論語

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雑学の世界・補考   

論語

学而(がくじ)篇  
子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。
子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。
先生(孔子)がこうおっしゃった。物事を学んで、後になって復習する、なんと楽しいことではないか。友達が遠くから自分に会いにやってきてくれる、なんと嬉しいことではないか。他人が自分を知らないからといって恨みに思うことなどまるでない、それが(奥ゆかしい謙譲の徳を備えた)君子というものだよ。
春秋時代に物事を「学ぶ」場合には、書物によって知識を得るよりも師から言葉によって知識を伝達されることが多かった。その為、弟子たちは師が「詩経」や「書経」を読む声を聴いて、その内容を忘れないように復習したのである。学問といっても現代のような教科書や講義による勉強ではなく、基本は、貴族社会の礼儀作法や教養・素養を師から口伝で受け継ぐことにあった。君子とは、端的には、統治者階級に相応しい「人格・度量・教養・品位」を備えた貴族のことであり、孔子が現れて以降は、人民を敬服させる徳(人間的な魅力・教養)を兼ね備えた人物を指して特に君子と呼ぶようになる。為政者たる者は、有徳の君子でなければならないとするのが儒教の基本的な政治思想(徳治主義)である。  
有子曰、其為人也、孝悌而好犯上者鮮矣、不好犯上而好作乱者、未之有也、君子務本、本立而道生、孝悌也者、其為仁之本与。
有子(ゆうし)曰く、その人と為りや(ひととなりや)、孝悌(こうてい)にして上を犯すことを好む者は鮮なし(すくなし)。上を犯すことを好まずして乱を作す(おこす)ことを好む者は、未だこれあらざるなり。君子は本を務む。本立ちて道生る(もとたちてみちなる)。孝悌はそれ仁を為すの本なるか。
有子先生(孔子)がこうおっしゃった。その生来の人格が、親孝行で目上の人に従順なのに、社会的な地位や年齢が上の人にさからう人は少ない。目上の人や上位者にさからうことを好まない人で、内乱を起こしたという人はまだ存在しない。人格者である君子は根本的な事柄を大切にする。根本的な事が確立すれば、人の生きるべき道が自然に出来るのだ。親孝行で上位者の人に従順であることは、仁の徳を完成させる為の根本である。
孔子の儒教道徳は、万人が生まれながらに平等であるという立場は取らず、「身分・立場・年齢の違い」による社会的な上下関係と上位者を敬う礼儀作法を重視する。この文章は、儒教が封建主義社会の身分制度を擁護したと批判される謂われでもあるが、孔子の高弟である有若は、道徳が混乱した弱肉強食の時代に社会秩序を取り戻す為に、下克上を禁止する孝悌の徳を説いたのである。孝とは、父系社会の血族集団において目上の人を敬い仕える徳であり、一般には「親孝行」に代表される祖先崇拝思想の名残である。悌とは、共同体の年長者に従順に仕える徳であり、地域社会の秩序を維持する為の規範であった。  
子曰、巧言令色、鮮矣仁。
子曰く、巧言令色、鮮なし仁。
先生(孔子)がこうおっしゃった。巧妙な弁舌に感情豊かな表情、そういった人は、見せ掛けだけで本当の思いやりの心が少ないものだ
仁の徳を完成させる為には、目上の人に対して従順な「孝悌の徳」を欠かすわけにはいかないが、ただのご機嫌取りや曲学阿世の徒ばかりを君主の周りに集めたのでは社会の秩序や安全が揺らいでしまうということである。巧言令色とは、言葉が上手くて弁舌が爽やかであり、見た目にも魅力的な容姿をしているものをいう。孔子は、巧言令色をもって為政者(権力者)に擦り寄り、民衆を苦しませる悪政の原因となる「媚びへつらいの奸臣(上役へのゴマすりで私利を図る政治家や役人)」を警戒したのである。  
曾子曰、吾日三省吾身、為人謀而忠乎、与朋友交言而不信乎、伝不習乎。
曾子曰く、吾(われ)、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか。
曾参先生がこうおっしゃった。私は毎日三回、自分の身を反省する。他人のためを思って真剣に考えてあげるまごころが無かったのではないか。友人と交際を持つ中で誠実ではなかったのではないか。(孔子に教わったことを)十分に復習せずにあなたたちに伝えてしまったのではないか。  
子曰、道千乗之国、敬事而信、節用而愛人、使民以時。
子曰く、千乗の国を導くには、事を敬んで(つつしんで)信あり(まことあり)、用を節して人を愛し、民を使うに時を以ってせよ。
先生(孔子)がこうおっしゃった。戦車千台を戦争に用いる諸侯の国を治めるには、政治を行うのに慎重でありつつ、一度決断したことは実行すること。政治の費用を節約して人民を大切にすること。人民を使役する場合には、適切な時機(農閑期)を選ぶことだ。
古代の殷王朝・周王朝の時代から、貴族は四頭立ての戦車に乗って戦争を戦っていたが、春秋時代末期から戦国時代に掛けて、貴族の戦車同士の戦闘よりも農民の歩兵による白兵戦が多くなってきた。この文章は、千乗の戦車を戦争につぎ込める中規模の国を治める君子の心構えについて聞かれた孔子が、その弟子の問いに答えて政治に対する慎重さと信義・人民に対する慈愛の大切さを語ったものとされる。  

 

子曰、弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁、行有余力、則以学文。
子曰く、弟子(ていし)入りては則ち(すなわち)孝、出でては則ち悌、謹みて信あり、汎く(ひろく)衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば、則ち以って文を学ぶ。
先生(孔子)がこうおっしゃった。若者たちよ、家庭に入れば親に孝行を尽くし、家庭を出れば地域社会の年長者に従順に仕え、言行を慎んで誠実さを守り、誰でも広く愛して人徳のある人格者とは親しくしなさい。これらの事を実行して余力があれば、そこで初めて書物を学ぶとよい。  
子夏曰、賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、与朋友交、言而有信、雖曰未學、吾必謂之学矣。
子夏(しか)曰く、賢を賢として色に易え(かえ)、父母に事えて(つかえて)能く(よく)其の力を竭し(つくし)、君に事えて能くその身を致し、朋友と交わるに言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖ども、吾は必ずこれを学びたりと謂わん。
子夏がこうおっしゃった。美人(色)を好むのと同じようにして、賢人を賢人として尊敬しなければならない。父母に仕えて力の限りを尽くし、君主に仕えて身命を捧げ、友人と交わって一度言ったことを決して裏切らない。(こんな人物がいたとして)人は、この人はまだ学問をしていないから賢人ではないというかもしれないが、私は、きっとこの人物を学問をした賢人だと評価するだろう(真の賢人とはこういう人物のことを言うのである)
孔子の弟子の子夏は、姓を卜(ぼく)、名を商といい、曾子や有子と並ぶ高低であったが彼らよりも年少であったと言われる。子夏は、春秋末期に中原の大国・魏の文侯に仕えて、学術研鑽や教育指導に務めたとされるが、この文章は「儒教の価値観で真の賢人とはどのような人物であるのか?」を象徴的に示したものである。「賢賢易色」は、「賢者を美女のごとくに尊敬せよ」という当時の格言に由来するという説があるが、後世になって、男尊女卑の風潮(男性原理の色合い)が強まり「美女のごとく」ではなく「美女への愛情を昇華して」と解釈されるようになった。孔子自身は、美女(良妻賢母のイメージ)に対する愛情に特別な嫌悪や抵抗は持っておらず、そういった人間同士の愛情や優しさのようなものが、人道的な文明社会の根底にあると考えていたのではないか。  
子曰、君子不重則不威、学則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改。
子曰く、君子、重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ。過てば則ち改むるに憚る(はばかる)こと勿かれ。
先生(孔子)がこうおっしゃった。君子は、重々しい雰囲気がなければ威厳がない。学問をすれば頑固でなくなる。(上位者に尽くす)忠と(誠実さを守る)信の徳を第一にして、自分に及ばない者を友達とするな。過ちがあれば、それを改めることをためらってはならない(即座に間違いを改めなさい)。
「忠信を主として」の部分は、「忠信に主しみ(したしみ)」と書き下すこともできるが、漢の鄭玄は後者を採用して「上位者に忠節を尽くし、約束を違えない誠実な人物と親交(懇意)を深め」といった意味に解釈している。自分に間違いや過失があれば、それを素直に認めてすぐに正しい考えや事柄に改めることを孔子は説いているが、儒教では頑迷固陋に一つの立場にこだわることが学問や政治の妨げになると考える傾向がある。  
曾子曰、慎終追遠、民徳帰厚矣。
曾子曰く、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰せん。
曾先生がこうおっしゃった。(為政者が)亡くなった人の葬式を厳かに行い、遠い祖先の祭儀も決して忘れることがない。(このようであれば)人民の徳(思いやり)も自然に厚くなっていくものだ
「終」とは古代中国の春秋時代には、身分のある貴族の死去であり、「終わりを慎む」とは、亡くなった人の葬式を形式(礼制)にのっとって正しく行い、悲哀の感情を捧げて喪に服すことである。孔子の時代には、宗教国家として神権政治を行った商(殷)以来の祭儀葬式の名残が残っており、宗教的な祭儀を厳格にしめやかに執り行うことが社会秩序の安定につながると考えられていた。為政者が、既にこの世に存在しない祖先の遺徳を丁重に取り扱うことで、現在生きている人民の徳や功績を大切にすることを天下に知らしめる効果があり、祖先(自分より上の世代)を敬う社会秩序の基盤にもなったのである。  
子禽問於子貢曰、夫子至於是邦也、必聞其政、求之与、抑与之与、子貢曰、夫子温良恭倹譲以得之、夫子之求也、其諸異乎人之求之与。
子禽、子貢に問いて曰く、夫子の是の邦に至るや必ずその政を聞けり。これを求めたるか、抑も(そもそも)これを与えたるか。子貢曰く、夫子(ふうし)は温良恭倹譲(おんりょうきょうけんじょう)以ってこれを得たり。夫子の求むるや、其諸(それ)人の求むるに異なるか。
子禽が、子貢に尋ねて言った。我らの先生(孔子)は何処の国に行かれても、きっと政治について意見を聞かれるだろう。これは、先生がもちかけたのだろうか、それとも、君主の側から頼まれたのだろうか。子貢が答えた。我らの先生(孔子)は、穏やかで素直で、恭しく慎ましい謙譲の精神を持っている。先生のほうから持ちかけたとしても、それは、他の人とは違っているのではないだろうか(学識を誇る他の人のように、自慢気にして強引に持ちかけるのとは違う)。
子貢(しこう)は、子路や顔回、ゼン求、仲弓と並ぶ孔子の高弟として有名な人物である。子貢とは「字(あざな)」であり、姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)という。この文章は、孔子の温厚誠実で従順素直な人柄を述べた問答の部分であり、特に、孔子の慎ましくへりくだる謙譲の美徳を強調したものである。儒教道徳では、自己顕示欲を戒めて傲慢不遜を抑制する「謙譲の精神」が高く評価されている。しかし、この自分を低く見せる謙譲の精神は、西欧の価値観では「卑屈・柔弱・自信の無さ・リーダーシップの欠如・自己嫌悪・へつらい」というように悪い方向で解釈されることが多く異文化交流の障壁ともなっている。  

 

子曰、父在観其志、父没観其行、三年無改於父之道、可謂孝矣。
子曰く、父在らばその志を観(み)、父没すればその行いを観る。三年父の道を改むるなきを、孝と謂うべし。
先生(孔子)がこうおっしゃった。父が生きていればその意志を観察し、父が亡くなればその行動を観察する。そして、父の死後三年間、亡父のやり方を改めないのであれば、これは確かに孝行といえる。
祖先崇拝と忠孝の徳を絶対とする儒教道徳では、子は親を無条件に尊敬してその命令や教えには従わなければならない。これは、孔子が弟子に「親孝行というのはどういうものですか?」と問われ、それに分かりやすく簡潔に答えたものと考えられる。「三年間、亡父のやり方を変えない」というのは、古代の服喪の期間が三年間であったからである。  
有子曰、礼之用和為貴、先王之道斯為美、小大由之、有所不行、知和而和、不以礼節之、亦不可行也。
有子曰く、礼はこれ和を用うるを貴しと為す。先王の道も斯を美し(よし)と為すも、小大これに由れば、行われざる所あり。和を知りて和せんとするも、礼を以ってこれを節せざれば亦行われざればなり。
有先生がこうおっしゃった。礼の実現には、調和を用いることが大切である。昔の聖王(尭・舜・禹)の道も、礼の実践が素晴らしかった。しかし、小事も大事も礼式ばかりに依拠しているとうまくいかないことがある。調和が大切だということを知って調和を図ろうとしても、礼の本質をもって節制を加えないと(礼の本質である身分秩序を守らないと)、(悪平等となって)物事がうまくいかなくなる。
全体として難解な文章であるが、有子は儒教において仁義と並んで最も重要な徳目とされる「礼楽」について哲学的に述べている。礼を成立させている原理的な本質とは「身分を隔てる秩序感覚」であり、この「身分秩序」を逸脱して自由に振る舞うことを許せば、悪平等が蔓延して社会は乱れる。こういった封建主義的な身分秩序を明確にすることで、戦乱に喘ぐ社会を安定させようとしたのが儒教である。良くも悪くも、儒教は戦国時代の諸子百家の思想であり、「身分制度で守られる社会秩序」を否定する現代の人権思想や民主主義(自由主義)と相容れない部分がある。有子は、礼の本質である「秩序感覚」と礼の実践に必要な「調和感覚」を合わせて説いているが、儒教では国家統治の枢要は為政者の「仁・義」と伝統的に継承される「礼・楽」にあるとされている。  
有子曰、信近於義、言可復也、恭近於礼、遠恥辱也、因不失其親、亦可宗也。
有子曰く、信、義に近づけば、言復む(ことふむ)べし。恭、礼に近づけば、恥辱に遠ざかる。因ることその親を失わざれば、亦宗とすべし。
有先生がこうおっしゃった。約束を守るという信の徳は、正義(道理)に近づけば、言葉どおりに履行できる。うやうやしく振る舞う恭の徳は、礼の形式に近づけば、人から受ける恥辱から遠ざかる。姻戚との関係は、その親密さが度を越えなければ(父系親族との親密さを越えなければ)、本家(宗族)の信頼を維持できる。
この文章の最後の部分は非常に難解であるが、「因」は「姻」と解釈することができ、妻の一族(母系親族)との関係と夫の一族(父系親族=本家)との関係のバランスを説いたものと考えられている。これは、「信・恭・因」という実現が困難な徳の根本が何であるのかを有子が論理的に述べたものであり、「信と義の関係」の深さのみならず、「恭と礼の関係」や「因と宗の関係」の重要性に言及している点が目を引くところである。  
子曰、君子食無求飽、居無求安、敏於事而慎於言、就有道而正焉、可謂好学也已矣。
子曰く、君子は食飽かんことを求むることなく、居安からんことを求むるなく、事に敏にして言に慎み、有道に就きて正す、学を好むと謂うべきなり。
先生(孔子)がこうおっしゃった。君子は腹いっぱいに食べることを求めず、安楽な住居に住むことを求めない。行動は敏活、発言は慎重であり、道理(道義)を修得した人について自分の言動の是非を正すようであれば(自分に対する批判を進んで仰ぐようであれば)、学問を好むといえるだろう。
この文章は、次の章との絡みで理解を進めると分かりやすいが、必ずしも「清貧に甘んじて刻苦勉励せよ」と孔子が説いているわけではない。あくまでも、当時の統治階級である貴族(富裕な君主・士大夫)の理想像を謳っているのであり、豪勢な食事や華美な住居にばかり執着するのではなく、貴族の本務である国の政治に全身全霊を注げと述べているのである。つまり、贅沢な食事や綺麗な衣服、快適な住居を楽しむのもなるほど結構だが、国家を治める君子である貴族にはそれよりも重要な政治と祭儀(まつりごと)があるということである。贅沢な美食や娯楽ばかりにかまけている暇はないと孔子は戒めているのであって、貴族階級につきものの贅沢や安楽そのものが悪徳であるとは説いていないとされる。  
子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧時楽道、富而好礼者也、子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂与、子曰、賜也、始可与言詩已矣、告諸往而知来者也。
子貢曰く、貧しくして諂う(へつらう)ことなく、富みて驕ることなきは何如。子曰く、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好むものには若かざるなり。子貢曰く、詩に「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し」と云えるは、それ斯れを謂うか。子曰く、賜や始めて与に(ともに)詩を言うべきなり。諸(これ)に往(おう)を告げて来を知るものなり。
子貢が孔子に尋ねた。貧乏で卑屈にならず、金持ちで驕慢にならないというのはいかがでしょうか?先生が答えられた。それも良いだろう。しかし、貧乏であっても道義(学問)を楽しみ、金持ちであっても礼を好むものには及ばない。子貢がいった。「詩経に切るが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如しと
[妥協せずに更に立派な価値のあるものにすること]謳っているのは、ちょうどこのことを表しているのですね。」先生が答えられた。子貢よ、これで初めて共に詩を語ることができる。お前は、往き道を教えれば、自然に帰り道を知る者であるな(一を聞いて十を知る者であるな)
前の章の解説に書いたように、この章において孔子は「貧乏で卑屈にならないよりも、貧乏であっても学問を楽しむものが優れている」と語り、「金持ちで慢心しないよりも、金持ちであって礼を尊ぶものが優れている」と語っている。経済的な貧富の格差そのものに徳性の優劣があるのではなく、好学の精神を高めて、礼容を尊重し整える気構えに「人徳」が宿るのである。詩に「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し」と云えるというのは、四書五経の「詩経」の一句を引いており、切磋琢磨の四字熟語として残るこの故事は、衛の名君・武公の人格の練磨に基づくものであるという。  
 
為政(いせい)篇

 

子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。
子曰く(しいわく)、政を為すに徳を以って(もって)すれば、譬えば北辰のその所に居て、衆星のこれを共る(めぐる)が如し。
先生(孔子)がこうおっしゃった。政治を行うのに道徳(人徳)をもってすれば、まるで北極星が天の頂点にあって、周囲の星々が北極星の周りをめぐるように上手く民衆を治められるだろう。
民衆を愛する徳を兼ね備えた為政者が政治に当たるのであれば、全天の無数の星を規則正しく運動させる北極星のように、天下国家は有徳の君主(為政者)を中心にして円滑に運営されるという徳治政治の基本を説いている。分析心理学を創始したC.G.ユングは星座を構成するひとつひとつの星があるべき位置に調和を保って布置されることを「コンステレーション(constellation)」といったが、星座全体を「国家」に星を「人民」に例えれば、その中心に位置する北極星が「有徳の為政者」ということになる。有徳の為政者と無数の人民が最適な場所にコンステレート(布置)されることによって、国家安泰の徳治が成立するというのが孔子の政治哲学である。  
子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。
子曰く、詩三百、一言(いちごん)以ってこれを蔽むれば(さだむれば)、思い邪無し(よこしまなし)と曰うべし(いうべし)。
先生(孔子)がこうおっしゃった。詩の篇の数は三百ある。これを一言でまとめると、「思い邪なし」というほかはない。
孔子が詩の本質と魅力を簡潔に指摘した文章である。見せ掛けだけの巧言令色を嫌った孔子は、当然のように詩篇についても華やかで優雅な美辞麗句を嫌い、邪心のない純粋な感情が迸る(ほとばしる)ような表現で構成された詩を好んだ。「思い邪なし」の表現は、四書五経の一つ「詩経」の魯頌(ろしょう)から引用したもので、魯頌とは魯国の祖先の霊廟を祭るときの舞楽であり、孔子は仁義と同等以上に礼楽を重視した人でもあった。  
子曰、導之以政、斉之以刑、民免而無恥、導之以徳、斉之以礼、有恥且格。
子曰く、これを導くに政を以ってし、これを斉える(ととのえる)に刑を以ってすれば、民免れて恥なし。これを導くに徳を以ってし、これを斉えるに礼を以ってすれば、恥有りて且つ格し(かつただし)。
先生(孔子)がこうおっしゃった。人民を導くのに法制をもってし、人民を統治するのに刑罰をもってすれば、人民は法律の網をくぐり抜けて恥じることがない。人民を導くのに道徳をもってし、人民を統治するのに礼節をもってすれば、人民は(徳と礼節を失う悪事に対する)恥を知りその身を正すようになる。
孔子の理想とした政治のあり方とは、有徳の君子が「仁・義・礼・智・信の徳」をもって率先垂範を旨とする政治にあたることであり、人民に道徳や良心を植え付けることで「自律的な社会秩序」を構築することであった。故に、孔子が始めた儒教は、悪事をした人間に懲罰を与えて痛めつけたり自由を奪うことで犯罪や無礼を抑止しようとする「法家」(韓非子・李斯)とは正反対の政治思想といえる。孔子は、「人民の恐怖(処罰)」によって秩序を維持する政治を行うことに反対し、「人民の徳化(教育)」により自発的な社会秩序を生み出そうと尽力したのである。  
子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。
子曰く、吾(われ)十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう)。七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰えず(こえず) 。
先生(孔子)がこうおっしゃった。私は十五歳で学問に志し、三十歳で独立し、四十歳で迷いがなくなり、五十歳で天から与えられた使命を知り、六十歳で人の意見を素直に聞けるようになり、七十歳で自分の心の欲するままに行動しても人の道を踏み外すことがなくなった(行き過ぎた振る舞いがなくなった)
「論語」の中でも非常に有名な篇であり、15歳で若くして学問に専心する決意をした孔子の志学の精神、耳学問や書物からの学鑽によって30歳で一人立ちしたこと、それ以降の人徳を積み重ねる人生を簡潔かつ的確に回顧して表現している。孔子は経済的に貧困な貴族階級に生まれたので、正式な学問体系に則って学問を積み重ねたわけではないが、理想とする周(西周)の王道と礼制を政治に復古させるために周の政治体制と礼楽の精髄を学んだ。
古代中国の封建社会では20歳で成人として認められ、30歳で妻帯して社会的に自立するのが普通であったが、孔子もその社会慣習に拠って30歳で立ったと考えられる。40歳で惑わないという事については、孔子の波乱の人生と故国・魯の政治状況を省みると、魯の正統な君主である昭公への忠誠と忠誠を貫くために帰国することを迷わないと解釈することも出来る。孔子が理想としたのは、飽くまで、歴史的な正統性をもつ有徳の君主による政治(王道)であり、実力主義の権力闘争を勝ち抜いた貴族諸侯による政治(貴族)ではなかった。
当時、魯国の君主である昭公は、有力貴族である三桓氏(孟孫・叔孫・季孫の有力な家臣)に圧倒されて国を追われていたが、孔子は三桓氏による魯の統治の正統性を認めることはなかった。孔子が50歳になって知った天命とは、自分に与えられた寿命・才徳・機会では、自分が目指した「魯国の王道の再建」は不可能であるという宿命のことであると言われる。この篇は、私達が人生を如何に生きるべきかという「一般論としての人生の指標」として読むこともできるが、孔子の実際の人生を踏まえて読むと「孔子の実体験から生まれた比類なき道標」として解釈することもできる。  
孟懿子問孝、子曰、無違、樊遅御、子告之曰、孟孫問孝於我、我対曰無違、樊遅曰、何謂也、子曰、生事之以礼、死葬之以礼、祭之以礼。
孟懿子(もういし)、孝を問う。子曰く、違うことなかれ。樊遅(はんち)、御(ぎょ)たりしとき、子之に告げて曰く、孟孫我に孝を問いしかば、我対えて(こたえて)違うなかれと曰えり(いえり)。樊遅曰く、何の謂(いい)ぞや。子曰く、生けるときはこれに事うるに礼を以ってし、死せるときはこれを葬るに礼を以ってし、これを祭るに礼を以ってすべし。
魯の家老・孟懿子が、孔子に孝の道を尋ねた。先生(孔子)はこうおっしゃった。違えないようにすることでございます。先生は御者の樊遅にこうおっしゃった。孟孫殿(孟懿子)が私に孝の道を聞かれたので、「孝の道にたがえないこと」と答えておいたよ。納得しかねた樊遅は、「どういう意味ですか」と聞いた。先生は(樊遅の質問に)こう答えた。親が生きている時には礼によって仕え、親の死後には礼に従って葬り、祖霊をお祭りする場合にも礼をもってすべきですよ
孔子の儒学とは、孝道と為政を不可分のものと見るものであり、君主に忠義を尽くすように、親(祖先)には忠孝を尽くさなければならないとする。魯の大夫である孟懿子に親孝行の道を聞かれた孔子は、シンプルに孝道の本質である「礼」を説き、親に対して従順かつ敬虔な「忠孝の道」を踏み外さないようにと説いたのである。良くも悪くも、儒教とは、祖先崇拝から敷衍される先達(目上の親や人間)を、無条件に敬い従うことで秩序を維持しようとする教えである。  

 

孟武伯問孝、子曰、父母唯其疾之憂。
孟武伯、孝を問う。子曰く、父母には唯その疾(やまい)をこれ憂えよ。
(孟懿子の子である)孟武伯が、孝の道を尋ねられた。先生(孔子)はそれに答えておっしゃった。父母については、ただそのご病気のことだけを心配しなさい。  
子游問孝、子曰、今之孝者、是謂能養、至於犬馬、皆能有養、不敬何以別。
子游(しゆう)、孝を問う。子曰く、今の孝はこれ能く養うを謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うあり。敬せざれば何を以ってか別たん。
子游が孝の道を尋ねた。先生(孔子)はこうおっしゃった。今の孝行とは、父母を物質的に扶養できることを言う。人間は犬や馬に至るまで養うことが出来ている。(そうであるならば)父母を養うだけで尊敬する気持ちが欠けていれば、何を以って人間と動物を区別できるであろうか。
孔子の「孝の道」の本質が「物理的な扶養」だけでなく「精神的な尊敬」にあることを示した篇である。つまり、ただ単純に経済的な支援や扶養をするだけでは親孝行は不十分であり、心理的に人生の先達に対する敬意がなければ「忠孝」の徳は成り立たないということである。  
子夏問孝、子曰、色難、有事弟子服其労、有酒食先生饌、曾是以為孝乎。
子夏(しか)、孝を問う。子曰く、色難し(いろかたし)。事あれば弟子(ていし)その労に服し、酒食あれば先生に饌す(せんす)。曾ち是以って孝と為さんや。
子夏が孝について尋ねた。先生(孔子)はおっしゃった。自分の顔色(両親の顔色)が難しい。村落に仕事があれば、郷党の若者は骨身を削って労働に従い、お酒や食事を楽しむ宴会があれば、年上の先輩にご馳走を差し上げる。このような奉仕の精神をもって孝の道といえるだろう。
孝行を実践するに不可欠な「目上の人物への奉仕の精神」を説く文章であるが、「色難し」の部分の解釈はなかなか難しい。一つの解釈としては「自分の顔色に奉仕の気持ちを表すのは難しい」という解釈が成り立つが、別の解釈として「父母の顔色から要望を読み取るのが難しい」と考えることもできる。いずれにしても、奉仕をする側、あるいは奉仕をされる側の表情の機微について語った部分であると考えられ、親孝行をする際には実直な愛情や感謝を顔色に表したほうが良いということであろう。儒学の道徳観では、妬みやそねみ、ひがみといった「本当の気持ち」と「見せ掛けの気持ち」が分離した不誠実さを嫌う傾向があり、出来るだけ正直に率直に意志疎通をすることが好まれる。  
子曰、吾与回言終日、不違如愚、退而省其私、亦足以発、回也不愚。
子曰く、吾回と言る(かたる)こと終日、違わざること愚なるが如し。退きてその私を省れば(みれば)、亦(また)以って発らか(あきらか)にするに足れり。回は愚ならず。
先生がこうおっしゃった。顔回と一日中話していても、顔回は従順であり私の意見に対する異論や反論をすることがまったくない。まるで愚か者のようである。しかし、私の前から退いて一人くつろぐ顔回をよく見てみると、(私の道を実践する者として)思い当たらせるものがある。顔回は愚か者ではない。
顔回(顔淵)とは、孔子が最も深く愛し将来を嘱望した高弟であり、孔子の諸国遊説以前から孔子に師事していた人物である。顔回は、巧言令色を好まず議論で積極的に意見を述べることも殆どなかったが、寡黙な態度を保持しながら内面に徳の高さを感じさせる人物であったという。ここで「発らか(あきらか)」と書き下した部分は、「何かを感じ取らせる・思いつかせる」という意味であり、寡黙で言葉によって智謀を発揮しない顔回の「隠された徳」を、孔子が思いついた(洞察した)という意味に解釈することができる。顔回は孔子よりも早く41歳でこの世を去り、最愛の弟子に先立たれた孔子は深い悲しみに襲われることになった。  
子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉捜哉、人焉捜哉。(「捜」の正しい漢字は表記できないが、「てへん」の代わりに「まだれ」にしたものである)
子曰く、その以す所(なすところ)を視(み)、その由る所(よるところ)を観(み)、その安んずる所を察すれば、人焉んぞ捜さんや(かくさんや)、人焉んぞ捜さんや。
先生(孔子)がこうおっしゃった。その人の行動を見て、その人の行動の由来(原因)を観察し、その人の行動を支える信念(思想)を推察するならば、人間はどうやって自分の人柄を隠し通せるだろうか、人間はどうやって自分の人柄を隠し通せるだろうか。いや、隠しおおせることなどできないだろう。
人間の本質や人格を見極めるにはどうすれば良いのかを孔子が説いた篇であり、相手の行動・行動の原因・行動を支える信念を観察して推察すれば、どのような人間であっても自分の本性を隠しおおせることが出来ないというものである。  

 

子曰、温故而知新、可以為師矣。
子曰く、故きを温めて新しきを知る、以って師と為すべし。
先生(孔子)がこうおっしゃった。過去の古い事柄を再び考え、新しい事柄も知れば、他人を教える師となることができるだろう。
故事成語の「温故知新」の題材となった論語の文章であり、元々は、煮詰めて冷えたスープ(羹)を温めなおして美味しく飲むように、古い伝統的な知識や教養を考え直して、新しい事柄の理解に役立てよという話である。新しい事柄の意味を正確に知るためには、古典や伝統の正確な理解という基盤が欠かせないという意味でも使われる。古い事柄を再び味わって基礎を固めた後で、新しい事柄を改めて知れば、より奥行きのある実践的な教養知識が得られるということであるが、孔子の言いたいことの本質は、「過去の知識を単純に詰め込むだけでは、人を指導する師にはなれない」ということであったらしい。  
子曰、君子不器。
子曰く、君子は器ならず。
先生(孔子)がこうおっしゃった。君子は、(用途の限定された)器ではない
「君子は器ならず」は前段の「温故知新の師」とも関わっていて、政治を執行する君子というものは、単一の機能(役割・用途)に限定された「器(専門家)」であってはならず、幅広い視点(教養)と自由な発想を持って社会や情勢を見極められる人物(有徳のゼネラリスト)でなければならないということである。  
子貢問君子、子曰、先行其言、而後従之。
子貢、君子を問う。子曰く、先ず(まず)その言を行う、而して(しこうして)後(のち)これに従う。
子貢が君子について尋ねた。先生(孔子)は答えておっしゃった。まず言いたい事柄を実行し、その後で、自分の主張を述べる人こそ君子である
弁舌爽やかで弟子の中で最も議論に強かったと言われる子貢(しこう)に欠けている部分を、師である孔子がそれとなく優しく指摘した文章である。為政者である君子とはどういう人物なのかと問う子貢に対して、孔子は初めから知識に依拠した主張を行うのではなく、まず自分がその主張に見合った行動をしてから、その後で思想や理論の主張をしなさいと説いた。つまり、言葉だけで有能さを示す「弁舌の徒」では社会からの信用や支持が得られ難いので、自分自身が民衆に期待することを率先垂範して行い「有言実行」をすることが必要だというわけである。  
子曰、君子周而不比、小人比而不周。
子曰く、君子は周しみて(したしみて)比らず(おもねらず)、小人(しょうじん)は比りて周しまず。
先生(孔子)がこうおっしゃった。君子は、人々と広く親しむが、おもねらない(馴れ合わない)。徳のない小人は、馴れ合いはするが、広く親しむことがない。
有徳の君子の交友関係のあり方を孔子が述べたものだが、君子は幅広い人たちと真情から親しみ合うが、特定の人たちだけを優遇するような「なれあい」の交遊は好まないのである。君子は、利害関係に基づいた「おもねり(なれあい)」の交友関係を持たず、天下国家の利益(秩序)に貢献する忠義に基づいた「親愛の情」によって結びついている。反対に、徳がなく私心の強い小人は、お互いの利益を図るための交遊を求め、おもねりや媚びへつらいに満ちたものとされている。  
子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。
子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)。
先生がこうおっしゃった。物事を学ぶだけで自分で考えないとはっきりしない(本当の知識は身につかない)。自分で考えるだけで師から学ばなければ(独断・独善の弊害が生まれ)危険である。
孔子が考える「学ぶこと」の中心は、周代の政治や礼制、倫理の学習であり、基本的に「古代の先王の道」を学ぶことである。孔子が考える「思うこと」の中心は、自分の頭で自発的に考えることである。孔子は「師や書物からの経験的な学習=学ぶこと」と「自分自身の合理的な思索=思うこと」をバランスよく行い、それらを総合することで、正しく有用な知識教養が得られると考えたのである。  

 

子曰、攻乎異端、斯害也已矣。
子曰く、異端を攻むるは、これ害あるのみ。
先生(孔子)がこうおっしゃった。正統な先王(聖人)の道以外の異端の学問を修めることは、益なくしてただ害悪があるだけだ。
異端の解釈には二通り考えることができ、一つは口語訳に書いたように孔子が正統な学問であると考えた「周王の道(忠義と礼楽)」以外の「異端の学問」という意味である。もう一つは、織物の両端のことを「異端」とする解釈があり、同時に二つの異端から織物を巻き取れないように、同時に二つ以上の学問を学び取ろうと思っても中途半端に終わって上手くいかなくなると理解することもできる。学術研鑽を行う場合には、まず一つの専門分野に集中したほうが、学問を修めやすいという意味にも読める。  
子曰、由、誨女知之乎、知之為知之、不知為不知、是知也。
子曰く、由(ゆう)よ、汝に之を知ることを誨えんか(おしえんか)。これを知るをこれを知ると為し、これを知らざるを知らずとせよ、是れ(これ)知るなり。
先生(孔子)がこうおっしゃった。子路(由)よ、お前に知ることについて教えよう。自分が知っていることを知っていることとして、自分の知らないことは知らないこととしなさい。これが知るということである。
孔子は弟子の性格や興味、能力に合わせて指導を行った。勇猛果敢で直情径行の傾向があった子路(由)に対して孔子は、「その場の勢いに任せて、自分の知らない事柄についてまで知っている」と虚偽の放言をすることは好ましくないことを示唆した。「本当に知るということ」は、自分の知っていることについて相手に教えてあげ、自分の知らないことについては相手に教えを受けることなのである。  
子張学干禄、子曰、多聞闕疑、慎言其余、則寡尤、多見闕殆、慎行其余、則寡悔、言寡尤行寡悔、禄在其中矣。
子張、禄(ろく)を干むる(もとむる)を学ばんとす。子曰く、多く聞きて疑わしきを闕き(かき)、慎みてその余りを言えば、則ち尤(とがめ)寡なく(すくなく)、多く見て疑わしきを闕き、慎みてその余りを行えば、則ち悔い寡なし、言(こと)に尤(とがめ)寡なく、行(こう)に悔寡なければ禄はその中(うち)にあり。
子張が、俸禄(官吏の給料)を求める為の方法を学ぼうとした。先生(孔子)は答えておっしゃった。(就職先を)たくさん聞いて疑わしいものをやめ、残った自信のあるところを慎重に言葉少なく話していると、行動の過ちが少なくなる。たくさん(書物や勤め先を)見て曖昧なところはやめ、残ったところを慎重に行動すると後悔は少なくなるだろう。言葉に過ちが少なく、行動に後悔がなければ、禄は自然に得られるようになるものだ。
年少の弟子で勤め先(俸給)を探している子張の問いかけに対して、孔子が就職活動のあり方を簡潔に答えるものであり、結果としては、俸禄(官職)を得る為に特別な勉強や謀略は必要ないということになる。孔子は中央政府の官吏(役人)に採用されて俸給(給料)を得る為には、できるだけ多くの情報を収集して「疑いのない確実な勤め先」を選び、自分の言葉と行動を慎重に律することが大切だと説いた。つまり、言動を慎重にして郷里での評価・名声を高めると、官吏として郷里の住民からの推薦を受けやすくなるということである。それが、結果として就職の早道になると孔子は考えていたようである。  
哀公問曰、何為則民服、孔子対曰、挙直錯諸枉、則民服、挙枉錯諸直、則民不服。
哀公問いて曰く、何を為さば則ち民服せん。孔子対えて(こたえて)曰わく、直きを挙げて諸れ(これ)を枉れる(まがれる)に錯けば(おけば)則ち民服す。枉れる(まがれる)を挙げて諸れを直きに錯けば則ち民服ぜず。
魯の哀公が孔子に尋ねておっしゃった。どうすれば民衆が私の命令に服するだろうか。孔子がその問いに答えておっしゃった。まっすぐな正しい人を引き抜いて、曲がった人の上に置くならば、民衆は服従するでしょう。まがりくねった悪い人を引き抜いて、まっすぐな人の上に置くならば、民衆は服従しないことでしょう
晩年の孔子が、魯の君主である哀公に「国家統治の正しいあり方」を指南した篇であるが、孔子は徳があり民衆を愛することができる「まっすぐな人材」を上位の官職に就けることで、国家が安定すると考えていた。反対に、徳のない小人で民衆から搾取する「まがりくねった人材」を国家の上位の官職に就ければ、農民の反乱や民衆の反対が起こって国は乱れるに違いないと説いた。民衆の激しい反乱に苦慮する哀公の周囲には、民衆の苦境や怒りを和らげられる「まっすぐな家臣」が少なくなっており、そのことが国家動乱の根本的な原因になっていることを孔子は鋭く見抜いたと言われる。  
季康子問、使民敬忠以勧、如之何、子曰、臨之以荘則敬、孝慈則忠、挙善而教不能則勧。
季康子(きこうし)問う、民をして敬忠にして勧め(つとめ)しむるには如何せん(いかんせん)。子曰く、これに臨むに荘を以ってすれば則ち敬あらん、孝慈(こうじ)ならば則ち忠あらん。善きを挙げて不能を教うれば則ち勧めん(つとめん)。
季康子が尋ねられた。国民が主君に対して敬意を持ち、真心をもって忠実に奉仕するようにさせるには、どうすればよいのか。孔子は答えておっしゃった。この問題に対処するに、季康子さま自身が威厳をもって民に接すれば、自然に民衆はあなたに畏れかしこまるでしょう。ご自身が両親に孝行を尽くし、民衆に慈愛を持てば、民衆はあなたに忠実となるでしょう。善人を引き抜いて、能力のない人物を指導すれば、民衆は真面目に奉仕するようになるでしょう。  

 

或謂孔子曰、子奚不為政、子曰、書云、孝于惟孝、友于兄弟、施於有政、是亦為政也、奚其為為政。
或るひと、孔子に謂いて曰わく、子奚ぞ(なんぞ)政を為さざる。子曰わく、書に云う、孝なるかな惟れ(これ)孝、兄弟(けいてい)に友(ゆう)あり、有政に施すと。是れ亦た政を為すなり。奚ぞ其れ(それ)政を為すことを為さんや。
ある人が孔子に向かって言った。あなたはなぜ、政治に実際に携わらないのですか。先生(孔子)が答えておっしゃった。「書経」ではこう言っている。兄弟が仲良くあることは、これこそ孝行ではないか、この孝は国の政治にも良い影響を及ぼすと。兄弟が仲良くあることも政治であるとするならば、なぜ、わざわざ君主に仕えて直接政治を執り行う必要があるのか。いや、そんな必要などない。
「ある人」とされているのは、陽貨篇に登場する陽貨(陽虎)ではないかと言われているが、孔子は陽虎から粘り強く仕官の誘いを受けて、それに根負けして士官したという経緯を持っている。孔子は、官職に就かずに市井で徳を積み重ねて弟子を教導するだけでも、十分に政治に良い影響を与えることができるという考えに傾いていたが、この篇は、「在野で正しく生きること」の重要さを孔子が説いたものとされる。しかし、陽貨の執拗な官吏への誘いを断りきれなかった孔子の史実を覆い隠すために、弟子が創作したエピソードではないかという解釈もあるようである。  
子曰、人而無信、不知其可也、大車無軛、小車無軛、其何以行之哉。(大車無“軛”の正しい文字はくるまへんに「兒」であり、小車無“軛”の正しい文字はくるまへんに「兀」である。)
子曰く、人にして信なければ、その可なるを知らざるなり。大車軛(げい)なく、小車軛(げつ)なくんば、それ何を以ってかこれを行らんや(やらんや)。
先生(孔子)がこうおっしゃった。人として信義(信頼と誠実)がなければ、いったい何ができるのか分からない。大車(牛車)に軛(くびき)、小車(馬車)に軛(くびき)がなければ、どのようにして牛馬の首を押さえて車を動かすことができるだろうか。いや、きっと動かせないに違いない  
子張問、十世可知也、子曰、殷因於夏礼、所損益可知也、周因於殷礼、所損益可知也、其或継周者、雖百世亦可知也。
子張問う、十世知るべきか。子曰く、殷は夏の礼に因る(よる)、損益するところ知るべきなり。周は殷の礼に因る、損益するところ知るべきなり。それ或い(あるい)は周に継ぐものは、百世と雖も知るべきなり。
子張が尋ねた。十代先の王朝のことを知ることができるでしょうか?孔子はこうおっしゃった。古代の殷王朝はその前の夏王朝の諸制度を受け継いだ。殷が夏の制度のどこを廃止してどこを付け加えたのかが、(今まで勉強してきたお前には)分かるはずである。周王朝はその前の殷王朝の諸制度を受け継いだ。周が殷の制度のどこを廃止してどこを付け加えたのかが分かるはずである。これを元にすると、周王朝を継承する百代先の王朝といえども知ることができる
過去の王朝から現在の時代にまで至る礼(制度)を専門的に学んできた子張に、孔子が「伝統主義的な歴史観」について語った部分である。過去の制度や礼楽、思想、習慣を受け継いだ結果としてしか、現在の政治体制と社会慣習をとらえることはできないとする孔子の基本的な歴史観(政治観)がよく表現されている。遥か古代の中国には、黄帝を祖として尭・舜・禹という伝説の聖王がいたとされるが、夏(か)とは治水に功績のあった伝説の聖人君子・禹(う)が建国したとされる王朝である。夏の実在は考古学的に証明されたわけではないが、殷(商)以降の王朝の歴史は史実とされている。孔子は、殷(商)の暴君・紂(ちゅう)を廃した武王が建国した「周」の礼制を最も理想的な政治制度と考えていた。  
子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不為、無勇也。
子曰わく、其の鬼(き)に非ずしてこれを祭るは、諂い(へつらい)なり。義を見て為ざる(せざる)は勇なきなり。
先生(孔子)がおっしゃった。自分の祖先(家)として祭るべきでない神(精霊)を祭るのは、へつらい(卑屈)である。人間として行うべきことを前にしながら、行わないのは臆病ものである(勇気がないことである)。
 
八佾(はちいつ)篇

 

孔子謂季氏、八佾舞於庭、是可忍也、孰不可忍也。
孔子季氏(きし)を謂わく(のたまわく)、八佾を庭(てい)に舞わしむ。是をしも忍ぶべくんば、敦れ(いずれ)をか忍ぶべからざらん。
孔子が季氏のことをこう言われた。八列六十四人を家の廟の庭で舞わせたという。これをさえ忍べるとすると、天下に忍べないことなど何もないではないか。
季氏とは、魯(ろ)の家老の家柄・季孫氏のことであり、具体的には五代当主の季平子のことを指す。魯の政治は、孟孫・叔孫・季孫の三家老に専横されて、魯の君主である昭公は政権を取り戻そうとして失敗し、紀元前517年に斉に亡命することになる。八佾の「佾」とは、一列八人で八列に並んだ六十四人の舞人(舞士)の列のことであり、国家を統治する正統な天子(君主)だけが八佾の舞踏の儀礼を司ることができた。
孔子の祖国・魯において、絶大な政治権力を恣(ほしいまま)にした三孫氏(孟孫・叔孫・季孫)は、君主である昭公を国外に追放して「八佾の儀礼」を自分の祖霊を祭る庭で執り行ったので、礼節と忠義の徳を重視する孔子が激怒したのである。三家老が執り行った八佾の儀式は君臣の道(忠節)に外れており、これを我慢して忍べるのであれば他に忍べないことなど何もないではないかと孔子は憤慨したのである。  
三家者以雍徹、子曰、相維辟公、天子穆穆、奚取於三家之堂。
三家者(さんかしゃ)、雍(よう)を以て徹す。子曰く、相くる(たすくる)は維れ(これ)辟公(へきこう)、天子穆穆(ぼくぼく)たりと。奚ぞ(なんぞ)三家の堂に取らん。
孟孫・叔孫・季孫の三家老は、雍の楽に合わせて祭りを執り行った。先生がおっしゃった。「その雍の歌の文句に、祭助けまいらす諸侯、天の下おわします天子の気色うるわしくという文句がある。どうして(王位を簒奪した)三家老の堂に用いることができようか」
魯の三孫氏(三家老)は君主である昭公を追放して、自分たちが国政の権力を握っているが、三家老は詩経の周頌(しゅうしょう)の雍の楽を歌いながら祖霊を祭っている。しかし、周頌の雍という楽では、天命によって国家を統治する天子の祭が歌われ、天子に付き従う忠実な諸侯の様子が示されている。三家老は自分たちが天子(君主)を追い落とした賊臣でありながら、よくも平然として詩経の周頌などを演奏させられるものだという、統治の正統性にこだわる孔子の憤慨を示している。  
子曰、人而不仁、如礼何、人而不仁、如楽何。
子曰く(いわく)、人にして仁ならずんば、礼を如何せん(いかんせん)。人にして仁ならずんば、楽(がく)を如何せん。
先生(孔子)がこうおっしゃった。人として思いやり(仁)のないものが、礼を習得してどうなるのだろう(いや、何にもならない)。人として思いやり(仁)のないものが、楽を歌って何になるのだろう(いや、何にもならない)。
孔子にとって最大の徳は飽くまで「仁」であり、仁とは、他者に対する人間としての情愛、家族に対して湧くような自然な思いやりのことである。他者を大切にして思いやるという「仁」に欠けたものが、幾ら形式的な礼節を学んでも何にもならないし、儀礼に必要な楽(歌)を上達させても何にもならないのである。徳治政治に必要不可欠な「礼楽の道」というのは、親愛の情を寄せる他者に対して、秩序や礼儀を効率良く伝える為の方法に過ぎず、他者を大切にする「仁」のない者がいくら見せかけだけの礼楽を習得しても無意味ということである。  
林放問礼之本、子曰、大哉問、礼与其奢也寧倹、喪与其易也寧戚。
林放(りんぽう)、礼の本(もと)を問う。子曰く、大なるかな問いや。礼は其の奢らん(おごらん)よりは寧ろ(むしろ)倹やか(つつましやか)にせよ。喪は其の易か(おろそか)ならんよりは寧ろ戚ましく(いたましく)せよ。
林放が礼の根本を問うた。先生が言われた。その問いは大きなものである。礼は物事を贅沢にして驕るのではなく、質素にして倹約せよ。喪(葬式)は滞りなく淡々と行うのではなく、(多少整っていない部分があっても)哀悼の感情を捧げるようにせよ。
孔子が魯人の林放に礼の根本について語ったものである。礼の本質は、華美や贅沢ではなく慎ましやかな謙譲と倹約にあり、葬式(喪)の本質は、準備万端整えたスムーズな葬式にあるのではなく、故人を静かに忍び本心からの悲哀の念を捧げることにあるとした。  
子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。
子曰く、夷狄(いてき)の君あるは、諸夏(しょか)の亡きにも如かざる(しかざる)なり。
先生が言われた。(中国の外部にある)夷狄の蛮族が君主を戴いても、君主のいない夏(か)のような中国(先進的な文明国)には遠く及ばない。
中国の伝統的な世界観である「華夷秩序」を典型的に表現した文章である。古代の中国では、漢民族(中国人)の国々を文明の中心地を意味する「中華」と称し、文化や技術の遅れた周辺の諸国(蛮族の国)を「北狄・東夷・西戎・南蛮」と称して差別意識を持っていた。古代のギリシア人も、自分たちをギリシア神話に登場するオリンポスの神々の子孫である「ヘレネス」と称し、周辺の後進国を「バルバロイ(意味不明の言語を話す民族=野蛮人)」と別称していた。
中国最古の王朝「夏」の子孫を自認する古代の中国人もそういった民族的な優越感(矜持)を強く持っていたのである。諸夏の「夏」とは、伝説の聖王・禹(う)が建設した夏王朝のことであり、諸夏とは夏を継ぐ中国の王朝といった意味で、中国の漢民族の国々のことを指している。  

 

季氏旅於泰山、子謂冉有曰、女不能救与、対曰、不能、子曰、嗚呼、曾謂泰山不如林放乎。
季氏、泰山(たいざん)に旅す(りょす)。子、冉有(ぜんゆう)に謂いて曰く、汝救うこと能わざるか(あたわざるか)。対えて(こたえて)曰く、能わず(あたわず)。子曰く、嗚呼(ああ)、曾ち(すなわち)泰山を林放(りんぽう)にすら如かずと謂えるか(おもえるか)。
季氏が泰山で、大きな祭儀を執り行った。先生が冉有を招いておっしゃった。お前はその大祭を止めることが出来なかったのか。冉有はそれに答えて言った。出来ませんでした先生は言われた。ああ、何と言うことだ。泰山の神々の祭礼への思いが、先日私に礼について問うた林放にも及ばないと思っているのか。
西周時代における中国一の名峰が泰山であり、周王朝の天子は諸侯を集めた泰山において「旅」と呼ばれる大祭を執り行い、自分が天下の正統な君主であることを示したという。そういった天子にしか許されていない大切な儀礼を、季氏(七代目当主の季康子)が不遜にも泰山で行ったので、それを黙ってみていた弟子の冉有に「なぜ、そういった礼楽に背く行いを止めなかったのだ」と孔子が慨嘆している文章である。
孔子は前段で登場した(正式な弟子でもない)林放でさえ、礼について一定の理解を示しているのに、林放よりも礼に詳しくて当たり前の(正式な弟子である)冉有が季氏の泰山の「旅(祭儀)」を止めなかったことに対して嘆いているのである。  
子曰、君子無所争、必也射乎、揖譲而升下、而飲、其争也君子。
子曰く、君子は争うところなし。必ずや射るか。揖譲(ゆうじょう)して升り(のぼり)下り(くだり)、而して(しこうして)飲ましむ。その争いは君子なり。
先生が言われた。君子は何事においても争うことがない。例外として弓術の競争(射礼)がある。(射礼の際に)堂上に上って主君に挨拶し、堂上から降りて弓を射るが、その時には、お互いに会釈して譲り合う。(射礼の競技が終われば勝者に)酒を飲ませる。その弓争いの様子は君子である。
貴族として国家を治める君子(士大夫)は、一切の争いごとを好まないものだが、唯一の例外として弓の競技(射礼)があるという。君子が射礼に臨む場合には、招待して下さった主人に挨拶する為に堂上に升り(のぼり)、それから弓を射る為に堂上を降りるというが、その際に君子は、両手を前に組み合わせて丁寧にお辞儀をする「揖譲(ゆうじょう)」をしなければならないと孔子は言う。現代的に言えば、スポーツ競技に臨む場合の正々堂々としたスポーツマンシップや勝負の敗者への労わりを見せるジェントルマンな振る舞いを意味しているといえる。  
子夏問曰、巧笑倩兮、美目盻兮、素以為絢兮、何謂也、子曰、絵事後乎、子曰、起予者商也、始可与言詩已矣。
子夏問うて曰く、巧笑倩(こうしょうせん)たり、美目盻(ハン)たり、素(そ)以て絢(あや)と為す。何の謂い(いい)ぞや。子曰く、絵の事は素き(しろき)を後(のち)にす。曰く、礼は後なるか。子曰く、予(われ)を起こす者は商なり。始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。盻(ハン)の正しい漢字は、目偏に「分」の字である。
子夏が尋ねた。笑窪(えくぼ)あらわに、可愛い口元。白目にくっきりとした美しい黒い瞳。白さに対して際立つ彩りの絢(あや)。という詩は何を意味しているのでしょうか?先生が言われた。絵を書く時に、胡粉を後で加えるということだ子夏が言った。(仁が先にあり)礼が最後の仕上げになるのですか?先生が言われた。私を啓蒙して気づかせてくれるのは子夏(商)である。これでようやくお前と一緒に詩を談ずることが出来るな。
子夏が孔子に対して、「巧笑倩兮、美目盻兮、素以為絢兮」という詩経にある衛風の碩人篇中の句について質問した文章である。孔子はこの詩経の詩の解説を通して、子夏に他者に対する思いやりとしての「仁」がまず先にあり、最後に徳の完成として「礼」があることを気づかせたのである。  
子曰、夏礼吾能言之、杞不足徴也、殷礼吾能言之、宋不足徴也、文献不足故也、足則吾能徴之矣。
子曰く、夏礼(かれい)は吾(われ)能く(よく)これを言えども、杞(き)は徴(しるし)とするに足らざるなり。殷礼(いんれい)は吾能くこれを言えども、宋は徴とするに足らざるなり。文献、足らざるが故なり。足らば則ち(すなわち)吾能くこれを徴とせん。
先生がこうおっしゃった。夏王朝の礼制(制度)を私は十分に説明することができるが、夏王朝の子孫である杞の国には(自説を証明するための)夏の礼制の証拠が足りない。殷王朝の礼制を私は十分に説明することができるが、殷王朝の子孫である宋の国には(自説を証明するための)殷の礼制の証拠が足りない。何故なら、杞の国と宋の国には(過去の制度を知る為の)史料文献と博学な賢人が残っていないからである。それらが十分であれば、私の礼制にまつわる自説の証拠とできるのだが。
現在の河南省にある「杞」とは、夏王朝の諸侯が封ぜられた国で、「宋」とは、殷王朝の諸侯が封ぜられた国である。「徴(しるし)」は「徴す(なす)」と書き下す場合もあるが、孔子の礼にまつわる自説を実証する「根拠・証拠」といった意味である。「文献」は現代では一つの単語であるが、古代中国では「文」は木簡や竹簡に書かれた史料文献を意味し、「献」はその土地に住む古老など物知りな賢者のことを意味していた。  
子曰、蹄自既灌而往者、吾不欲観之矣。(「蹄」の正しい漢字は表記できないが、正しくは「しめすへん」に「帝」である)
子曰く、蹄(てい)、既に灌(かん)してより往(のち)は、吾これを観るを欲せざるなり。
先生(孔子)がこうおっしゃった。「蹄(てい)」という祖霊を祀る国の大祭で、祖霊に捧げる神酒(みき)を地面に注いでから後は、私はそれ以上の儀礼を見ようとはしなかった。
孔子が魯国の士大夫として仕えていた時、国の大祭である「蹄(てい)」が六代の文公によって行われた。文公は、自分の父親である五代・僖公を四代のビン公よりも高い地位に立てる為に、「蹄(てい)」の礼法に背いて不正に、僖公の祭りの順番をビン公より前にし位牌(木主)の配置も入れ替えたのである。これを見た孔子は、古代から連綿と続く礼法を無視して、都合のよい祭祀を行った文公に憤慨したが、家臣の分を守ってお神酒を注いで以降の儀式を見ないようにしたのである。  

 

或問蹄之説、子曰、不知也、知其説者之於天下也、其如示諸斯乎、指其掌。(「蹄」の正しい漢字は表記できないが、正しくは「しめすへん」に「帝」である)
或るひと蹄(テイ)の説を問う。子曰く、知らざるなり。其の説を知る者の天下に於ける(おける)や、其れ諸れ(これ)を斯(ここ)に示る(みる)が如きかと。其の掌(たなごころ)を指せり。
ある人が蹄(テイ)の祭祀について尋ねた。先生は言われた。テイの祭祀については知りません。テイについて理解している者であれば、天下のことについても、それ、ちょうどこれを見るようなものでしょう。その掌(てのひら)を指さした。
前段で、孔子は魯国で執り行われた不正なテイの大祭について不満を持っていることが分かったが、孔子は魯国の卿として仕えていたから公式に文公が主宰したテイの大祭が間違っていたと批判することは出来ない。そこで、孔子はある人(ある為政者)からテイについて問われると、「祖霊をお祭りするテイについて正確に理解しているならば、それは天下国家が掌中にあるも同然である」と機知の効いた回答を返したのである。  
祭如在、祭神如神在、子曰、吾不与祭、如不祭。
祭るに在す(います)が如くし、神を祭るに神在すが如くす。子曰く、吾祭に与ら(あずから)ざれば、祭らざるが如し。
先祖の祭礼には先祖が正にそこに居られるようにし、神々の祭儀には神々が正にそこに居られるようにする。先生は言われた。私は祭礼に実際に参加(臨席)していないと、祭礼をしなかったような感じがする。
古代中国の儒教は、秩序を維持する道徳規範であると同時に、祖先崇拝のアニミズム的な宗教としての側面を持っていた。自分と血縁のある祖先は死ぬと「鬼」になって祭儀の場に戻ってくるが、自分と直接の血縁関係や親類関係にない先人は「神」になって祭儀の場に降臨する。畏敬すべき鬼神を真心からお祭りする為には、その祭礼の場に祖先や先人が本当にやってきているかのような敬虔な気持ちでお祭りして祈る必要がある。  
王孫賈問曰、与其媚於奥、寧媚於竈、何謂、子曰、不然、獲罪於天、無所祷也。
王孫賈(おうそんか)問うて曰く、其の奥(おう)に媚びんよりは、寧ろ(むしろ)竈(そう)に媚びよとは、何の謂(いい)ぞや。子曰く、然らず。罪を天に獲れば(うれば)、祷る(いのる)所なきなり。
王孫賈が尋ねて言った。部屋の奥の神の機嫌を取るより、竈(かまど)の神の機嫌を取れという諺(ことわざ)は何を意味しているのでしょうか?先生は言われた。そうではない。至高の天に対して罪を犯したならば、何処にも祈る場所などはないのです。
衛の霊公の大臣であった王孫賈は実力で霊公を圧倒して、事実上、衛の政権を掌握していた。孔子は衛に亡命したのだが、その時に実力者の王孫賈を無視して、正統な君主である霊公に丁重な挨拶をしにいった。これに憤慨した王孫賈は、部屋の奥の神の機嫌を取るより、竈(かまど)の神の機嫌を取れという諺(ことわざ)を引いて、名目上の君主である霊公ではなく実質上の君主である王孫賈(自分)に断りを入れるほうが孔子の利益になることを説こうとした。しかし、周の礼制を尊ぶ孔子はその不正な申し出を断り、至高の天(正統な身分秩序)に逆らえば、誰に祈っても全ては無意味なことであると説いたのである。天命思想や王政復古を前提とする儒教では、家臣が君主の身分を実力で簒奪する下克上(謀反・反乱)を極めて厳しく非難する。  
子曰、周監於二代、郁郁乎文哉、吾従周。
子曰く、周は二代に監み(かんがみ)、郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな、吾は周に従わん。
先生(孔子)がこうおっしゃった。周の礼制は夏・殷の二代を模範とし、咲き誇り良い香りのする花の如く美しいものである。私は周の礼制(伝統)に従おう。
孔子が、最高に優れた文化と儀礼を持った時代と考えていたのは「周王朝(魯の先祖が建国した国)」の時代である。特に孔子が尊敬していたのは、殷周革命を実現した武王に仕え、武王の子・成王に大政奉還した周公旦(しゅうこうたん)であったと言われる。何故なら、太公望呂尚と共に武王を補佐した周公旦は、周の政権を取ろうと思えば取れた立場にありながら、その実権を自ら進んで主君である成王に返還(大政奉還)したからである。下克上が相次ぐ混乱した春秋時代に、孔子が目指した理想の政治は、突き詰めれば、伝統的な「周礼」に還ることであり、正統な君主に政権を返す「王政復古」の実現であった。周礼に還る政治とは、人民の礼節と為政者の徳性によって国家を治める徳治政治へとつながる。  
子入大廟、毎事問、或曰、孰謂聚人之知礼乎、入大廟、毎事問、子聞之曰、是礼也。(「聚(スウ)」の正しい漢字は、「聚」の右に「おおざと」を書いたものである。)
子(し)大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰か(たれか)スウ人の子(こ)を礼を知ると謂うや、大廟に入りて、事ごとに問えり。子これを聞きて曰く、是れ礼なり。
(魯の役人時代に)先生は大廟に入って儀礼を一つ一つ尋ねられた。ある人が言った。「誰が、スウの田舎から出てきた役人(孔子)が礼を知っているなどと言ったのだ?あいつは、大廟の中で儀礼について一つ一つ尋ねているぞ。(あいつは何も礼について知らないではないか。)」先生はそれを聞いておっしゃられた。「それ(前任者に一つ一つ丁重に質問をすること)が礼なのだよ。」
古代の礼制について詳しいという評判のあった孔子が、魯で役人として勤めていた時代に、あいつは、前任者に大廟の儀礼や作法について事々に細かく質問しているじゃないか。礼について詳しいというが何も知らないじゃないか。と揶揄され軽侮されたことがあった。その噂について孔子は、礼節とは、知らないことを知っていると言って優越感に浸ることではなく、前任者(その道の先達)に敬意を払って、丁重に教えを乞う謙虚さこそが礼の道だと語ったのである。相手を見下す傲慢不遜な態度や知的優越感に浸る姿勢こそが、もっとも礼から遠い振る舞いであることを示した印象的なやり取りである。  

 

子曰、射不主皮、為力不同科、古之道也。
子曰く、射(しゃ)は皮(まと)を主とせず。力の科(しな)を同じくせざるが為(ため)なり。古(いにしえ)の道なり。
先生(孔子)がこうおっしゃった。射礼(弓道)は、皮の的を射抜くことを第一としない。射る人の生来の能力には等級があり同じではないからだ。これが古代の聖王の実践した道(やり方)である。
「射不主皮、為力不同科」とは古代から連綿と語り継がれてきた弓道の本質を語る言葉であり、孔子はこの弓道の精神を礼に適う素晴らしいものだと評価していた。つまり、人間には生まれながらに膂力や視力の差があるのだから、弓道の良し悪しは射抜いた的の数ではなく、弓を構えて射撃する態度や振る舞いで決まるという古代から続く聖王の礼制を賞賛した文章である。  
子貢欲去告朔之餽羊、子曰、賜也、汝愛其羊、我愛其礼。(餽(き)の正しい漢字は、「食」の偏に「気」である。)
子貢(しこう)、告朔(こくさく)の餽羊(きよう)を去らんと欲す。子曰く、賜(し)よ、汝(なんじ)は其の羊を愛しむ(おしむ)も、我は其の礼を愛しむ(おしむ)。
子貢が、生きた羊を宗廟へ犠牲として捧げる毎月一日(朔日)の魯の儀式を、(貴重な食糧の羊がもったいないということで)廃止しようとしたことがある。先生は言われた。子貢よ、お前は犠牲に捧げる羊が惜しいのだろうが、私は羊を惜しんで失われる礼のほうが惜しいと思う。
魯の財政政策に辣腕を振るった議論第一の子貢は、魯の宗廟へ一日が来たことを知らせる為に捧げる「生きた羊」がもったいないと思い、財政緊縮のために羊を犠牲にする儀礼を廃止しようとした。現実主義者である子貢にとって、食べるわけでもないのに羊を無意味に殺すことは無駄以外の何ものでもなかったが、過去から続く伝統を大切にする保守主義者の孔子は、儀式の安易な廃止に異論を唱え「過去の儀礼(祖先への畏敬)を守る」ことが礼の現れであると語った。
子曰、事君尽礼、人以為諂也。
子曰く、君に事えて(つかえて)礼を尽くせば、人以て諂えり(へつらえり)と為す。
先生が言われた。君主に仕えるに当たって礼の義務を尽くせば、人はそれを君主のご機嫌取り(へつらい)だという。
主君を蔑ろにして政権を専横していた魯の三家老(孟孫・叔孫・季孫)を孔子は嫌い、正統な主君である定公に礼を尽くしてお仕えした。しかし、実力者である三家老に肩入れしている人の多い魯では、孔子は「君主のご機嫌を取って出世を狙っている人物」と見なされることもあった。孔子の礼や忠の中心は、「君臣の義を明らかにすること」にあるといっても過言ではない。  
定公問、君使臣、臣事君、如之何、孔子対曰、君使臣以礼、臣事君以忠。
定公問う、君、臣を使い、臣、君に事うる(つかうる)にこれを如何(いかん)。孔子対えて(こたえて)曰く、君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす。
魯の定公が尋ねられた。君主が家臣を使い、家臣が君主に仕えるにはどのような心がけを持てばいいだろうか?孔子は答えて申し上げた。君主が家臣を使うには礼節をもって臨み、家臣が君主に仕えるには忠実なまごころをもって臨むことです。
孔子が昭公の後を継いだ魯の定公に仕えた時に、定公が凋落した君主の権威と家臣の誠実を取り戻すためにはどうしたら良いかを孔子に尋ねた文章である。「君臣の別」を明確にすることを大切にする孔子は、君主が家臣に対する場合には「礼の伝統」に依拠し、家臣が君主に対する場合には「忠のまごころ(誠実)」を発揮すべきだと回答した。
子曰、關雎、樂而不淫、哀而不傷。
子曰く、關雎(かんしょ)は楽しみて淫せず(いんせず)、哀しみて傷らず(やぶらず)。
先生が言われた。關雎(かんしょ)の詩は、楽しみながらも過度に楽しみ過ぎず、悲しみながらも過度に心身を痛めることもない。
孔子は、礼節と音楽が社会秩序の維持に必要不可欠だと考えたように、詩経に出てくる詩を音楽として楽しんだようである。詩経の「国風」にある「關雎」という歌は、歓喜と悲哀の調和がとれていて、感情の抑制(節度)が適切で絶妙であると評価している。  

 

