解消に至らず、国民所得水準が依然として世界の最下位層に在る現状に苛立って、多くの識者が呼応し改革・開放の加速を呼び掛けた。
猶、50、60 年経っても米国に追い付けない様では地球籍を剥奪されて了う、と言って毛が定めた米中比肩の期限は、中共建党百周年の2021 年の前後に当る。其の頃を人口減少に入る転換期とした観測が昨今の持続高度成長の国家戦略の大きな根拠だが、国力が2030 年頃に米国並みに成るとの論調が最近台頭した事は、謀らずも毛の強迫観念に合致する。
82)「球籍」論争(註81 参照)で改革加速の気運が高まる中で、 小平は趙紫陽等の発案に由る価格体系改革を決断した(註89 参照)が、改定案が新聞に発表された途端に全国的に買い占め・取り付け騒動が起きた。強硬突破の計画は結局頓挫したが、金融機関が預金の引き出しに応じぬ非常事態の同時多発で、国家破綻の様相さえ呈した。本稿で論じた現代中国史の38 年周期を念頭に置いて眺めれば、建国39 周年を目前にした此の試練は存亡に関わる分岐点と言えよう。
’66 年6月の「文革」動乱に対して’88 年8月の金融動乱を大写しにしたのは、筆者の文学的想像・表現ではない。同月15 〜 17 日に北戴河で挙行された党中央政治局会議で、価格・賃金改革に関する初歩的方案が採択された。16 日に中国人民銀行は通貨膨脹を退治すべく、建国来最大の幅で各種金利を引き上げる(9月1日より実施する)事に踏み切った。此等の政策発動を受けて
「搶購潮」(換物騒乱)が一気に高まり、8月の通貨膨脹率は空前の23.2 %に跳び上がった。9月26 日に開幕した第13 期第3回中央総会で、物価高騰・通貨膨脹を抑制する為の経済環境整備等の調整策が打ち出され、事態は漸く沈静化に向った。
83)「文革」は党の内外の別に因り複数の始動点が有った(註63 参照)が、党の「喉舌」たる報道機関を使って全民に発した最初の総攻撃の信号は、1966 年6月1日の『人民日報』社説・「掃除一切牛鬼蛇神」(妖怪変化を一掃せよ)と、同日夜の中央人民広播電台(放送局)で流した聶元梓の「大字報」(壁新聞)だ。後に首都紅衛兵5大領袖の1人に成った北京大学哲学学部講師の「造反」言説を、毛沢東は「全国初のマルクス主義の壁新聞」と褒め称え緊急放送を決めたが、「各地人民広播電台聯播節目」(各地放送局ネットニュース)で聞いた事が、色々な意味で本稿筆者の現代中国史研究の原点と成った。
84)毛沢東が初めて天安門広場の紅衛兵大集会(1回目は百万人参加)に臨んだ年月日の1 9 6 6.8.1 8は、語呂合わせで「一久禄禄発一発」(俸禄・貫禄が長続きし一儲けする)と講釈し得て、最高の吉日とも見做せるが、其の日を境に造反の気焔が爆発し災禍が猛烈に拡散した。8は「発財」(財成)の「発」に発音が近い故に、「一路発」や「発一路」を連想する1 6 8や8 1 6等、「吉祥数」組み合わせを多く派生しているが、其の附加価値に余分な金が掛かる「牌号」(プレート・ナンバー)を取り付けた車も、「車禍」(自動車事故)を免れ切れない。江沢民時代に流行した運転席の毛沢東バッジの御守りも、走行安全に必ず繋がる奏効は有るまい。
「吉祥数(ラッキー・ナンバー)」が万能に程遠い事の例証として、太平天国の「命数」(寿命の数)も思い浮かべる。
1851 年1月11 日の一揆で始まった其の反逆の終焉は、一般的に天京(南京)陥落の1864 年7月19 日(同治3年6月16 日)とされ、捻軍が山東・徒駭河で敗北した1868 年8月16 日(同治7年6月28 日)の説も有る(『辞海』「中国歴史紀年表」の註解)が、両方の旧暦・西暦が含んだ616、816 は、中共が意識形態から礼讃して止まぬ其の激動劇の顛末を諷刺している様だ。
尤も、毛沢東の「文革」構想で言う「天下大乱を経て天下大治に達する」終息と見做すなら、其の「吉祥数」は不相応とも言い切れない。捻軍の山東戦敗に因る太平天国の完全終結の恰度120 年後の1988 年8月16 日、建国後最大幅の金利引き上げ決定が通貨膨脹を加速させた(註82 参照)。干支の2巡の経過は歴史の連環を思わせるが、抜本的外科手術に由り新たな「発一路」を導く起点とも見て取れる。
数の講釈の恣意の可能性を示す様に、史上最盛の版図を記録した王朝の唐と清(註171 参照)は其々、縁起の好い618 年と不吉な1644 年(「四・死」の同音は日本語と一緒だ。註74 参照)に発足した。更に翻って思えば、清に滅ぼされた明の1368 〜 1644 年の数は栄→枯の表徴にも見える。
85)「接軌」と関連する中国語の「掛鈎」は、「連結器で列車を連結する」「関わりを持つ」「コネ(渡り)を付ける」「(為替レート)連動する」「(列車車輌等の)連結器」等の意が有る。中国が初めて自力で鉄道・(北)京−張(家口)線の建設(1905 〜 09 年)の責任者・天佑が考案した「掛鈎」は、長らく「天佑鈎」の名で中国の鉄道史の誇りとされて来た。其の創意工夫は『辞海』に特筆されていないが、1912 年に中国工程師(技師)会会長に就任した彼の存在感はやはり歴史に残る。初代鉄道技師の彼は百年後の中国の軌道を敷いた様に米国留学組だが、人民元と米ドルの「掛鈎」(連動)も「国際接軌」であり、逆に亜細亜金融危機を凌いだ要因の国際資本との遮断は其と合わせて、鉄道事情の落後で複線が未だ贅沢な中国の形而上の「双軌(複線)制」の一例に成る。
86)ソ連の若い党首を北京に出向かせた処に、老大国・中国と古参世代の小平の貫禄が発揮された。
折角の晴れ舞台がぶち壊されたの憤懣は、武力鎮圧の決断の一因と成ったのなら筋違いだが、人情の常を考えれば察するに余り有る。因みに、日本語の「折角」は字面でも双方の激突→妥協の容易ならざる様に合致し、「台無しにする」は中国語の「拆台」(土台をぐらつかせる。失敗させる。梯子を外す)に通じる。
筆者が此の一齣に拘る理由は先ず、天安門事件の最大な転換点と観る故だ。歴史の回顧ではifの仮設は禁句とされるが、若し若者が血性に任せず知性で自制していたなら、戒厳・流血が回避された可能性も有ろう。レーニンが『共産主義内の「左翌主義」小児病』(1920 年)で批判した「“左派”幼稚病」は、ゴルバチョフの天真爛漫な「新思考」と軽挙妄動の急発進も一緒だったが、少壮派の焦燥と老大国の貫禄は系列論考で重要な対立軸に成る。
外交に於ける貫禄の効用を示す例として、翌年に同じ東北亜細亜を舞台にした一幕が連想される。「90 年9月、自民党の当時の“実力者”金丸信が北朝鮮を訪れ、金日成の貫禄に食われたのと、あえて酒宴の後の深夜に交渉を持つという北朝鮮側の外交的数策に翻弄されたのとで、いわゆる“戦後賠償”を含む、朝鮮労働党、社会党、自民党の“三党共同宣言”に署名した。」(関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」「この国のかたち」の10 年』、文春文庫、2003 年[単行本= 2000年]、54 〜 55 頁)自民党の二重権力構造で院政を敷いた金丸は側近から、「日本の小平だ」「否、小平が中国の金丸先生」と提灯を付けられたが、買い被りも「国際玩笑」(註74 参照)に成れば流石に滑稽だ。幸田露伴は「支那人は老成で、日本人は若い」と断じた(系列論考で詳述)が、貫禄は別に国土の大小、歴史の老若と正比例しない。13 年後の同じ9月17 日に訪朝した小泉首相も、彼より1ヵ月若い金正日(註118 参照)の交渉術に嵌まった。其の日は奇しくも故金丸信の誕生日に当るが、同世代の金日成(1912 〜 94 年)に意の儘に操られた金丸(1914 〜 96 年)の二の舞いの観も有る。究極の処やはり血は墨より濃く(註157、182 参照)、滅亡体験の多寡が決定的であろう。
国民総生産との別の「国民総精彩」(註102 参照)には、此の様に道徳的に中立な智慧も有る。現代世界の戦国時代でも昔の中国と同じく、小国は「軟実力」で大国を負かし得る。日・中共通の「若・弱」の同音(中国語では倶にruo ロウ)は此処で、若さでなく初心さの脆弱を示唆する。
87)張涛之『中華人民共和国演義(6)』に拠れば、 小平は葉剣英に「4人組」逮捕を提案する際に、政治局会議で罷免を動議する正攻法を下策と見做し(註70 参照)、上策は華国鋒等の協力で電撃逮捕し政治局の承認を取る手だとしたが、此処では「中策」に注目したい。曰く、「貴方が軍事委員会を代表して軍隊を指揮し、問題を解決するよう行動する。更に服従しない者には、兵を擁して服従するよう迫る事だ。然し此の方法は、当面は問題は少ないけれど、逆に後が面倒だ。」(101 頁) の「4人組」逮捕画策の事実関係は後の系列論考で、上・中・下3本同時献策の伝統と絡めて追及したいが、物価体系改革や天安門事件平定の決断に当っても、彼は色々な得失の想定に基づいて、理想的解決から不本意な対処まで複数の選択肢を用意したはずだ。
88)「一念之差」は『景徳伝灯録』が出典であり、一寸した考え違いで重大な結果・誤謬を引き起す事を指す。「一念」は佛教用語として極めて短い瞬間・刹那を言い(註120 参照)、「〜之差」の成語も其処に由来した。興味深い事に、日本語には此の警句は無く(漢語専門の『角川大字源』でも未収録)、代りに中国では馴染まぬ「一念天に通ず」が『広辞苑』に項を持つ(『角川大字源』の「一念通天」と同じく出典不明)。
89) 小平は1988 年5月19 日、人民武力部長(国防相)・呉振宇大将が率いた朝鮮政府軍事代表団との談話で、5つの関を突破し6人の将を斬る関羽の故事を引き合いに出して、価格体系改革の強行突破の決意を語った(「理順物価、加速改革」、『小平文選』第3巻、262 頁)。彼は「過五関斬六将」以上の困難を予想したが、実際にも急進が失敗と怨嗟を招き、1年後の同じ5月19日の首都戒厳令布告の遠因の一部とも成った。謀らずも証明された先見の明は聞き手の選択にも現れ、其の伝授を受けた朝鮮も2002年夏に物価給与体系の大手術を敢行し、当年の中国以上の通貨膨脹が惹起された。
90)1989 年の和解から2001 年の善隣友好条約締結の間の変化として、1994 年の「建設的パートナー関係」の結成、2年後のエリツィン大統領訪中と「戦略的パートナー関係」への昇格が有った。
91)『紅楼夢』第6回・「賈宝玉初試雲雨情 劉姥姥一進栄国府」が出典の此の熟語は、権勢・経済力が衰えた家でも並みの家より持っている意だ。鮮度に価値を置く日本流の「腐っても鯛」に対して、規模や構えを重んじる中国人の感覚は好く出る。毛沢東は清の満族作家・曹雪芹の此の名作を世界に誇る中国文化の至宝としたが、馬を尺度とし西域の駱駝が登場する処に、中華民族に於ける騎馬民族の側面や康煕の「華夷一家」論の定着の傍証に成ろう。
92)「資源の枢軸」は筆者の造語で、主に中東産油国や露・豪・加・南アを指す。資源は「硬実力」の総合国力の中で、軍事力に比べて「軟」の形象も有るが、立派な資本や「王牌」(切り札)に違い無い。痩せて瀕死に成っても馬より大い駱駝の底力(註91 参照)を体現する様に、此等の資源強国は沙漠地帯に在ったり外部に裁かれたりしても、駱駝めく忍耐や其の「瘤」の蓄積のお蔭で不死身の儘だ。
米国も石油や金等の資源が豊富なものの、消費や準備に回す分が産出量を凌ぐし、資源需要国の筆頭とするのが相応しい。2003 年に米国株式市場の復活(紐育ダウ工業株30 種平均、ナスダック総合指数は其々25.3、50.2 %上がった)にも関わらず、米ドルは軟調(中国流では「疲軟」、註14 参照)に陥り、対照的に豪・加・南ア等の資源国の通貨は突出した堅調(中国流では「堅挺」)を見せた(豪ドル対米ドルの年間上昇幅は38 %)が、其の二極の対立軸を物語る事象に思える。
同年の世界商品相場の騰勢の要因の1つは、「世界の工場」・中国の「黒洞」(ブラック・ホール)的需要だ。毛沢東時代のお国自慢には「地大物博、人口衆多」が有ったが、国土の広大の故の物産の豊富も人口の過多に因り、相対的不足と認識されるに至った。経済大国の日本は森林面積が国土の7割に上り、同14 %の中国に比べて「癒し」の資源が多いが、工業・戦略資源では絶対的窮乏と言って能い。中・日がシベリアの天然ガス確保を巡って熾烈に争い、露が両国を手玉に取っている展開も、21 世紀の世界史を占う動向である。
斯くして、資源の多寡と実力の強弱は一定の相関を持つ。「資源の枢軸」は「悪・欲の枢軸」と違って本来は無色だが、貪欲が膨らみ末に悪道へ走りかねない危険は、自然資本の「瘤」が累と成り国際社会の目の上の瘤(中国流では「眼中釘、肉中刺」)に化したイラクが示した。
93)『荀子・勧学』が出典の「青出於藍而勝於藍」の下の句は、「氷水為之而寒於水」(氷は水が之を為して水より寒し)と言う。倶に弟子が先生を凌ぐ可能性を説く名言だが、厳寒・出色の両義は正に「酷」の「冷厳・精彩」の両面だ。「神舟5号」は外観こそソ連の「聯盟号」(ソユーズ)に似ているが、中身は中国独自の物で性能も先発のソ・米より優れていると言った自讃は、正に「出藍之誉」(出藍の誉れ)の宣揚だ(註109 文献30 〜 31 頁の他、多数の言説の中で特に目を引いたのは、2003 年10 月17 日『人民日報』に載った中国載人航天工程総設計師・王永志の談話だ。[中国飛船]と題する長い取材録の相当部分は、ソ連モデルを超越した点の主張である)。
94)有人宇宙飛行成功に関する日本の報道・論評には、此の日付の符合に注目した向きは見当らない。筆者は土地勘・言語感・歴史鑑の効用を論じる他の論考で、此の事象を当世日本の中国観察の弱点の例証に挙げる予定だ。興味深い事に、『産経新聞』が翌月14 日に伝えた此の事実に就いての指摘は、米国海軍大学のジョンソンフリーズ教授の論評だ。曰く、「中国の神舟計画は(略)一貫して人民解放軍によって独占的に進められ、象徴的にも同5号の回収が、中国初の原爆実験成功の記念日(1964 年10 月16 日)に合わされた程だった。」更に意味深長な事に、中国の政府筋の報道も此の符合には余り言及していない。世界の「有人宇宙飛行倶楽部」入りを誇っても、「核倶楽部」と一線を劃す姿勢(註109 参照)と併せ考えれば、意図の奥秘を意図的に包み隠す韜晦が見え隠れする。
95)中国の月面探査計画は有人宇宙飛行の成功で弾みが付き、2010 年代の実現を目指す発言が目立った。他の国は左様な意欲を見せていないので、2番手に成る見込みが高いが、此の事象は最盛期のソ連も敬遠した程の絶大な贅沢を浮き彫りにした。21 世紀の世界史の主軸と成り得る米中の競合と「双贏」(共に勝つ。註109 参照)、及び両国の政治文化や国民性の共通性も窺える。ブッシュが2004 年1月14 日に打ち出した月面、火星への有人探査(其々2015、’30 年以降)、恒久的月面基地の建設の計画は、大統領選挙の支援材料にする政治利用の魂胆が見え見えだ。米高官は曰く、「火星探査車〈魂〉の着陸成功を受け、野心的宇宙開発計画を公表する好機と受け止めた。」(『読売新聞』2003 年1月9日夕刊)但し、世論の支持率が5割に止まった事から、8日後の一般教書演説では逆に一言も触れず了いだった。
96)『水調歌頭・重上井崗山』(1965 年5月)。
97)『宣州謝楼餞別校書叔雲』。日本語訳=目加田誠( 塘退士編、目加田誠訳註『唐詩三百首』1、平凡社、1973 年、184 頁)。
98)『広辞苑』の「こよなし」の語釈:「(“越ゆなし”の意か。よい場合にも悪い場合にもいう)@程度がこの上ない。格別である。A他と比べてことのほかに違っている。かけ隔たっている。B甚だしくすぐれている。かけ離れてまさっている。C甚だしく劣っている。かけ離れて劣っている。」
99)1935 年1月に貴州省遵義で開かれた党中央政治局拡大会議。毛の正式な党首就任は其の後の事だが、軍事指揮の最終決定権が与えられた事は中共の公式見解の通り、事実上の党首に推された事を意味する。
100)日本語訳=竹内実、註78 文献、166 〜 167 頁。 
101)中共中央文献研究室編『毛沢東詩詞集』、中央文献出版社、1996 年、54 頁。作者の述懐を引いた解説は此の2句を、「他自以為頗為成功」(頗る成功したものと彼が自認した)と紹介した。他の作品の講釈には見当らぬ異例な自讃から、毛の偏愛ぶりが露わに現れる。猶、「以為」は「認為」と同じ「〜と認識する(考える。見做す)」意の他に、思い込むや錯覚の意味合も有るので、当人の思い入れや選好を表わすのに恰度好かろう。但し、本稿筆者も墨と血で出来た此の対句及び詞全体は大変素晴らしいと思い、評伝・『毛沢東』(岩波新書、1989 年)の結び(199 頁)を此の一作で飾った竹内実の慧眼に敬服した。
102)「国民総精彩」の訳し方の考案者は、米誌に最初に出たGross National Cool の其と同じく不明だが、日本語の「精彩せいさい」と「生産」の発音の近似を生かした名訳と言える。此の2つの単語は中国語で其々jingcai、shengchanと読み、発音面の接点が薄いが、意味上の関連に因り受容・活用し易い用語である。筆者が考案した中国流の対応は、「国民総産値」(国民総生産)と同音の「国民総産智」だ。
Gross National Cool の「軟実力」の性質も、「酷」の冷厳・精彩の両面も、此の「智」に凝縮されている。中国の最大な資本と安全装置は「三達徳」(註43 参照)の首位の「智」に他ならぬが、「共産・総産」や「産値・産智」の相関と絡めて系列論考で詳解する。
103)『角川大字源』の解字に拠れば、「柔」は「形声。意符の木と音符の矛ボウ→(うまれる意=乳ジュ)とから成る。生え出たばかりの木の新芽の意。ひいて、“やわらかい”意に用いる。一説に、象形指事で、木と、枝の撓んだ様に因り、しなやかな木、ひいて、“やわらかい”意を表すという。」
「酷」の両面性と通じて「柔」も「矛+木」の字形の通り硬質性を秘めたとは、筆者の今風の恣意的講釈であるが、上記の解字の通り漢字は様々の解し方が有り得るし、更に我田引水に言えば、日本の準国技・柔道も名称の字面とは裏腹の不屈不撓の精神や力業に因り、「酷」の「果敢・精彩」の両面を帯びる。
104)原文は「物質変精神、精神変物質」で、出典は「人的正確思想是従里来的?」(1963 年5月)だ。人の正しい思想は何処から来るのかと言う標題の問いに対して、毛の自答は曰く、正しい認識は概して、物質から精神へ、精神から物質へ、即ち実践から認識へ、認識から実践へ、という様な往復運動を何回も経て初めて完成する。
此の文章が書かれた翌年の核兵器実験の成功も、然様な物質→精神→物質の変化と解釈できる。
林彪が毛沢東思想を「精神的原子爆弾」と礼讃したのは、其の実績を考えれば誇張でもない。此の1節は『毛主席語録』「22 思想方法と活動方法」に収録され、「文革」中広く流布した。解放軍総政治部編の『毛主席語録』は、建軍38 周年の1965 年8月1日に世に出たが、20 世紀中国乃至世界の最高発行部数(一説では50 億冊)を記録し、中国の1つの時代を導いた此の書物の出現も、本稿で筆者が直観した中共の軍・国史の38 年周期の例証に成る。
105)複数の文献に出ているが、日本語版で特に詳細な記述は、楊中美著、青木まさこ訳『胡錦涛――21 世紀中国の支配者』(日本放送出版協会、2003 年[原典=『胡錦涛――中共新領袖』、2002 年]48 〜 49 頁の件だ。
106)周恩来と温家宝が天津南開中学を卒業したのは、其々1917、’ 60 年の事である。
107)出処不明の此の対の熟語は、「時勢造英雄」(時勢は英雄を造る)が先に有って、逆の「英雄造時勢」は後で派生したと思われる。「物質変精神、精神変物質」(註104 参照)と合わせて、形而下(物質や環境)→形而上(精神や豪傑)の経路が窺える。
108)日本語に無い「航天」(宇宙航空)は、大気圏内の飛行を表わす「航空」に対して、大気圏外・太陽系内の飛行を指す。用例に中央官庁の「航天工業部」(宇宙航空工業省)等が有り、スペースシャトルも中国語で「航天飛機」と言う。
109)「国家画報」なる『人民画報』の2003 年11 号の特集・「中国首次載人航天飛行全記録」では、「世界航天載人倶楽部的第三個成員」(世界の有人宇宙飛行倶楽部の3番目の成員)を誇る記述が有った(12 頁)。「核倶楽部」に関して中国は一線を劃す立場を堅持して来たが、核保有が外交の有力な後ろ盾と成る国際社会の現実は、当事国の主義主張に関わらず「倶楽」(倶に喜ぶ)の部類の区分を可能にする。猶、近年の中国が唱えている「双贏」(共に勝つ。win–win の訳語)の理想は、「倶楽」と字・義の両方で対応する。
110)「天遣」は中国でも使用頻度が低く、類義の成語の「神差鬼使」(神や幽霊が為せる業)の方が馴染まれるが、正義の使者を気取る米国の「天兵」を皮肉る意味も込めて、此処で使った次第である。
111)「天遣洪荒」の用例として、〈回首20 世紀〉大型紀実叢書の「凶年災禍巻」(陳剛編、北岳文芸出版社、1993 年)の題名が有る。日本語に無い「洪荒」の語釈は、『角川大字源』の「@広大でとりとめないさま。〔千字文〕“天地玄黄、宇宙洪荒”。A宇宙の初め。太古」に比べて、『辞海』の「謂渾沌、蒙昧的状態。也指遠古時代。謝霊運『三月三日侍宴西池』詩:“詳観記牒、洪荒莫伝。”」は、負の形象が若干強い。
112)朱建栄は『毛沢東のベトナム戦争 中国外交の大転換と文化大革命の起源』(東京大学出版会、2001 年)で、中国側の文献を駆使して同論文の意義や内幕を検証した(459 〜 504 頁)。党中央の指示で総参謀部「写作組」(執筆グループ)が書き、林彪は署名に同意したものの発表前に目を通さず、因って海外で言われた「林彪・羅瑞卿論争」は実在しなかった、と言う件が特に印象的である。本稿の論旨に絡んで論評をすれば、林彪の校閲拒否は建国後の厭戦情緒(註146 参照)の現れとも取れ、林・羅の軍事戦略を巡る論争の幻影は海外の中国観察家の無知と考え過ぎの好例だ。
113)「農村包囲城市」とは毛沢東が唱え、建国前の内戦・抗日戦争で奏功した戦略である。林彪署名論文で其を敷衍した図式は、「世界の農村」の亜細亜・アフリカ・ラテンアメリカ対「世界の都会」の西欧・北米だ。
114)毛沢東等は「小米加歩槍」(粟に歩兵銃)を以て、建国前の中共軍の兵糧・装備の窮乏を形容した。「大米・白面」(米・[上等な]小麦粉)に劣る「小米」さえ無く、草創期には南瓜の汁で凌ぐ時が有ったが、飛行機・大砲を持つ敵に勝ったのが彼等の自慢だ。因みに、毛が一目に置き建国初期(1954 〜 58 年)に総参謀長を務め、初代10 大将の筆頭であった粟裕大将の氏名は、粟中
心の食糧事情→「温飽」(衣食の基本的保障)の解決→「小康」(一応の余裕)の進化の表徴に成る。朝鮮戦争で中共軍の主食は「炒面」(糢。麦焦がし)で、保存食の故に乾燥無味で食傷気味やビタミン不足を起したが、雑穀が一部混じったものの「白面」へ昇格し肉も入った事は、一歩前進と言えなくもない。
115)中共軍の表徴として建国前の「栗+歩兵銃」に対して、建国後の場合に「高射砲+核兵器」を挙げた理由は、先ず、兵糧の基本的保障の実現に因って兵器の強化に重点が移った事や、「鉄砲から政権が生まれ」(毛の言)た後に国防が軍の至上命題と成った事だ。
鉄砲の次世代の兵器の代表格に高射砲を選んだのは、装備や待遇の飛躍的改善を言う俗語の「烏槍換砲」(猟銃が大砲に換る)と共に、朝鮮戦争で制空権の無い故に犠牲を払い、越南戦争への出兵支援の主力が高射砲部隊だった事を念頭に置いたのだ。因みに、栗裕の総参謀長(註114参照)が1958 年10 月に解任されたのは、其の直前の金門島砲撃を契機とした空中戦で国民党軍に大敗した事が、空軍に力を入れて来た彼に響いた、と言う観方も有る(山田辰雄編『近代中国人名辞典』、霞山会、1995 年、737 頁。執筆者=平松茂雄)。
「高射砲+核兵器」の組み合わせは通常兵器と究極の大量破壊兵器の対であり、原始戦法から原子時代への脱皮を反映する意味も有る。彭徳懐元帥は「有原子弾、我有山薬蛋」(敵に原子爆弾有り、我にジャガ芋有る)と、「蛋・弾」の語呂合わせを以て草創期の強味で米軍に対抗できると唱えたが、其の時代錯誤的精神主義に対して中国は毛沢東時代から、「両弾一星」(核弾[原子爆弾・水素爆弾]・戦略導弾、人工衛星)の開発に力を入れた。
中共軍の「鉄砲→政権奪取」の歴史から推し量れば、中国の核兵器保有に世界制覇の意欲を嗅ぎ取るのも無理も無いが、国際社会の一員に成る前と成った後の本質的差は無視できない。21 世紀初頭の「電脳+宇宙飛行船」の対の共通項も、道義的に「全球化」時代に適応し軍事的に「兵不血刃」(註47 参照)を図る両重の平和目的だ。
116)旧日本軍の兵器と中共の歴史の繋がりとして、陸軍の主力戦車・「89」式と解放軍の’89 年の天安門事件での戦車出動も思い浮かぶ。20 歳で学徒出陣し翌1944 年に満州に渡り、四平の陸軍戦車学校を卒業し牡丹江の戦車部隊に入った司馬遼太郎は、「89 戦車」に思いを巡らす言説が多く有る(「戦車・この憂鬱な乗り物」「戦車の壁の中」「石鳥居の垢」[『歴史と視点― 私の雑誌帖』、新潮文庫、1980 年]所収)。栃木県佐野で敗戦を迎えた彼は、敵が九十九里浜に上陸すれば自分たちは戦車と共に南下するが、其の際に北上の避難民が街道を埋め尽くしているはずだと考えて、参謀本部から来た若い大尉に対応の方針を訊ねた処、暫しの沈黙の後「轢き殺してでも行け」と言われ、日本軍は遂に国民を守る軍隊ではなかったと深い絶望感を味わった(「石鳥居の垢」、同上、89 〜 90 頁)。市民・学生へ問答無用で猛進した中共軍の戦車の姿は、内外で尋常ならぬ衝撃と失望を惹き起したが、是非・善悪に関らぬ戦争や軍隊の冷厳さは、上記の一齣に既視感が有るわけだ。
117)彭徳懐は1950 年12 月1日、38 軍の軍団長・梁興初、政治委員・劉西元宛ての電報で、三所里・龍源里で国連軍の撤退を阻止した同軍の死守と戦勝を表彰し、最後に「中国人民志願軍万歳! 38軍万歳!」と結んだ。異例の「万歳」は数人の副司令官の異論を招いたが、彭は此の至高の賛辞を変えなかった。(王樹増『中国人民志願軍征戦紀実(上)』、解放軍文芸出版社、2000 年、353 〜354 頁)此の種の逸話の独り歩きし易い性質も有って、長い間「38 軍万歳!」は内外で毛沢東の言として伝えられたが、故郷が至近距離に在る彭と毛は倶に英雄主義者と激情家だから、語り手に関らず中共軍の本質を象徴する価値は変らぬ。
118)年齢30 歳前後、飛行経験800 〜 1000 時間以上が宇宙飛行士に成る条件とされたので、選抜時に32歳で有人宇宙飛行まで1350 時間の戦闘機操縦を経験した楊は、最適の年齢層に在ると言う(註109 文献、24 頁)。飛行直前まで候補に残った「最終梯隊」の3人(註121 参照)は、奇しくも37、38、39 歳であった(『人民日報』2003 年10 月16 日)が、其々核兵器実験成功、越南戦争支援開始、「文革」勃発の年に生まれた事は、象徴的意味を持つ。
因みに、空軍降下部隊(中国流では「空降兵」)教官出身のガガーリン少佐は、「ソ連英雄」の殊勲を立てた時には27 歳の若さだったが、7年後ジェット機の訓練中に事故死した。
ソ連の初有人宇宙飛行の23 日後の1961 年5月5日、米国は軌道飛行の前段階なる有人弾道飛行に成功した。人間容器に乗って大気圏外の185 `の高空に昇ったシュバード海軍中佐は、3700時間(内半分はジェット機に由る)の飛行経験と2人の娘を持つ37 歳だった。単純な比較は無意味かも知れないが、今次の中国の人選は米国基準に近いと思える。
米国の人間「飛弾」(ロケット)発射の一齣は系列論考でも取り上げるが、中国の有人宇宙飛行に投影した別の既視感として、7人の宇宙飛行士から最終に3人が残った事や、15 分弱の初挑戦に全米が興奮の極みに浸り欧州記者が複雑な心境に陥った事(『朝日新聞』1961 年5月6日夕刊)が有る。東京都知事・石原慎太郎や宇宙航空事業団理事長・山之内秀一郎等は、中国の成功は40 年前のソ・米の焼き直しに過ぎぬと冷やかに観たが、曾ての米国に抱いた欧州の負け惜しみも感じる。日本政府は2004 年1月29 日、総合科学技術会議(議長・小泉首相)の半年前の「当面放棄」の結論を覆し、独自の有人宇宙飛行の早期実現を目指す方向を打ち出したが、国産ロケット発射の連続失敗と中国の躍進に対する焦りが丸見えだ。
119)「黄金分割」は『広辞苑』の説明の通り、「(golden section)1つの線分を外中比に分割すること。(√5 − 1):2(ほぼ1対1 . 618)長方形の縦と横との関係などを安定した美感を与える比とされる。」外中比を与える数の「黄金数」は、(√5 + 1)/ 2 又は其の逆数だ(同)が、1対1 . 618 か0 . 618 は余り有名なので、片方の0 . 382 は影を薄めがちだ。
猶、西洋の黄金分割の数値は奇しくも、語呂合わせで中国の「吉祥数」に成った618(註84 参照)と吻合する。
120)『広辞苑』の「弾指」の語釈は、「(タンジとも)〔仏〕@許諾・歓喜・警告のため指をはじいて音を出すこと。大鏡道長“いかに罪得侍りけんとて、−はたはたとす”A極めて短い時間。わずかの間。弾指頃(きょう)。“−の間”」。『辞海』の「弾指」では其の両義の順は逆と成り、@の「比喩時間短暫」の定義に続いて、仏経では20 念を1瞬とし20 瞬を1弾指とした、と言う説明や出所(『翻訳名義集・時分』)も付いている。刹那を表わす佛教語の「一念」(註88 参照)は弾指の400分の1に当るが、指を凌ぐ心の動きの速さを思わせる2つの物差しは、「弾指」の「弓+単」「+旨」と「念」の「今+心」の象徴性と合わせて、後に展開する「超限戦」論の示唆に成る。
121)「梯隊」は軍隊用語として行軍・戦闘の際の梯形編体・梯陣を指し、最近は幹部集団の各世代に譬える用法も多い。漢語専門の『角川大字源』にも無い此の言葉は、日本語では対応が付き難い。強いて言えば「梯団」に近いが、大体1桁に限る範囲は度を重ねる飲食の「梯子」と妙に通じる。
122)楊利偉は1997 年に1500 名余りの戦闘機操縦士から抜きん出て、初代宇宙飛行士の14 人の1人と成った。今次の飛行の直前に各種のテスト(特に心理テスト)で1位、最終候補3人から一頭を抜いた(註109 文献、26 〜 27 頁)猶、残留組の聶志剛・聶海勝が肩を並べて、「梯隊」の文字通り彼の後に付いて飛行船に向う場面は、競合相手の「倶楽・双贏」(註109 参照)の光景として筆者には印象的だ。
123)第1回連載の原稿で「この土のかたち」と記し、編集長の反対で「国」に変えたわけだが、司馬遼太郎の着想が興味を引く。Nation でもState でもなく日本のLandを書いてみたい、と彼は構想の段階で語り、更に1986 年央の手紙で斯く書いた。「明治の最初はNation です。憲法が出来てState になります。それでもサラ地に国家をつくれば、アメリカみたいにState のみになりますが、日本でもフランスでもスペインでも、Nation がふろしき(もしくは土壌、土壌菌)になってState ができています。ときどき、よきNation 成分があらわれ、ときどき悪しきNation 成分があらわれます。悪しきNation 成分とは、小生によれば昭和10 年〜同20 年の歴史です。早く、江戸期を書きたき思いなり。」(関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」』、36 〜 37 頁)124)拙論・「現代中国の統治・祭祀の“冷眼・熱風”に対する“冷看・熱読”――“迎接新千年”盛典を巡る首脳と“喉舌”の二重奏と其の底流の謎解き」(『立命館言語文化研究』14 巻1号・3号[2002 年]連載)参照。
125)「感覚良好」は報道の文章化に因って、「我感覚良好」と成った場合も有る(註109 文献、12、13頁)。実際の音声とは違うものの、中国的主我意識が好く出た主語の付け方だ。其は医学監督医師への応答であった(13 頁)から、中国的人本主義の「己身中心」(我が身中心)の「身本主義」(注164 文献参照)の発露とも思える。
126)彼の愛読者を公に自認した首相は橋本龍太郎・小渕恵三(佐高信の発言[井上ひさし・小森陽一編著『座談会 昭和文学史3』、集英社、2003 年、332 頁])の他に、古くは中曽根康弘、近くは2003 年に彼に政界引退の引導を渡した小泉純一郎も居る。其の官民の「困った時の司馬さん頼み」現象(関川夏央の発言。同、331 頁)は、同時代中国の指導者・知識人を魅了した前清3帝伝記小説熱(註165 参照)とは、同工異曲の好一対である。
127)「大説」は『広辞苑』『角川大字源』『辞海』の何れにも出ていないが、『礼記・表記』が出典の「大言」([天下国家]の大事に関する言説)に近い。対概念の「小説」は、取るに足りない詰まらぬ議論と言う『荘子・外物』の原義から、世間話・怪談・寓話・随筆の総称に転じ、更にnovel の訳語に用いられたのだ。
本稿の論旨に関わる「大説家」の用例として、藤井厳喜の「石原慎太郎=大説家」説が思い浮かぶ。『石原慎太郎 総理大臣論――日本再生の切り札』(早稲田出版、2000 年)の此の件(224頁)は、小説家出身の論客・政客に対する著者の期待を表わす妙味が有る。国際問題分析家・藤井は、『テロから超限戦争へ――すべての場所が戦場となる』(廣済堂出版、2001 年)の中で、自ら参加した「『超限戦』研究会」の存在と活動を披露したが、此の「超限戦」は本稿で後述する9.11奇襲の既視感の重要な一部だ。問題の『超限戦――両個空軍大校対全球化時代戦争与戦法的想定』(限界を超える戦争――グローバル化時代の戦争と戦法に対する2人の空軍大佐の想定)は、中国空軍専属作家の喬良・王湘穂に由る(解放軍文芸出版社、1999 年。日本語版=坂井臣之助監修、劉訳『超限戦―― 21 世紀の「新しい戦争」』、共同通信社、2001 年)が、1952 年生まれの藤井と同世代の筆頭著者・喬は、出生の1955 年に芥川賞を獲った石原と同じく、小説家として名を馳せた後「大説」の領分に進出したのだ。
其の難解な軍事理論著書を読み解くに当って、小説・「大説」を跨ぐ複眼が必要であるが、20世紀の中国と日本に於ける然様な二刀流の大家は、其々魯迅と司馬遼太郎が思い当る。司馬に対する世紀末日本の指導者の傾倒(註126 参照)を端的に象徴する様に、2000 年4月1日深夜に小渕首相が脳梗塞で倒れる際、司馬作品に拠るNHK 特集・『街道をゆく』の録画を観ていた。一方、
毛沢東は「文革」発動の決断に際して魯迅を精神の支柱とし、臨終前に最後に接した書物も魯迅の作品であった。
魯迅は中共に同情的で赤軍の長征を描く小説も構想したと言うが、不発に終ったのは司馬並みの軍事的思考力(註155 参照)の欠如も一因と思える。世相や言説、歴史から国民性を掘り下げた魯迅と対照的に、司馬は政治・経済面の国家の大計にも目を配った。彼は日本近・現代史の40年周期を指摘し、日露戦争終結の1905 年の日比谷公園焼き討ち事件(9月5日)に国を誤らす「鬼胎」を見た(『この国のかたち』第3回・「“雑貨屋”の帝国主義」)。其の「魔の40 年の季節への出発点」は間も無く百周年を迎えるが、中国現代史の起点と成った1919 年の5.4運動も、妥協的講和に憤慨した若者の焼き討ちなので、両国の大衆の民族主義が昂ぶった今や其の洞察は甦って来る。本稿では2国の前世紀最大の小説・「大説」家を照射の光源に、地政学と地文化学(註155 参照)の交差点で温故知新を試みたい。
128)其の膨大な言動から例証を一々挙げる余裕は無いが、李登輝との意気投合や「日本は必ずアジアでなくともよい」論が先ず思い浮かぶ。筆者の興味を特に引いた彼の其の辺の観方は、関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」』に記された談義だ。彼は共産党時代も含む中国の政権の亜細亜的専制の伝統を喝破しながら、亜細亜で其の伝統を脱した例外的指導者として李登輝と朴正煕を挙げ、其の無私の精神は日本の近代化の影響でもあると語った(122 頁)本稿筆者は司馬遼太郎を尊敬する(註127 参照)だけに、江沢民も太刀打ちできぬと海外で観られた李登輝の複雑さを見抜き切れなかった処に遺憾を覚えた。所謂「流民の国」の徹底的現実主義の本質を把握していただけに、尚更心残りが強い。但し、其は日本の親台派に多い植民地統治への郷愁と異なり、理想主義に因る心情的共鳴として理解したい。李・朴も近代日本も結局は亜細亜的専制の伝統から抜け出せなかったと筆者は観るが、其の伝統打破の希望を込めた「脱亜」論には頷ける。但し、私心無き理想主義者はそもそも出難いだけでなく、ゴルバチョフの例を考えても現実は甘くない。本稿で触れたノーベル平和賞の当否にも絡むが、彼が1990 年ノーベル平和賞を受賞した直後のソ連解体の決断は、後世の歴史では必ずしも評価されないだろう。
129)司馬遼太郎は編集者に会う度に相手の出身地を推理し、当初は好く当ったのに1980 年過ぎぐらいから推理できなくなった、と言う事象を挙げて関川夏央は、地方文化の色彩が薄れたと語った(註126 文献、330 〜 331 頁)。
此の逸話は司馬の土地勘・言語感・歴史鑑の三位一体をも示したが、初対面の人に出身地を訊ねる流儀は中国でも多い。毛沢東や周恩来は広域の省だけでなく県まで訊く場合も儘有ったが、其ほど郷土は人間の遺伝子や背景の肝心な一部だ。因みに、彼等が其の次に家族の構成と職業を好く訊いたのは、より即物的人物像を探る意図が根底に見え隠れする。
「人の虚勢や虚像を見破る眼」(註123 文献、64 〜 66 頁)で有名な司馬遼太郎は、挨拶に来た『文藝春秋』の新任編集長に射竦める様な目で見詰め、当人に「要するに人物評価をしている(略)。採点されている」気分を味わわせた(137 頁)。林彪の「毒」(鋭い)眼(註141 参照)にも通じるが、中国語の「打量」は正しく値踏みする様に人を見詰める事に言い、其の字面の「兵+商」の複合は系列論考で重要な意味を持つ。
130)「漸退」は「漸進」の反対語で、日本の静かな衰退の実感に基づく本稿筆者の造語だ。
131)和製漢語の「飛行士」「操縦士」は、中国語で其々「飛行員」「駕駛員」と言うが、「戦士」「兵士」「士官」「力士」等の言い方は両国が共通し、中国語では職業や職位等を表わす「士」が多く(例えば「護士」[看護士・看護婦]、「中士」[二曹]、学士)、「闘士」等の使用頻度も日本語より高い。両国の古代の「士農工商」の序列で首位を占めた「士」は、中国では武士より文官の意味合いが圧倒的に強いが、20 世紀の戦乱・抗争の中でも屡々引用された『礼記・儒行』の「士可殺不可辱」(士[知識人]は殺しても構わぬが、辱しめては成らぬ)の様に、文武を問わず「士」は字形通り「志」の核心を為す。
其の意味では両国とも精神史の頂点に「士・志」の伝統が有るが、中国語に於いて此の2字は同音ではない。深読みをするなら、「士」と同音の「史・詩・施・事」等は、「士」の資質(教養や行動力等)を示唆し、「志」と同音の「知・智・治・致」は、理想と実践、仁と智、知性と治世の相関を反映する。
132)司馬遼太郎は1941 年(18 歳)旧制弘前高等学校を受験し、失敗して大阪外国語学校の蒙古語科に入学した。露西亜文学や『史記』の列伝を愛読し、「塞外の民族」の集団としての運命に関心を持った。(大河内昭爾編「司馬遼太郎年譜」、井上靖等編『昭和文学全集18』、小学館、1987 年、1061 頁)其の司馬遷と草原の対は、武田泰淳が輜重補充兵として1937 〜 39 年に行かされた華中で構想し、同時期の1943 年に刊行した評伝・『司馬遷』(日本評論社。5年後に『史記の世界』と改題し、青柿社より刊行。後に再び『司馬遷』に戻った)の論考対象の読解にも示唆的だが、彼の心酔は日本人の騎馬民族の一面及び遊牧精神の衰退をも思わせる。因みに、本稿筆者が愛読する司馬遼太郎の作品には、名高い『この国のかたち』(『文藝春秋』連載、1986 〜 96 年)や巨編歴史紀行・『街道をゆく』(『週刊朝日』連載、1971 〜 96 年)と並んで、『草原の記』(新潮社、1992年)が特に感銘が深い。
猶、同じ頃の大阪外国語学校の印度語科に陳舜臣が在籍した事は、言説に於ける宇宙情念の中・印の強烈と日本の稀薄の違いや、中・日の遊牧精神の濃淡と結び付けて考えたい。
133)『史記』や塞外の民族への傾倒(註132 参照)に似合って、其の筆名の寓意は「司馬遷」に「遼」(遥かに遠し)である。彼は本名・福田定一に羞恥と嫌悪を長らく抱き(「自分の作品について」、『國文学』1973 年6月号。『歴史の世界から』[中公文庫、1983 年]所収、307 頁)、其は戦争の記憶が付き纏う所以だと推測されるが、文筆活動が始まった翌年の1956 年の筆名の登場は、恰度同年の『経済白書』が宣言した「もはや戦後ではない」時代の暁の出来事だ。
134)唐以降「安東」の名称は延々と踏襲され、「安撫・平定」の語感を嫌ってか(註155 参照)「丹東」に変えたのは、意外と遅い1965 年の事である。明初に設置された中越辺境の国防要地・鎮南関は、先ず1953 年に「睦南関」と改名し12 年後に「友誼関」と成った。昔の宗主国意識と訣別する意志表示として有意義な転換だが、皮肉な事に中朝は改名の直後から不仲が表面化し、越南も其の2度の配慮に関わらず中国と反目した。
135)「神の国」は森喜朗首相の失言。就任早々の2000 年5月、「日本は天皇中心の神の国」と言って世論に敲かれた彼は、後に記者会見で照れ隠しの為か、メモ用紙を示し今日は紙の話をすると駄洒落を言った。当世の日本政治家の存在の堪え難い軽さを示した一齣だが、美智子皇太子妃の基督教信仰が皇室の神道の伝統に抵触した故の受難(所謂1963 年の「宮中『聖書』事件」)を思い起すと、「神の国」も一理が有ろう。
両国に多い語呂合わせの原理に即して言えば、中国語で同音の「神・聖」も中国の上部構造の頂点であり得る。猶、1990 年代以降の指導部は上海閥で固まっていると言われたが、上海の略称・「申」は「神」の字形の半分を為し発音も同じだ。
136)「意志」と「意思」は日本語では混同しがちだが、中国語では発音も意味も異なり、後者は意味・主旨の意が強い。
137)天文学的数字の出費は貧困層が多い中で物議を醸し出し、当局は経済的付加価値を強く主張したが、中国的「名利双収」(名・利を倶に収める)願望を考えれば不思議ではない。
興味深い第三者の報道として、『ニューズウィーク』日本版の「中国の極秘“宇宙野菜”計画」(2003 年10 月29 日、20 〜 21 頁)に注目したい。重力低下や地球の宇宙磁場、宇宙線の影響で突然変異を起し、巨大化や成長の加速、栄養の増加等が期待できるとして、数十種の種子・苗木を積んで行った事は、「1bの巨大胡瓜」計画の様に「異想天開」(奇想天外)と思われようが、「民以食為天」(民は食を以て天と為す)の伝統に沿った「天・食」の結合だ。同記事の副題は「有人宇宙飛行を成功させた“エンジニア指導者”の果てしない野望」と言うが、日本語の「胡瓜」(中国語=黄瓜)の字面は奇しくも其の集団の首領の姓を含める。
日本の衛星発射基地・種子島(鹿児島県)の名や、宇宙飛行士が天外から無重力状態を詠む俳句を首相に贈った逸話が連想されるが、此の報道に登場した「飛鷹緑色食品公司」の会社名も象徴的だ。「飛鷹」と「緑色食品」(無添加自然食品)の対は、楊利偉が宇宙飛行中に持ち上げて見せた国旗と国連旗の組み合わせと同じく、国防と平和、兵器の進化と「慈化」(註15 参照)に関わる。其の論考は後に譲るが、筆者は台湾産の茶の種子の搭載に引っ掛かった。政治的演出として当然の事であるが、茶なら大陸には名品が数々有るので、其の出番は和製漢語の「茶番」の味も漂った。
138)単に「綏中県」と記す報道が多いが、彼が最初に登場した『人民日報』2003 年10 月16 日の複数の記事では、其々「遼寧省綏中県」「遼寧葫蘆島市綏中県」と紹介された。
139)葫蘆島の地名は湾岸で突出した葫蘆風の形が由来だが、日本語で「葫蘆」より馴染み度の高い「瓢箪」の熟語を此処で借用したわけだ。「瓢箪から駒が出る」は中国語で対応し難いが、意外の方向から意外のものが現れる事に近い比喩として、「半路上殺出個程咬金」(途中で程咬金が飛び出る)が思い浮かぶ。李世民時代の人物で『隋唐演義』にも登場し、斧を揮りかざす蛮勇で巷に有名な程咬金は、兎角首を賭ける『説岳全伝』の牛阜(註142 参照)や『水滸伝』の李逵(系列論考で後述)と三重映しに成るが、葫蘆島→瓢箪の延長線に出た駒を「千里駒」に敷延したのは、「千里馬」(註160 参照)と類義の此の美称(出典=[清]趙翼『余叢考』)と遼西戦場との所縁(註158 参照)の所以だ。
140)中共が公式に発表した「解放戦争3大戦役」の戦果は、遼瀋(遼西・瀋陽・長春)戦役は敵軍47万人殲滅、平津(北京・天津・張家口)戦役は殲滅・改編52 万人(約半分が改編)、淮海(徐州中心の山東・河南・江蘇)戦役は殲滅55 万人、と成っている。最も重要な「殲敵」数(註16「傷其一指、不如断其一指」参照)では淮海戦役が一番であるが、遼瀋戦役は敵の精鋭が多い(註150 参照)ので、質的には最大な創傷を与えたわけだ。
141)日本語独特の「天王山」は、「京都府乙訓郡大山崎町にある山。海抜270 b。淀川を挟んで男山に対し、京都盆地の西の出入口を扼する形勝の地で、付近一帯史跡に富む。1582 年(天正10)羽柴秀吉と明智光秀とが山崎に戦った時、この山の占領を争い、秀吉の手に帰した。これが両軍の勝敗を決したから、勝敗の分れ目を“天王山”という。」(『広辞苑』)中国で該当の表現が無い事の理由には、1ヵ所の1回の戦例が代表格に成り切れぬ国土の広大と戦争の多発が有る。山海関が「天下第一関」と呼ばれる事は、軍事的要地の関所の多数の存在を浮き彫りにする。遼西の戦略要地・錦州の南18 `に在る松山で、曾て総兵・洪承疇の率いる明軍13 万人が清軍に敗れ、「改朝換代」(註173 参照)の転換点と成ったが、張万隆の『雪白血紅』の第10 部(28 〜 29 章)・「塔山!塔山!」(香港版、天地図書有限公司、2002 年、405 〜 438 頁)の枕として引かれた此の一齣は、松山の知名度の低さが示す様に、夥しい抗争・滅亡劇の中の些細な断片に過ぎない。
強いて1つだけ表徴を挙げるなら、人口に膾炙する街亭が筆頭候補に成ろう。甘粛の庄浪辺りに在る此の処は228 年の蜀・魏対決の後、余り激戦の場に成らなかったが、諸葛亮が涙を揮って馬謖を斬る故事で千古の教訓を遺した。錦州の西南30 `に在る塔山は1948 年に、一躍「中国軍事史上の名山」と成ったが、此の形容を用いた張万隆も塔山を街亭に見立て、「街亭雖小、干系重大」(街亭は小さい場所と雖も、極めて重要である)と言う彼の名軍師の念押しを引き合いに出した(407 〜 408 頁。猶、『三国演義』の原文は「重大」ならぬ「甚重」)。
記録文学・『雪白血紅』が刊行(1989 年)後間も無く発禁処分を受けたのは、林彪の再評価に繋がる恐れが最大の要因だが、塔山の鍵と成る重要性を現地視察で一目で捉え、素早く兵力の重点投入を決断した林彪は、著者のみならず第三者や後世にも敬服されよう。其の眼を形容詞の「毒」(心憎いほど鋭い)と表わした(407 頁)のは、塔山戦闘の惨憺・壮絶に対する感嘆・賛嘆(註145 参照)や、 小平の「好・好狠」(註167 参照)と通じて、「酷」の冷厳・精彩の両面を思わせる。
「天王山」が本稿筆者の地文化・歴史の時空両面の興味を引いた一因は、其の争奪戦の恰度500年前の1082 年に、蘇軾が黄州の古跡を2度廻り前・後『赤壁賦』を作った事だ。『三国演義』の最大な戦場と擬似の所縁を持つ其の地(註189 参照)で生まれた林彪の指揮に由り、塔山が20 世紀中国の内戦の天王山と成ったのは、「史縁」(歴史の因縁。筆者の造語)とも言うべきだ。因みに、『辞海』の「遼瀋戦役」の項でも特筆された塔山戦闘の開始日・10 月10 日は、奇しくも辛亥革命37 周年で中華民国の国慶節に当る。此の日に猛攻を始めた国民党軍の挫折は、蒋介石政権の「気数尽」(命運尽き)の予兆に相応しい。
142)既視感の強い台詞ではあるが、どの故事の真似なのかは断言できない。筆者が影響力の特に強い演義小説を調べた結果、「真似」の字面通りの酷似の表現は見当らなかった。
真っ先に当って見た『三国演義』には、「軍令状」(註148 参照)を立てる話が幾つか有る。中でも特に人口に膾炙するのは、第95 回・「馬謖拒諌失街亭 武候弾琴退仲達」の次の遣り取りだ。「謖曰:“(略)若有差錯、乞斬全家。”孔明曰:“軍中無戯言。”謖曰:“願立軍令状。”孔明従之。謖遂写了軍令状呈上。」他にも「如不勝、請斬某頭」(第5回)、「今番追去、必獲大勝;如其不然、請斬吾首」(第18 回)、「願依軍法」(第49 回)、「如不勝、甘当軍令」(67 回)、「但有粗虞、先納下這白頭」(第70 回)、等が目に付いたが、首を提げて会いに行く云々の豪語は意外と無い。戦争中の毛沢東が究極の知恵袋として重宝した此の名作は、英雄主義と現実主義の両面を持ち合わせるが、其の論考は後に譲りたい。
首に賭ける誓言で他の作品の例には、『説岳全伝』第37 回・「五通神顕霊航大海 宋康王被困牛頭山」の中の、牛阜の「小将若出不得番営、願納下這首級」(小将は若し[敵の]番兵の軍営から出られなかったら、此の首級を納めても構いません)が有る。清初の銭彩等著の此の演義も若い頃の中共開国世代に影響を与えたが、牛阜は取り分け蛮勇が特徴を成す武将である。
143)高新著、田口佐紀子訳『中国高級幹部人脈・経歴事典』、講談社、2001 年、129 頁。『雪白血紅』には然様な記述は無く、代りに林彪が部下に飛ばした檄が記された。「告訴:塔山必須守住!拿不下錦州、軍委要我的脳袋;守不住塔山、我要的脳袋!」(君に告げる:塔山は必ず守り抜かねば成らぬ!錦州を攻め落せねば、軍事委員会は私の首を取るが、塔山を守り抜かねば、私は君の首を取るぞ。)続いて作者・張万隆は曰く、「其実、果真要用脳袋担保的話、林彪的脳袋首先是用塔山来保的。」(実を言うと、若し本当に首を担保に入れたのなら、林彪の首は先ず塔山が担保と成ったのだ。)
本稿筆者が高新説に引っ掛かったのは、林彪の豪語を好まぬ慎重な形象の故である。大量の電文を閲覧し林の格好好い「酷」を客観的に描いた張万隆も、此の件(407 〜 408 頁)で然様な話を披露していないので、伝聞や美談の独り歩き(註117 参照)と受け止めたい。土台に有る典籍や故事の再生産力は後ほど、歴史の既視感と派生の擬似臨場感の文脈で改めて取り上げるが、張万隆の上記の論評で注目すべき処は、軍委から求められた首の担保でさえも言葉の綾に過ぎぬ事だ。
更に翻って思えば、縦令い幻影にせよ頭上に制裁の剣が懸かった状況は、当時も自ら首を差し出さず朝鮮戦争でも尻込みした林の態度を説明できる。
144)高新『中国高級幹部人脈・経歴事典』、129 頁。張万隆の『雪白血紅』でも、葫蘆島で督戦中の蒋は10 月13 日、「限於明日黄昏前攻下塔山、否則以軍法従事」(明日黄昏までに必ず塔山を攻落すること。然もなければ軍法を以て処置する)との「死命令」(値切りや逆らえを許さぬ厳命)を下した、と記された(408 頁)。因みに、其を受けて猛攻を挑んだ「趙子龍師」の「奮勇隊」の「敢死」(註26 参照)ぶりは、東北内戦中の国民党軍には空前絶後の程だったと中共軍関係者が言う(408 〜 409 頁)。
145)高新『中国高級幹部人脈・経歴事典』、129 頁。
146)東北野戦軍政治委員・羅栄桓は塔山阻止戦の前に、敵を「屍骨成山、血流成河」(屍骨が山と成り、血が河と成る)ほど敲き潰せと檄を飛ばしたが、其の通りの展開に成り敵の死体が6千以上に上った(少華・遊胡『林彪的這一生』、湖北人民出版社、2003 年、247 〜 248 頁。『雪白血紅』では「7千多具」[7千体余り]と言う[425 頁])。但し、彼が覚悟を喚起した「悪戦」(同上)の勝利は、「惨勝」(註32 参照)に他ならない。遼瀋戦役の残酷さを赤裸々に活写した張万隆の『雪白血紅』でも、中共軍の死者数は出て来ない。殆どの部隊は半数以上が戦死したと言う記述が有るものの、投入兵力数は不詳なので割り出せない。屍骨の形も残らず当事者が言う「餃子餡」(餃子の具)と化した例も有るので、著者の「戦争就是絞肉機」(戦争は肉挽き機也)の感嘆(427 頁)には頷くしかない。国民党軍の爆撃で主陣地の標高が2bも削られたと言われる(413頁に類似の記述が有る)から、粉骨砕身の「肉末」(挽き肉)が散る結末は不可避だった。
「酷」の「峻厳・精彩」や「苦闘・瀟洒」の両面を示す様に、中共軍は「兵不血刃」(註47 参照)の戦例の反面、此の様な「血流成河」の犠牲が多数有った。系列論文で後述する林彪の建国後の厭戦情緒や、周恩来の「台湾を血の海にしたくない」発言は、此の一齣に原点の一端が窺われる。
147)麻生幾は「首都封鎖 北京SARS医療チーム“生と死”の100 日」(『現代』2003 年9月号)の中で、北京東城区公安分局新橋派出所政治委員・李春生の活躍ぶりを記した。自らの献身ぶりで若い部下を奮い立たせた彼は、「私に中国の諺を口にした。/“手本の力は無限”」、と言う件(49 頁)が本稿筆者の心の琴線に触れた。46 歳の「1級警特」・李より3歳年上の本稿筆者にも、深く脳裏に刻み込まれた格言であるが、古い形象が強い「諺」と言えるのかは疑問なのだ。其の「榜様的力量是無窮的」の初出は不詳だが、表現は現代文であり発想も毛沢東時代の色彩が濃い。
国際理解に於ける土地勘・言語感・歴史鑑の重要性を論じる他の論考で、本稿筆者は麻生幾の小説・『ZERO』(幻冬舎、2001 年)の中国関連部分の瑕疵を反面教師として取り上げる予定だが、中国の生態を透徹に描いた上記の報道の其の件は、現地関係者の説明の大雑把さや「代溝」(世代の断層)に由る不明が起因だったかも知れぬ。
148)日本語に無い「軍令状」は『辞海』の語釈の通り、将校や兵士が軍令を受けた後に差し出す保証文書で、任務を完遂できねば軍法の処分を甘受すると明記する物だ。同辞書で挙げた古例は、『三国演義』第49 回の次の場面である。「雲長曰:“願依軍法。”孔明曰:“如此、立下文書。”雲長便与了軍令状。」149)中日両国は漢字を共有する「語縁」が有りながら、発想の相異に因り漢字表現の違いが多い。直訳の対応が付かぬ場合の多い軍隊組織の名称も、一例として挙げられる。最小単位の「班」は両国共通であり(旧日本軍の最小単位は「分隊」とも言われる)、作業班の長等の意で最近少数の日本語由来の英語外来語に成った「班長」は、毛沢東が党組織の指導者の見立てに使った(「党委会的工作方法」[1949 年]の言、『毛主席語録』の「9 人民軍隊」に収録)ほど中国でも使用頻度が高い。ところが、「班」以上の「排」(小隊)、「連」(中隊)、「営」(大隊)、「団」(連[聯]隊)、「旅」(旅団)、「師」(師団)、「軍」(軍団)は、何れも完全な一致が無い。
名称は実体を表わすと好く言うが、同時に観念を映す符号でもある。日本流の軍隊組織名は「〜隊」「〜団」が基と成るが、中国流の「排(註149 参照)・連」は「隊・団」と同じ連繋・団結の意が強く、其の上の「営・旅」は駐屯・行軍の含みが強い。物質は精神に転化し精神は物質に転化する、と毛は観念の生産性を説いた(註104 参照)が、大戦中の敗北を招いた旧日本軍の兵站・供給軽視は、「営・旅」の名称の有無や濃淡の差に規定された様に思える。
猶、戦後と中共建国後には其の違いは一層拡大した。小平時代の軍事改革で誕生(1985 年に改編完了)した「合成集団軍」(複数軍団から成る大軍団)は、字面でまだ日本人に理解し易いが、各省・自治区(地方自治体)の部隊を管轄する「軍区」や、複数の軍区から成る「大軍区」(広域部隊)は、日本語で伝える際に一々説明を付ける必要も有る。
更に突き詰めれば、両軍の現在の総称こそが最大の本質的差異を秘める物だ。「隊・団」の延長に在り内向性の濃い「自衛隊」に対して、「人民解放軍」は正に「営・旅」と対応する駐屯・出動の両面を持つ。最近の中国に出た「国軍化」の議論は、党の指揮を否定する嫌いで封殺されたが、「国防軍」の類ならぬ「解放軍」の名称の維持は、台湾の解放が実現しない限り変らぬであろう。
150)「榜様的力量是無限的」(手本の力は無限。註148 参照)と言う様に、左様な殊勲に輝く部隊は中共軍に数多く有り、「我軍光栄伝統」(我が軍の栄光有る伝統)の典型として、精神教育の範例を為して来た。「塔山英雄団」が所属した第4(東北)野戦軍の第4縦隊も、「縦隊」(建国後の軍[註149 参照]に相当する)編制の撤廃に因り、「○○4縦」の美称では語り継がれ難いが、1946年に遼東で「千里駒師」を殲滅させ、塔山で「趙子龍師」(註158 参照)を痛撃した事で、敵の「王牌」(エース。切り札)を凌いだ最精鋭として名高い。此等の栄光史は系列論文で後述する様に、「部隊史」教育で当該部隊の自負を膨らませ、「軍史」教育で他部隊の功名心を刺激するが、適宜な競合にも過度な競争にも繋がる。  
151)曹松『己亥歳詩』が出典の「一将功成万骨枯」は、『広辞苑』では次の様に解釈された。「一人の将軍が功名を立て得たのは、幾万の兵が屍を戦場にさらした結果である。功績が上層の幹部のみに帰せられ、その下で犠牲になって働いた多くの人々が顧みられないことを嘆く語。」『角川大字源』も「功が将軍に帰してしまうことを戒めて言う」と解いたが、中国的感覚では戦争の残酷さを形容する含みも同時に有る。塔山阻止戦で双方の死者は正に1万人に上った(註146 参照)から、其の血の海から1人の大将(張万年)が出世した必然性が有る、と言うのが本稿の用法である。其にしても、『広辞苑』の講釈の後半は「平和国家・企業戦士」の感覚なのだ。
張万年が居た部隊は塔山で8〜9割戦死した(高新『中国高級幹部人脈・経歴事典』、129 頁)が、塔山戦闘の血に染まった風采は巡り巡って、彼と名前が1字違い戦闘の前年(1947 年)に生まれた次世代の軍人作家に由って芸術的に記述された。瀋陽軍区某集団軍幹事として故郷の遼東・本渓で『雪白血紅』を完成した張万隆は、「一将功成万骨枯」の原義を地で行く実話を随所披露した。既に英雄と成った者を大英雄に樹てる上級の意図で本来の英雄が頭角を顕わせず了いだった悲話は、当事者の名前を厳重に伏せた(423 頁)。其の秘話の扱い方と作者の不平は、当局の逆鱗に触れた(註141、158 参照)事由の一端を窺わせる。
一方、司馬遼太郎の『殉死』は文春文庫の宣伝文で、「戦前は神様のような存在だった乃木将軍は、無能故に日露戦争で多くの部下を死なせたが、数々の栄職を以て晩年を飾らせた。明治天皇に殉死した乃木希典の人間性を解明した問題作」と要約された。何度も机上で追体験を試みた彼(註155 参照)の胸にも、「一将功成万骨枯」の感慨が去来した事か。
152)張万年は高齢にも拘らず、1992 年に済南軍区司令から総参謀長に昇進し、2年後に中央軍委副主席に就任し、’97 年に更に党中央政治局・書記処入りを果たし、中央軍委の第1(筆頭)副主席として日常業務主宰の権限が与えられた。
153)遅浩田は1987 年に済南軍区政治委員から総参謀長に昇進し、’93 〜 2003 年に国防相を務めた。高新の講釈に拠れば、天安門事件の武力鎮圧で招いた内外の非難が祟り小平に冷遇されたのが、実権を握る中共軍委に比べて儀礼的性質の強い国防部への転出の要因だ(『中国高級幹部人脈・経歴事典』、127 頁)。
154)連(中隊)指導員として兵士2名と共に、千人以上の国民党軍を降伏に追い込んだ(高新『中国高級幹部人脈・経歴事典』、125 頁)。
155)「地文化学」は「地政学」の対概念(拙論・「M(毛沢東)感覚・C(中国)感覚」と「J(日本)感覚・I(国際)感覚」の多変数:地球化時代の東北亜細亜を読み解く新機軸の試掘―― 88 の鍵言葉の横串を糸口に(序説T)[『立命館言語文化研究』15 巻3号、2004 年1月]解題部分参照)。筆者は近年「統治・祭祀」を政治文化論の切り口にした(註124 文献参照)が、政治・文化も此の両面と同じく「酷」の「冷厳・精彩」に対応する。「天文学」の対概念の「地文学」と「人類文化学」との接線に、「地政学」に因んだ「地文化学」を更に「人類地文学」と名付けたのは、筆者の独創の心算である。其の基軸の原理として念頭に置いたのは、中国の古賢が尊崇を唱えた天・地・人「三才」や、筆者が国際理解の要とする土地勘・言語感・歴史鑑「三要」(註147 参照。
「三要」は「三才」や「四要諦」[註3「理・礼・力・利」参照]を擬った命名)等だ。
筆者は国際政治や現代中国史の論考に於いて、地政学的・地文化学的視点の結合を試みて来たが、20 世紀日本最大の「大説家」(註127 参照)を読み返すと、此の文脈で色々な共感と示唆を得た。「司馬遼太郎は方向オンチであった。そのくせ地図や地理を好んだ。偏愛した、といってもいい。地形は風土の母であり、風土はその風土なりの人間を生むと考えている風だった。」(関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」』、38 頁)彼は日本の風土の特質を「谷の国」(『この国のかたち』第19 回の題)と概括したが、老子の「谷神は死せず、是を玄牝と謂ふ。玄牝の門、是を天地の根と謂ふ。綿綿として存するが如し。之を用ふれども勤きず」を引き合いに出した処は、上山春平の観方(『神々の体系――深層文化の試掘』、中公新書、1972 年、53 〜 54 頁)と一脈通じる。上山は自ら名付けた日本の「凹型文化」の画竜点睛に此の語録を用いたが、政治や地政学に対する文化や地文化学の役割も、山を納め且つ潤す谷や森羅万象の根源を成す「谷神」の如きだ。
歴史の街道を縦走した司馬の考察は正しく深層文化の試掘だが、1990 年代以降の中国の「余秋雨現象」は、中国文学に対する日本文学の先行性と共に、日本文学に於ける彼の先駆性を示す。
国内の奥地・辺地や海外の紛争地域に渉った余秋雨の「文化苦旅」(同上拙論参照)は、学者・作家の知性・感性で風土の気韻や歴史の基因を捉える眼光・表現は、司馬遼太郎に近い「大説家」(註127 参照)の流儀・力量を感じさせる。2人は「不見年年遼海上、文章何処哭秋風」を介して名前も繋がるが、接点と成る李賀の此の句(註183 参照)は司馬文学の土台を浮き彫りにする。
関川夏央は『司馬遼太郎の「かたち」』の中で、其の作家生涯の中の至高の喜びを記した。『殉死』(文藝春秋、1967 年)の創作の為に自分で何度も地図で旅順総攻撃の指揮を模擬し、乃木大将の作戦は根本から間違っていたとの結論に至った彼は、作者は職業軍人かと言った或る軍人の感想を聞いて手放しで喜んだ。2度目に味わった異常な感激は、元東北軍首領・張学良が軟禁解
除後の1990 年にNHK特集で登場する事に成った際、戦後日本への初の直接発信の会見人に彼を指名した事だ。(74 〜 76 頁)『殉国』の成功は土地勘と歴史鑑の結合の賜物と言えるが、2回とも遼寧・戦争に絡んだ事は、日本及び彼と中国東北との地縁・「史縁」(註141 参照)を思わせる。
和辻哲郎の『風土――人間学的考察』(1935 年)の題、及び生存空間と国民性とを関連付けた思索は、筆者の「人類地文学」の観念・原理の示唆と成った。司馬遼太郎は歴史の回廊のツボに身を置き其の気脈を汲み取ったが、由来・経緯を表わす中国流の「来龍去脈」は、龍の如く連なる山脈に見立てた成語である。日本人が言う「子規山脈」(室岡和子『子規山脉の人々』[華神社、1985 年]、坪内稔典『子規山脉』[日本放送出版協会、1997 年]、日下一『子規山脈 師弟交友録』[朝日新聞社、2002 年]等参照)は、彼の俳人の文学遺産と人脈の両義を持つが、歴史の去来を貫く深層の「龍脈」は、風水思想の通り「能量」(パワー)の磁場として、時勢・英雄の両方を造り上げる(註107 参照)。現に、蘇軾の『赤壁賦』の母胎と創作現場だった黄岡(註189 参照)に、中共の2人の国家主席(董必武・李先念)、2人の国防相(林彪・秦基偉)、更に聞一多(学者・詩人)、李四光(地質学者)等が生まれた。
国内地域の「域内総精彩」(註102 参照)の「軟実力」の好例にも成る現象だが、墨と血、冷厳と精彩を以て20 世紀中国史を彩らせた人物の輩出は、文化・歴史・人間の縁の派生原理や生産力を示す。聞一多は反独裁の言論で1946 年7月15 日に国民党特務の凶弾に倒れが、蒋経国、江沢民時代の国・共2党の政治「慈化」(註15 参照)を論じる後出の系列論文では、聞一多暗殺は前
近代的暴挙の典型として登場する。彼より10 歳年上(1889 年生まれ)の李四光は、中国の地質力学を創り共産党政権の地質部長(大臣)を務めたが、其の生誕百周年の際に建国後初の戒厳令を西蔵で発動した胡錦涛は、他ならぬ地質畑の出身である。
司馬の磁場を隠し持つ「遼」は天・地・人3元に於いて、遼遠・遼(寧)−満(州)・『史記』文脈(「子規山脈」を擬った筆者の造語)が其々思い当る。四平の陸軍戦車学校を経て牡丹江の戦車部隊に入った足跡(註116 参照)は、中国東北の歴史街道の要穴を浮き彫りにする。東北の真ん中の吉林省の四平は戦術的天王山の塔山(註141 参照)に対して、平津戦役と淮海戦役で主戦場に成った張家口と徐州(註140 参照)と同じく、広域の戦略的「兵家必争之地」(兵家が必ず争う地)である。『雪白血紅』第4部第10 章・「四平不平」(138 〜 165 頁)が描いた通り、林彪野戦軍が先ず苦杯を喫し次に捲土重来を遂げた血戦は此処で繰り返された。一方、「大説家」・魯迅を心の支えとした最期の毛沢東(註127 参照)は、身辺世話の手足として生活・機密担当秘書・張玉鳳に頼ったが、彼女の生年(1944 年)・生地(牡丹江)は奇しくも司馬の駐屯と吻合する。
張の父親は戦中に移住した日本人歯科医かと言う疑念を、李志綏は暴露本の中で明かした(新庄哲夫訳『毛沢東の私生活』下、文藝春秋、1994 年[原典英語版=同]、142 頁)が、毛沢東の専属医だった彼の名も「遼」と関わる。志の対象と成る「綏」の語義は「安。安撫」で、「安東」の改名は正に朝鮮に対する「安撫」(慰撫する。安定させる)の尊大さを消す意味が有った(註134 参照)。国民党は内戦時代に中共の「暴乱」を封じる目的で広域「綏靖区」を設けたが、『三国志・呉志・陸遜伝』が出典の「綏靖」も「安撫・平定」の意だ(『辞海』)。「綏」は国民党時代の綏遠省(1914 年設立の特別区から’28 年に昇格)の略称でもあり、呼和浩特等を含む同省は1954 年に内蒙古自治区に編入したが、広域の東北(註7文献158 〜 159 頁、本稿筆者の訳注参照)の一部と視て能い。牡丹江の近くの綏芬河(河川名・地名)や楊利偉の生地・綏中県(註138 参照)等、本稿の文脈に絡む東北の地名には此の「綏」が目立つ。事実は小説より奇なりと言うが、「大説」は事実に基づく故に小説より次元が高い。
156)例に因って筆者の勝手な解釈である(註103 参照)が、「酉+告」の字形から鶏が時を告げる形象を連想したのは、12 支の「酉(鶏)」や中国の版図の鶏形(註14 参照)、中国映画の最高栄誉・「金鶏賞」、鶏の「報暁」(暁を告げる)と関わる「醒」の字・意、等の刺激に因る。『角川大字源』の「酷」の解字は、「形声。意符の酉(さけ)と、音符の告コウ(あつい意=厚カウ)とから成る。酒の味の濃い意。ひいて、“きびしい”“むごい”などの意に用いる」と言う。酒は「醒」と逆の「酔」をもたらすので、筆者の上記の想像は否定されるわけだが、「酷」の「冷厳・精彩」の両面は「烈酒」(強い酒)・美酒で対応できる。因みに、鶏と酒は「鶏尾酒」(カクテル)の字面・形象で繋がる。
157)原文は「鮮血凝成的戦闘友誼」。朝鮮戦争終結直後の親中派要人に対する金日成の「血洗」(血の粛清。註67 参照)を始め、両国の誼は早くも亀裂が入りやがて修復不能と成った。実情に即して其の「虚情」の成句を揶揄的に読み解くなら、色々な常識の落し穴が目に付く。2002 年秋の中共党大会の合言葉・「与時倶進」(時と倶に進む)を擬って、鮮血の「与時倶淡」(「淡」=「淡化」
即ち稀薄化、註163 参照)が先ず思い浮かぶ。「血濃於水」(血は水より濃い)と熟語は言う(日本にも有る此の格言は中国の典籍には出処が見当らず、英語の“Blood is thcker than water”の訳かも知れない)が、「君子之交淡如水」(君子の交わりは淡きこと水の如し)は、「小人之交甘如醴」(小人の交わりは甘いこと醴の如し)への否定と共に、血盟も含む過度に濃密な利害関係への警告に聞こえる(此の警句は『礼記・表記』では孔子の言として、「君子之接如水、小人之接如醴。君子淡以成、小人甘以壊。」と成っており、『荘子・山木』では隠者・子桑が孔子に語った言葉として、「君子之交淡若水、小人之交甘若醴。君子淡以親、小人甘以絶。」と言う)。紳士の淑やかな恬淡は闘士の戦闘的激情と対蹠に在るが、「友誼」に「戦闘的」の修飾語が付いた事は、平和時代の有名無実化の伏線とも取れる。最後に、「蜜月→冷却」と同工異曲の「凝結→融解」は、中国の陰陽思想の変易理論にも合致する。
158)「千里駒」(註139 参照)の名を冠した国民党軍の精鋭部隊は、52 軍(軍団長=杜聿明)第25 師(師団長=李正誼)である。内戦開始早々の1946 年10 月の遼東戦場で、中共東北野戦軍第4縦隊に由って殲滅された。『雪白血紅』で此の滅亡劇を記した張正隆は、当該部隊の美名は抗日戦争中の古北口戦闘・台児荘会戦・ビルマ遠征の功績が元だろうと推測し(225 頁)、国民党軍の史料は関係部門がなかなか見せてくれない所為で、独立95 師の「趙子龍師」の威名の由来と共に把握できない、と愚痴を零した(267 頁)。
所謂「長他人志気、滅自己威風」(他者の志気を助長し、自らの威を殺ぐ。出典=『西遊記』第33 回・「外道迷真性 元神助本心」)は、中国人社会の一種の禁忌なので、左様な情報封鎖は解らなくもない。因みに、本書の発禁処分の要因は林彪再評価の匂い(註141 参照)の他に、国民党軍に関する記述も中共の正統と若干ずれた事も有ろう。更に言うなら、随所に出た「南満戦場」「北満」も建国後に忌避されて来た表記だ。
159)「千里馬運動」は朝鮮労働党中央が1956 年末に提唱し、’58 年に本格化した労働経済兼思想教育の大衆運動だ。中ソの影響力から抜け出し自主工業を建設する意図が指摘された(韓国史事典編纂会/金容権編著『朝鮮韓国近現代史事典 1860 〜 2001』、日本評論社、2002 年、409 〜 410 頁)が、「千里馬の速度で進軍しよう」の掛け声で熱気を煽動する手法は、「一馬当先、万馬奔騰」(1匹の馬[模範]が先頭を走り、其に随って1万匹の馬[大衆]が奔騰する)の合言葉が踊り出た同時期の中国の「大躍進」と一緒だ。後に展開した「千里馬作業班運動」は、毛沢東時代の「工業戦線」の、軍事共産主義(戦時共産主義)的建設・統治に似通う(「班」の軍隊組織の意は註149参照)。
160)俊才に譬える「千里馬」は中国で古くから広く使われ、「世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有」と言う逆説が有名だ。『広辞苑』の「千里の馬」の語釈の「一日に千里を疾走する馬。才能の非常にすぐれた人にいう。千里の駒。」の次に、「“−はあれども一人の伯楽はなし”(有用な人材はいるが、それを使うことのできる為政者は少ない)」も付いているが、明記されていない出典の韓愈『雑説四』と照らせば、「常」の有無の違いが興味深い。猶、「伯楽」の初出は『荘子・馬蹄』『楚辞・懐沙』であるが、荘子や屈原の浪漫精神には騎馬民族的奔放不羈も窺える。
161)「終焉」と「周縁」を結び付けたのも日本語の語呂合わせの派生(註44 参照)だが、両国の「語縁」の不即不離の相関を示す様に、中国語では同音でもないし倶に現代では馴染みが薄い。但し、「文革」に因る国民経済の破局や核兵器恐喝に因る人類存亡の危機を形容する「崩壊(毀滅)的辺縁」(崩壊[破滅]の寸前)は、不思議に其の「終・縁」と字面で対応する。猶、今の中国人に「終焉」を見せれば、「@身が落ち着く。隠居して晩年を送る。A困窮すること。B一生の終り。死」(『角川大字源』)の多義を思い浮かべ、現代に生きるBを認識できる者が少ない。「周縁」も短絡的に周囲との縁を連想させがちだが、古意と異なる此の語彙は巡り巡って、日本語と同じ「周辺国」で隣国を表わし、「中心国」意識を秘めつつ善隣関係を図る最近の中国の志向に符合する。
162)1644 年の清世祖に由る北京占領、明朝滅亡から、1911 年の辛亥革命までの清朝の歴史は267 年に及んだ。中華民国の大陸時代の38 年の7倍より僅か1年多かったが、7は佛教でも基督教でも神秘な数字であるだけに、本稿で指摘した38 年周期と共に歴史の循環を導く天意が感じ取れる。
163)対立の人為的激化を好む毛沢東の傾向に対して、江沢民時代以降は「淡化」の空気が強いが、民族の分裂を避け国家の統一を図る為に怨念を棚上げにして置く姿勢は、抗日戦争や毛沢東時代の中共の対国民党政策にも見られた。
164)拙論・「中国、中華民族、中国人の国家観念・民族意識・“国民自覚”」参照(中谷猛・川上勉・高橋秀寿編『ナショナル・アイデンティティ論の現在――現代世界を読み解くために』、晃洋書房、2003 年、127、140 頁)。
165)朱鎔基は朱元璋の直系の子孫であると言う記述は、高新『中国高級幹部人脈・経歴事典』(47 頁)を始め多数有る。本人は嫉妬を招き易い自己顕示を忌み、体制も封建王朝の名残りを嫌うので、仮令い事実であっても公に宣揚される事は無かろう。二月河の長篇歴史小説・『康煕大帝』『雍正皇帝』『乾隆皇帝』が1990 年代前半に話題を呼び、江沢民や朱鎔基、李鵬等が揃って興味と肯定を示したと言う伝聞も、帝王学が堂々と登場し難い故に確証は得難いが、「盛清」(註171 参照)並みの安定・繁栄・強大を目指す彼等の志向を思えば有り得る。
166)師哲・李海文著、劉俊南・横澤泰夫訳『毛沢東側近回想録』、新潮社、1995 年(原典=『在歴史巨人身辺 師哲回想録』、中央文献出版社、1991年)、269 〜 270 頁。毛沢東は詞・『念奴嬌・崑崙』(1935 年)で中華民族の聖山を礼讃し、同時に其の洪水を起し易い嫌いにも触れ、自註で「好看不好吃」(見た目は好くても美味しくない)の評を下した(註101文献、63 頁)。「好看又好吃」の理想に照らせば、西域や伝統に対する彼の価値判断の葛藤が窺える。
167)筆者は他の論考で此の一幕を講釈した事が有るが、本稿で思索を深めた発見として次の諸点が有る。
@中国流の最も日常的挨拶の「ニイハオ」(今日は)は、「お達者で。ご機嫌よう」の祈願と共に、字面通り「貴方は好い」の肯定も含めている様に思える。A『紅楼夢』の林黛玉は死ぬ前に、相思相愛を寄せ合いながら結婚できなかった賈宝玉の名を呼んで、「ニイハオ……」と言って息を引き取った。声に成らなかった言葉として「狠」が続き、「何という酷いお方だ」「好くも私を棄てた」の詰りが想像されるが、此を揶揄に用いた民衆の小平に対する感情は、「愛憎相織的情結」(愛憎が織り合うコンプレックス)と言える。中国語の「好」は副詞として善悪を問わぬ「大変」の意も有るが、「詰」の「言+吉」の字形と「なじり」の意とも通じる此の両義は、古典の悲話を現実の諷刺に巧みに生かした考案者の智慧と共に、「酷」の冷厳・精彩の両面に合う。B 小平逝去に関する体制側の報道(本稿後出)では、市民の「再説一声“ 好”」(もう一度「今日は」を言わせてもらおう)の声が大写しにされた。無名の人の礼讃に喜ぶ司馬遼太郎の最大な感激(註155 参照)にも通じるが、此の事は建国35 周年祝典で受けた祝福の価値(註168 参照)を思わせる。逆に、天安門事件で招いた怨嗟が其だけ彼を傷付けた事も、確証が無いながら想像し得る。其の鬱憤は彼の名誉回復の意欲を刺激し、1992 年南巡の私的原動力に成ったとも考えられる。
168)建国35 周年祝典・大閲兵の有った1984 年を彼の絶頂期と捉えるのは、中国人民大学国際政治学部教授・楊炳章(ベンジャミン・ヤン)の『小平 政治的伝記』も一緒だ(加藤千洋・優子訳、朝日新聞社、1999 年[原典英語版=’98 年]、262 頁)。
169) 小平が中ソ対立で特に声価を上げたのは、ソ連と如何なる共同行動も取らぬ様な強硬論の主張よりも、1963 年に中共代表団団長として訪ソ中スースロフと論戦を交わした事だ。ソ共屈指の理論家の思弁・言説にも負けぬ結果は、文武「全才」(全面的才能)の証明と成った。相手が翌年のフルシチョフ解任のの仕掛け人に成った事(註70 参照)は、 の「勲章」の重みを一層増した。
170)1969 年3月2〜 17 日に中ソ国境で局地的武力衝突が起き、『人民日報』『解放軍報』は「打倒新沙皇」と題する社説(4日)でソ連「社会帝国主義」を糾弾した。其の時代でもスターリン批判は中国では禁忌でいたが、ソ連は其の30年前の芬蘭侵攻から既に「新ツァーリ」の様相を呈し始めた。ソ連は独逸の波蘭侵攻の翌月(’39 年10 月)に、レニングラード防衛を理由に芬蘭に領土交
換等を求め、拒否に遭った後2度(同年と1941 年の独逸侵ソ連後)侵攻した。12 %の領土の割譲や賠償、海軍基地の提供を強いられた芬蘭の犠牲を思えば、同じ北欧発のノーベル賞の共産圏敵視(註39)は頷ける。第2次世界大戦後の米ソの世界「瓜分」(瓜を割る様に領土を容易に分割すること。出典=『漢書・賈誼伝』の「高皇帝瓜分天下」)も、後に2超大国と成った「覇道の枢軸」(本稿筆者の造語)の暴挙だ。
因みに、同時代の中国は越南や朝鮮との善隣関係を配慮して、「鎮南関」を「睦南関」→「友誼関」、「安東」を「丹東」に改名した(註134 参照)が、1860 年に建設し11 年後シベリア艦隊の基地と成り、ソ連の太平洋艦隊司令部の所在地として冷戦時代に閉鎖都市だったウラジォストークは、「東方を征服せよ」と言う露西亜語に由来した地名を変えていない。猶、シベリア鉄道の終点でシベリアの門戸に当る此の地は、日本語で「浦塩斯徳」の当て字も有るが、中国では「符拉迪沃斯克(海参)」という新・旧訳名の併記が普通だ。
171)唐の「初唐・盛唐・中唐・晩唐」の4期区分は、国民総生産と「国民総精彩」(註102 参照)の両面から観ても、栄枯盛衰の推移を反映している。「晩」自体は価値判断が伴わないが、李商隠の『登楽遊原』の「夕陽無限好、只是近黄昏」(夕陽限り無く好し、只是れ黄昏近し)の様に、衰微の前兆とも見て取れる。
其以外の王朝に「盛○期」の命名が余り見当らないのは、「硬実力・軟実力」が倶に強大な時期が滅多に無かった事も一因だろうが、筆者は唐並みの版図拡張を遂げた清の最盛期を「盛清」と名付けたい。世祖(順治)に因る北京占領〜康煕時代前期の約半世紀の「初清」に次いで、康煕後期及び雍正・乾隆時代の約百年が其に当り、嘉靖・道光2帝の約半世紀の「中清」を経て、第1次鴉片戦争後で太平天国が蜂起した咸豊元年(1851 年)に60 年の「衰清」に突入した、と筆者は観ている。「前清・清朝中葉・晩清」の分け方が一般的であるが、鴉片戦争以降の末期症状的衰弱こそが近代史開幕の必然性なので、歴史認識を示す意図で表記の明確化が宜しかろう。因みに、唐には左様な名称は似合わないが、唐の強盛の反転を暗示する動乱の陰影は、「荒唐」や「頽唐」(頽廃・衰退)の字面に内蔵されている。
共産党中国の場合は未だ歴史が浅い故に栄枯盛衰の区分は出来ないが、 小平時代の「社会主義の初期段階」の現状規定と、江沢民時代の康煕・雍正・乾隆熱(註165 参照)とを併せ考えれば、香港と澳門の返還を挟んだ建国50 周年辺りが強盛期入りの節目と観て能い。毛・・江の雌伏→胡錦涛の至福(註54 参照)を裏付ける様に、「盛」の「成+皿」の字形には前人が播いた種の収穫の寓意も読み取れる。因みに、中国語の「盛」は動詞として「成」と同じchengと読み、形容詞として「勝」と同音のshengだが、日本語の「切り盛りする」と「盛り上がる」で両者の接点が説明できる。共通項の「飽満」は中国で豊饒の理想の形容に成るが、「成→皿」の「盛」を見せた清の統治民族は他ならぬ「満」だ。
172)北戴河は清末から建国までの間に、外国人や国内の富裕層の保養地でもあった。小平は対外開放や「先富」(一部の人が先に富裕に成る)を唱えたが、毛沢東時代から中共指導者が北戴河を愛用した事は、其の伏線の様にも思われる。因みに、北戴河の対外開放の始まりは維新変法が勃興・頓挫した1898 年だ(註71 参照)。
173)王朝・政権の交替を指す「改朝換代」は、政権が変っても封建的体制は変らぬと言う含みも有るので、旧時代・「旧社会」との断絶を自認する中共政権は、「新中国」の建立の形容に使うのを忌み嫌う。其の点「天朝」意識が濃厚だった太平天国とは違うが、毛沢東時代も結局「封建的社会主義」(林彪一味の政変構想[本論で後述]の言)の性質を帯びたし、「一朝天子一朝臣」( 一朝の天子、 一朝の臣。天子が換れば臣下も皆換る。指導者が交替すれば下の者も交替する。
出典=『元曲外・追韓信』)の旧習は、中央に限らず社会で根強く遺っているのが実情だ。
174)「祖龍」は秦始皇の異名で、『史記・秦始皇本紀』に出た始皇帝36 年(前211 年)の「今年祖龍死」の予言が有名だ。
175)江沢民の題辞癖は内外から冷やかされたが、昔の権力者や文人も視察・旅行先で好く詩文を遺した。「革命大串聯」(革命的経験の大交流)の大義名分で公費観光を楽しんだ紅衛兵や、最近の観光熱で国内外を歩き回る人々にも、孫悟空の「斉天大聖到此一遊」(斉天大聖此処に一遊せり)の落書きの真似で、「○○○到此一遊」と名前を名勝旧跡に刻む輩が居る。足跡を記す其の手跡は「心跡」(心の動き。精神の軌跡)の発露と観れば、中国人に特に強い「留名」(名を留める)願望の表現として頷ける。
猶、「跡」の「足+赤」の字形は「足赤」と重なるが、此の単語は「足金」(足=充分)の類義語であり、「金無足赤、人無完人」(金には純金が無く、人には完全な人が無い)の熟語で有名だ。
176)日本語訳=竹内実。『毛沢東 その詩と人生』、285 〜 286 頁。
177)曹操に対する賞讃は「奸臣」の固定形象と掛け離れた故に護衛を驚かせたが、彼は向きに成って弁護し、秦始皇に就いても同様の態度を示した(権延赤『走下神壇的毛沢東』、中外文聯出版社、1989 年、218 〜 219 頁)。
178)曹操は生前「魏王」に止まったが、長男・曹丕は帝を称えた後「魏武帝」と追認した。
179)『三国演義』第1回・「宴桃園豪傑三結義 斬黄巾英雄首立功」の話:「汝南許劭、有知人之名。操往見之、問:“我何如人?”劭不答。又問、劭曰:“子治世之能臣、乱世之奸雄也。”操聞言大喜。」人物評の的確さと共に感心したのは、正→負の順で両面に言及した練達さだ。平面的“Yes、but …”風の肯定→否定と違って、正→反→合の弁証法(註13 参照)も読み取れる。「能臣・奸雄」の複合が「奸臣」を内包した処が、曹操の大衆的形象(註177 参照)に合う此の名言の隠し味だ。
180)駒田信二「対の思想――あるいは影の部分について」(『対の思想――中国文学と日本文学』、勁草書房、1969 年、2〜 20 頁)参照。
181)日本語訳=竹内実。『毛沢東 その詩と人生』、287 頁。
182)劉希夷の妻の父・宋之問は、彼の『代悲白頭翁』の中の「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」を激賞し、自分の句として譲れとせがんだ。一旦承諾した劉は直ぐ惜しく成り約束を反故にしたが、宋は激怒の余り奴僕に彼を撲殺させた。
183)李賀『南園十三首・其六』の全文は、「尋章摘句老雕虫、暁月当簾掛玉弓。不見年々遼海上、文章何処哭秋風。」『其五』の「男児何不帯呉鉤、収取関山五十州。請君暫上凌煙閣、若個書生万戸候。」と共に、失地回復の情念・意欲を好く表現した名作で、本稿筆者も含めて愛読者が多い。
『其四』の「三十未有二十余、白日長肌小甲蔬。橋頭長老相哀念、因遺戎韜一巻書。」は、知名度が低いながら毛沢東の李商隠好きを解く糸口に成る。名軍師・張良が「天書」を授けられ兵法を習得した故事は、「超限戦」(註127 参照)や中国軍事思想の論考にも示唆的だ。
猶、本稿引用部分の日本語訳は、鈴木虎雄訳註『李長吉歌詩集』が出所(岩波文庫、1961 年、上、145 頁)。
184)日本語訳=目加田誠( 塘退士編、目加田誠訳註『唐詩三百首3』[平凡社、1975 年]、36 〜 37頁)。金昌緒『春怨』の全文は、「打起黄鶯児、莫教枝上啼。啼時驚妾夢、不得到遼西。」
185)戦乱の中の民衆の受難を描く杜甫の『新婚別』『垂老別』『無家別』は、同じ反戦情緒を訴える『新安吏』『潼関吏』『石壕吏』と共に、「三吏三別」の総称で名高い。
186)「文革」開始の前年に姪・王海容との談話で、毛沢東は杜甫の『北征』を薦めた。其の独特な選好を反映して、彼が推奨した唐詩集は『唐詩別裁』である。
187)日本語訳=竹内実・吉田富夫『志のうた 中華愛誦詩選』、中公新書、1991 年、35 頁。
188)『三国演義』第48 回・「宴長江曹操賦詩 鎖戦船北軍用武」。
189)曹操が敗れた赤壁は今の湖北武昌県の西、嘉魚の東北だが、古代の人は黄州(今の黄岡)の赤鼻磯を赤壁古戦場と誤認したのかも知れない(『辞海』の「赤壁」の語釈)。猶、其の武昌県も辛亥革命勃発の地・武昌市とは同一ではない。 
9. 11恐怖襲撃の様々な既視感(2)

 

4.年輪・祖型・「前車之鑑」の蓄積・遺伝・派生と更新・変異・風化 
林彪は遼瀋戦役後に華北へ挺進する際に、自分は「入関」(山海関の内側190)に入る)までは無敵の将だが、関に入れば漢賊・曹操に成って了うのだ、と参謀長・劉亜楼に冗談を言った。
公称百万の東北野戦軍が実勢83 万人である事は、奇しくも赤壁に臨んだ曹軍と一緒の故だ191)。
驕傲・「自満」(慢心)への自戒が効いた所為も有り、負けて「賊軍」に転じる結末は避けられ「官軍」と成った192)が、政治委員・羅栄桓の名と曹操が征服した東胡族の烏桓193)と重なるのも、「桓」と同音の「環・還」の連続・反転・回帰を思わせる。
林の呟きを最初に解せなかった劉は、件の曹軍の数を訊かれて虚・実の両方を答えた。「不假思索」(考えもせぬ)程の熟知194)は、歴史を鑑と為す意識・蘊蓄の豊かさの証だ。毛沢東も戦争中の移動で多くの本を棄てたが、『三国志演義』は『十八史略』と共に最後まで手元に置いた。彼の「用兵(料事)如神」(兵を用いる[事を思慮する]は神の如し)195)は、祖型に対する「爛熟於心、信手拈来」(心に爛熟し、自在に引き出せる)196)の把握に負う処が多い。此の8字熟語の字面が示唆する様に、爛熟した智慧は現実を占う信頼性が有る。
建国後の中共の政策決定の流儀には、「務虚」(理念の構築・意思の統一)→「務実」(実施の策定・実践の移行)が有る。毛の「実践出真知」(実践から真の知識が生まれる)の持論に照らして、「不假思索」の字面に因んで言えば、露払いの「務虚」で好く登場した西欧共産主義の原理は、中共にとって二重の意味の「假」(仮)の性質を持つ思索だ。「耳聴是虚、眼見是実」(耳で聞くは虚、眼で見るは実)と俗に言うが、マルクスの言説は一見に如かぬ百聞の如く、地政学・地文化的距離や発展時差等に因って実感の乏しさは否めない。
「文革」の宗旨には「修正主義に反対し、資本主義の復活を防止する」と有ったが、後半の方は国民党時代を半封建・半植民地社会とする中共の史観と自己撞着に成る197)。其の虚構の大義も一種の「紙老虎」(虎の張り子)198)だが、資本主義と其の高度な生産力は建国初期の中国人にとって、「水中月、鏡中花」めく「虚幻的現実」の観も有った199)。『資本論』3巻刊行の867、’85、’94 年の百年後は、其々毛・・江の時代であったが、マルクスを尊崇する中共の指導者には、彼の此の主著の理解者は恐らく無に近いはずだ200)。
温家宝総理は2003年末の訪米中に、中国は米国に追い付くまで百年要ると述べた。競合相手の警戒を解く為の自己卑下とも取れる201)が、貧困の地域・人口が猶多い中国の実情や、楽々と富強を再生産して行く米国の勢いを観れば、中国人好みの世紀単位や「百年孤独」202)に基づいた恣意の見通しとは言えぬ。四半世紀前の小平は米国の宇宙航空中心で模擬操縦を試みた時、正に小学生めく不慣れを見せた203)。が訪米で演じたカウボーイ姿204)は、江沢民体制が打ち出した西部開発戦略と共に、米国の昔の西部開拓と重なる。
更に次世代の胡錦涛は大西部より東北部の開発を優先し、毛沢東の重工業重視と小平の効率至上への継承を印象付けた205)が、上等な「西装」(背広)を着こなした胡の形象は、専ら人民服だった2人の世代とは隔世の観が有る206)。但し、小ブッシュの前で『真昼の決闘』の台詞を得々と披露した小泉首相の純真な西部劇好き207)と違って、 のカウボーイ姿は「収買人心」(人心収攬)の商魂の所産とも見て取れる208)。胡の服は「推銷員」(販売促進係)の揶揄を受けた209)が、装いの違いを超えた本質の一貫も見過ごせぬ。
毛・→江・胡の移行は「酷」の冷厳→精彩の「重点転移」(重点の移転)210)を見せたが、胡錦涛体制は母胎たる小平時代の遺伝因子を多く持つ。彼は総書記就任の10 年前の1992 年10 月の第14 期党大会で、最年少の49 歳で政治局常務委員会に入り内外を驚かせたが、更に10年前の第12 期党大会で総書記に選ばれた胡耀邦は、胡啓立・胡克実と共に並ぶ共産主義青年団指導者として、同じ「共青団学校」出身で同姓の彼の先輩に当る211)。彼と同じくの眼鏡に適った胡耀邦は、建国後初めて背広の着用に挑戦した中共党首だ。
周恩来は「三羊(陽)開泰」(三羊[陽]が泰平を開運する)の縁起を担いで、朝鮮戦争中の志願軍主将に楊得志、楊成武、楊勇を当てた212)。天安門事件前後の軍の実権を握った「楊家将」(楊尚昆・楊白氷兄弟)と其の「3楊」の重畳は、胡錦涛が「3胡」の耀邦・啓立に次いで権力の頂点に入った展開213)と重なる。「3胡」の中の「領頭羊」(引率羊。指導者格)・耀邦の総書記就任は、1982 年9月12 日の事である。恰度29 年前の同じ日に第1書記と成ったフルシチョフと同様、2人の改革志向の反逆児の失脚も既視感が有る。
フルシチョフ失脚の翌々日の中国の核実験の初成功は、両国の力関係の逆転の起点と思えるが、其の歴史の連環に絡んだ暗合として、第11 期党大会閉幕の25 日後の1977 年9月12 日、『解放軍報』が中国の核弾頭搭載導弾の発射実験の成功を発表した214)。画期的「両弾」結合215)の宣言の恰度5年後に新体制が誕生したが、生産力の発展を至上視する最高実力者・が中央軍委主席の地位に座った事と合わせて、「四つの近代化」の農業・工業と国防・科学技術の両輪や、毛沢東時代の軍産結合・小平時代の産軍相乗216)の徴に成る。
1982 年9月12 日が特筆すべき理由は、1943 年以来の党中央主席の職位の廃止にも在る。党首は初代の陳独秀から6代目の張聞天までが「総書記」で、毛から「主席」と改名し華国鋒に継承されたが、其の椅子の撤去は「脱毛」(脱皮。脱毛沢東217))の意思表示と観て能い。毛の路線に絶対な忠誠を説く華の決定的失墜218)は、1つの時代の閉幕の信号とも捉え得るが、華が江沢民時代に導入した定年制の上限を超えても中央委員会に居続け、胡錦涛体制誕生の際に漸く退場した事219)は、歴史転換や世代交替に必要な時間を思わせる。
独裁の名残の強い「主席」が「総書記」に取って代られたのは、 小平が総書記を務めた’56 年体制の再来の含みも有る。第8期党大会で選出された総書記・は序列第6位に過ぎず、「文革」で抹殺された此の職名が胡耀邦に与えられた事は、表面的党首に対する実質的領袖の軍委主席の優位の徴に映る220)。初期の「総書記」はソ共を先取りした党首名221)なので、今次の「復蘇」(復活・蘇生)は字面通り蘇聯(ソ連)流の復活とも言えるが、毛の階級闘争志向と訣別した後の2人の総書記は、歴代総書記の失脚の宿命222)を踏襲した。
毛は党中央革命軍事委員会主席を経て党主席に成り223)、 は党首の地位を求めず軍委主席の座を手放さなかった。何れも熱戦・冷戦時代の武力の優位に因る二重権力構造だが、林彪も江沢民もNo.2に抜擢された際に喜より憂が強かった224)のは、危険を示す「前車の鑑」225)が中共と中国の歴史に多い故だ。江が総書記の任を円満に全うした結果は、正・反の何方道226)も政争に陥って了う「怪圏」(メビウスの環)の打破を意味する。不吉な陰影に怯えざるを得ない常態の終焉も、巨大な転換であるだけに悠長な移行が必要だった。
−胡体制の発足は前年の6月29 日に遡れ、其の日の中央総会では華の党副主席への降格、胡の党主席との軍委主席の就任を可決した。屋上に屋を重ねる構造は党・軍の大権分散227)の可能性も含めたが、2日後の建党60 周年228)の節目に相応しい指導部改組だ。の肝煎りで採択された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」229)は、毛沢東時代の総括と「文革」の総清算に成った。過去に区切りを付けた其の文献に対して、江沢民が建党80 周年記念集会で打ち出した「三個代表」論は、新志向230)の指針の性格が強い。
中共を最も広範な人民の利益、最も先進的生産力、最も高度な民族文化の代表とする規定は、毛沢東時代と其の後の「総凄惨・総清算」に対する「総生産・総精彩」の合成物231)だ。共産党の「全民党」(国民政党)化や資本主義・「知本主義」232)の道を開いた此の理論は、言わば「国民総産党」233)主導の「国民総産値・国民総産智」発展の青写真を提示した。労働者階級の前衛隊から中華民族の前衛隊へと属性が変更した事は、革命的変容とも自滅的変質とも観られたが、斬新に映る主張は修辞はともかく中身には既視感が有る。
「三つの代表」論で可能に成った資本家の入党は、27 年に亘った毛沢東時代と更に約20 年続いた後毛沢東時代234)の常識では、「離経叛道」(経典を離れ正道に背く)235)の観が強い。然し、掟破りの様な新「経」は実は過去の異説の「翻版」(焼き直し)で、「邪道」の謗りを受けた新方向の道筋は先代で既に用意された。小平が提唱した「先富」(一部の人・地域が先に豊かに成れ)論236)も、従来の平均主義を破る驚天動地の軌道修正だが、別の「先富」の布石として’93 年に、資本家出身の新財閥・栄毅仁が国家副主席に成った237)。
が依拠した「紅色資本家」(赤い資本家)肯定論238)は、劉少奇が建国初期に言い「文革」中批判された論調だ239)。劉・は党内最大の「走資本主義道路的当権派」(資本主義の道を歩む実権派240))や「修正主義者」と断罪されたが、全権を握った後のの社会主義堅持+資本主義容認は、間違い無く封建的社会主義に対する修正だ。栄毅仁を異人種の如く扱い難かった毛241)と対照的に、劉・の生涯の伴侶は大資本家の娘である242)。小平時代の「旧社会・資本主義の復活」243)は、劉の道半ばの志であったのかも知れない。
が先頭に立った「反右派闘争」の1957 年、栄は思想粛清の重点地域・上海の副市長に起用された。否定→肯定、想定→現実の反転は、其の時に既に種が撒かれた。は’78 年12 月の中央総会で変革路線を承認させ、翌年に栄に中国国際信託公司初代総帥(董事長兼総経理244))への就任を要請した245)。其の2昔前の先行的変化として、’58 年12 月に毛の国家主席辞任が了承され、翌年に劉が後任に選ばれた。二重権力構造は間も無く破綻し彼は10 年後に獄死したが、其の20 年後の天安門事件で改革・開放も暗闇に突入した246)。
2002 年に誕生した党指導部の「全新」(真新しい)形象には、全員の米国流の背広姿が特に目立った。は有名な「一個国家、両種制度」の講話(1984 年)で、「中華児女」は服装や立場が違っても民族の「自豪感」(優越感)を共有すると述べた247)。食・住・行(交通)の前に出る衣は人格の符号なり得る故に重要で248)、背広の急速な普及も中国の目覚しい変貌を物語っている。服装文化の定着にも1世代は掛かるが、不似合いを顧みず逸早く挑戦した胡耀邦249)の挫折は、「商社マン」と皮肉られた今日の瀟洒な勝者の肥やしに成った。
国民服の株を奪った「西服」(背広)の台頭と定着は、「西(洋)化」・「全球化」250)の前兆と結果だ。「時装」(フッション)の字面251)通り時流を映す服飾の変容は、胡族の動き易い服を取り入れた趙武霊王の変革に比せられた。戦国時代の胡服導入の故事252)が背広擁護論者に引き合いに出されたが、中国人は好く祖型を指針として援引するか、正当化の根拠として祖型の「実構」(筆者の造語。「虚構」の反対語で確実な構築の意253))を図る。其の思考様式・行動文法にも、観念・言語の操作で志向・幻想を現実に化かす魔力が有る。
満族の「旗袍」(チャイナ・ドレス)が中国の民族衣装の代表と成った変化は、紀元前4世紀の同じ周辺少数民族の胡服の導入を彷彿とさせた。「西服」は其の延長に在る歴史の「重演」(再演)と言えるが、一連の重畳は中国・中華文化の重層や、積み重ねに因り重量が増す年輪の特質を浮き彫りにする254)。其の底流の暗合を裏付ける様に、転型期255)の1980 年代の2人の改革派総書記の姓は、奇しくも趙武霊王の胡服採用に符合しており、胡耀邦の向う見ずの猛進と趙紫陽の失脚前後の不退転は、騎馬民族的蛮勇・愚直を印象付けた256)。
天が作って置いた連環として、劉少奇の抗日戦争中の暗号名・「胡服」が思い浮かぶ。軽装行軍の寓意257)は「西服」の利便性と通じるが、「服装設計師」(デザイナー)ならぬ「改革の総設計師」258)・は、資本家の活用も含めて「胡服」こと劉少奇の「藍図」(青写真)を実践に移したわけだ。21 世紀初頭の党の「顔」の面々の格好好さは此処で、図らずも「出藍之誉」の変種に成る。変名・「胡服」の登場の頃に生まれた胡・温の約60 年後の党・政府首脳の就任は、干支周期の意味と絡んで更に様々な既視感や擬似既視感を覚えさせる。
小平・胡耀邦体制が始動した1981 年は、60 年前の建党の1921 年と共に、陰陽道では変化が起き易いとして「革命」の異名が付く259)。は改革を一種の革命と主張した260)が、更に前の辛酉の1861 年は洋務運動の開始を以て、富国強兵を図る晩清の変革の起点と成った261)。の改革・開放を賛否の両方から新洋務運動と捉える向きが有ったが、19 世紀の近代化・全球化の気運・実績が突出した江蘇・安徽から、新千年の交を跨ぐ指導者の江沢民・胡錦涛が生まれた事は、地政学・人類地文学的価値の蓄積の開花と見て取れる。
時間の循環の含みを持つrevolution は、「革命」の東洋的意味と妙に通じる262)が、近代中国の3回の辛酉の変革は干支周期の断・続の両面を思わせる。指導部の「西服一律」263)は民国以来の国民的「中山装」(孫文服)264)や、建国前後の中共が好んだ「列寧装」(レーニン服)265)への揚棄(止揚266))だが、1924、25 年に逝った露西亜革命の父と国・共両党の「国父」267)は、服装様式に由る後世への支配が結局60 年未満だった。大陸の脱「中山装」や陳水扁の「総統」就任演説の孫文外し268)は、レーニン銅像の倒壊にも近い。
歴史の既視感は生成、蓄積、派生、再現の反面、此の様に更新、変異、稀薄、消失も多い。
「止揚」の字面と発想の通り、仮に退場しても別の既視感へ遺伝子を遺す場合が儘有る。毛沢東は荘子等の宇宙観を基に「物質不滅」の持論を展開し269)、素粒子研究に寄せた哲学的関心は海外の学界で感激され、彼の姓を冠す「毛粒子」の名称まで提案された270)。「不生不滅・亦生亦滅」の対立・統一271)に於いて、毛の弁証法的「粒子」観は『聖書』の箴言に通じる。「一粒の麦が死なねば只一粒の儘で、死ねば豊かに穂を結ぶ様に成る。」272)2002 年の党大会を期に華国鋒が政治の舞台から去ったのは、建党前生まれの世代の「全退」(完全引退)273)を意味する。華は党の「同齢人」(同年齢の人)であり、中共創設者の1人・毛の隠し子だとも噂された274)。故に「党的児子」(党の息子)と言うよりも、「天之驕子」(天の寵児)や「龍種」(龍[天子]の種)に相応しい275)。党の還暦の前夜に彼が頂点から転落した事は、干支の一巡に合致した党の「脱毛」の信号だ。60 歳で直ちに「耳順」276)に成ったわけではないが、耳に逆らう忠言を許容する風穴が出来たのは此の頃だ。
小平は難聴・独断の質277)から異論を黙殺しがちで、胡耀邦・趙紫耀は『荘子』の渾沌の死の寓話278)と逆に、密室政治に穴を開けた途端「中央の王」の逆鱗に触れ頓挫した。但し、其の犠牲も落ちて死んだ麦の如く再生・繁殖を見せた。『西遊記』の難関数に当る建党の81 年後に誕生した「新長征」の「帯頭羊」(引率羊279))には、2人の「秘蔵っ子」280)・温家宝が居る。彼が周恩来と同じ名門中学から出た事は、「龍種」の連綿を思わせる。党指導部の高学歴は又、北京大学教授が初代総書記を務めた中共の先祖返りの観が有る。
御披露目に臨んだ政治局常務委員面々の背広と赤いネクタイ281)は、「清一色」282)の中山装の反転や「一片紅」(赤一面283))の名残と思える。軍人が入らぬ点で1956 年体制への回帰284)も感じるが、「毛服」は人民服ならぬ軍服だ285)とすれば、軍服姿の消失は「脱毛」完結の証に映る。第1 釦を締める中山装と軍服は儒家の矜持と兵家の威厳を持ち286)、背広のV形襟は開放の象徴と捉え得るが、逸早く背広を試した初代上海市長と2代目外相・陳毅元帥は、Vの戦勝の隠し味と国防緑の平和の要素を「上海閥」に遺した287)。
改革・開放元年の初頭に栄毅仁に対して、行政命令も受けぬ全権を彼の投資会社に与えた。外資と元工商業者の寄与を引き出す旨の其の談話は『小平文選』に収録された288)が、日付の1979 年1月17 日は13 年後に歴史の連環の1点に変った。第2次改革・開放元年の’92 年の南巡は、同じ日に始まった事である。歴史の既視感は2種類の経路で出来上がる物と思えるが、印象に残った過去の事象が発生源を為す順次派生の型に対して、此の例の様に、逆に強烈な出来事の触発で既出の日常に特殊な意義が付される場合も有る。
南巡開始の日付が興味を引くのは、湾岸戦争勃発1周年に当る為だ。日を合わせた時機設定は立証できない289)が、人為を凌駕した天意が読み取れる。’87 年と’95 年の同じ日の神戸発のエイズ騒動290)と大地震も、安全の弱点を突いた人災・天災で繋がり合う。阪神大震災と「沙漠の嵐」作戦とは接点が無いはずだが、映像で「神剣」の威力を演出した米国当局と、中継を観ても危機感が涌かなかった日本政府との違いは、4年の時間差より遥かに大きい能力差を見せ、曾ての敗戦の既視感と重なる日本の再度の敗北の予感に成った。
事象や言説が自覚や意図の有無に関わらず、現実の展開に連れて既視感や予見と化す例は、1月17 日辺りを観ても色々有る。’87 年の其の前日の胡耀邦更迭291)は、此の日の日本エイズ元年開幕や8年後の阪神大震災と対照的に、共産党中国の最大な不安定要因が政治に在る事を示した。涙を奮う事も無く胡を斬ったはやがて若干後悔を覚えた様で、南巡の動因にも胡並みの情熱を見せぬ新指導部の微温への苛立ちが有った292)。5年前の政変劇の日とほぼ吻合した旅立ちは計算の結果でなくても、自省の暗示として成り立つ293)。 
5.「地縁政治緊張」と「地文化風険」;恐怖・激動・災厄・再生の等高線

 

阪神大地震は衝撃が全国に走り人々の心に影を投げた点でも、救援活動の不備や海外の援助を謝絶した自閉でも、1976 年の唐山大地震に既視感が有る294)。倶に数十日後に大激震(毛沢東死去と「4人組」逮捕、地下鉄サリン事件と超円高)が襲来した事も、社会の地殻変動を兆した両者の共通項だが、唐山大地震も8年隔てた歴史の連環を持つ。労働者・解放軍の清華大学進駐に対する紅衛兵の抵抗に業を煮やし、毛が学生造反派領袖を急遽呼び付け其の真夏の夜の夢を一喝で粉砕した295)のは、’68 年の同じ7月28 日の未明の事だ。
唐山は首都圏に在り後に北京・天津と共に経済成長第3極を成したので、例の災厄は東京大地震と阪神大地震の両方と重なる。国家の中枢に遠く離れた阪神の場合と違って、其の地文学的変異は最大級の地政学的危険を露呈させた296)。唐山は日本占領下の1938 年に清末以降の鎮から市に昇格され、「弾指一揮間」の38 年後に一瞬にして天の悪戯で廃墟と化した297)が、其の滅亡劇は別の形而上的意味も持つ。何しろ「唐山」は地理・行政上の固有名詞とは別に、華僑・「華裔」(外国籍中国系人)が中国を言う習慣的呼称でもある298)。
軍人作家・銭鋼は記録文学・『唐山大地震』の冒頭で、仏蘭西革命家・ロベスピエールの処刑(1794 年)、第1次世界大戦勃発(1914 年)、日本軍の北平占領(1937 年)、仏が南太平洋で2回目の水爆実験(1973 年)、という世界史上の7月28 日の激動を引き合いに出し、結びではサンフランシスコ、リスボン、英国のポテンツァ南方地区、日本の十勝、中国の海城と唐山を例に、大地震が起き易い北緯40 度線一帯の「恐怖の線」に触れた299)。唐山の悲劇は言ってみれば、其の時・空の「天網」めく「災厄の枢軸」300)の交差点に起きた。
女性エイズ患者第1号が神戸に出た事は、国際港の特殊性に絡んだ発病要因301)を思えば、珍獣を嗜む食文化の故に広東が非典型性肺炎の発生源と成った事と同じく、人類地文学的危険の存在を思わせる。「非典」(SARS)の次の「禽流感」(鳥インフルエンザ)と「硝煙無き第2次保健戦」302)の禽獣大量処分も、度々騒擾を起す香港流感と1997 年の香港の禽流感退治303)に既視感が有る。香港・露西亜と共に世界の流感3大発生源を成すアフリカは又、前世紀末の怪病・エイズの母胎とされ304)今も「重災区」(重度被災地域)の儘だ。
広州と香港は地理上「一衣帯水」の関係の典型と言え305)、地政学的には99年も別々の国の管轄下に在り、1997年の香港返還後も「一国二制度」で断層が続く。半面、「食は広州に在り」の定式と「食在広州=食在香港」の等式306)は、共通の「粤語」(広東語)に縁る越境の連帯感307)と共に、両地の人類地文化学的一体性を示す。「口は禍の元」に当る中国の警句は、「病従口入、禍従口出」(病は口から入り、禍は口から出る)と言う。広東発の新型肺炎と香港の報道自由を巡る紛糾308)は、此の舌禍の両面と共に両地の絆を思わせた。
食は古来の中国で官民が「天」(至上命題)と為す基本的生活保障で309)、字形に倶に「口」を含む言語も「語=言+吾」の様に自我主張の手段だ310)。天と人を繋ぎ即物的食欲と高次の表現欲を満たす2つの「口」の他に、孟子が人間の天性とした食・色311)に即して思えば、性欲の「別口」312)が形而下・形而上の両面で浮上する。口鼻腔・咽喉から体に入る流感の発生源として香港と接点を持つアフリカが、性器接触や輸血感染の別途「進口」(輸入)で人を侵すエイズの「出口」(輸出)元313)と成ったのは、示唆に富む現象である。
内戦時代の中共から天安門事件の学生まで『国際歌』に共鳴した一因は、「起来、飢寒交迫的奴隷!」(立ち上がれ、飢寒に虐げられた奴隷たちよ)の雄叫びが、社会的・心理的・生理的実感に訴える力を持つ事だ。規約から『共産党宣言』の文言や労働者階級の前衛隊の既定が消えた今次党大会でも、此の無産階級革命の戦歌は閉幕式で演奏された314)。漸く「温飽」(衣食の基本的保障)問題が解決に至った社会主義の初級段階に相応しいが、東半球北部の老大国と対蹠に在る西半球南部の炎熱大陸の貧寒は、「飢寒」とは微妙に異なる。
マルクスは倫敦の「陰冷」(底冷え)の中で『資本論』を書き、レーニンは露西亜の酷寒の中で革命を起こし、毛沢東は北方の僻地と首都で政権の奪取・維持の意志を強めた。国際共産主義運動は地球的規模と文化的視点から観れば、貧・寒度の高い北半球で発生・発展した必然性を持つ。同じ不毛でもアフリカは其と皮膚感覚の違いが有るが、『国際歌』に代ったスターリン時代の国歌がプーチン政権の下で復活した315)露西亜では、地球の縦軸で対極に位置する「災厄の枢軸」の一角との共通性は、冷戦後の中緊張・高成長で現れた。
ソ連解体後は超大国の軍備競争の高緊張が消えた代りに、市場原理に由る個人・企業の生存競争が激化した。貧富格差の拡大に伴う絶対的・相対的窮乏の多発は、経験済みの資本主義諸国や移行経済の先発組の中国等では既視感が有る。其の結果10 年で露西亜男性の平均寿命は5歳も減り60 歳を切った316)が、謀らずもアフリカの短命傾向の増長と一対に成る。第2次世界大戦で払った死屍累々の犠牲に対して、「硝煙無き全球経済大戦」で非暴力に因る老累・病死が夥しく降り掛かるとは、南側の地の果ての果てし無い荒廃と通じる。
中国は不潔の故アフリカ並みの病毒発症地と見られる317)が、「東亜病夫」の不名誉は改革・開放後に決定的に挽回した。1984 年に中国が初参加の五輪で強盛大国の印象を付け318)、同じ頃に国民のカロリー摂取水準が国際的合格線に近付いた319)。飢寒の二重苦の中で生まれた温家宝の名は「温加飽」の祈念が託された320)が、還暦後の彼が総理と成った時の中国は逆に生産過剰に苦しんだ。毛、 、江時代の物の不足→欲の爆発→物の氾濫は、「欲」の字形の穀物不足の含みに合う展開だが、「谷+欠」は驕傲の転落の契機をも内蔵する321)。
人類は飢餓時代に刷り込まれた本能から、脂肪類の摂取願望が先天的に身に付く。其が豊かな時代に禍して先進国住民や中国の「小皇帝」322)の肥満を招いた323)のは、「物極必反」(物事が極みに達せば必ず反転する)の通りだ。「素食」(菜食)本位から「暈食」(肉食)一杯への進化は皮肉にも、「少則得」(少なければ則ち得)の質素の後退、「多則惑」(多ければ則ち惑う)の眩暈の台頭を齎した324)。今の日本の若者の性行動の衰微325)も飢渇と飽食、禁欲と放縦の「怪圏」を映し、先進国予備軍の中国の将来の倦怠の前兆と思える。
流感源と共に悪名高い香港の「孤寒」(吝嗇)326)は、飢寒故の金欠病よりも金満故の傾向だが、「経済動物」性も人類の本性の一部だ。地球規模の問題群の「重点転移」に伴って発生した「愛滋」「沙氏」327)は、延命の為の輸血や珍禽嗜好が感染経路と成る点で時空両面の不易性を持つ。地域の貧富に拘らずエイズが世界最古の職業328)に由って拡がった事は、常に既視感や擬似既視感を帯びた悲劇の定めを物語っている。世紀末と世紀初に蔓延した2つの不気味な怪病にも、百年の熱戦・冷戦に通底した血腥さと生臭さが嗅ぎ取れる。
SARS退治の不手際で衛生部長(厚生大臣)と北京市長が更迭され、後者は江沢民系列の前者を下ろす為の「陪斬」(道連れ)と見られた329)。江時代の本格的開幕は首都の首領・陳希同に対する汚職摘発・逮捕なので、「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」の既視感が有る。陳の犯罪は経済優先時代の所産とも言えるが、天安門事件の武力鎮圧を「誤導」した彼330)に対する粛清は「脱毛」の止めに似合う。「文革」の序幕を開いた北京市長・彭真の失脚の悲劇に次ぐ喜劇と悲喜劇は、政治から経済、人間安保への「重点転移」を見せた。
硝煙無き戦場に乗り込んだ新市長は天安門事件の際、20 年の安定と引き換えるなら20 万人の犠牲は止むを得ぬと唱えたらしい331)。巡り巡って左様な辣腕派が首都統治を拝命したのは、「文革」前と「文革」中、毛・時代末期の2回の天安門事件の時の北京市長の失脚332)と共に、政治の中心や権力の枢軸の所在地の地政学的危険を思わせる。が死去の8年前に踏み切った首都戒厳と武力鎮圧は、毛が死去の8年前と直前に決断した清華大学攻略と天安門広場での実力排除333)の複合の様に、既視感と必然性を感じさせて来る。
毛・の時代には北京首長の不安定と対照的に、工商の都・上海の首長が中央の頂点へ抜擢されたが、今の国際社会では中国は後者の様に経済専念の故「漁夫の利」を得ている。一方の米国は世界の中心を以て自任し政治に力点を置く分、言わば首都の自ずと高い地政学的危険を自ら一身に集めた。其の「世界憲兵」(国際警察)の高飛車な挙動は、「政」の「正+攵」の字形の「正義の鞭」の含み334)に合わなくもないが、高い返報を追う為に負う高い危険で竹箆返しを食った展開は、第2の越南と成しつつあるイラクで示現している。
昨今の世界史には、1世代前に伏線を敷いた出来事が多い。冷戦終結の鐘は「国際互聯網元年」の開幕を飾ったが、此の情報技術革命の利器は核戦争危機下の1969年に米国国防総省が開発した物だ。中枢の被害を軽減させる為に末端へ疎開する通信手段は20 年後、「第3の波」335)の前衛として颯爽と表舞台に上がった。中国の「4つの近代化」の半分を占める国防と科学技術の領域に於いて、米国は此の件でも総生産・総精彩の実力を遺憾無く示したが、国防総省は後に冷酷な心中攻撃336)で「酷」の格好好さを落とす破目に陥った。
核戦争の難が去った後の慢心に因る機能・危険の集中傾向の裏目で、米国は9.11 襲撃で中枢の大損を蒙った。艦艇・飛行機の密集配置で敵に好都合を与えた真珠湾事件は、此の意味でも既視感を埋めた前車の轍である。米国は日本の奇襲を察知できなかった60 年前337)と違って、「千里眼」「順風耳」(地獄耳)338)めく情報探知手段を備えている。其でも目の下に潜んでいた「害人虫」(人を害する虫)を「掃除」し切れなかった339)のは、毛沢東の「華陀無奈小虫何」(華陀も小虫を奈何ともする無し)の感嘆340)を思い起こさせる。
毛は建党37 周年の際の詩・『送瘟神』(疫病神を送る)の中で、此の比喩で日本住血吸虫病に因る華南中心の中国の被害を表わし、全国で700 万人も患者が居た此の怪病の退治成功を讃えた。45 年後の華南発の新型肺炎は世界で「瘟神」扱いにされたが、此の作品は歴史の反転と共に華陀の悲劇を考えさせた。関羽の骨を削り取り毒を除いた彼は、曹操の頭痛を根治する為に頭部切開手術を提案した処、暗殺の陰謀と勘繰られて獄死を強いられた。暴君の「瘟君」(疫病神)なる「心中賊」の所為で、稀代の名医は自分の命も護れなかった。
中国流で「千禧虫」(新千年の虫)と言う「電脳2000 年問題」も、「無奈小虫何」の滑稽さを見せた。製造元の吝嗇の故の手抜きか特需を期待した仕掛けにしろ、近未来の想定を怠った慢心にしろ341)、正体不明な発生源は「心中賊」に帰着できる。人類の新千年祭に物騒な陰影を投げた不条理劇は、利と力の相関を思わせた。1961 年1月17 日、アイゼンハワーが異例な告別演説で産軍複合体の肥大を警告した。後任大統領の非業の死に関与が噂された其の幽霊は、30 年後の同じ日に勃発した湾岸戦争で暴力→暴利の魔法を演じた。
朝鮮戦争の終盤から8年「力の政策」を推進した大統領の警鐘も、後の風化を待たず「強欲の枢軸」の能量全開で忽ち消えた。獅子身中の虫342)の侵蝕で獅子も虫に変質したわけだが、別の「身内賊」として身から出た錆、即ち内部の腐敗や醜悪も目に付く。小ブッシュ大統領誕生の直前のフロリダ州得票再集計で、1枚1枚の紙のパンチ穴を点検する「無奈小虫何」の光景は、1960 年代以来の投票方式の不備と落後を一挙に表面化させた。4年後に再任を狙う当人が選挙戦で曝された不名誉は、やはり約30 年も昔の軍歴粉飾疑惑343)だ。
対イラク武力鎮圧が売り物だけに形象の破壊が甚大だが、クリントンも越南戦争中の兵役逃避に関わらず大統領と成った。歴史は悲劇→喜劇、「正劇」(本格・厳粛な劇)→「閙劇」(茶番劇)の形で繰り返すが、小ブッシュは前任者の既視感と共に先代への反転も見せている。越南戦争で何度も負傷した対立候補・ケリーは「酷」の格好好さが際立つが、老ブッシュも曾て対日作戦の英雄なのだ。天安門事件の余波で窺われた老ブッシュと小平の波長の合致344)は、朝鮮戦争の前の戦火の洗礼で米中の絆を結んだ歴史の長波の賜物だ。
胡錦涛の「胡服」の戦闘性の表現として、総書記就任前の訪米は真珠湾から始まった。江沢民への恭順の証として前例を踏襲したと観られたが、江が日米戦争勃発の地を第1歩に選んだのは、第2次大戦中の提携を建設的・戦略的相棒345)関係に生かす意思表示の色が濃い。温総理就任後の訪米の初日は選りに選って真珠湾襲撃記念日の12 月7日で、一層其の意図を明確に示す形と成った。其処で気付かされた別の時空の連環は、胡・温と東北亜細亜の隣国の首領の金正日・小泉純一郎は、倶に太平洋戦争勃発直後の1942 年生まれだ。
盧溝橋事件の翌年に抗日戦争に身を投じた中共「38 式幹部」が歴史の舞台から消えかかった頃、異名の由来の一部と成る日本軍38 式歩兵銃の産地では安全・経済の神話が崩れたが、「第2の敗戦」の翌年以降の橋本・小渕・森3首相は揃って盧溝橋事件の直ぐ前後の生まれだ346)。
彼等の歴史認識は胡・温・金・小泉と通じて、出生時の歴史が擬似原風景347)として付いて廻る節が有る。第2次大戦終結の翌年に生まれ新世紀の暁に大統領と成った小ブッシュ・盧武鉉も、天授の存在が個人の意識を規定し歴史を影響する好例と思える。
五木寛之は同じ敗戦後に朝鮮から撤退した江藤淳夫人から、「時代の同期生」と呼ばれて感銘した348)。彼は平壌で見聞したソ連軍の蛮行を万国共通の兵卒の暴挙とした349)が、歴史の普遍性に因る既視感と違って、其の場に居ないと追体験し難い感受も有る。「代溝」(世代の断層)で隔たる日本の戦中派、戦後派と戦無派、中国の内戦世代、「文革」世代と改革・開放世代、韓国の「50、60(歳代)世代」と「20、30 世代」350)は、「社会大学」の授業や時代の雰囲気の共有に因り、其々の内部に擬似同族の連帯感が出来上がるのだ。
新世紀の韓国で親米反共の主流に代って親北嫌米の情緒が台頭したのは、世代交替の反映に他ならない。同文同種の中でも有る他世代との境界線は、地理の遠近や感情の親疎、利害の異同を超えて、色々な場合で様々な形で見られる。其々同年齢の胡・金・小泉と盧・小ブッシュは、言わば「世代等高線」351)を以て繋がり合う。「人事有代謝、往来成古今。」(人事に代謝有り、往来して古今を成す。)352)時間や環境の推移・変容の中で其の生来の「等高線」から離れぬ在り方は、「与時倶進」(時と倶に進む)353)の変種にも思える。
其の線は年輪と同じく原形を保ちつつ漸次膨らむが、先の者も後の者も天寿の枠内で人生を描くわけだ。幼→青→中→老の「必経之径」(必ず経る径)354)に由って、古今・東西の人や国の歩みには似通う処が多い。最期の毛沢東が感じ入った信の『枯樹賦』355)の様に、個我や世間の盛衰は樹の盛衰を彷彿とさせる。公人として指導者への生誕祝賀を禁じた毛は私かに自分の誕生日を大事にし356)、誕生日の公表を控える新世代の指導者は新千年紀も含む祝祭日の儀典に熱心だ357)が、発展を好み喪失を惜しむ心理は一緒である。
人間社会の大樹に刻まれた等高線は、微視・中視(等身大)358)的日次、月次や年次から巨視的世紀の環が有る。1989 年の冷戦終結・東欧革命・「国際互聯網元年」は、百年単位の歴史の縦串の中で、1889 年の明治憲法発布、1789 年の仏蘭西革命、689 年の英国『権利宣言』・英仏殖民地戦争と隣り合い359)、人類の長足の進歩の点描に成る。1976 年の唐山大地震や12 年後の中国金融動乱は龍年の災厄と視られた360)が、干支の中の「辛酉=革命」や主要国株式市場の9月暴落の習性361)と共に、歴史の体内時計を浮き彫りにする。
銭鋼は自ら救援活動に携わった20 世紀最大の地震の描破で『歴史上の今日』を引いたが、地理学的危険や地政学的危険と並ぶ時間的危険や歴史的危険が考えさせられる。北緯40 度地域の「恐怖の線」に対して’89 年群は「激動の等高線」と呼べるが、日々の機微はより肌理細かく多岐に渉る。7月28 日の場合は彼が論拠に用いた出来事の他に好い事も一方有るので、1つの鍵言葉では概括し切れない。歴史は経緯の交差や山河の起伏の如く多角の形態や多様な方向で織り成された物で、其の重層を縦走すれば思わぬ断面や接線に遭遇する。
1999 年4月25 日、大勢の法輪功信者が中南海周辺で座り込み請願を敢行した。10 年前に大学生集団も弾圧に抗議する目的で同じ聖域への突入を試み、此の日に指導部の強硬対処の決意を固めた362)ので、今次の示威で天安門事件の悪夢が甦ったのも無理が無い。法輪功が故意に狙った時機だとすれば、当局を震撼させた衝撃効果が取締の圧力として撥ね返ったのは皮肉だ。
既視感が喚起・増幅する恐怖は其ほど強いが、中央所在地に迫った不穏な群衆行動を重視せず、’89 年4月23 日に趙紫陽が北朝鮮へ出掛けたのは暢気な失敗だ。
’86 年末の学生運動と知識人の民主化要求は、 小平の敵意と胡耀邦の失脚を招いた。其の51 年前に中共が指導した12.9学生運動363)や、 が’57 年に粛清の指揮を執った「右派分子」の異端言論の残像が、事態を深刻視し警戒する心理の点火線・添加剤と成った様だ。趙総書記は前任者の失脚が記憶に新しいのに楽観したのは、政治闘争の嗅覚や歴史学習の成果が足りなかったとしか言い様が無い。留守中の4月26 日『人民日報』社説の「動乱」断罪で「政治風波」が一気に高まったので、其の旅立ちは大きな転換点と成ったのだ。
自国と自身の安寧を疎かに朝鮮訪問を優先した彼の代償は、経済建設を後回しし朝鮮戦争に参戦した毛沢東時代の犠牲と二重写しに成る。共産党中国の平和・繁栄の構築・実現には、北朝鮮は謀らずも好事の邪魔を再三した。朝・越との善隣関係を形容する「唇歯相依」364)は小平時代に消えたが、唇と歯は相互依頼の連帯だけでなく噛み合わぬ摩擦も有るわけだ。毛の朝鮮出兵の決断は「唇亡歯寒」の故事に負う処が大きい365)が、唇が寒ければ歯は亡びると言う強迫観念は、今も対朝経済援助の負担を強いる呪縛であり続ける。
6.「歳歳重陽、今又重陽」の「蝉聯・蛛絲」体連鎖・延続連帯保証人の如く地政学的危険の分担が余儀無くされた中国の立場は、生存環境に対する周辺国の重要性を思わせる。「韓信胯下之辱」と「孟母三遷」の物語では無頼漢と墓地、商人が忌避された366)が、其の不良、不吉、不義は揃って今の北朝鮮に見られる。国家は個人と違って隣人を選べないが、歴史の時間的流動性は其の空間的固定性に変化の可能性をもたらす。
朝・中の「唇・歯」相依・相克が示す通り、同じ場所でも時間の経過や人間の営為に因り滄海の変が起き、時間軸では「怪圏」状の隣接・相関の組み合わせが生じる。
朝鮮停戦50 周年の直前の2003 年春、米英のイラク攻略で注目度が高まった北朝鮮の核開発を巡って、米・中・朝が北京で協議を行なったが、朝鮮代表の核兵器保有の表明で世界に衝撃が走ったのも、北朝鮮絡みの災厄が中国に降り掛かる因縁の4月25 日の事だ367)。2000 年南北首脳会談までに公表された金正日の唯一の肉声は、1992 年4月25 日に建軍60 年記念式典で発した「朝鮮人民軍に栄光有れ!」だ。大衆集会で天へ発砲したフセイン大統領と重なる軍事独裁開発368)の首領の鶴の一喝は、11 年後の核恐喝で回声を響かせた。
1997 年2月19 日に韓国で大物脱北者を狙撃した等、北朝鮮の特務機関は好く金正日誕生日の頃「花火」を打ち上げた369)。中国でも建設工事を党・国・領袖への「生日献礼」とする例が多かった370)が、裏返しの酷い「誕生祝い」も有る。劉少奇に対する党籍剥奪は公表の24 日後、古稀を迎えた日に本人に通告され獄死を加速させた371)。其の暴挙の既視感の一齣として、比律賓からの敗退を雪辱するマッカーサーの執念で、「法的手続きの体裁を装った復讐」裁判の末、真珠湾襲撃4周年の日に山下奉文大将に死刑判決が下された372)。
「文革」中に公安・検察・法廷は軍事管制下で健全性を失い、国家主席も法的手続きが無い儘で監禁された。其の暗黒な迫害は毛沢東の「無法無天」の放言373)と共に、当時の「無頼統治・無法国家」の有様を裏付けたが、中共政権の法治の欠如を頻りに非難する米国も人治の一面が有った。米最高裁の判事10 人全員は山下裁判の不服の訴えに対して、手続きは適正を欠いた物だと一致しつつも、軍事法廷に介入する権限が無いと判断した374)。戦時体制の遺産とは言え、北朝鮮の「軍先政治」と同工異曲の「軍先裁判」は戴けない。
毛の「鉄砲から政権が生まれる」論は軍の特権意識を助長したが、中共建国の実情には適っている。亜細亜の軍事独裁を裁く使命感に燃えた「世界憲兵」気取りの米国は、憲法第2条で銃保持の権利を定めた375)処に軍国的「銃前」376)傾向が窺える。最高裁も遂に軍の治外法権の前で頸が垂れた1946 年、降誕節前夜の北京で強姦事件を起こした米海軍陸戦隊兵士も、中国の官民の公憤に拘らず軍の庇護を受けた377)。越南での虐殺や沖縄での強姦、韓国での轢死378)等、米軍の数々の無頼・無法は中国人にとって其の再発に映る。
終戦翌年に件の盟国軍人が犯したの北京大学の学生なので、中国人は絶大な屈辱を覚えた。
当の最高学府から創設者が出た中共の指導下の大衆示威に因り、「沈崇事件」は「抗議米軍暴行運動」の代名詞と成った379)。身内を庇う為に自国の形象に永世の汚点を付けた米軍関係者は、「小の虫を殺して大の虫を助ける」の逆で、1匹の害虫を生かして無尽の害虫を孕んで了った。小我の癇癪の虫を殺せず380)仇を殺した山下裁判に関しても2人の米最高裁検事は、法の偽装で飾った服讐は残虐な行為より大きな禍根を遺すと警告した381)。
9.11 襲撃は米国で21 世紀の真珠湾奇襲と糾弾され、「神風特攻」の方式・意志の再演も事実だ382)。但し、日本軍の玉砕戦法は米軍の俘虜虐待に誘発された節が有るらしい383)。「一個巴掌不響」(片手では拍手できぬ。片方では喧嘩に成らぬ)と言う様に、往年のアングロ・サクソン民族の人種差別や米国の覇道志向は、今次の惨劇の遠因の一部と考えられる。絶対的正義の化身を以て自任しイスラム教の聖域を踏み付けた384)米国の醜い側面は、「五十歩百歩」の他者間の程度の差の半面の自身内部の時間差の部分を浮き彫りにした。
「大覇」(覇権大国)と「小覇」(地域覇権国家)の対立は、似た者同士の争いの匂いが漂う。
米国は無法度に於いて「無頼」群の縮小版にも映るが、善・美の外観の裏の暗部は己れの「漬け物甕」385)の産物として既視感が有る。「悪・憎悪の枢軸」386)に因んで言えば、昨今の国際紛争には「悪意の枢軸」が生む報復の連鎖が多い。9.11 襲撃の時機の理由として、英国がアラブの反対を無視してパレスチナを制圧した1922 年9月11 日が有力視される387)が、時・空とも気宇壮大な怨恨の爆発は人類共通の情念の影の部分に通底した。
孔子が肯定した「以直報怨」(正直を以て怨みに報いる)の直情388)は報復を正当化し得るが、情理に適う故「以徳報怨」(徳を以て怨みに報いる)の理想より普遍性を持つ。米英のイラク攻略は9.11 襲撃への逆襲として、イスラム過激派の暴走の遠因と思える英国のパレスチナ制圧と重なるが、81 年の経過は「九九帰一」(九九→ご破算)に吻合する。2004 年3月22 日、4月17 日、イスラエルがイスラム原理主義組織・ハマスの指導者を抹殺し国連の非難を受けたが、其の蛮行の恐さは報復が報復を呼ぶ永劫長恨の序幕と成った処だ。
導弾攻撃に由る2回の暗殺は「流民の国」の情報・武器の威力を顕示したが、敵の頭を1発で消した物心両面の絶大な打撃は9.11 事件と通じる。小利を獲って大義を失う点も一緒であるが、確実な利得に目を奪われるのも人情の常だ。小平時代の実利志向は「時間は金銭なり、効率は生命なり」の金言に集約されるが、平和・繁栄と対極の戦争・破壊の領分に於いては、効率的時機の設定は金銭で換算できぬ効果を持つ。イスラム過激派やイスラエルの恐怖行動は観方に因れば、転換点で動き出す職業投資家の仕掛けに似ている。
首都陥落1周年の2004 年4月8日の前後、イラクで抵抗勢力が外国人人質事件を同時多発的に起こした。戦後復興に派兵したスペインを恐喝する為の同国列車爆破が、其の前に9.11の恰度2年半後に当る3月11 日に起きた。片方は計算尽くしの狙いであり片方は「巧合」(偶然の一致)の様だが、偶然の中に必然が有る事は北朝鮮の核恐喝の爆弾発言の時機でも証された。舞台の会談は3国が共同で設定した物で朝鮮人民軍創設記念日とは無関係のはずだが、建軍60 年の節目に発した「将軍様」の雄叫びと共に世界に響いたのは天意だ。
朝鮮人民軍の成立は1948 年2月4日の事で、建軍節の由来は1932 年の金日成に由る抗日遊撃隊の創設だ。中国人民解放軍の建軍節(8月1日)も、1947 年の改称より20 年も昔の赤軍設立の日だ。両国の同根性を示す此の事象の反面、血盟の離散を暗示する時間の連環も有る。
朝鮮労働党創設記念日と中華民国国慶節(10 月10 日)、中共国慶節と韓国建軍節(10 月1日)は、朝鮮半島と台湾海峡の両側の交錯を見せ、北朝鮮建国記念日と毛沢東命日(9月9日)、金日成誕生日と胡耀邦命日(4月15 日)は、中朝相剋の表徴に成る。
金日成の77 歳誕生日に急逝した胡耀邦への追悼が民主化運動を誘発し、葬儀の直後に趙紫耀が平壌へ赴き政治風波の増幅を招いたのは、中国に対する北朝鮮の地政学的危険を思わせる。
其の禍福の糾は措て置き、東北亜細亜の様々な時間的節目の等高線が目に付く。韓国の光復節と北朝鮮の解放記念日(8月15 日)は、侵略・敗戦の日本に相対する同根性を窺わせる。
「太陽節」(金日成誕生日)と「親愛なる首領金正日同志誕生日」の併存は、「太陽旗」(日の丸)の国の「緑の日」(先代天皇誕生日)、今上天皇誕生日と二重写しに成る。
祝祭日に見る特質の異同として、南北朝鮮の殖民地歴史や積怨との差を映す様に、中国では抗日戦争勝利記念日は祝日に入らず「光復節」も死語と成った。中・朝の国際労働節(5月1日)や国際婦人節(3月8日)は社会主義国家らしい389)が、朝・日の憲法記念日(其々12月27日、5月3日)や中・韓・朝の旧正月の残存は、意識形態や統治体制の違いを超えた共通だ390)。韓国の子供の日は日本と同じ5月5日で、中国の国・共政権の児童節(其々4月4日、6月1日)と風馬牛だが、端午節が起源と成る処に3国4方の文化縁が窺える。
韓国は朝鮮と共通の8月15 日光復節の他に、旧暦8月15 日の秋夕も祝祭日に入るが、日本で廃れた中秋の重みは中国を上回る。釈迦生誕日(旧暦4月8日)の祝日化も伝統重視の国柄を現わしているが、日本の小・中学校の新学年入学式が好く西暦の此の日に行われるのも、佛教の教祖を尊崇する古風の名残なのだ。韓国で基督生誕節も祝日と成るのは、佛教と基督教の信者が其々宗教人口の半数を占める国情に相応しいが、日本以上の西洋化と東西折衷を印象付ける。興味深い事に、日・朝・韓・中・台の唯1つ共通の祝日は元旦だ。
日本や台湾では皇室や民国の年号を使うが、自前の年代を持つイスラム圏と同じく西暦を拒むまい。空間の境界線や言語の壁で分断された人類には、基督教の色の稀薄化した太陽暦や紀元は少数の共通項なのかも知れぬ。世界標準時間は時差の間隔を内包しつつ地球秩序の基軸の一部を成すが、歴史の分野では日付変更線ならぬ年代や期間、日期の等高線が節目に成る。年代等高線の有効性の一例は、主要経済目標の達成時期で亜細亜の雁行型成長の足跡が捉え得る事だが、線ならぬ面の期間や微視的時点の日の等高線はより奥深い。
天安門事件は世紀の座標で激動の’89 年に当り、日付が71 年前の「満州某重大事件」391)と一緒だ。革命と暴力の時代に符合した暗合であるが、歴史の等高線は好くベルリオーズが創案した「固定楽想」(固定観念392))の様に、標題音楽の画竜点睛の基本旋律の反復を見せる。毛沢東は開国大典で礼砲を28 発鳴らすよう発案し、公式の説明で建党から建国までの年数を理由に挙げた393)。建党の年の彼の年齢や姓名画数に因んだ若い頃の変名・「28 画生」394)も思い浮かぶが、多重の意味を込めた其の数も「固定楽思」の符号と言える。
長短様々な景気循環395)も経済の基礎的条件や欲望・気力の消長を映す意味で、人間の常情や世間の常態を繰り返して見せる1齣1齣の活劇だ。株式市場の「3ヵ月1小波、3年1大波」も変易の等高線を形成するが、年度や12 支の4半期に当る周期は歴史に既視感が多い事の理由を示唆する。其は要するに古今、東西共通の人間の本質の不易と、人事の固定観念に似合う天命の律儀さである。81 難を極めないと経典を貰えない『西遊記』の設定は、「窮則変」(窮まれば則ち変ず)の一点に尽きる多変数の万華鏡の絡繰を窺わせる396)。
毛沢東時代後と新世紀初の「新長征」の起点に相応しく、 小平体制は世紀の第81 年に本格的に発足し397)、胡錦涛体制の誕生は建党81 周年の直後の事だ。今次党大会は鄒容の『革命軍』が点火した1903 年の革命熱の99 年後に当るが、最大の2桁の数で「久久」と同音の99 は9の2乗の81 以上に究極の形象が強い。3× 33 と3×3×3×3の年数の交錯は、景気循環や株式市場の複数の長期波動の転換点の稀有な重畳398)と同じく、新紀元の到来を思わせた。
胡・温が倶に此の年に還暦を迎えた事も、再出発の節目を印象付けた。
建党後の81 年を振り返れば、「梯田」(段々畑)風の均斉な展開が見られる。28 年の奮闘で政権を取った後に建国の父の支配が27 年続き、次の26 年では2代の指導部が「脱毛」を遂げた。25 年後の2027 年は建軍百周年に当るが、国・共決裂に起因した中共の「軍先」志向は、丸1世紀も経てば大分稀薄化して了おう。微逓減の「与時倶進」は振り子の加速とも衰微とも取れるが、更に24、23 ……と1年ずつ縮めると、途中で2137、2249、2261、2282、2291、2299、2321 年等の節目を経て、末に又2世紀後の’27 年に辿り着く399)。
此の結果は32の27 の魔力や三角数列の奥妙、「革命・革令・革運」(辛酉1921 年・甲子1924年・戊辰1928 年)期内の1927 年の特殊性を思わせる。陰陽道が激変期とする「3革」は中国流の「地縁政治緊張」(地政学的リスク)に因んで、中共の建党・建軍に格好な「時縁文化緊張」時点と言える。同じ年から逆に29、30 ……と1年ずつ増やして遡れば、+ 51、52 年の処に新千年初の1001 年、中共建国の千年前に当る949 年等の節目に遭遇する。歴史の等高線や既視感は此の様に、現在の出来事が過去と将来の両方に刻み込んだ物である。
中共の建党、建国が孔子の没、生の其々2400、2500 年後に当る事は、中国のイエスと言って能い彼の地位を思えば新紀元的意味を持つ。百年の連環は「一千零一夜」(千夜一夜)の如く尽きぬが、孔子と孟子の享年の73、84 が中国で厄年と成り、毛沢東も頻りに其の鬼門に気を揉んでいたのも、中国に於ける儒教の国教的性格を示す。日本では「本命年」(12 年毎の生まれ年)が全て厄年を成す中国の習慣は無いが、巡り巡って2000 年に導入した国会議員定年制の上限が73 歳で、2人の元首相が84、85 歳で終身待遇を打ち切られた400)。
東北亜細亜に於ける儒教文化・「言霊」意識の共通は此の偶然の符合に現れたが、逓減数列で84、73 に次ぐ62 は正に2004 年の中・朝・日首脳の年齢だ。死期近しと言う毛の嘆き401)を聞いた1975 年4月18 日の金日成も63 歳に成ったばかりだが、毛は嫌な予感が的中し翌年に数え歳84 で死去した。1994 年7月8日に急逝した金の享年は奇しくも毛と同じ満82 だが、毛の生誕百周年の数ヵ月後に当る其の時は中共創設73 周年の頃と重なる。直後の建国45 周年を期にした小平世代の権力移行の完遂で、党は「厄年」に乗り切った。
毛は北朝鮮建国28 周年の日に他界したが、9月9日は彼にとって宿命の節目であった。
1927 年に初めて指揮した軍事闘争の湖南・江西の秋収蜂起で現地入りしたのも、1949 年の北京占領後に郊外での仮住まいを終えて入城したのも、此の日の事とされる402)。3回の9.9の戦争→勝利→他界は彼の生涯だけてなく、人間の道程や社会の変容の帰趨にも合う。天安門を飾る縦・横各9本の大きな門釘は、「表徴の帝国」の表玄関の原風景403)として、九重の苦を潜って九重の天に昇った龍の「窮尽」(窮め尽き。燃え尽き)の隠喩とも取れる。
其の9×9の意匠の発想である陽数の9の重畳は、5大節句の内の重陽(陰暦9月9日)の由来だ。此の菊の節句に丘に登り菊の酒を飲む古代中国の風習は、奈良時代より宮中で観菊の宴を催した日本流の優雅と違って厄払いを兼ねた。「人生易老天難老、歳歳重陽。今又重陽、戦地黄花分外香。」(人の生は老い易く天老い難し、歳歳に重陽のめぐりきて。今又も重陽、戦地の黄花の分外香るかな404)。)内戦中に毛沢東が『採桑子・重陽』で詠んだ此の心境も、菊が国花を成す405)日本の「紅旗征戎我が事に非ず」406)とは対極的だ。
此の詞の恰度20 年後の建国は「戦地黄花」が満開した盛事と言えるが、後半の「一年一度秋風勁」(一年一度秋風勁し)に続いて、「不似春光。勝似春光」(春の光に似ざれども。春の光似り勝れるよ)は、「歳歳重陽。今又重陽」と同じ「蝉聯体」「蛛絲法」の修辞なのだ。「重陽」「春光」が下の句で一部再び出るのは、「蝉聯」の再任・連覇や「蛛絲」の僅かな痕跡・関連の意に即して、党首・国家元首を禅譲しつつ軍委主席を続投した江沢民の「半退」や、2000、’01 年の年頭2度も新千年紀祝賀の演説をした熱演407)を連想させる。
好事の再来に譬える「梅開二度」(梅の返り咲き)は、日本人好みの桜の「一期一会」と対照的に、民国時代の国花の強靭・貪欲を思わせる。日本の本歌取りに通じる「蝉聯・蛛絲」として、温総理は「路漫々其脩遠兮、吾将上下而求索」(路は漫々として其脩く遠し、吾は将に上り下り求め索ねんとす)、「雄関漫道真如鉄、而今邁歩従頭越」(雄関道う漫れ真に鉄の如し、而今や邁歩して頭を越ゆ)を引いて、在任2年目の抱負を語った408)。同じ楚の人・屈原と毛沢東の似た名句は、既視感を帯びて歴史の年輪に又織り込まれて行った。
漫々たる道路に臨む満々たる決意を古人から引き継いだ故人は、長征中に統帥に推された翌月の此の『婁山関』409)でも、「歳歳重陽。今又重陽」風の「蝉聯」の変種を見せた。詞牌(詞の体裁410))の「憶秦娥」の規則に沿って、後半冒頭の上記1聯が句点で閉じた後に、最後の3字の再掲で始まる次の句が続く。「従頭越、蒼山如海、残陽如血。」(頭を越ゆ、蒼き山海の如く、残陽血の如し。)難関攻落後の安堵と征伐再開前の緊張を詠む作品は、此の結びで凄愴・精彩の「酷」の異彩を放ち、其が温総理の本歌取りの隠し味と成った。
毛は末の8字を自作の白眉とした411)が、其の絶唱は彼好みの孫悟空の誕生412)の様な断絶の産物ではない。前半の「西風烈、長空雁叫霜晨月。霜晨月、馬蹄声砕、喇叭声咽。」(西風烈し、長けき空に雁の叫く霜ふりし晨の月。霜ふりし晨の月、馬蹄の声砕け、喇叭の声咽ぶ。)と共に、古の「簫声咽、秦娥夢断秦楼月。秦楼月、年年柳色、 陵傷別。/……西風残照、漢家陵闕。」(簫の声咽び、秦娥夢を断つ秦楼の月。秦楼の月、年年の柳の色、 陵別れを傷む。/……西風と残照、漢家の陵と闕413))に、「固定楽思」の源が遡及できる。
「千古絶唱」の誉れが有る「西風残照」の一首は「憶秦娥」の元祖で、同じ李白作とされた「菩薩蛮」と共に「百代詞曲の祖」と呼ばれる414)。「詞」は「言+司」の字形が示唆する重み415)が有るだけに、此の長短不揃いの歌は律詩以上に心の窓と成り得る。其の祖型に「蝉聯体」が敷かれた事は、中国的心性の奥義を現わす仕組みである。一旦区切った上で仕切り直す「梅開二度」の重層は、形式・内容倶に「不似春光。勝似春光」に集約される。「秦楼月。秦楼月」も「年年柳色」の変化に伴い、今宵の流行と万古の不易に跨る。 
注  

 

190)「入関」の反対語の「出関」は、西・北の場合に使う「出塞」(塞外に出る)と通じて、首都・北京と東北の近くて遠い関係を思わせる(註133「遼遠」、註14「第3、4極」参照)。
191)少華・遊胡『林彪這一生』、257 頁。大軍「啓程」(出発)の1948 年11 月23 日の事だが、本稿で深意不明とした紐育地下鉄世界貿易中心ビル駅の再開時機は、恰度55 年後の同じ日である(註51参照)。直接の相関は無いものの、天数の連環は実に到る処に有る。
192)「勝てば官軍、負ければ賊軍」に当る中国語は、「成則為王、敗則為寇」や「成則王候、敗則寇」、「成則為王、敗則為虜」(『平妖伝』等が出典)だ。王侯は官軍に仕えられる身分なので、日本流に比べれば一段と野心的で勝敗の落差も激しい。「勝てば官軍」は明治維新の時に生まれた言葉とされる(尾上兼英監修『成語林 故事ことわざ慣用句』、旺文社、1992 年)が、2004 年4月21 日に逝った日本マクドナルドの創業者・藤田田が好く此で制覇の理念を表現しただけに、不詳の出典は興味を引く。
193)「烏丸」とも言う烏桓は、秦末・漢初に東胡が匈奴に敗れて烏桓山に移った遊牧・狩猟民族だ。漢初に匈奴に帰属し、武帝以降は漢に従属し、上谷・漁陽・右北平・遼東・遼西等5塞外に引っ越した。曹操が1万人余りを中原に定住させ、又一部が東北に残ったが、後に他の民族と融合した。(『辞海』)弱小民族の悲哀を漂わせた歩みであるが、曹操の207 年の出兵は此の民族の運命を大きく変えたと思える。
194)「魏蜀呉赤壁之戦、曹操大軍南下、帯的是多少兵?」と言う林彪の質問に対して、劉は「号称百万、其実只有八十三万人馬」と答えたが、其の即座の反応は「不假思索、脱口而出」と書かれた(出処は註191 に同じ)。
195)解放軍総政治部主任・蕭華の作詞に由る『長征組歌』(1965 年)には、「毛主席用兵真如神」と有る。周恩来も此の歌詞を以て、毛が「四渡赤水」(赤水を4度渡る)戦闘で見せた非凡な軍事指揮の芸術を讃えた。
196)中国語の「爛熟」は此の用例の通り熟知の意も持つが、「東坡肉」の「漸老漸淡」(註44 参照)と合わせ考えれば興味深い。最近の日本では中国の酢が静かな人気を集めているが、代表格の鎮江老酢を「熟爛鎮江酢」とした訳語(『読売新聞』2004 年2月13 日広告)には滋味が滲み出る。
197)其の「防止資本主義復辟」の「復辟」は、『広辞苑』の語釈の通り、「〔書経・咸有一徳〕(“辟”は天子・諸侯の意)@退位した君主が再び位につくこと。A政を君主に返し、重臣が摂政を辞すること」だ。退位した宣統帝・溥儀を張勲が担ぎ出した「復辟」劇(1917 年。12 日間で失敗)が現代の典型だが、資本主義は近代の社会体制であり封建時代の君主ではないので、「復辟」云々には違和感を覚える。尤も、安徽軍閥・張勲の逆戻りの愚行とだぶらせる点では、中共の巧みな観念操作とも言えよう。猶、「辟」の王侯の意は開辟・創生の形象を考えれば頷くが、張勲の冒険は文字通りの「成則王候、敗則為寇」(註192 参照)の投機に思えて来る。
198)毛沢東は1946 年8月6日に米国記者・ストロングとの会見で、全ての反動派を「紙老虎」を形容し米国の原子爆弾も然りと断じた。1973 年2月17 日にキッシンジャーとの会見で、通訳・唐聞生が「主席は英語の単語を1つ発案されました」と口を挟むと、彼は「そう、paper tiger という表現を造りました」と答え、相手は「“張り子の虎”か。其は我が国の事ですね」と笑った(W.バー編、鈴木主税・浅岡政子訳『キッシンジャー“最高機密”会話録』、毎日新聞社、1999 年[原典同]、130 頁)。広島原爆投下1周年の時に発した此の論断は、毛一流の強情・豪語と思われがちだが、核兵器が不発の宝刀の儘であり続ける現実に証明された。目下の北朝鮮の核恐喝に対しても、中国は同様の思いで腹を括っている事か。
199)佛教語でもある「水中月、鏡中花」は幻の虚像が第一義で、非現実的夢や綺麗事の欺瞞の他に、『紅楼夢』第5回の「一個是水中月、一個是鏡中花」の様に、成就できぬ恋情を表わす場合も有る。「虚幻現実」は『紅楼夢』の「太虚幻境」(第5回)と、南米現代文学の「魔幻現実主義」(魔術的現実主義)を合成した筆者の用語だ。
200)日本共産党中央委員会議長・不破哲三は、『資本論』読解の著書を数多く出して来た(『「資本論」全3部を読む―代々木「資本論」ゼミナール講義集』[全7冊、新日本出版、2003 〜 04 年]巻末簡略参照)が、マルクスの此の主著を読み解く精力的な研鑚と系統的な成果は、少なくとも毛沢東時代以来の中共指導者には見当らない。毛沢東も1954 年に『資本論』第1巻(人民出版社1953 年初版)に、「原著出版から71 年後に出た中国語版を87 年後に読む」と書き込んだ程だ(先知著、竹内実・浅野純一訳『毛沢東の読書生活』、サイマル出版会、1995 年[原典= 1986 年]、46 頁)。尤も、日共設立80 周年に際して党本部で開催された上記のゼミナールも、関係者集団に由る通読として党史上の初の壮挙だと言うので、『資本論』の難解はやはり半端ではない。 
201)『日本経済新聞』2003 年12 月12 日報道「温家宝首相 訪米を終える“等身大の中国”ソフトに訴え」では、其の「温流外交」の鍵言葉として「柔・バランス・等身大」を挙げた。仕えた胡耀邦・趙紫陽両総書記の失脚に関わらず権力抗争に呑み込まれず現在の地位を築き挙げた氏の、修羅場を潜り抜けて来た抜群の平衡感覚が対米外交でも求められている、と言う指摘は的を得たが、其の外柔内剛の極致は成らず者の胯の下を潜り抜けた韓信の「大忍」に他ならぬ。其にしても「温流外交」の名は、時下の中国の「韓流」(韓国熱)が引っ掛けた「寒流」を思い起せば興味津々だ。
202)G.マルクスの『百年の孤独』(1967 年)が「文革」後文学の「尋根(根を尋ねる)」派を魅了したのは、「百年孤独」が中国的好みに合う事も一因と思える。漢詩の名句にも其の類いは一杯思い浮かべられ、杜甫の「万里悲秋常作客、百年多病独登台」が一例である。国民党時代に中国が抱いていた「東亜病夫」の鬱憤や、評論家・黄子平等が魯迅の『紅楼夢』評を借りて20 世紀中国文学の雰囲気を概括した「悲涼」も、此の情景・情緒に当て嵌まる。「独登台」の字面は謀らずも李登輝の台湾独立の悲願、及び台湾の国際的孤立に暗合する。
203)『朝日新聞』1979 年2月3日夕刊記事「さん 南部にはしゃぐ 宇宙へ“飛び”、ロデオに興じる」は、「操縦席に座った氏は、失礼ながら初めておサルの電車に乗った子供のように不安な表情であった」と記した。
204) 小平はヒューストン郊外でバーベキュー・パーティーに興じ、テキサス名物のロデオに身を乗り出して見入り、赤や黒のカーボーイ帽子のロデオたちが裸馬を乗り熟し、投げ縄で小牛を捕える様子に拍手し、自らカーボーイ帽子を被った。観方に因れば、其の姿はの挑戦精神や不羈な性格に似合う。cowboyの中国語訳・「牛仔」は小牛の意で、広東方言でチンピラを表わす。本稿で言及した馬駒と「成らず者」に繋がる両義だが、諺の「初生牛犢怕不虎」(生まれたばかりの小牛は虎を恐れない)は、「反覇」(反覇権主義)の中国にも「小覇」(地域覇権主義)の「無頼国家」にも当て嵌まる。猶、「胡服騎射」(註252 参照)に関連するが、jeans の中国語訳は「牛仔」と言う。
205)温家宝の主導で東北振興の戦略が打ち出された事は内外の指摘の通り、新首相が就任の1年目に前任者の路線を大きく変えぬ慣例を考えれば大胆な挙動だ。但し、所謂「新官上任三把火」(新任の官吏は松明3本に火を点ける[最初の内は張り切って派手な行動に出る])も、腕を見せる為の中国流統治術の伝統なのだ。江沢民体制の西部開発の優先順位は下がったが、重工業と経済効率への重視は毛・路線への合理的回帰と言える。
206)毛・との間に江沢民の時代が有った事も、「隔世之観」の一義である。最初に上等な背広を着熟せた指導者は、胡耀邦・趙紫陽ではなく江沢民なのだ。
207)小泉首相は2003 年の訪米で小ブッシュ所有の牧場に泊まる款待を受けたが、皇居より数倍も広い牧場を持つ米大統領は西部劇を好む彼と天然的に気が合おう。小泉の『真昼の決闘』に対する偏愛は其の政治的手法の「賭博師」的側面に符合するが、米国の西部劇が中国で余り人気が無い事は研究に値する。
208) 小平のカウボーイ姿を人心収攬の為の形象作戦と見る向きが内外倶に有ったが、「文革」時代からの「脱毛」(脱皮・脱毛沢東。註217 参照)を映して、彼を「媚外」(外国に媚びる)と謗る声はもはや無い。「一本万利」(1の資本で1万倍の利を得る)以上の「無本万利」(元手無しで1万倍の利を得る)の演出として、寧ろ人々の感心を得た事は、改革・開放に因って喚起された中国人の現実主義者の本性を窺わせる。其の一齣が好く語り継がれたのは、中国の指導者が滅多に羽目を外すまい事の裏返しだ。周恩来がビルマで「溌水節」(水を掛け合う祭り)に参加した光景も、彼の事績や中国外交の逸話で特筆されているが、革命の為なら如何なる役も演じねば成らぬと言う周の実用主義の好演だ。
209)日本IBM主催の第21 回「比叡会議」(2003 年)で、筆者に先立って講演した作家・評論家の深田祐介は、「胡錦涛の正体」の題で得意な中共批判を展開し、セールスマン然の胡のスマートな外観に騙されては行けないと述べた。筆者は氏の中国観には見解の相異が多いが、印象と内実の乖離が有り得る事や服飾の重要性に関しては一般論として頷ける。
210)「重点転移」は「工作重点転移」(仕事の重点の移転[政治闘争→経済建設])と言う、1978 年末の党中央総会で可決した改革・開放路線の鍵言葉に因んだ表現。
211)内外で注目を浴びた此の人脈に筆者が付けた「共青団学校」の名は、指導者を輩出した日本自民党の「吉田(中曽根)学校」、指導者を養成する中共中央党校(党中央学校)、林彪が唱えた「毛沢東思想大学校」等と多重映しにする物だ。日本流の人脈「学校」に於ける「親分・子分」や「先輩・同期・後輩」の構図は、中国の「家長制」の名残や「輩分」(世代の序)の規矩と通じる。
212)南山・南哲編『周恩来生平』上、吉林人民出版社、1997 年、665 頁。「三羊(陽)開泰」を以て毛に楊勇の起用を発案した周は、縁起を担ぐよりも機会を「3楊」に均等に与えるのが主旨だろう(楊は志願軍第20 兵団司令として朝鮮戦争の終盤で勝利を収め、生涯最も輝かしい一頁を遺す結果と成った)が、中国政治に於ける語呂合わせや「言霊」意識の多出を示す逸話だ。「三陽開泰」は新年の頌詞であり、『易経』の「泰卦」で三陽が下に在って正月に当る事が由来だ。正月を指す「三陽」の用法も、其の卦の3つの陽の爻の寓意が語源と思える。「開泰」は好運に巡り合う、開運する意で、「開台」(開幕。舞台[芝居]が始まる)と同音である。年初の祝福の言葉に用いた「三陽開泰」の語源は不明だが、明末万暦時代の張居正の『賀元旦表』には出ている。共産党政権の初代総理・周恩来総理の借用は其の古例と合わせて、中国に於ける政治・祭祀一体の伝統を物語っている。因みに、政権の中枢で変革を敢行し死後名声が毀損された張の他界は、 小平・胡耀邦体制の本格的発足の恰度4百年前に当る1582 年の事だ。
「三陽」「開泰」「開台」は倶に日本語に入っていないので、此の4字熟語も語呂合わせも中国独特の物と言える。因みに、日本で忌避されがちの羊の年は、中国では縁起が好いとする向きが有る。左賽春は『中国宇航員飛行記録』(人民出版社、2003 年)の中で、有人宇宙飛行成功の2003 年の時機の好さを斯く強調した。「『説文解字』曰く、羊は目出度い物。依って中国の古い器に刻まれた銘文には“吉羊”が多かった。」(日本語版[劉雨華・許春蓮訳『中国航天員飛行記録―宇宙飛行士飛行ルポ』、オーム社、2004 年]、289 〜 290 頁)。「陽」との同音や「三陽開泰」の発想も一因と考えられようが、「羊年」は後述の様に凶の一面も持っている。猶、左賽春の「吉羊」談義は続いて、「羊の性格は大人しく優しい。何時も群れに成って進み、……困難を乗り越え最後まで足取りを緩めない」と言うが、「帯(領)羊」(引率羊)と合わせ考えれば興味深い(註279 参照)。
213)「共青団学校」(註211 参照)から小平・胡錦涛時代の党首が生まれた事は、 と胡の時代の隔世遺伝の関係を思わせる(拙論「共産党中国の4世代指導者の“順時針演変(時計廻り的移行)”(1)―理・礼・力・利を軸とする中国政治−統治文化新論」[本誌16 巻1号、2003 年]参照)が、思想教育を重視する毛沢東体制の遺伝因子が元であろう。蒋経国の三民主義青年団や党・軍の政治工作の担当経験を思えば、国・共の同根性が改めて感じ取れる。の在位中の胡耀邦・胡啓立(政治局常務委員)の失脚は彼の実務志向とも合致するが、政治から経済への「重点移転」の定着に因り、次世代以降の党首は恐らく「共青団学校」から出るまい。党中央政治局常務委員会に於ける「共青団学校」の胡氏の常住は、胡錦涛が次期再任すれば1980 年以降31 年も続く事に成る。中共の党・国の歴史の奇観としか言い様が無いが、「3胡」(耀邦・啓立・克実)と胡錦涛の其々の浮沈は興味深い。時勢と英雄の相互創出の関係とも符合するが、毛・の様な豪傑の時代が去った後の首領には、実力と同じ比重か其以上に運気が必須条件に成ろう。件の数人の胡氏の「花相似、人不同」や、冷戦終了後の多くの国・地域の指導者の資質・実績を観ても、「運も実力の内」の原理は確認出来よう。
214)発射実験の時期は明らかに成らなかったが、『解放軍報』の報道を新華社が打電した公表方式は、党主席・華国鋒に対する老将帥等の不服と結び付いて考えると、軍政治部機関紙か党中央機関紙・『人民日報』を凌ぐ自己顕示にも思える。
215)「両弾」は日本で好く原子爆弾・水素爆弾と誤報されるが、此の2者から成る「核弾」(核爆弾)と「戦略導弾」(戦略ミサイル)を指すのだ。「両弾」は更に「一星」(人工衛星)が後に付くが、翼たる導弾・衛星が日本で片手落ちに成りがちのは、実感の欠如に因る想像の翼の不足の所為か。
216)米国の産軍複合体を擬った筆者の造語。毛沢東は1966 年5月7日に国防相・林彪宛ての書簡で、軍は「軍工・軍農」(軍隊+工業・農業)の結合で生産に従事せよと号令を掛けた。小平は軍需産業を民用へ転化させる一方、軍隊が経営に乗り出す事を容認した。
217)胡耀邦総書記は演説で「脱毛」(脱皮)を以て、変革期の換骨奪胎を比喩した事が有るが、「脱毛沢東」の含みを隠し持ったとしても不思議ではない。
218)華は前年の中央総会で党副主席に降格され軍委主席も解かれたが、1年後の党大会で政治局にも止まらず平の中央委員に成ったのは、直近まで5年続いた栄光に比べて悲惨な陥落と言わざるを得ない。
219)1997 年9月の党大会で中央委員の定年制が導入されたが、華国鋒は上限より6歳も高齢の76 歳なのに中央委員会に留任した。唯一の例外を認めた超法規的処置は「ゴム判」の可塑性や、「一個国家、両種制度」ならぬ「一個制度、両種運用」の柔軟性を思わせた。曽て毛沢東は党幹部に死後火葬に付すよう呼び掛けたが、許世友将軍は敢えて同意書での署名を拒み、「活着尽忠、死後尽孝」(存命中は忠を尽くし、死後は孝を尽くす)の主張を直訴した。1985 年没後は結局、「下不為例」(前例とせぬ)を前提にする小平の許可で、本人の希望通り土葬で母親の墓に入った。(李文卿『近看許世友 1967 − 1985』、解放軍文芸出版社、2002 年、274〜 276 頁)中村幸治は『中国 権力核心』(文藝春秋、2000 年)の中で、党大会前の6月末時点での満年齢を基準に70 歳以上の者は中央委員に成れないとの内規を造り、喬石を卸し自分をギリギリ遺した江沢民の権謀を描いた上、次の様に付け加えた。「但し、これは党の正式な決定ではない。中央委員の中には、21 年生まれの華国鋒がいるからだ。華国鋒については、引退するに当って何らかの決定が行われ、中央委員のポストを終身とすることが確認されたと言われている。」(322 〜323 頁)華の残留が容認されたのは、「4人組」逮捕の功績を考慮した温情と共に、勢力を失い影響が無いという冷静な判断も有ったろう。筋を通すか情に流れるかという二者択一の問いは、内規の非絶対性に由って難無く解決されたわけだ。
220)楊炳章は『小平 政治的伝記』の中で、胡耀邦を総書記に抜擢し一旦華国鋒の代りの党主席に就任させた後、恐れ多い主席の肩書きを胡に許し自ら副主席に甘んじたくない、というの心理を読み解いた。実情に対する直観的分析は確証の引用よりも実りが多い場合が有る、と言った著者の弁明(250頁)も含めて、本稿筆者は頷けるばかりである。虚名と実利、栄誉と健康が同時に保て難い「両難」(ジレンマ)も、党主席職務廃止の妙策でにとって「両全其美」(両方円満)の答えが出た。必要に応じて既存の枠組みの外で都合の好い別枠を造るのは、自分の誕生日の手前を定年の上限に定めた江沢民の例(註219 参照)の様に、中国の政治では常套手段と成っている。同じ東洋の社会主義国家の北朝鮮でも、金正日が1998 年に4年前に就任した国防委員会委員長を最高位と定めたのは、父君の職名を踏まぬ孝行の宣揚に成り、国家元首の儀礼的活動に因る消耗を避ける一挙両得だ。
221)厳密に言えば、ソ共の書記長は1922 年に新設された頃、「事務方の責任者」程度の認識しか無く、初代に就任したスターリンが盗聴等で党幹部の機密を握り、次第に強権が其処に集中するに至ったのだ(産経新聞・斎藤勉『スターリン秘録』、産経新聞社、2001 年、260 〜 261 頁)。レーニンの党内職名が中・日・欧米の辞書や百科全書で余り出ないのは、其の下剋上の逆転の結果と思える。中共党首の名称はソ共を先取りした観も有るが、「総書記」を尊ぶのは司馬遼太郎が中国の本質を概括した「文章の国」らしい。因みに、中共の党規則は「党章」と言う。日本流の「幹事長」は其に比べて職人的語感が強く(「幹事」は事を遣る意)、肉体労働を軽視する中国の伝統からすれば格好が悪い。幹事長を経て総理と成った森喜朗は座を盛り上げる芸が巧く、政治的能力は余り無いと酷評されたが、party(党)を切り盛りする事は意外と宴会幹事の役に通じる。小平は党中央秘書長を経て総書記に就任したが、東北亜細亜共産圏(中・朝・ソ)の同根性を示す様に、金正日が1997 年に就いた職名も「総書記」と「総秘書」の両方の訳が有り(萩原遼訳『黄長回顧録 金正日への宣戦布告』、文藝春秋、1999 年)、其の権力維持の秘密の一端がスターリン流の幹部の秘密の掌握に在る。
222)最初の3代総書記の陳独秀(1921 〜 27 年)、向忠発(’28 〜 31 年)、張聞天(’34 〜 35 年)、其々陳の失脚と向の転向の後に事実上の総書記と成った瞿秋白と李立三、王明、建国後と「文革」後に総書記を務めた小平と胡耀邦、趙紫陽は、例外無く失脚した。
223)毛は1935 年初の遵義会議で政治局常務委員と軍事指揮小組統轄に選出され、翌年末に党中央革命軍事委員会主席に就任し、’43、44 年に中央政治局主席兼中央書記処主席、中央委員会党主席に選出された。興味深い事に、一連の「主席」は恰も彼専用の様に、其の都度新設された椅子なのである。
224)笠井孝之『毛沢東と林彪―文革の謎 林彪事件に迫る』(日中出版、2002 年)に、突出に対する林彪の極度な忌避ぶりが多く記された(46 〜 52 頁)。江沢民の総書記拝命の当初の不安は海外で色々と報道されており、筆者は関連論考で引いた事が有るので此処で省く。
225)『広辞苑』には「前車の覆るは後車の戒め」の項が有り、出典は『漢書・賈誼伝』と成るが、『辞海』の「前車」では『荀子・成相』の「前車已覆、後未知更何覚時」が語源で、「前車之鑑」の項の例示は『鏡花縁』の「若更執迷不醒、這四人就是前車之鑑」た。
226)中国語の「反正」は副詞として、「何方道。どうせ」を表わす。
227)毛沢東の「大権独攬、小権分散」に因んだ表現。小平時代の進歩とも言うべきであろう。
228)中共建党記念日の根拠である第1回党大会の開催日は、 小平時代に7月23 日だったと判明したが、今も「党慶」は従来通り7月1日と成っている。
229) は1980 年3月〜翌年6月、何度も起草グループに修正意見を出した。其の「対起草『建国以来党的若干歴史問題的決議』的意見」(『小平文選』第2巻、291 〜 310 頁)から、彼の価値観や平衡感覚と共に、文書を以て評価を定める中国の伝統が見て取れる。
230)後に党規則と憲法に盛り込まれた「三個代表」とは、「中国共産党は中国の先進的生産力の発展の要請を代表し、中国の先進的文化の前進する方向を代表し、中国の最も広範な人民の根本的利益を代表する」。
231)「総凄惨・総清算」は「総生産・総精彩」を擬った筆者の造語。中国語の「凄惨」、「清算」と「生産」は発音が別々だが、日本語の語呂合わせは毛沢東時代の凄惨な清算(中国語の「清算」は粛清の意も有る)、其に対する小平時代の清算を言い得て妙だ。
232)最近の中国で流行った新語の「知本主義」は、「資本主義」との音通から生まれた和製概念の輸入かも知れぬ。中国語の「知」(zhi)と「資」(zi)は読み方が違うが、勉学の功利効果を鼓吹する『神童』詩の「書中自有黄金屋」が端的に示した様に、知識を資本と見做す観念は昔から根強い(拙論「“儒商・徳治”の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(1)」参照)。
233)「国民総生産」と「共産党」、「国民党」を混ぜた本稿筆者の造語。
234)後毛沢東時代の終焉を感じさせた転換点は1994 年9月、 小平等第2世代指導部からの権力譲渡は完了したと言う江沢民政権の宣言だ。毛の執政27 年の3分の2に当る18 年に続く計算に成るが、毛沢東生誕百年の直後だった事も天の時の妙に思える。
235)「離経背道」とも言う「離経叛道」の出典は『元曲外・貶黄州』とされるが、「経」は儒教の経典と解すのが普通なので、異民族支配下の漢族文化の強い生命力が窺われる。
236)『小平文選』に出た最初の「先富」論は、1983 年1月12 日に経済部門責任者との談話(「各項工作都要有助於建設有中国特色的社会主義」、第3巻、22 〜 23 頁)だ。注目すべき事実として、前年の工農業総生産が久しぶり8%増と成った事が動因の1つだ。
237)孫文夫人・宋慶齢(1949 〜 54、59 〜 75 年)や蒙古族の党中央政治局員・烏蘭夫(1983 〜 88 年)の例と共に、国家副主席の儀礼的閑職の性質を思わせるが、象徴性が濃いだけに采配の妙も感じられる。因みに、歴代の国家主席+副主席の組み合わせを観ると、人事の均衡と共に時代の変遷が見受けられる。開国時の毛沢東+朱徳・劉少奇・宋慶齢・李済深・張瀾・高崗に対して、1954 年からの毛沢東+朱徳は、高崗粛清後の政治独裁化の匂いがした。1959 年〜「文革」の劉少奇+宋慶齢・董必武は、再び所謂「党外民主人士」に一席を譲った。1983 年に此の職位が復活した後の李先念+烏蘭夫は、非共産党勢力より少数民族を配慮した人選である。1988 年からの楊尚昆+王震も一党独裁を体現するコンビで、2 人とも軍人出身である事は天安門事件の際の鎮圧擁護の態度と共に、開発独裁の体制の端的な表徴の様に映るが、同じ中共軍統帥の毛+朱コンビの時代に発足した1956 年体制を彷彿とさせた点では、健全化に向けた新たな一歩とも思える。1993 年に江沢民+栄毅仁と成ったのは、移行経済の本格的実現の証と取れよう。1998 年の江沢民+胡錦涛、更に2003 年の胡錦涛+曽慶紅は、党・国の一体化と後継者の透明度の向上を見せた。「文革」中に幻と成った毛沢東+林彪の案を思い起すと、倶に中共軍統帥で現任+後継のコンビである共通項で、共産党中国の時計廻り的変移を改めて感じる。
238)「紅色資本家」は劉少奇が建国初期に義兄・王光英等との懇談の際の言葉とされ、其を借用したの「赤い資本家」肯定論も同じ諧謔調を装った真面目な主張だ。
239)「紅色買弁」を以て自任したと言う批判も有ったが、劉少奇は捏造として抗議した。
240)「党内走資本主義道路的当権派」の言い回しは、毛沢東が1964 年12 月12 日に内部文書で提起したのだ。羅点点は『紅色家族档案』で此の時機に言及した(47 頁)が、彼女の父親・羅瑞卿が1年後の同じ頃に電撃逮捕された事と合わせて、新「双12 事変」(1936 年12 月12 日の西安事変の俗称)と名付けたくなる。劉少奇を「党内最大走資派」と断罪した第1弾は、1967 年4月1日『人民日報』に載った戚本禹(党中央文革指導小組成員)の論文だ。2年後の党大会も選りに選って此の日に開幕したのは、欧米の「愚人節」(4月馬鹿)の忌憚を持たぬ国情の所産だ。曽て文芸評論家・胡風は毛の命令で投獄された後、「大躍進」の報道を狂気の沙汰と思い、配布された『人民日報』を偽物と疑ったが、「文革」の欺瞞は謀らずも此の2回の日付けに象徴された。
241)建国の翌年に栄毅仁は毛沢東と初対面の際、184 aも有る長身を深く屈めて恭順を尽くした。彼は民族資本家の少壮派ですと周恩来が幽黙に紹介したのに、此の様な場で何時も冗談を飛ばす毛は神妙な表情で、只「来了、很好!」(ようこそ、いらっしゃいました)と応えただけで、一座を訝らせた。毛は競争相手に対してのみ慎重に成る性格だと言われるが、まさか栄を競争相手と考えた事は無かろう(以上は程波著『中共“八大”決策内幕』[中国档案出版社、1999 年]の記述[126 〜 127 頁])が、本稿筆者は大資本家という人種への不慣れと取りたい。後に晩年の毛は「怕生」(人見知りする)に成ったが、上記の反応は「生人」(見知らぬ人)への「怕」(恐怖)の形而上的変種とも思える。
242)劉少奇夫人・王光美は1921 年に北京で生まれたが、父親は天津の民族資本家で北洋軍閥政府の工商司長を務めた事が有る。兄・王光英も1943 年の天津近代化学厰長(工場長)就任を始め、天津の有数の実業家として活躍し建国後に至った。一方、 小平夫人・卓琳(本名・浦英)の父親は異名・「宣腿大王」の通り、雲南宣威火腿(浙江金華火腿と並ぶ中国の火腿の名物)の経営者であった。は失脚中の1972 年に地方を廻った際、招宴に出た美味い料理は君の家の物には及ばないと夫人に言った。実家は資本家ですと夫人が一座に披露すると、大資本家じゃなく中資本家なのだと彼は付け加えた(童懐平・李成関編『小平八次南巡紀実』、解放軍文芸出版社、2002 年、23 頁)。「悪い出身」を悪怯れぬ夫妻の鷹揚さや、 の「大」の基準を窺わせる逸話として印象的だ。劉・の資本主義志向は或る意味で、姻縁に因る資本家への慣れとも関係が有ろう。日本軍用の避妊具を造った等の謗りを「文革」中散々受けた王光英は、1983 年に国務院直属の総合商社・光大集団の総帥に任命されたが、「黒猫」に抵抗の無いの志向を映す人事だ。
243)「文革」派は小平の再起後の「旧社会・資本主義の復活」を攻撃したが、1980 年代の深経済特区を訪れた古参幹部の「辛辛苦苦二十年、一夜回到解放前」(20 年の苦労も水の泡、一夜で解放前に戻った)も、似た気持ちの嘆きである。20 年前の其の悲鳴は今や笑い話に聞こえるが、既視感の文脈で吟味すれば興味津々だ。
244)王光英も兼任した同じ2職は倶に中国独特の名称で、中国的発想を窺わせる。「董事」(取締役)、「董事長」(代表取締役)、「董事会」(取締役会)は、「董事」と「事」(物事が解る)の同音・形似や、「股東」(株主)と同音の「古董」(骨董)を連想すれば、判断力と「資歴」(キャリア)の重要性を思わせる。「経理」(社長)、「総経理」(総裁)は経営・理財の原義と共に、字面には「董事」と通じて経験・理性の重みが出ている。
245)其々南方と北方、虚業と実業の2人の「赤い財閥」は、栄毅仁は王光英より早く重用され(註242 参照)、而も後に「栄任」(栄転)の字面通り国家副主席に昇進した。金融を経済の中核とした小平らしい采配は、江南の胡錦涛と天津の温家宝の高低と吻合する。
246)真っ黒な「暗黒」と微妙に違って、不透明や閉塞の意味合いがより濃い「暗闇」は、「一寸先は闇」(日本の諺)と「万馬斉究可哀」(毛沢東が好く引いた清の随筆家・自珍の詩)を念頭に置いた表現だ。
247)『小平文選』第3巻、60 頁。
248)拙論「生活風景の中の“ 文化溝”―衣・食・住・行における日中文化の比較」(立命館人文科学研究所編『立命館土曜講座シリーズ14 日中国交回復30 周年―日中の過去・現在・未来』[2002 年]所収)参照。
249)山崎豊子は「胡耀邦さんにもう一度会いたい」(『文藝春秋』1989 年7月号)の中で、北京で観た胡耀邦追悼会のテレビ中継の印象を記した。「何よりも私の眼を射たのは、遺体が人民服ではなく、スーツ姿であったことだ。/恐らく、中華人民共和国の指導者で、スーツ姿の遺体は、最初であると思う。いかにも改革派の指導者らしい服装であった。ネクタイが歪み、ちょっと歪んでいるのが気になったが、いつも身なりをかまわない胡耀邦氏らしい姿であった。」如何にも西側の女性作家らしい観察だが、最後の一文は胡のスーツに似合わぬ姿を暗に表現し、不似合いを顧みず着用した勇気を讃えている様に思う。
250)グローバル化を表わす中国語の「全球化」は、日本でも原文の儘で用いる例が散見された(例えば『朝日新聞』2000 年元旦社説の題)が、globalization を漢語で訳す気配は日本では未だ無い。 
251)「時尚」(時の流行・風習)を映す「時髦」(モダン)な装いの意として、「時装」の字面は明快で妙味が有る。因みに、日本人が好む料理素材の「旬」は中国語で「時鮮」と言うが、日本流の「旬の人」は間も無く腐る含みを持つので訳し難いし使い難い。
252)此の史実は日本に於ける馴染み度が低い(『広辞苑』の「胡服」の語釈は、「中国北方の民族の胡人の着る服」のみ)が、中国では先人の智慧として好く知られている。『辞海』には成語の「胡服騎射」の項も有り、次の様に説明している。「戦国時趙武霊王採取西北遊牧和半遊牧人民的服飾、学習騎射、史称胡服騎射。其服上褶下袴、有貂、蝉為飾的武冠、金鈎為飾的具帯、足上穿靴、便於騎射。」
文中の「遊牧民・半遊牧民」の区分は、烏桓(註193 参照)や清朝誕生前後の満族の性質を規定する場合にも役立つし、農耕民族と騎馬民族的蛮勇・愚直(註257 参照)を形容するのに役立つ。「胡服騎射」の解は西北の民謡・『信天遊』の遊牧民族的色彩を改めて思わせ、貂・蝉を飾りと為した件から『三国志演義』の貂蝉の隠し味が思い当る。
253)「実存主義」と「構造主義」の名を合成した節も有る(中国語では其々「存在主義」と「結構主義」)。
254)日本語の「重量」と「軽重」の「重」は発音が違い、「重複」も「じゅうふく・ちょうふく」の2通りが有るが、中国語の「重」は「重量」や「軽重」の場合はzhong、「重演」、「重畳」、「重複」、「多重」の場合はchong と読む。中国語は原則的に1字が1種類の読み方しか無いだけに興味深いが、重層と重量の相関や積み重ねの重みを思わせる。
255)「転型期」も「転形期」も和製漢語と思われ、恐らく台湾経由で此の頃は中国語にも入った。筆者は中国語でも同音の2語を使い分け、本質的変化を強調する場合は「転型」、表面的変容の要素が強い場合は「転形」を用いる。
256)胡耀邦は毛沢東・劉少奇・彭徳懐等と同じく、湖南人の「騾子」(驢馬)めく強情・天邪鬼気質を見せたが、彼より賢く瀟洒な趙紫陽の失脚前後の不退転は、中原(河南)の半遊牧民的風土の遺伝子(註252、193 参照)を思わせる。
257)政治委員を務めた新4軍(抗日戦争中の中共南方軍)時代の劉少奇の暗号名は由来不明だが、筆者が軽装行軍の寓意を読み取った根拠は「胡服」の原義と共に、軍長・陳毅作詞の『新4軍軍歌』(1939 年)の「縦横馳聘」「千万里転戦」等が有る(註252 参照)。
258)「改革の総設計師」は江沢民時代の小平礼讃の成句だが、田中角栄が自慢した資格の「1級建築士」と対照すれば興味深い。中国語の「設計」は計謀を編む意も有るので、「総設計師」は大戦略家の語感が強い。「師」は毛沢東礼讃の「偉大的導師」(偉大な教官[尊師])と重なるが、日本流の「士」に比べて「文章の国」(註221 参照)の伝統が漂う。
259)拙論「時間観念を巡る日中の「文化溝」の実態とデジタル時代に於ける伝統回帰の展望(上)」(本誌16 巻2号、2003 年)参照。
260)1984 年10 月10 日に独逸首相との会見でも力説し、其の談話は『小平文選』第3巻に収録された(81 〜 82 頁)際、「我們把改革当作一種革命」との題が付けられた。
261)半世紀以上に中国で定着して来た中共の史観では、洋務運動は「列強の買弁」云々の色彩の故に評価が低い。筆者は「革命」(辛酉)の年に発足した事を天意と捉え、歴史の進歩に寄与した其の意義を主張したい。
262)註259 に同じ。
263)毛沢東が言う「輿論一律」(全ての輿論は党の意志に沿って統一する)を、揶揄的に擬った筆者の造語。
264)日本では「中山装」は孫文の名・孫中山と共に馴染みが薄いが、「人民服」に対する一部の人の毛嫌いは名称にも一因が有ろう。
265)他に「列寧帽」も有り、建国後に男性が室内で帽子を被る習慣が暫く続いたのは、ソ連流の影響とも言われる。中国の脱ソ連に連れて「列寧装」と共に消え、語彙自体も言わば歴史の博物館に入ったが、海外で「レーニン服」が余り聞かないのは、レーニン様式の短命の所以だとも思われるし、中共独創の概念の可能性も否めない。
266)『広辞苑』では「止揚」と「揚棄」の両方が有るが、語釈は前者の方に記された。独逸語のAufheben の「否定」「向上」「保存」の意から、諸矛盾の諸契機の統合的発展を表わすヘイゲル哲学の此の用語は、中国では「揚棄」で対応するが、日本流の「止揚」に比べて換骨奪胎の語感が強い。毛沢東は「文革」発動の論理として、「不破不立、不止不行」(破らねば立たず、止めねば行かず)と唱えたが、「破」先「立」後、「破」先「止」後の「“破”字当頭」(「破」の1字が先行する)には、「揚棄」の戦闘的激情の投影も見て取れる。存在と意識の相互規定に即して考えれば、物足りない「止揚」を止めて強烈な「揚棄」を選好するのは、中国人の国民性の所産とも言えべきかも知れない。
267)厳密に言えば、中華人民共和国の「国父」は毛沢東に他ならないが、当人は孫夫人・宋慶齢を「国母」と呼んだ事が有り(林克『我所知道的毛沢東―林克談話録』、中央文献出版社、2000 年、153 頁)、建国当初から宋を国家副主席に据え(註237 参照)、国慶節等の際に孫文の肖像画を天安門広場の真ん中に置かせた。中共建国の準備段階では「中華民国」を略称とする案も有った(『毛沢東入主中南海』、261 頁)が、何れも国・共の同根性を窺わせている。
張涛之『中華人民共和国演義(6)』にも「国母の逝去」が出た(199 頁)が、其の逝去の10 日前の1981 年5月15 日に中共入党の申請が認められ、翌日に国家名誉主席の称号が授けられた事は、「国母」を懐柔し政治的に利用する中共の巧妙な統一戦線工作の手本だ。
268)陳水扁は其に対する疑問や批判を気にしたのか、後にわざわざ孫文への尊敬の念を表明したが、孫文の存在感が浮き彫りに成った一幕である。
269)毛沢東は1964 年8月18 日に北戴河で数人の哲学者と懇談する際、「一尺之、日取其半、万世不竭」を引いて、坂田昌一教授の基本粒子無限可分説を支持した(林克・凌星光著、凌星光訳『毛沢東の人間像』、サイマル出版会、1993 年、112 頁)。出所が明記されなかった其の命題は『荘子・天下』の目立たぬ1節で、「」も現代ではほぼ廃語と成ったが、其ほど毛は教養が高く感性が一般人から遠く離れていた。
270)1979 年ノーベル物理学賞を受賞したグラショウ(米)が1977 年の国際シンポジウムで、物質を構成する全ての仮設的要素を「毛粒子」(Maons)と命名し、自然界には更に深い統一が存在すると一貫して主張していた故毛沢東主席を記念するよう提案した(註269 文献、114 頁)。
271)「不生不滅・亦生亦滅」は筆者独自の表現の心算だが、中国に於ける対立・統一の弁証法や対の修辞の伝統を考えると、既に主張された命題の様に思われる。又、「不〜不〜・亦〜亦〜」の対は、『論語』の冒頭の「不亦楽(悦)乎」を連想すれば知的愉悦を感じる。
272)『新約聖書・ヨハネの福音書』12 ・24 :「好く好く貴方がたに告げる:一粒の麦が地に落ちて死なねば、其は只一粒の儘である。若し死ねば、豊かな実りを結ぶ様に成る。」(複数の中国語・日本語訳に基づく)本稿で論じた「文革」後「脱毛」初動期の百年前の1880 年、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の題辞に此の名言を引いた。思うに、其の生死・栄枯の弁証法こそが中国思想に通じるが、『論語』等の等身大・温柔(註201 参照)の誘導と対照的な高圧的説教調は、中国に於ける基督教の受容度の低さの一因を窺わせる。
273) 小平は長らく「半退」を以て「全退」を回避し、天安門事件後に漸く名義上の「全退」に踏み切り、実質的に「半退」に止まったが、「全退」は此処で全員退場をも指す。
274)2003 年3月の香港誌の報道(香港空港の売店で立ち読みした筆者のメモは、資料の山に埋没し発見できず仕舞いだったが、誌名には「明」や「鏡」が記憶に残っている)。香港誌の大陸情報は一般論として、日本の週刊誌以上に憶測が少なくない。元外相・銭其はデマ製造が専門の情報操作が海外に多く有ると喝破した(『外交十記』、世界知識出版社、2003 年、376 頁)が、返還後の香港が其の域外に該当するか否かは興味深い。香港『亜洲週刊』が報じた華国鋒の最近の離党申請も、同誌の信憑性に定評が有るとも言え真偽は判らない。但し、党の路線や腐敗に失望したと言う動機は、有り得る話として世相を映す明鏡に成ろう。
275)毛沢東時代には英雄的女性党員を「党の女児」と表わす賛辞が有ったが、指導者を「人民の息子」と言う表現は目にした事が無かった。周恩来逝去の際の東欧党首の弔電に出た左様な言葉は、当時の中国人には新鮮で且つ違和感を与えた。封建的家長制が障碍の根源と考えられるが、蘇叔陽に由る伝記・『大地的児子 周恩来的故事』(1982 年)辺りから然様な心理は変った。「天之驕子」はジンギスカンを称揚する成語で、毛沢東は詞で「一代天驕」の形で敷衍した。「龍種」は中国独特の語彙であるが、ハイネの比喩を借りて修正主義者を批判したマルクスの言葉は、自分は「龍種」を播いたのに収穫したのは蚤だと訳された。
276)『論語・為政』の孔子語録:「吾十五而志於学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不逾矩。」
277) 小平は耳が遠く、会議で毛沢東から遠く離れて座る習慣が有ったので、自分を敬遠している様な印象を毛に与えた。彼は諺の「聾子不怕天雷打」(聾は天雷が落ちても恐くない)で開き直った事が有るが、「聾」の「龍+耳」の字形は首領と情報の不即不離の関係に暗合する。情報が遮断されがちで且つ意識的に情報を遮断する必要も有る中で、猶且つ孤独の決断が求められる首相の宿命は、「聾」と壟断の「壟」との音通・形似に象徴される。
278)目・鼻・口・耳の無い中央の王・渾沌を不憫に思い、南海の王と北海の王が好意から其の顔に1日毎に1つ穴を開けたが、7つ目の穴が出来た途端に渾沌は死んだ、と言う。
279)「帯(領)頭羊」は羊の居ない日本では馴染まない概念だが、好い意味の統率役の比喩として最近好く使われるのは、羊の放牧の多い西北に長く居た胡錦涛・温家宝の時代らしい。「ボス羊」の訳し方は暗黒街の頭を連想させて宜しくないと言う指摘も有るが、日本語の「ボス猿」は必ず負の意味が強くない。
因みに、群れの中で最も強いとされる猿に冠す「ボス猿」の名称の発祥地は、野生猿の餌付けで有名な高崎山自然動物園だが、同園を運営する大分市は此の頃、1953 年から使われて来た此を廃止し、1980 年代から研究者の間で定着した「αオス」に改めた。日本猿の群れの中に個体間の優劣序列が有るが、最上位の猿が「外敵に立ち向う」「群れを率いる」等のボス的行動を取らない事が、近年の研究で判った。(『京都新聞』2004 年2月17 日夕刊)
280)「小沢一郎は田中角栄の秘蔵っ子」の様に、此の比喩は日本で好く使われるが、中共では元々「親分・子分」の図式は成立しないし、隠し子(中国語では「私生子」)を連想させる「秘蔵っ子」は中国人には馴染み難い。
281)ネクタイは中国語で「領帯」と言うだけに、其の赤は「領導人」(指導者)の「帯領」(引率)の指向性の表徴として意味深長だ。
282)「清一色」は「字一色」「緑一色」「混一色」と同じ麻雀用語で、中国では同質の人・物の集まりに譬えられる。建国直前に国民党政府の和平談判代表団の成員・劉斐が毛沢東に対して、麻雀の「清一色」と「平和」の何方を好むかと訊ねた。中共の独裁を望むか他者も受容するかと暗に聞く意図を察して、毛は噴き出しそうになって「平和、平和、只要和了就行了」(平和、平和です。和に成れば結構です)と応えた。(原非・張慶編著『毛沢東入主中南海』、中国文史出版社、1996年、148 頁)麻雀用語の「和」は「引き分け」や「調和」の意も有るので、「幽黙」家・毛らしい多重的滋味を持った当意即妙だ。
283)「文革」中に大陸全域で革命委員会が設立された事は、「全国山河一片紅」と形容された。
284)建国後初の党大会で選出された主席・副主席・総書記の6人は、何れも現役軍人ではない。2年後の1958 年に毛沢東の発案で林彪が副主席に就任したが、振り返れば其は軍事独裁体制の序幕であった。
285)海外で「毛制服」や「人民服」と呼ばれる物は、ならぬ中国流で言う「中山装」なのだ。毛沢東が「文革」初期から拘り続けた軍服こそ、彼の個性や其の時代の精神の表徴と成り得よう。
286)筆者は数年前に周恩来の母校・天津南開中学を見学した際、身形の自己点検の為に入口に設置された鏡が特に印象的だ。解放軍の駐屯地でも似た仕組みが有り、同じ様に第1釦を確り締めているか否かが要点の1つと成る。
287)陳毅は外相時代に業務用に背広を着用したが、着熟し愛用するには至らなかったものの、早年の仏蘭西留学経験も有って違和感が無かった。彼が初代市長を務めた上海では、「文革」直前の党書記と市長は新4軍時代の部下であり、『新4軍軍歌』(註257 参照)は上海人民広播電台(ラジオ局)の毎日の開始曲と成っていた。「文革」中から直近まで「上海閥」の風評や酷評は絶えないが、上海は斯くして建国後に派閥の伝統が有る。「新4軍閥」の謗りが出なかったのは、政治的野心の無い陳毅の人柄に先ず帰すべきかも知れぬ。
288)「建設要利用外資和発揮原工商業者的作用」、『小平文選』第2巻、157 頁。
289)其の日を選んだ理由は当然ながら不明で、深意が無かった可能性は寧ろ高いが、『小平八次南巡紀実』(註242 参照)の記述では、新年過ぎて早々に地方へ出掛けたのは熟慮の結果とされ、南巡の背景として1991 年の国際社会の激動が挙げられ、湾岸戦争も一連の尋常ならぬ出来事に入っている(223頁)。
290)1987 年1月17 日、厚生省が神戸在住の女性を日本初の異性間感染に由るエイズ患者として認定した。社会に激震が起きる中で、当人は3日後に29 歳の生涯を閉じた。
291)1987 年1月16 日、胡耀邦が政治局拡大会議で総書記の辞任を強いられた。「1.16 政変」とも呼ばれる電撃的解任劇は当日の晩に公表され、翌日に党中央文書を以て全党への詳細な説明が行われた。
292)香港誌・『九十年代』1991 年6 月1 日の記事に拠ると、 小平は其の頃こんな事を言った。「私を改革・開放の総設計師だと言うなら、趙紫陽は総工程師(総技師)だ。彼を否定しては行けない。過去の指導者を全て否定したら、党の歴史は無くなって了う。」「胡耀邦は死ぬのが早過ぎた。大変、惜しい事をした。彼は馬鹿な事をしたが、悪事を働いた事は無かった。趙紫陽の主な誤りは、学生の動乱を支持した事である。彼はとても聡明で、アイデアも多い。」上村幸治はの周辺が意図的に流した情報と捉えて、次の様に分析した。「これは、2つの事を表している。1つは、2 人の後継者を切り捨てざるを得なかった事に対する後悔、今1つは現在の指導部、江沢民・李鵬に対する不満だ。/“悪事を働かない”“アイデアが多い”という評価を、中国の人なら必ず裏読みする。江沢民・李鵬は“悪事を働く”が“アイデアが足りない”と言う事だと見做す。」(『中国 権力核心』、133 頁)基本的には其の通りであるが、後悔の本気度に関しては吟味の余地が有る。
続きの「にも拘らず、保守派は引かなかった」に即して言えば、 の評価にも拘らず趙の軟禁が解除されなかったのは腑に落ちない。其ほど「動乱支持」の罪が深く許し難いと解釈すれば其までだが、「聡明」の誉れが一層「悪事・非力の枢軸」の警戒を強め、益々「放虎帰山」(虎を山に帰す。危険人物を野放しにする。禍根を見逃す)が困難に成ったとも取れる。引退後のの影響度・拘束力の低下も考えられるが、件の発言は現状打開の為の起爆剤や牽制球に過ぎず、自分の過去の決断や現指導部の権威を否定する意図が余り無い、と観た方が順当であろう。「過去の指導者を全て否定したら、党の歴史は無くなって了う」と言った正論も、自身の名誉や体制の安定を慮る節が隠れていると裏読みできる。
293)曹操は酔って部下を刺し殺し敵の離間計に嵌まって部下を処刑した後、直ぐ後悔したものの面子の関係で顔に出されず、葬式や遺族への手当を手厚くする形で遺憾の意を表した。小平も仮に胡耀邦処分の行き過ぎを多少感じたとしても、当然ながら明確な自省を示すわけが無かった。南巡は其の隠微な意図の有無・強弱に関わらず、5年前の同じ頃の「反自由化」の不評を打ち消す効果が十分に有った。
294)唐山と阪神の大地震での両国の失態を比べれば、日本の方が罪深い様に思う。北京に在る国家地震局が震源を特定できず、手探り作業で要員を方々へ走らせた一幕は、東漢の張衡が132 年に世界最古の地震計を発明した中国の名誉を傷付けた(銭鋼『唐山大地震』[解放軍文芸出版社、1986 年]、日本語版[蘇錦・林佐平訳、朝日新聞社、1988 年]295 〜 304 頁参照)が、19 年後の日本では最先端の設備を持っておりテレビ中継も流れたにも関わらず、当日の政府の反応の鈍さと対応の粗末さは呆れる程だ。当時の中国は自力更生に拘って外国の援助を断り、後に国防部長と成った遅浩田等の当事者の反省(同上、243 〜 249 頁)で間も無く是正されたが、阪神大地震に於ける外部救援への謝絶は、官僚の事無かれ主義や入国手続きの煩雑が要因である。
295)中国では多くの文献に出ているが、緊急召喚の様子を克明に再現した中央警備責任者の回想が特に面白い(産経新聞社「毛沢東秘録」取材班編著『毛沢東秘録』下56 〜 59 頁参照)。
296)中共が北京を首都に選んだ政治的理由は、ソ連に近く安全保障上に好い事であった(『毛沢東入主中南海』、281 頁)が、朝鮮戦争で脅威を感じソ連との反目で逆に裏目が出たのは皮肉だ。地政学的危険が時代と共に変化し得る事の好例と言えるが、中ソ和解後の軍事的緊張の緩和にも拘らず環境の悪化で遷都論が台頭したのは、経済優位時代の地理経済学的危険(筆者の造語)の重みを思わせる。翻って、日本で国会の承認を得た遷都は「失われた10 年」で遅々と進展せず、一極集中の歪みと大地震襲来の懸念は解消されぬ儘だ。
297)唐山大地震を天の悪戯としたのは不真面目や不遜かも知れぬが、天の悪戯(中国語=「悪作劇」)に因る不運は歴史に屡々現れる。2発目の原爆が天候の所為で小倉でなく長崎に投下されたのも、同情に堪えない文字通りの天の悪戯である。
298)『辞海』の「唐山@」の語釈。未記載の語源を『角川大字源』に求めて見ると、「A中国のこと。江戸時代の日本人の呼び方。もと、海外にいる中国人が本国を称す言葉。唐土」と書いてある。『広辞苑』に未収録の此の意味は今の中国では廃語に近いので、両書の不得要領は止むを得ないが、唐人(中国人)の「唐(中国)の山河」(国土)と解し得よう。
299)銭鋼『唐山大地震』、日本語版7〜8、368 〜 369 頁。
300)「天網」は老子の「天網恢恢、疎而不漏」に因んだ表現で、「災厄の枢軸」は「邪悪の枢軸」を擬った筆者の造語。 
301)無職独身の患者は7年前に男性同性愛者の外国人船員と同棲し、別れた後に多数の日本人を相手に売春した(『朝日新聞』1987 年1月18 日)が、国際港の土地柄を窺わせる。2000 年4月に神戸の役所が市民団体の抗議を受けて、外国人不法滞在を通報するHPを閉鎖したが、不法滞在摘発の必要性と差別助長の懸念の間で板挟みと成った処も、神戸の特殊性の現れと思える。
302)「非典」退治を「硝煙無き戦争」と形容した胡錦涛の表現に因んだ筆者の造語。「禽流感」発生後に温首相が素早く被害地域に飛び重視度を示したが、曽て胡総書記がマスクを付けずSARS治療前線を視察した時ほど悲壮感が無かったのは、悲劇の再来には喜劇の性質が多い事の証である。
303)香港返還直後の1997 年秋、香港で禽流感( 鶏流感)が発生し、大陸から輸入した鶏が原因と疑われ、百万羽以上の鶏や鵝が処分される羽目に成った。「食在香港」(註305 参照)の裏の「食材在大陸」の実態が表面化した此の出来事は、香港返還の翌日に泰で始まった亜細亜金融危機と同じく、平和的移行の「好事多磨」を思わせた。
304)百年来の地球規模の流感史を繙くと、数々の興味深い発見が出て来る。流感の病原病毒が発見された1933 年より先立って、1847 年の倫敦発流感、1889 〜 90 年の「旧ロシア風邪」、1918 〜 1919年の「スペイン風邪」等の大流行が有った。其々世界景気長期波動の底と『共産党宣言』刊行の前夜、’89 年の激動の節目(本文・註359 参照)、第1 次世界大戦の終盤に当った時機は、天災と人災の相関を思わせる。
全世界で6 億人が感染し2 千3 百万人の死者を出し、「曽てのペスト(黒死病)の惨禍を想起させる疫病史上の一大事件」の場合は、「その原発地について、最も可能性の高いのはアメリカと中国であった。1918 年早春、アメリカの兵営でインフルエンザの発生があり、時恰も第1次大戦の最中、4月にはフランス戦線に感染し、6月イギリスにこれが移り、“スペイン風邪”と呼ばれるに至った。これとほぼ同時に、中国の本土と日本の海軍でインフルエンザ発生が報告され、5月に中国全土に蔓延した。」(平凡社『世界大百科事典』第3巻、1988 年、118 頁)米軍が疫病神と成った点と中国の被害・伝播の役割は、85 年後の新世紀第1次「大覇」(覇権大国)対「小覇」(覇権小国)の熱戦、及び発展途上最大国の「硝煙無き戦争」とだぶる。
一方、1957 年の「亜細亜流感」と1968 〜 69 年の「香港流感」も、中国は発生源であったと見られる。香港政府の医療管理局の関係者は、香港を起点とする大型風邪が多い説に対して斯く反論した。「実は、それらの震源地は広東省なんです。農家やレストラン周辺で飼われている家畜動物の保有するウイルスが、突然変異を起して人間に感染し、香港経由で亜細亜に広がるパターンが増えている。」(勧堂流『SARSの衝撃』、実業之日本社、2003 年、31 頁)其の一連の事例は「中国危険」の格好な材料に成り得るが、「新沙皇」(新ツァリー)→「沙林」(サリン)→「沙氏」(SARS)の連環(註327 参照)から、「旧ロシア風邪」の現代「翻版」(複製)とも言える「ソ連流感」は、老大国の沈澱・腐臭と一味違う超大国の喧騒・不穏を顕わす。1977〜 78 年にソ連流感が猛威を振るったが、其までの3回の大流感は奇しくもソ連の建国直後の始動期、人工衛星発射の絶頂期、チェコ占領・中ソ国境軍事衝突の暴走期に当る。
香港・ソ連に次いでアフリカが流感の発症源と言われたのは、ソ連解体・香港返還の1990 年代の事である。目下は大流感の10 年周期の間歇期に当る事も有り、歴史が浅い故に馴染みが薄く実感も乏しいが、「病毒の2大発症地はアフリカと中国」と言う欧米の疫病学者の常識(勧堂流『SARSの衝撃』、34 頁)を思い起せば、此等の広域の人類地文化的危険の高い蓋然性が思い当る。
毛沢東は1958 年の詩・『送疫神』(疫病神を送る)で、江西省余江県に於ける日本住血吸虫の根絶を讃えた(本文・註340 参照)が、其の前年頃に華南発の疫病神が香港の名を冠して送り出されたのは、皮肉な巡り合わせである。1993 年の広東発、香港経由の「禽流感」の発生は、香港流感と通じる「疫神」の不易・遷移を感じさせる。エイズ出現の12 年後に降り掛かって来た此の怪病は、更に10 年後のSARSと同じく突然変異の所産だが、被害対象が家禽から人間に移った2回の災厄は、倶に上記の人畜共生の自然摂理の想定し得る結果だ。
305)泳いで渡れる河で隔たった広州と香港、中国と北朝鮮は、「一衣帯水」の典型と言える。日・中の官民は此の成語で両国の近隣関係を形容するが、長江を1本の衣帯に譬えた『南史・陳本紀』の原義に照らせば、両国間の広い東海は狭い水域の形象と乖離が大き過ぎるので、言葉の綾で紡ぎ出した幻想とも思えなくはない。
306)邱永漢の随筆集・『食は広州に在り』(龍星閣、1957 年)は、食べ物に関する戦後の3大名著の一とした丸谷才一評の様に声価が高いが、香港返還の直前に書いた「食道楽メッカの香港」の中で、1950 年代以降は料理に千金を惜しまぬ人々が香港に集まった結果、「食在広州」は実質香港に引っ越して了った、と述べた(『中国の旅、食もまた楽し』、新潮社、2000 年、64 頁)。
307)「粤」と「越」の同音は、広東と東南沿海の浙江(昔の越)や越南との文化縁を思わせる。因みに、広東と浙江の地方戯曲は其々「粤劇」、「越劇」と言う。
308)香港に於ける表現の自由は帰還後に微妙に縮まった様だが、2003 年に西北大学日本人留学生卑猥寸劇事件が香港筋の報道で西安の反日示威を惹起した事は、自由と不自由、権利と秩序の相対的関係を考えさせた。
309)『史記・食其伝』の「民以食為天」(民は食を以て天と成す)は、中国人社会の共通認識と成っている。毛沢東も早年の『「湘江評論」創刊宣言』(1919 年7月14 日)の中で、「世界上什問題最大?吃飯問題最大。」(世の中で何の問題が最も大きいか。飯を食う問題が最も大きい)と語った。彼は自ら主催した湖南学生連合会機関誌の発刊の辞で、社会制度の中で最も重要なのは経済制度だとも断言したが、晩年には其の初心から離れた。
310)『角川大字源』に拠れば、「語」は「形声。意符の言(ことば)と、音符の吾ゴ→ギョ(対抗して答える意=禦ギョ)とから成る。質問に対抗して答える言葉の意。ひいて、“かたる”“ことば”などの意に用いる」。「吾」の第一人称代名詞の意に即して、「言+吾」の字形を「語」の自己主張の性質の徴と捉えるのは、断るまでもなく筆者の今風の講釈なのだ。但し、其の対抗的回答も我田引水で言語表現の主我性に帰せる。キッシンジャーに秘密を吐かせ「一生の不覚」と嘆かせた伊太利記者・ファラッチの取材に、 小平が大変な気合いで臨み名答を多く遺した一幕(張涛之『中華人民共和国演義(6)』、183 〜 186 頁)が、好例に挙げられる。『小平文選』の「文革」後部分に外賓との談話が多いのは、世界に向けて発信する姿勢と共に、孔孟の語録と似た自己主張の方式も窺える。対して『毛沢東選集』は会談録が極端に少ないが、其の文章に拘る書斎派の志向は行動派のと異なる。
311)『孟子・告子上』:「食色、性也」。此を例に挙げた『角川大字源』の「食色@」の解は、「飲食と女色。食欲と性欲」と言うが、刊行12 年後の日本の「逆軟派・男喰い」の世相を観れば、「女色」は些か古色蒼然である。『角川大字源』の「食色A」は、「飢えた気配の無いこと。食べ物のある様子。〔左伝・昭公15年〕“猶有二食色一、姑修二而城一”」と言う。「豊衣足食」(衣が豊かで食が足りる)の時代が滅多に無かった所為か、此の用法は中国で廃れて久しいが、俗に言う「温飽思淫欲」(衣食が足りれば淫欲が湧く)の摂理と合わせて、又「食色、性也」の命題に繋がる。
312)「別口」は日本語の「捌け口」の字・義、及び「酒は別腹」の俗語に因んだ筆者の造語。好物の多飲・多食を正当化する「別腹」は、二重基準や「双軌制」(複線構造)の多い中国人にも、唖然とさせられる不羈な発想である。食欲・性欲の「別口」は又、別々の口の含みも有る。亜細亜最大の歓楽街の名物案内人・李小牧(湖南出身)は曰く、「飲食、色情満載的歌舞伎町、既充実上面的口、更満足下面的口」(料理・風俗に溢れる歌舞伎町。上の口も満足でき、下の口はもっと満足できる)と言う(『新宿歌舞伎町アンダーワールドガイド』、日本文芸社、2003 年、24 頁)。
313)エイズの発生源は未だに定説が無く、米国諜報機関が撒き散らしたとする陰謀説も含めて、色々な推測や憶測が飛び交うが、アフリカは紛れも無くエイズの集中発病地域だ。
314)開幕式の国歌演奏との組み合わせは、「マルクス主義者に成る前も、成った後も中国人」と言う毛沢東の自己規定や、 小平の「中国的社会主義」路線の秩序の表徴に成る。
315)2001 年に入る直前の節目の時機に、プーチン政権はスターリンが制定したソ連国歌の旋律を新露西亜国歌として国内に始めて公式に放送した。
316)NHK特集『63 億人の地図@寿命 2004 年いのちの旅』(2004 年1月25 日放送)に拠ると、ソ連解体後10 年で露西亜男性の平均寿命は約5歳減り58 歳台に下がったが、地域別の統計は下落率と転職率の正比例を示し、精神的緊張が元凶である事を裏付けた。
317)勧堂流『SARSの衝撃』は曰く、「“ウイルスの2大発症地域はアフリカと中国”―。これは欧米の疫病学者の間では、常識に成っていると言われる。」(34 頁)副題の「台頭する中国隔離論と破綻する“世界の工場”」が示す様に、此の書物は中国への敵意の露出が多いが、アフリカ並みの不衛生は否認し難い一部の現状である。
318)「強盛大国」は北朝鮮が1998 年に打ち出した国家目標だが、中国の長年の志向の後追いの観が有る。五輪で獲得した中国初の桂冠が男子個人射撃である事は、鉄砲から生まれた政権の「軍先」の強みを謀らずも印象付けた。
319)国民の1人当りのカロリー摂取量は世界衛生組織が定めた理想的水準に近付いた、と言う1980 年代後期の中国の公式発表は、長年の食生活の質の低下を認めた素直さと世界の常識へ接近する姿勢が画期的だ。
320)祁英力著、おうちすえたけ訳『胡錦涛体制の挑戦』、勉誠出版、2003 年、91 頁。
321)『角川大字源』の「欲」の解字は曰く、「意符の欠(口を開いた形)と、音符の谷コク→ヨク(穀食の意=穀コク。また、続けて止まない意=続ショク/ゾク)」とから成る。口を開いて穀物を求めて止まない、“ほっする”意。」中国語の「谷」は「穀」の簡略字でもあるが、穀と谷の共通点には謙虚さが有る(「虚心坦懐」に当る中国語は「虚懐若谷」。穂が熟すほど垂れると言う比喩は両国共通)。故に「谷+欠」は此の文脈で、驕傲の転落の契機とも解し得る。
322)親に寵愛される独りっ子の異名・「小皇帝」の起源や発生時期は不明だが、皇帝を此の上無く尊ぶ伝統観念の名残りとして興味深いし、「小皇帝」・溥儀や「児皇帝」・劉禅(劉備の息子)の頼り無さを連想させる処も妙味だ。
323)米国人のカロリー摂取は1970 年代の3000 i程度から、最近の3800 i前後に上昇した(出所は註316 に同じ)。其故の肥満者の増加は昨今の日本でも特に青少年の場合が顕著だが、中国では脂肪類好みの性向、「小康」(一応の余裕)の実現、「小皇帝」溺愛の風潮の相乗で、同じ傾向が幼児世代から台頭・加速している。
324)「少則得、多則惑」は老子の言。
325)週刊『アエラ』の記事・「若者よ セックスを嫌うな―自信喪失男と潔癖すぎる女」(2004 年5月3・10 日号、16 〜 19 頁)参照。日本のコンドーム出荷量は直近1993 年のピークから4割も落ち、インターネットやDVDの普及で’97 〜 99 年に減少傾向が鮮明に成った、と言う記述も「第2の敗戦」と結び付けて興味深い。
326)「孤寒」は『警世通言』等の用例の様に、孤独・貧寒を表わすのが原義なのだ。吝嗇の意は広東方言の用法であるが、吝嗇の含みを持つ「寒酸」(貧相)と同じく、「人窮志短」(貧すれば鈍する)の相関を言い得て妙だ。
327)AIDS の中国語訳には「艾滋」や「愛死」も有り、後者は瀬戸内晴美に気に入られ、長篇小説(講談社、1994 年)の題に用いられたが、「艾滋」も中国独特の滋味を隠し持つ。「艾」は「+乂」の字形で不毛と罰劫を連想させ、「愛・哀」と同音のai の読み方も有り、「怨艾」(怨恨)の連用も有る(此の場合はyi と読む)ので、「滋生」(繁殖する。生み出す)との合成の略の様な「艾滋」は、エイズ禍の実態と妙に符合する。
SARSの中国語訳・「非典」は「非典型性肺炎」の略で、「非」は「肺」と音通で否定的意味を持つ処も妙味だ。最近は音訳の「薩斯」も流行っており、外来語の受容度の向上と安易な音訳の増加の例に挙げられた(国際シンポジウム「世界の〈外来語〉の諸相」に於ける徐一平・北京日本学研究中心教授の報告、『読売新聞』2004 年4月13 日夕刊)が、「得克薩斯」(テキサス)や「格魯撒克遜」(アングロ・サクソン)を連想させる点では、「黄禍」の形象を転嫁する効能も読み取れる。猶、香港流の「沙氏」の訳し方も感心できる。黄沙や「沙林」(「サリン」の中国語訳)を含む形象と文明病に似合う擬人化の「氏」、更に「殺手」(殺し屋)に近い響きも加わって、見事な「黒色幽黙」(ブラック・ユーモア)と言えよう。
328)世界最古の職業は一般的に娼婦とされるが、其を暗黙の前提とする2番の諸説は面白い。2番目に古い職業の王族を自分は務めていると言う英国皇太子・チャールズの冗談(杉光二『東京異邦人プロスティティート』、光文社ペーパーバックス、2003 年、152 頁)は、醜聞に纏わった男らしい笑いの取り方だ。一方、海野弘は『スパイの世界史』(文藝春秋、2003 年)の中で、フィリップ・ナイトリーの『第二の古い職業―愛国者、官僚、空想家、娼婦としてのスパイ』(1986 年)を引き合いに出して、「スパイは歴史で2番目に古い職業だ、と言われる(1番目は売春である)」、と語った(15 頁)。英語通訳の達人・小松達也は通訳こそ「人類の歴史上2番目に古い職業」とし、通訳や翻訳に最も依存している国として、明治維新以来貪欲に海外の思想・制度・技術等を取り入れて来た日本を挙げた(『通訳の英語 日本語』、文春新書、2003 年、15 頁)が、情報や外交の接点で其々スパイや王族と通じるのが奇妙だ。女性差別への配慮からか彼が言及を回避した筆頭は、巡り巡って露西亜語の名通訳・米原万里に由って喝破された。其の文筆家の名を欲しい儘にした『不実な美女か 貞淑な醜女か』(徳間書店、1994 年)の中で、先輩から受け売りした「通訳=売春婦」論が社会的需要や仕事の性質に即して敷衍された。娼婦を最も古い職業とする観方は尤もらしいが、人間の欲望を肯定し「笑貧不笑娼」(貧乏人を嘲笑しても娼婦を嘲笑しない)と割り切る中国で、「操皮肉生涯」(肉体を売って生計を立てる事)=最古の職業と言う相場が流行らぬのは、興味を引く現象である。儒教の「万悪淫為首」(淫行が諸悪の頭を為す)の観念に、一因が有ろうと思われる。
329)中国語独特の「陪斬」は、重罪の犯人や尋問対象を死刑囚と共に処刑場に行かせ、疑似処刑の衝撃に由って懲罰を与えるか自供を促す事に言う。悪毒い手段も辞さぬ無法国家らしい遣り方と思えるが、類義語の「陪」( =縛る)は苦難を分担させる意が強い。
330)陳希同は天安門事件の際に事態を誇張に伝え武力鎮圧の決断を導いたと言われるが、真偽はともかく、「誤導」が最近の中国で好く使われている事は、mislead の訳語が依然として無い儘の日本より一歩進んだ様に思える。
331)韓文甫は『小平伝 治国篇』(台湾・時報文化社、1993 年)の中で、胡耀邦の元智嚢・阮銘の「大陸演変的3種可能」(香港『百姓』半月刊、1992 年10 月1日号)を引いて、「殺20 万人換取20年江山穏定」云々は巷の噂の様に小平や王震ではなく、姚依林の婿・王岐山の主張なのであるとした(810 頁)。中国人民銀行副総裁、海南島省長を歴任した王は、有能な「太子党」として評判が高いが、義父の姚依林(長年の経済担当の副総理)は天安門事件の際に、政治局常務委員会の中の鎮圧支持派だったとされる。
332)第1次天安門事件の際の北京市長・呉徳は「文革」後間も無く、毛沢東寄りの「新4人組」の一員として指導部から姿を消された。
333)2回とも毛が最終号令を出した事は、江沢民時代の多くの文献で明らかに成ったが、首都での武力鎮圧は其ほど超高度の政治判断が要る。
334)『角川大字源』の「政」の解字は、次の様に成っている。「形声。意符の攴(手にむちを持ってうつ)と、音符の正セイ(うつ意=討タウ)から成る。武器をもって討つ意。ひいて、“まつりごと”の意に用いる。一説に、会意形声で、正は、ただしくする意と音とを示し、強制してただす、ひいて、“まつりごと”の意に用いるという。」
335)情報技術革命時代の青写真を描いた米国の未来学者・A.トフラーの著書(1980 年)の題。
336)「心中攻撃」は和製漢語の「心中」(中国語では「同帰於尽」)と、「真珠湾攻撃」との発音の類似に因んだ筆者の造語。
337)ルーズベルトは真珠湾襲撃を察知して置きながら、日本へ宣戦する為わざと知らぬ振りをした、と言う邪推は消えては現れたが、『ルーズベルト秘録』に記された当時の大統領府の大恐慌を観れば、一蹴して構わない。「真珠湾攻撃は史上、前例を見ない奇襲だった事は、この慌てふためきぶりからも十分に窺える。それでは一体何故、これほどの軍事作戦に米国は気づく事が出来なかったのか。真珠湾攻撃を経験した米国は以後、激しい怒りと同時に身を割くような自省に悩まされ続けた。」(下、221 頁)9.11 襲撃に関しても米国が敢えて見過ごした陰謀説が流れたが、60年前の歴史の再演と捉えた方が正しかろう。
338)「千里眼、順風耳」は『紅楼夢』第29 回の用例の様に対で使う場合が多いが、「順風」が必ずしも天意とは限らず人為的に造り出す場合も有る処が味噌だ。
339)毛沢東の詞・『満江紅・和郭沫若同志』(1963 年)は、「要掃除一切害人虫、全無敵」で結ぶ。
340)毛沢東『七律二首・送瘟神』(1958 年)。日本語訳=竹内実(武田泰淳と共著『毛沢東その詩と人生』、314 頁)。
341)「電脳2000 年問題」の原因は遂に解明されず仕舞いだったが、両方とも有力な説であり、今後も他の分野で別の形を以て現れて来そうだ。
342)『梵網経』が出典の「獅子身中の虫」は中国では聞かないが、獅子が居ない日本で定着した事は此の国に於ける佛教の影響力を物語っている。
343)2004 年2月8日に米国の報道機関が提起した小ブッシュの疑惑は、州兵を務めていた1972 〜 73年に一時無許可で隊を離れ規定の任務を満了していない事だ。4年前の選挙でも、州兵志願は越南行きを回避する為だったと指摘された。
344)天安門事件直後の1989 年7月1日、国際孤立化の中の中国との関係改善を図るべく、米大統領国家安全保障補佐官が秘密裏に北京を訪問した。ブッシュは親書でとの個人的友情・信頼を強調し、特使もとの会見でボスを史上初めて中国民衆に親密に接した米大統領だと力説した。は其の駐中国大使時代に自転車で北京の街頭に出た事を言い出し、一座の雰囲気が一気に和んだ。(銭其『外交十記』、170 〜 179 頁)両国の政治的必要に因る接近であったが、此の逸話は指導者同士の親交や意気投合の効用を思わせる。
345)中・米は1998 年「建設的・戦略的パートナー関係」を結んだが、partner の中国語訳・「伴」は「人+火」「人+半」の字形に、相剋・共生両面倶有の実質が好く現れる。「伴」に近い和製漢語の「相棒」は、2人が協力して天秤棒を担ぐ字形から来た「仁」の発想に通じる一方、棒で殴り合う光景をも連想させる字面は「」と同じ不穏な節も持つ。
346)倶に1937 年生まれの橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗3首相は、誕生日は其々6月25 日、7月29日、7月14 日で、奇しくも盧溝橋事件(7月7日)の近辺に集中した。

