古代日本 諸説 [3]

よみがえる九州王朝 / さらば邪馬台国邪馬台国から九州王朝九州王朝風土記幻の筑紫舞筑紫舞追記・・・
教科書に見る古代史 / 縄文文化論中国古代文明論弥生文化論「日本語」「日本神話」起源論捏造邪馬台国論大和朝廷による日本統一神武天皇の東征伝承倭=大和朝廷倭建伝承聖徳太子の外交聖徳太子の政治「大化の改新」はなかった日本国誕生律令国家の諸相律令政治の展開日本神話日本語の確立聖徳太子とは誰か聖徳太子聖徳 「太子」の疑問魏志倭人伝雑話
白村江の戦い / 戦い1百済戦い2戦い3(前後史)戦い4(前後史)参戦者
歴史物語 [上代〜平安]・・・
 

雑学の世界・補考   

よみがえる九州王朝

まだ誰の目にもハッキリと見えているというわけではないけれども、わが国の古代史観は、相和しがたい二つの流れに分たれている。
その一つは、一元史観。わが国の古代史は天皇家を中心に発展してきた、という“信念”に立っている史観だ。戦前の史学はもとより、戦後の史学もまた、遺憾ながらすべてこれに属している。天皇家中心主義の立場である。
これに対するのが、わたしの多元史観だ。わが国の歴史は、天皇家などよりもはるかに古く、はるかに悠遠である。それゆえ当然のことながら、天皇家以外に、あるいは以前に、別個の(一定領域の)統一国家、また別個の中心の王朝が先在し、実在していた。そのように見なす立場なのである。
たとえば九州王朝も、その一つだ。近畿天皇家はその分王朝(分家)に当っていた。他にもある。たとえば沖縄、たとえば東北・北海道にも、天皇家とは別個の文明圏があり、その文明と政治の中枢があった。関東や北陸にも、おそらくそうだ。否、のちに天皇家の本拠となった近畿でも、すでに銅鐸圏があった。それは天皇家以前の、別個の広域の文明圏である。それゆえ独自の統一中心の存在(大阪府茨木市)がそこにあって何等不思議ではない。 ーーこれが「多元的古代」としての日本列島観なのである。
今のところ、小・中学や高校の教科書も、大学の講座も、すべて従来の一元史観を根本として組み立てられている。明治百年の「天皇制」教育の一大成果といってよい。否、古事記・日本書紀という、八世紀の天皇家の「伝承の書」と「正史」が成立して以来、千二百年にわたる“永年の教育”の根深い成果ともいえよう。
けれども、その千二百年の“うろこ”を静かに己(おの)が目より拭い去ってみれば、このような“偏向した目”からは、こぼれ落ちる事実、あつかいかねる重大な史料が少くないことに気づくであろう。たとえば中国の史書。それは同時代史料であり、その多く(三国志・宋書・隋書等)は記・紀に先立って成立していた。ところが、それらの描く日本古代像は、記・紀のそれとはおよそ一致しない。
有名な一列をあげよう。七世紀前半の日本列島を東アジアに対して代表する王者、「日出ずる処の天子」の国書で有名な多利思北孤(たりしほこ)は男帝である。推古天皇のような女性とは似ても似つかない。しかも、その男帝の国をシンボライズする名山は阿蘇山。その火山活動が簡潔な漢文で活写されている。「火起りて天に接す。」と(隋書、イ妥たい国伝)。
これほど明白に、七世紀前半に隋の煬帝と国交を結んだわが国の王者が、“飛鳥の女王(推古)”などではなく、“阿蘇山下の天子”であった事実を端的に物語る史料はない。しかるに従来の一元主義史観に立つ全学者と全教科書と全講座は、この明白な背理に向って、かたくなに目に“うろこ”を貼りつづけていたのだった。
そのような“真実を見ざる目”は必然的に、多くの他の事実、歴史の珠玉と現代に遺存する伝承、それらの真の姿に対してもまた、永く「盲目」でありつづけることとなった。
たとえば“九州にだけ、二種類の風土記が成立している”という、学界の中では著明の事実に対して、どの学者も鮮明な説明を与えることができなかった。そしてそのまま、今日に至っていたのである。
また盲人と唖者によってひそかに伝えられていた筑紫舞が、実ははるか天皇家以前に淵源する宮中芸能と見られる趣をもっていたこと、その不可思議・幻妙の世界に対しても、従来の一元主義芸能史観に立つ人々は、およそこれを的確に解するすべを知らないであろう。
けれども幸に、世の底に心の目をもつ人あって、己(おの)が生命(いのち)にかえ、この無二の舞楽を今日に守り伝えてきていたのであった。
わたしは多元史観という学問的視野に今立つことによって、多くの新しい史的事実、わが国における豊かな口承と芸能の伝統にあらためてここに目覚めることができた。そのことを本書の読者と共に静かに深く喜びたいと思う。このような浄福のときにおいては、世上の讒謗(ざんぼう)や無法の妨害も、竹林の上を朝(あした)に過ぎゆく浮雲より、さらに一層はかないものにすぎぬであろう。そして真実が歴史という時の流れの中でやがてあらわとなってくること、それをわたしは心の底に深く信ずるのである。
本書とほぼ時を同じくして、わたしの古代史学術論文集を世に提示できることを喜びとする。『多元的古代の成立』(駸々堂刊)がこれである。今年(昭和五十七年)七月、東京大学の史学雑誌に掲載された同名の論文を筆頭とする、この論文集に対して、無論賛否のいかんを問わず、学界の反応を期待すると共に、本書の読者もまたここに目をそそいでいただければ、わたしにとってこれに勝る望外の喜びはない。
本書中、古代史上の諸説に対し、忌憚(きたん)のない批判をさせていただく点が少くなかった。被益していただいた、その御恩返しとして御海容をうることができれば、幸である。(一九八二年)
第一章 さらば「邪馬台国」よ

 

昭和五十六年三月十一日の昼下り、窓外の竹林にも風のさわやかな日だった。
『三国志』の中の魏志鮮卑伝、二十四史百衲本(ひゃくのうぼん)のページをめくり、「厥機けっき」ーーその二字を見つけた一瞬。思わず、わたしはつぶやいた。ーー 「これで、決まりだ」と。
ことのいきさつは、数日をさかのぼる。
京都新聞学芸部の方(熊谷栄三郎さん)から電話があった。「また、三木さんから原稿が来ましてね。コピーを送りますから、御覧になって下さい。もしよければ、応答をのせたいんですが」。いっもの、人の好さそうな熊谷さんの顔が浮かんだ。ニコニコとして小柄な印象から、はじめはこれほど“執念の人”とは思わなかった。この方から最初に電話がかかってきたのは、思えば一昨年(昭和五十四年)の十一月だった。「三木太郎という人の『魏志倭人伝の世界』(吉川弘文館)という本を読んだところ、大分古田さんのことが書いてありましてね、批判ですよ。それで古田さんの方から書評というか、その批判に答えてもらうわけにいきませんやろか」
わたしも、偶然その本を買って読んでいた。たしかにわたしの「邪馬壹国やまいちこく」説への批判をふくんでいた。それは十世紀(九七七)に成立した『太平御覧たいへいぎよらん』に引用された「魏志ぎし」を、『三国志』の“本来形”と見なすものだった。この研究の、一つの重要な目的は、そこにある「邪馬台(臺)国」の四文字、それがやはり正しい、そういう帰結のようだった。
“「邪馬台国」と直してはいけない。やはり原文通り、邪馬一(壹)国で考えなくては”。このわたしの第一テーマは、何よりも「邪馬台国」近畿説にとって“目ざわり”だった。なぜなら「邪馬台=大和(ヤマト)」と見なすのが、近畿説論者の基本だった。従ってわたしのさし出したテーマは、いわば“眼下の敵”だったのであるから。現存『三国志』のすべての版本(南宋なんそうの紹興しょうこう本・紹煕しょうき本等)が一致してしめす、あの「邪馬一国」では、どうにも“恰好(かつこう)がつかない”のだった。
だから三木氏のこの研究の背後には、 ーーわたしの名前が直接出てくる回数などとは関係なしにーー昭和四十四年以来の、わたしの「邪馬一国」論が一つの大きな影として横たわっている。この本の研究思想を見すえてみれば、これは自明のことだった。
熊谷さんは、ここに目をつけられたようである。“古田は常々反論者を待望している。ならば当然、この三木氏の批判に応ずるはず”。そのように思われたのであろう。正解だった。
わたしは答えた。「いいですよ」。
そして出来上ったのが「『邪馬壹国』論争の復活」だった。それは京都新聞昭和五十四年十二月二十六日の朝刊に載った。爾来(じらい)、延々と十五回、足かけ三年つづいて今日に至っていた。その詳細は、今は書くいとまがない。だが、結局のところ、論争の、最後の「鍵(キイ)」となったもの、それは「神聖至高文字」の問題だった。
わたしの第一書『「邪馬台国」はなかった』をお読みいただいた方には、先刻御承知の通り、わたしが“『三国志』原文の「邪馬一国」を「邪馬台国」へと手直しし、「大和」や「山門」にあてはめる”この改定手法を否定した、その決め手がこれだった。その要旨は、次の通り。
“『三国志』では、「台(臺)」といえば、天子のことだ。たとえば倭人伝でも、卑弥呼のところで「天子に詣(いた)る」とあるところが、壱与(いちよ)のところでは「台に詣る」とあることを見ても明白だ。ところが、一方、その『三国志』の夷蛮(いばん)伝(烏丸(うがん)・鮮卑(せんぴ)・東夷伝)では、「夷蛮」の人名や国名などの固有名詞を漢字で表記するさい、「卑弥呼」や「邪馬一国」などの「卑字」を頻用している。「卑字の大海」だ。しかるに魏晋(ぎしん)朝において「台=天子」を意味した、この「神聖至高の貴字」を「夷蛮」の固有名詞の表記にあてるはずはない。なぜなら他にも「ト」を意味しうる文字は数多いのであるから”と。これが、魏晋朝の記録官・史官の「用字選択の道理」に立った、わたしの論証だった。やはり『三国志』において「邪馬台国」などありえなかった。 ーーこのような、わたしの三世紀における「邪馬台国」否定の論証、それは従来のすべての「邪馬台国」論者にとっての“とげ”のように、この十年来、論者をおびやかしつづけてきたのである。三木氏が今回、敢えて反論を用意しようとされたこと、それは偶然ではなかった。
やがて送られてきた今回のコピーを見た。「『神聖至高文字』とは何か」(昭和五十六年四月一日掲載)と題する一文。その末尾の一文を見たとき、わたしは首をかしげた。
「・・・『三国志』には、『台』と同じように『朝廷(或は天子)』の意味でも用いられた『闕』の字が、当時の倭と同じ四夷の一国、鮮卑の大人(指導者)の人名にも用いられているのである」
わかりにくい文だ。が、調べてみると、判明。
A「(鮮卑)其の大人、弥加・闕機・素利・槐頭と曰う。・・・其の大人、柯最・闕居・慕容等と曰う、大帥と為す」
これは『三国志』そのものではなく、王沈(おうちん)の『魏書ぎしょ』鮮卑伝の一節だ。この本は現存していない。ただ『三国志』にくっつけられた裴松之(はいしょうし)の注(裴注という)に引用されているだけだ。だが、幸いなことに裴注に引かれた諸書の中、この『魏書』は最高の引用率を誇っている。
この中の一つが右の鮮卑伝の一節なのであった。ここに出てくる「闕機」「闕居」、これに三木氏は目をつけられた。それが右の一文の史料的基礎であろう。
王沈は泰始二年(二六六)に死んでいる(『晋書』王沈伝)。魏朝に仕えたあと、西晋初頭、ちょうど壱与が貢献した(泰始二年十月)年、死んでいるのである。だから当然陳寿(ちんじゅ)の『三国志』に先行する(陳寿は元康(げんこう)七年〈二九七〉没。『三国志』はその死後、正史となる)。つまり直前の先行史書だ。従って、王沈の『魏書』→陳寿の『三国志』の影響関係にある。
たしかに鋭い着眼だった。この『魏書』鮮卑伝には、
「建武三十年(五四。後漢光武帝)、鮮卑の大人、於仇賁(人名)、種人を率いて闕に詣りて朝貢す」
といった表現もある。この「闕に詣る」は、先の『三国志』の「台に詣る」と同様、「天子に詣る」と同義の用法だ。従って「闕=天子」として使われていることは、疑えない。事実、漢代に「魏闕ぎけつ」といえば、天子のことだった。この場合、「魏」は国号ではない。“魏魏(ぎぎ=巍巍)高大のさま”の意味である。
これをもとに“作られた”のが、先にあげた「魏臺」の用語だ。魏の高堂隆(こうどうりゆう)は第二代明(めい)帝の老臣だった。さすが気鋭の明帝も、この硬骨の老臣には頭があがらなかった。そのさまが『三国志』の高堂隆伝に生き生きと描かれている。明帝は高堂隆が死んだとき(景初元年〈二三七〉か)、
「天、吾(わ)が事を成さんことを欲せず、高堂生の我を舎(す)てて亡ぶや」
といって歎いた、という(古田『邪馬一国への道標』第三章、参照)。
このあと、卑弥呼の使、難升米が洛陽(らくよう)に到着して明帝に拝謁を乞うたのが景初二年六月のことだった。
この高堂隆は、明帝のことをもっばら「魏臺」と呼んでいたようである。といわまた「魏臺、物故の義を訪(と)う。高堂隆、答えて曰(いわ)く『之を先師に聞く。物は無なり。故は事なり。復(また)事に能(よ)くする無きを云うなり』と」(蜀志、裴松之注)「魏臺雑訪議、三巻、高堂隆撰」(『隋書』経籍志)
これらの「魏臺」とは、いずれも明帝のこと。何より『魏臺雑訪議』という書名が、それをしめしている。この魏朝の「魏臺」の前身が、漢朝の「魏闕」だった(「心は魏闕の下に居る」『呂覧りよらん』審尉しんい)。高堂隆が「魏臺」というときの「魏」は、漢代とは異なり、一方で“高大なさま”の意、他方で国号、その両方の、いわば“かけことば”であったはずである。
以上のような次第だ。だから、漢代の「闕」が、魏代の「臺」、これが大体の“位どり”なのだ。してみると、明らかに“夷蛮の人名”に「闕」字を使っている、この「闕機」「闕居」という事例。これはわたしの論証をくつがえすに足る、屈強の事例ではないか。
わたしは身ぶるいした。久しぶりだ。榎一雄さんとの読売新聞(昭和四十八年五〜九月、東京版)紙上の長期論争(榎「邪馬台国はなかったか」十五回。古田「邪馬壹国 ーー 榎一雄氏への再批判」十回)や尾崎雄二郎さんとの論争(尾崎「邪馬壹国について」京大教養部「人文」一六、昭和四十五年。古田「邪馬壹国の諸間題」「史林」五五 ー 六・五六 ー 一、昭和四十七〜四十八年)など以来、久しく味わったことのない、この緊張だった。
しかし幸いにも、その日のうちに、新たな“発見”が誕生した。それが、冒頭にあげた『三国志』の魏志鮮卑伝の一節だった。
B「(鮮卑)素利・弥加・厥機、皆大人為(た)り。遼西(りょうせい)・右北平(ゆうほくへい)・漁陽(ぎょよう)の塞外(さいがい)に在り。・・・厥機死し、又其の子、沙末汗を立てて親漢王と為なす。延康(えんこう二二〇)の初、又各〃使を遣わして馬を献ず。文帝(魏の第一代)、素利・弥加を立てて帰義王と為す」
右のAとBを比べてみよう。
A〈王沈の『魏書』〉  B〈陳寿の『魏志』〉
 弥加・闕機・素利    素利・弥加・厥機
(Aの「闕居」に当る人名は、Bには出現しない)
人名の順序こそちがえ、「弥・加・機・素・利」の五字共、同じ表記だ。両書の前後関係から見て、陳寿が王沈の表記をうけついだ、そう見なすほかはない。ところが、問題の「闕」だけ、陳寿はうけつがなかった。そして「厥」字に取り換えているのだ。 ーーなぜか
当然“「闕」字はふさわしくない”。陳寿はそう判断したのである。その理由は何だろう。他にはない。“「闕」は漢代などには、天子を指すために用いられていた文字だ。だから「夷蛮」の人名などを表わすにはふさわしくない”。そう判断したのである。問題は漢代だけではない。肝心の魏志中にも「黄初五年(二二四。魏文帝)に至り、歩度根、闕に詣りて貢献す」(鮮卑伝)とあるのであるから。
そしてかわりに用いられた文字、それが「厥」だった。この文字は「ソノ」という代名の辞として、『書経しょきょう』などに盛んに出てくる。
「禹(う)、厥(そ)の功を成す」(『書経』大禹謨たいうぼ)
のように。他にも、次のような意味がある。
(1)石を発掘する。(2)ほる。(3)つくす。(4)つく。(5)病名。(6)それ。(7)の(助辞)。(8)句調を整える助辞。(9)みじかい。(10)石の名。(11)ゆれ動くさま。(12)姓。(諸橋轍次『大漢和辞典』による)
いずれにせよ、いわゆる「神聖至高文字」ではない。その「厥」字を陳寿は、ここに当てた(のちに、北方の「蛮族」である「突厥」という民族名に頻用される)。「厥」と「闕」、音韻 は両字共通だ。
闕、去月切。(韻入声〈広韻〉)
厥、居月切。(同右)
だからそのちがいは、もっばら表意上の問題。 ーーそのように考えるほかはない。すなわち“陳寿は、主として前代の「神聖至高文字」である「闕」字すら、「夷蛮」の者の表音表記には適切ではないと見なしている ーーその好例だ。
(主として)前代の「神聖至高文字」すら、採択しなかった陳寿。その彼が、なぜ、まさに当代の「神聖至高文字」である「臺」字を「夷蛮」の国名をあらわすのにとりあげるか。 ーー到底ありえない。これは自明の帰結だ。
三木氏がわたしに突き出された鋭い刃、それは百八十度反転し、「邪馬台国」論者自身の心臓部に深く突きささることとなったのである。
以上の論証をわたしは「闕けつの論証」と呼ぶ。その意義をここに確認してみよう。
わたしにとって、邪馬一国問題は古代史学への真の入口であった。昭和四十四年(九月)のわたしの論文「邪馬壹国」(「史学雑誌」七八 ー 九)で問うたもの、それは江戸時代の封建史学以来疑われずにきた、わが国の“古代史学の手法”そのものに対する、根本的な疑惑であった。
もしかりに、事態が次のようであった、としよう。“普通、倭人伝中の中心国名は「邪馬臺国」と思われている。しかしその表記は後代版本(たとえば明・清代や江戸時代)の『三国志』に限られる。それ以前の、より信憑(しんぴょう)できる古版本(たとえば北宋本)の『三国志』では、「邪馬臺国」となっている。だからこれ(後者)に従うべきだ”と。こんな風にことが進行していたとしよう。それならわたしには、何の疑惑も生じない。「なるほど」。そう思って敬服するだけだ。
だが、実態はちがっている。
(イ) 『三国志』では、邪馬一(壹)国だ。
(ロ) しかし倭王とある限り、日本では天皇のことだ。
(ハ) 天皇の歴代(第一代神武から第四十九代光仁まで)は、多く大和にいたもうた。
(ニ) だから「大和」と読みうるような「邪馬臺国」へと原文(現存古版本)を手直しして用いることとする。
江戸前期の松下見林(けんりん)の最初の「改定の論理」、それは右のように進行した。イデオロギー優先の史観だ。「天皇家中心主義史観」の観念から、原本(古版本)の字句をいじる。こんな手法は、どう見ても、実証主義以前の手法だ。わたしにはそのように見えたのである。
この点、明言すべきことがある。『三国志』中、特定の版本だけに「邪馬壹国」と記されているように、再三のべている論者(たとえば松本清張氏『眩人』、宮崎康平氏『新稿、まぼろしの邪馬台国』等)がいまだにあるけれども、明らかに誤解であることをここに特記しておきたい。『三国志』の全版本がすべて「邪馬壹(一)国」なのである。
従って、見林に次いで、江戸中期の新井白石が“九州にも「ヤマト」あり”として、筑後山門(ちくごやまと)に目を向けた(「外国之事調書」)ことも、わたしの方法意識から見れば、見林と同じく、否むしろ“輪をかけて”方法上の錯乱を犯している、そのようにいうほかはない。なぜなら彼は「壹 → 臺」改定の理由が、ひたすら“近畿の大和を目ざす”ためであったこと、その基本事実を忘却した。そしてただ「ヤマト」という発音だけを抜き取って、九州へと“根継ぎ”しようとしたからである。
これら江戸時代の二先達の後塵(こうじん)を拝したもの、それが明治以降の二大学派の対立だった。いわゆる白鳥庫吉(しらとりくらきち)流(東大系)の九州説、内藤湖南(こなん)流(京大系)の近畿説がこれである。
ところが、庫吉は版本の問題について、“敢えて論ずる”ことがなかった。一方、湖南はさすがに、『三国志』諸版本渉猟の跡をしめした。従って当然各版本とも例外なく「邪馬壹(一)国」である事実を察知していたであろうけれども、依然この中心国名問題に対して視点を掘り下げることがなかった。
爾来、わたしが論文「邪馬壹国」を出した昭和四十四年に至るまで、このテーマに対して、正面から対面する研究者を、遺憾ながら見なかったのである。
それは、些々(ささ)たる一文字の異同という、“校正上”の一事件ではない。“イデオロギーに導かれて、古典の原文改変を行ってもよいか”。すなわち「実証主義以前」と「実証主義以後」と、その行方を峻別(しゅんべつ)する一点、わたしの目にはそのように見えていた。
そして今、この「闕の論証」によって、やはり日本古代史学旧来の手法の非であったこと、その確証を見たのである。
けれどもこの論証のもつ意義は、ただ右のような“方法上の問題”にとどまるものではない。なぜなら「大和」による近畿説、「山門」等による九州説、いずれもその眼晴(がんせい ひとみ)を失い去ることとなるからである。
先ず近畿説。不弥(ふみ)国(博多湾岸)以降、「南」の方角にしるされた、この中心国に対し、「東→南」の方向転換まで敢行させて一路近畿を目指させた最大の原動力、それは一にこの「邪馬臺=ヤマト」という改定名称の“音当て”の力ではなかったか。
次に九州山門説。考古学上の出土分布からは、筑後山門の地が、銅鏡からするも、銅矛の鋳型等からするも、一切九州全土の中枢たる実状況をしめさぬにもかかわらず、なお九州説(東大系)の雄たるかのごとき勢威をしめしえたのは、一にこれもまた、この「邪馬臺=ヤマト」の“音当て”の力ではなかったか。
しかしながら、「闕の論証」の成立した今、この二域(及び他の「ヤマト」類音の地)は、いずれもその最大の根拠を喪失することとなった。これによって永き「ヤマトの魔法」から解き放たれ、科学としての古代史学の、晴明な暁に出会うことができた。 ーーこの論証を見出した朝、竹林の中の小道を辿たどりつつ、わたしにはそのような思いが静かにこみあげてきたのである。  

問題をもう一歩、きめ細かく突っこんだところ、その吟味をAさん(古代史通の高校もしくは大学生)との対話の形でしるしてみよう。
A「王沈の『魏書』ってのは、何だか古田さんの本で読んだことがあるみたいな気がしますけど」
古田「そうだよ。『邪馬壹国の論理』に出てくる「邪馬壹国の諸問題」という論文の、尾崎雄二郎さん(現、京大人文科学研究所教授)との論争のところだよ」
A「そうそう、王沈の『魏書』では、何でも『壹衍[革是](イチエンタイ)』とあるのが、『漢書』では『壷衍[革是](コエンタイ)』とある、とかいう問題でしたねえ」
古田「さすが、よく憶えてるね。その通りだ。尾崎さんは“中国の史書にもあやまりがある”という例として使われたんだけど、わたしとしては、そんな一般論は何も主張してはいない。『三国志』という特定の書物の、「壹」と「臺」という特定の二文字間の錯誤いかん、それだけを問題にしているのだ。そう切りかえしたんだ」
[革是]は、革に是。JIS第3水準、ユニコード97AE
A「中国の本や史書全体の無謬(むびゅう)論などとも、無縁だ、というんでしたね」
古田「そうだ。あのとき、あのような形で問題の輪郭を浮き彫りにしておいてよかった、と思っているよ」
A「そうですね。今度こそ同じ魏晋朝に成立した二つの本の関係ですからね」
古田「“魏晋朝の史書なら、何でも同じ”というわけじゃないことが、今度ハッキリしたね」
A「やっばり、問題は厳密に処理しておくべきもんですね」
古田「仰せの通り。“もし、あそこをあいまいにしていたら”。そう思うと、今度は首筋をヒヤッとさせられたよ」
A(「ところで、ちょっと他の質問ですけど。王沈という人の考えは、どうだったんでしょう」
古田「・・・というと」
A「彼は、『闕』でも『臺』でも、みんな夷蛮の人名や国名をあらわすのに使っていい、そう思っていたのでしょうか」
古田「いや、そうとも限らない。“『闕』は主として前代(漢)の神聖至高文字だからいい。今の神聖至高文字である『臺』は駄目”。そういう立場だったかもしれないよ。何しろ、王沈の『魏書』の全体が残っていないから、分らない、というのが、一番の正解じゃないかな」
A「その通りですね。その三木さんが最近、季刊『邪馬台国』一二号で書いておられるのを見たんですが、『山陽公載記さんようこうさいき』の
『臺、此を以て孤を都郷侯に封ず』(『三国志』巻四十六、裴注所引)
という例をあげて、漢代にも臺は天子(山陽公)をさすのに使われている。だから古田説は成り立たないように言ってあったんですが」
古田「そうだね。それは“『臺』を天子の称号に使う先例が、後漢末に遡る”だけのことだから、何も不思議じゃない。わたしは代表的にいって、天子の呼称は“漢代は闕、魏・西晋代は臺が使われた”といっているだけだからね。なぜその例が『古田説』なるものの存否と関係するのか、わたしには全く不明だよ。それに史料批判上大切なことがある。その『山陽公載記』というのは、魏朝以降の成立なんだ」
A「後漢の最後の天子、献帝が魏へ帝位を禅譲したあと、『山陽公』と呼ばれたんでしたね」
古田「よく知ってるね。その通りだ。その山陽公が没したのは、青竜(せいりょう)二年(二三四)三月、魏の第二代、あの明帝のときだ(魏志、明帝紀)。だから『山陽公載記』に『臺』とある場合、それは漢朝の用法ではなくて、魏朝(以降)の文献の用例なんだ。魏は『天子=臺』なる山陽公から禅譲をうけたことになっているんだからね。
だから、三木さんの思考とは逆に、『魏・西晋朝で天子を臺と呼んでいた』。その証拠となる文献を、ここでも、三木さんは“発見”して下さったんだ。もちろん、これはわたしもマークしていた例だったけどね。
それはともかく、有難かったのは、やはり先の『闕』の問題だ。三木さんのおかげで、文字通り論争の真只中(まっただなか)から、この『闕の論証』は生み出されたんだから。この長期論争を辛抱強くささえて下さった、京都新聞の熊谷さんたちにも、感謝は尽きない気持だ」
第二章 邪馬台国から九州王朝へ

 

■ 1 短里論争  
「今、中国側から返事がとどきました。赤壁(せきへき)の川幅は四〇〇〜五〇〇メートルだそうです」
東方書店の神崎勇夫さんの声が電話から聞えた。
“ああ、やっばり” ーー体内の疑問が氷解してゆく爽快(そうかい)感を覚える。昭和五十六年十一月はじめのことである。
年来の疑問だった。この赤壁とは、『三国志』中のハイライトの一つ、赤壁の戦の現場である。その戦況は次のようだった、と書かれている。
揚子江(ようすこう)の北岸には魏の曹操(そうそう)の大船団が「首尾相接する」形でギッシリと並んでいた。これに対する南岸の呉(孫権そんけん)・蜀(劉備りゅうび)連合軍の数は劣っていた。そのとき呉の部将(将軍周瑜しゅうゆの部下)であった黄蓋(こうがい)が火船の計を進言し、自ら実行したのである。
そのときの実戦状況に精(くわ)しい『江表伝こうひようでん』(西晋の虞溥ぐふの著)によると、それは次のようだったという。
「戦の日に至り、蓋(黄蓋)、まず軽利艦十舫(ぽう)を取り、燥荻(そうてき)・枯柴(こさい)を載せて其の中に積み、灌(そそ)ぐに魚膏(ぎょこう)を以てし、赤幔(せきまん)、之を覆(おお)い、旌旗(せいき)・竜幡(りゅうばん)を艦上に建つ。時に東南風急なり、因りて十艦、最も著しく前(すす)み、中江にして帆を挙ぐ。蓋、火を挙げ、諸校(軍士をさす)に白(もう)し、衆兵をして声を斉(ひと)しくして大叫(たいきょう)せしめて曰く『降(くだ)る』と。
操(魏の曹操)・軍人、皆営を出で立ちて観(み)る。
北軍を去ること二里余、同時発火す。火烈しく風猛に、往く船は箭(や)の如く、飛埃(ひあい)・絶爛(ぜつらん)、北船を焼き尽くし、延(ひ)いて岸辺の営柴(えいさい)に及ぶ。
瑜(呉の周瑜)等の軽鋭、尋(にわ)かに其の後を継ぎ、雷鼓して大いに進む。北軍大壊し、曹公(曹操)退走す」(『江表伝』。呉志、周瑜伝の裴(はい)注の引文)
大意は次のようだ。
“十舫(もやい舟)に魚油をしみこませた枯柴類を積みこみ、中江(揚子江の中ほど)に出たとき、「降服する」と大きな声で叫び、さらに接近した。そして北軍(魏軍)を去る二里余のところに来たとき、(乗員はもやいの小舟で離れ)積んでいた枯柴類に火を放ち、北船に向けてその無人火船を突入させたのである。それによって北船は焼き尽くされ、北岸の陣営さえ類焼するほどだった。それを追うように本隊の周瑜の軍が襲撃し、北軍は壊滅状態に陥った”というのである。
問題は右の「二里余」だ。これはどのくらいの長さを意味するのだろう。最初にこの史料にふれたときからの疑問だった。だが、揚子江の現地など、行ったこともないし、想像もつかない。だからこの北岸と南岸との間の距離が、現地の実景の中でどのように収まるのか。見当がつかない、と投げ出していた。ていよくいえば、保留してきたのである。
わたしの第一書『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方なら、お分りだろう。わたしはこの本で「魏晋朝の短里」(のち「魏・西晋朝の短里」と改称)という概念を提出していた。「『三国志』は『一里=約七五メートル』(精しくは「九〇〜七五メートルの間にして、七五の数値に近い」)の短里によって書かれている。それは魏晋朝によって採用された、公認の里単位である」と。
これは従来の「定説」に対する、真正面からの挑戦だった。東大の白鳥庫吉が倭人伝の里単位は「約五倍の誇張」(「卑弥呼問題の解決(上)」)とのべてより、この誇張説は、後来の学者たちによって「盲信」されてきた。彼の論敵であったはずの京大の内藤湖南すら「当時の道里の記載はかく計算の基礎とするに足るほど精確なりや否や、已(すで)に疑問なり」(「卑弥呼考」)とのべている。ここにも“倭人伝の里程は虚偽・誇大にして頼むに足らず”という認識が根本にあった。それは彼等がこの里程を漢代の里単位である「一里=約四三五メートル」(山尾幸久『魏志倭人伝』講談杜)の類と考えてきたからだ。たしかに、もしそうなら倭人伝に、
「郡より女王国に至る万二千余里」(郡は帯方郡治ち。ソウル近辺〈西北方〉か)
と書かれた卑弥呼の国、それは途方もない極遠の異境となってしまうであろう。
わたしに鮮やかな思い出がある。まだあの第一書を書く前のこと、東京に行ったとき、一人の高名な国語学者にお電話した。勤めておられる大学へうかがうつもりであったが、「電話で用件をお聞きしましょう」とのことだった。わたしが聞きたかったのは、“倭人伝中の固有名詞(国名・人名等)に対する、三世紀の読み”の問題だった。倭人伝への探究に入りはじめていたものの、いわば“目に一丁字もない”状態からの出発だった。極力、各界の専門家の意見を聞きたかった。つまり従来の「定見」とされているもの、そしてその方法、それを確認しようとしたのである。
その人は、わたしが倭人伝を探究している、と聞くと、すぐ言われた。「ああ、倭人伝なんて、あまり信用できはしませんよ。だってそうでしょう。一万二千里なんて、あの通りだったら、女王国は赤道の向うへ行っちまいますよ」と。当面の質問点とは、直接関係はなかったけれど、歯切れのいい、その口調を聞きながら、わたしは確認した。日本の学界は次のテーマを疑っていないことを。いわく「『三国志』は『漢の長里』で書かれている」と。なぜならこの人は、国語学者ながら、日本史や東洋史の歴史学者たちとも豊富な共同研究を行い、各界との連携の深い学者として、世に知られていたからである。この現況から、わたしの探究は出発した。
では、鋭く対立する二つの立場(長里説と短里説)から、問頭の「二里余」(今かりに「二・四里」とする)の実定値を算出してみよう。
A 長里説 ーー 約一キロ
B 短里説 ーー 約一八〇メートル
やがてとどけられた中国側の手紙のコピー(北京の「人民中国」〈日文版〉雑誌社より東方書店の神崎氏あて)には、次のようにあった。
「お手紙拝見しました。赤壁一帯の長江の川幅はどこに聞いてもらちがあきませんでしたが、今日やっと大まかな数字の返事がありました。洪水時になると、あたり一面海原の如きさまですが平時は四〇〇〜五〇〇メートルで、武漢(ぶかん)一帯の川幅より広いとのことです。ご参考までに」
かつて中国大使館からの回答を手にしたことがある。竹野恵三さん(朝日カルチャー・トラベル)が直接労をとって下さった。そのときは「赤壁の川幅は分らないが、その下流の武漢大橋の長さは一・四五〇キロ」という返事だった(「旅」〈日本交通公社〉では、一・六七〇キロ。測定基点のちがいであろう)。
中国へ行った方は御承知のように、中国の川の土手は、平地よりずっと高い位置にあることが珍しくない。従って近代の築造大橋は、日本のように“橋の長さが川幅より若干大”といった類ではなく、“橋の長さが川幅よりはるかに長く(曲線を描いて)延々とつづいている”のである。昨年の春(昭和五十六年三月)、南京(ナンキン)大橋を通ってこれを実感した。だから、右の武漢大橋の長さから見ると、おそらくこのあたりの川幅は一キロ以下。そのように判断はしたものの、もう一つ、靴をへだててかゆきをかくもどかしさがあった。それが今度ハッキリした。四〇〇〜五〇〇メートル。もうお分りだろう。「定説」派のように「魏・西晋代も漢の長里とほぼ変ることなし」というのが本当なら、一体この戦況はどうなるだろう。「中江」へ来て、「降服」を大叫した、ということは、“そこから先、北岸へ近づくと、弓矢等を被るおそれがある”ということだ。そこで偽って「降服」を称して、さらに「北軍を去る二里余」のところまで近づいたのである。ところで、「二里余」が約一キロなら、「中江」での「降服大叫」の位置は約一・五キロくらいになるであろう。そこでなお「中江」なのだから、当赤壁の川幅は、約三キロくらいないと話があわない。いかに少なくみつもっても、二キロ以下では、それこそ“お話にならない”のである。ところが、実際の赤壁の川幅は四〇〇〜五〇〇メートルだった。“「漢の長里」一点張り”では、どうにもならない。
これに対し、わたしの場合、約一八〇メートルが「同時発火」の位置だから、「中江」の「降服大叫」の位置は、約二五〇メートル前後か。とすると、川幅は約四〇〇〜五〇〇メートルで、ドン・ピシャリなのである。
この発見は、わたしにとって意味深い発見だった。中国のど真中、三世紀最大の決戦の一つ、赤壁の戦において短里が使われている。その上、これは『三国志』ではなくて『江表伝』。著者は陳寿と同時代(西晋)の虞溥であるから、『三国志』だけでなく、同時代の他の書(『江表伝』)においても、同じ里単位(短里)が使われているとすると、庫吉流の、魏使(もしくは帯方たいほう郡吏)誇大報告説など、一挙にけしとんでしまうではないか 。
わたしがこの問題の所在に気がついたのは、白崎昭一郎氏との論戦の間においてであった(「『中国古代文献の読み方』批判」「東アジアの古代文化」二九、昭和五十六年秋)。
近年わたしの経験した、もっとも激烈な論争、それは何といっても、安本美典氏との、八時間(うち夕食一時間)に及ぶ激突対談だった。「激論」「闘論」などと銘打たれていても、その中身は、“お互いに痛いところを突かぬことをマナーの第一とする”いわゆる「仲良し対談」の類の多い昨今だが(もちろん、それにはそれなりの意義はあろうけれど)、この対談は、正味掛け値なしの真剣勝負、そういった雰囲気で終始したから、終ってみて、やはりいい知れぬ充足感があった。
その収録として発表されたのが「『邪馬台国』をめぐって」(「歴史と人物」〈中央公論社〉昭和五十五年七月参照。全体はテープ収録。)だが、なお部分的であることが惜しまれる。
さて、その中でもっとも鋭い応答の刃が交わされたものの一つに、この「短里」問題がある。安本氏は韓伝と倭人伝のみの「部分短里」説。わたしは下調べの中で、「帯方郡の論証」と呼ぶべき新たな論証の立地点を発見していた。『三国志』で倭人伝の直前に当る韓伝に、次の著名の記事がある。
「(韓地)方四千里なる可(べ)し」
「方四千里」というのは、“一辺が四千里の正方形”をさす。中国の古代において創造された面積表記法だ。一定の土地(たとえば国や島)はもちろん、正確な円形や正方形であるはずはない。はずはないけれど、その実形をふくんだ(内接した)形の正方形を定め、その一辺を「方〜里」としめすことによって、その正方形の面積をしめす。それによってその土地の“大体の広さ”を表わす指標とする。こういう方法だ。
“何とずさんな”と思う人もあるかもしれないけれど、この「方法」の発見は、画期的だった。何しろ“すべての、いかなる形の土地に対しても、統一的な表現方法を与えた”ものだからである。今わたしの使った「方法」という言葉、これも実は、本来この“「方」であらわす法”にもとづく術語だった(『五経算術ごきょうさんじゆつ』等)。“学問の方法論”などといえば、わたしたちにはいかにも“西欧舶来の用語”のように聞えるけれど、何とそれは古代中国の発明語だったのである。そしてそれは文字通り“画期的な発明”だった。
それはさておき、『三国志』もこの「方法」によって、国の面積や島の面積を表わしている。わたしたちにはおなじみの、
「(対海たいかい国)方四百余里なる可し」
「(一大いちだい国)方三百里なる可し」
といった表記も、まさにこの「方法」による表記法だったのである。
さて今問題の韓地面積の場合、これは当然「南 ーー 北」辺(海岸部)と共に「東 ーー 西」辺もまた「四千里」であったはずだ。そしてその「東 ーー 西」辺の中の北辺は、中国側の領地と接していた(南辺は倭地に接す)。その西側は帯方郡、東側は穢*(わい)と接していた。穢*は漢の四郡の一、(玄菟げんと郡と)臨屯郡の地である。つまり韓地の北辺は中国側の新・旧直轄領に接しているのだ。
「韓地の北辺」とはすなわち「帯方郡及び旧臨屯郡の南辺」ということである。従って前者が「短里」で記されている、ということは、とりもなおさず“中国側は中国の直轄領を「短里」で認識している”ーーこの命題を疑いなく、直指しているのである。
穢*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA
以上と同じ問題が、実は倭人伝の中にもあった。それをわたしは新たに“発見”したのである。これもわたしたちにはなじみ深い、
「郡(帯方郡治)より倭に至るには、・・・其の北岸狗邪(こや)韓国に到(いた)る七千余里」
の一節。この「七千余里」の冒頭部は、当然ながら帯方郡内に属している。“帯方郡治→韓地西北辺”に当る部分だ。従って“七千余里が「短里」だ”ということは、すなわち“冒頭の帯方郡内もまた「短里」で認識されている”ということだ。
ここでも“中国直轄領内が「短里」で認識されている”という、先の命題と同一の状況がしめされ、それを裏づけていたのである。“自己の直轄領を「短里」で認識する”とは、どういうことか。いうまでもない。“その「短里」は、その朝廷(魏・西晋朝)の採用していた、正規の里単位である”。 ーーこの帰結をハッキリと明示しているのである。
このように理路を辿りくれば、“倭人伝の里数は、魏使の虚偽の報告による誇大値だ”などといってきた、明治以来の(白鳥庫吉などの)概念は、およそ道理を失ったアイデアだったこと、先人には失礼ながら、今やわたしには疑うことができない。
明治以降の「邪馬台国」研究史をふりかえってみて、奇異の感にうたれることが一つある。それは“倭人伝の里数値虚偽・誇大説”そのものはくりかえし論ぜられながら、“韓伝(方四千里)もまた同じ里単位にもとづく”という明白な事実に深く目が向けられていなかったことだ。もし向けられていれば、“魏使虚偽報告説”など、簡単に出せるはずがない。なぜなら”中国人に未知の倭国”なら、まだしも“誇大報告”などというアイデアを出しえたにしても、漢代以来既知の韓地領域の総面積を“まきぞえ”にした誇大報告など、一官僚の手などでできもしないし、しても成功の可能性はない、からである。この点こそ、日本古代史学界のながき宿痾(しゅくあ)だった“日本列島内に跼蹐(きょくせき)された「井の中の蛙かわず」的な視野”という根本的な弱点を、遺憾なく露呈した問題点だったのである。この点、昭和四十二年に出た安本美典氏の『邪馬台国への道』(筑摩書房)ですら、例外ではなかった。“倭人伝内の里数値が一定の比率をもっている”という、あの白鳥命題を、氏はキルビメーターで再確認されたにとどまり、この韓伝の「方四千里」問題には一切目を向けておられなかったのである。
今回新たに氏が「韓伝・倭人伝のみ短里」説という立説に入られたとき、実はその実質内容が“韓地と倭地のみにとどまりえない”こと、中国側の直轄地(帯方郡)もまた同一里単位で把捉(はそく)せられている、そしてこれが『三国志』の叙述の前提となっていること、この根源の事実に、氏の目はいまだとどいておられなかったようである。
ために、わたしがこの問題について、氏の面前で氏に問いただしたとき、氏は応答されなかった。
その一段が終ったとき、対談の司会者としての抑制を保って、終始無口でおられた野呂邦暢氏が、
「で、帯方郡の中も『短里』で書かれている、という問題については、どうですか」
とうながされたのである。けれども、応答はなかった。そして今日に至るまで現われていない(季刊「邪馬台国」一二、昭和五十七年の「里程論争特集」にも、いまだ現われていない)。
しかしながら、それはともあれ、このような場に敢然と臨んで下さった安本氏に対し、わたしは深い感謝を捧げたいと思う。
最近の「サンデー毎日」(昭和五十七年四月十一日)に「古代史の旅」と題する松本清張さんの特別講演(二月十六日、東京イイノホール、毎日新聞創刊百十年記念文化講演。この内容は『清張歴史游記』〈日本放送出版協会、昭和五七年十一月刊〉所収)が載った。久しぶりだ。そう思って読みはじめたが、読みすすむうち、不審を感じた。それは次の一節である。
「私がそう言ったからではございませんが、もう里数や日数で邪馬台国の所在を捜索するのはナンセンスであるということに学者も気づいたのでしょう、現在は里数、日数を手がかりに邪馬台国の所在地を探る学説は声を低めております。ほとんどないと言ってもいいじゃないでしょうか」
「私がそう言った」云々(うんぬん)は、氏のいつもくりかえしのべておられる「七・五・三説」である。“帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里”、“狗邪韓国 ーー 対海国 ーー 一大国 ーー 末盧まつろ国間の各一千里を足して三千里”“末盧国 ーー 伊都いと国間が五百里”“水行二十日(不弥国 ーー 投馬国)と水行十日(南、邪馬台国に至る)を足して三十日”“陸行一月は三十日”といった風だ、と指摘されるのである。「これは中国では非常にめでたい数字」だから、右の各里数値は陳寿の造作、という、氏の年来の持論をさしているのである。
けれどもわたしはすでにこれに対して厳密に批判していた。第一書『「邪馬台国」はなかった』第三章の「虚数説の空虚」がこれだ。松本氏の文面もハッキリと引用してある。
「白鳥の考えた戸数の三、五、七の配置は、私には卓見だと思われる」
「以上のように解釈してみると『魏志』倭人伝の里数、日数はまことにナンセンスなものである」(松本清張『古代史疑』中の「魏志の中の五行説」)
これに対して再吟味を加え、『三国志』の中の「数」を抜き出し、その全体(三七三個)についてみると、「一〜九」のうち、最大は「一」(八三三個)、第二位が「三」(七二三個)、第三位が「二」(六五七個)であり、氏によれば“中国人が偏愛した”はずの「七」は、第八位(一四七個)と、右の想定に相反しているのである。
その上、『三国志』中で「数」についての議論をしているところを見ると、「八」「八十四」「六の倍数」「五五」「二五」などだ。いわゆる「七・五・三」についての議論はない。
また数字を用いて文面を修飾することを好んだ高堂隆(魏の第二代、明帝の御意見番)の文から「数」を統計すると、総五七個の事例中、「七」は皆無なのである。
以上のような具体的な事証をあげ、これによると、一種なじみやすい「七・五・三」偏重説が、実は『三国志』の史料事実には合致していない、その事実をのべたのである。
また同類の説を説かれた上田正昭氏の説を対象にして、倭人伝中の「数」を“足して三”(対海国〈千余戸〉・一大国〈三千許家〉・末盧国〈四千余戸〉・伊都国〈千余戸〉・奴国〈二万余戸〉・不弥国〈千余戸〉、合計三万余戸。また先の狗邪韓国 ーー 末盧国間の合計三千里など)という形で、文面に直接あらわれていない「三」を「算出」する手法は、「後世の論者の恣意(しい)に属する」と批判した。なぜなら“足して〜”という手法があるのなら、“引いて〜”という手法もありうることとなり、まさに“思うままの「数」”を、それこそ「造作」できるからである(もちろん、「足す」だけでも、いろいろの「数」を導きうる)。
このようなわたしの批判に対し、上田氏からは一切応答がない。「声を低めているしのは、むしろこれら虚数説の学者たちの方ではないか。
しかるに松本氏もまた、何の反証もあげぬまま、今回の講演で「七・五・三」説を弁じ、その反対説が閉塞(へいそく)したかにいわれるのである。(松本氏がわたしの第一書を“読んでおられる”ことは確実である。松本「高木『邪馬台国』の再批判」「小説推理」昭和四十九年十月号参照)。一昨年五月の安本氏とわたしとの激論も、昨年秋の白崎氏とわたしとの応答も、一切松本氏の“耳に入っていない”のであろうか。ましてこの講演の冒頭で「きょうは小説家としてではなくて、古代史学者として登場いたしましたから、どうかそのおつもりでお聞き取りを願います。」とことわっておられるのである。
『古代史疑』の「中央公論」連載によって、「邪馬台国」問題に対する関心を深うした、ひそかな恩誼(おんぎ)を有するわたしだけに、残念な思いを禁じえない。
昨年の秋は、久しぶりにこの「短里」問題に没頭した季節だった。「魏・西晋朝短里の方法」(東北大学文学部「文芸研究」一〇〇・一〇一号所載)という論文の形でまとめた。学界の面前に提出するためである。その内容は、わたしにとって永年のうっくつを解き放つものだった。第一書以来、“『三国志』が短里で書かれている”という認識そのものは、すでに確立していたものの、その「短里」の由来、となると、不明の霧につつまれていた。その霧のとばりが晴れはじめたのである。そして近時の「短里」否定論者の論議法や微視的な計測(近距離測定)法の難点について、「方法」上の問題として、これを解明していった。
しかしその内容は、右の論文(古田『多元的古代の成立(上)』所収)にゆずるとして、その論文を脱稿してあと、今春三月、次々と新たな認識が目に映じてきた。それをここに明らかにしてみよう。
それらはいずれも“目新しいもの”ではないげれど、実は道理の上において、“問題の死命を決する”史料性格をひそめていたのだった。
第一は「二つの序文」問題だ。
『三国志』全体には序文がない。これは陳寿の庇護(ひご)者たる張華の失脚により、陳寿の生前には、『三国志』が「正史」としての日の目をみなかった、そのせいであろう(『邪馬一国への道標』〈講談社。角川文庫所収〉参照)。もし生前にその日が来ていたとしたら、陳寿によって天子への献呈上表文が作られ、それが晴れやかな「序文」として、『三国志』の冒頭を飾っていたであろうから。だから“無序の史書”という現在の姿は、陳寿の遭うた、その“世間的な不運”をありありと物語っていたのである。
ところが、例外がある。それは夷蛮伝である。魏志最末の第三十巻は「烏丸・鮮卑・東夷伝」と名づけられている。そこには「二つの序文」がふくまれている。
一つは「烏丸・鮮卑伝」の序文。
「書に載す『蛮夷猾夏かつか』、詩に称す『儼*允*孔熾けんいんこうし』と。久しいかな、其れ中国の患たるや。秦・漢以来、凶奴(きょうど)久しく辺害を為す。・・・(中略)・・・烏丸・鮮卑は即(すなわち)古の所謂(いわゆる)東胡(とうこ)なり。其の習俗・前事、漢記を撰する者、已に録して之を載せり。故に但(ただ)漢末魏初以来を挙げ、以て四夷の変に備うと云う」
という四百四十二字がそれだ。中国にとって、これら塞外の民がどれほど患いとなってきたかということ、それゆえ彼等をはじめとする「四夷之変」にそなえるため、「漢末・魏初以来」の状況をここにしるしたことをのべているのである。このように烏丸・鮮卑だけでなく、「四夷」にっいてのべてこの序を結んでいることからすると、この序文は、烏丸・鮮卑だけでなく、この夷蛮伝(烏丸・鮮卑・東夷伝)全体の「総序」ともいうべき性格をも帯びている、といわねばならぬ。
儼*允*孔熾(けんいんこうし)の儼*(けん)は、獣偏に嚴。JIS第4水準?ユニコード7381、允*(いん)は、獣偏に允。JIS第4水準ユニコード72C1
次は「東夷伝」序文。
「書に称す、『東、海に漸(いた)り、西、流沙(りゆうさ)に被(およ)ぶ』と。其の九服の制、得て言うべきなり。・・・(中略)・・・遂(つい)に諸国を周観し、其の法俗を采(と)るに、小大区別し、各(おのおの)名号有り、得て詳紀すべし。・・・故に其の国を撰次して、其の同異を列し、以て前史の未(いま)だ備えざる所に接せしむ」
その全文(三百三十字)は、すでに第一書の第二章で紹介した。例の「異面の人有り、日の出づる所に近し」という、倭人の国の現地を訪ねえたことを示唆した一節がふくまれている。この序文は、文字通り東夷の諸国(夫余ふよ・高句麗こうくり・東沃沮ひがしよくそ・[手邑]婁ゆうろう・穢*南わいなん・韓・倭人の七国)の伝に対する序文だ。夷蛮伝内の「中序」といえよう。
[手邑]婁(ゆうろう)の[手邑]は、第3水準、ユニコード6339
穢*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA
そこで新しい視点は次のようである。
「部分短里」説の場合。その「部分短里」が“倭人伝だけ”と考える論者であれ、あるいは安本氏のように「韓伝・倭人伝」の両伝のみ「短里」だと考える論者であれ、あるいは「烏丸・鮮卑・東夷伝」のみが「短里」だとする論者であれ、それは各説、どれでもよい。
いずれの場合でも、その基本テーマは次のようである。“『三国志』の帝紀や他の列伝、つまり「本伝」はすべて「長里」で書かれている。これに対して夷蛮伝の「全部」もしくは「一部」のみは、「短里」で書かれている” ーーこれが「部分短里」説たる名のゆえんだ。いいかえれば、『三国志』全六十五巻のうち、六十四巻は「長里」、ところが、魏志末の一巻(夷蛮伝、第三十巻に当る)のみ「短里」記載部をふくんでいる、と。これらの論者はそのように見なすのである。
問題は次の一点だ。“では、なぜ、そのような「里単位の変化」の生起していることを、「二つの序文」中で陳寿は示唆しなかったのだろうか”。この問いである。それがなければ、読者は当然、今まで読んできた二十九巻(魏志第一〜第二十九)通りの“里意識”でこの巻(第三十巻、夷蛮伝)をも読み進むのが、当然ではないか。むしろ、それ以外の“読みよう”はない。ことに魏・西晋朝の日常世界が、旧来の論者の考えてきたように「長里世界」そのものであったとしたら、なかんずくこの点の“注意”は不可欠の一事となろう。御丁寧に二つもの序文を書いた陳寿が“それは、書き忘れた”などというとしたら、まさに児戯に類する弁解となろう。従って夷蛮伝内の「二つの序文」という、厳たる二大関門において、いずれもそのような問題(里単位の変化)に一切ふれていない、という、この史料事実。これを裏がえせば、“ここから後も、ここまでと同じ里単位で読んで下さって結構です”という旨の、無言の保証書が付せられている、そのようにうけとって、果してことは“筋ちがい”であろうか、わたしには、それが唯一の“まともな受け取り方”だ、と思われるのである。
ことに「烏丸・鮮卑伝」序文で、「四夷の変に備う」といっている。四夷の一つに「東夷」があり、その東夷の一つに倭人の属することは自明だ。また「東夷伝」序文中の「異面の人云々」が倭人を指していることは、すでにのべた(第一書)。してみると、この「二つの序文」の視野の中に倭人が入っていることは確実だ。その倭人伝の中にあれだけれいれいしく幾多の里数記事が羅列されている。それらの記事が、それ以前(帝紀、他の列伝)の「里数値」とは、異なった前提(里単位)で読んでほしい、と著者が本気で思っているなら、それを欠いた序文など、およそナンセンスだ。第一、それでは、「総序」に当る「烏丸・鮮卑伝」序文の末尾にいう、「四夷の変」にそなえた“中国側の軍事上の用意”になど、なりようもないであろう。しかるに、それ(里単位の変動)をしめす記事は全くない。
してみると、少なくとも「陳寿の認識」による限り、「部分短里」説など、根本から全く成立不可能なのである。かくして「二つの序文」は、それらの論者にとって、まさに越えがたい「二つの関門」となっているのである。
これに対して、人あって次のように声をあげるかもしれぬ。“その「陳寿の認識」がまちがっていたとしたら、どうだ”と。つまり、陳寿がそれ(夷蛮伝内の里数値)を「短里」として認識していれば、先の通りだ。しかし“陳寿がそれを「長里」と思いこんで書いていた”としたなら、「二つの関門」にも、何も書かれていなくて当り前だ、そういう指摘なのである。
その通りだ。それが、かの有名な「誇張」説なのだ。“魏使(もしくは帯方郡官僚)は五〜六倍の誇張をして書いた。しかし陳寿はそれを真実(リアル)と思って史書(『三国志』)に記した”。こういう場合である。このケースでは、陳寿は「二つの関門」において“何も書かなくて”当然なのである。
このようにして、難関と見えた「二つの序文」を易々として乗り越えたかに見えたとき、突然それをさえぎる一句が現われる。倭人伝のさなかに、
「其の道里を計るに、当(まさ)に会稽東治(かいけいとうち)の東に在るべし」
この旧知の一節の中には、意外な論理性がひそめられている。この一文の前文を見つめてみよう。
(A) 郡(帯方郡治)より倭に至るには、・・・其の北岸狗邪韓国に到る七千余里。・・・千余里・・・(対海国)方四百余里・・・千余里・・・(一大国)方三百里・・・千余里・・・五百里にして伊都国に至る・・・奴(ぬ)国に至る百里・・・不弥国に至る百里。・・・女王国より以北、其の戸数・道里は略載す可きも、其の余の旁国は遠絶にして得て詳(つまびら)かにす可からず。
(B) 郡より女王国に至る万二千余里。
(C) 其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。
右の(A)の「其の戸数・道里」の「道里」とは、その直前の「七千余里」「千余里」「五百里」といった部分里程を指していることは当然である。
次に(C)の「其の道里を計るに」の「其の道里」とは、この直前にある(B)の「一万二千余里」を指していること、これもまた当然である。つまり“この帯方郡治より女王国(=邪馬一国)に至る一万二千余里、というのを、こちら側(中国本土側)と対応させてみると、当然「会稽東治」の東あたりに、女王国は存在しているはずだ”。そういっているのである。
この陳寿の判断を分析してみよう。
(一) “朝鮮半島の帯方郡治(ソウル付近)が中国側のどのあたりの東に存在するか”。この知識は、陳寿にとっても、魏・西晋朝の官人一般にとっても、自明の知識であった。 ーーすなわち山東半島の東あたりである。
(二) その山島から、ずーっと南にさがって会稽あたり※まで、ほぼ何里くらいかは、同じく陳寿及び魏・西晋朝人にとって、自明の地理知識であった(それが特に『三国志』に書かれていないのは、彼がそれを“知らない”からではなく、歴史書に書く必要などない“自明の地理知識”に属していたからである)。
※正確には会稽国(夏后少康かこうしょうこくの封国)の統治領域を指す。今の浙江省(せっこう)から江蘇省にかけて。
(三) 陳寿は、右の地理知識を基準尺として、「帯方郡治→女王国」の「道里」たる「一万二千里」を南北に並置させてみた。その結果、“問題の女王国は「会稽東治」の東に存在するにちがいない”。そういう判定をえたのだ。そこでその結果を陳寿はここに記しているのである。
(四) この陳寿の比定作業の意味するもの、 ーーそれは明らかである。一方の中国本土側を南北に貫く、山東半島から「会稽東治」に至る距離、その里程の前提をなす里単位と、他方の朝鮮半島から日本列島(九州)にいたる里程距離(一万二千余里)とは、両者、同一の里単位にもとづいている。そのさい、(イ) 陳寿が“両者は同一の里単位にもとづいている”と信じていない限り、このような比定作業は、無意味である。  
(ロ) もし「陳寿の認識」があやまっており、一方(中国側)は「長里」、他方(朝鮮半島ー日本列島〈九州〉)は「短里」(あるいは誇大値)で記されていたとすれば、「女王国」は、それこそはるか赤道の彼方に行ってしまう、はじめに書いた、高名な国語学者の鮮烈な発言のように。とても“「会稽東治の東にあり」などという判断には至りえないのである。ところが、実際は“大体合っている”のだ。“少々のずれ”は、おそらく「一万二千余里」のおき方を「南北」にいかにおくか、また「東南」(帯方郡治ーー 狗邪韓国など)や「東」(伊都国 ーー 不弥国。第一書参照)をいかにおくか、そのとり方による“誤差”にすぎまい。むしろ、この程度の誤差ですみ、“大体は正しい”判定に至りえたこと、それこそ“驚異”であろう。それは三世紀中国人の地理認識の正確さを立証するものだ。そして同時に“中国本土もまた、倭人伝と同じ里単位で測定されていたこと”を明確に裏づけるものである。
(五) もしかりに、旧説のように「会稽東冶とうや」(『後漢書』倭伝)の方が正しいとしてみても、今の問題の本質は変らない。韓伝・倭人伝の里数値が、中国本土側の基準里程に対して、「五〜六倍」もの尨大(ぼうだい)なものであったとしたら、とても「会稽東冶の東」くらいでおさまる話ではない。必ず“赤道付近の熱帯下”に女王国は追いやられるほかないのだから。従ってこのさい、旧説を援護にもち出しても、その甲斐(かい)はないのである。
以上を「道里の論証」と名づける。わたしたち古代史の探究者にとって、百も承知だったこの一句、この中にこそ明治以降の「誇大説」論者・「部分短里」論者の各説を木っ端微塵(みじん)に打ち砕く、決定的な論証力が内蔵されていたのである。それは“『三国志』では、夷蛮伝のみならず、中国本土側においてもまた、倭人伝と同一の里単位で認識され、記されていた。”という、その事実に対する、無上の証明書となっていたのであった。  

A「赤壁の戦の問題ですが、赤壁といっても、一つじゃない、幾つも候補地があるんだ、という話を聞いたことがありますが」
古田「そうだね。『人民中国』(昭和五十五年六月)に載せられた『中国の歴史、第十八回 −−三国志の世界、魏・蜀・呉鼎立ていりつ −−〈史石〉』の記事の注(九七ぺージ)によると、
『古戦場の赤壁の所在地には二説あって、一説は今の湖北省蒲圻(ほき)県の西北にある長江(ちょうこう)南岸赤壁山である。山壁には今も「赤壁」の二字を刻んだ石がある。いま一つは同じ湖北省の嘉魚(かぎょ)県東北にある赤磯山である。宋の詩人蘇軾(そしょく)は黄岡(こうこう)西北の赤鼻山を赤壁と勘違いして、そこに有名な「赤壁賦」の詩を書きしるしている』
と書かれている。けれども、はじめの二つの候補地とも、例の武漢大橋よりは上流だから(蘇東圻の赤鼻山は、やや下流)、先ずは今代表格の前者(赤壁山)と大同小異、とても南岸から中江(ちゅうこう)を過ぎて、そのあとやっと『長里で二里余(=約一キロ)』のところにさしかかる、というわけにはいかないようだよ」
A「洪水期には、あたり一面泥海化するそうですけど、赤壁の戦のときもそのシーズンに当っていた、という考えは、どうですか」
古田「いい着眼だね。実は、その問題についても、面白い後日譚(ごじつたん)があるんだ。今年になって神崎さんから次のような追伸があったんだ。
『本日、「人民中国」誌より手紙が参り、赤壁の川幅の件は、先日の数字は渇水期のもので、増水期には土堤がないのでいくらでも拡(ひろ)がった由の連絡がありましたので、念のためお知らせ申し上げます。勿々(そうそう)(昭和五十七年一月八日)』
そこで早速調べてみた。すると、すぐ分ったことがある。それは『三国志』の戦況描写によると、そのときの赤壁には、『北岸』『南岸』とも、“岸”があるんだよ。
『瑜(周瑜)等、南岸に在り。・・・蓋(黄蓋)、諸船を放ち、同時発火す。時に風盛んに猛く、悉く岸上(北岸)の営落を延焼す』(呉志、周瑜伝)
こんなこと、日本じゃ論ずるのもおかしいことだけど、今の問題点からは重要だ。まさにこの戦は『北岸』と『南岸』のある季節であって、決して右に書かれている『増水期』じゃない、ということが分ったんだよ。
その後、さらに調査はすすんだ。中国の揚子江中流域の増水期は『五〜十月』だ(『ジャポニカ』)ということが分った。では、赤壁の戦が行われたのは、何月か。
実は、『三国志』の冒頭 ーー最初に赤壁の戦の記事が出てくるところだけどーー に、ハッキリ書かれていた。
『(建安けんあん十三年、二〇八)十二月、孫権、備(劉備)の為に合肥(ごうひ)を攻む。・・・公、赤壁に至り、備と戦いて利あらず』
つまり十二月なんだね。だから文句なしの乾期だ。増水期じゃない。だから『三国志』に『北岸』と『南岸』とが書かれていたのは、まさに当然だったわけだ。それにもう一つ、面白いことが見つかった」
A「何ですか」
古田「昨年の八月下旬、中国へ行ったときの帰途、北京(ペキン)の本屋さんへ行った。王府井(ワンフチーン)の新華書店だ。ハルピンからの通訳の石興竜さんが案内して藤田友治さん(後出)と共に連れていって下さったんだが、店を出てみると、石さんの方がずっとたくさん本を買いこんでおられてびっくりした。『一か月分の給料、はたきました』といってニコニコしておられた。江戸期と近代日本について猛勉強中の好青年だったけどね。
そのときわたしはうすっぺらな小冊子を買った。『赤壁之戦』と題する本だ(羽白著、中華書局、一九六五)。そこに
『黄蓋的船只已経駛近曹操的水塞了、只離開二里多路』(原文は簡化文字)
という文章と共に、次の文章があった。
『当時正在寒冬季節、経常刮西北風。・・・估計在冬至前后可能有東南風出現』
つまり呉の周瑜側は、秋の半ばから北の魏軍と対峙(たいじ)したまま戦期を待った。そして十二月(陰暦)に至ってやっと戦端を開いた。例の黄蓋の『無人火船突入の計』だね。その理由として、この本ではいう。“冬期は西北から東南へ風が吹く。この時期には当然ながら南の呉軍による右の火計はできない。ところが冬至(十二月二十二日頃。太陽暦)前後頃には、風が逆転して東南から西北へと風が吹きはじめる。その期をねらったのだ”と。さすが、現地鑑(かん)のある中国人ならではの分析だね。
ともあれ、ときは十二月だから、当然乾期、“両岸が健在”の時期だ。だから、貴方(あなた)の心配はいらないわけだよ」
A「なるほど、分りました。ところで、この『二里余』問題について、中国側の人 ーー現代の人ですけどーー は、どういっているんでしょうね」
古田「やはり、ちゃんと気づいているようだよ。向うの教科書(『中国歴史』全日制十年制学校・初中課本)で赤壁の戦をのべたところに、この『二里余』のくだりが出ていて、その注に、注目すべき一文がある。
『曹軍から二里※ あまりのところで、十隻の軍船に一斉に火が放たれ、小船は軍船を離れた』(本文)
※ もし、この里が現在の長さであるとすると、一里=五〇〇メートルであるから、一〇〇〇メートルということになる。古代の里はもっと短かった。(原文はローマ数字。試用本。中小学通用教材歴史編写組編。人民教育出版社出版。訳者〈代表〉野原四郎・斎藤秋男。ほるぷ出版刊)
注の最後の一文が白眉(はくび)だ。大阪の「古田武彦を囲む会」書記局の藤田友治さんが見つけて知らせて下さったんだよ」
A「なるほど。やっばり、ということですね。今度の解説を聞いてみると、何だか当り前至極の話のように思えてくるんですけど、今度はどう反応するんでしょうね」
古田「それは分らないけど、“里数などで論ずるのは、古い。”みたいなムード論ではらいのける、あのやり方は、もう御免こうむりたいね。『人民中国』の資料を提供して下さった京都の日中友好協会の水上七雄さんや貴重な情報をもたらして下さった神崎さんや竹野さん・藤田さんのような方方のことを思うだけに、今回は特にその感が深いよ」  
■ 2 王仲殊論文への批判

 

昭和五十六年の秋は収穫の季節だった。わたしの生涯にとって記念すべき論文の一つとなるであろう、「多元的古代の成立」を「史学雑誌」に寄稿すべく浄書中の、九月はじめのことである(当論文は「史学雑誌」九一 ー 七、昭和五十七年七月。また同名の論文集中に所載)。
そのとき霹靂(へきれき)のように現われた隣国(中国)の論文があった。王仲殊氏の「日本の三角縁神獣鏡の問題について」(「関干日本三角縁神獣鏡的問題」「考古」一九八一、第四期)である。
あれは、わたしが三年越し(間、一年間休み)つづけてきていた「みんなに語る、わたしの古代史」(大阪、朝日カルチャー講座)後期の第十回(九月十二日)の、もう最終回(第十一回)に近い頃だった。いつものように講演を終え、聴講者の質問をうけ終ったあと、さっとわたしに近づいてきた一人の方があった。共同通信の杉山庸夫さんである。
「こんな論文が出ましたが」といって見せて下さったのが、問題の王論文のコピーだった。杉山さんの説明に加え、そのコピーを一覧させていただいたあと、わたしはその内実が日本の学界を震撼(しんかん)させるに足るものであることを感じとった。それと共に、これがすでに過熱化している日本の「邪馬台国」問題の渦中にあって、一種感情的な非難や中傷の波にさらされることを恐れた。王氏はわたしにとって畏敬(いけい)すべき研究者と見えたからである。わたしはすでにそのような渦中にあり、法外な中傷をも十分に経験してきていたけれども、この隣国の敬すべき研究者までその渦中におく、それは忍びなかったからである。そこでわたしは次のようにのべた。
「九州説・近畿説の立場から、この王論文の評価をあせってはならない。そうではなくて、この王論文の提出している論点そのものを一つ一つ検討し、煮つめていくことが必要です。御承知のように『邪馬台国』論争は過熱していますが、その対立をそのまま王論文への評価にもちこむのは、学問の問題としてまちがいだし、第一、相手の王さんに失礼です」と。
幸いに、わたしの趣意は、正確に掲載された(たとえば、「新潟日報」九月十三日)。
わたしには王さんの名前に記憶があった。たとえば、考古学界の「定説」の基準尺をのべた「名著」というべき杉原荘介氏の『日本青銅器の研究』(中央公論美術出版)、その中にも、王さんの名前があった。つまり従来から、日本の専門家によって“依拠”されてきた中国側の「鏡」の専門家だったのである。
わたしは王論文を求めに京大へ行った。いつも親切に資料をお見せいただく考古学研究室へ行ったけれど、「寄贈」誌は未到着だった。ところが意外にも、建築学科の研究室(「購入」分)には来ていたのである(その後、わたしのところへも東方書店から送付していただいた)。早速熟読した。そしてはじめの印象通り、これは日本の考古学界の「定説」派の根本の依拠点を否定する、画期的な論文であることを知ったのである。
王論文の核心は次の一点にあった。
「三角縁神獣鏡は中国からは出土しない。すなわちこの鏡は中国製の鏡ではなく、日本製である。従って卑弥呼が魏朝から贈られた魏鏡ではありえない」と。
もちろん従来から、この型式の鏡が中国や朝鮮半島から出土しないことは、“知られて”いた。ことに敗戦後、中国との正式の国交の開始される前、いわゆる民間外交の時代、日本の考古学者たちの調査団が中国へ渡り、各地の博物館を見て廻(まわ)った。そのとき当方の三角縁神獣鏡を提示して、これと同型の鏡がないか、否かをくりかえし問いただしてまわったという。ところが、結局それに遭うことができなかった。また「イエス」の答えにもあえなかった。この頃から“やはり中国にはないらしい”。そういう噂(うわさ)が口(くち)コミ等を通じて学界内に伝わりはじめたのである。
けれども、まだ「確認」は十分ではなかった、といっていい。なぜなら中国の博物館には、鏡自体があまり展示されていないからだ。昭和五十六年の春(三〜四月)と夏(八月末)と二回、中国へ行ってそのことをわたしは痛感した。展示されていても、その一隅に多くて十面前後、たいていは二、三面にすぎず、全く展示されていない場合の方がむしろ多い。これは鏡の出土自体が少ないのではない。逆だ。婦人などの身の廻り品だから、その出土はむしろありふれている、といっていい。だからこそ“限りある”博物館の陳列場になかなか“場を与えて”もらえないのだ。何しろ天子や王侯のシンボルである、豪勢な銅製品(鼎(かなえ)など)がめじろ押しに場をとっているのだから。この点、鏡が考古学的出土物の中でも、ピカ一の座を与えられている、日本の場合とは、大分様相を異にしているのである。
そこで、一介の外国からの見学者には、なかなか中国で“鏡の顔をおがむ”のがむずかしい。日本の「大学教授」などの肩書きをもった考古学者でも、中国ではいちいち倉庫の中まで子細に調べるわけにはいかないであろう。また中国の博物館の学芸員に聞いてみても(わたし自身も何回か聞いてみた)、それほどズバリ、という回答には接しられない。なぜなら学芸員の方々の中にも、「鏡の専門家」などは、ほとんどおられない。それも無理はない。何しろ、日本とはちがって「鏡の研究」など、必ずしも“日のあたる”中枢のテーマではないのだから。
というわけで、従来の知見、つまり“中国には三角縁神獣鏡は出土していないらしい”という噂にも、もう一つ、靴をへだててかゆきを掻(か)く観を禁じえなかった。逆にいえば、“もっとよく調べれば、あるかもしれない”。そういう一抹の“期待”を抱かせていたわけである。
ところが、今回の王仲殊氏。鏡の専門的研究者である上、北京の社会科学院の考古学研究所の副所長である。当然、各大学や博物館の所蔵カードはもとより“収納庫の奥”までのぞきうる立場だ。だから他のいかなる、日本側の考古学者や鏡の専門家より、中国出土の鏡に関しては、その認識には格段の信憑性があろう。しかも、「三角縁神獣鏡」問題の探究という問題意識をもって日本にきたり、各地(東京・京都・奈良・大阪・福岡・宮崎等)の大学や博物館を歴訪した。そして日本の「三角縁神獣鏡」なるものを実見し、その上で「この型式の鏡は中国にはない」と断言されたのだ。この「確認」をくつがえす力は、日本のいかなる考古学者にも存在しないであろう。そういう、断然たる重味をもつ。ここに王論文が、日本の古代史学界・考古学界に対して投げかけた、画期性があった。
けれども反面、王論文の具体的な挙証点を見つめてみるとき、わたしには深い感慨があった。そこには ーー少なくともわたしにとってはーー “新たなもの”はほとんど見当らなかったのである。そのポイントをあげよう。
第一に、「銅出徐州、師出洛陽」の句について、従来の日本の考古学者(梅原末治・小林行雄氏等)は、これをもって“中国製の証拠”としてきた。しかし王氏は言われる。この句は、中国出土の鏡には存在しない(前半のみ一例)。従って「中国製の証拠」にはならない”と。
これはわたしが『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)で明確に指摘したところだ。ただ王氏はこれ(「師出洛陽」)を「虚詞」と解される。“実質をともなわぬ、単なる飾り言葉”だというのだ。しかしこのような言い方で、一個の字句の意義を消し去ってしまう手法、それはわたしには、“便利”すぎて、失礼ながらあまり“フェアー”なものとは思えない。やはりこの鏡(河内の茶臼山(ちゃうすやま)古墳出土三鏡の一、国分神社蔵)の作者が洛陽出身であり、渡来して日本に来ていた証拠。わたしにはそのように解するのが妥当だと思われる。
ともあれ、この句は「中国製の証拠となしえず」という、その「結論」においては、王氏はわたしと意見を同じうされたのである。
第二に、「吾・・・至海東」の句(同じく茶臼山古墳出土三鏡の一にある)について、“「海東」とは朝鮮や日本を指す言葉であるが、ここでは日本のことである。すなわち中国の鋳鏡者が日本へ渡来したことをしめす”と解された。これこそわたしが王論文の二年前の『ここに古代王朝ありき』で強調した、肝心のテーマだ。この本の表紙にも、この鏡(「海東鏡」とわたしは名づけた)の拡大写真が使われている。
わたしのこの「海東鏡」についての考察に対して、日本人たるわたしの「恣意的な解釈」であるかのように論難した論者(奥野正男氏「銘文から伝製鏡説は証明できない ーー中国出土鏡の事実から古田説を批判するー(下)」「東アジアの古代文化」二四、昭和五十五年夏)が現われたけれども、当の中国側の専門家が、わたしの解読に“相和した”形となったのである。
第三に、“三角縁神獣鏡とは、呉鏡に多い神獣鏡と三角縁画像鏡のモチーフを組み合わせたものだ”という指摘、そこから王氏は呉の鋳鏡者の日本渡来を推定される。この点もまた、わたしが『ここに古代王朝ありき』(一五七ぺージ)で指摘したテーマであった。
第四に、笠松形の模様の出現。“この笠松形の模様は中国鏡には出現しない。従って日本製の証拠である”と。この点に関しては、奥野正男氏(「邪馬台国九州論 ーー鉄と鏡による検証」「季刊邪馬台国」五、昭和五十五年七月、等。氏は「幢幡紋とうはんもん」と呼ばれる)の卓見がある。
以上、いずれの点をとっても、すべてすでに日本側で指摘され、強調されていた点なのである(第一〜三点については、森浩一氏・松本清張氏等のすぐれた先行研究がある。後述)。
このように王論文の各論点は、必ずしも“創見”とはいいがたいかもしれないけれど、日本側の主として民間側の論者(森氏を除く)の提起に対して「黙殺」しつづけてきた、日本の考古学界に対して“否応なく”再検討を迫るものであったといえよう。その点、樋口隆康氏が次のようにのべられたのが、わたしには印象深かった。
「そして『師出洛陽』の銘がおかしいこと、また日本へ渡ったことを示す『至海東』の銘があることは、古田氏がすでに主張しておられ、とくに、中国の工人が日本へやってきて作った鏡であるという結論も古田氏の主張と同じである。
古田氏がこれらの説を発表したときには、あまり問題としないで、中国の学者が書くと、それで結論がでたように大騒ぎするのはどうしたことであろうか。日本人は外人に弱いという通弊がまたここでも出たのかもしれない」(「中国・王仲殊氏の論文を読んで」「サンケイ新聞」昭和五十六年、十一月十六日)
わたしとは対立した学説上の立場にありながら、京大の研究室に訪ねると、いつも快く資料を提示して下さる樋口さん、そのお人柄そのままの文章だった。
このように中国側の専門家による魏鏡否認、という点で画期的、その上で日本側のわたしたちの「異説」の正当性を“追認”した、研究史上そのような意義をもつ、この王論文であったけれども、精読の中で大きな問題点の存在を見出すこととなった。
ことの発端は、この論文の末尾にあった。
「邪馬台国の所在地が九州か、はたまた畿内かは、当然、今後の継続的な研究をまつべきである。しかし、私は三角縁神獣鏡が東渡の中国工匠の手で日本でつくったものだといっても、このことによって、『畿内説』が不利な立場にはならないと思っている」
この一節について、杉山さんは“王さんのリップ・サーピスと解しておられたようである。スクープ記事(九月十三日の末尾にも、右の趣旨の文が引かれ、「 ーーーと日本の考古学者への配慮もしている」と結ばれている。
たしかに「三角縁神獣鏡は魏鏡に非ず」という、王氏の論断は、直ちに「邪馬台国」近畿説の命脈を断つ。これが日本側の、いわば“常識”だ。なぜなら“近畿説最大の依り処は、今やこの三角縁神獣鏡問題” ーーこれが日本古代史界の近来の通念となっていたからである。
たとえば直木孝次郎氏の『日本の歴史1 倭国の誕生』(小学館)を見てみよう。氏は本来、文献学者としての近畿論者であった。ところがここでは、肝心の里程・方角論などの、倭人伝の文献的読解を基本とする論述は、むしろ研究史上の回顧にとどまり、その“決め手”のような位置におかれているのは、実に「鏡からみた邪馬台国」の一節であった。すなわち小林行雄氏による三角縁神獣鏡配布の理論である。これによっても、現況は察せられよう。
従って“その肝心の三角縁神獣鏡が魏鏡ではない”となったら、近畿説そのもののピンチは必至、これが古代史に関心ある人々の常識だったのである。それゆえ、王論文末尾の一文が、王氏の論証によって危殆(きたい)に瀕(ひん)した「邪馬台国」近畿説論者への心やさしき“思いやり”、そのようにうけとられたのも、無理はないであろう。
しかしながら実は、王論文全体の論理構造のさししめしているところ、それは意外にも近畿説だった。つまり王さん自身の立場は「邪馬台国」近畿説である。それをわたしは、王論文そのものによって確認した。以下、その論述の骨子を辿ってみよう。
(一) 中国出土の神獣鏡に「黄初〜年」といった、魏朝の年号の銘されたものがある。これは魏鏡ではなく、呉鏡である。しかるにこれに「魏の年号」を銘刻した理由は次のようだ。魏朝の草創期、呉の孫権は魏朝の「天子」たる存在を認め、これに「臣従」を誓っていた。その時期に作られたのが、この鏡であろう”というのである。王氏のこの論断を読んで、わたしは「あっ」と思った。梅原末治氏の『漢三国六朝紀念鏡図説』等によって、「この黄初鏡が魏鏡であることは、自明」。そう思ってきた。何しろ「黄初(二二〇〜二二七)」という年号は、魏朝にしかないのであるから。王氏の右の判断は、若干の問題点(年号の大義名分論等)をふくむものの、まことに興味深い問題提起(仮説)だ。わたしにはそのように見えた。
ところが、このさいこの黄初鏡問題は、次の「三角縁神獣鏡の年号鏡」問題に対する前提だった。つまり左のような“王氏独自の判断”それへと導く伏線をなすものだったのである。
(二) 三角縁神獣鏡の中には、年号鏡がある。景初三年鏡・(正)始元年鏡がそれである。魏の年号鏡だ。呉の鋳鏡者が日本に来たとき、日本では魏の勢威が盛んだった。そのため彼等は自分たちの作った三角縁神獣鏡に魏の年号を銘刻した。これが右の年号鏡である”と。
先の黄初鏡に対する判断を背景にした、一見“見事な絵解き”のように見えよう。しかしながらさらに精思すると、そこには意外な問題点、深い矛盾の様相が見られるのである。それを分析しよう。
〔その一〕
王氏の説の場合、呉の鋳鏡者は、魏の景初(二三七〜二四〇)・正始(二四〇〜二四九)年間以前に、日本へ渡来してきていたこととなる。いいかえれば、あの「卑弥呼以前の渡来」だ。そして彼等は、日本列島のどこかで、三角縁神獣鏡大量作製作業の“火ぶた”をすでに切っていた。 ーーそういうこととなるのである(いわゆる「景初三年鏡」の中で、一は三角縁神獣鏡〈島根県、神原神社古墳〉、他は画文帯神獣鏡〈大阪府、和泉黄金塚古墳〉である)。
これに反し、わたしが『ここに古代王朝ありき』で“呉の鋳鏡者渡来”を説いたとき、その時期は“呉朝の滅亡期”(二八○)をメルク・マールとしたものだった。この点、同じ「呉の鋳鏡者渡来」といっても、王氏の思い描かれたところと、わたしの想定(ただし、可能性あるケースの一つとしてのべたもの)とは、大きく実体があいへだたっているようである。
〔その二〕
王氏の説によれば、卑弥呼当時、三角縁神獣鏡、ことにその年号鏡類が作りつづけられていたという。そのさい、三角縁神獣鏡の出土分布からいえば、当然全体としては、近畿が中心だ。その近畿において、呉人が、(しかも中国では、孫権がまさに勢威をふるいつづけていた、その時代〈呉の年号は「赤烏せきう」)に敢えて「魏の年号」を刻んだ、というのだから、これを裏返せば、三世紀前半の卑弥呼当時、日本列島で“魏が勢威をふるっていた地帯”は、近畿中心だ、ということを指示しよう。とすれば、魏朝から景初年間、「親魏倭王」の称号をもらった卑弥呼、彼女の居城は、同じく近畿の可能性が大。当然そういう“りくつ”となってしまう。とすれば、先の王論文末尾の一節は、リップ・サービスどころか、氏の立論の帰趨(きすう)点、つまり本音だ。そのように見なすべき筋合いのものだったのである。
〔その三〕
けれども同時に、王氏の立論には大きな弱点が新たに現われる。それは肝心の“魏朝から卑弥呼のもらった、百枚の銅鏡”、それがどの型式の鏡とも、特定できないことだ。
「魏が鏡を贈ったことは、歴史的事実である。贈られたところの鏡がいかなる種類に属するかについては、三角縁神獣鏡を除く各種の、同時期の、本当の舶載鏡を考えるべきで、基本的に神獣鏡と画像鏡をふくむべきでない」
という、具体的な鏡の型式を特定しえず、抽象論に終ったこの一節は、王氏の現在の“迷(まど)い”をありありと告白している。わたしにはそのように思われた。この点、樋口氏も先の論文の末尾で、
「最後に、三角縁神獣鏡のすべてが、もし日本で作られたとすれば、卑弥呼が魏王からもらった銅鏡百面とは、どの種の鏡とするのか、それを納得のいくように説明する必要がある。その実証ができない点が、この説の最大の弱点ではなかろうか」
と結び、王論文における問題の所在を鋭く突いておられる。
たしかに論文の大半においては論旨明晰(めいせき)だった王論文は、末尾に近づくにつれて、“晦渋かいじゆう”の筆致を帯びてきていたのである。それはなぜか。
ここで筆を一転して、わたしの三角縁神獣鏡問題に対する基本視点、それをのべておこう。それはおのずから王論文の内蔵する問題点に対する、わたしの根本の立場を明らかにするであろうから。わたしの視点には、横軸と縦軸の二方向がある。
先ず、横軸。これは空間軸だ。三角縁神獣鏡の出土分布図を東アジア全域について描いてみよう。三百〜五百面、日本列島だけに近畿を中心に濃密だ。ところが、中国や朝鮮半島には一切ない。その「ない」地域を生産中心と見なし、濃密出土領域(日本列島)へ送られた「下賜物」と見なす、これはいかにも異常だ。せめてその鏡の実物はなくても、「鋳型」群でも集中出土するならともかく、むろんそれもない(通例、鏡は砂型で作るため、鋳型は見出されにくい)。実物もない、「鋳型」もない、そのないない尽くしの、その領域を生産原点と見なす、ここに「三角縁神獣鏡、中国製」説の致命的な欠陥があった。たしかに“中国には、やはり出土していない”ことが確認されたのは、今回の王論文によってである。しかしそれ以前の問題として、「この鏡こそ中国出土の三角縁神獣鏡だ。」という一点の認識も全くなしに、富岡謙蔵 ー 梅原末治 ー 小林行雄氏等の「中国製」説が論断し、「定説」化されていた。ここに日本考古学「定説」派の根本的な弱点、方法上の欠落が存在していたのである。
“東南アジアに輸出された日本製の特注玩具が日本内では売られていない現象”を範とした、例の特注説(『ここに古代王朝ありき』一四四ページ参照)の場合でも、もし「遺跡」の問題として考えてみれば、大阪周辺の玩具工場や倉庫等には、その玩具を作る機械があり、失敗したり、送り残した、その特注玩具類はかなり遺存するはずではなかろうか。その点、三角縁神獣鏡のケースとは、やはり比較にならないのである。
以上を要するに“物的出土物の存在しない領域(中国・朝鮮半島)をもって「本来存在した原領域」であるかのごとく、言いなしてはならない” ーーこれがわたしの横軸の論理だ。万人の首肯するところ、と信ずる。
第二の縦軸問題。これは時間軸の方だ。三角縁神獣鏡は弥生(やよい)遺跡から全く出土しない。すべて古墳期の遺跡だ。つまり古墳からの出土なのである。それなのに、これをもって“本来は、弥生時代(三世紀前半)に魏朝から卑弥呼に与えられたものだ。しかし彼女から鏡を分与された配下の豪族たちは、自己の墳墓や同時代の生活遺跡にはこの鏡の残片すら、一切遺存させなかった。そして次代もしくは次々代の子孫たちへと伝えた。そして古墳期の子孫たちが、あるいは四世紀、あるいは五世紀、あるいは六世紀になって、その墳墓、つまり古墳にこの鏡を埋蔵した”。そのように考えるのである。これが有名な「伝世鏡の理論」だ(梅原末治氏をうけついで、小林行雄氏の完成されたところ、とされる)。
しかしこの理論は、たとえそれが「専門」の考古学者の頭を納得させえたとしても、人間の平明な理性に依拠する、わたしのような一介の素人を納得させる力はなかった。なぜなら“弥生遺跡(A’)には皆無。古墳にすべて(B’)”が基本の事実なのに、「A’→B’」の形の「時間移動」を仮定する、これは思考の平明なルールを越えるものだからである。これはちょうど、先の横軸問題で、「定説」派が“中国・朝鮮半島(A)には皆無。日本列島にすべて(B)”が事実であるのに、「A→B」の「空間移動」を仮定し、皆無領域を“原存在点”とみなしていたのと全く同一の論法だ。人間の理性から見て、いわば“逆立ちした論法”である。わたしには、このような論法に従うことができない。やはりすべてが古墳から出土する出土物は、これを古墳期の産物と考えるほかはない。これが縦軸の論理だ。
以上の横と縦の「両軸の論理」からすれば、“三角縁神獣鏡は、古墳期における、日本列島内の産物である” ーーわたしにはこのように理解するほかなかったのである。
王氏にとって「躓(つまず)きの石」となったのは、年号鏡(「景初」「正始」)の問題だ。わたしはすでにこの問題を論じたことがある。第二書『失われた九州王朝』の「年号鏡の吟味」(角川文庫九三ぺージ参照)だ。以下に要約しよう。
先ず、「景初三年」鏡(和泉黄金塚古墳出土、画文帯神獣鏡)と呼ばれるものを吟味したところ、第二字「初」とは読めない。末永雅雄氏の報告書でこの異体字に当る「魏」の字形とされたものは、実は「魏」は「魏」でも三世紀ではなく、四〜六世紀の「後魏」(北魏・東魏)の字形だった。その後、学界に報告された島根県神原神社古墳出土の「景初三年」鏡(これは文字通り三角縁神獣鏡)もまた、第二字が不分明であった。少なくとも、字体そのものからは、決して素直に「初」と読める“代物しろもの”ではなかったのである。
次に、「正始元年」鏡に至っては、二面とも、第一字が“見事に”欠如していた。
以上の事実に対し、わたしの立場は次のようだった。「読めぬものは、読めぬとする。これが学問の根本である」と。
もちろん自分流の推測によって、いろいろの文字をその欠損・不分明個所に当ててみる。これは心楽しい試みであろう。親しい友人同志の談論の間でそれを語ったり、随筆にしるしとどめてみるのも、あるいはよかろう。しかし、その自分の推量で補った文字に基づく推論を、重大な根本的論定の柱として使ってはならぬ。 ーーこれがわたしの立場だった。否、人間の理性が万人に命ずるところ、わたしはそう信ずる。しかし日本の考古学界はちがった。“この年号鏡こそ三角縁神獣鏡が魏鏡であることの動かせぬ証拠”。そのようにのべる人々が、従来の「定説」派を形造ってきたのである。
他の例をあげよう。江田船山(えたふなやま)古墳出土の大刀の銘文読解のさい、原文面の「獲□□□大王」に対して「蝮之宮瑞歯王」と補い(○字、インターネット上は赤色表示)かつ訂正(、字、インターネット上は青色表示)して読んで反正天皇に当て(福山敏男説)次には「獲加多支大王」と補って、雄略天皇に当て(岸俊男説)、第二回目の「定説」を“形造っ”た、いわば「自補自証主義」と呼ぶべき主観主義。それが日本古代史学を支配していた。わたしはこれを非としたのである(「獲」も正確には「狼」に近い)。
問題の本質はこうだ。“「三角縁神獣鏡は魏鏡である」という前提に立てば、これらの欠損年号はそれぞれ「景初」「正始」と読める”ということであって、決してその逆ではない。この一点である。従って“この欠損年号鏡をもって文句なく「魏の年号」をあらわしたもの”と見なす、それははなはだ危険だ。学問の方法論上、決して基準や前提とすることはできない。すなわち、あくまで「景□三年鏡、□始元年鏡」として処理すべし、これがわたしの立場である(山口県新南陽市竹島出土の三角縁神獣鏡に「正始」の文字が見出されたと報ぜられた〈「毎日新聞」昭和五十六年三月九日〉が、それは五十九個の破片である上、「正」の文字自体も必ずしも明晰ではなく、「泰よりは正」という判断にもとづくようである〈西田守夫氏〉。なお「□始」の形の年号は多い〈第二書第一章III参照〉)〔西田守夫「竹島御家老屋敷古墳出土の正始元年三角縁階段式神獣鏡と三面の鏡 ーー三角縁神獣鏡の同笵関係資料(五)」MUSEUM No.357参照〕。
静かに以上の道理を見すえてみれば、王氏の不幸にも陥られた「欠損年号鏡の陥穽かんせい」が明らかとなろう。なぜなら王氏は「景初三年鏡・(正)始元年鏡」として、第二字の「初」をあたかも「自明の文字」であるかのように表記しておられるからである。こうなれば、文句なく“両者とも魏の年号”ということにならざるをえない。とすると、必然的にこれら年号鏡をふくむ相当量の三角縁神獣鏡が、すでに三世紀前半に日本列島内で作られていたことを認めざるをえぬ。しかるに一方、弥生期(三世紀は弥生後期とされる)には、三角縁神獣鏡は全く出土しない。となると、果然、王氏もまた、ここではあの「伝世鏡の理論」の双肩にどっかりと依拠し、依存しなければならぬこととなってしまうであろう。
しかしこれは明白に背理だ。なぜなら先にのべたように、この横軸問題と縦軸問題とは、論理的に全く同一である。ただ空間軸と時間軸という、現われ方のちがいにすぎない。要は“空白領域(A)を原域と見なし、現実の分布領域(B)を派生領域と見なす”ことを非とする、という、人間の理性の通理にもとづくものだ。だから空間軸では、人問の理性に従って「定説」派の見地を断乎(だんこ)斥(しりぞ)けられた王氏が、時間軸では、人間の理性に反して、いわゆる「定説」派の見地に追従する、というのでは、これは明確な背理だ。自己矛盾というほかはないからである。そのため結局、王氏は先のように、真の「魏鏡」、すなわち“魏朝から卑弥呼へと贈られた鏡の形式”を特定できないという結果に陥られるほかなかったのである。
このような矛盾した状況の中に王氏が不幸にも陥られた理由、それはもはやいうまでもあるまい。「景初三年鏡・(正)始元年鏡」という形でこれを「魏の年代」そのものとして、“疑わずに”うけとられたからである。これは“日本の考古学界の自補自証主義的「判読」に対し、王氏が十分に批判的に立ち向われなかったがため”。そのように評することは、果して過言であろうか。
要は“そのすべてが日本列島の古墳から出土する三角縁神獣鏡は、日本列島における古墳期(四〜六世紀)の産物である”という、この自明の帰結以外に、万人を首肯させうる理解、それは結局ありえないのである。
視点を前進させよう。
卑弥呼が魏朝から贈られた銅鏡百枚とは何か。王氏にとって晦冥(かいめい)の難所と見えた、この問題も、人間の理性の平明な視点に立てば、意外にも解答は簡明である。そのための問いは次のようだ。
"日本列島弥生期の遺跡から出土する銅鏡の分布中心はどこか"と。
その答えはすでに『ここに古代王朝ありき』でしめした。
全体が約百七十面、その九割が福岡県、さらに約九割が筑前(ちくぜん)中域(糸島・博多湾岸・朝倉)。つまり全体の約八割が筑前中域だ。このように極端な分布の偏在を眼前にするとき、わたしたちはその中心領域の所在について迷おうとしても、およそ迷うことは不可能だ。然(しか)り、卑弥呼の都城の存在した領域、それはこの筑前中域を除いて他に求めえないのである。
王論文のしめした「三角縁神獣鏡は魏鏡に非(あら)ず」の論断は、王氏自身の躊躇(ちゅちょ)に反して、まさに「邪馬台国」近畿説に対して根源的な打撃を下すものであった。その点、この説に依拠してきた、いわゆる「京大学派」(日本古代史・考古学)が最大の激震をこうむったもの、とも称しうるであろう。
では、一方でこれと対峙していた、いわゆる「東大学派」(同右)、すなわち筑後山門(もしくは肥後山門)を拠点とする論者は、“己が提説の正当性”を果して誇りうるであろうか。 ーー否。なぜなら先の日本列島弥生期の銅鏡分布図がしめすように、筑後は四面、肥後は零だ。このような極少領域がなぜ倭都であると誇称できるか。もしそれができるなら、大和でもーー そこで弥生期の銅鏡(いわゆる「漢式鏡」)出土は零 ーー堂々と三世紀の倭都であることを主張できることとなってしまうであろう。しかしそれはおよそ物(鏡という出土物)に立つ議論ではない。
かつて倭都鹿児島説をのべた論者があった。いわく“銅鏡はおびただしく(鹿児島の地に)存在したが、桜島(さくらじま)の噴火によって、すべて地下に埋没し去ったのであろう”と(高津道昭『邪馬台国に雪は降らない』)。この論旨に対してあるいは“一笑”に付される方もあるかもしれぬ。しかし何人にもそれは許されないであろう。なぜなら筑後山門論者も、“”かつて筑後山門に多くの銅鏡が埋蔵されていた。しかし「邪馬台国」東遷のさい、すべて持ち去ったのだ。だから今はほとんど何も出てこないのである"。そのようにのべているのであるから(江上波夫氏「東アジアの古代文化」大阪講演)。そしてすべての筑後山門論者もまた、氏と大同小異の論法に依存しなければならないこと、自明である。(一九八○年大和の見田・大沢四号墳に四獣鏡一出土)。
それだけではない。もしいったん、このような論法が許容されるなら、日本列島中、いかなる「邪馬台国」候補地の論者も全く“困らない”であろう。なぜならそれぞれいずれかの理由(天災・人為移動・未発掘等)をもって自家の候補地の“出土皆無”もしくは“出土寡少かしよう”の現況に対し、まさに十分な“机上の解明”を与えうるであろうから。けれどもそのような“恣意の論法”がいったん許されるとき、「邪馬台国」論争はいかなる“決め手”をも失い、むしろ学問としての本質を喪失してしまうこととなるであろう。そして遺憾ながら、それが現況だ。
さわやかな弁舌をもっていかに論ずるとも、それはよい。しかしながら事実は頑固である。「物に立つ議論」を無視しない限り、「邪馬台国」をあちこちに勝手に擬定しようとも、それは所詮(しよせん)無駄だ。先の分布図のしめすところ、その自然の帰着を拒みうる、いかなる学界の権威も、在野の研究者も、すべて存在しえないようにわたしには思われる。
昨今、一種“不可解”な現象が見える。王論文の出現以後、にわかに“「邪馬台国」は分らない。今後当分分らないだろう”という類の声が、ジャーナリズムや学界の一部に目立ってきたことである。
この現象のおきた理由の一つは、王論文の衝撃をそういうクッションでうけとめるためであろう。近畿説と九州説との間でながらく保たれてきた“学界内のバランス”の崩れるのを恐れる向きもあろうから。
けれども、これらと異なる立場の人々がある。それは早くから「三角縁神獣鏡魏鏡説」に対し、疑惑を投じてきた、先見ある方々の場合である。
先ず森浩一氏。若き日(昭和三十七年)物された論文「日本古代文化 ーー古墳文化の成立と発展の諸問題」(『古代史講座3 古代文明の形成』〈学生社〉所収)によって、今日の問題を早々と予言された俊秀であった。その点、(年齢はわたしに次いでおられるけれども)研究上、わたしたちの貴重な先達ということができよう。氏の論点には当初以来、微妙な変動(年号鏡の処理の仕方など)があるようであるけれども、その中で注目すべき問題点をあげてみよう。
(一) “三角縁神獣鏡の大半は魏鏡ではない。”というのが氏の立場のようである。従って「ぼくは、必ずしも全部日本製だという説は一度もとってないのです」(『古墳時代の考古学』〈学生社〉一四一ページ)と力説しておられる。この点、現在の氏は、いずれの立場(全面国産説と一部舶載説)に立っておられるのか、その帰趨を注目したい。
(二) 氏の特異の説として「公孫淵(こうそんえん)の遼東(りようとう)をもって三角縁神獣鏡の優品の母域」とする立場がある(同右書、森氏『古墳』〈保育社〉等)。王論文にも、この説の存在がふれられている。この説の場合、“遼東半島にも、三角縁神獣鏡の出土がないではないか”という問題が、的確な反論として、早くから出されていたのである(三上次男氏。前掲『古墳時代の考古学』、一四六ぺージ)。森氏の明確な追論が待たれる。※
※これらの点が不明のため、『ここに古代王朝ありき』においては、右の若き日の出色の論文名をあげさせていただくにとどめた。
次に松本清張氏。昭和四十六年、「芸術新潮」に連載されたものが、四十八年『遊古戯考』(新潮社)として刊行された。この中にすでに「三角縁神獣鏡国産説」を堂々とのべ、さらに“楽浪(らくろう)郡からの中国人鋳鏡者渡来”などにふれておられる。すぐれた直観力である。さらに『清張通史1 邪馬台国』(講談社)でも、その説は明確にのべられている。
ところが、この両氏とも、最近一段と「邪馬台国不明説」を唱えておられるように見える。いわく“邪馬台国は分らない”“五十年や百年は分らないでしょう”“いや永遠に分らないかもしれませんよ”などと。これはどうしたことであろうか。
わたしの目から見ると、その根本の原因は次の二点にあるように思われる。
第一、「博多湾岸奴国説」という、本居宣長以来の通説を、両氏とも先入観としてうけ入れておられること(森氏は一時これへの保留をしめされた〈『邪馬台国九十九の謎』産報、昭和五十年十月、一七九ぺージ〉が、また最近では通説に立つ解説〈たとえば「広陵王印」「アサヒグラフ」昭和五十六年八月七日〉をくりかえしておられる)。
第二、糸島郡の大半を「伊都国」と考えておられること(これも原田大六氏他の通説であるけれども、実は戸数問題等の疑点が多い)。
以上によって、そのいずれをも両氏には「邪馬台国」の中枢に当てることができないのである。いいかえれば、先の日本列島弥生期の銅鏡分布図のしめすところ、全体の約八割を占める「筑前中域」は、両氏にとってもまた、思考の「前提条件」として“「邪馬台国」ではありえない”こととなろう。とすると、あとの二割は集中せず、漫然と分散するにすぎぬ。「物」に立つ論者がその中のどこに「邪馬台国」を探せるものだろう。そこに“分らない、分らない”という歎きが生ずるのは、いわば不可避の帰結ではあるまいか。
ハッキリと問題のポイントをのべよう。“弥生期の日本列島の銅鏡分布図において、各地にまんべんなく銅鏡が(たとえば二、三面ずつ)分布している、このような現況なら、それこそ「分らない」という一言こそ、学問的である。しかし事実は逆だ。全体の約八割という極端な集中度がしめされているとき、この事実に背を向けて、「分らない」といいつづけること、それこそ言葉の正碓な意味において、非学問的である”と。
わたしがこのようにつめよるとき、考古学者たちのつぶやく声が聞えるような気がする。“弥生遺跡の漢鏡は、弥生中期(ほぼ前一〜後一世紀)後半か、弥生後期(二〜三世紀)初頭、もしくは前半とされてきた。従っていきなり弥生後期後半(三世紀 ー 卑弥呼当時)に当てるわけにはいかない”と。
その通りだ、もし従来の考古学者の立てた年代観が正しければ。しかしそのとき“従来の年代観自身、実は「三角縁神獣鏡は魏鏡である」という基本命題の上に築かれている”そのことが忘れられてはならない。その証拠に、考えてもみよう。もしいわゆる「漢式鏡」(弥生期出土の銅鏡)が二〜三世紀をふくむ時期のものとされていたら、右の基本認識自体がナンセンスとなろう。なぜなら“卑弥呼当時のもの”と明確に指定された銅鏡群が「三世紀の遺構」にれっきと分布し、存在しているのに、次の時代(古墳期)出土の三角縁神獣鏡をもってこれ(前代の卑弥呼がもらった鏡)に当てる、そんなことはいくら何でもできるはずがない。はずがないからこそ、いわゆる「漢式鏡」は、“慎重に”上(先代)へと押し上げられて、弥生中期(前一〜後一世紀)付近に当てられてきたのだ。そのさい、何も、これらの「漢式鏡」に“弥生中期に当る中国年号”が刻されていたわけではない。すべて日本の考古学者の推定、もっとハッキリいえば、「目分量」にすぎなかったのだから。
「われわれの判定に異議を唱えるのか」そう声高にいいうる日本の考古学者がいるだろうか。「三角縁神獣鏡は魏鏡である」というのも、その「われわれの判定」ではなかったのか。そしてそれは今、王論文の前で危殆に瀕したのである。
そして肝要のこと、それは“(A)日本の考古学者の立ててきた年代観と、(B)三角縁神獣鏡、中国(魏朝)製説とは、一貫したものである”という、厳然たる事実だ。平ったくいえば(A)(B)の両命題は“一蓮托生いちれんたくしょう”だったのである(この点について、先の『古墳時代の考古学』で森氏自身もふれておられる)。
このような“本来の形成過程”を忘れて、結果としての年代観だけを固守しようとするなら、そこに根源の誤謬(ごびゅう)が生れるのではあるまいか。
方法上、これに関連する重要なテーマがある。それは「博多湾岸、奴国説」だ。先ほどふれたように、これは先ず本居宣長の唱導にもとづくものだ(新井白石も『古史通惑問こしつうわくもん』で那珂(なか)郡としていた)。
「かの伊都国の次にいへる奴国は、仲哀紀に灘県(なのあがた)、宣化紀に那津(なのつ)とあるところにて、」(『馭戎慨言ぎょうじゅうがいげん』)
という通りである。しかしながら、この宣長の論定方法には大きな欠陥がある。なぜなら倭人伝の表音体系の構造を無視しているからだ。この点、本題に入る前に一言しておこう。
倭人伝には「弥弥(みみ)」「弥弥那利(みみなり)」というように、「那」が表音表記に使われている。これは明らかに「ナ」の音だと考えられる。従ってもし博多湾岸を“「ナ」国”であるとしたら、ではなぜ「那国」と書かないのか、という問題が生じる。現に宣長も指摘している通り、後世「那の津」と書かれているではないか。これに対し、“「那」は、三世紀には「ナ」と読まなかった”。そのように論者が主張したいのならば、彼等はそれを“立証”せねばならぬ。なぜなら右の「弥弥那利」は「みみなり」と読む点において、異議提出者を見ないのであるから。しかし、わたしはそのような論証を知らない。このように、宣長の性急な判定には“立論上の手抜き”が見られるようである。
この手抜きされた宣長の構築に対して、現代の論者は、いわゆる近代言語学上の「上古音」という概念によって“上塗り”しようとした。“中国の「上古音」では、「奴」は「ナ」であるから、やはり「奴国」を「『ナ』国」と読むのは、正しい”というのである。
しかしながら、もし“倭人伝は「上古音」で読む”という手法なら、隣の「伊都国」も、(「都」の上古音は「タ」であるから)「イタ国」となってしまう。(現に鈴木武樹氏も、それをすでに指摘された)。しかし、あの「恰土郡」や「恰土村」をかつて「イタ郡」や「イタ村」と呼んだ、などという証跡は皆無なのである。一方の博多湾岸は“「ナ」の津”の呼び名がつづいていた。矛盾だ。してみれば、“「奴国」は「ナ国」と読める。その証拠は上古音”といった議論も、「上古音」という学術用語という名の「鬼面」におどされるものの、その実体は意外にも脆弱(ぜいじやく)なのである。やはり宣長の権威を「上古音」の虚名によって“上塗り”してみたにすぎぬ。わたしにはそのように思われる。
もう一つ、重要な問題点がある。
それは、志賀島(しかのしま)金印の問題だ。今日の“博多湾岸、奴国説”の最大の根拠、それはこの金印に対する、考古学者三宅米吉の読解であるように思われる。すなわち教科書でも一般化されている「漢の委(わ)の奴(な)の国王」という読解だ。この読みは、あたかも“確乎たる定説”であるかのように、人々は思っている。現地の記念碑の前の解説にも堂々とその読みが書かれているから、一層人々の「思考力」を奪っているのであろう。
けれども肝心の一点、それは人々の注意せぬところにある。それは三宅米吉氏がれっきたる「邪馬台国、近畿論者」であり、その立場を前提にした読解である、という事実だ。氏の「邪馬台国について」(「考古学雑誌」一二 ー 一、大正十一年七月)の一篇を読めば、それは明白である。冒頭に高橋健自(けんじ)の「古代の文化の中心が大和であった」という畿内中心説を紹介した上で、これに同調し、「私は邪馬台国は畿内であると思ふのである」と迷いなく論断してある通りだ。すなわち三宅にとっての三世紀日本の基本構図は、明らかに“大和に「邪馬台国」、博多湾岸に「奴国」”という形のものとして、氏の脳裏に鋳こまれていたこと、それを疑うことはできない。
そのような基本古代構図に立って、それを一世紀に“遡上そじょう”させたもの、それが彼にとって金印読解のもつ意味だった。このような「大和が主、博多湾岸が従」という立場からの読解をもってーーたとえば森氏や松本氏のように、必ずしも「邪馬台国近畿論者」を自認せぬ論者までーー あたかも基本事実のように前提するとしたら、一個の背理というべきではあるまいか。近畿大和に合わせるために改定された「邪馬台国」を、九州にもってきて「山門」などにあてはめた、新井白石流のやり方、つまり“成立の根本の動機を忘れて、結果だけを独り歩きさせる”手法、それがここでもまた無批判にうけ入れられているのである。
ハッキリ言おう。王論文によって、(王氏自身の躊躇にもかかわらず)「邪馬台国近畿説」が実質上崩壊した、とすれば、それは同じく三宅読解もまた事実上崩壊した、そのことを正しく意味するのだ。両者は切りはなしえぬ、論理の連環をもっているのである。
もう一歩、切りこませていただこう。第二書ですでに書いた二段国名問題だ。
中国の印制では「AのB」といった風に、二段に刻されるのが通例である。たとえば、
「漢(A)帰義胡(B)長」
のように。これは印の授与者(A)と被授与者(B)との直接関係のみを認め、中間の介在者を認めない、そういう「中国朝廷側の論理」の表現である。しかるに米吉読解は、自家の近畿中心説のために、敢えて右のルールを破り、三段読みに奔(はし)ったものだ。王論文によって三宅読解の根石がとれてきた今、あらためてこの問題点が再指摘されねばならぬ。すなわち易々として「漢の委の奴の国王」というような、日本列島内における「井の中の蛙」的読法を通行させて怪しまなかった日々は去った。わたしにはそのように思われる。
この点、
「漢(A)旬奴(B)悪適戸逐王」
の例をもち出して、「三段読み」を弁護する論者がある(たとえば岡崎敬氏。『立岩遺蹟』〈河出書房〉解説)。
けれども、これは学問の方法上、無理のようである。
第一、「悪適戸逐」というのは、部族的称呼であって、「国名」とは直ちにいいがたい(その点、「三段国名」の例とは、なしがたいであろう)。
第二、もしそれが「国名」であったとしても、“印は「二段読み」が通例であり、「三段読み」は稀有例に属する”。この基本事実を否定できる人は誰一人ない。従ってわたしたちが日本列島出土の中国印を解読しようとするとき、当然ながら“通例のルール”によって読むべきであり、“稀有例”によって読むべきではない。これが学問の王道である。もし後者“稀有(けう)例”に従う)の場合には、その稀有のケースに属することを立証する、別の厳格な証明がいるはずである。それができなければ、所詮、学問の奇道を歩む者にすぎぬであろう。
しかるに、そのような“稀有例”(であるかどうかも、第一の理由から不分明であるが)の指摘のみをもって、従来の通説(三宅読解)が“保証”される、そのように論者が考えたとしたら、それは学問の方法に対する反省の欠如、そういわざるをえないのではあるまいか。
以上のような道理をわたしは疑うことができない。それゆえ「志賀島 ーー 博多駅 ーー 太宰府だざいふ」という邪馬一国の中枢地帯 ーーそれは出土物の質・量ともに日本列島随一の、弥生のゴールデン・ベルトであるーー から新たな出土物(たとえば「細剣の鋳型」から「貨布」まで)があるたびに、「またも奴国から画期的な出土」と書きつづけてきた悪弊。その気風が一掃されたとき、はじめて卑弥呼の都城領域は、スッキリと万人の眼前にあらわとなってくるであろう。  