哀公問社於宰我、宰我対曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰使民戦栗也、子聞之曰、成事不説、遂事不説、既徃不咎。
哀公、社を宰我(さいが)に問う。宰我、対えて曰く、夏后(かこう)氏は松を以てし、殷人(いんひと)は柏(はく)を以てし、周人(しゅうひと)は栗(りつ)を以てす。曰く、民をして戦栗(せんりつ)せしむるなり。子これを聞きて曰く、成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は諌めず、既往(すぎたる)は咎めず。
哀公が(樹木を神体として祭る)社のことを宰我にお尋ねになった。宰我はお答えして言った。「夏の主君は松を使い、殷の人は柏(ひのき)を用い、周の人は栗を使っています。栗を用いるのには、(栗の神木の下で行われる死刑・刑罰によって)民衆を戦慄させようという意味があります。」先生はそれを聞いておっしゃった。「既に終わったことについて論じてはならない、既に為してしまったことについて諌めてもいけない。過ぎ去った事柄の責任を追及すべきではない。」
魯国には、君主や貴族の祖霊を祭る周社と、一般庶民の祖霊を祭る殷社(亳社・はくしゃ)とがあったが、社には樹木が神体として置かれ「神木」とされていた。神木の下では民衆の裁判と刑罰が行われたので、周の時代の「栗の木」というのは、神聖な場所を示すと同時に恐怖の場所を示す目印でもあった。孔子の門人であった宰我(さいが)は、周社の威令を掲げて三家老を完全に追放する英断(王政復古のクーデター)を哀公に迫ったという解釈があるが、孔子は暴力的なクーデターによって王政復古を実現してもその政権は安定しないだろうと考え、宰我の性急な諫言を牽制したとされる。
子曰、管仲之器小哉、或曰、管仲倹乎、曰、管氏有三帰、官事不摂、焉得倹乎、曰、然則管仲知礼乎、曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門、邦君為両君之好、有反貼(てん)、管氏亦有反貼(てん)、管氏而知礼、孰不知礼。
子曰く、管仲(かんちゅう)の器(うつわ)小なるかな。或るひと曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏に三帰あり、官事摂ねず(かねず)、焉んぞ(いずくんぞ)倹なるを得ん。曰く、然らば則ち管仲は礼を知れるか。曰く、邦君(ほうくん)は樹(じゅ)して門を塞ぐ(ふさぐ)、管氏も亦た(また)樹して門を塞げり。邦君、両君の好(よしみ)を為すに反貼(はんてん)あり、管氏も亦た反貼あり。管氏にして礼を知らば、孰か(たれか)礼を知らざらん。
先生が言われた。「(天下の名宰相と言われる)管仲の器量は小さいね。」ある人が尋ねた。「管仲は倹約だったのですか?」先生は言われた。「管氏には三つの邸宅(三人の夫人)があり、官(政府)の仕事も多くの役人を雇って兼務させずに(それぞれの仕事を)専任させていた。どうして倹約といえようか(いや、いえない。)」ある人が尋ねた。「それでは、管仲は、礼を知っていたのですか。」先生は答えられた。「国君は、目隠しの塀を立てて門の正面をふさぐのが礼ですが、管氏も(家臣の身分でありながら)やはり塀を立てて門の目隠しをしました。国君が二人で修好する時には、献酬の盃を置く特別な台を設けるが、管氏も(家臣の身分でありながら)やはり盃を置く特別な台を設けていました。管氏にして礼を知っているとするならば、誰が礼をわきまえていないというのでしょうか(いや、誰もが礼をわきまえていることになってしまいます。)」
管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)の故事成語で知られる斉の名宰相であった管仲だが、孔子は管仲が「家臣としての分をわきまえず、君主・諸侯と同等の権限を振るった」という理由で管仲の器量が小さいと苦言している。才気煥発な管仲は、斉の桓公(紀元前685-643頃)を補佐して、桓公を春秋の覇者にした忠臣であるが、孔子は管仲が臣下の身でありながら諸侯だけが持つ特権を侵していたという意味で、管仲は礼の何たるかをまるで理解していなかったと批判しているのである。諸侯の特権とは、「三国から夫人・夫人の妹・夫人の姪をめとることができ、合計9人の妻(正妻と側室)を持つことが出来ること」「門の中央に目隠しのための塀を立てることが出来ること」「他の諸侯(国君)と酒を酌み交わす場合に、特別な台を置けること」である。斉の覇権確立に対する功績(貢献)が余りに大きい管仲は、特例として、家臣の身分でありながらこれらの特権を許され、その特権を行使していたのである。  
子語魯大師楽曰、楽其可知已、始作翕如也、従之純如也、激如也、繹如也、以成。
子、魯の大師に楽を語りて曰く、楽は其れ知るべきなり。始めて作す(おこす)に翕如(きゅうじょ)たり。これを従(はな)ちて純如(じゅんじょ)たり、激如(きょうじょ)たり、繹如(えきじょ)たり、以て成わる(おわる)。(「激」の正しい漢字は、「さんずい」の部分が「白」である。)
先生が、魯の音楽団の楽長に音楽について語られた。「音楽の仕組みは知っています。音楽の最初は、金属の打楽器である鐘が盛大に鳴り響きます。その鐘の音を放って後に、(色々な管弦楽器の)合奏が静かに調和を保って流れます。更に管弦楽器のそれぞれの音が独奏ではっきりと聞こえ、最後に心地よい余韻を長く残しながら終わるのですね。」
社会秩序や民心の安定に役立つものとして、礼節を伴う音楽をこよなく愛した孔子が、魯の音楽団の楽長に対して音楽を語った部分である。「翕如(きゅうじょ)」とは、勢いよく盛大に鐘のような打楽器が鳴り響く様子である。「純如(じゅんじょ)」とは、管弦楽の色々な楽器が、静かに調和を保って鳴り響く様子である。「激如(きょうじょ)」とは、管弦楽のそれぞれの楽器が独奏のようにはっきり聞こえる様子である。「繹如(えきじょ)」とは、長い余韻を残しながら音楽が流れている情緒的な状況である。
儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也、従者見之、出曰、二三子何患者於喪乎、天下之無道也久矣、天将以夫子為木鐸。
儀の封人(ふうじん)、見えん(まみえん)ことを請いて曰く、君子の斯(ここ)に至れるもの、吾(われ)未だ嘗て(かつて)見ることを得ずんばあらずと。従者これを見えしむ。出でて曰く、二三子、何ぞ喪する(そうする)ことを患えん(うれえん)や。天下の道なきこと久し。天は将に夫子(ふうし)を以て木鐸(ぼくたく)と為さんとす。
衛の儀の国境役人が(孔子に)面会したいと願って言った。「ここを通過した人で立派な君子である人と、私はまだお会いしたことがないのです。」そこで、孔子の従者が、国境役人を孔子と会わせてあげた。孔子の元を退出してから国境役人は言った。「諸君、亡命して流浪しているからといって、どうして心配することがあるだろうか(いや、心配する必要などない。)天下に道義が行われなくなって久しい。天(天上の神)は、今にもあの先生(孔子)を、天下に正しい道義を打ち立てるように諸侯にふれ回る木鐸にしようとしているのだから。」
「封人」とは国境線の防衛に当たっている役人のことであり、忠恕と礼節を備えた真の君主である孔子に見えた(まみえた)国境役人の感動と興奮を表した部分である。国境役人は故郷の魯を追われて亡命している孔子の弟子たちを励ますように、孔子の稀有な才能と天下を支える人徳について賞賛する。故国を失ったことは悲しむべきことだが、天下の逸材である先生(孔子)に従っている以上、あなた達は何も心配することなどないという訳である。「木鐸」とは、現代でもマスメディアの良心と賢慮に期待して「社会の木鐸」という言い方があるが、古代中国では政府が民衆に何かを周知するときに鳴らした「木の鈴」のことを木鐸と言っていた。政治の先行きや社会の問題を客観的に見通すことの出来る知識人や文化人を指して、「社会の木鐸」ということもあるが、情報革命(IT普及)の進展によって、マスメディアや知識人への素朴な信頼が崩れかけており、社会の木鐸として完全に信用できる権威は成り立たない状況にある。  
子謂韶、尽美矣、又尽善也、謂武、尽美矣、未尽善也。
子、韶(しょう)を謂わく(のたまわく)、美を尽くし、又た善を尽くせり。武を謂わく、美を尽せり、未だ善を尽くさず。
先生が、伝説の聖王舜(しゅん)の制作した楽曲である韶(しょう)を評して言われた。美しさが完全であり、また、善さ(道徳性)においても完全である。更に、周の武王が作った楽曲である武を評して言われた。美しさは完全であるが、まだ善(道徳性)において完全とはいえない。
古代の聖王の系譜は、尭・舜・禹と続いていくが、舜は尭と戦火を交えることなく禅譲によって帝位を譲られたので、舜の作った韶(しょう)の音楽は「善と美」が完全に調和している。一方、周の武王は殷周革命で武力を用いて、殷(商)の紂王を放伐して帝位を奪取したので、武王の作った武の音楽は「美的」ではあるが、「道義における正しさ(善)」において舜の音楽に劣っているのである。
子曰、居上不寛、為礼不敬、臨喪不哀、吾何以観之哉。
子曰く、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為して敬まず(つつしまず)、喪に臨みて哀しまずんば、吾何を以てかこれを観んや。
先生が、言われた。高位高官にありながら、寛容の徳を持たず、礼制の実践をして敬虔な気持ちがなく、葬式に臨席して悲しまないのであれば、どのようにしてその人を評価すればよいのだろうか(いや、どこにも見るべきところなどない。)
人臣の位を極めて栄耀栄華をほしいままにしている人たちが、人民に対する寛容の精神を持たず、まごころからの思いを込めずに形式だけの礼を実践し、葬式に赴いても哀悼の感情を表現しない現状を孔子が嘆いている部分である。大きな権力や裁量を持てば持つほど、人は謙虚に寛容に振る舞い、自分の政治に従っている民衆の幸福を願って行動しなければならないという儒教の徳治の理想がよく表れている。  
 
里仁(りじん)篇

 

子曰、里仁為美、択不処仁、焉得知。
子曰く(いわく)、仁に里る(おる)を美し(よし)と為す。択びて(えらびて)仁に処らず(おらず)、焉んぞ(いずくんぞ)知たるを得ん。
先生(孔子)が言われた。仁の徳から離れずに居ることは立派なことである。あれこれと選んで仁の徳を離れれば、どうして智者と言えるだろうか?(いや、言えない)。
儒教の究極的な目的は、仁の徳を体得してそこを離れずに住み着くことであり、仁の徳を他の悪事から主体的に選び出して仁を実践することである。真の智者とは、学問を修得してさまざまな知識や理論を蓄えた者ではなく、仁の徳を選び取ってそこから離れない者のことを言う。春秋戦国時代の儒家の代表的人物である荀子は、「里仁為美」の部分の「仁」を観念的な徳性としての「仁」ではなく、具体的な儒教を体得した「仁者」と解釈し、仁者のいる里(村)に住み着くことは儒教を学ぶ者にとって善いことだという風に読んだ。 
子曰、不仁者不可以久処約、不可以長処楽、仁者安仁、知者利仁。
子曰く、不仁者(ふじんしゃ)は以て久しく約に処る(おる)べからず。以て長く楽しきに処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。
先生がいわれた。仁を体得していない人(不仁者)は、長い間苦しい生活を続けられないし、長く安楽な生活を続けることもできない。仁を修得した人(仁者)は、仁に落ち着いているし、知者は仁を上手く利用する。
仁を体得した「仁者」と仁を体得していない「不仁者」の生活態度の違いについて孔子が論じた章である。不仁者は、苦しく貧しい生活を長く続けていると、不幸(怒り)や貧窮(屈辱)に耐え切れずに犯罪を犯してしまうが、仁者は究極の徳である仁に安住しているのでどんなに貧しく苦しい生活をしても犯罪に走ることがない。
また、不仁者が金銭を得て裕福な生活を手に入れると、他人(社会)に対して傲慢不遜になり、弱者に対する慈悲や優しさを忘れてしまうが、仁者は満ち足りた富裕な生活をしていても、社会に対する貢献や弱者に対する支援といった「仁」の実践を忘れることが決してない。「仁」を手段とする「知者」は、「仁」そのものを目的とする「仁者」よりも劣るが、知者は自らの信頼や利益のために仁を体得しようとするもののことである。 
子曰、唯仁者能好人、能悪人。
子曰く、唯(ただ)仁者能く(よく)人を好み、能く人を悪む(にくむ)。
先生(孔子)がこうおっしゃった。仁の徳を体得した仁者だけが、人を真に愛し、人を真に憎むことができる。
孔子にとって最大の徳は飽くまで「仁」であり、仁者とは「ありのままの自然な感情」を無理に抑圧する聖人ではなく、自然な感情を節度ある形で相手に表現し伝達することのできる者のことである。仁者だけが相手を無能にするような形で盲愛(溺愛)することなく、相手を真に深く愛することができる。同時に、相手を不当に憎悪するのではなく、相手の反省や再起を促す形で自然に憎むことができるのである。 
子曰、苟志於仁矣、無悪也。
子曰く、苟くも(いやしくも)仁に志さば、悪まれる(にくまれる)こと無し。
先生が言われた。少しでも仁を実践する心がけを持つのであれば、人に憎まれるようなことはない。
現実には、どんな人からも全く恨まれない嫌われない人生を生きることは困難であるが、孔子は究極の徳である「仁」を実践して体得する真剣な意志を持っていれば、他人から恨まれるような無法な行為をするわけがないという意味で、この言葉を語ったのではないか。「仁」は、八方美人的に全ての他人から好かれることを目指すわけではないが、まごころと思いやりに満ちた「仁の道」を真摯に実践すれば大多数の他人から自然に好かれることになるだろう。 
子曰、富与貴、是人之所欲也、不以其道、得之不処也、貧与賤、是人之所悪也、不以其道、得之不去也、君子去仁、悪乎成名、君子無終食之間違仁、造次必於是、顛沛必於是。
子曰く、富と貴き(たっとき)とは、これ人の欲する所なり。その道を以てせざれば、これを得るも処らざるなり(おらざるなり)。貧しきと賤しき(いやしき)とは、これ人の悪む(にくむ)所なり。その道を以てせざれば、これを得るも去らざるなり。君子仁を去りて悪にか(いずくにか)名を成さん。君子は食を終うる間も仁に違うことなし。造次(ぞうじ)にも必ず是(ここ)に於いて(おいて)し、顛沛(てんぱい)にも必ず是に於いてす。
先生が言われた。財産と高貴(地位)とは、世間の人が欲しがるものである。正しい方法で手に入れたものでなければ、財産と地位を得たとしても安住できない。貧乏と卑賤とは、世間の人が嫌うものである。(貧乏や卑賤に陥るべき)もっともな理由がないのに貧しくなったのであれば、貧乏や卑賤から逃れようとしない。徳を修めた君子が、仁の徳から離れてどうして名誉を手に入れることができるであろうか?(いや、できるはずがない)。君子は食事をしている間といえども、仁の徳から離れることがないのだ。有徳の立派な君子は、慌しく余裕のない時でも仁の徳に従って行動し、つまづいて転倒する時でも仁の徳を忘れることがないのだ。
孔子は、富や名声、地位を求める世俗的な価値判断の全てを否定したわけではなく、「仁」の実践を最優先事項におき、仁の徳を踏み外さないのであれば、地位や財力を手に入れていても構わないと考えていた。但し、勤勉な努力(才能)や高潔な人格といった正当な手段を用いて得た富や地位でなければ「真の幸福」は実感できないと考え、他人を陥れて財産や地位を築いても長続きしないと教えた。
また、貧窮(経済的な貧しさ)や卑賤(身分の低さ)を嫌うのは世間の道理であるが、「仁者」は自分の低劣な人格の為に低い地位に落とされたり、自分の怠惰な働きの為に貧しい生活を余儀なくされない限りは、貧乏や卑賤を恥じないものであると教えた。
君子が重視すべき「仁の道」や「勤勉な生活」を踏み外して貧乏(卑賤)になったのであれば、貧乏や卑賤を脱け出すための努力を通して、仁の徳を体得し勤勉な生活態度を身に付けなさいというわけである。反対に、他人への温かい思いやりを忘れず一生懸命に働いた結果として「貧乏(卑賤)な現状」があるのであれば、有徳の仁者は貧しさや賤しさを気にする必要は全くない。何故なら、仁者の名誉の源泉は、「財産・名声・地位」にあるのではなく、飽くまで最高の徳である「仁」にあるからである。 

 

子曰、我未見好仁者悪不仁者、好仁者無以尚之、悪不仁者其為仁矣、不使不仁者加乎其身、有能一日用其力於仁矣乎、我未見力不足者、蓋有之乎、我未之見也。
子曰く、我未だ(いまだ)仁を好む者、不仁を悪む(にくむ)者を見ず。仁を好む者は、以てこれに尚うる(くわうる)ことなし。不仁を悪む者は、それ仁を為すなり。不仁者をしてその身に加えしめず、能く一日その力を仁に用いることあらんか。我未だ力の足らざる者を見ず。蓋し(けだし)これ有らんも、我未だこれを見ざるなり。
先生がいわれた。私は、まだ仁を好む人も不仁を憎む人も見たことがない。仁(人格者)を好む人は、もうそれ以上のことはないし、不仁を憎む人も、やはり仁を実践していると言ってよい。なぜなら、不仁の人をそれ以上「仁の道」から踏み外さないようにするからであり、そうすれば、一日だけでもその力を仁の実践に用いるように仕向けられるのではないだろうか?私は、まだ(一日だけの仁の実践に)力の足りない者など見たことがない。いや、あるいは(一日さえ仁を実践できない人も)いるかも知れないが、私はまだ見たことがないのである。
不仁者に、それ以上の非道や悪行を重ねさせず、僅かなりとも仁の実践に努めさせるにはどうしたら良いかということについて、孔子が答えた章である。仁の徳を好んで体得しようとする人も、人としての道(仁)を踏み外す不仁者を憎む人も、どちらも同じように「仁」を志していると孔子は言う。孔子は、論理的な可能性として「たった一日といえども、仁や善行を実践できない人間」がいるかもしれないと言いつつ、「たった一日の仁の実践に必要な力も持っていないという人間」にはまだ出会ったことがないと述べている。これは、無道な振る舞いをする非常識な不仁者であっても、周囲の人たちの適切な教育や指導があれば、十分に改悛や更生の余地があることを強く示唆した部分でもある。 
子曰、民之過也、各於其党、観過斯知仁矣。
子曰く、民の過つ(あやまつ)や、各々その党(とう)に於いてす。過ちを観れば、斯(ここ)に仁を知る。
先生が言われた。人民の過ちというのは、それぞれが住んでいる土地(郷党)の風俗(文化)によるものである。人民の過ちを見れば、その土地の仁の徳による教化(民度)がどこまで進んでいるのかが分かる。
古代中国では、各地域に散在していた地方共同体(村落)のことを「郷党」と表現し、大多数の人民は、郷党で生まれてその土地の文化慣習の中で教育(しつけ)を受けてきた。荻生徂徠(おぎゅうそらい)の解釈では、この章の「党」は「郷党(村落)」のことであり、孔子は人民の道徳的な過失のあり方を見れば、その郷党(村落)の文化水準(礼儀作法)や道徳的な教化の程度を推測できるとした。
無知な人民が、仁徳に背いた酷薄な振る舞いや無道な犯罪を行う場合に、為政者は非道な行いをした個々の人民を処罰してもあまり意味がないという。徳治主義の儒教では、何が善で何が悪かの道徳を理解していない民度の低い人民には、「法律による処罰」ではなく「学問による啓蒙教化」が効果的だと考える。為政者は、各地の郷党に道徳的な強化を与えるような政治(教育)を自ら率先垂範して心がけないといけないのである。 
子曰、朝聞道、夕死可矣。
子曰く、朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり。
先生が言われた。朝に真実の道を聞くことができたら、夕方に死んでも構わない。
孔子が生きた春秋時代の末期は、いつ不意に死の瞬間が訪れるか分からない緊迫した時代であったが、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の部分には二通りの解釈をすることが可能である。一つは一般的に理解されているように、朝に「真実(真理)の道」を聞くことが出来たら、夕暮れに死んでも良いとするもの。もう一つは、朝に孔子が理想とした君子による徳治政治が実現していたら、夕方に死んでも構わないとするものである。
思弁的要素の多い朱子学では、孔子の「真理探究の姿勢」が前面に押し出されているが、おそらく元々の孔子の発言の裏には「理想社会の実現」というものが悲観的に含意されていたと思われる。「悲観的に」というのは、孔子自身の意見が多くの国で無視されたように、儒教の説く君子による徳治というものが実現する見通しが当時でも全く立たなかったからである。 
子曰、士志於道、而恥悪衣悪食者、未足与議也。
子曰く、士、道に志して、悪衣悪食(あくいあくじき)を恥ずる者は、未だ与(とも)に議る(はかる)に足らず。
先生がこうおっしゃった。立派な士で、君子の道を志していながら、粗衣粗食を恥じるようでは、まだ共に語る相手としては不足だね。
「士」というのは、「卿・大夫・士・庶人」という春秋戦国時代の身分の一つで、貴族階級の下位の身分に当たる。孔子に随従した弟子の多くも、この「士」の身分であり、国の君主や卿に取り上げられて出世すると「大夫」の身分になって国政に参与するようになった。 
子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之与比。
子曰く、君子の天下に於けるや、適もなく、莫(ばく)もなし。義をこれ与(とも)に比しむ(したしむ)。
先生(孔子)がおっしゃった。有徳の君子が天下の人に対する時、宿敵もなければ、愛着もない。ただ、正義の人と共に親しみ合う。
君子が天下の人材に交わるときには、個人的な感情や利害によって相手を選ぶのではなく、その相手が正義を実践する高潔な人格を持っているかどうかを見ているものだということを孔子が述べた章である。 

 

子曰、君子懐徳、小人懐土、君子懐刑、小人懐恵。
子曰く、君子は徳を懐い(おもい)、小人は土(ど)を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵を懐う。
先生が言われた。君子は道徳(人徳)を強く思い、小人は土地(郷土)を強く思う。君子は刑罰(の行き過ぎ)を強く思い、小人は恩恵を強く思う。
統治者である「有徳の君子」と被統治者である「無徳の小人」を比較した部分で、政治を行う君子は道徳の実践と普及を強く思い、小人は故郷の土地を強く思って道徳による教化などには興味を向けないという。仁の実践の大きな志を持って、生まれ故郷に安住しないのが「君子」の生き方であり、君子は庶民に下した刑罰を忘れず、必要以上の刑罰を下すべきではないとする孔子の思いが含まれている。小人が君子(為政者)から受けた刑罰(恐怖)よりも恩恵(安心)を強く意識しているような社会が、徳治が行き届いた理想の社会であると説く。 
子曰、放於利而行、多怨。
子曰く、利に放りて(よりて)行えば、怨み(うらみ)多し。
先生が言われた。利益に従って行動すると、人から怨みを買うことが多い。
孔子の処世訓を手短に述べたもので、自己中心的に利益ばかりを追い求めていると、他人の利害と衝突して争いあったり怨まれたりすることが多いということ。 
子曰、能以礼譲為国乎、何有、不能以礼譲為国、如礼何。
子曰く、能く礼譲(れいじょう)を以て国を為めん(おさめん)か、何かあらん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何(いかん)せん。
先生が言われた。礼節と譲り合う精神で国を治めることができるだろうか?それは、難しいことではない(それが、どれほどのことがあろうか)。礼節と譲り合う気持ちで国が治められないのであれば、礼が何の役に立つというのか?(いや、何の役にも立たない)。
孔子が徳治政治の根幹を説いた部分で、君主と人民それぞれが、礼容を身に付け譲り合う精神を持つことで、国家が上手く統治されるとしたもの。孔子は、「礼譲の徳」が政治にとって何の役にも立たないのであれば、そもそも礼そのものが全く無意味になると語っているのである。 
子曰、不患無位、患所以立、不患莫己知、求為可知也。
子曰く、位なきことを患えず(うれえず)、立つ所以(ゆえん)を患う。己を知ること莫き(なき)を患えず、知らるべきことを為すを求む。
先生(孔子)がこうおっしゃった。地位がないことを心配せず、その地位に立つべき理由(実力や人徳)について気にしなさい。自分を認める人がいないのを気にかけず、人に認められるような行動ができるように努力しなさい。
地位や権力を得ることばかりを求めるのではなく、自分がその地位や権力に相応しい人間性を備えているか、その職責を十分にまっとうできる実力があるかを考えろと孔子は言っている。他人が自分を高く評価するかしないかばかりを気にかけるのではなく、他人が認めざるを得ないような大きな仕事や実績を残せるように努力することが肝心なのである。 
子曰、参乎、吾道一以貫之哉、曾子曰、唯、子出、門人問曰、何謂也、曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣。
子曰く、参(しん)よ、吾が道は一(いつ)以てこれを貫く。曾子(そうじ)曰く、唯(い)。子出ず(いず)。門人問うて曰く、何の謂(いい)ぞや。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。
先生が曾子にいわれた。参(しん)よ、私の道は一つのことで貫かれている。曾子ははい。と言った。先生がその場を出られた後で、門人が尋ねた。どういう意味でしょうか。曾子は言われた。先生の道は忠恕(思いやりとまごころ)だけです。
論語において最高の徳である「仁」を、自身の思いやりに正直である「忠」と他人の苦境に思いやりを持つ「恕(じょ)」によって解き明かし、それらをまとめて他人に対する温かな思いやりの情義で「忠恕」で説明している。孔子の人柄と生涯は、「忠恕」という「ただ一つの道(儒学の根本原理)」で貫かれているのである。 

 

子曰、君子喩於義、小人喩於利。
子曰く、君子は義に喩り(さとり)、小人は利に喩る。
先生(孔子)がこうおっしゃった。君子は正義(義務)に明るく、小人は利益に明るい。
儒教的な世界観では、君子とは、仁徳を修めた為政者としての資格を持つ者のこととされ、小人とは、仁徳を意識することのないつまらない人間(人格的価値の低い人間)のこととされる。君子は正しい道の実践や義務的な行為の履行に目覚めているが、小人はただただ目先の利益を追いかけ続けるだけなのである。 
子曰、見賢思斉焉、見不賢而内自省也。
子曰く、賢(けん)を見ては斉し(ひとし)からんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。
先生がいわれた。「有徳の優れた人を見れば同じようになろうと思い、徳のない劣った人を見れば、(自分も同じように愚かなのではないかと)心の中で反省する。」
ここでいう「賢(けん)」とは、知的に賢いとか頭が良いとかいった意味ではなく、「道徳性や才能において優れている」といった意味である。孔子は、自分より優れた人物に会えば、嫉妬するのではなく尊敬して見習うように努め、自分より劣った人物に会えば、軽蔑するのではなく自分も同じような欠点があるのではないかと静かに反省したのである。 
子曰、事父母幾諌、見志不従、又敬不違、労而不怨。
子曰く、父母に事えて(つかえて)は幾く(ようやく)諌め(いさめ)、志の従わざるを見ては、また敬んで(つつしんで)違わず、労えて(うれえて)も怨みざれ。
先生が言われた。父母に仕えて(間違いを見つけた時には)遠まわしに穏やかに諌め、父母の考えが自分の諫言に従いそうにないと分かれば、更につつしみ深くして逆らわず、心配していても怨みに思わないようにしなさい。
儒教の両親に対する孝道のあり方の基本を述べた部分で、両親に仕えていて親の過ちを見つけた場合にはやわらかく遠まわしに注意して、それでも聞き入れなければ静かに受け入れ、それに逆らわないようにしたほうがいいというものである。この章をそのまま解釈して実践することに現代的意義は乏しいが、「両親の人格や価値観を大切にしましょう」といった親孝行の基本について述べている。 
子曰、父母在、不遠遊、遊必有方。
子曰く、父母在せば(いませば)遠く遊ばず、遊ぶに必ず方(ほう・つね)あるべし。
先生が言われた。父母がおられる間は、遠くに旅に出てはいけない。旅立つ時は必ず連絡先を父母にお教えしなさい。
儒教の親孝行のあり方として、父母が側に居る間は遠くに旅立たずに、近くで面倒を見てあげなさいといった話である。親を置いて遠くに旅立つ時には、両親に不要な心配を掛けないように、行き先や連絡方法についてきちんと教えてから出かけなさいということ。 
子曰、三年無改於父之道、可謂孝矣。
子曰く、三年、父の道を改むることなきを、孝と謂う(いう)べし。
先生が言われた。死後三年間、亡き父親のやり方を改めない、(これが出来れば)孝と言えるだろう。
父親が亡くなったからといって、それまで父親が守ってきた慣習や方法を急に改めるのではなく、死後三年間は亡父に配慮して今までのやり方を続けることが親孝行に当たるとしたもの。親孝行に当たって現代的な意義は乏しいが、孔子の時代には旧来の慣習や儀礼を守ることが祖先や親への孝行であると考えられた。 

 

子曰、父母之年、不可不知也、一則以喜、一則以懼。
子曰く、父母の年は知らざるべからざるなり。一つは則ち以て喜び、一つは則ち以て懼れる(おそれる)。
先生が言われた。父母の年齢を知らないということがあってはならない。一方で長生きを喜び、一方で高齢を心配する。
儒教の親孝行の原則として、「親の年齢はきちんと覚えていて、祝ったり労わったりしましょう」ということ。 
子曰、古者言之不出、恥躬之不逮也。
子曰く、古者(こしゃ・いにしえのもの)の言を出ださざる(いださざる)は、躬(み)の逮ばざらん(およばざらん)ことを恥じればなり。
先生が言われた。昔の人が言葉数が少なかったのは、実践が言葉に追いつかないこと(有言実行の挫折)を恥じたからである。
儒教の道徳では、君子は「有言実行」を厳しく求められるので、実現の見通しが立たないことについて口先だけで「大言壮語」することは恥ずべきことと考えられている。言葉にして他人に話す以上は、それを死ぬ気で実現しなければならないのであり、孔子は有言実行こそが「信頼できる人間」の一つの証拠だと見る向きがあった。 
子曰、以約失之者鮮矣。
子曰く、約(やく)を以てこれを失する者は鮮なし(すくなし)。
先生が言われた。控えめにしていて、失敗する人は少ないものだ。
人徳としての謙虚さや慎ましさ、控えめな言動の重要性を説いた章であり、安易に「大言壮語」するのではなく慎重で控えめであっても、コツコツとやるべきことを推し進めていくことが大切だということである。 
子曰、君子欲訥於言、而敏於行。
子曰く、君子は言(こと)に訥(とつ)にして、行いに敏(びん)ならんことを欲す。
先生が言われた。有徳の君子は、言葉が口ごもっていても(雄弁でなくても)、行動は敏捷でありたいと思っているものだ。
孔子は「有言実行」を愛したが、基本的に雄弁に巧妙な言葉を操る人よりも、思想や意志を素早く行動にして表し機敏に実践する人のほうが、より君子的であると考えていた。 
子曰、徳不孤、必有鄰。
子曰く、徳は孤ならず、必ず隣あり。
先生が言われた。道徳を実践する者は孤立しない。必ずその徳を慕って集まってくる隣人(同志・仲間)がある。
社会において正しい道を実直に実践する君子は、周囲から受け容れられず孤立しているかのように見えることもあるが、実際には必ずそういった道徳的な人生に感化される仲間を生み出すものであり、道徳の実践者は孤独ではないのである。孤高の君子は正しき道を踏み行っていれば、必ず良き理解者や支援者を得ることができるという孔子の処世訓である。 
子游曰、事君数斯辱矣、朋友数斯疎矣。
子游曰く、君に事うる(つかうる)に数(しばしば)すれば、斯(ここ)に辱し(はずかし)められ、朋友に数(しばしば)すれば、斯に疎んぜ(うとんぜ)らる。
子游がいった。主君に仕えてうるさくすると、(面倒に感じた主君から)恥辱を受けることになり、友達にうるさくすると、(煩わしく思った友達から)疎遠にされるものだ。
主君や友人との人間づきあいの基本を、孔子の弟子の子游(しゆう)が語った部分である。主君に同じような諫言を何度も繰り返しすれば、面倒な奴だと思われて恥辱を受け、友人に同じような話を何度も聞かせれば、煩わしい奴だと思われて疎遠にされるという話である。 
 
公冶長(こうやちょう)篇

 

子謂公冶長、可妻也、雖在縲紲之中、非其罪也、以其子妻之。
子、公冶長(こうやちょう)を謂わく(のたまわく)、妻(めあわ)すべし。縲紲(るいせつ)の中(うち)に在りと雖(いえど)も、その罪に非ざるなりと。その子を以てこれに妻す。
先生(孔子)が公冶長を評して言われた。公冶長は娘を嫁にやってもよいほどの人物である。罪人として牢獄に入れられたこともあったが、実際には無実であった。そして、自らの娘を公冶長の嫁とした。
公冶長は鳥の言葉を理解して伝達するという特殊技能を持っていたようだが、その詳細については明らかではない。孔子がその人物と能力を見込んで、自分の娘を嫁がせたほどの人であるが、論語の他の篇に「公冶長」の名前や事績(問答)が残っていないことから、実際には儒家として大成しなかったとも言われる。 
子謂南容、邦有道不廃、邦無道免於刑戮、以其兄之子妻之。
子、南容を謂わく(のたまわく)、邦(くに)に道あれば廃て(すて)られず、邦に道なきときも刑戮に免るべしと。その兄の子(こ)を以てこれに妻(めあわ)す。
先生は南容を評して言われた。国家に正しい政治が行われている時にはきっと用いられ、正しい政治が行われていない時にも刑罰を科されることはないだろう。そして、自分の兄の娘を南容の嫁にした。
氏は南宮、名はトウ、字は子容といい、略して南容と呼ばれていた人物を、孔子は自分の兄の娘の夫とした。南容は、魯の有力貴族であった三家老の一つ孟孫氏の令息であり、身柄のしっかりした人物だったので、孔子は自分の兄の娘の婿にしても問題ないと判断したようである。自分の娘の婿として公冶長を迎えたように、孔子は自分の娘の婿の場合には家柄や身分にこだわらなかった。しかし、兄の娘の婿を推薦する場合には「正義のある国で重臣となり、正義のない国でも刑罰を科されない」ような無難な人物である南容を選んだのであった。 
子謂子賤、君子哉若人、魯無君子者、斯焉取斯。
子、子賤(しせん)を謂わく、君子なるかな、若(かくのごと)き人。魯に君子なかりせば、これ焉にか(いずくにか)斯(これ)を取らんと。
先生(孔子)が子賤を評して言われた。子賤のような人こそ、正に君子だね。魯国に君子がいないとしたら、この子賤はどこからその徳を求めたのだろうか?
孔子は非常に若い子賤を君子として高く評価していたが、当時、衰亡の気運を見せていた魯には徳と実力を兼ね備えた君子がいないという悪評が立っていたらしい。そこで、孔子は自慢の門弟である子賤を指して、「このような立派な君子がいるのだから、魯国に優れた君子がいないなどという話はありえない」と強く反駁したのである。 
子貢問曰、賜也何如、子曰、汝器也、曰、何器也、曰、瑚連也。
子貢、問うて曰く、賜(し)や何如(いかん)。子曰く、汝(なんじ)は器(うつわ)なり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚連(これん)なり。(「連」の正しい文字は、「おうへん(王)」に「連」である。)
子貢が先生(孔子)に尋ねて言った。私はいかがでしょう?先生は言われた。お前は器である。子貢が言った。何の器でしょうか?先生が言われた。宗廟のお供えを盛り付ける瑚連(これん)の器だよ。
子貢が先生に「自分はどのような存在か?」と自分の評価について問いかけたところ、孔子から「お前は、先祖をお祭りする宗廟の瑚連(これん)のような器だ」と教えられた。孔子は「為政篇」で「君子は器ならず」と言っているので、自信家で自己過信の傾向のあった子貢をやや戒める気持ちを持って「汝は器なり」といった。しかし、孔子は才気抜群の優秀な子貢の実力を十分に認めていたので、「器は器でも、最高級の瑚連(これん)の器だ」と子貢を評価したのである。 
或曰、雍也仁而不佞、子曰、焉用佞、禦人以口給、屡憎於人、不知其仁也、焉用佞。
或るひと曰く、雍(よう)は仁にして佞(ねい)ならず。子曰く、焉(いずく)んぞ佞を用いん、人を禦(ふせ)ぐに口給(こうきゅう)を以てすれば、しばしば(屡)人に憎まる。その仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。
ある人が言われた。雍(よう)という人物は仁の徳をもっているが、弁舌が上手くない。先生が言われた。どうして弁舌が達者である必要があるのか?口先の弁論で人を言い負かしても、人から恨まれやすくなるだけだ。雍が仁者であるか分からないが、どうして弁舌が達者である必要があるのか?(いや、ない。)
孔子は、巧言令色の弁士を好まなかったように、弁舌爽やかな修辞(表現技法)を用いて巧みに人を言いくるめようとする人間を信用しなかったようである。ある人が、自分の家臣である雍(よう)の口下手なところを嘆いて孔子に相談すると、孔子は弁舌が過度に達者であると人から恨まれやすくなるだけだから、仁者となるのに必ずしも雄弁である必要はないと諭したのである。 

 

子使漆雕開仕、対曰、吾斯之未能信、子説。
子、漆雕開(しつちょうかい)をして仕えしむ。対えて曰く、吾は斯(これ)をこれ未だ信ずること能わず。子説ぶ(よろこぶ)。
先生が漆雕開(しつちょうかい)を仕官させようとした。漆雕開は答えて言った。私は、仕官に未だ自信が持てません。先生はこれを聞いて喜ばれた。
孔子が門弟の漆雕開を官吏に推薦した時、漆雕開は官吏になるのにまだ十分な人徳と実力を蓄えていない(仁を実現する優秀な官吏になる自信がない)ということでこれを辞去した。孔子は、その謙虚さと理想の高さを聞いて満足し、仁者としての門弟の予想以上の成長ぶりを喜ばれたのである。 
子曰、道不行、乗桴浮於海、従我者其由也与、子路聞之喜、子曰、由也好勇過我、無所取材。
子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由(ゆう)か。子路(しろ)これを聞きて喜ぶ。子曰く、由は勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なからん。
先生が言われた。(中国では)正しき道が行われない。筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう(海の向こうの遥か遠くの国に行こうか)。私についてくる者は、由であろうか。子路がそれを聞いて喜んだ。先生は言われた。由は、武勇(勇敢)を好むことは私以上である。しかし、筏の材料は得るところがないな。
晩年の孔子は、諸侯にその献言を用いられることもなく、徳治政治の実現に対してやや悲観的になっていた。そこで、愛弟子の一人である子路に向かい、筏にでも乗って、海の向こうの東夷の国にでも行き、そこで仁や礼の徳を普及するかなとシニカルに問いかけたのである。孔子は、勇敢で剛毅な子路の性質を深く愛して期待していたが、同時に、子路の後先を省みない無鉄砲なまでの直情径行ぶりを危惧していた部分もあったという。 
孟武伯問、子路仁乎、子曰、不知也、又問、子曰、由也、千乗之国、可使治其賦也、不知其仁也、求也何如、子曰、求也、千室之邑、百乗之家、可使為之宰也、不知其仁也、赤也何如、子曰、赤也、束帯立於朝、可使与賓客言也、不知其仁也。
孟武伯(もうぶはく)問う、子路仁なるか。子曰く、知らざるなり。また問う。子曰く、由や、千乗の国、その賦(ふ)を治めしむべし、その仁を知らざるなり。求や何如(いかん)。子曰く、求や、千室の邑(ゆう)、百乗の家、これが宰(さい)たらしむべし、その仁を知らざるなり。赤(せき)や何如。子曰く、赤や、束帯して朝(ちょう)に立ち、賓客と言わしむべし、その仁を知らざるなり。
孟武伯が尋ねて聞いた。子路は仁ですか?先生は言われた。分かりません。更に尋ねたので、先生は言われた。由(子路)は、(千台の戦車を備えた)諸侯の大国でその軍政を担当させることが出来ますが、仁であるかどうかは分かりません。求はどうでしょうか?先生は言われた。求(冉有)は、千戸の町や(百台の戦車を備えた)家老の家でその執政を務めさせることは出来ますが、仁であるかどうかは分かりません。赤(公西華)はどうでしょうか?先生は言われた。赤(公西華)は、衣冠束帯の礼服をつけて朝廷で官位に就き、客人と応対させることは出来ますが、仁であるかどうかは分かりません。
魯に帰国した孔子と魯の有力貴族である孟孫氏(三家老の一つ)の若い令息との対話である。孟孫氏の孟武伯とは孟懿子(もういし)のことである。孔子は孟武伯に自分の門弟に「仁」があるかと問われて、それに直接の回答を与えずそれぞれの弟子が持つ能力と適性を的確に評価している。子路は勇敢で軍略に優れていたので、大国の賦(軍務全般)を担当するのに適しているという。冉有は細かな行政事務に精通していたので、大貴族の邸宅において執事(執政)を司るのに適していると評した。公西華は年少者ではあるが、礼節を弁えており外交交渉にも優れていたので、衣冠束帯を身に付けて朝廷で官職に就くのに向いているとした。 
子謂子貢曰、汝与回也孰愈、対曰、賜也何敢望回、回也聞一以知十、賜也聞一以知二、子曰、弗如也、吾与汝弗如也。
子、子貢に謂いて曰(のたま)わく、汝(なんじ)と回(かい)と孰(いず)れか愈(まさ)れる。対(こた)えて曰く、賜(し)は何を敢えて回を望まん。回は一を聞いて以て十を知る。賜は一を聞いて以て二を知るのみ。子曰く、如かざるなり。吾も汝とともに如かざるなり。
先生が子貢に向かって言われた。お前と回とは、どちらが優れているか?子貢はお答えして言った。私ごときが、どうして回(顔淵)を望むことができましょう。顔淵は一を聞いて十を悟ります。私などは一を聞いてそれで二を知るだけです。先生は言われた。(お前は顔淵に)及ばない。私もお前と一緒で顔淵には及ばないよ。
子貢(由)も顔淵(回)も孔子の誇る高弟で、世に知られた英才であったが、孔子に「お前と顔回とどちらが優れているだろうか?」と問われた子貢は謙譲の徳を発揮して「私などは、一を聞いて十を知る天才の顔回の足元にも及びません」と答えた。それを聞いた孔子は、子貢の謙虚な回答に満足して、「お前が顔回に及ばないように、私もあの優れた顔回には遠く及ばないのだよ」と謙虚に返したのである。 
宰予昼寝、子曰、朽木不可彫也、糞土之牆不可朽也、於予与何誅、子曰、始吾於人也、聴其言而信其行、今吾於人也、聴其言而観其行、於予与改是。
宰予(さいよ)、昼寝(ひるい)ぬ。子曰く、朽木(きゅうぼく)は彫るべからず、糞土(ふんど)の牆(かき)は朽(ぬ)るべからず。予に於(お)いてか何ぞ誅(せ)めん。子曰く、始め吾、人に於けるや、その言を聴きてその行(こう)を信ぜり。今吾、人に於けるや、その言を聴きてその行を観る。予に於いてか是(これ)を改む。
宰予(さいよ)が(学問の途中で)昼寝をした。先生はいわれた。ボロボロに朽ちた木には彫刻ができない。泥土のかきねに上塗りできない。宰予に対して何を叱ろうぞ。(叱っても無意味である。)先生はいわれた。以前は、私は人に対するのに、言葉を聞くだけでその行いまで信用した。今は、私は人に対するのに、言葉を聞くだけでなくその行動まで観察する。(怠惰な)予のことで考えを改めたのである。
伝統的な礼を重んじた孔子と、実用的な礼を切り開こうとした宰予(宰我)は、途中から理論的な対立が激しくなっていったという。学問かあるいは仕事の途中につい居眠りしてしまった宰予を見咎めた孔子は、そういった礼制に対する考え方の相違もあって、宰予を厳しく糾弾し批判したとされる。孔子が古代からの礼制を連綿と墨守する「礼」の理想を掲げていたとすれば、宰予は古代からの礼制をより合理的で実用的なものへ段階的に変化させていくのが理想だと考えていた。 

 

子曰、吾未見剛者、或対曰、申長、子曰、長也慾、焉得剛。
子曰く、吾未だ剛者を見ず。或るひと対えて曰く、申長(しんとう)あり。子曰く、長(とう)は慾あり。焉んぞ剛なるを得ん。(申長の「長(とう)」の正しい漢字は、「きへん(木)」に「長」である。)
先生が言われた。私は剛健な人物を見たことがない。或る人が答えて言った。(あなたの弟子の)申長(しんとう)がいますよ。先生は言われた。長(とう)には、欲がある。どうして剛健といえるだろうか?(いや、いえない。)
孔子にとっての剛者とは、ただ肉体的な腕力が強いものではなく、精神的な意志も合わせて堅固なものをいう。ある人は、「申長(しんとう)という剛力無双の屈強な勇者がいるじゃありませんか?」と孔子に言った。しかし、孔子にとっては、自分の欲望に打ち勝てない軟弱な精神の持ち主である申長は(いくら膂力に秀でた豪傑であっても)「真の剛者」ではなかったのである。 
子貢曰、我不欲人之加諸我也、吾亦欲無加諸人、子曰、賜也非爾所及也。
子貢曰く、我、人の諸(これ)を我に加えんことを欲せざるは、吾もまた諸(これ)を人に加うることなからんと欲す。子曰く、賜よ、爾(なんじ)の及ぶ所に非ざるなり。
子貢が言った。私は、他人が自分にしかけて欲しくないことは、私も他人にしかけないようにしたい。先生は言われた。賜(子貢)よ、お前にできることではない。
頭脳明晰な子貢は、理屈として孔子の説く「忠恕」の徳を深く理解していたので、孔子に向かって「自分がして欲しくないことは、他人にもしないようにしたいものです」と語った。孔子は子貢の「忠恕」の理解が十分に正しいことを認めたが、徳というものは理解するよりも実践することのほうが遥かに遠く難しいことを理論優位の子貢に教えたかったのである。そこで、孔子は「他人を自分と同等に敬う忠恕の徳の実践は、お前に簡単にできることではないぞ」と注意を促した。 
子貢曰、夫子之文章、可得而聞也、夫子之言性与天道、不可得而聞也。
子貢曰く、夫子の文章は得て聞くべし。夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり。
子貢が言った。先生の文化儀礼についての考え方は聞くことができた。しかし、先生が人間の本性と天の道理についておっしゃることは、聞くことが出来なかった。
孔子の側近くで長く仕えた子貢は、先生の礼や仁に根ざした行動様式については色々と聞く機会があったが、孔子の語る「人間の本性論」や「天道の原理(道理)」については詳しく聞く機会を得られなかった。儒教では、仁に根ざした道徳的な政治体制と文化形式が重視されるので、孔子は天の道(道理)や人間の本性のようなことについて門弟に丁寧に教えることは余りなかった。しかし、孔子自身は、天の道理(法則)と人間の本性(性質)について正確な理解を持っていたと考えられている。天命に従事して人生を生き、人間の善き本性を発揮して教育を行ったのが孔子なのである。 
子路有聞、未之能行、唯恐有聞。
子路、聞くこと有りて、未だこれを行うこと能わざれば、唯(ただ)、聞く有らんことを恐る。
子路は、先生から何か(教訓)を聞いてそれをまだ行えないうちは、更に何かを聞くことをひたすら恐れた。
儒教では「正しい道(やり方)」を言葉で考えるよりも実際に実践しているか否かが重視されるので、子路は先生(孔子)から「このようにするのが良い」と教えられた時に、それを実際に実践できないことを強く恥じた。以前、先生から教えられた仁の徳を実践できていないのに、更に先生から新しい道(教訓)について教えられてもそれを実際の行動に移せないのではないかと恐れたのである。理論よりも実践を優先し、弁論よりも行動で正しさを証明するというのが儒教の基本的なあり方である。 
子貢問曰、孔文子何以謂之文也、子曰、敏而好学、不恥下問、是以謂之文也。
子貢問うて曰く、孔文子、何を以てこれを文と謂うか(いうか)。子曰く、敏にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、是(ここ)を以てこれを文と謂うなり。
子貢がお尋ねして言った。孔文子は、何故、文という諡(おくりな)をされたのでしょうか?先生は言われた。孔文子は、頭の回転が良くて学問を好み、目下の者に問うことを恥じなかった。だから、彼は文と諡されたのだよ。
孔文子は衛の名門の出身で、姓を孔、名を圉(ぎょ)というが、諡として最高の価値を持つ「文」という諡を与えられていた。子貢は孔子に、「なぜ孔文子のような人徳(態度)に問題のある大夫(貴族)が、名誉ある「文」の諡を与えられたのか」と問いかけた。孔子は、即座に孔文子の美点である「頭脳明晰」と「向学心(学問への趣味)」を取り上げて、「文」の諡の理由を説明し、生前の孔文子の醜聞や悪評には一切触れなかった。
既にこの世を去った死者の悪口を言ったり、価値を貶めたりすることを孔子は好まず、敢えて数少ない「美点・長所」に目を向けて称賛したのである。孔文子の悪評とは、衛の君主である霊公の娘と結婚したのをいいことに、衛の国政を恣意的に専横して支配していたことであり、孔文子の生前には孔子も彼を余り快く思っていなかったのである。そのことを知っていた子貢は、「なぜ、君臣の義を踏み外した孔文子が「文」などという立派な諡を送られたのか?」という不満があったのかもしれない。しかし、孔子は子貢の不満に同意して一緒になって悪口を言うことを好まず、「孔文子にも評価されるべき良い面があったのだよ」と語ったのである。 

 

子謂子産、有君子之道四焉、其行己也恭、其事上也敬、其養民也惠、其使民也義。
子、子産(しさん)を謂わく(のたまわく)、君子の道四つあり。その己を行うや恭(きょう)、その上(かみ)に事うる(つかうる)や敬(けい)、その民を養うや恵(けい)、その民を使うや義。
先生が子産のことを評して言われた。子産は、君子の道を四つ実践していた。己の身を持すること厳格、君主(目上)に仕えること敬虔、人民を養うには情け深く、人民を使役するには公正であった。
鄭(てい)の子産は、公孫僑の字(あざな)である。頭脳明晰で実用的な政治戦略に優れた子産は、春秋期の名門の小国として知られた鄭の独立自尊を守った名宰相として知られる。孔子は鄭の子産を敬愛し、子産には恭・敬・恵・義の四つの大きな徳(道)の実践があると評価した。 
子曰、晏平仲善与人交、久而人敬之。
子曰く、晏平仲(あんぺいちゅう)、善く人と交わり、久しくして人これを敬う。
先生がいわれた。晏平仲(あんぺいちゅう)という人は、誰とでも良く交流するが、暫くすると皆から敬意を抱かれる。
晏平仲とは、晏子(あんし)として知られる晏嬰(あんえい)のことであり、父親の晏弱と共に大国・斉(せい)の名宰相として知られた。徹底した質素倹約と謙虚な挙措に努めて国を栄えさせた聖人君子として、同時代の君子(為政者)から大きな尊敬を集めていた。晏嬰の字が「仲」、諡が「平」であることから晏平仲と呼ばれた。処世にも優れた晏子は、誰からも好かれ尊敬される儒学の理想に近い人格者であり、国内の権力闘争にあっても多くの敵を作ることがなかった。為政者としての完成を目指す君子の道においても、多くの人と交流して、多くの有益な関係を築き上げることが大切なのである。 
子曰、臧文仲居蔡、山節藻税(せつ)、何如其知也。
子曰く、臧文仲(ぞうぶんちゅう)、蔡(さい)を居え(たくわえ)、節(せつ)を山にし税(せつ)を藻(も)にす。何如(いかん)ぞそれ知ならん。(税(せつ)の正しい漢字は、「のぎへん(禾)」ではなく「きへん(木)」である。)
先生が言われた。臧文仲は、国君が使う占い用の大亀の甲羅をしまっていたし、天子のように柱の上のますがたに山がたをほり、梁(はり)の上の短い柱に藻を描いた。どうして、それで智者だといえるだろうか?(いや、いえない。)
臧文仲は魯国で語り継がれた著名な賢者であったが、臧文仲は明らかに天子(君主)にしか許されていない礼制の制約を破って、自分を天子になぞらえるような越権の振る舞いをしていた。安定した社会秩序を実現する政治にとって、礼制の遵守が一番大切だと考えていた孔子は、幾ら学問に精通した碩学(賢者)だといっても、「礼」を無視するようでは本当の智者とはいえないと批判したのである。 
子張問曰、令尹子文三仕為令尹、無喜色、三已之、無慍色、旧令尹之政、必以告新令尹、何如、子曰、忠矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁、崔子弑斉君、陳文子有馬十乗、棄而違之、至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也、違之、至一邦、則又曰、猶吾大夫崔子也、違之、何如、子曰、清矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁。
子張問うて曰わく、令尹子文(れいいんしぶん)、三たび仕えて令尹と為れるも、喜ぶ色なし。三たびこれを已(や)めらるるも、慍(いか)れる色なし。旧き令尹の政、必ず以て新しき令尹に告ぐ。何如(いかん)。子曰く、忠なり。曰く、仁なりや。曰く、いまだ知らず、焉んぞ(いずくんぞ)仁なるを得ん。崔子(さいし)、斉君(せいくん)を弑(しい)す。陳文子、馬十乗あり、棄ててこれを違る(さる)。他邦(たほう)に至りて則ち曰く、猶(なお)吾が大夫(たいふ)崔子がごときなりと。これを違る(さる)。一邦(いっぽう)に至りて、則ちまた曰く、猶吾が大夫崔子がごときなりと。これを違る。何如。子曰く、清し。曰く、仁なりや。曰く、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。
子張がお尋ねした。楚の令尹(れいいん)の子文は、三度令尹に就任したが嬉しそうな顔もせず、三度令尹をやめさせられても怨みがましい顔をせず、前の令尹の政治を必ず新しい令尹へと引き継ぎました。いかがでしょうか?先生はいわれた。それは誠実(忠実)だ。子張はまたお尋ねした。仁でしょうか?先生が答えられた。彼は智者ではない。どうして、仁であるといえるだろうか?(いや、いえない。) 更に、子張がお尋ねした。(斉の家老の)崔子が斉の君主(荘公)を殺した時、(斉の家老の)陳文子は4頭立ての10台の戦車を持っていましたが、それを捨てて(斉を)立ち去りました。よその国に行き着くと、やはり、ここにも斉の家老の崔子と同じような人物がいる。といってそこを去り、別の国に行くと、またここにも斉の家老の崔子と同じような人物がいる。といってそこを去りました。これは、いかがなものでしょうか?先生はいわれた。清潔だね。子張が尋ねた。仁といえるでしょうか?先生がお答えした。彼は智者ではない。どうして仁ということが出来るだろうか?(いや、出来ない。)
門弟の子張は、「仁」の徳を高潔な人格を持って体現した人物として、楚の名宰相であった子文と、斉の重臣であった陳文子を挙げて、孔子に「彼らは仁であるといえるでしょうか?」と尋ねてみた。孔子は、当時の首相に当たる令尹の重責にありながら、その権力に頓着せず粛々と伝統に従って職務をこなす子文を「誠実である」と高く評価したが、知力が十分ではないのでまだ「仁」ということはできないとした。斉の主君に忠実な家老である陳文子についても、「清潔である」と高く評価しながらも、知力が不足しているのでまだ「仁」ではないとした。孔子の理想とする「仁者」とは、「忠義・清浄」といった人格的な高潔さを備えた人を単純に指すのではなく、時勢を見極めて社会(天下)に貢献するだけの知力を備えた「智者」を包摂するものなのである。 
季文子三思而後行、子聞之曰、再思斯可矣。
季文子、三たび思いて而る(しかる)後に行う。子、これを聞きて曰く、再び思えば斯ち(すなわち)可なり。
季文子(きぶんし)は三度考えてから実行した。先生がこれを聞いて言われた。二度考えてみて結論がでれば、それで良いのである。
季文子とは、孔子の前時代の魯国の宰相であるが、晋国への使者の役目をおおせつけられて、出立するまでに三度考えて、晋の礼制を万全に理解してから出発したという。孔子はこれを聞いて、三度まで考え直して決断するほど優柔不断であるべきではなく、二度しっかりと考え直して結論がでればそれに従えば良いとしたのである。 

 

子曰、寧武子、邦有道則知、邦無道則愚、其知可及也、其愚不可及也。
子曰く、寧武子(ねいぶし)、邦(くに)に道あるときは則ち知。邦に道なきときは則ち愚。その知は及ぶべきなり、その愚は及ぶべからざるなり。(「寧」の正しい漢字は、「うかんむり」に「心」に「用」と書く。)
先生が言われた。寧武子は、国に道のあるときは智者で、国に道のないときは愚かであった。その智者ぶりは真似ができるが、その愚か者ぶりは真似ができない。
孔子が生まれる前の紀元前7世紀前半、衛の名宰相であった寧武子(ねいぶし)は、衛の君主の座を巡る内乱を収拾した人物として知られる。寧武子は、賢者として抜群の知略を振るうこともあったが、愚者のふりをして空とぼけをすることもあったと伝えられる。そこで、孔子は寧武子の賢人ぶりは真似したいものだが、愚者のふりをしたとぼけた振る舞いはなかなか真似できないと語ったのである。 
子在陳曰、帰与帰与、吾党之小子狂簡、斐然成章、不知所以裁之也。
子、陳に在りて曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡(きょうかん)にして、斐然(ひぜん)として章を成す。これを裁する所以(ゆえん)を知らざるなり。
先生は陳の国でいわれた。帰ろうよ、帰ろうよ。私の学校(教団)の若者たちは志ばかりが大きく、瞳には美しい模様を織りなしているが、どのように裁断したらよいか分からないでいる。
「狂簡(きょうかん)」とは、「狂」が志が非常に大きく威勢が盛んなこと、「簡」が気質に大きな偏りがあり起伏に乏しいことである。「斐然(ひぜん)」とは、色彩が豊かで美しい模様を描いている様子である。孔子が政治改革に失敗して亡命しているときに語った言葉であり、故郷を懐かしく思い出して望郷の念に駆られると共に、教団に残してきた若い生徒達の行く末と教育を心配している。 
子曰、伯夷叔斉不念旧悪、怨是用希。
子曰く、伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)、旧悪を念わず(おもわず)。怨み是(ここ)を用て(もって)希(まれ)なり。
先生がいわれた。(周の殷に対する放伐に反対した伝説の忠臣である)伯夷・叔斉は、(不忠不義を許さぬ清廉な人柄だったが)古い悪事をいつまでも気にかけなかった。だから、人から怨まれることがほとんどなかった。
伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)というのは、暴君の紂(ちゅう)が殷(商)の帝となっていた時代の伝説的な忠臣である。酒池肉林の悪政に耽る紂の元を去って、新興国の周の武王に従ったが、武王が武力で殷(周)を討伐しようとすると、武力で暴慢を諌める放伐(ほうばつ)に強く反対した。伯夷と叔斉は、暴力的な放伐ではなく平和的な禅譲(ぜんじょう)によって、天子の位を引き継ぐのが天の道理だと考えていたので、周が武力で天下に号令をかけると周の粟(ぞく)を食べることを拒否して、首陽山(しゅようざん)に隠棲しそこで遂に餓死してしまったという。 
子曰、孰謂微生高直、或乞醯焉、乞諸其鄰而与之。
子曰く、孰(たれ)か微生高(びせいこう)を直(ちょく)なりと謂う。或るひと醯(す)を乞う。諸(これ)をその鄰(となり)に乞いてこれに与う。
先生が言われた。誰が微生高を正直(まっすぐ)だなどと言ったのだ。ある人が微生高に酢をもらいに行ったら、彼は隣家から酢を貰ってその人に与えたではないか。
微生高がまっすぐに正直に生きているという評判を聞きつけた孔子は、微生高が酢を求められた際に、正直に「持っていない」と答えずに隣家から貰ってその人に上げたことを批判的に見ている。功利主義的な観点では、「持っていない」と正直に答えるよりも、隣家から酢を借りて欲しい人に与えるほうが合理的だが、孔子は「持っていないのに、持っていたように見せかけた」という意味で微生高の「直」の徳を低く見たのであろう。 
子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之、丘亦恥之、匿怨而友其人、左丘明恥之、丘亦恥之。
子曰く、巧言・令色・足恭(すうきょう)は、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず、丘もまたこれを恥ず。怨みを匿(かく)してその人を友とするは、左丘明これを恥ず、丘もまたこれを恥ず。
先生がいわれた。弁舌が巧み・表情が豊か・やたらに腰が低いというのは、左丘明は恥ずべきことと考えた。丘(孔子)もやはり恥とする。怨みの気持ちを隠してその人と友人になるのは、左丘明は恥と考えた。丘もやはり恥とする。
左丘明は、孔子が敬意を抱いていた人物の一人であるが、詳細は不明である。孔子は言葉が上手くて容姿や表情が演技がかっている「巧言令色」を嫌い、巧言令色によって他人の好意を得ようとする人には「仁」が少ないとまで言っている。過度にうやうやしくて、お世辞やご追従ばかりする人物も信用ができない。また、孔子は左丘明と同じく、自分の内面にある憎悪や嫌悪を押し隠して接近し、うわべだけ仲良くするような人物は恥を知らないと考えたのである。 

 

顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣裘、与朋友共敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施労、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。
顔淵(がんえん)・季路(きろ)侍す(じす)。子曰く、盍ぞ(なんぞ)各々爾(なんじ)の志を言わざるや。子路曰く、願わくは車馬衣裘(いきゅう)を、朋友と共にし、これを敝(やぶ)りて憾(うら)みなからん。顔淵曰く、願わくは善に伐る(ほこる)ことなく、労を施すことなからん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者には安んじられ、朋友には信じられ、少者には懐かしまれん。
顔淵と季路とがお側に仕えていた。先生はいわれた。それぞれお前達の志を話してごらん。子路は言った。車や馬や着物や毛皮の外套(がいとう)を友人と一緒に使って、それが痛んだとしても、気にしないようにしたいものです。顔淵は言った。善い行いを自慢せず、辛いことを人に押し付けないようにしたいものです。子路が言った。出来るならば、どうか先生の志望をお聞かせ下さい先生は答えられた。老人には安心され、友達には信用され、若者には慕われるようになりたいものだね。
孔子の志望と孔子の高弟である顔淵と子路の志望が語られた章であり、万人に役立つ人間でありたいとする孔子の素朴で実直な志が窺われる部分である。子路の理想は共産主義的で、私欲を廃して自分の所有物にこだわらない鷹揚な貴族の気概を語っている。顔淵の理想は善行を矜持として傲慢になることなく、他人の苦労や重荷を肩代わりしてあげたいとする「仁」の気迫に満ちたものである。 
子曰、已矣乎、吾未見能見其過而内自訟者也。
子曰く、已んぬるかな(やんぬるかな)。吾未だ能くその過ちを見て内に自ら訟むる(せむる)者を見ざるなり。
先生が言われた。この世も最早ここまでか。私はまだ自分の過ちを認め、内面で自分を責めることができる人物を見たことがない。
春秋末期に風俗が乱れ、自分の利益や出世ばかりを追い求める人材が栄耀栄華をほしいままにしだしてしまった。そういった憂うべき天下の窮状を見て、孔子は嘆息し「やんぬるかな(もうこの世はおしまいだ)」と言葉にしてしまったのである。自分自身の過失や責任を認めることなく、罪悪感を痛感する良心を失ってしまった人間ばかりになると、社会が混乱し仁の思いやりが摩滅いってしまうということを憂慮した部分である。 
子曰、十室之邑、必有忠信如丘者焉、不如丘之好学也。
子曰く、十室の邑(ゆう)、必ず忠信、丘の如き者あらん。丘の学を好むに如かざるなり。
先生が言われた。10戸しかない村里にも、目上の者に忠実で、約束を裏切らない忠信において、丘(私)と同じくらいの者はいるだろう。ただ、丘の学問を好むということに及ばないだけだ。
孔子が、10軒ほどしか家のない小さな村落であっても、自分と同じくらいに君主や礼に忠実で、一度交わした約束を破らない忠信の人材はいるに違いないと謙遜の言葉を述べている。その一方で、自分ほどに向学心と知的好奇心を持った人物は、そうそういるものではないという矜持を語っているのである。 
 
雍也篇

 

子曰、雍也可使南面、
し、のたまはく、ようや、なんめんせしむべし、
仲弓問子桑伯子、子曰、可也簡、仲弓曰、居敬而行簡、以臨其民、不亦可乎、居簡而行簡、無乃大簡乎、子曰、雍之言然、
ちゅうきゅう、しそうはくしをとふ、し、のたまはく、か、なり、かんなり、ちゅうきゅういはく、けいにゐてかんをおこなひ、もってそのたみにのぞまば、また、か、ならずや、かんにゐてかんをおこなふは、すなはちたいかんなることなからんや、し、のたまはく、ようのげん、しかり、
哀公問、弟子孰爲好學、孔子對曰、有顏囘者、好學、不遷怒、不貮過、不幸短命死矣、今也則亡、未聞好學者也、
あいこう、とふ、ていし、たれかがくをこのむとなすか、こうし、こたへてのたまはく、がんかいなるものあり、がくをこのむ、いかりをうつさず、あやまちをふたたびせず、ふこうたんめいにしてしせり、いまやすなはちなし、いまだがくをこのむものをきかざるなり、
子華使於齊、冉子爲其母請粟、子曰、與之釜、請益、曰、與之臾、冉子與之粟五秉、子曰、赤之適齊也、乘肥馬、衣輕裘、吾聞之也、君子周急不繼富、
しか、せいにつかひす、ぜんし、そのははのためにぞくをこふ、し、のたまはく、これにふをあたへよ、まさんことをこふ、のたまはく、これにゆをあたへよ、ぜんし、これにぞくごへいをあたふ、し、のたまはく、せきのせいにゆくや、ひばにのり、けいきゅうをきたり、われこれをきけり、くんしはきゅうなるにあまねくして、とめるにつがず、
原思爲之宰、與之粟九百、辭、子曰、毋、以與爾鄰里郷黨乎、
げんし、これがさいとなる、これにぞくきゅうひゃくをあたふ、じす、し、のたまはく、なかれ、もってなんぢのりんりきょうとうにあたへんか、

子謂仲弓曰、犂牛之子、辛且角、雖欲勿用、山川其舍諸、
し、ちゅうきゅうにいひてのたまはく、りぎゅうのこも、あかくしてかつかくならば、もちふることなからんとほっすといへども、さんせんそれこれをすてんや、
子曰、囘也、其心三月不違仁、其餘則日月至焉而已矣、
し、のたまはく、かいや、そのこころ、さんげつじんにたがはず、そのよはすなはちじつげつにいたるのみ、
季康子問、仲由可使從政也與、子曰、由也果、於從政乎何有、曰、賜也可使從政也與、曰、賜也達、於從政乎何有、曰、求也可使從政也與、曰、求也藝、於從政乎何有、
きこうし、とふ、ちゅうゆうはせいにしたがはしむべきか、し、のたまはく、ゆうやか、なり、せいにしたがふにおいてかなにかあらん、いはく、しや、せいにしたがはしむべきか、のたまはく、しや、たつなり、せいにしたがふにおいてかなにかあらん、いはく、きゅうや、せいにしたがはしむべきか、のたまはく、きゅうや、げいなり、せいにしたがふにおいてかなにかあらん、
季氏使閔子騫爲費宰、閔子騫曰、善爲我辭焉、如有復我者、則吾必在汶上矣、
きし、びんしけんをしてひのさいたらしめんとす、びんしけん、いはく、よくわがためにじせよ、もしわれをふたたびするものあらば、すなはちわれはかならずぶんのほとりにあらん、
伯牛有疾、子問之、自牘孰其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也、而有斯疾也、斯人也、而有斯疾也、
はくぎゅう、やまひあり、し、これをとふ、まどよりそのてをとり、のたまはく、これなからん、めいなるかな、このひとにしてこのやまひあるや、このひとにしてこのやまひあるや、

子曰、賢哉囘也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、囘也不改其樂、賢哉囘也、
し、のたまはく、けんなるかな、かいや、いったんのし、いっぴょうのいん、ろうこうにあり、ひとはそのうれひにたへず、かいやそのたのしみをあらためず、けんなるかな、かいや、
冉求曰、非不説子之道、力不足也、子曰、力不足者、中道而廢、今女畫、
ぜんきゅう、いはく、しのみちをよろこばざるにあらず、ちからたらざるなり、し、のたまはく、ちからたらざるものは、ちゅうどうにしてはいす、いま、なんぢはかぎれり、
子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒、
し、しかにいひてのたまはく、なんぢ、くんしのじゅとなれ、しょうじんのじゅとなることなかれ、
子游爲武城宰、子曰、女得人焉爾乎、曰、有澹臺滅明者、行不由径、非公事、未嘗至於偃之室也、
しゆう、ぶじょうのさいとなる、し、のたまはく、なんぢ、ひとをえたるか、いはく、たんだいめつめいなるものあり、ゆくにこみちによらず、こうじにあらざれば、いまだかつてえんのしつにいたらざるなり、
子曰、孟之反不伐、奔而殿、將入門、策其馬曰、非敢後也、馬不進也、
し、のたまはく、もうしはん、ほこらず、はしりてでんす、まさにもんにいらんとするや、そのうまにむちうちていはく、あへておくるるにあらざるなり、うますすまざればなりと、

子曰、不有祝鮀之佞、而有宋朝之美、難乎免於今之世矣、
し、のたまはく、しゅくだのねい、あらずして、しこうしてそうちょうのび、あらば、かたいかな、いまのよにまぬかれんこと、
子曰、誰能出不由戸、何莫由斯道也、
し、のたまはく、たれかよくいづるにこによらざらん、なんぞこのみちによることなきや、
子曰、質勝文則野、文勝質則史、文質彬彬、然後君子、
し、のたまはく、しつ、ぶんにかてばすなはちや、なり、ぶん、しつにかてばすなはちし、なり、ぶんしつひんひんとして、しかるのちにくんしなり、
子曰、人之生也直、罔之生也、幸而免、
し、のたまはく、ひとのいくるやなほし、これなくしていくるや、さいはひにしてまぬかるるなり、
子曰、知之者、不如好之者、好之者、不如樂之者、
し、のたまはく、これをしるものは、これをこのむものにしかず、これをこのむものは、これをたのしむものにしかず、

子曰、中人以上、可以語上也、中人以下、不可以語上也、
し、のたまはく、ちゅうじんいじょうは、もってかみをかたるべし、ちゅうじんいかは、もってかみをかたるべからざるなり、
樊遲問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣、
はんち、ちをとふ、し、のたまはく、たみのぎをつとめ、きしんをけいしてこれをとほざく、ちといふべし、じんをとふ、のたまはく、じんしゃはかたきをさきにして、うることをのちにす、じんといふべし、
子曰、知者樂水、仁者樂山、知者動、仁者靜、知者樂、仁者壽、
し、のたまはく、ちしゃはみづをたのしみ、じんしゃはやまをたのしむ、ちしゃはうごき、じんしゃはしづかなり、ちしゃはたのしみ、じんしゃはいのちながし、
子曰、齊一變、至於魯、魯一變、至於道、
し、のたまはく、せい、いっぺんせば、ろにいたらん、ろ、いっぺんせば、みちにいたらん、
子曰、觚不觚、觚哉、觚哉、
し、のたまはく、こ、こ、ならず、こ、ならんや、こ、ならんや、

宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁焉、其從之也、子曰、何爲其然也、君子可逝也、不可陷也、可欺也、不可罔也、
さいが、とひていはく、じんしゃはこれにつげてせいにじんありといふといへども、それこれにしたがはんや、し、のたまはく、なんすれぞそれしからん、くんしはゆかしむべし、おとしいるべからざるなり、あざむくべし、しふべからざるなり、
子曰、君子博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫、
し、のたまはく、くんしはひろくぶんをまなび、これをやくするにれいをもってせば、またもってそむかざるべきか、
子見南子、子路不説、夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之、
し、なんしをみる、しろ、よろこばず、ふうし、これにちかひてのたまはく、わがひなるところは、てん、これをたたん、てん、これをたたん、
子曰、中庸之爲徳也、其至矣乎、民鮮久矣、
し、のたまはく、ちゅうようのとくたるや、それいたれるかな、たみすくなきことひさし、
子貢曰、如有博施於民、而能濟衆、何如、可謂仁乎、子曰、何事於仁、必也聖乎、堯舜其猶病諸、夫仁者己欲立而立人、己欲達而達人、能近取譬、可謂仁之方也已、
しこう、いはく、もし、ひろくたみにほどこして、よくしゅうをすくふあらば、いかん、じんといふべきか、し、のたまはく、なんぞじんをこととせん、かならずやせいか、ぎょうしゅんもそれ、なほこれをやめり、それ、じんしゃはおのれたたんとほっしてひとをたて、おのれたっせんとほっしてひとをたっす、よくちかくたとへをとる、じんのほうといふべきのみ、
 
述而篇

 

子曰、述而不作、信而好古、竊比我於老彭、
し、のたまはく、のべてつくらず、しんじていにしへをこのむ、ひそかにわれをろうほうにひす、
子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦、何有於我哉、
し、のたまはく、もくしてこれをしるし、まなびていとはず、ひとををしへてうまず、なにかわれにあらんや、
子曰、徳之不脩、學之不講、聞義不能徒、不善不能改、是吾憂也、
し、のたまはく、とくのをさまらざる、がくのこうせざる、ぎをききてうつるあたはざる、ふぜんのあらたむるあたはざる、これわがうれひなり、
子之燕居、申申如也、夭夭如也、
しのえんきょするや、しんしんじょたり、ようようじょたり、
子曰、甚矣、吾衰也、久矣、吾不復夢見周公、
し、のたまはく、はなはだしいかな、わがおとろへたるや、ひさしいかな、われまたゆめにしゅうこうをみず、