347)始原的風景を表わす「原風景」も、出生時や幼時の最初の記憶を言う「原光景」も、中国語に無い語彙である。
348)五木寛之『運命の足音』、幻冬舎、2002 年、261 〜 265 頁。
349)註348 文献、26 頁。
350)1990 年代の韓国では、「386 世代」(30 歳代、’80 年代に大学に通い、’60 年代の生まれ)の活躍が目立ったが、中国の今の注目株は「79 世代」(’70 年代生まれ、’90 年代大学在学)か。其々「文革」後と天安門事件後を指す「79」は、筆者が改革・開放元年の’79 年に因んで考案したのだ。猶、韓国で盧武鉉も含む政界の「87 世代」が目覚しいが、1987 年に政治活動を始めた人が数多く政治の中枢に入った現象(『日本経済新聞』2004 年5月7日)は、原点がソウル五輪直前の民主化黎明期に当る事を考えれば、彼等の指向性が理解・予測できよう。 
351)「世代等高線」は地理・気象用語に因んだ筆者の造語。
352)孟浩然『與諸子登山』。目加田誠訳注『唐詩三百首2』の「人事在代謝」(平凡社、1975 年、85頁)は、中国の流布本( 塘退士編)と違うが、同工異曲に歴史の本質を表わしている。
353)「与時倶進」は江沢民→胡錦涛への権力譲渡が行なわれた第16 期党大会の合言葉。
354)毛沢東が愛用した「必由之路」と同義の「必経之径」は、「経・径」の同音・形似を生かした筆者の表現。
355)死の2ヶ月余り前に心筋梗塞で倒れた毛沢東は、小康状態の中で世話係りに南北朝の信の『枯樹賦』を読ませ、次の段落を苦々しく暗誦した。「此樹婆娑、生意尽矣!……昔年種柳、依依漢南;今看搖落、凄愴江潭。樹猶如此、人何以堪!」(暁峰・明軍編『毛沢東之謎』、中国人民大学出版社、1992 年、214 頁)
356)本稿筆者は別の論考で取り上げた事が有るが、毛が自分の誕生日を大事にしたのも精々、長寿を祝う風習でうどんを食べたとか些かな家宴を催した程度だ。楊炳章は『小平 政治的伝記』の中で、『人民日報』1984 年8月23 日の報道を引いて、 小平の80 歳誕生日(同22 日)祝いの様子を記した。1b近く高い誕生日ケーキに長寿祝福の徴として桃80 個が飾られ、子孫に囲まれた本人が80 本の蝋燭を吹き消そうと頑張っている、といった光景(260 頁)は確かに微笑ましいが、冷厳な論評を一言添えても好かろう。指導者の誕生祝いの即時報道は透明性の向上を映し、健全な家庭人の形象の広報には成ったものの、立派な建前を破った不敵な「脱毛」として評価し難い。
357)誕生日の公表を控える点は新世代の指導者の進歩と言えるが、翻って思えば、 小平時代以降の官民は神格化との訣別に因って、指導者の誕生日にはもはや興味を失った。
358)「中視」は「微観」(微視)と「宏観」(巨視)の間の「中観」を擬った筆者の造語。日本語に於ける此の概念の欠落は不思議だが、等身大の「中視」は時間の次元で日・月を指し、年は2桁以上なら巨視の範疇に入ると考える。
359)註259 に同じ。
360)龍年に災厄が多い事は当時でも人々に懸念されていたが、12 年毎に繰り返す厄年の「本命年」意識が根底に有る。中華民族の表徴たる龍が12 支の中で特に危険度が高いのは、民族の多難な宿命の反映と思われるが、2000 年に大難が降り掛からなかったのは、総書記失脚の宿命から遁れた事と共に江沢民の強運の証だ。中国が高緊張・高成長から中緊張・高成長の時代に入り、大衆の「高風険、高回報」(ハイリスク・ハイリターン)志向が「低風険、中回報」に変った、という時流にも符合する事象と言えよう。
361)註259 に同じ。
362)胡耀邦追悼会前後の1989 年4月18 〜 20 日、大学生集団の中南海突入の試みが続発した。趙紫陽が訪朝の途に着いた2日後の25 日、 小平邸で指導部と長老の緊急会議が招集され、強硬に対処する方針が決定された。
363)1935 年12 月9日、「停止内戦、一致対外」「打倒日本帝国主義」「反対華北自治運動」を合言葉に、北京で6千人の学生が行なった示威運動。国民党当局の鎮圧で負傷・逮捕者が多く出たが、翌日に全市大学が「罷課」(授業ボイコット)に突入し忽ち全国へ波及した。
364)『広辞苑』の「唇歯輔車」の語釈にも、『左伝・僖公五年』の「諺所謂、輔車相依、唇亡歯寒」が出ているが、「唇歯相依」「唇亡歯寒」は熟語化しておらず、「唇歯輔車」も辞書の中の標本の観が強い。陸続きの隣国が無い島国の感性を映す現象として、広域大陸国家故の中国に於ける高い流布度・使用頻度と対照的だ。
365)軍人作家・葉雨蒙の『黒雪:出兵朝鮮紀実』(1989 年)には、毛沢東から金日成・朴憲永の緊急救援要請の電報を示された彭徳懐の内心の独白として、「両国が唇歯輔車の間柄であることは言うまでもない……唇失えば歯寒しだ!」と有る(朱建栄・山崎一子訳『黒雪―中国の朝鮮戦争参戦秘史』、同文館、1990 年、64 頁)。記録文学に儘有る文学的表現とも取れるが、朝鮮が落ちれば中国東北も危ないと言った出兵派の論拠を観れば、毛・彭等の思考の定石として至極当然な感じがする。
366)『史記・淮陰候伝』が出典の「韓信の股潜り」と『列女伝』が出典の「孟母三遷」の物語は、「三十六計、走為上計」の兵法に通じる雌伏・逃避も見所だ。
367)発言は開催2日目の4月24 日に為されたのだが、米国側の公表で世界が驚いたのは翌日の事だ。
368)「軍事独裁開発」は「軍事独裁」と「独裁開発」の合成。独裁は武力に頼る支配なので「軍事」は重複の観も有るが、フセインの軍事独裁と微妙に違う金正日の開発の意欲を強調したいわけだ。
369)1997 年2月19 日、韓国京畿道城南市のアパート玄関先で、金正日の前妻の甥・李韓永(36 歳)が2人組に狙撃され重傷を負った。亡命後に秘密を多く暴露した李に対する報復は、黄長書記が北京の韓国大使館に亡命を申請した7日後の事であるだけに、意図的「殺一警百」(一懲百戒)の制裁と思われるが、金正日誕生日(2月16 日)の頃に派手な行動を起こす北朝鮮特務機関の習性も指摘された。
370)「文革」中に竣工時期を毛沢東誕生日に設定する風習が有り、 小平時代では彼個人の誕生日祝いが報道された(註356 参照)反面、指導者の誕生日は突貫工事の目標ではなくなった。但し、政治的節目に合わせる慣習・発想は江沢民時代にも猶健在であった。長らく賛否両論が有った国家的工程の長江三峡ダム建設を例に挙げると、陸佑(中国長江三峡工程開発総公司総経理)が1993 年の香港『文匯報』で、大江の締め切り工事は当初計画よりも1年早くし、完成年度と香港返還の年度とを合致させて、1997 年を2つの慶事の挙行の年にする、と言う意向を表明した。建設慎重派の国家計画委員会経済研究所スタッフが直ちに全人大に上申し、非科学的・盲目的主張として糾弾した(戴晴編、鷲見一夫・胡訳『三峡ダム―建設の是非を巡る論争』、築地書館、1996 年[原典= 1989 年]、132 頁)。結局、「双喜臨門」(2つの慶事が訪れる)の祈願に由る工事は、反対派の作家・戴晴の嘆き(同、4頁)も空しく推進された。
2002 年11 月6 日に長江三峡ダム第2期工事が竣工し、堰止めと式典に建設推進派の李鵬が出席した。明らかに2日後の党大会開幕に合わせた時機だが、退任が決まった現職総理の花道を飾る様に党大会開幕式の司会も彼が務めた。長江の上流に在る重慶は三峡ダム建設に伴う開発・移転と連動して、1997 年に北京・上海・天津に次ぐ第4の直轄市と指定され、而も一躍に人口最多(3 千万)の巨大行政区と成った。地名の「二重の慶事」の意が謀らずも現実と化したわけだが、重慶の在る四川省が本籍地(生地は上海)の李鵬が党・国の2大慶事の舞台の中心に立った事は、彼の政治的生涯の中で特筆すべき「双慶」と言えよう。
一時に三峡ダム建設と対で位置付けられた香港返還は、其の立会いを人生最後の願望とした小平の逝去の半年後に実現した。の遺憾は長寿の裏返しの「長恨」とも成ったが、彼の最大な「双憾」は余り知られていない。存命中に見る事が出来ない2大国家的工程として、彼は三峡ダムと有人宇宙飛行を挙げた(石磊等『放飛神舟―有人宇宙飛行プロジェクトの記録』[機械工業出版社、2003 年]、日本語版[高慧文等訳、日本オーム社、2004 年]10 頁)。此の2つの偉業は毛沢東が詩歌で渇望を詠んだ物なので、現実主義者のは浪漫主義者の毛と同じ理想を共有していたわけだが、毛の熱い夢もの次の論断の通り冷静な実利志向が濃い。「60 年代以降、若し中国が原子爆弾、水素爆弾の開発をせず、人工衛星の打ち上げをしなかったなら、中国は重要で影響力の有る国だとは言えないし、現在の様な国際的地位に就けなかっただろう。此等は我々民族の能力を示し、中華民族の国家の隆盛と発展の指標でもある。」(左賽春『中国航天員飛行記録』、xx 頁)
毛沢東時代に黒龍江省で発見された油田は、建国15 周年に因んで「大慶」と命名されたが、世紀の交で実現した香港返還と有人宇宙飛行は、建国以来の究極の大慶の双璧に当る。有人宇宙飛行の返還の時機は原爆初実験38 周年の日に設定されたが、建国16 周年の当月に遂げた前回の快挙と重なるのも一種の「双慶」だ。新千年紀祭を2回催した事も「双慶」の変種であるが、行事・演説好きの江沢民の意志と言うよりも、大衆の「双喜臨門」願望が生んだ結果と思える。
「福無双至、禍不単行」(福は対で続ける事が無く、禍は単発で終る事が無い)と諺は言うが「双喜臨門」の祈願は其の現実的悲観心理の裏返しに他ならない。建国後の長い間に高級煙草の代表的銘柄の「大中華」と「双喜」は、其の「言霊」意識の表徴と観て能い。因みに、毛・が好んだ「熊猫」(パンダ)の名は、稀少価値や「中国特色」、癒し効果が揃い、近年人気急上昇の「紅塔山」は字面で本稿の塔山戦闘の「総精彩」と繋がる。此の「紅」と「慶」の複合から、江沢民の大番頭で胡錦涛体制の「三駕馬車」の一員が連想される。註237 で歴代の国家副主席の顔触れを吟味したが、初代の宋慶齢と目下の曽慶紅の名も「双慶」の連環を成す。
註304 で疾病史上の「中国危険」の多発に就いて論評したが、重慶の「双喜臨門」と災厄複合の「禍不単行」の文脈と絡んで、勧堂流『SARSの衝撃』の次の情報が目を引く。「アメリカの疾病対策センターが、密に注目している現象がある。それは、薬剤耐性だけでなく、様々な病原菌の結合現象だ。例えば、“重慶ファミリー”と呼ばれる病原菌が関心を呼んでいる。重慶には麻薬患者が多い事で知られ、麻薬患者の体内に生息している結核菌が、特殊な変貌を遂げた新種の菌に変貌する可能性が有ると言う。更に“北京ファミリー”と呼ばれる結核の新種や、結核とAIDSが結合した“南京ファミリー”と言われる新種の病原菌まで、米欧の一部に疫病学者の間で取り沙汰されていると言う。」(34 頁)
重慶の名の此の不名誉な用法は日本語の「南京虫」を想起させるが、侵略と「名誉毀損」の二重被害を受けた南京とは別の不本意が有ろう(『日本国語大辞典』の「南京虫」の最初の用例は1885 年の新聞なので、南京侵攻とは勿論関係が無い。猶、其の裏返しの不意な好い命名の事例として、天津が原産地ではない「天津甘栗」である[『日本経済新聞』2004 年6 月7 日夕刊参照])。
重慶に麻薬患者が多いとは仮に事実だとしても、英・仏・伊の其々半分に当る人口を考えれば不思議ではない。北京や南京よりも重慶が言わば「複合疫病源の枢軸」で突出するのは、20 世紀の世界的流感で中国が常に発症地であった事と共に、国力指標と成る人口・領土の規模と危険の発生・増幅の相関を思わせる。「人怕出名猪怕壮」(人は有名に成るのが恐く、豚は太く成るのが恐い)と言う様に、重慶は肥大化だけでなく急成長の故に風当りが余計に強いとも思える。「世界の工場」・中国の光と影、「脅威論」の標的にされた宿命の理解には、此の2点とも一助に成る。尤も、政治・祭祀の相関は万国共通の現象と原理である。9.11 襲撃の廃墟に建てられる「自由の塔」も、米国独立の年月日に因んで高さが1776 フィート(541 b)と設計され、2004 年7月4日に工事が開始する予定だ。
371)劉少奇は政治的生命の処刑宣告を聞く途端に、血圧が260 / 130 まで上昇し40 度以上の高熱を出した。病状が悪化の一途で1年後後に不帰の人と成ったが、死期を速める「催命剤」の効果は仕掛けた側の狙い通りだ。
372)産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班『ルーズベルト秘録』、産経新聞社、2000 年、下、260 〜261 頁。
373)1970 年12 月18 日、米人ジャーナリスト・スノーとの談話。「和尚打傘―無法無天」の語呂合わせ(「無法」は「無髪」に引っ掛ける)を理解できず、中国側の通訳が「孤独の僧侶」の自称と訳した話は有名だが、もう1つの見所は毛の計算尽くの意図である。彼は古い友人のスノーをCIA の回し者と疑い、此の会見を利用して米国に情報を伝えようとした、と言う李志綏の証言(新庄哲夫訳『毛沢東の私生活』下、文藝春秋、1994 年[原典同]、304 頁)が事実なら、「孤立の枢軸」の挑発にも響いて来る。
374)註372 に同じ。
375)国民は民兵として自衛目的の武器を所蔵・携帯する権利が有る、と定めた合衆国憲法修正第2条は、米国で銃に由る殺人の多発の根源と考えられる。只、カナダも1千万世帯に7百万丁が所持される程の銃社会なのに、其の種の犯罪が少ないのは興味を引く。2003 年アカデミー賞ドキュメンタリー部門賞を受けたムーア監督の銃社会批判の映画は、正に地続きした2国の精神風土の違いへの着眼が出発点だ(猪木武徳「ボウイング・フォー・コロンバイン」[『日本経済新聞』2004年4 月27 日夕刊]参照)が、修正条項とは言え銃保持の承認云々が憲法の冒頭に出る事は、本稿筆者にはやはり一種の文化的衝撃である。
猶、連載初回の註41 でムーアのアカデミー賞授賞式でのブッシュ批判に触れたが、巡り巡って3ヵ月後の今次の推敲・校正中の5月には、イラク侵攻の大義の虚構や進駐軍の俘虜虐待の蛮行が暴露され、米国政権中枢の暗部を抉った同監督の『華氏911』がカンヌ映画祭で最高賞に輝いた。此の作品が政治的理由で大手映画会社・ディズニーに配給を拒否された一幕も、民主・自由を標榜する米国の欺瞞性の好例に成る。面白い事に、仏蘭西の映画祭で世界的声価が得られると、同社は忽ち「売名行為」云々の非難から一転して容認し、創業者(今は子会社の責任者)個人に由る放映権購入の形で本国上映を可能にした。
376)軍国主義時代の産物と思われる和製漢語の「銃後」を擬った筆者の造語。
377)北京大学生の示威や全国民衆の抗議を受けて、国民党当局は渋々ながら追究の姿勢を示し、米軍も一旦懲役15 年の刑を下したが、後に米国で再審し判決が取り消された。
378)2002 年6月13 日に駐韓米軍装甲車が一般道で2人の女子中学生を轢き殺し、民衆の反米情緒を爆発させた事は記憶に新しい。沖縄基地の米軍兵士が現地の女性を強姦した事件は、日米当局の厳重な対処にも拘らず後が絶たなず、小泉首相就任後の初訪米(2001 年6月30 日)の前日にも起き米国を狼狽させた。今回のイラク俘虜虐待事件は米国の報道で、1968 年の越南で米軍が村人数百人を虐殺し1年半も隠蔽した「ミライ事件」に擬えられた。
379)『辞海』の「沈崇事件」の解は、「“抗議美軍暴行運動”の項を見よ」と書いた。因みに、強姦を「暴行」で表わす日本流は中国では少ないが、此の項目名が少数派の例に成る。
380)「虫を殺す」(癇癪を抑えて我慢する)に因んだ表現。此の成句は「小の虫を殺して大の虫を助ける」と共に、中国語では見当らない。
381)註372 に同じ。
382)霍見芳浩(紐育市立大学教授)は「テロ奇襲が米国経済に与えた教訓」の冒頭で、「アルカイダ・テロネット帝国の奇襲特攻隊」と書いた(『NHKスペシャルドキュメント 世界はどこへ向うのか 9.11 から1年 迷走するアメリカ』、NHK 出版、2002 年、192 頁)が、絶妙な比喩である。
383)『ルーズベルト秘録』、上、176 〜 182 頁。「荒鷲の騎士の疑問 文明国家を本当に代表しているのだろうか」等の数節で特に目を引くのは、1927 年に単独で大西洋横断を果した米国の伝奇的「空の英雄」・リンドバーグの観方だ。彼は太平洋諸島で日本軍と熾烈な戦いを交わす間に、戦地の過酷な有様や自軍の赤裸々な真実を書き遺した。「米兵の一部が捕虜を残虐に拷問している事は、誰もが知っていた。捕虜を射殺したり、手を挙げて降伏する日本兵を即座に、まるで動物の様に殺す事に、何の躊躇も無い。降伏してもどうせ殺されるのだから、(日本軍には)玉砕しか残された道は無かった。この点において米国が日本よりモラルの点で高いとは、どうしても思えなかった。」此の1節を含む1944 年7 月13 日の日記で彼は、善の為に戦う文明国家と言う米国の自任に痛烈な疑念を投げ掛けたが、太平洋戦争勃発前後に反戦主張と体制批判を展開した彼の証言と論評は、60 年後に暴露された米英聯軍のイラク俘虜虐待を斬る場合も有効性を持つ。
1970 年に日の目を見た『リンドバーグ第2次大戦日記』は、日本で4年後に新潮社から新庄哲夫に由る編訳が刊行されたが、2002 年に学習研究社で文庫化した際の改題・『孤高の鷲 リンドバーグ第2次大戦参戦記』は、米国が9.11 後に発動した本土防衛措置の作戦名・〈高貴な鷲〉と結び付けると、歴史の諷刺を感じさせて成らない。本稿註43 で〈高貴な鷲〉の寓意を推測する手掛りとして、小ブッシュが’03 年3 月19 日の対イラク開戦宣言で出征部隊に語った言葉を挙げた。
「君等が対決する敵は、君等の手腕と勇気を思い知る事に成ろう。君等が解放する人々は、高貴で礼儀正しい米軍精神を目の当りにする事に成ろう。」筆者は其の半月前に始まった米韓合同軍事演習の名・〈禿げ鷲〉を引き合いに出し、攻略と統治、非情と仁慈の対立・統一、表裏の両面を直観したが、連載1回目刊行の1ヵ月余り後に世人の驚愕・憤慨を惹起した占領軍の醜聞は、正に「高貴な鷲」の装いが剥げて「禿げ鷲」の正体を思い知らせた物だ。
〈高貴な鷲〉の深層を更に掘り下げるなら、米国の国章の意匠が思い当る。其の中央に古代羅馬共和制の表徴・白頭の鷲が描かれ、鷲の胸の縞、矢、頭上の星の数は建国時の13 州を表わす。鷲が左手で掴んでいる矢は闘争、右手のオリーブ枝は平和の象徴と成る。口に銜えているリボンには、ラテン語でE Pluribus Unum(多数より1つへ)の標語が記されている。筆者は国旗・国章の意匠を国家の在り方や指向性の縮図と捉えており、別の論考で中国の両者を分析した事が有るが、此の「帝国の表徴」からは米国の戦・和両手(二刀流)や、「一統天下」(天下を統一する)の意志が読み取れる。
「文革」時代の中国の唯一の盟友・アルバニアの国旗・国章も、独立戦争所縁の黒い双頭の鷲の意匠だから、歴史の連環は実に広くて狭い。因みに、其の国旗は米国・西欧に移住したアルバニア人が復活させ、中華民国成立と同じ1912 年1 月の独立の際に登場したのだ。猶、米国の国旗と国章は其々1777、82 年に制定したのだが、2世紀後の華国鋒時代の新国歌制定や小平時代の旧国歌復活と合わせ観れば興味深い。1789 年の初代米大統領選出も、世界史の’89 年の節目(註359 参照)の一環である。
小ブッシュ大統領の「自由イラク」戦勝宣言(2003 年5月1日)1周年の折、米・英占領軍の様々な酷い俘虜虐待が暴露されたが、後冷戦時代と熱戦時代の通底を示す事象として驚くに値しない。洗脳の為フセインに便所の掃除を課した米軍の措置も、「文革」時代の幹部・知識人改造の遣り方に既視感が有る。
因みに、『リンドバーグ第2次大戦日記』を訳した新庄哲夫の訳書には、オーウェルの『1984年』、李志綏の『毛沢東の私生活』、ウッドワードの『権力の失墜』、フリーマントルの『ユーロマフィア』が有るが、「強邪の枢軸」(筆者の造語)の栄枯盛衰を描破した歴史記録・人間喜劇として纏めて読めば、20 世紀の縮図の一断片を手に取った気分に成る。役者は英米文学翻訳家として知られるが、チャーチル元首相の『第2次世界大戦史』(1948 〜 54 年)のノーベル文学賞受賞(1953 年)と合わせて、記録文学の歴史的・文学的価値・地位を思わせる。
384)2001 年9 月25 日、米国防長官は反恐怖活動の海外軍事行動の作戦名・「不屈(不朽)の自由」(Enduring Freedom)を発表した。原案の「無限の正義」(Infinite Justice)は、イスラム教では無限の正義を達成し得るのはアラーの神のみだとされる事から、イスラム諸国の反撥に配慮して変更された。事前に報道機関に漏れて懸念が出た結果であるが、其の意識が当局に欠落していたのは明らかだ。世論や外国への気配りで修正し一件落着したが、絶対的正義の化身を以て自任する意識や姿勢はなかなか変るまい。筆者は註43 で重要な作戦に立派な名称を付ける米国流に触れ、大統領が’01 年10 月8 日対タリバン政権掃蕩開始を伝える演説で作戦名・〈不朽の自由〉を宣言した事を例に挙げたが、「高貴な(気高き)鷲」(註383 参照)の類の名称の高邁な気品に拘る気取りは、此の様に思わぬ落し穴に陥る危険が伴う。猶、国防長官は上記の発表で大規模の侵攻は無いと明言し、名称は数年掛かる持久戦の意味合いも込めてあるとした。1年半後のイラクへの全面侵攻は食言に成る否かはともかく、イラク抵抗勢力の不屈な持久戦で其の説明は現実と成った。
385)台湾の作家・評論家の柏楊が1960 年代の随筆で、体制批判と共に伝統文化を「漬け物甕」に譬え槍玉に上げた。
386)「悪の枢軸」(Axis of Evil)と原案の「憎悪の枢軸」(Axis of Hatred)を合成した表現。新聞社幹部が起草した表現からの書き換えは、小ブッシュの好みに拠ったと言う(『NHKスペシャルドキュメント 世界はどこへ向うのか』、121 頁)。
387)D&M日経メカニカル編『事故は語る―巨大化トラブルの裏側』、日経BP社、2003 年、200 頁。
388)「或曰:“以徳報怨、何如?”子曰:“何以報徳?以直報怨、以徳報徳。”」(『論語・憲問』)
389)尤も、台湾の祝日にも国際労働節(5月1日)と中国婦女節(3月8日)が有る。前者の場合は全民が、後者の場合は職業婦人が1日休暇と成る制度は、其々2日連休、半日休暇とする大陸の長年の慣習と合わせて、海峡両岸の同根性と微妙な違いを思わせる。対照的に両方とも日本の祝日の内に入らないが、社会体制や文化制度の違いが窺われる。
390)朝鮮では金日成の「封建残滓一掃」の号令に因り、旧正月は1967 年に全面的に禁止と成ったが、’86 年の金正日の「朝鮮民族第一主義」の提唱が契機で、’88 年の旧盆の休日指定に続いて、’89 年に寒食・端午と共に民族的名節として復活した。全面禁止の時期と名分は恰度、「文革」の「破4旧」(旧い思想・文化・風俗・習慣の打破)と重なるが、中国の旧正月は極左思潮の横行に拘らず無傷に遺った。大陸時代の国民党政権は曽て旧正月を祝日から外して不評を蒙り、中共は逆に民族の伝統を維持し人心を得た。同じ「封建的社会主義」体制の下で朝鮮は中国に比べて、封建時代の名残りの駆除に由る文化大破壊を一層酷く行なったわけだ。尤も、’72 年から旧盆の墓参りを許可した事は、朝鮮の二重基準を思わせる。
一方、「朝鮮民族第一主義」の指向性と登場時期は、 小平の「中国的特色の有る社会主義」「精神文明建設」の掛け声と通じる。金正日は最近「人徳政治」の次元から、70、80、90、100 歳を迎える人の為に誕生日祝宴を設ける制度を奨励したが、江沢民の「徳治」の合い言葉との吻合は興味深い。敬老は毛沢東や中共も堅持して来た儒教の徳目であるが、金正日の提唱は自分の還暦を意識した節も有ろう。1999 年の旧正月と彼の誕生日が重なった「双慶」(註370 参照)で、「民族最大の国家的名節」たる後者が突出した(東アジア総合研究所編訳『聯合ニュース 北朝鮮年鑑 2000 年』、2000 年、208 頁)が、人一倍「吉数」や誕生日に拘る彼の事だから、10 年後に自分の誕生日が浮き彫りに成る効果を見越した上での復活決定か、と邪推もしたく成る。
391)日本政府は張作霖爆死事件の真相を国民に隠す為、「満州某重大事件」とだけ発表した。情報隠蔽の体質や言語操作の欺瞞は昔も今も中国に勝つとも劣るまいが、「宮中某重大事件」と同じく陰謀の匂いが強い。
392)『幻想交響楽』の創作動機とされる「固定楽想」(idée fixe。中国語訳=「固定楽思」)は、或る形象や想念を一定の旋律で表現し、随所に旋律や楽器だけを変化させて使用する手法だ。後にワーグナーの「主導動機」を経てフランクの循環形式の発端と成ったと言うが、別の日本語訳の「固定観念」の通常の語義と合わせ考えれば示唆的だ。
393)『毛沢東入主中南海』、312 頁。
394)毛は1921 年12 月に満28 に成り、建党の7月には数え歳で28 を超えていた。友人募集広告等で使った「28 画生」の変名は、画数への拘りに漢字文化の伝統と姓名判断の意識を窺わせ、7×4の28 は陰陽思想、佛教、西暦で倶に神秘性を持つ。
395)註259 に同じ。
396)「窮則変」は『易経』の言。
397)20 世紀の始まりは1900 年説と1901 年説が有るが、両方の第81 年の1981、82 年とも小平体制の本格的発足の時と規定できる。
398)註259 に同じ。
399)此等の年が節目と成るのは其々、日中戦争勃発2百周年、中共建国3百周年、洋務運動3百周年、小平体制本格発足3百周年、ソ連解体3百周年、澳門返還3百周年、中共建党4百周年に当る故だ。
400)自民党は候補者選定基準で比例区単独候補の定年を73 歳と定め、2000 年初実施の際に数人の閣僚経験者が例外扱いと成った。2003 年10 月、小泉首相が中曽根康弘(85 歳)・宮澤喜一(84 歳)元首相に、上記規定に基づいて総選挙での公認辞退を求めた。潔く引退を表明した宮澤に対して、中曽根は「非礼」「政治的テロ」と怒ったが、数日後に世論の圧力で同意を余儀無くされた。政治家の体面意識の強さを思わせる一幕だったが、1年前の華国鋒引退と共に時代の進歩も感じる。特別扱いを享受した華国鋒(註219 参照)と違って、中曽根は党内で「老害」と視られたので、後輩首相の荒技も止むを得なかった。小選挙区比例代表並立制が初めて実施された1996 年に、橋本龍太郎総裁は群馬県内の候補者調整で、中曽根康弘が小渕恵三・福田康夫に小選挙区を譲り比例区に回るという裁定を出し、執行部は補填として「北関東ブロック最上位とし終身処遇する」と約束した。党の公式な保証も簡単に反故と成ったのは信用に関わるので、中曽根の立腹と不服は無理も無い。尤も、文書に由る権力譲渡の密約も自民党総裁選で守られなかった前例を思い起すと、日本の政治文化乃至精神風土の異質性が感じ取れる。目先の利益の為に長期的優遇を保証して置き、後は前任者の勝手な所為にして約束を破って了う流儀は、顧客を釣る証券会社の営業手法や国民を欺く政府の年金制度等に通じる。
曽て朱鎔基総理は両国の歴史認識の相違に就いて、日本は一度も中国に対して文書で過去の侵略戦争を謝罪した事が無いと苦言を呈した。如何にも「文章の国」(司馬遼太郎の言)らしい不満であるが、文化の溝が埋まらない限り同じ次元で期待しても空しい。協定を直ぐ破る事の形容に使う中国流の「墨跡未乾」(墨汁[筆跡]が未だ乾かわぬ内)に対して、日本流の「舌の根の乾かわぬ内」は誓文調印の伝統の浅さを思わせる。中国と同じ印鑑文化を有する日本では、独特の実印・三文判の「一人二印」制に因り、継承されぬ「軽承」(気軽な承認・承諾。語呂合わせに因んだ筆者の造語)は、空気めく常識に由って黙認・公認されている。
小泉首相が強硬突破で中曽根元首相を引退させた事は、結果的に制度の健全化に貢献したとしても、党の正式決定を覆した事に関する総括・反省の欠落の故に、当事者間の悪い後味よりも遥かに拙い禍根が遺った。巡り巡って、彼の2度目の訪朝(2004 年5 月22 日)は中曽根等から「軽率」と批判されたが、初回の訪朝で拉致被害者を連れて帰国した「戦果」も、手放しで賞讃するわけには行かない。約束通り朝鮮に返さず「背信」の非難に甘んじたのは、情に適った「此一時也、彼一時也。此亦一是非、彼亦一是非」としても、『平壌宣言』破棄の口実を与えて了い得策とは思えない。其の場凌ぎの方便として安易に手形を渡すのでは、小利の為に大義を無視し最後に大利を潰しかねない。
外交の相互主義に背いた単騎・単軌の突入と其の失敗は、日本的短期思考と小泉の短気な性格を考えれば必然性が有る。「人無遠慮、必有近憂」(人は深謀遠慮が無ければ、近い内に必ず憂慮すべき事態に遭う)、と言う中国の諺は又も証明されたが、拉致被害者の返還は当初想定し得た事なので、取り敢えず押えて置こうとの心理だったかも知れない。今回は拉致被害者家族会から「もっと対決して欲しかった」との怒りが噴き出たが、「一労永逸」(一回苦労して永遠の安逸を得る)を図る心・技・体が無く、姑息で一難を逃して直ぐ新たな一難を招いた結末は、中曽根の処遇を巡る自民党首脳部面々の小手先の対応も一緒だ。
日本で議員定年の上限が半端な73 歳と成るのも、自らの年金未納問題から国民の視線を逸らせる党の為2度目の訪朝を急いだ小泉の挙動と同じく、特定の人間への特別な配慮の疑いが持たれる。中曽根と華国鋒の超法規的優遇と其の後の不承不承の承認・解消は、東洋の政治に於ける利益配分の困難さを物語っている。其の困難の根源は「情面」(感情・体面)重視の精神風土にも在り、終身現役に対する政治家の執心にも在る。2002 年に発足した中国の党・政府の3選禁止の新制度は、不朽願望の強い国柄に照らして画期的進歩と言って能い。定年制の導入と厳正実施、及び年齢基準の線とも中国は日本より一歩進んだが、民主の伝統の深浅を考えれば大きな開きとも思える。
群馬は福田・中曽根・小渕等の首相級政治家が犇く激戦区で、「犇」の字形通り3者「頂牛」(対抗)の激戦は避けられない。池が小さく大魚の同居が不可能な故に、無理な利害調整も理外の理を持つ。翻って、過渡期の此の2件の二重基準は、「水至清、無大魚」(水清ければ、大魚棲まず)の逆説で正当化できよう。周囲から慫慂されたとは言え「4人組」逮捕を決断した華も、1983 年に日本首相として初めて先進7ヶ国首脳会議の記念撮影の真ん中に割り込んだ中曽根も、間違い無く歴史の大物立て役者である。其の「不沈の航空母艦」の退場は皮肉な観方をすれば、「大魚」の不在・不要の時代の到来をも意味するが、自らの年齢に合わせて変則的線引きの時機を設定した江沢民にも、「大元老」・中曽根並みの謀略・規模を備えた器が見受けられる。猶、内規にして置いて事でも中共は自民党より一枚上の観が強い。橋本総裁等が誓約を立てた事は逆に党の信任を損なったが、「水」(条件)の透明度が高過ぎて「大魚」(大義)を駆逐する結果だった。江沢民流の曖昧糊塗は逆に、清濁合わせて呑む大欲・大器の表現あらわれと思える。 
401)間も無く天帝に招かれて行く云々の予告を、毛は其の3年前の田中角栄との会見でも発し、日本側は儀礼を考慮して公表しなかったが、金日成に語った中身は遥かに迫力が有る。彼は董必武の逝去や周恩来・康生の重病を挙げ、「上帝請我喝焼酒」(天帝は私に焼酎を奢る)と言った(『毛沢東之謎』、215 頁)。天帝と焼酎の対は唐突であり彼は酒を飲まぬ体質なので、恍惚・耄碌の戯れ言に響いて成らない。
402)『毛沢東之謎』の「九・九之謎」(87 〜 92 頁)では、1949 年の北京入城は9月9日ではなかったとしながら、此を含む毛の生涯の3回の“9.9”の節目を論じた。
403)「表徴の帝国」は仏蘭西の記号学者・R.ロランの哲学的日本考察記(1970 年)の題(日本語版=宗左近訳、新潮社、1974 年)。前出の「原風景」(註347 参照)に引っ掛けた此の見立ては、日本国会の人・物・事を記録した「国会原風景」(写真・文=元首相官邸写真室カメラマン・久保田富弘。『文藝春秋』2004 年4月号)にも因む。
404)日本語訳=竹内実(『毛沢東 その詩と人生』、100 頁)。
405)筆者が今年2月に泰を旅行した際、現地の案内人が観光バスの中で日本人客集団に、日本の国花は何ですかと訊ねた。訊かれた方は虚を突かれ答えが出なかったが、聞き手は嬉々として「菊」と披露し皆を納得させた。此の様に日本の国花は自国でも認知度が低く、『広辞苑』の「日本」の項にも国花の説明は無い。小学館『日本大百科全書』第17 巻(1987 年)の「日本」の項では、国花は菊・桜と説明されているが、面白い「1国2花」である。東京書籍編集部編『最新世界各国要覧(11 訂版)』(東京書籍、2003 年)では、日本の国章は菊花紋、国花は山桜とされている。小泉首相が此の頃に山桜の和歌を持ち出した事を考えれば頷けるが、中国の国花は牡丹で国樹は梅、台湾の国花は梅と牡丹、と言った記述を観ると怪しく感じた。
406)『新古今集』の共撰者として有名な鎌倉前期の歌人・藤原定家の言。詩歌に「紅旗」を愛用し征戎を天与の大任とした革命家・詩人の毛沢東の心性、戦乱が永遠の主題を成す中国文学の精神とは、正に対蹠に在る姿勢である。
407)拙論「現代中国の統治・祭祀の“冷眼・熱風”に対する“冷看・熱読”―“迎接新千年”盛典を巡る首脳と“喉舌”の二重奏と其の底流の謎解け(1・2)」(註124 文献)参照。
408)全人代が閉幕した2004 年3月14 日の記者会見での発言。当日「人民網」(『人民日報』運営の「網站」[サイト])の「滾動新聞」(即時更新ニュース)に拠る。
409)註404 文献、166 〜 167 頁。
410)「詞牌」と同じ系列の中国語独特の語彙には、「招牌」(看板)、「牌号・牌子」(屋号。商標)、「名牌」(ブランド)等が有る。トランプのカードや麻雀の用具にも言う「牌」は、虚実、表裏の両面を持つ。
411)中共中央文献研究室編『毛沢東詩詞集』、中央文献出版社、1996 年、54 頁。
412)毛沢東は自分を「虎気・猴気」の複合体と分析したが、猿の気質の祖型は愛読の『西遊記』の「美猴王」と思える。石塊の「内育仙胞」の「迸裂」で飛び出た孫悟空の誕生物語は、「石女」を介して西洋の処女懐胎伝説を連想させるが、人間の血・肉との断絶は中国的硬派の孤高さらしい。
413)註404 文献、169 頁。
414)宋の黄昇が『唐宋諸賢絶妙詞選』の中で「百代詞曲之祖」と注したのは、上記の「憶秦娥」と次の「菩薩蛮」である。「平林漠漠煙如織、寒山一帯傷心碧。瞑色入高楼、有人楼上愁。玉階空佇立、宿鳥帰飛急。何処是帰程、長亭連短亭。」李白作とされた此の2首は明の胡応麟の指摘から、後人の仮託と視られている。
415)『角川大字源』の「詞」の字解は、「形声。意符の“言”(ことば)と、音符の司シ(つなぐ意=嗣シ)とから成る。つないだ“ことば”の意」と言う。『易経』の重要な一部を成す「繋辞」の字面と暗合するが、「嗣」の継承の積み重ねと共に読み取れる「言+司」の重みは、「辞令」と繋がる言語の司令塔的役割にも在る。 
 
プーチンのロシア

 

ロシア連邦のウラジーミル・プーチン大統領がボリス・エリツィン初代大統領から政権を引き継いでから丸3年になる。1917年11月のロシア革命で世界最初の社会主義国となってから1991年12月のソ連邦崩壊まで74年間にわたり、ロシアは全体主義的な政治、経済、社会体制の支配下にあった。ソ連邦崩壊の引き金を引いたエリツィンは、この体制を放棄し、政治的には自由で民主主義的な選挙で大統領と議会を選ぶ民主主義への道を選択した。経済体制も土地や生産手段の国有制を基礎とする社会主義計画経済から自由主義市場経済への急転換を進めた。
だが、この急激な体制の転換は91年12月末から99年12月末までの8年間のエリツィン時代を通じ政治、経済の混乱と危機の繰り返しを招き、国民は社会的無秩序状態に悩まされ続けた。
2000年1月1日に大統領代行として、プーチンが政権の座に着いた時、まさに、ロシアの権力中枢は機能不全に陥っていた。
エリツィンは96年6−7月の大統領選挙で再選されたものの、心臓病をはじめとする健康不安で正常な執務ができず、長期間クレムリンを不在にすることがたびたびあった。代わってこの時期に強力な影響力を行使していたのは、エリツィン再選の原動力となったオリガルヒとロシア語で呼ばれる新興財閥グループ。エリツィンの次女、タチアナ・ジャチェンコ(当時大統領顧問)らエリツィン・ファミリーと手を結び国政を左右していた。
チェチェン紛争に象徴されるように、共和国や州など地方の権力が中央からの分離・独立傾向を強め、中央政府のコントロールが及ばなくなっていた。98年夏の金融危機で国家破産寸前まで行った経済も依然、混乱を脱していなかった。給料や年金の遅配が頻発し、貧富の格差がますます拡大していた。
それでは、3年経過した「プーチンのロシア」はいまどのような状況にあるのだろうか。
「ロシアは劇的に変わったと思われる。精力的でまじめな若い大統領のもとで、政治システムも経済もようやく安定化したようだ。税制、司法制度、連邦構造の改革をはじめとする民主的な諸改革はほとんど修正されずに議会を通過している」とダニエル・トレイスマン・カリフォルニア大準教授が米国際問題専門誌「フォーリン・アフェアズ」(2002年11−12月号)で指摘しているように、政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、ロシアは秩序の回復と安定に向かって大きく前進した。
なぜ、このようなきわめて肯定的な変化が起きたのか、そして「プーチンのロシア」はこれからどのような方向に向かうのか。本稿では、ソ連邦を崩壊させたミハイル・ゴルバチョフ、全体主義から民主主義へのカジを切ったエリツィンの二人の前任者たちと比較しながら、プーチンの人間像とその政策に焦点を当ててみた。
ウラジーミル・ウラジーミロビチ・プーチンは1954年10月ソ連邦第2の都市レニングラード(現サンクトペテルブルク。本稿では、以後サンクトペテルブルクを使用)に生まれた。前の年に独裁者スターリンが死去している。ゴルバチョフ、エリツィンはともに1931年生まれなので、前任者二人に比べ、1世代以上若い。二人がスターリン粛清を身近に体験しているのに対し、スターリン時代を全く知らない戦後世代に属している。父親は車両製造工場の熟練工、母親は掃除婦はじめさまざまな職業の経験ある女性。あまり裕福でない、普通の家庭の生まれだ。
ゴルバチョフは農民の子、エリツィンは労働者の家庭に生まれた。違いはプーチンがサンクトペテルブルクというヨーロッパにもっとも近い大都会で育ったことだろう。また、エリツィンがウラル工科大で実務教育を受けたのに対し、ゴルバチョフはモスクワ大法学部、プーチンはサンクトペテルブルク大法学部で、きちんとした人文科学系の大学教育を受けたという点では、共通している。
前任者二人とのもっとも大きな違いは、大学卒業後に歩んだ道だ。二人は地方の共産党でキャリアを積み、地方ではほとんど全能の地方党第1書記を長年にわたり務めた後、クレムリン指導部入りした。二人ともソ連時代の指導者として典型的なエリート・コースを歩んでいた。
それだけに、外国の経験は短期間の旅行だけであり、共産党幹部として、特権生活にどっぷりと浸かっていた前半生だった。
これに対し、プーチンは大学卒業と同時に、諜報機関、秘密警察の国家保安委員会(KGB)に入り、16年にわたり、諜報機関員として働いた。KGBもソ連時代にはエリート機関でさまざまな特権を享受していた。しかし、秘密警察として、非合法活動も含め、裏から国家権力を支える役割を果たしていたことが、表の統治組織、共産党との決定的な違いであり、これはKGB員と党エリートとの大きな違いでもある。
陰の存在のKGB出身者で政治指導者として表舞台で活動したのは、レオニード・ブレジネフ後に党書記長になったユーリー・アンドロポフくらいだ。しかも、アンドロポフは長年にわたりKGB議長を務めたが、もとは党活動家だった。ソ連、ロシア史上、生粋のKGB出身者が最高指導者の地位に着いたのは、事実上、プーチンが初めてなのである。
プーチン自らが語った(注 プーチンをインタビューしてまとめた本「オト・ピエルヴォヴァ・リツァー=邦訳 プーチン、自らを語る」2000年3月刊)ところによると、KGB入りした動機は、少年時代にスパイ映画「剣と盾」を見て、一人のスパイが全軍も及ばないような働きをし、何千人もの運命を決することができると感激したことだった。大学入学にあたり法学部を選択したのもスパイになる夢を実現するためだった。
プーチン少年がこのような動機でKGB入りしたことは、当時のソ連の一般的な市民感情からいえば、少しも不思議ではない。西側でのKGBに対する悪役イメージと異なり、ロシア人にとっては怖い存在であると同時に、西側の謀略やスパイ活動から祖国を守るエリートとして一種のあこがれの対象でもあったからだ。
首尾よくKGB入りを果たしたプーチンはサンクトペテルブルク支部で防諜活動を行う。勤務成績優秀なため、対外諜報部に抜擢され、モスクワの対外諜報大学校で1年間、ドイツ語の特訓を含めて、諜報員としての訓練を受けた後、85年に東ドイツ(当時)のドレスデンに派遣される。以来、ベルリンの壁の崩壊(89年11月)を目撃した後、90年にレニングラードに帰るまで、5年間諜報員として東ドイツの諜報機関と協力して主として政治情報の収集、分析、報告を行った。
ゴルバチョフ、エリツィンが全く外国語がだめなのに比べ、ドイツ語は通訳ができるほど流ちょうであり、東ドイツ人の知人も多いし、現在も接触を保っている。東側陣営とはいえ、ドレスデンは当時のソ連に比べ、はるかに生活水準が高く、行列も物不足もなく、清潔な町だった。当然、西ドイツはじめ西側の情報も入ってくる。プーチンがこの時代にゴルバチョフやエリツィンらと全く違う西側社会を認識し、世界観を形成、全く違う目で外から祖国を見ていたことは、想像に難くない。
帰国したプーチンは、KGBに籍を置いたまま、サンクトペテルブルク大学長の対外関係担当の補佐官を務めた後、当時、民主派リーダーの一人だったアナトリー・サプチャク同市市長の補佐官に就任、すぐに第1副市長に抜擢される。サプチャクはサンクトペテルブルク大法学部教授の出身で、プーチンも学生時代にその講義を聴講したことがある。しかし、市で働き始めるまで、個人的に親しい間柄ではなかった。
プーチン自身が告白しているのだが、大学から市に移った後、プーチンはKGBと決別する。
実はドレスデンから帰国する時にモスクワの本部で働くよう誘いを受け、これを断っていた。
ドレスデンで東側陣営の崩壊を目の当たりにしたのに加え、その崩壊をなすすべなく見守っていたクレムリンやKGB本部に対し、強い不信感を抱いたからだ。
プーチンはサンクトペテルブルク時代にキッシンジャー元米国務長官が彼に話したことを引用し、キッシンジャーは「間違ってなかった」と断言している。キッシンジャーは意外にも「ソ連は東欧からあんなに早く撤退すべきではなかった。(その結果)われわれはあまりにも早く世界の(力の)均衡を変えることになり、望ましくない結果を招く可能性が出てきた。正直に言って、ゴルバチョフがどうしてあんなことをしたのか、今でも理解できない」と述べたというのだ。
「もし、あの時、大あわてで逃げ出さなかったら、あのあと、われわれはきわめて多くの問題が起こるのを避けることができただろう」と、プーチンは結論づけている。こうした体験が後に大統領に就任した時にまっ先に「強いロシア」政策を打ち出したことと無関係ではない。プーチンは第1副市長として、外国の企業誘致や投資の導入に当たり、政治的にもサプチャク市長の側近としてよく補佐した。しかし、96年に再選を目指したサプチャクは、汚職スキャンダルを反対陣営にキャンペーンされ、落選する。プーチンはこの敗北の後、エリツィンの大統領選挙運動のサンクトペテルブルク支部で「積極的に活動」した。プーチンはこのことと、クレムリンからお呼びがかかったことを結びつけてはいない。しかし、一つの大きな要因になったと推測される。
サプチャクの落選で職を失ったプーチンに手を差し伸べてクレムリンに呼んだのは、パーベル・ボロージン大統領府総務局長だった。なぜ、ボロージンが呼んだのかは明らかにされておらず、プーチン自身も「私のことを思いだした理由はわからない」と述べている。ただ、サンクトペテルブルク出身のアレクセイ・ボリシャコフ第1副首相(当時)が、口を利いてくれたことは認めており、サンクトペテルブルク閥の引きであることは間違いない。
クレムリン入りしてからは、エリツィンおよびその側近に能力を認められ、トントン拍子に昇進する。スタートは総務局次長だったが、97年に監督総局長、98年5月に大統領府第1副長官(地方行政担当)、同年7月KGBの主要継承機関の一つである連邦保安庁(FSB)長官、99年3月安全保障会議書記を兼務し、同年8月には、ついに首相に任命される。
これらの仕事のうち、監督総局はあまり建設的なものでなく、やめようとさえ考えたこともあるという。しかし、この後、大統領府第1副長官として地方行政を担当し、「最高におもしろい仕事」と思った。多くの地方の指導者たちと知り合いになり、国政にとって彼らとの仕事はきわめて重要なものだと理解した。この体験が政権に着いた後の地方行政改革として生きることになる。
FSB長官への任命は全く突然で、喜びはなかった。二度も同じ機関で働きたいとは思っていなかったし、旧KGBのような強権機関で働くことは常に内面的な緊張を強いられる。文書類はいつも機密扱いだし、あれをやってはいけない、これをやってはいけないと禁止条項が多すぎる。旧KGBの外でさまざまなおもしろい体験をした後、引き継ぎを前任者から受けた時は気が重かったという。
プーチン自身の思惑とは別に、エリツィンとそのファミリーの信頼はますます厚くなり、首相に登用された後、1999年12月31日についに「大統領代行」に指名され、政権の禅譲を受けることになる。
エリツィンがプーチンをきわめて短期間のうちに引き上げ、後継者にまで指名した理由は何か。
エリツィンは91年12月に自らの手で、ソ連邦を解体し、連邦大統領の座からゴルバチョフを追放した後、99年12月まで最高権力者の座にあった。この間、最初に「ショック療法」で経済の急激な市場化をはかったエゴール・ガイダル首相代行から始まり、ビクトル・チェルノムイルジン、セルゲイ・キリエンコ、エフゲニー・プリマコフ、セルゲイ・ステパーシンと次々に首相を使い捨てにしてきた。使い捨ての動機となったのは、第1に、ガイダルの例のように、政策の失敗の責任をとらせる役割を負わせることだ。第2に、これらの首相たちが政治的影響力を拡大し、大統領の地位を脅かす可能性が出てきた時だ。チェルノムイルジンやプリマコフはこのケースだ。
プーチン起用のケースはやや事情が異なる。プーチンが首相に任命された当時、エリツィンは重大な健康不安を抱えており、まず健康面から翌年夏に迫った任期を全うできる保証はなかった。政治的にも行き詰まり、例え、健康を取り戻しても、もう一度大統領選挙に出馬して勝利する可能性はほとんどなかった。
エリツィンに残された時間は限られており、真剣に自分の後継者を探していたことは間違いない。事実、首相だったステパーシンをはじめ、何人かが後継者として取りざたされていた。
しかし、当時もっとも有力と見られていたステパーシンをFSB長官、第1副首相兼内相、そして首相と重用してみたものの、エリツィンは「ステパーシンは(直近に迫った)議会選挙、大統領選挙(を勝ち抜くため)の政治指導者としてふさわしくない」と、判断、99年8月に突然、更迭を決める。ステパーシンがチェチェン問題に弱腰で対応したことが直接の引き金になった。
この時、プーチンが初めてロシア政治の表舞台に登場するのだが、この間のいきさつは、エリツィンが2000年9月に刊行した回想録「プレジジェンツキー・マラフォン(大統領のマラソン)」に詳しい。
それによると、プーチンは大統領府第1副長官に登用された後、定期的にエリツィンに事務報告をするようになるが、「プーチンの報告は常に明瞭であり、ほかの次官たちのように自分の考えを述べる(おべっかを使う)ことをせずに、きわめて実務的だった。いつも冷静で、反応が早く、あらゆる問題に応える用意があるように思えた」という。98年夏に鉄道ストが起きた時、当時のFSB長官がこの事態にまったく対応できないのをみて、更迭を決意した。この時、後任として即座に頭に浮かんだのは、プーチンだった。第1に、長年にわたり、KGBで働いた経験があり、第2に、豊富な行政の経験がある。しかし、最優先の判断の基準となったのは、「プーチンが民主主義、市場改革、愛国主義を堅く信奉している」ことだった。
FSB長官時代のプーチンについて、エリツィンはソ連邦崩壊後、がたがたになっていたFSBの組織を立て直したのに加え、当時の首相、プリマコフが、エリツィン・ファミリーを追い落とすため、FSBを政治的に利用するのを毅然として退けたと高く評価している。
したがって、ステパーシンを更迭する時には、プーチンはエリツィンにとってすでに「(後継者として)もっとも大きな期待」だったという。
以上がエリツィン側からみたプーチン指名の表向きの説明だ。もちろん、これにはかなり真実が含まれている。だが、これに加えて、指摘されているのは、プーチンなら、大統領引退後に自身とファミリーを守ってくれるに違いないというエリツィン側の期待と信頼があったという点だ。ソ連時代には時の最高指導者は死ぬまでその地位にあるのが、通例だった。任期半ばで解任されたフルシチョフ、その職務が消滅したゴルバチョフは、いわば例外だった。フルシチョフは不遇のうちに生涯を終えた。もっとよいお手本はゴルバチョフである。エリツィンは退陣直後こそゴルバチョフを「大統領経験者」として遇することを約束したが、すぐに全く相手にしなくなり、迫害さえして西側の批判を浴びた。エリツィンは自らの前任者にしたことをよく記憶しており、それだけに退陣後の身分保障を権力委譲の最低条件としたに違いない。
しかも、エリツィンには側近やファミリーに数々の腐敗疑惑があった。プリマコフ首相時代には摘発の寸前までいき、それがプリマコフを更迭する大きな理由となったほどだ。もし、後継者が約束を破って摘発に踏み切れば、エリツィンが名誉ある引退生活を送れる保証はなかった。
プーチンは2000年1月、大統領代行就任直後にエリツィンの「身分保障に関する大統領令」を布告し、退職した大統領は「刑事・行政上の責任」を問われることも、「逮捕、拘束、捜索、尋問」の対象になることもない、と前任者をいわば超法規的存在にした。また、物質的な面でも、年金、別荘、警護などあらゆる面で特権的な待遇を約束した。そして、この布告後、プーチンは約束を守り、少なくともエリツィン、およびそのファミリーには干渉を避け、良好な関係を保っている。その意味では、プーチンはエリツィンの期待通りの後継者といえよう。もっともプーチン側にしても、いたずらに前任者の腐敗追及をして、政治的スキャンダルをあおるよりも、穏便に政権交代を行った方が、政治的プラスになるという計算があったかもしれない。
「オト・ピエルヴォヴァ・リツァー」によれば、プーチンは99年8月、首相に任命された時、「特に、驚かなかった」という。それはステパーシン解任に向かって事態が動いていることを察知していたからだった。否定はしているが、自分が後任に選ばれることも予期していたようだ。
プーチンが就任に当たってまず「自分の歴史的使命」と考えたのは、北コーカサス地方(チェチェン情勢)の安定化だった。「チェチェン反政府ゲリラ勢力が(隣の)ダゲスタンに攻勢をかけ始めた8月の時点での私の情勢評価は、直ちにこれを阻止しないと、国家としてのロシアは現在のような形では存在しなくなる。(焦眉の)問題は国の崩壊を阻止することであり、これに政治生命をかけようと考えた」と、プーチンは「ユーゴスラビア化」という言葉さえ使って当時の心境を語っている。
第2次チェチェン作戦を開始するに当たって、プーチンは国防省、参謀本部、内務省、FSB首脳を集め、毎日1回ないし2回会議を開いて、これらの軍事関係機関の意思を統一し、治安強権部門が一丸となってチェチェン反政府勢力を制圧する体制を整えた。そして、99年9月に圧倒的な軍事力を投入し(第2次チェチェン紛争)、2000年2月には、チェチェン共和国首都グローズヌイを占拠し、「首都制圧作戦」の完了を宣言した。94年12月にエリツィン政権下で第1次チェチェン紛争が起こった時、パーヴェル・グラチョフ国防相(当時)が不用意に軍事侵攻作戦を展開、手厳しい反撃に遭い、泥沼化したのと対照的な、鮮やかな作戦だった。
99年8―9月にモスクワなどで頻発した爆弾テロ事件でチェチェン反政府勢力に反発と憎悪を強め、政府に強硬な対応を求めていたロシアの一般世論は、この軍事介入を全面的に支持した。「(チェチェン反政府勢力を)便所にたたき込んで殺してやる」と品のないロシアの刑務所言葉を使い、戦意をあおるプーチンは「強い指導者」としてのイメージを高めた。これがいかにロシア人の胸に響いたかは、8月の時点で31%だった支持率が早くも11月には80%に達したことからも明らかだ。
結局、このチェチェン作戦が決定打となり、エリツィンは12月31日に任期を半年残して、退陣を表明し、プーチンを大統領代行とする。プーチンはこの決定を受けて、大統領選挙出馬を表明、2000年3月に繰り上げて行われた大統領選挙でゲンナジー・ジュガーノフ共産党委員長、グリゴリー・ヤブリンスキー・ヤブロコ代表らを破って第2代大統領に選ばれる。得票率は52.94%で、第2位のジュガーノフ(29.21%)に大差をつけ、決選投票なしの圧勝だった。前回の大統領選で、エリツィン側の共産党に対する大がかりなネガティブ・キャンペーンにもかかわらず、ジュガーノフが決選投票に持ち込んだことを考えれば、プーチン支持がいかに強かったかが理解できる。
プーチンが前任者たちと決定的に違うのは、選挙以後も、国民の支持がきわめて高く安定していることだ。99年10月から支持率が60%以下になったことがなく、犠牲者128人を出した2002年10月のチェチェン・ゲリラによるモスクワの劇場占拠事件の後も、実に85%がこの対応を支持した。エリツィン時代について聞いた世論調査で45%が「(国民にとって)好ましいものを何ももたらさなかった」答えているのとは、まさに好対照である。
この高い支持率にはいくつかの理由が考えられる。まず、前任者が政権に着いた当時の国民からの圧倒的支持とカリスマ的権威を失っていたことがあげられる。エリツィンは政権後半に、重大な健康不安を抱え、酒飲み、しかも、外国訪問などの際にしばしば醜態を演じてロシア人のイメージを悪くした。特に、政権末期には、ほとんど執務放棄の状態だったことは、ロシア人たちの記憶に鮮明に焼き付いている。
これに対し、プーチンは体格こそロシアの指導者としては大きくないが、就任当時47歳と、ソ連、ロシア時代を通じてもっとも若く、エネルギーにあふれている。大統領代行として初の国内旅行は、チェチェン侵攻軍の戦況視察。その後も精力的に国内外を旅行し、全く疲れをみせていない。少年時代から柔道に打ち込み、サンクトペテルブルクのチャンピオンになったこともあるスポーツマン。健康という面では、前任者を圧倒している。
政治スタイルも対照的だ。エリツィンは首相人事にみられるように、閣僚や大統領府スタッフの頻繁な人事の入れ替えを行った。その基準がどこにあるのかが、定かでなく、しばしば側近に強大な権限を与え、失敗を繰り返した。KGB出身の警護官だったアレクサンドル・コルジャーコフが一時、絶大な影響力を誇ったのは、その典型的な例だ。政策面でも、一貫性がなく、「ショック療法」を皮切りに、試行錯誤の繰り返しで、国民生活の大幅な低下を招いた。
共産党エリートだったエリツィンは社会主義体制の欠陥を熟知しており、それを破壊することはできた。しかし、あくまでも、民主改革を進めることを表明したものの、その具体的なプログラムを考えることは、彼の能力の限界を超えており、若手テクノクラート・グループや外国人顧問のアイデアを取り入れるしか道はなかった。
プーチン政権ではこの3年間で主要閣僚などの人事交代はエリツィン時代に比べ、極端に少ない。サンクトペテルブルク閥の強大化が指摘されているが、エリツィン・ファミリーに近い首相のミハイル・カシヤノフは変わらず、イーゴリ・イワノフ外相もそのままだ。国防相を2001年3月にイーゴリ・セルゲイエフからKGB時代からの知り合いで信頼の厚いセルゲイ・イワノフ(サンクトペテルブルク・グループ)に代えたのが、もっとも重要な交代といえる。
こうした人事の手法は、政権部内に着実に、実務的に仕事ができる雰囲気を作り、人心の安定につながっている。
プーチンはタイミングにも恵まれた。まず、エリツィン時代の長い混乱、無秩序に国民がうんざりし、安定と秩序を求めていた時期だったことがあげられる。プーチンはこのエリツィン時代を「ロシアにとって過去10年間は嵐のような、決して大げさでなく、革命的な時期だった。
われわれは決して変革を恐れるものではないが、政治的、あるいは行政上のいかなる変革も情勢に適合したものでなければならない」(2001年年次教書演説)として、エリツィンの思いつき政治とくるくる変わった政策を批判している。
第2に、経済面で追い風が吹いたことだ。98年夏の金融危機の後、大幅にルーブルを切り下げたことに加え、原油価格が高止まりして、外貨収入に好影響をもたらした。これに伴い、国家の財政事情が好転し、年金や給与の遅配が解消した。99年からロシアの国内総生産(GDP)はそれぞれ約5%、9%、5%の伸びを示し、2002年上半期も3.8%の伸びだ。
しかし、高支持率の背景として見逃せないのは、プーチン(およびそのグループ)の現状認識と分析、内外政策の立案、実行能力が前政権に比べ、きわめて高いことだろう。これはプーチン自身が前任者たちと異なり、西側の政治、経済システムをよく理解していることに加え、指導者の世代交代が進み、政策立案能力が高まったことによる。
プーチン政権はまず、対米関係をはじめとする外交面で、実務的に着実に関係改善を果たしてきた。超大国時代の意識を捨てきれず、時には不必要な対抗意識を米国に対して燃やしたエリツィン政権に対し、プーチンは大統領に当選すると、まず、2000年4月、調印以来7年余もたなざらしになっていた米国との第2次戦略兵器削減条約(STARTU)を批准、続いて核実験全面禁止条約(CTBT)も批准した。また、2002年5月には、ブッシュ米大統領の訪ロを受け、「戦略攻撃戦力削減条約(モスクワ条約)」に調印した。これに先立ち、プーチン政権は2001年12月にこれまで強く難色を示していた米国の弾道弾迎撃ミサイル(ABM)条約脱退を容認している。
こうした一連の対米協調政策は、「米国一強時代」を認めて、米国と安定的な関係を築こうとするプーチンの現実的な外交の表れだが、その背景にあるのは、「国益第1主義」の考え方だ。プーチン政権は2000年7月、新しい「対外政策概念」を公表、これに基づいて、新政権の外交を進めていくことを明らかにした。
この新概念をイーゴリ・イワノフ外相は「ロシアはオープンでバランスのとれた、明快な外交を推進していく。ロシア外交の中心は、ロシアの利益を実現させることであり、それを厳しく守り抜くことである。ロシア外交の新要素は、国際情勢を評価するに当たっての現実主義と健全な実利主義だ」と説明。第1に安全保障、第2に経済発展のための好ましい条件の整備、第3に、外国にいるロシア人の権利の擁護、を具体的にあげている。特に、第2の点については、外国の投資を誘致するために積極的に行動し、市場経済形成のために、好ましい対外的な条件を保証することに力を注ぐことを強調している。
2001年秋、米国で起きた9・11同時多発テロ事件後の対応に、この「国益第1主義」外交の原則がもっともよく示されている。プーチンは事件後、世界各国首脳のうちでももっとも早い時期に、米国に対する全面支援を表明、米国のテロ戦争に協力する5項目の決定を公表した。
これは、テロ勢力についての情報機関による情報の相互交換、アフガニスタン人道援助のための飛行へのロシア領空の開放、国際的な捜索・救出活動への参加などだが、このうち、世界を驚かせたのは、中央アジアの旧ソ連邦共和国への米軍の駐留を認めたことだ。アフガニスタンのタリバン勢力を攻撃するためとはいえ、これはロシア外交の「歴史的転換」と指摘されている(カレント・ヒストリー誌2002年10月号論文)。このため、「米国とロシアは両国の歴史上、政治的、経済的、軍事的にもっとも密接な関係にある」(アレクサンダー・バーシボウ駐ロ米大使)との評価さえ出ている。
もちろん、こうした関係緊密化の背景には、米側の事情があることも見逃せない。クリントン前政権がロシア国内の民主化の遅れや、人権侵害、チェチェン軍事制圧の非人道性などを関係進展の障害として指摘していたのに対し、ブッシュ政権は直接的なロシアの内政批判を避けている。対テロ戦争へのロシアの協力を不可欠とするブッシュ政権にとって、チェチェン問題への深入りは得策でないからだ。プーチン外交の「国益第1主義」は、米国をはじめとする西側諸国との協調路線を取る一方で、アジアの大国、中国や、米国が「ならず者国家」として敵視する北朝鮮、イラン、イラク、それにキューバなどとの関係にも周到な目配りをしていることにも示されている。
中国との間では就任後、半ば定期的に首脳会談を行い、意思の疎通を図っている。2001年7月には、1980年に失効した「中ソ友好同盟相互援助条約」に代わる新基本条約「中ロ善隣友好協力条約」を調印した。また、中国と共同イニシアチブを取り、中央アジア4か国を加えた「上海協力機構」を2001年6月に創設した。これは安全保障だけでなく、経済や文化も含む総合的な地域協力組織であり、加盟各国を悩ますイスラム過激派勢力に対する抑止装置の役割を果たすことも念頭に置いている。
東アジアの深刻な不安定要素となっている北朝鮮に対しても、ソ連時代からの伝統的な友好関係を利用し、「友好善隣協力条約」を調印(2000年2月)した。プーチンは金正日総書記との接触を通じ、朝鮮半島情勢に対する発言権の確保を図っている。
こうした対外的な環境整備は当然のことながら、国内の安定強化と秩序回復を高めるうえで、好ましい影響を及ぼしている。
プーチンは2000年7月、就任後初の「年次教書演説」でロシアの「当面するもっとも先鋭な諸問題」を率直に指摘した。第1に取り上げたのは、人口減の問題で「ここ数年人口が毎年平均75万人ずつ減少しており、15年後には、現在より2200万人少なくなるとの予測がある」と、急激な人口減に危機感を表明した。
第2は、脆弱な経済の状況。「先進諸国とロシアとの格差はますます拡大し、ロシアは第三世界の仲間入りする恐れが出ている。われわれはポピュリズム政策に立脚する経済モデルの人質になり、一時しのぎの策で病気を治そうと試みてきた。体系的で、長期的展望を視野に置いた解決を絶えず先送りしてきた」と、これまでの経済運営を厳しく批判した。
第3は、連邦政府の権力が必要な時に行使されず、ロシアが国家として弱体化したこと。この結果、権力の真空状態が生まれ、民間企業や新興財閥による国家機能の奪取が起きている、と指摘した。
そして、これらの課題を解決する「ロシアにとって唯一の現実的な選択は、強い国家の道を選ぶことだ」と述べ、「法の独裁」を原則とする「法治国家」の建設を目指すことを宣言した。
プーチンが「強い国家」建設のために打った第1の手は、行政改革による連邦政府の権威の回復だ。エリツィン時代には、中央政府が、大統領の指導力欠如、政権内部の対立、議会との対立などで十分に機能しなかった。このため、地方自治体にあたる全国で89の地方共和国、地方(クライ)、州(オーブラスチ)などが中央の指示に従わず、地方独自の政策を実施することも少なくなかった。また、エリツィン政権が地方の権限拡大要求に屈して、無原則に譲歩した例もたびたび見られた。
これに対し、プーチンは就任直後の2000年5月、全国を7つの「連邦管区」に分割し、各区に「大統領全権代表」を置く「大統領令」を公表した。大統領令によると、全権代表の任務は「大統領の憲法上の権限を体現し、連邦の決定や人事政策の管内での履行状況を監督する」ことにある。このことからも明らかなように、新制度の狙いは中央政府による地方統制と監視にある。プーチンはこの大統領令布告と同時に、軍人や元首相など自分に近い関係にある7人の代表を任命し、この制度にかける強い決意を示した。
また、プーチンはこれに先立ち、バシコルスタン、イングーシ両共和国、アムール州の3自治体に対し、連邦憲法と矛盾する共和国憲法、あるいは法律、政令をすべて改正し、連邦側の規範に合わせるよう命令を下した。このうち、バシコルスタンでは、エリツィン時代には共和国が持つとされた、外交・対外貿易の権利や域内資源に対する投資や関税の決定権、非常事態布告権などが連邦憲法に矛盾するという理由で、不当とされた。
続いて、共和国大統領や州知事などの地方首長に上院議員の兼職を認めないことを柱とするロシア上院(連邦会議)改革を実施した。これはこれまで上院が地方のボスたちの中央政府に対抗する足場となっていたのを改めようとするもので、当初は上院も直接選出制を導入するよう改正する方針だったが、上院が激しく抵抗。共和国大統領、州知事、地方議会議長が兼務するのを認めていた上院議員の選出方法を改め、地方行政府、議会から選んだ代表を地方首長が議会の同意を得て任命する方式にすることで妥協した。この改革は2000年7月に議会で可決され、8月に大統領が署名した。
こうして、地方首長勢力に一定の譲歩を強いた後、今度は地方首長で構成する「連邦国家評議会」を設置し、連邦大統領との協議の場とすることを決めた(2000年9月)。地方首長たちは、上院議員の兼職を禁じられた結果、不逮捕特権を失ったが、これによって生じた不満をなだめる措置だ。
一連の行政改革について、プーチンは1年後の年次教書演説で「真の強い国家は強固な連邦を意味する。国家崩壊の時期は過ぎた。前年の教書で言及した国家分解にはブレーキがかけられた」と総括、政権が目指した中央政府が地方を連邦大統領の強い権限のもとに置く「垂直的な権力構造」の確立に成果をあげたことを自賛した。
これと関連して指摘しなければならないのは、議会、特に下院(国家会議=ドゥーマ、定数450)を完全にコントロール下に置いたことだ。93年10月のホワイトハウス(当時の議会議場)砲撃事件に象徴されるように、エリツィンは議会と常に対立し、無用の抗争を続けていた。とりわけ障害になっていたのは、常に3分の1前後の議席を占め、単一の政党としては、最大野党の共産党で、土地私有化法案など市場経済への道を開く法案の議会通過を阻んできた。
転機は1999年12月に行われた下院選挙。クレムリンが肩入れしてショイグ非常事態相を代表に州知事らが結成した与党「統一」が81議席を獲得し、共産党(95議席)に次いで、第2党の座を占めた。「統一」はチェチェン軍事制圧の指揮をとるプーチンとショイグに対する世論の高い支持を受け、系列のグループも合わせると、約140議席に達し、政権与党としては、初めて議会内で多数派を形成した。
プーチン政権は「あらゆる改革は法的な裏付けがなければできない。大統領と(立法機関の)議会が対立していては、それは不可能だ」(アレクセイ・ヴォーリン内閣府官房副長官)という認識から徹底した議会工作を行った。この結果、2001年12月には「統一」とルシコフ・モスクワ市長らが率いる中道勢力の「祖国・全ロシア」(45議席)が統合して新与党「統一と祖国連合」を結成し、他の与党系勢力を合わせると、300議席近くの絶対多数を占めるようになった。
改革に成功した上院でも、同じ時期にサンクトペテルブルク市議会議長のセルゲイ・ミローノフが150対2の圧倒的多数で新議長に選出された。ミローノフはサンクトペテルブルクの経済界に強い影響力を持ち、プーチン陣営の有力者として知られる。これにより、プーチンは議会の上下両院を完全にコントロールできるかつてない強固な基盤を築いた。
対外関係の好転と同時に、政権内の人事の安定、地方への統制と意思の疎通の強化、さらに議会との安定的な関係を進めながら、プーチンは「ソ連社会主義時代の負の遺産」で、エリツィン時代にそのまま取り残された政治、経済、社会の諸改革に着手する。
その第1は、「土地は国有」というソ連社会主義の大原則を根本的に変える「土地法」の成立だ。まず、2001年9月にモスクワやサンクトペテルブルクなど都市部の商業地の売買を自由とする法案が下院を通過した。共産党などの強い反対で農地が除外されたため、国土の2%をカバーするにすぎないが、それでも自由な企業活動に大きなプラスになった。続いて、2002年6月には、農地売買を原則的に自由化する農地売買法案が下院で採択された。新法は農地を有効に活用するために、個人、企業間の売買を自由化するもので、外国の企業や個人には貸借権(最高49年間)しか認められていないものの、経済活性化に寄与することが期待される。
第2は、税制の改革だ。社会主義時代にほとんど納税意識のなかったロシアで、中央政府にとっては、所得税などの税金を円滑に徴収することはきわめて大きな課題となっている。プーチン政権は従来、12−30%の3段階だった所得税を2001年1月から一律13%とし、広く薄く徴収する方針を打ち出した。これにより、富裕層の脱税が減ったといわれている。また、2002年1月からは、法人税も35%から24%均一にする抜本的な改革を行い、企業の脱税防止による税収の安定化をはかっている。同年2月には、マネーロンダリング法も施行されており、この面での法整備が着々と進んでいる。
第3は、司法改革だ。新刑事訴訟法が成立、2002年7月から施行されている。これは従来、検事が逮捕令状や家宅捜索令状などを発行するのを認めていたソ連時代の検察寄りの訴追制度を改め、被告の権利を守ることを打ち出したもの。さらに、従来、労働者側が圧倒的に有利だった労働法を、雇用者の裁量による解雇の権利を定めた新法に改正した。
こうした法的整備は社会主義体制から民主主義体制へ移行するため、つまり、「普通の国」になるためには欠くことのできないものであり、西側諸国がロシア国内で経済活動を行う場合の条件整備の上でも、欠かせなかった。これを着実に進めているプーチン政権はロシアを正しい方向に進めていると評価されよう。
プーチンにとって政権を引き継いだ時、内政面で最大の問題の一つは、エリツィン時代に増殖した「新興財閥(オリガルヒ)」の経済支配や政治への影響力行使、腐敗とどのように折り合いをつけるかだった。新興財閥は社会主義体制(計画経済体制)が、市場経済に移行する過程で形成されたもので、金融、エネルギー産業、マスメディアを支配し、特に、エリツィン時代後半には経済だけでなく、政治面でも大きな影響力を行使してきた。新興財閥のリーダーたちには、国営企業の私有化の過程で権力側と癒着し、短期間で膨大な資産を築いた例も少なくない。
政権と新興財閥の癒着の典型的な例は、1996年の大統領選挙キャンペーンだ。この選挙では、有力対抗馬のジュガーノフ候補を擁する共産党の復活を恐れた新興財閥が、資金面をはじめ全面的にエリツィンを支援して当選させた。この時、投入された資金は5億ドル(10億ドル説もある)といわれ、エリツィン陣営はテレビなどメディアを徹底的に独占利用して、「共産主義復活」の恐怖を訴えた。
このキャンペーンで中心的役割を演じたボリス・ベレゾフスキーは96年10月安全保障会議副書記に任命され、エリツィンの「ファミリー」との親交を通じて政権に深く食い込み、政権運営に大きな影響力を持った。
プーチンが新興財閥との関係でまず、やり玉にあげたのは、このベレゾフスキーと、モスト・グループの代表、ウラジーミル・グシンスキーで、二人は当時、それぞれロシアの有力な新聞、テレビなどメディア・グループを支配していた。2000年6月にグシンスキーを国有財産横領容疑で一時逮捕、追及を開始した。続いて、同年11月にはベレゾフスキーにも検察当局がスイスの資金流出事件にからんで出頭を要請し、刑事責任を問う方針を打ち出した。
二人とも、従来からの政治的人脈から反プーチンの立場を取っており、傘下の新聞やテレビを通じ、プーチン批判のキャンペーンをやっていた。特に、この年8月原子力潜水艦「クルスク」の沈没事故が起きると、政府の対応に厳しい批判報道を展開していた。このため、この二人に対する刑事責任追及は、「報道の自由」に対する当局の重大な侵害という強い反発を招いた。
確かに、プーチンのこの二人に対する強硬姿勢にはそうした一面もあろうが、同時に、二人がこれまで特定の政治家と手を握り、非合法の手段で資産を形成し、政治に介入してきた点も指摘されている。二人は現在、国外に住み、訴追を免れているが、プーチン政権が続くかぎり、復権は難しいとみられている。
この二人の例を除くと、「新興財閥」との関係には、目立った動きはない。むしろ、純粋に経済的な観点からみると、巨大企業の役割はプーチン時代に増大している。ロシアの上位10企業の純利益は、1977年には全体の57%だったのが、2000年には61%を占めるに至った。こうしたことからも、プーチン政権は、これらの財閥企業がロシア経済で占める地位を考慮して、ひとまず休戦し、お互いに利用し合う関係に入ったようだ。
プーチンはこれまでのところ、エリツィン・ファミリーを直接排除する強制的な手段は、取っていない。大統領府長官のアレクサンドル・ウォローシンや首相のカシヤーノフはエリツィン人脈をそのまま引き継いだものだ。排除された中で、有力者はアクショーネンコ前鉄道相(2002年1月解任)くらいだ。こうした状況をトレイスマン準教授は「確かに、現在エリツィン・ファミリー派は、FSB官僚グループとリベラルな経済専門家たちの奇妙な結びつきであるサンクトペテルブルク派による挑戦にさらされている。しかし、サンクトペテルブルク派がモスクワ出身の経済官僚たちを支配下に置いたわけではない。新興財閥間の権力をそぐよりもむしろ、彼らの間で均衡を取っている」(フォーリン・アフェアズ論文)と指摘している。
プーチンが1999年夏に突然、首相に任命され、あれよあれよという間に、最高指導者にまで登りつめた時、内外の論調は概してきわめて厳しいものがあった。その一つはKGB出身という経歴から、エリツィンの民主化路線を変更し、強圧的な権威主義的路線を取るのではないかという推測である。ベレゾフスキーやグシンスキーに対する刑事訴追の動きもこの文脈で理解する論調が多く見られた。
二つ目は、政治家としてのキャリアに乏しく、政策立案や実行能力が未知数であることに対する懸念である。首相に就任する以前は、ほとんど表舞台に立たなかったのだから、この懸念にも根拠があるように思われた。
三番目はゴルバチョフ、エリツィンらに共通したロシア人らしい堂々とした押し出しと雄弁さに欠ける点だ。外見がこれまでのロシアの指導者たちに比べ、異色であることは確かだ。
だが、こうした厳しい見方にもかかわらず、プーチンがロシアを「強い国家」復活に向けてまとめつつあることは、認めなければならない。プーチンは2002年4月の大統領年次教書演説で、赤字国家予算がこの2年間は解消されたことをはじめ、国民実質所得が2001年には6%増え、失業者も70万人減ったと経済面での実績を指摘、とくに、年金の平均額が最低生活費を上回ったことを強調した。こうした経済面での弱者に対する配慮が強いプーチン支持となって表れている。問題は、ようやく始まった「強い国家」建設の行方であり、克服しなければならない難問は多い。
難問の第1は、2002年秋のモスクワでの劇場占拠事件で再び脚光を浴びたチェチェン紛争だ。平和的手段による解決を探れば、チェチェンの分離・独立を認めるなど選択は限られている。しかし、軍事力による解決は、ますます犠牲を増やすことになる。政権の命取りになりかねないこの問題をいかに処理するか。
次に、依然としてロシア社会に重くのしかかっている「旧ソ連時代からの負の遺産」をいかに解消していくかだ。プーチンは2002年の年次教書で今後の課題として、国家行政機構の近代化をあげると同時に、国家機関の腐敗、汚職の追放を呼びかけた。法整備を進めても、これを執行する機関が近代化されなければ、改革は進まない。
プーチンは2004年に任期切れを迎えるが、よほどの失政がない限り再選は確実だ。一期目で始まった基礎工事を二期目でどこまで進めることができるか。「強い国家」建設を目ざすプーチンの気の遠くなるような挑戦が続く。 
 
アタチュルク、そして軍 / 現代トルコ〈非民主性〉の系譜

 


トルコは将来、欧州連合(EU)に加盟し、欧州国家として生きていこうとしている。だが、その政治支配システムは欧州基準の民主主義とは異なる。言論の自由、結社の自由などが制限され、少数民族クルド人は人権を抑圧され、イスラム政党は国是の世俗主義に反するとの理由で、常に圧迫を受ける。EUがトルコの加盟受け入れに躊躇する大きな理由のひとつは、こうした非民主性にある。その根源は、近代トルコ国家の生成過程と切り離すことができない。トルコの民主化は、近代トルコの存在そのものの否定につながる側面を持つ。なぜなら、トルコ建国の父アタチュルク、その思想の継承者で守護者を自任する軍の歴史的役割に批判的考察を加える必要があるからだ。現在、トルコで、こうした議論はタブーである。だが、このテーマを避けてトルコの将来像を語ることはできない。以下は、筆者が、読売新聞記者としてイスタンブールに滞在した一九九七年から二年半の期間の取材体験をもとにした一考察である。 
1 タブーのアタチュルク批判
トルコ人は概して愛国者だが、法律によってもトルコ国民は国家を愛することが義務付けられている。1991 年3月12 日に改定される前のトルコ憲法の第141 条(現在は無効)は、共産主義、アナーキズム、独裁思想のほか、反国民思想を刑罰の対象にしていた。反国民とは非常に漠然とした概念であるが、国家への忠誠を求めた条文である。
現在も愛国心の義務付けは刑法の条項で明記されている。刑法145 条は、トルコ国旗を引き裂いたり焼いたりする罪を禁固一年から三年とし、この犯罪を国外で犯した場合は、さらに刑期を三分の一増刑するとしている。158条では、大統領侮辱を禁固三年以上とし、出版物で侮辱した場合は、三分の一から二分の一の増刑と定めている。次の159 条では、国会、国家、軍、警察、その他の国家機関に加え、「テュルクルク」への侮辱を規定している。「テュルクルク」とは、トルコ的なるものとでも訳せようか。これも漠然とした概念である。同条の刑罰は禁固一年から六年である。
だが、なんといっても愛国心の中心にあるのは、トルコ共和国建国の父、ムスタファ・ケマル・アタアチュルクである。
アタチュルクは、1881 年、現在ギリシャのサロニカで生まれた。父はオスマン帝国の下級役人、母は敬虔なイスラム教徒だった。当時、サロニカは、多くのユダヤ人をはじめ様々な人種の人々が混住するコスモポリタンな町だった。その雰囲気は彼の成長に大きな影響を与えたろう。母は、彼にイスラム聖職者になってほしいと願い、初等教育のため宗教学校に彼を入れた。
だが、そこを飛び出して陸軍幼年学校に入った。こうして、将来、軍人になる道を自ら選んだ。
のちに国民をひっぱっていった激しいほどの自信家ぶりは少年時代からのものだ。その自信ゆえに、オスマン帝国末期の改革を目指して権力を握った青年トルコ党の指導者エンベルにも露骨な批判を加え、主流にはなりえなかった。だが、軍人としての技量にはめざましいものがあり、第一次世界大戦でドイツ側に立ったオスマン帝国に侵攻しようとした英国軍を1915 年、ダルダネルス海峡入口のガリポリで食い止め、司令官としての力量は国際的にも高く評価された。アタチュルクはこの勝利で一躍、国民的英雄になった。
1918 年、西欧列強は第一次大戦で敗北したオスマン帝国の分断に乗り出し、帝国は消滅する危機に直面した。ここで立ち上がったのがアタチュルクである。その思想の新しさは、オスマン帝国と断絶し、近代的ナショナリズムを基盤にしたことである。様々な政治、社会勢力を結集し、西欧列強を牽制したうえで、1921 年には、小アジアを併合しようとするギリシャ軍をサカリヤの戦闘で破り、トルコ独立実現の布石とした。この戦争は、歴史的には、西欧帝国主義に対する世界史上初の民族解放闘争ともなった。
アタチュルクの目指したものは、西欧をモデルとする近代国家の樹立であった。そのためにはオスマン帝国と言う巨大な過去との断絶をはからねばならなかった。具体的には、君主の持っていた政治的最高指導者であるスルタン、イスラム教の最高権威であるカリフの地位を廃止し、政教分離の世俗主義を基本とする共和国を樹立した。
この大事業の完成には、カリスマ的指導者アタチュルクの存在がつねにあった。この軍事的、政治的天才は、20 世紀初頭の、まごうことなき英雄である。トルコ人にとって、その存在が偉大であるのは当然すぎる。
無論、アタチュルクの誹謗・中傷は罰せられる。1951 年7 月25 日施行の「アタチュルクに対する犯罪に関する法律」によると、アタチュルクを誹謗・中傷した者は禁固一年から三年、銅像や記念碑などを破壊した者は禁固一年から五年となっている。トルコでは、役所、学校、会社事務所、レストラン、どこに行ってもアタチュルクの肖像画や写真が壁に掲げてある。1997年に、ある町役場の職員が事務所の整理をしていたときに、その肖像画を外して掃除の間だけ、トイレに置いた。悪気はまったくなかったが、その職員は逮捕され解雇された。アタチュルクはトルコでは神格化された存在である。彼を公然と批判できる雰囲気はトルコにはない。
ある高校の歴史教師は私に語った。教室でアタチュルクの歴史的貢献を教える際に、礼賛以外のこと、とくにマイナス面に触れることは、ほとんど不可能だという。それが発覚すれば、解雇だけなら運が良いとみなければならず、警察・治安当局に逮捕される恐れが十分あるというのだ。トルコの基本教育法は冒頭の第一条で、「トルコ教育制度の目的」として、ナショナリズム、祖国への愛などと共に、子供たちを「アタチュルクの改革に忠実な市民」に育てると謳っている。
トルコの歴史教育は、アタチュルクとその思想を尊敬する愛国者を育てる重要な手段なのだと、この教師は言った。近代トルコとアタチュルクに関する公的解釈は、現代トルコを理解する上で非常に示唆に富んでいる。それが集約されているのが歴史教科書である。1997 年版の教育省が発行した高校用歴史教科書「トルコ共和国とケマル主義」を引用してみよう。
「アタチュルクは、偉大な指導者であり、民主主義を真に愛した人である。彼によると、『自由のない国には、死と破壊だけがある。自由は発展と救済の母である』。このような気高い意見の持ち主が、民主主義の理想を現実化するために闘った。これは、アタチュルクが全生涯にわたって実行してきたことである。彼の文章のすべての行に、彼のすべての演説に、つねに、民主主義への切望が表明されている」トルコでアタチュルクを語るとき、アタチュルクが「偉大な指導者」であり、「民主主義を真に愛した人」であることは大前提である。それによって、アタチュルクの政治的行動は、すべて民主主義実現の手段だったとして正当化される。さきの高校教師の言葉は、これに疑問を呈することが許されないことを意味する。 
2 アタチュルクは民主的指導者か
アタチュルクは本当に民主主義的な思考をする人物であったか否か。これは実に興味深い問いかけである。イギリスの外交官ジャーナリスト、パトリック・キンロスの有名な著作「アタチュルク」の指摘は、この点に関して、いくつかの示唆を与えている。
アタチュルクは1923年1月29日、実業家の娘ラティフェと結婚する。ラティフェはフランスで育ち、西欧的教養、知性を備え、当時のトルコ女性にしては強い自立心を持ち、気性も激しかった。むしろ、それがアタチュルクを引きつけた。だが、この結婚は短く、1925 年8月5日には正式に離婚した。彼の生涯で一回だけの結婚である。
気性の激しいラティフェとの感情的行き違いが原因とされるが、キンロスは、アタチュルクの離婚のやり方に焦点を当てる。
「イスラム法では、夫は一方的に妻と縁を切ることが認められる。夫が言うべきことは、『家を出ろ』あるいは『おまえには二度と会いたくない』だけである。これが、事実上アタチュルクがやったことである」双方の合意で離婚したと公式に発表されたが、実際には、一方的な離婚だったという。日本式には、三下り半である。
アタチュルクは、明治日本の鹿鳴館をトルコに再現したとも言える。近代化、つまり西欧化を社会に広げるために、軍将校やその妻たちに洋装でダンスをすることを奨励し、イスラム伝統の女性が髪を隠すスカーフを外させ、女性の解放を主張していた。こうした西欧型民主主義の推進者が示した横暴な「東洋的」離婚のやり方に、キンロスは一人の人物の中の矛盾をみる。
現実政治では、アタチュルクは明確に独裁者と呼ばれるべき行動をとった。
1925年2月13日、クルド人指導者シェイク・サイードが東部デルシム(現在のトゥンジェリ)で、共和国に対する大規模な反乱を起こした。1923 年に発足したばかりの共和国に訪れた最大の危機である。23年10月29日の共和国宣言とともに初代大統領に就任したアタチュルクは、反乱に対応するため、25 年3 月、秩序維持法を国会で通過させた。この法は政府に実質的に絶対権力を与えるもので、当面は二年間有効とし、その後は必要に応じて延長が可能とされた。反乱は拡大したが、二か月後にはシェイク・サイードが逮捕され、収拾した。サイードは秩序維持法による特別法廷で裁かれ、ディヤルバクルで公開処刑された。だが、同法は延長されて結局、1929年3月4日まで続いた。
秩序維持法によって政府は、反革命、反乱を助長するとみなされる組織、出版など、あらゆるものを禁止、あるいは抑圧する権限を持った。その中核になったのが特別法廷である。この法廷は南東部など軍事作戦地域を中心に設けられたが、首都アンカラにも設置された。ここでは、国会の承認を必要としない即決処刑も行われた。トルコ専門家として知られる米国マサチューセッツ大学教授フェローズ・アハマドの著書「近代トルコの生成過程」(The Making ofModern Turkey )によると、最初の二年間で五百人以上が死刑判決を受けた。
共和国宣言の二か月前、1923 年8月9日、アタチュルクは自らの権力基盤となる政党として人民党を創設した。この党は共和国発足とともに名称を共和人民党とし、一党支配を保っていたが、シェイク・サイードの反乱の三か月前、1924年11月17日に、新たな政党として進歩共和党(当初は進歩党)が設立され、トルコは複数政党制に踏み込んでいた。
新政党を主導したのは、独立戦争をアタチュルクとともに闘ってきたフセイン・ラウフ、カズム・カラベキル、アリ・フアトら旧友たちであった。独立達成後の権力はアタチュルクに集中し、彼らが期待した果実は手に入らなかった。こうした不満に加え、アタチュルクが進める極端な世俗化政策に代表される急進的革命路線にも異議をはさんでいた。新党の結成は、政敵の誕生であった。進歩共和党は、秩序維持法に関しても、憲法違反、自由の破壊、権利侵害と非難した。
だが、秩序維持法の施行は政治的批判を容認する雰囲気を喪失させていった。多くの新聞も廃刊に追い込まれ、政府批判勢力は沈黙を強いられた。こうした中で、1925 年6月、進歩共和党も解党させられた。最初の複数政党制は、わずか七か月で終わり、一党独裁制に戻った。
このころのトルコは、恐怖が政治を支配していた。そういう政治状況下では、反動で過激な行動が生まれる。翌26年6月にはエーゲ海に面した都市スミルナ(現在のイズミール)に旅行したアタチュルクに対する暗殺未遂事件が発生した。犯人グループは逮捕されたが、同時に事件の首謀者として進歩共和党に疑惑の目が向けられた。そしてアリ・フアトら党指導者は、最後には放免されたが、逮捕され特別法廷にまで送られた。政治的疑心暗鬼の時代を象徴する出来事であった。 
3 紆余曲折のアタチュルク革命
それから四年後、1930 年、アタチュルクは自ら複数政党制の復活に乗り出した。当時、政治的抑圧の継続に加え、1929年10月のニューヨーク株式市場大暴落に始まる世界恐慌でトルコ経済も大きな打撃を受け、国民の政府への不満はアタチュルクの威信を揺るがす恐れが出るまでに高まっていた。キンロスによると、近代化に戸惑っていた伝統的トルコ人の西欧化への嫌悪感は、食料不足が到来するのではないかという恐怖感で、ますます強まり、こうした事態は無信心の罰とみられるようになった。断食月のラマダンには再び多くの人がモスクに戻ってきた。
このような光景は、オスマン帝国の伝統からの断絶によって近代化を推進してきたアタチュルクには、危険な反動に見えた。また、政府の役人の給料は低く、汚職の誘いに曝され、各地に山賊団が出没し、クルド人も再び不穏な動きをみせていた。アタチュルクが複数政党制復活に乗り出した狙いは、政府およびアタチュルクに向けられる批判の分散にあった。
だが、野党となるべき新政党は、アタチュルクの路線を全面的に支持する穏健なものでなければならなかった。こうしてアタチュルクが新党指導者に選んだのは、アリ・フェティだった。
フェティは、1925 年3月の秩序維持法施行直前から首相の座にあるイスメト・イノニュ(のちの第二代大統領)の前任者で、首相辞任以来五年間、駐フランス大使を勤めていた。非常にリベラルな思考をする穏健な人物とされている。
1930 年7月に帰国したフェティを説得したとき、アタチュルクは「私はトルコを独裁制に似せたくはないし、国民に全体主義体制の遺産を残したくもない」と語ったという。フェティはこの説得を受け、同年8月、自由党を設立した。
ところが、名目だけの野党として発足した自由党は、アタチュルクもフェティも予想しなかった反響を呼んだ。このときの情景は、キンロス著「アタチュルク」に詳しい。
9月、フェティは自由党の新しい支部開設式のためにイズミールを訪問した。この式典は、できる限り控えめに行うよう準備された。警察は、(野党に対する反感から)フェティに対する攻撃を警戒していた。だが事態はまったく逆の展開となった。フェティは英雄として大群衆に歓迎され、この騒ぎは、あからさまな反政府デモとなった。事態がおかしくなったと感じた地元当局は、秩序維持のため、フェティが演説を予定していた党集会の延期を要請した。
一方、共和人民党は急きょ、自分の党の集会開催に乗り出したが、十分な動員ができなかったうえ、共和人民党の演説者たちは、フェティの登場を求める群衆の罵声に沈黙させられる始末だった。群衆は町の通りにあふれ、フェティの宿泊しているホテル、共和人民党本部の前をデモ行進し、ガラス窓を破壊する騒ぎにまで発展した。このため警察が出動して発砲し、軍も秩序回復のため召集された。
こうした中、アタチュルクの電報での指示で、フェティは演説を実行した。そこで示された自由党の党プログラムは、人民の精神的指導者としてアタチュルクを称賛し、決して反政府的ではなかったが、大群衆は、騒然とした興奮が渦巻く中で演説に聞き入った。フェティはイズミールに続いて、マニサ、バルクシェヒルを訪問し、ここでも熱烈な歓迎を受けた。
この突然の興奮騒ぎは、明らかに、強引なアタチュルク路線のもとで鬱積していた不満の爆発であった。とくに、共和国発足後の急速な西欧化によって、伝統的生活様式が破壊されるのではないかという一般大衆の危機感が強かった。フェティの演説旅行中に、それを象徴する光景が如実に見られた。アタチュルクは1925年に、トルコ人の男が外出のときに欠かせない伝統的なフェズ帽(トルコ帽)を禁止した。これは明治日本の断髪令に匹敵する。フェズ帽に替わって西欧式のソフト帽が導入された。アタチュルクが断行した伝統との訣別の有名な例である。
フェティは、ある会場で、意図せずに、あいさつで自分の帽子を持ち上げた。聴衆はこれをフェティの西欧化批判と勘違いし歓喜で応じ、自分たちも帽子を取って地面に叩きつけた。また別の場所では、歓迎の横断幕が「無神論の共和国に対抗する信仰の守護者」と、フェティをうたいあげた。
当然、共和人民党は、自由党に強い警戒心と疑惑を抱くようになった。この年11月の国会は、両党が激しく衝突する場となり、自由党は最早、穏健で従順な野党には成りえないことが明白になった。このため、フェティは自ら自由党の解散を決意し、アタチュルクに伝えた。新たな複数政党制の試みは、わずか三か月で潰えた。
自由党が解散した11 月17 日から、わずか一か月後の12 月23 三日、イズミール近郊のメネメンで忌まわしい事件が発生した。自由党の集会で見られた雰囲気に、過激な血生臭さが加えられたものだった。
トルコのイスラム教の主流である神秘主義教団ナクシュバンディに属するデルビシュ(修道者)で、メフメトという男が、自分は救世主だと名乗り、一団の男たちを率いて、イスラム法とカリフ制度の復活を要求しながら町を歩き始めた。これを制止するため、軍警備隊の予備将校一人が現場へ派遣された。だが、この将校は逆に、メフメトらに取り押さえられ、首をはねられた。一団は、その首を旗竿の先に突き刺し、町を練り歩いた。
この残酷な事件は単発的なものだったが、共和国指導者たちには激しい衝撃となった。建国以来の改革が依然として地に着いていない現実を最も劇的な形で知ったからだ。
この六年余りの時代をトルコ共和国の公的史観がどのように表記しているのだろうか。高校歴史教科書「トルコ共和国史とケマル主義」に戻ってみよう。
「民主主義を一朝一夕に樹立することはできない。いくつかの条件が満たされなければ、民主的体制は現実化しない。敵に侵略され、独立が存在しておらず、国が分断されているときに、民主主義が意味を持つだろうか。それゆえに、アタチュルクは、まず独立のために闘うことを選んだ」「民主主義は、国民主権に基づく、独立した近代的社会でのみ可能である。民主主義を真に愛したアタチュルクは、この点をわかっていた。彼は、ときとして、トルコの状況が民主主義に適しているかどうかを見るための実験を行った。アタチュルクは、トルコを複数政党制に移行させたかったのである。だが、いずれの実験でも、真の民主主義実施には依然として長い道程があることが証明された。なぜなら、この期間に設立された野党はいずれも、過去の体制に戻ろうとしたからである。野党は、アタチュルク革命、近代化プロセス、そして国民主権すら破壊しえたのである。それゆえに、アタチュルクは民主主義の実験を断念し、後退して、より適切な時機を待たねばならなかった」
教科書は、シェイク・サイードの反乱、アタチュルク暗殺未遂事件にも触れ、首謀者が逮捕され刑を受けたとは記しているが、彼らが死刑に処せられたとは書いていない。さらに、この1925年から30年の時代について、「偉大な革命が実践され、平和な時期になった」としている。
この時期に、現在のトルコ共和国の基礎となる様々な革命的政策が導入されたのは事実である。1924年3月にカリフ制が廃止され、宗教学校が閉鎖されたのに続く時期である。
25年、フェズ帽の廃止
26年、イスラム教団非合法化西欧市民法の導入
28年、トルコ語表記をアラビア文字からラテン文字に
こうした新政策は、いずれもオスマン帝国の伝統の中に生きていた人々を、西欧型近代社会に再編成する変革の根幹を成すものである。だが、社会の大変革に着手したわけであるから、世の中が平穏であったはずがない。従来の伝統と切り離された、まったく新しい社会構造を短期間に創出するには、絶対的な、強権、独裁的権力が不可欠である。
アタチュルクはこうした権力を持ったからこそ革命的政策を実行することができた。その権力をアタチュルクが持っていたことは、高校教科書の記述でも理解することができる。「すべての権力を国民に与える」、「民主主義の実験を行う」といった記述の主語はすべてアタチュルクである。
アタチュルクは、公的史観あるいは現代のトルコで多くの人が信じている考え方を解釈して表現するなら、「民主的独裁者」なのである。字義の上でのこうした矛盾が受け入れられるところに、トルコの「民主主義」の特異性がある。だが、アタチュルクを独裁者と呼ぶことは、トルコではタブーである。公言すれば、おそらく、「アタチュルクに対する犯罪に関する法律」に基づき、刑事罰を受けるだろう。こうした法律を生む背景には、民主主義はアタチュルクが与えてくれたものなのだ、アタチュルクが共和国を作ったから民主主義が実現したのだ、という信仰にも似た観念がある。
「民主主義」という同じ言葉で呼ぶが、西欧で生まれた古典的民主主義の概念とは、決して相入れるものではない。近代的自我に目覚めた個人が理性的議論を重ねて、自らが所属する社会を、自らの手で運営していくために完成したシステムを民主主義と定義するなら、トルコ人の観念にある「民主主義」は、民主主義ではない。アタチュルクという個人が、まるで天が授けるかのようにトルコ人民に与えてくれたものだからである。トルコ人のこうした「民主主義」観念は現在も、日常的に見ることができる。 
4 トルコ的軍事国家
今、アタチュルクに替わる存在として、軍がある。トルコ軍は1961 年、71 年、80年に、いずれも「共和国護持」のためクーデターを起こした。1997 年2月には、国是の世俗主義が危機に直面しているとして、イスラム政党・繁栄党の政権に圧力をかけ始め、同年6月、同党党首のネジメティン・エルバカン首相を辞任に追い込んだ。軍は政府の上に立つ絶対的権力を保持している。
軍に対して多くのトルコ人が持つ信頼感は、アタチュルクに対するものと共通点がある。「民主主義を最後に守ってくれるのは軍だ」という観念に、それを見ることができる。95年から97年にかけて繁栄党が政治的影響力を増大するにつれ、イスタンブールなど大都市に住む金持ち層、とくに普段は宗教とまったく関わりを持たず、西欧化した生活を楽しんでいた人々のあいだには、「イスラムの再興は民主主義を破壊する」という不安とともに、軍事クーデター待望論が広がった。
「軍事介入による民主主義擁護」という思考様式は、「民主的独裁者」と同様、西欧型民主主義の概念にはなじめないが、トルコでは、かなり一般的な考え方である。テレビの討論会などに出演して有名なイスタンブール大学政治学教授タクタムシュ・アテシュは、タブーになっているアタチュルク批判に挑戦する非常にリベラルな人物である。それ故に、頑迷なアタチュルク信奉者からテロの脅迫を受けたことすらある。
私はアテシュと数時間にわたり、トルコの民主主義について討議したが、最後まで理解できなかったのは、リベラルで西欧型民主主義の概念も十分理解している政治学者が、「トルコの民主主義を最終的に守ってくれるのは軍だ」と主張し続けたことだった。「政党政治で成り立つ政府を軍が倒すのが民主的なのか」、「文民支配が民主主義の基本ではないか」、「軍が民主的であり続ける保障はあるのか」といった私の疑問への答えは、「軍は民主主義と共和国の守護者だからだ」というだけだった。
「権威が民主主義を与えてくれ、守ってくれる」というメンタリティの継続自体が、西欧的民主国家を建設するために開始したアタチュルク革命の矛盾である。軍が国家を支配するということに、トルコの多くの人々は違和感を覚えない。むしろ、軍が国家の基礎という感覚が行き渡っている。軍の政治介入が正当化される政治土壌が、トルコには深く堆積されている。
中央アジアからの民族移動で現在のアナトリア地方に定着したトルコ民族は、15 世紀にオスマン帝国の基礎を確立した。帝国の揺籃期、軍隊そのものが国家であり、その後、アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸に跨る世界帝国へと拡大していくが、その基礎になったのも、ヨーロッパ世界を恐怖に陥れた精強な軍事力であった。やがて、ヨーロッパの再興とともに、帝国が斜陽に差しかかったとき、国力回復のために、まず手掛けられたのは、軍の近代化だった。
軍は帝国の歴史で常に中心に位置し、帝国末期に、改革を目指して立ち上がり、政治的実権を握ったのも、「青年トルコ」と呼ばれる若手軍人集団だった。そして、帝国が第一次世界大戦を経て消滅状態になったとき、新生トルコ共和国樹立へ向かって強烈な指導力を発揮したアタチュルクも軍人である。
オスマン帝国は、その国力を維持するために、またアタチュルクは、帝国の伝統を捨て新トルコ共和国を創設するために、西欧の価値や技術を導入する改革を行った。とくに、明治維新と比べられるアタチュルク革命は、あらゆる過去の否定に挑戦し、大きな変革を実現した。だが、米国ワシントン大学客員教授のトルコ人社会学者レシャト・カサバは、双方の改革の共通性を指摘する(論文集「トルコの近代性と国民アイデンティティ再考」)。その共通性とは、常に、上からの改革であったという点だ。
カサバによれば、帝国、共和国双方の改革者が、その着想を直接的に得たのは、フランス革命だった。ここで言うフランス革命とは、1789 年の大革命というより、1793、94年に全権を掌握した急進派ジャコバン党の、いわゆる恐怖政治の時期である。
ジャコバン党は過去の王制の伝統を断ち切るため、暦の再編、王制と関わる街の通りの名前の変更、「革命モデル」と呼ばれる服装の導入などを強権的に進めた。オスマン帝国、青年トルコ、アタチュルク以降の時代、いずれの指導者も、ジャコバン党同様に変革のために、外観をまず変えることに莫大なエネルギーを費やした。オスマン帝国は1829 年にターバンを禁止し、フェズ帽のほか、フロックコート、ズボン、皮靴などを導入した。それから百年後の1925 年、アタチュルクは、有名な帽子法で、フェズ帽を保守主義の象徴として禁止した。
カサバが言及している外観の強制的変更は、まさに上からの改革を象徴している。こうした改革の中心には、常に軍があり、現在に至る政治文化に多大な影響を与えた。
傾きかけたオスマン帝国は、中央権力を再強化する唯一の道として、軍の近代化に乗り出し、近代化とともに取り入れられた西欧文明は、軍を通じて帝国内に浸透していった。この過程で、帝国の権威を高めるための軍が、近代化を推進する母体となり、帝国を支える基礎となった社会を改編する中心機関へと変貌していった。 
5 アタチュルクと一体化した軍
軍にとっての最も画期的な転換点は、アタチュルクが指導した独立戦争だった。だが、戦争で決定的役割を果たしたものの、共和国発足当時の軍は政治的には、足並みが決して整ってはいなかった。アタチュルクの急進的な改革に批判的な将軍が駆逐されたのちに、初めて、軍は、国家及び、アタチュルクが創設した共和人民党と一体となっていった。
軍と政治への関わり方の歴史分析で知られるトルコの政治ジャーナリスト、セルダル・シェンは、その著書『軍と近代主義』の中で、現代トルコ政治の原形が誕生した当時を詳細している。以下は、それに基づいている。
自らが軍の出身であるアタチュルクは、軍を利用して反対勢力を一掃した。アタチュルクによる権力掌握に貢献した軍は、その体制と一体化し、新秩序を確立していく上で、最も有効な手足となったのである。革命を隅々まで行き渡らせる過程で、軍は明確にアタチュルクの側に立った。当時、国家の文民機関は、依然として、機能が不十分かつ未成熟であり、その当然の帰結として、国家機関として、最も組織化された軍の広範な役割が認められた。それに加え、軍自体にも、新たに、共和国軍人たる者のイメージが作り出された。十分な教養と信念を持ち、国家の中で重要な地位を占める自信を持つ者が将校である、という軍人像である。このイメージ作りは、実際的な軍人教育以上に、彼らに自信を付けさせる上で、重要な役割を果たした。
だが、アタチュルク支配体制は、依然として、軍内部から批判が生まれる素地はあるとみて、外部の反体制勢力からの接触を拒絶するような、軍の体質醸成に乗り出した。アタチュルク思想が絶対であるとするイデオロギーの注入である。それによって、アタチュルク以外の政治思想を拒否する軍の政治体質が作り上げられた。
こうして、軍は、国家と人民の関係を律する最も重要な手段となり、新体制下の新たな国民を創出するイデオロギー闘争面で、大きな役割を演ずることになった。国家としての未熟さが、軍の政治的、社会的役割の重要性を決定的にしたと言える。アタチュルク思想を一般国民に普及させる上で、軍が教育面で果たした役割は、とくに大きかった。
独立戦争当時から、新国家思想を広める目的で活動していた「人民の炉辺」と称する草の根との接触の場が、各地に存在していた。1932 年2月、共和人民党は、これを発展解消し、全国に「人民の家」を設けた。オスマン帝国の伝統と完全に離別した近代国家の概念を、成人教育を通じて末端まで行き渡らせるための学校であり、文化大革命を実現しようとする運動体である。この運動は、近代トルコの精神的基盤の確立に大いに貢献した。共和人民党と一体化した軍は、この運動に積極的に参加した。
人民の家の主眼は、国民をアタチュルク思想で教育し、支配層と国民の間に、思想的一体感を創出する点にあった。大衆に新国家の一員であるとする自覚を持たせるとともに、反対勢力につけいる隙を与えない社会的支配網を広げる大規模な政治戦略でもあった。伝統的イスラム社会では、人々が日常的に集合する場はモスクであり、世論形成はモスクを主体に行われる。
人民の家は、モスクの社会的、政治的役割を剥奪するものでもあった。人民の家は、いわば、日本の公民館のような体裁だった。政治教育のほかに、スポーツ、映画、音楽などの文化活動を行う文化センターでもあった。成人向けの読み書きや工芸品などを作るための職能教育、健康指導、公衆衛生教育なども行われ、あらゆる年齢層が日々の生活で人民の家と関わることになった。
セルダル・シェンは、この運動に参加した軍人たちのメンタリティを知る資料として、1939年に出版された『軍の社会学論文集』(S・G・エルケル著)をあげている。その本の表紙には、軍参謀本部による「軍メンバーに有益」との推薦が記されており、内容は軍が公認する価値観そのものである。
シェンによると、軍は国民の上に立つ指導者だという強烈なエリート意識を持っていた。論文集は次のように述べている。
「我々の軍は常に、長い行進をする国民の先頭を歩く主導的組織である。我々の軍は、世界の発展とともに進歩を続けるだろう」「国家防衛の必要性によって強められた国民意識とその思想の結集が軍である。軍に凝縮した統一性こそが、ばらばらの個々人をつなぎ、まとめる上げることができる」
ここでは、軍は国家をより良き未来へ導く先導者であり、トルコ社会の最良の組織とみなされている。この自己イメージによって、軍は、より高度な社会的役割を担い、その活動は妨げられるべきではない、という行動原理が導き出された。また、上から下への指揮命令系統で動く軍は、一般国民とも同じメンタリティで接触し、人民の家を通じ、権威主義的政治構造を末端まで浸透させた。
また、軍人的思考は、軍を家族に似せている。家族の指導者は父親であり、軍では司令官が父親である。家父長制を伝統とするトルコ社会の家族では、父親が絶対的権力者、保護者であり、家族構成員は西欧的概念での独立した個人ではありえない。軍は、国民を、軍を通じて国家と結び付けようとしたが、その国家もまた家族であり、軍は国民を国家という最大の家族の従順かつ忠実なメンバーにしようとしたのである。
軍を主導者とし、国民を将来の軍人とみなすことは、規律と権威を社会の中心価値に置くことである。アタチュルク革命の目指したものは、国家と社会を西欧をモデルに近代化することであった。だが、「国民家族」の思考は、西欧的概念である「個人」の育成ではなかった。オスマン帝国から新生国家への移行という大事業を混乱なく進めるには、個人の自由を芽生えさせない権威主義的支配体制が欠かせなかったのだ。当時国民に移植された国家観は、現代のトルコでも隅々まで浸透している。現在のトルコ政治を論じるとき、この国家観を避けて通ることはできない。
軍の権威主義的手法が確立され、その正当性が深く浸透することによって、誰が支配者かは重要でなくなり、軍が主導して形成したシステムそのものが絶対的存在になっていったと、シェンは指摘する。共和人民党の一党支配、その後の複数政党制開始期、クーデターによる政権打倒後の新体制など、アタチュルク以来の共和国政権は様々な顔を持ったが、アタチュルク思想という同じイデオロギーが維持されてきたのは、システムが、いわば神性を持ったからである。
セルダル・シェンの、この最後の指摘は非常に興味深い。共和国発足以来、建国の指導者アタチュルクを除けば、トルコには独裁者が出現していない。軍の直接的政治介入は、明らかにクーデターと呼べる行動だけでも史上三回が記録されている。だが軍が政権の座に長く留まったことはない。第二次世界大戦後に生まれたアジアやアフリカの多くの新生諸国では、独立ないしは解放闘争で活躍したゲリラ組織が軍の中核となり、大きな政治的発言力を持った。そして、政治混乱をきっかけにして、その勢力の中から、様々な軍事的、政治的独裁者が誕生した。
トルコでは、軍は政権を打倒しても、政治が正常化したとみると後ろへ引き下がる。まさに、システム自体が価値を持ち、神格化され、そこに乱れが生じ是正が必要になったときだけ、軍はその守護者として振る舞ってきた。 
6 アタチュルクなき軍の支配
軍は共和国初期のメンタリティを今も保持しているが、無論、現代に至る時代の変化の中で、軍自体も変貌した。アタチュルクの死、第二次世界大戦、冷戦時代の開始、トルコの西側陣営参加、共和人民党一党支配体制の終焉と本格的複数政党制の開始、60、70 年代に世界の潮流となったスチューデント・パワー、隣国イランのイスラム革命など、1930 年代から現在の間に起きた内外の大きな出来事は、軍にも大きな影響を与え、むしろ、それによってトルコ国家・社会に君臨する現在の立場が確立された。
1930 年代の「人民の家」時代から、1980 年9 月12日の軍事クーデターの時代に、一気に飛んでみよう。共和人民党と一体となっていた軍の変貌ぶりを如実に見ることができる。もはや、軍は、共和人民党と一心同体どころか、支配体制に危害を加える可能性がある政党として、猜疑の対象にしている。クーデターで全権を掌握した軍は、共和人民党を含む全政党を解散し、党首を逮捕した。軍は既に、政党や政府の上に超越し、国家意思そのものに成っていたのである。
当時、陸軍士官学校を卒業したばかりの若い将校だった人物の体験を紹介しよう。現在自営業者のN氏は、クーデターから一か月ほどたった10 月のある晴れた日のことを忘れられない。
その日は非番だった。午後、イスタンブールの駐屯地の芝生の広場に、仲間と座って談笑していた。そこへ憲兵が車でやって来て、N氏を問答無用で逮捕した。まったく予想していない事態だった。以来、11か月にわたって、彼は外界との接触を断たれた。
逮捕されると目隠しをされ、連行されたところは、MITと通称される「国家情報機関」だった。この組織の入った建物は、ボスポラス海峡を見下ろす景色の良い丘の上に位置するが、現在でも付近一帯は厳重に警備され、非常に近付きがたい場所である。
N氏への訊問は、彼の政治的傾向に集中した。N氏は、まったく逮捕理由の見当がつかず、「アタチュルクを尊敬し、その思想を信奉している」と答えた。彼の正直な心情だった。そして常日頃から仲間に公言していた通りに、「共和人民党を支持していた」と答えた。あとでN氏も気付いたが、彼の拘留が長引いたのは、まさに「アタチュルクが創設した共和人民党」の支持者だったからだ。
70 年代のトルコは左右の勢力が激しく対立し、テロの嵐が吹き荒れた。軍は、政党、政府が事態に対応できなくなり、国家体制が危機に直面したとして、80 年クーデターを起こした。この騒然たる時代に入ろうとする1972年5月、ビュレント・エジェビトが共和人民党の新党首に選出された。当時、同党は依然として、軍に最も近い立場の政党だったが、エジェビトは、党及び政治の民主化を主張し、軍の政治介入に反対していた。エジェビトの選出は、党と軍との伝統的関係の断絶を意味し、共和人民党は、そのころのトルコの政治概念では穏健派とはいえ、左翼陣営の政党と目されるようになった。
左右の激しい対立を前にして、軍は急進左翼分子による軍内部への浸透に神経を尖らせていた。そして共和人民党にも警戒の目を向けていた。
N氏は、この網に引っかかったのだ。共和人民党と軍の関係は、以前のものではなかったが、思想的には近く、N氏は軍人として、共和人民党支持者であることを明言するのに躊躇はなかった。だが、その明言によって、左翼の軍内部への浸透を警戒するMITは、N氏に左翼のレッテルを張り、急進的地下組織との関係を厳しく追及した。身に覚えのないN氏は否定するしか術はなかったが、訊問は繰り返し続いた。直接的な拷問はなかったが、留置所には、拷問に苦しみ、泣き叫ぶ声が聞こえた。後に、これは本物の拷問ではなく、N氏ら拘留者に精神的圧迫を加えるテープの音声だとわかった。拘留中、激しい緊張を強いられた。やっと容疑が晴れたとき、軍への復職も認められたが、彼は、この経験で軍に嫌気がさし、大学に入り直して民間人として再出発した。
N氏の体験は、80 年クーデターの暗部をかいま見せている。1997年9月12日付けの新聞「ラディカル」はクーデター記念特集で、80 年9月から三年間の出来事として、次のような数字をあげている。
*拘留者総数 65万人(うち23万人が裁判へ)
*死刑求刑 7千人(うち517 人に死刑判決、49人が処刑される)
*非合法組織メンバーとして裁判を受けた者 9万8千404人
*要注意人物として記録された者 168万3千人(うち38万8千人にパスポート取得禁止措置)
*外国への亡命者 3万人(うち1万4千人がトルコ国籍を失う)
*不審死 300人(うち171人が拷問死、いまだに行方不明の者800人)
*刑務所のハンストによる死者 14人
*閉鎖された団体 2万3千667組織
*解雇者数 教師3千854人、大学研究者120人、裁判官47人
*左遷された公務員 7千233人
*解雇された公務員 9千400人
*発禁映画 937本
ラディカル紙が掲載したパージの数字は、国家の唯一の「守護者」となった軍が、その目的を遂行するための権力を行使するとどうなるかを示すものである。70 年代の混乱の中で、国民の間には、軍に政治介入を求める期待感もあった。そして、クーデターによって、日常的に起きていたテロ騒ぎはなくなり、平穏な市民生活が戻ってきた。だが、その後の大規模な政治弾圧は、時代を暗い雰囲気にさせた。 
7 第二次世界大戦ー冷戦
軍が、絶対的支配者として、その権力を直接的に行使するようになるまでの過程を、時代を溯って辿ってみよう。
1939 年に第二次世界大戦が勃発したころ、トルコ人には、第一次大戦の生々しい記憶が依然として強く残っていた。オスマン帝国は第一次大戦での敗北で崩壊し、地上から消滅した。その強烈すぎる記憶ゆえに、トルコは、第二次大戦では困難ではあるが中立の道を選択した。だが大戦での戦略的要衝に位置するトルコは、連合国側、ドイツそしてソ連からの強い圧力に曝され続けた。
連合国側が優位に立ち始めた1942年の12月からは、連合国陣営への参加を求めて英国が積極的にトルコへの働きかけを開始した。43 年には英国首相チャーチルがトルコを訪問し、大統領イスメット・イノニュと会談した。国際的孤立感を強めていたトルコは、こうして連合国側へ傾斜していったが、依然として、ドイツの報復攻撃を恐れ、参戦には躊躇していた。しかし、ドイツを包囲するバルカン戦線を築こうとする連合国側は、トルコの参戦を強力にせまり、ついに1945年2月23日、トルコは、ドイツと日本に宣戦布告をした。大戦後に設立される国際連合の原加盟国にトルコを加える条件として、3月1日までの参戦という期限を、連合国側が突きつけたためだった。トルコは、かろうじて、期限に間に合い、これをきっかけに、戦後すぐに始まった冷戦体制で、西側陣営へ加わった。
1947年3月12日、米国は、トルーマン・ドクトリンを発表し、冷戦時代が始まった。ソ連を封じ込めようとする米国新戦略にとって、ソ連と国境を接するトルコの重要性は、一気に高まった。トルーマン・ドクトリンに基づき、米国はトルコへの軍事、経済援助を決定し、トルコとの軍事援助協力条約を締結し、同年9月1日、トルコ政府はこれを批准した。米国は、同年6月には欧州の戦後経済復興を援助するマーシャル・プランを発表し、翌48年4月、その実行機関として発足した欧州経済協力機構(OEEC)、のちの経済協力開発機構(OECD)にトルコを加えた。
1950 年6月、冷戦が直接的軍事衝突となった朝鮮戦争が始まると、トルコは米国の軍事的、経済的支援に答え、国連軍の一員としての派兵を決定した。ソ連の脅威を国境を接して直接的に感じていたトルコは、前年4月に発足した北大西洋条約機構(NATO)への加盟を熱望していた。トルコ軍の朝鮮半島での活躍によって、1952年2月18日、その加盟が実現した。
国内にこもっていたトルコ軍は、第二次大戦から、朝鮮戦争、NATO加盟に至る間、初めて、外部世界との直接的接触を経験した。旧態然とした装備しか知らなかったトルコ軍の将校、兵士には、先進的軍隊、とくに米軍の近代性、豊かさは、大きな衝撃だった。
現在はイスタンブールで、悠々自適の引退生活に入っているO氏は、徴兵で朝鮮半島に派遣された一人である。O氏が、自身の衝撃ぶりを語ってくれた。
当時の貧しい経済状況を反映して、トルコ兵の服装は、清潔にはしていたが、品質が粗悪で、つぎだらけだった。だが、米軍が支給してくれた兵服は、トルコでは見たこともないほど品質が良かった。最初の驚きは、長靴がナイロンの袋に入れられて、配られたことだった。当時、ナイロンは、トルコでは、まだ珍しく高価だった。朝鮮へ向かう輸送船の中で、トルコ兵たちは、ナイロン袋の奪い合いを演じた。
トルコ軍の食事は、通常、クルファスルイェと呼ばれる豆のトマト煮と、油で炒めてから炊くピラフと通称されるご飯と相場が決まっていた。日本で言えば、味噌汁とご飯に当たる最も基本的な食事である。だが米軍には、あらゆる種類の食品があった。食文化の違いで、口に合わないものもあったが、O氏は、生まれて初めて、パイナップルを食べた。彼によると、当時のトルコ兵の識字率は50%程度だった。米軍兵士の知的レベルの高さにも驚かされたという。
トルコ軍は、アタチュルク思想の体現者として誇りを持ち、国民から最も信頼され、尊敬される国家機関とされながら、他国の軍と比較した際のみじめさは覆うべくもなかった。経済政策のまずさによるインフレの進行で、当時のトルコの定収入労働者は困窮生活を強いられた。
軍将校も例外ではなかった。貧富の格差は拡大し、尊敬されるべき軍人も貧しいがゆえに、世の中で見下される現象も起きるようになっていた。
このころは、米国の援助で軍の近代化が進んだ一方、共和国建国以来の軍人の誇りが傷付けられ、軍人たちが、鬱積した不満を政治批判へと醸成していった時代でもあった。
1938年11月のアタチュルクの死後、軍は内部からばかりでなく、外的要因によっても、その立場を変化させられていった。アタチュルクを継いで、第二代大統領に就任したイノニュは、独立戦争の英雄であり、軍は依然として共和人民党とその政府との一体感を維持していた。
イノニュは独立戦争で、侵攻してきたギリシャ軍を破った英雄であり、アタチュルクの盟友と言える存在だが、第二次世界大戦中の強権的政策のせいで、トルコ人には今でも、あまり好かれてはいない。だが、イノニュは大戦末期に変化した。おそらく、直接的にイノニュに影響を与えたのは、英国首相チャーチルである。影響という穏やかなものではなく、恫喝という表現が正しいかもしれない。
チャーチルはイノニュに会い、大戦で中立を表明したトルコを連合国側につけるため、多大な外交エネルギーを費やした。その努力によって、イノニュは次第に連合国側へ傾斜し、国家支配体制もファシズム的全体主義から西欧型民主主義の導入へと向かい始めた。中立から連合国加盟への変換とは、軍事面だけでは許されなかったのだ。
1944年1月12 日、軍参謀総長フェブジ・チャクマクが辞任した。1921年以来その座にあったチャクマクの辞任は、イノニュの民主化志向によって、国家における軍の立場が変化をしたことを示した最初の兆候だった。このとき、チャクマクは、政府が軍に対して文民支配を確立しようとしている、と辞任理由を表明した。イノニュが、一党独裁を脱し複数政党制へ移行する動きを開始したのは明らかだった。戦後を睨み、勝者の側に参入するには、民主主義の導入が不可欠だったからだ。
戦後の1945年11月1日、イノニュは「政治制度を抜本的に変革し、新たな世界情勢に対応させる用意がある」と演説し、さらに「トルコの主たる制度的欠陥は、反対政党の欠如である」と強調し、複数政党制の導入を公式に表明した。アタチュルク時代の実験はあったが、共和国初の本格的複数政党制は、こうして開始された。複数政党制の導入とは、共和人民党と不可分の関係にあった軍にとっても、国家における自らの絶対的な立場が相対化されることであり、共和国発足以来の軍の画期的転換点となった。 
8 複数政党制の時代
イノニュが複数政党制を宣言する以前に、共和人民党の党内には、新たな潮流が生まれていた。共和国は樹立以来、国家主導の統制色の強い経済政策を進めていた。だが、新国家の中にも、次第に民間資本が育っていた。新たな資本家層は、経済政策の自由化を志向し、彼らを代表する勢力が党内に生まれていた。党指導部とも対立するようになり、複数政党制の宣言から一か月後の1945年12月1日、中心人物四人が脱党し、翌46年1月7日には、新政党「民主党」を結成した。
しかし、民主党の基本思想もアタチュルク思想が根幹であり、共和人民党と大きな差異はなかったが、一党支配時代の権威主義的政策の批判、国民による下からの政治的主導権確立を強調するなど、抑圧的体制からの脱却を渇望する大衆への迎合に成功し、民主党の人気はいっきに高まる気配をみせた。この動向に危機感を覚えたイノニュは、民主党の組織作りがまだ整っていない46年7月21日、総選挙に踏み切った。この結果は予想通り、共和人民党が、国会定数465 議席のうち、395議席を獲得して大勝した。民主党は64議席に留まった。
イノニュはこれに続いて、民主党人気を先取りして、一連の自由化政策を実行した。経済面では、平価リラの引き下げ、税制改革、金取引の自由化、輸入規制緩和などを実行した。また1947 年には、労働組合結成を認めた。報道機関、社会団体への規制も緩和され、大学自治も確立した。注目すべきは、1950 年に長く禁止されていた宗教教育も復活したことだ。このころ民主党から分離して発足した「国民党」が保守的、宗教的立場をとり、支持を高めようとしていた。アタチュルク革命の逆行とも言える宗教教育復活も、人気取り政策の一環であった。
だが、この自由化の期間は、経済的には、高インフレをもたらし、貧富の格差、富の偏在を生み、政治的には、自由をより多く求める欲求を拡大させた。こうした状況のもとで、複数政党制による第二回目の総選挙が、1950年5月14日実施された。その結果は、民主党も驚く与野党大逆転となり、国会定数487議席のうち、民主党が420議席を占めた。共和人民党は、わずか63議席に凋落し、国民党が1議席を取った。
1950年5月29日、新国会は、大統領にジェラル・バヤル、首相にアドナン・メンデレスを選出した。また外務大臣には、フアト・キョプリュルが就任した。いずれも共和人民党を離党し、民主党を設立した中心人物である。実際の権力は、メンデレスに集中した。始まったばかりの冷戦で、西側陣営の最前線国トルコに、民主化の旗手として登場した政権を米国も歓迎した。
だが、この政権を特徴付けたものは、常に、共和国を牽引してきた共和人民党と軍への恐怖心であった。国会で絶対多数を掌握しながら、民主党は、その自縄自縛から逃れられず、民主化とは逆に、反対勢力への抑圧を次第に強め、強権支配の性格を濃くしていった。そして、最後は、1960年5月27日、軍の若手将校が主導権を握ったクーデターで倒された。
現在のトルコ国家支配体制において、軍は最高指導部を頂点とする確固たる政治的意思の統一を達成している。60 年クーデターは、共和国初期の軍が、国際的、国内的政治情勢の変化の多大な影響を受けて変質している中で、内部的な統一がないままに政治に直接介入した点で、今日の軍支配体制に至る過渡期を象徴する大きな事件であった。
50 年総選挙での予想外の大勝で政権を獲得した民主党は、支持基盤の拡大と共和人民党の孤立化を目論んで、共和国発足以来の国是である世俗主義によって抑制されていた国民の宗教的欲求を満足させる策に出た。この人気取り政策は、イノニュがイスラム宗教教育の再開で実行済みだったが、民主党は、さらに、1951 年、アタチュルク時代に禁止されたイスラム聖職者養成学校イマム・ハティプを再開し、宗教教育予算も増額した。こうした一連のイスラム復活策は、宗教に敵対的だった共和人民党との違いを強調することによって、依然としてイスラム伝統が支配するトルコ社会に、民主党政権の存在意義を訴えるものだった。
この人気取り政策の結果、モスクは再び賑わい、イスラム聖職者たちは大衆への影響力を回復していった。非合法化されていたタリカット(イスラム教団)も活発な活動を再開した。民主党の意図は決して世俗主義路線の放棄ではなかったが、現在の世俗主義信奉者が、イスラム政党の強さに不安を覚えるように、当時も、アタチュルク思想から逸脱しかねないイスラムの復活気運は警戒され、反民主党勢力を結集させた。イノニュ時代に自治が確立された大学が、その中心になり、多くは共和人民党を支持した。 
9 60年クーデター・・軍秩序の開始
1953年7月12日、国会は大学法を改定し、大学の財政、教育、人事権限を制限し政府の介入を強化した。同年12月14日には、共和人民党が公共資産を不正使用したとして、党資産を没収し、同党に直接の圧力を加えた。伝統的な党機関紙ウルスも、このとき発行禁止となった。こうした一連の政治的圧迫は、翌54年5月の総選挙を睨んだ措置だったが、民主党は選挙で再び大勝したあとも、圧迫を継続した。同年7月には、大学教官の政治活動を禁止、55 年には、共和人民党書記長カスム・ギュレクが政府を誹謗したとして逮捕され、翌56年1月には出版法を改定して報道への統制を強化した。
こうした状況のもと、57 年10 月の総選挙で、民主党は、国会総議席610 のうち424 を占める圧倒的多数を維持したが、得票率は前回54 年の56.6 %から47.3 %に落ち、共和人民党は議席こそ178だったが、得票率は34.8%から40.6%に躍進した。
この結果、両党の対立はさらに先鋭化し、59 年には、イノニュが民主党支持の群集に攻撃される事件まで起きた。60 年に入ると、反政府勢力の批判はさらに高まり、2月には、政府高官の汚職を激しく追及した。街頭での抗議行動も広がり、軍、警察が出動する騒然とした雰囲気に覆われた。1960年5月27日の軍事クーデターへと至る状況は、このころ発火点に達し、4月18日、民主党は自らの手で、そこに火を放り込んだ。
同日、民主党は、共和人民党と報道機関の活動を調査する法案を国会に提出した。両党の激しい論争の末、共和人民党が退場したあと、民主党は賛成多数で、共和人民党の政治活動禁止と同党に関する調査委員会の設立を決定した。この結果は直ちに、各地での激しい反政府デモとなり、学生と警察が衝突し、多くの死者が出た。4月29日には全大学が閉鎖され、多数が秘密裏に拘束された。
そして5月21 日には、首都アンカラで、陸軍士官学校の学生が街に出てデモ行進を行った。
これは、政府に対する反発を、軍が初めて堂々と示した行動となった。
5月27日早朝、陸軍司令官を退官したばかりのジェマル・ギュルセル大将を指導者とするグループは、アンカラとイスタンブールの部隊、士官学校学生を指揮して、首相メンデレス、大統領バヤルのほか、閣僚、民主党国会議員らを拘束し、午前七時のアンカラ放送で、軍による政権掌握を宣言した。このグループは、「国家統一委員会」と名乗り、38人のメンバーで構成されていた。直ちに、軍全体の支持を獲得し、その後の1年5か月にわたる軍事政権の主体となった。
国家統一委員会が政権を掌握したというラジオ放送で、知識人や学生は歓喜した。彼らは、軍事クーデターというより、むしろ、革命成就の解放感を味わったのだ。この雰囲気が、1960年クーデターの性格を特徴付けている。
1950 年代は、トルコ史の大きな転換点となった。新たな政治エリートの誕生、世俗主義下で潜んでいたイスラムの再生など、現在の政治舞台の主要な役者たちは、この時代に出揃った。
軍も、自らの力で作り上げた国家と一体化したアイデンティティをそのまま維持することはできなくなった。政治、社会構造の変化によって、軍の威信は、従来のように絶対的なものではなくなったからだ。60 年クーデターは、学生や知識人、そして共和人民党にとっては、民主党抑圧政権からの脱出だったが、軍の側から見れば、反民主党勢力と連動しつつ、軍の社会的地位、国家における優位性を回復し、そのアイデンティティを再び確立する出発点となった。
だが、この出発点を準備したのは、軍の最高指導部ではなく、大佐以下の若手将校たちだった。将軍たちを最高指導者に招き、階級組織の秩序を名目上は守ったとはいえ、主体となったのは将校グループであり、その意味では、下克上であり、まさに「革命」的であった。その後の展開は、クーデターに引きずり込まれた首脳の将軍たちが、その果実を没収したあと、軍内部の不満分子を粛正しながら、トルコ国家・社会における軍の揺るぎない立場を整備していくことになる。それが完成に到達するには、1960 年に続く、71 年、80年の二つのクーデターを経る。
50 年代は様々な思想傾向が生まれたが、軍内部も、こうした世の中の動きから大きな影響を受けた。軍人たちも、様々な異なる政治的意見を持つことが可能になった。軍人の多くは、かつて一心同体だった共和人民党のもとに結集したが、同党に距離を置き民主主義の確立を重視するグループもあり、左翼や右翼、イスラム思想も浸透していた。
こうした状況を反映して、クーデター画策の中心になった14人の将校も、様々な立場にあった。彼らには、政権掌握後の統一した計画すらなかった。
クーデター後の軍首脳部にとっては、政治的秩序の回復とともに、自らの軍組織秩序の回復が急務となった。この二つの目標達成の過程自体が、現在のトルコ軍の地位確立の道筋となった。その地位を保つには、アタチュルク思想は神聖不可侵の国家原理であり、それを守護できるのは軍だけだという共同幻想の維持が不可欠である。それが、現在のトルコの統治システムの基礎になっている。
軍は、政府を越えた国家の最高権力者となった。毎月開催される国家安全評議会では、大統領、首相をはじめとする主要閣僚が参謀総長らの軍首脳に政府の政策を説明し、軍は政府に指示を与える。トルコの民主化は、根本的には、この制度の廃止である。それは、新たな革命に匹敵する体制変革になろう。 
 
欧州通貨統合とTARGET / イギリスの地位とユーロ・ユーロ取引

 

はじめに
欧州通貨統合については、内外で専門研究書から啓蒙書まで実に多くの著書が出版され、また、論文が執筆されてきている。多くの著書では、欧州通貨制度(EMS)やマーストリヒト条約へ至る過程、また、それ以後の通貨統合実現までの過程、金融機関、企業のユーロ導入に伴う対応、国際通貨としてのユーロの可能性等が論じられ、さらに、最近の日本ではアジアにおける通貨協力の観点(ドルペッグ制に替わるバスケット制創設に向けての教訓を引き出す観点)から西欧通貨統合への道程が検討されたりしている。
しかし、それらの著書、論文を読んでみると、何か欠落しているという読後感を持たざるをえない。それは、通貨統合の中心部分、ユーロ建取引の国際決済に関する叙述が欠落しているか、不充分であったりするからである。欧州通貨統合というのは、もちろん西欧諸通貨がユーロに統合されることであるが、それは如何にして可能なのか。財政規律とか、インフレ率の収束とかの視点からではなく、それ以前に決済の視点からこのことが問われていないように思えるのである。通貨統合は、統一的決済制度が新たに創設されてはじめて可能であるはずである。
決済制度がそのままで通貨統合が実現されるはずがないであろう。
もっと端的に言えば、通貨統合前は外国為替を用い、銀行のコルレス関係を利用して国際決済がなされていたのであるが、統合後はその決済がどのように変化したのか、このことをまず以って説明する必要があろう。したがって、小論ではユーロ導入に伴うEU地域におけるユーロの統一的決済機構(TARGET)の分析を行なうことを課題とする1)。しかも、この決済機構に、イギリス、スウェーデン、デンマーク等の通貨統合に未参加のEU諸国もユーロ建決済に関する限り限定付きで、「参加」が許されたのである。このことはどのように解釈したらいいのだろうか。また、この限定付きの「参加」は、とくに、ロンドン市場におけるユーロ・ユーロ取引にどのような影響を与えたのだろうか。これらのことも課題となる。 
T.ユーロ建・EU域内決済とTARGET 
1)TARGETによる国際決済
欧州通貨統合前のEU域内決済の基本様式は、もちろん、国際決済のそれである2)。つまり、外国為替を使い、銀行間の国際決済は銀行が相互に保有しているコルレス口座の振替によってなされてきたのである。貿易決済を例に、簡単に述べると、A国の輸出業者はA国通貨建の輸出手形をA国所在の銀行(a銀行)において割り引いてもらい、a銀行はその手形をB国のコルレス銀行、b銀行へ送り、b銀行はその手形を輸入業者に呈示して、その時のA国通貨とB国通貨との為替相場で換算してB国通貨で貿易代金を回収する。a銀行とb銀行の間の国際決済はb銀行がa銀行に置いているA国通貨建のコルレス口座から資金を引き落とすことで行なわれる。これは貿易決済の例であるが、資本取引でも国際的銀行間決済はコルレス口座を利用して行われることには変わりない。a銀行がb銀行へA国通貨建で送金する時、その決済はb銀行がa銀行に保有しているコルレス口座に資金が振り込まれることによりなされるのである。
通貨統合後も、以上の決済がなくなった訳ではない。依然として統合後も一部はコルレス関係を維持し、それを使って決済がなされている(もちろん、コルレス口座はユーロ建であるが)。
しかし、通貨統合によって新たな統一的決済制度が導入された。それが欧州中央銀行(ECB)とEU各中央銀行が作成したTARGETである(ECBがTARGETの管理・運営を行なう)。これによって、ユーロ地域内の決済がこれまでの国内決済と同じように行なわれるようになるのである。単一通貨ユーロの導入とはそのことが根本である。これによって1999年1月に為替相場がなくなり、実質的に各国通貨がなくなるのである。言い換えれば、ユーロ地域内の統一的決済制度が設立されないと、為替相場は消滅しない。さらに言えば、ユーロ地域内の決済費用が国ごとに異なれば為替相場は消滅しないのであるが、決済の統一によってこの差異がなくなって為替相場が消滅し、通貨統合が実現するのである。このことは理論的な原理であったし3)、これが欧州通貨統合にも当てはまるのである。2001年末までマルクやフランやギルダーといった通貨名が残るとしても、統一的決済制度ができて以後はそれらは単なる「呼称」にすぎなく、実質的にユーロに統合されているのである。
それでは、TARGETとはどのようなものであろうか。TARGET(Trans-European Automated Real-time Gross Settlement Express System)については第1図に示されている。EU15ヶ国のRTGS(Real-time Gross Settlement)システム(各国の即時グロス国内決済システム4)―各国のRTGSの名称については第1表参照)どうし、および、これらと欧州中央銀行の支払いシステム(ECB Payment Mechanism)をバイラテラルにつなぐインターリンキング・システムから成り立っている。技術的な論述を避けて、TARGETによる決済制度を説明すると、以下のようである。
TARGETが導入されることによりユーロ域内の国際決済はコルレス関係の設定がなくともTARGETによりユーロ地域内の国際決済は国内決済のように出来るようになった(イギリス等の統合未参加EU国も限定つきであるがTARGETを使ってユーロ建決済ができる―これについては後述)。先ほどの貿易決済の例で説明しよう。
A国の輸出業者とB国の輸入業者がユーロ建で貿易を行なう(A、B両国は欧州通貨統合の参加国)。輸出業者はa銀行で輸出手形を割り引いてもらい、a銀行はその手形をb銀行に送り、b銀行はその手形を輸入業者に呈示して、いまや輸入業者は輸入代金をユーロ(輸入業者がB国通貨で支払っても、統合参加各国通貨とユーロの交換比率は完全固定であるから事実上はユーロと同じ)でb銀行に支払う。残るは銀行間決済であるが、もちろん、a銀行、b銀行がコルレス関係を維持して(と言ってもコルレス残高はA、B国の通貨建ではなくユーロ建であるが)決済を行なうこともできる。しかし、TAEGETの導入によりコルレス関係がなくとも国際決済ができるのである。a銀行、b銀行はそれぞれの中央銀行にこれまで国内決済用に「預け金」を持っていたが、それを使ってユーロ域内の国際決済ができるようになったのである。b銀行がa銀行に対して決済する際、それぞれの国のRTGSを経由するTARGETを使って、B国中央銀行にあるb銀行の「預け金」が引き落とされ、A国中央銀行にあるa銀行の「預け金」が増やされるのである。最後に、2つの中央銀行間にTARGET Balanceが形成される。つまり、B国中央銀行はA国中央銀行に対して債務を、逆に言えば、A国中央銀行はB国中央銀行に対して債権を持つのである5)。
ところで、金融機関がTARGETを利用する料金であるが、もちろん、それはTARGETに繋げられている諸国においては基本的に一律である。つまり、仕向地(送金国)に関係なく、クロス・ボーダーのTARGET利用は全金融機関に対して同一料金が課せられるのである(仕向金融機関が料金を負担)6)。ただ、TARGETの利用度に応じて料金が異なっている。つまり、1ヶ月間におけるクロス・ボーダー決済件数が多い金融機関には逓減的に料金が課せられるのである。第2表によれば、1000件を超える場合は1001件から1件当たり0.80ユーロである。
かくして、TARGETへリンクしているユーロ地域においてはクロス・ボーダーのユーロ決済の費用は同一のものとなり(イギリス等の統合未参加国もTARGETにつながっているからユーロ決済の費用は同じ―後述)、為替相場が成立する根拠が消滅したのである。言い換えれば、各国ごとにユーロ地域のクロス・ボーダー決済費用が異なれば為替相場は消滅しないので、通貨統合は実現しないのである。
このように欧州通貨統合とは、銀行どうしの国際間決済であっても、RTGSを通じたTARGETの利用によりユーロ域内各国中央銀行にある「預け金」を使って同一コストでもって域内国際決済ができるようになったことを言うのである7)。さらに言えば、金融機関はユーロ域内・各国中央銀行に置いている「預け金」をユーロ域内・国際間決済資金として利用できる状態になったことを言うのである。しかも、統合参加の各国中央銀行は民間金融機関に対して融資を行なうから、中央銀行の融資が国際決済資金を補充することにもなるのである。中央銀行の融資によって銀行の「預け金」が増加するからである。つまり、対外決済用の資金をユーロ域内中央銀行が外貨準備ではなく、貸出という形で供給するのである(このことについての詳細は後述)。
また、前述のようにTARGETの利用は通貨統合に参加した諸国だけでなく、イギリス、デンマーク、スウェーデン等の通貨統合に参加しなかったEU諸国にまで広げられた。1995年のEMI(欧州通貨機構)の理事会においてEUの全中央銀行がTARGETにつなげられることが決められていたからである。通貨統合への参加決定前にEUの全中央銀行がTARGET設立のために資金を提出したというのが、一応の理由である8)。理由はともあれ、そのことによって、例えば、在英銀行はイングランド銀行にユーロ建の「預け金」を設定し、それによってコルレス関係がなくとも、ユーロ建であるならEU諸国間の国際取引の決済ができるようになったのである(イギリスの場合は、CHAPSeuroを通じて)。もちろん、これには後述のように一定の限度が設定された。このことがロンドン市場におけるユーロ取引(ユーロ・ユーロ取引)の進展にどのような影響を与えたかについては後に論じよう。
このようにTARGETが通貨統合後の統一的・包括的な決済機構であるが、同時に、ユーロ導入以前に存在していた民間機関や中央銀行が運営するネットベースの非RTGS決済機構も、ユーロ導入にあわせて編成替えを行ない、ネットベースでのユーロ・クロスボーダー決済を続けることになった。1985年以後民間ECUの決済を行なってきた「EBA・ECUクリアリング」はユーロ発足に合わせて「EBA・euroクリアリング」(EURO1)に編成替えすることを決め、ドイツのヘッセン中央銀行が運営してきた決済機構もユーロ導入後、ユーロのクロスボーダー決済を行なうことを決定した(EAF)。その他、フランスのPNS等も同様である9)。ただし、それらの決済機関も最後の収支尻についてはTARGETを使って決済することになった10)から、つまり、EBA等がECB、もしくはユーロ域内中央銀行に決済口座を開設し、ネットベースで行なってきたその日のユーロ建クロスボーダー決済の最終尻をTARGETを用いて決済することになったから、TARGETが通貨統合に伴う決済機関としては最高のものであることには変わりない11)。
以上の決済について、通貨統合前と後における様式の変化を第2図によって示しておこう。
ただこの図に関して注意しなければならないことは、通貨統合後もコルレス関係を使った決済はなくなっていないということである12)。そこで、第3図を示しておこう。統合後、実に多くの決済方式のルートがあることが知れよう。TARGETのほかにEBA (EURO1)、コルレス関係があり、しかも、コルレス関係からTARGETへ、また、EBAへ、EBAからコルレスへ、リモート・アクセス等々である。各金融機関はこれらのルートのうちから効率性、ビジネスチャンス等々を考慮して決済するのである。
そして、1999年1月以降における各決済機構の利用の様子は第4図に示されている。ユーロ決済の大部分がTARGETによりなされていることがわかろう。もちろん、この図におけるTARGETによる決済は国内決済を含んでおり、EURO1 (EBA)等の他の決済機構による決済は大部分がクロスボーダーの決済であるから、クロスボーダーだけを取り出すとTARGETの比重は低くなる(第3表)。クロスボーダーでの件数はEURO1が最大となっている。それでも、額においてクロスボーダーのTARGETはEURO1の2倍以上になっていることがわかろう。つまり、TARGETクロスボーダーは1件あたりの決済額が1000万ユーロを超え、EURO1の200万ユーロの約5倍になっているのである。また、量的な面だけからではなくEURO1 (EBA)等の他の決済機構における最終決済はTARGETを利用して行われることから、種々の決済システムの頂点としてのTARGETを把握する必要がある。 
2)短期市場における決済資金の補充
前項で見たようにTARGETがユーロ決済の最高の機構であるから、以下ではしばらくもっぱらTARGETを用いた決済の例を示そう。先ほどの貿易取引の例において、b銀行は中央銀行における「預け金」を減少させているから、それを補充する必要が出てくる。もちろん、「中央銀行預け金」は国際決済用だけでなく、むしろ、国内決済用により多く充当されているだろう。
それでも、b銀行はユーロ域内国際決済用の「預け金」を補充しなければならない。通貨統合に際して、統合参加国の金融機関は準備率規制を受けることになったことからも、その補充は必要である13)。
それでは、b銀行はどこの市場からそれを補充するであろうか。ユーロ建短資市場はユーロ域内各国に存在している。また、イギリスは通貨統合に参加していないが、ロンドンにはユーロ建の大きな短資市場(ユーロ・ユーロ市場)が存在する。b銀行は裁定を働かせて、最も有利な市場においてユーロ資金を補充するであろう。したがって、裁定が働くことによってユーロ域内短資市場は実質的に統合されていき、域内金利の統一が図られることになろう。以上のことを踏まえ、b銀行が資金補充をどのように行ない、その補充の仕方の差異によって中央銀行間のTARGET Balanceがどのように変化するかを見ていこう。
b銀行の資金補充として、まず第1に考えられる市場は自国のB国短資市場である。b銀行が同国にあるc銀行から資金調達した場合、B中央銀行にあるc銀行の預け金が減少し、b銀行の預け金が増加する。もちろん、この場合、この時点ではB中央銀行のTARGET Balanceは変化しない。同じ「中央銀行預け金」の口座間で資金の付け替えが行なわれるだけである。しかし、B国が輸入超過である場合、B国短資市場は次第に窮屈になるであろうから(B国市場での金利上昇が見られるであろう)、b銀行は他の短資市場から資金調達を行なう可能性が出てくる。裁定が働くのである。
したがって、次にb銀行が資金調達する市場としては輸出超過国のA国市場が考えられる。
b銀行がA国のd銀行から借り入れたとしよう。この場合、A中央銀行におけるd銀行の「預け金」が減少し、B中央銀行におけるb銀行の「預け金」が増加する。と同時に、2つの中央銀行間のTARGET Balanceが変化する。先ほどの貿易取引で生じたA中央銀行のB中央銀行に対する債権が減少し、貿易額とb銀行の借入額が同じであればその時点でTARGET Balanceは相殺されてしまう。
しかし、B国全体のユーロ建・経常収支と非銀行部門のユーロ建・資本収支の合計での赤字額よりも、B国の銀行全体による他の市場からのユーロ資金の調達額が下回った場合、B中央銀行のTARGET Balanceは他のユーロ域内中央銀行に対して債務超過の状態が続く。また、B国の金融機関は「中央銀行預け金」を補充するためにB中央銀行から借り入れを行なわなければならないであろう。B中央銀行が同国の銀行に対して貸付を行ない、銀行は「預け金」を補充できるのであるが、その場合、B中央銀行の他の域内中央銀行に対するTARGET Balanceは債務超過のままである。すなわち、B国のユーロ建・国際収支赤字(経常収支と資本収支を合わせた収支赤字)は、B中央銀行の他の域内中央銀行に対する債務で埋め合わされたのである。
ユーロ建の部分の国際収支は、したがって次のような式に表現することができる。経常収支+資本収支+TARGET Balance=0である。
ということは、中央銀行による民間銀行への信用供与は、そのまま当該国のユーロ建・国際収支赤字のファイナンスにつながっているということである。もちろん、B国の金融機関が他のユーロ地域の短資市場からではなく、中央銀行から資金供与を受けようとするのには高いコストが必要であり、裁定が働く。つまり、ユーロ地域における金利が上昇しているのである。
したがって、次の項で述べるユーロ短期貨幣市場の統合が進み、市場が安定してくれば(第6、7図参照)、他の市場からのユーロ資金の調達が進行して、TARGET Balanceは均衡していくであろう14)。とはいえ、中央銀行の民間銀行への信用供与(限界貸付ファシリティ―後述)はその国の国際収支赤字に対する決済の最後の手段になっていることを忘れてはならない。 
3)ユーロ短期貨幣市場15)の統合
以前の項で見たようにEU地域におけるユーロ決済機構としてTARGETが成功裏に機能した。そして、これから見るように、このことによりユーロ地域における短期貨幣市場の統合が速やかに進展していった。ドイツ・ブンデスバンクが言うごとく16)、TARGETはユーロ・短期貨幣市場の統合に不可欠であり、それに貢献したのである。
第4表に見られるようにユーロ導入によって短期貨幣市場における取引はかなり増加した。
98年第4四半期に比べて99年第2四半期にドイツでは38%、全ユーロ地域では16%の増加である。とくに、期限の短い取引において増加の率が大きい17)。しかも、ブンデスバンクによると、短期貨幣市場における取引の半分以上が国境を越えた取引であり、それは1日に決済額が3500億ユーロにも達しているTARGETによって知れるという18)。つまり、TARGETによりクロスボーダー短期資金取引が増加し、それによってユーロ地域における当該市場が急速に統合していったと言うのである。各市場間に裁定が生じ、99年にはオーバーナイト金利はユーロ地域の諸市場間で2−3ベイシスポイント以上の差は見られなくなったとブンデスバンク言う19)。ユーロ・オーバーナイト金利が単一なものへ収束していき、まさに、短期貨幣市場は統合されていったのである。
そして、短期貨幣市場の急速な統合は、オーバーナイト金利指標としてEONIA、銀行間・定期預金金利指標としてEURIBORを速やかに成立させ、これらの指標はeuroLIBOR(ロンドン市場におけるユーロ建・銀行間金利)に取って替わった20)。EONIAとロンドンにおいて利用されるユーロ建オーバーナイト金利指標(EURONIA)の金利差は縮まってきているとはいえ、なお存在している(第5図)。このことは、ロンドン市場におけるユーロ・ユーロ取引金利(EURONIA)とは別に、ユーロ地域における短期貨幣市場が統合されることによって、ユーロ地域全体のユーロ金利(EONIA)が成立したこと、そして、後者が前者を規定していることを物語っている。
このように、ユーロ導入直後に、TARGETが成功裏に機能することによってユーロ地域の短期貨幣市場が統合されていったのであるが、通貨統合が実施される1999年の初めに、欧州中央銀行(ECB)とユーロ地域の中央銀行(Eurosystem)は多額のstanding facilitiesを供与することによって短期貨幣市場の安定化を図ろうとしたことも事実である。これが成功しなかったら、もちろん、市場の統合には時間がかかっただろうし、通貨統合は混乱した可能性がある。
前述のように(注13も参照)、ECBの金融政策が機能しやすい環境が準備率制度の導入によって作られたことも事実である。この制度によって金融機関のEurosystemの信用供与に対する依存が高まったのである。第6図は1999年初めのstanding facilitiesの状況を示している。
Eurosystemが、99年1月の通貨統合当初、EONIAがリファイナンス金利21)から遊離し、限界貸付金利に張り付いている中(このことは市場が十分に機能していないことを示すもの―第7図)で、多めの流動性を供給したこと、他方で最低必要準備額よりも多くの資金を保有することになった金融機関は過剰の資金を預金ファシリティにおいて運用していることが知れよう。かくして、Eurosystemは通貨統合実施の不安定な時期に多めの流動性を供給し、短資市場の安定化を図ろうとしたのである。その結果、EONIAはリファイナンス金利に近づいていき、それに伴いstanding facilitiesの供与も次第に減少して22)、ユーロ地域の短期貨幣市場は通貨統合に見合った新しい短期貨幣市場として編成替され、自立していったのである。 
U.イギリスとユーロ・ユーロ取引 
1)通貨統合不参加EU国のTARGETへのリンク
前に述べた通貨統合未参加EU国のRTGSがTARGETにリンクしユーロ建決済が出来るということの内容と意義とについてこの項では論述しよう。統合未参加国のRTGSがTARGETにリンクしユーロ建決済が出来るということは、欧州中央銀行(ECB)が言うように23)、これまでにない全く画期的なことである。どの国がこれまで自国通貨建の決済機構への参加を他国の中央銀行に許したことがあろうか。
未参加国のRTGSがTARGETに繋げられてユーロ決済が出来るということは、それらの諸国の金融機関がそれらの中央銀行にユーロ建の「預け金」をもち、それが国際決済資金に用いられるということ、また、未参加国の中央銀行がユーロ地域の他の中央銀行に対してTARGETBalanceを持ちうるということを意味する。未参加国のRTGSがTARGETに繋げられたら、一時的であれ、TARGET Balanceが形成されざるを得ないからである。しかし、ユーロ地域の銀行、および中央銀行と同等の条件が未参加国の金融機関、中央銀行に与えられたら、通貨統合の意義がなくなってしまう。そこで後に述べるようないくつかの条件が課せられることになる。とはいえEU諸国の統合未参加国に所在する金融機関が同国の中央銀行にユーロ建の「預け金」を持つこと、未参加国・中央銀行が一時的に事実上、「TARGET Balance」(未参加国中央銀行のESCBへの預金を見返りに―後述)をもつことが最終的に98年の7月に認められたのである。
例を出してそのことを説明しよう。イギリス、デンマーク等の未参加国もユーロ建で貿易や資本取引を行なうだろう。そういう時に、それらの諸国はRTGS、TARGETを経由してユーロ決済が出来る。例えば、イギリスの輸入業者がユーロ建で輸入した場合、在英銀行はユーロ建の「中央銀行預け金」を減少させ、イングランド銀行は他のユーロ域内の中央銀行に対して債務のTARGET Balanceを形成するであろう。在英銀行は「預け金」の減少を補うために、ロンドン市場で、あるいは他のユーロ地域の短資市場においてユーロ資金を借り入れるだろう。ロンドン市場でユーロ資金の補充が出来るということは、輸出等のユーロ建・経常取引での黒字があるか、もしくはイギリスへ何らかのユーロ資金が流入しているからである。それらがなければ、在英銀行はユーロ地域の他の市場から資金調達しなければならない。また、その額が、ユーロ建経常赤字とイギリスへのユーロ資金流入額の合計を下回った場合、イングランド銀行は在英銀行にユーロ建で貸付を行なわなければならない。
しかし、ここに制限が付けられた。この貸付についてはイングランド銀行等の未参加国の中央銀行はオーバーナイトではできないことになったのである。これが認められれば、イングランド銀行もユーロに関して「最後の貸し手」になるからである。また、もし、オーバーナイトでこれができれば、統合未参加国もユーロ建・国際収支(経常収支と銀行の資本取引を含む資本収支の合計)赤字ファイナンスをTARGET Balanceによって受けられ、通貨統合参加国と未参加国との差異がなくなり、未参加国にとってきわめて有利になる。当然、これは認められないことになった。
ところが、未参加国のRTGSをTARGETに連結させることを認める以上、未参加国の中央銀行が一時的にであれTARGET Balanceを持つことは避けられない。そこで、未参加国中央銀行が金融機関に対してその日のTARGET稼動時間内に限って信用(=「日中流動性」)を供与すること(したがって、信用供与はオーバーナイトにはならない)、しかも、それに対しても条件をつけることで、ECB政策理事会において統合参加諸国と未参加諸国の合意を見たのである(1998年7月)24)。信用供与が「日中流動性」に限定されるということは、未参加国金融機関がユーロ建・「中央銀行預け金」を減少させた場合、金融機関はその日のうちにユーロ資金の手当てをしなければならないということであり、在英銀行であればロンドン市場でその手当てが出来なければ、その日のうちに他の市場から資金調達してこなくてはならないということである。その結果、未参加中央銀行のTARGET Balanceはオーバーナイトになることが防止される。
さらに、未参加国・中央銀行の「日中流動性」の供与に対して、98年7月のECB政策理事会は、それらの中央銀行がESCBに預金を積むことを義務付けた。イングランド銀行は30億euro、その他のEUの未参加中央銀行は10億euroである。したがって、イングランド銀行が言うように、未参加国の中央銀行が日中流動性を供与することができるといっても、それは他の域内中央銀行からの融資ではなく、ESCBに預金として積まれた自己資金の引出しという性格を持つということ25)、換言すれば、未参加中央銀行は他の中央銀行に対して債権をいつも保持しているのである26)。つまり、未参加国中央銀行がESCB(欧州中央銀行制度)から信用供与を受けて、それでもって国内金融機関に対して日中流動性を供与することは認められなかったのである。
また、未参加国の金融機関への「日中流動性」に対しては、1銀行あたり10億euroの上限が課され、その日のTARGET終了時までに返済できなかった場合は、ECBの限界貸付金利(marginal lending rate)に加えて5%のペナルティ金利が課せられるばかりでなく、繰り返されると「日中流動性」の供与そのものが拒否され、TARGETシステムの利用から排除されることになった27)。ECBの限界貸付金利は、ユーロのオーバーナイト市場金利の上限であるから、限界貸付金利に加えて5%のペナルティが課せられるということは、未参加国の金融機関にとっては非常に厳しく、日中流動性はその日のうちに返済を余儀なくされるであろう。さらに、度重なる返済の遅延はTARGETシステムからの排除にもつながるという厳罰が課せられたのである。
もちろん、ユーロ地域の金融機関は各国中央銀行からオーバーナイトでの融資を受けられるだけでなく、無制限の「日中流動性」の供与を受けることができるから28)、以上のように未参加国に対しても「日中流動性」の供与が認められたといっても、それに対して厳しい条件が課せられたことから、その立場の相違は歴然としている。 
2)ロンドンにおけるユーロ・ユーロ取引
さて、以上のように「限定」が付けられながらであれ、イギリス等の統合未参加のEU諸国がTARGETに繋げられて、それら諸国のユーロ建取引の国際決済は容易になり、ユーロの国際通貨としての地位を高める条件が整ったのである。また、このことは、とくにロンドン市場においてユーロ・ユーロ取引の活発化を促すだろう。しかも、EU諸国におけるユーロ・ユーロ取引の場合は、以前のユーロ・カレンシー取引とは違う性格を持つ。と言うのは、以前のユーロ・カレンシー取引は、その決済がコルレス関係を利用して、その通貨当該国の銀行制度内においてなされてきたのであるが29)、ユーロ・ユーロ取引についてはEU諸国であれば、中央銀行における「預け金」によっても決済ができるからである。例えば、ロンドン市場内におけるユーロ・ユーロ取引はイングランド銀行に置かれているユーロ建・「預け金」の付け替えによって決済できるのである。また、在英銀行が通貨統合参加国の銀行に貸し付けるクロス・ボーダーでのユーロ・ユーロ取引であれば、その在英銀行のイングランド銀行にあるユーロ建「預け金」が減少し、借入れ銀行の「中央銀行預け金」が増加し、イングランド銀行と借入れ銀行の中央銀行間にTARGET Balanceが形成されることにより決済されるのである。もちろん、ユーロ・ユーロ取引はコルレス関係を以前のように維持して決済できることは言うまでもない。
しかし、ユーロ・ユーロ取引の新たな決済様式をロンドン市場等の未参加国のEU各市場は得たのである。しかも、それらの市場はユーロ・ユーロ取引の「日中流動性」の便宜も得たのである。ロンドン市場におけるユーロ・ユーロ取引の状況については後に再び触れることにして、先ほどの例に戻り、B国のb銀行がロンドン市場からユーロ資金を取り入れる事例(ユーロ・ユーロ取引)を考察することにしよう。
b銀行がロンドンにあるe銀行からユーロ資金を借り入れた場合、各口座の変化は次のようになろう(TARGETを利用)。b銀行の「中央銀行預け金」が増加し、e銀行のイングランド銀行にあるユーロ建・「預け金」が減少するだろう。同時に、イングランド銀行のB中央銀行に対するTARGET Balanceが減少し、B中央銀行のイングランド銀行に対するBalanceが増加する。
ロンドンのe銀行はb銀行への貸付のためにユーロ資金が足らなくなり、ロンドンのf銀行から資金調達するかもしれない。その場合には、イングランド銀行に置かれているユーロ建の「預け金」の間で口座振替が行なわれるだけで、TARGET Balanceには変化が生じない。ところが、イングランド銀行からはユーロ建では融資がその日の期間(=「日中流動性」)しか与えられないために、f銀行はe銀行への貸付を渋るかもしれない。そこで、e銀行が資金補充をA国のg銀行から行なえば(A国が輸出超過のため資金が潤沢でありコストが低い)、g銀行のA国中央銀行における「預け金」が減少し、同時にイングランド銀行のA中央銀行に対するTARGET Balance(債権)が増加し、e銀行のイングランド銀行にある「預け金」が増加する。
この場合には、B国のA国からの輸入のために最初に生じたA中央銀行のB中央銀行に対するTARGET Balanceはイングランド銀行のそれも含めて相殺されてしまう。
かくして、ロンドン市場におけるユーロ・ユーロ取引は活発であるが、イングランド銀行による「日中流動性」の供与は限定されているために、ロンドン市場はネットでのユーロ資金の供与は出来ないのであり、仲介市場のままである。そうは言っても、イギリスがTARGETに繋げられ、「日中流動性」の便宜を獲得したことにより、ロンドン市場はユーロ・ユーロ取引に関しては他のユーロ・カレンシー市場に比してはるかに有利な市場になった。
以上はすべて、イギリスのRTGS (CHAPSeuro)、TARGETを用いた決済である。しかし、在英銀行がイングランド銀行からユーロ資金の供与を受けるには前に見たように限度があり、他方で、EBA等のnon-RTGSの決済機構やコルレス関係も残っていることから、在英銀行はそうした決済機構も使ってユーロ・ユーロ取引を行なうであろう。ここでは、コルレス関係を使った場合を例にとろう。
先ほどのb銀行がロンドンのe銀行からユーロ資金を調達する場合、e銀行がユーロ地域にコルレス網を保持しており、e銀行のユーロ地域にある現地法人銀行(h銀行)を決済機関として利用するとしよう(簡単化のために、以下の全ての銀行がh銀行にユーロ建・コルレス口座を持っているとする)。e銀行が貸し付けた資金はh銀行にあるb銀行の口座に振り込まれ、同じくh銀行にあるe銀行の口座から資金が引き落とされる。e銀行のバランスシートはh銀行への債権が減少し、b銀行への貸付に変わるだけで、ネットではイギリスからの資金フローはない。e銀行が資金を補充しようとしてロンドンのf銀行から借り入れを行なえば、f銀行がh銀行に持っていたコルレス残高から資金が引き落とされ、h銀行にあるe銀行の口座に振り込まれる。そのかわり、f銀行のe銀行に対する債権が増加する。ここでもネットのイギリスの資金フローは生じない。
さらに、f銀行がA国のg銀行から借り入れて資金補充を行なったとしよう。この場合も、h銀行にあるg銀行の口座から資金が引き落とされて、f銀行の口座に振り込まれ、f銀行のバランスシートは債務がg銀行からの借り入れへ、債権がh銀行への預金と変化してネットでは変わりがない。
いずれにしても、コルレス関係を利用したユーロ・ユーロ取引ではイギリス市場のネット資金の移動は生じなく、ネット資金の移動があるのは、イングランド銀行からの「日中流動性」が供与されているその日限りということである。在英銀行がユーロ・ユーロ取引においてイングランド銀行からの「日中流動性」を利用するのは、インターバンク取引での相手が直ちに見つけられない時に、その営業日内において一時的に利用するのに限られるであろう。それでも、インターバンク取引の相手がすぐに見つけられないときに、イングランド銀行から「日中流動性」が供与されるのは在英銀行にとってユーロ・ユーロ取引を行なっていく上で、他のユーロ・カレンシー市場と比べてきわめて有利な条件と言えよう。
以上で、イギリスにおけるユーロ・ユーロ取引の決済がおおよそつかめた。ロンドンにおけるユーロ・ユーロ取引の現状(ロンドンにおけるインターバンク取引は含まれていない)が第5表に掲げられている。2000年に入り取引額が少し減少しているが(とくに、他の中央銀行との取引において)、ユーロ・ユーロ取引は額においてユーロ・ダラー取引に近いものになっている。ユーロ導入後もユーロ・ダラー取引が最大であることに変わりがいないが、ロンドンは最大のユーロ・ユーロ市場なのである。2000年6月時点で全ユーロ・カレンシー取引(ポンド以外の通貨の対外債権)の45%がユーロ・ダラーであり、35%がユーロ・ユーロとなっており30)、その差はそれ程ではない。ロンドン市場におけるユーロ・ユーロ取引の比重の大きさが知れよう。ユーロ・ユーロ取引の市場ごとの規模を示す統計は存在しないが、ロンドン市場が最大規模を誇るであろう。
それは、通貨統合未参加国・EU諸市場の中でロンドン市場が最大の金融市場であることに加えて、これまでに見てきたように統合未参加EU国でもTARGETに繋ぐことが許され、在英金融機関はユーロ建の「中央銀行預け金」の設定が行なわれるという従来のユーロ・カレンシー市場にはかつてない有利な条件を与えられたことに起因する。ロンドン市場に勝るユーロ・ユーロ取引市場は今後も生まれてこないだろう。それにロンドン市場でユーロ・ユーロ取引を活発にさせるもう1つの要因は、ユーロ導入に伴う最低準備率制度の導入である。つまり、ユーロ地域においては金融機関に準備率が課せられるのに、ロンドン市場では一律の規制は存在しないのである。それ故、通貨統合未参加国の「日中流動性」に関する制限のために、EONIAとEURONIAの金利差が生じている(EONIAに規定されたEURONIA31)―前掲第5図)にもかかわらず、ロンドンでのオーバーナイト・ユーロ預金は増加傾向にある(第8図)。
また、オーバーナイト以上の期限をもつインターバンク金利にはほとんど金利差が生じていないという。つまり、ロンドン市場におけるeuroLIBORとユーロ地域における同じ金利指標であるEURIBORの金利差は1ベイシスポイント以内であるという32)。
[ 第5表 在英銀行の通貨別対外取引(100万ドル) ]
euroLIBORとEURIBORがほとんど一致しているのは、在英金融機関への「日中流動性」についての制限があっても、在英金融機関は「日中流動性」の返済を滞りなく行なっており、また、TARGETへのリモート・アクセス33)を利用したり、ユーロ建決済をTARGETのみならず、EBA (EURO1)を用いたり、効率的なコルレス関係を使って決済しているからであると考えられる。それらを反映して、ロンドンにおけるユーロ建CPの発行残高も1999年から増加してきている(第9図)。
本項の最後にイギリスも含めたユーロ導入後のEU内における短期マネーフローについて触れておこう。上にロンドンにおけるユーロ・ユーロ取引に触れたが、ロンドン、フランクフルト、それに他のユーロ地域と、この3者の間での1つの型と思われる資金フローが形成されてきているのである(これらの型が今後も続くのかは予断を許さないが)。
[ 第9図 ロンドンにおけるユーロ建コマーシャル・ペイパーの発行残高 ]
第10図を見られたい。ブンデスバンクのTARGET Balanceはユーロ地域外の中央銀行に対して債権超過であり、ユーロ地域内の中央銀行に対して債務超過になっている。ブンデスバンクのTARGET Balanceが債権超過であるということは、ドイツの金融機関に対して海外からクロス・オーバーで支払いがあるということ、つまり、経常収支項目であれ、資本収支項目であれ、ドイツに資金が流入しているということである。逆に、TARGET Balanceが債務超過であるということはドイツの金融機関から資金が流出しているということを示す。したがって、この表により、ドイツの短期貨幣市場がユーロ地域外のTARGETメンバー国、とくにイギリスから資金を取り入れていること34)、そして、その資金を同日中にユーロ地域諸国へ放出していることが把握できる。ブンデスバンクが言うように35)、ドイツの金融市場はEUのユーロ地域内と地域外との間の資金仲介としての役割を果たしているのである。しかし、この資金フローのパターンが今後も継続するかどうかは、予断を許さない。フランクフルト以外のユーロ地域の各市場とロンドン市場との直接的な裁定取引が円滑に進めば、これは変化するであろうし、ロンドン市場におけるユーロ・ユーロ取引の諸条件の変化、さらにはロンドン市場とフランクフルト市場との競争等によって変化するであろう。
[ 第10図 ブンデスバンクのTARGETバランス1)(1999年) ] 
3)まとめに代えて / 通貨統合以後の外国為替取引
以上のように、TARGETがうまく機能し、ユーロ建取引のクロスボーダー決済が順調に進み通貨統合が成功裏に進行したため、西欧諸市場における外国為替取引額は減少しているものと思われる。ユーロ地域諸通貨どうしの取引がなくなったからである。しかし、外国為替取引額の減少はそれだけではなさそうである。第11図を見ると、1999年、2000年におけるユーロとドルの取引額は、1998年におけるマルクとドルとの取引額よりも下回っている。しかし、ユーロと円の取引額、ユーロとスイス・フランとの取引額はかなり増加していると言う36)。
詳細は、2001年春にBISが取りまとめ機関となって実施される外国為替市場調査を待たねばならないが、その理由としては、とりあえず以下のようなことが考えられよう。第1に、ドルとユーロの取引額がドルとマルクとの取引額よりも少ないのは、これまで金融機関は持高調整と並行させながら、西欧諸通貨とドルとの間の種々の裁定取引(裁定取引の中心はドルを一方とするもの)を行なってきたが37)、通貨統合によってユーロ地域の諸通貨が「消滅」したため、為替調整取引の必要性が減少して、ドルとの裁定取引を行なう機会が少なくなったからである。
第2に、ユーロの導入により、従来の西欧諸国通貨とよりも、ユーロと円やスイス・フランの間で一部はドルを媒介にしない裁定取引が発生した可能性があること、第3に、ユーロと円、スイス・フランの裁定取引以外の実需的な取引が増加した可能性があることである。
今後のユーロの外国為替取引額の推移は、ユーロが国際通貨としての地位を高めて、統合未参加のEU諸国、東欧、アフリカ諸国の一部において為替媒介通貨として利用され、また、ユーロ地域の諸金融市場の深化によって、各国の金融機関がユーロとドルとの間の裁定取引をどれくらい活発化させるかによっているであろう。 

1)TARGETについての邦語文献では、『日本銀行調査月報』1998年8月号に掲載された大橋千夏子「通貨統合後の欧州のペイメントシステムについて」が最も包括的である。しかし、この論文も「技術的」論述に終始しており、その経済学的な把握は弱い。しかも、小論で後に述べるTARGETBalanceについての言及はない。
2)ここでは、通貨統合前の基本的な決済様式であるコルレス関係を使った決済について述べている。
3)筆者によるこの把握については以下を参照されたい。「外国為替と為替相場」吉信粛編『貿易論を学ぶ』有斐閣、1982年 第7章。
4)RTGSとは時点ネット決済と異なり、取引の一つ一つをその場で完了させるもので、決済リスクを伴わない。EU各国は通貨統合にむけて決済リスクを伴わない「RTGS=即時時点決済」化の準備を行なってきた。
5)TARGET Balanceという用語は、欧州中央銀行のTARGETに関する文書には見当たらない(例えば、European Central Bank、 Third Progress Report on the TARGET Project、 Nov.1998、 TARGET (Trans-European Automated Real-Time Gross Settlement Express Transfer System)、 July 1998、 ÔTARGET and payments in euroÕ in ECB、 Monthly Bulletin、 Nov.1999 )。この用語はブンデスバンクの月報において「TARGET balances at the Bundesbank」(Deutsche Bundesbank、 Monthly Report、 Jan.2000、 p.23)として用いられ、その概念は小論の本文のような趣旨であると考えられる。つまり、EU内ユーロ建・国際決済が最後には中央銀行間の債権・債務関係の形成につながり、その債権・債務がESCBにおいて記帳されているということである。ブンデスバンクの言うTARGET Balanceは国際収支表のFinancial accoutにおけるBundesbankの項を見ればよい(Monthly Reportにもその記述が見られる。例えば、Jan.2001、 pp.13-14)。Monthly Reportの統計欄ではExternal position of the Bundesbank in the European monetary unionの「Claims within the Eurosystem」と「Other claims on non-euro-area residents」の一部がそれにあたる。
欧州中央銀行等のTARGETについて説明する文書に「TARGET Balance」という用語が使われていなくとも、バランスシート、為替理論の基本を踏まえれば、それは存在しなければならないものであり、その概念もつかめる。
他方、イングランド銀行の文書(Practical issues arising from the Euro、 June 1999、p.50)には「TARGET accounts with the ESCB」という用語が使われている。これはブンデスバンクのTARGET Balanceという用語の使い方と若干異なり、イングランド銀行が「日中流動性」を供与する際に引当金として積まれるESCBにおける預金のことである。イングランド銀行が形成できる「日中」のTARGET Balanceはこれが事実上の上限である(後述)。
6)European Central Bank、 Third Progress Report on the TARGET Project、 Nov.1998、 pp.7-8、 Bank of England、 Practical Issues Arising from the Introduction of the Euro、 17 Sep.1998、 pp.61-62、 ECB、 Monthly Bulletin、 Nov.1999、 p.43. 欧州中央銀行はそれぞれのコストを考慮して、各RTGS利用の料金は各国ごとに決めることを認めた。しかし、同時に欧州中央銀行は、通貨統合後における短期貨幣市場の単一化の妨げにならないように、各RTGS利用の料金は大筋において同じになることを提唱している(ECB、 op.cit.、 Nov.1998、 p.7)。各国の国内RTGSの利用料金は平均すれば平均して1件当たり0.47ユーロである(Ibid.、 p.7)が、イギリスのCHAPSeuroの国内利用料金は1件当たり0.22ユーロ(約15ペンス)である(Bank of England、 Practical Issues Arising from the Introduction of the Euro、 17 Sep.1998、p.62)。いずれにしても、国内RTGSの利用料金は小額である。
7)ECBの文書にもブンデスバンクの文書にも記載がないが、TARGET Balanceには利子がつかないものと思われる。ESCB内の残高であるから。これに利子がつき、そのコストを民間金融機関に負わすことになれば、ユーロ地域内における決済費用は国ごとに異なり、為替相場は消滅しないであろう。したがって、もし、TARGET運行以外の種々のコストがかかってもその負担は各国中央銀行が負うことになる。なお、後に述べるように(次項の本文、及び注14参照)、TARGET Balanceは短期市場の統合下では均衡していくことになる。
8)ECB、 Monthly Bulletin、 Nov.1999、 p.44.
9)EBA、 EAF、 PNSについてはBank of England、 Practical issues arising from the Euro、 June 1999、 p.48、ECB、 Monthly Bulletin、 Nov.1999、 pp.45-46、 また、大橋千夏子、前掲論文のBOX5参照。
10)Bank of England、 Practical issues arising from the Euro、 June、 1999、 p.48、 Deutsche Bundesbank、Monthly Report、 Jan.2000、 p.22.
11)BoE、 Practical issues arising from the Euro、 June 1999、 p.44.
12)BoE、 Practical issues arising from the Euro、 Nov. 2000、 p.43.
13)統合前、ドイツ、フィンランド、オランダ等には準備率制度があったが、ベルギー・ルクセンブルグ等にはなかった。また、ドイツとフィンランドでは無利子であったが、オランダには利子がつけられていた(国際通貨研究所編、佐久間 潮、荒井耕一郎、糟谷英輝『欧州単一通貨ユーロのすべて』東洋経済新報社、1997年、105ページ)。通貨統合によって準備率制度が導入され、準備預金にはmain refinancing operation(後述)と同じ金利がつけられるのである(Deutsche Bundesbank、Monthly Report、 Jan.2000、 p.17)。この制度の導入によって金融機関のEurosystemの信用供与への依存が高くなり、ECBの金融政策がやりやすくなったとブンデスバンクは言っている(Ibid.、p.16)。金融機関の中央銀行預け金が最低準備額を上回る時に、オーバーナイト金利は下がり、それよりも下回る時、オーバーナイト金利は上昇するのである。なお、当月の24日から翌月の23日までの期間の平均で準備額が決定されるから、各月の23日に近い日々に金融機関の中央銀行からの借入れが増加する傾向がある。
14)この例はユーロ建・経常収支の赤字国であるが、黒字国の場合、黒字額に相当する各種のユーロ建・対外投資がなければ、TAEGET Balanceが債権超過となり、当該国の市場に資金が過剰となって(金融機関の「中央銀行預け金」が増加)、金利が下落するであろう。その時点で裁定が働き、資金が流出し(高金利を求めて他市場へ資金が移動、あるいは低金利のため他市場からの借入れが行なわれる)、TAEGET Balanceは均衡していく。このように、ユーロ建の国際収支が赤字であろうが、黒字であろうが、ユーロ短期市場が統合していけば、TARGET Balanceは時間を経て均衡していくのである。
15)ここで短期貨幣市場というのは、無担保のインターバンク短期市場のことを指している。
16)Deutsche Bundesbank、 Monthly Report、 Jan.2000、 pp.21-22.
17)ブンデスバンクはこの理由について2つを挙げている。1つは、比較的長期のものは担保付の市場へ移行する傾向にあること、もう1つはユーロ導入以前に最低準備率が課せられていなかった諸国の銀行がより短期の資金取引を行うようになったことである(Ibid.、 p.24)。
18)Ibid.、p.24、短期貨幣市場における取引の半分以上がクロスボーダーであると言う指摘はBoE、Practical issues arising from the Euro、 Nov.2000、 p.13にも見られる。
19)Deutsche Bundesbank、 Monthly Report、 Jan.2000、 pp.24-25.
20)Ibid.、p.25.
21)期間2週間と3ヶ月のオペレーションがあり、基本的なものは前者である。ECBはstanding facilitiesによって上限金利と下限金利を設定し、その上限と下限の間で主要リファイナンス(期間2週間)を通じて市場金利を調整しようとしている。
22)第6図、第7図において各月の下旬に、EONIAがリファイナンス金利から遊離したり、standing facilitiesが増加したりするのは、準備率規制が各月の23日に実施されるからである。各金融機関はこの時期に限界貸付ファシリティを受け、過剰な資金を預金ファシリティとして中央銀行に預金するのである。
23)ECB、 Third Progress Report on the TARGET Project、 Nov.1998、p.3.
24)統合未参加の諸国の「日中流動性」についての論議において、イングランド銀行は「未参加国がTARGETに連結する以上、TARGET参加機関に対して信用供与することによってTARGET制度は安定性が得られる」(Bank of England、 Practical Issues Arising from the Introduction of the Euro、 Sep.1998、p.62)と主張したのに対して、統合参加国は、「未参加国が日中流動性を供与することになれば金融政策に支障が出るであろう。とくに、日中流動性がオーバーナイトに転化すればその危険が高まる。また、諸決済システム間の、また諸金融市場間の競争上の問題がおころう」と主張した(Ibid.、p.62)。
25)BoE、 Practical issues arising from the Euro、 June 1999、 p.54.
26)ECB、 op.cit.、 p.4.
27)BoE、 Practical issues arising from the Euro、 June 1999、 p.50.
28)ECB、 op.cit.、 p.3.
29)拙書『多国籍銀行とユーロ・カレンシー市場』同文舘、1988年、第3章参照。
30)第5表の全通貨からスターリングを差し引いた額を分母に、それぞれの額を分子に計算して算出。
31)イングランド銀行に「日中流動性」の制限が課せられ、イングランド銀行がユーロに関して「最後の貸し手」になれない以上、この金利差は避けられない。
32)BoE、 June 1999、 pp.27-28.
33)EUの金融機関(在英金融機関も)は他のユーロ地域の中央銀行に決済口座を持つことにより、その国のRTGSを経由してユーロ決済ができるのである。
34)ということは、イギリスは他のユーロ地域から資金を取り入れていることを意味しよう。
35)Deutsche Bundesbank、 Monthly Report、 Jan. 2000、 p.23.
36)BoE、 Nov. 2000、 p.31.
37)拙書、『ドル体制と国際通貨』ミネルヴァ書房、1996年、第5章「マルクの為替媒介通貨化と為替調整取引」参照。 
 
ケネディと1963年公民権法案

 

はじめに
ジョンソン大統領のもとで成立した1964 年公民権法は、アメリカにおける人種差別是正の歴史の画期を画するものとなったが、その原型は、ケネディ政権のもとで議会にかけられ時間の制約でケネディ在世中には立法化されなかった1963 年公民権法案にあった。1964 年公民権法は、黒人の平等な政治参加にとどまらず、人種分離の禁止という社会システム全体を変える措置を含んでいたが、さらに、職業の平等という産業社会の秩序の根本的な是正をも対象とし、のちの投票権保障やアファーマティ・アクション政策へとつながっていった。
1960 年代前半はアメリカ社会の構造転換の時代だった。ヒュー・D・グラハムは1960 年代を、「平等な扱いから平等な結果へ」( From Equal Treatment to Equal Results )と表現している1)。一方、ガレス・デイビースは、1960 年代の個人主義的自由主義は機会の平等を重視する自由主義( opportunity liberalism )であったのに、1970 年代以降の民主党リベラル派が結果の平等を重視する自由主義( entitlement liberalism )を提起したためにジョンソンの偉大な社会計画が確立した自由主義が歪曲されたと批判して、この変化を「機会から資格へ」( From Opportunity to Entitlement )と特徴づけた2)。
したがって、1964 年公民権法の歴史的意味を確定するには1963 年公民権法案の評価の明確(361) 31化が必要であり、本論文は、その作業をケネディ大統領の政治的リーダーシップに着目しつつ行おうとするものである。
マーク・スターンは、ケネディ大統領が南部との和解を重視して、人種分離問題ではなくて投票権改善を優先させ、立法的な対応に消極的だったと批判しつつ、1964 年公民権法の母体となった1963 年公民権法案に関しても、「ケネディは公民権の道義的正当性に大統領としての承認を与え、重要な公民権立法の遂行に邁進したが、それはいやいやながらの対応だった」と述べて、著作の第3・4章でケネディ政権の公民権問題への対応を論じた際には、第3章に「いやいやながらの参加」、第4章に「いやいやながらの遂行」というタイトルを付している。スターンは、ケネディを政治と公共政策に関してきわめてプラグマティックで合理主義的な見解を持つモデレート政治家と規定することによって、ケネディをリベラル政治家とする評価に異を唱え、そのようなモデレートであるケネディがとにもかくにも公民権分野で重要な貢献ができたのは、彼の内的な信条によるのではなくて、選挙の力学、諸危機の発生、公民権運動がもたらした政治風土の変化、などいわば外的な環境変化であったと強調している3)。
しかし、アメリカ国内ではケネディをリベラルな政治家として評価する論調のほうが一般に強い。ジェイムズ・N・ギグリオは、マサチューセッツ州に出生して以来ほとんど黒人を見たこともなかったケネディは、政治的野心から南部への関心を強く持っていて1950 年代までは公民権運動家に疑いの目で見られており、大統領就任後も、初年度の1961 年には特別立法を想定せずに行政的対応で改善を図れると考えて主要にはその対応を司法省に任せていたことを指摘したうえで、メレディス事件などを通して連邦法による改革の必要性を認識して1963年公民権法案に主導権を発揮したことを高く評価した。彼は、ケネディの功績として、アラバマ大学での人種分離廃止、バーミンガム協定、人種差別を終わらせるための私企業や地方自治体との継続的な協議、史上でもっとも包括的な1963 年公民権法案、大統領は選挙公約をきちんと守るものだということを示したこと、をあげている4)。
さらに高い評価をケネディに与えたのが、ジョン・フレデリック・マーチンである。彼は、ケネディについて、1957 年公民権法の内容を後退させるためにジョンソン民主党院内総務に協力したことがあるが保守派ではなく、経済成長よりも社会的生活の豊かさを重視するリベラルな政治家で、暗殺される直前にはのちにジョンソンによって提起されることになる貧困との戦いを開始する決意を固めていたとして、ケネディのリベラルな像を強調し、それにも関らずケネディの行動が社会の変化に立ち遅れたのは、彼が1960年大統領選挙でニクソン共和党候補に対して10万票リードしたが投票数全体の過半数を獲得できなかったことを気にかけ、かつその結果議会に対する影響力を損なったことを自覚していたからだと説明して理解を示した5)。 
1章 ケネディの公民権構想
アイゼンハワーの8年間の安定した共和党保守路線を継承するニクソン大統領候補に対抗する民主党のケネディは、1960年選挙においてリベラルな路線を対置した。
選挙綱領において民主党は、公民権問題を重視し、「わが国のオープンな自由社会と共産主義国の閉鎖社会を区別するものは、われわれが人間の尊厳を尊重しているということである」と述べて、人種的人権問題への取り組みが対ソ戦略という冷戦政策の一環であるとする認識を明らかにしていた。人権問題の解決を「自己統治の保障」におき、自己統治の最大の原則を投票権の保障であるとした上で、リテラシーテストや投票税の廃止による投票権の保障、公教育における差別の廃止、雇用機会の平等、政府機関における人種分離の廃止、連邦住宅建設計画における差別廃止、を重点政策とした6)。
1960 年代初頭における黒人の公民権問題は、民主党に3つの政治的選択を突きつけるものとなっていた。第1は、投票権保護か人種分離廃止か、の選択。第2は、行政的対応か議会による立法か、の選択。第3は、人種差別の牙城である南部白人からの政治的支持の確保か全国レベルの黒人票の確保か、の選択である。この選択に際して、ケネディはそれぞれの項目の前者、つまり、投票権保護、行政的対応、および南部白人票の確保、を重視する立場から大統領職を開始した。公民権問題を優先させることでメディケアや最低賃金引き上げなどの改革が挫折する恐れを懸念する立法政策上の考慮も公民権問題への消極的な姿勢を生み出す一つの要因となった。
政権初期には、行政措置中心というよりは、むしろ立法措置に消極的または反対の姿勢が強かった。1961 年5月、ジョセフ・クラーク民主党上院議員が、公立学校における人種分離廃止法案(S.1817)、連邦選挙における投票税廃止の憲法修正(S.J.Res.81 )、連邦選挙における投票資格認定のリテラシーテスト廃止の憲法修正(S.J.82)、司法長官が民事差止め命令によって公民権保障をできるようにする法案(S.1818)、公正雇用実施法案(S.1819)、公民権委員会(Civil Rights Commission)の権限を強化し常設委員会とする法案(S.1820)など一連の公民権法案を提案したが、成立には程遠かった。提案の翌日には、「ホワイトハウスは昨日民主党議員によって上程された公民権法案に組しないこととした」と報道され、大統領新聞係秘書のピエール・サリンジャーは、「大統領は現下において公民権立法を進める必要はないと明言した」と説明し、政府としては現行法の枠内でできることに取り組んでいると述べて、政府の消極的な姿勢を明らかにしており、政府が法案に対して好意的中立に立つことも期待できる状況にはなかった7)。
したがってケネディ政権の出発点は、行政的対応にあった。
1961 年1月にケネディ政権が出発した際には、前年の民主党綱領の線に沿って投票権問題が公民権対策の重点課題として設定された。有権者登録の推進をめざすVEP( Voter Education Project =有権者教育計画)である。同計画は、1962 年3月から1964 年11 月の間に、88 万5、000 ドルを使って、60 万人の新規有権者登録を成功させた。同期間に南部で有権者となった人数のほぼ半分はVEP運動の成果だとされた。ほぼすべての黒人団体がVEPに参加したが、中心となったのは、SRC(Southern Regional Conference =南部地域会議)、NAACP(National Association for the Advancement of Colored People =有色人種地位向上協会)、CORE(Congress of Racial Equality = 人種平等会議)、SCLC(Southern Christian Leadership Conference = 南部キリスト教指導者会議)、NSA(National Student Association =全国学生協会)である。政府が本計画を選択した1つの理由は、南部黒人の有権者登録推進計画ならば、黒人の有権者登録を増大するという実績をあげつつ、かつ、黒人や政府に対する南部白人の怒りを小さくすることができると思われたことにあり、もう1つの理由は、黒人を全国で高まりつつあった危険を伴う街頭運動から安全な有権者登録運動へ誘導できることにあった( Stern、 pp.63-64 )。
1961 年、ケネディは、失敗したが都市問題省設置を提案し、行政命令10925 では「皮膚の色や信条に関りなくすべてのアメリカ国民が政府雇用および政府と業務関係のある企業の雇用について平等に扱われることを保証するため」8)に副大統領のもとに政府機関や契約業者を監視する委員会を設置した。同年秋、ロバート・ケネディ司法長官の要請で州際通商委員会が州間旅行のためのバスターミナルにおける人種分離を禁じたときに、ケネディはそれに全面的な支持を表明した。司法長官のR・ケネディは、司法省で黒人検事は10 名しかいなかったが全米の50 のロースクールのディーンに依頼して150 名の志願者を確保した結果1年間で50 名に急増したことを誇って、「黒人だから任用されたのではない。優れた資質と証明された能力の故である」と述べた9)。
ケネディ政権は、公民権分野での行政的な措置の可能性を多面的に検討しており、1961 年8月、政府の要請に応じてLCCR(Leadership Conference on Civil Rights= 公民権指導会議)のロイ・ウィルキンス議長(NAACP執行委員長)とアーノルド・アロンソン事務局長は「連邦援助のもとでの人種分離その他の人種差別をなくすための行政活動についての提言」と題する61ページの大部な報告書を提出している10)。ここではケネディがLCCRの提唱してきたアファーマティブアクションの計画に近い行政措置をとってきたことを支持しつつも、行政的対応が遅いだけでなく、連邦行政そのものが差別を生み出している構造的な問題が指摘された。ケネディ政権発足直後の2月3日と6日にウィルキンスとアロンソンをホワイトハウスに招いて、セオドア・ソレンセン(大統領特別顧問)、メイヤー・フェルドマン(同顧問代理)、リチャード・グッドウィン(同副顧問)、ジョセフ・ドーラン(司法次官代理)などがLCCRの考えを検討した際にソレンセンがより詳細な報告書を要請したものである。同報告は、軍隊、教育、雇用、住宅、保健、農業の6項目について実態と対策を叙述し、行政府の対応がもっとも急がれるのが住宅分野であると強調して、「学校や余暇施設など地域社会における人種分離を強めているのが住宅における人種分離である」として、行政の対応を求める根拠を「白人市民が不動産や動産を相続し、購入し、賃貸し、売却し、所有し、譲渡することができるのと同様に、州やテリトリーを問わずすべての国民は同等の権利を有する」とする「合衆国民法、8 U.S.C.242 」に求めた。連邦政府が住宅における人種分離に深く関るようになったのは、1930 年代のニューディール以降に拡大した住宅建設に対する融資を通してであり、同報告は「今日、公共住宅建設計画の80 %が何らかの意味で人種分離」であるとして、1961 年度で1億4千万ドルにのぼる連邦の住宅補助資金の使途を批判した。
議会を通じる公民権改革は、初期には、投票権改善に重点がおかれた。投票税( poll tax )廃止とリテラシーテスト廃止である。連邦選挙について投票税制度を持っていたのは、当時はアラバマ、アーカンソー、ミシシッピー、テキサス、バージニアの5州だけで、南部の反対を回避するためにケネディは憲法修正の形式をとった。1962 年9月、下院で294 対86、上院で77対16 で可決された。それは2年後に各州の批准手続きを終えて憲法修正第24 条(1964 年確定、合衆国市民の連邦選挙における投票権は、投票税またはその他の税の支払いがないことを理由に合衆国または州によって拒否されたり制限されたりしてはならない)となった。投票税は、かつては北部州を含めて多くの州で採用されていた制度であって、北部においてアイルランド系移民の政治参加を阻止することが制度発足当時の趣旨だったことを考慮すると、必ずしも黒人を主要なターゲットとしたものと解することはできない11)。
したがって、H・ハンフリー、P・ダグラス、P・ハート、J ・クラークらリベラル派議員は黒人の投票権に即した改善につながる措置としてリテラシーテスト(読み書きテスト、または教養テスト)廃止を重視した。1962 年1月、上院民主党院内総務のマンスフィールドは、リテラシーテストを実質的に形骸化するために、連邦選挙におけるリテラシーテストにおいては6年の教育を受けていればテストの求める要件をクリアしたものとみなすとする法案を上程し、R・ケネディ司法長官はそれを支持した。南部選出のS ・アービン議員は、法案が投票権の制限と憲法修正第15 条(1870 年確定、合衆国市民の投票権は、人種、皮膚の色、または以前に奴隷であったことを理由に、合衆国または州によって拒否されたり制限されたりしてはならない)との関係に言及しないままに、州のリテラシーテストに対する連邦の基準や代替案を主張しているが故に違憲であると主張していた( Stern、 p.74 )。リベラル派は、むしろこの適用を連邦選挙だけでなく州選挙にも拡大すべきだと主張していた。5月9日、上院本会議でクローチャー(討論終結)動議が採決にかけられ、賛成が43 人(民主党議員30、共和党議員13)、反対が36 人(民主党議員13、共和党議員23)で、賛成が3分の2に達せず否決された。マンスフィールドは法案を継続審議にしようとしたが、5月14 日のクローチャー投票も43 対52 で否決された12)。この経過の中で、ケネディの法案成立への熱意が疑われ、NAACPのR・ウィルキンス会長は、リベラル派が確信に欠け、一方では共和党が黒人票を失っても南部白人票を獲得できればよいと考えて南部にすりよってきていると危惧を表明した( Stern、 pp. 75-76 )。ケネディはこのような状況の中で抜本的な公民権法が議会で成立する可能性は薄いとますます確信するようになった。
黒人と南部白人の双方からの支持を確保しようとし、また、公民権問題が最低賃金法など議会における貧困対策を挫折させることを懸念して人種問題に対して消極的だったケネディは大統領に就任した1961 年はじめには、何らかの形態で人種差別に対抗する行動をとらざるをえないと考えるようになった。国内的・国際的な状況に対する懸念があったからである。その根底には、次のような認識があった。第1は、人種差別主義が人材を無駄にし、国民を分裂させることによって国を弱体化させてきたことを憂慮する愛国主義者の立場である。第2は、アメリカがアフリカ諸国との関係を改善しソ連の人権侵害を利用して得点しようとするときに人種差別主義はアメリカを国際的に衰退させる、とする国際主義者の立場である。
ケネディは、黒人の人権をめぐる紛争の回避を重視していた。同時に、南部白人との連合を損ないたくなかった。そのような立場を超えた公民権問題への取り組みへ転換させていった力は、一つには行政的対応と投票権改善に主眼をおいていた初期の方針が行き詰まったこと、もう一つには、政府外からのインパクトつまり国内の公民権運動の昂揚にあった。運動の昂揚は、行政的な措置だけでは人種差別の構造が変わることがなく、強力な立法的対応が必要なことをケネディに印象付けたのである。
隘路を打開したのは、南部を中心とする公民権運動である。
1961 年1月21 日、空軍退役軍人である黒人のジェイムズ・H・メレディスがミシシッピー大学に入学申請を行ったが拒否された。5月には、NAACPの法廷闘争基金( Legal Defense Fund )が入学許可を求めてミシシッピー地裁に提訴したが却下された。1962 年6月、第5巡回裁判所控訴審は、メレディスは黒人であることだけを理由に入学を拒否されたとし、9月13日、連邦地裁は彼の入学許可を命じた。同夜、バーネット・ミシシッピー州知事は入学拒否を正当化する根拠として、「州法を侵害する連邦法は無効である」とした1832 年の「サウスカロライナ無効法」を引き合いに出した。彼は、9月20 日にメレディスが入学申請をするとそれを拒否し、メレディスを守るハイウェイ警察、連邦保安官、司法省職員と、知事を守る州政府との対決になった。9月28 日、控訴審は、知事を法廷侮辱罪で有罪とし、辞職か、逮捕か、1日1万ドルの罰金か、のいずれかを課すこととした。9月30 日、大統領はミシシッピー州兵を連邦軍に編入し、5、000人以上が大学に配置されてメレディスの入学が実現した13)。 
2章 ケネディの公民権法案
公民権保証に対するケネディの基本姿勢は、しかし、1963年に入っても変わらなかった。
1963 年1月14 日に議会に送った年頭教書では、全体の3分の2がベトナムを含む対外関係にあてられ、国内政策に触れた前半では、時代遅れの税制が購買力、利潤、雇用を阻害しているとして20 〜 91 %の所得税を14 〜 65 %に引き下げることや20 億ドルの法人税減税を主要に提唱した。公民権は減税政策を補完する程度の位置付けにされた。年間400 万人の出生児や貧困状態の3、200 万人の生活を維持するには減税だけでは不十分だとして、青少年育成など4項目を挙げた際に、第3項目で「市民の基本権を保護することによってわが国を強化する必要」に言及して、「アメリカの自由な選挙で投票する権利は、世界でもっとも貴重で強力な権利であって、人種や皮膚の色を理由に拒否されてはならない」ときわめて簡略に述べられたにすぎなかった( Public Papers of the Presidents - Kennedy、 1963、 p.14 )。
政府内では、R・ケネディ司法長官が、速やかな救済のためには次の立法が必要だと主張していた(Stern、 p.78 )。公民権問題への立法的対応は、2月28 日の「公民権特別教書」に盛り込まれることとなった。冒頭でケネディは、「わが国の憲法は、皮膚の色には関係のないものであり、市民の間に階級があることも知らないしそれを容認したこともない」というハーラン判事の言葉を引用して、「しかしわが国の実態は憲法の諸原則に必ずしも合致していない。本教書は、皮膚の色に関りなくすべての市民に完全な市民権をどこまで実現できているか、われわれがどこまで行くべきか、そして、州、地方政府、市民、民間団体だけでなく連邦政府の行政部と立法部がなすべき課題が何か、を検討するものである」と述べて、黒人の赤ん坊は同じ日に生まれた白人の赤ん坊と比較すると、高校を卒業する率は3分の1にしかずぎず、専門職業人になれる率も3分の1、失業する率は2倍、年収1万ドルを得るチャンスは7分の1、平均余命は7年少ないと訴えた。その上で、行政的措置と同様に重要な立法的措置の必要性を提案した。まず投票権、そして教育、公民権委員会の権限強化、雇用、公共施設における平等、の5点で、この順番にはケネディの政策上の優先順位が反映されていると解される。立法化が具体的に提案されたのは、投票権、教育、公民権委員会の3点である。投票権に関しては、第1に、係争中の訴訟に関して一時的な救済措置をとるために、人種差別されていると申し立てた人種について投票権年齢の15 %以下しか有権者登録がなされていないカウンティについては、臨時連邦投票査察官を任命して有権者資格の判定を行わせる、第2に、連邦の公民権諸法に基づいて行われている投票権訴訟については連邦裁で審議促進手続きを適用する、第3に、連邦選挙において有権者登録や投票を求める人ごとに異なるテスト、基準、慣行、手続きを適用してはならない、第4に、連邦選挙においては6ヵ年の教育を終えていれば読み書き能力を有するとみなす、の4点が提起された。教育に関しては、人種分離を実現するために、憲法にしたがって人種分離を成功させた学校の情報を教育関係部局が提供するなどの技術的援助や、人種分離の廃止にともなって起きる諸問題に対処したり学校職員を訓練したりするために特別の人材を採用できるような財政的援助を行うことに言及した。1957 年公民権法によって設立された公民権委員会は、1963 年11 月で設置期限を終えることとなっており、ケネディは、さらに4年の延長を提案したが、かねてから同委員会の行政権限の弱さを指摘されていたにも関らず、彼は「公的あるいは私的な機関が必要とする情報、助言、技術援助を提供できるように議会が同委員会に権限を認めるよう」勧告するにとどまった。国民の日常生活のうえでもっとも不満の高かった公共施設における人種分離についても、「連邦政府は、すべての人々に公共施設の平等な利用を保障しようとする州・地方社会および民間企業の努力を奨励し支持する」との消極的言及しか行われなかった(Public Papers of the Presidents - Kennedy、 pp.221-229 )14)。
これらは1960 年民主党綱領よりも後退した内容であり、しかもその具体化の作業は進まず、公民権支持派は失望した15)。
政府の積極的な行動のない状況を打開したのは、バーミンガム事件であった。キングら公民権運動家は、街頭行動の再開を決め、1963 年4月3日からアラバマ州バーミンガムでデモ行進を開始した。バーミンガムの悪名高い警察幹部のユージン・T・オコーナーは、従来から、公共施設や雇用における差別に抗議する黒人に警察犬や家畜をけしかけ、消防ホースで放水する人種分離主義者として報道を通して全米に知られていた。キングらは、紛争を引き起こすことを目的とする「プロジェクトC」(Cはconfrontation )を策定して、オコーナーら乱暴な白人優越主義者に対する非暴力の抗議行動を組織した。キングは、この頃には、黒人の権利問題を解決する上で裁判所は主要な舞台とはなりえないと考えるようになっており、バーミンガムで人種分離の伝統を打ち破れば、それは南部にとっても全国にとっても人種差別はどこでも打ち破れるのだということを意味すると信じていた(Stern、 p.80)。デモ参加者が怪我をし、キングをはじめ多数が逮捕され、黒人地区の住宅やホテルには爆弾が投げ込まれ、全国に衝撃を与えた。4月12 日に逮捕されたキングは、他のメンバーとともに5月10 日に仮釈放された。これでいったんは沈静化した紛争は、5月12 日に黒人用ホテルとキングの兄弟の家に爆弾が投げ込まれて再燃し、2、500 人の黒人の抗議行動は暴動化し、全国に波及した。バーミンガム事件は急速に国民の雰囲気を変えてしまった(シュレジンガー、433 ページ)。5月21 日に連邦地裁判事が2人の黒人のアラバマ大学への入学許可を命じたが、ウォーレス・アラバマ州知事は拒否。ケネディは、アラバマ州軍を連邦軍に編入したうえで大学に派遣して、6月11 日、2人の入学を実現させた。
ケネディは、6月1日、政府内での反対を押し切って、公民権法案を作成するように命じた。6月10 日の新聞では、キングが、ケネディが期待されたリーダーシップを発揮してこなかったし、選挙公約も守らなかったと不満を表明したが、翌11 日の夕、ケネディは、同日のアラバマ大学事件の解決をふまえてラジオとテレビを通して公民権問題への積極的な取り組みを表明した。彼は、黒人の運命の過酷さを示したうえで、「これは州間の問題ではない。人種分離と人種差別をめぐる困難は、どこの都市にもある。それは国内的危機の時代の党派的問題でもない。善意の人なら誰でも党派や政治的立場に関りなく団結できる。それは法的・立法的問題
であるだけではない。街頭で問題を解決するよりも法廷で解決したほうがよいし、新法がどこでも必要だが、法だけが人に正しいことを判断させるわけではない」と述べて、「われわれは何よりもまずモラルの問題に直面しているのだ。そのことは合衆国憲法と同様に明らかなことだ」として、公共施設と教育における人種分離廃止の必要を訴えた16)。公共施設における人種分離問題に関しては、「問題の核心は、すべてのアメリカ国民に平等の権利、平等の機会が与えられるべきか、あるいは、われわれは自分がこう扱って欲しいと思うように他のアメリカ国民に接するべきか、ということだ。もし一人のアメリカ国民が、皮膚が黒いという理由で公衆に開かれているレストランでランチを食べられなかったら、もし彼が子供を最良の公立学校へ行かせられなかったら、もし彼が誰もが望む豊かで自由な生活を享受できなかったら、われわれの中の誰が彼と同じ立場に立とうとするだろうか」と現状を批判して、ホテル、レストラン、劇場、店舗、その他の施設ですべてのアメリカ国民がサービスを受けられるようにするために議会での立法を要請した。学校での人種分離廃止に関しては、公教育における人種分離を廃止するための訴訟に十分に参加できるよう連邦政府に議会が権限を与えるよう要請している。
6月13 日には、上院民主党院内総務のマンスフィールドが共和党院内総務のダークセンの事務所を訪ねて、共同で公民権法案を提案する方向で合意した。その法案には、リテラシーテストに関る投票権、公民権委員会の設置期間延長、学校での人種分離、パウエル修正(人種分離の機関への連邦補助金の禁止)の挿入、FEPC( Fair Employment Practices Committee )の代わりに副大統領のもとのFEC(公正雇用委員会)に権限を付与することが含まれることとされ、多くの点で一致をみたが、公共施設の問題については合意に至らなかった17)。 
3章 下院での審議
ケネディは、6月19 日、自ら命じて作成した「1963 年公民権法案」を議会に送り、その趣旨を次の内容の教書で明らかにした(Public Papers of the Presidents - Kennedy、 1963、 pp.483-494)。ここでもまず、バーミンガム事件を通して確信した「モラルの危機」に触れて、その解決のための4項目が提案された。第1は、ホテルなどの公共施設における平等な待遇。すでに30 州とワシントンDCが公共施設での人種差別を禁止する立法を行っており(州の3分の2、人口の3分の2)、それらの多くは1947 年のトルーマン大統領公民権委員会の勧告に従ったものだ。人種差別的行為は、国民経済と州際通商に悪影響を与え、憲法修正第14 条によって連邦議会がいかなる州法も市民への不平等な取り扱いを容認できないことを保証する立法を行う権限をもっているが故に、連邦政府が人種差別を廃止するのはその権限でもありまた義務でもある。第2は、公立学校における人種分離の廃止。人種分離に関する一定の要件のもとに、司法長官が、地方公立学校委員会または高等教育を管轄する公共機関に対して適切な法的手続きを開始しあるいは訴訟に介入する権限を認め、また、人種分離の廃止や人種的不均衡から生じる教育上の問題に関っている学校区に対して技術的財政的な援助を行う。第3は、公正雇用。
全体の2倍もある黒人の失業を救済するには、3つの方策が必要になる。@熟練を持たないが故に最初に解雇され最後に採用される黒人は不景気の最初の犠牲者になるから、仕事の拡大のために経済成長が必要だし、速やかで実質のある減税が完全雇用の鍵となる。A多くの黒人失業者は、文字が読めず技術に欠けるが故に技術向上のための教育・訓練の強化が必要だ。B働く権利を拒否することは不公正であり、雇用における人種差別の撤廃が必要だ。第4は、コミュニティ関係サービス局の設立。第5は、人種差別の機関への連邦助成金の停止。すべての人種のすべての納税者の貢献によってつくられる公的資金を人種差別になるような形で使用することを認めない。連邦、州、地方の政府が直接に人種差別をすることは、憲法が禁じている。
しかし、連邦補助金を使って間接的に人種差別を行うのは不公正というだけだ。教書は、最後に、「これは州間の問題ではなくて、全国的な問題である。それは党派的な問題でもない」と述べて、「全国的な国内的危機は、超党派的な統合と解決を必要とする」と結んだ。
本法案に関る実情を、ワシントンDCを含む51 州について1962 年の労働省報告で確認すると、次のようになる18)。
公正雇用法の制定、20 州。住宅に関する人種差別禁止、22 州(公共住宅、公的補助金住宅、私的住宅のいずれかについての規制のある州)。公共施設に関する人種差別禁止、29 州(1963年には30 州に拡大していた)。学校における人種統合が完全な州、34 州。学校における統合が一部であったりゼロである州、17 州(ゼロはサウスカロライナ、アラバマ、ミシシッピー)。
このうち南大西洋9州(デラウェア、メリーランド、ワシントンDC、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア、フロリダ)、南東中央4州(ケンタッキー、テネシー、アラバマ、ミシシッピー)、南西中央4州(アーカンサス、ルイジアナ、オクラホマ、テキサス)の合計17 州について見ると、公正雇用法を持つのは、デラウェアのみ。住宅に関する人種差別禁止法を持つのは、ゼロ。公共施設における人種差別禁止法を持つのは、ワシントンDCのみ。学校での人種統合が完全に行われているのは、ワシントンDCのみであった。
本法案は、2月の教書の路線より踏み込んだ内容を盛り込んではいたが、公民権運動家は、「もっと徹底的な公共施設の待遇改善を示す条項、各地で直接的な第一歩となる学校での人種差別廃止、黒人投票者たちを登録する連邦の官吏、人種や皮膚の色などの理由で憲法で定められた権利を認められなかったような場合にはいつでも司法長官が訴訟を起こしうる権限、政府の法案の中に公正雇用委員会を取り入れること、などを要求した」( シュレジンガー、442 ページ)のである。副大統領のジョンソンは、ノーバート・A・シュレイの問いに、「私はチームプレイヤーであるが、いま検討されている法案はもし上程されても立法化の見通しはない」と消極的な考えを表明していた19)。
ケネディ大統領の正式の提案を翌日に控えた6月18 日、マンスフィールドは事務所に、上院議員のハンフリー、ベイカー、ヴァレオ、マクファーソン、ティスデイルを呼んで協議し、ダークセンと合意した内容のマンスフィールド−ダークセン公民権法案を上程すること、マンスフィールドとしては公共施設における人種分離禁止を支持するがもっとも重要なポイントはダークセンとの共同戦線を確保することだということで意思統一をとった。その上でマンスフィールドは大統領宛に「上院における公民権戦略」と題するペーパーを送った20)。ここで彼は、クローチャーに必要な67 票を確保するには、ダークセンとの協力関係がもっとも重要であると述べ、クローチャーに賛成しそうもない1ダースほどの共和党議員(ヒッケンルーパーやエイケンら)を、ダークセンなら公民権分野で民主党の後塵を拝するわけにはいかないという共和党の全体的な政治的利害を理由にして説得してくれる可能性があると強調した。
ケネディ政府案は、上院に対しては、6月19 日、ダークセンからの了解を取り付けられなかった公共施設利用の平等を保障する条項を除いたS1750(マンスフィールドとダークセンの共同提案)と、公共施設における平等保障に限ったS 1733(マンスフィールドとウォレン・G・マグヌッセン民主党議員の共同提案)に分けて上程された。政府は、南部議員の力の強い上院ではなくて、過去の実績からも公民権法案に支持の厚い下院での審議を優先させる「下院先議戦略」をとり、6月20 日、エマニュエル・セラー(司法委員会委員長、民主党、ニューヨーク)がHR7152 として提案した。
公民権推進派のリベラルな民主党議員が法案をより強力なものにする修正案を次々と出し、リベラルな法案ならば本会議で否決にもってゆきやすいとみた民主党保守派がそれを支持するという奇妙な構図の中で、審議が進められた。共和党議員の確保という法案成立に決定的に影響する要因を考慮すると、きわめて危険な方向だった。
共和党のマカロック司法委員長は、人種分離廃止の適用を法律上の根拠に基づく人種分離だけに限定するために、「人種的な不均衡」を是正しようとする学校区に財政的技術的援助をするという条項を削除する修正案を確定した。事実としての「人種不均衡」は、何らかの事情で北部州にも存在するものであり、それをも規制対象とすることは北部州を反対派に追いやる恐れがあると考えたからである。「人種不均衡」の解消をも連邦事業とするのは、のちのアファーマティブアクションの範囲となる。法案は、第4編401 条(b)で、「人種分離廃止とは、人種、皮膚の色、宗教、または出身国に関りなく公立学校に生徒を割り当てることを指す。しかし人種分離廃止は、人種的不均衡を是正するために公立学校に生徒を割り当てることを意味しない」という条項を盛り込んだ。
9月10 日に、下院歳入委員会でケネディが最重点課題とした「所得税減税法案」が可決された。ケネディは、7月17 日の記者会見で議会が税法案の前に公民権法案の審議を進めることを希望するか、との問いに対して、明確に「ノー」と答えて、減税法案を優先させる意思を確認している( Public Papers of the Presidents - Kennedy、 1963、 p.567)。公民権法案によって減税法案への支持が減少するという恐れがなくなったケネディは、これ以後、積極的に議会内の調整と多数派工作に乗り出すこととなる。
セラー委員会が、10 月2日までに、公共施設における人種分離禁止を州の認可に基づくすべての施設に拡大し、個人の権利侵害があったと司法長官が判断したときには職権で訴追できるとする修正案をまとめ、R・ケネディ司法長官はその行き過ぎ(リベラルより)に反対した。
セラー修正案は、議会内からの反発を期待して賛成した南部派の奇妙な支援はあったが、中道派の反対で10 月29 日に15 対19 で否決され、ケネディ=マカロック修正案が20 対14 で可決されて下院本会議に送付され、議事運営委員会に付託された。同修正案は、大統領直属の機関であり副大統領を責任者とする「EEOC=雇用機会均等委員会」を、独立行政機関にして権限を強化する内容を盛り込んでいた(HR7152 の第7部)。7月にパウエル委員会(教育労働委員会)が雇用における差別があった場合にEEOCに「中止命令」の権限を与えるとする「準司法的モデル」に変えていたが、強力な連邦政府(大きな政府)を伝統的に嫌う共和党のマカロック議員らの働きかけとR・ケネディの意向が一致して、準司法的モデルは削除されて「訴追モデル」のままでの機能強化が規定されたのである。
11 月20 日、ロディノ議員が下院本会議で趣旨説明を行って最後の議事手続きに入った直後の22日、ケネディが暗殺されて、法案審議は次年度に持ち越されることとなったのである。 
おわりに
ケネディの暗殺の後に大統領に昇格した副大統領のジョンソンは、「ケネディが長く戦ってきた公民権法案をできるだけ速やかに成立させることこそケネディの思い出に報いる道である。―国の内外でアメリカを強くするのに公民権法ほど強力なものはない」( Public Papers of the Presidents - Johnson、 1964、 p.9)と述べて、ケネディの政策路線を全面的に継承することを明言することによって、後継者としての立場を確保することとなり、1964 年公民権法に結実させた。
ケネディのリーダーシップに関しては、とくに対外政策に関しては、キューバミサイル危機への対応の問題もあって一般に高い評価が与えられているが、立法=議会対策の面から見ると、彼の手腕には疑問が付きまとう。
政府が実質的に提案した法案であってもその成立率がとくに1963 年には低かった。ワシントンポスト紙は、1961 年には大統領要請の法案のうち10 %が可決され、1962 年には大統領要請の285 法案のうち7%が成立したのに対して、1963 年の8月時点では、403 法案の要請に対して5%しか議会で可決されていない状況を指摘して、ケネディの立法要請の数が1961 年から急増しているにも関らず成立率が急低下している事態を批判的に報道した(Washington Post、 August 4、 1963)。6月に公民権法案作成に関るようになったジョンソン副大統領は、立法化の難しさを指摘した際に、自分ならば賛成派を多数派にするために、共和党指導部、黒人指導者、3人の元大統領とただちに協議するとともに、南部諸州でスピーチをし、ラッセル上院議員に相談をもちかけ、最大のキーマンである民主党のマンスフィールド上院議員の意向を十分に反映させるなどと、具体的な議会対策をシュレイ司法次官補に話したが、それはケネディの手腕に対する疑問を含んでいたと考えられる。これらの事実を通してケネディの議会対策手腕への評価が低くなることになった。
ケネディが、大統領就任後も公民権問題の解決に消極的であったことは事実である。民主党に突きつけられた3つの選択、すなわち、投票権保護か人種分離廃止か、行政的対応か議会による立法か、南部白人の支持獲得か全国の黒人の支持の確保か、の中で、ケネディは1963 年の春までの2年間、投票権保護、行政的対応、南部白人重視、の路線を基本的に選択していった。ここには、1964 年大統領選挙での再選をにらんで南部白人の支持の確保を重視したケネディの政治的立場がよく現れている。そのような彼の保守的な政策路線をのちの1964 年公民権法につながるようなリベラルな路線へと転換させた要因は何であったのだろうか。
以上の分析から、3つの要因が指摘できる。第1は、キングらの非暴力運動が全国レベルで大きな共感を呼び、また、それに対する南部の人種差別主義者の非人道的な弾圧(キングらの運動は1963 年に入るとこの弾圧を意識的に引き出して全国にアピールすることを目標にした)が行政的対応の限界をケネディに悟らせたことである。第2は、ケネディが南部の票を失っても全国の黒人票で収支のプラスを得られると思ったことである。アメリカ政治においては、リベラルと保守の対立という「左右対立」と民主党と共和党の対立という「党派対立」が交錯しており、民主党リベラル、共和党リベラル、民主党保守、共和党保守、という4つの勢力に編成されてそれらの間で多数派形成が争われるのであるが、公民権問題においてはさらに、人種差別の厳しい南部の州と比較的自由な北部の州という「南北対立」が議会の多数派形成に関ることとなる。公民権に賛成の北部州と黒人層を新たな支持基盤とする方向が強まったと見られる。第3は、冷戦の影響である。1950 年代半ばにパクスアメリカーナの世界が成立したが、米ソの核の手詰まり、米ソそれぞれの勢力圏における民族解放・主権回復の動きが強まり(スエズ動乱、フランスのドゴール政権の対米自立化、ポズナニ事件、ハンガリー事件など)を通じて、超大国たる米ソが世界革命(ソ連)やソ連封じ込め(米)によって対立するよりも世界の現状維持に利益を見出すようになりそこから米ソのデタントへの動きが生じていたが、ケネディ政権についてみれば、1961 年のピッグス湾事件、ヴェトナムへの介入、そして1962 年のキューバミサイル危機と、冷戦の構造の中でアメリカの世界的立場をどう維持するかが第三世界政策を含めて重大事になったのであり、対ソ政策および対第三世界政策の観点(アメリカはアフリカ黒人などの発展途上国の味方である)からもアメリカにおける人権抑圧(公民権問題)を克服する必要に迫られたのである。ケネディは、公民権法案提案の直前には、黒人の人権の問題を「モラルの問題」として提起して国民から共感を得たが、3年間の経過からは彼がモラルの観点よりも次期大統領選挙対策を含めた「政治」の観点を強くもち、政策展開がそれによって規定されていた側面を見逃してはならないだろう。
したがって、マーチンらのようなケネディの公民権政策に対する高い評価には疑問が残らざるをえない。 

1)Hugh Davis Graham、 The Civil Rights Era - Origins and Development of National Policy、 1990、 chapter 9.2)Gareth Davies、 From Opportunity to Entitlement - The Transformation and Decline of Great Society Liberalism、 1996.
3)Mark Stern、 Calculating Visions - Kennedy、 Johnson and Civil Rights、 1992.
4)James N. Giglio、 The Presidency of John Kennedy、 1991、 chapter 7.
5)John Frederick Martin、 Civil Rights and the Crisis of Liberalism - the Democratic Party 1945 - 1976、1979、 pp. 167 - 177.
6)Kirk H. Porter and Donald Bruce Johnson、 National Party Platforms 1840-1968、 pp.599-600.
7)Civil Rights in the 87th Congress- first session by Herman Edelsberg、 Presidential Papers、 White House Staff Files、 Meyer Feldman File、 Box 5、 John F. Kennedy Library(以下、JFKLと記す)エーデルスバーグは、ホワイトハウスの方針が公民権活動家を失望させたことを強調し、ブラウン対トぺカ判決から7年以上過ぎたのに、2000 以上の学校区でまだ人種分離が残り、黒人が最後に雇われ最初に首になる状況は変わらず、黒人の失業率は白人の3倍に上り、南部黒人は有資格者のうち25 %しか選挙権をもたず、住宅の人種分離と学校区ゲリマンダリングの結果、「人種分離廃止よりも人種再分離の方がスピードが速いのだ」と批判している。
8)Public Papers of the President-Kennedy、 1963、 p.150.
9)Report of the Attorney General to the President on the Department of Justice's Activities in the Field of Civil Rights、 December 29、 1961、 Presidential Papers、 White House Staff Files、 Meyer Feldman File、Box5、 JFKL.
10)Presidential Papers、 White House Sutaff Files、 Meyer Feldman File、 Box5、 JFKL.
11)安藤次男「1964 年公民権法と大統領政治」、立命館国際研究13 巻3号、184 ページ。
12)民主党上院院内総務のマンスフィールドは、1961 年9月16 日、クローチャー(討論終結)の可能性を強めるために、それに必要な議決を3分の2から5分の3に改正する法案(S. Res.4 )を提出したが、会期末に(この年は9月27 日で休会した)このような重要法案を提出することへの抵抗もあり、37 対43 で否決され、クローチャーの要件の緩和の見通しはいっそう弱まっていた。Civil Rights in the 87th Congress- first session by Herman Edelsberg、 Presidential Papers、 White House Staff Files、 Meyer Feldman File、 Box 5、 JFKL.
13)ケネディ大統領の補佐官だったアーサー・シュレンジンガー・ジュニアは、メレディス事件が冷戦構造の中にいたアメリカの対外的な環境に大きな影響を与えたことを次のように記した。「メレディスは一つの原則をうちたてた。ケネディ大統領の行動は、世界中に、なかでもとくにアフリカに対して、深甚な影響を与えた。国連総会ではアパー・ヴォルタの代表がその点に言及し、人種差別は明らかに合衆国内に存在しているが、『大切なことは合衆国政府がこれを制度化しているということではないのです。またそれを自慢しているわけでもありません。これとは反対に、精根傾けて人種差別と戦っているのです』」。A・M・シュレジンガー『ケネディ−栄光と苦悩の一千日・下』河出書房、421 ページ。
14)ケネディに批判的なスターンは、「ケネディはこの教書でふれた公民権法案にはできるだけかかわりたくないと思った。だから公民権に関する次の発言が5月になってしまうのだ」と評価している。Stern、p.79.
15)H・D・グラハムも、2月の提案が「控えめなものだった」と表現した。H.D.Graham、 Civil Rights and the Presidency、 1992、 p.54.
16)Remarks of the President on Nationwide Radio and Television、 June 11、 1963、 National Security Files、Countries、 Box 295A、 JFKL.
17)Memorandum by Senator Mansfield on Conference with Senator Dirksen、 attended by Bobby Baker and Oliver Dompierre in Senator Dirksen's Office at my Request、 June 13、 1963、 Presidential Office Files、Legislative、 Box53、 JFKL.
18)The Economic Situation of Negroes in the United States、 U.S. Department of Labor、 1962、 Presidential Papers、 White House Staff File、 L.C. White、 Box 20、 JFKL.
19)Memorandum for the Attorney General、 June 4、 1963、 Robert F. Kennedy Papers、 Attorney General's General Correspondence、 Box 11、 JFKL.
20)Civil Rights Strategy in the Senate、 from Mansfield to the President、 June 18、 1963、 Theodore Sorensen Papers、 Box 30、 JFKL. 
 