A(「古田さんが指摘していて、王論文も同じ論旨を辿られた『海東鏡』の件ですが、あの『至海東』は、“蓬莱(ほうらい)山などを含む地域を漠然たる仙境として指しているものだ、日本のことではない”という反論が出ましたね」
古田「ああ、藤沢一夫氏の論文(「三角縁神獣鏡の日本製説は早計」「毎日新聞」昭和五十六年十月二日)だね。ところが不思議なことに、藤沢さんは『海東』の用例をあれこれと模索しながら、ズバリ『海東』を使った用例は一つも見出しておられない。ただ『山海経せんがいきょう』の海内北経(ただし注部分)に蓬莱山について『渤海(ぼっかい)の中に在るなり』という解説のあるのにヒントをえて、『海東=仙境』説をのべておられるだけだね」
A「そんなに『海東』という言葉は、用例が見当らないんですか」
古田「いや、そうでもないね。先ず有名な例として、『漢書』の司馬相如(しばしょうじょ)伝に、『私は青丘(せいきゅう)に田(=狩)し、服虔(ふくけん)曰く「青丘国。海東三百里に在り」』とある」
A「ああ、あの『邪馬一国への道標』で司馬相如の『子虚賦しきょのふ』問題のとき出された例ですね。服虔(ふくけん)というのはいつの人ですか」
古田「後漢の人だね。字は子慎、榮陽の人で、尚書侍郎、高平の令、九江の太守と歴任したんだ。『漢書』(顔師古がんしこ注)の解説に出ている。これは斉(せい)の国、つまり山東(さんとう)半島あたりから東をさした用例だから、ちょうど朝鮮半島の平壌(へいじょう) ーーソウルあたりの中の中枢地帯をさしているものだろうね。藤沢さんも『古くから朝鮮地域の国は、みずから海東と称していた』と書いておられるが、その淵源(えんげん)をなす用例だろうね」
A「問題の、日本列島に当る用例はないんですか」
古田「どうして、どうして。『書経しょきょう』で、
(イ)島夷(とうい)皮服(注、海曲、之を島と謂(い)う。其の海曲、山有り。夷、其の上に居るを謂う)。
(ロ)海隅、日を出だす。率偉(そつぴ)せざるはなし(周公しゅうこうの条)。
とあるように、東の『島に住む夷』のことを“海の隅の、日の出るところ”に住む存在としてとらえている。(イ)と(ロ)が日本列島をさすと考えられることは、すでに『邪馬一国への道標』や『邪馬一国の証明』で大いに論じたところだ。陣寿が『三国志』の東夷伝序文で、
『長老説くに「異面の人有り、日の出づる所に近し」と』
といったのが『倭人』をさす、ということはすでに第一書『「邪馬台国」はなかった』でのべた。ところがこの文面は、当然ながら『書経』の(ロ)の文面を背景にしているんだ。また倭人伝冒頭の有名な、
『倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑(こくゆう)を為す』
の句も、同じく『書経』の(イ)の文を背景にしている。少なくとも中国の(洛陽を中心とする)インテリは、そういう(『書経』の)教養のもとに、この倭人伝を読んだ。陳寿も、読者からそううけとられることを承知で、書いた。これは疑いないところだ。
とすると、“海の向う、日の出る処”にある、倭人の地(日本列島)が『海東』でないわけはない。先ずわたしはこう考えた。しかしこれは藤沢さんの場合と同じく、ズバリの例ではない。ところが ーーーー」
A「ズバリの例があったんですか」
古田「あったね。『三国志』東夷伝の中の東沃沮伝 ーー倭人伝のすぐ前の方ーー に、
『王[斤頁](おうき人名、魏の母丘倹かんきゅうけんの部将)、別に遣わして追いて宮(高句麗王)を討ち、尽く其の東界を尽くす。其の耆老(きろう)に問う。「海東に復(また)人有りや不(いな)や」と』とある。
王[斤頁](おうき)の[斤頁]は、JIS第3水準ユニコード980E
これに対して耆老が答えた、幾つかの貴重な説話が書かれている。海の東に一つの島があり、そこの風俗では七月に“童女を取って海に沈める”習わしがある、とか、また一つの国があって、海中にあるが、女だけで男はいない(「純女無男」)ところだ、とか、また一つの破船が流れついたが、その中に身体は一つで首が二つの人物 ーーいわゆるシャム双生児だろうねーー が乗っていて、言葉も通ぜず、食べずに死んでしまった、といった真実(リアル)な悲話が告げられている。そして『其の域、皆、沃沮の東の大海の中に在り』と結ばれているんだ」
A(「ああ、その話、『邪馬一国への道標』(講談杜刊、角川文庫所収)にも出ていましたね」
古田「沃沮は、朝鮮半島の東海岸(北半)の国だから、その東とは、日本海、その彼方の島や国となれば、先ず、日本列島しかない、よね。それに先の『童女を取って海に沈む』に類した伝説も、山陰・北陸には分布しているようだからね。これは貴重な“三世紀時点における民俗学的採取”というべきだろうね」
A「“女だけで男なし”というのも、“巫女(みこ)の住む男子禁制の聖地”としての国(島)が考えられますよね。姫島(ひめしま 大分県)や今は女子禁制の島になっている沖(おき)の島(福岡県)も、天照大神(あまてるおおかみ)の娘たちの島だっていうんだから、案外、昔は男子禁制の島だったかもしれませんね」
古田「たしかに、みな不思議な話だが、いずれも奇妙な真実味(リアリティ)があるよね。不幸な双生児の問題も、『古事記』に“葦舟(あしぶね)の蛭児(ひるこ)流し”の形で反映されている日本側の習俗とピッタリ相応しているし、ね。ともあれ、朝鮮半島の『海東』が日本列島になることは自明の理だ。のちに李氏(りし)朝鮮のとき作られた『海東諸国記かいとうしょこくき』(成宗せいそう二年、一四七一)という本があるけど、これも日本列島のことを書いた書物だからね。“『海東』は日本を指さない”なんて、とんでもない話だよ」
A「そうすると、それは“朝鮮半島の人が日本をいうときの用例”ということになりますか」
古田「いや、そうとも限らない。現に今の東沃沮伝の例は、王[斤頁]という中国人の発言だ。また、これは河合紀さんという、わたしと同じ町に住む、清水(きよみず)焼の陶芸家の方から教えていただいた例だが、有名な唐代の詩人王維に積水極む可からず 安(いずく)んぞ槍海(そうかい)の東を知らん。
という詩がある。これは日本から来た秘書晃監(阿部仲満あべのなかまろ)に贈る詩だから、当然日本のことを『槍海東』といっている例だよ。
それだけじゃない、この詩の序文に
『海東国日本為大』(海東の国は日本を大と為す)
といっている。日本を『海東』といった、これ以上の明文はないだろう」
A「なるほど。日本側では、自分のことを『海東』とはいわなかったんですか」
古田「いや、そうともいえないね。有名なイ妥*王の多利思北孤(たりしほこ)が隋の天子、煬帝の使、裴世清(はいせいせい)に、
『我聞く、海西に大隋礼義の国有りと』
といっている。これは当然みずからを『海東の国』と見なした上での造語だから、『倭国=海東』説に立つ(背景とした)用例だ。多利思北孤は、例の名文句、
『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、志(つつが)無きや』
で、自己を『書経』の「海隅、日を出だす」の国、『三国志』東夷伝の『日出づる所に近し』の国として、自己の身元の確かさ(来歴)を誇っているわけだからね。その『日出づる処』から見れば、中国は『海西』だ、というわけなんだ」
A「何か、“視座のひっくりかえし”といった、壮大な気宇の造語ですね」
古田「この『海東』問題について、奥野正男さんも、わたしに反論してこられたんだが(「イ方*製説は銘文だけでは立証できない」「毎日新聞」昭和五十四年十一月十日)、これに対してはすでに再反論を書いた(「古鏡の史料批判 ーー奥野正男氏への再批判」「毎日新聞」昭和五十五年五月十六日。『邪馬一国の証明』収録)。
その中で奥野さんが『蓬莱山の仙人境』の例と思って出された杜甫(とほ)の詩(「石を駆って何時か海東に到らん」)の『海東』が、その原拠(『述異記』等)に当ってみると、実は次の文だった。
『秦始皇(しこう)、石橋を海上に作る。海を過(よ)ぎりて日出づる処を観(み)んと欲す』
とあって、やはりこれも『日出づる処=海東』の例だった。『日出づる処の天子云々』の名文句の書かれた『隋書』は、初唐(七世紀前半)成立の史書、中唐の詩人、杜甫(七一二 ー 七七〇)は当然、(『書経』『三国志』と共に)この史書の教養の上に立っている。
とすると、やはりこの例は、奥野さんの思わくとは逆に、『海東=日本』の例だったんだ。こういうように、論争の過程で新しい証拠が次々と見つかってくる、これこそ論争というものの醍醐味(だいごみ)だね、あの『闘けつの論証』のように」
イ妥*国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO
イ方*製鏡のイ方*は、人編に方。第3水準ユニコード4EFF
A「話は変りますが、従来の考古学界の『主流』だった学者は、“まだ今後、大陸から三角縁神獣鏡が出土するにちがいない”といっていますが。どうでしょう」
古田「全くその通り。賛成だよ」
A「えっ、どうして」
古田「だってそうだろう。日本列島で三百〜五百面も出ているんだから、実数は、その五倍・十倍あったと見なければならないのは、当然。それだけ作られていて、しかも大陸(中国・朝鮮半島)との交流があるんだから、向うへもってゆかれなければ、その方がおかしい。献上だか、プレゼントだか、名目はいろいろあるだろうけどね」
A「そういえば、長安から和同開珎が出たりしましたね」
古田「そうだ。だからといって、和同開弥が長安で(日本側の特注で)作られて日本へ送ってきたものだ、なんていう人はいないよね。それと同じだ。将来、必ず大陸(中国・朝鮮半島)から何面か何十面かの三角縁神獣鏡は出土する、これは予告しておいていいことだけど、だからといってすぐ『三角縁神獣鏡、中国製説の裏付け、復活』などと騒ぐのは、今から願い下げにしておいてもらいたいね。もちろん明確に日本側より早い、弥生期(魏)の古墳から出土した、というのなら、話はまた別だけどね」
A「“中国で一面、三角縁神獣鏡が出た、それ”なんていうのは、とんでもない話なんですね。では、古田さんの考えでは、この三角縁神獣鏡問題は、結着がついた、というわけですか」
古田「とんでもない、これからだよ。第一、考えてもみたまえ。三百〜五百面にものぼる鏡、その中で文字のある、従来の『舶載鏡』、それが国産ということになれば、一夜にして尨大な金石文の文字資料が“出現した”こととなる。こんなことは世界の考古学研究史上でも稀有の事件だと思うよ。これからは『国内産出資料』として、再検討し直さなければならない。すると、今までに看過されてきた、たくさんの斬新(ざんしん)な間題が必ず浮上してくる、思うよ。先の『海東』問題など、まだその、ほんの序の口にすぎない。
それに文字だけじゃない。『神獣』といわれている模様についても、そうだ。あれが果して『神人(中国の仙人)』や『神獣(中国の想像上の獣)』だけなのか、わたしは大いにあやしい、と思っている。
別に空を雲で飛んでいるのでもない、ただ地上にどっかりと坐(すわ)って両側に給仕の女人をしたがえたような図柄の人物が、なぜ『仙人』であって、『人間』(日本の豪族、鏡を作らせた権力者)であってはいけないのか、誰も“証明”していないんだからね。ことに中国の神獣鏡には、笠松状の『幢幡』をもった『仙人』なんて、出現しないんだから、ますます従来の既成概念(仙人説)はあやしい、と思うよ。さしずめ中国の生粋の『仙人』であることの確実な“人相書き”でもそろえてみないことには、ね。こんなことは、すべて、これからはじまるんだ」
A「何だか、わくわくしてきましたよ」 
■ 3 理論考古学の立場から

 

未明の謎がある。
わたしの目に、見事な論文として久しく眼底にとどまってきていたもの、それは梅原末治氏の「筑前須玖遺跡出土のき*鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)である。それは日本古代史上重要な里程標をしめす論文であるにもかかわらず、氏の後継者たち(及び一般の考古学界)から、つとめて“無視”されてきたものだ(以後、この鏡をK鏡と略記する)。
き*鳳鏡のき*は、インターネットでは説明表示できません。冬頭編、ユニコード番号8641
その要旨を述べよう
第一に、須玖岡本(すくおかもと)のD地点(いわゆる「王墓」とされるもの。前漢式鏡三十面前後が一甕棺(かめかん)から出土)から一個のK鏡が出土している。
第二に、その伝来はたしかである。「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇(じっこん)の間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であることが伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆(ほとん)ど疑をのこさない」。
第三に、現物観察によっても、右は裏づけられる。
「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹(せいりょくしゆう)を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後(じご)和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められる。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよK鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」
第四に、このK鏡は、内外に存在し、実際に観察した百面近い実例の比較からすると、二世紀後半期以降である。
「従って鋳造の実時代は当然後漢の後半、如何(いか)に古くとも2世紀の後半を遡(さかのぼ)り得ないことになるわけである
このさい、ことに基準尺の一ポイントとなったのは、「印度支那のゴ・オケ遺跡出土品」であるという。大戦後フランス学者が調査を行った、サイゴンに近い古の扶南(ふなん)国の海港だったと覚しいこの遺跡の出土品に一面のK鏡片がある。ところが、セデス博士(George Caedes)の記述によると、同じ遺跡から西紀二世紀中葉のローマ時代の貨幣が出ている、という。梅原氏はパリのギメー博物館で、これらの遺品を実地に確認し、「かくてこれが考古学上からするこの種鏡の年代を推すきめ手の一つになることが認められる」とのべられた。すなわち、今問題の須玖岡本の王墓出土のK鏡は、右のK鏡より「退化」した様式に属し、右のK鏡以降のもの、とのべられたのである。※
※最近、樋口隆康氏の『古鏡』(新潮杜、昭和五十四年十月)でも、この須玖岡本D地点(福岡県春日かすが市)出土のK鏡は、次の解説のもとにあげられている。(図版六五の128 )。
「B平素縁式。・・・(中略)・・・同じ平素縁鏡であるが、その幅が狭く、内行花文が著しくカーブの低いもので、鈕(ちゅう)が大きく、且つ扁平な類がある。安徽(あんき)省出土品が多く、魏晋代の作である」(一九〇ぺージ)
第五に、従って須玖岡本の王墓の実年代は三世紀前半以降である。
「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本K鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧(むし)ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此(こ)の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」
第六に、以上の論証によって従来の鏡の年代観(自分 ーー梅原氏ーー の提示し、一般の認めたもの)を一変させることとなろう。
「戦後、所謂いわゆる考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡(およ)そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲(みくも)遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々(われわれ)の既往の所論から導かれたものである。併(しか)し須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」
第七に、問題のK鏡を他よりの混入であるとするような見地はとりえず、やはり今後は「此の新たな須玖遺跡の年代観」(三世紀前半以降)によらねばならない。
「如上の新たなK鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題のK鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえママそれを問題とする人士をさえママ見受けたのである」
以上がその要綱である。氏がいかに慎重に周密に論証の筆致を運んでおられるかが察せられるのである。またこの所論が一朝一夕のものでなく、京都大学教授在任中(退官は昭和三十一年八月)から熟慮を重ねきたった末の懸案であったことも赤裸々に語られている。
ことに感動的なのは、自己が(師の富岡謙蔵氏を継承して)立案し、「定説」化されていった基準尺を自ら敢えて打ち破る、という、その気魂がここに鋭くこめられていることである。このような行為は学者にとっていかに困難であるか、わたしたちはその実例を幾多見得る(たとえば「邪馬台国」問題や王論文問題など)だけに、それを敢行された氏の学問的勇気を率直に賞讃させていただきたいと思う。
ことに注目すべきは、“伝来の経緯”について「殆ど疑をのこさない」とのべられた氏が、伝来の関係者と同時代人である上、立場上、きわめて確認のとりやすい位置にあったことである。たとえば京都の銅駝坊陳列館などは、いわば氏の「お膝元ひざもと」にあった(あるいは、氏が同館の「お膝元」にいた)。その上、他の関係者間の実体も、氏の知悉(ちしつ)しておられたところに属すると思われる。このような立場にあった氏の証言は、後人の(確たる反証なしに)軽易にはくつがえし能(あた)わぬところ、といわねばならぬ。
この梅原論文への“駁撃ばくげき”は、十年後に現われた。
原田大六氏の『邪馬台国論争』(三一書房、昭和四十四年五月)がこれである。原田氏は先ず重要な指摘を行われた。
「半欠品であるが、後に再発掘し鏡片の研究に従事した九大教授中山平次郎の手元に、それに属する鏡片が一片もなかったことは重要である」
つまり明治三十二年の「発見」によるこの王墓に対し、大正初期から昭和初期にかけて、現地の再調査を行われた中山平次郎氏の尨大な収集品の中に他の残欠部(補完部分)が見当たらないから、梅原認定は疑うべきだ、といわれるのである。この「疑い」そのものは正しい。ただそれはあくまで「疑い」の発起点たるにとどまり、「論証」そのものでありえないことは明白である。
第一、もしかりに「二十〜三十面のK鏡が出土した」というなら、“若干の残欠品(補完部分)があるはず”としうのも、一応はうなずけようが、たった一枚の鏡の場合、その残欠部分(補完部分)が“後年そこで発見される”というのは、むしろ“僥倖”に属するケースではあるまいか。
第二に、事実、三雲遺跡の場合、文政五年(一八二二)に出土した前漢式鏡の残欠品(補完部分)が、奇(く)しくも当の原田氏を団長とする、近年の調査団によって発見されたことは著名であるけれども、その半面他の多くの前漢式鏡(三雲遺跡)や後漢式鏡(井原いはら遺跡)については、その残欠品(補完部分)は見出されていない。だからといって、これらの江戸期の発見報告(青柳種信等による)を“架空の偽妄”と言いたてる権利は、現代のどのような考古学者に許されないないであろう。もちろん、原田氏自身もそのようにはいっておられない。
以上によって判明するように、原田氏の“疑い”は、一つのアイデアの発起点としては、当然しかるべきものではあっても、肝心の「論証」にはなっていないのである。
では、原田氏の論証はどのようなものであろうか。氏は「検証の課題」として次の三点をあげ、みずから回答をしめされた。
「(1) そのK鏡は須玖岡本の王墓出土ということに間違いはないか。
 (2) 他の鏡を副葬していた弥生墳墓でも梅原発言が証明されるか。
 (3) 弥生墳墓出土の鏡の編年に混乱が見受けられるか。
以上の三点である。このことが明らかにならないことには、奇怪な梅原発言は承認されないのである。
(1)の回答をしよう。須玖岡本の王墓出土の鏡復原に心血を注いだ中山平次郎の談話によると、そのK鏡が須玖岡本の王墓出土品ということには、はじめから疑問があったという。須玖の名前が有名になるのと同時に、骨董(こつとう)屋などが介入して、他の遺跡出土品をあたかも須玖から出土したように見せかけ、言葉巧みに二条家に売りこんだものらしい(注)。
(注)直接筆者が聞知した。(原田氏の注)
(2) の回答。現在まで北部九州の甕棺に鏡を副葬していたのは、十八例知られている。これらのものは、前漢に属する鏡は中期(須玖式)の甕棺に、漢中期の鏡は後期前半(神在式)の甕棺に納まっていて、梅原発言のような混線は見受けない(表3 ーー 略、七三ぺージ〈引用書のぺージ〉参照)。ということは、梅原発言を他の例で証明することはできないと断言できる。
(3) の回答。洛陽焼溝で判明した鏡の編年と、北部九州の弥生墳墓副葬の鏡の編年がほぼ一致していて、いずれも秩序が保たれている。須玖岡本の王墓の、ただ一枚のK鏡だけが混入物であることはこのことでも証明される」
(1)の間題と回答について検討しよう。
ここでは、中山平次郎氏の疑問が冒頭におかれている。「中山平次郎先生に墓はない、その墓はわたしの心の中にある」と、わたしが訪問したとき、明言された氏であるだけに、この“随聞記”は貴重である。「須玖の名前が・・・売りこんだものらしい」の部分が、中山氏の推測か、原田氏の推測か、文体上は必ずしハッキリしないけれども、末尾の注として、「直接筆者が聞知した」としるされているから、“中山氏の意のあるところを、原田氏が記した”。そう考えるのが、一応の筋であろう。
さて、この問題について、次の二点が重要だ。
(一)中山氏身、右のような「推測」をもちながら、論文の形でこれを明晰化していない一般に研究者は当然ながらさまざまの「推測」を、アイデア段階において有する。そして近習の“心を許した、若者たちに、あるいはこれを語ることありえよう。けれど、いざ、論文に書く”というとき、一方では、それが「裏付け」をえて明記できもるのと、他方では、「推測」にとどまって明記しえぬもの(場合によっては、捨てるもの)のあることは、人々のよく経験するところ、いわば当然の事態である。
この点 、原田氏の証言をまつ外、中山氏自身が右の問題を「論文として明記」していない点から見れば、このケースは中山氏にとってやはり後者(客観的な裏付けのないため明記しなかったもの)に属した、ものではないかと思われる。
この点、興味深いのは、右の問題の梅原論文が「中山平次郎追悼号」(「古代学」第八巻増刊号、昭和三十四年四月)に掲載されていることである。これは偶然の暗合であろうか。いいかえれぼ、ただ単に“梅原氏がその問題を当時扱っていたから、偶然この号に掲載した”のであろうか。この雑誌の目録は次のようである。
 考古学上より見たる神武天皇東征の実年代 中山平次郎
 遠賀(おんが)川遺蹟出土の小孔石庖丁 中山平次郎
 無紋系弥生式土器の陽飾 中山平次郎
 筑前須玖遺蹟出土のK鏡に就いて 梅原末治
 中山平次郎博士  梅原末治
 中山平次郎博士年譜
 中山平次郎博士著作目録 梅原末治編
つまりこの雑誌のこの号全体が梅原氏の編集にかかるもので、当の中山氏の論文と梅原氏の論文のみで全体が構成されているのである。このような構成から見ると右の論文は当然「中山平次朗氏に捧ぐ」という追悼記念論文の意義をそなえている。そのように見なす他ないのである。ところで、今中山氏の恩愛の弟子、原田氏によると、中山氏の内面に重大な「推測」ないし「疑惑」の存在していたことが「証言」された。ではこの「推測」や「疑惑」は、果して(イ)中山氏ひとりひそかに抱きえた疑問であろうか。(ロ)また中山氏は他にはこの「推測」や「疑惑」を決して洩(も)らさず、あたかも「中世」の秘儀・秘伝の類のように愛顧の弟子たる原田氏のみにもらされたのであろうか。
(イ)(ロ)とも、わたしには考えられない。なぜならことの性格上、この疑問は、中山氏ひとりのものではなく、ことに大学の学者にとって、何よりも先ず、“疑わるべき問い”であるはずだからである(京大からも現地〈須玖岡本〉へ調査団がおもむき、詳細な報告書が作られ、その中で鏡に関する報告を、当時気鋭〈三十代中葉〉の梅原氏が記したこと、著名の事実である〈「須玖岡本発見の古鏡に就いて」 ーー「京大考古学研究報告」一一、昭和五年〉)。
次に梅原氏が富岡謙蔵氏の「助手」として、再三中山平次郎氏に接触していたことは、右の雑誌の追悼文「中山平次郎博士」中に、梅原氏自身が「私が博士に始めてお目にかかったのは、大正五年十二月のことである。・・・」とのべられたごとくであり、中山氏の死の「三日前」にも、氏の宅を訪れ、病をかえりみぬ氏の考古学上の問題についての談論風発に接し、その学問への熱情に対し、いたく感銘させられたという。このような実情から見ると、梅原氏がこの中山氏の疑念を“知っていた”と考える方が、自然の理解と思われる。そうであったればこそ、梅原氏はこの中山氏追悼号に対して、ことさら、この論文を載せたのではないか、わたしにはそのように思われる。少なくとも、中山氏亡きあと、梅原氏が先ず世に問わんとしたところ、それがこの一文であったこと、その一点の事実をわたしたちは疑うことができないのである。
このようにしてみると、一見先に書いたように“梅原論文の十年後に、原田氏が駁撃を行い、その第一石として中山疑問をおいた”かのように見えたのであるけれども、その内実を探ってみると、実は逆に“梅原論文はその中山疑問に答えんとして、中山氏の霊前に ーー追悼号の中にーー おかれたもの”そういう根本性格が浮かび上ってくるのである。”
従って原田氏はこのK鏡について「二条家の銅駝坊陳列館に、須玖出土品といって収蔵されていたもので、誰の手を経過し、どうしてそこの所蔵品になったかは不明確である」(四六五ぺージ、注七二37)と書かれたが、これは原田氏の「新発明」の見解ではなく、すなわち「中山疑問」を踏襲されたものであろう。ところが、この「中山疑問」に対する、梅原氏の“調査報告”が、すなわち先の梅原論文第二項の記述であったと思われる 。※
※この点、“中山氏が、京都在住で官学(京都大学)にあり、しかも再三自家に訪ねきたった、若き梅原氏に対して自己の疑問(右の注七二・37の内容)をのべて、実情調査を依頼したことがあり、それが一契機となって、梅原氏の銅駝坊博物館や関係者への調査となり、結局、この梅原追悼論文となって結実するに至ったのではないか”。そのような推測も可能ではあるが、もはや当の梅原氏に実情を確認できぬことを遺憾とする。 ーー現在、臥床(がしょう)され、家族の方々に対しても、応答されえぬ日々と、家族の方からお聞きした。
次に(2)の問題と回答について検討しよう。
原田氏の回答は、一言でいえば“鏡の納まり方の統一性”ということである。この命題に立って“前漢式鏡と後漢後半以降鏡(K鏡)の混在”(須玖岡本遺跡D地点)という梅原論文の立場を否定するのである。この自家の主張を裏づけるものとして、氏は「表3」(当該書七三ぺージ)をあげている。しかしそこには氏の主張と必ずしも一致しない様相が現われている(左は四王墓)。
A糸島郡
 (1).三雲 ーー(イ)漢以前鏡 2
        (ロ) 前漢鏡 33
 (2).井原 ーー後漢(前半)鏡21
 (3).平原 ーー後漢(後半)鏡37
B博多湾岸
 須玖岡本 ーー(イ)前漢鏡32+(プラス・アルファの意か ーー古田)
        (ロ)後漢(後半)鏡1?
右のAを見ると、(イ)の「漢以前鏡」というのは、戦国鏡(もしくはその延長)と見られるもので、他の本(「大陸文化と青銅器」『古代史発掘5』講談杜、一六九ぺージ)では、
『雷文鏡・重圏文鏡・連弧文銘帯鏡26・重圏銘帯鏡7』
とある、(○、インターネットでは青色表示)部に当る。杉原荘介氏の『日本青銅器の研究』(中央公論美術出版、昭和四十七年)では、
「一つは重圏素文鏡であり、他は四乳雷文鏡である」(五二ページ)
と呼ばれている。そして重圏素文鏡については、
「王仲殊氏は線帯による重圏鏡を戦国時代とし、面帯による重圏鏡を、文鏡の多い戦国時代の鏡の省略されたものとしている」
とのべられ、今回日本考古学界に電撃を加えた王仲殊氏の説が紹介されているのが興味深い。そしてこの二者(重圏素文鏡と四乳雷文鏡)とも、「前漢代後半より古いもの」と見なしている。
これに対し、同じく三雲遺跡から出土した「重圏文清白鏡」については、「前漢代後半」としている。また別の「内行花文清白鏡」に属する鏡が福岡市の聖福寺(しょうふくじ 京都国立博物館委託)に現存している(先にのべたように、この補完部が最近の発掘で発見された)。
このようにしてみると、同じ三雲遺跡でも、鏡は決して一様でなく、何種類かの鏡(時期を異にする)がまさに「混在」しているのである。
してみると、「戦国(式)鏡〈雷文鏡・重圏文鏡〉と前漢鏡」の「混在」は認めても、「前漢鏡と後漢(後半)鏡〈K鏡〉」との「混在」は認められない、というのでは、筋が通らないのではあるまいか。
また原田氏の表では「後漢(前半)鏡」一式であるかのように表示された井原遺跡の場合も、決してそうではないこと、すでに前著『ここに古代王朝ありき』(二二ページ)でのべた。「王知日月光湧有善銅出・・・」の筆体は、何とも中国鏡のものとは認められない 。※
※この鏡の図が青柳種信の「模写」であるから、証拠として使えないように奥野正男氏は難ぜられたが(「銘文からイ方*製鏡説は証明できない〈上〉 ーー中国出土鏡の事実から古田説を批判する」 ーー「東アジアの古代文化」二三、昭和五十五年春)、氏の認識のあやまりであること、「九州王朝の証言(七)」(同誌二五、昭和五十五年秋)で詳述した通りである。これはまさしく拓本 である。
イ方*製鏡のイ方*は、人編に方。第3水準ユニコード4EFF
すなわち井原遺跡には「(α)後漢式鏡と(β)国産鏡」が「混在」しているのであり、(α)と(β)の生産時点が異なることは、当然可能性が大きい。
この点、実は一層明瞭(めいりょう)なのは、原田氏が主導して発掘された平原(ひらばる)遺跡そのものである。先の氏の表では「後漢(前半)鏡、37」として、あたかも「同式鏡」一色であるかのように「表示」されている。しかしながらこれは、“正確”ではない。なぜなら、同遺跡からは有名な大型の国産鏡その他が明白に出土しているからである。
「内行花文鏡 四面 ともに径約四六・五センチの同型同范ママ鏡、八葉座で大形であることが、とくに注目される。
内行花文四葉鏡 一面 径約二七センチ擬銘(文字を模して字にやママ文章になっていない銘)をもつている」(原田大六『実在した神話』学生社、一〇三ページ)
要するに、ここでも「(α)後漢(式)鏡(三十七面)と(β)国産鏡(右の五面)という、二つの“異なった様式”そして“異なった生産時点”をもつ鏡が「混在」しているのである。ことに平原遺跡の場合、国産鏡すら“異なった様式”のものをふくみ、それぞれが同一時期の生産か否か、必ずしも保しがたい。
氏の「表3」は、「国産鏡」を表から除外することによって、一見スッキリできた(ただし三雲遺跡を除く)かに見えたのであるけれども、“同一遺跡内部の銅鏡”という客観的な見地に立つ限り、“異なった生産時点の銅鏡が共在している” ーーこれが、これら糸島・博多湾岸の王墓における、むしろ原則となっていたのである。こうしてみると、原田氏のように“他(三雲・井原・平原等)は「混在」していないから、「梅原論文による須玖遺跡」のような「混在」はありえない”という方式の論断は、思うにあまりにも“独断的”にすぎるといわざるをえないのではあるまいか
(「表3」中の、王墓以外の「一〜二面」程度出土の弥生墓の場合、「混在」していないのは、むしろ当然である)。
この点、実は梅原氏が右の梅原論文の冒頭において、周到にもすでに指摘したところである。
「多数の須玖の出土鏡の中に時代の下る後漢後半の鏡を含むと云うこの事は、一方の三雲の出土鏡のうちに、時代の遡る戦国の鏡式の存する点をはじめ、三国時代の三角縁神獣鏡を主とする近畿を中心とした古式古墳の出土鏡に、四神鏡・内行花文鏡等が並び副葬されている場合の少くないことなどからあえて異とするに足りない」
原田氏の場合、この梅原氏の行文の用意を軽易に看過されたのではないかと思われる。
さらにわたしの立証を再確認するため、「銘文の字体」の方から、この間題を考えてみよう。青柳種信は、井原遺跡からの出土鏡について拓本を作ったさい、先の異体字鏡(「王知日月光・・・」)のほかに、上掲の、文字を有する鏡(の銘文)を拓出している。
上掲の字体と先の異体字の字体と全く異なっていることが認められる。
また、問題の須玖岡本の王墓中の前漢(式)鏡と一般に呼ばれている鏡の中においてすら、二種類(P群とQ群)の字体が認められる。
これら二様の字体が“同一時期の生産”とは、容易に断じえないことは当然であろう。すなわち糸島・博多湾岸の王墓群においては、“一つの甕棺から二つ(以上)の字体が出てくる”この事実が認識されねばならぬ。この点もまた、原田氏の「非混在説」にとって不利な史料事実というほかはない。
次に(3)の問題と回答について検討しよう。
原田氏によれば、(A)「洛陽焼溝で判明した鏡の編年」(B)「北部九州の弥生墳墓副葬の鏡の編年」は「ほぼ一致していて、いずれも秩序が保たれている」という。本当だろうか。
実は(A)と(B)との間には、大きな性格上のちがいがある。
第一、(A)は通常一〜二面の鏡が出土する。これに対して(B)は今考察したように、「異なった様式」と「異なった生産時点」と「中国製と国産とを混在」させた出土をしめす。この点、たとえば岡崎敬氏も、次のようにのべておられる。
「洛陽の焼溝は、前漢より後漢代にかけての洛陽中堅層の墓であるが、鏡の出土は、各墓ほとんど一面ずつで、数面以上出土することは希である」(『柳園古器塁考』「解題 ーー三雲・井原遺跡とその時代」(一二ぺージ)
そして左のような落陽市西北にある焼溝漢墓」(百三十四墓)の出土鏡の時代分類をあげておられる。
第一期(鏡10)星雲文鏡(4)草葉文鏡(1)
第二期 (鏡8) 星雲文鏡3、日光鏡3、昭明鏡(挈*清白鏡を含む)2
第三期前期  日光鏡8、昭明鏡11、変形四璃*文鏡9、四乳鏡3
第三期後期  日光鏡6、昭明鏡6、変形四璃*鏡1、四乳鏡1、連弧文鏡1、規矩鏡4
第四期    四乳鏡2、規矩鏡3
第五期    雷文鏡(内行花文鏡)4、き*鳳文鏡1、長宜子孫鏡1、規矩鏡2
第六期    長宜子孫鏡5、変形四葉座鏡2、四鳳鏡1、人物画像鏡1、三獣像1、鉄鏡
調査者は、第一、第二期を前漢中期、およびそのやゝ後、第三期(前期)を前漢晩期、第三期(後期)を王葬及びそのやゝ後、第四期を後漢早期、第五期を後漢中期に、第六期を後漢晩期にあてゝいる。
挈*は、手の代わりに糸。JIS第三水準ユニコード7D5C
璃*は、王の代わりに虫。JIS第三水準ユニコード87AD
き*鳳鏡のき*は、冬頭編、ユニコード番号8641
従って“原則として一面”の中国出土鏡の場合、当然ながら「様式」も「生産時点」も、“原則として同一”となろう。これに対して日本(北九州の王墓)の場合、“原則として二十〜四十面”であり、(数量から見ても、当然ながら)「異なった様式」「異なった生産時点」「異なった生産地点(舶載と国産等)」の異型鏡をふくんでいるのである。この事実の上に立って見ると、ただ“須玖岡本の王墓からK鏡を排除する”理由を洛陽焼溝漢墓群の「ほぼ一致」した「秩序」に求めるという、原田氏の論法は、遺憾ながら成立しがたいのではあるまいか。なぜなら“前漢式鏡と後漢式鏡との組合せの例はないから”などといってみても、それは四王墓中の須玖岡本の王墓を除く、三王墓の例しか基準となりうるものはない。その上、その三王墓自体においても、決してその出土鏡は「単一様式」ではなく、「異なった様式」をふくんでいるからである。
以上のような再検証からすると、折角の原田氏の(1)〜(3)の回答も、決して「適正な回答」とはいいがたい。わたしが原田氏の存在に対していだく敬意にもかかわらず、率直にいってそのように評せざるをえなかったのである。
原田氏の梅原論文批判、それに対してわたしは賛成できなかった。できなかったけれども、反面、氏の批判は“良心的”だった、といっていいであろう。なぜなら、逐一、問題点をあげ、それに対する原田氏自身の回答が記してあったからである。あったからこそ、わたしはふたたび逐一、これに対する再検討を行いえたのである。この点、原田氏に対してふたたび率直に敬意を表したいと思う。
これに対して、三年後の昭和四十七年に出た杉原荘介氏の『日本青銅器の研究』(中央公論美術出版)の場合、論証は次のようだ。
「須玖遺跡出土と伝えるK鏡についても、おのずからその性格が分かってきたわけであるが、これについて梅原末治博士は、同鏡の時代を二世紀後半から三世紀前半に位置づけているのは正しいと思う。しかし、それによって、須玖遺跡の中心をなす 地点の諸遺物を、その時代まで下すわけにはいかない。その後、須玖遺跡においても、弥生時代後期の遺址(いし)が明らかになってきており、それとの関係も考えられる。さらに、この銅鏡の年代を下げるのであれば、もはや銅鏡自体の遺跡への混入とせねばならないであろう(梅原一九五九)」(八六〜八七ぺージ)
最後に(梅原一九五九)とあるのは、今問題とした梅原論文だ。だが、梅原氏の論証の周密さに比して、失礼ながらこれは何たる“安易の行文”であろう。要するに“「定説化」している 地点(王墓)の年代を三世紀前半以降に下すわけにはいかないから、同じ須玖の「弥生時代後期の遺址」に関したものか、あるいは「銅鏡自体の遺跡への混入」か、どちらかだろう”というのだ。
これでは「定説基準尺を守る」のが、絶対の要請であり、理由は“それに合わして適当に考えればいい”という論法である。せっかくの梅原論文の周到な論理の運びなど、一顧だもされていない。
一言でいえば“当人(梅原氏)たちが一般(杉原氏等)に提起した基準尺を、折角便利に使っているのに、いまさら撤去されてはかなわない”。ありていにいえば、そういうことに尽きよう。
梅原論文の裂帛(れっぱく)の気魂に対して、あまりにも不適切の筆致、そう評したら、氏に対して失礼であろうか。その上、この本の出る三年前に出て、同じ梅原論文に対して“良心的”な批判を行われて、杉原氏と同方向の帰結をしめしておられる原田氏の著述に対して、それこそ“一顧だに”はらわれていない。これはなぜであろうか(もちろん“一般論”としては、杉原氏が原田氏の右の本を知られなかった、ということもありえよう)。
わたし自身、杉原氏の右の本によって、常に考古学上の知識を学んできた。考古学上の“古典的”な編年観をうかがう上で、“絶好の基準の書”としてきたのである。それをここで明記させていただきたい。その学恩に対して深謝すると共に、ここにあらわれた問題点を率直に記して、杉原氏に対する「御恩返し」に代えさせていただきたい。
次にとりあげるべきは、岡崎敬氏の左の行文であろう。
「(須玖岡本 地点出土鏡について、中山博士の「33面もしくは35面以上」、梅原博士の「〈細片を除き〉30面以内」とする見解と鏡式の紹介のあと)この内、最初にあげているK鏡一面は、径一三・六センチ、扁平(へんぺい)大形の鈕のまわりに糸巻状図様の鈕座があり、その中に『位至三公』、内区を飾るK文の間に『君宜*古市』の銘がある。このK鏡は扁平な四条の稜(りょう)ある銅剣とともに、もと二条公銅駝坊陳列館に入り、その後、東京帝室博物館(現在東京国立博物館)の蔵品となった。K鏡は後漢末期に盛行したものであり、この鏡だけ、他の鏡とは異質である。二条家に入る時に須玖岡本出土の所伝があり、これに加えられたのであろう。須玖岡本は弥生時代各時期の墓葬があり、かりに須玖岡本出土としても、地点を異にしているものだと思う。一八九九年に大石下より甕棺の出土した須玖岡本地点以外の所より出土したものとする方が全体の矛盾がない。
宜*に、上の点なし。JIS第3水準ユニコード519D
須玖岡本のものには草葉文鏡三面、星雲鏡五面(もしくは六面)を含んでいる。これらは洛陽焼溝漢墓第一期のものである。しかし重圏精白鏡・同清白鏡・重圏日光鏡・連弧文清白鏡の類の焼溝第二期のものが大部分であり、これらは立岩(たていわ)の出土品と共通している。いずれも洛陽焼溝漢墓第二期のものであり、埋葬の年代は立岩とさほどかわるところがないと考える外はない」(『立岩遺蹟』六章「鏡とその年代」三七六ぺージ、河出書房新杜、昭和五十二年)
右には、問題の梅原論文はあげられていない。いないけれども、この“慎重な”いいまわしの相手(批判対象論文)が梅原論文であることは疑いない。岡崎氏は恩師の“名前をあげる”ことを避けた上で、これに反対されたのであろう。けれども、その論旨そのものは、原田氏の場合と大異ない。これも、ここでは原田氏の名前は“出され”ていないけれども。
もちろん「恩師の言を斥(しり)ぞける」ことは、決して“大それた所業”などと呼ぶべきものではない。それどころか、本居宣長が「師の説にな、なづみそ」といったように、学問の真髄に属する、といっても、過言ではないであろう。
けれども、間題はそのような点にあるのではない。岡崎氏のあげられたポイントこそ、すでに梅原氏が顧慮して、その決して成り立ちえざることを、周到に論述された問題点なのである。もしそれらの点がまちがっているというのであるならば、その反論の論証を逐一、それこそ必要にして十分に“あげ尽くす”ことこそ、“師の説になずまざる”後来の探究者の礼儀ではあるまいか。しかし、右の岡崎氏の行文には、遺憾ながら、それは見出しがたいように思われる。
ここで一言、わたしの学問の方法についてのべさせていただきたい。
わたしは二十代後半、親鸞(しんらん)研究関係の本を読んで、いつも右往左往の試行錯誤をくりかえしていた。そしてある日、ふと一つのことに気づいたのである。それは次のようだ。「その学者がその本に一つの結論を書いているとき、その結論に至る“理由づけ”について、そこに書かれてあることが、その学者にとっての、よき理由のすべてだ、そのように考えるべきではないか」と。
これを裏返してみよう。それまでは、次のように考えていた。“ここに書いてある理由は簡単だ。しかしこれほどの大家だから、こんた簡単な理由で、この結論に至ったはずはない。けれども何らかの都合で(紙数の都合や関係者への配慮などで)これしか理由を書いてないのだろう”と。いいかえれば、“この大家は、実際はいだいている、たくさんの深遠な理由の中から、そのただ一端(きれはし)をここにおしめし下さっただけにちがいない”。いわばこういった形でうけとっていたのである。
ところが、そのさい、こちらの思考は全くすすまない。すすまないはずだ。“隠された大森林の中の一本の木だけしめされている”のだったら、実際に知っている、眼前の「一本の木」をもとに、あれこれ言ってみても、土台、ことははじまらぬからである。当方がそのような心理状態におちいったとき、反論はもちろん、心からの納得も、ありうるはずはないのである。
これに対し、先のように考えた途端、まさに眼前の世界は一変した。“こんな理由で、なぜこの結論が出るのか”“なるほどそうだ”“いや、とてもそこまで納得できない”といった風に、自分の中の論理の歯車が歯切れよく回転しはじめ、激しく自動しつづけるのである。これがわたしの孤立の探究の出発点だった。
今思うに、やはりこのような受け取り方こそ、道理にかなっているのではあるまいか。なぜなら、その学者(執筆者)が本を書き、読者が本を買って(あるいは借りて)読む、そのとき、その執筆者の読者に対する礼儀は、何だろう。いうまでもない、“自分のもっている最上の理由を提示した上で、その結論をしめす”ことだ。これに反し、最良の理由、そして決め手をなす理由を秘匿して、第二・第三の、たいしたことのない理由、決め手にならない理由を、読者に提示する執筆者がありとすれば、それは執筆者として、いわば“落第”であり、何より読者に対して、“失礼この上ない”こととなろう。
従って“そこに書かれた理由は、その執筆者手もちのすべて、もしくは最良の理由である”。そう考えるのが筋であろう。もしそう考えないならば、わたしたちはその執筆者をもって“最低の礼儀をもわきまえぬ背徳の人”として遇していることとなるであろうから。
以上がわたしの学問的思索の方法の出発点であった。
※※※
このような目で見るとき、現在の「定説」派の論者の文面には、あの気魂のこもった、周到な梅原論文をくつがえすに足る“理由”が果たして存在するであろうか。遺憾ながら、わたしには見当らない。
“このK鏡は須玖岡本の王墓ならぬ別地点の出土ではないか”。この疑いを先ず眼前において、梅原論文は、まさに書きはじめられた。わたしにはそのようにしか見えない。そしてその“疑い”が結局成立しえないことを“手を尽くして”氏は論証につとめられたのである。四十数年の考古学徒としての梅原氏の円熟の技法がここに凝集させられている。そういっても過言ではないであろう。
この梅原論文のあとに出た、杉原・岡崎の諸家の「認定」には、その「認定」(実は旧認定)を支える、実証的な“新証拠”が果たしてそこに提示されているか。わたしにはそれを見出すことができなかったのである。※
※右の『立岩遺跡』 ーーこの本は岡崎敬氏に主導された、きわめてすぐれた考古学上の業績であるがーー 全体のテーマたる立岩遺跡の場合、先の四王墓に比するとき、鏡の数等も格段に異なり(六面)、先の四王墓と同格の意味で「王墓」と称することはできぬ(ここで「王墓」といっているのは、“倭国内に数多い諸国の諸王の墓の一つ”という意味ではなく、“倭国の中心的・統一的王者の墓”の意である。この点からいえば、立岩遺跡は「副王墓」格であろう)。
従って“この立岩遺跡出土鏡を基準とするとき、須玖岡本の王墓にK鏡のありえないことが分った”などという論法もまた、遺跡の性格上、無理であることを、念のため指摘しておきたい。しかも、この立岩遺跡もまた、前漢(式)鏡と国産鏡とが「混在」している点について、『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞杜刊)ですでにのべた。
以上によって、梅原論文に対する原田・杉原・岡崎三氏の反論、それがいずれも成立できないことを論証した。しかし真の問題はその次にある。“なぜ、三氏は梅原論文に反対するか”。その真の理由だ。もちろん、直接あげられた理由についてはすでに論じた。しかし真の理由は別にある、そのようにわたしには思われた。その真の背景は、“三角縁神獣鏡は魏鏡である”という前提命題にある。梅原氏をふくむ右の四氏とも、右の大命題の肯定者であることは、隠れもないことだ。たとえば梅原氏は『考古学六十年』(平凡社、昭和四大年)においても、「三国魏の時代の三角縁神獣鏡」(二三四ページ)といった表現を頻発しておられる。一方、杉原氏も「西暦二〇〇年代に大陸で作られたであろう三角縁神獣鏡」(『弥生時代の考古学』学生社、一六二ページ)とのべ、原田氏も「こうみてくると、三角縁神獣鏡こそが、魏の明帝が卑弥呼に詔書をもって下賜した百面の銅鏡であったということになる」(『邪馬台国争』五九ページ)とのべておられる。岡崎敬氏も、その(指導による)貴重な労作「日本に存る古鏡、発見地名表、一九七六〜九」において、三角縁神獣鏡「舶載鏡」と「イ方*製鏡(ぼうせいきょう)」という形で処理しておられる。「舶載鏡」とは、当然ながら「魏鏡」をさす用語である。
すなわちこの一点において、四氏は共通の土俵の上に立っている(なお、小林行雄氏が梅原氏の後を継いで登場し、「三角縁神獣鏡の分配」に関する、小林理論を形成され、これが考古学界の「定説」をなした、という事情は著名である)。
この「定説」派共通の土俵から見ると、問題の梅原論文はいかにも“不斉合”なのである。なぜなら二十数面以上の前漢(式)鏡(草葉文鏡三、星雲鏡五〜六、重圏銘帯鏡八、連弧文銘帯鏡四〜五・釧三以上 K鏡一 ーー『大陸文化と青銅器』一六八ページ)をふくむ、文字通りの王墓が三世紀前半以降、つまり卑弥呼の墓の作られた時代に存在していたのでは、「邪馬台国」の存在は簡単に近畿へもってゆくわけにはいかなくなるであろうから。すなわち「三角縁神獣鏡、魏鏡説」(これは当然近畿中心説だ)とは、いかにも相矛盾するのである。
梅原氏がこの相矛盾する二つの主張点を共有していたのは、明らかに“論理上の矛盾”である。これは氏が個々の遺物・遺跡に対する周密な観察者・報告者ではあっても、必ずしも体系家・理論家ではなかった、という、その“考古学者としての資質”に関する問題であろうと思われる。
この点、体系家・理論家としての面を“得意”としていたのが、後を継いだ小林行雄氏であった。氏によって「三角縁神獣鏡分配の理論」すなわち近畿中心主義は、その極点まで「明確」化され、それが「定説」化されていった。いくにつけ、梅原認定の中の先の矛盾点は、いよいよあらわにならざるをえなくなった。その理論的帰結が、他ならぬ原田・杉原・岡崎氏等に共通する「須玖岡本遺跡からのK鏡の排除論」として、顕在化しているのである。 ーーこれが三氏の梅原論文排除の、隠れた、しかし真の背景である。わたしの目にはそのように見える。
ところが今、状況は一変した。王仲殊論文の電撃によって、“三角縁神獣鏡、魏鏡説”はまさに“ふっ飛ん”だ。いかに日本の考古学者たちが“虚勢”を張りつづけたとしても、中国の鏡の専門家から“そのような鏡は中国からは出土していません。従って中国鏡ではありません。もちろん、魏鏡などではありません”。そう明言された、この事実を万人の眼前から消し去ることはむずかしい。そういう状勢の中で「そのうちに出るにちがいない」といってみても、“まだ出ないうちに中国鏡(魏鏡)ときめつけてきた”という、肝心の事実、その背理は、もはや誰人(たれびと)の目にもハッキリしているのであるから。
筆を返そう。王論文によって永年日本考古学界の「定説」であった「三角縁神獣鏡、魏鏡説」の主張は崩壊した。今後、右説を依然のべつづける学者は、あるいは学問上の「勝ち組」の観を呈せざるをえないこととなるやもしれぬ。
では、その主柱なき今、右の問題はいかなる相貌(そうぼう)を呈してくるであろうか。他でもない、右説に立つ限り、矛盾としか見えなかった“須玖岡本王墓内、K鏡存在説”が、不死鳥のように“矛盾の束縛”から解き放たれて、鮮烈な光を帯びて輝くこととなったのである。
なぜなら、三角縁神獣鏡が“魏鏡としての後光”を失った今、残るものは、梅原論文によって“三世紀前半以降の墓”と認定された「須玖岡本の王墓」しかない。否、より十分にいえば、これをふくむ糸島・博多湾岸の四王墓こそ“弥生の倭国の中心の王者たちの王墓”として、新たに脚光を浴びてこざるをえない存在だからである。逆にいえば、「三角縁神獣鏡、魏鏡説」という旧説をバックにして、不十分な論拠をもって梅原論文を一蹴しえてきた、右の三氏(他、これに追随してきたほとんどすべての考古学者)の論説の非がここに明らかとなってきたのである。
このような道理に対し、たとえ全考古学者が相揃(あいそろ)って“自己の目をみずからの両手でおおいつづけて”いても、他の一般人はちがう。やがて子供たちが「あれは、裸の王様だ」。そのように叫びはじめる、その一瞬をむかえることであろう。
ここで一転して、梅原氏のお宅を訪ねたときのわたしの“想い出”をしるさせていただきたい。
わたしが同じ京都に住む、高名な、この考古学者のお宅をおたずねしたのは、例の高句麗好太(こうたい)王碑に関して李進煕(りじんひ)氏の衝撃的な仮説が登場したときのことであった。わたしは李氏のあげられた諸種の写真・拓本・史料(「高句麗好太王碑文の謎」 ーー「思想」五七五、昭和四十七年五月)を再検証すると共に、戦前この碑を実見された方々にお会いして、その実地の経験を語っていただくことを必要と考えたのである。たとえば、梅原末治氏や末松保和氏等である。
末松氏の場合、必ずしも実地の記憶は鮮明ではなかった。それは“すでに今西竜さんなどが現碑に接し、詳細に研究され、報告されたあとだったから、もう自分などが見ても、たいしたことは見出せるはずはない”と考えられたからだという。そして今西氏のそういうさいの執拗(しつよう)きわまる「研究の鬼」ぶりを詳しく語って下さった(『失われた九州王朝』第三章1参照)。
これに対して梅原氏の場合はちがった。“今西氏等の見落したところを一片でも発見したい”。そういう野心をいだいて現地におもむかれたという。ことに現碑には“拓工による、石灰仮構文字”のあったことを「今西報告」で知っていたから、“今西氏があやまってその仮構文字を石の字として採取した部分はないか”と、いわば“あら探し”の目で臨んだ、というのである。これもまた若き「研究の鬼」と称すべきであろう。けれども、その野心は「挫折ざせつ」した。やはり「今西氏の執拗な目」に狂いはなかったのである(この点、今回、吉林省博物館の武国[員力]〈勲〉氏とお会いして、李仮説の成立できぬことを確認できた。〈「九州王朝の証言〈最終回〉」 ーー 「東アジアの古代文化」三〇、昭和五十七年早春、参照。なお、詳しくは『市民の古代 ーー古田武彦とともに』四、昭和五十七年、中谷書店、参照〉)。
武国員力*(ぶこくしゅん)さんの[員力](しゅん)は、JIS第3水準ユニコード52DB
そしてそのさい採取された「倭以辛卯年来」の項の小拓本をわたしに托(たく)された。そして「これを東京の史学界の大会で発表し、榎一雄君など東京の学者に見せてほしい。必ずわたしの言うところのあやまりなきを知ってくれるであろう」といわれたのである。わたしは喜んでこれに応じ昭和四十七年十一月十二日の東大における史学会第七十回大会の発表「高句麗好太王碑文の新事実 ーー李進煕説への批判を中心として」のさい、自分の発見した新史料(酒匂(さこう)大尉の写真や自筆筆跡等)と共に、この梅原拓本を学会の参加者の面前に提示したのである。このあと、この小拓本を再び同氏宅に参上して、お返ししたのはいうまでもない(梅原「高句麗広開土王陵碑に関する既往の調査と李進煕氏の同碑の新説について ーー付、その王陵など」 ーー「日本歴史」三〇二、昭和四十八年七月、参照)。
このとき以来、わたしは何度か梅原さんのお宅を訪れた。それは梅原さんがわたしに対し、従来の学問上の経験を語ることを好まれ、わたしもこれを聞くことをこよなき喜びとしたからである。氏の豊富な経験は ーー多くの世の老人がそうであるようにーー 無限の知識の宝庫であった。わたしのような“若僧”には、それはいくら聞いてもあきぬ“宝”の談話であった。また梅原氏の方も、延々、あるいは三〜四時間、あるいは五〜六時間もの間、語り来たり、語り去って倦(うま)れることがなかった。
氏の次のような言葉が鮮明に記憶に残っている。「今の大学の学者は、わたしのところへ来ても、学問の話をしよらん。誰々が教授になった、誰々はまだだとか、そんな話ばっかりじゃ」と。そしてまさに“学問の話”ばかり、何時間もひたすら連続するのである。その“鬼気迫る話し魔ぶり”は、わたしのように、久しく「亡師孤独」の中に歩き来たった者にとっては、まことに無上の“快き時の流れ”と思われたのである。
けれども、このような「蜜月」は、はからずも氏によって思いがけぬ形で“破られる”こととなった。昭和四十八年八月、京都の国立博物館で「中華人民共和国出土文物展」の開催記念パーティがもよおされたとき、わたしも招待をうけて、その席に加わった。広い博物館の中央広場も、招待客で一杯、といった混雑ぶりであった。
そのとき、向うの方から、人をかきわけ、かきわけ、わたしの方に近寄ってくる一人の老人があった。それが梅原氏だった。そしてわたしの前に息をはずませて近づくと、「あんたは、『邪馬台国』は九州じゃと言うとるそうじゃな」。そう叫ぶと、くるりと歩をかえして、再び来た方角へと人の波の中を消えていった。これが第一の鮮烈な思い出である。
第二は、その直後、わたしがいつものように梅原さんのお宅を訪れたとき、玄関に現われた梅原さんは、いつもなら待ちかねたように、わたしを中に招じ入れられるのであったが、その日はちがっていた。じっと玄関の前で立ちふさがったまま、「入れ」とは言わなかった。そして次のように言われたのである。
「あんたは、東大の榎一雄君と論争をしとるそうじゃな」
「ええ、そうです」とわたし。(東京の「読売新聞」で榎氏が十五回にわたって「『邪馬台国はなかった』か」を掲載〈昭和四十八年五月二十九日〜六月十六日〉。全文、わたしに対する攻撃だった。その後わたしが「邪馬壹国論 ーー榎一雄氏への再批判」を十回にわたって掲載〈同年九月十一〜二十九日。『邪馬壹国の論理』に収録〉。これに再批判を加えた。この梅原氏のお宅への訪問は、その間のことであった)。すると、梅原氏は力をこめて、次のように言った。
「榎君は大学の教授じゃ。あんたは高校の教師じゃ。どっちが正しいか、分っとる」
もうこのとき、わたしは高校の教師生活に別れを告げていたが、そんなことは問題の本質とは関係がない。わたしは静かにハッキリ答えた。「それは、ちがうと思います。学問は肩書きできまるものではなく、論証それ自身できまるものだと思います」。
梅原氏にとって、それはわたしの口から聞いた、はじめての反撃であったであろう。それまではいつも、わたしは、梅原氏の学的経験に敬意を有しつつ、それをいくらでも聞きたいと望む、一個の後学者として接してきたのであるから。“自説開陳”などのチャンスは全くなかった。いや、必要がなかったのである。ただひたすら全身を耳にして“耳順(したが)って”いたのであるから。
梅原氏は、たじたじとした姿で、後ずさりするように玄関内へ入り、やがてキチッと戸が閉じられてしまった。
わたしは一種の“悲しみ”の気を体内におぼえながら、梅原邸を去った。それが最後であった。以上のような、いわば個人的経験をここに書かせていただいたのは、他意はない。そこには梅原さんの長短ふくめた個性が爛漫(らんまん)とあふれているからである。それが欠点であるにしろ、わたしにとってむしろ“愛すべき”ものに見えた、といっても過言にはならないであろう。
後日、ある考古学者から「古田さんの欠点は、梅原さんを信用しすぎることだ」と「忠告」された。好太王碑研究をめぐってである(今回の梅原論文などは、当然ながらまだ話題にはならなかった)。そのとき、わたしは答えた。
「いや、『信用する』とか『しない』とか、そういうことではありません。ただ好太王碑の実見者として、その経緯を直接聞きたかっただけです」と。
たしかに梅原氏の「考古遺物観察者」としての冴(さ)え、それをしめしたものが、この梅原論文であった。後年は、目もいささか不自由になられたことは周知のごとくであるけれども、それとは異なり、昭和二十六年秋の日本考古学協会公開講演につづく「古代学」所載の同論文(昭和三十四年)という、京都大学在任中をふくむ、氏のもっとも円熟した時期の論文が、考古学界の大半から一蹴されつづけてきたことの不当であったこと、それを明らかにする、この一文を氏の病床に捧げたいと思う。 

A(「古田さんの鏡の論証(『ここに古代王朝ありき』)に対して、奥野正男さんがあちこちに批判の論文を出されましたね。あれはどうですか」
古田「そうだね。『イ方*製説は銘文だけでは立証できない ーー中国出土鏡にも“日本式語法”があるー』(「毎日新聞」昭和五十四年十一月四日)や『銘文からイ方*製鏡説は証明できない ーー中国出土鏡の事実から古田説を批判する(上・下)』(「東アジアの古代文化」二三・二四、昭和五十五年夏)などだね。いずれも詳細な、鏡の銘文や模様に対する研究を背景に書かれている点、当方としては、まことに有難い反論だ。
だけど、困る点もある。しかももっとも大事な点なんだ。それは、わたしの主張していない命題を、『古田の主張』であるかのように、見たてて批判されてある点だ」
A「といいますとーー」
古田「今あげた論文の題目から見ても、“古田は銘文だけからイ方*製鏡を証明できると主張したもの”と読者は思うだろう。奥野さん自身も、そういう見たてで反論を加えている。ところが、これはわたしの本を読めば明らかなように、わたしの論証とは全く似て非なるものなんだよ。
第一、わたしの根本の立場は、日本の大地から出土した鏡について、“物(出土鏡)を見れば、ピタリ、『舶載』か『イ方*製』か判別できる”という、従来の発想はあやまりだ、というにある。いいかえれば“『分らない』のが原則である”というわけだ。
このことは、“中国人や朝鮮半島人の鋳鏡者が日本列島に来て鋳鏡した”という、当然ありうべきケースを考えてみれば、文句なくハッキリするんだ。たとえば、中国の鋳鏡者が日本列島へ来た途端に鏡作りの腕ががたんと落ちるわけじゃない。文字を忘れるわけじゃない。要するに中国で作ったものと、ほぼ同じものを作るわけだ。だからその『物』を見て、『あ、これは中国にいたとき作ったもの』『あ、これは日本列島に来て作ったもの』なんて、そうそう判別できるはずがないんだよ」
A「銅の質はどうですか」
古田「日本列島産の銅は、銅質がかなりいいようだ。むしろ中国産の銅と同じか、時には以上なんだそうだよ。だから問題は製錬法だ。これもその専門家が日本へ来て作るとしたら、銅質が落ちるはずはない。個々、いろんなケースはあるだろうけど、一般論として、ね」
A「中国から“銅をもってきた”という問題もありましたね」
古田「もちろん、来るとき“手ぶら”じゃなく、材料をもってくる、というケースも当然ありうるけれど、一般論としては、先のごとしだ。資源には恵まれないこの島だけど、不思議に銅だけはかなりいいようだからね。その“日本列島の銅”を背景に、銅鐸(どうたく)や武器型銅製品(矛・弋(か)・剣)を考える、これが(当初は別としても)結局は本筋だろうね。“銅材料なき国に、銅をシンボルとする古代文明が繁栄する”なんていうのは、原則として無理だろうからね」
A「とすると、結局、区別はつかないわけですか」
古田「原則的にはね。それに日本側の“お弟子さん”のことを考えてみても、大陸から渡来してきたお師匠さんにマン・ツウ・マンで教わって、いつまで“まずい作品”ばかり作りつづけたか、というのも、むずかしい話だよね。はじめの五年・十年はまずかったとしても、二十年・三十年たっても、依然まずいままだったかどうか、判定のむずかしい問題だろう。それをわたしたちが見て、『はい、これはお師匠さん』『はい、これは弟子』と判別できるか、どうか。お師匠さんをしのぐ弟子だって、出てくる可能性はあるし、またお弟子さんには文字はあつかえなかった、と断定するのも、冒険だよ、ね」
A「すると、不可知論みたいになりますか」
古田「一応はね。しかし方法はないわけじゃない。その一は分布図だよ。横軸問題でのべたように“原則として大陸に出ず、日本列島に大量出土する”場合には、これは日本列島産と見るのが、学問の方法上のルールじゃないか、と思うんだ。“そうじゃない”といいたければ、その人にはこのルールを破るに足る厳格な立証が必要なんだ。決して話はその逆じゃない。なのに、従来は話が逆になっていた。(イ).銅の鋳上りがよく、(ロ).模様が鮮明で、(ハ).文字があれば、文句なく『舶載』と断定してきた、そういう断定はできませんよ、というのがわたしの立場なんだ。そういうわたしの立場から見てみると、従来から文句なしの『舶載鏡』と断定されてきたものの中にあやしいものがかなりある、という話に移っていったわけだ。先にあげた井原遺跡の『王知日月光湧有善銅出……』鏡なども、この『湧』はどうにも『漢』という字とはちがう。しかも文字が不揃(ふぞろ)いだ。こんなのを『舶載』と断定してはいけない、うたがわしい。こうのべた。逆に国産と判定したわけじゃない。もともと『分らない』のが原則なんだから“こんなおかしな文字から見ても、とても『舶載』とはいいきれませんよ”といっているんだよ。
立岩遺跡10号舞棺の場合も同じだ。いずれも、中国の通例の同種の鏡と比べて遜色(そんしよく)ないというより、むしろ立派だ。配下の国(夷蛮)の、また配下の“副王クラス”の墓に、そんな立派なものが出てくる、ということ自体が、よく考えてみれば、何か“おかしい”のだ。もし『舶載』つまり中国の天子から下賜された鏡とすればね。ところが『舶載』のみでなく、『国産』もある、という立場からすれば、何の不思議もない。なぜなら中国側では“女性の化粧品”といった小道具扱いだけど、日本側では“権力のシンボル”で“太陽信仰の祭祀(さいし)物”だから、立派であたり前だ。つまり、これも当然ながら“物そのもの”から断言はできないけれど、『舶載』という立場からは解けない謎が、国産という概念を加えれば、容易に解ける。わたしはそういったのだよ」
A「決して“銘文だけから証明した”わけじゃない、というわけですね」
古田「その通りだ、ね」
A「今の、立岩の1号鏡や2号鏡で、行末の韻をふむべき文字が欠けていたり(1号鏡)、全体が“虫喰(むしく)い”だらけで意味不通になっていたり(2号鏡)、の例を古田さんがあげたのに対して、奥野さんは中国出土の鏡にも、同類のがある、と書いていましたね。あれはどうですか」
古田「奥野さんがあげられた例(たとえば陝西省(せんせい)省出土銅鏡)を見ると、むしろ見事な“節略”になっているケースだった。わたしも連雲港(れんうんこう)市海州、羅[田童]庄(らどうしよう)の本榔墓(ほんかくぽ)出土の連弧文清白鏡の例を、同種の問題としてすでに右の本(一二九ぺージ)であげている。つまり、もとの文章の要点を巧みに要約した形になっているんだ。これを見て、わたしは『万葉集』における長歌と反歌の関係を思い出して、感動したくらいだ」
A「反歌というのは、長歌の内容を要約したケースが多いのですね」
古田「そう。けれども、わたしは、この問題の本質はもっと深いところにあると思っているんだ」
A「というと」
古田「わたしは中国や朝鮮半島という大陸側からも、本当に『意味不通の銘文』をもった鏡は当然出土する、と思っているんだ」
A「え、なぜですか」
古田「だって、考えてごらん。『意味不通の文字をもつ鏡』というのは、果して日本列島固有の現象だろうか。わたしにはそうは思われない。要は、『文字(漢字)をもった中国文明』が『文字(漢字)をもたなかった周辺(「夷蛮文明」)』と接触したとき、当然(あるいは必然的に)おこるべき現象、そういっていいと思う。なぜなら“その接触の当初から『夷蛮』側が『文字の機能』を正確にキャッチして使用した”などということは、ありえないからだ。“文字が並んでいるだけで中国風ムードを満喫する”。そういう段階が全くなかったケースの方が珍しいんじゃないかね。
とすると、日本だけじゃなく、東夷とうい・西戎せいじゅう・南蛮なんばん・北狄ほくてき、いずれの『文明接点』においても、同種の問題は必然的におこりうるわけだよ。その上、現在わたしたちが中国本土と思っている地域も、かつては『夷蛮の地』だったところ、その厖大なこと、それはむしろ常識だからね。たとえば志賀島の金印と相並ぶ金印の出た槇*(てん)王国(雲南うんなん省)も、その例だ。その上、“それら『夷蛮の地』から、都などの中国内部への(自国製の中国式鏡の)献納”という問題も、当然ありうることとして、考慮に入れなければならないしね。
槇*(てん)は、木偏の代わりに三水編。JIS第3水準ユニコード6EC7
まして五胡十六国の時代ともなれば、この種の『文字使用の混乱』問題は、極端にいえば“日常のこと”だった、といっていい」
A「とすると、そんな『意味不通の鏡』が大陸から立岩へ来た、ということは考えられませんか」
古田「それは無理だろうね。なぜなら“中国の朝廷から倭国へ正式に下賜された”という場合、そういった類の鏡を下附(かふ)する、というのは、考えにくいからね。もっとも、“倭国側が金を出して粗品を買ってきた”というのなら、別だけどね。それにしては、立岩鏡は立派すぎるよ 」
A「なるほど」
古田「けれど、問題は、あくまで原点にたち帰らねばならない。こんな“意味不明の文面”をもつ鏡を、“文句のない舶載鏡”と断定してかかるのは、あまりにも危険だ。 ーーこれがわたしの提起の基本なんだからね。その根本の点を奥野さんはまさか故意ではないと思うけどーー 完全におきかえて“古田は銘文だけでイ方*製鏡と断定した”といった形で論じておられる。思いちがいだろうね」
A「話は変りますけど、この前、古田さんが韓国へ行って、『大収穫があった』といっておられた、あの鏡はどうですか」
古田「やはり『ここに古代王朝ありき』(一一二ページ、第17図)で論じた、問題の鏡だ。
『日有熹月内富 憂患楽已未□』
と、ハッキリ文字があるのに、その行格が異様に崩れている。また『TLV 鏡』(方格規矩鏡)のはずなのに、『T』だけない上、『V 』と『L』が完全にアンバランス(大小不揃い)だ。どうにも通常の中国鏡の様態ではない。そこでこれを見た富岡謙蔵が『或は其の成れる地の本邦に非ざるかを察せしむるものあり』と、くりかえし疑念を表明したんだ。これも、みずから樹立し、多くの考古学者に(現在に至るまで)信奉されてきた舶載鏡判定の基準(先にあげた「文字あり」などの三条件)をみずから破棄すべき方向性をもっていたんだけど、やはり後を継いだ考古学者は、この『富岡の遺言』を無視してしまったんだ。
ところが、この鏡(LV 鏡、春日市須玖岡本町B地点出土)は、現在、日本には存在しない。敗戦前、朝鮮総督府の所有(購入)となっていたため、その『遺産』がソウルの中央博物館にうけつがれた。従って樋口隆康さんや森貞次郎さんやその他の方にお聞きしてみたけれども、その現存状況については、ハッキリしなかった。むしろ“日本帝国からうけついだ、日本側出土のものだから、倉庫の中にしまいこんだまま、整理もされていないのではありませんか”などという“失礼”な声も聞いた。行ってみると、まさに失礼だった。
あらかじめ同館の学芸部に手紙でお願いしておいて、おうかがいすると、キチッとした整理カードに添付された写真。『これですね』『そうです』。すぐ運ばれてきたのは、まぎれもない、あの鏡。卓越した鏡の研究家、富岡謙蔵を死の直前まで悩ませた、問題の鏡だった。
見事に保存された、その姿を眼前にしたとき、当館の関係の方々の誠実な姿勢を実感した。そして見て、見て、見つめ抜いた。写真にも撮らせていただいた。それはかつて不鮮明な写真で見ていたとき以上に、“ゆがんだ行格”や“大小ふぞろいな文字”“奇妙な配列の文様”どれをとってみても、“文句ない中国鏡”などとは、到底いえぬものだった。誠実な研究家だった富岡謙蔵が、みずから立てた確率との矛盾に悩んだのも、無理はなかった。“見にきてよかった”。わたしはそう思った。やはり現物を見てスッキリした感触をえた、そのことを喜びつつ、同行の青年梁弘夫さんと共に同館を辞したんだ。
思えば、敗戦後の鏡の研究者は、この鏡の現実の姿を実際に見ぬまま、重大な富岡疑問を無視して、『文字あれば舶載』という“わく組み”のみを固守して今日にいたっていた。そのことを目が痛いほど、その場で痛感したよ。
それにつけても、この異国出土の破損鏡を大切に保存していて下さった上、快くお見せいただいた同館の韓永煕さんや李康承さんや関係の方々に心からお礼をいいたいと思うよ」
A「本当ですね」 
■ 4 倭の五王の史料批判

 

昭和五十六年三月一日、午前一時すぎ、天啓がおとずれた。 ーー突如、音もなく。
わたしは一月来の、倭の五王をめぐる再吟味の論稿に没頭していた。あの第二書『失われた九州王朝』以来、はじめて本格的にとりくみはじめ、次々と新しい局面にぶっつかっていた。そして二月二十八日を越えた深夜、論証の“新しい声”をついに聞いたのである。それは「衙頭」の一語だった。
この問題に立ち入る前に、わたしにとっての“倭の五王への問い”、そのポイントを要約しておきたい。
『宋書そうじょ』倭国伝、そこには倭国に讃さん・珍ちん・済せい・興こう・武ぶの五王があり、彼等は建康(けんこう 今の南京)に都している南朝劉宋(りゅうそう)に朝貢していた。そして種々の称号(安東大将軍等)が中国(宋)の天子から与えられたことが記述されている。この『宋書』の著者の沈約(しんやく 〜五一三、梁りょう)は、宋代にはすでに尚書度支郎(しょうしょたくしろう)をつとめていた官僚だ。だから彼の書いた『宋書』は、西晋の陳寿が書いた『三国志』と同様に、同時代史料として絶大の史料価値をもつ。
では、肝心の彼等、倭の五王とは何者か。津田左右吉の命題をうけ入れた戦後史学にとって、このテーマは切実だった。なぜなら“記・紀の神話・説話は、史実にあらぬ、架空の「造作」”という津田命題に従えば、記・紀の説話類は、そのままでは史実として使えない。そこで絶好の“支え”として登場させられたのが、この「倭の五王=近畿天皇家」の等式だった。江戸時代前期の松下見林の『異称日本伝いしょうにほんでん』以来の等式証明がそのために利用された。
「讃、履中(りちゅう)天皇の諱(いみな)、去来穂別(いさほわけ)の訓を略す」
「珍、反正天皇の諱、 瑞歯別(みずはわけ)、瑞・珍の字形似る。故に訛(なま)りて珍と曰ふ」
の類だ。そして「珍=反正」「済=允恭(いんぎょう)」「興=安康(あんこう)」「武=雄略(ゆうりゃく)」の四者はほぼ確実、と考えられたのである。その上で、“これらの「天皇」は、ワン・セットとして見れば、倭の五王と対応するから、実在であるぞれゆえ日本列島の五世紀の歴史は、これらの天皇を「権力中心」として記述することが可能である。”そのように説きはじめたのだ(たとえば井上光貞『日本国家の起源』岩波新書、昭和三十五年)。そしてこのような見地によってすべての戦後教科書は作られ、現在に至っているのである。
しかしわたしは、わたしの方法でこれを再吟味してみた。すると、数々の不審が現われた。第一に、『宋書』の中の夷蛮伝では「(磐*達国)舎利不陵伽跋摩」(『宋書』九十七)といった風に、七音と美音漢字を使って表記されている。見林が唱え、戦後史学が従ったような、あの粗放な“一字あるいは一音だけの抜き取り書き”などは存在しない。
磐*の石の代わりに女。
第二に、『宋書』の中の夷蛮の国(高句麗・百済)では、これらの国の王は「高漣*こうれん」「余映よえい」といった中国風の一字の姓と一字の名、つまり中国風一字名称で記されている。これらの国々は先の磐*達国などと異なり、中国文化との接触や国交の歴史も古い。従って中国風一字名称を名乗って朝貢した、そう見なすのが至当である。倭国も同じだ。志賀島の金印、卑弥呼の遣使等の歴史的経緯をへているので、あるから中国風一字名称を名乗って朝貢した、そう見なすのが至当である。
高漣*(こうれん)の漣*は、三水偏の代わりに王。JIS第3水準、ユニコード7489
以上によって見林より現在の戦後史学に至る、“立証の主たる根拠”は否定された。『失われた九州王朝』以来、これに対する反論を見ない。見ないままで依然「倭の五王=近畿天皇家」の等式は“健在”であり、“学界の常識”であるかのように、学者たちは“振る舞っている”のだ。
第三に、五王の中でもっとも確実とされた比定「武=雄略」説にも、致命的な欠陥が二つある。
その一は、『宋書』には倭国伝以前に九個の倭国記事(帝紀)があり、その七・八・九番目は次のようである。
(七)(大明たいめい六年、三月、四六二、孝武こうぶ帝)
 『壬寅、倭国王の世子、興を以て安東将軍と為す』
(八)(昇明しょうめい元年、四七七、順じゅん帝)
 『冬十一月己酉、倭国、使を遣わして方物を献ず』
(九)(昇明二年、四七八、順帝)
 『五月戊午、倭国王武、使を遣わして方物を献ず。武を以て安東大将軍と為す』
右を見た中国側(建康を中心とする)の読者は、(八)の「昇明元年」時における倭王を誰と思うだろう。直前の(七)の「大明六年」の記事の倭王は興である。とすれば、当然項目の列次として直後の「昇明元年」時の倭王も興と見なす他はない。まかりまちがっても、次の(九)の「昇明二年」に初見(帝紀、倭国伝とも)の武を、逆に“遡らせ”て、「昇明元年」時の倭王だなどと考える、中国の読者は一人もいないであろう。書物は前から後へ読むものだからだ。すなわち『宋書』は読者によってそのように理解されるように叙述されている。
しかしそのように自然な、否、必然的な理解をするとき、「武=雄略」説は成立しえない。なぜなら雄略の在位年代は「四五六〜四七九」(『日本書紀』)であり、“四七八年時より後の即位”では、到底妥当しえないからである。
その二は、有名な、『梁書りょうしょ』の武への授号記事である。
「(天監てんかん元年、五〇二、武帝)鎮東(ちんとう)大将軍倭王武を征東(せいとう)将軍に進号せしむ」(武帝紀中)
「高祖即位し、武を進めて征東将軍と号せしむ」(倭伝)
これをもってしても、「武=雄略」説は成立しえない。なぜなら雄略は四七九年で没し、右の五〇二年までには「清寧 ーー 顕宗 ーー 仁賢 ーー 武烈」の四人の天皇が在位しているはずだからである。この明白な矛盾に対して、かつて“良心的な”学者たちはいったん問題を“保留”した(たとえば藤間正大とうませいた『倭の五王』岩波新書、昭和四十三年)。けれども、その“保留”からすでに十余年たった。しかるに依然、核心をなすべき矛盾を“保留”したままで、“「武=雄略」という結論だけは動かない”かのごとく“振る舞いつづける”とは。わたしには理解できない。ことが日本古代史の根幹をなす問題だけに、学問上遺憾の極みといわざるをえないであろう(この問題につき、精しくは古田「多元的古代の成立」 ーー「史学雑誌」九 ーー 一七所載、『多元的古代の成立 ーー邪馬壹国の方法』京都駸々堂刊所収、参照)。
以上は「倭の五王=近畿天皇家」を否定する論証だ。これに対してわたしの提唱する「倭の五王=九州王朝」を肯定する論証は何か。それが次の第四・第五の二点だった。
第四に、倭王武の上表文は「臣、下愚なりと雖(いえど)も、・・・臣が亡考済、・・・」とあるように、建康なる宋の天子を中心とし、自己(倭王)を「臣」とする、大義名分の立場で書かれている。すなわち、自己を「東夷」の立場においている。当然ながら倭国伝は「夷蛮伝(列伝第五十七)」に属しているのである。従って「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」と書いている、その「衆夷」とは、自己の周辺の倭人をさしている。とすると、自己は九州、「毛人」は瀬戸内海周辺とするとき、大義名分に合した理解をえられる。これに反し、旧説のように“自己(近畿)を中心にして、西(九州)を「衆夷」、東(関東)を「毛人」”というのでは、自己を「天子」の位置においた夷蛮称呼を行っているということとなり、右の大義名分上の論理性と全く矛盾する。
第五に、「渡りて海北を平ぐること九十五国」という表現も、九州(筑紫)を原点とするとき、ピッタリ適合する。これに対し、近畿天皇家は記・紀において朝鮮半島南半を指すとき、いつも「海西」の表現を使っている(『日本書紀』の神代〈第六段、一書、第三〉中の「海北道中」もまた、「筑紫」を原点とする表記である)。
以上がわたしの「倭の五王=九州王朝」論のポイントだった。そしてこれに対しては、明確かつ有効な反論をいまだ見ないのである。そして見ないまま黙殺する。これが学界大多数のルールであるらしかった(数少ない反論については、右の論文参照)。
そこでわたしはさらに決定的な一歩をすすめようとした。そのような模索の末、ついに三月一目の払暁をむかえたのである。
ことの発端は中国風称号問題だった。先にものべたように、この倭の五王たちは盛んに中国の天子から与えられる将軍号をほしがっている。また与えられぬままに自称している。そしてその追認を中国側に“せびって”いる。まさに東アジアの政治世界は中国の天子を中心に回転していたのである。
〔授与〕「(世子興)宜(よろ)しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とす可し」
〔自称〕「(武)興死して弟武立ち、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す」
〔追認〕「(武)詔して武を使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」
以上の事実から記・紀をふりかえってみると、見やすい不審がある。倭の五王にあてられた“候補者”たる「応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略」の各天皇の記事を見ても、中国への朝貢外交はもとより、右のような称号は全く見出すことができないのである。
これは戦後史学で採用されてきた古代史学の研究法から見ると、かなり奇妙なことである。なぜなら戦後史学の研究者は次のように考えてきた。
(一)記.紀の神話・説話は、それ自身を史実として使うことはできない(先の津田命題による)。
(二)しかしながら記・紀説話に出てくる人名・地名・術語(官職名等)などは、これに対して適切な処理を行うならば、古代史上の史実を論定する上で使用することができる。
戦後史学界に蓄積された尨大な研究論文、それはまた(二)を基点としたものであった、といっていい。たとえば、研究史上著名な、
井上光貞「国造制の成立」 ーー 「史学雑誌」六〇 ー 一一、昭和二十六年十一月
上田正昭「国県制の実態とその本質」 ーー 「歴史学研究」二三〇、昭和三十四年六月
等の諸篇はもとより、そのあとを継いだ大学内の学者の学術誌や大学内紀要発表論文の大半は、この手法に立ったものだったのである(直木孝次郎氏は、この手法〈分布法〉について、「大化前代の研究法について ーー記紀批判をめぐる諸問題」〈「史学雑誌」六四 ーー 一〇、昭和三十年十月、『日本古代国家の構造』青木書店刊、収録〉で論述された)。
これは一面からいえば、“もっとも”なことだ。なぜならもしこの手法が学問上拒否されたとしたならば、結局“記・紀は史料として使えない”。そういうことを意味するであろうから。となると、古代史学においては(国内の史料にもとづく)文献学はほぼ“成立できない”こととなってしまうほかないのである。
逆に、右のような手法上の活路がいったん開かれたとき、大学の学者及びその後続者たちにとって論文作製の可能性は飛躍的に増大する。なぜならそこ(記・紀)にちりばめられた単語群(人名・地名・術語等)に対し、これらをいかに統計し、いかに処理し、いかなる年代と領域に配置するか、そこに論文大量作製の秘密、いいかえれば“腕のふるいよう”が、いわば“無限”に開かれるからである。
けれども、今この手法を静視するとき、これはいかにも“不審”なことである。その理由は次のようだ。
右の(一)と(二)の両命題を総括してみよう。すると、津田史学によって“六〜八世紀の史官たち”とされる、彼等「造作者」たちは“真実(リアル)な単語(人名・地名・術語等)を使って、架空(ファンタスティック)な文脈(神話・説話等)を創作した”こととなる。こんなことが本当にあるのだろうか。では、それらの単語はどのような形で、過去から彼等「造作者」へと“伝えられてきた”のであろうか。“いかなる文脈もなしに、ただ単語だけが「伝世」して六〜八世紀に至る”。そんなことが現実的に考えうるであろうか。いいかえれば、彼等六〜八世紀の史官は、前代までの官職名や固有名詞を「単語帳」のような形でやみくもに暗記してきていたのであろうか。
わたしには率直にいって、右のような状況は“絵空事”としか思えない。机の上では“仮設”できても、現実の人間の歴史の上ではおこりえぬ“虚妄”にすぎぬのではあるまいか。しかし戦後史学は、まさにその“虚妄に賭(か)けてきた”のであった。
さて本題にもどろう。
右の(二)がしめすように、“単語は真実(リアル)だ”という仮説、戦後史学が一応承認してきた命題からすると、ここに史実性の明白な「中国風称号」が一切現われていないことは不審だ。“中国(宋朝)への、たび重なる朝貢遣使の記事がない”。これは(一)のテーマから“当然”としても、一方の真実(リアル)なるべき単語群に、全くその気(け)もない、これはいかにも不審なのである 。
“「中国から授号された」などということを、六〜八世紀の史官は快しとしなかったのだ”などといってみても、それは道理に合わないであろう。なぜなら“文脈(説話)はもともと「造作」のはず”なのだから、“近畿の天皇たち自身が(中国の天子に比肩すべき)将軍号をみずから部下に授与していた”。そういう形の文脈(説話)を創作すれば、それでよいはずなのである。もし何なら“近畿の天皇が中国の天子に対して将軍号を授与した”という形に、逆転させることすら、可能であろう。どうせ机の上の手加減による「造作」のはずなのだから、これは簡単な作業だ。事実、
「(雄略六年)夏四月、呉国、使を遣わして貢献す」(雄略紀)
という風に、中国側が近畿の天皇に「朝貢」してきた、という記事が「造作」されている。このような状況から見ると、中国風称号が一切記・紀の「応神・・・雄略」間に姿を見せない、この事実は「倭の五王=近畿天皇家」という図式からは、不可解なのである。
では、五世紀前後の日本列島には、中国風称号の痕跡(こんせき)が果してないのか。 ーーそういう問いを発してみよう。その答えは、意外にも「イエス」である。
「筑後国風土記曰、上妻県(かみつやめのあがた)、県の南二里、筑紫君磐井(いわい)の墓墳(はか)有り。・・・東北角に当り、一別区有り。号して衙頭(がとう)と曰(い)う。衙頭は政所なり」
有名な『筑後国風土記』の磐井の記事だ。ここに「衙頭」という用語が出ている。これは明らかに漢語である。“和風用語を漢字表記した”ものではない。どの風土記の本でも「がとう」という音読みであり、訓読みにしたものはない。つまりこの筑紫の国では、「政所」に当る中央官庁を漢語で呼んでいた。そのことが証明される。
実はこのような徴証は、現在の地名にも遺存している。
「太宰府 ーー 周船寺(すせんじ 旧糸島郡。現在は福岡市)」
がこれだ。太宰府は『宋書』に出現する官職名である。
「大明六年(四六二)司徒府を解く。太宰府は旧(もと)の辟召(へきしよう 任官)に依る」(『宋書』武三王伝。江夏文献王義恭)
しかもここでは「大」でなく「太」である。福岡県の現地でも、「太」を使っている(太宰府町)。そして教育委員会など、学者側の表示板等が「大」(『日本書紀』による)を“正統の表記”として使用しているのと、“対立”しているのである。すなわち現地ではまさに「『宋書』の表記法」を現在に“遺存”させているのだ。
「周船寺」の「寺」も、「てら」ではなく、中国における小官庁の称呼としての「寺」である。たとえば、
「東山之府を窺(うかが)えば、則ち壊*宝(かいほう)、目に溢(あふ)れ、・・・列寺七里、陽路に侠棟(きょうとう)す」(西晋、左思さし〈太沖たいちゅう〉、「三都賦さんとのふ」呉都賦、『文選』巻第五)
とある、その「寺」なのである。
壊*宝(かいほう)は、土偏の代わりに王。
従って筑紫の現地では、かっての、南朝劉宋(五世紀の宋)の中国風術語、宋朝風表記が今もなお使いつづけられているのである(『邪馬一国への道標』第四章「太宰府の素性」参照)。
右のような状況から見ると、“日本列島においては、近畿では和風術語、九州では中国風術語が用いられていた”。この命題がえられる(もちろん、九州には和風術語もまた存したこと、『筑後国風土記』に「解部ときべ」をあげるごとくである)。
では、中国風称号を愛好した「倭の五王」とは。この問いを右の命題と対応させると、ここにもまた「倭の五王=九州(筑紫)の王者」という、強い方向指示器がえられるであろう。そこから、わたしはさらにもう一歩、断崖(だんがい)を攀(よ)じ登った。
ふたたび「衙頭」の語義を追跡していた。“ふたたび”といったのは、『失われた九州王朝』のときにも、すでに調べたことがあったからである。諸橋の『漢和大辞典』では、
「衙。〈ガ・ゲ〉(1).つかさ。やくしょ。(2).唐代、天子の居処。(3).まゐる。あつまる。(4).兵営。(5).ならび。(6).へや。(7).地名(彭衙ほうが)。(8).姓。〈ギョ・ゴ〉(1).行くさま。(2).県名。(3).姓。・(1).とどめる」
とあった。「頭」はもちろん“ほとり”の意である。だから「衙」を「やくしょ」の意ととれば、「衙頭」は“役所のほとり”の意となって、何の他奇もない。わたしの前回の追究はここでストップしていたようである。
もう一つ、わたしの中に「先入観」があった。「国衙こくが」「郡衙ぐんが」といった用語だ。高校の日本史の教科書にも出てくる術語である。いずれも“諸国や諸郡に設置された役所”をしめす。この頭があったから、右の「衙」の語解を見て、「あっ、やっぱり『やくしょ』の意味だな」で、ストップしたのである。
けれども今度はちがっていた。ただ風土記の一文を“解釈”あるいは“通意”しようとしたのではない。“中国風称号を極度に愛好した「倭の五王」、彼等は日本列島の中のどこかにその痕跡を残していないのか”“近畿天皇家の記・紀にその痕跡がないとしたら、「筑紫の君」の方はどうか”。そういう問いを、前以上に鮮明な導火線として蔵していたから、先のような、一応の語解では満足しなかった。
“なぜ、磐井のような「筑紫の君」は、このような奇妙な中国風名称を使ったのだろう。当然、それは「中国からの模倣」のはずだが、中国側の用法は、六世紀初頭以前において、どんなものだったのだろう”
そういった問題意識に導かれつつ、「衙」をふくむ用語例を一つ一つ、吟味していったのだ。ところが、
「衙門。本、牙門の訛」(『咳*余叢考がよそうこう』衙門)とあるところから、探索の手を「牙」にひろげた。そして、
「牙門がもん。牙旗を立てる門、即ち大将軍の軍門」
という語義を見出したのである。その用例として、
「其の牙門を抜く」(『後漢書』衰紹えんしよう伝)があり、さらに、
「公府を称して公牙と為し、府門を牙門と為す」(『封氏聞見記ほうしぶんけんき』)
を見出した。それに右の「牙旗がき」には、見覚えがあった。
「裹(つつ)むに帷幕(いばく)を以てし、上に牙旗を建つ」(『三国志』呉志周瑜伝)
おなじみの『三国志』の中の赤壁の戦。その戦闘開始の直前の場面にこの術語が用いられていたのである。
このとき火船の計を抱いて北岸(魏軍)に接近した黄蓋は将軍、その上にいる周瑜は大将軍である。彼等のシンボルをなす旗、それが右の「牙旗」だった。周瑜の部将たる黄蓋が降服するかに見せかけて接近をはかる、その詭計(きけい)に使われたのがこの「牙旗」だったのである。
咳*は、口偏の代わりに阜偏。ユニコード9654
その「牙旗」が平常立てられているのが、「牙門」であった。それは「大将軍の軍門」を意味し、「府門」とも称された、というのだ。大将軍は自己の軍営について、「府」を称することが多かった。「開府儀同三司ぎどうさんし」という「開府」とは、自己の本営を「府」と称した、ということである。倭王がこの「開府儀同三司」を“自称”していたことは、明白だ。
「竊(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授して、以て忠節を勧む」(『宋書』倭国伝、倭王武の上表文)
とすると、倭王武の本営は「〜府」と称せられていた。そしてその「府門」(=牙門)には、「牙旗」がひるがえっていた、そういうこととなろう。
そして肝心のこと、それは固題の『宋書』「倭の五王」の記事を掲載した、あの『宋書』の中に次の記事が見出されることだ。
「牙門の将。銀章・青綬(せいじゅ)・朝服・武冠」(『宋書』礼志五)
また『晋書』では、
「衙門の将、李高(りこう)・・・臣、衙門将軍、馬潜。(『晋書』王濬おうしゅん伝)
として、「衙門」が用いられている。
すなわち、周瑜が「大将軍」として、配下の黄蓋を「牙門の将」としてひきいていたのと同様、倭の五王(たとえば倭王武)も、「安東大将軍」として、「牙門(=衙門)の将」を配下に有していたことは確実である。そしてこの「牙」は「衙」とも書くのであるから、倭王武は、自己の本営を「衙」と称していたこととなろう。
論じてここに至れば、それが日本列島内の誰であるかは明瞭(みいりょう)だ。みずからの墓所を「衙頭」と称せしめた「筑紫の君」以外にない。すなわち「倭の五王=九州王朝」 ーーこの命題は、今やまがうかたなき明瞭な証明をえたのである。 

A「これはハッキリした証明ですね。わたしも『失われた九州王朝』を読んだとき、なるほど、倭の五王を近畿の天皇に結びつけてきた、従来の証明法が成り立たないのは、分るけど、逆に倭の五王が九州王朝だ、という、積極的な証明の方がもう一つ、と思っていたんですが、これでハッキリした、という感じがします。今まで通り、『倭の五王は近畿天皇家だ』という学者は、是非この問題に反論してほしいですね」
古田「その通りだね」
A「実はわたしも、『衙』というと、『国衙』『郡衙』の『衙』だと思ってきたんですが、あの『国衙』『郡衙』というのは、どういう由来で、日本で使われるようになったのですか」
古田「あれは奈良・平安以降の用法のようだね。いいかえれば、七世紀以降の唐(とう)朝と、同時代もしくはそれ以降の用法だ。つまり唐代の用法の反映と考えるのが筋だろう。とすると、先にあげたように、唐代の用法として『天子の居処』の意味で、
『衙、唐制、宣政前殿也、之を衙と謂い、衙に仗(じょう)有り』(『正字通せいじつう』)
『天子の居、衙と曰う』(『唐書とうじょ』儀衛志)
といった用例が注目されるね。この用法を原点 として、“諸国・諸郡の役所”を『国衙』『郡衙』と呼んでいるものと思われるんだ。
ところが、問題の『筑後国風土記』の『衙頭』(衙のほとり)の『衙』は、少なくとも“六世紀初頭以前”の用例だから、この唐朝の用法をもととして理解してはならない。この自明の道理をわたしたちは、先入観に災いされて、見失っていたようだね。
この点、『宋書』の著者沈約は、六世紀の十年代(五一三)に没した人だから、同じく六世紀の初頭(五三一。『日本書紀』では、五二八とする。『失われた九州王朝』第四章I 参照)に没した磐井とは、ほぼ同時代の人物だ。従って『筑後国風土記』の『衙頭』を後代の『国衙』や『郡衙』の語義からではなく、同時代ないし前代の『宋書』や『晋書』(成立は唐代)、『三国志』等の用法に拠(よ)って理解する。それは当然のことであったわけだよね」
A「倭王武のことは『南斉書なんせいしょ』にも出ていますね」
古田「そうだ。『大将軍』間題は、『南斉書』も『宋書』も同一だよ。『建元けんげん元年(四七九)、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ』(『南斉書』倭国伝)だね。この『南斉書』の著者、蕭子顕(しょうしけん)は、『〜五三七』の人だから、まさに磐井の直後といっていい時期に死んでいる。いいかえれば、磐井は“『宋書』の著者と『南斉書』の著者との間”に生きていた、そういうことになるわけだ。
その両者に出てくる『大将軍』の称をもつ倭王武。その本拠を、この時代の『牙(=衙)』の用法によって理解する。それが当然の史料理解の筋道ではないだろうか。先入観に固執し、明らかな道理に目をふさがない限り、ね」
A「そうですね」 
■ 5 自署名の論理

 

わたしは三十代、親鸞研究に没頭した。それは、わたしの生を確かめるための探究であった。けれども同時に、古史料や古文書の扱いについて、多くの認識と経験を与えてくれた(「わたしの学問研究の方法について」 ーー『邪馬一国の証明』角川文庫所収、参照)。
その一つに書簡の扱い方があった。親鸞には自筆書簡が若干現存しており、同時に古写書簡(直弟の書写したもの)もまた現存している。その上、後代の書写にかかるものはもちろん、各種の系列で存在している(『親鸞聖人全集書簡篇』親鸞聖人全集刊行会刊。のち法蔵館、参照)。それらの思想様式や表現様式をはじめ、各文書・写本の表記と書式を厳格に対比すること、それがわたしにとっての親鸞研究の出発点だった。
従来の(明治以降の)親鸞伝研究にとって大きな欠落をなしていた建長二年文書(いわゆる三夢記さんむき)の真作性の証明も、右のような探究の延長線上に現われてきたのであった(古田『親鸞ー人と思想』清水書院、新書版。『親鸞思想 ーーその史料批判』冨山房刊、参照)。
このような、多年の研究経験をへてきていたわたしが、三十代の終り、古代史の分野をかいま見たとき、大きな不審をいだいたのは、“古代史学における「書簡」の処理”であった。たとえば『三国志』の倭人伝において、
「倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す」
とある。「上表」とは上表文提出のことであり、「上表文」とはすなわち書簡の一種である。しかも公的書簡として、その厳格さは個人と個人の問の書簡の比ではないこと、当然だ。その厳格にして公的な書簡外交、それが中国と倭国との間の交渉形態だったのである。
この事実を直視すれば、 ーー 一見飛躍するようだがーー 卑弥呼の都、つまり邪馬一国のありかは、すでに明らかであろう。なぜなら日本列島の弥生遺跡の中から文字遺物が集中して出土するところ、それは糸島・博多湾岸(筑前中域)領域から出土した志賀島の金印、そして漢式鏡(前漢式鏡・後漢式鏡)だ。一王墓に二十〜四十面も埋蔵されているのは有名である(三雲・須玖岡本・井原・平原の各遺跡)。これらの出土物の半ばには、文字をもつ銘帯がある。従ってこの王墓の被葬者(死せる王)、埋葬者たち(後継する王と貴族)が“文字を知っていた”ことは疑いえない。そしてこのような地帯は日本列島の全弥生遺跡中、他に絶無なのである。とすれば、先の“中国と文字外交を展開した卑弥呼の都”はこの領域(筑前中域)以外にないことは自明の理である。その自明の理に対して旧説の論者が目をおおいつづけているだけだ。
さて問題を五世紀にすすめよう。ここでも当然ながら冒頭の倭王讃から伝統の書簡外交が展開されている。
「太祖(たいそ)の元嘉(げんか)二年(四二五)、讃、又司馬曹達(しばそうだつ)を遣わして表を奉り、方物を献ず」
とあるように。そして倭王武に至って有名な彼の上表文の長文引用が行われているのである。以上のような事態の意味するところは何か。
第一に、当然ながらその公的書簡には“倭王自身による倭王の自署名”が存在していたことである。表書と書簡内部(先頭や末尾等)に、これを欠いては、およそ書簡の態をなさないものであること、いうまでもない。ではそこには何と書かれていたか。これも疑いはない。倭王讃の場合には「倭讃」と書かれていたのであり、倭王武の場合には「倭武」と書かれていたのである。“彼等の上表文の署名に依拠して中国側は彼等の姓名を倭国伝に記載している”。これは通常極まる(これ以外に考えようのない)事態であるから、右のような認識も、これ以外の理解のありようはないのである。
右のように書簡の表記様式の基本のルールからすれば、あの松下見林が唱え、現在の戦後史学まで従ってきた理解、たとえば“使者が「イザホワケ」と中国側に告げた。中国側はその第二音のみを採取して「讃」と記した”といった類の理解が、失礼ながらいかに“珍無類”であるかはハッキリしよう。
問題の「上表文の自署名」をしめす実例も、当の『宋書』全体を見渡せば、枚挙に事欠かない。
「(西南夷、訶羅施*(からだ)国、元嘉七年遣使奉表)・・・伏して惟(おもんみ)るに、皇帝、是(こ)れ我が真主。臣は是れ、詞羅施*国王、名は堅鎧と曰う」(『宋書』夷蛮伝)
「(元嘉十年、呵羅単(からたん)国王、[田比]沙跋摩(ひさばつま)、奉表)常勝天子陛下・・・呵羅単国王、[田比]沙跋摩、稽首問訊(けいしゆもんじん)す」(同右)
訶羅施*(からだ)国の施*は、方の代わりに阜編。JIS第4水準ユニコード9641
[田比]沙跋摩(ひさばつま)の[田比]は、JIS第3水準、ユニコード6BD7
いずれも当然のことだ。“いわゆる「中世」には書簡に自署名を書いたからといって、古代もそうとは限らない”などといった弁舌をふるう人はいないであろうし、あっても、通るものではないであろう(ことに下位者〈倭王〉が上位者〈中国の天子〉へと提出した上表文であるから、「倭王」といった称号のみで「実名不記載」というような“失礼”な書式はありえない)。
思えば戦後の日本古代史学の“導き手”とされる井上光貞氏など、「中世」の浄土教の研究でも知名の学者だ。わたしなどむしろかつては『日本浄土教成立史の研究』によって井上氏を知っていたくらいである。その氏をふくむ、戦後古代史学界で通用されてきた“倭の五王と近畿天皇家を結びつける、松下見林流の手法”、それを見てわたしは、不審の念にうたれざるをえなかった。
そしてこれらの讃・珍・済・興・武が、中国側の取捨撰択による恣意的な命名などではなく、彼等倭の五王自身の自署名である、という立場に立つとき、それが記・紀に一切現われないのは、やはりどう見てもおかしい。なぜなら六〜八世紀の「造作」者は、一方で「説話」は自由に「造作」しながら、他方では単語(人名・地名・術語類)は(ことに五世紀以降)真実(リアル)に保存していた。 ーーこれが戦後史学の“建て前”だった。しかるに、人名中の人名というべき“倭王の自称の自名”が一切その痕跡すらとどめていない。 ーーこれでは、まさに根源の背理というほかはない。
“しかし記・紀は和風名称を重んずる史書だから、そんな中国式名称など書けないのだ”。そのようにいう論者があるだろうか。そのような論者に対してわたしは言わねばならぬ。“では、多利思北孤を見よ”と。彼は周知のように中国(隋)へ国書を送った(『隋書』イ妥たい国伝)。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや、云云」
の一節をふくむ公的書簡だ。当然そこには“彼自身の書いた自署名”があったはずだ。それが「多利思北孤たりしほこ」である(彼は自己を中国の天子と「対等」と見なした。従って自分の側の「実名」が記されていて、書式上、不思議はない)。彼は自ら「臣」と称した倭王武とは異なり、海西なる中国(隋)の天子と対等な、「海東の天子」たることを誇称していた。従って中国風の一字名称ではなく、まさに民族風(和風)の姓名をもって自署名を記した。それが「姓は阿毎あめ、名は多利思北孤」の表記だったと思われる(右の激変をもたらした、その画期をなす一線は、倭王武たちの臣事した南朝〈陳ちん〉の滅亡であろう。倭国にとっては、新たなる“北朝系の天子”に「臣事」すべき筋合いは、存しなかったのである)。
右のように考察してくると、この七世紀前半の王者の自署名が記・紀に全く表現されていないこと、ーーそれはもし彼等が近畿天皇家(推古すいこ朝)の王者であるとすれば、まさに“回避しえぬ背理”というほかはない。
この点は、問題を“蘇我王朝”などにすりかえてみても、解決しうるものではない。彼等の中にも「阿毎、多利思北孤」というような名称の人物はいないのであるから。やはり「倭の五王=多利思北孤」の系列は、近畿天皇家や近畿の豪族ではありえなかった。代ってあの同書中の著明な、
「阿蘇(あそ)山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って[示壽]祭(とうさい)を行う」
の一句のしめすごとく、九州の王者に他ならなかったのである。はるか後世の研究者は、“なぜ、この見やすい道理を、あの当時(二十世紀)の学者は理解できなかったのか”と、それをこそまさにいぶかることであろう。
[示壽]祭(とうさい)の[示壽]は、JIS第3水準ユニコード79B1 「祷」の印刷書体。
イ妥*国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO 