子曰、志於道、據於徳、依於仁、游於藝、
し、のたまはく、みちにこころざし、とくにより、じんにより、げいにあそぶ、
子曰、自行束脩以上、吾未嘗無誨焉、
し、のたまはく、そくしゅうをおこなふよりいじょうは、われいまだかつてをしふることなくんばあらず、
子曰、不憤不啓、不非不發、舉一偶不以三偶反、則不復也、
し、のたまはく、ふんせずんばけいせず、ひせずんばはっせず、いちぐうをあげてさんぐうをもってかへらざれば、すなはちふたたびせざるなり、
子食於有喪者之側、未嘗飽也、子於是日哭、則不歌、
し、も、あるもののかたはらにしょくすれば、いまだかつてあかざるなり、し、このひにおいてこくすれば、すなはちうたはず、
子謂顏淵曰、用之則行、舍之則臧、唯我與爾有是夫、子路曰、子行三軍、則誰與、子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不與也、必也臨事而懼、好謀而成者也
し、がんえんにいひてのたまはく、これをもちふればすなはちおこなひ、これをすつればすなはちかくる、ただわれとなんぢとこれあるかな、しろ、いはく、し、さんぐんをやらば、すなはちたれとともにせん、し、のたまはく、ぼうこひょうがし、ししてくゆるなきものは、われ、ともにせざるなり、かならずやことにのぞみておそれ、はかりごとをこのみてなさんものなり、

子曰、富而可求也、雖孰鞭之士、吾亦爲之、如不可求、從吾所好、
し、のたまはく、とみにしてもとむべくんば、しつべんのしといへども、われもまたこれをなさん、もし、もとむべからずんば、わがこのむところにしたがはん、
子之所愼、齊戰疾、
しのつつしむところは、せい、せん、しつ、
子在齊、聞韶三月、不知肉味、曰、不圖爲樂之至於斯也、
し、せいにありて、しょうをきくことさんげつ、にくのあぢはひをしらず、のたまはく、はからざりき、がくをつくることのここにいたらんとは、
冉有曰、夫子爲衞君乎、子貢曰、諾、吾將問之、入曰、伯夷叔齊何人也、曰、古之賢人也、曰、怨乎、曰、求仁而得仁、又何怨出曰、夫子不爲也、
ぜんゆう、いはく、ふうしはえいのきみをたすけんか、しこう、いはく、だく、われまさにこれをとはんとす、いりていはく、はくい、しゅくせいはなんびとぞや、のたまはく、いにしへのけんじんなり、いはく、うらみたるか、のたまはく、じんをもとめてじんをえたり、またなにをかうらまんと、いでていはく、ふうしはたすけざるなり、
子曰、飯疏食、飲水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲、
し、のたまはく、そしをくらひ、みづをのみ、ひぢをまげてこれをまくらとす、たのしみもまたそのうちにあり、ふぎにしてとみ、かつ、たふときは、われにおいてふうんのごとし、

子曰、如我數年、五十以學易、可以無大過矣、
し、のたまはく、われにすうねんをかし、ごじゅうにしてもってえきをまなばしめば、もってたいかなかるべし、
子所雅言、詩書、孰禮皆雅言也、
しのがげんするところは、ししょ、しつれいはみながげんなり、
葉公問孔子於子路、子路不對、子曰、女奚不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至云爾、
しょうこう、こうしをしろにとふ、しろ、こたへず、し、のたまはく、なんぢ、なんぞいはざる、そのひととなりや、いきどほりをはっしてしょくをわすれ、たのしみてもってうれひをわすれ、おいのまさにいたらんとするをしらざるのみ、
子曰、我非生而知之者、好古敏以求之者也、
し、のたまはく、われはうまれながらにしてこれをしるものにあらず、いにしへをこのみ、びんにしてもってこれをもとめたるものなり、
子不語怪力亂神、
し、かいりきらんしんをかたらず、

子曰、三人行、必有我師焉、擇其善者而從之、其不善者而改之、
し、のたまはく、さんにんゆけば、かならずわがし、あり、そのぜんなるものをえらびてこれにしたがひ、そのふぜんなるものにして、これをあらたむ、
子曰、天生徳於予、桓魍其如予何、
し、のたまはく、てん、とくをわれにしょうぜり、かんたいそれわれをいかんせん、
子曰、二三子、以我爲隱乎、吾無隱乎爾、吾無行而不與二三子者、之丘也、
し、のたまはく、にさんし、われをもってかくすとなすか、われかくすことなきのみ、われはおこなふとしてにさんしとともにせざるものなし、これきゅうなり、
子以四教、文行忠信、
し、しをもってをしふ、ぶん、こう、ちゅう、しん、
子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、子曰、善人吾不得而見之矣、得見有恆者、斯可矣、忘而爲有、虚而爲盈、約而爲泰、難乎有恆矣、
し、のたまはく、せいじんは、われえてこれをみず、くんししゃをみることをえば、ここにか、なり、し、のたまはく、ぜんにんは、われえてこれをみず、つねあるものをみることをえば、ここにか、なり、なくしてありとなし、むなしくしてみてりとなし、やくにしてたいなりとなす、かたきかな、つねあること、

子釣而不綱、弋不射宿、
しはつりしてこうせず、よくしてしゅくをいず、
子曰、蓋有不知而作之者、我無是也、多聞擇其善者而從之、多聞而識之、知之次也、
し、のたまはく、けだししらずしてこれをつくるものあらん、われはこれなきなり、おほくききてそのよきものをえらびてこれにしたがひ、おほくみてこれをしるす、しるのつぎなり、
互郷難與言、童子見、門人惑、子曰、與其進也、不與其退也、唯何甚、人潔己以進、與其潔也、不保其住也、
ごきょう、ともにいひがたし、どうじまみゆ、もんじんまどふ、し、のたまはく、そのすすむにくみするなり、そのしりぞくにくみせざるなり、ただなんぞはなはだしきや、ひとおのれをきよくしてもってすすまば、そのきよきにくみせん、そのおうをほせざるなり、
子曰、仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣、
し、のたまはく、じん、とほからんや、われ、じんをほっすれば、ここにじんいたる、
陳司敗問、昭公知禮乎、孔子曰、知禮、孔子退、揖巫馬期而進之曰、吾聞、君子不黨、君子亦黨乎、君取於呉、爲同姓、謂之呉孟子、君而知禮、孰不知禮、巫馬期以告、子曰、丘也幸、苟有過、人必知之、
ちんのしはい、とふ、しょうこうはれいをしれるか、こうし、のたまはく、れいをしれり、こうし、しりぞく、ふばきをゆうしてこれをすすめていはく、われきく、くんしはとうせずと、くんしもまたとうするか、きみ、ごにめとる、どうせいなるがために、これをごもうしといふ、きみにしてれいをしらば、たれかれいをしらざらん、ふばき、もってつぐ、し、のたまはく、きゅうや、さいはひなり、いやしくもあやまちあれば、ひと、かならずこれをしる、

子與人歌而善、必使反之、而後和之、
し、ひととうたひてよければ、かならずこれをかへさしめて、しかるのちにこれにわす、
子曰、文莫吾猶人也、躬行君子、則吾未之有得、
し、のたまはく、ぶんはわれ、なほひとのごときことなからんや、くんしをきゅうこうすることは、すなはちわれいまだこれをうることあらず、
子曰、若聖與仁、則吾豈敢、抑爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣、公西華曰、正唯弟子不能學也、
し、のたまはく、せいとじんとのごときは、すなはちわれあにあへてせんや、そもそもこれをまなびていとはず、ひとををしへてうまず、すなはちしかいふといふべきのみ、こうせいか、いはく、まさにただていしまなぶことあたはざるなり、
子疾病、子路請祷、子曰、有諸、子路對曰、有之、誄曰、祷爾于上下神祇、子曰、丘之祷久矣、
しのやまひ、へいなり、しろ、いのらんことをとふ、し、のたまはく、これありや、しろ、こたへていはく、これあり、るいにいはく、なんぢをしょうかのしんぎにいのると、し、のたまはく、きゅうのいのることひさし、
子曰、奢則不孫、儉則固、與其不孫也、寧固、
し、のたまはく、しゃ、なれば、すなはちふそんなり、けんなれば、すなはちこ、なり、そのふそんならんよりは、むしろこ、なれ、

子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚、
し、のたまはく、くんしはたんとしてとうとうたり、しょうじんはとこしなへにせきせきたり、
子温而萬、威而不猛、恭而安、
しはおんにしてれい、い、ありてたけからず、きょうにしてやすし、  
 
泰伯篇

 

子曰、泰伯其可謂至徳也已矣、三以天下讓、民無得而稱焉、
し、のたまはく、たいはくはそれ、しとくといふべきのみ、みたびてんかをもってゆづり、たみえてしょうするなし、
子曰、恭而無禮則勞、愼而無禮則思、勇而無禮則亂、直而無禮則絞、君子篤於親、則民興於仁、故舊不遺、則民不偸、
し、のたまはく、きょうにしてれいなければ、すなはちろうす、しんにしてれいなければ、すなはちしす、ゆうにしてれいなければ、すなはちらんす、ちょくにしてれいなければ、すなはちこうす、くんし、しんにあつければ、すなはちたみじんにおこる、こきゅうわすれざれば、すなはちたみうすからず、
曾子有疾、召門弟子曰、啓予足、啓予手、詩云、戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰、而今而後、吾知免夫、小子、
そうし、やまひあり、もんていしをめしていはく、わがあしをひらけ、わがてをひらけ、しにいふ、せんせんきょうきょうとしてしんえんにのぞむがごとく、はくひょうをふむがごとしと、じこんじご、われまぬかるるをしるかな、しょうし、
曾子有疾、孟敬子問之、曾子言曰、鳥之將死、其鳴也哀、人之將死、其言也善、君子所貴乎道者三、動容貌、斯遠暴慢矣、正顏色、斯近信矣、出辭氣、斯遠鄙倍矣、邊豆之事、則有司存、
そうし、やまひあり、もうけいし、これをとふ、そうし、いひていはく、とりのまさにしなんとするや、そのなくやかなし、ひとのまさにしなんとするや、そのいふやよし、くんしのみちにたふとぶところのものさんあり、ようぼうをうごかしてここにぼうまんにとほざかり、がんしょくをただしくしてここにしんにちかづき、じきをいだしてここにひばいにとほざかる、へんとうのことは、すなはちゆうしそんす、
曾子曰、以能問於不能、以多問於寡、有若無、實若虚、犯而不校、昔者吾友、嘗從事於斯矣、
し、いはく、のうをもってふのうにとひ、おほきをもってすくなきにとひ、あれどもなきがごとく、みつれどもむなしきがごとくし、をかさるるもこうせず、むかしわがとも、かつてここにじゅうじせり、

曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也、
そうし、いはく、もってりくせきのこをたくすべく、もってひゃくりのめいをよすべく、たいせつにのぞみてうばふべからざるや、くんしじんか、くんしじんなり、
曾子曰、士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以爲己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎、
そうし、いはく、しはもってこうきならざるべからず、にんおもくしてみちとほし、じんもっておのれがにんとなす、またおもからずや、ししてのちにやむ、またとほからずや、
子曰、興於詩、立於禮、成於樂、
し、のたまはく、しにおこり、れいにたち、がくになる、
子曰、民可使由之、不可使知之、
し、のたまはく、たみはこれによらしむべし、これをしらしむべからず、
子曰、好勇疾貧亂也、人而不仁、疾之已甚亂也、
し、のたまはく、ゆうをこのみてひんをにくめばらんす、ひとにしてふじんなる、これをにくむことはなはだしければらんす、

子曰、如有周公之才之美、使驕且吝、其餘不足觀也已、
し、のたまはく、もし、しゅうこうのさいのびあるも、きょう、かつ、りんならしめば、そのよはみるにたらざるのみ、
子曰、三年學、不至於穀、不易得也、
し、のたまはく、さんねんまなびて、こくにいたらざるは、えやすからざるなり、
子曰、篤信好學、守死善道、危邦不入、亂邦不居、天下有道則見、無道則隱、邦有道、貧且賤焉、恥也、邦無道、富且貴焉、恥也、
し、のたまはく、あつくしんじてがくをこのみ、しをまもりてみちをよくす、きほうにはいらず、らんほうにはをらず、てんかみちあればすなはちあらはれ、みちなければすなはちかくる、くに、みちあるに、まづしくしてかついやしきははぢなり、くに、みちなきに、とみかつたふときははぢなり、
子曰、不在其位、不謀其政、
し、のたまはく、そのくらゐにあらざれば、そのせいをはからず、
子曰、師摯之始、關雎之亂、洋洋乎盈耳哉、
し、のたまはく、ししのしは、かんしょのらん、ようようことしてみみにみてるかな、

子曰、狂而不直、同而不愿、空空而不信、吾不知之矣、
し、のたまはく、きょうにしてちょくならず、とうにしてげんならず、こうこうとしてしんならざるは、われはこれをしらず、
子曰、學如不及、猶恐失之、
し、のたまはく、がくはおよばざるがごとくするも、なほこれをうしなはんことをおそる、
子曰、巍巍乎、舜禹之有天下也、而不與焉、
し、のたまはく、ぎぎこたり、しゅん、うのてんかをたもつや、しかうしてあづからず、
子曰、大哉、堯之爲君也、巍巍乎、唯天爲大、唯堯則之、蕩蕩乎、民無能名焉、巍巍乎、其有成功也、煥乎、其有文章、
し、のたまはく、だいなるかな、ぎょうのきみたるや、ぎぎことしてただてんをだいなりとなす、ただぎょう、これにのっとる、とうとうことして、たみよくなづくるなし、ぎぎことしてそれせいこうあり、かんことしてそれぶんしょうあり、
舜有臣五人、而天下治、武王曰、予有亂臣十人、孔子曰、才難、不其然乎、唐虞之際、於斯爲盛、有婦人焉、九人而已、三分天下有其二、以服事殷、周之徳、其可謂至徳也已矣、
しゅんにしん、ごにんありて、てんかをさまる、ぶおう、いはく、われにらんしんじゅうにんあり、こうし、いはく、さい、かたし、それしからずや、とうぐのさいは、これよりさかんなりとなす、ふじんあり、くにんのみ、てんかをさんぶんしてそのにをたもち、もっていんにふくじす、しゅうのとくは、それしとくといふべきのみ、

子曰、禹吾無間然矣、菲飲食、而政孝乎鬼神、惡衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、而盡力乎溝洫、禹吾無間然矣、
し、のたまはく、うはわれかんぜんすることなし、いんしょくをうすくして、こうをきしんにいたし、いふくをあしくして、びをふつべんにいたし、きゅうしつをひくくして、ちからをこうきょくにつくす、うはわれかんぜんすることなし、 
 
子罕篇

 

子罕言利與命與仁、
し、まれにりとめいとじんをいふ、
達巷黨人曰、大哉孔子、博學而無所成名、子聞之、謂門弟子曰、吾何執、執御乎、執射乎、吾執御乎、
たっこうとうのひと、いはく、だいなるかなこうし、ひろくまなびてなをなすところなし、し、これをきき、もんていしにいひていはく、われ、なにをかとらん、ぎょをとらんか、しゃをとらんか、われはぎょをとらん、
子曰、麻冕禮也、今也純儉、吾從衆、拝下禮也、今拝乎上泰也、雖違衆、吾從下、
し、のたまはく、まべんはれいなり、いまやじゅんなるはけんなり、われはしゅうにしたがはん、しもにはいするはれいなり、いま、かみにはいするはたいなり、しゅうにたがふといへども、われはしもにしたがはん、
子絶四、毋意、毋必、毋固、毋我、
し、しをたつ、い、なく、ひつ、なく、こ、なく、が、なし、
子、畏於匡、曰、文王既沒、文不在茲乎、天之將喪斯文也、後死者不得與於斯文也、天之未喪斯文也、匡人其如予何、
し、きょうにゐす、のたまはく、ぶんのうすでにぼっし、ぶん、ここにあらざらんや、てんのまさにこのぶんをほろぼさんとするや、こうしのもの、このぶんにあづかるをえざるなり、てんのいまだこのぶんをほろぼさざるや、きょうひとそれわれをいかんせん、

大宰問於子貢曰、夫子聖者與、何其多能也、子貢曰、固天縱之將聖、又多能也、子聞之曰、大宰知我乎、吾少也賤、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也、
たいさい、しこうにとひていはく、ふうしはせいしゃか、なんぞそれたのうなるや、しこう、いはく、もとよりてん、これをゆるしてまさにせいならんとす、また、たのうなり、し、これをききてのたまはく、たいさい、われをしれるか、われわかくしていやし、ゆゑにひじにたのうなり、くんし、た、ならんや、た、ならざるなり、
牢曰、子云、吾不試、故藝、
ろう、いはく、し、いふ、われもちひられず、ゆゑにげいありと、
子曰、吾有知乎哉、無知也、有鄙夫、問於我、空空如也、我叩其兩端而竭焉、
し、のたまはく、われ、しることあらんや、しることなきなり、ひふあり、われにとふに、こうこうじょたり、われそのりょうたんをたたきてつくす、
子曰、鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫、
し、のたまはく、ほうちょういたらず、か、とをいださず、われやんぬるかな、
子見齊衰者、冕衣裳者、與瞽者、見之雖少必作、過之必趨
し、しさいしゃと、べんいしょうしゃと、こしゃをみる、これをみればわかしといへどもかならずたつ、これをすぐればかならずはしる、

顏淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前、忽焉在後、夫子循循然善誘人、博我以文、約我以禮、欲罷不能、既竭吾才、如有所立卓爾、雖欲從之、末由也已、
がんえん、きぜんとしてたんじていはく、これをあふげばいよいよたかく、これをきればいよいよかたし、これをみればまへにあり、こつえんとしてうしろにあり、ふうし、じゅんじゅんぜんとしてよくひとをいざなふ、われをひろむるにぶんをもってし、われをやくするにれいをもってす、やまんとほっすれどもあたはず、すでにわがさいをつくせり、たつところありてたくじたるがごとし、これにしたがはんとほっすといへども、よしなきのみ、
子疾病、子路使門人爲臣、病間曰、久矣哉、由之行詐也、無臣而爲有臣、吾誰欺、欺天乎、且予與其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎、且予縱不得大葬、予死於道路乎、
しのやまひ、へいなり、しろ、もんじんをしてしんたらしむ、やまひかんにしてのたまはく、ひさしいかな、ゆうのいつはりをおこなふや、しんなくしてしんありとなす、われ、たれをかあざむかん、てんをあざむかんや、かつわれそのしんのてにしせんよりは、むしろにさんしのてにしせんか、かつわれたとひたいそうをえざるも、われはどうろにしせんや、
子貢曰、有美玉於斯、鰮賣藏諸、求善賈而沽之哉、沽之哉、我待賈者也、
しこう、いはく、ここにびぎょくあり、ひつにをさめてこれをぞうせんか、ぜんこをもとめてこれをうらんか、し、のたまはく、これをうらんかな、これをうらんかな、われはこをまつものなり、
子欲九夷、或曰、陋、如之何、子曰、君子居之、何陋之有、
し、きゅういにをらんとほっす、あるひといはく、ろうなり、これをいかん、し、のたまはく、くんしこれにをらば、なんのろうかこれあらん、
子曰、吾自衞反魯、然後樂正、雅頌各得其所、
し、のたまはく、われ、えいよりろにかへりて、しかるのちにがくただしく、がしょうおのおのそのところをえたり、

子曰、出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不爲酒困、何有於我哉、
し、のたまはく、いでてはすなはちこうけいにつかへ、いりてはすなはちふけいにつかへ、そうじはあへてつとめずんばあらず、さけのくるしみをなさず、なにをかわれにあらんや、
子在川上曰、逝者如斯夫、不舍晝夜、
し、かはのほとりにありてのたまはく、ゆくものはかくのごときか、ちゅうやをやめず、
子曰、吾未見好徳如好色者也、
し、のたまはく、われいまだ、とくをこのむこといろをこのむがごとくなるものをみざるなり、
子曰、譬如爲山、未成一簣、止吾止也、譬如平地、雖覆一簣、進吾往也、
し、のたまはく、たとへばやまをつくるがごとし、いまだいっきをなさざるも、やむはわがやむなり、たとへばちをたひらかにするがごとし、いっきをくつがへすといへども、すすむはわがゆくなり、
子曰、語之而不惰者、其囘也與、
し、のたまはく、これにつげておこたらざるものは、それかいなるか、

子謂顏淵曰、惜乎、吾見其進也、未見其止也、
し、がんえんをいひてのたまはく、をしいかな、われそのすすむをみる、いまだそのとどまるをみざるなり、
子曰、苗而不秀者有矣夫、秀而不實者有矣夫、
し、のたまはく、なへにしてひいでざるもの、あるかな、ひいでてみのらざるもの、あるかな、
子曰、後生可畏、焉知來者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已、
し、のたまはく、こうせいおそるべし、いづくんぞらいしゃのいまにしかざるをしらんや、しじゅうごじゅうにしてきこゆることなくんば、これまたおそるるにたらざるのみ、
子曰、法語之言、能無從乎、改之爲貴、巽與之言、能無説乎、繹之爲貴、説而不繹、從而不改、吾末如之何也已矣、
し、のたまはく、ほうごのげんは、よくしたがふことなからんや、これをあらたむるをたふとしとなす、そんよのげんは、よくよろこぶことなからんや、これをたづぬるをたふとしとなす、よろこびてたづねず、したがひてあらためず、われこれをいかんともするなきのみ、
子曰、主忠信、毋友不如己者、過則勿憚改、
し、のたまはく、ちゅうしんをしゅとし、おのれにしかざるものをともとすることなかれ、あやまちてはすなはちあらたむるにはばかることなかれ、

子曰、三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也、
し、のたまはく、さんぐんもすいをうばふべきなり、ひっぷもこころざしをうばふべからざるなり、
子曰、衣敝榲袍、與衣狐貉者立、而不恥者、其由也與、不支不求、何用不臧、子路終身誦之、子曰、是道也、何足以臧、
し、のたまはく、やぶれたるうんぽうをきて、こかくをきたるものとたちて、はぢざるものは、それゆうかな、そこなはずむさぼらず、なにをもってかよからざらん、しろ、しゅうしんこれをしょうす、し、のたまはく、このみちや、なんぞもってよしとするにたらん、
子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也、
し、のたまはく、としさむくして、しかるのちにしょうはくのしぼむにおくるるをしる、
子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼、
し、のたまはく、ちしゃはまどはず、じんしゃはうれへず、ゆうしゃはおそれず、
子曰、可與共學、未可與適道、可與適道、未可與立、可與立、未可與權、
し、のたまはく、ともにまなぶべきも、いまだともにみちにゆくべからず、ともにみちにゆくべきも、いまだともにたつべからず、ともにたつべきも、いまだともにはかるべからず、

唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而、子曰、未之思也、夫何遠之有、
とうていのはな、へんとしてそれはんせり、あになんぢをおもはざらんや、しつこれとほければなり、し、のたまはく、いまだこれをおもはざるなり、それなんぞとほきことかこれあらんや、 
 
郷黨篇

 

孔子於郷黨、恂恂如也、似不能言者、其在宗廟朝廷、便便言、唯謹爾、
こうし、きょうとうにおいては、じゅんじゅんじょたり、いふことあたはざるものににたり、そのそうびょうちょうていにあるや、べんべんとしていふ、ただつつしめるのみ、
朝與下大夫言、侃侃如也、與上大夫言、言言如也、君在、叔昔如也、與與如也、
ちょうにしてかたいふといへば、かんかんじょたり、じょうたいふといへば、ぎんぎんじょたり、きみいませば、しゅくせきじょたり、よよじょたり、
君召使擯、色勃如也、足攫如也、揖所與立、左右手、衣前後、蟾如也、趨進、翼如也、賓退、必復命曰、賓不顧矣、
きみ、めしてひんせしむれば、いろ、ぼつじょたり、あし、かくじょたり、ともにたつところにいつすれば、てをさゆうにす、ころものぜんご、せんじょたり、はしりすすむや、よくじょたり、ひん、しりぞくや、かならずふくめいしてのたまはく、ひん、かへりみずと、
入公門、鞠躬如也、如不容、立不中門、行不覆閾、過位、色勃如也、足攫如也、其言似不足者、攝齊升堂、鞠躬如也、屏氣似不息者、出降一等、逞顏色、怡怡如也、沒階趨進、翼如也、復其位、俶惜如也、
こうもんにいるに、きくきゅうじょたり、いれられざるがごとし、たつにもんにちゅうせず、ゆくにしきみをふまず、くらゐをすぐれば、いろ、ぼつじょたり、あし、かくじょたり、そのげんはたらざるものににたり、もすそをかかげてどうにのぼるに、きくきゅうじょたり、きををさめていきせざるものににたり、いでていっとうをくだれば、がんしょくをはなちて、いいじょたり、かいをつくせばはしりすすむこと、よくじょたり、そのくらゐにかへれば、しゅくせきじょたり、
執圭、鞠躬如也、如不勝、上如揖、下如授、勃如戰色、足縮縮如有循、享禮有容色、私覿愉愉如也、
けいをとれば、きくきゅうじょたり、たへざるがごとし、あぐることはいつするがごとし、さぐることはさづくるがごとし、ぼつじょとしてせんしょくあり、あしはしゅくしゅくとしてしたがふあるがごとし、きょうれいにはようしょくあり、してきにはゆゆじょたり、

君子不以紺取飾、紅紫不以爲褻服、當暑袗希谷、必表而出之、輜衣羔裘、素衣麑裘、黄衣狐裘、褻裘長、短右袂、必有寢衣、長一身有半、狐貉之厚以居、去喪無所不佩、非帷裳、必殺之、羔裘玄冠、不以弔、吉月必朝服而朝、
くんしはこんしゅうをもってかざらず、こうしはもってせっぷくとなさず、しょにあたっては、ひとへのちげき、かならずひょうにしてこれをいだす、しいにはこうきゅう、そいにはげいきゅう、こういにはこきゅう、せっきゅうはながし、みぎのたもとをみじかくす、かならずしんいあり、ながさいっしんゆうはん、こかくのあつきもってをる、もをのぞけばおびざるところなし、いしょうにあらざれば、かならずこれをさいす、こうきゅうげんかんしては、もってちょうせず、きつげつにはかならずちょうふくしてちょうす、
齊必有明衣、布、齊必變食、居必遷坐、
さいすればかならずめいいあり、ぬのをす、さいすればかならずしょくをへんじ、をればかならずざをうつす、
食不厭精、膾不厭細、食饐而曷、魚餒而肉敗不食、食惡不食、臭惡不食、失壬不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食、肉雖多、不使勝食氣、惟酒無量、不及亂、沽酒市脯不食、不撤薑食、不多食、祭於公不宿肉、祭肉不出三日、出三日、不食之矣、食不語、寢不言、雖疏食菜羹瓜祭、必齊如也、
しはしらげるをいとはず、なますはほそきをいとはず、しのいしてあいし、うをのたいしてにくのやぶれたるはくらはず、いろのあしきはくらはず、にほひのあしきはくらはず、じんをうしなひたるはくらはず、ときならざるはくらはず、きることただしからざればくらはず、そのしょうをえざればくらはず、にくはおほしといへども、しきにかたしめず、ただ、さけはりょうなし、らんにおよばず、こしゅ、しほはくらはず、はじかみをてっせずしてくらふ、おほくはくらはず、こうにまつればにくをしゅくせしめず、さいにくはさんじつをいださず、さんじつをいづれば、これをくらはず、くふにかたらず、いぬるにいはず、そしさいこう、かといへどもまつる、かならずさいじょたり、
席不正、不坐、
せきただしからざれば、ざせず、
郷人飲酒、杖者出、斯出矣、郷人儺、朝服而立於乍階、
きょうじんにいんしゅに、じょうしゃいづれば、ここにいづ、きょうじんのだにはちょうふくしてそかいにたつ、

問人於他邦、再拝而送之、
ひとをたほうにとはしむるときは、さいはいしてこれをおくる、
康子饋藥、拝而受之曰、丘未達、不敢嘗、
こうし、くすりをおくる、はいしてこれをうけてのたまはく、きゅう、いまだたっせず、あへてなめず、
厩焚、子退朝曰、傷人乎、不問馬、
うまや、やけたり、し、ちょうよりしりぞきてのたまはく、ひとをそこなへるか、うまをとはず、
君賜食、必正席先嘗之、君賜腥、必熟而薦之、君賜生、必畜之、
きみ、しょくをたまふときは、かならずせきをただしくしてまづこれをなむ、きみ、せいをたまふときは、かならずじゅくしてこれをすすむ、きみ、せいをたまふときは、かならずこれをやしなふ、
侍食於君、君祭先飯、
きみにじしょくするときは、きみ、まつればまづはんす、

疾、君視之、東首加朝服、施紳、
やめるとき、きみ、これをみれば、とうしゅしてちょうふくをくはへ、しんをひく、
君命召、不俟駕行矣、
きみ、めいじてめせば、がをまたずしてゆく、
入大廟、毎事問、
たいびょうにいりて、ことごとにとふ、
朋友死、無所歸、曰、於我殯、朋友之饋、雖車馬、非祭肉不拝、
ほうゆうしして、きするところなければ、のたまはく、われにおいてひんせよ、ほうゆうのおくりものは、しゃばといへども、さいにくにあらざればはいせず、
寢不尸、居不容、
いぬるにしせず、をるにかたちつくらず、

見齊衰者、雖狎必變、見冕者與瞽者、雖褻必以貌、凶服者式之、式負版者、有盛饌、必變色而作、迅雷風烈必變、
しさいのものをみれば、なれたりといへどもかならずへんず、べんしゃとこしゃをみれば、なれたりといへども、かならずぼうをもってす、きょうふくしゃにはこれにしょくす、ふはんしゃにしょくす、せいせんあれば、かならずいろをへんじてたつ、じんらいふうれつにはかならずへんず、
升車、必正立執綏、車中不内顧、不疾言、不親指、
くるまにのぼるときは、かならずただしくたちてすいをとる、しゃちゅうにてはないこせず、しつげんせず、したしくゆびささず、
色斯舉矣、翔而後集、曰、山梁雌雉、時哉時哉、子路共之、三嗅而作、
いろみてここにあがり、かけりてしかるのちにとどまる、のたまはく、さんりょうのしち、ときなるかなときなるかな、しろ、これにきょうす、みたびかぎてたつ、 
 
論語

 

(ろんご、拼音: Lúnyǔ ) 孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。孟子大学中庸と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。
四書のひとつである孟子はその言行の主の名が書名であるが、論語の書名が(たとえば「孔子」でなく)論語であるその由来は明らかでない。(漢書巻30芸文志[1]に「門人相與輯而論纂 故謂之 論語」と門人たちが書き付けていた孔子の言葉や問答を、孔子死後に取り集めて論纂し、そこで論語と題したとある。)
別名、「倫語(りんご)」、「輪語」、「円珠経」とも言う。これは、六朝時代の学者、皇侃(おうがん)の著作論語義疏によると、漢代の鄭玄(じょうげん)という学者が論語を以て世務を経綸することが出来る書物だと言った所から、「倫語」という語が出現し、又その説く所は円転極まりないこと車輪の如しというので、「輪語」というと注釈し、「円珠経」については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らし出さないが、珠(玉)は一寸四方の小さいものでも上下四方を照らすものであり、諸家の学説は鏡の如きもので一面しか照らさないが、論語は正に円通極まりないものである、という所から「円珠経」と言うと説かれている。
論語は漢代には魯地方で伝承していた魯論語、斉地方で伝承していた斉論語、孔子の旧家の壁の中から発見された古論語の3派があった。編の数や順序もそれぞれで多少、異なっていたが、後漢末期に魯論語をもとにして現在の形にまとめられた。春秋末期の語法を残しているとの分析もあるが、平勢隆郎はこれを戦国時代に作文されたものとする。
論語は宋学が特に四書をテクストとして重視したことから、科挙の出題科目にもなり、約2000年間学問の主要科目になった。16世紀には、中国大陸で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師によって「孟子」や「大学」など他の典籍と共にフランス語で翻訳され、フランスに伝えられていった。その結果、フランスでは貴族の間で、シノワズリと呼ばれる空前の中国ブームが巻き起こった(中国学も参照)。また当時の思想界において、儒教の易姓革命はヴォルテール、モンテスキュー、ケネーといった当時の思想家に大影響を与え、啓蒙思想の発展に寄与した。日本には、応神天皇の代に百済の王仁と言う人物によって伝えられたとされ、律令時代の官吏必読の書となった。 
「論語」は「孔子」の著書なのか
「論語」を孔子の著書と思っている人がいますがそうではありません。
孔子の没後、五十年から百年の間に、弟子たちが孔子と問答をして教えられた言葉や、孔子がいろいろな国をまわった時にその国の君主と行った対話さらには、弟子が孔子に対して自分の意見を述べた言葉などを集めて全十巻二十編に編纂されたものが「論語」なのです。
したがって、「論語」は孔子を中心とする「言行録」であり、それは「大学」「中庸」「孟子」とならぶ、中国古典のなかの筆頭として今の世にまで残るものです。
それではこのなかで何が語られているのでしょうか。それは取りも直さず「道徳」が中心であります。ただ、その道徳は「人としての生き方」と言いかえた方がより適切であるかのごとく、その内容は、現実的で、人間的で、かつ、これほどまでに日常的な生活や身近な仕事、そして政治問題について配慮のゆきとどいた古典は、まったく珍しいといわれています。
それでは、論語全十巻の章立てをみてみましょう。
巻第一 学而第一 為政第二 / 巻第二 八いつ第三 里仁第四 / 巻第三 公冶長第五 雍也第六 / 巻第四 述而第七 泰伯第八 / 巻第五 子罕第九 郷黨第十 / 巻第六 先進第十一 顔淵第十二 / 巻第七 子路第十三 憲問第十四 / 巻第八 衞靈公第十五 季氏第十六 / 巻第九 陽貨第十七 微子第十八 / 巻第十 子張第十九 堯曰第二十
ご覧のように「論語」の編纂様式は、その配列・順序にも格別の意味がなく「学而」「為政」といった編名も、編の内容を示すものではなく、ただその編の最初の二文字を採ったに過ぎません。こんな例は、恐らく他のどの国の古典にも見ることができないでしょう。 
論語の日本伝播
論語は今から約2550年前の中国で成立し、やがて朝鮮半島を経由して日本へ伝わります。いつ日本に伝わったものか、正確なことは分かっていません。ただ、論語が日本へ伝わったことに関する伝承は記録に遺されています。古事記の中に、当時朝鮮半島にあった百済の国から王仁(ワニ)というものが日本に渡り、論語を伝えた、との記載です。これは大日本史(二一三)にも引かれていますので、その一文をご紹介します。下の漢文掲載がそれです。意訳しておきます。
応神天皇15年(5世紀前後とされる)に、朝鮮の百済の国から阿直岐(あちき)という人物を派遣して、良馬を献上してきた。天皇は阿直岐に命じてこの馬を飼育させた。この阿直岐は中国の書物に通じており、天皇は皇太子をこれにつけて学ばせた。そして阿直岐に次のようにたずねる、「あなたのくにの博士の中で、あなたよりもすぐれた人物はいるのか」と。これに対して阿直岐は次のように答えた。「王仁(わに)という人物がおります。かれは我が国の優秀なる人物です」と。天皇はそこで、荒田別巫別という人物をやって、王仁を日本へ呼ばせた。王仁はその求めに応じてやってきた。論語十巻と千字文一巻を天皇に献上した。天皇はそこで皇太子を王仁を師として学ばせた。
この伝承によると、朝鮮半島百済からやってきた王仁(わに)が日本に論語を伝えたことになります。この時代は日本の歴史で記紀の時代(古事記や日本書紀に記される伝説時代)と呼ばれる時代ですが、応神天皇は神功皇后の子で、記紀によると神功皇后は朝鮮半島積極的に関わった人物で、その子応神天皇時代朝鮮半島からの多くの技術者を日本に迎え入れたので名高い天皇です。
2008年神功皇后御陵とされる御陵の宮内庁調査に、考古学会の参加が認められたとの報道がありましたが、神k功皇后の実在を含め、当時の姿が次第に解明されていくと思います。
王仁(わに)は河内に土地をもらい定住したとされ、墓も河内國交野郡藤坂にある(夏山雑談江戸随筆)との伝承があります。古事記では和邇吉師と記されています。コンサイス日本人名事典によりますと、西文(かわちのふみうじ)の祖で、河内国古市(大阪府羽曳野市古市西琳寺付近)に本居があったとする。補足)近江の和邇(わに)
勧学堂論語普及会を置いています大津市南志賀1丁目は天智天皇の近江京の時代に置かれたまだ名称不詳ですが南滋賀廃寺という大きな寺院があった一角です。ここに勧学堂がもうけられ、学問に励んでいた、その由来に基づき名づけさせていただいたものですが、大津市の北比叡山と比良山の間に位置するところに和邇という地名があります。直ぐ近くには小野集落があり、遣隋使で中国に派遣された小野妹子を出した小野氏の里です。この和邇も論語を日本に伝えたとされる王仁と関連のある一族が住んだのではないかと思われます。ちなみにこの地は琵琶湖に接した海上交通の要衝であり、また湖西添いに福井や若狭に通じ、さらに西の山道を経て、京都に入る北国街道の最短道が通じています。江戸時代松尾芭蕉もよく利用した道のようで、ここから大原にでて、京へ入ります。この湖西山麓付近にあります古墳は朝鮮半島と類似性が高く、帰化人集落が形成されていたとされます。
大津宮について:近江宮(おうみのみや)と称されてた。大津宮の呼称は扶桑略記(叡山僧皇円著・鎌倉前期)に「天皇寝大津宮」としたのがはじめとされるようです。また唐崎(辛崎)は琵琶湖海運の主要港であり、古津とも呼ばれ、それが大津になったとの説があります。
 
孔子

 

孔子生誕の地
紀元前552年「孔子」魯の国「昌平郷」に生まれる。現、中華民国、山東(さんとう)省曲阜(きょくふ)市です。ここは、中国の古代、周王朝の時代に今の山東省の西南部一帯を領土としていた魯国(紀元前1055〜前249)の都が置かれていたところです。
曲阜市内には数多く孔子にかかわりのある遺跡が存在します。そのなかで最も主要なものは「三孔」と総称している孔子廟(孔廟)、孔府、孔林の三か所でしょう。
孔子廟は、孔子の死後の神霊を祭る廟所(みたまや)で、現在の曲阜市は、この孔子廟を中心にして市街地が形成されています。
孔府は、孔子の直系子孫である代々の宗家の住居と役所を兼ねた広大なお屋敷です。
また、市街地の北方に広がる孔林は今日まで孔子一族だけが葬られる墓域で孔子の墓もこの孔林の中央に築かれています。
孔子の曲阜(昌平郷)での住まいは、闕里(けつり)と呼ばれる街外れの場末の土地でした。闕里の闕、桜門の意味ですから、きっと近くに桜の立つ曲阜城内の一角だったのでしょう。
やがて、孔子の没後、孔子の開いた儒教というものが中国全土をあげて学ばれるようになり、孔子その人への尊敬も高まってくると、孔子を祀る孔家の家廟も大規模化し、ついには、国家をあげて整備するということになってきます。
その結果、はじめはささやかな孔家の家廟も、やがて北中国で一、二を競う大建造物となって、今日の孔子廟となったのです。
この曲阜の孔子廟にある「大成殿」は、「明」「清」時代の天子の宮城である北京の「故宮」(紫禁城)と山東省泰安市に泰山の神を祭る「岱廟」とともに、中国の三大建造物と呼ばれています。
儒教は、中国はもとより朝鮮半島でも、ベトナムでも、そして、日本でも東アジア一帯で長く国教としての地位を得ていましたので東アジアのどの都市においても概ね孔子廟が造られており、ここ曲阜の孔子廟は、その総本山にあたるわけです。
日本では、五代将軍「綱吉」が湯島の聖堂に「孔子廟」をつくり、孔子を祀るとともに幕府の学問所「昌平黌」を設立しました。これが後に「昌平学校」となり、明治十年(西暦1877年)、現在の東京大学になったのです。そのほか、会津藩校「日新館」にある孔子廟、栃木県足利市の「足利学校」とか、佐賀県多久市の「多久聖廟」など、全国に十四の孔子廟があり、これらはいずれも日本での孔子廟の遺址です。
孔子の古都、曲阜一帯は孔子・孟子をはじめ儒学史関係の史蹟にみちみちています。しかし、清朝末期以来のうちつづく戦乱や不安定な世情の中で往時のすがたをすっかり改めてしまったものも少なくないといわれます。
そんななか、曲阜の市街を離れた東郊の農村部に「梁公林」という遺蹟があります。
孔子の父と母が眠れる場所。市街の東方十三キロ、坊山の北の梁公林村です。 
孔子の父母
孔子は、若くして父母と死に別れていますので「論語」のなかでも自らが父母を語ったところは一章もないようです。
「史記」(孔子世家)によれば、孔子の父の名は「叔梁こつ」(しゅくりょうこつ)<注>こつ:糸へんに乞と書く。という人物で「叔梁」が字、「こつ」が名で「孔こつ」と言う士人でした。また母の名は「顔徴在」(がんちょうざい)と記されております。
ところが、続いて「史記」には、
孔こつ、顔氏の女(むすめ)と野合して孔子を生む。と、孔子が「野合の子」であるという、驚くような記述が現れます。
野合の子というのは、正規の結婚なくして生まれた子供ということで父と顔家の娘さんとの結婚はまわりの人が認めない関係だったのです。
父「孔かつ」はその子、孔子が三歳のころに世を去っていますので、孔子の母は、孔家から嫁として認知されないまま、幼い孔子をつれて曲阜城内の闕里(けつり)という場末の街外れの土地で母子家庭の暮らしを始めたとされています。 
「孔子」若き日の貧苦
孔子は、姓を「孔」、名を「丘」といいました。
しかし、孔子が「孔丘」と呼ばれるようになったのは、孔子が孔一族の者であると孔家から認知された十七歳ころのようです。それまでは何と名乗っていたかは不明であり、とにかく孔家から認知されるまでの間は、行き来も途絶え、孔子は父の墓がどこにあるかさえも知らないという母と子の二人の大変貧しい暮らしであったようです。
それでは、どうして孔子が孔家から父「孔こつ」の跡取りとして認知されたのでしょうか。それは、孔子が十七歳の頃に母が死去したからです。
この時から孔子も晴れて士人の仲間入りをしたのですが、もともと「野合の子」であったという事実はいつまでも孔子につきまとい世間からは白い眼で見られておりました。孔家に認知されてからも、世の人々の偏見と、虐げられた貧困生活等、なにせ、早年時代の孔子に対する世間の風は、けっして暖かくなかったようです。
「論語」の中で、孔子はこの時期の心情をつぎのように語っています。
吾少くして賤し。故に鄙事に多能なり。(子罕編)(われ、わかくしていやし。ゆえに、ひじにたのうなり。)
若い頃は貧困で、生活のためにさまざまな仕事をせざるを得なかった。そのために、つまらぬ仕事をいろいろ覚えてしまったのだ。
貧にして怨むこと無きは難く、富みて驕ること無きは易し。(憲問編)(ひんにしてうらむことなきはかたく、とみておごることなきはやすし。)
裕福になって謙虚でいるのはたやすいことだが、貧乏していて人や世間を怨まずにいられるのは容易ではない。 
「孔子」の一生
つぎの語句は「論語」の中にあるあまりにも有名な孔子の言葉です。
子の曰く、吾れ
十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。(為政編)
わたしは十五歳で学問に志し、
三十になって独立した立場を持ち、
四十になってあれこれと迷わず、
五十になって天命(人間の力を超えた運命)をわきまえ、
六十になって人の言葉がすなおに聞かれ、
七十になると思うままにふるまって、
それで道をはずれないようになった。
十有五にして学に志す
孔子は、十五歳で学への志しを持ち、いったい何を学んだのでしょう。今日に至るまで、孔子の教えを「儒教」「儒学」といいその教えを奉ずる人を「儒者」「儒家」と呼んでいます。それではこの「儒」とはどのような意味であったのでしょう。
「墨子」とか「荘子」に書かれている「儒」の行動について、これを要約してみますと、そもそも「儒」と呼ばれる人々がいて、このひとたちは民間の冠婚葬祭、とりわけ、葬儀に関与する職業集団であったらしいとの記述があります。このことからしておそらく儒と呼ばれる集団は民間での冠婚葬祭ことに、葬礼の指導者であり、葬式があると雇われていって葬儀に関する一切の儀式を導き、同時に、葬礼でのさまざまな実務の執行者だったと思われています。
そして、孔子の学派が世に言う儒家と呼ばれていたのは、孔子その人が儒の集団の出身だったからだと思われています。この場合、父方の孔家は士家で儒とは関係が薄いのですが、おそらく、母方の顔徴在の一族が儒であったのではないかといわれています。
そこで孔子は民間の儒の集団から育って民間での祭礼儀式に通じたばかりか、彼が生まれ育った周王朝時代の魯の国に伝わる周王朝の祭礼儀式(「周の礼」:ときの身分制度のなかで、それぞれの身分に応じた儀式祭礼等のやりかたを定めたもの。)を学び取っていたようです。
三十にして立つ
孔子は「三十にして立つ」と語ったように三十歳の頃には学問の師として世に立ち、弟子達も周囲に集まってきていたようです。弟子達の中には仕官の手立てを求めて入門してくる者もあるのですが、何よりも当の孔子自身が政界への登用を願っていたようです。
しかし孔子は、政治の中枢に参画して自らが信ずる正しい道を実現したいとの宿願を魯の国内でもなかなか達成できず、また、隣の国斉に自分自身を売り込みにいってもうまくいかず、結局、四十から五十歳代にかけて孔子はあせっていたとも言われています。
四十にして惑わず
そうなると、孔子が「四十にして惑わず」と語ったのは、どういうことになるのでしょう。きっと、そうした動揺を自ら戒めてとかく心を惑わせがちな四十歳代、その時には心を引き締めて「四十にして惑わざれ」と言い残したのかもしれません。
五十にして天命を知る
その後、宿願であった為政者としての孔子の経歴は、魯の国で中都の宰と司空・大司冦をつとめた、五十二歳から五十六歳までのわずか五年間でしかありませんでした。
そして、孔子は、時の敵対勢力の弱体化に失敗し、主だった弟子を従えて魯の国を去り、衛・曹・宋・鄭・陳などの諸国を十四年間にわたり放浪したのです。
六十にして耳順がう
晩年は孔子六十八歳のときに妻が死去し、その翌年六十九歳で魯に帰国。そして、この年に長男「孔鯉」が死去すると同時に孫の「子思」が生まれ、以後は、もっぱら古典の整理に従事します。
七十にして心の欲する所に従う
孔子、七十一歳のとき弟子の「顔回」が死去。七十二歳のとき同じく弟子の「宰我」が斉で戦死。七十三歳のとき弟子「子路」が衛で戦死。そして、七十四歳にして孔子はこの世を去ります。弟子たちは、三年間の心の喪に服した後、去っていきました。「子貢」のみがさらに三年の喪に服したといわれています。 
孔子2
(前551?-479) 孔子は今を遡る約2550年前の人物です。姓を孔、名を丘と言う。親しみを込めて人が呼ぶ時に用いる字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)と言う。生まれ年については前552年とも551年、また別の説もある。
生まれは現在の中国山東省にあった魯(ろ)国出身。魯国は父の名を叔梁きつ(糸篇に乞うの字)、母は顔氏とされる。生まれて七歳(八歳とも)の頃、父に死なれ貧しい生活を余儀なくされる。そのためにいろんな仕事に従事したとされる。十五歳の時に学問で身を立てようと決意したと論語に見える。以来学問に励み、世の中を平穏に保つには、周の国を作った文王武王の道を実践することであるとの結論に達し、その実現のために奔走する。しかし、魯の国では国主は名ばかりで、実権は家臣が握り、その家臣とても家来に地位を脅かされるのが現実の、混乱状態にあった。魯に絶望した孔子は、35歳頃、隣国の斉に趣き、仕官を求める。国主の景公(けいこう)は迎え入れようとするが、補佐をしていた晏子(あんし)の意外な反対に遭い、失意の内に魯へと戻る。
魯へ戻った孔子は弟子達へ仁(じん・思いやり)を第一とする教育にあたり、仕官の道を待つ。そして40歳の頃魯に迎え入れられるが思うように仕事ができなかったようで、当時魯の実権を持っていた季氏に背むいた公山不擾(こうざんふじょう)の誘いに乗りそうになるなど、孔子自身も心が揺れる。
孔子諸国を遍歴(54歳〜68歳ころ)
孔子が54歳の頃(前496)、斉の国から届け有られた美しく装った女性舞踊に魯の指導者達は明け暮れ、失望した孔子は魯を去ることを決意、孔子を採用してくれる国々を求めて諸国を遍歴する。この間盗賊と間違えられ襲撃されそうになるなど苦難の連続であったが、天が与えた道を実践する自分を誰も殺すことができない、との強い自信のもと難局を乗り切る。この間孔子が遍歴した国は、衛→陳→衛→宋→陳→衛→陳→蔡→葉→衛→魯
孔子弟子の指導にあたり官職を求めず
68歳で魯に戻った孔子は、官職に就くことを求めず、弟子の教育に専念していく。子の鯉やもっとも信頼を寄せていた弟子の顔淵、さらに勇敢で通った子路を失うなど失意が続いた。しかし孔子はそうした状況にあっても自己完成を怠らず、人の道を追求した。
前479年、孔子はこの世を去る、前551年生誕説に基づくと73歳であった。 
 
論語の解釈

 

大学の「修身」「斉家」「治国」「平天下」
「大学」とは、孔子が弟子の曽子に教えたことを、曽子の弟子がまとめたものです。
「大学」の最初にこういう言葉があります。
「大学の道は明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるにあり。」ここでの「大学」というのは、高等教育の「大学」ではありません。「大学」というのは、「大を学ぶ」ということです。
大とは何か。それは天です。天が最も大きいのです。
では天の何を学ぶのか。それは天の徳を学ぶということです。
天を学ぶには「明徳」、すなわち天から与えられた徳性を磨き上げ、「民親」、つまり自分が磨き上げた徳性を周りの人々にも広め、ありは自分の知らないうちに身につけた徳性によって、人々に影響を与える。そして、これらを至高至善の地位に保たせることが重要なのです。
これが最も大切なことで、「甲」の部分に当ります。例えば、魚を採る際も甲の部分を持って、網を引っ張れば、たくさんの魚が採れますね。
ではどうやってこれを身につけるのかということですが、「大学」に「八条目」という八つのことについて書いてあります。
「物に格る(格物)」、「知を致す(致知)」、「意を誠にする(誠意)」、「心を正しくする(正心)」、「身を修める(修身)」、「家を斉える(斉家)」、「国を治める(治国)」、「天下を平らかにする(平天下)」。
この八つの項目は、単に「大学」を読むだけでは実現できるものではなく実践しなければなりません。
まず一番の基本は、「物に格る」ということです。
これは物事の道理を理解することで、その本質を究明するという意味です。
また「格」というのは、「取り除く」という意味を持っています。つまり心の中にある貪り、怒り、高慢、嫉妬、欲といった悪いものを取り除くのです。
例えば、「貪る」という字を思い出してください。「貪」という字の一画をずらせば「貧しい」の「貧」になりますね。貧乏の「貧」です。
つまり何でも「欲しい、欲しい」と欲張る人は「貧乏」なのです。そして欲に駆られる人というのは、自らをコントロールできず、やがて犯罪に走ります。これを取り除かなければならないのです。
二つ目に「知を致す」。
「知を極める」とうことです。
ここでいう「知」というのは学問上の知識ではありません。人間が生まれながらに持つ「知恵」です。「致」とは引き起こすという意味を持ちます。
つまり、知恵を発揮しながら物事を進めていけば全て成功するわけです。
そうすれば、心の中に「良心」が現れます。「良心」とは自分を騙さない、他人を騙さないということです。
他人を騙そうとすると、「自分は悪いことをしている」と感じながらも、「今回限りにしよう」といった言い訳を心の中で探し、自分を騙そうとするのです。
三つ目に「意を誠にする」。
「意」とは自分の考え方、「誠」は嘘を吐かないということです。自分の発する主張に責任を持って、正直に熱心に物事に当たるという心を言います。
四つ目に「心を正しくする」。
「正しい」という字を考えてみてください。「正」というのは「一」と「止」という字でできています。「一」とは心、すなわち「良心」を指します。私たちは常に「良心」に止まることで、正しく行動できるのです。
以上の四つを極めれば、儒学における極めて高いレベルに達することができます。それは「内聖外王」、つまり「内なる自分の徳を高める」ことが同時に「外の他人を律する」ことになるわけです。
「内聖外王」についてさらに詳しく説明しますと、まず挙げられるのは「身を修める」ということです。
「修身」を、さらに深く追求すると、自分の心を修めるということになります。
心を修めるというのは、自分の間違った考えを修正していくということです。一方、身を修めるということは自分の間違った行動を修正していくということにもなります。
若干、意味が異なるかもしれませんが、自分の行動を正すには、まず心を正すのが先ですよね。心を修めて初めて身を修められるのです。
そして「家を斉える」。
身を修めることができれば、夫婦、親、兄弟姉妹といった家族、つまり自分の一番身近な人々にもいい影響を与えることができます。家族はそれぞれに知識の量も能力もバラバラです。
しかし徳によって一つになれるのです。そして徳によって一つになれば、やがて、社会全体にもいい影響を与えることができるのです。つまり「国を治める」ということです。
よく「国家」という言葉を耳にしますが、「国」というのは「家」なのです。たくさんの「家」があるから「国」が成り立つのです。
言い換えれば、「家」の中が荒れていれば、「国」も荒れているということになります。
「国」の足腰は「家」なのです。そして「家」の足腰になるのは「自分」です。
儒学の思想というのは何よりまず自分を変えることからスタートします。自分を変えることができたら、自然と身の回りの人々にもいい影響を与え、国全体が栄え、そして争いや、物の奪い合いがなくなり、「天下を平かにする」、つまり平和な世の中が築けるのです。 
論語の「知」について
数年前から、中国の子供たちと一緒に漢語を学んでいる。中国人の老師による「語文」の教科書を使っての授業であるから、日本に居ながらにして、50歳若返っての留学みたいなものである。いずれの国であれ、この年になって小学生になるなどということはありえないことなので、頼んで入れてもらった。昨年小学校を卒業して、現在は初中の一年である。
中学に入ると古典の学習が始まる。有名な漢詩は小学2年から習い始めるが、文章は始めてである。最初に学ぶのは、当然(或いは意外にも)論語である。「我が国古代の偉大な思想家、教育家」(註1)と紹介しているから、孔子の地位は揺らいでいない。「しーのたまわくー」と日本人が読むところを、「つーゆえー」と声をそろえて声調つきで読むから、なかなかリズミカルで耳に快い。
ところでそのなかに、「知」とは何かについて子路に教える、誰でも知っている有名な句がある。下に原文と訓読を示そう。
子曰:“由、誨女知之乎?知之為知之、不知為不知、是知也。”(《為政》)(註1)
子曰く、由(ユウ)、女(ナンジ)に之を知ることを誨(オシ)えん乎(カ)。之を知るを之を知ると為(ナ)し、知らざるを知らずと為す。是れ知る也。(註2)
短い句の中に、「知」という字が6回も出てくる。(zhi)という音なのだが、その目的語として3回出てくる「之」も同じ音であることが、言葉遊び的面白さを増している。訓読では日本語の特性から肯定形と否定形を同じ音では表わせないが、せめて「知之」3回は「之を知る」と、「不知」2回は「知らざる」と統一的に読みたいものである。
しかしこの文を書こうと思ったのはそのことではない。老師の後について、小朋友たちと一緒に声をそろえて読んでいた私は、最後にびっくりしてしまったのである。さきほど「知」も「之」も同じ(zhi)だと言ったが、どちらも平らな1声だから、(zhi1)と表わした方がよい。ところが最後の「知」を老師は(zhi4)とすとんと落とす4声で読まれたのである。この「知」は現在なら「智」と書くところで「智慧」という意味だという説明である。
これを、最初の5回の「知」は動詞で、最後のは名詞だと言ってもよいかもしれないが、むしろ、最初の5回の「知」は個々の具体的な「知る」ことを指し、最後の「知」はいわばレベルのちがうメタ関係にある「知るための知」ととらえたい。孔子は子路に学問の秘訣を教えたのである。訓読では最後の「知」も「知る」と動詞として読んでいて、そういう立体的構造は明らかでない。日本人の書いた論語の解説書は多いが、最後の「知」は発音が異なる(という説もある)と注釈したものは寡聞にして知らない。気づいた人は教えてください。
日本人は高校の漢文の時間に「知る」として教わり、中国人は初中の語文の時間に「智慧」として教わる。中国人の解釈の方が正しいと言うつもりはないが、両方の教育を受けた人でないと、この微妙な差にはなかなか気づかないだろう。これも異文化体験の一つである。
(註1) 九年義務教育三年制初級中学教科書語文第一冊
(註2) 吉川幸次郎吉川幸次郎全集第四巻論語
論語
(日経新聞のコラム引用) 先生は言われた。「勉強したことを、時がきたら実践して復習する。うれしいじゃないか。遠くからきた人と知りあい、友だちとなる。楽しいじゃないか。他人に理解してもらえなくても、恨まない。りっぱな人間といえるじゃないか。「わしは今でこそ先生と呼ばれておるが、14まで学問をしなかった。29まで自立できなかった。39まで自信がなかった。49まで天命をわきまえなかった。59まで人の意見をすなおに聞けなかった。69までは、何でも自分がしたいことをすると、ついやりすぎてしまった。ま、人生なんてそんなものだよ。」
論語に最初にふれたのは高校の漢文の授業である。当然のことながら何もわからなかったし、もちろん面白くもなんともなかった。また当時の若者たちのあいだにはなぜか反体制の気分が満ち溢れていたので、少し上の全共闘世代がとてもかっこよくみえていた私にとって論語は保守反動の理論でしかなく、ナンセンスかつ学ぶに値しないものだった。
論語を読んでみたいと思いはじめたのは、中島敦の弟子を読んでからのことである。弟子は、孔子の弟子である子路を主人公とした短編小説だが、そのなかに登場する孔子は、比類なき聖人君子でありながら、同時に、ほんの一点だが本質的な“いかがわしさ”を持つ人物として描かれていた。この人間くさい人物の言行録としての論語であれば、読んでみたいと思った。
その後は、岩波文庫の論語を手元において、ときどき思い出したように読んでいる。内容はいまだによくわからないが、ひとつわかったことは、論語にはさまざまな解釈の仕方があるということだ。教科書に出てくるような堅苦しい解釈だけではなく、さまざまな人がさまざまなやり方で解釈をしている。聖書も同じだが、どうやら古典とはそういうものらしい。
冒頭にご紹介したのは、日経新聞(2010.12.19)に載った加藤徹のエッセイからの抜粋である。最初のほうは「学而篇」の最初の一節だ。以下、白文と読み下し文を載せておく。
子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。
子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。
よくある解釈は、これを成功の条件とみなすことである。立身出世するためには、子供のときから学問にはげみ、よく復習をし、友人をたくさん持ち、人を恨んだりしてはいけない、ということである。
だが加藤徹はそうした解釈をしない。これを人生賛歌だとみなすのである。そして加藤はこう解説する。
「まるで孔子の笑い声が聞こえてくるようだ。人生は楽しいものなんだ。つらく、さびしくても、いつかきっと友だちがあらわれる。前向きに生きよう。そんなメッセージが伝わってくる。ふつうの古典は、人生の苦しみや悲しみから、お説教をはじめる。それにくらべ論語のこの能天気な明るさは、なんだろう。」
加藤によると、論語とは「能天気な明るさ」をもつ古典なのである。
あとのほうの白文と読み下し文は以下のとおりだ。
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩
子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
論語でもっとも有名な部分だが、一般的な解釈はおよそ次のようなものである。
古代中国の封建社会では20歳で成人として認められ、30歳で妻帯して社会的に自立するのが普通であったが、孔子もその社会慣習に拠って30歳で立ったと考えられる。40歳で惑わないという事については、孔子の波乱の人生と故国・魯の政治状況を省みると、魯の正統な君主である昭公への忠誠と忠誠を貫くために帰国することを迷わないと解釈することも出来る。(略)この篇は、私達が人生を如何に生きるべきかという「一般論としての人生の指標」として読むこともできるが、孔子の実際の人生を踏まえて読むと「孔子の実体験から生まれた比類なき道標」として解釈することもできる。
まことにつまらない。しかし加藤の解釈によると、たしかにこれは「一般論としての人生の指標」であり「孔子の実体験から生まれた比類なき道標」ではあるのだが、しかし、その含意は一般に考えられているものとはまったく違う。ようするに、ま、人生なんてそんなもの、なのである。
エッセイの最後を加藤はこう締めくくっている。
「論語は奥深い。四季ごとに表情を変える富士山のように、論語も読者の人生の春夏秋冬にあわせて違う顔を見せる。一生の友のような、自分とよりそう一冊をもつこと。それも読書の醍醐味かもしれない。」
私自身、論語を読むなかで感じていた本質的な“いかがわしさ”をマイナスのイメージでみることが、このごろは少なくなってきた。論語のもついかがわしさこそが人間の本質であり、それはそれでよしと、ようやく思えてきたからだろう。 
 
論語と日本人

 