社会資本とソーシャル・キャピタル

 

1、問題提起
社会資本(Social Overhead Capital)はこれまで、社会的インフラストラクチャーなど主に公的機関によって提供され人々の経済活動に間接的に貢献する資本を意味する言葉として理解され、宮本憲一の「社会資本論」や宇沢弘文の「社会的共通資本論」などの業績が積み上げられてきた。ところが、最近になって、これとは大きく異なる内容で理解されたソーシャル・キャピタル(Social Capital)の重要性が、国際協力などの分野で指摘されるようになってきた。
ソーシャル・キャピタルの日本語表現も、「社会資本」と訳す例もあれば(フクヤマ: 1996)、これまで日本で使われてきた社会資本との混乱を避ける意味から「社会関係資本」(佐藤寛編: 2001)、「社会的資本」(農林中金総合研究所編: 2002)、「関係資本」(山岸: 1999)、「人間関係資本」(国際協力事業団: 2002 :注釈)などと造語する人々もあり、さらには「ソーシャル・キャピタル」とカタカナで表記する例(稲葉・松山編: 2002)もあるなどさまざまで、この用語の不統一が概念理解をさらに混乱させている。本論では、ひとまず社会資本を従来のSocial Overhead Capital の意味で使用し、Social Capital はそのままカタカナでソーシャル・キャピタルと表記する(必要に応じてSCとする)ことで使い分ける。
本論の目的は、従来の社会資本・社会的共通資本概念との比較検討を通じて、ソーシャル・キャピタル論の特質、その積極性と問題性を明らかにするとともに、社会科学および実践において分析用具としてどのような貢献をなしうる可能性があるのかを検討することである。 
2、ソーシャル・キャピタル概念の登場と受容
1)ソーシャル・キャピタル(SC)という言葉が使用されるようになったのは、知られるかぎり20 世紀に入ってからのことである。パットナムによると、少なくとも6回、それぞれ独自に案出された(Putnam : 2000 : 19)。多くの研究者からその最初の例とみなされているのが、1916 年のハニファンの論文である(Putnam : 2000 : 19; MacGillivray and Walker :2000 : 197; Rae: 2002 : xi)。
ハニファン(Hanifan : 1916)によると、SCは比喩的な言葉であり、不動産・資産・金銭などには関係なく、人々の日常生活に欠かせず感知されるもの、すなわち、個人ないし家族から成る社会的な集団の構成員相互の善意、友情、共感、社交などのことである。ハニファンのこの考え方は、その後、コールマンやパットナムを通じて広まっていったこの言葉の理解と大きく異なるものではない。またハニファンは、SCに集約される人々の社会的絆が希薄化してきたという危機感からこの語を提起した。すなわち、この後、この概念を提起する人々の多くが共有する「かつては豊かにあったSCが、最近の社会変動によって急速に減少してきた」という問題意識が、すでに創始者からみられるのである。ただし、ハニファンがあくまでSCを比喩的な言葉だと限定していたことは、資本という用語が実体的なものとして理解され、一般の資本や後に詳しく検討する「人的資本」(Human Capital)概念との異同が議論される現在の状況を考えるとき、注目してよいだろう。なお、ハニファンはウェストバージニア州の農村部の学校を担当する教育主事だったが、農村部こそがSCに必要なレクリエーション、知識、経済的条件を欠いているとみていた。
ソーシャル・キャピタルという語はその後、1957 年の「カナダの経済的展望に関する王立委員会」の作成した「住宅とソーシャル・キャピタル」報告に登場したが、その意味するところは「学校と大学、教会とその関連施設、病院、道路、空港、上下水道システム、公共機関や政府部局に帰属するその他の建造物および施設」であり(quoted in Schuller et al : 2000 : 2)、社会インフラと同義語であって、ハニファン的概念とは異なるものであった。 
2)ハニファン的理解によるこの概念を広めるうえで、コールマンをはじめ他の研究者に大きな影響を与えたのが、70 年代にラウリーの行った研究である。米国の労働市場における人種差別を研究したラウリーによると、従来の経済学は、黒人が労働市場で不利な状況に置かれるのは、需要サイドでは雇用する側の人種差別のために需要が低いこと、供給サイドでは黒人労働者の市場価値(人的資本)が劣ること、が原因であるとして説明してきた。このため、具体的な政策としては、黒人労働者の市場価値を高めるとともに、人種差別を禁止する立法・司法的措置により黒人労働力への需要を高める政策がとられた。ところが、労働力の市場価値を高める点では労働者個人の人的資本への投資のみに焦点が当てられ、労働者の両親の職業や教育水準などの家庭環境といった社会・経済的条件に十分な注意が払われなかった。したがって、人的資本獲得を促す社会的条件を表すSC概念を導入することが必要になるという(Loury :1977)。
後にラウリーは、SCの源を次のように説明した。かりに労働市場で平等な競争が行なわれたとしても、競争する個人の労働能力は、まずその両親の経済力や社会的背景に世代を越えて大きく影響される。これがSCの第一の源である。さらにその家族の属する人種、エスニシティ、宗教などの集団(コミュニティ)なども、その所有する公共財(ないし公共悪)がそれぞれ異なるため、第二の源としてその人物の成功を大きく規定する。以上のような考え方からラウリーは国家によるアファーマティブ・アクションの意義を限定的に認めたが、それが唯一かつ最善の政策ではないことも指摘した(Loury: 1987)。 
3)現在までに連なるSCに対する関心を高めるうえで大きな役割を果たしたのはコールマンである。コールマンによると、SCは人と人の関係性の中にあるもので、さまざまな存在形態から成っている。いずれも社会構造におけるアクター(個人または組織)の行為を促し、他の資本と同じく生産的で、特定の目標を達成しうる。その具体的な例としてコールマンが挙げたのは、学生運動の母体となる同じ高校、出身地、教会などの人間関係、医師と患者の信頼関係、子供の安全を見守る地域社会、市場で互いの客にサービスする業種の異なる商人たちの協力関係などである(Coleman: 1997)。ある行為を促すためのSCは、他のアクターにとっては行為を抑制したり害をもたらすものであることもある。古典派経済学などの近代社会科学が、自己利益に動機づけられ独立して目標を達成する個人から社会が成り立っているとみることへの批判が、自分のSC 概念提起の背後にあることをコールマンは明言している(Coleman :1994)。
コールマンによると、社会的行為の解釈には、人間行動を社会的な文脈でとらえ、人間が規範、規則、義務によって支配されているとみる主に社会学的な潮流と、アクターは利己的でそれぞれバラバラな目標をもち独立して行動するとみる主に経済学的な潮流がある。前者は、アクターが環境によって形成され独自の内的起動性をもたないかに見なしがちであるのにたいして、後者は、人間行動が社会的なコンテクストのなかで形成、転換、抑制され、経済にとっても規範、信頼、社会的ネットワークが重要なことを見逃しがちである。SCには、「義務」、自分の果たす義務が報われることへの「期待」、制裁を伴う「規範」という3つの形態がある。
SCがとりわけ大きな意味をもってくるのが、家庭およびコミュニティにおける次世代の人的資本の創出においてである。その例としてコールマンは、子供の学校の教科書を子供用と母親用の二冊用意し、家庭で子供の学習を助けるアメリカのアジア系移民を挙げる。この場合、親の教育水準は高くない、つまり人的資本は豊かではないとしても、子供と親の絆というSCはきわめて大きい。その結果、子供の人的資本は大きく発展しうる。逆にいくら親の教育水準が高くても、それが親と子供の関係というSCによって生かされなければ、子供の人的資本は大きくならない、という。
さらにコールマンは、中等教育における中退率が家庭の性格に応じて顕著に異なることを明らかにすることで、自説を裏付けようと試みた。両親がいるか片親か、子供が何人いるか、子供が高等教育を受けることを母親が望んでいるかいないか―という3つの指標をたてて分類すると、SCが高いとみられる両親・子供1人・母親が高等教育を望む家庭が、いずれの指標でも中退率が低く、3つの指標すべてに欠ける家庭の子供は3つの指標すべての備わった家庭の子供より中退率は3倍以上高かった。またコールマンは一般社会でもSCと人的資本とが密接に関係していることを示すため、中等教育での中退率をカトリック教育校、私立校、公立校の別に調べ、父母の活動や宗教組織における絆などSCの大きい上記の順に中退率が低いことを明らかにした。
コールマンは資本を物理的(physical)資本、人的資本、ソーシャル・キャピタルの3つにわけたうえ、物理的資本、人的資本は私財であるが、SCの多くは公共財であるとする。私的所有物である物理的資本は、その生み出す利益が資本所有者の私財となるし、人的資本も教育や訓練を受けた者自身に利益が齎らされるのに対して、SCは多くの場合、社会的規範を守ったり協同の作業に貢献した個人に直ちにその利益が齎らされるわけではなく、利益は時間をかけてグループなり社会全体にもたらされる。ここからコールマンはSCの多くが公共財としての性格をもつことを主張する(Coleman: 1997)。 
3、パットナムのソーシャル・キャピタル理論
社会科学の幅広い分野におけるソーシャル・キャピタル論の興隆をもたらした最大の貢献者がパットナムであるといっても、異論はないであろう。ここでは、パットナムの研究の中でも、影響力の大きかったイタリアにおける民主主義と市民社会発展を南北地域の比較分析から論じたMaking Democracy Work(邦訳『哲学する民主主義』)と、アメリカのソーシャル・キャピタルが衰退していることを主張したBowling Alone(一人ぼっちのボーリング)を中心にその議論を概観し、次節でその批判を行いたい。
パットナムはコールマンを基本的に受け継ぎながら、ソーシャル・キャピタルを信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴から把握する。イタリアの研究は、1970 年の州政府・州議会(特別州を含めて20 州)設立を軸に自治制度改革が進められたイタリアの地方政治を州単位で比較研究したものである。州政府の安定性、予算執行の迅速性、立法改革、医療、産業政策、住宅開発などいくつもの指標から州政府の行政実績(制度パフォーマンス)を比較したパットナムは、20 年の間に州政府の行政実績も住民の満足度も高くしたがって民主主義の安定したエミリア・ロマーニャ州など北部と、行政実績も住民の満足度も低く民主主義の不安定なプーリア州など南部の間で、大きな格差が生じたことを示した。
一般には民主主義と経済発展が強い相関性をもつとみられていて、それはイタリアの場合も確かにある程度までは妥当するものの、経済発展度の高い州の間でも政治的民主主義の発展度には差が生じていることからすれば、説明要因としては十分ではない。それに替えてパットナムが注目したのが、市民共同体(civic community)・市民性(citizenship)の成熟度合い、具体的には公的な問題への参加、政治的平等性、信頼、アソシエーション(自発的団体)の活動などであった。これをパットナムは、4つの指標―@アソシエーションの数、A新聞講読率、B国民投票での投票率、C総選挙での優先投票の利用率(イタリアの選挙では支持政党に投票するが、さらに希望すれば特定候補への支持表明ができる。この制度は派閥主義やパトロンークライアント関係を強化する温床となっており、したがって前の三つの指標とは逆に市民性の欠落を示すとされる)―による統計処理を州ごとに比較することで裏付けた。
パットナムはこの結果から、これまでの政治学や社会学における社会発展観に疑問を投げかけた。テンニエスの「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」に代表される通説は、連帯感に基づく前近代的な共同社会から合理的、非人格的な近代的利益社会への発展を説いてきた。この見方にたてば、市民共同性は近代社会から消え去る運命にある。だが、実証研究は、市民性が低い地域は伝統的な南部の村々であり、市民性がもっとも高く社会的連帯のネットワークが集中するエミリア・ロマーニャ州はテクノロジーの進んだ現代的な地域であることを示している、という。
自治体の制度パフォーマンスにおける南北格差の原因を経済発展度の違いではなく、市民共同体の違いに求めたパットナムは、さらに歴史をたどり、1900 年代にアソシエーションが活発に活動するなど市民的関与の高い州は1970 年代の市民的関与の高さと社会経済的な発展、80年代の自治制度パフォーマンス成功に導かれた、という。そのうえでパットナムは議論を進めて、南北の格差は、市民共同体による自治を発展させた北部都市国家と、ノルマン王朝の封建支配下に置かれた南部という格差の生じた11 世紀にまで起源を辿ることができるという。すなわち、根本には「千年におよぶ北と南の間での市民性の違い」(Putnam: 1993 : 152)があるというのである。
この論理をパットナムはイタリアだけでなく、南北アメリカの政治発展の違いにも応用する。いずれも独立した時点では立憲国家であったが、北アメリカが分権、議会制など英国の遺産を受け継いだのに対して、ラテン・アメリカの人々がスペインから権威主義や家族主義を受け継いだことが、近代における両者の歩みを異なったものにした、というのである。
また南北イタリアの比較は、市民公共性を強く発展させた地域は国家も市場も発展することを教えているとパットナムはいう。より一般化していうならば、「共有地の悲劇」「囚人のジレンマ」「(オルソン的な)集合行為論」などが繰り返してきたフリー・ライダー問題を、第三者による強制ではなく自発的な市民的協力によって解決していくことがもっとも賢明であることが示唆されている。そしてこの自発的な協力を促すのは、信頼、互酬性の規範、ネットワークなどのソーシャル・キャピタル(SC)である。政治の安定、経済発展にとって、SCが物的資本や人的資本よりおそらく重要であることを示している点で、今日の第三世界や社会主義からの移行国にたいしても、ソーシャル・キャピタル論は一つの教訓を与える、とパットナムはいう(Putnam: 1993)。
アメリカ合衆国を対象にした研究では、SCの歴史的変化が分析された。さまざまな調査・実証研究から、政治的・宗教的・社会的活動への参加、家庭の中の結びつき、人々の相互信頼などあらゆる面でアメリカのSCは過去30 年余り低下してきたとパットナムは主張する。政治的参加の面では、大統領選挙の投票率、政治集会への参加、請願署名への参加など、いずれも低下した。宗教は今日でも地域の生活に大きな役割を果たしているものの、教会に定期的に通うなどの活動は低下した。職場でも労働組合の加入率は下がっており、職場が地域に代わるSCの場にはなっていない。インフォーマルな人々の結びつきという点では、例えば家族そろって夕食をする人々の割合が減った。スポーツ活動も低下している。
パットナムがとりわけ注目したのが、年間参加者が9100 万人(1996 年)と上院議員選挙(1998 年)の投票者を25 %も上回ったボーリングである。ボーリング愛好者は1980 年から93年にかけて10 %増えたにもかかわらず、人々の社交の中心となっていたサークル(連盟)の加入者は40 %も減少した(Putnam: 2000 : 112)。「一人ぼっちのボーリング」という本のタイトルはここに由来する。スケートやウオーキングなどの愛好家が増えたといっても、これらのスポーツは個人プレーに頼る点で「社会的」ではないし、サッカーなど人気増大のスポーツも野球人口などの低下を補うに足りない。犯罪は増えており、人々の相互信頼も落ちていることを意識調査は裏付けている。
他方で、小規模な環境団体などは増えているが、そこに結集する人々の多くは機関誌講読や会費納入だけの活動をしている。地域社会の活動に参加する人が減る一方で、ボランティア活動に参加する人は増えていることは事実だが、これらボランティア活動の参加者の多くは高齢者であり、とりわけ1910 年から40 年にかけて生まれた、パットナムがもっとも市民的なジェネレーションと呼ぶコーホートからきている。
パットナムによれば、過去30 年ほどの間、米国のSCを減少させた主な原因は4つある。世代変化、電子メディアとくにテレビによる娯楽の私化、共稼ぎなど仕事による時間的・金銭的余裕の喪失で地域活動などに時間を割かなくなったこと、居住地域が郊外へ広がり通勤に時間をとられるようになったこと―である(Putnam: 2000 : 283-284)。
パットナムがもっとも重視した世代変化とは、ある年頃になれば社会的な活動をする、しないではなく、ある時代に生まれ育つことそれ自体によって社会的な関与が高くなる、あるいは低くなるジェネレーション変化をさす。パットナムによれば、新聞の講読、定期的な教会の集会への参加、請願行動への参加、労働組合加入、議員への要請などで市民参加、相互信頼度の時代的変化を調べてみると、1910 年から40 年に生まれた世代がもっとも市民的な世代であり、その後はベビーブーマー、その次の世代と、時間を追うごとに市民性は弱まっていったという。 
4、パットナムの評価と批判
ソーシャル・キャピタル論の一典型をなすパットナムの研究は、ソーシャル・キャピタル論の長短両面を象徴的に示しているとみることができる。パットナムの議論を分析することで、われわれはソーシャル・キャピタル論のもつ積極性とともに問題点の大筋を把握することができるであろう。ここでは、パットナムの議論の積極的な貢献を3点に絞って簡単に確認したのち、それとは対照的な批判点をやや詳しく分析し、ソーシャル・キャピタル概念一般の検討へと展開させていきたい。
パットナムの第一の貢献は、イタリアなりアメリカ合衆国なりの国家領域の特質、とりわけ民主主義のあり様を明らかにするうえで、国家制度・政策や経済発展とは独自の社会的な組織のありよう、人々の結びつき方を究明することが重要であることを明らかにしたことである。
政治制度や経済発展が自動的に民主主義をもたらすのではなく、逆に人と人の関わりあい、社会組織のなされ方、とりわけ市民性のありようが、政治や経済にも影響を及ぼしていくことをパットナムは唱えた。端的にいうならば、国家か市場かの択一的選択ではない、社会や文化の独自の役割、あるいは規定性を主張したのである。
第二に、10 年、20 年という期間におよんで詳細な実証調査を行い、さまざまな指標から統計的に歴史的変化を把握しようと試みたことである。パットナムの数値計算はきわめて綿密である。だが、多用な指標から細かな数字が示されれば示されるほど、はたして選択された指標が社会の現実を把握するためのものとして適切であったのかどうかが問われることになる。
第三の貢献は、市民性、市民共同体の分析を通じて、共同社会から利益社会への歴史的発展という通説に疑問を提示したことである。これは大きな問題提起である。だが他方で、パットナムがイタリアの分析で多用した市民共同体(civic community)という概念がかりに近代イタリアの歴史的変遷を分析する際には有効だとしても、パットナムが示唆するように他の社会、例えば発展途上地域の分析にもそのまま妥当するかどうかは、問われるところであろう。共同性(community)を欠いた社会はまれであろうが、すべての社会が近代ヨーロッパ的な意味での市民的(civic)文化を備えているとは限らないからである。
以上のようなパットナムの貢献を認めた上で、その問題点を他の論者のパットナム評価も踏まえつつ、次にみてみたい。これらの批判は、パットナムの議論に止まらず、ソーシャル・キャピタル概念の使用の適否にも関わってくるであろう。
批判点としては、まず第一に、多くの論者がその数量分析に対して疑問を投げかけた。例えばリンは、アメリカでSCが弱体化した根拠にされた総合社会動向調査(General Social Survey)を利用するにあたってパットナムは特定の組織を取り上げてその構成員数の変化を追ったが、そうではなくボランティア活動に人々が割り当てた総時間数で測定すべきであったという(Lin : 2001 : 210)。人々の関心が衰えたのではなくて、社会的関与の対象が既存の組織への加入からボランティア活動などに移ったとみるのが正しいのではないか。さらに政治的な参加に関していうならば、信頼の低下、政府への懐疑はむしろ最近の現実政治を見れば健全な反応であり、民主主義が弱体化したのではなく逆に機能している証拠ではないか、という指摘もなされた(Maloney et al : 2000)。
ボッグズは、SCの変化を実証するためにパットナムが選んだ組織が、主に白人中産階級からなる伝統的で画一主義的な、ロータリー・クラブ、エルクス慈善保護会、聖歌隊、スポーツ連盟などであったことそれ自体に問題があったという。これらの組織が衰退していったのは、その存在理由を失っていったからにすぎない。むしろ、60 年代から盛んになりながらパットナムが軽視した公民権、反戦、女性、環境、コミュニティ、同性愛者などの社会的抗議運動こそが今日の市民社会を特徴的に示すものであり、制度秩序にも不可欠なのである。それを理解しなかったため、マッカーシズムの吹き荒れた50 年代がSCが豊かで、公民権運動やさまざまな社会運動が多様に展開された60 年代後半から70 年代にSCが衰えたという誤った結論にパットナムはたどり着いたという(Boggs: 2002)。
パットナムの第二の問題点は、南北イタリアのSCの比較分析にみられる歴史的規定性の指摘が、地理的決定論、文化的決定論さらには宿命論にもなりかねない面をもっていることである。SCの中核をなす市民的な信頼が北イタリアでは1000 年の歴史をかけて造りあげられてきたというのならば、南イタリアが北イタリアに追い付くためにはさらに1000 年が必要なのか、という皮肉まじりの批判もなされた(Loizos : 2000)。実際、パットナム自身、イタリアでの調査を終えてその結論をイタリアの州政府関係者に報告したところ、低い評価を受けた州の代表たちから「制度改革の運命は何世紀も前に定まっていたというのか」と抗議を受けたことを記している(Putnam: 1993 : 183)。北イタリアの街でなぜ市民的(民主的)な政治的、社会的行為がなされるかといえば、それはその街が歴史をかけて市民的に形成されてきたからであり、南イタリアの街でなぜ非市民的(非民主的)な行為がなされるかといえば、その街が歴史的に非市民的に形成されてきたからだ、というだけでは、ポルテスが指摘するように、非市民的(政治)なのは非市民的(歴史)だからであり、非市民的(歴史)だから非市民的(政治)だというトートロジーになってしまう(Portes: 1998)。
第三に、シュラーたちは、国家がSCの創出に果たす役割にパットナムが目を向けていない点を批判し、国家の適切な介入によってのみSCは運営されうることを指摘した(Shuller etal.: 2000)。クリシナも、政府の学校教育や灌漑設備への投資が父母や農民の積極的な関与を引き出し地域のSCを向上させた事例をひいて、政府による公共財への投資が顕著にSCの水準を上げること、すなわち政府の政策がSC を強化しうるし、してきたことを強調する(Krishna : 2000 : 72)。世界銀行などの国際開発機関によってSCの実証研究が進んでから、政府の関与とSCの関係を一方的に否定的なものとみる考え方は弱くなってきているといってよい。
第四の問題点として、パットナムが初期の著作ではSCをもっぱら肯定的な側面で捉えたことが指摘された(Campbell : 2000)。ただし、パットナムは最近の論文では、ソーシャル・キャピタルにもKKK(白人右翼テロ組織)のような排他的組織がありうることを認め、結束的(bonding)ないし排他的(exclusive)ソーシャル・キャピタルと、連携(bridging)ないし包容的(inclusive) ソーシャル・キャピタルの区別を提起している。前者は内部指向的で、排他的なアイデンティティを強化する傾向があり、構成員は同質的である。エスニシティに基づく友愛組織、教会の組織する女性の読書サークル、社交クラブなどが例として挙げられる。後者は外部指向的で、多様な社会的分派を横断して人々を包括し、市民権運動、青年グループ、宗派間宗教組織などが例として挙げられる(Putnam : 2000 : 22)。批判者の指摘を吸収して自らの議論を強化するパットナムの柔軟性は敬意を払うに価するとはいえ、彼がSCの否定面をどれほど深刻に受けとめていたかは、なお疑問が残る。
第五の問題としてスティーガーは、パットナムの研究が90 年代のグローバライゼイションのさなかに進められたにもかかわらず、グローバライゼイションとソーシャル・キャピタルの関連、相互の作用、反作用にほとんど触れていないことを指摘している。スティーガーはいう。
近年の新自由主義的なグローバライゼイションによって、米国社会の社会的不平等は拡大され、長時間労働や中産階級の減少、貧富の格差拡大による孤立した近隣関係と社会的連帯の解体を招いた。パットナムがSC減少の責任を負わせるテレビにしても、その娯楽化、低俗化は情報資本のグローバル市場拡大の帰結ではないか(Steger : 2002)。
そもそもパットナムは、SCの増減と資本主義を結びつけること自体に反対する。米国は何世紀もの間たえず市場資本主義のもとにあったもののSCは変化した。したがって、両者の増減に相関性はない、という(Putnam: 2000 : 282)。だが、スティーガーがいうように、資本主義といっても福祉国家的資本主義の時代もあれば新自由主義の時代もあり一様ではない。パットナムはグローバライゼイションのもたらす影響を、大規模なフィランソロピーや市民的活動が以前ほど活発でなくなること、に矮小化しているのである(Putnam: 2000 : 283)。
第六の問題として、パットナムが統計と数量計算を多用したにもかかわらず、その数字の使い方が恣意的ではないかという批判が寄せられたことはすでに述べたが、その実証過程だけでなく、結論においてもパットナムの数字の使い方には首をひねりたくなるものがある。例えば、既述のように、米国でSCが衰退した理由をパットナムは、世代変化、テレビなど電子メディアの普及、共稼ぎなど仕事の面での時間的・金銭的余裕喪失、居住地域の郊外への拡大と長時間通勤、の4つの要因に求めた。これ自体、例えばグローバライゼイションとの関連についての言及がないことをみても、十分な説得力をもつとはいえない。しかし、パットナムはさらに進めて、これら4つの原因の寄与の割合を、世代変化はSC減少への寄与率50 %、テレビなど電子メディア25 %、仕事のせいで時間的・金銭的余裕を喪失したこと10 %、居住地域の郊外への拡大と長時間通勤10 %(一部は重複するので合計は100 %とならない)―と、細かな数字的割合まで示して怯まないのである(Putnam: 2000 : 283-284)。
矛盾に満ちた人間の心理や社会的行為が、あらゆる仔細な点にわたって数量的厳密さで説明されると考える無邪気さに直面すると、あらためてパットナムの社会観とは何であったのか、またパットナムをこの強迫症的な数量測定に追い込んだアメリカ社会科学の科学性とは何であったのか、われわれは考えこまざるをえない。
こうしてパットナムが数量的厳密さを強調すればするほど、皮肉なことに読者は胡散臭さを感じ取ってしまうのだが、同様な問題として第七に、「一人ぼっちのボーリング」の結論で示されたソーシャル・キャピタル再興をめざしたアメリカ社会への処方箋がある。パットナムはいう。2010 年までに「アメリカ人の市民的な関与を、社会のあらゆる部門でそれぞれの年齢層において祖父母の時代にそうであったような水準まで高め、連携的(bridging)SCを祖父母の時代よりはるかに大きいものにしよう」「(雇用者と労働組合指導者に対して)職場を家族共存型、コミュニティ適合型なものとし、労働者が職場の内外でSCを満たせるようにしよう」「通勤時間を減らして近隣との結びつきを強め、緊密に結びつき歩行者に親切な地域に住み、友人や隣人と気軽に交際するコミュニティと公共空間をデザインできるよう努めよう」「(宗教家にたいして)新たな多元的で社会的責任を負った『大覚醒』を巻きおこし、アメリカ人が今より精神世界に深く関わるように、同時に他のアメリカ人の信条と実践にもっと寛容になるようにしよう」「テレビの前で過ごす受け身の時間を減らして同胞市民との活発な結びつきの時間を増やすようにしよう」(Putnam: 2000 : 402-414)。
しかし、この精神主義的スローガンを信じさえすれば、例えばどうして10 年たらずで職場と住居の近接した場所に家を購入できる経済的、物理的条件を勤労者に保障できるようになるのか、残念ながらパットナムは何も教えてくれない。長年の研究成果にしては、パットナムの提案は、実践家としては無内容で非現実的、精神家としてはあまりに世俗的である。 
5、社会資本論
これまでパットナムを中心とするソーシャル・キャピタル論の骨子を紹介しながら、その批判的考察を試みてきた。だが、冒頭に述べたように、従来、日本で社会資本といえばSocial Overhead Captial、すなわち社会インフラを中心とする公的投資のこととして理解されてきた。
ソーシャル・キャピタルの理論的検討をさらに進めるためには、この社会資本論との比較検討を欠かすわけにはいかない。以下、宮本憲一の社会資本論、宇沢弘文の社会的共通資本論をそれぞれ検討し、ソーシャル・キャピタルとの比較検討へと展開させる。
日本の社会資本政策の現実分析にたって社会資本のあり方を批判したのが、宮本の『社会資本論』である。その出発的におかれたのはハーシュマンの社会的間接資本(Social Overhead Capital)(ハーシュマン理論の紹介では、一般に社会的間接資本がSocial Overhead Capital の訳語に当てられている)概念であった。
ハーシュマンによれば、社会的間接資本とは、そのサービスが多様な経済活動を促進するかその活動に不可欠であり、公的機関もしくは国家統制を受ける私的機関によってサービスが提供される。そのサービスは輸入することができず、サービス提供のための投資の産出比率が高く技術的に不可分である、という特徴をもつ。具体的には潅漑、排水、法、秩序、教育、衛生、運輸、通信、動力、水道など一切の公益事業が含まれる。開発経済学の理論家としてのハーシュマンは、不均整(アンバランスト)成長論を唱え、そこから社会的間接資本についても、社会的間接資本への初期投資は必ずしも経済成長の絶対的前提条件にはならないから、社会的間接資本超過型発展と、投資誘因の不足した社会的間接資本不足型発展の二つの道がありうることを説いた(ハーシュマン: 1961)。
このハーシュマンの社会資本概念を宮本は5点にわたって批判した。第一にハーシュマンは、そのサービスの対象者が個別家族ないし企業にとどまらない社会一般であることをもって「社会」資本とよぶのか、その提供するサービス事業の所有者が私企業ではなく国など社会的な主体であることをもって「社会」資本とよぶのか、自覚しないままに混用している。第二は、ハーシュマンが社会資本としてあげたものの大部分は資本ではない。鉄道や電力は資本主義的に経営されておりその資産は資本だが、道路や教育施設などの公共施設は資本循環していないし、司法、行政、軍事などは資本ではなく擬制にすぎない。第三は機能の異なる生産手段と消費手段が区別されていない。第四に、社会資本とよばれるもののイデオロギー的性格が捨象されている。第五に、社会資本の国際的性格が問われていない―ことである(宮本: 1976 : 8-10)。
他方で宮本は、カップの社会的費用論も批判した。社会的費用を外部経済とみる新古典派を批判したカップは、社会的費用を、私的生産活動の結果、経済上こうむる有害な影響や損害であり、その費用が第三者や社会によって負担されるものと定義した(カップ: 1959 ;カップ: 1975)。だが、宮本はカップが「特定の企業がもたらした社会的費用は、第三者だけでなく他の企業家にも有害な影響を及ぼしうるし、ひいてはその社会的費用の発生に責任を負うべき企業自身にさえ、その有害な影響が及ぶ」(カップ: 1975 : 89-90)とみた点を批判して、現実には農民、中小企業、労働者が社会的費用を負担すると論じたのである。
ハーシュマン批判からも明らかなように、宮本は資本概念をかなり限定的に捉えていた。司法、行政、軍事などばかりでなく、道路や教育施設などの社会インフラも資本循環しないから資本でないとする。そのうえで宮本は、社会資本と呼ばれるものが社会的一般労働手段(後の著作の表現では社会的一般生産手段)(宮本: 1989 ;宮本: 1998)と社会的共同消費手段から成っていることを唱えた。ここで社会的一般労働手段と呼んだのは、その所有形態が個別資本ではなく(国など)「社会的」であると同時にサービスの対象が特定個人・企業ではない社会「一般」であるという意味をこめている。同様に社会的共同消費手段についても、所有が「社会的」であるとともに消費の態様が個々ではなく「共同」で行なわれることが含意されている。
宮本による一般労働手段の定義とは、労働過程が行なわれる一般的諸条件をなし、直接的に労働過程に入りこまないものの、それなくして労働過程が不完全にしか行なわれないもの、である。具体的な例として、港湾、鉄道、産業道路、飛行場、ダム、工場用排水、産業用地などがあげられた。これらは、いずれも場所的に固定され、大規模な建設投資を必要とし、利潤を生むまでの懐妊期間が長い、最小限規模があり、各種手段がワンセットとなって初めて機能する、等々の特徴をもつ。ここに一般的労働手段の多くが社会的に所有され社会的一般労働手段となる必然がある(宮本: 1976 : 11-28)。
一方、社会的共同消費手段概念の前提となる社会的共同消費(共同消費)について宮本は、「個人消費は自己の生命の再生産であったが、共同消費はその社会の再生産」であるとし、とくに都市においては「都市住民の私的消費を持続し、自己と家族の生命を維持するために不可欠」(宮本: 1976 : 29)になったと説明する。労働力が商品となる資本主義社会においては、労働力も生産資本として機能するので、労働者の再生産過程である労働者の消費は資本の再生産の条件となる。したがって、共同消費は、商品であり生産資本である労働力の再生産の一般的条件となり、共同消費手段は労働力の再生産の一般的条件となる。共同消費手段の例としては、次の5つのグループがあげられた。第一は、都市生活で共同利用される共同住宅、電気・ガス、上下水道、清掃設備など。第二は、労働力保全のための病院、保健所、さらに失業者保護のための失業救済事業、職業訓練など。第三は、労働力資質向上のための教育、科学・技術研究など。第四は、個人消費のために共同利用する交通、通信手段。第五は、図書館、劇場、公園、運動場などの文化・娯楽施設―である。これらは、前述の一般労働手段の場合と同じく、場所的な固定性、非分割性、利潤採算の困難さなどの特徴をもつため、社会的な所有となっていった(宮本: 1976 : 29-40)。
こうして社会資本とよばれるものは、性格を異にする社会的一般労働手段と社会的共同消費手段から成る。だが、運輸業は生産物の輸送もすればレジャー客の輸送もし、工業用水も都市用水も供給源はふつう同一であり、教育において産業技術開発も普通教育も行われるなど、多くの場合、両者は混合し不可分となる。このため、社会的一般労働手段を最大限供給しようとするのとは対照的に、社会的共同消費手段は必要最小限供給する傾向をみせるようになる(宮本: 1976 : 41-46)。
『社会資本論』が著わされた高度経済成長末期の日本は、全国で公害、交通事故増大、生活環境悪化、都市の過密と農村の過疎など、地域社会を取り巻く深刻な問題に襲われていた。政府は拠点開発中心の地域開発政策によって膨大な公共投資を行い社会資本充実を掲げたものの、産業基盤重点政策によって公害や都市問題はかえって深刻化したのである。宮本は、詳細な現実分析にたって、社会的共同消費手段の貧困が根底にあること、大量生産・大量消費というアメリカ的消費生活様式の導入が社会的共同消費手段の需要増大を招き貧困化をかえって推し進めたことを指摘し、大量生産・大量消費を見なおすとともに必要不可欠な社会的共同消費手段を充足することに、問題解決の方向性を指し示したのである。 
6、社会的共通資本論
宮本の社会資本理解に比べると、宇沢の社会的共通資本(宇沢は、一般には社会資本あるいは社会的間接資本と訳されているSocial Overhead Capital を社会的共通資本の英語訳としている)(宇沢: 1972)は、はるかに包括的な概念である。宇沢によると、社会的共通資本は自然資本、社会的インフラストラクチャー、制度資本の3つから構成される。自然資本は自然環境全般を包含する。自然環境は、経済活動と密接な関連をもち、同時に「資本」としての役割を果たす、という理解からである。社会的インフラは通例、社会資本と呼ばれるもので、堤防、道路、港湾、電力、ガス、上下水道、文化施設など、主に都市を構成する物理的、空間的施設である。制度資本は、社会的インフラを制度的な側面から支えるもので、教育、医療、司法、行政、金融、警察、消防などがあげられる。どのような稀少資源が社会的共通資本として扱われ、その各構成要素が管理、維持されるかは、先験的な原理にではなくその時々の歴史、経済、社会、文化、自然条件によって決められる、という(宇沢:1994c)。
宇沢によると、社会的共通資本から生み出されるサービスには2つの特徴がある。第一に、社会的共通資本は私有されないとしても、そのサービスの使用については各経済主体がある程度まで自由に選択できる。例えば道路を例にとると、道路それ自体は社会的に建設されるとしても、道路サービスをどう利用するかは各経済主体が必要性と時間的・金銭的コストを勘案して自由に決定する。各経済主体がサービスを選択できない社会的共通資本は例外的である。第二は、サービスをめぐる混雑(congestion)である。社会的共通資本の容量は全構成員の必要には足りない場合が多く、各人がサービスから得られる効用は他の経済主体がそのサービスをどれほど利用するかにもよる。
以上のような基本理解に基づいて宇沢が展開した議論の中で、ここでは以下の3点に絞って注目したい。第一は公共財との関連である。社会的共通資本は無料ないし低廉な価格で供給されるのが普通であり、その意味では公共財の一種である。だが、すでにみたような選択の自由と混雑という特徴をもつ点は、国防や外交などの純粋公共財とは異なる。社会的共通資本の効率的な配分のためには、社会的共通資本の使用にともなう社会的費用、限界的な1単位の使用による混雑で他の経済主体に与える影響を計る限界的社会費用概念を導入する必要がある、という。実際、宇沢はこうした理論提示にもとづき、自動車がどれほどの社会的費用をもたらすかを実証的に明らかにした(宇沢:1992b;宇沢:1994b;宇沢: 1994c)。
第二は社会的共通資本の管理をめぐってである。宇沢によれば、社会的共通資本は国ないし政府によって規定された基準にしたがって管理されるのではなく、内容に応じてそれぞれ独立の機構が社会からの信認(fiduciary)を受けた形で管理すべきである、という(宇沢:1992a)。
第三は、人的資本との関連である。宇沢は、社会的共通資本概念を理論的に論じた論文で、もともと稀少資源には可変的生産要素と固定的な生産要素があり、固定的生産要素はさらに私的資本と社会的共通資本に分かれているが、このうち私的資本は一般に固定資本と呼ばれるもので、工場・建物・機械・設備などのほか技術的な知識、市場にかんする情報という無形の人的資源の多く、さらに研究・開発能力、経営・管理能力なども固定資本であると説明している(宇沢: 1972)。
このような社会的共通資本論を展開するにあたって、「資本」とは広義の資本概念であること、すなわち彼のアービング・フィッシャー理解によるフィッシャー的な資本概念、「生産・消費のプロセスにおいて必要とされるような稀少資源のストックを広く資本」として理解していること、を宇沢は明記している(宇沢: 1994b: 103)。 
7、資本概念
宮本の社会資本論と宇沢の社会的共通資本論を比べただけでも、資本理解は必ずしも同じではない。社会資本・社会的共通資本との比較にたってソーシャル・キャピタルの総括的な評価を行うためには、ごく簡単にでも資本概念の確認をしておく必要があるだろう。
アダム・スミスは『諸国民の富』第2編第1章で、個人の資財も社会の資財も、直接消費にあてられ利潤を生じない部分と、収入をもたらすことが期待される部分の二つにわけられ、後者が資本であると説明した。例えば一般には消費に当てられる衣服も、貸し衣裳屋にとっては資本となる。ようするに、資本とは、収入をもたらす資財である。資本はさらに、機械や建造物など所有者を変えることなく(流通することなく)収入をもたらす固定資本と、材料や(雇い入れた労働者の賃金を含む)貨幣など所有者を変える(流通する)ことによって収入をもたらす流動資本に分けられる。スミスはさらに固定資本と流動資本それぞれについてその内訳を説明したが、注目すべきは、機械や建造物とならんで教育や訓練によって習得した職人の技術など社会の構成員が身につける有用な能力を、個人の観点からも社会全体の観点からも固定資本の一つとして数えあげていたことである(スミス: 1969 : 448-458)。
スミスの固定資本と流動資本という分け方に対して、マルクスは『資本論』第一巻において、生産手段に投下される不変資本と、資本家が労働力の購入に当て生産過程で価値を増殖させる可変資本の二つを対置させた。労働者は生産過程において自己の労働力の再生産に必要な価値だけでなく、それを超える新たな価値(剰余価値)を付け加える。だが、この剰余価値をわがものとするのは、市場で労働者から商品としての労働力を購入する資本家であり、この剰余価値の搾取が資本家と労働者の階級対立の基底をなす。ようするに、価値の自己増殖に資本の本質があり、典型的な資本主義生産においては労働者を搾取する資本家のみに資本は属する(マルクス: 1968)。女性による無償労働を組み込んだ再生産過程なくして資本増殖はありえないにもかかわらず、マルクスは家父長制による独自の支配をみなかったとするフェミニストの批判(上野: 1990 : 69-88)や、小生産者などの資本、とりわけ例えば協同組合などの非営利企業体における資本をどのようにみるか、という問題は残るものの、資本主義社会において人々はますます資本家と労働者の二大階級に分裂していくという想定に立てば、解釈の余地の少ない説明といえる。
マルクスの資本概念とは対照的に、きわめて包括的な理解を示したのがフィッシャーである。
フィッシャーは『資本と所得の性質』第4章で資本を「ある瞬間において存在する富のストック」と定義づけ、「ある一定期間におけるサービスのフロー」である所得と対照させた。すなわち、両者を区別するものは、まずもってストックとフローに分かつ時間軸である(Fisher :1997 : 79-93)。同時に、有形の富と無形のサービスという違いも、フィッシャーにとって資本と所得を分かつもう1つの重要な分岐点をなす(中路: 2002 : 55)。こうして人間の求めるサービスを生み出すものストックすべてが資本に含まれることになった。
フィッシャーによれば、資本を限定的にとらえて、資本とは収益をもたらすもの、あるいは生産に関わり、将来に対する備え、貯えであるとする論者がいる。だが、資本がこれらの性質をもつことは事実だとしても、富の一部分しかこれらの条件を満たさないと考えるのは誤りである。例えば、将来の備えというが、将来とは弾力的な概念であり、現在というものがある瞬間でしかない以上、厳密にいえば富はいずれも将来の使用を前提にしている。同様に、生産に関わるか否かで資本か否かを判別することも愚かなことである。いかなる富もサービス(満足)を生み出す以上、富はすべて生産的だからである。もともとフィッシャーにおいて富はきわめて幅広い概念であった。専有物、物件にたいする権利、さらに広義には人間も含むものとして、フィッシャーは富を解釈したのである(Fisher : 1997 : 79-93)。以上のような理解の延長線上に、フィッシャーはワルラスなどの理論やビスネスにおける簿記上の慣行に依拠しつつ、土地を資本に含めていた(Tobin: 1997)。
フィッシャーの考え方を、抽象的・数理的には間違っていないが、市場での用語と結びついた現実的な議論をすることから離れていると批判したマーシャルは、フィッシャーの否定した所得との関係を、スミスと同じように、資本の本質的要素として捉えた。『経済学原理』第2編第4章および付録Eによれば、資本とは所得を生み出す土地以外のすべての事物が含まれる。具体的には機械、原材料、完成品、ホテル、個人店舗など営業用の保有物すべてが含まれるが、持ち主が使用する家具や衣類は所得を生まないから除外される。こうして土地、労働、資本が国民所得に算入されるすべての所得の源泉となる。マーシャルは、この定義は一般のビジネスにおいて使われている営業資本の慣行をふまえたものであり、同じヨットであっても、製造業者においては資本となり、自家用であれば資本にならないという側面があることを認めていた(マーシャル: 1965 : 92-106、211-220)。
なお、マーシャルは、財には物質的な財と非物質的な財があることを主張している。物質的な財には製造産品や機械、建物などのほか、土地・水・空気といった自然が含まれる。非物質的な財は人間の資質、職業上の能力、趣味を楽しむ性能などの内面的な財と、商人や職業人のもつ暖簾や営業上の結びつきなどの外部的な財から成る。ここでいう内面的な財はのちの人的資本、また外部的な財はソーシャル・キャピタルの考え方に連なる内容をもつものとみなすことは可能であるが、マーシャルにとってそれは財であって資本ではなかった(マーシャル:1965 : 70-80)。
資本概念をわれわれは、古典派経済学の祖スミス、もっとも限定的な理解をしたマルクス、もっとも包括的な理解をしたフィッシャー、スミス的理解を受け継いだマーシャルの四人について通観した。ソーシャル・キャピタル論検討のために資本概念に遡って検討するというわれわれの目的にとっての凡そ論点は明らかになった。資本概念の最大の相違点は、資本を生産過程と関連づけて理解するか、しないかにある。
スミスからマーシャルに連なる経済学の主流において、資本とは所得を生み出す資源として理解されてきた。資本による労働力商品の使用により剰余価値が産み出される過程として生産を捉えたマルクスも、生産過程と不可分の関係として資本をみた点では同じである。われわれも本論において、資本主義社会における資本を、なんらかの収益をもたらすことを期待し生産(およびサービス)過程に投じられ、市場における無限の交換過程と資本蓄積サイクルの一環を担う資源、として理解する。
フィッシャーのいうように、現在とか将来とかの時間格差は相対的なものであり、直ちに消費されないストックもいずれは生産に使用されうるということは抽象的には真実であるとしても、社会科学はもともと歴史(時間)制約的なものである。
なお、資本、土地、労働という生産要素の中で、それ自体が経済の産出物である資本に対して、土地と労働は本源的生産要素とされるが、土地(に代表される自然)と労働(その担い手である人間)それ自体をひとつの資本とみる考え方がある。これについては、自然資本論、人的資本論として後に検討する。 
8、社会概念
われわれはソーシャル・キャピタル、社会資本・社会的共通資本の比較を行うために、ひとまず上記諸概念の一つの構成要素たる「資本」概念に戻って検討を試みた。もう一つの構成要素である「社会」についても、その包含する領域が広大にすぎるとはいえ、検討する必要があるだろう。
日本語の「社会」は、古来から存在した言葉ではない。1875 年に福地桜痴が『東京日日新聞』で英語の「society」に対応する言葉として「ソサイチー」のルビつきで「社会」の語を使用したのが始まりとされる(『日本国語大辞典』第二版: 2001)。伝統的な日本の言葉では共同体の外部を指す「世間」が「society」にもっとも近く、したがって社会という言葉が案出されると、その言葉の中に日本人は世間の意味もこめるようになっていった(見田: 1988)。ここにすでに「society」と「社会」のズレが示唆されているが、以下の議論においてはこの問題は除外し、社会= society として考えることとする。
社会は、もともとラテン語のsocietas を起源とし、仲間、友人、交際という意味をもっている(The Oxford English Dictionary : 1978)。したがって、抽象的に言うならば、一義的には「人々の集まり」「人々がより集まって共同生活をする形態」(『日本国語大辞典』第二版: 2001)という意味になる。そこから発展して社会科学においてどのような意味がこめられていったかを富永健一にしたがい整理すると、まず、社会には、人間に関する事象の総体という意味で自然と対比された広義の社会と、複数の人間によるあらゆる種類の持続的な集団という意味の狭義の社会がある。例えば、自然科学に対する社会科学というときの社会は広義の社会で、経済・政治・法・狭義の社会などを包含する。これに対して個別社会科学の一科目としての社会学の対象とする社会は狭義の社会である。次に、その狭義の社会も、全体社会と部分社会に分けられる。全体社会とは、人間の生活上の欲求が満たされる自足的な社会で、部族社会、農村共同体、近代国民国家成立以降の国民社会などがある。富永によれば、国民社会は次第に世界社会に向かいつつある。部分社会とは、ときにコミュニティと呼ばれる地域社会、血縁によって組織される基礎集団、職能・目的別に組織される機能集団がある(富永: 1988)。
富永のこの説明を前提にソーシャル・キャピタル論を議論するためには、以下の三点について考察することが必要である。第一には、狭義の社会が一般には個別社会科学としての社会学の対象であるという指摘について、第二には、全体社会が国民社会から世界社会に向かいつつあるという見方について、第三には、部分社会の変容をどう捕らえるか、である。
第一点からみてみよう。ソーシャル・キャピタル論と社会資本・社会的共通資本論を比べた場合、社会資本・社会的共通資本論とくに社会資本論が、社会総体の資本蓄積のための社会的インフラの実現を論じている、すなわち個別社会科学の一科目たる経済学領域内の問題を論じているのに対して、信頼、規範、ネットワークなどを指標とするソーシャル・キャピタル論は経済学の領域を越えて、本来的には個別社会科学の一科目としての社会学の対象たる狭義の社会に踏み込んでいることがわかる。これは、単に学問領域の問題ではなく、ソーシャル・キャピタル論がなぜ狭義の社会にまで踏み込む必要があったのか、という問題である。これはなぜ近年になってソーシャル・キャピタルが注目を集めるようになったのか、という問題として後に検討する。
第二点目をめぐっては、世界社会が成立しているかどうかという抽象的な議論を超えて、すでに国境を越えたサイバーネットワークがソーシャル・キャピタルにどのような影響を与えるか、という問題として議論されている。リンは、サイバーネットワークの増大によって、SCが国境を越え、時間や空間の制約も乗り越えて劇的に増大したという(Lin : 2001 : 211-217)。
それはグローバルなソーシャル・キャピタルの誕生を示唆する。ただし、リンは、サイバースペースへのアクセスをもつ者ともたない者の間で格差が広がっており、デジタル・ディバイドによって階級、エスニシティ、宗教、居住地域間の格差はさらに広がったことも指摘している(Lin : 2001 : 229)。これに対してパットナムは、サイバー空間によってSCは代替されないとその影響力に懐疑的である。場所の離れた人々の間での情報伝達においてインターネットは強力な道具となるが、情報交換それ自体がSCやコミュニティを育てるわけではない。それにインターネットには、1)デジタル・ディバイド、2)言葉にならない情報を伝えにくい、3)人々をますます細かなグループに分断するサイバー・バルカナイゼイション、4)テレビや電話を代替する能動的な社会的コミュニケーションよりも受動的な私的娯楽となる可能性のほうが大きい―などの問題を抱えているという(Putnam: 2000 : 174-180)。
第三点に関わっては、ソーシャル・キャピタル論誕生の背景に、部分社会の変容によってSCが減少してきたという危機意識があったこと、ただし、その変容の仕方を通例とは異なる形で理解したのがパットナムであることを、われわれはみてきた。パットナムによれば、現代の社会思想が依拠する共同社会から利益社会への発展というテンニエスの構図は、近代性と市民性が相容れないことを示しているが、イタリアの現実はまったく逆に、伝統的な南部ほど市民性が低く、近代的な北部ほど市民性が高いことを示しているという(Putnam: 1993 : 114-115)。
これは重要な指摘だが、そもそもパットナムのテンニエス理解に問題はないのだろうか。
テンニエスによると、ゲマインシャフト(Gemeinschaft)は実在的・有機的な生命体であり、信頼に満ち親密で持続的な真実の共同生活を体現するのに対して、 ゲゼルシャフト(Gesellschaft)は観念的・機械的な人工物であり、営利・旅行・学術などの目的にしたがった一時的な外見上のものにすぎない。ゲマインシャフトの基本は親族、隣人、友人であり、血縁性から居住、精神の共同性へと展開する。これに対してゲゼルシャフトは、協約と自然法によって結合される複合体であり、相互に独立して内的な作用を及ぼさない諸個人により構成され、やがて発展した段階としての「「市民社会」または「交易ゲゼルシャフト」」が登場する(テンニエス: 1957 : 112)。
すなわち、テンニエスは、市民性の存在形態としての市民社会をゲゼルシャフトの発展した段階として理解していたのである。パットナムは、一般に英語ではcommunity(日本語では共同社会)と翻訳されるGemeinschaft と、一般にsociety(日本語では利益社会)と訳されるGesellschaft について適切な分別をしないまま、civic community という複合語を頻用することで、civicとcommunityを混乱させていったのである。 
9、自然資本論と人的資本論
1)社会資本・社会的共通資本との対比においてソーシャル・キャピタル論の総括的評価を行うため、前節ではそれら諸概念の構成単位をなす資本と社会に遡って検討を行った。次に必要なことは、実体的あるいは比喩的な存在としての資本概念の拡張をどこまで認めるかの決断である。ここでは自然資本論と人的資本論を検討する。
社会的共通資本論を唱える宇沢は、自然環境が経済活動と密接な関連をもち「資本」としての役割を果たすという理解から「自然資本」を社会的共通資本の中に含めた。だが、社会資本論の宮本は自然資本概念に否定的である。
宮本は、自然そのものと資源として利用される自然素材を区別する。自然環境(宮本は、現代の環境とは自然そのものではなく自然的・社会的な生活環境であると捉えるが、ここでは自然環境に焦点を当てる)は、国家や社会資本と同じような資本主義経済が運動する容器である。
自然は確かに資源として経済活動の内部で利用されるが、自然そのものは生産に直接入りこまずに経済活動の基盤となる。例えば水は自然から取り出されて経済活動に利用され、後でその一部が自然に返されるという形で循環する。資源の水と自然環境にある水とでは経済的意味は異なる。自然は直接的な経済的財ではなく、人間活動の基礎条件である(宮本:1989)。
自然資本概念をオルタナティブな経済戦略の中核に据えたのは、ホーケンらの「ナチュラル・キャピタリズム」(邦訳は『自然資本の経済』)である。そこでは、現在の資源浪費型資本主義経済が完全に行き詰まっていること、地球生命システムを考慮し資源生産性を向上させる新たな資本主義へ転換する必要があること、が指摘され、そのための戦略として、資源生産性の向上、生物摸倣(生物を摸倣した産業システムの導入)、サービスとフローに基づく経済への移行、自然資本への再投資―という4つが提起された(ホーケン、ロビンス、ロビンス:2001)。
ホーケンらによると、経済活動に必要な資本には、人的資本、金融資本(現金、株式、証券など)、製造資本(インフラを含む機械、道具、工場など)、自然資本の4種類がある。自然資本には、水・鉱物・石油・木材・魚・土壌・大気など人間が使用するすべての資源、草原・サバンナ・湿地・河口域・海洋・珊瑚礁・河川流域・ツンドラ・熱帯雨林などの生態系、そこに生息するあらゆる生命が含まれる。人間が自然から受けているサービスはいずれもかけがえないものでありながら、その正確な評価は困難で人々に理解されにくい。ホーケンらは、自然から人間社会に提供されるサービスが少なくとも世界の年間総生産高39 兆ドルに匹敵する36 兆
ドルにのぼるという試算をして(ホーケン、ロビンス、ロビンス: 2001 : 31)、貨幣換算した規模を示すことにより、自然資源の維持、再生産がいかに重要かを示している。
たしかに、自然資本という言葉が自然資源の重要性に対する人々の理解を広めるうえで一定の役割を果たすことはありうるであろう。だが、人間が資源として利用しているものは、空間的には自然の一部に過ぎない。にもかかわらず、人間の活動は自然全体に損害をもたらしている。さらに時間的にみても「人類は過去38 億年間にわたり蓄積されてきた自然資本を受け継いでいる」(ホーケン、ロビンス、ロビンス: 2001 : 28)という見方は、大きな問題を孕む。
いうまでもなく、地球における生命の誕生以来、常に資本が存在してきたわけではない。資本は人間が創りだした概念であり、地球の生命の歴史から見れば2%足らずの時間でしかない人類500 万年ほどの歴史の中でも支配的な存在となってたかだか数百年にすぎない。自然を破壊、消尽することによって受ける損害は取り返しがつかないにもかかわらず、われわれの理解している「自然」は自然のごく一部なために、われわれは自然の損害を部分的にしか理解できないのである。空間的に限られた数百年ほどの人間の物差しで38 億年の生命体を測ることは、あまりに人間中心主義的な誤りを犯すことになるだろう。 
2)スミスにみられた国民が国家の富の重要な部分を構成するという考え方は、のちに「国民が国家の富の重要な部分・・人間の生産能力は、他のすべての富をあわせたそれよりもはるかに大きい」(シュルツ: 1964 : 138)とするシュルツらによって人的資本論として展開された。シュルツによれば、消費と呼ばれるものの大部分、例えば教育支出や健康維持のための支出は人的資本への投資である。なぜなら人的資本への投資こそが労働者一人当たりの実質所得を高めるからである。これらの投資のなかでとくに重要なものが教育であり、教育は人的資本である。
教育を資本創出の一手段とする考え方に対して道徳的な観点から批判をする人々もいることを認めたうえで、シュルツは、教育が文化的目標の達成に奉仕するのは事実だが、それに加えて人々の労働能力を向上させることで教育は国民所得の増加を導くのであり、人的資源を投資の産物、資本の一形態として扱わなかったことが、技術や知識を必要としない筋肉労働を労働とみる古典的な労働感を残存させたという。そのうえでシュルツは、「(労働者は)経済的価値をもつ知識や技能を身につけたことによって、資本家になった」(シュルツ: 1964 : 142)と説くのである。
人的資本論は、国際開発や開発援助政策にも大きな影響をもたらした。教育や医療への予算支出が、国民の要求に応え福祉を向上させるばかりでなく、人的資本の向上によって最終的には経済開発に貢献し、国民所得を高めることが理論づけられたからである。教育投資効果の国際比較調査を行い、初等教育の投資効果が中等、高等教育のそれを上回ること、先進国よりも途上国の投資効果が高いこと、を明らかにしたサカロプロス(Psacharopoulos)やウッドホールの研究は、現実の政策策定にも影響した(Woodhall: 1997)。
一般に教育への投資がその個人へより大きな見返り(賃金)をもたらすだけでなく、例えば国民国家レベルでも教育投資が国民経済の発展の基礎的条件をなすことを認めることは間違いではない。だが、そのことは人的資本論をそのまま承認することには必ずしもならない。
資本主義社会において、人間の労働力は自由な人間である持ち主の意志により自由な労働市場で販売される商品である。他の商品と同じく労働力も、量(労働時間)は同じであっても質によって商品価値には大きな違いが生じる。ハイテクノロジー製品と初歩的技術製品では価格が異なるように、高度なテクノロジーを駆使できる労働者と文字や算数を知らない労働者では労働力の価値、すなわち賃金に大きな格差が生まれる。したがって、労働力商品の持ち主である人間は、教育や訓練を通じて商品価値を高めて市場で高く売買することに努める。その限りでは、将来のより大きな見返り(賃金)を期待して教育や訓練に金をかける労働者の行為は、資本家が利潤を求めて生産設備に投資を行っている行為と同じかにみえる。
だが、この労働者と資本家では、見返り(利潤ないし賃金)の蓄積の度合いが決定的に違う。われわれがさきに確認したことで重要なことは、資本主義社会における資本とは、収益を期待して生産ないしサービス過程に投じられるというだけでなく、市場における無数の交換過程と無限の資本蓄積サイクルの一環を担っていることである。資本家の資本の背後には、無数の人間と社会関係が潜んでいる。これに対して、一個の労働者の労働力売買は、無限に拡大するものではなく、一人の生身の人間の行える範囲に止まる。したがって、労働者の労働力は高価にも安価にも売買される無形の資源であり、それをたとえば国民国家レベルで捉えた場合には人的資源と呼んでもよい性格をもつ。だが、それは資本ではない。労働者はシュルツのいう「資本家」ではないのである。
シュルツら人的資本論者のもう一つの問題点は、人的資本と一般の資本との関係を十分に説明していないことである。資本が経済的な形態だけではなく文化的、社会的な形態をとることをいち早く主張し、資本の他の形態との関係についても論じたブルデューは、その点で例外的な存在だといえる。
フランスの高等教育機関における学生実態調査によって、学生数や専攻が出身階層ごと著しい格差のあることを早くから指摘してきたブルデューは、やがて資本が、経済(economic)資本、文化(cultural)資本、社会(social)資本(以下、social capital はこれまでと同じくソーシャル・キャピタル=SCとする)の3つの形態(外装)をとると論じるにいたる(Bourdieu:1997 ;ブルデュー: 1997 ;ブルデュー、パスロン:1991)。
経済資本は、即時かつ直接的に金銭に交換しうるもので、所有権という形で制度化されうる。
文化資本は、条件によっては経済資本に交換できるもので、教育資格というかたちで制度化されうる。SCは、社会的な義務ないし連係によって成り立っているもので、条件によっては経済資本に交換でき、貴族(名士)という肩書きで制度化されることがある。このうち文化資本は、3つの形態で存在する。肉体および精神の永続的な性質として体現された状態、文化的な財の形(写真、本、辞書、道具、機械など)として客体化された状態、客体化の一態様であるものの教育資格など独自に扱うべき制度化された状態、である。3つの形態の一つである人間の肉体的、精神的な性質としての体現という考え方が、人的資本論と重なりあうことは明らかだ。
だが、ブルデューは、人的資本論を次のように批判する。人的資本論は、利潤や在学中の機会費用などの金銭換算でのみ投資を評価するために、なぜ、経済への投資と文化への投資の比率を主体によって変化させるのかを説明できない。また、文化資本が家庭内で伝えられていく点を無視している。教育をつうじて得られる成果も、それ以前に家族が投資した文化資本に依存している。文化資本の世襲を通じて教育制度が社会構造の再生産に貢献していることを、人的資本論は無視しているのである。したがって、人的資本論は経済主義を超えるものではない。
3つの資本の中で経済資本は、資本の他の二形態、文化資本とSCの根底をなす。だが、すべての資本を経済資本に還元する経済主義、経済への普遍的還元性を無視して社会的交換をコミュニケーション現象に還元してしまう記号主義は、ともに否定される。3つの資本の間にはエネルギー保存の法則と類似の関係が働いており、ある分野での利益は他の分野での費用を必然的に伴う。資本のある形態を別の形態に転換する場合、目安となるのは労働時間以外の何物でもない。ある形態から別の形態への転換においては、すでに資本形態に蓄積されている労働時間と、それを別の形態に転換するための労働時間がともに必要となる。例えば、経済資本をSCに変身させるためには、注意・世話・配慮といった無償労働が必要になるが、純粋に経済的な観点からみれば浪費であるこれらの労働も、社会的交換の論理からすれば長期的には利益をもたらす着実な投資である。
なおブルデューは、専門家集団の置かれる特異な位置について、次のような興味深い考察を行なっている。生産手段の所有者(資本家)は、ある機械を手に入れようと思えば、経済資本を使うだけで入手できる。だが、この機械を使おうと思えば、肉体化された文化資本(すなわち技術を有する人間)が必要になる。これら管理職や技術者は、生産手段の所有者ではなく、機械を動かすサービス労働を売るにすぎないという点では被支配階級である。だが、文化資本という資本の特定形態を使用し利益を得る点では支配階級である。生産手段に組み入れられる文化資本が増えれば増えるほど、文化資本の所有者の集団的な力は増していく、というのである。 
10、ソーシャル・キャピタルの可能性と限界
われわれは社会資本・社会的共通資本論と対比しつつ、ソーシャル・キャピタル論をその代表的論者であるパットナムの理論を中心に概観し、その基本的特徴とそれに対する主要な批判点を考察した。そこではとくに資本概念と社会概念がどのように理解されているかに注意が払われた。これらをふまえて、ソーシャル・キャピタル論が提起した問題は何であったのか、その積極的な貢献と可能性、および限界を考察し、総括的な評価を試みたい。
そもそもソーシャル・キャピタルとは何なのか。ソーシャル・キャピタルを唱える論者の間でもその内容をどう理解するかについては完全に一致しているわけではない。個人ないし集団相互の善意・友情・共感・社交(ハニファン)、家族や人種・エスニシティ、宗教地域など人的資本の背景をなす社会的条件(ラウリー)、共通の地域・家庭・学校・宗教・職業などを背景にアクターの行為を促し目標を達成するための生産的な関係性(コールマン)、信頼・規範・ネットワーク(パットナム)、社会的な義務ないし連係(ブルデュー)―など、その具体例や表現はさまざまである。これらの要因が人間社会のありかたに大きな影響を与えていることは誰も否定しないだろう。だが、なぜソーシャル・キャピタル、資本と呼ぶ必要性があるのか。
正統派エコノミトとしてアローおよびソローは、資本と呼ぶことそれ自体を批判する。アローによると、資本とは、時間的延長性、将来の給付を期待して故意に現在を犠牲にすること、疎外性、という3つの側面を意味する。ところが、ソーシャル・キャピタル概念として把握される社会的ネットワークの本質は、参加する人々が経済的価値以外を目的につくることにあるから、将来のために現在を犠牲にするという特徴はみられない。結論としてアローは、ソーシャアル・キャピタルおよび同様の比喩的な資本概念は破棄すべきであるという(Arrow :2000)。ソローも、資本のストックとは過去の投資フローの蓄積であるが、かりに人的資本概念は教育や訓練に対する過去の投資の結果だと受け入れたとしても、ソーシャル・キャピタルの場合、過去の投資フローの蓄積であるソーシャル・キャピタルはありうるだろうか、と否定的である(Solow: 2000)。
これに対してナラヤンとプリチェットは、所得を増大させるからソーシャル・キャピタルは資本であるという(Narayan and Pritchett : 2000 : 272)。またリンは「市場における見返りを期待して行う資源の投資」が資本であり、ソーシャル・キャピタルは「市場における見返りを期待して行う社会関係への投資」であるとして、理論的な整合を試みている(Lin : 2001 : 3、19)。
われわれはさきに自然資本概念の批判的検討を行い、自然から生み出される資源が生産要素として資本主義生産活動において決定的な役割を担っていることは事実だが、地球の生命史において空間的・時間的にきわめて限られた経験しかもたない人間の尺度で自然を資本としてのみ数量評価することは過剰な人間中心主義的認識に陥る危険性があると指摘した。信頼、規範、ネットワーク、家族、地域、交際などの個人的および集団的社会関係が、人間が生きていくうえで重要であることは間違いない。またそれが経済生産にとって重要であることも否定できないだろう。だが、これらの諸要素を経済効率、しかも投資効果をあらかじめ数量評価できる範囲で評価することは、人間の存在と関係性を経済効用でのみ評価する経済主義、市場万能主義に陥らせることになる。われわれは投資効果だけで家族生活を営み、他人を信頼し、正直などの道徳的規範を守るわけではない。経済的に損だとわかっていてもある規範を守ることはいくらもある。社会関係にたいする投資効果の計量的評価はできない。資本概念として論じることには無理があるのである。
他方で、ソーシャル・キャピタルとして論じられてきた信頼・規範・ネットワーク・社会的組織化、あるいは家族・地域を通じた個人および集団の目に見えない結びつきが、経済的、政治的、社会的に大きな影響を及ぼす社会的資源であることは否定できない。したがって、ソーシャル・キャピタルと呼ばれ、社会的関係性にきざす資源は、社会的資源(social resources)と呼ばれることがふさわしい(ただし、以下の議論ではソーシャル・キャピタルで一貫させる)。
これまでの社会資本・社会的共通資本論が、物理的な社会インフラを中心に論じてきたことを前提にしていうならば、ソーシャル・キャピタルと呼ばれるものは「社会的共通資本というハードを効率的に使うための人間関係的なソフト」(佐藤仁: 2001 : 80)とする説は1つの有効な解釈であろう。
ところで、なぜ最近になってソーシャル・キャピタルと呼ばれるものの重要性が頻繁に言及されるようになったのだろうか。佐藤寛はソーシャル・キャピタルの「経済パフォーマンスに対して市場メカニズムの外から、あるいは貨幣価値の交換関係以外の側面から影響を与える個々の機能を言い表す概念として用いられている」(佐藤寛: 2001 : 5)という側面に注目する。重要なことは「市場の外」から「経済」に影響を与えるという点である。では、なぜ市場外要因に注目するのか。佐藤寛の次の説明は世界銀行の取り組みに関連して述べられたものだが、ソーシャル・キャピタル論一般にも妥当するであろう。グローバライゼイションの中で進む貧富の格差拡大などにより、金融・融資機関である世界銀行も、組織の生き残り策として、経済開発だけでなく社会開発や貧困撲滅などにも取り組まざるをえなくなった。だが、開発のための融資機関であるという組織原理を変えずに社会的側面に活動分野を広げるためには「社会開発が経済開発に寄与することが実証されなければならない・・この目的にかなう概念として注目されたのが『社会関係資本』という概念であった」(佐藤寛: 2001 : 4)。すなわち、市場万能主義的政策、とりわけ構造調整政策の行き詰まりが背景にあったというわけである。それを考えたとき、ソーシャル・キャピタルが自由市場だけでは供給されないといったコールマンを批判するフクヤマの次のような見方は、あまりに楽観的すぎると言わざるをえない。
現実の社会資本[ここではソーシャル・キャピタルの意味]は、民間市場によってつくりだされる。社会資本を生みだすのは、つまるところ個々の人びとの勝手な利益追求だからだ・・[企業は]それぞれに誠実さ、信頼性、高い品質、公正さ、すばらしい慈悲の提供者といった社会的評価を獲得しようとの長期的な視点に立っているのである・・捕鯨業者や牧場主や漁師が、公平で長期的な共有資源の活用法に関するルールを決めるとき、彼らは環境保護の視点からそのように行動するわけではない。資源の枯渇を防ぐことは、彼らが長きにわたって公平な利益を分けあうために必要なことなのである(フクヤマ:2000 : 138)。
この通りであれば、米国や日本で頻発する企業の反社会的行為や、エネルギー産業の圧力を背景とする米国による京都議定書からの一方的離脱など、起きようもなかったであろう。その点では、すでにみたようにさまざまな弱点をもちながらも、国家や市場とは異なる市民的公共性がソーシャル・キャピタルの創出に大きな役割を演じることを主張したパットナムの指摘は、やはり重要である。
SCの種類については、すでにパットナムによる結束的(bonding)ないし排他的(exclusive)SC、連携的(bridging)ないし包容的(inclusive)SCの分類を紹介した。同様に世界銀行の「2000/2001 開発報告」は、結束的(bonding)SC、連携的(bridging)SCにくわえて貧困者と貧困者に影響を及ぼす公式の組織との間の垂直的な連結的(linking)SCの3種類をあげている(World Bank : 2001 : 128)。またアポフは、役割・ルール・先例・手続きなどの構造的(structural)SCと、規範・価値・態度・信念などからなる認知的(cognitive)SCに分けている(Uphoff : 2000)。さらにクリシナは、例えば地域コミュニティで災害に遭った人を近隣の人々が助ける場合、公認された指導者がルールに従って呼びかける結果の支援活動と、人々が自ずから為すべきことと認識して自発的に支援に赴いた場合では性格が異なるとして、前者を制度的(institutional)な資本、後者を関係的(relational)な資本と呼んでいる(Krishna : 2000)。
だが、こうした分類以上に重要なことは、SCの否定的な側面に対する充分な理解である。
この点で、われわれに深刻な現実を教えるのは、第二次大戦後の武力紛争の中でも犠牲者が多かったことで知られるカンボジア、ルワンダ、グアテマラ、ソマリアで起きた内戦を実証分析したコレッタとクランの研究である。カンボジアでは、クメールルージュが自分たちの内部結束を固めることと平行して外部の人々を弱体化した。ルワンダでは、ラジオなどのメディアが最大限活用され、多数派エスニック・グループの過激派の結束を固めて、反対派(少数派と多数派の中の融和派)を虐殺していった。SCが暴力と共存し、ときには加害者側のSCが暴力に結果したわけである。
どの地域においても、紛争度が高まるときに少なくなるSCもあれば多くなるSCもあり、紛争度が低まるときに少なくなるSCもあれば多くなるSCもあった。つまり、SCの多寡と紛争の高低は、そのまま比例ないし逆比例するわけではない。例えば、グアテマラでは、先住民と白人混血住民を横断する文化がなかった。このことは、紛争が少ない時にはそれぞれのグループ内ではSCが形成されるが、紛争時には軍部やパラミリタリー勢力による他のグループ、とりわけ先住民への隠れた暴力、人権侵害を、容易に引き起こすことにもなった。逆にそれぞれのグループ内においてSCの大きいことは、紛争が少ない時には伝統的な村の指導者が行政的、司法的な役割を果たすことで地域の紛争を解決する機能を果たすことになったが、紛争が高まるときには宗教的な指導者や信者が容易に暴力の対象とされる原因ともなった。結論としてSCは、社会的な結合に貢献しうるとともに社会的な分断にも貢献しうるものであり、紛争の時には人々の相互扶助と保護の源泉となるが、ジェノサイドに若者を駆り立てるために悪用されることにもなる、両刃の刃であると、コレットとクランは述べている(Colletta and Cullen : 2000)。これはけっして発展途上国だから起きた現象ではなく、北アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントの対立でも包摂と排除の同時機能という現象は認められた(Maloney et al :2000 : 218)。
またSCの否定的側面としてポルテスは、 集団内部の結束が外部の排除に向かうだけでなく、ときにはグループ内部のメンバーに対しても、個々人のイニシアチブを抑制して他のメンバーと足並みを揃えることを求める画一性の要求となって現われること、このためグループの規範や基準を低下させる圧力となって働く傾向のあること、を指摘している(Portes : 1998)。なおフィールドたちは、SCが公正と正義に貢献しうる可能性をもつと同時に不平等にも貢献しうる可能性を見ない問題性が、SCを公共財と規定したコールマンにすでにみられたことを指摘している。このためコールマンは、SCが正義と公平に貢献しうるとともに、ハイラーキーを強めて新たな不平等を強める可能性をみなかった、という(Field et al.: 2000b: 245)。
粟野がいうように、例えば社会保障の役割を担ってきた伝統社会の規範やネットワークは「腐敗や汚職、民族対立の原因ともなりうる。また、市場経済の浸透とともに、社会が発展していくうえで必要な企業家精神や生産性の向上を阻む場合もある」(粟野: 2001 : 19)。大事なことは、さまざまなSCをプラスのSCまたはマイナスのSCと固定的に捉えるのではなく、いかなるSCも時間と環境によって変化していくことを認識することであろう。
生産要素としての自然は、自然そのものではない。人間によって採取、加工され原料として商品化されて初めてそれは生産過程に入る。生産要素としての労働も人間そのものではなく、労働市場で購入される労働力として商品化されて初めて生産過程に入る。ソーシャル・キャピタルと呼ばれる社会的資源は、規範であれ信頼であれネットワークであれ、あるいは家族や地域などの社会的組織であれ、それ自体が商品化されるものではない。その多くが無償で交換される無形の社会関係的存在である。そこがまた、一般に有形で商品化、資本化される社会資本との違いともなる。 
 
ネオリベラル型グローバリズムと反グローバリズムを超えて
 途上国の参加と民主主義の視点

 

はじめに
グローバリゼーションは、その意味内容が多義的かつ曖昧であるため用語としては必ずしも適切ではない。本章では、ネオリベラル型グローバリゼーションの意味でこの用語を使用する。国家の一方的な脱政治化を要求するネオリベラリズムは、社会主義体制の崩壊と冷戦の終結にも勢いを得て、今日、唯一の選択肢であるかのごとく主張され、その否定的側面も含めてほぼ無条件に人間生活のあらゆる領域・次元に強要されている。とりわけ、経済の急速なグローバル化は世界中に「第三世界」状況を再生産、再構造化している。この状況は国家の視点から見ても旧第二世界(社会主義諸国)を含み拡大しており、人間性の点でも第一世界の多くの人々をも巻き込んでいる。国家間および国内での経済的・社会的両極化が深化しているのが現代のグローバル化の主要な特徴の一つである。この意味で「第三世界」という用語は現代的意味をもっているという主張もうなずける(Thomas、1999)。
だが、グローバリゼーションが途上国に与える影響は先進国とは決定的に違う点に注目したい。途上国は経済的にも、政治的にも、国家の「自律性」という点でも脆弱で、ネオリベラリズムが支配するグローバルな過程は途上国の大多数の住民の社会的排除と周辺化の強化をもたらし、さらには国家自体の存続にさえ影響を及ぼしている。この過程は、社会的排除に対抗しようとする様々な民衆レベルの抵抗、草の根型イニシアチブ、コミュニティの革新にあい、それらは民主的参加、コミュニティ建設、開発と知識の支配的形態へのオールタナティブを追求する空間を拡げるために苦闘している。しかし、一般にこれらの動きは異なった性質をもち、
極めて多様であり、また支配的なグローバリゼーションの言葉を語らず、ローカルな場や日常の空間で抵抗を試みているため十分に知られていないし、まだ幅広い運動を展開するに至っていない。
ネオリベラル型グローバリゼーションのもとで、世界は一面で、統合的・画一的な動きを強めているが、途上国世界は統合よりも分離の契機、ベクトルが支配的である。より正確に言うと、グローバル資本への経済的・金融的・情報的統合と国内レベルでの政治的・社会的な分離・解体・「再建」が進行している。したがって、途上国ではグローバル資本からの相対的「自立」と民主的「統合」、国家の民主的再構造化が緊急の課題となっている。そこで、グローバリゼーションとそれへの対抗をめぐる議論は、ローカル・ナショナル・リージョナル・グローバルな多次元的連鎖を踏まえて、具体的・複合的に展開する必要がある。
本章の中心的課題は、この連鎖のなかでいまだ民衆の基本的な生活空間となっているローカルな場に焦点を当て、ローカルな政府(州・地方政府)と市民社会および市民・社会運動との関係が、各国の発展と民主主義にとって決定的に重要であることを考察することにある。そこでまず第1に、ネオリベラル型グローバリズムが途上国に与えた破壊的影響を、とくに国家の「崩壊・失敗」との関連で検討する。これにより、国家の「相対化」議論の一面性のみならず、途上国における国家の基本的機能の意味を再確認する。第2に、ネオリベラル型グローバリズムに対抗する「反グローバリズム」の可能性と限界を、実践と理念の両面から極めて簡単に触れる。次に、ローカルな次元ではあるが政府─市民(社会)関係の転換に挑戦している事例(南アフリカ、ケラーラ、ポルト・アレグレ)を検討し、国家システムの民主的再構造化の可能性を探る。この事例を踏まえて、最後に、ネオリベラル型グローバリズムの呪縛からの解放を求めている途上国世界での民主的国家と社会に関わる若干の基本的課題を指摘する。 
T ネオリベラル型グローバリズムと途上国世界 
(1)ネオリベラル型開発パラダイムへの転換とその結果
ネオリベラル型グローバリズムは途上国の社会をどのように変えたのか。世界銀行はサブサハラ・アフリカの開発に関するバーグ報告書でネオリベラル的立場に方向を変え始めた。1980年代に出版された一連の世界銀行報告書はネオリベラル的立場の支持を強めた。80 年代末までに、「ワシントン・コンセンサス」1)と呼ばれる政策提案の体系が、以前には自由主義的、社会民主的な開発言説であったものに優位するようになった。このコンセンサスは古典的経済学への新たな回帰を示していたが、一方で、「賢明なマクロ経済政策、外向的指向、自由市場資本主義」を主張していた。
IMFはネオリベラル型の新しいビジョン実現の要である。短期国際収支支援という本来の権限を越えて、1980、90 年代に世界銀行と協力して各国経済の根本的な構造的・制度的諸改革を世界的規模で推進した。それは、国家主導型開発を市場主導型開発に変えた。この変化は、社会的・経済的構想を描き直し、深い意味で国家と市場と市民の関係を再編した。IMFと世界銀行の改革のパッケージは、主に公共サービスと公共資産の民営化、貿易・金融・生産の自由化、労働法と環境法の規制緩和、公共部門における国家活動の「破壊」・縮小を含んでいた。ここにおいて、成長と開発は、貿易・生産・金融の自由化を通じて実現されるしかない。他に選択肢がない(‘There Is No Alternative :TINA’)のである。
ネオリベラリズムの支持者は、アフリカや東欧の新興諸国が国家の積極的な指令的役割を伴った開発計画から平価切り下げ、規制緩和、民営化―要するに、IMFと世界銀行とWTOの三位一体の鉄則のもとでの市場原理の導入―へ開発パラダイムを移行することで貧困と低開発から立ち直れると主張した。1980 年から86 年の間に、サブサハラ・アフリカの36 ヶ国が241 の構造調整プログラムを導入した。グローバリゼーションと構造調整プログラムは相互に補強しあっているのである(Cheru、 2000 : 354)。
ネオリベラル型グローバリズムと構造調整プログラムが国民生活に及ぼした打撃は、環境・エイズ・貧困・水・知的所有権等々広範囲に及んだし、その結果はかなり明らかにされてきた。
まさに、グローバルなアパルトヘイト、人々の体系的な包摂と排除である。グローバルなエリートが富と権力を集中し、その中のスパー・リッチである世界の225 人が全世界の人々の年収の47 %に相当する収入を獲得している。この超富裕層の83 人は非OECD市民である(アジアの43 人、ラテンアメリカ・カリブ22 人、アラブ諸国の11 人、東欧・CISの4人、そしてサブサハラ・アフリカの2人)(UNDP、1998 : 30)。R.コックスはこの包摂と排除の結果を次のようにガテゴリー化する。第1は、管理過程に統合された高い技術を持つ中枢的労働力。第2に、安価な労働コストと環境管理を提供された企業で働く不安定な労働者。そして第3は、国際的労働過程から排除された途上国と先進国の広範な層(豊かな国の3700 万の失業者と未熟練労働者および貧しい国の10 億の失業・潜在的失業者と周辺化され人々)である(Cox、 1999 :9)。
1990 年代、世界銀行は市場志向型国家介入とグッド・ガバナンス2)(政治的多元主義、説明責任、法の支配)、すなわち東アジアの「経済奇跡」を典型とする諸条件を強調する修正ネオリベラルモデルに転換した。「人間の顔をしたネオリベラリズム」である。この傾向は、世界開発報告書『包括的開発枠組み(CDF)』(1999 / 2000)で頂点に達し、二つの補完的部分からなっていた。すなわち、賢明な財政・金融政策による安定したマクロ経済とCDF自体である。これが強調しているのは、正直な政府、有効な法律的・司法的制度に支援された強力な財産と人格の権利、教育と保健を伴った人間的発展、物質的インフラ、総合的農村開発戦略と都市管理のような部門別要素であった(世界銀行、1999)。これは、これまで以上に洗練されていたが基本的に変わらない構想であり、世界銀行批判を和らげ包摂しようとする新たな種類の開発主義である。結局、ネオリベラリズムは今日の社会的・空間的諸条件を生み出す主要なイデオロギー的力であり続けている3)(Peet、 2001: 329-330)。 
(2)国家の「崩壊・失敗」
グローバリゼーションは国民国家(以下、国家)を相対化する議論を活発にした。それは、ローカルなレベルでの様々な運動の台頭、トランスナショナルな行為主体の広範な登場やEUの出現に典型的に見られるリージョナリズムの発展から国家の崩壊・失敗まで、先進国から途上国まで広範囲に及んでいる国家の空洞化現象を背景にしている。ここで問題にする発展途上地域の国家の「崩壊・失敗」は現代に限られる現象でもないし、必ずしもネオリベラル型グローバリズムの直接的影響だけではない。しかし、冷戦の終結と社会主義体制の崩壊を決定的契機として、ネオリベラル型グローバリズムがなんらかの関連性を持っている場合が多い。その意味では今日的特徴を帯びている。
国家の「崩壊・失敗」の現実は、ユーゴスラビア、東チモール、シエラオーネ、アンゴラ、モザンビーク、ハイチ、ソマリア、アルバニア、カンボジア、ボスニア、コンゴ、リベリア、アフガニスタン、レバノン、そしてイラクなどアフリカ、中米、中東、旧東欧に及んでいる。
ドーンボスは国家の「崩壊」を検討して、以下のような暫定的な国家「崩壊」の7類型化を提示している(最初の4つは基本的な特徴であり、次の3つは「補足的」特徴であると言う)。
国家資産の私有化と国家支配者の特権が極端になった国家。以前の仲間や解放戦線からその支配に対して鋭い挑戦がある国家(モブツ政権下のザイール/コンゴ、デュバリエ政権下のハイチ、アミン政権下のウガンダ、バレ政権下のソマリア)
国家諸制度の性格や方向性とその社会政治過程との間の著しい歴史的不適合性、および当該社会内部の分裂を伴った国家(ソマリア、チャド、グルジア、ルワンダ)
戦略的資源(ダイヤモンド、石油、材木など)の支配をめぐって、反乱グループや私兵を巻き込んだ鋭い対立があり、国家諸制度を無意味にしている国家(コンゴ、シエラレオーネ、リベリア、潜在的にはナイジェリア)
権力をめぐり、また社会の政治的・文化的方向性と組織化をめぐって重大な闘争を経験している国家(カンボジア、アフガニスタン、タジキスタン、潜在的にはスーダン)
分離の企図が手に余り、潜在的に国家システム全体の継続性に影響を受けている国家(コンゴ、潜在的にインドネシア)
住民の大多数の暮らしに深刻な影響を与える経済条件の悪化に突然直面し、国家制度の崩壊に導いた脆弱な国家(ピラミッド・ゲーム時代のアルバニア、ジェノサイド以前のルワンダ)
一つ以上の基本的安全項目(物理的安全、保健、栄養)を提供する制度的失敗が修復点を超えて進み、このことが明確な理由はともかく、ある種の国家破産を引き起こした国家(Doornbos、 2002 : 804)
ところで、国家の「崩壊」とはいかなる現象なのか。クラハムによると、それは本質的に国家諸制度の破砕に関わる現象で、「国家の構造、権威(正統的権力)、法、政治秩序がばらばらになった状態」(Zartman、1995)、とザルツマンの定義を踏襲する。他方、国家の「失敗」は基本的な国家諸機能の非履行によって規定される。国家の「失敗」は「崩壊」に比べより一層不確定な概念である。なぜなら国家の基本的機能が現実的になんであるのかという論点を巧みに避けているからである。これらの諸機能は基本的安全から市民の諸権利の尊重、福祉の提供に至るまで多様であると言う。彼は国家の「失敗」を次のように述べる。
「冷戦の終焉とソ連邦の崩壊は既存の主権国家モデルの空洞状態を明らかにし、世界の国家プロジェクトが依拠してきた三つの物語、すなわち安全、代表性、福祉の物語に異議申し立てをした。国家の失敗や崩壊の個別の事例は、固有の環境や特別な個人の行動に多くを負っているとしても、それらは国家を維持することがますます困難になっている世界の文脈のなかでも理解されなければならない」(Clapham、 2002)
それでは、この国家の「失敗」がグローバリゼーションとどのような関連をもつのか。クラハムの説明に基づき、途上国の国家建設、ポスト・コロニアル国家の維持の側面から若干触れておく。第1に、開発主義体制の政治的側面との関連を再確認する必要があろう。もっとも実践的・便宜的手段を短期的に提供できるネオ家産制(neopatrimonialism)メカニズムは、一般に長期にわたって国家の有効性の基盤を掘り崩した。「ネオ家産制―国家の公式な階統制内で指導者と追随者との間の特別な人格的種類の互恵的関係の構造―は、実際不適切な社会的・経済的基盤の上に国家維持を容易にする試みの悪循環の古典的例である。ネオ家産制は本質的に長期の一般的な相互関係の欠如を補完するために、短期の個別的な相互関係を利用する」(Clapham、 2002 : 780-781)のである。
第2に、発展途上地域において国家が依拠する基盤のこの脆弱性は、最近の世界銀行とIMFによる構造調整の押しつけによりその基盤をさらに弱められた。経済的グローバル化の1つの結果は、国家のレント徴収能力の減少である。これは実際に「ワシントン・コンセンサス」の名の下に、多くの第三世界諸国に強制された経済自由化手段の共通テーマである。競争的市場の論理から「国営企業」の民営化、国内市場の開放、関税の削減・撤廃が強制され、国家の能力は制限された(Clapham、 2002 : 792-793)。
さらに、突然の冷戦終結は国家の脆弱性を明確にする出発点となった。その後、国家崩壊は特定の時期の特定の国家を悩ます条件と言うより、国際システム全体に影響を及ぼす問題として認識された。それは、一方で事実上惰性的に行われていた支援の撤回となり、他方で、ソ連邦の崩壊は途上国の国家それ自体の理念に深い意味を与えた。なぜなら、多くの第三世界諸国は社会主義型開発を急速な経済転換の手段としてみていたが、この「社会工学の手段としての国家の口実」は劇的に掘り崩されたのであり、第三世界の指導者の観点からもこの「国家建設」の口実の崩壊は決定的であったからである(Clapham、 2002 : 783-784)。 
(3)近代グローバル・システムと国家の虚構性
こうして冷戦終結にすぐ続いた国家「崩壊」の出来事の増大は、近代グローバル・システムにおける国家の役割について基本的な問題を提起した。国家が自己を維持する能力の有無は、特徴的には「グローバリゼーション」の名の下にひとまとめにされている基本的な社会的・政治的・経済的発展の集合と国家形成の三つの物語(戦争・秩序・安全、代表性と正統性、富と福祉)との関係性に依拠している。第三世界の成功した国家は、近代グローバル・システムに自己を効率的に挿入するためこれらの物語に示された諸資源を活用できた。たとえば、台湾と韓国では、明白な対外的脅威からの安全の必要性、自国の市民のために福祉拡大を提供する能力を備えた近代経済の発展、そして民主的な制度を通じて認可された正統性の創出、これらすべてが成功した国家形成のための古典的構成要素を結びつけたのである。他方、成功しなかった国家では、近代グローバル・システムへの編入の論理は違って働いたし、その成果は周到かつ巧妙に覆された。それは国家の強制力を堀崩し、正統性を弱め、グローバル経済との不可欠な関係を管理する能力を覆した(Clapham、 2002 : 785)。
こうしてグローバリゼーションは「想像の共同体」、国家の虚構性を明らかにし、否定する重要な1契機ともなったのである。典型的には、国家による武器独占は崩れ、地域的・民族的対立を調整できず、社会的・政治的混乱は外部からの「再建」に依存する状況が拡大された。
社会的統制と正統性の喪失、社会的福祉の責任放棄や機能麻痺は、コンセンサス・統合の論理を破壊し、神話(想像の共同体)の現実的な否定・破綻につながった。グローバル資本にとって国家の「崩壊」は選択的な問題であり、よりよい利潤と条件を求めて移動し、国家間を競争させるだけでなく、国家内の諸部門をも競争・分割する。例えば、ブラジルではリオ・グランデ・ド・スールの知事がフォードとの契約の再交渉を決定すると、他の州知事はすぐに投資を求めて企業に魅力的な融資とインフラの提供を申し出ることで対抗したのである(Thomas、1999 : 231)。 
U 反グローバリズムは新しい世界秩序を構築できるか 
(1)反グローバリズム運動
R.フォークは、多国籍市場諸勢力が、国家権力の取り込みを含めて、政治領域の支配とも連携したイデオロギーや活動を伴うグローバルな開発の形態を「上からのグローバリゼーション」と認識する。それは、多くの点で領域的権威を越えており、多くの政府を戦術的パートナーとして引きつける一連の力とイデオロギーの正当化を含む。しかし、このように認識されたグローバリゼーションはあらゆるレベルと地域で批判と抵抗を生み出した。これらの集合的な現象を、彼は「下からのグローバリゼーション」と述べている。そして、「上からのグローバリゼーション」が同質性と均一性に向かう傾向があるとすれば、「下からのグローバリゼーション」は異質性と多様性に向かう傾向がある。この対称性はトップダウン的階統型政治とボトムアップ的参加型政治の基本的相違を際だたせている。後者はゼローサムの対抗関係ではなく、トランスナショナルな民主的目標がグローバルな市場活動を民衆の福祉や地球の収容能力に調和するような関係である(Folk、 2000a)。
ネオリベラル型グローバリズムは、前述のように世界的規模で社会的疎外を激化させている。これに対する最近の異議申し立ては多様な分野で多岐にわたっている4)。なかでも最近の反グローバル運動の最も際だった側面は、自由貿易よりも公正な貿易を求める社会運動である。この運動はグローバル資本を直接批判の対象にしやすく、また途上国の抱える諸問題を浮かび上がらせ、同時に先進諸国の消費スタイルに反省を迫る5)。とりわけ、第一世界と途上国の社会運動間のグローバルな通信システムに推進された連携は特徴的である。例えば、スウェトショップに反対する学生連合(United Students Against Sweatshops :USAS)―合衆国の数百に及ぶキャンパスの最も積極的な学生組織―は、中米の労働組織や人権組織と結びついている(Hartwick、2000)。1999 年末から2000 年にかけてのWTO(シアトル)や世界経済フォーラム(スイス)、世界銀行やIMF会合(ワシントン)の政策に反対するデモンストレーションは、グローバル資本が地球を支配する時代における開発政策に対するまさに異議申し立てである6)。
シアトル、ジェノバ、バルセロナ、チアパス、ポルト・アレグロといった世界各地で展開された反グローバリズムの運動は、最近、ネオリベラル型グローバリズム反対運動の象徴を意味するようになった。世界の市民は、「グローバル時代のための共通利益政策を含む広範な開発政策構想」(Peet、 2001 : 341)を必要としているのである。
ここでは、反グローバリズムをネオリベラル型グローバリズムに反対する運動と理念と広く捉えておく。そして、世界的規模での反グローバリズム諸勢力が結集した「世界社会フォーラム」と反グローバリズムへの理論的・思想的背景を提供している各種の諸理論の一部を担っている「グローバルな市民社会」論を取り上げる7)。
2001 年1月、ブラジルのポルト・アレグレで開催された世界社会フォーラムはシアトルからジェノバに広がった反グローバリズム運動のサイクルを一層グローバル化する場であった8)。
そして、ピートが求める「グローバル時代のための共通利益政策を含む広範な開発政策構想」を追求しようとした。世界社会フォーラムの意義についてエミール・セイダーは以下のように述べている(Sader、 2002 : 97-98)。
第1に、それはネオリベラリズムへのオールタナティブ戦略を構想するため「世界的レベルで反システム勢力が結集するユニークな合流点」であり、空間であるという意味がある。多様性の点でも―政党や政治的潮流だけでなく社会運動、NGO、市民権グループ、組合をも結合している―、フォーラム自体の非国家的、非党派的性格でも先例がない。この意味で、このフォーラムは存在自体により、反ネオリベラル闘争がグローバリゼーション対国民国家の二項対立の狭い限界を回避できる空間を創出している。ネオリベラリズムへのオールタナティブは、ネオリベラリズムを越える必要があり、それゆえ 国際的レベルで展開しなければならないという理念がこのフォーラムの基本にある。この提案の中での国民国家の役割は多様であるが、共通の枠組みは資本と多国籍企業のグローバリゼーションではない、「もう一つのグローバリゼーション」である。
第2に、南と北の反グローバリズム運動の結集という意味がある。フォーラムは「周辺部のラディカルな諸勢力と中枢部のそれとが同盟する可能性」を再形成している。1990 年代、中枢部では大部分の中道左派政府はその戦略的地域を再検討し、資本の新たな攻撃の特別な餌食として周辺部の運命を放棄したと、セイダーは言う。
第3に、フォーラムは、階統制的ではなく明確に示された同一の空間で、フォーラムのプロジェクトが収斂する理論的・社会的・政治的貢献を可能にしている。これはある意味で、オールタナティブなグローバリゼーションのテーマを取り組むことにより、歴史的左翼の遺産を回復している。
しかし、セイダーは同時にこの運動がネオリベラリズムに反対する闘争の強さと弱さの両方をも反映していると指摘する。高いレベルでの一定の理論的貢献、社会的異質性(政治的、知的、文化的人物と並んで労働組合、環境、ジェンダー、エスニック・グループの参加)、倫理性という点は強みであった。他方、この利点を政府、議会、大衆動員のレベルで政治的力に転換する能力は欠如している。それはネオリベラルな政策を効果的に拒否し、別の政治行動の革新的形態を提示できる能力の問題である。経済分野全般の弱さもあるが、ネオリベラルなドグマへの不信や憤激の感情を代替的な政策に転換する戦略が欠けている。少なくとも、資本の投機的運動を抑制するプロジェクトを構想する必要がある。また、フォーラムへの不均等な参加(US、ドイツ、日本、イギリスのような中枢国からの少ない参加、同様に中国やインドも)も検討課題である。結局、「フォーラムはイベントではなく、代案を作成するプロセスであり、その実現のための闘争のプロセス」という意味を強化しなければならないのである。
他方で、ハートはこのフォーラムで今日のグローバリゼーションの支配的諸勢力への対応に関して、国家主権の役割をめぐって重要な政治的立場の相違が見られた、と指摘する。第1は、グローバル資本を統制する防壁としての国民国家の主権性を強化しようとする立場である。これは主要な分析的カテゴリーをネオリベラリズムにおき、グローバル資本の自由な活動を敵とみなす。そして、国家主権が資本主義的グローバル化の諸力を制限・規制に役立つ限りで反グローバリゼーションを呼びかける。こうして、この立場は民族解放が最終目標である。この立場はこのフォーラムでは支配的で、その中心的支持者はブラジル労働者党(PT)の指導部であった。PTはフォーラムの事実上の主催者でもあった。ATTAC(市民支援のための金融取引税連合)もこの立場を代表していた9)。
第2は、グローバリゼーションの今日的形態に対して、それと同様に非国家的なオールタナティブに向けて対抗しようとする立場。これは、国家規制の有無に関わらず、資本そのものへ一層明確な反対の立場を示す。いかなるナショナルな解決にも反対し、民主的グローバリゼーションを追求する。この非主権的なオールタナティブ型グローバリゼーションの立場はフォーラムへの代表という点では少数派であったが、参加者数という意味では多数を占めていた。シアトルからジェノバで反対運動を展開した水平的ネットワーク型の様々な運動、アルゼンチンの諸運動がこの立場を代表した(Hardt、 2002 : 114-115)。 
(2)反グローバリズムと「グローバルな市民社会」論
シアトルからポルト・アレグレに見られた世界的レベルでの反システム勢力を結集した運動の限界を様々な視点と立場から指摘する議論も多い。G.ベイカーは「グローバルな市民社会」論に関連して、トランスナショナルな運動の限界と矛盾を指摘する。彼は既存のグローバルな市民社会論が二つの理由で問題を含んでいると主張している。第1に、トランスナショナルな諸組織はその代表性や説明責任を問題にせず、世界的規模での民主化を支援できるという想定にたつ。第2に、国家の外側の政治的担い手に新たな力点を置いているにもかかわらず、グローバルな市民社会についての多くの説明は、グローバル市民社会における行動を諸権利のための闘争に限定することで最終的には国家主義的言説を再生産している。これはグローバルな市民社会を不正確に伝えている。なぜなら、グローバルな市民社会の担い手はもともと国家の正当性に疑問を投げかけるのに対して、諸権利のための議論はとりわけ国家についての議論である(Baker、 2002)。
さらに、ベイカーはM.ショーの非西欧の多くのグループの視点からの次の疑問を肯定的に引用する。
「グローバルな市民社会への関与は事実上、西欧市民社会に結びつく方法であり、それゆえ、グローバル権力の中枢である西側国家に一定の影響力を確保する方法ある。・・・問題は誰の声が、どのように聞かれるかである。西欧市民社会がグローバルな市民社会の中枢であるなら、西欧国家がグローバル国家の中枢であるように、非西欧の声はどのように聞かれるようになるのか。非西欧の声はどの程度まで直接に自分を聞かせられるのか。それらはどのようにして西欧市民社会により濾過され、彼らの代表性は西欧市民制度特有の性格にいかに影響されるのか」(Shaw、1999:223;Baker、 2002:934-935より引用)例えば、フォークは国連の「解放」を提唱するが、彼の考察に欠けているのは、すべての国家による国連の支配原則がひとたび(主に西側の)市民社会諸組織によるロビー活動の原則ですげ替えられると、彼の提案は西側社会の政治的影響力の一層の集中につながることがあり得るということである(Baker、 2002 : 937)。
途上国の現状と視点からすると、「凝集的でグローバルな市民社会の出現を宣言し、祝福するには時期尚早である」とする認識は多くの論者が共有している。たとえば、F.チェルーは国家構造と国家政策の転換こそが中心的課題だと主張する。まずなによりも、多くの第三世界の諸制度と社会運動に関して、その制度的支柱と手段はいまだ準備ができていない。加えて、大衆部門を統一するよりも分割する多くの要素(文化、人種、階級、ジェンダー等)がある。これらの問題は、ローカル、ナショナル、リージョナルのレベルで広がっている。それゆえ、市民社会を強めるために、それを民主化することが緊急に取り組まれなければならない重要な課
題である。第2に、グローバリゼーションとマージナリゼーションに抵抗する証拠はむしろ複雑である(第三世界、東欧)。ある種の「民主化」は進歩的諸勢力の発展を必ずしも伴わない。
新しい社会運動の浸透は市民社会を分裂させ、政治生活を断片化している(東欧諸国、右翼ポピュリズム、ファシズム的政治運動、宗教的ファンダメンタリズム)。そして第3に、国家との関係で、社会運動にとってアジェンダの矛盾がある。一方で、包括的な発展のオールタナティブは、国家構造の基本的変化がなければ十分に進まない。これが起こるまで、人民セクターは政策変更の圧力を政府にかけるか、若干の勝利を部分的に蓄積するにすぎない。つまり、人民セクターは自己の国家アジェンダを創り出さなければならない。これは国民国家や国家政策の領域に入っていることを示している(Cheru、 2000 : 362-363)。
「ここに、まさしく民衆諸組織のジレンマがある。本来、それらの主要な関心は社会的政治である。言い換えれば、その成功は民衆諸組織が基盤で生み出した民衆権力の範囲と支柱という点から主に計られた自治である。そして、いまだ市民社会は避けがたいアジェンダの混合物と取り組まなければならない。
このジレンマを通過する中で、民衆諸組織はそのアイデンティティを混乱させ、自立、多元性、多様性、ボランティア性、グラスルーツへの親密さ、ボトムアップ型展望といったその中心的価値を堀崩す傾向がある別の諸問題に直面する。それゆえ、彼らは統合的ないしは集権的な国家政策と水平的ないし分権的な社会政策との矛盾した軌跡を効果的に処理する適切な戦略の組み合わせを発見しなければならないであろう」(Cheru、 2000 : 363)
同様な認識は、J.グラスマンにも見られる。彼は、タイ東部のウボン・ラーシャターニー県(Ubon Ratchathani)のダム建設反対運動の経験を踏まえて、国家を迂回するのではなく、国家の政策と戦うために地方と国際的な資源を活用し、闘争の場である国家の権力と有意性、ならびに「下からのグローバリゼーション」の重要性を述べる。彼は、「グローバルな市民社会」のような、ネオリベラル資本主義に反対する幅広いグローバルな運動の開始といえるようなものが実際にはありうると言う。しかし、それは資本主義的諸勢力によるグローバルな空間を横切ってまとめられる人々の異なる経験から不均等に形成されている。この文脈において、地方的な源泉を持つ多様な社会運動は、その闘争において影響力を獲得するためますます規模を飛躍させるであろうが、まだかなり異なる発展状況の社会的現実に相変わらず根付いたままであると認識している(Glassman、 2002 : 530)。
さらに、シアトルなどで主張された「グローバルな市民社会」に関して、グローバルな資本主義や国民国家に反対するこうした言説は、現在極めて未発達であると断言する。想像された「グローバルな市民社会」を構成する様々なグループは、むしろ、グローバルな空間で全く多様な位置を占めており、資本主義の極めて不均等な発展と抑圧を利用する国民国家の持続的能力を反映している。「下からのグローバリゼーション」は広範囲の、しばしば保守的な社会グループの同盟的支持がなければ、それ自身では多様なネオリベラルのアジェンダに挑戦する十分な力量と一体性をもったグローバルな反対をまだ生み出せない。階級や階級分派は、規模においてある程度はいつもトランスナショナルであるが、同時に、空間的にも分断されておりナショナルな政治ブロック内に埋め込まれている。そして、これらの分断化とナショナルな埋め込みの形態は、企業のグローバル化に対する既存の現実的闘争形態では引き続き中心にある(Glassman、 2002: 530)10)。 
(3)反グローバリズムからローカルへ
これまで述べてきたことから、理論的にも、現実的にもネオリベラルなグローバリズムに対抗する戦略は国家に焦点を当てながら、ナショナルなレベルとローカルなレベルでの歴史的・実践的転換を基軸に、ローカルーナショナルな関係性の中で展望することが適切のように思われる。
アジアやラテンアメリカでは抑圧的政権や軍事政権の時代に生まれた様々な運動を発展させながら、今日、グローバリゼーションに対抗する運動が都市ならびに農村で起こっており、一般市民やとりわけ弱いグループを巻き込み、土地の権利、都市のインフラ、飲料水、労働諸権利、性の平等、自己決定権、生物多様性、環境、コミュニティの公正さなど多岐にわたる諸問題に取り組んでいる。そして、彼らは国家との多様な関係を受け入れている。
アフリカでも抵抗の新しい動きが1990 年代に始まった。オールタナティブな生き残り構想と民主的ガバナンスを結合するため、教会、インフォーマル・セクター、人権運動、草の根型エコロジー運動、開発NGOが立ち上がった。これらの新しい社会運動は、開発が市民の参加と統制を必要とする人権であるという理念を発展させている。しかし、重要なことは、多くの社会運動が既存の国内政治諸制度の枠組み内では彼らの可能性が制約されていることを確認したことである。同時に、地方レベルでの組織化と自治の重要性を認識するようになった(Cheru、 2000 : 358-359)。
しかし、差し迫った生活の諸問題や北からの支援への依存ゆえに、アフリカの社会運動の困難は極めて大きい。それゆえ、最大の難問は、それぞれのコミュニティでの民主的プロジェクトを防衛するため適切に配置された運動内諸勢力をいかに強化するか、長期の戦略的・持続的経済課題を発展させる能力をいかに運動に与えるか、そしてこれらの目的を実現するために必要な資源をいかに動員するか、である。人々が発展の地方的、国内的障害を克服する時、彼らはグローバルな闘争への飛躍が準備される。言い換えれば、グローバルな改革を展開する努力の中で、地方レベルでの最も差し迫った問題を軽視すべきではない。地方の能力構築と意識創造の課題が満たされるまで、「希望のない知的演習」で人々の時間と限られた資源を浪費すべきでない。抵抗の理念だけでは十分ではないのである。ローカル、サブ・リージョン、リージョンのレベルで革新的提案を考え出さなければならない。その目標は、国家と市場の双方の回復、市民社会の民主化、能力構築と制度化、諸活動の継続的調整、あらゆるレベルにおける情報と最良の実践の交換である。この課題の中心には、非西洋的言説に示されるであろう「人民の知識と現実」を承認し、尊重することがある(Cheru、 2000 : 360-361)。 
V 新たな「市民─国家関係」創出の実験:ローカルを舞台にして 
(1)ローカルな視点の意味
ローカルなレベルでの政治、民主主義、発展が注目を浴びている。民主化の第三の波と言われた権威主義体制から民主主義への移行が一段落し、陶酔からさめて冷静な評価をしてみると「手続き的民主主義」の限界性や問題性が露呈した。政治的権利を社会的権利に連動させ、「実質的民主主義」を確保する点で大きな課題が残された11)。民衆の諸要求を組織化し、国家諸機構の中に有効な代表性を発見するにはどうすればいいのか。今日、ネオリベラル型グローバリズムと構造調整政策が「国家レベルでのガバナンスの範囲を切り取ったため分権化への関心が高まっている」(Veron、 2001 : 604)。地方政府の強化と民衆のエンパワーメントは政府をより効率的にし、透明性や説明責任、参加を拡大する理由からも注目され正当化されてきている。
しかし、統治のローカルな形態がより民主的である理由はアプリオリには存在しないし、周辺化された諸部門の望ましい参加をもたらすとは限らない。この点は歴史的に見れば明らかである。例えば、植民地主義の歴史は広くローカルな権威の歴史であったし、ローカルな舞台は伝統的なクライアンテリズムの温床であり続けている。そこにおいて、秩序が確保され、財源は地方の独裁者を通じて徴収さていた。開発主義体制はある意味でこうした伝統的メカニズムを引き継いでいた。その現代的形態では、途上国世界の分権化は、特に国際開発機関によって進められた時、たいていは国家の後退、官僚的統制の拡大、社会的サービスの市場化に結びつけられていた。
けれども、ローカルなレベルで市民および市民社会と国家の関係の歴史的転換が始まっている事実に注目すべきであろう。この転換は民主主義、政党と社会運動の関係、市民参加から政治文化にまで広範囲に及ぶ。P.ヘラーは、ローカルなレベルでの貴重な経験を踏まえてその意義を以下のように述べる。
「もしわれわれがナショナルなレベルの下位を熟視するなら、民主主義の島々を発見することができる。
ブラジルの多くの自治体では、労働者党(社会運動型政党)と市民グループとの同盟は、ある程度の再配分的結果をもった自治体の政策立案に市民が参加するプロセスと新しい制度を導入することで、寡頭制的エリートの支配を打ち破った。南アでは、ナショナルなレベルでの保守的な親市場政策の採用とANCの集権化傾向は、この国の最大の首都圏地域におけるNGOの活力や親再分配同盟の強さと対照をなすに違いない。ここでのポイントは、多くの発展途世界におけるナショナルなレベルでの諸条件は民主化にとって好ましくはないが、政治的諸勢力のサブナショナルな再配置が国家─社会関係をいかに転換できるか、民主主義強化の効果をいかに生み出せるか、にわれわれはもっと関心を払う必要がある。
言い換えれば、民主主義はボトムアップから構築されうるということである」(Heller、 2000a: 515)以下、グローバル化時代における注目すべき分権化プロジェクトの実験を進めている事例を簡単に考察する。分権化の必要条件として、「中央政府の高度な能力」、「十分に発達した市民社会」、「政治的プロジェクト」の三つをヘラーは指摘している12)(Heller、 2001 : 139)。この視点から類似した政治・社会条件(民主主義的な基本制度の定着、国家能力と行政・官僚構造の発展、持続的な民主主義志向の運動と市民社会の相対的な発達、政権党の歴史的起源と役割および社会的基盤)をもつ対象として、ケラーラ(インド)とポルト・アレグレ(ブラジル)、南アの事例がとりあえず注目される。 
(2)南アフリカの挫折
交渉による民主的移行と社会運動
南アの地方民主主義は特に強いルーツを持っている。多くの解放運動と対照的に、アパルトヘイト反対闘争は地方レベルでとりわけ戦闘的・組織的社会運動を発展させた。1980 年代のタウンシップを基盤にした市民運動は民主的反対政治を育成したのみならず、アパルトヘイト末期に一連のコミュニティ・サービスを提供した。アパルトヘイトの終焉となったANCと国民党との交渉は、広範で積極的な地方の交渉と同時に起こり、その交渉は地方当局、組合、市民、政党、企業グループ、その他の利害関係者を緩やかなコーポラティズム型交渉構造に結びつけた。地方フォーラムは「新生南アの民主主義の学校」となり、交渉の遺産は制度的転換の進展に強い影響を与えた。
南アの強力な都市社会運動は、組織された、専門的・政治的なNGOのネットワークを生んだ。例えば、市民運動から生まれたNGO、プランアクト(Planact)はヨハネスブルグの移行過程で多くの重要な人物を供給した。そして、この過程自体は南アにおける地方政府転換のモデルとなった。最終的に、南アの分権化は政治的コンセンサスを満たした。南アの憲法や政府政策、立法は地方政府を発展的であると認識し、再配分、市民参加を通じての地方民主主義の促進、そして周辺化されたグループのエンパワーメントの点で地方政府が決定的役割を持つことを認識していた13)(Heller、 2001 : 143-144)。
ネオリベラルな立場への傾斜
しかし、南アの民主主義への移行過程において、一方では経済政策におけるネオリベラル・モデルへの傾斜が強まり、政治・社会分野ではエリート主義の台頭と社会運動の排除が広まった(Habib、2000; Zuern、 2002)。南アの最初の自由な選挙(1994)に向かう時期、民衆の関心は「再建・開発プログラム(RDP)」に焦点が当てられた。RDPの経済政策は明らかに民主主義、参加、開発の原則に基づいていた。ANCの政策は6つの原則に導かれていた。1)総合的・持続的プログラム、2)民衆主導のプロセス、3)全国民のための平和と安全、4)国家建設、5)再建と開発の連携、6)南アの民主化、である。
実際には、ネオリベラルに近い立場が政権以前にも取られ始めていた14)とはいえ、ANCの政権掌握後の2年間に状況は急速に変化した。独立したRDP政府部門は閉鎖された。パトリック・ボンドによれば、ANC政府はIMFの政策に従っていたのみならず、予想されていた以上に急速かつ幅広く経済を自由化した。グローバルな諸機関の圧力の下で、ANCは構造調整を自己に課していた(P.Bond、2001)。このことは、財務省ならびに専門家チーム(南部アフリカ開発銀行、南アフリカ準備銀行、世界銀行の代表からなる)によって準備された報告書「成長・雇用・再分配(GEAR、1996)」に示された。報告書は、社会的目標を達成するには高い経済成長率が必要であると主張する。一連の政策は、グローバルな環境に統合し、市場圧力に対応的である外向的工業経済を促進するよう勧告された。また、GEARは投資と経済成長のための競争的環境を創り出す国家社会合意(例えば、賃金の抑制)を要求した。その結果は、ピートが述べるように市民組織の排除である。
「GEARのネオリベラル型戦略は、国家経済政策、企業部門、企業紙のような指導的メディアを支配しているANCのエリート分派の支持を受けている。この過程で、市民組織は事実上視界から消え、いまやANCの開発政策にほとんど役割を果たしていない」(Peet、 2001 : 337-339)
一方、南アの地方政府改革の評価は複雑であるが同様な傾向をたどった。地方政府は別個の、だが重複する二つの計画実施に関する法律に義務づけられていた。すなわち、開発促進法のもとの「土地開発目標」(Land Development Objectives:LDOs)と地方政府移行法のもとでの「総合開発計画」(Integrated Development Plans:IDPs)である。これらの計画立案手続きは、民主的参加のための制度的空間として役立ったというよりも、政治的・官僚的統制の行使の手段として、また市場化の道具として機能した。ヨハネスブルグの事例は、南アにおける地方政府移行の先駆的事例としてとりわけ教訓的である。地方協議会は、テクノクラート的アプローチを採用したLDOsを提案し、より参加型アプローチを拒否した。その結果、地方政府とコミュニティ構造は完全に遊離することになった。ヨハネスブルグにおける長期的発展のための総合戦略(iGoli2002)は古典的なトップダウンのテクノクラート型改革であり、ネオ・サッチャー・モデルであった。こうして、ANCは初期の再分配的変換プログラムRDP(再建・発展計画)を放棄し、ネオリベラル型成長主導の開発戦略(GEAR:成長・雇用・再分配)支持に向かった。市場化と経営擁護の傾向が全国的になったのである(Heller、 2001 : 145)。
かくして、広範囲に拡大された交渉に特徴づけられ、民衆ベースの民主的諸勢力からなる幅広い同盟に権力をもたらし、民主的な地方政府を促進する重要な立法的・制度的努力を初期には伴っていた移行にもかかわらず、地方政府改革のプロセスは市場諸力とそれに付随する経営的イデオロギーによって覆された。ここには三つの異なったパターンが作用していた。第1に、ANCによるネオリベラル的正統性と「新リアリズム」行政ドクトリンの採用である。参加の動員、一般市民の訓練、持続的協議よりも効率的管理システム、コスト削減、行政実績が強調された。第2に、過程よりも結果の強調やテクノクラート影響の蔓延ゆえに、政府は民間部門のコンサルタントに依存するようになった。その結果、専門化と技術的知識と統制が段階的に拡大され、下からの参加を挫折させた。第3に、政府は外部調達、民営化、公・私パートナーシップを押し進めた。しかし、民間共同事業体への水供給の外部調達のように、既存の政府部門によるよりも高くついたケースもあった15)。
「要するに、制度をうまくやり遂げようとするANCのテクノクラートの関心は、地方民主主義を構築し、参加を動員する努力をほとんど不要にした。財政的制約ときびしい規制の枠組み、外部調達、テクノクラート支配の拡大という文脈の中で、コミュニティー主導の政治的に交渉型のイニシアチブは周縁化されていった」(Heller、 2001 : 146)。
民主的分権化からなぜ後退したか
ANCは1996 年以降、オーソドックスな成長主導型開発戦略を採用した。南アの民主主義深化の失敗は、グローバリゼーションの圧力、特にネオリベラリズム型経済開発戦略とそれに付随した地方政府の運営構想にあった。
アパルトヘイト下での市民運動は多くの民主的諸実践を予示していた。それがなぜ大きく後退したのか16)。第1に、市民運動の多くは内部民主主義や野党的政治の実践にかかわり、責任ある権限を持った日常的であるが批判的実践ではなかった。市民は重要な自助的技術を発展させ、一連のコミュニティ・サービスを提供した。しかし、多くの技術や組織的能力は、コミュニティのリーダーが政府の役職に引き抜かれ、ANCの政権掌握にともなって民衆運動が急速に衰退させられて枯渇していった(Heller、 2001: 148 ;Zuern、 2002)。
第2に、ANCは事実上、黒人多数の支持を独占し、大衆諸組織を十分に統制していたので、後述のインド共産党マルクス主義派(CPM)やブラジル労働者党(PT)のように市民社会への取り組みをそれほど必要としなかった。
第3に、ANCは独立した市民組織への敵意を急速に拡げ、また党内外の反対派への不寛容を拡大した。結局、現実的な野党や自律的社会運動という対抗的勢力が欠如する中で、ANCは寡頭制の鉄則という集権的・専制的傾向に屈服した。これらの傾向はテクノクラート支配とネオリベラル型改革との政治的共鳴により強化された。たとえ、若干の再配分的要素があったとしても、経済開発のかなりオーソドックスなネオリベラル戦略の採用により、ANCはネオリベラル型経済転換モデルに導くテクノクラート的ビジョン(政治的介入の最小限化、テクノクラート型エリートの意志決定の自律性の最大化へ)を採用することになった(Heller、2001 : 157 ;Zuern、 2002)。
R.ピートは、ネオリベラリズムが成長と開発政策の唯一可能な基盤である現在の環境では、民主的開発は現実的には不可能であると結論づけ、民主的発展のオールタナティブに向けた可能性の空間を拡大する必要がある、と述べる(Peet、 2001 : 339)。結局、南ア政府とその地方政府は「市場化の最前線」となり、現時点では民主的分権化から後退したと考えられる。 

1)「ワシントン・コンセンサス」の内容についてはWilliamson(1993)参照。C.ゴアはそれが市場志向政策への旋回であるとともに、開発問題が組み立てられ方法と開発政策が正当化される説明様式において深い転換を意味し、これは開発政策分析の空間的・時間的準拠枠の変化を含んでいたと強調する。彼によると、この変化は開発政策分析の部分的グローバル化と歴史主義から非歴史主義的な実績評価への転換を意味した。「ワシントン・コンセンサス」のアプローチに対して潜在的ではあるが「南のコンセンサス」が異議申し立てをしており、それは東アジアの開発主義とラテンアメリカのネオ構造主義との収斂に現れている。「ワシントン・コンセンサス」はその方法論とイデオロギーの矛盾ゆえに、その消滅は不可避である、と言う(Gore.2000)。
2)1989 年、世界銀行はサブ・サハラに関する報告書(World Bank 1989)において「ガバナンス」を定義して以後、IMFとともにガバナンスの理解を拡大し、精緻化してきた。「グッド・ガバナンス」には透明性、説明責任、効率性、公正さ、参加、法の支配等が含まれ、結局、世界銀行とIMFは借り入れ国と借入機関に「政府の制度的枠組み」を強化することを求めていた。しかし、このことは他方で、同じ諸原理が世界銀行とIMF内のガバナンスにも適用されることが要請された。この点の議論はWoods(2000)が参考になる。また、ガバナンスに関する議論は世界銀行とIMFの定義や意図を越えて幅広く様々なレベルでも議論されてきた。この論点は、とりあえずLeftwich(2000 :第5章)参照。
3)ネオリベラルズムへの批判が様々な視角から行われている。その一つは、市場の歴史性、社会性を踏まえて市場を統制しようとする意図である。たとえば、次のような論旨である。市場自体は古代からあるが、市場システムは比較的新しい。市場は機能的効率性から発する自然の制度というより歴史的・社会的構築物である。国家は市場が機能する諸条件を規定する中心的役割を果たす(所有権など)。そこで重要な問題は、市場を現れるままにするよりも、市場が開発を可能にするように市場をいかに構築するかである。経済開発において、われわれは市場に使われるのではなく、市場を利用すべきである。これは市場の活動に対する民主的権威を意味する(Arthur MacEwanの主張: Peet、 2001 : 332 より引用)。Mittelman(2000)も参照。
4)グローバリズムに対する異議申し立てや抵抗に関する文献は多い。L.スクエアーは反グローバリゼーション運動を三つに分類する。保護主義的な運動(グローバリゼーションに対する地域的異議申し立ての重要な源泉)、多様な形態の社会運動、とくに新しい社会運動、そしてグリーンの運動(生態系の危機の説明とその政治化)である(Sklair、 2002 : 10 章)。J.H.ミッテルマンは「グローバル化に対する抵抗」の概念化を試み、広範囲に認識しようとしている(Mittelman、 2000 :第3部)。Gills、 B.K.(ed.)(2000); Smith、 J. and Johnston、 H.(2002);Edwards、 M and Gaventa、 J.(eds).(2001);Cohen、 R and Rai、 S. M.(eds.).(2000)も参考になる。
5)第一世界の消費者と第三世界の生産者との公正で対等な貿易を求めるオールタナティブな貿易組織(たとえばOXFAM)の活動が発展しているのに注目する必要がある。先進諸国の消費主義克服や「新しい消費政治」といった難題について、ハートウィクは消費─製品連鎖、消費者─生産者連携の再考と実践的脱構築の重要性を指摘する。これは日々の政治活動の復活と商品イメージの脱神話化につながる。そして、彼が提案する「新しい消費政治」に向けた政治的取り組みのための9つの戦術(宣伝・イメージの脱構築、消費者ボイコット、企業キャンペーン、学生の行動、独立モニタリング、オールタナティブな貿易組織、製品ラベリング・キャンペーン、ゲリラ的ショッピング戦術、同盟構築)を検討している。ハートウィクの仮説は、宣伝のような商品記号は意味の逆転戦術を通じて、商品の生産・配分に関わる労働過程、結合の連鎖、物質的諸条件を隠蔽・偽装しているということである。意味の逆転を無効にし、空間的疎外を克服し、商品の物神化を暴露し、物質的現実と関連づける行為は、最近の消費知識を転換することである。とくに、商品連鎖分析を通じて消費の記号を脱構築することで、新しい意味が獲得される。すなわち、この作業は、誰がどのような条件で商品を生産し、その商品がどこから来るのかの情報を含んでいる。それゆえ新しい種類の政治が必要となる。それは日常生活で直接個人によって実践され、新しい社会運動の草の根的基盤から形成され、労働者や学生のイニシアティブと結びつき、「ラディカルな地理学」を再活性化する(Hartwick、 2000 : 1190)。
6)「シアトルの闘争」に関してはSmith、 J. (2000)参照。彼女はこの運動の起源、戦術、抵抗の形態を分析している。
7)Held、 D. and McGrew、 A. (2002)は、理論的・思想的背景からグローバル派(ネオリベラリスト、リベラルな国際主義者、制度的改革主義者)と反グローバリゼーション派(グローバルな転換主義者、国家主義・保護主義者、ラディカル派)に分類している。
8)Klein、 N. (2002 : 193-207)は世界社会フォーラムの雰囲気を伝えている。第2回および第3回の世界社会フォーラムもポルト・アレグレで開催された。
9)ATTACについてはAncelovici、 M. (2002)参照。
10)グローバルな市民社会論への批判を踏まえて、いわば修正「グローバルな市民社会」論ともいえる議論もある。例えば、パレクットはグローバルな市民権(global citizenship)の観念を拒否し、「グローバル志向のナショナルな市民権」(globally oriented national citizenship)を提唱する(Parekt、 2003)。彼の論点は次の点にある。
全世界への帰属を主張するグローバルあるいはコスモポリタン市民は政治的故郷を持っておらず「自発的亡命」の状態にいる。コスモポリタニズムは人間のコミュニティへの愛着や特別な結びつきを無視し、あまりにも抽象的であるのでその禁欲的命令に応えるのに必要な感情的・道徳的エネルギーを生み出さない。そして、それは人間が知っているコミュニティの幸福を容易に無視する口実にもなり得るし、万人の幸福という抽象的な理想の非現実的追求の名の下に直接影響を及ぼす。このこと自体悪いし、さらに狭隘なナショナリズムの形態で防衛的反応を引き起こす結果をもたらす(Parekt、 2003 : 12)。
また、パレクットの主要な関心は、公正な政治・経済秩序の設立し、普遍的な道義的義務感の接合と強化を助け、時間とともにグローバルな忠誠のセンターになりうる「新しい形態のグローバルな経済・政治制度」にあるが具体的提起はない。彼の議論はむしろ規範的・理念的レベルにとどまっており、「グローバル志向の市民権はこうして、伝統的な市民権議論で関心を示さなかった新しい種類の倫理的・政治的徳を求めている」と述べるにとどまる。
11)西側が途上国に要求し、提示する民主化と民主主義の問題性については、Hippler(ed.)(1995)を参照。
12)ヘラーが以上の三つを「分権化の必要条件」としてあげる理由は、次の点に注目するからである。いかなる効率的な分権化の努力も政府内諸レベルでの協力を必要とし、また基本的な透明性、説明責任、代表制を保証する調整が不可欠であるので「弱い国家」では分権化を十分に追求できない。「中央政府の高度な能力」が必要となるのである。また、「十分に発達した市民社会」は、参加型の分権化を可能にするのみならず、新たな情報とフィードバックの提供を可能にし、民主的ガバナンスにとって本質的である「建設的緊張」を生み出す。さらに、組織的政治勢力が分権化の擁護を伴う「政治的プロジェクト」を推進していることも重要となる。
13)南アフリカ共和国憲法(1996 年)は、地方政府が「コミュニティやコミュニティ諸組織が地方政府の諸問題に関わることを促進」(第7章152 節1.e.)しなければならないこと明記して参加の重要性を強調している。また、地方自治体組織法(1998 年)は、「地方政府における参加型民主主義を高めるために」(第4章4部72.3)コミュニティ常勤の監視委員会の設置をも求めていた(Zuern、 2002 : 80)。
14)1994 年以前の経済ビジョンに関するANC内外の議論と推移はHabib (2000 : 247-250)が参考になる。ネオリベラル型経済ビジョンが最終的には勝利するが、これは経済領域での権力バランスの結果であり、当時、南アが置かれていた状況も大きく影響した。とりわけ、社会主義陣営の崩壊は、市場経済の枠組み内での経済再建計画をはかる以外の道は容易ではなかったとも言えよう。また、国際的金融機関、外国投資家、国内の企業家の強い圧力もあった。
15)水の商品化問題はBond(2002)第5章参照。
16)ANCと南アフリカ全国市民組織(Sanco)との関係は、市民組織の政権党ANCへの従属、後者による前者の指導部の取り込みや相互の癒着、南アの参加型からエリート型民主主義への変化など微妙な問題を考察するうえで参考になる(Zuern: 2002)。 
 
宥和( appeasement )と抑止( deterrence )
 歴史学としての宥和研究から政治学としての宥和研究へ

 

はじめに
国際紛争にどう対処するかは、一国レベルでも国際組織レベルでも重大な問題である。
いかなる性格の紛争であれ、それを平和的に解決することが望ましい。しかし現実には、武力による解決が目指されることも多く、それ自体がまた国際平和に対する脅威の原因となる。
平和的な対処が望ましいことはコンセンサスでありながら、現実の国際政治の世界では、それはしばしば「弱腰外交」と呼ばれることがある。その典型とされるのが1930年代にナチスドイツに対して英仏がとった「対独宥和政策」である。
ナチスドイツは、ベルサイユ体制打破を叫んで、再軍備、ラインラント非武装地帯への進駐、そしてチェコのズデーテン地方の併合要求など、第1次大戦後の国際秩序を形成してきた枠組みに挑戦し、それに対して国際連盟体制の主導権を握っていたイギリスとフランスは、1938年9月、「ミュンヘン協定」によってドイツの要求を受け入れた。この対独宥和政策こそドイツの対外侵略に弾みをつけ、第2次大戦への引き金になったとして第2次大戦原因論の中でも重要な位置付けが与えられてきた。
このような歴史的背景から、宥和とは何かという定義をめぐる議論なくして、「宥和は悪」というマイナスイメージが定着した。宥和が紛争の平和的解決と戦争回避を重要な目的としていたために、戦争反対を主張した英米の平和運動ものちにイギリスの宥和政策とアメリカの孤立主義に対する責任を問われることにもなってしまった1)。英米の政策決定者は独裁者と毅然として対決しようとしたけれども、民主主義国に反戦平和運動があったからそれが侵略的な国々やその独裁者に有利に働き、反戦運動などによって国内基盤が弱かった英米が宥和へ傾斜したのだという論理である。1930年代には、宥和という言葉は必ずしも否定的な意味合いを持っておらず、「アメリカの政策担当者にとって宥和と言う言葉は、経済的圧迫を加えるか、または西欧デモクラシーと協調しようと思わせるようなインセンティブ(誘因)を与えるかして、ドイツとイタリアの侵略を食い止めようとする政策を意味した」のである2)。
第2次大戦後のアメリカの世界政策を一貫して批判してきたアレクサンダー・デコンデは、「ミュンヘン会談の教訓は、アメリカの政治の世界にしみとおった。ミュンヘン・アナロジーは、アメリカの大統領や政府のレトリックの中で常に用いられてきただけでなく、アメリカ史の転換点で対外政策決定に影響を及ぼしてきた」ことを指摘して、「FDR(フランクリン・D・ルーズヴェルト)からG・H・W・ブッシュに至る大統領は、侵略者を宥和することの本来的な危険性を大衆に警告を発するものとしてミュンヘンの例を利用してきた」ことを強調する3)。
デコンデは、歴代政権がミュンヘン・アナロジーに立って政策評価を行ってきた例を次のように説明している。原爆製造の秘密をソ連と共有するか否かという問題で、海軍長官のJ・フォレスタルは、ソ連の理解や同情を買うよう努めることは問題だ、われわれはかつてヒトラーに対してそうしたが宥和には何の見返りもなかったのだと述べた。トルコの海峡管理問題や朝鮮戦争を通してトルーマン政権は、交渉はすべて宥和と同じだとみなすようになり、政治家は「ミュンヘン宥和主義者」( Munchener)と呼ばれはしないかと恐れた。キューバ・ミサイル危機の初期に、「キューバを非軍事化しその領土を保証するプランの一環として、グアンタナモ海軍基地を撤去し、ミサイルをキューバから撤去させる代わりにトルコのジュピターミサイルを撤去することを大統領は考えるべきだ」と主張したスチーブンソン国連大使は「ミュンヘン宥和主義者」と呼ばれた。ミュンヘン・アナロジーが本格化したのがジョンソン政権で、米軍撤退を拒否したジョンソンは、「もしアメリカが引き上げてサイゴンをホー・チ・ミンの支配に任せたら、第2次大戦でチェンバレンがやったことと同じになってしまう」と述べた。
このデコンデの叙述の中には、宥和政策を検討することの現代的な意味と分析視点を考える上で、注目すべき3点が含まれている。第1は、「ミュンヘンの教訓とは、戦争の危険があっても、いかなる犠牲を払っても、断固たる態度( firmness )を強めるべきだということだった」。ミュンヘン・アナロジーは、交渉を警戒して最初から軍事力による解決に向かう傾向をもつ。
第2は、それとも関連して、「ミュンヘン宥和主義者と呼ばれないかと恐れる政治家は、断固とした態度をとることによって侵略者を引き下がらせることができるのだと期待して、確信をもって戦争の瀬戸際へ向かうようになった」。ここでは、戦争瀬戸際政策が必ずしもダレス国務長官に特有のものではなく、第2次大戦後から現代にいたるアメリカの諸政権に共通の特性であることが示唆されている。第3に、「ミュンヘン・アナロジーは、非道徳的で非合理的な敵を理性的なものとして扱うことが無益であると説明するために使われるようになった」( DeConde、 pp.446-447 )。武力によって問題解決を図ろうとする場合には、通常、相手国が自国と共通の合理的な基準や判断力に立っていないという前提で自国の軍事行動を正当化する。しかし、自国が合理主義で相手国が非合理主義だというのは、第三者から見るとしばしば事実と異なる。宥和主義の研究では、この第3の分析視角が軽視されてきたといえよう。
冷戦時代の1970年代のデタント(緊張緩和)政策は、保守派から対ソ宥和政策との批判を浴びた。クリントン大統領(1993〜2001)は、就任直後に主要に中国を念頭において「選択的関与政策」を打ち出したが、封じ込め政策に代わる新しいこの関与( engagement )政策も、保守派から「宥和政策」との批判を浴びたことがある。現在のG・W・ブッシュ政権の対外政策を特徴づける単独行動主義( unilateralism )と武力解決主義の傾向は、反宥和の典型である。
韓国の金大中大統領が確立した対北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)政策の基本である「太陽政策」も、対北宥和政策だとの批判が韓国の内外にある。
紛争の平和的解決あるいは「和解」( conciliation )の希求は、国際問題解決の基本であり、本来は宥和と言う言葉にマイナスイメージはないはずである。
ウィリアム・ロックは、宥和の定義を歴史的に振り返って、「一般論」としては、諸国間の軋轢の主な諸要因を系統的に取り除くことによってヨーロッパと世界の緊張を緩和することであり、「特殊論」としては、世界大戦の敗戦国の正当な不満( legitimate grievances )の原因を取り除くことによって和解を促進することであると言っている。彼は、その上で、「チェンバレンの定義」では、世界が不満国(正当な理由で不満をもつようになった国々)の不満を軽減し、不満国が侵略行為へ走る傾向を弱め、永続する国際的な平和と調和への道を切り開くことを願って、不満国に時宜にかなった譲歩をすること、となるだろうし、「チェンバレン批判派の定義」では、恐怖、怠惰、単なる無関心などが動機となって侵略的で反道徳的な国々に対して臆病にも屈服してしまうこと、ということになるだろうと整理している4)。
宥和政策の不幸な歴史を踏まえつつ、もう少し宥和に意味を読み込んだのがクレイン・アールブラントである。彼はこう述べる。第2次大戦以前のヨーロッパ政治の結末から宥和の価値に疑問が投げかけられた経過を踏まえて、独裁者を宥和する政策は、外交上の失敗、政治的恫喝への屈服、基本原理への裏切り、政治的利益の犠牲、と結びついて強固な敵を作り出してきたと言われてきたが、本来、「宥和は外交の技術」であり、それが目指す「和解」は、力の均衡または力の優越があれば、野心と対抗心を調整し、変化を補整し、国々の間に均衡と調和を保持することができるものである5)。とくに彼が、「国々のリーダーたちが紛争解決には戦争が不可避だと考えるような場合にはいつでも宥和がありうる」と指摘している点は、国際政治の特質をよくとらえている。「宥和があったから戦争になった」というのは、ミュンヘンに即して言えば正しいだろうが、宥和は、戦争が不可避な国際社会の現実の中でどう和解を実現するかという外交技術なのであり、また、外交技術以上のものではないことを彼は示唆している。
宥和政策研究が、従来のような「宥和起源論」や「宥和責任論」にとどまることなく、宥和の実態(1930年代の対独宥和はなぜ失敗したのかなど)の解明に踏み込んで初めて、宥和研究が現代国際社会における政策形成や政策評価に関わることができることになるだろう。
宥和という概念を明確化することを通じて、宥和のある意味での復権を図ることが紛争の平和的解決と国際社会の安定に必要な作業であろうと考える。
宥和の対になる概念はなにであろうか。1930年代宥和の研究は、国際社会の構造と秩序に対する個別の国々とくにドイツ、イタリア、イギリス、フランスおよびアメリカの認識と対応に関心が集中した結果、国際関係を規律する要素の一つである「外交技術」の視点はほとんど入ってこなかった。宥和が、敵対国の要求に対する譲歩を含む外交交渉を通じて非軍事的な方法で紛争の解決を図ろうとするものであるとすれば、その対概念は「抑止」になる。宥和は、敵対国を国際システムに組み込むことによって現行の国際システムのルールに従わせようとする外交技術である。宥和政策は、一方で抑止理論との接点を持つと同時に、他方ではファーナムのように、政策決定理論の領域にも関わる政治現象である。
本稿では、1930年代アメリカの対独政策をめぐる歴史学上の諸解釈を概観した上で、抑止理論や政策決定理論などの政治学的な方法を持ち込むことによって1930年代宥和政策の研究を現代国際政治研究の一環に組み込んで展開しようと試みているポスト、ファーナム、ロックの立論をとりあげて、政治学的宥和政策研究の必要性と可能性を考えることとする6)。 
1章アメリカの宥和政策
ミュンヘン協定を頂点とする対独宥和政策に関して、アメリカ外交政策研究の多くは、アメリカとくにFDR政権レベルでは、早い時期から対独対決の方向への政策転換が試みられたことを強調し、それにも関わらず国内の孤立主義者の力によって抑制されて政策転換の時期が遅れた、という枠組みで論じてきた。早い時期からの政策転換の試みについて、一般に、保守派、共和党系、孤立主義者はそれをアメリカをヨーロッパの戦争に引き込もうとするFDRの危険な性格であると批判し、革新派、民主党系、国際主義者はそれを優れた外交判断であると賞賛する、という評価の違いはあるが、「英仏の対独宥和」とアメリカ外交との違いが前提に置かれてきた。
ハンス・W・ガツケの次のような論調は一般的である。イギリスが対独宥和へ傾いたのは、ベルサイユ条約がドイツにとって不公正な条約だったという罪の意識、反共主義と結びついた平和主義(ヒトラーの対ソ対決の姿勢を信用)、大恐慌の影響もあって軍事力の整備が遅れていたこと、そして、これが最後の要求だというヒトラーの甘言にだまされたこと、などが背景にあったのだが、アメリカが1933年以降のドイツとの経済関係の悪化にも関わらずヨーロッパ問題に関わろうとせず、英仏の宥和を見逃したのは国内での孤立主義の制約があったからだ7)。
英米関係の中でイギリスの宥和政策を検討したリッチー・オヴァンデイルも、FDRとチェンバレンの両者を高く評価して、「チェンバレンにはボールドウィンには欠けていた目的意識と決断力があった」と述べて、チェンバレンはFDRとアメリカに過度の期待を持ったがゆえに期待が十分にかなえられなくなると失望したのだと言い、「FDRは、A・J・P・テイラーが言うようなオポチュニストではなかった。彼は1937年10月までには、国際情勢の危険性も大衆を教育する必要も認識していた。――彼はイギリスの戦争に対して封鎖で援助したいと思ったが、国内的な危機、議会、大衆によって妨げられてしまったのだ」と、ガツケと同様の結論に至っている8)。
しかし、FDR政権への賛否の問題を別にして、戦間期アメリカ外交の客観的な解釈の中から「アメリカの対独宥和政策」という視点が確立されてきている。
1930年代のアメリカの対独政策に最初に学問的なレベルで「宥和主義」という定義を与えたのは、アーノルド・A・オフナーだった。彼は、1969年の著作で批判を込めて「アメリカ宥和主義」と呼び、石油禁輸をしてイタリアのエチオピア侵略を阻止していたらその後のラインラント進駐もオーストリア進軍も生じなかっただろうと述べ、米英仏が援助していたらスペイン共和政府は敗北することはなかったと指摘する。彼はそのようなアメリカの政策が生じた原因は、政策決定者とくに国務省の外交官の「判断ミス」、「政治的先見性の欠如」あるいは「政治的洞察力の欠如」にあるという。ハル国務長官については、「彼はいろいろと言ったけれども、彼の言う経済リベラリズムと道徳的説得では、ドイツのいう新秩序と戦うには不十分だということが分かっていなかった」と指摘する。FDRに関しては、「彼は有能で、洞察力に富み、先見の明があったが、エネルギーの大半を国内問題に費やして対外問題には力を入れなかった」として、「彼はしばしばドイツに圧力をかけるためのブロッケイド、ボイコット、経済制裁を口にしたが、本気に考えていたとは思われない。彼が示したのは、第三帝国と国際問題に対する素朴さだけだった」と、政治家としての資質に疑問を投げかけた9)。
しかし、このオフナーの分析は、アメリカ宥和政策の原因を「国際情勢の判断ミス」におき、判断ミスの原因を政治家の「資質」の問題に収斂させることによって、アメリカにそのような判断をさせた背景にあった当時の国際社会のリアルな構造あるいは当時のアメリカが持っていた「国益」の認識の問題が無視されることになってしまった。
この問題点を打破して「英米関係」という視点を導入することによって「アメリカ宥和主義とイギリス宥和主義」の成立を論じたのが、C・A・マクドナルドである。彼は1979年の著作で、アメリカは1936年末にヨーロッパの宥和を促進するために影響力を行使し始めたと述べ、1930年代アメリカ外交の基本は「平和、安定、そして世界秩序に資する国際貿易と国内経済の拡大」にあり、「国際貿易の自由化」が進めば、列強は新体制に関心を持ち、独伊のような持たざる国々の不満はなくなるだろうからヨーロッパ問題の解決に寄与するという論理に立っていたとする。国際貿易の自由化とは「門戸開放の要求」である。マクドナルドは、ハル国務長官が、大不況のさなかにわずか1年間でアメリカの対イギリス圏輸出を1050万ドルも減少させてしまったオタワ協定の帝国特恵体制を忌み嫌い、英米通商協定によってそれを廃止したいと考えていたことを指摘した上で、「そのような関税障壁による通商制限を廃止することこそアメリカの宥和政策の重要な核心部分だった」と述べている。マクドナルドによると、アメリカが対独宥和政策をとりえたのは、ドイツ国内にもアメリカと同様に門戸開放の経済体制を構築すればドイツが戦争なしに経済苦境を克服できると考える勢力がいるので(中央銀行総裁のシャハトらモデレート派)、経済的に柔軟に対応すればモデレート派の力が拡大してヒトラー路線を抑制できると考えたからだった10)。
マクドナルドの分析枠組みは、国益認識を踏まえた政策決定者の合理的な政策判断の結果として宥和政策を描き出すことに成功したといえる。彼の枠組には注目すべき視点が含まれている。第1に、アメリカの宥和を「経済的宥和」として打ち出したことである。第2に、それと関わって、従来の対独宥和研究は「英独関係」を軸に分析してきたが、イギリスの宥和政策についてもアメリカの宥和政策についても経済的宥和の本質を強調することを通じて、宥和研究における「英米関係」の重要性を提起したこと。第3点として、1938年ミュンヘン協定以降のアメリカが宥和政策から「封じ込め」( containment )政策へ転換したとする構図を描いていることである。宥和政策が主要に歴史学の対象となっている段階では、宥和の対になる概念には関心が払われてこなかった。彼は、封じ込めという概念に特別の意味をこめてはいないが、のちに検討する「宥和と抑止」と同じ問題意識をここに見ることができる。
マクドナルドは必ずしも指摘してはいないが、とりわけ第2の視点は、1930年代の国際関係の構造の理解に大きく影響してくる。第2次大戦は、「民主主義国とファシズム国との対決」および「英米同盟」という側面を強調して振り返られる傾向が強い。しかし、紛争は常に「現状維持勢力」と「現状変革勢力」との間に生ずるものであり、戦間期において「現状維持勢力」は英仏であり、「現状変革勢力」が独伊日だった。アメリカは、国際連盟に加盟していなかったという形式論からだけではなくて、国際連盟加盟に上院の3分の2の多数を結集できなかった原因である孤立主義の背景からも、現状変革勢力という性格を強くもっていたことを見逃してはならない。英仏主導のベルサイユ体制と特恵関税体制によってアメリカ商品を締め出しているイギリス帝国への不満である。1939年の第2次大戦勃発に際して中立政策を緩和して民主主義国への武器輸出へ道を開く「1939年中立法」が審議された際に、H・W・ジョンソン上院議員は、「アメリカ人は20年前に世界の民主主義を守るために理想主義にかられて戦いそして勝ったが、世界の民主主義は危うくなり、数十万の人々を独裁者のもとの奴隷にしてしまった。
それだけではない。アメリカから数十億ドルの戦費を借りた国々はわれわれを笑い飛ばし、負債の返済を拒否した。戦費はいまやアメリカの納税者の負担に転化されている。われわれは再び幻滅を味わうべきなのか」と英仏への支援につながる中立政策緩和に反対した11)。1934年に「上院ナイ委員会報告」をまとめて1935年中立法制定の直接の動機を作ったJ・P・ナイ上院議員は「現在のヨーロッパの紛争に民主主義の理想がわずかでも含まれていると考えるような馬鹿げたことはやめよう。そこに含まれている最大の課題は、現在の(英仏の)帝国主義と帝国の維持、そしてそれを危うくするような新たな(独伊の)帝国主義と帝国の建設を阻止することでしかない」と主張して反対論を展開した(Appendix to the Congressional Record 1939、pp. 244 - 245)。同じ1939年の9月、孤立主義者として名高かったかつての飛行家C・A・リンドバーグは、「今次の戦争は民主主義のための戦争ではない。それはヨーロッパの勢力均衡をめぐる戦争であって、力を得たいとするドイツの希望と、力を失うのではないかと思う英仏の恐怖とがもたらしたものにすぎない」と批判した(Appendix to the Congressional Record1939、 pp.95 - 97)。アメリカは、イギリスが同じようにブロック経済化を進めているドイツと取引をして、アメリカに対して世界の大市場を閉ざすのではないかと恐れており12)、他方でイギリスのチェンバレンは、「アメリカ人にわれわれのために戦ってほしいとは思わない。もしそうなったら、平時になってそれに対して高いツケを払わなければならなくなるからだ」13)と書簡で書いている。以上のような事情を勘案すると、通常用いられる米英仏対独という図式ではなくて、現状維持国家(現状満足国家)の英仏と現状変革国家(現状不満国家)のドイツ、アメリカ、ソ連という対置が必要になる。この対置では、アメリカとドイツは門戸開放では本来一致していたはずである。ヨーロッパに限れば、ドイツのアウタルキーに対する自由貿易体制のイギリスという対立の図式が成立するが、世界大に拡大すると、閉鎖的なオタワ体制のイギリス帝国に対する門戸開放志向のアメリカという対立の図式があったのであり、アメリカとドイツはイギリス主導の世界経済体制との関わりでは共通の利害に立っていた。この二重構造の理解が宥和政策理解のカギとなるものであろう。言い換えると、「ヨーロッパ問題の解決」に主眼を置いていたイギリスと「(経済的門戸開放という)世界問題の解決こそヨーロッパ問題解決の前提条件」と考えたアメリカとの相違である。
この観点に立つと、アメリカの対独経済宥和は英仏の対独宥和とは意味が相対的に違うことが明確になる。ハンス・ユルゲン・シュレーダーは、アメリカ国務長官のハルが言った「経済的宥和(economic appeasement)」と英仏の採った「宥和政策(Beschwichtigungspolitik)」との違いを、最恵国待遇をめぐるアメリカの1938年までのドイツへの歩みよりに関わって、次のように指摘している。経済的政治的必要から展開されたアメリカの対外経済理念は、国家社会主義の経済さらには政治イデオロギーの拡張に対抗することを意識して確立されたもので、ラテンアメリカがそのよい例である。幻想に負けたイギリスの宥和政策とは違って、国家社会主義体制の内外政策の急進性を政治経済分野の譲歩によって和らげることができるものだし、ワシントンはその対外経済理念を国家社会主義に対抗するものと考えていたのである。この点で私(シュレーダー)は、アメリカの通商条約政策をアメリカ外交の柱とは見なかったオフナーとは見解が異なる14)。このようにシュレーダーが経済的宥和の概念を手がかりに英米宥和政策の違いに着目したのに対して、グスタフ・シュミットも同じように経済的宥和という概念を使ったが、彼の主たる関心は「イギリスの経済的宥和」にあった。彼は、イギリスの経済的宥和政策を、第1期の1933〜1936年、第2期の1936〜1937年、第3期の1938〜1939年に分け、第2期がもっとも成功した時期だと指摘して、イギリスはハル国務長官の互恵通商政策路線を「国益重視型の互恵通商政策」とみなして自国と異なる路線だと感じていたことに注目し、そのようなイギリスの経済的宥和は、英独が共通の経済利益をもつと考えていたこと、および、イギリスの軍備増強の立ち遅れを理由として採られた政策だったという15)。結果的にはG・シュミットも英米の宥和政策の違いに行き着いている。
アメリカの対独宥和政策が持った「アメとムチ」の構造に焦点を当てて、経済的解釈を深めたのがパトリック・J・ハーデンである16)。彼は1987年の著作で、マクドナルドと反対に、ドイツ中央銀行総裁のシャハトの経済政策の核心は2国間貿易交渉(ドイツに不可欠な原材料の輸入をまかなうための輸出拡大)にあったがゆえに、ハルの互恵通商協定政策のもとで世界的な自由貿易体制の再構築を目指していたアメリカはそれをアメリカの対外的な経済利害に対する脅威と考えたと指摘し、このナチスからの挑戦に対して「アメリカ国務省はドイツがバーター取引や戦争に訴えることなく巨大な都市人口を養うに必要な食糧や鉱物資源を適切に確保できるように、世界的な通商障壁の撤廃への動きを支援しようとした。政府やビジネス界の国際主義者は、ドイツは自国の製品の販路となる外国市場への平等なアクセスが保証されれば、全体主義的な貿易戦術をやめ、そして厳かに作り上げられた軍事機構を解体するのではないかと期待した」と述べて、アメリカ政府の対独基本政策がドイツを再びリベラルな資本主義世界システムに統合することにあったとして、そのための具体的な政策が「経済的宥和」であったとする。アメリカの外交官は、「ヨーロッパの平和はドイツの経済生活を根本的に変革できるか否かにかかっている」と考えたのである。戦争が起これば革命が引き起こされるということが広く信じられていた結果、平和への希求が強まり、ハル国務長官は「互恵通商ネットワークが拡大すればヨーロッパの政治的難問の解決にプラスになる。世界貿易が復活すれば、ドイツの政府当局者は国内の安寧を追求するのに領土の占領ではなくて平和的な商業への参加に頼ることとなろう」と期待した。ハーデンも、英米間の経済協力を難しくしている原因はオタワ体制の帝国特恵システムにあったと言い、それに対して、フランスはドイツ産業の製品の販路を確保するためにアフリカに地域発展のための国際コンソーシャムを作る構想をもち、「レオン・ブルム首相は1936年12月にアメリカのビュリット大使に貿易を振興し軍拡を抑制する協定に基づいてドイツとの和解を図ろうとしているフランスの努力をアメリカとしても支持して欲しい旨を伝えていた」ことに注目している。彼の分析でも、世界的な自由貿易体制の確立がヨーロッパの平和に資すると考えたアメリカに対して、イギリスがヨーロッパ問題の解決を優先させたことに注目して、「イギリスは、ドイツがヨーロッパの国境問題に関して政治的コミットをする意向を示さない限りは貿易障壁の低減や(イギリスの)軍備抑制について考慮する余地はないとした」と述べる。彼の分析枠組みと分析の結果はマクドナルドを超えるものではないが、「アメとムチ」の指摘は、政治の世界では当たり前の事実ではあるとしても政治的視点からの宥和研究にとって重要なものである。彼は、1938年10月以降、アメリカ政府は「物質的誘因と軍事的脅し」という二重外交によって恐ろしいホロコーストを阻止する道に踏み出したとして、FDRと国務省がヨーロッパの戦争の引き金になるようなことをヒトラーに断念させるために大軍拡に乗り出し、かつ、アメリカが第三帝国封じ込めの戦いに参加する国々に武器を供給できるよう中立法を改正する取り組みをはじめるなど、「経済的宥和という人参」と「戦略的優位陣営の構築というムチ」という政策を同時に追求し始めたと指摘している17)。
なお、シュミッツの編集した本に「アメリカの宥和」というタイトルの巻頭論文を寄せたウェイン・S・コールは、結論として「宥和はヨーロッパの宥和であり、アメリカの宥和ではなかった」として、「ミュンヘン協定が一時的にせよヨーロッパの大戦争を回避させたことで、多くのアメリカ人がほっとしたし、アメリカの孤立主義の力が対外問題でルーズヴェルト大統領に課した警告や抑制があったから、チェンバレンなど英仏の指導者が宥和の努力をするようになったことは確かだが、FDR指導時代の1930年代の対ヨーロッパ政策の主たる目的は決して宥和のためではなかった」と全面的にアメリカ宥和主義という枠組みを否定している18)。 
2章 宥和、抑止、政策決定─ ポストとファーナムの議論
1930年代宥和主義研究に「封じ込め」という政治学の概念を最初に持ち込んだマクドナルドの1979年の著作は、1938年ミュンヘン協定以後の英米の対独政策を「封じ込め政策」と表現したのであったが、それは宥和政策を放棄して対決政策に転換したという事実を言っただけのもので、それ以上の特別の意味をこめてはいなかった。
第2次大戦直前の時期における英米同盟の成立を論じた1981年の著作でデイビッド・レイノルズが「抑止外交」という章を設けて1938年10月〜1939年8月の英米の対独外交を論じたのも、趣旨は同じであろう。彼は、第1次大戦で協力し合った英米は、1920年代と1930年代には愚かにも別々の道を歩み始めてヒトラーの台頭を許してしまったが、英米同盟の再建が1945年の勝利の基礎になり、戦後はソ連全体主義の脅威に対決して平和を守るパートナーシップを維持し、かくしてイギリスは米との協力関係のもとで世界強国として生き残った、という歴史過程を振り返りつつ、1920年代はともかく、1930年代には大恐慌への対応の違いもあって英米は「通商上の強力なライバル関係」に陥った事実に着目している。彼は、「1930年代には、イギリスは、二国間貿易、イギリスブッロク内での管理貿易に傾斜し、一方でFDR政権は、経済リベラリズムの、そして多角的世界経済の新たな擁護者として立ち現れてきていた。両国の役割が入れ替わったというこの事実は、両国の商業上の環境が変わったことを反映していた。つまり、イギリスは衰退しつつある自国経済を保護しなければならないと感じ、一方でアメリカは、強力な経済力をもっていたので平等な通商機会の原則から利益を得ることが可能だったのである」と説明する。レイノルズはその上で、チェンバレンがまもなく名誉ある平和の路線を後悔し始め、「戦争を回避したいという希望をもって、断固たる態度と和解の結合、つまり人参とムチの結合を続けようとした」が、外務省など国内からの圧力もあって対独抑止へ政策を変更していったこと、アメリカのFDRはミュンヘン協定当時にはそれへの賛意を表明していたが、ドイツ内でのユダヤ人弾圧の強まりなどの情勢変化もあいまってドイツをアメリカの安全にとっての真の脅威であると認識して、軍備増強と中立政策放棄を望むようになったが国内の孤立主義的雰囲気の中で後者への対応が遅れた事実に注目している19)。ここでは、抑止という概念に特別の意味は込められていないが、宥和から抑止へという分析の枠組みはその後の宥和研究の広がりに貢献するものであったと言える。
抑止という概念を中心に据えてイギリス宥和主義の実証研究をしたのが、ゲインズ・ポスト・ジュニアである。彼は、1993年の著作で、チェンバレン路線が成立していった経過を、イーデンとの確執、外務省との対立、イギリスの軍備増強政策などを通して明らかにし、対独宥和政策と1934年から1935年および1938年ミュンヘン協定以降の時期の「抑止政策」との関連性を検討して、危うい平和が抑止の失敗とともに終わり、戦争での勝利という不確かなものに道を譲っていった経過を分析している。実証研究としては、チェンバレンを批判し、ボールドウィン政権であったなら1935〜1936年という決定的に重要な時期にイギリスは効果的な抑止政策を展開できたかもしれないとの結論を引出している。彼が、社会科学の領域で検討されてきた抑止概念を、宥和政策研究の立場から、どのように理解し、どこに注目しているかを、明らかにしておきたい20)。
ポストは、まず、「抑止とは、対立国に、特定の行動の危険性とコストがベネフィットを上回ると説得すること」として、抑止は、「力による脅し(必ずしも戦争に勝利する能力ではない)、自国の利益を守るという決意の明確なサイン、ムチと人参を含む危機管理、を必要とする」と述べて、「抑止と和解の相互補完関係」を強調し、抑止と和解がどのような効果をもつかは次のような要因によって変わってくるとする。抑止国の側では、その国の軍事能力、現状への態度、国際的コミットメントを尊重する態度、緊急事態にも毅然としているという評判、コミュニケーションによって問題を解決する能力、である。対立国の側では、相手からの譲歩のプラスを計算する能力、そのまま進むことがもたらすリスク、抑止の動きに対抗する可能性、がポイントとなる。第2次大戦後に生まれた社会科学としての抑止理論と歴史学としての宥和主義研究とがまったく重なることはない。彼は、抑止理論が歴史研究にとって有用性が限られることを認めて、その理由を3点挙げる。第1に、抑止理論は核兵器とグランドストラテジーに焦点を当てるので、伝統的な軍事力の関係や戦争の諸形態を排除してしまう。第2に、抑止理論は対立国は合理的に行動するものだという仮定に立っている。第3に、抑止理論は第2次大戦後に出てきたものであるから、それは広大な平和勢力がいて二極世界であることを前提に作られたのであって、そのような抑止理論を平和時の軍縮から生まれた戦前のイギリスの行動や多極世界に当てはめるのは、リスクが大きく、時代の違いを無視するものである。
ポストは、「抑止理論の多くはアメリカモデルであり、イギリスのケース、それも官僚制と政治学の発展を促した第2次大戦の前に生じたイギリスのケースに当てはめるのは適当でないかもしれない」と述べて、歴史研究にとって抑止理論の有用性が限られていることを認めた上で、「しかし、外交史家や軍事史家は、社会科学のモデルから、とりわけより包括的な理論を志向している伝統的な抑止の研究から、学ぶべきものがある」と主張して、アレクサンダー・ジョージ、リチャード・スモーク、サミュエル・ハンチントン、パトリック・モーガン、ジョン・ミアシャイマーらの理論構成に注目している(Post、 pp. 14 - 22.)。彼はまずA・ジョージとR・スモークが、抑止を、戦略戦争、伝統的限定戦争、限定戦争以下の紛争の脅威、の3つのレベルに分けていること、伝統的限定戦争には「拒絶による抑止」と「抑止国が他国による侵攻から同盟国や中立国を守るためにとるコミットメント」の2つがあり、限定戦争以下の紛争の脅威の抑止には威圧外交または危機外交がありそこには危機の防止を含むこと、そして、戦略戦争以外の低レベルの抑止は同盟国の義務などの多くの要素があって複雑化していること、を指摘する21)。さらに、S・ハンチントンが外交的経済的形態をとる「説得」の活用を強調していることに注目する。ハンチントンは、伝統的勢力が説得を活用しない場合には、抑止のために次の3つの方法をとるとする。第1は、敵対国の不安定さを助長し、政治的コストを増大させる。第2は、防衛の可能性を高めることによって敵対国に敗北の可能性を考えさせる。
第3は、戦略(核)戦力の場合のように報復の脅しをかける。P・モーガンについては、抑止を「直接抑止」( immediate deterrence )と「一般抑止」(general deterrence )の2つに分類していることに注目する。直接抑止とは、2つの敵対国のうち少なくとも1国が他国を攻撃したり、他国に利害関係のある領土の併合を企図したりして、他方の国が防衛または報復の脅しをかけることであり、一般抑止とは、敵対国が政治目的で軍事力を行使するのをあきらめさせるに十分な程度まで軍事力を整備することで、この一般抑止によって直接抑止の必要性が低下するが、逆にそのような紛争を煽り立てる恐れもある。J・ミアシャイマーについては、「伝統的兵力とくに陸軍力によって、侵略国が戦場で必要としているものを拒絶する能力」という定義に注目し、1930年代半ばのイギリスが「包括的抑止戦略」( comprehensive strategy of deterrence )の立場にたっていたとする評価の上に「イギリスは独伊に対してあまりに強い軍事的経済的な圧迫を加えると、報復を招き、和解を阻害し、イギリスの軍備増強に必要な平穏な時期を失ってしまうのではないかと恐れた」というイギリスのジレンマの指摘を引用している。R・ジャービスについては、「政策決定者に共通する誤った認識は、他国の政府の政策は自国よりももっと中央集権化され計画化された協調関係の中で作成されているはずだ、と考えがちなことだ」という指摘を引用する22)。
宥和政策も抑止政策も、国家政策であるという意味で、政策決定の問題でもある。A・L・ジョージとR・スモークは、「抑止理論そのものは、対外政策においていつ抑止政策が適用されるべきかということを示すような基準を提供するものではない」として、「政策決定に抑止理論を適用するとしたらそのもっとも有効な適用は、規範的な機能ではなくて分析的機能の面である。たとえば、抑止政策をとった場合にどんな抵抗が生ずるかを政策決定者が判断するのを助けるなどの機能である」と述べて、客観的な情勢分析の重要性を強調している( Georgeand Smoke、 pp. 180-181.)。
宥和政策研究に、明確に政治学の分析枠組みを持ち込んだのが、バーバラ・R・ファーナムである23)。彼女の問題意識は政策決定理論にあり、理論的検討を進めるために必要な実証研究の対象として1930年代のミュンヘン危機に対するアメリカの対応を取り上げた。したがって、アメリカの宥和という意識や評価はなく、宥和政策はイギリスを前提に論じられているが、アメリカがなぜあのような対応をとったのかを政策決定理論の方法と視点から分析することによって1930年代の危機について新しいイメージを提起した。彼女は、政策決定について政治学的見方を付け加えれば外交政策の結果をよりよく理解し説明できるだろうという一般的な通念が正しいか否かを検討するには、たとえば、予測された行動が現実の世界で実際に発見されたら通念が正しいことになるとして、ミュンヘン危機に対するFDRの対応の検討はそのような通念の通用性を説明する格好の手段になると考えた。FDRがアメリカ大統領の中でもっとも政治的な鋭敏性に富んだ業績の高い人物であって、出会った誰もが例外なく彼の優れた洞察力を賞賛しているがゆえに、FDR研究が妥当であり、二つの重要な価値の間の対立を表すがゆえにミュンヘン危機を対象とすることが適当であるとする。
彼女は、このように「アメリカの政策決定」ではなくて「FDRの政策決定」に焦点を当てる。
1936年から1938年の時期におけるFDRがヨーロッパの危機の深化の中で重要な政策決定をせず、一見するとぐずぐずしていたのはなぜか、そしてそれと対照的に、1938年ミュンヘン危機を契機に国内の孤立主義者の要求する孤立(ヨーロッパ問題への関与の拒否)でもなく介入主義者の要求するヨーロッパへの介入でもない「英仏という民主主義国への武器供給」という第三の政策へ転換したのはなぜか、という問題意識に立って、きわめて精緻な実証研究を行い、そこから従来一般に用いられてきた諸政策決定理論では十分な説明が困難であるとして、FDRに関しては彼女のいう「決定作成に関する政治的アプローチ」がもっともよく妥当するという結論を引出した。
本書では歴史研究を進めるにあたり、まず、従来の3つの伝統的な決定作成理論を、次のように整理している。政治的アプローチを含むこれら4つのアプローチとも、FDRがミュンヘン危機のあとに遭遇したような「価値の衝突」に対して決定作成者がどのように対処したかをどのアプローチがもっともうまく説明できるかを競うものでもある。第1の「分析的アプローチ」analytical approach to decision-making )は、特定の問題分析を扱うのではない。「分析的決定作成者」( analytical decision-makers )は環境の変化を注意深く監視し、新しい証拠を受け入れてゆく。「効用」( utility )という観点から「最も良い」解決あるいはある明確な価値にしたがった「十分によい」解決を目指す。決定作成者は、決定作成過程が最大の効用を伴った結果を生み出すようにルールを最善にものにすることが期待される。決定作成者は、価値の対立をうまく解決するために、周知のすべての選択肢を確定された価値基準と比較し(コストとベネフィットの比較)、トレードオフを行い、ある価値を実現するために他の価値を犠牲にする。ここでは、選択肢が上下に序列化され、したがって結果的に価値の維持者と価値の喪失者に分かれる。第2の「制度的アプローチ」(intuitive approach to decision-making )は、明確性あるいは一貫性を求める。「制度的決定作成者」( intuitive decision-makers )の選択は、制度的に明確な解決を志向するが、その解決は過去の決定に沿うものであったり何らかの理由によって特異なものである。ここでは価値のトレードオフは、見落とされたりあるいは実行があまりに難しいために、しばしば回避される。決定は、すべての価値に公平に奉仕するものとして提起される。第3の「動機的アプローチ」( motivational approach to decision-making )は、それとは違って、感情的安定を保持することを目指している。心理的不快を最小にしようとする欲望の与える影響を強調するこのアプローチは、決定作成が一貫して「ストレス」を与えるものであると考え、恐怖、不安、罪などさまざまな負の感情を思い起こす。結果として生まれる決定は、ストレスをもっとも与えないものとなる。決定は、決定作成者の感情に沿うものとなり、つらい選択を回避し、選ばれた選択肢が重要な価値の犠牲を伴うことをしばしば否定する。その原因は、その必要性が見えにくかったり算定が難しかったりするからではなく、あまりに痛みを伴うので認識できないからである。
ファーナムは、第4のアプローチとして「政治的アプローチ」をとりあげて、次のように説明する。「政治的決定作成者」(political decision-makers)は、あい対立する諸目的を取り扱ってそれらの間の和解を促進しようとするが、そのような努力を推進する根源にあるのは「アクセプタビリティ=受容性」( acceptability )の必要性である。多くの価値や利益というものは、深く根をおろしているから簡単には手放すことはできないものだ。対立がやわらげられるなら、結果として生まれる政策が最良のものとは言えないとしても、犠牲は最小化されるに違いない。
このような論理が働いている場合には、決定作成過程を説明する理論は、単に最良のものを目指すという観点から決定作成過程を分析するだけの理論よりも、政策結果についてより多くのことを教えてくれることが多い。決定作成過程では、アクセプタビリティがもっとも強い関心であり、多様な相対立する諸利益はトレードオフされるのではなくて織りあわされ、できるだけ多くの利益の間に調和を実現することが目指される。だから決定作成過程が最終的に生み出すものは、単純な価値最大化( value maximization )が生み出すものとは違うことになる。
政治的アプローチは、先例に従うことを慣行化している法分野や、「疑わしいときは病気ということにしておけ」とされる医学分野にも見られる。政治的関係では、対立と協調という二つのテーマがきっちりと絡み合っている政治過程が、有効行動( effective action )の可能性を作り出す。対立する利益や価値が並列されていること、および、それらを和解させることの必要性、それらが政治的関係の根本的特徴であり、決定作成者を含めてあらゆる人々の行動に影響を与えているのである。政治的関係における有効行動は、通常、提案される政策を支持するような「十分なコンセンサス」( sufficient consensus )を必要としており、コンセンサスがあるために、効用とアクセプタビリティが成功した政策のしるしとなる。アクセプタビリティはパワーと結びついている。コンセンサスを強制する力は、民主主義的原理や憲法上の規範から生ずるだけでなく、さまざまな集団や個人がある程度のパワーを持っているという事実からも生ずる。きわめて権威主義的な政治においても、個人や集団が何らかの権力を行使しているかぎり、有効行動はアクセプタビリティに関心を持たざるを得ないのである。政治的決定作成者がアクセプタビリティに関心をもっているとは言っても、彼らが常にアクセプタビリティの圧迫に対して受動的なわけではない。アクセプタビリティと効用は、政治的合理性にとってそれぞれ必要条件ではあるが十分条件ではないので、政治的決定作成者は決定に含まれているさまざまな価値や利益の釣り合いをとることによってアクセプタビリティと効用を両立させようとする。対外政策においても、決定作成者はアクセプタビリティに関心を持つがゆえに国際情勢と並んで国内の感情をも計算に入れようとする。アクセプタビリティを求める圧迫があるために、決定作成者は深刻な価値対立を見極める必要がある。政治的決定作成の特徴は妥協だとよく言われるが、最初から妥協を目指すわけではない。不十分な情報、あやふやな情報しかなかったり、蓋然性を評価することが困難な場合には、決定作成者は、特定の選択肢が重要な価値にどう影響するかを判断できなくなる。この「不確定度=不確かさ」( uncertainty )の要素は、とくに制度的アプローチが重視している。
ファーナムは、1930年代のヨーロッパの危機に対するFDR外交の実証研究を通して、次のような評価を導き出した。ミュンヘンに先行する1936〜1938年の分析からは、FDR外交における国内的要因の大きいことを強調する通説は、妥当性に欠けることが分かる。FDRがこの時期に、ためらい、不決断で、矛盾する行動をとったのは、国内の反響を恐れたからではなくて、ヒトラーがどの程度の脅威なのかなどという問題を含む国際情勢の実態が判断できないと言う「不確定度」( uncertainty )があったからだ。FDRには、直面する対外政策問題をどう評価したらよいかについて十分な確信がなく、自身の行動好きの性格や国民が足を踏み出すことに消極的だったことともあいまって、 彼は独裁者を国際システムの規範に従わせる社会化(socialization )の可能性を2本の糸を操るようにいろいろと試してみることになった。従来の通説的見解はFDRの弱さや冷笑主義や優柔不断や不決断からその行動を説明していたが、政治的アプローチによる分析は、それを否定して、FDRの行動が政治的分野からの要請に決定作成者として対応したことのごく自然な結果であったことを明らかにした。逆に言うと、FDRの行動は政治的アプローチの予知が正しいことを示している24)。すなわち、行動への意欲とアクセプタビリティを考慮する必要性があいまって、状況判断を助けてくれるような情報を集めていろいろな選択肢の可能性を試してみようという実験にFDRを駆り立てたのである。彼は、イギリスの宥和政策には疑問を感じたが、まだこの時期には独裁者との協働が考慮に値しない問題外のこととは考えていなかったのである。ミュンヘン危機は、ヒトラーに関するFDRの認識の不確かさを払拭した。それまでヒトラーをヨーロッパの安全に対する脅威と考えていたFDRは、これ以後ヒトラーをアメリカの安全に対する脅威と認識するようになった25)。
以上のようなファーナムの研究は、宥和という外交政策の研究という本稿の問題意識からみても、決定作成における政策担当者の認識と判断の重要性とその分析方法に関する示唆を与えるものとなっている。とくに、アクセプタビリティを分析の中心にすえ、かつ、諸価値の間のトレードオフを排除することに政治分野の(とりわけ国民の政治参加の進んだ民主主義国について)政策決定の特質を見出した彼女の宥和研究は、現代国際社会の分析にも通用性を持つだろう。 
3章 宥和政策研究の理論枠組み─ ロックの議論
宥和政策研究はこれまで、政策決定者が国際情勢とくに対立国や同盟国の意図をどう認識していたか、国内情勢とくに政策決定者の国内の支持基盤や反対勢力の状況はどうであったかなどという視点から取り組まれてきたが、上の記述からも分かるように、宥和と抑止とはどう違うのか、宥和が成立するためにはどのような条件が必要なのか、その条件は自国および対立する相手国のどのような認識と関わってくるのか、などというレベルでの分析にはあまり関心が払われてこなかった。
この視点に立って、イギリスの対米宥和(1896 - 1903)、イギリスの対独宥和(1936 - 1939)、英米の対ソ宥和(1941 - 1945)、アメリカの対イラク宥和(1989 - 1990)、アメリカの対北朝鮮宥和(1988 - 1994)という5つの歴史事例の実証研究を行い、そこから宥和という「交渉による紛争の解決もしくは紛争の防止」が成功するためのいわば「宥和政策マニュアル」とでも言うべきものを検討したのがステファン・R・ロックである。彼の研究は、ファーナムの政策決定モデル論の試みを別のレベルで展開したものである26)。実践的な宥和研究を目指すロックは、3つの理論構築が必要だと言う。第1は、特定の歴史事例に即して宥和の成功・失敗の原因を
説明できる理論、第2は、正確に将来の見通しを立てられる理論、第3は、政策決定者に宥和政策の適切性やその適切な執行についての指針を提供できる理論である。
ロックは、宥和を「対立と不同意の原因を除去することによって、敵対国との緊張を緩和する政策」と定義することによって、それが善悪の判断を超えた価値中立的な外交の方法であることを確認し、過去に成功した宥和があったこと(典型的な成功例が1896年から1903年のイギリスの対米宥和)、宥和が現代外交においてもありうること、したがって、現代アメリカ外交に顕著に見られる「ミュンヘンアナロジー」を克服して抑止モデルへの偏重を改める必要があること、を強調する。ロックもデコンデと同様に、現代アメリカ外交がミュンヘンアナロジーにとらわれていることを憂慮して、「ミュンヘンの最大の教訓は、敵対国家へ譲歩しても穏やかにさせたり戦争を防止したりはできないということだった」と述べて、ソ連と原爆の秘密を共有しない、朝鮮に介入する、キューバに強硬に出る、ベトナムで戦争をする、などの冷戦政策がソ連の膨張主義的目的に断固として反対するという必要性から出たものであり、軍備管理や対ソデタント政策でさえ反対派は宥和というラベルを貼って批判しようとしたし、ポスト冷戦時代に入ってもミュンヘンアナロジーは変わっていないと見る。1990年のイラクによるクウェート侵攻に対抗してアメリカが介入を決めたのは、ブッシュがフセインをヒトラーになぞらえたように1930年代の思い出からであり、一方では1980年代の対フセイン政策や1990年天安門事件以降の対中政策は宥和政策でありながらアメリカの政策担当者はマイナスイメージの宥和政策という言葉を慎重に避けてきたとする27)。
ロックは、これまでの宥和批判にはほとんど根拠がないと述べて、次のように説明している。
これまでの宥和批判は2点ある。第1は、不満を持つ国や指導者は決して宥和されないもので、誘因(inducements)を提供しても不満の種は除けないし、不満を持つ敵対者を友好的にしたり好意的な中立者にすることもできない、ということ。第2は、宥和は、侵略を阻止できないだけでなく実際にはそれを促進させてしまうから、抑止という努力が無駄になってしまうという意味で危険であること。宥和批判派が問題にしているのは宥和の効果であるが、効果には、「具体的効果」(material effect)と「心理的効果」(psychological effect)の2つがあるとされる。領土の譲渡や国防の放棄によって軍事バランスが潜在的侵略者に有利に変わり、自国の抑止能力を損なうのが物質的効果である。敵対国がいったん誘因を受け取ってしまえば和解国がのちに毅然とした態度をとってもそれを認めずに新たにとてつもない要求を持ち出すもので、こうして自国の「抑止的脅威」(deterrence threats)を敵対国が信用しなくなるのが心理的効果である。しかし、これらの宥和批判にはほとんど根拠がない。どんな政治家でもヒトラーやスターリンになるわけではないし、要求を出す国はどこでも際限のない野心に駆られるわけでもない。しかも成功した宥和の例もある。したがって、宥和の失敗例を検討することによって、宥和の失敗が政策そのものの失敗からきたのか(その場合は政策決定者が失敗を救える)、それとも、国家の本質について誤った仮定に立って対応したから失敗したのか、を判断できるだろう。
ロックは、宥和批判に対抗するために、さらに抑止に関わって問題を次のように立てる。抑止が宥和よりも望ましいとされてきた理由の一つは、抑止のほうが安価だということだった。
宥和が敵対国に「誘因」を提供するがそれは具体的には領土など価値あるものを譲許することであって、抑止が提供する「脅威」(threats)は何も犠牲を払わないから、これこそ影響力の望ましい形になるとされる。しかし、この考えには難点が多々ある。抑止的脅威はうまく機能した場合でもコストは小さくない。一般的抑止(general deterrence)の場合にはとくに、大量の人的物的資源を長期にわたって必要とし、抑止の決意を対立国が信用するように、軍事行動に出なければならないと感じるかもしれないのである。アメリカの決断力を示すことを一つの目的としたベトナム戦争は、数万人の死者と社会不安を引き起こした。冷戦中の米ソは相互抑止のために数千億ドルを費やした。軍事生産への資源の集中がアメリカ経済を弱らせた。そもそも、抑止的脅威は一般に考えられているほどには機能しないものだ。その理由として合理モデル論者は、脅威が明確でないことや軍事バランスが潜在的攻撃国に有利なことをとりあげ、心理学者は、指導者というものは脅威が現に存在し軍事バランスが不利であっても国内国外の不安定要因のために攻撃的に行動することがあると説明する。
ロックは、本来の価値中立的な宥和の定義を確認し、その構造を明確化することによって、宥和という言葉をこれまでの宥和研究が取り扱ってきたような実体概念としてではなくて分析概念としてよみがえらせようとした。ロックは、次のように宥和の構造を考える。宥和とは、対立と不同意の原因を除去することによって敵対国との緊張を緩和する政策である。宥和は、妥協、相互性、相互調整と矛盾するものではないが、宥和政策を追求する国は敵対国よりも大きな犠牲を払うことになる。宥和政策であっても、宥和と抑止的脅威を結合することは可能だし、望ましい。宥和は抑止に代わるものにもなるし、抑止を補足するものにもなりうる。この宥和の定義には、宥和主義者が敵対国との緊張緩和にどの程度の比重をおいているかとか、緊張緩和の最終目標が何であるかは含まれない。この定義には、モラル性はない。宥和が作用するのは4つのメカニズムを通してである。第1は、飽食(satiation)。1930年代の英仏の対独和解のように、貪欲で拡張主義的な国家の空腹を満たしてやる。第2は、確信(reassurance)。
不安定な国がその国際的国内的立場の安定にもっと確信がもてるようにしてやる。第3は、社会化(socialization)。協力行動の規範を非文明的国家やその指導者に教え込んで、現行国際システムの中で責任あるアクターとして行動するようにさせる。第4は、敵対国内部の政治バランスの操作(manipulation of the political balance within the adversary)。敵対国内部の敵対的で侵略的な勢力を弱体化させ、協調主義者を強める28)。
力による国際紛争の解決に傾斜する戦後アメリカ外交に対する批判を基礎に据えるロックの宥和研究は、執筆当時のクリントン政権を念頭において「宥和と関与の関係」を明確にしなければならなかった。ここにロックの宥和研究の優れた着想が見て取れる。冷戦構造の崩壊後の対中国政策が問われたときに、クリントンは大統領就任の2年前の天安門事件もあって中国の扱いについて国内世論が割れていたにも関わらず、封じ込め政策など歴代政権の採ってきた諸政策を退けて関与政策(engagement policy)を主張した。ロックは、関与政策の特質を次のように述べる。関与政策はクリントン政権の対中政策であり、ベトナムに対しても同様だ。クリントン政権自身が1996年に説明したところによれば、関与には、強力な防衛力の維持、大量破壊兵器の拡散の防止、平和構築(peace making)への参加、アメリカをよりいっそう外国市場へ接近させること、が含まれる。関与政策は、アメリカの経済的、イデオロギー的、安全保障的利益が守られ増大することを目標にして、外国に対して積極的で多面的な関わり(involvement)を行う政策である。したがって関与とは、グローバルな国家安全保障戦略ではなくて、敵対するあるいは望ましくない行動をする特定の国(または国々)に対処する方法を言う。商業分野でのコンタクト、コミュニケーション、交流を維持することを重視する関与政策は、経済制裁や軍事的威嚇によって敵対国に対処する封じ込め政策と異なる。この意味では、ニクソンからレーガンまでの南アフリカ政策も、G・H・W・ブッシュ政権の対中国政策も関与政策だった。関与政策は、対立国を国際システムの制度や法的ルールに巻き込み、かつ対立国の国際的・国内的行動に影響力を及ぼすことを目標にしてきた。緊張緩和、誘因の提案、社会化、敵対国の国内・国外行動への影響力、という点で、関与と宥和は共通するが、長期的で包括的な関与政策に対して、宥和政策は短期的な性格を持つ。したがって、宥和は関与のサブカテゴリーと考えたらよい。
宥和と関与が同一カテゴリーに入るとしたら、宥和の反対概念は抑止であろう。ロックは、抑止政策の有効性や必要性を認め、宥和と抑止を同時に追求する場合のあることを認めた上で、従来の抑止論者が抑止論の普遍妥当性を強調してきたことを批判して、その限界(抑止が成功するのは特定の条件下でのみ)を認識すべきだと指摘する。ロックは、宥和も、宥和国が修正しようとしている行動に敵対国が絶対的にコミットしているわけではないこと、敵対国が誘因に従いやすいこと、敵対国が宥和国の政策を正確に認識できること、という特定の条件下でのみ適切な政策となると言う。ここに見られるロックの枠組みの優れている一つの点は、敵対国の行動を変えようとしたら抑止と宥和と言う2つの選択肢があり、したがって、抑止だけが成功する、宥和だけが成功する、どちらも成功する、どちらも失敗する、という4つのタイプを想定することができるとし、その想定の結果として、とくにアメリカにおいて顕著な抑止論の独走を阻止する手がかりを案出したことにある。彼は、4つのタイプが分かれる主たる原因は対象国の主たる動機にある、と述べているが、これは従来の宥和研究が宥和国研究に重点をかけすぎて(宥和起源論、宥和責任論)、対象国の意図や動機との関わりの分析が十分でなかったことへの批判にもつながる。
ロックは、宥和の事例研究をふまえて、宥和が成功と成功に分かれる場合にその失敗原因を宥和国側ではなくて主要に対象国側に見出すことが重要であることを見出した。したがって、対象国(敵対国)の特質をどう把握するかが重要になる。彼は、縦軸に「基本動機」(これは安全保障の欲求と経済上の欲求の2つ)を、横軸に「ニーズの強さ」(強、中、弱の3つ)をおいて、対象国を6つのカテゴリーに分類できるとし、その交錯する6つの場合分けの中に宥和の「効果」を計ることができると考えて、次のような14の定理を導いた。この理論枠組みは、今後の国際政治研究に大きな貢献をするものと期待される。定理1、敵対国が戦争志向国家なら宥和は失敗する。定理2、敵対国の敵対行動が手段的なものならば宥和は成功する。定理3、誘因が敵対国の欲求に対応していれば宥和は成功する。定理4、敵対国の最小欲求を満たしてやれば宥和は成功する。定理5、敵対国が誘因を正しく理解するほど宥和が成功する確率が高まる。定理6、対象国が自国の行動を変えたり緊張緩和に同意するような誘因があれば宥和が成功する可能性が生まれる。定理7、対象国の経済的欲求が大きい場合には、宥和国にとっては相互性を要求したり誘因と結びつけて脅しを利用することが望ましい。定理8、対象国が安全保障上の強い不安を抱えている場合には、宥和国は一方的譲歩をしたり純粋な誘因戦略に従うことが望ましい。定理9、対象国が経済的欲求によって動機づけられているほど、宥和が弱さや不決断の現われと受け取られる可能性が高まる。定理10、対象国が安全保障上の不安によって動機づけられているほど、宥和が弱さや不決断の現われと受け取られる可能性が低くなる。定理11、譲歩が互恵のもとで行われるなら、宥和が弱さや不決断の現われと受け取られる可能性は低くなる。定理12、宥和国がすでに断固としているとか強力な力を持っているという評判を確立していたら、宥和が弱さや不決断の現われと受け取られる可能性は低くなる。
定理13、単に圧力をかけられたから譲歩をするのではなくて、対象国の要求や必要が正当だと認めたからなのだということを分からせられれば、宥和が弱さや不決断の現われと受け取られる可能性は低くなる。定理14、宥和の結果、宥和国が約束を守る能力が低下するのであれば、宥和が弱さの証拠だと受け取られやすくなる。 
おわりに
アメリカを筆頭とする諸大国が外交交渉を軽視して力による国際紛争の解決に傾きがちな現代において、それを理論的に支えてきた抑止論を抑止論のレベルで批判するだけでは、現代国際社会の要請に応えることはできないだろう。ロックは宥和政策の歴史研究を通して宥和の理論化を試みて、そこから抑止論批判へつなげようとしている。ロックはファーナムの仕事には触れていないが、ファーナムがFDRの政策決定という個別の狭い範囲での課題に絞って宥和研究をしたのに対して、ロックは政策決定論の方法論を組み込みながら広範でかつ実際に使える「宥和理論」を目指したと言ってよい。歴史学的な宥和政策起源論や宥和政策責任論を超えた、新たな政治学的な宥和研究(実証研究と理論研究)の必要性と可能性があることを、ロックやファーナムの研究は示している。
ロックの「政策決定者にとっての宥和の11の教訓」は、言わば宥和政策マニュアルとでも言うべきユニークな提唱で、内容的には通常われわれが国際政治を分析するときの視点と異なる特別なものを含んでいるわけではないが、全体の枠組みは示唆に富んでいる(Rock、 pp. 169 -173)。教訓1、敵を知れ。教訓2、定期的に柔軟に政策を評価しなおせ。教訓3、対象国の行動が戦術的調整なのかそれとも戦略的変化なのかを判断できるようにテストを工夫せよ。教訓4、もし宥和が効果的でないという証拠がはっきりしたら宥和を修正するか放棄せよ。教訓5、宥和以外の政策をとる能力を維持せよ。教訓6、政策遂行を一本化して一つの声で話せ。1980年代のアメリカの対イラク宥和政策では、しばしばワシントンから対立する政策決定グループのシグナルがイラクに送られてアメリカのダメージを大きくした。教訓7、我慢強く、柔軟に。
相互の国の間の信頼感が重要である。教訓8、インクリメンタリズム(漸進主義)の強みと弱みをよく認識せよ。漸進主義は包括的解決の反対概念である。教訓9、受身の宥和はやめよ。
教訓10、手本を示すくらいでは社会化(socialization)はできないことを認識せよ。対象国を国際社会に引き込めば、その国は国際社会の基準を学んで行動を慎むだろうとよく言われるが、それは事実に合わない。ヒトラー、スターリン、フセインは、国際基準を理解しなかったのではなくて、知っていながらそれを拒否し、他国がそれに固執するのを利用し、自らは法の外で行動して利得を得ようとしたのだ。教訓11、敵対国のリーダーたちとの個人的関係に頼るな。
チェンバレンやFDRはそれで失敗した。
1930年代の英仏の対独宥和政策の失敗は、宥和という外交技術あるいは外交交渉一般に対する不信感を生み、ミュンヘンアナロジーという言葉をもたらした。国際社会が戦争などの大きな紛争を通して新たな国際社会の枠組みつくりを進めてきたがゆえに、常に、新しい国際秩序に利益を見出す現状維持国家(現状満足国家)と新たな秩序を不利益と考える現状変革国家(現状不満足国家)とに分かれざるをえないのが、国際社会の現実であり、それはいまも変わらない。戦勝国のルールが普遍的な価値を体現していると言う仮説に基づいて第1次大戦後の国際社会を規律しようとしたベルサイユ体制の根本的な矛盾を早い時期に指摘した一人がE・H・カーだった。宥和政策は本来的には、外交の失敗をイメージさせるものではなくて、価値中立的な概念であった。ハンス・モーゲンソーは、「宥和は、政治的に賢明でない交渉による解決で、それは利益とパワーを判断しそこなったものである。ある国が見返りもなしに死活的利益を引き渡してしまうことを宥和と呼ぶ」と述べた上で、「宥和は、状況によってよいものになったり悪いものになったりする。弱さや恐怖から生まれる宥和は、無駄で致命的になる。
強さから生まれる宥和は、度量が大きく崇高で、世界平和にとってきわめて助けになる、多分、世界平和への唯一の道になるだろう」と主張しているが、この後半部分は宥和概念の価値中立性に触れているだけでなく、覇権安定論がアメリカを中心に喧伝されアメリカの単独行動主義が世界各国との摩擦を生んでいる現代において、超大国が世界平和に対して持つ特別に大きな責務を明らかにするものともなっている29)。1941〜1945年にFDRのもとでアメリカ副大統領を務めたヘンリー・W・ウォーレスは、第2次大戦後の時期に対ソ協調政策を唱えて1946年にトルーマン大統領に商務長官を解任されたが、彼が対ソ協調を主張した主要な根拠は、戦争で疲弊したソ連には対外的な譲歩をしたりする余裕はないが、言わば単独超大国になったアメリカは各国に多少の譲歩をしながら世界の安定した平和を作り出してゆく責任とそれに必要な力があるという点にあった。大国の責任をそのような視点から追求していくことが必要だろう。先に引用したクライン・アールブラントの「力の均衡または力の優位がある場合には宥和は成功する」という記述も、勢力均衡論の当否は別として、大国の責任という意味では同様の視点を示している(Kleine-Ahlbrandt、 p.1.)。宥和研究は、ミュンヘンアナロジーを克服するためだけではなく、モーゲンソーが言ったような意味での「大国の責任」論を現代においてよみがえらせるためにも有効である。
宥和は、デタント(緊張緩和)、関与(エンゲージメント)、交渉と関連を持っている。1930年代のアメリカの対独政策を宥和政策と呼ぶ場合には、その背景となったアメリカ孤立主義と密接に結び付けて取り上げられるが、孤立主義は本来、外交上のフリーハンド(同盟関係によって手を縛られない)と戦争回避とを内容とする理念であって、現代のアメリカが単独行動主義に傾斜するのは伝統的なアメリカ孤立主義を継承したものという一面を持っている30)。このように第2次大戦後のアメリカでは、孤立主義の伝統が現れる際には単独行動主義と抑止論とに結びついているので(そのような意味におけるアメリカ孤立主義を代表するのが、かつて大統領の座を目指したパット・ブキャナンである)、宥和政策を検討する場では相対的に切り離して論議することが必要だろう。 

1)Cecelia Lynch、 Beyond Appeasement : Interpreting Interwar Peace Movements in World Politics、 1999、 p.1. リンチは本書で、第1次大戦以降の世界の平和運動に加えられた汚名を晴らそうとし、かつ国連創立など新しい平和な世界の構築に平和運動団体の果たした高い役割を明らかにした。
2)David F. Schmitz & Richard D. Challener、 eds.、 Appeasement in Europe : Reassessment of U.S、Policies、 1990、Iintroduction、 p.14.
3)Alexander DeConde、 Encyclopedia of American Foreign Policy、 second edition、 vol.2、 2002、 p.443.
4)William R. Rock、 Appeasement on Trial : British Foreign Policy and Its Crisis 1938-1939、 1966、pp. 337-338.
5)W. Laird Kleine-Ahlbrandt、 ed.、 Appeasement of Dictators : Crisis Diplomacy ?、 1970、 p.1.
6)アメリカ孤立主義の権威であるウェイン・S・コールが実際にどのような潮流を念頭において言ったことかは分からないが、実証研究としての歴史学の立場から次のように述べている。自然科学者や社会科学者は発見すべきあるいは開発すべき元素や過程を表す緻密なテクニカルタームを発明するかもしれないが、歴史学者にはそのような特権はない。Wayne S. Cole、 American Appeasement、 in D. F. Schmidz and Richard D. Challener、 eds.、 Appeasement in Europe、 p. 2.
7)Hans W. Gatzke、 Germany and the Unite States : A Special Relationship ?、 1980、 pp. 166-123.
8)Ritchie Ovendale、 Appeasement and the English Speaking World : Britain、 The United States、The Dominions、 and the Policy of Appeasement 1937 - 1939、 1975、 pp. 316 - 319.
9)Arnold A. Offner、 American Appeasement : United States Foreign Policy and Germany 1933-1938、 1969、 pp. 276 - 279.
10)C. A. MacDonald、 The United States、 Britain and Appeasement 1936 - 1939、 1979、 pp. 1、5、12.
11)Appendix to the Congressional Record 1939、 pp.561 - 563.
12)Ronald E. Powaski、 Toward an Entangling Alliance : American Isolationism、 Internationalism、and Europe 1901 - 1950、 1991、 p.76.
13)Nicholas John Cull、 Selling the War : The British Propaganda Campaign against American Neutrality in the World War U、 1995、 pp. 36 - 37.
14)Hans-Jürgen Schroeder、 Deutschland und die Vereinigten Staaten 1933-1939 : Wirtschaft und Politik in der Entwicklung des Deutsch-Amerikanischen Gegensatzes、 1970、 S. 178-179、 184 - 185.
15)Gustav Schmidt、 The Politics and Economics of Appeasement : British Foreign Policy in the 1930s、 translated from the German by Jackie Bennett-Ruete、 1986、 pp. 127-129、 374-379. シュミットのいうイギリスの経済的宥和とは、次のような内容をもつものである。ドイツの勢力圏である中欧の存在の承認、イギリスの金融業者とドイツの原材料輸入業者の間の信用・支払い問題の解決、1932・1933年に採られたドイツに不利な金融経済戦略の是正、他国を犠牲にして経済的譲歩によって独裁者を宥和すること、ヒトラー体制と交渉する意思を見せることで大恐慌の打撃からの回復を図ること、ドイツを多角的なあるいは二国間の貿易システムに復帰させること、平和のための経済的必要、経済的ラパロ条約の恐れに対する予防手段。G. Schmidt、 pp. 33-37.
16)Patrick J. Hearden、 Roosevelt Confronts Hitler : America’s Entry into World War U、 1987.
17)アメリカ孤立主義の国内的構造の解明に高い功績のあるジョナスは、ハーデンの経済的解釈は大恐慌のさなかでは当たり前のことであって従来の諸研究に何ら新しい事実や解釈を付け加えていないと厳しく批判したが、ハーデンが英米間の経済的矛盾関係を重要な要因として提起したこと、およびアメリカの経済的宥和という概念を分析の軸に据えたことは、ジョナスがアメリカ孤立主義研究の大家として名を挙げたR・ダレク、R・ディバイン、H・ファイスらとハーデンとは、違った歴史評価に立っていることを示すものと考えるべきだろう。Manfred Jonas、 book review、American Historical review、 Vol.93、 No.1、 February 1988、 pp. 792 - 793.
18)Wayne S. Cole、 American Appeasement、 in Schmitz and Challener、 eds.、 Appeasement in Europe、 pp. 17 - 18.
19)David Reynolds、 The Creation of the Anglo - American Alliance 1937 - 41 : A Study in Competitive Co-operation、 1981、 pp. 1-3、 37-44、 283-291.
20)Gaines Post、 Jr.、 Dilemmas of Appeasement : British Deterrence and Defense 1934 - 1937、 1993.
21)ジョージとスモークは、合理的抑止理論の限界を指摘した1989年の論文では、3つのレベルを次のように分かりやすく整理している。第1は、2超大国の戦略兵力の間の抑止関係。第2は、地域戦争および限定戦争の抑止。第3は、非軍事的挑戦や低度の暴力を伴う限定的紛争の抑止。
Alexander L. George and Richard Smoke、 Deterrence and Foreign Policy、 World Politics、 Vol.XLI、 No. 2、 Jan. 1989、 p.172.
22)ジャービスは、1989年の論文では、期待効用モデルをもとにする「主観的期待効用=SEU」(subjective expected utilities )モデルを手がかりに合理的抑止理論の問題点を検討し、「一人一人の国民はいかに一貫した思考をしているにしても、国家や国家集団は一貫した行動をとることはないというのがわれわれの認識であるから、行動と推論された選好との一致を前提とするSEUは国家に関しては成立しがたい」と述べている。Robert Jervis、 Rational Deterrence : Theory and Evidence、 World Politics、 Vol. XLI、 No.2、 Jan、 1989、 pp. 203 - 204.
23)Barbara Rearden Farnham、 Roosevelt and the Munich Crisis : A Study of Political Decision -Making、 1997.
24)American Political Science Review誌に書評を書いたステファン・G・ウォーカーは、最終的にはファーナムの業績を「重要な学問的業績であり、とくに歴史状況を分析し歴史の検討から理論に挑戦した最初の2つの章は読みやすく、緻密に検討されている」と評価しながらも、政治的アプローチの妥当性を導いたファーナムの方法は、伝統的な諸政策決定理論についての評価が不十分であるとして次のように批判した。彼女の言うアクセプタビリティの原理は、アレックス・ミンツやネーミア・ジェヴァがすでに主張してきた決定作成の非代償的理論と違わないし、彼女の説明するところの動機的アプローチはあまりに意味が限定されすぎている。アメリカの大統領は力と業績を求めているとするデイヴィッド・ウィンターのパーソナリティ研究と結びついた動機の概念でも、FDRが決定という挑戦に喜んで対応しようとした意欲や状況に対する彼の理解力を説明できるではないか。American Political Science Review、 Vol.93、 No.2、 June 1999、 pp. 482 - 483.
25)FDRが、単なるヨーロッパの危機ではなくて、アメリカの安全の危機であるとしてヨーロッパの紛争に介入していったとするファーナムの歴史解釈にはやや疑問が残る。Farnham、 p.163. FDRの中にパクスアメリカーナ志向を見ようとする解釈もある中では、アメリカの安全の危機とはどのような意味で危機であったのかが解明されなければならないだろう。彼女は、必ずしもその点には立ち入っていない。
26)Stephen R. Rock、 Apeasement in Ineternational Politics、 2000.
27)ロックは、これまでの宥和政策研究が、あまりになぜ宥和が採用されたのかという視点にとらわれていて、なぜ宥和が失敗したのかという問題に関心を払ってこなかったことを批判している。宥和原因論だけでなく、宥和失敗論にまで踏み込むことによって、宥和研究は狭い意味での歴史研究から脱することになろう。S. R. Rock、 p.9.
28)ロックは、レブロウらの心理学者が抑止理論を批判するために、特定の確信政策と歴史上の事例の比較研究を通してreassuranceモデルの精緻化の作業を強め始めたことに期待を寄せている。Rock、 p.15.
29)ロックも、このモーゲンソーの記述を引用しているが、奇妙なことに後半部分には触れていないので、単に「宥和=悪」論としてモーゲンソーが取り上げられることになってしまった。Rock、p.11.
30)アメリカ孤立主義の特質については次を参照。安藤次男、「アメリカ孤立主義の転換と1939年中立法」、立命館法学、245号、161ページ。 
 
第2次大戦前におけるアメリカ孤立主義と宥和政策

 

はじめに
アメリカ孤立主義は、建国以来の長い伝統をもつものとされ、モンロードクトリンも孤立主義外交の一環として認知されてきた。
パクス・ブリタニカが20世紀初頭に終焉の段階に入ったにも関わらず、それに代わることが予想されたアメリカが国際システムへの関与を基本的に拒否して20世紀における孤立主義の復活を生み出したのは、上院のナイ委員会報告が指摘したように、第1次大戦への参戦とそれへの反省、つまり英仏帝国主義国に利用されたことへの不満だった。本来、国際主義的志向を持つFDRも、大恐慌対策としてのニューディールという「経済的国家主義」の路線を選択せざるを得なかったために、孤立主義にとらわれることとなった。FDRが1933年の大統領就任以降の「戦争回避と国内改革」優先路線から逸脱し始るのは、戦争阻止のために国際主義運動との連携を説いた1936年8月のチョートーカ演説からであろう。翌1937年10月の「隔離演説」を経て、1939年中立法でほぼ転換が完成することとなる。
アメリカの1930年代中立法路線の変容過程は、世界情勢とくにヨーロッパ大陸における英仏と独伊の関係の変化と密接に結びついていた。代表例が1938年ミュンヘン協定として出現した宥和政策である。イギリスの対独宥和政策については、もともとヒトラーの領土要求は無限であり、ヨーロッパの覇権を狙っていたのであって、彼が軍事力行使を決意したことが第2次大戦の直接の原因となったのだから、チェンバレンがヒトラーをなだめ彼の野心を小さくすることによってドイツを宥和するという政策をとったのは賢明な選択だったと考えて彼を高く評価する説と、ヨーロッパ諸国とくに英仏が断固としてヒトラーの侵略に直接に対決していたら第2次大戦は避けられたかもしれないとしてイギリス外交を批判する説の2つに大きく分かれるが、本稿は英米関係を検討することを主眼とするので、チェンバレン外交の評価には触れない。
本稿では、アメリカの中立政策の変容をヨーロッパの国々とくに英との関連においてどうとらえるべきかを検討することによって、1930年代におけるアメリカ孤立主義の特質を考えたい。 
1章 1937年中立法とアメリカ外交
マンフレッド・ジョナスの研究が明らかにしたように、反ニューディールの保守派、親ニューディールのリベラル派、親ドイツのファシスト派など、思想も政策路線も大きく異なる多様な階層が、アメリカをヨーロッパの戦争にまきこませないという1点で一致して制定したのが、1935年中立法であった。
1936年2月29日に成立した「1936年中立法」が1年弱の時限立法であったために、期限の切れる1937年5月1日に「1937年中立法」が制定された。ヨーロッパ情勢の急迫に対応して、孤立主義者は中立政策の強化を目指していた。焦点となったのは、禁輸対象品目の拡大とそれに対する「キャッシュ・アンド・キャリー(現金自国船主義)の原則」の適用である。中立国の立場を強化することを目指して、旧法が禁輸対象とした「武器、軍需品、戦争資材」に、「物資または資源、articles or materials」を追加することが焦点となった。「物資または資源」とは、いわゆる「戦争基礎資源」を指し、石油、銅、車輛、屑鉄が想定されていた。禁輸対象拡大がアメリカ経済に与える打撃をできるだけ小さくする方策が求められた。それが戦争基礎資源の禁輸に付けられた「キャッシュ・アンド・キャリーの原則」であり、買い手国(交戦国)は、現金で支払い、自国船でアメリカから持ちかえるという条件ならば戦争基礎資源を買いつけることができるとされた。この中立政策の強化案に対しては、いわば左右からの反対が生じた。
被侵略国への支援の可能性を探っていたFDRらの国際主義的介入主義者は、禁輸強化には反対であったが、同年に「最高裁判所詰め替え」を策して政治的に敗北し、反対する民主党議員を翌年の選挙で排除しようとしたFDR政権側の意図に対する反発が高まっていたために、FDR政権側は強力な指導力を発揮する力を欠いていた1)。とくに議会との交渉力が低下した2)。
しかも、国民の間の孤立主義感情はなお強くあった。1937年1月のギャラップ調査では、「アメリカが第1次大戦に参加したのは誤りだと思うか」との問いに、70%が「はい」と答えて、予想されるヨーロッパでの戦争の再発に対する強い警戒感を表明していた(The Gallup PollÑ1937、 p.54.)。禁輸強化反対を左からの反対とするならば、右からの反対は「中立国としての立場」を守りつつも「中立国としての権利」の行使を重視する人たちの主張で、彼らは通商は中立国の権利であり武器等以外へ禁輸対象を拡大する必要はないとして旧法の延長でよいとして中立政策の強化に反対した。上院議員のボラーやジョンソンらの「極端なナショナリスト」3)は、戦時においても公海の自由を断固として守ることが大切でありアメリカの伝統的な中立国としての権利を臆病に投げ捨てるようなことには反対だと主張した4)。上院でも賛成多数で可決されたが、実際の票決は、賛成41名、反対15名に対して棄権が39名いて、賛成票は議席の半数にも届かなかったのである。1935年中立法は、多様な階層の多様な意思を糾合して、アメリカをヨーロッパの戦争の局外におくという大きなコンセンサスを作り出したが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のもとで「アメリカの安全」をどう確保するかという課題に対する意見の相違が拡大し始めていた。
37年中立法は、36年中立法の条項を基本的に引き継いで、交戦国への武器・軍需品・戦争資材の禁輸、交戦国へのローンの禁止(短期のクレジットの供与は可)、交戦国船舶によるアメリカ国民の旅行の禁止、内戦への同法の適用(1937年1月8日の決議で追加されていた)を盛りこむとともに、新たに戦争基礎資源の禁輸を盛り込んで中立政策を強化した。
しかし、37年中立法の制定は、7月の日中戦争の勃発によってその基盤を揺るがせられた。
アメリカは日中戦争に対して中立法を発動しなかった。10月5日にFDRがシカゴで行った「隔離演説」は、ドイツの名前には触れずに、事実上の差別的禁輸の必要性を示唆したものだったが、国民の反応が悪いことを考慮して、その後しばらくFDRは隔離演説に触れないようにした。
事態が再び動き出したのは、「ウェルズ・プラン」と「ラドロウ憲法修正」をめぐる政治過程からだった。
隔離演説の翌日、国務次官のサムナー・ウェルズはワシントンに国際会議を招集して軍縮や貿易(原材料への平等なアクセス)に関して話し合う場を設定するようFDRに進言した。ウェルズは、ドイツの戦争政策が経済的アウタルキー(自給自足)への志向に基づいていると考えて、戦争防止のためにはドイツに経済的アウタルキーを放棄させることが必要だと考えた。国内の強い孤立主義感情によって政策選択の幅を狭められていたFDRにとって、ウェルズ・プランは孤立主義感情と直接対決することなく平和維持の問題を考えさせる格好の機会に映った。
しかし、12月12日に日本の航空機が中国の揚子江上のアメリカの警備艇「ペイネイ号」および3隻の石油タンカーを爆撃して、3名が死亡し、10名以上が負傷して、日本政府の陳謝にも関わらずアメリカ国内では反日感情が高まった。孤立主義者も反日感情をつのらせたが、この段階では、37年中立法の路線を堅持して、ボラーは「アメリカの船は危険地帯を航行していたのであり、そういう危険は予測できたはずなのであるから、わが国の兵士を東洋に送り込むようなことに賛成するつもりはない」と書いた5)。FDRはイギリスの駐米大使ロナルド・リンゼイに日本が日中戦争継続に必要な原材料を入手することを困難にするために「平和的ブロッケイド」を検討することを提案した。この提案はイギリス側の反応が弱く、見送られたが、英米は翌年の1月に海軍スタッフの合同会議を開くことを決めた。ポワスキーは、この会議開催の歴史的意味を重視して、「これは、一方の国が日本との戦争に巻き込まれたら他方の国が協力するというプランの最初のものとなった」と評価している(Powaski、 p.74.)。ペイネイ事件への孤立主義者の一つの反応が、「ラドロウ憲法修正」問題だった。孤立主義者は、アメリカが戦争状態に入る際の手続をより厳格にしてヨーロッパの戦争にまきこまれない保障としようとした。憲法上、宣戦布告の権限は議会にあるが、民主党下院議員のルイス・ラドロウ(インディアナ)は、1935年に、議会が宣戦布告をする際には国民投票(レフェレンダム)にかけることとする憲法修正案を議会に提出していた(ただし、アメリカが先に攻撃された場合には国民投票は不必要)6)。同案は、下院司法委員会の段階で審議が止まっていたが、中国における日本との紛争をきっかけに、大統領によって国民の意図に反して戦争にまきこまれることのないようにという機運が高まり、ラドロウは委員会を回避して直接に下院本会議の審議にかける手続(discharge petition、過半数の賛成が必要)に成功し、1938年1月10日に下院の投票に付されて、結果的には188対209で否決された。ホワイトハウスは反対の立場から議会に働きかけた。
FDRは、バンクヘッド下院議長に書簡を送り、「ラドロウ修正は適用が難しく、かつ、アメリカの代議政体とは相いれない。それは大統領の対外的な行動を困難にするし、外国は咎めなしにアメリカの権利を侵害できると信じてしまうだろう」と批判した(Powaski、 p.74.)。この賛成票188という数字は、孤立主義者の強さを示すとともに、孤立主義者に対するFDRの力が相対的に強くなってきたことをも表すものだった。孤立主義者が中立や外国の戦争への非関与を立法化する独自の計画を推進できたのは、これが最後となった7)。 
2章 ミュンヘン協定と宥和
1938年3月にオーストリアを併合したドイツは、チェコのズデーテン地方の約350万人のドイツ人に自治獲得運動を始めさせ、チェコ政府との対立が高まった。
チェコの領土保全を約束していたソ連は、同じくチェコの安全を保障していたフランスの意向に依存し、フランスは自国の軍事力に自信がなかったためにイギリスに依存するという判断を見せた。フランスがチェコに対する領土保全を約束した条約上の根拠は、1925年の相互防衛条約と1935年の仏ソ条約だった。イギリスは、チェコの安全に関与しなければならない絶対的な義務はなく、かろうじて、国際連盟の一員であること、およびフランスがいわれなき侵略を受けた場合にはフランスを援助すると約束した1925年ロカルノ条約が根拠だった8)。調整に乗り出したチェンバレン首相は、9月16日のベルヒテスガーデンでのヒトラーとの会談で、ズデーテン地方のドイツへの割譲を認め、その代わりにチェコの残りの領土の保全を約束させた。
アメリカでは、1938年に入ると、FDRが国防費の予算を20%増加させるべきだと議会に特別教書を送り、5月までに、11億ドルの海軍拡張法が確定した。戦争にまきこまれることを恐れる孤立主義者も、外国から自国を防衛するには軍備強化が必要だと考える点では、国際主義者と共通していた。7月の世論調査でも、軍拡政策に64%が賛成していた(Powaski、 p.75.)。
すでに3月には、アメリカの3隻の巡洋艦がシンガポールの英軍基地に派遣されていた。9月1日に、アメリカの大西洋艦隊が最新鋭の巡洋艦7隻を核にして設立され、2隻の艦艇がイギリスの港に派遣された。アメリカは、戦争資材購入に当てられる英仏の金がアメリカ内にどれくらい保有されているかを調査させた。
ズデーテン問題はやっかいな問題ではあったが、国際主義者のFDRにとっては、国内のニューディール改革や孤立主義によって妨げられてきた対外的関与を進めて、アメリカが平和と安全保障に関与するチャンスとなる可能性をもつものだった9)。FDRは、本来、反宥和主義であったが、国務省内を中心にアメリカ政府には宥和主義者が多数いた。駐フランス大使のビュリットは、危機の際にはアメリカは国際会議を開催したらよいと主張していたし、駐イギリス大使のケネディは、平和維持のためのチェンバレンの努力を支持すべきだと言い、国務次官補のバーリは、FDR宛てのメモで、ホワイトハウス内の反独的雰囲気を遺憾として、ヴェルサイユ条約やサンジェルマン条約で作り出された無理な体制を維持するためにアメリカがナチの国内体制が気に入らないからといって戦争に引き込まれることはあってはならないことだ、と主張した(MacDonald、 pp.95-96.)。
9月12日にヒトラーがニュルンベルクで演説して、「ズデーテンドイツ人への抑圧は終わらなければならない。チェコにいる350万のドイツ人は民族自決権を保障されなければならない」と強調すると、翌日それに呼応したズデーテン・ドイツ人が騒乱を起こしてチェコ政府に弾圧された。FDRはこれはヨーロッパにおける平和の終わりの始まりのように受け止め、ここからFDRはそれまでの反宥和の態度を変化させていくこととなった。チェンバレンがズデーテンの割譲を認めた9月16日のベルヒテス・ガーデン会談の翌日の9月17日に、FDRは、チェコがいつまでも非妥協的ならばチェコは迅速で粗暴な戦争に呑みこまれてしまうだろうと述べている(MacDonald、 p.98.)。
FDRは、英仏への航空機の供給が重要になると見とおしており、中立法改正の形態をとらずに、航空機を部品または半完成品の形で英仏に輸出することを計画していた。のちの「民主主義の兵器廠」の構想である。反枢軸の立場からアメリカの軍事力ではなく経済力を動員するというこの限定責任の構想は、参戦までアメリカの対外政策の基調となるものだった。
9月21日、英仏の最後的な態度の通告にしたがってチェコは住民投票の実施を受け入れた。
イギリスにとっての平和とイギリスにとっての経済安定を重視してズデーテンの帰属よりも英独間の協調を優先させたチェンバレンの政策選択の前提は、ドイツの要求は人種的統合でありしたがってズデーテン以外の領土要求は起こらないという予測だった。
9月29日の4カ国ミュンヘン会談で最終的にズデーテンの割譲が合意される前の1週間が、アメリカ外交にとっても重大な選択の岐路であった。ケネディ、ビュリットらの宥和派は、チェンバレン支持を公言していた。ヒトラーの意図は無制限だと考えたハル国務長官に対して、ウェルズ国務次官は、ヒトラーの拡大意図は限定的であり、したがってアメリカが調停してヴェルサイユ条約を改定することによって対外行動を制約することが可能であると考えて、ビュリットの提案した「ハーグ国際会議の開催」案を支持した。FDRは9月27日、この力に拠らない交渉による平和の路線をとりいれてハーグ国際会議開催を要求したが、アメリカの参加の有無を含めてあいまいな提案であり、提案は29日のミュンヘン協定成立とともに消え去った。アメリカはズデーテン問題の最後の段階で宥和主義的な立場から介入したが、10月になってヒトラーがミュンヘンをもって最終的な決着とは考えていないことが明らかになると、FDRはヒトラーの目的には限界がなく、したがってドイツを抑えるには力による脅ししかないという立場に復帰することとなった。ヒトラーは、翌1939年3月、ミュンヘン協定に違反してチェコ全土を併合してしまった。
このような過程からは、1938年がアメリカ外交にとって重要な転換をもたらした年であると言える。ヨーロッパ大陸におけるドイツ・イタリアによる侵略の拡大は、アメリカが中立法制定の基礎にした「イギリスはドイツに勝利するだろう」という前提に対する不安を生み出した。
ズデーテン問題でのイギリスの対独宥和政策の採用がそれを裏書した。アメリカは結果としてイギリスの対独宥和政策に追随することとなり、中立法に裏づけられた孤立主義が状況によっては宥和の側面を持つことが明らかになったが、以上の1938年の経過からは、アメリカの対ミュンヘン外交を生み出した2つの要因が見てとれる。第1の要因は、アメリカ国民に共通しFDRにも存在した「対英不信」である。FDRは、「チェンバレンは、ともかくも平和が保たれかつ自分の体面が保たれるなら、どんな犠牲を払ってでも平和を追求するというイギリスのいつものゲームを楽しんでいるに過ぎない。彼は戦争をするかしないかの責任をアメリカに負わせようとする輩だ」と言って、強い不信感を示していた(Jane Karoline Vieth、 p.64.)。第2の要因は、「経済的摩擦」である。1938年における英米間交渉の重要な課題の一つが、通商協定改訂問題だった。1932年に成立したオタワ体制に対してアメリカがつきつけた「門戸開放」要求に、イギリスの製造業者は反対しイギリス市場内での特恵的扱いを守ろうとした10)。11月に結ばれた新協定は、イギリスの抵抗でアメリカの要求はあまり盛り込まれなかった。アメリカの門戸開放要求は、建て前は「世界経済の回復のため」であり、その手段は「相互的関税引き下げ」であるが、主たる対象が「イギリス帝国の開放」であることは明白だった。オタワ体制が確立された1932年からの1年間だけで、アメリカのイギリス向け輸出は105億ドルも減少しており、アメリカはイギリスの特恵制度はアメリカへの経済侵略行為だとみなしていた。このようなアメリカの経済的な対英不満は、イギリス外交に対する不信感と結びついていた。アメリカは、イギリスが同じようにブロック経済化を進めているドイツと取引をして、アメリカに対して世界の大市場を閉ざすのではないかと恐れていたのである(Powaski、 p.76.)。アメリカの意図を察したチェンバレンは、書簡で、「アメリカ人にわれわれのために戦って欲しいとは思わない。もしそうなったら、平時になってそれに対して高いツケを払わねばならなくなるからだ」と述べた11)。ツケとは帝国の開放である。ズデーテン問題に関して9月28日にリンゼイ駐米イギリス大使を国務省に呼んだハル国務長官は、「もし戦争が起こっても、アメリカはその状況を利用して世界市場におけるイギリスの貿易に取って代わるつもりはない」と伝えているが(MacDonald、 p.104.)、これはイギリスとの間の矛盾がその点にあったことを示す発言だった。
ミュンヘンの宥和の背後には、このような経済的な英米間対立が存在していたのであり、アメリカの支援に対する「ツケ」の支払いを拒否するチェンバレンには、アメリカの支援なしの対独政策という選択つまり対独宥和しか残されていなかったと言える。一方、FDRに関して言えば、ミュンヘンは「新たな外交の出発の始まり」を画すものであり、ミュンヘンを経験したFDRはアメリカ外交の諸仮定を再検討してヨーロッパの民主主義諸国がナチズムと戦うことを支援する「戦争なしの諸方法」の政策を発展させていくことになる12)。 
3章 1939年中立法の成立
ミュンヘン協定が危うい平和であることは明白であり、FDRは1939年の年頭教書で5月1日に2年間の期限が切れる中立法に関して、次ぎのように改定を要請した。「戦争を防ぐにはいろいろな方法があるが、わが国の国民の総意を侵略国の諸政府に分からせるためには単なる言葉ではないもっと強力で効果的な方法がある。われわれが慎重に考えて中立法を制定したときには、中立法が公平に機能しない―侵略者を助けその犠牲者に援助を差し伸べない―かもしれないということを知っていた。われわれは自己保存の本能にしたがって今後そのようなことを許してはならない」13)。1935年中立法制定の際に、すでに侵略国と被侵略国を法制上区別して扱うべきか否かが争われ、最終的には両者を区別せずに一律に武器禁輸を適用する「無差別的禁輸」(mandatory embargo)が盛り込まれた。
1939年には、ドイツがミュンヘン協定に違反してチェコ全土を併合し、独伊はヨーロッパ各地へ勢力範囲を広げ、8月の独ソ不可侵条約を経て9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻で第2次大戦が始まったのであるが、アメリカ政府内では中立法の扱いをめぐって紛糾し、1939年中立法が成立したのはすでに大戦が勃発したあとの11月4日だった。
FDR政権と議会を核とする政策論争の主眼は、「交戦国への武器禁輸の継続か解除か」にあった。この論争は3つに分類できる。第1は、「中立法廃止」論である。FDRは、現行法は誤って中立法と呼ばれてきたが、それは常にわれわれを攻撃側の国におしやるものだと考えており14)、できることなら中立法を完全に廃止したいと考えていた(Cole、 p.310.)。イタリアのエチオピア侵略に対しては1935年中立法が適用されたが、制海権を握るイタリアは石油や銅などの戦略資源を容易に獲得して、中立法は侵略国イタリアに有利に作用した。1937年中立法の第1条は「二外国間またはそれ以上の外国間に戦争状態があると大統領が認めるいかなる場合も、大統領はこの事実を宣言すべきである」と規定して、戦争状態宣言に関する大統領の裁量権を否定していたが、1939年9月1日に第2次大戦が勃発した際には、戦争状態の宣言およびそれに伴う禁輸対象国と禁輸指定品目の指定に関する「中立宣言」の発布は9月5日まで遅らされた。ハロルド・イッキーズ内務長官は、次ぎのようにFDRが英仏の利益になるよう意図的に宣言を遅らせたと証言している。「大統領は、中立法の求める宣言を急いでしようとはしなかった。彼は、宣言が出されると英仏がアメリカから輸入できなくなる軍需品を輸入できるチャンスを与えたいと思ったのだ」15)。FDR側は、少なくとも侵略国に対してのみ武器禁輸を適用できるような大統領の裁量権を期待した。「差別的禁輸制度」である。しかし、議会対策で依拠しなければならない上院外交委員長のピットマンは、議会内反対派の存在を念頭において、「武器禁輸解除とキャッシュアンドキャリーの原則の適用」が最善の改正案だと主張して完全廃止に難色を示していたし、世論調査に現れた国民感情も、なお孤立主義が強く残っていて中立法廃止を提起できる情勢にはないと判断された。ギャラップ調査によると、調査時期は多少異なっても結果にはほとんど差異がない。「中立法を改正して、交戦国である英仏に戦争資材を売却できるようにすべきと思うか」との問に対する「賛成」は、57%(4月)、50%(8月)、57%(9月)、56%(10月)に留まり、常に40%を超える「反対」が記録されていたのである16)。
第2は、「禁輸解除、キャッシュアンドキャリーの原則の適用」論であり、政府の基本的立場となった。FDRは禁輸解除だけの改正を期待したが、議会側が禁輸解除にはキャッシュアンドキャリーの原則と交戦国への信用供与禁止とでバランスをとる必要があると主張したため、妥協せざるをえなかった。根拠は人によって異なるが、政府の説明には一般に2つの根拠が含まれていた。第1の根拠は、アメリカの「通商的利益の擁護=国内経済への打撃の軽減」である。戦争基礎資源の輸出に「キャッシュアンドキャリーの原則」を適用した1937年中立法審議の際に、ボラーやジョンソンなどの「極端なナショナリスト」と呼ばれる一部の孤立主義者は、「中立国の権利擁護=通商の自由」の観点から中立政策の強化に反対したが、政府は1939年には1937年の彼らと同じ論理を持ちこんで禁輸解除の正当化理由とした。「中立国の権利の擁護」は、国際法に基づいているために、政府は「国際法適合性」を強調することとなった。その論理は、ハル国務長官が議会との摩擦によって法案審議が遅滞している状況を打破するために作成してFDRによって7月14日に議会に送付された次ぎのようなメモによく表現されている。
「政府の政策は他国の戦争に巻き込まれないようにすることにある。わが国は常に紛糾同盟や他国への関与を避けなければならない。外国で戦争が生じた場合には、厳格な中立の地位を守り、戦争に引き込まれないような政策をとらなければならない。武器、軍需品、戦争資材の貿易は現在禁止されているが、軍需品を作るに必要な物資と同様に重要な資材は輸出されているではないか。戦時には、われわれは爆弾は輸出できないが、その製造に必要な綿は輸出できる。
大砲や弾は輸出できないが、それに必要な鉄鋼や銅は輸出できる。航空機は輸出できないが、その飛行に必要な燃料は交戦国に輸出できる。有効な封鎖が行われたときあるいは交戦国がそのような商品を禁制品と指定したときを除いては、武器の継続的な貿易は戦時において中立国に認められた伝統的な権利なのであるから、(武器禁輸がアメリカを戦争の圏外におく最良の方法だという)反対論は妄想にすぎない」(Public Papers of Franklin D. Roosevelt 1939、 pp.382-385.)。第2の根拠は「英仏への武器の供給」であり、これがFDR政権の主たる狙いだった。
キャッシュアンドキャリーの原則の中の「キャリー=自国船主義」には、2つの意味があった。
1つの意味は、ヨーロッパの戦争にまきこまれないようにするために、アメリカ船に交戦国への武器を運搬させないという意味であり、もう1つの意味は、武器を購入した交戦国が自国の船で自国へ持ちかえる制度なので制海権を保持する交戦国に有利になるということである。
FDR政権は、現実のヨーロッパの海上においては英仏がドイツに対して優位にあると見ていた。
したがって、武器禁輸解除とキャッシュアンドキャリーの原則の適用は、英仏に有利、ドイツに不利になると見こまれたところから、中立法改正は単なる「交戦国への武器輸出の再開」ではなくて「英仏への武器供給=民主主義国への支援」の意味を持つことは明確だった。先のハルメモも、国際法適合性を強調したあとで、「事実として、最近わが国が輸出した武器軍需品の大部分は平和志向の諸政府に向けられてきた」と述べて、武器禁輸解除が民主主義国支援の意味を持つことを政府関係者としてあいまいな表現ながら初めて公式に確認した。私信としては、下院が6月30日に、戦争資材の禁輸は解除するが武器・軍需品の禁輸は継続するとの修正案を可決してしまった(のちに政府側のまき返しで別の案に交代したが)ときにFDRがコナリー上院議員あての書簡で「下院の票決でヒトラーに決定的な動機が与えられてしまった。ヒトラーとムッソリーニがさらなる領土拡大を求めるが故にヨーロッパで戦争が生じたら、責任の大半は昨夜の議会の行動にあるのだ」と述べた中に明確に意図が表明されていた(Cole、 p. 315.)17)。
英仏がアメリカの武器なしにドイツに対抗することは困難と見られており、ケネディ駐英大使の意見として5月10日にハル国務長官に送られた次ぎの電報は、禁輸解除に向けたFDR政権の基本的立場の強化に影響を与えたと思われる。「イギリス政府の知るところでは、リッベントロップ・ドイツ外相は、英仏がアメリカから軍事物資を入手できないだろうから、ドイツが英仏に戦争をしかけても報復はないだろうということをヒトラーに分からせようとしてきた。リッベントロップは、最近の中立法を巡る論争は、戦争になった場合でもアメリカは英仏に軍事物資や航空機を売らないだろうという証明だと見ている」18)。政府は、中立法改正のための運動団体として「中立法改正による平和のための非党派委員会」を設立し、10月、その指導者で共和党系ジャーナリストのウィリアム・アレン・ホワイトは独裁国に反対し民主主義を守ろうと呼びかけた19)。
第3は、「武器禁輸継続」論である。禁輸継続論者には、交戦国一般への武器輸出そのものがアメリカの中立国としての立場を危うくするという1935年中立法以来の危惧をもつ者と、それが英仏への武器供給につながり交戦国の一方を支援する結果になることに反対する者とがいた。FDR路線が英仏への軍事支援(武器の供給)を目的としていること、およびそれがアメリカの利益に反するという点は、すべての論者の共通認識だったが、その軍事支援がアメリカにとって持つ意味に関しては3つの類型に分かれた。第1の類型は、ジェラルド・P・ナイ上院議員に見られる論理で、英仏への軍事的支援は英仏の利益になるだけだと考える。「武器輸出解除によってわが国をヨーロッパの戦争の一方の陣営の兵器庫にすれば、他方の陣営の攻撃の的にされる。有力な政治家が、アメリカを戦争の局外に置きたいなら禁輸解除が不可欠だと主張しているが、英仏がそのような理由でわれわれに禁輸を解除して欲しいと願っていると考える者がいるだろうか。現在のヨーロッパの紛争に民主主義の理想が少しでも含まれていると考えるようなばかげたことはやめよう。そこに含まれている最大の課題は、現在の帝国主義と帝国の維持、そしてそれを危うくするような新たな帝国主義と帝国の建設を阻止することでしかない」20)。ここには、交戦国の一方に加担することによる危険性よりも、一次大戦への不満を背景に英仏を支援した場合の見かえりに対する不信が強く現れている。第2の類型は、ハイラム・W・ジョンソン上院議員に見られる論理で、英仏への軍事支援が英仏の利益となること、および禁輸廃止がアメリカの戦争回避につながるとは限らないことに問題を捉える。「大統領は、禁輸解除によってアメリカの軍需産業を英仏のために働かせようとしている。アメリカ人は、20年前に世界の民主主義を守るために理想主義にかられて戦って勝ったが、世界の民主主義は危うくなり、アメリカから数十億ドルの戦費を借りた国々はわれわれを笑い飛ばし、債務の返済を拒否した。戦費はいまやアメリカの納税者の負担に転嫁されている。われわれは再び幻滅を味わうべきなのか。オーストリア、ミュンヘン、ポーランド問題などは、英仏とドイツが行っているパワーポリティクスの一部だった。アメリカはそれらに関与しなかったし、何の関係もない。われわれは悪事に関与した犯人の一人であるイギリスから参戦するよう求められているのだ」。ジョンソンは、その上で、「禁輸を解除したからといって、アメリカが戦争の局外におかれるかどうかは五分五分だ。問題は、すべての交戦国への武器、軍需品、戦争資材の完全な禁輸か、それとも英仏へのそれらの無制限な売却か、である」と主張した(Appendix to the Congressional Record 1939、 pp.561-563.)。第3の類型は、ウィリアム・E・ボラー上院議員に見られる論理である。「禁輸解除提案は、武器供給によって一方の側に肩入れする計画に基づいて行われた。これはヨーロッパの現在の紛争に干渉するものであることは明らかだ。キャッシュアンドキャリーの計画は、禁輸法を廃止し、わが国の政府が武器・軍需品を一方には直接送り、他方には送らないことが可能になるのだ」(Appendix to the Congressional Record 1939、pp.79-80.)。
11月4日の大統領の署名で発効した1939年中立法は、武器・軍需品・戦争資材の禁輸解除とキャッシュアンドキャリーの原則の適用、アメリカの商船が危険地帯に立ち入ることの制限、アメリカ市民が交戦国の船舶で旅行することの制限、交戦国への信用供与の制限を盛り込んでいた。 
おわりに
孤立主義と呼ばれた1935年中立法以来のアメリカ外交は、「アメリカ単独主義=unilateralism」と「不介入主義=noninterventionism」21)を柱とし、それらは「戦争回避」の論理で結合していたが、とくに「戦争回避のための単独主義」という性格を強く持っていた。
しかし、1930年代のヨーロッパ情勢の緊迫化は、中立法という「アメリカ単独主義」によって「戦争回避」を担保できるのかという問題をアメリカ国民につきつけた。「ドイツが英仏に勝利しても、ヒトラーによる軍事侵略や経済支配が成功すると恐れる必要はない」(Cole、p.327.)と言っていたタフト上院議員も、イギリスの勝利が重要であり、アメリカの武器の供給がなければイギリスの勝利は難しいと考えて1939年中立法に賛成した。
戦争回避の見とおしが難しくなった一つの原因は、イギリスの対独宥和政策にある。イギリスがドイツの対外膨張の防波堤となることがアメリカ孤立主義を保障する重要な前提条件だった。しかし、ズデーテン問題のプロセスは、その可能性に対する疑問を生んだ。ミュンヘンから1939年中立法に至るアメリカ国内の論争が、第1次大戦以来のアメリカの「対英不信」を基礎としていたことは間違いないが、本稿の分析に照らすと、単なる対英不信といえないような1930年代に特有の事情があることが分かる。
イギリスがチェンバレン派の主導権のもとで対ドイツ政策を進めた際には、ヴェルサイユ体制、ロカルノ体制、オタワ体制(スターリング・ブロック)などを中核として「現状維持」を確保することが最大の政策目標だった。それに対してドイツは、ヴェルサイユ体制打破、ロカルノ体制打破など「現状変革」を目指したのであり、両国が本来的に対立する関係にあったことは言うまでもない。しかし、他方で、両国がきわめて類似した対外政策の理念・構想を持っていた面を看過してはならない。両国は、政治的軍事的領土保全と勢力均衡を最大の政策課題として対外行動を策定したという点で共通点を持つ。しかも、自給自足的なブロック経済を前提に世界経済システムに関与しようとした点でも、両国は共通する。つまり、軍事的均衡と領土保全を最大の課題としアウタルキーを基盤としていた点で、両国は政策的にきわめて近い関係にあった。ポワスキーは、1937年末にチェンバレンがウェルズ・プランに消極的だった主要な理由は、すでにイタリアのエチオピア占領に法的承認を与える予定にしており、また、ドイツに対してはヨーロッパ以外の地域ならば植民地を取得してもよいとしようとしていた彼にとって、同プランはイギリスの対ヨーロッパ政策にアメリカが介入するための場となるのではないかと恐れたからだと指摘している(Powaski、 p.76.)。
それに対して、アメリカ孤立主義は19世紀末以来、「門戸開放政策」と緊密に結びついて展開されてきた。遅れて帝国主義化したアメリカにとって、門戸開放は当然の要求である。したがって、第1次大戦への参加についても、その見返りとしての「英仏帝国の開放」が実現しなかったことが不満の主たる原因となった。しかも、アメリカの門戸開放政策は、単にアメリカの商品と資本に対して市場を開かせるという意味を持つものではなかった。FDRは、「米英通商協定がうまく改定されたら、世界に経済的自由主義を広め、ヒトラーがドイツで確立した経済アウタルキー制度を掘り崩すことによって、彼の侵略の意図をも阻むことになると考えた」(Powaski、 p.76.)。シュミッツは、アメリカとイギリスの宥和政策の違いを次ぎのように区別する。イギリスの宥和は、ヴェルサイユ体制のあれこれの断片的な再調整であって、とくに政治的・領土的合意を重視した。それに対して、アメリカの宥和は、独伊に対処するにはまず経済的調整を通してヨーロッパの諸問題の一般的解決を導くことが大切だと考えた22)。
ヨーロッパにおける領土と勢力均衡をめぐる交渉を主眼とするイギリス外交の基本理念は、イギリス帝国のもとでの植民地の保持と経済利益の確保を当然の前提としていた。したがって、経済的門戸開放を重点にしたアメリカとの間で、ヨーロッパ問題とりわけドイツ問題に関して共通の利益を見出して協力関係を構築することは困難になったのである。
経済的開放による世界経済の自由化が、政治的自由化をもたらすとする論理は、ドイツとはもちろん、イギリスとも相いれない構想だった。アメリカのこのような意図と構想に対するイギリスの言わば「対米不信」が、アメリカの「対英不信」とあいまって英米間の協調を困難にし、それらがイギリスの対独宥和政策と、アメリカ孤立主義の宥和的性格の基盤の一つを形成していったと言えるだろう。また、1939年に明確な勢力として登場するアメリカの「国際主義的介入主義者」は、「イギリスの対独勝利がアメリカの安全の前提」と考えて英仏への武器供給体制を確立したが、そこにも世界的な規模での門戸開放によるアメリカの世界的なリーダーシップを目指す意思が働いていたと言える23)。孤立主義者のロバート・M・ラフォレットは、1939年中立法反対の主張の中で、「文明に奉仕するには戦争の局外に立つことが必要である。
戦争が終われば、アメリカは世界の救済者そして指導者の地位を手に入れることになるだろう」と言って、参戦しないことによってアメリカは戦後の主導権を握れると言ったが、それよりも、「FDRは、紛争に十分参加して初めて平和について平等な発言権を確保できるだろうと信じていた」24)とするドウネッケの説明に、より現実性があるのである。 

1)ギャラップ調査、「民主党員に聞きます。政府は最高裁改組に反対の民主党議員の再選を阻止しようとしているが、どう思うか」」(1937.9.)。賛成はわずか27%で、反対が73%だった。「FDRが提案している最高裁改組に賛成するか」(1937.2.)。賛成47%、反対53%と世論は大きく分かれた。この数字は2月から5月までほとんど変わらなかったが、8月調査では賛成が32%に減少した。The Gallup Poll : Public OpinionÑ1937、 p.54、 69、 70.
2)Selig Adler、 The Isolationist Impulse : Its Twentieth Century Reaction、 1957、 p.241.
3)この「極端なナショナリスト」は、中立国としての通商の自由を重視する孤立主義者という意味で、ジョナスのいう「頑固な孤立主義者=belligerent isolationist」と同一であり、できるだけ交戦国との通商を小さくすることで中立国らしさを最大限に確保することを目指した者はジョナスの表現では「臆病な孤立主義者=timid isolationist」となる。つまり、頑固な孤立主義者は、「アメリカの権利を断固として擁護し、国際法に依拠し、19世紀の一方的外交政策を厳格に守る」。臆病な孤立主義者は、「戦時における外国との直接のコンタクトを最小にして紛争に巻き込まれることを避けるためには、伝統的な権利を放棄してもかまわない」。Manfred Jonas、 Isolation in America、 1966、 p.35.
4)Ronald E. Powaski、 Toward an Entangling Alliance : American Isolationism、 Internationalism、 and Europe 1901-1950、 1991、 p.71.
5)Wayne S. Cole、 Roosevelt and the Isolationists 1932-1945、 1983、 p.252.
6)Ibid、 p.254. 国民の直接投票による宣戦という案は、すでに19世紀末にはポピュリストのウィリアム・J・ブライアンが主張し、1917年には革新派共和党議員のチャールズ・A・リンドバーグは対独宣戦には諮問的な国民投票を行うとする議会決議を要求していた。
7)ポワスキーは、大統領の影響力で否決になったことを明記しつつ、イギリスのリンゼイ大使が「188票はアメリカで孤立主義者の要素がきわめて強いことを示すものだ」と述べた事実を重視している。Powaski、 op. cit.、 p. 74.
8)Jane Karoline Vieth、 Munich and American Appeasement、 p.55、 in David F. Schmitz and Richard D.Challener、 eds.、 Appeasement in Europe : A Reassessment of U. S. Policies、 1990.
9)コールは、「FDRもハル国務長官も、宥和が永続的な平和を生み出しヨーロッパと世界の安全を保障するなどとは全く信じていなかった」と述べて、FDRが当初は孤立主義の制約を超えて何らかの調停的役割を果たそうとした事実(ハーグ国際会議の呼びかけなど)を重視している。W. S.Cole、 op.、 cit.、 p.284.
10)Donald B. Schewe、 ed.、 Franklin D. Roosevelt and Foreign Affairs、 Vol.10、 May 1938 to July 1938、pp.351-352.
11)Nicholas John Cull、 Selling the War Ñ The British Propaganda Campaign against American Neutrality in the World War II、 1995、 pp.36-37.
12)Jane Karoline Vieth、 Munich and American Appeasement、 p.70、 in David F. Scmitz and Richard D.Challener、 eds.、 op.cit.
13)Public Papers and Addresses of Franklin D. Roosevelt 1939、 pp.3-4.
14)William L. Langer and S. Everett Gleason、 The Challenge to Isolation 1937-1940、 p.141.
15)Harold L. Ickes、 The Secret Diary of Harold L. Ickes、 Vol. I、 1954、 p.715.
16)Gallup Poll 1939、 p.149、 178、 180、 181、 188.
17)ハル国務長官も、回顧録で、「議会の票決がヒトラーの計画に影響を与えるだろうと思った」と記している。Cordell Hull、 The Memoirs of Cordell Hull、 Vol. I、 1948、 p.646.
18)Foreign Relations of the United States 1939、 Vol. 1、 p.185.
19)Robert A. Divine、 Illusion of Neutrality、 1962、 p.305.
20)Appendix to the Congressional Record 1939、 pp.244-245.
21)Wayne S. Cole、 An Interpretative History of American Foreign Relations、 1968、 p.393.
22)David F. Schmitz and Richard D. Challener、 eds、 Appeasement in Europe : A Reassessment of U. S.Policies、 x iv.
23)最近公刊されたロックの宥和研究では、ミュンヘンについてイギリスにのみ焦点を当てていてアメリカなど他のアクターをほとんど検討せず、宥和政策を外交テクニークのようなものと見ており、複雑な国際関係の中で宥和政策が持った意味を論じていない点で、不満が残る。イギリスの対独宥和に関しては、次の結論に留まっている。「イギリス外交の悲劇は、宥和を試みて失敗した、ということではない。なぜなら、少なくとも始めには成功すると思われる根拠があったからだ。イギリス外交の悲劇とは、イギリス政府が他に適切な選択肢がないからという理由で、宥和が機能しないことがはっきりした後にも宥和を追及しつづけたことにあった」。Stephen R. Rock、 Appeasement in International Politics、 2000、 p.76.
24)Justus P. Doenecke、 In danger Undaunted、 1990、 p.3.  
 