A(「いわれてみれば、その通り。コロンブスの卵みたいな話ですね」
古田「そうだねえ。もう一つ、同じテーマとして、『国の名乗り』問題があると思うよ」
A「何ですか。『国の名乗り』とは」
古田「考えてごらん。倭国の使者が ーーどこの国でも同じだけどーー 中国へ行くとするね。そのさい、“中国側がどうやってその人物の一行が本人たちの名乗る国の人間であるかどうかを確かめるのか”という問題だ」
A「なるほど、やけに現実的な問題ですね。本人たちがそう名乗ったから、それでいい、というわけにはいかないわけですか」
古田「そのさい、当然通訳を通じて応答があるわけだが、同時に、例の国書・上表文の中にも、自分たちの国の来歴が書かれているはずだ。『自分たちの国は、貴方がたも御存知の、この国だ』というわけだ」
A「中国と倭国のように、古くからのつき合い、それも書簡外交ともなれば、当然ですね」
古田「その点、先ず注目されるのが、『宋書』だ。冒頭の地の文に、
『倭国は高麗(こうり こうらい)の東南大海の中に在り、世々貢職を修む』
とあるが、この「世々」とはいつからいつまでか。この点、倭王武の上表文に、
『昔より祖禰(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環*(つらぬ)き、・・・累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。・・・今に至りて、甲を練り兵を治め、・・・』
とあるから、ここでは『昔・・・今』の時間帯で文章が進行する中で、『累葉朝宗』の言葉が出てくる。従ってこの『累葉』は“『昔』以来”と見ることができる。
環*は、王編の代わりに、手編。JIS第3水準、ユニコード64D0
この点をさらに明確にしているのは、『南斉書』だ。
『倭国。帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已(すで)に前史に見ゆ』
とあるように、“この五世紀の倭国は、卑弥呼・一与(いちよ)たちの、三世紀の倭国の後継者”そのように、中国側は認識しているわけだ。
もしかりに、三世紀倭国から『邪馬台国東遷』などの、遷都ののちの五世紀倭国(倭の五王)であったとしたら、当然その旨が倭の五王たちの上表文に記されてあったはず。となると、それ(『邪馬台国東遷』)は『宋書』や『南斉書』の冒頭の地の文にも反映しているのが当然だ。しかし、そんな記事はないよね」
А「なるほど。でも、もっとズバリ、の話はありませんかねえ」
古田「ズバリあらわしているのが、『隋書』だ。冒頭の地の文に次のようにある。
『漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。安(あん)帝の時、又遣わして朝貢す、之をイ妥*奴(たいど)国と謂(い)う』
これは志賀島の金印のことをさしている。そのあと、卑弥呼のことをのべたあと、次のようにのべているね。
『魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず』
このあと、例の阿蘇山の記事が出てくる。こうしてみると、“この多利思北孤の国は『九州の志賀島ーー 九州の阿蘇山』の中にあり”という命題がクッキリ浮かび上ってくるだろう。つまり九州王朝だ。そしてその前半の歴代の伝統(志賀島の金印、卑弥呼の国)は、まさに多利思北孤の国書の中に示唆されていた、そのように見なしても、先ず大過ないんじゃないかね。わたしの目には、そう見えているんだよ」
А「そうですねえ。ところで、その九州王朝の中で作られたもの、文献や文化遺産、そんなものが何か残っていないかなあ。それがあれば、文句ないんだけど」
古田「そうだね。それこそ、実は次の問題なんだよ」 
第三章 九州王朝の風土記

 

1
これまでは、中国史料の分析だった。中国の史書にしるされた倭国の記事を理解する上で、従来のような近畿天皇家一元主義の立場から見たのではあまりにも矛盾がある。こじつけが多すぎる。これに対して九州王朝という一個の仮説を立てたとき、それらの矛盾は解消する。人間の理性に納得できる形で、三〜七世紀の中国史料が理解できる。それがわたしの基本の立場だった。
今度は日本側の史料だ。日本列島の中で産出された史料についても同じことがいえる。これを近畿天皇家一元主義の目で見たのでは、解きがたい幾多の矛盾がある。どうしてもこじつけになってしまう。
ところがこれに反し、九州王朝という新視点を立てるとき、それらは何の不思議でもなくなってしまう。その事実を次にしめしてみたい。それが「二つの九州風土記」問題である。
※※※
風土記には、少なくとも二種類ある。これは井上通泰氏以来、風土記研究史上、著名のテーマだった(井上『肥前風土記新考』『豊後風土記新考』『西海道風土記逸文新考』等)。甲類・乙類、その他の第三類、という区別を立て、これらはそれぞれ「霊亀れいき元年(七一五)より養老ようろう四年(七二〇)までの間の撰 ーー甲類」「日本紀奏上(七二〇)以後、漢風諡号(おくりな)制定(およそ孝謙こうけん天皇の御代〈七四九〜七五八〉)以前の撰 ーー乙類」「漢風論を用ゐ、且つ平安時代に入ってからの撰 ーーその他の第三類」という成立であろうとされた。
これに対して批判されたのが坂本太郎氏である。「九州風土記補考」(『大化改新の研究』所収)の中で、氏らしい穏健・周密の吟味を右の井上説に対して加えられ、右の第三類は第一類(甲類)の一部と見なすべきであり、その第一類と第二類(乙類)の時代順は、井上氏の立てられたのとは逆であり、第二類が先、第一類が後である、とされた。そして第二類は「第一類よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係るもの」とし、第一類は「天平てんぴょう四年(七三二)より天平宝字ほうじ三年(七五九)に至る間」の成立、とされたのである。
この坂本氏の先後判定自体は、その後の研究者にほぼうけ入れられたようである。近年この問題に対して積極的な論稿を次々に提起された田中卓氏も、この坂本氏の先後判定については疑っておられない(「九州風土記の成立 ーー特にいはゆる乙類風土記について」「肥前風土記の成立 ーー 九州風土記(甲類)撰述の一考察」『日本古典の研究』所収)。ただそれぞれの時期について、乙類を「天平四年(七三二)以降、恐らくは天平宝字年間(七五七〜七六五)」と推定し、甲類を「延喜えんぎ十八年(九一八)以後、天慶てんぎょう六年(九四三)以前」と推定された。
また岩波古典文学大系本の『風土記』の校訂を行われた秋本吉郎氏にも、幾多の風土記研究の論文がある(古典文学大系本の解題参照)。
けれども、このような研究史の詳細に立ち入るのは、今の目的ではない。また右の各論文中に提出された個々の論点については、学術論文をもって再吟味させていただく機会があるであろう。
今はこの問題に対して、従来ほとんど関心のなかったと思われる一般の読者の面前でズバリ問題の本質に切りこんでゆこう。それによってこの問題の、研究史上の渋滞の理由、その根源をしめすことができるであろうから。
※※※
風土記の場合、『古事記』『日本書紀』のように完形は残されていない。まとまった形でかなりまとまった量残されているのは、『常陸ひたち国風土記』『出雲いずも国風土記』『播磨はりま国風土記』『豊後ぶんご国風土記』『肥前ひぜん国風土記』の五つの風土記であり、他は残欠の形で諸国にわたって遺存している。これはたとえば右の古典大系本の目次をくってみても、一目瞭然(りようぜん)である。
ところで、「二種類の風土記」といった、その二種類を一番端的にしめすのは、“行政単位”だ。通常全国の風土記は「郡」が基本単位となって書かれている。
「意宇の郡(こおり)。郷(さと)は一十一。里(こざと)は、卅三、余戸(あまるべ)は一、駅家(うまや)は三、神戸(かむべ)は三、里は六、なり」(『出雲国風土記』意宇郡)
といった風に。そして九州にもまた同じく、「郡」を基本単位とする書式で書かれている、一連の風土記がある。
「日田ひたの郡 。郷は五所、里は一十四、駅は一所なり」(『筑後国風土記』日田郡)
といった風に。ここまでは何の不思議もない。
不思議なのはその次だ。九州に限って、これとは異なった「県」を基本単位とする一群の風土記が別に見出されるのである。
この状況を一番ハッキリ対照的にしめす例をあげよう。
A型(従来説の乙類、第二類)
「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の県(あがた)。子饗(こふ)の原。石両顆(ふたつ)あり。一は片長(なが)さ一尺二寸、周(めぐ)り一尺八寸、一は長さ一尺一寸、周り一尺八寸なり。色白くして[革更](かた)く、円(まろ)きこと磨き成せるが如(ごと)し。・・・・」(『釈日本紀しゃくにほんぎ』巻十一)
[革更](かた)は、JIS第3水準ユニコード9795
B型(従来説の甲類・第一類)
「筑前の国の風土記に曰わく、怡土(いと)の郡。児饗野(こふの)郡の西にあり。此(こ)の野の西に白き石二顆(ふたつ)あり。一顆(ひとつ)は長さ一尺二寸、大きさ一尺、重さ卅一斤、一顆は長さ一尺一寸、大きさ一尺、重さ卅九斤なり。・・・・」(同右)
ここではほぼ同内容だ。にもかかわらず、「県」と「郡」、基本の行政単位が異なっている。そして何よりこれだけ“ほぼ同内容の説話”が別の型式で書かれている、という、この事実ほど、「九州にだけは、二種類の風土記が存在した」という、この事実を雄弁に立証するものはあるまい。井上通泰氏の指摘以来、問題の所在自体が疑われなかった、その根本は、このような史料事実にある。だからこの二種類の風土記の呼び方について、一番端的な呼び方は、「県あがた風土記」と「郡こおり風土記」である。そして簡明に、前者をA型、後者をB型と、わたしは呼びたいと思う(井上氏の甲・乙・第三類、坂本氏の第一・第二類、の命名に敢えて異をとなえるのは、“乙類、すなわち、第二類が先”と見なされている現在、その時代順に沿った命名が、問題の的確な解明の上で便宜であると共に、必要だからである)。
従って諸国の風土記を通視すれば、九州をふくめて全国にわたって存在するのは、「郡風土記」つまりB型である。これに対して九州にのみ、これと異なる型式の風土記が、右のB型の成立に先んじて成立していた。これが「県風土記」つまりA型であった。 ーー以上が、巨視的に見たさいの風土記という名の史料の時間的・空間的分布なのである。
ではなぜ、このような異型の分布が実在するのであろうか。これが問いの発端だ。
※※※
ここで明瞭(めいりょう)な事実がある。それは有名な、風土記撰進の詔との対比だ。
「(和銅わどう六年、七一三)五月甲子。□制 畿内七道、諸国の郡・郷の名、好字を著(つ)けよ。其の郡内に生ずる所の銀・銅・彩色草木・禽獣・魚・虫等の物は、具(つぶさ)に色目(しきもく)を録せしむ。及び土地の沃藉(よくせき)・山川原野の名号の由(よ)る所、又古老の相伝・旧聞の異事は、史籍に載(の)せ、(亦宜またよろしく)言上すべし」(『続日本紀』元明げんめい天皇)
ここには「郡」という字が、二回も明確に出てきている。従ってこの詔にもとづいて作られたもの、それが先の全国にまたがる「郡風土記」つまりB型であることは、疑うことができない。もちろん、各地で実際に成立するまでには、多くの時間がかかり、その成立時点も、各国でまちまちだったようである。たとえば、それから二百年あまりもたった延長(えんちょう)三年(九二五)、風土記勘進の符が出されている。
「(延長三年十二月十四日)太政官符だじょうかんぷ、五畿内七道諸国司。
応(まさ)に早速、風土記を勘進すべき事。
右、聞(ぶん)する如く、諸国、風土記の文有る可(べ)し。今、左大臣の宣を被(こうむ)りて稱*(い)う。宜しく国宰を仰ぎ、之を勘進せ令(し)むべし。若(も)し国底に無くば、部内を探求し、古老に尋問し、早速言上する者。諸国承知し、宣に依りて之を行い、延廻(えんかい)するを得ざれ。符到らば、奉行(ぶぎょう)せよ」(『類聚符宣抄るいじゅうふせんしょう』醍醐だいご天皇)
稱*の別字。禾偏のかわりに人偏。IS第3水準ユニコード5041
もって和銅六年の詔をもって、必ずしも直ちに各国でそれぞれの風土記成立、厳重保管、などとはいかなかった、その実状況が知られるであろう。けれどもそれはともあれ、“B型は和銅六年の詔をもとにして成立した”。この結論は、いかにしても疑えないのである。
※※※
では、それに先立つくA型はどうか。
今使った「先立つ」という言葉に対して先ず再確認をしておこう。かつて井上氏は“A型はB型のあと”と見なされた。けれども右のように“和銅六年の詔によっていったんB型の風土記を、九州においても、全国並みに立派に作っておきながら、その後、九州においてのみ、現実に存在せぬ(現実は当然「郡」)「県」なる、架空の行政単位をもった風土記を改めて作り直す”。こんな状況は、考えてみるさえ、ナンセンス、そういって異論はあるまい。従って“A型が先、B型が後”という坂本氏の時代順判定が基本的に反論を見ぬことは当然である。
だから“B型に先立って、九州にのみ、A型の風土記先在の事実”を認めることとならざるをえないのだが、“では、なぜ” ーーこの必然の問いに対しては、従来の各論者とも、にわかにいずれも“歯切れの悪い”答えしか用意できなかった。たとえば坂本氏。
「ここに本書(第二類をさす ーー古田)の撰修は明かに第一類よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係(か)くるも大なる誤謬(ごびゅう)はあるまいと信ずる。
只(ただ)第二類が第一類に比し文章の全体に於(お)いて支那(しな)風の文飾の多いことはこの考察に稍(やや)そぐはぬ感もしないではない。しかしそれは他の事情によつて解釈できるのであつて、むしろそこに二様の風土記の存在を説明すべき理由すら含まれてゐるのではないかと思ふ。まづ第二類に文飾の多きは撰者が文筆に長(け)たる人であつた故であらう。多少時代が古くとも、有能な官吏を擁した大宰府(だざいふ)にこれだけの漢文のできる人がゐなかつたとは考へられぬ。彼は恐らく外客に接する大宰府の地位を自覚したが故に、風土記撰進の詔に従つて直に筆を揮(ふる)ひこの風土記(第二類をさすーー古田)をものしたのではあるまいか。かくて筑紫風土記は奏進され、諸国のもの(第一類をさす ー古田)と並べられたが、その稍異例な体裁が眼立つた為(ため)に後の大宰府官人の何人かゞこれを基にして今一度風土記の撰修(第一類をさす ーー古田)を企て、そこに諸国風土記の粋を取り、自己に理想の形式を盛つたのであらう。・・・・かくてともあれ、この類の風土記も奏進せられ、九州地方の風土記は二種となつた」(「九州地方風土記補考」)次に田中卓氏。
「九州地方についてみても、筑前国・豊前国の大宝(たいほう)二年の戸籍はすべて郡によつて記されている。大宝二年と云(い)へば風土記撰上の詔の発せられた和銅六年より十一年以前である。もし風土記が坂本博士の云はれるやうに『和銅に近き頃ころ奏上』せられたとすれば、いかなる理由で殊更に当時慣用の郡を廃して、少くとも大化(たいか)以前の古制を思はしめる県を採用したのであらうか。まして風土記撰上の詔には、『畿内七道諸国郡郷名著二好字一。其郡内所レ生、云々うんぬん』とあるにおいてをやである。凡(およ)そ風土記の記載は現行の行政に役立つものでなくては意味をなさない。従つて地方区画に百年前の古制を採用する必要は毫(ごう)も存しないし、また事実他の風土記にあつては悉(ことごと)く郡によつて統一せられてゐる。さすれば乙類にみえる県は、日本紀に『コホリ』と訓ぜられ、或(あるい)は『アガタ』と読まれた古制のそれではなく、撰者の漢風好みより、支那の郡県制度を習つて文飾のために郡に代ふるに県を以(もつ)てしたものと考へねばならない。すなはちその県は当時における現代的な、いな最新式な用話として、充分に風土記の目的を果し得たものと思はれる」(「九州風土記の成立 ーー特にいはゆる乙類風土記について」)
これは要するところ、ズバリいってしまえば、“なぜか太宰府にだけ、気まぐれな官人がいて、現実には架空の「県」という行政単位を使って、A型風土記を作ってみた”ということだ。これでは、「答え」自身が恣意(しい)的、いかにも“気まぐれ”の観をぬぐえない、そういったら、これらの業績に満ちた論者に対して失礼であろうか。しかし、“気まぐれ”な答えしか、用意できなかったのは、必ずしも“これらの論者”だけのせいではない。従来の誰人(たれびと)も、これに対して“気ままならぬ答え”を出しえなかった。これが、ことの真相なのである。なぜなら、
第一、近畿天皇家から、右の和銅六年に先立ち、この「県風土記」を作れ、という命の下された形跡がない(ことに戦後史学の認める史料による限り ーー後述)。
第二、たとえかりに、近畿天皇家からその種の命が出されていたとしても、九州以外の諸国がすべてこれに従わず、九州のみがこれに従った、というのは不可解である。
第三、しかも九州で先立って行われたA型風土記の撰進に対し、後年、(その最初は和銅六年)近畿天皇家がこれ(風土記撰進)にならった、つまり模倣した形に実質上なっているのも、その九州のA型撰述の官人が近畿天皇家の「配下」であったとするなら、不可解である。
第三、また坂本氏のように、「和銅六年」の「郡風土記」作製の詔に応じて作りながら、九州だけA型、他の諸地方ははじめからB型を作った、とするのも奇異である(九州官人不注意説となろう)。
第四、また近畿天皇家は和銅六年の風土記撰進のさい、歴史上の事実においてはそれが“九州のA型風土記作製の模倣”であるにもかかわらず、右の詔ではそのことに一切触れていない。このようなケースもまた不可解である。
以上のように、あちら立ててもこちらは立たずの、八方ふさがりのていだ。従ってこの問題の研究史が渋滞したまま進展を見なかったのも、決して偶然ではなかったことが知られよう。このことは次の一点を指示する。少なくとも従来の旧説派の見地、すなわち“日本列島において風土記撰進などの挙をなしうる公的権力者は近畿天皇家のみ”という近畿天皇家一元主義の視野からは、ひっきょう解決不可能、矛盾の壁は抜きがたい。 ーーこれが研究史上の偽りえぬ現況だったのである。
この未解決の矛盾に対して、わたしがどのようなイメージをいだきつづけてきたか、それはもはや隠すべくもあるまい。“A型の風土記とは、九州王朝で作られた風土記ではないか”。この疑いである。
“八世紀以降の近畿天皇家に先在した三〜七世紀の九州王朝”という、わたしが第二書『失われた九州王朝』以来、提唱しつづけてきたテーマからすれば、それはいわば“必然のアイデア”といってもいいであろう。けれどもそれだけに、いいかえれば“うますぎる”話だけに、わたしには“慎重にならねばならぬ”。そういう思いが濃かった。だから“口に出す”ことを、いわばみずからに抑制してきていたのである。
ところが昨年初頭、この問題の再検証を試みはじめると、新たな視野が急激に開けてくるのを見た。そのポイントは、A型における阿蘇(あそ)山の描写である。
「筑紫の風土記に曰(いわ)く、肥後の国閼宗(あそ)の県。県の坤(ひつじさる)、廿余里に一禿山有り。閼宗岳と曰(い)う。・・・(中略)・・・其の岳の勢為(た)るや、中天(注)にして傑峙(けつじ)し、四県を包みて基を開く。石に触れ雲に典し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫(ひた)して水を分つ、寔(まこと)に群川の巨源。大徳魏々(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形沓々(とうとう)、伊(これ)天下の無双。地心に居在す。故に中(なか)岳と曰う。所謂(いわゆる)閼宗神宮、是なり」(『釈日本紀』巻十、肥後国)
(注)底本には「中天而傑峙」とあるところを、岩波古典文学大系本(五一八ぺージ)では「中二半天一而傑峙」と改定している(井上氏の『新考』の補字による)。今は、原形(底本)によった。
となっている。「中天」は“天のまんなか、おほぞら、なかぞら”(諸橋『大漢和辞典』)、「地心」は“地球の中心”(同右)の意だから、ここでいっていることは、次のようだ。 ーー“阿蘇山は天地の中央である”と。
この表明の立場は、B型の風土記とは明白に異なっている。
「筑前の国の風土記に曰く、怡土の郡。児饗野(こふの)郡の西にあり。・・・・(中略)・・・・『(気長足姫尊おきながたらしひめのみこと)朕(あれ)、西の堺を定めんと欲し、此の野に来著(きつ)きぬ。・・・・』・・・・」
右のように糸島(いとしま)郡の野原は“西の堺(さかい)にあり”という形でとらえられている。これは、いうまでもなく“近畿を原点にした”表記だ。だが、もしこれと同じ発想、同じ表記形式であるならば、当然ながら阿蘇山もまた「西の堺」であり、“天地の中央”などとは、到底なりえないのである。後者は明らかに“九州を原点とする”表記であり、前者のような“近畿原点”の表記とは、立場の根本において、その“原点のおき方”が異なっているのである。すなわち、
A型は九州を原点とし、
B型は近畿を原点とする。
そのちがいが歴然としているのである。
※※※
次の問題は、行政区劃の問題だ。
「筑紫の風土記曰く、逸覩(いと)の県。・・・」
「筑紫の風土記に曰く、肥後の国、閼宗の県」
といった風に、「筑前」と「肥後」とが共通して「筑紫風土記に曰く」の句が冠せられているのが注目される(他のA型の例に対しても、岩波古典文学大系本は「現伝本と別種の風土記に属するもの」に「筑紫風土記」と記している)。すなわち「A型風土記」とは、本来「筑紫風土記」なのである。
ところが、B型風土記の場合は、これとは異なる。「肥後」の場合は「肥後の国の風土記」(玉名たまな郡)、「豊前」の場合は「豊前の国の風土記」(田河たがわ郡)という、通常の形のみだ。つまり全国のB型風土記と共通の形だ。近畿天皇一家のもとの各国別の風土記なのである。何の他奇もない。
ところが、A型の場合、本来“筑紫を原点として九州全土を包括する”形の様式をとっていたようである。これはなぜか。太宰府の機能が和銅六年以前のある時点とその以後で“激変”したのだろうか。そのような徴候は別に見出せない、少なくとも“近畿天皇家統治下”である限り。そのような“激変”があるなら、近畿天皇家の史書たる記・紀や『続日本紀』にその記事が姿を見せぬはずはない。第一、“筑紫を原点として九州全土を包括”などというのは、“地方の一中心官庁”のなしうるところではない。もし“なしうる”という論者があれば、“九州以外の、どこの地方の中心官庁も、そのような風土記を作ってはいないではないか”と、ひとたび反論すれば足りよう。“吉備(きび)風土記の名で播磨や出雲や備後(びんご)の風土記が書かれた”とか、“大和(やまと)風土記の名で河内(かわち)や摂津(せっつ)の風土記が書かれた”などという話は一切聞いたことがない。またその史料事実もない。
ということは、先入見に毒されざる限り、平明な答えは一つだけだ。すなわち“A型風土記は筑紫なる王朝のもとに作られた風土記である” ーーこの答えである。
「県風土記」に関する、核心をなすテーマはすでに提示された。だが、なお残された肝要のテーマがある。それは“九州王朝では「県」という行政単位が一般に用いられていたか”という基本の問いである。この問いに対して幸いにも、わたしは明白な答えを与えることができる。それは他でもない。第二書『失われた九州王朝』、第三書『盗まれた神話』においてわたしの使用した方法、そしてそれによってえられた帰結によってである。
〔その一〕
『日本書紀』の景行(けいこう)紀に、「景行天皇の九州大遠征」の説話がある。周芳(すほう)の娑麼*(さば)にはじまり、九州東北部の豊前の京(みやこ)に渡ったのち、九州の東岸部と南岸部を「征伐」してまわった、という説話である。後半は凱旋行路。日向(ひゅうが)にひきかえして、そこから肥後南端部に至り、九州西岸部周辺を北上して筑後の浮羽(うきは)を最終地点としている。この説話は“近畿なる景行天皇の説話”として見てみると、矛盾があまりにも多い。たとえば、
(1) 九州東岸・南岸部が“すでに平定された領域”であり、西岸部が未平定の領域、つまり征伐の対象地、というのなら、東方なる近畿を原点とした場合、理解しやすい。ところが、その逆である、というのは、不自然だ。
(2) 筑前は“もっとも早くから平定されていた”領域であるはずなのに、ここに立ち寄った形跡が全くない。南から北上してきて、“浮羽止まり”は不自然だ。「筑前の空白」問題である。
(3) 最終地浮羽から、近畿へ向うべき寄港地たる、日向までの間の記載が全くない。
(付言する。ここは“『日本書紀』の書式とその史料性格”を分析し、論じているのであるから、B型の『豊後国風土記』日田郡の“景行天皇に関する”記事などをもって“補い解する”という手法は不当である。むしろ右の記事は“書紀の欠を補う”形で“景行天皇の名前に寄托(きたく)された伝承”がここに編入されたものと考えられる。この点、坂田隆氏「『盗まれた神話』批判ー古田武彦氏に問う」〈「鷹陵史学」昭利五十六年三月〉の論点に関係する。詳細は別稿にゆずりたい)
(4) 史料批判上、もっとも重要なのは次の点だ。それは“この説話が『古事記』に全くない”という一言である。
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD
この記・紀間の記小の異同に対する、わたしの判断の基準 ーーそれは次のようである。“近畿天皇家の史官が原史料に加削を行うさい、それは天皇家に有利に加削するのであって、不利に加削することはありえない” ーーこれか率直な公理である。そしてその“有利・不利”とは、普通の人間の普通の目から見たそれであって、“もってまわったりくつから見た、一部のインテリ好み”などのそれではないのである。
このような公理から見ると、この記事について記・紀間の先後関係は明白であろう。なぜなら、もし書紀の方が原形であったとしたら、あれほど赫々(かくかく)たる天皇の大親征成功譚(せいこうたん)を、後代の天皇家の史官たちがバッサリ削る、などということは考えられない。これに対して逆ならありうる。この「九州東・南部平定譚」を他からもってきて、あたかも近畿の天皇の大功勲であるかのように、ここに加えた。 ーーこの帰結である。
従来の論者には考えがたいところであろうけれども、わたしにはそのように結論する他はなかった。
では、どこからもってきたか。それは説話自身が物語っている。筑前を原点とする九州、東・南部平定譚の史料性格をもつ(そのさい、肥後はすでに筑紫の勢力下にあったものと思われる)。この仮説に立つとき、先ほどの不審はことごとく解ける。
(1) 近畿原点の場合と異なり、“九州西部(肥後)がすでに領域内であり、東・南部が未平定”ということは、地理上きわめて自然である。
(2) 「筑前の空白」は当然である。そこは出発の原点であり、筑後の浮羽のあと、都なる筑前へと帰着したのである。
(3) 従って最終地浮羽から日向までの記載の絶えている不思議も、当然解消する。
(4) 『古事記』にないことも、それが本来の形(原形)であるから、当然である。
すなわち“この説話は筑前の王者(「前つ君」)による九州一円平定譚であり、いいかえれば、九州王朝の発展史である。それを九州王朝の史書(「日本旧記」)から切り取ってきて、あたかも「景行天皇の業績」であるかのように接(つ)ぎ木した、のである”。
以上が『盗まれた神話』においてのべたところのポイントだ。そしてそれはわたしの古代史学にとっての根本の方法をしめすものであった。
※※※
右をここで再説したのは、他でもない。この「景行の九州大遠征」に頻出する地名、それが「県」なのである。記・紀を通じて“「県」の最頻出地帯”それが、他ならぬこの史料なのだ。書紀における「景行紀」以前の「県」を左にあげてみよう。
〈近畿〉 八か所
菟田(うだ 神武紀じんむき)・菟田下(うだのしも 神武紀)・猛田(たけだ 神武紀)・層富(そほ 神武紀)・春日(かすが 綏靖紀すいぜいき)・磯城(しき 綏靖紀・安寧紀・懿徳紀・孝昭紀・孝安紀・孝元紀)・十市(とおち 孝安紀) ーー大和
茅淳(ちぬ 崇神紀すじんき) ーー河内
〈九州〉 九か所
水沼(みぬま 景行紀)・八女(やめ 景行紀) ーー筑紫
長峡(ながお 景行紀)・直入(なおいり 景行紀) ーー豊
高来(たかく 景行紀)・八代(やつしろ 景行紀)・熊(くま 景行紀) ーー火
諸(もろ 景行紀)・子湯(こゆ 景行紀) ーー日向
右のように、近畿の他は、それ以上に九州に集中し、それが右の「景行の大遠征」、実は「前つ君の九州一円平定譚」をしめす史料に集中して現われているのである(これを近畿天皇家「治下」の「県」と考えるには、東〈東海以東〉になく、西も、九州との中間〈中国地方等〉が欠けている〈あるいは乏とぼしい〉点から困難であろう)。
これに対し、この史料が九州王朝の史書「日本旧記」からの「盗用」であるとすると、その史書では、「県」という行政単位が広く用いられていたこととなろう。すなわちこの「県」は九州王朝の行政単位なのである。
〔その二〕
もう一つの「盗用」の説話、「神功じんぐう皇后の筑後征伐譚」でも、同一の傾向が見られる。先ず、問題点は左のようだ。
(1) 仲哀(ちゅうあい)の死と新羅(しらぎ)行の間に、書紀では神功の筑後征伐譚がある。有名な羽白熊鷲(はしろくまわし)や田油津媛(たぶらつひめ)討伐の説話である。
(2) しかし、仲哀の死(おそらく賊の矢に当ったことが原因となった死、すなわち敗戦下の死)後、という形成不利のとき、いきなり“神功が筑後平定に成功した”というのは、あまりにも唐突である。
(3) この印象的な「筑後征伐成功譚」が、またしても『古事記』には全くない。
従ってこれも先と同じ公理に従う限り、“ない方の『古事記』の方が本来の形(原形)、ある方の書紀の方が改作形”と見なす他はない。すなわち“筑前を原点とした筑紫一円平定”である。それは「橿田宮かしひのみや の女王」にかかる説話と見なされる(『盗まれた神話』参照)。
これは九州王朝の原域たる「筑紫一円平定譚」という、九州王朝発展史の中でも、もっとも原初的な段階の説話だったのである(当然、先の「前つ君の九州再平定譚」より前段階)。ところがここでも、
伊覩(いと 神功紀)・山門(やまと 神功紀)・松浦(まつら 神功紀) ーー筑紫
といった「県」地名が出現し、右の「前つ君の九州一円平定譚」と同一の史料性格をしめしている(「沙麼*さば」周防すおう、も)。
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD
〔その三〕
同じく、仲哀の九州遠征説話をめぐっても、
儺(な 仲哀紀)、伊覩(いと 仲哀紀)、崗(おか 仲哀紀) ーー筑紫
という風に「県」名が連続している。しかもいずれも九州内においてである(この「県」出現部分の記事も、「日本旧記」などからの「盗用」と見られる)。
以上を一言でいえは、“他の史料(九州領域)”から接ぎ木された部分 ーーまさにそこに「県」記事が氾濫しているのだ。この史料事実は、一体何をしめすだろう。他ではない。わたしたちはここに“九州においては古くから「県」の制度が実在していた”その痕跡を認めざるをえないのである。なぜならもしこれらが「後代の六〜八世紀の近畿の史官による造作」であったとした場合、“九州にだけ、くりかえし、まきかえし、「県」という行政単位を造作した”というような解釈に陥らざるをえない。そんな想定は、誰が考えても、およそナンセンスという他、何物でもないであろうから。
さにあらず、この「県」地名群は、他ならぬ「九州王朝の行政単位」そのものの痕跡、その史料(断片)上の反映なのであった。
「九川王朝の行政単位としての『県』」 ーーこのような新概念に人はとまどうであろう。何しろ、九州王朝そのものさえ、学界はもとよりいかなる教科書も、認知のかけらさえしめしていない現在なのであるから。
けれども、人間の平明な理性に従うとき、それは決して奇異な事態ではない、むしろ必然なのである。なぜなら「県」とは、当然ながら本来中国の行政単位である。周知の経緯を略述しよう。
先ず周(しゅう)の封建制。斉せい・趙ちょう・魯ろ・燕えん・楚そ、といった国々が並立し、中心に周王朝があった。あの蘇秦(そしん)、張儀(ちようぎ)等の合従連衡(がつしようれんこう)の術策も、このような各「国」の間に生れたエピソードだったのである。
次に秦(しん)の郡県制。「県」が誕生した。かつての「国」は「郡」に代り、中央から派遣された官僚が支配した。そしてその下部単位として「県」がおかれたのである。
次が漢(かん)の郡国制。これは全国を「国」と「郡」の折衷型とし、「国」では漢の高祖の一族や功臣が「王」となり、「郡」では、秦代のように中央からの派遣官僚が統治した。そして右のいずれにおいても、下部単位は「県」だったのである。たとえば、
「山陽さんよう郡(故、梁。景帝中六年、別れて山陽国為(た)り。武帝の建元(けんげん)五年、別れて郡為り。莽(もう)、鉦野(きょや)と曰(い)う。[亠/兌](えん)州に属す)・・・・県二十三」(『漢書』地理志上)
[亠/兌](えん)は、亠の下に兌。JIS第3水準ユニコード5157
「楚国(高こう帝置く。宣せん帝の地節(ちせつ)元年、更に彭城(ほうじょう)郡為り。黄竜(こうりょう)元年、故(もと)に復す。莽、和楽(わらく)と曰う、徐州に属す)・・・・県七」(『漢書』地理志下)
われわれにおなじみの楽浪(らくろう)郡・帯方(たいほう)郡なども、その「郡」の一つだったのである。この制度は魏、西晋へとうけつがれた。『三国志』の各列伝の冒頭に、
「李典(りてん)、字は曼成(まんせい)、山陽・鉦野(きょや)の人なり」(『魏志』巻十八)
といった風の形で書かれているのは、山陽郡鉦野県の出身であることをしめす。また『魏志』の彭城王拠(きょ)伝に「国・郡・県」をめぐる興味深い詔がのせられている。
「(黄初五年、二二四、文ぶん帝)詔して曰(い)わく『先王、国を建て、時に随(したが)って制す。漢祖、秦の置く所の、郡を増す。光武(こうぶ)に至り、天下損耗(そんこう)せしを以(もつ)て、并(あわ)せて郡県を省く。今を以て之に比すれば、益ゝ(ますます)及ばず。其(そ)れ、諸王を改封して、皆県王と為す』
拠、定陶(ていとう)県に改封せらる。太和(たいわ)六年(二三二)諸王を改封し、皆郡を以て国と為す。拠、復(また)、彰城に封ぜらる。景初(けいしょ)元年(二三七)、拠、私(ひそか)に人を遣わして中尚方(ちゅうしょうほう)に詣(いた)り、禁物を作るに坐(ざ)し、県二千戸を削らる。」(『魏志』巻二十)
制度改変の錯綜(さくそう)した記事の間に「郡 ー 県」「国 ー 県」制の存在が明瞭にうかがわれよう。また『宋書』州郡志には、
「益(えき)州刺史、漢の武帝、梁(りょう)州を分けて立つ、治する所、別に梁州を見る。郡二十九、県一百二十八を領す。
蜀(しょく)郡太守、秦立つ。晋の武帝の太康(たいこう)中、改めて成都(せいと)国と曰う。後、旧に復す。県五を領す」(『宋書』州郡志四)
とあり、州のもとに「郡・国・県」の存在する状況がうかがえる。さらに『隋書』地理志では、
「天監(てんかん)十年(五一一、梁武帝)、州二十三・郡三百五十・県千二十二有り。(中略)
高祖、終を受け、朝政を惟新(いしん)す。開皇(かいこう)三年(五八三)、遂(つい)に諸郡を廃す。・・・州県を析置(たくち)す。煬帝(ようだい)、位を嗣ぐ。・・・既にして諸州を併省し、尋(つ)いで州を改めて郡と為す。・・・・大凡(おおよそ)郡一百九十、県一千二百五十五」(『隋書』地理志上)
とあるように、変改の中にも、“州もしくは郡のもとに県”という制度は代々うけつがれていたようである。
さて以上のように、中国の「県」制は連綿と連続していた。その長年代の間、臣属・国交をつづけてきた倭国(わこく)側はこの影響をうけないままにきたのであろうか。いいかえれば、この制度だけは敢(あ)えて“とり入れず”に拒否してきたのであろうか。
先ず『三国志』の倭人伝について考えてみよう。
「古(いにしえ)より以来、其の使、中国に詣るや、皆自ら大夫と称す」
倭国は周代の「卿けい・大夫たいふ・士し」の制度をうけ入れ、その名によって貢献していた。「大夫」とは、当然周代の「国」のもとにおける制度である。さすれば、“「大夫」を名乗った”ということは、“周の天子のもとにおける「国」”の位置に、みずからの倭国をおいていた、ということの表現であろう(ここで「古」という言葉は「周以前」を意味する。『邪馬一国への道標』参照)。
次いで志賀(しかの)島の金印。この「漢委奴国王印」の「国」とは、当然漢の「郡国制」下の「国」を意味する概念である。少なくとも、中国本土内において、その「国」の下には「県」の存したこと、前述のごとくである。
ふたたび『三国志』。卑弥呼が親魏倭王の称号をえたと共に、その配下の難升米(なんしょうまい)・掖邪狗(えきやこ)等は率善中郎将(そつぜんちゅうろうじょう)、牛利(ぎゅうり)は率善校尉(そつぜんこうい)という中国称号を与えられた。すなわち倭国では女王も、その主要な配下も中国式制度の中の称号によっていたのである。
そして注日すべきこと、それは卑弥呼の使者たちが帯方郡へ往来するとき、帯方郡治(ち)にいたる前に、“幾多の帯方郡内の「県」を通過していたこと”、それは疑う余地がないという点だ。少なくとも「郡 ーー 県 」の制度は三世紀以降の倭人(の支配層)にとって周知のところであった。そして洛陽(らくよう)に至った難升米たちは当然、その途中「国 ーー 県」の制の中を行き、この制を知悉(ちしつ)したのである。
次に『宋書』。倭王武(わおうぶ)は中国の天子に対して「臣」を称し、「藩」を称し、例の将軍号などの中国式称号を倭王以下、愛用していた。「自称」さえした。ここに及んでも、なおかつ中国式の「県」制度に対しては無関心だったのだろうか。
以上の状況を総括すれぼ、三世紀以降において倭国がいつ中国式「国 ーー 県」制を模倣し、襲用したとしても、不思議はない。もちろん、必ずしも中国式発音で「県」と呼んだという意味ではないけれども、中国の天子の配下の倭王として「国 ーー 県」制を襲用していた可能性はきわめて高い。そのようにいいうるであろう。
そして反面、記・紀のしめすように、“九州において「県」の出現が多く、かつ早い”。このような史料上の痕跡に出会うのである。
以上のような考察に立ってふりかえれば、“邪馬一国 ーー 九州王朝の故地において、中国風の「国 ーー 県」制(に相当する行政単位)が施行されていた”という、この命題は、実は何の他奇も存しないところなのであった。なぜならこの日本列島を代表する一中心国が“行政制度をもたぬ”ことはありえず、またその行政制度に対して“中国の行政制度が影響していない”そのような状況の方が逆に考えがたいところだからである。 
2

 

ここで筆を改めて、戦後史学の研究史をふりかえってみよう。なぜなら以上の分析と思惟(しい)の展開は、わたしの目にとってきわめて当然の論理的進行だ。そのように見えているにもかかわらず、旧来の一切の古代史学の学者たちかそのような思考の片鱗(へんりん)さえしめしていない、そのこともまたーーはなはだ不可思議なことながらーー まさにまかうかたもなき研究史上の事実だからてある。
そこで敗戦後、昭和二十年代から三十年代にかけて、日本の古代史学における文献的研究は、どのように基礎づけられ、進行してきたか、その大勢のおもむきとその本質について、ふりかえってみることは、おそらく無意義ではないと思われる。
敗戦の荒廃いまだ去りやらぬとき、昭和二十六年十一月の「史学雑誌」(六〇 ーー 一一)巻頭を飾った論文、それは若き井上光貞氏による画期的な論文、「国造制の成立」であった。その目次は「はしがき、一、国と県、二、国造と県主(あがたぬし)の関係、三、出雲(いずも)国造について、四、国造制の地域的多様性、むすび」から成っている。氏の論稿の目的は、先の氏の部民論にひきつづき、「国造制の成立を国家成立史の観点からあとづけて見よう」とするにあった、という。そのさい「国の構造に論及しようとする時、こゝに一つの鍵(かぎ)ともなり、また難解の問題でもあるのはかの県の理解である」として、わが国における「県アガタ」の成立に、論及の第一の焦点が定められた。そして次のようにのべる。「七世紀初めには国を上級組織とし、県を下級組織とする、かなり整然たる地方制度が成立していたことを確認してよいとおもうが、今これを仮に国県制と名付けておく」と。ここに「七世紀初め」といったのは、『北史ほくし』倭国伝の記事「有二軍尼一百二十人一、猶(ごとし)二中国牧宰一。八十戸置二一伊尼翼一、如二今里長一也、十伊尼翼属二一軍尼一」が、近畿なる推古朝の事実とほぼ相応する、と考えられたからのようである(この問題については、古田「多元的古代の成立」参照。前出)。
その上で、国と県とのちがいについて「国が行政区分的存在であるに反し、県には独立小国であり、祭祀(さいし)的、部族的な人的団体であるクニに遡源(さくげん)し得られるものが多い」とし、「大和朝廷の統一の対象とはかくのごとき段階の小国又はその聯合れんごう」であるが、これに対し、「国とは大和国家の支配体制の強化・整備の過程において国家権力により、行政的意図のもとに作られたものではなかろうか」という形でまとめた。
そして「遅くも七世紀初頭(聖徳太子しようとくたいし摂政の頃)、国・県・邑(むら)の区分をもつ地方行政組織が成立しており、しかもこのような組織は、行政的目的のもとに、権力的に作りあげられた政治的制度なることを論証しようとした」という帰結に至った。その上でさらに、「大化前代の国家は、国権の侵透が充分ではなく、法形成以前の国家であるから、かかる理念が果して全国に貫徹されていたか否か。」という問いを発し、吉備(きび)・美濃(みの)・大和・出雲等、各地各別の特色を有していたことを細説されたのである。
以上のような氏の縷述(るじゅつ)を通観するに、一方では国県制が大和朝廷の「整然たる地方制度」であることを明確に論断しながら、他方では国と県との淵源(えんげん)する性格のちがいに対して留意する。さらに各地域の先進・後進性等に応じてその実施性格の実際をそれぞれ異にしていたことを、各地の史料に応じつつ、断言を避け、幾多の保留をおきつつ縷述する。このような一面大胆、一面慎重・細心の行文の中には、まさに後年に至る井上氏の研究手法の特質が躍如として貫通しているのを覚える。すなわち全体としては、ぼかしに満ちた背景のもとに、大化前代の大和朝廷中心の国家発展史という骨格(こっかく)、その一点だけは中枢にクッキリと浮かび上らせた一篇の画図、それはまさに若き日の、氏の力作であった。
敗戦によって戦前の皇国史観という大樹は一夜にして斃(たお)れ、代って津田史学が古代史学の正面に据えられた。だが、“記・紀の神話・説話の史実性を否認する”という、「否定の史学」としての根本性格をもつ津田氏の方法からは、にわかに具体的な古代発展史の実相を描きがたい。そういう困惑の状況下に忽然(こつぜん)と出現した、この井上論文が、名くの後来の研究者にとって、恵みの“導きの炬火”となりえたのは、思うに無理からぬところであろう。その方法上の要点は、
一に、記・紀の神話・説話の記載はそれ自身では史実とは認めがたい。
二に、しかしながら、たとえば「国」「県」のごとき記・紀中に出現する述語は、これに対して適切な処理を行えば、「史実」を再現し、構成する礎石として用いうる。
三に、その「史実」とは、核心において、大和朝廷を中心として各別の各地が統合せられゆく、その具体的な発展史である。
というにあった。各個の細目こそ後来の研究若に委ねられてはいるものの、戦後史学の“全体の土俵”は、ここに井上氏の手によって定められた、そのようにいっても大約、過言ではないであろう。
爾後(じご)、八年にして、井上論文に再吟味を加えた出色の諭文が現われた。上田正昭氏の「国県制の実態とその本質」(「歴史学研究」二三〇、昭和三十四年六月)がこれである。
上田氏は井上論文の「劃期的業績」をたたえつつも、幾多の点で井上論文に批判を加えた。先ず『日本書紀』における推古十年(六〇二)より持統元年(六八七)の国造伴造(とものみやつこ)等の名称の列記記事(二十三例を表示)の中に「県主」の存在しない点を鋭くとらえ、井上氏は、氏のいわゆる「国県制」を「遅くとも七世紀初頭」には存在した、としたけれども、右の表示からすれば、当らない。「県」制の成立は、もっと早いことを指摘して次のようにのべられた。「三世紀中葉の卑弥呼の段階より更に県制をテコとして、西日本のクニをより強固に統属していったことが推考される」とうのである。それはもちろん、大和朝廷(近畿天皇家)によってである。
井上氏の場合、「遅くとも七世紀初頭」(傍点、古田。インターネット上は赤色表示)という表現は、『北史』(『隋書』とほぼ同内容)の倭国伝との“一致”を基点にすえた上での、氏独特の“慎重な言いまわし”であったのであろう。けれども、上田氏の指摘によって、少なくとも記・紀による限り、“七世紀において「県」制は(遺制としての存続の他には)必ずしも強烈に現存してはいなかったのではないか”という、有力な示唆が加えられたのである。
けれども井上氏とて、「遅くとも」という慎重な表現のしめす通り、県制の成立は“それより遡さかのぼる”べきことが暗示されていたのであるから、この点に限っては、本質的な対立点とはいいがたかった。むしろ両氏の方法と帰結上の明確な差異は、いわゆる「邪馬台国」問題をめぐって現われている。
井上氏の場合、その論稿の最終節は、実はこの「邪馬台国」問題にあてられている。東大学派伝来の「山門県=邪馬台国」説をのべられた上、九州において(書紀に)現われる県が、『三国志』の倭人伝の中の「国」(三十国)と対応している(松浦県・伊覩県・儺な県・嶺みね県・水沼みぬま県・八女やめ県・上妻かむつま県・崗県等)こと、筑紫の最南に「山門県」のあること、またこの地が神功皇后によって征服されたと記されている点等に、“邪馬台国が大和朝廷に征服され、支配された”ことに対する、一種の示唆をえられたようである。「その物語の事実性はしばらくおこう」という慎重ないいまわしながら、論の帰趨(きすう)は右のごとくだ。
これに対して上田氏は、小林行雄氏による三角縁神獣鏡と鍬形石(くわがたいし)の分布図を強力な武器とされた。みずから(上田氏)作製された県・県主分布図と右の小林氏の作られた「西方型鏡群及び鍬形石分布図」とが一致する、と主張し、この点から先の「三世紀の卑弥呼の段階より・・・・推考される」という鮮明な帰結へと向われたのである。その論述は次のようだ。
「邪馬台国の段階から西日本のクニと倭政権の間にはある種の統属関係があったが、その場合でも在地の官は特種のものを除いて在地首長がなっていた。それらのクニの首長が県主としてまず編成される。これがいわゆる畿内の県(第1次的ママ)なものに対する第2次的な県に他ならない。前に詳述した北九州諸地方の県主をめぐる関係伝承の諸特徴は、このことにもとづくと思われる」
同じく「国県制」といっても、九州説の井上氏と近畿説の上田氏と、その出発点(三世紀)に対する認識を異にする。ここに「邪馬台国」問題についての、東大(九州説)対、京大(近畿説)の対立図式がそのまま日本の国家成立論争、行政制度発展論争に刻印された、その様相がハッキリと認められるのである。
以上が両氏の説の大観だ。細部について幾多の論点が残されているけれども、その大約は右のようである。これに対して今わたしの、熟読して不審とせざるをえぬところ、それは両氏の差異点には非(あら)ず、「共通の、自明の土俵」とされたところにある。なぜか。
先ず井上氏の依拠された「県」の文献上の分布表をしめそう。
畿 内  倭 菟田(又菟田下 神武紀)葛※城(推古紀)春日(綏靖紀)磯城(綏靖記・同紀・安寧紀・懿徳紀、孝昭紀・孝安紀・孝元紀)高市(神武紀・天武紀)猛田(神武紀)層富(神武紀)十市(孝安紀)山辺(延喜式祝詞)
山代 栗隈(仁徳紀)鴨(姓氏録天平元年貢進解)
河内  河内(安閑紀)茅淳(崇神紀・雄略紀)三野(清寧紀・延喜式神名帳)志貴(安康紀・延喜式神名帳)三島(安閑紀)猪名(仁徳紀)紺口(姓氏録)
東海道 伊勢 度逢(神功紀)佐那(神代記・開化記・儀式帳)川俣(儀式帳・続日本後紀)安濃(儀式帳)壱志(儀式帳)飯高(儀式帳)
    尾張 年魚市(万葉集)
東山道 近淡海 犬上(姓氏録)
    牟義郡 鴨(延喜式神名帳、大宝二年戸籍)
山陰道 (不明) 丹※波(開化記)
北陸道 三国 坂井(釈日本紀述義九上宮記)
山陽道 吉備 上道(応神紀)三野(応神紀)織部(応神紀)磐梨(姓氏録)川嶋(応神紀)苑(応神紀)波区芸(応神紀)仲※県(三代実録)
    周防 沙麼*(神功紀)
南海道 讃岐 小屋(日本霊異記)
西海道 筑紫 儺(仲哀紀)伊覩(仲哀記・神功紀)崗(仲哀紀)水沼(景行紀)山門(神功紀)八女(景行紀)上妻(公望私所引筑後国風土記)松浦(景行紀・神功紀)嶺(雄略紀)
     豊 長狭(景行紀)直入(景行紀)上膳(公望私所引筑後国風土記)
     火 高来(景行紀)八代(景行紀)熊(景行紀)佐嘉(肥前風土記)
    日向 諸(景行紀)子湯(景行紀)
(不明)対馬(又は上・下に分つ 神代紀・顕宗紀)壱岐(顕宗紀)加士伎(正倉院文書)曾(正倉院文書)
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD
  「県の分布表」井上光貞「国造制の成立」史学雑誌 第60編第11号、昭26・11月
ここで注目すべきもの、それは“「県」の量”だ。ベスト四をあげれぼ、左のようである。
第一位 ーー 西海道 二十二例
第二位 ーー 畿 内 十八 例
第三位 ーー 山陽道 九 例
第四位 ーー 東海道 七 例
これに対して上田氏も「県・県主名を記すもの」として、左の表をあげておられる。
県・県主名を記すもの
畿 内 倭 =菟田(神武紀)春日(綏靖紀)猛田(神武紀)層富(神武記・正税帳・続日本紀・三代実録)山辺(続日本紀・神名帳・三代実録)十市(孝霊記・同紀・正税帳・神名帳・三代実録)高市(神代記・天武紀・神名帳・式祝詞・三代実録)磯城(綏靖記・懿徳紀・神武紀・綏靖紀・安寧紀・懿徳紀・孝昭紀・孝安紀・孝元記・天武紀・正税帳・三代実録)葛城(推古紀・神明ママ帳・式祝詞・三代実録)
    山代=鴨(続日本紀・貢進解・姓氏録)栗隈(仁徳紀)
    河内=茅淳(崇神紀・雄略記・続日本紀・霊異記・三代実録)河内(安閑紀・姓氏録)三野(清寧紀・神名帳)志貴(雄略紀・神名帳・姓氏録・三代実録)猪名(仁徳紀)紺口(姓氏録)
    摂津=三島(安閑紀・続日本紀・正税帳)
東海道 伊勢=川俣(儀式帳・続日本後紀)安濃(同上)壱志(同上、続日本紀)飯高(儀式帳・続日本記ママ)雲逢(神切ママ紀)佐那(神代記・開化記、儀式帳)
    尾張=年魚市(万葉集)丹羽(続日本後紀・神名帳)
東山道 近江=犬上(姓氏録)
    美濃=鴨(大宝戸籍・神名帳)
山陰道 ー 丹波=丹波(開化記)
北陸道 ー 三国=坂井(釈日本紀述義・上宮記)
山陽道 ー 吉備=川嶋(応神紀)上道(同上)織部(同上)三野(同上)織部(同上)苑(同上)波区芸(同上)仲(三代実録)磐梨(姓氏録)
     周防=沙麼*(神功紀)
南海道 ー 讃岐=小屋(霊異記)
西海道 ー 筑紫=儺(仲哀紀)伊覩(仲哀紀・神功紀・筑前国風土記・筑紫国風土記)崗(仲哀紀・筑前国風土記)八女(景行紀)山門(神功紀)水沼(景行紀)上妻(筑後国風土記)嶺(雄略紀)松浦(景行紀・神功紀・万葉集)
     火 =高来(景行記)八代(同上)熊(同上)佐嘉(肥前国風土記)閼宗(筑紫国風土記)
     豊 =直入(景行紀)長峡(同上)上膳(筑後国風土記)
    日向=諸(景行紀)子湯(同上)
    薩摩=曾(正税帳)加土伎(同上)
    対馬=対馬(神代記・顕宗紀)
    壱岐=壱岐(顕宗紀)
その他 ー 常陸 =茨蕀(常陸国風土記)新治(同上) = (但し郡と混用のもの)
上田正昭「国県制の実態とその本質」歴史学研究No.230 一九五九・六
ここでも
  第一位 ーー 西海道・・・二十三例
  第二位 ーー 畿 内・・・十八例
  第三位 ーー 山陽道・・・十 例
  第四位 ーー 東海道・・・八 例
となっていて、大異はない。
そこでわたしの問い。それは“「県」が近畿天皇家下の行政制度であったとしたら、なぜ畿内が「県の最多密集地」でないのか”という一点だ。この表を外国の学者に見せた、としよう。“先入見をもたない学者”という意味だ。誰人かあって、この表から“「県」は近畿の権力を原点とする行政制度”という帰結を実証的に、帰納的に引き出せるだろうか。到底引き出せはしない。
井上・上田両氏が、論の他の(「邪馬台国」の位置論のごとき)対立点にもかかわらず、右のように権力中枢としての“近畿原点”説を共同して信じえたのはなぜか。明らかに“この表がかかげられているにもかかわらず、この表からではなかった”のである。すなわち両氏の“脳裏”にあらかじめ一定の先入見、すなわち「近畿天皇家のみが日本列島における唯一の統一権力でありえた」という命題があり、その“観念”から、右の表を“使って”説明を加えつづけてゆかれたのであった。
たとえば上田氏の場合。小林氏の分布図では、当然ながら(山城やましろの椿井大塚山つばいおおつかやま古墳出土鏡などによって)近畿が三角縁神獣鏡の圧倒的な出土量をしめし、その原点たるべき形をしめしている。ところが、先の「県・県主名を記すもの」の表では“近畿より九州の方が多い”のであって、肝心の中心点が一致していないのである。
また三角縁神獣鏡は壱岐(いき)・対馬(つしま)には出土しないが、県・県主の方は先の表のしめす通りだ。現在ですら「上県郡・下県郡」の名で対馬は呼ばれている。ここでも一致しない。
また小林氏の三角縁神獣鏡分布図中、一方の西方型鏡群のみが比較対象とされ、他方の東方型鏡群の分布図は、なぜ「『延喜式えんぎしき』までの古文献に見える、県乃至(ないし)県主の実態」との対応が説かれないのか、不明である。
さらに「県及び県主群」の場合、九州でも“東南岸(日向)・南岸(薩摩)・西岸(肥後)より筑後・末松盧(まつろ)にかけて”によく分布しているのに対し、三角縁神獣鏡はこれに一致しない。むしろ東北部(豊前ぶぜん・豊後ぶんご)・北部(博多湾岸)等に出土しているのである。この点に対し、上田氏は「県制が九州南部にみられるのは、その後更に南征してゆく過程で拡大したものである」と解説しておられるけれども、三角縁神獣鏡の分布図は四〜六世紀のすべてにわたって出土した全時代の分布図であるから、右のような氏の解説は、遺憾ながら“不当の遁辞とんじ”にすぎないといわねばならぬようである。
当時「歴史学研究」の誌上に発表された上田論文、それは昭和三十四年という時点では、小林氏の考古学上の「定説」的理論との対応を説く点においても、新しき古代史学の旗手と見えていた。しかしながら今その論点を実証的に再検証すると、失礼ながら意外にも論証上の問題点が目立つのをいかんともしがたいようである。
この点、批判せられた側の井上論文においても例外ではない。“書紀の景行・神功等の説話に出現する「〜県」が倭人伝の「三十国」の地名と対応する”という点に鋭く着眼された。ところが、「最初の筑後山門郷論者星野恒博士がはじめて論及したタブラツヒメの物語のごときも(神功紀)、なんらの顧慮にも値いしないとは思わない」というように「物語」の一語に傍点(傍点は井上光貞氏。インターネット上は赤色表示)を付して、“説話・即史実”の立場ではないことをほのめかしながらも、結局“大和朝廷の北九州支配”という史実の大筋を読み取ってゆく、という手法、これはクールな目で見つめれば、“「大和朝廷の統一」という第一前提にあわせて、説話を取捨する手法”、そういえば過言であろうか。そのさい“「県」をしめす史料が近畿より九州に多い”という基本の史料事実からは“目をそらして”しまうこととなっている。ましてその“「県」史料を多量にふくむ景行・神功・仲哀等の説話自身に対する史料批判”、いいかえれば“当史料の原初性格への厳格な批判”という、その一点を欠如していること、これが両氏の研究の根本の欠陥といわざるをえぬ。
思えば両氏とも、戦前の皇国史観の横溢(おういつ)する時代に教養の基礎を形成された。そして戦後、それを否定するかに見えた津田史学をもって研究思想の基礎におかれたものと思われる。しかしながら一面では記・紀の神話・説話に対する容赦ない批判と見えた津田史学の中に、戦後津田左右吉氏自身によって明らかにされたように、天皇家中心主義思想が牢固として核心に存在した。その事実をわたしたちは疑うことができない(津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」 ー 「世界」昭和二十一年四月号、参照)。そして井上・上田両氏とこれを継いだ戦後史学もまた、そのような津田史学の「核心」を固守して現在に至っていたのであった。
しかしながら、そのような研究史上の迂路(うろ)も、すでに終りの帳(とばり)があがるべきときが近づいた。不遜(ふそん)ながらわたしにはそう思われる。なぜなら、昨日は、両氏とも記・紀に現われた「九州最多をしめす、県・県主の分布」に対し、純粋に実証的、かつ帰納的に処理することができなかった。同時に、今日は、B型の「郡風土記」に先立つ、A型の「県風土記」なるものが、奇(く)しくも九州にのみ先在するという史実、その史料事実に対し、井上通泰氏より坂本太郎、秋本吉郎、田中卓氏等に至るまで、いずれも的碓な解決を与えられえなかった。なぜか。
他に理由はない。“近幾天皇家一元主義”の旧見にとらわれ、“近畿天皇家に先在した九州王朝の実在”。この根本テーマを欠如していたからである。  
3

 

最後にA型の「県風土記」のすべてを左にしめそう(ぺージ数は岩波古典文学大系による)。
(一)塢舸水門(おかのみなと 筑前国)
「風土記に云はく、塢舸の県。県の東の側近、大江口有り、名づけて塢舸水門と曰う。大舶(おおふね)を容(い)るるに堪えたり。彼より島・鳥旗(とはた)の澳(うみのくま)に通う。名づけて岫門(くきど)と曰う。鳥旗は、等波多(とはた)なり。岫門は久妓等(くきど)なり。小船を容るるに堪えたり。海中、両小島有り。其の一は河[白斗](かご)島と曰い、島に支子(くちなし)を生ず。海に鮑魚(あわび)を出(いだ)す。其の一は資波(しば)島と曰う。資波は紫摩(しば)なり。両島倶(とも)に烏葛(つづら)・冬菖*(薑 ハジカミか)を生ず。烏葛は黒葛(つづら)なり。冬菖*は迂菜なり」
(『万葉集註釈』巻第五、五〇一ページ)
菖*は、草冠に苗*。苗*は、JIS第4水準ユニコード7550 表示できない。
(二)杵島山(きしまのやま 肥前国)
「杵島の県。県の南、二里、一孤山有り。坤(ひつじさる)より艮(うしとら)を指して三峰相連なる、是れ名づけて杵島と曰う。坤は比古(ひこ)神と曰ひ、中は比売(ひめ)神と曰ひ、艮は御子(みこ)神と曰う。一に軍(いくさ)神と名づく。動けば則ち兵興(おこ)る。郷閭(きょうりょ)の士女、酒を提(たづ)さえ、琴を抱き、毎歳春秋、携手(けいしゅ)して登望し、楽飲歌舞し、曲尽きて帰る。歌詞に云う、
あられふる 杵島が岳(たけ)を 峻(さか)しみと 草採りかねて 妹が手を採る。是は杵島曲(きしまぶり)」
(『万葉集註釈』巻第三、五一五ぺージ。読解は、漢文体の文形を、重視した。)
(三)閼宗岳(あそのたけ 肥後国)
「筑紫の風土記に曰く、肥後の国閼宗の県。県の坤、廾余里に一禿山(とくざん)有り。閼宗岳と曰う。頂に霊沼有り、石壁、垣を為す。計るに縦五十丈、横百丈なる可し。深さは、或は廾丈、或は十五丈。清潭百尋(せいたんひゃくじん)、白緑(びゃくろく)を鋪(し)きて質(そこ)と為す。彩浪五色、黄金を[糸亙](は)えて以て間を分つ。天下の霊奇、[玄玄](こ)の華に出づ。時々水満ち、南より溢流(いつりゅう)して白川に入る。衆魚酔死し、土人苦水と号す。
其の岳の勢為(た)るや、中天にして傑峙(けつじ)し、四県を包(か)ねて基を開く。石に触れ雲に興(おこ)し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫(うか)べて水を分つ、寔(これ)に群川の巨源。大徳魏々(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形沓々(とうとう)、伊(これ)天下之無双。地心に居在す。故に中岳と曰う。所謂閼宗神宮、是なり
(『釈日本紀』巻十、五一七〜五一八ぺージ)
[糸亙](は)は、第四水準ユニコード7D5A
(四)水嶋(みずしま 肥後国)
「風土記に云う、球磨(くま)の県。県の乾(いぬい)、七里、海中に嶋有り。積、七十里なる可し。名づけて水嶋と日う。嶋に寒水を出(いだ)す。潮に逐(したが)ひて高下すと、云々」
(『万葉集註釈』巻第三、五一九ページ)
(五)芋眉*野(うみの 筑前国)
「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の県(あがた)。子饗(こふ)の原。石両顆(りょうか)あり。一は片長一尺二寸、周は一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸なり。色白くして[革更](かた)く、円きこと磨成せるが如し。俗伝えて云う、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)、新羅を伐(う)たんと欲し、軍を閲するの際、懐娠(かいしん)漸(ようや)く動く。時に両石を取りて裙腰(もこし)に挿(さ)し著(つ)け、遂に新羅を襲う。凱旋の日、芋眉*野に至り、太子誕生す。此の因縁有りて芋眉*野と曰う。産を謂いて芋眉*と為すは、風俗の言詞のみ。俗間の婦人、忽然(こつぜん)として娠動(しんどう)すれば、裙腰(くんよう)、石を挿(さしはさ)み、厭(まじな)ひて時を延(の)べしむ。蓋(けだ)し此に由(よ)るか」
(『釈日本紀』巻十二、五〇〇ページ)
[革更](かた)は、JIS第3水準ユニコード9795
眉*は、三水偏に眉。36E44
(六)磐井君(いわみのきみ 筑後国)四十
「筑後国風土記に曰く、上妻(かむつま)県。県南、二里。筑紫君、磐井の墓墳(ぼふん)有り。高七丈、周六十丈、墓田、南北各六十丈、東西各冊(表示は四十)丈。石人・石盾、各六十枚。交陣、行を成して四面を周匝(しゅうそう)す。東北の角に当りて一別区有り。号して衙頭(がとう)と曰う。衙頭は政所(せいしょ)なり。其の中に一石人有り。縦容(しょうよう)として地に立つ。号して解部(ときべ)と曰う。前に一人有り。[身果]形(らけい)にして地に伏す。号して偸人(とうじん)と曰う。生けりしとき、猪を偸(ぬす)むを為す。仍りて罪を決するに擬す。側に、石猪四頭有り。臓物(ぞうぶつ)と号す。臓物は盗物なり。彼の処(ところ)も亦(また)、石馬三疋(びき)・石殿三間・石蔵二間有り。
古老伝えて云う、雄大迩(おほど)の天皇の世に当り、筑志の君磐井。豪強暴虐、皇風に偃(したが)わず。生平の時、預(あらかじ)め、此の墓を造る。俄(にわ)かにして官軍動発し、襲わんと欲するの間、勢の勝たざるを知り、独り自(みずか)ら豊前の国、上膳(かみつけ)の県に遁(のが)れて、南山峻嶺の曲(くま)に終る。是(ここ)に於(おい)て官軍追尋して蹤(あと)を失い、士、怒り未(いま)だ泄(や)まず、石人の手を撃(う)ち折り、石馬の頭を打ち堕(お)としき。
古老伝えて云う、上妻の県、多くは篤疾有りき、と。蓋(けだ)し[玄玄](これ)に由(よ)るか」
(『釈日本紀』巻十三、五〇七〜五〇八ページ)
(七)[巾皮]揺岑(ひれふりのみね 肥前国)
「肥前の風土記に云う、松浦の県。県の東、三十里、[巾皮]揺岑有り[巾皮]揺は比礼府離なり。最頂に沼有り。計るに半町なる可し。俗伝えて云う。昔は、桧前(ひのくまの)天皇の世、大伴の紗手比古(さでひこ)を遣わし、任那(みまな)国を鎮(しづ)む。時に命を奉じて此の墟(おか)を経過す。是に於て篠原(しのはら)村 篠は資濃(しの)なり。に娘子(おとめ)有り。名づけて乙等比売(おとひめ)と曰う。容貌(ようぼう)端正にして孤(ひと)り国色為(た)りき。紗手比古、便(すなわ)ち娉(よば)ひて婚を成す。離別の日、乙等比売、此の峯に登望し、[巾皮](ひれ)を挙げて揺招(ようしょう)す。因りて以て名と為す」
(『万葉集註釈』巻四、五一六べージ。文字、『万葉緯まんようい』による)
[巾皮]は、JIS第3水準ユニコード5E14
(八)御津柏(みつのかしわ 不明)
「筑紫風土記に曰く、寄柏は御津柏なり」(『釈日本紀』巻十二、五二八ページ)
(九)木綿(不明)「アサヲバナガユフ(長木綿)ト云フ。ナガキガユヱ也。マヲ(真苧)ヲバミジカユフ(短木綿)トイフ。筑紫風土記ニ、長木綿・短木綿トイヘルハコレ也」(『万葉集註釈』巻第二、五二九ぺージ)
右の「A型の風土記」は「九州王朝で作られた風土記」を原型としている。その純粋な形をとどめているものが、(一)(二)(三)(四)の四者である(第一式)。
これに対し、「九州王朝で作られた風土記」に対して後代(近畿天皇家側)の手が加わっているものが(五)(六)(七)の三者である(第二式)。
また(八)(九)は、断片のため、「県」の表記は出ていないけれども、『筑紫風土記』なる一書の存在したことをしめす史料である(第三式)。
今、第二式について吟味を加えよう。
先ず、(五)は先に対照したように、もう一つの同類の別形がB型の「郡風土記」に存在するから、木来A型の風土記に属したことは当然であるが、近畿天皇家側の人物(息長足比売命)が出現しているから、これを第二式に入れる。(「太子」の用語等が、後代の手として、問題となるかもしれぬ。ただ彼女が九州王朝側の文献に出現すること自体は何ら不思議ではない。「神功皇后架空説」という津田史学の命題は不当である。神功説話も、『古事記』の形が原形、『日本書紀』の形が改作形である。この点、『盗まれた神話』にのべた。他の点は機を改めて詳述する。なおこの(五)の説話は前者〈原形〉と対応しうる)。
(五)末の訓読上の間題点にふれておきたい。岩波古典文学大系本では、
「俗間(よ)の婦人(おみな)、忽然(たちまち)に娠動(はらのうご)けば、裙(も)の腰(こし)に、石を挿(さしはさ)み、厭(まじな)ひて時を延(の)べしむるは、蓋(けだ)しくは此(これ)に由(よ)るか」
と読んでいる。この読みでは、“現在の俗間の女性たちが、裙の腰に石を挿さむのは、神功の故事を模倣したもの”の意となる。
けれども、原文は、
「俗間婦人 忽然娠動 裙腰挿石 厭令延時 蓋由此乎」
であるから、そのすなおな読みは、先記のようであろう。この場合は、“神功の所為といわれているものは、実は糸島地方の俗間の婦人の習慣に従ったものなのだ”の意となろう。文法的には「此に由る」の「此」が何をさすか、であり、直前の「俗間の婦人・・・・厭ひて時を延べしむ」をさすと見なす方が自然であろう。
ここにも“現地(糸島)習俗中心”の原文を“近畿(神功)中心主義”の目で読み変えてきた姿が見られる。
次に、後代加削の手がもっとも明瞭に現われているのが(六)である。すでに『失われた九州王朝』でのべたように、この文章全体は磐井の君に対してきわめて“同情的”である。「独り自ら・・・・南山峻嶺の曲(くま)に終る」とのべ、「石井を殺すなり」(『古事記』)・「遂に磐井を斬(き)り、果して彊場(きょうえき)を定む」(『日本書紀』)といった“斬殺ざんさつ”の記載を“避けて”いる。逆に「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕(おと)おとしき」という表現には、近畿側の“暴虐”ぶりが生き生きと活写されている。
ところが、その中に突如「雄大迩の天皇の世に当り、・・・・皇風に偃(したが)はず」という一文が唐突に挿入されている。ここでは、右のトーン(文調)とはうって変り、“大義名分上、磐井は暴虐だ”とする。「皇風」というイデオロギーに立つ、公的な“PR”が強調されているのである。このような相矛盾した方向をもつ二文が、同一の筆者の手で書き連ねられることは、解しがたい。すなわち、本来筑紫側の視点に立って書かれていた文面に、後代、近畿天皇家側官僚の「改作の手」が加わったもの、わたしはそのように解したのである。
このときは、わたしはまだ到達していなかった、このような変調の真の原因が何であるかに。ただ文章そのものの伝えてくるニュアンスから、右のように解しただけであった。ところが果然、右の分析が偶然でなかったのを知ったのである。すなわち「九州王朝側の手で作られた風土記」に対し、後代、近畿天皇家側の改竄(かいざん)」の手が加えられた、これは露骨な証拠史料だったのである。
またこのさい(六)の「雄大迩の天皇の世に当り」という一句のもつ意義に注意しておきたい。これは当然ながら、近畿天皇家側の方式による“絶対年代のしめし方”である。この点、次の(七)の例の場介は、いわばこのような“絶対年代のしめし方”のみが単独に挿入された例、いわばこの形式の“純粋例”である。なぜなら(六)の場合は、当然、以下の磐井の君の説話に「雄大迩の天皇」が実質的に関係している。しかし、一般に(七)のような場合、説話自体に“近畿天皇家の実質的な影響”があるとは限らないのである。これを現代の例でのべよう。
「白村江の戦は六六三年に行われた」
という一文があった、とする。この「六六三」とは、西暦だ。つまりイエスが生れた時点を紀元としたキリストキリスト暦である。けれども、別段東アジアの白村江の戦に対して、キリスト教もイエスも、何一つ実質的な関係をもっているわけではない。ただ「純対年代のしめし方」にすぎない。これと同じだ。
右の(七)の文は、そのような「絶対年代」を“近畿天皇家の手”でしめしたものである。これを“「大伴の紗手比古」の派遣者が近畿天皇家であることをしめす史料“”と、断じてはならないのである。
この点、風土記全般(B型をふくめ)を解明する上で、重要な手がかりの一つであるけれども、今はこれ以上立ち入らない。ともあれ、(七)は単純な(それゆえ純粋な)例であるけれども、これもまた「後代の手」の加わった事例の一つである。
以上、九例。出現史料は決して多いとはいえないけれども、近畿天皇家によるB型風土記に先在した「九州王朝の風土記」、その存在をしめす、いずれも貴重な史料群である。
「二つの風土記」問題の掉尾(とうび)、それは「『日本書紀』の作者の目」である。
「二つの風土記」 ーーこれは、一見“斬新ざんしんな”テーマと見えるかもしれぬ。しかし実は“『日本書紀』の著者自身がこの立場に立っていた”といったら、読者は意外に思われるであろうか。
実は履中紀に次の記事がある。
「(履中四年)始之於二諸国一置二国史一、記二言事一達二四方志一」(始めて諸国に於て国史を置き、言事を記して四方の志を達す)
この記事の構文の基礎は中国の古典にある。
A「周礼、有二史官一。掌二邦国四方之事一。達二西方之志一。諸侯亦各有二国史一」(周礼、史官有り。邦国の四方の事を掌り、四方の志を達せしむ。諸侯亦、各国史有り(杜預とよ『春秋左氏伝序しゅじゅうさしでん じょ』)
B「諸国皆有レ吏。以記レ事」(諸国皆、史有り。以て事記す)(『史記正義しきせいぎ』周本紀)
C「左史記レ言、右史記レ事」(左史、言を記し、右史、事を記す)(『漢書』芸文志)
これらの典拠はすでに岩波古典大系本『日本書紀』上(六三一ページ 補注一〇)にしるされている。その上で次の解説が見られる。
先ず、「国司」は、「諸国に置かれた記録をあつかう官、すなわち書記官の意」とのべたのち、
「ふつうこの記事は、五世紀において政治上に記録の法が利用されはじめたことを示すものとされるが、津田左右吉(つだそうきち)は、『国』という地方行政区画が画一的に定められた、大化改新以後に考えられたもので、書紀が履中紀にこの記事をあてはめたのは、応神朝に文字の伝来を記したことによるとする。なおこの記事をもって風土記の如きものを上進せしめたあと解する説が、平田篤胤(ひらたあつたね)の古史徴解題記(こちょうかいだいき)、標註・通釈などにみえるが、史官の職掌を説明した『達二四方志一』という中国典籍によった文字に拘泥したもので、正しい解釈とはいえない」(『日本書紀』上、六三ぺージ、補註一〇)
とのべられている。つまりこの記事は、“後代(大化改新以後)の造作”であって、史実とは関係がない、という津田史学の立場である。この岩波本は、井上光貞氏が「全体の総括的な整理統一」を行っておられるのであるから、戦後古代史学の“正統的な定説”によって解説されている、といってよいであろう。
以上のような立場から、この記事は風土記成立論上、“無視”されることとなった。ために高校の教科書の資料集などにも、一切姿を現わさない。これに代って先にあげた「和銅わどう六年(七一三)の詔」(『続日本紀』元明げんめい天皇)の、
「畿内七道の諸国の郡郷の名は好字を著けよ。其の郡内に生ずる所の・・・・亦宜しく言上すべし」
の記事(先出)が、もっぱら風土記成立の基本史料、とされるに至ったのである。
けれども今、目を“書紀の著者の立場”につけ、じっと見つめてみよう。そうすると、少なくとも書紀の著者は、“二つの風土記”の立場を主張していることがわかるであろう。なぜなら養老四年(七二〇)に成立した書紀の著者にとって、七年前の風土記撰進の詔は、自明の事実であった。それは著者にとってだけではない。書紀の読者(近畿を中心とするインテリ)にとってもまた、自明の事実であった。なぜなら“目下、その詔にもとづいて、各地で「B型の郡風土記」作製作業、もしくはその前段階をなす準備作業の真最中”だったからである。
このような現在(八世紀初葉)時点の視野に立って、書紀の履中紀の「始之(始めて)・・・・」の一文を解さねばならぬ。ここで著者がいおうとしているのは、“今作っている風土記は「始めて」ではない、二回目だ。「始めて」の方は、「履中天皇の治世」だった”という事実なのである。つまり“昔より今まで、風土記撰進のことは二回あった”という主張がなされていること、それをわたしたちは疑うことができない。いいかえれば、“現在進行中の「B型の郡風土記」の前に、すでに「古式の風土記」が存在していた”ということを“既明の事実”と見なした上で、その年代を“履中四年にあてた” ーーそれが書紀の仕事の意味なのである。
これに反し、右のような「古式の風土記」の存在が一切空無であり、当代(八世紀初葉)の読者の脳裏にも、全く存在しないものであったならば、右の記事自体が無意味となろう。少なくとも、“しかしながら、それはかくかくのとき焼亡して消失した”という類の記事が必要となろう。たとえば、
「皇極(きょうごく)四年、六四五、六月)蘇我臣蝦夷(そがのおみえにし)等、誅(ちゅう)に臨み、悉(ことごと)く天皇記・国記、珍宝を焼く船史恵尺(ふねのふひとえさか)、即ち疾(と)く焼かるる国記を取りて中大兄(なかのおおえ)に奉献す」(皇極紀)
の「天皇記」焼失記事を見ても、容易に察しうるところであろう。ところが、そのような消失記事は一切ない。ということは、やはり、右のような“現在作製(準備)中のB型風土記”に先行する「古式風土記の存在」は、書紀の編者と読者との間の、共同の了解事項であった。そのように考えるほかないのである。
ことの道理は、右のようだ。そして現実に、わたしたちの眼前に「B型の郡風土記」に先行する、「A型の県風土記」が存在するのをわたしたちは知っているのである。
これに対し、平田篤胤や秋本吉郎氏(岩波本『風土記』解説)のように、これを“近畿天皇家がA型の県風土記を撰集せしめた”証拠史料と見なすことができるであろうか。 ーー否。
なぜなら、もしそうであったなら、「A型の県風土記」は全国各地に存在しなければならない。少なくとも近畿や瀬戸内海になくて、いきなり“九州だけ”というのでは、近畿天皇家を原点とする限り、およそ“恰好(かっこう)がつかない”ではないか。そこで津田氏が行ったように、一刀両断、この記事を「造作」視して消し去って“サッパリ”する方か早かったのてある。 ーーそしてその結果、研究史上の現況のしめすように、「A型の県風土記」の素性は“宙に浮いて”しまうこととなったのである。
以上のような混線の原因、それはもはや明らかであろう。なぜなら、この履中四年の記事もまた、『古事記』(履中記)には全く姿を見せないからである。
これは「景行の九州大遠征」などに比べれば、微々たる一節であるかに、あるいは見えるかもしれぬ。しかし実はさに非ず、なぜかといえば、これは“天皇家が各国に史官をおき、記録を行わしめた”という、歴史上重大な記載だ。景行の九州大遠征が“武の一大壮挙”であれば、こちらは疑いもなく“文の一大壮挙”である。これがあるのとないのとでは、えらいちがいだ。
では、どちらが原型で、どちらが後代の加削型か。この問いに対するわたしの答えは、先の公理に立つ限り、一点の疑いの余地もない。ない方の『古事記』が原型、ある方の書紀が「後代の加削型」である。
では、書紀はどこからもってきて挿入したか。これも先述来の論証のしめすところ、他にはない。ーー九州王朝の史書(「日本旧記」)からである(『盗まれた神話』参照)。
書紀の著者の手法は、“自由に脳裏で説話を空想し、創作する”そういった「手口」ではなかった。他から“盗とって”きて、挿入する、そういうやり方だったのである。「景行の九州大遠征」譚のしめすように、たとえそれが「木に竹をついだ」ように見えるときにおいても、“矛盾に対して、空想のセメントでぶ厚く逢合する”そのようなやり口は必ずしもしめされていないのである。
こうした、先例をなす手法から見ると、やはり右の帰結しかない。
ここでかえりみるべき一つの徴証がある。それは最初に風土記の研究史をのべたさい、「A型の県風土記」について、諸家しきりに、
「文章の全体に於いて支那風の文飾の多いこと ーー多少時代か古くとも、有能な官吏を擁した大宰府にこれだけの漢文のできる人がゐなかつたとは考へられぬ」(坂本太郎氏)
「大宰府において、漢学に熟達せる人物の手によつて撰進せられたものであらう」(田中卓氏)
といっていた。和文調のB型に対して、たしかにA型は、いちじるしく漢語調なのである。いやむしろ“格調高い漢文”といっても過言ではない。たとえば、あの阿蘇山の文でも、
清潭百尋 鋪二白緑一而為レ質
彩浪五色 [糸亙]二黄金一以分レ間
天下霊奇 出二[玄玄]華一矣。
[糸亙](は)は、第四水準ユニコード7D5A。
といった風に、典雅厳正の構文を形造っているのである。
さて今、風土記撰進の「二つの構文」を比べてみよう。「B型の郡風土記」の成立の発端をなした和銅六年の詔が、まさに和文調。むしろ“和文を漢文風の配置に手直ししただけ”といった文脈であるのに対して、問題の履中四年の風土記撰進の文は、先にしめしたように、まさに中国古典を背景にした典雅厳正の構文であるのを見出すであろう。
思い出してほしい。倭王武の上表文がいかに見事な構文でつづられていたかを。先述来の論証のしめすごとく、あの倭王武は五世紀末から六世紀初頭にかけての九州王朝の主であった。とすれば、それを継ぐ時期において(後述)、このような典雅にして格調高い文脈が構成される、それは決して不思議とすべきことではなかったのである。
履中四年の記事を一刀両断に消し去って足れりとしてきた、「定説」派の戦後史学、それはあまりにも強引だった。今後は、より緻密(ちみつ)な史料批判が必要だ。もっとソフトな、そして条理正しい処理の方法をもって問題の史料を分析する、そのような歴史学の研究法によって交替されねばならぬ、すでにそのような日々が近づいているのではあるまいか。
最後の問いを立てよう。
“では、「A型の県風土記」はいつ作られたか”と。この問いに答えることはむずかしい。けれども全く扉が開かれていないわけではない。 第一に明瞭なこと、それは磐井の滅亡(五三一、『失われた九州王朝』第四章I 参照)以後であることだ。これは「A型の県風土記」の史料(六)から見て疑いない。
第二は、書紀の「履中四年」がなぜえらばれたか、という点だ。津田左右吉は“「応神期の文字伝来」以後“”という点に、その理由を求めたが、それではなぜ、仁徳期に非ず、また「履中元年」などに非ず、この「履中四年」にあてたか、この問いには答えることができない。
この場合、ポイントは「干支」である。“「原史料の干支」をもとにして、ここ(履中四年)にあてはめた”というケースだ。この“干支によるズレ”問題は、神功紀の七枝刀(しちしとう)問題などですでに研究史上著名である。
履中四年(四〇三)の干支は「癸卯みずのとう」だ。その後の「癸卯」を列記してみよう。
下表の中で、(A)グループは、右の第一の理由で、当然駄目だ。また「九州王朝の風土記」という視点からは、(C)グループも不可である(それにここは、『続日本紀』の対象時代である)。
「履中四年」(癸卯)干支のズレ(候補)
    近畿天皇名
(A) ーー 463 (履中)
(A) ーー 523 (継体)
(B) ーー 583(敏達)
(B) ーー 643(皇極)
(C) ーー 703(文武)  以下略
従って問題は(B)グループに限られてくる。その中でわたしには「五八三」の方が有力であると思われる。なぜなら「A型の県風土記」史料(六)において、
(一) 「官軍によって「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕された」にもかかわらず、その原形状(石人石盾各六十枚、交陣成レ列」等)が冒頭に整然と記されていること。
(二) また古老が「上妻県、多有二篤疾一」(「上妻県、多く篤疾有りき」。この読みについては『失われた九州王朝』第四章I 参照)と伝えていると書かれているが、これは磐井の敗死後、いまだその敗戦による傷書をうけた人々の一部が生存している状況下においてこそふさわしい。
右の「五八三」の場合、磐井の敗戦から“約五十年あと”にすぎず、当時の若者(二十代前後)の中には“片腕が折れたり、両脚がもがれたりした”まま、なお生存している者もいたはずである。またかつて(五三一頃)少年や少女だった者は、当時(五八三)六十歳前後であるから、自己の見聞として磐井の敗戦を語りえたはずである。
このような考察からすると、Bグループの中でも、「六四三」より「五八三」の方がよりふさわしい、といいうるであろう。
以上が「A型の県風土記」成立に関する、わたしの推定だ。しかし、ここには当然ながらいくつかの仮定要因がふくみこまれている。従ってただ一つの試算として、ここに提起しておくにとどめよう。  

A「はじめに『失われた九州王朝』を読んだだとき、何か九州王朝側で作った文献が残っていないか、と思いましたけど、まさか、あの風土記の中にそれがあるなんて、思ってもみせんでした。
古田「全くだね。わたしもかつて東北大学の日本思想史科の先輩梅沢伊勢三さんのお宅にうかがっていたとき、『九州王朝で作った文献はないもんかねえ』とくりかえし言われたことがある。『古事記』『日本書紀』の文献研究に生涯を懸けてこられた方だけに、“もし、古田のいうように、九州王朝が実在したとすれば、何かその文献上の痕跡がないはずはない”。そういう大局の見通しに立っての御注意だったと思うんだけど、まさにその通り。当の残片が図書館やわたしたちの書架にも常々あったわけだ。気がつかずにいただけでね」
A「“九州風土記に二種類ある”なんて話、今まで全く知りませんでした。それに、その成立をめぐって、ながらく論争が行われていたなんて」
古田「古代史上の問題なら、何でもひっばり出してきて話題にする、といった感じの、昨今の古代史通の一般の論者たちの中でも、なぜかこの問題はほとんどとりあげられていないからね。わたしも坂本太郎さんの『大化改新の研究』を京大の経済学部の図書室でコピーさせてもらって、その『附載三』としての『九州地方風土記補考』にふれたわけなんだ。この論文は坂本さんらしく、手堅い考証と叙述による、いい論文だった。短いけど、問題の要点を見すかすことのできる重要な手がかりを提供して下さった。お礼をいいたい。そのあと、風土記関係の資料に注意して集めてきたんだけど、昨年腰をすえて分析しはじめると、見る見る問題の本質が浮かび上ってきて、私自身驚いたくらいだよ」
A「だけど、従来の論者は、古田さんの分析を読んでも、なかなかすぐには認めないでしょうね」
古田「おそらく、そうだろうね。ただ一風土記問題について、局限された新見解を認める、そういったことにとどまるなら認めやすいだろうけど、そうじゃない。従来の日本古代史の根本の主柱、それをとりかえなきゃ、“認める”わけにはいかない問題だからね。そう、この問題のポイントは、まさにそこにあるんだ。『天皇家中心一元主義』という、従来の見地では説明し切れない史料群が現存する。この事実が問題の根源をなす史料状況だ。ところが、『九州王朝先在』説という仮説に立つとき、いとも簡単に、適切な解がえられるんだ。
つまり、ズバリいってしまえぼ、『天皇家中心一元主義』も一仮説、わたしの多元説も一仮説なんだ。そのどちらの仮説に立つとき、現存史料群に対してクリアーな解明が与えられるか、そういう問題なんだよ。
これは、科学としての歴史学という立場から見れば、あたりまえの方法だけど、“『古事記』や『日本書紀』を根本にすえて日本古代史を見る”ことを自明の立場としてきた従来の論者には、“自分たちの立場もまた一仮説にすぎぬ”この自明の道理を理解しようとしないんだよね」
A「そのへんに、従来風土記論争が活溌(かっぱつ)にならなかった背景があるんでしょうね」
古田「その通りだ。“九州にだけ、二種類の風土記がある”。これは万人の認めざるをえぬ事実そのものだ。だからこれを解くのに、近畿天皇家という権力中心一元主義の立場からではむずかしいのは、知れ切ったことだ。率直にいって、いろいろこじつけた説明をつければつけるほど、付け焼き刃ならぬ“付けりくつ”で、しらじらしくなってくるほか、しようがないものね。
だから、従来の近畿天皇家一元王朝の土俵の中では、 ーーそして全員がその土俵の中にいたわけだからーー どうやってみても、失礼なから、ふんづまりというか、八方ふさがりで、出口がなかったわけだよ。
ここに問題の本質がある。だから“そんな『九州王朝が風土記をを作っていた』なんて、変った話は認められない”とうそぶいてみても、もうもうすましうる問題ではないんだよ。こういう問題が存在することを、すでに知ってしまった、今後の万人の面前では、ね」
追記 ーー井上光貞氏は昭和五十八年二月二十七日、没せられた。氏の再批判の声聞くをえざるを悲しみ、つつしんで哀悼の意をのべさせていただきたい。
第四章 幻の筑紫舞

 