「論語」と「日本人の美徳」について
ところで「論語」が日本に伝えられたのは、何時頃だったのでしょうか?日本書紀によれば、応神天皇の十六年(西暦285年)に、百済の王仁が来日し、「論語」十巻と「千字文」を朝廷に献上したとあります。推古天皇の十二年(西暦604年)に、聖徳太子が「十七条の憲法」を制定し、その第一条にある「和を以って貴しと為す」の有名な言葉は「論語」学而編にある「禮之用和爲貴(礼の用は和を貴しと為す)」を参考にしたものといわれています。当時の王侯貴族はかなり「論語」を精読していたことがこれでよくわかります。
その後・・・・・
「奈良・平安時代」に入ると皇族、貴族、僧侶を前に、文章(もんじょう)が「論語」の講義をしたことが、記録に残っていますし、この頃、すでに中国にならって、宮中では孔子を祀る「釈奠(せきてん)」が行われていたといいます。
「鎌倉」から「戦国時代」の武家政治になると、「論語」は「孫子の兵法」などとともに武将や僧侶たちの愛読書になりました。
「江戸時代」に入ると「論語」は、さらに普及し徳川家康は治世の要として学問を奨励する一方、自らも京都から林羅山などの学者を招き、中国の古典「四書五経」(四書:論語・大学・中庸・孟子、五経:易経・書経・詩経・春秋・礼記)を学んだといいます。
五代将軍綱吉は幕府の学問所「昌平黌」(現在の東京大学)を設立し、また全国の各藩に命じて藩校をつくらせて、武士に勉学の道を講じさせ、その上、百姓・町民などの教育としては、各藩に寺子屋を作らせました。寺子屋の数は、全国で一万五千余もあったというから驚きです。江戸時代の国民の識字率は、おそらく世界一だったろうといわれ、これが江戸文化の華を咲かせたに違いありません。
この時代の教科書といえば藩校では「四書五経」、寺子屋では「手習い」(習字)と「論語」だったと言われます。子供達が「子曰く・・・」と声を張り上げている、のどかな江戸の様子が目に浮かんできます。
「子曰く・・・」
朋あり、遠方より来る、また楽しからずや。
義を見てせざるは、勇なきなり。
過てば即ち改むるに憚ることなかれ。
故きを温ねて新しきを知る。
巧言令色、鮮なし仁。
一を聞いて十を知る。
己の欲せざる所は、人に施すことなかれ。
そして「明治維新」から「昭和の終戦」に至るまで「論語」は「人生の指針」として、また「生活の規範」として生き続けてきたのでした。「論語」の内容は、決して学術専門書のようなものではなく、孔子が毎日弟子と話し合うレベルで平易に書かれています。「落語」で横丁の隠居が、熊さん、八ッつぁんに話して聞かせるような気安さが感じられます。それでなければ江戸時代、あれだけ「論語」の名言が庶民の間に普及するばずがなかったことでしょう。ところが、この「論語」で培われた日本人の美徳が、終戦後すっかり姿を消してしまいました。人間として大切な「人間愛」とか「社会規範」なるものがどこかへ行ってしまったのです。
新世紀を生きる皆さん温故知新で日本の美徳をとり戻しましょう。 
日本人と論語
論語で一番大切なことは「言う」ことではなく「行なう」ことです。
「善いと思ったことは実行する」、それが論語のいわば真骨頂です。
私も52 歳になりました。人生50 年と考えれば、ある意味、おまけの人生を生きているわけですが、これまでは自分のこと、家族のことを思って一生懸命やってきました。しかし50 を過ぎたらやはり身内の幸せだけでなく、広く人の役に立つようなことをやっていかなければならないと感じ、論語を広めるべく、今年の1 月から勉強会を開いています。
論語といえば、まず頭に浮かぶのが、子曰く「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳に従う。七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」の一節です。これは孔子が死に際に、人生はいかにあるべきかを語ったものであるといわれています。15 歳で志を持って学び、30 歳では一通りの学問を身につけ、徳も身もおさまって1人立ちできる自信を手にしたものの、まだ世間の些細な問題に迷うこともあるが、40 歳には道理を身につけ、いかなることに出会っても取り乱すことなく正しく対処できるようになり、50 歳では自分に与えられた使命を悟り、60 歳になったら他人の意見を素直に受け入れ、世の人々とともに善いことを行なえるようになりなさいと。そして70 歳にしてようやく、あれがしたい、これがしたいと、自分の心が思うままに実践したとしても、それらは決して人としての道を踏み外すことはないのだというのです。したがって今、ご自分がどこに差しかかっているかを常に念頭に置き、折に触れて論語の一説をお読みになっては、ご自身の歩みを確認されながら生きていかれると、非常に有意義な人生が送れるのではないかと感じているしだいです。
戦後、日本は物質的に豊かになった一方で、精神的な豊かさをおざなりにしてきたため、本当の幸福とは何かについてつくづく考えされられます。個人主義(利己主義)が横行し、若者のモラルの低下や少年犯罪の多発に始まり、大手企業の不正や詐欺事件の蔓延、親子間の殺人事件
や自殺など、世の中が非常に殺伐とし、人々は少なからず病んでいるように思います。そうした背景には、アメリカの占領政策が色濃く影を落としており、その結果として修身・道徳が欠落したまま今日に至っているといえます。論語と日本の政治の著者であり、論語においては第一人者であられる宇野精一氏は、その著書の中に、明治時代にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や昭和初期に来日したアインシュタイン博士が「神が日本のような子を残して置かれたことに感謝する」と語ったことや、当時、敵国だったフランスの元駐日大使ポール・グローデン氏が、大東亜戦争の末頃、パリのある会合にて、すでに敗色濃かったわが国に対し、「私は世界で滅ぼしたくない国がある。それは日本だ。彼らは貧しい。しかし高貴だ」と語ったことなどが記されています。そして、今日のような日本の姿は戦後教育にその責任があり、日本人としてのアイデンティティを取り戻すための道徳教育を今一度見直し、施す必要があるとしています。文字による教育は、洋の東西を問わず古典教育が原点にあり、古典こそが人間の生き方の基本を示したものであるとした上で、日本における第一の古典は、人としての道を記した人類普遍の倫理といえる論語であるとし、論語をわが国第一の古典として教育すべきであると述べています。
ロンドン大学の経済学者、森嶋道夫氏はその著書なぜ日本は行き詰まったのかの中で、バブル後の失われた10 年について、経済学者でありながら社会学的な手法で分析されていますが、これを「日本古来の儒教精神がなくなったからである」と結論づけています。日本では戦前までは儒教教育が施されていたため、1980 年代までは儒教精神を持った人たちが経営者の中に数多くいたからこそ日本はうまく行っていたものが、1990 年代になると、そうした人々はめっきり姿を消し、その結果として、経済の世界でも政治の世界でも、耳を疑うような様々な事件が多発するようになったと考えられます。聖徳太子の十七条憲法には仏教や儒教の精神は生きています。江戸時代の徳川政治もまさに儒教(朱子学)の政治であり、これによって約300 年間の天下泰平の国づくりが行なわれたのです。そして吉田松蔭や幕末の志士たちが立ち上がる基になった学問がやはり儒教を基礎にした陽明学であり、日本では中江藤樹が「すべての人間には明徳というこの上ない美しい心を持って生れてきたのであるから、それを磨き、日常生活の中で発揮することが人間としての最高の生き方だ」といって、これを武士や庶民に広めていきました。さらに、伊藤博文らが憲法をつくる際の精神的なバックボーンとなった教育勅語もまた、儒教に基づいたものでした。戦後の日本経済の発展とその強さを世界に知らしめる基礎を築いた渋沢栄一氏のモットー「論語と算盤」はその名のとおり論語の精神そのものであり、この精神が忘れ去られたゆえに、現在のような経済の混乱があるといっても過言ではありません。
今日、このことに気づいた私たち一人一人が「人としての生き方」(道徳・倫理)を学び、実践していくことこそが何より大事であると思います。  
論語とそろばん ―論語を実践した渋沢栄一
その頃、「廃藩置県」という大改革が行われるわけですが、この「廃藩置県」を議論するメンバーは、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、大隈重信、井上馨らがいるわけですが、渋沢さんもこうした討論に参加していたんです。
そして、そうこうしているうちに、渋沢さんは大蔵省を辞めることになったんです。
いろいろ理由はあったんでしょうけれど、その中でやはり一番大きかったのは大久保利通との対立ですね。
大久保さんは、財政に注意しない傾向があり「これから陸軍や海軍を大きくしなければいけない」と、予算要求をするわけですが、それに対して渋沢さんは「そういうわけにはいけない」と、反発するわけです。
「量入為出(りょうにゅういしゅつ)という言葉がございます。つまり、支出と収支のバランスを考えないといけないということですね。
それと、渋沢さんは埼玉ですから、薩長とは違いますので、どうしても、いわゆる藩閥政治というものを気嫌いするわけです。 あと、ヨーロッパから帰ってきて、「国富」、つまり経済を良くしないと駄目だと、商売を興さないと駄目だとうことを感じたんですね。 渋沢さんは自分が大蔵省を辞めた原因をこう述べております。
「当時の我が国は政治でも教育でも着々改善すべき必要がある。しかし我が日本は商売が最も振るわぬ。これが振るわなければ日本の国富を増進することはできない。これはいかにしても他の方面と同時に商売を振興せねばならぬと考えた。その時までは、商売に学問はいらないと言われ、学問を覚えればかえって害があるとも言われた。
そこで不肖ながら、学問を持って、利益を図らなければならないと決断をして、役所を辞めて商売の世界に行く」
その時、多くの仲間から引き止められるわけですが、渋沢さんは、 「私は論語で一生を貫いてみせる」と。 
そして、「金銭を取り扱うのがなぜ卑しいのか、君のように金銭を卑しむようでは国家は成り立たない。官が高いとかではない。人間の進むべき尊い仕事は至る所にある。官だけが尊いのではない」と言っております。 自分は論語の教訓によって一生、商売をやってみようと、決意したわけでございます。  
聖徳太子の憲法17条
まず、論語の「学而第一」にあります一節を紹介します。
「有子(ゆうし)曰く、礼の用は和を貴(たっと)しと為す。先王(せんおう)の道も、斯(これ)を美と為す。小大(しょうだい)之(これ)に由(よ)れば、行(おこな)はざる所あり。和を知りて和すれども、礼を以て之を節(せつ)せざれば、亦(また)行(おこな)はるべからずと」
通釈は、有子が言うことに、「礼の活用にあたっては、まず和すなわち調和というのが最も大切。古代の聖人のやり方の美しさというものも、実はこの和のよろしきを得たからです。 しかし、世の中の大事にしても、小事にしても、この和だけによって物事を処理しようとすると、どうしてもうまくいかない。だから、和の大切さも知って、和らぐを計っても、礼すなわち礼儀作法はもとより法制、秩序、社会規範などでもって適当に節度を加えていかないと、これまた諸事がうまく処理されないのである。」ということです。
これは「礼」の重要性を説いたもので、和は礼を行う上で大切な徳である。
しかし、和を貴しとなすとは、つまり「他人に譲る心を持ちなさい。しかし、それだけではなく、調和、助け合いの心、他人を思いやる心も大切である」ということです。
今日は、「聖徳太子の一七条憲法」と題して、お話をさせて頂きますが、一七条憲法の第一条に「和を以って貴しと為す」という文言が書かれています。つまり、この言葉は論語から来ているわけです。  
日本再生の精神を武士道や論語等に求める危険性
安部首相の発言に誘発されたのか、日本人の倫理観を日本的に解釈した論語や武士道に回帰させる趣旨の意見が多い。確かに、明治初期から日露戦争までの日本人の行動・精神は評価するが、それ以外の時期を一括りにすることは間違いと思う。
戦国時代から江戸初期までの日本の人口は増大し、生産は拡大していた。教科書的には開墾と農耕技術の発達によるとされている。当然、それを支える合理的思考と進取の精神があったからだ。治安も戦国時代と言われても当時のポルトガル人の記録によればヨーロッパと同等程度で他のアジア諸国より遙かに良好だった。合理的精神は権力者の能力が劣れば、誰かに取って代わることを意味する。
そのため、江戸時代にはいると徳川家の世襲制の確立のため、支配する側に都合がよい儒教の朱子学を奨励した。そして、武士道はこの朱子学をバックボーンとして江戸時代に確立した。数世代に渡った教育結果は江戸末期の武士階級の行動に表れた。合理的思考の停滞と進取の精神を失った江戸幕府の武士たちは、西洋からの威嚇・攻撃に対応できなかった。
純粋に武士道として行動した幕府側は危機に対応できず短期間で消滅した。行動様式としては美しく日本人の感性に訴えやすいため多くの文学作品として取り上げられている。それに反し、倒幕側の主導者は朱子学だけの人間たちではなかった。倒幕側の人間たちも武士道を持っていたが、それ以外に実践・実利を柔軟に考えるバランス感覚の持ち主だった。それ故に、明治初期から日露戦争までの日本の行動は合理的であり、進取の精神を持ち、西洋人に認めさせることができる礼儀を実践した。
最近の世相を反映し、「自己利益より公益を考慮する事」や「礼節」を再興するために武士道・論語等の復活を訴えるのはよいが、武士道・論語等の持つ欠点を十分に理解して説明したものがない。武士道や儒教は合理的思考や進取の精神が乏しくなり、精神論だけに陥りやすい欠点がある。また、欠点ではないが、儒教には「悪」は永遠に「悪」であるとしている。つまり「いけないことは、永遠にいけない」となる。一見良い規範に思えるが、なぜ「悪」になったかが忘れがちで、その再検証や状況・価値観の変化への対応ができず、思考停止に陥りやすい。
例えば、トヨタ自動車の基本の一つに「改善」と「なぜを5回追求する」がある。また、不良があったならばどの工員も生産ラインを止める規則がある。これらは、合理的思考と進取の精神の一つの形だと思う。
「自己利益より公益を考慮する事」や「礼節」は人間関係の基本で、どの国・民族にもある。集団社会を営む人間にとって必要なものなのだ。自己と他者の関係をスムーズにし、調和のとれた社会にするためである。各国・民族ごとに違った公共精神や礼節があり、日本の場合、武士道や論語等は規範となるが、上記のような欠点がある。多くの規範ではなく、「他人に迷惑を掛けない」「他者への思いやり」「自己を律する」「強者におもねらない」「全体への奉仕」などがベースだと思う。ようするに独立心・向上心・克己心・忍耐力・観察力・好奇心等と他者を思いやる心や他者の存在を積極的に認める行動が必要なのである。そして、合理的思考と進取の精神が無ければならない。  
私は「毛主席の小戦士」だった
お祖父さんは、田舎の漢方医だった。私たちの暮らす村だけでなく、周辺の幾つかの村でも頼りにされる、地域の「名医」であったようだ。
その時、田舎の知識人たちも、ほとんど「革命」によって、迫害を受ける身となったが、お祖父さんだけは無事であった。やはり紅衛兵も「造反派」も、もし自分たちが病気になった場合、この「名医」のお世話にならざるを得ないことくらいは知っていたから。
そういうわけで、祖父と祖母と私、老人と子供からなるこの3人家族の生活は、いたって平穏で安定していた。
私は7歳になると、村の小学校に通うことになったが、その学校の先生たちはといえば、要するに、地元の中学校の卒業生が、そのまま小学校の教師になったようなものである。
結局、私の啓蒙教育を引き受けたのは、やはり漢方医のお祖父さんである。
「算数ぐらいは学校で勉強してもよいが、お前の国語(中国では「語文」という)の勉強だけは、あんな青二才の先生には絶対任せられない」というのがお祖父さんの弁であった。
私が小学校に上がったその日から、熱心な「教育ジジ」となったお祖父さんは、毎日の日課として私一人を相手に、自己流の国語授業を行うことになった。
そのお陰で、国語の成績にかけては、私は常にクラスの一番であった。悪ガキどもが誰も書けない難しい漢字は、さっさと書けるし、学校の先生でさえ知らない四字熟語も一杯知っていた。この小さな小学校で、私はいつか、国語の「師匠」と呼ばれるようになっていたのである。
そして小学校4年生あたりから、お祖父さんの私に教える国語は、以前とはまったく違う、奇妙な内容になった。
以前は、新聞や本を教材にしていたが、今度は、お祖父さんが一枚の便箋に幾つかの短い文言を書いて私に手渡して、ノートブックにそれを繰り返し書き写せと命じた。しかも、一枚の紙が渡されると、1週間か10日間は同じものを何百回も書き写さなければならない、という退屈極まりない勉強である。
さらに奇妙なことに、明らかに現代語とは違ったそれらの文言の意味を、お祖父さんは、いっさい教えてくれなかった。どこから写してきたか、誰の言葉であるかもいっさい語らない。「書き写せ」という一言だけである。
今でもはっきりと覚えているが、それらの文言は、たとえば、次のようなものだった。
「弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁」(弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹しみて信あり、汎く衆を愛して仁に親しむ)
「不患人之不己知、患己不知人也」(人の己れを知らざることを患えず、人を知らざることを患う)
「知之為知之、不知為不知、是知也」(これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。これ知るなり)
「興於詩、立於礼、成於楽」(詩に興り、礼に立ち、楽に成る)
「君子和而不同、小人同而不和」(君子は和して同せず、小人は同じて和せず)
等々であるが、小学校4年生の私には、それらの言葉の意味が、まったく分からないのは言うまでもない。何となく、たいへん意味の深い古い言葉であると分かってはいたが、とにかく、お祖父さんの命令にしたがって、毎日我慢して我慢して、それらの難解を言葉を何百回も、書き写すしかなかった。
しかし、それよりもさらに不思議に思ったのは、この件にかんする祖父の奇怪な態度である。
毎日家の中で、私にそれらの言葉を書き写させながら、学校では、そのこと絶対言ってはいけないと厳命した。書き写した紙やノートは、家の外に持ち出さないように厳重に注意された。
そして、一枚の便箋に書かれた言葉を、10日間をかけて書き写した後、お祖父さんはわさわざ、その便箋と私の写したノートを回収してしまうのである。
お祖父さんが私に書き写させたそれらの言葉は、きっと良い言葉であろう。なのに、どうして、悪いことでもやっているかのように奇妙な行動を取るのか、子供の私には不思議でならなかった。
そして、ある日の夜、私は信じられないような光景を目撃することになった。
夜、私がおしっこに起きて、庭にあるトイレヘ向かう途中、台所の前を通った時に、人の気配を感じた。ひそかに中を覗くと、普段は、決して台所に入らないお祖父さんの姿があった。背中をこっちに向けて、しゃがんで、何かを燃やしていた。目をこすってよく見てみると、そこで燃やされているのは紛れもなく、私がお祖父さんから渡された語句を書き写したノートではないか。わが目を疑うほどの、衝撃的な光景であった。
なぜ、どうして、そんなことをしなければならないのか。その当時の私には、まったく分からなかった。
そのナゾが完全に解けたのは、お祖父さんが亡くなった後、私が大学生になってからのことである。
実は、お祖父さんが私にその書き写しを命じたのは、全部、かの有名な「論語」の言葉であった。
生徒に論語の言葉の意味をいっさい説明しないまま、それを何百回も書き写させるというのは、まさにお祖父さんの世代の教育法であったが、お祖父さんは、この古式に則ったままの論語教育を、孫の私に施したわけである。
勿論、このような教育を、まるで悪事でもやっているかのように、ひそかに行ったというのは、別に「古式」に則ったわけでもなんでもない。
それは「文化大革命」時における特異な事情によるものであった。
毛沢東の発動した「文化大革命」は、文字通り、「文化」に対する革命でもあった。つまり、中国の伝統文化というものに、「反動的封建思想・封建文化」のレッテルを張った上で、徹底的に破壊してしまう、という狂気の「革命」である。その中で、孔子の思想は、当然この葬るべき「反動思想」の筆頭に挙げられている。
そうした状況下で、子供に論語を教えることなど、まさに言語同断であった。「反動思想をもって青少年の心を毒する」大罪として、糾弾されなければならないはずであった。
結局、お祖父さんが私に論語を教えるには、ああするしかなかったのだ。もし、それが外に知れたとしたら、わが3人家族の運命は、ひどいことになっていただろうから。
それにしても、当時のお祖父さんは、どうしてそれほどの危険を冒してまで、私に論語を教えたがったのだろうか。大学生になってあの田舎の村に帰った時、やっとお祖母さんの口からその訳を聞き出した。
実はお祖父さんは、孫の私に自分の医術を全部伝授して、立派な漢方医に育てていくつもりだった。自分の子供たちは、誰一人、彼の医術を受け継ごうとはしなかったから、孫の中でも特に聡明(?)であった私が祖父母の家に預けられた時、お祖父さんはひそかに、このような決意を固めたようである。
そして、祖父の世代の漢方医たちの考えでは医術はまず、「仁術」でなければならないから、お祖父さんは医術伝授の前段階の「基礎教育」として、論語の言葉を私に教えた、というわけである。
しかし、残念なことに、私が小学校5年生の時に、成都にいる両親の元に戻されてからまもなくして、祖父は肺がんで亡くなった。孫の私を漢方医に育てるというお祖父さんの夢は、ついに叶わなかった。
以上が、私が子供時代に体験した、まさに「論語読みの論語知らず」、という奇妙な勉強体験の一部終始であるが、そのお陰で、論語の多くの言葉が記憶の中に叩き込まれた。一つの語句を何百回も書き写せば、ちゃんと覚えていないはずはない。中年になった現在でも、論語の言葉の一つを耳にしただけで、一連の語句は次から次へと、頭の中に浮かび上がってきて、湧くように口元に登ってくるのである。
今から考えてみれば、5歳から小学校5年生までの6年間の田舎での生活が、この私の心に深く刻み込んだものは、田んぼと山と竹林から織り成される、あの懐かしい故郷のイメージと、「仁」や「礼」や「信」などの単語から構成される、論語の奥深い世界なのであった。
祖父のお陰で、私は「故郷」と「論語」という、自分の人生の原点となる、二つの貴重な財産を得た。  
日本で再び出会った「論語」の世界
しかし、小学校5年生の時に成都に戻ると、状況は一変した。
都会の学校で行われている、「新興宗教式」の毛沢東思想教育によって、私はやがて、「毛沢東の小戦士」となっていった。
子供のことだから、新しい環境に入ると、昔のことはすっかり忘れた。今度は、毛主席の語録を頭一杯に叩き込まれた。以前に覚えた、意味も出所も分からない論語の言葉などは、徐々に記憶の一番奥に追いやられていったのである。
そして、大学に入ってからは世界観の崩壊を体験して、それを起点にして、民主主義と自由の理念に目覚めて民主化運動に投身していった。このような激動の時代を生きていれば、子供の時のことはもはや遠い昔の、遠い世界のこととなっていったのは言うまでもない。
大学の専攻は哲学であったが、当時の哲学部の授業科目やシラバス(講義細目)といえば、当然、「官学」としてのマルクス主義を中心に組み立てられていたのである。
大学3年生の時、やっと中国哲学史の授業が始まった。さすがに、「孔孟思想」あたりの勉強となると、以前、祖父によって叩き込まれた、論語の文句が一気に蘇ってきた。懐かしく、憤れ親しんだ言葉の数々である。
しかし、その時の自分にとって、それはどうでもよいものであった。
私の心を完全に捉えて「占領」しているのは、やはり「民主」と「自由」という、この時代のもっとも輝かしい合言葉であり、毎日頭の中で考えていたのはやはり、いかに民主化を実現できるか、という書生気分の「天下国家論」であった。
そして大学卒業後も、そのまま、民主化運動の参加者の一人として教職につき、民主主義の世界に憧れる中国青年の一人として、日本へ留学にやって来た。
自分たちの民主化の夢が完全に破れたのは、この日本留学の時期であった。が、実はちょうどその時、私は意外にも、外国であるこの日本において、数千年前にわが祖国から生み出された、あの「論語」の世界とふたたび出会ったのである。
「天安門事件」が起きた時、私は神戸大学大学院の修士課程1年生だった。
武力鎮圧の後に、中国国内からの情報が完全に途絶えたので、自分で情報の収集に努めるしかなかった。頼りはやはり雑誌や本である。今でも鮮明に覚えているが、その時の日本の書店で新作コーナーの大半を占拠していたのは、「天安門事件」関係の写真集やレポート本であった。
当時は神戸に住んでいたので、よく三宮のジュンク堂へ行った。毎週一度は足を運んでいたから、徐々に時事コーナー以外の本棚へも回るようになった。
そしてある日、本屋の奥の人の少ないところに、「中国古典」と標示される棚を発見した。
まさに、目を見張るほどの驚きの光景が、目の前にあった。
「孔子」「孟子」「荀子」「墨子」「韓非子」、それに「論語」「礼記」「史記」「左氏春秋伝」。懐かしい固有名詞がプリントされている本の数々は、静かに、いかにも気品高く、存在感たっぷりの風情で、ずらりと並んでいたのである。
論語関連の本だけでも、本棚の上下数列を占めている。
「論語の講義」「論語新釈」「論語物語」「論語の新しい読み方」「論語の世界」「孔子と論語」「朝の論語」「人間学論語」等々、あらゆる角度から論語を読み、あらゆる視点から論語を論じている感じであった。
「論語」という書物は、それほど広く、それほどの熱心さで、日本で読まれていることを、初めて知った。
遠い昔の時代に、わが祖国から生まれた孔子様の思想と心は、数千年の時間と数千キロの距離を超えて、この異国の日本の地に生きていたのだ。
自分にとっては、まさに驚きと感激の発見であった。
それ以来、書店を訪れる度に、必ず「中国古典」あるいは「中国思想」のコーナーへ行き、本棚を眺めながら、感動なのか郷愁なのか、自分でもよく分からないような気分に浸っていた。
だが、その時の私には、なぜか論語や孔子を手に取って読もうとする気が起こらなった。「天安門事件」の直後だったから、心は別のところにあったのだ。
そして、「天安門事件」から半年も経って、徐々に落ち着いて勉強に専念できるようになった時、今度はまた別の思わぬところで、「論語」と再び巡り会った。
私の大学院の修士課程での専攻は社会学である。指導教官の先生は、フランスの近代社会学者である、エミール・デュルケームの思想を研究テーマの一つにしていた。
ある日のゼミで、デュルケームの「社会儀礼論」がテーマとなった。その学説を簡単に説明すると、デュルケームは社会統合における儀礼の役割をとりわけ重視し、人々が儀礼を通じて関係を結び、共に儀礼を行うことによって、集団的所属意識を確認して、集団としての団結を固めようとするものであると考えているのである。
今まで、「儀礼」などは単なる形式にすぎず、あってもなくてもよいものではないか、と考えていた自分にとって、デュルケームのこの「社会儀礼論」はかなり新鮮で、たいへん面白かった。
そこで、ゼミの討論時間に、私は自分の意見を述べた後で、思わず次のような「生意気な」感想を付け加えた。
「さすがにフランスの社会学者ですね。深いところを見ていると思います」
それを聞くと、指導教官は顔を私に向けて、口許に薄い含み笑いを浮かべながら、こう言った。
「何を言っているのか君、そういう深いことを最初に考えたのは君の祖先じゃないのか」
意表をつかれて戸惑った私の顔を見ながら、先生は続けた。
「礼の用は和を貴しと為すという言葉、君は知らないのかね」
先生が口にしたのは、何らかの古典の漢文であることは、すぐに分かったのだが、その原文は一体なんだったのか、すぐには自分の頭に浮かんでこなかった。
そうすると、先生はペンを取って、メモ用紙にさっと書き示した。
「礼之用、和為貴」という語句である。
先生のペンが止まったその瞬間、私は理解した。
そうか、分かった。あの論語の言葉じゃないか。
「礼之用、和為貴。先王之道、斯為美」
二十数年前に、祖父によって叩き込まれたこの文言の漢字の一つ一つが、鮮明に浮かんできたのである。
「論語の言葉ですね、先生」と答えた。
「そうだ。分かっているじゃないか。君は中国人だから、論語をもっと読みなさい。日本人の諸君も読んだ方がよい。ためになるぞ」と先生は満足げに頷き、この日の「論語談義」を締めくくった。
この日のゼミでの出来事は、多くの意味において、自分にとってはたいへん衝撃的だった。
日本人の、しかも西洋の社会学を専攻とする指導教官の口から、論語の言葉を聞かされようとは、思ってもみなかった。
そして先生に言われて考えてみると、確かに、「礼之用、和為貴」という論語のこの言葉は、あの偉大なるデュルケームの「社会儀礼論」が言わんとするところの真髄たる部分を、一言の簡潔さと鋭さをもって、言い尽くしている気がする。しかもそれは、いわば近代的学問が、西洋に誕生する遥か数千年前に、中国の先哲から発せられな言葉であった。
論語とは、それほど奥行きの深いものなのか。中国人の私は、初めて分かったような気がした。
考えてみれば、二十数年前に自分の祖父から、論語の数々の言葉を覚えさせられていながら、不肖の私は、結局、西洋の学問を専攻する日本人教授の啓発によって、あの言葉の持つ本当の意味を、初めて理解できたわけである。
しかし、それはまた、たいへん恥ずかしいことでもあった。
中国人の私は、一体何をやってきたのか。天国にいるわがお祖父さんに、数千年前に生きたあの孔子様に、この不肖の子孫の私は、一体どのような顔を向けることができるのだろうか。
せっかく論語の言葉をあれほど覚えたのに、どうしてその意味をもっと勉強しなかったのか、と真剣に反省した。
そして、「よし、やろう。論語を一度ちゃんと読んでみよう」と決心した。故郷の田舎で、わが祖父に論語の言葉が書かれた一枚の紙を初めて渡されたあの時以来、実に17年ぶりに、この日本という異国の地で、私は再び、論語の世界に入ろうとしたのである。
論語を読もうと思えば、テキストは幾らでもあった。最初は、金谷治や宇野哲人などの碩学の訳注を頼りにして原文を何回も繰り返して読んだ。
読書の範囲は徐々に日本の儒学研究・思想史研究の大家たちの「論語論」へと広がっていった。
諸橋轍次の論語三十講、吉川幸次郎の論語のために、岡田武彦の現代に生きる論語」、武者小路実篤の論語私感、安岡正篤の論語の活学など、大学の図書館にあった錚々たる「論語論議」のほとんどを読みあさった。
それはまた、驚嘆と感激の連続であった。
日本の研究者たちは、これほどの深さで論語を理解していたのか。
論語の言葉一つ一つが、様々な角度からその意味を深く掘り下げられて、平易にして心打たれる表現で解説されていた。
それだけではない。人類社会のしかるべきあり方、政治的指導者の持つべき心構え、われわれ一人一人の持つべき世界観と人生観、他人に対して持つべき思いやりと謙遜、まさに哲学・政治学・社会学・人間学としての論語論議は、縦横無尽に展開されているのである。
しかも、それらの先生方の論語を語る言葉の一つ一つには、孔子様という聖人に対する心からの敬愛と、論語の精神に対する全身全霊の傾倒の念が、たっぷりと込められていることに、すぐ気がついた。
日本の研究者たちは本当に、孔子の人格と心に親しみを感じていて、論語と孔子様をこの上なく愛しているのだ。
言ってみれば、わが孔子とわが論語は、まさにこの異国の日本の地において、最大の理解者と敬愛者を得た感じであった。
特に、本場の中国において、孔子と論語が、まるでゴミ屑のように一掃されてしまった、「文化大革命」の時代を体験した私には、この対比はあまりにも強烈なものであった。私に論語の言葉を書き写させた例のノートブックを、夜一人でひそかに燃やしたわが祖父の姿を思い出す時、隣の文化大国の日本で広く親しまれて敬愛されていることが、孔子様と論語にとってどれほど幸運であるのか、感嘆せずにはいられないのである。  
日本人はなぜ論語好きか?
漢文・漢詩を素読する時のリズムは何とも心地良い。論語も好きだが儀式に関する部分は興味がないので読まない。四書五経所謂儒教に達するまでの範囲に興味がある訳ではない。人生や処世に関して示唆する部分からは大いに啓蒙されるものがあるからである。
儒教は日本の歴史に大きな影響を与え続けてきた。当然我々個人の遺伝子にも沢山入り込んでいる。それを探ってみたい。
1.儒教の本質は何か?
孔子(前551‐前479)の教えはなんだったのか。一言で言えば「礼」に集約されると考える。「人には人の道がある。修養してそれを極め、礼という目に見える形で表すことで秩序が保たれ国も栄える」というものである。然し、孔子の意図するように国レベルまで適用すると歴史が示すように封建的なものになってしまう。
彼は仕官を望んでいたがこの面では実績が少ない。理想家の域を出ず教育理論だけが後世に伝えられた。戦国時代、統治には管仲、商鞅、韓非子と続く法家思想や力の論理が必要であった。これは今でも変わりがない。
老子は実在そのものが議論されるが、孔子は老子のところに教えを受けに訪ねて行った事が史記に載っている。老子は哲学家、孔子は教育家という関係である。孔子は老子のことを捉えどころがない人だといったと書かれている。
2.論語は日本でどのように広がったか?
285年応神天皇が百済の王に賢人を献上せよと要求し、合わせて論語10巻がもたらされたと古事記に書かれてある。然しこの頃のことはまだ神話の域を出ないので真偽は分からない。本当だとしてもすぐに使いきれる時代ではなかったと思う。
聖徳太子(574-622)の頃になってくると、彼が作ったのではないかと推定されている17条憲法に「和を以って貴しと為す」と書かれている部分はずばり論語から引用したものではないかと言われている。然し、この和の精神は仏教に基づくものだと言う説もある。
その後大化の改新(647)や大宝律令(701)などの時期になって、次第に中央集権化が進む中で、統治のために明確に儒教の思想が取り入れられていく。空海(774-835)も儒教関連書を勉強しており、その思想を教義にも取り入れている。
江戸時代の封建制は朱熹(1130-1200)が宋時代の論語解釈を集成した所謂朱子学で進められた。君主を絶対的な存在として「忠」を中心としたものである。途中儒教の原点に戻ろうと言う学派も出たが第二次世界大戦終了までこの思想は続いた。長い間続いたこの思想の影響は大変大きい。
3.儒教の遺伝子とは何か?
日本人に礼の思想が定着していることは言うまでもない。礼の文化とまで呼んで良いのではないかとさえ考える。礼を失しないように等と言われるとドキッとして緊張してしまう。礼の本質は自己抑制でもある。日本人は自己主張しないと言われてきたがこの影響である。
言われなくとも分かるレベルまで秩序維持のための教育をされ、修養を求められた影響が日本人の意識に強く残っている。以心伝心や暗黙の諒解などはその結晶である。「御上」意識が強いことや「身分」意識も依然存在するが次第に薄れてきている。
4.高度成長は儒教精神が成し遂げた?
第二次世界大戦後教育も急激に変わったが高度成長を成し遂げた頃の指導者層は戦前の教育を受けた人達である。維新後の勃興期や戦時中と同じように滅私奉公精神で見事に一致団結して秩序を保ちながら頑張った。旗印は輸出立国にしか生きる路はないということであった。当然豊かさを求めて一家の大国柱として様々な苦難に耐えて頑張ったこともある。
儒教は行動を求める。長い間儒教精神を行動の支柱とする思想が基礎となってきた。しかし21世紀に入りそれは過去のものになってきている。新たな行動のための支柱をどこに求めれば良いか。それを探るのがこのシリーズの目的である。
5.これからも論語は必要か?
中国では文化大革命の頃儒教が否定されたが、最近は国学復古ブームで研究が盛んである。孔子学院という中国語普及学校も世界各地に作られている。儒教思想が共産党支配を補完できるかどうかという興味深い問題も有るが、産業発展の礎に経営思想として取り入れる経営者も多い。
日本は歴史的に儒教思想の取り入れ方には問題も有ったが、論語の人生を語る部分には示唆が多い。渋沢榮一は「論語と算盤」で産業発展のために必要な思想であることを書いている。五倫五常等と言ういかめしさに拘らず身近な道徳の涵養に有効なものだと思う。うまく取り入れていくべきである。
私の座右に論語を置いてから約45年になる。1965年2月15日第5版、福音館書店発行、山田勝美著「全釈論語」である。手帳よりも小さい小冊子で180円と書いてある。折に触れては手に取るが奥が深く宝物のようなものである。  
論語が深めた日本の国柄
孔子の喜びに弾んだ肉声
「孔子は、その思想が当時の為政者に入れられず、不遇の人生を歩んだ人だ」と思っていたのだが、実は「その内面では、学ぶことの喜びに充ち満ちた幸福な人生を送った人ではなかったか」と子供と声を出して読みたい「論語」百章を読みつつ今更ながらに気がついた。著者の岩越豊雄さんはこう語っている。
私は小学校の校長を退職した後、子供を対象に、江戸時代の「寺子屋」をモデルに、素読と習字を組み合わせた塾を始めました。対象は小学生たちですが、喜んで論語を素読しています。リズムの美しい簡潔な文で、読んで心地よい名文だからだと思います。
この本は、岩越さんが子供たちに論語の一章ずつを読み聞かせた内容をまとめたものだが、その文章を通じて、孔子の喜びに弾んだ肉声が聞こえてくるような気がした。論語の解説書は何冊か読んだことがあるが、こういう経験は初めてである。
こういう本を通じて、子供の時から学問の喜びを感じる事ができれば、それはこれからの長い一生を支える「学ぶ力」「生きる力」となるだろう。  
学びの喜び
孔子の喜びは論語冒頭の第一章から弾んでいる。
子[し]曰[いわ]く、学びて時にこれを習う。また説[よろこ]ばしからずや。朋[とも]あり、遠方より来たる。また楽しからずや。人知らずして慍[いか]らずまた君子ならずや。
先生がおっしゃった。学んだ時に、よくおさらいをする。それが自分の身についたものになってくる。なんと喜ばしいことではないか。心知る友が遠くから訪ねてきてくれる。なんと楽しいことではないか。人が認めてくれなくとも怒らない。なんと志の高い優れた人ではなかろうか。
この一章を、岩越さんは、子供たちにこう解説する。
「学ぶ」は「まねをする」に由来するといいます。「習」は雛鳥[ひな]が巣の上で親鳥の羽ばたきをまねて、飛び立つための練習をしている字形だといいます。どのようなことでも、練習して初めてできるようになった時の喜びは誰でもよく覚えています。例えば自転車に乗れるようになった時とか、体が水に浮いて泳げるようになった時の喜びなどは、生涯忘れられない思い出です。
学んだ時にはそれを何度も繰り返し、練習してできるようになる。それが「学びの喜び」です。小さな事でも、「わかった」「できた」「やり遂げた」という喜びを体験し、積み重ねると、自信にもなり、物事に意欲的に取り組めるようにもなるのです。
自転車や水泳を例に「学びの喜び」を説くあたりが、いかにも小学生にふさわしい。  
「学び」と「友」と「不足を思わない」
その後に続く「朋[とも]あり、遠方より来たる」と「人知らずして慍[いか]らず」については
学んだことが身につき、自信がつけば自然と互いに心が通じる友ができ、楽しく語り合うこともできます。そうした友が、思いがけなく訪ねてくれた時は、本当に嬉しいものです。
水泳の例で言えば、一緒に水泳を習う友達どうしが、自分は背泳もできるようになったよ、などと語り合う喜びだろう。
しかし、たとえ自分が学び、力をつけても、他の人がわかってくれない、認めてくれない時もあります。それでも怒ったり、不足を言ったりしない。そうできる人は、ほんとうに志の高い優れた人です。
へたくそな泳ぎで、級友も先生もなかなか褒めてくれないが、別に不満を言ったりしない。自分自身の上達そのものが喜びだからだ。
「学び」と「友」と「不足を思わない」、この3つの事柄は、学問の喜びということで一貫しているのです。
岩越さんのこの指摘から、私は初めて、孔子の抱いていた「学問の喜び」に触れえたような気がした。  
あれが目の不自由な楽師を助ける作法なのだ
さて孔子の志した学問とは、どのようなものだったのか。それを孔子の行動を通じて説いた小学生にも分かりやすい一章がある。
師冕[しべん]見[まみ]ゆ。階[かい]に及ぶ。子[し]曰[いわ]く、階なりと。席に及ぶ。子曰く、席なりと。みな坐す。子之[こ]れに告げて曰く、某[それがし]はそこにあり、某[それがし]はそこにありと。師冕出[い]ず。子張[しちょう]問いて曰く、師と言うの道かと。子曰く、然[しか]り。固[もと]より師を相[たす]くるの道なりと。
目の不自由な楽師冕[べん]が訪ねてきた。先生は自ら出迎えて案内し、階段に来ると「階段ですよ」と言われ、席に来ると「席ですよ」と言われた。一同が座ると、「誰それはそこに。誰それはここに」と一人ひとり丁寧に教えられた。師冕が帰った後で子張が「あれが楽師に対する作法ですか」と訪ねた。先生が答えられた。「そうだ。あれが目の不自由な楽師を助ける作法なのだ」
目の不自由な者の身になって、きめ細かに対応する孔子の温かな配慮が伝わってきます。相手の身になって行動する、まさに仁者の在り方を具体的に学べる章です。
子張が質問したのは、一盲目の楽師に対して、孔子の取った対応があまりにも丁寧で、礼に過ぎるのではと思ったからです。「然[しか]り。固[もと]より師を相[たす]くるの道なりと」ときっぱりと答える孔子の言葉に、まごころからの思いやり、「忠恕」を「一以て之を貫いた」孔子の確信ある生き方を髣髴[ほうふつ]とさせます。
目の不自由な人を導いてあげることは小学生でもできることである。そういう誰にでもできる「まごころからの思いやり」が、孔子の学問の核心であった。  
人を尊び、まごころから思いやる
「忠恕」を「一以て之を貫いた」とは、次の一章に出てくる言葉である。
子曰く、参[しん]や、吾[わ]が道、一[いつ]以[もっ]てこれを貫[つらぬ]く。曾子曰く、唯[い]と。
子出[い]ず。門人、問うて曰く、なんの謂[い]いぞや。曾子曰く、夫子[ふうし]の道は忠恕[ちゅうじょ]のみ。
先生が曾子に呼びかけておっしゃった。「参(曾子)よ、私の生き方は一つのもので貫かれているのだが」と。曾子はただ「はい」と答えた。先生は部屋を出て行かれた。門人たちが「何を言いたかったのですか」と尋ねた。曾子が言った。「先生が貫かれている生き方は、人を尊ぶまごころからの思いやり、それに尽きる」と。
「忠恕」の字の作りは、「中と心」と「如と心」です。「中心」とはまごころのこと、「如心」とは自分の心の如く人の心をおしはかるという意味です。つまり「人を尊び、まごころから思いやる」ことです。論語でしばしば触れられる「仁」にも通じます。それは孔子の一貫した生き方でした。
ちなみに「仁」については、こう解説されている。
「仁」とは「人」と「二」を組み合わせた漢字です。つまり、人と人との人間関係における倫理・道徳の基本である「まごころから人を思いやる」ことです。
孔子の学問は、誰でもが持つ「まごころ」「おもいやり」をいかに引き出し、発展させるか、というところにあった。  
素直な社員は良く伸び、仕事もできる
「まごころ」と「おもいやり」を伸ばすために、孔子は次のように若者に教え諭している。
子[し]曰く、弟子[ていし]、入りては則[すなわ]ち孝、出でては則ち悌[てい]、謹みて信あり、汎[ひろ]く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力有らば則ち以[も]って文[ぶん]を学ばん。
先生がおっしゃった。若者よ、家では、親孝行、外では目上の人に素直に従う。何事にも度を過ごさないように控えめにし、約束を守る。多くの人を好きになり善き人について学ぶ。そうした上で、まだゆとりがあるなら、本を読んで学んでいけばいい。
「親に孝行することや、人に素直であること」と「勉強すること」と、どっちが大切かと問えば、今は親も子も大抵は「勉強すること」と答えます。でも、孔子は逆だと言っています。
一流大学を優秀な成績で卒業しながら、違法な株取引で逮捕されたり、エセ宗教にひっかかって人を殺めたりする人間は、勉強ばかりしていて、「まごころ」や「おもいやり」を磨かなかった人間失格者であろう。
本当に優秀な人は大抵、素直です。経営の神様といわれた松下幸之助も「素直な社員は良く伸び、仕事もできる」と言っています。
親孝行、素直さ、謙虚さ、謹み、信頼、こうした人格的基礎を土壌として、その上に知識や技術が花開くのである。  
論語が深めた我が国の国柄
論語は、1千6百年ほど前に、海外から我が国にもたらされた最初の書物であった。
そしてその「忠恕」や「仁」を核とする思想は、民を「大御宝[おおみたから]」と呼び、すべての生きとし生けるものが「一つ屋根の下の大家族」のように仲良く暮らしていくことを理想とした我が国の国柄 [b]には、まことに相性の良いものであった。
そして我が先人たちは論語に学びつつ、我が国の国柄を深めていった。岩越さんは、その歴史を簡潔に振り返っている。
聖徳太子は、論語の「和」を深めて「十七条憲法」の第一条に「和を以て貴しと為す」と説いた。鎌倉時代の「曹洞宗」の開祖・道元禅師は、世を治めるのは論語がよいと推奨していたという。
江戸時代には論語研究が盛んになり、中江藤樹 [c]、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠などが独自の思想を発展させた。こうした学問の系譜から、吉田松陰、西郷隆盛など幕末の志士が生まれ、明治維新への道を開いていく。  
「素読」の合理性
こうした歴史を俯瞰した上で、岩越さんは語る。
偉人や学者だけではありません。江戸時代は一般の武士も庶民も論語を学びました。各藩の藩校はもちろん、庶民の子弟の教育が行われた寺子屋では、論語等の素読が行われていました。
「素読」とは、文章を意味はさておき、声を立てて暗唱できるまで繰り返し読むことです。「読書百遍、意自ずから通ず」という言葉があります。声を出して何度も読んでいくうちに、自然にその意味が表れてくる、分かってくる、そうした読み方を言います。
「意味もわからない文章を丸暗記させるなど、なんと封建的な」と考える人も多いだろう。それに対して、岩越さんは小林秀雄の次の言葉を引用する。
(素読を)暗記強制教育だったと簡単に考えるのは悪い合理主義ですね。論語を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは論語の意味とは何でしょう。
それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を考えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりとした教育です。  
論語の言葉を胸に人生を歩んでいく
「朋[とも]あり、遠方より来たる。また楽しからずや」というような言葉も、少年時代、壮年時代、そして熟年時代と、人生経験を積むにしたがって自ずからその味わいも深まっていくだろう。素読とは、そのような言葉の種を幼児期から心に埋め込んであげることである。
小学生にたわいのない英会話を教えるよりは、はるかに高級な人間教育ではないか。そこから、しっかりとした精神的バックボーンを持った日本人が育っていくだろう。
すでに大人になってしまった人でも、論語の中の心に響く一節を暗記してそれを時々反芻しながら、自らの人生を歩んでいく、という生き方も良いのではないか。
ちなみに天皇陛下は「忠恕」という言葉がお好きだそうだ。ひたすらに国民の安寧を祈られる陛下ならではの言葉である。
論語の言葉を胸に抱いて人生を歩んでいくのが、我が先人たちの生き方であった。  
 
『論語』のもついかがわしさ

 

以下、加藤徹、日経新聞のコラムより引用
先生は言われた。「勉強したことを、時がきたら実践して復習する。うれしいじゃないか。遠くからきた人と知りあい、友だちとなる。楽しいじゃないか。他人に理解してもらえなくても、恨まない。りっぱな人間といえるじゃないか。「わしは今でこそ先生と呼ばれておるが、14まで学問をしなかった。29まで自立できなかった。39まで自信がなかった。49まで天命をわきまえなかった。59まで人の意見をすなおに聞けなかった。69までは、何でも自分がしたいことをすると、ついやりすぎてしまった。ま、人生なんてそんなものだよ。」
『論語』に最初にふれたのは高校の漢文の授業である。当然のことながら何もわからなかったし、もちろん面白くもなんともなかった。また当時の若者たちのあいだにはなぜか反体制の気分が満ち溢れていたので、少し上の全共闘世代がとてもかっこよくみえていた私にとって『論語』は保守反動の理論でしかなく、ナンセンスかつ学ぶに値しないものだった。
『論語』を読んでみたいと思いはじめたのは、中島敦の『弟子』を読んでからのことである。『弟子』は、孔子の弟子である子路を主人公とした短編小説だが、そのなかに登場する孔子は、比類なき聖人君子でありながら、同時に、ほんの一点だが本質的な“いかがわしさ”を持つ人物として描かれていた。この人間くさい人物の言行録としての『論語』であれば、読んでみたいと思った。
その後は、岩波文庫の『論語』を手元において、ときどき思い出したように読んでいる。内容はいまだによくわからないが、ひとつわかったことは、『論語』にはさまざまな解釈の仕方があるということだ。教科書に出てくるような堅苦しい解釈だけではなく、さまざまな人がさまざまなやり方で解釈をしている。聖書も同じだが、どうやら古典とはそういうものらしい。
冒頭にご紹介したのは、日経新聞(2010.12.19)に載った加藤徹のエッセイからの抜粋である。最初のほうは「学而篇」の最初の一節だ。以下、白文と読み下し文を載せておく。
子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。
子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。
よくある解釈は、これを成功の条件とみなすことである。立身出世するためには、子供のときから学問にはげみ、よく復習をし、友人をたくさん持ち、人を恨んだりしてはいけない、ということである。
だが加藤徹はそうした解釈をしない。これを人生賛歌だとみなすのである。そして加藤はこう解説する。
まるで孔子の笑い声が聞こえてくるようだ。人生は楽しいものなんだ。つらく、さびしくても、いつかきっと友だちがあらわれる。前向きに生きよう。そんなメッセージが伝わってくる。ふつうの古典は、人生の苦しみや悲しみから、お説教をはじめる。それにくらべ『論語』のこの能天気な明るさは、なんだろう。
加藤によると、『論語』とは「能天気な明るさ」をもつ古典なのである。
あとのほうの白文と読み下し文は以下のとおりだ。
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩
子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
『論語』でもっとも有名な部分だが、一般的な解釈はおよそ次のようなものである。
古代中国の封建社会では20歳で成人として認められ、30歳で妻帯して社会的に自立するのが普通であったが、孔子もその社会慣習に拠って30歳で立ったと考えられる。40歳で惑わないという事については、孔子の波乱の人生と故国・魯の政治状況を省みると、魯の正統な君主である昭公への忠誠と忠誠を貫くために帰国することを迷わないと解釈することも出来る。(略)この篇は、私達が人生を如何に生きるべきかという「一般論としての人生の指標」として読むこともできるが、孔子の実際の人生を踏まえて読むと「孔子の実体験から生まれた比類なき道標」として解釈することもできる。
まことにつまらない。しかし加藤の解釈によると、たしかにこれは「一般論としての人生の指標」であり「孔子の実体験から生まれた比類なき道標」ではあるのだが、しかし、その含意は一般に考えられているものとはまったく違う。ようするに、ま、人生なんてそんなもの、なのである。
エッセイの最後を加藤はこう締めくくっている。
『論語』は奥深い。四季ごとに表情を変える富士山のように、『論語』も読者の人生の春夏秋冬にあわせて違う顔を見せる。一生の友のような、自分とよりそう一冊をもつこと。それも読書の醍醐味かもしれない。
私自身、『論語』を読むなかで感じていた本質的な“いかがわしさ”をマイナスのイメージでみることが、このごろは少なくなってきた。『論語』のもついかがわしさこそが人間の本質であり、それはそれでよしと、ようやく思えてきたからだろう。 
 
日本人はなぜ論語好きか

 

漢文・漢詩を素読する時のリズムは何とも心地良い。論語も好きだが儀式に関する部分は興味がないので読まない。四書五経所謂儒教に達するまでの範囲に興味がある訳ではない。人生や処世に関して示唆する部分からは大いに啓蒙されるものがあるからである。儒教は日本の歴史に大きな影響を与え続けてきた。当然我々個人の遺伝子にも沢山入り込んでいる。それを探ってみたい。 
1.儒教の本質は何か
孔子(前551‐前479)の教えはなんだったのか。一言で言えば「礼」に集約されると考える。「人には人の道がある。修養してそれを極め、礼という目に見える形で表すことで秩序が保たれ国も栄える」というものである。然し、孔子の意図するように国レベルまで適用すると歴史が示すように封建的なものになってしまう。
彼は仕官を望んでいたがこの面では実績が少ない。理想家の域を出ず教育理論だけが後世に伝えられた。戦国時代、統治には管仲、商鞅、韓非子と続く法家思想や力の論理が必要であった。これは今でも変わりがない。
老子は実在そのものが議論されるが、孔子は老子のところに教えを受けに訪ねて行った事が史記に載っている。老子は哲学家、孔子は教育家という関係である。孔子は老子のことを捉えどころがない人だといったと書かれている。 
2.論語は日本でどのように広がったか
285年応神天皇が百済の王に賢人を献上せよと要求し、合わせて論語10巻がもたらされたと古事記に書かれてある。然しこの頃のことはまだ神話の域を出ないので真偽は分からない。本当だとしてもすぐに使いきれる時代ではなかったと思う。
聖徳太子(574-622)の頃になってくると、彼が作ったのではないかと推定されている17条憲法に「和を以って貴しと為す」と書かれている部分はずばり論語から引用したものではないかと言われている。然し、この和の精神は仏教に基づくものだと言う説もある。
その後大化の改新(647)や大宝律令(701)などの時期になって、次第に中央集権化が進む中で、統治のために明確に儒教の思想が取り入れられていく。空海(774-835)も儒教関連書を勉強しており、その思想を教義にも取り入れている。
江戸時代の封建制は朱熹(1130-1200)が宋時代の論語解釈を集成した所謂朱子学で進められた。君主を絶対的な存在として「忠」を中心としたものである。途中儒教の原点に戻ろうと言う学派も出たが第二次世界大戦終了までこの思想は続いた。長い間続いたこの思想の影響は大変大きい。 
3.儒教の遺伝子とは何か
日本人に礼の思想が定着していることは言うまでもない。礼の文化とまで呼んで良いのではないかとさえ考える。礼を失しないように等と言われるとドキッとして緊張してしまう。礼の本質は自己抑制でもある。日本人は自己主張しないと言われてきたがこの影響である。
言われなくとも分かるレベルまで秩序維持のための教育をされ、修養を求められた影響が日本人の意識に強く残っている。以心伝心や暗黙の諒解などはその結晶である。「御上」意識が強いことや「身分」意識も依然存在するが次第に薄れてきている。 
4.高度成長は儒教精神が成し遂げた
第二次世界大戦後教育も急激に変わったが高度成長を成し遂げた頃の指導者層は戦前の教育を受けた人達である。維新後の勃興期や戦時中と同じように滅私奉公精神で見事に一致団結して秩序を保ちながら頑張った。旗印は輸出立国にしか生きる路はないということであった。当然豊かさを求めて一家の大国柱として様々な苦難に耐えて頑張ったこともある。
儒教は行動を求める。長い間儒教精神を行動の支柱とする思想が基礎となってきた。しかし21世紀に入りそれは過去のものになってきている。新たな行動のための支柱をどこに求めれば良いか。それを探るのがこのシリーズの目的である。 
5.これからも論語は必要か
中国では文化大革命の頃儒教が否定されたが、最近は国学復古ブームで研究が盛んである。孔子学院という中国語普及学校も世界各地に作られている。儒教思想が共産党支配を補完できるかどうかという興味深い問題も有るが、産業発展の礎に経営思想として取り入れる経営者も多い。
日本は歴史的に儒教思想の取り入れ方には問題も有ったが、論語の人生を語る部分には示唆が多い。渋沢榮一は「論語と算盤」で産業発展のために必要な思想であることを書いている。五倫五常等と言ういかめしさに拘らず身近な道徳の涵養に有効なものだと思う。うまく取り入れていくべきである。
私の座右に論語を置いてから約45年になる。1965年2月15日第5版、福音館書店発行、山田勝美著「全釈論語」である。手帳よりも小さい小冊子で180円と書いてある。折に触れては手に取るが奥が深く宝物のようなものである。  
 
論語もいう「待つ」

 

私たちの運営するNPO非営利法人《SNN》では、未だ幼い新日系人の子供(日本国籍)に同行して、自ら子を日本で通学させ養育しようとする「比人母の入国査証取得」に、かれこれ二年も待たされて来た。子供の通学と養育のため就業しようとする比人母に「比国で長期滞在査証は発行しない」という杓子定規ぶりなのだ。だから辛抱比べで、「待つという人生」の意義を改めて痛感している。
私は表面的にはノンビリ屋を今も通しているが、親子兄弟の間では「生来の短気者」で通っていた。実弟が子供の頃には「兄貴から一体いくつ殴られたことやら」と、七十歳を超えた今も思い出話をするそうだ。SNNの日本人パートナー(川平専務)は、私の日本にいる息子と同年齢で気が短かそうだが、いつも「あわてずに待ちましょう」と言ってくれ、それが支えで日本法務省官僚に向けた不満の筆致の勢いを,それなりに抑えてきたものだ。
だが生来は短気者だから書き進むうちに、憤激の感情が表に出てしまう私の筆の勢いを、本紙編集局で何度気を使って和らげて頂いたことやら。人間には理屈では分っても「今畜生(コンチクショウ」という逆恨み」は得てしてあるものだが、私の関係者たちが「一徹老人の激越に走りがちな文章」を、程よく紳士的に調整してくれて有り難い。
(今でも激しいけどナアという声もある?) それにしても「二年も待つ」ということはよくよくのことだった。行き詰まったときの私は「人生は《論語》に窮まる」と認識してきたから、今年の正月は「論語」の拾い読みをしていた。
「学而第一――十六」の中に「子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患(うれ)うなり」とあった。分り易く意訳すれば「自分が社会的に認められていないことを嘆くな。自分が人の取り柄を見付ける能力が乏しいことを憂えろ」ということだ。そして或る日本人学者はこれを「人生とは八割以上が待つことである」と超訳している。我々NPOのケースで言えば、何とかSNNのいう正論にイエスという対応が出来るようにと「法務官僚なりに道を探っている」のだと考えようとしてきた。もし私が弁護士先生なら職業柄「丁々発止と論争すること」が先行して、更に長い長い年月を掛けることになるのかも知れない。
だから最近では「待つ」ということの意義を毎日毎日考え直している。ところでこの頃、自分はやはり「日本人」だなと感じることが多い。私は宗教心の篤い祖父と母に育てられ最も影響を受けた子供だと思う。祖父は未だ明けやらぬ暗い早朝に起きて、仏間に寝ている私の枕元でお経を上げるのが日課の一百姓(農夫)だったし、母は明治生まれでは珍しい、県に一つしかない「師範学校」(今の教育大学)卒業の「小学校の訓導先生」だったが、この二人が口を酸っぱくして言った言葉が、伊勢・桑名の田舎弁で「お天道サンがチャンと見とんなはるんやに」(大阪弁なら、神様が見てござる)という言葉だった。
だから祖母や父に似て余り宗教に熱心でなかった私が「悪いことしたら必ず神様にバレる。だから悪いことはするな」という素朴な人間行動規範だけは必ず守ってきた。江戸時代から明治の初め頃、大阪北浜の市場では、契約に対して殆どといって良いぐらい契約書を交わさず、約束は天を仰いで最後に一言「見てござる」とお互いに言い合うだけだったそうだ。何が見ているのかと言えば「天の神様(お天道様・太陽)」が見ているのだ。だから契約に違反すれば「天から見放される」ということをお互いに言い合っていたのだ。
「天の神様がいつも、どこでも見てござる」という素朴な日本に伝承される文化・慣習をどこにでも伝えてゆけば、世界中がよほど平和になるのではなかろうか? 更には論語の「為政第二――二十六」をある学者が日本語に意訳して「最終的に世間は自分を見てくれる」「いつ、どこで自分の才覚が認められ発揮されるかは、天もキミに約束はできない。
だが青春とはその日をめざして《待つ》ことである」とした。「人生とは待つことである」とは辛いことだが、最終的には世間がどこかで自分を見てくれるという風にでも考えないとなかなか生きてゆけないものだ。論語は中国古典の「孔子(儒教)の言葉」だが、私は「中国かぶれ、している訳ではない」。今の共産党政治下の中国の政策が正しいと言っているわけでもない。「台湾海峡にミサイルを撃ち込んだり」「文化大革命で何千万人を餓死させたり」「チベットをいじめたり」「ベトナムへ侵攻したり」などしてきた現実の偽善は「焉(いずく)んぞ、痩(かく)さんや」《匿(かく)し通せるものではない》。中国共産党は欠点を隠そうとするから偽善が生じるのだ。
毛沢東が女好きだったって構わない。彼も神様ではなく生身の人間だったのだ。だが「文化大革命」「大躍進」「四人組の跳梁」など老後の誤った政策で、数千万人の犠牲者を出した真実をこそ、白日の下に晒して中国共産党として反省すべきなのだと思う。毛沢東が中華人民共和国の「建国に果たした英雄」であったことに代わりはないのだから。 
 
儒学

 

儒学の名称
「儒家」、「儒教」、「儒学」は、基本的にみな同じです。「儒学」が ”儒学の教え(the teaching [of] Confusianism)” で 現代的意義からの学問性、思想性が高いかと思いますので、真儒協会では「儒学」で統一いたしております。 以下、参考までに語のニュアンスのちがいを説明しておきます。 1.儒家 【諸子百家の1つ】
古代中国 (春秋末〜戦国時代) に 「諸子百家 [しょしひゃっか] 」 と呼ばれる 多くの思想家や諸学派が生まれました。 孔子とその後継者たちが唱えたものを「儒家」といいます。他に、法家・道家(老荘)・墨家などの思想は 現代にまでつながる重要なものです。
2.儒教 【国の教え】
儒家思想は、結局 戦国時代には受け入れられませんでした。 統一王朝 「秦 [しん] 」 代には弾圧されます。 秦はわずか 15年で滅びます。次の 「漢 [かん] 」 の時代に、 国教 (国の教え、官学・正学の意) となります。 漢代は(前後)約400年間、繁栄します。儒教の宗教性については、例えば ”ローマ帝国はやがてキリスト教を 「国教」 とした” という場合と同じように、 キリスト教や仏教と並べて ” 教=宗教” と考えてはいけません。 むろん、優れた宗教が優れた思想・哲学を持っているように、 儒学の中にも宗教性が含まれているということはいえましょう。 そもそも道徳と宗教は共通の精神性を持つものです。 我国の歴史をみても、知的指導者としての仏教僧は熱心に儒学を学んできました。
3.儒学 【教学、学問思想】
広く学問・思想・文化を指す場合。 また、学術面を強調し、特に倫理道徳、人格完成の学問の意味で使われています。 
儒学の教え
1.儒学は”平和統治の教え”だと思います
儒学は徳治主義・文治(王道)政治の教えです。 歴史的に戦乱を武力的に統一した後、英主が内治充実に採用し平和繁栄の時代を築いています。中国において、「秦」は法家思想を採用し 永い戦国の時代を統一しました。 が、わずか15年で亡びました。 続く 「漢」(武帝)は 儒学を採用、国教(官学)とし、前後400年にわたり繁栄しました。 唐(太宗)も 約300年、明(洪武帝)も 約280年にわたり栄えます。朝鮮も高麗 [こうらい] を倒した李朝(太祖)が 儒学(朱子学)を官学とし 約500年間続きます。 日本も徳川家康が幕府統治に儒学(朱子学)を採用して後、文治主義が根づき 約260年間 平和に文化が栄えます。
2.儒学は”現実処世の教え”だと思います。
儒学は現実・実践の学です。 『論語』は処世哲学・人生哲学のバイブル(聖書)といえます。 『易経』は 自然・人間への深い哲学的要素が強いですが、決して現実から離れたものではありません。 「仁」にしろ「易」にしろ、人生日用の身近な実践を説くものです。
3.儒学は”民主的 合理的な教え”だと思います。
孔子や『論語』というと”道徳のカタマリ [塊] ”や ”封建制のゴンゲ [権化] ”のようにイメージしている人もいるようです。 封建的な時代の中にあって、孔子の教えが非常にヒューマニズムに満ち 民主的であったり合理的であったりするのに、 いつも新鮮な驚きを感じています。一例をあげれば、孔子の弟子は3000人といわれています。(『史記』) 私塾を開いた孔子は世界最古の私立学校の創始者ともいえましょう。 そして、教育が金持ちの特権階級のみのものであった時代、身分や貧富の差別なく平等に高等教育を行なった大教育者でありました。 授業方法もディスカッション中心でした。 現在 我国の、実際 貧しければ高等教育が受けられない(東大生の8割は金持の家庭)教育の現状を思うと感慨深いものがあります。
4.儒学は”必ずしも保守的・封建的な教えではない”と思います。
儒学は陰陽 [いんよう] でいえば、統合・含蓄・防衛の「陰」の学といえると思います。 しかし、陰陽は相対(待)するもので、「陰」極まれば「陽」に転じます。 「陽」の分化・発動・革新の性格ももっています。「知行合一 [ちこうごういつ] 」を説く陽明学、 我国における幕末〜明治期の”維新”の歴史をみると良くわかると思います。
5.儒学は”本 [もと] の教え”だと思います。
儒学でいう「学」は人格完成の学問です。学問には、徳(徳性・道徳)の学と、才(知識・技能)の学の2つがあります。 徳の学は人間の本質的・(根)本の学、才の学は従属的・末(枝葉)の学です。我国は、戦後この本学がなおざりになっています。 現在の公教育では、本学=徳育は、ほとんど行なわれていません。 自ら学ばなければなりません! 
儒学思想の中心となる言葉(キーワード)略説。
江戸時代から伝わっている ”むしまんじゅう” があり、仕上げに表面に ”直” の字を焼き印で押すそうです。 それは ”正直” という意味らしいとご主人が言っていました。
徳の旧(正)字はです。 と十とと一と心です。 は(人生を)行く、は目をヨコにしたもの、 一は、つまり ”直”。 直(まっすぐ、正直・素直)な心で (人生)を行く の意味なのです。
儒学は、権力・武力ではなく、君子 [くんし] の道徳的権威で社会を治めていく 「徳治主義(王道政治)」をとなえます。その骨子は「修己治人 [しゅうこちじん] 」で 倫理と政治を一体に考えるところにその特色があります。
「仁」の字は人が二人。肩を並べた二人で対等・平等・人間相互のコミュニケーション(親しみや人を思いやる愛情)をあらわしています。 また、種子の中の芽となる部分で、なくてはならぬ一番大切なものです。
「仁」は、まごころと思いやり(忠恕 [ちゅうじょ] 、加えて孝悌 [こうてい] )を意味します。 人類愛・ヒューマニズム(人間中心主義)の思想そのものです。 結局のところ、儒学の「仁」は、キリスト教の「愛」、仏教の「(慈)悲」と同じもの、 本質においては みな同じと思われます。
※なお、我国の歴代天皇(皇太子)のお名前には、 すべて「仁」がつけられています。
孔子は、心は 「仁」 にあふれ 行動は 「礼」 にかなった ユートピア(理想社会) を目指したのです。
仁(忠恕 [ちゅうじょ] )を重視する立場は曽子 [そうし] 孟子 [もうし] に受け継がれます。 一方、礼を重視する立場は 子游 [しゆう] 荀子 [じゅんし] に受け継がれ、やがて礼は「法」に移ってゆき 韓非子 [かんぴし] の法家思想、法治主義の流れとなってゆきます。
孟子が仁とともに義をあわせてとなえました。 孟子は孔子より100年程後の人で、当時の社会は すざまじい弱肉強食の「戦国時代」に入っていましたので 仁だけでは不充分だったのです。
義は、正しい判断、正しい道に従うこと、仁を実践するための 具体的・社会的使命のことです。 現代の社会では 「公 [おおやけ]」、「公正」、「公共性」といった言葉があてはまるように思います。
陰陽思想と共に 儒学(易学)思想・哲学の根本です。 儒学のみならず、仏教、道教(老荘)等の思想は、みな中論です。
中は ”ホド”よく過不足のないことです。 動的な考え方ですので ”真ん中”という意味ではありません。
また、中は生み出す(神道 [しんとう] では産霊 [むすび] )ことです。 例えば、男女で子供を生み出すように、両方の矛盾(異質)を統一して 一段高い段階へと進化してゆくことです。 西洋の弁証法(正 一反一合、ヘーゲル哲学)も同じです。
我国は、聖徳太子(憲法十七条 603)以来、この中と和(わ、やわらぎ、和合)の精神 =「中和」をもって調和することを大切にしてまいりました。 
日本の儒学
国際化の時代にあって、現在 [いま] 、日本と日本人のアイデンティティ (identity・自己同一性)が問われています。 現代日本は、日本(人)とは何か? を見失っている時代です。
日本の思想・文化、つまり日本の精神は、以下の3つであるといえましょう。
1.日本本来(固有)の宗教である 「神道 [しんとう] 」 (惟神 [かんながら] の道)
2.外来宗教で、日本の歴史の早くから広く根づいている 「仏教」
3.応神天皇16年に 『論語』 によってもたらされた(文字=漢字の伝来) 「儒学」
そして、この3つが親しく ”和” して家族的に同居しているところに特色があるといえましょう。 例えば、僧侶・神官が儒学を学んだり、各家庭で神棚と仏壇を並べて祀 [まつ] ったりといった具合です。
かつて私達の先祖は、中国の文字(漢字)を 訓読の工夫をしたり仮名を発案したりしました。 明治期には大量の外国語に対応する語 (例えば ”経済”、”郵便” など) を造 [つく] って取り入れました。 そうして、現在の日本独特の”日本語”を形成してきたのです。 日本人は、外国のもの異質のものを、優れた包容力と ” 陶鋳力 [とうちゅうりょく] ”(山鹿素行 [やまがそこう] の言葉)をもって 受容・進化させてきたといえましょう。
儒学においても、中国を源流とし朝鮮経由で伝来した思想ではありますが、その優れた包容力と陶鋳力をもって受容 吸収し、 日本の歴史風土に根ざして進化させたといえましょう。 例えば、日本儒学は、歴史的に、仏教的なものや道教(老荘)的なものを吸収・包摂しながら、教義を豊かなものとして形成されてきました。
ですから日本儒学は、中国や韓国の儒学とは、例えば中・韓の冠婚葬祭によくあらわれる宗教性や礼学的性格において、 かなり異なっていると思います。 私(高根)は、日本儒学の独自性は その ”学道” 的性格によくあらわれていると思います。 また これからの日本儒学も ”学道” を極めるものであらねばならないと思っています。
進化は、日々に新たなものです。 ”維新” です。かつて ”江戸期 日本儒学” がそうであったように、 古き良き日本儒学の伝統を新しい現代の要素を加えて再生し、活学し、未来へと進化させてゆかねばなりません。 
儒学の誕生
今をさかのぼること 2500年余り前、古代中国に後に三(四)大聖人【孔子 ・ 釈迦 [シャカ] ・ イエス キリスト ・ (ソクラテス)】と称される 孔子が生まれました。 この孔子が開いた民主的な教えが儒学です。 この儒学は、中国にとどまらず、朝鮮、日本等 アジア地域で、永い間、国家社会の秩序となり、 思想文化のみなもととなり、また人生の良きみちびきともなってまいりました。
我国にとっても、文字(=漢字)の伝来は同時に 『論語』(=儒学)の伝来でした。 その文字と思想の受容・吸収によって、優れた良き日本人の美しい精神(こころ)を形成してまいりました。
孔子は(BC.551 [BC.552]? − BC.479)、魯 [ろ] の国、陬邑 [すうゆう] に生まれました。 名を丘、字(あざな)を 仲尼 [ちゅうじ] といいました。 生まれた時、頭のてっぺんがくぼんでいて尼丘山に似ていたのが命名の由来といわれます。(『史記』) 父は64才を過ぎており、母は16才であったといわれています。 孔子が3才の時 父が亡くなり、しばらくして母も亡くなります。両親に早く死別し、家貧しく、兄弟多く(姉9人 兄1人) 非常な苦労をして学問を修めました。
孔子は、生涯 ユートピア(理想国家)としての周王朝の再現を目指しました。 徳治主義をとなえるその教えを一言に要約すると、 それは「仁 [じん] = おもいやり、いつくしみ」ということです。 14年間の諸国遊説 [ゆうぜい] の後、帰国し弟子の教育や古典の整理に専念します。 孔子の弟子は、3000人ともいわれますが(『史記』)、非常に年齢の若い弟子が多かったのが特徴的です。 孔子の教えは、孟子 [もうし] 、荀子 [じゅんし] へと受け継がれ、 「仁」を重視する立場と 「礼」を重視する立場の2つの流れを形成しつつ発展いたします。
孔子の没後(30年〜100年後?)、門人たちによって編集された孔子と弟子の言行録が『論語』です。 20編 499章からなり、”円珠経 [えんじゅきょう] ”とも 「宇宙第一の書」とも呼ばれ、 東洋のバイブルとして広く永く愛読され学ばれることとなります。
我国においても、”犬に論語”、”論語読みの論語知らず” 等、ことわざになっていることからもわかるように、 (ことに近世)指導者階級のみならず 庶民生活の中に身近なものとして親しまれ、根付き、良き精神文化を形成してまいりました。 
儒学の発展
約500年余の戦乱の時代を統一したのが 「秦 [しん] 」 の始皇帝です。 秦は法家思想・法治主義を採りました。 儒家を弾圧し、儒家の本を焼き 儒学者を生き埋めにしました。 (「焚書坑儒 [ふんしょこうじゅ] ) 儒学の最初の ”暗黒時代” といえましょう。 ただし 『易経』 は焚書から除外されました。
秦は、わずか15年間で亡び 「漢 [かん] 」 の時代を迎えます。 英主武帝は儒学を統一国家の 「国教(国の教え)」 とします。 (BC.136)その意味で儒学が ”儒教” となったのです。 以後、漢は前後約400年間大繁栄し、”漢字” ・ ”漢文” ・・・ 等、”漢” という言葉は現代まで ”中国” をあらわす代名詞となります。
「唐 [とう] 」 は、英主太宗によって築かれた大帝国で、約300年間にわたり繁栄します。 アジアに大唐文化圏が形成されます。 太宗は 『五経正義』 を編さんさせ 儒学の統一化を行ないます。 儒学は官吏登用試験 (科挙) の試験範囲とされてゆきます。
我国は、遣 (隋 [ずい] ) 唐使節によって、 律令制度 ・ 仏教 ・ 書道等 多くの唐文化を留学生・留学僧に持ち帰らせました。 書道三筆の1人でもある空海 (弘法大師 [こうぼうだいし] ) は有名です。
「宋 [そう] 」 の時代、”新しい儒学 (宋学) [New Confucianism] ” がおこります。 儒学は漢・唐の訓詁 [くんこ] (字句の解釈) を捨て、 精神・哲理に重きをおき 宇宙の原理性の研究に向かってゆきます。 この学風を大成したのが南宋の朱子 (朱熹 [しゅき] ) です。
朱子は、必読書として四書 ( 『論語』 ・ 『孟子』 ・ 『大学』 ・ 『中庸』 ) を単行本化しました。 その注釈書が 『四書集注 [しっちゅう] 』 で、四書を儒学の中に権威づけました。 ”朱子学” は、以後 正統の学となり全盛時代を築きます。 即ち、中国の 「明 [みん] 」 代、李氏朝鮮、日本の江戸時代は朱子学が官学化され、 アジアに ”儒学文化圏” とでもいえるものが形成されました。 平和で文化の繁栄した一時代を現出いたしました。
明代には、王陽明 [おうようめい] が宋代の陸象山が開いた心学を受け継ぎ、 ”陽明学” を大成します。 王陽明は、朱子学に対抗して ”知行合一 [ちこうごういつ] ” をとなえ 実践を重んじました。 『伝習録 [でんしゅうろく] 』 は王陽明の語録です。 以後、儒学は朱子学 ・ 陽明学の2派に分かれて対立いたします。
「清 [しん] 」 代には、この朱・王 2派に反発し、 経書 (古典) を実証的に研究して儒学を客観的に解釈しようとする ”考証学” がおこりました。 
儒学の日本伝来
【 文字 (=漢字) の伝来 】
文字を持たない我が国に、応神天皇16年 (西暦285年?、405年?)、 朝鮮 (百済 ・ くだら) の 博士王仁 [ワニ] が 『論語』 10巻と 『千字文 [せんじもん] 』 1巻をもたらしました。 日本は、中国の漢字を日本的に変容させて (ex. 訓読、仮名文字の発案) 受容 ・ 吸収しました。
文字の伝来 ・ 受容は同時に儒学の伝来 ・ 受容でもありました。 その後、五経博士 (6世紀初)、易暦医博士 (6世紀中) が来日し、 やがて仏教も百済から伝来 (538年? 552年?) します。 このように中国の源流思想、儒学は朝鮮経由で日本にもたらされました。 そして、その儒学が永きにわたって我が国の政経 ・ 社会 ・ 文化のいしずえとなり、 美しい日本の精神 = こころを形成してきたのです。
【 飛鳥 ・ 奈良時代 】
聖徳太子は、儒学 ・ 仏教をよく修め 国を治めた最初の教養人指導者であったといえましょう。 ”日の出づる処の天子” として ”遣隋使 [けんずいし] ” を派遣し (607年)、 ”冠位十二階の制” (603年) により 儒学と色による行政改革を行いました。 有名な”憲法十七条” (604年) の 1条 「和 [わ・やわらぎ] をもって貴 [たっと] しとなし」 は 、『論語』 の一節からとったものです。
【 平安時代 】
”遣(隋)唐使 : (607) 630年〜894年” により、中国の文化が大量に直接に入ってきました。 貴族 ・ 僧侶が儒学を学び、大学の必修科目は 「論語」 ・ 「孝教」 でした。 日本の中古文学が花開きました。
【 鎌倉 ・ 室町時代 】
朱子学が伝来しました。 武士の間で兵法などとともに広く学ばれました。 鎌倉時代の随筆 『徒然草 [つれづれぐさ] 』 (吉田兼好 [けんこう] ) を読むと、 いたる所に 『易経』 ・ 『論語』 などの儒学 ・ 漢学の素養があらわれていることに感心いたします。
【 江戸時代 】
戦国時代を武力で統一した徳川家康は、江戸幕府を開きます。(1603年) 家康は ”近世儒学の祖” 藤原惺窩 [せいか] の講義を受け、 儒学 (朱子学) を新しい時代の官学とします。 (※当時、中国 ・ 朝鮮で朱子学が官学でした) 朱子学を正学とし 徳治主義をもって幕府のいしずえを築いたのです。 ”犬公方 [いぬくぼう] ” とあだ名された 5代綱吉 [つなよし] は 湯島聖堂 (孔子廟 [こうしびょう] と聖堂学問所) を設け、 儒学を奨励し文治政治を推し進めました。
江戸期には儒学が隆盛し、日本儒学が形成 (儒学の日本化) されます。 儒学三派と呼ばれるものが、朱子学派 ・ 陽明学派 ・ 古学派です。 儒学のほか国学や蘭学も学ばれました。
江戸時代の教育は正当に評価されていないきらいがあると思います。 藩校や寺子屋による初等教育は現代に負けない充実ぶりでした。 例えば 『論語』 は、庶民から武士、老若男女、”『論語』 を知らぬものはない、読まぬものはない ” といった充実ぶりです。 当時の子供の素読 (=音読) によって 培 [つちか] われた語学力 (漢学) は 現代の学生とは 比べものにならぬほど優れたものだったでしょう。 また、当時の女性は非常に教養豊かで、自由であったと思われます。
【 幕末〜明治 】
幕府の正学が朱子学 (寛政異学の禁、1790年) であったのに対し、 異学とされていた陽明学が次第に力を持ってきます。 ”日本陽明学の祖” が ”近江 [おうみ] 聖人” と呼ばれた中江藤樹 [とうじゅ] です。 (平成20年は生誕400年にあたります) 幕末に乱をおこした大塩中斎 (平八郎) はよく知られています。
幕末の儒学的教養人として、佐久間象山 [しょうざん] 、 松下村塾 [しょうかそんじゅく] を開いて多くの俊英を輩出した 吉田松陰 [しょういん] (平成20年は、”安政の大獄” により没して150年にあたります)、 明治維新の3傑の1人 西郷隆盛 [たかもり] 等があげられます。 彼等が幕末から明治への激動期に、 進歩的 (進化的) 役割を果して ”維新” を実現したといえます。
【 明治 】
明治時代となり法治主義になっても、人間が一気に変わるものではなく、 江戸期日本儒学の良き伝統や徳風は温存されていたと考えられます。 初代総理大臣の伊藤博文 [ひろぶみ] 、3代総理大臣の山県有朋 [やまがたありとも] は 松下村塾出身です。 そして どちらも名前は 『論語』 の一節からつけられています。 儒学は ”文明開化” の時代にあっても ”和魂洋才 [わこんようさい] ”、 ”東洋の道徳” として、 その意義 ・ 価値を発揮し続けます。
「教育勅語 [ちょくご] 」、1890年」 は、 明治天皇が帝国大学 (現 東大) に徳の学 (徳育) のないことを心配されて、 自ら 具体的に人格形成の目標として提示されたものです。 格調の高い名文で書かれており、「従って、わたくしも国民の皆さんと共に、 父祖 [ふそ] の教えを胸に抱いて、 立派な徳性を高めるように、 心から願い誓うものであります。」 (※口語訳) と結ばれています。 教育勅語は、大東亜戦争敗戦により 占領軍によって廃止されるまで、 儒学の精神にもとづき、人間教育の指針として日本の精神文化を形成してまいりました。 
儒学の現代史
1949年、中国では 国共内戦に敗れた国民政府は台湾に移り (中華民国)、勝利した中国共産党は中華人民共和国を成立させます。 儒学の暗い時代を迎えます。 儒学とその思想が伝統文化なるが故に批判され打倒目標になります。 ことに、”文化大革命” による儒学 (孔子) への破壊弾圧は、まさに ”暗黒時代” といっても良いのではないでしょうか。
それでも 儒学 (孔子) への尊崇の火は消えませんでした。 次第に儒学 (孔子) への見直しがなされて、今日 以前とは比べものにならない再生ぶりです。 2005年は、式典が行なわれ 正式に国が孔子を認めた年ともいわれています。 2008年 北京オリンピックが開催され、国際社会の中に新たに中共が位置づけられようとしています。 今、中共では 次代を築く若者たちが熱心に 『論語』 を学んでいます。 儒学がとり戻されつつあります。
朝鮮 (半島) では、1948年 南北に分断され、北は社会主義国となりました。 南の大韓民国は儒学的生活様式の伝統が社会生活の中に色濃く温存されています。 その国旗は易学の ”太極 [たいきょく] マーク” と ”四象 [ししょう] (天・地・水・火)” がデザインされており、 儒学の国をよくあらわしています。
日本では、かつて欧米諸国を尊敬せしめた 優れた精神性 ・ 徳の伝統は、 1945年 ”大東亜戦争敗戦” ・ 米による占領政策により一変します。 教育勅語廃止 ・ 憲法改正 ・ 民法改正 ・・・ ”民主化” の美名のもとに、 日本の古き良き精神文化が捨てられ、忘れられました。 敗戦後 60年余りを経て 我国は、現在 (その物質的繁栄とはうらはらに) 精神 (=心の) 危機的貧困状況に至っています。 儒学 ・ 日本精神の ”忘却 [わすれさられた] 時代” 、 ”心の蒙 [くら] い時代” と称せるかも知れません。
以上、2500年余前の孔子誕生に起源する儒学の歴史のあらましをみてまいりました。 結びに、中国において孔子の子孫達が (80代になります) 脈々と生き続け活躍していることを付け加えておきます。 そして、我国においては天皇の血脈が (125代になります) 続いていることに、 不易 [ふえき] (変わらないこと) なるものの尊さを感じております。 
 