グロ−バル経済と新興市場 / 金融と資源が絡む危機の分析

 

はじめに
1997年7月、タイ通貨危機に始まったアジア通貨金融危機は、アジア経済の数十年にわたる成長の成果を一瞬にして吹き飛ばしただけでなく、ロシアや中南米諸国への危機の伝播を通じて世界経済に衝撃を与えた。この危機は、直接的には当該アジア諸国政府の政策の失敗や対応の遅れから発生したものであったが、アジア経済のもつ構造上の諸問題や国際金融システムの欠陥、IMFの対応の誤り等を一斉にクローズアップさせた。幸い危機は2年弱という比較的短い間に終息し、現在、アジア経済は急速に回復しつつある。
しかし、アジア、ロシア、中南米へと伝播し、米国の膝元を直接脅かすまでに拡大したこの危機の深層には、「金融」と「資源」が複雑に絡み、相乗し合う新しい関係が生れており、これがグロ−バル経済を極めて不安定なものにしている。それは、アジア地域からロシア、中南米へと伝播していった経緯が示すごとく、この危機が「金融」と「資源」によって先導されていること、また、米国内の株・債券投資で肥大化した過剰マネ−が世界経済の「弱い環」を狙い撃ちする形で新興市場や原油先物市場に投機の矛先を向けてきていること等によく示されている。
本稿は、こうした「金融」と「資源」が絡む危機の分析を通じて、グロ−バリゼ−ションやIT(情報技術)革命、さらに、地球環境問題に揺れる現代資本主義と世界経済の諸課題を検討することを目的としている。 
1.アジア経済の危機と再生
タイ通貨危機が同時通貨安を引き起こし、同時株安を生み、さらに新たな通貨安につながるという「下落の連鎖」を引き起こし、これが大規模な金融危機に発展したことはまだ人々の記憶に新しい。この危機はアジア諸国固有の諸問題に世界経済の構造上の変化が重なって生まれた新しい形の危機、先進国経済と世界の金融市場が深く係わった危機であった1)。
幸い、国際諸機関や関係各国の政策的努力もあり、発生以来2年弱という比較的短期日のうちに危機は底を打ち、アジア経済は、現在、急速な回復軌道に乗りつつある。すでに、99年4〜6月の段階で、韓国、タイ、インドネシアを中心に景気の回復が見られ、その勢いは2000年に入りさらに加速している。表1はアジア開発銀行(ADB)が同年9月に発表した東アジア6ヵ国の実質国内総生産(GDP)の推移を示した表である。これでも明らかなように、最も厳しい通貨金融危機に見舞われた韓国やインドネシア、タイ等で著しい経済回復が見られているし、マレ−シアその他でも経済が再び活性化している。また、6ヶ国全てで実質国内総生産(GDP)成長率がプラスに転じ、2000年の経済成長見通しが上方修正された。鉱工業生産も大幅に増加し、物価上昇率は中国や香港などで低下、雇用情勢は韓国を中心に改善されてきている。
貿易も本格的な回復とはいえないが、輸出が徐々に拡大し、輸入も増加に転じている。注目されるのは通貨の動きで、アジア各国の通貨は経常収支の改善や貿易拡大等による外貨準備の増大を背景に落ち着きを取り戻してきている。インドネシア、タイ、フィリピン等の通貨が多少減価ぎみの動きを示しているのが懸念材料ではあるが、総じて通貨情勢は落ち着いてきている。通貨金融危機が恰もウソであったかのような回復を示している国もある。
景気の回復が最も著しかったのは韓国である。同国の実質国内総生産(GDP)は99年1〜3月期に前年同期比4.6%増と5四半期ぶりにプラス成長に転じ、同年4〜6月期には同9.8%増と驚異的な伸びを記録した。鉱工業生産も4〜6月期前年同期比22.7%増を記録した後、7月同33.2%増、8月同29.9%増と6ヵ月連続で2ケタ台の伸びである。鉱工業生産指数(季節調整値)はすでに通貨金融危機前の水準を大きく上回っており、製造業稼動率は4〜6月期76.8%、7月80.8%、8月78.7%という高水準を記録した。失業率はなお危機前の状態を取り戻してはいないが、消費者物価の安定化、生産者物価の下落等とともに次第に改善されつつある2)。
台湾、シンガポ−ルなど他の新工業経済(NIEs)諸国も経済情勢の改善が見られており、台湾では地震による被害はあるものの、景気拡大のテンポは確実に高まっている。台湾の実質国内総生産(GDP)は99年4〜6月期前年同期比6.5%増であったから、韓国に次ぐ水準といってよい。個人消費、鉱工業生産、失業率、物価等でも改善が見られ、台湾経済の先行きを楽観視する評価もでている。とくに、注目されるのが国際収支の改善で、エレクトロニクス製品の輸出の好調から輸出が2ケタ台の増加を見せ、同年4〜6月期の貿易収支は約36億ドルと黒字幅を拡大した。シンガポ−ルも実質GDPが99年4〜6月期前年同期比6.7%という回復ぶりを示した。製造業生産もエレクトロニクスや化学を中心に伸びている。ただ、貿易は99年4〜6月期に10.2億ドルの黒字を出しながら、同年7月、8月は赤字であった。
経済情勢の好転に伴う景気の回復はASEAN(東南アジア諸国連合)諸国でも顕著であった。政治混乱の続くインドネシアでは実質国内総生産(GDP)が99年4〜6月期にプラスに転じ、とくに、製造業の生産が同時期に10.2%増という高水準を示した。2四半期連続のプラス成長である。貿易収支も同時期55.0億ドル、同7月20.0億ドル、8月25.8億ドルという大幅な黒字が続いた。問題の金融動向は、対ドル為替レ−トは99年以来増価傾向にあったが、東チモ−ルをめぐる騒乱や国内政治混乱等で若干の減価傾向が続いている。
タイも実質GDPが99年4〜6月期3.5%の伸び率を示し、製造業生産は2ケタ台の成長を記録した。経常収支も25〜35億ドル(対GDP比9%〜11%)と大幅な黒字となったが、ここ数か月は黒字幅が縮小している。金融動向では、通貨バ−ツの対ドル・レ−トは減価傾向となっており、タイ中央銀行は99年7月に公定歩合を5.5%から4.0%に引き下げた。マレ−シアも景気は確実に回復している。実質国内総生産(GDP)、鉱工業生産、貿易収支など全ての面にわたって顕著な改善がみられた3)。
大蔵省の貿易統計によれば、アジア経済の回復は日本の貿易相手国・地域としてのアジアの比重を著しく高める結果を生んでおり、経済危機後の新しい動向として注目される。例えば、99年の日本の輸入額のうち、アジアの占める割合は約40%と過去最高を記録した。輸出も、近い将来アジアの占める割合が40%となると信じられている。輸入の増加は円高で日本企業によるアジア地域からの原料や部品、完成品の輸入が増えたことによる。日本が韓国やシンガポ−ルとの間で自由貿易協定の締結を模索する動きも始まっており、日本とアジア諸国との貿易面での相互依存関係がいちだんと深まる可能性も高まった4)。
しかし、アジア経済のこうした回復は、公共事業などによる政府の景気対策や通貨安をテコにした輸出主導の政策展開の結果であり、金融システムや経済構造の改革の結果生まれてきたものではない。したがって、これが直ちに持続的発展に結びつくとは考えにくい。どの国でも、雇用機会の確保や失業問題解決への努力はまだ緒についたばかりであり、企業の設備投資も韓国を別にすれば、まだ本格的な動きとはなっていない。インドネシアやタイでは金融機関の不良債権問題が解決し切れておらず、金融制度改革もまだ十分な成果をあげていない。新しく域内経済大国として躍り出た中国の景気拡大は公共投資など財政のテコ入れによるもので、これが今後どうなるのかは全く不透明である。インドネシアでは経済改革も十分でなく、アチェ特別州等での紛争など政治不安が拡大しており、これが同国経済に大きな影を落としている。 
2.「石油」が先導するロシア・中南米危機
アジア経済の危機と再生に関連して特に重視されるのは、このアジア発の通貨金融危機が混乱の続くロシア経済を直撃し、大規模な金融危機を誘発しながら、ベネズエラ、ブラジル、メキシコへと中南米各国に拡大、さらに、米国や欧州の株式市場にまで動揺を引き起こしたことである。つまり、通貨金融危機はアジア諸国を席巻した後次第に規模と速度を増しロシアから中南米へと伝播し、次第に世界的な経済危機に発展する様相を呈したということである。バブル経済の下で膨れあがったマネ−が新興経済諸国を次々と襲い、その余波は米国経済にまで達していたといえる。アジア経済の回復が伝えられている通りだとすれば、こうした事態との関連はどうなっているか詳細に検討する必要がある。
アジア通貨金融危機の余波を受け、98年に深刻な危機に陥ったロシア経済についていえば、その後危機は克服され、さらに、石油生産が上向き出したことから輸出が拡大され、経常収支も大幅に改善されてきている。通貨ル−ブルは98年夏の経済危機を境に急落し、99年3月時点で1ドル=24ル−ブルと危機前の四分の一の水準まで下落したが、これが逆に石油や木材などの輸出競争力を高めた。たとえば、北洋材丸太の対日出荷量は2年ぶりの高水準を記録し、外貨獲得に大きく貢献した。ロシアは金価格の下落と資本の海外逃避で外貨準備が減少したため総額1500億ドルに上る対外債務を抱え込み、輸出による外貨獲得が急務となっていた。したがって、近年の経常収支の改善等は大いに歓迎されることである。
ロシアに続き、中南米経済も予想を上回るテンポで回復している。典型的なのはブラジル経済である。株価についていえば、サンパウロ証券取引所のボベスパ指数が98年1月15日に3797ポイントと最安値を更新したが、同年末には17091ポイントまで回復、2000年にはこれが30%(前年比)の上昇となろうと予測されている。こうした株価回復の背景には、鉱工業生産の回復など経済の予想以上の回復がある。為替相場も99年に一時1ドル=2レアルまで下落したが、2000年1月には1ドル=1.8レアルと落ち着いた。通貨切り下げで懸念されたインフレの再燃も抑えられ、金利も景気回復への配慮から引き下げられた。
ブラジルの株価上昇の牽引役を引き受けたのは、電気・通信、エネルギ−、繊維といった諸産業である。この国にはもともと工業集積があり、1億6000万人口のもつ潜在的市場性は相当なものである。したがって、マクロ経済が安定したことで投資先としての魅力を回復し、その結果、意外に早く内外の資金が戻ってきたものと思われる。アルゼンチン経済もブラジルほどではないが、同国の代表的な株価指数であるメルバル指数に回復の兆しが見える。同国では、99年12月に新政権が発足し、資金調達を容易にする目的で緊縮予算と増税法案を成立させ、同時に、通貨ペソとドルを1対1で固定する兌換制も維持すると発表した。新政権のこうした試みが市場を刺激し、この国の経済を急速に活性化させたものと思われる。
ロシアや中南米諸国の経済回復が当該諸国の政策的努力の結果であることは間違いないが、米国経済の好況やアジア経済の急速な回復の下で金融事情が改善され、さらに、輸出の大宗を占める原油や銅、農産物など一次産品需要の増大と価格の上昇がこれに重なったことが有利に働いた。ニュ−ヨ−ク・マ−カンタイル取引所(NYMEX)の代表的油種であるウエスト・テキサス・インタ−メディエ−ト(WTI)の先物価格は、98年2月頃1バレル=11ドル前後に止まっていたが、同年12月には26ドル台にまで回復し、2000年1月には1バレル=30ドルを記録した。91年の湾岸戦争以来の高値水準である。石油輸出国機構(OPEC)を中心とする主要産油国の協調減産にアジア経済の回復に伴う石油需要の伸びが重なったためである。その結果、湾岸産油6ヵ国の石油収入は前年比約40%の増加を記録し、クウェ−トなどでは財政赤字が半減するという状況まで生まれた。1年前と比較すると様変わりの状況である。
しかし、アジア通貨金融危機がロシアから中南米へと伝播していった経緯、また、今日の経済回復に至る過程を分析すると、そこには原油に始まる一次産品需要と価格がこれに連動しながら、激しく乱高下している実態が浮かび上がってくる。
アジア通貨金融危機が発生した97年当時、これら諸国では通貨の下落が株式相場の下落を誘い、これが大規模な外資の流出を招いた。金融システム改革の遅れや政策ミスに内外の批判が集中したのはそのためで、輸出の大宗を占める原油や銅など一次産品需要の低迷と価格下落でこれら諸国の輸出が伸びず、経常収支の悪化という事態につながった。アジア通貨金融危機発生に伴う石油需要の減少と価格の下落は、金融と資源(石油や農産物などの一次産品)が絡む今日のグロ−バル経済危機を象徴している。
まず、アジア通貨金融危機の発生で石油価格が下落したが、これに続いて国際商品価格の下げも加速した。原油価格はニュ−ヨ−ク、ロンドン市場の指標油種で1バレル10ドル〜11ドル台と12年ぶりの安値を更新、世界的な需要の低迷で危機発生3ヵ月後(97年10月)には1バレル当たり5ドルもの下落を記録した。下落幅40%という70年代石油危機以来の出来ごとである。
世界的な生産の伸び、イラク石油輸出の再開、米欧諸国における暖冬の影響といった事態を除けば、明らかにアジア経済の落ち込みと減速が引き起こした下落であった5)。
農産物も経済危機に見舞われた中南米からの輸出増を見込んで歴史的な安値に下げた。代表的指標であるCRB(コモディティ・リサ−チ・ビュ−ロ−)先物指数は99年2月に184.33と、75年7月以来24年ぶりの低水準に下落した。CRB先物指数は原油や農産物、貴金属など主要17品目の価格動向を示す総合指数である。97年5月までは250台で推移していたものが、アジア通貨金融危機を契機に下げに転じ、98年以降はロシアや中南米で経済危機が発生するたびに下落し、同年12月には21年ぶりにつけた水準をも下回った。(図2)
当時、ロシア経済は、アジア通貨金融危機の影響と石油・ガス価格の下落という二つの外的要因を受けて株式・債券相場が急落し、ひどい経済混乱に陥っていた。ロシア政府と同国中央銀行は公定歩合を一気に100%も引き上げ、さらに徴税強化、歳出削減、民営化による歳入増などを柱とする緊急経済対策を打ち出したが、成果をあげることができなかった。そのうえ、外国人機関投資家の間では新興市場の持つ脆弱性への懸念からロシア市場への投資を控える動きが強まった。そこに発生したのが石油・天然ガス価格の下落である。石油・天然ガスはロシアの輸出の40%を占める戦略的商品である。石油・天然ガス価格の下落はエネルギ−企業からの税収の激減を意味し、国家財政に大きく影響する。その結果、外貨準備が146億ドルまで減少、経済規模が同じで経済危機に陥った韓国の387億ドルにも及ばない事態となった。
ロシアはこれまで財政赤字を短期の国債発行を繰り返すことで穴埋めしてきたが、国債利回りの急上昇と石油需要の低迷でこの構造も吹き飛んだ。そのため、98年8月には通貨ル−ブルの切り下げ、民間対外債務支払いの一時凍結を決め、さらに、同年9月には、旧ソ連から引き継いだ対外公的債務の支払いを停止した。ロシア政府は、危機対策として戦略企業への国家管理の強化やル−ブルの増刷等を決めたが、これはIMFとの合意と異なる内容のものであった。
中南米の主要な産油国であるベネズエラも世界的な原油価格の低迷で経済が著しく打撃を受けた。アジア経済危機が発生した97年当時、ベネズエラの経常収支は黒字であったが、翌98年には一転して赤字となり、通貨切り下げの思惑が急速に広がった。同国は、当初、1バレル=15ドル程度の原油輸出価格を前提に98年度の予算編成を実施したが、同年1月〜7月の原油平均価格は1バレル=11ドル強にとどまった。そのため、財政支出の削減が不可避となり、97年に5.1%を記録した実質経済成長率は98年には0.6%に低落した。産油国メキシコも原油価格の低迷から数次にわたり財政削減に追い込まれ、これがきっかけとなって景気が急激に冷え込んだ。チリとペル−は産油国ではないが、輸出の大宗を占める銅輸出と銅相場が低迷したため経済が落ち込んだ。
このように一次産品輸出と価格の低迷は中南米諸国の経済に打撃を与えたが、各国通貨に対する信頼性の欠如から国際資金の引き揚げが加速し、各国の株価や通貨が軒並み急落した。98年8月、メキシコでは経済の先行き不安から大量の資金が国外に流出し、94年12月に始まった通貨ペソの暴落による世界通貨不安の再来が懸念された。ベネズエラ、コロンビア、アルゼンチン、ブラジル等の通貨も下落し、資金の国外逃避が本格化したのもこの時である。
注目されるのは、中南米経済危機も「石油」が先導していたことで、直接の震源地はベネズエラであった。原油輸出が経済を下支えしてきたロシア同様、ベネズエラも輸出の70%は原油関連で、国家収入の大半を占める。アジア経済危機で原油需要と価格が低落したことから、同国の原油輸出が低迷、歳入も減少した。こうしたベネズエラの経済不況が、インフレの高進で通貨不安の続くブラジル、アルゼンチン、メキシコ等にも波及し、通貨安・株安の「負の連鎖」を引き起こしたわけである。 
3.グロ−バル経済を覆う「危機の連鎖」
97年〜98年、アジア諸国を皮切りに、ロシア、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチンと中南米諸国に拡大した通貨金融危機は、さらにその後、ユ−ロ誕生に沸く欧州経済を襲い、ついに、「最後の貸し手」である米国経済にまで深刻な影響を与える状況を生み出した。通貨安が株安を生み、株安がさらに新たな通貨安を呼ぶという「負の連鎖」が実体経済をも傷つける、世界中でモノとカネが複合的に収縮する「危機の連鎖」に発展したわけである。これを放置すれば、世界経済は間違いなく螺旋状に悪化し、世界的な経済金融恐慌に発展することが不可避の事態となった。フェッジファンド規制や新興経済擁護の安全ネットの提案がなされ、金融制度改革が強く叫ばれたのもこうした事情を強く反映したものであった。
しかし、このグロ−バルな「危機の連鎖」は、まず第一に、構図的には、日本や欧州諸国が預金した資金が「米国銀行」を通じて顕著な成長を続けるアジア諸国や資源大国のロシア、ブラジルなど新興経済諸国に大量に貸し出され、それが焦げついたことから発生したものである。
その背景には、米国の「借金経済」と極端に肥大化した国際流動性問題が存在しており、さらに、世界的なマネ−・フロ−の変調がある。日本やEU諸国を中心とした米国外から米国への資金の流れは、米国の高金利政策や貿易摩擦の激化などに刺激され、90年代に入り急速に拡大・膨張したものである。ある統計によれば、92年に1000億ドルを数えた米国への流入資金=証券投資(株式、債券)額は、96年には4000億ドルとなり、97年には3400億ドルが新たに流れこんだ。
これらの資金は、より高い利回りを求め債券から株式へと形を変え、また、先進国市場から新興市場へと投資先を移し替えている。米国商務省国際貿易局発行の資料によれば、経済成長著しいアジア(中国、台湾、香港、ASEAN、インド)と中南米(ブラジル、メキシコ、アリゼンチン)は、新興市場として当時米国が最も重視していた地域であり、東欧のポーランド、中東のトルコ、そしてアフリカ唯一の新興経済国南アフリカ共和国といった国々も新興経済市場として有力な投資の対象とされていた6)。この流れに上手く乗ったのが米系フェッジファンドであり、かれらは「グロ−バル・キャリ−・トレ−ド」と呼ばれる投資手法を使って事業を地球的規模に拡大した。これは世界中の主要株式・債券市場を視野に入れ、投資資金を次々と移動させながら収益の拡大と利潤の極大化をはかるというもので、情報化と情報技術(IT)革命による情報通信機器の発達がこれを助けた。
第二に、新興市場を中心に先進工業諸国の金融市場と金融システムが深く関わったこの危機は、デフレ、通貨切り下げ、貿易不振などが複雑に絡む危機へと変化しており、30年代の世界金融恐慌と酷似した様相を呈してきている。97年12月、アメリカン・エンタ−プライズ研究所J.メイキン主任研究員は、「30年代の世界恐慌を特徴づける三条件が揃う兆しが出ている」と述べたが、こうした議論はその後米国を中心にかなり広範に行なわれるようになった。確かに、30年代の世界恐慌時に目撃されたように、世界的に強まるデフレ傾向や一部で目撃された通貨切り下げ競争に保護主義を加えれば、97年〜98年の状況は30年代の金融恐慌そのものである。しかし、当時と大きく異なる点は、肝腎の米国経済が好況で力強い成長を維持していることで、グロ−バル化と情報化がグロ−バル経済の態様と行動様式を変えてしまっている状況の下では、保護主義は起こりにくい。
むしろ、米国経済の好況が持続する中で、世界のマネ−が米国に集中し、これが再生後のアジア市場やロシア、中南米その他の新興市場に再び還流しつつある状況こそ、今日の危機のもつ鋭い特徴ではあるまいか。米国ダウ平気株価は99年3月末ついに1万ドルを突破したが、「大恐慌1929」や「バブル物語」を著し、株式市場や恐慌問題の研究で数々の業績を残したハ−バ−ド大学のガルブレイス名誉教授は、「今の状況は株式市場が登記熱に浮かれた大恐慌前の状況に似ている。米国のバブルは必ずはじける。」と言い切っている7)。つまり、今日の「危機の連鎖」は、米国に集中した巨額の資金が新興市場を中心に次々と移転し、再び米国に戻るといった資金の流れに特徴づけられており、米国の1万ドル株価もそうした流れのなかで発生したものである。
したがって、それは、通貨切り下げ→金融不安→デフレ圧力の増大→不況の持続といった構図の下で、先進国経済と新興市場が中心をなって作り出した「危機の連鎖」と考えられる。巨額の債務や流入資金に支えられた米国経済の好況は、潜在的に株高が収益の拡大を生み、さらに投資や消費を促進するといった不安定なバブル構造からなり、国際金融市場の変動に極めて脆弱な体質となっている。
第三に、90年代のバブル経済の下で膨れ騰ったマネ−が、フェッジファンドなどを先兵に、デリバティブ(金融派生商品)など高度に発達した金融技術と情報機器を使って世界経済の最も「弱い環」を集中的に攻撃する危機の構図が指摘される。世界経済の「弱い環境」とは、一般に、外資依存や一次産品依存の著しい、金融システムの未発達な新興経済地域や国、また、バブルの発生で経済危機が予測される地域や国を指す。さらに、経済金融制度改革が進まず、政治基盤が弱い国なども狙われる。タイ通貨危機に始まり、韓国、インドネシアとアジア全域に広がった金融危機では、ドルに事実上連動し、実力以上に割高となったアジア各国の通貨が狙い撃ちされた。
ロシア経済危機では、原油需要の低迷と価格の急落やロシアの財政赤字の拡大が債券や通貨ル−ブル相場暴落の引き金になった。さらに、通貨レアルの切り下げで始まったブラジル危機は、レアルを変動相場制に追い込んだだけでなく、アルゼンチンやメキシコなど中南米諸国の株価を急落させ、世界の金融・資本市場を揺さ振った。
そして、第四に、すでに指摘したように、先進諸国の銀行やフェッジファンドがロシア危機に際して出した巨額の損失にみられるように、「市場原理」を掲げて新興市場その他に投資資金を投入してきた先進工業諸国の金融機関や投資家が、その「市場原理」ゆえに、今度は市場からしっぺ返しを受けるという不幸な事態も生まれている。アジア経済危機に際しては、日本の銀行や投資会社が、また、ロシア危機に際しては、欧米の銀行や投資会社が巨額の損失を出した。「妖怪」といわれ、巨額の財力と行動力で怖れられてきたフェッジファンドでさえ、前述のような巨額の損失を計上し、過激な投融資のツケを払わされた形となっている。因みに、2000年3月には、米国の代表的フェッジファンドであるジュリアン・ロバ−トソン氏率いるタイガ−・マネ−ジメントが廃業に追い込まれた。ハイテク株が天井知らずの上昇をみせる一方で、従来型の事業を展開する企業の株が下落する「二極化相場」が致命傷になった。 
4.「金融」と「資源」が絡む危機の本質
アジア通貨危機に始まり、ロシア、中南米諸国へと波及していった経済危機は、最終的には、欧州諸国から米国にまで拡大、世界的な経済危機に発展する兆しさえ覗かせたが、この連鎖危機を分析すると、いくつかの基本的特徴が浮かびあがってくる。第一は、危機の発生と経緯が示しているように、この危機の最も基本的な特徴は通貨金融面に現われた危機であるということである。つまり、97年7月のタイ通貨危機に始まった通貨の減価は、その後、香港ドルの売り圧力、韓国ウォンの減価という形でアジア全域に広がった。このアジア諸国通貨の減価は、かれらのドル建て債務の返済懸念、各国内の金融不安等につながり、成長の減速となって現われた。
ASEAN諸国の通貨はなぜ減価したか。主要な要因として、まず指摘できるのは、1)自国通貨の対ドルレ−ト維持に伴う通貨の過大評価、2)通貨の過大評価に伴う経常収支赤字の拡大、3)国内の高金利及びドルにリンクした為替レ−トにより資本が流入し、経常収支赤字がもたらされていたこと、4)流入資本が不動産投資等必ずしも生産的でない資金用途に使われたことによる金融不安及び株価の低迷による資本流出等である。
NIEs諸国については、1)韓国は対外債務の増大等でASEAN諸国に似ている、しかし、2)台湾、シンガポ−ルは経常収支は黒字だが、周辺国の通貨・景気動向から自国通貨が減価した、3)香港は対外資産・負債の程度は明らかでないが、金利上昇によって対ドル・レ−トを維持し、地価・株価は低下したというように分類される。韓国については、国内の高金利からリスクを考慮しない資本が流入し、保護された金融セクタ−を経て安易な貸し付けが行なわれた可能性がうかがわれた8)。対照的だったのは中国である。この国では大幅な資本流入はあったが、大半は直接投資で対外債務が懸念されるような状況にはなかった。しかし、中国も、周辺アジア諸国での通貨・金融危機の煽りを受けて、通貨元の切り下げ懸念が急速に高まった。
しかし、このような通貨・金融危機の進展については、ロシアや中南米など他の地域でも同じような状況が作り出されている。ロシアでは、日本の金融不安やアジア金融危機、また、新興市場としてのロシアへの投資不安から外資、とくに、フェッジファンドを含む短期の資本が国外に逃避したことで大規模な金融不安が発生し、これが通貨ル−ブルの切り下げの圧力となった。また、ブラジル危機は通貨レアルの切り下げで始まった。
このようなアジアからロシア、中南米を経て世界的な広がりをみせた今回の通貨金融危機は、すでに述べたように、もう一つの主要な側面として、石油や食糧など資源・一次産品が先導する危機という色彩を強くもっていた。とくに、アジア危機の煽りを受けて石油需要が低落、これが石油価格の低落を呼び、石油依存の強い国の経済を大きく揺さ振った。その最も先端を走ったのがロシアとベネズエラである。両国とも国家収入に占める石油収入の比重が、前者が40%、後者が70%と極端に大きく、石油需要の減退と価格の低落が経常収支赤字を誘い、深刻な経済危機に陥った。
まず、ロシア経済危機における石油の動きについてだが、国家収入の40%ほどを石油及びその関連製品が占めるのがロシア経済の特徴である点については、すでにふれた。しかし、その生産は、88年には5億6800万トンだったのが、91年に4億6190万トン、95年に3億1080万トンと年毎に減少し、98年には遂に3億430万トンという記録的な低水準に落ち込んだ9)。しかも、専門家の予測では、その生産量は2001年にかけてさらに半減する見通しという。経済危機の結果投資額が急減しているうえ、新財閥系のロシア石油企業が多額の債務を抱えて経営難に陥ったためである。(図3)
ロシアの石油産業は、ル−クオイル、スルグトネフテガス、ユコス、タトネフチ、シダンコ、チュメニ石油会社、シブネフチなど有力企業によりリ−ドされてきたが、ここ数年、ユコス、シダンコ、シブネフチなどの新興財閥系の石油会社による買収が相次ぎ経済危機を契機に新興財閥系各社の業績が落ち込んだ。(表2)ロシア新興財閥はソ連崩壊後の石油企業の民営化に注目し、銀行部門からの収益とフェッジファンドなど外資による投融資をうまく利用して多額の資金を石油開発に投入してきた。しかし、経済危機を境に、傘下の銀行が経営危機に陥ってしまったため、石油開発に支障をきたしたわけである。たとえば、ロスプロムはメナテップ、インタ−ロスはオネクシム・バンクという商業銀行の抱える多額の債務の返済に追われていた。
とくに、新興財閥系の石油企業の原油生産お落ち込みが激しく、98年の原油生産量はユコスが4.2%(前年比)減、シダンコが1.7%(同)減、シブネフチが4.7%(同)減という状況であった。これらの石油企業は対外債務を返済しなければならないところに、こうした急激な生産落ち込みを経験したわけで、その結果、新規投資などの余裕は生まれなかった。そこに降って湧いたのが世界の石油価格の下落である。97年〜98年にドバイ産原油価格が1バレル当たり18.13ドルから12.16ドルへ、北海ブレントが19.30ドルから3.11ドルへ、また、ウエスト・テキサス・インタ−メディエ−ト(WTI)も20.61ドルから14.39ドルへと急落した。バレル当たり平均6ドルという大幅な下落である。
中南米危機の場合も先導役は石油で、直接の震源地はベネズエラであった。すでに指摘したように、原油輸出が国の経済を下支えしてきたロシア同様、ベネズエラも輸出の約70%を石油関連製品が占めるという経済構造で、国家財政の大半を賄ってきた。90年代における石油の生産の状況をみると、90年1億1590万トン、95年1億5240万トン、97年1億7350万トンと経年的に大幅に増大している。アジア経済危機の影響その他で98年は1億7180万トンに一時低落したが、ロシアとは対照的にベネズエラの原油生産における潜在力は相当なものであった。10)
しかし、こうした旺盛な原油生産の潜在力とは逆に、アジア経済危機やロシア危機による世界的な不況の進行で原油輸出が大幅に落ち込み、その結果、歳入も減り、45億ドル余の歳出削減に追い込まれた。ベネズエラ政府は、通貨防衛と外資の流出を防止するために金利引き上げなどの措置を次々と打ち出したが、実体経済の落ち込みは防ぎようがなかった。
「石油」に先導されたこうしたベネズエラ経済の落ち込みが、インフレの進行で通貨の過大評価がつづくブラジル、メキシコ、アルゼンチンなど他の中南米諸国に波及し、これが株価に連動、「下落の連鎖」を引き起こす結果となった。中南米諸国の抱える短期債務は外貨準備との関係では、通貨金融危機に襲われた当時のアジア諸国より少なかったため、中南米危機の被害は比較的軽微で済むとの予測もあったが、実際にはブラジルを筆頭に可成の経済危機に陥った。それは、これら諸国が共通してアジア経済危機の影響で石油に続いて農産物の歴史的な価格低落、貴金属や非鉄金属価格の低落という状況から大きな被害を受けたからである。 
5.新興市場を狙い撃ちする投機資金
アジア通貨危機を皮切りに、ロシア、中南米へと拡大した通貨金融危機は、バブル経済の下で膨れ騰ったマネ−が、高度に発達した金融技術と情報機器を駆使して世界経済の「弱い環」を集中的に攻撃するという危機の構図を浮かび上がらせた。こうした投機資金が最初に狙ったのは、巨大な人口を抱え活発な経済活動を展開している新興経済(市場)諸国であった。この新興経済(市場)諸国は、地域的には、アジア、アフリカ、中南米に位置し、有力な投資市場、また、貿易上のパ−トナ−として先進工業諸国の政府や企業、銀行等の特別な関心を集めてきた地域や国々である。
まず、アジアでは、「大中華経済圏」(中国、香港、台湾)、韓国、ASEAN諸国、インドがそれに含まれる。アフリカでは南アフリカ共和国があり、欧州ではポ−ランドとトルコ、中南米ではメキシコ、ブラジル、アルゼンチン等がこの範疇に入る。これらの国々は、これまで、発展途上諸国の中でも、とくに、経済成長著しい諸国、資源大国戦略的要衝国家などと呼ばれてきた国々であり、東欧から市場経済移行国としてポ−ランドが加わっているのが新しい。これら諸国は、「米国と伝統的な絆で結ばれた国々ではないが、不断に変化しており、時折り不安定さが目につくが、活力と市場性に富んでいるため企業にとっては魅力的だ」といわれている11)。
もちろん、ファンド等が集中的な攻撃の対象にしたのは、新興経済(市場)諸国一般ではない。開放的マクロ経済政策と旺盛な経済活動により高度の経済成長を遂げてきたことは前提としつつも、極度の外資依存と金融システムが未発達で、経済政策の面からも脆弱さが目につく国々がまずその対象に挙げられた。アジアでそれを最もよく体現していたのがタイであった。
タイは、85年の「プラザ合意」とその後に展開された世界的な資本移動という動きに最も機敏に反応し、日本資本や華僑資本の大規模な流入をうけて、金融の自由化を積極的に推進した。
とくに、83年のバンコク・オフショア市場の開設で海外から巨額の投機資金が殺到するようになり、タイはバブル期の日本を思わせるような経済の活況を呈した。証券会社の設立も自由になり、国民の貯蓄好きも手伝って、タイは空前の株式ブ−ムに沸いた。首都バンコクでは高速道路網の整備など大規模な建設工事やインフラ整備ラッシュが続き、これに伴って自動車の数も急増し、交通渋滞は日常茶飯事となった。
証券監視委員会その他投資や金融活動を監視する組織も政府の手で設立されたが、不健全なビジネスも含め株式投資や金融活動は加熱する一方であった。政治家と産業企業・銀行による癒着・スキャンダル事件も跡を絶たず、モラル・ハザ−トはかなり広範に進行していた。こうした傾向を決定づけたのが95年以降の円安ドル高傾向の進展とタイ商品の国際競争力の低下である。ドルにリンクした通貨バ−ツの下で割高となったタイの製品は国際市場で他のASEAN諸国や中国の製品に押され、伝統的な繊維産業や製靴産業から半導体・エレクトロニクス産業に至るまでタイの製造業はかつてないような不振を経験することとなった。
こうした通貨バ−ツの減価によるタイ製品の国際競争力の低下と貿易不振は必然的に外貨収入の激減と国家財政の悪化を招き、タイ経済の活力を一気に削ぐ結果となった。さらに、巨額の財政赤字、加熱する不動産投機、不健全な銀行経営、政治腐敗などがこれに拍車をかけた。
オフショア市場を通じて他より安い金利で大量に調達されていたドルは、同時に、極めて容易に海外に流出することのできる可能性も保持しており、通貨の減価、金融不安、株価の低迷、さらに、官民癒着、政治スキャンダルの発生という事態をうけ、これが大量のドル流出につながった。フェッジファンドなど投機資金は、こうした状況を詳細に研究したうえでバ−ツ攻撃を仕組んだものと思われる。96年に入って何度か試みられたとされるフェッジファンドによるバ−ツの空売りは、それを証明するものであった。同時に、フェッジファンドに大量の資金を供給し続けてきた欧米の投資銀行などが、こうした動きに同調してフェッジファンドに多額の資金を貸し込むといった行動をとったことが事態を一層悪くした。
タイに続いてフェッジファンドが狙ったのが香港と韓国である。香港は、当時、800億ドルほどの外貨準備を保有していたが、97年10月を境に香港ドルへの売り圧力が強まり、同月下旬には当局による金利引き上げもあって、株価指数は対96年末比20%安に急落した。香港は83年以降、通貨管理委員会制度の下で通貨香港ドルの米ドルへのペッグ制を採ってきたが、97年10月当時のレ−トは1米ドル=7.8HK$と経済成長に合わせ物価も上昇し、95年以降増価傾向を強めていた。この機会を利用したのが欧米系銀行の支援を受けたフェッジファンドである。
香港ドルの下落を狙って仕掛けたのが先物、オプションなどデリバティブ取引であった。香港当局は金利引き上げでこれに対抗したが、結果は不動産価格や株価の下落、投資家による株の大量売却、したがって、フェッジファンド等による香港株の買い漁りという事態であった。
韓国の場合も、対ドル・ペッグ制による通貨ウォンの増加(94年〜96年)から減価(96年末〜97年)への移行、年々拡大する減価幅等と事態は進展し、97年12月の変動相場制移行を境に成長率が大幅に低下した。そして、それ以降は輸出の激減、貿易収支赤字、財閥系企業の経営破綻(上位30財閥中97年の破綻=7社)、融資の不良債券化という状況が加速度的に進んだ。
このような状況の下で韓国の銀行は海外、とくに、欧米系銀行から短期の資金融資を受けたが、これがフェッジファンドによる集中投機の引き金になった。韓国の金融機関は、財閥系企業の経営危機に伴う赤字補填の意味も含めて海外、とくに、アジア諸国の国債市場に投資したが成果をみず、逆に、97年10月には150億ドルにまで膨れ上がった借入れ資金の返済に追われ、海外資産の売却やウォンのドルへの交換という惨憺たる状況に追い込まれてしまった。
ロシア危機へのフェッジファンド等投機資金の関与は、タイ、香港、韓国等アジア諸国の場合と少し異なる。それは、韓国が売却した海外資産の中に大量のロシアの国債が含まれており、これがフェッジファンドに損害を与えたという単純な理由だけでなく、ジョ−ジ・ソロスのクォンタム・ファンドをはじめ有力フェッジファンドは、ソ連崩壊以来ロシアの株式市場や債券市場に余りにも深く関わってきたという事実にある。ジョ−ジ・ソロスが、クリントン政権の対ロ政策やIMF/世銀の融資戦略も熟知したうえでエリツィン大統領(当時)やその経済ブレ−ンたちと親交を重ね、ロシアにおける「自由化」と「経済民主主義」の定着に一肌脱いでいたという事実はあまり知られていない。結果は、98年1〜8月期「20億ドル近い損失」という発表に終わったが、クァンタム・ファンドの幹部によれば、同社は1〜9月期には20%の上昇があったとテレビ会見で明らかにしている。かれらが、総体として、ロシアで損益を被ったという話は聞いていない。
本来、フェッジファンドの投資手法は、「売り」と「買い」を巧みに組み合わせてリスクを回避し、投資家に多額の収益を保障するということでかれらの支持を集め、事業を拡大してきた。しかし、この事業の拡大は市場への支配力強化につながり、社会への影響力も大きくなると、かれらの投資戦略は単に経済的な分野に限らず、政治も取り込んだものに変化する。かれらは、新興経済(市場)がどのように「弱い環」に転化するか状況を注意深くフォロ−し、場合によっては、クロアチアで見せたように内政干渉まがいのこともやってのける存在となっている。 
6.肥大化する投機マネ−と原油先物
金融と石油が絡む今日のグロ−バル経済危機を最も鮮明に描き出したのが、99年後半から2000年初頭にかけて発生した原油価格の高騰と投機資金の動きである。世界の原油価格はアジア通貨金融危機の煽りを受けて暴落したが、これが底をみせた99年2月を境に次第に上昇し、2000年3月にはニュ−ヨ−ク・マ−カンタイル取引所の代表種であるWTI原油(ウエスト・テキサス・インタ−ミディエ−ト)が1バレル=31ドルという高値をつけた。一年間に約2.6倍となったわけで、平時としては異常ともいえる高騰ぶりであった。
原油価格は、この2年余の間大いに低迷し、WTIは一時1バレル=11ドルまで低落したし、中東産ドバイ原油も10ドル以下となったことがあった。70年代の石油危機や湾岸戦争の時と違って、今日、世界経済も各国国民経済も石油への依存度は低減してきている。したがって、原油価格が高騰したからといって、すぐ物価を大きく押し上げたり、マクロ経済に深刻な影響を与えるというようなことはない。逆に、原油価格が上昇することで、アジア危機後に懸念された資源国へのデフレの波及を回避する効果も生まれる。しかし、こうした事態が全体として進む一方、原油価格は極めて速いテンポで上昇しつづけた。しかも、戦争や紛争などの「有事」に際してではなく、平時における高騰である。
こうした原油価格高騰とその原因について、各国の政策当局や専門家の間では、好景気が持続する米国の旺盛な石油製品需要やアジア経済の回復に伴う需要の高まり等を指摘する声が高い。米石油協会(API)によると、米国のガソリン在庫は、春先から夏場の需要期前としては過去10年間で最低の水準を記録した。寒波で急騰した暖房油に代わって原油価格を支える格好となっているが、原油価格の上昇はナフサなど石油製品価格をさらに押し上げる結果を生んでいる。アジア経済の回復によるエネルギ−需要の増大もまた、原油価格急騰の原因になっている。
しかし、筆者が注目するのは、アジア通貨金融危機が発生した97年7月以降2年余という短期間の間にみせた世界の石油価格の乱高下である。一般に、エネルギ−需要の増減が経済成長の規模と速度に依存することは過去の経験に照らして明らかであるが、その点では、アジア危機に際しての石油・エネルギ−需要の減少と価格の低落も、また、危機回復に伴っての需要と価格の上昇も理に適っている。だが、今回のグロ−バル経済危機との関連では、明らかにそれ以外の要素が働いている。それはファンドなどの投機資金の動きである。
今回の原油相場の高騰は、危機でもない平時に現われている点に一つの特徴がある。その背景には、ファンドや機関投資家等によって先物市場における取引が実需以上に膨れ上がり、これが原油価格の形成に大きな影響を与えたという事実である。金融投機的な動きによって原油価格が大きく変動しているという現実がそこにあり、「金融」と「資源」が相互に絡み合い、相乗し合ってグロ−バルな経済危機の特徴を描き出している。とくに、投機筋の動きが活発であったのは過去1年のうちの前半で、ニュ−ヨ−ク・マ−カンタイル取引所では、ファンドなどの投機筋が原油先物を買い進み、これが先高感を煽った。これに刺激されたのか、99年後半になると、電力、航空などの実需家たちが相次いで先物の手当てに動いた。こうした投機筋の売買ポジションと原油先物価格との間には相関関係はあるが、どちらが原因でどちらが結果か必ずしも明確ではない。「金融」と「資源」がリンクする今回の危機の全体像からすると、投機資金の主導的動きに注目すべきであろう。
今回、原油先物の買いに走った投機資金は総額20億ドル余といわれるが、その大半はこれまで膨張と過熱の一途を辿ってきた米国市場から流れ出たものである。米資本市場の約千分の一の規模にすぎないが、瞬時に巨額の資金が動くため相場に与える影響は衝撃的に大きい。こうした米株式市場を経由して大量に流出する投機マネ−は、OPECやG7蔵相・中央銀行総裁会議といえども制御が難しい。したがって、投機筋が逆に売りに回れば、原油相場は一転して急落する。それを具体的に実証したのが、2000年4月10〜11日の原油相場の動きである。まず、東京市場で中東産ドバイ原油が1バレル=20.25ドル(5月渡し)と、99年9月以来7ヵ月ぶりに安値を更新した。1ヵ月前の相場と比較して約30%の下落である。
NYMEXはじめ原油先物市場における非商業的トレーダー、つまり、ファンド等の活動は、経済のグローバル化とともに活動の幅を急速に拡大している。米国のコンサルタント会社“Energy Security Analysis、 Inc. ”(ESAI)の調査によれば、専門家が通用する先物ファンドやヘッジファンドの管理する資金の額は、80年には推定で約3億ドルにすぎなかったが、86年にはこれが約14億ドルとなり、さらに、90年80億ドル、93年に226億ドルと爆発的な増大を遂げ、99年にはついに500億ドルの大台に乗った。
もちろん、こうした非商業的トレーダーの全てを投機ファンドと決め付けることはできないし、かれらの行動も時として投機的であったり、フェッジであったりしている。(図5)また、資金の流入対象も、商品である場合もあるが、商品の中の燃料部門であったり、また、個々の燃料、特定の非現物目的の石油市場の買いポジション、その売りポジションであったり多種多様な分野にまたがっている。そのため、彼らの行動理念や動きの一つ一つを正確に追うことはできない。しかし、原油先物取引市場やグローバルな石油市場に投機ファンド等非商業的トレーダーが大規模に参入し、市場操作を行なったり、大規模な投機的行動に走った例は過去に数多くあったし、現在もある。その第一の理由は、原油先物取引を含むエネルギー市場は、市場価格で見た場合、世界最大の商品取引市場で、資金の運用いかんで莫大な利益を取得することができることにある。確かに、ここで価格や市場を完全に操作して独占的な利潤を手にすることは不可能に近い。原油の現物市場でOPECが圧倒的な力を保持していることに加えて、エネルギー市場そのものがよく組織され、高度化されているため、常に監視の目が光っているからである。
NYMEXにおけるWTI原油価格の動きを分析すると、価格を左右する決定的な要因は、現物市場の変化とペーパー市場の変化の二つであることが判明する。そして、その現物市場で圧倒的な影響力を保持しているのがOPECであり、先物取引を主とするペーパー市場も高度に組織化され、監視制度が確立している状況下にあっては、投機ファンドの活動できる範囲が自ずから限定されてくるというのが一般的な見方である。それにも拘わらず、ファンドが力を持つのは、情報力を駆使して瞬時にして巨額の資金を動かすことのできる組織力と動員力にある。2000年3〜5月の原油価格高騰に際しては、ファンドは約20億ドルもの巨額の資金を動かした。
アジア経済危機以降の過剰マネ−の「負」の動きをどうするか、これは今日の石油問題の根幹に関わる問題である。原油価格の乱高下と投機的過剰マネ−による原油の価格支配に対して、G7諸国、OPEC諸国、そして石油メジャ−までもが共通の悩みを抱える皮肉な事態の到来となっている。 

1)詳細は、拙著「アジア経済危機と発展の構図」(朝日新聞社刊、1999年)参照。pp.10〜27
2)経済企画庁調査局編「経済月報」、No.580、1999.10. pp.60〜61
3)経済企画庁調査局編、前掲書、PP.61〜62
4)日本経済新聞、2000.1.6.
5)U.S. Energy Information Administration、
6)’The Big Emerging Markets’、 ”1996 Outlook and Sourcebook”、 U.S. Department of Commerce、International Trade Administration、 pp.18〜25 同書に云う「巨大新興市場とは、まず、アジアでは、華南経済圏(中国、香港、台湾)、韓国、ASEAN諸国(当初はインドネシアだけだったが、その後全加盟国に拡大)、インド、アフリカでは、南アフリカ共和国、欧州地域では東欧のポ−ランドとトルコ、中南米では、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン等である。
7)日本経済新聞、2000. 1. 18
8)経企庁調査局海外調査課編「アジアNIEsに拡がった通貨減価」1998. 2. 27.
9)BP Amoco Statistical Review of World Energy、 June 1999、 p.6
10)BP Amoco Statistical Review of World Energy、 June 1999、 p.6
11)The Big Emmerging Markets:The New Economic Frontier、1996 Outlook and Source-book、 
 
21 世紀アメリカの競争力強化思想の旋回 / 「 イノベートアメリカ」の深層

 

はじめに─問題の所在と限定─
「ベルリンの壁」崩壊に始まる雪崩を打ったソ連・東欧での社会主義体制の瓦解と、中国における「社会主義市場経済」化の進展によって、第二次大戦後の「冷戦体制」に事実上終止符が打たれた。その結果、唯一の覇権国となったアメリカは、単一世界の成立というグローバリゼーションの新たな展開の下で、おりからの「IT 革命」の波に乗って情報化・サービス化・省力化を大々的に進め、1990 年代には連続して120 ヶ月以上もの経済指標の上昇という、表面上は未曾有の「繁栄」を謳歌するようになり、積年の悩みであった財政赤字の大幅削減に成功した。これを「ニューエコノミー」の勝利と呼称して、景気変動にも影響されない新たな経済
原理の出現だと誇示し、これが今後のグローバル下での世界の経済成長を先導する旗印だと呼号した。とはいえ、実態面では国内製造業の競争力の低下と貿易収支―ひいては国際収支―の赤字を解消できず、もっぱらドル高・高金利政策による長短期合わせたドル資金の還流と、それを原資にして魅力的な金融資産に作りかえた対内・対外投融資活動の活発化による金融化への傾斜をますます強めていった。加えてこれは、「IT 革命」に先導された情報化・ネットワーク化の進展とサービス経済化による生産効率の上昇と省力化を促進し、いち早くそれを取り入れたアメリカが表面的には経済指標の継続的な上昇となって現れ、世界の成長の先陣を切った形となったが、IT 化によるインフラ整備とその波及効果が一巡すれば、やがてはこの熱狂が醒めていくことは十分予想されるところでもあった。したがって、こうしたサービス経済化と金融化だけでは十分でないばかりでなく、かえって他国への依存と寄生―なかんずく企業の多国籍化と結びついた国内生産基盤の空洞化―を結果的には強めることになりはしないかと懸念されていた。しかも他方では冷戦体制崩壊後の世界の不安定性の増大に対処するためには、唯一の覇権国としてのアメリカの卓越した軍事力が不可欠だという論理から、それに依拠しようとする「軍事安全保障論」が以前にも増して闊歩し出し、その先には帝国」への野望すら見え隠れするようになって、経済的に強いアメリカの復活という主張は、ややもすると後景に追いやられがちになり、またその強いアメリカの再生の中身も、上述のような金融化・サービス化が本道だという主張が強く打ち出されていた。つまり、核軍事力と国際通貨ドルこそが強いアメリカの核心であり、その証明だということになり、それが新たに到達を目指すアメリカ単極の世界、つまりは「帝国」の中身だということになる。
しかしながら、アメリカの繁栄を盤石にするには、製造業の回復・強化こそがなによりも大切だという論調も、依然としてその底流には根強く残っていた。そうすると、技術上の優位―とりわけ革新技術―を維持し続けることが肝要となり、そのためにはそれを先導する新たなイノベーションの出現が不可欠だということになる。こうした、いわば「技術安全保障論」が上の「軍事安全保障論」と両立・並存する事態が、とりわけ1990 年代以降のアメリカの基本戦略の中心を彩るようになった。もっとも、その両者の位置関係は軍事安全保障論が基本にあり、それを支える基礎として技術安全保障論をこれに接合させるのが本来の姿だという論調は、アメリカの製造業の競争力の低下が意識されはじめた1980 年代前半にも主張されていたが、そこでは「一流の軍事力が二流の経済力の上に立てられたためしがない」という軍部の発言に端的に表現されているように1)、あくまでも軍事力の優位を確保する基礎としての経済力の回復要請であり、そのための技術優位の維持が中心であった。それをイノベーションを基本にすえて、技術優位をそれ自体として確立・維持する道へと旋回させようとしたのが、次に示す「ヤングレポート」以下の論理であり、そしてその両者が対抗し、交錯し合う事態が続いてきた。
周知のように、アメリカは1970 年代末より製造業の競争力の低下に悩まされるようになり、カーター政権の末期から次々と競争力強化策を打ってきた。その頂点に位置するのが、レーガン政権下で出された大統領産業競争力委員会報告(通称「ヤングレポート」)(1985)2)が打ち出した競争力強化策であった。そこでは強いアメリカの再生のための、製造業を中心とするアメリカの競争力の強化とそのための技術革新の必要が声高に訴えられていた。同時に、技術優位を引き続き維持し続けるためには、革新的なイノベーションの出現が不可欠だということから、新発明や革新技術の維持・強化を謳い、さらにそれを商業化するための仕組みに工夫を凝らし、また違法な模倣技術を厳しく制限する知的財産権保護・強化のための諸方策をも合わせて提唱した。しかしレーガン政権はこの報告書をそのままに実施することをためらい、実際には保護策と自由化策とが統合されないままに混在する複雑な様相を呈していた。業を煮やした民主党主導の議会はスーパ− 301 条と呼ばれる相手国への報復措置を盛り込んだ、保護主義的傾向の極めて強い条項(合わせて知財保護についても同様のスペシャル301 条を設定)を含む「1988 年包括通商・競争力強化法」を大統領の拒否権を乗り越えて成立させた。そこでようやく重い腰を上げざるを得なくなったレーガン政権は、1988 年に「競争力イニシアチブ」を提唱して結果的には競争力強化に傾いていくことになったが、その後もその道は一貫性を欠き、けっして平坦ではなかった。そこで「ヤングレポート」を作成した大統領競争力委員会は、民間組織に改組して、「競争力協議会」3)(Council on Competitiveness)として存続することになり、その後も競争力の強化のために提言と調査を続けていった4)。そして競争力の低下に警鐘を乱打し、その強化を訴え続けて、政府への圧力を加え続けることになる。
そうした彼らの努力が一つの転機を迎えることになったのが、2004 年に出された「イノベートアメリカ」(通称「パルミサーノレポート」)である。それは、産業界のみならず、基礎教育を含む科学・学術・教育界を上げた取り組みとして展開されたばかりでなく、12 月には500 人ものリーダー達を集めてNational Innovation Initiative(NII)Summit と称する大々的な会議を開催して、全米中に一大キャンペーンを展開した5)。そして産学ならびに官民あげたイノベーション開発を軸心とする競争力強化を唱え、それをブッシュ政権の基本政策に位置づけるように強く訴えた。その意味ではこれはこれまでの報告書とはひと味違う性格を有している。
そしてその内容も、従来の報告書のように単なる製造業の競争力に限定せず、情報化の進展に沿ってアメリカの新たなイノベーションの旋回方向を探り、それと製造業やその他の産業との結合を図ろうとしていて、そのための学校教育の見直しや科学技術の推進方法やその体制の強化・底上げと転換を強く訴えている。それは、国際比較した際のアメリカの教育力の低下や生徒の理工離れ現象が夙に指摘され、その結果イノベーションに翳りが見え、ひいては産業の競争力を低めているのではないかと強く懸念されている現状のなかで、情報化に沿った21 世紀におけるアメリカの優位性と指導力の継続を渇望する世論とも合致していた。そうした意味では、この報告書は大変興味ある材料を提供してくれているし、一つの画期をなすものでもある。
そこで本稿ではこの「イノベートアメリカ」に盛られた基本的な考え方を材料にして、21 世紀のアメリカの競争力の問題の所在とその方向の深部を探ってみよう。 
1.「イノベートアメリカ」の基本思想
筆者がこの報告書の基本思想に関心をもったのは、それが従来型の製造業の競争力の強化を単純に訴えてはいないところである。しかし多くの日本での論調は、これを「パルミサーノレポート」と喧伝し、21 世紀の技術革新を訴えるその新しさや画期性を強調している割には、その新しさの中身に立ち入って詳細かつ正確にその是非を論じているものは少ないように思われる6)。アメリカが強い産業上の競争力を持ち、その中心としての株式会社制度と起業家精神旺盛な経営陣と生産現場での「科学的管理」法の徹底と機械による大量生産システムに基づく巨大な製造工業の興隆に依拠して、世界大に飛翔していったことは内外ともに広く認められているところである。その基礎には産業上のイノベーションと呼ばれる新機軸の展開があった。イノベーションこそがアメリカの生命線であり、前進と繁栄の活力だという考えは常に言われてきた。ところが実際には1970 年代以降、アメリカの製造業の国際競争力の低下と企業の海外進出―現地生産―による国内空洞化が生じ始め、それは日米間をはじめとする貿易摩擦の頻発となって現れ、また国際収支の半ば恒常的な赤字にも悩まされ続けるーただし実際には覇権国特権にもたれかかって、日本などの先進諸国からの支援に寄生したーことになった。そこから競争力の強化が叫ばれるようになったのだが、1980 年代から1990 年代までのそのイデオロギーは、主に製造業の強化策であった。そしてIT 革命とニューエコノミーの提唱はサービス化・金融化・グローバル化をもっぱら訴えていたが、それと製造業の回復とは十分に連携・結合されないままで、むしろ二者択一的にスクラップ化とリストラの対象にされがちだった。
しかし「イノベートアメリカ」は、イノベーションこそがアメリカの繁栄の基礎だという旗は降ろさないばかりか、むしろ誰よりも強く主張するが、それを単純な製造業回帰論に結びつけてはいない。というのは、後に詳しくその内容を検討するが、イノベーションを取り巻く環境とその形式や内実が大いに変化してきているからである。したがって、まずイノベーションを起こすための土台としての、基礎教育をはじめとする教育全般に視野を広げ、その全体を俯瞰した上で、新しい科学技術の進歩を担える人材の育成を中心に据えている。この背景には現状の学校教育への危機意識―たとえば、学校の荒廃や外国人留学生が成績上位を独占しがちなことや科学・工学への関心の低下などーが広範な国民の中に出ていることがある。そうすると、知への回帰とその革新の必要に突き当たることになる。そして知識中心の時代の到来は知そのもののあり方や保護と自由との関係や、さらには開発の手法や方向などを問うことになり、知識を情報化された知財として私的所有の中にがっちりと包摂した上で、それをビジネス化して取引し、そこから巨額の利益を取得し、かつその担い手としての科学者、エンジニア、医師、弁護士、芸術家、デザイナーなどの「知的専門家」・「クリエーター」に高収入を保証することが目論まれる。だがそこだけには安住していない。次にそうした知財化、サービス化が製造業にも波及しはじめ、製造業のサービス化7)が広範にみられるようになったことを鋭く指摘している。それは伝統的な巨大製造企業の性格を変え、それらが次第に知識集積型の企業へと脱皮することを目指すようになる。その典型がグローバル時代におけるIBM の目指すGIE(Globally Integrated Enterprise)やGE の情報=ソフト中心型企業への転身などである。さらには従来は資本主義的ビジネスの対象に入りにくかった医療、健康、芸術、スポーツ、エンターテイメントなどの分野も次第にその中に包摂されるようになる。つまりは「文化の経済化」が進行する8)。もちろんそれは金融化とも結びついて金融部面での情報化、知財化をより一層進めることにもなる。加えて、科学の進歩・発展は学際性や複合性や総合性を高め、従来の狭い専門分野を超え、他領域に越境化していき、そこから新たな学問分野が創設されたりするようになってきている。そしてそれに沿った産業分野が新たに開拓されたりしてきている。これらのことが相まって、サービスの概念を変えることになるが、それはビジネス上で産業の一部門として確立されるばかりでなく、その基礎として学問・科学の世界においても原理として確立し、それ独自の自立した扱いを求めるようになり、それは「サービスサイエンス」9)の提唱になって現れている。
これらのことから基本的な枠組みを作ってみると、この刷新運動は単に産業界だけで完結するものではなく、学術・教育との一体的な促進運動や大胆かつ積極的な政策提起が不可欠になり、さらにはそれを後押しする中央、地方の行政のバックアップが大事になる。かくして、アメリカ全体での一大イノベーション促進運動―ナショナル・イノベーション・イニシアティブ(NII)―がスローガンになる。それはまた、労働力のあり方にも影響を与えることになる。知識労働の位置や役割のみならず、その階層分化や集団作業の進め方、そしてその成果の取得方法、あるいは外国への移転、つまりはオフショアリングと呼ばれるサービス労働の外部化と海
外移転への対処、あるいは外国からの知識労働者の流入(「頭脳流入」)や彼らの帰国(「頭脳還流」)への対策も必要になる。また広く科学・技術・芸術などの知的創造=サービス活動に従事する人々の間における階層分化が、極端な所得格差を生んでいることも無視できない問題となっている。これらは21 世紀のアメリカの極めて重要な課題として、連邦政府のみならず、州政府や地方自治体にとっても緊要な課題になっている。
以上のことをまとめてみると、「イノベートアメリカ」の底に流れる基本思想は新たなイノベーションの先導にあり、そのための中心的な要素は第1 に人材開発(Talent、 T)、第2 にそのための資源の投入(Investment、 I)、第3 に基盤整備(Infrastructure、 I)である。煎じ詰めれば、ヒト、カネ、土台づくりということになる。そしてこれを実現させるには官民挙げた、そして産官学の共同歩調に基づく大運動が必要になる。それらを合わせてイノベーション・エコシステム(生態系)と名付けているが(第1 図)、それは、イノベーションを生み出すものは社会的な諸要素の総合化された力であり、したがって、そうした社会的な諸力の有機的な連関と相互作用をいかにうまく組織し、機能させるかが鍵になるという意味である。だからこそ国を挙げた一大運動とその合意が必要だということになる。そうすると、こうした一大運動のイニシアティブを取ろうとした「イノベートアメリカ」を「パルミサーノレポート」と個人名に矮小化するのは本道ではないだろう。そこで、以下ではその基本思想と中心的な新機軸について少し掘り下げてみてみよう。そうすると、当然にブッシュ政権下で商務省の出した、製造業の競争力強化をこれまでどおりに強調した「アメリカの製造業」(Manufacturing in America)やブッシュ政権の「競争力イニシアチブ」(American Competitiveness Initiative、ACI)(2006 年)10)との対比も必要になろう。あるいはハイテク産業や学術分野などからの危機意識に促迫された報告書11)もいくつも出されているが、それらとの照らし合わせも出てこよう。そしてそれらの先には民主、共和両党の熾烈な議会闘争とその妥協の産物として、ブッシュ大統領が最終的に署名して成立した「アメリカ競争力法」(America Competes Act)(2007年8 月9 日)がある。これの検討も将来的には射程に入ってこよう12)。 
2.「イノベートアメリカ」の時代背景
「イノベートアメリカ」の新機軸の中身を検討するに当たって、まず最初に触れておくべきは、このレポートが出てきた歴史的な背景である。いみじくも彼らが率直に告白しているように、「ヤングレポート」の背後にあったのは、同じ西側先進工業国としての日本からの挑戦だったのに対して、「パルミサーノレポート」の背後にあるのは、迫り来る新興の中国、ひいてはBRICS からの脅威であると述べている13)ことである。両者はともに製造工業のチャンピオンとしてのアメリカに挑戦し、その優位性を覆すことになり、その結果、世界の平準化という形でのグローバル化を大いに進めることになったが、そこには明らかに性格の違いがある。前者が西側同盟の一員としての同心円的世界の内部における競争激化とその位置取りの変化であったとすれば、後者においては戦後長い間対抗し合ってきた、異質な社会主義体制が崩壊・変質して、新たに資本主義システムの中に包摂される、あるいは社会主義側からすれば参入していく過程であり、そこには質の変化が見いだされる。前者では、「アメリカ的生産システム」を精緻化して、より速く、より無駄がなく、より品質が高く、しかも相対的には安価な製品を作り上げる日本式生産システムージャストインタイム方式とか、リーン生産システムとか呼ばれるーの競争上の優位がその内部に広がったことであり、いわば経済的には西側世界の内部に巣くう「ガン細胞」としての役割を日本が果たしたわけだが14)、その調整は第二次大戦後に生み出された日米間の特殊な国家間関係―アメリカの対日「依存」と日本の対米「従属」の一体不二的結合―の内部で、その深化という形で処理された15)。だから、表面的には日本の対米貿易黒字が激増し、日米貿易摩擦が激化していっても、日本の対米輸出の自主規制と対米直接投資の増加、つまりは現地への企業進出、さらにはアメリカが優位にある分野―金融、流通、農業、情報など―における日本市場の門戸開放に収斂していくように調整されていった。
他方、後者では一つの世界への包摂化の内容と形態と手法が問われ、そこには異質な世界の接合―対抗と調整の両面を持つーが課題になる。すなわち社会主義体制の崩壊がもたらしたグローバリゼーションの一層の進展が、モノづくりの拠点、すなわち「世界の工場」としての中国の台頭をもたらし、そこでは自国の企業と経済システムに依拠した内生的・内発的な経済成長ではなしに、もっぱら外国多国籍企業の資本と技術と経営ノウハウに依拠し、それを国内の低賃金と国家の強力な政策的・行政的な誘導と後押しに結合させて作りだした競争力ある商品を、これまた外国多国籍企業のブランド名とマーケティング能力に乗せてグローバルに販売するという、輸出指向的な工業化を急速に進めてきている。これは今日の新しい環境の下での「グローバル原蓄」16)とでもいうべき、国家による市場と競争力と産業育成の政策の現れだと位置づけられるだろう。もちろん、その位置に何時までも留まっているわけではないので、次第に国内企業と国内市場が育っていくことになり、その結果、「世界の工場」から13 億もの人口を擁する巨大な「世界の市場」へと次第に重心が移動するようになってきている。そして今度は国内企業と外国多国籍企業との間の熾烈な競争が浮上してくる。いずれにせよ、そうすると、これらの異質なものを一つの世界に包摂する際の、モノづくりの拠点としての中国に対比されるアメリカの位置は、折からの知識重視と情報化・サービス化の波に乗った知財立国への道であり、それによって構造上上位に座り、知の下へのモノづくりの包摂化を企むことになる。そしてその際の接着剤の役割を製造業のサービス化がはたすことになる。つまりは製造技術の知財化を基本に据えて、製品に付帯するサービスを組み込んで販売したり、あるいは製品とサービスをセットにして一括して提供することによって、高付加価値を強調し、かつ付帯サービスやメンテナンス業務との一括した契約によって、全体としての優位性を際だたせ、同時に半ば恒常的な取引関係を維持して、事実上の支配を確立・存続させようという筋道である。
ただし、こうした異質なものを一つに接合するのは、従来の型の国際分業の枠に収めることができないので、合意形成とイデオロギー操作は容易ではなく、その主導権の掌握をめぐってしばしば確執・対抗し合うこと―いわば同床異夢の世界の出現―になるので、その結果、世界の不安定性を絶えず高め、それはグローバルなレベルでの脆弱性を助長することにもなる。そこで経済と経営のレベルでの、たとえば市場原理などの共通の規範作りや営業の自由と利益の私的所有などの経営マインドの醸成を図っていくが、同時に民主主義や人権などの西欧価値体系の浸透と政治的ヘゲモニーの発揮、さらにそれで収まらなければ、直接の軍事力の行使までもが必要になる。そしてそれを担うのは唯一の覇権国であるアメリカの強力な軍事力と政治的辣腕ぶりのみだということになる。このようにして、単一世界の誕生というグローバル化の新たな段階の到来は、政治、軍事、経済、経営、社会の一体化と統一原理の浸透を一方で促すが、他方ではそれがアメリカ流のものの押しつけになりがちなため、世界の至る所で、軋轢や摩擦や騒擾を助長することになり、アメリカは世界の怨嗟の的にもなっていく。したがって、そこではアメリカ流の上からの画一的なグローバリズム、すなわちアメリカングローバリズムと、世界の多様性を尊重したローカルな場からのグローバリズム、すなわちグローカリズムが競い合うことになる17)。
これらの顛末を「イノベートアメリカ」に戻して語ると、それはまたアメリカの巨大製造企業のサービス化、つまりは「モノビス」化とでも名付けられる知識集積体への転換を進めることになり、そこではこれまでの製造技術に裏付けられた知財化によるサービス分野の重視とそこへの企業活動の比重の傾斜、さらにはそれに基づく包摂と支配が進行することになる。そして「IT 革命」の結果、それとは別に情報・サービス産業がそれ自体として育っていくが、そこでは製造業のサービス化と情報・サービス産業の台頭との関係が、一面での融合と他面での競合という複合的な過程として進行していく。その上さらに金融化と合体すると、多国籍金融コングロマリットと名付けられる世界的な金融資本の中にさらに統一されることにもなる。これらを合わせて、筆者はネットワーク型の「ニューモノポリ−」18)の誕生と呼んでみた。
以上のことから、今日のグローバリゼーションの進展の下で、全体としてはこれらの二つの異質なものが接合されて一つの世界になっていくことは、これまでの「冷戦対抗」の時代と異なるという意味で、アメリカと中国を双頭とする新しいスーパーキャピタリズムの時代であり、知識資本が中心となった資本主義の新たな段階だと筆者は規定した19)。この世界ではそれを主導する多国籍企業の主体を多国籍製造企業(つまりは世界的集積体)から、多国籍知識集積体へと移動させることになる。それはまた多国籍製造企業そのものの内部においても、製造部門からサービス部門への脱皮、あるいはモノづくりから、その作り方や開発方法の秘訣、つまりは「コトづくり」へと重心が移動し、企業内・企業間のネットワークでグローバルに結ばれた、場合によっては国家にすら対抗し、それを凌駕することもあり得る企業王国が立ち現れることになる。それを端的に現したのが、このレポートの共同議長を務めたIBM 会長兼CEO のパルミサーノがIBM の将来構想をGIE という形で展望した前出の論文である。そこでこの内容について次に触れてみよう。 
3.IBM のGIE(Globally Integrated Enterprise)構想とその射程
パルミサーノはこの論文の中で、まず企業の発展を19 世紀中葉の国際企業(international corporations)の出現、次に1914 の第一次大戦後の多国籍企業(MNC)の台頭の時期、そして最後に1970 年代以降の、最終的にはGIE に至る今日の時期に分けて、その性格の違いを論じている。第1 の国際企業は、その多くが単一のハブ・アンド・スポーク関係で結ばれた合弁形態の企業(joint-stock company)で、内容としては貿易関連活動が中心で、時には原材料や食糧に集中したりしていたが、それは最終的には本社の所在する植民地宗主国の軍事力によって守られていた。つまりは植民地型の企業であった。第一次大戦後、保護主義とブロッキズムが蔓延し、企業は対抗上、現地生産と現地販売に切り替え、他方では研究開発(R & D)や製品設計(デザイン)をグローバルレベルで行うようになった。これが今日のMNC の出発点となったものである。ところが、その後の30 年間に大いに事態の変化が生まれた。一つには経済的なナショナリズムが後退し、自由化(=門戸開放)が次第にグローバリゼーションを拡大していったことである。二つ目にIT 革命の進展で、それは世界を一つに結びつけ、技術と企業活動のスタンダード化を容易にして、グローバルな情報・通信のネットワークを企業内・企業間の双方で作り上げていった。その結果、製品から生産へとーつまりは企業が何を作るかから、どう作るかへとー転換し、またどんなサービスを提供するかから、どうサービスするかへと、大きく変わることになった。かくてGIE が出現することになるわけだが、それは新しい目的を追求するための戦略、経営管理、企業活動のやり方を刷新し、生産と価値の流れを世界大で統合し直すことになり、したがって国境は彼らにとってますます意味を持たなくなる。
MNC からGIE への転化は生産の場と生産する者を変えることになり、グローバルな生産結合とグローバルな市場が対象となり、ネットワークとそれを結びつける知識・情報が重要になる。具体的にいえば、生産の場―グローバル生産のクラスター(産業集積地)―としての中国(モノづくり)やインド(ソフトやサービス)やその他多くの地域の出現であり、それらを結びつけるには、共通のスタンダードで結ばれた情報の共有が不可欠になる。そして企業間の提携が広範に結ばれる。その結果、共同化、つまりはコラボレーションが活発になる。かくて発明の融合や変容が大いに求められるところとなり、新発明から、それらの応用や組み合わせへと重心が変化していくことになって、科学の性格や専門分化の形も大いに変わることになる。こうして世界大でのネットワークを持つことが多国籍企業に強く求められてくる。それは製造業の性格をいやが上にも変えることになる。したがって、グローバルに統合された企業(Globally Integrated Enterprise、 GIE)モデル20)へのシフトは多くの刷新を呼ぶことになる。
第1 に高価値のスキルの提供である。第2 に知財を世界大で管理することである。第3 に信頼の保持である。第4 にパートナーシップの形成である。つまり、グローバルな市場を直接の対象として、その多種多様で大量の要求に即座に応じ、競争に勝利していくためには、なによりも他者との違いを明確にできる熟達したスキルを持つことであり、それを知財として世界大で確立し、ブランド力によって世界的な評判を勝ち得ることで、したがって、それらは単一企業の内部だけでは完結できないので、様々なレベルと形態での企業間提携―資本、経営、生産・流通、その他の業務―が不可欠になる。そしてこうした新しいビジネスモデルが安定的に稼働するには、グローバルな安全保障と秩序がその土台に必要で、そして水平的な政府間のネットワークが確立されることがこの秩序をより安定的にしていくことになる。その道のエクスパート達の国家横断的なコミュニティの内部でスタンダードが確立され、親密な人的関係が形成されて、その上でグローバルなサプライチェーンや商業的なエコシステムやオープンソースコミュニティといった、ビジネスの新しい組織形態が作り出されることになろう。だから今日のグローバル化とは相互依存世界の誕生と深化であり、その中で政治家、軍人、高級官僚、経営者、知識人、文化人、著名人などの越国家的な強固なネットワークーそれはしばしば「アクセスキャピタリズム」と総称されるーが張り巡らされていくことになり、それらによって、世界の安定が保証されることになる。かくてMNC からGIE へのシフトは世界を新たな段階へと進めるための極めて有力で、かつ有望なアクターとなる。
以上概略したGIE モデルは今日、グローバル化と情報・通信の越国境化に基づいて巨大多国籍製造企業が巨大知識集積体へと脱皮しようとする様をよく表しており、そこではスタンダードとネットワークとコラボレーションが鍵になるという、その内容をも端的に表現している。これはIBM の次世代経営戦略であり、夢でもあると同時に、アメリカの巨大な多国籍化している製造企業の多くの共通の認識であり、目標でもある。したがって同様の戦略の構築にも繋がっていく。そしてこの共通認識があるからこそ、先述来のNII に共鳴する輪が広がり、したがって特定企業の目標だけではない、産業界あげた大合唱にもなる。そしてそれをアメリカの国家戦略にして、さらには世界的に普及させていくことを遠望するようになる。そこで、次に「イノベートアメリカ」の中心的な新機軸の中身に入ってみよう。 
4.「イノベートアメリカ」の新機軸
ここでは、「イノベートアメリカ」が従来の競争力強化策とは異なる、21 世紀のアメリカの競争力強化思想の一大旋回を果たしたと思われる新機軸の中身について、考えてみよう。まず最初に指摘すべきは、今日のイノベーションをめぐる環境が変化し、新たな形を取るようになってきたという認識である。それはなによりも、「かつては敵対的であった関係が相補的にというよりも、むしろ共生的なものに次第になってきている」21)ことである。それは以下の八つの項目に集約される。すなわち、第1 にユーザーと生産者の双方向性が強まったこと、第2 に知財の保護と公開という一面では矛盾し合う原理が並存していること、第3 に製造活動とサービスとの結合が進んだこと、第4 に学問分野でのマルチディシプリナリー(多数分野に跨る)な傾向が強まったこと、第5 に民間と公共との関係も同様に役割分担されるようになったこと、第6 に小企業と大企業との役割分担が今まで以上に明確になってきたこと、第7 に国家安全保障と科学研究の開放性との関係が新たに問われるようになったこと、そして最後にナショナル化とグローバル化の二重性が出ていることである。これらの相異なる諸傾向を剔出し、それらの対抗ばかりでなく、以下で詳しく見ていくが、その中にある共生(symbiotic)の芽を見つけ出したのは、この報告の核心であり、極めて鋭敏かつ優れたところである。
第1 の生産者とユーザーの双方向性だが、従来は前者がイノベーションにおいて主体であったが、今日では後者もまたそれに参画するようになってきた。たとえば半導体のデザインを顧客が独自に追加したり、好みの食品に特別の風味を顧客が付け加えたり、プラスチック分野ではウェブサイトで製品の改良を顧客が自由にできるようになってきた。ソフトウェアの分野ではもっと進んでいて、デザイン、開発、実行、サポート、グレードアップのあらゆる段階で参加できるようになっている。またオンラインでのオークションの開催などもある。こうしたシフトは生産者とユーザーのイノベーションの双方向性をもたらし、その共創(co-creation )を生み出している22)。また時間と空間の分離を克服し、時間短縮と空間圧縮を図るとともに、ライブとバーチャルを上手に組み合わせることができるようになった。それらの意味するものは、イノベーションを国が支援し、表彰する時代から、イノベーターが国を作る、イノベーター立国(a nation of innovators)の時代へと転換することでもある。
第2 の知財の保護はアメリカ社会にとってもっとも大事なものの一つで、発明家がその創造活動の成果から恩恵を受けるのを保証することを基本に据えてきた。それはとりわけスタートアップ時に大事だが、時代が急速に変化するので、知財化は宝庫であるとともに、反面、時間感応的(time-sensitive)なもろさをもったものでもある。そしてユーザーの共創や相互運用性(interoperability)といった要素は、これまでの知財保護戦略やそのモデルの持続を困難にしている。特に遺伝子情報(ゲノム)を扱う学問の発達においては多数分野に跨る集団的なコラボレーション(共同営為)が強まり、相互運用性を高めて、これまでの組織を継ぎ接ぎ的に利用せざるを得なくするので、オープンスタンダードが必要となる。その結果、パテントプール、データベースのオープンアクセス、オープンスタンダード、クロスライセンス、多数の相異なる法制下にあるパテントやそれらのハーモナイゼーション23)などを含む、保護と公開の二面での組み合わせと調整が必要になる。
第3 の製造活動とサービスとの関係だが、伝統的な考えでは製造工業の発達は農業の地位を低め、サービス産業の成長を促すと考えられていた(第一次産業→第二次産業→第三次産業)。
しかしこの考えは製造活動のこの間の深甚な変化を考慮に入れていない。というのは、従来はこれらを分離して考えてきたが、実は製造活動は次第に生産とサービスを不可分に結びつけるようになってきているからである。ソフトウェアは現在では製造活動の主要な部分になり、したがってサービスベースで進められる。OTA は「ソフトウェアは製造業とサービスを結婚させる。その理由は、貯蔵され、輸送される点では財だが、コンピュータープログラムは固定されたままであるという点ではサービスであるという、両面をもっているからである」24)といっている。これまでソフトウェアをサービスに分類していて、製造活動ではないとしてきた。だが実際はゼロックスは使用期限終了を表示するサービス機能をマシーンの中にインストールしているし、フォードもかつては壁に激突した際の車の安全性を知るデータを得るために、1 回に6 万ドルもかけて車を実際に壁にぶつけていたが、今ではコンピュータのシュミレーションを使って、わずか10 ドルで済ませている。またボーイングは777 のデザインをソフトウェアプログラムで行い、エンジニアはコンピュータ化された模型機で架空に飛ぶことができるし、ウオルマートは在庫管理用にミニチャア追跡装置を使っている。他方で、急速な技術の普及・伝播によって、先端製品ですら急速にコモディティ(一般商品)化してしまう。だからサービスをミックスさせて価値の階層構造を変え、収益の流れを変容させることにしている。たとえばGE エアクラフト、プラット・アンド・ホイットニー、ロールスロイス、ハネウェルエアクラフトといったジェットエンジンメーカーはエンジンと部品だけを売らずに、ジェット推進サービス全体を販売するようになった。その理由は、製品のライフスパン全体を通じるサービスの価値はオリジナル製品のそれの優に5 倍以上に達するからである。また無線業界では利益は装置からではなく、サービスから生じるようになった。そしてそのサービスも今やコモディティ化したボイスサービスではなく、データサービスが主力になっている。IBM は依然として世界的な巨大企業だが、その主力はIT サービスである。だから、製造企業は急速に製品の供給者―つまりモノづくり―からソリューションプロバイダーに変容し、そしてまたサービスを製品ラインの中に融合させている。したがって、今や競争勝利のためには、「低賃金と大量生産ではなく、カスタム化、柔軟性、スピード、そしてイノベーションが大事になる」25)。
第4 の確立されたディシプリンとマルティディシプリナリーな研究プログラムとの関係では、知の前進は歴史的にはそれぞれの個別専門分野での個人的営為によって多く生み出されてきた。しかし今日では、イノベーションは個別専門分野が交差(intersection)するところで頻繁に生じるようになってきた。たとえばナノバイオロジー、ネットワークサイエンス、生物情報学といったところである。医療技術の前進は生物学を物理学や数学や材料科学やソフトウェア工学と結びつけた。IT 分野でのイノベーションは固体物理学、化学、数学などの広範な科学分野での研究の上に打ち立てられたが、それが次第に社会科学分野にも及んできている。
だから問題は単一の専門分野への特化か多数の分野に跨る研究かということではなく、専門分野の交差するところで生まれるということは、各専門分野での専門技術を強化することが特に大事であることを物語っている26)。またイノベーションの性格の変化は各専門分野の先端でのコミュニケーションとコラボレーションを容易にし、学術、産業、政府を横断する組織化可能な新知識とラーニングネットワーク(学習ネットワーク)の構築を必要にする。だが学術の世界ではインターディシプリナリー(学際的)なアプローチを追求してきたが、大学での多分野に跨る努力はまだ不十分である。そこが問題である。
第5 の民間部門と公的部門との関係では、伝統的に民間主導で、政府は規制やインフラの構築や支援活動が中心だったが、今日では従来のレフリー役やシステムの規制者から脱却して、政府主導での積極的なイノベーションを生むべきだという声が強まっている。それは競争の加速化を図るため、民間と競争してプロセスイノベーションを進めるとか、国防や宇宙開発分野で新技術や新方向を開拓するとかである27)。特に民間部門がなかなか手を染めたがらない長期の戦略的なプロジェクトで、資本やリスクの高いものでは、政府の役割は重要である。インターネットやグローバルポジショニング(地球大での位置確定)はその好例である。
第6 の小企業と大企業との関係では、R & D 投資の75%は大企業によってなされているが、大企業が必ずしも新技術の源泉にはなっていない。その理由は、彼らが既存の製品ラインに焦点を当てがちなのに対して、小企業はラジカルなイノベーションに投資する傾向が強いからである。その結果、小企業は大企業の2 倍ほども科学的な研究に結びついており、そのパテントも大企業の2 倍ほども、上位1%に位置する高度にインパクトを有するパテントを保有している。だから小企業は高価値のイノベーションを生み出す上で生産的である28)。大企業と小企業との新しい相互依存関係の確立が期待されているが、それは垂直統合的なものではなく、相互依存関係の中でのコラボレーション関係を作ることが肝要で、イニシアルな研究開拓、ライセンスの供与、M & A、グローバルな下請化、熟達した専門技術、顧客への素早い反応などの要素に対する得手不得手に応じて、それぞれの役割を分担し、協力・提携することが求められている。その結果、技術的パートナーシップとコラボレーションが両者の間に育つようになる。
イノベーション経済にはイノベーションの増加とブレークスルーが必要で、それを大企業と小企業とが共同で担うことが良い。
第7 の知識に関する国家安全保障とオープン化との関係では、知識の最先端を維持し、タレントある人材を引きつけるには、グローバルな規模と範囲で仕事をしていかなければならない。しかしそれは、知が敵対勢力の手に入る危険や外国人留学生がリスクを引き受けない危険もあるので、公開と安全保障上の義務との間のバランスをどう取るかが決定的に重要になる。伝統的な開放政策によって、アメリカの科学技術(S & E)労働者の3 分の1 が外国生まれだったが、新移民法によって2004 年には32%下がり、ビザの発給を拒否された外国人留学生は35%にも上った29)。さらにイノベーターや科学者やエンジニアが本国に帰国する頭脳還流も進み出した。それをくい止めて、両者のバランスを取り戻すことが課題になる。
第8 にナショナリズムとグロ−バリゼーションの関係だが、アメリカは自国のイノベーションのみならず、他国のイノベーションも大いに歓迎するが、それをグローバルな推進に役立てるウィンーウィンゲームにしていくことが肝要である30)。そしてこうした情況の下で、アメリカはどうしたらこのゲームを勝ち抜き、競争力を高めながらも、同時に世界に対して能動的かつ共同的な役割を果たしていくことができるかが、焦点になる。
以上をまとめてみると、以前なら二律背反的にみえたこれらの傾向が、現在は同時的かつ両立可能なものとして眼前に現れてきている。そしてこれらの共生に成功することによって、アメリカは21 世紀の経済的なリーダーシップを確立することができると、楽観的な締めくくりをしている31)。ここで出てきたキーワードを集約すれば、イノベーション、インターセクション、コラボレーション、マルチディシプリナリー、インターオペラビリティ、それに共生的(symbiotic)、ならびに共創(co-creation)といったところになろうか。これらについては次節で評価を交えて論じて見よう。その前に、政策提言について触れてみるべきだったが、紙数の関係上、それを要約した第1 表を示すことで検討に代えたい。 
5.「イノベートアメリカ」の評価 / 矛盾・対抗・相反から総合・調和・共生への道
これまで「イノベートアメリカ」の基本思想とそれが出されるようになった時代的背景、そしてその中心的な新機軸について概説してきたが、最後にそれらについての全体的な評価を下してみよう。この報告書は題名どおり、イノベーション一色であるが、それは、イノベーションこそがアメリカの生命線であり、またこれまでの目を見張るばかりの成長と、その上での世界のリーダーシップを維持してきた核心だと、強く信じているからである。したがって、「アメリカがイノベーションをやめれば、アメリカでなくなる」32)とまで言い切っている。そこで、まずはそれほどまでに重視しているこのイノベーションのとらえ方に関して考えてみよう。イノベーションとは、この報告書によれば、上流から下流へといった線形的に生じるものでも、自然にかつ機械的に起こるというものでもなく、経済的・社会的・技術的構成要素の多面的かつ継続的な相互作用と不断の営為によって起こる一つの生態系(ecosystem )33)だとしている。
したがって、研究→発明→商業化といった手順を自然に歩むものではなく、そこには多くのフィードバック機能の発揮や知的活動の連鎖が内在している。だから生態系とはイノベーションの最適化を表すモデルだが、それは投入される供給要素ばかりでなく、市場の需要条件や政策環境や国家インフラといった外部要件をも合わせ持った、全体的かつ有機的なものである(第1 図)。イノベーションを一つの生態系として考えるこの見方は、それを一種の生命体のように扱い、実際の過程に即して柔軟かつ総合的に、しかも発展していく運動体とも考えていて、極めて現実的なモデル装置になっている。その点では、イノベーションの歴史を回顧して、商品開発における研究・開発→製造→販売というリニア型で捉えて、自社の技術力というシーズに依拠した第1 世代、マーケティングの手法を活用して、顧客のトレンドや潜在ユーズを分析して開発に利用した第2 世代、さらに1990 年代に入って、複雑なマーケティング手法を使っても商品がヒットしなくなり、逆に思わぬものが大爆発したりといったことから、心理的ベネフィットに基づくセグメント分析などを活用した第3 世代に続く、「コラボレーティブ・イノベーション」もしくは「オープンイノベーション」とでもいうべき第4 世代のイノベーションモデルだと、この「イノベートアメリカ」の主張を位置づけた芦辺洋司氏の指摘34)は、経営学サイドからの注目すべき解釈であり、十分に検討に値するものである。というのは、共同営為と共創に注目し、そのためにはオープン化して、相互運用性を活用することが時代の流れであると認識しているからである。
このようにイノベーション概念を新しく、柔軟に、包括的に解釈して、それをいわば生命体として、社会的な総体の中に位置づけたのが「イノベートアメリカ」のユニークさであり、また優れた点だが、それは、一般にイノベーションをプロダクトイノベーション、プロセスイノベーション、ビジネスモデルイノベーションの三種類に分類したり35)、あるいは基礎、応用、開発に形式上分けたりといった、従来の機械的で静態的な分類法の限界を突破するブレークスルーである。すなわちイノベーションを生み出す要素に立ち入り、しかもそれを一方向的なものではなく、両方向性をもったものとして、柔軟に扱い、またそれが相互運用を通じた集団的・共同的営為の産物として、共創されるものだとしているのは、21 世紀におけるイノベーションをめぐる状況の変化に対応していて、イノベーション概念を新たな段階にまで引き上げたクリーンヒットである。とりわけ、イノベーションをめぐる相異なる二傾向を剔出し、それぞれの存在根拠を明らかにしたうえで、かつそれがどう調整されていくか、あるいはどう克服されていくかまでを明らかにしているのは、出色である。ここで俎上に乗せられている八つの項目はそれ自体非常に面白いと同時に、その解決策も簡単には見つからないほどに、相反し、矛盾し、対抗し合ってきた厄介な問題でもある。それを統合と調整と調和の可能なものとして扱っている。つまりは相対立し、相対抗し、矛盾し合う二傾向の中に、同時にそれを克服し、総合していく新たな芽―契機―を見ていて、それは科学的に正当な着眼点であり、同時に洞察力に富んだ論理方法だといえよう。ただし問題はその解決法方向とされるものの是非である。それらについて次に考えてみよう。
まずユーザーと生産者の双方向性だが、これは現実の過程でも大いに進行しているところであり、相互に転化し合う契機に確かになりうるだろう。事実、生産者がユーザーになり、ユーザーもまた生産者になる―それをプロシューマーというが36)―ことによって、消費者の満足がいく製品を生み出して、イノベーションを加速させることになっている。しかしそうした結果、一体誰が全体の生産を統御し、その方向の指令を行っていくのかということになると、報告書はそれを自明の理として企業サイドにおいたままである。それほどに現実には生産ならびに販売を担う企業の力は巨大であり、ユーザーは事実上片隅に追いやられ、せいぜいがその補完的な役割を果たすに過ぎないのが、現状である。しかし、果たして将来もそう有り続けるのだろうか。というのは、生産と消費を単に対立的な契機としてばかりでなく、相互に転化可能なものとして、総合化―つまりはジンテーゼーを用意するのであれば、そこにはすでに両者の対等な関係が論理的には想定されているからである。事実、ユーザーの力が大きくなってもそれが反映されないと、イノベーションは実際には進まないことになる。現実には生産の中心に位置している企業の力は巨大であり、絶対的にすら見えるが、それをどう節度あるものにしていくか、あるいはその過剰なパワーの行使をどう制御できるかといった課題が、突きつけられてくる。それには多数ながらも、受動的な立場に追いやられがちな弱い消費者の声を拾い上げ、組織化していく上で果たすべき、政府や自治体の役割が大事になる。事実、企業の独占化への掣肘を生み出したのは、労働者や消費者や小企業の集団的な力であり、その上に立って、政府や行政が行司役を果たしたからである。そうした意味では、これには次の段階における政治過程への上向とそこでの運動の帰趨が用意されてくるだろう。
次に知財の保護と公開という二契機も、両者ともに大事な要素であり、その解決は両者のほどよい妥協・調整というハーモナイゼーションによってなされてきた。私的所有の絶対視という条件を外さないのであれば、それに抵触しない範囲内での解決ということになるが、事実上は私的所有の方に大きく傾くことになるのが自然である。もちろんそうした解決策も一時的には可能だろうが、問題はパブリックドメインと知識の私的所有、つまりは知財化が生み出す途方もない冨とその分配の格差の問題や、それを維持しようとする側とそれをストップさせようとする側との間の際限のない争いが続くことである。だがこれを現状維持で済ませずに、そこからの止揚をもたらす契機がどう育っていくかを同時に見ていくと、事態は別様に見えてくるはずである。というのは、パブリックドメイン化をくい止めて、私的所有の枠内に閉じ込める期間を長くすれば、極めて高価になり、多くの人々にとって事実上利用不能になるからである37)。その点では報告書は実際には、諸原理の相互運用に基づくコラボレーションによる共創(co-creation)の可能性を認め、それが広がっていくことを容認している。しかしそれが共同所有に導かず、パブリックドメインにもならず、取得形態の私的所有に拘泥するのは、果たしてどうか。それが巨大な冨を生み出すからなのであろうか。私企業の絶対視というアメリカ社会に深く打ち込まれた楔を動かすことができない以上、こうした結論になるのだろうが、それでは矛盾の克服でも総合化ージンテーゼーでもない。解決の一時しのぎになり、将来に先送りしているだけである。
製造過程へのサービスの混入と両者の統合化も一筋縄ではいかない。そのことを指摘したことは、確かにこの報告書の鋭敏さを示しているが、製造企業のサービス化、製造業から知識産業への転化はスムーズなことではない。単に商品を作るだけでは激烈な競争に勝ち残っていけないという悩みは、その脱出路を探ることになるが、それは企業の戦略に属することであって、それがただちに産業の必然的な発展を表しているわけではない。ハードからソフトを組み込んだものに、そしてさらには他のソフトとの統合が可能な共通のスタンダードで結ばれた統合型の製品になることは、消費者としては便利であり、望むところだろうが、全ての商品がそうならなければならないとはいえないだろう。その反対のネットワークからの切断や単一スタンダードを忌避するカスタム化を志向する向きもあろう。しかもそうして生まれた付加価値なるものを価格に上乗せして高価にすること、あるいはそれをブランド力と結びつけて信頼性を確立し、競争優位の武器に使おうとしていること、これらは果たして常に認められる正常な姿であろうか。しかもそれを正当化しようとして、「サービスサイエンス」なるマルチディシプリナリーな学問体系をすら作り上げようとしている。学問が多数の分野に跨るところから、多原理的で、複合的で、総合的なものになっていくのは、それ自体としては認められる。しかしそれによって、自立化できるかどうかは実は学問自体における科学的な研鑽・検証が必要であるばかりでなく、実際の生活レベルにおいても、その方が便利で、かつ有効であることが証明されなければならない。それにはかなりの時間の経過という懐妊期間が必要であり、早急には結論は出せない。その意味では学問が多部門に跨って複合的になり、したがって多原理的、多元的になっていくのを表すのはマルチディシプリナリーだが、既成学問の裂け目、境界線を問うのはインターディシプリナリーであり、学際的といわれている。学際的な領域は当然に多原理的・多元的になるから、やがてはマルチディシプリナリーになるであろう。しかしそれだけでよいのだろうか。その上でディシプリン間の位置関係を決めないと、体系的で総合的にならず、そしてそれ固有の本来の位置にも座らない。したがって、いつまでも現実を再構成できなくなる。それは企業戦略が最初にきて、学術・科学がそれに追従するというものではない。双方からの付き合わせが必要になる。
公と民、大企業と小企業の話は、それぞれの役割分担を考えるべきだという意味では、総合化されるのではなく、相互補完関係が基本的な傾向になる分野である。とはいえ、それらは論理上の問題ではなく、実際上の問題として立ち現れるので、政治過程としてのパワーゲームがそこでは支配している。とりわけ小企業の果たしている現実的な役割は極めて大きく、かつ重要である。中小企業の裾野が大きければ大きいほど、その国の国民経済の層が厚く、豊かで、大きな潜在力を抱えていることになる。それはそれぞれの国の歴史的な発展を反映していて、他国のクラスターで賄える程にはたやすくない。したがって、効率性の観点からその育成を無視したり、軽視したりせず、政府や自治体はこれらの創意に満ち、野心的で、小回りがきき、スピーディな小企業をどう育成し、助成していくかを真剣に考え、適切な政策を実施していくべきである。その上での大企業との棲み分けを考えるのが、本道である。その意味では政府の政策に帰属する問題である。
しかし、ナショナリズムとグローバリズム、国家安全保障と科学の公開制に関してはそうはいかない。アメリカはこの両者を統合させようとして、そのバランスに苦心してきたが、それはアメリカが覇権国であるからで、世界にアメリカ的な原理を押しつけるのをそれ自体として展開すれば反発を招くことになるので、世界性、普遍性を表面に押し出すと同時に、自らの国益をその中で守ろうとしてきた。だが衣の下の鎧が透けて見え出すと、この術策は通用しなくなる。アメリカ以外の国がその国益にしがみつこうとしているのは、グローバリゼーションが進んでいる中では一見、奇妙に見えるかも知れないが、覇権国の掲げるグローバリゼーションという御旗からの攻勢を受け続けると、防御手段としての意味をナショナリズムは持ちうる。
だからナショナリズムはなくならないともいえる。それは世界が一つになり、世界市民にでもならない限りは解決できない問題である。だから、覇権国特権に寄りかかりすぎれば、それは世界中の怨嗟の的になる。それを心得たうえで、はなはだ中途半端だが、ナショナリズムとグローバリズムのバランスを取りながら、あるときは後者を強く打ち出し、またあるときは前者に配慮するといった案配で、最終的にはアメリカ風のグローバリズムを貫徹して、自国の国益を貫こうとしてきた。だがそれは覇権国の持つグローバリズムであり、それに仮託したナショナリズムであって、やがてはその真相に世界が気づくと、そこからの脱却を求めるようになろう。ここからのジンテーゼは覇権国特権の剥奪なしは最小化以外にはないだろう。
これらが報告書の提示した八項目だが、実はそこには入っていない重要な問題がある。それは平和と軍事との関係であり、イノベーションを支える科学・学術研究が真に平和的な世界の構築に使われるのか否か、という問題である。それは覇権国としてのアメリカの安全保障の枠では解けない重たい問題である。それについては一切触れず、アメリカの国家安全保障の観点との関係でしかイノベーションを論じていないのは、著しい片手落ちといわざるを得ないだろう。しかしその付けを必ず後世は払わざるを得なくなる。イノベーションが経済を前進させる最も重要な要素であり、アメリカの命であるなら、その基礎になる科学・学術はけっして戦争に奉仕してはならないだろう。いわんや他国への侵略の手段に使われるのは絶対に避けなければならない。そうしないと、科学・学術・技術を間に挟んで、経済と軍事がドッキングすることになり、本来のイノベーションの意味から乖離してくことになる。こうした矜持を持つことは、覇権国の務めではないだろうか。
さてこれらからどんな結論を引き出せばよいか。この「イノベートアメリカ」がきっかけになって、21 世紀に入ってから、先進各国は新しいイノベーション戦略の策定に狂奔している。
なるほど、成長を達成するにはイノベーションが必要だし、それには学術・科学の振興と人材の確保と体制整備と予算確保が大事になる。そのためのビジョンと国家戦略を作り上げなければならないという点は共通している。お互いが競い合って一大運動となるばかりでなく、相互に刺激し合って、やがてはグローバルな相互運用による共創が生み出され、そして相互の調整と共生が図られる時代が来ることを予感させる。しかしそれは自己満足的なものでも、自己中心的なものであってもならないだろう。マルチディシプリナリー、インターオペラビリティ、コラボレーション、コクリエーション、シンバイオティックという言葉を並べるーそれに「ユビキタス」という、日本風の情報化社会のビジョンを表す言葉を加えても良いがーと、そこに明るい未来が浮かんでくるような錯覚にとらわれる。だが実は共同利用、共同作業、共同営為に向かっているのは、あくまでも知的創造活動における実際の労働過程のレベルだけであって、その成果である共創の取得は相変わらず企業という一見公的な形式を使った、特定の少数者の私的占有の範囲を出られないというのでは、それは共生的で調和ある社会を作り出さないし、もっと対立的で敵対的な方向へと矛盾を深めていくことになりかねない。その懸念が筆者の評価であり、当面のここでの結論でもある。  

1)この過程について詳しくは関下稔『日米経済摩擦の新展開』大月書店、1989 年、第5 章参照。
2)President’s Commission on Industrial Competitiveness、 Global Competitiveness The New Reality、2 volumes、 January 1985、 G.P.O. これに関しては筆者は『日米経済摩擦の新展開』前出、ならびに同『競争力強化と対日通商戦略―世紀末アメリカの苦悩と再生―』青木書店、1996 年において、詳しくその内容を検討した。
3)一般的にはCouncil on Competitiveness の邦訳語としては「競争力評議会」と「競争力協議会」の双方が使われているが、筆者はすでに『日米通商摩擦の新展開』や『競争力強化と対日通商戦略』等の著作において、「競争力協議会」という邦語を当ててきたので、今回も引き続きそれを踏襲する。
4)ここではそれらを丁寧に跡づけた日本政策投資研究所のレポートによって列記してみると、以下のようになる。
  @ America’s Competitive Crisis: Comfronting The New Reality、1987.
  A Picking Up The Pace: The Commercial Challenge to American Innovation、1988.
  B Gaining New Ground、Technology Priorities for American’s Future、1991.
  C Industry as a Customer of the Federal Laboratories、1992.
  D Critical Technologies Update、1994.
  E Endless Frontier、 Limited Resources: U.S.R&D Policy for Competitiveness、1996.
  F Going Global? The New Shape of American Innovation、1998.
  G The New Challenge to America’s Prosperity -Findings from the Innovation Index-、1999.
  H U.S.Competitiveness 2001: Strengths、Vulnerabilities and Long-term Priorities、2001.
  I Clusters of Innovation National Report、2001.
  J Innovate America、 Thriving in a World of Challenge and Change、2004.
日本政策投資銀行新産業創造部、ワシントン駐在事務室「産業競争力強化に向けた米国動向と日本の課題―『パルミサーノレポート』等米国次世代技術戦略と日本の対応−」日本政策投資銀行『産業レポート』Vol.14.平成17 年6 月、7 頁。なお筆者はこのうちの@とAに関して、前出の『競争力強化と対日通商戦略』において、詳しく検討した。
5)上の「イノベートアメリカ」を含むこのサミットの主要内容を盛り込んだものは “Innovate America、”National Innovation Initiative Summit and Report、 May 2005. として Council on Competitivenessから改めて出版されている。なお「国家イノベーション先導戦略」(NII)という、こうした大々的なキャンペーンを進める共同議長としてサミュエル・J.パルミサーノ(IBM 会長兼CEO)とG.ウェイン・クラフ(ジョージア工科大学学長)が当たっており、日本などではこのレポートを前者の名を取って通称「パルミサーノレポート」と名付け、センセーショナルに取り扱ってきたが、本稿ではそれを使わずに、「イノベートアメリカ」のままにしておく。その理由は、NII を進めるためのレポートをまとめたのは産学 双方の共同の力であって、産業界―ましてやIBM ーからの一方的な努力の産物ではないからで、それを反映させるには「イノベートアメリカ」のままの方が適切だと感じられるからである。ただし、その内容が情報産業への脱皮を図るIBM の企業戦略と相似的な方向をもち、基本思想を多く共有していることも事実で、後に詳しくその内容に触れるが、パルミサーノがIBM の21 世紀戦略として、そうしたことを謳った論文The Globally Integrated Enterprise を Foreign Affairs 誌2006年5 / 6 月号に掲載して、大きな反響を生んでいる。そうしたことから、かつての「ヤングレポート」に擬えて、これを「パルミサーノレポート」と呼んで大いに関心を高めようとしているのであろう。その意味では通称「パルミサーノレポート」と呼ぶのも一理ある。
6)その中では佐々木高成「米国の競争力強化への取り組みー人材育成に関する最近の産業界と政府の試みー」、『季刊 国際貿易と投資』Summer 2006、 No.64. では興味ある指摘がいくつかなされている。また福田佳之「イノベーション重視に舵を取る米国の経済戦略」東レ経営研究所「TBR 産業経済の論点―米国競争力協議会「Innovate America(パルミサーノ・レポート)」の狙い」No.05-05、 2005 年3月31 日は、このレポートの内容を的確に要約している。
7)製造業のサービス化を謳った「イノベートアメリカ」の思想を「モノづくりからコトづくり」、つまりは「モノをコアにしたサービス」への展開だと鋭敏に見抜いた東芝研究開発センター(内平直志、京屋祐二、Sun K. Kim、前田勝弘、小沢正則、石井浩介)のスタッフによる共同報告「製造業のサービスの分類法と事例による企画設計支援」The 21st Annual Conference of the Japanese Society for Artificial Intelligence、2007. は、東芝とスタンフォード大学の共同研究の成果と思われるが、製造業のサービス化を「モノ(製品)を媒介として顧客と企業(製造業)が一緒に価値を創造するプロセス」と定義し、「モノビス(=モノ+サービス)」と名付けている。興味ある指摘である。
8)「文化の経済化」とその反対の「経済の文化化」の双方向での、広く文化領域が資本主義的ビジネスとその原理の中に包摂されていく状況に関しては、関下稔『国際政治経済学の新機軸―スーパーキャピタリズムの世界―』晃洋書房、2009 年で詳しく論じた。
9)「サービスサイエンス」は2007 年8 月9 日に成立した「米国競争力法」(America Competes Act)のセクション1005 において明確な定義が与えられている。また安部忠彦「『サービスサイエンス』とは何か」富士通総研(FRI)経済研究所『研究レポート』No.246、 December 2005. はその内容を論じている。
10)Manufacturing in America: A Comprehensive Strategy to Adress the Challenges to U.S. Manufactures、U.S.Department of Commerce、 January 2004、 G.P.O. ならびにAmerican Competitiveness Initiative (ACI)、 January 31、 2006.
11)たとえば、American Electronics Association、 Losing the Competitive Advantage?: The Challenge for Science and Technology in the United States、 Washington、DC、2005. またはCommittee on Prospering in the Global Economy of the 21st Century: An Agenda for American Science and Technology、 National Academy of Sciences、 National Academy of Engineering、 and Institute of Medicine、 Rising Above the Gathering Storm: Emergizing and Employing America for a Brithter Economic Future、 Washington、 2005.
12)さしあたり、「米国技術動向報告〜第110 議会・米国競争力法〜」JST 研究開発センター、2007 年8月(Rev.1)が参考になろう。
13)Council on Competitiveness、”Innovate America、” National Innovation Initiative Summit and Report、 op.cit.、 p.37.
14)詳しくは関下稔『日米経済摩擦の新展開』前出、第2 章、参照。
15)これを筆者は「体制的従属国」と規定した。詳しくは関下稔「オバマ政権の新外交戦略と日米同盟―スマートパワー・戦略的パートナーシップ・体制的従属国―」『立命館経営学』第48 巻、第4 号、2009 年11 月、参照。
16)「グローバル原蓄」の規定と内容に関しては、関下稔『国際政治経済学の新機軸―スーパーキャピタリズムの世界―』前出、2009 年、参照。
17)今日のグローバリゼーションの進展は、それを進めるイデオロギーとしては、覇権国による上からのアメリカングローバリズムと、ある意味ではそれに対抗的な、ローカルな場に基礎をおいたグローカリズムの、二様の形を取ってそれぞれに競い合うという構図に関しては、関下稔『国際政治経済学の新機軸』同上、参照。
18)詳しくは関下稔『現代多国籍企業のグローバル構造―国際直接投資・企業内貿易・子会社利益の再投資―』文眞堂、2002 年、第12 章、ならびに関下稔『国際政治経済学の新機軸』前出、第3 章を参照。
19)詳しくは関下稔『多国籍企業の海外子会社と企業間提携―スーパーキャピタリズムの経済的両輪―』文眞堂、2006 年、ならびに同『国際政治経済学の新機軸―スーパーキャピタリズムの世界―』前出、参照。
20)Samuel T. Palmisano、 The Globally Integrated Enterprise、 Foreign Affirs、 May/June 2006、 p.133.
21)Council on Competitiveness、 “Innovate America、” National Innovation Initiative Summit and Report、 op.cit.、 p.40.
24)Congress of the United States、 Office of Technology Assessment、 Paying the Bill: Manufacturing and America’s Trade Deficit、 June 1988、 p.54.
25)Council on Competitiveness、 “Innovate America、” National Innovation Initiative Summit and Report、 op.cit.、 p.42.
34)芦辺洋司「コラボレーティブ・イノベーションのすすめ」『キーワードで読む経営塾』
35)三澤一文『技術マネジメント』日経文庫、2007 年。
36)アルビン・トフラー+田中直毅『「生産消費者」の時代』日本放送出版局、2007。もっともトフラーがプロシューマーという言葉を使い出したのは、『第3 の波』徳岡孝夫監訳、中公文庫、1982 年、第20 章、からである。
37)この点ではミッキーマウスの肖像権をめぐる法廷闘争が一つの典型を示している。この裁判に参加したローレンス・レッシグ教授の著書『コード』山形浩生・柏木亮二訳、翔泳社、2001 年が参考になろう。 
 
2010 年の世界の外為市場における取引の諸特徴

 

はじめに
BIS は2010 年9 月1 日に2010 年4 月の世界53 ヵ国における外国為替取引に関する暫定値を公表した。それに呼応して20 以上の各国中央銀行がそれぞれの国の外国為替取引についての統計値を公表した。小論は、それらの統計値1)をもとに2010 年4 月時点でのドル、ユーロ、円、ポンド等の諸通貨の基軸通貨、国際通貨の地位を明らかにするとともに、いくつかの特徴点を示そうとするものである。
とくに、以下の諸点について新たな特徴がみられる。第1 に、ロンドン市場は世界で最も大きなハブ市場であるが、直物、スワップを問わずヨーロッパ諸通貨との取引が相対的に少なく、「ドル圏」に属している諸通貨との取引が相対的に多い。このことから、ロンドン市場においてはユーロの地位が低くみられる可能性がある。ユーロの地位については他のヨーロッパ諸市場の取引状況を踏まえて把握する必要があろう。
第2 に、前稿2)においてロンドン市場におけるユーロとポンド、円、スイス・フランとの間の短資移動、短期資金調達に伴うスワップ・コスト、諸金利差の分析を行なったが、以下でみるヨーロッパのいくつかの外為市場においてユーロとヨーロッパ諸通貨のスワップ取引がかなり進展している。このことは、スウェーデン・クローナ、デンマーク・クローネ、チェコ・コロナ、ポーランド・ズロティなどがユーロとの間で金利裁定取引および短期資金調達等が日常的に行なわれていることを示すものであろう。ユーロの地位についてより正確な見方をとる必要があろう。
第3 には、BRICs の諸通貨の取引を小論において示すことが出来た。人民元、ときにはルーブルの国際化(国際通貨化)が主張されることがあるが、これらの通貨の取引額は近年増加してきていることは事実であるが、先進各国の諸通貨の取引額と比べるとはるかに少ない。人民元等の国際通貨化の議論はこれらの事実を踏まえて行なわれなければならない3)。
第4 には、円とオーストラリア・ドル、ポンドとの直接交換が一部の市場で少し増加しているが、円が為替媒介通貨としての地位を得るにはまだ遠い状況である。
その他の諸特徴については、小論の該当する箇所において触れよう。なお、BIS の統計値は暫定であり、2010 年11 月により詳細な確定値が公表されることになっているので、筆者も必要ならば引き続き検討していきたい。さらに、小論では煩雑になるのを避け、カナダ市場、メキシコ市場、ベルギー市場、ノルウェー市場、ブルガリア市場などのいくつかの国の統計値の掲載を割愛したこと4)、香港市場、ドイツ市場については十分な統計値が得られなかったことを記しておきたい。 
T、2010 年4 月における世界の外国為替取引―BIS(暫定値)の全体像
世界の53 ヵ国の2010 年4 月における外国為替取引(直物、アウトライト先物、為替スワップ以外に通貨スワップ、オプション等のデリバティブを含む)の総額は3 年前の3 兆3240 億ドル(1 日平均、以下も同じ)から3 兆9810 億ドルに増大した。約20%の増大である。直物、先物、為替スワップの3 つの取引に限定すると、取引額は2007 年4 月の3 兆810 億ドルから2010 年4 月には3 兆7300 億ドルに増加している(第1 表)。その増大のほとんどは直物取引で3 年前と比べて485 億ドルの増加である。
取引機関では、対非報告金融機関(非報告銀行とその他の金融機関―ヘッジファンド、年金基金、投資信託、生命保険等)の取引が2010 年には大きな比率を占めるようになった。直物で初めて対報告金融機関を上回り、07 年の39%から10 年には51%に、先物では04 年にすでに対報告金融機関を上回っていたが、10 年には54%になっている。また、為替スワップでは10 年に43%と対報告金融機関の47%に迫っている(第2 表)。世界の主要国での機関投資家化が一層大きく進展して、世界の主要機関投資家が多様な通貨で種々の金融取引を大規模に行っていることが反映している。また、表としては示していないが、クロスボーダー取引が全世界で65%になり5)、取引がますますグローバル化している。
BIS の暫定的な統計から、さらにいくつかの指標を挙げていこう。53 ヵ国の全ての取引(直物、先物、スワップ以外に外為関連のデリバティブを含む)における各通貨の比率が第3 表(全体で200%)に示されている。84.9%がドルを一方となる取引、39.1%がユーロを一方とする取引、19.0%が円を一方とする取引、12.9%がポンドなどとなっている。注目すべきことは10年になってオーストラリア・ドルがスイス・フランを追い越していることである。07 年に前者は6.6%、後者は6.8%であったが、10 年にはそれぞれ7.6%、6.4%になっている。その他の通貨で注目しておくべきことは、カナダ・ドルが5.3%、韓国・ウォンが1.5%に伸び、さらに、インド・ルピーが0.9%、ロシア・ルーブルが0.9%、ブラジル・レアルが0.7%に比率を高めているが、人民元は07 年の0.5%から10 年には0.3%に比率を下げている。
次に、各通貨の取引6)のペアでは(第4 表)、ドル/ ユーロが28%(1 兆1010 億ドル)、ドル/ 円が14%(5680 億ドル)、ドル/ ポンドが9%(3600 億ドル)、ドル/ オーストラリア・ドルが4%(2490 億ドル)、以下、ドルとカナダ・ドル、スイス・フランがそれぞれ5%、4%となっている。ユーロについては、ユーロ/ 円、ユーロ/ ポンドが3%(1110 億ドル、1090 億ドル)、ユーロ/ スイス・フランが2%(720 億ドル)、ユーロ/ スウェーデン・クローナが1%(350 億ドル)、ユーロ/ その他7)が3%(1020 億ドル)などとなっている。ちなみに、ドル/ インド・ルピーは360 億ドル(1%)、ドル/ 人民元は310 億ドルで1%、ドル/ ブラジル・レアルは260 億ドル(1%)、また、円/ オーストラリア・ドルは240 億ドル(1%)、円/ その他は490 億ドル(1%)になっている。
さらに、各市場規模8)を見ると(第5 表)、ロンドン市場が1 兆8536 億ドルと最大で、次いでニューヨーク市場の9044 億ドル、かなりの差を伴いながら3 位に東京市場(3123 億ドル)、4 位がシンガポール市場(2660 億ドル)、5 位がスイス市場(2626 億ドル)、6 位に香港市場(2376億ドル)、7 位がオーストラリア市場(1921 億ドル)で、ユーロ地域では8 位にフランス市場(1516億ドル)、ドイツ市場は10 位の1086 億ドル、非ユーロ・EU 地域のデンマーク市場が9 位の1205 億ドル、スウェーデン市場の448 億ドルなどとなっている。
上記以外のアジアでは、韓国市場が13 位の438 億ドル、インド市場が274 億ドル、中国市場が198 億ドル、台湾市場が180 億ドルなどとなっている。ちなみに、ロシア市場は417 億ドル(14 位)、ブラジル市場は142 億ドルとなっている。
BIS の今回の統計値は暫定値であり、53 ヵ国市場の世界全体における直物、先物、スワップなどに区分された諸通貨の取引状況は把握できない。そこで、各国中央銀行が公表した資料から各市場の諸特徴を明らかにしていきたい。 
U、環太平洋地域におけるドルの為替媒介通貨機能
環太平洋地域(アジア、太平洋地域、南北アメリカ)においてはドルがほとんど唯一、為替媒介通貨として機能している。第6 表にアメリカ(ニューヨーク)市場における外国為替取引(外為関連デリバティブは除外)の状況が示されている(原資料では2010 年4 月中の取引額が示されているが、第6 表では1 日平均の取引を示した―同月の営業日数は22 日)。
直物取引では、全体(4511 億ドル)のうち83%(3750 億ドル)が、ドルを一方とする取引であり、ドル/ 円の取引(619 億ドル)はユーロ/ 円の取引(183 億ドル)の3.4 倍、ドル/ ポンドの取引(416 億ドル)はユーロ/ ポンドの取引(133 億ドル)の3.1 倍となっており、スイス・フランではその倍率は1.6 倍、スウェーデン・クローナでは0.6 倍、カナダ・ドルでは20.3 倍、オーストラリア・ドルでは26.5 倍などとなっている。以上のように、ニューヨーク市場ではユーロが一方となる直物取引は、後に示すイギリス(ロンドン)市場における取引よりも比重が低く、カナダ・ドル、オーストラリア・ドルが絡む取引ではユーロは為替媒介通貨としての機能をもっていないといえよう。なお、円/ オーストラリア・ドルの取引額が22 億ドルにのぼっていることに一瞥しておこう。
スワップ取引では全体(2550 億ドル)のうち94%(2400 億ドル)が、ドルを一方とする取引であり、ドル/ 円の取引はユーロ/ 円の取引の92 倍、ドル/ ポンドの取引はユーロ/ ポンドの取引の12 倍などとなっており、ドル/ ユーロ以外の諸通貨の取引(1703 億ドル)はユーロ/ドル以外の諸通貨の取引額(124 億ドル)の13.7 倍になっており、短資移動に伴う為替取引(スワップ)はほとんどがドルを一方とするものになっている。
次は、日本(東京)市場であるが(第6 表―4 月の1 日平均取引額)、直物では全体(1015億ドル)のうち73%がドルを一方とする取引であり、ドル/ 円の取引(546 億ドル)は全直物取引額の53.8%にも達している。次が、ドル/ ユーロの取引(109 億ドル)、ユーロ/ 円の取引(107億ドル)であり、それぞれ10.8%、10.5%となっている。円/ ドルとユーロ以外の諸通貨の取引は129 億ドルにとどまり、円の為替媒介通貨機能はほとんど見られない。ただ、円/ オーストラリア・ドルの取引額(48 億ドル)が、ドル/ オーストラリア・ドルの取引額(25 億ドル)を上回っており、また、円/ ポンドの取引(44 億ドル)が、ドル/ ポンドの取引(28 億ドル)を上回り、円とオーストラリア・ドル、ポンドとの交換では部分的に直接交換が行なわれている9)。さらに、東京市場におけるドル、円を除く諸通貨とユーロの取引(23 億ドル)は低位であり、ユーロの為替媒介通貨機能は見られない。
スワップ取引では、ドル/ 円の取引(1175 億ドル)が全体(1683 億ドル)の70%を占め、円を除く諸通貨とドルの取引(363 億ドル)は全体の22%で、あわせて91%になっている。ユーロ/ 円の取引は73 億ドル(4.3%)にすぎなく、円/ オーストラリア・ドルの取引も20 億ドル(1.2%)でやや増加してきているとはいえ、ドル/ オーストラリア・ドルの取引(54 億ドル―3.2%)の半分以下である。東京市場においてドルが絡まない諸通貨間の短資移動が頻繁に行なわれているとは言いがたい現状である。
次はシンガポール市場(第7 表)である(これは2010 年9 月1 日にMAS が公表したものではなく、Singapore Foreign Exchange Market Committee が半期ごとに公表しているもので2010 年7 月26 日の公表である―原表は4 月中の額が示されているが、小論では4 月の1日平均で表示、営業日数は21 日)。直物ではドルが一方となる取引は732 億ドルで全体(945億ドル)の77%と東京市場と同様に高い比率を占めているが、ドル/ シンガポール・ドルの取引が75 億ドル(8%)で、ドル/ ユーロが215 億ドル(23%)、ドル/ 円が93 億ドル(10%)、ドル/ ポンドが89 億ドル(9%)、ドル/ オーストラリア・ドルが60 億ドル(6%)、ユーロ/円が36 億ドル(4%)、ユーロ/ ポンドが28 億ドル(3%)、円/ ポンドが14 億ドル(2%)などと東京市場よりも多様な通貨での取引が行なわれている。シンガポール市場が準ハブ市場としての1 面を有しているといえよう。しかし、シンガポール市場においてユーロが為替媒介通貨機能を果たしているとは言いがたく、ドルが唯一の為替媒介通貨として機能しているといえよう。スワップ取引ではドルが一方となる取引(993 億ドル)が全体(1036 億ドル)の96%になっており、ドル以外の諸通貨とユーロとの取引はきわめて少ない。
次に、Australian Foreign Exchange Committee が2010 年7 月26 日に公表したオーストラリアの統計を見ることにしよう10)(第7 表、1 日平均の額)。直物では、ドルが一方となる取引が462 億ドルで全体(597 億ドル)の77%である。そのうち、ドル/ オーストラリア・ドルの取引が137 億ドルで23%、ドル/ ユーロの取引が150 億ドル(25%)、ドル/ ポンドの取引が51 億ドル(8%)、ドル/ 円の取引が47 億ドル(8%)、ドル/ ニュージーランド・ドルの取引が25 億ドル(4%)、ドル/ カナダ・ドルの取引が19 億ドル(3%)などとなっている。また、ユーロ/ オーストラリア・ドルの取引が18 億ドル(3%)にとどまっているが、円/ オーストラリア・ドルの取引が15 億ドル(3%)にのぼり、ドル/ 円の取引の3 分の1 近くに達してきていることに注目をしておこう。スワップ取引ではドルを一方とする取引が1147 億ドルとなっており、全体(1174 億ドル)の98%にも達している。
以上のように、ニューヨーク市場、東京市場、シンガポール市場、オーストラリア市場においては11)、ドルが一方となる取引が直物で75%を越え、スワップ取引では90%以上となり、環太平洋地域ではドルが唯一の為替媒介通貨として機能していることが再確認できた。ドル、円を除く環太平洋地域の諸通貨(オーストラリア・ドル、カナダ・ドル、シンガポール・ドルなど)とユーロとの直物取引はさほど大きな額となっていなく、それら通貨からユーロへの転換に際しても、ドルが媒介になっていることが多い。また、円/ オーストラリア・ドルの直物取引がニューヨーク、東京、オーストラリアの各市場において一定額にのぼってきていることに一瞥しておこう。また、スワップ取引におけるドルの地位は圧倒的であることも再確認できた。 
V、ヨーロッパ地域における外為取引の状況
まず、最もグローバルな市場であるイギリス(ロンドン)市場について簡単にみよう(第8表12))。直物取引においてドル/ ユーロの取引(2261 億ドル)が全体(6423 億ドル)の35.2%になり、ドル/ ポンド、ドル/ 円もそれぞれ769 億ドル(12.0%)、674 億ドル(10.5%)と3つの通貨で全体の57.7%に達している。円を除く「ドル圏」の諸通貨(オーストラリア・ドル、カナダ・ドル、ニュージーランド・ドル、メキシコ・ペソ、シンガポール・ドル、韓国ウォンなど)とドルの取引は、それら諸通貨とユーロの取引を圧倒している。ユーロ/ カナダ・ドルの取引は18 億ドル、ユーロ/ オーストラリア・ドルの取引は14 億ドルにすぎない。また、南アフリカ・ランド、トルコ・リラ、ロシア・ルーブルとドルの取引も一定額に達しており、これら諸通貨が「ドル圏」に属していることがわかる。
しかし、ポンド、スイス・フランを除くヨーロッパ諸通貨とドルの取引は、それらの諸通貨とユーロの取引を下回っている。スウェーデン・クローナの対ユーロ取引は43 億ドルに対して、同通貨の対ドル取引は30 億ドル、ノルウェー・クローネの対ユーロ取引は30 億ドルに対して、対ドル取引は21 億ドル、ポーランド・ズロティの対ユーロ取引は35 億ドルに対して、対ドル取引は12 億ドルである。スイス・フランも対ユーロ取引(190 億ドル)が対ドル取引(278 億ドル)に近づいてきており、ユーロ/ ポンドの取引も280 億ドルに達して、ロンドン市場においてロシア・ルーブルを除くヨーロッパ諸通貨の交換ではユーロがより多く為替媒介通貨として利用されていることがわかる。ユーロ/ 円の取引はユーロ/ ポンドの取引を上回り、円からヨーロッパ諸通貨への転換の際にはドルよりも、ユーロが為替媒介に使用される頻度がやや高いといえよう。さらに、ポンド/ 円、ポンド/ スイス・フランの取引額も少し増加してきていることを忘れないでおこう。
スワップ取引では、ドルを一方とする取引(6912 億ドル)が全体(7562 億ドル)の91.4%であり、ドルが圧倒的である。しかし、前稿13)でも示したようにユーロ/ ポンド、ユーロ/ スイス・フラン、ユーロ/ 円の取引が少しずつであるが増加してきている。ユーロ/ ポンドは243 億ドル、ユーロ/ スイス・フランは110 億ドル、ユーロ/ 円は66 億ドルになっている。ユーロとこれら諸通貨の間の短資移動もある程度行なわれてきているといえよう。
ロンドン市場は世界で最も大きなハブ市場であるが、直物、スワップを問わずヨーロッパ諸通貨との取引が相対的に少なく、「ドル圏」に属している諸通貨との取引が相対的に多い。ユーロとヨーロッパ諸通貨との取引の状況は、以下に記されるヨーロッパ諸市場をみることによってより鮮明になるであろう。
ヨーロッパにおいて(格段の差があるが)ロンドン市場に次いでグローバルな市場であるスイス市場をみよう(第9 表)。直物取引は578 億ドルで、うちドル/ ユーロの取引が37.6%(217億ドル)を占めている。スイス・フランの対ユーロ取引が対ドル取引をやや上回っているが、ドルの対ポンド、対円の取引は、ユーロの対円、対ポンドの取引(一定の規模に達しているとはいえ)よりも多い。したがって、スイス市場における直物取引ではこれら諸通貨に関する限り、ドルとユーロの両者が為替媒介通貨として機能しているといえよう。
スワップ取引においては、ドルが一方となる取引が圧倒的で、ドル/ スイス・フラン、ドル/ ユーロ、ドル/ 円、ドル/ ポンドの4 つのペアだけで1206 億ドルにのぼり、全体(1729 億ドル)の69.8%になっている。しかし、ユーロ/ スイス・フランの取引はドル/ スイス・フランの取引の25.6%、ユーロ/ ポンドの取引はドル/ ポンドの取引の21.2%になり、ユーロとスイス・フラン、ポンドとの短資移動に伴うスワップ取引が部分的に行なわれてきているといえよう(ユーロ/ 円の取引はドル/ 円の取引の7.3%であり、まだまだ低位である)。
さて、次にユーロ地域のフランス市場、イタリア市場、スペイン市場の為替取引の状況をみよう。フランス市場はドイツ市場を上回ってユーロ地域で最大規模であり(第5 表)、ドイツ市場についてはブンデスバンクの資料が限定的なので小論では残念ながら割愛せざるを得ない。フランス市場の取引が第10 表に示されている。
直物取引では総計(271 億ドル)のうち、117 億ドル(43.2%)がユーロ/ ドルの取引、ユーロ/ その他が56 億ドル(20.7%)と合計で173 億ドル(63.9%)である。ドル/ ユーロの取引とドル/ その他の取引(88 億ドル)は合計で205 億ドル(75.6%)となり、ドルが一方となる取引がやや大きな額になっている。詳細をみると、ポンドの対ドルの取引(27 億ドル)は対ユーロの取引(18 億ドル)を上回っているが、後者の取引額も前者に迫っている。他方、スイス・フランの対ユーロの取引(11 億ドル)は対ドルの取引(7 億ドル)を上回っている。しかし、円、オーストラリア・ドル、カナダ・ドルの取引はほとんどが対ドル取引である。
スワップ取引では総計(1043 億ドル)のうち、ユーロ/ ドルの取引が447 億ドル(42.9%)でドル/ その他の取引が486 億ドル、ユーロ/ その他の取引が104 億ドルで、ドルを一方とする取引が上回っている。しかし、ポンドの対ユーロの取引は対ドルの取引に迫ってきていてほぼ互角になっており、フランス市場を利用したユーロとポンドの短資移動が前稿14)で記したよりも顕著に現われている。しかし、スイス・フランはポンドと比べると少額であり、、円、オーストラリア・ドル、カナダ・ドルなどの「ドル圏」に属している諸通貨の対ユーロの取引は低位である。
イタリア、スペイン市場については第11 表である。両市場の特徴はフランス市場とほぼ同じであるが、イタリア市場の方がユーロ取引の比重がやや高くなっている。イタリア市場の直物ではユーロが一方となる取引がドルを一方となる取引を上回っており、また、スワップでもユーロ/ ドルの取引が62.7%になっている。スペイン市場ではそれは40.5%とやや低い。しかし、両市場のユーロとポンド、スイス・フランなどとの取引の状況は公表されていない。
さらに、次はデンマーク市場、スウェーデン市場である。両国は早い時期からEU に属しながらユーロに参加していない国である。デンマーク市場(第12 表)は第9 位の規模をもち、スウェーデン市場(第13 表)は第12 位の規模をもっている。デンマーク市場における直物では、デンマーク・クローネの対ユーロの取引(24.9 億ドル)は対ドルの取引(3.5 億ドル)を圧倒(7.1倍)し、デンマーク市場におけるユーロ/ スウェーデン・クローナの取引(11.8 億ドル)は、ドル/ スウェーデン・クローナの取引(1.0 億ドル)を大きく上回り、さらに、ユーロ/ 円の取引(20.4 億ドル)はドル/ 円の取引(19.1 億ドル)をわずかであるが凌駕し、ユーロ/ スイス・フランの取引(8.5 億ドル)もドル/ スイス・フランの取引(5.2 億ドル)を上回っている。また、ユーロ/ その他15)の取引(9.5 億ドル)がドル/ その他16)の取引(7.1 億ドル)を上回っている。
デンマーク市場での「その他」諸通貨の多くは北中東欧諸通貨であると考えられ、北中東欧諸通貨のあいだの交換に際し、ユーロが為替媒介通貨として利用されていると想像できよう。デンマーク市場(規模は第9 位で近年取引額が増加してきている―第5 表参照)は北欧、中欧の各市場との外為取引を繋いで「ハブ」市場的な要素を一部もってきている。そのことを通じてデンマーク市場におけるユーロの地位はこれまでにみてきたロンドン市場、フランス市場、イタリア市場、スペイン市場におけるよりもかなり高くなっている。
デンマーク・スワップ市場においては、ユーロ/ スウェーデン・クローナの取引が113.4 億ドルとなり、ドル/ スウェーデン・クローナの取引(56.9 億ドル)の2 倍となり、また、ユーロ/ デンマーク・クローネの取引(51.0 億ドル)はドル/ デンマーク・クローネの取引(101.4億ドル)の半分となり、ドルとだけでなくユーロとスウェーデン・クローナ、デンマーク・クローネの短資移動に伴うスワップ取引が日常的に活発に行なわれていると考えられる17)。しかし、ユーロ/ ポンドの取引(2.8 億ドル)はドル/ ポンドの取引(19.7 億ドル)に及ばないし、ユーロ/ スイス・フランの取引も2.6 億ドル、ユーロ/ 円の取引は0.1 億ドルにとどまり、ドル/ スイス・フランの取引(116.0 億ドル)、ドル/ 円の取引(7.1 億ドル)と大きな差を開けられている。
スウェーデン市場(第13 表)においても、直物ではスウェーデン・クローナの対ユーロの取引が(直物取引全体850 億クローナの25.4%)が、対ドルの取引(9.3%)の2.7 倍になっており、ユーロとポンド、円、スイス・フランの取引がドルとそれら諸通貨の取引をやや上回るか同じ額になっている。同市場における直物取引ではユーロの方がドルよりも為替媒介通貨機能が高いと言えるだろう。スワップ取引では、ドル/ スウェーデン・クローナの取引(761 億クローナ)が最大であるが、ユーロ/ スウェーデン・クローナの取引(281 億クローナ)もその3 分の1 を少し上回る規模になっていて、ドルとスウェーデン・クローナだけでなく、ユーロとスウェーデン・クローナの短資移動も進展してきている18)。
最後に中東欧のチェコ市場(第14 表)、ポーランド市場(第15 表)をみよう。直物取引において両市場とも自国通貨とユーロの取引がドルとの取引を大きく上回り、中東欧の市場においてユーロが唯一の為替媒介通貨として機能していることが改めて確認できる。スワップ市場においても、ユーロとの取引が増加している。チェコ市場ではドル/ コロナの取引が17 億ドルに対し、ユーロ/ コロナが12 億ドルになっており、ポーランド市場においてもズロティの対ドル取引が56%、対ユーロ取引が16%に、さらに、チェコ市場でポンドの対ドル取引と対ユーロの取引が同額になっている(金額的にはポンドのスワップ取引は少額であるが)。
以上、ヨーロッパ諸市場についてみてきたが、以下のように言えるであろう。ロンドン市場は世界で最も大きなハブ市場であるが、直物、スワップを問わずヨーロッパ諸通貨の取引が相対的に少なく、「ドル圏」に属している諸通貨の取引が相対的に多い。そのことから、ロンドン市場においてはヨーロッパ諸通貨の直物取引におけるユーロの為替媒介通貨機能が相対的に低くみえる。デンマーク市場、スウェーデン市場、ポーランド市場、チェコ市場においては、それぞれの自国通貨の対ユーロの取引が、対ドルの取引を大きく上回っていた。直物取引におけるユーロの為替媒介通貨機能は、ロンドン市場だけでなく、北欧、中東欧の諸市場をみることによってより確かな位置付けが出来よう。さらに、ロンドン市場においてはユーロとヨーロッパ諸通貨のスワップ取引が相対的に低位にみえたが、デンマーク市場、スウェーデン市場、チェコ市場、ポーランド市場の状況をみることにより、前掲のロンドン市場の分析では明確に把握できなかったユーロとヨーロッパ諸通貨との短資移動がかなりの程度進展してきていることが把握出来た。 
W、ロシア市場、BRICs の諸通貨について
@ロシア市場
ロシア市場をヨーロッパの諸市場から切り離して別に取り上げたのは、ロシアがBRICs の1 国であること、ロシア・ルーブルが他のヨーロッパ諸通貨と異なり依然として「ドル圏」に属していること、さらに、BRICs のなかではロシア中央銀行のみが自国市場の外為取引の調査結果を公表しているからである。
第16 表をみられたい(カッコは07 年)。2010 年の取引が2007 年の取引よりもドル/ ルーブルに集中していることがわかる。直物では07 年には54.3%であったのが10 年には71.8%に、スワップでは07 年に42.1%であったのが、10 年には58.9%に比率が高まっている。その分、直物、スワップともポンド、円などとの取引が大きく減少している。ロシア経済の不振に加え(ロシア市場における直物取引自体が大きく減少しているが、これは天然ガス、原油の輸出の伸びが低調であるからであろう)、2010 年になってギリシャ危機が勃発し、ユーロに不安が広がっているからであろう。数年前に予想したロシア市場におけるドルの比重の漸次的低下、ユーロの漸次的増加という事態19)は、現在、後退していることは事実である。ルーブルが「ドル圏」から離脱していくにはなお年月を要しよう。
Aロシア・ルーブル、人民元、インド・ルピー、ブラジル・レアル
第1 節のBIS の暫定的な統計からBRICs の諸通貨の取引、諸市場規模について以下のことが知れた。直物、先物、スワップ等の全ての種類を含むBRICs の諸通貨の取引額の比率(全世界の為替の総取引額に占める各通貨の比率)が第3 表に示されていた。インド・ルピー、ロシア・ルーブルが0.9%、ブラジル・レアルが0.7%、人民元が0.3%である(参考、韓国ウォンは1.5%)。また、ペアごとの取引ではドル/ インド・ルピーの取引が360 億ドル、ドル/ 人民元の取引が310 億ドルで(比率は1%)、ドル/ ブラジル・レアルが260 億ドル(1%)となっている(第4 表、ルーブルについては記述がない―ドル/ 韓国ウォンは580 億ドル)。また、各市場の規模は第5 表のようであった。これらの国の中で最も大きい規模をもつのはロシア市場で417 億ドル、以下、インド市場の274 億ドル、中国市場の198 億ドル、ブラジル市場の142 億ドルとなっている(ちなみに韓国市場は438 億ドル)。
ロンドン市場、ニューヨーク市場、東京市場でのそれら諸通貨とドルとの取引については第17 表をみられたい。ロシア・ルーブルはロンドン市場での取引が多く、ブラジル・レアルはニューヨーク市場での取引が多くなっている。人民元は、先物以外は意外にもニューヨーク市場における取引よりもロンドン市場における取引の方が大きい額になっている。東京市場での取引額はロンドン市場、ニューヨーク市場と比べるとかなり少額になっている。
これら諸通貨の取引は国内の機関どうしの取引がかなりの比率を占めているものと思われる。これら4 カ国のうち中央銀行が資料を公表しているのはロシアだけであるが、ロシア市場におけるドル/ ルーブルの直物取引のうち、国内の機関どうしの取引は68.2%、同スワップ取引は66.5%である20)。インド市場でのルピーの取引、中国市場での人民元の取引は、もしかするとロシア市場以上に国内取引の比率がもっと高くなっているかもしれない。ユーロとこれら4 通貨の取引については、ロンドン市場、ニューヨーク、東京市場の資料においても「項目」がなく、ユーロ/ その他の中に含まれている。BRICs の通貨は「ドル圏」に属しているといえよう。
以上のごとく、BRICs の諸通貨の取引規模、諸市場規模について、他の諸通貨、他の諸市場との比較でおおよそが把握できた。昨今、人民元の国際通貨化について論じられることが多いが21)、全世界的な視点で外国為替市場の状況を把握すると、人民元、ルーブル等のBRICs通貨の国際通貨化を近い将来に展望することはほとんど出来ないであろう。 

1)各国の中央銀行の統計値の開示のレベルは様々であり、小論における各市場の統計値の提示もいくつかの市場においては制約がある。
2)「ユーロと諸通貨の間の短資移動の現状」『立命館国際研究』23 巻1 号(2010 年6 月)。
3)「東アジアにおける「為替相場圏」の形成」『国際金融』1214 号(2010 年7 月1 日)。
4)さらに、各市場の機関別取引、クロスボーダー取引、国内取引の区別も煩雑さを避けるために割愛した。
5)BIS、 Triennial Central Bank Survey: Foreign exchange and derivatives market activity in April 2010、 Preliminary result、 September 2010、 p.1.
6)直物、先物、スワップ以外に外為関連のデリバティブ(通貨スワップ、通貨オプションなど)を含む。
7)ドル、円、ポンド、スイス・フラン、スウェーデン・クローナ、カナダ・ドル、オーストラリア・ドルを除く。
8)直物、先物、スワップ以外に外為関連のデリバティブ(通貨スワップ、通貨オプションなど)を含む。
9)ただし、第6 表では表示を割愛したが、円/ オーストラリア・ドル、円/ ポンドの取引では非金融機関との取引が多く(前者では21 億ドル、後者では20 億ドル)、しかも非金融機関との取引では国内取引がほとんどを占めている。報告金融機関との取引は円/ ポンドで12 億ドル、円/ オーストラリア・ドルで13 億ドルである。それに対して、報告金融機関との取引がドル/ ポンドでは19 億ドル(うち海外との取引が18 億ドル)、ドル/ オーストラリア・ドルでは19 億ドル(うち海外との取引が17 億ドル)となっており、非金融機関との取引は、前者が2 億ドル、後者が1 億ドル未満と極めて少ない。インターバンク取引では依然としてドル/ ポンド、ドル/ オーストラリア・ドルの取引が、円/ ポンド、円/ オーストラリア・ドルの取引を上回っている(以上、第6 表の日銀資料より)。
10)香港市場については、香港通貨監督庁(HKMA)は簡単な統計しか公表しておらず、紙幅のこともあるので小論では香港市場については割愛したい。
11)筆者はカナダ市場、メキシコ市場の統計も得ているが紙幅の関係で小論では割愛する。
12)ロンドン市場についての統計は、シンガポール市場、オーストラリア市場とともに、2010 年7 月26日に公表されたForeign Exchange Committee のものである。また、08 年4 月、09 年4 月のロンドン市場における取引状況については、「基軸通貨ドルとドル体制の行方」『立命館国際研究』22巻3 号(2010 年3 月)をみられたい。
13)「ユーロと諸通貨の間の短資移動の現状」『立命館国際研究』21 巻1 号(2010 年6 月)。
15)ドル、円、ポンド、スイス・フラン、カナダ・ドル、オーストラリア・ドル、デンマーク・クローネ、スウェーデン・クローナを除くその他諸通貨。
16)同上の諸通貨と香港ドルを除外した諸通貨。
17)ロンドン市場での短資移動を分析した前掲前稿「ユーロと諸通貨の間の短資移動の現状」では把握できなかったことである。
18)前注と同じである。
19)「ドル体制の変容と現代国際金融」『経済』2008 年8 月号、参照。
20)前掲第16 表のロシア市場の統計(A1)より。
21)例えば、上川孝夫、李 曉編『世界金融危機 日中の対話―円・人民元・アジア通貨協力』春風社、2010 年、および参照「東アジアにおける「為替相場圏」の形成」『国際金融』1214 号(2010 年7月1 日)。 
 
21 世紀アメリカ先端産業の焦燥と希望と模索
 「 アメリカ競争力法」への多様な道のりを探る

 

はじめに
前稿1)において、21 世紀を迎えたアメリカの競争力強化思想の旋回過程を、それを準備した最大の報告書「イノベートアメリカ」を俎上に乗せて、その主要内容を検討することを通じて明らかにした。アメリカは古くは1970 年代初頭に20 世紀に入って初めて貿易収支の赤字に転落して以来、国内競争力―特に製造業―の強化が事あるごとに叫ばれてきたが、抜本的な改善を計れず、また十分な成果を上げられずに今日に至っていて、むしろ事態は悪化の一途を辿っているかのようにすらみえる。したがって、今やアメリカの競争力の強化は待ったなしの緊急課題―あるいはやや悲観的にみれば、已に遅きに失した宿痾―であるかともいえよう。もちろん、こうした国内競争力の強化にまじめに取り組まなくても、覇権国特権にもたれかかって金融立国の道を驀進したり、国内「空洞化」を捨て置いて、多国籍企業となって企業内国際分業を通じる海外進出や、ネットワークの経済性に依拠した外国企業との多様な国際提携による海外展開の方が、とりわけ海外の低賃金の活用と知財管理とブランド支配に依拠できる点で有利だし、また容易だとする企業戦略もあるし、ICT(「情報通信革命」)化の進行とグローバル化の進展に伴って、事実、その方向に大きく舵を取ってもきた。そして表面的には1990 年代初めから2000 年にかけて未曾有の経済指標と景気の上昇を連続して120 ヶ月にわたって実現した。とはいえ、これだけでは不安は解消されないので、基本的にはイノベーションに基づく国内生産基盤の強化と拡大こそが本道だという筋道から、この間にアメリカの競争力を強化しようとする様々な試みも各方面から多数なされてきた。したがって「イノベートアメリカ」は大きな衝撃を与えたとはいえ、それだけが唯一でも、また本流だと認定されているわけでもない。
たとえばイノベーションを強化するための初等・中等教育(K − 12)の抜本的改善や科学者・技術者養成ならびにそれに関連した労働者の陶冶、科学・技術の振興による先端産業の重点的な育成、あるいは製造業のサービス活動重視へのシフトやサービスの標準化・客観化・効率化の確立を目指す「サービスサイエンス」の提唱、さらにはアウトソーシング―とりわけオフショアリングという形での業務の海外移転―の奨励によるリストラーコアコンピタンスへの集中と周辺部分の整理―など、多種多様な方向の模索とそれに基づく方策が検討されてきた。それは、21 世紀を迎えて軍事力の優位とは真反対に、「世界の工場」中国などの強力なライバルの出現によって、相対的に遅れがちな競争力の強化が焦眉の課題として急浮上し、国民の側にもそれを待望する雰囲気が醸成されてきたという、客観的な状況を反映したものでもある。やがてそれらはその方向と内容をめぐる民主、共和両党の熾烈な議会での政治闘争や企業戦略の違いからくる産業界内での対抗・対立を超えて、最終的には最大公約数的な合成物としての「アメリカ競争力法」(The America Competes Act、 2007 年8 月9 日)の成立に収斂されていくことになった。さらには新生オバマ政権はその上で新たなビジョンの構築と政策の推進を図っている。
そこで本稿では、それらの中から、一つには先端産業がどのように事態を考えて―そこには楽観的な見通しからやや悲観的な見通しまでの、色合いに濃淡があるが―イノベーション創出のための処方箋とその内容をどう考案したかについて、そしてもう一つには情報化・知財化に大きくシフトした代表的な巨大成長企業―たとえばIBM など―が製造業のサービス活動へのシフトとサービスサイエンスの提唱という、全く新しい脱出路の用意をどのようにしてするようになったのかに焦点を当ててみたい。これらは、一方が伝統的な手法の延長であるとすれば、他方はまったく新奇な処方箋で、異端なものであるようにもみえ、したがって両者は何の脈絡もなく、無関係に並存しているか、あるいは真っ向から対抗し合ってようにもみえるが、実はそうではなく、そこには深い内的な関連があると筆者は考えている。またこうした別方向での、多岐にわたる追求こそが今日のアメリカのある種の混乱振りと焦燥を一面では如実に反映しているともいえるし、また深刻な危機の到来―たとえば大恐慌や「スプートニクショック」(ソ連による宇宙衛星の先行)など―に当たって、これまでしばしばアメリカがとってきた脱出路としての「イノベーション」や「ニューディール」への依拠という、アメリカ一流の処方箋の再版だともいえよう。そこで以下では先端産業がアメリカの競争力の現状を冷静に秤量、評価した上で、それをどう改善すべきかについて強い危機感と焦燥の中で、あるいは表面的には自信満々な楽観的見通しの中で打ち出した、製造業におけるイノベーション重視―正確には情報化と製造活動の結合―の路線を取り上げ、その内容を詳細に検討してみたい。そしてできれば、製造業のサービス化とサービスサイエンスの提唱そのものについても射程を伸ばしてみたい。 
1.研究開発の優位性の確保と「イノベーション・エコシステム」の提唱
 PCAST(大統領科学技術諮問委員会)報告の論理
まず最初にブッシュ政権下での競争力強化のための基本的な処方箋を準備した、大統領科学技術諮問委員会(President’s Council of Advisors on Science and Technology、 PCAST)の「国家イノべ−ション・エコシステムの持続化:情報技術製造活動と競争力」と題する報告書(通称「PCAST 報告」、2004 年)2)を取り上げてみよう。この諮問委員会は2001 年9 月にブッシュ大統領の行政命令(Executive Order 13226)によって設けられたもので、大統領に科学技術政策に関する諸課題について助言をし、合わせて閣僚級の国家科学技術評議会(National Science and Technology Council、 NSTC)への支援をおこなうことを目的として設置された機関で、その淵源はアイゼンハワー−トルーマン政権時にまで遡るという。23 人のメンバーは産業界、教育界、それに研究所と非政府機関から選ばれ、大統領によって任命されているが、この中にはノーマン・R・オーガスティン(ロッキード・マーチン社前CEO、後に見る「強まる嵐を乗り越えて」の議長)、G.ウェイン・クラフ(「イノベートアメリカ」の共同議長)を始め、マイケル・S・デル(デルコンピュータ社CEO)、ロバート・J・ハーボルド(マイクロソフト社元COO)、ゴードン・E・ムーア(インテル社名誉会長)など、IT 関連の企業の代表が顔をそろえている。
その主潮はアメリカのR & D は依然として世界一であり、その優位性を失わずに今後も維持していくことが大事だが、近年は日本を始めとして、韓国、シンガポール、台湾などのアジアNIES からの挑戦に加えて、現在では中国、インドなどが低賃金と政府の支援・奨励策の推進によって、急速に台頭してきている。これに有効に対処するにはIT 技術を生産活動等に活用することが肝要で、それは製造業と情報との結合―[ 情報技術を活用した製造活動](Informartion Technology Manufacturing)―という方法に基づくもので、それを彼らはここでは「イノベーション・エコシステム」(イノベーション生態系)と名付けて、新しい概念に一括してまとめ上げている。このことはまたグローバル化を忘れることではなく、いわんやそれを否定することでもない。むしろその波に乗っかり、より一層促進していくことが肝要である。その際に心すべきは、国家の持つ役割の重要性が益々大事になっていることで、グローバルな競争に勝利するには、国家の政策的、行政的、外交的な役割が極めて大事である。現下の、一つになったグローバル世界のなかで国家間の経済部面での熾烈な競争関係に勝利していくには、アメリカ政府とアメリカの歴史的風土がこれまで培ってきた研究開発力の強さをイノベーション・エコシステムというシステムに基づいてまとめ上げ、その原理を活用して力を十全に発揮させることである。したがって、企業の海外活動はこれをさらに一層進めていくべきで、その中には人的資源(人材)の海外での確保や業務活動の海外展開、つまりはオフショアリングなどをより一層進めることも必要になる。ただし、アメリカ自体がR & D の優位性を確保し続けなければならないことはいうまでもないことで、その基盤を国内にしっかりと確保し続けなければならない。そのためのベストプラクティス(最善手)は大学からの支援、十二分に教育された労働力の確保、事前評価の徹底による政策的優先度とその内容の吟味、そして税優遇策の実施などである。つまり、研究開発能力の優位性をアメリカが保持し続けるためには、アメリカ国内にその基盤を残した上で、具体的な生産の場所は大いに海外に置き、海外の人的資源も活用し、そしてその上でこの両者を情報のネットワークが結んでうまく作動させて連携を強め、しかも覇権国アメリカのイニシアティヴの下での世界的な知財保護のメカニズム―実はアメリカ流の―がそれを保障することになるというものである。物的生産における海外シフトや業務のオフショアリングがあっても、それは「国内空洞化」を意味せず、中心になる研究開発の優位性の保持を決して離してはならないというのがその主旨であり、その意味では、前稿でも述べたが、伝統的な「技術安全保障論」的色彩と覇権国アメリカの政治的力に最大に依拠しようとする姿勢が極めて強いものである。
そこで、次にその内容をもう少し詳しく展開してみよう。まずアメリカの優位性はなによりも先端産業分野―たとえば、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報科学など―のグローバルなレベルでの突出した力にあり、その基礎にはR & D における優位性があり、そしてそれは経済的な繁栄と生活水準の高さに結びついている。つまりR & D の高さこそがアメリカの生命線(America’s Heartbeat)だという基本認識である。しかしこれが今日、新しい経済的な現実と強力な競争国の出現という、新しい挑戦を受けていることも事実である。だがこれらには、R & D と製造活動を結合させたイノベーション・エコシステムに依拠すれば、十分に対応可能である。そしてより具体的には、強力なR & D 投資、熟達した科学者とエンジニアの大きな集団、柔軟かつ熟練した労働力、信頼に足るインフラ施設の存在、ハイテク製造業を奨励する連邦ならびに州政府の法と規制、競争力のある投資家と税環境、それに強力な貿易協定や知的財産権の実施に集約される3)。これらは全てアメリカに備わっているので、たとえ競争国が単なるモノづくりの域を超えて、これらの領域でのキャッチアップを実現できたとしても、アメリカはこれらをまとめたイノベーション・エコシステムの強化に依拠すれば、グローバルな競争に十分に対処可能であり、引き続き優位性を確保し続けることができる。このように、今後の時代を担う指導原理としてのイノベーション・エコシステムへの高い信頼性とそれに基づく将来の繁栄を楽観的に見通している4)。
第2 に他国からのキャッチアップの性格だが、これを外国の企業4 4 からの挑戦とばかりみずに、むしろ外国の国4 からの挑戦と考える視点が大事である。アメリカ企業は現在、業務のオフショアリングを進めているが、その理由は、より低い労働コストの獲得や新興市場への近接性、そして外国政府の奨励策のもつ有利さといった要因によるものである。だがアメリカ政府はハイテク投資を引きつける上で、それらにないいくつかの優位性を保持している。それらは、大学、政府、産業を通じる世界最高のR&Dシステムの存在(つまり産一官一学トライアングル体制)、最高の人材と研究機関、もっとも柔軟で企業家精神に富むビジネス環境、最高の政府とその法制度(特に知財の保護)、最高のインフラ整備、そして世界最大のハイテク市場の存在に要約されるものである5)。もっともこれらの優位性は絶対的なものではなく、グローバルな競争に曝されているが、その結果としての製造活動の海外移転は、顧客の要望に添った経済的必然性が貫かれているもので、たとえば製品のライフサイクルに応じてモノづくりの拠点が低労働コスト国に移転することを到底くい止めることはできないといった事情である。それに加えて、外国政府は様々な奨励策を実施しており、それらは租税優遇策、各種補助金、割安な為替相場、サイエンスパーク(工業団地、特区)の提供、労働者教育などに現れている。しかもIT 化の進行はグローバルなレベルでの企業の管理と運営を可能かつ不断に改善していて、さらに肝心のIT 技術者の給与はインドなどではアメリカよりも遙かに低い。それらの結果、企業活動の海外移転とグローバル化は押し止めようがない。だが彼らの優位性は決して無制限なものではない。外国企業を管理する上での困難さや輸送コストの負担、熟練労働者の持続的供給、そして最適なインフラの供与などに難点があるので、問題はアメリカがいかにして、彼らを上回るものを用意できるかにかかっていて、そのためにはこれらについて慎重かつ念入りな事前評価をおこなって、アメリカの取るべき具体的な方策を確定することが肝要になる。そうすれば、覇権国として世界に突出した政治力を有するアメリカのイニシアティヴを発揮できる土壌は大いに開かれる。つまり、国の競争的地位はアメリカの場合断然抜きん出ているということになる。
第3 にこれらの不利な条件を乗り越えていけるのは、アメリカにおけるイノベーション・エコシステムの確立であり、ここではそれを強力に提唱している。それは長期的なアメリカの強さと健全性の証明でもある。特に重要なのは研究と開発と生産との「近接性」(proximity)にあり、R & D と生産活動が結合していることが決定的に大事で、その両者の結合関係を循環過程として捉え、ダイナミックな相互関係が作用していることに留意していかなければならない。
それは基礎的なR & D、競争に先立つ開発段階、プロトタイプ化(原型の試作化)、製品開発、そして実際の製造からなり、それらは、現実の生産状況を十分に理解し、それに沿っていくことによって成功へと導くことができるようになる。またデザイン、製品開発、生産工程の改善なども両者の近接性に助けられており、現場での試行錯誤と対話の繰り返しという相互作用から新しいアイディアが生まれる可能性が高い。しかもこのイノベーション・エコシステムには人的資本が特に重要で、彼らの努力が情報技術の発展を導いていくのだから、それが集約化された「知識」(knowledge)がそこでは最大の価値を持つことになる6)。また技術進歩が速くかつ加速されるため、新しい研究開発と生産活動は益々相互依存的になる。その結果、両者のリンケージが形成されるようになり、したがって、それらの集積された場所(ロケーション)が特別に重要な位置を占めるようになる。つまり最先端の研究が集積されている大学に近いこと、地域的なクラスターが形成、蓄積されていること、そしてスピードの変化に応えられる柔軟性をもっていること、すなわち「経済的敏捷性」(economic agility)7)が求められることになる。
第4 にこのアメリカのハイテク分野でのリーダーシップが喪失されてしまうのではという危惧は、この問題の最大の危険シグナルである。具体的にはR & D なり生産活動なりが失われるか、他国がアメリカ式イノベーション・エコシステムに取って代わるようになるかが考えられる。あるいは、第3 の可能性としては、人的資本の再配置―頭脳流出と頭脳還流―が金融投資によって生じるということもありうる。事実、卓越したR & D センターづくりが中国、インド、マレーシアなど多くの国で取り組まれている。なかでも中国の動向には特に警戒する必要があり、それはこの国が巨大な市場を潜在的に有しているからで、かつ自国企業の成長を企図して、国家が先導して野心的な試みを精力的に行っている。したがって、中国が将来的に成功を収めることになれば、アメリカにとって大打撃になるので、極めて深甚な脅威となろう8)。
それらの上で、勧告として第1 にアメリカの優位性の維持を最大化することで、それには最新の最重要産業―たとえば、ナノテク時代とともに花開いた通信、情報、輸送、素材、センサー、製薬分野でのブレークスルー―に焦点を当て、その財政支援をすること、連邦政府と州政府とのR&D協力についてのタスクフォースを作ってよく研究すること、科学者・技術者(Scientists and Engineers、S & E)の教育ならびにそれに関連した労働者の陶冶と改善、企業風土の高揚、インフラ整備などが必要になる。第2 に外国からの競争に対処するには、税制上の優遇措置が必要で、そのために事前評価を徹底して正確な判断を下さなければならない。そしてWTO の場での知財違反への適切な対処が必要になる。そこではアメリカ政府の外交的手腕を十二分に発揮することが特に求められる。
以上みてきた「PCAST 報告」は伝統的な技術安全保障論的見地に立って、R & D の優位性の保持を基本に据えて、最先端分野―特にナノテク、バイテク、情報科学―での指導権を握り、これを基軸にしてその他に波及させていく道を考えている。その具体策は情報と生産をドッキングさせる「イノベーション・エコシステム」の提唱であり、そのために政府―連邦ならびに各州の双方―による研究開発の支援と各種奨励策の実施、産官学の協同化とそのための「場」の設定を強く謳っている。そして国際的な場では強力な政治・外交手段を駆使してアメリカ流の知財保護を強力に進め、それをWTO その他の国際機関において共通のルールとすることを目論んでいる。その点ではその他の報告書と大同小異である。ただし、その一枚看板である「イノベーション・エコシステム」なるものは、その内容は曖昧模糊としていて、単に情報と製造活動とのドッキングをいっているだけであって、そこから一歩も踏み込んでいない。その点では、製造業のサービス化を謳い挙げた「イノベートアメリカ」に比較すると、数段落ちるものであり、凡庸の域を出ないものだといえるが、同時にそれはそこに至る中間過程を表しているとも見えよう。 
2.イノベーションをいかにして生み出すか。またそれを失った場合には
どんな未来が予想されるか:「強まる嵐を乗り越えて」の苦悩と期待そこで今度は「強まる嵐を乗り越えて:明るい未来を目指す経済活性化と雇用増加」9)という題名を冠した全米科学学会、同工学学会、同医学学会の共同で組織している「21 世紀グローバル経済の繁栄をめざす委員会」が作った報告書(とりまとめた議長の名を取って「オーガスティンレポート」と呼ぶこともあるが、それほどの個性が投影されているとは思われないので、そうしないが、ただし題名が長すぎるので、「強まる嵐を乗り越えて」と略称する。2007 年)を取り上げてみよう。この報告書は自然科学分野の学会組織が共同で組織している前記委員会がまとめたものだが、20 名の委員には学会の代表のみならず、ロッキード・マーチン、インテル、エリ・リリー、デュポン、エクソン、メルクなどの産業界からの代表も顔を連ねていて、議長はノーマン・R・オーガスティン(ロッキード・マーチン社元会長兼CEO)が務めている。
全体は付属資料等を含めて560 頁余にも達する大部のもので、総括的にアメリカの科学・技術・教育の現状を詳細にサーベイした上で、先端技術と科学を担う専門家組織が全体としてアメリカの科学・技術・教育の現状を憂え、基礎教育の停滞に警鐘を乱打して、それに対する対策としての初等・中等教育(K − 12)の抜本的改善と科学者・技術者(S & E)の育成向上と財政保障を中心においた先端産業の振興を提言している。そして最後にはそれが首尾良くいかず、イノベーションが進められなかった場合のいくつかのシナリオを描いていて、悲観的シナリオなどを見ると、多分にペシミスティックな色合いの濃いものになっている。そこで早速にその内容をかいつまんで紹介してみよう。
この報告書の前半では諸種の指標に基づくアメリカの科学・技術の水準とそれに基づく競争力の現状を克明に考察し、そのうえで、後半ではその将来への見通しと処方箋が示されているが、ここでの全体的なトーンは、前節で取り上げた「PCAST 報告」がことさらに楽観的なイメージを振りまいていたのとは反対に、総じて芳しくない、もしくはかなり疑わしいという、否定的ないしは懐疑的なトーンを帯びている。それはモザイクの混乱振りと題する第1 章の現状認識に端的に表れている。グローバル化の進展が世界の平準化を進めるというのがフリードマンの『フラット化する世界』10)の主張で、大反響を呼んだが、それに対してはバグワッティによる『世界はフラット化しない』11)という有力な反論も出されていて、確定的なものにはなっていない。報告書はフリードマンの主張に沿って、グローバル化の進展が世界の平準化を促し、中国やインドなどでの低コストでの生産と中間層の増大を生み出しているが、それはアメリカの将来にとって長期的にどのような意味を持ちうるかということになると、確たる答えが未だ用意されていない。こうした「静かな危機」にアメリカは現在直面しているにも拘わらず、産業界は短期的な利益のみを追求していて、長期的な展望に欠けている。そこで、報告書は三つのクラスター―産業集積地を表す言葉として一般に使われているが、ここではひとかたまりになった「問題群」とでも理解しておこう―をあげて、その問題点を総括的に検討している。 
第1 のクラスター(問題群)はグローバル経済下での雇用の偏在である。それらは海外でのR & D に従事する研究者・技術者(S & E)の増大、新しい科学と技術の新興、海外での技術開発の促進、共同研究成果の増加、オフショア生産への近づきやすさ、R & D における人的コストの低減化、外国人労働者の雇用による労働コストの低下、成長市場への近接性、アメリカの規制とR & D 環境の状況、人材、インフラ、活気に満ちた研究風土、政府の奨励策、知財保護などが整ったハイテクセンターの存在、低い法人税と特別な税優遇措置、水準の高い研究大学機関の存在などによって端的に現れている12)。その結果、情報化を中心にしたサービス経済化が進み、アウトソーシングやオフショアリングが急速に進展して、海外での雇用が増加している。かくて技術変化は労働者の高等教育要求になって現れ、世界中に波及している。そして知識の素早い移動・伝播が起こっている。他方で、アメリカ国内ではハイテクバブルの崩壊―つまりは「ニューエコノミー」と称したIT インフラ整備の一巡化―とともに、深刻な失業が多数発生している。こうして雇用における偏在が世界的に生じている。その中で、それを切り抜けるために、アメリカはどうリーダーシップを発揮していけるかが問われている。このことは、グローバル化の進展は今や世界的な雇用問題ならびにグローバルなレベルでの労働と資本の対抗と協調、つまりは両者の綱引きと「接近戦」の登場という新しい課題を突きつけていることになる。 
第2 のクラスターは未来に向けた投資が減退していることである。それはもっとも大事な人的資本がアメリカで失われていることを意味しており、国際比較におけるアメリカの学力低下や現行の教育への不満、理数系への進路の低下などに端的に現れている。また高等教育が公益(public good)ではなしに、私益(private good)として益々考えられるようになってきていて13)、奨学制度が後退し、低所得者層の子弟には高等教育機関への進学が困難になってきているし、州立大学が衰退し、授業料が高騰してきている。そうしたことは優秀な人材を輩出させにくくしている。また研究を担う産一官一学のトライアングル構造のうち、企業の研究の動向も変化してきていて、ベル、GE、IBM、Xerox などの、20 世紀の基礎研究を先導した特色ある研究所が後退したり、変化したりしてきている。企業の研究は企業内に閉じこもる傾向が強まり、研究成果中心主義的、かつ利益中心になってきている14)。その結果、応用研究では成果は出ているが、基礎研究が遅れだし、全体として短期的な視野に陥っていて、長期的視野や展望が欠けてきている。最後に分野ごとで資金援助にもばらつきがあり、今流行の生命科学は潤沢だが、物理学と数学と工学への研究資金供与が減退してきており15)、この面でも短期的な成果至上主義的傾向が強まっている。これは国防研究においても例外ではなく、ARPA(国防高等研究計画局)ですら、議会で効率的でないとの批判を受けている有様である。 
第3 のクラスターは9.11 後のリアクションで、ビザの発給政策が変わり、外国人には不利になったので、これまで最良の人材を世界中から確保してきた伝統が崩れ、確保しにくくなっている。その結果、外国人研究者の流出がはじまっている。また輸出規制も強まっている。軍事技術に関しては潜在的敵性国への輸出が1949 年以来規制されてきたが、それが場合によっては競争国への経済手段としても使われるようになってきている。規制されている技術の輸出には商務省ないしは国務省からのライセンスの許可が1994 年以来必要になっているが、今ではそれらの情報の公開が、外国籍の者にはたとえアメリカ国内であっても「見なし輸出」(deemed export)と扱われて、輸出許可が必要になった。そればかりでなく、最近はさらに強化されて、基礎研究への適用除外を認めず、さらにはそれにアクセスすることすら困難にしている16)。しかしそれでは工学分野では博士課程の学生の55%が外国生まれで、かつ課程修了後も多くが残って研究している現状にそぐわず、優秀な人材を失いかねない。かつてアインシュタイン、テーラー、フェミニ、その他多くの科学者が外国生まれながら、アメリカの軍事技術開発に貢献した事実、またカーネギー、ベル、ダウ、ティムケン、グローブ、ラム、コスラ、ブリンなど産業界で盛名をはせた人々が外国生まれであったことを想起すべきである17)。ポスト冷戦体制下の今こそアメリカは度量の広さを示すべきである。さらに9.11 以後、「SBU(sensitive but unclassified)」に指定された情報は公開できないことになった。しかもこれには法的根拠も決まった定義も宣告にあたっての何らの制限もなく、さらにこれについて公に議論する余地すらない状態である18)。
だが国民の関心はテロ対策一辺倒ではなく、大きく経済や生活の問題へと主潮がシフトしてきている。2008 年の大統領選挙に向けて、各種世論調査が実施されているが、それによると、選挙民の主要な関心事は、テロ対策(45%)以外にも、それと並んで経済(39%)、ヘルスケア(33%)、教育(32%)も大事だとするようになってきている19)。現在は過去の「リメンバー・ザ・パールハーバー」(大東亜戦争)、「スプートニクショック」(米ソ宇宙開発競争)、「9.11テロ」に続く大いなる危機に直面しており、これを打開していくには、経済へのチャレンジに焦点を当て、速やかに行動に移すべきである。以上見たように、現在を「静かなる危機」の時期と見て、とりわけ研究開発とその担い手、ならびにそれを支える体制の遅れをやや深刻に指摘して、その打開を訴えている。 
第2 章では21 世紀のアメリカの繁栄にとって、何故科学技術が決定的に重要になるかを20世紀の科学技術の発展を回顧することによって、確認している。要約すれば、近代科学の発展がいかにアメリカの成長と発展にとって有益であったかを様々な事例を挙げて力説している。
なかでも以下に列記する20 世紀の20 大発明をあげて、それらにおいてアメリカが先頭を切り、経済を活性化させ、生活を豊かにし、そして病気を治し、寿命を延ばしてきたことを語っている。それらは電気、自動推進、飛行、給水システム、電子工学、ラジオ・テレビ、農業革新、コンピュータ、電話、エアコン・冷蔵(冷凍)、ハイウェイ網、航空宇宙、インターネット、画像処理、家庭用品、保健、石油・石油化学、レーザー・ガラス繊維(光ファイバー)、核技術、高性能素材である20)。それらはあたらしい産業を生みだし、人々の生活を便利にし、経済を発展させ、人間の生命を安寧にさせた。その証明をここではいくつかの図表によって示しておこう。これらのことが明確に示しているように、アメリカにとって科学・技術の進歩的役割は計り知れず、「知」の持つ意味は極めて大きい。したがって、来るべき21 世紀のアメリカの繁栄にとっても、科学・技術が決定的に重要であることを強調している。 
第3 章では、今度はその中での人的要素である科学者・技術者(S & E)の現状をいくつかの指標―たとえば、研究成果の公表件数、博士号取得者数など―に基づいて国際的に比較し、アメリカが唯一のリーダーであることを確定する。こうしたアメリカの優位性は、研究と教育における多様性、質の高さ、ならびに安定性、さらには研究ならびに高等教育における公共・民間投資の強い伝統、アカデミック界の高い人的能力、アカデミック用語としての英語の普及、ベンチャアキャピタルの存在、多様なバックグラウンドならびに国籍を有する人材を成功に導いていけるオープンな社会、ポスドク課程の研究者に仕事場を与える他国にない慣行、ピアレビュー(同業研究者による査読システム)や自由企業体制の強さなどである。さらにこれらの目に見えるもの以外にも、好意的な公共政策の優先性、官民双方からの潤沢な研究資金の供与、技術ベースの投資を奨励する経済環境、外向きな国際経済政策、生涯教育の支援といった利点がある21)。とはいえ、「イノベートアメリカ」が的確に指摘しているように、近年、こうしたことが次第に変化してきていることも事実である。イノベーションが多分野に跨る(multidisciplinary) ようになり、 複合的に部門を交差(intersection) し、 共同作業(collaborative)が盛んになり、益々創造的(creative)になり、そしてグローバル(global)になってきている22)。さらにはこれまで前提にされてきた基礎→応用→開発→生産というリニア−型モデルの妥当性についても疑問が出ていて、@純粋の基礎研究(pure basic research)、A実際の使用によって刺激された基礎研究(use-inspired basic research)、B純粋な応用研究(pure applied research)、C実用目的ではない応用研究といった分類に細分する考えもある23)。あるいはフィードバック機能を重視して、それらの間の相互作用に注目したりしている。 
ところで、他国からの模倣化や、重点的な科学技術振興策の展開によるキャッチアップも進んできている。もちろんこれを過大評価だと見るサミュエルソンのような考えもあるが、主要な指標はアメリカの相対的な地位の後退を示している。なかでも特に重要なのは、人材の国際的地位の変化である。大学院での研究者の養成は一種の「徒弟制度」(apprenticeship)風に行われている。熟達した先達の直接の指導の下で、教育と研究とが結合され、リサーチアシスタント(研究助手)、フェローシップ(奨学生)、トレイニーシップ(訓練生)が結合されたもので、過去半世紀にわたって最も重要な要因として成功してきた24)。このアメリカモデルは多くの国(特に中国や韓国)で取り入れられ、多数の博士を誕生させる方法として模倣されてきた。これはアメリカにおいて外国人留学生を多数受け入れる政策としても使われ、工学ならびにコンピュータサイエンスでの博士号取得者のおよそ半分は外国人留学生である。しかしこれは9.11 以後、急速に減少してきている。
彼らは民間部門での雇用が多いが、たとえばベル研究所がトランジスターやレーザーの分野でノーベル賞受賞者を輩出したりした。現在、企業によるR & D は着実に増大しているが、対GDP 比も減少し、長期的ないし発見志向的な性格は消えてきている。その理由は、かつてのような独占的な性格が姿を消してきたこと、四半期ごとに財政的な結果に注意するようになった―つまり結果重視型になった―結果、長期のリスキーな研究投資や社会的有効性にほとんど価値を見いださなくなったこと、結果を伴う長期研究を正当化する果実を企業が常に得られるわけではなく、下手をすると競争相手に逃げていってしまうこともあること、そして民間部門の研究はグローバル時代においては国境を越えて出ていく可能性があることなどである25)。資本は地理的な境界にはほとんど関心がなく、それを主導する多国籍企業はアメリカの外に依拠しがちである。2000 年のアメリカ多国籍企業の海外でのR & D 支出の3 分の2(1980億ドルのうちの1320 億ドル)はイギリス、ドイツ、カナダ、日本、フランス、スウェーデンの6 カ国に集中していた。同時にシンガポール、イスラエル、アイルランド、中国といった新興市場ではアメリカ多国籍企業の海外子会社によるR & D 活動が増大してきている。また産業部門別では輸送機器、コンピュータ・電子製品、化学・製薬の三つの部門で海外でのR & D活動が活発である26)。大企業が基礎研究を減少させた結果、スタートアップ時にそのリスクを小規模の研究ベースの企業が引き受けるようになった。彼らは初期研究用の当初資本(initial capital)を投資家から預かり、将来の潜在的利益をストックオプションの形で雇用者に補償する形で運営する。したがって、こうしたベンチャアキャピタルに利益が還元するまでになることは滅多になく、商業化に成功する前に消滅してしまうのがほとんどである。ただし株価が上昇すれば別で、事態は改善されるし、またベンチャアキャピタルに対するリスクテイキングのシステムが生み出されると、さらに良くなる。さらに小企業も連邦政府の税優遇措置を受けるようになった。
公的資金の援助はアメリカの研究開発システムのバックボーンだが、ここでも変化が生まれている。NSF(全米科学財団)、NIH(国立衛生研究所)、DOE(エネルギー省)、DOD(国防総省)、NASA(航空宇宙局)、DOA(農務省)といったところから、とりわけシニア(上級)の科学者・技術者は巨額の資金援助を受けてきた。このうち、冷戦終了後、DOD の研究支援が減少した反面、NIH はバイテクや生命科学によって増加した。政府が直接に運営する700の国立研究所のうち、100 程はイノベーションに貢献しているが、これらもハイリスクから手を引き、長期をやめて短期の仕事に集中するようになった。しかしアメリカのリーダーシップを維持し続けるためには、これらの研究所をうまく運営し、適切に資金を割り当てていくようにしなければならない。
世界的な科学技術をめぐる競争激化に当たって、教育の意義は特別である。初等・中等教育(K―12)における科学・数学教育、科学技術への大学の学部段階での関心の低さ、優秀な学生の不足、大学外での不適切な科学技術教育など、克服すべき課題は多い。これらの新たな挑戦に適切に対処していかなければならないだろう。
安全保障的見地からの秘密保護と科学の本来の性格である公開との間のバランスづくりが必要だが、9.11 以後は前者に傾きがちである。新しいビザ発給制度は才能ある外国人研究者を閉め出したり、帰国させたりすることに向かわせがちである。「見なし輸出」扱いやSBU 扱いによる情報へのアクセスからの排除が行われるようになった。しかしこれは「国家安全保障決定命令189」(NSDD − 189)において確立された基礎研究に対する保護や、レーガン政権の1985 年行政命令で、大学や研究所によって行われる公的資金を与えられた研究は「最大可能な限り」無制限にすべきだというルールを掘り崩すことになった。もし規制が必要になる場合には、その規制メカニズムは公的な機密扱いである「合衆国法で適用可能なものは除き、国家安全保障上、機密扱いとされない連邦政府の資金援助を受けた基礎研究の運営と報告には何らの制限も受けない」という原則に則ったものでなければならない。だからNSDD − 189 はまだ有効である27)。
アメリカが発明、高度の職業、高収入を生み出す技術優位産業の優位を引き続き維持し続けるには、今日の知識中心経済を支える産業の間での新しい共同的な相互理解に向けて扉を開いていかなければならない。そして今後取るべき政策勧告として、初等・中等教育(K―12)、S & E の研究の推進、高等教育、経済技術政策の四つの領域に関して詳細に提言している。それについては詳細すぎるので、省略する。 
その上で、今後もし仮に科学技術の競争力を喪失した場合にはどうなるかを予想して、第9章では狭いリードを保つ基本線(ベースライン)、没落していく悲観的観測、その反対の基幹分野でのリードを維持する楽観的観測の、三つのシナリオを作っている。
その土台になるのは以下のような現状認識である。20 世紀後半、アメリカは圧倒的な地位を築いてきたが、それはなによりも科学技術の突出した力にあった。21 世紀の新しいグローバル時代を迎えて、アメリカは多くの挑戦を受けている。第1 にエマージング市場の台頭、第2 にイノベーションベースの経済発展、第3 にグローバルなイノベーション企業の出現、第4 に新たなグローバル労働市場、第5 に高齢化社会の到来である。このうち、第1 の要因は中国を先頭とするBRICs(中国、インド、ロシア、ブラジル)の台頭に象徴され、2032 年までにはインドは日本を追い越し、中国は2016 年までには日本や西欧を追い越すばかりでなく、2041 年までにはアメリカをも凌駕するとゴールドマンサックスは予測している28)。そして今後10 年以内に中間所得層の80%程は現在の先進国以外の地域に住むようになる。またアメリカの市場としての魅力が対米直接投資による外国多国籍企業の進出を促している。第2 のイノベーションベースの経済発展の普及については、前節で見たPCAST レポートでも指摘されていたように、他国がこのアメリカ式イノベーションモデルを模倣化、追随化し始めていて、急速にキャッチアップしつつある。特に中国とインドはその巨大な人口から見て、規模においてアメリカを追い抜くことができるだろう。しかもその中心には多国籍企業があり、税優遇、補助金、工業団地、労働訓練プログラムなどを国が支援している。それらによって、中国やインドではハイテク商品が増え始め、輸出も増大している。かつては先進国のハイテク商品を、そして途上国はローテク商品をという棲み分けが主張されたが、今や台湾、韓国、中国、インドなどで最先端の商品をしかも低コストで生産できるようになっている29)。したがって、先進国の優位性は維持されても、その差は狭まるし、一時的に過ぎないだろう。第3 のグローバルなイノベーション企業の出現については、近年、企業は新しい情報技術を使い、生産活動をアウトソーシングする傾向が強まってきた。しかもそのための労働力を低コストで調達ができるためにオフショアリングが急速に進展している。まず製造業で始まり、次いでバックオフィスで、さらにはデザインなどのソフトウェアに波及していった。したがって、強いR & D 力と製造能力とを結合する場所が強力な競争上の優位を持つことになる。だからトップレベルのR & D やデザインは依然としてアメリカでなされているが、グローバル企業は次第にオフショアでのR & Dを行うようになり、その結果、他国がアメリカに追いつくことができるようになってきた30)。
それらの結果、第4 にグローバルな労働市場が出現するようになった。企業のオフショアリングが進んで、アメリカ国内から大量に職が奪われている31)。最後の高齢化の到来だが、これは人材の不足と財政負担の増加となって現れ、アメリカの財政赤字が続くと、苦しくなる。
その上で、上記の三つのシナリオが出来上がることになるのだが、第1 の基本線は、アメリカが政治的、経済的、軍事的にリードを保つだろうが、それは2020 年頃までであって、やがては衰退していくと踏んでいる32)。それは、R & D 支出、成果、人材、外国人を惹きつける魅力などにおいて示される。もしリードが狭まると、アメリカは世界最大のハイテク市場でなくなり、FDI も減少し、アメリカ多国籍企業の海外投資が増え、それらに依拠してきた雇用が減少し、貿易赤字が増加し、科学者・技術者の給与がもっと低い外国との競争の結果、減少するだろう。さらには雇用、GDP、成長率にも影響し、貧困層が拡大することになろう。多国籍企業は世界大で雇用、R & D 投資、資源の配置を考え、成功を収めるだろうが、アメリカ国家(あるいは国民)はそうはならない。だから、今ではGM(あるいはGE、IBM、マイクロソフト)にとって良いことは、アメリカに取っても良いことだということにはならない33)。
第2 の悲観的なシナリオは科学・技術へのコミットメントが減少した場合に起こる。たとえば、社会保障関係の費用が増大したり、テロ対策費が嵩んだり、海外の方が魅力的になって、資金と人材がアメリカから逃げていったり、税負担が大きすぎたり、あるいは規制が強かったりといった要因が出てきた場合である。その場合は前よりももっと悲惨な状態の到来が予想される。外国人の引き上げによるS & E の不足、ベンチャアキャピタルが資金を海外に移して、資金のカットが起こり、また多国籍企業は海外で雇用を増やし、したがって、中国、インド等での雇用が増えるので、アメリカは衰退していく。しかも6000 億ドルにも及ぶ貿易赤字を埋め合わせるためには、1 日20 億ドルもの外国からの投資が必要になる。海外にイノベーションと投資が移動すると、アメリカの生活水準は悪化せざるを得ない34)。
第3 の楽観的なシナリオの場合は、アメリカは基幹部門でのリードを保つことになるが、それでもそのシェアは減少していく。ただし、外国の成長がアメリカの没落に直結しないだけである。アメリカが基幹部門での優位性を維持し、グローバルなリーダーシップを発揮し、アメリカシステムがグローバルスタンダードになり、経済成長を遂げ、貿易赤字を減らし、財政赤字を減らして高齢化社会に対応でき、その上で軍事的なリーダーシップを維持するための科学・技術の支えを保つことができる。かくして、相互に関連し合うグローバル社会において、相互の繁栄を目指すなかでアメリカが決定的な地位を確保することができるという好循環の出現である35)。しかしアメリカが享受してきた優位性が、今後も続くと見ることは容易いが、世界は急速に変化してきており、アメリカの優位性はもはや唯一のものではない。かつての圧倒的な優位は失うとはいえ、我が子孫達が新たに開かれたグローバル世界の急速な発展のなかで、そこから多くの利益を享受できる新しい可能性とその幸運をむしろ祝うべきではないだろうかというのが、この報告書の結びである36)。したがって、以上みた三つのシナリオの全体を貫くトーンは決してバラ色ではない。 
終わりに
以上、アメリカの心臓部と見る研究開発の動向とそれに依拠したイノベーションの進展について、アメリカ先端産業とそれに従事する科学者・技術者がどう考えているかに関して、二つの対照的な報告書を検討してみた。とりわけ「強まる嵐を乗り越えて」のグルーミーな印象をどう考えるべきであろうか。それが詳細な事実に裏付けられているだけに、アメリカの将来に関して関係者が率直な心情を吐露しているように思われてならない。それは苦い味わいであるが、はたして良薬となるであろうか。むしろだからこそ、核心からそれ、他国への国家的な寄生と多国籍企業の私益への狂奔が浮かんでくる。その結果、国家と企業との相反は広がり、眩いばかりの光の中の中心部の空ろい、つまりは「金環蝕」を感じざるを得ない。 
 
「平和のための国際組織」の思想的潮流
 古代コスモポリタニズムからカントの永遠平和論まで

 

はじめに
本稿では、各時代の思想家が「戦争」という現実を観察することによって築き上げてきた、戦争の回避と安定した秩序を維持するために、人びとあるいは国家間による協働を求めた主な思想を概説し、それらを「平和」の実現のために国際組織を創設するという思想の一つの潮流として捉える。本稿の対象は、古代ギリシア時代から18 世紀末までの欧米における、「平和」の実現のために国家および人びとの協働を求めた主な思想である。本稿において「平和」とは、戦争の不在の状態、秩序の安定が維持されている状態を意味する。もちろん、現代において「平和」概念は更なる発展を遂げている1)。しかし、本稿は「平和」概念の発展の系譜を追うことを目的としない。
現代の国際組織が形づくられたのは、産業革命による社会変革によって、国際行政事務局が必要とされるようになった19 世紀以降である。しかし、それ以前より、戦争の回避と安定した秩序を維持するために、人びとあるいは諸国家の協働を求める思想は存在した。もちろん、思想家たちの思想そのものが、国際組織の創設に直接的な影響を及ぼしたわけではない。歴史の発展と概念の発展は常に食い違い2)、しかし、その食い違いの中で現実における経験は、意図する・しないに関わらず思想による制約を受け、また思想も現実における経験によって制約されてきた。古代から現在までのこのような思想と現実の共鳴の連環は、積み重ねられてきた時間の層の中にあり、「いま・ここ」はその一番上の地表なのである。古典古代より続く平和のための協働に関する思想は、各時代の現実と共鳴してきた。時代が異なると、同じ「平和」という用語が使用されていたとしても、単純に同一の意味としては論じられない。しかしながら、その時々の現実的な目的によって形づくられた思想も、その概念の具体性の中から抽象性を導き出すことができる。
各時代の思想の個別性、偶然性の中に見いだされる、新たな段階への展開となった思想の系譜を体系化することが、本稿の目的である。それらは、現代という歴史的条件の下で見いだされる、ひとつの思想の潮流である。「平和のための国際組織」の創設をめぐる思想を観察すること自体が、現在という歴史によって規定された意識であり、古代からの歴史の出来事の連続性の上にあることを確認しなければならない。本稿で扱う思想史自体が、現代という先入見にとらわれていることを自覚しなければならない3)。現代という先入見が、各時代において論じられてきた平和をめぐる思想の中に価値を見出させる。平和ために諸国家あるいは人びとの協働を求める思想は、歴史的に繰り返しその真価を試されながら反省、伝承、維持されてきたことで、絶えず過去と現在との間での橋渡しがなされ、超時代性を有する歴史的な存在、すなわち「古典性」を獲得するに至った4)。古典古代からの平和の思想は、どのような時代においてもその時代に価値ある何かを語ることで、過去と現在の双方に帰属することになる。過去の思想を現代の視点から理解することそのものが、歴史と現在とを媒介する。このことは、過去を現在に同化させることを意味しない。時代の隔たりは生産的な理解の可能性を有する。観察する側が自らの歴史性を認識することで、現在という制約された状況にある視点から平和のための協働に関する思想の本質を見出すことができるのである。
本稿のTでは、古代ギリシアのストア派のコスモポリタニズムと、中世ヨーロッパにおけるダンテ(Dante Alighieri)、エラスムス(Desiderius Erasmus)、アンリ4 世(Henri IV de France)、ビトリア(Francisco de Vitoria)の思想における、平和のための協働に関する思想を抽出する。Uでは、平和のために諸国家が協働することを説いたヴォルフ(Christian Wolff)の「世界共同体(civitas maxima)」論と、サン=ピエール(Abbé de Saint-Pierre)とルソー(Jean-Jacques Rousseau)の永久平和論及び、カント(Immanuel Kant)の永遠平和論について概説する。本来ならば、ベンサム(Jeremy Bentham)のPrinciples of International Law における国際法・組織に関する思想も扱うべきである。Principles of International Law が構想されたのは国際行政事務局が現実の政治において現れようとしていた18 世紀の末であり、本書におけるベンサムの国際法および組織に関する提案は、より現実的・具体的なものである。しかし、本書の発刊が、国際組織の嚆矢たる「ライン川航行に関する条約(1831 年)」の締結以降の19 世紀半ば(1843 年)であることから、本稿では扱わず、今後の課題とする。本稿では、古代コスモポリタニズムから18 世紀末のカントの永遠平和論までの、純粋な理念として説かれた平和のための国境を越えた諸国家と人びとの協働に関する主要な思想を追うことで、「平和のための国際組織」の創設という理論を支えてきた思想の一つの潮流を見いだしたい。 
T.平和のための協働に関する思想の系譜
A.ポリスを越えた世界市民:古代ギリシアのコスモポリタニズム
古代ギリシアは、ポリス(都市国家polis)の時代であった。紀元前800 年から500 年にかけて、ギリシア世界ではポリスが形成されていった。ポリスとは、氏族(clan)や部族(tribal)を中心とした住民からなる小規模で緊密な共同体である5)。アリストテレス(Aristotele¯s)によると、人間は生まれながらにして善(アガトンagathon)を希求する存在であり、人間が求める最高善とは幸福であること、また自足的であることである。そして、人間は善悪の知覚を他者と共通にしているため、協働することができる。人間は生まれながらにして社会的であり、ポリス的な動物(zo¯on politikon)なのである。「それゆえに相互扶助を少しも必要としない者でもやはり共に生きることを求め望むのである。しかしまた、共通の利益も、それによって各人に善き生活の分け前が与えられる限り、各人を結合するのである。だからこの善き生活が、全体としての凡てにも、それぞれのもの凡てにも特に目的なのである」6)。したがって、ポリスとは自然の原理により形成された、包括的政治組織、あるいは政治的社会であり、共通善を政治の究極の目的とする共同体(koinonia politike)なのである。
当初行われていた地域の王によるポリスの統治は激しい対立を繰り返し、やがて氏族や部族による統治が行われるようになった。しかし、氏族や部族による統治も次第に専制の色を濃くしていった。激しい社会闘争のなか力をつけていった独立市民は、その数と共に影響力を増し、紀元前6 世紀ごろにキオスにおいて民主的政体が登場したのを皮切りに、各ポリスにおいて民主政がとられるようになる。民主政すなわちデモクラシー(democracy)は、民衆(demos)による 支配(kratos)をその語源とし、市民による政治を意味した。アテナイでは、自由市民のすべてに参政権が与えられた。民主政の下では、権力は市民にあり、市民は法の下に平等であるとされた7)。市民とは、ポリスに属する公民、公的世界としてのポリスの正式な構成員とされる武装能力のある男性であった8)。市民とはすなわち自らのポリスを守る兵士のことであり9)、ゆえにポリスは「戦士の共同体」でもあった。市民の権利と義務は、市民としての地位と結び付けられていたのである10)。こうした条件の他に、市民には市民としての徳(civic virtue)が求められた11)。徳とは私的な利益ではなく共通善への献身、すなわちポリスへの貢献を意味した。個人が自由で充実した生活を送ることができるのは、唯一ポリスにおける市民として生きることであると考えられたのだ。
このポリス思想が支配的であったため、個人の生活のすべてはポリスの中に存在すると考えられていた。しかし、アレクサンドロス大王(Alexander the Great)の大帝国建設により、ポリスの政治的独立が失われたことで、自らをコスモポリテス(kosmou politês)として意識するようになった人々が現れた12)。彼らの思想をコスモポリタニズム(cosmopolitanism)という。現在では、国や民族を超えた、個人すなわちコスモポリタン(世界市民cosmopolitan)を直接の単位とする世界社会を目指す思想の事を指す。コスモポリテスと言う言葉は、キュニコス派のディオゲネス(Diogenes)が、「どこから来たのか」と聞かれて、「私はコスモポリテスである」13)と答えたのが起源であるとされている14)。これは、自分自身を国や民族にとらわれずに普遍的に位置づけるという、徹底した個人主義を意味する言葉であった。市民は世界市民として自らの人間性や理性の価値、道徳的な目的を重視し、出身地、身分または性別等による自己のイメージに囚われてはいけないという意味を持っていたのである15)。キュニコス派の影響を受けたゼノン(Zenon)は、人間は理性をもって情念を抑えることによって平常心(アパティア)を保ち何事にも当たらなければならないと説いた。そして、人間の理性は平等であり、人間は一つの世界に住んでいるコスモポリテスであるとし、「理想の共同体」を提案した。
そこでは、人々は万人を同じ村の仲間のように捉え、共通の法の下に生活する。それは唯一つの生活のあり方と秩序によって成る共同体であると考えられた16)。
ゼノンの徒によるストア派は17)、すべての人間は同じロゴス(理性)を持っていると考え、一人一人の人間は普遍的なマクロ・コスモスを写すミクロ・コスモスであるとみなした。この考えは時、場所を問わずあてはまる「普遍妥当の法」、すなわち自然法の考え方に継承される。
万人の理性の共通性と人間と宇宙の理性を踏まえることで、普遍性を導きだしたのである。またストア派は、存在するものはただ自然だけであるという一元論をとり、コスモスが自分のポリス、すなわち全世界が自分の共同体であるというコスモポリタニズムを唱えた。ストア派のコスモポリタニズムは、ローマの皇帝であり、古代ローマ時代のストア派の代表者であるマルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius Antoninus)に受け継がれる。彼は『自省録』において、「もし叡智が我々に共通のものならば、我々を理性的動物となすところの理性もまた共通なものである。であるならば、我々になすべきこと、なしてはならぬことを命令する理性もまた共通である。であるならば、法律もまた共通である。であるならば、我々は同市民である。であるならば、我々は共に或る共通の政体に属している。であるならば、宇宙は国家のようなものだ。なぜならば人類全体が他のいかなる政体に属しているといえようか。であるから我々はこの共同国家から叡智なもの、理性的なもの、法律的なものを与えられているのである。でなければどこからであろう」18)と述べ、自然法とコスモポリタンな市民という考え方を結び付けようとした19)。
ポリスの枠を超えた一つの世界共同体というゼノンのコスモポリタニズムは、共同体の実現を目指したものではなく、一つの理念であった。しかし、人類は「世界市民」という共通の立場にあり、共に善を最高の目的としなければならないという彼の思想は、古代ギリシア、共和政ローマの政治思想に、ひいてはローマ帝国の政治の方向性に影響を与えた20)。しかし、コスモポリタニズムはその他の古代ギリシア思想とともに長い間ヨーロッパから姿を消すことになる。コスモポリタニズムの復活は、ヨーロッパで再び古代ギリシア思想が見出され、理性と信仰の衝突と調和をめぐる様々な思想的実験が試みられた中世を経た後の、ルネサンスを待たなければならなかった。 
B.中世キリスト教社会とルネサンス:キリスト教共和国とコスモポリタニズムの復活
ローマ帝国崩壊後の中世ヨーロッパは、キリスト教を中心とした社会であった。キリスト教会は人々の信仰の世界だけでなく、生活社会をも支配していた21)。しかし10 世紀以降、イスラム教徒との戦いにより、イスラム世界で受け継がれてきた古代ギリシア時代の思想がヨーロッパに逆輸入される。12 世紀以降、中世キリスト教社会ではアウグスティヌス主義とアリストテレス主義が激しく衝突した。このヨーロッパの精神的危機は、最後のローマの哲学者であるボエティウス(Anicius Manlius Torquatus Severinus Boethius)の遺言である22)、信仰と理性の調和の論理をトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)が確立したことによって乗り越えられ、新たな思想を形成する契機となった。それ以後ヨーロッパでは、キリスト教の信仰と理性との調和をめぐる思想的実験が繰り広げられ、ルネサンスへと展開する。この時代に構想された平和のための協働に関する思想は、コスモポリタニズムなどの古代ギリシア思想とキリスト教の信仰との相克と調和の過程において形成されていくことになる。
@ダンテの『帝政論』
例えば、『神曲』で有名なダンテは、『帝政論(Monarchia)』のなかで平和のための「世界的帝政」を説いた。ダンテの「世界的帝政」論には、二つの思想的特徴がうかがえる。一つは、アリストテレスを中心とする古代ギリシアの思想であり、もう一つはアウグスティヌス(Aurelius Augustinus)以来の、教皇と皇帝を最高支配者とし、神に対する信仰を通じて結ばれた統一的なキリスト教共和国の精神である。
ダンテは『帝政論』で、すべてにおいて世界平和は最善のものであると説いた。世界平和は神による個人と人類全体の「救済」の手段であり、人類の究極の目的である23)。そのためには、人類は一つでなければならない。地球上に多様な文化が存在するのは、人類の可能性すべての実現のためであり、それぞれは協調し協力することによって、世界的帝国の一部となる24)。人類が一つであるとき、人類は最も神に似ることができる。そして、人類が最も一つであるのは一人の王に従属するとき、すなわち世界的帝政の下にあるときである25)。ダンテがこの役割を担うと考えたのはローマ帝国であり、この帝国の権威は神に直接由来するものであると説いた26)。それゆえ、この帝国は教会に対して独立するとされた。しかし、この帝国は教会に対抗する存在ではない27)。世界の平和を維持することが、この世界的帝国の統治の目的なのである。
ここで注意しなければならないのは、ダンテの言う「世界的帝国」とは理念としての「帝政」をとる共同体であって、直ちに実現されるものであるとは考えられていなかったということである28)。ダンテは「世界的帝政」という理念を示すことで、世界平和という人類の究極の目標への道標としたのだ。
世界が諸国家に分かれていることから、世界的帝政は諸国家によって構成される。構成国家間は従属関係にないため、争いが生じることが予想される。このとき、この争いを審判する第三者、すなわち世界的帝国の「帝王」が存在していなくてはならない29)。帝王は最高の審判者であり、一切の争いは帝王によって直接解決される30)。また、帝王は世界的帝政の立法者として存在する。しかし、その法は諸国家の利益のために定められなければならない31)。帝王は人々に関する徳すなわち正義を備えていなければならず、貪婪であってはならない32)。帝王は諸国家の支配者がその市民のために存在するように、世界的帝政を構成する諸国家のために存在しなければならない。帝王は王ではあるが、目的においては諸国家の僕なのである33)。この世界的帝政の下でのみ、人々は自由であることができるのである。これらの思想は、アリストテレスの『政治学』や『ニコマコス倫理学』から影響を受けたものであった。
ダンテが、世界的帝政の支配権は神から天啓を受けたローマ人に存在し、ローマ人は歴史的にそのような能力を有すると主張している点から、『帝政論』における彼の思想は抽象的なコスモポリタニズムではなく、愛国心から説かれたものであるとも考えられる34)。しかし、このダンテの『帝政論』における思想は、度重なる戦火に苦しむ当時のヨーロッパの人々の、平和への願いから生じたものであり、人類の普遍的な願いでもあった。ダンテの思想は、後のヨーロッパにおける自由と秩序をめぐる国家観の礎となったと言えるだろう。
Aエラスムスの『平和の訴え』
ダンテが注目した古代ローマの論理は、エラスムスによって発展し、中世の弁証法を排してローマの修辞学と論理学をもって真理を追求する人文主義へと至る。人文主義者の巨人であるエラスムスが目指したのは、現実における社会の矛盾を明らかにすることに始まり、教会の浄化、新約聖書の改訳、そして人間がなすべき道徳観、寛容、節度などを持った社会感情の醸成などであった35)。しかしながら、当時の社会は混乱の真っ只中にあった。協調、平和、義務意識、親切が世界に実現されず、狂気としての戦争が頻発する現状に幻滅したエラスムスは36)、傍観者を演じつつも彼の理想を訴え続けた37)。
『平和の訴え(Querela pacis)』においてエラスムスは、「平和の神」の名を借りて人びとに「平和」の実現を訴えた。エラスムスは、人間社会の起源を「必要」であると考えていた。社会は人間の「必要」から作られたものであり、団結の力によって互いに野獣や戦争の被害を防ぐことができるようになった38)。そして、平和こそが自然が人間に授けた最良のものであり39)、それらを保証する社会や国家にとって平和以上に重要なものはない40)。それはキリスト教の教えでもあると彼は述べる。「旧約聖書にせよ新約聖書にせよ、聖典全体が語っていることは、ただひとえに平和と一致協力のことだけ」41)である。キリストはその全生涯において、平和と和合を説いた。その教えに従うキリスト教徒は、一つの家としてこの世界に住み、同じ家族としてキリスト教に属し、一人の父としての神に頼っている42)。「誰であろうと、洗礼を受けた後は、奴隷でもなく、自由民でもなく、異邦人でも、ギリシア人でもなく、男でも、女でも」なく、「あらゆる人がすべてを和合させるキリストに帰して一つとなる」43)。そして、キリスト教徒という一つの共同体の一員なら、各々がその他の者の幸福を喜びあうべきである44)。しかしながら、人びとの欲や怒りから、キリスト教徒間の戦争は絶えず、人びとを堕落させている。異教に対するキリスト教のための戦争ですら、人間を堕落させるのである。ましてや、人間の欲や怒り、狂気によって行なわれた戦争ではなおさらである45)。ここで彼が言う「平和」とは、キリスト教社会のものである。ユダヤ人やトルコ人といった異教徒に対するキリスト教徒の「聖戦」までも否定しているわけではない46)。しかし同時に、エラスムスは、異教徒に対する戦争をも批判する。なぜなら、「トルコ人とても武力で攻撃するより、教化と親切と汚れない生活の事例を示すことによって、キリスト教に誘導すべき」47)であると考えていたからである。そして、「もし、祖国という呼名が和解を生み出すというのでしたら、この世界はすべての人間に共通の祖国ではありませんか」48)と呼びかけるのである。
人びとの協働を前提として、エラスムスは具体的な平和の実現のための4 つ方法を提示した。
一つは、君主の協働による領土の確定である。当時、領土をめぐる縁戚関係や条約が、戦争の原因となっていた49)。そこで、諸君主による合理的な協定と堅実公正な友好関係に基づく領土の確定、すなわち確定された境界が婚姻関係によって変更されたり、他国を侵略するような条約が締結されたりすることがないようにすることこそが、平和を確実なものとすると考えられた50)。2 つ目は、有徳な君主の存在である。「ありとあらゆる戦争が、君主たちの利益のために企てられ、戦争とは全然何の関係もない民衆の被害の上に遂行された」51)。さらには、自らの権力の安定のために、民衆の不和を喜ぶ君主がいる52)。しかしながら、「敬虔な君主にとっては、その人民の安全を図ることが何よりも重要な義務」であり、「まず戦争こそは何よりも憎むべきものとされねば」ならず、「君主の幸福とは幸福な国民を統治することである」ならば、「君主は心から平和を大切に慈しむ義務が」53)ある。また、領土の確定にともない、「一国の主権者が頻繁に代わったり、また、国から国へ転々と移動することのないような方策を見いだす必要が」54)ある。君主は公の利益を第一に考えねばならず55)、そのためには戦争を選ぶよりは「平和を買う」方法を選ぶことも厭わないようでなければならない56)。3 つ目は、国際的な仲裁機関の設置である。学識者、教会の修道院長、司教らによる、紛争解決のための仲裁機関を設置することで、法律に則り紛争を収めることが平和への道である57)。例えこれらによる解決が「どんな不公平なものであっても、武力に訴えるよりは害悪が少なく」すむ。なぜなら、「およそいかなる平和も、たとえそれがどんなに正しくないものであろうと、最も正しいとされる戦争よりは良いもの」58)であるからだ。4 つ目は国民の意思の反映である。戦争によって不利益をこうむるのは国民であり、「大多数の一般民衆は、戦争を憎み、平和を悲願して」59)いる。
それゆえ、「ありとあらゆるものの中でも最も危険なものである戦争は、全国民の承認がない限り」60)断じて行なわれてはならない。君主が義務に反し、自らの野望のために戦争をするようなことがあれば、「国民の一致した決議によって抑制すべき」61)である。また、戦争の原因になる君主の後継者に関しては、君主の「血縁関係の最も近い者、あるいは人民投票により最も有能と認められた者が、君主の跡目を継ぐべき」62)である。
このようなエラスムスの平和の訴えは、当時のヨーロッパに空しく響いただけであった63)。
しかしエラスムスは、君主たち、司祭たち、神学者、司教、そしてすべての人びとに恒久平和を訴え続けた。「心を一つに合わせて戦争反対の狼煙をあげてください。民衆の協力が専制的な権力に対してどこまで抵抗する力があるかを示してください。この目的のために各人はその全て〔の知恵〕を持ち寄っていただきたいのです。自然が、それにもましてキリストが、あれほど多くの絆で結びつけた人間たちを、恒久的な和合が一体としてくれますように。そして、すべての人びとが、すべての者の幸福を等しく関係する事がらの実現のために、共通の熱意をもって努力してくださるよう!」64)。当時、エラスムスの平和に対する愛と戦争の狂気の告発は、書斎からの学究的な非難としてしかとらえられなかった。しかしながら、彼の平和を実現するための具体的な方法は、国家間関係に共和主義的原則を適用することによって永遠平和を説いた、カントの思想へと継承されていくことになる。
Bアンリ4 世の「大計画」
ダンテの「世界的帝国」やエラスムスの『平和の訴え』は理念であり、直ちに実現されるものとして提示されたものではなかった。しかし、ヨーロッパという限られた範囲においてではあるが、諸国家の協働によって平和を実現させようとしたのが、アンリ4 世である。当時のヨーロッパは宗教戦争により、新しい国家が次々と登場し、国内の統一も失われつつあった。この背景には、フェリペ2 世(Felipe U)の死によるスペインの黄金時代の終焉があった65)。ナヴァール王とフランスのブルボン王朝の始祖であるアンリ4 世は、自らの改革実行のため、宗教改革による宗教戦争が続く国内の和平とその持続を目指した。そして、国内の平和は国際関係の安定と不可分であるとして、「大計画」すなわち、ヨーロッパ連合によるヨーロッパ統一構想を打ち出した。これは、現代のヨーロッパ統合の基礎をなす構想として66)、今日でも注目されている。
アンリ4 世の事実上の宰相であったシュリィ(Maximilien de Béthune、 duc de Sully)のEconomies royales において明らかにされた「大計画」は67)、キリスト教を信仰するあらゆる州、王国、共和国の連合によって、永遠に平和なキリスト教共和国を建設するというものであった68)。キリスト教共和国は、敬虔なキリスト教国家、シュリィの想定では「15 の多少とも主権を持った国家」による連合からなる69)。これは、宗教戦争を終わらせること、すなわち対立するカトリック、プロテスタント、改革派キリスト教間の平和的な共存を作り出すことを目的としていた。ここで注意したいのが、あくまでも対立する宗教間の共存を目的とするものであって、一つの宗教に統一することを目的としたわけではないということである。「ナントの勅令」による寛容の精神をもって、ヨーロッパの平和のための統一を目指したのである70)。そこで説かれたのが、教会と国家の分離である。構成国の支配者は宗教に携わることをやめ、国民生活の諸問題の解決のため取り組まなければならない。現在では当たり前の考えであるが、当時は新しい統治のあり方を示す思想であった71)。
ダンテの「世界的帝国」とは異なり、アンリ4 世のキリスト教共和国は、「帝国」ではなく共和政ローマを髣髴とさせるような統治形態を構想していた。以下がその内容である。共和国はそれぞれの管轄地域の紛争を扱う6 つの特別委員会と、上院に補助されながらそれらをまとめる総合委員会によって統治される。総合委員会はキリスト教共和国に関わる問題を検討し、諸国家の仲裁と対外的な防衛の役割を担う72)。さらに総合委員会は、共和国に関わる諸問題への干渉権を有し、少数派に属する構成国家は委員会に自らの権利を尊重させるように訴えることができる制度を設ける。構成国家の統治者たちは、体内的には自らの臣民を平等に扱い、愛情を持って必要な規則や命令を定め、臣民の利益を守らなければならない義務を有し、対外的には他の統治者を承認し、国境を侵してはならない義務を負う73)。アンリ4 世は、構成国家の統治者にこれらの規則の遵守を誓わせることで、ヨーロッパの治安を維持しようと考えたのである。そして、キリスト教世界の敵、すなわちトルコ人との戦いに備え連合軍を組織しようという計画であった74)。
この「大計画」は多分に理想的であり、実現を目指したものではあっても、外交指針としての範囲を出たわけではない。しかし、シュリィによれば、1610 年のアンリ4 世の遠征はこの計画実現への第一歩となるはずであった75)。この計画にはイギリスのジェームズ王(James T)、スウェーデン王のカール9 世(Karl \)、ドイツの新教徒による同盟が締結され、イタリアの諸国家からも信頼を得ていた。彼らは自らの利益のために賛同したのではあるが、アンリ4 世のリーダーシップのもと隣邦諸国は条約を締結した76)。それにもかかわらず、この「大計画」はアンリ4 世の暗殺によって頓挫することになる。この「大計画」はヨーロッパに限定した、平和のための国家連合構想であり、直接的には世界的な平和のための国家連合構想に影響を与えたものであるとはいえない。しかしながら、国家と宗教を区別しようとした点や、多様な言語や宗教の平和的共存を目指したという点は、その後の国家観や平和のための国家連合構想の指針となっていったといえる。
Cヨーロッパを越えた大航海時代
十字軍の遠征やモンゴル帝国の拡大に伴い東西の交易が進んだこの時代、ヨーロッパを越えた「世界」が認識されるようになった。15 世紀ごろ、造船及びイスラムを介して伝わった羅針盤等による航海技術の飛躍的な進歩により、スペインやポルトガルを中心とするヨーロッパの大国は、交易ルート拡大のためアフリカやアメリカ、アジアへと進出することになった。いわゆる大航海時代の幕開けである。ヨーロッパ人達は航海先で、彼らが「未開人」と呼ぶ相手に出会うことになった。そして、その「未開人」をどのように扱うかが、当時のヨーロッパ社会において大きな問題となったのである77)。アメリカ大陸へ宣教師として渡ったドミニコ修道会士であり、スペインのサラマンカ大学の教授であったビトリアは、「インディオについて(De indis)」という講義を行なった。彼はその講義のなかで、西インド諸島におけるスペインの征服を批判するとともに、ヨーロッパだけでなく世界規模での法的な共同体の存在を認め、その共同体を基盤とする万民法による世界の「平和」を説いた。彼の思想からも、キリスト教思想と古代ギリシアの哲学の調和がうかがえる。ビトリアは、キリスト教社会を越えた「全体世界(touts orbis)」を視野に入れ、平和を説いた。人間は人間としての自然の本性により、「自然社会(societas naturalis)」を形成する。
これこそが全体社会であり、すべての国家を構成員とする普遍的人類共和国である78)。ビトリアは、ヨーロッパを越えた、「人類」という枠組みで「世界」を捉えたのであった。これは、キリスト教共和国というキリスト教社会に限定された「平和」を、異教徒や「未開人」を含む「全体世界」へと広げた新しい思想であった。一方でビトリアは、この普遍的人類共和国を一つの法人のようなものとして捉え、自然法的性質の万民法がその意思としてすべての人類に適用されると説いた。この意思は、普遍的人類共和国を構成する構成員の意思からは独立したものであるとされた79)。これはアウグスティヌス以来の、キリスト教共和国の観念に影響されたものである。ビトリアはこのキリスト教共和国の観念に基づいて、統一的な人類の共和国を構想した80)。しかしビトリアは、教皇や皇帝が最高の支配者となるキリスト教共和国とは、明らかに異なる共和国を構想していた。
ビトリアが普遍的人類共和国を一つの法人としてみなしていたのは、この共和国を国家の延長として考えていたからである81)。この考えは、後にヴォルフの「世界共同体」思想においても継承される。ビトリアは普遍的人類共和国を自然的な社会であると考えた82)。人間は社会的本性を持つゆえに、自然に社会を形成し、他者と交流する。国家はその一部に過ぎず、すべての人間はいずれの国においても旅行し居住する権利を有する。この権利は後のカントの思想においても、世界市民法として継承されている。ビトリアは国家の存在を否定しているのではない。これは、人々は国家と普遍的人類共和国の双方に属することになるという思想であり、古代ローマにおける出生国と共和政ローマ双方の「二つの祖国」に属する市民概念に通じるところがある。普遍的人類共和国は一つの国家のようなものであり、その意思である万民法を定める。統一的な支配機関は存在せず、その意思は自然法と共通善のためにすべての構成員の多数決によって導き出される83)。世襲による君主によって支配される国家が大半を占めていた時代において、多数決の原則を採用したことは注目すべき点である。ビトリアは、この普遍的人類共和国に支えられた万民法によって、キリスト教社会を越えた全体世界の平和を実現させようとしたのである。
ビトリアの思想は、イエズス会士のスアレスらによって引き継がれる。一つの完全の共同体である国家は全体世界の構成員であり、この構成員であることが国際法を確立する基盤となる84)。古代ギリシアから続く自然法と万民法の関係は、グロティウスによってさらに定式化され、国際法の確立へと発展していく85)。 
C.ウェストファリア条約と勢力均衡
1648 年、カトリックとプロテスタントの宗教対立に端を発し、それにハプスブルクとブルボン両家の国際的対立が相俟って戦われた三十年戦争を終結させるため、ドイツとフランス、ドイツとスウェーデンの間で諸条約が締結された。これら諸条約は総じてウェストファリア条約と呼ばれている。ウェストファリア講和会議では、それぞれの国家の支配者に、国内における絶対的な主権と対外的な独立、特にローマ教会からの独立が認められることによって、国家間関係において初めて明確に領土的主権の原理が確立された86)。
領土や国民を他国からの介入を排して統治し、また、国家を代表する唯一の政府が国内の秩序を維持するための最高権力を握るという権限が、国際法上の国家に対して平等に与えられた。
こうして、排他的、かつ一元的な国家主権と内政不干渉の原則が成立した。主権は国家間において平等であり、国際関係には諸国家の主権の上位に位置する権力は存在しない。それゆえ、諸国家は、各国の力を互いに均衡させることによって、超大国が出現することを防ぎ、国際社会の平和と安定を保持しようとした。こうして、国家主権、内政不干渉、勢力均衡の原則を基として、戦争の再発を防止し、国際社会の平和と安定を保障しようとするウェストファリア体制が、国家間の秩序として築き上げられたのであった。
ウェストファリア体制では、国家は国際システムにおける唯一のアクターであると定義される。国家のみが国際関係において権利と義務を有し、権力を行使する「正当な主体」であるとされたのである87)。それゆえ、主権国家以外のアクターによる権利行使は認められない。そして諸国家は、他国の対外的な独立と、国内における排他的権限を相互に承認し、互いの軍事力を均衡させることで、諸国家の「共生」を目指したのである。主権国家間の平和と安定のために成立したウェストファリア体制であったが、このモデルの下では、勢力均衡を図る目的で戦争を行うことや、戦争を自国の利益追求の手段とすることが認められていた。そのため、諸国家は、内政不干渉の原則に従い、他国の主権を尊重しながらも、自国の利益追及のため権力闘争を続けた。そうして、軍事技術の発達にともなう戦争による犠牲者が増大するなかで、戦争の惨禍をいかにして最小限に抑えるかが課題とされるようになった。
17 世紀以降、国際法が発達するなか、グロティウス(Hugo Grotius)は『戦争と平和の法』で、戦争においても有効な自然法が存在すると説いた。諸国家間で戦争が行われるにしても、一定のルールに従ってなされるべきであるとする思想が生まれてきたのであった。また、グロティウスは同著において、戦争を「不正な戦争」と「正しい戦争」に分け、正当な理由(自己防衛、奪われた財産の回復、悪行に対する処罰等)があれば戦争は許されると主張した。いわゆる「正戦論」である。しかし、ウェストファリア体制下では、戦争を始める理由が正当であるか否かを判定する者、あるいは機関が存在せず、「正しい戦争」、「不正な戦争」の判断は困難であった。そのため、18 世紀半ばには、戦争原因の正当性ではなく、戦争開始の手続や戦闘の方法に限ってのみ国際法で規制されるようになった。ウェストファリア体制が確立した後も、国家間の紛争は絶え間なく続き、しだいに、ウェストファリア体制に挑戦する思想家たちが登場する。 
U.平和のための国家連合という理念
A.世界共同体(civitas maxima)構想
17 世紀から18 世紀前半にかけて、グロティウスの「国家間の社会(societas gentium)」概念をめぐり、国家と国家の間には社会が存在しないと言う説と、存在すると言う説の間で論争が繰り広げられていた88)。そのなかでヴォルフは、国際法の基礎を確立するための「世界共同体」構想を提示した89)。
ヴォルフは、すべての人間を構成員とし、人間相互の協働からなる社会を自然の原理による「大いなる社会(societas magna)」と捉えた。自然状態であっても、自然の原理によって社会が形成されると考えたのである。ヴォルフは、国家を自然状態における自由で独立した個人と同じであるとみなし、自然の原理に従って他の国家と結びつくことにより社会を形成すると説いた90)。人間にとって他者との協働が不可欠であるのと同様に、国家も他の国家と協働する必要がある。国家も自然の原理に従って他の国家と協働し、彼が言うところの「世界共同体」を形成すると考えたのであった。人類が諸国家に分裂した時、自然の原理による大いなる社会は「世界共同体」へと継承されると説かれたのであった91)。
ヴォルフの言う「世界共同体」は、諸国家から構成される一つの共同体である。自然の原理は国家に国家共同体を形成させ、諸国家に対しそれを維持するように求める。そして、諸国家の力を結合させることによって公共善を促進させることが、「世界共同体」の目的であると考えられた。人々が公共善のために契約を結び国家を形成するのと同様に、国家も公共善のために契約結び「世界共同体」を形成する。国家が「世界共同体」のために契約を結ぶのは自然の原理でもあり、かつ他の国家と協働することが自らの利益であると認識する国家による「同意」に基づくものでもあるとされた92)。「世界共同体」は一種の国家であり、その法と権利も国家のものと同じように存在し、法は「世界共同体」にとっての善を維持する93)。「世界共同体」を構成する諸国家は、公共善の促進のために共同体の法に従う。なぜなら、諸国家は公共善の促進のために結合するのであって、それらの法に従うことがそれぞれの国家にとって平和と安全を提供するからである。国家における個人と同様に、諸国家はそれぞれの国家にとっての平和と安全が公共善の促進によって実現されると言うことを認識すると考えられたのである。公共善を促進するために国家はそれぞれ義務を負い、権利を有する。国家が自らに課される義務を果たさない場合、その国家が義務を果たすように強制する権利が「世界共同体」を構成する全体としての諸国家に帰属する94)。この権利は、「世界共同体」の目的によってその限界が決定される。このことから、構成員としての各国家の上位に一種の「主権(aliquod imperium)」が存在することが理解できる。この一種の主権は、「世界共同体」を構成する全体としての諸国家に帰属する95)。一つ或いは複数の国家に「世界共同体」の主権が与えられることはなく、それぞれの国家に対する権限は全体としての諸国家に帰属するのである96)。
「世界共同体」における国家は、自然状態における個人と同じであるとみなされるので、自然状態でのすべての個人が平等であるように、「世界共同体」におけるすべての構成国家は道徳観念上平等であるとされた。すべての国家は等しく法的な権利と義務を有するのである。「世界共同体」の構成国家は自由かつ平等であり、統治形態は一種の民主政をとる。それゆえ、いずれの国家も他の構成国家に従属しない。一種の民主的統治形態をとるゆえに、「世界共同体」の意思はすべての構成国家の意思であるとみなされなければならない。そしてその意思は大多数の国家にとって、最善のものでなければならない。しかし、国家における議会のように世界中の国家を集めそれらの意思を主張させることはできない。それゆえ、構成国家は自然の意思に従い正しい理性を用いることで、「世界共同体」の意思に同意し従う。その際、より文明化された国家によって承認されることが国際法として認められることに妥当性を与える。また、「世界共同体」には、すべての構成国家の行動に対して主権を行使できる「立法者」が存在する。
但し、この立法者は実際に存在するのではなく、擬制されるものである。立法者は、諸国家によって国家間の法としてみなされるべき理性の正しい行使によって定められる。けれども、立法者による法が自然法的国際法とすべて一致するわけでもなく、自然法的国際法と異なるものでもない97)。
ヴォルフのこの「世界共同体」構想は国際法の基盤作りのために説かれたものであり、具体的な国際組織の設立を目指す概念ではない。しかしながら、彼は「秩序の維持のための諸国家の協働」という、のちの国際連盟構想に繋がる思想を展開している。 
B.サン=ピエールとルソーの永久平和論
「社会契約論」で有名なルソーも、ウェストファリア体制に疑問を持ち、国際的な組織の創設による平和論を説いた思想家の一人であった。ルソーは、政府は勢力均衡状態において、国内の統治を完全なものにするより、他国に対抗できる国家にすることに専念し、それがかえって戦争に火をつけることになっていると考えた。勢力均衡状態は戦争状態であり98)、この危険な状態を取り除くには諸国家が結びつき、共通の法律に従うような連合政府の形態をとるしかないと説いたルソーは99)、サン・ピエールの「永久平和論」を批判しつつ、自らの平和論を構想する。
アベ・ド・サン=ピエールは「ヨーロッパ永久平和論」において、国家間の秩序が勢力均衡によって保たれる状態は戦争を生じさせ、平和を実現することはできないとして、戦争状態を永久の平和に変えるために、ヨーロッパ諸国の同盟による国際組織の創設を説いた。これは、アンリ4 世とシュリィの「大計画」をもとに、国家間の秩序を変革しようとしたものである100)。この同盟は永久に続くものであり、一度締結すると取り消しはできない。加盟国は全権委任の代表を集めた定期的あるいは常設の会議を開催し、加盟国当事者の紛争はそこで調停され解決される101)。それぞれの加盟国は、その会議において決定される分担金を出資し、この諸国家連合による国際組織はこの分担金により運営される。この会議において、構成各国に利益をもたらすための諸規定が作成され、多数決によって可決される。諸国家連合は構成国の所有権と統治権を保障し、構成国家同士が武力によって相手国との問題を解決することを決して許さない。同盟の条約に違反する構成国は、ヨーロッパ社会において関係を築くことができず、公共の敵とみなされる。もしもある構成国家が戦争の準備をし、他の構成国家に武力を行使した場合は、全構成国家が協力して、その武力行使をおこなった国家に対して攻撃的行動をとる102)。この点から、従来の正戦論を放棄し、武力の行使は戦争廃止のための「国際的法組織」による制裁戦争のみ認められるとした、集団安全保障の理論を展開させていることがうかがえる。これらは諸国家連合の基本条項であり、全構成国家の合意がなければ変更は不可能であると説かれている103)。
この国家連合による国際組織は加盟国の主権を否定するものではなく、加盟国を内外の侵略から守るものであると考えられた。軍隊は国家連合への割り当て分のみ必要であり、そのため軍事費は大幅に削減できる。従って、統治者は軍事以外の面での政策に力を入れることができ、国内の人民の納税負担を軽減できる。また、統治者たちは、自らの国内に対しては絶対的な権力を持ち続ける。国家間は対等であり、紛争が生じた場合は連合議会が裁定する。この連合議会の議長は、加盟国の輪番制とする。それ故、一部の支配者がいるわけではない。加盟国の自由は連合諸国によって確立されるのである104)。これらは、ウェストファリア条約後の国家の勢力均衡によるウェストファリア体制と、その結果もたらされる不断の戦争を批判し、「国際的法組織」構想をその解決方法として提示したものであった。
ルソーは、サン=ピエールがこのような国家連合の創設と維持を、統治者たちの人々に対する善行、美徳にゆだねる点を批判した105)。なぜならルソーは、国家連合の創設は国家の利害関係によって導きだされる結果であると考えたからである。戦争で得られる利益は見かけ上の利益であって、戦争によって失うものと比較すると現実のものではない。統治者が戦争状態にないと言うことが本当の利益であると認識し、個人の利益を共同の利益と結び付けることによって平和を維持しようとするとき、国家間の連合は確立し、維持されるとルソーは訴えたのであった106)。ルソーはこのような国家連合は、一度形成されると、大きな反対は受けないだろうと考えた。同盟国は、もはや隣国を恐れる必要はなく、例え連合国家に武力を行使しようとする征服者が現れたとしても、構成国家連合の強大な兵力によって征服行為を諦めざるをえなくなるだろう。現実においても、ゲルマン連邦やオランダ連邦のように、諸国家が共通の利害のために同盟を結び、諸国家連合を形成しており、それらは一度形成されると、構成国家の思惑とは別に、たやすく破られることはないからであった107)。
ルソーは、サン=ピエールの平和論の存在意義を十分に認めていた。しかし彼は、最終的にはサン=ピエールのヨーロッパ連合の実現に対して批判的な立場に立つ。なぜならルソーは、各国の統治者は自らの利益を守るため、結局はヨーロッパ連合には参加しないだろうと考えたからであった。周到な準備のもと計画された、アンリ4 世の「大計画」でさえも実現しなかったのである。またルソーは、永久平和論を実施するには様々な革命が必要であり、それらを人類にとって凶暴で恐ろしい手段であると認識し、「この同盟はおそらく、以後数世紀にわたって防止するに違いない害悪以上の害悪を、一挙にもたらす」と警告するのであった108)。
ヨーロッパ社会の形成過程においては、キリスト教が重要な役割を果たしてきた。キリスト教は、現実には共通の利害関係にない場合でも、ヨーロッパの人々に共通の格率や思想を与えてきたのであった109)。しかし、そのようなヨーロッパであっても首長のいない社会は安定を欠き、紛争を生じさせるだろうとルソーは予想している。従って、首長のいない社会であるヨーロッパ諸国の国家間関係は、まさしく戦争状態にあり、国家間で結ばれる平和条約はいずれも休戦条約にすぎず、新たな戦争の火種になってしまう110)。それゆえルソーは、結局のところウェストファリア体制は、ヨーロッパにおいて永久的な政治制度の基礎となるだろうと考えたのであった111)。このようなサン=ピエールとルソーの平和のための国際秩序構想は、ヨーロッパ人が仲間同士で戦争をしなくなるためのものであり、ヨーロッパの外の文化圏(トルコ、アフリカ、韃靼)との平和を目指すものではなかった112)。 
C.カントの永遠平和論
18 世紀を代表する哲学者のカントも、戦争を「最も大なる禍悪」、「人類の鞭」、また、「すべての善きものの破壊者」、「道義の最も大なる障害」であるとし、自らの平和論を説いた一人であった。カントは、ウェストファリア体制下における国家間関係が「自然状態」にあることこそ、戦争を引き起こす原因であると説いた。同時に、国家の権利として「戦争の権利」を認めていた国際法と国家法を批判した。そして、国際関係が外的秩序の規律によって自然状態を離脱することにより、世界の永遠平和を可能にしようと考えたのであった。
この時代、イギリス、フランスにおける市民革命、アメリカ独立革命等の政治変革が起こり、国内では個人が「自由」を自覚し、ウェストファリア体制下にある諸国家間においても、国家の「自由」と「独立」が声高に主張されていた113)。カントは、「自由」とは、「私が同意することができた外的法則にのみ従い、それ以外の法則には従わない、という権能」114)であると考えた。他の何らかによって制約を受ける「当為(カント哲学において、あるべきこと、当然なすべきこと)」は妥協的であり、自己は自らの「内なる道徳法則」に従うことで、「自由」を確立することができる。つまりカントは、人間は自らの道徳法則の立法者であることによって115)、「自由」であると説いたのだ。自然状態においては、常に紛争が生じているわけではないにしろ、絶えず紛争の危険性に脅かされている。それゆえカントは、平和状態は「創設」されなければならないと訴えた116)。個人の「自由」は国家内における客観的秩序、すなわち「客観的法律秩序」によってのみ成立する117)。なぜなら、法律は「他人の恣意と調和し得るための諸制約の総体」であり、国家は「自由の外的形式としての法的共同体」であると考えるからであった118)。よって、人間は、客観的法律秩序内においては、自由」であることができるのである。
カントは、これらは諸国家及び国家間関係においても同様であると説いた119)。平和状態は市民的=法的状態の下でのみ保障されると考えたのである。カントは「相互に交流し合うことのできる全ての人間は、何らかの市民的体制に属していなければならない」と述べているが120)、カントの考える市民的=法的体制とは、@一民族に属する国民法、A相互に関係する諸国家の国際法、B普遍的な人類国家の市民の世界市民法に基づく体制であった。彼は、政治が自然状態を離脱し、道徳法則からなる客観的法秩序が規律される状態こそが、人類の安寧と幸福の総体であり、政治における「人類の最高善」である「永遠平和」へと導くと考えた121)。
そして、「永遠平和」を実現するための国家間政治秩序として、「法的共同体としての普遍的国際政治組織」の理念を唱えたのである。カントは、人間が、個人あるいは民族としてではなく、人類として国内外において「完全な政治秩序」を制定し、「普遍的な世界公民状態を作る」ことが歴史の終局目的であると訴えたのであった122)。
カントは、『永遠平和のために』のなかで、永遠平和のための第1 確定条項を「各国における市民体制は共和的でなければならない」と規定した。カントが言う共和的な体制とは、第1 に、社会の構成員が人間として自由であり、第2 に、すべての構成員が唯一で共同の立法に臣民として従属し123)、第3 にすべての構成員が国民として平等である体制のことを指す124)。彼が言うには、共和的な体制では、国民の賛同を得る以外に決定の方法はないので、戦争をはじめるかどうかの決定にも国民の賛同が必要となる。また、戦争において負担を強いられ、被害を受けるのは国民である。それゆえ、国民は「こうした割に合わない賭け事をはじめることに」きわめて慎重になる125)。ところが、共和的な体制以外、すなわち元首が国家の所有者である体制においては、戦争の負担者である国民と、戦争の開始を決定する者が一致せず、戦争が容易に引き起こされる。なぜなら戦争を始める者にとって戦争は負担ではなく、「全く慎重さを必要としない世間事」であるからである126)。よって、共和政体においては、戦争が国家の利益追求の手段とされることに慎重になり、平和的状態を維持しやすいと主張した127)。この点は、先に説明したエラスムスの『平和の訴え』の思想を受け継いでいると言える。
次にカントは、永遠平和のための第2 確定条項として「国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである」と定めた。カントは、国家としてまとまっている諸民族を個々の人間と同じように考え、ウェストファリア体制における国家間関係は自然状態にあり、自然状態下では、諸国家は互いに戦争状態にあると考えた。それゆえ諸国家は、自己の安全と権利を守るために国家における法的体制と類似した国際的な客観的政治秩序体制に入り、自己の安全と権利の保障を他国に対しても要求すべきであると主張したのである。そしてカントは、その客観的政治秩序の原理として、諸国家による法的体制である「国家連合」の必要性を訴えたのであった128)。彼が言うには、ウェストファリア体制の下では、国家は、最高かつ排他的な権威を持ち、どのような外的な法的強制にも従っていないことに国家の威厳を置いている。実際、グロティウスやプーフェンドルフ(Samuel von Pufendorf)、ヴァッテル(Emmerich de Vattel)による外交方策のための哲学や法典は存在したが、ウェストファリア体制における国際関係は自然状態であるため、これらに法的効力はなく、ただ戦争の開始を正当化するためだけに利用されていた129)。また、自然状態では戦争によってしか諸国家が自己の正義を主張する方法はなく、戦争の幸運な勝者による戦争終結の際の平和条約は、戦争状態を終結させるものではない130)。自然状態にある個々の人間であれば、自然法によって法的体制を形成すべきであると言える。ところが、諸国家はすでに国内に法的体制を持つ。それゆえ、さらに拡大された法的体制下に入ることは強制されないのである。
そこでカントは、戦争の永遠終結のためには「国家連合」が必要であると考えた。「国家連合」の目的は、自然状態にある国際関係において客観的法的秩序を形成し、国家の自由と、連合した諸国の自由とを維持、保障することにあった。ここで、カントが構想する「国家連合」とは「世界国家」ではないことに注意したい。カントは、世界的な客観的秩序の形成を構想する上で、「諸民族合一国家」すなわち「世界国家」の創設を主張しているわけではないのである131)。彼は、国家がその利己的自由を放棄し、地球上のすべての民族を包括する「諸民族合一国家」を創設することを理想としつつも、諸国家がこれを望む可能性は全く無いことから132)、「一つの世界共和国」という積極的な理念の「消極的代替物」として、「国家連合」の必要性を説いたのであった。カントは、この連合の下では、公法に強制的に服従する必要がない自由な連合制度が必要であると主張している133)。彼は、国家の理性を信じ、諸国家が自らの権利を信頼する根拠として自由な連合制度を必要とするだろうと考えたのであった。そして、カントは、この連合制
度がすべての国家を含むものとなったとき、世界を永遠平和へと導くことができると述べている。
永遠平和のための確定条項の最後として、カントは、「世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない」と定める。カントが言う「世界市民法」とは、「外国人が他国の土地に足をふみ入れても、それだけの理由でその国の人間から敵意をもって扱われることはない」という「訪問の権利」をいう。ここでカントは、「原住民との交際を試みることを可能にする権利」までは認められないとしているが、これは、当時のヨーロッパ列強による植民地政策を批判しての主張であると考えられる。カントは、「訪問の権利」を地球上のすべての人間に属するとし、この権利を互いに認めることで世界的な交易が促進され、相互依存が高まることにより、平和的な関係が結ばれ、最終的にこの関係が公法的なものとなり、世界市民体制へと近づけることができると説く134)。そして、列強により繰り返されている植民地政策の非人道性を例に挙げ、社会は「地上の一つの場所で生じた法の侵害がすべての場所で感じとられるまで発展を遂げた」135)として、世界市民法の理念は、もはや空想的ではないと主張したのであった。
カントは、以上3 つの永遠平和のための確定条項の予備条項として、以下の諸条件を規定した。「第1 条項:将来の戦争の種をひそかに留保して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない、第2 条項:独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない、第3 条項:常備軍は、時とともに全廃されなければならない、第4 条項:国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない、第5 条項:いかなる国家も、他の国家の体制や統治に、暴力を持って干渉してはならない、第6 条項:いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。たとえば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそのかしたりすることが、これに当たる」136)。
第1 条項は、バーゼル平和条約における、秘密条項への批判から述べられたと考えることができる。1795 年革命後のフランスとプロイセン間において締結されたバーゼル平和条約は、ライン川左岸のプロイセン領をフランスに割譲するという「秘密条項」を含むものであった。カントは、このような将来的な戦争の原因を残したままの条約は、平和条約とは言えないとして否定した137)。第2 条項は、ヨーロッパ諸国の植民地政策に対する批判からの規定であると考えられる138)。また、第3 条項において、ウェストファリア体制における主権国家の勢力均衡による秩序の維持を批判しているととれる。カントは、勢力均衡のために各国は無際限な軍拡へと導かれ、それに伴う軍事費の増大により、平和時の方が短期間の戦争よりも国家の重荷となると考えた。それゆえ、常備軍そのものが先制攻撃の原因になってしまうと論じるのであった。しかしカントは、自衛権までをも否定したわけではない。国民が、自己や祖国を外からの攻撃から防御しようと「自発的に」武器使用を練習することは認められると述べている139)。
次にカントは、国債制度を「巧妙な発明」と指摘しつつも、際限なしの戦争遂行への「危険な金力」となり、国債を引き受けた国家を紛争に巻き込みかねないことから、第4 条項を規定する140)。第5 条項は、ウェストファリア体制における内政不干渉の原則を継承したものである141)。最後に、第6 条項において、最悪戦争が勃発した場合禁止される行為を規定している。
カントは、これら6 つの禁止規定に優先順位を定めている。第1、5、6 条項はいかなる事情があろうとも、直ちに禁止することを迫るが、第2、3、4 条項の執行に関しては事情により後回しにしてもよいと述べている。これは、条件の成立を急ぎすぎて、かえって本来の目的に反することを防ぐため、「多少の遅延」を許すという考えから優先順位を定めたに過ぎず、例外を認めたものではない142)。
カントが『永遠平和のために』を著した頃、ヨーロッパはフランス革命をきっかけとした混乱期を迎えていた。革命の精神をヨーロッパ全土に拡大しようとしたナポレオン(Napoléon Bonaparte)による戦争が、ヨーロッパ各地で行なわれた。ヨーロッパ全土を巻き込んだナポレオン戦争は、1814 年の対仏同盟軍のパリ入城、1815 年のワーテルローの戦いでのナポレオンの敗北により、ようやく終結を迎える。ナポレオン戦争後、戦後処理とヨーロッパの平和維持のためウィーン会議が開催された。この会議においてヨーロッパの諸大国は、国境線の変更により領土的問題を解決し、勢力均衡の範囲での小国に対する影響力を互いに承認することを確認した。この会議における大国の合意を基盤とし、「ウィーン体制」と呼ばれるヨーロッパの国家間秩序が形成されることになった。そして、カントの平和の理念が実現へ向けて動き出すのは、さらなる世界規模での悲劇であった第一次世界大戦を経なければならなかった。 
おわりに
本稿では、平和のための国際組織の創設という理論を支えてきた、秩序の形成と諸国家及び人びとの協働による平和を求めた思想を、古代から18 世紀末における思想家の著作の中から抽出し、「平和のための国際組織」の思想の一つの潮流として捉えた。
Tでは、まず、古代ギリシアのストア派を中心としたコスモポリタニズムについて概説した。
自分自身を国や民族に捉われず普遍的な市民として位置づけるという個人主義的思想から、人間の理想は平等であり、人間は一つの「理想の共同体」に住むコスモポリテス(世界市民)であるという思想へと発展した古代のコスモポリタニズムスが、自然法概念と結びつき、古代ギリシア・ローマの政治の方向性に影響を与えた過程を追った。次に、中世ヨーロッパにおける4 人の思想家のテキストを検討した。古代ギリシア哲学の再発見による理性と信仰の調和は、平和のための国家間と人びとの協働をめぐる思想にも影響を及ぼした。アリストテレスから影響を受けたダンテは『帝政論』のなかで、キリスト教の下に人類が一つとなり、世界平和という人類究極の目標を実現するため、ローマ帝国をモデルとした世界的帝政を建設すべきであると説いた。『平和の訴え』においてエラスムスは、「平和」はキリスト教の教えであり、キリスト教の下では奴隷も、自由民も、異邦人も、男も、女もなく、キリスト教徒という一つの共同体の一員であるとして、キリスト教共同体による平和の実現を説いた。また、たとえ異教徒であったとしても、武力によって攻撃することを批判し、この世界は全ての人間に共通の祖国であると訴えた。そして、君主の協働による領土の確定、君主の有徳性、国際的な仲裁機関の設置、戦争開始に際する国民の意思の反映を平和の実現のための具体的な方法として提案した。アンリ4 世は「大計画」のなかで、現代のヨーロッパ統合の基礎をなす思想を展開した。彼は、相争っていたヨーロッパ諸国が国家連合を形成することによって、国家間に安定した秩序を築こうとした。このアンリ4 世のヨーロッパ連合案は、諸国家連合がローマ帝国をモデルとした「帝政」ではなく、共和政ローマをモデルとした「共和政体」によって統治されることを提案した点において、ダンテの平和のための国家間および人びとの協働に関する思想とは異なっていた。
また、「大計画」のなかで、エラスムスが平和の実現のための具体策として提案した、君主の有徳性とその有徳な君主による領土の確定を、連合国家の統治者が遵守すべき規則とすべきであることを示した。ダンテ、エラスムス、アンリ4 世のヨーロッパのための平和思想を、ビトリアはヨーロッパの外へと拡大した。「インディオについて」のなかで、ヨーロッパだけでなく世界規模での法的な共同体の存在を認め、その共同体を基盤とする万民法と普遍的人類共和国による世界の平和を説いた。ビトリアの、人びとは自らの国家と普遍的人類共和国の双方に属すという考えは、古代ローマの「二つの祖国概念」と共通するところがある。また、ビトリアは、後にカントが世界市民法として規定した「訪問の権利」を尊重することを求めた。
Uでは、勢力均衡によって国家間の秩序を安定化させようとした、ウェストファリア体制に挑戦する思想として、平和のために諸国家が協働し、国際組織を創設する必要性を説いた思想に関して考察した。ヴォルフは、国家は公共善、すなわち平和のために契約を結ぶことで「世界共同体」を形成し、その統治形態は一種の民主政であることが必要であると説いた。このヴォルフの「世界共同体」概念は、ビトリアの普遍的人類共和国を受け継ぐものであり、その統治形態においては、エラスムスの平和の実現のための具体策によって提案された一種の民主政を踏襲している。この「世界共同体」の統治形態に関しては、さらにカントの永遠平和論における共和主義原則へと継承されることになる。サン=ピエールの永久平和論では、アンリ4 世の「大計画」をもとに、戦争状態を永遠平和に変えるためのヨーロッパ諸国の同盟による国際組織の創設が提案された。このなかでは、従来の正戦論が放棄され、同盟の条約に違反して戦争の準備をし、他の構成国家に武力を行使した構成国に対して、全構成国家が協力して攻撃的行動をとるという、現在の集団安全保障の理論が論じられていた。また、サン=ピエールの永久平和論を批判しながら自らの平和思想を発展させたルソーの永久平和論では、統治者の徳や善行ではなく、国家の利害によって国家連合創設の理論が導かれ、このような国家連合の創設が他の国家の武力行使を抑制すると考えられた。そして、最後に扱った『永遠平和のために』のなかで、カントは、国家間にも共和主義的原則を適用することで国際的な法的秩序を形成し、法的共同体としての普遍的国際政治組織によって世界の恒久平和を実現しようと訴えた。それらの実現のため、共和主義の原則の適用、国際法の基礎となる自由な諸国家連合の設立、世界市民法の尊重の3 つの確定条項を定め、これらの条件の下で設立される自由な諸国家連合が、世界を永遠平和へ導くと説いたのであった。
本稿では、「平和のための国際組織」の創設という理論を支えた思想のうち、新たな段階への展開となった思想の系譜を体系化した。そうすることで、「平和のための国際組織」の創設という思想の一つの潮流を見いだすことができた。本稿で扱った思想は、時代は異なるにしろ、いずれも国際的な秩序の形成と、諸国家および人びとの協働によって平和を実現しようとした思想である。古典古代より続く「平和のための国際組織」をめぐる思想は、各時代の現実と共鳴して形成されてきた。カントの永遠平和論から100 年以上を経て、人類が悲惨な大戦を経験した後に、現実の政治の世界においてようやく国際連盟が創設され、更なる大戦を経た後に今日の国際連合が創設されることになる。もちろん、本稿で扱った思想が、「平和のための国際組織」の実現に直接的に影響を与えたとは言えないかもしれない。国際連盟や国際連合の創設は、本稿で扱った平和の理念の実現というよりは、その時々の現実的な目的のためであったかもしれない。しかしながら、平和のための国際秩序の形成や、人びとや諸国家の協働によって形成された国際組織による平和の実現という理念は、歴史的に繰り返しその真価を試されながら反省、伝承、維持、発展してきた。古典古代から続くこれらの思想は、時代は異なるにしろ現代にとって価値ある何かを語ることで、「いま・ここ」に平和の種を蒔き続けているのである。 