1 
電話のベルが鳴った。それはわたしに、運命のように、新たな研究の開始を告げる声となった。
昭和五十五年の初夏、五月末のことであった。その声は年配の女性。その人は次のように語った。
「わたしは姫路(ひめじ)で舞の師匠をしているものです。その舞は筑紫舞と申します。御本を読みまして、一度おうかがいしてお聞きいただきたいこと、また是非お教えいただきたいことがございますので、大変お忙しいところを、まことに申しわけないこととは重々存じておりますけれども、もしお時間がいただけましたら、舞をやっております娘たちと共にうかがわせていただきたく存じます。お許しいただけますでしょうか」
丁重な言葉づかいの中に、一種切迫した語気があった。西山村光寿斉(にしやまむらこうじゆさい)と名乗る、この方に、来月になってお会いすることをわたしは約した。
わたしの中には、年来の宿題があった。
その発起点は「四夷之楽」というテーマだった。
「〈釈〉[革是][革婁](ていろう)氏。四夷之楽と其の声歌とを掌(つかさど)る。
〈注〉四夷之楽。東方、[韋未]と曰い、南方、任と曰い、西方、侏離(しゅり)と曰い、北方、禁と曰う。
四夷の舞は、亦自ら扉*(ひかくる)有り。中国と同じからざるなり。(『周礼しゅらい』春官、[革是][革婁]氏、他)
「[韋未](昧と同じか)。東夷の楽名。礼記(らいき)、昧(まい)に作る」(『正字通せいじつう』)
[革是][革婁](ていろう)の[革是]は、革編に是。JIS第3水準、ユニコード97AE。[革婁]は、革編に婁。
扉*(ひ)は、上の一無し。
要するに“中国の天子に対して、四辺の夷蛮は各自の舞楽を献納するという習わしがあった。その中で東夷の舞楽を「靺パイ」もしくは「昧マイ(パイ)」と呼ぶ”というのである。
この「昧」は「無知蒙昧むちもうまい」などというときの「昧」だ。字面通り「日未だし」の義から「よあけ」「くらい」等の意味となるが、やがて「おろか」の意味となって「蒙昧」のような熟語を生んだ。東夷の舞楽に対してこのような「卑字」が使われたのは、『三国志』の倭人伝を知る読者なら驚くまい。「卑弥呼」「邪馬壹国」などの類、珍しからぬところである。
けれども、問題の基本は「表音」がその基礎をなしている、という一点だ。“その東夷の現地音で、舞楽のことを「バイ」もしくは「マイ」(に近似した音)というらしい、これは日本語の「舞まい」と類似する音ではないか。では”ーーそういう連鎖反応でわたしの胸はときめいた。
しかし、そこで胸を敢えて静めた。“待てよ。ここは慎重でなくては。東夷といっても数多い。倭人とは限らないのだ。その上、こんな古い段階(『周礼』)の日本語の場合でも、果して「マイ」と発音したかどうか不明だ。その上、「靺」や「昧」にも、幾つもの他の音がある。上古音でも「マイ」めいた音だったかどうか、これもまた不明だ。だから、早とちりはあぶない”。そう思って、はやる心をおしどどめたのである。
けれども、それとは別個に、次のテーマが論理的に次々と展開してきた。
第一に、“中国の天子が周辺の夷蛮から各地の舞楽の奉納を受ける”という儀礼様式が中国の朝廷内で成立していたこと。
第二に、後代、日本の近畿天皇家内の儀礼舞楽として雅楽などの一方、「隼人(はやと)舞」などが行われるのは、“中国の宮廷儀礼の模倣”と考えられること。
第三に、右のように考えてくるとき、この思惟の系列の中にわたしのかねてより提起してきた命題、「近畿天皇家に先在する九州王朝」という、あのテーマを投入してみよう。すると、九州王朝は時間的にも空問的にも“中国の朝廷と近畿天皇家との中間”に位置しているから、当然九州王朝にもまた“中国への模倣”としての宮廷舞楽が存在したもの、と考えられる。
第四に、それは“周辺の領域の舞楽を九州王朝に奉納する”という形をとっているはずである。
第五に、それは同時に九州王朝の中心たる“筑紫における舞楽”という形をとっていると思われる(天皇家の「雅楽」がながらく近畿〈大和・河内・京都等〉内に伝承されてきたように)。
第六に、もし右のような伝承がかつて存在していたとすれば、二十世紀の現在においても、それが何等かの形で維持・保存されていることは果してありえないか。もし、それがあれば、すばらしいのだけれど・・・。
このような思惟の糸が(他には言えず)わたしの中を奥深く微妙にいつも流れていた。だが、それは一面において、きわめて論理的な展開ではあっても、他面、はなはだ“かすかな”伝承の存続に敢えて期待するものだ。しかし、そうはうまくはいかないだろう。何しろ“芸能史の常識”では、現代の舞楽の類は、さかのぼれてせいぜい近世初頭か「中世」末まで。たいていは近世中葉以降のもの、そう考えるのが玄人ということになっている。そのくらいのことは、わたしにも「百も承知」のことであったのだから。
このような心理状態の中にいたわたしだったから、このとき電話の向うから、「筑紫舞」という一語が流れてきたとき、どのような“蠱惑こわく”を覚えたか、おそらく察していただけるであろう。そのような一語はまさに“初耳”だった。だったけれども、わたしがひそかに“想定”していた内実をズバリ示唆する一語だったのである。
月を越えて六月上旬、わたしは姫路の郊外にある、妻の実家で、妻と共に西山村さんとお会いすることとなった。“娘たちを連れて”といわれたから、収容人数一人か二人でいっぱいの、当時のわたしの家の書斎兼応接室では、とても、と思われたからである。
西山村光寿斉さんは五十歳代後半、わたしの姉(次女)と同年くらいの方だった。長女の光寿さん、次女の筑紫さんを連れてお出でになった。
この日の会見に臨んだ、わたしの自戒の言葉、それは“まさか、世間はそううまくゆくものではない”ーーこの一句を心裡(しんり)に強くつぶやいていた。
光寿斉さんのお話は次のようだった。
「わたしが伝えております筑紫舞の中で、一番中心になる舞に『翁(おきな)』という舞がございます。これには三人立(だち)・五人立・七人立・十三人立とございますが、わたしが師匠の菊邑検校(きくむらけんぎよう)から伝えておりますのは、七人立まででございます。それは諸国の翁が集まって諸国の舞を舞う、という形のもので、『肥後の翁』『加賀(かが)の翁』『都の翁』『難波津(なにわづ)より上りし翁』『尾張(おわり)の翁』『出雲の翁』『夷(えびす)の翁』の七人でございます。五人立ちの場合は、『肥後の翁』『加賀の翁』『都の翁』『難波津より上りし翁』『出雲の翁』の五人。三人立の場合は『肥後の翁』『加賀の翁』『都の翁』の三人です。
実は昨年(昭和五十四年)、東京(芝公園ABCホール)でこの『七人立』を演じました。ところが、その前のことだったと思いますが、東京で文化庁などの方々から聞かれました。“ここに出てくる『都』とはどこのことか。また、終始、肥後の翁(光寿斉さんの役柄)が中心になって舞が進行するのは、なぜか”と(文化庁文化財課、榎本由喜雄・高橋秀雄・田中英機氏。国立文化財研究所、三隅治雄氏。他に戸部銀作・武智鉄二氏)。
実は、これらはいずれも、わたしが少女時代ーー昭和十年代のことですがーー菊邑検校にお聞きした不審でございます。
何でも聞きたがり屋の時期でしたから、『何でですのん』と聞きましたところ、検校は『それは申せません』と言わはるのです。そこでわたしが遠慮もなく、『お師匠はんも、知らはらへんのとちがいますか』と申しますと、『いや、わたしは知っております。けれども、それは今は申せません。ですが、わたしの申した通りに、一つもちがえずにそのまま覚えて、そのまま伝えて下さい。そうしたら、将来、必ずその真実を解き明かす人が現われます。ですから、必ず一つもたがえずに伝えて下さい』。そう言われたのでございます。何かその口調に押されて、それ以上わたしには問いかえすことができませんでした。
また肥後の翁の件も、わたしが『お師匠はんが肥後の人やから、肥後の翁を中心にしやはったのとちがいますか』と申したことがございます。お師匠はんが肥後出身の方だということは、父から聞いたのでしょうか、知っていたのでございます。すると検校は、こわい顔をして『そんなことはありません。わたしが肥後出身だから、こうした、などということは決してありません。昔から、ずっとそうなっているのです。それをそのままわたしは伝えているのです』。そう申されたのです。その異常に緊張した返事にぎょっとしたことを覚えております。
ですから、わたしは弟子の者に教えるときにも、そのようにいつも答えてきていたのでございます。ところが昨年の、あの文化庁の方のことがありましてから、一段と、自分でも何とか、この大切な舞の身元が分らないものか、と考えあぐねるようになった日々がつづきました。そのある日、それを見かねたのか、歴史好きの夫から『この本は参考にならないかね』といって手渡されたのが、御本だったわけでございます。『盗まれた神話』という、あの本でございますね。それを読んでおりますうち、景行天皇の九州大遠征、御本では『前つ君』という筑紫の王者が九州一円を平定する話を挿入してあると書かれているところですね、あそこの地図に『京みやこ』とありました。九州の行橋(ゆくはし)市のとこですね。それを見て、“ああ、この『みやこ』ではないか”と思ったのでございます。と申しますのは、『翁』の中の『都の翁』というのが、どうも近畿あたりの都ではすじがうまく納得できない。これは娘時代に感じたところ、また文化庁の方が申された通りでございます。ところが、“ああ、九州にも『都』があったのか”。そう思って驚いたのでございます。けれども、これはやはりこの本の著者の方に一度おうかがいしてみよう。著者が書くときにお捨てになったものの中にわたしにとって大事なものがあるかもしれないから、そう思って、こんなことは今まで一度もしたことのないことなのですが、直接お電話をさし上げるという失礼をいたしたわけでございます。今日もお忙しいところをお招きいただきまして、まことに申しわけございません」
わたしは聞き終って、しばらくして答えた。
「わたしには一つの懸念がありました。失礼をかえりみず、正直に言わせていただます。それはお宅がわたしの本を読んでその内容に合わせて、もしやお話をされるのではないか、もう一歩ズバリ言えば、筑紫舞という話も、わたしの本を読んでお考えになったことではないか、とさえ、大変失礼ながら、思っていたのです。けれども、今お聞きして、その失礼な疑いは消えました。
というのは、一つは福岡県の京都(みやこ)郡の京(みやこ)とお考えになったこと。発音からすれば、たしかに『みやこ』であり,ここがそのように呼ばれるに至ったことについては、また深い歴史の上の背景がある、とわたしはかねてから考えていますけれども、今の場合は当らないようです。だぜかといえば、現在でこそここは福岡県に入っていますが、『日本書紀』の景行紀の本文に、また『和名抄(わみょうしょう)』にもありますように、昔の国名では豊前の国なのです。筑紫の国ではありません。ですから筑紫舞の中の『都』というのに当てるのは、無理のようです。
では、『都』とはどこか。ズバリ申しますと、太宰府という、筑紫の中心、そこを指しているのではないかと思います。
この『翁』という舞の、諸国の翁の配置の不思議さ、その核心は『筑紫舞』でありながら、『筑紫の翁』という名前が出現しないことにある、と思います。
そこで問題になるのは、一つだけ異例の表現になっている、『難波津より上りし翁』です。これは“西国から来て難波津を経過して京都などの都に上った翁”いう解釈もできます。『より』を“経過して”の意味にとった場合ですね。そうすればこれこそ『筑紫の翁』と一見考えられるようです。ところが、そうした場合、新たな困難が生じます。
その一つは、それなら『愛媛の翁』でも、『豊後の翁』でも、『吉備の翁』でも、みんなこの表現で当てはまってしまい、何も『筑紫』に限ることができない、ということ。
その二つ、これが決定的ですが、この『翁』の舞の一番基本形と思われる「三人立」では、この『難波津より上りし翁』が姿を消してしまう、ということです。それではやはり『筑紫の翁』なしの『筑紫舞』になってしまいます。
たしかに、この『都』を“近畿内の都”ととる限り、この『翁』が“『筑紫の翁』抜きの筑紫舞”になることはどうしても避けられないようです。
これに対し、筑紫の真中ともいうべき太宰府、ここは『都府楼』とも申しますね。ここを『都』と呼んでいる、と考えますと、『都の翁』は『三人立』『五人立』『七人立』とも共通して出現しているわけですから、いずれも“『筑紫の翁』をもった筑紫舞”となることができるわけです」
わたしは言葉を次いだ。
「ことに注目されるのは“諸国の翁の配置”です。『三人立』の場合、『都の翁』の他に、『肥後の翁』『加賀の翁』が配置されていますね。
この配置では、もし“近畿内の都”だとすると、あと両翼に加賀と肥後というのでは、何ともアンバランスです。ところが、『都』が“筑紫なる都”としますと、よく話が合っているのです。
今までのわたしの本をよくお読みいただいた方には、お分りいただけると思いますが、今おっしゃった景行天皇、実は筑前の『前つ君』の九州一円平定譚、あそこでは九州東岸部と南岸部が『征伐』対象になっているのに対し、肥後と筑後は凱旋ルートです。つまりすでに安定した領域とされているのです。いいかえれば筑前を原点として肥後まで、これが南北の原初領域となっているのです。
一方、これもわたしの本、やはり『盗まれた神話』ですが、ここに『天降る』神話の対象領域としてしめしましたように、『筑紫→出雲→越(こし)の国』という三領域が日本列島の日本海側の舞台なっています。その中で神話ないし説話の質と量からも明白なように、筑紫が主、出雲が従、越の国はさらに最東端の辺境、という形で出てきます。つまり東西では“筑紫を原点として越の国が辺境”という姿なのです。
これに比べると、『国生み神話』で伊予(いよ)の二名(ふたな)や吉備の子洲(こくに児島こじまか)などの瀬戸内海領域が加わってくる、あの形はもっと後代。神話の舞台、つまり神話を生んだ領域、その原初型は、先にのべた“筑紫を原点として越の国に至る”日本海沿岸の領域だったと考えられます。
とすると、この南北と東西をあわせますと、“筑紫を原点として、東の辺境は越(のちの加賀)、南の辺境は肥後”という形になってくるのです。
これはこのような、そのままの形では書いてありませんが、わたしの本『盗まれた神話』をよく読んでみれば“透けて見える構図”、そういった感じなのです。ところが、今お話に出た『三人立』の配置は、この構図にピッタリなのです。
わたしが“もしや、わたしの本を読んでお考えになったのでは”などという、失礼極まりないことを考えたのは、こういうわけです。
けれども、次の間題、“『肥後の翁』中心の舞”というのをお聞きして、わたしは失礼な疑念をとりはらうことができました。
というのは、これも不思議なことですが、次の段階、ことに六〜七世紀の九州王朝についての、わたしの観点と実は合致しているのです。というのは、この段階では、いわゆる『装飾古墳』の分布がこの時期の九州王朝の実勢力の中心領域をしめしているのですが、それは肥後・筑後が中心で豊後などにも及んでいます。阿蘇山を中心とする形です。ところが、一番濃密なところ、そして一番早い段階の素朴な姿をしめすものは、意外にも肥後にあります。素朴なものは八代と対岸の天草(あまくさ)などです。従ってこの時期になると、表面の中心地は、やはり太宰府あたりであったにせよ、それを支える実勢力の中心は肥後あたりにあったのではないか。これがわたしの考え方だったのです。
けれどもこの考え方は『盗まれた神話』など、わたしの本には書いてありません。昨年(昭和五十四年)九州の『読売新聞』に連載した『倭国紀行』(その後、『邪馬一国の証明』角川文庫、昭和五十五年十月刊、に所収)にそれを示唆した個所はありますが、それを読んだところで、すぐ、というほどの形では書かれておりません。
つまり“『肥後の翁』中心”というイメージは、わたしのいだいている観点そのものには合致していますけれども、“わたしの本を読んだら出てくる”というものではありません。
ですから、こんなことを申すのも失礼な話ですけれども、これで“伝承された筑紫舞”の存在をうなずくことができたのです。
ですが、これは大変な、恐るべきことです。なぜなら“越の国(後の加賀)と肥後を辺境とする原点としての筑紫”という姿、つまり領域図ですね、それは弥生期の前半です。つまり、あの卑弥呼は弥生期の後半ですから、卑弥呼より前の話なのです。
一方、『七人立』のしめす『夷の翁』までふくむ形は、七世紀前半、例の『日出づる処の天子云云』で有名な多利思北孤(たりしほこ)ーーこれも九州の王者だとわたしは思っていますがーーのとき、『東西は五月行、南北は三月行』とされている時期のものと考えられます。もちろん『夷の翁』の『夷』が東北地方を指すか、それとも『関東地方』を指すか、分りませんけれども、いずれにせよ、東日本のあたりでしょうからね。
ともあれ、現在の『定説』の立場、つまり教科書などに書かれている古代史像では全く考えられないことですが、わたしが『失われた九州王朝』などで追跡し、明らかにした古代史像とは、よく一致しているのです」
わたしはしばらくして言葉を次いだ。
「『難波津より上りし翁』という表現は面白いですね。『難波の翁』でなく、これだけ変った形になっていますね。『都』が『筑紫』だ、となると、当然“筑紫へ向って上る”という意味になります。その発起点はどこか。おそらく難波・大和・山城(京都)といった“後代の近畿天皇家の都邑(とゆう)の地”を指す言葉が本来ここにあったと思われます。そこが“筑紫なる都より下(しも)”に当っている。そういうわけですが、その露骨な印象を避けるため、こういう異例の屈折した表現へと“書き直された”いや“言い直された”のではないでしょうか。この筑紫舞は当然、近畿天皇家が中心として勢威を誇ってきた長い年月、その中で生きつづけてきたわけでしょうからね。つまり婉曲(えんきょく)表現です」
「『難波より上りし翁』とも唱えていたのですけれど、よく考えてみると、『難波津』と『津』が入った方が、もともとだったように思います」
と光寿斉さん。そして「十三人立」の演ぜられた筑紫の洞窟の話へと進んだ。
「それは昭和十一年、わたしの十五歳のころでございました。検校がわたしに本場の舞を見せてやろうとおっしゃって、父や店の者などと一緒に太宰府にまいって一泊し、そこからのろい汽車に乗りました。そのあと馬のひく車に乗って、十五分かそこらでしょうか、しばらくして降りました。そして土手に沿って歩いて、一つの洞窟があるところへ行き着きました。そこで待っていますと、三々五々、色々な風体の男(ひと)が集まってきました。全部で十三人。そこで洞窟の中の入口近いくぼみのところでかがり火を焚(た)いて、その中で『十三人立』の『翁の舞』が舞われたのです。かがり火の姻が洞窟の上の方の穴から出たのか、外に流れ出ていたのを覚えています。わたしたちは洞窟の中に入り、右脇のところで拝見いたしておりました。その舞は何ともいえず見事なものでございました。ただ、のちに習った『七人立』などとはちがって、『乙おと』という女役の人がいて、しなだれかかったり、何か色っぽい仕草をするのでございます。その人も、もちろん男で、それもしわくちゃのおじいさんなのです。そのとき、わたしはまだ若い、少女でございましたから、『いややわあ、あんなことして。好かんわあ』と思ったことをおぼえております」
「服装は、どんな服装だったのですか」とわたし。
「樵夫(きこり)のような服装や猟師のような服装など、あまり立派な服ではありませんでした」
「『十三人立』というのは、『七人立』の他にどんな国の翁がいたのですか」
「それが残念なことによくおぼえておりません。『三人立』や『五人立』や『七人立』は、そのあと検校からくりかえし教えられたので、しっかりとおぼえておりますけれども、そのときは見ただけでしたから、もちろん(全員ではありませんが)“われは『〜の翁』”という風に、『七人立』と同じように、『国問い』をいたしましたけれども、ハッキリと思い出せないのです。
ただ『七人立』の七人の他に『朝倉(あさくらあるいは高倉たかくら)の翁』というのがいたこと、先の『乙』という女役がいたこと、それだけです。あとの四人は思い出せません」(後述、参照)
ーー残念であった。
「その洞窟からの帰り道、博多に出たとき、父は洞窟の舞のすばらしさに感銘していたので、同業の方から酒樽(さかだる)をいくつか調達して同行した店の者にとどけさせました。ところがその人が先の洞窟のところへ行ってみたら、もうもぬけのから、誰もいません。それで近くの家に行って、『あの洞窟で舞を舞っていた人たちはどこにいてはりますか』と聞いたところ、『知らない』との答え。
『でも、洞窟からあんなに姻(けむり)が流れ出ていたでしょう』といっても、『知りません』の一点張り。とりつく島もなく、帰ってきたというのです。
神戸に帰ってから、菊邑検校ははじめわたしに対して“あなたには『十三人立』は無理だ。まあ、『五人立』まででしょうね”といっておられましたが、結局、『七人立』まで、きっちりと教えてくださったのでございます」
「菊邑検校は、筑紫舞をどこから教わったのですか。検校のお師匠さんは誰ですか」とわたし。
「検校が、太宰府にほど遠くないところだったようですが、あるお寺にいて、音曲をひいてはりましたとき、その音色(ねいろ)ーーリズムですねーーそれに合わせて、トン・トン・ト・トン・トンと庭先で足踏みしている音が聞えた、というのです。それが絶妙の間合いだったので、検校は、住職さんに“あれは誰ですか”と聞くと、“あれは庭男です”という返事。“いや、ただの庭男とは思えません、あの問合いの良さは。是非、ここへお呼び下さいませんか”と所望されますと、やがてその人が来やはった、ということです。(後記ーー直接ケイさんが呼びに行き、あとで住職に聞く。)
そこで“どこで貴方は音曲を習われたのですか”と聞くと、その人は“わたしは筑紫のくぐつです。神社の祭礼のときに、舞うておりましたが、御覧のような、鼻欠けになりましたので、それもかなわぬようになり、このお寺の軒先をお借りして住まわせていただいております。そのお礼に庭を掃かせていただいておるのでございます”という返事。
それからその人と深いおつき合いをするようになった、ある日のこと、その方がこう言わはったそうです。“わたしは、はや死ぬ身ですが、死んだら地獄に落ちる、と思うています”と。
検校がなぜかと問われると、
“わたしはこの筑紫舞を習うたとき、その方から言われました。『お前が死ぬまでに、必ず誰かにこの舞を伝え切ってから死んでくれ』と。ところが、わたしはまだ誰にもそれを伝え切っておりません。死んでも、その方に顔を合わすことがかないません。ですから、わたしは必ず地獄に落ちるのです”と。
それを聞いた検校は“わたしが習わせていただきましょう”と申されて、すべてを習われた、ということです。
神戸で、わたしの父に招かれて、わたしの家にながらく逗留(とうりゅう)しておられたときも、何人かお弟子さんがおられましたが、あまり練習がきびしいので、次々やめてゆかれました。それをはたで見ていた子供のわたしが、門前の小僧というのでしょうか、見よう見まねでふしをとってみたり、“そこはこう舞うのやないか”などとまねしているのを、見どころーーいえ、聞きどころというのでしょうかーーがあると思って下さったのか、ある日、検校は、わたしの父に向って、“あなたのお子さんに教えさせて下さい”と真剣に頼まれたのでございます。父がわたしに“どうするか”と聞きましたので、一人娘だったわたしは、気楽者だったのか、“いいわ”と答えてしまったのでございます。
ところが、それからあと、その教え方は、まことにそれは、きびしいものでございました。検校は盲目でしたが、ケイさんという唖(おし)の方がいつも形に影がそうように、文字通り一心同体、片時もはなれず、よりそうておいででした。その二人が手とり足とり、寸分の狂いもないように、それこそ死に物狂いで教えようとしたのでございます。遊びたいさかりのわたしは、いやで、日曜など朝から一日中映画館へ逃げていっていたこともありましたが、そういうとき、二人は必死でわたしの行方を問い求めていた、ということをあとで家の者に聞いたのでございます。
また夜など寝ていましても、“とうさん(わたしのことです)、ちょっと今、思い出して教えたいことがあるから来てくれませんか”とおこされて、ねむい目をこすりながら起きて行くと、板の間で、くりかえしくりかえしその動作を教えこまれたものでございます。
検校が“こんなむつかしいの、とてもできないでしょうな”といいますと、わたしは負けん気が強い娘でしたので、“何、やってやる”と思って、歯をくいしばって頑張る、そういうことのくりかえしでした。今から思うと、検校はわたしの性分をよく飲みこんでいてはって、若いわたしはうまくおどらされていたのかもしれません。
二人して、わたしのわずかの間合い、ちょっとした動き、それをいつも寸分の狂いもなく、突いてこられるのでございます。夜中におこされたとき、わたしがいつもの稽古(けいこ)のとちがう、ネルのお腰をそのまま着ていますと、“それでは困ります。いつもの絹のものをして下さい”といわれました。衣ずれの音で、わたしの舞うときの動きが、一つ、一つ、手にとるように分っていたのでございます。
その上、そばでケイさんも、わたしの動作をじーっと見つめていて、ちょっとした狂いでも、見のがさず、きびしくとがめ、ピシッとたたかれます。わたしも、やんちゃな娘でございましたから、いつでしたか、ケイさんの足をけつまずかせて、わざところがしたら、あまりたたかれなくなった、そんないたずらをしたこともございました」
「九州とは連絡があったのですか」とわたし。
「はい、時々九州へ帰っておいででした。それに九州からも時に使者の方がお見えでした。そしてわたしの家の店前(みせさき)に来ると、“太宰府よりの御使者(おんししゃ)まいりました”と大きな声で呼ばわはりますのです。それで店の者が“芝居でもしてはる気になっとうんやないか”などと申しておりました。夜、検校とケイさんの寝床のある部屋の隅に床をとると、その使者の方は“わたしら、おやかたさまと枕を共にするのは、死ぬときだけでございます”といって、決して寝ようとなさいませんでした。それで納屋に床をしつらえると、喜んでおやすみになったのでございます」
「使者の方は、『おやかたさま』とおっしゃったのですね」とわたし。
「ハイ。洞窟での舞のときも、三々五々集まってきた人々が口々に“おやかたさまの前で舞うのも、これが最後だろう”などと言っておりました」
「検校は『十三人立』の中に加わっておられたのですか」
「いえ、加わっておられません。洞窟の中の右脇のところにいらっしゃいました」
「その他に、検校のいわれたことについて、御記憶のことはありませんか」
「戦争がはげしくたって、段々食料が不自由になり、新聞には雑草や幼虫のようなものまで食べる人が出てきたことが報ぜられていたことがございました。わたしの家の食卓で、そのことが話題となったとき、わたしが“お師匠はんも、そんなもんまで食べてでも、生きていたいと思わはりますか”と、何気なくたずねますと、検校はこう答えられたのでございます。
“わたしは、どうしても生きていたい、と思うているときでしたら、草でも虫でも、何を食べてでも、生きのびます。ですが、わたしはとうさんに全部教えてしまいました。もう今は、抜けがらの身です。ですから、そんなもんまで食べて生きていたいとは思いません”と。
その答えに、わたしは、ハッとしてしまったのでございます」
「それはすばらしい話ですね。もっと、何でも聞かせて下さい」
「また検校は、『笹の露』という“百物語”を現わしたという、舞の仕草の一つ一つ、間合いのとりかたの微細に至るまで、ことこまかく厳重に注意されますので、わたしはこうたずねたことがございます。“昔の人はどないして、こない細かいことまで覚えはったんですやろか”すると“それには、○(まる)や△(さんかく)や□(ましかく)などをいろいろと組み合わせた符号(しるし)があって、それを石や木などに刻んでおいて覚えたのです”といわはりました」
「『隋書』イ妥たい国伝に『文字無し。唯々木を刻み縄を結ぶのみ』とあります。中国風の文字、つまり漢字ですね。それはないけれども、彼等(倭国の人)は彼等独自の表現方法をもっている、というわけです。これは、例の『日出ずる処の天子』の国のことですから、わたしの立場では、やはり筑紫を中心とする、九州内の習わしを伝えたもの、ということになります」とわたし。
「また検校は、どこかのふすま絵に描かれているか、何かで有名なーーどこだったか忘れましたがーー天の岩戸の前での天のうずめのみこと等の舞のことをさして、“あれがわたしたちの筑紫舞のもとです”といわはったことがございます」
「天の岩戸の神話は、弥生時代の筑紫で形造られた神話です」とわたし。
「また神戸で、近所の神社の境内に、みなでいたとき、鼻欠けの、乞食のようた人が来ていて、母が店の者にその人を追いはらわせますと、そばにいた検校がひどく悲しそうな顔をしていはりましたので、わたしが“どうかしやはったんですか”と聞きますと、かつて九州で『鼻欠け』のくぐつの方から筑紫舞を伝授された、あのいきさつを話してくれはったのでございます。それを聞いて母が“えらいこっちゃ、えらいもんを娘に習わせてしもた。そんなん、誰にもいうたらあかんで”と店の者にいうていたのを覚えております」
わたしは深い感動を覚えた。
「また、これは検校から聞いたことではありませんが、九州から来た使者の方の話では、昔、検校は、さる貴い方(あるいは島津しまづか。伝令の話による)の、唖の娘さんに音曲を教えていて、恋仲となり、そのためにそこを追われてしまったのだ、とのことでございました。そのことがあったため、同じく唖のケイさんと深く結び合うようになったのだろう、と家の者に申しておったそうでございます」
後日、ケイさんは、京都に縁のある人で、他(ひと)にねたまれて水銀を飲ませられて唖になった由、“伝令の話”として、追加された。
「またケイさんは、とても色白で女のような肌をした方でした。夏に行水をすすめても、検校とはちがい、決して人前で肌をさらすことがありませんでした。ケイさんの足袋は、女の人の足袋の大きさでした。
一方、検校の方は、ガッシリした身体つきで、映画に出てくる山形勲(やまがたいさお)のようだ。とわたしはよく思いおこすのでございます」
さらに、神戸の家に『副島そえじま』という姓の人から、いつ丁重な書状が送られてきていて、父が“行きとどいた方だ”とほめていたこと、また特高(とっこう警察)がよく様子をうかがいに来ていたことなどを話されたが、それがこの二人の長期滞留と、どのようなかかわりがあったのか、それともなかったのか、目下のところ、つまびらかではない。
※※※
ここで筆を転じ、光寿斉さんの後日譚。
「昭和五十四年十二月下旬のことでございました。博多に行き、そこで西日本新聞杜(学芸部)関係の席に出ました。そのとき武智鉄二先生も御一緒でした。
その席で洞窟の舞の話をしましたところ、ちょうどその席に少年時代を朝倉で過した方がいらっしやって、“貴方の乗ったのは馬車鉄道だ。太宰府から朝倉方面へ通っていた。朝倉には、それらしい洞窟もある”とのことで、では一緒に行ってみよう、ということになりました。もちろん今は馬車鉄道などありませんでしたが、お聞きすると、たしかに昔は通っていた、との話でございました。そして土手に出ましたが、そのあたりに竹藪(たけやぶ)がありません。わたしが“たしかに竹藪が”と申しますと、やはり“最近の土地造成の前には、そうだった”という話でございました。
そして高木神社という小さな祠(ほこら)の前に来て、その横手の洞穴の前に来ました。
学芸部の方は、“ここから奥の、山の方には、もっと広い洞窟もありますよ”とおっしゃいましたけれど、わたしには土手との関係などからは、ここの方のように存じました。そこは甘木(あまぎ)市の郊外の柿原(かきはる)古墳群と申すところだそうでございます。
それから少しはなれたところにあります朝闇(あさくら)神社というところへまいりました。ところが、その鳥居の前、右手のところに池があり、そばの立札に、何と『猿沢(さるさわ)の池』と書かれているではありませんか。
わたしどもの筑紫舞の中の大切な舞の一つに『早舟はやふね』という曲がございます。その詞(ことば)に『猿沢の池の・・・身ノ上は篠竹(しのだけ)の越の竹の・・・』という一節がございます。この猿沢の池は、あの奈良にある猿沢の池とばかり、わたしどもは思っていたのでございます。ところが、この筑紫に猿沢の池があったのか、という驚きを覚えました。その上、この詞に合わせて舞う、ふりと全く同じ姿で、その池には竹や柳などの木の枝が横にのびて垂れさがつていたのでございます。それを目ざとく、娘の光寿(当時若翠わかみどり。のちに「光寿」を襲名)から指摘されまして、わたしもびっくりいたしました。まがうかたもなく、わたしどもの演じておりました『早舟』のふりは、ここのことを唄(うた)ったものだったのでございます。
けれども、一段とおどろかされましたのは、その神社の石段を登って、拝殿の中の絵馬を見たときでございました。それは山伏風の人が殿方や女官のような人々の前で舞を舞うている図柄でしたが、その舞の足の上げ方は、わたしどもの筑紫舞の『ルソソ足』と呼ばれる、その足の型だったのです。つまりわたしどもの『筑紫舞』ともおぼしき舞を、その人たちが舞うている図柄だったのでございます」
「その他にーー」とわたし。
「博多からそこへ行く途中に『宝満ほうまん川』というところを通りました。その変った名前を見て、どこかで聞いたことがある、どこでやろ、と思うて、考えておりますと、検校の言わはりました話の中に出てきていたことを思い出したのでございます。
わたしがあるとき“筑紫のくぐつの人たちは、この舞をどんな人に伝えることにしていたのですやろか”と検校はんに聞きますと、“九州には宝満川というて、宝の満ちている川があるのです。宝とは子供です。そこに捨ててある子供を拾ってきて育てます。そして舞をその子たちに伝えるのです。みんな、九州の子です。九州以外の子は、『やる』というても、わたしたち、いりません”とキッパリした口調でいわれたのです。わたしは『九州の子』ではありませんから、その強い語気が何か奇妙に印象に残ったのでございます。そのときの川の名が、この川であったのか、と思いながら、帰り道に眺めたことでございます」
「菊邑検校とケイさんは、その後、どうされたのですか」とわたしは問うた。
「昭和十八年十月頃、わたしの二十二歳の頃、お二人は九州へ発(た)たれました。“もう、教えるべきものは、教えました”そうおっしやって。(末尾、「検校と別れる時の言葉」参照)それ以後、お会いしておりません。
昭和二十年の夏前の頃(四月頃か)、わたしの友達の木下(旧姓)登美子さんが御自分の用事で長崎に行かれたとき、長崎市内で偶然、検校をお見かけしたそうでございます。“こいちゃん(わたしのことでございます)とこにいやはった方じゃございませんか”と声をかけると、“そうでございます”という御返事。“今、何してはりますのん。”“他(ほか)にすることはございませんので、音曲を教えております”。“では、お大事に”といった応答で、そのまま別れたそうでございます(六月頃、聞いた話)。それから、音沙汰(おとさた)がプッツリ切れました。そのあと、長崎に原爆が落ちましたので、原爆でお亡くなりになったのではないかと思い、毎年その日をお師匠はんの命日としてお祀(まつ)りをいたしております」
後日お聞きしたところによると、九州の各地に滞在していた検校と父君との間に葉書や手紙の交信があり、そのとき光寿斉さんは検校あての書簡の「上書うわがき」を書かされたという。その宛名(あてな)で覚えておられるものに、次の各地名がある。「諌早いさはや」(長崎県)・「西彼杵にしそのぎ」(長崎県)・「球摩郡くまぐん」(熊本県)・「本渡ほんど」(熊本県)「(東か西の)臼杵うすき」(宮崎県)。
また光寿斉さんが、はじめ「〜様方、菊村様」と上書きに書いたところ、返信のとき、「わたしの名前を菊村と書いてありましたが、菊邑です」とあった。それらの通信は、検校の口述をもとに滞在当地の方が書かれたもののようで、「〜日、ここを発って、〜へ行かれます」といった、敬語形が使われていた、という。
また検校が神戸の家に滞在していたときは、切手を貼(は)って手紙を出すのを見たことはない。しかし太宰府の使者に書信のようなものを渡していたのを見られたことがあるという(そのための封筒を家から借りられたこともある由)。
ーそして、
「戦争が終りまして、昭和二十一年か二十二年のはじめ頃だったと思いますが、わたしが上の娘(光寿さん)を産むのに、父の実家の徳島へ帰っておりましたとき、神戸から手紙が回送されてまいりました。その封筒の表には発信人の名前がございませんでした。開けてみると、手紙はなく、新聞記事の切り抜きが一枚入っており、そこには『通称ケイさんが入水(じゆすい)自殺した』旨の、小さな記事が入っておりました。たしか、福岡県あたりの川だったように覚えております。太宰府から来ておられた使者の方のような、神戸のわたしの家に検校とケイさんがながらく滞在しておられたことを知っておられた方が、自分の身元を隠して、こっそりお知らせいただいたのではないか、そのように思うたのでございます」
※※※
今年(昭和五十七年)になって、三月はじめ、光寿斉さんからお電話があった。“思い出したことがあるので、お役に立つかどうか、申し上げます”とのことであった。全身を耳にした。
「大本教という教団がございますね。あの教団のことが戦時中、“不敬罪”とかで、大きく新聞に出たことがございました(大正十年に次ぐ、昭和十年の弾圧かーー古田)。
当時わたしの家でも、このことが話題になり、みなでいろいろ申しておりましたところ、それまで黙って聞いておられた検校はんが、何気なくポツリとおっしゃったのでございます。“新聞に何と書いていても、真実というものは隠されていて分らないことが多いですよ”。みなが急に黙ってしまったので、母が場をとりつくろうように、“お師匠はんは大本教でっか”といいましたところ、“わたしは何教も信じてはいません。神や仏は全部わたしの親属です。わたしの隣に並んで坐っておられます。わたしは神社や仏閣の前を通るときは、したしみをこめて手を合わせています”と申されました。さらに母が“お師匠はんの信じてはるのは、どの神さんですやろか”と聞きますと、“高木の神です”とのお答えでした。わたしはそのときは“高い位の神さんのことやろか”と思うておりました。
その翌日、またこの大本教のことが家の中で話題になっていましたとき、このときもずーっと黙っていた検校はんが、突然『くらやみにてあさをまつ』と、唱えるようにつぶやかれたのでございます。そのお声はとても暗い感じでした。そのひびきには、ちょうど地(じ)をはうようなくらいものがございました。みんな白けて、しーんとしてしまいましたが、わたしは“お師匠はんは、さんかの一味かと思うていたけど、ちゃうわ”と思うたのでございます。それは、その頃わたしは、三角寛(みすみかん)の本などで見て、さんかとは明るくて躍動的なもののように思うていたからでございます」
わたしはやがて(昭和五十五年六月以来)、“裏をとる”作業へと没頭することとなった。それは、あまりにも“面白すぎる”話であり、また比類を絶する、重大な話でもあった。その真否について、どんなに慎重であっても、慎重すぎることはない、そのように思われたからである。
これまでは、わたしの研究対象は「文献」だった。それも古代史料だった。それが、今度はちがうのである。“現代に行われている舞”が対象だ。それだけに、そこに古代、それも弥生・古墳期の姿の反映を見る、という、そのような作業は、あまりにも無謀と危険に充ち満ちた作業のようにわたしには思われた。ゾッとするほど、今までのわたしの「常識の世界」を絶していたのである。
※※※
早速、朝倉の洞窟に向った。その秋のことである。旧友の堀内昭彦君(筑紫野ちくしの市在住)と読者の西俣康さん(福岡市在住)の応援を得て、西俣さんの車に乗せていただき、田主丸(たぬしまる)町役場に勤めておられる高山利之さんの御案内で柿原古墳に到着した。
聞いたとおりの高木神社、その祭礼ののぼりが立っていた日だった。鳥居から入って左側に廻まわると、古墳の横穴があった。この神社は古墳の頂上に神祠を祀った形で、その横合いにポッカリと横穴石室が開口しているのである。
「十三人立」が行われるには、わたしには“狭すぎる”ように思われたけれども、あとで光寿斉さんに確かめると、必ずしも舞台のように、いつも両側に拡がって行われたのではなく、名乗り手を中心に何人かずつ中央に立ち、また交替する、といった形で行われたという(柿原古墳群中の他の古墳は、すでに壊されたようである。それらにもまた横穴石室の類は存在したと思われる)。
琴・筑紫琴・笛・三味線・ササラ・胡弓・鼓(つづみ)などの楽器が使われた、とのことであるが、楽人と舞手は別人ではなく、さっき楽器を手にしていた人が今度は舞っている、といった風であったという。
また、あとで詳しくお聞きしたところによると、「十三人立」のうち、一人は「乙おと」、一人は稲穂のようなものを、ちょうど御幣のようにもち、従者が二人いた(この人たちは「国問い」はしない)。そしてもう一人が「朝倉(または高倉)の翁」、あと一人が“不明の翁”であって、思い出せない、という。その他は「七人立」と同じ。つまり“「七人立」の他に「六人の諸国の翁」がプラスされて「十三人立」”という形ではないのである。
洞窟の舞の日、三々五々、「十三人立」の人々が集まってくる間、少女の光寿斉さんは、いつも神戸へ来る使者の方から、話を聞いていた。
「(使者の方)“(向うを指して)あの人は、この前のときの宰領(さいりよう)はんでしたが、向うの山の奥で丸太の足場を組んでこの舞をやったとき、腰を打って怪我(けが)をされたんですよ。そこの方(かた)は、京都(の乙訓おとくに)から来た人ですが、公事(くじ)があるから、これがすんだら、すぐ帰らんといかんそうです”
あとでわたしが父に“『くじ』って何やのん”と聞きますと、父は“訴訟のことやろな。訴訟してはるんやから、かなりの人やな”というておりました。その人は上品なお人で、きれいな着物を着てはりましたが、そこで木樵(きこり)のような粗末な着物に着かえておいででした。その粗末な着物で『翁』の舞を舞われたのです」と光寿斉さん。(後記ーーこの人の姓は「伊東」さん。)
わたしが「その粗末な着物は、京都からその人が持ってこられたのですか」と問うと、「いえ、そうではなかったようです。ハッキリは憶(おぼ)えていませんが、そのときの宰領はんが持ってきはったんではないかと思います」
「『宰領はん』というのは、何ですか」とわたし。
「そのときの舞をとりしきる人です。そのときの宰領はんとは、朝倉(高倉か)の翁を演じた方でした。何でも、宰領はんは、順番で、その宰領はんを祝うてあげるのや。それが『十三人立』や、と使者の方が言うてはりました」
最初、お会いしたとき、わたしは「十三人立」のことを聞きつめた。それは「三人立」「五人立」「七人立」に勝る、最高の位に立つもの、と思われたからである(「十三人立」以上の数はない、という)。光寿斉さんも、「十三人立」の詳細に答えられず、自分が「十三人立」そのものを伝えていないことを、改めて、しきりに残念がっておられる風であった。
ところが、その後、姫路でわたしは当の「七人立」を実見した(昭和五十五年十月五日、「西山村にしやまむら流、舞の会」姫路市文化センター大ホールにて)。
肥後の翁西山村光寿斉
加賀の翁光寿
都の翁筑紫
難波津より上りし翁若光寿
尾張の翁和光
出雲の翁右寿
夷の翁佳光也
というメンバーで行なわれたその舞を、舞台正面の直前、いわゆる“かぶりつき”で見入っていたわたしは、不思議な感動を覚えた。身の内から何か“涙のようなもの”がこんこんと湧(わ)き出る思いがしたのである。わたしは平常その方面には皆目暗かったものの、それでも通常の“踊”や“舞”の類とは全く面目を異にした形式であり、むしろ「能楽」に近いムードをそなえていることが理くつ抜きに伝わってきた。それはまさに古い奉納舞楽の様式をそなえていたのである。
その夜、姫路郊外に泊ったわたしは、深夜まどろむ中に一つの発想をえた。そして翌朝、光寿斉さんに電話したのである。
「『十三人立』のことですが、それが最高のものではなくて、『七人立』の方が最高のものではないでしょうか。」
(光寿斉さん)「・・・」
「なぜかというと、第一に、菊邑検校は神戸を去られるときに、“もう教えるべきものは教えました”といって去って行かれた、とお聞きしましたね。また例の雑草や虫を食べても生きたいか、という、お宅の問いに対して、“もうわたしは抜け殻です。そんなことまでして生きのびたいとは思いません”という御返事があった、とお聞きしましたね。ところが、もし『十三人立』が最高だとすると、“最高のものを教え残した”ことになりますね。すると、先の言葉と矛盾します。そして昨日『七人立』を拝見して思ったのですが、まことに奉納舞楽、いやむしろ宮廷舞楽ともいうべき荘厳な趣をそなえていました。それに対して『十三人立』の場合、『乙おと』が登場して、男女の艶物(つやもの)めいた仕草を展開する、というのは、どうも異質なもの、といった感じがするのです。『三人立』や『五人立』も、『七人立』と同じタイプですか。艶めいた仕草などないのですか」
(光寿斉さん)「全くありません」
「では、やはり『三人立』『五人立』『七人立』が正規の舞、奉納舞楽であって、それで終りなのですよ。『十三人立』はそれに対する、プラス・アルファだと思います」
(光寿斉さん、やや沈黙のあと)「・・・そういえば、洞窟(どうくつ)の『十三人立』の舞のとき、使者の方が、“この舞は、そのときの宰領はんの御苦労をねぎらうて、お慰めするものです”というてはりました。そして『十三人立』というても、それは最初のうちだけで、それが一段落すむと、あとは『七人立』になるのです。・・・そういえば、おっしゃる通りかもしれません」
永年のうっくつのとれたお声が、終りにひびいてきたのである。
※※※
わたしは朝闇神社へ向った。朝倉が朝闇(あさくら)と書かれ、音で「ちょうあん」と読まれ、やがて「長安」とも当て字された。そのことは「鉄屋は長安寺にあり」という『日本書紀』の欽明(きんめい)紀の一節をめぐって、すでに書いたことがある。この地が九州王朝の中枢領域に属していた、その証明の一齣(ひとこま)であった。
鳥居前、右手に「猿沢の池」という表示板があり、奈良の、あの猿沢の池とは似ても似つかぬ小さな池だったが、ひっそりと落ち着いたたたずまいをそなえていた。
石段を登った、どんつきが拝殿。内側の手前に問題の絵馬。下手中央に近い、樵夫か山伏のような恰好の男たち、その中で足をあげて舞う人物の軽妙な姿、それは例の「ルソン足」であろう、印象的な形姿だった。だが、画面全体の複雑な構図に驚いた。画面の向って右手中央には、酒盃(しゅはい)を傾けつつ、その舞を見ている“殿様”、そのまわりを数人の女官がとりまき、彼女等は美しい衣の姿だが、彼女等や団扇(うちわ)をもった者(男)に囲まれた“殿様”は、蓬髪(ほうはつ)、酒呑童子(しゅてんどうじ)のような、ざんばら髪なのである。「わたしたちは年に一回、高貴な方の前でこの筑紫ぶりを舞うと、一生遊んで暮せたものです」。あの“庭男”に身をやつしていた「鼻欠け」の達人は、検校にそう語ったそうであるが、この蓬髪の人が、果してその高貴な人なのであろうか。
画面の左上には、峨々(がが)たる岩山がそびえ、明らかに山伏姿の男たちが何人か出て来つつあり、女とおぼしき人物がそれを出迎えている。これは一体、何を意味するのであろうか。画面の右下には、美少年、あるいは美少女とおぼしき人物が、威儀正しい紅衣と白袴(しろばかま)姿で、“殿様”に長い柄杓(ひしゃく)で酒を注(つ)ごうとしている。そして右隅には、何人かの“坊主”がいて、「フン!」と、これらの光景に対して露骨に“ソッポを向く”仕草が描かれているのである。これは一体、何を意味するものであろうか。
このように当の画面は、複雑かつ興味深い趣向に満ちており、描いた人々、これを見た人々には、それらが何を意味するかが当然“わかった”のであろう。天保(てんぽう)四年(一八三三)の奉納である。しかし、わたしたちには、この“絵解き”をする能力(ちから)がすでにない。
そして注目されること、それは画面の右手上方は洞窟もしくは岩屋の入口をしめすごとき図柄が描かれてあり、この舞は“洞窟の中で”あるいは“洞窟の前で”舞われていることを示唆する風情だったことである。
この点、土地の周密な絵馬研究家、鶴田多々穂さん(朝倉町役場勤務)のお教えによって、わたしが新たに“見出し”た、近くの宮野神社の絵馬では一段といちじるしかった。嘉永(かえい)三年(一八五〇)の献納であり、“傷み”のはげしい絵柄だったが、それでも、山伏のごとき男たちの舞は、洞窟の入口のごとき堺を前にして舞われていることがしめされていた。その前で見物しているのは、“白衣赤袴の殿様”(蓬髪か否か削落で不鮮明)とまわりの女官たち。“殿様”が大きな酒盃を手にしているのも、朝闇神社のものと基本的に同じ図柄である。ただ遠方の岩山の状景や“坊主たち”の姿などは、こちらにはない。
こちらの特徴は、舞を舞っていない、山伏風の男たちが、近所の者らしい百姓たちに山海の珍味とおぼしき御馳走(ごちそう)をすすめていることである。中には、帰ろうとする百姓の裾(すそ)を押しとどめて、馳走にあずかるようにすすめているていの、山伏めいた男もいる。
この百姓と山伏めいた男、という図式について、柿原(かきばる)古墳のそばの農家で聞いた話をわたしは思い浮かべた。
その家は、先の高木神社の氏子であり、主人はその世話役であった。その方は六十代だったろうか、昭和十年代後半は外地へ戦争に行っていた、という。出かけるとき、当時日本列島の各地で行われていたように、彼もこの高木神社で武運長久の祈願をしてもらって、出征した。しかし、戦争は敗(ま)けた。無残な敗戦だった。帰還してきて彼はふたたびこの神社の前に立った。“こんな神、何の役にもたたんかった”。そう思うと、いきなり斧(おの)を持ち出してきて、この山(柿原古墳)の神木を一つ一つ切りはじめた。そして全部切りたおしてしまった。
「今、生えている木は、そのあと、生えた木ですわ」。温厚な顔の、その主人はこのように語られた。
数年前、そのお宅から江戸時代頃の文書が発見され、このあたりの家々が豊前・豊後の修験道の神社に属していたことが分ったという。「そこで、近隣そろって、お参りに行ってきました」といわれる。ここに“山伏と柿原古墳群の農民”との間柄がほの見えるようである。またこの高木神社には、例の「わんかし伝説」がある、という。農家で婚礼などでおわんなどがたくさん必要なとき、「お願いします」と祈っておくと、やがてずらっと一式の御膳(ごぜん)が並べられていた、というのである。ーーこれも、この地帯にかつて山伏集団がたむろし、その拠点としていた、その証跡かもしれない。
これらの絵馬に現われる山伏風の男たちは、「中世」もしくは近世の九州に勢威を占めた山嶽信仰の修験者たちをしめすものであろうか。この男たちの舞と筑紫舞とのかかわりは何か。彼等こそ筑紫舞の主役なのか。それとも花から花へと花粉を運ぶ蜜蜂(みつばち)のごとき役割を舞うているのか。一切、杳(よう)として不明の霧につつまれている。従来の芸能史の本のぺージをめくってみても、それらを解き明かすことはできない。
ただたしかなこと、それは菊邑検校の伝えたという筑紫舞、それと同じようなルソソ足、同じような服装(山伏か樵夫風)、同じような洞窟内(あるいは前)の舞ーーそういう伝統がこの筑紫の地に、江戸時代にもまた行われていたこと、あるいはその伝承が江戸時代に絵馬として描かれていたこと、その事実をわたしは確認することができたのである。
なお一点付記する。
わたしの背より高いところにある朝闇神社の絵馬を、精密に熟視し、かつ写真に撮るため、梯子(はしご)を借りようと、裏の果樹畑で働いておられた土地の方(農夫)に声をかけたところ、快くお貸し下さった上、当方の質問に答えて、次のように率直に話して下さった。
「あの絵馬にぽつぽつと、あちこちくっついている泥のかたまりは、わたしが子供のときつけたもんです。蜂にぶつけようとして、泥をかためて投げつけたところ、ついたんですわ」
この泥土が(十分な注意のもとに)とりのぞかれれば、図柄は一段と鮮明になるであろう。慎重、かつ手厚い保存を当地や県の文化財関係者にのぞみたい。
※※※
わたしはひとり筑後川の流域を筑紫舞探究のために遍歴した。“琴の寺”として有名な善導(ぜんどう)寺(久留米くるめ)、“舞楽の神社”として著名な玉垂宮(大善寺だいぜんじ)等。だが、どこにもわたしの求める“筑紫くぐつの舞”は現存していなかった。“噂”さえ消えていた。
その代り、某神社で遭遇した挿話は興趣が深かった。この神社には由緒正しい、「中世」以来の文書が保存されてあり、代々藩主の保護、その格式の高さが疑うべくもなく、しめされていた。京都から菅原道真が流されてきたとき、その随伴者が能楽を伝えたとの伝説。喜多(きた)流である。
神社の社家、つまり宮司の家は世襲、それと共にその能楽の家も世襲であった。一子相伝、家の長男にのみ、その伝統の技法を伝授する習わしであった。脈々として宝統は伝来されてきていたのである。
それが“絶えた”のが、敗戦によってであった。あの経済混乱の時代、能楽の家の当主は、代々伝統の能楽面や貴重な文書類を“売り食い”に使い果していったという。混乱は経済だけでなく、精神にまで至っていたのであろう。長男も家業を棄てた。当主は晩年、神事のさい、舞うには舞うたが、ただ口をもぐもぐさせるだけで、詞(ことば)は聞きとれなかった、と、氏子の中の世話役の方がいわれた。そばで「いや、あれは、忘れてしもたんですわ」と、能楽の当主と幼時より、遊びも学びも共に育ったという宮司家の当主がいわれる。「みんな“売り”に出しよったから、わたしが行って無理矢理とってきたのがこれですわ」といって並べて下さった文書や舞楽面。見事なものであった。「中世」文書には、親鸞研究のとき取り組んだ経験のある、鎌倉や室町文書の面影がくっきりと見えた。まがう方もない本物である。舞楽面も、残されたものから、“売られたもの”の秀逸さが惜しまれるていの、作品であった。
そのような「物」と「心」の荒廃の中でーーあの敗戦時の“絶望的”な混乱を知る人なら、誰しもこの名流の能楽者の心裡を“笑い”えないであろう。ーー口をもくもぐさせ、忘れた詞の切れはしを口ずさみつつ、舞いに舞いほうけていた、伝来の能楽家の当主。その舞い姿は、一幅の、歴史の“生き証人”というべきではあるまいか。あの敗戦によって、“生真面目きまじめ”に、“伝統”に生きてきた日本人が、その“生真面目さ”のために、心の心棒に与えられた、その無明(むみょう)の傷の深さの。
思えば、これは歴史の陽光を浴びていた人々のこうむった“悲劇”の証言である。
これに対して、いわば歴史のうすぐらい裏街道、あるいは人目を避けた洞窟の中、あるいは人知れぬ奥山の丸太組み舞台、そのような暗い裏場にありつづけた“筑紫くぐつの舞”は、鼻欠けの人の語る「地獄行き」への恐れと、盲者と唖者(あしゃ)の二人ぼっちの執念、薄倖(はつこう)の障害者たちの必死の伝授の糸によって、敗戦の境目をしぶとくも生きのびて今日に到達していたのである。 
2

 

このような経験ののち、わたしは筑前の現地における、文字通りの「筑紫舞」に出会う喜びをえた。
昨年(昭和五十六年)四月中旬、博多での講演のあと、熊本の菊池(きくち)氏の系流たることを誇りとされる菊池兵吾さんと“九州の神社なら、何でも”といわれる百嶋由一郎さんに導かれて、博多から糸島の神社を廻ったときである。こちらにはまた、舞の絵馬が多かった。壱岐神社(姪の浜めいのはま)や細石(さざれいし)神社(糸島)や高祖(たかす)神社(糸島)など、いずれもかつて何回か足を運んで、いわば“なじみ”深い神社である。これらの神社の拝殿には、いずれも絵馬がかけられてあり、その中にはきまったように舞の絵馬があった。筑紫における、神前の舞の伝統がしのばれるものであった。中でも細石神社、これは例の三雲遺跡、井原遺跡を裏手にした、注目すべきいわれある神社、原田大六さんの『実在した神話』(学生社)にも登場する。
ここにも「翁の舞」の絵馬があった。一人の翁が舞うている。足は、ルソソ足のように、一種屈曲した、あの足癖をしめしているかのようである。光寿斉さん伝来の「翁の舞」と同じかどうかは分らぬものの、“ここにもまた、「翁の舞」あり”の感をいだかせられた。
最大の衝撃は、すでに博多から糸島に入る、その入口で出会っていた。今宿に近いところ、小高い山地の上から神楽のような太鼓の音が聞えてきた。運転する百嶋さんに車を止めていただいて、登ってみた。熊野(くまの)神社、よくある名前である。一人の老人がいて、「今日(四月十二日)はお祭の日で、午后から神楽がある」といわれる。「どんな神楽ですか」というと、「世話役の人が下の公民館にいるから、そこで聞いて下さい」とのこと、降りてみると、横浜公民館とあり、中に世話役の人人が忙しくしておられた。神楽のことをお聞きすると、「これです」と出された、何枚かの綴(と)じ合わされたコピー。その表紙には、何と「筑紫舞覚書」と、黒々と表題が書かれているではないか。一瞬、息を飲んだ。
「カメラに撮らせていただけますか」。わたしの血相は変っていただろう。前々から西日本新聞社の学芸部の方に何回も何回も念押しして、「いや、今、こちらには『筑紫舞』などというものは伝わっていません。それを名乗っているものは、戦後新しい流派を立てた人のものだけです。戦前からのものは全くありません」と、くどいほど念押し返されていたところだったのであるから。
しかも、この神社でも、その神楽をやるのは、六十年ぶりくらいだというのである。先ほど山頂で会った老人が“説明に窮(きゅう)された”のも、無理はなかった。その千載一遇のチャンスに、わたしはめぐりあったのである。偶然の神に感謝をささげないわけにはいかなかった。
正午頃からはじまって三〜四時間つづいた神楽を見終って、わたしは興奮し、そして堪能(たんのう)した。「神供じんぐう」「高所こうしよ」「天神てんじん」「大幣おおぶさ」「御笹みざさ」「久米の舞」「両刀りようとう」「磐戸いわと」「同上」「猿舞」「猿」「同上」「問答もんどう」というような演目で演じられる数々の神楽には、たしかに“筑紫くぐつの舞”と共通する、幾多の要素が流れていた。
たとえば、楽器も、光寿斉さんからお聞きした「洞窟の舞」と大同小異の観だったが、それよりも“楽人の数が減ったな”と思うと、舞い手の数がふえている。舞い手がへると、楽人がふえる。この相関関係の流動は、光寿斉さんからお聞きした通りだった。“「筑紫くぐつの舞」は、天の岩屋の前での天のうずめの命たちの舞に淵源(えんげん)する”というのが、菊邑検校が若き光寿斉さんに与えた“自己解説”だったが、ここでも重要な演目に「磐戸」の段があった。その中に登場する天のうずめの命の仕草は、舞い手は皆男たちのはずなのに、何か色っぽく、いわばエロチシズムの系列の芸能だった。これも、あの「洞窟の舞(十三人立)」における「乙おと」の仕草と共通する、芸の伝統に属するのではないだろうか。
反面、ちがいもある。あの宮廷舞楽めいた「翁の舞」が演目になかったことはもとより、演目の一つ一っが“里神楽”風であって、しばしば幽遠の趣さえ秘める“筑紫くぐつの舞”とは異質の芸を感じさせた。
また“天孫降臨”を語る演目「猿舞」「猿」の中に、一見明白に「近世」風の“仕立て”ながら、その中に、実は「記・紀以前」とも見なすべき原要素をふくんでいたことについては、後述する。
またここでは舞楽面が使われている。しかし“筑紫くぐつの舞”では、面を使わない。芸事の好きだった、光寿斉さんのお父さん(山本十三氏)が、「『翁の舞』の面を作りましょう。一〜二か月もあったら、出来ますよ」としきりにすすめられたのに対し、菊邑検校は首を横に振り、「いりません。わたしどもの舞では、子細あって、面は使わないこととなっています」といって、承知しなかった、という。
このように共通な点と、異質な点があり、共に名乗る筑紫舞、わたしはこれに対し、「同根異系」という判断をえたのであった。そのような“異系”ながら、もとは疑うべくもなく“同根”の筑紫舞を現地に見出したこと、それは、いい知れぬ、わたしのひそかな喜びであった。
さらにわたしを喜ばせたもの、それはそのあと現われた。その神楽の演じ手たちは、その熊野神社の人たちではなかった。福岡市内の(その熊野神社も、今は行政上、福岡市内に入っているけれど)田島八幡の社中の方々だった。
“念のため”と思って、夕刻そこを訪れると、控室で質素な酒盛りが行われていた。今日、熊野神社でお見かけした舞い手、楽人の方々である。もちろん、演ずる最中は、お顔は面に隠れていたけれど、休憩中に裏のテントの楽屋にお訪ねして、お疲れのところをいろいろと質問を浴びせていたから、もう“顔なじみ”だった。
快く皆さんはわたしを迎えて下さり、さらに質問に答えて下さった。人間の中の、もっともよき性たる質朴さを失わぬ方々だった。
皆さんのお名前を書いていただいた。
長永太船越国雄柴田久米好松井勇夫西島玄洋有久直和西島博明上野正之馬場広成横尾敬治長孚(まこと)
そして「詳しいことは、船越さんにお聞き下さい。書いたものもありますから」といって、電話で連絡をとって下さった。そこで遠からぬ、そのお邸にうかがうと、快く迎えて下さった。土地の旧家である。当主、船越国雄さんと相対した。百嶋さんは車中で待っておられ、わたしと菊池さんと二人だった。そこで語られたくさぐさ、いかにこの筑紫舞を明治以来、大事に代々守り育ててきたか、それが物腰にも、口振りにも沁(し)みていた。そしてその応接の間のなげしには、明治十九年(一八八六)に書かれた“筑紫舞の由来”が表装して掲げられていたのである。それは次のようだった。
祖先船越備後守橘政重明応文亀之比(ころ)也其嫡子長重当郷之政所職にて庄司也政重当社八幡宮当村落合より奉勧請て則当社氏神八幡宮也御社修造之事于今代々司しなり明応元年より明治十九年迚*三百九十三年ニ相成代々御宮請持ニ候然ルニ当社氏神昔時由緒有之事不詳候得共万年願と志て年々旧六月朔日大神楽奉納仕来ニ而旧藩黒田公御在世之時迄ハ村方諸上納米之内ニ而神楽料米五俵宛掛り神官江渡方ニ相成神楽舞方丸*(執)行有之右舞方之儀ハ神官之職務ニ候処[二字抹消]年之比旧神官一統(カ)廃(カ)ニ相成以後士族江神官職務被仰付侯ニ付神楽舞方致候人無之候ニ付何率御神楽奉捧度願望ニ而既ニ平尾村一本木神官[雨/鶴]田春望(雲カ)より神楽伝授いたし候ニ付大神楽奉納之儀存立柴田三七諸芸功者之人ニ付舞方太鞁船越作平笛船越義雄江教導いたし居候処追々数十人相加り丸*行いたし候ニ付舞候方諸度相調候ニ付而者遠方村々候御神楽奉納之儀頼来候条罷越何も義相励舞方以外須(いたす)事にて稠敷称美いたし候猶又光雲神社江御神楽奉納いたし候処右御社請持祠官沢辺利彦祠掌森方両作同石松新六郎会計長岡利予叟(?)会計掛り河村次兵衛右之面々より湯塩式舞方丸*行出来可致哉と尋ニ相成候ニ付湯塩式伝授致居不申候間教導出来可致者中教院申合遂穿鑿当御社江呼出各江伝授為致可申旨談ニ相成居候処旧神官左之面々呼出ニ相成候向間嘉麻郡頴田村(?)有光晴雄穂波郡椿村秀村永信同郡潤野村青柳貞延右三人呼出ニ相成居候趣ニ而申合早々出方いたし候様申来候条申合早速罷出お御社内一周間湯塩式其外ニも伝授いたし其上一周間滞留中諸雑費賄等迚*教導方三人同様御社請持より心配ニ而御蔭を以毎事伝授いたし誠以難有次第ニ候且又光雲神社江毎年三月八月両度之御神楽一度ハ湯塩式奉捧事ニ候左候得ハ御社掛りより此御神楽舞方之儀者筑紫舞と相唱可然趣申談有之候間以後筑紫舞と相唱候事
但社組之面々左之通ニ候間爰(ここ)ニ相記置候事
社長
船越武四郎柴田三七船越作平
船越義雄金替源太郎西嶋七作
田丸甚平西嶋幾次郎西嶋幸吉
上野磯熊宮田承船越龍助
志賀徳次郎横田市郎大賀与四郎
金替七次郎大穂益司柴田武三郎
右前記之通祖先より代々御宮請持ニ付御神楽奉捧度累年之願望ニ候処社組相立社長ニ候被相立且ハ光雲神社請持之面々よりも殊之外配慮有之居候ニ付先々承知罷在度候条爰ニ相記置候もの奈利
船越武四郎政重
明治十九年八月
井上又七敬書
〈脇田修さんの解読による〉
迚*は、中の代わりに占。JIS第4水準ユニコード8FE0
丸*は、手編に丸。執の別字。ユニコード6267
[雨/鶴]田春雲氏の[雨/鶴]は、雨の下に鶴。第3水準ユニコード974F
候(青字)は、()字です。
その要点は次のようだ。
“明治以前には、筑紫の各神社の神官が神楽を行ってきた。ところが、明治の一新によって神社の制度が変り、それができぬようになった。そこでその神楽の断絶を恐れ、田島八幡の社中の老が寄り集まり、平尾村の一本木の神官である[雨/鶴]田春雲(望か)のところへ参って、その神楽舞の伝授をうけ、爾後、これを「筑紫舞」として伝えることとした。その社長は船越武四郎、社中は柴田三七以下十七名”と(これを「湯塩式」と呼ぶ)。
明治十九年の年時つきの文書であるから、この時点における来歴が明らかであり、貴重である。
ここで一つの問題は、「筑紫舞」という名称である。「御社掛りより此御神楽舞の儀は、筑紫舞と相唱(あいとな)ふ、然(さ)る可き趣、申し談ずること之有り候間、以後筑紫舞と相唱へ候事」という表現からは、
“この時以来「筑紫舞」という名を言いはじめた”という意味にも、一見とれる。しかしそれは「御社掛り」の指示によるものであり、彼等(田島八幡社中)の“創唱”ではない。そして何よりもこれは“筑紫の神社の神官たちが行ってきた神楽舞”というのであるから、その実体がまさに「筑紫舞」と呼ぶにふさわしいこと、この一事に誰しも異論はないであろう。
一方、“筑紫くぐつの舞”は、菊邑検校によって「筑紫舞」もしくは「筑紫振(ぶ)り」(この表現を検校は好んで用いたという。光寿斉さんによる。ただ「筑紫振り」の方は他の流派の舞を「筑紫舞」独自のリズムで演ずる場合にも、用いうる)として伝えられている。名称からも、否、それ以上にその実体からしても、両老が異系ながら同根に属すること、それをわたしは認めざるをえなかったのである。
なお田島八幡の筑紫舞について、次の点、付記したい。
一、毎年七月の最初の日曜日(前後に移動することあり)、田島八幡で行われる。
一、田島八幡で行われるのみでなく、他の神社(たとえば熊野神社のように)に呼ばれて演ずることがある。
一、高祖神社(糸島郡)の神楽や朝倉内の神社で行われた神楽なども、田島八幡の神楽と大変よく似かよっているようである(船越国雄氏等の証言による)。
※※※
“筑紫くくつの舞”ーーわたしはその身元に一段と迫りうる史料に到達した。
熊本市内に住む平野雅曠さんのもとを訪れたのは、昭和五十六年の夏前のことであった。平野さんはかつてわたしのもとにお便りを寄せられ、わたしが『失われた九州王朝』で論じた「九州年号」問題について、貴重な反応をしめして下さった方だった。江戸時代には、現在の「邪馬台国」問題のように論争の的となった「年号」問題、ここには日本の古代史の根幹をゆるがす震源地があった。わたしが提起した「九州年号実在」の論証、それが成立したとすれば、九州王朝の実在は確証される。逆にその論証が虚妄であれば、わたしの九州王朝論にはにわかに重要な不信任状がつきつけられることになろう。ーーしかし誰一人、古代史学の学者たちは賛否の声を出さず、もっばら「黙殺」につとめてきた。
その中で在野の平野さんは、『肥後国誌』の中で、各神社等の創建などの縁起をのべるさいに、くりかえし、この九州年号が用いられている事実に着目され、わたしに知らせて下さったのだった(のち、みずから季刊「邪馬台国」四に「九州年号について」の論文を寄稿)。
その平野さんにお会いすると共に、当の『肥後国誌』自体を拝見したい。それがわたしの願いとするところだった。今は引退後の悠悠自適の生活の中にある平野さんは、快くわたしの願いを承諾して下さった。そして言われた。「ですが、わたしの挙げた、あの例以外には、九州年号の例は、もうないと思いますよ」と。
もちろん、そうであろう。しかし、わたしには二つの目的があった。一つは、当の、九州年号に依拠した文章だけでなく、全体の史料性格を知りたいこと。もう一つは“もしや、筑紫舞に関連した記事はないか”という一点にあったのである。
御厚意に甘えて、強引にも、部厚い、何冊もの重い本、念願の『肥後国誌』をお借りして帰った。そして一枚一枚めくるうち、そこに次の記事を見出したのである。
〈菊池郡、中通郷、北宮村〉
北宮大明神
祭。北宮村ハ十一月廿一日、隈府(わいふ)町ハ九月九日。社人、緒方和泉・石川石見。
社記云、後円融帝永和四年八月、菊池家十六代肥後守武政、阿蘇北ノ宮ヲ勧請ス。古ハ寄附ノ社領・神宝等有シモ、薩州勢乱入ノ時、悉ク奪却ス。征西将軍御寄進錦ノ旗ハ此時紛失シ、軍配・団扇ノミ残レリ。形チ小ニシテ質素ノ古物也。当社ハ北宮村・隈府町等ノ氏神ニテ当郡鎮護ノ神ト云。菊池家全盛ノ比(コロ)ハ、九月九日祭礼ニ、社ヨリ西ニ方(あた)ッテ山ヲ飭(かざ)リ、神輿(しんよ)御幸アリテ、翁ヲ渡シ能式ヲ勤ム。即チ此能ヲ山ノ能ト云リ。其旧跡今ニ北宮村下ニ能場(のうば)ト云所アリ。菊池家断絶ノ後、能式モ絶タリ。伝来ノ翁ノ面二ッアリ、春日作ト云伝フ。又痩男(やせおとこ)ノ面アリ、カワズト名(なづ)ク作者不知、一説ニ、ヒビノ作ト云。
翁面、天正六年薩州へ奪レシヲ、同七年ニ取返セシ□(こと)アリ。事長ケレハ、附録ニ出ス、可考合。
○翕巷(きゅうこう)云、本書ニハ此項末ニ附録ヲ掲載ス、可併見。(中略)
(補)陣迹誌(じんせきし)曰、北宮大明神社ハ北宮村ニアリ。阿蘇北宮ヲ勧請アリ。菊池家全盛ノ時分ハ祭礼モ賑々敷(にぎにぎしく)、行幸場ニ出座アリテ能ナト見物アリ。
行幸場ト云ハ、北宮ノ未申(ひつじさる)ノ川上道ノ北ニ二反余ノ屋敷アリ。今ニ名ヲ桟敷場ト云。神輿行幸アリテ能興行アリ。因(より)テ行幸能場臣□(とも)云。菊池氏ノ桟敷掛リシ所也。村々ニヲ、セテ柴山ヲ出(いだ)サス。古記ニ、河原村ヨリ柴山三ツ奉ル、トアリ。此柴山ト云フハ屋台ナリ。屋台ニ種々ノ飾物ヲ作リ奉納セシ也。故ニ能ヲ山ノ能ト云。又深川村ノ田ノ中ニ少シ堆(うずたか)キ所アリ、神輿ヲ休メ奉ル仮殿ノ跡也。今ニ其所ヲミコシヤスメト云。又北宮村ノ西深川村ノ界ニ通リタル道、今モ地方ノ下ケ名(みよう)ヲ上市場・下市場ト云フ、神輿通リタル道ニテ市立タル所ナリ。
薩軍乱妨奪却、社殿焼失。古記・社記等什物等、紛冗。唯懐良親王奉納ノ軍配・団扇ト楼門ノミ残レリ。
勧請以来ノ古物、今矢(いまや)大神ノ在(いま)ス門也。
神躰(しんたい)此門ニ在スコト年久シ、明暦二年再建。(中略)
本書附録曰、北宮大明神ノ翁面ハ、天正六年四月十八日龍造寺隆信舎弟政家ニ軍兵二千相添へ隈府城ニ押寄セ、赤星道半ヲ攻陥シ、隈部(くまべ)親永ニ城ヲ渡シテ帰陣ス。道半無念ニ思ヒ、島津ヲ憑(たの)ミ隈部ヲ討ント謀リ、翌天正七年三月廿一日薩州ヨリ人数ヲ差越ス。(中略)此時、隈府ノ翁ノ面ヲ薩兵ニ奪ハル。菊池家ヨリ伝来スル当社ノ霊宝ヲ他国ニ奪ハレ、本意ナク思ヒ、取返シテ再ヒ隈府ノ霊宝ト為(せ)ントテ、其時ノ能太夫藤吉雅楽(ふじよしががく)ト云者ヲ薩摩ニ遣ハシ、彼ノ面ノ行衛ヲ尋ルニ、雅楽彼地ニ留ルコト二年ニシテ彼翁面ハ薩州ヨリ当国八代(やつしろ)ニ渡セシ由ヲ聴テ、隈府ニ帰リ座中ニ談シ、白銀ヲ以テ八代ヨリ買返シ、再ヒ隈府ノ霊宝トナレリ。然ル処ニ雅楽カ孫、外記(げき後改、甚左衛門)ノ代ニ至リ、寛文三年六月隈府座中ト翁面ヲ争ヒ、公事(くじ)ニ及フ。其子細ハ、外記カ祖父雅楽カ面ナル故、其譲リヲ受シト云。座中ハ、菊池殿ヨリ座中へ下賜シト云テ、理非不分明ナル故、佐藤京岩・加藤宗慶ト云モノ曖(あい)ニテ白銀二百目ヲ外記ニ遣ハシ、和平トナル。此白銀ハ、宗(そうカ)善右衛門重次ト云者出シタリト云。亦当社モ右薩州勢乱入ノ時、回禄(かいろく)ニ罹(かか)リ、楼門ノミ残リシヲ神殿ニ用フ。天正六年ヨリ明暦二年迄七十九年ヲ経ヘ、神殿・拝殿・末社迄、宗重次建立之。今ノ楼門ハ菊池武政ノ建立ト云伝へ、右神殿ニ用タルト云ハ此楼門也。(『肥後国誌』巻之六。読点・振仮名は古田)
□(こと)は、()字です。
□(とも)は、()字です。
ここでいっている要点は、次の内容だ。個条書きしてみよう。
(一)菊池郡の北宮で「山の能」と称する舞楽が行われており、その中心に「翁の舞楽(能)」があった。
(二)隈府(現、菊池市)の隈部と薩摩の島津家と戦争したとき、島津の軍隊が攻め来たり、「翁の舞楽」に使う「翁面」を戦利品として持ち帰った。
(三)戦争が終ったあと、隈府の能太夫の藤吉雅楽は、その「翁舞」の能面を返してもらうために島津家に行って懇請したところ、島津家では「もはや八代に返した」とのことであった。
(四)能太夫の雅楽は、八代へおもむき、その能面を返してもらって帰ってきた。
(五)ところがその後、隈府で「山の能」を伝承していた座中が、その「翁の舞楽」の能面は自分たちのものであると主張してゆずらなかった。
(六)そこで能太夫の雅楽の孫の外記(後、甚左衛門と改む)のとき、宗善右衛門重次から出された白銀二百目の金子によって、隈府座中との間で、公事(訴訟)が解決した。
(七)しかしその後、菊池家の滅亡と共に、この能式は後を絶った。今、北宮村下に能場(のうば)という字(あざ)地名が残っているが、それは当時の能舞台の痕跡である。
以上のようだ。
この各条を検討し、問題の“筑後のくぐつの舞”と対比してみると、見のがしえぬ関連があるようである。
第一に、「山の能」の「翁面」が中心のテーマになっている点、この伝統的な舞の中枢を占めるものは、「翁の舞楽」であった。この点、“筑紫くぐつの舞”の場合と一致する、何よりの共通点である。
第二に、その「翁の舞楽」は“能舞台で能太夫が演じた”とされている。この点も、わたしの見た、“筑紫くぐつの舞”における「翁の舞」が荘厳な奉納舞楽としての能的な形姿をもっている点と、様態がよく一致している。
第三に、“筑紫くぐつの舞”の中枢たる「翁の舞」は、常に(三人立〈この点、後述ーーあとがき〉、五人立、七人立とも)「肥後の翁」を中心として舞う形になっている。これは“古墳後期における、九州王朝の中枢が肥後にあった(装飾古墳の分布)”という命題との関係においても、興味深いが、やはり何よりもこの舞が「筑紫舞」とか「筑紫振り」の名にもかかわらず、“肥後を中心的な伝承地としていた歴史にかかわるもの”と見なすのが、この舞楽の伝承の基本条件として、もっとも自然であろう。
その点、肥後の名門であった菊池家の系流において、伝承されていた「山の能」の中枢たる「翁の舞楽」の場合、まさにこの基本条件と相応している。
第四に、興味深い問題は、寛文(かんぶん)三年(一六六三)六月に生じた、隈府座中と雅楽の孫、外記との間の“翁面争い”の公事である。
その結果、“金(白銀二百目)は外記へ”“「翁面」は隈府座中へ”(あるいは、その逆か)と渡って結着したようであるけれども、その後「甚左衛門」と改名したあとの外記の側では、“能太夫家の伝統”としての舞楽は果して絶えたのか、という問題である。換言すれば、菊池家のお家芸として断絶したのは、“翁面を所有した”側だけではなかったのか、という問題である(関係年譜、参照)。
関係年譜
〈南北朝〉永和4(1378)阿蘇北ノ宮勧請(菊池第十六代)
〈戦国〉天正6(1578)龍造寺の隈府攻撃
天正7(1579)島津の隈府攻撃。「翁面」を奪い去る
天正15(1587)豊臣秀吉の九州平定。菊池家滅亡。(佐々成政。→加藤清正と後を継ぐ。→細川忠利。)
〈江戸〉明暦2(1656)北宮神社の拝殿再建。(願主、宗善右衛門重次)
寛文3(1663)「翁面」の公事。
第五に、右の点に関連して注目すべきは、「翁面」の不使用問題である。先にのべたように、“筑紫くぐつの舞”では、面を使用しない。この一点において、田島八幡の「筑紫舞」などとは、全く様相を異にしている。そして菊邑検校は、「わたしどもは、子細あって、面を使わぬことになっています」とのべて、「面の不使用」を強調し、厳守していた、という。
これは、右の「隈府座中と外記との『翁面』の公事」の結末と何らかの関係が存在しないか、という問題である(たとえば「翁面使用権限の独占」など)。この点に関しては、むろん、何らの断定はなしえないけれども、『肥後国誌』の伝える「翁面をめぐるトラブル」と「翁面不使用の翁舞」という、今日の“筑紫くぐつの舞”のしめす特異の姿、その両者の間には見のがしえぬ問題をふくんでいるように思われる。
第六、右はもちろん“筑紫くぐつの舞”が“菊池家内の「山の能」の中の一異流である”と考えた場合の推定である。
これに対し、もう一つの(あるいは、より自然な)可能性は、“山の能が菊池家の舞楽として流入する以前”において、すでに早くから存在していた源流の中に、この“筑紫くぐつの舞”を位置づけることである。なぜなら“肥後の翁を中心とする筑紫舞”という姿は、すなわちこの舞楽が何らかの段階で“筑紫〜肥後”の間の移転を生じたものであることをしめしている。そしてそのさい、「(A)肥後流入(あるいは原存在)」と「(B)菊池家流入」とが別個であるケースを考えると、この(A)以前にすでに別流(むしろ、本流としての(A))の存在したケースも、当然考えうるからである。
この場合、表(菊池家)に“翁面使用の舞楽”、裏(在野)に“翁面不使用の舞楽”の二系流が肥後に存在し、菊池家の断絶と共に滅亡したのは、前者のみ、という帰結となるであろう。
けれどもわたしたちは、この問題に関して、さらに慎重であるべきではないか、と思われる。なぜなら“菊池家伝来の「山の能」”そのものが現存せぬ以上、これと“筑紫くぐつの翁の舞”との異同は、(田島八幡の「筑紫舞」の場合と異なり)実証的に確認すべくもないからである。であるから、この「山の能」における「翁」が、いわゆる通例の能楽における「翁」、すなわち「翁」「三番叟さんばそう」「父尉ちちのじょう」「延命冠者えんめいかじゃ」「千歳せんざい」のごとき演目、また「白式尉はくしきじょう」を指す、といった、日本芸能史上の常識によって解すべし、とする立場も十分に顧慮すべきこと、いうまでもない。
しかしながらこれら現今の“中央の能楽”は、その祖形と淵源を全国各在地の神楽・舞楽にもっていることもまた、同じく芸能史上、十分に承認された理解である。たとえば三信遠地方(愛知・長野・静岡県)の「田楽でんがくの翁」・御田(おんだ)祭(高知県室戸市)の「翁」、鴨川住吉(かもがわすみよし)神社の祭(兵庫県加東かとう郡)の「翁」・北設楽(しだら)郡各部落(愛知県)の「花祭の翁」等、幾多数えうる(『ジャポニカ』参照)。とすれば、中国の先進芸能・中央儀礼の影響を早く受けた九州において、日本列島内のいわゆる「中央の能楽」以前の、独自の「翁」の舞楽が存在していたとしても、思うに、それは何等他奇(不思議)のない事態なのではあるまいか。今後の芸能史研究において、わたしたちはながらく固定化されてきた“近畿(天皇家)中心主義芸能史観”から、豊かなる“多元主義芸能史観”へと、新たな史眼への転換を迫られているのではないかと思われる。
少なくともわたしたちは、次の事実を確認しうるであろう。それは九州の肥後の地において、“神前における翁の舞の奉納”という儀礼が厳に存在した事実である。その一事は、この“肥後中心”の趣深い“筑紫くぐつの舞”が、かつてこの地の中に生い育ったこと、その宗教史及び芸能史上の精神的背景を、意味深く証言しているものではあるまいか(これとは別個のようであるが、菊池神社の奉納神事として、「御松囃子能おんまつばやしのう」〈熊本県指定文化財〉の存することは著名。これも当地の芸能伝統を証するものであろう) 
3

 

“肥後で演ぜられてきたから、「肥後の翁」が舞い手の中心とされた”このような発想に対し、あるいはこれを“安直”として、疑う人もあるかもしれぬ。しかしながら民間的伝承や古典的劇作の作法において、これはいわば“常套(じょうとう)的な手法”といっていいのである。
その端的な例を、わたしは田島八幡の社中による「筑紫舞」(前出、横浜の熊野神社で初見)の中において、見ることができた。「天孫降臨」を語る、その舞台の中に、“見馴(みな)れぬ”人物が登場する。「中富なかとみ親王」がこれである。
「猿」
中富親王、細姫命(うずめのみこと)を呼ぶ。「細姫命よ、お在(あ)しまする」
細姫命「中富親王の御声として、細姫命やあれ応(おお)せ候は、抑(そも)何の御為(おんため)にて候」
中富親王「これ迄招じ申す事、別の仔細(しさい)に非ず。ぜんくけいさつ(「前駆・警察」かーー古田)の神、御幸(みゆき)の先を払う処(ところ)、こゝに一つの神あって、問えども答えず、追えども退ぞかず、口赤く瞳(ひとみ)の光は、明鏡の如くと申すなり。細姫命ならでは、事問うものにあらず。早々(はやはや)出向(いでむか)って、事のしようぞく(「消息」かーー古田)御覧あれかしあれかし」
細姫命「さあらば、其の神、学び申さん」
このように“おなじみ”の「うずめの命」や「猿(猿田彦命さるたひこのみこと)」の神名の間に、突如この人物が“介入”してきて、重要な(「うずめ」に命を下す)役割を演じているのである。しかも神楽の進行の中において、この「中富親王」なる人物が何者か、一切“説明”はない。例の「筑紫舞覚書」という、いわば神楽の“台本集”の中においても、一切の“説明抜き”で登場している。
そこで、神楽の中休みのとき、裏の演じ手(社中)の長老の方(長永太さん)におたずねしたところ、「神主の祖先じゃということですわ」との返事であった。のちに船越国雄さんにおたずねしたところ、「天孫降臨の侍従官」とのことであった。
ではなぜ、そのような“目立つ”役柄に、“神主の祖先”に当る人物が登場するのか。その答えは、わたしには、実は容易であるように思われる。
なぜなら、“この田島八幡社中伝持の「筑紫舞」は、実は中富親王系の中枢者たちによって、中富親王の勢力下の人々を前にして演ぜられてきた、という歴史的経緯の反映である”。そのように見なして先ず大きな狂いはない、わたしにはそのように思われるからである。
当初、これを“演ずる”人々にとっては当然、「中富親王」とは、自明の登場人物であった。そしてそれを“見る”側の多くの人々にとってもまた。
わたしがこの神楽に遭うた当日、横浜の熊野神社の境内を埋めていた、弁当や酒や菓子持参で楽しみにきている熊野神社の氏子の家族の人々の多くは、もはや「中富親王」なる存在が何者かを知らないであろう。
けれども当初は、そうではなかった。“演ずる”人たちは、中富親王という、あまりにも“知れわたった”著名の人物を“解説なし”で演ずることに何の不思議も覚えなかったであろうし、また“見る”群衆も、自分たちにとって崇敬すべき、その人があの「天孫降臨」の場において、枢要な役割を演じていることに深い満足感を覚えつつ、これを“鑑賞”したことと思われる。ズバリ、遠慮なくいわせてもらえば、この筑紫舞という神楽の場は、同時に“中富親王の偉大さ”の、一年一度のPRの場であり、ひいてはその系列を引く自分たち集団の“身元のたしかさ”を大衆的な規模において確認する場だったのである。
※※※
この中富親王について、同行の百嶋由一郎さんは、“「中臣なかとみ神道」の関係ではないか。”と示唆された。それも有力な一仮説と思われる。
中富姓分布(福岡県)
福岡市八六
筑後市四一
北九州市一九
久留米市一一
粕屋郡一〇
宗像市九
田川郡七
大牟田市七 (以下略)
昭和五七年二〜三月〈電話帳による、堀内昭彦氏調査〉
ところが、親友の、筑紫野市在住の堀内昭彦君から「博多の電話番号帳には、中富姓がかなり多いよ」と示唆され、わたしは後日、彼に依頼して、その写しを送ってもらった。それによって作製した分布図を上にかかげる。
この中富姓と中富親王との関連の有無、それは今後の興深き課題であろう。
※※※
けれどもこのような姿は、別段、博多で今日行われている、この「筑紫舞」だけの話ではない。わたしたち一般の日本人には、一見“正統的”であり、まことに“身元正しく”かつ“由緒深く”見える、あの『古事記』『日本書紀』の神話の中にも、同じような“自己集団のPR”いわば一種の“身びいきの手法”が、歴々と姿を現わしているのむ見るのである。たとえば、
「爾(ここ)に天照大御神、高木神の命以(も)ちて、太子正勝吾勝勝(まさかつあかつかち)速日天忍穂耳命(はやひあまのおしほみみのみこと)に詔(の)りて『今、葦原中国を平げ訖(お)えぬと白(もう)せり。故に、言依(ことよ)さし賜ひし随(まま)に、降り坐(ま)して知らせ。』と」(『古事記』天孫誕生)
というように、「高木神たかきのかみ」という神が、主神たる天照大神と相並んで登場する。つまりいわば彼女と同格であり、「天孫降臨」の邇邇芸(ににぎの)命は、彼女の息子(天忍穗耳命)と彼の娘(万幡豊秋津師比売命よろずはたとよあきつひめのみこと)との間にもうけられた子、という形になっていながら、この高木神自身に関する説話は、一切姿を現わさない。たとえば天照大神が須佐之男命(すさのおのみこと)や月読(つくよみの)命と共に、海辺で誕生する経緯は、詳しく記・紀神話中にのべられているのに、その天照大神と“同格”のはずの高木神については、一切その出生地も、出生の仕方も、分らない(高木神と高御産巣日神たかみむすびのかみとの異同については、別に論ずる)。天照大神の場合の天の岩屋のような、“高木神にまつわる独自の説話”もない。従ってその意味では、一種“性格不明の神”のていを呈しているのである。はしばしの神々とは異なり、枢要の位置を占める神であるだけに、この現象は不思議である。
また近畿天皇家内で、のちのち(六〜八世紀)この神が特に重要視してまつられている、という形跡もないから、「記・紀神話は、六〜八世紀の、近畿天皇家内の史官の造作」という、津田史学(ひいては、戦後の「定説」派史学)の命題からも、理解不可能である。このようによく見つめれば見つめるほど、この「高木神」問題は不可解の様相を呈しているのである。
けれども今、右の「中富親王の論理」をもって解するとき、事態はきわめて明快である。
第一に、この神話(記・紀神話)が形成された場は、高木神を枢要な信仰対象としている領域においてであった。
第二に、この神話を“語る”側の人(権力者側の語り手)にとっても、また“聞く”側の民衆(被統治者側)にとっても、「高木神」の名は、あまりにも著名であり、その神の出生・由来・神格等の“解説”は、全く不必要であった。
第三に、そして彼らは、自分たちにとって枢要な神である「高木神」が、あの「天孫誕生や降臨」の場で、主要な役柄をもっていることに対して深い満足を覚えた。それはまた“高木神を崇敬する集団の身元のたしかさと尊厳さ”をPRすべき絶好の題材であった。
以上のような理解が必然にえられるであろう。
では、「高木神」が崇敬されている領域とは、どこか。それは、先の柿原古墳の神社が高木神社であったことからも知られるように、筑紫一円、ことに筑後川流域がその中枢をなしていたのである(安本美典氏もかつて、朝倉を中心とする筑紫にこの神社の分布を説かれた)。
高木神社〈福岡県。福岡県神社誌による〉
〈朝倉郡〉(大字)(字)
高木村黒川宮園
高木村佐田元村
把木町白木宮ノ前
松末村赤谷前田
宝珠山村宝珠山大行司
小石原村小石原東宮山
小石原村鼓東
〈田川郡〉
津野村正護山
津野村津野宮床
彦山村落合宝流
〈筑紫郡〉
御笠村天山山畑
御笠村大石上ノ屋敷
〈嘉穂郡〉
宮野村桑野普門司
宮野村桑野神有
〈京都郡〉
伊良原村上伊良原向田
伊良原村下伊良原荒良鬼山
すなわち、この種の神話がこの「高木神の勢力分布領域」において語られ、増幅されていたことをしめしているのである。
※※※
このように検してくれば、今問題の“筑紫くぐつの翁の舞”における「肥後の翁」の中枢的役割についても、別段不思議とすべきものではないことが知られよう。
本来、記・紀神話の全体すら、“天照大神を始祖とする”と称する、後来の近畿天皇家の“自己PR文書”と見なすこと、それは決して奇矯の見地ではなく、むしろ神話理解の本筋なのである。
いいかえれば、記・紀神話は、日本列島内の幾多の始祖神話、幾多の国生み神話、幾多の神々の体系の神話群の中の、その一つであり、それらの中の“天照大神を始祖とする”と称した一派たる、近畿天皇家系の神話群たるにすぎぬ。このような客観的、かつ巨視的な視野こそ、天皇家一元主義に非ず、多元主義的な客観的神話理解への道を開く、根本不可欠の基石である。わたしはそのように考える。
いいかえれば、記・紀神話が、一見日本の代表の神話であるかの観をもち、“日本最古の古典”のていを呈しているのは、とりもなおさず、八世紀から二十世紀にわたる長大な時問の流れの中で、天皇家が権威と勢威をふるいつづけてきた、その歴史的経緯の反映、その“権勢史の証言”に他ならないのであった。
このように考えきたるとき、“筑紫くぐつの翁の舞”における「肥後の翁、中心主義」は、同様に決して一朝一夕の産物ではないことが知られよう。長大な期間にわたる、肥後における演じ手と、同じく肥後における観衆との間における、育成の年月の歴史を背景としなければ、到底理解しうるものではない。
それは“肥後人の身びいきの所業”などとして軽視せらるべきものでは、決してない。それどころか、近畿天皇家によって「独占」されてきた権力中枢、すなわち近畿なる「都」に関する伝承と教養とは、全く異なった権力の系流、すなわち別種の「都」に関する伝承を、今に至るまではるけくも伝えきたっていたものなのであった。
最後に論をすすめるべきは、核心をなす次の一点である。
そのように長期にわたって“肥後の内部”において育成されてきており、その性格が深く刻印された、この“筑紫くぐつの舞”が、なぜ「肥後舞」とか「肥後振り」とかいわれずに、筑紫舞と呼ばれ、「筑紫振り」として伝えられてきたか、という問いだ。
それは他でもない、“「肥後」の他に「都」があり、それは筑紫にある。”この動かし能(あた)わぬ、根本の認識であった。それこそわたしが最初、光寿斉さんから筑紫舞の中枢をなす「翁の舞」の諸国の翁の配置を聞いたとき、深く直観させられたところだったのである。
数奇な推理小説の終りには、数奇なドンデン返しがある。それは人の知る通りだ。だが、わたし自身、小説ならぬ、現実の筑紫舞の探究の中で、このようなドンデン返しに遭おうとは。ついぞ予測しえなかったのである。
筑紫舞に関して、なお念のため、確認すべき、幾つかの手つづきが残っていた。その一つは、例の「馬車鉄道」の件である。わたしには、未知・未見のものだったが、それは果してどのような形で福岡県に存在していたのか、裏をとってみなければならない、と思った。菊邑検校やケイさんに関する探索には時間とエネルギーを傾注していた間、このテーマが残っていたのだった。
そこで博多の読者、永井彰子さんに調査をお願いした。永井さんは昨年(昭和五十六年)三〜四月の中国旅行で御一緒した方であるが、東北大学の卒業、わたしの“後輩”に当っておられた。「主婦業が大好き」と口癖のようにおっしゃる方だが、社会学科の出身であるだけに、こうした調査は“お手のもの”かもしれない。そこでお願いしてみた。そのお答えが来たのが、四月末。そこには次のような表が書かれていた。
県下で鉄道馬車が通っていたのは次の三か所。
(1)北九州市きたかた線
明治三十九年六月馬車鉄道として発足
大正九年電化
現在廃止
(2)太宰府馬車鉄道
明治三十五年三月二十八日発足
明治四十年軌道化
大正二年一月SL化
昭和二年九月電化
(3)津屋崎(つやざき)鉄道
明治四十一年四月津屋崎馬車鉄道として発足。福間・宮の前を通り、寺の横をすぎて津屋崎まで。
大正十三年合併。博多湾鉄道が買収。
昭和十四年廃止
(西鉄電車局、山本さんによる)
これを読んで、わたしの血は逆流した。青ざめていたにちがいない。これが事実なら、昭和十一年の秋という時点で、“生きて動いていた”のは、津屋崎鉄道だけだ。太宰府ーー朝倉間の馬車鉄道など、すでに姿を消して、年久しいのである。そしてこの記録は、西日本鉄道の当資料担当の方によるものだというから、当地の関係会社に残された公的な記録だ。先ずまちがいはありえない。事実だ。とすれば、問題の洞窟は「朝倉」ではありえないのである。
わたし自身、この二年間、朝倉と思いつづけてきた。その地方を探索して歩いた。わたしだけではない。大阪の「古田武彦を囲む会」の丸山晋司さんなども、柿原古墳やその周辺を訪ねられていた。その立場で書いた草稿もすでにわたしの手元にある。だのにーー。
しかし、当然ながら、大切なのは、真実だけだ。他の一切はひっきょう顧慮に値しない。わたしはすぐ永井さんのお宅にお電話した。そして「津屋崎の馬車鉄道の写真は手に入りませんか」と、お願いした。「探してみますわ」。そう約束して下さった。
一方、西山村さんのお宅にお電話し、ことの子細を告げた。いや、告げる前に、もう一度、当時の状況を精(くわ)しくお聞きした。そして確認しえたこと、それは、
第一、太宰府に一泊したこと。
第二、翌朝、のろい汽車に乗ったこと。
第三、馬の引っぱった車に乗ったこと。
第四、降りて歩いて洞窟の前に出たこと。
の四点だった。「朝倉云々」は、あの「西日本新聞」の学芸部の方の少年体験から“新たに提出された地名”だったのである。西山村さん自身に、「朝倉へ行った」という地名の記憶は存在していなかった。わたしは言った。「では、単なる、お百姓さんの馬車だったかもしれませんね」。「そうですね。そうとも考えられます。ですが、その馬のひいた車は、とても変っていました。屋根があって、窓が両側についていました。その両側の下のところで棚のようなものが内側についていて、そこに腰をかけました。片側に五〜六人坐れるくらいのものです。わたしは十四、五歳の少女でしたから、楽に坐れましたが、大人の人はお尻(しり)がはみ出しそうな感じでした。その車体の幅は、わたしが両手をひろげると、両側に着くほどの、狭いものでした。馭者(ぎょしゃ)は鞭(むち)をもっていました。
動き出すと、うしろからかすりの着物を着た少年が二人、車にしがみついてきました。やがて車がはやくなると、年下の方の少年の手が離れて、下にころびました。年上の少年も手をはなして、助けおこし、二人で歩いてきました。わたしは窓から顔を出して、それを見ていましたので、馭者のおじさんに、『車をとめて。乗せてあげたら』と叫びました。でも、おじさんは、何か九州弁で『そんなの、ほっとけ』というような感じのことを言って、そのままスピードをあげてゆきました。わたしは『九州の人て、冷たいんやわあ』と思ったのをおぼえています」
西山村さんの記憶力には、いつも驚かされていたけれど、これはまことに戦前の田舎の、一幅の叙景詩のようであった。
けれども、わたしのその驚きは、やがて永井さんより送られてきた津屋崎馬車鉄道の写真を見たとき、さらに極まった。その写真とその解説の文は、まさに西山村さんの記憶通り、のものだったのである。
「学校帰りの腕白小僧が走り寄って、車のうしろに吊らママ下って、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)をきめこむのを馭者が見つけて、鞭を振り上げ大きな声で『こらッ』と怒鳴ると、馬が驚いて、一きわ白い息を吐きながら走り出す」(上妻国雄氏『宗像風物詩』コロニー印刷、昭和五十年十一月刊、一六ぺージ)
わたしは、若き西山村さんの乗ったものが、“お百姓さんの馬車”などではなく、この「馬車鉄道」そのものであることを確認せざるをえなかった。つまり、昭和十一年の秋、という時点、他の二つの馬車鉄道は、すでに消え去って年久しかった。他ならぬ、この津屋崎馬車鉄道、これが西山村さんの辿(たど)られた、真のコースだったのである。
では、その沿線の洞窟とはどこか。
わたしは新しい謎(なぞ)の前に茫然(ぼうぜん)と立ちすくむ思いだった。だが、五月上旬末、博多・北九州市で講演のあったのを機に、全力で行動しつづけた。いや、わたしの力ではない。博多の読者の方々(橋田薫・西俣康・永井彰子・井手馬左也・池口節子氏等)、津屋崎町や宮司の土地の方々(上妻保・安部六郎・田中香苗・原田活男氏等)の献身的、また篤実の御協力によって、新たな扉は意外に早く開かれたのである。
津屋崎馬車鉄道は、福間(ふくま博多の箱崎の東)から宮地嶽(みやじだけ)を経て津屋崎まで。博多からその福間までは、まさに“のろい汽車”がついていて、その補完として周辺の村々(宗像むなかた郡吉武よしたけ村・河東かとう村・東郷とうごう村、鞍手くらて郡西川にしかわ村・古月ふるつき村)が協力して設立したものだった。両市の講演会の聴衆で、年輩の方々の中には、さすがに「わたしもよく乗った」という経験者が少なくなかった。そして大切なこと、それは宮地嶽神社前に停留所があり、ここが主要な“降り口”となっていたことである。
さて、洞窟。土地鑑のないわたしには、茫漠(ぼうばく)として見えていたが、宮地嶽神社の権禰宜(ごんのねぎ)の管田圭秀さんや土地(津屋崎町)の方々にお聞きすると、侯補地は二つしかなかった。一は、有名な宮地嶽古墳。深さが二二(あるいは二三メートル)もあり、現存の開口横穴石室中、最大を誇る。わたしも数年前、来たことがあった(そのときは自由に出入りでき、普段は子供の遊び場にも、という感じであったけれども、今回は入口に不動さんの拝殿のようなものが作られ、様相が一変していた)。
二は、波切不動(なみきりふどう)。馬鉄下車地より約二キロ、やはり古墳の横穴石室だが、外観、大きさ、共にあの柿原古墳とよく似ていた手光(てびか)古墳といい、深さ約一一メートル。高さ約一・五メートル、幅約一・三メートル、奥行約一一メートル。福間町に属する)。そばに手光川があり、もとは竹藪におおわれていた、とのことで、はじめわたしはこちらの方ではないか、と考えたのである。
けれども、夜深く、宗像の宿(吉武旅館)でわたしは熟考した。“神戸あたりから「本場の舞を見せよう」といって目指してくるところ、そのようなところとしては、波切不動では「通常すぎる」のではないか。そして何よりの問題点は、広さ、だ。波切不動では、十三人も入ったら満員だ。宮地嶽はその点、十分な広さである。何しろ、「現存、日本最長」を誇っているのだから”ーーわたしの思惟はそのように進行した。判断はいつも、局所にとらわれて大局を見失ってはならなかった。
けれども、これはわたしの“アイデア”だ。実証的には、馬鉄降り口(現、西鉄バス宮司停留所)から、この大・小二つの洞窟に至る地形が全くちがうこと、これが判別の鍵(キイ)だ。波切不動の方へは平地だけで行けるのに、岩屋不動(宮地嶽古墳)へは、灌木(かんぼく)のしげみの中の坂道を登らねばならぬ。今は宮地嶽神社の正面の鳥居の方から遠く迂回する道しかないが、当時(昭和十一年頃)は、裏側からストレートに登る道が山を越えていた。ーーこれが権禰宜の管田圭秀さんと村の八十を越す長老(安部六郎さん)の一致した証言だった。
同じ年の五月二十一日夜、わたしは新宿(しんじゅく)の宿舎のロビーで東京の「古田武彦と共に古代史を研究する会」の方々(高田かつ子・川元二郎・竹野恵三〈滝口茂子〉の諸氏)と共に、西山村さんと対談した。高田さんは近来、情熱を傾けて、若き日の菊邑検校を追跡しつづけて下さっている篤学の探究者だった。わたしは問うた。(このとき、春田孝正氏も列席。)
「馬車鉄道から降りて洞窟までズーッと平地だったのですか。それとも山道でしたか」
「山道です。木の根が横切って階段のようになっていて、気味が悪いようでした」と西山村さん。
「あの柿原古墳までの方は、平地でしたが・・・」とわたし。
「ええ、それがわたしには不満でしたから、それをしきりにいったんですよ。ところが、“そこで少年時代を過したから”といって、朝倉へ連れて行って下さった方が、『昔は山地だったのを、近年の開発で全部ならしたんですよ』とおっしゃったものですから」
「その山地は竹藪だったのですか。灌木のしげみではなかったのですか」とわたし。
「ええ、灌木のしげみですよ」と西山村さん。当り前のこと、といった風情だった。わたしは吃驚(びっくり)した。「竹藪」と聞いていたから、宮地嶽の裏山にかつて「竹藪」はなかったか、現地で聞きまわり、答えは「イエス」「ノー」半々、といったところだった。これがもう一つの難点だったのである。
次の瞬間、わたしは了解した。京都の西の郊外、延々とつづく竹林に二方を囲まれた中で朝夕を暮すわたしは、「竹藪」というのを、文字通り「竹だけの藪」つまり“竹林めいた状況”として考えていたのだ。しかし西山村さんにとって、「竹藪」とは“灌木や笹の生いしげったところ”を指す用語だったのである。考えてみれば、わたしの少年時代(広島県の三次みよし盆地など)での用法は、それに近いものだったようである。“一面、竹林ばかりの藪”なんて、身のまわりにあまりお目にかかることはなかったのだから。
「じゃあ、宮地嶽ですよ」ーーわたしは叫んだ。最後のつかえがとれた。すべての状況の指さすところ、あの大洞窟、宮地嶽の深い横穴石室しかなかった。
すでにわたしは九州で重要な証言をえていた。その一は、津屋崎馬車鉄道の馭者、高田弘さんである。七十二歳、まだお元気だった。昭和十一年当時は二十代半ばであったろう。
「筑紫からは、再三、神楽を奉納しにきていました。ええ、あの宮地嶽の岩屋不動の洞窟ですよ。遠いときは宮崎からも来ていました」
高田さんが「筑紫」といわれるのは、筑紫郡、つまり太宰府近辺だった。そこからこの洞窟へと馬車鉄道に乗ってやってきていた一団があった。彼等は神楽を奉納しにあの洞窟へとやってきていた、というのである。やっとここに当の痕跡があらわれたのだ。
高田さんによると、津屋崎馬鉄の馭者は、はじめ十二人だったが、バスなどのせいで不振となり、四人に減員することとなり、籤(くじ)を引いて残った。その四人のうち、二人は亡くなられ、二人御健在。もう八十歳の石津徳実さんには、先にお会いしてきたが、もはや記憶は失っておられた。そして最後に、永井彰子さんと共におたずねした、この高田さんから、ついにこの証言をえたのである(今年〈昭和五十七年〉五月十日)。
その二は、北九州市の小倉城(月見亭つきみてい)で、北九州古代史研究会(原田夢果史・増田連さん等)の講演(「筑紫舞と九州王朝」)を行ったさい、講演が終った直後、山口九州男さんという方がそばに来て、いわれた。
「わたしは宗像で育ちました。そして宗中(むなちゅう旧制宗像中学)に入ったのが、今日の講演でお話に出た『昭和十一年』なのです。宮地嶽神社の前に母の実家がありました。よく、招かれたりして行っていましたが、そのさいはあの馬鉄に乗ってかよったのです。
そして母の実家に行っていたとき、宮地嶽で舞を見た記憶があります。それは今の本殿の方ではなくて、裏の洞窟のところだったように思います」
貴重な証言だった。翌日の馭者の高田さんの証言とピタリ一致し、筑紫(太宰府)から来た一行がこの洞窟で舞を奉納していた、その証跡が見出されたのであった(五月九日)。
九州と東京での、このような探究の旅ののち、わたしは、新たに重大な局面に遭遇したのを知った。その導火線は、次の問いからだった。
“筑紫くぐつたちがこの洞窟(宮地嶽古墳)をえらんだのは、(1).ここが無料の舞台として簡便だったからか。それとも、(2).ここをえらぶべき、何かのいわれがあったのか”と。
これを決める決め手はない。だが、前者はあまりにも現代風の発想である。また“無料”だけがねらいなら、野外でテントを張っても、できるはずだ。やはり“彼らがここをえらぶには、えらぶべきいわれが、彼らにとってあった”。そう考える方がすじであろう。
では、その“いわれ”とは何か。直接“くぐつ”たちに聞くほか、たよりはないけれど、今はこの宮地嶽古墳そのものの性格について考えてみよう。
第一、先述来の通り、これは日本列島最大(現在開口のものの中で)の横穴式石室をもつ。ということは、当然ながら九州最大の規模となろう。
第二、この古墳は六世紀末(森浩一氏)から七世紀末(小田富士雄氏)の間の成立と見られているようであるけれども、とすると、当然この時期における最大の規模ということになる。
第三、この古墳の特異性は、石室の規模だけではない。昭和九年と二十六年の出土で有名となった“おびただしい黄金の財宝(国宝指定二十点近く)”を蔵していたことにある。その中には竜の模様をもった黄金の冠もあった。
第四、この宮地嶽の対岸、それはあの、国宝となった財宝の数々を出した沖(おき)の島である(宗像大杜とこの宮地嶽とは、同じ宗像郡内に属し、指呼の間にある)。してみると、両者に共在する黄金製品、竜形の飾り(沖の島では、ペアの竜頭)は、共通のシンボル物のように思われる。
第五、では、“七世紀末まで九州王朝は存続した”という、わたしの仮説に立つとき、次の問いが生れよう。
“この宮地嶽古墳の主(被葬者)は、九州王朝の「主」か、それとも「配下の一人」か”と。とすると、右の第一〜四のしめすところ、答えは一つである。ーー九州王朝の「主」の一人であった、と。
第六、なお、注目すべき出土品に「三重の骨壷こつつぼ」がある。外側土器、中側銅器、内側瑠璃器の骨壷の中に、火葬された骨が入っていた、という。これについて“あとからの挿入”ではないか、との意見も出されたが、やはり本来のこの古墳の被葬者のものと見る方がすじのようである(小田富士雄「筑前・宮地嶽古墳の板ガラス」ーー『鏡山猛先生古稀記念、古文化論攷』所収、参照)。
数年前、わたしがここを訪れたのは、この点につき、現地の出土状況を“確認”するためであった。とすると、この宮地嶽古墳の主は、天子のシンボルたる竜形の、黄金の冠を頭上にいただくと共に、反面仏教に深く帰依していた人物となろう。なぜなら「三重の骨壷」とは、まぎれもない仏教者の方式だからである。
このように考えてくると、あの『隋書』イ妥たい国伝における多利思北孤的人物像が浮かび上ってくるであろう。彼は一方で「日出ずる処の天子」と称しながら、他方で「海東の菩薩天子」たることを自負しており、常時「跏趺(かふ結跏趺坐けっかふざ」の姿で、坐していたという、篤信の仏教者であった。
しかしながらわたしたちは、立ち入りすぎないようにしよう。もはやあまりにも遠くに来すぎてしまったように思われる。大きな道標はすでに立ち、息せき切ってとりいそぐ必要など、今や毛頭存在しないのであるから。
ともあれ、この宮地嶽古墳という質量ともに抜群の古墳の前で、葬老たちはいかなる祭式をもって、これを祀っていたのであろうか。そこに献ぜられた神楽、もしくは舞はどのようなものであったか、それは“筑紫くくつの舞”とどのような関係があったのか、なかったのか。ーーこれらは、今後の興味深い課題として残しておきたいと思う。
なお、最後に注意すべきこと、それは次の二つだ。
第一に、西山村さんが昭和十一年におとずれた洞窟が、この宮地嶽古墳であった、という同一性の論証は、はなはだ高い状況上の一致及び貴重な証言を見ているものの、いまだ十二分に“確認され尽くした”とはいえない。将来“当の「筑紫くぐつ」側の生存者、もしくは継承者の証言”に待ちたい。これほどの問題であるから、今後何回の“どんでん返し”があったにせよ、わたしは喜んでこれを待ちうけたい、と思う。
(後記ーー昭和五十七年十月二十二日、西山村さん一行はわたしと共にこの古墳を訪れ、ここが昭和十一年、筑紫くぐつによる洞窟の舞の行われたところであったことを確認された。翌日、神社の神前でこの舞〈「五人立」〉を奉納。)
法隆寺と九州王朝筑紫舞その後(『市民の古代』第5集)へ
第二に、「筑紫くぐつの舞」は“この洞窟で行われただけ”とは、限らないようである。なぜなら、昭和十一年の秋のさい、「伝令」の方は、若き西山村さんに対し、「この前のときは、あの向うの山の奥で木組みをして行った。そのさい、あの人が怪我(けが)をされた」と語っていた、というのであるから。そこでは“もっこをかついで、その人をのせていった”ような口ぶりだった、という。
あるいは英彦(ひこ)山や求菩提(くぼて)山(磐井の没したとされている候補地)あたりだったのかもしれぬ。というのは、この宮地嶽古墳が「岩屋不動」と呼ばれているように、不動信仰のもとにあり、明治以前には、修験道の山伏たちの勢力下にあったようであるからだ。明治以後、神仏分離と共に、平田神道(復古神道)系以外の神道(修験道など)に対して、明治政府の強い“弾圧”が下り、その後現在の宮地嶽神社などの隆盛期がやってきたようである(修験道問題は土地の長老や郷土史家の方たちの証言。)。
菊邑検校が“昭和政府の大本教弾圧”に対して強い不信感、というよりむしろ「ことの真相は新聞発表とは別にあり」といった信念を、あの戦前において、堅持していたのは、あるいはこのような歴史的受難の経験と関係があったのかもしれぬ。
ーーけれども、すべては杳(よう)として、まぼろしの霧の中につつまれている。そして未来の新たな探求者を待っているのである。 
4

 

ここでもう一つの重要なテーマにふれておかねばならぬ。それは“弥生期や古墳期の認識が、現代の芸能に反映しているなどということはありえぬ”という、通常の常識に関してである。否、わたし自身、そのような「常識」の中にながらくいたことを率直に告白せねばならぬ。
しかるに、この点に関しても、注目すべき問題点を、わたしは田島八幡杜中による「筑紫舞」(昨年、横浜の熊野神社で行われたもの)の中に見出した。それについてのべよう。
それは「猿舞」「猿」と題する“天孫降臨”を語る神楽だった。天照大神からニニギノ命に命が下り、筑紫へ天降ることになったけれども、猿田彦が承知しない。“そんなもの、来てほしくない”と彼は頑強に拒否するのである。これに困惑した「天国」側の神々、その中で例の中富親王がことの“解決”に当る。アメノウズメノ命を使って“色仕掛け”による猿田彦への誘惑、そういった苦心譚(くしんたん)が延々と演じつづけられるのである。
これは記・紀における「天孫降臨」説話とは様相を異にしている。記・紀では、ひっきょう猿田彦はニニギノ命降臨の先導役である。“嬉々(きき)として”降臨の案内役をつとめている風だ。
「(天照大神・高木神が天宇受売神(あめのうずめのかみ)に対して)故(かれ)、専(もは)ら汝往きて将(まさ)に問わんとするは、『吾(わ)が御子の天降りを為(せ)むとするの道、誰か此(かの)の如くにして居る』と。故(かれ)問い賜うの時、答えて白(もう)す、『僕(あ)は国神、名は援*田毘古神(さるたひこ)のゆえまつなり。出で居る所以(ゆえ)は、天つ神の御子の天降り坐(ま)すと聞く故に、御前に仕え奉りて、之に参向(まいむか)え侍(さもら)うぞ』と」(『古事記』援*田毘古神)
援*は、手編の代わりに獣編。
もっとも、この『古事記』の説話についても、よく精思すれば、猿田彦の“役割”には、注目すべきものがある。“筑紫への降臨”において“案内役”をつとめるのであるから、当然ながら降臨地たる筑紫の地理に詳しくなければならぬ。少なくとも「天国」側の天照大神やニニギより、よりよく降臨地(筑紫)のことを知っていなければ、話にはならないであろう。「国つ神」と称する、ゆえんだ。すなわち“降臨地側の土地の神”の性格をもっているのである(この点、読者で、竜谷大学生の原田実さんからも、同趣旨の御意見をいただいた)。
さて、右のように猿田彦は「天孫降臨以前の筑紫及び(葦原中国あしはらのなかつくに)側の神」としての性格を濃厚に有している(今も、筑紫の各神社を廻る者は、しばしば社内の一部に「猿田彦大神」の名を刻んだ石柱を見出す。そしてその例のあまりに多きにやがて驚くであろう)。
ところが、今の問題はその性格だ。記・紀の猿田彦がひっきょう“嬉々として案内役をつとめる”のに対し、今の筑紫現地の神楽では“頑として拒否しつづけて天照大神側を困惑させる”拒絶者の役割の方が強調されている。一体、どちらが本来の原初的な形であろうか。
少なくとも記・紀成立の八世紀初頭以降の日本列島が、原則として“天皇家中心主義”の理念(共同幻想)によって“統一”されつづけていたことを思うと、本来“従順な案内役”だったものが、後代人の手によって“頑(かた)くなな拒否者”に変ぜしめられた、とは、容易に考えがたい。たとえ“演劇上の劇的効果のため”といったアイデアをもってきても、ことが“天照大神の命を頑として拒否する”というような、大義名分上、あまりにも“大それた”行動であるだけに、これがただ“劇的効果”という技術上の要請だけのために後代付加された、とは考えがたい。
(この点、興味深いのは、書紀〈第九段、第一、一書〉との対比である。そこでは天鈿女(あめのうずめ)のエロチックな姿が描かれている。
「其の胸乳を露(あらわ)にし、裳帯(もひも)を臍(ほぞ)の下に抑(おした)れて咲據*(わら)い、向い立つ」
咲據*(わら)いの據*は、手編の代わりに口編。JIS第3水準ユニコード5671
にもかかわらず、その目的は必ずしもさだかでなく、結局、猿田彦の「先導役」の強調に終っている。すなわちここで「猿田彦の降臨拒否」という肝心のテーマが欠けている、すなわち「カット」されているのである)
やはり、土地(側)の神たる猿田彦が、当初は“頑たる拒絶者”として伝えられていたのが、記・紀神話段階では“嬉々たる案内者”に変えられた。ーーそのような順序で、見る方が、人間の理性のさししめす筋ではあるまいか。
“現代の芸能の起源はせいぜい「中世」どまり、多くは近世中葉の発祥”。これが、現代の芸能史でしばしば説かれる「常識」であるかに見える(この点、後述)けれども、実地にこれを検すると、安易にこれを全面的には肯定しがたいものを見出すのである。
以上の論点を補強するために、もう一つの例を加えよう。「山陰古代史の旅」(朝日カルチャー・トラベル)で講師として出雲の美保(みほ)神社へ行ったとき、入口の標示板の解説を見ているうち、一行中のある方が叫ばれた。「これは、入水自殺じゃないか」と。そこには、
「父神のお尋ねに対し、畏(かしこ)しこの国は天つ神の御子に奉り給へと奉答せられ、海中に青柴垣(あおふしがき)をお作りになり、天逆手(あめのむかえで)を拍(う)っておこもりになり、・・・」
と書いてあったからである。事実、この神社では毎年四月七日には、その事代主(ことしろぬし)の命が海中に隠れましましたことを悼む形の祭儀が行われているのである。
この神話の大綱をしるそう。先の「天孫降臨」に先立つ、天照大神が筑紫をふくむ「葦原中国」を支配する大神たる、大国主(おおくにぬし)の命に使者を遣わした。建御雷命(たけみかずちの)等と天鳥船(あまのとりふねの)命である。ところが、大国主命は「自分の二人の子供に相談させてほしい」といい、先ず長男の事代主命が美保の岬で釣をしているところへ使を飛ばした。
このとき事代主命は“かしこんで天照大神の意に従いたい”と答えた。ところが、弟の建御名方(たけみなかたの)命が“国譲り”を拒んだため、建御雷命は彼を信州の諏訪湖まで追い、追いつめて、ついにこれを承諾させた、というのである。これがわれわれの通常“聞かされて”きた話だ。たしかに『古事記』や『日本書紀』のほとんどには、そう書かれている。ところが、その中に例の一節がある。
(1)「即(すなわ)ち其の船を踏み傾けて、天の逆手(さかて)を青柴垣に打ち成して、隠りき」(『古事記』)
(2)因りて海中に、八重蒼柴籬(やえのあおふしかき)を造りて、船[木世](ふなのへ)を踏みて避さりぬ」(『日本書紀』神代紀、第九段本文)
船[木世](ふなのへ)の[木世]は、JIS第3水準ユニコード67BB
これは先ほどのべた現地の神社側の伝承と相呼応している。これで見ても、現地伝承が「中世」(古代末)や近世以降の「新作」ではないことが知られよう。
ところが、今、この点を現地の祭儀の立場(海中投身を悼む)を主線として理解してみよう。すると、この場合、“長男は入水自殺、次男は拒否して逃亡”ということになると、結局“子供は誰も「天孫降臨」すなわち「国譲り」に対して積極的には賛成しなかった”ということになってしまう。その上、父の大国主命は“政治から引退した”とされている。
「(大己貴おおなむち神)今、我当に百(もも)足らずの八十隈(やそくま)に、将(まさ)に隠れ去らむとす。言い訖(おわ)りて遂(つい)に隠る」(『日本書紀』神代紀、第九段本文)
となると、親子誰一人、積極的には賛成していないことになる。これでは名前は「国譲り」でも、その実質は、ズバリいえば不法なる「脅し取り」に代らない。少なくとも“名は「国譲り」でも、実は「国盗り」”、そういっても必ずしも過言とはいえないであろう。
このような実体を暗示する現地伝承、これが“新しく”ないことは、この場合、『古事記』『日本書紀』の記事の中に存在することで証明されている。
してみると、この場合、本来、わたしたち一般人の知っている「事代主命恭順強調説話」、後来が海中投身を痛哭(つうこく)する「積極的承認皆無説話」ーーそんな順序の変転の仕方はありえない、八世紀以降の天皇家中心主義の“体制”の中では。
やはり、ことは逆だ。本来が現地伝承(海中投身痛哭の祭儀)、後来が記・紀の「事代主命恭順強調説話」という時間の順序だ。すなわち「積極承認皆無説話」では、「天孫降臨」や「国譲り」のもつ大義名分、いいかえれば“本来の説得性”に欠ける。そこで“長男の事代主命だけはいさぎよく賛成し、「国譲り」を支持して隠退した”という印象の説話に改変して、「天孫降臨」の正当化を図ったのである。ーー静思すれば、このように考えるほかはないであろう。
以上のような事例から見ると、筑紫や出雲の現地の神社伝承や神楽伝承では、意外にも「天孫降臨に対する拒否・痛哭譚」の片影もしくは残影が延々と亡びずうけつがれて、今日に至っている、その実情が判明する。これは一見、従来の芸能史の「常識」に反することであって、当該専門家諸氏には「意外だ」「そんなはずはない」などと思われるかもしれないであろう。けれども、ことの筋道、論理の進行を辿ってみると、やはり右のように考え、行き着くほか、道はないのである。
以上はまた、「天孫降臨」や「国譲り」説話の類をもって、“六〜八世紀の近畿天皇家の史官の創作(造作)”のごとく、手軽くあつかってきた津田史学とそれをうけついだ戦後史学の史観、その骨骼(こっかく)が意外にも脆弱(ぜいじやく)であったことをしめす。そしてそれは、真の根深い歴史の進行、現地の民衆の中の深く遠い伝承から見れば、たかだか近来の半世紀という一時の流行の史観にすぎなかったこと、遺憾ながらその史観の“根の浅さ”があらがいようもなく明らかになってきたのである。
今年(昭和五十七年)の四月、わたしは京都国立博物館館長室に林屋辰三郎さんをおたずねした。博物館所蔵の資料の閲覧をお願いするためであった。林屋さんは快く承諾して下さったのみか、その資料のコピーを事務の方に託して下さった。それを待つ間、わたしは気になっていたテーマについて質問した。林屋さんは『中世芸能史研究』(岩波書店)などの著作のある、斯界(しかい)の練達の学者である。
「神楽などの現代の芸能の淵源は、せいぜい遡っても、『中世』か、ほとんどは近世中葉、というのが常識だと聞いていますが、やはりそうですか」とわたし。
ところが、お答えは意外だった。
「ええ、文献からやる人は、すぐそういうので、困るんですよ。文献にあらわれた上限を、その芸能の起源時点のように見なしやすいんですね。たしかに文献の証拠のある、一番古いところは、ここだ、とはいえても、芸能そのものは文献からはじまるわけではありませんからね。もっと、ずっとさかのぼるはずのものですよ。もちろん神楽など、江戸の化政(かせい)の振興期などから、勤皇の学者などの刺激によってはじめたものも、当然ありますけどね」と。
やわらかな氏の口調の中には、さすが、永年の学的経験の厚みが脈打っていたようである。わたしのかつて聞かされていた、いわゆる「芸能史の常識」は、必ずしも真に学問的に裏打ちされた「常識」とは、いえなかったようであった。
最後に、中国における宮廷舞楽たる「四夷の舞楽」、その原形についての最近の発見について報告しておきたい。
「魯公(ろこう)に命じて世世、周公(しゅうこう)を祀(まつ)るに天子の礼楽を以てせしむ。・・・(中略)・・・『昧まい』は東夷の楽なり、『任』は南蛮の楽なり。夷蛮の楽を大廟(たいびょう)に納め、広魯を天下に言うなり」(『礼記らいき』明堂位めいどうい、第十四)
その大意は次のようだ。
“周王朝の第二代、成王の摂政であった叔父の周公(第一代の武王の弟)が死んだあと、(成王は)周公の封建の地である魯の後継者である魯公に対して、周公に対する祀りを代々絶やさないように命じた。そしてそのさい「天子の礼」をもって祀るようにさせ、あわせて種々の儀礼と共に、東夷の舞楽たる「昧」と南蛮の舞楽たる「任」を廟前に奏せしめ、由緒ある魯の国の礼を天下にしめすこととした”
ここでは「四夷の舞楽」ではなく、「東夷と南蛮の二方の舞楽」が周公の霊前に捧げられるべく定められている。
この「二方の舞楽」の形の方が、基本史料として、より原形に属する。なぜなら「四夷の舞楽」の史料は、『周礼しゆらい』の本文に対する釈と注であり、当然本文より後代のものだ。これに対し、この「二方の舞楽」奉献の記事は礼記の本文に属するからである。
ではなぜ、ここには“西戎(せいじゅう)や北狐(ほくてき)の舞楽奉献”が記されず、「東と南」だけなのか。後代の諸注もこのテーマをめぐってさまざまの類推を試みている。たとえば、
「唯、夷蛮を言うは、則ち戎狄、従いて知る可きなり。(『礼記』疏そ、正義)
といった風に、これは四夷の舞楽の省略形だ。東と南を表にあげて、“西と北も、同じ”の意をしめしているもの、といった解釈である。けれども、これは不審だ。なぜなら「西と北」をあげるのも、たいした手間ではないからである。「四夷の舞楽を奉献せしむ。」と書いておけば、もっと簡単だ。やはり「東と南」をあげたのは、端的にその「二方の舞楽」を指す、そう考えるのが本筋である。では、なぜか。
これに対する解答のカギ、それは「倭人(わじん)の暢草(ちょうそう)貢献と越常(えっしょう)の白雉(はくち)貢献」にあると、わたしには思ちわれる。王充(おうじゅう)の『論衡ろんこう』の説くところだ。
「周の時、天下太平、越裳(えっしょう)白雉を献じ、倭人鬯草(ちょうそう)を貢す」(巻八、儒増篇じょうぞうへん)
「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢す」(巻十九、恢国篇かいこくへん)
この史料は、従来、ともすれば“根拠なき浮説”の類と見なされて、確たる史料として扱われていなかった。けれどもこの記事が、実は“史実の反映”と見なすべきこと、それをわたしはすでに論証した(『邪馬一国への道標』講談杜刊、角川文庫所収)。
その要点を簡約しよう。
(一)『論衡』の著者、王充は右の文を迷信排撃論、さらにその迷信に依拠して王朝の繁栄・永続を願った、周王朝に対する批判論という文脈の中で使用している。すなわちこれは、周王朝のあとをうけた「漢代の常識」となっていた、歴史知識であった。
(二)『漢書かんじょ』を記した班固(はんこ)は、王充より五歳下、共に後漢の光武帝が洛陽(らくよう)に創立した「太学たいがく」の学生であった。従って『漢書』の読者と『論衡』の読者とは、同一の読者たち(洛陽を中心とする、中国のインテリ)であった。
(三)従って『漢書』に「楽浪海中に倭人有り」としるされた倭人と、『論衡』に「倭人、鬯草を献ず」と書かれた倭人とは、“同一の倭人”でなければならぬ。
(四)また王充と班固が「太学」にあったとき、注目すべき事件があった。それは“光武帝が倭人に金印を授与した”儀典である。従って王充と班固と“洛陽を中心とするインテリ”という、彼等に共通した、「倭人」なるものに関するイメージ、それは「最近、光武帝から金印を授与された倭人」ーーこれであった。この金印はむろん、“志賀島出土の金印”だ。従ってこの「倭人」とは、とりもなおさず「筑紫の倭人」に他ならない。
(五)なお“周王朝の第二代、成王のときの倭人貢献”とは、箕子(きし)を媒介にしたもの、と考えられる(このさいは「朝見」ではないから、おそらく平壌〈へいじょう箕子朝鮮の故地〉における貢献)。すなわち彼は、周王朝の減亡後、平壌付近に行って「箕子朝鮮」をひらいたあと、周辺の「夷蛮」に礼(中国の天子への忠節)を教えたのち、その「成功」を報告すべく、周の都(長安付近)へ向った。そのときの天子が、第二代の成王、すなわち周公摂政(佐治天下)の当時だったのである(『史記』『漢書』)。
(六)この箕子の説話に対し、大正期以来、白鳥庫吉氏等によって「架空説」が学界に流布されてきた(戦後も、日本及び朝鮮半島内の学界の中で行われているようである)。しかし、史料批判の立場からいえば、これ(架空説)は成立しがたい。
(七)さらに戦前から戦後にかけての殷墟(いんきょ)発掘、また最近の博多(板付いたつけ)及びその周辺(菜畑なばたけ)における縄文水田の発掘は、この説話を“非史実”として軽易に一擲(いってき)せしめがたい状況を作り出している。
以上のような分析に立つと、問題の『礼記』の記事、“周公の霊を祀るに、東夷の舞楽と南蛮の舞楽をもってせよ”とは、「倭人(東夷)と越常(南蛮)の貢献」という史実を背景にしたものではないか、という理解が浮かび上る。すなわち“そのように遠夷朝貢をなさしめるに至った「周公の治」を、その鬼籍に帰した後も、たたえつづける”ためのものだった、そのように解するとき、もっとも自然な理解がえられるのではなかろうか。
一方、『書経』にも、同じく、周公と「倭人」との交渉の痕跡が記されている。
(A)「島夷皮服(注,海曲、之を島と謂(い)う。其の海曲、山有り。夷、其の上に居るを謂う)」(冒頭部)
(B)「海隅、日を出だす。率俾(そつび)せざるはなし」(周公の条)
(A)で「島夷」と呼ばれているものは、倭人を指すものではないか。思うにこの問いは不可避の間いであろう。なぜなら“東夷中、島に住む者”の意だからである。事実、『三国志』倭人伝の冒頭に陳寿(ちんじゅ)が、
「(倭人)山島に依りて国邑(こくゆう)を為す」
と記したとき、当然『書経』中のこの(A)の記事を背景にしたものと考えられる。
さらに(B)は周公の言であるが、「率俾」とは“天子に臣服する”の意であるから、この文は“海の彼方、日の出るところまで、中国の天子に臣服する(「貢献」をさす)ようになった”という意味となろう。
陳寿も、『三国志』東夷伝序文において、
「長老説くに、異面の人有り、日の出ずる所に近し」
とのべて、「倭人」をもって「日出」に近き地にあり、となした。当然、『書経』の、この(B)の記事を背景にしたものと考えられる。
すなわち、この『書経』の(B)もまた“周公のときの倭人貢献”をしめす一文だったのである。
以上のような『書経』の分析からもまた、『礼記』本文の“周公の霊前における「二方の舞楽」奉献”が、“「倭人と越常の貢献」をたたえる儀礼”としての、まさに奉納舞楽であったことが知られるであろう。そしてこの「倭人」とは、先の論証のしめすように、「志賀島の倭人」すなわち「筑紫の倭人」であった。端的にいえば「筑紫人」であった。すなわち彼らの舞楽とは、他ならぬ「筑紫の舞楽」だったのである。そして彼らの舞楽は、「昧」と呼ばれていた、という。とすればーーこの「昧」の音が果して現代わたしたちの発音する「マイ」そのものであったかどうかに関しては、今は不明にしよう。ーーともあれ、その実体においてそれは、文字通り太古の姿における「筑紫舞」そのものを指示していたこと、その可能性をわたしたちは、論理のさししめすところとして、今や回避しえないのではあるまいか。
そして“筑紫くぐつの舞”の中枢たる「翁の舞」の基本形としての「三人立」、そこでは“東方の辺境たる越の国(加賀)と南方の辺境たる肥後”すなわち“東と南の二方の舞”が、筑紫なる「都」で奉納される、そういう形をなしていたのである。これは『礼記』本文に記された、周公霊前で奉納されていたという「東と南の二方の夷蛮の舞楽」と、まさに符節を合した形式をとっていたのである。
これは歴史の神の戯れによる、偶然の仕業であろうか、それともーー。わたしはことの奇異にただ慄然(りつぜん)とせざるをえない。
ともあれ、わたしのながらく“宿題”としてきたテーマ“中国の朝廷における、周辺の夷蛮からの奉納舞楽”という習わしは、近畿天皇家の「雅楽」などより以前に、“筑紫なる九州王朝に先ず伝来し、宮廷舞楽もしくは奉納舞楽として、その様式が模倣されたのではないか”このイメージは、必ずしも虚妄とはなしがたかったようである。
それは何よりも、基本的な史料批判から導かれた“近畿天皇家に先在した九州王朝”という命題、その事実に対する“生ける証(あかし)”の一端をなすものなのであった。 