今なぜ儒学なのか

 

今、中国と日本で儒学(『論語』)は
2008年8月、北京でオリンピックが開催され、世界諸国が集い、中国が文化で彩 [いろど] られました。 開会式第一声 「朋 [とも] 遠方より来る有り、亦 [また] 楽しからずや」 の 『論語』 冒頭の文言が響き、 儒学文化を世界へと誇る演出がなされました。 かつて、”文化大革命”(30年余り前)で強力に弾圧されたことが信じられない位、儒学 (孔子・『論語』や易学) 思想が 復活再生 [ルネサンス] されつつあります。 今、中国の子供・若者たちは 『論語』 を学んでいます。
日本でも ”静かな 『論語』 ブーム” とマスメディアが報じ、書店では ”論語”の2文字をタイトルに入れた本が多く並ぶようになりました。 孔子の学・「儒学」 の必要性が見直されているという兆 [きざし] が感じられます。
さて、”日の出ずる処 [ところ] =アジア” がすぐれた文化圏として結ばれていた時代が幾たびかありました。 ”儒学文化圏” と称することも出来ると思います。 その交流は、例えれば、中国を父母とし朝鮮・日本を兄弟姉妹とするようなものでした。
大東亜戦争終了後、アジアの現代史は各国が独自の途 [みち] を歩んでいます。 近未来の世界は米・中の2大国がリーダーシップをとるでしょう。 今でも13億の人口を擁 [よう] し広大な国土を持ち、また歴史文化豊かな中国。 その中国と ”一衣帯水 [いちいたいすい] の地” にある我国は、今後どのような交流をしてゆくべきなのでしょうか。 
西洋と東洋のルネサンス(=リナシメント)について
ところで、ルネサンス(文芸復興・再生)は、14世紀 イタリア・フィレンツェに発祥し ヨーロッパ全土に波及した古典文化(ギリシャ・ローマ)の復活再生運動です。 すなわち、中世の”神(仰)の時代”は、文化的に真っ暗で ”暗黒時代” と称され、 人間性(ヒューマニズム)が死に絶えました。それが生き帰るのがルネサンスです。 ここで注目したいのは、イタリアルネサンス=リナシメントは単なる古代の再生ではなく、 東方文化という当時の新しい要素が加わって興 [おこ] ったということです。
このルネサンスを儒学思想の中に捉 [とら] えてみましょう。 『易経』 の卦に ”地下明夷 [めいい] ” という卦があります。 地中の太陽、明るいもの明らかなものが傷 [やぶ] れ害される。 君子の道塞 [ふさ] がって小人はびこる(”天地否”の卦)でもあります。 日本の『古事記』では、天照大御神 [アマテラスオオミカミ] の”天の盤戸 [いわと] がくれ” です。 ルネサンスは、易卦 ”地雷復 [ふく] ” 、 ”冬来たりなば春遠からじ(シェリー)” で一陽来復、維新です。
大東亜戦争敗戦・米による占領政策実施から60余年を経た現代。 私には、今という時代が、 ” 準暗黒時代=蒙 [もう] の時代” 、易卦にいう ”地下明夷” ・ ”山水蒙” の時代に思われます。 
外国から尊敬された、かつての日本人
近代の歴史をよく眺めてみると、かつての日本人は他ならぬ外国人から尊敬されていたことに驚かされます。 F.ザビエルをはじめとする多くの宣教師、駐日米総領事ハリスなど在日外国人が賞賛しています。 幕末の欧米列強も、「日本人は武士(指導者層)は武士道を持ち、婦人・子供も勤勉にして貞淑、徳義があり、 とても植民地化は出来ない。」 と考えました。明治新政府のリーダー達・岩倉使節団がサンフランシスコで尊敬をもって評価された事も記されています。
かつての日本人は、物質的には必ずしも豊かでなくとも、武士から庶民、婦女子・子供にいたるまで、 儒学の徳目(仁義や敬恥など)をよく修め、人間として尊敬を得ていたということです。 
”義”でなく”偽”、 ”徳”でなく”(利)得” の今の日本人
今の日本人はどうでしょうか。エコノミックアニマルと蔑称 [べっしょう] されて久しく、 今では、世界で日本人を民族として尊敬する人がどれだけいるでしょうか?
敗戦後60余年のツケは、深刻なものとなってきました。 2007年の世相を表す言葉が ”偽” でした。 儒学の ”義” (よい、おおやけ、社会的使命) に変わって、 ”偽” (うそ、いつわり、あざむき)がまんえんし、”徳” に変わって自己中心の ”(利)得” を追いかけるようになってしまいました。
各界で、徳あるトップ(長)が少なくなってまいりました。政界において、政治家の器や倫理が問われています。 儒学は、政治と倫理道徳が合一の、修己治人 [しゅうこちじん] の教えです。 優れた指導者(リーダー)を持てない国民は何と不幸ではないでしょうか。
財界においては、成果主義・拝金主義が支配し、経営者は ”利に放 [よ] りて怨 [うら] み多く” (『論語』) その企業倫理が問われています。 本来、”経済” の語は、福沢諭吉が ”経世済民 [けいせいさいみん] ” から訳したものです。 明治の渋沢栄一、昭和の松下幸之助等、儒学精神にのっとった立派な経営者が時代を先導しました。 平成の経営者はどうでしょうか?
教育は国家100年の計であり、我々の未来そのものです。 敗戦後、教育者の権威は失墜 [しっつい] し荒廃してきました。 近年の教育行政自体の不祥事が露見するに到って、教育はどこへ向かって行けば良いのか混迷の状態です。 
今こそ儒学によるルネサンスオリエンタル・リナシメント
過去の理想郷(ユートピア)を再現しようとするのは、東洋人の特徴でもあります。 ”孔子一貫 [いっかん] の道” は ”周” の再建でした。 その孔子は ”仁” (おもいやり・いつくしみ) を説き、”敬” を強調し、続く孟子は 仁 に ”義” (おおやけ、社会的使命)を加え ”恥” を力説しました。
今の日本は、偽にみち ”信” なく、親子に ”孝” なく、礼 (あいさつ、マナー) なく・・・ 心の蒙 [くら] い時代となりました。 儒教哲学的に言えば、陰陽のバランスが崩れ、陽に偏向して、中庸(中和)を欠いている時代です。調和状態をとり戻さねばなりません。
そのバランスを取り戻そうとする、儒学の復権から復活の兆 [きざし] もあります。 例えば、儒学・東洋思想の源である陰陽(五行)説は、明治の西洋崇拝思想で軽視されてきましたが、 ようやく見直され復権しつつあります。 西洋医学に対する漢方、中国医療も同様です。 卑近な例をあげれば、和食がハンバーガー等の洋食にとって変わられましたが、今再び和食が見直され外国でも評価されています。 ”和” の復権・回帰です。
今、各界で長(トップ)から一般国民にいたるまで、 老若男女 [ろうにゃくなんにょ] 、本 [もと] に立ち帰ることが急務です。 忘れられ、なえがしろにされているものをとり戻さなければなりません。誰もがすっかり忘れてしまう前に! ”徳” のともしびを絶やしてしまっては終わりです。 未来はありません。 亡びぬようにと国と国民をしっかりとつなぎとめておく ”根株” は、 道徳・徳義とその教育に他ならないのです。
「温故知新」(『論語』)。アジアが平和に交流し、新しい時代の息吹 [いぶき] を吹き込みつつ、 儒学に代表される優れた文化で再生(儒学によるルネサンス)し、 ”オリエンタル・リナシメント(東洋の文芸復興)”が実現することを望みます。 そして、我が国の持つ ”当鋳力 [とうちゅうりょく] ” (優れた受容吸収能力) が発揮され、 日本的リナシメントによって、徳が形をとった ”美しい国” が再現されることを望んで止みません。 
 
論語の影響力

 

むかし山本七平氏の論語解説を見ていて、冒頭の部分に次のようにあったのを覚えています。
「孔子が評価した人物は今の世でも評価され、孔子が評価しなかった人物は、今の世でも評価されない。それほど人間というものは今も昔も変わらないものだと考えるのか、それとも、孔子の論語を読むことが戦前まで教育の基本となっていたことを考慮し、論語が現代に至るまで我々の価値観の形成に影響力を及ぼしてきたと考えるのか・・・」というような内容のことを書いていましたが、このことについて、どのようにように思われますか?
ある程度の見識を自認なさっている方、もしくはこのような問題についての関心が非常に高いと自認なさっている方に質問したいのですが。
また、彼は「共通の古典のないところに親子の対話は生まれない」とまで極言してますが、このことについてもお考えをお聞かせください。
論語は中国の古典なわけだけど、この古典というものについてここで考察を披露したい。
ヨーロッパではホメロスなどのギリシャの古典を自分たちの古典だと考えている。フランス人もイギリス人もドイツ人もイタリア人も、ヨーロッパの人間はみんなが自分たちの古典だと思っている。それが正しい。
しかし現代の日本人はどうも論語を中国の古典だと考える傾向がある。しかしそれは大きな間違いなんです。論語は日本の古典なんです。
中国で中国人によって書かれたものであっても、日本人は自分たちの古典だと思っていい。
これは中国を中心として文化が栄えた同じ文化圏であるという消極的な意味ではない。論語や四書五経というものは日本ほど深奥に迫り文化として昇華させた民族は無いからです。
日本人ほど民衆にまで論語を浸透させた民族はいない。また論語を人生観の重要な柱として構築させた民族はいない。今でも多くの道徳律が論語の教えを淵源としている。中国では僅かに士大夫階級だけのものに留まったのだから。
山本氏はそういう日本人の歴史、文化に論語が及ぼした影響の大きさを述べているんですね。
そして古典についても同様で、人間は概念の交流で意思疎通をしているんです。だから概念が異なれば意志疎通は出来ないわけで。
で、概念というものは何に由来するのか、という問題となる。それはそれぞれが生きてきた時代を覆う思想というものなんです。その時代を覆う思想は多くを古典に拠っているということ。
現代では教養人はほとんどいないから。だからわからないんだと思いますよ。学校で教わった知識しかないくせに、自分たちが優れた存在だと思い上がっているのが現代人だから。優れていると思ってるからろくに読書もしない。ただ今の時代に生まれただけで優れていると思っている。
昔の人は違いますから。自分の卑小さを知り、自己を拡大するために読書をした。偉人の魂を求めて行ったわけです。そういう生まれながらに優れていると思い込んでいる人間と、自分を卑小なるものとして積み上げる人生観の人間と、どのように意思疎通をすればいいのか。
これは子供と大人の意志疎通と同じなんです。・子供の世界は小さい。それは経験が少ないということでどうしようもないことだけど、子供に善悪の概念を教えるのにどれほどの苦労をするのか。
そういう問題なんですよ。概念がない人間には話も出来ない。今はみんなが浅い概念だから、浅い会話しかしないんです。だから友情も愛情も育たないんだと思いますよ。みんなただ自分の好き嫌いで断ずるだけだから。
「人をなぜ殺してはいけないのか」。
この問いに大人が答えられないのだと言う。そういう時代にあって、論語を人生の主軸に据えた人間が何を言えるのか。
理解というのはその人間の中にある様々なものとの共振なんです。何も無ければその共振が起きない。歴史的にその共振を与えて来た代表が古典だったということです。
論語が聖典かどうか知りませんが、論語も聖典も読む人や解説者により、そしてその人の迫力で意味は多様ですし多分同じ内容のものはほとんどないでしょう。
戦前の教育や教養での論語がどの程度為されていたか、どんな内容が主流であったか。
どんなスタンスや心と動機でアクセスされていたか、私は私の論語受け取りからは非常に疑問を持っています。
一時孔子も政治の担当者になりましたが、その多くの日時は諸国の放浪と遊説ではなかったですが。
高弟であり愛弟子であった子路も、殺されました。顔回は世俗の事には関りも関心も薄弱でした。
孔子も弟子達も、その時代では世俗の評価はうすかったようです。
その後、政治がその正当化や政治原則とするために、採用したいきさつはありますが。
孔子の評価するような人物といえば、結局、精進やら修行を一途にしている人でしょう。
まぁ世俗権力には通りそうもなさそうですね。
論語をこの2011年の私は価値観形成にしているとは思いません。
孔子もいっていた、論語にも書いてある洞察だなぁくらいですね。
高い見識も関心も高いとは自認していませんで。そういうコメントが付加されることに私はひがみ根性を持ちますが。
社会生活をしていますと、平気で「うそ」をついたり、「自分の都合のいいように事実をゆがめて話したり」する輩が大勢いることがわかります。
こういう連中と毎日付き合っていると、普段「当たり前」だと思っている、道徳性や倫理性が、いかに人として大切な事かを思い知らされます。
孔子の「仁」など、「保身」のためには「たんぽぽの綿毛」ほどの重さもない状況です。
うちの親も「教養のかけら」もない人ですから、論語の「ろ」の字も身に付いていません。
昔は剛毅朴訥仁に近し。
今は、小ズルイ、悪知恵が回る、せこい人間が、平気で人を踏み台にして、蛙がお腹に空気を一杯に吸って虚勢を張って、えばっている世の中。
論語を読んでいる人間は、少なくなったと思いますね。(もうマルクスエンゲルス全集も売れないそうです)
漫画ばっかり読んでる「頭からっぽ」人間が、大衆として暮らすようになりました。
「共通の古典のないところに親子の対話は生まれない」と言っても、ショッピングセンターに来ている若い親子を見ていると、どう考えても「論語」を読んでいる親には見えませんね。
「ワンピース」や「ナルト」を親子で見ているとは思いますが、孔子は知らないでしょうね、きっと。
高学歴な階級にしか「共通の古典のないところに親子の対話は生まれない」という言葉は通じないと思います。普通、親も子も読んでないです。
いい学校に行けば、古典をきちんと学べますので、道徳心も身に付く可能性は高いですね。
親も子も源氏物語や論語、徒然草、枕草子などの古典を読んでいることが理想です。
中国の道徳心の崩壊は、怖いですね。特に高学歴でも「公共道徳」は欠如しています。日本はまだそこまでは、ひどくないです。今日も満員電車に乗る時に、目の不自由な方が、乗車する際に、私が「介助」しようかな、と思っていましたら、他の方が先に、手助けされていました。 
 
中国の勧善懲悪 / 公案小説『狄公案』

 

(一)悪の栄え
「世の中に悪が栄えたためしはない」というのは本当だろうか。いや、現実の世の中はいつの時代も悪が栄え、善が苦しむのではないだろうか。それゆえにこそ、中国の人々は「公案小説」、すなわち、決して悪の栄えを許さない「勧善懲悪」の物語を愛してきたのであろう。
「勧善懲悪」と言えば、日本にも「水戸黄門」、「遠山の金さん」、「大岡越前守」などのテレビドラマがあるが、おきまりの筋の展開と結末には、戦慄的なものがない。ところが公案小説の「勧善懲悪」は違う。さすが中国!と感嘆すべき戦慄的なダイナミズムがある。
「公案小説」の傑作の一つが、『狄公案』(てきこうあん)である。これは最初『武則天四大奇案』という書名で、清の光緒十六年(1891年)に出版され、後に『狄梁公四大奇案』となり、さらに『狄公案』となって流布した。作者は不明であるが、わざと名を隠した文人であったと思われる。
冒頭で、その無名氏は言っている。
「春風は眠気をさそい、筆者はひねもすこれといってすることがない。そこで一人の清官の物語を書きつづって、諸君のご覧に入れることにしよう。諸君に警告を与え、目を覚まさせようなどという気はさらさらない。ただ退屈しのぎの一興になれば幸いである。」
文人が小説を書くのは新奇なことでなく、むかしから多くの文人が学問の余技に手を染めてきた。中国最大のポルノ小説、明の『金瓶梅』もそうで、作者は「笑笑生」という筆名を使っている。『狄公案』にも唐の則天武后にまつわるポルノ的部分があり、名を隠す必要があったのかもしれない。しかしそれよりもっと用心すべきは、お上からの迫害であったにちがいない。
当時の中国は、アヘン戦争(1840〜1842年)の惨敗によって、領土が割譲され、国が国として立ち行かない危禍におちいっていた。朝廷は無能、官界は腐敗、地方政治は乱脈といった状況の中で、多くの文人が小説(フィクション)のかたちでお上を譴責した。『狄公案』の作者もその一人で、唐の則天武后を借りて、時の西太后(慈禧皇太后)を譴責しようとしたことは明らかである。
西太后(1835〜1908年)が政権を握ったのは、1861年のことで、以来この女帝は三十五年の長きにわたって清の朝廷に君臨した。しかし内憂外患を解決する力に欠け、特に欧米列強の領土割譲、自由貿易、領事裁判権などの強要に対して、まったく無力であった。しかも西太后には欧米の近代思想を受け入れて中国の法律、政治制度を変革しようという意思はなく、いたずらに外国人を排除しようと考えて、義和団の攘夷運動をそそのかしたりした。
こうした時代に出現した『狄公案』は、狄仁杰(てきじんけつ)という「清官」(クリーンな政治家)の物語である。「清官」について作者は冒頭で次のように言っている。
「『清い』というのは、単に財をむさぼって民を害したりしないということではない。上に対しては国家を守って勇敢に正義を行い、下に対しては人民をよく治め、特に冤罪、怨恨を除いてやることである。朝廷の出来事、民間の細事を冷静な心で観察し、澄んだ精神と果敢な決断力を発揮する。それゆえにこそ官人としての信用は高まり、官位はふさわしいものとなる。本人の清さが、まわりすべてを清くするのである。」  
狄仁杰はこのような「清官」である。そして彼が特にユニークなのは、この「まわりすべてを清くする」闘いに、「法」を武器としていることである。すなわち、彼は「法の精神」によって天下の悪を懲らし、善を勧める強力な「法官」なのである。
中国が法治国家の道を歩みだしたのは、秦の始皇帝の全国統一からであるが、それを思想的に助けたのが、申不害(しんふがい)、韓非子(かんぴし)などの刑名家であった。『狄公案』の冒頭に、次のような詩がある。
官人はひとえに高官になりたがれど、執法はやさしく、判決は難しい。
寛容公正な法官は周の呂侯、漢の杜周、苛酷で憎まれたは戦国の申不害、韓非子。
一人の清官は千戸の民を幸福にし、公平の二字は平民の心を安んじる。
昌平の長官、狄公こそはその一人、天下の清官として語りつがれる。
この詩に名前は出てこないが、実際に秦の法治の土台を作ったのは商鞅(しょうおう)であった。商鞅は秦の太子が法を犯したとき、鼻削ぎの刑を科すべきだと主張して譲らなかった。しかし太子が秦王となったときに鼻がなくては困るので、代わりに太子の教育係が刑を受けた。後に太子がまたもや法を犯したとき、商鞅はふたたび重い刑を科すことを主張した。『狄公案』の中にしばしば「王の子も法を犯せば庶民と同じ」という言葉が出てくるが、それはこの故事から来ているのである。
商鞅までの中国では、「法」はほとんどが刑法であって、統治者(士大夫)が被統治者(平民、奴隷)をとりしまるためのものであった。「刑は大夫に上らず」という言葉があり、大夫以上の統治階級の者が罪を犯したときは、「刑」ではなく、「礼」によって道徳的に裁かれるのが習慣であった。「士は辱めるべし、殺すべからず」という言葉もあった。ところが商鞅は平民や奴隷に用いられた「刑」を統治階級の者、次の秦王になる太子にまで用いようとし、「法の前ですべての人間は平等である」と主張したのであった。これは特権階級を崩してしまう思想であったため、商鞅は秦の貴族たちから憎まれて、最後には車裂きの刑で殺されてしまった。
狄仁杰も商鞅のような法思想家である。彼は大堂(法廷)に「万歳牌」をかかげ、身分の上下を問わず、その前に跪かせる。女帝の則天武后さえも追いつめられて、「なんという鉄面の法官だろう」と嘆くことになるのである。ただし、彼は商鞅のような凄惨な末路をたどらない。それは彼が権謀術策の士であり、法をあやつる「術」にたけていたからで、あらゆる事件においてくりひろげられる彼の闘いは、実に痛快な「勧善懲悪」のドラマである。そしてその豊かな娯楽性の裏に、作者は巧妙に時代への譴責をひそませている。 
(二)狄公のお裁き
狄仁杰は、歴史に実在した人物である。唐の高宗と則天武后に仕えた廷臣で、宰相格の地位を与えられ、朝政の参議にあずかった。一時お上に批判的な者たちの一味とみなされて、地方の県令に左遷させられたこともあったが、まもなく呼びもどされ、中書(軍務省)副長官、門下(政務省)長官、御史台長官、巡撫使などを歴任した。七十一歳で亡くなったてからは、尚書右相(総務省副長官)の地位を追贈された。
この実在の狄仁杰の功績で目立っているのは、勇敢な諫言である。たとえば大理寺(検察局)の副長官をつとめていたとき、ある将軍が過って高宗の父の御陵の柏の木を切り倒してしまった。高宗は怒って将軍を死刑にしようとしたが、狄仁杰が古代の聖王と悪王の執法の例を挙げ、諫めて言った。
「極刑にあたらない者を死刑になさるなら、法は常軌を失い、人民は恐れて手足の置き場がなくなります。皇上は法を変える力をお持ちですが、古人は言っております。『だれかが御陵の土を一すくい盗んだら、一すくい補充すればいい。』 今、皇上が一株の柏の木のために将軍を殺すようなことをなされば、千年後に人々は皇上のことをなんと言うでしょうか。無法な君主と言わないでしょうか。」
高宗は怒りをおさめ、将軍は命が助かった。(『新唐書』列伝40)
狄仁杰はこのように皇帝さえも恐れない勇敢な法官であった。大理寺で、彼は一年に一万七千件もの裁判を行ったが、冤罪で苦しむ者は一人も出なかった。人々は彼を「平恕」(公平かつ寛容)と賞賛した。
『狄公案』の主人公は、こうした実在の狄仁杰がモデルになっている。そして話は、彼が昌平(今の河北省北京市の北)に赴任するところから始まる。実在の狄仁杰は、昌平の県令になったことはない。昌平が舞台にされたのは、作者が昌平をよく知った人物、あるいはそこで役人をしたことがある人物であったからかもしれない。
『狄公案』は全篇六十回から成る。第一回から第三十回までの「昌平県三大殺人事件」は西洋でも有名になった。1949年、オランダ人のロバート・ファン・ヒューリック(Robert Van Gulick)がこれを英訳し、Dee Goong An: Three Murder Cases Solved by Judge Dee(後にCelebrated Cases of Judge Dee)として出版したことによる。ヒューリックがこの部分だけを切りとったのは、あとの部分が「公案小説」の枠をはみ出しており、『狄公案』という題名にふさわしくない、おそらく別人の付け加えであろうと考えたからであった。そして「昌平県三大殺人事件」を西洋風のミステリー小説にしたてた。
清代の末には、西洋の文物とともに探偵小説が入ってきて流行した。『狄公案』の作者がその影響を受けていたことは十分考えられる。たしかに「昌平県三大殺人事件」はサスペンスにとんだ探偵小説とも言うべく、娯楽的な面白さは格別である。清官狄公の「民間の細事」における悪との闘いの物語であり、事件の捜査や法廷での尋問において発揮される彼の「澄んだ精神と果敢な決断力」が、非常な面白さになっている。
事件の捜査において、狄公は常に実証的である。原告と被告の言い分を聞いただけで判断せず、現場検証を行い、証拠を集める。被告を尋問し、拷問にかけるのはそれからである。今日の目で見てこれは当然のことであるが、当時はこれが行われず、行われても被疑者や親族、関係者を苦しめる悪習になっていた。
『狄公案』の出版から十一年後の光緒二十七年(1902年)に、西洋諸国に恥じない法律を作ろうとして「第一次変法会議」が行われたが、その奏文に次のような条項がある。
「殺人事件において現場検証を行う場合、検死小屋の設置や役人派遣の費用は多額なものになる。これを被疑者の家から出させ、足りなければ親類近隣の者からとりたて、小村で足りないときは一里半にもわたる遠隣からとりたてるのが習慣であるが、これは民の血をすするものである。自費で検死小屋を建て、差役を派遣する者は百分の一、二に過ぎない。こうした悪習を禁止する法がこれまでまったくなかった。・・・」(楊鴻烈『中国法律思想史』)
狄公はこの百分の一、二に属する清官であり、部下たちにも民から何もねだってはいけないと厳重に戒めている。
狄公が拷問を行うことは、今日の読者の気持ちに逆らうであろう。しかし彼はそれを常套手段にはしていない。
当時の拷問とはどのようなものであったのか。「第一次変法会議」の奏文には次のような条項がある。
「苛酷な拷問を省くべきである。容疑者を叩いて絶叫させ、血が飛び肉が裂けるというのは、和を傷つけ理を害し、民を牧する義にもとる。地方官は長らくこれを行って平気でいる。強盗、殺人の証拠がそろっていながら自供を拒否する容疑者以外は、尋問や証人対面のとき、言葉で威嚇してもいいが、苛酷な拷問を行うべきではない。笞打ち、杖打ちなど、地方官が勝手に行ってきたものは禁止すべきである。また数日あるいは数十日にもわたるような凌辱的虐待を行わせてはならない。」(楊鴻烈『中国法律思想史』)
狄公が拷問を行うのは「強盗、殺人の証拠がそろっていながら自供を拒否する容疑者」に対してだけで、たとえば「花嫁変死事件」において、証拠がないのに犯人だときめつけられた学生に対しては、どんなに圧力をかけられても、決して拷問しようとしないのである。
「花嫁変死事件」の面白さは、犯人が人間ではなく毒蛇であったことである。この意外性の面白さのほかに、この事件は士大夫階級の傲慢と愚かしさを暴露している。原告は科挙の郷試に及第している挙人で、紳士録に名を連ねた地方の名士である。しかし彼は「紳士」ではない。自分が犯人と決めこんだ学生を拷問しない狄公に業を煮やして、まことに無礼な言を吐く。
「長官は『民の父母』です。法によって民の恨みを晴らすのがお役目でしょう。まさかわたくしが故意にこの学生を害そうとしているなどとお考えではないのでしょうな。彼がしたこととは限らないと言われますが、事件をそのようにうやむやに片づけてしまうつもりですか。わたくしは紳士録に名を列ねている人間ですぞ。その娘が殺されたのだ。こんな重大事件に怠慢なとりあつかいしかしないのでは、平民の恨みは海底に沈んでしまいます。平素の長官の評判は嘘だったことがこれではっきり分かります。」
犯人が毒蛇であったと分かったあとも、彼はこの無礼を狄公に謝っていない。科挙の道を歩む人間は、かくも傲慢無礼な偽学者になってしまうのである。
狄公も科挙を経てきた人間である。しかし彼は自分の思い込みや好悪の情によって物事を判断することはない。「澄んだ精神と果敢な決断力」によって事件を解決する狄公は、庶民から「青天の長官」と呼ばれている。「青天」というのは「晴れ渡った青空のように公明正大」の意味である。狄公はそのような「清官」なのであった。 
(三)悪のパワー
しかしながらこの「青天の狄公」も、「華順変死事件」の被疑者に対しては、証拠なしに拷問を行う。この事件は狄公がもっとも手こずった事件であり、一筋縄では行かない相手を崩すためにしたことであったが、「法の精神」からは許されることでない。
狄公がその許されないことをあえて行ったのは、なんとしてでも真実をつきとめ、殺された者の怨恨を晴らしてやるためであった。拷問をやめさせようとする部下に彼は言う。
「この事件は、わたしみずからが知った事件だ。だれかが告発するのを待っていたら、死んだ者の恨みは晴らしようがない。わたしがここで長官をしている意味がどこにあるのだ。きみたちが拷問をやりたくないならそれでもいい。わたしは明日棺を開いて検屍する。もしもその結果、遺骸に他殺の痕跡が見つからなかったら、わたしはいさぎよく責任をとる。とにかく、この事件をうやむやにしてしまうことは絶対にできないのだ。」
普通の法官は法に忠実なばかりで、死者のために事件を掘り起こそうなどとしない。しかしそれでは死者は永遠の泣き寝入りをするか、怨恨の鬼となってさまようほかはない。狄公はそうはさせまいとする。そのため自分のクビをかけて棺を開けて検屍を行い、結果として、他殺の痕跡が見つからなかったために、被疑者、すなわち華順の妻の周氏から、衆人の前で徹底的に罵られることになるのである。
周氏は三大殺人事件の悪人の中で、もっとも「悪のパワー」が強い。彼女は何かのはずみで夫を殺害したのではない。はっきり意図して行ったのである。もちろん捕まったときは死罪になると知っていた。すなわち最初から「命がけの悪」を行ったのである。
周氏は明の小説『金瓶梅』の潘金蓮(はんきんれん)に似ている。潘金蓮は金持ちの老人の妾に売られ、嫉妬深い老人の妻から饅頭売りの武大(ぶだい)に下げ渡された。武大は「こびと」とあだなされる小男で、とうてい男として潘金蓮を満足させることができない。武大が街に饅頭を売りに行っているあいだに、潘金蓮は西門慶(さいもんけい)という金持ちの色男と通じ、彼の妾になりたい一心から、武大を毒殺してしまう。しかしあとで復讐に帰ってきた武大の弟の武松(ぶしょう)の手に落ちて、残忍きわまりないかたちで殺されるのである。
周氏も糸の小店を開いている夫に満足できなかった。そこで金持ちの色男と姦通し、夫を殺害した。しかしついに狄公の手に落ちて「凌遅刑」に処せられることになった。
周氏が処刑場に引いていかれるとき、おしかけた見物人があざ笑った。すると一人の老人が言った。
「あの女は後悔しているかもしれないが、もう遅い。昔の人は言った。『天が作った禍はまだ避けることもできるが、自分が作った禍は避けることができない』ってね。あの女は自分で死の門を作ってしまったんだ。あんたたち分かるだろう。この世では富貴貧賎の区別なく、だれでも法を犯してはならないってことだよ。あの女も分に安んじ、自分を守って夫と苦労をともにしていたら、貧しいなりに一夫一妻として偕老のしあわせを楽しめたのだが、貧乏から脱け出して富を得ようなんて邪念を起こしたために、夫のほかに色男まで害することになってしまった。それだけじゃない、自分自身を害することになってしまったんだ。これは要するに悪を行なえば、遅かれ早かれ必ずその報いがあるってことなんだよ。あんたらはこの戒めを考えるべきで、彼女をあざ笑ったってしょうがないじゃないか。」
この老人の言葉で恐ろしく聞こえるのは、「分に安んじ、自分を守る」である。狄公も周氏の姦通相手にこう言っている。
「学問の家の出であるからには、『分に安んじて自分を守る』べきであったのに、なぜ寝台の下に女の家へのトンネルなど掘ったのだ。」
「分」というのは「身分」のことである。中国社会には古くから「身分関係」が根をはっていて、この言葉はそうした社会が生み出した倫理的常識であった。周氏の身分は「嫁」、色男の身分は「男子」で、それぞれ自分の「分」に安んじて生きることが、自分を守る道であった。ところがこの二人はそれができなかった。特に周氏はできなかった。彼女がつまらない男の妻として一生「分」にはまって生きることは、潘金蓮の場合と同様に、「性」の欲望を殺して生きることだったからである。彼女が命がけで悪を行う決心をしたのは、この「生きながらの墓場」から、どうあっても脱出しようとするこころみであった。
人はだれでも「性」において幸福になりたい。それは人間の本能的な欲望であるが、「分」の倫理はそれを「悪」とみなして抑圧する。しかしそれが抑圧を破って噴出するとき、猛烈な「悪のパワー」となるわけで、狄公が闘わなければならなかったのは、この猛烈な本能的パワーなのであった。
狄公は閻魔大王の森羅殿まで作って周氏をトリックにかけ、ようやく真相を自白させることに成功した。そしてこの悪女に「凌遅刑」を科した。さらに木の驢馬を作り、周氏をそれに乗せて処刑場まで引いて行き、道中の見せしめとした。
「遠山の金さん」や「大岡越前守」では、お白州から犯人が引っ立てられて行くところで終わり、あとは善人の平和なエピローグがあるばかりだが、「昌平県三大殺人事件」の処刑シーンは凄惨である。これこそ「懲悪」のクライマックスであり、「分」を破り、「悪のパワー」を噴出させてしまった人間の凄惨な末路を示すのである。そしてそれは老人が見物人にいさめているように、人間であるかぎり誰にでも起こりえることであり、もしかしたら自分もそうなるかもしれないと思えば、だれしもその恐怖に戦慄しないではいられないであろう。 
(四)鉄面の法官
しかしながら、この「懲悪」のクライマックスに、一つだけ意外なことが見てとれる。それは狄公が周氏の凌遅刑を、むかしながらの方法で行わなかったことである。凌遅刑はなぶり殺しの刑で、「生きながら四肢を断ち切り、それから喉をえぐる」というのがむかしからのやり方であった。ところが周氏の場合は「まず大刀で首がはねられ、それからからだが切り刻まれた」のである。
もしかしたら、狄公は周氏に一抹のあわれを感じていたのかもしれない。なぜなら世の中には周氏よりはるかに悪い女が、まったく懲罰されないで生きていたからである。それが則天武后であった。
則天武后も歴史に実在した人物である。『旧唐書』、『新唐書』などによると、武后は十四歳のとき、太宗の目にとまって後宮に召されたが、太宗が崩御すると尼にされ、寺に入れられた。太宗の一周忌に寺をおとずれた息子の高宗は、彼女の姿を見てあわれに感じ、還俗させて自分の後宮に入れた。そして昭儀の地位を与え、やがて妃の地位に進ませ、ついには皇后を廃して、彼女を皇后の地位につかせた。高宗は病気がちで政務をこなすことができなかったので、多くを武后にゆだねて裁決させた。かくて武后が政務に参与すること数十年、人々は高宗、武后をならべて「二聖」と呼んだ。
高宗が崩御すると、武后が生んだ息子の中宗が即位した。しかし息子に政権を渡さず、皇太后の称制(摂政)のかたちで政権を握りつづけた。中宗が操りにくくなると、彼を廃して廬陵王として房州に流し、中宗の弟を帝位につけて称制をつづけていたが、ついには国号を唐から周に変えて、自ら皇帝の座についた。
則天武后の善悪については、実にさまざまなことが言われているが、「天下の悪女」と非難するのが第一である。確かに武后には絶大な「悪のパワー」があった。それに比べれば周氏のパワーなどまったくたいしたものでない。しかしその出どころは同じで、「生きながらの墓場」だったのである。
十四歳で太宗の後宮に入れられた武后は、めだって寵愛されることもなく、二十六歳で尼にされて寺に閉じ込められた。美形であるばかりでなく、頭脳明晰で学問に通じ、男をしのぐ優れた能力を持っていた彼女が、そうした「分」に安んじることができるわけがなかった。民間伝承によると、太宗の一周忌に高宗が寺を訪ねたとき、彼女は涙を流して見せたという。それはこの「生きながらの墓場」を破って出ようとする命がけの涙であったにちがいない。高宗ははたして心を動かした。
高宗の後宮で、彼女はそれからも命がけの闘争を行なった。敵を倒さなければ自分が倒される。その修羅場で彼女の「悪のパワー」は全開し、やがて彼女は後宮を制覇し、朝廷を制覇し、ついには唐室の天下をのっとるところまでのぼりつめたのである。
武后の「周」はそれから十九年ものあいだ続いた。最後に八十三歳の高齢で病に倒れると、房州に流されていた中宗が譲位を迫った。武后は「則天大聖皇后」の称号を得て退位し、それからまもなく亡くなった。中宗は立派な御陵を造り、うやうやしく彼女を葬った。
「天下の悪女」はこうして凄惨な末路をたどることなく、大往生をとげたのである。
「天下の悪女」が生きていたあいだ、彼女の「悪のパワー」に立ちむかうことができる男は一人もいなかった。しかし、フィクションの『狄公案』では違う。「天下の悪女」も「鉄面の法官」に対しては、無敵の強さではいられないのである。
狄公が武后を許しがたく思うのは、武后が女の「分」を破り出て男の「分」をのっとり、しかも母としての「分」を破って、わが子の中宗を房州に流してしまったことであった。彼は自分を巡撫に推薦してくれた上司に言っている。
「わたくしが巡撫となったのは、この悪を正すための天の配剤です。わたくしの忠誠を尽くすべき時が来たのです。」
しかし彼は真っ向から武后に打ちかかるようなことはしない。相手は絶対権力を握っているのであるから、そんなことをすれば、商鞅のような目に遭うにきまっている。彼は智謀術策の士である。「天下の悪女」にも弱みがあるにちがいない。それをさがし出して攻撃するのである。
武后の弱みは「性」であった。男の皇帝は後宮に三千の美女を置いても「悪」にならないが、女帝はたった二三人の男を寵愛しただけでも「悪」になる。逸史や民間伝承には武后の淫蕩の話が多いが、『狄公案』でも狄公の部下たちが言っている。
「目下の唐室はどうなっているんだ。武后は賎しい情夫を出入りさせて後宮を汚している。わが子を房州に流し、代わりに姦淫の犬どもや、非道の奸臣を身辺に置いて可愛がっている。こんな不仁不義、不慈不愛の女を『天下の母』としてもいいのだろうか。」
武后はこうした道徳的譴責を受けたくない。りっぱな「天下の母」の面子を保ちたがっている。それこそが狄公がつけこめる女帝の弱みであった。こうして第三十一回から第五十一回まで、「則天武后の醜聞事件」が展開するのである。
「則天武后の醜聞事件」の面白さは、狄公が「青天の狄公」ではなく、「ダーティ・ハリー」そこのけの「ダーティ・狄公」になっていることである。彼は「性」を道具に女帝から権力を食いちぎっている男たちが許せない。しかし彼が合法的な方法でこうした男たちを追いつめても、絶対権力をにぎる女帝は逃がしてしまうにきまっている。そうさせないためには、どうしても「ダーティ」な手を使わないではいられないわけである。そこで情夫の一人を恐れさせるために、彼の家人(忠実な使用人)の二人をさんざん辱めたあと、武后の裁可も仰がないで処刑してしまった。
さらに「ダーティ」なのは、最大のワルである情夫、白馬寺の僧を追いつめるために、仲間の尼を殺して僧に罪をかぶせようとしたことであった。これは「法の精神」に照らして絶対に許されることではない。作者もそのことは気にしているとみえて、次のように弁解している。
「読者はここでとまどうかもしれない。そもそも尼を殺したのは、尼が寺で淫売を行っていたので、それを罰するという大義名分があったかもしれないが、殺人の罪を白馬寺の僧にかぶせるのは不法に思われるかもしれない。しかし読者は知るべきである。白馬寺の僧は善良な女を誘拐して寺につなぎ、日々凌辱しているのである。狄公は悪を除くことにすべてを賭けている。もしも尼を殺してしまわなければ、白馬寺に捜査の手を入れたとたんに、彼女が宮中にはせ参じて武后に告げ、僧を救い出してしまうかもしれなかった。その上、その尼寺はかつて武后が尼になっていた所であり、彼女も淫売に加わっていた。そこが公然と手入れを受けたら、武后のかつての醜事がすべて明るみに出てしまう。狄公は皇室の面子のためにそれを避けようと、ひそかに尼を取り除いたのであった。そして武后がどうしても僧をかばうことができなくなるように、尼殺しの罪を僧に着せるというのが、狄公のたくらみであった。」
皇室の面子のために武后の醜事を天下に暴露せず、しかも彼女の絶大な「悪のパワー」に勝つためには、どうしても「ダーティ」な方法を使うほかはないというわけである。
武后はそれを知って、どうにもできない。ただ戦慄して言う。
「この男はほんとうに鉄面の法官だ。女帝の密事まであばき出して平然としている。」
「鉄面」というのは、「鉄で作った仮面」の意味で、むかし戦争に使われた。転じて「公平剛直で権勢を畏れない人」の意味となった。「ダーティ・狄公」は何事をも、何人をも「畏れない」。その気力が女帝を戦慄させたのである。 
(五)勧善の闘い
しかしながら、狄公の部下が別の情夫のイチモツを切り取ってしまったとき、ついに女帝は激怒した。そしてそれに乗じて武后の甥たち、三兄弟が天下のっとりの陰謀をくわだてた。かくて第五十二回から第六十四回までの「唐朝大逆事件」が展開するのである。
「唐朝大逆事件」の面白さは、狄公が「青天の狄公」とも、「鉄面の法官」とも違った顔を見せ、違ったかたちの闘い方をしていることである。
この事件は史実をはなれたフィクションの部分が大きいが、そこには作者の特別な作意が働いている。
三兄弟とは、武承嗣(ぶしょうし)、武三思(ぶさんし)、武承業(ぶしょうぎょう)である。この三人は歴史に実在した。ただし彼らは兄弟ではなく、武承嗣と武三思は従兄弟、武承業は遠い従弟であった。彼らは武三思を皇太子に立てるように武后を説得した。武后がこれを朝議にはかったとき、狄仁杰をはじめとする廷臣たちが敢然と反対したことが『旧唐書』、『新唐書』に見えている。『新唐書』で、狄仁杰は次のように諫言している。
「皇上が神器をおとりになってから十余年、今は武三思をあとつぎに考えていらっしゃいます。しかしながら伯母と甥、母と子のどちらが近い肉親なのですか。皇上が房州の廬陵王をあとつぎにお立てになれば、千秋万歳の後までも唐室の宗廟で祀りをお受けになれます。しかし武三思があとつぎになれば、伯母を宗廟で祀ることはないのです。」(列伝40)
この諫言で、狄仁杰は「母と子」、「伯母と甥」に言及しているが、実はこれが狄仁杰の切り札であった。
中国社会に根をはっている身分関係で、古代から最も重要なのは「宗族制」であった。「宗族」というのは、祖先を同じくする男系血族団体で、女は結婚前までは父の宗族に属するが、結婚してからは夫の宗族に属した。武后の場合、武氏の宗族を離れて唐室の李氏の宗族に属するようになったわけで、その枠の中で「高宗の皇后」としての「分」を有し、それによって死後は皇室の宗廟に祀られて、子々孫々の焼香を受けることができることになっていた。しかし武三思を皇太子に立てて次の皇帝にした場合、皇室の宗廟は武氏の宗廟となり、武氏の宗族内の「分」を失っている武后はそこで祀られることがなく、子々孫々の焼香を受けることができないというわけなのである。
皇室の宗廟に祀られないのでは、天下をとった意味がない。武后はそれに気がついて、武三思を皇太子に立てることをあきらめたのであった。
実在の狄仁杰は、このような憚りない諫言でついに武后を屈服させてしまうのであるが、「唐朝大逆事件」の狄公はそれほど憚りない諫言を行っていない。代わりにそれをするのが劉偉之(りゅういし)という廷臣で、狄公は劉偉之を弁護して熱弁をふるうが、結局劉偉之は刑部に引き渡され、奸臣のさしがねで残忍な拷問を受けて惨死してしまうのである。
狄公はなぜ劉偉之を救うことができなかったのであろうか。何事も、何人も畏れずにあれほど痛快に悪を懲らしていた狄公が、ここへ来て悪の力に負けてしまうのは奇妙である。ファン・ヒューリックが『狄公案』の後半は別人の作ではないかと疑ったのも当然であろう。
もしかしたら作者は、「懲悪」だけの「スーパー・ヒーロー」を作りあげるつもりでなかったのかもしれない。実際「懲悪」だけでは「スーパー・ヒーロー」にはなりえない。冥界の閻魔大王、あるいは商鞅、申不害、韓非子のような苛酷な刑名家になってしまうのがおちだからである。しかしそこに「勧善」が加わったとき、はじめて「スーパー・ヒーロー」が完成する。「唐室大逆事件」での狄公は、したがってそれまでの「懲悪の闘い」に加えて「勧善の闘い」を行っているのである。
「勧善の闘い」における武器は「怒り」ではない。「涙」である。劉偉之が惨殺された翌日の朝見で、狄公はこの武器を使った。
「皇上。お考えください! 劉偉之は忠誠赤心の臣であり、皇上に絶対的に忠実でありながら、熱く溶けた錫を全身にかけられ、一片の完全な皮膚なきまでに焼け爛れたのです。このように残虐な拷問は、むかしの悪逆な王さえもいたしませんでした。しかも刑部の長官は供述書を偽造し、皇上を騙して死刑の宣旨を出させたのです。」
言い終わると、狄公は激しく号泣した。武后は思わず黙りこんでしまった。
武后は「天下の悪女」であるが、そうは言われたくない。「天下の母」すなわち「天下の善女」であると思われたがっている。したがって、悪逆非道の王に比べられることはがまんできない。狄公は武后のこの弱みを知っており、それを突くのに最も有効な武器、「涙」を使ったのである。
実在の狄仁杰も涙の忠臣であった。彼は武后に会うたびに「従容とした」(ゆったりと落ち着いた)態度をとり、「母子の情」を強調して廬陵王を召還するように勧めた。武后は次第に反省し、ついに同意した。廬陵王が房州から帰って宮中に到ると、武后は彼を帳のうしろに隠し、狄仁杰を召して廬陵王についてどう思うか言わせた。狄仁杰は言葉をつくして彼をほめたたえ、熱い涙を流した。そこで武后は廬陵王に出て来るように言い、それから宣告した。
「おまえを皇太子にもどそう。」狄仁杰は玉階の下にひれ伏して、熱い涙を流しながら祝賀した。(『旧唐書』・列伝39)
「唐室大逆事件」でも、狄公の努力が実り、廬陵王は宮中に帰還した。武后はそのとき言っている。
「時をむかしに巻きもどし、すべてを水に流すことにしよう。おまえは狄仁杰に無罪を保証されて帰還したのだから、安心して東宮に住み、子としての道をまっとうしなさい。あとのことは母がよきにはからおう。」
「母子の絆」はこうして修復され、廬陵王は皇太子にもどされた。これこそまさに狄公の「勧善」の闘いの偉大な勝利であった。 
(六)夜明けの太鼓
「唐室大逆事件」は、正直に言ってサスペンスに欠ける。狄公は五万の兵をひきいて武兄弟との戦いに出るが、活躍するのは腹心や新しく登場する将軍たちで、逆賊はあっけなく生け捕りにされ、投降してしまう。武兄弟の懲罰も簡単に片づけられ、劉偉之を惨殺した奸臣の処刑も「処刑人が大刀を振り上げ、次の瞬間、彼の首はからだから離れて落ちた。観衆は手をたたいて喜び、それからワッと遺体に襲いかかって皮をはがし、肉を裂き、またたくまに人間の形をとどめぬまでになってしまった。」という簡略さで、懲悪の痛快さに欠ける。
読者がもっともがっかりするのは、狄公の死であろう。
「狄公はこれまでの疲れから病に倒れてしまった。彼はすでに七十歳に達していた。ある日、武后は聞いた。『そなたに万一のことが起こった場合、誰を後任にしたらよいと思うか。』・・・それから数日後、狄公の容態は悪化し、真夜中に消え入るように亡くなった。」
読者は「勧善懲悪のスーパー・ヒーロー」の死が、これほど簡単でいいものだろうかという感じを持つであろう。しかしここにも作者の深長な意図が働いているように思われる。すなわち作者は、娯楽小説に典型の華々しい「大団円」によって幕を下ろさず、狄公に推薦された者たちが、彼の遺業を成し遂げるというかたちで幕を下ろしているのである。
「これ以後、天下は泰平になり、明君良臣、上も下もそれぞれ国のために力を尽くし、万里の山川は皇室李家の統治のもとに治まって行った。これはすべて狄仁杰の一生をかけての闘いの実りであった。」
偉大な仕事をなしとげるには、人生はあまりに短い。狄公は七十歳まで闘い続けたが、その実りを見ることなく逝去した。しかしそれでもいいのである。一代で成し遂げられる偉業は一代で終わる。しかし真に偉大な事業は一代を越え、二代、三代と越えて行く。大事なのは遺業を継ぐ者があることで、そうした者がいさえすれば、いつかならず偉業は実るのだと作者は言いたいのではないだろうか。いや、そのように希望することで、自分を、そして読者を救っていたのではないだろうか。その証拠に、狄仁杰は真夜中に逝去したのであるが、彼の遺業を継いだ者たちの働きによって大政が唐室に奉還されたとき、「夜明けを告げる太鼓が鳴った」と書かれているのである。
世の中を清くする「勧善懲悪」の遺業を継ぐ者が一人でも二人でもいるかぎり、いつか必ず夜明けの太鼓が鳴るにちがいないと作者は熱く言っているように思われる。そしてその予言が的中したかのように、『狄公案』から二十年後、「民権主義、民本主義、民生主義」の三民主義をかかげた辛亥革命が起こり、中国の新しい時代の「夜明けの太鼓」が鳴ったのである。
『狄公案』の最大の面白さは、この予言性にあるのではないかと思われる。 
 
諸葛孔明

 

第1話 はじめに 
1、時代背景
まずは、彼が活躍した時代背景について解説しますね。
時は紀元2世紀後半の中国、400年の長寿を保った漢帝国は衰退期に入り、群雄割拠の情勢を迎えました。その後400年にも及ぶ南北朝の大乱世の幕開けです。その大乱世のとば口に当たるのがいわゆる三国時代でして、だいたい「黄巾の乱」の勃発(189年)から晋の統一(280年)までの約100年間が、その舞台になります。
さて、漢帝国は、短い中断の時期を挟んで前漢と後漢に分かれます。そして洛陽を首都とする後漢帝国は、創始者たる光武帝(劉秀)を筆頭に、豪族の連合体として成立したのです。そのため、その治世が爛熟し末期症状をきたしたとき、当然にして起こるのが豪族たちの権力争いでした。そして、熾烈なバトルロイヤルによって豪族たちの淘汰が進んだ後、中国の覇権は三人の君主のもとに収斂されたのです。この三人(三国)こそ、曹操(魏)、劉備(蜀漢)、孫権(呉)でした。
魏の曹操は、中央政界に近いエリート(士大夫)出身です。彼は、中原(黄河流域)の憂国の士大夫たちを帷幕に結集し、漢帝国の構造改革を目指して奮闘しました。彼は、漢の皇帝(献帝・劉協)を自陣営に迎え入れ、その権威をフルに活用してライバルたちを打倒したのです。そして、最強のライバルであった華北の袁一族を滅ぼしたとき(207年)、中原の覇権は彼の掌中に収まりました。そんな彼の視線は、おのずと南方に向かいます。そんな彼の中国完全統一の野望を挫いたのが、孫権と劉備でした。
呉の孫権は、江南地方の中小豪族出身です。彼はこの地に「豪族連合体」を築き上げ、もって北方の大勢力と対峙しました。
蜀漢の劉備は、華北の侠客出身です。傭兵隊長として各地を転々としつつ苦闘を重ねた後、四川に入って、曹操と孫権に並ぶ大勢力を築きました。
この論文の主人公・諸葛孔明は、この劉備の幕僚となり、その成功の礎となった士大夫なのです。 
2、二つの「三国志」
我々が知る「三国志」は、大きく分けて2つの系統があります。
第一に、『三国志演義』。
吉川英治や柴田錬三郎や三好徹の小説、横山光輝の漫画、NHKの人形劇、そして光栄(KOEI)のパソコンゲームは、この『三国志演義』(以下『演義』)をモデルにしています。日本で紹介される「三国志」は、こちらが主流ですが、これは明の時代(16世紀)に、芝居をもとに集大成された「大衆向け娯楽小説」なのです。その作者は羅貫中と言われています。しばしば誤解されていますが、これは単なる「歴史小説」であって「歴史書」ではありません。その辺りが分かっていない人が三国志ファンの中に多いので要注意ですね。
第二に、『正史三国志』。
陳舜臣と北方謙三の小説、王欣太の漫画は、この『正史三国志』(以下『正史』)をモデルにしています。これは、三国を統一した晋の時代(3世紀)に成立した国定歴史書で、その作者は、蜀漢の官僚だった陳寿です。国が編纂した歴史書というものは、親方日の丸的な出鱈目のプロパガンダである場合が多いのですが、この『正史三国志』にはそういった「臭み」は感じられません。その理由は、陳寿が誠実な記述姿勢を貫いたこともありますが、彼が亡国の出身者であるがゆえ、その視点が比較的客観的だったからだと思います。これは、私が知る中で最も質の高い「歴史書」です。
さて、『演義』というのは、『正史』を大衆向けに翻案した作品ですので、しばしば歴史的事実を歪曲しているのですが、その最たるものこそ諸葛孔明の扱いなのです。孔明の姿は、『演義』と『正史』では、完全に別人のように描かれています。
『演義』の世界では、諸葛孔明は「天才軍師」として描かれます。すなわち、奇襲、伏兵、火攻め、水攻め、ロウソク責め(おや?)、ムチ責め(あれ?)、木馬責め・・・じゃなくて木牛流馬攻め(ふう、軌道修正成功!)はもちろん、占星術や妖術まで用いて敵の大軍を翻弄するのです。ただし、その人間性については神格化されすぎていて、全知全能ゆえに冷酷で無感動な人物みたいに思えます。『演義』は、劉備や関羽や張飛の人間性を暖かく豊かに描いているので、バランスを取るつもりでそうしたのでしょうが、このように人物の性質を一面的に描くのが、「小説」というメディアの長所でもあり短所でもあるのです。私の周囲には、孔明のことを「尊敬するけど、好きになれない」という人がたくさんいるのですが、それは『演義』の中でそういう風に描かれてしまったからなのです。これは、とても残念なことです。
それでは、『正史』ではどうか?歴史上の諸葛孔明は、いったいどのような人物だったのでしょうか?それが、この論文のテーマなのです。
この論文では、『演義』で描かれた虚像と比較しながら、諸葛孔明の実像を分析しています。この論文を終わりまで読んでくれた人は、きっと諸葛孔明のことが大好きになることでしょう。 
3、人物の名前
諸葛孔明の本名は、「諸葛亮孔明」です。
ここでは、諸葛が姓、亮が名、孔明が字(あざな)です。
昔の日本人も、例えば源義経の場合の九郎のように、姓名以外に呼び名があったのですが、それは中国の影響から来ているのです。
日本でも中国でも、「名」のことを「忌み名」といい、あまり人前で出さないようにしていました。ですから、孔明はあまり亮という名では呼ばれなかったはずです。「忌み名」は、基本的に本人または後世の歴史家が文章の中で書くものでして、同時代人が他者を「名」で呼ぶのはたいへんな無礼にあたります。そのため、相手を「名」で呼ぶ場合があるとすれば、それはその相手を深く憎んでいるか、その相手が政敵に当たる場合でしょう。
そういうわけで、諸葛亮孔明は、味方から「諸葛亮」と呼ばれることは無かったはずです。官職(丞相など)以外では、「孔明」、ないし「諸葛孔明」と呼ばれるのが普通だったはずです。
なお、中国人の名前の付け方は、少々、ユニークです。もちろん、姓(諸葛)は最初から決まっているし、名(亮)は両親がつけてくれます。でも、字(孔明)は成人した後で本人がつけるのです。このときの字は、名と「意味上の相関関係」を持たなければなりません。諸葛孔明の場合、「亮」が「朗らか」という意味なのに対して、「孔明」は「なおさら明るい」という意味です。字を上手につけられるかどうかで、本人の教養が問われるのです。
また、日本人と決定的に異なるのは、子供の名前のつけ方です。日本では、親の名を子供に与える場合が多いですね。例えば、織田信長の子供の名は信忠に信雄に信孝です。でも、中国ではこれは有り得ません。むしろ、禁忌に当たります。親は、子供に自分の名前を決して与えないし、子供は親の字を拝領することは決してありません。ですから、劉備玄徳の子供は劉禅公嗣ですし、諸葛亮孔明の子供は諸葛瞻思遠なのです。
三国志をテーマにした小説や漫画を読んでいると、しばしばこういった「常識」が無視されているので注意が必要ですね。
ともあれ、この論文では、諸葛孔明のことを敬意を込めて「孔明」と呼ぶことにします。 
第2話 生い立ち 

 

1、諸葛孔明の生い立ち
諸葛孔明は、徐州瑯邪郡陽都県(山東省)の出身です。祖先は、漢の司隷校尉も勤めた士大夫(エリート)の家柄でして、父の諸葛珪は、泰山郡の丞(副市長)にまで昇進したものの、亮が幼いうちに亡くなったそうです。
この当時の中国は、「士大夫」がたいへんな権威を持っていました。これは、19世紀イギリスの「貴族」の在り方に良く似ています。士大夫は、幼いころから高度な教育を授けられ、国家の礎となることを期待されていました。彼らは、私利私欲を捨てて、国家全体の幸福と大義のために仕事をするよう高度な教育を施されたのです。『演義』の世界で「軍師」として登場する知性派の文官たちは、例外なくこういった士大夫たちです。
三国時代から南北朝時代は、中国史上でも一、二を争う悲惨な乱世でした。後漢末の中国の総人口は5000万人だったのに、それが三国時代初期には、魏500万+呉200万+蜀漢90万=合計800万人にまで激減したのです。そのような状態だったにもかかわらず、中国文明が衰退しなかったのは、教養あふれる士大夫たちの必死の努力があったからです。
さて、士大夫の中にも家系によって序列があり、特に毛並みの良いのが「名士」と呼ばれていました。その代表格が、曹操に仕えた荀ケや荀攸でした。
そして、我らが諸葛孔明も、こうした「名士」の一人だったのです。彼の持つ純粋な愛国心と誠実さは、こうした前提抜きには語れません。
・・・今の日本には、士大夫や名士に相当する人物が一人もいませんが、それはこの国の教育が、根本的に腐っているからですね。
さて、話を戻しましょう。
父の死後、兄の諸葛瑾は、すでに成人していたので江南に仕官しました。弟と同様に優秀だったこの兄は、やがて呉の重臣になるのです。
幼い孔明は、母や姉や弟と徐州で暮らしていたのですが、後漢末の過酷な戦乱に巻き込まれて荊州(湖北省)に疎開し、叔父の諸葛玄を頼ります。この叔父は、荊州の主権者・劉表と旧知の仲だったので、彼のために江南の諸勢力と戦い、その渦中で死んだのです。このとき、ある程度の遺産を遺してくれたので、孔明は母の死を見取った後、襄陽(襄樊市)に移って学究生活に入ったのでした。
当時の荊州は、州牧(長官)の劉表が学問好きで戦争嫌いな人柄だったために、外界の大乱世にもかかわらず、中国で最高の学問の都になっていました。そこには、「襄陽学派」と呼ばれる極めて有力な学閥があったのです。もちろん、孔明もその一員になりました。
ただ、孔明の能力は、あまり襄陽学派では評価されなかったようです。彼は、個々の学問の細部にはまったく関心が無く、古今東西のあらゆる学問の概要を押さえることに専心したからです。学者としての専門知識を持とうとしない彼を、同僚たちは軽蔑して疎んじました。まあ、本当に優秀な人というのは、いつの時代でもそういう時期を経験するものですね。
それでも孔明は、自らの才能を管仲と楽毅(いずれも春秋戦国時代の宰相と名将)に譬えていたので、みんなは笑いものにしました。そんな中で、学友の崔州平と徐庶は彼の才能を見抜いて友達付き合いしてくれたのだそうです。
孔明は、朝晩ののんびりした時間には、八尺(190センチ)の巨体を床に横たえて、好きな『梁父吟』(故郷の民謡)を歌ってくつろぐのが常でした。
そんな彼は、あるとき仲間たちに向かってこう言いました。
「君たちの才能なら、仕官すればきっと刺史か太守(いずれも州長官)になれるだろう」
その場にいた石韜、孟建、徐庶は、誉められたと思って喜びました。
「そういう君は、どこまで出世するつもりだい」
孔明は、笑うばかりで答えなかったといわれています。
彼は、もっと上を見ていたのでしょう。
ところで、孔明が、管仲と楽毅に憧れていたというのは意味深です。彼は、自らがトップになるのではなく、優秀な君主の下で宰相あるいは名将となって働きたいと考えていたのです。もちろん、州長官などというチンケな処遇で甘んじる気はさらさらありませんけれど。
しかし孔明は、27歳になるまで、彼が理想とする君主に出会えませんでした。隆中というところに庵を構え、畑を耕して(もちろん、作業は小作人がやったのだろうが)、プータローの書生生活を続けていたのです。27歳でプータローというのは、今の日本なら珍しくありませんけど、当時としては少し珍しかったのです。
孔明は、自分の夢を実現できるチャンスを辛抱強く待っていたのでしょう。
そんな彼のもとに、運命の出会いが訪れます。
劉備が、彼の庵を訪れたのです。 
2、劉備の生い立ち
ここでは、孔明の生涯の盟友であり、君主であった劉備玄徳の人生を俯瞰しましょう。
劉備は、幽州琢県(河北省)の庶民出身です。祖父も父も県の役人をしていたので、まあ、中流家庭の生まれだったわけです。しかし、父の劉弘が早死にしたために生活が窮乏し、母を助けて莚や草履を編んで売ることで生計を立てていた時期があったようです。
15歳のとき、叔父の劉元起の資金援助を受けて、高級官僚で学者でもある盧植の私塾に入学しました。叔父は、劉備を亡兄のような役人にさせたかったのでしょう。しかし、劉備は「読書を好まず、華美な服装を好み、乗馬や犬や音楽を愛した」のです。犬というのは闘犬です。音楽というのは芸伎遊びのことです。要するに劉備少年は、勉強そっちのけでファッションとスピードとギャンブルと玄人女に嵌ったというわけです。こういうのを、世間一般の通念で「不良」と言いますね。
ただ、劉備には「大人」の風格がありました。喜怒哀楽を表に出さず、いつもニコニコしていて、良く人にへりくだるのです。そのため、彼の周囲には多くの人々が慕い集まりました。劉備は、不良少年たちの「顔役」だったのです。そして、この不良少年の中に、後に蜀漢を支える名将となる関羽や張飛の姿がありました。どうやら劉備は、士大夫への道を諦めて、侠客の親玉になったようです。清水次郎長とか国定忠治を連想してもらって構いません(若い人は知らないか)。
さて、「黄巾の乱」が始まると(189年)、劉備は不良少年たちを引き連れて義勇軍となり、黄巾討伐で功績を挙げました。しかし、恩賞の官職が不満のため、職を捨てて逃亡すること数度に及びました。県の監察官を殴打したという記録もあるので、相変わらず「不良」の本質が抜けきれていなかったようで。
『演義』などの小説では、劉備は清廉純真に国家を思いやる義人として描かれますが、それは虚構の姿なのです。
無頼漢の群れとともに各地を放浪する劉備ですが、やがて盧植塾時代の兄弟子である公孫瓉と再会し、彼の部下になります。これ以降、劉備は、豪族の間を転々として「凄腕の傭兵隊長」として頭角を現すのです。彼が仕えた群雄は、公孫瓉に始まって陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表といった具合に、節操なく変わります。群雄たちが、この無節操な傭兵隊長を喜んで迎え入れた理由は、やはり劉備集団の武力の高さが、明日を読めないこの乱世において、極めて有用だったためでしょう。
劉備配下で、その義弟といわれる関羽と張飛は、「一人で1万人を相手に出来る」と賞賛される猛者でした。同じく部将の趙雲も、「全身が肝っ玉」と言われる勇者でした。
なお、この論文は諸葛孔明が主人公なので、後漢末のバトルロイヤルについての詳細は書きません。詳しく知りたい方は、長編小説コーナーの『昭烈三国志』などをどうぞ(笑)。
それにしても、劉備はなぜ「就職」を考えなかったのでしょうか?「三国志」には、劉備と良く似た立場の傭兵集団が数多く出てきますが、そのほとんどが曹操や袁紹などに吸収されてサラリーマン化しています。劉備は、例えば曹操と親しい時期があったので、彼の配下としてやって行けば良かったのではないでしょうか?
しかし、曹操と劉備は、互いに相容れないものがありました。曹操は、しばしば「劉備は俺と対等だ」と評しています。対等の存在を、猜疑心の強い曹操がいつまで可愛がっていられるかどうか。また劉備も、一生サラリーマン生活を続けられるような人間ではありませんでした。
曹操のところを飛び出した劉備は、袁紹のもとに亡命し、そこでも容れられないと思うと、今度は劉表のところに逃げ込みました。
劉備は、ここで諸葛孔明と出会うのです。 
第3話 三顧の礼 

 