1) ヨハン・ガルトゥング(高柳先男/塩屋保/酒井由美子訳)『構造的暴力と平和』(中央大学出版部、1991年)。Galtung、 Johan Peace by Peaceful Means: Peace and Conflict、 Development and Civilization(Sage、 1996).
2) シュヴェーグラー(谷川徹三/松村一人訳)『西洋哲学史 上巻』(岩波書店、1939 年)、27 頁。
3) ガダマー(轡田收/巻田悦郎訳)『真理と方法 U』、426 頁。
4) 古典性とは、@規範的意識、A普遍的な歴史学的様式概念をいう(同上、454 頁)。
5) アリストテレスにとってポリスとは@市民から合成されたもの、Aその共同体の住地としての都市をいう(アリストテレス、山本光雄訳『政治学』、岩波書店、1961 年、訳注、400 頁)。
7) 市民による支配としてのアテナイの民主政は、「多数者」による支配であると形容されるが、アテナイにおける市民は全人口の「少数者」であった。市民は開かれた概念ではなく、閉じられた、排他的な概念であったのである。移民、奴隷は市民から排除されていた。アテナイにおける自由と平等は、市民のものであったのである。また、形式的には平等であるとされていた市民も、政治的影響力についても平等が確保されていたわけではなかった。実際に民会や評議会を牛耳っていたのは、裕福な家門の出身の市民であったのである(Finley、 M.I.、 Politics in the Ancient World、 Cambridge University Press、 1983、 pp.118-119)。
8) このポリスのメンバーである市民の要件は法律によって厳格に規定されていた。20 歳以上のアテナイ人の血統に連なる成年男子で、経済的、軍事的に自律している者が市民になる資格を有し、能動的に政治に参加することができた。市民のみが、自己統治の過程に直接参加する資格、すなわち自由である資格を有したのである。
9) 但し、職業軍人ではない。戦争に参加できる成人男性という意味である。
10) デヴィッド・ヘルド(中谷義和訳)『民主政の諸類型』(御茶の水書房、1998 年)、24 頁。
11) 徳はギリシア語で「arete」ラテン語で「virtus」という。virtus は成年男性、戦士として尊敬される資質をその意味に含んだ。
12) コスモポリテスは、一般的には「宇宙(コスモス)の市民」、「宇宙」と訳されていた(デレク・ヒーター、田中俊郎/関根政美訳『市民権とは何か』、岩波書店、2002 年、230 − 231 頁)。
13) ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(中)』(岩波書店、1989 年)、162 頁。
14) マーサ・ヌスバウム「カントと世界市民主義」、ジェームズ・ボーマン/マティアス・ルッツ−バッハ「平和のための国際組織」の思想的潮流(川村)( 329 ) 167マン編著(紺野茂樹/田辺俊明/舟場保之訳)『カントと永遠平和−世界市民という理念について』(未來社、2006 年)、75 頁。
16) プルタルコス「アレクサンドロス大王の運と徳について」1(329 − A − B)(中川純男訳)『初期ストア派断片集1』(京都大学学術出版会、2000 年)、177 − 178 頁。
17) ゼノンはキュニコス派のクラテス、メガラ派のスティルポン、アカデメイア派のクセノクラテス等にそれぞれ10 年間師事したと言われている。彼はストア(柱廊)のなかを行きつ戻りつしながら広義を行ったため、彼の広義を聞こうとして集まった人々は「ストアの徒」と呼ばれるようになった(ディオゲネス『ギリシア哲学者列伝(中)』、205 − 209 頁)。
18) マルクス・アウレリウス(水地宗明訳)『自省録』(京都大学学術出版会、1998 年)、51 − 52 頁。
19) デレック・ヒーター『市民権とはなにか』、228 頁。
20) ヌスバウム「カントと世界市民主義」、43 頁。
21) 堀米庸三編/木村尚三郎/渡邊昌美/堀越孝一『中世の森の中で』(河出書房新社、1991 年)、45 −85 頁。及び、千葉正士『法と時間』(信山社、2003 年)を参照のこと。
22) Martin Grabmann Die Geschichte der scholastischen Methode Bd. I( Freiburg im Breisgau、 1909)、S.148.
23) ダンテ(中山昌樹訳)「帝政論」、『ダンテ全集第8 巻』(日本図書センター、1995 年)、15 − 16 頁。
28) 中山昌樹「詩聖ダンテ」、ダンテ『ダンテ全集第9 巻』(日本図書センター、1995 年)、516 頁。
35) J. ホイジンガ(宮崎信彦訳)『エラスムス 宗教改革の時代』(筑摩書房、2001 年)。
36) エラスムス(渡辺一夫/二宮敬訳)『痴愚神礼賛』(中央公論社、2006 年)、第23 節、第53 節を参照。
37) ホイジンガ『エラスムス』、250 ‐ 251 頁。
38) エラスムス(箕輪三郎訳)『平和の訴え』(岩波書店、1961 年)、8 節。
63) ホイジンガ『エラスムス』、251 − 252 頁。
64) エラスムス『平和の訴え』、94 − 95 頁。
65) フランソワ・バイルー(幸田礼雅訳)『アンリ四世:自由を求めた王』(新評論、2000 年)、521 頁。
67) Sully Economies royales、 éd. par Joseph Chailley(Maximilien de Béthune、 1888). Gallica Bibliothèque Numérique
76) ジャン=ジャック・ルソー(宮治弘之訳)「永久平和論批判」、『ルソー全集 第4 巻』(白水社、1978 年)、361 頁。
77) マーティン・ワイト(佐藤誠/安藤次男/龍澤邦彦/大中真/佐藤千鶴子訳)『国際理論:三つの伝統』(日本経済評論社、2007 年)、89 頁。
78) 伊藤不二男『ビトリアの国際法理論』(有斐閣、1965 年)、48 頁。
84) ワイト『国際理論:三つの伝統』、50 頁。
86) デヴィッド・ヘルド(佐々木寛/遠藤誠治/小林誠ほか共訳)『デモクラシーと世界秩序:地球市民の政治学』(NTT 出版株式会社、2002 年)、97 頁。
88) 柳原正治「ヴォルフの国際法理論(五)−意思国際法概念を中心として−」、『法政研究』(九州大学法政学会、1996 年)、166 頁。
89) ヴォルフのcivitas maxima は、a sort of great republic (Emmerich de Vattel)、super-State of law (Hersch Lauterpacht)、world state (Walter Schiffer、柳原正治)、world state embracing all state (C. Wilfred Jenks)、État universel、 Empire universel (Marcel Thomann)と、さまざまな形で英語(あるいはフランス語)に訳されてきた(Nicholas Onuf、 The Republican Legacy in International Thought、 Cambridge University Press、 1998)。ヴォルフはcivitas maxima 概念を、全人類からなる一つの世界的な国家(state)というよりは、諸国家を構成員とする自然法によって統治された世界的な政治組織体(polity)、政治共同体(political community)として用いているため、本稿では「世界共同体」と訳す。
90) Wolff、 Christian Jus Gentium Methodo Scientifica Pertractatum (William S. Hein & Co.、 Inc.、1995)、 p.9.
91) 柳原「ヴォルフの国際法理論(五)−意思国際法概念を中心として−」、157 頁。
92) Wolff Jus Gentium Methodo Scientifica Pertractatum、 p.12.
98) ジャン=ジャック・ルソー(宮治弘之訳)「サン=ピエール師の永久平和論抜粋」、『ルソー全集 第4 巻』(白水社、1978 年)、319 頁。
99) ルソー「サン=ピエール師の永久平和論抜粋」、314 頁。
100)ルソー「永久平和論批判」、359 頁。
101)ルソー「サン=ピエール師の永久平和論抜粋」、327 頁。
108)ルソー「永遠平和論批判」、364 頁。
109)ルソー「サン=ピエール師の永久平和論抜粋」、317 頁。
113)南原茂「カントに於ける国際政治の理念」『政治学研究第1 巻』(岩波書店、1927 年)、494 頁。
114)I. カント(宇都宮芳明訳)『永遠平和のために』(岩波書店、1985 年)、29 − 30 頁。
115)南原「カントに於ける国際政治の理念」、508 頁。
116)カント『永遠平和のために』、26 頁。
117)南原「カントに於ける国際政治の理念」、511 頁。
120)カント『永遠平和のために』、27 頁。
121)南原「カントに於ける国際政治の理念」、521 頁。
123)単に君主に支配される国民のことではない。カントは、国家形態に関わらず、国民は国法に従う限りにおいて、法の下に従属する「臣民」であるとする。
124)カント『永遠平和のために』、28 − 29 頁。
127)ここで注意しておきたいのは、カントがいう共和的体制は民主政ではないということである。カントは支配の形態を、@一人が支配権を持つ君主制、A盟約を結んだ数人が支配権を持つ貴族制、B市民社会を形成する集合的な全員が支配権を持つ民衆制の3 つに分けて考え、また、統治の形態を、a. 執行権を立法権から分立させる共和政と、b.「国家が自ら与えた法を専断的に執行する専制の2 つに分ける。そしてカントは、民衆制は必然的に専制であると考える。なぜなら、立法権と執行権が分立していない民衆制の下では全員が一人の人間の意思を無視、あるいはそれに反して決議することができるからである。すなわち、一般意思と自己自身が矛盾する場合が生じ、自由と矛盾すると考えるのである。しかし、誰の自由とも矛盾しない「完全なる一般意思」の形成は可能であるかに関しては、疑問の余地がある(カント『永遠平和のために』、34 頁)。カントは、ルソーの思想に強い影響を受けた。しかし、カントは、ルソーの説く権力の不可分と、直接民主制を否定する。それは、彼が民衆政の専制に対する解決として、代表制を提案していることからもうかがえる。共和政は代表制においてのみ可能であり、代表制を欠くことは、専制的で暴力的な体制とする(同、36 頁)。しかし、共和的な体制が、永遠平和へと導く唯一の体制であるかどうかについては、これからの課題としている(同、29 頁)。
128)カント『永遠平和のために』、38 頁。 
 
グローバル社会における共和主義の機能と可能性
 システム分析による理論モデルの提示

 

はじめに
国際関係(international relations)は本来、国家間の関係(Inter-national Relations)を指す言葉であった。しかし現在、ヒト・モノ・資本が国境を越えて深く結びつく「グローバル化」と呼ばれる状況が科学・技術の革新によって急速に進展し1 )、過去に例を見ないほどの量と規模で国家以外の行為主体による国境を越えた領域における活動が確認できる。もはや、国際関係は国家間関係のみを意味する言葉ではない2 )。グローバルな領域での行為は、今までの国家と国家を中心とした国際機関に加え、民間の多様な行為主体(例えば企業、NGO 等の私的な国際組織及び個人)によによって形成されている。このような国境を越えた領域は、国際関係学において「グローバル社会(Global Society)」や広義の意味での「国際社会(International Society)」として捉えられてきた3 )。
共和主義はリベラリズムに比べ、グローバルな社会をめぐる国際思想としてあまり注目されてこなかった。それは、古代ギリシア、共和政ローマにその起源を持つ政治思想である共和主義が、近代化の流れの中で一般的な政治的思考方法としてはリベラリズムにとって代わられたと考えられていたためである4 )。しかし昨今、個人主義に重点を置いたリベラリズム的政治思想の限界、特に「干渉からの自由」を主張するリベラリズム的思考における「他者」の不在が指摘されるなかで、個人の協働によって形成される共同体を基盤とした政治思想としての共和主義が再評価されている5 )。
グローバルな社会における様々な状況も、国内の政治思想と同様にリベラリズムだけでは捉えきれないものがあると考えられる6 )。本稿の目的は、このようなグローバル社会における政治思想としての共和主義の機能と可能性を明らかにする足掛かりとして、グローバル社会における政治思想としての共和主義の機能分析のための理論モデルを構築することである。そのための方法論として、オートポイエーティック・システム(以下ApS)理論を用いる。現在のグローバル社会は、国家間の関係によって形成されていると認識される一方で、政治、経済、法等に機能分化した各分野のグローバルな社会の束として理解することができる。このようなグローバル社会は中心的役割を担う組織を持たないため、成層的な社会であるとは言えない。そこで、グローバル時代の多中心的社会の分析に適用可能な新た方法論としてApS 理論が有効となる。共和主義そのものの分析方法というよりは、グローバル社会における政治思想としての共和主義の役割・機能を観察するために、この方法論を用いる。
本稿の対象は、国際関係学の方法論としてのApS 理論とグローバル社会における政治思想としての共和主義のApS 理論分析である。社会学の理論であるApS 理論を国際関係学の方法論として適用することの是非を検討するとともに、政治思想としての共和主義がグローバル社会においてどのような機能と可能性を有しているのかを分析する理論モデルを構築する。これらは、分析のための理念型モデルである。実証研究による理論モデルの検証は今後の課題とする。
用語の混乱を避けるため、現実の政治において統治理論として利用されるものを政治理論(political theory)、学術としての政治すなわち政治学における政治に関する理論を政治思想(political thought)、政治的イデオロギーとしての思想を政治イデオロギー(political ideology)と呼ぶ。また、国際関係学が扱う分野は国際政治、国際経済、環境、開発と多岐にわたるが、本論文では国際関係学の政治分野のみを扱う。これは、国家間関係による政治(Inter-state Politics)を研究する科学のみを意味するのではなく、広義の意味での国家という枠を超えたグローバル社会における統治や秩序に関する科学をも含む。グローバル社会とは、今までの国家を中心とした国際社会に加え、非国家的な民間アクターが行為主体となる社会を指す。グローバルな政治とは、このグローバル社会における政治的コミュニケーションによって形成される、政治システムのサブ・システムとして捉える。社会システムはその境界という意味ではグローバルな社会と同じであり、「世界」とはその外に境界のない全ての空間を指す。 
第1 節 国際関係学へのオートポイエーティック・システム理論の適用 
第1 項 グローバル社会のオートポイエーティック・システム理論分析 ApS 理論は、生物学の細胞を構成要素とした生命体の自己産出理論である7 )。本稿で扱うApS 理論は、Prof. ルーマン(N. Luhmann 以下敬称略)、トイブナー(G. Teubner)の法社会学における理論を基に、政治思想の機能分析に適したものとして組み立てたものである8 )。
その特徴として、以下の5 点が挙げられる。
@ システムの本質は、システムと環境の区別による複雑性の縮減である。システムは「コード」によって環境と区別され、区別の基準は「プログラム」によって決定される。システムは「固有値」の維持により安定する。
A システムは統一体ではなく環境との差異であり、自己の作動によってシステムと環境との境界を引く。すなわち、システムは自己の作動により構成要素を産出し、自己産出の循環により自己保存する循環を形成する。
B システムは環境に対し閉鎖的であり、環境からの直接的なインプットもアウトプットもない9 )。システムは外部観察、共鳴(resonance)、カップリング、作用(performance)という方法でのみ環境と関わりあう10)。
C システム内部はサブ・システムに分化し、他のサブ・システムが産出した要素を自己のシステムに参照し、また、自己が産出した要素を他のサブ・システムが参照することにより、ハイパー・サイクルが生じる。
D 機能分化システムは社会全体の俯瞰図を見ることができないまま個々の作動を行なう。それらはシステム全体からは一定の機能として観察できる。
国境を越えた多次元的な連関と相互作用が生み出されている現代のグローバル社会では、優越的で中心的な行為主体は存在せず、政治、経済、法、学術等の機能に分化したシステムが自ら自己再産出的な作動を行ない、機能分化システム独自の作動が全体として多中心的な社会システムを形成しているという側面が強い。それゆえ、社会を、環境に対して因果的に閉鎖的で自己再産出的な機能分化システムによって形成される多中心的なシステムとして分析するApS理論は、現代のグローバル社会の分析に有益な方法論であるといえる。また、ApS 理論は機能に着目した分析を可能にする。それゆえ、グローバル社会のなかでの政治思想としての共和主義の機能を明確にすることができ、政治的コミュニケーションにおける「理論と実践の二項対立」を解消し、より高次での政治行為の観察に寄与することができる。
グローバル社会をApS 理論で分析すると、グローバル社会は一つではなく役割ごとに存在するシステム(政治・経済・法システムなど)であることが分かる。これら無数のシステムの総体として、社会システムが形成されている。社会システムはコミュニケーションを構成要素とするApS として捉えられ11)、コミュニケーションの「機能」によりサブ・システムに分化する。政治思想に関連した機能分化システムとしては、政治システム、学術システム、イデオロギー・システムがあげられる12)。グローバルな政治システム(Global Political System)は、政治システムのサブ・システムとして位置付けられる。政治システム内でグローバルなコミュニケーションが生じることにより、サブ・システムとして機能分出するのである。グローバルな政治システムは、さらに3 つのサブ・システムに分化していることが観察できる13)。
@ 国家間関係による政治システム(Inter-State Political System)。これはウェストファリア条約から続く、国家間関係による統治システムである。
A 制度化された国際政治システム(International Institutionalized Political System)。これは第一次世界大戦以降に国家間関係による政治システムから分化したものであり、ここでは国家だけでなく多国間の協定による国際機構、レジーム、それらに内包される民間組織のコミュニケーションも含まれる14)。
B 国家を越えた市民社会システム(Transnational Civil Society System)。これは、民間の行為主体による国境を越えたコミュニケーション・システムである。グローバリゼーションが進展することにより、国境を越えた市民社会システムはグローバルな政治システムにおいて重要性を高めている。
そして、グローバル・ガバナンスは、これら3 つのシステムがオートポイエーシスを形成している状態として観察できる。グローバルな政治システムは政治システムのサブ・システムとして位置付けられているゆえに、他の機能分化システムとの関係は政治システムと環境の関係を継承する。
以上のように、ApS 理論を用いることでグローバル社会を分析するための理論モデルを形成することができる。しかし、グローバル社会は本来国際関係学で扱われてきた分野であるため、社会学的方法論としてのApS 理論を用いてそれを分析することに対しては、国際関係学からの批判的な意見も多い。 
第2 項 既存の国際関係学からの批判への反駁
国家間関係を越えた相互作用により、「社会」の様相を呈してきているグローバル社会を科学する国際関係学では、「社会」についての学問である社会学を用いることが有用とされ、国際関係学の理論のなかに用いられてきた社会学理論もある15)。ApS 理論の適用に対しても、完全な否定から広範囲な受入まで様々な議論がある16)。しかし、既存の国際関係学の立場からは、ApS 理論を自らの理論の中に適用することに対する批判の方が多い。批判点は大きく分けて3 つある。@用語の使用方法の相違による批判、A政治を中心としないApS 理論への批判、B ApS 理論の歴史認識に対する批判である。以下、批判点をまとめつつ、それらに対する反駁を試みる。
@用語の使用方法の相違による批判
ApS 理論は、今まで国際関係学で培われてきた国家を越えた統治理論を無視しているという批判がある17)。これは、既存の国際関係学とApS 理論における用語の使用方法の相違から生じる批判である。例えば、世界、主権国家、権力、コミュニケーションといった概念が、既存の国際関係学とApS 理論では異なる18)。それゆえ、用語の使用法の違いとして表れる。
既存の国際関係学は、主権国家を中心とした政治思想を展開している19)。世界は主権国家によって地域的に分化し、ApS 理論が分析する機能的分化システムというよりは依然として環節的分化システムであるとされる20)。世界の世論は、国家間政治のコミュニケーションを再調整するようなコミュニケーションを提供できたとしてもシンボル的な地位に留まるに過ぎず、世界の世論自体も環節的分化による主権国による政治システムとしてのグローバル社会を支持している21)。また、ApS 理論は権力をシンボル化されたコミュニケーションのメディアとして捉える。このApS 理論的「権力」は国際関係学や政治学における「権力」の価値をそぐ22)。それゆえ、ApS 理論は国際関係学に適さないという批判がでてくる。
これらの批判は用語の使用方法の相違から生じた、ルーマン理論を基にするApS 理論に対する認識の錯誤によるものである。ApS 理論における用語の使用方法を確認することで、その誤解を解きたいと思う。まずApS 理論は、社会を自己産出的、自己記述的コミュニケーションからなるシステムとして捉える。ここでいうコミュニケーションは単なる「言葉」や「会話」、「伝達手段」ではなく、伝達内容・伝達手段・受けとる側の理解という3 層の選択過程を互いに結合したものである。これらの選択過程における選択肢の複数性ゆえに、コミュニケーションは常に偶発性を有する。一つのコミュニケーションには、コミュニケーションを伝える側と受け取る側の二つの人格が存在するために常に二重の偶発性が存在する。グローバルな領域における政治的コミュニケーションも常にこの二重の偶発性を有し、それゆえに複雑になる。これらの複雑性の縮減のために社会は機能分出し、システムが形成される。このようなコミュニケーションを構成要素とした社会分析を行なうApS 理論からは、国際関係学はグローバルな領域における政治システムのコミュニケーションを分解し、再構成する学術システムのサブ・システムに位置すると分析できる。
ApS 理論分析では、世界は偶発性の総体、すなわち可能なコミュニケーションの総体として捉えられ23)、それはシステムと環境の全てを含む。システムは環境と自らを区別することによって世界から分出したものであり、世界から機能分出したシステムがオートポイエーシスを形成したものが社会システムである。コミュニケーションを構成要素として成る社会システムは、その性質上グローバルなものになる。なぜなら科学・技術の発展により、コミュニケーションはクリック一つで瞬時に世界中に広がり、他のコミュニケーションと結びつくことができるからである。それゆえ、国内/グローバルという区別は、コミュニケーションの機能によって生じるにすぎない。しかしこのことは、ApS 理論が主権国家概念を否定することを意味しない。
既存の国際関係学における主権国家は、ApS 理論分析では政治システムから機能分化した一つのサブ・システムとして捉えられる。そして、グローバルな政治システムは、国家間関係による政治システム、制度化された国際政治システム、国境を越えた市民社会システムの3 つのサブ・システムに分化していると分析できる。国家を主体とする既存の国際関係学の諸学説は、学術システムが国家間関係による政治システムと制度化された国際政治システムと共鳴することにより生じたサブ・システムなのである。
次に権力概念についてであるが、ApS 理論は「権力」を、コミュニケーションにおける3 層の選択過程においてある一定の選択肢を選択させる能力として捉える。すなわち、コミュニケーションを構成要素とする社会システムにとって、コミュニケーションを決定させる能力を言う。
3 層の選択過程において選択肢が多ければ多いほど、ある一定の選択肢を選ばせる能力としての「権力」は強いと捉えられる。そしてこの権力はメディアとして、システム内を行き交う。
ApS 理論はコミュニケーションを中心とした社会システムを想定するがゆえに、権力もコミュニケーションに対する機能という側面から捉えられる。これは決して権力の価値をそぐ理論ではなく、権力自体の機能をより明確にした分析による権力概念であるといえる。
ApS 理論と既存の国際関係学は、互いに否定し合うのではなく相互補完的な関係にある。なぜなら、社会には多角的な視点からの観察が複数存在するということこそ、ApS 理論の社会分析である。社会システムのサブ・システムとしての学術システム内は、さらに各専門のサブ・システムに分化する(例えば国際政治学システム、国際経済学システム等)。各専門によって分化したサブ・システムは、差異の形成によりさらに内部分化する。既存の国際関係学の諸学説はそれらに位置する24)。差異とはすなわちコードであり、コードとはハサミの刃である。ハサミの刃が異なれば、切り口も異なる。学術システムはシステム内で他の機能システムについてコミュニケートすることにより、他の機能システムの自己記述に貢献する。学術システムにとって重要なことは、社会の自己記述のための技術を満たすことができるのかということであり、社会をいかに観察できるのかということである25)。それゆえ、既存の国際関係学とApS理論の用語の使用方法の違いは、国際関係学が扱う分野へのApS 理論分析の適用を疎外するものであるとは言えない26)。
A政治を中心としないApS 理論への批判
既存の国際関係学によるApS 理論の批判の第2 点目は、社会において政治を中心としないという点である。ApS 理論は、社会を機能分化したサブ・システムがオートポイエーシスを形成した状態であると分析する。そこでは、政治は一つの機能分化システムであり、社会システムに対して「集団を拘束する決定を行なう」という機能を果たしている。他の機能分化システム(経済、法、教育、宗教システム等)と同様に自己組織的で因果的に閉鎖的な性質を有し、他の機能システムとは共鳴、カップリングを通じて関係する。このような政治の捉え方は、国際関係学の文脈においては一般的ではないという批判がある。加えて、グローバル社会において、主権国家を越えた「集団を拘束する決定を行なう」という機能を政治システムが提供することは不可能であると指摘される27)。このような、国際関係学とApS 理論の基本的な食い違いはシステム概念の相違だけでなく、ApS 理論がグローバル社会は何かしらの普遍的規範によって構成されるという考えを否定している点にあるとされる28)。古典的な社会学において検討された主権国家を越えた社会は、不均衡・異質であるが一つの道徳的規範の存在を認めており29)、グローバルな社会には統合された規範的基礎が必要であるという批判である30)。
中世後期、人間の社会が脱自然化の過程をたどるなかで社会が成層的分化から機能的分化へと移行する傾向が現れた31)。分裂する社会への危機感から、17 世紀から18 世紀は「幸福」、19 世紀は「連帯」が魅力的な社会統合のイデオロギーとして、人々に道徳的義務としての集団意識をもたらした。しかし、産業革命を契機とした消費社会の成立によりこの原則は機能しなくなる32)。そのようななかで現代社会は、自由と平等、自己実現と他者との連帯というパラドクスを解消できないままコミュニケーションの可能性の許容範囲を必要とし33)、グローバリゼーションの進展とともに内的境界を自己組織する機能システムとして分化する可能性を増加させた。閉鎖的な機能分化システムは、自己統治と他の機能分化システムとの共鳴により、高次の社会システムを形成する。このような社会は中心や最上位がない多中心的、多文脈的なシステムであり、政治システムといえども社会システムの内の一つのサブ・システムにすぎない。
もちろん、政治システムには共鳴能力があり、社会システム全体から観察すると、政治システムが集団を拘束する決定を必要とする他の機能システムに「作用」していることが確認できる。
しかし、それは政治システムが環境に直接的に接続できることを意味しない。政治システムが社会の全てをコントロールできるというのは、社会システムが一つのシステムとしての統合を保証するための幻影であり、その幻影を作り出すことが政治システムにとっては重要になるのである。実際には、政治システムが他の機能システムに介入することは不可能である。政治システムへの信頼の低下は、ApS としての社会の性格をより明らかにする。
このことは、グローバル社会において政治システムが「集団を拘束する決定」を提供することは不可能であるというApS 理論への批判からも理解できる。ここで政治システムにとって重要なことは、実際に「集団を拘束する決定」を提供することだけではなく、そのような幻影を他の機能分化システムに信じさせることである。そのために政治システムは環境の提供する事柄、あるいは政治の可能性について過大評価する環境の要求に対し敏感に共鳴し、自己の能力以上のことが可能であるというコミュニケーションを始める。このような方向付けにより、政治システムが社会に対して全責任を負うという幻想を形成するのである34)。しかし現実的には、政治の実践は集団を拘束する決定をめぐるコミュニケーションである。それゆえ、政治システムは社会と関わっているが、自己のシステムのコードによってしか社会を観察することができず、社会システム全体をコントロールできるとは言えないのである。
B ApS 理論の歴史認識に対する批判
第3 点目は、ApS 理論の歴史認識に対する批判である。国際関係学の方法論としてApS 理論を適用する際に、ApS 理論は社会システムの機能にのみ注目しグローバル社会の歴史性を無視しているという批判がある。
確かに、グローバル社会を分析する際にはApS 理論の視点は現代にある。この時、方法論としてのApS 理論は、過去が現在に媒介される出来事を理解するための社会学的方法論として用いられる。本研究におけるApS 理論は、歴史的出来事の理解を目的とするのではなく、実践としてのグローバル社会の解釈のための方法論であって、機能分化した現在の国際社会という現象に実践的に対処する科学である。グローバル社会のある出来事がApS 理論によって解釈されると同時に、歴史学においては歴史的出来事として理解されるのである。
ここで問題となるのが、ApS 理論と歴史学的関心の相違は一義的であるかということである。
ApS 理論が見るのは、システムとしての社会とその機能である。ApS 理論は機能の内容を現在と調和させる。機能の意味を正しく理解し分析しようとするには、その機能が最初に生じた現象の現れ方を理解しなければならない。それゆえ、ApS 理論においても歴史学的考察は不可欠となる。但し、この場合、歴史学的な理解は目的に達するための手段に過ぎない。歴史学はその機能がたどった歴史的変遷に着目し、機能の最初の意味内容を追構成する。
本研究の方法論としてのApS 理論は、社会を理解し、解釈し、妥当な認識を承認することによって、現在という自分自身の歴史に関わりあう。ApS 理論分析は社会の歴史性を無視するのではなく、ApS 理論そのものが過去と現在の関係を示すモデルとなるのである。同様に、歴史学は現在の機能について無視することはできない。歴史学の対象が出来事ではなく、その出来事の意義であるゆえに、伝承は現在に語りかけ、現在への橋渡しとして理解されねばならない35)。ApS 理論による観察自体が、現在という歴史によって規定された意識であり、古代からの歴史の出来事の連続性の上にあることを確認しなければならない。そもそもApS 理論分析で社会の構成要素とされるコミュニケーションは、過去のコミュニケーションに言及することで規定され、そのコミュニケーションが今度は未来のコミュニケーションの制限空間を開く。
一度の出来事では存在し得ず、継続したネットワークの外でのコミュニケーションはありえないのである36)。ApS 理論自体が現代という先入見にとらわれていることを自覚することが大事なのであって、現代に視点があるということで、出来事の歴史性を無視しているとは言えない。社会科学の分野において時間とは過ぎ去っていくものではなく、堆積していくものである。
この堆積した時間を試錘し、それぞれの地質を理解するのではなく、堆積した時間の上に立ち、その上での出来事を解釈するための方法論の一つがApS 理論なのである。
これらのことは、ApS 理論が現代のみをその分析対象とすることを意味しない。ApS 理論は歴史を捉えなおすための道具となることができる。歴史的な意味を有するとされる出来事は、システム自体の自己観察、自己反省によって探究されていく37)。例えば、ApS 理論において政治思想史研究は政治の自己記述、自己反省の歴史として分析することができる。政治思想史の分野において、政治思想史と政治理論の区別を試みたケンブリッジ学派と呼ばれるスキナー(Q.Skinner)やポーコック(J.G.A.Pocock)らのコンテクスト主義は、歴史的思想のテクストの文言以外に、著者の意図、そのテクストが各々の時代においてどのような意図で利用されたか、ということに注目した。ある思想史が一つのテクストとして捉えるものは、実際に多層的なコンテクスによって成ると考えるのである38)。このようなコンテクスト主義は、ApS 理論と共通性をもつ39)。なぜなら、ApS 理論分析では、ある出来事はその出来事を観察するシステムごとによって認識され、意味を与えられる。一つの出来事は多層的にのみ捉えることが可能であり、システムごとの自己記述としての歴史となるからである。 
第2 節 グローバル社会における共和主義のオートポイエーティック・システム理論分析 
第1 項 共和主義の本質
第1 節では、グローバル社会を分析する方法論としてApS 理論を用いることへの批判に反駁しつつ、その有用性を説いた。次に、ApS 理論を用いて、グローバル社会における政治思想としての共和主義の機能を分析したい。政治思想は、社会システムから機能分化した学術システムに位置する。学術システムとは、真/非真をコード40)、理論をプログラムとする機能分化システムである。その内部はさらに専門分野によって機能分出し、学術システム内にサブ・システムを形成する。学術システムは因果的閉鎖性と他の機能分化システムとの共鳴・カップリングのなかで、自らの構成要素を産出し自己保存の理論を形成する。そして、論証可能性という固有値を維持することで、自らのシステムの安定を確保する。
社会システムにおいて学術システムは、他の機能分化システムを観察する役割を担い、現実の分解と再構成をその機能とする41)。そうすることで、学術システムは他の機能分化システムに選択意識と技術を提供し、他の機能分化システムはそれを自らのコードに従って利用できるものとできないものとに選別する42)。このとき、技術的に可能でなくても、コミュニケーションにおいて選別されうる43)。学術システムのサブ・システムである政治学システムは、政治システムの作動を外部から観察することによって、政治システムの作動の分解と再構成を行なう。
政治思想とは、現実としての政治システムの統治理論及び作動を、学術システムが外部観察することで生じる学術システムの作動である。よって、政治思想としての共和主義とは、政治学システムが政治システムの作動や統治理論を外部観察することで自らのシステム内に形成した、「共和主義」と分類されるサブ・システムである。
共和主義をApS 理論分析する前提として、先ず、共和主義の本質が何であるかを明らかにしなければならない。古典古代より続く政治思想としての共和主義は、各時代の状況と共鳴してきた。時代が異なると、同じ共和主義という用語が使用されているとしても、単純に同一の意味では論じられない。しかし、各時代において共和主義と呼ばれた思想には、その呼称によって括られる共通性が存在する。共和主義を解釈するという意識こそが、ある特定の歴史的条件の下でのみ存在するのである。ApS 理論による政治思想としての共和主義の観察自体が、現在という歴史によって規定された意識であり、古代からの歴史の出来事の連続性の上にあることを確認しなければならない。ApS 理論自体が現代という先入見にとらわれていることを自覚しなければならないのである44)。この現代という先入見が、各時代において論じられてきた共和主義の中に価値を見出させる。共和主義は、歴史的に繰り返しその真価を試されながら反省、伝承、維持されてきたことで、絶えず古典と現代の橋渡しがなされ、超時代性を有する歴史的な存在、すなわち「古典性」を獲得した45)。古典古代の政治思想としての共和主義は、どのような時代においてもその時代に価値ある何かを語ることで、過去と現在の双方に帰属することになる。共和主義を現代の視点から理解することそのものが、歴史と現在とを媒介する。このことは、過去を現在に同化させることを意味しない。時代の隔たりは生産的な理解の可能性を有する。観察する側が自らの歴史性を認識することで、現在という制約された状況にある視点から共和主義の本質を見出すことができるのである。以上のことを踏まえた上で、共和主義の本質を論じる。
共和主義は、共同体とその構成員たる個人の関係をめぐる思想である。個人がどのような意識の下で共同体を形成し、その共同体がどのような目的で、誰によって、どのように運営され、いかに機能するのかに関する一つの思考体系である。人間は理性と情念を持ち合わせた動物であるゆえに、法や制度は理性だけで動いているわけではなく、理性と情念を含む人間によって創られ、動かされている。政体について論じるためには、人間のもつ精神のありようを考える必要がある。それゆえ、堕落を免れる理想の共和政体と、それを創設・運営する理性と感情を満ち合わせた市民概念の双方が論じられる46)。したがって、政治思想としての共和主義には2つの軸がある。一つは政体論としての共和主義すなわち共和政体に関する思想である。その特徴として@共通善の実現を目的として形成された包括的政治共同体、A自律的な市民による共同体、B恣意的な権力の行使を抑制するために法を重視した混合政体を採る、C支配からの自由を獲得するための政体、の4 つを挙げることができる。もう一つの軸は共和政体の構成員たる市民概念をめぐる思想である。@血統よりも徳をその要件とする、A市民権と政治への直接参加権の不一致、Bコミュニケーションのための多様な個人の共通項、の3 点がその特徴として挙げられる。また共和主義は、個人から共和政体へと展開する重層的な共同体の「義務の分担」による機能的分出により、全体としての統一性を確保する。そして、これら共和主義の起点となるのは「人間はポリス的、社会的な動物である」というアリストテレスから続く人間観である47)。これらの共和主義の本質をもとに、共和主義のApS 理論分析を行なう。 
第2 項 共和主義システムの機能と可能性
共和主義をApS 理論分析すると、学術システムのサブ・システムである政治学システムのサブ・システムとして位置づけられる。それゆえ、学術システムのコード:真/非真、プログラム:理論、固有値:論証可能性、機能:現実の分解と再構成、を継承する。以下は、共和主義システムの固有の「機能」、システムと環境を区別する「コード」、区別の基準となる「プログラム」、システムの安定を保つ「固有値」を明らかにする。
共和主義の本質から分かるように、共和主義が他の政治思想と区別されるのは、その政体論及び市民概念論の根底に「徳」を置く点である。徳のシステムとしての政治思想が他の政治思想システムとの差異であるがゆえに、共和主義システムのコードは「徳の構造化/徳の構造化でない」になる。学術システムの真/非真のコードを継承するため、「徳の構造化」を真とする政治思想システムとなる。自らのコードに従い環境と区別することによって、他の政治思想システムに対して因果的に閉鎖的になる。共和主義システムの考察対象には制限がなく、「徳の構造化」に関わる事柄だという限界を自らのシステム内においてのみ判断することができる。
自らの構成要素を自ら産出するのである。「徳の構造化/徳の構造化でない」を判断するのは、プログラムとしての「共通善の実現」という理論である。「徳の構造化/徳の構造化でない」をこの理論によって判断するため、常に共和主義システムは暫定的な確実性しか有しない。それゆえ、政治思想としての共和主義システムと政治システムにおける統治理論としての共和主義は区別される。区別されることによって、現実を再構成する政治思想としての共和主義システムの機能は統一化され、実践としての共和政を外部観察することにより共和主義システム内に反省理論が発展する契機となる。このような他のシステムに対する開放性と、構成要素を自ら産出するという因果的閉鎖性のなかで、共和主義システムは自己産出と自己保存の円環を形成する。そして、共同体を形成しようとする個人の協働性を、より厳密に言えば個人の協働性の論証可能性を固有値として、自らのシステムの安定を維持する。社会システム全体からは、「支配からの自由の獲得と保持の理論の提供」が共和主義システムの「機能」として観察できる。ここでグローバル社会における政治思想としての共和主義システムと、それに関わる機能分化システムのApS 理論分析をまとめると、下記の表のようになる。【表】
次に、共和主義システムと他の機能分化システムの関係について論じる。学術システムのサブ・システムである共和主義システムは、グローバルな政治システムの作動を外部観察することで共鳴し、@国家だけでなく、社会的権力による「恣意的な支配からの自由」の獲得とその保持の理論48)、A共同体を形成する構成員の共通項としての有徳な「市民」概念によるメンバーシップの理論49)、B共通善の実現のための理論50)を、自らのシステム内の作動として形成する。
共和主義システムがグローバル社会においてその「支配からの自由の獲得と保持の理論の提供」という機能を果たし、グローバルな政治システムに「作用」することは、グローバルな政治システムの自己反省、自己観察の契機となる。グローバルな政治システムの3 つのサブ・システム(国家間政治/制度化された国際政治/国境を越えた市民社会)はそれぞれ、共和主義システムの@〜Bの作動を外部観察することにより共鳴し、現実としての各自の作動と共和主義システムの作動の差異を認識することで、自己反省、自己観察の能力を獲得する。加えて、学術システムのサブ・システムである共和主義システムの作動を自己の作動の根拠として参照することにより、自らのコミュニケーションに信憑性を持たせることができ、政治的コミュニケーションの有力な選択肢として提示できる。
また、イデオロギー・システムが共和主義システムと共鳴することで、共和主義システム内の@〜Bが現実化されるべきであるとするイデオロギー・システム内のコミュニケーション(政治イデオロギー)が生じる。その際、@〜Bはそれぞれ相反する主張の根拠として採用される。
そして、@〜Bがイデオロギーとして主題化されることで、政治システムと共和主義システムはより共鳴しやすくなる。共和主義システムは、イデオロギー・システムにおける政治イデオロギーのグローバルなコミュニケーションと共鳴することによって実効性を与えられ、再びグローバルな政治システムに参照される。そうすることで、グローバルな政治システム内に政治理論のオプションを提供するのである。これら、システム同士の共鳴は、システム間のカップリングの形成により更に促進される51)。
以上より、グローバル社会における共和主義システムの機能と可能性は、下記の図のような理論モデルとして組み立てることができる。図のグローバルな政治システムの3 つのサブ・システム内の@〜B、イデオロギー・システム内の@〜Bは、それぞれ共和主義システムの@〜Bの作動に対応する共鳴を表す。
このように、ApS 理論分析では、実践としてのグローバルな政治システムにおける政治思想としての共和主義システムの機能と可能性が明確になり、実践と理論のより複雑なレベルでの政治行為の観察が可能となる。 
おわりに
本稿では、ApS 理論分析によりグローバル社会における政治思想としての共和主義の機能分析のための理論モデルを構築した。第1 節では、社会学的方法論としてのApS 理論を概説し、本来国際関係学によって扱われる分野であるグローバル社会の政治的コミュニケーションを、ApS 理論を用いて分析した。加えて、ApS 理論をグローバル社会の分析方法として適用することへの既存の国際関係学からの、@用語の使用方法の相違による批判、A政治を中心としないApS 理論への批判、B ApS 理論の歴史認識に対する批判に反駁し、グローバル社会の分析方法としてのApS 理論の有用性を説いた。第2 節では、歴史認識の解釈学を基に政治思想としての共和主義の本質について検討し、@共通善の実現を目的として形成された包括的政治共同体、A自律的な市民による共同体、B恣意的な権力の行使を抑制するために法の尊重を重視した混合政体を採る、C支配からの自由を獲得するための政体、としての政体論と、@血統よりも徳をその要件とする、A市民権と政治への直接参加権の不一致、Bコミュニケーションのための多様な個人の共通項であるという市民概念を、それぞれ政治思想としての共和主義の要素として捉えた。それらを基に政治思想としての共和主義をApS 理論分析し、共和主義システムが他の機能分化システムとどのように共鳴するのかを明らかにするための理論モデルを提示した。
これらの理念型モデルを判断枠組みとし、現実のグローバルな政治における政治思想としての共和主義の機能と可能性を、EU 憲法の制定と批准の過程、及びグローバル・ローの形成過程を事例として検証することを今後の課題としたい。 

1 )ヘルド、デヴィッド『グローバル社会民主政の展望』日本経済評論社、2005 年、xv 頁。
2 )Luhmann、 Niklas ‘Globalization or World Society?: How to conceive of modern’ International Review of Sociology、 Vol.7、 March 1997、 Issue 1、 1 頁。
3 )但し、国家あるいは、その他の行為主体の国境を越えた領域での協働と結束の状態が、果たして「社会」であるのかということに対しては、現在も議論が分かれている(ワイト、マーティン『国際理論』日本経済評論社、2007 年、第3 章を参照のこと)。
4 )ここで言うリベラリズムとは、国内の政治学においては、国家は国民の自由に干渉せず、国民の要求実現のためにのみ干渉することが許されるという政治思想であり、国際政治学においては、行為者である国家が、対外的な独立性と体内的な絶対性のもと、国益の実現のために行動する政治思想を指す。
5 )アメリカ建国期における共和主義の影響をめぐるPococ、 J.G.A. の主張(The Machiavellian Moment、Princeton U.P.、 1975)をきっかけとし、「他者」との関係から自由概念を再考するPettit、 Philip (Republicanism、 Clarendon、 1997)、 Skinner、 Quentin(Liberty Before Liberalism、Cambridge Univ. Press、 1998)、 ナショナリズムとは異なる共和主義的愛国心を研究するViroli、 M.(For love of country、 Oxford University Press、 1995)、共和主義的立憲主義を基盤とする民主主義論を説くHabermas、 Jürgen(Faktizität und Geltung、 Suhrkamp Verlag、 1992)の主張がある。
6 )国際関係学の分野では、共和主義と国際政治思想の関係を歴史的視点から捉え直し、現代社会におけるその遺産を見出す研究(Onuf、 Nicholas The Republican Legacy in International Thought、Cambridge Univ. Press、1998)や、国際法と共和主義の関係の研究(Sellers、 M.N.S.、 Republican Principle in International Law、 Palgrave Macmillan、 2006)がなされている。
7 )マトゥラーナ/ヴァレラ『オートポイエーシス』国文社、1991 年、を参照。
8 )詳細は川村仁子「グローバルな政治システムにおける政治思想の位置と機能:オートポイエーティック・システム理論分析の適用可能性に関する考察」『立命国際研究』21 巻2 号、2008 年、141 − 163 頁、第1 章第2 節を参照。
9 )ここで言う閉鎖性は、環境での出来事がシステムに直接的な影響を与えないという因果的閉鎖性であり、システムが環境の情報を自らのコードに従って選択するといった意味における開放性を否定するものではない(ルーマン、ニクラス『システム理論入門』、新泉社、2007 年、104 頁)。
10)川村仁子「グローバルな政治における政治思想の位置と機能」147 頁を参照。
11)このコミュニケーションについて重要なことは、コミュニケーションの主体は個人ではなくコミュニケーションだということである。もちろん個人は、社会的コミュニケーションにとって不可欠である。しかし、個人の心的システムの意識それ自体は、「社会的事実」ではない(ルーマン、ニクラス『エコロジーのコミュニケーション』新泉社、2007 年、61 頁)。意識システム自体は思考の再生産によってなるプロセスであり、社会システムの要素としてのコミュニケーションではないのである(ルーマン、ニクラス『社会システム理論 上』恒星社厚生閣、1993 年、第2 章、第4 章及び第7 章を参照)。それゆえ、意識システムはコミュニケーションに対して共鳴するに過ぎない(ルーマン『エコロジーのコミュニケーション』62 頁)。但し、コミュニケーションは伝達行為としては個々の「人格」に帰属する(クニール、ゲオルク/ナセヒ、アルミン『ルーマン社会システム理論』新泉社、1995 年、104 頁)。個人は多層的な「人格」の総称として捉えられ、ある個人のコミュニケーションはその個人の「所属」から生じる「人格」によるものと認識されるのである。互いに孤立したものではなく、総体の中のある「人格」にコミュニケーションが帰属すると考えられる(Burdeau、 Georges Traité de Science politique Tome I、 L.G.D.J.、 1980、 172‐173 頁参照)。グローバルな社会では、個人はその「人格」において複数の社会に重複的に属する。
12)川村仁子「グローバルな政治における政治思想の位置と機能」の第3 章、第1 節を参照。
13)龍澤邦彦「グローバル法とトランスナショナル(民際的な)憲法主義」『憲法研究』第41 号、2009 年、114 頁を参考にした。
14)国家間関係による政治システムが場当たり的であったのに対し、永続的かつ安定的なコミュニケーションからなるシステムである。
15)国際関係学への社会学理論の適用は、Aron、 Raymond の理論を用いるリアリストの国家間関係の認識、Parsons、Talcott の理論を用いるDeutsch、Karl、国際システムの概念化にGiddens、Anthony の理論を用いるWendt Alexander、Habermas のコミュニケーション理論を用いるRisse、Thomas に見られる(Albert、 Mathias and Hilkermeier、 Lena(eds.)Observing International Relations: Niklas Luhmann and world politics、 Routledge、 2004、 1 頁)。
18)Brown、 Chris、 ‘The “English School” and world society’、 Guzzini、 Stefano、 ‘Constructivism and International Relations: an analysis of Luhmann’s conceptualization of power’ in Albert and Hilkermeier(eds.)Observing International Relations、 59 − 71 頁を参照。’
19)Carr、 E.H、 Morgenthau、 H.、 Raymond、 Aron 等の理論に代表される、国際関係を政治的にアナーキーな空間におけるパワー・ポリティクスとしての国家間による政治として捉える現実主義(Realism)、Wendt、 Alexander、 Nicholas、 Onuf 等の理論に代表される、主体である国家の行為は国際システムにおける主体の相互行為によって決定されるとし、 国際システムの理論化を試みる構成主義(Constructiveism)、Krasner、 S.、 Robert、 Kohane 等の理論に代表される、主体としての国家の行為に対する「制度」の機能を重視する制度主義(Institutionalism)等の国際思想、及び英国学派において現実主義、合理主義に分類される国際思想を参照。
20)環節的分化システムとは、全体としての社会システムが種族、家族、部落といった同等のサブ・システムへと分化する段階を言う。主権国家を中心とした政治思想を展開している既存の国際関係学の場合、世界は主権国家という同等のサブ・システムに分化した環節分化システムであると捉えられる。環節的分化システムの詳しい説明は、ルーマン、ニクラス『社会システム理論 下』恒星社厚生閣、1993 年、773-774 頁を参照。
21)Jaeger、 Hans-Martin、 ‘“World opinion” and the turn to post-sovereign international governance’ in Albert and Hilkermeier(eds.)Observing International Relation、 142 − 156 頁を参照。
22)Guzzini、 Stefano、 ‘Constructivism and International Relations: an analysis of Luhmann’s conceptualization of power’ in Albert and Hilkermeier(eds.)Observing International Relations、217 − 219 頁。
23)ルーマン『社会システム理論 下』746 頁。
24)例えば、国際理論の英国学派による分類である現実主義、合理主義、革命主義の政治思想はそれぞれ、グローバルな政治システムのサブ・システムである国家間関係による政治システム、制度化された国際政治システム、国家を越えた市民社会システムに対する、学術システムの共鳴として理解できる。
25)Luhmann、 Niklas ‘Globalization or World Society?: How to conceive of modern’、 15 頁。
26)ApS 理論を国際関係学に適用する試みとして、Albert、 Mathias はApS 理論を適用することに対する限界を指摘しつつも、国際関係学に「社会」という概念枠組みを提供でき、政治を中心とした理論の再考を促すと説く(Albert、 Mathias、 ‘On the Modern Systems Theory of society and IR: contacts and disjunctures between different kinds of theorizing’ in Albert and Hilkermeier(eds.) Observing International Relations、 13 − 29 頁)。スタンフォード学派のThomas、 George は社会学的ネオ制度論者とApS 理論は相互に補強し合うことができるとし、世界社会における国際組織の重要性を説く(Thomas、 George M.、 ‘Sociological institutionalism and the empirical study of world society’in Albert and Hilkermeier(eds.)Observing International Relations、 72 − 85 頁)。また、Harste、Gorm はウェストファリア・システムによる主権国家の誕生は、オートポイエーティックな軍事システムのサブ・システムへの分化として説明できるとし(Harste、 Gorm、 ‘Society’s war: the evolution of a self-referential military system’ in Albert and Hilkermeier(eds.)Observing International Relations、 157 − 176 頁)、Esmark、 Anders はApS 理論によるコミュニケーションのためのパラドクスと脱パラドクスの機能的観察は、グローバル化の文脈における主権の意味論の進化をたどることができ、地域的分化とグローバリゼーションの進展の中での政治的コミュニケーションを形作る点を評価する(Esmark、 Anders、 ‘Systems and sovereignty: a systems theoretical look at the transformation of sovereignty’ in Albert and Hilkermeier(eds.)Observing International Relations、 121 − 141 頁)。
27)Kerwer、 Dieter、 ‘Governance in a world society: the perspective of systems theory’ in Albert and Hilkermeier(eds.)Observing International Relations、 196 − 207 頁を参照。
28)その一方で、ApS 理論には本来的に全体性や普遍性が備わっているとし、ApS 理論の一般理論的構造を批判する学説もある。(Rossbach、 Stefan、 ‘“Corpus mysticum”: Niklas Luhmann’s evocation of world society’ in Albert and Hilkermeier(eds.)Observing International Relations、 44 − 56 頁)。
29)Jung、 Dietrich、 ‘World society、 systems theory and the classical sociology of modernity’ in Albert and Hilkermeier(eds.)Observing International Relations 、 108 − 109 頁を参照。
30)Brown、 前掲、 70 頁。
31)Luhmann、 ’World Society?: How to conceive of modern’、 5 頁。
34)ルーマン、ニクラス『福祉国家における政治理論』勁草書房、2007 年、156 頁。
35)ガダマー、ハンス=ゲオルク『真理と方法 U』法政大学出版局、2008 年、510 頁。
36)Luhmann、 ’World Society?: How to conceive of modern’、 8 頁。
37)ゲーベル、アンドレアス「政治システムの自己記述」土方透編著『宗教システム/政治システム』新泉社、2004 年、119 頁。
40)ルーマン『エコロジーのコミュニケーション』、144 頁。
43)特に政治システムのように、「他でもありうること」という選択肢がその機能システムにおいて重要である場合。
44)ガダマー『真理と方法 U』、426 頁。
45)古典性とは、@規範的意識、A普遍的な歴史学的様式概念をいう(同上、454 頁)。
46)共和主義はその政体だけでなく、法や制度を創り、支え、動かす市民に注目する。とりわけ、政体を支えていく情念部分である市民の徳を重視する。
47)共和主義の本質論に関しては、川村仁子「政治思想としての共和主義とその思想的支柱‐ 古代ギリシアから18 世紀ヨーロッパまで‐ 」『立命館 国際関係論集』第7 号、2007 年10 月を参照。現代共和主義の根源にある古代から18 世紀までの共和主義を対象とし、古代ギリシア、共和政ローマ、中世北イタリアの自治都市(Comune)、18 世紀頃のイギリス、フランス、アメリカの共和主義を理念と実態の双方から観察し、それらに共通する概念を見出した。そして、共和主義を価値ある思想として支えてきたヨーロッパの思想の伝統について検討を加えた。
48)Neo-Athenian と呼ばれるPocock、 J.G.A.、 Sandel、 Michel、Taylor、 Charles はアリストテレスの政治思想に基づき、人民の政治への直接参加による自己統治の共同体理論を重視し、Neo-Roman と呼ばれるSkinner、 Quentin、 Pettit、 Philip はキケロ、マキャヴェッリの共和主義に基づき、人民の直接的な政治参加よりも「支配されない」ことに重点を置いた他者との共同体における自己統治理論を説く(Laborde、 Ćecile、 and Maynor、 John、’The Republican Contribution to Contemporary Political Theory’ in Laborde、 Ćecile、 and Maynor、 John(eds.)、 Republicanism and Political Theory、Blackwell Publishing Ltd.、 2008、 3 頁)。
49)Haberma、 Jürgen(『事実性と妥当性−法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究<下>』未来社、2003 年)、 Viroli(前掲、 176 頁)、 Mason、 A.(Community、 Solidarity and Belonging Cambridge University Press、 2000)は、 民族的・文化的な統一ではなく、徳としての共同体への愛国心をメンバーシップの条件とする共和主義的市民概念の可能性を説き、Bohman、 J. は「支配からの自由」を実現している政治的共同体への帰属の権利から市民概念を論じている(‘Republican Cosmopolitanism’Journal of Political Philosophy、 12(3)、 336-352 頁)。
50)共和政体(republic)はラテン語の「レス・プブリカ(res publica)」が語源であり、「レス」は「物、物事、事柄」を意味し、「プブリカ」は「公、共通」を意味する。つまり、直訳すると「公物、公の事柄、共通の物事」になり、共通善という意味が導き出される。
51)カップリングに関しては、川村「グローバルな政治における政治思想の位置と機能」、 146 − 147 頁を参照。  
 
ブッシュの単独主義外交とアメリカ孤立主義

 

はじめに
2001 年に始まったブッシュ政権の外交は「単独主義」に大きな特徴があった。京都議定書の批准拒否、国際刑事裁判所条約の署名取り消し、ABM 禁止条約の撤回、通常兵器の売買禁止や生物兵器禁止の国際会議への不参加などに現れた単独行動主義の外交は、9・11 事件でアメリカ国民が、「アメリカ本土の安全が危うい」という重大な危機感に見舞われて、「テロとの戦いこそが最大の課題、世界共通の課題だ」と考えたことがその直接の契機になった。
クリントン政権が包括的核実験禁止条約を推進しようとしたときに、その批准に反対した共和党員を孤立主義者だと非難した事例にみられるように、アメリカ自身が国際化・グローバル化を推進してきた背景からも、孤立主義という言葉にはマイナスイメージがつきまとい、単に相手を攻撃するためだけに使われがちな概念である。2006 年には、ネオコンのリーダーとみられてきたウィリアム・F・バックレイ・ジュニア(WFB)が主催する、ネオコン系と目される『National Review』誌が、WFB はネオコンではないし、彼がブッシュに対してフセインを倒せといったこともない、というゴールドバーグの評論を掲載した(Goldberg、 p.34)のだが、そのバックレイ・ジュニアは、そのような共和党員は、孤立主義なのではなくて、単に、「一つの世界」主義に反対だったのだと主張している(Buckley、 Jr.、 p.67)。ブッシュ政権が2002年に、国際刑事裁判所条約への署名を撤回した際に、ある雑誌記事は、「孤立主義と単独主義への動き」(Farrell、 p. 19)と表現したが、単独主義外交は、孤立主義外交の理念の一部分を構成するものであり、単独主義外交の検討は、孤立主義の理念全体とのかかわりの中で展開することが必要になる。
伝統的な孤立主義外交は、「アメリカ単独主義」(unilateralism)と「不介入主義」(noninterventionism)から構成され、アメリカ単独主義は、外交のフリーハンドの確保を重視するところから「外国と軍事同盟を結ばない」という基本方針を生み出す論理となっていた。不介入主義は、外国とくにヨーロッパの紛争に関わらないことがアメリカの国益を保証するとする論理で、この二つの論理を通して「戦争回避」が目指された。孤立主義者は他国との軍事的協調(同盟)を忌避して単独で自国防衛を目指すので、より強大な軍事力整備を志向する傾向が強い。
ネオコンが主張した先制攻撃論については、国際法レベルでの論争が進んでいるので、本稿では、まだ検討が始まったばかりのアメリカ単独主義外交について、アメリカの伝統的な孤立主義外交の形成と変容の歴史過程の中で検証することによって、21 世紀のアメリカ外交の行方を考える手がかりをえたいと考える。 
1 章 ブッシュの単独主義外交
アメリカ外交をトータルに批判したカプチャンは、2002 年の時点で、「懸念されるのは、アメリカの単独行動主義が増大することである。アメリカはこれから数年の国際秩序の維持に消極的になるだけでなく、関与するときには、単独行動主義的方法で行う可能性が高い」とみていた(カプチャン、137 ページ)。その見通しの正しさはイラク戦争で立証された。
アメリカは、国内的には、テロリストを封じ込めるために国民の身体の自由や通信の自由を制限する「愛国者法」を制定し、対外的には、ネオコンの強い影響力のもとで、国連レベルの意思決定を軽視してアメリカ主導でアフガニスタン戦争とイラク戦争を遂行した。
自他共に認めるネオコンだったフランシス・フクヤマは、2006 年にネオコンとの決別を宣言する本を上梓したが、そこでは、アメリカの外交理念の源流が、@、キッシンジャー流の現実主義者、A、ウィルソン流のリベラル国際主義者、B、ジャクソン流のナショナリスト、そしてC、ネオコン、の4 つにあると説明して、イラク戦争はネオコンとジャクソン流ナショナリストの連合が推進したものだといい、ブッシュ外交に代えて「現実主義的ウィルソン主義=多層的な多国間主義」(multiple multilateralism)を採用する必要性を強調している(Fukuyama、pp.7-10)。
しかし、ブッシュ政権に見られた単独主義外交がネオコン勢力と密接な関連を持つとはいえ、すでに9・11 事件以前からその傾向が強まっていたことに注目しなければならない。単独主義外交は、ネオコンにのみ特有のものではなく、アメリカの伝統的な外交理念である孤立主義外交のひとつの表れである。その事実を正確に理解することが、これからのアメリカ外交を見通す際にも必要な視点となる。
1991 年8 月にイラクがクウェートを侵略して、それに対する世界的な批判が強まり、1992年の1 月17 日に「多国籍軍対イラク軍」の湾岸戦争が勃発した。多国籍軍方式での対応が国際世論に強く支持されていた状況を背景に、1992 年1 月号のCommentary」誌は、「孤立主義への道?」と題する評論を載せた。W・ジョージは、冷戦後の世界におけるアメリカ外交の将来に関する論争が、反共主義連合、伝統的孤立主義、現実主義の3 つの潮流の間で戦われていると指摘し、孤立主義ルネッサンスはきわめて奇妙な現象だといって次のように論じる(Goeorge、 pp.36-37)。
オールドライトと結びついた1930 − 1940 年代初めの伝統的孤立主義は、道徳的に劣る諸外国への関与はアメリカの民主共和政治を汚すから、ヨーロッパ政治に関わらないことが望ましいと考えた。ベトナム戦争を通じて生じた新孤立主義は、ニューレフトと結びついて生成したものであって、彼らは人種差別主義的、帝国主義的、軍国主義的なアメリカが第三世界で台頭する国々を堕落させるがゆえに「アメリカ本土に帰れ」と叫んだ。伝統的孤立主義は、ニューレフトの新孤立主義と結びつくことによって再生したのである。
このジョージの分析は、20 世紀後半以降のアメリカ外交の中で、孤立主義が復活していたこと、さらに、伝統的孤立主義と新孤立主義の二重構造をしていること、を見出した点で示唆に富むものである。このような意味での新孤立主義は、「不干渉主義」と呼ぶこともできる。
1992 年大統領選挙に立候補した第三党候補のパット・ブキャナンが、1940 年代の孤立主義団体と同じ「アメリカ・ファースト」を重点政策に掲げ、国連からの脱退、軍事同盟の破棄など、単独主義外交を強調すると、孤立主義の復活と騒がれた。ブキャナンは、もちろん、ジョージ言う所の、伝統的孤立主義者である。
湾岸戦争のあとの1995 年にアメリカ外交を論じたポール・ジョンソンは、アメリカ外交の「行動の自由、選択の自由」に着目しつつ、ソマリア問題を契機にアメリカが再び孤立主義へ回帰しつつあるように見えた世論について論じた際に、地理的な条件がある場合には対外的な関与を最小にしたいという意味での孤立主義はどこの国でも当たり前のことだったと述べた上で、1952 年選挙の際にタフトが共和党からの立候補を断念した時点でアメリカの孤立主義は終焉したのだと強調している。彼の論理からすると、21 世紀についても孤立主義の復活という解釈は出てこないだろう(Johnson、 pp.160-163)。
代表的なネオコンの論者であるロバート・ケーガンは、アメリカの単独主義が世界的な問題となった契機が西欧と米との対立にあったことを念頭において、西欧と米との対立が生まれた一因は、より大きな危険を「破綻した国家」にみた西欧と、「ならず者国家」にみたアメリカとの違いにあったとして、アメリカの単独行動主義をめぐる西欧との軋轢について、大要、次のように述べた。これは、超大国の持つべき特権のあからさまな主張である(ケーガン、42、52 − 54 ページ)。
ヨーロッパ側がアメリカの単独主義に反対するのは自己利益に基づいている。ヨーロッパは単独で軍事力を行使できないので、自分たちにできない行動をする国に反対するのだ。ヨーロッパにとっては、多国間主義と国際法を大切にするよう主張するのは、コストがかからないからだ。アメリカ国民も、自分たちの作った国連を支持している。しかし、アメリカが単独で行動できる事実は変わらない。現在の問題は(問題があるとすればだが)、アメリカが「一国でやっていける」ことにあり、超大国としてのアメリカがこの能力の維持を望むのは当然だろう。地政学的な理由からも、アメリカは、単独行動の善し悪しは別にして、現在の一極構造の世界では他の国々に比べて単独行動の禁止で失うものが多い。自分で単独行動できないヨーロッパが、単独行動できるアメリカを抑制する仕組みを望む気持ちはわかる。
他方で、ブッシュ外交に批判的なメル・ガートフは、世界各地で自立と非対称が拡大する現代においては、アメリカの単独主義は不適当であるだけでなく、世界平和を危険にし、国の内外で社会正義を促進するチャンスを減少させるものだと懸念している。彼の論理の特徴は、現代の単独主義は過去の単独主義とは異なると考える点にある。彼は、そうなった原因には国際的要因と国内的要因があると考えて、経済活動の広がり、アメリカのパワーに対抗する勢力の不在、国内での反対の弱さ、ブッシュ政権に特有の思い込みと道徳的な確信、を指摘した(Gurtov、 p.1)。
ヨーロッパとアメリカ(ブッシュ)との間に生じた亀裂を、孤立主義とのかかわりではなく、国際主義の問題から論じたのが、マーク・F・プラッターである(Platter、 pp.84-85、 92)。彼は、西欧と米との対立は、「国際協力の方法をめぐる意見の違い」からきているという。彼は、「ヨーロッパは、EU 統合の経験から多国間主義へ傾き、アメリカは孤立主義への傾斜を強めている。・・・多くの問題で、アメリカは、ヨーロッパと対立するだけでなく、しばしば国際社会と呼ばれるものとも対立する立場をずっととってきた」として、その問題のなかには、当然、イラク戦争、京都議定書、ICC(国際刑事裁判所)問題が含まれており、アメリカはそれらの国際合意に反対だっただけでなく、ヨーロッパ諸国よりも、国家主権の原則の擁護に大きな関心をもち、国連や国際世論の道徳的な優位性に疑問を投げかけてきたとする。プラッターは、そこにアメリカのもつ矛盾を指摘して、アメリカは、「グローバル化」の重要な推進者と見られると同時に、自らが掻き立てた均質化の主要な推進者と見られていたがゆえに、その結果、反グローバル化が反米主義の温床となり、いくたの困難が生み出されたという。彼は、結論として、「アメリカはもはや孤立主義ではない。ただ、ある一定の範囲内でのみ国際的な関与を果たそうとすしているにすぎない」といって、それを、アメリカの「新グローバリズム」とヨーロッパの「伝統的なリベラル国際主義」との対立の構造とみている。
以上に概観したような、ブッシュ政権の単独主義外交に関する諸論調は、それぞれ一貫した論理で貫かれてはいるが、以下の諸節で明らかになるように、「単独主義外交の理念」を捉える「視点」または「枠組み」の点で、視野の狭さを逃れられない。単独主義外交を孤立主義外交理念の一部分と捉える観点が必要である。この観点に関しては、英国学派のバリー・ブザンが的確な整理をしている。ブザンの整理の大要は、次のようである(Buzan、 pp.158-160)。
十字軍的なアメリカ外交は孤立主義の伝統と結びついている。アメリカは、しばしば対外的な関与を最小にしようとしてきたが、文化や通商の面で孤立主義だったことはない。単独主義には2 つの側面がある。第1 の孤立主義的側面は、冷戦の開始とともにアメリカが大国間政治に永久的に関与するようになって以降は、薄れていった。それでも孤立主義的側面が残っていたために、他国のことをほとんど知らない大統領がいつも選出され、どんなに費用がかかってもあまり効果がなくてもアメリカを攻撃から守る防衛政策に人気が集まった。第2 は、他国と協調行動するとか、多角的な合意に従うよりは、単独で行動することを好む側面であり、それは、主権至上主義の伝統によって支えられている。 
2 章 アメリカの孤立主義とその論理
独立戦争の過程で、イギリス本国はもちろん、カナダ領や西部領地などをめぐるフランスやロシアなどヨーロッパの大国からの干渉に悩まされたアメリカは、独立以後、イギリスとの間だけでなくフランスなどとの間でも緊密な国家間関係を控えることによって独立性を維持しようとし、初代大統領のワシントンは、「外国勢力の陰謀に対して、自由な人民は絶えず警戒を怠ってはなりません。・・・諸外国に対するわれわれの行動の一般原則は、通商関係を拡大するにあたり、できるかぎり、政治的結びつきをもたないようにすることであります。・・・隔離されたわれわれの位置は、異なったコースをとるように向かわせ、またそれを可能にするのです。
どうして、われわれの運命をヨーロッパのどこかの運命と織り合わせ、われわれの平和と繁栄とを、ヨーロッパの野心、敵対、利害、気分、気紛れの網のなかに絡ませることがありましょうか」(大下他、64 ページ)と述べた。これが孤立主義(isolationism)外交の原型となった。
ナポレオン戦争の戦後処理を図った1815 年ウィーン会議が正統主義(復古主義)によるヨーロッパの再建を通して古い勢力の復活を目指したために、ラテンアメリカに対するヨーロッパの再進出を恐れたアメリカが「われわれがヨーロッパへの介入を控える代わりに、ヨーロッパ勢力はアメリカ大陸への進出をやめよ」と宣言したのがモンロー大統領の1823 年年頭教書に含まれたモンロー宣言(Monroe Doctrine)だった。そこには、ヨーロッパ諸国は西半球(アメリカ大陸)で新たに植民地建設をするな、西半球の独立国への内政干渉をするな、アメリカはヨーロッパ諸国の問題に介入しない、という3 点が盛り込まれていた。
独立以来、自国の防衛と独立の維持に専心したアメリカは、大陸防衛のための陸軍力整備を重点とし、海軍も大陸防衛のための海軍という限定された意味しかなく、19 世紀初めのアメリカにはヨーロッパの紛争に関わるだけの軍事力はそもそもなかった。したがって、モンロー宣言は、ヨーロッパへの不介入という後段ではなくて、アメリカ大陸へのヨーロッパ勢力の不介入の要求という前段に重点があったのであり、その意味で、モンロー宣言に体現される孤立主義外交は「アメリカの軍事的な弱さの表現」であり、その後、20 世紀初頭に至るまでのアメリカ外交は、「アメリカ大陸主義」という意味を込めた「孤立主義」であった。
1904 年には、セオドア・ルーズヴェルト大統領(共和党)が年次教書で、「慢性的に悪事を重ねたり、無能なために文明社会のきずなを失う国があった場合には、アメリカ大陸においても最終的には文明国による干渉を必要とするだろう。西半球でモンロードクトリンを固守するアメリカは、そのような場合には、いやいやながらも国際警察官として行動せざるをえなくなるだろう」(Commager、 p.33)と述べて、アメリカによる外国への干渉を正当化する新しい論理を提起した。モンロードクトリンを20 世紀にふさわしく再解釈してアメリカ大陸における警察官としての役割を宣言したこのルーズヴェルト・コロラリー(Roosevelt Corollary to Monroe Doctrine)は、アメリカが帝国主義の世界に自ら参入したことの表明だった建国以来の孤立主義外交の伝統にも関わらず、アメリカは第1 次大戦へ参戦し、13 万人の戦死者、20 万人の戦傷者、417 億ドルの戦費という犠牲を払ったにも関わらず念願したような成果は得られなかったと落胆した。19 世紀末以降、アメリカは対外政策の基調を政治的な「孤立主義」と経済的な「門戸開放」に置いてきた。孤立主義の伝統を破ってまで第1 次大戦に参加したのは、一般に、ドイツによる無制限潜水艦作戦によってアメリカの商業と航行に重大な支障が出たためと説明されてきたが、それだけを参戦原因と見るのでは、第2 次大戦を経てパクスアメリカーナの時代が生まれていった歴史過程を説明できなくなる。したがって、参戦原因は、次の3 つに求めなければならない。第1 にヨーロッパの戦争に加われるほどアメリカの国力とくに軍事力が強化されていたこと、第2 にヨーロッパの戦争がアメリカの商業的利益に関わる公海の自由を重大に損なっていたこと、そして第3 にここで参戦すれば門戸解放というアメリカの希求してきた新たな世界秩序が可能になると期待されたことにあった。しかし、ベルサイユ体制のもとで、英仏を初めとするヨーロッパ列強の植民地体制は基本的に維持されてしまった。1899 年にジョン・ヘイ国務長官が明らかにした「門戸開放政策」(Open Door Policy)は、直接的には中国に勢力圏をもつ国々に対して、商業的利益の平等な保証(門戸開放と機会均等)を求め、さらに中国の領土保全を要求したものだったが、門戸開放と機会均等の要求は、世界大に広がるヨーロッパ諸大国の植民地体制全体へも向けられたものであり、第1 次大戦のあとに門戸開放が無視されていった経過に対するアメリカ国民の怒りは大きく、孤立主義への回帰が生じた。国際連盟の創設を含むベルサイユ条約の上院での承認については、共和党孤立主義者が連合して反対に回り、上院による承認に必要な3 分の2 以上の賛成票に7 票足りない「賛成49 対反対35」で否決された。
1933 年に成立したフランクリン・D・ルーズヴェルト(FDR)政権は、ムッソリーニとヒトラーの対外膨張政策への対応を迫られたが、国民の間では孤立主義感情が強まってきていた。孤立感情を増幅させたのが、上院の「ナイ委員会報告」だった。
共和党の孤立主義者ジェラルド・ナイ上院議員は、第1 次大戦へなぜアメリカが参戦してしまったのかを問題にして、民主党優位の議会であるにも関わらず1934 年に上院に「軍需産業調査特別委員会」(Munitions Investigation Committee)を作らせて自ら委員長になり、その後2 年半にわたって調査報告書を出し続けた。ナイ委員会は、1914 〜 1917 年のアメリカの運輸、武器、弾薬、化学などの産業分野の戦争への関わり方を調査して、軍事産業が自分たちの利益を獲得するためにアメリカをヨーロッパの戦争に引きずり込んだという主張を展開して、戦争回避のためには軍需産業の国有化が必要だと主張した(Schlesinger and Brown、 pp. 2755、2760-2761)。
ナイ委員会の調査によっていっそう高まった国民レベルでの孤立主義感情を背景に、有力な共和党系孤立主義者は、第1 次大戦への参加を批判してヨーロッパの戦争に関わるべきでないと主張した。共通する論理は、反イギリス、反フランスである。ハイラム・W・ジョンソン上院議員は、「アメリカ人は、理想主義にかられて世界の民主主義を守るために戦って勝ったが、世界の民主主義は危うくなり、アメリカから数十億ドルの戦費を借りた国々はわれわれを笑い飛ばし、債務の返済を拒否した。われわれは再び幻滅を味わうべきなのか」(Appendix to the Congressional Record 1939、 pp. 89-91)と言い、ウィリアム・E・ボラー上院議員は、「われわれをヨーロッパの戦争に巻き込むような行動を避けることが大切だ。アメリカでは、ヨーロッパの心情やイデオロギーに反発する傾向が強い。ヨーロッパの心情やイデオロギーはアメリカ文明の教養や教えとは対立する。・・・われわれは第1 次大戦に参戦した。高い希望と十分な理由があった。しかしなんと無益な犠牲を払ったことだろう」(Appendix to the Congressional Record 1939、 pp. 561-563)と述べて、来るべきヨーロッパの戦争へ関与することに徹底して反対した。1930 年代の初めにアジアで日本による対外侵略が、次いでドイツの軍備拡張が進むと、「戦争回避のための孤立主義」が強調され、1935 年8 月31 日に、1936 年2月29 日までの時限立法として「1935 年中立法」が制定された。 
3 章 第2 次世界大戦と孤立主義外交
1937 年に中立政策を強化する1937 年中立法(1939 年5 月までの時限立法)が成立した際には、左右からの反対が生じた。被侵略国への支援の可能性を探っていたFDR らの国際主義的介入主義者は、禁輸強化には反対であったがFDR 政権側は強力な指導力を発揮する力を欠いていた。しかも、国民の間の孤立主義感情はなお強かった。1937 年1 月のギャラップ調査では、「アメリカが第1 次大戦に参加したのは誤りだと思うか」との問いに、70%が「はい」と答えて、予想されるヨーロッパでの戦争の再発に対する強い警戒感を表明していた(The Gallup Poll、1937、 p.54.)。1937 年中立法は、上院でも賛成多数で可決されたが、実際の票決は、賛成41 名、反対15 名に対して棄権が39 名いて、賛成票は議席の半数にも届かなかったのである。
1937 年10 月、FDR は孤立主義の本場シカゴでいわゆる「隔離演説」(Quarantine Speech)を行った(Public Papers、 pp.406-411)。彼は、恐怖と国際的無法状態という伝染病が流行して文明の基礎が危うくなっている事態を指摘して、地域社会を病気の蔓延から守るために平和愛好諸国民が一致協力して患者を隔離するという積極的な平和維持の行動を求め、「アメリカは戦争を嫌う。アメリカは平和を欲する。ゆえにアメリカは平和を求める積極的な取り組みをして行く」と宣言した。ドイツなどを名指しはしなかったが、ファシズムという伝染病の防止のための国際協力を呼びかけたものであり、アメリカ政府が「反ファシズム」の立場を表明した最初の行動となった。しかし、国内では、FDR 政権がアメリカをヨーロッパの戦争に引き込もうとしているとの反発が強く、しばらくはその趣旨はFDR の発言から消えた。
1938 年に入ると、FDR が国防費の予算を20%増加させるべきだと議会に特別教書を送り、5 月までに、11 億ドルの海軍拡張法が確定した。戦争にまきこまれることを恐れる孤立主義者も、外国から自国を防衛するには軍備強化が必要だと考える点では、国際主義者と共通していた。7 月の世論調査でも、軍拡政策に64%が賛成していた(Powaski、 p.75.)。
1938 年のチェコのズデーテン問題はやっかいな問題ではあったが、国際主義者のFDRにとっては、国内のニューディール改革や孤立主義によって妨げられてきた対外的関与を進めて、アメリカが平和と安全保障に関与するチャンスとなる可能性をもつものだった。
しかし、チェンバレンがズデーテンの割譲を認めた9 月16 日のベルヒテス・ガーデン会談の翌日の9 月17 日に、FDR は、チェコがいつまでも非妥協的ならばチェコは迅速で粗暴な戦争に呑みこまれてしまうだろうと述べている(MacDonald、 p.98.)。
この過程からは、1938 年がアメリカ孤立主義外交にとって重要な転換をもたらした年であると言える。ヨーロッパ大陸におけるドイツ・イタリアによる侵略の拡大は、アメリカが中立法制定の基礎にした「イギリスはドイツに勝利するだろう」という前提に対する不安を生み出した。ズデーテン問題でのイギリスの対独宥和政策の採用がそれを裏書きした。アメリカは結果としてイギリスの対独宥和政策に追随することとなり、中立法に裏づけられた孤立主義が状況によっては宥和の側面を持つことが明らかになったが、以上の1938 年の経過からは、アメリカの対ミュンヘン外交を生み出した2 つの要因が見てとれる。第1 の要因は、アメリカ国民に共通しFDR にも存在した「対英不信」である。第2 の要因は、「経済的摩擦」である。1938年における英米間交渉の重要な課題の一つが、通商協定改訂問題だった。1932 年に成立したオタワ体制に対してアメリカがつきつけた「門戸開放」要求に、イギリスの製造業者は反対しイギリス市場内での特恵的扱いを守ろうとした。アメリカの門戸開放要求は、建て前は「世界経済の回復のため」であり、その手段は「相互的関税引き下げ」であるが、主たる対象が「イギリス帝国の開放」にあることは明白だった。オタワ体制が確立された1932 年からの1 年間だけで、アメリカのイギリス向け輸出は105 億ドルも減少しており、アメリカはイギリスの特恵制度はアメリカへの経済侵略行為だとみなしていた。このようなアメリカの経済的な対英不満は、イギリス外交に対する不信感と結びついていた。アメリカは、イギリスが同じようにブロック経済化を進めているドイツと取引をして、アメリカに対して世界の大市場を閉ざすのではないかと恐れていた(Powaski、 p.76.)。
孤立主義と呼ばれた1935 年中立法以来のアメリカ外交は、「アメリカ単独主義=unilateralism」と「不介入主義= noninterventionism」を柱とし、それらは「戦争回避」の論理で結合していたが、とくに「戦争回避のための単独主義」という性格を強く持っていた。
しかし、1930 年代のヨーロッパ情勢の緊迫化は、中立法という「アメリカ単独主義」によって「戦争回避」を担保できるのかという問題をアメリカ国民につきつけた。
戦争回避の見とおしが難しくなった一つの原因は、イギリスの対独宥和政策にある。イギリスがドイツの対外膨張の防波堤となることがアメリカ孤立主義を保障する重要な前提条件だった。しかし、ズデーテン問題のプロセスは、その可能性に対する疑問を生んだ。
それに対して、アメリカ孤立主義は19 世紀末以来、「門戸開放政策」と緊密に結びついて展開されてきた。遅れて帝国主義化したアメリカにとって、門戸開放は当然の要求である。したがって、第1 次大戦への参加についても、その見返りとしての「英仏帝国の開放」が実現しなかったことが不満の主たる原因となった。しかも、アメリカの門戸開放政策は、単にアメリカの商品と資本に対して市場を開かせるという意味を持つことに留まるものではなかった。FDRは、「米英通商協定がうまく改定されたら、世界に経済的自由主義を広め、ヒトラーがドイツで確立した経済アウタルキー制度を掘り崩すことによって、彼の侵略の意図をも阻むことになると考えた」(Powaski、 p.76.)。シュミッツとチャルナーは、アメリカとイギリスの宥和政策の違いを次ぎのように区別する。イギリスの宥和は、ヴェルサイユ体制のあれこれの断片的な再調整であって、とくに政治的・領土的合意を重視した。それに対して、アメリカの宥和は、独伊に対処するにはまず経済的調整を通してヨーロッパの諸問題の一般的解決を導くことが大切だと考えた(Schmitz、and Challener、 pp.xiv - xv)。
経済的開放による世界経済の自由化が、政治的自由化をもたらすとする論理は、ドイツとはもちろん、イギリスとも相いれない構想だった。アメリカのこのような意図と構想に対するイギリスの言わば「対米不信」が、アメリカの「対英不信」とあいまって英米間の協調を困難にし、それらがイギリスの対独宥和政策と、アメリカ孤立主義の宥和的性格の基盤の一つを形成していったと言えるだろう。米英間の通商協定交渉をめぐって1938 年ごろにはイギリスの製造業者は、対米譲歩は「1932 年のオタワ協定で獲得したイギリス市場内での特恵的扱いを減少させるものだ」と強く反対していた。英首相のチェンバレンは、妹あての手紙で、「私が、アメリカ人にわれわれのために戦って欲しいと思ってはいないことは、神に誓って間違いない。もしそうなったら、平時になって高いツケを払わされるからだ」(Cull、 p.36)と書いた。ツケとは帝国の開放である。アメリカの門戸開放の要求をめぐるイギリスの反発は、第1 次大戦から第2 次大戦後のGATT・IMF 体制創設に至る英米間の重要な対立点となった。1939 年に明確な勢力として登場するアメリカの「国際主義的介入主義者」は、「イギリスの対独勝利がアメリカの安全の前提」と考えて英仏への武器供給体制を確立したが、そこにも世界的な規模での門戸開放によるアメリカの世界的なリーダーシップを目指す意思が働いていたと言える。孤立主義者のロバート・M・ラフォレットは、 1939 年中立法反対の主張の中で、「文明に奉仕するには戦争の局外に立つことが必要である。戦争が終われば、アメリカは世界の救済者そして指導者の地位を手に入れることになるだろう」と言ったが、この発言は、「ヨーロッパへの不介入によって戦後に発言権を確保する」構想を示すものである。参戦しないことによってアメリカは戦後の主導権を握れると考えたのである。他方で、 「FDR は、紛争に十分参加して初めて平和について平等な発言権を確保できるだろうと信じていた」(Doenecke、 p.3)のであって、そのような国際主義への転換の意図を最も早い時期に表明したのが1937 年の隔離演説だった。
したがって、「ヨーロッパへの不介入」を主張した孤立主義者も、「ヨーロッパへの介入」を志向したFDR らの国際主義者も、「アメリカの世界的な覇権の確立を目指す」点では、共通の目標に立っていたのである。 
4 章 現代の孤立主義外交の背景
第2 次大戦後にアメリカは国際主義外交へ転換して、国連創立にも指導的な役割を果たしたが、それは、アメリカの力の増大を背景にして可能になったのである。したがって、20 世紀末にアメリカが国際協調を拒否して単独主義へ傾斜していったのは、国際社会におけるアメリカの位置の低下すなわち他国への影響力の低下という事実を背景としていると見なければならない。世界を主導してきた有力国の間でのアメリカの相対的な力の低下は、国際連合安全保障理事会における常任理事国の拒否権行使の歴史的な構造の変化をみると明白である。
表では、3 つの時期に区分してみた。一見して、第1 期でのソ連、第2 期と第3 期でのアメリカの拒否権行使の多さが目に付く。また、3 つの時期がほぼ20 年程度で同じくらいの長さの期間をカバーしていることを考えると、冷戦が終わったあとの第3 期に顕著に拒否権行使の総数が減少していることがわかる。これらの特徴は、何を意味しているのであろうか。
第1 期の「冷戦最盛期」は、第2 次大戦終了から冷戦がきわめて厳しい状況にあった時期で、受任理事会で唯一の社会主義国であるソ連が、他の4 カ国の包囲の中で孤立して、拒否権行使を連発した1946 − 1971 年である。1971 年に台湾に代わって中華人民共和国が常任理事国になったあとの第2 期は「多極世界」の時期である。アメリカがベトナム戦争で事実上敗北して世界的な支配力を弱め、独日の奇跡の経済復興によって米と西欧・日本との貿易摩擦(経済摩擦)が強まって、西側世界の一体性が揺らぎ始めた時期である。この時期は、同時に、自由化を求めて生じたハンガリー事件やプラハの春事件を通してソ連の東欧への支配力が低下し始め、また、1950 年代末に公然化した中ソ対立が国境紛争も含めて戦争の危機にまで高まって、東側世界でも「社会主義共同体」の理念が揺らいで一体性が失われ始めた時期でもあった。その意味で、東西両陣営から成る世界が米ソ二極体制から「多極世界」へ変化した時代でもあった。
1975 年の第1 回先進国首脳会議(ランブイユ)は、1973 年の第1 回オイルショックによっていっそう変調をきたした世界経済システムをアメリカ一国では調整できなくなって、先進諸国との協調のもとで対応してゆこうとするものだった。第2 次大戦後に成立したアメリカの一国覇権体制(パクス・アメリカーナ)は、共同覇権体制(パクス・コンソーシャム)へと変化したのであり、共同覇権は、アメリカの支配力の低下と欧日の発言力の上昇を意味した。その変化は、国連安保理のレベルでのアメリカの発言力の低下につながらざるをえず、アメリカの拒否権行使が突出して多くなった。第3 期は、「ポスト冷戦期」で、冷戦構造が崩壊しソ連が消滅してCIS(ロシア)が生まれたあとの1992 − 2009 年である。第3 期には、それまでと同様にアメリカの拒否権行使の回数がもっとも多いとはいえ、第2 期に比べると減少しており、しかも、5 カ国全体の拒否権行使の回数が大きく減っている。アメリカを除く4 カ国の拒否権行使は、合わせて10 回に過ぎず、英仏はゼロである。常任理事国の間の協調が、つまり大国間の共通利益が高まってきていることをうかがわせる。
21 世紀に入ってからの9 年間の拒否権行使の回数と拒否権行使の案件を、個別にみると、次ページのようになっている。拒否権の行使は、他の国々の支持をえられずに政治的に孤立したことを示すものであり、アメリカの抱える弱点は、イスラエル・パレスティナ問題にあり、中国とロシアの弱点は、途上国の独裁政治と人権の問題だということがわかる。
アメリカが、経済システムに関する「グローバルスタンダード」を主導して、他国の経済政策の一国的運営を許さなくした一方で、京都議定書問題に現れているように、国益重視の「主権の尊重」を強調して単独主義へ走るという、矛盾した外交政策をとらざるをえないのは、上に見たように、アメリカの国際的な位置の低下の自覚からきているといえよう。プラッターが、アメリカは「国家主権の原則の擁護に大きな関心をもち、国連や国際世論の道徳的な優位性に疑問を投げかけてきた」(Platter、 p.84)と指摘したのは、ウィルソン主義的な理想主義外交の手法を維持できなくなったアメリカの世界的な位置の変化、端的にいえばアメリカの政治的な弱さを示唆しているものと考えられる。この意味での弱さを、単独主義外交の背景として把握することが必要である。道義主義的である点でリベラル派と共通するネオコンは、ウィルソン的国際主義ではなくて、単独主義と「レジーム変革論」(民主化によってその国を他国にとって安全な国にする)によって、アメリカの安全と経済的利益を確保しようとしたのである。 
おわりに
第2 次大戦を経て孤立主義から国際主義へ転換したにも関わらず、理念としてのあるいは外交手法としての孤立は現代アメリカ外交に色濃く残存しており、それが「単独主義外交」の形をとってきた。問題は、第2 次大戦後に、冷戦状況のもとでパクスアメリカーナの世界を構築してきたアメリカが、しばしば、多国間協調外交という意味での国際主義外交ではなくて単独主義外交へ傾斜するのはなぜなのか、どういう場合なのかである。一般には、政策決定権を握る者の変化(たとえばネオコンが主導権を握るブッシュ・ジュニア政権への交代)によって説明されてきたが、そこでは、なぜそのような政策決定者の交代が国民によって選択されたのか、が問われなければならない。
ここでは、孤立主義外交の伝統が、歴史的に4 つの背景(条件)によって支えられていたことの内実と意味を、現在の視点からあらためて考えなければならない。
第1 は、「対外的不関与」の必要性である。フランス革命などが生み出した不安定なヨーロッパ情勢がアメリカの国内政治へ波及することを防ぐには、ヨーロッパ問題へ介入しないことが賢明と考えられた。孤立は、「(危険な)ヨーロッパからの孤立」であり、南北のアメリカ大陸に対しては積極的に介入して「アメリカ大陸主義」を主張した。この視点からすると、冷戦終結後のアメリカ国民が世界的な関与に消極的になったとする一般の評価に対して世論調査に基づいて反論したスティーブン・カルが、「政策決定者が考えるほどには、アメリカの大衆は、孤立主義的でもないし、反国連でもないし、国連PKO 反対でもない」(Kull and Destler、 p.1)と述べたときの論理は、「対外的不関与」をもって孤立主義を規定することを前提にしたものであって、一般的な定義には沿っているが、以下に述べる第2 と第3 の視点を欠いている点で、孤立主義外交を検討する枠組みとしては視野が狭い。核戦争の危険を含む東西対立の構造をともなった冷戦が終焉したあとには、対外的な関与がアメリカの安全を損なう危険性が減少した。
その結果、ボスニア、コソボ、アフガン、イラクなどへ積極的に関与してゆくことが可能になったのである。
第2 は、「軍事力の弱さ」である。建国当時にヨーロッパへの不関与が必要だったのは、アメリカ国内でのイギリス派とフランス派の対立というような政治事情があったからだけでなく、ヨーロッパへ介入するだけの軍事力がなく、そもそも、ヨーロッパ諸国からアメリカを守る軍事力にも不安があったからだった。このような軍事的な弱さこそ、孤立を必要とした究極の原因だったと言ってもよい。したがって、アメリカの軍事編成は、海外へ介入しない前提で建設された結果、ヨーロッパの国々に比べると、相対的に海軍力が弱く、自国の防衛に即した陸軍中心の構成になったが、19 世紀末にイギリスに代わって世界第一の経済大国になると、帝国主義へ傾斜し、海軍の増強が重要な政治課題になる。したがって、第2 次大戦後に唯一の超大国として持つことになった「強い軍事力」が「対外的な関与」への志向を可能にし、その志向を強めたのである。
第3 は、「外交的なフリーハンド」とその具体的な形態である「単独主義外交」である。孤立主義の歴史に着目したリーゼルバックは、端的に、「孤立主義とは、広義では、アメリカ政府を諸外国に対する新たな義務を作り出すような約束に縛り付けることに反対する態度を指す」と説明する(Rieselbach、 p.7)。そこから、「軍事同盟を結ばない」とする方針が導かれた。
1947 年のトルーマンドクトリンは、トルコとギリシャへの「軍事援助」を実施することによって、限りなく軍事同盟に近づいた。第1 次大戦と第2 次大戦を例外事例として除くと、アメリカが平時において軍事同盟を結んだ最初の事例が1949 年設立のNATO であり、国連創設とNATO 結成が、アメリカの国際主義外交への転換を象徴するものとなった。国連創設と軍事同盟結成に基づく世界政策の実施が、パクスアメリカーナを可能にしたのだが、国連が発展途上国の台頭や西欧諸国の自立化によってアメリカの意図通りに動かなくなると、アメリカは国連分担金を長い間支払い停止にし、安保理での拒否権行使が急増した。ベトナム戦争以後は反共主義で結ばれた軍事同盟の有効性が薄れて、SEATO・CENTO が解体し、ANZUS も機能停止状態にある。こうした変化を背景に、ポスト冷戦期のアメリカ外交は、それまでにも増して、たとえば東アジアにおいて六カ国協議システムよりも米朝二国間協議システムに偏重してきたことに見られるように、「二国間外交」へ傾斜した。二国間外交においては、アメリカのように強大な経済力と軍事力を有する国家の場合には、一国的な利益が通りやすく、かつ、国際政治の舞台における主導権を握りやすくなる。その意味で、二国間主義外交は単独主義外交の一形態とみなすことが適切であろう。また、ポール・ジョンソンが、孤立主義外交を推進したジョン・クインシー・アダムズ、ヘンリー・クレイら「アメリカ・ファースト主義者」の名前を出して、彼らの外交は1840 年代に「明白なる運命」という言葉に凝縮されたと指摘して、「彼らは孤立主義者というよりも帝国主義者だった」と表現したのは、外交理念の本質を的確に表したものであり(Johnson、 p.161)、単独行動主義が「国益本位」であることは明白である(大島、74 ページ)。
第4 は、アメリカがヨーロッパから地理的に離れているから「アメリカ大陸は安全」だという認識である。20 世紀になって交通手段や通信手段の急速な発達で、兵員を含む人の移動が容易になり地球が狭くなると、どこの国でも自国の安全への懸念が増大するものである。アメリカは、経済的にも軍事的にも世界第一の力をもつようになり、その不安を持たなかったのだが、9・11 事件はアメリカ国民に大きな衝撃を与え、アフガン、イラクへの関与を計画したブッシュ政権を国民が一丸となって支持したのは、そのような「アメリカ本土の安全」が幻想だったと受け止められたからである。
歴史的には、「ヨーロッパからの孤立政策」が「アメリカの小さな軍備」を可能にした、と理解する傾向が強いが、本稿の分析で明らかなように、逆に、アメリカの軍隊に「弱さ」があったことがひとつの原因となって、「ヨーロッパからの孤立」が必要になったと理解しなければならない。現代においては、アメリカは世界で抜きん出た軍事力を誇っているが、国連安保理での頻繁な拒否権行使に見られるように、「政治的な弱さ」がアメリカに多国間協調主義を断念させて、単独主義へ走らせてきた。そのような背景を視野に入れることによって、冷戦終焉によってますますアメリカの世界的な位置が強まったはずの21 世紀において、ブッシュ政権が単独主義外交へ傾斜した理由と淵源について正確な理解が可能になるのである。 
 
アラブ諸国における宗教とナショナリズム / レバノンの宗派主義体制

 

1.アラブ政治研究における宗教とナショナリズム
1-1 中東政治研究の堂々巡り
今から10年以上前のことになるが、米国における中東政治研究の泰斗J・A・ビル(James A. Bill)は、過去50年間の中東政治研究を振り返り、その理論的発展の乏しさを嘆いた。中東政治を専門にしてきた研究者たちは、「中東の権力と権威の関係(Middle Eastern power and authority relations)」というたった1つの現象を、様々な言葉―「リベラル民主主義と西洋化」(1950〜60年代)、「政治発展と政治参加」(1960〜70年代)、「レジティマシーと国家―社会二分法」(1970〜80年代)、「市民社会と民主化」(1990年代)―で表現してきただけであり、その結果、「過去50年間で、私たちは中東の政治システムの核を定義づける権力と権威のプロ
セスについてほとんど学んでこなかった」と結論づけたのである。2)
筆者のような中東政治研究にたずさわる者にとって耳の痛い話であるが、10年以上経った今も、ビルが指摘したような研究状況に大きな変化は訪れていないように思える。1990年代に学界を賑わした「市民社会と民主化」の議論は、2000年代に入ると急速に萎えていった。それは、2001年の9.11同時多発テロ、2003年の「イラク戦争」とその後の内政の混乱、そして、2006年のパレスチナ自治評議会選挙におけるハマースの勝利によって、中東における市民社会や民主化をめぐる楽観的な展望が打ち砕かれたからである。市民社会の形成や民主化の推進が思うように成果を挙げないことから、学界の関心はその裏返しの問いへと集まることなる―「中東における非民主的な政権は、なぜかくも強靱なのか」。いわば先祖返りである。中東政治を理解するための理論的枠組みは未だに洗練される気配がない。上述のビルの議論を2000年代まで延長するならば、今日の中東政治研究における流行として、「権威主義体制」という言葉を加えることができよう。3) 皮肉なことに、一層の混乱を見せつつある中東のなかで相対的に安定しているのはそれらの権威主義体制の国々である。
学問としての中東政治学が伸び悩んできた主因としては、社会科学と地域研究の棲み分け、悪く言えば「断絶」がたびたび指摘されてきた。ビルも、中東政治研究の理論的発展を阻害してきた要因としてこの問題を挙げている。4) この問題については、1990年代の末にM・テスラー(Mark Tessler)らが真正面から取り組む動きを見せた。5) 彼らの意図は、むろん地域研究と社会科学の乖離を指摘し批判することにあるのではなく、その現実を乗り越えるための議論の道を切り開くことにある。彼らは、それぞれが専門とする中東各国の事例研究を通して、地域研究と社会科学の両立、さらには融合が可能であることを示そうと試みた。しかし、上述のように、それもまだまだ道半ばといったところであろうか。 
1-2 「擬制」の定着、それとも解体か?
このように「断絶」が指摘される中東政治研究における社会科学と地域研究ではあるが、興味深いことにこの両者には共通の認識がある。それは、中東諸国とりわけアラブ諸国が「擬制としての国民国家」であるという認識である。このように社会科学と地域研究の両者は、政治研究を進めるにあたり同じスタート地点に立っている。しかし、目指すゴールまでが同じというわけではない。社会科学がその「擬制」をいかにして定着させるか(例えば、民主化や国民形成をめぐる規範的議論)という問題意識が強いのに対し、地域研究はその「擬制」を批判し、それにかわる「地域(固有)の論理」の存在を強調する傾向を有してきた。
この研究スタンスの違いは、国民国家の形成を是とする思想・運動であるナショナリズムに対する立場の違いとしてより先鋭化されることになった。それは、研究対象をいかに捉えるかという学問的な問いを越え、個々の研究者の政治信条―保守かリベラルか、右か左か―を巻き込む厄介な問題となる。その結果、アラブ諸国の政治研究においては国民国家の存在をいかに扱うかという議論の前提が定まらず、もつれた議論は時としてその理論的発展に負の影響を与えてきたのである。
もちろん、アラブ諸国が国民国家として「擬制」であるとする客観的な理由はある。周知の通り、ほとんどのアラブ諸国は両大戦間期に西洋列強によって画定された国境線に沿って誕生した。類似の歴史的過程を歩んできた諸国はアラブだけではない。しかしアラブは、このようなコロニアルな記憶に加え、時として既存の国家の論理と相容れない構造と認識を強く内在させてきた。例えば、国民を越える/超えるマクロなものとして、部族や血縁関係、アラブ性(アラブ人意識)、イスラームといったものが挙げられる。他方、国家をミクロに分割しなおすマイノリティ集団(言語、宗派、人種など)の問題やエスノ・ナショナリズムの存在も見逃せない。
これらのマクロ/ミクロな「脱国民国家的要素」はアラブに以外の地域でも確認できるかもしれない。しかし、そのなかで、特にこの地域において重要な意味を持つのが宗教(とりわけイスラーム)である。 
1-3 宗教をめぐる分析手法と立場の混乱
上述のように、アラブの政治研究において国民国家をいかに捉えるかという問題があるとすれば、それを超克する指向を有する別個の論理である宗教(普遍宗教)をいかに捉えるかという問いは、この問題と表裏一体の関係にあると言える。むしろ、分析対象としての宗教の扱いをめぐる議論は、国民国家のそれよりも複雑で根深い。社会科学、とりわけ古典的な政治学および国際関係学においては、ある政治的事象を説明・理解するときに宗教を「外部化」する傾向があった。すなわち、ウェストファリア体制を暗黙の前提とした政治研究は、政教分離の原則とそこで再定義された「政治(政治的なるもの)」と「宗教(政治的ならざるもの)」をめぐる規範に影響を受け続けてきたのである。6)
他方、地域研究は、中東政治のダイナミズムを説明する際に、「地域(固有)の論理」としての宗教を主語に、あるいは時としてマジックワードのように用いることがあったことも否めない。これは単なるディシプリン上の差異に留まらず、世俗主義の是非、さらには近代主義と伝統主義、民族主義とイスラーム主義といったイデオロギー的な対立構造に絡め取られることさえある。誤解を恐れずに言えば、アラブ政治研究においては、宗教を「非条件(nothing)」とするか、あるいは「十分条件(all)」とするかという分析手法ないしは立場の違いが横たわるのだと言えよう。
筆者は上述のテスラーの提言を支持する者であるが(ただし「言うは易く行うは難し」ではある)、これを上述の宗教の扱いをめぐる問題に引きつけて言うならば、アラブ政治の理解において宗教を「必要条件」として捉えるべきだということになるだろう。特に、9.11事件以降、地域研究のみならず社会科学においても(主に「安全保障上の理由」から)再び宗教を議論の遡上に乗せようと動きは活発化している。7) 
1-4 アラブの特殊例としてのレバノン?
このように、アラブ政治の研究において宗教とナショナリズムの問題は表裏一体にあり、今後一層の理論的整理が必要となるだろう。8) しかし、アラブ政治の現実においてはもう少し話は簡単である。マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の「二聖地の庇護者」を標榜するサウジアラビアを除けば、アラブ諸国は個別独自の世俗的ナショナリズムを涵養し、現行の国家を解体に導くような論理(宗教)が生み出す諸問題については「解決済み」としているからである。すなわち、アラブ諸国は世俗的な「上からの」ナショナリズムを推進し、その国民に対して言語的・文化的な同化を求めてきた。その結果、宗教勢力側、特にイスラーム主義者は反体制派(あるいは「テロリスト」)としての地位が「指定席」となっている。その意味では、宗教とナショナリズムはもはや表裏一体のコインというよりも、2つの別のコインである。
もちろん、我々観察者の側から見れば、こうした「上からの」ナショナリズムについては、上述のような「『擬制』としての国民国家の定着か、もしくは解体か」という現行の体制をめぐる評価の違いこそあれ、ネイション形成において成功を収めていると捉えられることはほとんどない。それは言うまでもなく、国民国家としての存続とパフォーマンス、さらにはナショナリズムと宗教の関係をめぐる「解決」が、「自由」や「民主主義」の犠牲の上に成立しているからである。サッダーム・フサイン(Saddam Husayn)統治下のイラクを思い起こせば、このことは明らかであろう。
本稿で取りあげるレバノンは、政治制度と社会における宗教の位置付けの両面において、ほとんどのアラブ諸国と対照的な存在である。他のアラブ諸国が言語的・文化的な同化を進めてきたのに対し、同国では「宗派主義体制」と呼ばれる、宗教(宗派)を単位とした「多極共存型デモクラシー」が採用された。9) そこでは、言語的・文化的な同化ではなくそれぞれの多様性の護持が目指され、また、社会・国家における宗教の周縁化ではなく国家運営のための宗教の積極的活用が行われてきた。その一方で、レバノンは、他のアラブ諸国が経験しなかったような15年間にもわたる凄惨な内戦を経験している。
これらのレバノンの特殊性を勘案すれば、ここで同国を取りあげることは、アラブ諸国全体を見渡し、一般的な何かを論じるには不適当に見えるかもしれない。しかし、見方を変えれば、レバノンは他のアラブ諸国が「解決済み」としている宗教とナショナリズムの関係に、現在進行形で果敢に取り組んでいると考えることもできる。それだけではなく、むしろ、昨今「民主化」した2つのアラブ諸国、イラクとパレスチナ両国の情勢の泥沼化を見れば、レバノンの事例は今後の中東の安定化および民主化に対して多分に示唆的である。そして、上述のアラブにおける宗教とナショナリズムをめぐる複雑な議論状況に、まさに表裏1枚のコインとして教訓を与えるものだと思われる。
本稿の目的は、レバノンにおいて、独立(1943年)から内戦(1975〜1990年)、そしてポスト内戦期(1991年〜)へと政治環境が変化するにつれて、宗教とナショナリズムの関係がどのように変化したのか検討することである。特にレバノンは宗派主義体制という独自の政治制度を採用したことから、その政治のダイナミズムにおける宗教の位相に焦点を合わせて分析を進めていきたい。そして、この作業を手がかりに、アラブ諸国における宗教とナショナリズムをめぐる構造と、その分析のための枠組みを考察してみたい。
以下では、レバノン政治における宗教の位相を、4つの時期区分(@〜C)にしたがい検討していく。第1節では、@第一共和制期(1943〜1975年)とA内戦期(1975〜1990年)、第2節では、B第二共和制期(1990〜2005年)とC現状と今後の展望(2005年〜)をそれぞれ論じていく。 
2.宗派主義体制の実験
2-1 第一共和制(1943〜1975年):利権集団としての宗教
1943年にフランスの委任統治から独立したレバノンは、地中海の東岸に位置する岐阜県とほぼ同じ面積の国家である。よく知られているように、同国には17の公認宗教・宗派が存在し(1996年には新たにコプトが加えられ、公認宗派は18となった)、それぞれの人口比に基づき国会議席や公職のポストが配分されてきた【表1】。この宗派主義体制においては、社会を構成する基本単位はこれらの公認宗派の集団であり、宗派および地域性を軸にして「国家のパイ」からの利権誘導が行われた。それを担ってきたのがザイーム(Za‘im)と呼ばれる名望家である。ザイームたちは、宗派別に棲み分けがなされてきたレバノンにおいて、それぞれの土地のいわば名士として世襲を繰り返し、ザラメ(Zalame、レバノン・シリア方言のアラビア語で「子飼い」の意)と呼ばれる支持者と互助関係を結んできた(パトロン=クライエント関係)。10)
しかし、それぞれの宗派集団に割り当てられた権力の「上限」が定められたレバノンの宗派主義体制においては、特定の集団が単独でマジョリティを形成することはできない。そのため、名望家や有力政治家同士が内閣や国民議会において同盟や協調を進めることで、その「上限」以上の権力を分け合おうとする。筆者はこれを「連携ポリティクス」と呼んでいる。このパトロン=クライエント関係(垂直関係)と連携ポリティクス(水平関係)を、それぞれレバノン政治を織りなす縦糸と横糸と捉えることができよう【図1】。11)
この宗派主義体制においては、宗教(宗派)は、国境や地域の違いによって意味が左右されない普遍的な信仰ではなく、レバノン国家の枠組みの内側に封じ込められた「利権集団」あるいは「エスニック集団」としての性格を帯びるものとなった。そこでは、西洋教育を受け、世俗的な思考を持った人でさえ、いずれかの宗教への帰属という社会的ステータスから逃れることはできない。このように宗教を私的領域に限定することができない一方で、信仰の実践を公的領域(政治)に反映させる回路が不在であるという屈折した状況が現れる。つまり、「宗派集団」が社会の基本構成単位となっているという観点から見れば、レバノン政治において「宗教」は重要なファクターであるが、その「宗教」はあくまでも社会的ステータスであるために、実践レベルではレバノン政治は信仰や教義、宗教的な世界観は希薄なのである。
宗派主義体制において、人びとは、自分が所属する宗派の名望家に働きかけ、特に選挙戦においては組織的に行動することで「国家のパイ」の取り分をより多く確保しようした。しかし実際にその取り分の多寡を決定づけたのは名望家同士の合従連衡であり、クライエントたちが行使できる影響力は限られていた。つまり、議会制民主主義を採用する近代国家として1943年に独立したレバノンで展開されていたのは、前近代的な名望家政治であったのである。例えば、1951年の国民議会(定数99)において、政党出身者は10名(12.98パーセント)にとどまっていた。12) しかしながら、「ザイームのサロン」と揶揄された国民議会も、利権配分の調整機能としてレバノン国家に一定の安定を与えてきたとの評価もされた。13) A・レイプハルト(Arendt Lijphart)は、この時期のレバノン政治を多極共存型デモクラシーの好例として評価したが、その一方で、「立法部がどちらかといえば有効ではなかったから、より重要な争点は内閣に移されて決定され、内閣は、比例した構成内容とその審議を秘密裏に行う」と指摘しているのが興味深い。14)つまり、議会制民主主義の体裁を保ちながらも、利権集団化した各宗派の名望家たちが「国家のパイ」の分け前を合議により定めていたというのが実情であった。 
2-2 レバノン内戦(1975〜1990年):イデオロギーとしての宗教
1975年4月のレバノン内戦の開始は、それまでレバノン国家の政治的統合と安定を支えてきた名望家たちの連携ポリティクスの破綻を意味した。内戦は、国家利権獲得のための合法的チャンネルのみならず、「国家のパイ」そのものの解体を推し進めた。議会制民主主義の停止(実際には議会が自らの任期を繰り返し延長するという異常な事態が続いた)と行政および司法機能の麻痺は、国家の利権誘導を担っていたザイームの地位を切り崩すこととなり、クライエンティリズムに基づいた上からの動員は機能不全に陥った。15)
その一方、武力によって自らの政治的要求や野望を実現しようとする内戦下の状況においては、さまざまな民兵組織が結成されていった。これらの組織は、クライエンティリズムや既得権益の擁護に依存しない、高いイデオロギー性を備えた「下からの」動員によって勢力を拡大した【図2】。その代表例として挙げられるのが、イスラーム・シーア派民兵組織ヒズブッラー(Hizb Allah、アラビア語で「神の党」の意、1980年代初頭結成)、同アマル運動(Haraka al-Amal、1970年代末に「奪われた者たちの運動(Haraka al-Mustad‘afin)」の軍事部門として設立)、キリスト教マロン派民兵組織レバノン軍団(al-Quwat al-Lubnaniya、1976年にレバノン・カターイブ党の軍事部門として設立)であろう。
特に、1980年代初頭のヒズブッラーの登場は、内戦期における民兵組織を中心としたイデオロギー的動員の拡大のなかで、宗教が大きな意味を持ち始めたことを示唆するものであった。
内戦期のレバノンにおいてイスラーム主義、すなわちイスラーム国家の樹立を目指すイデオロギーが影響力を持ち始めた背景には、内戦前期(70年代後半〜80年代初頭)の中心的アクターであった「レバノン国民運動(al-Haraka al-Wataniya al-Lubnaniya)」16)に代表される世俗主義勢力の凋落がある。この時期には、エジプト=イスラエルの単独平和条約調印(1979年)が象徴するように、社会主義やアラブ民族主義がレバノンの政治体制の変革はもとより、パレスチナ問題を中心とする中東の諸問題を解決するための思想的武器になりえないことが明らかになっていたのである。それを決定づけたのが、1982年から85年にかけての「レバノン戦争」(イスラエル軍のレバノン侵攻)であった。レバノンに侵攻するイスラエル軍に対して、レバノン国民運動と当時同国を拠点にしていたパレスチナ解放機構(PLO)の合同軍は無惨な敗北を喫した。内戦と他国の侵略によって国家解体の危機に瀕したレバノンにおいて、それまでの民族主義および社会主義の諸派は無力さを露呈させ、その結果オルタナティヴとしての宗教復興を掲げる新たな改革派の勢力が勃興したのである。
レバノン内戦は15年間の長きにおよんだ。戦闘の長期化の背景には、絶え間ない武器の流入や米国やイスラエル、シリア、パレスチナ人といった国際的アクターの介入など様々な要素が挙げられよう。しかし、ここで注目しておきたいのは、上述のイデオロギー的動員の拡大が、内戦終結のシナリオを多様化させると同時に、政治勢力のあいだの非妥協的な姿勢を生んでいったという点である。つまり、内戦以前のレバノン国家を共通項とする利権集団としての宗派ではなく、「レバノン」とは何かを問い直す世界観としての宗派が台頭することにより、独善的な理念や理想どうしの果てしない衝突が生み出されたのである。17) しかも、内戦中に活躍した民兵組織のほとんどが、国民国家としてのレバノンの枠組みをアプリオリな存在として捉えていなかった【表2】。その結果「レバノン」は、山岳部に限定された小さなキリスト教国家とされたり、あるいは世界大のイスラーム共同体(ウンマ)の一部と位置づけられるなど、ミクロとマクロの双方への解体のベクトルに引き裂かれることになった。
内戦中に勃興した民兵組織の指導者たちは、戦況を左右する力を有した「内戦エリート」として、レバノン内外における政治的影響力を強めていった。18) 前述のアマル運動の指導者ナビーフ・ビッリー(Nabih Birri)やレバノン軍団のサミール・ジャアジャア(Samir Ja‘Ja‘)などは、政府の重要ポストを得ることによって内戦中に発言力を高めることになったが、彼らはいわゆる伝統的名望家の出身ではなく、近代的な高等教育を受けたテクノクラートや軍人の類に含まれる。彼らの社会的上昇の一方で、第一共和制で権勢をふるってきた名望家たちは没落していった。このように、内戦の勃発は「下からの」動員の拡大と組織の近代化を後押しすることになった。つまり、内戦による民主主義の停止が大衆政治の深化を推進するという皮肉を生んだのである。 
3.宗教の退場、宗教の再登場?
3-1 第二共和制(1990〜2005年):「アドホックなネイション」に隠蔽される宗教
1990年に内戦は終結し、レバノンは第二共和制の時代へと入った。しかし、内戦の終結と民主政治の回復は、15年間にわたった戦闘を通して宗派主義体制が抱える多文化主義のアポリアが解消されたからではなく、外部から次の2つの力が働いたためである。
第1の力は、アラブ諸国のイニシアティヴによる「国民和解憲章(al-Wathiqa al-Wifaq al-Watani al-Lubnani)」(1989年10月22日)の発効である。19) 同憲章は、1976年選出のレバノンの国民議会議員がサウジアラビアのターイフで合意・署名したことから、通称「ターイフ合意」と呼ばれる。ターイフ合意では、まず、当時の人口実態に従い宗派間の権力バランスを矯正することが定められた。具体的には、キリスト教徒とイスラーム教徒の公的ポスト配分が6対5から5対5に是正された【表1】。そして、ターイフ合意の理念に沿って修正された憲法(1990年9月21日修正)において、内戦の原因となった宗派主義体制の廃絶を進めていくことが明記された。20) しかし、これは「体制内変化であり、体制〔そのもの〕の変化ではない」21)と評されるように、現実の政治においては第一共和制と同じ縦糸・横糸構造が踏襲されている。
つまり、第二共和制は、いわば内戦再発の火種を抱えたままの体制であったのである。
にもかかわらず、第二共和制がなんとか船出することができたのは、第2の力、すなわち隣国シリアによるヘゲモニーの確立に依拠するところが大きい。シリアは、レバノン・シリア同胞協力協調条約(1991年5月22日締結)をはじめとする一連の条約・合意を通して、レバノンを「準植民地/準入植地(quasi-colony)」に変えていった。22) シリアは、レバノンの国民議会選挙、大統領選挙、首相人事などに発言力を行使し、さらに選挙法の改正(ゲリマンダリングや立候補者の事前選別)等を通して、「親シリア的」な政府を構築・運営していった。また、兵士約4万人とムハーバラート(mukhabarat、諜報機関、治安維持警察、武装治安組織の総称)の駐留を既成事実化した。そのうえで、防衛安全保障合意(1991年9月1日締結)に依拠してレバノンの政治生活、社会生活を監視・統括し、実効支配に対する不満を抑えていった。
23)このように第二共和制においては、シリアの圧倒的な力による実効支配の下―いわゆる「パクス・シリアーナ(pax syriana)」の下―、再び宗派主義による国家運営が行われたのである。
こうして第一共和制の構造をそのまま踏襲した第二共和制であったが、しかしながら、構造的変化を見て取ることもできた。すなわち、そこで政治的影響力を高めたのはかつてのような名望家ではなく、内戦中にイデオロギー的動員を駆使して勢力を拡大した民兵組織であった。
それらの多くは、内戦終結後に合法政党へと転じ、議会や内閣にメンバーを送り込んでいった。
民兵組織の指導者である内戦エリートは、強力な支持基盤を武器に政府の要職に就くようになった。24) 特に強さを見せた二大政党が、ヒズブッラーと、故ラフィーク・ハリーリー(Rafiq al-Hariri)元首相(2005年2月暗殺)が率いた「ムスタクバル潮流(Tayyar al-Mustaqbal)」であった。
しかし、このことからレバノン政治が名望家政治から近代的な政党政治へ移行したと結論することはできない。こうした政党化した民兵組織は、「下からの」イデオロギー的動員を展開すると同時に、宗派と地域性に立脚したクライエンティリズムを築いていったためである。25)
内戦後初めて行われた1992年の国民議会選挙では、政党出身の当選者は28.9パーセントにとどまった。26) このようにレバノンでは、イデオロギー的動員を行う政党すら宗派制度の枠組みに絡め取られる傾向がある。どんなにリベラルな指導者でも、自分が属する制度化された宗派からは逃れられず、またそこからの支持なしでは政治家になることすらできない。つまり、イデオロギー的動員には、所属宗派を最優先に扱うことと他宗派に支持者を獲得することのあいだに根源的なジレンマがつきまとうである。
したがって、イデオロギー的動員の際には、自分が属する宗派の信仰に沿ったイデオロギーと矛盾しないかたちで他宗派へのアピール要素が必要となる。その最も効果的(かつ安易)なレトリックがナショナリズムであろう。第二共和制においては、あらゆる政治勢力が国民国家としての「レバノン」を唱道した。上述の二大政党について言えば、ヒズブッラーは独自のイスラエル占領軍に対する武装解放闘争を行い、国軍に代わる国家主権と安全保障の守護者として自己を規定し直した。27) 他方、ムスタクバル潮流は、豊富な資金力とグローバルなビジネスネットワークを駆使し、内戦後の国土復興と国民救済を訴え、また、支えてきたのである。
このように、ほとんどすべての政治勢力が、世界観闘争を駆動するのではなく、「レバノン」を共通項に交渉による現実的な政治姿勢を打ち出すようになった。それと並行するかたちで、既存の国家の枠組みを解体する志向を有したイデオロギーを通して動員を行ってきた政治勢力でさえ、宗教的なレトリックを前面/全面に押し出すことを控えるようになったのである。
しかし、このことから、宗教が社会の周縁に移動し世俗化が進み、その結果、レバノンの分節化社会に国民統合の兆しが見え始めているのだと結論づけることもできない。なぜならば、「レバノン」の称揚は、国民意識高揚の発露というよりも、レバノンという政争の場を勝ち抜くためのレトリックとしての性格が強いからである。この第二共和制における「レバノン」の「つかみどころのなさ」については、研究者のあいだでも見解が分かれている。H・ズィアーデ(Hanna Ziadeh)は、それを「ネイションの勃興、ステイトの衰退(the rise of nation、the decline of state)」と表現し、ナショナルな感情が諸政治勢力のあいだに共有されるようになった一方で、シリアに代表される国外勢力の干渉・介入により「主権が制限されている」ことから、統治機構として見た場合のステイトは後退していると論じている。28) 反対に、T・ハンフ(Theodor Hanf)は、2002年の国内での聞き取り調査に基づき、宗派意識が先鋭化する一方で、ナショナルな意識が未成熟であることを指摘している(これをハンフは「懐疑的なネイション(sceptical nation)」と表現している)。29)
もちろん、このような手段としてのネイション称揚が不健全なナショナリズムであると断じることはできない。レバノンに限らず、どこの国家においてもナショナリストが必ずしもそれ自体を目的としてネイション称揚をしているとは限らないからである。しかし、ここではネイションやナショナリズムをめぐる規範的議論からは距離を置いて、レバノン政治の現実を見てみよう。すると、「アドホックなネイション」は依然そのままであり、国民統合のシナリオを楽観視することができないことがわかる。それは、次の2つの事実から浮き彫りにされる。
第1に、2005年4月のシリア軍のレバノンからの完全撤退は、「パクス・シリアーナ」の終焉を告げると同時に、レバノンの「真の」戦後と民主化の起点となるはずであった。しかし、いざ蓋を開けてみると、「レバノン自身によるレバノン国家建設」の好機が訪れたにもかかわらず、政治勢力間の非妥協的な姿勢により大統領も国民議会、内閣も機能不全に陥り、国政は麻痺状態が続いている。さらに、2006年12月には、野党勢力が倒閣デモやゼネストといった利権拡大のための実力行使を開始し、政争の場は政府から街頭へと移っていた。その結果、政治勢力間の対立は市民レベルへも飛び火し、支持者同士の衝突や暴動、爆弾テロ、誘拐殺人事件などレバノン全土の治安の悪化が進んだのである。
第2に、主要な政治勢力が、レバノン国家にとっての利害を顧みず、政争を勝ち抜くために米国、フランス、国連、シリア、イランなどの国外アクターを立て続けに招き入れ、それぞれが一種の同盟関係を築いていった。特に、9.11事件以降の世界規模での「テロとの戦い」と「イスラームの戦い」の図式は、レバノンの対与党勢力(ムスタクバル潮流を中心とした「3月14日勢力」)と野党勢力(ヒズブッラーを中心とした「3月8日勢力」)の対立を再生産することに荷担している。「テロとの戦い」を掲げる米国は、「国際テロ支援国家」であるシリアとイランが支持する「A級(A-Team)」の「テロリスト」、ヒズブッラーのレバノンでの勢力拡大を牽制することに力を注いだ。他方、反米を国是とするイランとシリアは、ヒズブッラーという代理を通して反米闘争を実践しようとするのである【図3】。アクターの増加は、与野党間の対立を複雑化し、より非妥協的な環境を生み出すことになった。
米国、英国、フランス、エジプト、サウジアラビア、国連などこのような国外アクターの「招き入れ」戦略の究極的な形態が、ヒズブッラーによる対イスラエル・レジスタンスであろう。ヒズブッラーは、レバノン内戦終結時、唯一武装解除を免除された民兵組織であったが、それは1978年以来イスラエルの占領下にあった南部地域を解放するレジスタンスとしての法的地位が与えられたからであった。2006年夏のイスラエルとの全面戦争(「レバノン紛争」)では、ヒズブッラーは、停戦発効までの34日間、イスラエル軍による陸海空からの攻撃に耐え抜き、国内外における人気を高めることになった。30) しかし、この戦争はヒズブッラー自身の先制攻撃によって招かれたものであり、その意味では彼らはレバノンに築かれた瓦礫と死者の山と引き替えに政治的な勝利を獲得したことになる。レバノン紛争におけるヒズブッラーには、「レバノン国家のためのレジスタンス」という本来の役割ではなく、「レジスタンスのためのレバノン国家」とする戦略の逆転が見られたのである。
内戦の終結により、レバノンは破綻国家の奈落から脱し、既存の国民国家の枠組みを前提に復興への道を歩むはずであった。しかし、そこで称揚されてきた「レバノン」は、この枠組みの内で展開される政争を勝ち抜くための手段としての性格を帯び続けてきた。様々な政治勢力が掲げる「レバノン」は、宗派を主たる単位とする利権拡大の野望を覆い隠すものであると言えよう。レバノンではエスノ・ナショナリズムはおろか、シビック・ナショナリズムの拡大・浸透も明確に確認することはできないのである。 
3-2 第二共和制の崩壊?(2005年〜):偏狭な世界観としての宗教(の兆し?)
非妥協的な姿勢を崩さない政治勢力間のいわばマフィア的抗争によって、今日のレバノンの国家機能は麻痺している。国内の有力者14名(国会議員や政治家とは限らない)からなる超法規的機関「国民対話会合」の結成とその失敗(2006年3月)、野党系議員のボイコットによる国民議会の停止、野党系閣僚4名の辞任による内閣の瓦解(同年11月)、そして、大統領ポストの空席(2007年11月〜2008年5月)と、レバノンは国家としての意思決定ができない状況が続いた。しかし、見方を変えれば、こうした政治勢力間の「つばぜり合い」の継続がレバノン政治に一定の安定をもたらしている、あるいは少なくとも内戦の再発を防止していると捉えることもできるかもしれない。今日のレバノンでは、国境で囲まれた政体の存立原理として単一の名称「レバノン」が有されながらも、それが認識レベルでは複数形で存在し、また、政府が暴力装置を護持しながらも、独占できているわけではない。にもかかわらず、レバノンは一定の安定を見せている事実を鑑みれば、近代の象徴である「国民(ネイション)」と「国家(ステイト)」の両方の観点から、「ポストモダン国家」と呼べるような可能性を有しているようにさえ思われる。
しかし、筆者の現地調査を通して得られた知見として、国内での政争を勝ち抜くための「アドホックなネイション」に隠蔽されてきた宗派というものが、近年かたちを変えて再び存在感を増しつつあることを指摘しておきたい。2005年頃から、国内での政争の膠着状態が長引くにつれ政敵を攻撃するために宗教的レトリックが用いられることが散見されるようになっている。前述のように、レバノンでは全土で「レバノン」が称揚されていても、利害をめぐる対立や政局は宗派制度に絡め取られる傾向がある。そのため、本質的に政治的あるいは世俗的(現世的)な対立であっても、常に宗教を軸とした世界観闘争が駆動される可能性を孕むことになる。今日のレバノンでは、政治勢力間の対立の要因が、政策や利権争いではなく、宗教の違いという根源的かつ静態的な問題から説明されることがしばしば見られるようになっている。あるいは、こうした本質主義的な議論が大きな支持を集めていないとしても、国内で起こった暴力事件をわざわざ宗派対立ではないと論じる傾向が強くなっていることは明確に看取できる。
近年のレバノン政治においては、再び宗派や宗教というものが意識されるようになってきている。
E・サイード(Edward W. Said)によるオリエンタリズム批判を取り上げるまでもないが、上述のような「宗教が暴力の原因である」とする古色蒼然とした説明体系は、政治対立の当事者だけではなく研究者のあいだで、近年あたかも新奇なものとして台頭している。その背景を理解するためには、少し視野を広げる必要があるだろう。それは、9.11事件からイラク戦争にかけてのここ数年の国際情勢である。スンナ派イスラーム教徒を中心とするアル=カーイダ(al-Qa’ida)およびその分派とシンパは、戦後のイラクにおける政治的対立が宗派的な極性化を見せ、暴力の応酬が続くにつれて、その矛先を当初の「外部の敵」である米国から「内部の敵」であるシーア派へと移していった。31) すなわち、戦後「民主化」したイラクにシーア派主導の政権が誕生すると、彼らは米国という「外部の敵」を利用してイラクを強奪した裏切り者としてシーア派を非難するようになったのである。さらに、アル=カーイダの言説は、主にインターネットを通して独自のイスラーム解釈に基づきシーア派を「カーフィル(kafir、背教者)」として断定し、近代以降のイスラーム世界の没落の原因を彼らの本質的な悪徳に見出すなどして歴史観をも改編していった。
一方、イラクの一部のシーア派民兵組織は、フサイン政権下におけるシーア派住民への弾圧に対する「報復」として、スンナ派住民に繰り返し暴力を行使した。その象徴と言えるのが、2006年末に執行されたフサインの死刑であろう。この際、放映された映像は、シーア派によるスンナ派に対する「公開私刑(public lynch)」と呼べるような様相を呈するものであった。32)このような憎悪に満ちた宗教的言説やイメージはCNNやBBCといったグローバルなマスメディアやインターネットを経由し、レバノンへも流入している。また、イラクで激化した宗派間の暴力の連鎖がこうした言説に共感力と説得力を付与し続けている。フサインの死刑執行の際、レバノンではイラクの宗派対立が飛び火することがまことしやかに語られ、実際にヒズブッラー系の衛星テレビ局「アル=マナール(al-Manar)」がこの「処刑」を評価するような報道姿勢を見せ、これに対してスンナ派知識人などが強い非難を浴びせる事態が生まれた。33)国内政治対立の膠着状態から生まれた世俗的な憎悪は、中東域内の気運と化学反応を起こし、宗教的な対立感情へと変化する様相を見せている。
このような偏狭な世界観としての宗教の再登場がレバノンでどれほど拡大・深化しているのか(していないのか)については、今後一層の調査が必要であろう。しかしここでは、世界観闘争を発展させる可能性を孕むものとして、歴史観をめぐる問題について触れておきたい。今日のレバノンでは、現在進行形で異なる2つの現代史が紡ぎ出されている。現政権および与党支持者は、シリアによる実効支配終焉の年として、2005年を「レバノン国民のメモリアル」として強調し、大々的に宣伝してきた。一方、ヒズブッラーおよびその支持者たちは、「レバノン紛争」が起こった2006年をイスラエル軍を撃退した国民的・英雄的な年として位置づけている。34) いずれも国民意識を高揚させるレバノン・ナショナリズムの様相を呈しているものの、実際にはこの2つの見方が同時に1人の国民に共有されるケースは希である。レバノンにとって2005年と2006年のいずれを重んじるかという歴史認識の違いは、野党/与党、宗派の違い、親シリア/反シリアのあいだに横たわる現在進行形の政治的亀裂を深め、宗教を軸とした歴史観や世界観の断絶を助長している。これは、イスラエル軍の南部レバノンからの無条件撤退が行われた2000年が、国民的な記念の年となっているのとは対照的である。 
4.むすびにかえて
宗派主義体制を採用し、宗教的多様性のなかでの統合を目指したレバノンでは、宗教は利権集団として制度化された。しかし、利権集団間の調整機能が麻痺し内戦が勃発すると、宗教は普遍性を前面に押し出され、イデオロギー的動員の主柱となった。内戦の長期化は、レバノンにおけるエスノ・ナショナリズムの不可能性を浮き彫りにしたと言えよう。
内戦の終結は、一見するとこうしたイデオロギー闘争が収束し、リベラルで世俗的な国家建設が進むことを期待させるものであった。レバノンは、シビック・ナショナリズムの形成へと歩み出したように見えた。しかし、実際には政争を勝ち抜くための「レバノン」が押し出されるなかで(「アドホックなネイション」称揚)、宗教は利権集団としてもイデオロギーとしてもその影で隠蔽されるかたちで存続した。
ところが、政争が長期化し、また、9.11事件とイラク情勢に象徴される宗教をめぐる国際的・地域的な混乱が続くなかで、レバノンにおいて宗教は再び暴力的な世界観闘争を駆動する装置としてその首を擡げてきたように思われる。レバノン政治の混乱は、まだまだ続いている。
このように、宗教が紛争の主因とまではならずとも、政治的暴力を正当化するものへと(再び)転位しているのだとするならば、宗教自体を論じることでレバノンにおける政治や社会現象を説明できるかのようにも見えるかもしれない。冒頭で述べた、アラブ政治を理解するために宗教をどのような「条件」にするかという議論に引きつけるならば、政治の理解において宗教を「十分条件」とする誘惑に囚われるかもしれない。実際に、2001年の9.11事件後にはこうした古くて新しい論調が台頭しており、「ネオ・オリエンタリズム」として批判的に呼ばれることもある。35)もちろん、クルアーンや聖書に書かれた文言や、そこから派生した伝統的な宗教思想の分析は、宗教が密接に関係するアラブ政治についての情報とそれを捉えるための視座を提示するものであろう。しかし、それは「必要条件」であっても「十分条件」ではない。なぜならば、アラブ政治における「宗教」は、それを信奉する当事者にとっては時代を超えた「宗教」であるかもしれないが、実際には西洋近代との邂逅のなかで再構成されてきたものだからである。
「レバノン」という国民国家の誕生、宗派主義体制の採用、15年間にも渡った内戦、「アドホックなネイション」の出現、そして、国際政治および地域政治との連動のなかで、レバノンにおける宗教は転位を繰り返し、再構成されていった。政治のダイナミズム―政治制度の変容、ナショナリズムの動静、国際政治との関係など―のなかで変位を繰り返す「宗教」の位相を把握し、翻って、それが現実の政治にどのように作用していくのか分析する。この往還作業を続けていくことが、アラブ、広くは中東政治研究における社会科学と地域研究のアポリアを克服するために必要ではないだろうか。 

1) 本稿は、国際政治学会2007年度研究大会の部会「民族紛争における宗教の位相」(2007年10月27日)での報告ペーパーを加筆・修正したものである。同部会にて有益なコメントとご助言を賜った諸氏にこの場を借りてお礼申し上げたい。
2) James A. Bill、 “The Study of Middle East Politics、 1946-1996: A Stocktaking、” The Middle East Journal、 Vol. 50、 No.4、 1996、 p. 502. James A. BillはRobert Springborgとともに、定評ある中東政治研究の教科書を執筆している。James A. Bill and Robert Springborg、 Politics in the Middle East、 5th ed. (London: Longman、 2000).
3) 近年、中東における権威主義体制に注目した研究が次々に出されている。例えば、Marsha Pripstein Posusney and Michele Penner Augrist (eds.)、 Authoritarianism in the Middle East: Regimes and Resistance (Boulder: Lynne Rienner、 2005) ; Nicola Pratt、 Democracy and Authoritarianism in the Arab World. Boulder、 London: Lynne Rienner、 2007; Olivier Schlumberger (ed.)、 Debating Arab Authoritarianism: Dynamics and Durability in Nondemocratic Regimes (Stanford: Stanford University Press. 2007) が挙げられる。
4) ビルは、実際には、中東政治研究の課題として(1)中東の政治過程の複雑さ、(2)中東政治の独自性を強調する研究傾向、(3)研究技術と分析ツールの欠如、(4)フィールドワーク型(「オリエンタリスト」型)と理論型(社会科学型)の対立、(5)広い視野を有する先駆的研究者の欠如、(6)一国に特化した研究の蔓延、(7)コメンテーター等のにわか専門家の蔓延という7つを挙げているが、これらには社会科学と地域研究の乖離という同じ問題意識を見て取ることができよう。Bill、 “The Study of Middle East Politics、” pp. 502-503.
5) Mark Tessler、 Jodi Nachtwey and Anne Banda (eds.)、 Area Studies and Social Science: Strategies for Understanding Middle East Politics (Bloomington: Indiana University Press、 1999).
6) 末近浩太「グローバリゼーションと国際政治(2):『イスラーム』の『外部性』をめぐって」大久保史郎編『グローバリゼーションと人間の安全保障』(講座・人間の安全保障と国際犯罪組織 第1巻)(日本評論社、 2007年).
7) ただし、宗教をめぐる議論は混迷を深め、問題は一層深刻になっているとも言える。事象を説明するためのマジックワードとしての宗教は、地域研究よりもむしろ社会科学に見られるようになってきており、宗教を紛争や暴力といった政治問題の原因として位置づける静態的な議論が台頭していることには留意すべきであろう。M・マムダーニ(Mahmood Mamdani)は、9.11事件をきっかけに台頭してきたテロとイスラームを安易に結びつける本質主義的議論の危険性を指摘している。マフムード・マムダーニ(越知道雄訳)『アメリカン・ジハード:連鎖するテロのルーツ』(岩波書店、 2005年)第1章を参照。
8) 中東におけるナショナリズムと宗教との関係について、近年新たな研究が出てきている。日本においては、酒井啓子『民族主義とイスラーム:宗教とナショナリズムの相克と調和』(アジア経済研究所、2001年)や酒井啓子・臼杵陽編『イスラーム地域の国家とナショナリズム』(イスラーム地域研究叢書第2巻)(東京大学出版会、 2003年)が挙げられる。
9) この制度はアラビア語では通常、「宗派(的)体制(al-nizam al-ta’ifi)」、「宗派(的)支配(alhukm al-ta’ifi)」と呼ばれる。しかし、それは政治学における政治体制の範疇に含まれるべきものではなく、政治制度の一種と捉えるべきであろう。これを踏まえた上で、本稿では「宗派主義体制」と呼ぶことにする。
10) 黒木英充「近現代レバノン社会におけるパトロン・クライエント関係」長沢栄治編『東アラブ社会変容の構図』(アジア経済研究所、 1990年)pp. 299-335.
11) 末近浩太「現代レバノンの宗派制度体制とイスラーム政党:ヒズブッラーの闘争と国会選挙」日本比較政治学会編『現代の宗教と政党:比較のなかのイスラーム』(早稲田大学出版会、 2002年)pp. 183-185.
12) Frank Tachau (ed.)、 Political Parties of the Middle East and North Africa (Westport: Greewood Press、 1994) p. 301.
13) David C. Gordon、 The Republic of Lebanon: Nation in Jeopardy (London: Croom Helm、 1983) pp. 77-102.
14) アーレンド・レイプハルト(内山秀夫訳)『多元社会のデモクラシー』(三一書房、 1979年)p. 190.
15) A. Nizar Hamzeh、 “Clientalism、 Lebanon: Roots and Trends、” Middle Eastern Studies、 Vol. 37、No. 3、 2001、 p. 174.
16)「レバノン国民運動」は、進歩的社会主義党、バアス党、レバノン共産党、独立ナセル主義者運動などから構成され、アラブ民族主義や世俗主義・社会主義路線での体制変革を求めた。宗派制度のなかで特権的地位を保証されてきたマロン派系民兵組織連合レバノン軍団とのあいだで、激しい戦闘を繰り返した。
17) 小杉泰は、戦闘の局面の推移や宗派に基づく世界観の違いによって、「レバノン」をどのような国家にするのかという国家観が分極化していく様子を描き出し、そのパターンの提示を試みている。小杉泰「中東におけるミッラ的政治意識とレバノン国家の解体」『国際大学中東研究所紀要』第3号、 1987-1988年、 pp. 315-358.
18) Georges Corm、 “The War System: Militia Hegemony and Reestablishment of the State、” in Deirdre Collings、 Peace for Lebanon?: From War to Reconstruction(Boulder: Lynne Rienner、 1994)pp. 215-230.
19) “Wathiqa al-Wifaq al-Watani al-Lubnani: Allati Aqarra-ha al-Liqa’ al-Niyabi fi Madina al-Ta’if bi-al-Mamlaka al-‘Arabiya al-Sa‘udiya bi-Tarikh 22/10/1989m、” 1989.
20) レバノン憲法の原文、邦訳、解説については『中東基礎資料調査:主要中東諸国の憲法(下)』(日本国際問題研究所、2001年)を参照。
21) Rola el-Husseini、 “Lebanon: Building Political Dynasties、” in Volker Perthes (ed.)、 Arab Elites: Negotiating the Politics of Change (Boulder: Lynne Rienner、 2004) p. 241.
22) Robert G. Rabil、 “The Maronites and Syrian Withdrawal: From “Isolationists” to “Traitors”?”Middle East Policy、 Vol. 3、 No. 3、 2001、 pp. 23-43.
23) シリアによるレバノンにおける治安維持活動では、シリア軍とムハーバラートに加えて、レバノンの各治安組織(総合情報総局、内務治安軍総局、共和国護衛旅団、軍情報局、国家治安総局)もその役割を担っていた。なお、1993年から1994年にかけて締結された社会経済協力合意、農業協力合意、保健合意、個人および物資の移動に関する合意(以上1993年締結)、アースィー川合意、労働合意、文化合意、観光合意、共通市場の確立に関する合意(以上1994年締結)を通して、シリアはレバノン政治への発言力を強めていった。このうち労働合意は、内戦後の復興事業で安価な労働力を必要としていたレバノンの労働市場へのシリア人労働者の流入を促し、1995年7月24日付『アン=ナハール』(レバノン日刊紙)はその数が1990年代半ばには100万人を突破したと報じた(al-Nahar、 July 24、1995)。さらにこの動きと並行して、1994年にレバノンで帰化条例が発せられると、約30万人に及ぶシリア人がレバノン国籍を取得した。Rabil、 “The Maronites and Syrian Withdrawal、” pp. 23-43;Gary C. Gambill and Elie Abou Aoun、 “Special Report: How Syria Orchestrates Lebanon’s Elections、 ” MEIB、 Vol. 2、 No. 7.
24) アマル運動のナビーフ・ビッリー代表は、シーア派に割り当てられた国会議長職のポストにまで上り詰め、またレバノン軍団のサミール・ジャアジャアは、1994年5月に教会爆破事件の容疑で逮捕されるまでマロン派を代表する政治家の1人であった。
25) Judith Palmer Harik、 “Between Islam and the System: Sources and Implications of Popular Support for Lebanon’s Hizballah、” Journal of Conflict Resolution、 Vol. 40、 No. 1、 1996、 p. 51;Hamzeh、 “Clientalism、 Lebanon、” pp. 174-175.
26) Farid al-Khazin、 al-Ahzab al-Siyasiya fi Lubnan: Hudud al-Dimuqratiya fi al-Tajriba al-Hizbiya (Beirut: al-Markaz al-Lubnani li-l-Dirasat、 2002) p. 79.
27) Suechika Kota、 “Rethinking Hizballah in Postwar Lebanon: Transformation of an Islamic Organisation、”『日本中東学会年報』第15号、 2000年、 p. 294-297.
28) Hanna Ziadeh、 Sectarianism and Intercommunal Nation-Building in Lebanon (London: Hurst、2006) pp. 158-159.
29) Theodor Hanf、 “The Sceptical Nation: Opinions and Attitudes Twelve Years after the End of the War、” in Theodor Hanf and Nawaf Salam (eds.)、 Lebanon in Limbo: Postwar Society and State in an Uncertain Regional Environment (Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft、 2003) pp. 197-228.
30) 末近浩太「レバノン包囲とヒズブッラー」『国際問題』第555号、 2006年を参照。
31) ジル・ケペル(早良哲夫訳)『ジハードとフィトナ:イスラム精神の戦い』(NTT出版、 2005年)p.363.
32) 覆面をしたシーア派と思われる刑吏が、同派の宗教指導者の名を叫びながら、ロングコートのまま後ろ手に縛られたフサイン元大統領を絞首刑の処す様子が、イラク国営テレビで放映された。この映像は、無許可で携帯電話のビデオカメラ機能を用いて記録されたものと言われている。
33) 筆者のベイルートにおける現地調査による(2006年12月30日、31日)。
34) 末近浩太(訳・注解)「ヒズブッラーのレジスタンス思想:ハサン・ナスルッラー『勝利演説』」『イスラーム地域研究』第1巻、 第1号、 2007年.
35) 栗田貞子「中東における民衆運動と政治文化」歴史学研究会編『国家像・社会像の変貌:現代歴史学の成果と課題 1980-2000年II』(青木書房、 2003年)pp. 306-307; 臼杵陽「日米における中東イスラーム地域研究の『危機』:9.11事件後の新たな潮流」『地域研究』第7巻、 第1号、 pp. 117-127.  
 
欧米政治の近代から現代

 

1.政治学への原体験
私は、京都大学法学部の学生時代に、考古学研究会と政治学研究会に所属していました。考古学は、日本古代国家成立史の研究であり、国民に権利を与えることも国民から権利を奪うことも自由に出来る(自然権思想が生まれるとそれは国家の自由ではなくなるのですが)国家なるものがどのように生まれてきたのかという政治学の根本問題に接近する学問です。発掘もしました。測量実習もしました。今でも史跡歩きは大好きで、関西のおもな史跡はほとんど踏破しました。日本古代国家は、朝鮮半島との交流の中で発生したものなので、古代から現代にいたる日韓交流史にも大きな関心を抱いてきました。法学よりも政治学へより大きな関心を持つようになったきっかけは、10人ばかりで行われていた政治学研究会でファシズム研究に取組んだことです。私の担当は戦前の日本ファシズムと農業との関連だったのですが、E・フロムなどの大衆社会論的なファシズム論にも注目してのちに政治学を志向することとなり、学部時代は政治思想史ゼミに所属しました。大学院へ進む頃にはベトナム戦争が泥沼化しておりそれを批判するためにはアメリカ外交の研究が必要だと考えて外交史を専攻することにし、修士論文のテーマを1930年代のアメリカの対キューバ外交にしたところ、15歳ほど年長の先輩研究者から、なぜ自分の同時代史をテーマにしないのかと叱られました。それにも関わらず、私は国際関係学部では学生院生諸君に、現在進行形の国際問題つまり同時代史は事実の確定が困難だから研究テーマには少し前の歴史的なイシューを取り上げるようにと指導してきました。国際関係学部そのものが現在的な問題に取組む「紛争解決型」の学問を志向する学部でありますので、現在進行形の国際問題への関心が薄れる心配はなく、安心して過去の歴史問題の研究を通して分析力を磨くことに集中させることができると考えたからです。
私が青春時代を送った1960年代は、日本が高度成長期で、「明日は必ず今日よりもよくなる」という希望をもって生活ができた時代でした(まだ格差問題は表面化していませんでした)。
アメリカで1960年代後半に発生したスタグフレーションというそれまで経験したことのないタイプの不況が日本に現れるのは、1970年代半ばのことです。世界的にも植民地体制が崩壊して発展途上国の発言権が急速に増大する状況で、「すべての国は福祉国家を目指し、世界は多元化する(いま論争されているような、一極か、多極か、無極か、という視点とは違う多元化)」と楽観的にみられていました。「社会の変化はすべて経済学で説明できる」という風潮が盛んで、私もあまり理解出来ないのに中世イギリスの経済史などを勉強して「経済学コンプレックス」に取り付かれたこともありました。しかし、20世紀末以降の格差社会化と最近の世界金融危機の中で、資本主義経済への国家(政府)の介入が必要だということをブッシュ政権でさえ言わざるを得なくなり、「金融社会主義と生産資本主義の結合」などという言葉がジャーナリズムの世界でもてはやされています。市場経済の特性だとみられた効率性、安定性、公平性が幻想だったことが暴露され、その結果、資本主義的市場経済の上にそれに照応する多元主義政治が乗っているから欧米の政治は安定しているのだというこれまでの見方には疑問符がつけられ、「政治、権力、政府」が独自の役割を果たさなければならないことが明らかになってきています。政治学が役に立つ時代はよい時代とはいえないかもしれませんが、作家のトーマス・マンが言ったように、「政治を軽蔑する者は軽蔑に値する政治しか持つことができない」のです。近代ドイツでは、いかに統治するかという統治のための政治学が発展し、法の支配( rule of law )という「国家からの自由」を志向するイギリス的な近代国家の原理とは異なる「法治主義」( Rechtsregierung )の原理が生まれたのですが、統治のための政治学よりもイギリス流の「批判のための政治学」により魅力を感じるのは私だけではないだろうと思っています。 
2.政治史の視点
政治史は、政治が変わる論理を研究する学問ですが、 政治の変化の中で最も劇的な変化が革命と呼ばれます。一揆と似ていますが、一般的に、権力への集団的な反抗が成功して新たな政府ができると「革命」、蜂起が失敗すると「一揆」と呼ばれる傾向があり、日露戦争をきっかけに1905年にロシアで起きた騒動は「失敗した革命」と呼ばれているので、革命とか一揆というのはあまり科学的な用語ではありません。クーデタは、「権力者内部の権力奪取をめぐる争い」を意味し、革命や一揆と性格が異なります。変化が起こるときには「社会を変える力」が働いています。政治に変化をもたらす要因については、客観的条件、主体的条件、政治指導、の3つの側面から捉えることが必要です。
革命はたいてい、「飯が食えない、パンよこせ」から始まります。授業で取り上げたロシアの1905年革命・1917年革命も、ドイツの1918年革命も、それぞれ戦争での敗北による生活の窮乏が原因でした。これを、人間の意志から相対的に独立して存在している社会経済的な条件という意味で「客観的条件」と呼ぶことができます。しかし、飯が食えないからといって誰でもが「政府が悪い」と考えるわけではありません。自分の置かれた条件に我慢してしまえば、社会を変える力は生まれません。客観的な条件が「人間の意志から独立して存在する条件」であるとすれば、社会を変えようとする「人間の主体的な意志」を「主体的条件」と呼ぶことができます。この問題に関して、私はよく国際関係学部が12年間置かれていた西園寺記念館での経験を話すことがあります。授業中に、受講生が盛んに窓の外を気にして覗いているので、私も目を向けると、衣笠山のサルが近くの木にいました。その時に、サルに気をとられて窓の外を見ている学生と、じっと何ごともないかのように私の話に聴き入っている(立派な)学生との違いはどこからきたのでしょうか。それは、「授業を聴くよりも、サルを見るほうが大切だ」と考える者と、「サルも気になるが、自分には講義を聴くほうが大切だ」と考えた者との違いであり、つまり、何により大きな価値を認めるかという「価値観の違い」が行動の違いになって現れたのです。それが主体的な条件の問題ですが、価値観の違いをどう評価するかは政治学においても難問の一つです。集団的な意志になった「国民大衆」が、民主主義社会では投票行動やデモ、あるいはマスメディアの言論などを通して、前近代的な社会では実力行使によって、政府を作り変える力をもつことになります。
しかし、歴史を振りかえると、イタリア統一を成し遂げたマッツィーニ、ガリバルディ、アメリカのワシントン、ロシアのレーニン、ドイツのヒトラーなど、大きな政治変化にはかならず著名な英雄の名前がつきまとっていて、それには理由があります。客観的条件と主体的条件が揃っても、それまでの国家体制を覆して新しい国家を作ろうとしたら、古い社会を批判する論理と新しい社会のあり方を見通す「青写真」とが必要であり、それを提供した者がしばしば英雄と呼ばれます。この英雄のもつ「政治指導」が政治変化には不可欠です。革命の英雄が、貧しい虐げられた階級からではなくて、しばしば、旧体制のエリートから生まれるという不思議な現象に授業では注目しました。19世紀ロシアでロマノフ朝に反抗した「革命的インテリゲンチャ」は、貴族や弁護士など古い社会のエリート出身でした。英雄の政治指導によって政治変革の道筋が大きく変わってしまうこともあります。第一次世界大戦で「祖国防衛論」(城内平和論)の立場をとって皇帝の戦争に協力してしまった社会主義者が1917年ロシア2月革命と1918年ドイツ革命の主導権を握ってしまったことが、その後のロシア10月革命が「社会主義革命」にならざるをえず、また、ドイツ革命がワイマール共和国を作り出したにも関わらずそのワイマールがわずか14年でナチスに打倒される原因となったのですが、そこに政治指導の問題を見出すことができます。私も、ニューディール論の中でFDR(フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領)がこう考えたからこうなったという説明をよくしますが、それは、「家康がいたから歴史はこうなった」とかいうたぐいの「英雄中心史観」であって、話としては分かりやすくて面白いが、歴史の変化を説明するには一面的といわざるをえません。NHKの人気番組だった「プロジェクトX」は、私も初めの頃はよく見ましたが、あれも典型的な英雄中心史観で、一人もしくは少数のグループに功績を集める手法に強引さを感じていました。英雄だから○○ができた、という面があることは確かですが、それと同時に、「英雄でさえも△△ができなかった」という面に着目して、なぜそうだったのかその原因を社会全体の構造とダイナミズムの中に見出すことが大切でしょう。政治の世界にオールマイティという概念はありえません。自分の講義が英雄中心史観に陥ってはいないか、いつも自問自答してきたところですが、この講義は経済史でもなく、社会史でもなくて、政治史であって政治指導の要因を重視する以上、少々のことは仕方ないと内心では自己弁護をしています。 
3.近代から現代へ
人文社会科学のすべての研究者が近代と現代を区別する方法をとっているわけではありませんが、少なくとも政治学では区別することが通常です。その場合には、一般に、近代は、立法国家、自由主義国家、小さな政府、夜警国家、などの概念で説明されます。19世紀以降にヨーロッパ社会で普遍化した近代国家が大きく変わって現代国家へ移行してゆくきっかけとなったのが、第1次世界大戦と1929年世界大恐慌でした。
第1次大戦は、それまでの「専門家集団による戦争」から「市民全てが参加する戦争」へ変わることによって、戦後に、平和維持機構たる国際連盟の創設、戦争の違法化、封建的政治システムの近代化をもたらし、ロシアでは1917年の2回の革命を経て社会主義のソ連を、ドイツでは1918年革命で当時の世界でもっとも民主的と言われたワイマール共和国を生み出しました。ロシアでは、1917年の初頭にドイツとの戦争で敗北した時、戦争をやめるのではなくて「戦争に勝てる政府に作り変える」ことを目指す自由主義勢力が、祖国防衛論の立場をとっていた社会主義者と協力して主導権を握って2月革命を遂行したのですが、カデットなどの自由主義者は、19世紀以降、上からの資本主義化を進める皇帝政府のもとで育成され特権を享受してきたことから皇帝に忠実であり、古い体制の近代化は求めるけれども皇帝の専制政治そのものを打倒する意志はもたない、いわゆる「忠実なる反対派」(loyal opposition)となっていて、そのことが1917年に自由主義革命を挫折させたといえるでしょう。ロシアでは市民革命としてのフランス革命が1917年10月革命という社会主義革命の中で遂行されたと言われるのはそのような事情からです。1918年のドイツでも敗戦を機に革命が起こりましたが、旧勢力からその主導権を任された社会民主党の党首エーベルトは、当初から、戦争を強行した帝政政府との戦いではなくて共産主義者(スパルタクス団)との戦いを優先させることで国防軍幹部と一致していました(エーベルト=グレーナー同盟)。1919年にワイマール憲法を作り上げたけれども、ユンカー、軍人、官僚など帝国ドイツを支えた勢力がそのままワイマール共和国へ入り込んで、彼らが民主的な憲法の運用を担うことを通じて、共和政治を内部から崩していったのです。そこには、通説的な「成功した市民革命」という解釈よりも「失敗した社会主義革命」という評価のほうが似つかわしかった、つまり、市民革命としても不十分であったことがのちにナチスを生み出す原因になったと考えられます。
フーバー共和党大統領が恐慌対策に失敗したあとにニューディールを始めたFDRは、「恐れなければならないのは、恐怖そのものだ」という名言を残し、最近も金融危機に際してしばしば言及されていますが、それが有名になったのは単に聞こえのよい言葉だったからではなく、現実に、FDR政権が取り付け騒ぎを起こしていた銀行業界に休業を命じて見事に金融危機を乗り切ったからでした。取り付け騒ぎは、自分の預金が返してもらえなくなるのではないかという(当時は預金の返済を保証する保証金積み立て制度がなかった)「不安」から生じるのであり、フーバーが言っても効果がなかったのに、FDRが言うと国民はそれを信用したのです。この「不安」とか「信用」という心理的な要因は、政治の世界でとくに重要な役割を果たすものです。
ニューディールは、資本主義経済を自由に野放しにしていたことが有効需要の欠如を生んで恐慌をもたらしたと考え、政府による経済への介入(規制)という新しい仕組みを大々的に導入しました。証券法、銀行法などによって、預金者、株主、労働者、消費者の利益のために企業活動の自由を規制する枠組みが作られ(今で言うステイクホルダー論)、国家財政を活用した公共事業と社会保障制度とによる有効需要創出策がとられ、内需拡大のために必要な労働者の賃金の上昇を促進する労働法制(労働権の保護)が確立されて、「規制と国家財政」を通した政府介入が進みました。それは景気回復までのやむをえない一時的な措置とされていたにも関わらず、その後に旧体制へ復帰することはなく、第2次大戦後にはヨーロッパなどの経済的先進国へ波及してゆきました。ヨーロッパで生まれてアメリカへ持ち込まれた自由主義は、本来は、政府からの個人の自由の保証に最大の価値をおく「小さな政府」を志向するものでしたが、大恐慌とニューディールを通して政府介入を特徴とする「大きな政府」へと変容したわけです。
FDR政権は、自分たちの作り出した新しい社会の姿を昔通りに自由主義と呼ぶのは不適当だと考えたのですが適当な呼び名を思いつかなかったので、新しい呼称をつくるのはあきらめて「伝統的自由主義(ヨーロッパ自由主義)とは違うアメリカ自由主義」と呼ぶようになりました。これがすなわち、近代国家から現代国家への移行であります。ヨーロッパ諸国も似たような現代国家の体制へ移行していったのですが、そこでは、イギリス労働党やドイツ社会民主党など伝統的に強力な社会主義勢力が指導力を発揮したために、福祉国家とも結びつく現代国家が生まれ、政治システムの面でも、ネオコーポラティズムなど社会民主主義と関連する独自の形態を生み出しました。 
4.多元主義政治の行き詰まり
近代欧米政治史の講義は、ニューディールによる現代国家の誕生で終わり、現代に至る欧米政治の変化は現代欧米政治史という科目で論じてきたのですが、そこにおける私の問題意識の一端をお話したいと思います。それは、民主主義政治がもっとも早く展開されてきた先進国の政治が行き詰まってきているということです。
近代への移行期に、自然権思想に基づく契約論国家の理論が現れて、権力の正統性(legitimacy)が「国民」なるものによって担保され、個人の自由(プロパティ権)が保障されることになったわけですが、やがて快楽を求め苦痛を避けるのが人間の本来の特質ととらえる功利主義思想が台頭して、生の究極目的に関わる善と社会的価値の配分に関わる正とを区別して正の問題だけを重視することとなり、そこから多数決による政治が力を発揮し議会改革へとつながっていきました。しかし、価値の配分を重視する発想は、政治が実現すべき価値は何かを無視して数だけで決定するという「多数決民主主義」への「堕落」を生み、政治への信頼を薄れさせることとなりました。いま多くの国で、「政治のポピュリズム化」が問題になっていますが、そこには価値の問題を捨象して配分の問題だけに傾斜することの危うさが見られます。アメリカに典型的に現れた多元主義政治の思想は、功利主義が行き着いたひとつの形であり、社会集団への重複加入による「政府の中立性」に価値が認められてきましたが、それはセオドア・ローウィが「利益集団自由主義にすぎない」と批判したように、国家が実現すべき価値すなわち「国家目標」の存在を否定することによってより力の強い集団の利益が実現されることに終わりがちです。絶対的な価値の主張がしばしば独裁政治を生み人権侵害をもたらしてきた歴史がありますが、功利主義の基礎にある価値相対主義が人々の間の自由と平等を保障するわけではないことも経験的に明らかです。
政治学は、ヘーゲル、マルクス以降、公と私の2分法すなわち「政治的国家と市民社会の二重性」を前提に組み立てられてきましたが、近年、政治学でも法学でも公と私を統合する「共」という第3の領域を措定する視点に注目が向けられています。現代においてコミュニタリアニズムなどの思想潮流が、あらためて「共通善」の論理を政治理論に組み込もうとしているのもその現われといえるでしょう。また、権力の源泉に関わる「正統性」が、普通選挙制度、複数政党制、政治活動の自由などを通してどうやら確保できつつある現代において、権力行使の結果に関わる「正当性」(justification)の保証をどう実現するかがより重要な課題になってきています。
若い世代が、新しい価値観に基づいて日本の政治のあり方そして世界の政治のあり方を変えていって欲しいと願っています。 
 
「アイルランド義勇軍」結成に関する一考察 (1911-1913)

 

はじめに
19世紀末期から20世紀初頭、アイルランドにおけるナショナリズム運動は、英国による「科学主義的国家」化政策の浸透とそれにともなう同化傾向の進展を背景に、カトリック系中間層の形式的な社会的上昇が可能となったこととプロテスタント系住民の優越的地位が解体されるという状況の中で、「アイルランド的なるもの」と英国モデルを対置させる形で立ち現れてくる。19世紀末期におけるナショナリズム運動の特徴について述べると、政治的ナショナリスト運動が分裂し、ゲーリック・リーグを中心とする文化的ナショナリズム運動がその受け皿として位置付いたことにより、多様なスタンスを持つ政治的ナショナリストおよび運動体を結びつける接着剤としての役割をゲーリック・リーグが担うことになる。そのことにより、アイルランドのナショナリズム運動を主導する主体としてカトリック系知識人がイニシアティブを取る状況が生まれ、アイルランド問題の解決の方向性が連合王国の枠内での自治獲得要求から分離主義的要求に向けられるようになる1)。
20世紀初頭、アイルランド北部のアルスター地方(現在の北アイルランド六郡を含む)におけるユニオニスト勢力の武装化に対抗する形で、ナショナリスト勢力はゲーリック・リーグの運動の延長線上に、「アイルランド義勇軍」結成=武装化に向けた動きを強めることになる。
こうした文化的ナショナリズム運動から政治的ナショナリズム運動への展開の過程において、この2つの運動を接合する位置に存在する活動家に、ゲーリック・リーグの創始者であるオウン・マクニールとアイルランド共和主義者同盟(IRB)の有力な指導者の一人であるバルマー・ホブソンがいる。筆者は、すでに「19世紀アイルランドにおけるナショナリズムと知識人(2・完)」において、ゲーリック・リーグ結成に関わって、政治的ナショナリズム運動から文化的ナショナリズム運動への移行期におけるオウン・マクニールの役割を考察した。本稿では、かかる研究を踏まえ、この二人の活動家の行動に着目し、アイルランド義勇軍の結成過程を検証することにより、政治的ナショナリズムと文化的ナショナリズムとの関係性の解明を試みるものである。 
[1]アルスター危機―二つのナショナリズムの衝突
1910年当時、アイルランドにおけるナショナリストの政治地図は、3つの潮流から構成されていた。第1の潮流は、圧倒的多数派を構成していた議会主義派ナショナリスト(主流派)である。この潮流は、アイルランド問題の当面の解決にはホームルール法案を英国議会で可決成立させることであるという立場にあった。この立場は、当面の間は大英帝国の枠内にとどまり、「ドミニオン」として強力な自治を得ることであった。この勢力はジョン・レドモンド、ジョン・ディロン、ジョセフ・デブリンの指導の下にあるアイルランド議会党に結集していた。
第2の潮流は、議会主義的な政治方針と対峙していた分離主義的なナショナリストである。
かれらは英国からの分離とともに、アイルランドに自主的な軍隊を打ち立てることを求めていた。この勢力はアイルランドの伝統を代表するものとして自らを位置づけ、とくに農村部において支持を広げていた。この勢力の中で、組織された政治団体はアイルランド共和主義者同盟(IRB)であったが、1883年のイングランドでの爆弾攻撃運動に失敗して以後、ほぼ20年の間、地下に潜伏する状態が続いていた。1905年、バルマー・ホブソンよる組織の立て直しが図られることになり、1907年にトーマス・クラーク2)がアメリカから帰国すると、活動を本格化させるようになる。しかし、そのメンバーは2、000人程度であり、この組織そのものが政治的な影響力を持つまでには至っていなかった。この組織は、秘密結社としての性格を持ち、さまざまな大衆運動に入り込み支持拡大を図る少数精鋭の細胞集団と言えるものであった。
第3の潮流は、議会主義的なナショナリストと分離主義的なナショナリストの間にあって、武力ではなく、合法的な方法で、アイルランドの独立を達成しようとする制度的ナショナリストである。この勢力は、統一されかつ組織された政治団体を持つものではなく、アーサー・グリフィスのシン・フェイン党をはじめとして、ゲーリック・リーグに集う文化的ナショナリストまで多様な意見を持った人々を包摂していた。たとえば、グリフィスのように議会主義的な政治方針には反対の姿勢をとる者から、マクニールのようにアイルランドの独立を強く主張しつつも、レドモンドの政治方針に賛同する者まで含んでいたのである3)。
こうしたナショナリスト諸勢力の状況に対して、ユニオニスト勢力の動向を見てみると、1910年に、W.H.ロングに代わってアルスター・ユニオニスト会議(UUC)の指導者となっていたエドワード・カーソン卿は、「もしアイルランドの自治が英国法令全書のなかに持ちこまれるのであれば、ユニオニストはそれを無視し、王室に忠誠を誓う地方的な政府を設置するであろう」4)と主張し、全アイルランドに対する自治を阻止するために、アルスターの抵抗を強化する対応を求めていたのである。さらに、1911年11月に、バルフォアに代わって、アルスター長老派に属するアンドリュー・ボナーローが保守党/ユニオニスト連合の指導者に就任すると、同年11月23日、アルスターのオレンジ団メンバーが、ジェームス・クレイグの地盤であるベルファスト郊外クレイガボンにおいて、5万人規模の大集会を開催した。もちろんこの集会の基調講演はエドワード・カーソン卿であった5)。1913年1月、アルスターにおいて、プロテスタントからなる武装集団――アルスター義勇軍(UVF)――が結成され、UUCは1911年9月に、臨時政府樹立の用意があることを表明する6)。UVFは同年11月までに、7万6、757人を組織するまでに成長していた。UVFは治安判事の認可を獲得することにより、合法的な組織として活動することができたのである7)。このように、ホームルール法案をめぐるユニオニストの抵抗は保守党の下支えのもと、ついに武装集団結成へと展開する。かくて、アルスター危機の火蓋は切って落とされたのである。
UUCは、1912年9月28日、同機関紙アルスター・デイに、『アルスターにおける神聖同盟と誓約』を発表し、かかる誓約への署名を呼びかける行動に出る。この署名は21万8、206筆に上った。この『アルスターにおける神聖同盟と誓約』には、「ホームルールがアルスターおよびアイルランド全体の物質的利益を損ない、われわれの市民的、宗教的自由を破壊し、われわれの市民的権利を打ち砕き、帝国の統一を脅かすということを、われわれの良心にかけて悟った。
神の恩寵により国王たるジョージ5世。その忠臣たるわれわれ、ここに署名したアルスターの民であるわれわれは、連合王国において等しく与えられた市民権を守り、そしてアイルランドにおける自治議会を設置するという当面する陰謀を打ち破るために必要とされるあらゆる手段を行使し、われわれ与えられたこの受難の時を通じて、自らとわれわれの子供たちのために、お互い手に手を取り合って立ち上がらんことを、神聖な誓約において誓うものである。このような議会がわれわれに押し付けられるのであれば、われわれはこの権力を認めないことを、神とわれら自らの前で厳粛かつ相互に誓約する」8)とあり、これは自由党が準備しているアイルランド自治法案を力によって粉砕することを宣言するものであった。ここに至って、ホームルール法案、つまりアイルランドの政治的地位をめぐる抗争は新しいステージを迎えることになる。
ここで重要なのは、ユニオニストの運動拠点はベルファストを中心とするアルスター地方にあった点である。これは、ユニオニストの運動が17世紀以降のイングランドによる植民政策の帰結である「入植社会」の形成と密接にかかわっているがゆえに、ユニオニストとナショナリストとの間の対抗軸はアルスター地方の政治的地位をめぐる問題に収斂していくことになる。
ここに、20世紀における英国=アイルランド関係をめぐる基本矛盾が組織的な対立関係となって明確なものになったと言える。
アルスターのユニオニストが反ホームルール運動を活発化させていることについて、レドモンドをはじめとするアイルランドのナショナリストは、アルスター・ユニオニストによる英国国家を分断しようとする行為であり、不当な要求と見なしていた。他方で、イングリッシュ・ユニオニストなどの英国の保守勢力は、当時の自由党政権を権力の座から引き摺り下ろす格好の機会と考えていたのである9)。
当時の政治情勢は、レドモンドを中心とする議会主義的なナショナリストにとって、厳しい局面に立たせることになる。つまり、主流派ナショナリストはカーソンを中心としたアルスター・ユニオニストの動向に対処する手段を持ち合わせておらず、IRBもナショナリストを束ねてアルスター・ユニオニストに対峙するだけの求心力を持ちえていなかったからである。1911年には、ベルファストの一部のナショナリストの下部組織からユニオニストに対抗して武装組織の結成を呼びかける動きが現れてくる。しかし、アルスターにおいて、政治的立場にとどまらず、宗派的憎悪が絡む内乱状態に至るのを望まなかったジョセフ・デブリンはベルファストのナショナリストに事態を静観することを求めたのである10)。
他方で、パトリック・ピアースは1912年4月2日にダブリンで、私的な集会を開催し、武装組織の結成を呼びかける提案をしている。この集会にはIRBのメンバーも出席していたが、IRB指導部はピアースの提案を時期早々であるとして、組織として支持する立場を取ろうとはしなかった。しかし、1912年4月から5月にかけて、アイリシュ・フリーダム紙にザ・オレイリの署名による“Ninety-Eight”と題した一連の論文が掲載された。その中で、4月に発刊された論文に、オレイリは「つまるところ、すべての政府が依拠する基礎は武力の保持であり、これを使用する能力である」11)と述べ、武装組織の結成を呼びかける態度を示したのである。
オレイリはIRBのメンバーではなかったが、シン・フェイン党の幹部であった。このオレイリの論文がIRBの機関紙に掲載されたのである。この時点で、武装組織結成にかかわるIRB指導部の方針転換が進んでいたと見ることができる。こうした武装勢力結成に向けた動きの背景に、当時、英国政府はヨーロッパ大陸での情勢如何によってはアイルランドに駐留させている部隊を四分の三程度削減し、ヨーロッパ対応に振り向けるプランを持っていた。このことはアルスターのユニオニストにとって脅威であったが、分離主義的なナショナリストにとっては好機として受け止められたのである12)。
1913年1月、アルスター・ユニオニスト会議がアルスター義勇軍結成を決定したのを受けて、1913年1月20日のシン・フェイン党全国委員会は、ザ・オレイリとイーモン・シェントの提案に基づいて、武装勢力の結成に踏み切る結論を出した13)。のちにマクニールは、ナショナリストによる武装集団―アイルランド義勇軍―結成は、「実のところカーソンの功績である」14)と回顧している。すなわち、アルスター義勇軍の結成、そしてアイルランド義勇軍の創設は、ナショナリストとユニオニストとの関係を物理的暴力装置をもって明確に象徴する出来事であった。
シン・フェイン党の動きに相応して、IRBは武装組織結成に向けた動きをはじめることになる。当時、IRBの議長であったバルマー・ホブソンは、1913年7月、IRBのダブリン中央委員会を招集し、義勇軍組織の結成を公然と主張すべき時期が来たと述べ、IRBのメンバーが武装組織結成の運動に積極的に参加し指導的役割を果たすよう指令を下している15)。そして、武装組織結成に向けた準備作業が秘密裏に、ホブソンの盟友であるパトリック・オライアンの父親が管理人を務めるパーネル街41番地のアイリッシュ・ナショナル・フォレスターズで始まった。この作業部会を指導した主なメンバーは、マイケル・ロネルガン、パトリック・オライアン、コン・コルバート、イーモン・マーチンであり、かれらは1902年にホブソンがベルファストで組織した第一次フィアナ・エーラン(エールの戦士)の幹部メンバーであった16)。
第一次フィアナ・エーランは、ホブソンが19歳のときに、1902年に6月26日、ベルファストを拠点に結成した青年同盟組織である。1904年にホブソンがIRBに入党し、その後ダブリンに移ると、この組織は自然消滅してしまう。しかし、ダブリンで、ホブソンはスライゴのマルキエヴィッチ伯爵夫人と結合する。マルキエヴィッチ伯爵夫人はシン・フェイン党員であり、女性共和主義運動「ヘレナ・モローニー」の組織者であると同時に戦闘的な分離主義者であった。
ホブソンとマルキエヴィッチ伯爵夫人は、ベルファストでのフィアナ・エーランの経験をダブリンでも実践することを考え、1909年8月16日、共和主義的な青年組織の結成に向けた集会が持たれ、第二次フィアナ・エーラン(ダブリン)の結成が確認された。この集会には、2人のほかに、コン・コルバート、パトリック・オライアン、ショーン・マクガリーが参加していた。
いずれもIRBのメンバーである。そして、1910年に第1回総会が開かれ、ここで、マルキエヴィッチ伯爵夫人が総裁に選出され、ホブソンは副総裁となった。ホブソンにとって、マルキエヴィッチ伯爵夫人はその人脈と資金力からして、理想的な指導者であった。形式上、マルキエヴィッチ伯爵夫人は総裁の肩書きを持ってはいたが、その実権はホブソンが握っていた。そして、1912年ごろから、元英国軍人のショーン・カヴァナーを招聘し、コン・コルバートとイーモン・マーチンが中心となって、英国の軍事教書をもとにした軍事教練を開始するようになる17)。
1913年8月から9月にかけて、全国規模の軍事組織の結成を促す事態が発生する。その一つが8月26日にダブリンで起こった大ロックアウト事件である。第2がアスローンにおいてミッドランド義勇軍の結成であった。第1に、大ロックアウト事件は鉄道労働者のストライキから端を発し、新聞社、炭鉱、港湾の労働者、そして農業労働者へと拡大していった大規模な争議行動を発端とするものである。こうした労働者の動きに対して、雇用者連合はまずアイルランド交通・一般労働者同盟(ITGWU)に加盟している労働者をはじめとして約25、000名を職場から締め出す行動に出たのである。こうした状況の中で、労組による抗議集会がダブリンで断続的開催され、8月26日のベレスフォード・パレスでの大集会をはじめとして、警官隊との緊張は高まっていった。そして8月31日、シャックビル街で開催された大集会に対して、RIC武装警官隊が武力によって集会を中止させようとし、2人の労働者が死亡するという事態に発展した。いわゆる「血の週末事件」である18)。
これらの集会を組織していたのは、ジェームス・ラーキンであった。ラーキンは、ベレスフォード・パレスでの大集会において、抗議行動に対する繰り返される警官隊による暴力や威嚇を非難するとともに、「もしアルスターの人間が武器を持つことが正義に適っており合法的であると言うのであれば、なぜダブリンの人間が自らを守るために武器を手にすることを正義に適っており合法的であると言えないのだろうか。皆さんはそれを望んでいる。……皆さんは私がこのように言い、何を行おうとしているかを知っている。そう、武力である。私は武装する。
……もしエドワード・カーソンがアルスターの人間がアルスターに暫定的な政府を作ることが正義であると言うのであれば、私が皆さんにダブリンに暫定的な政府を作ろうと呼びかけても良いはずである。だが、皆さんが暫定的な政府の樹立を求めようが求めまいが、皆さんは武装することが必要なのです」19)と武装闘争の必要性を訴える演説を行ったのである。
このラーキンの訴えは、8月31日の事件を契機に、いっそう緊急性を増すことになる。そして、1913年11月23日、アイルランド市民軍が結成され、その初代司令長官にアルスター出身のプロテスタントであり、ボーア戦争に従軍した元英国軍人のジャック・ホワイトが就任した。
この部隊は、ダブリンのクロイドン・パークにある交通労働者組合を拠点に、第二次フィアナ・エーランで訓練を受けたメンバーによって軍事教練が施されていた20)。
市民軍の組織はダブリンに限定されたものであり、ダブリンの労働階級を守ることを第一義的な目的とし、入隊者も労働組合員にとどまっていた。だが、大ロックアウト事件からアイルランド市民軍の結成への一連の展開は、第二次フィアナ・エーランの下支えのもとで、アイルランド義勇軍結成の物理的な前提条件を準備する作用を持っていたと言える。
第2に、ミッドランド義勇軍結成という情報がダブリンに伝わったことである。ミッドランド義勇軍はアスローンを拠点に組織された軍団である。この組織については不明な点が多く、少なくとも言えることは、この組織はアスローンの労働組合組織を拠点に、反カーソンのスローガンを掲げ政治的な目的を前面に押し出していたということである。
この組織は、ウエストミース・インディペンデント紙の編集者であるマイケル・マグダーモット=ヘイズが指導し、パシィ・ダウニーが司令官を務めていたとされている。10月に発表された『国王に忠誠を誓う義勇軍宣言』では、アルスターのカーソンの動きを分離主義的策動と捉え、一つのアイルランドを守り、英国王への忠誠とレドモンドおよびアイルランド議会党を強く支持する立場を明確にしていたのである。つまり、大英帝国の枠内にとどまり、自治を実現するという立場に立った組織であったと言うことができる。それゆえ、カーソンとは異なった文脈で、アイルランドの英国からの分離を主張する共和主義者とも一線を画すものであったと考えられる21)。
マグダーモット=ヘイズがウエストミース・インディペンデント紙において報じたミッドランド義勇軍結成の記事は、ダブリンのナショナリストの間で、大きな期待を持って受け止められた。マクニールはこの行動を大いに歓迎する書簡をオレイリに送り、政治的ポジションとしてはアイルランド議会党とシン・フェイン党の中間に位置するデイヴィド・パトリック・モーランもリーダー紙の中で、アスローンの歴史的な行動はナショナリストの模範であるとの評価を与えている22)。
しかし、現実には、ミッドランド義勇軍はウエストミース・インディペンデント紙が報じたような5、000名規模の組織ではなく、50名足らずの組織であったと考えられている。そして、第一次世界大戦が始まると、メンバーのほとんどが英国軍に転身し、軍団は消滅してしまったのである23)。ここで重要なのは、ミッドランド義勇軍が現実に存在しどの程度の影響力を持ったかではなく、政治的なスローガンを持った軍団が結成されたという誇張された「情報」そのものなのである。つまり、大ロックアウト事件とそれに続く武装組織結成を求める気運の高まりとアイルランド市民軍の結成、そしてアスローンにおけるミッドランド義勇軍結成という「情報」は、武装組織結成を容認する大衆的な気分感情を刺激し、IRBが義勇軍結成に踏み出す好条件を生み出す作用を持ったのである。 
[2]「アイルランド義勇軍」の結成
以上のように情勢が動く中で、1913年11月1日付けのゲーリック・リーグ機関誌クレイヴ・ソリッシュに、マクニールは“The North Began”24)と題した論文を発表し、南部アイルランドにおける力による対抗を呼びかけることになる。かくて、アルスター義勇軍の形成や大衆運動の組織化を進めるユニオニストの行動は、ナショナリスト活動家をして、義勇軍の編成を決意させることになる。
義勇軍結成に向けた準備会合が、11月11日と14日に、ダブリンのローアー・アビー街にあるウェインホテルで開催された。義勇軍結成に向けた準備会の開催にあたって、ホブソンとオレイリは、義勇軍の幹部会代表就任をマクニールに要請し、あらかじめ承諾を得た上で、「呼び掛け人」メンバーとなる12人のナショナリストをリストアップしている。このメンバーは、バルマー・ホブソン、オウン・マクニール、パトリック・ピアース、ショーン・マクダーモット、イーモン・セアント、ザ・オレイリ、ジョセフ・キャンベル、ジェイムス・A・ディーキン、ショーン・フィッツボーン、ピアラス・ベアスレイ、デイヴィット・パトリック・モーラン、ウイリアム・P・ライアンであった25)。
11月25日火曜日の午後8時、ダブリンはパーネル街にあるザ・ロタンダの大コンサートホールにおいて、第1回公式会合が開かれ、ここに正式にアイルランド義勇軍Irish Volunteersは結成されることになる。アイルランド義勇軍は、ゲーリック・リーグの活動方針の中に位置づけられているように、アイリッシュとしてのナショナリティを守る目的としたものであった26)。
アイルランド義勇軍は司令長官オウン・マクニール(ゲーリック・リーグ、GL)、ローレンス・J・ケトル(Ancient Order of Hibernian、 AOH)、財務長官ザ・オレイリ(マイケル・ジョセフ・オレイリ、シン・フェイン党、SF)とジョン・ゴア(AOH)を中心に、30名で構成される「暫定委員会」が指導部としての役割を果たしていた。
この「暫定委員会」のメンバー構成を所属組織別に見てみると、次のようになる27)。
アイルランド共和主義者同盟(IRB)所属のメンバー:ピアース・バースリー、ペーター・マッケン(GL、SF)、イーモン・シェント(GL、SF)、リアム・メロウーズ、バルマー・ホブスン(フィアナ・エーランFE)、シーマス・オコンナー、マイケル・ロネルガン、ロバート・ペイジ、ショーン・マクディアマダ(アイリッシュ・フリーダム)、コン・コルバート(FE)、エーモン・マーチン(FE)、パトリック・オライアン(FE)
シン・フェイン党:ザ・オレイリ、ジョン・フィッツギボン(GL)、リアム・ゴ−ガン
アイルランド議会党所属のメンバー:ジョン・ゴア(AOH)、トーマス・ケトル、ローレンス・J・ケトル、モーリス・ムーア大佐(GL)
AOH所属のメンバー:マイケル・J・ジャッジ、ピーター・オライリ、ジェイムズ・レネハン、ジョン・ウォルシュ
その他の組織所属とされているメンバー:ロジャー・ケイスメント卿(GL)、コルム・オラクラン、パトリック・ピアース(GL)、トーマス・マクドナー、ジョセフ・M・プランケット(アイリッシュ・レヴュー)、オウン・マウニール(GL)、ピーター・ホワイト(ケルト文芸協会)
かかるメンバー構成を見ると、IRBのメンバーが12名(シン・フェイン党メンバー5名のうち2名はIRBのメンバー)であり、残りの非IRB系のメンバーはアイルランド議会党系メンバー4名を含む18名であった。しかし、IRBおよびシン・フェイン党からなる急進的なナショナリストは30名中15名となり、さらにトーマス・マクドナー、ジョセフ・M・プランケット、パトリック・ピアースらIRBシンパを含めると、この委員会構成は、18名が急進派ナショナリストによって占められていたのである。
ここで重要なのは、これまで議会主義的なナショナリストや武装闘争を視野に入れた急進的なナショナリストとも距離を置いてきたマクニールが、義勇軍結成の提唱者として現れてきた背景として、IRBとシン・フェイン党の水面下での活動が存在した点である。特に注目すべきはバルマー・ホブソンである。
ベルファスト出身のバルマー・ホブソンはクエーカー教徒の家庭に生まれ、父親はグラッドストーンと自由党のホームルール政策の支持者であった。だが、かれはアイルランド・ナショナリストに親近感を持ち、ゲーリック・リーグとゲール体育協会に加盟するようになる。そして、1904年、ホブソンはデニス・マッカローの推薦で、IRBに入党している。ホブソンとマッカローはその後、ベルファストでIRBの組織再建に乗り出す。1908年、ホブソンはショーン・マクダーモットなど青年メンバーとともにダブリンに移り、1909年の第二次フィアナ・エーランを設立後、1910年にはアイリッシュ・フリーダム紙を刊行し、1911年に、IRBの最高幹部会のメンバーに選出されている。1913年の半ばまで、IRBのダブリン中央委員会議長を務めていたのである。そして、バルマー・ホブソンは、大衆運動として義勇軍運動を組織するにあたり、特定の政治集団に与せず、超党派的性格を持つ指導者の擁立を模索するようになる。結論的には、ホブソンは、ザ・オレイリを仲介者として、非党派的でかつ分裂状態にあるナショナリスト諸勢力が結集できる場を提供したゲーリック・リーグの創始者であるオウン・マクニールの擁立を画策し、その仕組みを作る行動に出るのである28)。
マクニールは、アイルランド議会党に対して、「戦争が引き起こしたこの危機において、英国議会に議席を持つメンバーは選挙されているという権威を以って、アイルランドの諸問題を取り扱うための明確な力があることを自ら宣言すべきである。政府の形態を変えることなしに、かれらは行政を動かす権限を要求すべきである。そして、その目的を果たすための委員会を立ち上げるべきである」29)と主張していたが、ジョセフ・デブリンはその責任はあまりのも大きすぎるとマクニールの提案を拒否する回答している。マクニールは、この回答を、アイルランド議会党は「まったく期待できない」組織である証と理解したのである30)。
それにもかかわらず、ホブソンはマクニールを指導者に招くにあたって、「マクニールはレドモンドの公然たる支持者である」31)と言い切っている。そこには背景と理由があった。
第1のポイントは、ホ−ムルール法案をめぐる政治情勢の変化である。カーソン率いるアルスター・ユニオニストがアルスター義勇軍を結成し、反ホームルールをスローガンとする大衆運動の組織化を進める中で、ナショナリストの団結とアルスター・ユニオニストに対してカウンターパーツとなる統一的な組織の形成に迫られていたということである。
第2のポイントは、当時のナショナリスト運動の現状にかかわる問題である。当時、アルスター・ユニオニストの動向に対峙する勢力として、ジョン・レドモンドを中心とする多数派の議会主義的ナショナリストへの求心力が低下する中で、ホブソンなどの分離主義的ナショナリスト、ラーキンなどの社会主義的なナショナリスト、ゲーリック・リーグをも包摂する穏健な制度的ナショナリストなどの少数派がそれぞれセクト主義的に分立し、統一性のある運動を展開する状況にはなかった。それゆえ、すべてのナショナリストの団結を引き出し、全国的で統一的な運動に結実させることなしに、アルスター・ユニオニストの運動の対峙できない情勢にあった。こうしたナショナリストの運動の立ち遅れを如何に克服し情勢に対応した運動を構築するのかが、当時の最大の課題であったとさえ言える。
そこで、ホブソンは「私は誰からも過激なナショナリストと見られている」32)として、11日の第1回の準備会合への出席を差し控えている。このことは、義勇軍結成に求められるセクト主義を排除し、ナショナリスト勢力の大同団結を促す必要から、この準備会合が大衆運動として開催されているという形を取ろうとした行動と考えられる。また、かれは主流派のレドモンドの支持なくしてナショナリストの統一的な組織を結成することができないことも十分理解していた。それゆえ、この行動は、レドモンドを刺激しないための配慮であったとも言えよう。
ホブソンはシン・フェインの重鎮でありマクニールと親交のあったザ・オレイリを巻き込みながら、義勇軍結成問題を通じて、ナショナリスト諸組織の団結と統一を背後から図ろうとしたのである。すなわち、議会主義的な運動を乗り越え、ナショナリスト諸勢力のセクト主義的活動形態とこれを克服し、情勢に対応した運動の構築がホブソンの主たる課題であった。
マクニール擁立に向けた論議の焦点がどこにあったのかは、ピアースの発言からも明らかである。ピアースは「私が1913年11月の声明を執筆したとき、私が接触を持ったナショナリストのグループはアイルランド義勇軍の結成をすでに決めていた。われわれとは異なり、「進歩的」と考えられていない、そして人々の同意を促すことのできる指導者を慎重に探していた。もちろんわれわれの支持者の間においてである。私が1913年12月の声明を書いているとき、オウン・マクニールがクレイヴ・ソリッシュ紙に“The North Began”なる論文を掲載した。そして、われわれはマクニールをわれわれの指導者に迎えることで一致した」33)と回想し、ホブソンたちの間で、セクト主義を乗り越えることのできる指導者を模索していたことが看取される。
マクニールは、アイルランド義勇軍の司令長官に就任するにあたり、「私は、アイルランド問題をめぐって、アイルランドの将来を決定するような危機が訪れたと考えている。そして、特に重要なこととして、私はゲーリック・リーグの運動とその原理・原則をあれほど重要視してきたわけだが、アイルランド人が来るべき政治的闘争に共に立ち上がることは困難であると、私は考えている」と述べ、「ゲーリック・リーグの運動を通して、私はアイルランドのほぼあらゆるところで知られるようになった。そして、穏健な見解を持つ人間として見られているようである。物理的な力の行使を求める勢力の要求を常に限定された範囲に止めおいてきた。これまで疑いを持って横目で見てきたような行動計画を、教育活動に携わる聖職者やそれ以外の人々をはじめとして、そうした勢力に属さない多くの人々としっかりした関係を持つ私のような人間だからこそ、より広範な人々に勧めることができるのかもしれない。たとえ、この行動計画が極端な急進派と呼ばれるような人々の求めに応ずるものであったとしても。これは、物理的な力の行使を擁護する人々が取ってきた立場ではあるが、全体としてみれば、私がいまこそ役に立つと考えることなのであり、確信を持っている」34)と発言している。
ゲーリック・リーグの指導者であり大学教師であったマクニールは、主にアイルランドの歴史や言語に関わった教育現場での活動に従事してきたがゆえに、政治的な党派性が必ずしも明確な形で見えてこない存在であった。このことは、政治的ナショナリストにとっては重要な意味を持つものであった。マクニールの政治的役割は、かれが明確な党派性を持たないがゆえに、政治的なナショナリストのセクト的な対立や不統一を乗り越え、共通の課題のもとで大同団結を図ることが可能であったという点に求められよう。 
[3]「アイルランド義勇軍」の目的と組織
11月17日に発刊されたフリーマンズ・ジャーナル紙に、アイルランド義勇軍の基本方針が掲載されている。これは14日の会合において確認されたものである。そこには、この新しい運動は、アルスター義勇軍に対峙するものであり、その名称をアイルランド義勇軍とするとし、3つの基本方針が記載されている。それは、(1)アイルランドのすべての人々の共通に諸権利と自由を守り保障することを目的としていること、(2)この目的を達成するために、アイルランド義勇軍は武装し、訓練され、軍紀を高めこと、(3)この組織は、草の根的でいかなる階層的、差別的性格を持たない民主主義的な組織原則を基本とすることであった。そして、暫定委員会は義勇軍の活動を支援するものであり、決してこれを指揮する機関ではなく、義勇軍を構成する個々の部隊は自発的かつ自治的な性格を持つものであるという点を強調している。
また、この組織は大衆的な組織であり、特定の政党や政治勢力の一部をなすものではなく、アイルランド議会党やAOH、その他の組織に指導され、これらに従属する組織であってはならないとしている35)。つまり、義勇軍運動の非党派性と大衆的性格を強調するスタンスを取っていたのである。
だが、現実には、暫定委員会はIRBメンバーが多数派を形成しており、事実上IRBの指導下にあった。それゆえ、ここに示された組織原則は、IRB以外の政治勢力による指導、介入を許さないという明確な意思表示とも考えることができる。
ホブソンによると、暫定委員会に先立つ、準備会合は11月14日以降、三度持たれ、11月20日には、ダブリンのすべてのナショナリスト組織を対象に個人宛で、マクニールとローレンス・ケオルの署名で招請状が送付された。この招請状はマクニールの執筆によるものとされているが、義勇軍結成の趣旨や根拠は述べられておらず、アイルランド情勢を憂慮する有志が暫定的な「呼び掛け人」会を結成したこと、ダブリンに義勇軍を設立しこれを全国規模に拡大する取り組みを進めていることのみが記載されていた36)。
そして、11月25日の公式会合において、アイルランド義勇軍の基本綱領(第一次)がラリー・ケトルによって読み上げられ、義勇軍運動の全体像が明らかにされることになる。この基本綱領は作成段階において、マクニールが下書きし、トム・ケトルが部分修正した原案を暫定的な「呼び掛け人」会のメンバー修正を受けて、11月25日に公開されたものである37)。
この基本綱領(第一次)は、「(英国政府の方針転換は、)ネイションとしてのわれわれの権利を否定するだけではない。われわれに関するいかなる事柄も、武力を振りかざすことで地位と権力に与っている英国下院の多数派によって統制されているとしたら、それは明らかに『連合法体制』のもとで、われわれに与えられている僅かな市民的諸権利さえも取り上げようとするものである」38)として、英国議会におけるホームルール法案の採決を前にして、英国政府および保守党のアイルランド問題に対する態度を転換させたことに対する批判が基調とされており、義勇軍結成の根拠を英国政府と保守党の方針転換に置くことを目的とした構成になっている。それゆえ、ミッドランド義勇軍の場合とは異なり、イングランド国王に対する忠誠有無に関わる文言は含まれていないばかりか、アルスターのオレンジ団やアルスター義勇軍についてもいっさい言及されていないのである39)。
そして、かかる文書は、「アイルランド義勇軍の目的は、アイルランドのすべての人々の共通に諸権利と自由を守り保障することである。その役目は防衛的なものであり、身を守るためのものである。そして、いかなる抑圧も支配も意図するものではない。この軍隊は、思想・信条、政治的見解、社会階級の違いなく、すべての健康なアイルランド人民に開かれているのである」40)とし、アイルランド義勇軍の防衛的かつ民主主義的な性格を強調することにより、ユニオニストの特権的な政治的地位とかれらのアルスターにおける義勇軍運動を間接的に批判する形を取っているのである。ここには、英国政府および保守党を「主敵」とすることにより、英国議会を必要以上に刺激することなく議会内部に楔を打ち込むとともに、同時にレドモンド派の動揺を最小限に留め、ナショナリスト勢力の分裂を回避するという配慮がなされていたのである。
ここで、アイルランド義勇軍の組織形態について知る上で、オウン・マクニールとローレンス・J・ケトルの署名および「1913年12月16日、ダブリン」の日付が記載された『義勇軍暫定規約』および『義勇軍結成のための訓令』が重要である。これらの文書は1913年12月、『義勇軍基本綱領(第一次)』および『資金調達のためのアピール』とともに、4ページからなる小冊子ボランティア・ガゼットにまとめられ全国的に配布されている。かかる文書には、アイルランド義勇軍の目的と方針、そして組織体制が刻銘に示されているのである。
まず『義勇軍暫定規約』について見ると、アイルランド義勇軍の目的として、第1に、アイルランドのすべての人々の共通に諸権利と自由を守り保障すること、第2に、上記の目的のために、アイルランド義勇軍は武装し、訓練され、軍紀を高めること、第3に、あらゆる階層、社会的身分、党派を持つアイルランド人民を結集することが述べられている。さらに、義勇軍組織について、以下のように五つの基本原則が示されている。(1)義勇軍を代表する機関が構築されるまで、アイルランド義勇軍の指導は暫定委員会が行なう。(2)義勇軍諸部隊を速やかに全国規模で編成し、地方司令部を構築する。(3)暫定委員会は各ディストリクトおよびカウンティの地方委員会を承認し、この地方委員会は中央委員会の指導のもと、地方での活動を推進する。(4)中央委員会は各ディストリクトおよびカウンティの地方委員会の権限を定め、基本方針と足並みのそろった活動を要請する権限を持つ。そしてこの目的を実行するに必要な権限を持つ。(5)義勇軍の基礎単位は中隊であり、これらは中央指導機関直属の組織であるとされている41)。
その上で、『義勇軍編成のための訓令』文書では、義勇軍兵士が守るべき規約が12項目にわたってまとめられている。その概要は以下の通りである。第1条:この義勇軍規約の学習に努め、これに違反してはならない。第2条:有能な教官の指導を確保し、すべての退役軍人を可能な限り役立たせる。第3条:義勇軍の参加をすべての組織に呼びかける。この規約と基本綱領を認めるアイルランド人民は義勇軍に入隊することを妨げられない。第4条:暫定委員会は、アイルランド人民からなるすべての部隊を可能な限り代表するものであり、義勇軍内部において、ある特定の部隊がその他の部隊に対して政治的優越を得ようとするいかなる策動や意図と闘う。第5条:すべてのアイルランド人民に共通する諸権利を保障し堅持するという義勇軍の目的が、大衆に理解されるよう努める。第6条:上記の目的に確信を持つ人々には、義勇軍への参加を勧める。第7条:中央指導機関において定められた組織的の指導にしたがう。第8条:義勇軍兵士は必要な経費を賄うための所定の金額を週単位で納める。第9条:義勇軍兵士は各々で制服と銃を購入しなければならない。なお、それ以外の支出が生じた場合は義勇軍財政からの支援金や中隊への還元金によって補填される。第10条:それぞれの部隊は、地方指導機関が設置されるまで中央指導機関直属とし、中央指導機関は各部隊に対して指導し、必要な助言を行なう。第11条:義勇軍兵士は軍の規約を守り、これに敵対する行動は行わない。第12条:中央指導機関と恒常的かつ定期的なコニュニケーションを維持し、かかる司令部は可能な限りの的確で迅速な助言と支援を行なう42)。
次に、義勇軍組織の編成について、義勇軍兵士は小隊、分隊、中隊、大隊、連隊に配属され、それぞれの単位は以下のように組織されている。(イ)小隊は、8名から編成され、そのうちの1名は伍長として行動すること。(ロ)分隊は、2個の小隊から編成され、軍曹の指揮下に置かれること。(ハ)中隊は、4個の小隊から編成され、大尉の指揮下に置く。なお、通常は、中隊はそれぞれ2個の小隊から編成される左翼隊と右翼隊を単位として行動し、それぞれの准中隊は中尉ないしは少尉の指揮の下におかれるものとする。中隊には、ラッパ手または鼓手を2名、工兵1名、軍旗護衛曹長1名、信号手4名を置くものとする。1個中隊は、中隊長1名、下士官2名、軍旗護衛曹長1名、軍曹4名、伍長8名、兵卒56名、ラッパ手または鼓手を2名、工兵1名、信号手4名の79名で構成する。(ニ)大隊は、8個中隊で編成され、大佐の指揮下に置かれ、補佐官を置くものとすると記載されている43)。
このように、アイルランド義勇軍は、理念的には、中隊を基礎にした自治的な連合体としての組織編成を取りつつも、実質的には、分派を許さない一枚岩的かつ集権的な組織原理のもとに組織された集団であったと考えられる。このことは義勇軍の存立基盤の脆弱性を反映したものであった。つまり、その背景として、結成当時、義勇軍兵士の中で武器の使用に手馴れた者は1%に過ぎず、兵士の軍事教練が緊喫の課題であったことと、『資金調達のためのアピール』に見られるように、財政的に厳しい条件の下に置かれていたことを踏まえておく必要であろう44)。
何よりも、ナショナリスト勢力の団結を確保するという課題は、義勇軍の呼称をめぐる議論の中でも重要な意味を持つことになる。ウェインホテルにおける準備会合段階では、国民的な義勇軍の編成を強く主張するマクニールの意向を受けて、義勇軍運動に国民的性格を持たせようとする試みが議論されており、名称をアイルランド国民義勇軍とする案が出されていた。しかし、ロタンダでの公式会合では、この国民的性格は後退し、ナショナルという呼称は削除されている。ここには、アルスターにおけるユニオニストの義勇軍運動に対する直接的な言及は避けられてはいたが、国民的性格を前面に立てないことにより、反ユニオニストおよび反プロテスタントの意味合いを運動に込めようとする意図が見られる。つまり、アルスターにおけるユニオニストの行動に明確に対峙する姿勢を取るか否かという問題を避けては、義勇軍運動を進めることができないという判断がホブソンおよび名称の変更を主張したピアース、バースリーらIRBメンバーのリパブリカンの間には存在した。分離独立の方針とするリパブリカンが指導権を握る準備会において、アルスター問題に関する意思表示をしないことはリパブリカンの団結を乱すものであり、譲ることのできない一線であった。したがって、アイルランド義勇軍は、形式的には民主主義とアイルランド人民の諸権利の保護を謳いつつも、アルスター義勇軍のカウンターパーツとしての性格を本来的に持つものであった45)。
かくて、アルスターをめぐって、ユニオニスト=プロテスタントとナショナリスト=カトリックの二つの勢力を明確に峻別され、対峙する構図がここに出来上がることになる。
こうしたホブソンとマクニールの義勇軍結成の動きに対して、1913年11月の段階では、レドモンドらの議会主義的ナショナリストからの表立った反発は見られない。だが、アイルランド議会党のゴールウェイ北選挙区選出のリチャード・ヘイズルトン下院議員は、マクニールの義勇軍運動を不適切な行為であるとして、慎重な対応を求める書簡をレドモンドに送っている。
つまり、レドモンドをはじめとする主流派勢力は義勇軍運動のその後の動きを慎重に注視する姿勢を取っていたと言えよう46)。
この組織は、1914年のイースター祭以降、レドモンドが議会主義派ナショナリストの義勇軍への接近を黙認する態度に出たことにより、アイルランド議会党支持者を中心に義勇軍への入隊者が飛躍的に拡大することになる。結成当初は約1、850人であった義勇兵は1914年9月には、約18万人を組織するまでに成長していったのである。この時点で、義勇軍内部の党派構成はレドモンド支持派がリパブリカン支持派を上回り、多数派を構成する状況が作られることになった47)。
すなわち、アイルランド義勇軍の勢力拡大は、皮肉にも、議会主義的ナショナリストと分離主義的ナショナリストの分派対立を組織内に持ち込む契機となったのである。 
[4]「アイルランド義勇軍」の危機
こうして結成されたアイルランド義勇軍であったが、その統一性は政治情勢の急激な変化の前に危機に立たされることになる。すでに述べた点であるが、マクニール自身、必ずしもアイルランド議会党を積極的に支持する姿勢をとっていなかった。むしろ懐疑的にその活動を見ていたと言ってよい。マクニールのアイルランド議会党に対する不信感は、二つの争点において、ナショナリストの分裂を引き起こす契機となる。
第1の争点は第3次アイルランド自治法案に「カウンティ・オプション」を盛り込んだ修正案を呑むかどうかという問題であり、第2の争点はアイルランド義勇軍の第一次世界大戦への参加の是非をめぐる問題であった。
第1の争点について見ると、1912年4月、第三次アイルランド自治法案が下院に提出された。
これは、グラッドストンが提出した第二次アイルランド自治法案と同じカナダ方式の自治権付与を内容とするものであり、連合王国のもとで権限移譲に基づいた自治を容認しようとするものであった48)。ここで重要なのは、ウインストン・チャーチルが同年8月に、ロイド=ジョージとレドモンドに送った書簡である。その内容は、いずれかのアイルランドの郡を5年ないしは10年の間、自治法から適用除外するというものであった。これはロイド=ジョージによって、「カウンティ・オプション」として1914年に提案されたプランとほぼ原型をなすものであった49)。
こうした動きに照応して、1912年9月、UUCは『アルスターにおける神聖同盟と誓約』を発表する。この大衆的な運動の盛り上がりを背景に、UUCは12月、アイルランド自治法案からの全アルスターの除外を要求するとともに、翌年1月には、カーソンが同様の内容の修正案を英国下院に提出したのである50)。
他方で、1913年1月に行われたデリー/ロンドンデリー市の補欠選挙で、アイルランド議会党が勝利したことにより、アルスター33選挙区のうち17選挙区を自治法案支持派議員で占めることになった。アルスター選出の下院議員の過半数が第三次アイルランド自治法案を支持するという情勢が生まれたのである。こうした中、アイルランド自治法案は、同月、下院を通過した。だがその後、上院は2度、これを否決し下院に差し戻したのである。しかし、この法案は、原案のままであったならば、議会法にしたがって、1914年7月には成立し、新しいアイルランド議会は1915年7月までにダブリンに設置される見通しであった。しかし、保守党党首ボナー・ローとカーソン卿のラインは、あくまでもアルスターないしはアルスターの一部分は自治法案から除外されるべきであると抵抗し続けたのである51)。7月の上院による2度目の否決を受けて、10月、アスキス政権は国王の仲介で上院および保守党との合意形成のための調整に動き、法案の修正に応じようとした。レドモンドは民族自決原則に基づいたアイルランド全体に対する処理案であれば、修正に応じる準備をしていた。こうした動きの中で、1914年2月、ロイド=ジョージ蔵相は法案の中に、「カウンティ・オプション」County Option条項を盛りこむことを提案したのである52)。
この提案は、アルスター諸郡いずれかについて、6年の間、自治法から適用除外し、その後の帰属を住民投票で決定できるとする内容であった。レドモンドは3年間の「カウンティ・オプション」であれば受け入れられるという立場を取っており、アイルランド議会党の下院議員からの同意を得ていた。しかし、カーソン卿は、英国下院に「カウンティ・オブション」が提起された時、この修正条項に対して、「6年間の執行猶予を与えられた死刑」53)を宣告するものであると批判し、これを拒否していた。
これを受けて、ウインストン・チャーチルは、アルスターが、「カウンティ・オプション」を拒否するということは、かれらが投票用紙より銃弾を選択することであると主張し、ユニオニストに対して妥協の選択を迫ったのである。これには、6年間の猶予期間の間に、少なくとも2回の総選挙が実施される可能性があったからである。保守党のボナー・ローは、この点を踏まえて、次期総選挙で保守党が政権に復帰したならば、一時的な除外ではなくそれを恒久的なものにすることができると考えていた。それゆえ、自由党政府と保守党の議論はアルスターのどの郡を自治法案から除外するのかという論点に絞られていくことになる54)。
第2の争点について、レドモンドが1914年の第一次世界大戦の勃発を受けて、英国の対外政策に協力する方針を打ち出し、アイルランド義勇軍を英国軍とともに従軍させる決断をする。そして、レドモンドは、アルスター義勇軍を中心に構成される第36師団に対抗して、レドモンド支持派のアイルランド義勇軍兵士約18万4、000名を第10師団と第16師団に動員することになる55)。これは1914年のホーム・ルール法の施行を保障し、アルスター問題をめぐる交渉を有利に進めよとする政治的意図が存在した。マクニールはアイルランド義勇軍の総司令官として、英国政府がこの運動を抑圧しようものなら、その場合にのみ武力的抵抗は正当化されるという条件を示した上で、レドモンドの提起を受けて、第一次世界大戦への参加を承諾する56)。
このことは、「イングランドの危機は、アイルランドの好機」という観点に立つリパブリカンの反発を引き起こし、ナショナリスト勢力を分裂に導く重要な契機となったのである57)。
そして、アイルランド議会党がその政治的影響力を後退させていくのとは対象的に、武力闘争も視野に入れた強硬路線をとるシン・フェイン党は党勢の拡大を進めることになる。ナショナリスト勢力の分裂とシン・フェイン党の台頭という展開について言うと、リパブリカンによる1916年のイースター蜂起の影響が重要である。イースター蜂起についての評価については別稿に譲るとして、このイースター蜂起の後、ユニオニストとナショナリストとの間の仲裁に入ったロイド=ジョージは、レドモンドとの間で、アルスターを除くアイルランドに対して、自治法の即時実施を条件に、戦時中はファーマナーとティーロンをアルスターに残し、戦後の議会においてそれらの処遇を検討するという合意を取りつけていた。しかし、この合意は、1917年7月から1918年4月に行われたアイルランド会談での交渉が不調に終わったこととあいまって、戦時体制下において、具体化されるに至らなかった。こうした情勢の中で、レドモンドのアイルランド議会党は第一次世界大戦への参戦支持を表明し、アイルランド義勇軍の動員を進めたのである。つまり、レドモンドの党は、ファーマナーとティーロンを犠牲にすることを提案したにもかかわらず、自治を勝ち取ることができなかったのである。このことは、ナショナリスト勢力の分裂を決定的なものにした58)。
かくて、1918年、アイルランド自治をめぐる交渉が不調に終わると、マクニールは、レドモンド派が多数派を占めるアイルランド義勇軍から分離して、新たな義勇軍組織を編成することになる。そしてこの組織は、シン・フェイン党の指導のもと、アイルランド共和軍(IRA)に継承されていくことになる。 
まとめ
以上、オウン・マクニールとバルマー・ホブソンの行動を軸に、1911年から1913年におけるアイルランド義勇軍形成期の政治過程とその背景、およびその性格と組織形態について検討した。文化的ナショナリズム運動から政治的ナショナリズム運動への移行期において、オウン・マクニールの存在はこの二つの運動を結びつける象徴的な意味を持つものであったと言うことができる。だが同時に、水面下でマクニールの活動を補完し、ナショナリストの要求を政治的かつ組織的な運動に発展させるポジションに存在したのがバルマー・ホブソンであったという点を見ておく必要があろう。ここで少なくとも言えることは、第1に、この時期、アルスター危機の背景に見られる英国政府およびアルスター・ユニオニストの巻き返しを前にして、政治権力に対抗する手段を持たない文化的ナショナリズム運動の限界が明らかになったことと、ゲーリック・リーグの運動をベースに、政治的ナショナリズム運動への転換を余儀なくされたということである。第2に、アルスター・ユニオニストの義勇軍運動を契機に、アイルランド義勇軍が結成されたことは、アルスターをめぐって、ユニオニスト=プロテスタントとナショナリスト=カトリックの2つの勢力の対峙する構図が明確に出来上がったことである。つまり、このアルスター危機を画期として、現在の北アイルランド問題の基本的な対抗軸が構築されたと考えられるのである。第3に、アイルランド義勇軍の形成・展開・分裂の過程を通して、アイルランドにおけるナショナリズム運動が、連合王国の枠内での自治獲得要求を中心とした運動から分離主義的要求を軸とした運動に明確にシフトし、これが主導権を握る状況が生まれてきたことである。残された課題として、アイルランド義勇軍の全体像を解明するためには、1914年以後の政治情勢の変化を踏まえつつ、1916年のイースター蜂起との関係、シン・フェイン党との関係について再検討する必要があると考える。 

1)「19世紀アイルランドにおけるナショナリズムと知識人(2・完)」(『立命館国際研究』第21巻第2号、2008年)を参照。
2)トーマス・クラークは1916年の共和国宣言の起草者の一人である。アメリカ合衆国に移住後、クラン・ナ・ゲールのメンバーとなり、1883年の爆弾攻撃運動の参加し、逮捕され終身刑を受けている。1898年に保釈され、アメリカに戻っていたが、1907年にアイルランドの帰還後、IRBの軍事評議会の創設者の一人として、アイルランド義勇軍とかかわり、1916年のイースター蜂起計画に関与した。
3)Francis Xavier Martin、 ”MacNeill and the Foundation of the Irish Volunteers、” in Francis Xavier Martin and F. J. Byrne (eds.)、 The Scholar Revolutionary : Eoin MacNeill、 1867-1945、 and the Making of the New Ireland、 Shannon、 pp.111-112.
4)The Times、 11 October 1911.
5)Jeremy Smith、 The Tories and Ireland 1910-1914: Conservative Party Politics and the Home Rule Crisis、 Dublin、 2000、 pp.78-79.
6)Eoin MacNeill、 Memoir、 p.74、 in Francis Xavier Martin (ed.)、 The Irish Volunteers、 1913-1915:Recollections and Documents、 Dublin、1963.オウン・マクニールの回顧録である“Memoir”は、1932年から1940年の期間に口述筆記されたものであり、マクニールの長女であるアイリーン・ティアーニーの所有である。ここでは、1963年にF・X・マーチン編集のThe Irish Volunteers、 1913-1915 に資料として所収されたものを利用した。
7)Alan O’Day、 Irish Home Rule 1867-1921、 Manchester、 1998、 p.258.
8)Ulster Day、 Saturday、 28th、 1912. “Ulster’s Solemn League and Convenant、” in Arthir Mitchell and Padraig O Snodaigh (eds.)、 Irish Political Documents 1869-1916、 Dublin、1989、 p.136.
9)Denis Gwynn、 The Life of John Redmond、 London、 1932、 p.232.
10)Francis Xavier Martin、 “MacNeill and the Foundation of the Irish Volunteers、” p.112.
11)Irish Freedom、 April 1912、 p.2.
13)Marcus Bourke、 The O’Rahilly、 Tralee (Co. Kerry、 Ireland)、 1967、 p.69.
14)Eoin MacNeill、 Memoir、 p.74.
15)Francis Xavier Martin、”MacNeill and the Foundation of the Irish Volunteers、” pp.115-116.
18)F. S. L. Lyons、 Ireland since the Famine、 London、1985、 pp.282-283.
19)R. M. Fox、 The History of the Irish Citizen Army、 Dublin、 1944、 p.2.
20)Ibid.、 p.47. 1913年11月13日のベレスフォード・パレス集会で4師団からなる市民軍結成の必要性が提起され、11月18日のカスタム・ハウス集会において入隊者の募集が行われた。
21)Francis Xavier Martin、 “MacNeill and the Foundation of the Irish Volunteers、” pp.124-125.
22)オレイリは「ミッドランド義勇軍が新聞記事以外に現実に存在しているかどうかは、大いに議論の余地があり、疑わしいものだと思われる。だが、アイルランド義勇軍の組織者は、ウェインホテル集会以後、アスローンないしはミッドランド地域に何らかの義勇軍の存在を見出すことができなかったことは確かである」と回顧している。
23)Police Record for Ireland、 CO904/14、 Part 1 (October、 1913).
24)Michael Tierney、 op.cit.、 p.103. ジャルムド・リンチは、義勇軍の結成に直接導いたとされるマクニールの歴史的な論文は、オレイリによって促されたものと主張している。当時、マクニールは病床にあり、そこにオレイリが機関誌の最新号に寄稿してもらうためにマクニールを訪問した際、上記の論文の骨子を指示したとしている。他方、マーカス・バークは、マクニールの「The North Began」文書について、「アイルランド義勇軍の結成に直接導いたとされるマクニールの歴史的な論文は、オレイリによって促されたものであることに疑いの余地はない。当時、マクニールは病床にあり、そこにオレイリが機関誌の最新号に寄稿してもらうためにマクニール邸を訪問した。その際、上記の論文の骨子を指示したのでないか」と推論を立てている。その真偽は定かではないが、少なくとも言えることは、ザ・オレイリが親交のあるマクニールに当時の政治的情報や機関紙の編集長として執筆の機会を提供したことは事実である。Marcus Bourke、 The O’Rahilly、 Tralee (Co. Kerry、 Ireland)、 1967、 p.17.
25)Francis Xavier Martin、 “MacNeill and the Foundation of the Irish Volunteers、” pp.161-163. なお、幹部会メンバーとして指名された12人のうち、モーランは辞退し、J.A.ディーキン、J.キャンベル、W.P.ライアンは11日の第1回会合には出席した後で脱落している。11日と14日の準備会に出席した主なメンバーは、バルマー・ホブスン、オウン・マクニール、パトリック・ピアース、ショーン・マクダーモット、イーモン・セアント、ザ・オレイリ、ジョセフ・キャンベル、ジェイムス・ディーキン、ショーン・フィッツボーン、ピアラス・ベアスレイ、シーマス・オコンナー、ロバート・ペイジ、コルム・オローリン、イーモン・マーチン、ウイリアム・P・ライアン、マイケル・J・ジャッジ、モーリス・ムーアなどである。Bulmer Hobson、 A Short History of the Irish Volunteers、 Dublin、 1918、pp.17-18. An Poblacht / Republican News、 26 November 1998.を参照。
26)D. George Boyce、 Nationalism in Ireland、 London、 1982、 pp.282-283.ロジャー・ケイスメントは、「あなたがダブリンの労働者を鍛え軍紀のもとの組織する運動を始めたと考えています。これは健全かつ当然の運動です。私をこの運動を支持したい。アイルランド人のたくましさを示し、ナショナルな大目的がまったく持って正しいことを証明するために、広範な全国的な運動になること期待しています」とする書簡をマクニールに送っている。
27)National Library of Ireland、 “Eoin MacNeill and the Irish Volunteers”、 in The 1916 Rising: Personalities and perspectives、 p.10.、Francis Xavier Martin (ed.)、 The Irish Volunteers、 1913-1915: Recollections and Documents、 pp.30-31. Bulmer Hobson、 A Short History of the Irish Volunteers、 p.19.
28)Francis Xavier Martin、 “MacNeill and the Foundation of the Irish Volunteers、” pp.115-116. ショーン・マクダーモットは、デニス・マッカローの推薦でIRBに入党している。
29)Eoin MacNeill、 Memoirs、 p.74. 1913年12月13日付のジョン・ホーガンに宛てた書簡には、「私は、公然たる政治家ではない。あなたには、私がまったく以って、政治の指導者になろうという意思も野心もないことを関係するすべての人々に明らかにしてほしい」とある。(John J.Horgan、 Parnell to Pearse ; some recollections and reflections、 Dublin、 1948、 pp.228-229.)
31)Bulmer Hobson、 Ireland―yesterday and tomorrow、 Tralee (Co. Kerry、 Ireland) 1968、 p.43.
32)Francis Xavier Martin、 ”MacNeill and the Foundation of the Irish Volunteers、” p.138.
33)Desmond Ryan (ed.)、Collected Works of Padraic H. Pearse: Political Writings and Speeches、 Dublin、1922、 pp.141-142.リンチによると、かかるピアースの発言から1913年の夏ないしは秋には、ピアースはナショナリストと接触を持っていたと考えられる。その時点で、かれが接触していたナショナリスト・グループはアイルランド義勇軍の結成を決めていたとされている。しかし、ピアースは1913年11月まで、IRBのメンバーではなかったと言われており、12月のIRBの総会にはじめて現れたことが記録されている。これ以前については定かでない。Michael Tierney、 Scholar and Man of Action、Clarendon Press、 Oxford、 1980、 p.102.Diarmuid Lynch、 The IRB and the 1916 Rising、 Cork、 1957、p.23.
34)Brian Farrell、 op.cit.、p.190.
35)Freeman’s Journal、 17 November 1913、 p.4.
36)Bulmer Hobson、 A Short History of the Irish Volunteers、 pp.25-26.
47)Francis Xavier Martin、 “MacNeill and the Foundation of the Irish Volunteers、” pp.178-179.
48)Denis Gwynn、 The History of Partition 1912-1925、 Dublin、 1950、 p.238.
50)A.T.Q Stewart、 The Ulster Crisis: Resistance to Home Rule 1912-1914、 London、 1967、 p.66.
51)Hansard (Commons)、 Vol. 58、 [11 February 1914]、 cols.157-156.
52)Hansard (Commons)、 Vol. 59、 [9 March 1914]、 cols.906-908. Michael Laffan、 The Partition of Ireland 1911-1925、 Dundalk (Ireland)、 1983、 pp.35-38.
55)Leon O’Broin、 Revolutionary Underground: the Story of the Irish Revolutionary Brotherhood、1858-1924、 Dublin、 1976、 p.115.レドモンド支持派は「国民義勇軍」と名乗っていた。第一次世界大戦に従軍した兵士の大部分が十分な訓練を受けた者ではなかったと言われている。他方、この段階で、マクニールを中心とする勢力は約1万1、000名と言われており、かれらは「アイルランド義勇軍」を名乗っていた。
56)Michael Tierney、 op.cit.、pp.150-155.
57)Jeremy Smith、 op.cit.、 pp.156-157. Edmund Curtis and R. B. McDowell (eds.)、 Irish Historical Documents 1172-1922、 London、 1943、 pp.292-297. そもそも、ナショナリストとユニオニストとの間にある相違は、以下のような点において問題となった。つまり、この同盟が英国における汎ケルト運動を組織する諸団体と連帯できるかという点であった。1914年には、チャーチ・オブ・アイルランドのジェイムズ・ハンナイがジョージ・バーミンガムというペンネームで書いた書物の中で、アイルランド人の生活を冒涜するような内容が含まれていたとしてゲーリック・リーグを除名になる事件が起こっている。その背景には、IRBがかかるリーグの指導部を完全に掌握しつつあったという点が重要である。そして、IRBの指導の下で、1915年には、ゲーリック・リーグの代表であるダグラス・ハイドを解任させるなど、指導部構成の大幅な変更が行われたのである。
58)John McGarry and Brendan O’Leary、 op.cit.、 p.95.  
 