A「不思議な話ですねえ。こんな話を聞かされると、僕なんか、妄想が湧(わ)いてとめどがない感じですねえ」
古田「結構だよ。この問題は、この本が終りじゃない。始まりだ。事実、まだ書き切れなかったこともあるし、ね」
A「どんなことですか」
古田「たとえば、西山村さんが菊邑検校から聞かされた話の中に、“筑紫の漁師が各地から帰ってきて、その報告譚を一つづつ、舞にしたもの”があるそうだ」
A「へえ、ニュースか、瓦版(かわらばん)というところですね」
古田「そういうわけだ。
その中に、たとえば“可愛がっていた犬が死んだ。そこへきたる帝(みかど「北の帝」か)がお出でになって、御相談申しあげたらば、・・・呪文(じゅもん)を教えて下さって、死んだ犬が生き返った。あら、うれしや”といった趣旨のものもあるそうだ」
A「『北の帝』だと、基山(きやま)に『北の御門(みかど)=北帝門』というのがありましたね。『邪馬一国への道標』で見たんですけど」
古田「そうだね。『筑紫の漁師』の話だから、やはり『筑紫の帝』だろうね。それにここに現われているのは、『呪術(じゅうじゅつ)者天子』だ。とても、『古事記』や『日本書紀』の『天皇』とは、似ても似つかない」
A「むしろ、巫女(みこ)の女王、卑弥呼につながる感じですね」
古田「それから、筑紫から島流しにされた人の詞もあるようだ。『衛士(えじ)の焚たく火か、筑紫の舟か」という一節だけど、はじめ西山村さんは『大和か難波からの赦免の舟でっしゃろか』とおっしゃったけれど、わたしはお答えした。
『いや、それなら“難波の舟か”となるはずです。“筑紫の舟”という以上、“筑紫からの舟”つまり筑紫が“赦免の原点”になっていますね。』とお答えすると、うなずいておられたね」
A「『衛士』は番兵ですか」
古田「そうだろうね。それからもう一つ。『七人立』の中の『夷の翁』、あれね」
A(「ああ、関東か、東北・北海道か、という分ですね」
古田「そう。この『七人立』は、ある段階で“中・近世風の呼び方”で呼び変えられている。たとえば、『越の翁→加賀の翁』といった風に。例の『ルソン足』も、その口かもしれない。『難波津より上りし翁』など、明白に婉曲表現に書き直された跡、歴然たるものがある。
とすると、『夷の翁』も、“中・近世表現”ということになる。ところが、たとえば『徒然草』などで『夷(東夷あずまえびす)』といえば、関東だ、とすると、ここも関東を指す可能性は高い。しかしまだ保留、というところだね」
A「なぜ、関東や尾張(おわり)が出てくるんですか」
古田「分らない。ただ、ヒントはある。たとえば『常陸国風土記』に、綺日女(かむはたひめの)命が天孫降臨につき従って筑紫に降り、その後、三野(みの美濃)より久慈(くじ)に遷(うつ)った、とある。「筑紫→関東」のルートが示唆されている。これが一つ。
もう一つは『尾張の翁』、『古事記』『日本書紀』にしきりと『尾張』が出てくる」
A「ああ、草薙(くさなぎ)剣ですね。尾張の吾湯市(あゆち)村にある、というんでしたね(『日本書紀』第八段、第二、一書)。今、熱田(あつた)神宮にあるそうですけど」
古田「よく知ってるね。それに天火明(あめのほあかりの)命の児、天香山(あめのかぐやま)が、尾張連(むらじ)の遠祖だと書いてあるね(『日本書紀』第九段、第六、一書)。
もっとも、これらのことが『七人立』の『夷の翁』や『尾張の翁』の配置と関係があるか、どうか、全く不明だ。これらはすべて、貴方たち、若い探究者の前におかれているんだよ」
A「ぞくぞくしますねえ」
古田「また、筑紫舞の一つに、いわゆる『東獅子あずまじし』と呼ばれるものがある。菊邑検校は、最後に神戸から九州へと去ってゆくとき、西山村さんに“この舞を演ずるときは、必ず『筑紫くぐつ、本手振り』と言って下さい”と念を押されたそうだ。
“筑紫くぐつが、なぜ『東獅子』を”という問いが、またここからはじまるわけだ。
しかも、例の昭和十一年秋の、洞窟の中の『十三人立』の直後、洞窟の前で、七十歳くらいの老人が、菊邑検校の演奏(筑紫琴か)にあわせて、この『東獅子』(三人組み)を舞った、というんだ。あたかも、少年のような軽やかさで。その老人は三歳のときから、その舞を舞いつづけてきたそうだ(この老人は、洞窟内では『夷の翁』を演じていた)。
舞い終ってから、その老人は『こんな檜(ひのき)舞台で舞わせていただいて、こんなうれしいことはありません。わたしには、やはり神さまがついておられますわ』といっていたそうだ。
筑紫のくぐつの人々(別の「鼻かけ」らしき人ーー通称「直なおさん」かーーをふくむ)や西山村さんたち一行のほかに、一般の観客のいない、その場所、しかも洞窟の前の大地の上だのに、ね」
A「いよいよ不思議な話ですねえ」
古田「それに、若い西山村さんの印象では、そこに集まった筑紫くぐつの人々は、いずれも品格と誇りある、そして礼儀の折り目正しい方々だったという。この点、お父さん(山本十三氏)も、帰り途、しきりに感心しておられたそうだけどね」
A「・・・」
古田「それにしても、今度ほどつくづく感じさせられたことはないよ」
A(「何ですか、それは」古田「『歴史の表通りだけが歴史ではありません』ーー今回の探究の間、わたしの頭の中には、この一語がいつもひびいていた。
これは誰の言葉だろうか。もしかすると、ある夜明け、あの菊邑検校が幽冥(ゆうめい)のまぼろしの中から、わたしの脳裏にささやきかけてくれた言葉だったのかもしれぬ。
万人が表通りを、当代の権威のもとに生きていた、その千有余年の歴史の中を奇跡のようにもち伝えてきた、名もなき人々の芸能、これをわたしたちは今後も大切にしてゆかなければならない。
何しろ、目しいた者が歴史を越える永遠を見通しており、口なき者が雄弁に真実を語っていた。そして死に面した難病の人が内面の光にかがやいていたのだ。
このような人こそ、その一途(いちず)さで、真に国の宝、人間の証(あかし)、と呼ばるべき人々ではないだろうか」
※資料
(以下いずれも西山村光寿斉さんの筆記による。文字遣いは原文のままであるが句読点と注は古田が付した)
(一)西山村光寿斉、祖母はる、日記(「耳学問」)より
菊邑検校より聞き書きの事、つくしくぐつについて。
「つくしぶりを初めて発見した折の事、或る日、亡師の追善にある寺で琴を弾いていると、庭先でサッサッと音がするので、気を取られつゝ弾いてをりますと、実に巧みに入り込んでくる。それが実に面白いので、供の者(注ーーケイさんの事)に庭先にいる人をここえ呼んでくれと申し、その男に、こなたは琴か三味をひかれる方かと聞くと、その男いわく、いえ、音曲はようしませぬが、振りならどんな音にでも合わせて舞う、と答えたので、それならと、尚一曲むつかしい曲を弾くと、やわりママ巧(た)くみに入りこんでくるので非常に興味を覚え、その日うちに連れ帰り、色々と聞く。そして筑紫くぐつが未(ま)だおった事を知るに及んで、くぐつ舞の研究に残りの人生をつかう事を決心しました。
その男いわく『私共には何百年も前から仲間が大ぜいいて、年に一回、高位・高官の人の前で舞えば、一年間ゆっくり食べる事が出来ましたが、今日ではそうゆう事もなくなり、それぞれ食べる為、いろんな仕事をしてをりますが、私共の仲間だけの財産であるこの振りだけは、安売りしとうはございません。又、高貴な方の前で舞わせてもらえる日迄、大事に持ってをります。私はこのような鼻カケになりまして、仲間にめいわくかけるのがいやで、あちこちのお寺の庭そうじ等させていただき、ごはんを頂戴してをります。たゞ残念な事は、昔からの云い伝えで仲間の誰かに次の代の為伝えて死なねば、地獄に落ちると、言われてをるのに、伝える者が無い、之もごえんと思召して、どうか受取っては下さらぬか』との話に、こちらも喜び、ぜひそうしようと約束して、毎日時間さえあれば、顔つき合せ、ケイに振りを立ちげいこさせ、曲をはめていくのに没頭し、その間、くぐつの生きざま、身分は低い乍ら芸に対する自信には、しばしば頭が下がりました。時にルソン足とか波足とかと申し、板に足がつくかつかぬの間(ま)に異国風を感じ、これがくぐつ振りかと問うに、いえ、つくし振りと申します、と答えましたので、更に大きく、くぐつのみのものではなく、つくしに伝わるものと言う感を受けました。そして、高貴な人の前で舞う、と言うだけあって、立居ふる舞も品よく、出来上った舞振りも、私には見えませぬが、間の取り方、スリ足の様子等からして、きっと品の良いもので、人の心を浮き立たせる派出さママを持っているものと、確信してをります。ですから、こちらのじよう様にお伝えして、身軽になり度いと思い、お願いしたいと存じました」
検校よりの筑紫振り伝来の事は右の通り也。ゆっくり筑紫を訪れたく思うも、年としにて思うにまかせず、残念なり。大正も明治もスッ飛んで古代に遊ぶ感あり。
(二)思い出した事、一言(光寿斉)
何故、体にたゝき込んで、文章に残させなかったかと言う疑問に対して、これは一曲一曲一振り一振りが生活の資金であるから、他人に取られる、盗まれるのをさけるために、文字には残さず、次次の世代の人に伝えて行った、との事。ですから、私にも、書き残さずに体と耳と頭で覚えろ、との事でした。その為、初めの内は一曲マスターするのに一年〜二年かゝりました。
(三)「笹の露」伝承に当っての検校の言葉
一、これは百物語である。
二、石又は木に○、□、=、△等でほりこんで、一つの物語を現したものを一つの振りとして入れてある。であるから、右、左を間違えても物語りの筋が変って仕舞うから、おろそかにするな、誰が作ったか、又初めの方で伝えた人は判らぬが、くぐつの頭領が伝え持ち、それを恐らく後世に笹の露の曲にうまくはめこんだものと思われる。必ず二人立で舞う事、舞は鏡舞で、左右対照の極限迄やる事。
(四)検校と別れる時の言葉
色々むつかしい事、無理難題を押しつけましたが、私が生涯をかけてやった仕事と思っています。
くぐつの事、筑紫振りの伝承の道すがら(こう云いましたが、その意味は判りません)、又、色色申し上げた曲の解釈の事等、そっくりそのまま持っていて下さらば、いつの日か、何十年、いや何百年先にでも、きっとそのいろいろのなぞを解いて下さる方が現れるでしょう。それ迄、伝え伝えて、大事にして下さい。  
あとがきに代えて

 

ー筑紫舞追記ー
この秋(一九八二)、再度お会いした森弘子さん(太宰府天満宮、文化研究所嘱託)から問われた。
「昭和十一年に、洞窟の十三人立の舞のために、菊邑検校たちが太宰府に泊られたというのは、西鉄太宰府駅のそばですか、それとも国鉄二日市駅ですか。それは、乗ったのが電車(西鉄)か、蒸気汽関車(国鉄)かできまります」と。現地の方らしい、的を射た御質問だった。
帰って西山村光寿斉さんにお聞きしたところ、「蒸気汽関車でした。」と明快なお答え。二日市駅だ。その上、「駅から五〜六分くらいの宿屋までの間に野天風呂のようなものがありました。宿屋では、風呂に入るのに外の坂道を通って、やや広い、ふちのない風呂へ行きました。」温泉である。有名な二日市温泉にふさわしい。「宿屋で、わたしより二つ三つ上の、今でいえば中学生くらいの娘さんが、かいがいしく働いておられました。お父さんに『この家の娘さんやろか。』と聞くと、『そうやろ』というてはりました。」現在でも御元気なら、今は六十二〜三歳になっておられることであろう。また翌朝、駅へ向うとき、検校は“ちょっと”というと、道筋から五〜六歩入ったところで、お湯に手拭をひたし、頭にあてておられたという。土地鑑があったのである。
もう一つ、重要な手がかり。いつも「太宰府よりの御使老」といって神戸の家(山十(やまじゅう)さんーー当時の西山村さん宅)に来られた伝令の方が、ある年元旦に来た。玄関に名刺受けと記帳簿・すずりが置かれていた。その人は達筆ですらすらと署名した。ーー「筑紫斉太郎」。筑紫は右肩に。地名の風だった。「斉(とき)太郎と読むんです。よく斉(さい)太郎といわれますけれど」その人はそう言った。「先祖は斉征(ときまさ)といいましたが、あるとき、忌憚(きひ)にふれることがあり、改名せねば、土にもぐるか野にかくれるかせねばならぬこととなり、土にもぐりました。そのあと、双児(ふたご)が生れ、「斉(とき)太郎(男)・征(まさ女)と名乗り、その後は斉(とき)太郎と申すようになりました。わたしの父も祖父も斉(とき)太郎でした。」西山村さんのお母さんにそのように語られたようである。(筑紫ちくし郡の旧筑紫村(今の筑紫野市)に大字(おおあざ)筑紫、字(あざ)筑紫がある。先の二日市駅から遠くない。)
森さんはその字筑紫のお生れであるが、母方(かた)の叔父さん(安西関やすにしまもるさん)から次のような話を聞いておられる。「少年時代(昭和七〜八年頃)、そばの宝満川のほとりに小屋を作って住んでいた夫婦者がいた。よく遊びに行き、可愛がってもらった。そこではさんか文字のような不思議な文字が使われていた・・・。」と。それが、あの筑紫のくぐつの消息を伝える人々であったのか否か、今は杳(よう)として確かめがたい。(森さんは太宰府市文化財管理指導や古都大宰府を守る会などにも活躍しておられる。)
最後に重大なことを書いておこう。
今年(一九八二)の十一月上旬、西山村光寿斉さんから電話がかかってきた。「大変なことに気がつきました」「何ですか」「今、翁の三人立を娘たちに教えていたところ、どうも勝手がちがうのです。これは、五人立や七人立とちがって、都の翁が中心なんです」「・・・」「前に、翁は全部肥後の翁が中心だといいましたけど。えらいこというてしもて」「結構ですよ。事実だけが大切なのですから」「検校はんから三人立を習うとき、近所から習いに来てた子が、都の翁になって中心にいるので、わたし、すねたことがあるんです。今、手順を追うているうちに、バッキリそれを思い出しました。・・・」
わたしはかえってスッキリした。前から「三人立は五人立や七人立とは、全く舞い方がちがいます」と西山村さんから何度もお聞きしていたからである。都(筑紫)を中心とする「三人立」が、古式の「翁」として、ながらく九州王朝内部に成立しており、やがて六世紀以降の、肥後中心時代(装飾古墳の時期)になって、新式の五人立や七人立が成立した。ーーそういう成立年代の図式か脳裏に浮び上ってきた。
しかし何事も、いまだ断定すべきではあるまい。なぜなら従来の近畿天皇家中心の一元主義の芸能史観から決別し、新しき多元的芸能史観への探究の途上へと、わたしたちは今旅立ったばかりなのであるから。  
 
教科書に見る原始・古代の日本

 

西洋の「文明=進歩」史観批判としての「縄文文化」論
(1)「日本の旧石器時代」
この歴史教科書の全てが間違っているわけではない。この歴史教科書は、従来の教科書と違って、歴史上の出来事の歴史的評価をはっきりさせ、時代の性格をより鮮明にしようとする傾向がある。
その比較的成功例が、第1章第1節「日本のあけぼの」の中の「2縄文文化」の項である。
ここでは最初に「日本の氷河時代」と題して、以下のような記述がある。
花粉分析などから、日本では、氷河時代にも厚い氷におおわれることなく、動植物が絶滅せず繁殖し続けていたことが分かっている。豊かな食料を求めて、人々は大陸から渡ってきたのだった。こうして日本にも旧石器時代が始まった。
この事実は多くの教科書ではあまり記述されることはない。日本列島は豊かな森に覆われた地帯だったのである。しかしユーラシア大陸の北部はヨーロッパも含めて氷で閉ざされた地帯だった。だからこそ人類が当時大陸と地続きであった日本列島に移り住んできたのだ。当時の日本の自然環境の豊さを前提としなければ、日本列島への人類の出現のわけはわからない。
しかし、上の記述にも問題はないわけではない。この記述のしかたでは「日本だけが特殊だった」と受け取られかねない。
事実は、現在氷河時代と表記されている時代に陸地が氷河に覆われていたのは、北半球でいえば、ユーラシア大陸の北部と、アメリカ大陸の北部にすぎなかったのである。たしかにヨーロッパ地方は、ほぼ全域を氷河で覆われ、わずかに現在の地中海の北側の地域に針葉樹林の森林地帯が広がっているにすぎなかった(スペインのアルタミーラの洞窟壁画やフランスのラスコーの洞窟壁画はこの時代のものである)。
そしてシベリア全域と中国北部も同様であった。
しかし目をもう少し南部に移してみれば、大地の景観は一変する。氷河の周辺のツンドラ地帯を過ぎれば、針葉樹林の森が広がり、その南には広大な草原が広がっていたのである。氷河の面積は、最後の氷河期のその最後のもっとも寒い時期である28000年前から12000年前でも大陸の30%を占めるに過ぎないのであり、それ以外の時期には、通常は10%ぐらいなのである。陸地の多くは森林と草原。あのサハラ砂漠も、この時期には草原地帯だったのである。
「氷河時代」とは、すぐれてヨーロッパ中心史観のなせる技であり、むしろこの時代は「森林と草原の時代」と表現したほうが正確である。
だから上の記述は、正しくは、北半球では北極の近くの陸地の30%を氷河が占めたにすぎず、日本列島でももっとも氷河が発達した北海道は陸地の大部分が氷河とツンドラで覆われ、マンモスもここまでは南下していたが、津軽海峡(当時はないが)より南は、山岳地帯を除いて針葉樹の森で覆われており、多くの動物たちが生息していたと書くべきであったのである。
日本列島だけが豊かな自然を持っていたわけではない。  
(2)「縄文文明」で正しいのか?
この森と草原の時代に終わりを告げたのが今から12000年ほど前であり、最後の氷河期が終わり、今まで氷河が覆っていた地域がツンドラ・もしくは針葉樹の森となり、草原地帯は、水と緑豊かな広葉樹で覆われた地域へと変貌したのである。
ここでは、最初に次のように記述している。
ことに東日本は、豊かな木の実や山芋などのほかに、サケ、マスなどの川魚にも恵まれていた。カツオ、マダイ、スズキといった海の幸。イノシシ、シカ、マガモ、キジといった山の幸。それに豊かな貝類。このように比較的、食料に恵まれていたので、日本列島の住人は、すぐには大規模な農耕を開始する必要がなかった。
たしかに縄文時代の日本は海の幸・山の幸に本当に恵まれている。そのことを指摘するのは良い。だがそのことを記した文章のすぐあとに、「日本列島の住民は、すぐには大規模な農耕を開始する必要がなかった」と記す意味はなんだろうか。
この問いに対する答えは、上の文のすぐあとの文を読むと氷解する。ここには以下のような文章が記されている。
大陸の農耕・牧畜に支えられた四大文明はいずれも、砂漠と大河の地域に発展した。それに対し、日本列島では、森林と岩清水に恵まれた地域に、1万年以上の長期にわたる生活文化が続いていた。大陸と日本列島とでは、生活条件が異なっていた。違った条件のもとでは、文明や文化は当然、違った形となってあらわれた。かって土器のルーツといわれた西アジア(メソポタミア)の壺は、最古のものでも約8000年前である。それに対し、日本列島では、およそ1万6000年前にさかのぼる土器が発見され、現在のところ世界最古である。・・・(中略・縄文土器)・・・西アジアの土器は食べ物の貯蔵用のものだが、縄文土器は早くから煮炊きに用いられ、底に加熱の跡を残している。このことは大きな規模の農耕生活がなくとも、豊かで発達した食生活が得られることを物語っている。
大規模な農耕とは、ヨーロッパ文明の源になったメソポタミア地方の灌漑農耕のことを指しているのであり、そこに都市国家が生まれ、文字と階級とが生まれた歴史的段階のことを「文明」と呼んでいる、あの文明を相対化しようとする立論だったのである。
たしかにこのことを指摘するのは正しい。農耕・牧畜による古代文明の考え方は、農耕・牧畜を持たない生活は『原始的』で『野蛮なもの』『未開なもの』というイメージを伴っており、のちのヨーロッパによる世界征服を、『文明による未開の文明化』と呼んで合理化する思想を生み出した。言いかえればヨーロッパ中心史観。
農耕や牧畜を行わなくても、狩猟や採集だけでも充分豊かな生活を条件によってはすることは可能であり、むしろ農耕・牧畜文化のほうが生活条件は貧しい事もあるのである。
だからここで、「森と岩清水」の自然の恵みに囲まれた縄文時代の生活もかなり豊かなものであり、地球上の各地域の人類の生活は、それぞれの地域の自然条件によって異なるのであり、だからどちらかに優劣をつけていくことは正しくないと主張する限りにおいては、この記述は正しいし、今までの「文明史観」を正すことは必要でもある。
しかしこの立論にも、けっこうとらわれた側面がある。
一つは農耕の発生は、けっしてメソポタミアにおける大規模灌漑農耕がその始源ではない。農耕の始まりは熱帯地方のタロイモやバナナの栽培にこそ求められるべきであり、縄文時代においてもかなり早い時期からヒョウタンやイモなどの熱帯地方の農業の作物を栽培していた事は明らかであり、さらにクリ・マメ・ソバ・アサ・エゴマ・ウルシなどの栽培が行われていたことも、この教科書の次のページである「縄文時代の生活」の項に明記してある。
縄文時代の農耕は、メソポタミアなどの穀物栽培ではなく、熱帯系の農業の特徴である、イモなどの栽培の農耕に属している。この意味で、この教科書の著者たちは、農耕といえば穀物栽培のことという先入観に犯されているといえよう。
またそのメソポタミアの穀物栽培でも、最初から大規模な灌漑農業が行われていたわけではない。乾燥地帯のこの地域では、最初は湧水の存在する所で小規模な穀物栽培がなされていたのであり、メソポタミアの大規模な灌漑施設を伴う農業は、周辺の砂漠化の進行に伴って起きた現象であることは周知の事実である。
むしろ記すべきは、人類は最後の氷河時代が終わり、温暖で水と森の豊かな自然が恵まれた時代に入ると共に、採集経済から、自然の力を利用して食物を自ら育てるという段階に、世界各地で入ったのであり、各地の自然条件の違いにより、さまざまな農作物の栽培が始まり、それが相互に人の移動を伴って伝播し合い、各地にさまざまな「文明」と呼べる段階の生活を生み出したと、記述すべきであったのである。
どうもこの教科書の著者たちは、ヨーロッパ文明に対する敵愾心のあまり、その文明の始源の姿も正確にとらえられないまま、その虚像とも知らずに単純に日本と比較し、ヨーロッパとは異なる日本の独自性を強調することに急であり、その日本の特徴が、アジアやアフリカなどの多くの地域での生活の一部であるということを失念し、「日本は優れた国である」と、叫ぶことに終始している。
これは教科書と言う、未成年の若者たちが、その考えかたの基礎を学ぶための参考資料としては、あまりに不適格な姿といえよう。
なおこの教科書や他の多くの教科書で、縄文時代の代表的な遺跡として、青森県の三内丸山遺跡を挙げているが、これはきわめて危険な側面を持っている。
その一つは、この教科書は比較的押さえ気味に記述し「今までに見つかったもっとも大きな縄文時代の集落あと」と評価し、具体的な住居遺跡の数などは記していないが、この遺跡の発掘報告者が記した「500人居住説」には、今現在、その推定の根拠がないと多くの疑問がよせられており、推定で50人以上を越えない普通の村とも言われている。三内丸山遺跡は「都市」と言われるほどの規模も内容も備えていないのであり、都市の存在しない「文明」は、文明の概念を変更しない限りありえない。縄文文化の独自性を強調するあまり、「縄文文明」と主張することは危険があることを付記しておこう。  
(3)農耕と交易に依拠した縄文時代
むしろ「縄文文明」と主張するのであれば、縄文前期である三内丸山遺跡ですでに「人口の栗林」という畑作農耕が始まっている事や、この教科書でも指摘しているように、他の遺跡でも瓢箪の栽培などの畑作農耕が行われていた事と、最初期からの土器の存在、そして縄文後期になると都市的とも言える大集落が存在していることをあげるべきであろう。
さらに、1万年にもわたる時代を、縄目模様の土器という共通項だけでくくる事には無理がある。縄文時代は、早期・前期・中期・晩期の4つの時期に分かれる。そして前期にはすでに畑作農耕が始まっている事が各地で確認されており、晩期になると磨製石斧も出現し、大規模な都市的な集落も出現している。晩期になると「文明」とでも言える段階に着ているのではないか。
こう考えると、古田武彦が、中期末か晩期はじめにあたる紀元前1100年頃に、倭人が中国・周の成王に貢物を献じたという中国の史書の記述は正しいとしていることも一考の余地があろう。
さらに、縄文人が中国・周にまで朝貢しているということは、縄文時代における海を通じた交流・交易のネットワークがあったことを予感させる。そしてこれは、北海道の洞爺湖畔の遺跡から貝製の腕輪をした人骨がみつかり、その中に、オオツタノハガイという奄美諸島や沖縄でしか生息していない貝を輪切りにした腕輪が存在するという事実(樋口尚武著「海を渡った縄文人―縄文時代の交流と交易」参照)が示す事である。また、南米エクアドルのバルディビア遺跡から、縄文時代中期の九州有明海地方や関東の三浦半島の縄文土器が多量に見つかっている事実(古田武彦訳「倭人も太平洋を渡った」参照)も、同様のことを示す事実であろう。
縄文人が南方から島伝いに丸木船で日本列島に渡ってきたと考えられているように、この時代からすでに、列島内外にわたる交易のネットワークが築かれていた可能性は高いのである。
また近年の発掘成果によると、縄文時代の初期の中心は北日本ではなく、九州南部にあったことが分かっている。鹿児島県の鹿児島湾沿岸の火山灰の下から、縄文時代初源期の大規模な住居址が多数みつかっており、その村村が大規模なカルデラ形成を伴う火山爆発によって壊滅的打撃を経て後に、西日本の縄文文化は衰退の一途をたどり、縄文文化の中心は東日本に移ったこと。そしてこのことが原因の一つともなって、西日本に最初の稲の栽培が広がったということも、近年の発掘で明らかになっていることも付記しておく。
どうもこの教科書の著者たちは、最近の学問の成果を使うときにも、恣意的に選択をしているようである。  

注:05年8月の新版では、縄文時代の記述が大きく変化した。まず旧版で縄文時代が、ヨーロッパ文明や四大文明と比肩するほどの文明であるという主張は全面的に削除された。そしてこれと関連するのだろうが、旧版では縄文時代の前に置かれていた「文明の発生」が縄文時代のあと弥生時代の前に置かれ、人類の始まりの記述は、旧石器時代で留められている。また、縄文人が、南方東南アジアから島伝いに移動してきた人々が、旧石器時代に北方から移動してきた人々と合流して成り立ったものであるという、縄文人・縄文文化のルーツとも言える事実を、比較的きちんと記述するようになった。旧版と比べると、比較的落ち着いた学問的記述である。だが、縄文時代を旧石器時代という位置付けで良いのか。前期末には様々な「畑作農耕」が行われていた事は確かだし、そもそも縄文土器の存在と合わせて見ると、縄文時代の前期末には、この文化が新石器文化の段階に入っている事を示しており、後期には磨製石器も登場しかなり大規模な村落=都市的なものも出現しているのである。「縄文文明」という主張を削ったことで、かえってこの教科書の縄文文化についての認識は、学問的にも後退していると思える。さらに、記述の最後に論証なしの主張が挿入されていることは問題である。それは、「自然と調和して生活した約1万年間の縄文時代には、日本人のおだやかな性格が育まれ、多様で柔軟な日本文化の基礎がつくられたという側面もある」というものだ。「自然と調和」とあるが、三内丸山遺跡で明らかなように、縄文人は前期末には森林を伐採し人工的に育てた栗林を持っていた。言うなれば「畑作農耕」の開始だ。これを「自然と調和」という一言で片付けて良いのか。そして確かに日本文化の基層には縄文文化が存在しつづけているのだが、その例をあげることなく、「おだやかな日本人の性格」「多様で柔軟な日本文化」が作られたと主張する事は、新版でも形を変えて、歴史の独善的評価がなされていることの例である。
注:この項は、森川昌和・橋本澄夫著「鳥浜貝塚:縄文のタイムカプセル」、梅原猛・安田喜憲編著「縄文文明の発見:驚異の三内丸山遺跡」、古田武彦著「邪馬一国への道標」、樋口尚武著「海を渡った縄文人―縄文時代の交流と交易」、古田武彦訳「倭人も太平洋を渡った」、隈元浩彦著「私たちはどこから来たのか:日本人を科学する」などを参照した。  
 
国家の興亡と国家統治論に終始した「中国の古代文明」論

 

中国の古代文明は、 日本古代に大きな影響を与えた文明である。そしてその文明における社会経済史的発展に基礎を置いた巨大な国家の出現は、周辺の諸民族、とりわけ東アジアの朝鮮・日本には巨大な脅威となり、それぞれの地域の諸民族に独立のための「改革」をつきつけた。
すなわち、中国の進んだ国家統治システムを取り入れて国家的統合を進め、中国の作り出す国際秩序の中にいかに自分を位置付け、それと共存して行くかが、周辺諸民族にとって大きな問題となったのである。
そしてその「改革」は常に、外からの脅威に対抗するためのものであり、そこで取り入れようとした国家統治システムは常に、その民族の社会経済上の段階に適応したものではなく、しばしばその社会経済上の状態からくる人々の諸要求とはかけ離れたものとなり、国家統治システムと当該地の社会経済の現状とのすりあわせ、適合化が必要とされた。つまり、中国の脅威に対して、中国の国家統治システムを導入して国家的統一をはかり強化することで民族の独立を守ろうとすると、必ずそこに内部対立が生まれ、その調整のためには「内戦」すらが必要となったのである。逆に中国における社会経済上の変化が、そこにおける国家の分立という状況を生み出せば、周辺諸民族に対する中国の脅威は緩和され、周辺諸民族における国家的統一の必要性も薄れ、そこでも国家の分立または、権力の多元的分立という状況が生まれたのである。
したがって、中国文明のありさまを記述するときは、それが中国のどのような社会経済上の状態から生まれたのかという視点を欠くと、その中国の状態が周辺諸民族に与えた影響の意味を充分には捉えられず、ともすると国家の興亡史のレベルに問題が歪曲化されてしまう。
この観点で「新しい歴史教科書」の中国古代文明の記述を見ると、まさに社会経済史の視点を欠いていて、国家の興亡と国家統治システムの変遷を描いただけのものになっている。 
(1)社会経済の変化と切り離された、春秋戦国政治史の移り変わり
たとえば殷・周から春秋戦国時代は、以下のように記述されている。
紀元前11世紀ごろに殷はほろび、かわって周が中国を支配した。周は一族や家臣に領地を与えて地方を治めさせるという、のちの封建制度に似たシステムを用いた。紀元前8世紀のはじめ、周は衰え、それからいくつもの国がたがいに争う内乱の時代が始まった。これは数百年も続き、春秋戦国時代とよばれる。この長い戦乱の時代に、多くの思想家があらわれ、どうすればよい政治が行われるかを論じ、各国の宮廷を説いてまわった。彼らを諸子百家という。
ふつうの教科書ならここに『このころから鉄器や貨幣が使われはじめた』という一文が入り、この春秋戦国時代と言うのが鉄器の普及による農業生産の発展と、それにともなう大量の余剰生産物の出現により、貨幣を仲立ちにした、商品経済の段階に到達していた事がわかるように記述されている。
もっともこれでも記述は不充分である。なぜならこのような商品経済の発展に伴って社会がどう変化し、そのことと諸国家の分立ということがどう関係しているかということが、この記述では理解できないからである(教科書の記述は、それを考える基礎資料と考えればそれでもよいのだが)。
事実は春秋時代にはじまった鉄製の犂を馬や牛に引かして田畑を耕す農法の普及と国内交通の発達が大規模な商品生産を支え、各地に今日的な意味での商品生産・流通の拠点としての都市が発達した。そして国家はこの変化に対応して貨幣を発行するようになり、貨幣が物事の全てをはかる価値尺度となる社会が生み出される。そしてこれに対応して、殷・周・春秋時代をつうじて支配的であった、氏族的結合を基礎とする村の形態が崩れ、独立した土地を持った小家族が主体となり、その中から大規模な土地をもった「豪族的」な人々も現れ、旧来の氏族の指導者であった諸侯・士大夫層とはことなる「富豪」層が形成され、それが各国の政治をも動かすようになったのである。
このことを記述しておくと、日本の歴史を理解する上で、どんな利点が生まれるのであろうか。
周の国家制度は、形は封建制度に似てはいるが、実質は周王族やその家臣がそれぞれの氏族の長としての結合の上にたった状態を基礎としてそれぞれの氏族共同体の連合と支配・服従の関係をつくり、その関係を周王室が秩序付けると言う形で行われていた。日本でいえば「大和国家」の段階における「氏姓制度」と同じようなものである。つまり紀元前11世紀から紀元前6世紀ごろまでの中国の社会の形態と、紀元後4〜7世紀頃の日本の社会の形態はほぼ同じなのである。いいかえれば、中国と日本とでは1000年以上もの社会発展の段階に開きがあったことがこれでわかるのである。
さらにこれは中国と日本との国家統治システムの段階の差もよく示す。
後に述べる「魏志倭人伝」に描かれた紀元後3世紀の日本の国家統治システムは、中国に到った倭人の使節が自らのことを「大夫」と称していることからもわかるとおりに、中国の周の政治制度を取り入れたものであった。つまり中国では紀元前6世紀の戦国時代には崩れ始める制度が、日本では紀元後2世紀になっても生きていたのである。
周・春秋戦国時代の政治と社会との関係を「諸侯・士大夫」「鉄と貨幣」「氏族社会の崩壊」というようなキーワードを用いて簡潔に記し、後の「邪馬台国」の項で、倭国の政治制度が周と非常に近いものである事がわかるような記述や資料を入れておけば、日本と中国の社会経済と国家の発展の段階のずれと相互関係を、そこから認識でき、そこから「進んだ強大な国・中国」の脅威と、「遅れた・統一されていない日本」がそれを恐れいかに行動したのかという、古代日本における統一国家形成の問題を、深く認識できる基礎を、学ぶことが出来るのである。
しかしこの「新しい歴史教科書」は、この観点はまったくない。政治史・文化史と、社会経済史とを統一的に把握しようとする視点は完全に無視されているといえよう(日本においてこの問題がどうなっているかは,後に述べる)。
これでは戦前の皇国史観に基づく国定教科書における歴史叙述と、観点はほとんど同じになってしまう。「新しい」教科書が、実は「とても古い」形態を持っていることを証明する、一つの証拠でもある。
そしてこのような「政治至上主義」とも言える記述姿勢は、その記述の相対的な正しささえも、その効果を限定し、無にきせしめてしまう。
たとえば以下のような儒教に対する評価である。
その中の一人である孔子は、仁愛(思いやりの心)を説き、道徳と礼(礼儀に基づくおきて)で人を導けば、天空の全ての星が北極星を取り巻きながら整然と動いているように、政治は万事うまくいくと述べた。・・・・(中略)・・・・しかし、人間の性質はもともと善であるとするこの考えは、楽天的すぎて、実際の政治には必ずしも役に立たないと反対する思想家もいた。
一つの思想を異なる視覚から評価することは、歴史を客観的にとらえるには不可欠な視点である。しかし、この「性善説」「性悪説」の対立の背後には、商品・貨幣経済の発展にともなう、氏族社会の分解と変質、氏族共同体から小家族への社会の変化が存在したことを付さないと、この記述は単に、ものごとにはいろいろな見方があるという「相対主義」に陥ってしまう。
「性善説」には古き良き共同体の道徳への憧れという側面が存在し、「性悪説」は、氏族共同体とその崩壊は、その集団的道徳の崩壊でもあるという現実に即した側面があり、このことが「性善説」を理想主義に、「性悪説」を法による規制へと動かした背景としてあることが、上の記述ではわからなくなる。
もしかしたらこの記述は、「新しい歴史教科書をつくる会」の人々が、この教科書の「歴史を学ぶとは」の所で披瀝した「歴史的相対主義」にともなうののであるのかもしれない。 
(2)「国家統治論」に止まった「秦・漢の中国統一」論
上に述べたのと同じことが、次の「秦・漢の中国統一」の所でも言える。
秦・漢の統一は、戦国時代を通じておきた商品・貨幣経済の発達が、狭い国家の枠におさまりきれなくなって起きたことである。だから普通はここでは秦による統一を述べたあとで、始皇帝のなしたこととして『郡・県制の導入・ます、ものさし、貨幣の統一』という項目が並べられ、秦による統一が商品・貨幣経済の発達の帰結である事が示唆されている。そしてここでの中国の国家的統一が、中国における商品流通の一層の発展を促した事の象徴として、「シルクロード」を通じた東西貿易の進展をあげるのが普通である(なお、秦による中央集権的国家制度の導入は、中国の社会経済の発展を先取りしたものであったため、氏族的結合にも依拠していた旧勢力の反発を呼び、このため秦は僅かの年月で滅び、かわって中国を統一した漢王朝は、氏族的結合を基礎とした「封建制度」と、国のレベルを超えた商品・貨幣経済の発展に対応した中央集権的国家の制度である郡・県制度の折衷という形で国家統一をなしとげた。つまり漢による統一は、商品・貨幣経済による氏族社会の分解の途中段階での成立であることは、どの教科書にも記されていない)。
しかし、この教科書では、「郡・県制、ます、ものさし、貨幣の統一」については記述されているが、結果としても商品流通の拡大の象徴である東西貿易の問題にはまったくふれず、かわりに、秦と漢における国家統治思想の問題に多くのページを割いている。
紀元前221年。秦の始皇帝が始めて中国を統一した。始皇帝がいちばん参考にしたのは孔子ではなく、韓非子が代表する法家の思想だった。人間の性質はもともと悪であるから、強い刑罰をもって秩序を守らなければならないとした彼の思想に基づいて、始皇帝は厳しい政治を行った。・・・(中略)・・・ 紀元前202年に中国統一を受け継いだ漢は、それから約400年も続く大帝国を築いた。漢は見事に整備された官僚国家で、約5000万の人民を、約15万人の官僚が統制した。表向きは孔子の徳治思想をかかげ、現実には韓非子の刑罰思想で統治するという、理想と現実を使い分ける発達した政治意識がみられた。
たしかに統治思想の違いと言う面で記述すればこのとおりである。そしてこの違いは重要である。しかしなぜ漢帝国が表向きの徳治思想と現実の刑罰思想という二つの顔を使い分けたかを、当時の社会経済政治状況との関係で理解する手がかりは、まったくない。
秦の始皇帝の支配に抵抗した氏族的結合に依拠した諸侯たちの力なくして漢による統一はありえなかったため、これらの「封建」諸侯層をもかかえこんでいくための統治思想の2重化であり、統治システムとしての郡・県制と、統一の「功臣」を王として報じた国の併存であったのである。
この社会経済政治上の背景を押さえないで、統治システムにおける原理の2重化を詳述すれば、それは「本音と建前」の使い分け的な、恣意的なレベルに問題が矮小化されてしまう危険がある。
この教科書の著者たちが、社会経済史と政治史・文化史とを統一的にとらえようとする視点が全く欠けていることの最初のあらわれが、日本の古代国家の形成に大きな影響を与えた、古代中国文明の記述の所で、見事に暴露されてしまっている。
かれらの政治主義が、歴史をかたよった視点からしか見られなくしている好例でもある。  

注:05年8月の新版では、この項目からも旧版の特徴はなくなっている。すなわち旧版では「政治思想史」的な記述が多かったのだが、それは全面的に削除され、単に事実を項目的にあげるという、従来の教科書と同じ内容となっている。旧版の内容は政治史に偏っていたとはいえ、歴史を評価する姿勢の現われであった。これを全面削除してしまっては、「つくる会」が主張する歴史の学び方、つまり「単に事実を確認するのではなく、過去の人がどう考え、どう悩み、どう問題を乗り越えてきたのか」を実践することができなくなる。ここが外国の歴史だからそれでも良いということか。  
 
大陸からの大量の人の渡来を無視した「弥生文化」論

 

稲作と弥生文化の始まりについては、この教科書はやや詳しく説明をしている。
縄文時代の食料は、おもに狩りや漁や採集によっていたが、簡単な畑作も行われていた。今から約6000年前には、米づくりも部分的ながらも始まっていたと考えられている。稲は、日本にもともと自生していた植物ではない。大陸からはるか遠いむかしにもち込まれていたのである。
ただし、約2400年前の縄文時代の末ごろになると、灌漑用の水路をともなう水田による稲作が、九州北部にあらわれ、その後、西日本から東日本へとだんだん広がっていった。
長江(揚子江)流域の江南を源流として、水田稲作は伝えられたと考えられている。渡来のルートは、長江下流から北九州へ直接渡ってきたか、または山東半島から朝鮮をへて南下して渡って来たか、そのいずれか、あるいは両方の可能性が高い。
この教科書は、陸稲の栽培が縄文時代から行われていたことや、それも大陸からの渡来によること、そして弥生時代の文化として知られる稲作は、灌漑用の水路をともなう水田稲作として最初から伝えられていたこと。さらにその源流は揚子江下流域にあることと、その渡来のルートが朝鮮を経由したものと、揚子江下流から直接のものと、2系統あることが詳細に記述されている。
ここまでの記述はとても正しい。
だがこの記述は、弥生時代・水田稲作の普及の歴史に関する重大な事実を、完全に捨象しているのである。 
(1)大陸・稲作農耕民の大量の渡来を無視
それは何か。それは大陸からの(揚子江下流から直接・もしくは朝鮮からまたはその北東のアジアからの)水田稲作文化をもった人が、大量に渡来して、日本における水田稲作は広がっていったという、事実である。
弥生文化の開始に、数の多寡についてはまだ諸説あるものの、多くの人が、朝鮮からまたは中国から渡来していると言う事は、学会の共通し た認識である。例えば小学館の日本大百科全書は、「新来的、伝統的両要素が、最古の弥生文化以来、ともに存在する事実は、大陸の某文化を担った人々が日本に渡来して弥生文化を形成したものではけっしてなく、外来文化を担って到来した人々が、在地の縄紋人と合体して形成した新文化が弥生文化であることを雄弁に物語っている。」と述べ、弥生人についての説明では「弥生人には、渡来系の人々、彼らと縄紋人が混血した人々、その子孫たちなどの弥生人(渡来系)と、縄紋人が弥生文化を受け入れることによって弥生人となった人々(縄紋系)とが区別できる。」と説明している。そして渡来系の弥生人は「北部九州から山口県、鳥取県の海岸部、瀬戸内海沿岸から近畿地方にまで及んだらしい。弥生時代I期の土器(遠賀川(おんががわ)式土器)の分布する名古屋にまで達した可能性がある。それどころか、彼らの少数が一部、日本海沿いに青森県下まで達した可能性もいまや考えねばならない。」と説明し、大陸からの渡来人とその子孫が北部九州を中心に、北は青森県まで広がっていたとしているのである。そして渡来系の人々の故郷は朝鮮半島南部であると考えられているが、さらに北東アジアの人々も含まれるととなえる人類学者がいることも紹介されている。
そして縄文系弥生人については、「しかし、北西九州、南九州、四国の一部、東日本の大部分においては、蒙古人種としては古い形質を備え、顔の彫り深くやや背の低い縄紋人たちが、新文化を摂取して弥生人に衣替えした。」と説明している。
つまり弥生人は地域によってその人類学的形質が違い、渡来系の人々と、在来の縄文系の人々と、そしてその混血の人々とが、地域ごとに異 なる組み合せて成り立っている事が、今日の学会の常識であろう。
しかるにこの「新しい歴史教科書」は、この大量の人の移動・渡来の事実にはまったく触れていないのである。
それはなぜであろうか。その疑問は、この項の最後の、以下の記述によって氷解する。
しかし、縄文の文化が突然変化し、弥生の文化に切りかわったのではない。ちょうど明治時代の日本人が和服から洋服にだんだん変わったように、外から入ってきた人々の伝えた新しい技術や知識が、西日本から東日本へとしだいに伝わり、もともと日本列島に住んでいた人々の生活を変えていったのである。
ここで始めて渡来した人があったことが語られる。
しかし、そのあとの例として明治時代の西洋文化の普及を例にあげていることからもわかるように、この本の著者たちは、この大陸からの渡来の人々の数は少なく、全体としてみれば、在来の日本人(おそらく縄文人)が渡来文化である水田稲作などを学んでいった結果として、日本列島各地で徐々に縄文文化から弥生文化への転換が行われたと考えているのであろう。 
(2)渡来人が弥生人の多数を占める事実
しかし水田稲作をもって渡来した人々は、ほんとうにほんの少数だったのであろうか。
さきほどの日本大百科全書の記述を思い出して欲しい。渡来系の弥生人が分布してる地域は、「北部九州・中国・北四国・近畿地方」のほとんどを占め、さらに近年の水田遺構の発掘により、彼らの一部は日本海沿いに北上し、秋田県や青森県にまで到達し、さらに太平洋側の青森県や岩手県にまで広がっているのである。
これがほんの一部であろうか。日本列島の半分近くの地域を占めているのである。けして極少数者の渡来ときめつけることは出来ないのである。
さらに弥生文化の内容を考えてみよう。
灌漑用の水路をともなう水田稲作ということは、自然の湿地帯などを利用した原始的農耕ではないということである。小河川や湧水を利用し、場合によっては川に小規模なダムを築いて水を堰きとめ、それを水路を使って水田に導くという形が初期のころから普及していた。
ということは、この水田稲作の形式は、それが成立するためには大規模な労働力の組織化が必要であり、そのためには小規模ながら国家というべきそしきの存在を前提としているということである。そのことは弥生文化の初期のころから青銅製の武器や鏡が存在し、王墓と目される比較的大きな墓が存在する事もその現れであろう。
そうであるならばこの渡来は国をあげた渡来、数百人から数千人におよぶ、しかも何次にもわたって行われた渡来に違いない。
今から2400年前のころと言えば、中国で言えば戦国時代の末期であり、朝鮮半島では三韓とよばれる、辰韓・馬韓・弁韓の諸国が分立していた時代である。どちらも戦乱が続いた時代であり、その中で戦火を避けてより安全で豊かな土地を求めて移民を大量に送った国があったとしてもおかしくはないであろう。
では、渡来人の数はどれくらいであったのであろうか。
埴原和郎氏は、岩波日本通史の第1巻の「日本人の形成」という論文で、人骨の研究から渡来人と在来の縄文人との混血はほとんどなく、両者は各地で住み分けていたのではないかとの仮説を提示したあとで、次のように述べている。
「紀元前3世紀から7世紀までの1000年間にやってきた渡来人の数を、縄文時代から初期歴史時代までの人口増加率と縄文末期から古墳末期にいたる頭骨の時代的変化を指標として推定してみた。(その結果は)7世紀までに渡来人の人口は日本人全体の70%から90%にたっし、とくにその割合は近畿を中心とする西日本に高かったと思われる。そうするとこの1000年間に数十万人から100万人以上が渡来したことになり、渡来人の総数は想像以上に多かったということになる。」と。
1000年間という長い時代をとっていて、600年以上続いた弥生時代とそのあとの古墳時代・飛鳥時代を含めた数字だが、人口の90%とはすごい数である。著者の埴原和郎氏は、100万という数字に意味があるのではなく、渡来人の数は無視できないほど多数にわたるということを言いたかったと述べているが、この指摘は大事である。
つまり古代における日本人の形成は、中国や朝鮮半島、そして北東アジアからの大量の人々の渡来によってなされたということであり、日本人という民族は、中国・朝鮮・北東アジアの国々の人々と在来の縄文系の人々の混合によってできたが、前者の渡来系の人々が圧倒的多数を占めていたということである。 

注:埴原和郎氏はこの大陸からの大量の渡来を、文献史学の従来説に乗っ取って、朝鮮半島経由の北東アジアからの渡来と説明している。しかし近年、中国江南地方や中国山東地方、そして朝鮮南部の同時代の古人骨との比較研究が深化し、これらと渡来系弥生人とがほぼ同じ人類学的形質を持っているという事実が、松下孝幸氏や百々幸雄氏らによって明らかとなっている。この研究結果は、朝鮮半島南部が中国の歴史書によって「倭地」と記されていることや、この地域の稲作遺構と北九州の稲作遺構の同一性、両地域に支石墓や甕棺、さらには木棺直葬式円墳・前方後円墳などが共通するなどの考古学的知見とも一致する。すなわち、朝鮮半島南部(弁韓と呼ばれ、後の加羅・伽耶などと呼ばれた地方)と北九州の水田式稲作耕作民は同一の起源を持った人々であり、両地域は長く「倭」として1つの国と認識されていたことを人類学のほうから確認することとなる。このように渡来系の人々のことを考察して行くと、なぜ新しい歴史教科書の著者たちが、弥生文化形成期における、中国や朝鮮からの大量の人の渡来という事実を過小評価しほとんど記述しなかったかが、わかってくる。この教科書は、後の近代の部分で顕著になってくるが、隣国である中国・朝鮮の人々を馬鹿にする傾向がとても強い。その人々と日本人が同祖であり、日本人は、中国・朝鮮からの渡来系の人々が多数を占める中で形成されたということを認めるのは、この本の著者たちの偏狭な民族主義、『誇り高き日本人』としてのプライドが許さなかったのであろう。しかし歴史的事実を捏造しての『民族の誇り』とは何であろうか。彼らの民族主義の危うい側面が、ここ日本人の形成に関わる部分でも如実に現れている。
注:05年8月の新版は、旧版以上に稲作文化を持った人々が日本列島に渡来した事実を完全に無視するという、改悪された記述になっている。すなわち旧版でなされていた弥生文化の広がりについての説明は削除され、図版のみとなる。そして本文でもあげた「縄文文化から弥生文化への移行」の問題についての記述は全面削除となっている。その代りに「水田稲作の伝来ルート」という図が掲載され、中国江南直接か、江南⇒南部朝鮮⇒九州北部または江南⇒山東半島⇒南部朝鮮⇒九州北部の伝来ルートが図示されている。これは、近年人類学の骨分析によって明らかとなった、渡来系弥生人と中国江南・山東地方や南部朝鮮の古人骨との親近性に基づく、前記の新しい知見に基づくものである。しかし本文中には、水田稲作とともにこれをもたらした大量の渡来人が弥生人の基本となったことは一言も触れられていない。また、九州の吉野ヶ里遺跡の復元図が掲載され、この時代がある程度統一された国家の段階にあったことが記述されている。「角のある」記述が削除されて普通の教科書の記述になったことでかえって、弥生文化と日本人の形成に朝鮮(中国)から渡来した人々が占めていた大きな役割を完全に無視すると言う、最悪の記述になっているのである。
注:この項は、隈元浩彦著「私たちはどこから来たのか:日本人を科学する」、埴原和郎氏著「日本人の形成」、松下孝幸著「日本人と弥生人ーその謎の関係を形質人類学が明かす」、百々幸雄編「モンゴロイドの地球3・日本人のなりたち」などを参照した。 
 
日本人渡来説を補強する「日本語」「日本神話」起源論

 

この教科書では、「日本語の起源と神話の発生」と題して、コラムと言う形ではあるが、一節を設けて説明している。日本・日本人・日本国というものを重視したこの教科書の性格からすれば当然であり、また日本語や日本神話の起源を考える事を大切である。 
(1)日本人渡来説を補強する、日本語起源論
日本語の起源の所では、文字を借用した中国語と日本語との関係は、『遠い親戚ですらない』事実を指摘したあと、『大陸のどこにも日本語の祖語(共通の祖先にあたる言語)はまだ発見されていない』と述べ、さらに日本語の起源について、以下のように述べる。
英語やフランス語やドイツ語などの西洋語と、インドの古い言語は、一つの祖語から枝分かれして、インド・ヨーロッパ語族という大きな系図をつくっている。同じように大陸にはセム語族、ウラル語族、ドラビダ語族、シナ・チベット語族などがある。日本語はそのどれにも属していない。言語学的には、系統関係が定かではない言語として、朝鮮語、アイヌ語、ギリアーク語などがあるが、日本語もまた、そのような系統不明の孤立言語の一つである。
けれども、日本語は現在、地球上で話されている人口数で、七番目の大きな位置を占める言語である。起源は謎だが、基礎的な単語の音や用法が日本語に類似している例として、学者たちはビルマ系、カンボジア系、インドネシア系、オースロトネシア(マレー・ポリネシア語族など)系の言語をあげており、インド南部のタミル語と近似性を指摘する学者もいる。
これは近年の新しい研究成果に基づいた優れた記述である。
1 縄文人南方渡来説を補強
長い間日本語の起源は明かではなく、「アルタイ語族」と一括されてはいるが、その系統や相互関係が明らかではない言語、すなわちトルコ語、ツングース語、満州語、モンゴル語、そして朝鮮語などと同じ系統に分類されて、かつては、朝鮮語との親近性が主張された時期もあった。しかし近年、比較言語学の研究が深化するとともに、少しずつ、日本語の系統性があきらかになっている。「つくる会」教科書のこの記述は、このあたらしい研究結果に基づいて記述されており、日本人の起源を考える上で参考となる良い記述である。
そして新たな研究結果は、日本語と南方諸言語との親近性を明らかにし、日本人が南方から渡来した人々から成り立っていた可能性を示唆している。たとえば、崎山理氏の説は、上代日本語の語彙の大部分が、オーストロネシア語族(西はマダガスカル島から東はイースター島、北は台湾からハワイ、南はニュージーランドにおよぶ広い地帯に分布する800から1000にも及ぶ諸言語からなる)の言語の影響を受けているとする。つまり日本人南方渡来説を補強する見解である。
しかし崎山氏の説は単純にそうは言い切れない。上代日本語の文法や語法はツングース語だという。つまりシベリア東部に住むツングースと日本語は文法や語法を共通しており、先の語彙の多くがオーストロネシア語族の影響を受けていることと併せると、日本人は、先住のツングース系の民族にあとから来た南方系のオーストロネシア語族に属する言語を持つ民族が混血して成り立ったのではないかと言う仮設が成り立つ。そして2つの言語が交じり合ったのは、5000年ほど前、縄文時代の中期以後のことではないかという。  
縄文文化は前期以前と前期・中期以後とでは大きく変化する。すなわち集落が大規模化し、畑作農耕の大規模な展開が予想される遺構がたくさん見つかっている。この考古学的知見とも良く合う結果である。
つまり日本人は、以前から住んでいた北方系の人々の所に、南方を起源とする縄文人が渡来して混ざり合って出来たものであると言えるのである。
2 弥生人朝鮮渡来説とも親和する
では、この言語学的知見は、従来唱えられていた弥生人朝鮮渡来説を否定するのだろうか。
そうではない。先に弥生時代のところで触れたように、近年の人類学的研究の知見は、中国江南地方・中国山東地方・朝鮮南部・北九州の渡来系弥生人がほぼ同じ人類学的形質を持っているとしている。つまり、朝鮮南部の水田式稲作を行う人々と北九州北部の水田式稲作を行う人々が同じ人類学的形質を持っていることを明らかにしており、これ自身は、朝鮮と九州の前後関係を明かにはしないが、朝鮮南部のほうが北九州よりも早い時期から水田式稲作を行っていたと言う従来の考古学的知見を併せて考えてみれば、中国江南地方か中国山東地方から朝鮮南部に水田式稲作を伝えた人々が、さらに九州北部に移動し、そして列島全体に広がっていったという、弥生人の多くが朝鮮からの渡来人であったという従来説を、新しい人類学的学説は補強しているのである。
そして古朝鮮語がどの系統の言語であるかということや、南部朝鮮と他の朝鮮各地との言語にどの程度の違いがあったのかという資料が存在しないが、中国の歴史書や朝鮮の歴史書に、紀元前後の朝鮮南部は「倭地」と認識されていたことを勘案してみれば、朝鮮南部の地域の人々は日本列島の人々が話していた上代日本語を話していたと考えても矛盾はなく、日本語が南方系の言語の影響を強く受けており日本語と朝鮮語とが系統関係がないという言語学の知見とも矛盾しない。

「つくる会」教科書が、日本語の起源に関する「南方起源説」とも言うべき新しい言語学的知見を紹介したのは、この教科書が極力朝鮮からの影響を排除している傾向の中で、縄文人の南方起源説を強調し、さらには弥生人の形成において大量の渡来人の存在を無視したことを言語学的な新たな知見が補強するかのように見えたからであろう。
しかし人類学における中国江南・山東地方と朝鮮南部そして北九州の渡来系弥生人がほぼ同じ人類学的形質を持っており水田式稲作もこの地域を通じて北九州にもたらされた可能性が高いという知見を併せて考えてみると、言語学の新しい知見も、日本人の形成に東北アジア(中国・朝鮮)からの渡来人が大きく関わっていたという説を補強するものである。 
(2)日本人渡来説を補強する、「日本神話」起源論
日本神話の起源や系統関係についての記述も、日本人の起源を考える上で重要なものであり、これを教科書に載せたことは優れたことであるが、ここには一部歪められたところがある。
この教科書は多様な要素をもった日本神話から、オオゲツヒメの死体から食物が生まれたという「死体化生神話」だけをとりあげ、この種類の神話の系統を、以下のように説明している。 
オオゲツヒメという食物の女神は、口や鼻の穴や尻の穴からご馳走を出す。スサノオの命が怒って女神を殺害すると、死体の頭から蚕が、目から稲が、耳から粟が、鼻から小豆が、性器から麦が、尻から大豆が発生した。これにより農業が始まったとされる。
解体された死体から食べ物が得られるこのような神話は、ニューギニアやメラネシアにかけて多く見出される。縄文時代に南から新しい文化の渡来があったのではないかともいわれている。切り刻んで、土の中に埋めて増殖をはかるイモの栽培と関係があるとも考えられている。女性をかたどった縄文土偶は、しばしば、ばらばらに壊され、分散して出土する。これも収穫への祈りと関係があるらしい。
たしかにそうなのである。だがここには事実の一部捨象がある。
この手の神話が広がっているのは、前記の地域とともに、東南アジア各地と中国南部なのである。なぜここでも中国南部の地域との神話の親近性が削除されねばならないのか。
また、さらに付言すれば、有名な国生み神話は、東南アジアから中国南部の神話の「洪水神話」との親近性が高いそうである。つまり洪水を生き残った兄妹が結婚して人類の祖先となったという神話であるが、その一つの流れとして、洪水のことは説かずに、原初の島に天から兄と妹が降りてきて結婚するというかたちの神話が東南アジア島嶼部に点在するそうであり、中国南部にもその痕跡はあるそうである。
つまり日本神話の基本的な構造は、東南アジアから中国南部にいたる広い地域との親近性を示しており、日本人が南方から渡来した人々からなっていることを示し、先の言語学的や知見や人類学的知見とも矛盾しない。
しかし「つくる会」教科書の神話論は、日本神話の南方起源説だけを強調し、それも縄文文化との関係だけを強調するという歪みをもっている。これは先に縄文文化の所で縄文人南方起源説を強調し、弥生文化の所で縄文人が水田稲作文化を学んで弥生文化をつくりあげたという渡来系弥生人の決定的位置を無視したところとも共通するものである。つまり日本神話起源論においては、中国や、そして朝鮮などの東北アジアとの親近性が削除され、南方系との親近性のみが強調されているのである。
これは間違った姿勢であろう。神話からわかることは、東南アジア・ミクロネシア・メラネシアそして中国南部と日本の神話がかなり共通した性格をもっていることだ。そしてさらに、「始祖が天から降って来る」という形の神話に注目すれば、朝鮮古代諸国の建国神話も同様な性格をもっており、朝鮮神話の一部にも南方系の要素が見られるのである。
この新しい歴史教科書の記述は、言語学や神話学の知見を紹介することで日本人の起源という大きな問題を考える基礎となる事実を提示しているという点で、他の多くの教科書よりも優れている。しかし、この教科書の持つ、中国・朝鮮の日本への影響の過小評価の性格ゆえに、事物の複雑な側面を偏らずに述べるのではなく、その一部のみを強調するという、きわめて恣意的な記述が所々に見られるのは、とても残念なことである。 

注:05年8月の新版では、この項は完全に削除されている。問題があるとはいえ日本文化論として興味深い記述であったのだが、「主張」とみなされて削除されたのであろう。普通の教科書にならうことで、かえってこの教科書の先進性=問題提起が損なわれた良い例である。
注:この項は、隈元浩彦著「私たちはどこから来たのか」、崎山理ら著「日本語の系統と歴史」、大林太良著「神話論」、日本大百科全書(小学館刊)の各該当項目の記述などによる。
 
元祖歴史捏造としての「邪馬台国」論

 

古代の第二節、古代国家の形成の最初の項は、「東アジアの日本」と題して、紀元前後から紀元後3世紀頃の日本の様子を述べたものである。この部分は、他の教科書と大同小異であり、むしろ詳しく記述されている。例えば「中国が周辺諸国につける名は、まわりの国々を見下す観点から、用いる文字も『卑字』が用いられている」例として、「東夷」の言葉を挙げていることや、「邪馬台国」の場所が確定せず、今だ論争中であることなど、他の教科書より詳しく述べられている。
また、日本の古代国家の成立を、日本一国の視点ではなく、中国を中心とする東アジアの歴史の流れの中に位置付けていることは、日本の歴史を見る上で大切な視点である。(卑字の指摘などは、中国の中華思想が昔からのものであり、後にその蒙昧性を批判する上で必要な記述であった可能性が高いが・・・。)
しかしこの部分の記述にも問題はある。いや、この問題は、「新しい歴史教科書」のみの問題なのではなく、全ての教科書に共通した問題であり、これが新しい歴史教科書の歴史捏造の前例であり、それを生み出した揺りかごだからである。  
それは何か。
それは日本の中心は、大和地方(奈良県および近畿地方)という固定観念である。そして、戦後の全ての教科書が(いや、日本古代史の研究者のほとんどが)、現天皇家(いうならば「大和天皇家」)が先祖代々、日本列島の王者の中心であったという考え方(=皇国史観)に、いまだに毒されて、資料すらまともにあつかえないで、歴史を捏造してきたということである。 
(1)「倭奴国」を倭の一小国に切り縮める意図は?
この教科書の部分で言うと、一つは『志賀の島の金印』の問題である。
この教科書には、次のように記述してある。
『後漢書』の「東夷伝」には、1世紀中ごろ、「倭の奴国」が漢に使いを送ってきたので、皇帝が印を授けたと記されている。(中略)このとき授けられたと思われる金印が、江戸時代に志賀の島(福岡県)で発見されたので、中国皇帝と日本列島の使者との交渉はあったと考えられている。
そしてページの上部には金印の朱印が印刷されており、そばに置かれた地図には、日本列島に「倭」と記し、その一部の九州の博多付近に「奴」と書き、この金印をもらった国が、北九州の小国であったと明示している。
この金印に記された国を「倭の奴の国」と読むようになったのは明治時代になってからであり、この奴の国を後述する魏志倭人伝中の第三の大国「奴国」に比定し、「邪馬台国」を近畿地方の大和に比定する論を立てるために出された読み方である。それまでは「倭奴=いと=伊都」と読み、同じく魏志倭人伝の伊都国(福岡県の糸島半島付近)に比定するものであった。
なぜ読みを変えたかというと、魏志倭人伝の魏の使いの行程記録にある奴国を那珂川の河口付近に比定すれば、その前の国である伊都国からの方角が北東となり、倭人伝の「東南」と矛盾し、『倭人伝の方角記述は信用できない』という論理の根拠となり、「邪馬台国」を倭人伝の行程記事から切り離して、かってに大和にまで持ってくることが可能になるからである。つまりこの「倭の奴の国」という読みかたの成立の背景には、「倭人伝の記事をその話法の解析からはじめて正確に読み取る」という資料批判の正道に従わず、その地名を勝手に現実のある場所に比定してから、その上で「資料の記述の誤り」を指摘するという、本末転倒の資料操作があったのである。いいかえれば、結論が先にあって、その上で原典資料を改作するという、「歴史捏造」という手口が、すでに明治時代に行われていたのである。
何のためか。「邪馬台国」を近畿大和地方に比定するためである。
だがこの歴史捏造は、その結果かえって齟齬を生じることとなった。それが「漢倭奴国王」の読みである。
中国の皇帝が服属する諸民族の王に印を贈る場合、金印は一民族の代表者を意味する統一権力に送っていた。そして印を贈る主体であり、上位者である皇帝の国号(この場合は漢)のすぐ下にくる文字は、皇帝に服属する夷蛮の国号を載せる。したがって「漢倭奴国王」は「漢の倭奴国王」と読むのが正しい。
これを無理して博多湾岸の奴国にあてたために、中国の印の読みの通例から外れた、無理な読みをしたのである。
倭奴は、漢を北方から脅かしていた匈奴に対する語であり、匈奴の「おじけづいて騒がしい」蛮族に対する、「おだやかに従う」蛮族という意味で、倭奴という字を用いたものであろう。そしてこの倭奴は倭と同義であり、金印をもらったのは倭の国王なのである。
要するに金印が出た博多湾の志賀の島こそが倭国の王家の谷であり、その対岸の博多が倭国の中心なのである(この点、古田武彦氏の説に従う)。しかし、この古田氏の説を、日本の古代史家の多くは認めない。理由は、彼らの多くがいまだに抱いている「大和中心史観」に、この説が抵触するからである。
弥生時代の金属器の出土の中心は北九州博多付近。同じく弥生時代の絹の出土の中心は北九州博多付近。そして3種の神器をともなう弥生の王墓の集中地域も北九州の博多付近。これらの考古学遺物の指し示す事実を見ようともせず、いまだに日本列島の中心は昔から大和であるという固定観念に縛られた結果。金印の示す意味すら読み取れないのが、現在の日本古代史学会なのである。
「新しい歴史教科書」の著者たちの古代史捏造は、この日本古代史学会の「大和天皇家中心史観」を拡大したにすぎないのである。 
(2)「邪馬台国」は存在しない
同じことが、次の「邪馬台国と卑弥呼」のところでも言える。
この教科書では「邪馬台国」のことを魏志倭人伝に依拠して説明しながら、いまだにその位置がはっきりしないことを次のように記述している。
しかし、魏志倭人伝を書いた歴史家は、日本列島に来ていない。それより約40年前に日本を訪れた使者が聞いたことを歴史家が記していると想像されているにすぎない。また、その使者にしても、列島の玄関口にあたる福岡県のある地点にとどまり、邪馬台国を訪れていないし、日本列島を旅してもいない。記事はかならずしも正確とはいえず、邪馬台国が日本のどこにあったのかはっきりしていない。
大和(奈良県)説、九州説など、いまだに論争が続いている。
この記述は多くの教科書の中では詳しいほうである。中には「邪馬台国」論争の存在すら示していない教科書もあるくらいである。
だがこの記述には大いなる嘘がある。それもこの教科書の著者たちだけの嘘ではなく、日本古代史学会の公認の嘘が。
それは何か。その一つは魏志倭人伝の記事が正しくないということ。これは前述のように、「邪馬台国」などの国の場所をあらかじめ論者の好きな所に比定しておいて、自分の説にあわないから「資料が正しくない」という論から生まれたもの。魏の使者が「邪馬台国」にいっていないというのも古代史家の勝手な解釈。倭国王に会いに行った使者が国王に会わないはずがない。第一それでは倭女王の生活についての詳しい記述や、女王の風貌についての詳しい記述もできるわけはない。魏使は20年にわたって倭の地にとどまり、女王が魏の皇帝の冊封を受けた倭王であることを倭国の人々に知らせつつ、女王国に敵対する狗奴国などとの闘いの先頭にも立ったのである(これこそ卑弥呼が魏に朝貢した理由に他ならないのである)。
ではなぜ使者が福岡県のある地点にとどまり、「邪馬台国」に行っていないという説が生まれたのか。それは魏志倭人伝にすなおに従うかぎり、魏の使いは九州から出ていないからである。つまり「邪馬台国」は九州の中心の福岡にあるからであり、それでは、近畿大和説が根本的に成り立たないからである。
ここも自説が最初にあり、それにあわないからといって原典資料を間違いだとする、歴史捏造の姿勢の現われなのである。
また第二に、この記述では「邪馬台国」の場所がはっきりしないのは、魏志倭人伝が不正確だからと読めてしまう。
事実は逆である。今までの多くの学者は、近畿大和説にしても九州山門(やまと)説にしても、「邪馬台国」の場所を最初から決めてかかり、原典資料である魏志倭人伝をかってに作り変えてしまうという歴史捏造をやってきた。そのため、「邪馬台国」の所在は、論者の数だけ存在してしまったのであり、資料が不正確だったからではないのである。
資料が不正確なら、そんな資料をつかって古代を論じる事自体がおかしいではないか。
最後に1点付記しておこう。それは「邪馬台国」の国号問題である。
結論を先に言おう。魏志倭人伝では「邪馬台国」とも書いていないし、その旧字体である「邪馬臺国」でさえない。あたりまえである。「臺」の字は「中央権力の中心の役所」を指す文字であり、魏志倭人伝が書かれた時代では、天子の居所=宮殿を示す言葉である。
天子と言えばこの時代は、中国の皇帝以外のなにものでもない。中国皇帝の家来である「蛮族」の王の居所に「臺」の字は使えないのである。
ではなんと書いてあったか。「邪馬壹国」である。呉音で読めば「やまいちこく」。漢音で読めば「やまいつこく」または「やまいこく」である。
「やまい」と読むのが良いのではないか。字は「邪馬倭国」または「山倭国」である。つまり倭国のなかの「やま」とよばれる国。それが女王の都する国であった。邪馬の字は「やま」の音を卑字で現したもの。壹は「い」の音を現してはいるが、「もっぱら」とか「専心する」という「佳字」を用い、漢王朝に敵対せず、もっぱら恭順の意を示している国という意味で、前述の「倭奴」と同じような使用のしかたであろう。
「邪馬壹国」では、どうやっても近畿大和に比定することはできない。そこで「壹」の字に字形が似ている「臺」の字をあて、それを強引に「やまと」と呼ぼうとした。それが「邪馬台国」の国号の由来である。この国号自体が歴史捏造の結果なのである。
ただ「邪馬臺国」には根拠がある。後漢書には『大倭王は邪馬臺国に居するなり』と記している。これは「やまだいこく」であり、字を変えれば「邪馬大倭国」または「山大倭国」である。
後漢書の列伝を書いた范曄は5世紀の人であり、このころには中国は分裂し大勢の天子がいた。つまり複数の「臺」が存在したのである。したがって范曄が倭国の都を記述するとき、「だい」を「臺」と記述したのかもしれないし、倭国の王自身が、天子を標榜し「山臺」と名乗ったのかもしれない。またこれは「山大倭」の意味でもあるかもしれない。
いずれにしてもこの字を使うには5世紀という後の時代の状況があってのことであり、それでも「臺」を「と」と呼ぶこともできないのである。
「邪馬台国」という国号の使い方。このこと自身に、日本の歴史を「大和天皇家中心史観」をつかって捏造しようとする日本古代史家の傾向が要約されているのであり、それをそのまま無批判に使っている所が、「新しい歴史教科書」の著者たちが、日本古代史学会の忠実な弟子である事の自己表明でもあるのである。 

注:05年8月の新版の記述は、ほぼ旧版と同じである。異なるのは二つ。一つは、「倭人伝」の記事が不正確だとする理由を旧版ではくわしく述べていたのが全面削除され、ただ「倭人伝の記述には不正確な内容も多く」とされたこと。これではどうして「不正確」と判断されてきたかがわからず、魏志倭人伝の倭についても詳しい記述と合わせて本当に不正確なのか考える事ができなくなっている。この「不正確な理由」が削除されたかわりに、「中国を中心とした国際関係」という一文が挿入されている。これは旧版で「大和朝廷の外交政策」の項に載せられていた「中華秩序と朝貢」の記述を拡大し、この項の内容にあわせて記述したもの。倭の国の最初の朝貢の所に入れたのは、事実の理解に大いに役立つ。
注:この項は、古田武彦著「邪馬台国はなかった:解読された倭人伝の謎」「ここに古代王朝ありき:邪馬一国の考古学」「倭人伝を徹底して読む」、和田清・石原道博編訳「魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」などを参照した。 
 
幻の『大和朝廷』による『日本統一』

 

(1)幻の『大和朝廷』
古代史の次の節は、「古墳の広まりと大和朝廷」と題し、のちの大和天皇家のもとで日本の統一が進められたということを記述する節である。
この部分の記述も、「新しい歴史教科書」と他の教科書との間には、記述には大差がない。その分、問題がないように見えるが、実はこの部分にも日本古代史学会公認の歴史捏造がなされているのである。
いわく、『4世紀から5世紀にかけて、大和の諸豪族が大王家(後の天皇家)を戴いて立ち上げた統一権力(大和朝廷)が、日本の大部分を統一した』と。
この仮説は、日本古代史学会公認の「定説」として一般に流布している。
しかしこの仮説の根拠はとても脆弱である。
この教科書の記述を見よう。   
古代国家は、どこでもたいてい王の巨大な墳墓を残す。日本列島でも3世紀以降、最初は近畿地方や瀬戸内海沿岸に、やがて広い地域に、まるで小山のように盛り上がった、方形と円形を組み合せた古墳が数多くつくられた。これを前方後円墳という。(中略)ほうむられているのは、おもに地域の支配者であった豪族たちである。大和(奈良県)や河内(大阪府)には、ひときわ巨大な古墳が多かった。この地の豪族たちが連合して統一権力を立ち上げたためと考えられ、これは大和朝廷とよばれている。
地方の豪族たちの上に立つ大王の古墳は、ひときわ巨大であった。わけても、日本最大の大仙古墳(仁徳天皇陵)の底辺部は、エジプトでも最大のクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きかった。古墳は3世紀ごろに造営が始まり、7世紀ごろまでつくられた。
いったいこれほど大きな権力はいつ始まり、いつ大きくなったのだろう。
いつ始まったかは深い謎につつまれているが、いつ大きくなったかはだいたいわかっている。4世紀である。これは古墳の普及のようすから判断できる。
まずこの教科書の記述の誤りから指摘しておこう。
それは、この教科書では「古墳」と「前方後円墳」とが、ほぼ同義にあつかわれていることである。
上の文の下線の部分は、「大和朝廷」による統一の根拠を述べたものであるが、ここでいう「古墳」とは、正しくは「前方後円墳」のことである。
古墳は、巨大な墳丘をもった首長の墓であり、それ以前の弥生時代の首長の墓と区別して「古墳」と呼ばれる。古墳にはいろいろな形があり、もっとも多いのは平面形が円形の円墳で、小は直径10mぐらいから大は直径100mぐらいまである。これが一般的な王墓(首長墓)であるが、地域によってこれ以外にさまざまな形の違いがある。
たとえば島根県などの昔の出雲地方の王墓は、長い間、平面が方形の方墳であったし、関東地方南部でも方墳であった。中には最大一辺が100mにもなるものがある。また東北から九州まで分布する一つの形として、方墳の前に方形の祭壇がついた形の前方後方墳というものもあり、最大のものは全長150mを越える。
前方後円墳というのは、これらの多くの古墳の中の一つの形であり、その初源のころの分布範囲が、瀬戸内海周辺から近畿地方(正しくは奈良県)のみに限られた特殊な墳形をした古墳である。そしてこの中でも最も古い形を持ったものと考えられる古墳が奈良県の三輪山周辺にあり、この特異な形をした古墳が、その後全国に広がっていることと、その最大級のものが近畿地方(正しくは、大阪府=河内の国と奈良県=大和の国)に集中しており、それらが大和天皇家の祖先の墳墓との伝承があることから、この古墳の発生と広がりとが、大和の権力の広がりの根拠と考えられたのである。
しかし、この古墳の広がりが大和の権力の広がりと断定する根拠は乏しい。
その理由の一つは、古墳は築造された年代がわからないということである。そんなことはない。「○○世紀前半に作られた古墳」などとよくいうではないかと思うだろうが、そこが味噌である。この○○世紀前半という年代は、前方後円墳という形の変化の激しくかつ統一的な規格の古墳の分布をもとに考えられた年代で、その前提は、『最も古い形の前方後円墳は大和盆地にある箸墓などの古墳であり、これらの古墳が三世紀後半のもの』と考えられ、それを基準作られた年代である。したがってこの年代自体が仮説なのである。
その理由の二つは、最も古い前方後円墳の年代が3世紀後半と比定された理由が、全くの臆説に根拠をおいているということである。それは、これらの古墳から「三角縁神獣鏡」と呼ばれる「古鏡」が大量に出土し、その中には、あの「邪馬台国」の女王卑弥呼が魏の皇帝から鏡を下賜されたとされる年代の「景初」の年号をもったものもあるので、この三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」と考えられたからである。そして卑弥呼が死んだのは250年ごろであるから、その子孫の王に代々伝承されたあと墓に埋められたとすれば三世紀の後半だというわけである。さらに、この鏡は全国の多くの前方後円墳から出土しているので、大和朝廷がそれに服属した各地の王たちに、このかたちの墓をつくることを許すと共に、権威の象徴である鏡を下賜したと考えられたのである。
しかしこの三角縁神獣鏡は中国ではまったく出土せず、日本のみの鏡である。そして文字が鋳込まれているものでも、文字の形に間違いが多く、とても中国で作られたものとは思われないこと。そして卑弥呼が下賜された鏡は100枚と魏志倭人伝などに記されているのに、出土した三角縁神獣鏡は3000枚を越えている事。さらに卑弥呼が魏に朝貢したのは景初ではなく、次の年号の正始年間であることから、「卑弥呼の鏡に景初の年号が入っているのはおかしい」ことと、その「景初年号」の三角縁神獣鏡の年号を良く見ると、「初」の部分ははっきりせず、100年ほど後の年号にも読める事などから、近年ではこの鏡が中国の鏡であることに疑問が持たれている。
研究史をたどってみるとわかることだが、これを「景初」と読んだ事自体、はじめから「卑弥呼の鏡」との思いこみがあったのであり、「邪馬台国は大和だ」との前提があって研究されたことなのである。証明すべきことを前提にして資料を解釈する。ここにも「邪馬台国論争」と同質の、歴史の捏造ともいえるものがあったのである。
こうして三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」であるという前提がくずれれば、初期の前方後円墳が3世紀後半という根拠は全くなくなるのであり、その権威の象徴として鏡を全国の王に下賜したという仮設も幻に終わる。
また理由の3として、前方後円墳の発生そのものが最近解明されつつあると言う事をあげよう。前方後円墳の形をもった墳墓の中でもっとも古いものは岡山県に広がる弥生時代の墳墓である。
弥生時代の王墓の形は基本的に平面形が方形である。方形の山を築き、その頂に王の遺骸を埋めるのが通例で、その変形として、その山のまわりを堀で囲むと言う形がある。それが岡山では弥生時代に、方形の墳墓の全面に低い方形の(正確には三味線の撥のような末広がりの形)祭壇を作りつけ、その墳丘の頂や裾野に円筒形の土器を立てるという形が行われていた。まさに前方後円墳であり円筒埴輪である。
この岡山の弥生の王墓に、王の遺骸を入れるものとして高野槙をくりぬいた棺を入れ、内部に鏡と玉と剣という3種の神器(これは北九州の弥生の王墓で見られる副葬品の形である)をいれれば、初期の前方後円墳そのものなのである。
つまり前方後円墳は弥生時代の岡山の王墓の形に、弥生時代の北九州の王の墓の副葬品を加えた形をもっているのである。二つの地域の文化を背景としてつくられた王墓の特殊な形なのである。
いいかえれば、前方後円墳として最も古いものの一つとしてこの教科書でも取り上げている奈良県の箸墓は、「巨大な王墓」としての「前方後円墳」の始まりの一つなのであって、前方後円という形の王墓としては最古の物ではないということであり、前方後円墳が「大和ではじまった」と言われる通説は、まったく根拠がないのである。
年代が限定できず、その根拠であった「卑弥呼の鏡」が幻となり、その古墳の始まりが大和ではないとすれば、「大和朝廷の全国統一」なるものも、完全な幻になってしまうのである。
なぜこんなことになったのか。理由は簡単である。日本古代史の基本文献の一つである「古事記」では、神武以来「天皇」とおくりなし、まるで神武の子孫が代々日本の王であったかのように見せかけている。さすがに戦後はこの神話をそのまま信じるのは憚られたので、古事記で「ハツクニシラシスメラミコト」と書かれたこの「天皇」の墓と伝承されているのは、奈良県三輪山山麓の前方後円墳であり、その周辺には古い形の前方後円墳がたくさんあった。「ハツクニシラシ」という言葉を「日本統一」と読み替えて、その考古学的根拠として、前方後円墳の発生と広がりと、三角縁神獣鏡の広がりをあげたのである。
ここでも結論が先にあって、それを理由付けるために、考古資料という原典資料を恣意的に操作するという、捏造ともいえる歴史分析手法がとられていたのである。
4世紀から5世紀における大和朝廷による日本統一は、完全な幻である。
最後に一つ付言しておこう。
この新しい歴史教科書は、大阪の伝仁徳天皇陵をエジプトのクフ王や秦の始皇帝の墓と大きさを比較し、「それらよりも底辺の大きさが大きい」ことをもって、この墓をつくった権力の大きさをはかっている。
だが古代国家はいつでもどこでも大きな王の墓をつくったのだろうか。
ピラミッドは最近の研究によって王の墓ではなく、王権の正統性をしめすための一大記念碑であり大規模な儀式の装置だったのではないかと考えられている。つまり王の再生の儀式の。そしてピラミッドという巨大な建造物が作られたのはエジプト古王国の歴史の中のわずか100年ほどである。
秦の始皇帝の墓も、墓というより巨大な記念碑であることは、地下から発見された兵馬踊の巨大さからも想像できるであろう。やはり数百年ぶりに中国を統一したということを示すものであろうか。
ではなぜ、近畿地方の前方後円墳、とりわけ大王の墓とされたそれは巨大なのか。通説ではそれは権力の巨大さ、日本の統一権力としても記念碑と説明している。しかしこの説明には根拠がない。「大和朝廷」という統一権力があったということを前提として、この説明は成り立っているのであり、その前提が崩壊してしまえば、この地の王墓の異常な大きさ(通常はせいぜい全長200m。大仙古墳は480m。異常な大きさである)を説明することができない。
ここで最後に、この王墓の異常なまでの大きさを、統一権力としての大和朝廷を前提としないで説明した唯一の説である、古田武彦氏の説明をあげておこう。
古田氏は巨大な前方後円墳の出現を、神武(もちろん天皇ではない。倭の伊波礼地方の王としてのカムヤマトイワレヒコノミコトである)以来、銅鐸文明圏に武装侵略を試みた集団が、ついに10代の後になってその銅鐸勢力の中心地を陥落させ、九州の倭王の分王朝として成立したという一大モニュメントと解釈する。その始まりが崇神などの大和盆地の巨大古墳である。そして14代の応神の時代に至ってその勢力は銅鐸文明圏をほぼ席巻し、母なる国・九州の倭王朝と闘えるようになった(仲哀が熊襲=九州王朝との闘いに敗れて死んだあと、応神を身ごもった神功は敗軍を率いて、仲哀のあとを継いだ二人の息子たちを倒し、息子の応神にあとを継がせた)。このことを誇る記念碑として建てられたのが大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳【こんだごびょうやまこふん】(伝応神天皇陵)であり、難波津に入る船に見えるように立てられたのが大仙古墳【だいせんこふん】(伝仁徳天皇陵)であると。そしてあの三角縁神獣鏡の大規模な鋳造は、母なる祖国・倭王朝の鏡の文明の流れをくむことの誇りと崇拝が、それを生み出したもとであろうと。 
(2)「王国」の分立の時代へ
大和や河内の前方後円墳が異常に巨大であることを以上のようにとらえると、そこから新たな問題が立ち現れてくる。
それは、「大和朝廷による日本統一」ではなく、「王国の分立と戦乱の時代の出現」である。
この時代のことを、新しい歴史教科書はつぎのように記述している。
ちょうどこのころ、中国は内乱で勢力が弱まっていた。その間に、朝鮮半島の北部では高句麗が強国となり、南部では百済や新羅が台頭した。
一方、中国の歴史書で「倭」とよばれていた当時の日本は、3世紀後半から5世紀のはじめまで、中国の文字記録からまったく姿を消す。日本列島でも、中国の影響力が弱まったこの時期に、こうした周辺諸国の動きに合わせるかのように、大和朝廷による国内の統一が進められたのである。
おかしな記述である。中国では内乱がおこり、南北朝時代という長い戦乱の時代に入り、王朝がいくつも乱立し、天子が多数並立するという内乱の時代にはいった。そしてこれと歩調をあわせて、朝鮮半島でも高句麗・百済・新羅、そして倭による戦乱の時代がはじまったのである。つまり中国が内乱状態になるとその影響力は弱まり、周辺の諸国でも権力が分立し、内乱状態となるということである。これは東アジアの歴史の流れであり、何度となく繰り返されたことである。
しかしこの4〜5世紀は違っていた。日本では周辺諸国の動きに反して、「統一」が進んだのである。そう。『周辺諸国の動きに反して』と記述すべきであったのである。
4〜5世紀に大和朝廷による日本統一が進んだと考えると、周辺諸国の状況と違う事態が生まれたことになる。だが、記紀の仲哀による熊襲征伐を九州王朝の本拠地の筑紫に攻め入った仲哀が、九州王朝軍とそれを支援する百済・新羅軍との闘いに敗れて敗死したと捉えるなら、これは日本における「王国の分立と対立の時代」が始まったことを意味している。
つまり紀元前の漢王朝の時代から倭の正統王朝として認められてきた北九州の王朝に対して、その分王朝である大和王権が敵対し、激しく戦ったわけである。しかしこのような事態は何もこれが始めてではない。「邪馬台国」の女王卑弥呼が魏に朝貢したのも、その分王国である狗奴国の反乱と対立に対処するためであった。つまり中国における漢王朝の滅亡・三国の対立の始まりは、日本にも影響し、複数の王国が対立する時代の幕を開けたのである。これが3世紀の中ごろのことである。そして仲哀と熊襲のたたかい。これは4世紀終わりから5世紀はじめ。まさに日本列島も王国の分立と対立の時代に入っていたのである。
この観点から見るとき、河内の300mを越す前方後円墳群と対をなすようにしてそびえる300m級の前方後円墳が瀬戸内海の吉備地方(岡山)に存在している意味も、自ずから明らかであろう。5世紀は、少なくとも、九州王朝(倭王権)・吉備王権・大和王権の3つの王国の対立と抗争の時代であったのである。そしてこの対立は東国にも波及していたであろう。
だからこの時期に全国で多くの巨大な前方後円墳が立てられたと解釈できないだろうか。
そしてこの闘いはさらに続く。それは西では527年の大和の王・継体が九州筑紫に攻めこみ、九州王朝の王者・筑紫の君磐井を倒し、その子の葛子の軍と激しく戦うという事態にまでいたり、東では534年の武蔵国造の内紛に、北の大国毛の国の大軍と、西の朝廷(日本書紀は大和を指しているように書かれているが、この時代『朝廷』といえば、九州筑紫以外にない)の大軍が介入し、「朝廷」側が勝利するという事態にまで発展するのである。
従来の日本古代史学会の定説では、このような統一的なとらえかたはしていない。だがしかし、前方後円墳の発生と普及の事実と、神話や古記録における記事とを統一的に把握すると、従来の定説とはまったくちがった位相の歴史が出現するのである。
そしてこの『3世紀から5・6世紀まで日本は王国の分立と対立の状態が続いた』との新しい理解は、中国・朝鮮など周辺諸国の動きとも完全に一致しており、日本国内の動きと国際情勢とを、一体のものとして理解できるのである。
日本古代史学会は、考古学的事実と、神話や古記録とを、それぞれバラバラに解釈して、それを「大和朝廷による日本統一」という、すぐれて皇国史観にたつ政治イデオロギーで粉飾してしまったため、まったく特異な歴史を作り上げてしまったのである。
「新しい歴史教科書」の皇国史観に立つ歴史捏造の源は、ここにあったのである。 

注:05年8月の新版の記述は、旧版とほぼ同じであるが、一点完全な捏造と言える記述が挿入されている(。それは当時の東アジアの動きについてだが、中国が分裂して対外的な影響力が弱まったと記述したあと、「朝鮮半島では、北部で高句麗が強国となり、南部では百済や新羅が台頭して、統一国家への動きがつよまった」と述べた部分である。この記述の下線部分が完全な捏造である。この高句麗・百済・新羅の台頭は、朝鮮半島内のそれぞれの地域の統一行動ではあるが、半島全体の統一国家への動きではまだない。正しくは半島内に複数の王朝が成立して、分裂抗争している時代である。これを「統一国家への動き」と強弁した理由は、そのすぐあとで、「こうした周辺国家の動きに合わせるかのように、日本列島でも、小国を合わせて統一国家をつくる動きが生まれた。その中心が大和を基盤にした大和朝廷とよばれる政権だった」と述べる事の理由づけだったのである。すなわち私も指摘した「東アジア規模での流動」に反して日本だけが統一国家の成立という矛盾を矛盾ではなくすために、朝鮮半島における動きを「統一国家への動き」と強弁して歴史を捏造しようとしたのである。これは汚い歴史の改作・偽造である。もうひとつ旧版と異なるのは、項の記述の最後に「大和の氏姓制度」についての記述を挿入したことである。これは旧版では、「大和朝廷の外交政策」の中にあった「技術の伝来と氏姓制度」の記述を前にもってきただけである。「統一国家」の仕組みを示しておきたいという意図であろう。しかしこの記述も「氏ごとに決まった仕事を受け持った」と書くだけなので、実は「大和朝廷」は有力な氏の連合体に過ぎないという実態が見えない記述になっている。
注:この項は、森浩一編著「シンポジウム古墳時代の考古学」、古田武彦著「失われた九州王朝:天皇家以前の古代史」、近藤義郎著「前方後円墳の誕生」などを参照した。 
 
「改作された伝承」を無批判につかった「神武天皇の東征伝承」

 