1、草盧対
劉表が治めていた荊州は、当時には珍しく戦争の少ない平和郷でした。劉表は、乱世に局外中立の立場を保ち、多くの学者を招き入れて学問を振興させたのです。
20年以上も戦いに明け暮れていた劉備は、いちおうは傭兵隊長として対曹操の最前線に配属されたのですが、なにしろ戦争が無いものだから、この地で退屈の極みとなります。彼が、太ももに贅肉がついたのを嘆いた「髀肉の嘆」は、この時の話です。
仕方がないので、退屈しのぎに学者たちと交際したところ、いろいろと役に立つことを教えてもらい、ひたすら流血に明け暮れてきた自分の人生をじっくりと見直す機会が得られたのです。
人生の中では、しばしばこういう場面があります。日本のサラリーマンは、滅私奉公とばかりに会社のために骨身を削った挙句、リストラされると人生に絶望して自殺してしまう人が多いのですが、そういう人は劉備のことを考えるべきだと思います。人生には、小休止の時期があり、この小休止こそが真に大切なのです。リストラは、しょせんは小休止に過ぎないのです。そして劉備は、小休止の時期に大きく飛躍する契機を掴みます。それが、諸葛孔明との出会いです。
劉備は、親しく交際していた司馬徽(水鏡先生)や徐庶といった学者から、諸葛亮孔明という一風変わった書生の話を聞きます。
暇をもてあまし、しかも自分の人生をブラッシュアップしたいと願う劉備は、自ら孔明の住まう庵を訪れました。しかし、孔明は家を留守にしていることが多く、劉備は彼になかなか会えなかったようです。こうして、「三顧の礼」の故事が生まれます。三度目にようやく孔明に会えた劉備は、時局について鋭い指摘を受けるのです。このとき孔明が提言したのがいわゆる「天下三分の計」です。
「曹操は、今や北方中原を制する大勢力で、すぐには除き去ることは出来ません。また、東方の長江下流域は孫権が治めているが、彼は人材を待遇する英雄である上に、すでに三代にわたる統治を経て民衆もなついているので、むしろ味方につけるべき勢力です。そして、ここ荊州(湖北省+湖南省)と西方の益州(四川省)は、地の利を得た豊かな地域であるにもかかわらず惰弱な君主が治め、民心も動揺しています。劉将軍は、よろしく荊と益を手中に収めるべきです。そして曹操と孫権に対抗できる態勢を整え天下の形勢を観望し、北方に乱れが起きたなら、一将軍に命じて荊州から洛陽を衝かせ、将軍自らは益州から長安を衝くのです。そうなれば、天下のことは自ずと定まることでしょう」。
この構想は、劉備を曹操と孫権に伍する第三勢力と位置づけ、まずは天下を三分割する。その後で、他勢力を打倒して天下を平定しようという二段構えになっています。これは、実に雄大な長期戦略構想です。これまで一介の傭兵隊長として活動してきた劉備は、おそらくこのような戦略を考えたことが無かったでしょう。それどころか、自らが君主権を確立して天下を平定しようなんて考えていなかったでしょう。
これをたとえるなら、リストラされかけた窓際のサラリーマンが、自ら会社を興して一部上場を狙うよう、人に勧められたようなものです。
劉備は、47歳にしてはじめて「傭兵隊長」以外の自分の進路を知ることが出来ました。
これ以降、劉備は「政治家」になります。彼は、自らを漢王朝の血族と位置づけ、漢王室復興の大義名分を掲げ、これを唯一無比の政治目標として曹操に挑むのです。その傍らには、常に諸葛孔明の姿がありました。
世に言う「君臣水魚の交わり」です。 
2、天下三分の計
ところで、劉備に出会うまでプータローの書生に過ぎなかった孔明は、どのようにして「天下三分の計」を発案したのでしょうか?
実は、この戦略は、孔明のオリジナルではなかった可能性があります。この当時、中国南部の有能な士大夫たちは、程度の差はあれ、中国南部を北部(曹操の勢力)と対峙拮抗させるアイデアを持っていました。
『正史』によれば、最初にこのアイデアを考えたのは、孫権配下の士大夫・魯粛です。彼は、友人の周瑜に推薦されて孫権に仕えたのですが、はじめて主君とサシで杯を交わしたときに、「天下二分の計」を提起しているのです。
「曹操は強大で、すぐには滅ぼせません。そこでまずは、長江中下流域を支配してこの天然の防壁を武器にして北方と対峙するのです。やがて北方に疲れが見えたなら、南方の軍勢をこぞって北伐に差し向けてこれを一気に滅ばして天下を平定しましょう」。
孫権は、この大戦略を聞いて大いに喜び、魯粛に深い信頼を寄せるようになります。魯粛は、『演義』などの小説では、孔明と周瑜の間を右往左往する狂言回しとして描かれますが、これは虚構の姿です。実際の魯粛は、孔明を凌駕する大戦略家だったのです。
ただし、魯粛は、中国南部全体を孫呉が占有するべきだとは考えていませんでした。むしろ、荊州と益州は、頼りになる同盟者に委ねておいて、その同盟者と力を合わせて曹操と対決しようと考えていたのです。これは、孔明の「天下三分の計」と完全に利害が一致した構想ですね。
孔明は、魯粛の構想を聞き知っていた可能性があります。なぜなら、孔明の実兄・諸葛瑾(孫権に仕官していた)は、魯粛の親友だったのです。諸葛兄弟は、たいへんな仲良しで、しょっちゅう文通していたことで知られていますから、孔明が魯粛の戦略を知っていたとしても何の不思議もありません。
そう考えれば、「天下三分の計」は、孔明という名の書生が夢想した机上の空論ではありませんでした。南方の士大夫たちの知恵が結集した、実現可能性の高い国家戦略だったのです。
孔明は、やがて魯粛と手を取り合って、この戦略の実現に尽力します。しかし、あくまでも主体となったのは魯粛の側です。劉備と孔明は、魯粛の行動を窺いながら、巧みに進退を決めて行ったのです。
こう見ていくと、『演義』が魯粛をボンクラに貶めた理由は明白ですね。『演義』は、孔明を完全無謬で最強の天才軍師として造形したいので、劇中において彼より優秀な人物の存在を決して認めないのです。仮にそのような存在があったなら、ことさらに史実を捻じ曲げて無能者や人格破綻者に仕立て直してしまう傾向があるので要注意です。
なお、「天下三分の計」を考えたのは、魯粛と孔明だけではありません。孫呉の士大夫たちは、様々なヴァージョンの「三分の計」を立案していました。
大きく分けて3種類なので、箇条書きにしましょう。
1 魯粛&孔明説 / 孫権は楊州(長江下流)を領有し、荊州(中流)と益州(上流)は頼りになる同盟者(=劉備)が領有する。そして、両者が力を合わせて曹操と対抗する。
2 周瑜説 / 孫権は、楊州のみならず荊も益も領有するべきであって、同盟者などそもそも必要ない。すなわち、これは「天下二分の計」。
3 呂蒙説 / 孫権は楊州と荊州を領有し、益州は同盟者(=劉備)に委ねる。これは、1と2の折衷案ですね。
これらの議論は、要するに孫呉の実力をどう評価するかの違いです。結果的に見れば、1は孫呉の実力を過小評価しすぎているし、2は過大評価しすぎていますね。結局、天下の形勢が3に落ち着いたのは、この説が最も現実的だったからでしょう。
孫呉政権内部では、最初は1と2が激しく対立するのですが、やがて周瑜が病没したために、1で纏まります。劉備と孔明の快進撃は、この情勢に大きく依存していたのです。ところが、魯粛が病没した後は、3が急激に浮上し、その結果、劉備は関羽と荊州を失うのでした。
そう考えれば、劉備政権は、しょせんは孫呉の利害に翻弄される脆弱な存在だったのかもしれません。 
第4話 孔明と石田三成 

 

1、諸葛孔明の仕事
さて、劉備の参謀となった孔明は、草庵を引き払って就職します。彼は、どのような仕事をしたのでしょうか?
『演義』では、「軍師」になったことにされています。すなわち、攻め寄せた曹操軍を、卓抜な計略で罠にはめ、火攻めや水攻めにかけて撃退する話が勇壮に描かれるのでした。しかし、これらは全て虚構です。史実の孔明は、劉備の生前は、軍事関係の仕事をほとんど任されなかったのです。
それでは、何の仕事をしていたのか?
租税を集め、法律や通達を作り、兵糧の管理や計算を行い、駅舎の整備を行い・・要するに、「管理」の仕事をしていたのです。
劉備の傭兵集団は、これまでどうして群雄の間を寄生虫のように転々として来たのか。それは、この集団に「管理部門」が存在せず、人材も払底していたため、高度な管理業務を大手群雄に委ねるしかなかったからです。現代企業に喩えるなら、劉備集団には体育会系の営業人員しかいなかったので、給与計算、決算書作成、予算編成、そして資金調達といった管理業務を自前で行えなかったのです。というより、もともと単なる「傭兵集団」だから、そういった管理系の必要性や有用性を認めていなかったのかもしれません。
しかし、劉備は荊州で暇を持て余しているうちに、管理業務の大切さに気づいたのです。単なる「傭兵集団」を群雄という名の「政治組織」に昇格させるためには、そういった業務を行う人材が必須でした。そして孔明は、その適格者だったのです。
孔明と同じ時期に、彼の親友の徐庶も劉備に仕えました。『演義』では、彼も「軍師」だったことになっていますが、これも虚構でして、史実の徐庶はやっぱり管理人員だったようです。
『演義』はどうして、実際には管理部門職だった人材を軍師にしたがるのでしょうか?その理由は非常に簡単です。『演義』はそもそも「大衆向け娯楽小説」ですから、大衆が興味を持たない部分はオミットします。そして大衆は、派手な戦闘シーンには興味があるけれど、兵糧の計算とか法令の作成なんてことに興味を持ちません。みんなのヒーロー諸葛孔明が、そんな地味で暗い仕事をしている場面を書こうものなら、小説の読者がいなくなって本が売れなくなってしまうでしょう?それは、作者(羅貫中)としては避けたいところです。だから、あえて史実を変えたというわけなのです。
『演義』に限らず、「歴史小説」というものは、あくまでも「カネ儲け」のために書かれるのだから、この手の虚構はいくらでもあります。ですから、小説をたくさん読んで歴史通を気取っている人は、実は何も分かっていないのです。この辺、要注意ですね。 
2、孔明と石田三成
閑話休題。
諸葛孔明は、日本史の人物にたとえるなら、いったい誰に似ているのでしょうか?
『演義』の孔明は、その仕事が「軍師」なのだから、楠木正成、竹中半兵衛、黒田官兵衛、山本勘助、真田幸村、秋山真之・・・いずれを挙げても正解でしょうね。ちなみに、ここで挙げた日本史上の人物も、「小説」によってかなり歪曲され誇張されています。その内容については、いずれ採り上げる機会もあるでしょう。
それでは『正史』の孔明はどうか?
実は、石田三成にそっくりなのです。
両者の人生を、対比しながら解説しましょう。
(1)仕官
石田三成は、近江(滋賀県)の土豪の家に生まれました。たまたま領主の浅井氏が織田家に滅ぼされたとき、代わって領主になったの織田家の部将・羽柴(豊臣)秀吉です。人材不足だった秀吉は、管理部門の人材を痛切に求め、そして学才のある三成(佐吉)に目を留めたのです。
このとき、有名な逸話がありますね。秀吉が、鷹狩の帰りにある山寺に寄ったとき、たまたまその寺で茶坊主をしていた三成が、秀吉に茶を振舞ったのです。最初は温いお茶、次に少し熱いお茶、最後に熱めのお茶を出した三成の機転に感心した秀吉は、住職に頼んで三成を部下に貰い受けたと言われています。
おおかた作り話なんでしょうけど、なんとなく「三顧の礼」に似た雰囲気のエピソードですな。あえて言うなら、「三茶の礼」ってとこでしょうか?
異例の抜擢を受けた三成は、もともと義理堅い性格だったため、秀吉のために粉骨砕身する決意を固めます。
(2)仕事
秀吉に仕えた三成は、「管理部門長」として抜群の功績を挙げます。検地や刀狩はもちろん、遠征軍の兵站整備など、三成の才能はとめどなく開花します。
秀吉は、しばしば20万とも30万とも言われる大軍を小田原や朝鮮半島に送り込んでいますが、それほどの大軍のロジスティックを整えることは、16世紀の技術を鑑みれば驚異的な偉業です。その偉業の仕掛け人こそ三成。石田三成は、まさに超絶的な天才管理部門長だったのです。
そして、孔明も劉備のもとで、このような仕事をしていたのでした。
(3)その最期
豊臣秀吉の死後、彼に従属していた徳川家康が、その後釜に座ろうと野心を燃やします。このとき三成は、あくまでも幼君・秀頼を守り立てて家康を除き去ろうとしてこの強敵に挑みます。これが「関が原の戦い」です。
管理者として優秀だった三成は、巧みな根回しの力で、家康を圧倒する大軍を糾合することに成功しました。しかし、彼には軍人としての奇才に欠けるところがあったため、重要な局面で常に退嬰的な戦法を取ってしまい、戦場でイニシアチブを握ることが出来ません。島津義弘などは、何度も積極攻勢を進言したのですが、三成は「危険だから」という理由でその意見を全て握りつぶしてしまいました。彼は、結局、防戦一方に陥ったところを味方に裏切られて敗れ去るのです。
管理部門長は、「リスクの軽減」を至上命題とする仕事なので、リスキーな戦法を極端に嫌う性向があります。それが、この局面で仇となったのです。
三成が敗北して逃走した後、彼の本拠地であった近江佐和山城は、徳川勢に占領されました。略奪の喜びに胸を輝かせて倉庫に殺到した徳川勢は、そこがもぬけの殻であることを知って愕然とします。三成は、「関が原」の決戦のために、全財産を投げ打ったのです。彼は、逆賊・家康さえ倒すことが出来れば、自分はどうなっても構わないと思っていたのでしょう。
三成は、結局、徳川勢に逮捕されて処刑されます。しかし、最期まで堂々とした態度を崩そうとはしませんでした。
劉備死後の孔明の生き様は、三成にとても良く似ています。もちろん、孔明は大敗を喫することなく畳の上で死んだのですが、戦場での保守的な進退の様相や、清貧な生き様は瓜二つといっても良いくらいです。
三成と孔明は、その本質を一言で表現するなら「正義派の官僚」でした。真面目に厳格に仕事をこなし、信義と誠実を何よりも重んじるのです。もちろん、他者にムチャクチャに厳しい。そうじゃなければ「管理」になりませんから。
三成は、同僚たちを容赦なく管理し締め付けたために、豊臣政権内で多くの政敵を作ってしまい、それが「関が原」大敗の原因になったのです。それは彼の「正義派」としての厳格な仕事ぶりが、正義よりも和(もたれあい)を重んじる平均的な日本人の精神風土に忌避されたからでしょう。そういう意味では、三成の最大の不幸は、正義や道義を重んじないこの島国に生まれたことかもしれません。
その点、孔明は、正義を大切にする文化を持つ中国で活躍したがゆえに、その不朽の名声を後世に残すことができたのでしょう。
・・・以上のことを前提に、孔明のその後の人生を見て行きます。 
第5話 劉備の大躍進 

 

1、赤壁の戦い
208年、北方を完全に平定した曹操の大軍が南下の形勢を見せると、老齢の劉表は心労のためか病没してしまいました。跡を継いだ次男の劉jは、戦っても勝ち目は無いと判断して降伏してしまいます。
急を知った劉備は、慌てて南方に逃げ出すのですが、曹操の快速騎馬軍団に当陽の地で追いつかれて大打撃を受けます。劉備は多くの妻子を失い、徐庶も曹操に降伏してしまいました。張飛や趙雲といった勇将の活躍がなければ、劉備の命も危なかったのです。
曹操の天下統一は、まさに目前でした。
敗残の劉備は、長江に面した江夏郡にまで逃げ延びますが、もはやその命運は風前の灯火です。彼の東方に広大な領土を有する孫呉政権では、曹操への降伏論が多数を占めていました。
しかし、この情勢を変えたのが魯粛と孔明です。
まずは、魯粛が劉備陣営を訪れて提携を模索します。魯粛は、孫呉政権内での数少ない主戦派でした。劉備は、彼に励まされて勇気を取り戻します。そして、こちらからは孔明が使節として孫呉に向かいました。
魯粛と孔明は、やはり主戦派であった周瑜と心を合わせて孫権をくどきます。孫権は当時26歳。その若さもさりながら、覇気あふれる優秀な人物であった彼は、無血降伏を良しとしませんでした。しかし、勝算を計れずに悩んでいます。
このときの孔明のディベート術は秀逸です。彼はまず、「戦っても勝ち目はないと判断されるなら、早めに降伏するのが賢いですぞ」と、孫権に提案しました。意外な言葉に驚いた孫権は、「なぜ先生は劉備にそれを勧めないのか?」と反論します。すると孔明は、「劉将軍は、漢の帝室の血をひき、その英明は天下に鳴り響き、多くの人々に慕われています。どうして曹操の下につけるでしょうか?」と答えました。この言葉にプライドを刺激された孫権は、「俺だって戦いたいと思っている。だけど、勝算が読めないのだ。劉備だって当陽で敗れたばかりじゃないか」。そこで孔明は、説得力あふれる弁舌で状況を分析します。いわく、劉備は敗れたとはいえ、まだ1万の兵力を確保している。また、曹操軍は公称100万といっても実態は寄せ集めの12万人で、その多くを占める荊州兵は降伏したばかりで士気が低い上、北方の兵士は疲労困憊に加えて慣れない環境で体調を崩すものが多いだろうから、勝算は十分にある。
この言葉に励まされ、ついに孫権は開戦を決意しました。
こうして、周瑜率いる孫呉の水軍3万は、長江を遡って劉備と合流。さらに西進して曹操軍の水軍基地・江陵を目指します。
曹操は、孫呉の無血降伏を信じきっていたらしく、その対応は常に後手後手に回りました。あわてて水軍を繰り出して長江を下るのですが、兵の多くが風土病にかかって士気が奮わないこと著しい。しかも、もともと水上戦を苦手としていました。
両水軍は、江夏と江陵の中間地点で遭遇します。緒戦は孫呉水軍の勝利となり、敗れた曹軍は長江北岸の烏林に逃れて防御陣地を築きました。孫軍は南岸の赤壁に布陣し、戦局は長期戦となります。
やがて周瑜は、部将の黄蓋の献策を容れて、敵水軍に「火攻め」を敢行しました。黄蓋率いる偽降伏船団は、曹軍の内懐に入り込み、そこで一斉に猛火を放って突撃したのです。おりしもの南風によって炎はますます激しさを増し、主力艦隊を焼失した曹操は戦意を喪失して北方に逃げ出しました。
これが、世に言う「赤壁の戦い」です。
この戦いの立役者は、あくまでも孫呉水軍と周瑜提督でした。劉備と孔明は、後ろのほうで戦局を望見し、最終局面になって追撃戦に参加してはみたものの、曹操の逃げ足が速すぎて追いつけなかったのです。
『演義』は、「これではマズい」と考えて、劉備陣営の見せ場を多く用意しています。孔明は、天才的な智謀で曹操や周瑜を翻弄し、火攻めに際しては魔法の力で風向きまで変えてしまいます。また、劉備や関羽は、逃げる曹操を追撃戦で大いに苦しめます。しかし、いずれも虚構の物語なのです。 
2、荊州の領有
曹操を北方に追い払った周瑜の軍勢は、勢いに乗って荊州に攻め込みました。しかし、江陵を守る曹仁(曹操の従兄弟)に阻まれて1年も攻囲戦に時日を費やしてしまいます。その間、荊州南部(湖南省)に渡った劉備は、相対的に手薄となったこの地域を電撃的に征服してしまいました。
「天下二分の計」を目指す周瑜は、劉備の勢力強化を苦々しく思い、ようやく占領した江陵に居座って劉備を牽制します。そんな彼は、軍勢を磨いて西方益州(四川省)への侵攻を模索していました。
このままでは、「天下三分の計」が危うくなる。焦った劉備と孔明は、魯粛を通じて孫権に働きかけ、政治力の強化に努めました。まずは、孫権の妹を劉備の正妻に迎え入れ、同盟関係を補強します。さらには、劉備自ら孫呉の本拠地に乗り込んで、荊州全土の租借を申し入れました。
このとき、劉備が自ら孫呉に乗り込むことについては、重臣たちの多くが反対しました。危険すぎるからです。中でも、最も強硬に反対したのは孔明でした。彼は、管理畑の人材だけに、「リスクの軽減」を最重視する性向が強かったのです。
しかし、劉備は彼らの反対を押し切って孫呉に乗り込みます。彼はもちろん、魯粛の助力を当てにしていたのでしょう。そして会見は成功し、孫権は周瑜が占領した南郡(江陵周辺)を劉備に貸与する決定をしました。このころ孫権は、曹操の雪辱戦を恐れていたので、荊州方面に裂いた精鋭を手元に戻しておきたかったのです。
こうして、「赤壁の戦い」の成果は、全て劉備の掌中に入りました。荊州北部は未だに曹操の勢力下とはいえ、今や劉備は、長江流域から湖南省全土に及ぶ領土の支配者となったのです。そして、これらの内政を総覧したのは孔明でした。彼は、その才能を大いに開花させ、劉備軍の財政力と軍事力の強化に大貢献を果たしたのです。それだけではありません。彼はその人脈を用いて、在野の有能な人材を劉備陣営に招請しました。馬良、蒋琬、廖立らが傘下に入ったのはこのときです。孔明は、まさにスーパーマンのような管理本部長だったのでした。
これに激怒したのが周瑜です。彼は、劉備の勢力が固まる前に益州を侵攻しようと考えたのですが、その企画半ばにして病没します。享年38歳でした。これは、まさに劉備にとっての大幸運です。そして周瑜の没後、孫呉のイニシアチブを握ったのは親劉備派の魯粛でした。こうして、劉備は「天下三分の計」実現への完全なフリーハンドを手に入れたのです。
『演義』では、この間の情勢を「孔明と周瑜の智謀合戦」というテーマで説明しきっています。周瑜は、数度にわたって劉備を罠にはめて殺そうとします。例えば、孫権の妹を劉備に娶わせようというのは、周瑜が劉備を呉に誘致して抹殺するための謀略だったことになっているのです。しかし、それらの謀略をことごとく見破った孔明によって企図を挫かれてしまった周瑜は、「どうして天は、この世に俺と同時に孔明を生まれさせたのだあ!」と悲痛なセリフと血を吐いて悶絶死するのでした。もちろん、これらは全て創作でして、孫呉の軍事部門の要職であった周瑜と劉備の管理本部長だった孔明が、互いに拮抗したり争ったりした局面は、史実には存在しないのです。 
3、蜀の占領
やがて北方の曹操は、大軍を磨いて合肥方面(安徽省)で孫権に雪辱戦を挑みました。またもや、劉備は漁夫の利を得られる情勢に直面したのです。
彼は、益州牧(長官)・劉璋に招かれて四川盆地に入りました。劉璋は、北方の漢中に位置する張魯の勢力と敵対関係にあったので、劉備にここを攻めてもらいたかったのです。彼は、劉備のことを昔ながらの「傭兵隊長」だと考えていたようです。
しかし、歳月は人を変えるのです。牙を剥き出した劉備は、いきなり劉璋に攻撃を仕掛けました。荊州からは、張飛、趙雲、孔明の援軍が駆けつける。さらに、北方の涼州からは、錦将軍と謳われた群雄・馬超が、曹操に追われて逃げ回った挙句、劉備軍に加わったのです。
そして、3年に及ぶ攻防戦の結果、ついに成都は降伏開城。こうして劉備は、荊州に加えて益州も領有することに成功しました。ここに、「天下三分の計」の第一段階が完成したのです。
『演義』では、この蜀獲りでも孔明の軍略と智謀が炸裂しまくったことになっています。しかし史実では、参謀的な仕事をしたのは法正や龐統であって、孔明の仕事は荊州の軍勢を成都前面に持って来ただけなのです。頼みの龐統は、最終局面で戦死してしまうのですが・・・。
ともあれ、周瑜の病没や曹と孫の対峙といった、微妙な情勢や偶然を頼りにしたとはいえ、一瞬のチャンスを逃さずに活用した劉備主従の行動力は驚嘆すべきものです。人生の中にはこのようなチャンスが必ず一度はあるのだから、そういうチャンスを逃すべきではないという好例でしょうか。
しかし、こういったあざとい行動は、周囲の疑惑と怒りと嫉妬を招きます。
孫権は、もともと劉備と力を合わせて益州を乗っ取る計画を練っていました。周瑜の死後、劉備の方からそれを提案して来たからです。しかし、孫権が曹操に拘束されている間に、劉備は義兄に何の相談もなく、単独で勝手に益州を乗っ取ってしまったのです。孫権は、「悪賢い夷めが!」と激怒し、荊州に残っていた妹(劉備夫人)に密使を放ち、彼女を故国に引き取ってしまいました。こうして、孫権と劉備の蜜月は崩れ去ったのです。
しかし劉備は、孫権の怒りを宥めるための積極的な行動を取ろうとしませんでした。望外の成功に有頂天になり、孫呉を軽視してしまったのでしょうか?このことが、やがて致命的な破局に繋がるのです。 
第6話 劉備の猛反攻 

 

1、益州での孔明
成都に入った孔明は、この地でも敏腕管理本部長としての才覚をほしいままにします。人材登用、財政再建に積極的に取り組んだのはもちろん、彼は「蜀科」と呼ばれる法律の制定事業に尽力するのです。
そんな孔明は、「法家思想」でこの新領土を経営しようとしていました。
中国の政治史を俯瞰すると、その統治哲学が、常に「儒」と「法」の二色に彩られていることに気づきます。大雑把に説明すると、「儒」の統治は、国家が民衆の道徳の力を強化することで社会を治めようとする考え方。これに対して「法」の統治は、国家が法律の強制力で民衆を支配し束ねようとする考え方です。
孔明以前の歴史を見ると、秦の始皇帝は猛烈な「法家主義者」でしたが、そのやり方があまりに過酷であったために、かえって国政は乱れてしまいました。そして、秦に取って代わった漢帝国の高祖皇帝(劉邦)は、秦を反面教師とし、むしろ「儒家」を重視した徳治主義の社会を築き上げたのです。しかし、その後400年が過ぎ去ると、「儒」の理想は形骸化し腐敗し、かえって世の乱れを助長する情勢になっていました。
例えば、後漢帝国の人材登用について見ると、この国は「道徳」の力を基準にして人材を抜擢することになっていましたが、人物の「道徳」の程度については、試験などの客観的な測定基準が無いのだから、その実態はかなり出鱈目なものでした。すなわち、金持ちの息子や容姿端麗で押し出しが効く者が、「道徳の持ち主」と適当に見なされて出世する世相になっていたのです。『正史』を読んでいると、後漢帝国末期のエリートが、名門豪族の子弟とか長身でハンサムな者ばかりであることに気づきます。例えば、袁紹も劉表も、名門出身の上にたいへん立派な体躯を持つ偉丈夫でした。逆に、曹操が、最初に洛陽の門番にしかなれなかった理由は、彼が貧相な小男だったからのようです。
しかし言うまでもなく、容姿や門閥家柄は、その人物の能力を表彰するものではありません。後漢帝国は、現在の日本と同様に、無能な二世議員や世襲官僚がコネの力で成り上がり、そして私利私欲で民衆を支配する堕落しきった国家になっていたのです。こういった腐敗勢力が民衆を虐め苦しめた結果、「黄巾の乱」を初めとする地獄の戦乱の扉が開き、国家の破滅を招来したのでした。
曹操が、幾多のライバルを打倒して乱世の最大勢力になれた理由は、もちろん彼の個人的能力もありますが、彼が早くから「漢帝国の構造改革」を打ち出し、そして「法家主義」に基づく腐敗のリセットを行ったからです。だからこそ、道義の心を見失わない名士たち(荀ケや荀攸ら)をはじめ、多くの人材や民衆が彼の理想に付き従ったのです。
曹操は、完全な「能力基準」で人材登用を行いました。また、様々な法律を制定して民生の向上に努めました。
このような立派なポリシーを持つ曹操の前に、劉備が連戦連敗を重ねたのはむしろ当然だったでしょう。劉備は、孔明に出会うまで、傭兵隊長としてのアイデンティティーしか持っておらず、「目先の戦闘」のことしか考えていなかったのですからね。
さて、益州に入った孔明は、曹操と同様に「法家」の思想で社会を治めようとしたのです。爛熟した儒をリセットし、法の力で構造改革を行おうとしたのです。
蜀漢が、後に曹魏を脅かす大勢力に成長できたのは、こうした孔明の活躍の賜物でした。そういう意味では、『演義』とは随分とニュアンスが異なりますが、劉備勢力の台頭は間違いなく孔明あってのことだったのです。
『正史』に、法家としての孔明の抱負が載っています。
あるとき、文臣の法正が言いました。「孔明どの、あなたの起草した法案は、あまりにも厳しいのではありませんか。かつて漢の高祖(劉邦)は、『法三章』というゆるい統治で民心を得ました。我々も、それを見習うべきではないでしょうか」
孔明はこれに答えて「あなたの議論は、一を知って二を知らないものです。高祖のころは、民衆が秦の厳しい悪法に苦しめられていたからこそ、『法三章』が有効でした。しかし、今の益州は、むしろ儒の堕落政治に民衆が苦しんでいたのですから、厳しい法律を制定するのが民衆のためなのです」
孔明が、実に優れた識見を持つ民衆思いの政治家であったことが分かりますね。
ここに登場した法正は、もともと劉璋の部下だったのに、重用されなかったことを恨んで劉備に寝返った人物です。彼は、軍事参謀として非凡な能力を持っていたのですが、人格に問題があり、権勢を悪用して過去に自分を蔑んだ者たちを私的に殺害したのです。
法正のリンチは、大きな社会問題となっていましたが、孔明にはどうにもならなかったので、苦情を言う士人たちをこう言って宥めました。
「我々が、北の曹操、東の孫権、内の孫夫人から逃れて成功できたのは、全て孝直(法正のあざな)のお陰である。その功績を考えるなら、少しくらいの我儘は許さなければならぬ」
この言葉は、孔明という人物の本質を良く現しているように思えます。天下三分の計の第一段階が完成した喜びよりも、むしろ「危険から逃れられたこと」を喜んでいる。私は、天下三分の計そのものが、もしかすると孔明の発案ではなかったのでは(=魯粛の受け売りではないか)と疑っているのですが、その根拠の一つがこのセリフです。孔明という人物は、「リスクの軽減」に妙にこだわる人でした。これは、「管理本部長」としては必須の資質です。しかし、国家戦略を担う人物としてはどうでしょうか?
彼の戦略家としての限界は、すでにこの時期から露呈されていたように思えます。 
2、三つ巴のバトルロイヤル
孔明は、こうした内政事業に加えて、より重要な職責を担っていました。すなわち、「補給兵站」です。
軍事において最も重要なのは、何と言っても補給兵站です。どのような精強な軍隊であっても、食糧や医薬品、刀槍や矢玉を適時に補充できなければ、戦場で敗れ去るしかないのです。逆にいえば、敏腕な管理者が補給兵站を円滑に行えば、軍隊はその持てる力を100%発揮し、ライバルに差をつけることが出来ます。これは、現代の企業経営でもまったく同じでして、管理部門が優秀な会社は、不況でもビクともしない強靭さを持っています。
劉備の陣営は、もともと関羽、張飛、趙雲といった名だたる猛者を抱える精鋭軍でした。これほどの軍勢が、なぜ戦場で負け続けたのかといえば、補給兵站の人材が欠けていたために、その実力を発揮できなかったからなのです。
しかし、今は違います。有能な孔明は、補給兵站を一手に引き受け、主君の軍事活動に完璧なバックアップを与えたのです。
もちろん、そうした孔明の才能を的確に見抜いて信頼を寄せた劉備は、やはり君主として非凡な器の持ち主だったのでしょう。
さて、益州平定後に劉備が最初に対決した相手は、意外なことに呉の孫権でした。北方からの曹操の遠征軍をようやく撃退した孫権は、その間に、西方の劉備によって益州を「トンビに油揚げをさらわれた」形となったことに気づき、暗い怒りを胸に宿しつつ益州に使者を発し、「貸与した荊州を返して欲しい」と言ったのです。どうやら劉備は、南郡から周瑜を追い出してこの地を得たときに、孫権から「新たな領土を得るまで貸りる」という名目を用いたようなのです。そうでなければ、孫権が承知しなかったのでしょう。そして今、劉備は実際に新たな領土をゲットしたのだから、孫権の「返還要求」は極めて正当です。ところが、劉備はこう言って孫呉の使者を追い払ったのです。「これから涼州(陝西省)に攻め込む予定なので、それまで待ってくれ」。
このような不誠実な回答を得て、孫権は激怒しました。「実力行使だ」とばかりに代官を荊州の各郡に送り込んだところ、この地を守る関羽が馳せ参じて追い払った。ますます怒った孫権は、ついに5万の大軍を発して荊州に攻め込んだのです。
劉備も、5万の大軍を動員して長江を下り、荊州で孫軍と睨み合いました。孔明は、成都で補給兵站に専念です。
さて、この情勢を見た北方の曹操は、直ちに軍を発し、漢中(四川省北部)に割拠する新興宗教団体・五斗米道を攻撃します。教祖の張魯はあえなく降伏し、こうして曹操は劉備攻略の橋頭堡を確立したのです。彼は、劉備が荊州で泥沼に陥っているうちに益州を乗っ取ってやろうと考えていたのかもしれません。ところが、そうはなりませんでした。曹操の脅威に気づいた劉備が、荊州南部の四郡(湖南省)を東西に分割することで孫権と和睦を成立させて益州に帰ってきてしまったのです。
どうしてこんなに速やかに和睦が成立したのかというと、劉備と孫権は、互いに戦場でガチンコ対決には至らず睨み合いに終始していたからです。もともと曹操に比べて弱小であった彼らは、曹操に漁夫の利を占められることを極度に恐れていました。そこで、互いに対峙しながら妥協点を模索していたのです。この局面で最も活躍したのが、天下三分の計の主導者である親劉備派の魯粛でした。彼は、劉備軍の先鋒・関羽と、互いに一振りの刀を携えただけで会談を交えたりして(単刀赴会)、両軍の正面衝突を抑え続けたのです。
さて、こうして益州に帰った劉備は、動揺する民心を宥めると、義弟・張飛の軍を発して、おりしも四川に侵入してきた曹操軍の張郃将軍を迎撃し、これを敗走させました。また、呉に帰った孫権は、北方に大軍を発して曹魏の合肥城に猛攻を加えます。この攻撃は、魏の張遼将軍の善戦によって失敗に終わるのですが、新情勢に動揺した曹操は、漢中に守備部隊を残して本拠地に帰還してしまいました。
ここは、非凡な才能を持つ三英雄の駆け引きが、実にドラマチックに展開される局面ですね。 
3、漢中の戦い
劉備は、曹魏の漢中守備隊が意外と弱体なのに気づくと、法正の助言に基づいて反攻作戦を発動します。彼自ら5万の大軍を率いて漢中に突入し、その西方に位置する武都に張飛と馬超の軍勢を陽動任務に送り込みました。全軍の補給兵站は、もちろん成都を守る孔明の担当です。
漢中を守備する夏候淵は、劉備の猛攻に懸命に耐えながら曹操の援軍を待ちました。しかし、援軍はなかなか来てくれない。その理由は、曹魏内部で反乱が続発していたからです。
先述のように、曹操は過激な「構造改革者」でしたから、儒の乱れた統治で既得権を確保していた者たちは、この暴君(民衆にとっては名君だけど)を激しく憎みました。また、儒学の教条主義者たちにとっても、儒の思想を根本から否定するかのような曹操の政治姿勢は恐怖の的でした。曹操が、しばしば反対勢力に弾圧を加えて処刑したのは、彼らの抵抗が彼の政策にとって極めて大きな障壁となっていたからです。『演義』では、この状況を「曹操が極悪非道で殺人好きの暴君だから」という文脈で説明するのですが、政治というのはそんなに単純な問題ではありません。曹操の最大の強敵は、劉備でも孫権でもなく、むしろ膝元の「抵抗勢力」だったと言っても過言ではないのです。
そして劉備は、こうした「抵抗勢力」の希望の星でした。この時期、曹操に反乱を起こした抵抗勢力たちは、しばしば劉備や関羽の名を唱え、彼らの支援を期待していました。どうやら、劉備が裏ルートで抵抗勢力を煽ったようですね。劉備は、このころから「漢王室の子孫」を名乗り、そして「漢王朝の復興」をスローガンに掲げていました。曹操に苦しめられている抵抗勢力たちは、劉備が曹操を打倒してくれれば、再び自分たちの春が巡ってくると思い込んでいたのでしょう。実際には、劉備のところでも、孔明が中心となって「法家」の構造改革をしていたわけですが。
こうして、劉備の漢中侵攻に符牒を合わせるかのように曹操領内で反乱が続発したのです。特に、河南省最大の都市・宛が反乱軍に乗っ取られたのは大打撃でした。曹操は、こうした混乱に対処するために、漢中を救援する余力を無くしてしまったのです。
この間、孔明の卓抜な兵站技術によって10万の大軍を擁するにいたった劉備は、ついに曹魏の漢中守備隊を圧倒します。定軍山の決戦は、魏の征西将軍・夏候淵を戦死させ、こうして南鄭市を中心とした漢中枢要部は劉備の掌中に収まるのでした。
創業の功臣を討たれた曹操は、激怒し雪辱を誓います。おりしも各地の反乱の鎮圧に成功した彼は、ようやく20万の大軍を引っさげて漢中奪還の征旅に出たのです。
対する劉備は、法正の献策に従って持久戦で対抗します。既に漢中枢要部を占拠した劉軍10万は、山岳地帯に厳重な要塞陣地を築いて迎え撃ったのです。曹軍20万は、数の上では劉軍を圧倒していましたが、何しろ蜀の桟道を踏破して疲労困憊していた上に、長期戦に持ち込まれてたちまち補給不足に陥りました。劉備は、山上から曹操を見下ろして叫んだと言われています。
「孟徳(曹操のあざな)よ、今の俺は決して倒せぬぞ!俺は必ずや漢川を保有してみせる!」
曹操は、かつては弱小だった傭兵隊長がいつのまにか強大になっているので大いに驚きました。彼は、劉備に法正という参謀が付いていると聞いて、「あの玄徳がこのような戦法を編み出せるはずがない。誰かに教えられたのだと思ったわい」と負け惜しみを叩いています。
帷幕の謀臣としての法正の優秀さは、折り紙付きでした。また、戦場での黄忠や趙雲の活躍も見事なものでした。でも、そんな彼らの活躍は、10万の大軍に滞りなく補給を与え続けた孔明あってのことでした。もちろん、一番偉いのは、こうした適材適所に人材を用いた総大将の劉備だったわけですが。
対陣数ヶ月後、曹操の大軍は損耗を重ねた上に疲労して戦闘不能となり、ついに漢中を諦めて全面退却に入りました。曹操は、「鶏肋だ」と、またしても負け惜しみを叩きます。要するに、漢中は鶏の肋骨と同様、スープの出汁にしか使えないから、失っても惜しくないと言いたかったわけ。
劉備は、こうして漢中の戦いに完全勝利しました。これは、彼の政治生命にとって最大の快勝でした。そして、ここ漢中の重要性は、「鶏肋」などと形容されるような生易しいものではありません。なぜならここは、400年前、漢帝国創業の英傑・高祖皇帝劉邦が、最初に封建された由緒ある地なのです。かつて劉邦は、弱小の立場でありながら、この地の経済力を基盤にしてライバル項羽に挑み、最後にはこの強敵を打ち負かしたのです。こうした故実を知る中原の反曹勢力は、劉備が劉邦の再来となって曹操を滅ぼすものと信じ、曹魏国内での抵抗勢力の蠢動はますます激しさを増しました。
駄目押しとばかりに、劉備は「漢中王」を名乗ります。彼は、「我こそは高祖・劉邦の再来なり」と満天下に宣言したのです。これに呼応して、荊州を守っていた関羽も軍を動かして北へと攻め込みました。
この漢中戦について、『演義』では、孔明が参謀として戦場に出向き、曹操を知恵比べで打ち負かす様子を勇壮に描いていますね。実際には、孔明は成都から一歩も動かなかったのですが、彼は補給兵站という手段を巧みに用いて曹操を撃破したわけなので、事の顛末は史実どおりと言っても良いかもしれません。
ともあれ、今や天下三分の計の最終段階が秒読みに入ったのです! 
第7話 蜀漢の暗雲 

 

1、荊州の失陥
漢中戦に敗れた曹操は、逆境に沈みます。
旭日昇天の劉備によって主力を撃破され、彼の威信は地に落ちました。また、荊州の関羽の猛攻によって、曹仁の荊州守備隊は蹴散らされて樊城(襄樊市)に押し込められてしまいました。
焦った曹操は、手元に残る最後の予備軍を救援に発したのですが、于禁将軍率いるこの救援軍は、樊城郊外で鉄砲水に襲われ、そこにすかさず急襲を仕掛けた関羽軍によって全滅させられました。この鉄砲水は、関羽の水攻めだったのかもしれません。
樊城自体も洪水に襲われて、城内の士気は落ちる一方です。水軍を操る関羽の攻囲の環が、それを厳しく締めつけます。
この情勢を前に、荊州北部で次々に豪族や侠客の反乱が起こり、弱気になった曹操は遷都を考えるようになります。これはまさに、曹魏政権最大の危機でした。樊城が陥落したなら、もはや関羽を食い止める障壁は存在しなくなるのです。それを知る曹仁は、必死にこの城を守ります。
もしもここで、蜀の劉備がその精鋭を出撃させていたらどうでしょうか?この当時、最後の予備隊を使い果たした曹魏の抵抗力は極めて乏しかったので、無人の野を行くがごとき快進撃の後に、劉備による天下統一が実現していたかもしれません。しかし、劉備も無傷ではありませんでした。勝利したとはいえ、漢中戦で国力を超える無理な動員を行い、物資を使い果たしていたのです。成都に帰った彼は、孔明とともに内政整備に尽力して国力を回復させねばならず、とても関羽に呼応するどころではなかったのでした。
ここで、状況のキャスティングボードを握ったのは孫呉です。
孫権は、この2年前の戦いで曹操と対決し劣勢になったため、名目上だけ曹魏に「降参」を申し入れていました。そのため、関羽に協力しにくい心理状態に置かれていたのです。もちろん、朝議の場では、関羽に呼応して北方の徐州を奪い取るべきだという議論も起こりましたが、やがて「曹操と同盟して、手薄になった荊州を襲うべし」というまったく逆の戦略が浮上したのです。この議論の中心となったのは、部将の呂蒙です。
ここで重要なのは、2年前に魯粛が病死していたことです。もしも親劉派の魯粛が存命なら、呂蒙の戦略は即座に否定されたことでしょう。呂蒙は、前述のように、古くから「荊州は孫呉が領有するべきだ」という持論を掲げていました。
こうして、曹操と孫権の秘密同盟が結ばれます。
関羽は、孫権の動向を無視していたわけではありません。最初のうちは、十分な守備隊を拠点に残していたし、烽火台を築いて孫呉の動きをキャッチできる仕組みを整えていました。しかし、孫呉が仕掛けた「対劉強硬派の呂蒙を病気静養させ、穏健派の陸遜に交代させる」という謀略に、すっかり騙されてしまったのです。こうして孫呉に気を許した彼は、樊城がなかなか落ちないものだから、少しずつ守備隊を前線に抽出してしまいます。
病気静養したはずの呂蒙は、荊州が十分に手薄になったのを見極めると、コマンド部隊で哨兵を暗殺して烽火台を無効化させてから、3万の大軍で江陵に襲い掛かりました。これは完全な奇襲となり、もともと手薄だった守備隊はあっけなく降伏します。こうして、荊州の劉備方拠点は、ほとんど無血のうちに孫呉の掌中に収まったのです。
一瞬にして後方の補給拠点を失った関羽には、もはや交戦能力はありません。慌てて南へ戻ろうとした彼は、呉の裏切りがどうしても信じられなかったらしく、何度も江陵の呂蒙に「どうしたというのですか」と手紙を書いています。しかし呉は軍勢を出して関羽を迎え撃とうとしました。家族を人質同然にされ、しかも補給を絶たれて士気の落ちた関羽軍の将兵には戦う意欲など残っていません。精強を誇ったその軍勢は今や散り散りとなり、わずかの残兵とともに蜀に逃れようとした関羽は、待ち伏せしていた孫軍に捕われ斬首されました。
こうして、天下三分の計は、あっというまに崩壊したのです。
荊州の失陥については、しばしば関羽の傲慢な性格に原因があると言われます。関羽は、『演義』では「徳性溢れる義人」として描かれています。もちろん、そうした側面も否定できませんが、『正史』を読む限りでは、それと同時に傲慢で自意識過剰な人格も垣間見られるのです。すなわち、呂蒙の奇襲を前に江陵があっけなく開城した背景には、関羽の人望の無さが伏在していたようです。
でも、それは一種の結果論でして、関羽の置かれた立場を鑑みれば、彼はなかなか見事に立ち回っていたように思えます。彼は2万程度の遠征軍しか動かせなかったはずですが、それでも曹操をギリギリまで追い詰めているのですから。
私は、荊州失陥の最大の戦犯は、他ならぬ劉備だと思います。劉備は、孫権というファクターが天下三分の計の最重要の前提であることを忘れてしまい、孫呉を怒らせる行動ばかり取り、しかもそれに対して何のフォローもしませんでした。劉備は、もう少し孫権に気を遣うべきだったと思うのですが。 
2、漢帝国の滅亡
関羽の横死後、呉の呂蒙とその副将・孫絞が相次いで病死し、さらには魏の曹操まで病死します。当時の迷信深い人々は、それを「関羽の怨霊の仕業だ」と言い合って恐れました。「関帝廟」は、現在では「商人の神様」ということになっていますが、もともとは関羽の怨霊鎮魂のために建てられたもののようです。
さて、曹操の死後、後継者となった曹丕は、これまで亡父が傀儡にしていた漢帝国皇帝に迫ってその帝位を譲り受けました(220年10月)。いわゆる「禅譲革命」です。こうして、漢帝国はその400年の寿命を閉じ、曹一族による魏帝国が発足したのです。
これは、荊州とともに関羽を失ったばかりの劉備政権にとって、致命的とも言える大鉄槌でした。
もともと劉備は、漢室の連枝を名乗り「漢帝国の復興」をスローガンに掲げることで、その実力を10倍にも20倍にも膨らませて来ました。純粋に国力だけを比較するなら、魏の総人口500万人に対して、今や益州だけを領有する蜀の総人口はわずか90万人。まるで、大人と子供の勝負です。このハンデを埋めるためには、全体主義的なスローガンの力で国民の士気をとことんまで高めなければなりません。ところが、それが今や、力の源泉とも言える錦の御旗が取り去られてしまったのです。これは、まさに国家存亡の危機でした。
この情勢に対応するため、劉備が採用した手段は、「自分が皇帝になること」でした。すなわち、「漢帝国は滅亡したわけではない。皇室の血を引く俺が継承したのだ」ということにして、当初のスローガンを継続させたのです。こうして、一つの中国に二人の皇帝が並び立つという異常事態が現出しました(221年4月)。四川省のみを領有するこの新国家の国号は、もちろん「漢」です。同時代人は「季漢(末っ子の漢)」と呼んだようですが、この論文の中では「蜀漢」と呼称します。
このとき、孔明は、軍師将軍から丞相(総理大臣)に昇進しました。
この国の目的は、逆賊である魏を滅ぼして、中国を漢帝国のもとに再統合することでした。しかし、新皇帝・劉備の最初のプロジェクトは、「呉との戦争」だったのです。皇帝は、「関羽の仇討ち」を声高に喧伝しました。
部将の趙雲などは、「逆賊は呉ではなくて帝位を簒奪した魏なのだから、先に魏を討つべし」と正論を唱えたのですが、皇帝は聞き入れようとしません。
こうして劉備皇帝直卒の4万の軍勢が、長江の流れを下りました(221年7月)。
「夷陵の戦い」の開幕です。 
3、夷陵の戦い
夷陵の戦いの真の目的については、学者の間でも様々な説があります。
小説『演義』では、「人徳者の劉備が、純粋に義弟・関羽の仇討ちをしたかった」というドラマチックな筋立てになっていますけど、劉備はいちおう政治家なのだから、それ以外にも目的があったことでしょう。
なんといっても、荊州の政治的重要性が大きいと思います。天下三分の計の具体的内容について想起していただきたいのですが、荊州の領有は孔明の天下統一計画にとって必要不可欠の前提なのです。益州だけを治める皇帝というのは、「総人口90万人の過疎化した盆地の親玉」にしか過ぎず、天下統一どころか自存自衛すらおぼつきません。ですから、劉備としては、何としても荊州を取り戻したかったでしょう。
また、劉備旗下の精鋭は、もともと荊州出身者から構成されていましたから、彼らのために故郷を取り戻すことは、軍規を維持する上でも必要だったのです。
しかし、劉備は魏という強敵を北方に抱えた状態で征旅に出ました。蜀漢の全体主義的イデオロギー(漢朝復興!)の前では、魏との休戦は許されませんから、この弱小国家は二正面作戦を余儀なくされたのです。そのため、趙雲、馬超、魏延といった勇将は、魏の侵攻に備えて国内に留め置かなければなりませんでした。また、劉備が片腕と頼んだ謀臣・法正と部将・黄忠は、この2年前に病没していたのです。さらに、出陣の直前になって、もう一人の義弟・張飛も部下に暗殺されるという大波乱。劉備皇帝は、衰えかけた二線級の将兵で呉に決戦を挑んだのでした。もちろん、孔明は成都で補給兵站に専念します。
対する呉は、孔明の実兄・諸葛瑾を使者に派遣して劉備の怒りを宥めようとしますが、これが失敗に終わると、今度は柔軟な外交戦略に打って出ました。
すなわち、孫権は魏の曹丕に使者を発し「降伏します」と言ったのです。当時、魏と呉の間柄は険悪となっていて、魏が蜀漢に呼応して呉に攻め寄せる可能性は非常に大きかったのです。しかし、出鼻をくじかれた形となった魏の曹丕は、半信半疑で「ならば、貢物をよこせ。また、子供を人質に差し出せ」と法外な要求をしたのですが、孫権はそれを全て受け入れます。こんな主君の卑屈さを見た孫呉の重臣たちは、歯軋りして悔しがったのですが、鷹揚な孫権は、「まあ、今に見ておれ」と満座を宥めました。
こうして、魏は蜀漢に呼応して呉を攻撃する名分を失ってしまったのです。見事に北方の脅威を封じた孫権は、陸遜(呂蒙の後任)率いる5万の主力を劉備軍迎撃に充てることに成功しました。
これは、劉備にとって予想外のことだったでしょう。
劉備率いる二線級の4万は、それでも良く健闘します。夷陵前面で睨み合った呉蜀両軍は、7ヶ月にも及ぶ長期持久戦に入りました。
なお、『演義』では、劉備軍が70万だったことにされています。これは、蜀漢の国力を誇張すると同時に、孔明不在の劉備の無能さを強調するための創作でしょう。
劉備は、険しい山岳地帯に陣地を築いて立てこもる陸遜をどうしても攻め切れません。まあ、4万対5万だから当然でしょうね。これが『演義』の世界だと、70万対5万なので、14倍の兵力を持ちながら手も足も出せない劉備の無能ぶりが思い切り強調されてしまうのですが。
対する陸遜は、数の上では優勢だったにもかかわらず、劉備の見事な布陣と蜀漢軍の旺盛な士気の高さを前に、攻め口を見出すことがどうしても出来なかった。史実の劉備は、こうして見るとなかなか優秀な軍略家だったのかもしれません。
長期戦になると不利なのは、実は呉の側でした。なぜなら、孫権は曹丕に嫡男・孫登を人質に差し出す約束をしたのですが、この約束を履行する気がなかったからです。彼は、「息子が病気になったから」とか「準備に時間がかかる」と言い訳をして問題先送りをし続けたのですが、これに不信を抱いた曹丕は、密かに呉を攻撃する準備を開始したのです。
劉備は、おそらくこうした情勢を期待して、無意味とも思える長期持久戦を頑固に続けていたのだと思います。彼は、やがて根負けした孫権が妥協の意志を表明し、せめて荊州の西半分を返還してくれることを夢見たのでしょう。
しかし、先に根負けしたのは劉備の方でした。盛夏に入ると、夷陵の蜀軍の士気は弛緩し、警戒を怠るようになりました。陸遜は、そこに火攻めを敢行したのです。この地方は夏季になると木々が乾燥するので、あっというまに猛火に包まれた蜀軍は、ろくな抵抗も出来ずに壊滅しました。
劉備は、多くの部下を失いながら、身一つで逃走し白帝城に逃げ込みます。そして、この地で病に伏して起き上がれなくなったのです。
これは、漢帝国再興の夢を打ち砕く止めの鉄槌でした。 
4、孔明は、何をしていたのか?
さて、蜀漢の運命がボロボロになっていく様を見ていきましたが、その間、我らが孔明は、いったい何をしていたのでしょうか?実に珍しいことに、『正史』と『演義』では同じ説明がなされています。すなわち、「指をくわえて眺めていた」のです。ただ、両者ではニュアンスが全く違います。
まず『正史』では。
孔明の仕事は「管理本部長」です。『正史』を注意深く読む限り、彼は劉備の存命中は内政や補給の仕事に特化していて、外交や軍事にはノータッチでした。こういう仕事は、劉備や法正や関羽がやるものだと割り切ってしまい、全く無関心だったみたいです。だから、関羽の破滅を傍観し、劉備の呉遠征の発議を聞いてもノーコメントだったのです。戦略的判断を要する事項は、全て劉備任せだったわけですね。
この時期の孔明の発言で唯一『正史』に記載があるのは、夷陵の戦いの顛末を聞き知ったときに嘆息した一言です。「ああ、法正さえ生きていてくれたなら、陛下にこんな無茶な遠征はさせなかっただろうし、仮に遠征が開始されたとしても、こんな惨めな負け方はさせなかっただろうに!」
このセリフは、なかなか意味深です。第一に、孔明は本心では呉遠征に反対だったこと。第二に、自分よりも法正の方が有能だと思っていたこと。第三に、劉備は孔明よりも法正の言う事を良く聞いたらしいこと。
孔明=天才軍師という先入観に縛られてしまうと、このセリフは「無責任」にも聞こえます。しかし、史実の孔明の仕事は「管理」だったのだから、このセリフは「無責任」ではないのです。一人の人間としての孔明の生の肉声というか無念さが感じられるセリフですよね・・・。
次に『演義』では。
孔明の仕事は、「超絶的スーパー天才軍師」です。魔法も使えるし予知能力も使えます。だけど、関羽の敗死から劉備の惨敗に至るまで傍観者に徹しているのです。しかも、その間にとった行動は「無責任な評論家」と言っても良いものでした。私は、初めて『演義』を読んだとき、この孔明の無責任な姿勢に激怒したものです。そして、孔明のことが大嫌いになりました。
どうして『演義』の孔明がこんな風に書かれてしまったかと言うと、それは羅貫中の執筆姿勢に欠陥があったからです。羅貫中は、孔明のことを史実の100倍くらい過大評価して書くくせに、「歴史的事件は変えたくない」人でした。中途半端に生真面目な人だったわけです。その結果、「全く機能しないスーパー軍師」が登場する羽目になったのです。じゃないと、歴史が変わってしまいますからね。そして、孔明が機能しなかった理由については全く説明がありませんから、孔明の「無責任さ」が際立ってしまうのです。これは、小説としては大失敗ですね。
私が羅貫中の立場なら、例えばこう書きます。「天才軍師の孔明は、絶世の美女に巡り会って色ボケになってしまった。そのため、関羽の戦死や劉備の惨敗に際して仕事が出来る状態ではなくなってしまったのだ!」。孔明のイメージが落ちるかもしれませんが、この方が物語の構成として無理がありません。少なくとも、「何の理由も無く職務放棄した奴」という汚名は免れるでしょう?
ちなみに、トーマス・マロリー卿は、小説『アーサー王の死』の中で、この技法を用いています。『アーサー王の死』はイギリスの歴史小説ですが、その成り立ちや物語構成が『三国志演義』に酷似しています。主人公のアーサーは、劉備と同様に「無個性なお人よし」として描かれます。彼がイギリス全土を制覇できたのは、天才軍師マーリンのお陰でした。そして、その没落は「マーリンが機能しなくなった」ために起こるのです。どうしてこの軍師が機能しなくなったかというと、ある妖精(ヴィヴィアンだっけ?)に恋をして、その妖精の悪戯で「迷いの森」に幽閉されてしまったからです。この結果、アーサーと円卓の騎士たちの破滅が、無理なく説明されたのです。
羅貫中は、マロリー卿の作劇術を参考にすれば良かったのに。まあ、当時の中国人は、『アーサー王の死』なんて読めなかったでしょうが。
ともあれ、羅貫中がヘボだったために、『演義』の孔明は無責任な嫌な奴に成り下がってしまいました。
では、『演義』版・孔明の無責任ぶりを見ていきましょう。
まずは関羽敗死に際して・・・。
成都の孔明は、いつものように夜空を見ていました。すると、死兆星(?)が一つ・・・。「わー、荊州でヤバイことがあったみたいだよーん!」
大慌てで劉備のところに駆けて行きます。軍師から星占いの結果を聞かされた劉備は、不安になります。そこに荊州から急を告げる早馬が。「関羽様が、魏と呉の挟み撃ちを受けてヤバイっす!」。
劉備と孔明は、大急ぎで援軍に行く準備をしたのですが、出陣の直前に第二の使者がやって来て、「関羽様は、孫権に殺されてしまったよーん!」。劉備は、ショックのあまり悶絶してしまいました。
以上を見ても分かるように、孔明はこの緊急事態に何の役にも立っていません。星占いで関羽の危機を知ったのは偉いように見えるけど、手遅れになってからでは何の意味も無い。っていうか、日ごろから、ちゃんと人間を使った情報活動をやっておきなさいよ!星を見るまで、荊州に無関心だったのは軍師失格だぞ!
次に、夷陵の大敗に際して・・・。
まず、『演義』の孔明は、主君の呉遠征に反対でした。そして、反対意見だからという理由で遠征軍から外されてしまったのです。その理由付けが今ひとつ良く分からない。『演義』の世界では、劉備はたいへんなバカ殿であって、孔明の手助けが無ければほとんど何も出来ません。そんな彼が、「反対意見だった」というだけで頼みの綱の孔明を置いていったのは、不可解としか言いようがありません。そして、素直にそれを受け入れて留守番役になっちゃう孔明の心境も分からない。だって、この戦いは「天下三分の計」の正念場なんですよ!どうしてこの緊急時に傍観者でいられるんだ?
さらに驚くべきことに、孔明はこの戦役の推移にまったく無関心でした。
7ヶ月もの対峙の後、夷陵の劉備は陣地を山沿いに移しました。そのとき側近の馬良は、「なんか変な陣形になってしまいましたね。すごく不安です。孔明なら何と言うでしょうか?」と意見を述べました。すると劉備は、「バカ言うな!この陣形は完璧なんだぴょーん!でも、軍師殿は漢中にいるみたいだから、近いところで聞きに行ってみな!」と応えたのです。
どうして夷陵と漢中が近いんだか良く分かりませんが、馬良は劉備軍の陣形を絵図に写して馬を飛ばしました。
孔明は、馬良に絵図を見せられて愕然とします。「なんだ、この陣形は!火攻めを受けたらイチコロじゃんかよ!どこのどいつだ!こんな陣形を考えたアンポンタンはよ!」「それは・・・陛下ご自身で」「ええ?アンポンタンというのは安保闘争の一種であって、しどろもどろ。陛下にチクっちゃ嫌よん。ともあれ、もう一度、夷陵に戻って陛下をお諌めしておくれ!」
でも、馬良は間に合いませんでした。劉備軍70万は、呉軍の火攻めにあって壊滅してしまったのです。
以上の経緯を見ても分かるように、孔明は夷陵の戦況に全く無関心で、得意の星占いすらしていないのです。劉備の敗北を陣形から予見したのはすごいみたいですが、「お前は軍事評論家の先生かい!」とか突っ込みたくなりますわな。
ただ、羅貫中は、孔明の名誉を守るためにある詐術を用いています。
劉備が白帝城に逃げ込んだとき、陸遜は全軍で追撃をかけました。その途中、数年前に孔明が築いたとされる「石兵八陣」という場所を通ります。地元の人の話では、孔明はこの地に10万の兵を隠したとか。興味にかられた陸遜は、その地を視察したのですが、そこにあるのは巨石建造物の群れでした。「なんだ、これが10万の兵だってか?孔明もアホウなハッタリをかますなあ」と、陸遜と呉の諸将は笑います。ところが、この巨石群は迷路のようになっていて、一度入ったら外に出られないように出来ていたのです!帰り道を失って焦る陸遜たちの耳に、長江の音が響きます。ここは川沿いなので、長江が満潮(?)になったら、彼らは全員溺れ死んでしまうことは必定でした!
「わーん、孔明様をバカにしたバチがあたったよーん。もうしませんから許してぴょーん!」泣き叫ぶ陸遜のところに、ある老人が現れます。
「あんたたち、孔明の悪戯に嵌ったんだね。私が抜け道を教えてあげましょう」。この老人は、孔明の舅の黄承元だったのです。どうして婿の足を引っ張るんだろう?ともあれ、こうして陸遜たちは助かったのでした。
まあ、八陣の話は、いうまでもなく「作り話」です。こういう変てこな作り話の力で、羅貫中は孔明の名誉を守ろうとしたのですが、なんだかなあ。
以上、『演義』の孔明は、自らの人生の夢である「天下三分の計」が崩壊していく有様を、全く無関心に傍観していたのです。軍師としてだけでなく、人間としても問題ですな。この人は、何のために草庵から出て来たんだろうか?
「法正が生きていれば・・・」と嘆息する『正史』の孔明の方が、人間的に好感が持てますね。 
第8話 劉備の死と南蛮征伐 

 

1、劉備の死
『正史』ベースに戻ります。
白帝城に逃げ込んだ劉備は、呉の追撃を覚悟しました。しかし、意外なことに、やって来たのは和平を求める使者でした。ボロボロの劉備は、これに承諾を与えざるを得ません。
劉備との和睦に成功した孫権は、公然と魏に反旗を翻しました。彼は、荊州に派遣していた陸遜の大軍を全速力で転進させると、これを南下する魏軍にぶつけたのです。実に巧妙な外交戦略ですね。曹丕は、激怒して20万と言われる大軍を呉に差し向けたのですが、意気あがる呉軍の前に大苦戦に陥り、やがて軍中に疫病が蔓延したために総退却を余儀なくされました。三国鼎立の政治情勢は、微動だにしなかったのです。
その間、劉備は白帝城で危篤に陥っていました。敗戦の失意に負けてしまったのでしょうか。
留守中の国内では、皇帝の大敗を知った蜀の豪族たちが次々に反旗をひるがえし、成都の太子・劉禅と孔明はその対応に追われて多忙の日々でした。しかし孔明は、主君の容態が絶望的だと知り、大急ぎで白帝城に向かいます。
病床の劉備は、孔明の手を握ってこう言いました。
「君の才能は、曹丕に十倍する。その手腕あれば、蜀を安んずるのみならず、必ず中原の回復に成功するだろう。朕亡き後、嗣子劉禅に君主の資格あれば、これを補佐してもらいたい。しかし、到底その資格がなければ、遠慮は無用、君が代わってその地位に就いてほしい」
私の知る限り、歴史上、臣下に公然と簒奪を薦めた君主は劉備以外にありません。劉備という人物は、皇帝という地位に成り上がりながらも、事業というものは才能あるものに譲るべきだと考えていたのです。
世襲にこだわる我が国の議員先生たちや、隣国の金さん親子にも、この志を見習ってもらいたいですね。まあ、これらの人たちは、事業と利権を完全に混同しているのでしょうから、言うだけ無駄だと思いますが。
孔明は、主君のこの思いがけない言葉を聞くと、落涙叩頭してこう答えました。
「臣はまことに微力ですが、股肱の力を尽くし、忠節を全うし、死に至るまで変わらないでしょう」
この情景は、世界史上で類例を見ない美しさです。三国志の世界というのは、実はたいへんな血みどろの乱世ですが、それでも他の時代に比べて爽やかな印象があるのは、この主従の美しい情愛が原因なのではないかと思います。
陳寿は、この場面を指して「君臣の私心なきあり方として最高であり、古今を通じての盛事である」と絶賛しています。司馬遼太郎さんも、劉備と孔明の人間性の深さに賞賛の言葉を投げています。
まあ、学者の中には、この会話の真意について「劉備が孔明の忠誠心を試したのだ」などとうがった見方をする向きがありますが、それはちょっと考えすぎでしょう。臨終の床で、そのような危うい言葉を吐くような人物はいないでしょう。
そして、誠実な孔明はこの言葉を深く胸に刻み、文字通り死に至るまで粉骨砕身するのです。
劉備という人物は、その政治家としての能力は明らかに曹操や孫権より下でした。しかし、人を心服させてやまない不思議な徳の持ち主でした。それだからこそ、関羽、張飛、趙雲といった豪傑たちや、孔明や法正のような知恵者が、命がけで尽くしたのです。
そんな劉備の人柄をうかがえる文章があります。太子・劉禅に当てた遺言状です。
「最初は軽い下痢だったのだが、余病を併発して、ほとんど助かる見込みはないようだ。人間五十になれば若死にとはいわず、もう六十余りなのだから、恨むことも悲しむこともない。ただ、お前たち兄弟のことが心配なのだ。
丞相(孔明)によれば、お前の知力は非常に大きく進歩は期待以上という。それが本当なら、朕には何も心配することはない。努力せよ、努力せよ。悪事は、小悪でもしてはならぬ。善事は、小善でも必ず行なえ。ただ、賢と徳のみが人を心服させるのだ。お前の父は徳が薄いから、見習ってはいけない。『漢書』と『礼記』を読み、暇なときは諸子と『六韜』『商君書』を歴覧し、知恵を増すようにしなさい」
愛する息子を思いやる、実に暖かい文章だと思います。自分の徳が「薄い」と評しているところがとても印象的ですね。私の経験で言わせてもらうと、本当に人徳がある人は自分を有徳者だと思っていません。逆説的ではありますが、自分の徳を薄いと評する劉備は、やはり真の有徳者だったのだと思うのです。
それにしても、蜀漢は今や劉備も関羽も張飛も失ってしまいました。
新皇帝の劉禅は、弱冠17歳です。
国家の重責は、今や丞相・孔明の双肩にかかったのでした。 
2、正議論
劉備死後の天下の情勢を概観しましょう。
劉備という人は、存在自体が台風の目みたいなものでした。彼は、真剣に天下を統一したくて大攻勢をし続け、曹操(曹丕)と孫権をビビらせまくっていたからです。その劉備が死んだのだから、ライバルたちは大喜びです。
特に魏は、蜀漢で有能な人材は劉備と関羽のみだと考えていたので、二人とも死んだのを見て狂喜乱舞の大喜びだったみたいです。魏の群臣たちは、蜀漢が戦わずに降伏してくるだろうと思ったらしく、連名で孔明宛に降伏勧告を行ないました。実際、蜀漢には、幼君と管理本部長しかいないわけですからねえ。
しかし孔明は、断固たる態度でこれを撥ねつけます。逆に、「正議論」なる文章を書いて魏に送りました。彼は、この文章の中で「漢王朝復興のために死ぬまで戦う」決意を明らかにしたのです。その脳裏には、今わの際の劉備の姿が浮かんでいたことでしょう。
でも、魏はこの情勢を全く問題にしませんでした。何しろ蜀漢は山間の小国だから、放置していても何の影響もないと考えたのです。そこで、曹丕はその主力を呉討伐に差し向けました。
ところが『演義』では、孔明を恐れた司馬懿の提案で、魏の大軍が五路から蜀漢に攻め寄せたことになっています。この軍勢は、孔明の鬼謀によって敢え無く撃退されるのですが・・・。このエピソードは、『演義』の創作です。孔明のライバルとしての司馬懿のデビューを読者に印象付けるための小説的技巧でしょうね。
『正史』ベースに戻ると・・・。
一方、呉も蜀漢のことを無視していました。孫権も、劉備が死んだ時点で蜀漢は終わりだと考えていたようです。彼は、その全軍を魏との戦いに注入します。長江を天然の防壁にして、魏の侵攻を食い止め続けたのです。
曹丕は、大船団で攻め寄せるのですが、その都度、地の利を得た呉軍に撃退されてしまうのでした。彼は、「真に、長江は大地を二つに分けるものだなあ・・・」と嘆息したと言われています。
やがて、三国鼎立は小康状態を迎えます。
魏では、曹操以来の構造改革が完全に成功し、政治的にも経済的にも安定期に入りました。だったら、無理してリスクの高い外征を行なう必要もありません。曹丕軍が呉を破れなかったのは、将軍や兵士たちの士気が落ちていたからではないでしょうか?人口も鰻登りに増えたみたいで、当初は5百万しかなかったのに、最盛期では2千万を超えていたと思われます。もともと魏は、生産力の高い中原(黄河流域)を領有しているので、経済が安定すれば人口の増加も早いわけです。
これに対して、呉と蜀の人口は、それぞれ2百万と90万のまま、安定的に推移していたようです。安定的といえば聞こえはいいけど、魏との国力差は加速度的に開いていきました。言うまでも無く、古代世界では人口=国力なのです。
呉と蜀は、この情勢を前に大いに焦ります。彼らが取った方策は、1同盟関係を強化する。2南方の異民族を植民地化して搾取する。の二本立てです。
孫権が、台湾や日本に大船団を送って住民を呉に強制移住させようとしたのも、この戦略の一環でした。彼は、とにかく人口を増やしたかったのです。ただ、この壮挙は、船団の内部に疫病が流行したため失敗に終わったのですけど。
孫権は、最終的にはベトナム北部まで兵を送ってこの地を掌握し、東南アジアとの交易を始めました。蜀漢でも、孔明の南蛮征伐で、その領土はミャンマー東北部にまで及んだのです。
呉と蜀漢は、ともあれ連合して魏と戦う態勢を作ります。こうして始まったのがいわゆる「北伐」だったのです。
この北伐については次章以降で詳説するとして、まずは南蛮征伐について解説しますね。 
3、南蛮征伐
『演義』では、ご多分にもれず、物凄く誇張されて面白くなっています。
南蛮王・孟獲が蜀を征服しようと挙兵すると、それに呼応して益州南部の豪族たちも反乱を起こしました。我らが孔明は、自ら趙雲や魏延とともに大軍を率いて遠征し、まずは反乱豪族たちを巧みな策略で離間させた上で倒します。そのまま、軍を南蛮に進めて孟獲に決戦を挑んだのです。
孟獲は、一族郎党を率いて孔明を迎え撃ちますが、敗れて捕虜になりました。孔明が「どうだね、我が軍は強いだろう」と言うと、孟獲は、「今回はまぐれだ!もう一度やれば俺が勝つ!」と応えたので、孔明は彼を釈放してあげるのです。孟獲は、何度も何度も同盟部族を巻き込んで逆襲を図るのですが、ことごとく孔明の軍略に翻弄されて囚われの身となります。しかし、孔明は、そんな蛮王をその都度解放してあげるのでした。
遠征軍は、逃げる孟獲を追って奥地へと進みます。毒が充満した沼を越え、猛獣を自在に操る蛮族どもを火を吐くロボット猛獣軍団で倒し、藤蔓で出来た鎧をまとう蛮族を火計で焼き尽くす!
孟獲は、ついに七度目に捕虜になったときに完全に屈服し、心から孔明に臣従を誓うのでした。これがいわゆる「七禽七放」ですね。
孔明は、もともと孟獲の「心」を攻めるために南征したので、彼が自主的に臣従を誓うまで、七回も解放してあげたというわけです。
この南征は、蛮族たちを屈服させたのみならず、この地の潤沢な物資をゲットすることに繋がったので、蜀の国力は大いにアップしました。これが、後の北伐のバックボーンになったのです。
『正史』では・・・。
実は、南蛮征伐に関する記述は、「諸葛亮伝」の中に一行しかないのです。「南中に軍を率いて行って半年で平定した」とあるだけです。『演義』は、この簡略な記述を必死に引き伸ばしてストーリーを盛り上げたというわけ。でも、孔明が「火を吐くロボット猛獣」を発進させる話とか、蛮族がトラやクマなどの猛獣を兵にして攻めてくる描写は、ちょっとやり過ぎですね。『西遊記』じゃないんだからさあ・・・。
いちおう『正史』ベースで孔明の南征を概観すると、あれは要するに「反乱の平定」事業だったのです。前にも述べたように、夷陵の大敗と劉備の病死にさいして、蜀の各地で豪族たちが反乱を起こしました。彼らは、蜀を見限ったのです。劉禅と孔明は対策に尽力し、このうち成都近郊の黄元の反乱だけは迅速に平定できたのですが、南中といわれる益州南部の反乱は大規模で手がつけられず、そのまま3年間も放置せざるを得ませんでした。
もっとも、孔明が、3年も反乱を放置していた理由は、夷陵の戦いで蜀の軍事力が壊滅していたこともありますが、呉との外交関係にもありました。実は、南中の反乱豪族たちは孫権と連絡を取り合っていたのです。ですから、下手に反乱軍を攻撃すると、孫権に介入の格好の口実を与えることになって外交上マズイわけです。
これって、アメリカが、北朝鮮を攻撃できない事情と同じですな。アメちゃんは、中国やロシアを刺激したくないんでしょう。
そこで孔明は、しきりに呉に使節を送り、様々な手段で外交関係の強化に努めます。やがて、孫権はようやく孔明のことを信頼し、南中情勢に介入しないことを約束してくれたのです。
その間、新たに徴募した兵の訓練も終わりました。孔明は、この新兵たちの実地訓練を兼ねて、南中への遠征を開始したのです。いや、これは孔明自身の訓練でもありました。『正史』の孔明は、この戦いが初陣だったのですから。
孤立した豪族たち(雍闓、朱褒、高定元)は、たちまち平定されて首を討たれました。また、この豪族たちと繋がっていた南蛮部族たちも鎮撫平定されたのです。
南蛮というと、恐ろしげで怖そうですが、実際には山地に住む少数民族だったでしょう。映画『山の郵便配達』に出てくるような、あんな純朴な部族の人々だったでしょうね。おそらく、たいした戦闘もなく蜀軍に屈服しただろうと思います。
孟獲というのは、こうした少数民族の族長の一人だったみたいです。そして、「七禽七放」というのは、孔明の功績を際立たせるために蜀漢の政府がでっち上げたプロパガンダだったのでしょうね。
面白いことに、南蛮にも似たような逸話があって、これによれば、「孟獲が孔明を七回捕らえて七回放った」ことになっているのだとか。おそらく、蜀漢政府の勝手なプロパガンダに怒った少数民族たちが、対抗してこういうことを言い出したんでしょうな。
ちなみに、作家の陳舜臣さんは、「七禽七放」を「孔明と孟獲が仕組んだ八百長試合だった」と解釈しています。とてもユニークですが、現実的ではないので却下です。私は、実際の戦争では八百長なんか不可能だと考えているのですが、その理由はいずれ説明します。
さて、こうして少数民族を植民地化した蜀漢は、そこから搾取した資源を元手に北伐を開始します・・・。 
第9話 第一次北伐 