国外追放直後の時期におけるブルツクスのロシア革命論(1922-24年)

 

はじめに
ユダヤ系ロシア人の農業経済学者で、ロシアにおけるユダヤ人問題の専門家でもあったボリス・ブルツクス(1874-1938) 1)は、ソヴェト社会主義に対する先駆的な批判者として1980 年代末から注目を集めるようになり、ロシア内外で著作の復刊と研究が進んでいる2)。しかし、彼の生涯の個々の時期に焦点をあてた研究はまだ少ない。筆者は前稿(森岡、2004)において、ネップ開始後の1921 年後半から1922 年の国外追放までの時期におけるブルツクスの理論的活動について論じた。本稿では、それに続いて、国外追放直後の2年間に、ブルツクスがおもに亡命ロシア人の新聞で展開したロシア革命論に注目する。
自由主義の立場からの言論活動を理由に、多くの知識人とともに1922 年11 月にソヴェト・ロシアからドイツに追放されたブルツクスは、1923 年はじめに、亡命ロシア知識人による研究教育機関としてベルリンに創立されたロシア学術研究所の教授となる。そこで彼は、革命前後のロシア経済、特に農業と農業政策についての研究に従事しながら、『ルーリ』等の有力な亡命ロシア人の新聞に、ロシア革命の諸問題に関する多くの論説を発表した。これらの新聞論説は、学術論文に比べて、より広範な読者を対象とする点や、より多様な主題を取り扱っている点で、ブルツクスがロシア革命をどのようにとらえていたかを理解するうえで、格好の材料を提供している。本稿の課題は、それらをできるだけ体系的に再構成することによって、1920 年代前半の時点でのブルツクスのロシア革命論の全体像を明らかにすることである。以下に示されるように、彼のロシア革命論は、社会主義経済(中央計画経済)の理論的批判にとどまらない広がりをもっており、歴史的考察にうらづけられた独自の興味深い主張を含んでいる。
なお、1920 年代後半には、ブルツクスの主たる関心はネップの終焉と集団化・工業化に移ってゆくが、それらに関する彼の見解については、機会を改めて論じることとしたい。
本稿は次のように構成される。まず最初の節では、ブルツクスが追放され、ベルリンに亡命する経緯と、1922 年末-1924 年のブルツクスの活動について整理する。続く5つの節では、ブルツクスのロシア革命論を、土地革命の性格と帰結、国民経済復興の道、知識人の役割と責任、社会民主主義の課題、ユダヤ人問題に分けてとりあげる。最後に、簡単なまとめを述べる。 
T.国外追放の経緯
新経済政策(ネップ)の開始後、知識人たちは、私的な出版活動の復活や、独立した組織的活動の再開を通じて、ソヴェト政府の監視と検閲のもとにおいてではあるが、経済的・社会的諸問題について、自らの見解をある程度自由に表明する機会を獲得した。当時ペトログラード農業大学教授であり、ネップの開始後は農業人民委員部の活動に専門家として関与していたブルツクスは、この機会を利用して、積極的な発言を開始した。
彼はまず、1921 年末から1922 年春にかけて、自らが創刊と編集に参加した『エコノミスト』に、経済効率性やイノベーションの面での社会主義経済の困難を原理的に解明する論文を発表した(Brutzkus、 1922a)。また、1922 年3月の第3回全ロシア農学者大会では、1921-22 年冬の大飢饉に至るロシア農業の破局の根本原因を、「総割替」(私有地の全般的な収奪と再分配)を実行した1917-18 年の土地革命に求め、貿易国家独占の解除を含む私的資本の活動の合法化、農民的私的所有の段階的承認、法の支配の回復を骨格とする、ロシア経済の復興構想を提示した(1922b)。さらに、1922 年夏に農業人民委員部の機関誌に公表した論文では、ブルツクスは、革命前のロシアの農業危機を「土地不足」としてとらえるナロードニキ的理解の根底に自給自足的経済観があることを指摘し、国民経済全体の工業的発展の立ち遅れに起因する農村での過剰人口の滞留に危機の本質を見出す立場から、農学者大会での提言をより詳しく基礎づけた(1922c)3)。同じ頃に刊行した著書『農業問題と農業政策』では、彼はヨーロッパ諸国の農業発展の歴史をふまえながら、私的所有に立脚する家族的な農民経営が、資本主義的経営に対抗して農業生産の主要な部分を支配しうるだけの経営能力をもつことを示し、そのよう能力をもつ独立経営の育成を志向したストルイピンの農業政策を肯定的に評価した(1922d)。
ブルツクスがこれらの活動を全て合法的になしえたことは、ネップの最初の1年に、ソヴェト政府が知識人に対して、どれだけ意識的であったかは別として、その前後の時期に比べて、異例の寛容さを示したことを物語る。しかし、知識人の雑誌や集会がソヴェト政府の政策を批判する論壇となっていることに危機感を強めたロシア共産党は、1922 年の半ばから統制の復活強化に乗り出し、その一環として、知識人の大量追放を計画する。1922 年8月10 日、共産党政治局は、ブルツクスを含む、モスクワおよびペトログラード在住の追放候補者120 名のリストを承認し、また同日、ソヴェト政府は、(裁判によらない)「行政的追放」に関する決定を採択した。ブルツクスが追放対象者に選ばれたのは、直接には、彼が『エコノミスト』の編集委員の一人であったためであるが(レーニンは7月に自ら同誌の編集委員全員の追放を指示した)4)、国家保安部(GPU)が年末に作成した資料からは、農学者大会での一連の発言も警戒の対象となっていたことがうかがえる5)。8月16 日の未明に両首都においてGPUによって実行された一斉検挙により、ブルツクスは、他の『エコノミスト』編集委員らとともにペトログラードで捕らえられた。
拘禁は2ヶ月あまりに及んだが、具体的な嫌疑に基づく逮捕ではないため、取り調べとしては、思想信条やソヴェト政府への態度を確認する尋問が行われたにすぎない。GPUペトログラード県支局は10 月18 日、11 月14 日までの出国を条件としてブルツクスを保釈し、10 月29日に、国外追放処分を最終的に確定した。11 月14 日、ブルツクスら17 名の知識人とその家族は、他の自発的な亡命者とともにペトログラードを出発し、11 月17 日にドイツに入国、ベルリンに到着したのは11 月19 日のことである6)。追放は無期限であり、国外に追放された人々に対しては、許可なく帰国した場合には銃殺するとの警告がなされた。また、ロシアからの資産・文書の持ち出しは厳しく制限されたため、追放の時期に、ブルツクスのものを含む書簡・草稿等の多くの学術遺産が失われた。ソヴェト政府からの旅費の支給や、亡命ロシア人組織による援助はあったが、追放された知識人の多くは、革命後のロシア国内でそうであったように、国外でも、生活の困難とたたかわなければならなかった7)。
ベルリンの亡命ロシア知識人は、ドイツ(プロイセン)の政府と学界、さらに国際連盟などの協力を得て、1923 年2月17 日に、ロシア学術研究所を設立した。ブルツクスは設立準備委員会に参加し、研究所発足後は、教授として評議会の一員となる。発足時の評議会のメンバーには、ブルツクスの他に、N. A. ベルジャーエフ、S. A. フランク、S. N. プロコポーヴィチ、P. B. ストルーヴェら、ロシアの人文・社会科学を代表する人々が名を連ねている。研究所は宗教文化、法律、経済の3つの部局をもち、ブルツクスは経済部局で、農業経済学およびロシアにおける農業政策を担当した8)。
こうしてベルリンでの研究生活を始めたブルツクスは、早速1923 年に、『エコノミスト』に発表した論文を『社会主義経済』という表題のモノグラフとして刊行し(Brutzkus、 1923a)9)、また自らの農業経済理論を体系化した『農業経済学:国民経済学的基礎』を出版した(1923b)10)。
同じ頃、ベルリンやプラハで刊行されていた亡命ロシア人の学術誌に数篇の論文を発表し(1923c、 1923d、 1924a)、1924 年以降は、ドイツの学界でも活躍を開始する(1924s)。これらの仕事と並行して、ブルツクスは、1922 年12 月から1924 年末までに、ベルリンの亡命ロシア人新聞『ルーリ』に、20 本近い論説を寄稿した(1922e、 1923f、 1923g、 1924c-1924r)。またパリの『パスレドヌイ・ノーヴォスチ』にも、2本の論説を書いている(1923e、 1924b)11)。 
U.土地革命の性格と帰結
1917 年10 月に権力を握ったロシア共産党(ボリシェヴィキ党)は、すでに進行しつつあった農民による地主経営の奪取とその農地・農具の自らの間での再分配を、土地布告や土地社会化基本法などの一連の立法によって承認した。1917 年末から1918 年末にかけて、ロシアの地主経営はその大半が解体され、また広範な地域で、土地を私有する独立農民経営が、土地共同体(オプシチナ)に引き戻された。私有地の全般的な再分配という政綱は本来、共産党ではなく、ナロードニキの流れを汲む社会主義者-革命家党(エスエル)のものであったから、エスエル系の知識人は、この土地革命については、共産党の独裁とは切り離して積極的に評価した。
また、社会主義の立場をとらない自由主義的な知識人の中にも、農民による土地の追加的な獲得を、革命の成果と考える者が少なくなかった。
ブルツクスの立場は、この点で、全く異なっている。彼はすでに、二月革命により完全な活動の自由と大きな政治的影響力を手にした社会主義諸党が、ありとあらゆる方法で土地の無償譲渡を農民と兵士に扇動していた1917 年春の時点から、農業問題の根本的な解決を土地の再分配に求めることに強く反対していた。自由経済協会や農業改革連盟で、さらには、臨時政府の土地改革委員会の一員として、彼は、新政府が行う農業改革は、「国民経済の利益」に合致し、その発展と調和するものでなければならないという主張を繰り返した。国民経済の観点からは、分割と再分配の対象となる土地フォンドは、現実に農民の耕作下にある寄生地主的経営に限定し、甜菜糖経営に代表される先進的な資本主義的経営や、独立農民経営については保全をはかるべきである。また、信用協同組合や農民土地銀行による既存の土地信用制度を維持し、土地という国民経済の貴重な資産の有効な利用を保証するために、農民は土地の獲得に際して、市場価格よりもいくぶん安くてもよいが、ともかく対価を支払わなければならない(Brutzkus、1917、 1918)。彼が何よりも危惧したのは、国民経済の観点を無視した農業改革が、「わが国のまだ若い国民経済を完全に破壊するほどの全般的な破局」をもたらすことであった(1917、p. 15)。諸党派が掲げる「社会主義」について言えば、ブルツクスは、「工業と国民経済の発達は、現時点では、資本主義以外によっては考えられない」と明言し、資本主義を否定する人々に対して、「資本主義をどのように切り縮めようと、どのように監視しようと、人民大衆の利益を擁護するために彼らをどのように組織しようと、…提案される改革は、資本主義経済の全般的体制と調和するものでなければならない」と語っていた(1918、 p. 40)。
十月革命以前のこれらの自らの警告を想起しつつ、ブルツクスは、1918 年以降の生産の崩壊から数百万人の死者を出した1921-22 年の大飢饉に至る、彼自身の「最も不吉な見通しをも上回る」ほどのロシア農業の破局の原因を論じる。通常、この破局は、ソヴェト政府による食糧割当徴発の結果であるとみなされている。こうした見方は、「破局のあらゆる責任をボリシェヴィズムに負わせることができる」だけに、反ボリシェヴィキの立場をとる人々にとって、とりわけ都合がよい。言うまでもなく、統治者たる共産党は、「第一に責任を負う」(1923g)。割当徴発は経済生活のあらゆる原理に「深く矛盾する」政策であるだけでなく、農民の抵抗を武力で抑え込むための多くの暴力(軍事力)を伴った12)。ブルツクスは、食糧割当徴発の実行機関たる食糧人民委員部を、政治的な抑圧とテロルの機関であるVChK(ヴェーチェーカー=全ロシア非常委員会、GPUの前身)と並んで、「ロシアにおける共産党独裁の最も有力な機関」と特徴づけ、「両機関のどちらがより残虐であったか、どちらがより多くの血を流したかを言うことは難しい」と述べているほどである(1924c)。
このように割当徴発の害悪と共産党の責任を確認しながらも、ブルツクスは、ソヴェト政府が膨大な人員と軍事力を投入して1920/21 年に徴発した穀物が3億プード(約500 万トン)に満たないことに注意を促す。15 億プードもの穀物を国内外の市場に販売していた第一次大戦直前の時期のロシアの農村にとっては、この負担は、それ自体としては、破局をもたらすほどの大きさではない。それゆえ、「われわれは、破局の原因がそれだけにあるのではないことを認めなければならない」。では、破局の最も根本的な原因は何か? 内戦や旱魃は、もちろん深刻な影響を及ぼした。しかし、ブルツクスによれば、一連の要因のなかで最も重要なのは、「ナロードニキ主義の夢を実現した土地革命」である(1923g)。
土地革命において実行されたのは、個々の農村(郷)単位での土地の再分配であって、ナロードニキが理想とした全ロシア的規模での土地の平等分配ではない。しかし、その点を別とすれば、ナロードニキの(また農民の)平等主義的理想は、「現実がそれらに一定の図式をあてがうことができる限りで、完全に実現された」。共同体農民は、地主の私有地と、共同体から離れた農民の私有地の間に区別を認めず、その結果、北部黒土地帯のように農業問題が特に尖鋭化していた地域では、「ほとんど全ての土地が、地主の土地だけでなく、農民が購入した土地も、またところによってはフートル〔独立農戸の土地〕さえもが、『共同の大釜』に投げ込まれた」(1924c)。
この革命がロシア農業に及ぼした破壊的な影響として、ブルツクスは次の2点をあげる。第1に、それは農民の関心を、生産の増大や経営の改善から土地の追加的な獲得に逸らせ、農村と何らかのつながりを保っている多くの住民を、農村に引き戻した。農民や、再び(あるいは新たに)農民となった人々は、土地共同体を通じて、膨大なエネルギーを費やして、自らが公正と考える基準に従って土地の分配を繰り返した。この過程で、個々の農民の土地利用権は著しく不安定化し、多少とも長期的な土地改良は不可能となり、耕作の規模とその技術的な水準の低下が生じた。
第2に、土地革命は、ナロードニキ主義の理念に忠実に、資本主義的経営の存在権を否定し、農民経営における雇用労働や小作契約を禁止した。さらに、それは余剰を生むいかなる経営の存在も不可能にした。そのような経営は全て、富農的であるとみなされた。農業改革はあらゆる経営を、自給的経営へと平準化した。ステップの巨大な面積、このロシアの穀倉が耕作されなくなった。なぜなら、平時には北部黒土地帯から流入する大量の雇用労働の助力なしには、ステップを耕すことはできないからである。(1924c)
土地を「共同の大釜」に投げ込む「総割替」によって農民経営が弱体化し、市場向け経営が破壊され、播種面積が減少していなければ、割当徴発や内戦や旱魃は、これほどの破局をもたらすことはなかったであろう。さらに、「総割替」の理念が農村から都市に伝播し、「資本の、また財産一般の分割」が叫ばれ実行に移されたという点では、工業生産の崩壊もまた、「総割替」と無縁ではない(1924f)。
このような理解に基づいて、ブルツクスは、農民による土地の追加的獲得を革命の積極的な成果とみなすことに強く反対する。「総割替」を実行したのは共産党ではなく農民自身であり、それを提唱してきたのは広範な社会主義的知識人である以上、破局の責任を共産党だけに負わせることはできない。彼の考えでは、革命の教訓として何よりも重要なのは、農業問題は土地の均等な再分配によって根本的解決が可能であるという、長くロシアの農民と知識人をとらえてきた思想を克服することである。
土地の均等配分の思想がかくも強力であったことに、ブルツクスは革命の「特殊ロシア的」特徴を見出している。土地がもっぱら自給的耕作の手段とみなされたことは、「大衆、またとりわけ農民が、国民経済の価値を認識していなかった」ことの現れである。この無理解は、彼の考えでは、次のようなロシアの歴史的発展の特質から生じた。すなわち、ロシアでは、「国民経済は、農民の必要によって生まれたものではなかった」だけでなく、国民経済の建設のために、各種の貢納や賦役、そして何よりも農奴制により、「農民ははかりしれないほどの犠牲を払うことを強いられた」。農奴解放後の農民の国民経済へのまきこみも、当初は強制的な過程として始まった。その後に生じた「農民経営と国民経済の有機的な結合」を通じて「国民経済の存在は、すでに農民の基本的な必要の充足にとって、なくてはならないもの」になった。
しかし、心理の変化は現実の変化に遅れて始まる。多くの農民は、依然として自給的経営を志向し、国民経済を「ツァーリ」あるいは「旦那連中」の事業とみなし続けた(1924j)。そのため、ロシアでは、「〔ツァーリの〕権威が失墜し、権力それ自体が崩壊したとき、国民経済も滅んだ」(1924f)。
ここでブルツクスが言う「国民経済」とは、たんにロシア国内で営まれる個々の経済活動の総体ではなく、(政治的な統一を背景に)社会的分業によって相互に結合された、有機的な連関を有するシステムを指している。ロシアの農民には、分業の受益者である(あるいは少なくとも、将来受益者となりうる)ことを自覚するための時間が十分に与えられていなかった。しかし、これは、ロシアの破局が必然であったということではない。異なる道がありえたことを示す事実として、ブルツクスは、1905 年の第一次革命後、ロシアの農民経営が「かつてない急速な進歩的発展の時期に入った」ことをあげる。彼のみるところでは、ストルイピンの改革、土地信用制度の整備、そして何よりも農民の協同組合の「力強い成長」は、農民が国民経済に参加するだけでなく、その「積極的な建設者」として、「来るべきロシアの民主主義の登場のもとで、その創造的な力を顕す」展望を切り開きつつあった。この展望が現実のものとならなかったのは、「拙劣で、しかも途方もなく困難な戦争」が革命を呼び起こし、革命が「あらゆる破壊的な力を解き放った」ためである(1924j)。
ヨーロッパ諸国の農業発展史の研究に基づいて、ブルツクスは、工業とは異なり、農業では、その自然条件と密着した産業上の特性により、農民経営が長期的に、地主経営や資本主義的農業経営を駆逐しうる能力をもつことを確信していた(1922d、 1923b)。しかし、農民が地主貴族に取って代わることができるのは、「自らが国民経済の最も重要な構成員であることを自覚する限り」でのことであり、また資本主義的経営に対抗しうるのは、「すでに資本主義的経営が遂行している重要な国民経済的機能を絶えず取り入れる用意ができている」限りでのことである(1924j)。これらの条件は、農民に、国民経済の貴重な資産である土地を、適切に利用する責任を課すが、多少とも正常な条件のもとに置かれるならば、農民大衆はこの責任を負うことができる。
平凡な農民であっても、資本主義的企業以上に土地から多くの作物を得ることができるし、それゆえに土地は彼らに引き寄せられる。(1924j)13)
ロシアの農民もこの点では例外ではない。実際、革命前には、土地の売買を通じて、多くの土地が地主貴族から農民のもとに移動しつつあった14)。
土地利用に伴う国民経済への責任というブルツクスの立場は、土地に対する天賦の権利や、自給的経営の市場向け経営に対する優先権という思想とは両立しない。国民経済の観点に立つならば、農業改革が課題とすべきは、「土地の住民間の均等分配ではなく、住民の職業分化である」。そのためには、「住民の都市や入植地への流れが作り出され、家内工業が発達し、発達しつつある市場の基礎の上に経営が集約化され、労働集約的な甜菜糖・煙草等の経営が拡大しなければならない」(1924c)。ロシアの国民経済は、黎明期においては確かに、農民にとって外的で、農民に犠牲を強いる機構であった。しかし、起源がどうであれ、一定の段階に達した時点では、発達しつつある国民経済は、分与のために切り取られた一片の土地よりも、住民の現在にとって、またそれ以上に住民の将来にとって、大きな意義をもっている。(1924c)
国民経済の意義を理解せず、その運命に対して「軽率な態度」をとったために、ロシアの農民は「途方もない犠牲を払わなければならなかった」(1924j)。このように農民自身の(共産党や知識人とは異なる次元における)責任を指摘しながら、ブルツクスは、多くの農民がすでに、「革命の苦しみを通じて、…土地の均等化は自らの運命を改善するものではないということを理解」し、そのエネルギーを創造的な労働へと向かわせていることに期待をよせる。農民が層として、土地の獲得から経営の改善に関心を移したことこそが、逆説的ではあるが、彼にとっての土地革命の「最も重要な成果」であった(1924j)。 
V.国民経済復興への道
土地革命を批判するからといって、ブルツクスは、革命前の状態への復帰を唱えているわけではない。そのような復帰の可能性を彼が否定するのは、まさにネップのもとで「国民経済がすでに復興しつつある」からである。「かつての生活の廃墟に新しい生活が芽を出している」以上、「旧いものを復活させようとするあらゆる試みは、立ち直りつつある生活を再び混沌の中に投げ込むことになる」(Brutzkus、 1924c)。
ネップの導入後、ソヴェト政府は、個々の農民に、食糧税納入後に穀物を自由に売買する権利に加えて、個別的あるいは集団的に共同体から離脱し、必要ならば土地整理を行ったうえで、自らにとって望ましい形態で土地を利用する権利を認め、さらに、雇用労働の利用や小作契約を、制限つきながらも許可した。その一方で、土地共同体に対しては、頻繁な土地の割替えが安定的な経営を妨げることがないよう、割替えの実施周期に対する規制を導入した15)。ソヴェト政府によるこれらの一連の立法を、ブルツクスは、「めざましいもの」として積極的に評価する(1923e)。
もちろん、ネップは共産党の独裁を維持する目的で開始された。しかし、ブルツクスによる政策評価の基準は、政策発案者の階級的利害ではなく、それが国民経済の発展と調和的であるか否かにある。彼は、ストルイピン改革にも、同じ基準を適用した。ストルイピンの農業立法は、旧体制を維持するために開始されたし、また特にその初期の局面では、「粗野で警察的な手法」を伴っていた。にもかかわらず、農民が共同体から自らの土地を分離し、それらを自らの(家族単位の)個人的資産として取り扱うことを認めるという改革の基本原理は、ブルツクスからみて、住民の職業分化と農民経営の強化を促進する点で、国民経済の発展にかなうものであった。彼は、ストルイピンの改革に伴う農民の共同体からの離脱の動きを、革命前の10年の農民経営の成長をもたらした要因の一つとみなしている(1923e)。
革命の前後を通じて、進歩的たることを自認する多くの知識人は、ストルイピンの改革を、一方では私的所有に対する敵意のゆえに、他方では反革命的専制政府に対する敵意のゆえに、二重に嫌悪した。そのため、ブルツクスのように、改革の当初からこの改革を一貫して擁護した知識人は、きわめて少数である16)。しかし、ソヴェト政府は農業の復興を加速するため、上述のように農民に共同体からの離脱の権利を含む土地利用形態の選択の自由を認め、事実上、ストルイピンの立法を復活させた。「ある思想の最も偉大な勝利は、それが敵によって採用されることである」。ストルイピンの思想がそのような勝利を得たことを称賛しつつ、ブルツクスは、彼の改革はその意図にもかかわらず「地主貴族的土地所有を救済することはできなかった」と付け加えることを忘れない。その勝利は、皮肉にも、革命による旧体制の転覆の後に生じ、「自らの自由と創意を発揮しつつある」無数の農民経営に立脚する新たなロシアのもとで「地主貴族のロシアの破滅を確実にする」役割を担うことになったのである(1924k)。
ソヴェト政府は、農民に共同体からの離脱は認めたが、土地を私有財産として取り扱うことは認めなかった。土地所有の問題について、ブルツクスは、「ロシアの進歩的知識人の心の中には、依然として農民的土地所有を、あたかも農民にとってきわめて危険な制度とみなす強い偏見がある」ことを指摘する(1923e)。彼の理解では、このような考え方は、ヨーロッパ諸国の農業発展の歴史にも、またロシアにおける私有農民の実態にも合致しない17)。農業の復興をさらに推し進めるためには、農民による土地の私的所有の「段階的承認」に向かうべきであるという、1922 年3月に全ロシア農学者大会で表明した見解を、ブルツクスは1923-24 年の時点でも堅持した。私的所有を原理として望ましいものとして認めながら、即時ではなく段階的な導入を唱えるはなぜか。彼はその点について次のように説明する。
この留保条件は、私が農民的土地所有の原理を擁護することと矛盾するものではない。
あらゆる条件のもとで望ましい社会制度というものは存在しない。…未成熟な経済的環境のもとでは、土地はその自らの自由な移動を通じて、抜け目のない高利貸しのもとに引き寄せられ、社会関係にとっても、生産にとっても害をもたらす(1923e)18)。
革命前にブルツクスが土地の自由な売買や抵当設定を支持したのは、農民経営の水準、貨幣価値の安定性、組織された商業、信用協同組合の発展、土地信用機関の存在などの一連の条件のもとで、「私的所有の承認が国民経済に対して害悪よりもはるかに多くの利益をもたらす」ようになっていたからである。しかし、革命後のロシアには、これらの条件はもはや存在していない。農民経営は脆弱になり、貨幣価値は定まらず、商人は不効率で略奪的な国家的配給組織に代わり、信用協同組合や農民向けの土地銀行は廃止された19)。こうした状況のもとでは、「完全に自由な土地の交換は、農民の土地の著しい部分の喪失をもたらし、国民経済の正常な発展を損なう可能性がある」(1923e)。農民向けの信用協同組合一つをとってみても、困難な歴史を経てようやく確立されながら、革命によって完全に破壊されたこの「繊細な機構」を再生するためには、「ロシアではまだ多くのことが変化しなければならない」(1923d)。
ブルツクスの考えでは、「農民的土地所有は、高度な経済的文化の精華である」(1923e)。すなわちそれは、多くの社会的経済的条件と結びついて、はじめて開花する。ここから、次のような重要な結論が導かれる。
ロシアの復興にとって農民的土地所有の完全な自由が必要であることは、われわれにとって明白である。しかし、この自由の宣言から国民経済の建設を始めることはできない。
それはこの建設の最後の環でなければならない(1923e)。
農業復興のための当面の諸方策には、農村に逃れた人々の都市への帰還の支援、開拓地への入植の再開(その資金の調達は土地信用の制度を必要とする)、土地改良事業などが含まれる。
また、「都市への牛乳の供給、砂糖工場への甜菜糖の供給、家畜と種子の改良された品種の繁殖、等々」のために、「一定量の資本主義的経営が必要」である(1923e)。これらの成否の鍵を握る要因として、ブルツクスは農産物、とりわけ穀物の輸出の問題を重視する。瓦解からの復興の途上にあるロシアの国内市場は、今後長期にわたって、十分な購買力を持ち得ない。ロシアの都市は、食糧税によってのみ生き延びることができる。それゆえ、「ロシアの農産物の購買力をもった買手は、外国市場のみである」。世界市場では戦後も農産物の価格は高水準にとどまっており、ロシアの農産物には十分な競争力がある。ブルツクスの考えでは、「ロシアの農業と外国市場の生きた結びつきに基づいてのみ、ロシアの国民経済の急速な回復は可能である」。この結びつきを強め、しかるべき法的環境を整えるならば、西欧は、「ロシアのような重要な原材料の供給源の復興に資本を供与することを惜しまないであろう」(1923f)。
ロシア農業の復興にとっての穀物輸出の重要性を、ブルツクスはすでに「数百万人の飢えた人々の呻き声」が響き渡っていた1922 年の春に強調している(1922g、 1923e)。米国を中心とする国際的な飢饉救済事業がいまだ継続中の1923 年にソヴェト政府が穀物の輸出を開始したとき、『ルーリ』を含む亡命ロシア人の新聞がこぞってこれを糾弾したのに対して、ブルツクスは、飢饉を理由に穀物輸出に反対することは正しくないという見解を表明した(1923f)。飢饉についての彼の考えは、次のようなものである。
「1922/23 年には国内には飢えた人々に食べさせるだけの穀物があった」し、経営の弱体化と食糧税の重い負担による農民の購買力の著しい低下のもとで、穀物価格は下落傾向にあった。
それゆえ、農民が飢えていたとすれば、それは穀物の絶対量の不足やその価格の高騰のためではない。飢餓は、「農民に穀物を買うのに必要な少額の資金すらない」ために、したがって、「『共産主義的』政府が彼らに不十分な援助しか行っていない」ために生じた。ソヴェト政府が飢えた人々を十分に救済しないのは、政府自身が貧しく、また他の政府と同様に、最優先すべき国家的必要を有しているからである。「プロレタリアート独裁の国家」では、この国家的必要の優先は、「貧窮した国家が、その最後の金を、世界革命の援助に支出する」という形で現れる(1923f)。
穀物の絶対量が不足していなかったのであれば、1922/23 年の1000-2000 万プードの輸出が、「それ自体として飢えた人々の給養を妨げることはありえない」。穀物輸出が国家(あるいはその統制下にある協同組合)によってではなく、私的な事業として行われるのであれば、これを認めるべきである。「ピョートルが穀物の余剰を持っており、別のどこかでイワンが飢えている」とき、ピョートルには「人間として、イワンにいくらかを寄付する義務があり」、また「市民として、国家に対して飢えた人々を給養するよう要求しなければならない」が、そのことを理由に、「ピョートルが自分の穀物を、自分に有利なように販売するのを、妨げることはできない」。さもなければ、「彼は子牛を育てたり、犂を買ったり、物置を修繕したりすることができず、今日イワンが飢えているように、翌年には自分が飢えることになる」からである(1923f)。
農産物の輸出を促進するために、ブルツクスは、貿易の国家独占の廃止を提唱する。ネップの導入後、外国貿易は「社会主義の原理が揺るがずに残っている」最も重要な領域となった(1924r)。外国貿易人民委員部とその下部組織は、「生産者にとって最も高くつく、最も略奪的な」組織であり、また「本質的に独占的」な組織である(1923f)。ロシア国民経済の社会主義的諸制度は、その全体が「農民の創造的エネルギーを搾取」することで存続しているが、それらのなかでも「外国貿易人民委員部ほど有害なものは、他にはない」。それは、「国有化された工業のたいていはきわめて劣悪な生産物を、比較にならないほど高い価格で買うように〔農民に〕強いている」だけでなく、「外国市場の農民にとって肯定的な意義を台無しにしている」。
貿易を私的な商業組織や真に独立した協同組合に委ねることなしには、農民は農産物の輸出から、「豊作の年に経営を整え、衝撃を受けずに…凶作の年を切り抜けられるようにする」だけの十分な等価物を受け取ることはできない(1924r)20)。
ネップの諸政策、とりわけクルップ社その他の外国の資本家に対する利権供与は、共産主義イデオロギーとの両立可能性についての論議を呼び起こした。しかし、ブルツクスは、この種の問題にさしたる意味を認めていない。彼にとって、「ロシア市民がその政治的志向に関わりなく協力しなければならない緊急の課題」は、何よりもまず「ロシアの経済復興に有利な状況を作り出すこと」であった。その際、あれこれの措置のイデオロギー整合性については、「ボリシェヴィキ自身に考えさせればよい」(1922e)。
このように経済復興に第一義的な価値を認め、復興を促進するソヴェト政府のあらゆる政策を歓迎するブルツクスの議論は、「国が経済的に再生すれば、ボリシェヴィズムは自ずと崩壊するであろう」という長期的な展望と結びついている(1922e)。共産党指導者は経済の復興を望む限りネップを自ら覆すことはできないし、自由市場や私的資本の復活は、「最終的には、政治の領域においても、しかるべき帰結をもたさずにはおかない」であろう(1924c)。彼がソヴェト政府によって断続的に行われる私的な商業や手工業に対する攻撃を、政策の根本的転換ではなく、「共産主義の痙攣」と特徴づけたのも、こうした観点からである(1924l)。
周知のように、ブルツクスの期待は、1920 年代後半のソヴェト体制の急激な政策転換によって裏切られた。しかし、ようやく経済の復興が始まったばかりであるにもかかわらず、ソヴェト政府が急速な工業化のために再び、しかもこんどは強制的集団化というより徹底した形態で農民に戦争を挑む―そのような可能性を1923-24 年の時点で予想できなかったとしても、それをもって彼の現状認識に重大な誤りがあったとは言えないであろう。ここではむしろ、ブルツクスが早くも1928 年にネップの終焉と社会主義建設への突進を新たな革命として認識し、その過程と帰結の詳細な分析を開始したことを特筆しておきたい。 
W.知識人の役割と責任
第II 節で述べたように、ブルツクスは、革命後のロシア経済の破局の責任の一端は、二月革命期に「革命的民主主義」を担ったボリシェヴィキ以外の社会主義諸党派―社会主義者-革命家党(エスエル)、社会民主労働党(メンシェヴィキ)、勤労人民社会主義者党(エヌエス)など―とその知識人にもあると考えている。帝政の崩壊後、これらの諸党はソヴェトの演壇から地主所有地の農民への無償での譲渡、資本家に対する統制、資本利子の廃止、私的商業の国家的配分機構への置き換えを扇動し、臨時政府への入閣後は、その立法化に取り組んだ。ブルツクスからみて、彼らとボリシェヴィキの主要な違いは、彼らが、これらの変革を、「流血なしに、白い手袋で実行することを約束した」ことにある。すなわち、「階級闘争とブルジョアジーへの憎悪を煽りながらも、彼らは『何でも自由にしゃべってよいが、殴り合いはするな』と付け加えるのを忘れなかった」(Brutzkus、 1924d)。
エスエル党の亡命幹部の一人M. ヴィシュニャークにとっても、ボリシェヴィズムの害悪は、その「経済的綱領」にではなく、もっぱらそれを実行する「政治的方法」にあった。それゆえ彼は、土地革命それ自体を批判し、ネップを評価するブルツクスの議論を、「奇妙」で「風変わり」なものとみなした21)。これに対して、ブルツクスは、「政治的行為の形式と内容の間の深い、争う余地のない深い結びつき」を指摘する。ボリシェヴィキが革命的行動力において他党を圧倒しえたのは、彼らが「〔革命的な〕目的は、それにふさわしい方法によってのみ達成しうること、社会革命は内戦でしかありえないこと」を誰よりも明瞭に理解していたからである(1924d)。
社会革命からは、かつてないほどに抑圧的な体制が生まれた。ロシアは歴史的に、「自由な個人の人格がけっして承認されたことのない国」であるが、それでも、ブルツクスによれば、帝政下の「反動の最も困難な年月においてすら、共産主義の権力下におけるほどに人間の人格が侮辱され、踏みにじられたことはない」。旧体制下の抑圧は、「国家の機能が制限されていた」ことによって限界づけられており、「政治的信念や宗教的・民族的特徴」を理由に公務から排除された人々には、「私的な仕事につき、私的な事業を始め、資本を蓄える」機会が残されていた(1924d)。しかるに、共産主義の権力はいつでも、気に入らない市民を飢え死にさせることができる。ネップの下でさえ、国家の機能は途方もなく広大であり、無制限の専制という退廃的状況のもとでは、自らの人間的な尊厳を守るには大きな道徳的自制が必要であり、自らの市民的義務を果たすためには、自制だけでなく、勇気が必要である。(1924d)
ヴィシュニャークのボリシェヴィキ批判が、同党が掲げる社会主義的目的にではなく、もっぱらその実行における民主主義的方法からの逸脱に向けられていることについて、ブルツクスは次のように言う。世界の歴史は、まだ社会主義が民主主義を伴って実現された実例を知らない。しかし、たとえ社会主義と民主主義が結合されたとしても、それだけでは個人の自由は保証されない。
民主主義のもとにおいても、個人の自由のためには、それ以外の多くの前提条件が必要であり、その中で最も重要なものは、私有財産である。(1924d)
私的所有がなくなれば、国家から自立した私的活動の領域もまた消滅する。それゆえ、ヴィシュニャークのように、「社会主義の名で私的所有を誹謗」しておきながら、私的所有の廃止を実行したボリシェヴィキを、その必然的結果である個人の諸権利の破壊のかどで批判することはできない(1924d)。
臨時政府が実行した諸政策の中でも、ブルツクスは特に、1917 年3月の穀物独占法を、ソヴェト政府の食糧割当徴発に結びつく「致命的な誤り」とみなしている。この法律は、たんに穀物売買を国家独占とするだけでなく、農民の穀物を(一定の最小量を控除したうえで)登録し、国有財産として取り扱うことを規定しており、その意味で、「農民が耕して得た穀物は農民のものではない」ことの宣言と呼べるものであった(1924c、 1924h)。二月革命以前にすでに、旧体制は食糧不足への対処を目的として穀物市場に対する規制を断続的に強化し、それによって「私的な穀物取引の巨大な機構を麻痺」させていたが、その政策は全体として、特定の教義に基づかない「経験的」な、それゆえに「動揺的」なものであった。これに対して、二月革命後に前面に現れた社会主義者は、「平時であれ、戦時であれ、われわれを社会主義に近づけるものは善である」という強い確信のもとに、穀物市場の全面的規制を主張した(1924c)。穀物独占法が制定されたのは社会主義諸党の入閣前であるが、そこには、このような社会主義的知識人の立場が強く反映されている。臨時政府には穀物の登録と徴発を実行する機構がなく、そのため実際には、むしろ固定価格の引き上げによる穀物の調達がはかられた。しかし、「悪しき種は播かれた。共産主義者がやって来て、それを育てた」。ソヴェト政府は、「農民大衆の中に階級闘争の燃えさかる松明を投げ込」み、「国家による農民からの穀物の取り上げに対するあらゆる抵抗を粉砕することをいとわない、信頼できる部隊」を自らの隊列から選抜することによって、割当徴発を実行した(1924c)。
社会主義的知識人の政治的責任についてのブルツクスの議論は、S. P. メリグノフとA.V. ペシェホノフという2人のエヌエス指導者との直接の論争を呼び起こした22)。エヌエスは政党として国民経済の観点を無視した破壊的な政策を唱えたことはない、という彼らの主張に、ブルツクスは、次のように反論する。まず、ペシェホノフが革命前から穀物独占の提唱者であり、その立法化をめぐる議論に参加し、1917 年5月からは食糧相として穀物独占法の実施にあたったことは周知の事実である(彼は穀物の固定価格引き上げに抗議して辞任した)。また、エヌエスの政策全般について言えば、その綱領にはおそらく、「私〔ブルツクス〕が共感し、価値を認めないわけにはいかない」ことが多く書かれているであろう。しかし、残念ながら、私は、ボリシェヴィキ的地獄ですらも、その全体が善意で敷き詰められていることをはっきりと知っている。政党の役割が評価されるのは、綱領に記された善意によってではない。(1924e)
二月革命後の時期に、エヌエスはソヴェトや臨時政府の諸機関においてほとんど常にエスエルと行動をともにし、けっしてエスエルによる土地無償分与の扇動と正面からたたかわなかった。これは、エヌエスにとって、国民経済の観点が、「二次的なものであり、重要な瞬間には、意味をもたなかった」ことを示すものである。それゆえ、たとえ綱領に何が書かれていようと、エヌエスは、その実践的行動を通じて社会主義的扇動に加担した責任を免れない(1924h)23)。
二月革命期の社会主義諸党の行動をブルツクスが問題にするのは、「過ぎ去ったことをいたずらに嘆く」ためではない。それは、「新しいロシアの建設において、過去の経験が、われわれを、起こりうる誤りから逃れさせてくれるようにするためである」(1924c)。国民経済の瓦解と「偉大な文化的価値」の滅亡を伴った革命の悲劇を繰り返さないためには、「この破壊をもたらした限りでの、革命的民主主義の致命的な熱中と誤り」を、隠すことなく解明しなければならない(1924h)。多数のロシアの住民が「資本主義的・地主的搾取の完全な廃止の後で平等に餓死し」、人肉食が日常化するという「悲惨きわまりない光景」を目にして、なお学ばずにいることは許されない。社会主義者の主張にもかかわらず、全ての文化的な諸国民は、あれこれのやり方で資本主義を受け入れており、もし経済的な必要性があるならば、ロシア国民もまた、資本主義を受け入れなければならない。そしてもちろん、ロシア国民は今や、それと折り合う準備ができている。(1922e)
いまやロシアの民衆は、「信じがたいほど困難な条件のもとで」立ち上がり、創造的な活動を開始しつつある。にもかかわらず、もし亡命地にある知識人が、以前と変わらぬナロードニキ主義や社会主義のスローガンを携えて彼らの前に赴くとすれば、それは「すでに覚醒しつつある民衆の意識を曇らせることができるだけである」(1924i)。亡命知識人は、今後「ロシアの国民経済の復興に積極的な役割を果たそうとするのであれば」、自らの旧い見解の残滓を「早急に払拭しなければならない」(1923g)。そのためにブルツクスは「ロシアにおいてたたかった」。そして彼は、同じ目的のために「亡命地においてもたたかう」ことを、自らの責務とみなしている(1924i)。
ユダヤ人の迫害を直接経験したブルツクスにとって、専制から解き放たれた民主主義ロシアの到来は、「私の生涯における灯火」をなす希望であった(1924i)24)。それだけに彼は、この民主主義ロシアの崩壊をもたらした責任の一端を担う社会主義的知識人の多くに、自らの責任に対する自覚が全く欠けているのを、そのままにしておくことはできなかったのである。
このように社会主義的知識人を批判するからといって、ブルツクスは、彼らの歴史的功績を全く無視しているわけではない。「西欧の社会主義者が、マルクスにしたがって農民経営を時代遅れの野蛮な生産形態として蔑視していた」19 世紀において、ロシアのナロードニキが農民経営の「未来に確信を抱いていた」ことを、彼は高く評価する。ナロードニキが鼓吹した「勤労農民経営の尊重」の精神は、「ロシアの知識人の良質な勢力を農民および農民経営への奉仕に向かわせ」、ロシアにおいて「民主主義の基礎を据えた」(1924j)。また、革命前のロシアにおける協同組合のめざましい成長は、彼らの「自己犠牲と理想主義に多くのものを負っている」。
ナロードニキ的知識人の「無私の努力によってのみ、協同組合は、十分な準備のなかったロシアの土壌に根づくことができた」(1924m)。
これらの偉大な功績にもかかわらず、ナロードニキは、自給的経営の理想視と、天賦の権利としての土地の均等分配の要求という、農民のイデオロギーにおける「創造的ではなく破壊的な性質をもった要素」を育てることにより「自らの農民への奉仕において、行き過ぎてしまった」。ナロードニキによる土地共同体の擁護と土地社会化の綱領は、「総割替」という農民の「救世的思想」の理論化である。さらに、彼らは、「西欧の社会主義を農業に適用することを原理的に拒否した」が、しかし「私的所有と私的創意の原理に立脚する現存の『ブルジョア的』国民経済に対する否定的な態度」に理論的な基礎づけを与える限りで、西欧の社会主義を受容し、自ら社会主義者を名乗った(1924j)。こうして、ロシアでは、ナロードニキ主義とマルクス主義は、理想社会の構想を著しく異にしながらも、資本主義と私的所有への深い敵意の共有を媒介として、独自の結合を遂げた。
私的所有に対する敵意は、協同組合運動においても、否定的な結果をもたらした。革命後、協同組合はソヴェト政府による弾圧の後、独立性を失って、ソヴェト政府の実質的な下部機関に変質した。そのため、ロシアでは、「協同組合の思想そのものが、広範な民衆の間で信用を失う」に至った。ブルツクスによれば、このような事態が生じたのは、ロシアの協同組合がまだ若く、「民衆の意識の中に深い根をおろすことには成功していなかった」ことに加えて、協同組合を指導していた知識人の多くに、「協同組合は自由な貨幣経済の幹からのびる貴重な花である」という認識が欠けていたためでもある。協同組合と私的企業は、市場の獲得をめぐって競争関係にあるが、ともに「自由な貨幣経済の子」であり、「貨幣経済が滅ぶと、協同組合も必然的に滅ぶ」。協同組合の指導者たちは、ナロードニキ系の知識人においては、その総割替の理念への共感ゆえに、マルクス主義系の知識人においては、協同組合を「社会主義に至る運動の一手段」とみなす立場ゆえに、「危機的な瞬間に、社会主義の破壊的な力に対抗して住民を自由な貨幣経済の擁護へと組織する」という任務を果たすことができなかった(1924m)25)。
農民経営に依拠して復興しつつあるロシアでは、ナロードニキ主義の精神はなお必要とされている。しかし、ブルツクスの考えでは、それは、革命がもたらした「新たな歴史の呼び声」に応え、農民経営尊重の精神と国民経済の視点を結合する「新たなナロードニキ主義」でなければならない(1924j)。 
X.社会民主主義の課題
社会民主主義論は、ナロードニキ論ととともに、ブルツクスのロシア革命論の重要な構成部分である。共産主義インタナショナル(コミンテルン)の設立後、世界の社会主義運動は、共産主義と社会民主主義に分裂した。コミンテルンは世界革命を掲げ、ブルジョアジーだけでなく、彼らが「裏切り者」とみなす社会民主主義者に対しても、激しい攻撃を加えた。ブルツクスは、この二つの潮流の対決において、社会民主主義が「自らの実践的活動においてマルクス主義から遠く離れながら、理念のうえでは、常にマルクスに訴え続けている」ことに、大きな弱点を見出す(Brutzkus、 1924o)。ここで彼が特に念頭に置いているのは、ロシア革命の以前には国際社会主義運動の中心であったドイツ社会民主党である。
第一次大戦末期に生じた革命において、ドイツの労働者は、共産主義者ではなく、「民主主義と個人的自由の原則を厳格に遵守して社会革命を行うと約束した、穏健な社会主義者に権力を委ねた」。革命により権力の座に押し上げられたドイツの社会民主主義者が、「ドイツを、またそれとともにヨーロッパの文明を、大いなる、最終的な破局から救った」のは、「偉大な功績」であった。しかし、彼らは、自らの約束に反して、社会革命を実行せず、「ドイツの人民を社会主義には一歩たりとも近づけなかった」。それゆえ、社会革命を遂行するという点では、彼らは「社会主義の裏切り者」と呼ばれてもやむをえない。一方、少なくともこの点では「ボリシェヴィキはロシアの人民を欺きはしなかった」。かくして、「ロシアとドイツの経験は、見事なまでに互いに補いあう」(1924d)。それらは、プロレタリアート独裁と革命的社会主義は不可分であり、前者を否定して後者を実行することはできないことを実証した。
問題は、にもかかわらず、社会民主主義者が依然として理論のうえではマルクス主義を信奉していることにある。ドイツ社会民主党や、各国の社会民主党を結集する第二インタナショナルは、この立場から、恒久的な平和は、プロレタリアートによる政治権力の獲得と、資本主義的諸制度の除去によってのみ可能であるという宣伝を行い、コミンテルンに対しても、なんとか「話をつけたい」という気持ちから比較的寛容な態度を保っている(1924n)。その際、彼らは資本主義の廃止が漸進的な過程であることをマルクスからのあれこれの引用で権威づけようとしているが、ブルツクスの考えでは、「学者としてのマルクス」はともかく、「政治家としてのマルクス」の本領は、「革命家」たるところにある。革命家マルクスは、議会主義を否定し、「社会主義を確立する前提条件を、強制的手段による権力の奪取に求めた」(1924o)。コミンテルンが称揚する、「正義の支配を確立するためのためらいなき強制を通じた、少数者の統治」という思想や、普遍的な道徳はなく、ただ「個々の異なる諸階級にそれぞれの道徳がある」だけであるという思想は、ともにマルクスにその理論的基礎を求めることができる。少数者の統治は独裁でしかありえず、政治的テロルは、「その不可避的な随伴物」として現れる(1924n)。
帝国主義戦争に反対する運動と、社会主義をめざす運動を同一視することもまた、大きな誤りである。ブルツクスに言わせれば、このように、帝国主義戦争に反対しながら、同時に社会革命を呼びかけるのは、労働者を「一つの炎から別の炎に投げ込むようなものである」。そもそも、資本主義は常に好戦的であるわけでなく、また、「社会主義自体も、平和の保証とみなすことは少しもできない」。西欧諸国はまだソヴェト・ロシアに軍事的脅威を感じていないが、それはただ、今のところ「この社会主義国家が経済的に貧窮し、軍事的にも無力」であるからにすぎない(1924n)。平和運動は必要であり、この運動に「ヨーロッパ社会の多様な層が広範に参加」しつつあることは喜ばしい。しかし「戦争に反対するたたかいは、けっして社会主義をめざすたたかいと一体化すべきではない」。第二インタナショナルがコミンテルンとともに二つの運動を一体のものとみなし続けるならば、その意図にかかわらず、「ボリシェヴィズムの事業を助ける」ことになる(1924o)。
結局、「その学説とマルクス主義の結びつきの必要性に固執する」限り、社会民主主義は共産主義と正面からたたかうことができないだけでなく、「共産主義のための地盤を準備しているという非難から逃れることができない」(1924o)。以上の考察から、ブルツクスは次のような結論を導く。すなわち、「ボリシェヴィズムの克服は、マルクス主義自体の克服を通じてのみ可能である」。社会民主主義はそのために、「悪しき道を通じて正義の支配を打ち立てることができる」し、「階級の廃絶および平等と正義の実現のためには全てが許される」という、革命的マルクス主義の中心的命題をきっぱりと退けなければならない(1924o)。それによってはじめて、社会民主党は「革命の党から勤労大衆の現実的・具体的利益の名による社会改革の党へと最終的に変化」することができる。ブルツクスの見るところでは、この方向への変化はすでに始まっているが、その歩みは今のまだ「きわめて緩慢」である(1923a、 p. 4)26)。
ブルツクスがこのように社会民主主義に自己変革を求めるのは、社会民主主義が、資本主義経済における勤労大衆の利益を擁護し、その力を高めるうえで、きわめて重要な役割を果たしているからにほかならない。自由放任に反対し、経済的強者による経済的弱者への暴圧を是正する措置の必要性を認めるブルツクスにとって、勤労者の立場を擁護する健全な政治勢力の存在は、資本主義経済においてなくてはならないものである。彼は、勤労諸階級の経済的・社会的・政治的力の伸張をめざす運動としての広い意味での社会主義と、マルクス主義との結びつきを、「必然的なものとはみていない」。しかし、社会主義が、自らを破壊的ではなく、創造的な可能性をもつ思想であると主張するのであれば、「この〔マルクス主義との〕結びつきは解くことができるし、解かれなければならない」(1924o)。
ロシア国内の社会民主主義者であるメンシェヴィキは、共産主義の現実について西欧の友人たちよりも多くのことを経験によって知っている。それでも、彼らが、第二インタナショナルに対して、ソヴェト政府は、かつてのツァーリの政府と同様にロシアの発展を妨げていると語るとき、そのような評価は、ブルツクスにとって、なお不十分である。彼の考えでは、「旧体制がいかなる罪を負うものであろうと、それをボリシェヴィズムの体制と同列に置くべきではない」。ボリシェヴィズムは第一世界大戦の「最も恐るべき帰結」であり、戦争に敗れた国々においてすら、「ボリシェヴィキがロシアにもたらした経済的・文化的・道徳的衰退」に多少とも近い現象はみられない」(1924n)。しかるに、第二インタナショナルの指導者たちは、まだソヴェト体制についてあいまいな観念しかもっておらず、その本質を理解していない。この点についてのブルツクスの懸念は、1920 年代末からの、ソヴェトにおける外面上はめざましい社会主義建設の時期に、ますます深まってゆくことになる。 
Y.ソヴェト体制とユダヤ人
革命前にはユダヤ人問題、特に国内各地の農業入植地における専門家として活躍し、内戦期の1918-19年にはパレスチナへのユダヤ人の農業移民に種々の提言を行ったブルツクスは、亡命地においても、ソヴェト体制下のユダヤ人をとりまく諸問題に、大きな関心を払い続けた27)。
ブルツクスによれば、革命とそれに続く内戦は、一方では白軍(または一部には赤軍)やさまざまな武装集団による「ポグロム」(大規模な掠奪を伴う虐殺)によって28)、他方では、ソヴェト政府による、多くのユダヤ人が長年営んできた私的な商業・手工業に対する厳しい取り締まりによって、ユダヤ人に大きな災厄をもたらした。1921-22 年の飢餓は最後の一撃となり、南部ロシア、とりわけウクライナでは、ユダヤ人の著しい減少が生じた(1923g)。内戦の終結に伴ってポグロムは止み、ネップ開始とともに私的な商工業が合法化されたことで、ユダヤ人の状態は改善に向かっている(1922f)。とはいえ、ユダヤ人の貧窮は深刻であり、破壊され尽くした入植地を別の地域に再建することが必要である(1923g)。
ソヴェト政府が1924 年に打ち出した、農地を希望するユダヤ人全員に土地を与えるという計画について、ブルツクスは次のように指摘する。確かに南部のステップには耕作されなくなった広大な土地があり、また「数十万のユダヤ人家族」は土地の獲得を望んでいる。しかし、「新しい土地に移住し、そこに定着するためには、善良な意志と土地だけでは不十分であり、それに加えてかなりの額の資金が必要」である。現時点では「ユダヤ人はそのような資金を調達できない」し、政府は「いかなる資金も支出していない」。このため、移住はごく限られた規模にとどまっている。そのことを十分に知りながら、ソヴェト政府がユダヤ人への土地譲渡について大々的に宣伝しているのは、「米国ユダヤ人の支持」を獲得するという政治的目的のためである(1924q)。19 世紀初頭に、アレクサンドル一世は、ユダヤ人に差別的重税を課しながら、ソヴェト政府よりもずっと熱心にユダヤ人を農民化する政策を推し進めた。しかし、農業入植地の発展は、アレクサンドル二世の改革により「ロシアの自由な経済的・文化的発展への新たな道が開かれた」ときにはじめて始まった。今回のソヴェト政府の土地譲渡計画についても同じことが言える。すなわち、「〔ネップのもとで今や〕死滅しつつある共産主義と社会主義の道の克服によらずして、ロシアのユダヤ人は現在の困難な状況から脱出することはできない」(1924q)。
このように、ロシアのユダヤ人の運命を、ロシア全体の運命と一体のものとして考えるのは、革命以前からのブルツクスの一貫した立場である。シオニストであった兄ユーリイと異なり、ブルツクスはシオニズムには同調せず、民族問題は、領域的な国民国家の建設によってではなく、連邦制の内部での民主主義と文化的自治によって解決されるべきであると考えていた29)。
少なくないロシア人をとらえた、「反ユダヤ主義の大波」を、ブルツクスは、かなりの程度に、「ボリシェヴィズムの過激な諸政策が呼び起こした」ものとみている。それはなお「大きな危険をはらんでいる」が、しかし、この面でも変化は存在する。実際、諸事件の進展に伴って、住民はますますはっきりと、ボリシェヴィズムが招いた不幸の責任をユダヤ住民に負わせることはできないこと、ボリシェヴィズムの病は、本質的に、ロシアの病であり、そこから回復すべきなのは、何よりもまずロシア人自身であることを感じとりつつある。(1922f)
ソヴェト政府内のユダヤ人の役割について言えば、私的な商業・手工業が合法化されたことにより、「生活の糧を得るために」ソヴェト機関に職を求めざるをえないという状況はなくなった(1922f)。ロシア共産党のユダヤ人機関(「エヴセクツィア」)は、ユダヤ人のさまざまな独立組織の破壊に狂奔し、宗教学校やシナゴーグを公共施設に変えることによって、広範なユダヤ人大衆の憤激を買っている(1924q)。「エヴセクツィア」がユダヤ人労働者を代表している程度は、ロシア共産党が全ロシアの労働者を代表している程度よりもいっそう小さい(1922f)。とはいえ、ブルツクスは、ボリシェヴィズムにおいて一群のユダヤ人が目立った役割を果たしていることを、無視するつもりはない。全体として「ボリシェヴィキの病に免疫を有している」はずのユダヤ人の中からそのような人々が析出されたのはなぜか? ロシア経済の復興が達成された暁には、ユダヤ人はこの問いに取り組まなければならない。結局のところ「大いなる事件、大いなる破局は、あらゆる諸民族に対して、自己認識と、自己分析を求める」。
そのような自己認識と自己分析は、「われわれユダヤ人に対しても求められている」(1922f)。
これらのブルツクスの言葉には、彼のユダヤ人としての深い民族意識が表れている。ブルツクスが民族問題においてコスモポリタニズムの立場をとらなかったことは、経済問題において自由放任主義を退けたことと並んで、彼の自由主義思想における注目すき特徴の一つである。 
おわりに
以上にみたように、ブルツクスが亡命直後の1922 年末から1924 年に展開したロシア革命論は、たんに社会主義経済の諸問題にとどまらない、豊かな内容を含んでいる。その最大の特徴として、互いに密接に関連する次の4つの点をあげることができる。
第1に、ブルツクスは、ロシア十月革命の初期の局面を、私的に所有されていた生産手段、とりわけ土地の全般的な収奪と再分配(「総割替」)の過程として特徴づけ、この過程のうちに、農業と国民経済の崩壊の根本的原因を見出している。国有化された工業を基礎に社会主義経済を建設する試みが不毛であることをいち早く理論的に解明しつつも、彼は、革命後のロシアの経済的破局を、「社会主義経済の失敗」のみから説明しようとはしなかった。社会主義建設の本格的な試みに先立って、全般的な収奪と再分配がロシア国民経済の基礎を揺るがし、その生産能力を著しく低下させたというブルツクスの把握は、マルクス主義の革命であるにとどまらず、ナロードニキ主義の革命でもあるという、ロシア革命の二重性を理解するうえで、示唆に富むものである。
第2に、ブルツクスは、全般的な収奪と再分配を、ロシアの広範な社会主義的知識人によって扇動され、ボリシェヴィキ権力による法制度を含むあらゆる旧秩序の破壊のもとで、武装した人民大衆自身の手で実行に移された全ロシア的な規模での集団的行為としてとらえている30)。
したがって、ボリシェヴィキ以外の社会主義的知識人、特にナロードニキ的知識人や、さらには農民・労働者もまた、ソヴェト体制による抑圧の犠牲者でありながらも、この収奪と再分配から生じた経済の破局に対する責任の一端を免れない。こうした認識は、民衆が革命の時期に発揮した政治的能動性を、ブルツクスが革命の過程における重要な要因とみなしていたこと示すものとして、きわめて興味深い。
第3に、ブルツクスは、ソヴェト体制下での未曾有の抑圧を、革命において私的所有の原理が全面的に否定されたことの必然的な帰結と考えている。全般的な収奪は、それに伴う政治的暴力に加えて、国家から独立した私的空間を破壊することによって、個人の自由の物質的基礎を一掃する。それゆえ、一方で共産主義者とともに資本主義と私的所有を激しく攻撃しながら、他方で共産主義の独裁を批判するのは、矛盾以外の何ものでもない。この観点から彼は、社会主義的知識人が、革命的マルクス主義から決別し、勤労大衆の現実的利益の擁護者としての本来の役割を発揮することに期待をよせる。周知のように、社会民主主義は第二次大戦後、紆余曲を件いながらも、全体として、彼のこの期待を実現した。
第4に、革命による破局からの出口についてのブルツクスの提起は、抽象的次元での資本主義と私的所有の擁護にとどまるものではない。そのことは、農民的私的所有は国民経済と農民経営の長い歴史的発展の到達点であり、それゆえ、多くの諸条件が失われた革命後のロシアでは、農民的私的所有の再建は、即時にではなく、国民経済の復興にあわせて段階的に行うべきであるという彼の主張にもっともよく示されている。始まりつつある復興の成果をより確実なものにしつつ、経済的自由を拡大し、国際市場との結びつきを強め、法秩序の再建を進める―ブルツクスは、これらの方向にロシアの国民経済の復興の道を求め、またそこにロシアのユダヤ人の運命を結びつけた。
本稿では、ブルツクスのロシア革命論の体系的な再構成に主眼を置き、個々の主張を立ち入って検討することは行わなかった。国民経済の復興を通じてボリシェヴィズムを克服するという展望が実現しなかったことを含めて、1920 年代はじめの彼の議論が、歴史的制約から自由ではないことは言うまでもない。しかし、筆者の考えでは、ブルツクスのロシア革命論は、全体として、先見性と独創的な洞察に満ちており、革命と社会主義をめぐる社会経済思想史における貴重な貢献として評価すべきものである。
今日、ソヴェト社会主義は過去の体制となり、マルクス主義はかつての影響力を失ったが、富の源泉のラジカルな再分配によって経済問題の根本的解決をはかるという思想自体は、さまざまな形態で根強く残っている。それは、計画経済の意義を強調するマルクス主義が後退したことで、反資本主義・反市場の思想において、かえってより高い位置を占めるかもしれない。
その意味で、ロシア革命の悲劇の根源を「総割替」の理念の勝利に求めるブルツクスの議論は、今日でもなお、現代性を失っていないと言ってよいだろう。 

1)本稿は日本学術振興会科学研究費補助金による研究成果の一部である(課題番号15730098)
2)著作の復刊としてBrutzkus (1988、 1995、 2000) がある。また近年のブルツクス研究として、Kagan (1989)、 Wilhelm (1993)、 Koritskii、 Vasiukov and Zakharov (1994)、 Rogalina (1998)、 小島(1996、 1997、 2005)、 森岡(1995、 1999、 2004) がある。
3)全ロシア農学者大会でのブルツクスの報告と発言および農業人民委員部機関紙での論文については、森岡(2004) を参照。
4)Khautov et al. (2003、 pp. 43-58)、 Lenin (1998、 p. 544-545). また邦訳『レーニン全集』第45 巻721-722 頁も参照。国外追放
5)「反ソヴェト知識人」の動向に関するGPUの詳細な報告書(1922 年11 月23 日付)は、『エコノミスト』を、「ブルジョア経済科学の演壇」と特徴づけ、編集者の一人としてブルツクスの名をあげている。また、農学者大会についても、農業人民委員部の発意によって招集されながら、ソヴェト政府の農業政策を批判的に審議する「独自の議会」に転じたとして、ブルツクスの発言を詳しく紹介している(Makarov and Khrisoforov、 2005、 pp. 145-147、 153-155)。
6)保釈および最終的な処分決定の日付はMakarov and Khrisoforov (2005、 p. 427) に、また出国とベルリン到着の日付は、次の新聞記事による。“Priezd vyslanykh iz Sov. Rossii”、 Rul’ (Berlin)、 21November 1922、 p. 6.
7)1922 年の一斉追放計画により逮捕された知識人は220 名以上にのぼり、うち67 名が国外に、49 名が国内の諸地域に追放された(Makarov and Khrisoforov、 2005、 p. 42)。
8)Sorokina (2003、 pp. 284-312). ドイツが亡命者の主要な受け入れ国となったのは、ドイツとロシアの学術的・文化的交流の伝統に加えて、1922 年4月のラパロ条約により、ドイツが他の西欧諸国にさきがけて、ソヴェト政府と正式の外交関係を樹立していたことによるところが大きい。ドイツ政府はソヴェト政府と友好関係を維持する一方で、亡命ロシア知識人に対しても好意的な態度をとり、さまざまな援助を行った。研究所創立時のスタッフの多くはまもなくパリやプラハに拠点を移したが、ブルツクスは研究所が資金不足で活動を停止する1932 年まで同研究所の教授にとどまっている。
9)これについては、筆者はすでに森岡(1995) において詳細な検討を行った。
10)後者は、追放以前にソヴェト政府の検閲機関に提出されており、著者であるブルツクス自身の追放にもかかわらず、1924 年に、協同組合に関する2章を削除して刊行を許された(Brutzkus、1924m)。同書は、1920 年代末まで、ソ連国内の大学で農業経済学の教科書として用いられたという(Kagan、 1989、 pp. 19-20)。
11)ただし、このうちBrutzkus (1924f、 1924g) は公開講演の記録である。『ルーリ』は立憲民主党(カデット党)のI. V. ゲッセンやV. D. ナボコフ(作家のナボコフの父)らが1920 年にベルリンで創刊した亡命ロシア人向けの新聞であり、全盛期には2万部をこえる定期購読者をもっていた。また、『パスレドヌイ・ノーヴォスチ』は、カデット党の領袖P. ミリュコーフが主筆をつとめる新聞である(Nikoliukin、 2000、 pp. 318-319、 351)。このように両紙はいずれも政治的に言えばカデット系であるが、ブルツクス自身は政党には属しておらず、その寄稿は、無党派の立場から行われた。
12)穀物徴発をめぐるソヴェト権力と農民の対立および1921-22 年の飢饉の実情については、梶川(1997、 1998、 2004)、 Berelovich et al. (1998) を参照。
13)農民経営と資本主義的経営の競争についての理論は、Brutzkus (1923b) においてより詳しく展開されている。
14)革命前の時期における土地所有権の移動については、佐藤(2000)、 Proskuriakova (2002) を参照。
15)これらの措置は、1922 年10 月の土地法典で集大成された。同法典については、保田(1971) の第3章を参照。
16)自由主義や右派の政治勢力も、全体として、ストルイピン改革に批判的であった(保田、 1971、 第2章)。小島(2005、 p.14) によれば、この時期のロシアの著名な農業経済学者の中でも「チャヤーノフはストルイピン改革にはほとんど触れていないし、またコンドラーチェフもこの改革の評価を意識的に避けている」。二月革命後に成立した臨時政府は、ストルイピンの諸立法を廃止した。
17)農民による土地の私的所有はBrutzkus (1922c) で理論的に、Brutzkus (1922d) で歴史的に考察されている。
18)同様に彼は、特定の状況のもとでは、土地共同体が有益な機能を果たす場合があることを否定しなかった。この点については、Rogalina (1997、 pp. 109-118) を参照。
19)帝政ロシア末期において農民土地銀行や信用協同組合などの土地信用機関が果たした役割については、Proskuriakova (2002) を参照。
20)土地所有の問題とは異なって、貿易の国家独占の廃止については、農業政策に関与する知識人の間で、広範な見解の一致があり、1922 年3月の農学者大会では、貿易を「分権的で自由な取引」に委ねることを求める決議が採択された(森岡、 2004、 p. 169)。この時期、共産党の内部でも貿易の国家独占の解除が検討されたことはよく知られている。
21)Vishniak (1924、 pp. 432)。ブルツクスはその後、ヴィシュニャークと一応の和解を果たし、1920年代末から30 年代はじめにかけて、彼がパリで編集する亡命ロシア人の総合誌『サヴレメンヌイ・ザピースキ』に、ネップの終焉と工業化・集団化を分析する多くの重要な論文を寄稿した。
22)Mel’gunov (1924)、 Peshekhonov (1924). メリグノフについてはEmil’ianov (1998) を、ペシェホノフについてはProtasov (2004) を参照。
23)メリグノフは著名な歴史家であり、ボリシェヴィキによる権力奪取の過程や政治的テロルを詳しく分析した著作でも知られる。彼は「社会主義」を名乗る政党の幹部であるとはいえ、個人の人格と自由の価値に対する信念の点では、自由主義者とみなしうる。このような彼の信条からすれば、ボリシェヴィキの勝利に対する責任を云々されることは、心外きわまりないことであったにちがいない。メリグノフはその見識において疑いなくこの時期のロシアの最良の知識人の一人であるが、しかし、彼が(他の多くの自由主義者と同様に)個人的自由の経済的前提に十分な関心を払わなかったことは否定できない。
24)ブルツクスの一家は、1891年にユダヤ人追放令によってモスクワを追われた(Kagan、 1998、 p. 10) .
25)Brutzkus (1923b) において、ブルツクスは協同組合と社会主義を結びつける考え方を批判し、協同組合を、農民経営が市場での競争において資本主義的経営と対抗しうるための重要な手段と位置づけている。
26)ドイツ社会民主党がバート・ゴーデスベルク綱領によって正式にマルクス主義から離れるのは、このときから30 年以上後の、ナチスの支配と冷戦下でのドイツの東西分裂を経た1959 年のことである。
27)ブルツクスの再発見の動きは、ユダヤ人問題の分野でも始まっている(Budnitskii、 1998)。
28)ユダヤ人ポグロムについては、Shekhtman (1932)、 Pipes (1993) を参照。
29)Kagan (1989、 p. 12)、 森岡(1999、 pp. 215-216). ブルツクスはユダヤ人のパレスチナ移民を主題とする1919 年の著書で、「パレスチナは新たな生活に向けて勃興しつつあるムスリム世界、とりわけアラブ民族の中心に位置している」にもかかわらず、「ユダヤ人がアラブ人社会の世論と密接な結びつきを確立することに全く関心を向けていない」ことを批判し、アラブ文化の復興のためのムスリム知識人との「共同作業」に向けて、ユダヤ-キリスト教世界の知識人が積極的な役割を発揮すべきであると述べている(Brutzkus、 1919、 p. 59)。
30)こうした把握は、ロシア革命を『民衆の悲劇』としてとらえるFiges (1997) にも見られる。また、森岡(2005) も参照。 
 
21世紀世界のグランドデザイン / 「帝国」と「マルチチュード」から見えるもの

 

はじめに─課題の設定─
新たな段階に入ったかに見える「9.11」後の世界を総体として把握するためのグランドデザイン作りが盛んに試みられている。その中には、政治面ではアメリカの単独覇権やその軍事行動の意味を説明するものや、あるいはそれにたいする対抗戦略としての「テロ」行為などの深部の理由を探るものなどの、現代における軍事覇権を中心にしたものから、国連を含む国際行動や国際連帯に主眼をおいたもの、あるいはグローバル時代の秩序形成とその主体を考察するものまで、また経済面においてはグローバル経済の意味合いを資本と労働の世界的な展開と再配置に注目するものや、国家機能の低下や変容を描くもの、さらには文化面では文化・文明の違いをことさらに強調したり、あるいは知識や文化の経済への包摂化を描くものなど、百花斉放、百家争鳴の感がある。筆者も近著『多国籍企業の海外子会社と企業間提携』1)の「はしがき」で、21 世紀の世界をアメリカと中国を双頭とする「スーパーキャピタリズム」と規定し、それをホブズボームの顰みに倣って相互転化の時代と位置づけた。その主な内容は、国際事業提携、多国籍金融コングロマリット、知識資本、サービス経済化などの基礎概念で表現されるもので、これらの諸概念を織り込んだ21 世紀世界の解明に加えて、世界をトータルに理解するためには、さらに日米政治経済論とでもいうべき、戦後の日本とアメリカの特殊な国家間関係とその変容過程や、「東アジア共同体」構想の実現に向けた取り組みの分析、またグローバルな規模での資本と労働の対抗関係、つまりはグローバル原蓄の過程、そしてインフレからデフレへと揺れ、そして最近は再び原料高に見舞われている世界的な景気循環と資本蓄積の動向などを射程に収める必要があることを述べた。
こうしたさまざまな21 世紀像のグランドデザイン作りの中で、ネグリとハートの二つの著作2)『帝国』と『マルチチュード』は、その話題性と影響力において出色である3)。というのは、現代世界の支配勢力やそれにたいする対抗勢力の有り様を「帝国」と「マルチチュード」といった簡潔な概念に集約して骨太に描いているからである。もちろん、評価に関しては当然にそれを全面的に賛美するものやその反対に強く否定するものまでさまざまあるが、論争それ自体にはさして興味がないので、細部に立ち入ってそのいずれかに軍配を上げることはしない。
とはいえ、これらの著作を無視したり、避けて通ることはできないような状況が今日生み出されている。そこで本稿は賛否両論のある彼らのこの二つの著作をあえて俎上に乗せて、その中で提起された主要な論題を基に、そこから派生してくるいくつかの問題点をここでの課題に設定して、論じてみたい。ただしネグリとハートの著作に関する論戦は、筆者たちが哲学、思想面に主眼をおいていることもあって、経済学の分野でよりも、政治学、文化論、哲学、社会思想などの諸分野において多く展開されているが、本稿では、これまで比較的手薄だった世界経済の問題に引きつけて論じてみたい。
そこで、本稿における検討テーマであるが、まず第1に「帝国」という概念規定に関して検討してみたい。これまで近代の資本主義時代における先進国の対外進出と植民地領有に関しては、「帝国主義」という枠組みで論じられることが通常だった。しかし第二次大戦後、植民地の政治的独立が達成されて、植民地体制が崩壊すると、植民地と表裏一体的に論じられてきた帝国主義という言葉は、現実の過程を表す概念から、歴史的な過程を表す過去の言葉へと次第に後退するようになった。あるいはアメリカを先頭とする一部先進国の途上国への干渉や軍事行動や謀略行為は、冷戦対抗の下での共産主義の侵略から自由主義陣営を守り、途上国に民主主義を根付かせるためのものだという理由付けがなされたり、よしんばそれをアメリカ流のイデオロギー操作とみて、独立の諸国家への侵略、干渉、謀略行為が実際にも行われていると見なした場合でも、それを帝国主義「政策」の現れとして、一時的で極端なものとしてこれを理解しようとする傾向が強かった。こうした中で最近のアメリカの直接の軍事行動や占領行為を説明するのには、「帝国」という、始原としては更に古い概念を使って表すことで、論理上の首尾一貫性を維持しようとしているかにみえる。実際にそうしないと、辻褄が合わないような状況が現れている。しかもこの言葉には支配ばかりでなく、その支配下での平和という、統治の安定や安らぎをも意味する別の面があり、その意味ではアンビバレントな意味合いを持った、はなはだ使い勝手のよい言葉でもある。こうした両面を持つ「帝国」が現在の世界の状況をうまく説明できるか否かを検討してみたい。
第2に「帝国」が「アメリカ帝国主義」とか「イギリス帝国主義」といった支配の主体の具体像を表象せずに、目に見えない、いわば可視化されない曖昧模糊としたものを想定していることである。これは姿なき「情報帝国」(invisible empire)の恐怖や、国境のない、グローバルな広がりを持つ支配者集団の、しかも秘密に閉ざされたインナーサークル的ネットワーク、つまりは「主体」ではなく「関係」を表す概念として理解されている。どこから狙われているかわからないが、確実に監視され、管理されているという実感を、職場はもとより、日常生活においても痛感せざるを得ない現代人にとっては、この言葉は漠然とした不安感や恐怖感を表すものとして的確だと感じられるかもしれない。これは、大衆が組織されない群衆として孤立分散的にとらえられる大衆社会においては、マスメディアを使った世論操作と情報管理、そして上からの官僚統制という、いわば全体主義の恐怖を表すのには格好のようにも見える。これは、彼らが使う「生政治的」という一般には耳慣れない言葉が、反対派の処刑や粛正や抹殺や殲滅ではなしに、その失脚や政治的無力化やイデオロギー的浄化や懐柔や誘導を主とする政治術策と大衆操作を表す述語として頻繁に使われていることにも反映されている。そしてそうしたものがグローバリゼーションの進展に伴って、世界中に網の目を張り巡らしていることを指しているようにも見える。しかも、ビジネス関係がグローバルに展開される中では、先進国といわず、途上国や移行経済国をも含めて、世界大での支配中枢(国家元首や王家や独裁政党の党首などを含めて)や有力政治家や将軍や高級官僚との公式、非公式の結びつきがものをいい、多くの人々はそこへアクセスできずに排除されている。こうした資本主義の最新の状況をアクセスキャピタリズムと呼んで、途上国でのクローニーキャピタリズムを含むネポティズムの現れとみる考えもある。この姿なきネットワークとその意味に関して検討してみたい。
第3にこのグローバリゼーションの進展による伝統的な国民国家の非力化と後退の実態はどうであろうか。国民主権の後退はアナーキーで混沌とした世界の出現をもたらし、それは反転して「帝国」の「インペリウム」(統治)とその下での「パクス」(平和と安寧)の享受を求めるという、今日の世界の人民のアイデンティティの喪失と不安感、そして同意や信従に基づくヘゲモニー装置を経ない、恐怖心を基にした力への屈服・服従の体制をよく表現できているようにも見える。唯一の覇権国としてのアメリカ「帝国」の出現は、こうした事態の下での群集心理を好餌にして、グローバリズムと市場原理のかけ声の下でアメリカとその同調勢力が推進する同心円世界への組織化を強烈に進めてきている。そしてこのことは、姿なき「帝国」の下で呻吟する世界中の圧倒的多数の人々を被支配層に転落させるが、やがてそこから反転して、新たな主体としての、国民国家的しがらみを離れた「マルチチュード」(多衆、民衆)を簇生させることになるのだろうか。これは組織されない群衆(マス)を、圧倒的な暴力装置を基礎にして、一見それとは異質なメディアによるデマゴギーや思想統制や情報操作によって誘導するのが全体主義(ファシズムやスターリニズム)の常套手段だという歴史的教訓に照らせば、「帝国」はまさに全体主義への新たなる序曲なのだろうか。そしてこの「帝国」に似せて自国を改造する反動化が先進国、途上国、移行経済国を問わず各国内で進むと、国民国家の内実は腐り、次第に形骸化して、やがては解体していき、民主主義が窒息させられる暗黒の世界が待っているのだろうか。
第4に古典的なプロレタリアート(生産的労働者)の先進国での減少化と途上国での増大化、そして知財サービス(「ニューサービス」)活動の先進国での増大、さらにはこれらを前提にした、グローバルな資本主義システムの下での新たな国際分業体制(企業内国際分業と企業間提携)と労働力編成(高級な知財サービスと旧来のサービスとの格差構造、移民、女性、少年・少女の活用、フレキシブルな雇用・勤務形態や外部委託を含む契約制など)は何を意味するのか。モノと知財との不均等な交換法則の蔓延は新たな貧困層の世界的な拡散と深化を促し、それが旧来の古典的な貧困層に加えて広範に定在する事態が、グローバルな規模で広がっている。
このことは、独占体の新たな形式・形態・行動様式として、水平、垂直、コングロマリット結合に加えて、世界的な規模でのクロスボーダーM&Aの盛行、さらには産業融合や少数株参加やステイクホルダーの利益確保、とりわけ確実に利益の保証されるabove the line と極端に制約された条件下で、リスクさえも負わされて実際の製作・実行を受け持つbelow the line への厳密な役割分担と利益配分を生みだし─これを「破断線」と名付けよう─、それが世界的に展開されていることと表裏一体となって進んでいる。そして資本と労働とのグローバルな対抗は、当面は時代を先取りし、パワーに溢れた資本の圧倒的な勝利下に進んでいる。ネットワーク型システムとそれの資本による包摂化はアクセスキャピタリズムとなって世界的な金融寡頭制支配を生みだし、圧倒的多数はこの金融寡頭制メカニズムの周辺に追いやられるか、排除されている。さらに今日の世界はイメージ、ブランド、うわさ、評判、疑似体験などの、マスメデイア等を利用した、半ば強要された、一定の方向性をもった、誘導された消費の流行(特にブランド愛好)と、文化の経済化(知財サービスを中心とする文化面の経済過程への包摂化)と経済の文化化(経済原理そのものへの文化・知識原理の浸透)ともいうべき事態の交錯された世界、つまりは知識資本の自立化と突出を生み出している。これは「所有」から「使用」(とりわけ模倣化によるコピー商品の流行)・「疑似体験」(テーマパーク方式)への、経済原理の一大転換─所有せずに使用せよという資本の叫び─をもたらしている。この世界の行き着く先にはなにが待ち受けているのか。経済学の解体であろうか。あるいは文化や知識を包摂した新たなパラダイムの創出であろうか。これらに関して、以下で突っ込んだ検討をしてみよう。 
1.帝国主義と植民地主義
帝国主義(imperialism)が植民地領有と堅く結びついていることから、帝国主義と植民地主義(colonialism)は不即不離の関係にあり、一体的なものだと考える人が多い。こうした疑問は当然である。というのは、帝国主義をその一般的な意味で、国家─とりわけ強国─の対外拡張なり対外侵略なりと捉え、その結果としての外国(無住地を含む)の占拠を植民地として定着させ、自国民の海外移住と植民を通じて、海外に自国の分身を作り、遠隔操作をして、やがては自国内に併合ないしは編入して、強大な帝国とそのネットワークを建設していくことだと理解すれば、帝国主義は植民地領有に基づくその経営という意味での植民地主義と何ら変わらなくなる。違いは視点を帝国側(本国)の戦略に置くか、それとも相手側(出先)での実行に置くかにしか過ぎない。そして、そうした意味での帝国主義と植民地領有は資本主義に固有な現象どころか、歴史的にはギリシャ・ローマの昔、あるいはもっと以前から存在していた、いわば強国の対外膨張主義(expansionism)の普遍的な姿だということにもなる。そしてこうした対外侵略ないしは対外膨張と植民地形成が強力な軍事力と結びついていたということから、軍国主義(militarism)を帝国主義と結びつける議論も多い。しかも強大な帝国の維持には軍隊の常駐を含む軍事力の保持が必要になり、その経費が国家財政を圧迫し、さらに兵員の確保・補充が兵役義務などによって国民(あるいは市民)を苦しめるので、「軍国主義滅亡の法則」と呼ばれる事態が進行し、そのため、現地軍の育成や植民地への租税負担が嵩んで、結局は植民地は割に合わない過度の負担になるという「植民地重荷論」もしばしば主張されてきた。
だがこうした対外膨張主義を基軸に据えた、帝国主義−軍国主義−植民地主義を直線的に結びつける議論から、これを資本主義の下での帝国主義と植民地主義との関係やその特徴を論ずるようになると、経済面や国民国家体制などの別の面が現れてくる。重商主義段階での資本主義の本源的蓄積期には、海外の黄金・貴金属や珍奇な特産物を獲得しようとするヨーロッパ諸国の度外れた冨への渇望は、地理上の大発見以後、先を争って新大陸やアジア、アフリカに進出していくようになった。貿易会社(たとえば東インド会社や西インド会社)の海外拠点や中継地に植民地を建設したり、あるいはプランテーション経営を通じる本格的な植民を始めるようになる。これがさらに産業革命を経て資本−賃労働関係が一度成立するようになると、資本主義は自らの足で立って自立化し、自己完結的なメカニズムを作り上げるようになる。本源的蓄積期を経て、一方に有産者の手に資本が蓄積され、他方に無産者が賃労働者になって、しかもこの関係が再生産されるようになる、つまりは再生産軌道が一度確立されると、機械による機械の生産によって、資本の有機的構成の高度化が図られて、生産性が向上し、膨大な商品生産と商品流通が国内市場と世界市場を席捲するようになる。そして国内では農民層の分解などによって膨大な工業労働者の予備軍の一大プールが生まれ、その結果相対的過剰人口が形成されることになる。そしてこの余剰人口の海外への移民が植民地に流れ込むため、植民地建設の確たる存在理由が生まれてくる。こうした無住地を含む白人居住地が海外移民によって形成される、新大陸での植民地を「本来的植民地」という呼び名で表してきた。
もう一方で、産業資本主義の興隆は原材料の必要を高める。その結果、海外での原材料・資源の確保が競争の一大条件となり、猛烈な植民地需要とその探査が起こる。現実的な資源ばかりでなく、潜在的な資源の可能性までをも含めて、世界中を探検し、植民地化しようとする要求と運動が熱狂的に強まる。そして産業革命の母国イギリスを「世界の工場」とし、残余の国々を農業国ないしは原材料供給基地とする古典的な国際分業体制が作り出され、貿易を通じる商品交換のネットワークとその決済網が国際通貨ポンドと国際金融市場ロンドンのシティを中心に多角的に形成されてくる。そして自由貿易思想が支配的な潮流として鼓吹される。これがいうところの西欧列強の植民地獲得競争の土台とそのための土俵であり、それはやがて、パクスブリタニカに収斂されていくことになる。
さてここで、資本主義の下における植民地の存在理由を二つの筋道から位置づけた4)が、本来の意味では植民地とは資本主義の母国ヨーロッパからの海外移民と入植によって建設されるもので、それを「本来的植民地」と名付け、その意味では元々は肯定的で建設的な意味合いを持ったものであった。ところが、他方で原材料確保の必要性からの植民地の領有とその拡大は現地住民の住む広範な地域や国家を丸ごと母国が抱え込む国家的な支配−従属関係を生みだし、それらを資本主義生産システムの一翼、とりわけ、原材料と食糧供給の一大基地に変貌させることになる。そこでは現地住民=異民族の支配を不可欠とする。そして資本主義の発展はこの後者の意味での植民地をより一層必要とするようになり、前者の本来的植民地もその中に包摂されるようになる。この後者の意味での植民地経営が、いうところの植民地主義としてマイナスイメージをもった否定的な言葉に転化されて、長い間世界史の中に定着するようになった。農産物原料や食糧を生産するプランテーション経営や、鉱産物やエネルギー資源を採掘・採取する資源経営は現地住民を苛酷な労働条件下で働かすことによって成立し、労働力が不足すれば、アフリカからの奴隷の確保とその労働によって賄おうとした。いずれにせよ、極端に安価な労働力の存在と苛酷な労働条件が前提となり、それを保障するための異民族支配の合理化が法制的、イデオロギー的、あるいは事実上でも確立されることになり、そのための強大な軍事力─特に海軍力─の確保が必要になる。産業資本主義の発展はこうした植民地の存在を益々必要不可欠にする。その意味では植民地と植民地主義は入植による開拓という本来の肯定的な意味を失って、異民族支配と抑圧という否定すべきマイナスイメージのものに転化したことになる。
もちろん、そこでも文明国が未開社会や遅れた社会を教化する「文明化作用」や、そうしたことは「白人の責務」や、神から与えられた「明白なる使命(もしくは運命)」だとする論説が西欧世界からは繰り返しだされ、自己弁護と正当化がなされてはきた。そして事実、植民地の定着は外見的にはその急速な成長と開発を促し、またその際にイデオロギー的には「排外主義」と「拝外主義」とが表裏一体をなして展開された経緯があり、後に植民地からの独立が、これまた西欧から波及、伝播してくるナショナリズムに基づいて展開されるようになると、外国人排斥と外国文化崇拝とが同時的に進行するようになり、それを克服していくことが、植民地の独立にとって大きな課題になった。また宗主国側でも進んで植民地住民の移入を受け入れて、積極的に同化を図ろうとする普遍主義的傾向をとるところも出てくる。そうした植民地文化の浸透ならびに土着文化との相互浸透過程をも植民地主義の現れと広義にとらえると、その残滓を一掃すること、あるいは同化を完成させることは容易ではなく、植民地体制が崩壊した後にも、こうした植民地文化あるいは多文化の競合という意味での植民地主義はなくなっていないという議論もでてくる。ただし、それは植民地文化に関わることなので、ここではそこまで議論を広げずに、現実の植民地の必要性を経済的土台である資本主義生産と流通に結びつけて考えていこう。
いずれにせよ、こうした、資本主義にとっての植民地の必要性は資本主義の生産システムとその活動舞台としての世界市場に組み込まれ、そしてその日常的な進化にともなって、益々不可欠なものになる。さらにそれは独占資本主義の成立によって最高度に盛り上がるようになる。
国民国家を中核とする、資本蓄積の結果としての集中・集積運動の高まりと資本主義システムの世界的な広がり─つまり、諸国民経済を基礎単位とした世界市場という「場」への広がり─とそこでの結合・深化は、資本主義的独占の成立を促す。そしてそれは至る所に独占原理を持ち込み、資源・エネルギーに関しても国際カルテル(独占体間の公式、非公式の協定・談合)形式や、場合によっては世界トラスト(世界的単一企業体の形成)の形をとった資源独占の誕生へと至る。この資源独占は植民地という領土的独占と一体になったとき、最強の武器になるので、国家の力を背景に地球上のあらゆる土地の独占、つまりは植民地領土の獲得を目指し、そして最終的には未所有領土がなくなる分割完了にまで至る。その意味では、帝国主義を「最高度に発達した資本主義」「独占資本主義」と結びつけたレーニンの卓見とその簡潔にして要を得た叙述の書である『帝国主義論』は出色である。しかも同時にレーニンはこうした帝国主義の経済を基にして、帝国主義の政治や帝国主義の文化がそれぞれに固有に存立しうることにも注意を払い、それらを本格的に論じるのであれば、別様に定義されねばならないといっている。レーニンの『帝国主義論』には「平易な概説」という副題がつけられているが、もし、政治、経済、文化・イデオロギーを総合した帝国主義論の執筆を意図したなら、もっと別なものになったかもしれないが、それがないので、彼の膨大な『帝国主義論ノート』なども参考にして、この線での理論的深化と拡充、あるいは創造的な発展を図るのは、われわれの仕事だということになる。
歴史的には本源的蓄積期における冨の獲得を目指す西欧列強の対外膨張と植民地の独占的領有への行動様式としては、帝国主義一般の延長でありながら、独占資本主義の成立によって新たな段階、つまりは独占資本にとっての固有の意味と必然性をもった帝国主義が立ち現れることになる。そこでは基礎タームとして、資本蓄積とその集積・集中運動、世界システムとしての資本主義世界市場の存在、その下での国際生産の開始と国際分業体制の深化、さらにはヒエラルキー構造をもった一握りの産業企業・金融業の下への諸国民の圧倒的多数の従属、そして資源独占と地球の領土的分割といったものがでてくるし、領土の再分割にはしばしば軍事力が使われ、それが世界戦争に繋がるという論理もみえてくる。さらにいえば、世界戦争はプロレタリア革命への絶好のチャンスになるという、帝国主義の弱い環から資本主義の現実的な否定の可能性を導くことにもなる。その意味では、資本主義的帝国主義とは戦争と革命の時代の到来でもあった。さらにレーニンの時代には独占体の結合方式は多く国際カルテルに止まっていたが、多国籍製造企業の国際生産が進み、世界的な規模での企業内国際分業が進むと、それは一個の「世界的集積体」にまで成長することになる。これは、当時はまだ彼が半ば予言的に暗示した可能性に過ぎなかったが、今日では現実的な基盤を持って存在し、更にいえば、それを超えて世界的な規模での産業資本と貨幣資本の結合、さらには株式資本形態をとった擬制資本の世界的な展開、つまりは「多国籍金融コングロマリット」とでもいうべきものへの一段の昇段を遂げている。 
2.「植民地なき帝国主義」の含意
ところで、第二次大戦後、植民地の政治的独立が果たされ、植民地体制は崩壊したが、帝国主義は新たな覇権国アメリカの指導下で、先進資本主義諸国の国際協調体制として、戦後新たに登場する国際機関(IMF、GATT、世界銀行など)を媒介にしながら、ソ連を中心とする社会主義体制に対抗し、これら新興独立国をその影響下につなぎ止め、あるいは引き続いて支配を存続させるための新たな体制となって、装いも新たに再登場する。これを先に見たように、植民地を持たないアメリカが主導する脱植民地化=ポスト帝国主義の到来、つまりは自由と民主主義の体制の下での資本主義の世界的な深化への脱皮と考えるのか、あるいは表面的な装いを施した帝国主義体制の存続、つまりは「植民地なき帝国主義」とみるのかが問われてくる。
ここでのポイントは植民地なき帝国主義の存続が可能なのか、あるいは帝国主義なき独占資本主義が現実の姿なのかにある。いずれにせよ、ここでは植民地独占と結びつけないで、原燃料資源の独占の意義と役割を理論的に組み立てなければならなくなる。というのは、科学技術の発達は原燃料の合成、人工、代替化を進めるが、しかしながら、それがどんなに進んでも、その基になる天然資源の必要性を完全にはなくすことができず、むしろそれどころか、資本主義経済の発展は益々その必要を高めているからである。そしてそれは資源=土地の独占という要素をなくすことはできないので、誰がそれを握る(所有者)か、そして誰がそれを開発=運営する(企業化と経営)か、そしてその両者の力関係とその異同はどうなるかが問われてくる。
したがって、それは独立の諸国家の体系の下での覇権国による組織化と国際協調体制、つまりはパクスアメリカーナの世界としてこれを描くことになるので、その仕組みと特徴をみなければならない。
さて第二次大戦後のアメリカの原燃料確保とそれを通じる資源支配政策の基本になった「ペリー委員会報告」は、その新しい考えを「最小コスト」原則に基づく、世界中からの安価な資源の獲得という形に要約した5)。最小コスト原則は市場を通じる安価な資源の獲得だが、それにはもう一つの条件である「安定供給」の確保をそれとどう両立させるかが懸案になる。この両者を両立させることは一見すると困難そうに見える。というのは、安定供給は植民地独占によってもっともよく保障されるが、その条件がすでになく、他方、最小コストでの獲得は自由な市場の存在を前提にし、それには競争条件の整備としてのブロッキズムの解消、とりわけ植民地体制の解体が必要になるからである。そこでこの二つの要素の両立化は独立の諸国家の体系の下では、覇権国であるアメリカのヘゲモニーを最大限に発揮し、国際的な協調を基に、国際機関などの支援を受けながら、組織的、制度的に展開することによって果たされることになる。すなわちアメリカは核軍事力、国際通貨ドル、先端技術に支えられた高い生産能力、そしてアメリカ流民主主義と自由の鼓吹に代表されるイデオロギーの優位を武器にパクスアメリカーナの世界を全世界に普及させていったが、その際に二国間で結ばれるアメリカの対外援助、アメリカ多国籍企業、アメリカの銀行の多国籍化がその主要な武器となった。とりわけ、対外援助は独立の諸国家をアメリカの同盟国に仕立て上げ、その結果自由主義世界を強固にし、資本主義生産システムを拡大、発展させる重要な土台作りとなるものであった。そこでは、アメリカからの援助の供与と引き換えに二国間での投資保証協定や特別資源協定が結ばれていくが、これは、相手国が資源保有国であれば、それらの国から必要な資源を確実に獲得できる有効な武器となった。たとえばPL480 に基づく食糧援助が行われたが、その際、それと引き換えにバーターで相手国が重要稀少資源などの必要な資源を供出することが義務づけられ、したがって、アメリカはこのルートを通じて重要稀少資源の安定確保が可能になった。また、石油の場合には米英メジャーズによる国際カルテルの存在によって、原油の低廉かつ安定供給が世界的に保障されることになった。そしてそれは戦後の世界的な高度成長を支える大きな要因になった。あるいは共産圏に大事な技術や重要稀少資源が流れないように、バトル法に基づく禁輸措置がとられ、これはCOCOMリストとして主要先進資本主義国の対共産圏封じ込めのための共通のバリヤーになった。
その結果、植民地がなくても資源を安定かつ安価に確保できる仕組みができあがり、パクスアメリカーナの下でさらに高度に発達を遂げた独占資本主義と両立することが可能になる。もちろん、このアメリカ流方式とその戦略が先進諸国、とりわけ旧植民地宗主国に抵抗なく受け入れられたわけではなく、彼らは戦後も植民地を維持し、排他的通貨=通商圏を陰に陽に存続させようと躍起になったが、時代の流れには抗せず、次第に撤退や後退の憂き目にあい、スエズ紛争やインドシナ戦争等を経て、1950 年代末までには植民地体制はあらかた解体し、アメリカへの主導権の移行が完成した。かくて、資源の安定供給と市場原理に依拠した最小コスト原則に基づく安価な資源確保が両立できるようになった。ここでは資源保有国が独立国であるため、彼らに土地所有からの地代収入や開発権供与による準地代収入がさまざまな形態と名目で入り込むことになるが、ただしその収入は原油なら低利権料収入、その他の資源の場合でも先進国の巨大な多国籍資源開発企業への低廉な採掘権の提供からの収入、そして後には二重課税防止協定に基づく法人(所得)税収入が加わったが、総じて低い地代収入や準地代収入に止まらざるを得なかった。そして自らが国有化や没収によって自力による開発を意図すると、たちどころにアメリカを中心とする旧宗主国からの干渉と妨害が強まり、場合によっては謀略による政府の転覆までもが企てられることになる。こうした危険と制約と不利な扱いはあるものの、植民地時代と違うのは、独立国として自らの懐に確実に一定の収入が入ることである。そしてそれはこれら資源保有国の支配者の懐具合を豊かにし、彼らを育てることになる。あるいはそれが独裁体制と結びつくと、冨の独占やそれに伴う腐敗を呼び、それは今度はその政権の存立基盤を揺るがすことになって、頻繁に政変劇が演じられることになったりする。なおこうした資源保有の動き─資源ナショナリズム─は世界的な潮流になり、後には国連の場での資源の恒久主権宣言の確立にまで高められていくことになる。
以上を要約すれば、独立国政府を交渉相手とせざるを得ないという新たな条件の出現は、一面では先進国企業の行動に枠を嵌めると同時に、他面では競争を通じた世界中での資源開発の可能性という、より広い土俵の確保をもたらすことにもなる。そしてそれはまたこれら先進国巨大企業と現地政府、そしてその仲介をする政策当局の代表たる政府高官との間の特別な関係を生みだし、利権政治と贈与経済が横行することにもなる。そしてアメリカ政府が現地政府と結ぶ条約や協定によってそれらが最大限に保障されるという条件は、結果的にはこのコネクションにアクセスしやすいアメリカ巨大企業に特段の有利さを与えることにもなる。それは現代におけるネポティズムを育て、途上国でのクローニーキャピタリズムや先進国、とりわけアメリカでのアクセスキャピタリズムの台頭と定着への一里塚を形成することになる。
となると、これは帝国主義が無用となったことを意味するのだろうか。否、そうではないと、マグドフ6)は主張する。彼は戦後の世界を把握するのには、「植民地なき帝国主義」概念が有効であると強調している。彼はそれをレーニンによる「金融的従属の網の目」あるいは「植民地、半植民地、従属国」概念を援用することによって可能だとしている。ご存じのように、レーニンは『帝国主義論』や『帝国主義論ノート』、あるいはその他の帝国主義に関連した著作の中で、帝国主義の、他国への国家的な従属化は植民地に止まるものではなく、先進国に対しても「金融的従属の網の目によってぐるぐる巻きにされた」様相が起こることや、「植民地、半植民地、従属国」という三規定を与えて、植民地以外の国家的従属の諸形態の存在を示している。この概念を戦後世界に適応しようというのが、マグドフの考えである。ここでのポイントは、アメリカの主導下で行われた戦後世界の組織化は「アメリカ帝国」を意味するのであって、先進国全体が帝国主義であるわけではないとみるか、それともアメリカを頂点とし、先進国をその同盟者とみる、体制間対抗下での途上国支配のシステムとしての「集団的な帝国主義体制」とみるのかという点である。そしてマグドフは後者を表す概念として「植民地なき帝国主義」という概念を使用している。
さて戦後の、アメリカによる先進国を含む独立の諸国家の軍事的、金融的、技術的などの従属化は、アメリカの力を基礎にして、その世界戦略と連動しながら進むことになる。なかでも世界最大の金産国である南アフリカと世界最大の産油国であるサウジアラビアはこのようなアメリカの覇権国としての世界戦略遂行上、特別の位置を占めることになった。前者はアメリカドルを国際通貨にするためのIMFにおける制度化を支える重要な要素である、アメリカ政府による金購入を保障し、後者は戦後の世界の高度成長を進めるための低廉かつ安定的な原油供給という前提を保障してきた。加えて先進国においては共に敗戦国であった日本と西ドイツの戦後復興の主導権を握ることによって、両国はアジアとヨーロッパにおけるアメリカの枢要かつ忠実な同盟国として再生された。これ以外にも対共産圏封じ込めのための戦略的に重要な途上国への支援がポイントフォア政策やその具体化としての「ロックフェラー報告」7)などに基づいて綿密かつ強弱をつけて展開されていった(たとえば、東西冷戦の最前線に位置する韓国、トルコ、ギリシャ、台湾などを「前線防衛諸国」と呼んで特別に重視した)。こうしてパクスアメリカーナの下での新たな「従属国家」の配置とそのネットワークが巧妙に世界中に張り巡らされることになる。なかでも、日本の「従属」的な再編は極めて大事な要素になったが、そこでは象徴天皇制も含めて、大きな論争問題になった。周知のように、戦後の我が国の位置をどう見るかは憲法、日米安保条約などの性格をめぐる問題も含めて、国論を二分するような形で「従属−自立論争」として熾烈な論争が展開された。しかし、国際的にみると、西欧諸国─とりわけ旧宗主国─などの場合、この概念を適応することは日本ほどには切実感をもって論争される雰囲気がなく、戦後の混乱時期に付随する一時的な問題だという理解が強かった。したがって、こうした文脈の中で「従属国」概念を「植民地なき帝国主義論」として展開したマグドフの上記の主張には、大いにユニークさが窺われると同時に、ヨーロッパでの適応の是非に関しては慎重さを要するだろう。
とはいえ、パクスアメリカーナの下での先進国を含む独立の諸国家の対米従属の問題は、資本輸出を通じる金融的従属という旧来の段階に止まらず、アメリカ企業の多国籍化が対外直接投資(FDI)を通じて企業内国際分業に基づく外国での生産、つまりは国際生産を進めるので、そこでは企業内技術移転や企業内貿易が企業内資金移動と並んで大事な要素となる。したがって、金融的従属に加えて、技術的従属や販路=市場の提供を保障する貿易上の依存関係が新たに大事な要素として登場してくる。そしてそれら経済過程における直接の企業間の関係を一面では補完し、他面ではその前提になっているものは、アメリカと相手国との間の二国間の協定や条約による公的な制度的緊縛である。それは場合によっては国際機関によって更に補強されたり、あるいは媒介されたりすることもある。さらに体制防衛の必要性から社会主義圏にたいする集団防衛の下で、アメリカとの軍事条約の締結や軍事基地の提供、そしてそれに基づく軍隊の駐留などがあちこちに展開されて、軍事的従属が作られる。それらを含めると、程度の差はあれ、同盟国はアメリカへの部分的な従属をいずれも経験してきたことになる。このように戦後の世界は植民地領有による独占体の行動の自由とその利益の最終的な保障ではなく、独占体自身の能動的で直接的な行動を独立国家間の協定が補完するという形をとった保障システムが構築された。そして従属国はアメリカの支配の補完物の役割をはたすことになる。こうした従属国には、範疇としては現代の新たな段階にある、アメリカへの従属という意味で、ここでは「政治的従属国」ないしは「体制的従属国」という規定を与えたい。そしてこうしたアメリカの世界を世界中に広めることが、先進資本主義国を巻き込んだ世界的な運動になり、やがて、それが途上国にも波及し、FDIの相互交流、つまりは国際直接投資(IDI)が進むと、世界は相互依存の世界になり、運命共同体化していく。これがいうところのグローバル経済の出現である。そして体制間対抗の相手が崩壊すると、アメリカの突出した力だけが目立つようになり、アメリカの単独覇権=「帝国」が立ち現れることになる。
ところで、このシステムは歴史的にみれば実はパクス・ブリタニカの下でも、植民地領有によらないスターリングブロックの形成を通じる支配がオーストラリアやカナダなどの独立国家との間でも盛んに行われていたし、「非公式帝国」と呼ばれる様相のほうがむしろイギリスの支配と勢いはかえって強かったことは今日ではよく知られている。パクスブリタニカの世界からパクスアメリカーナの世界への旋回は「大西洋憲章」を基にして具体化していったが、その際に前者の方式を参照としつつも、それとは異なる、独自のパクスアメリカーナの世界を作り上げることになった。この独立の諸国家の体系、つまりは実力はどうであれ、中央集権国家の存在を基礎にした戦後の枠組みは、植民地を持たず、民族自決権を承認するというアメリカの歴史的スタンスに基づいて、門戸開放策、二国間条約と協定、軍事条約の締結と基地駐留、独立の諸国家への干渉と政治的誘導、そして国際機関による補完などに集約される。そこには第二次大戦後の、体制間対抗という独特の世界史的条件に基づくという面もあるが、同時にアメリカ自身の歴史的前史として、「植民地なき帝国主義」としてのアメリカの経験がカリブ海地域、中南米、ハワイ併合などにおいて行われてきたことの延長でもある。なかでも、ハワイ併合の経験8)は独立王国を支配、従属させるやり方として、戦後の日本の象徴天皇制やイラン王制などの歴史的先例ともなった。本来的植民地からの独立、大陸国家として広大な国内市場と未開拓なフロンティアを多くもった多重国家の国内統合と急激な対外膨張への傾向、そして遅れてきた「民主主義国」アメリカの民族自決権擁護(ウィルソン主義)による旧植民地への同情といった、西欧植民地列強とは一風変わった行動原理をもっていた。それがソ連の民族自決権の擁護と被抑圧民族の解放支援というレーニン主義と形の上では一致し、そのことが旧来の植民地帝国を越えた、戦後世界の新たな組織者として米ソ二大国を突出させ、両国の、途上国への熾烈なヘゲモニー争いが展開される土台を生み出した。
したがって「政治的従属国」ないしは「体制的従属国」の誕生とその特別の役割は第二次大戦後において大きな意味を持っている。そこでは国家主権の後退が政治的、軍事的、経済的従属の諸形態をとって現れることになるが、にもかかわらず、独立国家の形式を残していることが極めて大事になる。アメリカがバックにいて、その国の統治がなされることは柔軟さを呼ぶことになり、同時に脆弱さを持つことにもなるが、後者が統治の失敗をもたらすときには、しばしば指導層の交代(クーデタを含む)によって切り抜けることが可能になった。そしてそれでも持ちこたえられなくなると、ベトナムの例のように、現地傀儡政権を置き去りにして、自分たちだけが脱出、逃亡するという無責任な態度に出たり、マルコス政権の末期には政権の延命に手をかさず、のたれ死にするのを傍観するといった、変わり身の早さを示した。
ソ連・東欧の瓦解に始まる冷戦体制の崩壊はグローバリゼーションの進展をもたらしたが、それに伴って国民国家の役割の変化が生じてきた。「冷戦体制」の崩壊は唯一の覇権国アメリカの突出した地位を生みだしたが、その結果、かえって不安定化した世界の中でのアメリカの単独行動主義、軍事力行使=戦争遂行が目立ちはじめた。そして、そうした行動への批判勢力が台頭してくると、メディアを使った情報操作と支配が突出するようになる。そしてlong warの時代と呼ばれる新たな状況が現れることになった。そこでは国民国家の変容とアメリカへの一層の従属化が進み、とりわけ日本の役割が重要なものとして、イスラエルやサウジアラビアや南アに加えて、新たに脚光を浴びるようになってきた。近年、急速に進み出した日米安保の改訂と新世紀の新たな日米同盟の構築への動き9)は、憲法「改正」や教育基本法の見直しなども含めて全面的な反動化の里程標を作っている。ただしグローバリゼーションは「国家の消滅」をもたらしはしない。資本のトランスナショナル化は一面での国家の無視、非力化、形骸化をもたらすが、他面では資本の王国、つまりはアメリカが先導する、国際的な資本のための秩序の世界的な構築と作動のためには、これらのネイションステートへの寄生の増大を必要とする(「アクセス・キャピタリズム」)。したがって現代では「政治的従属国」の規定は拡大し、傀儡国家、戦時的委任統治、共同管理、そして同盟国など、より包括的に、複雑になってきた。かくてアメリカによる他国の国家主権(政治、軍事、経済、文化、法制などにわたる)の侵害と弱体化と、さらには無視ないしは越権行為をグローバリゼーション下での「市場原理」や「自由民主主義」の名の下に遂行することができるようになる。したがって、ここで大事なことは、表面的には相互依存世界として現れるものは、アメリカの対外依存とアメリカへの同盟国の対米従属とが切り離しがたく結びついている一体化された世界の出現である。それは実態的には同床異夢の未来をそれぞれが描くことにもなる。
なお戦後日本の特別な意味に関しては、象徴天皇制をめぐる内外の議論10)が急速に展開されるようになった。そこでは戦後改革とよばれた財閥解体、農地改革、労働3法、教育改革、社会改革などの意味、石炭から石油へのエネルギー政策の転換と燃料の対米依存のメカニズム、主にアメリカからの技術導入とその成果のアメリカ市場での販売、ドルによる決済圏の形成、そしてそれらの仕上げとしての日米安保体制と憲法体系という二重性の並存などが日本の戦後をみる際に大事な要点となろう。しかもそれは対米従属下での日本の高度成長とその結果としての対米貿易の増大によって、日米間の貿易不均衡を呼び、やがては深刻な日米貿易=経済摩擦を生み、その調整に両国が追われることになったが、その過程で日本の対米政治的従属は一層深化するようになる。 
3.「帝国主義」から「帝国」へ
冷戦体制の崩壊後、アメリカの単独主義と軍事行動が突出するようになったが、そのことは、従来のように、帝国主義体制の一翼としてのアメリカ「帝国主義」の延長でみていくよりは、それを単独のアメリカ「帝国」とその支配下への先進資本主義と途上国の包摂化の一環として捉える方が、今日の状況によりフィットしているとみる見方が急速に台頭してきた。それは、筆者流に解釈すれば、今日のアメリカを唯一の覇権国=「帝国」と規定して、その内容を核軍事力を中心にして、RMA(軍事革命)によって刷新したコンピュータ、衛星通信、情報の一体化された(C3I)巨大な軍事力とその行使、多国籍金融コングロマリット(多国籍製造企業、多国籍知財サービス企業、多国籍銀行、多国籍投資企業、多国籍軍事企業などの統体)、その世界的なネットワーク推進としてのアクセスキャピタリズム、メディア産業の巨大化とその情報管理・操作による世論の誘導、多様な企業間関係を通じた資本支配のシステム、それらを保障する法的枠組みと思想(自由民主主義、私有財産擁護、知財保護)、そしてこれらをグローバルな規模で実現しようとする運動が中心軸となったものである。そしてアメリカ以外の先進国は「帝国主義」政策を単独ではとれないので、アメリカ「帝国」にそれを任せ、あるいはその目下の同盟者として行動することによって、集団としての一体化を図ろうとしてきたが、アメリカの横暴さが目立つ今日では、次第にそこから離脱しようとする傾向もヨーロッパなどでは起きてきている。その中で「政治的従属国」ないしは「体制的従属国」(かつての南ア、サウジから日本、イスラエル中軸へと)の役割は急速に高まっている。とりわけ日本はアメリカ帝国の果断な実行を支える大事なパートナーであり、その経済力によってアメリカ帝国の支えをするのに止まらず、軍事的にも応分の役割を果たすように憲法や日米安保が改編されようとしている。
その中で目を旧社会主義国に転じると、官僚的・警察的社会主義「計画経済」体制が崩壊し、移行経済国と呼ばれるものへの急速な転換がはじまったが、とりわけアメリカと中国は前者が知財立国によるサービス経済化し、他方、後者は物づくりの拠点として「世界の工場」にのしあがってきたが、両者の関係は一方ではグローバリゼーションの下でお互いを必要とする共通面と同時に、他方では独自の国民国家とその領域の堅持や将来像を描く「同床異夢」の世界を構成している。こうした知財とモノ作りの相互浸透化を21 世紀初頭の世界経済の双頭として「スーパーキャピタリズム」と筆者は名付けた。しかもそれは世界のモノ作りの中心が益々アジアへとシフトする中で、「東アジア共同体」構想にまで拡大・進化してきている。EUの定着化に加えて、こうした共同市場のアジアでの台頭は、国民国家(nation state)を超えた国家連合─つまりはsupra nationalism ─の動きであり、それはアメリカ一極世界を揺るがす可能性を秘めている。インド、オーストラリア等を加えると、地球人口の約半分、30 億人の人々が暮らすこの共同体が本当に実現すると、世界の動向は一新される。このことは南北間の協調・対抗・妥協の様子とその帰趨を大いに左右するだろう。ウオールデン・ベローは南北問題の対決と協議の焦点を多国間主義、新自由主義ビジョンと秩序、企業、軍事的覇権システム、自由民主主義、グローバルな生産システムの、6点に置いている11)が、南北間のヘゲモニー争いは一層熾烈になるだろう。しかし、国際機関のヘッド(長)や指導中枢の多くが西側先進国、場合によってはアメリカ人に限定されている状況では、南側の要求を実現させる道は難しい。
とはいえ、LAにおいては新自由主義に反発する反米政権の台頭が目立ってきている。長い間、親米政権が多く居座り続けていたこの地におけるアメリカへの反発は、とりわけ、産油国ベネズエラのチャベス政権に典型的にみられるように、単なる反米に止まることなく、国内の社会変革を目指す巨大な動きになっている。
一方、アメリカの21 世紀における途上国戦略は最後のフロンティアとしてのアフリカに集中されつつある。21 世紀のアメリカのエネルギー戦略の基本を構想した2001 年の通称「チェイニーレポート」12)は、2002 年の「国家安全保障戦略」で明確に位置づけられ、その後4年ごとの国防計画の見直し(QDR)報告に受け継がれている、先進国を「安定の弧」、中東を「不安定の弧」として、それにたいしてアフリカを「チャンスの弧」として位置づけ、その重要性を強調しているものと考えを共有しており、アフリカでの資源獲得を特段に重視している。このようにアフリカを最後のフロンティアとして新たな開発戦略を練り上げるのは、ロンドンサミットでの共通テーマともなり、イギリスも「ブレアレポート」13)と呼ばれるアフリカ開発戦略を作り上げていた。しかし、サミット開催時にテロが発生したため、それ以上の検討をしないまま、あわただしく閉会に至った。なおこれらは国連事務総長の「ミレニアムプロジェクト」14)とも連動している。そこには、アフリカに現代の世界の縮図ともいうべき、さまざまな問題が集約されて現れているという現実があり、またブッシュ政権の中枢がかつてアフリカでの活動経験(多くはCIAの要人として)を土台にしてのし上がってきた経緯があり、そこでのコネクションが現在の彼らの結びつきを作っていることとも関連している。
こうしたアメリカ風のグローバリズムへの反発と対抗は、諸国家連合体形成とは別に「共和国」思想による国家建設を夢見る考えになっても現れている。たとえばジョクス15)の考えによれば、そこでは初発範疇として今日の暴力をおき、そこから権力─(人民の)主権─共和国建設という図式を描くが、アメリカ「帝国」の下での政治と経済の結合の進行、情報化社会とその監視システム、自動化された戦争システム、姿なきグローバルな金融資本、多国籍企業、超国家的な国際機関等を媒介にして、最終的には超国家的「帝国」が暴力と経済の結合に収斂されていて、そこではグローバルな主権というものは存在せず、あるのは状況のみなので、それに対比させるものをフランスの共和国思想(ジャコバン主義)を基軸にしたグローバル時代の主権の確立においている。なおこれとは角度は違うが、自由主義(リベラル)からのアメリカ流グローバリズムの批判もある16)。
以上を基に総括してみると、冷戦体制の崩壊によるグローバル時代の到来はアメリカ一極を中軸とする「帝国」の世界を生み出したが、この下での「政治的従属国」ないしは「体制的従属国」の建設と再編が急速に進んでいる。その太い中心線をなすのは、アメリカの支配層とこれら政治的従属国の中枢に位置するその同調者との間の新たなネットワークの敷設であり、それはアクセスキャピタリズムとなって、見えない糸を世界中に張り巡らす。そして表面的にはアメリカ(知財)と中国(モノ作り)を双頭とするスーパーキャピタリズムの世界が浮上してきているように見えるが、その背後で糸を引き、巧みに操っているのは、このアクセスキャピタリズムの目の見えないネットワークである。しかもそれが資本の純粋運動と合体したときには、強固な金融寡頭制支配を形成することになる。したがって、それはアメリカ「帝国主義」という主体、あるいは国家間関係で表すよりも、アメリカ「帝国」とそのネットワークという、人的関係─その中枢に資本の支配があるが─で表現した方が適切であろうと実感させる。これが今日の世界を支配している「見えない帝国」(invisible empire)の深奥である。 

1)『多国籍企業の海外子会社と企業間提携』文眞堂、2006年。
2)アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『〈帝国〉─グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』、水嶋一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳、以文社、2003 年、同『マルチチュード─〈帝国〉時代の戦争と民主主義─』幾島幸子訳、上・下、NHKブックス、2005 年。
3)この二つの著作に関しては9.11 やアメリカのアフガニスタンやイラクへの進攻という時代背景もあって、たちまちのうちに多くのところで取り上げれられ、論じられているが、代表的なものとして以下のものをあげておこう。アントニオ・ネグリ『〈帝国〉をめぐる五つの講義』小原耕一+吉沢明訳、青土社、2004 年、「特集『帝国』を読む」『現代思想』2003 年2月号、「特集マルチチュード」『現代思想』2005 年11 月号、西谷修、酒井直樹、遠藤乾、市田良彦、酒井隆司、宇野邦一、尾崎一郎、トニ・ネグリ、マイケル・ハート『非対称化する世界─〈帝国〉の射程』以文社、2005 年、アラン・ジョクス『〈帝国〉と〈共和国〉』逸見龍生訳、黄土社、2003 年、エレン・メイクシンズ・ウッド『資本の帝国』中山元訳、紀伊国屋書店、2004 年、的場昭弘編『〈帝国〉を考える』双風社、2004 年、山下範久編『帝国論』講談社選書、2006 年、「〈帝国〉の生成と国民国家」『アソシエ』2004.No14、T.アトゥツェルト、J.ミュラー編『新世界秩序批判─帝国とマルチチュードをめぐる対話─』島井賢一訳、以文社、2005 年、柄谷行人『世界共和国へ─資本=ネーション=国家を超えて─』岩波新書、2006 年、渋谷要『国家とマルチチュード』社会評論社、2006 年、斉藤日出治『グローバル市民社会論序説─帝国を超えて─』大村出版、2005年。
4)この二つの筋道に関して、詳しくは吉信粛『国際分業と外国貿易』第10 章、同文舘、1997 年、参照。
5)この過程に関してかつて筆者は詳しく分析したことがある。関下稔『現代世界経済論─パクスアメリカーナの構造と運動─』第10 章「原・燃料支配の基本思想」、有斐閣、1986 年、参照。
6)ハリー・マグドフ『帝国主義─植民地から現在まで─』大阪経済法科大学経済研究所訳、大月書店、1981 年。
7)「進歩への協力」(ロックフェラー報告)大蔵省『調査月報』第41 巻第2号。
8)ハワイ併合の過程は戦後の日本占領と象徴天皇制の構築に大きな経験となり、さらにイランのパーレビ王制などの戦後の途上国政権の確立や、現代のアフガニスタンやイラクにまで踏襲されているという点に関しては、堀武昭『「アメリカ抜き」で世界を考える』新潮選書、2006 年が参考になる。
9)クリントン政権下で始まった日米安保の見直しと改訂の主な動きをあげると、新防衛大綱(2004年12 月10 日)、日米安保協議会(2プラス2)共通戦略目標(2005 年2月20 日)、日米同盟「変革と再編」中間答申(2005 年10 月30 日)、米軍再編最終合意(2006 年5月2日)、そして小泉首相の訪米によって結ばれた新世紀の日米同盟(2006 年6月29 日)に至っている。
10)近年アメリカからの戦後日米関係と象徴天皇制に関する考察と言及が増大してきている。そしてむしろ、日本では対米従属が語られにくい状況の中で、その事実を率直に語ったり、あるいは天皇の政治的関与に関しても大胆に指摘する声が広がっている。その意味では面白い状況である。それらについては、たとえば、酒井直樹「共犯生としてのスーパー国家性」(『非対称化する世界』前掲、所収)、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』上・下、三浦、高杉訳、岩波書店、2001 年、ハーバート・ビックス『昭和天皇』上・下、吉田裕監修、岡部、川島訳、講談社学術文庫、2005年、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』(新版)、伊藤延司訳、角川学術出版、2005 年、エレノア・ハドレー『財閥解体 GHQエコノミストの回想』田代やす子訳、東洋経済新報社、2004 年、イアン・ブルマ『戦争の記憶』石井信平訳、筑摩学術文庫、2003 年、チャルマーズ・ジョンソン『アメリカ帝国への報復』鈴木主税訳、集英社、2000 年、などがある。
11)ウオールデン・ベロー『脱グローバル化』戸田清訳、明石書店、2004 年。
12)National Energy Policy; Report of the National Energy Policy Development Group、 May 2001、U.S.Government Printing Office. これはNEPとか「国家エネルギー政策」とも呼ばれている。これはさらに2004年の超党派での国家エネルギー政策委員会レポートEnding the Energy Stalement、A Bipartisan Strategy to Meet America’ Energy Challenges、 The National Commission on Energy Policy、 December 2004、 www.energycommission.org. に引き継がれていく。
13)Our Common Interest: Report of the Commission for Africa、 Commission for Africa、 March 2005.
14)Investing in Development: A Practical Plan to Achieve the Millennium Development Goals、Millennium Project Report to the UN Secretary–eneral. 2005、 New York.
15)アラン・ジョクス『〈帝国〉と〈共和国〉』前掲。彼はその中で特に、ポスト冷戦期のアメリカ帝国の三人の代表的なイデオローグとして、アンソニー・レイクの拡張論、ハンチントンの文明の衝突論、そしてアルビン・トフラーの第三の波からパワーシフト論に至る未来論をあげている。
16)たとえば、テッサ・モーリス−スズキ『自由を耐え忍ぶ』辛島理人訳、岩波書店、2004 年、マイケル・イグナティエフ『軽い帝国』中山俊宏訳、風行社、2000年。 
 
ポスト冷戦時代 異端の副大統領ヘンリー・A・ウォーレス

 

はじめに
20 世紀末に冷戦構造が崩壊すると、ポスト冷戦の世界秩序をめぐる論議が起こった。しかし新世界秩序は、9・11 事件とイラク戦争を経た現在でもなお見えてきていない。
ブッシュ政権の単独行動主義のもとで「アメリカ一極体制化」が進んだが、他方では、イラク戦争時のフランスの抵抗に見られる「大国間の対立」の側面が露わになり、しかもアメリカの2006 年中間選挙での共和党の敗北もあって、ネオコン勢力の退潮が急速に進むと見られている。一極体制から、「大国間の協調による平和」という意味での「多極世界化」が進み始めていると言っても良い。大国間の経済摩擦の激化を調整するために第1回会議が1975 年にフランスのランブイユで開かれたサミット(先進国首脳会議)は、アメリカ一国による国際公共財の提供から西側の先進諸大国による共同負担へ移行させることを志向したものであり、1980年代以降は、平和の課題にも取り組むことによって「共同覇権体制」(パクス・コンソーシアム)を生み出した。冷戦崩壊以降は、アメリカの主導権の強化や仏独の独自外交などもあってサミットの形骸化が顕著になったが、21 世紀に入って、テロとの戦いの課題の重大化、アメリカ一国主義の後退、ロシアの参加、フランスの独自外交などの新しい条件のもとで、サミットが再び大国間の協調による平和を志向するパクス・コンソーシャムの方向へ傾斜する可能性が高い。
冷戦がイデオロギー優先の世界秩序形成を強要したところから、ポスト冷戦時代には国益の復活現象が生じると見られていた。したがって、イデオロギー的色彩をまとったファシズム対民主主義の戦いであると位置づけられた「第2次大戦モデル」1)ではなくて、国益に基づく帝国主義時代の頂点を画した「第1次大戦モデル」の中にこそ次の時代を見通す作業の手がかりがあると考えられてきた。この作業は、同時に、冷戦構造の特質をめぐる定義論争と結びついている。社会主義ソ連時代のロシアの外交資料の公開という新たな事情を背景にして、スターリン外交に共産主義的要因よりも「ロシア民族主義的要因」の方をより強く見るメルヴィン・レフラーらの業績が注目される2)。冷戦の中核をなすものとされてきたイデオロギー的要因の位置づけに新しい解釈が提起されるとするならば、「冷戦不可避論」の再検討も含めた新たな冷戦研究の視点が必要になるだろう。
このようにポスト冷戦の視点から冷戦時代を再検討する場合に、欠かせない検討対象の一人が、アメリカ政府の冷戦政策形成期に対ソ強硬政策に反対して異端の政治家と呼ばれたヘンリー・A・ウォーレス(1888-1965)である(ウォーレスの家系には、ヘンリーという名前が多いので、以下で単にウォーレスと表記したときには、ヘンリー・A・ウォーレスを指すものとする)。ウォーレスは、永らく、異端の政治家として歴史の舞台から消えていた。いや、今も消えていると言った方が適当だろう。時代錯誤の政治家という意味で、「ドン・キホーテ的な十字軍の政治家」とも呼ばれた3)。
冷戦以後の時代状況を踏まえて、対外政策に関するウォーレスの歴史的評価の問題を提起した数少ない業績が、グラハム・ホワイトとジョン・メイズが1995 年に公刊した共著である。
本稿は、彼らの著作に触れながら冷戦史におけるウォーレスの意味を再検討しようとするものである。
ホワイトらは、主要にコロンビア大学のオーラル・ヒストリーに依拠して、次のように問題提起する。ウォーレスの生涯は、アメリカ現代史さらには世界の歴史においてきわめて重要な選択の道を指し示すものだった。国内経済では、利己主義に反対して現実主義的な利他主義を主張し、国際問題では、孤立主義に反対して自由貿易と国際協力を主張したのである。FDR(フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領)が死去したときにトルーマンではなくてウォーレスが後継の大統領になっていたら、トルーマン宣言に反対してソ連との協調を説いたウォーレスの路線が、40 年にわたる冷戦から世界を解き放っていたかもしれない。世界の実相と同様にウォーレスの人柄も複雑だった。実践的で、経験的で、科学的な思想を持つ一方では、人間の完璧さという神秘主義的で神知的な観念にとらわれていて、それは、国際主義を生み出しただけでなく、ドン・キホーテ的な時代錯誤の冒険主義にもなるという矛盾した二つの面をもっていた。ロシアの歴史資料が公開され始めたいま、いろいろな問題を考えねばならない。ウォーレスがソ連との建設的な協調は可能だと考えたのは正しかったのか。冷戦を主導した人々は、武器に不必要な出費をし、恐怖と嫌悪で国際関係を悪化させて40 年間を無駄にしてしまったのか。アメリカ外交がソ連封じ込めのために独裁体制を奨励することになると批判したウォーレスが正しかったのか。断固とした態度こそがソ連に侵略的な冒険主義はムダだと悟らせることができると言った冷戦主導派が正しかったのか。ウォーレスの経済に関する見通しには、現実的な根拠があったのか、それとも宗教的な信条からたまたま生まれたものにすぎなかったのか。ウォーレスの言によれば、彼の政治哲学は人は生まれながらに自由で平等だとする独立宣言と同様のものであり、人がウォーレスを危険人物と見た理由は、彼がその原理を白人中産階級だけでなくて人類すべてに適用しようとしたからだった。ウォーレスが考えた戦後世界の秩序とは、経済的国益を正義だとする大国の志向する国際警察力の構想とは無縁だった。ウォーレスが実現しようとしたのは、自由貿易、技術開発協力、国際経済協力によって不平等がなくなり、戦争の原因となってきた貪欲が時代遅れになる、そのような世界だった。
ウォーレスの戦後構想の中に冷戦とは異なる時代の可能性を見出そうとするホワイトとメイズの視点は、冷戦史研究に新たな一石を投ずるものと言える。しかし、その論証とくにウォーレスの対外構想の分析は従来の研究の到達点を越えるものではない。したがって、新しい解釈を提起するには至っていないと言わざるを得ない。 
1章 異端の政治家
ヘンリー・A・ウォーレスは、アイオワ州の農業に根ざしたウォーレス家の一員である。祖父のヘンリー・ウォーレス(通称、Uncle Henry)はセオドア・ルーズヴェルト政権で農業関係委員会を主宰し、父のヘンリー・C・ウォーレス(通称、Harry Wallace)はハーディング政権とクーリッジ政権で、農務長官を務めた(1921 − 1924 年)。代々、共和党員だったが、祖父が創刊した“Wallace’s Farmer” 誌は、超党派的な立場に立っており、1920 年にハーディングの選挙戦を支持してハリー・ウォーレスが運動した際には、「農業は党派的な問題ではない。
何が農民の具体的利益になるか、だけが問題なのだ」と主張していた(Lord、 215)。ウォーレスは1933 年に民主党の大統領FDRに農務長官に任命されたあと、共和党の孤立主義的な国際経済政策を批判して民主党へ変わっている。
ウォーレスは、アイオワ州立大学で農業を修めたあと、1921 年から父のワシントン転勤(農務長官への就任)のあとを受けて“Wallace’s Farmer” 誌の編集人となった。
ウォーレスが主導し、AAA(1933 年農業調整法)を基幹法として展開された農業におけるニューディール政策は、政府、農業団体、農民の三者協議を踏まえた「作付け制限協定制度」における「協定締結の任意性」が持つ民主主義的性格を誇った。それは、ウォーレスが恐慌を契機にした農業構造の民主化という他のニューディール政治家にはあまり見られなかった「改革志向」を強く持っていたからである。
恐慌の深刻さとヨーロッパでの戦争の切迫とがFDRの三選をもたらした1940 年選挙で、FDRは改革派のウォーレスを副大統領に指名したが、率直な言動と宗教的な色彩に民主党内の懸念が広がった。宗教的な指導者(グールー)との往復書簡の内容が公表されて、理解しがたい政治家というイメージが形成された。戦争中に総司令官を交代させるわけには行かないとする国民の意思を背景に4選を実現した1944 年選挙で、FDRは、ウォーレスでは勝利が難しいとする民主党内の保守派に妥協して副大統領をハリー・S・トルーマンに差し替えたが、その代わりにウォーレスを商務長官として処遇した。1945 年発足の第4期FDR政権では、ウォーレスのほかにも、ハロルド・イッキース内務長官、ヘンリー・スチムソン財務長官、フランシス・パーキンス労働長官など、強固なリベラル派(いわゆるニューディール派)の閣僚が入っており、2月のヤルタ会談で米ソ協調路線を作り出した勢力が対外政策に関してもかなり大きな影響力を持っていた。
すでにポーランド問題などの処理に関して齟齬をきたし始めていた米ソ関係は、1946 年に入ると、原子力管理問題とドイツ問題をめぐって緊張が高まった。
ウォーレスは、1946 年7月23 日、商務長官という立場を超えて、バーンズ国務長官の管轄する対外政策に異議を申し立てる書簡を大統領へ送った。大要は次の通りである。「平和を確保する唯一の道は力の優位だと言う者がいるが、原爆の時代にそれはありえない。バルーク案のような原子力の国際管理案は、ソ連を事実上排除するものであり、それでは、ソ連は原爆開発を急ぎ、自国の安全保障地帯を拡大しようとするだろう。だからロシア人の不安や恐怖を取り除くことが必要である」(Wallace A、 1-15)。書簡を手渡した際に、トルーマン大統領がそれを読んで「了承した」と理解したウォーレスは、秋の州知事選挙と上院議員選挙で民主党系候補の当選を目指してNCPAC(全米市民政治行動委員会)とICCASP(芸術科学専門職独立市民委員会、フランク・シナトラやオーソン・ウェルズが会員)が共催した9月12 日のマジソンスクウェアガーデン集会で、対ソ強硬政策に反対して、「わが国が強硬になればロシアも強硬になるだけだ。ロシアは、われわれの目的がイギリス帝国を助けることでもなく、近東の石油を買うことでもないと知れば、われわれに協力するだろう」(Blum、 661-669)と対ソ協調政策を繰り返した。しかし、バーンズ国務長官はすでに9月6 日のシュトットガルト演説で、ドイツの脅威を強調するソ連やフランスの意向を無視して米軍の長期駐留によってドイツ問題をアメリカ主導で解決する方向を表明していた。バーンズから抗議されたトルーマンは、9月20 日にウォーレスを辞任させて事態を収めた。トルーマンは、それまで対外政策の基本について明確な意思表明をしていなかったが、このあと対ソ強硬政策路線で一貫するようになる4)。この演説は、アメリカの政府内からヤルタ路線を継承するニューディール左派(リベラル左派=社会リベラル)が追放されて、対ソ強硬政策で一本化されて行く重要な契機となった5)。
1945 から1946 年の間に、かつてFDRとともにニューディールを推進し第2次大戦を戦った次のような進歩派が政府の枢要なポストから退いていた。エックルス連邦準備制度理事会理事長、イッキーズ内務長官、モ−ゲンソー財務長官、ワイヤット住宅局長など。替わって多くの財界保守派が登用されていった。フォレスタル国防長官(ジロン・リード商会会長)、サイミントン空軍長官(エマーソン電力会社社長)、スナイダー財務長官(ファーストナショナルバンク副頭取)など。トルーマン民主党政権のもとで、反共リベラル(リベラル右派=冷戦リベラル)が主導権を握って対ソ強硬政策を完成させたのであるが、対外政策に関する完全な一致が政府レベルで生まれるのは、朝鮮戦争勃発後のことであって、それまでは封じ込め政策やNATOをめぐって反共リベラルの内部でさえ不一致が存在していた(McAuliffe、 76-77)。
11 月の中間選挙では、リベラル派の退潮がはっきりした。民主党内リベラル派を代表する労働組合のCIOが支持した候補318 人中当選はわずか73 人、ネーション誌がリベラル度80 %以上と評価した下院議員77 人のうち当選したのは36 人しかいなかった(Gillon、 p15)。トルーマンの路線転換と中間選挙でのリベラル派の退潮は、リベラル派の分裂を生んだ。1946 年12 月、NCPACとICCASP が中心となって、対ソ協調を重視するPCA (Progressive Citizens of America、アメリカ進歩的市民同盟)が結成された。精神的な柱はウォーレスである。1947 年1月にPCAに対抗して結成されたADA (Americans for Democratic America、民主的行動のためのアメリカ人協会)は、PCAと異なって、共産主義者の加入を拒否し、対ソ強硬政策を支持するリベラル団体で、精神的な中心は神学者のラインホールド・ニーバーだった。
1947 年のトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランは、東西2つの世界の創出に大きな役割を果たして、冷戦構造への移行が明確になった。ウォーレスは1948 年には、進歩党(Progressive Party)を結成して大統領選へ立候補したが、得票率わずか2.38 %(116 万票)で惨敗した。党綱領は、平和、自由、豊かさを柱に据え、平和については、「アメリカ国民は平和を欲している。しかし独占と軍部の指示に追従している民主・共和の両党は、平和の名で戦争の準備をしている。両党はソ連との対立を解決するための交渉を拒んでいる」(Porter and Donald、437)として、ソ連との関係改善が世界平和の鍵であることを強調していた。国民レベルにおける、党の対ソ協調政策路線への関心の低さに加えて、共産主義者が中心の組織だという民主・共和両党からの非難が支持を大きく減らした。1948 年2月には、チェコで共産党によるクーデタでソ連派の政権が成立する事件が起きていたが、ウォーレスは、「そのような危機が生じるだろうことは、1947 年3月12 日のトルーマン宣言の発表のときからわかっていたことだ」(Wallace B、 3)として重大視しなかった。進歩党にはアメリカ共産党員と推定される幹部が少なくなかったことがのちに明らかになったのだが、ウォーレスは、共産主義者からの支持を受け入れたことによって政治的な立場を弱くしてしまった(Hamby、 231)。進歩党は、選挙の後にも活動を続けたが、1950 年6月に勃発した朝鮮戦争がウォーレスと進歩党を引き裂くこととなった。
進歩党全国委員会は、1950 年7月に朝鮮戦争を朝鮮民族の解放戦争と位置づけ、アメリカの行動を侵略であると非難した。しかし、ウォーレスは、「いまアメリカ国民にわかっているのは、ロシアの訓練した北朝鮮軍が6 月22 日の朝早く突然に南朝鮮に対して十分に計画を練った上で攻撃をしかけたということである。・・・私は、わが国が戦争を始め、かつ国連がそれを正当だと認めたときには、わが国と国連の側に立つ」6)とする声明を出して、進歩党との決別を明確にして、国内で大きな反響を呼んだ。ウォーレスは、「ロシアは、北朝鮮による攻撃を止められたはずだし、また、いつでもやめさせられるはずだ」と言い、翌年には、「朝鮮について政府に部分的に同意したからといって政府の外交政策のすべてを支持しているわけではない」7)と説明しているので、「対ソ強硬政策へ転換した」わけではないが、少なくとも、平和な世界を創出する責任をソ連にも負わせた点で、進歩党と相容れるところはなかったのである。
ソ連批判へ転換したあと、ウォーレスは、NATO支持に回り、1952 年選挙では共和党のアイゼンハワーを、1960 年選挙では同じく共和党のニクソンを支持したとみられている。
ウォーレスがアメリカ政治の中心から外れていった原因は、主要に、第2次大戦後の世界政策とくに対ソ政策をめぐって、1946 年以降も非現実的な対ソ協調を主張し続けたことにあるのであるが、ドン・キホーテ的な政治家と呼ばれたのは、単なる政策路線の争いの評価だけにあったわけではない。すなわち、彼の宗教観の問題である。
ウォーレスの宗教への深い帰依の心は、彼の政策理念とりわけ外交理念に道徳的な要因を持ち込むことによって、彼の政治的な影響力を強めた。戦後に、彼は「個人生活を規律する道徳的原理が国際問題をも支配しなければならない」と述べ、「我々は山上の垂訓を読み、特権を持たない人々に背を向けたときにはキリスト教の教えに従っているかどうかを考えてみなければならない」と主張した(Wallace B、 8)。ウォーレスによれば、キリスト教的観念の核にあるのは「人間の善性への信頼」であって、その表現が民主主義政治になるものと考えられたのである。
しかし、他方で、彼の宗教心はミステリアスで理解しがたい政治家だというイメージを生み出した。国民レベルでも彼の交友関係に警戒心が持たれ、それが1944 年選挙で現職の副大統領が候補からはずされるという異常な事態を引き起こした。彼は、1920 年代からロシアからの亡命者であるニコラス・ローリックを指導者(Guru)と呼んで信仰に近い感情を披瀝していた。ローリックは、画家、詩人、考古学者、哲学者、神秘家を自称し、美術品を保護する国際条約の締結を提唱していた人物で、1929 年にはニューヨークに彼の絵画を展示する29 階建てのローリック美術館を建設した8)。ローリックは、宗教はすべて根本的には同じものであり、人間は兄弟のようなものであり、人々が協力し合えるように変えなければならないと主張して、「平和の旗」運動を展開したが、ウォーレスはそれに共感して、1933 〜 1934 年にはローリックをグールーと讃える手紙を何通も書き送り、後に彼の政敵がその手紙(グールーレターと名づけられた)の内容を公表した(Walker、 54)。アメリカの政界が得体の知れない人物として警戒していたローリックへの異様な帰依が公表されると、政治家としてのウォーレスへの信頼が低下していった。ローリックとの関係は、ウォーレスの宗教的信条と彼の外交理念との間に密接な関連があることを示すものだった(Walker、 p53)。ただし、戦後アメリカの冷戦政策に批判的なマーコウィッツは、ローリックはたしかに自分を神と呼ぶようなカルト的な面を持っていたが、ローリックの主張の重点は秩序と自由、科学と宗教の共存であって、彼の神秘性はウォーレス批判派の作った作為的な面があることを指摘して、ローリックに共感したウォーレスが追及した社会の統一性は、ローリックよりももっと破壊的な封じ込めリベラルが達成したではないかと反論している(Markowitz、 .336、 341)。 
2章 対ソ協調政策の構想
ウォーレスの対ソ協調政策は、1945 年2月にFDR大統領が行ったヤルタ会談における英米ソ3カ国の合意の路線であり、国民からの支持も高かった。ギャラップ世論調査によれば、1945 年3月には、「米ソは戦後も永続的な軍事同盟を結ぶべきか」との質問に対して、賛成49 %、反対36 %で、1945 年8月の質問「ソ連は戦後もアメリカと協力すると思うか」に対しても、信じる54 %、信じない30 %、と戦時中のソ連への信頼はなお高かった(Gallup、 523)。
アメリカが政府レベルで対ソ強硬政策へ転換したのは1946 年秋であり、具体的な対外政策として具体化されたのが1947 年3月のトルーマン宣言、反共軍事同盟の確立が1949 年のNATO設立、そして、アメリカの戦略の基本が確認されたのが1950 年5月にトルーマン大統領に提出されたNSC68 号文書だった。
ウォーレスは、先に触れた1946 年7月23 日の大統領宛書簡で、「わが国では、ロシアの安全保障地帯の拡大に反対の声があるが、東欧や中東への彼らの拡大は、本土から数千マイルも離れたグリーンランドや沖縄にわが国がもっている空軍基地に比べたら、軍事的にはわずかな変更でしかない。ロシアは歴史的に繰り返し侵略されたので、友好的な隣国によって安全を確保しようとする。わが国が東欧に民主主義を確立しようとすると、ロシア人には、非友好的な隣国によって包囲するものと見えるのだ。だから、ロシア人の不安を取り除くことが大切だ。たとえ宥和的だと言われようとも、ロシアの安全に配慮しなければならないのである」と述べて、協調政策の重要性を主張したのであるが、彼の対外政策は、2つの理念によって支えられていた。第1にロシア外交にナショナルな本質を見たこと、第2 に戦争の危機の根源を共産主義ではなくて貧困問題に見出したことである。
ウォーレスは、米ソ間の協調を確認したヤルタの合意が崩れた原因は、「歴史的に形成されてきた相互誤解」にあると考えた。アメリカ側から見ると、ソ連における、思想的な不寛容、奴隷労働の存在、1940 〜 1941 年に各国の共産党員がナチスドイツを支持したこと、が問題だった。ソ連側から米英を見ると、ロシア革命直後の干渉戦争、ドイツの矛先をソ連へ向けさせたミュンヘン協定、不凍港を確保しようとする行動を妨害してきたこと、西側が侵略の意図をもっていると思われることなどが問題だったが、ウォーレスによれば、過去の経緯はともかくとして、第2次大戦後の米ソ関係に限れば、互いの不信感には根拠が薄かった。アメリカ側がソ連に対して侵略の意図をもっていないことは自明のことであるが、他方で、ソ連共産主義の対外膨張に見える諸行動は「自国の安全」を確保するための「安全保障政策」の一環であって、「国益」または「ロシアの民族的利益」を守るための行動に過ぎないのだから過剰な反応をすべきでないとされた。「ソ連の行動の大部分は、経済上の差し迫った必要と安全保障上の不安、つまり資本主義国に包囲されるのではないかという恐れから生じた」9)ものである。したがって、ソ連封じ込めは得策ではない。「アメリカが、ロシア人にわれわれはただ貿易をしたいのだということを分からせれば、ロシア人はわれわれが真摯に平和を求めているのだということを信頼するようになるだろう」(Blum、 562)。東欧圏にソ連寄りの政権を樹立させていった経過は、「友好国によってソ連を守ろうとした」(Wallace B、 112)ものであり、「ソ連にとって友好国とは、社会主義政権を意味せず、ソ連に敵対せずに協力する意思をもつ国を指す」(Wallace C、 207)とされた。
ここから、ソ連の対外行動の「ナショナルな性格」が重視された。「スターリンは、ロシア共産主義をナショナルなものにしようとする実際的な考慮に突き動かされた」のであって、だから彼は「古くからの多くの革命家を追放した」(Wallace B、 49)のである。「いまのロシアを動かしているのは新しいロシアナショナリズムであって、ロシアはますます文盲一掃や生産拡大の課題に集中するようになってきている」(Wallace B、 54)。そこから、「独裁は、共産主義理論の一部分ではあるが、ロシアだからこそ必然的に成長してきたものだ。その背景には、ツアーリズムという基礎、外部世界からのソ連への強い反発、レーニン死後のスターリンとトロツキーの暗闘、があった」(Wallace B、 53)として、スターリン独裁も共産主義的というよりもロシア的な本質を持つものとされた。だからアメリカがソ連を封じ込めようとすればするほど、ソ連は自国の安全が脅かされたと考えて国境沿いに友好国を作って自国を守ろうとするから、封じ込め政策には有効性が乏しいと批判したのである。中国共産党についても、その民族的な性格が強調された。「中国共産党員は、まず中国人であり、次に共産主義者である。・・・中国共産党は、親ロシアというよりも親中国なのである」(Wallace B、 96)。
ただし、ウォーレスの外交理念は「米ソ関係」を特別に重視する「二国間主義」であったわけではない。ウォーレスは「国連憲章こそわれわれの指針である」と主張し、ウォーレスの影響のもとで作成された進歩党の綱領は、「民主・共和の両党は、世界平和と世界の再建を推進する手段である国際連合を拒否している」(Porter and Donald、 437)と非難していた。とりわけ軍縮と原子力の国際管理には国連の役割が強く期待されたのであり、「多国間主義」の枠組みの中で米ソの相互理解と共存を追及することが予定されていたのである。 
3章 勢力圏の構想
ウォーレスの米ソ協調政策を支えた重要な構想が「勢力圏の相互承認」だった。
ウォーレスは、1946 年9月の演説で、次のように述べた。「現在平和のための条約をもっとも必要としているのは、米ソである。アメリカ人は、ロシア人がラテンアメリカ、西ヨーロッパ、アメリカ合衆国の政治問題に関与する資格がないのと同様に、自分たちも東ヨーロッパの政治問題に関与する資格がないことを認めなければならない。たしかにわれわれは、ロシアが東ヨーロッパでやっていることを好きにはなれない。ロシアが行っているような土地改革、産業の収用、基本的自由の抑圧は、アメリカ合衆国の国民の大多数には我慢ならない。しかし、われわれが好むと好まざるとに関わらず、ロシア人は、われわれがわが国の勢力圏を民主化するのと同様に、自らの勢力圏を社会主義化するだろう。このことはドイツと日本にも当てはまる。われわれは、日本およびドイツの中のわれわれ側の占領地域を民主化するべく努力しているし、ロシアはドイツの東側地域を社会主義化しようとしている。・・・中国についても東欧についてもわが国の貿易に対してドアが閉ざされるのを容認はできない。しかし同時に、バルカン諸国はわが国よりもロシアに近いのだから、ロシアとしては英米がこの地域を政治的に支配するのを許せないことも認めざるをえない」(Blum、 665-666)。
ウォーレスにおける勢力圏構想の真の意味は、「勢力圏への世界の分割」ではなくて、「勢力圏の相互承認」であった。勢力圏とは「政治的」な意味をもつものであり、すなわち「安全保障圏」を指していた。国家の安全と領土の保全のために周辺に友好国を形成しようとするのは、主権国家の当然の行為として是認された。ウォーレスにとって、国家の存在の根底にあるのは、安全と経済的な安寧だった。したがって、政治的に区分された勢力圏を相互に尊重した場合でも、貿易や金融などの経済活動は国境を超えて自由に行われなければならない。その意味で、ウォーレスは「2つの勢力圏」と「1つの世界」を構想したのであり、封じ込め政策が「1つの世界」を不可能にすることは受け入れられなかった。封じ込め政策が世界を2つに分割して、アメリカの商品と資本の輸出先を狭めることは、理念的にも実際的にも好ましくなかった。ソ連の勢力圏を承認することは、経済的な門戸開放を条件としてはじめて可能になるものだったと言ってよい。
経済的に1つの世界とは、通商関係によって結ばれた世界であり、平和のためには通商が必要だという意味で「平和のための通商」の構想だったが、ウォーレスにおいては、それは「通商のための平和」の構想と表裏の関係にあり、勢力圏構想は国内経済改革(ニューディールの再開)構想と結びついていた。ウォーレスらニューディール左派(リベラル左派)は、戦時中に巨大化したアメリカの生産力は、戦後にはドルの欠乏する世界各国に輸出市場を確保できなくて、再び恐慌と大量失業を招くのではないかと恐れ、ニューディール型の経済民主化の取り組みを再開して、国内での有効需要の拡大すなわち「国内市場の拡大」を図ることが必要だと見通していた10)。経済的民主主義とは、「種々の経済グループが同等の交渉力を持ち、かつ、一般福祉に貢献すること」(Wallace D、 30)を意味したのであり、すでにニューディール初期の1934 年に、「(大恐慌という)トラブルが所得の不平等な配分に拠るものだということは明白だ。ニューディールは、国内の購買力の向上によって市場の崩壊を救おうとするものだ」(Wallace E、 30)と主張していた。ウォーレスは、農務長官在任中もそれ以後も、「貿易拡大と経済的な世界協力を重視したのだが、外国貿易をアメリカ経済不況克服の万能薬と考えたわけではなかった。外国貿易と並んで国内購買力を拡大することで外国市場への依存を減らす方策を採っていた」(Walker、 p46)のである。ウォーレスは、「国際協力と国内経済の結合こそ、この惑星が住民を維持する上で最善の道だと考えた」(Schapsmeier、 284)。戦後アメリカで6000 万人分の仕事を確保するには、内外のニューフロンティアを拡大する必要があり、「世界の農工業の開発は、アメリカの投資と労働に無限の新しいチャンスを作り出す」(Wallace D、52)と考えられた。ニューフロンティアの基調は協力であり、それは個人主義的な競争を基調とするオールドフロンティアとは異なっていた(Wallace @、 274)。結果的に、戦後のアメリカが経験した経済的課題は不況ではなくてインフレとなり、ウォーレスらの予測は外れた。
ウォーレスがイギリス外交を批判した際に、「鉄のカーテンを引いたのはスターリンではなくてチャーチルだ」(Wallace B、 58)と述べたことは、まったく荒唐無稽な認識というわけではない。ウォーレスはチャーチルの諸行動がその原因だとして、1919 年の行為、第二戦線をバルカン諸国で作ろうとしたこと、ギリシャ政策、の3つを指摘した。1919 年の問題とは、ロシアへの干渉戦争であり、第二戦線問題とは、ソ連がドイツからの軍事的圧力を減らすために要請していた連合軍のフランス上陸作戦を後回しにしてイギリスの権益の擁護に直結するバルカン攻撃(実際にはイタリア上陸作戦になった)を強行したことを指す。戦後世界を東西2つの勢力圏に分けた源泉は、通常、ヤルタに求められるが、第2 次大戦後の勢力圏構想は、もともと1944 年10 月の「英ソ協定」に由来するものであった。そこでは、英ソの勢力圏として、ギリシャでは英が90 %の優位、ルーマニアではソ連が90 %、ブルガリアではソ連が75 %、ユーゴとハンガリーでは英ソが50 %ずつ、とすることが確認された。アメリカは、戦争終結までの過渡的な任務分担ならばかまわないとしてやむなく容認したが、それが占領政策の時期に限られずに、戦後の地域的な勢力圏の形成に影響することは当然に予想できたことであった。戦後には、「政治的には2つの勢力圏、経済的には1つの勢力圏」と考えていたウォーレスの勢力圏構想は、「政治的にも経済的にも2つの勢力圏」に変質してしまった。この観点からは、ヤルタで米英ソ首脳が合意した勢力圏構想が「東西両陣営への世界の分割」へと変質していったことに対するイギリス外交の責任は否定できないだろう。 
おわりに
ウォーレスの対外政策観には、「一貫性がある」(Walker、 4)。その一貫した論理とそこに含まれる意味を明らかにするために、以上の分析をふまえて、4点を検討する必要がある。
第1は、ソ連外交が自国の安全を最優先する「安全保障外交」であり、したがってスターリン外交は共産主義外交ではなくて「ロシア外交」だったとする評価について。たしかに、スターリンが、共産主義の輸出よりもソ連の「国益」を優先させたと見られる事例は多かった。ギリシャの内戦状況の中で、スターリンが王政復古に強く反対して反政府組織に働きかけたという事実は確認されていない。1945 年2月のヤルタ会談で、対日参戦の見返りに日本の千島列島の引渡しや中国の権益の獲得の約束を英米から得た際に、スターリンはFDRの求めに応じて中国の国民党政権との友好条約の締結を約束し、日本の降伏の1日前の8月14 日に蒋介石政権と中ソ友好同盟条約を結んで、結果的に毛沢東率いる中国共産党を裏切る形になった。スターリンが、中国共産党による共産主義革命でなく、第3次国共合作(連立政権)の中国でも良いと考えたからだと推定される。このような諸事実は、スターリンが戦後世界において共産主義の輸出よりもソ連の国益を優先させたとする解釈によく合致する。ウォーレスも、「スターリンは、戦時中にチャーチルと抜け目なく取引して、その見返りとして、ギリシャはイギリスが統治したらよいと了承を与えていた」(Wallace B、 97)ことを指摘している。だとしたら戦争の危機はどこから生じるのか。ウォーレスは、戦争は、根本的には共産主義ではなくて「貧困」から生まれるものだと考えた。「真の世界危機とは、数百万の人々が、家がなく、空腹で、病に冒され、永年の戦いに疲弊しているということだ」(New Republic、1947.3.24)。「欠乏、人種差別、搾取のあるところではどこでも、共産主義は成長する」のだから、「共産主義と資本主義のどちらがより多くの物と精神的な安寧を提供できるかを平和的に競争したらよい」(Wallace B、 14)。このようなウォーレスの主張は、アメリカ資本主義を民主的進歩的資本主義に変えることによってソ連共産主義に勝利できるという自信に裏付けられていた。民主的進歩的資本主義とは、「不況と戦争なしに庶民(コモンマン)を豊かにするもの」(Wallace B、 p14)とされた。
第2は、勢力圏の相互承認という主張について。
勢力圏構想は、1944 年の英ソ協定が典型的に示すように、「大国間の協調による平和」であり、民族主権の尊重とは論理的には相容れない、その意味で帝国主義の論理だとする解釈もありうる。勢力圏をひとつにまとめる力は、中心である大国の力である。「国際公共財の提供による統合」という覇権安定論的な説明も可能であるが、その場合でも、植民地や中小の国々の主権は理論的には尊重されにくい。しかし、ウォーレスにおいては、ソ連共産主義との競争において勝利を展望する観点から、民族主権の尊重が文言としては組み込まれていた。1947 年1月にマーシャル国務長官に宛てた公開書簡では、「われわれは、ロシア人が植民地の人々の前を、帝国主義の唯一の敵として行進するのを許してきた。・・・空腹と戦争に対する唯一の保護者はわれわれではなくてロシア人だと彼らには思えたからだ」11)と、植民地主義反対の必要性を強調していた。また、政治的な勢力圏と経済的な門戸開放の結合というウォーレスの構想に、現実的な可能性があったことは否定できないだろう。ウォーレスがソ連の勢力圏を容認できたのは、それをソ連の安全保障圏とみなしたからだった。
第3は、反英主義について。
上の分析では十分に触れられなかったが、ウォーレスの対外政策構想は、イギリスによって遂行されている帝国主義と勢力均衡政治への反発を基礎に置いている。1946 年9月の演説では、「私は、個人としてはイギリス人が好きだが、イギリスをわが国の外交の手本とするのは馬鹿げている。アメリカが戦争をするかしないか、またいつするか、というようなことをイギリスの勢力均衡論が決定するようなことがあってはならない。中東でのイギリスの帝国主義政策とそれに対するソ連の報復がアメリカを戦争に巻き込んでしまう恐れがある」(Blum、 pp661-669)と主張して、アメリカの独自外交の必要を説いた。彼の批判するイギリス帝国主義とは、アメリカの商品と資本を排除している特恵関税体制を指している。イギリスの勢力均衡政策への批判は、第1次大戦に英仏を支援する立場で参戦したアメリカが戦後に念願とした門戸開放を得られなかったことから、1930 年代に孤立主義外交へ走ったアメリカ国民の意識を反映している。
ウォーレス自身は、FDRと同様に1930 年代の早い時期からヨーロッパの紛争への介入の必要を主張した政治家であったが、第2次大戦後には、イギリスが世界に広がるイギリス帝国の権益を確保するためにアメリカをソ連との対決に引き込もうとしていると警戒心を高めたのである。ウォーレスにおける帝国主義批判は、その意味で、アメリカの伝統的な「反英主義」の発現と見たほうがよい。
第4は、ウォーレスの外交理念の本質的な特質について。
ウォーレスの外交観には、道義主義の色彩が強い。彼は、山上の垂訓演説のように、キリスト教の理念を自己の外交理念に取り入れて、しばしば聖書を引用しながら演説をした。イギリス外交を嫌悪するひとつの理由は、それが道義を無視する権力政治の原理に立っているからだった。「個人生活を規律する道徳的原理が国際問題をも支配しなければならない。その手始めは、自分を相手の立場においてみることだ」(Wallace B、 118)。ウォーレスは、権力政治を肯定するマキャベリズムは戦争と死の世界を生み出すものであるとして否定して、国際社会では強制力と欺瞞ではなくてすべての人々の安寧という道徳律を発見すべきだと主張した(Wallace B、 119)。これまでの通説的な理解は、ウォーレスの外交理念が「道徳的な要素」に基づいていたがゆえに、第2次大戦後の世界の構造変化(ソ連共産主義の対外膨張とそれへの対抗)に柔軟に対応することができなくなり、そこから対ソ協調政策という「非現実的な外交政策」が主張され、ウォーレス自身も時代変化についてゆけない「ドン・キホーテ的な政治家」になってしまった、と解釈してきた。グールーレター事件に見られるような神秘的な宗教観がそのようなウォーレス像を強めた。ウォルトンの次の指摘は、一つの典型的な評価である。
「プロテスタントの福音主義夢想家だったウォーレスは、冷戦に代えて理想主義を鼓吹したいと考えていたが、それは朝鮮戦争の勃発と共に消え去った」(Walton、 349)。
しかし、ウォーレスの外交観をそのような理想主義的な特質において捉える解釈は、どこまで妥当性をもつだろうか。ウォーレスのキリスト教的な言辞にも関わらず、上に見た彼の論理は、彼が現実の国際社会に対応した現実主義的な外交観をもっていたことをうかがわせるものである。安全保障圏でもある勢力圏の相互承認の構想は、伝統的な現実主義政治の理念そのものである。イギリス外交を勢力均衡政治と呼んで批判したが、イギリスは1944 年の英ソ秘密協定にみられるように、共産主義ソ連との間でいったんは東欧圏を勢力圏へ分割することを承認したのであって、チャーチルのフルトン演説はその論理を前提に出されたものだった。ウォーレスのイギリス外交批判は、閉鎖的なイギリス帝国への批判であり、また、その帝国を守るためにソ連との対決にアメリカを巻き込もうとする意図への批判であって、彼が勢力均衡政策の理念そのものを拒否したわけではない。したがって、ウォーレスがイギリス流の権力政治観を排して、その代わりに個人的道徳的な原理をおいたと解釈することには無理がある。
では、なぜ平和創造に対するアメリカの責任が強調されたのか。その理由は彼が朝鮮戦争に際してソ連批判へ転換した論理の中に見られる。道徳的原理が国際政治を普遍的に規律すべきならばソ連政治に対してもアメリカと同様に道徳的原理を持つことが要請されるべきであるが、彼はその論理は採らなかった。彼は先にも引用したように、「ロシアは北朝鮮による攻撃を止められたはずだし、また、いつでもやめさせられるはずだ」として、ロシアの平和に対する責任を追及した。ウォーレスは、1948 年にはソ連は第2次大戦で疲弊したので今後5〜 10年は戦争をできないだろうとみていた。したがって、アメリカがソ連に対して軍事的優位にあるからこそ、平和実現の主たる責任がアメリカにおかれたのであり、1950 年までにソ連による原爆開発、中国における共産革命があって、ソ連が軍事的にアメリカと対等な立場になってきたことから、ソ連の責任をアメリカと同様なものとして追及した、と考えられる。このような分析を踏まえると、ウォーレスの外交観を現実主義的なものと理解することが適当であるという結論になる。それに付け加えて、「国益第一のソ連と民族主義的なスターリン」という見方が正しいとするならば、ウォーレスの外交論は第2次大戦後の新世界秩序構築に当たって、現実に選択しうる一つの道の可能性があったということになる。
このようにウォーレスの外交理念の核心に「リアリズム」をみるのは、ウォーレス外交をトルーマン政権の冷戦外交と本質的に違わないものであるとして総体的に批判してきたニューレフトの論理とも共通する評価である。ガードナーは、「極東市場の復興という点でウォーレスは、仇敵のフォレスタルらトルーマン政権の中心人物と共通の立場に立っていたのだ」と結論づけている(Gardner、 162-163)12)。しかし、ポスト冷戦の時点から冷戦構造形成期を振り返ったとき、ウォーレスのリアリズムをトルーマンの対ソ強硬政策と同列に置くのは、冷戦とは異なる世界の選択可能性の検討を否定する論理である。ホワイトとメイズの分析にも見られるように、歴史的な評価としての妥当性には疑問が残ると言わざるをえない。
ウォーレスの外交理念の検討に当たっては、「ウォーレスは、国(country)と国の対外政策とを区別していた」[White and Maze、 289]というホワイトとメイズの指摘は重要である。対ソ強硬政策は批判したが、アメリカ国家の存在そのものを否定したわけではない、ということである。これは、言い換えれば、ウォーレスが自然的な生成物である国(nation)と人為的な創造物である国家(state)を区別する発想をもつことができたということである。1960 年代のベトナム反戦運動や対抗文化の展開が、中産階級に「ガバナビリティの危機」という意識をもたらし、そこからガバナビリティ(統治能力)の復活を目指す1970 年代以降の「保守化の時代」が生まれた。ニューディール以降の、とくに1960 年代の「福祉自由主義」の台頭の中に「機会の平等から結果の平等への転換」あるいは「所得再配分的社会改革の構造」を見出した保守層が「ガバナビリティの危機」という激しい反応を示したのである。ヨーロッパでは、自由主義思想が封建階級および封建思想との戦いを遂行した「革命思想」だったのに対して、アメリカでは建国以来、自由な市民からなる同質的な社会だったことから自由主義は現存する社会を支え正当化する「保守思想」としての性格をもったとするルイス・ハーツの理論枠組みには妥当性がある。つまり、nation とstate の区別が意識されないアメリカ社会で(そのことがアメリカ例外論という社会意識を生み出した)、現に政府が進めている戦争(ベトナム戦争)への大規模な反対運動が生じると、支配的な人々は、政府の政策が批判されただけ(state への批判)なのではなくて国の存在そのもの(nation)が根底から覆される恐怖を感じたのである。このようなアメリカ社会の意識構造の特質を考えると、ウォーレスがnation とstate を区別して対外政策を論じた方法には、優れた視点が含まれていたと言える。
米ソは、1962 年のキューバミサイル危機を契機として、部分的核実験停止条約、米ソ首脳ホットライン設置など急速に接近を深め、ベトナム戦争に関わる米ソ・米中接近を経て、1970 年代には、デタント状況が生まれた。他方では、日独などの経済的台頭を背景にして資本主義世界経済体制の国際調整が必要になってサミットが恒常的に開かれるようになる。この変化は、政治的な5極体制と軍事的な2極体制という構造をもった「多極化世界」への移行と見ることもできるが、他方では、米ソがそれぞれの勢力圏の統合の困難化(東欧圏でのプラハの春事件やポーランドの連帯運動、西欧でのECの発展など)に対応して超大国間の共通利益を志向する「パクス・ルッソ・アメリカーナ」へ移行したと見ることもできる。異端の政治家ウォーレス、忘れられた政治家ウォーレスに関する研究書が集中的に出版されたのが、まさにこの1970年代だった。
冷戦からデタントへの移行の時代(このデタントは1979 年のソ連のアフガン侵略で第2次冷戦へ変わるのだが)ではなくて、冷戦構造そのものが崩壊した1990 年以降のポスト冷戦の時代においては、ウォーレスの外交理念の再検討がより歴史的意味をもったはずだった。歴史をひたすら「必然」と見るのではなくて、さまざまな路線選択の可能性のあるプロセスの積み重なりと見る立場に立つならば、ウォーレスが問いかけたものの再発掘の作業の中に次の時代を見通すヒントが存在すると思われるのである。 

1)オーティス・L・グラハム・ジュニアは、アメリカの国内政治史研究の中で、FDR(フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領)が戦争に反ファシズムという「イデオロギー的な性格」を付与することによってアメリカ国民の知的道徳的なエネルギーの動員に成功した」ことを重視している。Otis. L. Graham、 Jr.、The Democratic Party 1932 - 1945、 in Arthur M. Schlesinger、 Jr.、 ed.、History of U. S. Political Parties、 1973、 p.1950.
2)Leffler、 Preponderance of Power、 1995.
3)ウォーレスの思想に共感しつつ、第2次大戦後のウォーレスを時代遅れの政治家として批判したシュミットは、ウォーレスが1948 年大統領選挙に共産主義者とともに「進歩党」を結成して出馬して落選した事件を分析して、『ヘンリーA・ウォーレス−ドン・キホーテ的十字軍 1948 年』と題する著作を公刊した。Karl M. Schmidt、 Henry A. Wallace : Quixotic Crusade 1948、 1960.
4)1948 年に結成された進歩党で一時はウォーレスと行動を共にしたカーチス・マクドウガルは、のちにウォーレスに関するインサイドストーリーとも言える900 ページの大著を著したが、彼はそこでは、「トルーマンは、大統領に昇格した1945 年4月12 日にすでに強烈な反ロシアの立場を採ったのであって、それはFDRが実現しようとした一つの世界の夢を捨て去るものだった」と記して、トルーマンの対ソ強硬政策への転換をきわめて早い時期に見ているが、この解釈は一般的ではなく、歴史的な評価として妥当とは思われない。MacDougall、 p.22.
5)レフラーは、1946 年夏から9月の段階でトルーマンが明確な態度を示さなかった理由は、11 月の中間選挙を控えて民主党内の亀裂を共和党に見せたくなかったからだとする。Leffler、 The Specter of Communism、 p.54.
6)Personal Statement of Henry A. Wallace on Korean Situation、 July 15、 1950、 PP Papers、 box9.
7)ワインバーグ宛書簡、1951 年2月20 日、HAW Papers.
8)マーコウィッツは、この美術館に展示されたのは、ローリックが収集したアジア関係の美術品だったとしており、不明な点が多い。Markowitz、 p.336.
9)1946 年3月15 日の日記。Blum、 562.
10)ウォーレスは、完全雇用を実現する上で重要な10 項目を、1945 年に書き記している。通貨準備への政府の責任、消費拡大のための減税、最低賃金の引き上げ、農産物価格の維持、資源開発、通商障壁の撤廃、住宅建設、社会保障、教育の機会均等、身体の安全の保証。Wallace、 Sixty Million Jobs、 p83.
11)Wallace、 An Open Letter to Secretary Marshall、 New Republic、 1947.1.20.
12)同じくニューレフトのラドッシュとリッジオも、ウォーレスとトルーマンが門戸開放の原則で一致していた点を重視して、ウォーレスがアメリカの個々の政策は厳しく批判しながらもアメリカ外交の枠組み全体を根本的に批判することがなかったのは、それが原因だったと指摘している。 
 
『壊れたガラス』 ユダヤ系アメリカ人のアイデンティティ

 

序論
アーサー・ミラーの主要な作品が家庭劇であり、そこには家庭における夫婦、父子、兄弟の対立・葛藤を通して社会問題を浮き彫りにする構図が見られるが、『壊れたガラス』でもこのパターンが踏襲され、中年夫婦の危機(葛藤)を通じてユダヤ系アメリカ人のアイデンティティーの問題が浮き彫りにされている。したがって、この作品は、中年に差しかかった男女の夫婦関係(結婚)を縦糸に、そして彼らのユダヤ系アメリカ人としてのアイデンティティーの問題(民族)を横糸にして練り上げられた「家庭劇」と同時に「社会劇」でもある。ドイツ国内におけるユダヤ人迫害事件が、アメリカの中年ユダヤ人夫婦に投げかけた波紋を扱っているという意味では、「社会的政治事件」を下敷きにした「家庭悲劇」と呼ぶことも可能であろう。事実、ミラー自身、この作品を「悲劇」と呼んでいる1)。いずれにしても、反ユダヤ主義の横行する異常な社会と危機に瀕した夫婦関係に焦点が向けられ、前作『最後のヤンキ―』で展開された「壊れた夫婦関係」のテーマが継承されている。特に仕事一筋で人を見かけや職業とその人間関係でしか見ることができない夫フリックはゲルバーグと重なり、その俗物性について行けず密かに彼からいたわりの気持ちと精神的な充足を求めていた妻カレンには、シルヴィアとの類似が明らかである。
ゲルバーグは、ワスプの一流会社で生き延びるために、差別の対象となるユダヤ人としてのアイデンティティーを捨てて会社人間になった。妻シルヴィアとは、仕事上で知り合い、彼女の経理に強い簿記係主任としての才能に魅了され結婚した。結婚に際して、ゲルバーグは、彼女に仕事を辞めさせた。こうして、シルヴィアは自分の望んだキャリア・ウーマンとしての道を断たれる。この彼女の悔恨の情は長男出産後、ゲルバーグとの夫婦関係拒否という結果をもたらす。ゲルバーグが性的不能に陥ったのは、彼女の彼に対する一種の復讐が原因であったと言える。と同時に、彼の反ユダヤ的態度が、ユダヤ人である彼女を心理的に苦しめたのだ。このお互いの自己否定が、相手に悪影響を及ぼし偽りの結婚生活がだらだらと30 年も続いた。
このゲルバーグの反ユダヤ的態度が、彼女のトラウマとなってベルリンでのナチによるユダヤ人迫害事件を自分の状況と重ね合わすことで、シルヴィアはついに心理的に追い詰められる。
ゲルバーグが彼女の夢の中でナチの姿で現れるのは、そのためである。身体的にも不調をきたし、その結果、両脚が麻痺となり歩行困難に陥る。このストリーからもわかるように、『壊れたガラス』は、基本的にアメリカのユダヤ人夫婦の夫婦関係が主題である。夫の反ユダヤ的アイデンティティーと妻のユダヤ人迫害の新聞報道による両脚麻痺を取り上げていることから、ミラーはユダヤ問題もテーマとしていることがわかる。この作品が結婚問題を縦糸に、民族問題を横糸にしているというのは、そういう意味である。
これまでミラーがユダヤ人問題を直接に扱った作品には、『焦点』Focus(1945)、『ヴィッシーでの出来事』Incident at Vichy(1964)、『時を奏でて』Playing for Time (1980) があり、間接的には『転落の後に』After the Fall(1964)がある。アメリカのユダヤ系劇作家である彼にとって、この問題が彼の好むと好まざるとにかかわらず、身近なものとして存在しているのは、疑いのない事実である。ただ、彼はこの問題を自己の感情に任せて、いたずらに社会悪の暴露や告発に走ることはせず、その本質を冷静に見極める姿勢を取っている。この態度はユダヤのテーマに限らず彼の創作活動全般に一貫して見られるもので、その基底には人間存在の意味と
平和的人類共存の追究という大前提がある。『ヴィッシーでの出来事』と『時を奏でて』は、ホロコーストを主に扱っているが、『焦点』ではアメリカの反ユダヤ主義を扱っている。『壊れたガラス』もシルヴィアを通してホロコーストの恐怖が描かれるが、『焦点』との類似性の方が強い。
『焦点』は、ミラー唯一の長編小説だが、反ユダヤ主義自体が主題ではなく、それはあくまでもこの小説の題材に過ぎない。主題はむしろ、その裏に隠された「不安」、「恐怖」、「憎悪」、「暴力」である2)。一般的に言って、「不安」と「恐怖」は、反ユダヤ主義の犠牲者であるユダヤ人が蒙る心理的状態であり、「憎悪」と「暴力」は反ユダヤ主義者がユダヤ人に向ける偏見に基づく感情と行動である。この小説では、たまたま眼鏡をかけたことで、ユダヤ人に間違えられることになった非ユダヤ人であるニューマンが、ユダヤ人として迫害を受ける体験を通してユダヤ人の痛みを我が身に受け止め、ユダヤ人として生きて行く姿が描かれる。ユダヤ人でないニューマンがユダヤ人とみなされることは、本来の彼以外の存在にさせられることを意味する。その不安と恐怖から逃れ、反ユダヤ主義の憎悪と暴力に身を任せるならば、彼は一層救いがたい自己以外の存在となり、自己喪失に苦しむことになる。これを理解したニューマンは、彼自身がユダヤ人として見間違われることを敢えて拒否せず、自己の社会的責任を果たす決意をする。その姿勢にミラーは、人間存在の理由と意義を求めているように思われる。こうした彼の思いが、主人公の名をNewmanと命名した所以であろう。
『壊れたガラス』では、同じアメリカの反ユダヤ主義を取り上げているが、主人公はニューマンと違ってユダヤ人でありながら、逆に社会上の立身出世と自己保身のため敢えて、反ユダヤ主義的態度を取る。『焦点』に見られる「不安」、「恐怖」、「憎悪」、「暴力」などの要素も作品のそこここに見られる。妻シルヴィアは夫ゲルバーグの反ユダヤ的態度に不安と恐怖を感じるが、それと同時にゲルバーグの憎悪と暴力の対象にもなっている。ミラーがユダヤ問題をユダヤ人同士の関係、それも夫婦関係を中心に描いたのは『壊れたガラス』が初めてである。これはユダヤ問題が、ひとりユダヤ人対非ユダヤ人の間の問題ではなく、ユダヤ人自身の問題でもあるとする彼の考え方を如実に示している。
政治的事件と個人的要素が入り混じったやや複雑な場面設定のため、上記の二つのテーマ、すなわち中年夫婦の結婚問題とユダヤ人のアイデンティティー問題が作品の中でどのように関連しあっているのか、一つわかりにくい。この関連性をここで、解き明かしておきたい。そもそも、ゲルバーグ夫婦の結婚破綻の大きな原因は、すでに触れたそれぞれの自己否定にある。
ゲルバーグはユダヤ人でありながら、仕事上でのし上がるためにユダヤ人としてのアイデンティティーを否定した。シルヴィアは製鉄会社の優秀な簿記係の主任であり、仕事を続けたかったにもかかわらず、ゲルバーグと結婚したために、いわゆるキャリア・ウーマンの道を断たれてしまう。こうして、ゲルバーグと違って間接的ではあるが、自己否定が彼女の心の中に悔恨の念として残る。このお互いの自己否定が、相手に悪影響を及ぼし偽りの結婚生活がだらだらと30 年も続いたが、ドイツのユダヤ人迫害事件の新聞報道がもとで生じたシルヴィアの両脚麻痺が契機となって、それぞれが結婚破綻の原因を突き止め、その責任を我が身に引き受けることになる。両者を自己責任の覚醒に導く調停役がハイマンである。
ハイマンはシルヴィアが麻痺にかかったのは、夫婦関係に原因があると見る。夫婦と面談するたびに二人にその関係を訊きだすのは、そのためである。ゲルバーグはその関係が全くないにもかかわらず、嘘をついたことを皮切りに、社長の誤解による首の宣告とその結果としての心臓発作を通じて、彼は自己のユダヤ人としてのアイデンティティー否定が、シルヴィアを悩まし、彼女との結婚破綻の原因となり、自分に跳ね返ってきたことを自覚する。他方、シルヴィアもハイマンの男性的な魅力に惹きつけられ一時、うつつを抜かしはするものの、偏狭な「ユダヤ女」としてのこれまでの自分の生き方を反省する機会を得る。ゲルバーグとの結婚生活の破綻に関しても、自分に責任の一端があることを悟る。結婚生活において自分を投げていたとゲルバーグに認め、彼同様、自己責任を認識する。こうして、お互いに責任をなすり付け合って解決に積極的な行動を取らなかった愚を認め合う。したがって、『壊れたガラス』はハイマンを通してユダヤ系アメリカ人夫婦が、互いの自己否定という結婚生活の原因を突き止め、自己責任と自己覚醒を遂げる様を描いた作品と言える。ミラーはシルヴィアの両脚麻痺を通してユダヤ系アメリカ人の夫婦問題とナチのユダヤ人迫害、さらに、それと関連したアメリカの反ユダヤ主義を提示し、それぞれが問題の核心から目をそらすことは、何の解決策も生み出さず、むしろそれは問題の先延ばしと相手の行動の是認を意味することになると警告を発していると言えるだろう。これは、他者意識と受動的態度を排し、連帯性と自己責任の重要性を重視するミラーのメッセージに他ならない。
この作品は1938 年11 月のニュー・ヨーク市ブルックリンのユダヤ人居住地区が舞台である。
ユダヤ人の青年がドイツの領事館員を殺害したことが発端となって起こった1938 年11 月9日のナチ突撃隊などの暴徒によるユダヤ人街焼き討ち事件、いわゆる「クリスタルナハト」(「水晶の夜事件」)が起こった数日後のことである。痛ましい水晶の夜のイメージを増幅するためにチェロの音楽が導入され、効果を発揮している。この事件と妻の病気との因果関係が予想される中、真相を知るべく夫のフィリップ・ゲルバーグが、医師のハリー・ハイマンの医院を訪問するところからこの芝居は始まるが、事態はゲルバーグの予想に反して意外な展開を辿る。
妻の病気の様子を訊きにきたはずのゲルバーグは、ハイマンから彼自身の個人的な事柄を逆に尋ねられる。ハイマン特有の直観に基づく一連の質問を通して、ゲルバーグの独善的な考え方と自己欺瞞的態度が徐々に明らかにされる。と同時に女性として、また妻として、シルヴィアが抱える問題の数々も露呈し、夫婦の危機的状況の本質が白日の下にさらされる。さらに、ハイマン自身の個人的な問題点も彼らとの関わりの中で、浮き彫りにされていく。
「壊れたガラス」というこの戯曲のタイトルの意味に関して、リチャーズは次のように説明する。
Mr. Miller’s title is double-barreled. On one hand、 it refers to Kristallnacht、 that night in 1938 when Nazis went on a rampage、 shattering windows of Jewish shopkeepers and burning synagogues. It also has a domestic connotation、 suggesting a violent fight between spouses and the wreckage of dinnerware flung in fury. Operating on the premise that no marriage is an island、 Mr. Miller wants to connect the Gellburg’s traumas directly to the hysteria sweeping over Germany. 3)
これは文字通りナチによるユダヤ人街の焼き討ち事件で壊された商店やシナゴグなどの粉々に飛び散った窓ガラスの破片を象徴している。次に、ユダヤ人の伝統的な結婚式では、新郎が式後、皿やコップを床に落として将来出くわすかもしれない艱難辛苦にも打ち勝つ宣誓を象徴している。さらに、この作品との関連では、本来のユダヤ人としてのアイデンティティーを否定したために鏡の中に自分の姿をはっきりと捉えることのできないゲルバーグの壊れた内面の鏡をも象徴する。と同時に「ユダヤ女」を演じ他人に気を遣い過ぎて自己喪失に陥り、挙句の果てにナチのユダヤ人迫害事件とそれに対する周りの人々の無関心によって壊されたシルヴィアの外面の鏡をも象徴していると考えられるだろう4)。いずれにしても、当時のアメリカの反ユダヤ主義がこの二人に与えた影響を反映したタイトルであることに変わりはない。さらに、シルヴィアの両脚麻痺に関して、リチャーズは
“Sylvia’s paralysis、 we’re meant to understand、stems from the failure of those around her to recognize the Nazi threat. Her husband’s selfloathing is deadening her. Literally.” 5)
と述べて、ナチの脅威への周りの人間の認識不足と夫のユダヤ人としての自己嫌悪が原因と説明する。これらは、この作品を理解する上で、参考となる基本的知識として認識しておく必要がある。
さて、ヘンリーはシルヴィアの麻痺に関して四つの問題提起を行っている。
“Is it a result of her sexless and bitter marriage? Is it linked to the futile assimilationism of her Jewamong-Wasps banker husband? Is it somehow tied to her Cassandra-like obsession with Hitler’s assault on German Jews、 a threat in which no one around her sees urgency? Or is her disability a plea for attention?”6)
本稿では基本的にこれらの疑問に答えることを前提に論を展開していくが、特にスターンズも指摘する次の二点、すなわち彼女の麻痺とナチ・ドイツの反ユダヤ主義に対する彼女の凶事の預言者としてのカサンドラ的洞察力との関連性と、またその麻痺が夫のユダヤ人としてのアイデンティティー拒否とどう関係するのか7)に絞って考察を進める。要するに、『壊れたガラス』において、ヨーロッパで起こったナチによる反ユダヤ主義がアメリカのユダヤ系女性とその夫に少なからぬ影響を及ぼし、それが夫婦の隠された秘密を暴く切っ掛けとなった経緯を詳しく検証し、そこから見えてくるユダヤ系アメリカ人のアイデンティティーの問題を探り、ミラーのこの作品に込めた意図を読み解く。 
1.ワスプ社会に翻弄される夫ゲルバーグの反ユダヤ性
ビッグズは、ゲルバーグ夫妻の民族および結婚観の隔たりに関して、次のように述べている。
Phillip and Sylvia Gellburg are joined by race and marriage、 yet divided by both. He seeks to suppress his Jewishness、 she to embrace it. He is sexually dysfunctional、 she sexually unsatisfied. What Hyman diagnoses as her “hysterical paralysis、” with its source in her unconscious、 is an effect of both these divisions. The playwright loses no time in setting up her husband’s double denial. 8)
ビッグスが指摘するように、破綻した結婚の原因が2 0 年間もなかったと言う夫婦関係(marriage)にあることは否定できないが、まず、その根底にあるゲルバーグのユダヤ性(race)を巡るあいまいな態度が問題にされなければならない。結論を先に述べるならば、ゲルバーグはワスプ社会での立身出世しか頭になく、ワスプの反ユダヤ主義を恐れるあまり、その支障となる彼自身のユダヤ系アメリカ人としてのアイデンティティーを嫌って自己否定を図り、結果的に自己欺瞞、自己矛盾、自己嫌悪に陥り、果ては自己疎外に苦しんだ男である、と言えるだろう。彼のユダヤ人としてのアイデンティティー拒否は、幕開き早々、ハイマンの診察室で妻のマーガレットが彼の名前を典型的なユダヤ名のゴールドバーグと間違って呼んだのを懸命に否定するところによく表れている。この彼のユダヤを巡る自己否定は、本人が認識しないほど反ユダヤ性を帯び妻シルヴィアを苦しめ彼女との結婚生活を失敗させた大きな原因である。シルヴィアの謎の両脚麻痺は、ベルリンのユダヤ人迫害事件を契機として噴出したゲルバーグとの冷え切った長年の結婚生活への「ユダヤ女」の忍従と不満が限界に達した表れだったのである。
要するに、彼女の両脚の麻痺は、写真入りのユダヤ人迫害事件のショッキングな新聞報道に対する彼女の過度な反応に原因があった。だが、それは間接的なもので、直接の原因は彼女を長年悩まし続けたゲルバーグの彼女に対するユダヤ人の夫としての反ユダヤ的態度、すなわち同胞ユダヤ人への裏切り的態度にあった。事件はこれに拍車をかけたに過ぎない、ということである。そして、この反ユダヤ的態度から生じるゲルバーグ自身の自己欺瞞や自己矛盾は徐々にハイマンの手によって暴かれて行く。その糸口は、ハイマンのゲルバーグに対する妻との個人的な夫婦関係に関する質問である。彼は先にシルヴィアを診断した際に得た感触から、二人の間には夫婦関係を巡る問題が潜んでいることを察知したのであった。以下、ゲルバーグの反ユダヤ的自己否定の正体とそれがシルヴィアに与えた影響の要因(不安、恐怖、憎悪、暴力)を彼のハイマンとシルヴィアとの会話から考察する。
第1幕第1場の幕開きから、ゲルバーグとシルヴィアの夫婦関係を中心に彼自身の「クリスタルナハト」事件や仕事に対する考え方が、ハイマンの一連の質問によって明らかにされ、そこから彼の歪んだユダヤ人としてのアイデンティティーが徐々に暴露される。まず、シルヴィアの両脚麻痺の直接的原因と考えられたユダヤ人街暴動事件に関して、ゲルバーグは
“he thing is、 she doesn’ like to hear about the other side of it. ... It’ no excuse for what’ happening over there、 but German Jews can be pretty ... you know ... Pushes up his nose with his forefinger. Not that they’e pushy like the ones from Poland or Russia but a friend of mine’ in the garment industry; these German Jews won’ take an ordinary good job、 you know; it’ got to be pretty high up in the firm or they’e insulted. And they can’ even speak English.”9)
と言って、自分自身がユダヤ人でありながら、ドイツ系ユダヤ人への彼の嫌悪感と無関心ぶり示す。また、事件の写真付き報道に関しても
“ersonally I don’ think they should be publishing those kind of pictures. ... She scares herself to death with them -three thousand miles away、 and what does it accomplish! Except maybe put some fancy new ideas into these anti-Semites walking around New York here.”19-20)
と述べて、他人行儀的態度を示す。こうした態度こそ、シルヴィアが最も嫌うのは言うまでもない。
新聞報道もさることながら、ハイマンはシルヴィアの病気の原因が、彼との夫婦関係にあると判断し、さらにその背後にある問題の核心を徐々に突いて行く10)。この極めてプライベートな事柄を訊き出すに当たって、彼はシルヴィアの件では、これから「トカス・オッフン・ティシュ」で行こうとイディッシュ語でゲルバーグに語りかけ、その意味がわかるかどうか尋ねると、ゲルバーグは即座に「洗いざらいぶちまける」と答える。ここからも判るように、彼のユダヤ人としてのアイデンティティーは隠しようがない。
ゲルバーグが身を包むビジネスマンのトレード・マークとも言える黒いスーツ、黒ネクタイ、黒靴に白のワイシャツは、彼の家庭を顧みず仕事一筋の会社人間と自分の嫌うユダヤ人のイメージそのもので、ここには彼の自己矛盾ぶりがはっきりと表れているだろう。黒づくめの衣装に加え、顔色が冴えないのは、彼の暗い内面の世界を象徴している。それは、すなわち、彼が自身の人生を嘆き悲しんでいるかのようでもある。オッテンは、そこにゲルバーグの“elfdeath”par が反映されていると見ている11)。心の奥底では、空虚感に襲われ、どうしようもない自己矛盾に苛まれているのだ。また、ゲルバーグは、社長はじめワスプで占めるブルックリン保証信託に勤め、アメリカズ・カップで優勝した社長スタントン・ケイス12)の所有するヨットのデッキに立ったユダヤ人は自分だけだと誇り、会社始まって以来、ユダヤ人の社員は自分だけだと豪語する。ここには、すっかりワスプ社会に迎合した彼の姿が垣間見られる。
シルヴィアは両脚が麻痺した割には、話していてちっとも不幸せには見えないと言うハイマンに対して、ゲルバーグは彼女が悪霊(Dybbuk)に取りつかれているので、ラビにお祓いをしてもらいそれを追い払う必要があるかもしれないと、古いユダヤ民族伝説を口にする。ここにも蔽うことの出来ない彼の伝統的なユダヤ人としてのアイデンティティーの一面が見え隠れして、彼の矛盾ぶりが示されている。医院でハイマンを待つ間のマーガレットとの会話で、彼女が彼の名前を典型的なユダヤ姓のゴールドバ―グと言い間違えると、むきになって訂正したことからもわかるように、公的にゲルバーグはユダヤ人としての自己のアイデンティティーを断固、否定する。他方、上記のように、それに対して肯定的な一面をも覗かせ、自己のユダヤ人としてのアイデンティティーについて彼がいかに矛盾したアンヴィヴァレントな考え方の持ち主であるかがわかる。ハイマンとの面会を終えて医院を出て行った際に、ハイマンの妻マーガレットがゲルバーグに関して“hat’ one miserable little pisser. He’ a dictator、 you know.”(26)と言い、ばあさんの葬式で参列者に示した彼の高圧的な態度に言及する。ここからは、シルヴィアに見せてきた彼の頑固で独り善がりなユダヤの家父長的イメージが見て取れるだろう。
ユダヤ人として自己否定をしながらも否定し切れない彼のアンヴィヴァレントな姿勢は、第2場での彼の息子の自慢話にも見られる。マッカーサー将軍から二度声を掛けられたと書いてきた陸軍士官学校出の一人息子ジェロームからの手紙をゲルバーグはシルヴィアに見せて
“or a Jewish boy、 West Point is an honor! Without Mr. Case’ connections、 he never would have gotten in. He could be the first Jewish general in the United States Army. Doesn’ it mean something to be his mother? ”37)
と叱責する有様である。メイヤーは、この彼の過剰なユダヤの自己自慢を
“ mask that hides the fear that he is a “andidate for victimization”u8221 ”13)
とみなしている。第3場では、ハイマンはシルヴィアの妹、ハリエットからゲルバーグに関して個人情報を得ている。彼女によると、彼は気分屋で、他人の意見に耳を貸さない頑固な共和党員で、変にユダヤ人にこだわるところがあり、皆から嫌われているという。
ユダヤ人として他のユダヤ人からも疎まれているゲルバーグの自己疎外の姿が、ここに見られるだろう。また、ゲルバーグの意外な一面が彼女の口から二つ暴露される。両方とも彼のシルヴィアに対する暴力的な側面である。一つ目は、シルヴィアの料理したステーキが不満で、それで彼女の顔をひっぱたき、母親がとりなさなかったら、どうなっていたか分らないというものである。夫婦関係を含む日頃のストレスが爆発し、暴力に及んだゲルバーグの姿を見る思いがする。
同じ第3場でハリエットが語る二つ目の話は、彼の致命的側面であるインポテンツと関連するものである。今は亡きおじのマイロンは、毎年元旦に地下室で新年のパーティーを開き、その時決まってかねてから靴箱に集めておいたポルノ写真を取り出して回し見させて、皆が笑い転げるという。シルヴィアが笑っている最中にその手から絵葉書をひったくり、わめいて彼女を階段のところへ投げ飛ばし、手すりが折れた。そして、その怒りの原因は「自分が出来ないからだ」と言う。こうして見ると、ゲルバーグはかなりの性的コンプレックスに苛まれているのがわかる。このコンプレックスは、もとを正せば、ひとえにユダヤ人としての彼自身の不安定なアイデンティティーに原因があるだろう。これに加えて、彼の反ユダヤ的態度が原因で起こる「暴力」的側面も見落としてはならない。第2幕第1場はケイスのオフィスである。ケイスが投資しようと目を付けていた物件611 を近くの大手デパートのワナメイカーが撤退する噂があると進言して思いとどまらせたことが裏目に出て、そのことでゲルバーグがケイスに詫びに来ているところである。競争会社のユダヤ人カーショウィツと通じていたのではと疑われ、その関係を断固、否定する。この自己弁護には、カーショウィツを裏切る痛々しいほどの彼のユダヤ人としての自己否定意識とワスプ社会に媚びる姿が表れているだろう。
第2場でシルヴィアは、ハイマンに、この病状は心の奥深いところから来ているので夢にまで立ち入らなければならないと言われ、彼女が毎晩見るというゲルバーグに関する悪夢の話を語る。
“’ in a street. Everything is sort of gray. And there’ a crowd of people. They’e packed in all around、 but they’e looking for me. ... Well、 I begin to run away. And the whole crowd is chasing after me. They have heavy shoes that pound on the pavement. Then just as I’ escaping around a corner a man catches me and pushes me down. ... He gets on top of me、 and begins kissing me. ... And then he starts to cut off my breasts. And he raises himself up、 and for a second I see the side of his face. ... I think it’ Phillip. ...Would it be possible ... because Phillip ... I mean ... he sounds sometimes like he doesn’ like Jews? ... Of course he doesn’ mean it、 but maybe in my mind it’ like he’ ... (97 − 98)
先に見たゲルバーグの彼女に対する暴君的態度が、彼女の心の奥底に無意識に定着し、こうした悪夢となって表れている。オッテンは、これについて
“yrannizing Sylvia because of his self-detestation and self-defensiveness、 he surfaces in her recurring nightmare in the guise of a Nazi who starts to cut off her breasts.”14)
と述べて、ホロコーストの恐怖とゲルバーグの暴力的反ユダヤ的態度が彼女の心の中で重なり合い一つとなって、恐怖心を抱かせていると指摘する。
ハイマンが去った後の第2場後半は、ゲルバーグとシルヴィアの力関係が逆転する注目すべき場面である。ありもしない昨夜の関係についてハイマンに語ったゲルバーグの嘘がシルヴィアの知るところとなり、彼のユダヤ人男性としての面目が潰れるからである。こうしてゲルバーグの欺瞞性が暴露され、彼の化けの皮が剥がされる。だが、これが契機となって、二人のこれまで途切れていた真のコミュニケーションが再開し、彼らは過去の真実に向き合うことになる。ゲルバーグはシルヴィアが仕事を続けたかったにもかかわらず、彼女を家に縛りつけ、彼女はそれによってキャリア・ウーマンの道を断たれ、彼女の自己否定が決定づけられた。ユダヤ人であるにもかかわらず、そのアイデンティティーを否定して家庭を顧みず、ワスプ社会であくせく働くゲルバーグにシルヴィアは反感を募らせていったのである。
第3場では、自己のユダヤ人としてのアイデンティティーをないがしろにし、あまりにもワスプ社会に迎合したつけがゲルバーグに回ってくる。自分の間違った進言がもとで、社長が求めた物件をみすみすライバル会社に取られ信用を失った結果、首を恐れたゲルバーグは第1場と同様、申し開きをするために社長に会いに来る。しかし、冷たくあしらわれて、
“r. Case、I had nothing to do with Allan Kershowitz! I hardly know the man! And the little I do know I don’ even like him、 I’ certainly never get into a deal with him、 for God’ sake! This is ... this whole thing is ... I don’ understand it、 what is happening、 what the hell is happening、 what have I got to do with Allan Kershowitz、 just because he’ also a Jew?”par (118)
と大声を上げる。自分はカーショウィツのような悪いユダヤ人とは違って、良いユダヤ人であると言いたいのであろう。しかし、ケイスがゲルバーグに浴びせる「君らの連中」や「少数の君ら」という言葉が示すように、彼にとってゲルバーグはその他大勢のユダヤ人の一人に過ぎないのである。ゲルバーグは出て行こうと一歩踏み出すとがっくり膝をつき、心臓発作に襲われる。第4場は、ゲルバーグが退院して彼の家に集まったハリエットとマーガレット、それにシルヴィアが加わってゲルバーグについて語っているところである。なかでも注目すべきは、シルヴィアからゲルバーグに関する本音が漏らされていることである。
“he trouble、 you see - was that Phillip always thought he was supposed to be the Rock of Gibraltar. Like nothing could ever bother him. Supposedly. But I knew a couple of months after we got married that he ... he was making it all up.”(122)
虚勢を張って仲間から一定の距離を置き、ひたすら自分を非ユダヤ人として位置付け、ワスプ社会で気を遣いながら戦々恐々と「虚勢を張って」生きてきた痛々しいゲルバーグの姿が、改めて見て取れる。
最終場面の第5場で、ゲルバーグは診察にきたハイマンに現在の胸のうちを次のように語る。
“..when I collapsed ... it was like an explosion went off in my head、 like a tremendous white light. It sounds funny but I felt a ... happiness ... that funny? Like I suddenly had something to tell her that would change everything、 and we would go back to how it was when we started out together. I couldn’ wait to tell it to her ... and now I can’ remember what it was. Anguished、 a rushed quality; suddenly near tears. God、 I always thought there’ be time to get to the bottom of myself!”(125)
ここには、自己のユダヤ人としてのアイデンティティーを否定して長年、信頼して勤め上げてきたはずの会社社長に「裏切られた」とする思いがある反面、裏切られたことでかえって本来の自分に戻れる可能性が見出せる「幸せ」を感じたゲルバーグの複雑な心中が吐露されているだろう。この病気は、あまりにも重い代償である。ゲルバーグのケイスへの恨みは、彼がいわばシルヴィアとの家庭生活を犠牲にするほど会社に一途であったがために、根深いものがある。戻れば、社長ともうまくいくさとなだめるハイマンに、彼は自分があくせく、きつい仕事をこなしている間にヨット遊びに興じ、ライバル会社のユダヤ人と共謀して自社に不都合をもたらしたと言いがかりをつけ、即座に首にしたと言う。ケイスの存在は、偏見に満ちた根拠のない疑いとあからさまな人種差別に基づく反ユダヤ主義が横行した30 年代アメリカの好ましからぬ一面を象徴しているだろう。
会社に裏切られはしたが、一方ではこれで彼の重荷の一つが取れ、シルヴィアとの関係を冷静にしかも真剣に考える機会をゲルバーグは得る。自分はシルヴィアを尊敬すらしているのに、彼女が自分を怖れていることをハイマンから知ったゲルバーグは、今ひとつわからないその理由を探り始める。
“ow could she be frightened of me! I worship her! Quickly controlling: How could everything turn out to be the opposite - I made my son in this bed and now I’ dying in it ... Breaking off、 downing a cry. My thoughts keep flying around – everything from years ago keeps coming back like it was last week.”(127) 彼はまた、“ don’ know where I am ...(128)
と言う。自分のよって立つ居場所がわからないというこの言葉は、ゲルバーグが自己の属すべきユダヤ社会との繋がりを断ち、ユダヤ人としてのアイデンティティーを否定したがために自分が誰であるかわからなくなったことを如実に示している。こうして、会社に裏切られたことでゲルバーグはシルヴィアとの幸せな新婚時代を回想し、今まで避けて通ってきたユダヤ人としての自己のアイデンティティーを真剣に考え始める。ビッグスは、ここにユダヤ人コミュニティーとの連帯が結局、ゲルバーグに心の安らぎを与えたとして、ミラー劇の重要なライトモチーフである“onnectedness”「連帯性」を指摘する15)。
この後、ゲルバーグは同じユダヤ人のハイマンに思わず
“hy is it so hard to be a Jew? ...Being a Jew is a full-time job.”(129)
と述べて、ユダヤ人としての生き方の極意を問う。これこそがこれまでのゲルバーグの生活を支配してきた偽りのないトラウマであった。ハイマンに、自分はユダヤ人ということに、ゲルバーグほどとり憑かれてはいないし、また、ユダヤ人でない振りをしたことも一度もないと言われ、これまでの自分の取ってきた態度の間違いに気付き、思わず
“’e never been so afraid in my life.”(130)
と打ち明ける。その心中を読んで、ハイマンは
“ think you tried to disappear into the goyim.”(130)
と述べて、ゲルバーグのユダヤ人としてのこれまでの人生態度の間違いを適切に指摘する。また、ハイマンはシルヴィアが自分を怖がる理由を知りたがるゲルバーグに、
“ou hate yourself、 that’ what’ scaring her to death. That’ my opinion. How it’ possible I don’ know、 but I think you helped paralyzed her with this “ew、 Jew、 Jew”coming out of your mouth ... (133)
と述べて、彼のユダヤ人に対する普段の言動が原因であると指摘する。そして、本当のことを知りたいのであれば、鏡を見ることだと続ける。
しかし、ゲルバーグの言い訳とも取れる以下の台詞には、反ユダヤ主義に抗するための防御として築いてきた彼の心中に未だ渦巻く自己のユダヤ人としてのアイデンティテー否定という考えの根深さを窺い知ることができる。
“ut there are some days I feel like going and sitting in the schul with the old men and pulling the talles over my head and be a full-time Jew the rest of my life. With the sidelocks and the black hat、 and settle it once and for all. And other times ... yes、 I could almost kill them. They infuriate me. I am ashamed of them and that I look like them. ... Why must we be different? Why is it? What is it for?”(133)
この違いを認めず、凝り固まった融通の利かない思考回路しか持ち得ないゲルバーグに、ハイマンはこの世の中には色々な人種がいて、それぞれが迫害し合っている事実を理解すれば、他人はおろか自分も許すことが可能となり、異教徒とも仲良くできる道が開けると説く。ハイマンの言うゲルバーグの中にある「痛みや叫び」は、差別されている者の痛みと叫びに他ならない。
これを超越せよいうのが、ハイマンのアドバイスである。同じユダヤ人であるハイマンの忠告だからこそ、説得力があるだろう。以後、ゲルバーグの心の変化に及ぼしたその影響は、甚大である。
第5場の後半は、大団円にふさわしくゲルバーグとシルヴィアの和解の模様が描かれる。自己の見せ掛けの人生を悟ったゲルバーグの次の台詞は、それを何よりも物語っている。
“wasn’ telling you the truth. I always tried to seem otherwise、 but I’e been more afraid than I looked. ... Everything. Of Germany. Mr. Case. Of what could happen to us here. I think I was more afraid than you are、 a hundred times more! And meantime there are Chinese Jews、 for God’ sake. ... They’e Chinese! - and here I spend a lifetime looking in the mirror at my face! - Why we’e different I will never understand but to live so afraid、 I don’ want that anymore、 I tell you、 if I live I have to try to change myself. - Sylvia、 my darling Sylvia、 I’ asking you not to blame me anymore. I feel I did this to you!”(137)
ゲルバーグは、中国人のユダヤ人もいることをハイマンに知らされ、これまで苦しんできた自己のユダヤ性から開放される。ユダヤ人というアイデンティティーを隠すことなく、鏡の中の自分を見つめて、あるがままに生きることの重要性を認識した彼の姿がここに見られる。この直後、ゲルバーグの呼吸が苦しくなり始め、シルヴィアに許しを請いながら意識を失い、仰向けに倒れる。かくして、ゲルバーグの自己覚醒への旅は、終わりを遂げるのである。
ハイマンは、ゲルバーグがユダヤ人としての「自分自身を嫌っている」と見た。だが、彼の問題は、そう単純なものではない。というのも、自分ないしは自分の息子が最初のあるいは唯一のユダヤ人として大きな業績を挙げることに誇りを感じており、その意味で単純に彼がユダヤ人として自己嫌悪に陥っているとは断言できないからである。ただし、アボットソンも指摘するように、彼が自己の業績や息子の出世を誇る理由が、ユダヤ人としてなのか、それとも自己のユダヤ人性にもかかわらずということなのかが、問われなければならない16)。結局、どちらにしても彼には意味のあることなのだ。それは、彼が紛れもないユダヤ人だからである。ゲルバーグは、アメリカにおける反ユダヤ主義への恐怖と自身のワスプ社会でのキャリア向上ゆえにユダヤ社会との関係を断ち切るのだが、無論、自己のユダヤ性から逃げ切れるものではない。ユダヤ人の妻を持ち、イデッシュ語を喋り、ユダヤ的伝統に縛られているのは、明らかであるからだ。しかし、あまりにも自己の利益や考えに囚われているがために、彼はユダヤ社会に居場所を見出すことができない。自己のユダヤ性と正面から向き合わない限り、たとえ表面的にユダヤ社会に受け入れられたとしても、所詮、反ユダヤ主義がはびこる当時のアメリカ社会において、彼は疑いもなく居心地の悪さを感じ嫌悪感さえ募らせるのは、明白である。首になって初めて知ったワスプ社会の冷酷さと妻シルヴィアとの真の理解を欠いた不幸な結婚生活が、何よりもそれを象徴的に物語っているのである。
翻って考えてみると、ゲルバーグは、自己の感情をシルヴィアに伝える能力と術を欠き、妻を愛してはいるものの、それをすなおに口で言い表すことができなかった。全幅の信頼を寄せた会社の社長から首を言い渡された後の大団円での彼の心臓発作が一大転機となり、ゲルバーグは自己のこれまでの人生を振り返り、シルヴィアと彼の属すべきユダヤ社会との関係を修復することを望み、最終的に自分が変わらねばならぬことをハイマンを通じて悟る。そして、彼はついに良き夫、良きユダヤ人になる決意を固めるのだが、それはすでに時期遅きに失したのである。ゲルバーグの反ユダヤ的態度は、ユダヤ人としての自身のアイデンティティーを覆い隠せるものではない。本来のユダヤ的態度が意識的にしろ、無意識的にしろ、顔を出すのは当然である。こうして、自己否定は自己矛盾、自己欺瞞を引き起こし最悪の場合は自己嫌悪に陥り、さらに、周りからは疎外される。かくして、不安、恐怖に絶えず襲われ、そのフラストレーションから自分の思うようにならない相手を憎み暴力を振るうことになる。彼の内面世界をアボットソンは、次のように分析する。
Gellburg offers up glimpses of inner torment in his outbursts of anger and hesitancy. His pent-up anger conveys an increasing sense of threat. ... Internally、 Gellburg is a mass of contradictions he finds hard to control. He has lost the ability to connect and communicate his true feelings to Sylvia. We are constantly told he loves and adores his wife、 and the difficulty he has admitting this to Sylvia is related to his fear of such uncontrollable feelings. 17)
これがゲルバーグの内的世界の正体である。
彼は当時のアメリカの反ユダヤ主義に敏感であると共に、自分の民族への愛情も備え持っている。彼は、結局、ヤフェの言うアメリカのユダヤ人史に流れるパラドックスの変形である自己矛盾、分裂した人格の持ち主であると言えよう18)。これが原因で、ゲルバーグは自分でもコントロールできない大きな矛盾を抱え込むことになった。シルヴィアを愛し、崇拝しているにもかかわらず、それを面と向かって言い出せないのは、この彼の自己抑制できない感情“ncontrollable feelings”19)と関係がある。オッテンは、彼のこうした分裂した人格が周囲にもたらした結果を次のように述べる。
Seeing his Jewishness as a source of guilt and shame、 he acquires innocence by trying not to be a Jew and consequently victimizes others around him. To conceal his divided nature even from himself、 he not only allows himself to be co-opted by the dominant WASP system that rejects him as Jew、 but he warps his son’ future and betrays his genuine love for Sylvia. 20) 
2.恐怖にとり憑かれた妻シルヴィアとユダヤ性
ト書きでシルヴィアは、周りの者から好かれる40 代半ばの快活で有能そうな温かな女性と説明されている。その彼女が、急に両脚に麻痺を感じて歩けなくなる。専門医の診断によれば、その原因は精神的な「ヒステリー性麻痺」と呼ばれるものだと言う。彼女がそこまで追い込まれたのは、すでに前項で見たように、根本的には、ゲルバーグが家庭に持ち込んだ彼のユダヤ人としての自己否定・自己矛盾的態度に主要な原因があり、それに長年苦しんだ末、生々しい写真付きのユダヤ人迫害事件の新聞報道が契機となって限界に達したのである。それでは、シルヴィアには全然、責任がないのであろうか。結論を言えば、彼女にも責められるべき責任の一端はあり、それもゲルバーグ同様、彼女のユダヤ性に基づく考え方に原因があるのだ。本項の目的は、それを明らかにすることである。
劇中のシルヴィアとゲルバーグの一連の会話には、ナチに対する不安と恐怖の念とともにそれが引き金となった彼女の彼に対する恨み、辛みと言い訳や諦めが目立つ。これは、何よりも長い間、世間体を気にしながら夫や周りの親戚縁者に強いられ、また自分が自分自身に貼った「ユダヤ女」というレッテルがそうさせたのである。彼女はユダヤ社会と関わり過ぎてかえって自己喪失に陥り、それにドイツのユダヤ人迫害事件と周りの人間のそれに対する無関心が拍車をかけたのである。アボットソンはそうした状況を次のように説明する。
She has lived her life so long for others she has lost all connection with her own selfhood、 but she begins by blaming others for this. With Gellburg dominating every scene he is in、 Sylvia tends to get pushed to the side、 but this marginality only reflects the way she has allowed her life to run. 21)
当時の女性は、他人に愛想良く控えめに振舞うことが常識とされ、伝統と格式を重んじるユダヤ人社会にあってシルヴィアもこうした風潮に従わざるを得なかったと思われる。グリフィンが行ったインタビューで、ミラーも当時の状況を
“iven the mores of that time and society、 and her amenable personality、 and the influence of her mother、 she was not likely to take an independent route、 so she turns against herself.”22)
と説明したと言う。また、ビッグズビーとのインタビューでも
“n 1938 we didn’ talk about certain things. You don’talk about sexual problems openly. You do not embarrass your husband. You do not expose personal、 family matters. You’e Jewish. There is a need to keep it under the table. You do not draw attention to yourself.”23)
と述べている。こうした状況に加え、ゲルバーグとの結婚で、彼にキャリア・ウーマンの道を断たれてから、彼女はそれを根に持ち、彼に対する復讐と断罪を図るものの、長年の忸怩たる思いがドイツでの事件を切っ掛けに一挙に爆発する。彼女のゲルバーグとの会話には、こうした彼女の複雑な心理状況を表すかのように自暴自棄とも取れる言動と今更どうしようもないとする諦念があちこちに見られるのは、そのためである。第1幕第2場で彼女が初めて登場するが、その姿は手伝いに来ている妹のハリエットが、ここ数日食欲もなく、顔色も冴えず、車椅子に座り、朝から晩まで新聞ばかり読んでばかり、と嘆くほどである。事実、時折何かに憑かれたようにその情景を思い浮かべるように眼を上げる。
歩けなくなった両脚について、筋肉に力は入るが上げることができず、痛みもあり、その状態を
“t’ like I was just born and I ... didn’ want to come out yet. Like a deep、 terrible aching ... (31)
と説明する。「何だか生まれたばかりで、まだ出てきたくなかった感じ」という言葉は、ゲルバーグとの破綻した結婚への解決の糸口を探して逡巡している彼女の心の状態を表してはいないだろうか。オッテンは、この状況を
“.. she describes herself as suffering a form of birth trauma、 reflection of the death and rebirth motif ...”24)
と分析する。
この後、ハリエットから息子が、奨学金が貰えるにもかかわらず、大学進学を断念したことを聞くと自分に大学へ行く機会があったら、ぜんぜん違う人生になっていたと暗に自分の夫との人生を悔やむかのような口ぶりである。ここで、ハリエットとの会話から、シルヴィアが新聞に興味を持つ理由が明らかとなる。
“hey are making old men crawl around and clean the sidewalks with toothbrushes. ... In Germany. Old men with beards! ... Remember Granpa? His eyeglasses with the bent sidepiece? One of the old men in the paper was his spitting image、 he had the same exact glasses with the wire frames. I can’ get it out of my mind. On their knees on the sidewalk、 two old men. And there’ fifteen or twenty people standing in a circle laughing at them scrubbing with toothbrushes. There’ three women in the picture; they’e holding their coat collars closed、 so it must have been cold ... To humiliate them、 to make fools of them!”(33)
ドイツ人がユダヤ人の老人達に歯ブラシで歩道を磨かせている理由を「侮辱するため、笑いものにするため」と怒りを示すシルヴィアのこの言葉には、彼女の正義感が滲み出ており、この事件に関するアメリカを含む世界中の人々の無関心に対する彼女の憤りが表れている。また、シルヴィアはドイツ系のユダヤ人に異常な関心をここで示している。先にゲルバーグが彼らに無関心を示したのとは好対照である。これはゲルバーグと違って彼女がドイツ系ユダヤ人であるからかもしれない。だとすると、二人の対立の芽は、すでに、この結婚以前にあったことになるだろう。
帰宅したゲルバーグが陸軍士官学校出の息子からの手紙を誇らしげに見せるにもかかわらず、すでに見たように嬉しそうな顔をしないことを咎められ、シルヴィアには怒りが込み上げるが、じっと我慢する。長年強いられたユダヤ女としての忍従とそれを強制する夫への内に秘めた反発が、ここには感じられる。麻痺についての精神科医の見立てが、ある種の恐怖からくる心理的なもの、それもナチが原因と言うゲルバーグの説明に、彼女は強く反論する。しかし、実はこれが病気の真の原因であると自分自身で自覚しているにもかかわらず、無理にそれを否定している可能性もある。シルヴィアの状態についてハイマンは、ゲルバーグに彼女と話していると、ちっとも不幸せそうに見えないと語る。さらにハリエットも、ハイマンに
“’l tell you something funny - to me sometimes she seems ... I was going to say happy、 but it’more like ... I don’ know ... like this is how she wants to be. I mean since the collapse.”(47)
と言っている。病気になったことで、ドイツで虐待されているユダヤ人達と一体感を持ちえて、逆にこれまでの鬱屈した状況から一歩抜け出すことができた安堵感が、彼女の顔に出たのかもしれない。
ハイマンにやさしく接するように勧められて、ゲルバーグはシルヴィアに悪いところがあったら改めると言って近づくが、
“’ surprised you’e still worried about it. ... Well it’ too late、 dear、 it doesn’ matter anymore.”(42 − 43)
と素っ気ない。そして、彼女は過去の事柄を持ち出して、彼に挑戦的な態度さえ示す。自分の後悔を棚に上げる彼女の挑戦的な態度は、未だに彼に対する諦念と不信の根が異常なほど深いことを暗示する。ゲルバーグの反ユダヤ的態度、キャリア・ウーマンへの道の否定が、彼への性的否定に繋がっている状況を今更ながらに見る思いがする。と同時に、彼の関係修復に対する真剣な態度とは裏腹に、ことここに至って、彼女は皮肉と嘲笑に満ちた消極的な態度しか取れないことが窺える。第3場で、ハイマンはゲルバーグと同様、シルヴィアに関しての情報をハリエットから得ている。ここで、シルヴィアがゲルバーグに強く出られない理由が、彼女から伝えられる。ハイマンの二人の離婚の危機に関する質問に、ハリエットは
“h God no! Why should they? He’ a wonderful provider. There’ no Depression for Phillip、 you know. And it would kill our mother、 she worships Phillip、 she’ never outlive it. No-no、 it’ out of the question、 Sylvia’ not that kind of woman、 although ...(50)
と答える。この言葉は、大不況をも乗り切った優秀な会社で働き稼ぎも良いゲルバーグを尊敬する彼女のいかにもユダヤ系らしい父親・母親と世間体を気にして、自己の不満を押さえひたすら我慢を強いられたシルヴィアを見ていた妹のハリエットだからこそ言えるものであろう。
第5場では、ハイマンが乗馬服のまま、突然、シルヴィアの部屋を訪れる。彼女の麻痺がゲルバーグとの夫婦関係に原因があるとみるハイマンは、意識的に親密さを持って彼女に接近する。彼はベッドに腰をおろし、彼女の脚の覆いを取り、ナイトガウンをめくって、彼女をハットさせる。彼と話している時のシルヴィアは、実に楽しそうである。ハイマンの性的魅力と話し上手が、彼女をそうさせたのであり、事実、シルヴィアは彼と話していると希望が持てそうな気がすると言い、ハイマンの掌に接吻さえする。それは、ゲルバーグと途絶えた性的欲求を暗示させる。この場面のもう一つのハイライトは、ゲルバーグのユダヤ人迫害事件への他人行
儀的な態度への彼女の不満の表明である。
“ almost heard that crowd laughing、 and ridiculing them. But nobody really wants to talk about it. I mean Phillip never even wants to talk about being Jewish、 except - you know - to joke about it the way people do ... Just to talk about it ... it’ almost like there’ something in me that ... it’ silly ... I have no word for it、 I don’ know what I’ saying、 it’ like ... She presses her chest. - something alive、 like a child almost、 except it’ a very dark thing ... and it frightens me!”(69)
シルヴィアは自分に恐怖感を与えているものを「まるで子供みたいな、ただとっても暗いもの」と形容するが、それはビッグズビーが“uspended animation”「仮死」と呼ぶもので、これに関して、ミラーは彼女が口に出して言いたいのだけれども、母親やラビによって非難されるのを怖れてなかなか言い出せなかったものだと言う25)。要するに、彼女の心の中にある鬱屈したトラウマのことであり、今や心を許して語り合えるハイマンを得て、それがオープンにされることになった。他方、「怖い」と言うシルヴィアの心中をオッテンは
“he frightening birth of an authentic self、 frightening because such a birth can occur only through suffering、 at the cost of the public self”26)
と説明している。彼女が怖く感じるのは、結局、自分がいわば隠れ蓑にしてきた表向きの公的な自己から真の自己に変わる生みの苦しみというわけだ。
第6場で注目すべきは、ハイマンが妻のマーガレットにシルヴィアがただならない感覚の持ち主であることを語っていることである。“ don’ know what it is! I just get the feeling sometimes that she knows something、 something that ... It’ like she’ connected to some ...some wire that goes half around the world、 some truth other people are blind to.”(85)
この「何か」の正体を突き止めるのが、彼女の問題解決の糸口とハイマンは見る。彼女の麻痺が、もっぱら夫婦関係とそれに関連したヒステリーに原因があると見ていたハイマンは、さらにその奥底に何かが潜んでいると考える。「彼女は何かを知っている」とは、ハイマン自身を含めゲルバーグ、ハリエットとその夫がその重大さをまだ、それほど認識していない台頭しつつあるホロコーストの恐ろしさのことであろう。
第2幕第2場で、ハイマンはシルヴィアから例のゲルバーグに関する悪夢について聞いた後、先夜、関係したと語るゲルバーグの話の真意を尋ねると、もう20 年間も関係がなく、彼がインポであることがシルヴィアの口から語られる。そして、彼をインポに追いやった原因が自分にあることも認める。
“ was so young ... a man to me was so much stronger that I couldn’ imagine I could ... you know、 hurt him like that. ...I was so stupid、 I’ still ashamed of it ...I mentioned it to my father - who loved Phillip - and he took aside and tried to suggest a doctor. I should never have mentioned it、 ... But I can’ help it、 I still pity him; because I know how it tortures him、 it’ like a snake eating into his heart. (102 − 103)
父親にゲルバーグの秘密をうっかり告げ口し、彼の面目を潰した後の彼女の後悔の念と「ユダヤ女」の気遣いがひしひしと感じられるであろう。自分の過ちを認めながらもゲルバーグに何もできないシルヴィアの心情は、同じく自分の責任で彼女に何もできないゲルバーグの心情と相通ずるものがある。
やがて、ドイツでの出来事に何もできない自分と重ね合わせながら、シルヴィアはドイツに理解を示しこの事件を楽観視し何も行動を起こそうとしないハイマンに向かって
“his is an emergency! What if they kill those children! Where is Roosevelt! Where is England! Somebody should do something before they murder us all!”(107)
と叫ぶ。幼い子供達が殴られ、その子供達が殺されたらどうなるのかという言葉には、二番目の子供を産む事を拒否し、それがもとでゲルバーグをインポにしてしまった彼女の後悔の念が表れているとの解釈が可能であろう27)。ローズベルトやイギリスが名指しされているが、これはナチの暴虐ぶりをただ傍観するだけで何ら行動を取らないアメリカとイギリスに対する彼女の抗議に他ならない。「何とかしなければ、私たち、みな殺しよ」とシルヴィアは叫ぶが、この「私たち」に関してミラーは、
“he first time she is taking her life into her own hands”28)
と述べて、私的なレベルと公的なレベルが劇の中で一つになったことを指摘する。こうして、彼女の同情はユダヤ人全体へ、そして象徴的に抑圧され虐待を受けている全ての人々へと広がっていく。この後シルヴィアは、ヒステリックな衝動に駆られ、ハイマンにすがろうとベッドから一歩踏み出すが、彼が捕まえる前に、床に崩れ落ちる。彼女の意識を呼び戻そうとしている時に、ゲルバーグが登場する。彼女を介抱した後、二人の関係を怪しむゲルバーグに怒りの視線を投げかけて、ハイマンは出て行く。
この第2場後半は、すでに見たように全劇中のハイライトで、ゲルバーグの嘘がシルヴィアにばれて両者の力関係に異変が起きる注目すべきシーンである。ハイマンのお陰で力が戻ってきたというシルヴィアに 彼でなければならない理由を問われて、
“ecause I can talk to him! I want him. An outburst: And I don’ want to discuss it again!”(110)
と言い、その反抗的な態度を咎められると、
“t’ a Jewish woman’ tone of voice!”(111)
と述べて、ゲルバーグに立ち向かう。ここには、自分を理解して何でも胸の内を話せる男性を求めていたが、伝統的なユダヤ的女性観に縛られ、夫のゆがんだユダヤ性に苦しみ、ユダヤ人迫害事件にも無関心な態度を取り、自分を狂っているとしか見ないゲルバーグへのシルヴィアの剥き出しの怒りを感じ取ることができるだろう。これまでにはなかった彼女のゲルバーグに対する攻撃である。これを大きく促がす切っ掛けは、既述したようにゲルバーグがハイマンに話した偽りの先夜の関係であり、これをシルヴィアが知ってから、二人の力関係が大きく逆転する。
この後、言わば主導権を握ったシルヴィアは、
“hat I did with my life! Out of ignorance. Out of not wanting to shame you in front of other people. A whole life. Gave it away like a couple of pennies - I took better care of my shoes. Turns to him. - You want to talk to me about it now? Take me seriously、 Phillip. What happened? I know it’ all you ever thought about、 isn’ that true? What happened? Just so I’l know.”(112)
とフィリップに迫る。ユダヤ女として時代と慣習に縛られ、ひたすら夫に仕え、離婚の危機に際しても夫を尊敬する両親の気持ちを忖度し、また世間体を気にした忍従の人生とその空しさに気付いたシルヴィアの姿が見られるであろう。と同時に、これまでの受身から一転して夫婦関係の現実に素直に向き合いその実態を解明すべく、立ち上がる彼女の積極性も窺い知ることができる。また、この場面は、アボットソンも指摘するように、シルヴィア自身の責任の認識が始まる糸口にもなっている29)。シルヴィアの受動的態度から能動的なものへの変身という観点からすると、これは『壊れたガラス』の一大ターニング・ポイントと呼んでもよいだろう。なぜならば、この場面で彼女は、何よりもこれまでの結婚生活について次のようなゲルバーグの偽らざる本音を引き出しているからである。
“ was ignorant、 I couldn’ help myself. - When you said you wanted to go back to the firm. ... When you had Jerome ... and suddenly you didn’ want to keep the house anymore. ... You held it against me、 having to stay home、 you know you did. You’e probably forgotten、 but not a day passed、 not a person could come into this house that you didn’ keep saying how wonderful and interesting it used to be for you in business. You never forgave me、 Sylvia.”(113) さらに、彼女は“hat have you got against your face? A Jew can have a Jewish face.”(114)
と述べて、彼の問題が彼自身のユダヤ人としてのアイデンティティー拒否にあることを指摘する。これを契機に、仕事上でつまずいたゲルバーグが心臓発作で倒れる過程は、すでに見た。
第4場で、ゲルバーグがいち早く退院したことについて家に集まったハリエットとマーガレットを前にシルヴィアから彼に関する極めて辛辣な言葉が語られる。
“e wants to be here so we can have a talk、 that’ what it is. Shakes her head. How stupid it all is; you keep putting everything off like you’e going to live a thousand years. But we’e like those little flies - born in the morning、 fly around for a day till it gets dark - and bye-bye. ... There’ nothing I know now that I didn’ know twenty years ago. I just didn’ say it.”(121)
結婚してすぐ、ゲルバーグのワスプ社会で懸命に生きる虚勢に気付いて幻滅したが、それ以来それをぐっと堪えて生きてきただけの後悔の人生を振り返って、シルヴィアは、この言葉を口にしているのである。
最終の第5場後半で、二人だけになったゲルバーグとシルヴィアの間にしばらく沈黙が続いた後、お互いの自意識が募る。この劇もいよいよ大詰に差し掛かり、二人の本音が語られる。謝りたいと言うゲルバーグに対して、シルヴィアは現在の心境を次のように述べる。
“’ not blaming you、 Philip. The years I wasted I know I threw away myself. I think I always knew I was doing it but I couldn’ stop it. ... For some reason I keep thinking of how I used to be; remember my parents’house、 how full of love it always was? Nobody was ever afraid of anything. But with us、 Phillip、 wherever I looked there was something to be suspicious about、 somebody who was going to take advantage or God knows what. I’e been tip-toeing around my life for thirty years and I’ not going to pretend - I hate it all now. Everything I did is stupid and ridiculous. I can’ find myself in my life. Or in this now、 this thing that can’ even walk. I’ not this thing. And it has me. It has me and will never let me go.”(136-37)
ここには、愛のない、びくびくとした疑いばかりの結婚生活に飽き飽きして、一刻も早く本来の自分に戻りたいと願うシルヴィアの心境が吐露されている。この言葉は、最終的にゲルバーグのこれまでの自分の反ユダヤ的生き方の間違いを改めて気付かせ、意識を失って仰向きに倒れる前の“od almighty、 Sylvia forgive me!”(138) という台詞に込められた彼の自己覚醒を成就させる。二人が図らずも病気にかかり、同病相憐れむ状態でお互いのコミュニケーションが持てる希望の光が見えたという認識も束の間、ゲルバーグは倒れる。
“ait、 wait ...Phillip、 Phillip!”(138)
のシルヴィアの声が空しく響くが、自己の両脚が立ったことに気付いた彼女の人生は、彼の命の代償で蘇ったかに見える。
翻って考えてみると、シルヴィアはゲルバーグとは正反対で、他人との関係が比較的緊密な社交家でもある。しかしながら、長い間、まわりの他人や身内との関係に神経を遣う、いわゆる「良きユダヤ女」、「良きユダヤ人妻」であり過ぎたために、かえって彼女自身の自己を喪失してしまった。結婚後も続けたかったキャリア・ウーマンの道がゲルバーグによって閉ざされた結果、自己否定の道を歩まざるを得ない。彼女は、私は母のため、ジェロームのため、そして自分以外のみんなのため、と述懐するが、これはこうしたユダヤ女性として忍従を強いられた彼女の積年の思いが爆発したことを物語っているだろう。どうにか乗り切ってはきたものの、彼女のユダヤ女性特有のその控えめな態度が裏目となり、ついに限界が来る。ヨーロッパにおけるナチのユダヤ人迫害のニュースに対し異常に反応するのは、その反動が主な原因である。
と同時に、彼女がこうして抵抗に立ち上がるのは、このドイツでのユダヤ人襲撃事件に周囲のほとんどの者が無関心を装い何もしないという恐怖感に駆られ、同時に自分の無力を痛感したからに他ならない。これが皮肉にも、ゲルバーグを動かし彼女の彼との関係を見直す重要な契機となった。ヨーロッパやアメリカの多くのユダヤ人同様、何もせず、ただ傍観することもできたはずであったが、彼女は敢えてこれに立ち向かった。そして、彼女のこの行動が他人、とくに夫ゲルバーグに対して無言の圧力となったのは、言うまでもない。この彼女の“atalyst”par 「触媒」的役割についてミラーは、デレクターや俳優の意見からヒントを得たことがビッグズビーによって紹介されている30)。 
3.科学的理想主義者ハイマンとユダヤ人像
妻の病気を契機に現実を知り苦悩するゲルバーグに比べて、ハリー・ハイマンは活力に満ち、当時のユダヤ人にはめずらしく乗馬を趣味とし、ユダヤ人女性ではなくワスプを妻としている。
この彼の言わば“ecular Jew”としての立場が、ゲルバーグやシルヴィアに第三者的なアドバイスを与えることできたと考えるのも、あながち間違いではないかも知れない。しかし、彼の医者としての患者(シルヴィア)への応対や妻(マーガレット)に対する夫としての振る舞いには、疑問の余地が残るのも事実である。たとえば、ゲルバーグが自分が疑われていることに腹を立てて飛び出していった後、妻マーガレットはハイマンに、
“Are you in trouble? ... You don’ realize how transparent you are. You’e a pane of glass、 Harry.”(83-4)
と言って、彼の明らかな女癖を暗示する。これを彼が自分の周りに張っているガラスがマーガレットによって壊されたと解釈すれば、この劇のタイトルのメタファとなっていることに気付くだろう31)。何か自分に都合が悪い事態に遭遇すると、たとえば患者への色目を妻から非難されたり、ナチの迫害やドイツ人に関してシルヴィアから意見を求められると、うまくはぐらかして自己弁護を図るちゃっかり者でもある32)。だが、物事に距離を置き突き放して見るという意味では要領の良い人物でもある。事実、この性格がシルヴィアとのコミュニケーションに非常に役立っている。
ハイマンは、人生を大いに楽しむ医者であり、またロマンチストでもある。両脚麻痺にかかったシルヴィアを診断した関係からゲルバーグ夫婦と関わりを持つようになる。科学的理想主義者らしくシルヴィアの病気の原因を突き止め、一時ゲルバーグやシルヴィアに誤解されはするものの、良き相談相手となって彼らの長年の夫婦問題を和解へと導く。ゲルバーグ夫婦の問題が、究極的にはユダヤ人のアイデンティティーを巡るものであるので、彼のユダヤ人としてのアドバイスと人生観はユダヤ系アメリカ人の一ロール・モデルと呼んでもいいだろう。と同時に、大団円における彼のゲルバーグに対するユダヤ人の生き方に関する考え方はミラーのそれを代弁している。以下、ゲルバーグ夫婦と妻マーガレットとの関わりから見えてくる彼のユダヤ性を考察する。
ユダヤ系アメリカ人として、当然、ハイマンはドイツの事件を耳にしており、シルヴィアの麻痺とこの事件との関係を調べる中、彼女の病気の原因が肉体的なものでなく、心理的なもので、直接には夫との夫婦関係にあると見る。やがて、その夫婦関係を阻害した原因であるユダヤ性を巡る二人の見解の相違を突き止める。最終的に彼らの結婚生活の破綻における両者それぞれの責任の自覚を促がしたという意味で、ハイマンは、彼らの重要な調停役であったと言うことができる。マーガレットの誤解を受けながらも、すでに見たように、彼はシルヴィアが他人には見えない真実のようなものと結ばれていると言って、彼女の心の奥底にある問題の核心を突き止める決意を固める。もし、一旦諦めた彼らのカウンセリングを、この時点で続行しなかったら、二人の歩みよりは不可能であったであろう。こう考えると、彼の果たした役割の大きさが理解できる。夫婦関係の問題の根を、他ならぬゲルバーグのユダヤ性とシルヴィアのユダヤ性を巡る見解の相違に求めた彼の功績は、彼がユダヤ人であったことと無縁ではない。
ハイマンはシルヴィアの中に眠っていた性の目覚めを促がしたが、それと同時に、彼女のドイツに対する恐怖心を取り除こうとした。彼はまず、シルヴィアのナチに関する質問にナチは、長くは続かないと言って、シルヴィアの抱く懸念の払拭を図る。第2幕第2場でも、
“his will pass、 Sylvia! German music and literature is some of the greatest in the world; it’ impossible for those people to suddenly change into thugs like this. So you ought to have more confidence、 you see? - I mean in general、 in life、 in people.”(105)
と言って、ユダヤ人迫害事件で精神的打撃を受けた彼女のドイツに対する恐怖心を取り除くことに努める。ゲルバーグに対して彼は、ユダヤ人としての自己否定がシルヴィアに恐怖感を与えていると述べて、彼のユダヤ人としての生き方を批判する。
目立つ存在、差別される存在、他と違う存在と見られるユダヤ人から離れて生きようとしてきたゲルバーグの生き方、すなわち、なぜわれわれは違わなければならないのかと絶えず意識せざるを得ない彼のユダヤ人としての痛みや叫びを伴う生き方は、自分の神経を無駄にすり減らす単なる徒労に過ぎないと説くのである。
“’ talking about all this grinding and screaming that’ going on inside you - you’e wearing yourself out for nothing、 Phillip、 absolutely nothing! - I’l tell you a secret - I have all kinds coming into my office、 and there’ not one of them who one way or another is not persecuted. Yes. Everybody’ persecuted. The poor by the rich、 the rich by the poor、 the black by the white、 the white by the black、 the men by the women、 the women by the men、 the Catholics by the Protestants、 the Protestants by the Catholics - and of course all of them by the Jews. Everybody’ persecuted - sometimes I wonder、 maybe that’ what holds this country together! And what’ really amazing is that you can’ find anybody who’ persecuting anybody else.”(134)
人間は、本質的に迫害されると同時に迫害する存在であるとするこれまでの作品にもたびたび見られたミラーの人間観が、ここに現れている。
また、ヒットラーの脅威を懸念するゲルバーグに対して、
“itler is the perfect example of the persecuted man! I’e heard him - he kvetches like an elephant was standing on his pecker! They’e turned that whole beautiful country into one gigantic kvetch!”(134)
と語って、その本質を暴いてみせる。解決は何かと迫るゲルバーグに、自分から逃げずに鏡の中の自分を見ることと、シルヴィアを許すこと、そして最終的に自分とユダヤ人を許すことだと述べ、
“nd while you’e at it、 you can throw in the goyim. Best thing for the heart you know.”(135)
と諭すのである。 
結語
先にゲルバーグとシルヴィアの生き方に見られる自己否定の側面に関して考察を進めたが、他の重要なテーマとして、「怖れ」がある。そもそも、ゲルバーグは、なぜシルヴィアが自分を怖がるのか理解できない。ゲルバーグの心中にある痛みや叫び、それに彼が彼自身を嫌っていることが、シルヴィアを怖がらせているとハイマンは指摘する。これこそ彼のあいまいなユダヤ人としてのアイデンティティーのことであり、これを知った後、逆にゲルバーグが彼女を怖がるようになる。彼女が自分を怖がっている理由がはっきりわかったからである。そして、現実に直面することで自己の弱点に気付いたからでもあろう。彼が病気になることで、共通の
状況が生み出され、相手に同情を寄せることが可能になったのもその原因の一つと考えられる。
一般的に、怖れの感情は、自分に隠し事があり、自己欺瞞に陥った時に持つものである。ワスプ主導の会社では、ゲルバーグは自己欺瞞を犯してでも、自己に不利なあらゆる事実に目をつぶらなければならないと考えた。シルヴィアは、この事実を知っているがため敢えて彼の生き方を強く否定できない。お互い心の底から憎み合っていないのは、そのためである。この夫婦には、このようにお互いに共通する部分が多く、ハイマンがゲルバーグに語る鏡の話を援用するならば、二人の関係は、鏡を重ね合わせた鏡像関係にあると言えるだろう。また、この劇は、先述したような夫婦の相手に対する「怖れ」を克服する過程を描いた戯曲とも言えよう。
「怖れ」とともに他の重要なテーマとして、相手に対する「非難」がこの劇には顕著である。
ラーはこの点に特に注目して
“he cycle of blame、 with its litany of long-harbored recrimination、 spews out of them (Gellburg and Sylvia) and pushes them farther into their entrenched positions. They’e both right、 and they’e both wrong. What’ true is the psychological dynamic、 in which blame becomes a way of not dealing with unacceptable feelings.”33)
と述べる。この解釈は非常に説得力があるだろう。というのは、ゲルバーグは自分を性的不能者にし、もはや男であって欲しくないと思わせた張本人としてシルヴィアを非難し、逆にシルヴィアは自分の職業婦人としてのキャリアを妨害し、家庭においても暴君的であったと言ってゲルバーグを非難しているからである。実は、これこそが完全に夫婦のコミュニケーションを途絶えさせた原因であった。問題をやっかいにしたのは、これが沈黙の形で発展し、限界を迎えてしまったことである。
ここで『壊れたガラス』の人物描写について述べておきたい。『壊れたガラス』の登場人物は、ほとんどがユダヤ人であるが、ミラーは彼等を普遍的な人物として描くことに成功している。
なぜならば、ゲルバーグのような人物は、ユダヤ人として独自の問題を抱えているのは確かだが、彼の抱える問題はごく普通の人間が遭遇する問題でもあるからだ。とくに大小様々なエスニック・グループによって構成されるアメリカ社会において、ゲルバーグが陥ったジレンマは、大なり小なり誰もが必然的に抱える問題である。アボットソンは、アメリカのユダヤ人としてゲルバーグは二重の意味で自己のアイデンティティーをあいまいなものとしたと見ている。
He is doubly caught: first between his own Judaism and the popular idea of America as a melting pot and second、 between his own rejection of his Jewishness and the anti-Semitism he sees around him. Anti-Semitism is not something he has created; it lies all around him. His response to it is to try to see himself as unique、 insisting on his unusual name and Finnish origins. However、 such a response is inadequate、 for it is done to avoid becoming part of communities he views with ambivalence; it is an empty identity he is creating. 34)
総じて、アメリカ人は、自己の属する民族集団とそれを超えたいわゆる坩堝社会に生きる。
ゲルバーグは、この両者間のバランスを欠き極めてあいまいな態度を取った。次に、彼はこれまで見てきたように、反ユダヤ主義のはびこる社会で生き延びるために自己のユダヤ性を恥ずべきものとして否定した。こうしてユダヤ性の拒否と現として存在する反ユダヤ主義の間で苦しむことになった。ここで得た彼のアイデンティティーは所詮、空虚なものに過ぎなかったからである。したがって、ゲルバーグに求められるのは、自分のユダヤ人としてのアイデンティティーを尊重し、と同時に一アメリカ市民として自己を確立し、両者間のバランスを保つことである。こうして、彼は個人と社会を統合する積極的な自画像を描くことができるのだ。個人的自我と社会的自我を包摂するデュアルなアイデンティティーこそが、多民族国家アメリカにおける人々、とりわけマイノリティー民族集団の人々が求めるべき目標なのである。ゲルバーグが、これに早くから気付いていれば、歪んだユダヤ性に基づく自己否定と自己矛盾に陥ることなく、シルヴィアとの偽りの結婚生活を回避できた可能性があったであろう。だが、時代がそれを許さなかったのだ。
ハイマンに「自分の中のユダヤ人をゆるせば、異教徒とも仲良くできる」という言葉に諭されて、ゲルバーグは自分の中の「他人」を理解し始める。これは『ヴィッシーでの出来事』のルデックがフォン・ベルクに言った次の言葉のエコーとなっている。
Part of knowing who we are is knowing we are not someone else. And Jew is only the name we give to that stranger、 that agony we cannot feel、 that death we look at like a cold abstraction. Each man has his Jew; it is the other. And the Jews have their Jews. And now、 now above all、 you must see that you have yours - the man whose death leaves you relieved that you are not him、 despite your decency. 35)
ユダヤ人であるルダックが非ユダヤ人のフォン・ベルクに言ったこの言葉が、『壊れたガラス』では、文字通り、ユダヤ人がユダヤ人に発した言葉となって帰ってきたのである。ここに、まずハイマンを通じてゲルバーグが得たミラーのメッセージが読み取れる。
それでは、シルヴィアに関しては、どうであろうか。彼女の麻痺には、これまでの考察で明らかなように、個人的なレベルでは、夫による自分への行為の犠牲者の姿、それに対して何もしない、あるいはできない自分の傍観者としての姿、そして夫への加害者の姿などが象徴されているだろうが、社会的なレベルでは、ヒットラーのナチとそのユダヤ人迫害事件に対して何もできないことへの苛立ちを表している。実際、シルヴィアは50 年前に実在した女性がモデルとなったもので、ミラーは、その女性のイメージを
“he image of that woman sitting there unable to move、 and nobody knowing why、 and it seemed an exact image of the paralysis we all showed then in the face of Hitler”36)
と説明している。と同時に、それはまた夫ゲルバーグを含む周りの人間のこの事件への無関心への抵抗をも象徴している。オッテンは、それを
“aralysis symbolizes the moral impotency that arrests all the characters in the play.”37)
と指摘する。さらに、メイヤーは「置換された沈黙のイメージ」“he displaced image of silence”と呼ぶ。つまり、それはクリスタルナハトを前にしてゲルバーグ、ハリエット、ハイマンそしてアメリカ政府が何も抗議の声を挙げない状況を指し、同時にゲルバーグ夫婦のお互いに対する沈黙の裏切りを意味するというのである38)。これを拡大解釈して、ゲルバーグ夫婦の長年にわたる真のコミュニケーションの断絶の象徴と見ることもできるだろう。
彼女は、最終的に両脚で立ち上がった。これはこれまでのゲルバーグとの人生を振り返り、全てを彼の責任にするのではなく、自己の責任を自覚し、文字通り、自分の脚で立つ独立した人間のイメージを意味する。この自己責任の意識は、ホロコーストを人類の一大罪として忘れてはならないとする人間の責任の観念と通ずるものなのだ。「想像力の欠如は、我々の死を招く」
“ failure to imagine will make us die.”39)
とミラーは述べるが、はるか遠くで起こった出来事を、自分とは関係ないものとして無視することは実に簡単だ。しかし、同じことが遅かれ早かれ自分達の身にも降りかかるかもしれない。人類がサバイバルするためには、誰もが同じ空間に生きている人間としての責任を自覚し、人類共存の道を追求しなければならない。このミラーのメッセージが、シルヴィアの苦悩を通じて感じられるだろう。
ミラーはゲルバーグとシルヴィアの夫婦関係を描くに当たって、ゲルバーグの性的インポテンシーを意図的にこの作品に持ち込んだ。シルヴィアの両脚麻痺の原因が、彼のインポから来る性的フラストレーションにあるというわけだ。そして、その根本には本来のユダヤ人としてのアイデンティティーを拒否して消極的に生きるゲルバーグのインポテントな人生態度が暗示されている。さらに、これはドイツのユダヤ迫害に抗議的行動を取らず他人行儀的なハイマン、ハリエットとその夫たちの無関心な態度(inaction)をも意味している。そして、最後に、これはミラーのこの作品における究極のメッセージであるホロコーストは単にユダヤ人だけではなく人類全体の問題であって、それに無関心をかこって何ら行動を起こさない多くの人々の態度は、アボットソンが、
“enial、 resignation、 or ignorance ... is tantamount to complicity.”40)
と述べるように文字通り、インポテンシーそのもので、それは迫害を行った者との共犯さえ意味するのである。そもそも、ミラーがこの作品を書くことになった直接の動機は、民族浄化“thnic cleansing”が主たる原因で起こったルワンダやボスニア紛争が理由であったと述べている41)。多くの人間は、これらの出来事を自分達とは無関係だと思って生きている。しかし、はるか遠くで起こっていることでも、いつか自分たちの身に降りかかるかもしれないと感じ、この地球上に生きる人間としてインポテンシーを越えた社会的連帯責任を感じることの必要性を『壊れたガラス』で、ミラーは問題提起しているのだ。 

1)Alice Griffin. Understanding Arthur Miller. (Columbia、 South Carolina: University of South Carolina Press、 1996). 186.
2)枡田良一、「Arthur Miller: Focus ― ユダヤ人、それは自己に内在する他者である―」、『村上至孝教授退官記念論文集』、英宝社、昭和49 年、419。
3)David Richards. “ Paralysis Points to Spiritual and Social Ills.”New York Times、 April 25、1994 in New York Theatre Critics’Reviews、 1994、 Vol. LV、 No.6. 129.
4)Susan C. W. Abbotson. “ssues of Identity in Broken Glass: A Humanist Response to a Postmodern World、”Journal of American Drama and Theatre、 11 (Winter 1999). 75、 77.
6)William A. Henry III. “ylvia Suffers、”Time、 May 9、 1994 in New York Theatre Critics’par Reviews. 130.
7)David Stearns. “ Glistening Broken Glass、”USA Today、 April 25、 1994 in New York Theatre Critics’Reviews. 130.
8)Murray Biggs. “he American Jewishness of Arthur Miller、”A Companion to Twentieth-Century American Drama、 ed. by David Krasner (New York: Blackwell Publishing Ltd.、 2005).213.
9)Arthur Miller. Broken Glass (New York & London: Penguin Books、 1995). 11-12. 以下、作品からの引用は、ページ数のみで示す。
10)このハイマンの見解は、当時流行したフロイトの夢の分析と汎性欲説に基づく精神医学を彷彿とさせて興味深い。
11)Terry Otten. The Temptation of Innocence in the Dramas of Arthur Miller (Columbia and London: Univ. of Missouri Press、 2002). 231.
12)ケイスには、口語で「変わり者」、「扱いにくい奴」、「馬鹿」などの意味がある。
13)Kinereth Meyer. “u8220 “A Jew Can Have a Jewish Face” Arthur Miller、 Autography、 and the Holocaust.”Prooftexts 18、 The Johns Hopkins Univ. Press、 1998. 254.
16)Abbotson. Journal of American Drama and Theatre. 74.
17)Susan C. W. Abbotson. Student Companion to Arthur Miller (Westport & London: Greenwood Press、 2000). 106.
18)『アメリカのユダヤ人― 二重人格者の集団』、ジェイムズ・ヤフェ著、西尾忠久訳、日本経済新聞社、昭和47 年、26。
19)Abbotson. Student Companion to Arthur Miller. 106.
21)Abbotson、 Journal of American Drama and Theatre .77.
23)Christopher Bigsby. Arthur Miller: A Critical Study (Cambridge: Cambridge Univ. Press、2005). 393.
29)Student Companion to Arthur Miller. 107.
32)Student Companion to Arthur Miller. 108.
33)John Lahr. “ead Souls.”The New Yorker、 May 9、 1994 in New York Theatre Critics’Reviews 1994、 Vol. LV、 No. 6. 125.
34)Abbotson、 Journal of American Drama and Theatre. 75.
35)Arthur Miller、 Incident at Vichy、 (New York: Viking、 1966)、 66.
36)Understanding Arthur Miller、 182.
38)Mayer. Prooftexts. 254.
39)Arthur Miller、 Timebends: A Life (London: Penguin Books、 1987). 167.
40)Abbotson、 Journal of American Drama and Theare. 70. 
 