「大和朝廷による日本統一」を語ったあと、新しい歴史教科書は、その「大和朝廷」の淵源の伝承を紹介する。それが「神武天皇の東征伝承」である。ここは、「神話を事実であるかのように使った」と問題になっている所だが、「神話」を取り扱う事に問題があるのではなく、その取り扱いかたに問題があるのである。
だがそれは、「神話を事実のようにとりあつかった」ことではない。「神武東征」は史実である。ただし「天皇」としてではなく、九州王朝旗下の一豪族の『武装植民』行動としては、事実なのである。
この教科書でのこの「神話」のあつかいの問題点は、「神話」はそれ自体がある権力の正統性を証明するために必ず改作を経ているという古今東西に共通した命題を無視し、「大和朝廷が悠久の昔から日本を統治していた」という政治的仮構を証明する為に改作された「神話」を無批判につかって、「大和朝廷が悠久の昔から日本を統治していた」かのように、歴史を捏造しようとしていることである。
ここでは冒頭に、以下のように述べている。
一つの政治的なまとまりが、大きな力を備えた統一政権になるには、通常、長い時間を必要とする。大和朝廷がいつ、どこで始まったかを記す同時代の記録は、日本にも中国にもない。しかし「古事記」や「日本書紀」には、次のような伝承が残っている。
この続きの部分に「神武東征」の伝承を載せてあるのだが、その記述のしかたを見ると、古事記と日本書紀という、性格の異なる、内容も異なる伝承を、まるで両者に矛盾がないかのようにして載せ、しかも記述されたものとしては日本書紀の「神武東征」説話を使っているのである。 
(1)神武は天照の子孫ではあるが「直系」ではない
この教科書は伝承の冒頭に「天照大神の直系である神日本磐余彦命(かむやまといわれびこのみこと)は・・・」と書いている。
たしかにその通りなのだが、古事記も日本書紀でもここに一つのしかけがある。どういうしかけかと言うと、神武に始まる「大和朝廷」が天照大神の子孫の「本流」=「直系」であるかのような記述をしていることである。
たとえば古事記の記述によれば、天照の直系の後継ぎは「正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命(まさかあかつかちはやびあめのおしほみみのみこと)である。古事記には「太子(ひつぎのみこ)」と書かれている。この忍穂耳の命の子は二人おり、「天の火明の命(あめのほあかりのみこと)」と「天つ日高日子番の邇邇芸命(あまつひだかひこおのににぎのみこと)」である。この邇邇芸命が大軍を率いて「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のくじふるだけ」に宮を築き、筑紫の支配を始めたのである。
この邇邇芸命の名前を良く見てみよう。「あまつひだかひこ=天津比田勝彦」なのである。つまり天国(あまぐに=壱岐・対馬を中心とした海洋王国)の比田勝津=港の長官という名前なのである。では天国の王位継承者はだれか。当然、天の火明の命である。この天の火明命の名前を日本書紀で見ると、「天照国照彦火明の命(あまてらすくにてらすひこほあかりのみこと)」である。天国だけではなく陸の国も治めるという名前になっていることがわかるであろう。本流はこちらなのだ。
古事記も日本書紀もこの「王」の事跡を書かない事で、まるで邇邇芸命が天照大神の「本流」であるような書き方をしている。正しくは「傍系」なのである。
この邇邇芸命には二人の子があった。一人は「火照りの命(ほでりのみこと)」。もう一人は「火須勢理の命(ほすせりのみこと)」。3番目が「火遠理の命(ほおりのみこと)」である。
この3番目の子が神武の祖父(?)の「天つ日高日子穂穂出見の命(あまつひだかひこほほでみのみこと)」だ。
この名前を検討してみると、天国のひだか(=比田勝)の長官であるホホデミの命という名になり、父の邇邇芸命と同じ官職名である。そして長兄の火照りの命の名を見れば、邇邇芸命の兄の火明の命のまたの名である天照国照彦火明の命の名と同じく「照らす」という語が使われていることから、「火の国(=肥の国)を治める王者という意味ではないだろうか。
だとすれば、神武の祖父(?)である穂穂出見の命は、その名のとおりの天国の一地方の港を治める長官にすぎず、倭国をおさめる王者ではないことになり、この部分の神話である「山幸彦・海幸彦」の説話は、あたかも弟の穂穂出見の命が倭の王者であった兄の火照りの命にとってかわったかのような記述なのである。古事記ですでにこの部分において、歴史の捏造が行われていると見て間違いはない。
神武の祖父(?)穂穂出見の命は、天照の子孫の一人ではあるが、その直系ではなく、傍系のそのまた傍系なのである。
同じことは神武の父(?)の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒダカウガヤフキアエズノミコト)にも言える。意味は比田勝の津の長官で海岸線(=波限・なぎさ)の防備隊長(=建・たける)のウガヤフキアエズの命ということであり、一水軍の長のイメージである。そして彼が住み一生を送ったのは、筑紫の日向の高千穂の宮。倭国の中心の筑紫郡の西にある糸島郡の東のはずれの山すそで、糸島水道をへて唐津湾・博多湾をつなぐ防衛上の拠点にある宮。首都を防衛する西の拠点なのである。
そして神武は、この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒダカウガヤフキアエズノミコト)の4男。そもそもの名前は若御毛沼の命(わかみけぬのみこと)。
神武は天照の子孫の一人ではあるが、その直系ではなく傍系の傍系である。しかし本来の直系や傍系の主流の人々の事跡を詳しく記さないことで、古事記も日本書紀も、まるで神武が天照の直系であるかのごとき書き方をしているのである。ここに二つの書が、日本の歴史を「大和中心」に読み替えようとする意図が表れている。 
(2)東への武装集団の長は神武ではない
この教科書は東へ向かった武装集団の長が神武であるかのごとき書き方をしている。
天照大神の直系である神日本磐余彦尊は、45歳のとき、日向(宮崎県)の高千穂からまつりごとの舞台を東方に移す決心をし、水軍を率いて瀬戸内海を東へ進んだ。大阪湾から上陸を志すが、長髄彦(ながすねひこ)の強い抵抗を受け、・・・・・・
たしかに日本書記ではこう書いてある。だが、古事記ではそうなっていない。
古事記では、高千穂の宮にて「東に行く」ことを決定したのは、兄の五瀬命(イツセノミコト)と弟の神武の2人であり、軍を率いているのも五瀬命である。河内の日下で登美のナガスネ彦の軍に行く手を阻まれ、東に向かうことを諦め南に軍をうつすことを決定したのも五瀬命である。そしてこの時の戦で傷を負った五瀬命が、紀国の男之水門で死んだので、ここで全軍の指揮が神武の手に移ったのである。
最初から神武が指揮をとっていたかに歴史を捏造したのは、日本書記の編者であり、あくまでも大和朝廷の祖先である神武が指揮官でなければいけないとの大義名分論で書かれていたのである。 
(3)神武の出発点は日向(ひゅうが)ではない
さらに、神武たちが東に向けて軍を発したのは、日向(宮崎県)ではない。たしかに日本書紀はそう書いている。だが、古事記では「日向(ひむか)から筑紫へ」と書いてあり、この日向は「筑紫の日向の高千穂の峰」の日向であり、筑紫の国の中の日向である。そして神武らが向かった筑紫とは、筑紫の国ではなく、その中心である「筑紫郡」、倭国の都のあるところへ向かったのである。
8世紀になって、大和天皇家が日本の王になってから書かれた日本書紀は、古事記に伝えられた古い言い伝えを改変し、邇邇芸命が天下ったのも宮崎県の日向の高千穂の峰で、神武が東方への移住を決めたのも日向の国の高千穂の宮というように、二つの伝承の場所が筑紫であったことを隠しているのである。それは何のためか。筑紫が長い間、日本の中心であったという事実を歴史から消し去り、大和天皇家が九州の筑紫天皇家を滅ぼして日本の王位を奪ったという事実を消すためである。
神話は、それ自身が権力の正統性をしめすための虚構であり、その元の形そのままではないと言う原則を忘れないならば、、日本書紀が歴史を捏造していることは明らかであろう。 
(4)東征は、都を東に移すことではない
次にこの教科書の書き方では、「都を東にうつす」ような書き方になっていることも問題である。たしかにここでも日本書紀はそういう書き方をしている。「東に良い土地があり、青い山が取り巻いている。(中略)思うにその土地は、大業を広め天下を治めるのによいであろう。きっとこの国の中心だろう。(中略)そこにいって都をつくるにかぎる」と。
だが古事記はそうではない。単に「どこに行けば、一国を治められよう。もっと東に行こうと思う」と述べているだけである。
従来はこの古事記の記述の「天の下の政」と言う言葉を、「天下を治めること」と解してきたが、この「天」とは「天国=あまぐに」のことであり、天国の支配の下で、政治を行うこと、つまり一国を治めることという、当時としてはきわめてリアルな言葉なのであり、天国の統治下という大義名分を含んだ言葉で、けして全国を治めるという意味の言葉ではない。
それが証拠に、「天の下を治めた」という神武の名前は、「神日本磐余彦の尊」である。古事記なら「神倭伊波礼毘古の命」である。どちらも「神」は「おおいなる」とか「うつくしい」とかいう美称。「日本」「倭」は、日本列島全体をさす言葉か、もしくは日本列島を治める大義名分をもった国の名。おそらく後者であろう。古事記が撰述され稗田阿礼が暗誦したときは「九州王朝」中心の「倭」の時代。日本書紀が書かれた時は、「大和」中心の「日本」の時代だからである。そして最後の「磐余彦」と「伊波礼毘古」とは、「イワレ地方を治める長官」の意味。
神武天皇と後の世になっておくりなされているが、彼は決して日本全体の天皇ではなく、「倭国」の一地方長官」であると名乗っているのである。「天の下を治める」とは、天国(あまぐに)の統治する倭国の下で政治を行うという意味でしかないのである。
古事記と日本書紀の記述のどちらが古態を示しているのか。当然古事記である。日本書記は大和中心に歴史を捏造している。 
(5)「倭国」の国々の援助の下で行われた東への武装植民
この神武東征説話には、まだまだ歴史捏造のあとが見られる。 この歴史教科書は、神武がまっすぐに水軍を率いて瀬戸内海を東へ進んだかのような書き方をしている。これは古事記とも日本書記とも違っているのである。
二つの史書では、神武たちはまっすぐには瀬戸内海を東に進んでいない。途中で何ヶ所かに立ちより、そこで何年も過ごしているのである。
古事記によれば、以下のようである。
(a)豊国(大分県)の宇佐
(b)筑紫(福岡県)の岡田の宮・・・・・1年
(c)安芸の国(広島県)のタケリの宮・・7年
(d)吉備(岡山県)の高島の宮・・・・・8年
日本書記ではこの年数が半分以下におさえられているが、相当の年数、途中にいたことは明らかである。軍団だけではなく、女子供を伴った旅である。この長期にわたる滞在をどう理解したら良いのか。
食料を補給し武装を整えるだけならあまりに長期に過ぎる。やはりその地に植民し、あらたな国を作ろうというのではなかろうか。しかしそれもかなわぬまま(そこには倭国と同じ「矛」の文化を持った国があったので)、その地の王たちの援助を得て、さらに東へと歩を進めたのではないか。
この意味で、神武たちの子孫の王の墓が、吉備の国発祥の前方後円墳の形と円筒埴輪を持ち、墓の内部の副葬品としては、九州筑紫の弥生墓と同じく・鏡と矛と玉であることは、神武たちの東征の経過を追ってみると、それと見事に符合しているのである。 
(6)神武は大和の国を平定していない
そして最後にこの説話が歴史を大きく捏造している部分がある。それは以下のところである。教科書の記述を見よう。
神日本磐余彦尊は、抵抗する各地の豪族をうちほろぼし、服従させて目的地に迫る。再び長髄彦がはげしく進路をはばむ。冷雨が降り、戦いが困難をきわめたちょうどそのとき、どこからか金色に輝く一羽のトビが飛んできて、尊の弓にとまった。トビは稲光のように光って、敵軍の目をくらました。こうして尊は大和の国を平定して、畝傍山の東南にある橿原の地で、初代天皇の位についた。
たしかに日本書紀ではこのように書かれている。最後に長髄彦を討とうとした時に負けそうになったとき金色のトビの力で敵軍を混乱に落とし入れたという話は、日本書記だけにあって、古事記にはない話である。そして日本書紀は続けて長髄彦のもとにあった天の邇芸速日の命(アメノニギハヤヒノミコト)が長髄彦を裏切って殺し、自分の軍を率いて神武の下に投降したと記述する。まるで大和の国を平定したかのような書き方である。
しかし古事記はまったく違う。大和盆地に入った神武は各地の王たちを倒したり従えたりしたが、ついに長髄彦(古事記では「登美の那賀須泥毘古」である)をたおすことは出来なかった。そして最後に天の邇芸速日の命が長髄彦から分かれて投降し、ここに神武の戦は終わっているのである。
長髄彦の拠点の登美とはどこか。奈良盆地の中央を流れる大和川に北から合流する川に「富雄川」がある。その上流部で生駒山をはさんで、長髄彦と神武らが戦った河内の国の日下をひかえた大和盆地北西部の盆地群。ここが長髄彦の拠点ではなかったか。
では神武が置いた拠点はどこか。その大和川の南側、大和盆地の東南の隅の盆地である橿原の地。神武はついに長髄彦を倒せなかったのが史実であろう。つまり神武は大和の国を平定できなかったのである。それは彼の子孫に託された。
大和を平定し、橿原の地で初代天皇として即位した。これは大和中心史観で日本の歴史を捏造しようとした日本書紀のみに存在する、幻である。「新しい歴史教科書」の著者たちは、この日本書紀と言う造作された史書を無批判に採用し、大和中心史観に自らも染まっていることを暴露したのである。 
(7)神武東征は史実である
以上のような修正を施せば、「神武東征」は史実である。詳しくは古田武彦氏の著作に譲るが、一つだけ証拠をあげれば、弥生時代後期にいたって、近畿地方を中心に広がっていた銅鐸文化が、大和盆地においては忽然と消えるのである。そして、その中心が大阪北部から京都南部にあった銅鐸文化が東西に分裂し、その中心は東海地方に移って行くのである。
従来は謎であったこのことも、銅矛圏からの武装植民集団としての神武らとその子孫が、大和盆地の南部からだんだんに銅鐸文化圏を侵食し、ついにはその中心地も陥落させたことの結果と考えれば、たちどころに氷解する。
しかしこれは、神武による日本の中心の征服・大和朝廷による日本征服(統一)の始まりではない。結果としてみれば、その約600年後に彼の子孫によって統一がなされるのだが、神武が大和に侵入した当時は、大和は日本の中心でもないし、銅鐸文化圏の中心でもないのである。
それをあたかも神武による日本の中心の征服の伝承のように作り変えたのは8世紀に成立した大和朝廷の正史である日本書紀の造作(=歴史捏造)であった。
「新しい歴史教科書」を作る会の人々は、「神話を尊重する」として、その実は、大和中心史観によって改変された神話を無批判に採用しているだけなのである。
神話はたしかに歴史的事実を反映している。時には歴史的事実そのものでさえある。だがしかし、神話はそれを必要とした権力が、自己の権力の正統性を示すために、政治的に改作されているものなのである。
神話がどのようになんのために改作されているのかを検討するという真に科学的な姿勢で神話を扱うことが、日本の歴史の真実を明らかにするためには必要である。
神話を自分の歴史観に都合よく改作することも、神話を全くの虚妄として捨て去ることも、どちらも真に歴史を明らかにすることではない。 

注:05年8月の新版の「神武東征」説話のあつかいは、旧版とほとんど同じである。違う所は最後に、次のような文が挿入された事である。すなわち、「大和朝廷がつくられるころに、すぐれた指導者がいたことはたしかである。その人物像について、古代の日本人が理想をこめてえがきあげたのが、神武天皇の物語だったと考えられる。だから、それがそのまま歴史上の事実ではなかったとしても、古代の人々が国家や天皇についてもっていた思想を知る大切な手がかりになる。」と。これは旧版の記述が神話を事実のようにあつかったとの批判を受けて書かれたものに違いない。神話はたしかに「古代の人々の思想を知る大切な手がかり」である。だが「神武神話」を「古代の日本人」全体の理想をこめたものであるかのような記述の仕方は問題である。あくまでもこれは、後に九州の倭国を滅ぼして取って代わり日本の統一王権になった大和の「天皇」家と貴族たちにとっての理想・神話でしかない。この教科書の著者たちは、あいかわらず「大和中心主義」に立っているのである。
注:この項は、古田武彦著「盗まれた神話:記・紀の秘密」などを参照した。 
 
「倭」=「大和朝廷」という虚妄

 

次の1節は、「大和朝廷の外交政策」と題して、4世紀から6世紀までの、朝鮮半島情勢を中心に、我が国と中国・朝鮮諸国との関係を述べている。この節は、我が国と朝鮮諸国との関係を、統一中国なき動乱の時代としての3世紀から6世紀という、東アジア全体の動きのなかにおいて描いており、「東アジアの中の日本」という観点で歴史を叙述した点で、優れたものになっている。
ただここにおいて、中国や朝鮮諸国の資料に現れ、朝鮮の高句麗と戦を交えた「倭国」を、「大和朝廷」ととらえて叙述していることは、大いなる間違いであり、歴史の偽造である(このことは、他の教科書におけるあつかいとも共通しており、日本古代史学会の公認の定説自体が持っている「皇国史観」という先入観を捉えかえすことをせずに、無批判に「日本書紀の大義名分論」=「大和こそ日本古来の中心なり」を祖述してしまった結果でもある。)。
教科書の記述を見よう。最初に4世紀から6世紀の東アジア情勢について、以下のように述べる。
古代の朝鮮半島や日本列島の動向は、中国大陸の政治の動き一つで大きく左右された。220年に漢がほろびてから、589年に隋が中国を統一するまでの約370年間、中国は小国が並び立つ状態で、朝鮮半島におよぼす政治的影響力がいくらか弱まった。
正しい指摘である。ただ一つ付言しておけば、「朝鮮半島や日本列島の動向が、中国大陸の政治の動き一つで大きく左右された」のは決して古代だけではなく、中世も・近世も・近代も・そして現代もそうだということを忘れないで置こう。
そして次に、中国の影響力が減った中での朝鮮半島情勢を以下のように述べる。
急速に強大になった高句麗は、313年にこのころ中国領土だった楽浪郡を攻め亡ぼした。中国を中心とした東アジア諸民族の秩序にゆるみが生じ、大和朝廷もこれに対応して、半島への活発な動きを示した。
高句麗は、半島南部の新羅や百済を圧迫していた。百済は大和朝廷に救援をあおいだ。日本列島の人々は、もともと鉄資源を求めて、朝鮮半島南部と交流を持っていた。そこで、4世紀後半、大和朝廷は海をわたって朝鮮に出兵した。大和朝廷は半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。
おおむね正しい記述である。「大和朝廷」としたところを「倭国」という形に、当時の資料にあらわれた形に訂正すればのことであるが。
そして教科書は、その後の情勢についてさらに詳しく記述する。
高句麗は南下政策をとった。海をわたった大和朝廷の軍勢は、百済や新羅を助けて、高句麗と激しくたたかった。414年に建てられた高句麗の広開土王(好太王)の碑文に、4世紀から五世紀始めの出来事として、このことが記されている。
高句麗は、百済の首都漢城を攻め落とし、半島南部を席巻した。しかし、百済と任那を地盤とした日本軍の抵抗にあって、征服は果たせなかった。
おおむね正しい記事である。 
(1)「倭国」と同盟したのは百済だけ
だがここには「倭国」=「大和朝廷」というすり替え以外に、もう1点気になる資料との食い違いがある。それは、「倭国」と同盟したのは百済だけだというのが広開土王の碑文などの資料の示すとところであるが、この教科書は「百済と新羅」を助けてという書き方で、まるで「倭国=正義の味方」という書き方をしているところである。
広開土王の碑文によれば、新羅は常に高句麗のほうについており、高句麗・新羅連合軍対百済・倭連合軍という形に闘いは進展している。そしてこの闘いは、倭が善意で百済を助けるという闘いではなく、この教科書も書いているように朝鮮南部(=この教科書の記述の任那。正しくは加羅諸国)には豊富な鉄資源が存在しており、それを誰が支配するのかという問題なのである。そして一時的に同盟したのが倭と百済なのである。
また倭国と百済とは対等な関係であり、いやむしろ百済の方が上位に位置する関係であった。このことはこの時代に百済王世子が倭王旨(し)に送った刀(七支刀)の銘文でも明らかである。
おそらく倭にとっては自己の領地である金官加羅(=任那 ※おそらくこの国は韓諸国の一つであり、同時に倭国を構成する一国でもあり、韓名と和名の両者をもっていたのであろう)を守るために百済と同盟を結んだと言うのがほんとうのところであろう。
ここをくわしく叙述しないと、文字どおり「百済を助けて」倭国が高句麗と闘ったということになり事実と大いに違ってくるのである。 
(2)「任那」は「倭」の一部
だがここを正確に記述するためには、「日本列島の人々は、もともと鉄資源を求めて、朝鮮半島南部と交流を持っていた」などというあいまいな書き方はできなくなる。正確には鉄資源を産する半島南部の地=加羅諸国のうちの金官加羅は、昔から倭地であり、この時期に倭が朝鮮に出兵して築いた拠点などではないということである。
あの魏志倭人伝には次のような記述がある。「郡より倭に到るには海岸に従って水行し、韓国をへて、その北岸、狗邪韓国にいたる。初めて一海を渡り、対海国に到る」と。
郡とは中国領であった帯方郡(いまの平嬢付近)。倭とは倭国の首都で女王卑弥呼が都する「邪馬台国」。そして対海国とは今の対馬である。さすれば狗邪韓国が、今の韓国の釜山付近にあたることは明白である。そしてここを「その北岸」と表現した。「その」とは「倭の」ということであり、狗邪韓国は倭国の一部なのである。
このことは考古学的出土遺物が証明している。弥生時代の昔から古墳時代にいたっても、九州北岸と半島南岸は同じ文化を持っていた。
また広開土王の碑文には新羅王が広開土王に言った言葉として「倭人、その国境に満ち」というものがある。つまりその国境とは新羅と倭との国境ということであり、新羅と倭とは朝鮮半島内で国境を接していたのである。
すなわち倭が高句麗と闘ったのは自国の一部である金官加羅=任那(かっての狗邪韓国)を守るためであり、百済を助けるためではない。百済との同盟はそのときの情勢のなせるわざなのである。そしてこのことは百済にとっても同様である。この教科書にも書いてあるが、後になって6世紀のことであるが、百済は新羅と手を組んで、加羅諸国を亡ぼし、百済と新羅とで分けてしまったのである。倭の同盟国であった百済が、倭の重要な鉄資源産地の加羅諸国を征服したのである。
金官加羅=任那が倭の一部であったことをこの教科書は「任那に拠点を築いた」とあいまいに表現し、これにたいしても韓国は抗議をし、結局この部分の表現は「加羅諸国と同盟した」に落ちついたのだが、双方とも、まだ「日本」と「韓国」という民族国家が成立していない民族混在の時代である古代に現代の民族感情を持ちこんで、歴史を歪めてしまうという態度においては同質のものである。 
(3)「倭」と百済は常に同盟国であったわけではない
またこの教科書では、先に指摘した事だが、百済と倭とがつねに同盟国であったかのような書き方をしている。これは間違いである。
たとえば上の文章に続いて、5世紀の情勢について以下のように記述する。
5世紀中ごろ、中国では南に宋、北に北魏が建国し、いわゆる南北朝時代を迎えた。(中略)大和朝廷と百済は、中国の南朝に朝貢した。
5世紀を通じて10回近く、「倭の五王」が宋に使者を送った。他方高句麗は北魏に朝貢し、同盟関係にあった。大和朝廷と百済があえて宋の朝貢国になったのは、宋の力を借りて高句麗を牽制するためであった。
混乱していた中国に二大王朝が成立した事が、半島情勢に変化を与えた好例である。対立する高句麗と倭・百済はそれぞれ中国の力と権威を借りて、その支配を確固たるものにしようとしたのである。
しかしここでも、この教科書の記述は少し変である。「倭と百済は仲良く宋に朝貢した」と読めるからである。
事実は少し違った。ここに出てくる倭の五王が宋に要求した官位を見ていくと、そこには百済に対する支配権を要求している事がわかる。そしてこの要求に対して宋王朝は、一貫して百済に対する支配権だけは認めなかった。宋書倭国伝のよれば、それは以下のようになる。
(1)倭王珍・・・・「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」 ⇒ 「安東大将軍・倭国王」に叙す
(2)倭王済・・・・「使持節都督、倭・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に叙す
(3)倭王武・・・・「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と自称 ⇒ 「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に叙す
倭は常に朝鮮半島の高句麗の支配地域を除く全ての土地に対する支配権を要求していたのであり、宋王朝は百済だけは認めなかったのである。それはあたりまえ。百済も昔から中国の王朝に朝貢してきた国であり、百済国王は中国皇帝によって百済国王に認められ、百済は中国にとって朝鮮南部を代表する、その支配化にある国なのである。この点で中国に朝貢したことのない新羅や加羅諸国とは格が違うのである。
ともあれ、倭国と百済とは対等な関係であり、互いに同盟したりぶつかったりしていたのである。 
(4)「倭」は「大和朝廷」ではない
さてここで、中国や朝鮮の国々の史書に出てくる「倭」が「大和朝廷」ではないことを証明しておこう。
この教科書はなんの注釈もなく「倭の五王」を「大和朝廷の王」と叙述している。たとえばこのページの資料として埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣をあげ、そこに出てくる「獲加多支鹵大王」を「わかたける」とるびをふり、「倭の五王の武で雄略天皇にあたると考えられている」と記している。
これは日本古代史学会公認の定説で、どの教科書にも記述してあるのだが、どう考えても無理である。
「獲加多支鹵大王」の「獲」の字は漢音では「カク」呉音では「ワク」だから、「ワ」音をあてても間違いではない。また次の「加」も漢音で「カ」呉音で「ケ」だから、まあ良い。そして「多」は漢音でも呉音でも「タ」である。しかし、次の「支」は、漢音でも呉音でも「シ」であり、どうやっても「ケ」と読めない。最後の「鹵」は、漢音なら「ロ」呉音なら「ル」である。
「ワカタケル」という読みは第1音を呉音、第2音を漢音、第3音はどちらでも可、第4音はまったく恣意的な読み。そして最後の第5音を呉音と、バラバラないいかげんな読みなのである。
ここは古田武彦のように第1の「獲」を動詞として名前は「加多支鹵大王」とし、全てを漢音で読んで「カタシロ大王」としたほうが読みとしてはかなっている。「ワカタケル」という読みは、「日本の王と言えば大和の王」という日本書紀の大義名文論を前提とした読みなのであり、これは成立しがたい。
またもっと確実な証拠として、この倭王武の上表文にある、武の父済の記事の「大挙して高句麗を攻めようとしたときに、父兄をともにうしなうこととな」ったという記事など、雄略(天皇)の父である允恭(天皇)の古事記や日本書紀の記事にはまったくない記事であることなどは、この倭の五王が「大和朝廷の王」などではないことを明白に示している。
さらに古事記の記事には「大和朝廷」と高句麗とがしばしば闘いを交えた事などは全くなく、倭の五王に当たるとされる応神から雄略までの記事を見ても、「大和朝廷」内部での権力抗争ばかりが描かれており、外国と戦ったことなどない牧歌的時代として描かれていることも、付記しておく。 
(5)「大和朝廷」は日本列島を統一してはいない
また、高句麗の広開土王の碑文の「倭」との闘いが頻出し、一方で東国の古墳に倭の五王の一人である武=雄略(天皇)の名前が入った刀が出て来た事は、この4世紀から5世紀の時代に「大和朝廷」による日本列島統一がかなり進んでいた事を示す資料として、戦後の日本古代史学会に珍重されてきた。これが前記の前方後円墳の広がりと共に「大和朝廷による日本統一」の学問的根拠となってきたのである。
しかしこの認識も虚妄であった。
当時の「大和朝廷」は、まだ近畿地方をようやく支配下に置いたに過ぎず、それすらも安定したものではなく、内部抗争を続けていた時代であった。(例外は応神の父の仲哀(天皇)である。ここでは熊襲征伐にからんで、その后の神功皇后による新羅征伐が記述されている。古事記の熊襲とは北九州に都する倭国のことなので、高句麗との戦に明け暮れる倭国王が、その分家である「大和」にも援軍を頼み、援軍として倭国の都に入った仲哀(天皇)が反逆したが、逆に倭国軍と同盟軍である百済軍に攻められて敗死し、新羅との親戚関係をもっていた神功皇后のつてで死地を脱して大和に帰ったということではないだろうか。〔この点、古田武彦氏の説による〕) 
(6)「任那」=加羅諸国ではない
この節の最後は、「大和朝廷の自信」と題して、6世紀の東アジア情勢を詳しく述べている。教科書の記述は以下のようである。
6世紀になると、半島の政治情勢に変化が生じた。あれほど武威をほこっていた高句麗が衰退し始め、支援国の北魏も凋落に向かった。かわりに新羅と百済の国力は増大した。任那は両国から圧迫された。高句麗が強大であった時代には考えられない情勢の変化だった。任那は、新羅からは攻略され、百済からは領土の一部の割譲を求められた。 しかし、百済と大和朝廷の連携だけは続いた。新羅・高句麗が連合して、百済を脅かしていた時代だったからである。538年には、百済の聖明王は、仏像と経典を日本に献上した。百済からは、助けを求める使者が列島にあいついでやってきた。しかし562年、任那はほろんで新羅領となった。
たしかにこのような変化が生じた。
だがここで一つ気になるところを指摘しておこう。それはこの教科書が「任那」=加羅諸国という立場を一貫してとっていることである。
たしかに日本書紀ではそのような使い方をしている。しかしこれは史実ではない。『加羅諸国はすべて倭に従属したものである』という大義名分にそって書かれた、いわばイデオロギーの表明にすぎない。
事実は、すでに述べたように、加羅諸国は30数国にわかれ、その中の最大の国の一つが任那という和名をもった金官加羅国であった。そしてこの地は、あの魏志倭人伝の時代以前から倭の地であり、鉄の産地であった。加羅諸国全体が鉄の産地であったため、倭国は金官加羅が倭を構成する王国の一つであることをもって、加羅全体が自分の領域であることを主張していたのだ。
しかしこれは倭の立場にすぎない。加羅諸国には倭の影響下から脱しようという動きもあったのである。
加羅諸国のうち、金官加羅と並ぶ大国の一つに大伽耶という国がある。この国の王は、479年に南斉に朝貢し、輔国将軍・加羅国王に補されている。これはあの倭王武が宋に朝貢して「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に補された翌年であり、同じ地位を宋をついだ斉王朝に認められた年と同じである。つまり斉は、加羅をもふくむ南朝鮮地域の軍事司令官としての地位を倭国王に認めはしたが、百済を倭と対等の中国王朝に隷属する国と認めたのと同じように、加羅の大国である大伽耶をも、倭国と対等と認めたのである。
この歴史教科書が、「加羅諸国はすべて倭の主導権下にある」という倭国中心の考え方=皇国史観に立つ名称である「任那」=加羅諸国という用語を無批判に使うと言う事は、この教科書の著者たちが、皇国史観に立っていることを示す事実の一つである。 
(7)「倭」⇒「やまと」の読み替えに潜む皇国史観
この節の記述は、東アジア情勢の中での日本と中国・韓国の関係をくわしく叙述するところに特徴がある。このことはとても正しい。
しかしこの教科書の記述には上に指摘したように、いくつも問題がある。
最後にその問題点を3つにまとめて提示して、この節の批判を終えよう。
その一つは、この教科書は、4世紀から6世紀の東アジアを語るに必要な資料に頻繁にあらわれる「倭国」を、すべて「大和朝廷」と読み替えている。そしてその根拠は古事記や日本書紀で「倭」の字を「やまと」と読ませていることに根拠を置いている。
しかし古事記でみると、「やまと」には、2種類の漢字が使用されている。すなわち「倭」と「夜麻登」である。そしてこの二つの字の使い方を見ると、「夜麻登」の文字は、文字通り「大和の国」をあらわす使い方をしており、これが大和を指す文字である事は明らかである。では「倭」は何を表しているのか。これはズバリ「日本列島全体」を指す言葉として用いられているのである。
たとえば神武の名前である「神倭伊波礼毘古の命」の「倭」は、おおいなる偉大な「倭」国を指しており、その支配下にある「伊波礼」の長という意味になる。そして彼の子孫の王の名前に冠するときには、ほとんどが全て美称になってしまい、自らが倭の王朝の流れを汲むものという自己主張の一部になって行くのである。
「倭」はここでも、日本列島を代表する王者である、北九州の王家を指すことばであり、けして「やまと」とよべるものではない。この字を「やまと」と読んだ事自体が、「日本列島の中心は昔から大和である」という「大和中心史観」の造語であり、それを歴史的事実として使用する事は、これ自身が歴史の捏造といわざるをえない。 
(8)「倭」は中国の属国である
二つ目の問題点は、この教科書の著者がくりかえし、「日本は中国に朝貢してきたが独立した立場をとった」と、何の資料的根拠も示さずに主張していることである。
教科書の記述を示そう。
中華秩序と朝貢 
中華秩序とは、近代以前の中国中心の国際秩序のこと。中国の皇帝が周辺諸国の王に称号などを授け臣下とする。臣下とされた国は定期的に使者や貢物を送り(朝貢)、臣従の礼をとる。
日本は、古代においては朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較して、独立した立場を貫いた。
この教科書の著者たちは、よほど日本が中国の風下にたつことが嫌いなようである。日本は江戸時代まで一貫して中国の属国である。たしかに途中で何度も長い間朝貢の礼をとらないことはあった。でもそれは日本が中国の属国と言う立場を捨てたことではなく、日本がベトナムや朝鮮と違って中国とは国境を接しておらず、間に海をおいている地理的条件にあるために、自国の必要がないかぎり、中国に朝貢することを強要されないという位置にいたからである(例外は鎌倉時代の元との関係のみ)。
だがいつも中国と国交を結んだときには、日本国王は中国皇帝の臣下であり、日本は中国の属国なのであった。これはあの「委奴国」も「邪馬台国」もそうであり、「倭の五王」もそうである。そして後の唐王朝との関係もそうであり、明王朝と通交したときもそうであった。
日本が「独立した」かのような中国と無関係でいられたのは、その地理的条件のせいであり、決して意図的にその立場をとった結果ではないのである。ベトナムや朝鮮は中国と国境を接しているために直接に中国の脅威を受けざるをえなかった。この地理的条件を無視して、「日本は中国と独立した立場をとった」と宣言する事は、事実を無視した単なる「民族主義・国粋主義」の発露でしかない。 
(9)「中国文化の担い手」としての朝鮮渡来人という矮小化
この教科書の記述の問題点の3つめは、4〜6世紀に朝鮮半島から大量にやってきた渡来人の果たした役割を過小評価し、それを「中国文化の担い手」という形に矮小化し、あまつさえ彼らを日本の王化に帰属した「帰化人」と記述しているところである。教科書の記述を示そう。
中国は、紀元前の段階ですでに、文字、哲学、法、官僚組織、高度な宗教などを十分に身につけた古代帝国時代を経過していた。
文化は高きから低きに流れるのを常とする。朝鮮半島を通じて、中国の文化は日本に流入した。戦争などで百済との交流がさかんになるにつれ、人の往来もひんぱんになった。
おもに5世紀以降、大陸や半島から技術をもった人々が一族や集団で移り住んだ。(中略)技術や文化を伝えたこれらの人々は、帰化人(渡来人)と呼ばれる。大和朝廷は、かれらを主に近畿地方に住まわせ、王権につかえさせた。
たしかに朝鮮半島からの渡来人がもたらした技術や文化の多くは中国に起源をもつものであった。中国と国境を接し、一時期には中国に征服されたこともある朝鮮半島の人々は、進んだ中国文化をうけいれざるを得なかった。
だがそこで育まれた文化を中国文化とは呼ばない。それは朝鮮の風土に根ざした文化と融合し、朝鮮化されているからである。仏教文化しかり。中国の法制度しかり。そして文字さえも。
朝鮮では速い時期から中国の文字の音を借りて朝鮮語を記述する試みがなされていた。それが日本にもたらされて、日本で日本語を表記するために改変されたもの。それがのちの万葉仮名ではなかったか。この万葉仮名を朝鮮文化とは呼ばないし、中国文化とも呼ばない。
これと同様に朝鮮からの渡来人がもたらした文化も朝鮮文化なのである。そして彼らがもたらしたものの中には、中国起源ではない朝鮮独自の文化も入っているのである。「高温で焼いた固い土器(須惠器)」は、かっては「朝鮮土器」と呼ばれた。また古墳文化で土を盛り上げた封土の中に石でお棺を入れる区画をつくるのも朝鮮独自の文化である。そしてこれらの文化は当時においては、日本の文化より数段優れていたのであり、これらの朝鮮渡来人の文化を除いたら、日本文化などなにもないほどのものであった。
この教科書の著者たちは、よほど朝鮮の風下に日本が立つことが嫌いなようである。
また彼ら渡来人のことを「帰化人」と呼ぶのも問題である。
帰化というのは優れてイデオロギー的な用語である。帰化とは「王化に服すること」、王化とは「王の徳によって人々を従わせること」を意味する言葉である。つまり「異国のものが帝王の徳をしたって服属する」という意味の言葉なのであり、この言葉は日本書紀ですら使っていない。
古事記ではこれらの人々がやってきたことをたんに「渡来」とのみ記す。つまり単に海を越えて日本にやってきたのである。
彼らは日本書紀によれば170県の民とか17県の民とかというように単に一族ではなく多くの民を伴って移住してきている。いいかえれば、植民といってよいだろう。そして彼らは単に「朝廷」につかえる役人ではない。あの神功皇后の祖先が新羅の王子「天之日矛」とされているように、有力な諸王の一人でもあったのであり、大和の有力氏族にその祖先が朝鮮や中国からの渡来人であると自称するものも多い。
当時の大和は「統一王権」などではない。九州とは違って多くの未開の地も数多くあった。その地に朝鮮半島の戦乱を避け、大量の人々を伴って新天地を求めてやってきた人々。それが渡来人であった。そしてもう一つ大事なことは、彼らが渡来したのは、けして5世紀以降に限られるものでない。5世紀以降とされたのは、古事記や日本書紀において、彼らの渡来の記事が書かれているのが、応神(天皇)以後だからである。
彼らは後には「今来人」(いまきびと)と呼ばれ、最近渡来した人ととらえられていた。つまりは、大和の国がある程度国として出来あがってきた後で来た人々という意味であり、それより以前に渡来した事が確実な息長氏(おきながし、神功皇后を出した一族)は渡来人の中にすら位置付けられないのである。
前記の弥生人における渡来系の人々の数を試算した埴原和郎氏は、「7世紀には渡来系の人々の数は日本人の70%を超える」とすら述べている。つまりこの人々を除いて日本人はありえない状態であったと述べているわけである。
このような事実を無視して彼らを「帰化人」と呼ぶ、この教科書の著者たちの感覚。それが「日本の方が優れている」「日本のほうが強力である」というイデオロギーに毒されている証拠である。 

注:05年8月の新版の記述は、おおむね旧版と同様であり、旧版と同様なあやまりをおかしたままである。訂正されたのは、「倭が新羅と百済とを高句麗の脅威から守り」とした記述から新羅を削除し、より史実に忠実な記述とした所だけである。あとは、全体として記述が簡略化されている。例えば、中国に南朝・北朝が成立した時、倭が南朝に朝貢したのは、「高句麗が北朝に朝貢して北魏をバックに勢力を伸ばそうとしていた」ことへの対抗措置であったことなどである。最後にこの項の末尾に置かれていた中国・隋の登場がもたらした影響についての文は全面削除され、次の聖徳太子の政治の所に統合された。
注:この項は、古田武彦著「失われた九州王朝」「関東に大王あり:稲荷山鉄剣の密室」などを参照した。 
 
日本列島は「大和」の傘下にはないことを示す「倭建伝承」

 

4〜7世紀の東アジア情勢と日本について述べた後、この教科書はコラムとして「日本武尊と弟橘媛―国内統一に献身した勇者の物語」と題して、伝承を挿入している。位置付けとしては、「大和朝廷による国内の統一が進んだ4世紀前半ごろ、景行天皇の皇子に日本武尊という英雄がいたことを、古典は伝えている。」という教科書の記述で明らかであろう。
「4世紀における大和朝廷のよる日本統一」という命題を照明する人物の物語として、この伝承は位置付けられている。だがはたしてそうなのだろうか?。
まず、教科書の物語を読もう。
景行天皇の時代に、九州に反乱があったので、第2皇子の小碓命が、征伐のために派遣された。当時皇子はまだ、16歳の若さだったという。
皇子はクマソの国にいたり、少女の姿になって、反乱の指導者クマソタケルに近づき、これを見事に倒した。タケルは皇子の勇敢さをたたえ、「これからは、あなたがヤマトタケルと名乗られるがよい」と言って、息絶えた。 
(1)「クマソ」の反乱はない
「九州に反乱があった」「その指導者がクマソタケル」だというのは、日本書紀の主張である。古事記ではそうなってはいない。
古事記では、「西の方に熊襲建が二人いる。これは従わず、臣従の礼もとらない人々である。この人々をとれ」という「天皇」の命令として表現されている。つまり熊襲は「大和」の「天皇」には従わない人々だと言っているだけで、その人々が「大和に反乱した」とは一言も言ってはいないのである。
どちらが元の形なのか。古事記である。日本書紀は、昔より日本は「大和の天皇」の統治下にあったという大義名分論で記述しているからである。 
(2)潜入=暗殺行としての「倭建の西征」
また同じことを、倭建の行動が示している。小碓の命は熊襲建に少女の姿になって近づく。そして酒宴の場に潜りこんで、熊襲建がその美しさに見とれて側に呼んだので酒の相手をし、人が少なくなった時に、熊襲建を殺したのである。これはどうみても、隠密に敵国に忍び込み、暗殺したというもので「征服」という類のものではない。
古事記では小碓の命は単独行であり、熊襲建を倒してから熊襲の国をどうしたという記事はまったくない。古事記では完全な潜入=暗殺行なのである。また、日本書紀でも小碓の命の供は、美濃の弟彦公と尾張の田子の稲置と乳近の稲置の3人、都合4人の旅であり、熊襲建を倒してから弟彦らをつかわして熊襲建の党類をことごとく討たせたというだけである。
なぜ潜入=暗殺なのか。それは熊襲が当時の「大和朝廷」には大軍を送って征服なぞできる相手ではなかったからである。熊襲のほうが大和より上位の国であり、大国であった。 
(3)「名を与える」=上位者のすること
また、このことは、熊襲建が小碓の命に名前を与えると言う行為の中に示されていることである。
名を与えるとは、上位の位にあるものが下にいる者にすることである。つまり熊襲建は小碓の命より上位に位置するものなのである。したがて熊襲の国は、大和の国より上位にある大国なのである。 
(4)「熊襲=倭王権」
さらにこの熊襲建が小碓の命に名前を与える場面を詳しく読むならば、熊襲が倭を代表する立場にあることが分かる。古事記では、熊襲建の言葉として、次の言葉を残している。
西の方に、我ら2人を除いて、建く強き人はなし。しかし大倭国には、我2人にまして、建き男がいた。それゆえ我が名を献じよう。
今より後は、倭建命というべし。
文意に従えば、この大倭国は西の方の熊襲の国と東の方の大和の国の全体をあらわす言葉である。だからこそ、この大倭国を代表する勇者という意味の「倭建命」という名が与えられるのである。そしてこの「大倭」は、あの倭の五王の時代の4〜5世紀の用語である。
熊襲の王が「倭の代表的勇者」という称号を小碓の命に与えたということは、熊襲の王が倭を代表する王であったこと、つまり中国などの文献に登場する「倭王」であったことを示している。
「倭建の命の熊襲『征伐』」の伝承は、その伝承を詳しく見ると、教科書の著者たちの意図に反して、この伝承が成立した当時は、大和によって日本は統一されていないことを示していたのである。
同じことは、次の「東国征伐」伝承でも言える。まず教科書の記述を見よう。
尊が相模の国(神奈川県)にいたったとき、賊にあざむかれて、野原の中に入ったところ、野に火をつけられて、あやうく焼き殺されそうになった。そこで剣を出して草を薙ぎ払い、逆に火をつけて、賊をほろぼしてしまった。
教科書はここで突然、古事記にしたがって物語を述べる。ここまでは日本書紀の記述に従ってきたが、この話しを「相模の国」の話としているのは古事記であり、日本書紀は「駿河の国」としている。この事件のあったところを、古事記では「焼遣」とかいて「やきづ」と読んでいる。相模の国に「焼遣」という地名はないので、日本書紀の編者が「焼津」のある「駿河の国」の話しに改めたのであろう。
しかしこのやり方は歴史の捏造になる。「焼遣」=「焼津」という先入観で資料原文を改定するのは間違いである。あくまでも相模の国の中で、「焼遣」に相当する地名を探すべきであろう。
しかし日本書紀の原文改定はこれだけではないのである。 
(5)「大和朝廷」の任命しない国造(くにのみゃっこ)の存在
古事記では倭建の命をあざむいたのは「相模の国の国造」である。そして生還した倭建命に切り亡ぼされ焼かれたのも「国造」である。これを日本書紀では「賊」と原文を改定している。
なぜ改定したのか。それは古事記でも日本書紀でも、「国造」を任命した記事が、倭建の命の記事よりもあとの時代に出てくるからであり(倭建の母の違う兄弟にあたり、父景行『天皇』のあとを継いだ、若帯足日子の命(成務天皇)の時代)、このままでは相模の国造は「天皇が任命していない」国造になってしまうからである。
しかし、これは「日本は古来から大和の天皇家が治めていた」という大義名分に立つ原文改定である。これは歴史の捏造である。
古事記の原文を虚心坦懐に読むならば、「大和天皇」家が任命するよりさきに国造がいたということを示している。それはだれが任命したのか?。それは「倭王権」=熊襲である。九州の王権がすでに相模まで勢力を及ぼし、その地の王を「国造」に任命していたとしか考えようがない。したがって成務(天皇)の国造任命記事は、「大和」の王が支配する国々にはじめて国造を置いたという意味になる。 
(6)大和の東の堺は「尾張の国」
ではこの当時の『大和』の東のはてはどこか?。それは尾張である。尾張では倭建は、尾張の国造の祖先である「美夜受比売」の家に逗留し、後の「東征」の帰りには、比売と結婚をしているからである。ただし、尾張の北部の美濃および近江は安定した領域ではなかった。そこには倭建に従わない「伊服岐山」の神がおり、それを武器も持たずに従わせようとした倭建を、氷雨降る環境に迷いこませて散々な目に会わせていたからである。 
(7)戦のほとんどない「東征」
最後にこの倭建の説話は、東の従わないものものどもを平定するといいながら、古事記ではほとんど戦闘らしき記事はない。あるのは相模の国の焼遣での出来事と、「伊服岐山」の神との出来事のみである。弟橘媛の入水の話しの後も「荒ぶる蝦夷どもを言向け、荒ぶる神たちを平らげ和す」と抽象的に描くだけで、ほとんど戦闘らしきものはない(日本書紀は大船をしたたて蝦夷の国へ侵入した話しが入っているが、これは別人の闘いを挿入したようである)。はたしてこれが「東征」なのだろうか。そういえば古事記では倭建がおばの倭比売命を伊勢に尋ねたときの言葉として、「軍衆もたまわずして、東の方の十二道の悪しき人々を平らげに遣わしす」と嘆いている言葉が伝わっている。
そう、この東への旅もまた、軍勢を伴った遠征ではないのである。では何か?。
これは東の「大和」の領域に属さない国々への隠密行ではなかったか。
ともかくも倭建の伝承は、詳しく検討してみれば、それはけして日本統一譚ではなかったのである。新しい歴史教科書の著者たちは、神話・伝承を数多く使って、日本古代史を語ろうとした。しかしその使い方は、「大和朝廷によって日本は昔から統治されていた」というイデオロギーに基づいて「大和天皇家」に伝承された神話・伝承をつくりかえてしまった日本書紀を、無批判につかっただけなのである。 

注:05年8月の新版では、このコラムは全面削除されている。偏っているとの批判に配慮した結果であろう。また旧版でこのコラムの前には、「出土品から歴史を探る」と題するコラムが掲載されていた。そこには年代測定法の問題も記述され、歴史を考えるには、とても良い記述であった。このコラムもまた新版では全面削除されている。新版は「問題」として非難された所の記述を削除したり表現をソフトにして批判を避け、採択されやすくしているのだが、それに伴って、旧版が持っていた長所、他の教科書よりは踏み込んだ記述のほとんどが削除されている。この「出土品から歴史を探る」というコラムの削除もその例である。
注:この項は、古田武彦著「盗まれた神話」などを参照した。 
 
幻の「聖徳太子の独自外交」

 

古代の日本の第3節の「律令国家」の成立は、最初に「聖徳太子の新政」という項目で開始される。そしてその前半部である「聖徳太子の外交」という項で、新しい歴史教科書は次の様に高らかに宣言する。
わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない―これが、その後もずっと変わらない、古代日本の基本姿勢となった。
この本の著者たちは、古代日本の王が中国の皇帝に対して臣下の礼をとり、日本が中国の属国であったことが気に入らないらしくて、これまでの記述でもさんざんこの主張を繰り返してきた。しかしそう判断する資料に欠ける所に問題があった。
だがここで、「日本は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない」と主張する根拠が見つかったというわけだ。それが聖徳太子の外交姿勢にあらわれているという。
教科書の記述を見よう。
太子は593年。女帝である推古天皇の摂政となり、それまでの朝鮮外交から、大陸外交への方針転換を試みた。朝鮮を経由せずに大陸の文明を取り入れることも大切で、太子は607年、小野妹子を代表とする遣隋使を派遣した。しかし、日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うような道はさけたかった。
そこで、太子は隋あての国書には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」(日が昇る国の天子が、日が沈む国の天子にあてて書簡を送る。ご無事にお過ごしか)と書かれた。遣隋使は隋からみれば朝貢使だが、太子は国書の文面で対等の立場を強調することで、隋には決して服属しないという決意表明を行ったのだった。隋の皇帝煬帝は激怒したが、高句麗との抗争中なので忍耐した。
そう。日本書紀の推古朝の大唐(日本書紀には隋ではなく大唐と書かれている)への貢献記事と、隋書に見られる倭の貢献記事とが同じと考えると、この「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書は、日本と中国とを対等と主張しており、極めて異色である。そしてこの教科書の著者たちはこの事を持って、「日本が中国には服属しない」と宣言したと解したのであった。
「愛国の人・聖徳太子」というわけである。
しかしはたしてそうなのであろうか。原典資料にあたってみると、これが大きな間違いなのである。 
(1)矛盾する二つの国書
実は、あの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書は、日本書紀には載っていない。そのかわりに日本書紀には推古天皇の国書が載っている。しかし二つの国書を比較すると、その内容と姿勢に大きな違いがあることに気づく。
日本書紀の国書は以下のようである。
「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。使人鴻臚寺の掌客裴世清らがわが国に来り、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうが。お変わりはないでしょうか。当方は無事です。」
前記の国書とは大いに趣を違えている。
日本書紀では前年の推古15年に大唐に送った小野妹子が翌16年春に帰朝し、そのときに一緒にきた使いの裴世清がもたらした皇帝の国書にたいする返礼として、推古天皇が使いに持たせた国書ということになっている。ということは、この国書は、先の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書に対する皇帝の返書へのさらなる返書という関係になり、一連のものということになる。
だが本当にそうだろうか。前の国書では双方を「天子」とし、中国の皇帝と日本の「天皇」は対等といっている。しかしあとの国書では日本の天皇の方が明らかに下であり、とてもへりくだった態度である。とても一連の往復書簡とは思えないのである。
そして「久しく国交を求めていたわが方の思いが解けた」という言い方も変である。隋とは始めてかもしれないが、紀元前から長い間中国王朝と国交を結んできた倭国の王の国書としては意味が通じないのである。 
(2)隋の皇帝の返書はない
また、隋書たい(人偏に妥の字。読みは「たい」。おそらく大倭か。)国伝では、先の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書に対して激怒した隋の皇帝煬帝は、たい国王に返書をあたえなかった。代わりに使人の裴世清が口頭で、「皇帝、徳はあめつちに並び、澤は四海に流る。王、化を慕うの故をもって、行人を遣わして来たらしめ、此れに宣諭す」と、たい国王に述べさせている。とりあえず、皇帝はたい国王が隋の皇帝の徳を慕って朝貢してきたとみなして、友好関係は維持するという態度であった。
しかし、日本書紀では、皇帝の返書を使人裴世清が天皇の前で読み上げたことになっている。
皇帝から倭皇に御挨拶をおくる。使人の長吏大礼蘇因高羅が訪れて、よく意を伝えてくれた。
自分は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を広めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。時節はようやく暖かで私は無事である。鴻臚寺の掌客裴世清を遣わして送使のこころを述べ、あわせて別にあるような贈り物をお届けする。
なんと中国の皇帝は天皇の使節が来た事を最大級の歓迎の言葉で誉めちぎっている。たい国王に対する隋の皇帝煬帝の態度とは雲泥の開きがあることは明白であろう。 
(3)一方は『倭国』の隋にたいする、他方は「大和王朝」の唐に対する遣使
隋の大業3年(607年)のたい国王の遣使の記事と、日本書紀の推古15年の遣使の記事とは、別の国に対する別の国の遣使の記事だと解するのが正しい。607年に隋の皇帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書を送ったのは「大和天皇家」の王ではない。紀元以前から日本列島を代表する王者である「九州天皇家」=「倭王朝」の遣使なのである。
そして推古15年の推古天皇による中国への遣使は、日本書紀に書いてあるように「大唐」に対する遣使と解するのが正しい。
おそらくそれは古田武彦が主張するように、607年ではなく619年のことであったろう。そして619年とは唐が隋を亡ぼし唐朝の成立を宣言したが、まだ国の内外に中国を代表する王朝とは認められていないときであった。
だからこそ唐の皇帝は、天皇の遣使に対して最大級の賛辞を送ってきたのである。またそのような微妙な政治的時期を選んで、推古朝は中国に使いを送ったといえよう。
長い間の懸案であった、倭王朝とは独立して中国王朝と独自に好を通じるという計画を実現するために。 
(4)「日出る処の天子」は「聖徳太子」ではない
したがってこの教科書が先の国書を持って「聖徳太子が独自の外交を展開した」とすることは、大いなる間違いなのである。いや、歴史の捏造なのである。ただしこれは新しい歴史教科書の著者たちのオリジナルではない。歴史を捏造したのは日本書紀の著者たちである。
日本書紀の著者たちは推古15年の遣使が隋に対する遣使であったかのごとく装おう爲に、わざわざ書紀の本文に、大使小野妹子が隋の皇帝煬帝の国書を紛失したという記事を載せている。煬帝の国書はそもそもないのだから余計な造作ではあるが、あの中国王朝と対等を主張した国書の存在は奈良朝の当時においても有名な事であったのだろう。隋書を読んだ事のない者には、「煬帝の国書」と書くだけで、あの有名な国書にたいする返書と勘違いさせるには充分であったのだろう。しかし隋書を読めば返書はなかったことは明白で、この嘘はすぐばれる。
日本古代史の研究者の多くは、「日本を代表する王朝は大和天皇家である」という命題を信じきっていたために、この日本書紀編者のみえみえの嘘を見ぬけず、無理矢理「日出る処の天子」を「聖徳太子」としてしまったのである。
ではこの「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の国書の主は誰か。
隋書たい国伝にはっきりと書いてある。その王の名は「多利思北孤」(たしりほこ)である。そして彼の姓は「阿毎」(あめ)=「天」。アメノタリシホコである。そして王の妻は「きみ」と号し、後宮には6・700人の女がおり、太子は「利歌彌多弗利」という。
そしてたい国について詳しく記したあと、その代表的な山として阿蘇山をあげ、それが活火山であることなどに触れている。
隋の使いは隋書にあるようにたい国王と会っている。その記録を元にした記事であろう。ならば「皇太子」にすぎない「聖徳太子」を王と見間違うことはない。
「日出る処の天子」は、九州の王。倭国の王であったのである。
「日本は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない」として独自の外交を展開した「愛国者・聖徳太子」というこの教科書の主張はまったくの虚妄であったのである。そして日本書紀に見る唐帝国との外交記事を読めば、「大和天皇家」の外交方針は、「日本は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない」などというものではなく、全くの朝貢外交であったのである。 
(5)なぜ九州王朝は独自外交を展開したのか?
では最後になぜこの時期、九州の倭国は中国隋王朝と対等な外交を展開したのかを考察しておこう。
それはこの教科書が強調するように、6世紀末における東アジア情勢の急変に原因があるのである。教科書の記述を読もう。
ところが570年以降になると、東アジア一帯に、それまでの諸国の動きからは考えられない事態が生じた。高句麗が突然、大和朝廷に接近し、引き続いて、新羅と百済が日本に朝貢した。三国が互いに牽制しあった結果だった。その後さらに、589年に中国大陸で隋が統一をはたした。これが新たな脅威となって、三国はより日本に接近した。任那から撤退し、半島政策に失敗した大和朝廷だが、こうして再び自信を取り戻したと考えられる。
この文章の「大和朝廷」や「日本」を倭国と置き換えて読もう。
6世紀末の東アジア情勢の急変とは、中国で数百年ぶりに統一王朝ができ、それが朝鮮半島や東の島嶼地域に侵略を開始したからである。
隋は陸続きの高句麗に何度も侵略軍を送ると共に、遠く琉球にも侵略軍を送り、東アジア全体を帰服させよとうとはかった。東アジア全体に緊張がはしったのである。隋に服属するのか、それともそれと敵対し独自の道を歩むのか。
倭国は独自の道をとった。だからこそ、中国の侵略におびえた朝鮮半島の諸国は倭に接近したのである。
ではなぜ倭国は独自の道をとったのか。それは隋王室の出自にあった。隋を築いた揚堅は、北方の部族である鮮卑族が築いた王朝である北魏の武人であり。北魏王室の外戚となった人物であり、漢民族出身ではなかった。いわば夷人なのである。夷人出身の王が中国皇帝を名乗った。本来臣下であるはずの者が漢民族の正統王朝である陳を滅ぼし天子を名のっている。そして皇帝の名の下に朝鮮半島を支配しようとしている。彼も夷人なら我も夷人。彼が天子を名乗れるのなら我も天子を名乗ろう。そして隋と対抗して朝鮮半島の勢力圏を守ろう。
おそらくこういう判断なのではないだろうか。
この思いが先の国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」に結実したのであろう。 
(6)すでに「律令」をもち「仏教」を取り入れていた倭国
そしてこう判断する根拠の一つに、倭国はすでに長い中国との通交関係を下に、中国の進んだ政治制度と文化を取り入れているという事実がある。
あの6世紀初頭に「大和朝廷」の王である継体(天皇)の反乱にあって殺された倭国の王・筑紫の君磐井の墓には「衙頭」という場所があることを、筑後の国風土記が記している。
東北角に当り、一別区あり。号して衙頭という。1衙頭は政所なり。その中に一石人あり。従容として地にたてり。号して解部という。前に一人あり。裸形にして地に伏す。号して偸人いう。2猪を偸むをなすを生ず。よりて罪を決するに擬す 側に石猪四頭あり。臓物と号す。3臓物は盗み物なり。 彼の処にもまた、石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。
この「偸人」とか「臓物」というのは漢語の法律用語である。そして解部とは裁判官。おそらく成文法に基づく裁判が行われていたと見て間違いあるまい。中国で言えば「律」の存在である。
また隋書の倭国の使者の口上として
聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。ゆえに遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ。   
という言葉がある。
すでに仏教が定着したくさんの僧がいるのである。仏教を取り入れるか否かで戦争すら起きている「大和」とは大違いである。
そしてもう一つ、倭国が中国文明を大いに学んでいた事の証を一つ。それは倭国の首都である「太宰府」の名前である。太宰府の太宰(たいさい)とは古代中国の官名で、「天子を補佐して政を司る人」という意味であり、日本では摂政の唐名としている。つまり天子に代わって政治を行う人という意味であり、太宰府とは、その太宰が政治を主催する役所という意味である。
つまり倭王は中国の政治の仕組みを熟知していた。そして中国の正統王朝に対して、その天子にかわって東の蛮族をおさめるものとの自負を持っていたといえよう。
だからこそ、蛮族出身の隋王朝が成立したとき、その隋と対等の外交を結ぼうとし、それが拒否されてしかも隋が琉球を侵略するにおよび、倭国は隋との国交を断ってしまったのである。
そしてこの態度は隋にかわって中国を統一した唐に対しても同じである。卑屈なほどに唐王朝にへりくだって朝貢する「大和朝廷」と、唐王朝とも対決し、そのまま唐王朝と戦火を交えて大敗北を喫してしまう倭国。この違いはすでに中国文明を取り入れて国造りをしていた倭国と、これから中国文明を取り入れようとする「大和」の違いとして、隋・唐王朝との付き合いかたが違っていたのである。
「聖徳太子の独自外交」という設定は、全くの幻だったのである。 

注:05年8月の新版では、第3節の記述の順序を入れ替え、旧版では最初に書かれていた「聖徳太子の外交」を2番目に置き換え、「遣隋使と『天皇』号の始まりと改題した。記述の大要は旧版と同じであるが、旧版が有名な「日出る所の天子・・・」で始まる国書だけをあげて聖徳太子の「独自外交」を叙述したが、新版では、この記述に続けて、日本書記に推古15年のこととして「大唐」に対する推古天皇の国書として記述されている「東の天皇・・・」で始まる国書について記述している。そして「日出る天子・・」の国書で中国皇帝の怒りを買ったので今回は表現を和らげて「東の天皇・・・」との国書に代えたのは、「皇帝の文字をさけることで隋の立場に配慮しつつも、それに劣らない称号を使う事で、両国が対等であることを表明した」と説明した。
この改変は、旧版の記述が隋書にだけ拠っていたのを改めて、日本書記の記述も引用する事で、古代史学会の通説に寄り添う形にしたものである。その上でこの「聖徳太子」の行為は、「日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失う事はさけたい」という判断だったと主張し、「聖徳太子の独自外交」という立場だけは守ろうと言うことである。
しかしこの改変でも歴史の偽造である事は変わらない。むしろ定説に寄り添うことで、さらなる歴史の偽造を重ねているのである。新版の「聖徳太子の新政」には、「600年、聖徳太子は、隋に使者を送った」として初めての遣隋使の様を記述している。しかしこれは隋書に書かれた記事で、日本書紀にはない。ということはこれは倭国のアメノタリシホコが最初に送った使節であるということだ。これを太子の最初の遣隋使ということにして、次の「遣隋使」の項で、607年の「日出る所の天子・・・」の国書を持った派遣を2度目のもの。そして翌年608年の3度目の「東の天皇・・・」という国書を携えたものを3度目の遣隋使としたのだ。これもひどい偽造である。ここで608年の派遣とされているものは日本書紀に書かれていたように「大唐」に対する大和朝廷の派遣であり、おそらくこれは619年の出来事だからである。そして「天皇」と「皇帝」を対等な称号とすることも完全な嘘である。そもそも天皇という語は中国では、道教系の神の称号で北極星を神格化したものであり、中国皇帝が天皇と称したこともない。天皇と皇帝・天子は別次元の言葉なのである。おそらくこれは、倭国の王が以前から天皇と名乗っていたことに依拠した用語ではないか。すでに百済の史書に、「日本の天皇」という用語があり、これはかの筑紫の磐井(6世紀初頭の倭の王)のことと推定されている。「東の天皇・西の皇帝」という用語は、国内的な用語と国際的な用語を混在して使ったのであり、この時の大和の王と中国皇帝との関係が対等な関係にはなく、大和が唐に朝貢する形であったことは、日本書記の記述でもあきらかである。「つくる会」教科書は、ここでも新たな歴史の捏造を行っているのである。   
さらに新版では、推古天皇の国書とされた「東の天皇・・・」原史料を掲載し、かつ「中国の『皇帝』と日本の『天皇』」と題する「歴史の言葉」解説を掲載している。それは以下のようである。
「皇帝」という君主の称号は、秦の始皇帝以来、中国の歴代の王朝で使われた。周辺諸国は、皇帝から「王」の称号をあたえられることで、皇帝に服属した。日本も、かつて、「王」の称号を受けていたが、それをみずから「天皇」に変えた。
皇帝は、力のある者が戦争で旧王朝をたおし、前の皇帝を亡き者とする革命によってその地位についた。中国ではしばしば革命がおこり、王朝が交代した。それに対し、天皇の地位は、皇室の血筋にもとづいて、代々受けつがれた。
皇帝は権力を一手に握っていたが、日本の天皇は、歴史上、権力からはなれている期間のほうが長かった。政治の実力者は時代によってかわったが、天皇にとってかわった者はいなかった。日本では、革命や王朝交代はおこらなかった。
たしかに「倭王」から「日本の天皇」に称号を変えたことには、中国王朝からの独立志向が示されている。しかしこれは中国皇帝が夷人出身という特殊な状況で生まれたものである。そして天皇が中国では北極星の化身としての神であったことは、神の子孫という日本での天皇の継承に適合した使い方と考えられたのであろうし、中国でしばしば革命が起き、王朝の交代があったことへの予防措置であったことはたしかである。
だが日本の歴史上で、天皇にとって代ろうとした者はいたし、王朝の交代はあった。王朝の交代は、倭王朝から大和王朝への交代があるし、大和の中の歴史でも、幾度もの王朝の交代があったことは、古事記・日本書紀ともに記していることである。また天皇にとってかわろうという者は、後にこの教科書の旧版でも記述されたように、足利義満があった(新版では削除されている)。さらには織田信長がそうであったし、徳川家康もそれを試みている。新版の記述は、天皇が出てくる最初の所で、すでにこうした歴史の捏造をして、天皇のもっている至高の価値を読者に刷りこもうとしているのである。 
 
「盗用」の結果である、「聖徳太子の政治」

 

さて新しい歴史教科書は、聖徳太子の外交という項で、「日本外交の独自性」を述べた後、聖徳太子の政治が、いかに優れていたかを述べている。教科書の記述を見てみよう。
聖徳太子は、仏教や儒教の教えを取り入れた新しい政治の理想をかかげ、それにしたがって国内の政治の仕組みを整えようとした。(中略)聖徳太子は、蘇我馬子と協力しながら政治を進めた。仏教への信仰をまず基本に置いた政治だった。太子は、生まれや家がらではなく、すぐれた仕事をした人を評価する冠位十二階を定めて、役人の冠を色で区別した。これは豪族たちをおさえ、天皇中心の体制をつくるためだった。儒教の教えも取り入れられたこの冠位は、豪族の生まれや家柄を尊重した今までの氏姓制度に取ってかわろうとする点で、革新的だった。また、太子は同じ精神から十七条の憲法を定め、天皇と役人と民衆の役割の違いを強調した。それぞれが分を守り、「和」の精神をもってことにあたるべき心得を説いた。
これはどの教科書にも書いてあり、揺るぎ無い事実であるかに思われているが、そうではない。結論を先に言えば、日本書紀の聖徳太子の事跡は、すべてある書物に載っている他の人物の事跡を盗用したものなのだ。
それは何か。 
(1)「天子」と臣下の別を説いた十七条憲法
聖徳太子がつくったとされる十七条憲法を良く読んでみよう。そこでは君と臣下の別を説き、君主に従うべきことが強調されている。たとえば以下のように。
三に曰く。詔を受けたら必ずつつしんで従え。君を天とすれば臣は地である。天は上を覆い地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。もし地が天を覆うようなことがあれば、秩序は破壊されてしまう。それゆえに君主の言を臣下がよく承り、上が行えば下はそれに従うのだ。だから詔を受けたら必ず従え。従わなければ結局自滅するだろう。
十二に曰く。国司や国造は百姓から税をむさぼってはならぬ。国に二人の君はなく、民に二人の主はない。国土のうちの全ての人々は、みな君を主としている。使える役人はみな王の臣である。どうして公のこと以外に、百姓からむさぼりとってよいのであろうか。
ここでいう『君』とは天子のことである。君臣の別と言うのも、一般的な君主と臣下の問題ではなく、天子と臣下の問題である。したがって三にいう詔とは「天子の命令」の意味であり、天子の命令には従えと言っているのである。。そして十二の『王』は一国の君主のことであり天子のことである。 だから十二は、この国土はみな天子のものであり、役人はみな天子の臣下であると言っているのである。 
(2)「諸臣」に推薦されて選ばれる「大和大王」
聖徳太子は「天子」であっただろうか。いや違う。彼は大和の「大王」ですらない。そして彼が摂政になった理由や彼の死後の状況を見れば、天下が彼のものであり諸臣が彼の命令になびくという状況でなかったことは明白である。
河内祥輔の研究で明らかになったように、奈良時代までの「大和」における「大王」位の継承は、一定の条件をもった皇族の中から、諸臣が候補者を選び選定するというものであった。そして同じ条件の候補者が並び立ったときは支持者も含めた戦争で決着がつけられたのであった。
その条件とは「父も母も『天皇の子ども』である」というものであった。
大王の力はまだ諸豪族を凌駕したものではなかったのである。 
(3)「十七条憲法」は聖徳の作ではない
聖徳は本来「天皇」位を継ぐべきものではなかった。なぜなら彼の父の用明は父こそ「天皇」であったが母が氏族の出であったので、本来なら「天皇」位を継ぐ事はなかった。用明が位を継いだのは、両親とも「天皇の子」という、当時の大和の「天皇位」継承の条件をそなえた兄・敏達が若くして死に、しかも「天皇」直系を継ぐべき、両親ともに「天皇の子」という条件をもった息子・竹田皇子が成人しないままに死んだからであった。
大王位を継ぐべきものが若いので、とりあえず竹田皇子が成長するまでの中継ぎとして用明は天皇位についた。しかし彼も若くして世を去り、諸臣はとりあえず用明の弟を中継ぎとして位につけ、竹田成長をまった。しかし竹田は若くして死去し、あらたに次代を継ぐ候補者を選びにかかるしかなかった。
そしてその中から候補者として選ばれたのが聖徳であり、彼は天皇の娘を后にして、「両親ともに天皇の子」という次代の大王を作ることが期待された。したがって次の大王が決まったので、その後継をじゃまする可能性のある大王崇俊は、諸臣の合意の下で殺害された。
聖徳が選ばれたのは、彼が両親ともに天皇の子という条件を持っていたからであろう。だが彼には同じく両親ともに天皇の子と言う条件を持つ息子がいなかった。だから彼が位を継ぐには次の世代をもうけるという条件が諸臣によって課せられたであろう。そして彼に権威を与え、彼を後見する者として敏達の后であった推古が位を継いだ。
しかし彼はその任を果たせなかった。それゆえ彼は位を継ぐことなく死んでしまったのである。そして推古もまた死んだ。結局また大王を継ぐべき系統が決まらないまま、問題はまた振り出しに戻ったのである。ここに敏達の孫の田村の系統と聖徳の子の山背大兄の系統の大王継承をめぐる殺戮戦争が始まる(このような流れに決着がつき、皇太子という継承者をあらかじめ決めるようになったのは天武以後である)。
大和の大王はとても「天子」といえるような臣下を超越した権力は持っていなかったのである。ましてその大王でもなかった聖徳に、「天子」たるべき権力はなかったのである。
そのような聖徳が「十七条憲法」を出せるはずがない。 
(4)誰が十七条憲法を出したのか?
では、誰が『天子』として十七条憲法を出したのか?。
思い出して欲しい。あの「日出る処の天子・・・・」の国書を。
これを書いたのは聖徳太子ではなかった。アメノタリシホコ。北九州は太宰府に都を置く、倭国の王。日本の歴史上、「天子」を自称したのは彼がはじめてであった。
7世紀の日本に「天子」として諸臣に君臨する事ができたのは彼以外にない。十七条憲法はアメノタリシホコが作ったのであり、日本書紀の記述は、アメノタリシホコらの倭国の歴史を書いた『日本紀』という書物から、日本書紀の著者らが盗用したのである。 
(5)冠位十二階を定めたのは誰か?
では、冠位十二階を定めたのは誰であろうか?
この隋書のアメノタリシホコのことを書いた倭国記事の中に、日本書紀の推古紀にある、聖徳太子が定めたといわれる「冠位十二階」と同じ記述がある。
従来はこの記事と日本書紀の記事とが同じことをさしていると考えられてきたが、遣使記事が違う王朝のことだとすると、この冠位十二階の記事も別のことであることになる。当然これも倭国のことであり、定めたのはアメノタリシホコである。隋書原文を見よう。
内官に十二等あり。一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信。員に定数なし。軍尼120人あり。なお中国の牧宰のごとし。80戸に一伊尼翼を置く。今の里長なり。十伊尼翼は一軍尼に属す。
天子の下に十二等の冠位をもった役人がおり、800戸を単位とした「国」に軍尼という地方役人がおり、その下に80戸を単位とした「里」に伊尼翼という地方役人を置く。
後の律令制に似た国家組織を、7世紀初頭において倭国は持っていたのである。
この隋書に見る十二の冠位は順番こそ少し違うとはいえ、内容は日本書紀と同じである(日本書紀では、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智である)。
この冠位十二階も、倭国のアメノタリシホコの定めたものを、日本書紀を編集するときに聖徳太子の事跡の所に盗用したものであろう。
こうして聖徳太子の事跡として挙げられたものは全て倭国の歴史書からの盗用だったのである。
考えてみれば当然である。大和において律令制を取り入れそれに基づいた国家制度ができ始めたのは天智の時からであった(670年ごろ)。それもなかなか定着せず、その採用をめぐっては内乱までもがおき(壬申の乱)、ようやく定着したのは701年のことだったのである。聖徳から100年の後のことである。
日本書紀は大和の歴史を100年も遡らせて歴史を捏造した。それをそのまま無邪気に信じているのが今の日本古代史学会であり、それを盲信したまま「聖徳太子こそ独立日本の父」と叫んでいるのが、新しい歴史教科書の著者たちである。
聖徳太子の事跡。それ自身が幻だったのである。 

注:05年8月の新版では、この「聖徳太子の政治」を「聖徳太子の新政」と改題して、第3節「律令国家」の成立の冒頭においた。記述内容はほぼ旧版と同じであるが、叙述を簡略化して、冒頭に、「豪族の争いと隋の中国統一」と題する、国際・国内情勢についての記述を置いた。旧版との違いは、17条憲法の全体の要旨をかかげたことと、17条憲法の記述の最後に、「和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった」という記述を挿入したことである。
しかしこの「和」について誤解されるといけないので、一言補足しておこう。「和」とは「皆で仲良くする」ということではない。そもそもの17条憲法の記述でも「和をもって貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ」であり、その「さからう」とは、天子の命令にさからうということを意味しており、従って「和」とは、天子の命令に従うことを意味しているのである。日本的な「和」とは、上の者、力のある者などに従うという意味を持っているが、その意味では、17条憲法は、日本的な「和」の起源である。しかし「和」には、集団の秩序にさからわないというもう一つの意味もあり、これは17条憲法の意味合いとは異なる。おそらくこれは、中国の天子専制という意味での律令制度を日本に取り入れた時、その天子専制を「貴族共同体の専制」に置き換えてしまった大和での動きに起源を持っているものと思われる。「貴族共同体の専制」は奈良時代の律令の特色であるのだ。17条が「天子の命に従え」という側面を強く持っていることは、貴族共同体によって推戴される天皇でしかなかった大和朝廷の現実に照らし合わせた時には、おおいなる矛盾を生じ、ここに17条憲法が大和天皇家の作ではないことの証拠がある。17条憲法の「天子の命令にたいする和」を「集団の秩序=意思への和」と組替えてしまった今日の理解は、おそらく大和での律令の受容の過程で生まれたものに違いない。
注:この項は、河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」、古田武彦著「法隆寺の中の九州王朝」、家永三郎・古田武彦著「聖徳太子論争」、大山誠一著「聖徳太子の誕生」などを参照した。 
 
捏造された歴史。「大化の改新」はなかった

 

「大化の改新」という出来事を、「日本における律令制の成立」の重要な画期とする記述は、どの教科書でもなされていることである。
この新しい歴史教科書の叙述の特徴は、元になる資料である「日本書紀」の記述をほぼまるごと真実であるとし、ほとんどそのまま詳しく載せているところにある。
だが、日本書紀の「大化の改新」に関する記述は、ほとんど捏造されたものである。
かなり前から646年(大化二年)の正月に出された「改新の詔」の「公地公民」の方針は、その後の歴史の実態にあわないことが指摘されていた。
事実として諸資料から確かめられる限りで、諸豪族や皇族の私有地が廃止されて「公地」となりはじめるのは、670年前後、天智朝になって以後であり、定着するのはその後の天武・持統朝であることが確かめられている。
したがってこの「改新の詔」はあとから挿入されたものであることは確実である。
だが問題は、誰が何のために挿入したのかということが不明であった。 
(1)古代政治史の主役は『天皇家』
しかし近年、河内祥輔氏の「古代政治史における天皇制の論理」の研究を端緒として、藤原氏などの「有力な豪族による政治の壟断」と表現されることの多かった古代政治史の主役は「天皇家」なのではないかという認識がひろまり、古代における多くの重大な政治的事件の背景は、天皇家における皇位継承の問題をめぐる争いであった可能性が高いことが明らかとなってきている。
正確にいえば、日本の天皇制の特色は「有力な諸豪族・貴族による天皇の推戴」にあり、一定の条件を備えて大多数の有力豪族・貴族の推戴を受けて初めて天皇位は継承されるということである。
そしてその条件とは、「両親ともに天皇の子どもである」ことであり、もしその条件をもった皇子がいなかったり幼少であった場合には、天皇位は父から子、子から孫というように直線的に継承されず、新しい皇統を継ぐべきものを選ぶか、皇統を継ぐべきものが成長するまで中継ぎを立てるかするという形になる。そして前者の場合には皇族間の王位継承戦争に到る危険性があった。
だからそれを避け、すみやかに天皇からその子孫に皇位を継ぐためには、天皇は前天皇の子女との間に男子を設ける事が必要となってくる。
でもそれは下手をすれば近親結婚の連続となり、健康な王位継承者をなくす危険や、后にふさわしい年齢の皇族の子女がいなくなるという危険をともなったのである。
そこで考えられたのが、あまり有力な豪族の背景を持たないが天皇家との間で血の交流という意味で親密な関係をもった豪族を作りだし、その所生の皇女と天皇との異母兄妹婚を行うことで、上の二つの危険を少しでも回避しようと「天皇家」は考えたのである。
この考えによって選ばれた家系が藤原氏である、というのが河内祥輔の結論であった。
そして彼の研究を下敷きにして遠山美都男は「大化の改新」の背景を研究し、蘇我氏もまた同様な論理で選ばれた氏族であったことを明らかにし、日本書紀の「大化の改新」に関係する人物像とその関係を精査した結果、「大化の改新」といわれる事件は、複数いた王位継承権者間の争いであり、「蘇我氏の横暴」という記述も、書紀編者の捏造であったということを明らかにした。
これらの研究成果をなぜ無視するのだろうか。
以下、これらの研究にしたがって、教科書の記述の間違いを指摘しておこう。 
(2)蘇我氏の横暴は、書紀編者の捏造
この教科書は最初に「蘇我氏の横暴」と題し、書紀の記述にそって「大化の改新」の背景を以下のように述べる。
聖徳太子の没後、蘇我氏一族が横暴にふるまう時代になり、国際情勢が急変してきたきびしいときに、国内の政治は混乱をかかえることになった。豪族の先頭にたって政治を取りしきったのは、蘇我の馬子の子の蝦夷だった。彼は天皇の墓にしか使わない陵という言葉をみずからの墓に用い、自分の子をすべて王子とよばせた。蝦夷の子の入鹿は、聖徳太子の理想を受けつごうとしていた長男の山背大兄王をはじめ、太子の一族を一人残らず死に追いやった。
日本書紀で蘇我氏を討つべき前提とされていた記述である。
だがここも書紀編者の捏造である。山背大兄王をはじめとした太子の一族を皆殺しにしたのは、彼と並んで王位継承権をもつ有力皇族とその支持勢力合同の企てだったのである。
舒明天皇死後、王位を継ぐべき「両親ともに天皇の子」という皇族は一人もいず、有力な皇族同士が王位を争う形になった。そして有力な皇族は4人いた。一番年長者は舒明の従兄弟にあたる同世代の王、山背大兄王。次は舒明の甥であり、舒明の后である宝皇女の弟である軽皇子。
そして舒明の息子である古人大兄皇子と、舒明と宝皇女との間の子である中大兄皇子である。
このままでは王位継承の戦争を生み出すのでとりあえずの王位は、舒明の后である宝皇女をたて、皇極天皇とした。だがこれは一時的なことであり4人の候補者を絞る必要があった。この候補者を絞るための最初の闘いが、山背大兄王をはじめとした太子の一族の皆殺しなのである。
なぜならば山背大兄王を除く他の3人は、山背大兄王の父である聖徳太子と王位を争った押坂彦人大兄皇子の孫にあたり、山背大兄王を代表とする上宮王家とは対立する関係にあったからである。したがってこの3人は古人大兄皇子と血縁関係にあり、彼を次の王位継承者とおす蘇我の入鹿を動かして対立する上宮王家を抹殺したのである。
しかるに書紀編者は、この事実を隠し、蘇我氏が王位を簒奪しようとしたというように歴史を捏造した。
なぜか。書紀を編纂したのは天武天皇の子である舎人親王であり、日本書紀は彼ら天武・天智系の王家だけが日本の正統な王家であるという命題を証明するためにつくられた書だからである。
そのためには、王位継承をめぐって天皇家内部に争いがあったことは隠されねばならない。だから彼らの先祖であった近江のオオド王が王位を武烈天皇から簒奪して継体天皇となったことも、そしてその子の欽明が兄である安閑・宣化と闘って王位を奪ったことも隠されなければならなかった。そして欽明の子である敏達の死後、王位継承者にふさわしいものがおらず、長い争いが続いたことも隠し、その有力候補であった聖徳太子の死後、死に臨んだ推古天皇が、押坂彦人大兄皇子の子の田村皇子(後の舒明天皇)を呼んで皇位を譲るような発言をしたかのような捏造もした。こうした捏造の末に、彼らの先祖である天智が最初から有力な王位継承者であったかのような造作を歴史に施すために、「蘇我氏による王位の簒奪」なる嘘をつくりあげたのである。
蘇我の蝦夷・入鹿は王位を簒奪しようとしたのではない。欽明以後の天皇家と緊密な血の交流を行い、近親結婚を避けて王位継承者をつくる氏族として選ばれていたかれらは、その血を受けた古人大兄皇子を支持し、彼を王位につけてそれと緊密な関係を作ろうとしただけなのである。
日本書紀の編者は、この事件の主語が王位継承権を持つ有力王族であった事実を隠し、その一支持者に過ぎなかった蘇我氏を主役という形に歴史を書き換えることによって、彼らの先祖である中大兄皇子が後に王位を継ぐ事が正当であったと主張したのである。
新しい歴史教科書の著者たちは、捏造された歴史を鵜呑みにし、それを事実だと思いこんでしまったのである。 
(3)「大化の改新」の首謀者は中大兄皇子と藤原の鎌足ではない
書紀編者の歴史捏造はそれだけに止まらない。教科書の記述を見よう。
日本ではあいかわらず、蘇我氏を中心とする豪族が権力をふるっていた。朝廷の一部では、豪族や一部の皇族がそれぞれに土地や人民を支配するこれまでの体制を、唐にならって改めようとする動きが生じた。彼らは、そのために天皇を中心とする中央集権の国家をつくらなければならないと考えた。
620〜640年代になると、太子の派遣した留学生が隋や唐の政治制度を学んで、あいついで帰国した。改革の情勢はしだいに熟していった。
豪族の頭目である蘇我氏を宮中から排除する計画を、まず最初に秘めていたのは、中大兄皇子と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)であった。鎌足はけまりの会を通じて皇子に接近し、二人は心の中を打ちあけあうようになった。
「大化の改新」と呼ばれる「蘇我氏打倒」の事件の始まりである。
しかしここにも大きな嘘がある。
この記述は日本書紀の記述そのままだが、この日本書紀の記述は8世紀において統一日本の王であった天智・天武系の王族たちこそ、今後も日本の王であるという主張を証明する為にその子孫たちによって書かれた記述であったし、両親ともに天皇の子という条件をもった天智・天武系の王族が文武天皇で途絶える事態に直面して、この皇統を血の交わりによって支える藤原氏所生の皇子こそ今後の日本の王であるべきという、元明・元正・文武の皇統の新たな主張をも証明するためにつくられた書であったからである。
今日「大化の改新」と呼ばれる事件の首謀者は、中大兄皇子と中臣の鎌足ではない。皇極天皇の弟で、事件の後に天皇位についた軽皇子であり、彼を王位につけようとする皇族とそれを支持する豪族たちであった。まだ10代であり、両親ともに天皇の子という条件を持たない中大兄皇子にはまだ王位継承の資格は諸豪族に認められてはいなかった。
彼は軽皇子派の有力皇族として謀議に加わり、その実行上の軍事上の指揮官として行動したのである。そしてそうすることで、次期大王(書紀は天皇と記述するがこの当時は大王)の有力候補者としての地位を手に入れようとするためであった。
さらに中臣鎌足は中大兄皇子の配下というより軽皇子の支持者の一人として行動したにすぎないのであった。
では、彼らの真の攻撃目標は誰か。それは舒明の息子である古人大兄皇子であった。
この事件は古人大兄皇子とその有力な支持者である蘇我本宗家を倒し、軽皇子を王位につけるための争いであったのである。
だから彼らは偽りごとをしかけて蘇我入鹿と古人大兄皇子を皇極天皇の居所に招き入れ、人目につかない処で二人を抹殺しようとした。しかし蘇我入鹿は討ち取ったが、手違いから古人大兄皇子を討ち漏らした軽皇子派は窮地に陥った。自分の宮に逃げ帰った古人大兄皇子と甘橿丘の蘇我本宗家とが連絡をとり、軽皇子派を挟み撃ちにしたら万事休すであった。それを救ったのは、中大兄皇子の果断な処置であった。
彼はただちに軍勢を率いて、古人大兄皇子の宮と甘橿丘の蘇我本宗家との中間点にあって、蘇我本宗家の勢力の拠点であった飛鳥寺を占拠し、双方に軍事的圧力をかけ、孤立した古人大兄皇子が軍門に降り出家するやいなや、闘いの大義名分を失った蘇我本宗家の軍事集団を降伏させ、蘇我本宗家の長、蘇我蝦夷を自殺に追い込んだのである。
だからこの事件のあとで皇極天皇から歴史上初めて譲位と言う形で王位についたのは軽皇子であった(孝徳天皇)し、新しい都は彼の支持勢力の基盤であった河内の国に移されたのである。
だがこの後にも書紀の嘘はある。それはこの孝徳天皇の下で、中大兄皇子が皇太子であったとする記述である。皇太子という制度は奈良時代になって生まれたものである。中大兄皇子は有力な王位継承権者ではあるが「両親ともに天皇の子」という王位継承の条件を持っていなかった。
最大の対抗馬は孝徳天皇の息子の有馬皇子であった。だから後に孝徳天皇が死んだときにもただちに中大兄皇子が王位につかず、皇極を再度王位につかせて中継ぎとし、その間に最大のライバルであった有馬皇子を殺したのであった。
中大兄皇子が唯一の王位継承権者であったというのも書紀の歴史捏造である。 
(4)「改新の詔」は誰が出したのか?
のちに「大化の改新」と呼ばれた事件は、単なる王位継承をめぐるクーデターであった。クーデターを企てた人々には「天皇中心の国家」をつくろうという意図はまったくなかったのである。それは当たり前であった。この当時に天皇を名乗ったののは、彼ら大和の王ではなかった。それは九州は太宰府に都した倭王でしかありえない。大和の王はその有力な分家でしかなかったのである。
この事件を「大化の改新」と呼んだのは明治時代の歴史学者である。天皇制がまさしく日本を統一するシンボルとなった時に、その淵源を調べたとき、学者たちは日本書紀の大化元年から始まる次々に日本の国政のしくみを変革するたくさんの詔の群れに注目した。そして天皇中心の国政に変革しようとするこれらの詔群を見て、この事件を「大化の改新」と名づけたのである。
645年の6月12日に起きたこの事件は、事件の当事者やその子孫には、「乙巳の変」と、事件が起きた年の干支で呼ばれていた。
では、646年(大化二年)の正月に出された「皇族や豪族の土地を公地とする」という詔を中心とする詔群は架空のものであったのだろうか。
いやそうではない。この詔、とりわけ大化五年の2月に出された一九階の官位を定めた詔は繰り返し言及され、その後の天智・天武朝の官制の基本となっており、後の冠位は、この大化五年の制度の改変として施行されているのである。
したがってこれと一体の関係にある大化年間に出された詔群も実在のものと考えられる。
では、軽皇子や中大兄皇子らが「天皇中心の国」をつくる構想を持たなかったとすれば、この大化年間の詔は誰が出したものであろうか。
考えられる事はただ一つ。すでに6世紀のはじめから律令を持ち、天皇中心の国家づくりをすすめていた、九州は太宰府に都する倭王朝以外に、この詔を出す主体はない。倭王朝は隋書にあるようにすでに607年の時点において十二階の冠位を持っていた。したがって大化五年、650年に出されたとされる冠位一九階は、その拡大変更だったのである。
「大化の改新」は完全な幻であった。蘇我本宗家をつぶす事件としてのそれは、大和の大王家における王位継承の争いに付随したものであったし、天皇中心の国作りとしてのそれは、九州の倭王朝の事跡を盗んで歴史書に挿入したにすぎなかった。
ここでも新しい歴史教科書の著者たちは、日本書紀の歴史捏造を見ぬけず、その記述を真実だと信じこんで、歴史叙述をしてしまったのである。 

注:05年8月の新版の「大化の改新」についての記述は、旧版の記述を整理しただけで、ほとんど同じ内容である。本文に挿入されていた蘇我入鹿殺害事件の詳細と、中大兄皇子と藤原鎌足の出会いの場と言われる蹴鞠の話を合体させて、「歴史の名場面:蘇我氏の滅亡」と題する記述にし、別立てで掲載したことと、旧版では、「大宝律令と年号」の項にあった文をここに挿入したことだけである。
その文は、大化という年号を定めてことに関するもので、「東アジアで、中国の王朝が定めたものとは異なる、独自の年号を定めて使用しつづけた国は日本だけだった」というもの。これは中国・朝鮮・日本という東アジアの中では「中国の影響が強い時代に」と限定すればたしかにそうである。だが、中国ととの間に砂漠や大山脈で隔たっている中国の西や北や南の国々ではこれはあたりまえのことで、中国の強い影響下にあった時を除いて、それぞれの国は独自の年号を持っていた。つまり、東アジアは中国の強い影響下に置かれた地域だと言う事だ。特に朝鮮は日本と違って中国と地続きである。つまり常に中国に直接侵略を受ける危険に直面しているということ。日本のように海で隔てられている国との違いを無視して、「日本だけが中国から独立した姿勢を堅持した」とでも言いたいかのような記述は、単なる日本民族主義、朝鮮にたいする蔑視の反映にすぎない。しかしその朝鮮でも中国からの影響を脱した時には独自の年号を使用していたのである。
注:この項は、河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」、遠山美都男著「大化の改新―645年6月の宮廷革命」、古田武彦氏の諸著作などを参照した。 
 
「日本国はいかにして誕生したのか」の問題提起

 

(1)「国家のありかたが問われていた」ことに正面から向き合った先進性
日本国がいかにして成立したのか。この問題は日本の歴史を語るときに避けては通れない問題である。
しかしこの重大な問題を従来の教科書は避けてきたし、今回検定を通った他の教科書でも、この問題ははっきりとは取り上げられていない。これ自身おかしなことである。日本国がいついかにして成立したのか。この大事な問題を素通りして、どうして自国の歴史を語れようか。
思うに従来の教科書は「国家」という問題を取り扱うのを避けてきたようである。歴史上の大きな事件のほとんどは、その時々の内外の情勢に応じて、どんな国家をつくるかが問われていた。近い所では1945年の敗戦の時。そして明治維新のときや江戸幕府成立のとき。いやもっと遡ればきりがない。だのに従来の教科書ではこの問題が正面から取り上げられた事はない。
それはなぜか。
単純なことである。国家主義をかかげ国家に奉仕する事が国民の義務だと高らかに目標を掲げ、国民をして英米に追いつけ追い越せと頑張らせ、はては中国や欧米諸国との全面戦争に突入させた戦前の国家。その結果のあまりの悲惨さのために、以後この問題を回避してきたのだ。これは戦後日本がどんな国をつくるかの国民的合意をなさないまま、経済的発展をそれにかえて走ってきた事と表裏一体の問題である。
この態度を改め、歴史上どんな時期にどんな国家を作る事が求められて、その結果どんな事になったかを正面から問題としてとらえ、それに回答を与える事で、今後の国家のありかたをどう考えるかが重要と指摘している所に、この新しい歴史教科書の登場の積極的意義はある。
そしてこの教科書は、6世紀末から8世紀の国家的課題を以下の様に提起する。
6世紀末に中国が統一された事が契機となって、日本は諸豪族の連合国家の段階から、統一された国家の段階への飛躍が求められており、そのための取り組みが、聖徳太子いらい進められ、663年の白村江の闘いの敗北でそれが加速され、天智天皇の登場と壬申の乱によって完成された。
というのが、この書の主張である。
たしかに6世紀の中国の統一によって、日本の国のありかたが問い直されたことはたしかであり、白村江の敗戦が一気にこの問題の解決を強制したこともたしかである。そしてこの問題意識なくして、8世紀における律令国家の成立の意味は理解できないし、そこで成立した日本国の姿をとらえることはできない。。
その意味で、この教科書がこの問題を正面から扱っている事は正しい問題意識である。
だが問題意識が正しいことと、その回答が正しい事とは別の事であり、この教科書の回答には重大な欠陥があり、歴史の重要な側面を意図的に隠しているのである。
それは何か。以下、教科書の記述を追いながら説明しよう。 
(2)百済はすでに滅亡していた
教科書は以下のように記述する。
任那が新羅にほろぼされてから約1世紀、朝鮮半島の三国は、あいかわらずたがいに攻防をくり返していた。七世紀のなかばになると新羅が唐と結んで百済を攻めた。唐が水陸13万の軍を半島に送り込むにいたって、日本の国内には危機感がみなぎった。300年におよぶ百済とのよしみはもとより、半島南部が唐に侵略される直接の脅威を無視できなかった。
この記述のようにおそろしい危機感が走ったことはたしかである。だが正確にはこの時点(660年)に百済は唐軍と新羅軍の攻撃を受けて滅亡したのである。そして降伏して捉えられた百済王とその一族および大臣・将軍88人と百姓1万2千8百人が唐に連行された。
さらにこの唐に連行された百済王と諸王子13人と大臣・将軍ら37人が捕虜として縛られて唐の皇帝の前に引き出されるのを日本の遣唐使は眼前に目撃してしまったのである(このことを目撃した遣唐使は二つある、大和朝廷の遣唐使の一行と、九州の倭王朝の遣唐使の一行である)。
百済が亡ぼされた。この衝撃はどれほどのものであったろうか。なぜ教科書は百済滅亡の事実を記さないのか?。疑問である。
663年の白村江の闘いは、滅亡した百済を日本軍の力で復興させる戦いだったのである。 
(3)白村江で敗北したのは「大和朝廷」ではない
教科書は次のように記述を続ける。
中大兄皇子は、662年、百済に大軍と援助物資を船で送った。唐・新羅連合軍との決戦は、663年、半島南西の白村江で行われ、2日間の壮烈な戦いののち、日本軍の大敗北に終わった(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃え上がり、天と海を炎で真っ赤に焼いた。こうして百済は滅亡した。
じつはこの記述に問題がある。この記述は日本書紀そのままなのだが、百済復興の爲に大軍と援助物資を送ったのは中大兄皇子を最高責任者とする「大和朝廷」ではなかったのである。それは九州太宰府を都とする倭王朝だったのである。したがってこの戦いでほぼ全滅に等しい敗北をこうむったのは倭王朝であり、ここに紀元前から日本列島を代表する王者であった倭王朝は、実質的に滅んだのである。だからこそ後に述べるように、この事件から7年後の670年。日本の国号は「倭」から「日本」に代わったのである。
白村江で唐とたたかったのが「大和朝廷」ではないという証拠はいくつもある。
1つはこの時代の第1資料である旧唐書には、この時期倭国と唐王朝との対立が描かれているが、日本書紀に見る「大和朝廷」と唐王朝との関係はとても友好的である。
旧唐書によると、631年に倭国は遣使し、その答礼として唐王朝は高表仁を遣わした。ところが高表仁は倭国に来たものの、『王子と礼を争い、朝命も述べずに帰り来る』と記述されている。ところが日本書紀のほうは、632年に唐の使い高表仁が来たとき、時の舒明天皇は次のように話している。すなわち、『天子の命ずる所の使い、天皇の朝(みかど)に到ると聞き、これを迎えしむ』と。この言葉は意味深長である。大唐の天子の使いが天皇の朝廷に来たと聞いたので御迎えしたという言いかた。これははっきりと舒明は『自分は天皇ではない』と表明しているのである。
そしてほかに朝廷があって、そこに使わせられた唐の使人をわざわざ御迎えしたと述べて、その労をねぎらっているのである。さらにこの舒明の言葉に答えて唐使高表仁は、次のように答えた。『風寒き日に、船艘を飾り整え、もって迎え賜う。歓喜す。』と。つまり手厚い歓迎を受けたことを謝しているのである。
この二つの記事を比べて欲しい。二つの記事は全く違うのである。旧唐書の倭国と日本書紀の「大和朝廷」は別の国であり、大和の王・舒明の口から『自分は天皇ではなくその一臣下であり、天皇の朝廷に来った唐使に遠路わざわざおいで願った』とのべ、自らが倭王権の担い手ではないことを明らかにするとともに、唐王朝と対立する倭王権とは違って「大和」は唐に恭順するとの態度表明をしているのである。
おそらくこの時唐は、あの隋の煬帝にたいして「日出る処の天子・日没する処の天子」という対等の手紙を送って、隋王朝に対抗する事を表明し、唐王朝にたいしてもこの姿勢をかえない倭王朝に対し、その配下の有力豪族である「大和の大王」は唐王朝に恭順する気でいる事を確かめ、これを次の日本列島の代表者に擬したのであろう。そして唐と「大和朝廷」との間では密約ができていたのかもしれない。来るべき倭と唐との戦いの時には「大和朝廷」はなるべき局外にいるとの密約が。
白村江で唐と戦った倭国が「大和朝廷」ではない証拠の2つ目は、「大和朝廷」軍は朝鮮半島に渡っていない可能性があることである。中大兄は明白に九州に止まっている。そして彼と斉明女帝が筑紫に移動するとき不思議な事に率いた軍の将軍の名がまったく載せられていない。さらに斉明女帝は難波から筑紫までの船旅に、なんと3ヶ月もかけているのである。さらに日本書紀はこの項で駿河の国に軍船を作らせた船が夜中に知らぬ間にともとへさきとが入れ替わっていたという話しを挿入し、「これは西征軍が敗れると言うしるしだとさとった」と記述し、最初から戦いをする気がないことを暴露している。
また3つ目には、この戦いの後で中大兄は冠位の増発を行い、大規模な冠位の乱発を行っている。これは、存亡の危機を懸けた戦いに負けた王朝の代表者のとる行動ではないであろう。
そして4つめには、戦後唐王朝は日本に使節を送ったのだが、200数十人の平和な使節で、友好的な雰囲気で交流し、その後も何度にもわたって白村江の戦いで捕虜となった将軍たちを日本にまで送還している。これは、無礼にも唐王朝と対等な関係を結ぼうとし、唐と対立した挙句に唐と戦争にいたった国に対する態度ではない。
このように考えるならば、白村江で敗北した倭国は「大和朝廷」ではないのである。そしてこのことは旧唐書の「日本伝」にしっかり明記されている。そこにはこう書いてあるのである。「日本は昔小国。倭国の地を合わす」と。 
(4)亡命百済人はなぜ九州に配置されなかったか?
さらにこの教科書は「亡命百済人」と題して、白村江以後の歴史を以下の様に記述している。
百済からは、王族や貴族をはじめ、一般の人々までが1000人規模で日本列島に亡命して、一部は近江(滋賀県)、一部は東国に定住をはたした。朝廷は手厚い優遇措置を取った。当時の列島の人口は500万〜600万と推計され、受け入れの余地は十分にあった。しかも聖徳太子以来、中央集権国家の形成をめざしていた日本は、中央の官僚制度の仕組みや運営のしかたについて、亡命百済人から学ぶ点が少なくなかった。
たしかに日本書紀によれば、白村江の戦いの2年後の2月に「百済の民、男女400人あまりを、近江の国の神崎郡に住ませた」と記述され、翌年の冬には「百済の男女2千余人を、東国に住まわせた」ともあり、さらに次の年にも「佐平余自信・佐平鬼室集斯ら、男女7百余人を、近江の国の蒲生郡に移住させた」とある。そしてこの佐平余自信・佐平鬼室集斯ら百済の王族や貴族たちが、天智の朝廷において重要な役についたこともたしかなことである。
だがこのことは、教科書の記述とは逆の疑問を生み出す。なぜ聖徳太子以来半世紀以上も経っているのに、なぜ百済の亡命貴族の力を借りなければ中央集権的国家がつくれないのだろうか。そして外交交渉や役所の運営に習熟したこれらの人々をなぜ外交の中心である九州に配置せず、近畿地方や東国に配置したのか。
この疑問は、中国にならった中央集権的国家づくりが進んでいたのは九州であり、「大和朝廷」の治める近畿地方にはまだその組織もできてはいなかったし、そのノウハウもなかったということではないだろうか。だからこそ、先進地域である九州には亡命百済の官人たちは必要なかったのであろう。 
(5)天智は「近江令」を作ってはいない
さらに教科書は次のように記述をづづける。
中大兄皇子は唐からの攻撃をさけるため、都を近江に移し、668年に即位して天智天皇となった。天皇は国内の仕組みを整えようと、中国の令をモデルにした近江令を編んだ。また、初めて庚午年籍とよばれる全国的な戸籍をつくった。
ここに聖徳太子以来進められた中央集権的国家づくりが大きく前進し、ついに当時としては先進的な法体制がととのった国家へと日本は変貌を始めたと、この教科書は言いたいのである。
ただしこれにはたくさんの異説がある。特に近江令についてはそうである。「近江令は完全な令として完成し、後の天武の時代に改定されて飛鳥浄御原令へと発展した」という説があるかと思えば、「近江令は部分的にできていただけだ」という説や、はては「近江令はなかった」という説まで、諸説紛紛である。理由は簡単である。1つはその現物が残っていないこと。そして2つ目は、基本資料である日本書紀には天智が令を編纂施行したという記事がないからである。
なぜ基本資料にないのにその存在が知られるかというと、「藤氏家伝」に天智が藤原鎌足に編纂させたという記述があるからである。
だがこの「藤氏家伝」の記述は信用できない。この記録は奈良時代の藤原仲麻呂が760年にまとめたものだが、藤原氏と天智・天武系王統との親密な不可分の関係が持統朝の藤原不比等から成立したにも関わらず、これを「天智以来」と粉飾し、「大化の改新」以来天智と藤原氏は密接不可分の関係にあったと主張するための書物だからである。したがって鎌足の事跡については、「大化の改新」の項で述べたように、大規模な粉飾が施されており、信ずるに足りない。
日本古代史学会の定説では、この「藤氏家伝」の「近江令」にあたるものは、日本書紀の天智10年正月六日の「東宮太皇弟が詔して、冠位・法度のことを施行された」という記事の「法度」にあてている。
だがこれは完全なこじつけである。「法度」の語が意味するのは「令」のように限定されたものではない。これは治世の大本となるおきてのことである。そして天智10年の「法度」が何を指しているかは、それと一緒の出された冠位の具体的なものが、大化5年の詔の冠位の拡大であることからわかる。この「法度」とは大化年間に集中している一連の詔群を指しているのであり、天智10年のこの記事は、大化年間に定められたこのおきて群を施行すると述べたにすぎないのである。
では天智はなぜここで大化年間の詔を施行すると宣言したのか。従来の説ではこれを根拠に、大化年間の詔は架空のもので、本当は天智朝で実施されたものをあとから挿入したと解釈されてきた。これは近江令を実在のものと前提したからである。
でもこの解釈は、日本書紀の意図すら無視している。日本書紀の編者の意図は、「中大兄皇子と藤原鎌足の主導の下で行われた大化年間の改新をここにいたって完成したのだ」というものである。目的は天智・天武朝の権威と藤原氏の権威の淵源を出きるだけ古い時代に設定するためである。
だがこれも日本書紀編者の解釈であり、歴史の捏造の結果である。
事実はどこにあったのか。書紀編者の手元にあった資料には、「書紀編者が大化5年の条にあてはめた法令群を天智10年に施行した」という記録があったのだ。書紀編者はこの生の資料をそのまま使って、自分たちの主張を貫けるように編集したのだろう。
ではこの意味は何か?。「大化改新」の項でも述べたように、この詔群を出したのは、九州は太宰府に都した倭王朝である。おそらく具体的にはあの『日出る処の天子・・・』のアメノタリシホコであろう。その下の倭王権の施行した根本法令を、倭王権の滅亡を受けてそれに代わった天智も継続して実施すると宣言したという意味である。
考えてみれば、白村江の敗戦で急にそれにとって代わった「大和朝廷」が、長い間日本の統一王朝であった倭王権の治世の大本になるおきてを廃止し、新たな根本法典を施行するなどできる相談ではない。天智は日本の天皇とはまだ認められていないのだから。
したがってこの時点で天智が「令」を新たに編纂して施行したとする「藤氏家伝」の主張には無理があるのである。
「前王朝の治世の大本のおきてを継承する」との宣言は、統一王権を簒奪した「天皇」としての天智にこそふさわしい行動である。天智は、日本ではじめて、唐の制度にならった統治制度をつくった天皇ではなかったのである。
しかし同じことは、次の天武・持統天皇にも言えるのである。 
(6)壬申の乱は「地方」対「中央」の闘いではない
教科書は最後に「天武・持統朝の政治」と題して、次のように述べている。
天智天皇の没後、天皇の子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子との間で、皇位継承をめぐる内乱が勃発した。これを壬申の乱(672年)という。大海人皇子は、中小の豪族や地方豪族を味方につけて充分な兵力を備え、大勝利をおさめた。これにより、中央の大豪族の力はおさえられ、天智天皇の時代までどうしても断ち切れなかった、中央豪族たちの政治干渉を排除することに成功した。こうして、豪族たちの個別の立場を離れて、天皇を中心に国家全体の発展をはかる方針がようやく確立することになった。
これは皇位継承戦争である壬申の乱とその結果の説明であるが、これはあまりに史実とかけはなれたこじ付け的解釈である。
まずこの教科書が「壬申の乱の結果中央の大豪族の力がおさえられ・・・」と記述したのは、日本書紀の当該の記事を、大海人皇子が吉野から伊勢の国に逃れ、尾張や美濃の軍勢をつのって、近江京に都する大友皇子軍と戦ったというようにとらえ、大友=中央豪族×地方豪族=大海人という対立の図式に解釈してきた従来の日本古代史学会の定説によっているからである。
だがこれは根本的に間違っている。大海人が尾張や美濃の豪族の力に依拠したのは、美濃に彼の土地があったからであり、尾張の国の宰(みこともち=後の国司)である尾張の連や美濃の豪族とは、彼の子女の養育などを通じて関係が深いからであった。そして彼の軍の中心は地方豪族や中小豪族ではなく、その戦の指揮を担ったのが中央の代表的な豪族である大伴氏であったことは、書紀の記述でも明らかである。いや、より正確に言えば、大伴氏も含めた中央の有力豪族は大友派と大海人派に一族が分裂している事も多く、この戦いを単純に、中央対地方とか大豪族対中小豪族というような図式に還元することは、この事件の本質を見誤る事にも繋がる。
この事件は、皇統の分裂を生みかねない事態に対して、双方が軍事的に決着をつけようとしたものである。
皇統の分裂は、天智には天皇を父とする女性を后にできず、両親ともに天皇の子という大王の選択条件を備えた息子をもたないことから始まった。したがって彼が大王(後に天皇となる)の権威を確立するためには、彼の次の世代やその次の世代で両親ともに天皇という条件を備えた王を生み出す事が有力豪族たちの合意事項であった。
そのために天智がとった行動は二つであった。最初にとった行動は、弟大海人皇子を次の天皇とし、その彼に自分の娘を娶わせ、その所生の男子に天智の娘を配するか大海人の娘でその男子とは異母兄妹の娘を娶わせて、両親ともに天皇の子という資格を持つものを生み出す事。
これは天智即位のときに大海人を皇太子にしたことで、諸豪族の承認も得た路線であった。
しかし天智は途中で心変わりをし、すでに大海人の娘との間に皇子をもうけていた息子大友を天皇にし、その息子の皇子に異母兄妹を娶わせて両親ともに天皇という資格を持つ子を得るという路線に転換した。このため天智は大友を太政大臣として天皇を輔弼する地位につけて、有力な豪族の間に彼を次代の天皇という合意をつくり彼を後継ぎにしようとはかったのである。
だがこれは諸豪族との約束違反であり、当然のことに反発を呼んだであろう。そのため天智はこの新たな路線に乗る事を断った弟大海人が近江京を去ったあとで、重臣たちに大友を後継とする事を神前で二度にわたって誓いを立てさせたのであった。
この天智の強引な動きは諸豪族の反発と動揺を生み、大海人が軍事行動を起こすにいたって、諸豪族の分裂を生んだのである。
日本書紀を丁寧に読んで見れば、大友に従ったはずの諸豪族が途中で大海人側に寝返ったり、寝返りをしようとした大友側の将軍を仲間の将軍が暗殺したりした記事がいくつもある。そして同じことは大海人の側にもあり、大海人の勝利に終わったあとで、大海人側であった尾張の国の宰(みこともち、後の国司)が自殺してしまい、「何か裏の謀でもあったのか」と記されており、戦況の進み具合では大海人の側からも裏切りが出る可能性はあったのである。
さらにこの乱のあとで処刑されたものはわずか8人であり、それは大友側の近江朝廷の重臣に限られており、彼らの一族でもその当時重臣の列に加わっていなかったものは咎めを受けていないことから、大海人皇子は王位継承戦争によって諸豪族が分裂・対立することを最小限に食い止めようとしていたことがわかる。
壬申の乱を中央豪族対地方豪族という形に描きたがるのは、そうすることで乱後に成立した天武朝が、あたかも天皇専制の政治形態であるかのように描きたい論者の勝手な妄想なのである。 
(7)日本の政治体制は「君臣共治」
したがってこの教科書が書いたような「中央豪族の政治干渉を排除する」という事態は起こってはいないのである。
良く考えてみれば、この政治干渉なる言葉は、「政治は本来天皇の専権事項であるべき」というイデオロギーに彩られた言葉である。そしてこれまでの日本の政治形態は、大王の選出をめぐる動きを取ってみてもわかるように、大王(天皇)と形の上では臣下である有力豪族との合意で行われているのであり、その意味では「君臣共治」ともいうべき体制なので、「中央豪族の政治干渉」なるものが本来ありえないのである。
さらにこれは、その後「天皇中心の国家体制」を作ったとされる天武天皇から持統天皇の時代につくられ完成した律令の特徴にも表されている。
この教科書では次の項目である「律令国家の出発」の所で、日本の律令の特徴を以下のように記述している。
唐の制度では皇帝の権力は絶大で、皇帝の両親も祖父母も臣下であった。しかし日本の律令では、天皇の父に天皇とほぼ同等の敬意が払われていた。唐とちがって、日本では国政全般をつかさどる太政官と、神々のまつりをつかさどる神祇官の二つの役所が特設されていた。太政官には大きな権限が与えられていて、天皇の政治権力を代行する役目さえあった。これは中国の皇帝と違って、日本の天皇が大和朝廷以来続く豪族たちの上に乗っていた事情を示している。
これはとても正しい記述である。さらにもうすこし正確に記述すれば、日本の律令制では諸政の決定は太政官と天皇との討論と合意を基本としていたことが律令の研究と政治の実際の研究からわかっている。
この事実から判断しても、壬申の乱の結果「中央豪族の政治干渉が排除された」ということはなく、あいかわらず、天皇も含めた有力な諸豪族の合意の下で政治は行われていたのである。 
(8)天皇号の成立は天武の時ではない
さらにこの教科書は、天武についていかのように記述している。
大海人皇子は天武天皇として即位し、皇室の地位を高めることで、公地公民を目指す改新の精神を力強く推進した。それまで大王と呼ばれていた君主の称号として、天皇号が成立したのはこのころのことだという説が有力である(推古天皇が最初という説もある)。
天皇と名のったのは天武が最初というのである。だがこれは諸資料を無視した妄言である。
推古朝での遣唐使の所で述べたように、この時推古天皇から唐の皇帝に送られた国書と、唐の皇帝からの国書とが日本書紀に載せられているが、そこにははっきりと「天皇」と述べられている。日本書紀は引用された原資料はそのまま載せる傾向が強いので、このとき「大和朝廷」の王が天皇を名乗っていた可能性は大である。
では推古が最初の天皇なのか。いや違う。推古の次の大和の大王である舒明が、632年に来た唐王朝の使人に『天皇の朝廷に唐の使いがきていることを聞いたので、御迎えをして来てもらったのです』と語っているところが日本書紀に引用されている。つまりこのとき正式には天皇は大和の王ではなかったのである。それは九州は太宰府に都する倭王であった。彼は国内的には「天皇」と名乗っていたのである。
そしてこの天皇位はずっと以前から九州の倭王によって称せられていたのである。
6世紀初等の「筑紫の君磐井の乱」と日本書紀で書かれたあの事件で、百済や新羅は筑紫の君を倭王と認めて使いを送っていたことが日本書紀にも書かれている。そしてこのころの事を記したとして記録として日本書紀に引用されている「百済本紀」という書物には、ちょうど継体「天皇」25年にあたる年の3月の記事に『また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子みな死んでしまった』とある。通説では日本書紀の編者が判断したように、大和に伝えられた継体の没年が継体28年となっていたが、より「確実な」外国資料に「25年」とあったので、この25年(531年)を持って継体の没年としている。
しかし日本書紀や古事記のどこを見ても、「天皇・皇太子・皇子の全てが死んだ」という記事はまったくなく、これはどう見ても大和の出来事を記録したものではないのである。したがって「昔から日本の王は大和の王」という先入観を排除してこの資料を読めば、これは九州の倭王朝のことを記したものであり、ここにある「天皇」とは継体の軍によって殺された筑紫の君磐井をさすとしか考えられないのである。
つまり継体の軍によって、倭王であり「天皇」と名乗っていた筑紫の君磐井とその皇太子および皇子の大部分が殺された事件が、その3年後になって百済の王の耳に入ったという記事なのである。
「天皇」位を最初に名乗ったのは九州は太宰府の都する倭王であった。そしてその倭王が隋王朝の成立にさいして「天子」と自称したときに、それとは独立して中国と国交を開きたいと考えていた大和の王の推古は「天皇」と名乗って唐王朝と外交を始めたのである。
しかし正式には国内では「天皇」は九州の倭王なので、推古の次の舒明は「自分は天皇ではない」と唐の使いに述べざるをえなかった。
そして白村江の敗北によって日本列島の代表権を失い事実上滅亡した倭王朝に代わって大和の王天智が日本を代表する王となったとき、はじめて大和の王は正式に「天皇」を名乗ったのである。天武はそれを継承したにすぎない。 
(9)「日本」という国号は天武朝に出来たのではない
この天皇号をめぐる問題は、続いて日本という国号をめぐる問題につながる。
教科書は日本国の成立について以下の様に記述する。
天武天皇の没後、皇后の持統天皇が即位し、近江令を改めて飛鳥浄御原令が施行され、日本ではじめて中国の都城にならった広大な藤原京が建設された。天武・持統朝(672〜697年)の時代は、日本の国家意識の確立期といってよく、日本という国号もこの時期に確立したと考えられる。
天武・持統朝ははじめてづくしであるという主張だ。だがこれも嘘である。
日本ではじめての中国の都城にならった都は、藤原京ではなく太宰府である。太宰府は大極殿を持ち、藤原京のような政治の中枢としての内裏の構造をもった碁盤の目の都城であったことは、発掘の結果わかっている。しかし従来は日本書紀に太宰府の建設の記事がなく、都といえば大和と考えて来たので、太宰府が都の構造を持っている事を看過されるか、発掘報告書から意図的に削除されるかしてきたのである。
九州の倭国は律令も持っていたし、中国式都城も持っていたのである。藤原京は、日本国の中心が九州倭王朝から大和王朝に移った事を視覚的に表現するシンボルであったのである。
そしてこれはまた国号についても言える。日本を名乗ったのは6世紀初頭の倭王朝である(磐井がその王だ)。そしてこれは7世紀の初頭にいたって隋・唐王朝に対しても「日出る処の天子」の国書とともに提示されたはずである。しかし中国の王朝はこの国号を認めなかった。「天子」の称号とセットになっていたからである。
旧唐書の日本伝には先に紹介した『日本はもと小国、倭地を合わす』という記事と並んで、『倭、その名が雅でないことを鑑み、日本と号す』という記事も載せている。おそらくこれが正しいであろう。
しかし隋・唐王朝は日本という国号を認めず、伝統的呼称である「倭」を使いつづけた。
だが白村江の戦いの敗戦で倭王朝が滅びて、唐王朝に恭順の意をひょうし、天子の称号をなのらず天皇の称号をなのる「大和王朝」の王である天智が「日本国」を名乗ったとき、唐王朝は認めたのではないだろうか。その時は670年。天智十年。彼が即位して2年後である。朝鮮三国の記録はこの時をさかいに「倭から日本」へと変わる。中国の記録でそれが変わるのは703年。大宝律令が完成し、名実ともに「大和王朝」が「倭王朝」にとってかわって初めて出した遣唐使。この到着をもって中国は正式に日本国の発足としたのである。
たしかに天智・天武・持統朝は、日本が律令を持ち、法の上では天皇を中心に国家としてまとまった時期であった。しかしその体制は「天皇専制」ではなく、「君臣共治」とも言える有力豪族と天皇との合意を政治の基本とした体制であり、その体制を法でもって固める体制の淵源は大和にではなく九州太宰府に都した倭王権にあったのであり、その下で一定程度完成したのである。
その律令を元にした「天皇と有力豪族の共治」の体制を白村江の敗戦での倭王権の滅亡を受けて、「大和朝廷」が引き継いだというのが、「大和中心主義」という「皇国史観」に邪魔されない、日本古代史の真実の姿である。
日本国の始まりを記した新しい歴史教科書の記述もまた、この「大和中心主義」と「皇国史観」に色濃く歪められた歴史叙述だったのである。 