 

1、出師の表
でもって、今回は「出師の表」を全文掲載ぞなもし。
これは、孔明が北伐にさいして劉禅に出した決意表明文です。
「この文章を読んで泣かない者は、忠義の臣ではない」と言われる名文でして、ヒネクレ大魔王といわれるオイラでさえ、感動せざるを得ないものなのです・・・。
『臣(私)、諸葛亮は申し上げます。
先帝(劉備)は、事業半ばにしてお隠れになりました。今、天下は三つに分裂し、益州(蜀漢)は疲弊しきっております。これはまさに、危急存亡のときであります。
しかし、近侍の文官は宮中で励み、忠実な臣下は外で身命を忘れて努めております。彼らは、先帝の格別の恩顧を追慕し、これを陛下(劉禅)にお報いしたいと願っているのです。
陛下は、まさにお耳をひらき、先帝のお残しになった徳を輝かし、勇士の気持ちをお広げになるべきであって、誤った比喩を引用して道義を失い、忠言や諫言の道を閉ざしてはなりません。宮廷と政府は、ともに一体となって善悪の賞罰をはっきりさせ、食い違いがあってはなりません。もしも悪事をなし法律を犯すもの、また忠義や善事をなすものがあれば、当該官庁に下げ渡してその刑罰、恩賞を判定させ、陛下の公正な政治を明らかにさせるべきであって、私情にひかれて内外で法律に相違を生じさせてはなりません。
侍中、侍郎の郭攸之、費禕、董允らは、みな忠良で志は忠実、純粋であります。それゆえにこそ、先帝は抜擢なさって陛下のもとにお残しになったのです。私が思いまするに、宮中の事柄は、大小の区別なく、ことごとくこれらの人々にご相談なさってからのち施行なさるなら、必ずや手落ちを補い広い利益が得られるでありましょう。
将軍の向寵は、性行が善良公平で軍事に通暁しており、かつて試みに用いて見ましたところ、先帝は有能だと言われました。それゆえに、人々の意見によって彼は司令官に推挙されたのです。私が思いまするに、軍中の事柄は、ことごとく彼に相談なされば、必ずや軍隊を睦まじくさせ、優劣おのおの所を得るでありましょう。
優れた臣下に親しみ小人物を遠ざけたのが前漢の興隆した原因であり、小人物に親しみ優れた臣下を遠ざけたのが後漢の衰微した理由であります。先帝ご在世のころ、つねに私とこのことを議論なさり、桓帝や霊帝(後漢の暗君)に対して嘆息なさり痛恨なさったものです。
侍中、尚書、長史、参軍はみな誠実善良で、死しても節を曲げない者たちばかりであります。どうか、陛下にはこれらの者たちを親愛なさり、信頼なさってください。そうすれば、漢室の興隆は日を数えて待つことができるでしょう。
私はもともと無官の身で、南陽で農耕に従事しておりました。乱世において命をまっとうするのがせいぜいで、諸侯に名声が届くことなど願っていなかったのです。しかし、先帝は私を身分卑しき者とはなさらず、自ら身を屈して三度、私を草庵のうちにご訪問くださり、私に当代の情勢をお尋ねになりました。私は感激しまして、先帝のもとで奔走することを承知いたしました。その後、(当陽の)戦いで敗北し、そのさいに任務(孫権との同盟折衝)を受けて尽力し、それから21年が経過しました。
先帝は、私の慎み深いところを認められた結果、崩御なされるに当たって私に国家の大事をお任せになられました。それからというもの、日夜煩悶し、委託されたことについて何の功績を挙げることなく先帝のご明哲を傷つけることになるのではないかと恐れ、5月に濾水を渡り荒地深く侵入いたしました(南蛮征伐のこと)。
現在、南方はすでに平定され、軍の装備も充足しておりますから、まさに三軍を励まし率いて、北方中原の地を平定すべきです。願わくば愚鈍の才を尽くし、凶悪なものどもを打ち払い、漢室を復興し、旧都洛陽を取り戻したいと存じます。これこそ、私が先帝の恩にお報いし、陛下に忠義を尽くすために果たさねばならない職責なのです。
利害を斟酌し進み出て忠言を尽くすのは、郭攸之、費禕、董允の任務であります。どうか陛下には、私に賊を討伐し、漢室を復興する功績をお任せください。もしも功績をあげられぬようなら、私の罪を処断して先帝のご霊にご報告ください。また、郭攸之、費禕、董允に怠慢あれば、これをお責めになってその咎を明らかになさってください。
陛下もまた、よろしく自らお考えになり、臣下に善道をお訊ねになり、正しい言葉を判断なさってください。
今、深く先帝のご遺言を思い起こしまして、私は大恩を受け感激に堪えないのです。そして遠くに去らんとするにあたり、この表を前にして涙が流れ、申し上げる言葉を知りません』
出師の表を読んで感じるのは、出陣の表明文にしては悲壮感が漂う点です。
「蜀は国力が低いけど、みんなで心を合わせれば勝てるのだ!」と主張するところなど、太平洋戦争のときの日本軍みたいですな。また、留守中の内政のことをしきりに気にしていますが、もともと孔明は管理部門の人なので、仕事を放り捨てて戦場に行くのが不安で仕方なかったのでしょう。
そもそも、どうして管理部門の人が総司令官にならなきゃなんないかと言えば、他に適当な人材がいなくなっていたからです。内政担当官が戦場で指揮を取らなきゃなんない蜀漢は、まさに自転車操業の国なのでした。
この遠征自体、勝算があるからというよりは、むしろ孔明が「劉備の恩顧に応えたいため・・」という精神論が強いみたいな感じですね。
なんか、戦艦大和の沖縄特攻みたいだ・・・。
孔明自身、そのことを良く知っていて、だからこそ出師の表が妙に悲愴なのでしょう。
ただ、世界史を俯瞰すれば、「寡兵が大敵を打ち破る例」はいくらでもあります。歴史上の英雄は、しばしば自軍よりも優勢な敵を負かしているのです。ただし、そのためにはいくつもの条件があります。
恒常的に大敵を負かし続けた英雄といえば、例えばアレクサンダー大王、ハンニバル、源義経、チンギスハーン、楠木正成が有名ですよね。どうしてこの人たちが強かったかといえば、それは「従来の常識を覆す抜本的な軍制改革や戦法を用いていた」からです。
アレクサンダー大王・・歩兵部隊の斜兵戦術
ハンニバル・・・・・・騎兵部隊による両翼包囲
源義経・・・・・・・・背後からの奇襲など、武士道に反する卑怯な戦術
チンギスハーン・・・・全部隊が騎兵で構成される機動部隊の活用
楠木正成・・・・・・・山岳ゲリラで、鎌倉武士の一騎打ち戦術を翻弄
といった具合です。
つまり、孔明も、常識破りの新軍制を敷けば勝てたかもしれません。でも、この人はもともと管理畑の人なので、そんな天才的なことは出来なかったのです・・・。結局、従来ベースの軍制や戦術を高度に研ぎ澄ませて敵に挑むしかありませんでした。
なお、歴史上、画期的な新兵器を用いて大敵を負かした例もあります。例えば、ヒトラーの「電撃戦」など。でも、孔明の時代は、そのような革命的な兵器は生まれなかったし、孔明自身、そこまでの創造力は持ち合わせていなかったのです・・・。
軍人としては凡人だった孔明ですが、政治家としては卓越していました。彼は、政治力を駆使して軍事上のハンデを埋めようとします。
出師の表を提出して北上した孔明の軍勢は、漢中に入って1年近く動きを止めます。兵士たちを軍事教練で鍛えるためでもありますが、政治的な裏工作を執拗に仕掛けるためでもありました。
実はこのころ、魏では二世皇帝・曹丕が病死し、その子・曹叡が跡を継いだばかりでした。孔明は、後継者争いなどの混乱が起きることを期待していたのでしょう。しかし、魏では何事も起こりませんでした。
また、蜀の掲げるスローガンである「漢帝国の復興」は、今や中原では死語となっていました。魏の皇帝も三代目となり、すっかり安定しちゃっていたのです。これも、孔明にとっては期待はずれだったことでしょう。
孔明は、同盟国の呉が魏を攻撃することを期待していたのですが、呉は蜀の行動を窺うばかりで、積極的に攻撃をしかける気配がありません。このころの呉と蜀の関係は、第二次大戦当時のドイツと日本の関係に似ているように思えます。弱いもの同士が何となく群れているだけで、共通の目的のために団結していたわけではないのです。
孔明の謀略は、唯一、荊州西北部の上庸で実りました。この地を守っていた魏将・孟達が寝返ったのです。この孟達は、もともと劉備の部下だったのですが、関羽の敗死を見て魏に寝返った男です。曹丕が死んで居心地が悪くなったものだから、またもや蜀に復帰しようと考えたわけです。しかし、孔明にとって不運なことに、上庸に隣接する宛を守っていた魏の重鎮・司馬懿は、かねてより孟達を疑い、スパイ網を張り巡らせていたのです。孟達の帰り忠はたちまち発覚し、攻め寄せた司馬懿の軍によってたちまち攻め殺されてしまいました・・・。
『演義』では、このとき司馬懿軍の先鋒だった徐晃が孟達に射殺されることになっていますが、これは作り話です。実際の徐晃は、ちゃんと畳の上で死んでいます。『演義』は、魏の名将を、なるべく畳の上で死なせないように創作する癖があるので要注意です。
いずれにせよ、こうして孔明が仕掛けた謀略工作は、ことごとく失敗に終わったのです。
そして、いよいよガチンコ対決の幕が斬って落とされました! 
2、第一次北伐
さて、漢中から魏に攻め込むのには、大きく分けて2つのルートがありました。第1は、漢中盆地から漢水沿いに東進して荊州西北部に出るルートです。第2は、漢中盆地からまっすぐ北上して雍州(陝西省)のある関中盆地に出るルートです。
孔明は、最初は第1のルートを考えていたようです。そのために、上庸(荊州西北部)の孟達を寝返らせたのでしょう。しかし、この地は司馬懿の大軍によって押さえられてしまったので、結局、第2のルートで行かざるを得なくなったのです。
この第2のルートは、あの「蜀の桟道」越えをしなければなりません。この桟道は、大きく分けて3本ありました。
1 東側=子午道・・・狭くて険しいが、長安に直結している。
2 真中=陳倉道・・・普通の広さ。武功郡に出る。
3 西側=斜谷道・・・比較的広くて通りやすい。陝西省西部の過疎地帯に出る。
蜀の軍営では、この中で、どの道を使うかについて議論が起きました。
将軍の魏延が主張したのは1です。
この人は、5年以上も漢中太守を勤め上げ、魏の国境情勢に精通していました。彼の説によれば、「現在、陝西省の魏軍は油断しているので、戦略的奇襲を仕掛けるには持って来いの情勢である。また、長安城を守る夏候楙は縁故人事で成り上がったバカ殿であるから、わが軍の奇襲に的確に対応する才能がない。そもそも敵は、わが軍が険阻な子午道を進んでくるとは思っていないはずだ。以上のことから、一気に奇襲すれば長安を落とすことも簡単である。長安さえ落とせば、陝西省全域は蜀の掌中に落ち、敵の首都洛陽の攻略すら夢ではなくなるだろう!」
ところが、孔明は、この作戦を「危険すぎる」という理由で却下しました。そんな彼が選んだルートは3だったのです。彼は、老将・趙雲の軍勢を囮として陳倉道(2)の箕谷に置いて敵軍の目を引き付け、その隙に残りの全軍で斜谷(3)を突破しました。魏軍は、この地域に兵を置いていなかったので、陝西省西部の三郡(南安、安定、天水)は、あっという間に孔明に降伏したのです。
驚いた魏軍は、皇帝・曹叡自ら出陣する構えを見せ、先鋒として歴戦の名将・張郃を派遣しました。これに対して孔明は、迎撃軍の先鋒に愛弟子の馬謖を任命します。この馬謖は、実戦経験皆無の管理部門要員でした。そのため、蜀陣営の者たちは、みんなこの人事に反対だったのですが、孔明は強引に押し切ったのです。
案の定、馬謖は無能でした。常識はずれの戦法を取って、あっという間に大敗したのです。彼は、山の上に陣取って逆落としに攻め下ろうとしたのですが、作戦を読んだ張郃が先に水源を断ち切ってしまったので、水の湧かない山上に占位する蜀軍は、渇きに苦しんで戦闘不能になってしまったのです。そこを攻撃されたのだから、鍛え抜かれた蜀の精鋭もどうしようもない。・・・実に間抜けな話ですな。これほど間抜けな負け方は、全世界の戦史上でも珍しいです。あえて似た例をあげるなら、太平洋戦争のインパール作戦くらいですかね。
驚いた孔明は、占領地域の住民を強制的に拉致(!)して全軍を撤退させます。ちなみに、このとき拉致された住民の中にいたのが姜維です。『演義』では美化されていますが、実際の姜維は、孔明に拉致された上で洗脳された可哀想な青年なのでした!
その間、老将・趙雲は、弱小の囮部隊を率いて箕谷にいたのですが、勢いに乗る魏軍の猛追撃を見事に防ぎ、損害を最小限に抑えてその勇名を天下に轟かせました。さすがですね。
こうして第一次北伐は、蜀の大敗で幕を閉じました。
『演義』は、敗北の責任を全て馬謖に押し付けていますが、事態を客観的に眺めると、孔明の拙劣な軍事指導が根本的原因であることが明白です。最も重要な局面で、実戦経験皆無の馬謖を抜擢したことはもちろん、そもそも魏延の奇襲作戦を却下した段階から問題を感じます。
この状況を、太平洋戦争勃発当時の日本軍に比定してみましょう。孔明の無能ぶり(言い過ぎ?)が良く分かります。
大本営の会議室で、魏延大将は発言した。「わが日本の国力は、アメリカの1/20である!この逆境を跳ね返すためには、開戦直後に主力空母6隻でハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、米太平洋艦隊を全滅させるしかない!」
しかし、孔明元帥は「見破られて待ち伏せされたら全滅しちゃうじゃないか。そんな危険な作戦は承認できない。それよりも、ハワイの敵は戦艦長門で牽制し、その隙に空母6隻でグアム島を襲うべきだ。グアム島には、アメリカ兵が100人しかいないから楽勝だぜ」と言った。
こうして日本の主力部隊はグアム島に突進した。空母6隻と航空機350機に襲われたアメリカ兵100人は、戦わずして降伏したのである。
しかし、無傷のハワイ・アメリカ艦隊は、総力をあげてグアム島の奪還に乗り出した。これを迎え撃つ日本機動部隊の指揮官は、異例の抜擢を受けた世間知らずのキャリア官僚・馬謖であった。幕僚はみんな反対したのに、孔明元帥が無理やりねじ込んだのだ。しかし馬謖は、空母に燃料を積むことを忘れて出撃したため(だって、教科書に書いてなかったんだもん!(笑))、洋上で動けなくなった日本艦隊は航空機を発進させることも出来ず、アメリカ軍の嬲り者となって一瞬にして全滅したのであった!
孔明は、「そんなバナナー」と叫びつつ、グアム島のチャモロ人たちを拉致し、残存艦艇を率いて東京湾に撤退したのである。
その間、ハワイを牽制していた戦艦長門は、戦略的には何の役にも立たなかったけど、趙雲艦長の活躍で、なんとか無傷で帰ってきた。
こうしてグアム島はアメリカに奪還された。この結果、日本は南方進出が出来ず、ついに資源が枯渇してしまったのだった・・・。
と、まあ、「第一次北伐」を太平洋戦争に比定すると、こんな感じかな。
要するに、軍人としての孔明は、山本五十六のみならず、旧日本軍のキャリア官僚たちよりも無能だったのです。彼は、「真珠湾攻撃」を行う勇気が持てなかったのです。
軍制と兵器の質が同じ同士の場合、弱小勢力が強敵を倒す手段は「戦略的奇襲」しかありません。織田信長の「桶狭間の戦い」とか毛利元就の「厳島の戦い」が好例です。そして、蜀が魏に戦略的奇襲を仕掛けられる機会は、第一次北伐のときが最初で最後だったのです。なぜなら、第二次北伐以降は、魏も十分な戦備を整えて厳重な警戒態勢を固めてしまったからです。
すなわち、蜀が魏を滅ぼす唯一のチャンスは、この戦役の最初の段階で、魏延の策を採用することでした。そして、孔明が魏延の策を却下した時点で、蜀の敗北と滅亡は決定されたと言っても過言ではないと思うのです。
駄目押しのため、このときの魏の状況を見ましょうか。
前述のとおり、魏の首脳陣は、「蜀で恐ろしいのは劉備と関羽のみだ」と考えていたので、劉備が死んだ後は、もはや蜀漢は滅んだのも同然だと考えて、国境の防備を著しく手薄にしていたのです。
陝西省に駐屯していたのは、征西将軍・曹真(曹操の養子)でしたが、彼の主要任務は西方の異民族を鎮撫することでした。
また、陝西省の心臓部・長安を守備していたのは夏候楙(夏候惇の息子)でしたが、彼は酒と女にしか興味のない本当のバカ殿でした。彼の正妻は曹操の娘だったのですが、夫のあまりのバカさに嫌気が差して、何度も離婚騒動を起こしています。
こういった人事を見ても、魏がいかに蜀漢を舐めていたのかが分かります。彼らは、蜀が攻撃を仕掛けてくるなんて夢にも思っていなかったのです。
『正史』には、孔明の襲撃によって「中国は震撼した」と書かれていますが、これは、東京のど真ん中に、いきなりゴジラが現れたみたいなものだったのでしょう。
そういう意味で、魏延が提案した「戦略的奇襲策」は、非常に成功の確率が高かったのです。この策を採用していれば、まず間違いなく長安までは占領できていたと思います。
ただ、その後はどうなっていたか分かりませんけどね。魏が本腰をあげて逆襲を図れば、国力に劣る蜀漢が不利になったことは間違いありません。日本だって、真珠湾攻撃に成功したけど、結局は敗北しましたものね。
それでも、「長安占領」の政治的効果を考えれば、捨てるには惜しい策でした。もしかすると、魏の内部で「漢朝復興」の機運が再び盛り上がったかもしれないし、同盟国の呉も、本腰を入れて支援してくれるようになったかもしれないのです。少なくとも、「過疎地帯の住民を拉致して逃げ出す」以上の成果を得られていたでしょう・・・。残念です。
『演義』は、こういった事実を糊塗するために様々な脚色を凝らしています。特に、魏延については史実を大幅に捻じ曲げて貶めています。 
3、魏延の話
魏延は、北伐軍で最強の武将でした。蜀軍は、第二次北伐以降、戦術的な敗北をほとんどしていないのですが、それは名将・魏延のお陰だったのです。
第一次北伐のときも、馬謖ではなくて魏延を先鋒に任命していたなら、あんな惨敗にはならなかったでしょう。それどころか、大勝利だったかも!ああ、本当に残念だ。そこで今回は、隠れたヒーロー魏延をクローズアップしちゃうぞ!
『演義』という小説は、孔明を美化するために、かなりえげつない手法を採ります。天才的な戦略家だった魯粛をボンクラに書いたり、劉備をバカ殿に貶めたり。
これから紹介する魏延も、その被害者の一人です。
『演義』での魏延は、「DNAレベルからの本質的な悪人」として描かれます。孔明に言わせれば、頭蓋骨の形状に「叛骨の相」があるのだそうです。つまり、先天的な裏切り者だというのです。なんだ、そりゃ?「生物学的な絶対悪」を規定するなんて、ほとんどヒトラーみたいな発想ですね。私は、『演義』の孔明が大嫌いなのですが、この差別的発言がその重要な一因となっています。
さて、『演義』では、魏延はもともと荊州の劉表の武将だったことにされています。彼は、主君が病死したあと、後継者の劉jを見限って劉備のところに行こうとするのですが、はぐれてしまったので、仕方なく長江を南に渡って長沙郡の韓玄の部下になります。その後、赤壁で曹操を破った劉備が長砂を攻撃すると、魏延は主君の首を斬って劉備に投降するのです。この時点で、魏延は既に2度も裏切り行為をしていますよね。孔明に、「こいつには叛骨の相があるから殺してしまうべきだ」と言われたのは、このときです。もちろん、人徳者の劉備はこの意見を却下するのですが、素直な(単純な?)読者から見れば、「天才軍師孔明が、生物学的な絶対悪魏延の本質を見破った」この一幕は印象的です。これ以降、魏延と孔明が対立するたびに、多くの読者は先入観から魏延を悪人扱いするので、その発言が全て不当であるように思い込んじゃうというわけ。なかなか巧みな作劇術ですなあ。
しかしながら、以上の『演義』の説明は、全て「大嘘」なのです。
『正史』によれば、魏延は荊州の平民出身で、下級兵士として「最初から」劉備の部下になったのです。その後、戦場で抜群の働きを見せ続けたので、劉備は彼をどんどんと昇進させます。そして、劉備が漢中で曹操を打ち破ったあと、漢中太守に任命されたのは魏延でした。漢中は、魏との最前線に当たる要地でして、その重要性は関羽が守る荊州に匹敵していました。そのため、大多数の者たちが、張飛が漢中太守に任命されるだろうと思っていたのです。しかし劉備は、あえて魏延を抜擢しました。劉備が人材の能力を見抜く力は曹操以上ですから、魏延はおそらく張飛よりも優秀だったんでしょう。そして、異例の抜擢を受けて感激した魏延は、この重責を全うし続けたのでした・・・。
以上から分かるように、史実の魏延は「ただの一度も裏切り行為をしていない」のです。したがって、「叛骨の相」うんぬんという『演義』の主張は、完全な濡れ衣なのです。
また、『演義』では、孔明と魏延が、戦場でしょっちゅう喧嘩していたように書かれています。魏延が、孔明の悪口を言いふらしたり、戦場で孔明の立てた作戦に逆らったりといった描写が目立ちますが、これも『演義』の作り話です。
『正史』では、軍議の席で口論することはあっても、一度決定された事項については、魏延は素直に従っています。孔明の陰口くらいは言ったみたいですけどね。そんな魏延のことを孔明も頼りにしていて、重要な仕事を全て彼に委ねているのです。二人は、必ずしも不仲ではありませんでした。
要するに『演義』は、「天才軍師孔明が天下統一できなかったのは、生物学的な大悪党の魏延が足を引っ張ったからだ」ということにして、孔明の能力不足を巧みに隠蔽したのです。
魏延の最期についても、『演義』は「裏切りの結果」ということにしています。
戦場で孔明が病死したとき、臨時に跡を継いだ文官の楊儀は、徹底抗戦を主張する魏延の部隊を置き去りにして全軍を退却させました。怒った魏延はその後を追い、交戦状態となります。『演義』は、この状況を「孔明の予言どおり魏延が謀反を起こしたのだ」と説明します。そして、孔明が生前に立てておいた策略によって、希代の大悪党魏延は暗殺されてしまうのでした。
しかし、『正史』を素直に読む限り、「魏延は、楊儀との派閥抗争に敗れて殺された」のであって、「裏切り」の結果ではありませんでした。じゃあ、彼が楊儀と対立したのは何故かといえば、それは楊儀がたいへんに権勢欲の強い「人格破綻者」だったためです。こいつが、政敵である魏延を罠に嵌めて殺したというのが歴史の真相なのです。
以上から分かるとおり、実際の魏延は、たいへん有能で誠実な将軍でした。『演義』は、孔明の無能さを誤魔化すために、わざと魏延を貶めたのです!まあ、いつものことですけどね。 
4、馬謖の話
三国志は本当に勉強になる本でして、私にとっても人生の座右の銘なのです。その中でも、最も印象的だったのが馬謖のエピソードです。
第一次北伐で先鋒を勤めて大敗を喫した馬謖は、荊州の襄陽学派に属するエリート一家の末弟です。彼を含む五人兄弟は、みな秀才士大夫だったので、「馬氏の五常」と呼ばれていました。といっても、史書に名声が記されているのは長兄の馬良だけでして、彼と馬謖以外の兄弟については、名前も事跡も不明なのです。他の兄弟は、「勉強が出来るだけで仕事は出来ない」連中だったのかもしれません。
ここで注意すべきなのは、当時の中国のエリートというのは、「儒教の秀才」に限定されていた点です。しかも、「儒教の秀才」というのは試験の成績で決まるわけではないので、基準が物凄くあやふやでした。後漢末期では、名門の子弟とか、容姿が優れた人が、自動的にエリート扱いされることが少なくなかったのです。馬謖という人は、たまたま名門に生まれて、長兄が本当に優秀だったものだから、そういった「権威」だけでエリートと呼ばれていた可能性があります。もちろん、たくさん本を読んで勉強はしたんでしょうけどね。
劉備は、死の床で孔明に言い残しています。
「馬謖は、言葉ばかりで実質が伴わない人物であるから、決して重要な任務に就けてはならぬぞ」。
さすがに劉備は、本質を良く見ていますね。馬謖の実態が、「世間知らずの頭でっかちの自惚れ野郎」であることを見切っていたのです。しかし、孔明はこの亡主の金言に逆らってしまいました。彼は、馬謖のことを本当のエリートだと思い込んでいたようです。やはり、劉備の方が人間の格が上だったんですね。
さて、第一次北伐のとき、孔明の軍は奇襲効果で陝西省西部の三郡を無血占領しました。
しかし、態勢を立て直した魏が、名将・張郃を先陣にして逆襲を開始したために、いよいよ決戦の火蓋が切られます。ここで蜀軍の諸将は、当然、魏延か呉懿が迎撃軍の先鋒に任命されるものと考えていました。しかし、孔明は彼らの反対を押し切って馬謖に大任を委ねたのです。ただ、実戦経験豊富な王平を副官につけて補佐させました。孔明は、劉備の言葉を思い出して、ちょっぴり不安だったんでしょうな。
でも、馬謖は王平のことをバカにして、その助言をまったく聞こうとしませんでした。それじゃあ、意味がない。
この王平は、魏延と同様、平民から身を起こした人で、まったく無教養でした。何しろ、文字を、自分の名前も含めて10個しか知らなかったといいます。えせエリートの馬謖にしてみれば、この副官がバカに見えて仕方なかったでしょうな。
ともあれ、司令官になった馬謖は、さっそく独りよがりな仕事を始めます。まずは、陣営内の軍規や軍令を全面改訂し、煩雑で難しいものに変えたのです。世間知らずの官僚というのは、現代の日本の状況を見れば良く分かるとおり、「量が多くて難しいものほど優れている」と勘違いする傾向があります。でも、こういったものは、往々にして実務では使い物になりません。王平は、それを良く知っていたので、止めるように助言したのですが、馬謖は聞き入れようとしませんでした。案の定、兵士たちは煩雑で訳の分からない規定の前に自信を喪失し、士気を落としてしまったのです。
いよいよ、街亭の戦場に到着した馬謖軍1万(推定)ですが、独りよがりの司令官が、またもやとんでもない命令を出しました。すなわち、全軍を小高い山上に布陣させようというのです。驚いた王平は、「そんなことをして、包囲されて補給を絶たれたらどうするのですか?せめて、支援部隊を分派して補給路を守るべきです」と反対したのですが、馬謖は、「お前は教養がないからそんなアホウなことを言うのだ。俺が読んだ兵法書によれば、山上から下界の敵を逆落としに攻めるのがベストだと書いてあったぞ。お前も、少しは本を読め。ああ、お前はそもそも字が読めないんだったなあ、悪い、悪い、あははのはー」ってな調子で完全に無視したのです。
案の定、魏軍はこの山を遠巻きに包囲して水源を絶ってしまいました。人間は、水と塩があれば一週間は生きられるそうですが、水なしでは3日も持たない生き物です。馬謖くんは、恵まれた環境で苦労を知らずに育ったものだから、そんな初歩的なことを知らなかったのです。
飢えと渇きに苦しんだ蜀軍が戦闘不能に陥るのは、3日もあれば十分だったでしょう。そして、魏軍の総攻撃が開始されました。
馬謖は、もうどうしたら良いか分かりません。これが平時であれば、現代の日本で恒常的に行われているように「問題先送り」とか「無かったこと」とか「他人のせい」に出来るのですが、あいにくここは戦場です。馬謖は、パニック状態になってしまいました。司令官がパニックになると、部下たちはその何倍も不安になるものです。蜀の兵士たちは、飢えと渇きとパニックに襲われ、屠殺に近い形で殺されていきました。
しかし、王平の部隊だけは違いました。彼は、この悲惨な逆境の中でも泰然自若とし、こう言いました。「俺を信じろ。俺についてくれば助かる!」。内心の恐怖を押し殺し、部下に勇気を与えるのが指揮官の最大の任務です。こうした仕事が出来ない者は、人の上に立つべきではありません。王平の1千名の部下たちは、自信満々の指揮官の姿に勇気付けられ、彼の周りに固く集まり隊伍を整えました。そして、渇きを我慢しつつ太鼓を鳴らし、喚声を絶やしませんでした。この様子を見た魏軍は、「何か策略があるのでは?」と疑い、王平の部隊には敢えて攻撃を仕掛けようとしなかったのです。やがて、彼の部隊は、(実際には戦闘不能だっただろうけど)整然とした隊伍を守って山を降りていきました。魏軍は、薄気味悪くなったためか、それをそのまま見送ったのです。
街亭の戦いは、蜀軍の壊滅的な大敗でしたが、王平の部隊だけは、こうしてまったくの無傷で生還したのでした。
この故事は、現在でも通じる本当に深い教訓だと思います。
我が国は、政財官の中枢を牛耳る馬謖どもを排除し、在野の王平たちを重用することさえ出来れば、再び文化大国にも経済大国にもなれると思うのですがねえ・・・。まあ、当分は無理でしょうな。どこを見ても馬謖だらけだし。 
5、どうして馬謖を抜擢したのか?
ところで、世間知らずのおバカさんの馬謖を、どうして孔明とあろう者が信頼して抜擢したのでしょうか?尊敬する劉備の遺命に逆らってまでして。
孔明に「人を見る目が無かった」と決め付けてしまえば早いのですが、事はそう単純ではありません。なぜなら、孔明が抜擢して育てた人材は、そのほとんどが極めて優秀だったからです。馬謖は、ほとんど唯一の失敗例なのです。
『演義』では・・・。
羅貫中は、この謎に挑み、そして答えを出すことが出来ませんでした。そこで、いつものように(笑)歴史を歪曲し、もっともらしい説明をつけたのです。
まず、馬謖の能力を誇張して登場させました。彼は、しばしば天才的な助言をして孔明を唸らせているのです。
1 南蛮征伐のとき、馬謖は孔明に「攻めるべきなのは、蛮族の心です」と助言して、孔明に「おおー、君は天才だー」と言わせている。
2 北伐を始めるのに際して、孔明は馬謖に悩み事を打ち明けた。「オイラは、世界一の天才軍師でさあ。その気になれば、魏を滅ぼすどころか世界征服さえ出来るんだよなあ。でも、唯一の不安材料は司馬懿の存在なんだ。あいつがこの世にいる限り、スーパー天才のオイラも苦戦しちゃうかもねえ」。それを聞いた馬謖は、「私に任せてちょんまげ!」と言って、魏の領内にスパイを放ち、「司馬懿が謀反を企んでいる」という噂をばら撒いたのです。バカ殿の曹叡と側近たちはこの謀略に引っかかり、司馬懿は失脚したのであった。孔明は感動し、「おおー、やっぱり君は天才だー。オイラの後継者は君しかいないよーん」と大喜びだった。
・・・1は、『正史』(一級史料)ではなく『襄陽記』(二級史料)に出ている話なので、少々眉唾です。また、2は『演義』の完全な創作です。こうして、読者たちは馬謖が孔明も舌を巻く天才軍師だと思わされるわけ。
続いて、馬謖が先鋒に抜擢される経緯についても、『演義』は筆を曲げています。まず、馬謖の任務は、「決戦戦力の先鋒」ではなくて、単なる「足止部隊の部隊長」だったことにされています。すなわち、孔明が占領地帯の内政を整えるまで、山道に防壁を作って司馬懿軍の進撃を食い止めるのが彼の任務でした。これなら、読者も納得ですね。
孔明は、この任務を与えるに際して、「お前の役目は、山道に防壁を作って守ることなんだから、余計なことをするんじゃないぞ」と何度も何度も口を酸っぱくして言いました。しかし、馬謖は戦場で、「俺みたいな天才軍師候補が、なんでこんなチンケな仕事なんだよー」とか言い出して、孔明の命令に背いて山上に布陣し、司馬懿軍にコテンパンにされたという次第・・・。これなら、読者も孔明に同情してくれるというわけ。
以上、『演義』の説明は、「馬謖は、本当は優秀だったのに、たまたま魔が差してドジを踏んだのだ」という結論なのです。つまり、孔明が馬謖を抜擢したのは正当な行為だったというわけです。なるほど!
でも、私が『演義』を読んで不思議に思ったのは、「どうして孔明は、足止め部隊の馬謖が負けたくらいで、決戦を諦めて占領地域を捨てて逃げることにしたのだろう」という点でした。羅貫中の健筆も、私のようなへそ曲がりを納得させることは出来なかったというわけ。
・・・実際には、馬謖は「決戦兵力の先鋒」に任命されたのです。それなら、彼の敗北によって蜀の全軍が総崩れになったことも納得できますね。やはり、馬謖に重大任務を委ねた孔明の罪は重いのだ!
次に『正史』をもとにした学者たちの解説を見てみましょう。この方が、遥かに納得できますぜ。
孔明が馬謖を抜擢した本当の理由は、蜀漢政権内部の「派閥闘争」にあったのです。
劉備の死後、孔明は政権内部の人材を抜本的にリニューアルしました。出師の表に出てくる郭攸之、費禕、董允、向寵が代表ですが、蒋琬やケ芝も、このとき孔明に取り立てられた人々です。これらの人々はとても有能だったのですが、それとは別に共通の特徴がありました。それは、彼ら全員が、「荊州出身の士大夫」だったという点です。
つまり、孔明は、自分と同じ社会階層出身者によって政権を壟断しようとしたのです。彼の理想の国家とは、「荊州人が益州人を植民地支配する帝国」だったのです。
孔明は、こうして内政の世界では「荊州人絶対優位社会」を築くことに成功したのです!
しかし彼は、おそらくは不本意ながら軍事の世界でも総司令官になりました。しかし、この世界は、益州の豪族によって要職を占められていたのです。その理由は極めて簡単でして、荊州出身の豪族たちは、「夷陵の戦い」で玉砕していたからです。ほとんど唯一の例外が魏延ですが、この人は荊州出身ではあるけれど平民なので、孔明とは住んでいる世界が違うのでした。
心細くなった孔明は、やはり「荊州出身のエリート」で軍事界を壟断したくなりました。そのために、馬謖を抜擢したのです。馬謖が大戦果をあげてくれたなら、彼を思い切り昇進させる手はずだったのでしょう。
つまり孔明は、馬謖の能力を見込んで大任を委ねたわけじゃなかったのです。単なる派閥作りの一環だったのです。
まあ、人間の社会なんて、どこもこんなものなんでしょうけど、せめて孔明だけは違うと思いたかったけどなあ。 
第10話 信賞必罰 

 

1、泣いて馬謖を斬る
ここで有名な故事成語が登場しますよね。「泣いて馬謖を斬る」って奴。意味するところは「信賞必罰をちゃんとしろ」ってところかな。現在の日本では、ほとんど死語みたいになっていますけどねえ(笑)。
馬謖は、敗戦の責任を取らされて死刑になります。孔明は、この愛弟子に自ら死の宣告をしたことから、「親しい者でも、罪は罪としてケジメを守る」という故事成語が生まれたわけ。
しかし、この状況について、『演義』と『正史』では、状況説明が大きく異なります。
『演義』では、馬謖は「足止め部隊の指揮官として職責を果たさなかった」というそれだけの理由で、死刑になります。文官たちは、「彼はたまたま魔が差して失敗しただけで、本当は優秀な人物だというのに、極刑にするのは残酷だし国にとっても損失です」と言って反対したのですが、孔明は「それでは示しがつかない」とか言って殺してしまうのです。
私は、『演義』でこの箇所を読んだとき、やはり釈然としないものを感じました。どう考えても、文官たちの主張の方が正しく思えるからです。孔明は、自分が責任逃れしたいものだから、トカゲの尻尾切りみたいに馬謖を切り捨てたんじゃないかと思えてならなかったのです。だって、「勝負は時の運」でしょう?たまたま負けたからって極刑にしたら、誰も戦争に行く人がいなくなってしまいますよ?組織のケジメの取り方としておかしくありませんか?なんか、納得できないなあ。
では『正史』ではどうか。
実は、馬謖が極刑になったのは、別の理由からなのです。
蜀書「向朗伝」によれば、戦場から逃げ帰ってきた馬謖は、孔明の本営で軟禁状態となりました。しかし、彼を見張る役目だった文官・向朗は、たまたま馬謖と同郷出身(やっぱり荊州士大夫かい!)で親しい仲だったので、この罪人に泣きつかれて逃亡を手引きしちゃうのです。
馬謖がどこへ逃げようとしたか史書には記載がありませんが、言うまでもなく魏に亡命しようとしたんでしょう。彼は、責任を取るのが怖くなったのです。なんだよ、「叛骨の相」はこいつにあったんじゃん(笑)。ともあれ、多くの部下を犬死にさせたくせに自分だけ罪を逃れようなんて、つくづく見下げ果てた野郎ですな。こういうのを「人間のクズ」というのです。
しかし、馬謖は逃亡に失敗し、蜀の警備兵に逮捕されちゃいました。蜀の法律には、「裏切り者は死刑」という条文が明記されていますから、馬謖は「裏切り」の罪で極刑になったというのが歴史の真実なのでした!これなら、ヒネクレ野郎の私も納得です。
孔明が、馬謖を斬るときに涙を流したというのは、彼を悼んだからではなくて、劉備の遺言に逆らってこのクズ野郎を信頼した自分の不明が悲しくなったからではないでしょうか? 
2、信賞必罰
ところで、これまでの私の解説を読んで、がっかりした人が多いかもしれませんね。「孔明って、ちっとも偉くないんじゃーん」と思う人が多くなったかも。
でも、それは間違いです。
確かに、第一次北伐のときの孔明は無能でした。しかし、彼はこの失敗を虚心坦懐に分析検討し、自分の無能さを反省し、そして成長したのです。これが、並の人間と違うところです。
そのための最重要キーワードは、「信賞必罰」です。
孔明は、第一次北伐の戦後処理を、実に厳密に行いました。「無かったこと」や「問題先送り」にするのではなく、極力客観的な立場に立って、徹底的に追求したのです。
戦術的な意味での戦犯は、言うまでもなく馬謖です。しかも彼は逃亡を図ったのだから、死罪になるのは当然です。また、彼の取り巻きみたいな無能将軍が何人かいたのですが(張休と李盛)、こいつらも、ついでに死刑にしました。さらに、馬謖の脱走を手引きした向朗をクビにして成都に蟄居させたのです(数年後に復帰したけど)。
また、趙雲にも敗戦の責任を負わせて、その階級を鎮東将軍から鎮軍将軍にワンランク下げました。ただ、趙雲は、弱小の囮部隊を率いて、勢いに乗る敵の猛追撃を一手に引き受けたのだから、敗北するのは当然でした。それでも彼は、自ら殿軍を率いて敵を翻弄し、味方の被害を最小限に止めることに成功したのだから、罪ばかりを問うのは可哀想すぎます。そこで孔明は、恩賞として、軍需物資の絹(蜀の名産品)を彼の将兵たちに贈呈しようと考えました。しかし、趙雲はこれを拒んだのです。
彼は言いました。「丞相、これから冬になりますよね。そういうものは、恩賞としてではなく、冬のボーナスという名目で支給したほうが兵士たちも喜ぶと思いますよ」
この趙雲の言葉は意味深です。彼の軍は、どんな理由であれ敗北したのだから、罰を与えられるのが当然です。それなのに、情状酌量して恩賞をもらったら、「信賞必罰」にならないというわけです。孔明は、この老将の言葉の意味に、はっと気づき、彼の助言に従ったのでした。
趙雲という人物は、日本でも中国でもたいへん評価の高い将軍ですが、こういうエピソードを見ると、その理由が実に良く分かりますよね。本当に、ケジメがあるものね。彼ほどの猛将にしてこの人間性は、実にたいしたものだと思います。そんな彼は、この翌年に病没してしまいます。ああ、残念。
ところで、第一次北伐の敗因を真面目に分析した場合、戦略面での最大の戦犯は、何といっても孔明自身でしょう。そこで孔明は、そんな自分にも罰を与えています。彼は、丞相の地位から退いて、右将軍になりました。つまり、三階級も降格処分になったのです。皇帝劉禅は反対したのですが、孔明自身が「どうしても」と言い張ってこの運びとなったのです。ただ、孔明に代わって丞相の仕事をこなせる者がいないので、暫定的に丞相の職務をやりました。サラリーは下がったのに、仕事は以前と一緒ってか?うわー、厳しい。でも最近は、日本のサラリーマンも、みんなそうですけどね。業績悪化の元凶である役員どもは、責任取らずに高給もらっているくせしてね。情けない風潮だなあ。
まあ、話を元に戻しましょう。
みんなに罰を与えるだけでは意味がない。成功をも誉めなければ信賞必罰とは言えませんよね。孔明は、街亭の戦いで見事な指揮を見せた王平に莫大な恩賞を取らせて昇進させました。
自分を罰して他人を昇進させるなんて、なかなか出来ることじゃありませんよね。こういうところが、孔明の立派なところです。
陳寿は、孔明のことを「罪は小さな罪でも必ず罰し、成功はどんなに小さくても必ず賞した」と述べて絶賛しています。なるほどですよね。こうでなければ、国は纏まりません。
一方、重税にあえぐ蜀の国民は、敗戦の内容を知らされて意気消沈し、孔明と政府を深く恨みました。また、政府内部でも厭戦気分が高まり、「もう遠征は止めにして、ひたすら内政に勤めようよ」という言論が多数を占めたのです。
しかし、孔明が自らを罪に落として深く反省し、そして「信賞必罰」を明確にしていく過程で、少しずつ彼らの心も溶けていきました。国中に、「孔明は、敗北の原因をとことん究明し、対処法を確立することに成功したみたいだ。ならば、次こそは勝てるかもしれない」という気運が盛り上がったのです。
これが、第二次北伐を実現させた原動力でした。
「信賞必罰」というのは、本当に大切なことです。
我が国の為政者たちは、どうもこういうことが分かっていないようですね。
例えば太平洋戦争のときは、ミッドウェー以降負け戦の連続だったのに、国民の手前、メンツが立たないことを恐れて、また責任者が罰を受けることを恐れて、「問題先送り」や「無かったこと」にし続けました。その結果、成功や失敗のノウハウが蓄積されずに何度も同じ過ちを繰り返す結果となりました。また、政府発表では勝ち戦のはずなのに頭上に焼夷弾を落とされる国民の不信感は頂点に達し、惨めな敗戦を迎えてしまったのです。
これは、昔の話ではありません。現在の日本経済を破局の淵に追い込んでいる不良債権問題だって、もう10年以上も前から分かっていることなのに、大銀行の頭取や大蔵(財務)省の要人たちが「無かったこと」や「問題先送り」にしたものだから、ここまで酷いことになってしまったのです。国民は、もはや政府の言うことを信用できなくなってしまっています。これでは、どのような政策も無意味になるでしょう。
「無かったこと」や「問題先送り」は、短期的なゴマカシにしかなりません。そのツケは、何十倍にもなって将来に降りかかってくるのです。
結果責任をとろうとしない卑怯な我が国の要人たちは、はっきり言って馬謖と同レベルの連中です。多少の痛みはあるにしても、しっかりと現状を受け止めて責任をしっかりと負うことが明るい未来を築くのですけどねえ。
・・・少しは、孔明の真摯な生き様を見習えと言いたい。
「信賞必罰」は、単なる道徳論ではありません。その重要な効用は、「ノウハウが蓄積される」という点です。つまり、人間や組織が二度と同じ失敗をしなくなるのです。そして孔明は、二度と同じ失敗をしませんでした。自分自身を痛めつけ、そしてこの恥辱と苦しみを乗り越えることで成長を遂げたのです。
我が国が、どうして何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も同じような失敗をするのかといえば、誰も責任を取らないものだからノウハウが蓄積できず、誰一人として成長できないからです。いい加減、ちゃんとしてくれよ!
我が国の要人たちの腐った性根は、紀元3世紀の中国人より遥かに劣るのです。この事実は、もっともっと深刻に受け止められるべきだと思いますけどね。 
第11話 北伐の本当の目的? 

 

1、北伐の真の狙い
視点を少し変えて、「北伐の本当の目的は何だったのか?」を見ていきたいと思います。
「魏を滅ぼすことが目的なんじゃないの?それ以外に何かあるの?」と思う人も多いでしょうけど、実は学者や作家の間で様々な異論があるのです。そこで、今回はその異論をいくつか紹介しようと思います。
(1) デモンストレーション説
北伐は、単なるポーズだった。
孔明は、最初から魏に勝つ気なんか無いし、勝てるとも思っていなかった。だからこそ、魏延が提唱した奇襲作戦を却下して、常に安全策を取っていたのだ。じゃあ、どうしてコストがかかる北伐を何度も敢行したのかというと、蜀が「魏を滅ぼす」ことを目的として創設された戦闘国家だったからである。この建前を守るポーズくらい取らないと、国家の存在意義(レゾンデートル)が失われてしまうからだ。だから、とりあえず「勝ってくるぞと勇ましく」とか歌いながら、その辺をグルっと回って来なければいけなかったのだ。
(2) 攻撃的防御説
北伐は、実は攻撃ではなくて防御であった。
すなわち、蜀の実情は、魏に攻め込まれたらイチコロという情けない状況だったのだが、その事実を敵に悟られないようにするために、精一杯背伸びをしなければならなかった。その手段として、北伐という形で常に攻撃的な姿勢を見せ続け、国力に余裕があるように思わせていたのだ。すなわち、北伐の真の目的は防御だったのである。
(3) 魏の謀略説
北伐は、実は魏の仕組んだ陰謀だった。
魏は、わざと隙を見せて孔明を関中に誘き寄せたのだ。何度も何度も「飛んで火に入る夏の虫」状態になった結果、孔明は過労死し、蜀の国力はガタガタに衰退し、後の攻略が容易になった。すなわち、北伐は、魏の長期戦略に孔明が騙された結果なのだ。
(1)〜(3)は、学会での代表的な説です。ほとんどの研究者は、このうちのどれかを提唱していますね。
念のために言いますが、全ての学者は「孔明=管理本部長」という認識に立っています。今どき、「孔明=軍師」なんて言っているのは、小説マニアかゲームマニアだけですからね。少なくとも『正史』を一度でも読んだ人は、孔明が軍師だったなんて考えは捨ててしまうのが普通です。
(1)と(2)は、その前提として、孔明の能力を(軍師ではなかったとしても)非常に高く評価しています。そして、孔明のような優秀な人物が奮闘したにもかかわらず、「北伐が惨めな失敗に終わった」という不思議な結果に対して、論理的な解答を与えようという試みなのです。確かに、なかなか説得力がありますよね。でも、なんか「結果から帰納した」という印象を拭えません。歴史学者は、いつでもこうですけど。
(3)は、それとは逆に、孔明の能力を随分と低く捉えていますね。でも、孔明って、そんなにバカだったのかなあ?
じゃあ、お前はどう思うのかって?
(4) 本気だった説。です。
私は、「孔明は、大真面目に魏を滅ぼそうと思っていた」と考えています。これは、『演義』の見方とまったく一緒です。わあ、珍しいこともあるもんだ!
ただ、『演義』は、「孔明はスーパー優秀な軍師だったのに、諸般の事情で失敗しちゃった」という解釈なのに、私の説は「無能だから失敗した」というシビアな解釈です。
これは私の持論ですが、「正しい歴史解釈は、1全ての状況を無理なく自然に説明でき、2もっとも単純でなければならない」のです。この論理を基にして『正史』の孔明伝を20回くらい読み込むと、得られる結論は(4)になっちゃうのです。
で、ここからは、(1)〜(3)説に対する反論ね。
私が、学説を読んでいていつも気になるのは、「結果がこうだからといって、原因もこうとは限らない」という常識が無視される点です。
たとえば、私が昼飯にキツネうどんを食べたとしても、最初からキツネうどんが食べたかったとは限らないでしょう?本当はビーフステーキが食いたかったのだけど、たまたま財布にカネが無かったとか、お店がお休みだったとか、そういった事情で、しかたなくキツネうどんにしたのかもしれないじゃないですか!
だから、孔明が結果的に失敗したからといって、「最初から成功する気が無かったに違いない」と決め付けるのは暴論です。(1)と(2)って、要するにそういう主張でしょう?したがって、これらの説は間違いです。
また、(3)も乱暴な議論ですね。なぜなら、『正史』を熟読すると、戦いのイニシアチブが常に孔明側にあって、魏が対策に苦慮する様子がいたるところに出てくるのですが、どうしても(3)説を支持するなら、これらの『正史』の記述が全て「嘘」であることを証明しなければなりません。でも、それは絶対に不可能でしょう。
しかし、一部の学者や多くの職業作家は、(3)のような奇説・珍説を好んで採用したがります。なぜなら、そのほうがインパクトが強いので「知名度が上がる&カネになる」からです。たとえば、陳舜臣さんが『秘本三国志』で開陳している「北伐=孔明と司馬懿が仕組んだ八百長」説が、その典型です。話としては面白いけど、それは歴史を見る上で正しい姿勢ではありませんよね。職業作家の奇説珍説なんてのは、もともと「冗談」みたいなものなんですから、真に受けてはいけませんよ。でも、真に受けちゃう人が多いんだよなあ、日本人。
(4)説に話を戻すと、孔明が軍人としては無能だったというのは、奇説でも珍説でもなんでもなくて、『正史』にはっきりと明記されている事実です。陳寿は、孔明について「応変の機略は、その長ずるところにあらざるか」と書いています。陳寿はたいへんな孔明びいきなので(そんな事は、諸葛亮伝を一読すれば誰にでも分かる。異論を唱える人は、きっと文章の読み方を知らないのに違いない)、わざと婉曲に書いているのでしょうが、意味するところは孔明が「無能だった」ということです。私は、後世の身勝手な解釈よりも、陳寿の記述内容を信頼しますけどね。
というわけで、このコーナーでは、「孔明は真面目に魏を滅ぼしたかったのに、能力が足りなかったために夢を果たすことが出来なかったのだ。関が原の石田三成と同じなのだ」という解釈で通したいと思っています。さて、次回は『演義』で見る北伐の解釈です。 
2、『演義』における北伐
『演義』における北伐全般の作劇技法について見て行きたいと思います。
何度も言うようですが、『演義』は孔明を「超絶的スーパー軍師」として造形しています。しかし、羅貫中は、「歴史の結果は絶対に変えたくない」というポリシーを堅持していました。そして実際の歴史は、蜀の北伐が、「ただでさえ乏しい国力を無駄に消耗しただけの大失敗」に終わったことを教えてくれるのです。ここに大きな矛盾が生じます。羅貫中としては、「スーパー軍師」が「まったく成功できなかった」ことについて、合理的な説明をしなければならないのです。
私は素人作家なので、羅貫中の苦労が良く分かります。彼は、この矛盾を埋めるために涙ぐましい努力をしたに違いありません。私は、『演義』の北伐を読んでいて辛くなることがありますよ。
で、羅貫中は、だいたい次のような手法で矛盾を解消しています。1司馬懿を孔明の唯一最強のライバルとして誇大に描く(こいつさえいなければ、孔明は余裕で天下を取れていたのだ!と読者に思わせる)。2無能で悪辣な部下たちが足を引っ張ったことにする(前回紹介した魏延や馬謖が好例)。3バカ殿の劉禅が足を引っ張ったことにする。4運が無茶苦茶に悪かったことにする(火攻めの途中で大雨が降ったり、祈祷したのに孔明の寿命が延びなかったり!)。
こうして見てみるとかなり無茶ですが、文章のリズムの良さも幸いして、結果的に見事に矛盾を埋めているのですから、やはり羅貫中は天才的な作家ですよね。
1から4は、いうまでもなくほとんど「作り話」です。その内容についてはおいおい解説したいと思いますが、とりあえずここでは1について見ましょう。
司馬懿が孔明のライバルだったのは事実ですが、この両者が対決したのは、実は最後の2度の北伐だけでした。それ以前の3度の北伐のときは、司馬懿は荊州方面の司令官として呉と対峙しており、孔明とは何の関係も無かったのでした。
その間、孔明と対決したのは、曹真の軍です。曹真が第三次北伐の後に病死したものだから、司馬懿がたまたま後任になったのです。史実の孔明は、実は縁故人事将軍にも勝てなかったのでした(笑)。
これではヤバイので、『演義』は史実を大幅に変えて、司馬懿が全ての北伐において孔明と対決したことにしています。馬謖を壊滅させた街亭の戦いも、司馬懿が立役者だったことにされているのです(実際は、張郃が立役者)。
曹真は、実際にはなかなかの将軍だったみたいですが、『演義』の世界では司馬懿の足を引っ張る狂言回しとして登場し、バカみたいに書かれていますね。曹真のバカさで司馬懿を引き立て、その司馬懿が孔明に翻弄される様子を描くことで、羅貫中は孔明の天才振りを強調したというわけです。気の毒なことに、曹真は、かつての魯粛と同じような役割を割り振られてしまったのでした(笑)。
孔明というのは、実は独裁者だったんですよね。ただ、そういうイメージが全然無いのはどうしてかというと、その独裁方法が法家思想に基づく「信賞必罰」だったからでしょう。
これって、ものすごくユニークです。普通の独裁者は、秘密警察や軍隊をビシバシ使って「恐怖政治」をやるのが相場です。そのほうが楽チンだからです。でも、孔明はあえて「道義」の力で独裁を行ないました。自分の過失を自分で罰しました。これって、もしかすると人類の永遠の理想なのかもね。孔明が、今でも理想の政治家と言われ続けているのは当然のことです。ヒネクレ者の私だって、孔明のためなら命を賭けても良いと思うでしょう。
蜀の人々は、重税にあえぎながら、最後まで孔明のことを信じ続けました。孔明に処罰された者達も、孔明の死を知ったとき心から悲しんだと伝えられています。彼こそは、まさに人類史上最高の独裁者だったのです!
『演義』の良くないところは、孔明が火攻め、水攻め、ロウソク責め(笑)をやる場面ばかり強調して、「誠実な独裁者」としての実像を隠蔽する点にあるのだと思います。 
第12話 第二次北伐 

 

1、後・出師の表
これは、孔明が第二次北伐に出陣する直前に、皇帝・劉禅に提出した決意表明文です。
しかし、この文については、「後世の偽作」という説もあります。その根拠は、この文が『正史』(超一級史料)ではなく、呉の重臣・張厳が著した『黙記』(二級史料)に出ているからです。
でも、私は、「後・出師の表」は本物だと考えています。
だって、呉の重臣が、わざわざ偽作を捏造する動機はないでしょう?孔明は、文章の力で同盟軍の呉を奮起させようとして、出師の表をことごとく呉に送りつけています。ですから、『黙記』の作者張厳が、この文を読んで感動し、後世に伝え遺そうと考えた可能性は極めて大きいのです。
そういえば、「前・出師の表」を読んで「これを読んで泣かない者は忠義の臣ではない」と言ったのは、呉の重臣・諸葛格ですぜ。
私は、『黙記』に出ていることこそ、かえって「後・出師表」が本物である証拠だと考えています。
それでは、『正史』に記載がないのはどうしてか?それは、陳寿が時の権力者におもねったからでしょう。陳寿は亡国である蜀漢の臣下なので、劉備や孔明のことを良く書きたい気持ちで一杯なのに、彼が仕える晋王朝が魏の後継国家であるため、あまり露骨なことが出来ないのでした。彼としては、「前・出師の表」を全文掲載するのが精一杯だったのではないでしょうか?
それでは、陳寿が『正史』に書けなかった「後・出師の表」を紹介します。こっちも、かなり泣けますぜ。
『先帝は、漢王朝と逆賊が並び立たず、我々の王業には地方政権としての安定が許されないことをご考慮され、そのために私に逆賊討伐を託されました。先帝のご明察をもってすれば、私が無能であることはご存知だったはずです。しかし、賊を討たなければこの王業も滅びます。ただじっとしたまま滅亡を待つのと賊を討伐するのとでは、どちらが優れた政策でしょうか。それゆえに先帝は、私に逆賊討伐を託されて躊躇わなかったのです。
そのとき以来、私は横になっても布団に落ち着かず、食事を摂っても美味しいと感じないほどでした。
北伐について考えた場合、先に南を平定した方が良いと考えて、深く荒地に侵入して苦労を重ねたのです。
私は、自分の身を労わらないわけではありません。地方政権として僻地に安定するわけにはいかない王業を思えばこそ、危難をおかして先帝のご遺志を奉ずるのです。
ところが、昨今の論者は無謀だと申しています。しかし、現在、賊軍は東方で無理を強いられて(魏は、呉との戦いで大敗を喫した)西方でも疲弊しています。兵法では敵の疲労に乗ずるべきだとありますから、今こそ進撃の好機なのです。
攻勢を止めるべきではない論拠を箇条書きにすれば、次の通りになります。
1 前漢の高祖(劉邦)は、たいへんな名君で、臣下もみな優秀だったのに、それでも天下統一までたいへんな苦労を重ねました。陛下(劉禅)は、まだまだ高祖に及ばず、人材も低レベルなのに、座ったままで天下を平定できると思っているのでしょうか?私は納得できません。
2 劉繇と王朗は、おのおの州郡を支配していましたが、理屈ばかり言って安全策ばかりとっていたために、あっというまに孫策に攻め潰されてしまいました。このことを良くお考えください。
3 曹操は智略群を抜き、その用兵は孫子、呉子を彷彿とさせるほどでした。しかし、南陽で苦しみ、官渡で滅亡寸前となるなどの苦難を経て、ようやく偽の平定を見たのです。ましてや私は劣った才能なのに、危難に遭わずに平定事業など出きるわけがありません。
4 先帝は、曹操のことをいつも優秀だと褒めていました。その曹操ですら、部下に裏切られたり孫権に苦戦したり、夏侯淵を戦死させたりといった大失敗を行なっています。ましてや私は無能なのに、常に大勝利できるわけがありましょうか?
5 私が(第一次北伐で)漢中に行ってから一年も経たぬのに、趙雲など七十余人の大将を失い、もはや先頭に立つ突撃隊長すら見当たりません。蛮族から集めた兵も、一州(蜀は、実質的に一州しか領有していない)が養うには過重でして、いずれ維持できなくなるでしょう。このままではジリ貧になってしまいます。
6 今、民衆は窮乏し、兵士は疲労しています。しかし、戦争を止めることは出来ません(全体主義イデオロギーのせい)。戦争を止めることが出来ないなら、じっとしているのも外に出るのも、労力と出費はまったく同じです。しかるに、敵の油断に付け込もうとせず、なおも一州をもって全中国と持久戦をしようなんて、そのほうが無謀ではないでしょうか?
7 昔、曹操は先帝を当陽で破ったとき、「これで天下は俺のものだ」と勝ち誇りました。しかし、先帝は呉と同盟を結び、西方の蜀を平定し、総勢をあげて夏侯淵の首を取りました。これは曹操の大失策であり、こうして漢室復興の大事業が完成寸前になったのです。ところが、呉が同盟を破って背後から攻めたために関羽は敗死し、先帝は夷陵で挫折し、かくして曹丕が帝位につく事態になりました。およそ、物事とは、このように予測しがたいものなのです。
そして私は、謹んで全力を尽くし、死してのちやむ覚悟であります。事の成功失敗遅速については、私の予見を超えています』
なかなか面白い文章でしょう?
蜀漢が陥ったジリ貧の状況と、国内での厭戦気分の蔓延に孔明が苦慮している様子が良く分かるのです。 
2、第二次北伐
孔明が第二次北伐を発する決意をした背景には、江南の戦場における呉の優勢がありました。孫権は、周魴という部下に「投降しますから迎えに来てね!」という偽手紙を書かせて魏の方面軍司令曹休を領内に誘き出し、これを包囲殲滅したのです。命からがら逃げ延びた曹休は、この敗戦を恥じて病死してしました。このエピソードは、『演義』にも史実どおりに出てきます。
この同盟軍の勝利は、孔明を大いに勇気付けました。もしかすると、魏は呉の国境を堅くするため、陝西省の兵力を引き抜いて手薄にするかもしれないぞ!そこで、再び遠征に出発する気になったというわけ。
今回の孔明は、前回の失敗を反省し、戦闘序列を大幅に改善しました。つまらない派閥人事やエリート志向を止めにして、叩き上げの魏延と王平を軍の中心にしたのです。
しかしながら、今回は、魏も孔明の侵入を警戒して十分な防衛体制を整えていました。そのため孔明は、戦略的奇襲をするどころか、待ち伏せを受けたのです。
魏の大将軍・曹真は、孔明が正攻法で陳倉道を通るだろうと予測して、その出口に当たる陳倉城を拡張強化し、そこに名将の郝昭を入れました。
孔明の遠征軍は、いきなりこの堅城に引っかかってしまったのです。孔明は、どうやらこのような成り行きを予想していなかったらしく、この城を攻めあぐんでしまいました。
しかし、洛陽では魏帝・曹叡が戦況を心配して、大規模な救援軍を派遣しようかと考えます。そのとき張郃将軍が言いました。「孔明は、おそらく、ほとんど食料を持っていないから、10日もすれば諦めて撤退するでしょう。援軍を送るまでもありません」。
10日というのは言い過ぎですが、孔明は20日分の食料しか持っていませんでした。彼の遠征軍は、結局、陳倉城を落とすことができずに、すごすごと総退却したのです。洛陽の魏帝は、救援軍を派遣する必要は無かったのです。蜀軍の唯一の戦果は、追撃してきた王双将軍を伏兵で討ち取ったことだけでした。
こうして、第二次北伐は大失敗に終わったのです。
以上から分かるとおり、孔明は、その作戦を一から十まで魏軍に読まれていました。なんか、日露戦争のときの乃木第三軍みたいですな。なんでこんなに作戦を読まれちゃうかというと、孔明の作戦が常識的で堅実過ぎるからです。まさに、乃木将軍と同じね。真面目で誠実な性格の人は、あまり軍人向きではないのかもしれません。
劉備は、その生前、孔明に管理の仕事しかやらせなかったのですが、彼はさすがに孔明の能力の本質を見抜いていたんでしょうね。孫子いわく、「兵は詭道なり」です。嘘をついたり騙したりするのが兵法の基本なのです。しかし、真面目で誠実な孔明は、死ぬまで詭道を用いることが出来ず、常に「最も堅実な正攻法」を取り続けました。要するに、軍人向きの性格ではなかったのです。
『演義』は、このあまりにも惨めな状況を必死に脚色しています。まず、孔明の戦略を見破った人物を、曹真ではなくて司馬懿(唯一最強のライバル!)にしました。また、孔明の退却を、名将・王双の有力な救援軍のせいにし、その王双を謀略で討ち取る様子を克明に描いて読者の溜飲を下げています。さらに、郝昭の病死後、電撃的に軍を発した孔明が、結局、陳倉城を占領できたことにしてしまっています。
史実では、王双は単なる部隊長だったみたいだし、陳倉城は最後まで陥落しなかったようですぜ。ただ、蜀漢の国内で、王双を倒したことを誇大広告して失敗を糊塗し、国民を納得させた事実はあったでしょうけどね。
いずれにせよ、度重なる失敗を前に、孔明の威信は地に落ちました。なんとか挽回しなければなりません。こうして、第三次北伐が始まります。 
第13話 第三次北伐と外交戦 

 