ポスト冷戦時代のアメリカ経済の特徴とその含意 / グローバリズム再考

 

はじめに
2000 年度の大統領経済報告1)によれば、目下、アメリカ経済は106 ヶ月を超える、史上最長の持続的な経済成長の過程にある。その主要な要因は情報化、金融化、グローバル化に収斂されると考えられる。本論文は、21 世紀を目前に控えて、アメリカ経済が達成しつつある新たな活況と、同時にその危うさを世界経済的な視点から考察し、その内容と意味を明らかにしようとするものである。その際に大事なことは、アメリカが世界経済を構成する国民経済の一つー最大ではあるがーでありながら、同時に世界経済と世界政治を主導する覇権国だという二重の規定を受けていることである。そのため、その動向は否応なく世界全体の動向と不可欠に結びついて来ざるをえない。
さて、本論文は主に二つの部分からなる。第1は現在進行中の経済のボーダーレス化の過程をグローバリゼーションととらえる考え方に関して、その概念の意味内容と方向を明らかにし、かつその中での、唯一の覇権国ともいうべきアメリカの役割に関して、その当否を考察するものである。その上で、グローバリズムにたいする批判的な、それに反発する動きとその考え方についても関説したい。第2の部分はこのグローバリゼーションの進展の中で、アメリカ経済がどのような変貌を遂げつつあるかを世界経済的な視野から考察するものである。ここでは製造業多国籍企業における世界的な統合化の現状と90 年代に入ってから目立ち始めた戦略提携とアウトソーシングの動きの意味、また近年急速に進行しつつある、情報化をはじめとする経済のサービス化に関して、その実態と理論的含意を考察し、さらには生産の数十倍、数百倍もの規模を持った金融化の現象を考察する。そしてこれらの、生産レベル、情報・サービスレベル、金融レベルという三層での検討の上に立って、アメリカ経済の現局面に関して、全体としての評価を下してみたい。
ところで、筆者は現代の世界経済とアメリカ経済の動向に関して、ここ数年、いくつかの論攷を書いてきた2)。とりわけグローバリゼーションに関しては、その基本的な特徴点に関して先に概括的に論じた。しかしながら、そこでは十分に展開できなかったこともあるので、ここで再度検討し、追加的に論じてみたい。なお本論文の構想の基礎になったものは、2000 年度の国際経済学会の共通論題の報告を「グローバリゼーションの進展とアメリカ経済の新段階」と題して行ったが、その際に作成した報告用原稿である。その一部は学会の年報に掲載されるが3)、枚数の制限のため、要約的にならざるを得なかったので、構想全体に関して、総括的かつ詳細に論ずる必要を感じ、本論文においてその責任を果たそうと考えた。そのため、一部重複があることをご容赦いただきたい。 
1.分析視角と方法
ポスト冷戦時代において、急速にグローバル化しているアメリカ経済を考察するには、以下の三つの異なる視角・レベルからの重層的・多面的な接近が必要だと思われる。その第1は、国際政治経済学(International Political Economy、IPE)的視点からである。現代世界の諸問題、とりわけ貿易摩擦や多国籍企業、さらには国際通貨やマクロ経済調整などの問題は、政治と経済が複合的、多重的、多元的に絡み合い、かつ錯綜して現れるところに特色がある。つまり、政治と経済との相互作用がそこでの重要な課題になることである。そして現在のグローバリゼーションの問題はまさにその典型的なものだと考えられる。
たとえば、日米間の貿易摩擦を取り上げてみると、そこでは、経済(生産)レベルにおける日本の競争優位とアメリカの劣位という事実にたいして、自由貿易の原理に基づいて、事態の推移を経済過程での、いわば事物自然の法則に委せるのではなく、強大なアメリカの政治力を利用した、日本への一時的な輸出の「自主」規制の要望が、日米間の政府間での交渉を通じて実現し、しかもそれがアメリカにおける選挙の年に繰り返し行われてきた。いわば経済摩擦の政治サイクル化の定着である。ここでは、日本政府の交渉力の稚拙さや非力さではなしに、もっと根本的な、アメリカへの日本の経済主権の制限ないしは政治的従属化が明るみになった。
このことは第二次大戦後の日米関係の特異な様相と構造を反映しており、その淵源は戦後のアメリカの対日占領政策とその後の日本の復活過程にまで遡らなければならないだろう。いずれにせよ、この中には、独立国家間の対等・平等という外観とは違って、国家間関係の自立=従属性と重層性、そして政治と経済との複雑な絡み合いと優先=副位性とが見て取れる。
加えて、経済のグローバル化の進展は企業の多国籍化を進めており、その結果、両国資本は、従来のように、国益を背景にした競合と利害衝突ばかりでなく、世界市場での協調と共存をも目指しており、その中で共通利益(多国籍企業としての共益性)も育ってきている。したがって、国家間の確執・対抗とは別に、企業間の提携や妥協が目立ち、かつこの後者の主導性が国家間交渉の性格と方向をも領導するようにすらなってきた。そうすると、国家だけを唯一、不可侵の主体(アクター)と考える、これまでの枠組み設定には大きな限界があることになる。
したがって、グローバリゼーションの進展はこの両者の相互関連と相互作用を中軸においた国際政治経済学的視角からの接近の必要が今や大きく求められている。ただし、国際政治経済学の主流を構成してきたネオリアリストたちの理論的枠組みが国家中心的なアプローチを脱却できないでいる点は、その限界を作っていて、今日のグローバル化の時代には十分な役割をはたせないことは、改めて強調するまでもないだろう。
第2は国際直接投資論(International Direct Investment、IDI)的な視点からである。現在のグローバリゼーションの進行は、アメリカにおいても、アメリカ企業や資本が海外に出ていくと同時に、アメリカへも諸外国の企業や資本が進出していく、いわば相互投資、相互浸透が活発化しているものである。そしてこのことが経済のボーダーレス化を否応なく進めることになった。したがって、今や、世界的規模で活躍する企業や資本の国民性を問うことにどれほどの迫真性があるか、はなはだ疑問である。資本はいわば脱国籍化し、あるいは国跨化していて、「モロク神」のごとく、とらえどころのないものになっている。こうした資本の相互交流・相互投資を考える視角としては、国際直接投資論という立場からの考察が有効だと考えられる。
これは政治的には相互依存世界と呼ばれてきたものに対応されるものである。
というのは、アメリカは、1960 年代以来のアメリカ資本の海外進出の結果、1980 年代に入ってからは国内経済の空洞化と競争力の低下に悩まされてきた。そこで諸外国資本の対米投資が推進されることになったが、その結果、アメリカ資本が世界を席巻する「世界のアメリカ化」の時代から、「アメリカそのものが世界化」する時代へと、軸心が動くことになった。これは資本の相互投資を意味するが、そうすると、何故資本が海外へ向かうのかというプッシュ要因ばかりでなく、何故外国資本を引きつけるのかというプル要因も俎上に乗せなければならなくなる。たとえば、国内外での利益率(もしくは利子率)格差が、資本が海外へ出ていく基本的な理由だとしたら、それに反する国際通貨のドル高・高金利が対米投資を引きつける理由になるなどである。これを国際直接投資論として考えようというのがその主な狙いである。こうした考えから、アメリカ商務省が国際直接投資に関するまとまったデータを編集・公表するようになったのは、1984 年からである。以来、私が知る限り、88 年と98 年の合計3回にわたって、まとまったデータが出されている4)。これによってわれわれが目にするのは、今日のアメリカ経済を考える際に、昔流の国民経済的な視点からのみ考えていては駄目で、世界経済へのアメリカの貢献と同時に、世界経済からのアメリカ経済の影響という面から考察すること、つまりは二重の意味でのアメリカ経済を考察する必要性が高まったことである。
このことは、グローバリゼーションが進展して、内外差のなくなるボーダーレス化を扱う際には大事な視点であり、特に最近の金融におけるボーダーレス化が目立つようになった時代においては、これは有効な方法だと思われる。これはまた上記の戦略提携など、国際的な生産・流通そして資本間の合従連衡を考える際にも重要な手掛かりになるだろう。
第3は国際資本=産業論とでもいうべきものである。「IT 革命」に始まる情報化や、広く知識・技術・ノウハウなどの商品化、つまりは知的財産権をめぐる問題は、生産、流通、金融などの既存の経済活動に大きなインパクトを与え、またそれらの側面との結合や連関も現れてきた。というよりもむしろ、これら経済のサービス化・ソフト化と知的財産が生産、流通、金融などの残余の経済活動を主導する事態が生まれている。その結果、商品化された知的財産などのサービスは、物的財貨との交換にあたって、極めて有利な交換法則の達成という恩恵に浴している。それは、これら知的財産に関わるものの開発には膨大な研究開発費がかかり、かつまたこれらは高い独創性という唯一無二の特権と高度な商品性を有しているというのが、その理由になっている。しかしはたしてこの扱い方は正当であろうか。
ただし、ここで留意しなければならないのは、こうした経済のサービス化・ソフト化の過程も最終的には資本の力によって、その組織化、つまりは包摂が行われるところに特徴があり、未曾有の産業再編と資本結合の一大運動が目下、国際的に行われていることである。その結果、新たな資本系列と産業組織が生まれている。したがって、現在、それらの相互関連や序列に関して、国際的なレベルで秩序だった説明が求められるようになってきている。それを筆者は産業間の関係と資本間の関係の複合的、統合的なものとして把握したいと考え、国際資本=産業論(International Capital and Industrial Linkage、IC & IL)と名付けてみた。その意図するものは、資本のもつ現代世界における卓越した位置と役割−「資本の権力」(Power of Capital)とでも呼ぶべきもの−を事態の中心においてみていきたいからである。したがって、これは資本権力論と呼ぶ方がその内容をよく表しており、したがって適切かも知れない。そしてこの資本の権力が政治権力との間でどのような関係にあるかを論ずることが、この分析の最終的な目的であり、それには両者を結ぶ接点に位置する制度や機構、さらには合意形成のメカニズムやその定着化のためのイデオロギー装置の役割が重要になる。ただしそれらの関係に関しては、ここでは十分に論じられないだろう。
そこで、とりあえず以上の三つの視角・レベルからこの課題に接近し、それらを総合して全体を概観することが本稿の眼目である。 
2.グローバルキャピタリズムとアメリカの役割
2-1)グローバリゼーションとはなにか。
現在、世界にはグローバリゼーションの嵐が猛威をふるっているが、この問題に接近する際に最初に明らかにしなければならないのは、この言葉の概念規定である。モノ、カネ(短資と長資)、ヒト、技術、情報が国境を越えて頻繁に移動し、ボーダーレス化が生じていることをグローバリゼーション−特に経済のグローバル化−と呼んでいるが、このことは伝統的な国民国家の枠組みを一面では基礎にし、また他面ではそれを素通りし、突き抜けていくものであるため、国家の役割の変容を否応なく迫ることになる。とりわけ、逃げ足の速い短期資本やインターネットを利用した情報の国際的な移動は、国家による捕捉困難や管理不能を生みだし、国家の非力化や無力化を吐露させている。ストレンジはそれを国家の退却(retreat)と呼んでいる5)。そしてそれらを基礎とする、伝統的な国民国家体系(ウエストファリア体制)としての国際体制の終焉の嘆きが聞こえてくる。
ただし、戦後の冷戦体制としての国際体制が独立国家の横並びの体制として考えてよいかどうかは大いに疑問のあるところで、私はむしろ覇権国を中心とする双極体制としてこれを理解しており(Pax Russo-Americana)、それからすれば、ウエストファリア体制なるものが、戦後は一つの虚構(フィクション)に過ぎなかったともいえよう。それほどに、覇権国アメリカと残余の日欧の大国間との間には格差が存在したし、体制間の対抗という政治的条件はその下で営まれる世界の経済生活を深く規定し、かつ制約してきた。
しかしこのことを考える際には、資本が本来持つ性格が、一面では国家単位でのまとまり、つまりは国民服を纏う国民的性格とともに、他面ではこの国民的制約を絶えず超えて出ていこうとする世界的、万民的性格をも具備している、いわば二重性をもっていることに留意しなければならないだろう。つまり総体としての世界経済は基礎単位としての諸国民経済の複合体としてのみ存在するという、独特の存在形式である。したがって、これは一つの矛盾であるが、その矛盾を克服しようとする資本の運動の結果だということもできよう。そこで、一面では国家への依存やその助成・庇護を求めるとともに、他面ではそこからの超克をも目指すことになり、その結果、強い国家と弱小国家の間の力の差が国民資本(企業)の運動の優劣を決める要素にもなる事態が進行している。
しかもそれが共倒れにならないために、覇権国のヘゲモニーによって、国際機関(国際レジーム)を媒介にして、そのための条件と環境の整備が整えられてきたのがこの間の経緯であるが、後段で触れることになるが、冷戦体制の終焉が覇権国に自国中心的な行動を取らせ易くするという、新しい変化が生まれてきている。
これらを全体的に概観すれば、経済のグローバル化は資本主義の成立とともに進行してきた不断の歴史的過程であるが、社会主義体制が崩壊した今日、そのことがより一層強く意識されだし、唯一の覇権国アメリカの単極支配と制約なき市場原理主義のイデオロギーが蔓延し始めているとみることができよう。そしてそれを深部において動かしているものは、むき出しの致富欲に駆られた資本の運動だといえよう。
第2に、とはいえ、現在われわれが目の当たりにしているグローバリゼーションの中心に位置するのは、知識、情報、マネー、環境(汚染)の国境を越えた移動である。とりわけ、知識の商品化、情報インフラ、国際的なスタンダードとその管理などは、この問題を考える際の中心的な考察対象となる。国際政治経済学は伝統的な富(経済)と権力(政治)の関係を中心的な考察対象としてきたが、これに加えて、知(科学、技術、学問、思想、そしてそれらのパッケージ化され、商品化された「情報」としての集積)という新たな要素を加え、それらの関連と序列と組合せを考えなければならなくなってきた。これは新しい事態の登場であり、新しいパラダイムが要求されているところでもある。
これに関しては、ストレンジがこれらのトライアングルの間の関係に関して考察し、さらに力(パワー)を構造的力と関係的力の二つに分け、ヘゲモニー行使における後者の役割の意義を強調したことが、事態の把握と展開には参考になると思われる。ここで彼女は前者に関して「構造的」(structural)という言葉を使って、単にこれらが量的な概念ではない、ある種の質を表すことを強調したが、それよりも私が注目するのは、後者に関してである。たとえば彼女は、生産力(構造的力の源)の後退がアメリカのヘゲモニーの後退を生まず、むしろ、だからこそアメリカの交渉・調整能力ないしは影響力(関係的力)を逆に高めてきたことを逆説的に指摘したが6)、その成功の鍵は第三の要因としての知(ナレッジ)にある。これが今や情報・通信と合体して一大パワーとして登場してきている。
なお付言すれば、彼女は通信、貿易、運輸などの連絡・伝達・輸送・移動機能を、富を作る生産力などの本来的・根源的なパワーにたいして、二次的・副次的なものと呼んだが、しかし、今やこの副次的なものが根源的なものにたいして、より表面に現れる事態、ある種の逆転現象、つまりは転倒した世界が生じているところに今日の独特の姿、あるいは特色がある。
また知という要素を国際的な諸国家の利害の調整と共同利益の形成上の要諦と考え、それを覇権国アメリカの、他に優れた武器と考えるナイの「ソフトパワー論」7)や、それを具現する国際的な有機的知識人の幅広いイデオロギー支配がヘゲモニー装置ーたとえば三極委員会とそれと有機的に結合しているサミットなどーとして国際的に形成されていると説くコックス8)やギル9)の所説もある。これらもグローバル化時代の国際政治経済学の前進には重要な貢献をはたすだろう。
ついでにもう一つ補足しておくと、近代の国民国家は市民社会を基礎に、資本主義経済制度を中核にして構成されているが、この国家の成立の経緯において、富(wealth)に結びつくnation と、権力から派生してきたstate とが合成されて、nation state(国民国家)となった。またnation は民族単位でのまとまりをもったため、外に対しては民族としての主体性を、内においては国民としての一体性(identity)を合わせ持ち、それらはnation という言葉の中に包括されることになった。そしてこのnation state は国際社会における主権国家(sovereign state)として、全て同等かつ対等な地位を確立し、不可侵の存在になる。さらにこれら独立国家群の横並び体制が国際的に形成されてくる。つまり、国家の下での富と権力の包摂化が資本の力によって生じたことである。これがいうところのウエストファリア体制である。このように、国民国家には複合的で多重的な意味合いがある。
第3に、グローバリゼーション、グローバリティ、グローバリズム、グローバルキャピタリズムなどの諸概念の関連と相違に関して考察し、整理することが大事である。これらに関しては、各人がそれぞれの思いで使用していて、確定され、合意された定義はまだないといえよう。
そこで筆者はそれらを次のように考えてみたい。まずグローバリゼーションをグローバル化の全過程ととらえ、グローバリティをそれぞれの到達度、その度合と考えて、後者を(T)インターナショナルの段階、(U)マルチナショナルの段階、(V)トランスナショナルの段階、そして(W)スーパーナショナルの段階、の4段階に分けて考察する(第1図)。段階区分を考える際の重要なメルクマールは資本と国家との関係である。なかんずく、ここではトランスナショナルの意味を明確にとらえることが大切になろう。多国籍企業や多国籍銀行などのトランスナショナルなアクター(行為主体)の登場ー実は資本の本能的な拡大要求の賜物なのだがーは、伝統的な国家の領土とは相対的に独自な経済支配領域を確立し、その司令塔=統合本部としての本社の役割を際だたせている。彼らは国家の規制をかいくぐり、場合によっては無視し、それとは相対的に独自な組織と命令系統と原理を確立し、かつ貫こうとしている。つまりトランスナショナルな活動領域の確立である。その結果、国家との間に絶え間ない緊張と対立、そして融和や妥協を繰り返すことになり、世界全体の政治的秩序を不安定にさせてきた。同時にそのことが、伝統的な国家安全保障問題としてのハイポリティックスに代わる、経済問題の政治化過程としてのローポリティックスを扱うIPEの必要性と有意性を高めてきた。
なおこのことの含意しているものは、資本が一つの「権力」として、至高の存在とされてきた国家に対峙している姿である。そこには国民の国家を乗り越えたいと熱望する資本の思いが横溢している。それは反面では国民国家の最大の構成部隊は資本であったが、経済発展と生活向上、そして民主主義の発展は主権者としての国民の意識と参加を強め、その結果、資本の横暴に制御をかける対抗力が次第に育ってきて、資本自体が少数のものの専有物を脱し、多数者の共有財産に転化する可能性が生まれてきたことをも意味する。このことに現在、資本を占有している少数者が我慢がならないのである。そのため、資本それ自体が一個の権力となって、国家の上位に立とうとしているものであり、はなはだ危険で反動的なものである。
そしてグローバリズムはこうしたグローバル化を進めていくための推進的動機、もしくは典型的な考え方ないしはイデオロギーとみることができる。したがって、グローバル化という客観的な過程を容認した上でも、その対処法にはグローバリズム以外にも、リージョナリズムやエスニシズムも考えられ、今度はそれらの適切度が問われることになる。というのは、上で見たように、資本が推進するグローバリズムと、人々が望むグローバル化とは必ずしも同じものではないからである。こうした、地域に根ざしたグローバリゼーションの推進は、グローバルなローカリゼーション、つまりはグローカリゼーション(glocalization)と呼ばれることが多い。
さらにそれらの総体としてのグローバルキャピタリズムといった場合には、これらの客観的な過程やその推進思想に加えて、グローバルスタンダード(標準)やグローバルガバナンス(管理)、さらにはグローバルデモクラシー(統治)などの問題を含めなければならず、より包括的な扱いが必要になる。というのは、行論からおわかりのように、現下の、むき出しの市場万能主義的、拝金主義的、投機的な致富要求の発露としてのグローバリゼーションの進展が、はたしてデモクラシーを育て、個性を尊重し、多様性や多元性を養い、政治的安定をもたらすのだろうか、はなはだ疑問だからである。 
2-2)グローバルキャピタリズムと覇権国アメリカの役割
次に現在の猛烈なグローバリゼーションの進展がアメリカにどのようなインパクトを与えているか、またその中でアメリカはどのような役割を担おうとしているのかなど、問題の核心に入ってみよう。
第1に、1989 年のマルタ会談に始源をもつポスト冷戦期はソ連・東欧などの、マルクス・レーニン主義に基づく社会主義体制の崩壊と西欧福祉国家の後退を生みだし、市場経済化を世界的に進展、波及させてきたが、この中で、いち早く「IT 革命」を推進し、未曾有の経済繁栄を謳歌する、唯一の覇権国とでもいうべきアメリカの新たな役割を俎上に乗せてきている。これまで西側世界の同盟の要として、国際協力を通じる世界秩序の維持と確立のために努力してきたアメリカが、90 年代には一転して、経済安全保障を盾に、自国本意ともみられる行動に狂奔する姿は、経済的な繁栄とは裏腹な、政治的な不安定性を逆に強めることになっているとギルピンは指摘している10)。彼はそれを、冷戦時代がアメリカを中心とする西側世界の強い結束によって保たれ、結果的には「長い平和」だったという理解と対比させながら、そのことを指摘している。そこには、体制的利益の具現者としての覇権国の体制維持機能とはなにか、そしてそこからの逸脱が何をもたらすかが、問わず語りに語られている。21 世紀のグローバルキャピタリズムを展望した場合、こうしたアメリカの政治的リーダーシップの衰退はオープンな世界経済への政治的な支えを弱め、無秩序につながる傾向を強めてきている。経済的リージョナリズム、金融的な不安定さ、そして保護貿易の台頭などはグローバル経済の安定と統合を脅かしているが、グローバル経済の将来は対外政策や国内経済政策の調和、それに大国間の政治関係にかかっている。そこでアメリカが政治的リーダーシップを取り戻さないと、その将来は危ういとギルピンは危惧している。
この評価をわれわれはどう受け止めるべきだろうか。冷戦時代が「長い平和」だったという認識は、「熱戦」にならなかったという意味での「平和」だと解釈したとしても、米ソ間の直接の戦争はなかったにせよ、その影響下にある多くの地域紛争や民族独立戦争を経験したし、決して現状維持が保たれてきたわけではない。一方、ポスト冷戦時代になって、アメリカが西側同盟の要としての役割を忘れ、自国中心的な行為に走っているという点も、アメリカがこれまで体制的な利益の擁護の名に隠れて、自国の利益を密かに画策してきた例は枚挙にいとまがない。それは今に始まったことではない。それらの点ではギルピンのリアリズムは相変わらずアメリカ本意である。しかし、それをおいたとしても、彼の目から見ても、現在の米国の方向は西側全体の合意を作り上げることが難しく、その手法も相当に荒っぽいということである。
この点は銘記されるべきだろう。
第2に、1980 年代にあれほどの経済苦境に悩まされてきたアメリカは、90 年代に入ると、一転して長期繁栄を謳歌するようになったが、それは市場の自由化、企業のダウンサイジングとリストラ、インターネットに代表される急速な技術進歩、多国籍企業や多国籍銀行、さらには国際的金融投資機関などが進めるグローバリゼーションの波、生産性上昇、オープンネス、財政赤字の縮小や解消、巧みな企業経営やサービス経済化などによって表される。クリントン政権による、そうした転換の一大戦略となったのが経済安全保障の提唱である。その内容はユニラテラルかつ自国中心的な経済利害の追求、リージョナリズム、管理貿易思想、デレギュレーションとプライバタイゼーションの推進などに代表されるが、これらの経済的成功が、世界の人々からは逆に政治的リーダーシップの放棄と政治的不安定性の増大とも映ることにもなった。アメリカによる経済安全保障の追求が「近隣窮乏化」につながるとしたら、21 世紀の世界の安定は危ういことになる。
そこで第3に、覇権国アメリカの力の根源である、強大な軍事力の維持と強化を、膨大な財政赤字と冷戦対抗の終焉という条件の下で、どのように達成するかという問題が浮上してきた。
これに関しては、従来のように、軍事技術開発から始め、それを民生用に転換させるスピンオフの道ではなく、民生用技術や軍民両用技術(デュアルユース・テクノロジー)を軍事転換するスピンオンの道が新たに追求されるようになった。それを一般的には軍民転換路線と呼び、ポスト冷戦時代の「平和の配当」を期待して、大々的な軍事産業の縮小が起こることを期待する雰囲気もあった。
この期待は冷戦に代わる新たな敵(=「ならず者国家」)の出現によって覆されることになったが、軍民転換を軍事生産と軍事調達における市場原理の追求と短絡的に考えることには無理がある。軍事には軍事的必要の優位という前提があり、それは、アメリカの世界戦略というグランドデザインによって規定されている。したがって、軍民転換の真意は、軍事に民生と同様の競争原理と効率性を持ち込むと同時に、民生の中に常に軍事転用可能なものを用意させ、いつでも利用可能な状態にさせておくことで、その含意しているものからいえば、ガンスラーのいうように11)、「軍民統合」という方が正確であろう。このようにして、アメリカは少ないコストで高い品質と、そして強力な軍事力を構築し、さらに地域的不安定性への迅速かつ柔軟な対処可能なものを作り上げようとしてきた。それは、通常兵器を使った無人戦争の構想という、最近におけるRMA(Revolution in Military Affairs)に端的に表されている。しかしながら、この構想の中心は情報技術の活用にあり、アメリカにおけるIT 革命がこのことを可能にした背景にあるとすれば、それがまたこの構想自体の脆弱性に繋がってもいることは、サイバーテロの恐怖をみればわかるだろう。
第4に、ポスト冷戦時代の特徴は社会主義体制の崩壊と西欧福祉国家の後退をもたらしたことにあるが、そのことは、いわゆるマルクス・レーニン主義者の影響力の後退をもたらしたばかりでなく、「フォーディズム」(この中には規模の経済性の追求ばかりでなく、範囲の経済性を追求するものや、さらにはトヨティズムに代表されるフレキシブルな生産システムまでもが含まれると解釈した方が妥当だろう)に基づく大量生産・大量消費のメカニズムを活用して、経済成長と生産性上昇を基礎に、大きくなったパイを資本と労働が一定のルールに基づいて分け合うという、いわゆるフォーディズム的蓄積機構と分配方式の定着を主張してきた、労使協調的なレギュラシオン学派の表舞台からの退場をも招来した。これもまた、冷戦体制の西欧におけるあり方が、その崩壊とともに消滅したものだと考えられる。
その結果、行き過ぎた経済的自由主義とでも呼ぶべき、市場原理と競争万能と規制緩和と民活を叫ぶ風潮が蔓延している。それが国家の性格まで変えることになったとして、ヒルシュは「国民的競争国家」の登場と名付けた12)。彼によれば、そこではマルキストもケインジアンも、そしてレギュラシオン的な調整機能も喪失したことになる。それはむき出しの致富要求そのものの資本に従属させられる国家の姿に他ならない。そうなると、それに対抗する中で、いかなるものが期待されるか。二大陣営が体現してきた資本主義でも社会主義でもないもの、ギデンズの構想する「第三の道」13)であろうか。
しかしそれに対する解答はすぐには出てこない。私には、その解答は歴史への問いかけの中から生まれるような気がする。20 世紀とは何だったのか、そしてそれはどこへ行こうしているのか、人類史は進歩と革新の方向に向いているのだろうか、その力の源泉は何か、等々である。
その意味では、1917 年のロシア革命から1991 年のソ連・東欧の崩壊までを「短い20 世紀」と規定して、1789 年のフランス革命から1917 年までの「長い19 世紀」と対比して描き、1991 年以降の21 世紀の見取り図を模索している歴史家ホブズボウムの業績14)に私自身、深く学びたいと念じている。 
2-3)グローバリズムへの批判とその特徴
こうした急速で無制約なグローバリゼーションの進展は、国家の後退を呼び、これまで国民国家内で築き上げた様々な福祉国家論的な既得権益を一挙に葬り去ろうしている。そしてこの客観的な過程の進行にたいして、それをグローバリズムという考え方から進めようという一大潮流にたいしては、当然に、それに賛同するものばかりでなく、批判的な考え方も多く生んでいる。ここでそれらをアンチ・グローバリズムの潮流と括れば、画一化や大市場、弱者無視などにたいする、多様性、個性尊重、身近な市場、弱者の保護などの主張に帰結する。また現下のグローバリゼーションの提唱をアメリカナイゼーションと考え、そうしたアメリカへの反発が世界的に醸成されてきていることに危惧の念を起こしている人々もいる。こうした考えの範囲や内容、そして主張の特徴などに関して一瞥してみよう。その特徴はどこにあるか、またそれらはどこに収斂されていくのか、そして全体としての合成力はどう働くかなどに関してである。この問題の将来の方向を探ることは、21 世紀世界の展望を行うことにもなろう。
ここでは特に、グレイ15)、コーテン16)、それにマンダーとゴールドスミスの編集の中に納められた多くの論説17)、また日本では『世界』に掲載された「21 世紀のマニフェスト」の提言18)などをあげておこう。これらの中では、極めて多様性に富んだ反グローバリズムの試みが展開、主張されている。それらは現在まだ萌芽的な試みに過ぎないにせよ、将来的には大いなる潜在力を秘めているものが少なからずあるように思われる。これががやがて具体的な形を取って現れるとき、アメリカが進めるグローバリズムへの一大対抗力に育つだろう。
同時に、現在アメリカの進めているグローバリゼーションこそが世界の文明化には必要だとする、ヴァラダンのような、手放しのアメリカ賛美論19)もその対極にはあるし、市場原理と経済成長と民主主義と政治的安定を等号で結ぶ、底抜けに明るいネオリベラルの「単極論」(マスタンデューノ)20)もあるし、それに基づく途上国への共通メニューをワシントン・コンセンサス21)として考えるものもある。それらの行き着くところは、進歩と経済発展と民主主義の旗手として、アメリカ自体が世界連邦化していくことを推進しようとするものである。だがそこには重大な留保条件がいる。それは、アメリカの利害は覇権国としての存在の方が大きいのか、それとも世界連邦化して、他の国々と一体になったときの方が大きいのかは、にわかには判断できないからである。 
3.グローバリゼーションの中のアメリカ経済
アメリカ経済の現在の特徴はこれまでのデレギュレーション、プライバタイゼーション、セキュリタイゼーション、そしてトランスナショナリゼーションの上に立って、リスクヘッジとデリバティブ、IT 化、リストラ(大型合併と分社化)、サービス化などの急速な進展にある。
第2の部分はこうしたアメリカ経済の実態を考察するが、ここでは主に統計資料の助けを借りて、以下の三つの面に絞って検討し、要約的に叙述してみたい。 
3-1)多国籍製造企業の新段階−国際直接投資論からのアプローチ−
第1に、生産面(モノ作り)からみれば、これまでアメリカ多国籍企業は製造業を中心にして、その技術優位とブランド名を活用して、企業内国際分業体制に基づく世界的な生産体制、企業内貿易を通じる部品や完成品の移動とトランスファープライスの利用、子会社方式を利用した企業内技術移転のメカニズムと途上国の地場企業との国際下請契約の活用、そしてタックスヘイブンを先頭とする企業内資金移動と資本蓄積のシステムを構築、作動させ、世界大での資本蓄積を可能にしてきた。これらを要約すれば、アメリカ多国籍企業を直接の組織者とする統合型資本主義の隆盛であり、これが1970 年代までの経済のグローバル化の特徴であった。
それはアメリカに似せて世界を構築、組織することを目指すもので、筆者はそれを「世界のアメリカ化」と呼んできた。
具体的には、第1表から第3表までにあるように、アメリカからの対外直接投資の増大(新規流出額と残高両面)と、進出先での現地生産の活発化、そしてその結果として、次第に現地での再投資額が本国からの新規の資本流出を上まわり、かつ現地での再投資比率(RIR)(子会社の利益再投資分/税引後利益)が高く、また直接投資利益率(ROR)(直接投資の果実/直接投資残高)も高いという特徴が検出できる。加えてそれが国内の総資本利益率(ROA)より大である傾向が強い(ROR>ROA)。そして、アメリカ多国籍企業の技術優位的性格はその技術特許料収入の多さにあることがわかる。
第2に、1980 年代に入ると、諸外国のアメリカへの直接投資(FDIUS)が上のアメリカの対外直接投資(USDIA)を上まわるようになる。それは、当初はフローから始まり、やがて残高でも日本がアメリカを上まわるようになる。つまり本格的な相互投資の時代が始まったのである。あるいは「アメリカの世界化」への力点の移動が起こり始めたともいえる。その主要な理由はアメリカ国内経済の「空洞化」と競争力の低下にあるが、それはアメリカ多国籍企業の行動形式や軍事優先的技術開発、さらには新鋭重化学工業の突出と在来重化学工業や軽工業の停滞という産業政策とも関連している。つまりアメリカは管制高地(commanding heights)こそ確保しているが、その裾野部分までには手が届かない状態であり、このことが他国に足下を掬われることになる。
この活発な対米直接投資を支えたのは、持株の増大と、それを補足する子会社への融資である。その典型は対米直接投資の中心に位置する日本のやり方にある。日本の場合、株式中心であるが、90 年代に入ると、利益の日本への環流が急速に進むようになる。これは現地での定着化を進めるアメリカとは著しい違いを示している。さらに在米外国子会社の場合には、税引後利益が安定せず、技術特許料収入も少なく、なおかつアメリカ国内企業よりも利益率が低い(第4表)という特徴を持っている(ROAus>ROAF)。これを上の趨勢と重ねると、米海外子会社利益率>米国内利益率>在米子会社利益率という序列が見えてくる。つまり、対米直接投資は割の合わないものだということになる。そのことを筆者は貿易摩擦回避型の、(政治的に)「強制された」対米投資という言葉でかつて表してみた。ただし近年、在米子会社の利益率と米国内の企業利益率との差は縮小してきていることも忘れてはならないだろう。つまりかつてのような著しい落差がなくなり、外国資本はアメリカでの市民権を手に入れてきているかに見える。
第3に、しかしながら、90 年代に入って、こうしたアメリカ多国籍企業の行動パターンは大きく変化するようになった。近年はコアコンピタンス(中核的優位部門)を中心にして、大胆な分社化によるリストラを実施し、アウトソーシングに基づく戦略提携(この中には独立企業間の非公開の製品や技術の共同開発も含む)、部品のモジュール化、互換性と標準化の追求、インターネットを利用した世界的な部品供給センターの設置とそのネットワークの形成(ロジスティックス)、バーチャルリアリティの設定、需要におけるセグメント市場とカスタム化への対応などの新たな動きが出ている。
これは、これまでの規模(スケール)の経済性や範囲(スコープ)の経済性の追求に加えて、新たにスタンダード(標準・規格)やネットワーク(連結)の経済性の追求になって現れ、それがまた今日の競争の特色と優位性をも形作っている。ここでは、シリーズ化された商品の世代間の競争や優位性の確保がブランド名とともに重視されており、知的財産権をめぐる問題が重要になってきている。こうした資本主義の最新の動向を、ダニングは「折衷モデル」が該当する垂直統合型資本主義から、新たな提携型資本主義(アライアンス・キャピタリズム)への移行と規定して22)、新たなパラダイムの定式化を目指している。このことが意味しているものは、生産における優位性とその支配から、情報技術の助けを借りたサービス経済化への重心の移動であり、そのことを梃子とした提携=資本結合による支配への転換であり、今日の未曾有の世界的な規模での合併ブームはそのことの反映でもある。
第4に、これにたいして日本企業の多国籍化には独特の性格がある。それは卸売業に分類されている企業を中核として、それに形式上は製造業に分類されているが、実態は限りなく商業・流通部門に近い「疑似製造業投資」ないしは「偽装された商業投資」と呼ぶほうがふさわしいものが多いことである。第2図にあるように、親会社の生産物(W′2)が子会社に輸出される場合、その用途に応じて、資本財、再加工用、再販売用に分類されるが、そこでは資本財<再加工用<再販売用という傾向が現れている。つまり、主要には母国で生産したものをアメリカ国内で販売するすることを主眼にしていて、アメリカ国内での生産用に使われる資本財はもっとも少ないことである。しかも日米貿易摩擦への対応として、アメリカでの現地生産が要請される中では、部品の形をとった再加工用として輸出されたものがその中間に位置していて、しかもこれがいつまでもなくならずに、残っている。筆者はこれを最終組立だけを残しているという意味で「疑似製造業投資」、あるいは製造業に分類されているが、実体は限りなく商業投資に近いという意味で「偽装された商業投資」と呼んできた。あるいは、直接投資とはいうものの、実は土地や建物の買収による不動産投資に過ぎず、生産活動や商業活動もしないという意味では「不胎化された生産子会社」と呼んだ方が適切だと思われる。
しかしながら、上にみた最近の変化の様相は、これまでの良質な労働力と優秀な下請に依拠してきた日本企業の優位性の基礎を掘り崩しつつあり、その再編を世界的規模で促しているかにみえる。つまり、同心円的なファミリー的結合の拡大を目指してきた日本と、世界的なネットワーク型形成に向かうアメリカとの、企業体質の違いと、それに基づく競争・対抗の過程と顛末が見えてくる。ここでは明らかに日本企業の劣勢が現れている。しかしながら、アメリカがもの作りの基礎を捨ててしまったまま、長期にわたってその優位性を維持し続けることができるかどうか大変疑問である。同時に、それは中小下請企業の新たな可能性をも生み出しており、ニッチ分野の開拓やニーズの発掘を促し、系列を超えた新たな国際的な提携と生産の組織者としての機能を表に出してきていて、新たな独立の機会にもなっている。
第5に、多国籍企業の企業内貿易をアメリカ企業の本社と海外子会社との間、ならびに在米外国子会社とその本社との間の双方向において考察しみよう。第5表から第7表までに見て取れるように、アメリカの貿易収支の赤字は1992 年に845 億ドルだが、そのなかで在米外国子会社が外国本社との間の企業内貿易で生み出した赤字はそれよりも多い890 億ドルにものぼっている。一方、アメリカの親会社が海外の子会社との間で作っている企業内貿易の黒字は121 億ドル足らずである。そうすると、アメリカの貿易収支の赤字を生み出す元凶は在米外国子会社にあり、彼らへの本国親会社からの輸入がその最大の要因だということになる。
このことは、在米外国子会社の場合には、本国との紐帯がきわめて高く、とりわけそれは日本企業の場合に顕著だということである。第3図から、指標Tを脱国民経済度指標、指標Uを伝統的国民経済度指標と理解し、各国別の比較を行うと、その両者から臍帯度が測れる。また指標Vは日本への諸外国の集中度を示すものだが、これと指標Wから、日本が最大のターゲットにされていることがわかる。これらのことは第8表から第10 表までに詳細に数字で示されている。
もう一つ無視することができない近年の傾向は、アメリカの海外子会社からのアメリカ親会社への逆輸入の増大である。とりわけそれはアジアとNAFTAに立地する子会社からの逆輸入において生じている。このことはアメリカ国内における生産の疲弊であり、もの作りの放棄である。従来なら現地生産を高め、その国の経済成長に貢献してきた(=世界のアメリカ化)アメリカ多国籍製造企業が、今やアメリカの世界化の片棒を担いでいる。つまり、アメリカ内での生産基盤の喪失が世界的な戦略提携を呼び、そのことが世界的規模での資本結合運動への傾斜となって現れてきているのである。そうすると、生産の基礎を失って、情報化の助けを借りていつまでその優位性を確保できるかが問われてくる。 
3-2)サービス経済化の波とその優位性の確立
しかしながら、現在のアメリカ経済を特徴づけるものは、これらの製造業における優位性もしくはその減退ではなく、むしろサービス部門における優位性の台頭と確立にあると考えられる。第4図から第6図まで、そして第11 表から第13 表までに示されているように、ここでのサービス部門とは、従来のような観光、旅行、運輸のような伝統的なものではなく、コンピュータデータサービスや金融、保険、医療などでの情報化の活用、つまりは幅広く情報産業に属するようなものと、多国籍企業の技術特許料収入の増大である。しかもそれは対日収支において大幅な黒字を出しているところに特徴がある。ここでは1997 年にアメリカがこれまで分散していたものを新たに情報産業として集約するようになった産業分類の改訂も大きく影響があるし、国際的にはWTOの一翼としてのGATSの成立も反映していると考えられる。というのは、これらの改訂措置によって、従来目立たたずにきた情報産業が浮揚したことになったからである。そして、モノのレベルでは相変わらずアメリカは大幅な貿易赤字を計上しているが、これらのサービス部門では逆に大幅な黒字を生み出しており、これが現在の米国の最大の国際的な優位性を生み出している。そしてこのことは、とりわけ日本との関係において顕著である。
この調子でいけば、モノレベルの赤字をサービスレベルでの黒字が上まわる事態が早晩来ることも予想される。
そこで、第7図と第14 表を参照しながら、ここでは近年のサービス化の波がアメリカの国際収支にどう現れているか、そしてアメリカ多国籍企業の海外での技術特許料収入(ロイヤルティーズ・アンド・ライセンスフィーズ)の動向と、アメリカに進出している外国多国籍企業のアメリカでの動向とを国際直接投資論の視角から比較・検討して、その基本的特徴付けを行ってみると、以下のことがいえる。
第1に、アメリカ多国籍企業の場合は、海外子会社(MOFA)が企業内での技術移転と技術特許料収入の拠点になっていて、そこを中心とする、他の海外子会社との間の広範なネットワークが形成されていることがわかる。そしてアメリカ本社との取引は少ない。その意味では現地子会社中心的な行動パターンである。これに比較すると、外国多国籍企業の在米子会社(MOUSA)の場合は、取引額ではMOFAと遜色ないが、企業内取引の比率は後者の11.6 %にたいして、わずかに2.9 %に過ぎず、かつまた第三国の子会社との取引がほとんどない状態である。このことはネットワーク形成が十分でないこと、つまりグローバル化していないことを物語っている。
第2に、取引額で見る限り、MOFAの現地国への浸透度はMOUSAのアメリカ経済への浸透度に比して未だ一日の長があるといえよう。これはアメリカ多国籍企業の先行性を示している。
とはいえ、上でみた製造活動に比較すれば、外国多国籍企業にとってアメリカ市場は魅力的に見えるようで、積極的に活動している様子は数字によく表れている。
第3 に、MOFAの対外居住者取引がアメリカのサービス輸出を上まわっており、同様に、MOUSAの対アメリカ人居住者取引もアメリカのサービス輸入を上まわっている。このことはサービス貿易の中心は今日ではこれら在外国子会社にあることを意味している。この過程は90年代に形成されてきたものである。 
3-3)金融化の諸特徴−国際資本=産業論的アプローチ−
最後にアメリカ経済を覆う金融化の波に関して、その基本的な動向について言及すべきところにきた。ここでは、当然のことながら、空前の株式ブームの底辺にあるアメリカ経済の実体の解明やIT 関連産業の急成長との関係についても言及しなければならないだろう。その上で、製造業とサービス業と金融業との関係に関して、国際資本=産業論的な視角から考察することが求められる。というのは、製造業の優位性がサービス業のそれに必ずしも反映される訳ではなく、さらにそうしたものが、金融の動向を決めているわけでもないからである。また現在の世界的な大型合併の動きは資本系列化を進めることになるが、それは製造業での戦略提携などの技術的な提携や企業内国際分業の延長線上に出てくるものでもない。むしろ、純粋に資本としての集中動機とそこから来る運動であり、こうした資本の集中運動が現在のインターネットの時代においてどう展開されているか、さらには長期資本の運動と現在のセキュリタイゼーションの中での株式ブームや国際的な短期資本の運動との関係などへの言及が問われてくる。したがって、現在の合併ブームは新しい独占(new monopoly)形成の物語だともいえよう。
残念ながら、指数の関係から、これらに関して、ここで本格的に言及する余裕がない。したがって、それを次の課題にせざるを得ないが、そのためのヒントとして、二点ほど指摘しておきたい。第1はアメリカ資本主義の最大の特徴は証券市場での株式による資金調達にある。とりわけ、ベンチャア企業育成のための資本市場がNASDAQとして用意され、最近ではエンジェルと呼ばれる投資家たちの存在が話題になっている。こうした成長産業育成戦略をもっていることが、アメリカ資本主義の奥深さと強靱さを表しているが、同時にそれは脆弱性の現れでもある。これらの成長産業部門を巨大独占体は内部にもつことができず、もっぱら、成長してきた企業を買収と吸収の網の目に絡め取ることだけを虎視眈々と狙っている。そうすると、巨大独占体に固有の寄生性がアメリカ経済全体の活力低下や停滞を生む下地は常に存在することになる。また彼らの寡頭支配がその密室性や陰謀性を高めることになるが、そこでは巨大独占体相互間の連絡網、共同の執行委員会としてのインナーサークルの存在とその機能に関する分析がわれわれには必要になる。加えてこれらは資本主義に特有の私有財産制とその秘密の保持に守られて明るみに出にくく、かつ法則的理解や具体的数字による検証がやりにくい。その中で、首尾よく真理を探り当て、これ以外にないとする確かな根拠をものにする客観性と説得力をいかにして作り上げるか。そして何よりも、彼らのグランドデザイン(大戦略)とストラテジー(戦略)がどのようなもので、誰によって、どのようにして形成されてくるかが大事な課題になる。このことの解明には一筋縄ではいかない困難が待ち受けているが、そこでは岩城博司氏の先駆的な業績23)が大いに参考になるだろう。
第2は証券投資から直接投資への移行がこの数十年間、特に第二次大戦後における国際的な投資の流れの主要な方向であった。ところが、90 年代に入ってから、再び証券投資が活発化してきた。その背後には、ヘッジファンドの動きがあるが、これら証券投資の活発化と国際的な短期資本の跳梁・跋扈をどのような脈絡の中で位置づけて、解明するかという問題である。この問題を解明するためには、デレギュレーション、プライバタイゼーション、セキュリタイゼーション、そしてトランスナショナリゼーションという80 年代以降のアメリカ経済の体質改善の動きとその手法をしっかりと見極める必要があろう。それらの上に今日のヘッジファンドの世界的な跳梁があると考えられる。さらにそれを経済のソフト化・サービス化・情報化の動きと連動させることが求められるだろう。 
おわりに
以上の考察に基づいて、不十分ではあれ、最後に、今日のグローバリゼーションの状況とその中でのアメリカの位置と役割に関して、全体的な評価を行って、ここでの締めくくりとしたい。合わせて21 世紀世界の展望ができれば幸せである。
第1に、今日のグローバリゼーションの進展が物語っているものは、唯一の覇権国アメリカの国民経済の解体を迫っているように思われる。アメリカ自らがその国民経済を解体し、世界連邦化への道に乗り出さない限り、その目指す経済活動の自由化、開放化、脱国境化、そして脱国籍化は果たせないし、政治的には世界の安全保障を守ることもできないだろう。この課題を正面に据えることなしに、アメリカの国家安全保障とアメリカ資本の所有と活動の自由(経済安全保障)、そしてアメリカの技術とアメリカンスタンダード(技術安全保障)の保障にだけ、この過程を利用しているのであれば、それは極めて自国本意で虫の好い要求だということになろう。国家安全保障と経済安全保障と技術安全保障とはアメリカのもっとも根本的で死活的に重要なキーコンセプトであり、それらに合わせて、NSC(国家安全保障局)とNEC(経済安全保障会議)とNSTC(国家科学技術会議)とが設置され、戦略課題の検討と政策形成と日常的・行政的・政治的などの処理が図られている。これらは総合安全保障戦略としてまとめられている。それからすれば、進歩と民主主義と自由の旗手を事毎に鼓吹するアメリカの理想を実現し、その役割を果たす道は世界連邦化しかないのではなかろうか。それ以外に他国の国家主権に踏み込み、その開放化と制限、そして解体を迫ることはできない。そうでないと、アメリカの空想的な理想の強要が他国にとってはえてしてありがた迷惑であるばかりでなく、かえって国内の安全保障を乱し、反米感情に火を付けるような結果になるという、チャルマーズ・ジョンソンの警告24)に耳を傾ける必要があろう。
第2に、アメリカ経済を覆う脱生産化の波である。そしてアメリカン・スタンダードの強要と金融化、とりわけ証券化への傾斜がますます強まっている。その前段として、80 年代以来進行してきたデレギュレーション(規制緩和)、プライバタイゼーション(民営化)、セキュリタイゼーション(証券化)の上に立って、トランスナショナリゼーションに則ったグローバリゼーションの進行は、至る所にオープンネス(開放化)とボーダーレス化を進めている。これは、IT 革命によって拍車が駈けられたが、収穫逓増の法則が作用する新しい成長部門だという触れ込みにもかかわらず、その将来は必ずしも明るくない。おおかたの分野でIT 投資が一巡した後に、どのような未来を展望できるのであろうか。また生産基盤を失って、どのようにして経済力の優位性を確保できるのか。さらにはこうした裏付けのない株式ブームにどこまで信憑性があるだろうか。また技術安全保障を金看板にしていながら、生産技術の喪失を黙って見過ごしていてよいのだろうか。これらのことを考えると、情報化とサービス化の進展の代償としての脱生産化のつけは大きいといわざるを得ない。当然にアメリカ経済の未来も繁栄だけを見通すことはできない。
第3に、資本のトランスナショナル化は国民国家の主権を素通りする、世界大での資本の権力の確立と組織化を促した。その結果、むき出しの致富要求に駆られた資本の暴走が市場原理主義となって噴出している。ここでは生産(製造業)や流通(商業)などを経由しないで、直接にG−G´を目論む資本のもっとも原始的で無慈悲な姿が表面に現れてきている。それをカムフラージュする手段が市場原理や自由競争、あるいは門戸開放といった決まり文句である。
だが多国籍企業と多国籍銀行が巨大な資本集団として世界大に君臨する中で、本当に市場原理が貫徹していけるかどうかは疑問である。世界貿易に占める企業内貿易の比率一つみただけで、非市場化の歪みは一目瞭然である。そしてこれら多国籍企業の企業内国際取引が伝統的な国民経済レベルでの過度の貿易赤字を生みだし、貿易摩擦の火付け役になっている。しかし、これらについては日米間の交渉において断罪されてこなかったという事実がある。
いわんや、現在問題になっているのは、そうした世界大で生産、流通、サービス、融資活動を展開している多国籍企業や多国籍銀行のことではない。もっぱら短期的な利ざやを求めて頻繁に移動するヘッジファンドと呼ばれる金融術策家たちである。変動相場制という不安定な基盤の下で花開いた、常に移動し続ける浮動的で寄生的なマネーの動きからしっかりした未来は見えてこない。全てが短期的な抜け目のなさとやりくりに追われている。その結果、一瞬たりとも安住の地を見つけられない、不安定で脆弱な基盤が透けて見えてくる。経済全体がこうした魑魅魍魎に支配されれば、世界経済は安定性を欠き、じっくり腰を据えた経済開発と技術開発は見込めなくなる。
最後に、これらの傾向にたいして、対立・対抗軸はいかにして形成されるか。ここでは、野心的で技術能力のある中小企業によるニッチ部門の開発とインターネットを活用したその世界的な生産連結の可能性、ブランド支配に代わる、確かなニーズに基づく消費者の製品の発掘と鑑定眼の養成、そして自らの有用な需要(ニーズ)の確定と管理の強化、そしてそれらを基礎にして展開される様々な反グローバリズムの運動、そこでの民主主義の発展と強化などをあげておこう。一言でいえば、グローカリズムの提唱である。多様性や柔軟性、さらには個別化や個性の尊重は大量生産、大量消費、大量廃棄からの訣別を求めており、そのことは、資本の権力欲に身を隠している、一部の資本の占有者にして、かつその処分権と経営権の代理人たちの、寡頭的で反民主主義的な体質を明るみにだし、それと対決し、やがては駆逐することになるかもしれない。その時までは反グローバリズムの運動は終わらないだろう。 

1)『2000 年 米国経済白書』平井規之監訳、『エコノミスト』臨時増刊、2000 年5月29 日号、毎日新聞社。
2)これらに関連してここ数年に筆者が公表した論攷は以下のとおりである。関下稔、坂井昭夫編『アメリカ経済の変貌ーニューエコノミー論を検証するー』同文舘、2000 年5月。関下稔「グローバリズムの嵐と国民国家の体系」『立命館国際地域研究』15 号、2000 年3月。関下稔「在米外国子会社の貿易活動(1)」『関西大学商学論集』第42 巻第2 号、1997 年6月、(2)『立命館国際研究』第10 巻第1号、1997 年5月。関下稔「在米外国子会社の生産・蓄積活動(1)」『立命館国際研究』第12 巻第2号、1999 年12月。関下稔「アメリカ経済の構造変化と新戦略−情報化の進展とサービス貿易の黒字拡大の意味するもの−」『経済理論学会 年報』第37 集、2000 年9月。関下稔「対米直接投資と在米外国子会社の活動の歴史的変遷と現段階(上)」『立命館国際研究』第13 巻第1号、2000 年7月、(下)同13 巻第2号、2000 年12 月。関下稔「日本企業のグローバル化の諸段階−疑似製造業投資と逆輸入の意味するもの−」『世界経済評論』2000 年8月。関下稔、石黒馨、関寛治編『現代の国際政治経済学』法律文化社、1998 年。関下稔「アメリカ国際直接投資論序説−対外直接投資と対内直接投資の戦後55 年間の軌跡−」『経済』2000 年6月号。関下稔「アメリカ企業内貿易の特質と趨勢−国際直接投資論(2)−」『経済』2001 年1月号。
3)関下稔「グローバリゼーションの進展とアメリカ経済の新段階」日本国際経済学会編『国際経済』52 号、2001 年(予定)。
4)U.S. Department of Commerce、International Direct Investment:Global Trends and the U.S. Role August 1984、 do、1988 Edition、November 1988、do、International Direct Investment:Studies by the Bureau of Economic Analysis、March1999.
5)スーザン・ストレンジ『国家の退場』桜井公人訳、岩波書店、1998 年。
6)スーザン・ストレンジ『国際政治経済学入門』西川潤、佐藤元彦訳、東洋経済新報社、1994 年。
7)ジョセフ・ナイ『不滅の大国アメリカ』久保伸太郎訳、読売新聞社、1990 年。
8)R.コックス『社会勢力、国家、世界秩序』坂本義和編『世界政治の構造変化2国家』第6章、岩波書店、1995 年。
9)スティーブン・ギル『地球政治の再構築』遠藤誠治訳、朝日選書、1996 年。
10)Gilpin、Robert(2000)、The Challenge of Global Capitalism:The World Economy in the 21st Century、Princeton University Press.
11)Gansler、Jacques S.(1995)、Defense Conversion:Transforming the Arsenal of Democracy.MIT Press.
12)ヨアヒム・ヒルシュ『国民的競争国家−グローバル時代の国家とオルタナティブ−』木原滋哉、中村健吾訳、ミネルヴァ書房、1998 年。
13)アンソニー・ギデンズ『第三の道』佐和隆光訳、日本経済新聞社、1999 年。
14)エリック・ホブズボウム『20 世紀の歴史−極端な時代ー』(上・下)河合秀和訳、三省堂、1996年、同『21 世紀の肖像』河合秀和訳、三省堂、2000 年。
15)ジョン・グレイ『グローバリズムという幻想』石塚雅彦訳、日本経済新聞社、1999 年。
16)デビッド・コーテン『グローバル経済という怪物』西川潤監訳、シュプリンガーフェアラーク東京、1997 年。
17)ジェリー・マンダー、エドワード・ゴールドスミス編『グローバル経済が世界を破壊する』小南祐一郎、塚本しづ香訳、朝日新聞社、2000 年。
18)「21 世紀のマニュフェスト」『世界』2000 年6月号(「グローバリズムに対抗する戦略」(上))、同7月号(同)(下))、同8月号(「脱「パラサイト・ナショナリズム」」)。
19)アルフレード・ヴァラダン『自由の帝国−アメリカンシステムの世紀−』伊藤剛、村島雄一郎、都留康子訳、NTT出版、2000 年。
20)Ethan B. Kapstein and Michael Mastanduno(eds.)(1999)、 Unipolar Politics、 Columbia University Press.
21)たとえばワシントン・コンセンサスに関する紹介はポール・クルッグマン「「ワシントン・コンセンサス」と新興市場バブル」『中央公論』1994 年9月号。
22)Dunning、John H.(1997)、Alliance Capitalism and Global Business、Routledge.
23)岩城博司『現代世界体制と資本蓄積』東洋経済新報社、1989 年。
24)チャルマーズ・ジョンソン『アメリカ帝国への報復』鈴木主税訳、集英社、2000 年。 
 
「サイエンス・ウォーズ」 金森修

 

「サイエンス・ウォーズ」とは、科学者と「科学論者」――「科学論」という耳慣れない言葉については後述――の間で、主にアメリカで一九九〇年代半ばに戦わされた激しい論争(その余波はその後にまで及び、また日本の一部にも波及してきているようだ)を指すらしい。私はごく最近までこの「戦争」について何も知らなかったし、「科学論」という分野についても比較的浅い関心と知識しかもっていない。にもかかわらず、そしてまた、「世間をいま現在賑わしている流行の話題には、どちらかというと距離をおき、あまり迂闊に乗らないようにする」という日頃の性向にもかかわらず、一部で「話題の書」となっているらしい本書を刊行後まもない時期に読んだのは、いくつかの理由がある。
第一。ここでいう「科学」とは基本的に自然科学のことであり、自然科学と人文・社会系の学問の間には種々の相違があるが、それでもなおかつ、広い意味での学問としてのある種の共通点もないわけではない。私はどちらかというと、自然科学と社会科学を安易に並列して、前者における方法やそれを取り巻く議論を後者にも性急に当てはめようとする傾向に対して批判的だが、それは両者を万里の長城によって隔てられたものと捉えるからではない。両者の共通性と異質性とをきちんと視野に収めながら議論するのは極めて難しいことだが、それでも、ともかく「科学」の最前線を歩んでいる自然科学を取り巻く動向について学び、それについて考えることは、社会科学者にとっても無意味なことではない。そして、この「サイエンス・ウォーズ」はそうした観点からみた場合に、いくつかの重要な問題を提起しているのではないかと感じられた。
第二。いわゆる「科学論」には種々の潮流があり、決してその全体を一色に塗りつぶすことはできないが、ともかくその中の比較的有力な潮流として、「ポストモダニズム」「社会構成主義」「反実在論」といったもの――これらの概念の内容およびそれらの異同についても後述――があるらしい。そして、これらは社会科学や歴史学においてもここ数十年ほど、かなり流行しているものである。従って、自然科学を取り巻く言説におけるポストモダニズム論争は、社会科学や歴史研究に携わる者にとっても無縁な問題ではない。
そして第三に、直接の対象を離れて、論争というもののあり方についても考えさせられるところがある。本書の「まえがき」に一八世紀フランスの宗教をめぐる激しい論争のことが言及されているが、論争というものが、穏やかで理性的なものとして展開されるのではなく、激しい罵り合いという様相を呈すること――しかも、それを行なっているのは、高度の知性を誇る知識人たちである――は、昔も今も、そして自然科学の世界でも社会科学の世界でも、珍しいことではない。この点も私の関心を引く。
以下では、これらの点を順次取りあげてみたい。但し、第二点は「ポストモダニズム」論と「社会構成主義」論とに分けて考えるので、全体としては四つの項目ということになる。 

私自身の感想を述べる前に、この「戦争」の概要について、私が本書から知り得た範囲内で、簡単にまとめておく。というのも、このテーマについての私の知識はごく断片的なものに過ぎず(1)、私の理解はずいぶん偏っているかもしれないので、そうした偏りを明らかにするためにも、とりあえず私としてはこのように了解したということを明示しておいた方がよいと考えるからである(なお、主要な知識源は本書にあるが、自己流の解釈をまじえており、著者の議論の忠実な紹介ではない)。
科学――以下では、ただ「科学」といえば自然科学を指すものとする――を対象とする研究として、科学史、科学哲学、科学社会学といったものが従来からあったが、近年、それらが合流して一つの学問分野をなそうとする動きがあり、それが「科学論(science studies)」と呼ばれているようである。これは科学を対象とする研究だが、それ自体は歴史学・哲学・社会学などの視点からなされるものだから、いわば「外から」科学を眺めるという性格をもっている。もっとも、対象としての科学について何らかの理解をもっていなくてはこうした研究は遂行できないから、その意味では、「科学の内から」の視点も大なり小なりもっていることになる(よくは知らないが、先ず自然科学の訓練を受けてから人文社会系に転身する研究者が多いようである)。このように、「内から」と「外から」の両方の要素をもっていることが、「内側」そのものである科学者たちにとっては、ある種「ヌエ的な奴らだ」という印象を与えることは想像に難くない。誰でも、自分の専門領域について「外から」論評されることに対しては、「分かりもしない奴が勝手なことを言って」という感想をいだくものである。それが純然たる素人の放言であることが明白な場合には、ただ無視しておけばよいが、なまじ「内側から」の理解ももっているようにみえる場合には、そう簡単に無視できないだけに余計始末が悪い。こうした事情から、科学者が「科学論」に対して大なり小なり身構えるのは、自然なことといえるだろう(こういうものの言い方はやや揶揄的な響きがするかもしれないが、それは私の本意ではない。私自身にしたところで、自分の専門であるロシア・ソ連史に関して、中途半端な知識をもった人が、なまじある程度知っているだけに自己を過信して勝手な論評をする場面に出会うと、どうしても苛立ちを感じてしまう。これが良いことか悪いことかは別として――おそらく、その文脈により、またその感情をどのように発揮させるかによって、良くも悪くもなるだろう――これは自然な感情だと思う。自然科学者にしても同様である)。
こうして、「科学論」が隆盛するにつれて、科学者の側からの反撃が次第に高まってきた。その際、「科学論」の中の一つの有力な潮流として「ポストモダニズム」「社会構成主義」があり、またその一部にやや安易な科学批判や科学用語の濫用があることから、その点が集中的な批判の対象となった。そうした中で、「ソーシャル・テキスト」という雑誌――ポストモダニズムの系譜に属するカルチュラル・スタディーズの牙城の一つ――が「サイエンス・ウォーズ」という特集を組んだとき、物理学者であるソーカルという人物がある論文を投稿した。あたかも科学者が「科学論」に味方するかにみえるこの論文を受け取った編集部は喜んでこれを掲載したが、実は、この論文は明らかな物理学上の間違いを意図的にまじえたものであり、編集部にその間違いを見抜く力量があるかどうかを試そうという狙いで投稿されたものだった。ソーカルがそのことを暴露したことにより、同誌編集部は面目を失墜したが、同時に、狭い専門家以外には見抜けないような間違いを意図的にまじえた論文を異なる分野の雑誌に投稿するということが知識人の倫理として正当化されるのかという、もう一つの論点が発生した。ソーカルは続いて、「知の欺瞞」という本(ブリクモンとの共著)を書き(2)、ポストモダニズムの潮流に属する知識人たちが自然科学について基本的な理解を欠いていながら科学用語を乱発したり、全く間違った理解に立った「応用」をしていることを厳しく摘発した。こうしてソーカルの一連の著作によって、多くのポストモダニストたちは大きな打撃を受けた――もっとも、「科学論」の全てがここでの批判対象に該当するわけではない――が、他方では、このような「叩き方」は論争の仕方として「汚い」のではないかという問題も派生して、議論は拡散し、ある面では泥仕合化した、というのがおよその事の顛末のようである。
比喩的に表現するなら、次のようにいえるかもしれない(この比喩は、私が勝手に思いついたものである)。ボクシングの選手が相撲取りから批判されて怒り、ボクシング・リングの上で対決することになった。相撲取りも格闘技のプロであるとはいえ、ボクシングには全く不慣れだから、リング上でさんざんに叩きのめされた。しかし、観客としては――相撲取りに反感をもっていた人たちは快哉を叫んだろうが――ボクシングのプロがアマを一方的に叩きのめすのをみて、何か後味の悪い感じを懐かされた。もっとも、ボクサーには次のような言訳があった。「私は何も好きこのんで、相撲取りをボクシング・リングに引きずり上げたわけではない。先に口を出したのは向こうなのだ。相撲取りが生意気にも、自分はボクシングについて一家言あるなどということを言わなければ、私はリング上で対決しようなどとは言い出さなかったろう。ついでにいえば、今回はリング上で私が勝ったが、相撲の土俵でなら相撲取りが強いのかもしれない。そのことについてまでどうこう言うほど、私は高慢ちきではない」。
このようなボクサーの言い分は、かなりの程度正当なようにみえる。だが、それで全てが片づくわけではない。世の中にはスポーツ評論家という職業もある。たとえば、引退した元野球選手が野球評論家になった場合、その人は、歳のせいで体があまり動かなくなっているから、野球の実技に関しては現役選手に劣るだろうが、それでも評論家として発言するのを誰も怪しまない。ということは、実技が十分伴わない人が評論するという行為が正当なものとして認められているということである。だとしたら、相撲取りがボクシングの実技の力量がないままにボクシングについて論評することも、そのこと自体が許されないとはいえないのではないか。もちろん、その批評の内容および形態がどの程度妥当かということは争われてよい。ただ、ともかく、実技の力が伴わないからということだけで排除するなら、プロ選手以外の人は何も言えないということになりかねない。
比喩はこのくらいにして、実質論について考えてみよう。なお、以上にみた「戦争」の構図はさしあたり科学者vs「科学論者」という形をとっている(実際には、科学者にしても「科学論者」にしても決して一枚岩ではないから、このような対置は過度の単純化だが、その点は今はさておく)が、私はもう少し視野を広げて、《科学者‐科学論者‐一般社会の三者関係》という形で考えてみたい。このように「一般社会」という項を入れてみるなら、科学の専門家でない人が科学のあり方について関心を寄せ、時にはその暴走に懸念をいだき、ある種の批判を試みたりするということ自体は当然であり、「素人が口を出すな」などといって封じるべきでないことは自明である。それは、何よりも現代科学の社会的影響の大きさによる。費用もそれこそ天文学的な規模にのぼる――ということはつまり、そのかなりの部分が国民の税金によってまかなわれる――し、核開発・遺伝子研究・生殖技術・臓器移植などといった例をみれば明らかなように、人類の存続や人間存在の根幹にまで関わりかねないような影響力をもっている以上、それに対して、科学者以外の人々――一般市民、経済人、政治家、官僚、ジャーナリスト等々――が関心を寄せ、ときには科学の暴走に歯止めをかけようとするのは当然のことである。おそらく科学者たちも、以上の範囲内であれば、「外からの」発言を――内心「うるさいな」と感じることはあるにしても、少なくとも表向きは――敢えて否定しようとはしないだろう。それどころか、自分たちの存在意義を社会にアピールし、自分たちだって人類に危険をもたらすような暴走をしないよう努めているのだということの理解を訴えて、積極的に一般社会への広報活動をしたりしているようだ。より微妙なのは、純然たる「素人」からなる一般社会ではなく、科学の「外」と「内」にまたがるような位置にある「科学論者」との関係である。
ここで、「科学論者」と科学者の関係を彼らの議論に内在して考えるという、本書の主要テーマに触れることになる。これはこれで非常に重要な問題であり、私自身も哲学上の認識論などとからめて考えてみたい誘惑に駆られないではない。だが、この問題について本格的に論じるのは、自然科学についても「科学論」についてもさしたる知識をもたない人間にとっては、あまりにも大きな冒険である。そこで、将来いつかこの問題を考えることがあるかもしれないが、とにかく今のところは敢えてこの難問への深入りは避け、とりあえず、「内」と「外」の境界線上の存在はとかく「ヌエ」「コウモリ」という風に見られがちだといった程度の常識論を確認するにとどめて、先に進んでみたい。
さて、そのような「ヌエ」的な存在は、どちらの側からも胡散臭く見られる、その意味で辛い役回りだが、それでもそのような役割を果たす人たちがいるということは確かに必要なことだと思われる。というのも、純然たる「素人」たちはいくら科学の暴走を憂えたり、批判的な監視の姿勢をとろうとしても、内在的な理解をもてない以上、その議論は空回りしがちであり、誰かがそれを補わなくてはならないからである。もちろん、科学者自身が、自分たちのやっていることについて広く一般社会に啓蒙的に説明するということも行なわれているが、それだけでは十分でない。というのは、科学の暴走可能性とかそれへの監視とかいうことが問題になっている以上、その「監視」の対象であり、いわば利害当事者である科学者たち自身の提供する情報だけに全てを頼るわけにはいかないからである。このようにいうのは、何も、科学者=性悪説とか科学否定論とかに立つということではない。科学および科学者というものを全体としては大いに尊重するとしても、ともかく何らかの危険性が可能性としてあり得ると考える限りは、当事者以外の人の眼が必要だということは自明である。そして、純然たる「素人」=一般社会にはその点に踏み込む能力がないとしたら、その中間に立つ人としての「科学論者」たちに重要な役割があるということになる。
こういうわけで、「科学論」には大きな役割が期待されるのだが、ではその期待に「科学論」が本当にうまく応えてくれるのかということになると、話はそう簡単ではない。そもそも歴史学・哲学・社会学などの分野で主に活躍している「科学論者」たちが――たとえ元来は理系の教育を受けたことがあるにせよ――現代の自然科学の発展にどこまでついていき、どの程度正確な認識をもっているのかということが疑問にさらされうるからである。現代における専門細分化の進行の結果、たとえば同じ物理学者(あるいは化学者、生物学者等々)の間でさえ、ちょっと専門分野が違うと、細かい点まではそれほどよくは分からないといったようなことがあるだろう。特定の専門分野の研究に専ら従事している人はそれでもよいが、「現代社会における科学のあり方」といったテーマに取り組む人は、科学の様々な分野に口を出さざるを得ないから、たとえある範囲内ではかなり高度の知識をもっていても、そこをはみ出したところでは精度が落ちるといったことにならざるを得ないだろう。また、研究の最先端においては、専門家の間でさえも「何が正しいのか」の考えが分かれていることが珍しくないから、そうした事柄について非専門家が何かをいった場合に、それが「全くの見当違い」なのか、「岡目八目で、意外に的を射ている」のかは一概に確定できないというようなこともあるかもしれない。
結局のところ、この問題について、議論の余地ない最終的結論――異なる位置にある人たちの間での完全な見解の一致――を求めることはもともと無理であり、論争とか対立は不可避であるように思われる。その上で、論争ができるだけ理性的に行なわれ、それを通して徐々に合意が形成されていくことが望ましい、というようなことが一応言えばいえるだろう。だが、これは――「理性」を働かせることを職業とする研究者たちの間でさえも――言うは易く行なうに難いことである。科学者も「科学論者」も人間である以上、それは無理からぬことなのかもしれない。こうして、この問題は、論争のあり方(この小文の第四項のテーマ)につながっていく。
この項の最後に、ここでの議論の対象となっている自然科学の場合と対比して、社会科学ではどうなのかという点に、簡単に触れておきたい。ここで社会科学論――その自然科学との異同――を全面的に展開するわけにはいかないが、ともかく、両者の間に一定の共通性と異質性とがあることは当然である。体系的に論じる準備はないが、すぐ思い浮かぶ相違点として、社会科学は今のところ自然科学ほどの巨額の予算を食うわけでもないし、その社会的影響も、核兵器開発や遺伝子研究などに比べると、ごく限られたものだという事情がある。それだけに、自然科学のように広い社会的関心を集めて「科学論」の俎上にのぼせられることもないわけである。それでも、一部の社会科学は、かなりの予算を必要とするようになって、そのために政府や財界にどのように売り込むかということを意識せざるを得ないとか、政策提言と密着したタイプの研究においてはその社会的効果ということが問題にならざるを得ないという点で、自然科学の状況を完全に他人事としてみることはできないだろう。
もう一つ、人文社会系の学問の多くは、十分「科学」化していないという事情がある。そのため、多くの社会科学者は、一方において「科学」化したいという欲求をもちながら、他方において、「科学」化のもつ陥穽への警戒心ももつというアンビヴァレンスに引き裂かれる(3)。これは、問題状況を自然科学の場合よりも複雑にする。既に十分「科学」化しているなら、そこにはらまれる問題や危険性は自然科学におけるのと同種のものということになるが、それと同時に、まだそこまで達していないので、危険性を意識しつつもそれに近づこうとせずにはおれないというディレンマに悩まされるのである。
以上とは別に、やや個別的な点だが、本書第U部の「科学の人類学」という論文で紹介されているような視点は、社会科学にもある程度まで適用可能かもしれないという気がする。研究者がどのようにして実地の研究を進めているのかを「人類学」的な手法で観察し、記述し、分析するという作業は、これまで系統的になされることは滅多になかったが、「研究の楽屋話」とか研究者の回想などの形で断片的な情報が記録されることはよくあり、これはこれでしばしば興味深いものである。それらを体系化していくと、何か面白いことが出てくるかもしれない。これは今後の課題であり、ここではこれ以上立ち入らないことにする。 

次に、「科学論」の全てではないまでもかなりの部分に影響しているらしい――そしてソーカルらによって批判の槍玉に挙げられている――ポストモダニズムというものについて、その社会科学や歴史学におけるあらわれということを主に念頭におきながら考えてみたい。私は知的ファッションの盛衰にあまり敏感なたちではないので、片目で斜めににらむ程度のことしかしていないが、「ポストモダン」という言葉がここ数十年ほどの間に至る所でしきりに使われるようになった――気の早い人たちは、「もう既に流行遅れだ」と考えているようだ――ことは一応承知している。折りに触れてその種の言説に接するたびに私が感じるのは、面白い問題提起だと思う反面、やや奇矯な表現や行き過ぎた結論に疑問を覚えもするというアンビヴァレンスである。「サイエンス・ウォーズ」においては、その一つの側面が大きくクローズアップされて批判されたようで、その批判はやや一面的であるにもせよ、ともかく一旦はそれを受けとめてみる必要があるように思う。
一口にポストモダニズムといっても、非常に雑多な要素や潮流からなるようであり、そのおよその輪郭を捉えること自体が難しい。そのうちの、ある程度まで内容がはっきりしている議論については次項で取りあげることにして、ここでは先ず、より漠然とした「雰囲気」に関わるようなことを考えてみたい。
全てではないにしても一部のポストモダニスト――これはこの潮流のすぐれた代表者たちよりもむしろエピゴーネンたちに著しいのかもしれないが――の言説には、往々にして、「鬼面人を驚かせる」といった感じの奇矯で意味不明な表現を用いて人を煙に巻くといったところがあるようにみえる。そのことと直接重なるわけではないが、彼らの文章の分かりにくさの一因として、しばしば現代科学の最先端に関わる用語をちりばめ、「よく分からないが、高級で、知的らしい」といった雰囲気を醸し出しているということがある。一般読者は現代科学用語の正確な意味など分からないから、そうした言葉にぶつかると、ただ恐れ入るしかない。
もしそうした科学用語の使用が不正確な理解に立脚していたとするなら(これがソーカルらの指摘だが)、それは何を意味するだろうか。先ず、ポストモダニストたち――少なくともその一部――は、自分が使う言葉を自分でよく理解していなかったということになる。よく知らないことについて「知ったかぶり」をするという態度は、実生活においてはよく見受けられるものだが、知的職業に携わる人としては恥ずべきことである。これは当たり前でいながら忘れられがちなことだが、それを改めて思い出させたという点だけでも、この論争にはそれなりの意義があったのかもしれない(なお、ここで直接問題になっているのは科学用語の使い方ということだが、科学用語をよく分からないままに乱用するような人は、それ以外の様々な言葉についても同様の使い方をするかもしれず、そのことが彼らの文章の分かりづらさの一因ではないかという疑惑もかけられる)。
問題はそこにとどまらない。最先端の現代的科学用語というものは、大多数の読者にとっては、「何だか分からないが、知的に高級で、すごいものらしい」という印象を引き起こしがちだから、そうした用語の乱発はいわば「箔つけ」効果をもつ。それがどうしても必要だというならまだしも、自分がよく分かってもいないのに「箔つけ」のためにそうした言葉を使うというのは、自分が権威主義的メンタリティーの持ち主だということを自己暴露している。ところが、ポストモダニストの大半は、権威ということを批判の対象とし、「反権威」を気取っているのだから、つまりは、「口先で反権威を語る権威主義者」ということになる。ラカン、クリステヴァ、ボードリャール、ドゥルーズ=ガタリ、デリダ等々、錚々たるポストモダニストたちがそろいもそろって、いい加減な科学理解に立脚して科学用語を濫用していたというソーカルらの指摘がもし当たっているなら――狭義の科学の文脈に関わる限り、どうも当たっているらしくみえるが――日本でも大きな影響力をふるっているフランス系のポストモダニズムというものは、かなりの打撃を受けるし、それをありがたがっていた人たちは深刻な反省を迫られるだろう。
私自身、何度か、ある種のポストモダニストの文章を読んで、「何をいっているのだか、さっぱり分からない。こんなにも文章の意味が分からないというのは、よほど私の頭が悪いのか、この文章の筆者の方が悪いのか、どちらかだろう」という感想を懐かされたことがある。だから、そういう印象をもったのが私だけではないと知ると、多少ほっとする面がある。
そうではあるのだが、こう片づけただけでは済まない問題もまたあるのではないか、と私は感じる。「サイエンス・ウォーズ」は、先の比喩で相撲取りがボクサーに叩きのめされたように、ポストモダニスト――そのうちの不用意な部分――が叩きのめされる形でひとまず幕を下ろしたようだが、それでもって全てが終わってしまうと考えるなら、話はあまりにもあっけなく、面白くない。
私自身は、できることならば、文章は平易かつ明快に書いた方がよいと考えている。難解・高級を装うもったいぶった文章というものは、往々にして愚劣である。このように考えるという意味で、私の体質は、どちらかといえば「合理主義者」に近い。しかし、あらゆることが合理的に割り切れるとは限らず、すっきりと明快に表現できるとは限らないというのも、また現実である。特に、自然科学よりも複雑微妙な対象を扱う人文社会系の学問においては、どうしても晦渋な表現になることが避けられない場合がある。これまで他の人によって指摘されてこなかったような新しい問題を提出しようとするときには、ごたごたした印象を与える晦渋な文章でしかとりあえず表現できないという場合もある。偉大な学者で悪文の書き手という人たちも大勢おり、彼らの学説は、何十年もかかって後継者たちによって咀嚼される中で、徐々により明晰な表現を与えられるものである(4)。これを単純に無意味として切り捨てると、大事な問題を見落とすことになりかねない。
言い換えれば、分かりにくい文章というものは、「難解だからこそ高級だ」などとありがたがるべきではないが、やむを得ずそうなっているケースもありうることを念頭におくなら、そうあっさりと切り捨ててよいとも限らないということである。ところが現実には、往々にして、「合理主義者」はポストモダニストの晦渋な文章を――ひょっとしたらそこに何らかの大事なものが隠されているかもしれないのに――単純なナンセンスとして切り捨て、後者の側は、前者にも通じるような明快な形で表現すべく努力することを怠るという傾向があるのではないか(5)。この辺も、論争の進め方という問題につながっていく(この小文の第四項)。
もう一つここで考えてみたいのは、政治的「左翼」性との入り組んだ関係である。何が「左翼」かということは、現代社会ではそれほど自明ではない。そもそも、数十年前から「正統左翼」(マルクス主義)に挑戦する「新左翼」――これ自体、様々な潮流に分かれるが――が登場して、「左翼」が多様化していたし、その上にソ連・東欧の社会主義圏の崩壊という事態が重なって、「何が左翼か」はますます分かりにくくなってきた。また、かつて知識人の多くは、「左翼であることが正しく、右翼であるのは恥ずべきことだ」という発想をもっていたが、いまではそれも疑問にさらされている。何らかの組織に属しているとか、ある種の代表的なイデオローグ(たとえばグラムシとか、トロツキーとか、アルチュセールとか、その他その他)に依拠しているとか、特定の政治問題に一定の関与をしているということでもって、直ちに「左翼だ」とか、「正しい」ということが簡単にいえるものではない。「サイエンス・ウォーズ」の立て役者の一人であるソーカルは、ある時期サンディニスタ革命政権下のニカラグァで数学教師をしていたとのことだが、そういった事実を挙げるだけで、だから「左翼だ」、だから正しい、といった結論を示唆するのは、あまりにも単純な発想である(念のためいえば、金森はそのように単純な書き方をしてはおらず、その記述は微妙なニュアンスに富む)。では、どう考えるべきか。
ポストモダニストの多くは、既成の権威に対する挑戦的姿勢を特徴としており、一応それは「左翼的」な態度だといえる。そればかりか、その挑戦の対象は、正統的「左翼」が疑わなかったような対象――近代合理主義、理性中心主義、人間中心主義、科学、組織、歴史の進歩、社会主義その他その他――にまで及んでいるから、正統左翼以上にラディカルだともいえる。敢えて単純な言い方をすると、広い意味で「新左翼」的ということになるだろう。
しかし――これは「新左翼」全般についていえることだが――あまりにもラディカルな態度というものは、何もかもを否定することになり、それでは現実に生きていくことができないから、どこかで妥協するということになる。そして、どうせ妥協するなら「毒食わば皿まで」ということで、実際には、ずるずるべったりに体制順応的になることが少なくない。そればかりではない。ポストモダニズムを説く人の多くは、学者・評論家・ジャーナリストなど、広義の知識人であり、彼らは、そうした言説を生産し、流通させることで、大学教授などの職を得たり、収入を得たり、名声を獲得したりしている。知識は権力だというフーコー流の言い方は、ポストモダニスト自身にも返ってくる。あらゆる権威を批判する人たちが、そのような言説のおかげで権力や富を得ているのである(6)。
他方、ポストモダニズム批判の側に立つ人々はどうか。これは大きく二つに分かれるだろう。一つには、近代社会の正統・主流的な立場――政治や経済の世界であろうと、学界であろうと――にいて、ポストモダニズムがそれに挑戦することに反撥する人たちがいる。これは体制派・保守派そのものということになる。もう一つには、ポストモダニストの「新左翼」的傾向に反撥する「正統左翼」的な立場がある。彼らは、現存の政治経済体制に対しては批判的だが、その批判の武器として啓蒙理性・科学・マルクス等々を尊重し、「新左翼」がこれらまで疑おうとするのを許せないとする。ということは、彼らにとってこれらは疑うことの許されない聖域・権威とされているということであり、そのことによって、彼らが実は権威主義的な体質をもっていることが暴露される。
もちろん、ポストモダニストにせよ、それに反撥する人たちにせよ、その中には多様な人々が含まれるから、ここに書いたのは話を分かりやすくするための単純化だが、ともかくおよその傾向としてはこのように考えることができるのではないか。とすると、ポストモダニストはラディカルな左翼性と、そのラディカルさが現実には貫き得ないものであるが故の無原則的妥協性や、口先の反権威主義と裏腹の隠された権力志向といったものの両義性をかかえているということになるし、他方、反ポストモダニストは、体制派・保守派と、主張は左翼的だが体質は権威主義的な正統左翼とからなる、ということになりそうである。
このような錯綜した配置の中で自分自身の位置を模索するのは容易なことではない。私自身はもともと「新左翼」的な立場から出発したから、その「ラディカルな」発想は比較的理解しやすいが、同時に、その限界性についても敏感にならざるを得ない。だからといって、いまさら体制派・保守派やら旧態依然たる正統左翼やらに転向する気にもなれない。全ては疑いうる、だが現実に全てを疑い尽くすことはできない――このようなディレンマにつきまとわれながら、とぼとぼと歩み続けるしかないのかもしれない。 

前項では緩やかなポストモダニズム一般、とりわけそこにつきまとう「雰囲気」のようなものについて考えたが、次に、これよりは相対的に輪郭のはっきりした概念群として、「(社会)構成主義(あるいは構築主義)」、「反実在論」、「反本質主義(あるいは非本質主義)」、「(認識的)相対主義」などについて考えてみたい。もっとも、これらの概念の厳密な内容、それらの間の異同、ポストモダニズムとの関連――おそらく、これらの概念はポストモダニズムの専売特許ということではなく、近代合理主義にも包摂される側面があるだろう――また自然科学における「構成主義」と社会科学における「構成主義」の異同(7)等々といった前提問題があるのだが、それらについて本格的に検討するのは、あまりにも大きな作業になってしまい、ここで展開することはできない。ここではただ、それらの間にある程度までの重なりがあり、共通の展望の中で論じられる部分があるという一般的な確認に立って、その範囲内で――そして私自身の専攻と関係して、自然科学よりも社会科学の方に力点をおいて――考えてみることにしたい(8)。
人が何かを認識しようとするとき、「○○は××である」といった判断がなされるが、この判断は、「○○」とか「××」という概念の使用に依拠しており、その概念はほとんど全ての場合、言語――数式などの人工言語を含む――によって表現される。ところで、言語というものは社会的存在であり――純粋に一個人にしか通じない言語は言語たりえない――また概念というものはその言語を使って人間が組み立てたものである。ということは、認識という作業は必ず、「社会的存在としての人間が言語を介してつくりだしたもの」という性格を帯びており、「生のままの現実」「客観的実在」「本質」等が意識に直接与えられるというようなことではないということになる。人間たちが一定の社会的文脈の中で構成ないし構築した概念とそれらの織りなす枠組みが、認識を枠づけている。ここから、認識という作用およびそこで駆使される概念は社会的に構成されたものであり(構成主義)、客観的な実在や本質の直接的反映ではない(反実在論および反本質主義)、そしてその構成のあり方はそれぞれの社会的文脈によるから普遍的・絶対的なものではない(認識的相対主義)というような考えが導かれる。
このような考えは、どの程度、人々に受容されるだろうか。日頃、「認識とは何か」という哲学的な問題についてあまり考えたことのない人――これは非知識人ということではなく、学者であっても認識論に関心の薄い人を含む――にとっては、受容しにくいかもしれない。自分が犬を認識し、赤い色を認識し、日本人に特有な行動様式(たとえば終身雇用とか年功序列とか)を認識し、女性的な感性(たとえば他者への配慮の深さ)を認識するのは、まさにその対象を把握しようとしているのであって、対象があるからこそ、それに対応した認識が生まれるのだ、もちろん、万全な認識ではなく歪んだ認識になることもよくあるが、その歪みを自覚的に矯正していけば正しい対象認識に接近できるはずだ――こういう風に考える方が自然かもしれない。これは、素朴ではあるが、それだけにある種の健全な力強さをそなえた発想であり、簡単には退けられない。
しかし、「認識とは何か」ということを一旦反省し出すと、そうした素朴な発想をそのまま維持することはできなくなるということも、かなり多くの人が認めるところだろう。様々な犬の間の差異を捨象して、それらを「犬」と一括する一方で、「犬」と「オオカミ」の間に線を引き、「犬」という概念を立てるのは、生物学的な事実が直接に強いることというよりは、われわれが対象をどのようにみるかにかかっているのではないか。「赤」と「橙」の境は人により時によって異なるだろうし、世界中の言語の中には「橙」に当たる言葉をもたない言語もあるから、その場合には、日本語で「橙」と呼ぶ色も「赤」のうちに含まれるなどの事情を考えれば、「赤」という色を取り出すのは、その言語を共有する集団の約束事によるのではないか。ましていわんや「日本人」となると、国籍で切るのか、血統で切るのか、身体的特徴(顔つきや髪の色)で切るのか、言語で切るのかといった様々な切り方があり――「日本人」の場合、それらの切り方がかなりの程度重なりがちだという事情が、それらの違いへの感覚を鈍いものにしているのだが――どの切り方でどのように枠づけるかは、明らかに社会的構成の問題である。ある地域の人々が話す言葉を「方言」とみなすか「独立した言語」とみなすかも純言語学的な差異によるというよりは政治的な事情(その地域が独立国をなしているかどうか)に左右されるから、「一つの言語(を話す集団)」という単位も自明なものではなく、やはり社会的構成の産物である。「女性」概念についていえば、これがジェンダーを念頭においているならその社会性は明白だし、生物学的に規定されるとみなされているセックスでさえも、ときとして一義的でない場合がある。更に、「ある集団に特有な行動様式」とか「特有な感性」ともなると、それらが絶対的な本質であるよりはむしろ社会的に構成された概念だということはより一層明白である、その他その他。
このように考えると、「構成主義」的な発想は、かなりの説得力をもっている。実際、様々な分野で、形を変えて類似のことが指摘されている(9)。以下に列挙するのは非常に異なった分野の例であり、厳密にはそれらの間に種々の差異があるから、こうした羅列は暴論だという批評が向けられるのは承知の上だが、ともかくわれわれが日常的に使う様々な概念が絶対的なものではないとする限りでは、それらの間にごく緩い意味での共通性があると想定することは一応許されるだろう。
もともと言語というものは、ある言葉=シニフィアン(能記)がある対象=シニフィエ(所記)を指示するという関係を基礎につくられているが、それらの対応関係は決して一義的ではなく、むしろ恣意的である(ソシュール)。そして、言語体系に代表される象徴体系は、そのもとにある人々の世界の受容の仕方を規定しているが、これはそれぞれの集団ごとに異なり、それらの間での優劣をいうことはできない(文化人類学者のいう「文化相対主義」)。西欧世界は「東方」をある型にはめて理解しようとしてきたが、それは対象自体の認識というよりはつくられたイメージである(サイードのいうオリエンタリズム)。様々な集団とりわけ「国民」が自己の結束を固めるために「古来からの伝統」を誇ろうとするが、その伝統というものは、実際には、往々にして近代に創造(あるいは発明)されたものである(ホブズボーム)。そもそも民族というものは「想像の共同体」である(アンダソン)。ジェンダーも社会的に構成された概念であり、人は女として生まれるのではなく女になる(ボーヴォワール、その後のフェミニストたち)等々。とりとめなく列挙したが、近年の人文社会系の研究においては、こうした発想はほぼ常識化しているといってよい。それはそれとして確認すべき点だが、実は、そういうだけでは済まない問題もまたあるのではないかという疑問が提示されており、そこに問題の複雑さがある(10)。
たとえば、文化人類学は「文化相対主義」を基本的な立脚点としてきたが、それは認識の面でも価値の面でも深刻な疑問にさらされる。認識面というのは、「他者」の文化が自らのそれと異質だという前提に立つなら、文化人類学者はどうして「他者の文化」を認識することができるのか、認識できるという主張は「異質」だという主張と矛盾するのではないかという問いであり、価値面というのは、あらゆる文化は等価だとする立場に立つならおよそ価値判断ができなくなり、実践的な決断が不可能になってしまうではないかという問いである。これに対しては、文化人類学者の間でも様々な議論があるようであり、門外漢である私に大したことがいえるわけではないが、この問題に答えようとしたクリフォード・ギアツの論文が「反・反相対主義」と題されているのは意味深長である。それは、相対主義を積極的に擁護するというよりは、一部にみられる安易な反相対主義に反論することで暫定的に相対主義の立場を維持しようとするものであるようにみえる(11)。「相対主義」という言葉には何通りかの意味があり、そのうちのあるものは、ドグマ的な教説を批判するという点で積極的な役割を果たしうるが、ある場合には、「何でもあり」という安易な態度や、全ては等価なのだから決断は不可能――あるいは純粋の恣意による――ということになって、実践的にはナンセンスなものになってしまう(12)。相対主義は、それをどのように唱えるかによって、「進歩的」「ラディカル」にもなれば、「保守的」「現状容認」にもなるかのようである。
フェミニズムやマイノリティーなどの運動がしばしば「反本質主義」「構成主義」を唱えるのも、これと同様の両義性につきまとわれる。「反本質主義」の立場は、批判の武器――従来の社会で支配的だったステレオタイプ的イメージを解体する――としては確かに鋭利だが、積極的な結論を導きにくい。積極的な主張を敢えてするなら、たとえば「女性」とか特定民族とかに固有のアイデンティティーを奪還すべき目標として想定することになりやすいが、それは自ら幻想的なアイデンティティーの固定化に加担し、「反本質主義」に背く結果になってしまう。一部には、そうした固定的アイデンティティーを全否定して、むしろ流動性・多層性・柔軟性などを強調する立場(クレオール、ディアスポラ、越境、両性具有、異種混淆などへの注目)もあるが、これも実際には、クレオール性とかディアスポラ性とかをある種のフェティシュ(物神・呪物)化しているのではないか、あるいはもしそうでなければ、およそどこにも拠り所のない極めて心細い立場に身をおくことになるのではないかといった疑問が出てくる(13)。
歴史学の分野でも、伝統的史学が重視してきた実証主義的手法への批判という形で、テキストをどう読むかという問題が盛んに論じられている。それは、ある種の古い通念を批判し、解体するという限りでは積極的な役割を果たすだろうが、もしテキストに「外部」はないという命題を文字通りの意味で受け取るなら、「史実」というものはそもそも存在せず、「史実」を追求しようとする歴史学というものは成り立ち得ないということになりかねない(14)。歴史における「構成主義」は、伝統的に支配的だった通念を揺るがそうというラディカル派やフェミニストなどから提起されることが多いが、これも実は両刃の剣である。たとえば、ホロコーストについての社会構成主義というものを考えてみたらどうなるかという問いを出した人がいるということが、金森の著書で紹介されている。あらゆる概念やそれに関する言説・テキストは社会的に構成されたものであり、その「外」に「事実」などないという発想を徹底すれば、ホロコーストもまたある人たちの頭の中の観念であって、「史実」ではないということになり、「ホロコーストは幻だった」という議論に接近しかねない。南京大虐殺についても同様のことがいえるだろう。このようにいうと、「それは構成主義を正しく理解しないものだ。それは歪曲され、パロディー化された構成主義だ」という反論が返ってくるかもしれないが、では、「本物の構成主義」と「パロディー化された構成主義」との間の線はどのようにして引かれるのかという再反問が提出されるだろう。
このようにみてくると、「構成主義」「反本質主義」「相対主義」などの発想は、確かに大きな意味をもつものであり、様々な分野で広く説かれたのにはそれなりの理由があったが、それだけで完結するものではなく、むしろ近年の傾向としては、それ自体への疑問を登場させ、反省を迫られているように思われる。
やや金森の著書から離れて論じてきたが、ここで本書に戻ると、その第U部第一論文は「普遍性のバックラッシュ」と題されており、第三論文は「社会構成主義の興隆と停滞」と題されている。「バックラッシュ(巻き返し)」という表現は、いかにも「戦争」「喧嘩」にふさわしい感じで、私としてはあまり好きになれないが、それはともかくとして、ある時期に知的世界を席巻した「反本質主義」「構成主義」に対抗して「普遍性」の復権を説く考えが再登場し、「構成主義」が行きづまりをみせるという成り行きは人文社会系の学問でも様々な形で進行しており、それは本書で紹介されている「科学論」を取り巻く状況とある程度共通性をもつように思われる。
では、構成主義は全面的に間違っていたのだろうか。昔ながらの素朴な実在論や本質主義に戻った方がよいのだろうか。このように問うなら、そこまで言い切る人はあまりいないようだ。むしろ、多くの人によってとられるのは、「構成主義/反実在論/反本質主義/相対主義には強いヴァージョンと弱いヴァージョンとがあり、強いヴァージョンを唱えるのはナンセンスだが、弱いヴァージョンは正しい(15)」という風な議論である。これは確かに穏当な考え方であり、結論的には私自身もそういう考えに惹かれる。ただ、それはどのような性質の議論なのかということをやや突っ込んで考えておく必要があるように思う。「強いのはいけないが、弱いのならいい」というのは単なる折衷論ではないのか、それに「強い」と「弱い」の境はどのようにして引かれるのか――このような疑問が直ちに思い浮かぶ。
「強いヴァージョンの反実在論」を論駁するために、ソーカルは、もし物理法則は単なる社会的因習に過ぎないと信じているのなら、高層ビルの二一階の窓から飛び降りてみたらどうかと問いかけているという。これは「実在論」の見事な証明のようにみえるが、実は、数学的意味での証明ではない。確かに、二一階の窓から飛び降りるなら、九九・九九九九九……パーセントの確率で死ぬだろうし、死んだらもう取り返しがつかないのだから、誰もそんなことはしない。だが、これは「ある程度以上に危険なことはしない方がよい」という世間的常識によるのであって、「百パーセントの絶対的確実さ」が純論理的に論証できたということではないのではないか。
別の例だが、独我論――これは極端な形の反実在論の一種といえるだろう――はどのようにしたら論破されるかという問題を考えてみよう。確かに、いくつかの論破法はある。「自分という観念は他者との関係でしかあり得ないのだから、他者抜きの自己という観念自体が自己矛盾だ」、「「他者など実は存在しないのではないか」という文章自体が、社会性を帯びた言語によって表現されており、この文章は他者によっても理解されうるものとして提示されている」、「君が独我論を説くのは、誰かを説得しようとしてのことだろう。ということは、他者の存在を君自身が前提しているのではないか」等々。しかし、これらは確かに説得的な議論ではあるが、どうしても疑えないとまではいえないような気がする。より確実なのは、もし独我論を貫くなら日常生活を送ることは不可能となり、精神異常に陥るということである。「普通に」日常生活を送っている人は、誰もが他者との交わり――たとえ間接的なものにもせよ――の中で生きており、それ抜きの自我というものは考えようもないからである。ということはつまり、独我論を論破する最強の武器は、純粋の論理であるよりもむしろ、精神異常を避けて「まともな」日常生活を送るという経験そのものだということではないだろうか。
あるいはまた、政治的「左翼性」との関わりで先に述べたことだが、極度にラディカルな立場(強いヴァージョンの批判主義)は何も積極的な指針を提示することができず、結局はずるずるべったりな現状肯定に帰結しやすいという指摘について考えてみても、やはり同様のことがいえる。シニシズムや完全な放恣に陥るのではないかとの指摘に対し、「それでどうしていけないのか」と問い返すなら、純論理的な回答はなく、「それはまともな人間の生き方ではない」とでも答えるしかないだろう。私自身、「それは恥ずべきことだ」、「そういう風でありたくはない」と感じるが、それはあくまでも「そう感じる」ということであって、それが絶対に正しいということが純論理的に証明されるということではない。
結局のところ、「強いヴァージョン」が否定されるのは、純粋の論理の力によってではなく、「精神異常に陥ることなく、まともな社会生活を送れるかどうか」という「健全な常識」が最大の拠り所ということになるのではないだろうか。常識論とか折衷論というものは、理論志向の強い人にとっては軽蔑の対象とされる。だが、実は、折衷論・常識論によらずしては、「強いヴァージョン」を完全に否定することはできないのではないか。それはそれでよいのかもしれない。自ら進んで精神異常になりたいと思う人はおそらくいないだろうから――この点もまた疑おうと思えば疑えないわけではないが、これ自体、「健全な常識」によって前提とするしかない――折衷論としての「健全な常識」を受け入れることで「強いヴァージョン」が否定されるなら、それでよいのかもしれない。だが、「健全な常識」はそれほど堅固な線引きを提供してくれるものではない。とすると、境界線は流動的なものであるほかないのではないか(16)。こうして、議論は堂々巡りの様相を呈する。 

最後に、特定のテーマに関わりなく一般に論争というもののあり方について考えてみたい。これまでも触れてきたことだが、多くの論争はどちらか一方が全面的に正しいとか間違っているというよりもむしろ、双方にそれなりの理があるにもかかわらず、往々にして議論が極端化した形で提起されることで、すれ違いが生じ、「泥仕合」と化しやすい。そうしたことを考えるなら、当該論点をめぐる見解の実質上の差異だけを問題にするのではなく、論争がどのような形で行なわれるのかという問題を独立に立てる必要があるように思う。理性的で建設的な論争となってもよいはずのものが、それ以外の要素に引きずられ、不毛な結果になってしまうというのは非常に残念なことだが、現実にはそのような形で論争が展開されることが珍しくない。このことは、私自身にとっても大きな関心事である。
私はこれまでの研究生活で、おそらく日本人としては異例なほど多くの論争をする機会があった。それは私の神経がタフだからではなく、いわゆる「日本的人間関係」なるものに疎く、この国の風土で論争をすることがどんなに精神的に消耗させるものであるかをよく知らなかったための無謀さの産物というようなところがあった。そして、そうした経験を積み重ねる中で痛感させられたのは、どうして論争が論争として成り立たないのだろうかという苛立ち、もどかしさ、そしてそのような「論争ならぬ論争」に巻き込まれてしまったことへの悲しさと辛さだった。一つ一つの例についてあれこれいうつもりはないが、特に、ソ連・東欧の社会主義崩壊の余波を受ける中で社会主義総括をめぐる論争に巻き込まれたときに、理性的な分析を職業とする人たちの間でさえ感情論と偏見が優越し、冷静な議論がなかなか成り立たないという事実に直面し、ほとんど絶望的な思いを懐かされた。私が社会主義圏の崩壊という事実をできるだけ冷静に分析の俎上にのぼせよう――もちろん、価値判断や感情的な要素を無にすべきだということではなく、そうしたものがあるということを前提した上で、それに過度にとらわれることによって無意識のうちの偏見に引きずられることをできるだけ抑制しようと努めるということである――と試みたのに対し、ある種の人たちからは、「社会主義・マルクス主義への時代遅れの未練論」、また別の人たちからは、「社会主義を捨て、批判精神を失い、資本主義賛美論に走っている」という、ともに見当違いな非難が浴びせかけられ、つくずくうんざりさせられた(17)。
本書の対象である「サイエンス・ウォーズ」においても、学者たちの間の論争が、生臭い利害(大学のポスト争いとか、研究補助金の争奪戦とか)や政治的な思惑ともからみ、また「敵をやっつけるためには、できるだけ強く叩くのが上策だ」といった発想からの誇張を大量に含んで展開されたようだ。これは、強い調子の自己主張を良しとするアメリカ的な風土によって凝縮されたという面もあるだろうが、日本でも、度合は異なるにせよ同様の傾向がないとはいえないだろう。
一般論的にいえば、理性的な論争を進めようとする際に留意すべき点を挙げるのは、それほど難しいことではない。思いつくままに列挙するなら、何よりもまず、自らの側を反省することに力点をおき、相手方から学ぶという態度を保持することが望ましいだろう。そのためには、相手の主張を戯画化して安易な勝利を博すという態度をとらないことが肝要である。論争が個人間ではなく流派間でなされている場合には、「身内」ばかりをほめ、「敵」をやっつけるというのではなく、むしろ「自派」の側の欠点と「敵方」の長所に対してこそ敏感であるべきである。いま述べたことと関連するが、論者間の共通点を確認し、相違点を誇張しない方が、論争の感情的エスカレートを防ぐのに役立つ。多くの論争は、同じ事実を見て、「コップの中に水が半分しかない」と言うか、それとも「水が半分もある」と言うかの対立といったような面がある。たとえば科学技術に関わる様々な事故や犯罪に関して、「主犯は科学者ではない」と言うか、それとも「科学者は主犯ではないまでも、従犯だ」と言うかという対立があるようだが(前注1の藤永論文と村上論文)、これもいま述べたのと同じ構造をもっている。この場合、確かに、そのように異なった表現をとるということのうちに各論者の立場の相違が示されており、その相違をごまかす必要はない。ただ、だからといって、相違点を誇張するなら、論争は不毛なものになるおそれが大きい。
また、何らかのことを主張する際に、「反対するなら論証してみろ」といって相手に挙証責任を負わせるのではなく、自らが挙証責任を引き受けようとすることが望ましい。何事についても論証というものは極度に難しいものであり、挙証責任を相手に押しつけるのは安易な勝利を博そうという態度に通じる(18)。「○○でないということは論証されていない」といったタイプの議論は非常によく見受けられるもので、そのようにいうことで何となく「だから○○だ」ということがほのめかされたりするのだが、これは安易な議論である。
まだいくらでも挙げられるだろうが、こういった風な留意点を列挙するのは――誰もが一致して賛成するとは限らないにしても――相対的には容易なことである。だが、実際問題としては、そうした留意点を守る人は――高度の知性を誇るはずの学者たちの間でさえも――悲しいことにごく稀である。論争当事者というものは、どちらの側も党派的になりやすく、それに伴って感情的になり、冷静な態度を忘れるというのは、学者も人の子だということを思えば自然だということなのだろうか。もちろん、多くの人は、寛容・公平さ・冷静さ等々の重要性を口では認める。ところが、いざ現実に論争が展開されると、大多数の人は、「自分の側は寛容の精神を発揮し、冷静かつ防衛的に議論しようとしているのだが、相手の側が寛容や公正さを無視した攻撃を仕掛けている」という言い方をして、まさに「寛容」を旗印にしつつ、激しい泥仕合を展開したりする。
やや金森の著書から離れすぎたかもしれない。本書で取りあげられている「戦争」のうちで最もセンセーショナルな話題となったソーカルの「トリック論文」(故意に間違いを混入させたもの)についていうなら、彼の主張の当否と関わりなしに、論争の作法として、明らかなルール違反だというべきだろう。これは何も、彼に叩かれた側を弁護しようとしていうのではない。叩かれた側にどんな弱みがあるにしても(このことについては、この小文の前の方で触れた)、このような叩き方をすることは、およそ理性的な論争を成り立たせる上での基本的なルールを破壊するものだということである。この点に関する金森の議論は行き届いた丁寧なもので、説得力がある。一部には、「トリック論文には先例がある」とか、「ポストモダニストの方が先に暴論を吐いたのだ」というソーカル弁護論があるが、これは、「人が悪いことをしたから、自分も悪いことをしてよい」というようなもので、本質的な弁護論になっていない。
金森の「戦争」描写のあり方についても感想を述べておきたい。もっとも、私は自分自身がこの「戦争」をよく知っているわけではないから、その描写がどの程度適切なものかを十分正確に評価できる立場にはいない。そのことを断わった上で、大まかな印象を述べるなら、次のようになる。
一般に何らかの論争を紹介する文章というものは、ひたすら無難さを優先して、当たり障りのない「中立性」を装うか、あるいは露骨に党派的な立場に立って「敵」をやっつけるという感じの文章になるか、そのどちらかである場合が多い。そうした一般的傾向に照らして金森の著書を読むなら、彼は自分自身のスタンス――「科学論」の側に身をおく――をはっきりさせながらも、ひたすら「敵」(ソーカルら)をやっつけようとするのではなく、「味方」(「科学論者」たち)の側の一部に潜む欠陥――それが「敵」から厳しく指摘されている――をも明示し、自己反省を進めることを提言している。これはバランスのとれた態度であるようにみえる。あるいは、それでもバランスをとりきれずに「勇み足」を犯したような個所もあるのかもしれないし、その「勇み足」が許せないという受け取り方もあるのかもしれない(一部に、そのような感じの金森批判があるようだ)が、その辺は私には判定できない。ただ、仮にそうした「勇み足」があるとしても、それは、殊更に偏頗な態度をとったことの当然の帰結ということではなく、努めて冷静にバランスをとろうとした上でなおかつ免れなかった「勇み足」であるように感じる。論争的なテーマである以上、批判もあるのは不可避だが、私としては好感をもって読んだ。 
(1)本書の他には次のようなものを参照した。藤永茂「科学技術の犯罪の主犯は科学者か?」「世界」一九九八年一月号、村上陽一郎「科学論の現在(承前)」「図書」一九九八年四月号、同「クーン主義と科学者」「世界」一九九八年一一月号、和田純夫「科学者と科学論者のずれはどこからくるのか」「世界」一九九九年七月号、平川秀幸「書評: ソーカル、ブリクモン「知の欺瞞」」「科学」二〇〇〇年一〇月号、佐々木力「「サイエンス・ウォーズ」と日本の現代思想」「UP」(東京大学出版会)二〇〇〇年一一月号、金森修、佐倉統、茂木健一郎「サイエンス・ウォーズから考える」「UP」二〇〇一年二月号、東北大学数学科・黒木玄ホームページ。また科学史研究者である梶雅範氏(東京工業大学)から個人的なご教示も得た。但し、そのご教示を私が誤解している可能性もあるから、この小文の中にありうべき誤りに対し梶氏には責任がない。
(2)この本には邦訳もあるが(岩波書店、二〇〇〇年)、この小文を書いている時点で、私はまだ読んでいない。基本的な関連図書も読まずに感想を書き留めるというのは、もし当該テーマを正面から論じようとするのであれば到底許されない態度だが、ここではソーカル論自体が目的ではないし、さしあたっての私の関心に関わる限りでは、金森の著書および前注に挙げた諸文献(その中には、ソーカル支持派と批判派の双方の立場のものがあるが、評価は別として、内容紹介にはそれほどの食い違いがない)程度の紹介でとりあえず私なりの考えをまとめられると感じた。将来、この本を読むことがあるかもしれず、それによって私の考えが変わることがあるかもしれないが、その場合には、それについて別個に書くことにしたい〔その後、この本を読み、別個に読書ノートを書いた。関心があれば、あわせて参照されたい。二〇〇三年九月の追記。更にその後、関係する小文として「番外 ド・マン論争とソーカル論争」も書いた。二〇〇四年一一月〕。
(3)この問題については、クーン「科学革命の構造」に関する読書ノートで触れた。
(4)ややかけ離れた例だが、私は子供時代にはじめてストラヴィンスキーの作品を聴いたとき、心底びっくりし、これは純然たる雑音の塊りであり、絶対に音楽ではないと思った記憶がある。それから数十年して、いまやストラヴィンスキーは完全に「普通の音楽」の一つとなっている。これは多分、ただ単に私個人が聴き慣れたというだけのことではないだろう。いまではテレビのコマーシャルのバックにストラヴィンスキーが流れていることさえもあるくらいで、殊更に「音楽通」ではない大多数の人たちにとっても、好き嫌いはともかくとして「普通の音楽」になっているようにみえる。かつては純然たる雑音の塊りであり、絶対に音楽ではないと思えたものがいつの間にか「まともな音楽」として受けとめられるようになるという現象と、かつては奇矯でナンセンスなたわごとと思われた言説表現が、時間の経過とともに「まともな文章」として受容されるようになるという現象とは――その間の関係を論理的に解きほぐすことは難しいが――ある種の平行性をもっているように思う。もちろん、あらゆる出鱈目なもの――そのように受けとめられるもの――が「まともな」ものになるのではなく、長い年月の間に選別が働くのだろう。
(5)佐々木力は、「事態を単純にとらえて二分法を用いれば、闇に面するオブスキュランティストよりは、光を目指す「啓蒙主義者」の方がはるかによい」と書いている。もしこのようにあっけない二分法が成り立つのなら、そもそも喧々囂々の議論が起きることもなかっただろう。にもかかわらずこのような二分法が成り立つかに考える人が少なからずいるということこそが、むしろ問題である。
(6)ここに書いたことと完全に重なるわけではないが、テリー・イーグルトンのポストモダニズム批判(「ポストモダニズムの幻想」大月書店、一九九八年)も、ある程度共通の点を指摘しているように思われる。また、あまりにもラディカルな問いを立てたが故の絶句とその後の緊張弛緩という点に関して、立岩真也「私的所有論」についての読書ノートも参照。
(7)あまり大した見識があるわけではないので思いつきに過ぎないが、自然科学においては、「実在」を人間がどこまで捉えられるのか、またどのように捉えるかについては論争の余地があるにしても、ともかく客観的な「実在」があること自体を全面的に否定するのは相当難しいようにみえる(観測という行為が観測結果に影響するという関係にしても、客観的な「実在」があるという前提の上で、それをどう測るかという問題であり、「実在」そのものの否定ではないだろう)。おそらく、そこまで否定してしまったら、そもそも自然科学というものが成り立たなくなってしまうだろう。これに対し、人文社会系の学問においては、そもそもの研究対象の大部分がもともと人間によって構成/構築された制度だったり概念だったりする――つまり、認識主体から独立した「実在」ではない――という点で、大きな違いがあるように思われる。しかし、では両者は完全に無縁かといえば、そうも言い切れない。これは突っ込んで考えるべき論点だが、当面そこまで立ち入ることはできない。
(8)用語についての簡単な補足。金森は本書で「社会構成主義」を「反実在論」として説明している。おそらく、自然科学においては「実在」との関係が問われるために「反実在論」といわれることが多いのだろう。これに対し、社会科学においては、種々の概念が「本質的なもの」か「構成/構築されたもの」かが問われるために「反本質主義/非本質主義」の語が使われることが多いように思われる。また、社会科学においては「構成/構築」が社会的な文脈の中でなされることは自明なので、「社会」という修飾語を冠することなしにただ「構成/構築主義」ということが多いようである。英語でも、constructivism, construcitionismの二通りの言い方があり(本書では前者が採られている)、日本語でも「構成主義」と「構築主義」とがあるが、それらの対応も一義的ではない。
(9)この小文を書き終えて間もない時期に刊行された上野千鶴子編「構築主義とは何か」勁草書房、二〇〇一年は、様々な人文社会系の分野での構築主義(この本では、用語法として「構成主義」よりも「構築主義」の語が主に使われている)の意義を説く諸論文を集めている。いくつか示唆された点もあるが、とりあえず、本稿は以前に書いたままの形で維持しておくことにする(この注は二〇〇一年四月の追記)。
(10)この点に関する私自身の萌芽的な問題提起として、塩川伸明「帝国の民族政策の基本は同化か?」「ロシア史研究」第六四号(一九九九年)、同「集団的抑圧と個人」江原由美子編「フェミニズムとリベラリズム」勁草書房、二〇〇一年所収。
(11)Clifford Geertz, "Anti Anti-Relativism," American Anthropologist, vol. 86, no. 2 (1984). この問題についての簡単な私見は、塩川伸明「現存した社会主義」勁草書房、一九九九年、四一‐四八頁に述べた。できれば別の機会にもう少し掘り下げてみたい。
(12)種々の「相対主義」の腑分けおよびそれに基づいた価値相対主義の批判として、井上達夫「共生の作法」創文社、一九八六年、一〇‐二二、一九四‐二〇三頁。
(13)この問題について私は前注9に挙げた二論文で触れたが、なお不十分性を感じている。更に考えを練る必要があり、機会を改めて論じたい。
(14)ゲオルク・G・イッガース「歴史思想・歴史叙述における言語論的転回」「思想」一九九四年四月号、遅塚忠躬「言説分析と言語論的転回」「現代史研究」第四二号、一九九六年、小田中直樹「言語論的転回と歴史学」「史学雑誌」第一〇九編第九号(二〇〇〇年九月)など参照。カー「歴史とは何か」についての読書ノートでも、この問題に不十分ながら触れた。漠然たる感想だが、現場の科学者たちの多くが「科学論」からの構成主義的な問題提起に反撥するのと同様、現場の歴史家たちは「言語論的転回」を歴史学に適用すべきだとの提言にどちらかというと消極的態度をとることが多いようにみえる。これは興味深い平行現象である。なお、この小文を一通り書き終えた後に気づいたが、西川正雄「御託宣と歴史学」「岩波講座世界歴史」第二四巻付録月報、岩波書店、一九九八年(言語論的転回に触れ、上野千鶴子批判を含む)も参照〔その後、笹倉秀夫「社会科学の新動向にみる最近の歴史学」「歴史科学」第一五一号(一九九八年)も読んで参考になった。二〇〇三年五月の追記〕。
(15)その際、「弱いヴァージョンは正しいのだから、それを積極的に肯定しよう」という風に論じるか、それとも「弱いヴァージョンは常識であり、それ故、わざわざいうのは余計なことだ」という風に論じるのかという選択の余地がある。前者は論争相手と共通の土俵を確認するものであるのに対し、後者は論敵を一蹴しようとする態度である。これもまた、論争のあり方という問題(この小文の四で論じる)につながる。
(16)「強いヴァージョン」と「弱いヴァージョン」の線引きの一つの候補として、次のように考えてみることもできるかもしれない。即ち、「強いヴァージョン」とは、「真実というものは存在しない。それを求めるのは無意味だ」と断言する考えであり、「弱いヴァージョン」とは、「真実がどこかにあるかもしれず、それを求めることは必要だが、現にそのようなものとして提出されているものに対しては、本当にそうなのかという疑問を突きつけることが必要だ」とする考えだ、という区別である。前者はそれ自身断定の一種であり、これも独断的ではないかとの批評にさらされるのに対し、後者は疑問の提示という形をとっており、より穏当なものといえそうである。だが、では永久に疑問ばかり出し続けていればよいのかという問題が更に出てくる。
(17)不毛な議論につきあわされたという消耗感が強いので、あまり詳しく触れる気になれないが、とりあえず、塩川伸明「「二〇世紀」と社会主義」「社会科学研究」第五〇巻第五号(一九九九年)七四頁参照。「現存した社会主義」のいくつかの個所でも、ある程度触れた。
(18)私はこのことを、塩川伸明「現代道徳論の冒険――永田えり子「道徳派フェミニスト宣言」をめぐって」「三田社会学」第三号(一九九八年)、五八‐五九頁で問題提起したことがある。 
 
「歴史とは何か」E・H・カー

 


いうまでもなく歴史研究入門の古典中の古典である(1)。私は若い時期にそれほど大量の古典を読まなかった人間だが、本書については、大学入学後まもない時期に読んだ。正確な時期や印象などについては記憶がおぼろになっているが、およそ一九六〇年代末のことであり、本書が元来刊行されてから数年後ということになる。それ以来、何度となく折りに触れて読み返したが、特に全体を精読したのは一九八〇年代末頃(これも正確な時期については記憶が曖昧になっている)と今回(二〇〇〇年)とである。およそ二〇年ぐらいおきにきちんとした再読に取り組んだということになる。
一九六〇年代に読んだときは、まだ学生に過ぎず、自分自身が歴史研究に取り組むという経験は皆無だったから、表面的に読んで、一通り分かったような気がするにとどまったように思う。それでも、「歴史は現在と過去の対話だ」という有名な言葉をはじめとして、いくつかの個所は強く印象に残り、その後も私の発想の底に残った。ともかく、語り口の平易さのおかげもあって、「一通り分かった」という思いこみを懐き、それで満足していたような気がする。その後何度か断片的に読み返したときも、そうした第一印象を再確認するだけだった。
二度目に精読したときには、私自身がある程度歴史研究の経験を積んだ後だっただけに、かつての理解が実のところは不十分なものだったという思いを各所で懐かされ、「若い頃の理解はずいぶん浅いものだったな」という印象をもった。そのことの具体的内容についてここであまり立ち入るつもりはないが、一つだけ誤解を避けるために、それはこういう意味ではないということだけを書いておきたい。本書は歴史論であり、また著者はいかにもイギリス風の経験論的手法で実証的な歴史書をものしている人だが、にもかかわらず、本書のあちこちには、そうした実証的歴史研究の枠をはみ出すような様々な理論への言及がある。自然科学の方法にもあちこちで言及しているし、伝統的歴史研究とはかなり異質なアメリカ風社会科学の理論にも触れている。取りあげられている理論家も、種々の傾向の歴史家たちばかりでなく、タルコット・パーソンズ、カール・マンハイム、アレクシス・ド・トクヴィル、カール・ポッパー、ジャン・ポール・サルトル、ピーター・ドラッカー、ジグムント・フロイト等々、極めて多彩である。このことは著者の視野の広さを物語り、直接的研究対象以外の領域における知的動向にも敏感で、それらとの批判的対話を怠らなかったことを意味している(2)。このことが賛嘆に値するのはもちろんのことだが、私自身が特に印象づけられたのはこの点ではない。研究者が自己の狭い専門以外の領域について広く目を配るのはもちろん望ましいことだが、それがただ単に自分の知識量や流行への敏感さをひけらかすことだけを目的としたものだったなら、何の意味もない。カーの場合にはもちろんそうではなく、様々な理論への言及は、自己の考えを磨くための素材としての意味を担わされている。重要なのは、それらとの対話を通じてカーがどのように考えたのかという点にこそあるのであって、どれだけたくさんの理論や著作の名前を列挙したかということが自己目的なのではない。往々にして、何らかの著作をほめる場合に、たくさんの理論や著作家の名前が挙げられているということだけを取りあげて、「情報量が多い」とか「最新の知的動向に敏感だ」といった言い方をする人がいるが、こういうほめ方は著者の意図にも背くし、私自身の趣味でもない。
それはともかく、今回、改めて本書に向かったとき、事前の予想としては、「六〇年代に読んだときよりは八〇年代に読んだときの方がよく分かったのだから、今度はもっとよく分かるだろう」というような気分があった。その予想は半ば当たったが、半ばは裏切られた。おそらくは――多少のうぬぼれを敢えて自分に許して言えば――かつてよりも読みが深くなった面もあるだろうと思うが、同時に、かえって分からなくなったように感じる面もあり、「意外に難解な本だ」という印象をもたされた。読み重ねていくうちに理解度が直線的に上昇していくというのではなく、むしろかつて分かったつもりだったことが、よく考えてみると今度はよく分からないと感じさせられるというようなこともあるのだということに気づかされた。
今回、この本に久しぶりに立ち戻ったのは、大学の演習で教材の一つとして取りあげたことによるが、そのとき、若い世代の人たち――初版刊行時にはまだ生まれてもおらず、刊行から数十年後に大学に入った世代――が本書をどのように受けとめるかを知りたいという気持ちが、本書を取りあげた動機の一つにあった。特に、ソ連が現存していた時代をほとんど知らない世代の人たちにとって、ソ連史を主要な素材とする歴史論がどのように受けとめられるのかという関心があった。反応は様々で、「あまり古さを感じない」という人と「やはり大分古い」と感じる人とがあったが、大多数の人がそれなりに知的刺激を受けたらしいことは幸いだった。そうした経験を踏まえ、その演習で若い人たちが提出した意見や疑問も私の思考の素材としつつ、「意外に難解な本だ」という印象について点検してみたい。 

先ず、歴史研究における事実認識と解釈および評価の関係という問題について考えてみたい。
私は先に、「著者はいかにもイギリス風の経験論的手法で実証的な歴史書をものしている」と書いたが、本書で展開されている歴史研究方法論は、素朴な意味での「事実」重視というようなものではない。むしろ、特に第一章では、素朴な事実尊重論を批判し、解釈の重要性を強調している。たとえば、「事実という堅い芯」と「それを包む疑わしい解釈という果肉」を対比する常識的発想を批判し、歴史上の事実は純粋な形で存在するものではなく、記録者の心を通して屈折して伝えられるものだと指摘し、だから歴史書の読者は先ず歴史家を研究せねばならないと説いている。この「先ず歴史家を研究せよ」という警句は、「歴史は現在と過去の対話だ」と並んで、本書中で最も有名な言葉だろう。
あるいはまた、事実というものは魚屋の店先にある魚のようなものではなく、歴史家が海で捕まえてくるものだとも述べられている。歴史家がどのような魚を捕まえるかは、大洋のどの辺で釣りをするか、どのような釣り道具を使うかなどに規定されるが、後者はその歴史家がどのような魚を釣ろうとするかによって決定される。ということは、歴史家は自らの好む事実を集めるということになる。こうした議論をうけて、「歴史とは解釈のことだ」と言い切った個所さえもある。
このようなカーの叙述を読むと、比較的最近、一部で流行っている「新しい」歴史学の傾向をカーは先取りしていたのではないかという気さえしてくる(3)。というのも、そうした「新しい」歴史論はしばしば「古くさい素朴実証主義」を槍玉に挙げ、「権威ある資料」に依拠して「客観的な」事実が確認できるという考えは幻想だといった批判をしているが、実はカーも、そうした「古くさい素朴実証主義」を既に批判しているからである。確かに「新しい歴史学」は「伝統的歴史学」が陥りがちな種々の陥穽――「素朴実証主義」の他、しばしば指摘される点として、過度の政治中心主義、事大主義、権威主義、文書主義その他その他――を鋭く批判したという意義をもっているが、実はカー自身を含め、少なからぬ「古典的な」歴史家は、そうした点について大なり小なり意識していたのであって、「新しい歴史学」による旧派批判は、ややもすれば批判対象を戯画化する傾向がなくもないように思われる。カーの場合、特に新奇さを狙っているわけではなく、ある意味で健全な常識を述べているだけなのだが、その常識が既に「素朴実証主義」批判の要素を含んでいるのである。
そればかりではない。一部の「新しい」歴史論の中には、資料が「客観的事実」を自ずから語るというドグマの批判に熱中するあまり、やや行き過ぎた極論――テキストの「外部」としての「事実」などそもそも存在しないといった――に走る傾向があるようだが、カーはそうした極論についても予め注意を払っている。カーによれば、歴史記述における歴史家の役割を強調するあまり、歴史は歴史家がつくりだすものであり、客観的歴史などはないのだといった主観主義や懐疑主義に陥るのも妥当ではない。見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、もともと山には客観的形などないということになるわけではない、というのである。先の魚の比喩でいうなら、漁師がどのような魚を捕らえるかは漁場や釣り具の選択によって左右されるが、だからといって、実在しない魚を想像力だけで釣り上げるわけではない、ということだろうか。こうしてカーは、一方で「素朴実証主義」を批判して歴史研究における解釈の重要性を強調しながら、同時に、だからといってどのような解釈も自由であり、何をいっても勝手だといった極論に陥ることも慎重に避け、事実と解釈の間の関係を「二つの難所の間を危うく航行する」ことに喩えている。人間は環境から完全に独立なものでもなければ、無条件で環境に従っているものでもない。それと同様に、歴史家は事実の慎ましい奴隷でもなければ、その暴虐な主人でもなく、一方では自分の解釈に従って自分の事実を形づくるが、他方では自分の事実に従って自分の解釈を形づくる。有名な「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」という文章も、こうした議論をうけて提出されている。
もっとも、この議論は、やや折衷論ないし常識論的に提起されており、哲学的な認識論に関心をいだく人にとっては物足りない印象を残すかもしれない(4)。こうした論じ方を物足りないと感じるか、優れたバランス感覚だとして珍重するかは、読者がイギリス的なコモン・センス尊重と大陸的な合理論のどちらに傾斜しているかによるかもしれない。
「事実」が簡単に手に入るものかどうかという問題は、実はいくつかのレヴェルに分けて考える必要がある。第一は哲学的な認識論のレヴェルで「そもそも事実とは何か」という大問題がある。これは突っ込んで考えるなら非常に厄介な問題となるが、哲学者ならぬ経験的歴史家にとっては、この問題はひとまず棚上げにすることも許されるだろう(5)。第二のレヴェルは、そうした哲学的認識論はさておき、個々の具体的な出来事についての「事実」性を確定するという作業にかかわる。広く「事実」とみなされていた事柄がよく調べてみると実は間違っていたというようなことはよくあることであり、歴史家はこの問題の吟味にかなり大きな労力をさかざるを得ない。そして第三に、無数に存在する「事実」のうちから何を取りあげるべきか――何が「歴史的事実」としての地位を認められるか――またそれらをどのように整理し、関係づけて理解すべきかということが問題となる(6)。第二のレヴェルでは個別的な事象についての比較的素朴な「事実」性が問題だったのに対し、この第三のレヴェルでは、それらの複雑な組み立てによってどのような歴史像が浮かび上がるかが問題となるから、ここでの「事実性」はより微妙なものになる(ある意味では、第一の認識論のレヴェルに跳ね返ってくるようなことにもなる)。
本書ではこのうちの第三のレヴェルの問題が大きなテーマとなっているが、その点を強調するあまり、第一はもとより第二のレヴェルについては比較的あっさりとあしらっているという観がなくもない。「正確は義務であって、美徳ではない」という言葉が引用され、正確であるといって歴史家を賞賛するのは、よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく混ぜたコンクリートを用いたといって建築家を賞賛するようなものだという比喩が提出されているあたりに、そうした印象を受ける。この個所はさりげなく書かれており、実際、あまりにも当たり前のことをいっているようにみえる。しかし、論争的な対象を扱った歴史研究を試みた人なら、いま述べた第二のレヴェルでの「正確」ということが意外なほど難しいということを知っているはずである。カーの比喩を引き継いでいうなら、デザイン性を売り物にする建築家が増えると、よく乾燥した木材とかうまく混ぜたコンクリートといった当たり前のことがなおざりにされ、デザインは斬新だが実は手抜き工事の建築が増大するおそれがあるといったことに類比できるかもしれない。現代史のような分野では、論者が特定の政治的立場にコミットしていることが多い上に、丹念な「事実」確定作業を積み重ねる時間的余裕がまだないという事情があるため、特にそうした傾向が著しい。そうである以上、「正確は義務であって、美徳ではない」というのはその通りだとしても、その義務をきちんと果たしていない人があまりにも多いということに警戒を呼びかける必要もあるのではないかという気がする。あるいは、本書初版の出た一九六〇年代初頭には、まだ学者の世界に大衆社会現象は押し寄せておらず、手抜き工事を見せかけだけのファッション性やマスコミへの売り込みの上手さでカヴァーするような歴史家はあまりいなかったということなのだろうか。
それはさておき、とにかく個別の「事実」性がある程度まで確定可能だとして、無数の「事実」の中から何を取りあげるか、それらをどう整理し、歴史像を組み立てるかが選択的たらざるを得ないということは、カーが強調するとおりである。では、どういう基準で選択がなされるのか。これがこの後の問題となる。 

「歴史的事実」は歴史家による事実の選択および整理を経てはじめて形づくられる。では、その選択および整理はどのような基準によってなされるのか。
この問題を考える上で最も興味深いと思われるのは、「ロビンソンの死」という喩え話である。煙草を買うために道路を横切っていたロビンソンという人が自動車に轢かれて死んだ。事故の原因として、運転手が酒を飲んでいた、自動車の整備に落ち度があった、道路の見通しが悪かった、などが挙げられ、そのどれが決定的だったかによって、運転手なり自動車整備工なり道路管理局なりの責任が問題にされる。しかし、視点を変えれば、ロビンソンが事故に遭ったのは、煙草を買おうとして道路を横断したためであり、彼が愛煙家でなければ事故には遭わなかったという議論も成り立つ。この最後の議論は前三者(飲酒運転、自動車整備、道路管理)に対比して、「無意味」なものとして退けられるが、それはどうしてかというのがカーの出している問題である。
私見を多少まじえてカーの考えを敷衍するなら、この事件に関していう限り、それが起きるための条件――つまり、「もし○○がなかったなら、この事故は起きなかったろう」といえるもの――と考えられるという点で四者の間に違いはない。違いは、この事件を離れた一般化可能性にある。飲酒運転、自動車整備の落ち度、道路管理の不備は一般的な交通事故原因として想定されうるものであり、従って、それらに対応した措置をとることは交通事故対策として意味をもつ。これに対して、ある人が愛煙家だから事故に遭うとか、禁煙運動をすれば事故が減るだろうというようなことは、一般命題として意味をなさない。これがカーの答えである。こうして、無限にある「事実」の中から何を選択するかの基準として「一般化可能性」が挙げられることになる(7)。
これは鮮やかな議論であり、個別の例を通して一般的な問題を考えようとする人にとっては、十分な説得力をもつ。しかし、誰もがそのような関心をもつとは限らないのではないか。死んだロビンソンの肉親は、「彼があのとき煙草を買いに行こうとさえしなければ」ということをいつまでも悔やみ続けるかもしれない。親族に限らず、この特定例に徹底してこだわる立場からすれば、この事件を教訓にしてこの後の事故が減っても、ロビンソンが生き返るわけではない以上、何の慰めにもならない。それに、交通事故対策として飲酒運転抑止、自動車整備の水準向上、道路管理の改善が有意味だというのはこの特定例の解明を待つまでもなく一般論として明らかなことであって、もしそれを結論として引き出したいということであるなら、この事例を取りあげることにはさしたる意味がないということにもなる(もっとも、個別の事例での原因確定作業を積み重ねれば、これらの事故要因のうちどれが相対的に最も重く、従って対策の緊急性が高いかが分かるといった有用性があるとも考えられるが)。
カーは、ロビンソンの死の喩え話を「一般化可能性」で締めくくったすぐ後で、人間はある目的のために理性を用いるものだとし、ある目的に役立つ説明と、そうでない説明との区別ということに触れている。前の例に戻るなら、ここでの「目的」とは交通事故を減らすということであり、その目的に役立たないような論点(ロビンソンと煙草の関係)に触れても意味はないということになる。それはその通りなのだが、交通事故一般には関心をもたず、むしろロビンソン個人の生涯にこだわってロビンソンの伝記を書こうとする人にとっては、運転手や自動車整備工や道路管理局のことはどうでもよく、たまたまその日にロビンソンが煙草を切らし、愛煙家の彼が煙草を買いに外出したという事実こそが最も重要だということになるかもしれない。カーがそのような見方を取らないのは、特定個人の生涯の軌跡にこだわるような見方がそもそも狭すぎるのであって、「歴史的事実」としての価値をもたない――これに対して、ある時代に交通事故が増大するとか減少するというようなことであれば、これは「歴史的事実」としての意味をもつ――という価値観をとるからだろう。これは、歴史の登場人物個人により大きな関心を寄せるか、それとも個々人を取り巻く集団や社会により大きな関心を寄せるかという問題とも関連している。この点は後で立ち戻るとして、ここでは、「一般化可能性」という問題と因果性とか法則性とかいう問題との関連について、もう少し議論を進めてみたい。
「一般化」ということは、個別の例を取りあげながらも、それだけにこだわることなく、何らかの因果連関なり法則性なりを探ることだというのがカーの考えである。そして因果性・法則性の探求という意味では、歴史も科学の一部だというのが本書(特に第三章)の一つの大きな主張となっている。英語圏では伝統的に、人文学(humanities)と科学(science)が区別されてきたが、カーはそうしたイギリス的伝統は人文学を科学よりも「高級」なものだと考えたがる偏見に由来するものだと批判する(8)。カーも自然科学・社会科学・歴史学を単純に同一視しているわけではなく、それらの間の差異についても触れているが、どのような差異があるにしてもそれらを完全に異質扱いするのではなく、広い意味で共通性をもち、相互に学びあえるようなものとして捉えたいというのが彼の考えのようである(「歴史と科学」という問題について、末尾の補注参照)。
この問題は、歴史を書くに当たって、物語のような叙述を行なうか、ある種の一般的法則性や仮説を提起し、それの妥当性や反証可能性について考えるという行き方を取るかという記述スタイルの問題とも関わる。伝統的な歴史――といっても、現代でもなおかなり根強い――が前者に傾くのに対し、次第に増大しつつある「社会科学的な歴史」は後者をとろうとする。英語のhistoryは今日ではほとんど専ら「歴史」の意味に用いられるが、「物語」という意味も辞書には載っているし、これと同系統のフランス語histoireやロシア語のイストーリヤ(история)はもっとはっきりと「物語」の意味を保存している。これは「歴史」と「物語」の根源的な親近性を示唆するようにみえる。日本でも、「物語としての歴史」ということを説く人はいまでも多く、歴史書は科学書ではないのだから、読んで面白い文章で書かれねばならないという考えも根強い。これに対し、カーははっきりと「社会科学的な歴史」という考えを押しだしている。歴史と社会学の関係に触れて、「歴史が社会学的になればなるほど、社会学が歴史的になればなるほど、双方にとって好都合である」と述べた個所などにそうした考えが明瞭に示されている。
「科学」という場合に多くの人が最初に思い浮かべるのは自然科学であり、「○○は科学か」という問いに際して問題にされるのは自然科学との類似性/異質性である。カーもその例に洩れず、歴史や社会科学と自然科学の比較を論じている。「法則」の観念に触れた個所では、社会科学では法則性の認識に限界があるではないかという反論を念頭におき、自然科学の世界でも、現代科学においては完全な法則性ではなく、仮説とか蓋然性とかが問題にされており、「暫定的な近似値」で満足しなければならない事情は共通していると再反論する。また、社会科学においては研究主体と客体とが同じ範疇に属し、相互に作用しあうため、観察行為自体が対象に影響を及ぼしてしまう――「自己成就する予言」はその典型例――という点についても、自然科学でも「不確定性原理」に示されるように同様の問題があると指摘している。
これらの点に関するカーの指摘は確かに興味深いものである。「自然科学では完璧な正確さ、厳格な法則性が発見されるが、社会科学ではそれが得られない」といった両極的な発想は、自然科学者も様々な認識上の限界に直面しつつそれを乗り越えようとしているという事情を軽視し、その努力から社会科学者が何かを吸収する可能性を閉ざしてしまいやすい。自然科学と社会科学・歴史学を完全に異質なものとして分断してしまうのではなく、ある程度までの共通性をもつものと捉え、可能な限り相互に吸収しあうという姿勢は貴重なものだと私も思う。ただ、それと同時に、その共通性の限界ということもやはり意識しておく必要があるのではないか。特に、歴史研究においては、ある種の社会科学以上に、その差が大きい――たとえ絶対的な差異ではないにしても、ともかく無視できないほど大きな差異がある――のではないかと思われる。
先に「物語としての歴史」と「社会科学的な歴史」ということに触れたが、私自身は、「物語」を書く才能に恵まれていないため、どちらかというと「社会科学的な歴史」に惹かれる。ただ、それだけに、歴史が科学化しきらない限界ということについても強く意識する。カーは、特に第三章で、歴史と社会科学とをあまり区別せずに、どちらも自然科学同様に科学なのだということを強調しているが、ここでは、社会科学一般と歴史とを区別して考える必要がある。人間という複雑微妙な対象を扱うために自然科学よりも精密化が難しいという点は社会科学一般に共通する問題だが、それでも社会のある特定の側面を切り取って研究しようとする諸分野(ディシプリン)の場合には、その側面に限定することによる抽象化が一般性認識を相対的に容易にする。これに対し、歴史学においては、対象をできる限り包括的に描き出すことが課題とされる。そのことは、あまりにも多くの要因を総合的に考慮せざるを得ないということを意味し、それだけ抽象化・一般化が困難だということに通じる。変数があまりにも多すぎると、それらの関係を論理的に明快に整理するのが困難だというのは常識である。同様に、何らかの因果性や法則性を論じる場合には、「他の条件にして等しければ(ceteris paribus)」という断わり書きがつけられるのが常だが、このceteris paribusは、歴史においては満たされることのない条件である。
この問題についてカーが触れている個所では、概念図式自体に多少の疑問を感じる。というのは、カーは「一般的・普遍的なもの」と「特殊的・個別的なもの」という二項対置をして、歴史の対象は後者だけではないという論じ方をしているからである。原語での表現は、ところによって異なるが、前者にはgeneral あるいはuniversalの語があてられ、後者にはunique, specific, particularといった語があてられている。だが、ここはそのような二者間の対置ではなく、「一般性」「特殊性」「個別性」という三つの概念の組み合わせで考えるべきではないだろうか。ここで、「個別性」は「一般性」と「特殊性」の総合である。歴史が探求するのは、そのような「個別性」――「一般性」の側面を排除するものではないが、かといってそれだけには還元されず、「特殊性」の側面をも含む――ではないだろうか。つまり、歴史研究は、純然たる特殊性だけに拘泥し、一般性を排除するということはもちろんないが、かといって一般性をひたすら追求するというのでもなく、その両者の交点において対象の個性を描き出そうとするものだということである。古臭い言い方だが、「法則定立的」と「個性記述的」という認識の区分がある。この新カント派的概念をめぐる解釈論争はさておくとして(9)、私なりの我流の解釈として、歴史が個性記述的だというのは、特殊のみに固執するということではなく、一般性の要素を含みつつそれと特殊性とを総合して描こうとするという風に考えることができるように思われる。このように考えるなら、カーが歴史認識も一般性認識を含むのだと強調しているのは確かに一つの面を正しく衝いてはいるが、議論として不十分と思われる。広義の科学として一般性を念頭においた認識の中でも、その方向ないし力点の違いとして、一般化をより強く志向する分野(多くの個別ディシプリン)と個性化をより強く志向する分野(歴史学)との違いがあるが、この個所でのカーはその違いを軽視しているかの印象を与える(カーの仕事全体がそのようなものだということではないが)。
おそらく、歴史学が「社会科学的な歴史」と「物語としての歴史」に引き裂かれるのも、この点と関連しているだろう。前者は「個性記述」という課題を見据えつつも、それを一般性との関連において解明しようという志向をより強くもつのに対し、後者は一般性の要素を軽視し、「個性記述」に徹しようとする。更に一般性への志向をもっと軽くするなら、歴史研究というよりも、歴史に題材をとった文学の世界に接近することになる。こうして、一般性の要素をどの程度重く見るかの度合によって、「社会科学諸ディシプリンの素材としての歴史」‐「社会科学的だが、総合性を重視する歴史」‐「物語としての歴史」‐「歴史に題材をとった文学」といったスペクトルを想定することができるかもしれない。カー自身の仕事は、後にアメリカを中心として興隆した「社会科学諸ディシプリンの素材としての歴史」に比べれば、やはり総合的記述の色彩が濃く、「社会科学的だが、総合性を重視する歴史」に該当するが、「物語としての歴史」やまして「歴史に題材をとった文学」とははっきりと一線を画すということに彼の主張の力点があると考えることができよう。 

前項では、歴史家がある事実を有意味として選択するときの基準としての一般化可能性という問題について考えたが、仮にこの議論を前提するとして、それでもって歴史家の選択の問題はすべて解決するだろうか。確かに、一般化可能でない事実(ロビンソンが愛煙家だったとか、トロツキーがあるときに風邪を引いたというような)は歴史家が取りあげるべき対象でないということまでは、一応いえるかもしれない。しかし、一般化可能な事実というものは無数にあるのだから、それらの中からどれを取り出すべきかという選択がまだ残っている。歴史家の選択が完全に恣意的ではないとしたら、どのような選択がよりすぐれた歴史認識をもたらすのか、そもそも「よりすぐれた認識」とはどういうものを指すのかという問題である。
カーは、歴史研究であれ、その他の科学であれ、およそ研究というものはみな「自分の環境に対する人間の理解力と支配力とを増すこと」を目標とするものだと述べている。この考えに従えば、このような目標の達成に資するものがよりすぐれた研究ということになるだろう。これはごく当然のことのようにみえるが、よく考えてみると、「理解力を増すこと」と「支配力を増すこと」は本当に同じなのだろうかという疑問が湧く。理解すれば支配できるようになるはずだという暗黙の前提がここにはあるが、これは、少なくとも簡単に前提化してしまえることではないのではないか。関連して、本書では「進歩」ということが一つの大きなテーマになっているが、その際、知的な意味での進歩(学問の進歩)と実践的な意味での進歩(歴史の進歩)とがあまり区別されていない。確かに、後者を信じる立場に立つなら、それを促進することこそが前者の意味での進歩であり、両者が重なるのは当然ということになるのかもしれないが、これ自体、安易に前提することはできないのではないか。ともかく、私としては両者を分けて、先ず前者の方から考えてみたい(とはいえ、カー自身が二通りの進歩を重ね合わせて捉えている以上、後者にもある程度まで触れないわけにはいかないが)。
より進んだ認識、よりすぐれた認識とは何か、これはなかなか難しい問題である。明らかな間違いを含んだ議論についてはまだしも判断しやすい(といっても、明らかな間違いがそう簡単には見破れないという場合もあるし、間違いを含みながらも味わい深い議論と正確だが深みのない議論とではどちらがすぐれているのかといった問題もあるが、ここでは立ち入らないでおく)。とりあえずある程度までの学問的訓練の上に立って、それなりに「正しい」――絶対的な「正しさ」というものはあり得ないとしても、学界において共同主観的に蓄積されてきた「正しさ」の基準を満たしている――議論を提出した作品が複数あるとき、それらのうちでどれが「よりすぐれたものだ」という判断はどのようにしてなされるのか。この問題は一般論として考えていくと、いろいろな方向に議論が広がる可能性があるが、とりあえずカーの議論に即して考えてみよう。この観点から本書を見るとき、古い解釈よりも進んだ解釈というものは古い解釈を拒否するのではなく、古い解釈を包括し、そのことでそれにとって代わるものだ、という記述が目につく。こうやってより広く深い洞察を獲得していくことこそが認識の進歩だ、というのである。
ここで提起されているのは包括性という基準であり、より包括的な認識がよりすぐれた議論だという考えである。これは確かにそれなりの説得性をもつ。もし、ある範囲の事柄しか説明できない認識と、それを含みつつより広い範囲の事柄までも説明できる認識とがあるなら、後者の方が進歩した認識だという考えは常識とも合致するだろう(10)。そのような進歩観に立って、本書以後の歴史学の進歩について説明することもできるかもしれない。たとえば、ジェンダー、エスニシティー、エコロジーなどの論点は本書には取りあげられていないが、そうしたものを取りあげることによってより包括的な歴史認識が可能になると考えることもできる。このような主張は、内容においてはカー自身の予期していなかったものを含むにしても、方法論的には本書の射程距離内にある。
だが、むしろ、より深刻なのは、もう少し違った方向にある。ジェンダー、エスニシティー、エコロジーなどの論点がカーの予期しなかったものではあってもその射程距離内にあるというのは、そうした論点を取り込むことで、進歩――認識においても実践的にも――が実現できるという発想を共有しているからである。これに対して、およそ「進歩」という考えそのものを拒否するような発想もありうる。私自身はあまり通じていないが、極端にミクロな生活史に着目するような歴史論も一部にはあるようだし、歴史の大きな流れから見れば完全な負け犬だった人の個人史を共感を込めて描き出すような歴史書もある。これらはおそらく、カーによって「無意味」と評されるようなものを重視するものだということになるだろう(なお、「歴史的事実」の選択という問題に関連して、前注6も参照)。
仮に包括性ということだけを基準とするなら、かつて切り捨てられていたものをすべて拾い上げた方がよいということにもなりかねない。しかし、それでは選択することが不可能になる。何もかもを取りあげるということは実際には不可能であり、無意味な議論となる。実際、冒頭の話に戻るが、そもそも認識は選択の要素を不可避としており、何かを選択するということは何かを切り捨てるということと表裏一体である。ということは、ひたすら包括性を高めていくことで進歩を考えるわけにはいかないというである。では、何もかもを包括するということと別に、「よりよい認識」を語ることができるだろうか。これが次の問題となる。
カーは歴史から教訓を引き出すことができるという立場に立っている。それは一般化を通して、ある条件の下ではある結果が起きやすいという蓋然性を認識できるからであり、これは特定の事件の予言まで含むわけではないものの、一般的な傾向性に基づく趨勢の予言を可能にするのだという。たとえば、ある学校で麻疹が流行り始めるなら、どの生徒が次にかかるかまでは予言できないにしても、一般的傾向として麻疹が広がる確率が高いということは予言できる。同様に、ある国でいつ革命が起きるかということまで予言することはできないが、どういう条件がそろっていれば革命の起きる蓋然性が高まるかは予言できる(但し、麻疹についても革命についても、「それを予防する有効な措置がとられないなら」という条件付きである)。このように過去の経験の一般化を通して有用な将来予測――但し、個別の特定例についての確定的予言を含むわけではない――ができるということが歴史の教訓化だというのである。この考えに従えば、より有用な将来予測をもたらすのがよりよい認識だということになるだろう。
ここでカーが一般化を強調し、個別の特定例にこだわることを戒めている点に着目してみたい。過ぎ去った事象をそれ自体として考察し、ああすればよかったとか、こうしたのはまずかったと考えるのではなく、過去のことは既成事実として受けとめた上で、未来に向けてどのような予測を引き出せるかを考えることこそが重要だというのが彼の考えのようである。この点を最も明白に示すのが、本書の中でも有名な個所の一つである「未練学派('might-have-been' school of thougt)」批判である。
「未練学派」批判はしばしば「歴史におけるもし(if)」の批判という風に理解されている。確かに、「もし○○がなければ、こういう嘆かわしい結果は生じなかったろうに」と詠嘆する未練論は「もし」を含んでおり、両者の間に密接な連関があることは明らかである。しかし、よく考えてみると、ここには区別されるべきいくつかの論点が含まれている(11)。先ず、過去の事象を純粋にそれ自体としてみるときと、そこに含まれる一般性の要素に着目するときとでは、捉え方が異なる。カー自身、一般化可能性およびそこから引き出される因果性認識を強調する立場だが、そのような一般化の観点に立つなら、あれこれの要素を変数として捉え、それらの相関関係を考えることになるから、「変数」について別の可能性を考えるのは当然ということになる。たとえば、「もしこのとき中央銀行が利子率を上げていたら、その後の失業率はどうなっていたか」とか、「もしこのとき政府が飲酒運転取り締まりを強めていたら、交通事故は減ったか」といったことを考察することになる。これは、あれこれの特定の人が失業するのを防げたとか、事故にあって死ぬのを防げたということではないから、「もし○○さえ違っていれば、あの人は死なずに済んでいたものを」という未練論とは異なる。ただ、一般的現象としての失業なり交通事故なりの動向についての因果性を認識するということは「もし」の要素を必ず含むものであり、カーはその意味では決して「もし」を否定してはいない(12)。
次に、そうした一般化を考えるのではなく、過去に起きた一回限りの事象それ自体を対象とする場合について考えてみよう。これについても、「もしかしたら、それは防げたかもしれない」という風にみる見方と、「それは歴史の必然――あるいは高度の蓋然性――の産物であり、防ぐことはできなかった。もし防ごうとしても、別の形で起きたろう」という風に見る見方とがある。どちらも「歴史におけるもし(if)」を語っているのだが、その方向が異なっている。いうまでもなく、前者が「未練史観」であり、後者は「勝てば官軍史観」ということになる。カーの歴史観は、単純な「勝てば官軍史観」だというわけではもちろんないが、どちらかといえば後者の方に親近性をもつことは否定しがたい(この点は後で改めて取りあげる)。彼の批判の矛先が後者よりも前者に集中して向けられていることはそのことを物語っている。
カーの挙げている具体例は次のようなものである。「ロシア革命は不可避だったか」というような議論が立てられるのは、その事件(ロシア革命)によって損害をこうむった人々がまだ生きており、それが起きなければよかったのにという感情が人々の心を捉えているからだ。これに対し、「バラ戦争は不可避だったか」というような議論はそもそも立てられることがない。これは遠い過去のこととなっており、今更それをひっくり返そうなどということを誰も考えないからだ。ノルマン人の征服にしろ、アメリカの独立にしろ、「もしそれがなかったなら」ということを誰も考えはしない。ロシア革命も、いまはまだ時間が十分隔たっていないから、「もしなかったなら」という感情論をもつ人がいるが、歴史家というものはそうした感情論を退け、それらを閉じた章(a closed chapter)、既成事実(fait accompli)として見るものだ、というのである。
これは巧妙な議論だが、よく考えると、異なった次元のことの混同がある。確かに、未練という感情は近い過去の現象について懐かれやすく、遠い過去については懐かれにくいだろう。しかし、そうした感情論とは別に、歴史におけるオールタナティヴ(選択肢)と必然性という問題は、いつのことについてであれ提出されうる。バラ戦争、ノルマン人の征服、アメリカの独立について、今日の我々が胸を騒がしたり、「未練」を懐いたりすることは滅多にないだろうが、それとは別に、純粋の認識の問題として、別のオールタナティヴがあったかどうかを考えることは可能である。それは、結果をひっくり返すなどという途方もない夢想ではなく、結果自体は動かしがたいものだとしても、それをよりよく理解するための一つの思考実験としてということである。ロシア革命についても、それによって損害をこうむったかどうか、従ってまた「それがなかったらよかったのに」という感情をもつかどうかということとは別に、オールタナティヴと必然性の関係を考えることはできるはずである。その意味を認めないのでは、「既成事実」以外のことは一切考えるなということになりかねない。
更にその上に、もう一つ別の問題がある。いま挙げた事例でカーが指摘しているのは、対象が近い過去であるほど、「そうでなければよかったのに」という未練がはたらきやすいが、遠い過去についてはそのような感情が薄れるということである。確かに、一般的な傾向としてはそういうことがいえるかもしれない。しかし、一旦遠くなったと見えるようになったことが、しばらくしてから改めて近く感じられるようになるということもある。もしそうした逆転現象がないならば、ある時期までは感情論(未練論)にとらわれて客観的な歴史が書けないが、ある時期を過ぎるとそれが書けるようになる、といった単線的進歩――認識の上での進歩――を想定することができる。しかし、現実には、フランス革命もロシア革命も、一旦安定した評価を獲得したかにみえた後で、再度論争の対象となった。このようなことを考えると、時間の経過に伴って歴史認識が変化するのは確かだとして、そこに「進歩」というものを――新資料の発掘や調査の技法といった「技術的」側面についてでなく、認識の質、評価や解釈のあり方といった、いわば歴史哲学的な次元において――想定できるのかどうかも怪しくなってくる。ロシア革命否定論が盛んだった時期よりも承認論が強まってきた時期の認識の方が「進歩」しているのだとカーは信じていただろうが、その後の歴史はこれに逆転をもたらした。いまでは、多くの人が、ロシア革命否定論の方が肯定論よりも「進歩的」な見方だと考えているだろう。もちろん、これもまた最終的なものではなく、もう一度――あるいは二度も三度も――逆転するというような可能性を排除することはできない。そうしたことが繰り返されていくなら、何をもって「進歩」といえるのか、これは大きな問題である(この点については次節の末尾でも立ち返る)。 

知的な意味での「進歩」――「よりよい」「よりすぐれた」認識――にせよ、実践的な意味での「進歩」にせよ、何らかの価値判断を前提している。では、その判断の基準はどこにおかれるだろうか。
ときとして誤解されがちだが、カーは価値判断というものを決して退けてはおらず、むしろその問題を積極的に論じている。にもかかわらず、彼が価値判断禁欲論者のようにとられることがあるのは、歴史の登場人物の個人としての道徳的評価を無意味としているからである。ある政治家が家庭において有徳な人だったか堕落した人だったかは、その人が公人として何をしたのかに影響しない限り、歴史家の興味の対象にはならない、歴史家が関心をもつのはあくまでも政治――あるいは政治に限らず、広い社会全体の流れ――に関わる限りでのその人の言動だ、というのが彼の考えである。しかし、そのことは、一切の価値判断をすべきでないということではない。むしろ、歴史は個人についてではなく社会集団や制度についての価値判断をするものだ――個々の奴隷所有者についての道徳判断はしないが、奴隷制については判断を下す――というのである。個人についての道徳判断をしないというのは、歴史上の人物――その大半は既に死んでいる――についていくら断罪をしても、今さらその人を墓から引きずりだして刑を科すわけにもいかないからであり、他方、社会集団や制度について判断を下すというのは、それが未来へ向けての我々の選択に影響するからである。ここには、未来志向の歴史学という性格が明確にあらわれている(この点は後で立ち戻る)。
やや議論が逸れるが、個人か社会かという問いと微妙な接点をもつもう一つの問いとして、研究対象に「有名な大物」を選ぶか「無名の人々からなる大衆」に着目するかという論点について、ここで触れておきたい。カーによれば、大衆を重視するということは、個人を扱わないということではなく、幾百万の個人を扱うということである。しばしば大衆重視は個人軽視と等置されがちだが、それは無名ということと非個人性ということとを混同するからである。名前が知られていなくても、人々が諸個人でなくなるわけではない。この指摘は、私としては大いに共感する。私自身が、大物よりも小物に惹かれるタイプの人間だからである。「歴史における個人」を重視すると称する歴史家が念頭におく「個人」とはたいていの場合、有名な大物であり、そうした歴史家は、大衆ばかりに注目するのは「個人」の軽視だと説く。しかし、実は、大衆も多くの個人からなっているのであって、違いは「個人重視か否か」というようなところにはない(13)。
さて、話を本筋に戻して、カーは――個人道徳についてではなく社会集団や制度に関して――価値判断をすることはできるし、それは避けられないという考えだが、ではその価値判断の基準は何かという論点について、次に考えてみよう。
人々が現に種々の価値判断を行なってきたということは、明らかな歴史的事実である。その際の基準は個々人ごとに異なりうるが、純粋に恣意的とは限らず、間主観的に形成された基準というものもありうる。カー自身は「間主観性/共同主観性(intersubjectivity)」という概念を使ってはいないが、個々人の恣意的な主観にすべてを委ねる態度と超越的な客観的真実があると信じる立場をともに批判していることからして、間主観的な基準という考え方に近いように思われる。これはこれで、納得のいく立場である。ただ、仮に間主観的な価値基準というものがあるとしても、それ自体が歴史的に形成され、変遷していくものである。とすると、異なる時代の事象について、後世の歴史家がその時点での基準で判断することの意味、またある時点での基準が前の時点での基準よりも「進歩」しているか否かの判断は何によるのかという疑問が出てくる。
これは簡単には答えられない哲学的な難問だが、一つの示唆的な論点として、自分のそれまでの考え方の制約を自覚し、その束縛を乗り越えることの重要性が指摘されている。自分の社会的・歴史的な状況を超越するという人間の能力は、それに自分がどんなに巻き込まれているかを認める感受性によって左右されるというのである。これは非常に重要な指摘であり、私も共感する。ある認識が他の認識よりもすぐれているとか劣っているということはそう簡単にいえることではないが、ともかくある人がそれまで無意識にとらわれていた枠組みを鋭く自覚し、そのことを通してその枠を何らかの形で突破していくという現象は実際にあり、そこには「進歩」があると感じられる。
カー自身に即していうなら、彼はイギリスが世界の中心だった一九世紀という時代の末期に生まれ(一八九二年生まれ)、イギリス自由主義を暗黙の前提とする知的環境の中で育ったが、それと異質なロシア・ソ連を研究対象として選び、またしばしばアジア・アフリカの新興諸国に共感と関心を表明している。おそらく彼が受けた教育は自由主義と経験論を核とするものだったろうし、それはその後も全面的に放棄されることなく維持されているようにみえるが、それと同時に、ある時期以降の彼は、マルクス主義・社会主義・ソ連・第三世界といった、彼自身の本来の知的環境とは異質なものに強く引きつけられた。これは、彼が不断に自己の知的制約を自覚し、超克しようと努めていたことを物語る。彼よりも数十年後に育ち、またイギリスとは全く異なる環境の中にいる我々は、そもそもの出発点となる前提が彼とは大きく異なるが、具体的内容はともあれ、自分が育てられた知的環境の制約を超えて、その外へと視野を広げていこうとする姿勢については、深く共感することができる。
カーの世界観の変化について、彼の密接な協力者だったR・W・デイヴィスは、次のようにまとめている。1若い時期(一九二〇年代まで)のカーは、自由貿易と社会改革を信じるリベラルだった。2一九二九年恐慌とそれに引き続く資本主義世界の大不況を見て、彼は資本主義の破産を信じ、親ソ的になった。3一九三〇年代後半に彼はスターリンの圧制を知り、ソ連に幻滅した。この時期には、ナチズムやファシズムの危険性を軽視し、宥和論を支持した。4第二次大戦の経験を経て、彼はソ連が戦争に耐え抜いたことを評価し、スターリニズムにもかかわらず計画経済への道が進歩的だと考えるようになった。以後のカーは、個々の点での種々の再考はあるものの、基本的にはこの考えを最後まで維持した(14)。私自身はデイヴィスのように近いところでカーと接触したわけではないので、基本的にはこれを受け入れるしかないが、ただ、自由主義的信念への最初の大きな衝撃だったのは一九二九年恐慌よりも古く、むしろ一九一四年の第一次大戦勃発だったのではないかという気がする。本書でも各所に第一次大戦を画期とする記述があるし、また「ナポレオンからヒトラーへ」の序文には、そうした感慨が端的に述べられている(15)。それはともかく、第一次大戦以前に既に基礎的な精神形成を終えていたカー(一九一四年の時点で二二歳)にとって、第一次大戦、更には両大戦間期の経験は、自分の出発点を揺るがすようなことであり、そのような激動の中での再考を経て、一九三〇年代以降の世界史の流れが、壮年期以降の彼の知的バックボーンをなすことになったとみることができる。その内容は、つづめていえば、自由経済から計画へ、個人主義から大衆民主主義へということであり、一九五一年刊の「新しい社会」や、「歴史とは何か」では特に第六章にそうした考え方がよくあらわれている。
これは一九世紀イギリスの知的伝統の中で育った人にしては驚くべき変化であり、自己超克である。彼が英米の知識人界で孤立した存在だった――日本では彼の著作の大半が翻訳され、大きな影響を及ぼしたため、あたかも知識人界の主流のような様相を呈したが、それはむしろ日本の特殊事情というべきだろう――のも、自然なことといえる。そうした孤立に耐えて、新しい境地を切り開いたことが賛嘆に値するのはいうまでもない。そのことを十分に認めた上で敢えていうのだが、より深刻なのは、過去の制約を乗り越えて「進歩した」と思ったことが、またその後で更に乗り越えられる可能性があるということである。一九八〇年代以降の世界史の流れは、カーが「現代」の基本的な流れと見た「自由経済から計画へ」を反転させた。「没落していく西欧」に代わって「進歩」の担い手となるはずだと考えられたソ連やその影響を受けたいくつかの発展途上諸国はその期待を裏切り、むしろある意味では西欧の巻き返しとも見られるような現象が起きたりしている。もちろん、これもまた固定的な状況ではなく、今後も更なる逆転が生じるかもしれない。こうした流れの変化が無限に繰り返されると考えるなら、ある時点での「進歩」というものは、その段階でしか意味をもたない、限定されたものだということになるのではないか(16)。ここで、「進歩」――特に実践的な意味での――というものの意味について正面から考えてみる必要に迫られる。 

これまで、知的な意味での進歩と実践的な意味での進歩とを基本的に区別しながら、主に前者の問題について論じてきたが、このように考えてくると、どうしても後者の問題に立ち入らざるを得なくなる。前の方でも触れたが、カー自身が両者を重ね合わせて理解しているという事情があるからである。そこで、その重なり方について、改めて確認してみよう。
歴史とは現在と過去の対話だという言葉は有名だが、本書には、実はもう一つそれをうけた形で、未来と過去の対話という捉え方がある。歴史上の事実にせよ、それらの間の因果連関にせよ、無数に存在しているわけだが、歴史家はそれらの中から特に重要と考えられるものを選び出す。その際、何が重要かの基準は、未来に対するヴィジョンによる。「未来だけが、過去を解釈する鍵を与えてくれる」。こうして、「過去の諸事件と次第に現われてくる未来の諸目的との対話」としての歴史という見方が打ち出される。それは「歴史における方向感覚」の重要性とも表現されている。単純に言い換えるなら、歴史が今後どのような方向に動いていくか、また動いていくのが望ましいかという未来へのヴィジョンが歴史家の視座を規定し、そのような視座に立って歴史家は過去と対話するということだろう。ここには、実践的な意味での「進歩」――社会にとって望ましい方向への変化――のヴィジョンが歴史研究のあり方を規定し、また歴史研究の結果がそのヴィジョンの再形成を促すという相互関係が想定されており、そうした相互作用の展開こそが知的意味での「進歩」でもあるという考えが示されている。
そのような相互関係が一応想定されるとして、では、何が「進歩」なのか、「望ましい変化」なのかということの判断基準が問題となる。これもまた哲学的に掘り下げていくなら、果てしない泥沼のようなことになるかもしれないが、とりあえずごく常識的な議論として、かなり緩やかな基準で考えるなら、大多数の人に共有される「望ましさ」を想定することができないわけではない。たとえば、いわれなく苦しむ人が少なくなること、誰もが自由な自己実現の条件を与えられるようになること、物質的にも精神的にも豊かな生活ができるようになること(但し、これは環境破壊その他のマイナス面によって相殺されない限りという条件付きだが)等々といった目標を挙げるなら、これらが望ましいものだということは、抽象論としていえば、大多数の人が同意するだろう。
しかし、厄介なのはむしろここから先にある。望ましい様々な目標がすべて重なり合うなら問題ないが、そういうことはむしろ稀だろう。そこで、それらが相互に両立可能でない場合に、ある面でのプラスと他の面でのマイナスとをどのように総合して考えたらよいのかという問いが出てくる。特に、プラス面を享受する人とマイナス面を担わされる人とが同一でない場合に、両者を差引勘定することが許されるのか。また、ある時期のマイナスがその後の時期のプラスによって償われるとしても、それまで生き延びることのできない人にとって、それは「進歩」といってよいのか、という疑問が出る。
もし一人一人の個人をかけがえのない価値と見る立場に立つなら、たとえ多くの人の幸せのためだとしても、他の誰かを――後者の方が少数派だとしても――犠牲にしてはならないということになる。個人主義を基本原理とする経済学においては、他の誰をも不利にしないような資源配分変更ということを問題にし、そのような変更が起こり得ないような状態を「パレート最適」と呼ぶ。しかし、現実の歴史においては、誰かを不利にしながら他の誰かが有利になるということが――経済学的には不合理なことだが――頻繁に起きている。その場合、有利になる人が少数だったり、その有利さがごく小さなものだったりするなら、社会全体にとっての改悪だということが容易にいえるが、もし多数の人が相当大きな利益を得たなら、どう考えるべきか。犠牲にされた少数者のことは無視してもよいのだと言い切るなら冷たすぎることになる。かといって、現に多数の人が大きなプラスを獲得できたのであるなら、彼らに対して「お前たちはそんなことをすべきでなかった」とお説教しても、結果を覆すことはできないだろう。歴史はそういう風にして動いていくものなのである。
カーはこの問題をはっきりと意識している。「代償を払う人間が利益を得る人間と一致することは稀にしかない」という指摘である。一八‐一九世紀イギリスの工業化は、農民の土地からの追放、劣悪な労働条件、児童労働の搾取などといった犠牲を伴いつつ、進歩を実現した。西欧諸国によるアジア・アフリカの植民地化は植民地住民の犠牲において、本国の経済発展のみならず植民地におけるその後の進歩をも準備した。しかし、植民地時代に苦難をこうむった人たちは、今日の進歩の果実を味わう前に死んでしまった。こうして、歴史における進歩は、その苦難をこうむった人たちに間に合うように報いをもたらしてくれるものではない。にもかかわらず、それらはやはり「偉大で進歩的な達成」だったのであり、進歩を押しとどめて、工業化をしなかった方がよかったなどという歴史家はいない、とカーはいう。
このような議論をうけて、カーはエンゲルスの「歴史の女神は死骸の山を越えて勝利の戦車を引いていく」という言葉を引用している。これは、膨大な犠牲(悪)を伴ったにしても、それでも進歩(善)がいえるという判断である。やや前の方に、「より小さな悪」「善となるかもしれない悪」「進歩の代償」といった表現があるのもこれと関係する。「より小さな悪」といえども「悪」である以上、それを安易に肯定してよいのかどうかは、深刻に考えるなら難問である。しかし、善か悪かの選択ではなく、「より大きな悪」(と思われるもの)と「より小さな悪」(と思われるもの)の間の選択が迫られるという状況は、現実問題として、非常にしばしば我々を取り巻いている。その場合、多くの人は、大なり小なり良心の痛みを感じながらも、「より小さな悪」(と思われるもの)をとろうとするだろう。
この問題は、やや文脈が異なるが、歴史研究においてどのような事実を取りあげるかという問題とも重なりあう。現に達成され、「進歩」を促進した事実を重視するカーの歴史観からは、「歴史は否応なしに成功の物語(a success story)になる」。歴史は人々が行ないそこねたことの記録ではなく、何を行なったかの記録だからである。これは「勝てば官軍」史観に近づく。実際、彼自身がThe losers pay.と述べている個所もある。但し、「勝てば官軍」という言葉を使っているからといって、単純にそれだけですべてを割り切っているわけではない。「成功の物語」ということを述べた個所のすぐ後では、「しかし」を多用して、幾重もの留保を付けている。主流派だけでなく反対派をも視野に入れるべきこと、辛勝を独走のように描いてはならないこと、敗者が勝者と同じ程度に大きな貢献をしたこともあること等々である。そのような留保をつけた上でではあるが、歴史家は勝者にしろ敗者にしろとにかく何かを成し遂げた人を問題にするのだ、というのがカーの主張である。やや自己流に敷衍するなら、ある時点で「歴史の敗残者」として屑籠に捨てられた人がかなりの時間を経てから再評価されるなら、そのことによって、その敗者も歴史研究の対象として復活する。しかし、いつまで経っても屑籠に消えたままの人もおり、そういう人をほじくり出すのが歴史家の課題ではない、ということになるだろう。このような見方は、敗残者や犠牲者に対して冷たいのではないかとの疑念もないわけではないが、無数の対象の中から限られた事例を選び出さねばならないという制約の中では不可避ということかもしれない。
さて、以上にみたような歴史観はカー自身の主張として提示されているが、同時に、歴史家なら誰もがそう考えるはずだという書かれ方をされてもいる。一九六〇年代イギリスの知的状況に通じているわけでないので、漠然とした想定をすることしかできないが、おそらく当時はまだ人間の理性およびそれを通した進歩というものへの期待感が一般的にかなり大きかったという事情があるのだろう。将来の進歩への期待が大きければ、犠牲は相対的に軽視されるし、他方、期待が小さければ、犠牲の重みが増大する。産業革命は種々の犠牲を伴ったにしても偉大な進歩だというのがほとんどすべての歴史家の共通見解だとカーはいうが、おそらく今日では、機械打ち壊し(ラッダイト)運動などを単純に「無知蒙昧な反動」と片づけられないという考えが当時よりも強まっているだろうし、「進歩」という言葉そのものが全体としてかつてのような輝きを失っているように思われる(17)。
この問題は人間の理性をどこまで信頼できるのかという論点とも関係する。カーは、おめでたい理性万能論者というわけではなく、「理性の濫用」という問題にも言及している。だが、これに対する回答は、一つには、どのような発明・新技術もマイナス面を伴ったが、だからといってそれらのなかった過去に戻るわけにはいかないということ、そして第二に、理性の濫用による悪を克服するのも理性によるのだ、というものである。ここにも、マイナス面を承知しながらも全体としての進歩に期待を寄せるというカーの基本姿勢が示されている。
本書刊行後の数十年間の歴史がこの問題をますます大きく、かつ深刻なものにしたということはいうまでもない。新しい科学・技術革命、情報通信技術の飛躍的革新を軸とする社会経済変動、遺伝子技術などを含む科学の実生活への応用などは明らかに人間理性の飛躍的拡大であると同時に、その濫用が取り返しのつかない災厄を招くのではないかとの危惧を広めてもいる。社会主義経済の破綻と関連して、「啓蒙的理性の倨傲」という問題――これはドストエフスキーやトクヴィルが先駆的に提起した問題でもある――が改めてクローズアップされてもいる(18)。カーの本書第二版の序文および準備ノートは、そうした状況を彼も意識していたことを示しているが、種々のペシミズムを強める要因にもかかわらず、依然として楽観主義者としてとどまろうという姿勢が基調となっている。
二〇世紀の歴史において、人間理性や進歩への信頼を揺るがすような事例は、いやというほどたくさんある――ホロコースト、スターリンのテロル、核兵器開発、社会主義の崩壊、地球環境の大規模な破壊等々を挙げるだけで十分だろう。では、ひたすらなペシミズムしか結論はあり得ないのだろうか。そのように考えたくなる気分にときとして襲われはするものの、それでも何とかして生きていこうとするなら、自暴自棄やシニシズムの解毒剤として、穏やかな楽観論ともいうべき姿勢が不可欠なのかもしれない。カーの叙述には、そうした考えを示唆するかにみえる個所もある。「進歩の観念がなかったら、一体、社会はどうして生き延びて行くことが出来るのか、私には判りません」、「未来へ向かって進歩するという能力に自信を失った社会は、やがて、過去におけるみずからの進歩にも無関心になってしまうでしょう」といった記述である。
これは穏当な議論だと私も思う。実際、将来への予測がひたすら暗いものばかりであるなら、人は生きていくことも、ましていわんや子を産み、育てていくこともできない。確証があろうがなかろうが、とにかく人が前向きに生きていくのは、何らかの希望に支えられてこそである。だから、このカーの主張自体に反論するつもりはないのだが、ただ、その議論の性格をもう少し突っ込んで確認しておく必要があるように思う。右の二つ目の引用文で「自信」と訳されている語の原語はbeliefであり、この引用個所の前後にも何度か同じ言葉が使われている。beliefとはいうまでもなく「信念」とも「信仰」とも訳される言葉であり、訳書でも「信仰」という言葉があてられている個所――たとえば「進歩の信仰」――もある。カーは歴史は科学だと強調しているが、これらの個所では、科学よりもむしろ「信念」ないし「信仰」に立論の基礎をおいているようにみえる。
理性の濫用の危険があるからといって非合理主義や神秘主義に走っても建設的な結論は出てこないというカーの指摘はまっとうなものであり、そこから、たとえ一〇〇%の保障はないにしても我々はとにかく理性によって生きていくしかないと結論することもできる。しかし、それは「理性以外のものを当てにすることはできない」というネガティヴな指摘に過ぎず、「理性を信頼することができる」というポジティヴな命題の論証ではない。ここには、微妙ながら重要なギャップがある。前者はかなりの確度をもって主張することができるのに対し、後者はまさしく「信仰」の対象でしかないのではないか。カーよりも後の時代の、あまりにも多くの悲観的現実を見てしまった我々としては――あるいは、ここで一人称複数を使うべきではなく、よりペシミスティックな体質をもつ私は、と単数形でいうべきなのかもしれないが――「信仰」はかろうじて共有したいと思うが、その「信仰」が現実によって裏付けられるか否かについては、分からないとしかいいようがないと思う。おそらくカーと私の判断が分かれる最大の点はここにあるだろう。 

最後に、カーの「進歩」観が試される最大の具体例としてのロシア革命およびソ連史について考えてみたい。いうまでもなく、これはカーがその後半生に心血を注いだ研究テーマであり、そして、そのようにソ連史を重要視するということ自体の中に、世界史におけるソ連/社会主義の重要性という判断が潜在している。この判断は、今日では多くの人によって異を唱えられるだろう。
誤解を避けるために断わっておかねばならないが、カーのソ連観は基本的にはその歴史的意義を高く評価するものだが、だからといって、彼のソ連史叙述は決してソ連の歴史を美化するものではなく、その中の汚点についても冷静な筆致で描いている。汚点があるからといって敢えて呪詛まではしないという点に欧米学界における彼の特異性があるが、ともかく彼のソ連史研究はその包括性、バランスの良さ、しかも広汎な論点のほとんどすべてについて厳密に第一次資料を渉猟して書かれているという実証性などの点において抜きんでており、現代歴史学の最高峰に位置するということは、立場を超えて認められている。ここでの問題は、カーのソ連史叙述それ自体ではなく、その研究を推し進めた背景としての歴史観にある。歴史観は作品を生み出す原動力となるものだが、原動力が人々に共有されるかどうかということと、結果的に生み出された作品がどのように評価されるかということとは一対一的に対応するものではない。カーの場合、結果としての作品は――もちろん個々の論点についてはその後の研究の進展によって修正される余地があるが、全体としてみれば――誰もが高く評価するものだが、そのことと原動力についての評価は異なるというのがここでの問題である。
欧米のソ連史研究者の中でカーと対照的な立場をとる人たちは決して少なくないが、典型的な代表の一人としてリチャード・パイプスを挙げることができる。冷戦期に対ソ強硬論のイデオローグでもあった彼は、ソ連解体の数年後に書いた概説的著作で、自らの先見の明を誇る調子で、次のように書いている。ソ連史は膨大な規模で種々の惨禍を生みだしたが、「そのような前例をみない惨禍を、感情に動かされずに見ることができるであろうか、また、見るべきであろうか。(中略)。激情のさなかに生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに、理解することができるというのであろうか。十九世紀ドイツのある歴史家は「歴史は怒りと熱狂をもって書かれねばならないと、私は主張するHistoriam puto scribendam esse et cum ira et cum studio」と、書いた。アリストテレスは、あらゆる問題において節度を説いたが、「憤りを欠くこと」が受け入れがたい状況がある、「怒るべきことに怒っていない人々は、馬鹿と思われるからである」と述べている」(19)。
ここでパイプスは批判の対象を名指していないが、カーが主要標的として念頭におかれているのは確実である。もっとも、先に述べたように、カーは一般論としては価値判断を否定しておらず、ただそれを個人道徳ではなく社会集団や制度についてみようとしているのだから、カーが一切の価値判断を拒否しているかに捉えるのは誤解である。その上で、ロシア革命およびソ連の評価は、やはり両者の間で大きく分かれる。カーは、「死骸の山を越えて」という表現に見られるように、数多くの犠牲があったことを承知の上で、なおかつ「進歩」と捉えるが、パイプスはそうした姿勢を許せないとするのである。では、この対抗をどのように考えるべきだろうか。
もしカーがソ連史における種々の惨禍を見落とし、現実を美化して描いていたのであるなら、それは歴史家として大きな欠陥とされなくてはならない。しかし、先に述べたように、カーはそのような誤りを犯したわけではない。問題は、見落としたかどうかではなく、それをどのような歴史的展望の中におくか、そしてそれと関連して、熱を込めて呪詛するか淡々たる記述にとどまるかといった点にある。この問題を考える際に、パイプスが意識してかせずにか触れずにいる論点を思い起こす必要がある。それはイギリスその他の国の初期工業化やアジア植民地化との比較である。カーは前述のように、イギリスの工業化について、それは多くの惨禍と犠牲を伴ったが、それでも全体として偉大な進歩だったとする評価を前提し、それと同様な評価をソ連の工業化にも当てはめたのだった。これに対し、パイプスはイギリスその他の初期工業化や植民地支配の犠牲については触れていない。
この問題を考えようとしたときに私の頭に思い浮かんだのは、やや古い文章だが、フォン・ラウエの鮮烈な比喩である。それはロバート・コンクェストとの論争の中で提起されたものであり、比喩自体は先ずコンクェストの方から提出されている。後者は、「スターリニズムが工業化実現の一つの方法だというのは、人肉を食うのも蛋白質摂取の一つの方法だというようなものだ」と述べて、たとえどのような目標のためにもせよ、このように非人道的な手段を許すことはできないのではないかと問いかけた。この問いに、ラウエは次のように応答する。コンクェストの指摘には確かに一面の真実がある。しかし、その喩えでいうなら、アンデス山脈で飛行機事故に遭い、人の肉を食ってようやく生き延びた人と同じような状況にソ連はあったのだ。人肉を食う行為に共感できないのは自明だ。しかし、そのように飢えて追いつめられた人を批判する道徳的権利を、われわれ肥え太った金持ちはもっているのだろうか(20)。これは厳しい響きをもった議論である。確かに、栄養過剰・肥満・生活習慣病に悩み、ダイエットに明け暮れる「先進国」の人々が、栄養不足で生きるか死ぬかの状況にある人の非道徳的行為について高みから見下ろして批判するのは、ここで指摘されているような偽善性を免れないだろう。
このラウエの文章はソ連解体よりも前のものだが、ソ連解体後に噴出した議論を先取り的に批判したもののようにも読める。確かに、スターリン時代の工業化は大規模な飢饉や大量テロルなどの巨大な惨禍を伴っていた。そのことは、誰も否定することのできない事実である。それを、「それでも進歩に貢献した」ととるか、「これほどにも大きな犠牲は決して正当化できない」と考えるかは、争う余地があり、現に争われ続けている。ただ、もし後者の観点をとるなら、その際に、批判者が「肥え太った金持ち」の観点から高みの見物をしているのではないのかという問いにさらされることだけは覚悟しておくべきだろう。
やや乱暴に整理するなら、論理的には四通りの立場がありうる。1資本主義的工業化であれ、社会主義的工業化であれ、それに伴った惨禍はあまりにも大きなものだったから、それを「進歩」などとして肯定的に見ることはできないという進歩否定論。2どちらも種々の犠牲を伴ってはいたが、それでもやはり「進歩的」だったとするカーのような立場。3資本主義的工業化は進歩的だったが、社会主義はそうでないとする立場。4社会主義的工業化は進歩的だが、資本主義はそうでないとする立場。これらのうち、かつてソ連の公認イデオローグによって4が鼓吹されたことがあり、それが権威を失墜したことの反作用的な結果として、3が興隆しているというのが昨今の状況である(パイプスもその一例)。だが、3と4は、結論こそ逆向きであるものの、どちらも手前勝手なダブルスタンダードをはらんでいるという点では同質である(21)。これに対し、1と2はともに論理的には一貫性がある。そして、「進歩」への疑念が増大した今日にあって、カーのような考えをより根底から批判するのはパイプスのような3ではなく、むしろ1の進歩否定論かもしれない。とはいえ、進歩というものを全面的に否定し尽くしたとき、そこにどのような積極的な歴史像なり価値観なりが生み出されるのかは定かでない。
敢えて私自身の観点をいうなら、前項で述べたように、「進歩」というものにそれほど楽観的にはなれず、従って、巨大な惨禍を伴ったスターリン的工業化を「それでも進歩的だった」とまで言い切る気はないが、さりとて、史上数限りなく存在した人類の蛮行を棚に上げてソ連のみを一方的に呪う気にもなれない。また「反進歩論」の立場に対しては、心情的に惹かれるものがないわけではないが、それをそのまま結論とすることにはためらいがある。いってみれば、カーのような「進歩」信仰を抜きにした上で、かといって、種々の汚点を呪詛する――1の立場からにせよ3の立場からにせよ――こともなしに、一種の諦念をもちながら惨禍と熱狂の両面的過程を描くのが私なりのソ連史ということになるだろう。 
(1)原書初版は一九六一年、邦訳は一九六二年刊。また英語での第二版が著者死去後の一九八六年に出ている(次注に記すような序文と準備ノートが付けられているが、本文自体は初版と完全に同じものである)。以下では、便宜上、邦訳書の頁数を記すが、必要に応じて原書第二版を参照し、訳文は多少変更する場合もある。
(2)このことは、死後に刊行された第二版の序文(この原稿は死の直前に完成されていた)および第二版のための準備ノート(編者デイヴィスが要約的に紹介している)からも強く印象づけられる。カーは初版刊行後の一九六〇年代から八〇年代初頭にかけて台頭した様々な新しい知的潮流――フランクフルト学派、構造主義、トマス・クーンやマイケル・ポラニーの科学論、アナル学派等々――についても、かなり丹念な注意を払っている。これは、初版の時点で彼が既に七〇歳近かったことを思えば、驚くべきことである。
(3)「新しい」歴史学についての概観として、ピーター・バーク編「ニュー・ヒストリーの現在――歴史叙述の新しい展望」人文書院、一九九六年。また、その一つの代表的潮流である「言語論的転回」についての批判的検討として、ゲオルク・G・イッガース「歴史思想・歴史叙述における言語論的転回」「思想」一九九四年四月号、遅塚忠躬「言説分析と言語論的転回」「現代史研究」第四二号、一九九六年、小田中直樹「言語論的転回と歴史学」「史学雑誌」第一〇九編第九号(二〇〇〇年九月)参照。これらはいずれも、「言語論的転回」の問題提起的意義を認めつつ、そのまま追随するのではなく、それを史学がどのように受けとめるかを考えようとしているようにみえる。
(4)本文で見たのとはやや離れた個所に、「関係の客観性」という表現があり、これは示唆的な言葉である。だが、関係が客観的であるとはどういうことなのかについて立ち入って論じているわけではない。
(5)見方によっては、ここまでさかのぼらないと歴史もきちんと論じられないという考え方もあり得る。この点については別の機会に考えてみたい(中途半端で断片的な言及だが、金森修「サイエンス・ウォーズ」に関する読書ノートである程度触れた)。
(6)カーはここで、カエサル以前にもそれ以後も何百万という人がルビコン川を渡ったが、そのことは「一向に誰の関心も惹かない」という例を挙げて、無数の「事実」の中から特定のものだけが「歴史的事実」として認定される事情を説明している。この説明に対し、「ニュー・ヒストリー」の立場に立つジム・シャープは次のように批判している。カーのこの文章は、カーが輸送、移民、地理的移動性の歴史について思いをはせなかったことを物語る。同様の別の例では、カーが犯罪の歴史に関心がなかったことが分かる。カーに代わるべき新しい歴史入門書は、下からの歴史と近年の社会史の広汎な発展に基づいて、過去に対するもっと広い見解をとるべきだ、というのである。ジム・シャープ「下からの歴史」ピーター・バーク編「ニュー・ヒストリーの現在」。私見では、この批判は底が浅い。確かに、カーは、後の社会史が重視するような一連の事項への関心をあまり示しておらず(皆無だったわけではないが)、その意味で視野が狭かったということは、言って言えなくはない。しかし、それは、ある時点に立って過去の学者の説を振り返り、「昔の人は知恵が浅かった」というようなもので、生産的な批判ではない。問題の個所で、カーは無数の「事実」の中から何を有意味な対象として選択すべきかという問題を論じており、それは絶対的に固定されたものとして予め与えられているわけではないということを指摘している。だから、ある時点でカーおよび彼の同時代の多くの歴史家たちが「意味なし」として切り落とした事項について後の歴史家たちが「意味あり」と認定するというような変化の余地があることは、カー自身よく承知していたのである。問題は、ただ単に「切り落とす」か「視野を広げる」かといったところにあるわけではなく、もう少し別のところにある。いくら「広い見解をとるべきだ」といっても、文字通りにありとあらゆることを論じることは不可能であり、何らかの取捨選択は不可避である。カーを批判する筆者(ジム・シャープ)自身、社会史が「左翼版の故事来歴学」に堕することへの警戒心を示している。では、何が「有意味」であり、何が「単なる故事来歴学」なのか、その基準をどうやって確定するのかということが問題となる。この問いには、カーもシャープも、ともに答えていない(この注は二〇〇一年一一月に追加)。
(7)私見を付け加えるなら、この一般化可能性という問題は、どのような文脈で対象を取りあげるかによっても異なりうる。ある日にトロツキーが風邪を引いて重要な会議に出席できなかったという事実は、政治史の文脈においては単なる「偶然」とされる。どういう政治家がどういうときに風邪を引くかは一般化して捉えることができないからである。これに対して、医療史の観点からは、人はどういう条件下にあると風邪を引きやすいのかということが一般化可能性をもつテーマとなるかもしれない。
(8)話がやや逸れるが、日本を含む現代社会では「科学」というものの価値を非常に高いものとする一般的傾向があるため、科学と人文学の区別論は、「人文学などは厳密性を欠くから科学ではない」という人文学蔑視論の立場から提出されることが多い。しかし、カーがここで批判的に指摘しているのは、それとは全く異なり、むしろ人文学に特権性を保存しようという考えのことである。
(8)とりあえず、リッケルト「文化科学と自然科学」岩波文庫、初版一九三九年を挙げておく。なお、この問題については、ポパー「歴史主義の貧困」についての読書ノートでも触れた。
(10)もっとも、トマス・クーンの科学革命論の考えによるなら、新しい解釈が古い解釈よりも包括的だから前者が後者にとって代わっていくという見方はとれなくなるように思われるが、その点には立ち入らないことにする。
(11)この問題については、かつて塩川「ソ連とは何だったか」勁草書房、一九九四年、一二四‐一二九頁で一度触れたが、そこでは議論がやや不十分だったので、その点を改めて考えてみたいというのがここの趣旨である。
(12)もっとも、ここに挙げた「利子率と失業率の関係」とか「飲酒運転対策と交通事故の関係」といった例は、実は、かなり単純化された因果関係であって、現実の歴史研究をこれと同次元で考えるわけにはいかない。先に触れた「法則定立型」研究と「個性記述型」研究の問題もこれと関わる――後者では、無限に複雑な事象を取り扱い、変数間の関係もすっきりとした数式に示すことができない――だろうが、ここではこの点には立ち入らないことにする。
(13)もっとも、「個人」をまさしく独自の個性をもった個人として捉えるために不可欠な個別的事情や当人の具体的言動に関わるデータは、多くの場合、「大物」についてのみ残されており、「無名の庶民」については統計や社会学的データを通してしか接近できない。その意味では、個性を重視する歴史家が「大物」に着目しがちなのは理解できる。しかし、これはあくまでも接近の便宜の問題に過ぎず、十分な個別的データがなくても「名もなき庶民」が「個人」であることには変わりない。
(14)R. W. Davies, "Review Essay: E. H. Carr," Russian Review, vol. 59, no. 3, July 2000, pp. 442-443.また、ロバート・W・デイヴィス「E・H・カーの知的彷徨――変化するソ連観」「思想」二〇〇〇年一一月号も参照。なお、溪内謙は第二次大戦後のカーについて、ドイッチャーとの対話を経て大きな変化があったとする。溪内謙「現代史を学ぶ」岩波新書、一九九五年、八二‐八五頁、同「E・H・カー氏のソヴィエト・ロシア史研究について」(カー「ロシア革命」岩波現代文庫、二〇〇〇年の解説)、二八九‐二九六頁。これに対し、デイヴィスは第二次大戦後についてはカーの世界観は基本的に一貫していたとして、溪内のいうようなドイッチャーの影響による変化を重視していない。デイヴィスと溪内はともにカーと非常に親しかったし、二人のソ連史観も近い関係にあるが、この点では微妙な差異を示している。
(14)カー「ナポレオンからヒトラーへ」岩波書店、一九八四年、「はじめに」iii‐iv頁。
(15)時間というものの捉え方として、円環としての時間観(季節の変化のようなサイクルが何度となく繰り返されるというイメージ)と直線としての時間観(歴史がある方向に向かって直線的に進歩/あるいは堕落していくというイメージ)とがあり、「進歩」の観念は後者と適合的だということはよく指摘される。これらと対比するなら、私の時間観は、円環でも直線でもなく、不規則な波動ということになるかもしれない。
(16)大学の演習(学部・大学院合併)で本書をテキストとして取りあげたときの討論でも、大多数の参加者がカーの議論にはいまなお学ぶものが多いという感想を述べる中で、ただ一つこの点だけはうなずけないという感想が集中したのが進歩の観念だった。
(17)塩川「現存した社会主義」勁草書房、一九九九年、五一五‐五一六頁。「啓蒙的理性の倨傲」という表現は、井上達夫「他者への自由」創文社、一九九九年、二九頁。
(18)パイプス「ロシア革命史」成文社、二〇〇〇年、四〇四‐四〇五頁。
(19)Theodore H. Von Laue, "Stalin among the Moral and Political Imperatives, or How to Judge Stalin?" Soviet Union/Union Sovietique, vol. 8, pt. 1 (1981), p. 12.
(21)一つの考え方として、次のような議論もありうる。「資本主義的工業化も社会主義的工業化も犠牲と成果の両面があったというだけでは一般的すぎる。その犠牲と成果の規模を測り、コスト・ベネフィット計算をすることで、両者の優劣を論じることができるし、そうすべきだ」。これはこれでそれなりに成り立ちうる考えであり、特に政策論的な発想に立つなら、こういう風に考えるのが自然だろう。ただ、その場合にも、次のようないくつかの難問が残る。1ここでいう犠牲も成果も、それぞれ非常に多様で異質な要素からなるが、それらをどのように計量し、比較することができるのか。2仮に計量が何らかの形で可能だとしても、資本主義工業化・社会主義的工業化ともに様々な異なった国で様々な異なった時期に様々な異なった条件下でなされたのだから、そうした多様性を超えた一般論として優劣をいうことは無意味ではないか。3コストを担わされた人たちとベネフィットを享受した人たちはしばしば別だから、どんなにベネフィットが大きかったとしても、コストを担わされた人たちにとってそれは何の慰めにもならないのではないか。 
補注
本文の三で、歴史と科学の関係という論点に触れたが、そこにおける「科学」観は、基本的にはカーが本書を書いた一九六〇年代初頭時点の自然科学観を基礎としていた(私自身が中学・高校・大学教養課程で自然科学の初歩を教育されたのも六〇年代のことであり、その後は、そうした世界から縁遠くなってしまった)。その後、半世紀近くの間に「科学」のあり方もずいぶん大きく変わっているから、今となってはカーのような「科学」観は時代遅れだという見方もありうる。ジョン・ギャディスの近著「歴史の風景」などは、そうした観点から、「歴史と科学の関係」を、いわば二一世紀初頭版に書き換えようと試みている*1。私自身は、現代科学の動向に通じているわけではないので、この点について立ち入って論じる資格はないが、あえて漠然たる読みかじり、聞きかじりで言うなら、確かにここ数十年の科学の変化には非常に大きなものがあるようである。
ある時期まで、「科学」といえば物理学が「学問の女王」などといわれ、単純化していうと、物体の運動が微分方程式によって完全に表現されるというようなスタイルが模範例とされていた。社会科学の一部もこれを真似て、たとえば商品の価格体系を連立方程式で表現するような行き方が「科学化」の例とみなされたこともあった。しかし、最近では、むしろ生命科学とか、情報科学とか、認知科学等々の新しい分野が脚光を浴びているようであり、そこにおいて駆使される道具立ても、ゲームの理論、カオスの理論、複雑系の理論等々、かつての数学とはかなり性格を異にするものになっているらしい。そしてまた、そうした手法の人文社会科学への適用も、かつての状況からは大分隔たり、文理融合型の新しい学問が誕生したり、一部の社会科学において最初に開発された数学的手法がその後で自然科学に適用されるといった事態も起きているらしい。こういったことを一九六〇年のカーが予期していなかったのは明白である。だが、だから彼の科学観は古くさい、という一言で切って捨てることができるかどうかは、微妙である。
この読書ノートでも触れたが、「歴史とは何か」の中にも「不確定性原理」への言及があることに窺えるとおり、ニュートン力学に代表される厳格な決定論と因果法則の世界だけを自然科学の典型とみなしているわけではない。また、本書第二版のための準備ノートには、トマス・クーン、ファイヤアーベント、マイケル・ポラニーらへの言及があり、科学的知識の相対性というものがかつて彼が考えていた以上に大きかったという見解が示唆されている*2。歴史および社会科学に関しては、フランスのアナル学派への言及や構造主義への言及があって、この点でも視野が広がっている*3。もちろん、これ自体、中途半端な試みに過ぎないし、十分「現代科学」に近づいているわけでもないから、これでもって「時代遅れ」という批判を退けることができるということではない。しかし、人はみな時代の子であり、その後の科学の発達を予見できなかったからというだけで非難されるべきではない。
ギャディスがその書物で取り上げているカオス、複雑系、フラクタルなどの理論の具体的内容は、私には十分正確には分からないし、今日の一部の社会科学は高度に洗練した数理的方法を駆使して、現代科学の最前線に躍り出ているのかもしれない。だが、それがすべての分野に同じように適用できるわけではない。ギャディスにしても、それらの理論を実際に歴史研究に「適用」しているということではなく、いわば一種の比喩として歴史学への示唆を読みとろうとしているように見える。その中心的なアイディアは、古典力学的な決定論・因果法則性・還元主義などに依拠するのをやめるという点にあるように見えるのだが、それだけのことであるなら、カーの段階でもある程度意識されていなかったわけではない。現代科学に十分通じていない私としては、これ以上立ち入った議論をすることはできないが、科学の新しい動向に注意を払うべきだという主張自体は当然だとしても、カーの科学観は古くさいという一言だけで切り捨てるのは性急と思われる。
*1 ジョン・L・ギャディス「歴史の風景――歴史家はどのように過去を描くのか」大月書店、二〇〇四年(原書は、John Lewis Gaddis, The Landscape of History: How Historians Map the Past, Oxford, 2002)。
*2 E. H. Carr, What Is History? Second edition, edited by R. W. Davies, London, 1986, pp. xxiv-xxv.
*3 Ibid., pp. xxxii-xxxiv. 
 