注:壬申の乱について、古田武彦が最近、「壬申大乱」(東洋書林2001年刊)において注目すべき見解を述べている。それは壬申の乱とは大和朝廷内部における皇位継承戦争ではあるが、その舞台は畿内だけではなく、九州をも含めた全国的な戦争であったというもの。その背景は、白村江における倭王朝の敗北と唐帝国軍による博多・大宰府占領がある。そして大海人皇子が下った「吉野」は大和の吉野ではなく、九州倭王朝の軍事拠点である有明海沿岸の「吉野宮」(例の吉野ヶ里遺跡のそば)であり、ここは倭水軍の根拠地で当時はここに占領軍である唐水軍と倭水軍の主力で唐に協力した大分君の水軍があった。大海人は唐の支持の下、倭王朝の残存部隊の主力である大分君の援助を得て、さらに大宰府を中心とした倭王朝の駅制度を駆使して水軍・陸軍を総動員して近江京を攻め落としたと、古田は述べている。つまり、日本書紀の壬申の乱に関する記述は、実際の戦争の基点であった九州の地名を大和周辺の地名に移し変え、この戦争を大和朝廷内の伝統的な皇位継承戦争の枠内にでっち上げたということになる。こう捉えると、壬申の乱も、白村江における倭王朝の敗北、東アジアにおける唐帝国の覇権の確立と言う国際情勢に中にしっかりと位置付けることができる。傾聴すべき見解であると思う。
注:05年8月の新版の記述は、旧版の記述を整理したもので、内容はほとんど同じである。ただし、3ヶ所が削除または表現を代えている。一つは天智天皇の「近江令」。これは完全に削除されている。二つ目は、持統天皇の時代の「飛鳥浄御原令」。これも完全に削除され、かわりに天武天皇の所に、「中国の律令制度にならった国家の法律の制定」という表現が挿入されている。さらに三つ目は、壬申の乱の所で、「中央豪族の力を削ぎ、彼らの政治への介入を排除した」という部分。これも完全に削除されている。これは古代史学会の定説に従った修正である。
注:この項は、古田武彦著「法隆寺の中の九州王朝」、遠山美都男著「白村江ー古代東アジア大戦の謎―」、遠山美都男著「壬申の乱―天皇誕生の神話と史実―」、佐藤進一著「日本の中世国家」、河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」などを参照した。 
 
比較的正確に描かれた律令国家の諸相

 

律令国家の成立の4番目の項目は、「律令国家の出発」と題して、日本の律令国家の特色を描き出している。
まず「大宝律令と年号」という項目を立て、701年に大宝律令が成立したことの意味を述べ、そのあと「平城京」と題して日本の律令制度の特色を描き出し、貴族の生活と庶民の生活を概観する。そして最後に「律令政治の展開」と題して、奈良時代政治史の諸相を描いている。
この記述は全体としては正確であり、日本の律令国家の特色をよく描き出している。特に2項目の「平城京」の部分の記述は、他の教科書に比べても各段に優れており、特筆に価する。
ではどう記述されどこが優れているのか。教科書の記述に沿って述べて行こう。 
(1)日本の律令は、「君臣共治」の体制
教科書は次のように記述する。
唐の制度では皇帝の権力は絶大で、皇帝の両親も祖父母も臣下であった。しかし日本の律令では、天皇の父に天皇とほぼ同等の敬意が払われていた。唐とちがって、日本では国政全般をつかさどる太政官と、神々のまつりをつかさどる神祇官の二つの役所が特設されていた。太政官には大きな権限が与えられていて、天皇の政治権力を代行する役目さえあった。これは中国の皇帝と違って、日本の天皇が大和朝廷以来続く豪族たちの上に乗っていた事情を示している。天皇は、依然として彼らにそれなりの立場を与えることで、その権力を発揮していた。一方で、天皇には権力にまさる権威がすでにあった。かっての中央豪族たちは、このころには朝廷の役所で高い地位につき、貴族とよばれた。平城京は、貴族たちの活躍する政治の舞台でもあった。
先にも述べたが、この記述はとても正確であり、日本の律令制の特色が中国の律令制のように皇帝の絶対権力を基礎にはしていず、天皇と太政官という上級貴族との合意によって政治が運営されるものであることを見事に示している。またそのことで、貴族との合意に基づき政治権力を行使する天皇が持っていた「権力にまさる権威」とは何であったのかという、日本史を考える上で不可欠な問題を提起している。
それは「支配階級の統合の象徴」であり、「支配階級が行使する権力に権威を付与する」ものであったことは今後の歴史展開を見ていくとおのずと分かるが、この時代においてはこの教科書が詳しく記述するように「人口600万の中の200人の貴族の支配階級としての統合の象徴」であり、「これら200人の貴族と約1万人の官僚が行使する政治権力の権威の源泉」でもある。 
(2)「公正の前進」としての律令体制の進歩性
そして一つ、この教科書の記述の優れているところは、通常は「過酷な搾取の体制」としか描かれることのない律令体制を「諸国民にとっての公正の前進」として歴史的に評価していることである。教科書の記述を見よう。
公地の支給を受けた公民は、租・調・庸という税の義務をおった。税は、かなりきびしい内容のものであった。
しかし、多数の農民に一様に平等の田地を分け与え、豪族の任意とされていたまちまちの税額を全国的に一律に定めたこの制度は、国民生活にとって、公正の前進を意味していた。
通常の教科書の記述は、税や兵役や労役の厳しさを強調し、山上憶良の「貧窮問答歌」を使用して搾取の厳しさを述べ、これが諸国における逃亡者の多さにつながったとするのが一般的である。
この新しい歴史教科書は、そのような立場を取らなかったが、このことは卓見である。
近年の考古学の発掘成果によれば、古墳時代の各村落には中核農家ともいうべき上層農民が成立し、彼らはそれまで豪族が占有していたであろう鉄製の農具を所有して、規模の大きな農耕を展開していた。これまで神話的地縁・血縁によって豪族をその首長とする共同体の中に規制されていた民の中から、独立して農業活動を行う人々が台頭して来た事は、共同体の祭司としての豪族の権威を著しく低下し、その統治能力の低下を招いていたであろう。
このことが、日本の国家的統一を促した要因として、外からの隋・唐王朝の成立という外圧とともに、内的要因として存在したのである。したがってこの台頭する上層農民の視点から見れば、律令国家の成立は、共同体首長としての豪族からの独立を保障する、経済的・政治的基盤を提供したものであり、「社会的平等」の前進としての「公正の前進」を意味していたのである。
上層農民の台頭という社会の変化を記述してしないという欠陥はあるが、この点を踏まえて律令制度の成立を評価したこの教科書の記述は、この意味で先進的なものと言えよう(これはこの教科書が歴史を「国家の発展史」ととらえることから生じている。また、上層農民の台頭を記述しなかったのも、この「国家の発展史」という観点から生まれており、これはこの教科書の社会史への目配りの欠如という、皇国史観・大国主義・女性蔑視などと並ぶ、この教科書の根本的欠陥を生み出す元でもある)。
なお、山上憶良の「貧窮問答歌」について一言付言しておこう。この歌は彼の筑紫国司や石見国司としての実際の経験に基づくものであるとはとうてい思われない。この歌がどんな状況で詠まれたかというと、大和での政争に破れ太宰府に事実上配流された大伴旅人を囲んで、かっての倭国の都である太宰府で、その滅び去った倭国の運命と自分たちの運命とを重ね合わせて歌を歌った中で歌われたのである。山上氏は百済の遺臣であり、その初代は税を免除されたものの、慣れぬ土地でも開墾作業や百済貴族としての地位を失っての苦労は並大抵のものでなかったであろう。したがって、山上憶良の「貧窮問答歌」は、この亡命百済貴族の末裔としての自身の運命を象徴的に歌ったのものと考えられる。
さらに奈良時代の資料に散見する「逃亡」の問題であるが、逃亡の資料と戸籍とを比較すると、逃亡者の総数がその郷の戸籍人数の総数を越える例があることや、逃亡者を出した家族には旧来の地方豪族につながる家系が見られることなどから、「逃亡」とは豊かな階層の税金逃れのための方便と考える事も出きる。 
(3)露骨な「大国主義」の発露=年号・律令問題
しかしこの比較的詳しく進歩的な記述の中にも、意図的な歴史捏造をするところがこの教科書の問題点である。教科書の記述を見よう。
東アジアで、中国に学びながら独自の律令を編み出した国は、日本のほかにはない。新羅は、唐の律令の中から自国に役立つ内容だけを拾い出して用い、みずからの律令をつくろうとしなかった。わが国では、日本という国号が定まったこの時期以来、年号が連続して使用されるようになった。一方、新羅は唐の年号の使用を強制され、これを受け入れた。日本における律令と年号の独自性は、わが国が中国に服属することを拒否して、自立した国家として歩もうとした意思を内外に示すものであった。
この記述は、事実のある側面のみを描き、その背景となる事実をまったく隠すことで事実の本来の意味を押し隠し、自己の主張が歴史的に正しいかのように歴史を捏造した見本のようなものである。
そもそも6世紀の東アジアで多くの国が中国とは独自の年号を持っていた。日本、正しくは大宰府に都を置く倭王朝は、少なくとも522年には「善記」という年号を持っていた。つまり「天皇」を名乗った筑紫君磐井の時代である。そして新羅もまた同じ時代に独自の年号を持った。536年(法興王23年)のことである。どちらも独自の年号を持ったのだ。おそらくこれは中国が南北朝時代であり、中国の正統な天子の力が地に落ちていたことを背景にしていたのであろう。
しかしこの流れは唐帝国の成立とその国土の拡大によって阻止される。
649年、唐の太宗皇帝は新羅王に対して独自年号を持っている事を難詰し、新羅は翌650年独自年号を廃止して唐の年号を使い、その4年後の654年、唐の冊封下に入った。だが倭王朝は独自年号を使いつづけ唐とも対立した。その結果が661年から663年にわたる唐との決戦(その終末が白村江の戦い)であり、倭王朝は事実上滅び日本列島の代表王朝は大和王朝に替わった。
新羅と日本とがことなる道を歩んだのは、中国の統一王朝としての唐との地理的な位置関係と政治的な位置関係の違いによる。
日本はなんといっても中国との間に朝鮮半島と海を挟み、この二つが強大な中国の直接的支配に対する防波堤の役割を歴史的に果たしてきた。そしてこの7・8世紀の場面では、唐王朝と戦火を交えた倭王権が滅亡し、唐への恭順を図った「大和王朝」の出現が、唐の直接圧力を受けない一つの要因であった。このことが一つの理由となって白村江の戦いのあと唐が日本に侵攻しなかったのだが、これにはもう一つ根本的な理由があるのである。それはこの教科書も前の項目で書いているが、唐が百済を攻めたのはあくまでも唐と戦火を交えている高句麗を南から牽制する勢力である新羅を強化するという目的であり、新羅と協力して百済を攻め、唐に恭順する新政権をつくればそれで唐の目的は達せられていたのである。唐王朝としてはあとは、新羅に南から牽制させて敵対する高句麗を攻め滅ぼし、そこに唐に従順な新高句麗をつくれば良かったのである。そして伝統的に中国の王朝にとって、日本列島の住民は僻遠の地に住む蛮族であり、その服属が王朝が天から承認されている証とされる程度の重要性しかなかったことも、日本が中国の直接支配を受けない理由でもある。
しかし朝鮮半島は違う。中国と直接国境を接しており、しかも満州を経由してこの地は、中国の中原(ちゅうげん)と呼ばれた大農耕地帯をうかがう遊牧民族の流れを汲み、そのために中原を支配した王朝としばしば戦火を交えてきたのであった。
しかもこの7・8世紀において朝鮮半島北部から満州の一部を支配した高句麗は強大で、この戦に負けたことがあの秦の始皇帝の権力の崩壊にもつながった故事が再来し、高句麗との戦に負けた隋王朝は滅亡したのであった。
したがって隋に変わって統一権力を握った唐は、その威信をかけて高句麗を攻めたがせめあぐね、西方の突厥との戦が一段落した7世紀の中ごろに、唐は百済の圧迫からの救援を求めた新羅の求めに応じて百済を攻め、高句麗を南から牽制しようとしたのであった。そして新羅の援助を得て百済を亡ぼしてそこに熊津都督府を置き、続いて新羅の協力を得て、高句麗を滅ぼしたのだった(668年)。
だがここで唐王朝の半島政策に狂いが生じた。唐に従順でそれに従ってきたはずの新羅が唐に抵抗し、高句麗再興を目指す高句麗の遺臣たちを援助し、そのことによって高句麗の故地を併合するとともに、熊津都督府を攻めて、百済の故地の唐軍を駆逐し、百済の故地を併合してしまい、北は満州の一部から南は対馬海峡に至る強大な国家としての統一新羅を樹立したのである。672年のことである。
この新羅の動きに対して唐は軍事行動を起こし、戦いは676年まで続いた。しかし唐の遠征は失敗し、676年に新羅が唐に謝罪し、唐は高句麗の地に置いていた安東都督府を遼東半島に移し、朝鮮半島の領有を新羅に認めて終わった。
新羅が日本とは異なり唐の年号を使用したのは、こうした軍事的緊張関係が続く中で選択されたことであり、日本とは置かれた状況が違ったのである。また新羅が独自の律令を作らなかったのは、この国は朝鮮半島の中では遅れて発展したため、王権の力が弱く、貴族の合議で政治が行われており、皇帝の専制と官僚制を基盤にした律令制度はまだ充分に適用できなかったからである。この意味では新羅の律令制と日本の律令制とは実質的には同じであり、新羅よりは早くから律令制を適用し、日本の現実に合わせた律令を作り上げていた日本と、遅れて新たに律令制を取り入れた新羅というように、律令制を取り入れる形が違っただけである。
ともあれ、こうした国際情勢や国内情勢の違いを無視して、日本と新羅とを同列において形式的に比較し、その事を持って「日本は独立の道を選び新羅は服属の道を選んだのは、その意思の違いに原因がある」という評価をすることは、「日本は朝鮮より優れている」と考えたい「大国主義」と「朝鮮蔑視」の思想を丸出しにしたものである。
最後に付言しておくが、日本独自の律令と言われる物は、実は百済の律令を真似たものである。早くから中国の官制を取り入れていた百済は、貴族の合議制という実態に見合った律令を作ろうとしていたのであり、早くから独自の年号も持っていたのである。この百済と古くから連合しかつ対抗してきた九州の倭王権もまた早くから百済の例に学び、律令を取り入れ年号も独自のものを使っていた。それは、522年の善記という年号から始まり、698年の大長まで32に及んでおり、その中には有名な「白鳳(661〜683)の年号も見えている。そしてこの倭王朝の最後の年号は「大化」であり、これが終わったのは700年。その翌年の701年、大和王朝は初めて独自年号「大宝」を制定する。ここに日本列島の統一王権は九州倭王朝から大和王朝に替わったのだ。
この大和王朝が新羅とは異なって独自年号を使い続けられたのは、唐と日本の間に、半ば唐に敵対的な新羅という国があったからで、大和王朝=日本国の唐への服属は、新羅に対する南からの抑え=「同盟国」であり、大唐帝国が天の意思に適っている証左と考えられたという特殊な状況があったからではないだろうか。
新しい歴史教科書の記述は、このような事実をも押し隠し、「日本だけが優れている」という自民族優越主義を、歴史を捏造する事で主張しているだけなのである。 
(4)社会史の視点の欠如=政治主義的記述
さらにこの教科書の根本的欠陥が、この項目の記述には良く現れている。先に述べた、律令制の成立の意味の問題で、この教科書は「律令制の成立は、公正の前進を意味した」と抽象的に記述するだけで、全国一律の法体系と平等な土地の分配制度成立の背景には、神話的血縁・地縁共同体から上層農民が自立し始めていたという社会の変化があったことを記述していないことを指摘した。
したがってこのような記述からは、政治的な制度の変化の背景には、必ず社会の大きな変化と社会的闘争があるという歴史の命題が捨て去られ、表面的な政治史・国家史の叙述に歴史が切り縮められてしまうのである。
さらにこの教科書の社会史の視点の軽視の態度は、律令制下の「公民」を「農民」と言い換えて何の疑問も抱かないところにもよく現れている。
網野善彦の研究以来、中世・近世において「百姓」と言われてきた人々は農民も含む、商業民や手工業民、そして漁民や海民などの多様な人々からなっていることが明らかとなっている。そしてこのことは古代において使われた「百姓」も同様であることが分かっている。そしてさらに律令制はこの多様な人々を、税の基準を田地と稲に置く事により、「公民=農民」という図式に等値して、その支配体制を維持した事も、さまざまな研究からあきらかになりつつある。
またこのような研究はさらに、「公民」に相対する「賎民」についても、単に差別された人々ではなく、その中には「神の奴婢」と言われ、その神性によって人々から怖れ遠ざけられた人々がいた可能性も指摘されている。それは例えば、萬葉集に読まれた「つるばみの衣の人」は、この「神の奴婢」である可能性があり、公民がこれになりたいと歌った意味は、これらの奴婢が様々な義務を持たない事をうらやんだだけではなく、神の奴婢として人々から怖れられかつ敬われていたその存在そのものへの憧れであった可能性もあるのである。
さらにこの「神の奴婢」の対極にいる『天皇』の権威も、それが神に近い存在で、神と人間とをつなぐ特殊な能力を持った存在として人々に認識されていたからこその権威があることも明らかになりつつある。
新しい歴史教科書は、近年進展している社会史の研究成果をほとんど無視している。そしてこのためにその記述はどうしても政治史・国家史に偏る事となり、その政治史や国家史が社会に深く根ざしている側面を充分には描けないのである。
この律令国家の出発の項目は、この教科書の長所と欠陥の両者を見事に示しているのである。 

注:05年8月の新版は、旧版の記述の中で私が「優れた点」「問題点」として指摘した部分を全て削除するか大幅に記述を削ってしまった。すなわち、新羅と日本とを比べて独自の年号・律令を持つか持たないかで優劣を決めたかのような記述は大幅に簡略化され、ただ一言「唐に朝貢していた新羅が、独自の律令ももたなかったのに対し、日本は、中国に学びながらも、独自の律令をつくる姿勢をつらぬいた。」と記述した。しかしこの記述の「朝鮮蔑視的」性格は変わらない。また日本の律令と中国の律令の違いを示し、日本は「天皇専制」ではなく「君民共治」という貴族と天皇の合議制であったという優れた記述は全面削除されている。従ってここで古代日本の政治制度の特色を深く学ぶ事は不可能になってしまった。さらに、公地公民制が持つ「公正さ」の前進という側面の説明も大幅に簡略化され、「律令国家のもとでは、公平な統治をめざして、公民の原則が打ち立てられた」という記述になり、旧版の時よりもさらに意味不明な記述となっている。これはあいかわらず社会経済史的視点が全く無い事とあいまって、この時代の特色をつかみにくくしている。新版の改定は、「角をとる」という方針の下で、他の教科書と違って踏み込み優れた記述がなされていた部分がかえって改悪され、その民族主義的な主張だけが残る結果となっている。
注:この項は、佐藤進一著「日本の中世国家」、古田武彦著「壬申大乱」などを参照した。 
 
平板な理解に止まった「律令政治の展開」

 

律令国家の出発の後半は「律令政治の展開」と題して、奈良時代政治史の概略を記述している。しかしその記述は、この教科書が日本史における「天皇」の存在を強調する割には極めて平板な、通説的理解に止まっており、この20年間の天皇制研究の成果を全く取り入れていないものであるとともに、「天皇家至上主義」をただイデオロギー的に吹聴しているだけであることを極めて見事に示している。 
(1)天皇制の歴史の中で特異な位置を占める聖武朝
奈良時代政治史は、日本の天皇制の歴史の中でも特異な位置を占めている。とりわけその中心人物である聖武天皇は、天皇としてはその行動は異常であり、不可解な人物として知られる。
その第一は「幼年の皇太子を立てた」こと。彼は后の藤原光明子との間に出来ただだ一人の男子である基王をわずが生後3ヶ月で立太子させた。これまでは次の天皇である皇太子は成年に達しなければならなかった。そして基王は半年後夭折した。
その第二は「男の天皇では初めて生前に譲位した」こと。これまでの天皇は一時的な中継ぎの天皇である女帝を除き、死ぬまで天皇を勤めるのが通例であった。だが彼は生前譲位し、上皇として初めて権力を振るった。
その第三は「娘を立太子させ、その娘を即位」させた。聖武のあとを継いだのは女帝の孝謙である。しかも彼女は女性としてはじめて皇太子となったあと天皇になった。普通女帝は、天皇の後継ぎがいないときの中継ぎとして、前天皇の皇后が即位する。しかし聖武天皇は皇太子として娘を立太子させ、そして彼女に天皇位を譲ったのである。この時、孝謙天皇の次の天皇候補は決まっていなかった。
その第四は、「在位中に反乱・謀反」が多いこと。彼の在位中には「天皇」位を狙い謀反を起こしたとして処断された長屋王や、反乱を起こしたとされる藤原広嗣など、高位の者が処断される場合が多い。
その第五は「仏教に帰依し、在位中に出家」した。仏教に篤く帰依した天皇・皇族は聖徳太子の例のように何人もいる。しかし聖武は在位中に出家して、自ら「仏弟子」を称し、巨大な大仏を作らせた。この仏教狂いは異常である。
そして聖武天皇の天皇としての異常さはそのまま娘の孝謙天皇に引き継がれ、天皇の仏教狂いは「道鏡の天皇擁立事件」として極まった。また孝謙女帝の在位中は謀反が多く、孝謙天皇はその謀反に関わったとされる周辺にいた天武系王族を根絶やしにせんばかりの異常な粛清を行い、そのはてに次の天皇を決めず、皇太子も決めないまま死去したのである。
この二代にわたる天皇の異常さを抜きにして奈良時代の歴史を見る事は出来ないのに、従来の教科書はこの件についてはまったく記述しなかった。しかし河内祥輔にはじまるこの20年間の天皇制研究は、この奈良時代政治史の謎を見事に解き明かし、天皇という存在の意味を見事に解明しつつあるのに、この教科書もまたこの研究成果をまったく無視しているのである。
では、その謎はどう解明されたのか。次に教科書の記述に沿って明らかにしておこう。 
(2)解き明かされた「聖武天皇」の異常さ
教科書は聖武天皇について次のように記述している。
聖武天皇の治世(724〜749年)になると、疫病や天災がたびたびおこり、土地を離れ逃亡する農民も増えた。朝廷は、開墾を奨励し、それまで国家の統治がおよばなかった未墾地も規制するために、743年、墾田永年私財法を出して、新しく開墾した土地を私有地にすることを認めた。この法律は、人々の開墾への意欲をかきたて、水田の拡大につながった。しかし、有力な貴族や寺院、地方豪族などが逃亡農民を使ってさかんに私有地を広げたので、班田収受法はしだいに厳格には行われなくなった。
聖武天皇は、仏教に頼って国家の安定を祈願し、全国に国分寺と国分尼寺を建て、東大寺の大仏をつくる詔を出した。
この表現は多くの教科書に共通した記述であるが、これでは聖武天皇は「自ら班田収受の法=律令制をこわすことをはじめ、国家の安定のために多大な私財と労力をかけて多くの寺をつくり、人々に多大な負担をかけた」天皇という理解になってしまう。教科書の著者としては人々のことを考えた慈悲深い帝王というイメージで書いているのだろうが、そう理解する事は現代の目では不可能であろう。
では真実は何であったのか。
河内祥輔の研究によれば、聖武天皇は生まれながらにして「天皇の資格に欠ける」天皇と貴族全般に認識され、天皇自身もそのコンプレックスを抱いていて、その克服に生涯をかけたということである。したがって彼のなした事はすべてこの「天皇としての資格」を確立するためになされたことと理解すると、極めて合点の行く事である。
天皇は「その両親ともに天皇の子」という血筋がその継承の資格と貴族たちに認識されていた。聖武天皇の母は藤原氏の出であり、彼は天皇の資格を満たさなかったが、天武―(草壁)―文武と続いた王統の唯一の継承者だったので諸貴族もしかたなく彼の王位継承を承認した。したがって彼は「天皇の資格」を満たした子どもをもうけること至上命令であったのだが、彼の前には3代にわたる女帝が続き、彼の父文武には子どもは彼しかいなかったので異母姉妹もおらず、彼には妻とすべき適当な年齢の皇女がいなかったのである。
そこで彼が考えた策は、新しい「天皇の資格」を作りだすことだった。そしてそれは「藤原氏の出の后を母とする」というものであり、藤原光明子との間のただ一人の男子である「基王」を後継者とし、この息子の成人とともに位を譲り、自分は上皇として権力を振るい、自分の子孫に王位を伝えようという目論見であった。しかし728年、基王は1歳にならずに死去し、彼の構想は挫折した。ここに「天皇の資格」を持った後継者がいないという事態が生まれ、奈良時代政治史は此れ以後、桓武朝の成立まで30年以上にわたって不安定になった。
この事実を背景に聖武天皇の行動と彼の在位中の出来事を考察すると、謎は一気に解けて行くのである。 
(3)聖武の野望の展開と挫折―奈良時代政治史の基調―
ではそれはどう理解されるのか。先に挙げた5つの不可解なことを一つ一つ検証してみよう。
第1の「幼年の皇太子をたてた」ことは、新しい条件のもとで自分の直系の子孫に皇位をつがそうという動きを貴族たちに承認させるためである。しかしこれは皇太子の死によって挫折した。
第2の「生前譲位」であるが、これはこれ以前の744年に聖武天皇の残されたただ一人の男子である安積親王(彼は母の身分が低いので王位継承は困難ではあったが)が死去し、聖武天皇の直系の子孫に皇統を継がせる事が不可能になったことと関係がある。この事態に直面した聖武天皇は娘の井上内親王を伊勢の斎宮から呼び戻し、天智の子孫なので皇族の片隅にいた白壁王(後の光仁天皇)に嫁がせ、二人の間に生まれた男子を次の後継者にしようと考えた。だがすぐには男子が生まれなかったので聖武天皇は次代の後継者を恵まれることを仏に祈って、自らを仏弟子とし、諸国に寺をつくったり、大仏を建立したのである。普通大仏の建立とは「国家の安定」のためと解釈されているが、この時代の天皇にとっては「国家=天皇」であり、『国家の安定=皇位の安定』であったのである。したがって彼が次々と都を移すという「狂気」の沙汰にでたのも後継者がいないという不安から出たのであり、大仏建立の詔の直前に出されたあの有名な墾田永年私財法も、大仏建立に私財を寄付することを促した流れの中において捉え、私財寄付・聖武皇統の承認と引き換えに「土地の私有を認めた」と理解できるのである。また同じく彼が仏教に異常に深く帰依したという第5の謎も、これで理解できる。
しかし一向に次の後継者が生まれない中で失意に陥った聖武天皇は、失意から皇位を離れるという意味で生前譲位し、さらに後継者が生まれるまでの中継ぎとして娘を女帝として即位(孝謙天皇)させたのである(第三の謎の意味はこれである)。
第4の謎である「反乱・謀反」の多さは、「天皇の資格にかける」聖武天皇が、「天皇の資格」を持った後継者がいないという状況をもとに考えれば理解できる。当然皇族や貴族たちは次の天皇を考え始めたであろう。聖武天皇以外にも天武系の有力な王族は何人もいたのだから。そして聖武天皇の側は逆に、この有力な皇族を排除することを考えたであろう。有名な長屋王の変は、あの基王が死去した次の年である。
聖武天皇のおばである吉備内親王を后とし、自身も天武天皇の第一皇子の高市皇子を父に持つ長屋王は親王の位をもち、二人の間には男子が3人もいた。長屋王は聖武王朝をおびやかす最右翼として「謀反」の嫌疑をかけられ抹殺されたのである。そして此れ以外の「謀反」事件はすべて、孝謙天皇在位中のものも含めて全て、聖武系以外の天武系の皇族を根絶やしにする所業だったのである。
この聖武天皇のなりふりかまわない行動にもかかわらず、ついに彼の生前には後継ぎは生まれず、彼の構想は実現しなかった。しかし娘の孝謙天皇はその構想をあきらめず、父の理想を継承してさらなる皇族の殺戮を行っていくのである。 
(4)なぜ天皇制研究の成果をとりいれないのか?
古代史を天皇家の王位継承を焦点として記述してみると、古代史の謎が次々と明らかになる。そしてこのことを通じて雲の上の存在であった天皇が一人の肉体と欲望を持った生身の人間として生き生きと動き出す事が理解されただろうか。近年の天皇制研究は天皇を一個の政治的意思を持った人間として捉え、彼の行動を自己の直系王統を作ろうという意思に基づいたものと考える事で、古代政治史を今までよりも生き生きと描く事に成功したのである。
しかしこの研究成果は、いまだに教科書において採用されたためしはない。これはこの新しい歴史教科書だけではなく、すべての教科書で言えることである。なぜであろうか。
事態は簡単である。戦後の教科書の執筆者を担った人々は左翼的な人々か民主主義派保守とも言うべき人々であった。この人々にとっては天皇制の問題はタブーであったのである。一つはあの暗い侵略戦争の思いでゆえに、そして天皇の戦争責任をあいまいにして戦後日本を出発させた事によって。したがって憲法の冒頭に規定された「日本国民の統合の象徴」という意味も深く追求されなかったし、天皇の歴史上で果たしてきた役割についても研究されてこなかった。そしてこの傾向は今も続いているのである。
では、天皇中心の歴史を描こうとしている「新しい歴史教科書を作る会」の人々はどうであろうか。
これらの人々にとっても天皇は1つのタブーなのである。「神聖不可侵」の存在であり、絶対的な権威を持つ天皇を研究するなど、彼らにとっておこがましいことなのである。彼らにとっては天皇は常に国と国民のことを考えている慈悲深い君主であらねばならない。そしてこのことはとりわけ昭和天皇についてその人間性についてまで教科書で記述する彼らの姿勢に良くあらわれている。
したがって彼らにとって、天皇は「自分の皇統が続くこと」を第一義として行動し、「それを妨げるものを暴力的に排除する」ものであるなどという研究成果を認めることなど持っての他なのである。それでは天皇の行動の意味が白日のもとに晒されてしまい、彼がよくいう「国家」とは天皇自身のことであり、「国家の安泰」とは「天皇自身の安泰とその皇統の安泰」を意味するなどということが明らかにされてしまうと、天皇の持つ「神性」が汚されてしまう。例えばこの原理をもとに昭和天皇が大戦において取った行動を分析し、終戦の詔勅なども詳細に分析すれば、彼が国民の行く末などは全く案じてはおらず、「皇統を伝える」ことしか考えていなかったことが明らかになり、「国民とともに歩む天皇裕仁」という虚像が崩壊するのである。だからこの教科書は天皇制研究の成果を完全に無視するのである。 
(5)大義名分としての天皇制・従わぬものはすべて「平定」の対象
この「新しい歴史教科書」が「日本は古来から天皇の統治下にあった」という命題を証明などせずに大義名分として掲げている事は、日本の歴史を正確には描けない原因となっている。その1つの例がこの「律令政治の展開」の項に出ている。
教科書は奈良時代を次のように描いている。
東北地方には蝦夷とよばれる人々、九州南部には熊襲または隼人と呼ばれる人々がいて、古くから大和朝廷に服従しなかった。しかし、律令国家が順調に進展するにつれ、北も南もしだいに平定が進み、琉球諸島の最南端の信覚(石垣島)や球美(久米島)の人々も、早くも8世紀初頭に平城京を訪れ、朝貢した。
この記述のしかただと南は朝貢してきたのはわかるが「北は?」と言いたくなるが、その問題は後にして、この記述の一番の問題点をまず指摘しておこう。それはここで使用されている「平定」という言葉である。
平定という言葉は「従わないものを従わせる」と言う意味に辞書などでは解説しているが、これは本来「大義名分論」に立つ政治的用語である。
つまり、「従わないものを従わせる」ということは「本来従わなければいけないものが従わないので、実力を持って従わせる」という意味で、平定する主体に対して従うのが当然であるのに従わないから武力で屈服させるという意味なのである。言いかえれば日本列島やその周辺地域を統治する権限は大和朝廷に本来的にあるのに、蝦夷や熊襲や隼人やそれ以南の島々がしたがっていないから武力で征服したのは正当な行為であると言う意味になる。
この言い方がすごく放漫なものであることは「平定」されるものの立場でものを考えてみればすぐわかる。蝦夷や隼人は自分の国を持ち(大和よりまだ制度が整っていなかったかもしれないが)そのもとで暮らしていた。そこへ隣国である「大和」が勝手に蝦夷や隼人の土地や民に対する統治権を標榜して押し寄せ、抵抗するものを武力で征服した。そして以後、大和の権力に反抗するものは「反乱」と見なされ武力討伐=平定の対象となる。これがいかに大和中心の歴史観であるか、そして天皇中心の歴史観であるか。明らかであろう。
事実はこうである。8世紀になっても蝦夷は大和の支配には屈していなかった。かなり以前から繰り返し九州の倭王朝の侵略を受け、その圧倒的な武力の前に屈服していた蝦夷の人々は670年の倭王朝の滅亡と天智朝のもとの日本への転換を一応平和裏に受け入れてはいた(日本書紀の天智以前の蝦夷の記事は全て九州の倭王朝の出来事を挿入しただけである。大和の正史である古事記には蝦夷は倭建との交渉以外にはでてこない)。
しかし天武朝以後の日本は関東甲信越の民を次々と陸奥や出羽という蝦夷の国に武装植民させ、あちこちに「柵」と呼ばれる軍事拠点を置きながら蝦夷の地域を侵食していた。それに対して蝦夷の人々は、大和において「天皇の資格をもたない」聖武天皇が即位するや、公然と武力蜂起し、以後大和との間は戦闘状態になっていったのである(これは桓武天皇が即位し、その皇統が安定し、大和が全力をあげて蝦夷を「討伐」するまで続く)。
しかるにこの新しい歴史教科書はこの事実を隠し、日本列島南端の島々の民が使節を平城京に送った事実だけを取り上げて「南北ともに従わぬものを平定した」かのような印象を読者に与えようとしているのである。ここでも歴史は捏造されている。(さらに付言すれば、熊襲は九州南部ではなく九州北部の倭王権を指すことばであり、南九州の隼人はかなり以前に倭王権によって武力征服されていたことは、倭王権の歴史書から盗まれて日本書紀の景行天皇の段に挿入された九州征伐の条に詳しく描かれている。) 
(5)7世紀始めには、すでに日本全国で貨幣が流通していた
最後に、奈良時代という時代を理解する上で大事な問題を提示しておこう。それは貨幣流通の問題である。
教科書は次のように記述している。
諸国から金銀銅が献上され、唐にならって和同開珎という貨幣が発行された。     
これだけの記述であるが、この書き方は今までの教科書の記述とは違っている。従来はこの和同開珎の記述には「日本最初の貨幣」という言葉がついていたのだが、この教科書はこの一言を削っている。
これは最近奈良の飛鳥池の遺跡から貨幣鋳造工房が出現し、そこから「富本銭」という和同開珎より古い貨幣が大量に、その鋳型とともに出土したという事実を反映している。そしてこの「富本銭」は、天武天皇の12年(683年)の「銅銭を用い銀銭を禁ずる」という布告の「銅銭」にあたるとされ、この「富本銭」こそ日本最古の貨幣とされる見解が学会で有力となったからである。
だが問題はここで止まらないのである。この天武の布告をよく読めば、銅銭は銀銭にかわって流通すべき事が布告されたのであり、これ以前に銀銭が流通していた事実が浮かび上がってくるからである。しかし古代史学会のここで立ち止まっている。多くの学者は「富本銭」をもって日本最古の貨幣というに止まっているのである。
なぜか。それは日本書紀には天武以前には貨幣を発行したという記事がないから、この布告にある「銀銭」が意味不明となるからである。
しかしその銀銭は存在した。しかもそれは全て銀1両の4分の1の重さを持ち、円形で中央に穴があいた貨幣で、どう考えても統一権力が鋳造し流通させたものとしか考えられない貨幣である。名づけて「無文銀銭」。
そしてこの銀銭が「富本銭」や和同開珎に先だって全国的に流通していたとすると、「富本銭」がすぐに忘れ去られ発行されなくなった事実や、和同開珎が当初は銀銭として鋳造され、これが先行する銀銭と等価値で流通されようとして失敗した事、さらにこの和同開珎銀銭の10分の1の価値を持って和同開珎銅銭があとから発行されて流通させようとして失敗した事実が、極めて良く理解できるのである。
無文銀銭は銀1両の4分の1の重さがあり、銀地金としても銀1両の4分の1の価値がある。しかし和同開珎銀銭は銀の重さは無文銀銭の重さの3分の2しかない。つまり奈良の朝廷は3分の2の価値しかない新しい貨幣を今までの貨幣と等価値として流通するよう強制しようとしたのである。そしてその実績の上に、和同開珎銀銭の10分の1の価値しかない銅銭を流通させようとしたわけだが、これはどう考えても江戸時代に幕府が粗悪な貨幣を大量につくって流通させ、その金の差額の分だけもうけようとした政策とおなじである。
だから人々は和同開珎を使わなかった。このため朝廷は、本来貨幣政策としてはやってはならない方策である蓄銭を奨励し、たくさんの和同開珎を蓄えた者には官位を与えるという無茶な方法をつかったり、官吏の給料は和同開珎で支払うという強攻策をとったりしたのである。
しかし結局和同開珎銅銭はそのままでは流通せず、銀銭との交換比率を当初の1:10ではなく、1:20ないし1:30の比率に下げて、つまり貨幣としての価値を実態に合わす事と、一度は禁止した銀銭の使用を許すことにより、ようやくにして和同開珎を流通させることができたのである。
つまり和同開珎よりもその前に銀銭が流通していたということを事実として仮定してみると、従来疑問であった和同開珎発行流通をめぐる謎の多くが氷解するのであり、先行する銀銭である無文銀銭は奈良の朝廷の威光をもってしても、駆逐できないほど全国的に流通した貨幣であったのである。
この事実を著書の「富本銭と謎の銀銭ー貨幣誕生の真相ー」で指摘した今村啓爾氏は、「無文銀銭はその統一された形や重さ、そして奈良の朝廷の威光をもってしても駆逐できない貨幣としての流通力からして、統一権力によって発行された貨幣としか考えられない」と述べている。そしてその統一権力が誰なのかが不明としているのである。
しかしこれまで、日本国の成立過程を、古田武彦氏の所説に従って記述してきた本稿をお読みのかたには、その統一権力が何であるかおわかりであろう。
無文銀銭を鋳造し全国に流通せしめた統一権力は、九州は太宰府に都する倭国である。日本書紀に記述されない貨幣とは、倭国の貨幣以外にありえないのである。つまり白村江の敗戦で倭国が亡びたあとを受けて王朝を創設した天智とそのあとをついだ天武。その天武以後の奈良の王朝がたびたびの禁令によっても駆逐できなかった無文銀銭は、あの倭国の貨幣であったのである。
そしてこのことは社会史上で重大な問題提起を意味する。つまり7世紀末の「富本銭」の発行や8世紀初の和同開珎の発行以前の日本列島において、貨幣が発行され、それが全国的に流通していたという事実であり、日本における貨幣経済の定着は従来考えられていた平安時代末ではなく、おそくとも7世紀の初頭にまで遡るということである。
さらにこのことは、日本における前資本主義の発展の時期をめぐる論争にも大きな影響を与え、現物納付を基本とする律令体制が早くも平安時代初期、9世紀には変質を遂げてしまう社会的背景をも説明することになるであろう。
この教科書は、政治史に記述が偏り、社会史的観点が弱い事を先に指摘した。貨幣の発行とその流通の様は、律令制が施行された当時の日本の経済・社会の状態を示す好例である。しかしこの教科書は、せっかくこの面に論及できる素材を持っていながら、それを生かしきれていない。和同開珎と「富本銭」、そして無文銀銭をめぐる問題は、この教科書の弱点を良く示している。 

注:05年8月の新版の記述は、旧版とほとんど変わらない。大きな変化は、旧版では後の「飛鳥天平の文化」の項に入っていた歴史書の編纂の記述が、この「律令政治の展開」の項に挿入されたことである。だがその記述は旧版と同じく、古事記と日本書紀とも違いを無視しており、公式の歴史書が持っている政治性を無視したものである(この点詳しくは、19を参照のこと)。また一部削除・訂正が施されたのは、大和朝廷に従わない辺境についての記述である。新版では、「九州には大宰府を置き、九州のとりまとめや、外交の窓口、さらに沿岸防備の役目をあたえた。東北地方には多賀城と秋田城を築き、蝦夷に備えた」という記述に代えられた。九州南部にまだ服属しない人々がいることは全面的に削除され、東北の蝦夷は「備える」という間接的な表現になっている。さらに大宰府や多賀城・秋田城の記述は旧版にはまったくないもので、九州や東北が統治下にあったことを示す事実としてあげられたのであり、新版には大宰府の復元模型の写真すら挿入されている。この記述だと日本列島のほとんどが「大和朝廷」の支配化に入ったかのような印象を受け、事実とは相違する記述となっている。なお大宰府がこの時期に置かれたものではなく(日本書紀にはその設置記事すらない)、九州の倭国の都であった事は、古田武彦の著作に詳しい。
注:この項は、河内祥輔著「古代政治史における天皇制の論理」、古田武彦著「真実の東北王朝」、菊池勇夫著「アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地」、今村啓爾著「富本銭と謎の銀銭―貨幣誕生の真相」などを参照した。 
 
「宝の持ち腐れ」に終わった「日本神話」の復活

 

日本国家の確立・日本語の確立に続いて、「日本の神話」と題して、古事記に伝えられた日本神話の概略を、この教科書はくわしく述べる。ここにこの教科書の特徴の1つがあり、『神話を事実のようにあつかう』と批判されている部分である。
神話を歴史を学ぶ上での重要な資料の一つとして位置付けることには、何の問題もない。むしろ戦後の歴史学が「神話は造作」と言いきって、神話を歴史を明らかにする材料として批判的に検討するのではなく、『まったくの嘘」と称してゴミ箱に投げ入れてしまったことこそ、おおいなる間違いなのである。
この教科書は神話を次のように位置付けている。
世界の民族には、さまざまな神話や伝説があり、古代の人々の考え方や暮らしぶりを知る上での重要な文化遺産となっている。
日本の神話は、『古事記』『日本書紀』『風土記』や、いくつかの民話に残されている。その内容は、天地のはじめ、神々の出現、国土のおこり、生と死のこと、光りと闇、恋愛と闘争、建国の由来などの物語であるが、ここでは『古事記』のあらすじを紹介する。 
(1)政治宣言としての神話
たしかに神話は『古代の人々の考え方や暮らしぶりを知る上での重要な文化遺産』である。しかしこの捉え方には根本的な欠陥がある。それは、今残っている神話は「神話として編纂される」過程で、何度も政治的に改変を被っているという事実を、この教科書の著者たちが完全に無視している事である。
たとえば「古事記」や「日本書紀」や「風土記」は、その編纂を命じた政治権力が、自己の権力の正統性を明らかにするために作られた書物である。したがってそれは、さまざまな資料をそのまま組みたてたのではなく、彼らの権力の正統性を証明できるように改作の手を加えているのである。このことは例えば古事記の編纂を命じた天武天皇が、『諸家に伝わる記録の誤りを正す』という目的を掲げて、それを編纂させたという事実が、そのあたりの事情を暗示している。
古代は現代と違って、神と人とはもっと密接に繋がっていた。したがって権力は自己の正統性を、人々が信仰する神とのつながりの中で証明してこそ、その正統性を認められたと感じたのである。だから諸事実だけではなく、神話もまたその権力に都合の良いように改作されているのである。
神話は言いかえれば、権力による「自己の政治的正統性」を宣言する、「政治宣言としての神話」であったのである。
そしてこのこととともに忘れてはならないのは、この政治的改作は、文字が存在しない時代においても権力があるかぎり行われているということである。だから日本神話を扱うときにも、その神話がどの権力の正統性を明らかにすることを目的にしているのかと言うことを慎重に判断していくことが必要なのである。
だが残念ながら新しい歴史教科書を作る会の人々は、この作業を全くやっていない。だから「神話を事実のようにあつかっている」と非難されて当然なのである。 
(2)歴史的事実の「神的」表現としての神話
しかしこのことは、「神話は事実ではない」ということ意味していない。神話は「神」という存在に仮託して述べられた歴史的事実なのである。
日本では神話を歴史と結びつけて研究することがほとんど行われなかったが、19世紀の終わりにヨーロッパでは、一人の天才によって、神話が事実に基づいていることが明らかになっている。有名な「トロイ」の遺跡の発見がそれである。
「イリアス」と「オデッセイア」という英雄叙事詩に描かれた古代ギリシアの「トロイ戦役」。英雄叙事詩という神話の形式ゆえに、そこには多くの神々が登場し、人間世界の出来事にさまざまに口出し手出しをする。それゆえ西洋の歴史学者は、「トロイ」などという都市の存在もトロイ戦役の存在も信じてはいなかった。しかしシュリーマンという一素人の考古学者は、この叙事詩の記述を信じ、そこに描かれた地理的描写をもとにして、古代都市トロイを、そしてギリシャ側の将軍のアガメムノンの宮殿都市ミケナイを発見したのである。
そして彼以後の考古学者は、ギリシャ神話にあらわれる諸都市を次々と発見していったのである。
日本では21世紀になった現在でも、神話をもとにした古代研究は、古田武彦の研究を除き、全く行われていない。したがって神話と歴史はまったく切り離されているのであり、このことが「神話は嘘」という考えに基づく歴史叙述からの神話の追放と、神話を無批判に許容するこの教科書のような両極端な態度を生み出しているのである。 
(3)今に伝承される神話
さらにもう1つわすれてはならないことは、神話は文字資料として伝承されているのではないということである。今でも日本各地には多くの神社と祭礼が伝えられている。そしてこの神社と祭礼に関わり、多くの伝承が伝えられている。そして、これらの伝承の中には、書物として残された神話よりも、より古い時代の神話の形を残している事も多いのである。
たとえば、11月のことを「神無月」と呼ぶことは多くの人が知っていることであろう。そしてこれは「神様が皆出雲の国に行ってしまうので、各地には神様がいない」ので「神無月」という、ということもよく知られたことである。
ではこの伝承の意味は何か。ちょっと考えてみればいろいろな疑問が出てくる。「なぜ神々は出雲に集まるのか?」。「出雲の神様はほかの所にはいかないのか?」。など。そしてこのことは直ちに『出雲の神様が一番偉いので、日本中の神様が1年に1度出雲に集まるのではないか』という疑問に行き当たる。しかしこれは、「古事記」や「日本書紀」に書かれた「天照大神」が一番偉いという神話に反するため、ほとんど検討されてこなかった。
だがこれは歴史的事実である。近年、出雲大社の本殿が奈良の大仏殿よりも高いものであったという伝承が発掘の結果明らかにされたように、そして弥生時代初期において出雲がもっとも多くの「銅矛」を所蔵していたことが発掘されてわかったことなどに、この神話は対応しているのである。さらに後述するように、この神話は、古事記や日本書紀に書かれた神話を虚心坦懐に読めば、それとは全く矛盾しないことをわかる。
神話と言ったとき、それは文字で書かれたものだけではなく、今に伝えられている伝承(言葉や踊りやその他のもので表現された)にも、原初の神話が伝えられていることも忘れてはならない。
では、古事記や日本書紀に書かれた神話がどのような歴史的事実を語っているのか。古田武彦の研究をもとにして、教科書の記述に添いながらいくつか指摘しておこう。
教科書はまず、天地のはじまりを以下のように記述する。
混沌の中から天と地が分かれ、天は高天原と呼ばれて多くの神々があらわれ、そこに住まいはじめた。イザナギの命とイザナミの命という男女の神が、天地にかかったはしごに立って、天の沼矛を潮におろして、「こおろ、こおろ」とかき回し、引き上げると、その矛先からしたたり落ちた潮水が積もり、「おのごろ島」ができた。
そこに降りたイザナギの命とイザナミの命の二神が性の交わりをして生まれた子供が淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐島、対馬、佐渡の島、本州だった。「大八島国」とよび、これが日本の誕生である。 
(4)「高天原」は天ではない
教科書は「高天原」を天と記述している。だが高天原は天ではなく天原(あまばる)という1つの場所であり、現在の壱岐に「天の原遺跡」と呼ばれる古代遺跡があるが、そこを指した言葉である。そしてこのことは上の神話でイザナギ・イザナミの神が生み出した国土を詳細に調べてみればわかることである。
二人が生み出した島の名を正確に記せば、下のようになる。
1 淡道之穂之狭別島   今の淡路島   
2 伊予之二名島   四国のことではなく、伊予の国の「二名」という島 
3 隠岐之三子島(天之忍許呂別)   今の隠岐の島
4 筑紫之島   今の九州の筑紫の国のこと
5 伊岐島(天之比登都柱)   今の壱岐の島
6 津島(天之狭手依比売)   今の対馬の島
7 佐度島   今の佐渡の島
8 大倭豊秋津島   今の豊後の国の「秋津」という島
この8つの地域を良く見ると、そのうちの3つの島に「天」という言葉がついている。つまりここが「天国(あまぐに)」であり、この地域に住んでいた人々が、イザナギ・イザナミの神が生み出した国々を支配する権利があると主張しているのがこの神話である。つまりこれは「国生み神話」と呼ばれているように自己の支配領域を宣言したものなのである。そしてその中心となった地域が「天国(あまぐに)」であり、その中心の都が高天原なのである。(なおイザナギ・イザナミの神が国生みをした「おのごろ島」は、「お」という美称の接頭語と「ろ」という接尾語を除いてみれば「のこ島」であり、博多湾に浮かぶ「能古島」と考えられ、この島が「天国(あまぐに)」の神話誕生の聖地なのであろう) 
(5)男社会で改作されたイザナギ・イザナミの神話
この教科書は紹介していないが、イザナギ・イザナミの神が最初に生んだのは上の国々ではない。「水蛭子(ひるこ)」である。おのごろ島に立てた『天の御柱』のまわりを二人でまわってであったとき、女神であるイザナミが最初に「いい男だなあ」と声をかけて結婚して生んだとされている。そしてここで生まれたものは良くないので「葦の舟」に乗せて流し、どうしてうまく行かないのかを神々に尋ねたところ「先に女が声をかけたからだ」といわれたので、もう1度『天の御柱』のまわりを二人でまわって出会ったところで、今度は男神であるイザナギが先に「いい女だなあ」と声をかけて結婚したところ、今度はうまく行って、次々に国々を生み、そして次々と神々を生むことができたと古事記には書かれている。
「女が先に声をかけてはいけない」という論理は」「男社会」の論理であり、この神話は人間の社会が「男中心」の社会になってから1度改変を』受けていることがわかる。 
(6)最初に生んだのは男女二神の太陽の神
では最初に生まれた「水蛭子」とは何か。これは同じ神話を記している「日本書紀」の「一書群」の中に語られている、天照大神の別名である、「大日霊女貴(おおひるめのむち)」の言葉を参考にしてみよう。「大日霊女貴(おおひるめのむち)」から前後の美称や接尾語を除くと、その根幹になることばは「ひるめ」。これは「ひるこ」という言葉の対語にあたり、「ひるこ」「ひるめ」は男女二神の太陽神ということになるのである。
おそらくこれが原初の形の神話だったのであろう。
ではなぜこの改作がなされたのか。それは天照大神とスサノオの命とが姉弟であるという神話をつくるためなのである。
天照大神やスサノオの命はイザナギ・イザナミの神以上に人間的に描かれている。なにしろ妻や子や孫までいるのだから(天照大神には夫がいたとは書かれていない。この点で「神」的なのだが、娘や息子や孫がいたのだから夫もいたと考えるのが当然である)、これは神の形を借りた人間の物語と考えた方がわかりやすい。では二人はどのような関係に描かれているのか。
この二人は姉弟という関係に描かれているが、通常の姉弟ではない。二人の父神であるイザナギの命が妻のイザナミの死後、黄泉の国を訪ねたあとで身を清めていたとき、天照は右目からスサノオは鼻から生まれたということになっており、彼らはイザナギから天照は高天原にいてその世界を、そしてスサノオは海原を治めよと命じられたが、スサノオはそれを拒否して母イザナギのいる根の堅州国へ行きたいといって、天国から追放されたということになっている。そしてスサノオが行った所は出雲なのだ。
これはどう見ても、本来別の地域の神であった天照とスサノオをくっつけ、そのスサノオを天国より追放されたということで、彼を天照より下位に位置付けることが目的であったように思われる。(これはイザナギ・イザナミでも言える。イザナギは天国を代表する神だが、イザナミはその死後祭られたところが、出雲と伯耆の国境の比婆山ということなので、もともと出雲の神と思われる。そしてイザナミがいる根の堅州国は出雲のどこかだと思われるが、それを黄泉の国と同じものとすることで、根の堅州国を、ひいては出雲の国を天国より下位に位置付けることが意図されているように思われる。)
それはなぜか。次に展開される「天孫降臨」を準備するためである。 
(7)大国主は天照より上位の神であった=天孫降臨の真実
教科書の記述を見よう。
さて、天上の高天原には天照大神が、地下の根の堅州国にはスサノオの命がいる。地上の葦原の中つ国は大国主神が治めていたが、天照大神は、そこは本来、自分の子が治めるべき国であると、タケミカヅチの神を使いに送った。この神、海辺に十握の剣をさかさまにつきたて、その剣先にあぐらをかいて大国主神に「国土をゆずられるか」と交渉したのである。大国主神は「わが子に聞かねば」とこたえ、その子が承諾したので、ここに国ゆずりの実現となった。 天照大神は孫のニニギの命を天上から下した。(中略)日向の高千穂の峰に降り立った。これを天孫降臨という。
天上=高天原、地下=根の堅州国、地上=葦原中国という図式が、この神話を作ったものか、古事記の編者かはわからないが、意図的に作為したものであることは明らかであろう。根の堅州国は、葦原中国の一部分であろう。スサノオは自分の娘を大国主神の后とし、彼に大国主神という名前をつけたのであるから、本来上位にいたスサノオが大国主に国の支配権を譲ったと見るべきである。そして高天原を中心とした天国(あまくに)は壱岐・対馬を中心とした対馬海流圏の島々であり、葦原中国は西は筑紫・東は越の国までの日本海岸の地域を指している。そしてニニギが降り立った高千穂の峰とは、ただしく書くと「筑紫の日向の高千穂のクジフルダケ」である。筑紫の国、今の福岡県の中央部、福岡平野とその西の糸島半島の真中に日向川が流れ、その水源の山々に日向峠とクシフルタケがある高祖連峰がある。そしてこの山の東と西に広がる平野には、多くの縄文水田に囲まれた遺跡があり、その村村は異常なほど堅固な掘りと冊で囲まれている。
天孫降臨とは海洋民の国の天国を支配する天照が、水田耕作地帯の葦原中国を支配する大国主に対して国の支配権を譲れと強要し、その結果天国から自身の孫を将とした軍隊を送って、すでに水田稲作が盛んに行われていたそこを(正確には筑紫を)占領したという事件である。
この神話は、剣や矛が現れていることから、金属の武器が使われるようになった弥生時代の始めの時期を表しているであろう。弥生時代のはじめの筑紫の遺跡の状況とこの神話は良く対応しているのであり、したがって事実と考えられる。
そしてこの神話をよく読むと、大国主の方が天照より上位に立っていることがわかる。もちろんこの神話は、本来天照が国を治めるべきものだという大義名分論に立っているので、天照の御託宣を伝えるという形で話しを進めている。そしてその根拠は葦原中国の支配権を大国主に譲ったスサノオは、本来は天国(あまくに)のものであり、天照の弟で、罪をおかして根の堅州国に追放されたものだからということになっている。
だがこれが本当なら、いちいち軍隊で占領することは必要ないはずである。
古事記には、タケミカヅチが大国主の子の言代主に国譲りを持ちかけたとき、それを承諾した言代主は乗っていた船を傾けて転覆させ、海に沈んで自殺したような記述がある。そしてさらに大国主の子の建御名方神と戦ってそれを諏訪まで追い詰め、それを殺そうとしたという記述がある。国譲りはけして平和になされたのではない。
そして天孫降臨もまた同様である。古事記ではニニギを迎え案内した神ということになっている猿田彦の神は、地元筑紫の神社の神楽では、天孫降臨を拒絶した神ということになっている。そう。筑紫の稲の神はニニギの侵略を拒否したのだ。だからこそ古事記ではその猿田彦をアメノウズメが媚態をつくって篭絡するという記述が残っているのである。
出雲の神が諸神の上位に立つ主神であったという神無月の伝承。そして壱岐の島の「アマテル」神社に伝わる「神無月の時、うちの神さまの天照大神は一番最後にでかけて一番最初に帰ってくる」という、天照が出雲の神の家来の中で一番偉い神だったという伝承。これらの伝承も、考古学的な事実と結びつけた国譲り・天孫降臨の神話の新しい様相と比べてみるとき、本来の神話の姿を色濃く残している事が明らかになろう。
神話は、弥生時代においても、それを必要とした権力によって改作されたのである。
神話を歴史的事実と関連させて考えたり、今でも地元に伝承されている説話とつなげて解釈すれば、天孫降臨の神話も以上のような豊かな様相を見せ始める。しかし新しい歴史教科書を作る会の著者たちは、神話を金科玉条として神聖不可侵の存在にしてしまったために、神話の持つ真実の歴史に繋がる豊かな姿を、ついに発見することなく終わっているのである。
(神武が天皇ではなく、九州の倭国の分国の長としての名乗りをあげていることはすでに述べたとうりである) 

注:05年8月の新版では、文章表現を多少改め記述を簡略化しただけで、神話についての記述はほとんどそのままである。削除されたのは、イザナギ・イザナミの国生み神話の中での「おのごろ島」の話。文章表現が改められたのは、スサノオの高天原での乱暴の実態表現と天岩戸説話でのアメノウズメの踊る様が、「糞をする」「馬の皮をはいで落す」「乳房をかき出し」「腰の衣のひもを陰部までおしさげ」という教科書としては「刺激的」とされた表現を削除したところである。
注:この項は、古田武彦著「盗まれた神話」などを参照した。 
 
日本文化の国際的背景を示す 「日本語の確立」

 

奈良時代政治史までを記述したあと、この教科書は文化史の記述に入る。その最初が「日本語の確立」である。
この部分の記述は他の教科書に比べてとても詳しく、他の教科書が2〜3行であつかっているところを、この教科書は2ページを使って説明している。日本という国・民族・文化の歴史とその独自性を強調してきたこの教科書の意図からは当然の帰結であり、此れ自身には何の問題もない。
いやむしろ、日本語の成立を詳しく記述することは、日本人の成立や日本という国の成立と言う問題と同様に、とても大事な事である。そしてこの大事な問題を看過してきた今までの教科書のほうが問題なのである。
しかし、この教科書の記述は文字表記に偏っている。そこで書かれている事は仮名文字がどのようにして成立したかということと、訓読みという方法で、漢文で書かれた文字資料を日本人の教養に組み込む事に成功したということだけである。これでは「日本語の確立」という表題に反し、「日本語標記の確立」とした方が正しい。 
(1)万葉仮名成立に寄与した渡来人の役割の無視
教科書は最初に、万葉仮名の成立について詳しく述べている。 
文字のない社会であった日本が漢字に触れてから自分たちの言語にこれを利用するまでには、4〜5世紀にわたる長いためらいと熟慮と工夫の時間が必要であった。
7世紀の末の藤原京の木簡に、イカやスズキを「伊加」「須々支」と記した音仮名の例がある。貢物として朝廷にささげる物産の名として書かれた文字である。日本語が、中国の文字を音に利用した一つの例といっていい。(中略:「古事記」「万葉集」が、万葉仮名という音仮名で書かれている事を実例をあげて説明)
これらの例は、日本語と中国語がまったく別の言語であることをはっきり示している。古代の日本人は、日本語をあらわすさい、中国語からは音に応じた文字だけを借りた。やがて平安時代になると、万葉仮名のくずし字が発展して、そこから平仮名が誕生した。こうして、日本人は漢字の音を借りて日本語を標記する方法を確立した。
とても詳しい説明である。
1 仮名を用いる事は日本独自のことではない
しかしこの記述は大事な事を見落としている。
仮名はすべて、漢字の音を使用して、本来表意文字である漢字を表音文字的につかったことから始まっている。そしてこれは漢字を発明した中国自身ですでに使用されていたことで「仮借」とよばれている技法である。
そして日本人は中国人が使っていた「漢字を表音文字として使う」技法を応用し、中国語とは全く違った言語である日本語をそのまま表記する方法としての仮名を発明したわけである。だがこの仮名は、日本独自で発生したものではない可能性が強い。
古代朝鮮の文字資料の残存状況が悪く、まだまだ研究が進んでいないのだが、古代朝鮮においても、漢字を表音文字として使用し、人名や地名の朝鮮語をそのまま表記した例が多々見られる。たとえば有名な高句麗好太王の碑文などがそれである。したがって漢字を表音文字として自国の言語を表現することは朝鮮でも行われていたのである。そしてこれは、モンゴルやチベットやウイグルという、漢民族の周辺にいて漢字文化圏に属する国々ではどこでも行われていたことなのである。
これは当然のことである。圧倒的な中国文明の影響力の下で様々な文化を取り入れざるをえないが、言語は民族が違う以上、別である。したがって最初は中国語をそのまま使っていただろうが、その後は中国の文字を借りて自国語を表現し、その後それを変形したものを生みだし、最後は中国の文字とは全く違った文字を生み出すのである。
この意味で仮名文字の成立を、中国をかかえた東アジア全体の民族の動きの流れのなかでつかむ事が大事だろう。
2 朝鮮渡来人の果たした役割
では、日本において日本語を表記するのに漢字の音を使う方法はどのようにした成立したのであろうか。
日本でもかなり早い時期から文字=漢字が使用されていた。漢や続く三国の時代に中国の王朝と通交していた倭の王たちは中国風の一字名を名乗り、皇帝に対する上表文を奉っていた。そして皇帝は返礼として彼を倭国王に任じ、それを示す印を下賜していたことは、有名な「漢倭奴国王」の印が示す通りである。また魏志に書かれている倭国の詳しい様子は、魏の使いが倭に至って実地に検分したことを報告しただけではなく、倭王である卑弥呼から魏の皇帝に対して詳しい上表文が奉られていた事を示している。
つまり紀元前1世紀から後3世紀において日本でもすでに漢字を使用し、漢文を理解できる人々がいたことがわかる。
しかしこの漢字の使用と漢文の読解の知識は、倭人自身が中国から直接学んだものではない。それはこの時代連綿と続いた朝鮮からの渡来人の群れが倭国にもたらしたものである事は、古事記や日本書紀に漢字が朝鮮からの渡来人によってもたらされたと記述されていることからも明らかであろう。
そうであればこの渡来人たちは、朝鮮においてすでに漢字の音を借用して朝鮮語を標記した方法を知っていたはずである。
朝鮮語は日本語と異なり数多くの母音と子音の組み合わせと複雑な音韻変化とからなる言語であったため音仮名の種類が多くなりすぎて使用に適さなかったからか、朝鮮においてに音仮名の使用はごく一部に限られ、早い時期に廃れてしまった。だが渡来人たちが出会った日本語は、ずっと母音と子音の組み合わせ数が少なく、音仮名で標記するには適した言語であった。彼ら渡来人は、故国で始まっていた漢字の音で自己の言語を標記する方法を日本語に使用し、次第にそれを精緻なものにして完成していったのではないだろうか。
万葉集の柿本人麻呂歌集の中には、「古体歌」と呼ばれる日本語を漢字の音で表記してはあるが助詞や助動詞の標記を欠いたものがある。これは古代新羅において新羅語を助詞や助動詞を除いてその語順に漢字の音だけで標記したものとうりふたつである。そして新羅では次の段階では、これに助詞や助動詞を特定の漢字で表しそれを小さな文字で書く「吏読」という方法が行われるようになった。これは日本の祝詞などで使われる「宣命書き」というものとそっくりだという。これが、万葉仮名のように助詞や助動詞までも特定の漢字で標記する方法の起源なのではないだろうか。
万葉集の柿本人麻呂歌集でも「新体歌」と呼ばれるものは、万葉仮名で助詞や助動詞まで漢字の音で表記されている。つまり人麻呂の時代に万葉仮名は成立したと推定できるのである。柿本人麻呂は天智・天武天皇の時代の宮廷歌人である。
「つくる会」教科書はせっかく日本語を正しく標記するに不可欠な仮名についてくわしく記述しながら、その成立に関わる国際的背景を記述することを忘れている。いや、意図的に触れなかったというほうが正しいだろう。なぜならばこれに触れれば、朝鮮からの渡来人が日本文化の成立に果たした大きな役割について触れざるを得なくなるからであろう。 
(2)日本文化の不可欠の背景としての中国文化
日本人は中国語の音を借りて日本語を標記する方法をあみだし、漢字と仮名交じりの文章を作り出した。このことは日本文化が広い意味で中国文化圏に属している事を意味している。
そしてもうひとつ、日本文化と中国文化の不可分性を示すのが、この教科書が後半に記述している「訓読みの登場」である。
教科書はつぎのように記述する。
日本人は、中国語の発音を無視し、語順をひっくりかえして日本語読みにする方式を編み出した。いわゆる訓読みという読み方の発明だった。ここには、古代日本人の深い智恵と強い決断があった。日本人は、漢文の日本語読みを通じて、古代中国の古典を、みずからの精神文化の財産として取り込むことに成功したのである。
日本人が古代中国の古典を自らの精神文化の財産として取りこんだということは、謂いかえれば、日本人は中国の精神文化を日本文化の基底に置いて、それを元にして様々な精神文化をつくったということである。そしてこれは古代に限らず、明治時代まで続いたことは歴史が明らかにしている。
日本人が学んだ仏教は、インドの精神文化そのものではない。中国人の僧侶が直接インドに行って学びそれを中国語に翻訳したものを、インド文化として学んだのである。その結果日本の仏教は本来の哲学的様相を捨て、祖先崇拝の色の濃い、中国的な仏教になったのはこういうわけである(日本人の僧侶はほとんんどインドに行っていない)。また江戸時代において蘭学の基礎となった知識が、オランダ語の文献だけではなく、「漢訳洋書」と呼ばれる中国語に翻訳された文献であったことも有名である。
さらに幕末から明治において、西洋文化を受容するときには、漢学の素養を基礎としてその受容は行われ、例えば日本語にない意味の言葉などは漢語を借用したり、漢字の意味を使って新しい漢語を作ったりしていたことも有名なことである。
また日本人が歴史書を表す時に常に基本として依拠したものは、中国の史記を始めとする歴史書であったことも事実である(平安時代以後の「物語」という分野が、天子の事跡を編年体で記述し、これ以外の事柄や個人の伝記を別して記す中国式の歴史とは異なった歴史叙述方法である可能性は高いが、この物語も基本は中国の史書の編年体を念頭において記述されている)。
さらに1つ付言しておけば、ここに言う「漢文の文献」は、中国の古典籍だけではない。朝鮮は長い間中国語で自らの精神文化を表現した(ハングル文字が使われるまでは)。この朝鮮産の漢文文献も日本人の精神文化の支柱であったことも忘れてはならないだろう。

仮名の成立においても訓読みの成立においても「つくる会」教科書は、これを「古代日本人の深い智恵と決断」によるものと記述し、「日本文化の独自性」を誇示するかのような記述をしている。しかしこれらの事柄はその記述の意図とは逆に、日本文化が朝鮮や中国の外来文化を不可分なものとしていることを示している。
しかし中国周辺の国が皆、日本と同じような動きをしたわけではない。
中国周辺の国々において、中国の漢字とは独自の異なる文字を生み出して自国語を標記しようとした国がいくつかある。朝鮮は13世紀に完全な独自の表音文字であるハングル文字を編み出し、同じころモンゴルもモンゴル文字を編み出し、ベトナムもベトナム文字を編み出している。これらの国々では、中国文化の影響を脱しようとする努力が行われたということだ。
この中国文化からの独立は、日本のように中国と国境を接していない国よりも、中国と国境を接しており、常に中国に侵略される危険の中で国を作ってきた国々の方がむしろ進んでいるのである。
そしてこれは当然のことであろう。日本のように中国から離れた国は「中国にあこがれ」る。そしてそれゆえ中国や中国の周辺諸国ですでに滅んだ中国文化を後生大事に守る事すらあるのである。日本の貴人が自らのことを「太夫」と称し、中国の周の制度をいつまでも保っていることや、日本における漢字の音が今でも「漢音」「呉音」「唐音」の3種類あり、それぞれ中国文化を濃密に学んだ時代の中国の音をそのまま保存していることにもこの現象は現れている。
しかし常に中国と戦火を交えてきた国々にとっては「独自の文化」を持つ事は死活問題である。朝鮮やベトナムやモンゴルが長い間に受容した中国文化との断絶の危険を犯してまで独自の文字を開発したのは、そのためなのである。
日本が漢字の音と借りて日本語を表記する方法を編みだしながらも漢字を捨てることなく、そして漢文の訓読と言う方法を編み出して中国文化そのものを自己の内部に取りこんでいったのは、ある意味で日本と中国との地理的な距離を表している。そして日本文化が外来文化と不可分な関係にあることも示しているのである。むしろこのことをこそ、強調すべきであったと思う。 
(3)日本語の確立は平安時代
最後にこの教科書が「日本語の確立」という項目を、奈良時代の所に置いていることの間違いを指摘しておこう。
仮名文化が万葉集の成立時期に、かなり高度な段階に達したことは事実である。しかし日本語標記の確立を仮名の歴史で見るならば、平仮名の成立と普及を、日本語の確立時期と見て良いのではないだろうか。
だとすれば日本語標記の確立は平安時代、10世紀から11世紀であり、「日本語の確立」という項目は、日本文化の成立という意味で「国風文化」と呼ばれた、いわゆる摂関時代の文化のところに位置付けるべきだろう。
これは新しい歴史教科書を作る会の著者たちの勇み足というべきである。彼らは日本の独自性を強調するあまり、そして日本文化の古典として奈良時代の天平文化を据えたために、日本国の確立期である奈良時代に「日本語の確立」を位置付けてしまったのであろう。 

注:05年8月の新版では、この項は記述をより簡潔なものに変えて「かな文字の発達」と改題し、読み物コラムとして古代の最後、平安時代の文化のあとに置いている。これはかな文字の確立が平安時代であり、奈良時代に「日本語の確立」として記述することの誤りに配慮したものと思われる。
注:この項は、吉田孝著「八世紀の日本ー律令国家」「岩波講座日本通史4:古代3」所収)、信太一郎氏のサイト「ことばの散歩道」、日本大百科全書(小学館刊)の各該当項目の記述などを参考にした。 
 
聖徳太子とは誰のことか

 

『日本書紀』には、聖徳太子という理想の聖人が登場するが、近年、聖徳太子の実在が疑われ始めている。聖徳太子はフィクションなのか。もしフィクションならば、なぜそのようなフィクションが作られなければならなかったのかを考えてみよう。
1. なぜ聖徳太子の実在は疑われるのか
かつて日本銀行券に使われた聖徳太子の肖像(図の中央)。しかし、この人物は別人であった。
聖徳太子は、日本史上最も有名で、最も尊敬されている人物の一人であり、かつては1万円札の顔でもあった。しかし、歴史家の中には、聖徳太子の実在を疑う人が少なくない。その急先鋒が、大山誠一である。
『「聖徳太子」の誕生』の中で、大山誠一は、
A. 用明天皇と穴穂部間人王の間に生まれた
B. 601年に斑鳩宮を造って、そこに住んだ
C. 現在の法隆寺のもととなる寺を建立した
という属性を持つ厩戸皇子(厩戸王)の実在を認めつつ、その厩戸皇子が
1. 冠位十二階を定めて、門閥主義を排し、有能な人材を登用した
2. 十七条憲法を制定して、天皇中心の国家理念と道徳を提示した
3. 小野妹子を隋へ派遣し、隋と対等な国交を開くことに成功した
4. 『三経義疏』を述作し、蘇我馬子とともに国史の編纂を行った
という属性を持つ聖徳太子であったことを否定する。要するに、厩戸皇子は実在したが、聖徳太子は実在しなかった。聖徳太子は、ヤマトタケルと同様に、『日本書紀』が捏造した、たんなる神話的存在に過ぎない。なぜなら、聖徳太子の実在を保証する、信頼に足る史料が何もないからだと言うのだ。
聖徳太子に関する伝説は、荒唐無稽なものまで含めて、たくさんある。だが、あらゆる伝説の基となった最古の史料は、法隆寺金堂の薬師像光背銘・釈迦像光背銘・中宮寺天寿国繍帳の銘文などの法隆寺関連史料と『日本書紀』の二つに限られる。通説では、薬師像は607年に、釈迦三尊像は623年に、天寿国繍帳は622年以降の7世紀前半に作られたとされている。もしそれが正しいとするならば、720年に完成した『日本書紀』よりも古い、したがって最も信用できる史料ということになる。果たしてそうだろうか。
今日、法隆寺は、現在の伽藍より古い若草伽藍跡が発掘されたことから、厩戸皇子が建立したままの姿でないと考えられている。もしも、『日本書紀』が伝えるように、厩戸皇子の死後、法隆寺が全焼したとするならば、現在法隆寺内にある釈迦三尊像や薬師如来像なども、推古朝時代のオリジナルではないことになる。もちろん、仏像が複製でも、銘文が当初の内容を正確に伝えているのなら、それによって、聖徳太子の実在を確認することができる。ところが、薬師像光背銘も釈迦像光背銘も天寿国繍帳銘文も、使われている言葉の新しさから、厩戸皇子の時代の文章とは考えにくい。
具体的に言うと、薬師像光背銘と天寿国繍帳銘文には、「天皇」という称号が使われている。天皇という称号を最初に使ったのは、唐の高宗で、674年のことである。これが日本に伝わり、689年の飛鳥浄御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の天皇号が捧げられた。この時代を遡る、「天皇」の語を記した木簡も出土されていない。万葉集でも、持統帝以前の歌には、天皇という時には、大王という称号が使われている。『隋書倭国伝』が伝えているように、推古朝時代の天皇は、「大王」と呼ばれていたはずだ。釈迦像光背銘には、「法皇」という称号が見られるが、これは、「天皇」と仏典で釈迦を表す「法王」との合成語と考えられるので、釈迦像光背銘も天皇号の成立以降に書かれたとみなすことができる。
この他、これら三つの法隆寺関連史料には、「法興元」のような年号や推古天皇の和風諡号や「東宮」「仏師」など、当時使われていないはずの言葉が使われているという点をも考慮に入れると、法隆寺関連史料は、『日本書紀』以降に成立したと推定できる。実際、『日本書紀』は、これらの史料について、何も言及していない。
ゆえに、聖徳太子伝説の最古の史料は、『日本書紀』ということになる。成立時期を詐称しているからといって、書かれていることがすべて間違いというわけではないが、やはり信憑性は大幅に落ちる。そこで、以下、『日本書紀』を主要史料として、これまで聖徳太子の偉業とされてきた1から4までの業績が、本当に聖徳太子のものであるのかどうかを、検討してみよう。
2. 聖徳太子の業績は誰の業績か
2.1. 冠位十二階
まずは、冠位十二階であるが、実は、『日本書紀』にも、聖徳太子がこれを始めたとは書かれていない。「始めて冠位を行ふ」と主語なしの文で書かれている。冠位十二階という制度は、日本を訪れた隋の使者も言及していることから、当時存在したことは間違いない。では、誰が制定したのだろうか。
私は、聖徳太子が制定者だとは思わない。もし聖徳太子が、冠位十二階を制定したとするならば、なぜ、当時の最高権力者、蘇我馬子が官位を授与されなかったのかが説明できない。しかし、もしも蘇我馬子が制定したとするならば、自分で自分に官位を与えることはナンセンスだから、馬子が対象外になったことが説明できる。
馬子が冠位十二階の制定者であったことは、その動機からも説明することができる。厩戸皇子は、父が用明天皇で、母が欽明天皇の娘だったのに対して、馬子は、父が先祖不明の蘇我稲目で、母が当時すでに没落していた葛城氏の娘だった。厩戸皇子の血統が高貴だったのに対して、馬子の方は、かなり格が低かった。だから、馬子は相当な血統コンプレックスの持ち主だったと私は想定している。
コンプレックスとは、日本語で言えば、複合体である。精神分析学では、憧れと反感の複合体をコンプレックスと呼ぶ。馬子は、一方で高貴な血に憧れていたからこそ、娘を皇族に嫁がせ、天皇の外戚になろうとしたのであり、他方で、血統のランクがものを言う社会に反感を持っていたからこそ、冠位十二階の制度により、有能な人材を出自とは無関係に抜擢しようとした。これに対して、高貴な出自の厩戸皇子は、冠位十二階を制定する動機に欠けている。
冠位十二階は、高句麗や百済にあった類似の制度を模倣したもので、日本独自の制度ではない。伝統的権威を持たない蘇我氏が、権力の頂点を極めることができたのは、彼らが渡来人とのかかわりが深く、日本と大陸の先進文化の架け橋として大きな役割を果たしたからである。冠位十二階制度の日本への導入も、仏教の導入とともに蘇我氏らしい功績である。
2.2. 十七条憲法
次に十七条憲法であるが、これに関しては、『日本書紀』は「皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」と、聖徳太子の作であることを明言している。だが、十七条憲法には、古くから偽作説がある。後の律令制度を先取りしたような規範が含まれていて、氏族制であった推古朝の時代にはふさわしくないからだ。特に、第十二条に登場する、大化改新以降の官制である「国司」が、問題視されている。
しかし、私がそれ以上に問題にしたいのは、聖徳太子、即ち厩戸皇子は、あのような命令を有力豪族に対して発することができるだけの権力を持っていたのかどうかという点である。例えば、第十二条にある「国に二(ふたり)の君なし。民に両(ふたり)の主なし」は、推古天皇に勝るとも劣らない権力者であった蘇我馬子に対する当てこすりと受け取られかねない。実は中大兄王もこれと似たようなセリフを吐いている。中大兄王が大化の改新でやったように、蘇我氏の有力者を武力で排除でもしなければ、このような天皇親政の理念を口にできなかったのではないだろうか。
十七条憲法は、第三条において、天皇家とそれ以外の豪族との間には、絶対的な君臣関係があると主張している。曰く、「詔を承りては必ず慎め。謹しまざれば自らに敗れなむ。」 厩戸皇子は、これから有力豪族の支持を得て、天皇になろうとしているところである。それなのに、天皇になる前から、「自分が大王(天皇)になったら、お前たちに絶対的な服従を求める。命令に従わなければ、身を滅ぼすことになるぞ」と有力豪族たちに脅しをかけることができただろうか。そのようなことを言えば、天皇になれないどころか、命すら狙われかねない。
こう言うと、読者の中には、聖徳太子は皇太子だから、天皇になることは確定していたし、摂政の地位についていたのだから、馬子以上の権力を持っていたのではないかと反論する向きもあるかもしれない。しかし、厩戸皇子は、摂政でもなければ皇太子でもなかった。『日本書紀』では、「よりて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ」というように、「摂政」という言葉は動詞として使われており、地位を表す名詞としては使われていない。最初に摂政の職に就いたのは、藤原良房で、858年のことであり、それ以前には、摂政などという官職はなかった。また、立太子制度は、689年の飛鳥浄御原令において初めて採用された制度で、「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とす」という『日本書紀』の記述は間違っている。なぜ、『日本書紀』の編者が、立太子制度が神武以来存在したと偽ったかに関しては、後で説明しよう。
厩戸皇子は、当時多数いた次期天皇候補の一人に過ぎなかった。そのような弱い立場にある厩戸皇子が十七条憲法を公表できたとは考えられない。十七条憲法は、『日本書紀』が編集されていた当時、支配的だった律令国家の倫理を、飛鳥時代に投射することにより捏造した偽作とみなすことができる。
2.3. 遣隋使の派遣
続いて、遣隋使の派遣を考察しよう。607年に、日本が小野妹子を隋に派遣し、翌年、隋が裴世清を日本に派遣したことは、『隋書』『日本書紀』双方に記載されているので、史実である。問題は、この隋との外交の主導者が、聖徳太子、即ち厩戸皇子であったかどうかである。実は、『隋書』も『日本書紀』も、聖徳太子ないし厩戸皇子には、まったく何も言及していない。『日本書紀』は、冠位十二階の時と同様に、「大礼小野臣妹子を大唐に遣す」といった主語なしの文で、記述している。
遣隋使派遣における厩戸皇子の役割を論じる前に、もう一つの謎、即ち、当時の日本の天皇は、推古天皇という女帝であったにもかかわらず、隋側は、男王と記録している問題を取り上げよう。『隋書倭国伝』には、第一回遣隋使派遣に関して、次のような記述がある。
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。上、所司に其の風俗を訪わしむ。使者言う「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便ち理務(つとめ)を停め、云う、我弟に委ねん」と。高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌(きみ)と号す。後宮に女六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。
日本の天皇には姓がない。また、当時はまだ立太子制度がなかった。しかし、隋は、中国式のスタンダードに当てはめようとしている。『隋書倭国伝』は、日本の天皇の固有名を「アメ・タリシヒコ」と認知したわけだが、当時の日本人にとって、天皇の実名を口にすることはタブーだったから、日本の使者が口にしたであろう「アメノタラシヒコ」は、絶対に天皇の実名ではない。それは天皇を意味する普通名詞、あるいはせいぜい、見本などによく書かれる「山田太郎」のような、天皇のデフォルトの名前である。だから、この天皇が誰であるかはわからないが、「山田太郎」と同様に、少なくとも男であることはわかる。妻がいるのだから、明らかに男だ。
「和歌彌多弗利」の方は、隋も普通名詞であることを認識している。「わかみたほり」は、後に音韻変化により、「わかんどほり」となる。この言葉の意味は、古語辞典を引けばわかるように、「皇族」である。隋は、たんなる皇子を皇太子と誤解したわけだ [多利思北孤と利歌彌多弗利] 。なお、どうこじつけても、「和歌彌多弗利」は、厩戸皇子や山背大兄王に結びつかない。
この、謎の男の天皇が誰であるかは、後で考えることにして、日本の使者と隋の皇帝・文帝との対話の解釈に入ろう。日本の風俗を問われた日本の使者が「わが国の王は、天を兄とし、日を弟としている。天は、まだ明けない時、出かけて政務を行い、あぐらをかいて座り、日が出ればやめて、弟に政務をゆだねる」と答えたので、皇帝は、「これはまったく理屈に合わない」と言って、教えてこれを改めさせたと書かれている。
日本側がばかげた風俗を紹介したので、皇帝が「ばかなことを言うな」と怒って、愚かな風俗を是正するように教育したのだろうか。そうではない。隋の皇帝は、中華思想の持ち主だから、辺境の野蛮人がばかげた習慣を持っていると聞けば、文化的優越を感じて満足することはあっても、怒ることはないし、ましてやその是正を指導するなどということはない。そもそも、もし、日本の使者が意味不明のことを言ったとしたなら、隋はそれを記録にとどめないはずだ。614年の遣隋使のように、注目に値しないと判断されれば、『隋書』には書かれない。
現代人は、隠喩に鈍感になっているが、ここで、古代のディスクールにおいては、メタファーが重要な役割を果たしていることを思い出さなければならない。中国の皇帝は、自分を天子、即ち「天の子」と認識し、日本の天皇は、自分を太陽神であるアマテラスの子孫と認識している。だから、日本の使者が言う「天」とは中国のことで、「日」とは日本のことと解釈できる。
すると、日本の使者のメッセージは、「わが国の王は、中国と日本の関係を兄と弟の関係と考えている。日の出の勢いの新しい文明国、日本が登場するまでは、中国は東アジアの盟主として、あぐらをかいで安閑としていられた。しかし、今や、中国は、国際政治の主導権を日本にゆだねる時が来た」ということになる。これを聞いた、隋の皇帝は、「ばかなことを言うな」と怒り、かつ軽蔑し、「隋と倭の関係は、兄弟ではなくて君臣の関係だ」と訂正を迫ったのではないだろうか。
『日本書紀』は、この1回目の遣隋使に触れていない。それはなぜだろうか。『日本書紀』は、『旧唐書東夷伝』に書かれている631年の遣唐使にも触れていない。『旧唐書東夷伝』によれば、この時、唐の使者が王子と礼を争ったとある。このような外交的失敗は、記載しないというのが『日本書紀』の編集方針のようだ。
1回目は、失敗に終わったが、「タラシヒコ」と称する謎の男は、隋との対等外交をあきらめなかった。こうして、607年に、2回目の遣隋使が派遣される。隋の二代目皇帝・煬帝は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という、前回にもまして対等な関係を要求する国書を見て、不快感を示すが、日本に使者を派遣することにした。2回目は成功した。『日本書紀』も、隋の使者・裴世清の日本訪問について詳しく述べている。
『日本書紀』によれば、隋の国書は、「大門の前の机の上に」置かれただけである。だから、裴世清は、奥の内裏にいる天皇に直接会っていないと主張する人もいるが、『隋書倭国伝』には、裴世清が倭王(天皇)と会話を交わしたことがはっきり書かれているので、「大門(みかど)」は「大きな門」ではなくて、「天皇」と理解しなければならない。さらに、この時、裴世清が倭王と思って言葉を交わした相手は、『隋書倭国伝』によれば「タラシヒコ」であるから、女性である推古天皇ではない。では、この倭王と称する謎の男は誰なのか。
候補は二人しかいない。蘇我馬子か聖徳太子かのどちらかである。『日本書紀』は、参列者に関しても詳しく述べているが、「皇子・諸王・諸臣」が参列しているのに、「臣」より上の「大臣」(蘇我馬子)も「皇子」より上の「皇太子」(聖徳太子)もいないということになっている。しかし、隋使謁見の儀のような重要なセレモニーに、この二人がともに姿を見せないということは考えられない。
いったい、遣隋使の責任者は、どちらなのか。私は、馬子だと思う。2年後に新羅使が来日した時も、『日本書紀』の記事には、推古天皇と蘇我馬子大臣は登場するが、聖徳太子は登場しない。やはり、外交の主導権を握っていたのは、厩戸皇子ではなくて、馬子だったのだ。『日本書紀』に登場する「大門(みかど)」が馬子であることは、馬子の屋敷が「御門(みかど)」とよばれていたことからも裏付けられる。
ところで、なぜ馬子は、隋に対しては自分が大王だと詐称し、新羅に対しては推古天皇が大王であることを隠さなかったのか。それは、中国では、女性が天子となることが論外だったのに対して、新羅では、善徳や真徳といった女王が擁立されたことからもわかるように、女王に対する抵抗感は少なかったからだ。後に、唐の太宗は、新羅の善徳女王にたいして、女性を王にすると、周辺諸国から軽蔑されると警告している。日本を隋と対等な文明国として認めてもらおうとした馬子は、隋に対しては、女性が天皇であることを隠そうとしたのだ。
超大国・隋と対等な立場で国交を結ぼうとすることは、一見無謀な試みのように見える。しかし、馬子は、598年に隋が高句麗遠征に失敗し、そのため、北東アジアにおける軍事的パートナーを見つけなければならなくなったというタイミングを見計らって、強気の外交に出た。そして、それは成功した。
2.4. 文化的事業
聖徳太子は優れた政治家であるだけでなく、優れた文化人でもあるということになっている。特に、『勝鬘経』、『法華経』、『維摩経』の注釈書である『三経義疏』は、聖徳太子の高度な仏教理解を示すものだと言われてきた。だが、『三経義疏』は、聖徳太子が著したとは言いがたい。『勝鬘経義疏』は、敦煌出土の『勝鬘義疏本義』と7割同文で、日本製ではなくて中国製と考えられている。『法華義疏』は、『東院資財帳』が示唆しているように、8世紀に行信が捏造したものである。『維摩経義疏』に関しては、『日本書紀』に言及がない上、内容的にも、聖徳太子よりも後代の杜正倫『百行章』からの引用があるなど、問題が多い。
聖徳太子は、馬子とともに、国史の編纂を行ったと言われるが、その成果である『天皇記』も『国記』も残存していないので、その真偽を確かめる術はない。ただ、『日本書紀』によると、乙巳の変の時、『天皇記』も『国記』も蘇我蝦夷の邸宅内にあったとされているので、仮に、馬子と厩戸皇子の共同編纂だとしても、主として馬子が編集していたのであろうと推測される。
2.5. 結論
以上の考察から導くことができる結論は、聖徳太子の偉大な功績の一部はフィクションであり、一部は蘇我馬子の功績であるということである。では、『日本書紀』の編者は、なぜ、馬子の業績を馬子の業績と明記しなかったのか。なぜ、厩戸皇子を聖徳太子として聖人化しなければならなかったのか。この問いに答えるためには、誰が何のために『日本書紀』を書いたのかを考えなければならない。
3. なぜ聖徳太子は作り上げられたのか
『日本書紀』の編者は、舎人親王であるということになっている。しかし、本当の編集責任者は、藤原不比等だという説が有力である。『日本書紀』では不比等の父である鎌足の功績がことさらに粉飾されていること、最初は「フヒト」に「不比等」ではなくて、史書編集とのつながりを示す「史」という字が当てられていたこと、『日本書紀』が編集されていた頃、不比等が、その名のごとく、他に並ぶものがないほどに権力の絶頂にあったことを考えると、不比等が、『日本書紀』の内容に口をはさまなかったと考えることは非現実的である。
では、藤原不比等は、なぜ『日本書紀』の編集責任者であることを名乗らなかったのだろうか。実は、これは極めて藤原氏らしいやり方なのである。藤原一族というのは、現代の日本の政界で言えば、経世会のような、自らは権力の表舞台に立つことなく、傀儡を背後で操るキングメーカー型の政治家集団である。鎌足も不比等も、生前は最高位の太政大臣になっていない。しかし、それ以上に、不比等には、『日本書紀』の編集責任者であることを表立って名乗ることができない事情がある。
『日本書紀』によれば、馬子の孫・入鹿は、人望を集めていた聖徳太子の子・山背大兄王の一族を殺害した。そのため入鹿は、父蝦夷とともに、乙巳の変において、中大兄皇子と鎌足たちから、正義の報復を受けて、殺された。私たちは、この勧善懲悪のストーリーをそのまま受け入れてよいだろうか。
『日本書紀』をもっと詳しく読もう。そこには、山背大兄王を直接襲撃したのは巨勢徳太だと明記されている。もしも乙巳の変が、聖徳太子の子孫を絶滅させたことに対する正義の報復ならば、入鹿とともに、巨勢徳太も乙巳の変で処罰されてもおかしくないはずだ。ところが、この巨勢徳太は、大化の改新で、処罰されるどころか、左大臣にまで昇進している。これは一体どういうことなのか。
『日本書紀』と同時代の史料『藤氏家伝』によると、入鹿は、「諸皇子」とともに謀って山背大兄王を殺害したとあるが、この諸皇子とは誰のことなのか。一人は、入鹿が、山背大兄王に代えて、天皇にしたいと考えていた古人大兄皇子であろうが、「諸皇子」は複数形であるから、少なくとも、もう一人必要である。巨勢徳太が、軽皇子の側近であることを考えるならば、軽皇子も一味であったはずだ。
『上宮聖徳太子伝補闕記』は、蘇我蝦夷、入鹿、軽皇子、巨勢徳太、大伴馬甘連、中臣塩屋牧夫を主謀者として列挙している。『上宮聖徳太子伝補闕記』は、平安時代前期に書かれた本だが、『日本書紀』や『四天王寺聖徳王伝』に疑問を持った匿名の著者が、古書を調査して書いた本であり、無視できない。このリストを見ると、蘇我氏以外は、大化の改新で権力の座についた人物であることがわかる。即ち、大化の改新によって、軽皇子は孝徳天皇として即位し、大伴馬甘連は、巨勢徳太が左大臣になった時に右大臣となった。
中臣塩屋牧夫は、中臣(藤原)氏であること以外は何もわからないが、この男の正体は何か。大化の改新で、軽皇子が天皇になることができたということは、軽皇子と中大兄皇子の双方と親しくしていた媒介者がいたということである。そのような人物は、中臣(藤原)鎌足以外考えられない。だとするならば、中臣塩屋牧夫は、鎌足ということになる。
鎌足は、『六韜』を愛読したマキャベリストで、蘇我氏内部の争いを利用しながら、蘇我氏を弱体化させ、蘇我氏に代わって権力を手にした。即ち、入鹿を味方にして蘇我系の山背大兄王一族を殺害し、蘇我倉山田石川麻呂を味方にして入鹿と蝦夷を殺害し、蘇我日向に讒言させて、石川麻呂に謀叛の疑いをかけ、自殺に追い込み、後にこの讒言が嘘であるとして日向を筑紫大宰師へと左遷する。この鎌足の謀略により、蘇我氏は完全に没落する [梅原 猛:隠された十字架―法隆寺論, 第二部第二章]。
その中でも、クライマックスは蘇我入鹿の暗殺である。石川麻呂は三韓貢進の日だと言って入鹿を内裏に誘き寄せ、石川麻呂が上表文を読み上げている時に、中大兄皇子自らが、入鹿を切りつけた。鎌足も弓矢を携えて、暗殺に参加した。『日本書紀』は、そう書いている。しかし、これは、中大兄皇子と鎌足を英雄と印象付けるための脚色ではないだろうか。
もし本当に、当日、新羅、百済、高句麗の使者が来ていたならば、彼らは目撃したこのショッキングな事件を本国に報告するはずだが、三韓の歴史書はどれもこの事件を記録していない。それならば、三韓の使者が来たというのは、入鹿を誘き寄せるための嘘で、入鹿は、三韓の使者を装った刺客によって殺されたと考えることができる。こう考えれば、従来、不可解とされてきた古人大兄皇子の目撃証言「韓人、鞍作臣(入鹿のこと)を殺しつ」を理解することができる。
『日本書紀』の執筆者は、政治的思惑を持たない官吏である。編集責任者である不比等は、自分に都合の良いように、部分的に修正を加えただけに違いない。部分的な捏造は不整合を生み出す。その不整合を解消するべく、整合的な歴史解釈を再構成する時、不比等がどのような思惑で歴史を歪曲しようとしたかが見えてくる。
不比等が目指したのは、大化の改新の正当化である。中大兄皇子と鎌足の功績を美化するためには、二人によって排除された蘇我氏を悪玉にしなければならない。蘇我氏を悪玉にするには、入鹿によって殺害された山背大兄王の兄弟や子供たちを、したがってその祖である厩戸皇子を聖徳太子として善玉にしなければならない。こうして、おなじみの勧善懲悪のストーリーが生まれた。
しかしながら、この説明は、なぜ『日本書紀』が、聖徳太子という人物を捏造し、それを神のごとく崇めるのかという問いに対する答えとしては、不十分である。聖徳太子信仰の萌芽は、712年に完成した『古事記』に登場する「上宮之厩戸豊聡耳命王」という言葉に見て取れる。それゆえ、712年から『日本書紀』が成立する720年にかけて、不比等がどのような状況に置かれていたかを見なければならない。
鎌足は、得意の権謀術数により、晩年は天智天皇のもとに強大な権力を握る。ただ、鎌足にとって、一つ計算外のことが起きる。壬申の乱である。天武天皇の勝利により、天智側と結びついていた藤原家は一時没落の危機に晒されたのだ。しかし、鎌足の子・不比等は、我が子(草壁皇子)を次の天皇にしたいと願う鵜野讃良皇女(天智天皇の娘で天武天皇の后)に接近し、権力の中枢と結びつくことに成功した。天武天皇の死の翌月、有力な天皇候補だった大津皇子が、冤罪により自殺させられている。明らかに不比等の謀略である。ところが、草壁皇子は、天武天皇の喪が明ける前に、28歳の若さで死亡する。
そこで、鵜野讃良は、草壁皇子の遺児である軽皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、自ら持統天皇として即位する。4年後、藤原京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。不比等は、皇位継承を確実にするために、689年の飛鳥浄御原令において皇太子制度を作り、軽皇子を最初の皇太子にした。『日本書紀』が、立太子制度が神武以来存在したように書いているのは、立太子制度を既成事実化するためである。天武天皇の第一皇子で、持統朝で太政大臣を務めていた、つまり有力な天皇候補だった高市皇子が死亡した(暗殺された?)翌年、持統天皇は皇位を孫の軽皇子に譲った。これが文武天皇である。ところが、文武天皇は、25歳の若さで死んでしまった。
そこで、やむなく文武天皇の母が、文武天皇の遺児である首皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、元明天皇として即位する。3年後、平城京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。この時、不比等は、こう考えたはずだ。自分の孫・首皇子は病弱で、先が不安だ。持統系皇族の外戚となって、権力を掌握しようとする自分の計画は、なぜこうもうまくいかないのか。これは、きっと怨霊のたたりがなせる業に相違ないと。
不比等の父は鎌足で、持統の父は天智天皇(中大兄皇子)である。鎌足と中大兄皇子は、蘇我一族を滅亡させた。だから、「子孫断絶となった蘇我一族の怨霊は、鎌足と中大兄皇子の子孫を断絶させることにより、復讐をしている。白村江の戦いや壬申の乱での敗北も草壁皇子や文武天皇の夭折も、すべて蘇我氏のたたりだ」と不比等は考えたに違いない。
怨霊の災いから逃れるには、遷都のような消極的な方法ではなくて、鎮魂という積極的な方法が必要である。歴史書を執筆し、蘇我氏の功績を絶賛し、彼らの魂を慰めなければならない。だが、そうすれば、蘇我氏を滅ぼした鎌足と中大兄皇子が悪玉になってしまう。そこで、蘇我氏を悪玉と善玉に分割し、善玉の中に、蘇我氏全体を象徴する架空の人物を入れ、その人を神として崇め奉ろう。そうすれば、一方で藤原氏の面子をたてながら、他方で蘇我氏の供養をすることができる。不比等は、こう考えたわけだ。
かくして、聖徳太子伝説が誕生する。聖徳太子伝説が誕生したのは、文武天皇死没の5年後にあたる712年頃である。法隆寺が再建されるのもこの頃である。梅原猛は、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺であると主張したが、この見解に対しては、従来、なぜ山背大兄王や入鹿ではなくて、厩戸皇子が怨霊とされなければならないのかという批判が投げかけられてきた。だが、もしも、聖徳太子を厩戸皇子という特定の個人ではなくて、蘇我一族全体を祭った神と考えるならば、そうした疑問は氷解する。
古くから日本には、子孫断絶となった政治的敗者は、たたりをなすと考える怨霊信仰がある。その際、複数の被害者が、一つの神へと祭り上げられるという現象がしばしば起きる。例えば、『古事記』や『日本書紀』は、大和三輪山のオオモノヌシと出雲のオオクニヌシを同一神としているが、両者は本来、別々の神だったはずだ。それが、邪馬台(やまと)の東征の被征服者という共通項によってくくられ、同一視されてしまった。
藤原氏の怨霊に対する恐怖心は、不比等の四人の子が相次いで死亡するという737年の劇的な出来事を境に、エスカレートしていく。その頃になると、怨霊に対して、恥も外聞もなく自分たちの非を認め、高位高官を追贈するなど、怨霊鎮魂のサービスも過大になる。だが、不比等の時代には、藤原氏はまだ面子にこだわっていたので、聖徳太子伝説が怨霊信仰の産物であることが非常にわかりにくくなっている。
『日本書紀』は、天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっている。しかし実際には、『日本書紀』は、中立的な立場から編集された歴史書ではなく、藤原氏の政治的思惑によって、歪曲されている。不比等は、それをもカムフラージュするために、自分を『日本書紀』の編集者であることを公言しなかった。
私たちは、藤原氏による歴史の歪曲と怨霊信仰のからくりを理解し、聖徳太子の正体を正しく認識しなければならない。特にこれまで極悪人扱いされてきた蘇我馬子を再評価するべきだ。蘇我馬子は、野蛮だった日本を、国際的に通用する文明国にした有能な政治家だったのだから。 
 
聖徳太子

 