1、第三次北伐と魏の猛反攻
第三次北伐は、孔明の名誉挽回のための戦いでした。
彼が狙ったのは、漢中の西に隣接する武都郡と陰平郡です。これは、行政区画の上では魏の雍州に属していますが、住民の90%が異民族という、政治的重要性の極めて低い地域でした。当然、守備兵もほとんどいません。孔明は、この地域を占領することで、とりあえず「俺でも勝つことはあるんだぜ!」と国民にアピールしようと考えたのでした。
孔明は、労せずして勝てると思っていたらしく、将軍の陳式(『正史』の作者・陳寿のお父さん!)の軍勢だけをこの二郡に派遣しました。しかし、魏の雍州長官・郭淮は、大軍を率いて北方より馳せ参じ、迎撃体制に入ったのです。驚いた孔明は、自ら大軍を率いて陳式を救援しました。挟み撃ちになることを恐れた郭淮は、あわてて軍を退きます。
こうして、武都と陰平は蜀漢の掌中に収まりました。経済的にも軍事的にもほとんど意味がないけれど、孔明は初めて魏の領土を奪うことが出来たのです。まあ、太平洋戦争でいうなら、日本軍がアリューシャン列島のアッツ島を奪って「アメリカ領を獲ったぞ!」と大喜びしたようなものですね。
この成果を喜んだ劉禅皇帝は、孔明を元通り丞相に復職させました。
さて、この様子に、魏は焦燥感を強めました。アメリカ軍も、氷に覆われエスキモーしか住まないようなアッツ島の奪還に血眼でしたが、当時の魏も、領土を失いメンツが潰れてイライラしたのです。そこで、大規模な遠征軍を派遣して蜀漢を一気に滅ぼそうと画策したのでした。
大将軍・曹真の率いる関中方面軍は、3つのルートから「蜀の桟道」を南に突破し、司馬懿の荊州方面軍は、上庸から漢水を遡行して東から漢中に突入しようという大規模な作戦。いわば、漢中を袋叩きにしようというわけ。
孔明は、名将・王平を守りの要に位置づけ、漢中盆地にいくつもの城砦を築いてこの巨大な敵を待ち受けました。彼は、かつて劉備が曹操を撃破したあの一戦を再現しようと考えていたのでしょう。しかし、幸か不幸か、天候が魏の遠征軍を無力化させたのです。
おりしもの長雨によって桟道は崩落し、漢水も水かさが増して船団の遡行を妨げました。この情勢を前に、さすがの曹真と司馬懿も、ついに諦めて、なすすべもなく軍を返したのです。
もしも、この長雨がなければ、蜀はどうなっていたでしょうか?圧倒的物量の魏軍を、いつまで支えられたかは疑問です。孔明は、命拾いしたのでした。
『演義』では、第三次北伐について、大激戦の末に孔明が知略で勝利したことにしています。また、長雨による魏軍の撤退も、孔明は事前に予想して、なんの防衛措置も取らなかったことにしています。また、彼は撤退する曹真軍を追撃して大勝利をあげ、その後、失意に沈んだ曹真のもとに悪口満載の手紙を送るのですが、それを読んだ曹真は激怒して病気になって死んでしまうのです。これって、周瑜のときと同じね。
曹真がこの遠征の直後に病死したのは事実ですが、孔明の手紙のせいだというのは、明らかに『演義』の作り話でしょう。『演義』は、何が何でも孔明の智謀を美化したいのでした。
その間、江南では、とんでもないことが起こっていました。
孫権が皇帝を名乗ったのです! 
2、孫権の即位
孫権の即位は、あまり学者や作家の間では話題になりませんが、東アジア史全体から見ても研究の余地がある重要な出来事だと思います。
229年、孫権は大呉帝国の建国を宣言します。ここに、中国に3人の皇帝が並び立つ異常事態が現出したのです。三国時代というのは、厳密にはこのときに始まったと言えるでしょう。そう考えてみれば、三国時代って、晋の統一(280年)まで、50年しか続かなかったのか・・・。
もともと皇帝は、「王の中の王」という意味なので、中国大陸(および東アジア全体)に一人しかいてはならないものなのです。それが、同時に3人も並立するのは、中国史上で初めての出来事でした。この前例は、中国のみならず東アジア史全体に極めて重要な影響を与えました。これ以降、中国が乱世になるたびに、幾人もの皇帝が乱立するのが当たり前になるからです。いわば、皇帝の権威がインフレを起こしたというわけ。
厳密に言うなら、日本の天皇というのも皇帝の一種です。日本人は、「俺たちは中国と対等なのだ」という自意識をもって、民族のトップを「王」ではなく「天皇」と呼んだのです。中国人は、それを最後まで容認しようとせず、近代にいたるまで天皇のことを「倭王」と呼んでいましたけどね。ともあれ、辺境の島国(中国から見た場合)の酋長が自らを「天皇」などと呼ぶようになったのも、元はといえば三国時代に皇帝の権威がインフレを起こしたことに原因があるのです。歴史って、本当に奥が深くて面白いですね。
それにしても、孫権は、どうして今さらになって帝位に就く気になったのでしょうか?『正史』には説明がないので、いろいろと想像してみる余地があります。
もともと、魏と蜀漢で皇帝が2人も並立することが異常でした。
前に説明したように、魏は「禅譲」という手続きを経て、漢の皇帝から直接、帝位を譲り受けました。陳寿は、『正史』を「魏=正統」という立場で書いていますが、それは当然のことなのです。
それでは蜀漢の正統性はどうか?実は、かなり怪しいです。劉備は、「魏の簒奪を認めない」と主張して、自らが帝位に就きました。その根拠は、彼が「漢王室の子孫だから」という一点に尽きますが、そもそもそれが眉唾なのです。劉備が、皇帝の血筋というのは、ちゃんとした根拠があるわけではありません。本人が、勝手にそう名乗っているだけです。もしもそんな行為が許されるのなら、私も天皇になることが出来ますよ。「俺は桓武平氏の三浦一族の子孫なのだ!したがって、俺の先祖は桓武天皇なのだ!だから、俺を天皇にさせろ!」と主張したら、みなさんはどう思いますか?劉備の主張って、要するにそういうことなのです。まあ、蜀漢という国は「漢の復興」を唯一絶対の教義にしている原理主義国家ですので、そうするしかなかったんでしょうけどね。
でも、お隣の孫権から見れば、劉備の即位というのはかなり間抜けな茶番だっただろうと思います。「山国の過疎国家のボスが、皇帝とはちゃんちゃらおかしいぜ!」と思っていたことでしょう。その蜀漢が、代替わりしてもなんとか頑張っているのを見て、「なんだ、だったら、俺が皇帝になっても別にいいじゃん!考えてみたら、呉の国力は蜀漢の2倍以上だぜ。弱小国家の蜀漢の方が、強大な呉よりも格上ってえのは、どう考えても変だよな」という気持ちになったのでしょう。
また、すでに2人いる皇帝が3人に増えたとしても、そんなに大した問題ではないと考えたのかもしれません。
こうして孫権は、禅譲を受けたわけでも前王朝の血縁でもないのに帝位に就きました。もっとも、彼の先輩格の袁術が、すでにこうした「無根拠即位」の前例を作っていたのだから、そういう意味でも心理的抵抗は少なかったかもね。
この異常事態に大騒ぎとなったのは蜀漢です。
何度も言うように、蜀漢は「漢の復興」を目的とする全体主義国家です。
孔明が、どうしてあんなに必死になって北伐をしたかといえば、「漢の天下を奪って勝手に皇帝を名乗る逆賊(魏)を征伐する」のが、この国家の存在目的だからです。
この目的に照らせば、孫権が呉王を名乗っているうちは、彼が形式上は漢の体制下にとどまっていると(強引に)みなして、同盟関係を維持できるのでした。ところが、孫権が帝位に就くとなれば、状況がまったく異なります。呉も、「逆賊の片割れ」ということになるからです。
そのため、蜀漢の国内では「呉と絶縁して宣戦布告するべきだ」という議論が盛んになりました。全体主義国家というのは、だいたいそういうものです。「目的のためなら、どんな無茶も不合理も関係ない」と考えるものなのです。たとえばナチスドイツは、貧乏国家だったにもかかわらず、西部戦線で米英と戦い、東部戦線でソ連と戦い、なおかつ国内で多量の人員と資材を投じてユダヤ人を虐殺しまくりました。どう考えても無茶で不合理ですが、ヒトラーとその取り巻きは、「ユダヤ人絶滅という目的のためなら、この国が滅亡してもかまわない!」と思い込んでいたのです。まあ、蜀漢もそれと同じです。「逆賊討伐」のためなら、呉と魏を同時に敵にしても構わないという言説が多数を占めたのです。
これを抑えたのが孔明でした。彼は、あくまでも呉との同盟を堅持する方針を主張し、孫権の即位を祝う使節団を派遣したのです。さすがに孔明は、一流の政治家でした。蜀漢が生き残るためには呉との同盟を守るしかないと正しく認識し、イデオロギーの壁を乗り越えたのです。そういう意味では、孔明は、ヒトラーよりも優秀な人物だったと言えるでしょうね。 
3、呉蜀の外交戦
蜀と呉の外交について見て行きたいと思います。
外交というのは、一種の「戦争」です。己の国益のために、相手と駆け引きをして利益を引き出す行為だからです。そして、同盟国同士の外交が最も難しい。なぜなら、表面的に友好関係を保ち続けなければならないため、裏に回って腹芸などの高等な交渉術を全開する必要があるからです。
どうも、現在の日本は、そういう感覚が持てずにいるようです。アメリカは同盟国ではありますが、彼らはいつも「戦争」のような気構えで日本と交渉しているのに、我が国の要人たちは「飲み会」みたいなノリで対応していますものね。だから、簡単に言いなりになるし騙されてしまうのでしょう。
その点、三国時代の蜀漢と呉の外交を見ると、本当に高等な議論が交わされていてとても勉強になります。我が国の要人たちには、ぜひ、『正史』でそういう箇所を学んでもらいたいものです。
蜀呉同盟において、交渉の主体となるのはほとんど蜀漢の側でした。なぜなら、小国の蜀漢の方が、より多く呉の協力を必要としたからです。聡明な孔明は、蜀漢が単独では魏に勝てないことを熟知していました。だから彼は、呉との関係を強化することで、魏に二正面作戦を強要しようとしたのです。それゆえに、彼は孫権の即位すら容認したのです。
でも最初は、呉と蜀漢の関係は最悪でした。孫権が関羽を裏切って殺し、さらに劉備の主力と熾烈なガチンコ対決を繰り広げてしまったからです。ただ、その直後に呉と魏の同盟関係が破綻したので、ここに付け入る隙がありました。
そこで、孔明が孫権を説得した手段は、「恐怖」でした。彼は、外交使節のケ芝にこう言わせたのです。
「呉が生き延びるためには、漢(蜀)との同盟を強化しなければなりません。なぜなら、もしも魏と漢が先に同盟を組んだなら、あなたの祖国は一たまりもないからです」。
まあ、これはブラフですね。なぜなら、全体主義イデオロギーのせいで、蜀漢が魏と同盟することなんてありえないからです。ただ、孫権は、劉備と曹丕に立て続けに侵攻された直後だし、そのときの危機感が忘れられなかったため、このブラフに耳を傾けざるを得なかったのです。このとき孫権は、同盟関係の強化を決断したでしょう。しかし、さらに一歩踏み込むのが外交の要諦です。次に、同盟国間の力関係をどうするかが重要になるので、孫権はこう言いました。
「俺は漢を信じたい。でも、実はもう駄目なんじゃないの?皇帝は若くて経験が乏しいし、国力も低いよね」。
孫権は、この同盟関係のイニシアチブを握ろうと思ってこう言ったのです。そこでケ芝は言い返しました。
「うちの皇帝は若いけど優秀です。さらに、丞相の孔明は、まさに天下の英傑です。とても頼りになる同盟国だと思いますよ」。
こうして、対等の同盟関係ということで落着したのでした。
これ以降、蜀漢は積極的に呉に外交攻勢を仕掛けます。私が感心したのは、蜀漢は小国で呉に甘えっぱなしの立場なのに、あの天才外交家・孫権を相手に、常に交渉のイニシアチブを握り、弱みを見せない点でした。それは、ケ芝など、極めて優秀な人材が外交官として活躍したからです。彼らを抜擢して重用した孔明は、戦争は下手かもしれないけど、文治は天才的に得意な人物なのでした。
以下は、蜀の巧みな外交術の例を。
(1)ケ芝VS孫権
あるとき、魏討伐の協同軍を起こす決定をした後で、孫権はケ芝にこう言いました。「魏が滅んだら、呉と漢で中国を二分割し、末永く仲良くしようではないか」。
普通なら、「そうですね」と相槌を打つところです。しかし、ケ芝は首を横に振りました。「天に二日なしと申します。もしも魏が滅んだら、今度は漢と呉が武と智恵を磨いて雌雄を決することでしょう。もはや、友好関係はありえません」
この正直な返答に、孫権はかえって大喜びだったそうです。
中途半端なお世辞や美辞麗句で飾るのではなく、有りのままの誠意で臨んだ方が、孫権のような大人物の信頼を得やすいのです。ケ芝は、良くそのことを見抜いていたのでしょう。
その後、ケ芝以外の人物が使節として来ると、孫権はわざわざ孔明に手紙を書いて、「次回はぜひ、ケ芝を遣して欲しい。彼じゃなければ嫌だよ」と言ったそうです。まあ、蜀漢は人材不足で自転車操業の国だったので、ケ芝はしばしば将軍として北伐軍に参加していますから、そういう時は孫権に我慢してもらうしかなかったのですが。
ところで、ケ芝の外交姿勢は、言外に「蜀漢と呉は、同じ国力の対等国なのだ」と匂わせていますよね。そういうことをサラリと相手に印象付けたケ芝は、朴訥なようでいて相当の策士なのでした。
(2)秦宓VS張温
呉の使節も、しばしば蜀漢を訪れました。張温という使節が、蜀漢の大学者・秦宓(しんみつ)と成都で交わした会話が面白いので紹介します。
張温は、彼の歓迎会に遅参した秦宓を懲らしめてやろうと思って論戦を挑みました。
張「あなたは、学問をしているんですって?」
秦「この国では、幼児ですら学問をやりますよ。私に限ったことじゃありません」
張「天(=神)には頭がありますかな」
秦「あります」
張「どの方角にあるのですか」
秦「西方です。『詩経』に『すなわち、ぐるりと西に顧みる』とあるので」
張「天には耳がありますか」
秦「『詩経』に、『鶴は沢の奥に鳴き、その声は天に聞こえる』とあります。もしも耳が無ければ聞き取れないでしょう」
張「天には足がありますか」
秦「あります。『詩経』に『天の歩みは艱難』とあります。足が無ければ歩けないでしょう」
張「天には姓がありますか」
秦「あります。もちろん『劉』という名です」
張「どうしてですか」
秦「中国の皇帝が劉姓だからです」
これらの回答が間髪入れずにすらすら出るものですから、張温はすっかり秦宓を尊敬してしまいました。そればかりではないでしょうが、張温はすっかり蜀漢マニアになってしまい、呉に帰国してからも蜀の話しかしなくなっちゃったのです。
孫権は、激怒して張温をクビにしました。冒頭で説明したように、外交の本質は、外国(同盟国であっても)を騙して自国の利益を増進させることです。外国のシンパに成り下がった外交官など有害無益なのですから、クビになるのが当然でしょう。我が国も、拉致問題で北朝鮮におもねった議員どもを、全員クビにしちゃえばいいのにね。ああいうのを、国際的な一般通念で「売国奴」とか「国賊」というのです。「国賊」が大手をふって歩けるこの国は、ほんとに平和ボケの末期症状なんですなあ。
それにしても、秦宓の回答はなかなか痛快ですね。「天の位置が(蜀のある)西方」だとか「天の名が劉」だとか、愛国心が漲っていますものね。
おそらく、こういった張り切った空気が蜀の国中に充満していて、それで張温は蜀漢が大好きになったのでしょう。私は、5年前に訪れた上海と昨年訪れたプラハで、街中に不思議な活力があふれているのを感じて興奮しました。愛国心と目的意識と向上心を持つ人々のオーラは、一介の旅行者を心酔させるに十分な威力を持っているのです。このころの蜀漢も、きっとそんな感じだったに違いありません。
孫権をはじめ、呉の人々は、張温の口を通して語られる蜀漢の魅力を聞き知って、この小国の侮りがたさを強く印象付けられたことでしょう。こうして同盟関係は、蜀漢主導のまま強固になりました。おそらく、張温を蜀マニアにしたのは孔明の戦略だったのでしょう。さすがですね。
まあ、我が国も、少しは蜀漢のやり方を見習ったらどうでしょうかね?飼い犬同様にアメちゃんに尾を振っているだけでは、国益の欠片も残らないでしょう。ってことは、まずは国民の愛国心から増強しなけりゃならない。気が長い話だよなあ。 
第14話 第四次北伐 

 

1、第四次北伐
いよいよ、ハイライトの「第四次北伐」です。蜀の「最後の光芒」というべきこの戦いについて、気合を入れて論じていきたいと思います。
もちろん、『正史』に従って解説します。私は、『演義』の北伐が好きじゃないもので・・。
このときの孔明は、無茶苦茶に強かった!戦場で、圧倒的な数的優位を誇る司馬懿の魏軍を連戦連破した上に、敵の名将・張郃を討ち取ったのだから!ただ、結局、補給切れで撤退せざるを得なかったのです・・。
なんでこんなに強くなったかと言えば、前にも述べたように「信賞必罰」をちゃんとやって、過去の失敗を深く反省し、抜本的な改善策を採ったからです。孔明は、格段の成長を遂げたのです!
彼は「第二次北伐」の敗因を「補給の問題」だと正しく認識しました。そこで、いくつもの改善策を立てました。
1 輸送用機器(木牛)を開発し、後方からの補給を円滑にした。
2 収穫の時期に敵地に侵攻することで、食糧の現地調達を容易にした。
これらの施策は大当たり!魏軍は、最初は持久戦に持ち込んで蜀軍が撤退するのを待ったのですが、補給事情を改善した敵がなかなか撤退しようとしないものだから、ガチンコ対決を余儀なくされ、そして鍛え抜かれた蜀の精鋭と名将・魏延&王平の前に大敗を喫したというわけなのです。
その概要について、時系列的に見て行きましょう。
西暦231年、孔明の軍勢(推定5万)は、斜谷道から陝西省に出ました。どうしてこの道を使ったかというと、陳倉道は陳倉城が堅くて通れないからです(第二次北伐参照)。かといって、最も長安に近い子午道は、狭い上に、敵が厳重に見張っているだろうから無理だと思ったのでしょう。つまり、消去法で、最も西よりの斜谷道を使わざるを得なかったというわけ。
この地方は過疎地帯なので、出口に陳倉城のような大きな城はありません。ただ、祁山という山がありました。そこで、孔明の手口を予測した魏軍は、この山に砦を構えて孔明を待ち受けたのです。
しかし、山の上の砦では、孔明の大軍を拘束することは出来ません。これは、あくまでも長安からの援軍を待つための足止め部隊でした。その援軍を率いるのは、病臥中の曹真に代わった司馬懿です。その総勢は、10万はあったでしょう。
しかし、孔明は、司馬懿が到着する前に、この地域の麦を片端から刈り取って補給体制を強化しました。その上、西方異民族と連絡を取り合って、共同戦線を張ろうと仕組んだのです。実に見事な作戦ですね!
この戦略に関して、見事な活躍を見せたのが魏延です。彼は、異民族を梃入れするために、この前年(230年)に、1万の軍勢を率いて陝西省を西方に突破したのです。これを知った魏は、郭淮と費曜の二将軍を妨害に差し向けました。魏延は、南北から挟み撃ちになったにもかかわらず、慌てず騒がずこの敵軍を連戦連破!魏延は、もしかして当時の中国で最強の武将だったのかもね。ただ、孔明は魏延が孤立するのを恐れて、彼に帰還命令を出したので、この年の異民族との共闘は中途半端に終わったのですが。
それでも、この時の梃入れ作戦が今になって功を奏し、第四次北伐で孔明に呼応して魏の領内に侵入してきた鮮卑族は、司馬懿の背後を脅かし続けたのでした。
さて、司馬懿は、これまで意外と実戦経験がなかったせいか、なんかグズグズしていました。ちょうど、第一次北伐のときの孔明みたいだったのです。彼は、祁山を包囲する孔明軍の北側に陣を敷いて、なかなか動こうとしませんでした。最初のうちは、「孔明は、前回みたいにすぐに補給切れになるだろう。持久戦でいいや」と楽観していたのに、なかなかそうならないので、諸将が不満を持ったのです。
「司馬懿どのは、孔明をトラのように恐れている!こっちの方が軍の数は上なんだから、一気にやっちまうべきです!」
張郃将軍ら叩き上げのベテランが口を揃えてそう言うものだから、司馬懿も心を動かしました。こうして、ガチンコ対決の幕が切って落とされたのです!
名将・張郃は、南に回りこんで王平の陣を攻撃しました。街亭以来の因縁の対決です。しかし、あのときと違って、馬謖みたいな奴はいなかったのです。王平は、持てる力を振り絞って戦いました。張郃は攻め倦み、劣勢になります。
その間、司馬懿は、主力を率いて孔明の本陣を総攻撃しました。孔明は、魏延と呉懿を先鋒にしてこれを果敢に迎え撃ちます!
蜀軍大勝利!
魏軍は、甲首(兜首)三千、鎧五千、三千百張の弩(大型弓矢発射機)を失い、壊滅状態となって元の陣に逃げ帰ったのです。
強いぞ孔明!偉いぞ魏延!さすがだぜ王平!
これ以来、司馬懿は陣に篭って出てこなくなりました。しかし、これほどの損害を受けたにもかかわらず、魏の戦線は崩壊しませんでした。もはや圧倒的国力を持つ魏にとっては、この程度の損害はたいしたことなかったのかもしれません。例えるなら、オイラのラッキーパンチが、ボブ・サップの顔面に炸裂したようなものかも(効かねえだろうな)。
孔明は、悔しかったでしょう。彼は、一気に敗走(するであろう)司馬懿を追撃し、長安まで占領するつもりだったはずだから。
そのうち、補給が切れました。ああ、無念。孔明は、やむなく全軍を纏めて帰路につくのです。
これを見た司馬懿は、追撃戦を命じます。戦術的に連戦連敗だった彼は、魏の朝廷に対してメンツが潰れるのを恐れたのでしょう。張郃は、「孔明は退却戦が得意だから、無理しないほうがいいです」と反対したのですが、司令官は聞いてくれません。結局、張郃が先鋒になって蜀軍に追撃を仕掛けます。
案の定、孔明は弓隊を後衛に伏せていました。木門道という隘路に差し掛かった魏軍は、文字通り矢の雨を浴び、そして張郃将軍も戦死してしまうのです!
蜀軍、まさに連戦連勝でした!強いぜ!
さて、蜀軍は補給事情の悪化によって撤退を余儀なくされました。補給が滞った原因は、蜀の桟道が長雨にさらされて各所で崩落したためでした。しかし、漢中で補給を担当していた武将の李厳は、自分が責任を負うのが嫌になって、成都の皇帝に「孔明は、理由もないのに勝手に退却した」と嘘の報告を送ったのです。
成都に帰った孔明は、その知らせを聞いて大いに驚きました。彼は、李厳から「補給をこれ以上送れないので帰って来てね」との手紙を貰ったので撤退したのですから。
皇帝・劉禅の前で、どちらが正しいのか裁判が行なわれました。その結果は、孔明の圧勝です。孔明は、李厳から貰った手紙を全て保管し、しかも日付順に完璧にファイリングしていたのです!これでは、李厳がどんなに上手に嘘をついても勝てっこないや。
こういうエピソードを見ると、孔明が骨の髄から「官僚タイプ」だったことが分かりますね・・・。
李厳は、蜀で5本の指に入る大豪族です。だからこそ、孔明は彼に補給という重大任務を委ねたのです。ああ、それなのに。
李厳は、もしかすると孔明ばかりが脚光を浴びるのが気に入らなかったのかもしれません。もともと、あんまり真面目で義理堅い性格では無かったみたいですけど。
この事件が原因で、李厳は平民に落とされます。しかし、孔明が生きている限り、必ず名誉挽回のチャンスが来ると信じていたようです。彼は、孔明の死を知ったとき、絶望して病死したと言われています。
これも、蜀の悲しい人間模様なのでした。 
2、発明家としての孔明
孔明は多才な人で、いくつもの武器や器具を発明しています。
(1) 木牛と流馬
第四次北伐でデビューした輸送器具「木牛」がその代表ですね。
この器具は、『演義』では「木牛流馬」という名で出て来ます。でも、『正史』によれば、第四次北伐で使われたのが「木牛」で、第五次北伐で使われたのが「流馬」と書かれているので、両者は別物だったようです。おそらく、「流馬」は「木牛」の発展改良ヴァージョンだったのでしょう。
『演義』の「木牛流馬」は、馬のような形をしていて、足はもとより目や口までついています。そして、舌の部分がネジになっていて、ここを捻るとストッパーが働いて動かなくなる仕組みになっていました。この仕組みを用いて、司馬懿軍をワナに嵌めるエピソードが印象的でしたね。いかにも、魔法使い的な軍師・孔明が発明しそうな道具だわい!
『正史』ではどうかというと、実は全く説明がないのです。いちおう、陳寿が編纂した『諸葛亮集』という文集に設計図らしきものがあるのですが、「目や耳や舌が・・」という説明になっているので、マトモな学者は相手にしません。いくら孔明がマニアックでも、輸送用器具に目や耳をつけるほどアホウじゃないだろう・・。まあ、これは最高軍事機密なので、孔明は軍の外に本当の情報を漏らさなかったのかもしれません。
現代の学者たちは、「木製の一輪車」だったと考える人が多いです。「なんだ、詰まらない」と思う人が多いかもしれませんが、これは画期的な発明だった可能性があります。
この当時、兵糧の輸送は、普通は駄馬を用いて行なっていました。しかし、駄馬はそれ自体が飯を食うわけだから、こいつらに食わせるための餌も大量に輸送しなければなりません。その分だけ人間様の食事の輸送量が減るのだから、すごく非効率なわけです。
その点、駄馬の代わりに器具を用いれば、人間の食料の積載スペースが大幅に増えてナイスですよね。まさに、常識を覆す「コロンブスの卵」的発想です。おそらく、「木牛」と「流馬」は、軽くて動かしやすい、蜀の桟道のような狭いところでも安全に走れるような器具だったはずです。ってことは、やはり「一輪車」だったのかな?
こうした発明によって、蜀軍の補給事情は大幅に改善されたのです。
やはり孔明は、管理部門長として超一流のセンスを持っていたのですね!
孔明は、これ以外にもいくつもの発明品を作っています。
(2) 元戎(げんじゅう)
これは、連発式の弩(ど)です。ただ、連発式の弩は従来から存在したので、孔明はこれを更に高性能に改良しただけなのですが。おそらく、王双(第二次北伐)や張郃(第四次北伐)を討ち取ったのは、この兵器の威力の賜物だったでしょう。
ところで、弩という武器は、日本人にはほとんど馴染みがないので、解説が必要かもしれませんね。
昔の日本人は、狩猟用の弓をそのまま戦闘用に用いました。武士が馬上から射るようなアレです。平安時代までは、弩もあったみたいですが、桓武天皇が国軍を廃止したときを境に急激にすたれてしまいました。
それに対し、中国人は、戦闘用の弓を狩猟用とは別個に用いたのです。それが弩です。これは、等身大の大きさの木製の機械でして、かなり大きな矢を、太くて固い弦につがえ、レバーを操作して発射するものです。これに矢をつがえるのはたいへんな難作業でして、2人がかりか、あるいは足を用いて嵌めたと言われています。もちろん、馬上では使えません。歩兵用の武器です。
意外に思う人が多いでしょうが、三国時代の「飛び道具」は、弩が一般的でした。つまり、騎兵はあまり飛び道具を使わなかったのです。というのは、この当時は鐙(あぶみ)が発明されていなかったため、疾駆する馬上で上体を固定するのは太ももの筋力しだいでして、つまり馬上から弓を射るのがとても難しかったのです。もちろん、騎射を得意とする人物もいたのですが、それを組織的戦力として運用するのが難しかったのです。
しかし、『演義』と、それを元に脚色した漫画や映画には、弩が全く登場しません。むしろ騎射のシーンが多いようです。それは何故かといえば、『演義』に描かれる戦闘は、実は「明の時代」の軍制や兵器や戦術を参考にしているからです。そして、明の時代には、弩があまり使われなくなっていたのです。
というわけで、『横山三国志』や『蒼天航路』に描かれる武器や軍装や戦術は、全て「大嘘」なのでした!・・・・夢を壊してごめんなさい。
さらに言うなら、「方天画戟(呂布の武器)」とか「青龍堰月刀(関羽の武器)」も、明の時代の兵器であって、三国時代には存在しないものです。実際の呂布や関羽は、小説とはまったく違う武器を使っていたはずです。
で、話を弩に戻すと、三国時代には、拠点防衛用に、連射の利く超大型の弩が開発されていました。「連弩」です。孔明は、これに改良を加え、より高性能な連弩(=元戎)を発明したのです。
しかし、孔明は「攻撃のイニシアチブ」を取るべき立場でしょう?防衛用の兵器を発明してどうするんだろう?まあ、結局、役には立ったけど。
輸送用器具や防衛兵器の開発に夢中になる孔明・・。やはり、本質的にリスクテーカーにはなれない人なんだなあ。
(3) 八陣
孔明は、従来にはない「八陣」という陣形を発明したとされています。ただ、実戦で一度も使われたことがないので、「理論倒れだった」可能性が極めて高いです。だって、本当に良いものなら、後の時代に一度くらい使われるはずでしょう?歴史上で一度も用いられなかった陣形なんだから、きっと机上の空論みたいなものだったんでしょう。
ただ、『演義』は「もったいない」と考えたらしく、「八陣」を実戦投入しています。あるときの北伐で、孔明が陣頭で司馬懿に向かって、「俺が発明した新しい陣形を見せてやる!破れるものなら破って見よ!」と言い、自軍に八陣を組ませます。司馬懿は、「なめやがって!」と言いながら八陣に攻めかかるのですが、旗下の将軍たちが、みんな捕虜にされる大惨敗!彼は孔明に謝って、将軍たちを返してもらうのです・・。
『演義』の北伐って、こういう幼稚っぽい話がダラダラと続くから嫌いなんだよなあ。北伐の回数自体も、史実よりも遥かに多いし・・・。それじゃ、まったく成功できない孔明が、史実以上にバカに見えちゃうのになあ。 
第15話 家庭人としての孔明 

 

孔明の家庭生活について見て行きたいと思います。
『演義』の孔明は、その「能力」ばかりが誇張気味に描かれ、人間としての素顔が完全にオミットされています。『演義』の孔明について、「尊敬するけれど好きになれない」と言う人が多いのは、きっとそのせいだと思います。
まずは、孔明の奥さんについて。
彼は、20代前半で結婚しています。相手は、荊州の名士・黄承元の娘です。この娘は有名なブスで、誰も嫁の貰い手が無かったのを、孔明が引き取ったのでした。その当時、「♪孔明の嫁取りだけは、絶対に見習うなよ」という歌が流行したと言われています。それくらい酷い面相の女性だったようです。
なんで孔明(長身で頭が良くてハンサム)が、そんなブスと結婚したのかというと、恐らくは政治でしょう。孔明は、「名士」ではありましたが、異郷出身の上に「襄陽学派」の中では異端児だったので、あまり良い就職先が期待できない状況でした。彼は、名士・黄承元と縁戚関係を築くことで、自分の進路をクリアにしようとしたのではないでしょうか?まあ、結局、劉備に彼を紹介してくれたのは、親友の徐庶だったのですけれど。
ただ、この奥さんはとても聡明な女性で、いろいろと「内助の功」があったようです。民間説話によれば、彼女は機械仕掛けの人形たちを操って、大量のウドンをあっという間にこしらえたと言われています。これは話半分としても、火の無いところに煙は立たないわけで、孔明の発明品は、意外とこの奥さんに知恵を借りたのかもしれませんよ。
この夫婦の仲は、とても良かったみたいです。孔明は、ナポレオンなどと違って、出世したからって良い気になって、糟糠の妻を捨てるような人間ではなかったのでした。
次に、子供の話。
孔明夫婦は、なかなか子宝に恵まれませんでした。それを不憫に思った呉の兄・諸葛瑾は、自分の次男を養子にくれました。これが諸葛喬です。
彼は、実父に似てとても優しく真面目な性格で、孔明はこの子を深く愛したようです。ただ、惜しいことに、第一次北伐に前後して弱冠25歳で病死しました。
その前に、孔明が兄に書いた手紙が残っています。
「喬は、本来は成都に置くべきですが、いま諸将の子弟はみな輸送の任にあたっておりますので、彼らと苦労を同じにさせています。彼は今、兵500を率いて谷で働いています」
どうやら喬は、体調が悪いのを推して、第一次北伐で輸送隊を率いて頑張ったようです。それが元で病死したのでしょう。
孔明は、「他人に苦労させるなら、まず自分と自分の家族が模範となるべきだ」と考える人でした。それが、可愛い養子の命を縮めてしまうとは。きっと、とても悲しかったことでしょう・・・。
でも、喬の死と前後して、孔明夫婦に待望の実子が生まれました。それが諸葛瞻です。ただ、もしかすると妾の子かもしれません。黄夫人は、もう高齢だったはずですからね。その辺、『正史』は曖昧なんだよなあ。
孔明は、やはり兄に手紙を書いています(本当に仲良し兄弟だな)。
「瞻はもう8歳で、とても利口で可愛い子です。でも、早熟すぎて晩成しないのではないかと心配です」
孔明は、この手紙を書いて間もなく、最後の戦い(第五次北伐)に出陣します。息子の行く末が、さぞかし気がかりだったことでしょうね。
このとき、孔明は、皇帝劉禅に次のように上奏しています。
「成都には桑800株、やせ田が15傾あり、家族の生活はそれで余裕があります。臣が出征いたしますときには、特別の仕度も無く、我が身に必要な衣食はことごとく陛下から頂戴いたしますので、その他に財産を作って利益を得たいと思いません。もし臣が死にましても、内に余分の布があったり外にあまった財産があったりして、陛下の御心に背くようなことはありません」。
孔明は、自分の死期を悟っていたのでしょうか?
彼が死んだとき、彼の財産は本当に上奏文のとおりしか無かったそうです。彼の家族は、総理大臣の家でありながら、本当に最低限の経済生活しかしていなかったのです。
孔明の壮絶な生き様が、びしびしと伝わって来ますね。 
第16話 第五次北伐 

 

1、第五次北伐
いよいよ、孔明の最後の戦いです。
第四次北伐から帰還した彼は、蜀の国力が衰退していることに気づきました。何しろ、人口90万の貧乏国にもかかわらず、5万人規模の軍勢を4年も連続で出征させているために、経済力が惨めなまでに弱っていたのです。
そこで孔明は、3年の間、戦争を止めにして内政の強化に勤めることにしました。また、同盟国の呉との連絡を密にしました。彼は、次回は呉と力を合わせて、「中国南部軍による大攻勢」を企画したのです。
孔明は、寝食を惜しんで働きました。その頑張りぶりは、皇帝劉禅や側近たちに「丞相は、いつ眠るのだろうか。仕事以外に楽しみがあるのだろうか」と言わせしめるほどでした。
トップが頑張れば、部下はそれ以上に奮起するものです。蜀の軍隊が強かったのは、そのためだろうと思います。
さて、運命の西暦234年春、孔明は10万の軍勢を率いて征旅に出ます。この軍勢の数を見るに、ほとんど「根こそぎ動員」だったはずです。孔明は、この一戦に全てを賭けていたのです。
呉の孫権も、これに呼応して大攻勢を仕掛けます。彼は、日増しに開いていく魏との国力差に頭を悩ませていましたから、やはりこの一戦に相当な期待を抱いていました。その総勢は、やはり10万程度だったでしょう。
しかし、対する魏軍は、東西の両戦線に30万前後の大軍を用意していました。もはや、魏と呉蜀の国力差は、決定的なまでに開いていたのです・・・。
孔明の軍勢は、蜀の桟道を押し渡り、斜谷道から陝西省に出ます。ここまでは、前回と同じコースです。しかし、今回は祁山を見捨て、その全軍が東進を始めたのです。
これを見た防衛軍の司馬懿は、大いに焦りました。孔明が全滅覚悟の特攻作戦で長安に攻めかかるとしたなら、魏の損害も計り知れないものになると思われたからです。
しかし、孔明の軍勢は、途中で動きを止めます。武功郡に柄杓のような形をした広大な台地を見つけ、ここに全軍を収納してしまうのです。この台地こそ「五丈原」です。
司馬懿は、大いに喜びました。「やはり、孔明は安全重視の保守主義者なのだ!」
その通り。台地に入った孔明は、兵士たちに命じて農耕を行なわせたのです。彼は、こういう形で補給問題を解決しようとしたのです。孔明の軍隊は、規律正しく振舞ったので、近在の住民たちは大い安心し、積極的に彼らを手助けしたのだそうです。
でも、孔明は「決戦」を挑みに来たのでしょう?台地に立て篭もって農耕を始めるとは、いったいどういうことなのか?
司馬懿の30万は、五丈原前面に布陣し、孔明軍10万を完全に拘束しました。孔明は、台地を陣地化し、これを迎え撃とうとします。彼は、第四次北伐の大勝利の再現を狙っていたのです。
しかし司馬懿は、二度も同じ手に引っかかるような男ではありませんでした。彼は、自ら攻めかかろうとはせず、じっと持久戦の構えに入ったのです。これでは、孔明もどうしようもない・・。
孔明の唯一の希望は、江南戦線で呉が大勝を得ることでした。そうなれば、司馬懿も首都の危機を救うために退却するだろう。そこを追撃してやろうと心組んだのです。
しかし・・・、呉は敗北を喫したのです。
呉軍は、合肥、江夏、江陵の三方から軍を北進させました。
合肥の要塞は、呉軍の猛攻を頑として弾きました。
そして江夏方面では、呉は魏の奇襲攻撃を受けて大惨敗でした。
唯一、快進撃を続けたのは、江陵の陸遜です。さすが、劉備を夷陵で壊滅させた実力は伊達じゃないぜ!でも、他の方面軍が劣勢だったため、彼の軍は敵中で孤立する形勢になったのです。そこで彼は、慌てず騒がず、軍を北進させる振りをして魏軍を動揺させてから、フェイントで全軍を退却させたのです。
呉軍の総攻撃が失敗した最大の原因は、魏の皇帝・曹叡が、自ら親衛隊を率いて救援に駆けつけたからです。皇帝自らが出陣となれば、魏の全軍の士気は高揚します。ああ、曹叡が名君じゃなかったらなあ・・・。
五丈原の孔明は、大いに落胆しました。彼は、呉の攻撃が成功することを当て込んで、この台地に立て篭もったのですから。しかし、今や彼の眼前には、3倍の兵力を持つ司馬懿がいて、頑として動こうとしません。
孔明の戦略は、いきなり大失敗に終わったのです。
孔明の戦略は、酷な言い方ですが、「無能で稚拙」でした。自らはリスクを冒そうとせず、ひたすら他人を当てにしているからです。彼は、司馬懿の方から仕掛けてくると思い込み、自軍をひたすら有利(と彼は思った)な守勢に立たせました。また、呉軍の攻撃が成功することを信じ込んでいました。これらの前提が崩れた結果、彼の遠征軍は無力化してしまったのです。
孔明という戦略家は、ひたすら自軍のリスクを最小化しようとします。いつも、自軍を有利な地形で防御側に置きたがるのです。でも、それで優勢な敵を撃破して天下を取れるのでしょうか?
将軍の魏延は、こうした孔明の戦略にいつも不満で、「私に1万の別働隊をください。二手に分かれて進撃し、敵を分断撃破してから長安で落ち合いましょう」と提言したそうです。もちろん、孔明は「危険すぎる」と言って却下するのでしたが。
私は、孔明は魏延の策を取るべきだったと思います。確かにリスクは高くなるでしょう。でも、リスクを恐れていたら大きな成果は得られません。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」です。
やはり、孔明の本質は「管理本部長」だったのでしょう。管理の仕事は、営業と本質的に異なり、「リスク最小化」が至上命題です。孔明は、やはり軍師にはなれなかった・・・。
その点、やはり彼は石田三成に似ています。三成は、島津義弘らの「家康に先制攻撃を仕掛けるべきだ」との提言を退けて、関が原西端に陣地を築いて閉じこもってしまいました。そのため、戦いのイニシアチブを家康に握られ続け、その結果、吉川や小早川の裏切りを誘発することになったのです。三成にすれば、「陣地に篭った方が、リスクが低くなって安全だ」との判断があったのでしょう。やはり、彼は「管理本部長」でしかなかった。
残念ながら、孔明も三成と同じだったのです。
しかし、『演義』の立場とすれば、それでは困るわけです。そこで羅貫中は、一世一代のフィクションで盛り上げました。
それが「葫芦谷の戦い」です。 
2、葫芦谷の戦い
葫芦は、瓢箪(ひょうたん)のことです。つまり、葫芦谷は、瓢箪のような形をした谷なのです。
羅貫中は、このモチーフが大好きだったみたいで、劉備が曹操を撃破した漢中戦のときも、孔明が瓢箪型の谷を利用して曹操を打ち破る話を創作していますね。
で、『演義』の世界では、五丈原の近くにやはり葫芦谷がありました。孔明は、この谷に司馬懿軍を誘き寄せ、得意の火計で皆殺しにするという一世一代の大謀略を考案したのです。
孔明の計略を恐れる司馬懿は、最初のうちは陣地に固く篭って出てこようとしませんでした。しかし、小競り合いのたびに魏軍が勝つ様子を見て、次第に慢心したのです。
「孔明め、どうやら昔ほどのキレを無くしたようだぞ!」
そこであるとき、全軍で孔明本陣に総攻撃を仕掛けたのです。そして、スパイ情報によれば、孔明の本陣は葫芦谷に置かれているらしい。ほら、その証拠に、蜀軍最強の将軍・魏延が、葫芦谷の中に布陣しているではないか、それ突っ込め!
しかし、これは罠でした。葫芦谷の、一つしかない狭い入口から突入した魏軍30万は、その直後に入口を蜀の主力に塞がれてしまいます。この谷の中には、魏延率いる数百人しかいなかったのです!
「しまった!」と引き返そうとする司馬懿ですが、なまじ大軍が狭い谷にひしめくものだから、思うように動きが取れません。そのとき、谷底一円に仕掛けられていた地雷が火を噴きました!この時代は、まだ地雷を否定する平和団体は活動していなかったのです!っていうか、紀元3世紀に地雷ってあったのかい!
ともあれ、こうして魏軍は猛火に包まれました。絶体絶命の司馬懿は、二人の息子(司馬師と司馬昭)と抱き合って泣き出します。「ああーん、やっぱり俺みたいな凡才が、超絶的大天才スーパー軍師の孔明に楯突いたのがバカだったのだあ!もう、しませーん!許してー、許してー」。
絶望のどん底に陥ったのは、魏延も同じでした。当初の手はずでは、魏延の軍は、谷の奥地に設けられた秘密の抜け道から脱出する予定だったのです。しかし、案内役の馬岱は現れず、抜け道はどうしても見つかりません。
「しまった!孔明に騙された!あいつは、俺のことが嫌いだから、司馬懿もろとも焼き殺そうとしやがったんだあ!」
図星でした。孔明は、遠いところから葫芦谷を焼き尽くす炎を眺めながらご満悦でした。「えへへー、これで司馬懿は死んだな!ついでに、生物学的絶対悪の魏延も死んだな!これで、オイラに勝てる奴は中国全土から姿を消すぜ!俺に逆らう性悪男も絶滅するぜ!天下統一は達成されたようなものだな!がははははー!」
しかし、このとき一天にわかに掻き曇り、とんでもない大雨が降り注ぎました。葫芦谷は鎮火し、こうして司馬懿軍と魏延軍は、無傷で出てきたのです。なんてこったい!
司馬懿は、元の陣地に帰って、今度こそ亀の子のように閉じこもってしまいました。魏延は、かんかんに怒って孔明の本陣に殴りこみます。
「てめえ、孔明!ぶっ殺したるー!」
「お、おやおや、ぎ、魏延くん、何をそんなに怒ってるのかな?」
「とぼけんじゃねー!俺を司馬懿ごと焼き殺そうとしたくせにー!」
「何のことだか、ボクには全然分からないなー。ええ?抜け道が無かったって?そんなアホなー。さては、案内役の馬岱がサボってやがったな!馬岱を呼べ!」
こうして馬岱が本陣にやって来ました。彼は、一から十まで完璧に孔明の指図どおりにやったのに、いきなり怒られます!
「てめえ、よくもサボったなあ!お陰で、可愛い可愛い魏延が死ぬとこだったじゃねえか!」
「えっ?ええっ?でも、もともとそれが目的・・・あ、あわわ」
「許せん!てめえは、クビだあ!下級兵士に落としてやるー」
その会話を聞いていた魏延は、首をかしげます。「なんか怪しいなあ。不自然だなあ」
孔明は慌てて、「そんなことないもん!その証拠を見せるもん!」と言って、兵士たちに命じて馬岱を「百叩きの刑」にするのです。その上、彼を魏延軍の下級兵士として編入し、魏延に「さあ、この馬岱は君の奴隷さ!好きなように虐めて良いよー!」と言ってご機嫌を取るのであった!
馬岱は、半死半生のまま自分の宿舎に運び込まれて泣きました。そのとき、こっそりと孔明の使者がやって来て、「さっきのは、孔明様の本意じゃありません。悪党・魏延を騙すための計略なのです」などと言ってフォローします。馬岱は、「孔明様も辛いのだなあ」と素直に納得するのです。・・・・普通、納得しねえぞ!
言うまでも無く、以上の話は全て『演義』の創作です。
しかし、本当に酷い「話」ですよね。孔明の智謀をアピールすることに夢中のあまり、彼を「人格破綻者」にしちゃっていますもの。
そもそも、どうして魏延をあのタイミングで暗殺する必要があったんだろう?『叛骨の相』があるからにしても、あんな酷いやり方で殺すことはないでしょう。百万歩譲って、魏延がナチスにとってのユダヤ人みたいな存在だと規定するにしても、彼の数百人の部下たちごと焼き殺そうとしたのは解せません。だって、部下たちには何の罪もないのですよ!孔明は、下級兵士の命など、ゴミクズとしか思ってなかったのでしょうか?
また、魏延に詰め寄られたときの、卑怯な言い訳の使い方もムカつきますね。
羅貫中は、自分が科挙に合格できなかったものだから、「知恵者=人格破綻者」という偏見を持っていたのかもしれません。
私見では、「葫芦谷の戦い」は、孔明の魅力を貶める最悪のエピソードだと思います。ただでさえ魅力の無い『演義』版・孔明を、どん底に叩き落とすエピソードですね。
史実の孔明は、フェアで誠実な人間だったことは、これまでのエピソードで紹介したとおりです。 
第17話 星落秋風五丈原 

 

1、星落秋風五丈原
『演義』と違って、『正史』での戦況は非常に地味でした。
孔明と司馬懿は、互いに陣地の中に立て篭もって、じっと睨みあうばかりだったのです。もともと司馬懿は防御側なのだから、彼は守るのが正解です。じゃあ孔明が攻めたかといえば、彼はまったくそういう姿勢を見せなかったのです。兵士たちに麦を蒔かせ、その後は守りに徹していました。
陳舜臣さんの「八百長説」は、おそらくこの状況を見て発案されたのでしょうね。確かに、孔明の態度は不可解です。でも、スポーツならともかく、戦争では八百長は難しいと思うのです。なぜなら、戦争は「集団作業」だからです。孔明が「八百長しようぜ」と言っても、部下たちがみんな言う事を聞くはずがない。かといって、孔明一人が八百長するつもりでも、みんながそういう認識を持っていなければ、思い通りに事を運ぶことは出来ないでしょう。その点、スポーツのスター選手なら、自分の体は自分ひとりでコントロール出来るし、決定的な局面で周囲に悟られずにわざとミスしたり出来るのでしょうけどね。
まあ、要するに、孔明は「攻撃側に立つのが嫌い」だったのです。彼はしばしば劉禅に上奏しています。「私は勇気が無いので、決定的な場面で臆病になり、だからいつも北伐に失敗しているのです・・・」。なんだ、自分で分かっているんじゃん!
そんな孔明は、司馬懿を挑発し、彼を攻撃側に立たせようと画策します。彼は、「防御戦」になら勝つ自信があったのです。なにしろ蜀軍には、究極の防御兵器「元戎」が大量に装備されているのですから。
でも、司馬懿は、第四次北伐で懲りているので、二度と攻撃側に身を置こうとしませんでした。蜀軍の挑発を無視して、じっと陣に篭っていたのです。
焦る孔明は、女衣を司馬懿の本陣に送りつけたと言われています。「陣地に篭りっきりのお前は、女みてえな根性なしだ」という趣意の挑発ですね。これには、帷幕に集う魏の諸将も激怒し、「出陣しましょう!」と大騒ぎになりました。
司馬懿も怒ったでしょうが、彼はこのまま防御している方が賢明だと判断して諸将を宥めます。しかし、みんな怒りに我を忘れている!
窮した司馬懿は、洛陽の皇帝・曹叡に手紙を出して、出陣の許可を貰おうとします。もちろん、聡明な曹叡が却下することを期待した上での狂言です。そして曹叡は、司馬懿の真意を悟って、「絶対に出陣しては駄目だー」との勅書とともに、重臣の辛毘を名代として派遣したのです。辛毘老人は、司馬懿軍の軍門の前に杖を持って立ち塞がり、諸将の暴走を食い止め続けました。
これを知った孔明は、「万策尽きたな・・」と絶望します。そして、働き詰めのその肉体は、ついに破断界を迎えようとしていました。
あるとき、孔明の軍使が、挑戦状を持って司馬懿の本陣を訪れました。司馬懿は、戦のことには触れず、孔明の日常について軍使に尋ねたのです。軍使は、こう答えました。「我が丞相は、朝早くに起きて、深夜にようやく床につきます。そして、鞭打ち20回以上の罰は、すべて自分で執り行います。お執りになる食事は、1日に数升(2合)にもなりません」。
これは、ちょっと誇張気味な気がします。鞭打ち20回以上の罰ってことは、下級兵士(10万人もいる!)の喧嘩まで一人で裁決するってことでしょう?いくらなんでも、孔明はそこまでバカじゃないだろう!それくらい、部下に委譲するだろう!
まあ、この軍使は、尊敬する孔明の偉大さを、ことさらに敵将にアピールしたかったのかもしれません。
司馬懿は、軍使が帰った後でほくそ笑みました。「ふふふ、孔明はもうすぐ死ぬな!」
軍使の話が誇張としても、孔明が過労死寸前になるまで働いたことは事実だろうと思います。秋風が吹く8月(旧暦だからね)、孔明は病に倒れ、あっというまに鬼籍に入ったのです・・・。齢54歳でした。
ああ・・・・。 
2、死せる孔明、生ける仲達を走らす
こうして孔明は、戦場に倒れました。
彼は遺言で、「私が死んだら、全軍で退却せよ」と言い残しました。まあ、当然でしょう。蜀軍の強さは、兵士たちの孔明に対する尊敬と信頼に多くを依存していました。その孔明が死んだとあらば、兵士たちの士気はどん底に落ち、もはや戦争どころでは無くなるでしょうからね。
そこで、蜀軍は孔明の死を兵士たちに隠しつつ、直ちに五丈原からの撤退に入ったのです。
ところが、これに反対する人物がいました。魏延です。彼は、「孔明が死んだくらいで、どうして退却するのだ?戦場に残って戦うべきだ」と言い張ったのです。彼の言うことは無茶ですが、同情の余地はあります。なぜなら、これは蜀にとって「根こそぎ動員」の最後の決戦だったはずなのです。それなのに、一戦も交えずに退却するのは、国民に対しても亡き劉備(平民から取り立ててもらった魏延は、劉備に対して、孔明以上の恩顧を感じていたはず)の霊魂に対しても申し訳が立たないと考えたのでしょう。その気持ちは良く分かります。『演義』の解釈では、「魏延=生物学的悪党」だからみんなに逆らったのだ、という結論になるのでしょうけど。
しかし、孔明の棺の近くには、魏延の政敵であった楊儀がいました。これは、彼にとって、政敵を陥れる最大のチャンス到来でした。彼は、文官の費禕と武将の姜維を取り込んで、なんと、魏延の部隊を戦場に置き去りにし、それ以外の部隊を纏めて密かに退却を開始したのです。置き去りにされた魏延は、あわてて部隊を纏めて後を追いました。なんか、映画『戦争のはらわた』みたいな状況ですな。
さて、司馬懿は、蜀軍が二段階に分かれて撤退を始めたのに驚いたでしょうが、戦争の定石に従って、全軍で追撃を開始します。彼は、敵の主力と思われる楊儀の部隊を追尾したのです。
普通の軍隊は、退却時が弱くなります。隊列が乱れる上、兵の士気も落ちているのが普通だからです。しかし、蜀軍にはこの常識が当てはまりませんでした。蜀軍は、地形と高性能の飛び道具を巧みに利用して追撃者を痛打する名手だったのです。司馬懿は、第四次北伐のとき、片腕と頼む張郃を追撃戦で失うという苦い経験をしています。そのために彼は、蜀軍の逆襲を極度に警戒しながら、慎重に軍を進めたのです。
さて、司馬懿が追撃して来るのに気づいた姜維と楊儀は、陣太鼓を鳴らしながら軍を反転させて喚声を上げました。
これを見た司馬懿は、弱気になって全軍に撤退を命じました。蜀軍の強さは健在と思われたからです。
こうして蜀軍は、無事に山間に逃げ込みました。その後で孔明の死を発表し、喪に服したのです。
近在の住民たちは、「判官びいき」の同情心から、この状況を「死せる孔明、生ける仲達(司馬懿のあざな)を走らす」と言いはやしました。側近からそのことを聞いた司馬懿は、笑ってこう言ったそうです。
「俺は、生きている人間の考えることなら読めるが、死んだ人間の考えることなど分からないからな」
これは、『論語』の一節「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らずや」のモジりです。司馬懿は、「おやぢギャグ」のセンスがあったのかもね。
その司馬懿は、五丈原の蜀軍の陣営跡を視察して、こう嘆息しました。
「ああ、孔明は天下の奇才なり・・・」
きっと、誰が見ても感嘆せざるを得ないような完璧な布陣だったのでしょうね。
蜀漢は、本当に惜しい人材を亡くしたものです。 
3、『演義』に見る五丈原
『演義』は、孔明の死をどう描いたか?
実は、「葫芦谷の戦い」以外は、ほとんど史実どおりに描かれています。司馬懿に女衣を送りつけて無視されたり、軍使の口から健康状態を喝破されたりといったエピソードは『正史』とほとんど同じ書かれ方になっています。ただ、死の直前の様子が少し違います。死期を悟った孔明は、弟子の姜維を助手に使って、延命術を試みるのです。
孔明は、本陣の奥に閉じこもり、飲まず食わずで神に祈りを捧げます。彼の前には大きなロウソク。7日の間、これが灯り続ければ、孔明の寿命はあと12年延びるのです!ってゆうか、そんな荒修行じゃなくて、薬を飲んで安静にしていた方が寿命が延びるんじゃないのかい!と、現代人なら思ってしまうところですな。
ともあれ、荒修行は6日間成功です。いよいよ最後の1日を残すのみ。ところがそのとき、蜀軍が静かなのに不審を感じた司馬懿が、蜀の陣に大軍で攻め寄せたのです。驚いた魏延が、孔明に応戦の指示を求めるために奥の部屋に駆け込んで、なんと、大事な大事なロウソクを蹴り倒して火を消してしまったのです!
助手の姜維は「この悪党!」と叫び、謝る魏延を問答無用に斬り殺そうとします。それを止めた孔明は、「もうよい。魏延みたいな悪党にロウソクを消されたのも天命じゃ!」とつぶやき、そして静かに死の床に向かうのでした。
こうして孔明は死ぬのですが、そのときの遺言で、「魏延は悪党だから、わしが死んだら間違いなく謀反を起こすであろう。そのときのために、秘策を立てておいた。この秘策で、あの悪党をぶっ殺してくれ!」と言うのです。・・・魏延は、いったいどこまでコケにされるんだろう!ここまで来ると、小説の話とはいえ可哀想すぎますねえ。
さて、孔明の棺を守る姜維は、亡き師匠の秘策に従って、悪党・魏延を敵地に置き去りにしたまま退却を始めます。
そのころ司馬懿は、星占いによって孔明の死を悟って大喜びでした。
「わはははー、この中国で俺より強いのは孔明だけだった!その孔明が死んだ以上、蜀軍など虫けら同然だ!追いかけて皆殺しにしてくれる!」
司馬懿は、自ら軍の先頭に立って猛追撃を開始します。ところが、彼の進路の丘の上に、車椅子に乗った孔明が姜維と共に現れたではないか!
「うわー、騙された!孔明めー、魔法の力で天候を操作して偽の死兆星を落としたなあ!あいつは生きている!このままでは魏軍は皆殺しだー!みんな逃げろー!」そう叫んだ司馬懿は、全軍を置き去りにして一人で悲鳴をあげつつ逃げ出します。置き去りにされた魏軍は、姜維の攻撃を受けて大敗を喫し、その後で蜀軍は山間に逃げ込んだのでした。
司馬懿が目撃した孔明は、実は本物そっくりの木像だったのです!これこそ、天才軍師・孔明が、司馬懿に見舞った最後の計略だったのです!それを知った司馬懿は、「ああ、俺は最後まで彼には勝てなかったんだなあ」とつぶやいて肩を落とすのでした。これこそ、まさに、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ですな。
『正史』の記述よりも誇張されていますが、小説としてはすごく面白い作りですね。 
4、魏延の最期
さて、司馬懿の追撃を振り切って山間に逃げ込んだ蜀軍は、二手に分かれて成都を目指しました。
どうして二手に分かれたかというと、楊儀と魏延が互いに敵対関係に入ったからです。この二人は、互いに「謀反人」と罵りあいながら、次々に早馬を劉禅のもとに飛ばして相手を朝敵に仕立てようとしたのです。
成都では劉禅が、毎日のように「魏延が謀反を起こした」「楊儀が謀反を起こした」という矛盾した早馬の報告を受けて混乱しました。彼は群臣を集めて「どちらの主張が正しいのだろう?」と相談しました。大方の見解は、「魏延が謀反したというのが正しいでしょう」でした。
論者の多くは、この様子を「劉禅バカ殿説」の根拠にしています。つまり、「悪党の魏延が謀反を起こしたに決まっているじゃないか。そんな事も見抜けないなんて、やっぱり劉禅はバカだったのだ」というわけです。でも、そういう論者は『演義』の読みすぎなんだと思いますよ。だって、「魏延=悪党」というのは、『演義』にしか書いていないことですもの。むしろ、公平に状況を判断しようとした劉禅の態度は、トップとして真っ当であって、バカ殿呼ばわりされる言われはないと思うのですけどね。
でも、そんな劉禅の周囲には、文官ばかりがいたのです。文官たちは、当然ながら、武闘派で平民出身の魏延より、文官仲間の士大夫・楊儀の肩を持ったというわけです。おそらく、それ以前から武官VS文官という図式が朝廷の中にあったのでしょうね。いずれにせよ、文官たちの発言が劉禅の心に大きな影響を与え、こうして魏延に「謀反人」の烙印が押されてしまったのです・・・。
別々の桟道から漢中に向かう楊儀と魏延は、互いに斥候隊を出して相手の進路を妨害しつつ進みました。そこへ朝廷からの早馬が到着し、そして全軍に「魏延が謀反を起こした」との通達を発したのです。
もともと、孔明の棺を守る楊儀の方が、軍勢も多く、心を寄せる武将も多かったのです。それに加えてこの勅使の到着は、状況を決定的にしました。焦る魏延は、楊儀に決戦を挑んで孔明の棺を奪おうとします。しかし、その前に立ち塞がったのは王平でした。王平が大音声で魏延軍に投降を呼びかけると、さすがの魏延軍の士気は崩壊し、脱走兵が続出したのです。
『正史』によれば、魏延は仁徳者だったので、兵士たちは彼を父親のように慕っていたのだそうです。そんな魏延にして、謀反人の汚名を着せられたとたんにこの始末。逆に言えば、蜀の兵士たちは、父親のような上司よりも劉禅皇帝に対して絶大な忠誠を抱き、良く纏まっていたことが分かるのです。
魏延は、一族郎党数十名になって、なおも成都を目指しました。どうして彼は魏に亡命しようとしなかったのでしょうか?おそらく、劉禅皇帝に一目会って、誤解を解いてもらおうと考えたのでしょう。
しかし、楊儀は馬岱の部隊を派遣して執拗に追跡し、ついに追いつめられた魏延一族は皆殺しになるのでした。ああ、一世の名将の悲惨な最期よ。
陳寿は、『正史』「魏延伝」の本文の中で、「魏延は謀反を起こしたわけではないのだ」と弁護しています。おそらく、陳寿が『正史』を書いていた当時、世間の多くの人が「魏延の死は謀反の結果だ」と思っていたのでしょう。でも、陳寿は生真面目で正義感の強い人だったので、こうした出鱈目な「通説」を覆したかったのでしょうね。
『演義』では・・・。
言うまでも無く、魏延は謀反の結果、亡き孔明が遺した「秘策」によって滅ぼされたことになっています。そのカギとなったのは、「葫芦谷の戦い」のときに、孔明に無実の罪を着せられて一般兵に降格された馬岱でした。彼は魏延軍に編入され、魏延の参謀になったのです。そんな彼は、密かに孔明に授けられた秘策に従って魏延を破滅へと誘導します。
例えば、『演義』の魏延は、最初は魏に寝返ろうとします。しかし馬岱がこう言って止めるのです。「まずは蜀を奪い取って、それから魏を滅ぼす方が賢いですぞ」。すると魏延は、「確かにそうだな。孔明が死んだ以上、蜀で俺に勝てるやつはいねえ!劉禅をやっつけてやるぜ!」ってな具合で、蜀の桟道を漢中に向かうのです。これじゃあ、本当の謀反人ですね。
やがて、楊儀と魏延の対決となります。このとき楊儀は、魏延の武勇を恐れて逃げ腰になりました。しかし、そばにいた姜維が、孔明から渡された「秘策入りの袋」を開いて、その策を実施するのです。
姜維は、魏延に向かって叫びます。「もしも『俺の首を落とす者がどこにいる?』と3回言えたなら、蜀の国をお前にやるぞ!」
魏延は大喜びです。「がはははー、小僧!耳をかっぽじって良く聞けよ。『俺の首を・・・』」
そのとき、魏延の首はすっ飛びました。彼の後ろに立っていた馬岱が、本性を現して逆賊を後ろから斬ったのです。さすがは孔明、死んでも悪を懲らしたのだなあ・・・。
それにしても、本当に魏延は可哀想な扱いを受けていますね。 
5、楊儀の自滅
彼は、なかなかユニークな人物でした。はっきり言って「人格破綻者」です。もしかすると、「精神異常者」だった可能性もあります。
この人は、もともと荊州の士大夫でした。小才が利くので劉備に雇われてその秘書になるのですが、あちこちで人間関係のトラブルを起こすものだから、劉備の晩年は地方に飛ばされて閑職についていました。
そんな彼を抜擢したのが孔明です。前にも説明しましたが、孔明は「荊州出身の士大夫」が大好きで、こうした人材を積極的に登用する癖がありました。楊儀も、この形式基準にクリアできたというわけです。
楊儀は、計数管理に独特の才能があり、兵糧の管理や運搬計画の立案や予算編成と言った実務に長じていました。現代で言うなら、「部課長クラスの経理部員」として優秀だったのです。そして、「取締役管理本部長」だった孔明は、補佐役としてそういった人材を欲していたので、なかなか二人は良いコンビになりました。
楊儀は、孔明の管理業務面での補佐役として、常に北伐に同行しました。しかし、彼の行く先々でトラブルが絶えない。なぜなら、楊儀はその人間性に大きな問題があったのです。彼は、「傲慢で自信過剰で、すぐに他人を軽蔑する意地悪な人間」でした。質の低い税理士や会計士に良く見られるタイプです。
彼が特に不仲だったのが魏延でした。魏延は、いわば「取締役営業本部長」でして、一人で何十社もの顧客を獲得した大功労者でした。誰もが彼を尊敬し、恐れていました。しかし、楊儀だけは違いました。傲慢な彼は、魏延のことを「平民あがりの兵隊野郎」と呼んでバカにしたのです。プライドの高い魏延は、当然、この傲慢な文官を嫌います。
二人の仲が決定的に悪くなったのは、あるときの軍議で口論を交えたときです。このとき、激怒した魏延が剣を抜いて楊儀に突きつけると、もともと臆病な楊儀は怖くて泣き出したのです。このときは、費禕が魏延を宥めて事なきを得たのですが、満座の中で恥をかかされた楊儀は、魏延のことを深く恨みました。傲慢で意地悪な彼は、魏延のことを殺してやりたいと思うようになります。
孔明は、魏延の戦闘能力と楊儀の管理能力をどちらも高く評価していたので、この二人が異常なまでに不仲なのを常に心配していました。
その孔明が死んだとき、蜀軍内部に一時的な「権力の空白状態」が生じたのです。すなわち、常に孔明の近くにいた楊儀が、孔明の権力を一時的に乱用できる状況が生まれたのです。彼は、魏延が撤退に反対なのを知ると、彼の部隊を戦地に置き去りにしたまま撤退を開始したのでした。
激怒した魏延は、あわててその後を追うのですが、今さら憎い楊儀に頭を下げる気にはなりません。そんな彼は、10年以上も漢中太守を勤め上げ、この辺りの地勢を完璧に把握していました。そこで、楊儀と別の間道を使い、先回りしてやろうと考えたのです。こうして、楊儀と魏延は二手に分かれて桟道を渡り、互いに逆賊の汚名を着せようと画策したのですが、その顛末は前回説明したとおりです。
楊儀は、魏延の首級が届けられると完全にキレた状態になり、その首を大地に叩き付け、「馬鹿野郎!」とか「くそったれ!」とか「悪人めえ!」叫びながら、何度も何度も蹴ったり踏んだりしたそうです。・・・なんか、やばい・・。
さて、こうして楊儀は、孔明の棺を守り、ボコボコになった魏延の首を引っさげて成都に帰ってきました。傲慢な彼は、自分が孔明の後継者になれると信じ込んでいました。でも、孔明が遺言状の中で後継者に指名したのは蒋琬だったのです。
蒋琬は、やはり「荊州士大夫」でしたが、孔明の留守中に蜀の内政全般を掌り、実に見事な業績をあげていました。ですから、彼が孔明の後任になったのは、誰もが認める当然のことだったのです。
しかし楊儀は、自分のほうが蒋琬より賢いと信じ込んでいたので、この人事に不満でした。彼は「中軍師」に昇進したのですが、仕事もしないで他人の悪口ばかり言い、寝不足で目に隈を作り、意味不明の言葉をぶつぶつ喋りだしたりと、要するにノイローゼになってしまったのです。
この様子を見た劉禅は心配になって、費禕に楊儀の家を訪問させました。費禕は温厚で誰からも好かれる人柄だったので、楊儀が心を開いて本音を語れる唯一の要人でした。それで、楊儀は本音を語りました。
「俺は、後悔しているのだ。俺が孔明の死体を守って国に帰ったのは、後釜になれるに違いないと思っていたからだ。それなのに、蒋琬なんかに攫われるは夢にも思わなかった。ああ、五丈原にいたときに、いっそのこと、遠征軍全軍を連れて司馬懿に降伏するべきだったな。そうしたら、今ごろ俺は魏の丞相になっていたはずなのに・・・」
・・・とても、正気とは思えませんね。私が、楊儀を精神異常者ではないかと疑ったのは、この異常な発言があったからです。
この発言を聞いた費禕は、顔面を蒼白にしながら劉禅に復命しました。驚いた劉禅は、楊儀をクビにして庶民に落とします。しかし楊儀は逆ギレして、激烈な誹謗文書を朝廷に書くのです。これには、さすがの劉禅の堪忍袋の緒も切れて、ついに楊儀を逮捕しました。彼は、牢屋の中で憤懣に耐えかねて自殺したのでした・・・。
それにしても、こんな奴のせいで、蜀漢で最強の武将であった魏延を惨死させてしまうとは・・・。蜀漢は、自分で自分の首を締めたようなものですな。
そもそも、楊儀のような人格破綻者を重用した孔明の神経にも疑問を感じますけれど、まあ、蜀漢は人材不足の国だからなあ。 
第18話 諸葛孔明伝説 

 

こうして、孔明の北伐は幕を閉じました。
天下三分の形勢は、小揺るぎもしませんでした。
残念ながら、孔明は、軍事英雄の器では無かったのです。
ただ、それはアレクサンダー大王やナポレオンといった歴史上の軍事英雄や、『演義』で描かれた虚構の姿と比較した場合の話であって、蜀の劣った国力を鑑みれば、かなりの健闘だったと思います。少なくとも、大きな敗北を喫しなかったわけですから。
孔明は、超一流の管理本部長だったし、たいへんな勉強家だったため、軍事の仕事についてもかなり熟達していたと思います。ただ、やはり勝負所の勘とか、奇策を用いるとか、そういったノウハウには大きく欠けるところがあったでしょう。
ところが、『演義』ではまったく逆の姿で登場しますね。どうしてかといえば、『演義』は大衆向けの娯楽小説で、しかも軍記物語ですから、「偉人=戦争名人」という書き方しか出来ないからです。みんなのヒーロー孔明は、戦争の天才でなければならなかったのです。
驚くべきことに、「孔明=戦争名人」というのは、現代の通説のようになっています。『演義』という小説の凄さを痛感させられますが、逆に怖さも感じます。例えるなら、多くの教養人が「ウルトラマン=実在の存在」と信じ込んでいるような状況だからです。これでは、本当に大切な歴史のノウハウが後世に伝わらないのではないかと危惧します。私は、ウルトラマンを否定するつもりはありませんが、ウルトラマンはあくまでも架空のヒーローとして尊ぶべきだと思うのです。
歴史上の孔明の本質は、『正史』諸葛亮伝の評の部分に、見事に描かれています。そこで、これを全文掲載しましょう。
「諸葛亮は丞相になると、民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、官職を少なくし、時代にあった政策に従い、真心を開いて公正な政治を行なった。
忠義を尽くしたり国に利益を与えた者は、仇であっても必ず賞を与え、法律を犯し職務怠慢な者は、身内であっても必ず罰した。罪に服して反省の情を見せた者は、重罪人でも必ず赦してやったが、言い抜けをして誤魔化す者は、軽い罪でも必ず死刑にした。
あらゆる事柄に精通し、物事はその根源を糾し、建前と事実が一致するかどうかを調べ、嘘いつわりは歯牙にもかけなかった。
かくして、領内の人々は、みな彼を尊敬し愛したのである。
刑罰と政治は厳格だったのに恨むものが一人も出なかったのは、彼の心配りが公平で、賞罰が明確だったからである。
政治の本質を熟知している良才であり、管仲(春秋時代の名宰相)や蕭何(前漢の名宰相)といった名相の仲間というべきだろう。
しかし、毎年のように軍勢を動かしながら、よく成功をおさめることが出来なかったのは、思うに応変の機略が彼の得手ではなかったからであろうか」
諸葛孔明は、まさに人類の永遠の理想を体現した政治家だったと思います。今の日本に、いや世界に、孔明のような人が現れてくれないかなあ。
そう願うのは、きっと私だけではないはずだ・・・。 
 

 

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