「文化のリアリティ」袴田茂樹

 

本書の「まえがき」冒頭に、次のような文章がある。
「ロシア問題の専門家とみられている私が、芸術や美学の問題について語ったり、清水幾太郎について論じたりすると、やや意外に思われる方もあるかもしれない。(中略)大学で私のゼミや講義をとっている学生も、私がしばしばロシア問題をそっちのけにしてモダニズム芸術や映画について、あるいは文化の形而上的なリアリティについて熱っぽく語るのをみて、初めは驚いたり戸惑ったりするようである。ある学生が「先生はロシアの専門家と思っていましたが、先生にとってそれは仮の姿なんですね」と言ったことがあったが、私はこの言葉を聞いてなぜか悪い気はしなかった」。
確かに、著者である袴田茂樹は通常、ロシア問題――それも、国際政治とか権力闘争といった、あまり文化とかかわらないような「生臭い」領域を大きな部分として含む――の専門家として知られているから、本書の第一部が「何を文化を「ほんもの」にするか」と題されており、その内容も、ロシアと関わらない日本の文化状況論がかなりの部分を占めているのをみて、意外の感を懐く読者も多いだろう。
私自身は、著者とは古いつきあい(一九七〇年代前半からだから、もう四半世紀近くになる)なので、彼がこういう関心を強くもっているということは意外ではなく、むしろ本書にこそ袴田の真面目が発揮されているように感じた。「まえがき」に、「私の言いたいことを知ってもらうために自著のうちどれか一冊をといわれたら、ためらうことなく本書を挙げるだろう」とあるのも、ごく自然なものとして受けとめた。著者から本書の恵贈を受けてすぐにそのような感想を書き送ったし、それから数年して東京大学教養学部教養学科ロシア・東欧科の演習を受け持ったときに、ロシアに関心をもつ学生に袴田のことを知ってもらうにはこの本が一番よいのではないかと考えて、これを取りあげたのも、そうした感想によっていた。
しかし、演習でとりあげた機会に本書を再読し、また著者と久しぶりにじっくりと話す機会をもったりするうちに、微妙な違和感も湧いてきた。袴田と私は、もともと体質を非常に異にすることは前から分かっており、むしろ体質が違うからこそ惹かれもするのではないかとかねがね考えてきたのだが、その違いがどのような点にあるのかを多少突っ込んで考えてみようと思いたったのはそうした経緯による。 

本書、とりわけその第一部では、以下のような一連のテーゼが繰り返し説かれている。世の中には、命をも賭けられるような精神の絶対性、「本物の文化」というものが存在する。それがどういうものかは言葉や理屈で説明できるものではなく、「分かる人には分かる」としかいいようのないものである。そして、人間は、それが分かる人と分からない人とに大きく二分される。日本には、かつては「本物の文化」の分かる人が多かったが、現代ではそういう人が非常に少なくなっている(1)。
これらのテーゼのうち、相対的に分かりやすいのは、現代日本の文化状況の衰退という指摘である。多くの読者は、現代日本では、人々があまりにも忙しくなって、文化をじっくり味わう余裕がなくなっているとか、物質的に豊かになった分、かえって精神的には貧しくなっているのではないかといった指摘に、大なり小なり共感を覚えることだろう。もっとも、物質的豊かさはその余沢を文化の領域にまで及ぼすから、美術展も音楽会も盛んに開かれており、世界文学の翻訳も広く行なわれていて、国際的な水準の芸術を享受する機会には事欠かない。また、最近の若い世代の音楽的能力には驚嘆すべきものがある。だが、そうした状況も、かえって芸術への渇きを衰えさせているようにみえる。満腹した人間が美食に飽きるように、いつでも高度の芸術に接することができるという事情そのものが、それへの心からの感動の可能性を乏しくさせてしまっているのである。
しかし、そのような状況を嘆く人も、多くの場合、自分自身がそうした状況に巻き込まれてしまっているということを認めないわけにはいかないのではなかろうか。「現代日本における精神の貧しさ」というようなことをいえば、自分自身もその貧しさを生きているのだという自覚を伴わざるを得ない。少なくとも、私はそのように感じる。
これに対し、袴田の姿勢は異なる。「大多数の現代日本人=本物の文化の分からない人」と「ごく少数の人=本物の文化の分かる人」が鮮明に対比され、彼自身は後者に属することが、強烈な自信とともに断言されている。この自信の強さに、私などは思わず鼻白まずにはいられない。
確かに、袴田の文化的教養は大変なものである。一方では、新古今和歌集、能、源氏物語といった日本古典、他方では、ジェイムズ・ジョイスの小説とかアンドレイ・タルコフスキーの映画に代表されるような現代的・前衛的芸術、こうしたものに対する彼の思い入れには並々ならぬものがある。独善性と紙一重の自信も、現にそのような教養と深い感受性を彼がもっているおかげで、単なる放言であることを辛うじて免れている。
著者が独自の感性をもつ以上、「自分はこう感じる」と語ることそれ自体は、何ら批判されるべきことではなく、それどころか大いに傾聴に値する。「これこそが本物の文化だ」という言い方は、論理よりも信念の領域に属するが、自己の信念を堂々と披瀝することは、今日の日本では滅多にみられない美徳であり、私はそれを尊重する。ただ、それとは異なる感性の持ち主に対して、どれだけ開かれているのかということが、やや気にならないではない。袴田自身は、「人間を単純に二分するような私のやや断定的な言い方は、多くの人たちから批判や拒否反応を受けるだろうということもわかっている」とも書いていて、こうした断定的な言い方が独善性に導きかねないことの自覚を欠いていないことを示しているが、この種の断定口調に魅せられる読者の一部には、ある種の独善的傾向を育てかねないのではないかという危惧もないではない。 

本書の一つの際だった特徴は、このような「文化本質論」ともいうべきものを主題としながら、それがソ連――本書収録の文章の大半は、まだ「ソ連」という国が存在していた時期に書かれた――と日本の独自な比較論を通して提示されている点である。しかも、その基調をなしているのは、「ソ連には本物の文化があり、現代日本にはそれがない」という、実に逆説的な主張なのである。ここには、ソ連時代のロシアへの独自な視線がある。私個人が本書中で最も引きつけられるのは、この側面である。
戦後日本では、一九五〇年代――あるいはせいぜい六〇年代前半――まではソ連という国に対する幻想的な高い評価が広まっていたが、その後、ソ連への評価は長期的に低下を続け、ペレストロイカやソ連解体を待つまでもなく、「理想の国」という幻想はとうの昔に雲散霧消していた。だから、袴田が五年にわたるソ連留学を終えて帰国し、精力的な文筆活動を始めた一九七〇年代の日本では、「ソ連のような国に本物の文化などあるわけはない」というイメージが主流をなしていた。そのような状況の中で、敢えて、ソ連にこそ本物の文化がある、ソ連の文化人には高い精神性がある、と説くのは、実に異例なことであり、人を驚嘆させるものだった。いうまでもないが、これは、かつての教条主義的な立場からのソ連=理想社会論とは全く異質な見地からのものである。彼が注目しているのは、公認の文化ではなく、それとは対極的な一種のカウンターカルチャーだからである。そこには、表面からだけではなかなか分からないソ連という国についての、内側からの鋭敏な観察がある。
繰り返しになるが、これらの文章の大部分は、まだペレストロイカも始まっていなかった「停滞」期のソ連について一九七〇年代から八〇年代前半にかけて書かれたものである。「精神的価値とリーチノスチの復権」(一九七八年)、「Yの軌跡」(一九八一年)、「「精神」の復活」(一九八三年)、「エイゼンシュテインとタルコフスキー」(一九八三年)、「「知識人群島」ソ連」(一九八六年)と並べてみると、ペレストロイカ以前の時期(最後に挙げた作品だけはペレストロイカ開始直後の執筆だが、ここにはまだペレストロイカは反映されていない)の袴田の作品が、いまでも意味を失っていないことに驚かされる。これらの文章をソ連解体後になって改めて論文集にまとめたことは、袴田がもつ並々ならぬ自信を物語るが、その自信はかなりの程度正当化される。
もっとも、著者の語り口がどちらかというと感性にものをいわせるタイプのものであるため、論理的な整理という点では、十分な分析がなされているわけではない。本書にはいくつもの重要な論点や示唆が含まれているが、それらに関する彼の考え方はいささか雑然たる形で提示されている。私はかねてから、袴田が鋭い感性で感受し、われわれに伝達してくれたこれらの問題を論理的に整理し直すことが、袴田ほどの感受性に恵まれていない社会科学者に課せられた課題ではないかと考えてきた。ここでその課題を全面的に果たすわけにはいかないが、いくつかの問題に触れてみたい。
一つの重要な論点として、ロシアの民衆(ナロード)の心性と知識人の精神の間の隔絶ということがある。大衆と知識人の乖離という現象自体は、大なり小なりどの国でもみられることであるし、またロシアにおいてそれが特に著しいということも古くから指摘されてきた。袴田の場合にユニークなのは、革命後には絶滅してしまったと思われがちなロシア・インテリゲンチャの特異なメンタリティーがソヴェト政権下でも脈々と生きていることを、内側からの観察を通して明らかにした点にある。ただ、そうした知識人の心性の特徴は、感覚的に描写されているため、論理的に詰めて考えようとすると、いくつかの疑問が浮かんでくる。
例えば、井筒俊彦著「ロシア的人間」(2)への解説として書かれた第一二章(「「ロシア文学的人間」と読み替えて」)では、一九世紀ロシア文学に登場する「ロシア的人間」は実はロシア庶民の生地とは異質であり、知識人の観念の投影だということが指摘されている。ロシア庶民は即物的なプラグマチストであり、知識人は形而上的な精神性を特徴とする、そして文学に描かれた「ロシア的人間」像は後者に基づいている、というのである。このような「庶民」と「知識人」の乖離の指摘は、一般論としては納得できるものである。しかし、突っ込んで考えると、いくつかの疑問が湧いてくる。ロシア庶民と知識人の間には何の共通性もないのか、もしあるとしたら共通性と乖離の関係をどう考えたらよいのか、またそれが時間的経過の中で変わったのか変わらないのか、変わったとしたらどのようにか――これらの点にかかわるいくつかの観察が断片的に示されてはいるものの、正面から論じることはなされていない。
袴田はドストエフスキーをはじめとする哲学的な文学作品を乱読する経験を日本でもった後でソ連に留学し、モスクワ大学の学生たちがあまりにも「健全」で、「ロシア文学にあふれているあの自意識過剰のひねくれた病的精神」がかけらもなかったことに衝撃を受けたと書いている。モスクワ大学の学生といえば、「庶民」よりも「知識人」の方に近いはずだろう。もっとも、出身からすると「庶民」の家の出だということは大いにありうるが、それにしても、相対的にいえば「知識人」の卵だということは確かである。現に、袴田は彼らとの交友を通して、現代ソ連(ここでいう「現代」とは一九七〇年代のこと)における知識人の精神世界に触れたのである。とすると、同じ人が、ある面では「健全」でプラグマチックな心性をもちながら、他のときには思いがけないほど「本物の文化」への傾倒を示すという二面性をもっているということがあるのではないだろうか。単純に〈物質主義的・現実主義的な庶民〉vs〈精神主義的で形而上世界に生きる知識人〉と二分法的に対比するよりも、一見相容れない両方の要素が同一人物の中に奇妙に共存しているといった現象に着目した方が面白いのではないだろうか。
同じ章では、「形而上世界」にもいくつかの種類のものがあり、今日のソ連知識人が没入しているのは「人間存在の根本的な意味を問うといった実存主義のそれよりも、芸術的、美学的な形而上世界」だということも指摘されている。これも面白い指摘だが、井筒の著書で取りあげられている一九世紀ロシア文学との関連を考えると、やや収まりの悪い叙述である。というのも、大まかにいって、一九世紀ロシア文学が「人間存在の根本的な意味を問う」という性格を帯びていたのに対し、二〇世紀初頭に盛んになったモダニズム芸術はより「美学的」性格――「芸術のための芸術」――を帯びていたという対比があるからである。だとすると、現代ソ連知識人に豊かな精神世界があるという場合、その内容は、一九世紀ロシア文学よりもむしろ二〇世紀初頭のモダニズムとの連続性が濃厚だということになる。では、一体どうして一九世紀と二〇世紀初頭の間にそのような変化が生じたのだろうか。井筒が論じている一九世紀ロシア文学と二〇世紀初頭のモダニズムとはどういう関係に立つのか、そして一体どうして現代ソ連の精神状況は前者よりも後者と連続しているのか――こうした一連の疑問が湧くが、それらへの回答はここでは提示されていない。
知識人と一般大衆の乖離を極度に強調するなら、ひょっとしたら両者は完全に異質な存在なのではないかという疑問をもつ人がいても不思議ではない。ソ連に限ったことではないが、知識人の中にはユダヤ人が相対的に多いことから、〈知識人=ユダヤ人、ナロード=ロシア人〉という図式が描かれれることもある(本書にも、「民衆には伝統的に、反ユダヤ感情と共に反知識人の意識が根強くあった」という指摘がある)。もしこの図式が現実をある程度反映しているなら、両者の乖離はエスニックな差異によって説明されるという考えも成り立ちそうである。袴田自身はそうした立場に立っているわけではないが、第一〇章「この静かなる亡命者たち」では、ユダヤ知識人の特殊性が指摘され、この問題に眼が向けられている。しかし、この章で紹介されているRというユダヤ知識人は、「ユダヤ人でありながらロシア語とロシア文化のエキスを呼吸して生きていた。(中略)彼を西側社会に連れ出したら、彼の創造的精神はたちまちしおれたであろうし、彼自身そのことをよく心得ていた。彼にとって亡命など論外であった」という風に描かれている。
一口にユダヤ人といっても、その中には、「ユダヤ性」を特に明確に意識する人――イディッシュ語やユダヤ教に自己のアイデンティティーを見出そうとする人――もいれば、むしろ基本的にはロシア化(スラヴ化)した人もいる。後者についても、周囲が「あの人はユダヤ人だ」というまなざしを向けるため、それに対応して自己イメージが形成されるという面があるから、言語がロシア化していたりユダヤ教を信奉していないからといって、「ユダヤ性」が皆無になるとは断定できないが、それにしても、「ユダヤ人」と一くくりにされている人たちの中で「ユダヤ性」の自己意識の強い人とそうでない人の区別はやはり重要だろう。前者については、彼らとロシア人大衆の間の溝はまさしく〈ロシア人対ユダヤ人〉という形で図式化されうるが、後者の場合、その大衆からの孤立は「ユダヤ人だから」というよりも、むしろ〈ロシア人の間でのナロードと知識人の乖離〉の一環としてとらえた方がよいということになる。
先に紹介した文章にすぐ続く個所では、「ユダヤ知識人」の話がいつの間にか「ソ連知識人」全般の話になり、そこからさらに「ロシアの大地に根ざした新たな宗教、新しい精神的価値」の追求へと議論が移っている。ソ連の反体制的な知識人というと、ややもすると「西欧的自由・文化」に憧れる人たちと思われがちだが、そうした西欧志向の潮流と鋭く区別される独自なネオ・スラヴ派的潮流もいるという事実は、ソ連・ロシア思想史の注目すべき一局面をなしている。一九世紀ロシア思想史を彩った「西欧派vsスラヴ派」という構図の現代的再版ともいうべき状況が二〇世紀後半のソ連・ロシアにもあるということはペレストロイカ期以降に明白になったが(3)、その点に早くも眼を向けたことは袴田の慧眼を物語る。「どれほど抑圧されても、亡命よりはソ連にとどまることを欲している知識人たち」の存在に言及し、「現在ソ連知識人たちが共有している濃厚な精神世界と人間関係は西側世界に見出すことはできない」という指摘も、〈西側=自由、ソ連=不自由・抑圧〉という図式では見落とされがちな点への重要な指摘である。ただ、ユダヤ知識人について論じる文脈でこれを取りあげるのは、議論を混乱させかねないという気もする。大まかにいって、ユダヤ知識人の多数派はどちらかというと「西欧派」であり、「ロシアの大地に根ざ」そうとするスラヴ派は主としてロシア人(あるいはユダヤ人だとしてもロシア化度の高いユダヤ人)ということになるはずである。ユダヤ知識人の特徴を語る文章と、「ソ連知識人」全般について――その中ではスラヴ派的傾向が大きな位置を占める――論じる文章とは、区別した方がよかったのではないだろうか。
この章の一つのテーマとして、イスラエルへの――そしてしばしばイスラエルを経由してアメリカへの――出国が取り上げられているが、この点でも微妙な二面性がある。一方ではユダヤ人の出国志向が論じられながら、他方では出国を望まなかったり、出国後に後悔する人たちのことが触れられているからである。そこで問題となるのは、「こんな国〔ソ連〕は捨ててしまいたい」という気持と、「こんな国であっても、自分はそこを抜け出すわけにはいかない」という発想とが、どういう相互関係にあるのかということである。例えば、真性ユダヤ人はイスラエルへの出国を喜び、ロシア人やロシア化したユダヤ人はあまり出国したがらないというような分化があるのか、それともエスニシティーに関わりなく同じ人の中に両面があるのか、こうした疑問が浮かんでくるが、それらを解きほぐす作業はなされていない。ユダヤ人知識人の独自性という重要問題に目を向けたのはよいが、袴田が最も深く通じているのはやはりロシア人についてであり、民族問題はロシア人について語る上での一つの対比材料として扱われるにとどまっている――著者自身はそう自覚していないが――ように思われてならない(4)。
知識人と民衆の乖離のもう一つの側面として、政治体制への態度の問題がある。ソ連を理想社会視するかつての幻想が崩れた後の日本では、「ソ連は労働者大衆の解放を掲げていながら、その目標を達しなかった」という見地からの批判が優勢になり、民衆が権力や官僚によって抑圧されているというイメージが広くもたれてきた。このような一般的イメージによるなら、民衆はソヴェト体制の犠牲者・被抑圧者ということになる。そして、反体制の知識人がソヴェト体制を告発するのは、そのような民衆の不満を代弁するものと受け取られることがよくあった。ところが、本書には、そうしたイメージを完全に否定するような文章が出てくる。「反体制知識人はけっして民衆の不満を代弁したのではない」というのもそれであるし、やや長くは、次のような記述もある。
「フルシチョフ時代(5)、民衆のほとんどは生活に満足していた。また彼らには大戦中培われた深い愛国心があった。これは党に対する忠誠とも結びついていた。彼らにはパステルナークもメイエルホリドも必要なかったのである。人権闘争を行なう知識人が街頭デモをしたとしたら、彼らを袋叩きにするのは、官憲よりも前にしばしば民衆であった。「党と民衆は一体である」という、巷にあふれている政治スローガンは知識人にとって事実とみなされた。ソ連知識人が民衆に対して「被害者」意識を持つ所以である。帝政時代のロシアインテリゲンツィアは知識階級であること自体、民衆に対しては罪であると感じていた。彼らが民衆に対し「原罪」意識をもっていたとするならば、ソ連知識人は「殉教者」意識をもっているといえるだろう」。
この点は、突き詰めていくとかなり重大なことになる。民衆が体制的だということは、ソヴェト政権がいくら本来の理想から離れているにしても、なにがしかの「民衆性」をそなえていたということを意味する。袴田自身がそこまで明示的に言い切っているわけではないが、〈民衆に支持されたソヴェト政権〉vs〈それに反逆するインテリ〉という構図が事実上提示されているのである。そして、もしソヴェト政権に否定的な態度をとろうとするなら、その政権を支えている民衆と敵対する覚悟をもたねばならないということになる(6)。
日本や欧米のソ連観察者にとって、ソヴェト政権を批判するのは、ペレストロイカを待つまでもなく、遅くも一九七〇年代には容易なことになっていた。また、それを「ソヴェト政権により抑圧されている民衆」の名において行なうことは、批判者の良心を満足させてくれた。しかし、ソヴェト政権が良かれ悪しかれ現に民衆にかなりの程度支持されており、体制批判者はその民衆を敵に回す覚悟が必要だということは、ほとんど誰にも理解されていなかったように思える。私自身は、一九七〇年代後半から八〇年代前半にかけて(つまりペレストロイカの前夜に)、袴田の問題提起に導かれつつ、その点に眼を向けつつあったが、これに明快な回答を与えるのはなかなか困難なことだった(袴田自身も、それほど明快に結論を出しているわけではない)。
この点は、ペレストロイカおよびソ連解体を通した変化の問題とも関係するが、これについては後で立ち戻ることにして、やや違う問題に眼を向けてみよう。 

本書を読んで誰もが感じる一つの大きな問題は、なぜソ連に、このような「本物の文化」を生み出したり、熱愛したりする高度な内面的精神性が存在するのかという疑問だろう。順序立てて論理的に説明するという書き方がされていないので、推測するしかないのだが、いく通りかの理解がありうる。
一つには、「本物の文化」というものは論理的説明を超越したものだという捉え方が各所で示唆されており、その見地に立つなら、説明しようとすること自体が無意味だということになる。「その真実性はどういうわけか思惟や論理の証明抜きで直感的に絶対の明白性をもって開示される」のだというわけである。本稿の一で触れた点とも関わるが、確かに、芸術には「分かる人には分かる」としかいいようのないものがあり、それが独善性と紙一重であっても仕方のないところがある。とはいえ、そう言い切ってしまうなら、およそ文化とか精神性とかについて、社会や歴史と関わらせて論じることは全く無意味なことになってしまう。袴田がそのような超歴史的な立場に立つのなら、それはそれで一つの見識である。だが、本書の各所には、文化を社会や歴史との関わりで論じ、それでいながら、論理的説明を回避して直観ですべてを割り切ろうとするかにみえるところもある。しかも、「本物の文化」とか「精神性」とかいった言葉で、ところによって少しずつ異なったことを指しているようにみえる(後述するような社会状況との関係を重視する個所がある一方で、そうした社会状況を超越した、何か普遍的なものがあるのだといった感じの個所もある)。そのため、ある個所については、論理的説明はなくても深いリアリティーをもつ発言だと納得できるが、他の個所については、必ずしも普遍的というわけではなく、むしろ個人的趣味を絶対化しているのではないかと感じさせられることもある。
あるいはまた、いわゆる「国民性論」的な見地に立っているのではないかと感じさせられるところも本書にはある。ロシア(あるいは近代以前の日本)には、なぜとは説明できないが、他の国民には滅多にみられないような高度の精神性が備わっているのだという見方である。あからさまにそうは書かれていないが、どことなくそう考えているのではないかと感じさせるような個所があちこちにある。これはある種の説得力がないわけではないが、国民性論一般の常として、割り切りすぎだという印象も残る。もっとも、袴田も国民性ですべてを割り切っているわけではなく、それが不変だと考えているわけでもないことはいくつかの個所の記述から窺える(7)。
他方では、これらとやや異なった説明をしている個所もある。それは、やや図式的に過ぎるにしても、極めて刺激的な見解であり、やや突っ込んで検討するに値する。例えば、こうである。
「真の芸術が生まれる状況が、知的にも倫理的にも自由で豊かな文化社会と言えるかといえば、それはまったく別なのである。専制的な抑圧社会が偉大な芸術を生むことがあるし、いや、自由な市民社会よりも、いっさいの知的自由を認めない独裁社会の方が、芸術の創造のためにはかえって良いのかもしれないのだ」。
その少し先にある文章は、これと同じことをいっているようにもみえるし、やや違うようにもみえる。即ち、禁じられているからこそ好奇心を誘い、「禁断の木の実」であるが故に神秘性が増す、逆に、自由が与えられるなら、「禁断の木の実」に触れようとする精神的興奮もなくなるだろう、という説明である。この個所には、「一面の真実」という言葉があり、袴田自身がこの説明に賛成しているのか、それだけではないと言いたいのか、やや不明確である。
敢えて私見を挟むなら、「禁断の木の実」への関心には二通りのものがあり、それが区別されていないことが議論を混乱させているように思う。一つには、「神秘性」という言葉に象徴されるような、「禁止されているものを入手するためであるなら、命を賭けても惜しくない」といった精神的高揚があり、他方では、「好奇心」という言葉に象徴されるような、「禁止されているから、ちょっとだけ覗いてみたい」という、比較的浅い関心もある。袴田自身は両者を明確に区別せず、「神秘性」という言葉と「好奇心」という言葉を並列しているが、おそらく、前者には深く共感し、後者については、「人がそうした好奇心をもつのは自然だが、それだけでは表面的で、浅い」と考えているのではなかろうか。
それにすぐ続く部分では、独ソ戦期のことが触れられている。生活が極度に厳しく、生命そのものが日常的に危機にさらされているという苦難に満ちた極限状況の中で、「本物の文化」を渇望する精神的高揚がみられたという構図は、それだけとってみれば、スターリンの大テロルの時期と同質のもののようにみえる。現に、袴田の議論は、ここからすぐラーゲリ生活の話へと、切り替えなしに続いている。しかし、私見では、確かにそこには連続性・共通性の要素もあるが、一点において重要な差があるように思われる。大テロル期においては、少なくともその犠牲となった知識人の大部分に関する限り、体制と犠牲者の間の一体性などありえず、知識人の孤立が彼らの悲愴な精神の底にあったのに対し、独ソ戦期には、「ファシストから祖国を守る」という一点で国民的団結が生じ、体制も知識人も大衆も、その限りでの一体感――ソ連史の中で稀な、連帯感に基づく精神的高揚――をもちえたからである。このような認識も、実をいえば、私は袴田から学んだのだが、この文章では、そのことがあまり鋭く指摘されていない。
もう一つ気になるのは、大テロル期であれ戦時期であれ、苦難な極限状況の中でかえって精神が高揚するということはよく分かるが、では逆に、平和と安定の時期にはどうなるのかという問題である。苦難の状況こそが精神の深みを開いてくれるとするなら、苦難が去ることは、「本物の文化」と精神性にとってはむしろマイナス要因ということになるのではないだろうか。実際、国家統制がかつてよりは弱まり、物質的生活水準が徐々に改善された後の「最近のソ連」(ここで最近というのは一九七〇年代‐八〇年代前半のことである)の文学には「少し物足りなく思うことがある」、「社会が弛緩し、緊張感が薄れたせいだろうか」というような個所がある。先に述べたような、緊張感こそが精神の高揚を生むという著者のテーゼからいえば当然の結論だが、これを突き詰めていくと、自由の拡大はむしろ文化的には好ましくないという逆説的な結論が出てきそうであり、かなり深刻な問題になる。
同様に、「ソ連から亡命した知識人たちが、ヨーロッパやアメリカで生活するようになっていちばん失望するのは、ソ連の知識人世界にあったようなあの濃密な精神世界を周りにどこにも見出せないことだ」という指摘もある。ここでは、そのことの理由は特に掘り下げられておらず、「日本のインテリ世界の精神的貧しさ」といった論理的説明抜きの感想が出てくるが、前の部分との論理的つながりからいえば、スターリン時代のソ連のような苦難のないことこそが「熱っぽい精神的興奮の世界」の欠如と結びついているととるのが自然だろう。しかし、著者自身はそこまで議論を煮詰めず、「本物の文化」とは普遍的なものだといった一般論に流れてしまっている。
〈物質的にも窮乏し、政治的にも国家統制の強い、不自由な社会=深い精神性〉vs〈物質的に豊かで、国家統制も緩く、自由な社会=精神性の浅い社会〉と図式化するのは、話を極度に単純化するものかもしれない。社会の状況とその中における個々人の精神のあり方は、それほど直線的に結びついているものではない。著者の叙述も、単線的な結びつきを説いてはいない。しかし、そうした留保をおいた上でなおかつ、本書で強調されているのは、どちらかといえば、そうした関係であるように思われる。次のような叙述も、それを示唆している。
「幸か不幸か、いまの日本では偉大な芸術に必要な霊感の統一を生むほどの迫力のある緊張はない。ほどほどの民主主義体制が発達しているため、独裁体制も、強烈な国家主義や民族主義も国民の宗教的統一もそしてテロも欠いているからだ」。
次のような告白もある。「〔ソ連から日本に帰ってきて〕私が最も恐ろしく思うことは、かつては私自身も帯びていたと思うあの〔精神的な〕磁性が次第に薄れてゆくことである。星を見て震えるあの魂のことである。悲しいことに、磁場が失せると私の磁性も薄れるのだ」。本稿の一で私は、袴田が自らの感性に絶大な自信をもっていると書いたが、それはこうした「恐れ」の感覚を伴っていたのである(遅い時期の文章になると、だんだんこうした「恐れ」の感覚が薄らいでいくような気がするが、これは僻目だろうか)。
このようにみると、文化とか精神性とかいうものは、条件が悪ければ悪いほど、かえって深いものになるという残酷な逆説が本書では説かれているということになる。これは一般論としてはとりたてて新しい見解ではないかもしれないが、ソ連の文化への指摘としては極めて斬新なものとしての意義を帯びていた(8)。 

いくつかの点に分けて検討してきたが、最大の問題は、袴田が注目する精神のありようというものは変化しうるものなのかどうか、もし変化するとしたらどのようにして変化するのか、またその変化をどのように評価すべきか、といった一連の問いである。
先ず、変わりうるかどうかという点についていうなら、袴田の議論が国民性論に傾斜しているため、どちらかというと変わりにくい側面に議論の力点がおかれているという観は否めない。そのことは、本書と対をなす論集「ロシアのジレンマ」(9)の構成によく現われている。同書には、本書同様、ペレストロイカ以前の文章とソ連解体後の文章とが収録されている。ペレストロイカ以前の古い文章を敢えてソ連解体後に再刊することの大胆さはいうまでもなく、そうした文章が今でも古びてみえないことには感嘆すべきものがあるが、初出一覧をよく見ると、ペレストロイカ開始以前、あるいはせいぜいペレストロイカ初期(一九八七年まで)の文章が大部分を占め、その後はソ連解体後に飛んでいて、ペレストロイカ絶頂の一九八八‐九一年の文章は収められていないことに気づく。「文化のリアリティ」の方は政治への密着度が低いためか、一九八八年の文章と八九年のものがそれぞれ二点ずつ収められているが、それでもやはり、ペレストロイカ以前および以後に比べて手薄の観は否めない(一九八八、八九年の文章といっても、ペレストロイカを主題としたのは各一点ずつだけである)。袴田のものの見方は、どちらかというと、「変わりそうにないロシア」(ペレストロイカ以前)や、「一見大きく変わったようでいながら、やはり昔と連続性をもっているロシア」(ソ連解体後)の説明に適しており、激動の過程そのものの分析にはあまり向いていないようにみえる。
とはいえ、袴田が何もかもを固定的にみているわけではなく、変化の側面にも注目を怠っていないのもまた事実である(前注7も参照)。そこで、袴田のペレストロイカ論について、本書以外の文章も参照しつつ検討してみたい。
本書にも他の論集にも収録されていないが、袴田はペレストロイカ初期のあるエッセイで、次のような趣旨のことを述べていた。即ち、初期共産党指導者に多かった西欧的知識人たちがスターリンによって弾圧された後のソ連で出世したのは、「ロシア土着の庶民であり西欧的な教養や文化とは無縁の人々」だった。「つまり一九三〇年代に知識人階級は打倒され舞台の背景に押しやられたのである」。しかし、ソヴェト政権は教育に力を入れたため、新しい知識人が育ってきた。そのため、政権の中枢を占める非インテリ的な官僚(叩き上げの経験主義者・保守派)と、新たに台頭しつつある知識人(改革派)の対抗が生じてきた。ゴルバチョフは前者に対抗して後者に依拠している。「つまり知識人が反撃に出ている」のである(このエッセイ自身が、「知識人の反撃」と題されている)。このように過度に知識人に依拠する点に、ペレストロイカの弱さもまたある、というのである(10)
このエッセイはやや図式的に過ぎるものの、ごく巨視的には、一つの核心をついていた。ペレストロイカの渦中には「インテリの民衆への反撃」というに尽きない多面的な要素がめまぐるしく展開したから、それらを捨象して、ペレストロイカ全体をその点で括ってしまうのは乱暴だが、万華鏡のような過程が過ぎ去った後に何が残ったかと考えてみると、確かに、「インテリの民衆への反撃」が実現したかにみえるところがある(但し、ペレストロイカ初期の時点で袴田は、それが成功する可能性についてかなり懐疑的だったが、結果的にそれは「成功」した。この点では予測が外れたことになる)。先に本稿の二で触れたように、ソヴェト政権下での知識人と民衆の対抗、前者のもつ被害者意識というのがかつての袴田の重要なモチーフだったから、ソヴェト体制崩壊を〈ソヴェト体制と結託してきた民衆にインテリが反撃し、ついに勝利した〉という文脈で捉えるのは、かつての見方との一貫性をもつということにもなる。
これはいささか極論かもしれない。だが、袴田とは全く異なった角度からソ連・ロシア史を研究してきた経済史家のR・W・デイヴィスも、ソ連解体の数年後の著作で次のように指摘している。即ち、現代ロシアのインテリは「ルンペン」という言葉を多用し、ソヴェト政権が「ルンペン」に依拠していたとして、反「ルンペン」の態度をとっている。このような反平等主義と民衆蔑視の態度は、民衆に負い目を感じていた帝政期ロシアのインテリとは明確な対照をなしている、というのである(11)。
帝政ロシアのインテリと現代ロシアのインテリの間に民衆観の大きな隔たりがあるというデイヴィスの指摘は、先に紹介した袴田の記述(注5・6の個所)と重なる。もっとも、デイヴィスと袴田とでは、共通した認識をもちながら、その捉え方はむしろ対極的である。袴田が現代のロシア・インテリに共感を示し、彼らが民衆に対して「被害者」意識をもつことにも理解を表明しているのに対し、デイヴィスは現代ロシア知識人の民衆蔑視の心性に違和感を示しているからである。ソ連・ロシアの外に住む良心的な知識人にとって、民衆がどんな存在であろうと民衆蔑視の態度だけはとってはならないというのは一種の公理のようなものだろう。これに対し、ソ連で長期間暮らし、ソ連知識人の精神世界に深い共感をもつ袴田の態度は良かれ悪しかれ異質である。もっとも、念のため付け加えておくなら、以上では、議論の核心を明確化するためにやや誇張気味の書き方をしたが、袴田自身は、ロシアのインテリと無条件に一体化するとか、ましていわんや民衆蔑視の態度をとるのが正しいといっているわけでもない。やはり、日本に住む知識人として、そこまで言い切るのははばかられるのだろう。だが、では民衆に対してどのような態度をとるべきなのかという点については、明示的に語られていない。はっきりと民衆蔑視の態度をとらないことは、むしろ論理の不徹底、中途半端という観もないわけではない。
評価の問題には後でまた戻ることにして、ペレストロイカの最中の袴田の文章をみてみよう。袴田が珍しく大衆運動の高揚に感染し、やや変化を過大評価しているのではないかと感じさせる唯一の文章は、第一一章(「ソ連における「連帯」シンドローム」)である。ここで紹介されている「ロシア人民戦線」の指導者スクルラートフは、この文章によれば、袴田がかねがね重視してきた「ドゥホーヴノスチ(精神性)」を体現するような知識人であり、しかも炭鉱労働者たちの労働運動を支援しているという。長らく知識人と庶民が乖離し、むしろ対立してきたソ連において画期的なことに、労働者と知識人の連帯が実現しつつあるというのがスクルラートフの見方だというのである。「労働者と知識人の乖離・対立」というのが袴田の元来の図式だったことは繰り返し述べてきた通りだが、ここでは、その構図に遂に変化が生じたのではないかとの期待が表明されているわけである。もっとも、事実と期待の取り違え、「思い入れ」への言及もあり、手放しでの期待ではないが、それにしてもこれ以前の袴田の文章からは想像しがたいような新しい事態に興奮している様子が見て取れる。しかし、これは明らかな過大評価だった。労働者の動向への期待が「思い入れ」に過ぎたというだけではない。袴田がここで非常に重視しているスクルラートフとロシア人民戦線という団体自身が、雨後の筍のように現われた多数の泡のような団体の一つに過ぎず、ペレストロイカの中でいうにたりる役割を果たす運動ではなかったのである。
ペレストロイカ期のもう一つの文章として、本書には、タガンカ劇場の演出家リュビーモフとの対談が収録されている(第一三章)。これはさすがにソ連第一級の文化人を相手に、その劇場にかつて通いつめた経験をもつ著者が行なったインタヴューだけに、興味深い個所が随所にあるが、ここでは二人の間の微妙なズレに注目してみたい。それは次のような個所に示されている(引用はすべて袴田の発言)。
「これはブラック・ユーモアですが、われわれはスターリン体制の精神的な抑圧に対して、ひょっとしたら感謝しなくてはならないのでしょうか(笑)」。
「自由になっても、新しい本物の作品は、そう簡単には現われないようですね。何か芸術の創造のために欠けているものがあるのでしょうか。もしかしたら、抑圧と緊張が不足しているからでしょうか(笑)」。
「唯物論の国での、このような精神性はまさにパラドクスですね。またもや体制に感謝しなければならないのでしょうか(笑)」。
これらの袴田の発言は、逆境こそが高度の精神性を生むという持論からいえば当然のものであるが、現に抑圧が解除され自由が拡大しつつある時期に、かつての抑圧の方が文化のためにはよかったというのは、当事者の神経を逆なでする発言だということは明らかである。もちろん袴田自身もそのことを承知しており、だからこそ冗談めかした「ブラック・ユーモア」として語っているのだが、リュビーモフはこれらに対して、「いやいや、とんでもない」と応じている。もっとも、リュビーモフも、「わが国の生活のパラドクス」に言及しており、袴田的見地と共通する認識をもたないわけではないが、やはりその国の当事者として、「政治の状態が悪ければ悪いほど、文化のためにはよい」などということを明言することはできないのだろう。
以上、いくつかの発言に即してみてきたが、私が断片的に提示してきた疑問を整理するなら、次の三点にまとめられる。第一は、知識人と民衆の乖離がある程度縮小し、知識人の孤立が薄らぐ中で「知識人の反撃」が成功するという見通しは、どの程度当たっており、どの程度過大評価だったのか。第二に、仮に「知識人の反撃」がある程度の成功を収めたとして、その「知識人」とは、高度の精神性を特徴とした古典的知識人なのか、それともそれを失いつつある即物的でプラグマチックな現代的知識人なのか。そして第三に、いずれにせよ、ソヴェト政権の崩壊と資本主義化の進行というその後の事態をどのように評価するか。
第一点についていえば、ペレストロイカ初期までの袴田は濃厚に悲観的であり、ペレストロイカ絶頂の一九八八‐八九年には一時的に楽観論(労働者と知識人の連帯の可能性)に傾いたが、その後、再び悲観論に戻ったというようにみえる。私の考えをいうなら、ソヴェト政権下で教育が拡大し、大衆の知識水準が向上して、知識人と民衆の間の溝がある程度まで狭まったこと――もちろん、あくまでも相対的な問題であり、乖離が完全に消滅するなどということはあり得ないが――は、やはり事実としていえるように思う。その限りでは、確かにロシア社会は変わったのである。そうしたロシア社会の変化はペレストロイカで急に生じたというよりも、それまでの長い年月の間に徐々に進行していたのが表面化したとみるべきだろう。そうでなければ、ペレストロイカなど起こりようもなかっただろうし(ゴルバチョフがいくら上から音頭をとっても、それに呼応する自由な言論のうねり、そしてそれをとりまく大衆的な規模の熱気などはなかったろう)、ソ連解体後のロシアに成金的な「新ロシア人」が生まれることもなかったろう。もちろん、資本主義経済の形成も、自由主義的民主主義の政治制度の運営も、種々の困難をはらんでおり、順調満帆とは程遠いことは周知の通りだが、それにしても、やはりなにがしかの変化はあったのであり、だからこそ体制転換が実現したとみるべきだろう。
とはいえ、ペレストロイカにせよ、ソ連解体後の「資本主義ロシア」形成にせよ、一部の当事者が期待したようなバラ色のものでなかったのは当然である。そのかかえる困難の一部は、袴田の強調する「国民性」とある程度まで関係するかもしれない(すべてを「国民性」で割り切ってしまうべきでないのは当然だが)。もう一つ確認しておかねばならないのは、ロシア社会にそれなりの変化があり、かつて孤立していた知識人がそれほど孤立した存在でなくなってきたという場合に、その「知識人」とはどのような種類の知識人なのかという問題が残るという点である。「知識人の反撃」が成功したのかしなかったのかという問いへの答えは、どのような知識人を念頭におくかによって異なるからである。ここで議論は第二の問題につながる。
私の考えでは、ペレストロイカを「知識人の反撃」とみる場合、その主役となったインテリの主要部分は、即物的でプラグマチックなインテリであり、精神主義的側面はその政治的「勝利」の陰でむしろ後退した。先に触れたインテリと大衆の関係の問題と関連づけていえば、大衆の変化(知識人への接近)は単なる幻想ではなく確かにあったが、その変化の質が、かつての孤高のインテリへの接近ではなく、精神性よりも経済活動に重きをおくような、現代社会型の知識人(ウェーバーのいう「精神なき専門人」)への接近だったということではないかと思われる。
本書の中に、次のような個所がある。「ソ連でも、文化活動や出版を自由にして見給え。そのような熱気はすぐに消え失せてしまうだろう。(中略)また、ソ連には飲み屋やパチンコ屋など娯楽や気晴らしが少ないため、本などがよく読まれるのだ」。この個所は皮肉めいた文体で書かれており、こうした事態が実現するなどということはあり得ないという前提があらわになっている。著者への公平のため付け加えるなら、当時(一九八八年一月初出)、そのようなことが実現するとは、著者だけでなく誰もが想像もしていなかったろう。だが、今日のロシアをみるなら、この非現実的な空想(と当時は思われた)が現実のものとなってしまったようにみえる。
ペレストロイカの絶頂期には、それまでのタブーが次々と解除されていくことへの興奮が社会全体を蔽っていたが、やがてそれは飽和感覚とアパシーにとって代わられ、「熱気がすぐに消え失せ」たことは周知の通りである。そして、資本主義化と対外開放の中で、多くの娯楽産業があだ花のように咲き誇り、人々は、高度の精神性を特徴とする芸術的文学書よりも、ソヴェト時代にはみられなかったポルノ・ホラー・オカルトなどに、あるいはまたビジネス・ハウツーものやコンピューター入門書の類に引きつけられている。これは、かつてのソ連で芸術的文学が、迫害に値するとみられていたという意味で逆説的に高い地位を占めていたのと比べると、精神性という面では明らかな後退である。だが、それに代わってビジネス・ハウツーものやコンピューター入門書の類がむさぼり読まれるということは、ともかくも教育が普及して、大衆的な規模での変化が起きたことの証でもある。多くの学者が大学や研究所を捨ててビジネス界に転身し、「新ロシア人」(成金的な新しいブルジョア)になったという話もある。これらの現象は、「知識人の反撃」がともかくも成功したこと、しかしそれは同時に、かつて袴田があれほど感嘆していた高度の精神性を犠牲にし、知識人の金儲け志向を強めるという過程でもあったということを物語っている。
そうだとしたら、このような変化をどう評価したらよいのだろうか。ここで話は先の第三点につながる。もし「知識人の反撃」が高度の精神性を維持しつつ成功したか、あるいは逆に単純に失敗したかのどちらかであったなら、いずれにしても評価は簡単だったろう。前者は喜ぶべきことであり、後者は悲しむべきことだ、ただそれだけの話である。ところが、高度の精神性の喪失というコストを払いつつ、「反撃」が成功してしまったということになると、これをどう評価してよいかは極めて難しい話になる。
本書の中に、次のような個所がある。
「ソ連は不幸な社会なのかもしれない。知識人が精神文化の世界に本気になれるのも、政治とか経済の世界がウソ臭くなっているからだ。政治的な野心のある者、出世欲の強い者は別として、誠実さを大切にする者がそこでは生命を真に燃焼させることができないからである。だから有能な人間が、「大の男」が文学や映画に関心を向けるのである。
そう考えてみると、日本はしあわせな社会なのでもあろう。経済の世界が真剣勝負の場を提供してくれているからである。(中略)エリートは大蔵省へ、通産省へ、そして実業界へ進んで本気に自己を燃焼させることができるのだ。庶民は庶民で大まじめにしこしこと働いている。ロシア庶民の間に広く見られるようなシニシズムの雰囲気は日本社会にはほとんど見られない。つまり現世で生の充実を感じることができ、形而上の世界にリアリティを求めなくても、安心立命の境地を得られるのだ。考えようによってはこれはたいへん健康な社会であるが、しかしこれがまた、現代日本の精神的な貧しさを生んでいるのでもある」。
例によって感性的な叙述であり、幾分の誇張がある――特に日本について――と感じるが、大づかみな対比としては、核心をついた興味深い指摘である。この文章を書いたとき、袴田はソ連が「不幸な社会」から日本のような「しあわせな社会」になるとは予期していなかったろうが(この文章は一九八六年初出)、それはともかくとして、その「しあわせな社会」「健康な社会」が「精神的な貧しさ」と表裏一体であるという指摘は重要な点を衝いている。
ソ連解体後の現代ロシアで、高度の芸術性を誇る文学書よりも、ポルノ、ビジネス・ハウツーもの、コンピューター入門書などが広く読まれているのは、まさしくロシアが「健康な社会」になったことの一つの証である。そうした下らないものに関心はないという「武士は食わねど高楊枝」的態度をとる――とらされる――のは、不自然なポーズであり、「不健康」な状態だったからである。しかし、まさにそのような「不健康さ」と、かつて袴田の賛嘆した高度の精神性とは表裏一体だったのであり、そのロシアが「健康な社会」に移行することは、「精神的な貧しさ」の露呈を意味したのである。
ここでわれわれは、どうしても厄介な難問にぶつかる。いわゆる「改革」――西欧型「民主化」・資本主義化の進行――を「進歩」とみなし、それを支持するのか、それともそれは「精神的な貧しさ」の進行と裏腹であり、あまり賛美できないと考えるのか、という問いである。
本書に示されているような袴田の考えからすれば、後者の方が自然なようにみえる。実際、先に引用したリュビーモフとの対話などにはそのような見地が示されている。ところが、本書には収められていないが、彼の書く政治評論類を読むと、西欧型「民主化」・資本主義化を善=進歩とする前提が暗黙におかれているようにみえる。もっとも、それがうまく進展するかどうかは別問題であり、ロシアの特殊性からして困難性が大きいという点を強調するのが彼の議論の特徴だが、それは移行途上の困難に関わり、進むべき方向性が西欧型「民主化」・資本主義化であるという点についてはあまり疑っていないようにみえる。
回答困難なディレンマが現にある以上、二通りの考えに引き裂かれること自体は自然であり、了解できる。ただ、双方の見地が一つの文章の中で提示されてその間の緊張・相克が明示的に論じられるというのではなく、政治評論を書くときには「改革」支持、文化を論じるときには「改革」を手放しには評価できない、といったやや安易な使い分けがなされているという気がしてならない。 

最後に、本書の直接的な内容から離れて、「政治的人間」と「芸術的人間」の関係という問題について考えてみたい。というのも、本書で主に表現されているのは、文化・芸術をこよなく愛する「芸術的人間」としての袴田だが、彼はまた、日頃、ジャーナリスティックな場面で政治評論的な発言も頻繁に行なっているからである。しかも、彼がそうした発言を積極的にするのは、「日本にはロシア通の人が少ないから、仕方なしに引っぱり出される」とか「身過ぎ世過ぎのため」というのではなく、彼自身が政治という現象を観察するのが好きで、政治家たちと交わったり、政治について積極的に発言したりすることを好むタイプの人であるようにみえる。私などは、職業的には「政治学者」ということになっていながら、そうしたことが体質に合わないため、滅多にそうした発言をすることがない――唯一の例外はペレストロイカ期だったが、その短期的経験の後は一切の時評的発言をやめた――ので、袴田のその方面での活躍ぶりにはただ驚嘆するばかりである。
いうまでもなく、政治家と政治学者と政治評論家は異なった存在である。彼らを一緒くたにしたら、それぞれの人から怒られるだろう。にもかかわらず、政治学者の大多数(私のような変わり者を除く)や政治評論家たちは、「政治」という現象に強い関心をいだき、その観察に熱中する、いわば「政治好き」という点において、非政治的人間と異なった資質をもち、政治家と共通するものをもっているように思う。その限りで、彼らを「政治的人間」と一括することは許されるだろう。
政治的人間と芸術的人間とは、一見したところ、非常に隔たっているように思われる。「政治的人間」、とりわけ政治家といえば、強引で厚かましく、人の内面の機微などにお構いなしに、ひたすら自己の権力欲を満たそうとする人といったイメージがある。他方、「芸術的人間」というと、俗世的権力や金力に無頓着で、ひたすら内面的・美的感覚に沈潜する人のように思われる。そういうイメージによるなら、両者はおよそ対蹠的で、共通するものを何ももたないということになりそうである。
しかし、よく考えてみると、実は、両者の間には意外な共通点があるのかもしれないという気もする。
どこかで誰かがいっていたのだが、演奏家という人種は、繊細な神経・感受性と、それをぬけぬけと表現してしまう自己顕示欲の強さとを兼ね備えていなければならないという。この言葉は、演奏家だけでなく、芸術家一般に通用するだろう。繊細な神経がなければ芸術家たりえないことは明白だが、それだけなら、人前でそれを表現することに怖じ気づき、「人前では演奏できない演奏家」とか「作品を発表することのできない作家」ということになりかねない。デリケートでいながら、自信や自己顕示性もなくては、表現者となることはできない。つまり、繊細さ、高度な精神性と、それを外に表現する図太さ、過信と紙一重の自信、自己陶酔の奇妙な同居が必要とされるのである。
政治家にしても、その権力欲を満たすには、ただひたすら強引なだけではなく、人の心理の微妙なアヤを理解し、それをつかまえたり操縦したりするのに長けていなくてはならないだろう。政治家の行動それ自体は外面的なものが大半を占め、またそれによって評価されるが、人間の内面というものについて、意外なほど鋭い嗅覚をもっていないと、政治家という職業はつとまらないのかもしれない。
こう考えてみると、政治的人間と芸術的人間の間には、意外な共通点があるような気がしてくる。実際、政治家が私生活において芸術に深い趣味をもつという例も時折耳にすることがある。私など、そんな話を聞くと、反射的に「嘘臭い」と感じてしまうのだが、汚いものにまみれきった政治活動と精神性を真骨頂とする芸術とが対蹠的であればこそ、日頃前者に全力投球している人が、後者の中に安らぎを見出すという逆説もあながち理解できないわけではない。
政治というのは、経済活動のような合理性で割り切れない面が大きく、論理だけではつかみきれないところがかなりある。政治を理解するには、論理よりもむしろ動物的な嗅覚が重要なのかもしれない。その嗅覚はもちろん芸術的なセンスとは異なった性質のものだが、先に触れた繊細さと図太さの奇妙な共存という点では、ある種の微妙な共通性があるのかもしれないとも思う。このようなことから考えれば、袴田が政治評論と芸術論とをともに好むことは、実は意外なことではなく、むしろ自然な結合なのかもしれない。 
(1)小さいことだが、本書では一貫して「ほんもの」という風に平仮名書きがされている。そのことに特別な意味があるのかどうかは分からないが、私の癖としては「本物」と漢字で書いた方が自然に感じられるので、ここでは漢字表記にしておく。以下でも同様。
(2)井筒俊彦「ロシア的人間」は、弘文堂の初版が一九五三年、北洋社の再版が一九七八年、そして中央公論社の文庫版が一九八八年刊である。袴田の解説は中公文庫版のために書かれた。
(3)この点について私は、ペレストロイカ期に何度か触れる機会があった。塩川伸明「現代ソ連の思想状況」「ソ連研究」第九号(一九八九年)、「終焉の中のソ連史」朝日選書、一九九三年、第W章(初出は一九九〇年)。
(4)ついでながら、本書に収録された以外のいくつかの文章で著者は東欧諸国を論じたり、リトワニア、エストニア、中央アジアといったソ連の非スラヴ地域について論じたりしている。それらも、足で歩いた現地感覚に裏打ちされており、ロシアとの対比にユニークな観察があるものの、やはり著者の本領はロシア人についての観察にあり、他の民族についての分析はそれほど切れ味がよくはないという印象がある。
(5)ここに「フルシチョフ時代」とあるが、これはたまたまその時期のことに触れたというだけのことであって、ことさらにブレジネフ時代と対比するという趣旨ではなさそうである。この引用文は、フルシチョフ期とブレジネフ期に共通する叙述ととってよいと思われる。
(6)ついでに付け加えるなら、ロシアにおけるインテリと民衆の乖離という特徴は帝政期からの連続性を物語るというのが一般的把握であるが、先の引用の末尾では、知識人の民衆観が帝政期とソヴェト期で大きく異なっているということが指摘されている。これは重要な指摘だが、著者自身は特に注意を促すことなく、さらっと通り過ぎている。こうしたあたりにも、重要なことに気づきながら、それを掘り下げて展開せずに、感覚的叙述で終わってしまう著者の叙述スタイルの長所と欠点とがよく現われている。
(7)別の論文「ロシアにおけるバザール的エトスと分離派的エトス」「ロシア研究」第二一号(一九九五年)では、「分離派的メンタリティ」に注目して、メンタリティーの多様性および変化可能性が論じられている。注目すべき論点だが、例によって、論理的整理は欠けている。
(8)作曲家ショスタコヴィチを素材として、似た視点を提示した文章として、精神医学者福島章のエッセイがある。福島「ショスタコーヴィッチ頌」「現代思想」一九七六年二月号。
(9)袴田茂樹「ロシアのジレンマ」筑摩書房、一九九三年。
(10)袴田茂樹「ゴルバチョフ改革の行方――知識人の反逆」「北海道新聞」一九八七年四月八日夕刊。
(11)R・W・デイヴィス「現代ロシアの歴史論争」岩波書店、一九九八年(但し、邦訳書のこの個所には部分的な誤訳がある)。 
 
「歴史主義の貧困」カール・R・ポパー

 


この古典的な著作(原著は一九五七年、邦訳は一九六一年)のことを私がはじめて知ったのは、あまり記憶が定かではないが、おそらく一九六〇年代の後半、私が大学に入って間もない頃だったと思う。どういう文章を読んでポパーのことを知ったのかも覚えていないが、ともかく何かの解説を読んで、ある程度関心を引かれ、何となく分かったような気になり、しかし敢えて本そのものを読もうとは思わずに、うちすぎてしまった。
当時の私がこの本を読もうと思わなかったのは、反撥のせいではない。と書くと、事後的な自己正当化の気味を帯びてしまうかもしれない。かつて反撥して読まなかった本について、後になって、実は大事な著作なのだと気づき、過去の自分の不明を押し隠すために、「昔から、別に反撥していたわけではない。ただ何となく読む機会がなかっただけだ」と言訳する、というような心理作用はよくあることだ。私は、できるだけそうした自己正当化はすまいと心がけているが、「心がけ」というのはあてにならないもので、自分自身でも気づかないうちに自己正当化をしてしまうということもありうる。だから、私がかつて反撥を懐いていなかったという記憶が一〇〇%正しいかどうか、断言することは難しいのだが、それでも、やはりそうだったような気がする。
というのは、例えばハイエクの場合と比べてみると、違いが明らかだからである。ハイエクについては、正直にいって、大学生時代の私は、単なる頑迷固陋な反動派くらいに思いこんでいて、それこそ強い反撥しかもっていなかった。だから、一九八〇年代後半にハイエク・ルネサンスが起きたときには、かなりあわてた。もっとも、一九六〇年代末の学生時代から八〇年代後半のハイエク・ルネサンスの間には相当の時間が流れていたから、その間に私の考えも徐々に変わり、ハイエクを素直に受けいれてみようかという程度の心の構えは形成されており、その時点では、読み始めることにそれほどの抵抗はなかった(専門外の分野なので、読み進めるための時間をなかなかとることができず、長い間に少しずつ翻訳書を読んだに過ぎないが)。これに比べ、ポパーについては、彼を高く評価した文章を読んでも、とりたててあわてることははなかった。また、本書を読んだのはハイエクを数冊読んだ後なのだが、なぜハイエクよりも後回しにしたかというと、ほとんど知らなかったハイエクに比べ、ポパーの方は一応分かっているという意識があったからである。
もう少し補足すると、この本の邦訳者が久野収、市井三郎という人たちだったことが、私のポパー理解に――そしておそらくは、日本のポパー理解全般にも――一定の特殊な影響を与えたのではないかという気がする。この二人はいうまでもなく、決してマルクス主義者ではないが、かといっていわゆる「保守派」、あるいは戦闘的な反マルクス主義・反共産主義派ではなく、広い意味での「革新派」に属する。市井の方はあまりよく知らないのだが、久野についていえば、一九六〇年代末から七〇年代前半くらいの時期には、「ベ平連(「ベトナムに平和を」市民連合)」に近い人として知られていた。そして、当時のベ平連といわゆる全共闘運動とは、広い意味では共闘関係にあった。そうしたことから、彼らは、教条的マルクス主義を克服し新しい革新の構想を模索するという、広義の「新左翼」に属するとみられていたといってよいように思う。本書の「訳者あとがき」にも、「マルクス自身の中にポパーの批判に応えうるようなものがなかったかどうか、したがってこれまでの「マルクス主義」をよりよく発展させるために、ポパーの批判をてことするようなやり方もなくはないか、といったことは問題とされていいであろう」という個所がある。学生時代の私がこの個所を読んだかどうか、記憶がはっきりしないが、これを読んだにせよ、類似した他の解説を読みかじったにせよ、当時の私の受けとめ方はまさしくこのようなものだった。ポパーの「歴史主義批判」は俗流マルクス主義にこそ当てはまるものであり、それを受けとめることでマルクス主義をより高度に発展させられる、というような発想である。
いまから考えると、このようにポパーを「新左翼寄りに」解釈するというのは、かなり無理な、そして当時の日本に特有な現象だったような気がするが、ともかくそうした解釈は久野、市井らの紹介者自身を先頭に当時の日本ではかなり広まっていたように思う。だとすれば、「新左翼」的立場に立っていた当時の私が、それに反撥を感じるいわれは別になかったわけである。そして、反撥なしにポパーを受けいれた(彼の本そのものを読んだわけでもないのに「受けいれた」というのはおこがましいが、学生時代の乱読の一部として種々の解説書を読んだだけで分かったような気になっていた)私としては、その後、ポパーの名をあちこちで見かけても、「ああ、あれか」といった感じで受け流し、特に深刻に考え直さなければならないという気持ちを懐かなかった。かつて馬鹿にしていたハイエクに対してとは違い、真剣に取り組まねばという気持ちにはなれなかったのである。
今回、遅ればせに本書を読んだのも、それほど真剣な必然性を感じてのことではない。強い反撥とその自己批判というほどドラマティックなことではなく、ただ、いままで漠然と分かったような気になっていたことについて、やはりもう少しきちんと確認しておきたいという程度の比較的軽い気持ちだった。本書を読む少し前に、小河原誠のポパー論(1)も読んだが、非常によく納得できる部分とどうにも納得できない部分とが混じり合っているという印象を受けた。それも、マルクス主義――ないし類似の進歩思想・歴史観――を信奉するか批判するかなどといった次元ではなく、もう少し別のところに、共鳴できるところと違和感をもつ部分の境目があるように感じた。それは社会科学方法論の領域にかかわる。小河原も、本書は冷戦期に専らマルクス主義批判の書として読まれたが、実は社会科学方法論として読むべきだという。そのように読むべきだという点は異議ないが、そう読んだときに、賛同できる個所とそうでない個所が奇妙に混合しているというのが私の印象である。とすれば、その絡み合いを解きほぐす作業は、私自身の社会科学方法論を考えることにもつながるはずである。以下は、そのような観点からの読書ノートである。 

先ず、本書で批判の対象とされている「歴史主義」とは何を指すのかについて考えねばならない。本書でいう「歴史主義」は通常この言葉で思い浮かべられているものとは異質なものだということを、「訳者あとがき」も小河原誠もともに指摘している。小河原は、誤解を避けるために「ヒストリシズム」という表現をとっている(「歴史信仰」と訳した方がよいのではないかとも述べている)。確かに、ドイツ歴史学派などについていう「歴史主義」とは大分異なるのだろうが、私が読んだ限りでは、私の理解する範囲内の――そして私自身がかなり共鳴する――「歴史主義」と全く無縁というわけでもなく、かなり重なり合いながら、しかしそれと異なった独自の意義が付与されてもいるという二面性があるように思われる。
本書でいう「歴史主義」には複数の特徴づけが与えられているが、そのうちのあるものは私にとって支持に値するものであり、あるものは全く支持できないものである。それと対応して、「歴史主義批判」もまた、ある部分には大いに共鳴できるが、ある部分には全く共感できない。このように多様な要素をごたまぜにして一つの概念をつくることに一体どういう意味があるのだろうか、というのが第一の、そして最大の疑問である。ポパーといえば、透徹した論理性を重視した人というイメージがあるが、にもかかわらず、本書における「歴史主義」の概念にはあまり論理的必然性があるように思えない。邪推かもしれないが、マルクス主義者を念頭においた論争的性格のため、やや冷静さを欠き、本来論理的には区別されるべきものをごちゃ混ぜにしているのではないだろうか。
より具体的にみてみよう。歴史主義(以下では煩雑を避けて、この言葉にカッコをつけることを省略する)には自然主義的傾向(自然科学の方法を模倣するもの)と反自然主義的傾向のもの(自然科学と社会科学との異質性を強調するもの)とがあるという。ポパーはこの両方を歴史主義と呼んでいるのだが、第一の傾向と第二の傾向とは論理的に考えて全く逆のものであり、一体どうして両者が一つの名称にまとめられるのか、理解しがたい(2)。ポパー自身は、社会科学の方法と自然科学の方法とは同質だという考えのようだが、だとすると、第二の傾向については原則的に反対、第一の傾向については原則的には近いがその内容において微妙な異議がある、ということなのだろうか。そのように明言されてはいないが、そういう風に考えないと理解ができないので、とりあえずそのように考えた上で先に進むことにしよう。 

第一章では、歴史主義のうちの「反自然主義的傾向」の方が問題となっている。ポパー自身は自然科学と社会科学との方法的単一性に立っているのだから、この「反自然主義」は全体として許し難いということになるのだろう。だが、ここに描かれている「反自然主義的歴史主義」は、その中に更にいくつかの要素があり、それ自体がまたごたまぜの様相を呈している。私自身は、自然科学と社会科学とをはっきりと二分してしまうことには多少の留保をつけるが、それにしても大まかな意味ではかなり大きな距離があり、どちらかといえば方法上の区別を強調したい考えなので、その意味では「反自然主義」論者に分類されそうである。だが、私はここに描かれている主張の全部に同調するわけでは決してない。
第一章であげられている反自然主義的歴史主義の特徴のうちのかなりの要素、例えば、社会科学では物理学におけるような斉一性を確保するのが難しいとか、実験が困難だとか、歴史的環境が変われば条件が大きく変動するので超歴史的な法則性を取り出すことができないとか、社会科学においては価値判断を排除することが難しいとかその他その他――ここの表現はポパーの書いているとおりのものではなく私の表現だが、大筋は重なっていると思う――については、私は多少の留保をつけてではあるが、ほぼ賛成であり、このあたりを読んでいると、「俺は歴史主義者だ。それでどこが悪い」といいたくなってくる。
特に興味を引かれるのは、ある予測がなされると、それ自体が過程に作用して、予測結果を左右する――「エディプス効果」という名が与えられている――ため、科学的予測は不可能だという主張である。これは注目に値する議論であり、私はこの指摘に大いに共感する。実は、ポパー自身、この主張に対する直接の反論を行なっていない。批判すべき立場であるにもかかわらず、この重要論点を批判しないというのは奇妙なことのように思われる。
以上のような部分に関しては、私は「歴史主義者」に近いような気がするのだが、「ホーリズム(全体論)」に議論が及ぶと、話が微妙になってくる。ホーリズムとは、対象がある全体的構造をもっており、従って部分的要素の認識を積み重ねただけでは不十分だという主張を指すのだろうか、それとも、そうした全体構造についての十全な認識が可能だとの想定に立ち、それを実現した――と称する――理論のことをホーリスティックな認識というのだろうか。これは微妙ながら重大な違いである。前者は、あるタイプの認識の限界性・不十分性に関する消極的指摘であるのに対し、後者はあるタイプの認識が十全なものだという積極的な主張である。私は、前者には共鳴するが、後者は似而非科学だと考える。ポパーの場合、歴史主義にどちらを帰しているのか、あまりはっきりしない。おそらく、あまり明確な区別なしに、特に後者を批判しているのではないかという気がするが、そのことによって前者まで批判されるわけではないはずである。 

第二章では、歴史主義の自然主義的主張が論じられているが、ここに描かれている主張は、私としてはほとんど共感しない議論であり、「これが歴史主義なら、俺は歴史主義者じゃない」といいたくなるものである。ところが、ポパーは、第一章の議論と第二章の議論とは別々のものではなく、同じ「歴史主義者」の主張だという風に論じている。ここのところが私には最も理解しにくい。
第二章冒頭に、歴史主義はさまざまな出来事を説明するだけでなく予測もしなければならないと考えている、という個所がある。しかし、これは社会科学において予測は不可能だとするのが歴史主義だという第一章の趣旨と完全に矛盾する。ポパーに従えば、歴史主義者とは、予測が不可能であると同時に可能だと考えている人種だということになり、まるで何のことだか訳が分からない。
ここには、実はポパー自身の考え方が投影されているように思われる。というのは、出来事を予測しなければならないという見解について、「それにまったくわたし〔ポパー〕も賛成である」と書いているからである。つまり、将来のことを予測しなければならないという点で、「自然主義的歴史主義者」とポパーは見解を同じくしており、ただその予測がどのような性格のものであるかについて分かれるというわけである。これに対して、私は社会科学において予測というものはほとんどあり得ないと考えており、ここで最大限にポパーと――そしてついでに「歴史主義」とも――分かれる。ところが、ポパーは、この点に関しては論敵も自分も一致しているという風に書いており、予測を否定する人がいるということはおよそ念頭にないかのようである。こうして、この章は全体として強い違和感を呼び起こす。
このようにだけいって片づけるのは、やや公正を欠くかもしれないので、もう少し立ち入ってみておこう。ポパーによれば、歴史主義者は「大規模予見」を行なおうとしており、その際、「歴史の法則」なるものを信奉しているという。この「歴史法則論」批判は本書の一つの眼目をなしており、最も有名になった個所でもある。確かに、かつて正統派マルクス主義が「歴史の法則」なるものを振り回していたのは事実であり、それに対する本書の批判はある時期には衝撃的な意味をもったのだろう。だから、それだけであれば――今の時点ではそれほど衝撃的に感じられないという点はおくとして――一応の賛意を表してもよい。
先に、久野、市井らの訳者が本書をマルクス主義精錬の糧と意義づけて紹介していたことに触れたが、三〇年ほど前の私もそういう発想を受けいれており、「歴史の法則」論を取り除いてもマルクス主義は成り立つのではないか、むしろその方がマルクス解釈として妥当ではないか、と考えていた。社会主義の展望についても、その到来を「歴史の必然」ととらえるのではなく、むしろ人間の主体的努力によって招き寄せ、建設すべきものとする発想に立っていたのである(3)。そのような考えを若い頃にいだいていた私としては、「歴史の法則」に基づく「大規模予測」などあり得ないというのは当然のことであり、特に新鮮には感じない。とはいえ、これを新鮮と感じないのは、若い頃にポパーの解説に接したからかもしれないから、その意味では一定の恩義があることになる。
問題なのは、そのような「歴史法則論」と、第一章で展開された「反自然主義的歴史主義」が一くくりにされている点である。これまで述べてきたように、私としては、後者にはむしろ親近感をもつから、それと前者が一緒にされるということにはどうにも納得がいかない。ついでにいえば、ハイエクは元来、社会科学と自然科学の峻別論(つまり、反自然主義)の立場に立っていたが、後にポパーの説に接して、両者の差をより狭めて考えるようになったという(4)。ハイエクの科学論をまだ検討していないので確かなことはいえないが、初期ハイエクの立場の方が私には理解しやすいような気がする。
関連するもう一つの問題は、ポパー自身の考えとして、「大規模予測」は否定するが「工学的社会科学」は肯定し、「社会生活の一般的法則を研究する」ことが可能でもあり、当然でもあるとしている点である。この点はポパー自身の積極的見解にかかわるが、次章にも出てくるので、そこで改めて考えることにしよう。 

第三章は「反自然主義的な主張の批判」と題されており、ここで有名な「ピースミールな社会工学とユートピア的社会工学の対比」という議論が出てくる。ユートピア的社会工学の試みがいかに悲惨な結末に導いたかはわれわれのよく知るところであり、これを批判するという限りでは、ポパーの主張はよく理解できるし、その先駆性には敬意を表するべきだとも思う。問題は、それと区別される「ピースミールな社会工学」の方である。
自然科学と社会科学の同質性を強調するポパーにとっては、自然科学が工学に応用されるように、社会科学も社会工学に応用されるのはごく当然であり、問題はその社会工学がユートピア的・全体論的(ホーリスティック)なものかピースミールなものかという点にあると考えているようである。この考えはある程度まで分からないわけではない。私は、社会科学は完全には「科学化」しきれないものを常に残すのではないかと思うが、それにしてもある程度までは「科学化」(ここで「科学化」とは、自然科学を基準とした、それへの接近の意味としておく)の傾向もあり、その限りでユートピア的ならぬピースミールな社会工学は一応ありうるだろう。現に、経済学や、最近では政策科学などは、政府による政策立案に利用されているようである。社会主義国における「社会主義建設」と違って、資本主義国の政府が行なう政策は全体的(ホーリスティック)なものではなく、ピースミールなものであり、それは常にうまくいくという保証はないが、全く無意味とも限らないだろう。政策論に疎い私としては、具体的にあれこれの政策論の有効性について議論する気はない。ここではもう少し原理的なことを問題にしてみたい。
ピースミールな社会工学は、常にかどうかはともかくある程度までは有効たりうるということを仮に前提して考えてみよう。もしそうなら話は簡単で、その有効性を漸次的に高めていくことだけが課題だと思われるかもしれない。しかし、ことはそれほど簡単ではない。ピースミールな認識とそれに基づく工学は、対象を全体的連関から切り離して、要素として扱う(それが「ピースミール」ということの定義だろう)。実験というものが可能なのも、対象が複雑な諸要素の連関から切り離され、「他の条件一定」という人為的な環境に制御されうるからである。しかし、現実というものは、そううまくはできていない。必ず、ピースミールな認識からはみ出した要素との連関というものがあり、社会工学的政策で直接に意図されていた結果とは異なる副次効果を生むものである。だから、問題は、部分的に取り出されたある要素の認識が当たっているかどうかとか、その認識に基づいた限定された工学が期待通りの効果をもたらすかどうかといった点だけにあるのではなく、もともと視野から排除されていた他の要素がどのように作用するのか、その副次効果の大きさといった点にもあるということになる。
この場合、いくつかの可能性が考えられる。1副次効果はあまり大きくなく、無視可能である。2無視できない副次効果が起きるが、それらはバラバラな方向に作用して互いに打ち消しあうと想定されるので、あまりそれについて考える必要はない。3副次効果が大きく、しかもそれが次々と累積して大きな波及効果を生むので、予期せぬ方向に事態が大きく進展していく。
仮にピースミールな社会工学がその直接的狙いを意図通りに達成したとして、それだけで満足してよいのは、これらのうちの1と2の場合だけであり、3のときにはそうはいかない。そして、人間の活動の規模が大きくなり、社会における政府の役割が拡大して、政策論のもつ意味が大きくなってきた現代社会においては、だんだん3のケースが増えてきたのではないだろうか。とすれば、ピースミールな社会工学がそれ自体としては一定の効果をあげたとしても、それでもって安心しているわけにはいかない。
このように書くと、ポパーから次のように反論されるかもしれない。「お前のいっていることは、要するにホーリズムだろう。ピースミールな社会工学では目的を達することができないから、より全体的な認識――つまり「歴史の法則」の認識――に立脚した全体的な社会変革をすべきだというのだろう。それこそまさにユートピア的社会工学であり、私が本書で十分に批判し尽くした立場ではないか」。
しかし、違うのである。先に、「ホーリズム」という言葉は二通りに解釈されることを指摘し、その二つの間には微妙ながら重大な差異があると書いたが、その重大な差異がここでもまた問題になる。私の考えでは、要素論的な認識には限界がある――従ってまた、ピースミールな社会工学にも限界がある――が、だからといって、「全体」なるものについての十全な認識が可能だということにはならないし、ユートピア的社会工学が目的を達し得るということにもならない。ということはつまり、ピースミールな社会工学に対してもユートピア的社会工学に対しても、ともに懐疑的だということである。ポパーはどうも、一方を否定すれば必ず他方の立場に行き着くと考えているようだが、そのような暗黙の前提をこそ私としては問題としたいのである。純論理的に考えてみて、両者は、一方の否定と他方の肯定とが論理的に同値という関係にはない。そのくらいのことは、論理性を重視するポパーには、ちょっと考えてみればすぐ分かるはずではないだろうか。本書の議論に意外に論理性が欠けていると先に記したのは、こうした感想に基づいている。
いま述べた点は、ポパーの有名な「検証」と「反証」の区別を援用して言い直すこともできる。ある命題を本当に検証すること――ここで「本当に」の語をつけたのは、日常語として使われる緩やかな意味での「検証」と違って、厳密な意味では、ということである――は難しいが、反証は相対的にやさしい。「すべてのカラスはカーと鳴く」という命題を本当に検証しようと思うなら、地球上のありとあらゆるカラスについて、一羽一羽調べてみなくてはならず、そのようなことは事実上不可能である。これに対し、同じ命題を反証するには、ただの一羽でもカーと鳴かないカラスを見つければよい。このように反証が相対的に容易だということは、ある仮説を「反証されるかどうかのテスト」にかけることも容易だということを意味する。先の仮説を偽だというためには、「カーと鳴かないカラス」を見つければよく、それは何羽かのカラスについて試してみれば実現できそうである。ところが、何羽か調べたところ「カーと鳴かないカラス」が見つからないとする。これは、冒頭命題が偽であれば容易に実現できそうなことが実現していないということだから、それが真である蓋然性を高めたことになる。こうして、先の仮説は「反証可能性」のテストにとりあえず合格したということになる。だが、これはあくまでも、「さしあたり反証されていない」ということに過ぎず、「検証された」ということを意味するわけではない。同様に、ある命題が反証されたからといって、それと対立する別の命題が検証されたということにもならない。「検証」はほとんど達成できない基準であり、「反証されるか否か」だけが経験的に確認できることだからである。
さて、同じ論理を使って、次のようにいうことができるはずである。「ホーリスティックな認識に基づいたユートピア的社会工学は目的通りの理想社会をつくりだす」という命題を反証することはやさしい。現に、社会主義の実例によって見事に反証されたからである。だが、そのことは、「ピースミールな社会工学が成功する」という命題が「検証」されたことを意味しない。一方の命題が反証されても、他方が検証されたことにはならないということは、ポパー自身の論理からして明白であるはずなのに、それがものの見事に忘れられているのである。これは党派的論争につきまといがちなことだが、論理性の欠如以外の何ものでもない。 

第四章は、「自然主義的な主張の批判」である。もっとも、しばしば触れてきたように、ポパーは歴史主義は自然主義的でもあり反自然主義的でもあると考えているので、一方への批判と他方への批判がきっぱりと分けられず、この章の中にも「反自然主義批判」の要素が紛れ込んでいる。こうした混濁が議論を追いにくくしているのだが、ここではできる限りそうした混濁を排除して、自然主義的な主張の批判に注目をしぼるようにしたい。
ポパーによれば、歴史主義者は歴史の法則を追い求め、それを自然科学に倣った方法で実現できると考えているという。そして、彼らは実際には「趨勢」に過ぎないものを「法則」と取り違えていると批判する。趨勢と法則は根本的に異なるものだ、というのが本章の一つの要点である。
趨勢と法則とは異なるという指摘には、私も異議ない。過去の事例の統計から導き出された趨勢は、いつ逆転するかもしれないから、「これまでこういう趨勢があった」ということは指摘できても、「今後もこの趨勢が続く」ということを「法則」的に断言することはできない。そして、私はこれまでも書いてきたように、「歴史の法則」などというものが発見できるとは信じていないから、「これが歴史主義なら、俺は歴史主義者ではない」といいたくなる。それだけなら、レッテルの使い方を別にすれば、ポパーと私の見解は一致していることになりそうである。ところが、私からみれば奇妙なことに、ポパーは自然科学と社会科学の方法的同一性を主張する。歴史について「趨勢」はとらえられても「法則」をとらえることはできないというなら、まさにその点において歴史をはじめとする社会科学は自然科学と大きく異なるということになるはずではないか。この点は、後でまた立ち戻ることにする。
趨勢と法則の違いについての議論が続いた後、中間的なまとめとして、趨勢とは条件に依存するものであり、無条件の法則などではないということが述べられる。そしてポパーは、以下のように書いている。
「しかしながら、趨勢というものが諸条件に依存することを見てとり、それらの条件を見出し、またそれらをあからさまに定式化しようとする人々については、どうであろうか?そのような人々には文句のつけようがない、というのがわたしの答えである。それどころか、趨勢というものが生じてくることには疑いはありえないのであり、したがってわれわれは、できるかぎり立派に趨勢なるものを説明する、という困難な課題をもっている」。
この個所を読んで、私は思わず拍子抜けしてしまった。何だ、それでよいのか、といった感じである。私自身は、「歴史主義」のある部分――決して全部ではない――について共鳴し、趨勢研究を自分の重要な課題とみなしているが、その趨勢が諸条件に依存するのは当然だと考えている。だから、どうやら私のような人間は、ポパーから「文句のつけようがない」というお墨付きをもらえるらしい。それはよいが、私のような考えは――どの程度明示的に定式化するかは別にして――歴史を重視する人(「歴史主義」というレッテルに同意すると否とにかかわらず)の間で、それほど珍しくないのではなかろうか。とすると、かなり多くの人がポパーから同じお墨付きをもらえそうな気がするのだが、それならどうしてこれほど一所懸命論争をしなくてはならないのか、その点がむしろ不思議になってくる。
この点は、続く個所で、「重要なことは、それらの諸条件があまりにも容易に見すごされてしまう、ということなのである」と指摘されていることから説明されるのかもしれない。この指摘は、確かにある程度まで当たっているだろう。人間はあることに熱中すると、他のことを忘れがちになるものだから、ある趨勢の発見に精力を傾けた人が、その条件を忘れがちだ、というのはありうることである。しかし、これは科学哲学といった高尚な話ではなく、もっとありふれた心構えの問題にならないだろうか。どのような理論的立場に立っていても、実際の研究過程において、本来自覚していなくてはならないことをつい忘れ、自分の研究の限界を見失ってしまうというのはよくあることである。特に学者がジャーナリスティックな評論活動に乗り出したり、「学界政治」に携わったりすると、限定された研究成果をその限界以上のものとして誇大宣伝するというのは、よく見受けられる傾向である(敢えて私の個人的偏見をあからさまにしていうと、アメリカの研究者にはそうした誇大宣伝が実に多いし、最近では日本にもその影響が及びつつあるように思われる)。これはその人の理論的立場にかかわらず、一般的にいえることである。ところが、ポパーのように、それを特定の立場――「歴史主義」――のみに帰してしまうと、他の理論的立場の人でも類似の誤りを犯しうるということが忘れられてしまう。
あれこれの理論的誤りに対するポパーの批判は確かに鋭いのだが、その鋭さは必ずしもいつも同じ度合であらゆる論者に向けられているのではなく、あるときは特に鋭く、あるときはそれほど鋭くない、といった差があるような気がする。このことも、いま述べた点と関係するように思われてならない。 

第四章の終わり近くの部分は、私のみるところ、これまでの部分とはやや異なった性質を帯びている。これまで歴史主義批判を繰り広げてきた著者が、今度は自らの積極的見解を打ち出そうとしているのである。とすれば、その積極的見解について、詳しく耳を傾けてみる必要があるだろう。ポパーの持論は、これまでも断片的に触れてきたが、自然科学と社会科学の方法的同一性という考えである。これは、私としてはあまり賛同できない主張だが、それでも理解できる個所がないわけではない。順を追ってみてみよう。
先ず、本書で述べられている「仮説とテスト」という方法は、確かに「科学」の基本的な方法であり、それを大なり小なり採用するという点は自然科学と社会科学の共通性といえるだろう。社会科学というものが、単なる事実の列挙ではなく、何らかの理論性をもとうとするならば、そこには、暗黙のうちにもせよ必ず「仮説」の要素が入る。そして、それを何らかの仕方で検証する――あるいはむしろ、反証できるかどうかのテストにかける――ことで仮説の信頼性をチェックするという手続が重要な意味をもつ。ここまでは私も賛成できる。この点に私が賛成なのは、おそらく若いときにポパーの解説を読みかじって、自分なりに吸収したという経緯によるだろうから、その意味では、私の科学観は部分的にもせよポパーに恩義をこうむっていることになる。
しかし、このことを確認した上で、いくつかの重要な疑念が残る。
ある角度からみた場合に社会科学も自然科学と同様の手続きを踏むことがあるということが確認されたからといって、だから社会科学と自然科学の方法が単一だということになるわけではない。そのように考えるのは論理の飛躍である。どうも、ポパーにはこうした飛躍が多い。ポパーの全容に通じていない私には、あまり立ち入ったことをいう資格はないが、彼の本来のフィールドは科学哲学(この場合の「科学」は第一義的には自然科学である)や認識論・論理学にあり、社会科学論はその応用問題として考えられているのではないかという気がする(5)。そのため、社会科学のある側面について妥当な認識をもっていても、それだけで全体が論じられるわけではないという限界があり、その点に無自覚なのではないかと思われてならない。
例えば、複雑な理論体系に含まれる仮説をどのようにしてテストすることができるのかという問題に関し、「ある一つの仮説においてだけ異なる二つのその種の体系」をテストしてみればよい、そして一方の体系が反証され、他方の体系が反証されなかったなら、その違いは当該仮説の差異に帰してよい、という個所がある。長文かつやや分かりにくい文章なのでそのままの引用はしなかったが、元の文章には「もし……とすれば」「実験を企てることができるとすれば」という仮定形の表現が含まれている。ところが、その仮定が満足させられるかどうかについては何も論じておらず、あたかもそうした仮定は簡単に満足させられると考えているかのようである。実地に社会科学の研究に携わった人なら、そうした「実験」をうまくできるなどとそう簡単に期待するわけにはいかないということをいやというほど知っているだろう。まさにこういった点に、社会科学の独自の困難があるのに、ポパーはあっさりと、「もし……とすれば」が簡単に充足されるかに考えて先に進んでいるのである。
理論的な仮説重視ということと関係して、ポパーは経験的観察とか帰納といったものを極度に軽視している。「われわれが観察から出発し、理論をその観察からひき出そうとする、という意味における帰納的一般化を、われわれはけっしておこなっていないとわたしは信じている」とまで言い切っている。この主張は、大多数の社会科学者を驚愕させるだろう。歴史家にとってはほとんど理解不可能かもしれない。大陸的合理主義よりもイギリス的経験論の方に親近感を示すハイエクも、このような経験軽視には戸惑うのではなかろうか。
もっとも、落ち着いて考えるなら、この驚くべき主張にも、適切な指摘が含まれていないわけではない。人が何かを経験的に観察するとき、何の先入見もないということはありえず、ある種の仮説が無意識のうちにもせよ観察を方向づけているというのは否定できない事実である。ポパーがこの点を念頭においているとするなら、それは確かに重要な指摘である。しかし、だから「帰納的一般化を行なっていない」というのは、またしても論理の飛躍である。仮説とか先入観がどうして形成されたのかを考えてみれば、それ自体、それまでの経験の積み重ねから生じたということは大いにありうる(先に触れた「趨勢」把握にしても、まさに過去の経験の観察から生じるのではないだろうか)。ポパー自身、すぐ後で、「われわれが理論を得たのが、(中略)ただ単にそれをひょっこり思いついた(中略)のか、あるいはまたなんらかの帰納的手続きによったのか」と書いて、帰納が仮説形成に貢献する可能性のあることを認めている。ところが、更に筆をついで、そのようなことは「科学の見地からすればどうでもよいのである」というのである。
ここに書かれていることを簡単に図式化するなら、1われわれは帰納をしていない、2いや帰納しているかもしれない、3そうだとしてもそれは大して重要でない、ということになる。これは、どうにも納得しがたい論法である。
邪推かもしれないが、ここにも、ポパーが社会科学研究の実地作業にあまり通じていないという事情が反映しているように思われてならない。対象を純粋化してとらえる自然科学に比して、社会科学はそうした純粋化に大きな困難がある。その分、理論的に精錬された仮説形成、その仮説から演繹的に引き出された命題のチェックといった「科学的」手続きを踏むことが難しく、経験的帰納を大きな要素とせざるを得ないのだが、そうした事情に無頓着なのである。
あるいはまた、次のような個所がある。
「社会的事態は物理的なそれよりももっと錯綜している、という広汎にゆきわたった偏見は、二つの源泉から派生しているように思われる。その一つは、われわれが比較すべきでないものを比較しがちである、ということだ。私が意味しているのは、一方では具体的な社会的事態であり、他方では人為的に絶縁された実験上の物理的事態である」。
この主張は、ある面では妥当な指摘を含んでいる。社会科学者はとかく社会事象は複雑だといいがちだが、実は物理現象だってそれに劣らず複雑だ、というのは確かにその通りだろう。しかし、問題なのは、物理学においては、「人為的に絶縁された実験上の物理的事態」を適切につくりあげることができる――そして、それを基礎に、より複雑な現実へと漸次的に迫っていける――のに対し、社会科学においてはそのような手続きを踏むことが極度に難しいという点である。ポパーは、先の引用文に続けて、「後者が比較されてよいのは、むしろ人為的に絶縁された社会的事態、すなわち牢獄とか実験的共同体(コミュニティー)といったものであろう」と書いているが、これは筋違いである。牢獄や実験的共同体だって、物理学の実験のようにすっきりとしたものではなく、それ自体が複雑な現実であるし、またそこから得られた観察をその外の社会に当てはめられるという保証も全くない(ロビンソン・クルーソーの生活を経済学の基礎にするわけにいかないのも、同様の事情による)。「比較すべきでないものを比較」してはならないというのは、論理的にはその通りだが、まさに「比較すべき」相手がそう簡単にはうまくみつからないという点にこそ問題があるのである。 

このように社会科学一般を論じた後で、ポパーは「歴史的科学」に立ち向かっている。歴史主義批判を課題とする著書を結ぶには、社会科学一般の考察だけでは足りず、歴史主義とは異なる「歴史的科学」の方法について考えておく必要があるということだろう。そのような課題に取り組んだことは歓迎すべきことだし、その内容にも同意できるところが多い。だが、そのことはかえって本書の論理整合性に疑問を投げかけることになるような気がする。短い部分だが、大切な個所なので、やや立ち入ってみよう。
ポパーは先ず、「歴史学は、法則や一般化といったものよりはむしろ、現実の特殊的な、つまり特殊な出来事に対する関心によって特徴づけられる」という見解――ポパーによれば、歴史主義者たちがしばしば古風だと攻撃してきた見解――を擁護したいと述べる。
実は、私自身も、この「古風な」見解に賛成である。私がこのような見解を知ったのは、大学に入って間もない時期に読んだリッカートの「文化科学と自然科学」(7)を通してである。リッカートといえば、一九世紀末から二〇世紀初頭に活躍した新カント派の哲学者であり、それこそ「古風」というイメージがあるし、また私がこれを読んだのも今から三〇年くらい前のことだから、私にとっても「古い」ものである。だが、方法論や哲学プロパーにその後あまり深入りしてこなかった私としては、そうした「古い」発想を今でも引きずっているところがある。もっとも、リッカートそのままというわけではなく、多少の留保をつけてであるが、その点については最後に立ち返ることにしよう。ともかく、そうした「古風な」見解に賛同する限りでは、ポパーと私の間に共通点があることになる。
ところが、ポパーはそのすぐ後で、本書のこの前の部分で述べてきた科学方法論とこの歴史学観とは完全に両立するという。リッカート流の歴史学観は、自然科学と歴史学をはじめとする社会科学(文化科学)の相違を論じたものだから、両者の方法的同一性を主張するポパーとはずいぶん方向性を異にするもののようにみえる。それをどうやって両立させようというのか。
この問題へのポパーの回答は、それなりに興味深いものである。彼はいう。「理論的科学が主として関心をもつのが、普遍法則を見出しそれをテストすることであるのに反して、歴史的科学はあらゆる種類の普遍法則を当然のこととして前提し、特殊的言明を見出してそれをテストすることに主たる関心をもっている」。ここで、「普遍法則を当然のこととして前提し」という表現にはちょっと引っかかるが、それを別にすれば、いいたいことは分かるし、同感もできる。自然科学が法則定立的で歴史的科学が個性叙述的だ、というのが新カント派の議論だったが、その「個性叙述」の中には、理論科学から借りてきた法則の利用も含まれうる。その限りでは、歴史学も理論や法則と無縁ではなく、ただその関係の仕方が異なっているだけだという言い方もできる。
とはいえ、この議論は、やはり自然科学と社会科学はかなり異なっていることを示しているように思われる。自然科学は、すべてとはいわないまでも大部分が法則定立的である。これに対し、社会科学は、自然科学を模倣してその方向に進みつつあるものもあるが、今なお大部分は――そして歴史学は特に――個性叙述的である。個性の叙述は、もちろん理論や法則性を排除するというわけではないから、両者を絶対的に対立するもののようにみる必要はないが、それにしても、関心のおき方はかなり違う。先に、「ただその関係の仕方が異なっているだけだ」と書いたが、その「ただ……だけ」のうちに、実は重大な相違が含まれているのではないだろうか。ポパー自身、歴史研究の重要な課題として「ユニークさ」の解明をあげているが、ユニークさの追求をとことん押し進めていく発想と、一般法則に力点をおく発想とは、知的作業のあり方としてずいぶん異なった種類のものである。だから、この個所でポパーが述べているのは、実は彼自身の主張を裏切って、自然科学と社会科学(とりわけ歴史学)の異質性を論じていることにはならないだろうか。 

満遍ない忠実な検討ではないが、ともかく本書の内容を一通り追い、自分なりの感想を記してきた(実は、最後にもう少し別の部分があるが、私のみるところ、それは前の方で述べられた議論の蒸し返しであり、特に取り上げる必要があるとは思われないので略した)。これまでもかなり私自身の見方を挿入してきたが、それは、この小文の狙いがポパー解釈自体にあるのではなく、それを手がかりとして自分の社会科学方法論について反省してみるという点にあったからである。そこで、これまでポパーに即してあちこちに断片的に記した私の考えを、もう少しまとめて提示することを試みたい。熟さない議論ではあるが、ともかく、たまにはそのような作業をしてみることが自分にとって必要ではないかと考え、一つの試論を簡単にではあれまとめてみたい。
とりあえず、法則定立と個性叙述という二つの知的活動の種類から出発してみることにしよう。この二分類は、社会科学と自然科学という区別にぴったりと対応するわけではない。自然科学の大部分は法則定立的だが、天文学とか地質学などには個性叙述の部分もあるのではないかという気がする(実情を知らない者の単なる憶測に過ぎないが)。他方、社会科学も法則定立的科学にあこがれる傾向があり、次第にそれに接近しようとしているようにみえる。おそらくその点で最先端を行っているのは経済学だろう(但し経済学の中にもそうでない潮流もあるが)。それ以外にも、同様の志向をみせている分野は徐々に増大しつつあるようにみえる。しかし、これまでのところ、その志向は十分な成功をおさめてはいないように思われる。一応の体裁として「科学」化しているものもあるが、その内実を検討してみると、自然科学的手法の単なる外形的模倣だったり、あるいは現実離れしたモデルをつくって対象への有意性を失ったりしているものが少なくない。だとすると、自然科学と社会科学をきっぱりと二分してしまうのは暴論だとしても、やはり大まかな趨勢としての違いはなおあり、その違いが法則定立と個性叙述の違いにほぼ対応するということがいえるように思う。
これは、いうなれば量的差異と質的差異の関係という問題と関係する。法則定立的色彩の濃い自然科学と個性叙述的色彩の濃い社会科学の間の差異は絶対的なものではなく、とりあえずは量的差異といってもよい(その限りで、両者の方法の単一性を主張するポパーにも当たっている面はある)。だが、その量的差異が「質的差異」といいたいほどの大きさをもっている(従って、現実問題としては、性急に単一性をいわない方がよい)ということである。量的差異だが質的差異でもあるというようなことをいうと、ヘーゲル=マルクス弁証法における「量の質への転化」論を思い出し、悪しき思弁哲学の残滓だといわれるかもしれない。だが、ここで私が念頭においているのはもっと単純なことである。「五〇歩百歩」という言葉がある。敵の前で五〇歩逃げた者が百歩逃げた者を笑うことはできないという意味だろう。では、一万歩逃げた者についてはどうだろうか。五〇歩の人は百歩の人を笑うことはできなくても、一万歩の人のことは笑ってもよいのではないだろうか。ここで、「五〇歩と百歩」の差は五〇歩であり、「五〇歩と一万歩」の差は九九五〇歩である。五〇歩の差だろうが九九五〇歩の差だろうが、どちらにしても「量的な差」だということはいえばいえる。しかし、前者はまさしく「量的な差」に過ぎないのに対し、後者は「質的といいたいほどの差」だというのは、常識的に誰もが賛成することではないだろうか。では、五〇歩と九九五〇歩の間で、「単なる量的な差」と「質的といいたいほどの差」の分かれ目はどこにあるのかと問うと、実は、そのような明確な分かれ目はない。やはり、両者は量的に連続しているのである。それでも、「質的な差」をいうことはできないわけではない。
右に書いたのは、ごく当たり前の常識論である。そのようなことをわざわざ書いたのは、純粋化や法則化に大きな困難をかかえる社会科学においては「常識」というものが大きな役割を果たすからである。ポパーに限らず、社会科学を含む科学論を論じる人の多くは、元来自然科学についての「科学方法論」を学んだ人が多いように思われるが、そうした人の議論は、抽象的には正当な指摘を多く含んでいるにしても、実地の社会科学研究の経験をあまり踏まえていないために、まさに「常識」的なことがらの理解に欠けているのではないか、という気がしてならない。
こうして社会科学とりわけ歴史において個性叙述が大きな位置を占めるのは当然だということになるが、だからといって、それは「法則」と無関係というわけではない。「個性」というものは、単純にバラバラなものではなく、むしろある種の規則性や斉一性を前提して、それとの関係で把握されるものである。もし社会現象に何も規則性や斉一性がないなら――より厳密にいえば、そうしたものが客観的にあるかないかが問題なのではなく、われわれがそうしたものがあると捉えるかどうかということを問題にしているのだが――「個性」をいうことさえもできず、すべては果てしない混沌のうちにあるということになるだろう。なお、ここで「ある種の規則性や斉一性」という言い方をしたのは、「さしあたり規則的である、あるいは一様であるようにみえる」という程度のことを指していて、それが「法則」とまでいえるかどうかをとりあえず留保しているからである。それはさておき、とにかく社会科学の中でも法則定立型科学を志向する領域・ディシプリンは、そうした規則性や斉一性の把握に重点をおいている。そして、個性叙述に力点をおく研究の場合も、そのような理論中心型の研究における「法則」理解から何がしかのものを吸収し、それを叙述に生かすことがある。
そのことと関係して、歴史の方法にも二通りのものがある。一つは古典的なもので、まさに個性叙述に終始し、抽象的観念のもちこみを極力排するものであり、もう一つは、隣接分野(経済学、政治学、社会学、文化人類学等々のディシプリン)の成果を吸収して分析的に議論を進めるもので、「社会科学的歴史学」とか「分析的歴史学」などと呼ばれる。もっとも、前者の場合にも、実は、何がしかの抽象概念や規則性の観念は暗黙裡に利用されている(例えば、何気なく使われている「貴族」とか「農民」とか「商業」といった言葉も、文字通りの実体ではなく抽象概念であるし、社会的矛盾の激化が大衆運動の高揚につながるとか、そうとは限らない場合もあるといった議論は、一定の規則性把握を前提している)のだが、後者は、それを一層明示的なものとする。
この二つは、どちらが高級といったものではなく、ある程度まで各人の趣味にかかわるような気がする。「社会科学的歴史」がいくら流行しても、「何だかんだいっても、とどのつまり歴史は物語であり、叙述の生彩が鍵だ」といわれたりするのは、古典的な歴史学観が今日なお強い魅力をもち続けていることを示すだろう。それは単なる面白さといった直観的レヴェルの問題だけでなく、「社会科学的歴史」がしばしば底の浅いものであり、流行の図式の当てはめに終わることが多いことへの反省に由来するという面もあるのかもしれない。しかし、皮相な図式主義的裁断の無意味さはいわずもがなとして、歴史をいろいろな角度からとらえようとする工夫の一つとして、種々のディシプリンから理論的刺激を受けること自体は無意味ではないだろう。
私自身は、文学者的能力に欠けるので、「物語」としての叙述の面白さに賭けるよりはむしろ社会科学的な分析の適用に惹かれるものを感じるが、ただ、それが安易な図式主義に陥ることへの警戒感も強いため、しばしばディレンマを感じる。可能な限り種々の理論的アプローチを試みながらも、同時に、常にその限界を意識し、「理論の応用問題」に終わらない歴史を描きたいというのが私の野望だが、それを本当に実現するのは絶望的なまでに難しいという気がする。いずれにせよ、たとえ「規則性」なり「法則」なりを分析に取り込むとしても、歴史はそれだけで完結することはできず、どうしても「個性叙述」という問題が残るのである。
それはおそらく、この小文の前の方で述べてきた社会科学の「科学化」の困難性ということにかかわる。いろいろと工夫を凝らして、限定された側面についての「法則」らしきものをみつけても、それは常に条件付きのものであり、ポパー流にいえば「法則」よりはむしろ「趨勢」というべきものではないかと思われる。ポパーは、「趨勢」に過ぎないものを「法則」視してはいけないという言い方をしていて、どことなく「趨勢」把握を価値の低いものとみなしているようなニュアンスが感じられるが、「法則」をとらえることに極度の困難を伴う社会科学にあっては、「趨勢」をとらえること自体が大変な作業であり、それは立派な「研究」の名に値するもののはずである。そして、そうした「趨勢」理解を前提して、種々の分野で発見された「趨勢」を歴史事象に当てはめていく作業は興味深いものであり、それが「社会科学的歴史」の意味だと思う。ただ、所詮、それは「法則」ではない以上、自然科学におけるような「科学性」を主張することはできないということになるだろう。
この項の議論には舌足らずなところがあり、自分の積極的な見解の提示という本項冒頭の課題設定に十分応えるものにはなっていない。これをもっとふくらまして、社会科学論や歴史学論を本格的に展開しなくてはならないし、あるいはまた認識と実践の関係とか、自由主義思想と自由主義政策に対する評価といった問題にも踏み込んで行かねばならない。最初の心づもりとしては、そうしたことまでここで書いてみたいと思っていたのだが、それは予想外に大きなスペースと時間を要する大作業だということが明白になってきた。この小文は、中途半端なものではあるが、「読書ノート」にしてはかなり長大なものになってしまったし、私もやや息切れしてきた。残された課題については、またいずれかの機会に挑戦することにし、一旦稿を閉じることにしておこう。 
(1)小河原誠「ポパー――批判的合理主義」講談社、一九九七年。
(2)もちろん、中には、矛盾する二つの要素を含んだ論者もいるだろうし、そのような論者を念頭において批判をすることは確かに可能かもしれない。しかし、それは、ある意味で安易な作業ではないだろうか。自己矛盾を含んだ論者をやっつけるのはごく簡単なことである。しかし、歴史主義というものを、ある特定の論者の議論とするのではなく、もう少し抽象したレヴェルでとらえようとするのであるならば――そして、そうでなければわざわざ批判する意味も乏しいと思えるのだが――そうした矛盾を排除して、より理念型的に構成された概念を用いるべきではないだろうか。
(3)ここのところは少し補足しておいた方がよいかもしれない。「主体的努力」ということばかりを強調すると、純然たる主観主義のようにとられるかもしれないが、そうではなかった。過去および現状についてはできる限り精密な「科学的」分析をすべきだと考えていた。ただ、同時に、そうした分析は直ちに未来へ向かっての必然的経路を指示するものではなく、過去・現在の分析を踏まえた未来構想は主体的決断の要素をはらむという風に考えていたのである。より具体的には、前者は宇野弘蔵学派の経済学によって代表され、後者はやや実存主義的色彩を帯びた発想でとらえられていた。宇野経済学と実存主義とは奇妙な取り合わせとみられるかもしれない。しかし、宇野学派の「科学と実践の峻別」論は、「科学」の領域のみを経済学によって埋め、「実践」ないし「思想」の領域を空白に残していたから、そこをさまざまな思想で埋める余地があった。それを実存主義的傾向を帯びた初期マルクス疎外論で埋めるというのは、当時の「新左翼」としては比較的自然な組み合わせだったと思う。
(4)F・A・ハイエク「市場・知識・自由」ミネルヴァ書房、一九八六年の訳者解説による。
(5)本書に、自分はある時期まで自然科学のみを念頭においていて、社会科学については何も知らなかったという述懐がある。
(6)なお、小河原の前掲書でも帰納法への批判が詳述されており、私を戸惑わせた。
(7)H・リッケルト「文化科学と自然科学」岩波文庫、初版一九三九年。なお、かつての私のリッカート理解、およびそれについての私の記憶は、かなり怪しいところがあるかもしれないが、そうした点についてはいまは立ち入らないことにする。 
 
「民主主義の天使」ミフニク

 


大多数の日本人にとって東欧はあまり馴染みのない地域だが、その中では相対的に親近感を呼び起こすのがポーランドである。それには、ショパンやキュリー夫人の名前を思い出すといったことをはじめとしていくつかの理由があるが、一つの大きな要素として、アンジェイ・ワイダの一連の映画や、一九八〇‐八一年の「連帯」運動の高揚、そして「連帯」指導者だったヴァウェンサ(ワレサ)が大統領にまでなったといった経緯から、比較的よく知られ、特に「悪逆非道なソ連の支配に対する不屈の反逆」というヒロイックなイメージが共感を呼ぶという点があるだろう。
このような書き出しの文章に、早くも軽い皮肉めいた口調が混じってしまったが、他国による支配への抵抗やそれへの共感に水を差すのが本意ではない。私自身も、ワイダの「地下水道」や「灰とダイヤモンド」によって戦後ポーランドへの最初のイメージをつくったし、「連帯」運動が起きたときには、熱い思いをいだきながらそれを見守っていた経験がある。だから、いまでは多少の距離をおいてみるようになったのは、決して「連帯」その他の運動に頭から反感をもつとか、ましていわんやソ連を擁護するというようなことではなく、むしろ元来の出発点がポーランドの民衆運動への共感にあったからこそ、それをただそのままいつまでも「馬鹿の一つ覚え」のように繰り返すのではなく、共感すればこそ冷静な眼ももたねばならないと考えるようになったからである。
ある時期まで、ほぼ無条件で共感していた動きに、少しずつ留保をつけたり、軽くではあるが皮肉っぽい眼で見たりするようになったのはいつ頃からだろうか。いまでは記憶も定かではないが、一つには、一九八〇‐八一年の「連帯」高揚期に日本のジャーナリズムであまりにも表面的で心情的な「「連帯」頑張れ」の応援論が幅をきかせたこと(これは八九年の東欧激動期に更に増幅されて噴出した)、もう一つには、私自身の専攻対象はロシア・ソ連史だがポーランドをはじめとする東欧諸国についても少しずつ勉強を重ねていくうちに、あまり薄っぺらで心情的な応援論を繰り返すのは無責任ではないかという気持ちをもちだしたことが影響しているだろう。
一般に、これまであまり関心をもたなかった国に興味を引かれる場合、その最初のきっかけが、悲劇的事件を知って共に涙したり、英雄的行為を知ってそれに熱い連帯感情をいだいたり、といった経験であることは珍しくないし、それをきっかけとして更に理解を深めていくなら、それは大いに結構なことである。ただ、最初のきっかけを離れて理解を深めていくうちに、どの国も多面的な要素をもち、あれこれの有名な悲劇や英雄的行為ですべてが尽くされるわけではないということが分かってくるのが常だし、有名な事件だけでその国についてのステレオタイプ的イメージをつくってしまうのは、その国の人にとっても有難迷惑で、むしろ失礼なことだということも分かってくる。
どの国にも、光も影もあり、英雄もいれば裏切り者もいる。そのうちの「影」の側面や「裏切り者」にばかり目を向けるのは、もちろん失礼な話で、専らそのような側面を強調するようなことはすべきでないが、だからといってそういう側面には触れないで済まそうというのも、真に共感するからではなく、むしろおざなりなキャッチフレーズで片づけようとする安易な態度の現われではないだろうか。どのような人間も国民も、愚かさや醜さや狡猾さをもっているが、それから眼を背けるのでもなければ、そうした面があるから嫌うとか馬鹿にするというのでもなく、そのような側面を含めつつ全体として共感をもって理解しようと努めることこそが異文化理解の基本のはずである。
ところが、これまで日本であまり知られていなかった国を紹介しようとする人は、ややもすればこうした基本的なことを忘れて、安易なキャッチフレーズ的理解で済ませようとする傾向があるように思われてならない。専門家向けでない文献の場合、ある程度の単純化はやむを得ないことだが、例えばイギリスのジャーナリストの著作などと比べても、日本人の啓蒙的著作には皮相な心情論とキャッチフレーズ的理解が多すぎるような気がしてならない。
ポーランドという国は、広く日本人一般によく知られているというほどポピュラーではないが、そうした類の啓蒙的著作の数が少なくはないという意味で、日本人の異文化理解の歪みを象徴的に映し出す鏡のような位置にある。私がポーランドに関する日本の著作に、やや斜に構えたような態度で接してしまいがちなのは、そのような事情があるためである。 

前置きが長くなってしまった。本書の感想に入る。
本書の著者アダム・ミフニク(一九四六年生まれ)は、「連帯」運動の中心的理論家のひとりであり、一九八九年の「円卓会議」で大きな役割を演じ、体制転換を担った中心人物のひとりでもある。そのミフニクの論文集(一九七〇年代の反対派時代から、旧体制転覆後の一九九四年に至る)は、戦後ポーランド政治史への重要な証言であり、資料的価値の高さはいうまでもない。もっとも、政治闘争の一方当事者の同時代的発言であるだけに、その発言にはある種の一面性もつきまとっている。また、一つ一つの論文が短いせいもあって、その主張はそれほど体系的に提示されてはいないし、執筆時による視点の違いもきちんと説明されてはいない。例えば、第五・六章では、ゴルバチョフおよびヤルゼルスキに対してかなり強い警戒心が表出されているが、これは執筆が一九八七年、つまりまだペレストロイカが本格化せず、その後の展開が見通せない時点のものだということを念頭におかないと、その後の変化――著者に代表されるポーランド反対派のヤルゼルスキ政権との接近――が理解しにくい。
やや批判がましいことを書いたが、研究者による分析の書ではなく、当事者の政治評論を集めた書物である以上、こうした点は、むしろ当然のことだろう。本書のそのような性格を念頭において読む限り、興味深い書物であることは間違いない。
私の個人的関心からいえば、やや専門的になってしまうが、一九五六年以降のポーランドに現われた思潮を「修正主義」と「ネオ・ポジティビズム」とに分け(後者は一九世紀末の歴史的現象を念頭においたアナロジー)、その上で、「ソ連の国家組織を教会に、マルクス主義のイデオロギー的教義を聖書に見立てれば、修正主義は聖書には忠実であったが、それを自分流に解釈し、一方、ネオ・ポジティビズムは教会に忠実でありながら、その教会は遅かれ早かれ消滅すると期待していたのである」といった指摘が特に興味深かった。このような観察は、さすがに内部に生きていた人ならではと感じさせられる。
政治上の戦術に関しては、ある意味で意外、ある意味で当然なのだが、ミフニクは「妥協」の信奉者である。早い時期の論文で既に、「反対派は、ポーランドにおける変化が――すくなくともその最初の段階では――「ブレジネフ・ドクトリン」の枠内で進められるべきことを、十分に認識しなければならない」と説いており、八〇年の「連帯」運動期にも、「われわれの地政学的な条件や、ヨーロッパ内部でしめる位置を考えれば、わが国は共産党によって統治されなければならない」と述べている(1)。そして、八九年の決定的転機においては、「諸君の大統領、われらの首相」という定式を提出して、「民主的反対派と、権力機構内の改革派とが手を結ぶこと」を説いている。もちろん、このような「妥協」論は、あくまでも戦術として説かれているのであって、基本的立場そのものに関しての妥協性や無原則性のあらわれではない。原則においては徹底的に争うが、現実政治の戦術としては無用な衝突を避けて妥協を志向するという、この二重性がミフニクの議論の特徴をなしており、独自の魅力の源泉ともなっている。
こうした「妥協」論をミフニク自身は、フランコ後のスペインにおける政治体制移行の教訓から導きだしているが、もう一つ見落としてはならないのは、「妥協」が可能になるには、相手方にもそれなりの条件があるという点である。先にも簡単に触れたが、ミフニクは当初ヤルゼルスキを強い不信で見ていた。しかし、やがて彼と対話が可能であることに気づく。そうでなければ「円卓会議」などあり得なかったろう。ただ、本書では、いつどのようにしてそのことに気づいたのかは述べられていない。
ヤルゼルスキが「円卓会議」に応じたのは、もちろん一つには反対派の運動によって追いつめられたからであるが、それだけなら、「窮鼠、猫を噛む」的な強硬な反応もありうるのであって、それをとらずに対話に応じたのは、一つの選択である。そうした体制側の選択の内側を知るには、例えば、ヤルゼルスキの回想録(2)を本書とあわせ読む必要がある。ついでながら、この回想録には、「アダム・ミフニクとの対話」も収録されており、ある時期まで不倶戴天の敵だったこの二人がこうして対話できるということの深い意味を痛感させられる。こうやって双方の側からみなければ、歴史を立体的にみることはできない。
共産党時代のポーランドの支配体制がそれほど硬直したものでなかったことは、ミフニクも本書のいくつかの個所で触れている。例えば、権力の弱さのあらわれとしての「寛容」の指摘である。ミフニクは、これはあくまでもやむをえざる対応であり、権力の側の「選択の結果」ではないということを強調しているが、私の見地からは、たとえそのようなものだとしても、ともかく反対派側から「寛容」と評価されるような状況が生じていたという事実が重要だと思える。もっといえば、戦後ポーランドがミフニクをはじめ数多くの反対派活動家を次々と輩出したという事実、そして彼らが制約された状況においてではあれ活発な言論活動を続けることができていたという事実自体が、驚嘆に値することであり、体制の特異なあり方を物語っている。著者は、「〔反対派の〕本や新聞雑誌は秘密裡に印刷されたが、そこには著者や編集者の実名が明記されていた」という。これは確かに重要な点だが、そのことは反対派の勇気を示すだけでなく、体制側の弾圧がそれほど強烈でなかったからこそ可能だったのだということも忘れるべきではない。 

本書を読んで感じることはまだいくつかあるが、ここでは、もう一つだけ、私が強く引っかかった点に触れておきたい。それは特に、「プロローグ――ヨーロッパにかんするポーランドの夢」にかかわる。
一九九五年に書かれたこのプロローグの趣旨は、「ヨーロッパへの回帰」という点に尽きる。
「共産主義は反ヨーロッパであった」、「共産主義にたいする抵抗はつねに(中略)ヨーロッパの価値に立脚した」、「共産主義者たちは、自由や近代性を我慢できないのと同様、西ヨーロッパも我慢できない」、「〔保守勢力は〕ストラスブールやボンやパリやワシントンとのつながりよりもカザフスタンや中国との提携を望む」、「われわれの多くは、生まれながらのヨーロッパ人である」、「われわれは北大西洋条約(NATO)とヨーロッパ連合(EU)に加盟したいと願っている――仲間はずれに甘んじ、田舎でありつづけるのを恐れるがゆえに」。
ほとんどコメントは不要だろう。あまりにも露骨というか、ナイーヴとさえいいたいほどのヨーロッパ中心主義――一種独自のエスノセントリズム――の手放しの表出である。こういう風にいうと、ミフニクに対して辛すぎると反論されるかもしれない。ミフニクが念頭においているのは、現実のヨーロッパそのものではなく「ヨーロッパ的」とされてきた価値のことであり、それは民主主義とか自由とか寛容とかいったもののことであって、それを尊重するのは当然だといわれるかもしれない。それはその通りだろう。だが、どうしてそれを「ヨーロッパ」と表現するのか。「ストラスブールやボンやパリやワシントン」と仲良くすることは民主的で、「カザフスタンや中国」と仲良くするのは反民主的だ、などといわれたら、カザフ人や中国人は一体どうしたらよいのか。ここで念頭におかれているのは人民ではなくて政権のことだといわれるかもしれないが、先の引用文はそのような表現にはなっていない。カザフスタンや中国にも人民がいるのだということはまるで頭の中にないかのようである。
これはミフニクだけの問題ではない。かつてペレストロイカの最中に、あるエストニアの学者が、今日のロシア人は、モンゴルに征服されたときにロシア女性がモンゴル男性に強姦されて生まれた人間の末裔であり、だから野蛮なのだという趣旨の発言をして、物議を醸したことがある(3)。これほどあからさまな人種差別的発言はさすがに珍しいが、ロシアは「モンゴル的」「タタール的」「アジア的」であり、だから「ヨーロッパ」たるバルト三国やポーランドよりも劣っているし、民主主義に遠いのだ、といった発言は決して少なくない。そのような論理に従うなら、モンゴル人やタタール人は一体どうしたらよいのかなどという問題は、こうした発言をする中欧諸国の人の念頭には全く浮かばないかのようである。政治変動の渦中にある当事者が感情的発言をするのはまだしも理解できるとしても、それを観察している日本の評論家が、こうした発言を無批判に受容したり賛美するのには驚くほかない。
この問題の根は、考えていくと、更に深いところに行き着く。ややかけ離れた例とみえるかもしれないが、あのマックス・ウェーバーも、ポーランドやロシアのような「東方」に対して――特にロシアについてはポーランドに対して以上に――驚くほど差別的なまなざしをもっていた(4)。これは単なる偶然とか、「どんな偉大な人間にも意外な欠点があるものだ」というようなレヴェルの問題ではない。考えてみれば、ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理への注目や、西欧にのみ固有な合理主義化傾向への注目は、「西欧」対「東方」の対置図式を根底にもっており、「ヨーロッパ」の東端の自意識を持つドイツにとって、自己が「ヨーロッパ」に属することを確認するには、その東にある諸民族を差別的に見下すことが必要だったのである。
ドイツのすぐ東に位置するポーランドも、「ヨーロッパの最東端」という意識を、ドイツ以上に強烈にもち、彼らにとってロシア蔑視とヨーロッパへの憧憬とは切っても切り離せない関係にある。ミフニクの「ヨーロッパ人」意識はひとり彼だけのものではなく、ポーランド知識人に大なり小なり共通するものなのである。そればかりではない。我が日本もまた、福沢諭吉の「脱亜入欧」という有名な言葉をもっており、これは決して他人事ではない。
このように述べたからといって、私は、ウェーバー、ミフニク、福沢らを「欧化主義者」「差別主義者」「オリエンタリスト」などのレッテルを貼ることで切って捨てようというのではない。サイードの「オリエンタリズム」以来、そのような勇ましい「オリエンタリズム批判」は日本でも珍しくなくなったが、あらゆる勇ましい議論に抵抗を覚える私としては、そのような議論にただ同調するということもできない。彼らの「アジア」観に差別的な要素があるということは紛れもない事実だが、だからといって彼らが偉大な思想家であるということまでが否定されるわけではない。「偉大な思想家」であることと「差別主義者」であることとが両立するという事実――ここに、最も困難な問題がある。そのどちらか一方をあっさりと切って捨てられるなら、話は簡単になってしまうのである。
その上、もっと厄介なのは、「入欧」意識を今日のわれわれもそう簡単に否定するわけにはいかないということである。近代西欧諸国がその掲げる理念を本当に実現しているかどうかはもちろん大いに疑義があるが、ともかく通常「ヨーロッパ的」とされる一連の価値――民主主義、自由、理性、市民社会など――が、今日なおわれわれにとっても価値と感じられることは、好むと好まざるとにかかわらない事実である。その意味では、私自身も、ウェーバーやミフニクや福沢諭吉とそれほど隔たったところにいるわけではない。単純に否定しきることができないからこそ引っかかるのである。
「ヨーロッパに入る」という発想は、福沢の生きた時代の日本でも、ソ連・東欧圏解体直後の中欧諸国でも、強い魅力を帯びて広まっている。それは無理からぬことである。切ないほどの想いとさえいってよい。だが、それは同時に、「自分よりも東の国はヨーロッパには入れない」という発想を前提している(日本の場合は東西が逆になって、地理的には西に位置するアジア諸国が入欧できないということになる)。
この構図は、芥川龍之介の短編「蜘蛛の糸」を思い起こさせる。極楽(ヨーロッパ)に入るための糸は細い。それを這いのぼっていけるのは自分だけである。他人(隣国)までがその糸にしがみつこうとするのは許せない。それを蹴落とし、「お前はヨーロッパには縁のない衆生だ」といって、ようやく自分だけが何とか救われることを目指すのである。このような姿勢は、当事者にとっては、必死の営為であり、笑い事ではない。他人(隣国)を蹴落とすのも、いじらしいほどの努力のあらわれである。本稿執筆中の一九九七年現在まさに進行中のNATO拡大問題(ポーランド、ハンガリー、チェコ三国の先行加入)においても、このような構図が見え隠れする。
こうした努力を「切ない」「いじらしい」と感じる私は、ウェーバーやミフニクや福沢を単純に「欧化主義者」と決めつけて否定するといった類の勇ましい議論をする気はない。ただ、その「いじらしい」努力が、同時に、隣国に対する差別的なまなざしと表裏一体であることだけは忘れたくない。そのことを忘れて、「偉大な思想家」だとはやし立てるだけでは、あまりにもおめでたいのではないかという気がするのである。 
(1)この個所の邦訳は、「共産党にとって」とあるが、「共産党によって」の誤植と解した。
(2)ヤルゼルスキ「ポーランドを生きる」河出書房新社、一九九四年。
(3)エストニアの学者マデの論文は、はじめスウェーデンの新聞に発表され、それをロシア・ナショナリストの新聞「ソヴェツカヤ・ロシア」一九八九年八月五日が転載して物議を醸した。このエピソードに関して、私は旧稿「現代ソヴェト政治における民族問題の位置」日本国際問題研究所「ソ連研究」第一一号(一九九〇年)、頁で紹介したことがある。
(4)今野元「「西欧」「ドイツ」「東方」――マックス・ヴェーバーのナショナリズムにおける「二律背反」問題の考察」東京大学大学院法学政治学研究科修士論文、一九九六年参照。但し、今野自身はウェーバーの東方観が「差別的」だったと述べてはいない。本文に記したのは、私の解釈である。 
 
「アメリカ知識人の思想」矢澤修次郎

 


アメリカの社会科学にはあまり通じていない私だが、その中における亡命者の役割や、ある時期に社会主義・マルクス主義の洗礼を浴びたことのある人の位置といった問題については、かなりの関心をいだいてきた。
そうしたテーマについて書かれた文献も相当の数にのぼるが、その一つに、コーザーの「亡命知識人とアメリカ」がある(1)。一九三三年のナチ・ドイツ政権成立から第二次世界大戦終了までの時期に、主にドイツ・オーストリアからアメリカに移住した知識人たち(著者自身もその一人)の群像を描いたものである。これを読むと、実に綺羅星のごとくに、各界著名人が並んでいることに強く印象づけられる。クルト・レヴィン、ヴィルヘルム・ライヒ、エーリヒ・フロムといった心理学者・精神分析学者に始まり、フランクフルト学派、アルフレッド・シュッツ、カール・ウィトフォーゲルなどの社会学者・社会思想家、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、アレクサンダー・ガーシェンクロン、アルベルト・ヒルシュマン、カール・ポラーンニー、ピーター・ドラッカー等々の経済学者、ハンナ・アーレント、フランツ・ノイマン、レーオ・シュトラウス、カール・ドイッチュ、ハンス・モーゲンソーらの政治学者、ヘルマン・ブロッホ、トーマス・マン、ウラジーミル・ナボコフに代表される作家たち、ローマン・ヤーコブソンをはじめとする人文学者たち、そしてルードルフ・カルナップ、アーロン・ギュルヴィチ、パウル・ティリヒらの哲学者・神学者たち等々である(多様な民族の人を含むので人名をどう表記すべきかも難しい問題だが、ここではコーザーの邦訳書のそれに従った)。
コーザーの本では、主たる対象が一九三〇年代のドイツ・オーストリア系亡命者に限定されているが、より広くいえば、ロシア革命とその直後の混乱、ナチ政権成立、第二次大戦前後の混乱という世界史の激動のなかで、西欧・東欧・ロシアからアメリカに、様々な形での亡命者・移民(2)が大量に流入し、その中には多くの社会科学者が含まれた。なお、実はコーザーの本でも、ナボコフやヤーコブソンのように、元来はロシアからの亡命者だった人々も含まれているが、これはロシア革命直後の時点ではヨーロッパに亡命し、ナチ政権成立後にアメリカに亡命したためである。
私の専門に多少引きつけていうと、ロシアからの様々な時期における亡命者・移住者(エスニックにはロシア人ではなくユダヤ人である場合も多い)も実に多彩であり、「アメリカ社会思想史におけるロシア系移民の役割」といったテーマが成り立ちそうな気がする。レーニンに「ピチリム・ソローキンの貴重な告白」(一九一八年)という論文を書くきっかけを与えた社会学者のピチリム・ソローキンはハーヴァード大学の社会学教授となり、アメリカ社会学の一つの重要な源流となった(彼はペレストロイカ期以降、ロシアで広く関心をもたれるようになった)。法社会学者のニコラス(ロシア風にはニコライ)・ティマシェフ、労使関係論のセリグ・パールマン、先に名を挙げた言語学・記号学のヤーコブソンその他、アメリカおよび世界の学界に大きな影響力をもった人は少なくない。彼らの中には、ボリシェヴィキ政権への強烈な対抗意識をいだいていた人が多いが、社会主義・共産主義を肯定するにせよ否定するにせよ、ともかく強い関心をもち、少なくとも無頓着ではいられなかったという点が私の関心を引く。
あまり広く知られてはいないが、興味深い一例として、経済学者のアレクサンダー・アーリック(ドイツ風にいえばエールリヒ)という人がいる。彼の母方の祖父は、高名なユダヤ史家のシモン・ドゥブノフであり、父はブンド(ロシア帝国のユダヤ人社会主義組織)指導者のヘンリク・エールリヒである。彼自身は、一九一二年ペテルブルグ生まれで、一九一七年のロシア革命のときには小さな子供だったが、当時のことをおぼろげに覚えているという。ロシア革命後、ブンドに属していた父親はソヴェト政権下にはとどまらず、元来の出身地たるポーランドに移住した。アレクサンダー(ロシア風にはアレクサンドル)は高等教育をベルリンで受け、ドイツ社会民主党の青年組織にも加入したが、ナチ政権が成立したためポーランドに戻った。一九三九年の九月にエールリヒ一家はドイツによる占領を逃れてポーランドの東部に移動したが、今度はそこにソ連軍が侵攻してきた。父のヘンリク・エールリヒは、ブンド活動家として名を知られていたためにソ連当局によって逮捕され、一旦死刑判決を受けたが、独ソ戦開始後、イギリスやポーランド亡命政権の要請で釈放され、国際的ユダヤ人・反ファシズム委員会創設の提唱者となった。しかし、結局、ヘンリクはソヴェト政権により再逮捕され、処刑された(獄中自殺説もある)。他方、息子のアレクサンダーはたまたま父と一緒にいなかったことが幸いして、逮捕を免れ、ソ連領内を東へ移動して、極東から日本経由で太平洋を渡ってアメリカに移住した。父がソヴェト政権によって処刑されたと知ったのは、しばらく経ってからのことだった。一時脱力していた彼は、やがて気を取り直し、ニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで改めて勉学をやり直した。こうして一九五〇年代に書き上げた博士論文を単行本として六〇年に刊行したのが「ソヴェト工業化論争」である。アーリックのこの本は、この分野の古典ともいうべき先駆的な業績で、実は、私もソ連史を学びはじめたとき最初に読み、卒業論文の種本とした研究書の一つである。そのときは、著者がそういう経歴の人だとは知らずに、単にアメリカの学者の本として読んだのだが、後に経歴を知って感慨を新たにした。彼はロシア系亡命者にしては珍しく反共的な立場に移行することなく、最後までアメリカ政治においてはリベラルを支持していたという(一九八五年に死去)(3)。このようなことを知ると、アメリカの研究というものが、ただ単に物的条件に恵まれ、知的才能をフルに発揮できる環境があるということからだけ生まれたのではないということを痛感する。
ヨーロッパからの亡命者の中には、種々の潮流のマルクス主義者も多数含まれていた。最も著名なのは、コロンビア大学に一時的避難所を見いだしたフランクフルト学派(後にロスアンジェルスに移動)である。同じくニューヨークには、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの中に「亡命者大学」がつくられ、ナチ政権成立で職を失ったドイツ・オーストリア系の学者に研究の場を提供したが、ここにも多くの(元)マルクス主義者が集まった(4)。亡命メンシェヴィキが本拠をベルリンからニューヨークに移していたことも、ニューヨークの知的生活に一つの刺激を与えた。メンシェヴィキの主だった指導者の多くがコロンビア大学のすぐそばに密集して住んでいたということを、私はコロンビア大学留学中に聞いたことがある。
そうした亡命者の知的活動の刺激もあって、アメリカの知識人の間でも、ある時期には社会主義の問題がかなり大きな位置を占めていた。何となくアメリカの社会科学というと、社会主義ともマルクス主義とも無縁という一般的イメージがあるが、案外そうでもなかったのである。もちろん、そこではいわゆる正統派マルクス=レーニン主義が中心だったわけではない。むしろトロツキスト系とか、メンシェヴィキ系といった人たちが大きな比重を占めており、社会主義の理念とスターリンのソ連の現実との対照が深刻な問題として意識されていた。また、後にマルクス主義から離反していった人も多い。こういうわけで、マルクス主義との関連はそう単純一筋縄ではないが、それにしても、ともかく一時期は社会主義の実践やマルクス主義の理論的刺激を受け、それが後の知的活動に何らかの影響を及ぼしたという事実が興味を引くのである。 

さて、社会学者の矢澤修次郎の手になる本書によれば、有名な社会学者のセイモア・マーチン・リプセットも、フィリップ・セルズニックも、ルイス・コーザーも、一時期トロツキスト系の政治運動にコミットしていたし、「イデオロギーの終焉」や「脱工業化社会の到来」で名高いダニエル・ベルはメンシェヴィキ的な政治運動から出発していた。このうちのベルについては、あれほど熱心に「イデオロギーの終焉」を説くのは、彼自身がある時期にイデオロギー的な政治にコミットした経験をもつからだろう位のことは想像がついていたが、それ以上のことは知らなかったし、リプセットとかセルズニックが「トロツキスト」だったというのは全く予想外だった。
彼らが非共産系左翼運動へのかかわりをもったのはいくつかの要因による。ニューヨークという場の特性もその一つだし(但し、本書では、先に触れた亡命メンシェヴィキのニューヨーク居住については述べられていない)、移民が多いという点も影響しているだろう。セルズニックはアメリカ生まれだが、両親はそれぞれルーマニアとロシアからの移民であり、コーザーはドイツからフランスを経てアメリカに渡ったユダヤ人、そしてベルの父は東欧からのユダヤ人移民である。つまり、本書でいう「ニューヨーク知識人」のかなりの部分が移民・亡命者ないしその子供であり、ユダヤ人が相当の比率を占めるわけである。
このような事柄について私は以前から強い関心をもっていたので、相当高い期待をもって本書を読んだのだが、率直な読後感をいえば、かなりの不満がある。そもそも本書は論文集ではなく書き下ろしということになっているが、それにしては構成の緊密さと完成度に欠ける。
例えば第二章のアメリカ・トロツキズム運動史は、「ニューヨーク知識人」の知識社会学という観点からいえば一つの背景に過ぎないはずなのに、不必要に立ち入った印象がある。アメリカ・トロツキズムは、ある時期にはかなりの影響力をもったとはいえ、結局のところは有意な政治勢力になることができなかったし、本書のテーマたる社会学者たちの知的営為にとっても一つの経過点以上の意味はもたなかった。何のために、そうした運動にこれだけの紙数を費やしたのか、疑問が残る。確かに、アメリカにもトロツキズム運動があったということ自体は、あまり知られていなかった興味深い事実ではあるが、もしそれを主題にしたいのなら、本書のような知識社会学の書物の中の一章としてではなく、独立した社会主義運動史として書く必要があったろう。私自身はアメリカ社会主義運動史には不案内だが、他の国の社会主義運動史の文献をたくさん読んできた経験からいえば、この章におけるトロツキズム運動の叙述は、単なる事実と主張の紹介にとどまっており、分析に欠ける。つまり、本書の主題への背景説明としては不必要に長く詳しいが、それ自体を主題として考えるには短かすぎて、分析的でなく、いずれにしても中途半端なのである。
主題としてのニューヨーク知識人についても、一人にしぼった伝記的研究ではなく「群像」として描くのならば、もっと多数をとりあげてほしかった気がする。例えばリプセットは極めて著名で影響力も大きい政治社会学者だが、そのような人が若い時期にトロツキスト運動に関与していたというのは非常に興味をそそられる事実である。にもかかわらず、彼については軽い言及しかない。また、共産党系の運動にコミットしていたアルヴィン・グールドナー(彼が共産党系だったというのも初耳だった)については序論で一言触れるにとどまっている。これは対象を非共産系左翼にしぼったためだが、トロツキストにせよメンシェヴィキにせよ、その立場に長くとどまったのではなく、一つの経過点に過ぎなかったのであれば、そうした潮流と共産党系とを特に峻別する必要はなかったのではないか。もちろん、教条的な正統左翼はあまり知的好奇心を引く対象ではない――もっとも、そういう人についても、新しい角度からとりあげれば、案外面白い研究ができるかもしれないが、その点は今は措く――が、グールドナーはそういう人ではないだろう。歴史家のリチャード・ホフスタッター、社会学者のC・W・ミルズ、歴史家のガブリエル・コルコらの名前もちょっとだけ登場するが、正面から論じられてはいない。主要登場人物とかなりの接点をもつエドワード・シルズ、バリントン・ムーアなどについての詳しい説明もない。フランクフルト学派については第一章で触れられるのみで、一時期ニューヨークにいたにもかかわらず、「ニューヨーク知識人」との交流については立ち入った言及がない。
もっとも、本書の後で読んだのだが、同じ著者の別稿では、リプセットとグールドナーが論じられている。そこでは、本書同様に、ニューヨーク知識人と「トロツキズム問題」――なぜ労働者階級はその歴史的使命を果たせず、スターリン主義のくびきをかなぐり捨てなかったのか――の関係も触れられていて、興味深いアメリカ社会思想史の断面になっている(5)。こうした旧稿の問題提起をもっと膨らませて、本書の中に統合していれば、まさに「群像」という副題にふさわしい書物になったのではないかと思われる。 

結局、本書で主要に論じられているのは、セルズニック、コーザー、ベルの三人である。この三人については確かに教えられるところが大きい。主人公というわけではないが、バーナムと経営者革命論をめぐる論争も、ソ連認識と現代資本主義認識の密接な関連という問題を提起していて、示唆されるところが多い。またセルズニックは、法社会学からコミュニタリアニズム(共同体論)へという軌跡を描いたということだが、コミュニタリアニズムは今日の主要思想潮流の一つであるだけに、本書の対象が過去の思想史にとどまらない現代的意味をもつことが感じられる。
第二次大戦後の反共主義とその中におけるアメリカ自由文化会議の役割についての叙述も面白い。ベル、シルズ、リプセット、ガルブレイス、ケナンらが大きな役割を果たした自由文化会議は、確かに反共主義の立場に立っていたが、マッカーシイズムに対しては批判的な態度をとっていた。マッカーシイズムはかえって共産主義との効果的な闘争を妨げるというのが彼らの考えだった。こうしてリベラルと右派の分岐が生じ、右派と区別される反共リベラリズムが確立したというのである。同時期の日本では、反共イコール右派という図式があり、リベラル知識人はたとえマルクス主義者でなくても親共的――といって語弊があるなら、少なくとも「反・反共」的――だったのとこれは対照的である。こうしたズレのために、日米の知識人の間には長らく議論のスレ違いがあったように思われる。ベルのマッカーシイズム分析も、少なくとも私にとっては新鮮で興味深いものだった。
とはいえ、これらの知識人を描いた本書の中心部分にも、私としては若干の不満がある。
私見では、知識人を描くやり方には二通りの方法があるように思う。一つは、社会思想史的な方法、つまり本人がどのような社会的・歴史的条件下で生きたかを重視し、それとのかかわりで知的営為を分析するやり方である。もう一つは、学説史ないし理論史的な方法で、社会的背景はひとまず措いて、知的活動それ自体を主要に論じるものである。後者は「内在的」思想史と言い換えてもよいが、前者については、「外在的」と特徴づけて片づけるわけにはいかない。単純な「土台‐上部構造」論に立った、昔なつかしい教条マルクス主義的な社会思想史であれば、「外在的」といって差し支えないだろうが、ここで念頭におくのはそういうものではなく、「外的」条件に対して本人がどのように立ち向かったかを考察し、「外部」と「内部」の交錯のあり方を跡づけようとするものである。
これらを比べてみると、単純に「外在的」な思想史は、いうまでもなく最も安易である。主人公の生きた時代の政治・経済・社会などの動向を描けば、それが直ちに思想を説明することになるからである。「内在的」な理論史は、それよりは難しいが、その分野の理論にある程度通じている人なら、何とか書ける。主題とする人の著作を丁寧に読み、その内容を紹介し、他の論者との対比などを通じてその特徴を明らかにすればよい。これに対して、「外部」と「内部」の交錯を描くのはおそらく最も難しいだろう。これを描くためには、主人公の生きた時代の社会状況を――それも一般論的・マクロ的にではなく、まさにその人が直面したミクロな環境に即して――深く理解しなくてはならないし、それと同時に、その人の公刊著作ばかりか、私的文書(日記や手紙)を読んだり、関係者にインタヴューしたりして、その人を内面から本当に深く理解しなければならない。そうした資料がなければどうしようもないし、仮にそれらの資料を手にしたとしても、著者が明示的に語っていない――あるいは本人自身も意識していないとか、語りたくない――領域に分け入って、社会的状況に著者がどのように立ち向かったかを解明するのは、相当な困難事だろう。誰を主題としてとりあげるかにもよるが、不可能に近いかもしれない。見事に「外部」と「内部」の交錯を描いた思想史を読みたいとは思うが、滅多にそういう作品にはお目にかからない。私自身、もしそういったものを書けたら最高だとは思うが、おそらく一生できないだろうと感じていることも告白しておこう。
さて、本書はこれらのどれに属するだろうか。序論や第一章の問題提起は、社会思想史的なものを目指すかにみえる。第二章は、単純に「外在的」な思想史を書こうとするのではないかという懸念をいだかせる。しかし、その後の部分は、むしろ理論史ないし学説史的な性格を帯びている。部分的には社会思想史的要素も含まれてはいるが、十分掘り下げられておらず、徹底していない。
全体として本書の叙述は、事実の平板な記述や著作の内容の淡々とした紹介が大部分を占め、あまり分析的でない。紹介されている主張に対する著者の評価もあまり明らかには述べられていない。それでいながら、突然、「ニューヨーク知識人は共産主義に対して正しい立場を獲得していたと同時に、モダニズムの重要性に関しても正しい立場を持っていた」などという文章が出てくると、いささか驚かされる。それまでの個所で評価基準の問題を論じていないにもかかわらず、「正しい立場」などということがこんなに安易にいえるというのは不思議である。第六章の末尾にある、「現代における社会主義の伝統を継承するもの」、「ベルは一貫して社会主義のプロジェクトを追求し続けている」という記述も唐突で、飲み込みにくい。他の個所の叙述はむしろベルの社会主義離れをこそ示しているのではないだろうか。
こうして、突っ込んだ分析が欠けている上に、飛躍した判断が断片的に示されるために、書物の全体としての狙いも、あまりはっきりしない。著者の意図については、本書の「はしがき」の末尾に、次のような記述がある。
「専門職、技術職としての知識人が圧倒的に優位に立つ現状に照らしてみれば、本書は明らかに「過去」について語ったことになる。しかし本書は、過ぎ去りし牧歌的な「過去」にあこがれて書かれたものではない。来るべき「情報社会」における知識人と社会学に関心があったればこそ、この「過去」について語ったつもりである」。
この文章は共感を呼ぶ。私は、本書のテーマ自体にも関心があったが、はしがきのこの一句に惹かれて本書を買ったのである。しかし、通読してみて、期待はかなり裏切られた感じをもった。右の一文に対する回答らしきものが本文のどこにも見当たらなかったからである。
かなり辛口の批評ばかり述べてきた。それというのも、私が本書のテーマに強い関心を寄せ、高い期待をもっていたからである。本書はそれに十分答えてはくれなかったが、しかしもちろん、いくつもの興味深い情報と考えるヒントは与えてくれた。そうしたものを提供してくれればそれで十分というべきであり、私の幻滅は無理な要求に発する「ないものねだり」なのかもしれない。 

冒頭でも触れたが、アメリカの社会科学の中に、亡命者による知的刺激を一つの要因として、社会主義・マルクス主義への高い関心――否定や懐疑も含めて――があったということは、興味深い事実である。そうした要素があったからこそ、戦後アメリカの社会科学は平板なものにとどまることなく、活気ある仕事を生みだし続けることができたのではないだろうか。
ところが、近年、そうした活気のもととなる外的刺激が少なくなったのではないかという気がしてならない。一つには、ロシア革命からナチ政権成立を経て第二次大戦にいたる数十年間のような亡命者の太い流れがヨーロッパからアメリカに入ることが少なくなった(その代わりに、アジア系移民が大きな役割を果たすようになったようにもみえる。この点については別に考える必要があるかもしれない)。またもう一つには、社会主義やマルクス主義について、かつてのような緊張感がなくなって、「深く考えるに値しない、下らないものに決まっている」と頭から決めつけることが容易になったようにみえる。
こうして、亡命者および社会主義イデオロギーという二種類の「異質なるもの」の流入およびそれとの対決が比重を低めた結果、「アメリカ的自由」を人類普遍のものと無意識に想定することが容易になってきているようにみえる。この発想は一種の自文化中心主義(エスノセントリズム)だが、にもかかわらず、そうした発想が日本や、最近は旧社会主義国の社会科学者にも伝染しつつある。旧社会主義圏の経済に関し、新古典派経済学に基づく開発経済学の処方箋を安易に適用したり、政治体制移行について、欧米型民主主義を固定的な目標点と想定した「比較民主化」論が流行(はや)ったりするのはその例である。私はアメリカ社会科学を毛嫌いしているわけではなく、多くを学んでいるつもりだが、こうした外的刺激の弱化とそれに伴う自己満足的傾向の増大は、やや危険な兆候ではないかという気がしてならない。 
(1)ルイス・コーザー「亡命知識人とアメリカ」岩波書店、一九八八年。
(2)厳密には、「亡命」という言葉は政治的亡命に限定されるべきであり、それ以外の移住者(移民)と区別されるべきだが、その区別が曖昧にされていることも多い。ここでも、この使い分けにあまり神経質にならないことにする。
(3)アーリックの経歴に関しては、主に Padma Desai, "Alexander Erlich: Biographical Sketch," in Padma Desai (ed.), Marxism, Central Planning, and the Soviet Economy: Economic Essays in Honor of Alexander Erlich, The MIT Press, 1983 を参照した。なお、父ヘンリク・エールリヒについては、P・スドプラトフ、A・スドプラトフ「KGB 衝撃の秘密工作」下、ほるぷ出版、一九九四年、一〇四‐一〇七頁、およびツヴィ・ギテルマン「葛藤の一世紀」サイマル出版、一九九七年、二一一‐二一二頁に言及がある(後者の二一八頁には写真もある)。
(4)コーザー、前掲書、一一〇‐一一九頁。
(5)矢澤修次郎「アメリカ社会学と現代思想」「現代思想」一九七六年一二月号。 
 
「オリエンタリズム」サイード

 


本書のことを初めて知ったのは、確か一九八〇年代の半ばのことだったと思う。原書刊行は一九七八年だから、それから数年経っていたわけだが、まだ邦訳も出ておらず、少なくとも日本ではそれほど話題になってはいなかった。そのときに簡単な紹介に接した私の第一印象は、「正当な問題提起だが、それほど新鮮というわけではないな」というものだった。そう感じたせいか、それから少しして邦訳が出て、日本でも本書が――そしてまた「オリエンタリズム」という言葉が――有名になる中でも、それほど強く食指が動くことはなかった。「一応は納得がいくし、基本的には正しい指摘なのだろうけれど、そんなに大騒ぎするほどのことでもないのではないか」という気がして仕方がなかったのである。
本書に限らず、世間で話題になっている本や著者に対してちょっと斜めからみてしまうというのが私の癖である。ひねくれているとか、時流に疎いといわれればそれまでだが、自分なりの言訳もないわけではない。今日のように次から次へと各種の本が出て、知的世界での流行もあわただしく移り変わる世の中で、それに一々つきあっていたら、いくら時間があっても足りない。それよりはむしろ、一定期間が過ぎてからまだ気になるようなら、そのときに読めばよいというのが私の流儀である。数年後には忘れられてしまうような流行なら、もともと大した意味はなかったのだし、数年後でもまだ気になるようなものなら、遅ればせに読んでも意味を失わないのではないかと考えるのである。
こういう態度をとることには、もちろん危険性もつきまとっている。重要な問題提起に気がつかず、吸収すべきものを適時に吸収しないで、自分の視野を広げる機会を失ってしまうかもしれない。このような危険に対しては、とりあえずアンテナだけは広く張り巡らし、読む読まないは別として、「こういうのが最近の流行らしいな」ということにだけは気をつけるようにしておくという形で何とか対処できないわけではない。もっと難しいのは、「やはり無視できない」と感じたものを遅ればせに読んだときに、それまでに「耳学問」で吸収していた知識のせいで先入観ができあがっていて、虚心坦懐に読むことができず、単なる先入観の確認に終わってしまいかねないという点である。自分としては、できるだけそういう先入観にとらわれず、意外な発見を大事にしながら読んでいるつもりではあるが、それがどこまで成功するかは一概にいえない。ともかく、先入観通りのものしか見いだせなかった場合には、その読書はそれほどの成果をもたらさなかったと自覚し、意外な発見があった場合にのみ、「読んだ甲斐があった」と考えるように心がけてはいる。 

さて、サイードの「オリエンタリズム」である。はじめて紹介に接したときに「それほど新鮮ではない」という不遜な印象をもったことは先に述べた。この印象は、ようやく読んだ後も、残念ながら大きく修正はされなかった。その意味では、この読書は私にとってそれほど成功ではなかったということになる。あまり成功しなかった理由の一つは、著者が検討対象としてとりあげている題材の多くが英仏の東洋学者の著作で、それらに私が馴染んでいないため、細部に立ち入った吟味をする能力がなく、大まかな全体的構図を見ることしかできなかったという点にある。そして、全体的構図に関する限り、欧米の「東方」への眼差しが差別的で、ステレオタイプに基づいたものだという程度のことなら、それこそ当たり前すぎて、新鮮でも何でもない。
もっとも、これが「当たり前すぎる」と映るのは、まさしくサイードの著作の影響力が大きく、原著刊行以来二〇年近くの間に常識化したからではないか、その意味ではやはり先駆的な問題提起だったのではないか、という風に考えることもできないわけではない。この辺を判定しにくいのが、流行の著作を遅ればせに読む者の悲しさである。しかし、敢えて素人の暴論としていえば、私は一九八〇年代半ばに初めて紹介に接した時点で既に「それほど新鮮でない」と感じたのであって、その後の邦訳刊行や日本における流行を見た後ではじめてそう感じるようになったわけではない。
それにはいくつかの理由がある。何よりも、戦後の日本では、竹内好をはじめとする一連の知識人によって「脱亜入欧」的心性への鋭い批判が蓄積されており、単純に欧米のオリエンタリズムに追随するような論調ばかりが――量的にはともかくとして、少なくとも私が尊敬してきた上質の知識人の間では――排他的に支配してきたわけではなかった。もっとも、具体的な「アジア論」の対象としては、日本との近接性から、主として東アジアが念頭におかれており、サイードが主としてとりあげる中東イスラーム世界については一九七〇年代くらいまでは確かに関心が低かった。だが、そうした対象地域の問題を別として、基本構図に関する限り、同様の問題はすでに提起されていたのである。
そしてまた、欧米の文化人類学においても、かつて「未開民族」とされてきた人々の文化を内在的に理解すべきだという考え(いわゆる「文化相対主義」)があり、西欧的エスノセントリズム(自文化中心主義)への批判という視角が提起されてきた(1)。こうした視角がいつ頃から広まりだしたかをはっきりと定めることはできないが、ともかくもサイードに先立つ時期に、徐々に日本にも紹介され、受容されてきたように思う。
こういうわけで、西欧中心主義的偏見への批判ということだけを問題にするならば、それはかなり古くから多くの人によって指摘されてきたものであり、とりたてて新しいものではない。それなのに、それらと比べてサイードの議論がずば抜けて強い影響力をもち、「オリエンタリズム」という言葉が流行語となって世界中で通用するようになったのはなぜだろうか。暴論をおそれず敢えて極端な言い方をすれば、内容的な説得力・新奇性によるというよりもむしろ、同じ主張を手を変え品を変え繰り返し述べ、大著に仕立てあげたというあくの強さによるところがありはしないだろうか。アメリカ合衆国の一部の学者によくみられる傾向、というと私の偏見かもしれないが、中味の説得力よりも、あくの強さと売り込みにおける押しの強さで、人々の注目を引きつけるという面がなくはないような気がしてならない。
こういう風にいっただけでは、あまり建設的ではない。問題は、オリエンタリズム批判それ自体にあるのではなく、どのような形でオリエンタリズムを批判するのか、そしてその批判を通してどのような新たな視角を獲得するのかという点にこそあるだろう。この点で、本書は確かにいくつかの重要な問題を出してはいるが、それが雑然たる提起にとどまっているために、どう受けとめてよいのかに戸惑いが生じるというのが私の感想である。先にも述べたように、私は本書の主たる題材となっている英仏の東洋学者の仕事について不案内であるため、立ち入った論評をすることはできないが、個々の内容よりもむしろ論の進め方、オリエンタリズム批判における立論の仕方といった点に関して、多少感じたところがある。あまり新発見をしたという確信をもてないにもかかわらず、敢えて本書の感想を書き記したいと思ったのは、これらの点についての吟味を通して、何がしかの新しい展望への手がかりがつかめはしないかと期待するからである。
以下、どういう点で、本書の議論に混乱があると感じたのか、三点に分けて述べてみたい。 

先ず何よりも気になったのは、オリエンタリズム批判をする際に、標的とされる人物が露骨な差別意識の持ち主だということが問題なのか、それともそうではなくて、主観的には相当程度良心的で、差別を乗り越えようとしているような人でさえも、ある種の観念構造に絡めとられてステレオタイプから抜けきっていないということが問題なのか、ということである。本書の中には、前者を意識しているように思われるような個所が多数あり、そういうものとして本書全体が貫かれているという観さえもなくはない。しかし、もしそれだけが問題なら、話は非常に単純であり、何もこのような大著を書く必要はなかっただろう。「差別はけしからん」とただ一言いえば、それですべてが尽くされ、後は政治的アジテーションが残されるだけ、ということになる。実際、そのようなアジテーションととれるような文章が本書には少なくない。
しかし、そのようなものとしてだけ本書が書かれたのだったら、これほど話題になることもなかっただろうし、フーコーをはじめとする複雑な道具立ても必要とされなかったろう。現代哲学にあまり通じていない私には、そうした道具立てについて云々する資格があるわけではないが、素人の特権で思い切って簡略化された印象をあえていうなら、おそらく、そこで問題にされているのは、あれこれの個人の差別意識とか良心とかいったものを超えた言語と知識の深層構造のようなもののことだと思われる。そうだとすると、右の段落で挙げた二つの問題のうちの後者の方こそがより深刻な問題だということになるはずである。そのように考えてこそ、「オリエンタリズム批判」は深い意味をもつだろう。ところが、実際の叙述はしばしば前者の方に傾斜しており、そのために、議論の深化が妨げられているような印象がある。
サイードの著作から離れるが、フェミニズムをはじめとする各種の差別批判の議論においても、同様の問題があるように思う。あれこれの人物が、たとえ従来の常識で「偉人」とされるような人であっても、実は差別意識をもっていたということはよくあることだし、それを指摘するのは、一旦そのような立場に立ってしまえば容易なことである。いま「一旦そのような立場に立ってしまえば」と書いたのは、次のような事情を念頭においている。オリエンタリズム批判にせよ、男性中心主義批判にせよ、これまでの社会の通念への反逆という性格をもつため、ある種の知的努力なり覚悟なりがないと、なかなかそうした視角を獲得しにくいという社会構造がある。だが、それでも、差別批判論が次第に浸透しつつある今日、そうした視角に立つ人も増大しつつある。そして一旦そうなれば、その後の作業は、いわば「コロンブスの卵」的に容易になる。例えば、過去の文学史において偉大な作家とされてきた人が実は男性中心主義的な発想をもっており、その文章の中に女性蔑視的な要素が含まれているというような指摘は、「フェミニズム批評」というものが登場するまでは確かに気づかれにくいことであり、その指摘は非常に新奇かつ大胆なものという意味をもっただろう。だが、一旦「フェミニズム批評」が登場して、「コロンブスの卵」が割られてしまうと、あの作家にも、この作家にも、あの作品にも、この作品にも同様のことがあると指摘するのは、至って簡単な作業になってしまう。私は、サイードの著作を読みながら、フェミニズムの議論を何度も思いだし、その共通性を感じた(著者自身も――特に、訳書に付録として収録されている「オリエンタリズム再考」で――オリエンタリズムを男性支配・家父長制と重ね合わせて論じている)。
もちろん、私は差別批判という作業それ自体を無用のものと考えたり、ましていわんや揶揄しようというつもりはない。「コロンブスの卵」であっても、大衆的レヴェルではまだ十分に浸透していないことであれば、何度でもくどいほど繰り返し指摘しなければならないということもあるだろう。ただ、先に述べたように、露骨な差別意識を糾弾する政治的アジテーションというものと、あれこれの個人の差別意識とか良心とかを超えた言語と知識の深層構造のようなものを分析する作業というものは異なる次元にある以上、もし後者を志すのであれば、前者にあまりとらわれるのは議論を混濁させるのではないかという気がしてならない。
言語と知識の深層構造に分け入るのは大変な作業であり、私も、その点について確たる定見をもっているわけではない。ただ一ついえそうなのは、〈西欧=見るもの、「東方」=見られるもの〉という図式――あるいはフェミニズム論の文脈でいえば、〈男性=見るもの、女性=見られるもの〉という図式――は、個人の意識を超えた社会構造に由来しているということである。「見るもの」としての西欧なり男性なりが、「見られるもの」としての「東方」なり女性なりを常に見下しているとは限らず、高く評価したり、あるいは正当な認識を目指して努力することもあり得るが、その場合にも、それだけでは「見る」「見られる」関係は変わらない。これを変えようとするなら、西欧や男性の論者に「ものの見方を変えよ」というだけでは済まず、「東方」なり女性なりの中から「見る」主体となる人間が輩出する――西欧や男性からも無視されないような形で――という状況が出現することが必要とされるだろう。これはもちろん、個々の「東洋人」や女性の努力ということではなく、社会構造の問題である。 

次に問題にしたいのは、西欧の人々の「東方」への視線が「オリエンタリズム」と特徴づけられるようなものになる理由をどう理解するかという点である。単純化するなら、二通りの理由付けが考えられる。第一は、ヨーロッパ人にとって「東方」が遠い存在であり、あまりよく知らないから、無知ゆえに種々の誤解が発生するという解釈である。これに対して第二の解釈としては、西欧と「東方」の間には隣接・交流・対抗の長い歴史があり、その歴史の中では西欧の方が劣位に立った時期もあったりして、深層ではかなり深く知っているからこそ、いわば過去における劣位の記憶を必死に打ち消そうとするために敢えて蔑視するということが考えられる。
本書には、何個所かで、後者を示唆する叙述があり、これは非常に興味深い指摘である。考えてみれば、「オリエント」こそは人類文明の発祥の地であり、古代にさかのぼるならヨーロッパなどは後進地域だったわけである。古代だけではない。オスマン帝国の時代にも、西欧はしばしばオスマン帝国に脅かされた。軍事的脅威というだけでなく、文化的にも、中世末期から近代初期にかけての西欧はアラブ・イスラーム世界から多くのものを学んだのであり、そのおかげではじめて近代文明を築くことができた。とすれば、近代以降の西欧がアラブ・イスラーム世界を蔑視するのは、秘かな劣等感の裏返しではないか――こういう風に考えてみるのは、単純に西欧が一貫した強者として弱者たる「東方」に君臨してきたととらえるよりもずっと陰影に富んでおり、面白い。
この観点は、多少変形すると、中国文明の強い影響下にあった日本の近代以降における中国への態度とか、かつてモンゴル=タタール帝国に支配されたことのあるロシアの「アジア」への態度などについても、適用可能であるように思われる。いずれの場合も、決して遠い世界でもなければ、一貫して支配したり見下してきた関係でもなく、むしろある時期に優劣関係が逆転したが故に、過去の劣等感を裏返すような反撥や殊更な軽視があらわれたと考えることができる。
こういうわけで、この論点は非常に重要なのだが、そのことの意味が、著者自身によってどこまでつきつめて自覚されているのかに疑問がないではない。というのは、本書は、直接的題材としてはアラブ・イスラーム世界に関する西欧の言説をとりあげているが、それは「東方」一般への西欧の眼差しの例解という意義を与えられており、「東方」一般とアラブ・イスラーム世界との共通性と異質性といった問題には触れられていないのである。そもそも「東方」を一つのものとみなす発想自体がオリエンタリズムの一つのあらわれであり――だからこそ、私はこれまで「東方」の語に一々カッコをつけてきた――、本来なら、「東方」一般などを論じることはできないはずである。ところが、サイードの立論は、あたかもアラブ・イスラーム世界の例をとりながら「東方」一般が論じられるかのような体裁をとっているようにみえる。
本書で主要に論じられているアラブ・イスラーム世界は、いうまでもなく西欧に直接に隣りあった地域であり、接触・交流・摩擦の関係も深い。これに対し、例えば極東などは、はるかに西欧から遠くに位置する。ヨーロッパの人が、極東に対してエキゾチシズムを感じるのは、そうした遠さによるところが大きいのではないだろうか。だとすると、西欧のイスラーム世界への視線と極東への視線とはかなり異なったものということになるはずである。両者をともに「オリエンタリズム」とくくるような大ざっぱな用語法は、実は、まさに批判の対象とされている「オリエンタリズム」と同様の、過度に単純な図式化ということになりはしないだろうか。
ついでにいえば、この関係は、日本にとってはちょうど逆になる。日本にとって東アジア世界はごく近い世界であり、古い歴史をたどれば明らかに日本が中国・朝鮮よりも劣位にあった。そのことの裏返しとして、虚勢を張るような形の中国・朝鮮蔑視が近代日本ではみられた。これと比べ、中東イスラーム世界は比較的最近まで、日本にとって遠い世界であり、単純な知識の欠落が特徴的であり、時にはエキゾチシズム感覚で受け取られた。このように考えるならば、西欧にとってのオリエンタリズムの構造と日本にとってのオリエンタリズムの構造は大きく異なることになるはずである。しかし、私の知る範囲内では、この違いに着目した議論はこれまでみたことがない。むしろ、大多数の論者は、日本は西欧に追随して、アジアの一員でありながらヨーロッパ的な「オリエンタリズム」を再生産してきたというような平板な受けとめ方をしているように思われる。これではオリエンタリズムの構造を突っ込んで理解することにならないのではあるまいか。 

第三に問題としたいのは、西欧の様々な人々――文学者、政治家などを含む――の「東方」観ということと、専門の学者としての「東洋学者」――まさしく「オリエンタリスト」――との関係、その異同という点である。本書ではその両方がとりあげられているが、中心的な位置を占めているのは後者である。確かに、両者に共通の要素はあり、その限りで一括して論じられてもおかしくはない。しかし、同時に、異なった要素もある以上、その関係がどのようなものかという点がもっと自覚的に論じられてもよかったのではないだろうか。
専門の学問としての「東洋学」について考える場合、多くの非専門家に漠然と広まっている差別的なステレオタイプの指摘ということとは別に、「制度化された知」としてのアカデミズムないしディシプリンへの批判という作業が必要になる。これは確かに重要な論点であり、刺激的な問題提起でもある。ただ、こうした視角からの批判は、何も「東洋学」に限らず、他のどのような学問分野についても当てはまるような批判であるように思われる。ここには「オリエンタリズム批判」というものと「アカデミズム批判」というものとが、はっきり区別されないままに同居しているのではないだろうか。
一般にディシプリンというものが、ある枠を認識に科し、そのことによってあるものをみえやすくすると同時に、みえなくなってしまうもの――いわば死角に入るもの――を生み出す、ということはよく指摘されるところである。このような角度からのアカデミズム批判ないしディシプリン批判に学者が謙虚であるべきだということはいうまでもない。しかし、厄介なのはその先にある。
認識というものがある枠組みによるものである限り、その枠組みが認識を助けると同時に妨げもするという構造は、どのような認識の努力についても一般的に当てはまることだろう。だとすると、このような角度から既成のディシプリンへの批判をするのはよいとして、それに代わって新しく提起された議論自体がまた別の死角を生み出しもするということになるはずである。「古くさく」「権威ばっていて」「抑圧的な」既成の学問を批判して、さっそうと登場した「ラディカル」派が、いつのまにか、自分自身も新しい「権威」と化してしまっているという構図は、いくらでも例に事欠かない。ほかならぬ「オリエンタリズム論」自体もその例であるし(2)、フェミニズムも同様の陥穽から自由でないような気がしてならない。私はかつて、多数派に対抗する少数派がそれ自身ある種の排他的なコミュニティーをつくって自己満足に陥ってしまい、「ノンセクトという名のセクト」をつくるとか、既成の性役割ステレオタイプを批判するフェミニストが自ら「フェミニスト的ステレオタイプ」を生み出してしまうことがあるといった傾向を指摘したことがある(3)。こうした傾向は免れがたいことなのかもしれないが、やりきれないように感じる。オリエンタリズム論の流行に対して、私がその問題提起には同感しつつも、何となく微かな反撥のようなものを感じてきたのは、おそらくこの点にかかわるのだろう。 

最後に、全体の文脈とは別に、私の注意を特に引きつけた文章を一つ引用しておきたい。
「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である」(アウエルバッハの引用する聖ヴィクトルのフーゴー)。
別に「我が意を得たり」と思ったわけではない、とまず断わっておこう。というのも、私はまさしく「全世界を異郷と思う者」というタイプの人間なのだが、だからといって、自分が「完璧な人間」だとうぬぼれる気には到底なれないからである。ただ、「異文化理解の重要性」という場合に、多くの人が主張しているのは、「故郷を甘美に思ってばかりいてはいけない。あらゆる場所を故郷と感じられるようになるべきだ」ということであるように思われ、それに違和感をもっていたので、この文章に目を引かれたのである。
ロシア研究者としては情けないことだが、私はロシア人の心性とか文化とかいうものを――もちろん、様々な機会に観察したり、理解しようと努めてはいるのだが――心の底から理解できたという気持ちになかなかなれず、違和感にとらわれることが多い。そういう時に、自分はロシア研究者として失格ではないかと思いつつ、居直り的に考えるのは、「ロシア人についてだけでなく、日本人の心性や文化だって分からないのだから」ということである。実際、私は日本人の中にいるとき、ロシア人の中にいるのと同様の疎外感と孤独を感じることがよくある。アメリカ人とつきあっていても同様である。男性である私は女性のことを理解するのが難しいというだけでなく、多くの男性のこともまた理解しがたい「他者」だと感じることがよくある。こうした「全世界を異郷と思う者」の存在は、通常、まるで問題にもされないので、ともかくもそういうタイプの人間もいるのだということに触れた文章を見て、ホッとするものを感じたのである。
異文化に接するとき、相手を何か劣ったものとみなし、それ故に馴染めないものと感じるのは、もちろん差別的観念のあらわれである。だが、では異文化をもっとよく理解し、親近感をもつようにさえすればよいのだろうか。そしてまた、自己の属するはずの文化に違和感をもつということはないのだろうか。 
(1)この小文を書いた時点では、私はまだ文化人類学の動向にあまり通じていなかった。いまでも、それほど通じているといえるほど進歩したわけではないが、ともかくその後にいくつか読みかじった文献によれば、近年、従来の文化人類学のあり方に種々の批判が提出されており、その中には、サイードのオリエンタリズム論などをうけて、人類学者のまなざしに異議申し立てしようとする議論も含まれているようである。それはそれとして重要な問題提起だが、それにしても、「文化相対主義」というのは単純に異文化を見下す差別的通念の再生産ではなく、むしろそれを克服しようとする一つの試み――その成否は別として――ではあった。たとえば、次の叙述を参照。「西欧近代が覇権を握ってきた世界システムの中では、今だから言えるのだが、人類学の実践が深くオリエンタリズム的構造に浸りこんできたことは、いわば避け難いことであったように思われる。しかし、ただ浸りこんでいただけではなく、その中にあっても西欧の人類学自身は内発的な西欧近代の自己批判を積み重ねてきたことも確かな事実である。」(関根康正「他者を自分のように語れないか?――異文化理解から他者了解へ」杉島敬志編「人類学的実践の再構築」。その限りで、この旧稿の記述を全面的に撤回する必要はないのではないかと思う。この問題についての私の雑駁な理解は、塩川「現存した社会主義」勁草書房、一九九九年頁で多少述べ、また杉島編「人類学的実践の再構築」の読書ノートでもある程度展開を試みている(この注は二〇〇一年四月および二〇〇二年六月の追記)。
(2)「オリエンタリズム」の語を、当初の文脈から敢えて引き離して、より広く解釈するなら、何らかの対象を内在的に立ち入って理解しようとせず、自分がもともともっていたステレオタイプの枠に押し込めた理解で満足するような心的態度という風にでも言い直すことができるだろう。このようなものとして「オリエンタリズム」を広義に解釈するなら、「西欧やロシアのアジア理解はみなオリエンタリズム的なものだ、そこにあるのは全て差別と蔑視ばかりだ」という公式を、個々の具体的事例に立ち入った内在的検討の作業を省いて振り回すのも、それ自体がオリエンタリズムの一種ということになる。この小文を書いてから数年後に読んだサーヘニー「ロシアのオリエンタリズム」(柏書房、二〇〇〇年)には、残念ながら、そうした態度――いわば、裏返され、ロシア・ソ連に対して向けられたオリエンタリズム的視線――が濃厚である。それだけでなく、日本でオリエンタリズム論を担ぎまわっている人たちの議論の多くにも、往々にしてそのような安易さが紛れ込んでいることがあるように思われてならない(この注は二〇〇一年七月の追記)。
(3)塩川伸明「社会主義とは何だったか」勁草書房、一九九四年、第Y章。 
 
「ペレストロイカ 成果と危機」「歴史としての社会主義」和田春樹

 

1 はじめに
著者、和田春樹は日本を代表するロシア史研究者であり、その著作は明快な図式と文章表現とによって、広い影響力をもっている。また、私にとっては、長い期間にわたって多くを教えられ続けた師でもある。その師に対して、私はここ数年(いつからとはっきりは覚えていないが、おそらく一九九一年の前後から)、様々な機会に種々の批判を書いてきた(1)。読む人によっては、「しつこい」「どうしてここまでこだわるのか」という印象をもったかもしれない。そこで、和田批判ということの意味について、先ず断わっておかねばならない。
第一に、和田の影響力が大きく、それだけに無視しがたいものがあるということは先に記した通りである。また、個人的には、永らく教え続けられ、尊敬し続けてきた師との隔たりがとうとうここまで大きくなってしまったということに深い感慨をもつが故に、書かずにはおれないということもある。私には、溪内謙をはじめ、他にも幾人かの師がいるが、最も長い期間にわたって濃密な接触を続け、最大の影響を受けた恩師といえば和田である。だからこそ、正面から向かい合うことが、師への最大の謝意の表示だと考えるのである。しかし、ここで改めて和田論に取り組もうというのは、それだけの理由ではない。
和田は、多くの人も知るとおり、「実践派」の学者であり、多くの市民運動に関与してきた「行動する歴史家」である。その和田に対して、あの点がおかしい、この点がおかしい、といって個々の事実認識を争っていると、あたかも「実践派」の和田に対し、私は没実践的な「専門馬鹿」の立場に立っているかにとられかねない。しかし、私としては、実践の問題を完全に無視しているつもりはなく、むしろ私なりの「学問と実践の関係」論があり、それが和田と食い違っているために、種々の違和感が生じているように思う。とすれば、その点を論じることは、社会科学と思想の関係についての私見を多少なりとも明確化することに役立つのではないかという気がする。以下では、個別の歴史認識に関する論争ではなく、そのような問題に集中して、議論を展開してみたい(2)。 
2 社会科学・思想・実践
和田春樹は、一九世紀半ば‐二〇世紀初頭の近代ロシア史をはじめとして、ソ連史学史、日露・日ソ関係史、日本・朝鮮・ソ連関係史、その他きわめて広い領域にわたって多くの業績をあげているが、そのすべてを論評する力は私にはない。私が主として問題にしたいのは、ペレストロイカ論、そしてソ連史および社会主義史の全体的総括についてである。これらのテーマに関する和田の著作には、個々の点で不正確な個所や、解釈が微妙であるにもかかわらずあっさりと断定的に書いている個所も多い(実証的歴史家である和田の仕事にしては信じがたいことだが、純然たる事実誤認も、ペレストロイカ論に関する限り少なくない)。しかし、ここでは、その一つ一つをあげつらうのではなく(3)、その背後にある基本的な構えのようなものを問題にしたい。
「ペレストロイカ――成果と危機」に最も顕著な傾向だが、和田がペレストロイカを論じる際に目立つのは、いわゆる「改革派」および諸共和国の民族派への「応援団」的な立場に立ち、自分が応援する潮流にとって不利なことを伏せようとする態度をとっているということである。もう少し詳しくいえば、第一に、改革への反撥・抵抗は旧来の特権官僚からだけあらわれるとは限らず、民衆自体の中からもあらわれるという点(これはここ数年間、私がペレストロイカについて論じるときに一貫して強調してきた点だが、和田は、一貫してこれを無視し続けている)、第二に、諸民族の自立を求める運動は、それらの民族の間の調和的関係に導くとは限らず、むしろ民族運動の間での衝突、場合によっては大量流血をさえもたらすということ、そして第三に、「民主派」が政権につくと、政権維持のために権威主義的で非民主的な政策をとることがあるということ、などである。
もっとも、賢明な和田はこうした事柄を知らないわけではない。私が個人的な会話などでこれらの点を指摘すると、和田は必ず「そういう面があるのは当然だ」という。よく知っており、「当然」と考えていることを、活字にした文章や非専門家向けの啓蒙的講演では、触れずに済ますということがここで問題にしたい点である。頭の中ではよく知っており、専門家仲間の個人的会話では率直に認めることを、活字にした文章の中では敢えて一切抹殺してしまっているという点にこそ問題があるのである。
これは文章を書くときの姿勢の問題であり、社会科学者としての著述と政治的目的意識をもった市民運動家として発言するときの姿勢の関係という問題にかかわる。実践的問題意識の強烈な和田は、政治的アジテーションの性格を帯びた文章を書く傾向を元からもっていた。しかし、和田がヴェトナム反戦運動や日韓関係などの問題に取り組んでいる間は、「市民運動家としての和田春樹」と「社会科学者としての和田春樹」の間には明確な課題の違いがあったため、両者が混同されることはなく、また両者の間の厳しい緊張関係が自覚されていた。ところが、「市民運動家としての和田春樹」がペレストロイカ解説に取り組むようになると、啓蒙的発言のテーマと専門研究のテーマとが重なりあうようになり、次第に両者の境がぼやけ、緊張感が失われるようになってきたのではないだろうか。
こういう風にだけいうと、あたかも、実践的姿勢に立つ和田に対し私が没実践的な「専門馬鹿」の立場から批判をしているかのようにとられかねないが、そうではない。問題は次の点にある。即ち、和田は、自らの共感する「民主派」や「民族の再生」の運動に関して、希望的観測を強調する反面、その内的矛盾や否定的側面について一切口をつぐんでいるが、これはちょうど、かつての「進歩的知識人」が、ソ連や日本共産党(あるいは日本に限らず、それぞれの国の共産党)について、個人的には否定的側面を熟知しながらも、それを公然と語ると「帝国主義者を利する」として敢えて触れようとしなかったのと瓜二つである。和田の「民主派」評価には、ロマン・ロランやウェッブ夫妻のスターリン賛美を思い起こさせるところがある。われわれがスターリン主義の歴史的経験から学ぶ最大の教訓は、このような態度をとってはならないということではないのだろうか。
社会科学者であると否とを問わず、人がある種の政治的判断や希望をもつこと自体は自然なことである。私はそれを非としているのではない。問題は、自分の共鳴する傾向に都合の悪いことをできるだけ軽く書こうとするのかどうかということにある。これを軽く扱うのは、短期的には自己の味方する立場に有利かもしれないが、長期的にみれば、それは運動の堕落を招く。当面の政治闘争では勝っても、本来の目標は達成されないということになるおそれが大きい。だとすれば、むしろ、共感する潮流の内部矛盾や欠陥をこそ、声を大にして強調すべきではないか。「民主派」や「民族の自立」を目指す運動に共感するのはよい。だが、そのことが、彼らの自己矛盾やそこに含まれる堕落の契機に目を閉ざすことになってはならない。これこそが私が和田に対していだく違和感の最大のポイントである。つまり、それは非実践的なアカデミズムの問題というよりもむしろ実践に対するかかわり方、姿勢の違いである。
この問題は、和田が共感してきたソ連・ロシアの「民主派」の評価にもかかわる。私はある時期まで、彼らへの共感を和田と共有してきたし、その後、違和感が拡大してからも、大きな意味での基本目標に関しては特に反対というわけではない。問題なのは、彼らが、その目標を達成するに当たって、「目標さえ正しければどのような手段も許される」というボリシェヴィキ的思考法を示しだし、デマゴギーや破壊的手段、更には彼らが権力を掌握した後は権威主義的な統治手法に訴えだしたことにある。そこで、この点について、もう少し踏み込んでみよう。 
3 革命か改良か――ペレストロイカ論
和田はペレストロイカ期を通して、一貫して、いわゆる「急進改革派」への共感を隠そうとしなかった。奥歯にものの挟まったものの言い方をする人が多い中で、はっきりと自己の立場を打ち出すことは勇気を要することであり、貴重なものである。また、「楽観的すぎる」という批評を当初からうけてきたが、そうした批評を覚悟の上で、敢えて明確なコミットをしてみせたのは、態度としては立派であり、敬意を払いたい。だから、こうした点に関する限りは、私はあまり批判する気がないということを先ず断わっておきたい。
和田との対比で私自身の態度についていうなら、ペレストロイカ初期から中期にかけては、和田はやや楽天的にすぎないだろうかという留保――および、細部での若干の認識の差――があったものの、基本的な姿勢としてはほぼ共感していた。つまり、私もどちらかといえば肯定論ないし楽観論――但し、手放しの楽観ではなく、多少の懸念ないし留保をもちつつ――に立っており、広い意味では和田と同じ陣営に属していた。だが、彼と私の距離はペレストロイカ後期から徐々に分かれだし、最終局面以降、大きく隔たるに至った。ソ連解体の直前から直後にかけての時期には、ほとんどバリケードの反対側にいるという感じさえ懐かざるを得なかった。どこで、どうして、そのような分岐が生じたのかについて、さらに考えてみたい。
和田は当初、ゲフテルにならって、ペレストロイカを「カタストロフィーを避ける改革」としてとらえていた(4)。「カタストロフィーを避ける」とは、別の言葉でいえば、革命的な破壊の道をとらないということである。私もそれに共感していた。ところが、ある時期以降のソ連の急進改革派はゴルバチョフの中道路線に苛立って革命的破壊の道に進み、和田もそれに共感を示すようになった(5)。これは、ソ連の知識人によっても指摘されたことだが、「逆方向のボリシェヴィズム」――社会主義から資本主義への転換という点で、方向こそ逆だが、ロシア革命におけるボリシェヴィキの誤りの繰り返し――というべきである。和田は急進改革派に共感するあまり、このような「逆方向のボリシェヴィズム」への警戒を失ってしまったのではないかというのが私の最大の疑問である。
もう少し一般的にいえば、「革命はコストが大きいので誤っている、革命よりも改良の道をとるべきだ」というのが、ある時期以降の和田の主張だった。私も、かつて革命を志したことのある者として、痛苦の自己批判をこめつつ、同様に考える。ところが、和田は、ペレストロイカ急進化の過程で、折角のこの認識を忘れ、またしても革命主義――エリツィンに象徴される急進路線賛美――の立場に立ってしまったのではないだろうか。私が何よりも強く抵抗を感じるのは、この点においてである。もし「革命よりも改良の道を」と考えるのであれば、一九九〇‐九一年の時点において、革命的急進路線を支持したり賛美したりするべきではなく、どんなに不人気であろうとも中道改革路線を支持すべきだったのではないだろうか。私はある小文で、もし和田がエリツィンのもとでのペレストロイカ継続説をとるなら、その場合にはゲフテル説を放棄しなければならないと指摘したが(6)、これもその点と関係している。ある時期以降の和田は、「カタストロフィーなき改革」ならぬ破壊的革命を支持するようになったからである。
もっとも、ここに述べたのは、あくまでも論者自身の実践的な価値観にかかわることであり、そのことと、客観的な政治的力関係の判断とは別問題である。大衆運動高揚期においては、どうしても感情的要因が優越し、革命vs反動の両極への分極化が進行し、中道路線は弱々しいものとならざるを得ない。そのような力関係の判断からいえば、中道改革路線は非現実的であり、それを支持するのは、負けると決まった勢力を応援するようなものである。しかし、そのことと、自分自身がどのような価値観をもつかということとは別の問題のはずである。当面の政治的力関係においてどんなに不利であろうと、信念として正しいと考えるものを曲げるべきではない。「革命より改良を」と考える人は、たとえ負け犬であっても中道路線を最後まで支持すべきではなかったろうか。
敢えて自分自身の判断をむき出しにしていえば、私は中道改革路線はソ連の現実の中では弱い勢力でしかありえず、あまり成功の蓋然性は高くないと考えていたが、それでもなおかつ自分自身の価値観としてはそれにコミットしていた*。「負けるだろう勢力を応援しても、無意味ではないか」といわれるかもしれない。しかし、われわれはソ連の政治に関しては所詮、部外者であり、観察者である。であるならば、何も勝ち馬を支持しなければならないということはないはずである。よその国でどの勢力が勝つかは、われわれが誰を応援するかによって決まるものではない。それよりも大事なのは、どれかの勢力が勝ちそうだからといって、自らの原則を曲げてまでその勢力を高く評価するというようなことをしないということである。こういうわけで、一九九一年前後に、和田だけでなく、多くの日本や欧米のソ連観察者が急進改革派支持の大合唱をしたとき、私はどうしてもそれに同調することができなかったのである。
*但し、現実のゴルバチョフがその中道改革路線をどこまで徹底して実現しようとしていたかは別問題である。政治家というものは周囲の状況の中で動く以上、一貫性をあまり期待することができないのは当然である。従って、私が支持したのは現実のゴルバチョフそのままということではなく、彼に象徴される中道路線の理念型ともいうべきものだった。また、私が急進改革路線に反対し、中道改革路線の方を相対的によしと考えるのは、改革の目標における差異――旧体制を維持しながらの改善か体制転換か――ではなく、戦術・手段のレヴェルでの差異――コストを最小限に抑える改革か、激烈な破壊を伴う革命か――についてのことだということを改めて強調しておきたい(7)。 
4 政治へのコミットと「現実主義」
前節で述べたことは、実は、政治へのコミットの仕方の差にかかわるような気がする。前節末尾で述べたように、われわれは所詮ロシアの政治に関しては部外者だというのが私の考えだが、ロシア知識人――その中には政治家になった人も含まれる――と交流の深い和田は、自らがロシア政治の当事者になっているような気がしているのかもしれない。そして、現実政治にかかわる以上は、無力な理想論をいっていても仕方がないので、実際問題として有力な運動体に注目するという立場をとっているようにみえる。
和田春樹というと「市民運動派」というイメージが一般に強いが、比較的近くから和田を観察してきた私の目には、ある時期以後の和田は意外なほど現実政治への関心が強く、無力な理想論よりは「現実主義」をよしとする発想に近づいているような気がしてならない(8)。本題からそれるので詳しくは立ち入らないが、日本の政治における立場をみても、「理念の純粋性を守る」という立場ではなく、「現実主義」的姿勢を濃厚にしてきている(例えば、天皇制への評価、いわゆる「北方領土」問題への取り組み、また従軍慰安婦問題に関し「アジア女性基金」への参加など)(9)。私は、そのこと自体を批判しようというつもりはない。ただ、いくつかの条件をつけておく必要があるように感じる。
先に記した通り、かつての和田には、権力から縁遠い地点に立つ「市民派」というイメージがあった。それがいつのまにか、権力政治と関わりをもち、「現実的考慮」を重視する「現実派」になったわけだが、そうした変化をよく知らない人は、今でも和田に「市民派」のイメージをもっているだろう。私は、立場の変化――ある意味では「転向」――を否定するものではないが、少なくとも変化を明示すべきではないかと思う(10)。
政治というものにどのように関わるかについては様々な考え方がありうる。「自分は権力には一切関わりたくない。現実に力をもとうがもたなかろうが、ともかく、自分の信じる理念をいうのみだ」というタイプの人もいれば、「空論的理想を唱え続けるのは空しい。現実界においては妥協は不可避である。妥協しながらも、少しでも理想に近づくために、権力政治との関わりをおそれてはならない」というタイプの人もいる。どちらか一方がよいというのではなく、それぞれの特徴、得失――前者は自分の良心を汚さないですむ代わり、無力な自己満足に終わりがちであり、後者は現実に影響を及ぼす可能性がある代わり、危険な賭でもある――をしっかり押さえる必要があるというのが私の考えである。
私は、自分自身としては、とても現実政治への関与に賭ける自信がないので、そのような道を選ぶことはしないが、私よりもはるかに政治力をもった人が、十分な覚悟をもって賭に乗り出すことを否定するつもりはない。和田はおそらく、「自分は、その賭をする用意がある。自分は、単なる空理空論にふける無力な学者ではなく、したたかな権力政治の中で、妥協をもおそれず、かといって無原則的に堕落することもなく、しぶとく生き抜いていく自信がある」と決断したのだろう。それはそれで尊重すべき選択である。ただ、はたからみていると、そうした自信にもかかわらず、やはり甘すぎたのではないか、危険性への認識があまりにも弱かったのではないかという気がしてならない。これは余計なお世話かもしれないし、また自分がより見事に現実政治の中で生き抜く自信がない以上、高みに立った批判はできない。ただ、恩師が危険な賭に乗り出して、その自信にもかかわらず賭に負けかねないでいるのをみて、はらはらせずにはおれないのである。
やや議論が脱線したが、この問題は、ソ連や社会主義に対する見方にも微妙に関係している。というのも、やや意外なことだが、どうやら和田にとって社会主義の問題はそれほど切実な問題ではなかったようにみえるふしがあるからである。例えば、ペレストロイカ終期論争に関して私が「ペレストロイカは一九九一年で終わった」と判断する最大の理由は、「社会主義の改革」が「脱社会主義」に転化したという点にあるのだが、和田はこの論点をあっさりと無視している。脱社会主義であろうとなかろうと、とにかく「改革」でさえあればペレストロイカの継続だというのが和田の考えのようである。そこには、社会主義の運命に関する真剣な関心が感じられない(11)。
また和田は一貫して「国家社会主義」の破産という言い方をしているが、この用語法の意味を明確に説明したためしがない。破産したのは「国家社会主義」「ソ連型社会主義」など、特定の型の社会主義に過ぎないのか、それとも社会主義一般の破産なのかという問いに一度も答えていないのである。補足するなら、社会主義改革の実験を最も徹底的に推し進めてきたハンガリーの経験について、和田はほとんど言及したことがなく、ほぼ完全に無関心であるようにみえる。社会主義改革を最も徹底的に推し進めようとして挫折したハンガリーの例の検討を欠いては、社会主義改革の総括などできないにもかかわらずである。ユーゴスラヴィアについては、ある時期までは労働者自主管理に期待を寄せ、その後幻滅したようにみえるが、その間の事情を明示的なものとして論じていない。西欧における社会民主主義についても、中途半端な言及が時折あるが、どこまで期待し、どこに限界をみるのかが、はっきりしていない。
社会主義について何回も論じていながら、社会主義の運命に関してそれほど深刻な関心を寄せていないというのは一見奇妙なことのようににみえる。しかし、「現実主義」的発想からするならば、ある時期には「国家社会主義の破産」という表現で「(国家主導でない)真の社会主義」の再生をほのめかし、ある時期には、社会主義のことをきれいさっぱり忘れて市場経済化こそが民主化であり改革だと論じるといったロシア「民主派」の現実の動向に密着するのが自然であり、私のように一々それに疑問を提出するのは無用のわざとみえるのかもしれない。
「現実主義」的発想の歴史研究への投影を感じさせるもう一つの点は、指導者中心史観への回帰ということである。最近の和田の文章を読むと、ソ連史に関してはレーニン、スターリン、ブハーリンといった最高指導者についての叙述が多く、ペレストロイカに関してはゴルバチョフ、リガチョフ、エリツィンといったトップ・リーダーについての叙述が多い反面、マイナーな政治家や一般大衆の動向、社会経済状況などはそれに比べてやや軽視されているということに気づく。そうした文章を読むときの私の印象は、われわれはまさしく和田の薫陶を受けて、このような指導者中心史観を克服してきたのではないかというものである。どうして、近年の和田の歴史叙述において、これほど大きなスペースが最高指導者に関する叙述で占められているのか、私には理解しがたいのだが、これも、「現実政治に与える影響力の大きさ」という観点からいえば当然ということになるのかもしれない。 
5 おわりに
以上、いろいろと批判がましいことを書きつらねてきた。しかし、振り返ってみれば、釈迦の手のひらの中の孫悟空でしかなかったような気もする。この小文でとりあげた論点は、実践的問題意識と冷徹な認識の関係、革命と改良の関係、社会主義を歴史の中でとらえる問題、指導者中心史観批判、民族問題の重要性、といったものであるが、そのすべてを私は和田から学んだつもりである。その意味では、私はいまなお忠実な和田学派ということになるはずである。ところが、どういうわけか、当の和田自身が最近はそうした自己の主張からはずれているのではないか、という疑念がこの小文の趣旨だった。これは単なる錯覚あるいは誤解なのだろうか? 
(1)主なものとして、「世界戦争の時代」論については、塩川伸明「終焉の中のソ連史」朝日新聞社、一九九三年(その後、若干の補足を、「伊東孝之氏の書評へのリプライ・補遺」私家版ワープロ原稿、一九九五年、第五節に書いた)、ペレストロイカ継続論に関しては、塩川伸明「ソ連とは何だったか」勁草書房、一九九四年、第W章。この小論の初稿執筆後に書いたものとして、「「二〇世紀」と社会主義」「社会科学研究」「社会科学研究」第五〇巻第五号(一九九九年)。
(2)標題に掲げた著作の他にも多くの関連作品があるが、代表的なものとして、和田春樹「ロシアの革命――一九九一――」岩波ブックレット、一九九一年、「国家社会主義の成立と終焉」和田春樹、小森田秋夫、近藤邦康編「〈社会主義〉それぞれの苦悩と模索」日本評論社、一九九二年、所収、「ペレストロイカ」東京大学社会科学研究所編「現代日本社会」第三巻(国際比較・2)東京大学出版会、一九九二年、所収、「中国の改革、ソ連のペレストロイカ」および「展望」(いずれも近藤邦康氏と共同執筆)近藤邦康、和田春樹編「ペレストロイカと改革・開放――中ソ比較研究」東京大学出版会、一九九三年、所収、「ペレストロイカ再考」日本国際問題研究所「ロシア研究」第一八号、一九九四年など。以下では、これらも念頭においている。
(3)ただ一つだけ、どうしても気になる点に簡単に触れておきたい。それは、不正確な叙述が民族関係の個所で特に多いということである。そのほとんどは細かい間違いなので、一々具体的には指摘しないが、かつて厳密な実証的歴史研究を特徴としていた和田にしては、信じられないほどの粗雑さである。そのこと自体をどうこういおうというのではない。私自身も段々歳をとってきて、人間には間違いがつきものだということを悟るようになってきた。特に、急いで仕事をしたり、大きなテーマに取り組んだりするときには、どうしても細部にまで神経が行き届かないのはやむを得ないことである。ただ、他の領域に比べ特に民族関係で不正確な個所が多いということには注目しないわけにはいかない。しかも、和田は、同時に「民族の再生」をペレストロイカの大きな特徴として重視しているのである。ということは、和田が重視する「民族」とは、具体的な個々の諸民族ではなく、観念の中の「民族一般」だということを意味するのではなかろうか。これでは民族問題に接近しうべくもないのである。
(4)和田春樹「私の見たペレストロイカ」岩波新書、一九八七年、二三四‐二三五頁。
(5)後に和田は、この頃の気分について「私はゴルバチョフに期待はしていたけれども、最後はゴルバチョフにイライラしていたんです」と語っている。座談会「ロシア・ソ連研究の三八年」「社会科学研究」第四九巻第六号(一九九八年)一二一頁。当時の和田を間近でみていた私がいだいたのは、まさにそのような「イライラ」感覚こそが、忌むべき革命主義的熱病のあらわれではないかという感想だった。
(6)塩川伸明「ソ連とは何だったか」一〇二‐一〇三頁。なお和田は、その後、ゲフテル追悼講演で、今なおゲフテル流のペレストロイカ理解に立っているかの如くに述べている(和田春樹「ゲフテル――歴史家・市民」「ロシア史研究」第五八号、一九九六年、七四‐七五頁)。それでいながら、私の先の批判には何一つ答えていない。何とも不可解な態度である。
(7)これらの点に関する私見は、塩川伸明「社会主義とは何だったか」「ソ連とは何だったか」勁草書房、一九九四年参照。
(8)前項では、和田が自ら批判したはずの「革命主義」に回帰したのではないかということを述べた。そのことと本項で述べる「現実主義」とはつながっているというのが私の判断だが、これは、ある意味ではやや逆説的と映るかもしれない。「革命主義とは非現実的なものであり、改良路線の方が現実的だ」という発想が一般にあるからである。確かに、長期的にみて目標をどの程度実現するかという観点からはそのようにいえるかもしれないが、大衆運動高揚局面における現実の政治的力関係からいうなら、むしろ革命主義の方が政治的に有力――つまり、現実主義的――であり、中道改良路線は非現実的になるという傾向があるように思う。というのも、大衆運動高揚期においては感情的要因が優越するため、中道路線は弱々しいものとなり、革命主義の方が多くの人を捉えるという事情があるからである。そして、和田はロマンティシズムに酔ったからというよりもむしろその「現実主義」故に革命主義に走ったのではないかというのが私の判断である。従ってまた、私の革命主義批判は、「ロマンティックすぎて非現実的だ」というものではなく、「やや現実追随的に過ぎないか」という点にある。
(9)この点に関し、前掲座談会、一二八頁も参照。
(10)「転向」という言葉を使うからといって、それだけで倫理的に非難する意味あいではない。私の転向論は、「社会主義とは何だったか」第[章。
(11)前掲座談会には次のような発言がある。「〔大学入学直後くらいまでの時期について〕社会主義とか、ソ連とかいっても、理論的なものがあって、自分の人格と深くかかわっているということではなくて、僕にとって大きい問題は、平和の問題であったのですね」(「社会科学研究」第四九巻第六号、九二頁)。これは社会主義への関心の相対的低さを説明すると同時に、なぜあれほどまで「世界戦争の時代」云々にこだわるかも説明する発言のように思われる。対比的にいえば、私にとっては社会主義が第一義の問題関心であって、反戦・平和というのはそれにかかわる一つの個別テーマに過ぎなかった。 
 
「もうひとつの声」ギリガン

 


本書はいまから二〇年以上前に書かれた作品だが(英語での初版は一九八二年、邦訳は一九八六年刊)、「ケアの倫理(ethic of care)」――「思いやりの道徳」「配慮の倫理」その他様々に訳されることがある――という概念を提出して有名になり、それ以来、多くの人によって取り上げられ、しばしば論争の対象ともされている。一種の「現代の古典」といえるだろう。私の手もとにある英語版は二〇〇〇年刊のものだが、これは第三六刷とある(1)。地味な学術書にしては異例のベスト・セラーかつロング・セラーといえるだろう。もっとも、本書は有名なわりには、その内容の読みとりが難しい面があり、実際、後の論者のギリガン理解にはかなり大きな隔たりがある。私自身はいまから一〇年ほど前に、川本隆史による紹介(2)を通して初めてギリガンの説に接し、強い共感を覚えたが、その後、フェミニストたちの間では、ギリガン説は女性をケアの倫理に縛り付けるものだと受けとめる人が多く、わりと評判が悪いことを知り、この点をどう考えるべきかがずっと気になってきた。本書自体を私が初めて読んだのがいつのことかよく覚えていないが、とにかく後の論争を念頭において読むと、ギリガン自身の意図が確定しにくく、誰の解釈が正しいのかを一概に決めにくいという複雑さを感じた。
かねて気になっていたこの本を再読し、「ケアの倫理」について考え直してみたいと感じるに至った直接の契機は、最近出た川本隆史編「ケアの社会倫理学」を読んだことにある。川本編著については別に読書ノートを書いたが、この書物では各所でギリガンの議論が取り上げられており(3)、「ケア(思いやり、配慮、世話)」について考える上で、この問題の古典たるギリガンに立ち戻って考え直す必要を痛感したというのが、小文執筆の契機である。
先に本書が「読みとりにくい」と記したが、書かれていることそれ自体が難解だというわけではない。むしろ、個々の記述は、多くの具体的事例を踏まえているためもあって、明快である。にもかかわらず「読みとりにくい」というのは、個々の具体的な記述を超えた本書全体の含意について、異なった解釈が成り立つ余地があるからである。論者によってどのように解釈が分かれているかは以下で見ていくが、ここでは先ず、どうしてそのように分かれるのかの理由について一つの思いつきを述べてみたい。それは、著者自身の問題意識が後にギリガンを取り上げる人たちの問題意識と異なっており、そのため異なった文脈のなかで論じられたり解釈されたりしてきたのではないかということである。
後にギリガンおよび「ケアの倫理」について論じる人たちの多くは、ジェンダー論、倫理学、政治理論、法哲学等々といった分野に属する研究者たちだが、ギリガン自身はそうした分野についてそれほど積極的な関心を示してはいない。彼女の専門は発達心理学であり、多くの少女や少年たちについての経験的観察がその議論の基盤をなしている。そうした観察をもとにして、ある種の積極的主張らしきものが示唆されてはいるが、それはジェンダー論、倫理学、政治理論、法哲学等々における様々な議論を直接に念頭において体系的に展開されているわけではない(そもそもギリガンが本書を執筆した頃には、ジェンダー論はまだ今日におけるほど隆盛を極めてはいなかったのではなかろうか)。それらとの接点が本書の中にあることは確かだが、ギリガン自身の主たる関心はあくまでも発達心理学の立場からの経験的観察にあり、「正義」とか「倫理」とか「女性の本質」とかに関わる抽象論が主たる狙いとなっているわけではない(そのことと関係して、後の論者が「ケアの倫理」と「正義/権利の倫理(あるいは論理)」という風に定式化する事柄について、彼女自身は文脈に応じて様々な表現をとっており、一定の用語法や概念体系を提示しているわけではない)。おそらくそのために、ギリガンを読む後の論者たちは、それぞれの立場や関心に応じて異なったものをそこに読み込むという結果になっているのではないかと思われる。
私自身は、発達心理学、ジェンダー論、倫理学、政治理論、法哲学のどれについても専門的に研究しているわけではないが、少しずつ関心をもってはいる。本来であれば、それらの相互関係を解きほぐし、多様な解釈の関係を立体的に解明するという作業が望まれるところだが、そこまで立ち入る能力も時間的余裕もない。この小文では、先ずギリガンの著作の内容をごく簡単にまとめ、次に彼女の著作が従来どのように読まれてきたかを確認する。そして最後に、ギリガン自身の「真意」は何かという問題はさておいて、「ケアの倫理」という問題提起を今日のわれわれのために生かそうとするなら、どのように考えることができるかという問題について暫定的私見を述べてみたい。 

先ず、ギリガンの所論をごく簡単に要約するなら、大体次のようなことになるだろう。伝統的な発達心理学においては、子供の心理的成熟は自立性の獲得、個人主義的な権利主張の能力、抽象的基準に基づく正義の判断の能力などの指標に照らして判断されてきた。しかし、そのような指標とは別に、人間関係への文脈的理解、他者への配慮(ケア)などの資質もまた重要な成熟の指標たりうる。後者が従来見落とされてきたのは、それが女性と結びつけられていたからであり、ここには男性中心の発想のバイアスがある。
印象的な事例が第二章に紹介されている。ハインツという男がいて、その妻が重病であり、妻の命を救うには自分の資力ではとても買えない高価な薬を盗むしかないという想定のもと、ハインツは盗むべきか否かという問いを一一歳の子供たちに提示して、どのような答え方をするかを聞くという面接実験である。ジェイクという男の子は、命はお金よりも尊いからという理由で盗むことを肯定する。その際、ジェイクは法を単純に無視するわけではなく、法律の意義を認めた上で、価値の高低を比較して高いものを低いものより優先するという判断を「数学的な」論理として正当化する。何が正しいかについて社会的コンセンサスがあるはずだと彼は考え、これもその例だという風に、抽象的論理の適用をするわけである。これに対し、エイミーという女の子の答えは直線的ではない。盗んではいけないけれど、妻を死なせてもいけないという状況を前にした戸惑いが見られる。その際、盗んではいけないとする理由は法が禁じるからという形式的理由よりも、盗んだハインツが刑務所に送られるなら妻の病気は一層重くなるかもしれないという人間関係的・文脈的なものである。エイミーは世界を自立した人々からなるというよりも関係性からなると捉え、規則のシステムによってよりは人間関係によって結びつけられていると考える。こうした関係性はしばしばディレンマを生むため、彼女は自分の考えについて問いただされるとうろたえたり、混乱したりする。そのことがジェイクに比べて「成熟していない」と判断される理由ともなる。
この心理学実験を最初に提起したコールバーグ(ギリガンの師に当たる)の道徳発達段階論は抽象的なルールおよびその適用という思考法の習得が基準となっているため、右の例ではジェイクの方が発達度においてエイミーよりも優れていることになる。しかし、人間関係への洞察と配慮という基準を立てるなら評価は異なってくるはずである。コールバーグが後者を考慮に入れなかったのは女子に多く見られる心的傾向への無理解による、というのがギリガンの批判である。
こうして、権利ないし正義を中軸とする倫理ないし論理――これがこれまでの男性優位社会において重視されてきた――に対して、「もう一つの声」として「ケアの倫理」の重要性が指摘される。そして、「正義の倫理」と「ケアの倫理」という二つの道徳律は、相補いあって初めて成熟に至るとされる。もっとも、現実の世界では、この二つは同じ重さを付与されているわけではない。ギリガンは、感受性や他人の感情への思いやり(ケア)はあまり市場価値がなく、職業的成功の妨げにさえなることを指摘している(4)。また、女性に見られやすい傾向として競争における達成への不安、成功回避願望があるが(5)、これも個人的能力を発揮して他者に打ち勝つことを高い価値とみなす競争社会では不利な点である。人間としては大事な能力の一つである思いやり・配慮・気配りが競争社会ではむしろマイナスに作用するということは、見方によっては、競争社会批判の論理としても理解することができる。もっとも、ギリガン自身はそこまで踏み込んでいるわけではない。
関連して、伝統的に女性の「善」とされてきた他者への思いやり(ケア)や感受性が同時に道徳的発達の欠陥として否定的に評価されるという矛盾した状況も指摘されている(6)。これは、後によく使われる言葉を使うなら「ダブル・バインド」状況の指摘ということができよう。一方において女性は他者への思いやりや感受性を身につけねばならないという社会的圧力にさらされているが、他方において、そのような能力を発展させること自体が、伝統的な発達心理学の基準からは未成熟、遅れ、欠陥として評価され、男性より劣位に位置づけられるというわけである。
ここでギリガンからやや離れるが、権利/正義の言語とニーズ/ケアの言語が対照的な性格をもつという論点はギリガンだけのものではなく、他の論者によって提示される例もあることに触れておきたい。たとえばマイケル・イグナティエフの「ニーズ・オブ・ストレンジャーズ」などにもそうした発想が示されている。「権利の論理」は通常、ある権利を持つ人が自ら権利要求を提出し、それをうけて他の人々が対応するという形で構成される。本人が要求してもいないことを他者がわざわざ用意するのは余計なお世話、パターナリズムであり、本人の自主性の発揮の阻害になるから、こういう順序で話が進むのは当然のことである。ところが、弱者のニーズは当事者によって明晰に定式化されることがあまりないし、具体性の要素が大きいため標準化した対応もしにくい――従って、抽象的正義の基準では測りにくい――という問題がある。ここでは誰かがそのニーズを代弁ないし代表する必要があるが、代弁は往々にしていかがわしいものだという別種の問題にぶつかる。ケアはまた、愛情、帰属感、尊厳などを重要な構成要素とするが、これらはそもそも権利として要求すべきものではない(自分に貨幣支払い・現物支給・サーヴィス提供などがされて然るべきだという権利要求はありふれたものだが、自分を愛してほしいとか尊敬してほしいという欲求を「権利」として主張するわけにはいかない)。このような事情を念頭におくと、権利の論理だけでは処理しきれない問題がケアにはつきまとっていることになる(7)。 

さて、フェミニズムの立場からは、ギリガンの議論は女性を専ら「ケア」に縛り付け、伝統的ジェンダー・ステレオタイプを再生産するものではないかとする批判がかなり有力である。以下、私の知る範囲で日本での論争を簡単に追ってみる(なお、アメリカでもある程度同様の論争があるようである(8))。
上野千鶴子はギリガンの議論を、かつてのような生物学的性差還元主義とは異なるものと認めた上で、それでも文化と社会の中でつくられるジェンダーを逃れるのは難しいという理由で「女性性」を固定化・本質化する――但し、かつてのようにそれをおとしめる代わりに、むしろ肯定的意義を付与して賞賛する――ものだという風にまとめる。そして、このような「文化本質主義」「ジェンダー本質主義」は、従来の性差観を保存した「保守的な思想」であり、これを受け入れる土壌は「フェミニズムにとって一種の後退戦であり、歴史的な挫折感の産物である」という(9)。こうした批判の前提となっているのは、ギリガンの「ケアの倫理」を専ら女性と結びつけられたものとする理解である。このような上野によるギリガン理解は、野崎綾子や谷口功一にも引き継がれており、広く定着しているかに見える(10)。ジェンダーと軍隊の問題に関して上野と論争をしている中山道子も、ギリガン理解については上野と共通性があり、「〈女性らしさ〉の再評価の試みが、伝統的な女性像を再生産し、結局男女の二元論を克服する試みとしても失敗するのではないか」としている(11)。このように、フェミニスト論者はギリガンに批判的であることが多い。
もっとも、フェミニストの中にも、それとは異なった受けとめ方をする人たちがいないわけではない。たとえば江原由美子は、「ギリガンの研究を「女性には男性と異なる固有の道徳がある」という主張を行うものとして読むならば、それは疑問が多い主張といえるだろう」という留保を付けながらも、全体としては、「普遍的公正さを原則とする近代法や近代的道徳の言語に対する、フェミニズムの立場からの批判」として肯定的に位置づけている。そこでは、ケアの倫理――江原著では「思いやりの道徳」と訳されている――を女性特有のものとするのではなく、むしろ「人間一般に関する道徳概念」と捉え直すことが前提されている(12)。井上匡子は、ギリガンの議論は本人の意図とは別に「本質主義」と受けとられることが多かったということを紹介した上で、「ケアの倫理の内実は、必ずしも女性だけの役割とされる必然性はなく、むしろ、性別に関係なく重要な意義をもっている」と書いている(13)。また、寺尾美子はジェンダー法学の立場からギリガンの問題提起を肯定的に受けとめている(14)。
フェミニストの多数派がギリガンに対して批判的な態度をとるのは、ギリガンの議論が「ケアの倫理」を女性と固定的に結びつけるものだという受けとめ方があるためである。しかし、「ケアの倫理」を専ら女性と結びつけるのではなく、むしろ超ジェンダー的概念として捉える見方もありうる。いま触れた江原由美子や井上匡子もそうした解釈の方向性を示唆しているし、川本隆史も「彼女〔ギリガン〕は、二つの声の違いがジェンダーの相違に還元できるとは考えなかった」と書いている(15)。井上達夫や斎藤純一も、倫理観と性差の関係について一般化することがギリガンの狙いではなく、ギリガンは二つの倫理を性別に振り分けたのではないとしている(16)。また立岩真也は、ケアを賞賛することへの警戒感がフェミニズムの一部にはあると述べた上で、「ただこの批判は、〔思いやりという〕特性が特定の範疇〔女性〕に不当に割り当てられていることの指摘であって、その特性自体は肯定されてよいのであれば、その担い手を特定し限定すべき〔で〕ないと主張すべきことになる」と指摘している(17)。
いま紹介した議論はどれも短いもので、あまり詳しく展開されていないが、大雑把にまとめていえば、「ケアの倫理」を性差から切り離して理解しようとする方向のものだといえよう。私自身もこの解釈に同調したくなるところがあるが、若干の留保も必要であるように感じる。ギリガンの序文を読み直すと、自分が描いた「異なる声」はテーマによって特徴づけられているのであってジェンダーによるのではないとあり、それに続いて、確かにケアの倫理と女性の結合が経験的に観察されはするものの、それは絶対的なものではないという指摘がある。そして、本書の狙いは性についての一般化ではなく二つの思考様式の差異の解明にあるとも述べられている(18)。一九九三年版に付された「読者への手紙」では、自分の著書が「女性と男性は本当に(本質的に)違うのかとか、どちらがどちらよりも優れているのか」といった文脈で議論されているのを聞くと、「それは私の問題ではない」と感じるとも書いている(19)。ケアの倫理を女性の「本質」とし、ただ単にそれにプラスの価値を付与しただけだという上野らのギリガン理解は、この個所を読む限りでは当たっていないように見える。しかし、ギリガンの実際の叙述の大部分は、ケアの倫理を女性と、権利および正義の論理を男性と結びつける形で書かれているし、書物の副題にはWomen's Development(邦訳書ではやや変形されて「男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ」)という言葉が含まれている。その意味では、フェミニストの批判も完全に的はずれとは言えない。ギリガン自身に二面性があるのではないかと思われる。おそらく彼女はケアの倫理が女性の「本質」か否かという問い自体にあまり関心がないのだろう。
ギリガンの叙述に両義性がある以上、これ以上ギリガン解釈それ自体にこだわることにはあまり意味がない。むしろ、ギリガン自身がどう考えているかということから一歩離れて、「ケアの倫理」を超ジェンダー的な概念として捉え直すことができるのではないか、そしてその方が生産的ではないかというのが私の考えである。もし「ケアの倫理」を専ら女性的なものとして提起するなら女性を一定の枠に縛り付けることにつながるというのはフェミニストの指摘する通りだし、また男性をケアの問題から遠ざけてしまうことにもなる。しかし、ギリガン説にそのような危険性があるからといって、「ケアの倫理」という問題提起そのものを葬ってしまうのは、せっかく見出された重要な論点を見失ってしまうことになるのではないだろうか。「女性的な資質」としてではなく、これまで見落とされがちだったある一つの重要な資質ないし行動原理として、「正義/権利の倫理(論理)」だけでは尽くせない「ケアの倫理」に着目することは重要な意味をもつように思う。 

前項の末尾である種の私見を提示してみたが、これで問題がすべて片づくわけではない。ギリガンおよびその影響下の論者を批判する人たちは、ケアの倫理が女性と固定的に結びつけられがちだということを批判するだけでなく、そもそもケアの倫理を正義の倫理と対比すること自体への批判もしばしば提出しており、その問題をどう考えるかという論点が残るからである。
たとえば野崎綾子は、ギリガン自身というよりもギリガンの影響を受けた一連の理論家に対する批判の中で、次のような叙述をしている。先ず、「正義や権利というものは、男性的原理であるから女性の解放のために役立たないとして放棄する戦略」はとらないという宣言がある(20)。これはジェンダーの問題とも関係しているが、そこにとどまらず、ケアの倫理の重視は「正義や権利」の放棄につながるのではないかという危惧も示されている。ケアの能力を正義の構想の前提としてとりこむことには問題があるという主張も、そうした発想の延長にある。それはギリガンの影響を受けたケアの理論家が自律の中心性を否定することへの反撥とも関係している。ケアの倫理に影響を受けた関係性重視の考え方は、家族関係は相互の愛情による結びつきにより構築されるという考え方につながるとされ、そうした家族愛のもつ規範性は家族構成員(特に女性)に抑圧的に働くとことが指摘され、「かかる理論は、「愛の原理」の強調が家族構成員に抑圧的に働きうることを軽視しているのではないだろうか」というのが野崎の議論である(21)。
野崎の議論はそれだけとってみれば当たっているが、やや性急であるように思われる。家族愛の強調がとりわけ女性に抑圧的に働きうるという指摘自体は正当だが、ケアを重視すれば必ずそうなると考えるのはいささか短絡的ではないだろうか(22)。関係性重視の発想が「愛情による結びつき」重視と等置されているのも飛躍である。確かに、「「愛の原理」の強調が家族構成員に抑圧的に働きうることを軽視している」ような理論も一部にはあるのかもしれない。しかし、その点を「軽視」することなく、正面から見据えながらケアの倫理と論理を構築する可能性がないかどうかは別個に検討しなければならないはずである。実際、私の知る限り、ケアについて論じる多くの論者は、愛情の強要が抑圧的に働くことを熟知しており、そのことへの警戒心を強く持っている(23)。ケアがそうした危険性を秘めていることの認識は大切だが、だからといってケアを軽視してよいという話になるわけではない。むしろ、ここから先に問題があるのだが、野崎はそれに立ち入ろうとしていない。
野崎の師に当たる井上達夫は、ギリガンは権利の倫理と配慮の倫理を対置しているが、実は両者は対立するものではなく、むしろ配慮の倫理は権利の倫理を前提しているのだとする(24)。この考えは、共同体論(コミュニタリアニズム)の問題提起を受けとめつつも、あくまでもリベラリズムを基底に据えようという発想の応用として理解することができる。この発想自体には共鳴するものがあるが、いくつかの疑問もある。一つには、井上はギリガンを「共同体論の理論的資源を豊富化する」ものと位置づけているが(25)、これは疑問である。「ケアの倫理」は特定の共同体の文化的伝統の共有を前提にするものではないから、いわゆる共同体論と論理的に結びついているとはいえないだろう。確かに、「権利の倫理」一点張りでは抜け落ちるものがあると指摘する限りで、リベラリズムに対してある種の批判的問題提起をするものではあるだろうが、そのリベラリズム批判は共同体論という観点からのそれと同質のものではないように思われる(26)。
ギリガンは権利の倫理と配慮(ケア)の倫理を対置しているという井上の理解にも問題がある。ギリガンの叙述はあまり整然としておらず、読みとりにくいところがあるが、ときとして二種の倫理を対置するかに見える個所を含みながらも、結論的には、むしろ相互補完こそが望ましい成熟だと考えているように思われる(27)。ケアの倫理を重視すると権利の倫理がないがしろにされるとして、この二つを対置しているのは、むしろ野崎綾子である。野崎がやや性急な対置論に傾くのに対し、井上は両者の結合を説くわけだが、では具体的にどのようにして結合されるのかという道筋を解明しているわけではない。求めるべき方向性の示唆としては共感しうるが、これだけで結論とすることはできないように思われる。
斎藤純一はケアにおけるジェンダー間の平等/不平等という論点を確認した上で、更にいくつかの論点を加えている。斎藤によれば、近代の社会秩序はケアを家族の内部に私事化し、他者の必要に応じる責任をできるだけ公共化=社会化しない仕方で編成されてきた。そのような近代社会においては、異性愛と小家族を特徴とする特定の家族形態が規範化されてきた。また、ケアを担う人は自分自身が他の誰かに依存せざるを得なくなる――たとえば家庭内で老人の介護に付きっきりの人は雇用労働で生計を立てることが至難であるため、他の家族員の稼得に依存しないわけにはいかない――こと、ケア労働には他の活動様式にない困難や負荷――しばしば昼夜を分かたないハードワーク、身体に関わるゆえのダーティ・ワーク、自らの感情を制御するという高度のスキルが求められる一方、社会的にも経済的にも報われない――こと、他者に対してcarefulであろうとすればするほど自らに対してはcarelessになるというパラドクスを抱え込まざるを得ないこと、等々といった問題点がある。こうした状況を踏まえて、斎藤は「家族」に代わる言葉として「親密圏」の再定義が必要だとする。その際、ケアを求める者と求められる者との間には非対称性があり、一方から他方への干渉が不可避だが、それが支配の関係になるのを防ぐことが重要であるとして、「他者性への責任」(=「責任とケアの倫理」)は他者の「自立」を尊重する「正義の倫理」とは異なる種類の倫理だとする(ここで斎藤はギリガンに言及して、しばしば誤解されるがギリガンはこの二つの倫理を公共的な領域と私的領域に振り分けているわけではないとする)。そして、親密圏は完全に外に開かれたものではありえないが、かといって完全に内閉した空間でもないと結ぶ(28)。斎藤の議論は全体として共感するところが大きい。ただ、やや抽象的な哲学的議論に傾いているため、いわんとするところを今ひとつつかみにくい憾みも残らないではない。
カナダの理論家、ウィル・キムリッカは「現代政治理論」の中でギリガンによって提起された「ケアの倫理」を取り上げて、かなりの紙数をこの問題に割いている(29)。キムリッカは基本的にリベラリズムの立場に立ちながらも、従来のリベラリズムがそのままで完成されているとは考えずに、様々な方面からの批判への応答を通してリベラリズムを豊富化しようと試みているが、フェミニズムへの応答もその一環をなしている。フェミニズムにあてられている同書第七章のうち、「ケアの倫理」をとりあげた第三節が最も長大であり、私の印象では最も興味深い部分となっている。キムリッカによれば、正義を重視する理論家が抽象的規則を重視するのは正当だが、それは「責任能力のある大人同士の相互行為」を念頭におく場合のことだという但し書きがつく。自律のためには自らの責任範囲を予め知っていることが必要であり、抽象的で文脈によらない規則が必要だが、このことは、正義の論理は文脈を考慮しにくいということを意味する。では、正義は自律した大人同士の関係に適用され、ケアは他者に頼らなければならない人々との関係に適用されるという風に分けて考えればよいかといえば、それだけでは済まない。というのも、幼児・老人・病人へのケアを主に負う人(主に女性)は、相手の予測不可能な要望に対応する責任を引き受けるなら、自分の将来を予想し得なくなってしまう。つまり、「自律」という人間像は、「大人」一般ではなく、ケアの責任を自分は負わずに済ませている人――その責任を女性に任せることで自らは免れている大多数の男性――を前提にしていることになる(30)。このように論を進めるキムリッカはこの章を次のように締めくくる。
「われわれは、屈強な自律像や、自律を可能にする責任や正義の概念を放棄せずに、他者に頼らなければならない人々への責任に応えていけるであろうか。答えを出すのはまだ時期尚早である。正義を唱える理論家は、伝統的な公正や責任の概念を定義し直し、優れた理論体系を構築してきた。だが、育児や他者に頼らなければならない人々へのケアというはるか以前から続いてきた根本問題を見落としてきたため、正義を唱える理論家の知的成果は、不確実できわめて危うい基盤の上に立ったままである。性的平等に関する適切な理論を築くには、これらの根本問題と、根本問題を視野から隠蔽してきた伝統的な差別の概念および私的なものの概念に、正面から向きあわなければならない(31)」。
ここでキムリッカは「答えを出すのはまだ時期尚早である」として、問題を未決に残している。安易に回答を出してしまうよりは、難問とディレンマの存在を自覚することの方が深い対応でありうるから、このような誠実な姿勢には共感しうる。ただとにかくここでは解決の方途は示されておらず、問題は読者に投げかけられたままである。 

以上では、様々な論者がギリガンおよび「ケアの倫理」についてどのように論じてきたかを概観してきた。そこで、私自身はどのように考えるかを、手探りながらも、ある程度まとめることを試みなければならない。
先ず、正義/権利の論理とケアの倫理とは確かに抵触する面がある。このことははっきり認めないわけにはいかない。ケアとは、本人が明晰な自己主張をすることのできない局面を含み、その場合にはパターナリズムの要素を全面的に排除することはできない(32)。また、身近にケアすべき人をかかえている人は、常時相手に目を配っていなければならないために、自己の生活を自分の目標に沿って設計することができにくく、自律が困難になる。ギリガンの指摘するように「ケアの倫理」を重視する人はしばしば「成功回避願望」を持つとすると、これは個人の能力の最大限の発揮という基準にとってはマイナスに作用する。さらに、ケアにおいては個別性・文脈依存性が大きな役割を果たすが、そのことは、抽象化された一般的基準による「正義」判定を困難なものにしがちである(33)。こうして、ケアを重視して考えていくと正義/権利の論理をある程度犠牲にしなければならない局面が出てくる。そのこと自体は現実問題として不可避だが、単純にそれを前提して、とにかくケアが大事だと考えるなら、権利や自律の契機をないがしろにすることになりかねない。その意味では野崎の危惧は理解できる。
しかし、では正義/権利/自律の論理一点張りですべてが解決するかというと、そうも考えにくい。樋口陽一は弱者の問題に触れつつ、「強者であろうとする弱者」という擬制の上に人権主体は成り立つのだという(34)。確かに、権利を確保するためには他者の温情に甘えるのではなく、「権利のための闘争」を自ら遂行する「強者」たろうとする姿勢が必要だろう。弱者を「弱者」と決めつけてしまうとますます「弱者」の状態からの脱却が難しくなるから、それらの人をも権利主張のできる「強者」にしていかねばならないのだとする考えには一理ある。だが、すべての弱者がそのような「強者」となることが本当に可能なのかと考えるなら、そこには大きな限界があるといわざるをえない。生まれてまもない乳児、意識不明の重病人、重度の認知症などで判断能力を失った高齢者等の例を念頭におくなら、あらゆる人に「自律」の前提条件が備わっているわけではない。またそれ以外の、大なり小なり自律可能な人間にしても、四六時中理性を働かせて、自己の利害を正確に自己責任で判断できるわけではない。自由・自主性・自己決定の尊重は確かに大事だが、場合によっては、それは無理難題を吹きかけることだったり、あるいは「本人の自己決定を尊重する」と称する周囲の人の責任回避ともなりかねない。
もうひとつの微妙な問題は、ケアを担うことは辛くて苦しい負担以外の何ものでもないのか、それともそれだけではない面もあるのかという点に関わる。多くの論者は、負担の側面を的確に指摘しており、それはそれで正当な指摘である。しかし――これを指摘するのは、かなりきわどく、微妙なことになるが――ケアへの従事を「やり甲斐のある立派なこと」「誇りの持てる素晴らしいこと」とする言説があることも事実である。そうした言説は、辛い労働を特定の人々に押しつけるためのペテンだという風に言って言えないこともない。だが、それがすべてだと決めつけてしまうのは当事者の実感にそぐわないのではないだろうか。「やり甲斐」と「重い心労」のどちらか一方だけが真実というのではなく、むしろ両者が表裏一体の関係にあるからこそ、一方を単純に切り捨てられないというディレンマに引き裂かれ、問題が一層深刻になるのではなかろうか。
この問題は、やや話を広げれば、「主婦(ないし主夫)」をめぐる一連の論争とも関係する。この問題は古くから繰り返し論じられながらなかなか明快な合意にたどり着かないが、しばしば提起されるのは、片や、女性を専業主婦に縛り付けることへの批判論、片や、「自分は主婦労働をつまらないものとは思っていない。生き甲斐を感じながら主婦をやっている。それなのに、主婦というものを価値のないものと言ってほしくない」という言説の対抗関係である(35)。おそらく、「やり甲斐」「生き甲斐」の面もあれば「負担」「つまらない」「精神的に疲れる」といった面の双方があるからこそ、いつまでも決着がつかずに同じ議論が繰り返されているのではないだろうか。ついでにいえば、家庭外での労働についても、度合いはともあれ、「やり甲斐」と「つまらない」「疲れる」の両面があるはずである。だからといって、「何をやっても、よい面と悪い面があるのだから、どれも同じ」というお目出度い折衷論が正当化されるわけではない。「どんなことにもよい面と悪い面がある」のは確かだとしても、その度合いは場合によって異なり、ある場合には辛い面が耐え難いまでに高まることがあるだろう。どういう場合にそうなるかは様々な要因によるから一概にはいえないが、少なくとも次の点は確認できるだろう。つまり、各人の個別的事情を無視して特定のカテゴリーの人々に一律に特定の仕事が割り振られるなら、辛い面がより大きくなりがちであり、それを他の人がサポートすることも怠られがちになるということである。だとすると、主婦/主夫業が一般的に「つまらない」ものかどうかということよりも、それが女性だけに一方的かつ固定的に割り当てられ、それが規範化されている――家事・育児・ケアが民間事業や公的サーヴィスに外部化される場合にも、それらの職に従事する人の大多数は女性である――ことにこそ問題があるというべきではないか。男性がそれらを担うことも皆無ではないが、実際の配分が相当アンバランスだということは明らかである(36)。もっとも、それらの配分を完全に平等化する――ありとあらゆる人が、家庭外で収入を得る労働も、家庭内での主婦/主夫業も、地域でのヴォランティア活動も、みな同じ割合で担う――というのは空論めいているが、少なくとも現状の固定性を脱規範化し、もう少し柔軟な再配置を構想することは必要でもあり可能でもあるように思われる。
やや話が拡大しすぎたかもしれないが、本題に戻って、簡単にまとめてみよう。ケアの倫理と正義/権利の倫理は確かにどちらも必要なものだが、ただそういっただけでは、両者の間に起こりうる矛盾の側面が見失われて、平板な折衷論になってしまう。かといって、矛盾しているからどちらか一方だけをとるべきだということもできない。両者の緊張関係を見据えた上で、何とかして両方を結びつけようと努めるしかないのではないだろうか。その際、重要なのは、ケアが一面で充実感ややり甲斐を伴いつつも他面で強度の心労を伴うものだとするなら、それを特定の人々――具体的には女性――に固定的に割り振るのを避けるということだろう。
従来の議論の多くは、ケアの倫理は女性と結びついているのかどうか、それは女性の「本質」なのかという風に、専ら女性を焦点化する形で問いが立てられていた。しかし、そういう問いの立て方自体、男性を問いの外におくことで、《男性=無徴(一般)、女性=有徴(特殊)》という暗黙の図式を温存することにつながる。むしろその前提を解体し、男性もまた有徴(特殊)とみなして、男性についての問いを立てる――男性はケアの倫理をもたないのか、それは「自然」なのか、それでよいのか等々――が必要と思われる。もちろん、女性が多様であるように男性もまた多様であって、決して一体ではないから、この問いへの答えは全称命題になるわけではない。ただ、これまでの社会の歴史的経緯から、どちらかといえばケアの倫理を欠いた人が男性には多いという程度のことは言えるだろう。とすれば、これは「女性の問題」ではなく、むしろ男性の問題ではないかと思われる。
もし誰かが、「女性はせっかくケアの倫理という優れた特質をもっているのだから、権利の論理を追うあまりケアの倫理を捨ててしまわない方がよい」と説くなら、そこにジェンダー・バイアスが含まれており、女性を権利の論理から排除しようとするイデオロギー性があることは明らかである。その限りで、ケアの倫理が一面的に称揚されることに対して一部のフェミニストたちが懸念を示すことは理解できる。だが、「ケアの倫理」の重視はそういう形をとるしかないと決まっているわけではない。ギリガン自身が「ケアの倫理」を女性と結びつけがちだったことがそうした反応を招いてきたという面はあるにしても、むしろそうではなくて、「これまであまりケアの倫理を発達させてこなかった男たちこそ、それを身につけるべく努力すべきだ(但し、それは権利の論理というものを、女性についてであれ男性についてであれ、等閑視してよいということを意味するわけではない)」という形で受けとめることも可能なはずである。そしてそれはフェミニストにも受けいれられる議論ではないだろうか。 
(1)Carol Gilligan, In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development, Harvard University Press, Thirty-sixth printing, 2000(キャロル・ギリガン「もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ」川島書店、一九八六年)。
(2)川本隆史「現代倫理学の冒険」創文社、一九九五年、六六‐七三、二〇二‐二〇五頁。
(3)川本隆史編「ケアの社会倫理学」有斐閣、二〇〇五年。川本の序論をはじめ、第三章の清水論文、第八章の最首論文などでギリガンが言及されている。また第七章の三好論文は、ギリガンに直接言及しているわけではないが、「母性」という形で――但し、「母性は女性だけのものではない」という但し書きがある――同種の問題に触れている。
(4)Gilligan, op. cit., p. 10(邦訳書、一〇頁)。
(5)Ibid., pp. 14-15(邦訳書、一七‐一九頁)
(6)Ibid., p. 18(邦訳書、二五頁)。
(7)マイケル・イグナティエフ「ニーズ・オブ・ストレンジャーズ」風行社、一九九九年、とりわけ日本語版序文、「はじめに」、第一章など。
(8)たとえば、川本「現代倫理学の冒険」七一‐七二頁、マーサ・ミノウ「復讐と赦しのあいだ」信山社、二〇〇三年、一六二‐一六三頁など参照。
(9)上野千鶴子「差異の政治学」岩波書店、二〇〇二年、一二‐一五頁。
(10)野崎綾子「正義・家族・法の構造転換――リベラル・フェミニズムの再定位」勁草書房、二〇〇三年、二三、八二頁、谷口功一「ジェンダー/セクシュアリティの領域における「公共性」へ向けて」「思想」二〇〇四年九月号、一〇六頁。
(11)中山道子「論点としての女性と軍隊」江原由美子編「性・暴力・ネーション」勁草書房、一九九八年、四三‐四四頁。
(12)江原由美子「フェミニズムのパラドックス」勁草書房、二〇〇〇年、一二七‐一三四頁。
(13)井上匡子「フェミニズムと政治理論」川崎修・杉田敦編「現代政治理論」有斐閣、二〇〇六年、二〇五‐二〇六、二一三‐二一四頁。
(14)寺尾美子「ジェンダー法学が切り拓く地平」「ジュリスト」第一二三五号(二〇〇三年一月一=一五日)。
(15)川本「現代倫理学の冒険」六七頁。
(16)井上達夫「現代の貧困」岩波書店、二〇〇一年、一三一‐一三二頁、斎藤純一「依存する他者へのケアをめぐって」「日本政治学会年報二〇〇三/「性」と政治」岩波書店、二〇〇三年、一九三‐一九四頁。
(17)立岩真也「弱くある自由へ」青土社、二〇〇〇年、三五二頁注69。
(18)Gilligan, op. cit., p. 2(邦訳書「はじめに」xii-xiii頁)。
(19)Ibid., p. xiii(邦訳書は旧版に基づいているため、この「読者への手紙」は収録されていない)。
(20)野崎、前掲書、二〇頁。
(21)同右、三六‐三八、一一五‐一一八、一六五頁。
(22)先の引用文にあった「働きうる」という表現は、「働く」という表現と違って、必ずそうなるという強い関連を意味するわけではない。野崎が後者ではなく前者の表現をとったのは、ひょっとしたらそうした意識があったからかもしれない。だが、ではそうでない場合はどうなのかという問題には何も触れられていない。
(23)たとえば、川本編「ケアの社会倫理学」の諸論文(同書への読書ノートも参照)、また立岩、前掲書、斎藤、前掲論文など。
(24)井上達夫、前掲書、一六九‐一七四頁。
(25)同右、一三二頁。
(26)先に触れたイグナティエフの場合、「権利要求に応えるだけでは満たされないようなケアと配慮を求める人びとのニーズ」を重視するが、だからといってコミュニタリアン(共同体論)に与するわけではなく、自分は頑固にリベラルだとも書いている。前掲書、日本語版序文、五‐六頁。もっとも、リベラルなケア論とはどういうものかの詳しい説明があるわけではなく、イグナティエフの議論自体にも疑問の余地がある。ここではただ、「ケアの倫理」という問題と共同体論の関係は一筋縄ではないということを確認するにとどめる。
(27)Gilligan, op. cit., pp. 164-165(邦訳書、二九〇‐二九一頁)。この問題に関するギリガンの考えが揺れているのではないかとする指摘は、W・キムリッカ「現代政治理論」日本経済評論社、二〇〇二年、四二八頁。
(28)斎藤純一、前掲論文。なお、斎藤論文に出てくる「感情労働」という論点について、川本編著についての読書ノートの五も参照。
(29)キムリッカ、前掲書、第七章第三節。なお、キムリッカの別の側面について批判的評価をまじえた試論=私論として、Will Kymlicka and Magda Opalski (eds.), Can Liberal Pluralism Be Exported?: Western Political Theory and Ethnic Relations in Eastern Europeについての読書ノート参照。
(30)キムリッカ、前掲書、四三〇、四三六、四三八‐四三九、四四〇‐四四二頁。
(31)同右、四四二頁。
(32)パターナリズムについて、川本編「ケアの社会倫理学」に関する読書ノート、とりわけその注1参照。
(33)川本編「ケアの社会倫理学」への読書ノートの三を参照。
(34)樋口陽一「憲法と国家」岩波新書、一九九九年、一〇五頁。
(35)かなり古いものだが、基本的な構図は、上野千鶴子編「主婦論争を読む」T・U、勁草書房、一九八二年に整理されている。新しい論点を含む最近の議論として、野川忍「アンペイド・ワーク論の再検討」「ジュリスト」第一二三五号(二〇〇三年一月一=一五日)参照。
(36)いま「主婦/主夫」を家庭内において家事・育児・ケアを担当する人とすると、専業主婦/主夫、第一種兼業主婦/主夫、第二種兼業主婦/主夫、ゼロ主婦/主夫という分類ができる(「第一種兼業主婦/主夫」「第二種兼業主婦/主夫」「ゼロ主婦/主夫」というのは私の造語だが、「第一種兼業農家」(農業を主とする)と「第二種兼業農家」(農業を従とする)の区分にならって、第一種は主婦/主夫業を主とするもの、第二種は主婦/主夫業を従とするものとする。また、家事・育児・ケアにほとんど全く携わらない人を「ゼロ主婦/主夫」とする)。このような分類を前提するなら、本格的統計分析をするまでもなく、大まかな傾向として、女性は専業主婦か第一種兼業主婦が多く、第二種兼業主婦は少なく、ゼロ主婦はほとんど皆無に近いのに対し、男性はゼロ主夫か第二種兼業主夫が多く、第一種兼業主夫は少なく、専業主夫はほとんどいないということになるだろう。 
 
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。