聖徳太子の生きた時代
太子は574(敏達3)年に生まれ、622(推古30)年に四十九才で亡くなっている。
この時代はどんな時代であったのだろうか。以下の年表を参考にしていただいて、主な出来事を見ればどんな時代であったかが分かるはずです。
1.仏教は伝来していたが一般人は勿論、豪族の間にも広まっていなかった。
2.崇仏排仏論争が盛んであったが、これに呼応した形での政治主導権争い(蘇我、物部)があった。
3.物部氏滅亡後、蘇我氏の力が増大していった。
4.渡来人の集団が大陸の文化を持ち込んでいた。
聖徳太子年表
年  年齢 事項
522     司馬達等、飛鳥坂田原の草堂に仏道を安置して礼拝
527     近江毛野、任那派兵
        磐井の反乱
538     百済、救援軍派遣・武器兵糧送る
        仏教伝来、(百済聖明王仏像・教典を贈る)
554     豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ 推古天皇)生まれる
570     蘇我稲目死亡、物部氏仏殿放火
574   1   厩戸皇子生まれる
577   4   百済、日本に経論・僧尼を送る
579   6   新羅、日本に仏像を献ずる
583 10   火葦北国造の子日羅、百済から来朝
584 11   蘇我馬子、飛鳥豊浦の石川の家に仏殿を営み善信尼を置く
585 12   蘇我馬子仏塔を建てる
        物部守屋、中臣勝海ら、仏殿仏塔を焼き善信尼らを監禁
        敏達天皇崩御
        用明天皇即位
587 14   崇仏の可否を群臣に計る
        用明天皇崩御
        物部守屋滅ぼされる
        崇峻天皇即位
588 15   百済、仏舎利・僧・寺工・画工等を献じる
        善信尼ら、百済に派遣
        法興寺の建立始まる
589 16   隋、中国を統一
590 17   善信尼ら、百済から帰国
591 18   紀男麻呂・巨勢猿ら筑紫に出兵
592 19   蘇我馬子、東漢直駒を使い崇峻天皇を殺す
        推古天皇即位
593 20   聖徳太子、摂政となる
594 21   三宝興隆の詔
595 22   高句麗の僧、恵慈来朝
        筑紫駐屯の将軍ら大和に帰る
        百済の僧、慧聰来朝
596 23   法興寺完成
597 24   百済王子、阿佐来朝
598 25   新羅、孔雀を朝貢する
599 26   百済、ラクダを朝貢する
600 27   新羅・任那の使者、朝貢する
        第一回遣隋使長安に行く
601 28   斑鳩に宮を作る
602 29   来目皇子、軍兵を率いて筑紫にいたる
        百済の僧、観勒、来朝し暦本、天文地理書、遁甲方術書を献ずる
603 30   来目皇子、筑紫で死亡、当麻皇子を将軍とするも新羅征討中止
        推古天皇、飛鳥小墾田宮に移る
        秦河勝に仏像を授ける
        冠位十二階を定める
604 31   冠位を諸臣に授与
        憲法17条を作成
        朝礼を改める
605 32   斑鳩宮に移る
606 33   銅丈六仏像をつくり法興寺に安置する
607 34   七月小野妹子を隋に派遣(第二回遣隋使)
        国ごとに屯倉を置く
608 35   小野妹子、裴世清と共に筑紫に着く
        小野妹子、第3次遣隋使
        新羅人、多く渡来
609 36   小野妹子隋から帰る
610 37   高句麗王、朝貢する
        新羅・任那の使者、入洛する。
611 38   新羅、朝貢する
612 39   群卿と宴会を開く
613 40   掖上池、畝傍池、和珥池を作る
        難波から 飛鳥に至る大道を開く
        片岡山に遊行し飢人にあい飲食・衣服を与える
614 41   犬上三田耜らを隋に派遣(第4次遣隋使)
        蘇我馬子病臥
615 42   犬上三田耜ら、隋から帰る
        百済の使者、犬上三田耜に従って来朝する
        高句麗の僧、恵慈帰国
616 43   3月掖玖人来朝
        7月新羅、仏像を献上
617 45   高句麗、朝貢する
        隋、滅亡 唐興る
620 47   蘇我馬子と協議して「天皇記」「国記」などを選録する
622 49   聖徳太子没する
624     蘇我馬子葛城県の割譲を推古天皇に求め拒絶される
626     蘇我馬子死亡、蝦夷大臣となる
628     推古天皇崩御
629     舒明天皇即位
630     犬上三田耜ら、遣唐使派遣
641     舒明天皇崩御
642     皇極天皇即位
        蘇我入鹿執政
643     蘇我入鹿、山背大兄皇子一族を殺害
645     大化改新
655     斉明天皇重祚即位
生まれ
574(敏達3)年、敏達天皇の弟である橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ 用明天皇)を父に、蘇我馬子の姪である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母として生まれた。
ここで押さえておきたいのは、父母共に蘇我稲目の孫であり、太子も当然に蘇我系の人物として生まれてきたことです。
日本書紀によれば母の穴穂部間人皇女が池辺雙槻宮の庭を歩行中、厩(うまや)の前で産気づいて皇子を出生したため、厩戸(うまやど)皇子と呼ばれたとしている。
これは唐代の中国には、景教(キリスト教の一派ネストリウス教)が伝わっていました。天智天皇・天武天皇ころ大唐学問僧が持ち帰り、日本でもキリストの出生伝説を知っていたのです。太子の名前のイメージから日本書紀の厩での出生の話が付け加えられたのであろう。
実際は厩戸の名前の由来は甲午(きのえうま)の年に生まれた干支に基づくものか、蘇我氏の地元の「馬屋戸」に基づくものであろう。
名前に関しては「日本書紀」ではこの他に豊耳聡(とよみみと)、豊聡耳(とよとみみ)、法大王(のりのおおきみ)、法主王(のりのぬしのみこ)などが挙げられているが、豊耳聡、豊聡耳は一度に10人の話を聞いたという逸話に繋がっているものと思われる。 
仏教伝来と蘇我・物部氏
日本書紀によると552(欽明13)年10月、百済聖明王が釈迦如来像l体と仏殿の飾り幡蓋、及び教典をもたらした。聖明王は「仏教はいろいろな教えの中で最も優れているから、日本に伝える」というのである。
(上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起は仏教公伝を538年)
当時、既に渡来人が仏像を安置して礼拝を行っており、仏像を「大唐神(おおからのかみ)」と称していた。
日本人の祀るべき神は天照大神を初めとして穀物の霊、水、山、火、雷の神である。
そのため、欽明天皇はその取り扱いについて群臣に問うた。
蘇我稲目は、「西方の諸国で信奉しているものを、我が国だけがどうして背けましょうか。」と積極的に受け入れる姿勢をみせた。
これは稲目がかねてから、東漢(やまとのあや)氏や西文(かわちのあや)氏など渡来系豪族と接触し、朝鮮半島や大陸の事情に明るかったためなのだろうか。
これに対して、物部尾輿や中臣鎌子は反対だった。「天皇は古来から天神地祇(てんしんちぎ)を祀るべきであって、蕃神(あたしくにのかみ)などを信奉されるとあらば、神々の怒りを招くことは必定である」というのである。
これも鎮魂儀礼の祭祀に当たっている物部氏や神官の家柄である中臣氏としては当然の答えであろう。
そこで天皇はこころみに稲目に仏像を与えて礼拝させた。稲目は飛島の向原の家を寺としてこれを安置し、これがのちの豊浦寺(当ホームページの宇治の紹介で隼上がりを参照)の前身で、日本で最初の寺院である。
ところが排仏派が心配したとおり、疫病が大流行し多数の死者が出た。「異国の神をまつるからだ」と、物部尾輿と中臣鎌子らは仏像を難波の堀江に捨てるとともに、向原の寺を焼いてしまった。
蘇我氏と物部氏の対立
時は流れて、欽明天皇は敏達天皇に、そして蘇我稲目・物部尾輿・中臣鎌子の時代から馬子・守屋・勝海の時代となる。
崇仏・排仏論争はやがて政治権力闘争へと発展していく。いや、政治権力闘争が内在していて崇仏・排仏論争という形で現れたのかもしれない。
馬子は父の志を継ぎ、熱心に仏像を礼拝し、司馬達等の娘ら三人(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)を尼とする。
585(敏達14)年、馬子は大野丘の北に建て舎利を安置した。そうしたところ、またもや疫病が流行した。
守屋・勝海はこれを追及。敏達天皇は仏像の破却を命じ、守屋も仏像を焼き堀江に捨てている。また三人の尼を海石榴市(つばいち 山辺の道の南端辺り)に監禁したりしている。
しかし、馬子は仏像・寺・尼を守りきることはできず、この時点では守屋の方が実力は上だったのだろう。
この事件の後も疫病の猛威は収まることはなく、逆に仏像を焼き、尼を罰したことが一層流行らせるという風評が支配的となり、敏達天皇も破仏の非難の対象となったのではないだろうか。
この後、馬子も敏達天皇も疫病にかかったが、馬子は快癒し天皇は崩じた。
このことがあって、排仏派と崇仏派の政治的勢力が逆転してしまったのである。
敏達天皇の崩御後、守屋は穴穂部皇子を奉ろうとしたが、馬子はこれに反対し橘豊日皇子を立てたのである。
これが蘇我・物部の武力衝突への道を歩み出すことになったのである。
次期天皇は用明天皇(橘豊日皇子)となったが、この段階ではまだ公的な仏教受容は認められていないのである。
用明天皇は在位2年目にして病床に着いた。
きっと弱気になっていたのだろう。馬子の快癒したことが頭によぎる。私的ながらも仏法に帰依する意志を示してしまった。
こうなると群臣は二派に分かれることとなったのであるが、そのさなか用明天皇は崩じてしまったのである。もはや譲歩や妥協の余地は亡くなってしまった。
587(用明2年)年七月、崇仏派と排仏派との戦いの火蓋は切って落された。
この戦いの渦中には、崇仏派の中心である蘇我氏一族として参加していた14才の聖徳太子の姿もあった。
戦場は守屋の本拠地であった渋河(東大阪市渋川町)に程近い衣摺(きぬずり 東大阪市衣摺)で行われた。
そこは大和川に近い河内平野で開けた水田の中にあった。
守屋はこの戦いにおいて木に登り雨のように矢を射ったため蘇我氏側は三戦して三敗であった。
このとき、太子が霊木とされる白膠木(ぬりで 勝軍木)の木を切って自ら四天王像を彫り、頂髪(たきふさ 髪をあげて束ねたところ)につけて勝利を祈願し、馬子と共に他の豪族に守屋討伐を鼓舞した。
この話何処まで信用できるだろう。古代の話はどうしても記紀に依らざるを得ないところが多くあるが、天皇家の正統性を強調することや書き手の意志が働いているため、ここのところを差し引いて読まなければならないのである。
この差し引くところは研究者により色々であろう。
書紀の聖徳太子に関する思い入れ(?)は尋常なものではなく、この話も私は信じていない。
聖徳太子14才これは満年齢で13才、今で云うと中学1年生である。こんな子供を戦場に狩り出したりする事も異常であるが指揮官並の働きをしたり、都合よく白膠木があったりで、やはり脚色部分でしょう。
話を戻して、その後4度目の攻撃で守屋は戦死し物部軍は崩壊した。 
用明天皇の次期天皇、泊瀬部皇子
物部守屋が討伐され翌8月、泊瀬部皇子が即位した。崇峻天皇である。
泊瀬部皇子は欽明天皇の子で穴穂部皇子の同母弟である。穴穂部皇子と守屋が三輪逆(みわのさこう 敏達天皇の臣で穴穂部が殯宮へ侵入しようとしたのを阻止した)を討ったとき泊瀬部もこれに加わっていた。
にもかかわらず、守屋討伐の時には実兄を殺した馬子の陣営にいたのである。
これは、用明天皇の没後、王位継承の候補には守屋が擁立しようとした穴穂部皇子、守屋が穴穂部から乗り換えた押坂彦人皇子、炊屋姫(かしきやひめ 敏達天皇妃 推古天皇)の子の竹田皇子の3人がいた。
馬子は穴穂部を殺してしまっている。押坂彦人は蘇我氏と血縁関係はない。竹田は幼少である。従ってここで担ぎ出されたのが泊瀬部皇子であったのだろう。
しかし天皇は即位後人里離れた飛鳥の南、倉梯岡宮(くらはしおか)に移されます。天皇は「馬子によって蟄居させられた」と思ったに違いないでしょう。天皇の馬子に対する復讐は自分の在位を長くすることと、蘇我氏と血縁関係のない子供をもうけることだったのだろう。しかし大伴連糠手の娘「小手子(おてこ)」を妃として蜂子皇子と錦代皇女をもうけただけだった。
蜂子皇子が皇位継承をすれば蘇我氏との血縁を断ち切れたのである。
しかし、592(崇峻5)年10月4日、天皇は献上された猪を見て「いつの日か、この猪の頸を断るがごとく、朕が嫌しと思うところの人を断らむ」と独り言を漏らし武器の用意を始めてしまった。
小手子はこの「独り言」を馬子に密告したということなのです。どうして小手子はこのような密告をしたのでしょうか?「日本書紀」は大伴小手子以外に崇峻天皇の寵愛を受けるようになった人物がいたための嫉妬と解説しています。それは蘇我馬子の娘、河上娘(かわかみのいらつめ)か物部守屋の妹、物部布都姫(ふつひめ)ではないかと云われています。
当時の女性心理は分かりませんが(いや、今も)、崇峻天皇の寵愛を受けたのが物部布都姫ならば、これは天皇が明らかに蘇我氏に対抗する事を意味することになるとともに、密告は小手子の嫉妬心からの行いとみることもできる。(一説には河上娘が密告したと云われている。)
この密告により、翌月11月3日、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に天皇を暗殺させている。天皇は悲しいかな殯(もがり)も行われず、「この日に天皇を倉梯岡陵に葬り奉る」と日本書紀に記されています。
東漢駒はその後蘇我馬子の娘河上娘と掠奪したとして馬子によって殺されている。もちろんこれは崇峻天皇弑逆事件の口封じであると私は考えています。
崇峻以前の敏達、用明、そしてつぎの推古と蘇我氏全盛期の天皇は、みな河内の磯長谷に葬られている。その死の状況が、暗殺と言う異常なものだったせいだろう、崇峻天皇の遺骸だけは結局、王家の谷に落ち着くことはなかった。 
日本で最初の女帝
592(崇峻5)年崇峻天皇が暗殺された後、先々帝敏達天皇の皇后であった炊屋姫(かしきやひめ)が即位して推古天皇となった。
卑弥呼や記録にない女性を女帝といわなければ、ここに日本で最初の女帝が誕生したことになる。
推古天皇としては敏達天皇との間の子、竹田皇子に継がせたかったのだろうと思う。
しかし、若年だったということで炊屋姫が称制のつもりだったのか、既に死亡していたのかで炊屋姫が即位する事になった。この時蘇我馬子は厩戸(うまやど)皇子を推していた。
推古天皇の誕生で厩戸皇子の次期天皇は確実だったのだろう。
ついでながら2000年8月27日、推古天皇と竹田皇子が合葬されていた可能性が高いとされる橿原市植山古墳の現地説明会には私も参加しました。 
斑鳩の地に移居したのは
書紀によると605(推古13)年、厩戸皇子は上宮から斑鳩宮に移居している。
斑鳩の地名については、この地に多く飛来した鵤(いかる)という鳥に由来する。鵤は斑鳩(まだらばと)のことで、鳩より小さく、体が灰白色で頭、翼、尾羽が黒っぽい鳥のことである。
この地は東西に走る龍田道と大和川があり、飛鳥と難波を結ぶ交通の要所と言うべきところである。
廐戸皇子がこの地を選んだのは積極的に政治に関わろうという意思の現れと、蘇我氏の影響をある程度逃れようとした意志の現れではないだろうか。 
冠位十二階
603(推古11)年、聖徳太子と大臣(おおおみ)蘇我馬子の共同執政のもとで律令制の位階制の源流となる冠位十二階が制定され、翌年、施行された。
さてここで、この時代の政治は蘇我氏の専管事項であった。大王家の判断で官位制度や憲法制定を行ったとは考えにくい。実施主体は大王の推古天皇にはなく、大臣の蘇我馬子にあったはずで、それにも関わらず聖徳太子の功績と伝えるのはなぜだろうか。聖徳太子なる者が提案したとしても、実施主体は蘇我馬子にあったのでありその方が現実的であろう。
ところで何故、冠位十二階が聖徳太子の関与でできたことになったのだろうか。そんな記述があるのだろうか。
書記の冠位十二階に関する記述では主語に当たる「誰が」の部分の記述がないそうです。
これに対して次の憲法十七条は「皇太子、みずから肇て憲法十七条を作りたもふ。」とある。 
憲法十七条
一に曰く  和をもって貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ。
二に曰く  あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
三に曰く  詔を承りては、必ずつつしめ。君をば天とす。
四に曰く  郡卿百寮、礼をもって本とせよ。
五に曰く  むさぼりを絶ち、欲することを捨て、明らかに訴訟を弁めよ。
六に曰く  悪を懲らしめ、善を勧むるは古の良き典なり。
七に曰く  人おのおの任あり。つかさどること乱れざるべし。
八に曰く  郡卿百寮、早くまいりて、遅く退でよ。
九に曰く  信はこれ義の本なり。毎事に信あるべし。
十に曰く  忿を絶ち、瞋を捨て、人の違ふことを怒らざれ。
十一に曰く 功過を明らかにみて、賞罰をと必ず当てよ
十二に曰く 国司・国造は百姓に斂らざれ。国に二君あらず。
十三に曰く 諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ。
十四に曰く 郡臣百寮、嫉み妬むことあることなかれ。
十五に曰く 私を背き公に向くは、これ臣が道なり。
十六に曰く 民を使ふに時をもってするは、古の良き典なり。
十七に曰く それ事を独断むべからず。必ず衆と論ふべし。
先ず気になることがある。これは江戸時代の考証学者、狩谷エギ斎の指摘で、近くは津田左右吉博士の研究に依れば、十二条、国司であるが大化前代において国を単位に行政的支配を行う官人は存在しない。
続いての疑問、この憲法に出てくる人間の階層は君、臣、民であるが、推古朝では氏族制の時代であり時代に合わないということ。さらに中国古典からの語を多く引用しているが、これらは書記の書かれた奈良時代の文章と似ているのである。
以上で書記の編纂段階で官人の訓戒のために作成されたというのである。
これに対して反論も当然ある。
憲法十七条の文体は「日本書紀」の他の文体よりも古体であり、751(天平勝宝3)年にできた「懐風藻」の序文にも太子が「礼儀を制した」ことを記しているというのである。
この辺りは偉い学者さんの範疇で私には分かりません。 
聖徳太子の師
「書記」には「内教(仏教)を高麗の僧、恵慈(えじ)に習ひ、外典(儒教)を博士覚狽ノ学びたまふ」と記している。つまり、恵慈と覚狽ェ師である。
覚狽ノついては他の文献にも出てこず、何処の国の誰かも分からない。
恵慈については高句麗人で法興寺(飛鳥寺)に住まいしたときされている。聖徳太子は彼の影響をかなり受けているはずです。恵慈は595(推古3)年5月に来日し615(推古23)年11月に帰国している。
聖徳太子が亡くなったのは621年2月5日(日本書紀による)であるが、これを高句麗で聞いた恵慈は悲しみ「日本の聖人聖徳太子が亡くなっては独り生きる益がない。自分も来年の2月5日に死に、浄土で太子と会って衆生を教化する。」と言って本当にその日に死んだという。
これはかなり眉唾物の話である。 
聖徳太子と飛鳥文化
聖徳太子が実在の人物で伝えられているような実績を上げたのが事実であればやはり凄い人物なわけで、蘇我の馬子の時代に馬子から独立自立した政治を行える人物には違いないわけです。
この時代、渡来文化はどのように受け入れられていたのでしょうか。確かに日本文化より優れたものが沢山あったのですが、これを素直に受け入れるには抵抗があったと思います。
仏教のように精神論に基づくものでない場合はもう少し簡単なことだったかも知れないが、やはり従来の伝統技術に対する新技術はなかなか受け入れられるものではなかったと思う。
その中にあって聖徳太子は渡来系の文化を進んで受け入れる方針をとった。
飛鳥時代には有力な秦(はた)氏と東漢(やまとのあや)氏がいた。秦氏は聖徳太子に近く、東漢氏は蘇我氏に近かった。
秦氏は織物に従事していたが、秦大津父は欽明天皇に近持し宮廷の財産を管理する役人になっている。推古朝、聖徳太子摂政の時に秦氏の地位は大幅に向上している。そして秦河勝は603(推古11)年冠位十二階制定では上から3番目の大仁の冠位を与えられ、後、小徳になった。
こうして、渡来人は宮廷支配層の3分の1にも達し飛鳥文化の華を咲かしたのである。 
日出づる処の天子
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」
誰もが知っているこの手紙、小野妹子が607(推古15)年第2回遣隋使として海を渡ったときの手紙である。
この当時、対外政策は朝鮮半島三国(新羅、百済、高句麗)から強大化してきた中国の隋を相手にしなければならなくなってきていた。
遣隋使の目的はよく言われているように新しい文化の取り入れであったのだろうか。多分そうなんだろうけど、それなら、この、国書の書き出しはおかしくはないだろうか。日出づる処の天子と書を日没する処の天子ではどちらが上位なんだろうか。
隋の皇帝、煬帝は気に入らなかったのだろう、小野妹子を捕え罰するところであったが、返書を作って妹子に持たせている。この返書が帰国途中、百済で盗まれてしまったと言うことになっているのである。
私は、これは妹子の作り話だと思っている。国使が国書を盗まれるなんて信じがたい事と「日出づる処の天子」に見せられない状況であったためではないか。
つまり結論はこうである。「日出づる処の天子」とは専制的な人間、独断的で、傲り高ぶる性格で周りの現実が見えない人間、当時政界の中心にいた人間であろう。
煬帝は宣諭使として裴世清を派遣している。裴世清は倭王に会って「皇帝、倭皇を問う」で始まる国書を読んでいる。帰国した裴世清の文書には倭王が女帝であることを記していない。このことが女帝でないことを証明するものではないが、裴世清が会ったのは推古天皇ではないのだろう。「日出づる処の天子」は前述の性格から思い浮かんでくるのは聖徳太子ではなく、ズバリ、蘇我馬子である(ワー大胆!)。彼の政治手腕は聖徳太子と並んでひけを取る物ではないからで、自らもそれなりの権力を持っていたからである。 
聖徳太子の名前の由来
「聖徳太子」という呼称は何に出てくるのだろうか。日本書紀には出てこないのであるというと不思議に思われるかも知れませんがでてこないのです。
753(天平勝宝3)年に編纂された「懐風藻」で初めて出てくるのである。
前述の聖徳太子の師である恵慈が太子の死を知って「玄(はるか)なる聖(ひじり)の徳をもって日本の国に生(あ)れませり」と言った言葉(玄聖之徳)に由来する。
従って、聖徳太子の存命中に「聖徳太子」と呼ばれることはなかった。
さて、聖徳太子についてあれこれと書いてきましたが、これは、ほんの一部の見方で角度を変えればまだまだ色々な説があります。
厩戸皇子説、架空人物説、蘇我馬子説、蘇我入鹿説等々何が正しいか結論は出ません。決定できるような事実がないからです。
いろいろ想像して自論を作っていくこれが面白いのです。これが歴史ロマンなのです。 
 
天皇号の成立と大王(オオキミ)、聖徳「太子」への疑問

 

1、天皇号の由来
埼玉・稲荷山古墳や熊本・江田船山古墳出土の太刀銘は、雄略天皇を獲加多支鹵(ワカタキェル*)大王と記している。和歌山・隅田八幡宮の人物画像鏡には大王の文字が見える。万葉集にも「八隅知之、吾大王…(やすみしし、我が大王)」と記す歌がいくつかある等、天皇位が生まれる以前は、国の最高権力者を、諸王の王という意味で大王(オオキミ)と呼んでいたらしい。これは衆目の一致するところであろう。
《*注/大王は万葉仮名では於保吉美(オホキミ)と表記されるが、隋書は倭王のことを阿輩雞弥(アハケミ)と聞き取っているから、吉美はキェミという音だった可能性がある。日吉(ヒエ)のように、吉(キ)が「エ」に転訛するのも、「キェ」に近い音だったとすれば疑問はおこらない、日吉は日枝とも記されるので、支も同様に「キェ」と読まれていたのだと思われる。万葉仮名の研究では「甲類のキ」と分類されている。》
やがて、中国文化の受容が進み「天皇」という称号が採用されるに至ったわけだが、太平御覧、巻七十八、皇王部三、天皇の項には、「洞冥記曰く、天皇十二頭、一姓、十二人なり。」、「項峻始学篇曰く、天地が立ち天皇十二頭あり。号して天霊という。万八千歳を治す。木徳を以って王す。」というような記述がある。現在では見られない文であるが、洞冥記は前漢末の人、郭憲の著作だし、始学篇の著者、項峻は三国時代の呉の人である。太平御覧には他にも三五暦紀など「天皇」を記すいくつかの文献があげられている。越絶書、越絶外伝紀呉王占夢には「越王勾踐は東僻といえども、また天皇の位を繋ぎ得た。」という文がある。勾踐の天皇位を真に受けるのは問題もあろうが、これも漢代に編纂された書物である。上記文献の成立年代をみると、漢代にはすでに伝説の中に天皇が存在し、広く流布、定着していたと考えられる。
洞冥記は漢の武帝が主人公である。この人は越方などの神仙思想を信じたとされている(史記武帝紀)。同じ漢代に編纂された呉越春秋では、越王勾踐は東皇公、西王母などを祭り鬼神に事えたという。始学篇、三五暦記は三国時代の呉人の作、などと資料を結び付けていくと、天皇という称号は越の神仙信仰に起源があるように思われる。勾踐は呉を滅ぼしたのち、山東半島の琅邪まで北上して都を置き、四代後の翳の三十三年に呉へ帰ったとされている(竹書紀年)。勾踐は中原の覇を目指したという説もあるが、それにしては東へ寄りすぎで、中原制覇にふさわしい場所とはいえない。観臺を建て東海を望んだというから、これはやはり神仙信仰という宗教的な理由に基づいた選択だったのではないか。秦始皇帝時代の徐福も琅邪を根拠地にしていた。勾踐もまた永遠の生命、登仙などというものを求めてあがいていたのかもしれない。
漢書地理志・燕地に、「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見すという。」と記されているように、日本は前漢代から中国と交流していた。後漢への朝貢で金印を授けられてもいる。当時から中国のさまざまな知識を吸収していたはずである。魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道など、中国の鬼を祭る土俗信仰との類似を見出したからこその命名で、中国ではそれが後に道教に発展している。日本各地から発見されている三角縁神獣鏡を魏鏡とみなせば、魏志倭人伝が卑弥呼の好む物を与えると記す以上、その銘文や画像の神仙思想を卑弥呼の鬼道に結び付けるべきだし、倭鏡とみるなら、中国風神仙信仰の日本への浸透を想定するべきである。いずれにせよ弥生時代の日本に、宗教教団化される以前の道教的信仰の広がりが認められるのである。この信仰がそれ以前の銅鐸の祭りを消したわけだ。
天皇、地皇、人皇の三氏がセットになっていて、唐、司馬貞の「補史記」では、人皇氏が中国人の祖先という形である。天皇が木徳、地皇が火徳とされているから、人皇は、五行の順に従えば、土徳なのであろう。これは木徳王「伏犠、女媧氏」、火徳王「炎帝神農氏」、土徳王「黄帝」という別の太古伝承の言い換えに過ぎないと思われる。おそらく前漢代に、この三氏に宗教的装飾をほどこして整理された形が天皇、地皇、人皇なのであろう。
日本神話と比べてみると、天皇氏は古事記の天御中主神から天照大神、須佐之男命に到るまでの天神に該当することになる。大国主神などの地祇が地皇で、天降り以降が人皇である。道教的な発想にも抵抗感はないから、最高位の尊称として採用されるのも当然といえるほどで、たいした議論もおこらずに決定されたのではないだろうか。
北極星を神格化した道教の「天皇大帝」が天皇号の由来だとする説もあるが、日本の天皇と北極星に深い結びつきはないし、最上級の神というわけでもない。日本の最高権威、権力を表わすには役不足と思われる。道教の最高神は原始天尊だから、「天尊」位を選ぶ方がよほど自尊心を満足させるのである。結局のところ、道教とは無関係に採用されたのであろう。神話の天皇氏の成立の方がはるかに古く、道教はその名を換骨奪胎しているだけである。 
2、天皇号の成立年代(推古朝説と天武朝説)
日本の天皇号の成立年代については様々な説があるが、戦前は、津田左右吉氏の推古朝説が通説とされていた。現在では東野治之氏等の天武・持統朝説に支持が集まっているという。
推古朝説は元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す丈六仏光背銘(609)や塔露盤銘(656)、推古十五年(607)の作とする法隆寺薬師像光背銘、推古三十年(622)の作とする天寿国繍帳などに天皇という表記が見られることを根拠にする。天武・持統朝説は仏像様式の違いや、天寿国繍帳発見の経緯などから、その製作年代の信憑性に疑義をさしはさんだ。すべてを後世の作、潤飾とみる。唐の高宗は道教に傾斜し、上元元年(674)、称号を「天皇」に代えている。天武天皇の定めた八色の姓(684)の最高位が、道教で仙人を意味する真人であり、道師という第五位の姓もある。諡号は天渟中原瀛真人天皇で、真人が含まれているなど、天武天皇にも道教受容の形跡が濃い。その一環として天皇位も模倣されたと考えるのである。 
3、天武朝説に欠けた視点
しかし、高宗は白村江の戦い(663)などで日本を圧迫した帝である。天智年間に二度、中国へ遣使しているが、それは敗戦処理交渉のためと思われる。
天智天皇八年(669)に、「この年…大唐は郭務悰等二千余人を遣した。」という記述があり、十年(671)十一月十日には、「使者の郭務悰等六百人と送使、沙宅孫登等一千四百人、合わせて二千人が四十七隻の船で比知島まで来ているが、数が多く、驚かすといけないので、先に通知する。」という予告を受け取った。連絡役は、沙門道久、筑紫君薩野馬(白村江の戦い時の捕虜)等の四人で、唐から来たと記されているから、ほぼ二年近くをかけて日本の目前まで来たようである(天智紀)。この大人数を饗応しなければならず、嫌がらせと言うしかない。それ以前に病を発していた天智天皇は、翌月の十二月三日に崩じる。他意はないと言われても、いつでも軍事侵攻が可能であることを示された。この使者が衝撃を与えたことは明らかである。天武天皇元年(672)といっても、これは大友皇子の近江朝の対応だが、三月十八日に筑紫へ使者を派遣し郭務悰に天皇の喪を伝えたとされ、五月十二日、この一行に絁(ふとぎぬ)一千六百七十三匹(なんと二十キロメートル以上)、布二千八百五十二端(十七キロメートル以上)、綿六百六十六斤(百四十八キログラムほど)を与えている(天武紀)。その前年、新羅王に与えたものは、絹五十匹、絁五十匹、綿一千斤、韋(なめし革)百枚となっていて、桁外れの数量だとわかる。二千人は事実なのだ。最低でも三月から五月までの二ヶ月間、筑紫で宿舎や食事などを提供したと思われるが、実際は半年近かったのではないか。負担に苦しんだであろう。
天武紀には、新羅、高麗、耽羅との交流は盛んに記されているが、唐との交流の記述はない。高宗は新羅を保護し、百済を滅ぼした(660)。白村江の戦い(663)のあと、日本に使者を派遣するたびに様々な圧力を加えていたようである。668年には高句麗が滅ぼされ、最終的には唐がこちらへ向かってくるかもしれないという恐怖におびやかされていた。高宗の称号「天皇」をありがたがって模倣するような心理、環境ではなかったはずである。枕草子も「唐土の帝、この国の帝を、いかで謀りてこの国討ちとらんとて、つねにこころみごとをし云々」と記すくらいで、平安時代にまで尾を引くほどの恐怖であった。歴史書にはこんなことは一切書かれていないが、物語の形をとって伝承されていたのである。
天武天皇は四年(675)に高安城を視察したり、諸王以下、初位以上のものは各人で兵器を備えるよう発令したりしている。五年(676)には京、畿内で、その命令が守られているかどうかを査察した。七年(678)、初めて竜田山、大阪山に関を置き、難波に羅城を築く。十二年(683)、諸国に詔して陣法を習わせた。十三年(684)、「政治の要は軍事である。文武官の諸人も兵器を用い、騎乗を習え、準備や訓練の足りない者は処罰する」というような詔を出した。この年、八色の姓制定。十四年(685)、前年の訓令が守られているかどうか、京、畿内の武器を査察した。周防に鉄一万斤、筑紫に鉄一万斤と箭竹二千連を送る。徹底かつ真剣に推進されたようにみえるこの戦いへの備えは何のためかという分析はなされていないようだが、西方からの侵入に備える形である。十三年二月には、複数の都を作ろうとし、信濃の地形を視察させてもいる。閏四月にはその報告というか、信濃の地図が提出され、十四年十月には信濃に行宮を作らせた。「束間の湯に行こうと思われたのか。」と紀はいうが、温泉詣でていどに地形視察、地図は大仰すぎる。避難所として考えたのであろう。天武天皇は崩じるまで唐に対する警戒を解いていない。
高宗が崩じ、則天武后の世になっていることが伝わったのか、その恐怖感の薄れた文武天皇の大宝元年(701)に至るまで遣唐使関係の記述はない。天智天皇が大和防衛のために築いた高安城が廃止されたのもこの年である(続日本紀)。もう不要だと判断されたようである。
天武朝説はこういう時代背景を見落としている。恐るべき、憎むべき敵であった高宗の模倣は考え難いのである。天武元年(672)五月三十日に郭務悰等は帰途についた。二千人が半年も日本にいれば様々なことを調べ上げられるであろう。威嚇と日本侵攻に備える偵察が任務だったのかもしれない。この一行が帰国し、朝廷に報告するのは一、二年後だから、高宗が天皇を称した上元元年(674)にぴったり一致する。むしろ高宗が日本の天皇位を知り、自らの道教信仰に火が付いて、皇帝より上と感じ改めたのではないのか。
他にも通説化している天武朝説を否定する資料、否定されつつある推古朝説を支持する資料があるので、以下、解説する。 
4、天武朝説を否定する資料
船氏王後首の墓誌銘に天皇という表記が含まれ、以前から否定資料として挙げられているが、分析、説明不足を感じるので採り上げることにした。大阪府柏原市の松岳山古墳付近から発掘され、発見年代や経緯は不明だが、明治初期までは古市の西淋寺に所蔵されていたという。重要文化財と覚えていたのだが、今は国宝に格上げされたらしい。短冊形の鍍金銅板に次のように刻されている。
「惟舩氏故王後首者是舩氏中租王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陁宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為第三殞亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之宝地也」
【船氏の故、王後首は船氏の中祖、王智仁首の子の那沛故首の子である。敏達天皇の世に生まれ、推古天皇の朝に仕え奉りて舒明天皇の朝に至る。天皇はその才が異なるのを知り、仕えて勲功のあるのを正しく見極めて、官位の大仁を賜い、品は第三となした。舒明天皇の末、辛丑の年(641)の十二月三日に亡くなった。戊辰年(668)の十二月、松岳山の上に、妻の安理故の刀自と共に同墓にして葬り、その大兄の刀羅古首の墓は並べて墓を作った。即ち、安保万代の霊基、牢固永劫の宝地となすものである。】
王後首墓誌関連リンク「弥生の興亡3、帰化人の真実2、文氏・王仁の正体と船氏」
墓誌だから、墓の主の名と、誕生、就職、死亡という経歴、墓を作るに至った由緒が記されている。現在は元号で表わすが、当時は…天皇何年という表記法である。敏達天皇の後、用明天皇二年、崇峻天皇五年の在位がはさまるが、その頃、王後首はまだ子供だった。推古天皇の朝に至って初めて官途に就いている。死亡時までそれが続いていただろう。大仁や第三品は最終的な地位、死亡時のものであるから、舒明天皇が授けたと思われる。敏達天皇の何年に生まれたかがわからないので、死亡時の年齢は五十六歳から六十九歳までの幅がある。この墓誌は、おそらく王後首の子息が作らせたもので、父の死から二十七年後に母の死が訪れ、陵墓を考えるにあたって、父を母と同墓に改葬し、伯父の刀羅古首も改葬して墓を並べようと思いついたのである。安保万代の霊基、牢固永劫の宝地という言葉からは、それまでのものよりかなり立派に改葬したことがうかがえる。
王後首と安理故の刀自の共同墓が作られた戊辰年に該当するのは天智天皇七年(668)で、墓誌だけを後から納めたと主張することもできるが、そこには何の拠りどころもない。死後二十七年もたった人の墓誌である。長期間放置したとは考え難く、改葬を決めた時から準備し、改葬時の儀式の一環として納めたとみるのが妥当である。そうすれば天智天皇七年にすでに天皇と記されていることになり、天武朝説(672〜686)は崩れる。天武朝説にしたがえば、高宗が天皇を称した674年以降に日本も天皇を称したと解さねばならないから、668年に墓を作ってから、最低でも六年以上も放置したのちに、あらためて墓誌を作って納めたと扱うことになる。持統天皇三年(689)の飛鳥浄御原令で天皇位を正式決定したとするなら、二十一年以上の放置になって、ますます受け入れがたい。古代用語のすべてが判明しているわけでもないのに、使用用語が天智朝に合わないというような主張は無意味である。文献上の初出はその時代に確実に存在したことを教えてくれるが、それ以前の時代に存在しなかったことを保証するものではない。逆に、この天智朝の考古学資料、王後首の墓誌に使用されている用語、文字はすべてその時代に使用されていたという証明材料にできるのである。
後代に編纂され、転写により受け継がれてきた史書の類より、その時代を写した金石文の方が、よほど信頼性が高い。たとえば、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文が読み取られるまで、雄略天皇の名はワカタケだと思われていたし、すでに万葉仮名的に漢字が使用されていて、万葉仮名の使用開始時期は万葉時代をはるかに遡ると明らかになったのである。
次の戊辰年は六十年後の神亀五年で、天皇は、天武、持統、文武、元明、元正、聖武と代替わりしている。船氏一族にしても、ひ孫かその次以下の世代で、八十七年も前に死亡した王後首や、その大兄の刀羅古首を直接知るものはいないだろう。人物に対する関心そのものが薄れていて、もっと身近な親族とその墓はたくさんあるだろうに、遠い特定の夫婦を改葬して同じ墓に入れたい、その兄の墓を並べたいという心理になる動機を見いだせない。二人の間に生まれた息子、伯父を敬愛した甥以外の誰がそれを考えるだろうか。欽明天皇の夫人であった堅鹽姫を欽明天皇陵に改葬したのも二人の娘の推古天皇である(推古紀)。
以上のような理由から、戊辰年は天智天皇七年(668)と解するしかない。この年すでに天皇は存在したのである。 
5、推古天皇と大王のズレ
推古二十年(612)正月七日に、宮中で大宴会が行われ、大臣、蘇我馬子が次のようなお祝いの歌を捧げた(推古紀)。
「やすみしし、我が大王(古音「おほきみ」)の、隠ります、天の八十陰、出で立たす、御空を見れば、万代に、斯くしもがも、千代にも、斯くしもがも、かしこみて、仕へまつらむ、おろがみて、仕へまつらむ、歌づきまつる」
岩波古典文学大系などは、「我が大君の入られる広大な御殿、出で立たれる御殿を見ると、実に立派である。千代、万代に、こういう有様であって欲しい。そうすれば、その御殿に畏み、拝みながらお仕えしよう。今、私は慶祝の歌を献上します。」と現代語訳している。
「天の八十陰」や「御空」を「りっぱな御殿」と意訳できるのか、はなはだ疑問である。先学の解釈は尊重しなければならないが、批判精神は必要だ。盲従は研究ということばに値しない。ここは明らかな間違いで、「天の八十陰」とは雲のことである。額田部氏等の祖神に天御影神がみられるが、これも雲の神だ。御殿の神だとでも言うのだろうか。御空に出で立たして、雲である天の八十陰に隠れる。つまり、大王を太陽にたとえている。太陽だから、万代や千代という永遠の観念が引き出せるのである。天皇は天照大神という太陽神の子孫とされているし、応神記にも「ホムタの日の御子、大雀」という吉野の国主の歌がある。万葉集には「八隅知之、吾大王、照、日乃皇子(やすみしし、我が大王、照らす日の皇子)」とあり、天皇を太陽に結び付けるのは当時の常識で、その場にいたものにはわかりきったことであった。これは比喩というものを理解できずに生じた誤解である。おそらく、日中、青空と雲の見える場所で酒宴が行われたのであろう。蘇我馬子が機知に富んだ歌を献じているのに、この解釈はちょっと気の毒である。
したがって、歌は、「(太陽である)我が大王がお隠れになる空の雲や、出てこられる御空を見ますれば、万代にわたってこのように、千代にもわたってこのように、恐れ多くも仕えさせていただきましょう。拝みながら仕えさせていただきましょう。歌を献上いたします。」という意味になる。
推古天皇がこれにこたえて言った。「曰く」としか書いていないが、言葉のリズムをみると、たぶん歌ったのであろう。
「真蘇我よ、蘇我の子らは、馬ならば、日向の駒、太刀ならば、呉の真さひ、うべしかも、蘇我の子らを、おほきみ(大王)の使はすらしき」
【蘇我の首長よ、蘇我の子らは、馬にたとえれば、すぐれた日向の馬、太刀にたとえれば、中国製のするどい刀、もっともなことであるよ、蘇我の子らを大王がお使いになるのは。】
という意味になる。人により言葉は違うが、内容的にはこういう解釈にしかならない。しかし、文意がおかしいではないか。蘇我の子らを使うのは自分自身であろうに。「大王がお使いになるのはうなずける」なんて人ごとのような、自分が大王ではないかのような物言いである。
原文をみれば、「天皇和曰」になっている。「こたえてのたまわく。」と読んでいるが、「天皇は和してのたまわった。」のではないのか。漢和辞典をひもとけば、和の意味は、「やわらぐ、したがう、かなう、むつぶ、むつまし、あわす、あう、あらそわず、わぼく、なかなおり、あたたか、のどか、おだやか、調合す、まぜあわす」などである。(「大字典」講談社)
天皇は蘇我馬子の歌に返答したのではなく、唱和したのである。矢印で方向を示せば、答えるは → ← という形だが、和す(あわせる)は ← ← である。蘇我馬子が大王に永遠の忠誠を誓い、推古天皇が「大王が蘇我の一族をお使いになるのはもっともだ。」と馬子を誉めた。そして、二人のかたわらに大王がいるという構図が現れる。その大王は誰かとなると、推古天皇が政治のすべてをまかせたとされる聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子)しかありえない。
この歌は、日本書紀、推古元年の「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とする。」という記述とは明らかに矛盾する。つまり、太子というのは実情を知らない後世の誤解またはねつ造で、聖徳太子は大王だったのである。では、推古天皇はなんだ?天皇だったのであろう。
政治には関与しないが、国家主権者としての推古天皇を遇するため、この時代にあらたに天皇位を設けたと推定できるのである。
隋書俀国伝に次の記述がある(俀となっているが、後漢書の倭奴国が隋書では俀奴国と記されており、倭の異体字と考える。倭人字磚の倭に少し似ている)。
「開皇二十年(600)、俀王、姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕…王妻號雞彌…名太子為利歌彌多弗利」
【開皇二十年(=推古八年)、倭王、姓アバ。字タリシヒコ。号アハケミが使者を派遣し宮城に詣でた。…王の妻はケミと号する。…太子を名づけてリカミタフリとなす。】
聖徳太子が大王だったなら、この妻を持つ倭王は聖徳太子ということになり、中国の史書と整合してなんの問題もないことになる。アハケミはオホキミの聞き取り誤差で、姓名はアマタラシヒコの聞き取り誤差である。翰苑は号の阿輩雞彌を「天児を表わすの称」と書いているが、誤解である。通訳を介してやりとりする際、行き違いが生じたらしい。アマタラシヒコが「天の血を引く男」の意味で、天児と中国語訳できる。阿輩雞彌をアメキミと読む人もいるが、天を表わすアメ(アマ)は阿毎と記されていて異なる。翰苑を元にこれが天児だと言いたいのかもしれないが、アメキミなら天君そのものであって、天児(天の子)にはならない。タラシヒコをタリシヒコと聞いているから、太子のリ音もラ音に改めて、日本ではラカミタフラというような音だと考えれば良いのではないか。
この遣使は日本書紀には記されていないが、次の、隋、煬帝の大業三年(607=推古十五年)の遣使は両書が一致している。その親書に「日出ずるところの天子、書を日没する所の天子に致す。恙無きや」と書いてあって、これを見た煬帝は「喜ばず」と隋書はいう。「恙無きや」は、「元気ですか」とか「お変わりありませんか」という意味である。これは面識のない相手に使う言葉ではない。以前から知りあっていたわけで、開皇二十年の隋、高祖文帝に対する遣使は事実と考えて良い。隋が代替わりしていることを知らず(煬帝の三年目)、文帝にあてた親書と解せばつじつまが合う。
紀では607(推古十五年)、608(推古十六年)、614(推古二十二年)、630(舒明二年)という遣使であるが、中国側は隋書の600(開皇二十年、俀国伝)、607(大業三年、俀国伝)、610(大業六年、煬帝紀)、旧唐書の631(貞観五年)という遣使である。630年の遣使は八月に出発しているので、翌631年に中国の都に着いたと解せられる。
隋書俀国伝では大業四年(608)に裴世清を倭国に派遣し、その帰国を送ってまた使者が来て方物を献じたが(何年か記していない。煬帝紀の610と考えればつじつまが合う。)、「後、遂に絶える。」となっていて、614年の遣使はあり得ないはずである。俀国伝の日本側の遣使に七年の差があるのは紀と共通しており、紀が前の遣使を後ろに持っていったのではないかと思われる。
「恙無きや」の理由が説明できるし、文帝が使者とやりとりする際の描写を考えると、隋書の600年と607年、610年の遣使が正しいと言わざるを得ない。そして、この使者を派遣したのは太子ではなく、妻を持つ阿輩雞彌(大王)、アマタラシ彦なのである。これは使者が告げた言葉だから間違いない。聖徳太子は用明天皇の子だが、新唐書は「次、用明、また目多利思比孤という。隋の開皇末にあたる。初めて中国と通ず。」と記し、同一視して天皇扱いしている。
裴世清は608年に渡来し、俀国伝には帰国年が記されていないが、煬帝紀にある610年の帰国である。一年ほどの滞在になるようだが、王と面会し言葉をやりとりしたあと引き下がって、「館に就く」と記されているから、その間、教習所のような建物が設けられていて、大国維新之化を日本に伝授していたらしい。
原文を訳すと、「その王は清と相まみえて大いに喜んで言った。『私は海西に大隋礼儀の国があると聞き、派遣して朝貢した。私は野蛮人で海の隅に片寄って住み、礼儀を聞いたことがない。そのため境内にとどまり、すぐに相まみえることをしなかったが、今、道を清め館を飾って大使を待っていた。願わくは大国維新の化を聞かん。』清は答えて言った。『皇帝は、徳は天地に並び、その恵みは四海に流れる。王が化を慕うので私を派遣し、やって来てここに宣し論ずるのである。』すでにして、清は引きさがり、館に就いた。その後、清は人を遣わしその王に言った。『朝命はすでに達成した。すぐに帰国する用意をしていただきたい。』そこで、饗宴の席が設けられ、清を送り返し、使者を清に伴わせて方物を貢いだ。この後、遂に絶えた。」ということになる。
館に就き、煬帝の命令(朝命)を宣論して完遂したその後まで、実際は一年くらい経っているのである。聖徳太子に会ったのは最初の一度だけかもしれない。
日本書紀は、隋書を読み、かなり改変して利用しているようにみえる。隋書では国書と留学僧を送ったのは607年だが、紀では、608年になっていて、その挨拶文も「東の天皇、敬しみて西の皇帝に申し上げる。」になっている。これは「日出ずるところの天子、日没する所の天子に書を致す。」をもっともらしく書き直した後世の作文と思われる。したがって、残念ながら、この文をもって推古朝の天皇号の証拠とすることはできない。
裴世清に関しても、紀では、608年の八月に渡来し、九月に帰国というあわただしさである。「大国維新の化」を教える時間はない。隋の使者なのに、唐の客。文林郎という地位なのに、鴻臚寺の掌客などと書いてあり、編纂時に創作と言って良いほどの改変をうけている。
伊与国風土記逸文もまた聖徳太子が大王であることを示唆する。聖徳太子が高麗僧の恵慈や葛城臣等を引き連れて道後温泉を訪れ、温泉の岡の傍らに碑文を立てたことを記しているが、その道後温泉碑文は、「法興六年十月、歳は丙辰に在り(推古四年、596)。我が法王大王は恵慈法師及び葛城臣と伊予の村に逍遙(あそ)び、…」となっていて、聖徳太子を法王大王と呼んでいる。現存しないが、これは聖徳太子と同時代の資料である。法興は法興寺に関連する紀年と思われるが、崇峻四年が元年ということになり、理由は明らかでない。日本書紀の、推古四年に完成したという、法興寺関係の記述に誤りがあるのかもしれない。年号自体が日本書紀から消されてしまっている。(もはや聖徳太子と書くべきではないのだが、人物を特定するために便利なので記号的に使用する)
蘇我馬子が大王にあらためて永遠の忠誠を強調したということは、推古二十年の酒宴は、聖徳太子の大王就任式の伝承だった可能性がある、実際はずっと早く、隋書にある最初の遣使、推古八年(600=開皇二十年)以前の出来事ではなかったか。道後温泉碑文を考慮に入れてもっと絞れば、推古四年以前ということになるだろう。推古天皇の意思ははっきりしていて、推古元年に厩戸豊聡耳皇子を皇太子にしたというから、推古政権成立時から大王だったと考えて問題ないように思える。天皇という称号の成立もここに置けばよい。 
6、結論
以上から、推古朝初期、おそらく元年に、聖徳太子が大王に就任し、就任式で蘇我馬子が永遠の忠誠を誓う歌を献じた。政治は行わないが、国家の首長としての豊御食炊屋姫(推古天皇)を遇するため、中国の文献から「天皇」という言葉をさがしだし、あらたに象徴的最高位として天皇を設けた。政治権力と精神的権威に分けられたのである。聖徳太子の死後、推古天皇が政治の世界に降りてきたため、以降は天皇が国家の政治的、精神的中心になり、オオキミは心理的に格が下がって王の読みにも使われるようになった。という歴史が浮かび上がってくる。
最初の天皇は推古天皇なのである。聖徳太子死後は大王も兼ねたから、元興寺縁起や法隆寺薬師像光背銘にある大王天皇(おほきみすめらみこと)と呼ばれていた可能性も出てくる。 
7、補足
推古天皇が天皇であり、聖徳太子は大王だったことが明らかになったことから、同時に、大王天皇(推古天皇)と東宮聖王(聖徳太子)と記す法隆寺薬師像の光背銘は後世のねつ造ということが明らかになる。
法隆寺金堂釈迦三尊光背銘には上宮法皇とあり、道後温泉碑は聖徳太子を法王大王と記している。光背銘には法興元世一年、歳次辛巳(推古二十九年)という年号が記されていて、道後温泉碑の法興から改元されたと考えられる。まったく離れた土地の時間的にも無関係な資料の年号がねつ造で結び付くとは考えにくい。それに、光背銘の文字は法皇で、天皇に通ずる皇の字が使われている。そういう表記法があったということになり、これは本物のようである。
天寿国繍帳には聖徳太子に関して太子、大王の二つの表記があり、推古天皇は天皇と記す。本物部分と後世の修正が入り混じっているように思われる。
元興寺丈六仏光背銘は止與彌擧哥斯岐移比彌天皇(とよみけかしきやひめ天皇=推古天皇)と等與刀禰ゝ大王(とよとみみ大王=聖徳太子)と記す。ここまでの分析に一致し、これは間違いなく本物である。
仏像を作り終えたのが推古十七年(609)で、銘文は同時期か、あるいは、後に入れられたことになるが、そう離れてはいないだろう。日本書紀には、推古十三年(605)に作り始めて、十四年(606)に完成と書いてあるが、五トンの銅を用いた巨大な仏像が丸一年で出来上がったことになり、疑わしい。光背銘では四年かかっていて、こちらの方が信用できる。
最後に、最も重要な日本書紀に「大王」を「太子」と記す誤解、もしくは、ねつ造があることを改めて強調しておきたい。
推古天皇の歌を根拠に、太子を否定することで、他の同時代の資料と整合して統一的な大きな歴史の流れが見えてくる。そして、聖徳太子がそれまでの最高権力者の尊号である大王(阿輩雞彌、オホキミ)を称していたなら、後見的立場にいた豊御食炊屋姫はどう処遇されたかという問題が出てきて、答えは自ずから現れるのである。
日本書紀は、国の始りから天皇位が存在し、別称がオオキミ(大王)という体裁をとった。天皇とオオキミの併存状態は容認できない。聖徳「太子」はその体裁を維持するためのねつ造と言い切っておこう。この時代、国内的には、現在に近い象徴天皇制が存在したのである。聖徳太子は法王大王と記されており、死亡時に贈られた諡号は聖徳法皇と思われる。 
8、問題点の整理
聖徳太子が大王であることを示す資料
1、日本書紀、推古二十年の蘇我馬子と推古天皇の歌(これまでの解釈の根本的な誤り)。
2、隋書俀国伝、遣隋使を派遣した妻を持つ「阿輩雞彌(大王)」「アマタラシ彦」。
3、伊与国風土記逸文の記す道後温泉碑文、「法王大王」。
4、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘、「等與刀彌ゝ大王」。
5、天寿国繍帳、「我大王」。
天皇号の天武朝(672〜686)高宗模倣説を否定する資料
1、天智紀、天武紀にみる、天皇を称した(674)唐、高宗との根深い対立
2、船氏王後首の墓誌銘、天智朝における天皇号の存在(668)
3、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺塔露盤銘。孝徳朝における天皇号の存在
 (651、孝徳天皇が露盤銘を与える)斉明朝(656)に完成
4、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘
 推古十七年(609)に完成、銘文がこの時すでに入れられていたかどうかが不明であるが、「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇」、「等與刀禰ゝ大王」と記し、その時代の呼び名を正しく伝えている。仏像完成後、長期間放置したとは考え難いし、推古朝は三十六年まである。
 推古朝の作と考えて問題なく、天皇号が存在していた。
天皇号の推古朝成立説を支持する資料
1、聖徳太子が大王だったなら、その上位と考えられる推古天皇はどう呼ばれていたかという問題。
2、法隆寺薬師像光背銘や元興寺伽藍縁起并流紀資財帳は、推古天皇を「大王天皇」と記し、不必要な重複に見えるが、その理由を説明できる。 (=元々、大王と天皇は別で、聖徳太子の死後、推古天皇が大王を兼ねたため。)
3、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘の「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇」 (推古十七年完成) 
 
魏志倭人伝 雑話

  

魏志倭人伝によると、邪馬台国は、女王の都する所で、官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましよう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(ぬかてい)の四つがあり、7万余戸の人口があったという。
邪馬台 伊支馬 は、生目いくめ か?
弥馬升 弥馬獲支みまかき 奴佳鞮なかて 御間城か?
奴佳鞮は、額田か?
魏志倭人伝から、倭国の遣魏使の記述を抜き出してみます。
1・景初二年(238年)難升米、都市牛利、等
2・正始四年(243年)伊声耆、掖邪狗、等計8人)
3・正始八年(247年)載斯烏越(載斯と烏越か)
4・正始八年?(247年?)掖邪狗、等20人
国名
「三国志・魏志倭人伝」・・・「邪摩惟」
○南至邪馬壹国、女王之所都。(『魏志』倭人伝)
○其大倭王居邪馬臺国。【案今名邪摩惟音之訛也。】(『後漢書』倭伝)
○都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『隋書』俀国伝)
○居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『北史』倭国伝)
『魏志』の邪馬壹国に対し、『後漢書』は邪馬臺国と書く。『隋書』『北史』は邪靡堆・邪摩堆とするが、それは『魏志』でいうところの邪馬臺だという。この部分をもって多くの人は『魏志』の邪馬壹国は邪馬臺国の間違いだとする。
伊支馬神社は見当たらないが、
生目神社 (いきめじんじゃ) 宮崎県 宮崎市 大字生目 亀井山
御祭神 / (主祭神)品陀和気命・藤原景清公 / (御相殿)彦火瓊瓊杵尊・彦火々出見尊・鵜茅葦不合尊
1説には活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)を奉斎した社であると。蓋(けだ)し、御子 景行天皇 熊襲征伐の途、御父君垂仁天皇の御命日に偶々之の地にて神霊祭を御営(いとな)みになられたのを住民等歓迎し聖地として永く奉斎し活目八幡宮と称(とな)え奉ったと。

崇神天皇
別名:御間城入彦、御真木入日子(みまきいりひこ)
筑紫の水沼地方出身。280年頃、筑紫から大和に東征する。難波津から生駒山を越え、日下で葛城王朝の活馬長沙彦(いくめながさひこ)と戦い、これを破る。葛城王朝の重臣伊迦賀色許雄命(いかがしこおのみこと)と皇兄大彦命(おおひこのみこと)が寝返って降ることにより、開花天皇は葛城を追われ、東征は成功した。
活目(活馬・生馬とも書くが、平群郡生駒のこと)の地名が「生馬郷、式内社生馬神社」として出雲国島根郡にあり(現松江市生馬)、『出雲国風土記』の生馬郷条にその先祖らしき者(八尋鉾〔美称か〕の長依日子)が見えますから、物部氏とともに出雲から到来した部族(物部同族か)という位置づけになるようです。
『書紀』一書に見える活目津彦根命(活津彦根命ともいうが、実体は天津彦根命〔天若日子〕に同神か)

式内社・生馬神社
神魂尊の御子・八尋鉾長依日子命を祀る神社。
出雲国風土記に、「生馬社」が2つ。一つは東生馬にあり、もう一つは西生馬。当社は東生馬の生馬社にあたる。西生馬の社は、一般には式内論社とはなっていないが、当社の元宮が、北の谷であり、里へ移ったと考えると、西生馬も同じ場所から派生した後継神社の可能性があると思う。明治43年の内藤虎次郎氏の「卑弥呼孝」によれば、難升米は垂仁朝に常世の国へ派遣された田道間守(たじまもり)とされていますし、都市牛利を出雲の都我利神社の都我利ではないかともしています。
この2人の後、魏へ向かった倭人は、具体的な名前が僅か数人だけしか登場してませんでした。
伊声耆、掖邪狗、載斯烏越の3人です。内藤氏によれば、伊声耆、掖邪狗共に出雲国造の祖、伊佐我命と比定されているし、「上代日支交通史の研究」(藤田元春著、昭和18年)によれば、伊蘇志とされ、また内藤虎次郎氏は、載斯烏越の載斯は須佐之男の須佐であり、藤田氏は倭載斯(イヅシ出石・イソシ伊蘇志)烏越(ホエ大兄)としています(いずれも中国正史日本伝・内藤道博編訳より)。ほか、都市牛利は田道間守であるとの説もあるようです。載斯烏越は載斯と烏越で2人の人物なのかもしれません(その場合4人)。

筑紫の伊都県主の五十迹手(いとで)
岡県主熊鰐と同様に神器を賢木に掛けながら、天皇の一行を穴門の引島にて船でお迎えし、一行は橿日宮に到達します。その際、三種の神器が上下に並ぶ順番は岡県主熊鰐のものとは異なり、上枝には八尺瓊、中枝には白銅鏡、下枝には十握剣が五百枝の賢木に掛けられ、これらが献上されたのです。そして伊都県主は、『天皇が八尺瓊の美しく曲がっている如くに、委曲を尽くして天下をお治めくださるよう、この白銅鏡の如くに、明らかに山川や海原をご覧くださるよう、この十握剣を引き提げて、天下を平定してくださるように』と語り、その言葉を聞いて喜んだ天皇は、『伊蘇志』と仰せられて、五十迹手の国を「伊蘇国」と呼びました。それが、伊都国の語源であると日本書紀には明記されています。
三種の神器をもって天皇をお出迎えするという話は、他にも記述があります。景行天皇の時代でも同様に、一国の首領であった神夏磯姫は、天皇の使者が来られたことを聞いて三種の神器をもってお出迎えをしています。
神夏磯姫は賢木の枝に八握剣、八咫鏡、八尺瓊という、「ヤ」の発音で始まる名前のついた三種の神器を掛け、白旗を船首に立てて、天皇に懇願したと書かれています。剣と鏡、そして八尺瓊と呼ばれた勾玉の「三種の神器」をもって天皇をお出迎えする儀礼が古代に存在したということは、単に天皇に服属する意思を表明しただけでなく、神として迎えることを意味したと考えられます。
魏志韓伝には、韓は「東西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。」、弁辰伝には「その瀆盧国は倭と界を接す。」ですから、韓の南に海はなく、倭だと認識されていたことになります。
山海経海内北経は「葢(カイ)国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」と記します。葢国がどこかというと、高句麗西方に葢馬大山という地名が現れますから(魏志東沃沮伝)、そのあたりに存在した国だろうとされています。
どうも、高句麗成立(前漢末期)以前、その南方(朝鮮半島北部)に倭が存在したらしい。三国史記、高句麗本紀にも倭山という地名が現れます。
魏志倭人伝の倭国は海峡国家で狗邪韓国は倭地だと書かれています。
狗邪韓国は魏志韓伝に見られる弁辰狗邪国で、弁辰(弁韓)に属します。狗邪(コーヤ)というのが国の名前で、他は所属を表す形容です。

魏志倭人伝の「古より以来、その使、中国に詣ずるは、皆、大夫を自称す」の「古」は「倭人は鬯草を貢ぐ」の周代のことを指すとし、三国志の中から「古」の例を探し出し、周以前のことだと証明を装っていますが、夫餘伝に「古之亡人」、韓伝に「古之辰国」とあり、どちらも漢代の出来事を「古」と表現しています。自らに都合の良いデータしか提供しないようです。
夫餘は「濊王之印」を授けられており、元々は朝鮮半島中東部の濊と同一国だったことがわかります。それが遙か北方に移動している。戦国時代は中国そのものがバラバラでしたし、秦も遼東に長城を築いて防御しており、周辺諸民族を冊封体制に組み入れた形跡はありません。したがって「濊王之印」が与えられたのは漢初期で、七代目の武帝の東方進出により、濊が分裂し、北方に逃れたもの(亡人)が夫餘になったと推定できるのです。この時、朝鮮半島中部には楽浪、玄菟、真番、臨屯の四郡が置かれ、漢の所領となっています。
辰国は漢書、西南夷両粤朝鮮伝に見られ、その建国は韓建国(B.C195)より後になります。辰韓が古の辰国で、楽浪から韓に逃れ、韓が東方の土地を割き与えたと言い伝えているのですから(魏志韓伝)。
「古」は、別に太古とは限らない。したがって、倭人伝の「古より以来」は、後漢に朝貢した奴国以降を指します。「倭人は鬯草を貢ぐ」のどこに大夫の文字が見られるのか?
隋書俀国伝に「夷人は里数を知らず、ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。」とあり、 “東西が南北より二ヶ月も長い横長”ですから、縦長の九州ではありません。本州を島と扱っていることを指摘しておきます(これも、あくまで当時の日本人、中国人のイメージで、明確な地形を知っているわけではない。隋代には方向は正しく東と認識されています)。 
 

  

 
白村江の戦い 1

 

(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい) 663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多い。「白村江」という川があったわけではなく、白江(現錦江が黄海に流れ込む海辺を白村江と呼んだ。「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった。漢語では白江之口と書く(旧唐書)。 
背景

 

朝鮮半島と中国大陸の情勢
6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。
倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていた事が『日本書紀』の記録から知られている。大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出である。『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。
475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津(くまなり)への遷都によって復興し、538年には泗沘(しび)へ遷都した。当時の百済は倭国の属国となっており倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている。この状況を、熊津遷都のころから百済には倭人系官僚もおり(中国系、高句麗系、新羅系官僚もいた)、伽耶地域侵攻の際にも倭系官僚が活躍したとする見方もある。その説では、倭系官僚は百済の役(後述)の頃にも存在したといわれる。
一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。同年に建国された唐は、628年に国内を統一した。唐も二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年〜648年)に渡って侵攻を重ねた(唐の高句麗出兵)が、隋と同様にこの時点では攻略に失敗した。
唐による新羅冊封
新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対的したことで、唐は新羅を属国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(〜661年)として即位すると、度々朝見して唐への忠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた。649年、新羅は朝貢の使者として金多遂を倭国へ派遣した。
百済の情勢
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大旱魃による飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している。657年4月にも旱魃が発生し、草木はほぼなくなったと伝わる。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。
倭国の情勢
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。
新羅征討進言 / 白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
遣唐使 / 白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。
蝦夷・粛慎討伐 / 斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。 
百済の役

 

660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という。
百済滅亡
660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった。
百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭ケンと白江を超えて侵入していた。
黄山の戦い / 百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、階伯(かいはく)将軍の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた。新羅側は太子法敏(のちの文武王)、欽純(きんじゅん)将軍、品日(ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。7月9日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した。この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方の部下が取り成し罪を赦された。
唐軍は白江を越えたが、泥濘が酷く手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸、熊津口の防衛線を破り王都に迫った。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した。
7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否した。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した。
660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍に王都泗沘(しび、サビ)城を守備させ、王文度(おうぶんたく)を熊津都督として派遣した(熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた。大唐平百済国碑銘は、現在も扶餘郡の定林寺の五重石塔に残っている。
百済復興運動
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かうと、百済遺民鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。忠南大興郡大興面)を防衛した。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた。熊津都督王文度も着任後に急死している。
唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した。
しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信、僧侶道琛(どうちん)、黒歯常之らの任存城や、達率余自信の周留城(スルじょう)などが抵抗拠点であった。
倭国による百済救援
百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり)。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。 
軍事力

 

唐軍
総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している。また唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていたという。日本書紀によれば、白村江の戦いの663年から666年にかけて、「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。
水軍 / 水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。
陸軍 / 不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁原、新羅王の金法敏(文武王)。
倭国軍
第一派 / 1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派 / 2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派 / 1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県清水市を本拠とした)。
倭国軍の戦闘構想は、まず豊璋王を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、後続部隊の到着を待って唐軍と決戦することにあった。 
戦いの経過

 

661年5月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。
662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
663年(天智2年)、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。
海上戦
倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年唐・新羅水軍に大敗した。この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて杜撰なものであった(『日本書紀』)。
陸上戦
同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。 
戦後・影響

 

この戦いは唐の勝利に終わった。大陸に大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。白村江の戦いでの敗北は、日本史上でも第二次世界大戦後のアメリカ合衆国による占領をのぞけば、日本が外国の占領下に入る危険性が最も高くなった敗戦であった。この敗戦により倭国は領土こそ取られなかったものの、国防体制・政治体制の変革がなされ、急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令法令群が策定、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。戦の3年後、唐は高句麗侵攻を開始し、668年に高句麗は滅亡した。 
朝鮮半島
高句麗滅亡
一方、朝鮮半島では唐が666年から高句麗へ侵攻(唐の高句麗出兵]])しており、3度の攻勢によって668年に滅ぼし安東都護府を置いた。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。高句麗の滅亡によって、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった。698年に靺鞨の粟末部は高句麗遺民などと共に、満州南部で渤海国を建国した。渤海の建国当初は唐と対立していたが、後に唐から冊封を受け従った。また日本は、新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは新潟や北陸などの日本海側沿岸での交流を深めていった。
新羅による半島統一
戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で吐蕃と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津都督府を襲撃し、唐の官吏を多数殺害した。他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受けて属国となる事を赦され、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の韓国と北朝鮮南部)がなされた。 
倭国
戦後交渉
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。天智天皇は唐との国交正常化を図り、669年に河内鯨らを遣唐使として派遣した。百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており、倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定される。 670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている。
防衛体制
天智天皇は白村江の敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。さらに667年には、天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移して、防衛網を完成させた。
壬申の乱
671年に天智天皇が急死すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を構築してゆき、新たな国家建設を進めた。天武天皇は、遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。内政面では、天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、それまでの倭国(ヤマト王権)は「日本」という国家へと生まれ変わることとなった。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設をもたらしたと考えられている。
百済遺民
天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。朝鮮半島に残った百済人も新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の種は絶滅した。
捕虜の帰還
690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽東S(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた。幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。
707年、讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部信太形見(こせべのかたみ)らも帰還した。 
異説

 

7世紀まで九州北部に日本列島を代表する王朝があったとする古田武彦らの九州王朝説の主張によれば、白村江で戦ったのは畿内ヤマト王権(日本)軍ではなく大宰府に都した九州王朝(倭)軍であるとする。しかし、日本古代史の学界からは史料批判などの歴史学の基本的な手続きを踏んでいないととみなされている。 
 
百済

 

百済の建国 (346年ころ)
朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。
伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。
346年は、近肖古王の即位の年である。
(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)
百済の建国伝説
高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て自分たちの国を建てようと南へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。
(注:「三国史記」の別伝によると、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の連れ子としている。)
やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へたどり着き、2人は臣下とともに負児岳(ふじがく)という高い山の頂にのぼって周囲を見渡した。沸流は、海の見える方が気に入った。しかし、10人の臣下は口をそろえて反対し、「それよりも、こちらの方です。北に江が流れ、東に山をひかえ、南は平野、西は海、こんな究竟な、よい場所はありません。都はぜひ、こちらへお建てになることです。」そういって勧めたが、沸流はどうしても聞かない。百姓たちを半分にわけて、自分だけ海辺の方へ都を置くことになった。弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)である。弟の温祚は臣下たちの意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定めた。10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼ぶことになった。
弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、百姓たちもさんざん苦労を重ねた。沸流が弟のようすを見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしている。自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなった。それで百姓たちは慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めた。
百済は、ここから領土を広げて大きくなった。
(注:実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年のちのこととみられる。)
中国が五胡十六国の時代
346年、近肖古王の即位。
近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。
367年、百済と新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)
371年、高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)
372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。
同372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)
同372年、慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。
377年、北朝の前秦へも朝貢。
384年、西域の僧侶摩羅難陁(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。
387年、東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。
391年、倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)
396年、高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。
397年、倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。
402年、百済から倭国へ使者を送る。
403年、倭国から百済へ使者を送る。
404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)
405年、百済の阿莘王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の碟礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが碟礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。
416年、東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。
420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。
475年、高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。
478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。
479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。
501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。
512年、百済が日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)
513年、百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己汶(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己汶の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己汶と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)
514年、判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)
515年、百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)
516年、百済は物部連らを己汶で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)
538年、百済から日本へ仏教が伝えられた。
538年、都を熊津から泗沘(しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。
551年、百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。
552年、新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。
554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。
562年、加羅諸国が新羅に占領される。
中国が隋の時代
581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに 朝貢した。
百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。
597年、百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条) 
中国が唐の時代
618年、唐が成立する。
624年、百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。
636年、漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。
645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。
642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。
645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。
655年、高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。
658〜659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。
660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。
百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。 
百済の滅亡
朝鮮半島では、半島北方と大陸方面を領土とした高句麗、半島南東部の新羅、南西部の百済の三国がしのぎをけずっていたが、中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり、隋による統一国家が成立すると、朝鮮半島への出兵を行うようになった。
隋は高句麗に対する3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するが、中国国内に内乱が起こって自滅した。
次の唐も高句麗へ3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結んで先に百済を滅亡させる作戦に出た。
660年、唐は水陸13万人の大軍を動員して山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、百済の王都の泗沘城(しひじょう・錦江下流域)を攻めた。
百済王はいったんは旧都の熊津城(錦江中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、660年、百済は滅亡した。 
白村江の戦い
百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。
なお、多くの百済人が日本へ亡命した。
【日本書紀の記述】 日本書紀に、大要次のような記事がある。
斉明天皇6年(660年) / 百済の滅亡後、鬼室福信と余自進がそれぞれに、散らばった百済兵を集めて城を守った。鬼室福信は、唐人の捕虜百余人を日本へ送り、日本の援軍を乞うとともに、日本へ送られていた王子の余豊璋を迎えて国王としたいと伝えてきた。
斉明天皇7年(661年) / 斉明天皇は、百済へ援軍を派遣するため筑紫(現在の福岡県)に移られたが、ここで亡くなった。のちの天智天皇が後を継ぎ、即位しないまま筑紫で政務をとり、百済への援軍と武器・食料を送らせた。その後、百済の王子豊璋に冠を授け、妻をめとらせたうえ、5千人の兵を添えて百済へ送った。百済では、鬼室福信が迎えて、豊璋に政務を任された。
天智元年(662年) / 高句麗は、唐と新羅の連合軍に攻められて、日本に援軍を求めた。日本は兵を送って疏留城(そるさし・都々岐留山(つつきるのむれ))に構えたので、唐は南進できず、新羅は西進をはばまれた。日本が勅して豊璋を百済国王とし、また、福信の労をねぎらった。この年は、百済を救うために、武器を整え、船を準備し、兵糧を蓄えた。
天智2年(663年) / 日本から2万7千人を派遣した。百済王の豊璋は、福信に謀反の心があるのを疑って、福信を斬り殺させた。良将であった福信が斬られたことを知った新羅は、百済王のいる州柔(つぬ)を取ろうとした。この計画を知った百済王は、自分は日本の援軍を白村江(錦江の河口付近)で迎えてくると諸将に告げて城を出た。その後に、新羅が城を囲んだ。また、唐の軍船170艘が白村江に陣をしき、日本の先着した水軍はこれに敗れた。翌日、日本軍と百済王は、隊伍の乱れた中軍を率いて作戦もなく先陣を争って戦い、唐軍に左右から船をはさんで攻撃され、大敗を喫した。百済王は数人と船に乗り、高句麗へ逃れた。その後、州柔城も降伏した。日本軍と余自進を含めた多くの百済の人々が、日本へ引き上げた。この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人(さきもり)と烽(すすみ・のろし台)を置き、筑紫に大堤を築いて水を貯えた。 
 
白村江の戦 2

 

4世紀頃の中国はまさに群雄割拠の時代でいくつもの小さな国々に分裂しており中国統一に向けてそれぞれの国々がしのぎを削っている状態にあり、このような状態ではすぐ隣にある朝鮮半島への勢力拡大などできる訳はなく、当然、朝鮮半島への政治的介入が手薄になってしまいます。
その混乱に乗じて朝鮮半島では「高句麗(こうくり)」「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」という3つの国々が成立し、朝鮮半島は三国時代に突入します。
一方、4世紀の日本はというと大和政権が九州〜関東までをほぼ手中に収め、この勢いに乗って朝鮮半島に進出しようとしているところでした。
そして大和政権は朝鮮半島南部に「任那(みまな)」を確保することができ、ここから約200年にわたって日本は朝鮮半島に対して政治的な干渉を続けていきますが、高句麗・百済・新羅・任那の勢力は大体同じくらいであったので4国のバランスは保たれたままの状態がしばらくの間続きます。
しかしこの朝鮮半島のバランスが6世紀になって一変します。朝鮮半島の4国のうち、「新羅」が力をつけ始めてきたからです。
この事態に危機感を感じた「百済」の「聖明王(せいめいおう)」は日本から援軍を出して貰おうと考え、大和政権に対して仏教や仏像などをプレゼントしてご機嫌をうかがいます。(『仏教伝来』538年)
ところがプレゼントされた日本の方では仏教を受け入れようとする有力豪族の「蘇我氏(そがし)」と仏教などいらないという同じく有力豪族の「物部氏(もののべし)」の対立を生んでしまい、百済に援軍を送るなどできない状況になってしまいます。(ちなみにこの対立は蘇我氏が物部氏を滅ぼすことにより勝利し、日本は仏教国家への第一歩を踏み出します。)
そして日本が援軍を送れないまま時間だけが経過し、結局、聖明王は新羅との戦いで死んでしまい(554年)、新羅はその勢いで任那を攻撃、任那を滅ぼしてしまいます。(562年)
一方、中国の方では589年に「隋(ずい)」という国が約370年間の混乱を鎮めて中国を統一しますが、そのすぐ後「唐(とう)」という国が隋を滅ぼして中国を統一します。(618年)
そして朝鮮半島の新羅はこの唐と手を結んで百済を攻撃、百済の首都を陥落させて滅亡寸前にまで追い込みます。(660年)
逃げ延びた百済の王は滅亡寸前の百済の再起をかけ再度日本に対して援軍の要請を行います。
その要請を受けて時の実力者「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」は母親である「斉明天皇(さいめいてんのう)」(この天皇は以前、『皇極天皇(こうぎょくてんのう)』という名前だったのですが、『大化の改新』で一度皇位を降り、重祚(ちょうそ)して再び天皇となったので名前が2つあります。)と共に大群を率いて九州へと向かいます。
しかし斉明天皇はその九州で病死してしまったので(661年)、中大兄皇子は天皇の遺体を都へ運ぶため一旦飛鳥に戻り、天皇の即位式も行わないまま再び九州へと向かい朝鮮半島への出兵の号令をかけます。
戦いは1年以上も続き、そして663年、朝鮮半島で新羅軍と戦っている日本軍のもとに百済からの急報が届きます。
なんと唐・新羅の連合軍が百済軍のたてこもる周留城(するじょう)に迫りつつあるというのです。
日本軍は直ちに百済軍の救援のため、朝鮮半島にある川「錦江(きんこう)」の河口にある「白村江(はくそんこう・『はくすきのえ』ともいう)」に水軍400隻を向かわせます。
舞台は変わってここは白村江。唐・新羅の連合軍はすでに周留城を完全に包囲し、日本の援軍が到着するのを手ぐすね引いて待っています。そして日本軍が白村江に集結、ついに日本軍vs唐・新羅連合軍の戦いの火ぶたが切って落とされます。戦力は日本軍が400隻、対する唐・新羅連合軍は170隻なので戦力的には日本軍が圧倒的に有利です。
しかし、戦いが始まってみるとなんということでしょう。日本軍の船は唐・新羅連合軍の火攻めにことごとく炎上、ほとんどの兵士は逃げることもできず溺れ死んでしまい、あっけなく壊滅してしまいます。その後まもなく百済は他の拠点も攻め落とされて結局滅亡してしまいます。(663年)
日本が負けた理由については諸説ありますが、
1. 船の数では日本が有利であったが、唐・新羅連合軍の船とは大きさが違った。
2. 準備万端の唐・新羅連合軍に対して、日本軍は長い航海で兵士達が疲れていた。
3. 日本軍の司令官には火攻めについての知識が全くなかった。
といったところでしょう。とにかく日本軍はボロ負けし、これにより日本は朝鮮半島への足場を完全に失ってしまいます。もちろん任那の復興などはとうてい無理です。
中大兄皇子はボロ負けしたことにガックリしますが、唐・新羅連合軍が北九州に侵攻してくる場合を考えると落ち込んでばかりもいられません。
そこで664年、北九州に「防人(さきもり)」(北九州を警備する役)を置き、「水城(みずき)」(川をせき止めて水をたたえた堤防で全長約1km)や「山城(やまじろ)」(防御目的で山の上に築いた城)を築きます。
さらに万が一、唐・新羅連合軍が九州を占領し瀬戸内海を通って近畿地方に攻め込んできた場合に逃げやすいように、667年に都を「近江大津宮(おうみおおつのみや)」(現在の滋賀県大津市)に移して防衛態勢を整えます。
そして翌年の668年、この近江大津宮で中大兄皇子は即位して「天智天皇(てんじてんのう)」となります。  
 
「白村江の戦」前後の日本史 3

 

遣唐使派遣
聖徳太子がちょうど亡くなる少し前の、618年に隋が滅びます。
代わって唐が中国を統一したというので、今度はこの国に遣唐使を送ろう、ということになりました。そこで630年、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を中心とした第1回の遣唐使が派遣されます。この時は、新羅に対して有利な立場に立とうというのが狙いでしたが、残念ながら唐は新羅寄りの立場だったようで、さらに日本を服属国とみなしていたため、外国面では互いに目立った成果はなかったようです。
それでもこれ以後、多くの人間が遣唐使船に乗って唐へ派遣され、多くのことを学んで帰国したり、中には唐の政府に使えて一生を終えるものも登場しています。
周りは敵だらけの蘇我蝦夷?
どんな人間にも寿命は来ます。 4代の天皇に仕え、54年も大臣を務めた蘇我馬子は626年に亡くなりした。
そして家督を継いだのが、蘇我蝦夷(そがのえみし)。やはり大臣に就任し、絶大な権力をふるうことになります。
まず628年、次期天皇について明確な意思表示の無いまま推古天皇が没すると、後継者を誰にするかが問題となります。蘇我蝦夷としては、妹の夫だった田村皇子を即位させたい。これに対し、一部からは聖徳太子の息子である山背大兄王(蘇我蝦夷の甥でもある)を推す声もありました。
この山背大兄王を支持する代表格というのが、蘇我蝦夷にとって厄介だった人物でした。
その人物の名を、境部摩理勢(さかいべのまりせ)。一説によると蘇我馬子の弟ともいわれ、蘇我一族の長老的存在だったようです。で、あるから誰を次期天皇にするか、というのは蘇我氏一族の権力闘争的な意味もあったようです。結局、蘇我蝦夷は境部摩理勢の説得が出来なかったため、強硬手段で彼を殺してしまいました。
こうして、田村皇子が即位しました(舒明天皇)。
蘇我蝦夷は、絶大な権力を根拠とした勝手な振る舞いも多く、周囲からかなり警戒されていたようです。特に、舒明天皇の叔父である大派王(おおまたおう)は「きちんと勤務時間を決めて、朝廷で働け!」と、これは何も蝦夷に限ったことではなかったようで、当時の役人全体の勤務態度のルーズさを指摘。ただし、特に蘇我蝦夷は大臣なのだから、率先して決まりを守れ、と忠告しますが無視。
そして舒明天皇が亡くなると、その皇后を即位(皇極天皇)させます。
皇位を狙っていた山背大兄王としては面白いはずがありません。当然、蘇我蝦夷とさらに険悪な仲になります。
蘇我氏本家の滅亡
643年、蘇我蝦夷は大臣の位を、息子の蘇我入鹿(そがのいるか)へ私的に譲渡しました。
権力を手に入れた蘇我入鹿は早速、ライバル的な存在だったに山背大兄王に対して兵を動かし攻撃を仕掛け、彼を自害に追い込んでしまいました。さすがの蘇我蝦夷も「何てことをしてくれたんだ!」と嘆いたそうです。さすがにやりすぎると何されるか解らないぞ、というわけでしょうね。
その嫌な予感は見事に的中。
645年、皇極天皇の息子だった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ 当時20歳)と、前回で紹介した南淵請安の弟子である中臣鎌足(なかとみのかまたり 当時32歳)らのグループは、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿を暗殺。隠居していた蘇我蝦夷は、「もはやこれまで」と自害し、ここに蘇我氏本家は滅亡しました。これを、乙巳の変(いっしのへん)といいます。
ちなみに、よく「蘇我氏滅亡」なんて表現する本がありますが、蘇我氏といっても蘇我馬子らの本家に快く思っていないグループも多く存在し、この乙巳の変でも蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が中大兄皇子に協力しています。ただ、やはり蘇我氏それ自体の排除は次第に進められ、僅かに蘇我一族の石川氏などが活躍するに留まっています。
そのために、必然的に蘇我氏が悪者扱い状態ですが・・・。
理想とする国家観の違いや、朝鮮半島を巡る外交政策などの、政治的対立によって発生した権力闘争的な面も強く、そんな「勝手な振る舞い」とか「独裁的な・・・」などの記録は、どこまで鵜呑みにして良いのかな、と個人的には思います。特にこれ以後、平安時代まで続く藤原氏の最初の権力闘争が、この蘇我本家排除であるとも言えるわけでして・・・。
*注:中臣鎌足は、藤原氏の祖。 
大化の改新
こうして蘇我氏の強大な権力を排除した中大兄皇子らは、皇極天皇の弟、軽皇子を即位させ(孝徳天皇)、左大臣に阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂を、内臣に中臣鎌足を配置する新政府を樹立。中大兄皇子は皇太子になりました。
そして唐のように元号を定め、大化とします。
さらに646(大化2)年には、改新の詔(みことのり)を発表し、
1.公地公民制(=すべての土地と人民は国家のもの)へ移行し、屯倉・田荘などの私地私民制を廃止
2.中央・地方の行政区画を定め、軍事施設を整備、
3.戸籍を作って人民を登録し、全国の土地を班田収授法により分配
4.全国に統一的な税制を作る
としました。そして、難波宮(大阪市)に遷都します。
こうした、一連の改革を大化の改新といい、「本当に実行されたの? 後世の創作じゃないの?」と、信憑性にやや疑問もあるものの、ともあれ天皇中心の国家の整備が進められていきました。その中で、残念なことに蘇我倉山田石川麻呂は、謀反の疑いをかけられて「私は無実だが、潔く死んでやる」と自殺しています。石川麻呂の異母弟、蘇我日向(ひむか)が「兄が、中大兄皇子を暗殺しようとしています」と密告し、中大兄皇子がそれを信じたのが原因。
また、孝徳天皇と中大兄皇子の対立が激化。結局、中大兄皇子らは飛鳥に事実上遷都し、難波宮には孝徳天皇が置き去りにされることに。こうして孤独にさせられた孝徳天皇は、失意のうちに没しました。
そして中大兄皇子の母親、皇極上皇が再び即位します(斉明天皇)。
この政変劇の中で、孝徳天皇の息子の有馬皇子は、情勢の推移を見守っていましたが、蘇我赤兄(あかえ)に謀反を勧められて決起を決意しました。ところが、なんと蘇我赤兄に裏切られて逮捕されてしまうのです。そして有馬皇子は、中大兄皇子に処刑されてしまいました。どうやら、仕組まれていたようで・・・。
先ほどの蘇我石川麻呂の死も、おそらく中大兄皇子にとって権力を脅かす存在を排除したものでしょう。
中大兄皇子の権力基盤も磐石ではなく、孝徳天皇・蘇我石川麻呂VS中大兄皇子・中臣鎌足なんて状態だったんじゃないのでしょうか。蘇我本家打倒では目的が一致したとはいえ、その後は孝徳天皇系の勢力を排除することが、中大兄皇子らには必要不可欠だったのでしょう。  
東北への勢力拡大?
ところで、長らく大和政権は関東から西が権力基盤でしたが、この頃より積極的に東北へ進出を始めたようです。当時の東北には、朝廷に従わない蝦夷(えみし)と呼ばれる勢力がいて(・・・誰かさんの名前と同じなのは何故?)、彼らを何とかして従わせたい、というのが大和政権の悲願でした。
そこで647年に淳足柵(ぬたりのさく 現・新潟県新潟市沼垂
ぬったり)、翌年に磐舟柵(いわふねのさく 現・新潟県村上市)という砦のようなものを造らせ、さらに阿倍比羅夫に水軍を引き入らせて、齶田(あぎた 現・秋田県)や津軽の方に進出した・・・といわれています。もっとも、この頃は沿岸部程度しか進出できなかった上、現地の蝦夷の首長に対し、「そなたを、この地域の長官に任命する〜」「はあ・・・。よく解らんけど、任命されておくか。」といった感じのものだったようですね。
白村江の戦い
661年、新羅と唐の連合軍に攻められた百済が、ついに滅亡してしまいました。
しかし、百済の残党軍は再起を図り、日本に人質として来ていた百済の皇子、余豊璋の百済送還と日本からの援軍を要請します。当時の日本は、斉明天皇が没し、中大兄皇子が天皇位には就かず政治を主導し始めた時でした(この政治体制を称制といいます)。中大兄皇子は、「よっしゃ、百済を復興させよう!」と考え、兵を動員することにしました。
まずは662年、余豊璋を百済へ送還すると同時の派兵を実施します。そして翌年に兵力増強し、
阿倍比羅夫率いる日本&余豊璋率いる百済連合軍と、新羅&劉仁軌率いる唐の連合軍による海戦が始まりました。
これを、白村江の戦い(はくすきのえ)といいます。その結果は、日本・百済連合軍の見事な敗北で、余豊璋は高句麗に逃れ、行方不明に。これによって、ついに百済は歴史から姿を消しました。
さあ、真っ青になったのは北九州の長津宮にいた、中大兄皇子です。
余勢を駆って新羅、唐の連合軍が日本に攻め込んできたらひとたまりもないぞ! さあ、どうした!と、いうわけ。おまけに、全ての豪族が百済寄りの姿勢であったわけではないので、「負け戦によくも出陣させたな!」と、中大兄皇子への責任問題も浮上する恐れがある。いやいや、そもそも全ての土地と人民は国のものだ!という公地公民という強烈な中央集権政策の評判が良かったわけではなかった。
そこで、豪族達から人気のあった同母弟の大海人皇子を取り立て、自らの権力基盤を固めることにしました。また、官位を19から26に増やし、より多くの中小貴族・豪族に朝廷へ進出する機会を増やします。また、公地公民・・・の原則を許し、民部(かきべ)・家部(やかべ)など私有民を部分的に認めることにしました。
こうした、それまでの路線を修正した改革案を、「甲子の宣」(かっしのせん)といいます。
これは一定の評価を得ることが出来、なんとか国内の不満を抑えることが出来ました。そして、海から唐・新羅に攻められては困る、ということで都を東へ遷都することに。不満の声は高かったようですが667年、近江大津宮へと移しました。
さらに同年、中大兄皇子はついに即位します(天智天皇)。さらに、これだけでは安心できない天智天皇は、現在の福岡市の南に大野城と、長い城壁である水城(みずき)を築城し、ここに常駐の軍隊である防人(さきもり)を配置(兵士は主に関東から徴発)。また、この頃に大宰府(だざいふ)と呼ばれる九州における大和政権の政庁を本格的に整備したようです。
この他に、長門城や屋島城など、朝鮮の技術を取り入れた朝鮮式山城を西日本各地に築城させています。 
天智天皇の死
こうして危機に備えた天智天皇の改革はまだ続き、670年に庚午年籍という日本初の全国的な戸籍を作成・・・し始めたのか、し終わったのかは不明ですが、とにかくいつかしら完成したのは間違いない(笑)。人民の氏姓、本籍はどこか、身分の良賤は、とこういったのを記録したようです。残念なことに、せっかく永年保存扱いであったにもかかわらず、平安時代中期以降の存在はハッキリしておらず、現在は見ることが出来ません。
それから、その1年前である669年に中臣鎌足が死去しますが、死の直前に大織冠(正一位相当)と藤原の氏(うじ)を授け、天智天皇はそれまでの功績に報いました。以後、戦時中の近衛文麿内閣に至まで、日本史に大きな影響を与える藤原氏の誕生です。
さて、こうして意欲的に政治に取り組んだ天智天皇ですが、671年に死去してしまいました。
順番を並べ替えると、近江大津宮遷都(667)、中臣鎌足死去(669)、庚午年籍(670)、天智天皇死去(671)となりますが、天智天皇の後継者を誰にするか、という問題がありました。当時の風習と人気から言えば、どうも天智天皇の弟、大海人皇子が妥当といったところだったのですが、天智天皇は息子である大友皇子を即位させたかった。
そこで大友皇子を新たに設置した太政大臣(だじょうだいじん)という、行政の最高位のポストに就任させるなど、大海人皇子を冷遇。怒った大海人皇子は宴会の席で槍を持って暴れるなどしましたが、これまで政敵を何人も倒してきた天智天皇です。実弟だろうが、どういう扱いをされるか・・・。というわけで、出家し、坊さんの姿になって隠居しました。
大友皇子と大海人皇子
さあ、672年。叔父VS甥の熾烈なバトルがスタート! 壬申の乱(じんしんのらん)、というやつです。皇位継承権を持つ皇族が鎧兜つけて殺し合いをするというのは、大きな争いではこれが最後。
さて、まずは大海人皇子は当初、奈良県南部の吉野に隠居していましたが、密かに美濃(岐阜県)へ脱出します。いったん、朝廷の直接的な支配下から離れたわけですね。ここで、これまでの政治に不満があったり、没落した豪族などを味方につけ、不破関(岐阜県関ヶ原町)、鈴鹿関(三重県鈴鹿市)などの交通の要所を押さえます。また、長男である高市皇子、それから大津皇子などの息子も駆けつけました。
これに対し、大友皇子(弘文天皇)は右大臣の中臣金(なかとみのかね)、左大臣の蘇我赤兄を中心に対策を協議し、有力な豪族達に軍を組織させます・・・が、こうした努力もむなしく、約1ヶ月の戦いの末に大海人皇子の軍勢が勝利し、大友皇子は自殺。25歳の短い生涯を終えました。また、中臣金ら8人は死罪に、蘇我赤兄らを流罪に処されました。これ以後、中臣氏、蘇我氏の多くは没落していったようです。
そして大海人皇子は673年に都を飛鳥浄御原宮とし、天皇に即位しました(天武天皇)。
ちなみに、先ほど没落した豪族と書きましたが、ここで華麗な復活劇を遂げたのが大伴氏。あの、大伴金村失脚後、物部氏や蘇我氏に追いやられ、一部例外を除けば随分と長く中央政界へ復帰できませんでしたが、大伴馬来目(望多 まくた)、大伴吹負(ふけい)兄弟が大海人皇子の軍勢に参加し、朝廷の軍事を担当していた特性を遺憾なく発揮。再び、貴族名門として勃興しました。
*ちなみに、大伴馬来目の兄である大伴長徳(ながとこ)は孝徳天皇政権下で右大臣でしたが、長徳の没後、馬来目たちは不遇だったようです。 
天武天皇の政治
こうした政変劇によってこれまでの有力氏族が没落。
こうなると天武天皇は中央集権体制をより前進させることが可能になりました。そこで、地方行政区画の整備、班田収授のための造籍・測地を進め、さらに再び私有民を禁止。さらに、684年に八色の姓(やくさのかばね)を制定します。これは、真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8種の姓。
導入の狙いと仕組みですが、豪族達をランク付けすることにありました。
例えば、真人(まひと)は天皇の近親者のみに与えられ、朝臣(あそん)は中臣氏などの一部例外を除き、それまで天皇の子孫と称していた豪族に与えられます。あとは、豪族達に出自によって割り振りましたが、このように天皇家一族を上位のランクインさせたのです。
それから大和政権の時代から、服属した豪族達に、鏡や太刀などの宝物を献上させ、石上神社というところへ保管してきましたが、これを返還することで融和策を採り、また積極的に、朝廷の役人になろうと呼びかけます。
さらに飛鳥浄御原令という日本初の統治体系に関する法令を制定し(ただし、現存していないため不明な点が多い)、さらに6年ごとに戸籍を作成させるようにします。
また、これまで「大王」だった称号を、実はこの段階で初めて「天皇」と改めました。これは、唐の高宗(位650〜683年)が自称していたもので、中国の伝説上の帝王の1つのことでもあります。おそらく、これを聞いて「格好良いなあ」と思ったんでしょうし、唐と親交を保ちつつも、ただの朝貢国ではないぞ、という意思表示もあったんでしょう。それから、これまでの土下座のような礼の仕方から、立ったままで礼をする、今のような形に改めたのも天武天皇でした。
後継者争い
こうして数々の改革を成し遂げた天武天皇でしたが、それぞれ母が違う多くの息子達が対立しないかどうか不安だったようです。その不安を残したまま、686(朱鳥元)年に没しますが、その不安は見事に的中してしまいました。
まず、天武天皇死後にもっとも権力を得たのが、讃良皇后でした。彼女は、天智天皇の娘であり・・・え〜、つまり叔父と結婚したわけですが、ついでに、その姉も天武天皇と結婚していたわけですが・・・。
その姉と、天武天皇の息子で、有力な皇位継承者候補だった大津皇子を謀反の容疑で逮捕し処刑するという行動に出ます。そして、讃良皇后は自分の息子である草壁皇子を即位させようとしますが、なんともはや、彼は直ぐに病死してしまったのです。
それでは、他の皇子に皇位が・・・と行くと思いきや、讃良皇后はそうはしない。
草壁皇子の息子、つまり自分の孫の軽皇子(当時7歳)が大きくなるまで、自分が天皇として即位しました(持統天皇)。そして、天武天皇の政治改革を引き継ぎ、全国の国司(くにのつかさ/こくし)という、中央から派遣された地方のトップに新たな戸籍である庚寅年籍を作成させます。
さらに、日本初の本格的な都城である藤原京を造営し、694年に遷都しました。
そして697年、それまでの習慣を破り、まだ自分は存命であるにもかかわらず軽皇子に天皇の座を譲ります(文武天皇)。そして、その後見をしながら701年には、飛鳥浄御原令の完成形である大宝律令を公布。律は刑法、令は行政法・民法にあたります。つまり、先ほどの飛鳥浄御原令は刑法の部分がなかったので、それを追加したわけです。
また、この大宝律令で正式に二官八省体制がスタート。
太政官・神祇官と、中務省(天皇の政務を保佐)・式部省(役人の人事)・治部省(外交と寺院)・民部省(戸籍と租税)・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省という行政組織であります。また、警察機能を有した弾正台や、九州を中心とした西日本における朝廷の根拠地である大宰府(だざいふ)等も含みます。
こうして国家体制を完成させ、自分の孫に皇位を譲ることに成功した持統天皇は、702(大宝2)年に58歳で死去しました。
以下、余談。
草壁皇子の后、すなわち文武天皇の母というのも、天智天皇(中大兄皇子)の娘なんですね(系図参照のこと)。あんれ、讃良皇后も天智天皇(中大兄皇子)の娘。てなわけでまあ、この時代というのは凄まじい婚姻関係ですね・・・。以前、蘇我氏が天皇と姻戚関係を結んだことから、権力を拡大したことへの反省だったのかも知れませんが、いやはや。それから、持統天皇の時代に着実に権力を獲得していったのが、藤原不比等。そう、中臣鎌足の息子です。幸いにも、壬申の乱の時には幼少だったため責任を問われれませんでしたが、親父の功績を元に出世と、そう単純にことは進まなかったようで、自身で持統天皇に接近することで引き立てられていき、刑部親王(天武天皇第9子)と共に、大宝律令の編纂に大きく尽力しました。ていうか、実質的に仕切っちゃいました。こうして藤原氏大発展の基礎を作ります。ところで、不比等のオヤジである中臣鎌足ってのは何をやったのかハッキリしない人物らしい。中大兄皇子への接近と出会いの伝説は、新羅(しらぎ)の列伝に類似の記事もあることから、中臣鎌足の功績は、後に藤原氏が着色したもの、という説も有力です。 
元明天皇の即位
さて、文武天皇が即位し、持統天皇も安心して世を去ったわけですが、やはり近親結婚は寿命の短い子供が出てしまうのか、707(慶雲4)年に彼は亡くなってしまいました。
そこで、後継者が問題となるのですが、文武天皇の息子だった首皇子(おびとおうじ)は当時7歳でした。
他には、まだ天武天皇の息子も多数いたのですが、草壁皇子の奥さん=首皇子の祖母としては、自分の孫を将来的に即位させたい。そこで、自分は天智天皇の娘だったことから、自ら即位します(元明天皇)。
物々交換から銭経済へ?
この頃から、それまでの物々交換に加えて、銅銭を使った商取引がスタートします。
有名なのは1999年に発見された富本銭(7世紀後半に使用?)。それから、708(和銅元)年に発行されたことが解っている和同開珎ですね。こうした貨幣・銅銭はその後、皇朝十二銭と総称されるように、957年発行の乾元大宝まで、何回かに分けて発行されます。
もっとも、朝廷が畜銭叙位令、すなわち銭を貯めたら官位をやる、という凄まじいPRを行ったにもかかわらず、近畿以外ではそれほど普及しなかったようで・・・。そのくせ、偽金も多く鋳造されたため、なかなか貨幣の信用力は高まらなかったようです。
平城京遷都
710(和銅3)年、元明天皇は律令政治を行う新しい中心地として、奈良盆地の北側に都を遷都します。これによって完成したのが唐の長安をモデルに造られた、平城京、そしてその中枢である平城宮。
街並みは区画整理され、都の東西に官営の市(いち)を設置。そして中心には幅75mの朱雀大路が、さらに、その奥には、天皇の住居や政治の中心である平城宮を設置しました。ここに、いわゆる奈良時代がスタートします。
ちなみに、幅75mの道路って物凄く広いんですよ。
一般的によく見られる、現在の自動車が行き違いがなんとか可能な程度の道路の幅が4m。その15倍以上の広さですから、恐るべし大通りです。また、平城京自体は、東西4.3km、南北4.8kmぐらいの大きさ。
実際に奈良を旅行された方なら解ると思いますが、かなり離れている興福寺も薬師寺も平城京の敷地の中に存在していた寺なんですよ。なお、モデルとなった長安と比べると、2分の1程度の広さです。
さて、奈良時代の朝廷は、国力の充実に努め、周防の銅や陸奥の金といった鉱山資源の開発を進め、さらに地方でも良質な織物が作れるように技術者を派遣。出来上がったものは中央に献上させるようにします。そして、国土の拡大を狙って東北へ進出。
既に7世紀、斉明天皇の時代には阿倍比羅夫が飽田(秋田)へ進出し、現地の蝦夷(えみし)を服属させていましたが、さらに8世紀になると、出羽国を設置し、中心として秋田城を築城。一方で太平洋側には多賀城を置き、東北経営の拠点としました。
九州では鹿児島方面へ進出し、大隅国を設置したほか、屋久島や種子島まで服属させました。 
日本書紀と古事記
さて、政治的な話に入る前に、「古事記」と「日本書紀」の編纂(へんさん)が終わったことから始めたいと思います。
この2つの書物は、合わせて「記紀」と呼ばれることもあるもので、要は歴史書。そして、今の天皇家の正統性を証明するために書かれたものです。
いずれも天武天皇の時代に作成が始まったと言われ、「古事記」の方は朝廷に古くから伝わっていた「帝紀」「旧辞」という歴史書が、次第に誤った解釈がされ始めているぞと天武天皇が考え、自ら検討を加えたものを稗田阿礼(ひえだのあれ)に暗唱させるようにしたものが編集のキッカケ。
それを元明天皇の時代に、太安麻呂(おおのやすまろ)が書き取り、編集し、712(和銅5)年に献上されました。もっとも、稗田阿礼については性別不詳、そもそも存在自体もやや疑問符も付くようで、「古事記」自体も平安時代に作られたんじゃないか説もあります。
「古事記」の内容ですが、天皇家初代の神武天皇から、推古天皇までの話が書かれており、特に古い時代の記述に重点がおかれています。
一方、「日本書紀」は720(養老4)年、舎人親王(天武天皇の子)を中心に編集されたもので、「古事記」と違い、より政治的な話が重点的に描かれ、さらに異説も数多く掲載し、さらに中国の書物なども参考に執筆されています。仏教伝来についても古事記では無視されていますが、日本書紀ではしっかりと記されています。また、こちらは持統天皇まで記述しています。
なお、これらは古代を知る上で大変参考になる資料で、我々が知っているこれまでの歴史は、この2つの書物を主に参考にしますが、なにしろ天皇家の正統性を強調するために書かれたものであるため、果たしてどこまで信用して良いか難しい面があります。とくに、日本書紀では、正確な暦の知識もなく、○○年に○○が起こった・・・と編年体で記されているため、ちょっと怪しいです。 
聖武天皇即位まで
これまで皇族や物部氏や蘇我氏など、数々の勢力が争い、時にはバランスを保ちながら政治が運営されてきましたが、いよいよ奈良時代から藤原氏が政権基盤を盤石にすべく、動き出します。まずは中臣鎌足の子、藤原不比等は、皇室と深い繋がりを持つことで、政権基盤を強化しようと考えます。
そこで自分の娘である藤原宮子を文武天皇に嫁がせ、さらに光明子を、のちの聖武天皇である首皇子に嫁がせます。
もちろん、藤原不比等としては早く、首皇子を天皇として即位させたかった。ところが、そうした動きを危険だと考える勢力も強く、715(霊亀元)年、元明天皇が「体調不良なので、位を譲る」と表明した時、既に15歳だった首皇子に皇位は回ってこず、代わりに文武天皇の姉が即位しました(元正天皇)。結局、不比等は首皇子が即位する姿を見ることなく死去します。
そして724年になって首皇子は即位します。以下、聖武天皇としましょう。
この聖武天皇を支えたのが、天武天皇の孫かつ、高市皇子の息子である長屋王と、藤原不比等の4人の息子、武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(うまかい:式家)・麻呂(京家)の4兄弟でした。( )内は、この子孫達が、激しく出世競争をしますので、藤原氏を区分するためのものです。
しかし、長屋王は草壁皇子と元明天皇を両親にもつ吉備内親王と結婚し、有力な皇位継承者の1人として依然として注目を集めていたので、藤原4兄弟としては邪魔な存在でした(もっとも、長屋王は藤原不比等の娘との間にも子をもうけていましたが)。
おまけに、光明子が聖武天皇の子を生んで、藤原4兄弟は、すぐさまこれを皇太子にたてることには成功したものの、残念なことに直ぐに亡くなってしまう。おまけに、聖武天皇の他の妃も息子を産んでしまったのです。この子が将来、天皇になってしまえば藤原氏が権力をふるえる確率が減ってしまいます。 
さあ、どうしようか。そうだ、光明子を皇后にすればいい。そうすれば彼女を通じて、大きな力を持てる。
いや、しかし皇后はいざというときに臨時で政務をみたり、天皇に即位するから、皇族以外が皇后になった例はないぞ、特にあの長屋王が反対するに違いない。ならば・・・殺すまでよ。
というわけで729(天平元)年、長屋王を謀反の容疑で逮捕。
あまり彼は人望がなかったのか、舎人親王にも取り調べを受けた末、吉備内親王らと共に自殺しました。
これを長屋王の変といい、光明子は皇后になりました(光明皇后)。
ところが、藤原4兄弟は疫病(えきびょう)、つまり流行病で相次いで亡くなってしまう。
残された息子達はまだ若く、聖武天皇は藤原氏に気兼ねすることなく、元・皇族である橘諸兄(もろえ 684〜757年)をトップに据え、吉備真備、僧の玄ム(げんぼう)などのお気に入りを取り立て、自ら政治を行うようになります。これに対し740(天平12)年、藤原宇合の息子、藤原広嗣が「真備と玄ムを追放せよ!」と九州で反乱を起こしました。
ですが、そんな早まった行動に他の藤原一族は同調せず・・・。
孤立無援のまま、今の長崎県の五島列島まで逃亡した末、処刑されました。ああ・・・。
え、なんでわざわざ九州から反乱を起こしたんですか、って?
それは当時、彼が大宰少弐(だざいのしょうに)として、大宰府に赴任していたからです。九州の大宰府ともなると、いくら西日本における朝廷の根拠地とはいえ、当時としては中央から遠く離れた場所ですから、左遷された気分だったんでしょうね。 
大仏を造ろう
藤原広嗣の乱を鎮圧した聖武天皇ですが、すっかりこれで精神的に参ってしまったらしい。
政治には関心を示さなくなり、平城京を捨て、都を作りながら旅行をするという、何とも人騒がせな行為に出ます。すなわち、伊勢や美濃、近江を経由し、そして恭仁京(くに 現・京都府加茂町)、紫香楽宮(しがらき 現・滋賀県甲賀市)、難波宮(なにわ)、さらに紫香楽宮へ戻ります。
注 / このため、何と優柔不断で臆病な天皇だ、と従来は説明されてきたのですが、近年の研究で、かつて天武天皇(大海人皇子)が、壬申の乱で行軍したルートと同じである上に、出発日の干支も、天武天皇が吉野で挙兵した日と一致するとか。
そのため、どうやら「天武天皇の時代を思い出せ」と役人達に危機意識を持たせるものだった・・・という説があります。また、色々と遷都したのも、中国・唐の時代の三都制を日本に導入しようとしたためとの解釈もあります。実際、発掘調査では「僅か3日」の滞在先となった滋賀県大津市の「禾津頓宮(あまつのとんぐう)」という仮宮には極めて格式の高い建物が建っていたとか。
突如「移動するぞ」と思いついて、このようなものを建てられるわけではなく、はじめから計画性があったんだ、ということだそうです。
それから、この旅行の途中で聖武天皇が思いついたのが仏教をさらにもり立て、それによって国内を守り、安定させようというものでした。この考え方を、鎮護国家といいます。
そのため、様々な仏教信仰策を打ち出しますが、その最終仕上げとして741(天平13)年に国分寺建立の詔を出します。
これは、国ごとに国分寺(国分僧寺)、国分尼寺を作らせることにしたもの。これによって、各国に国分寺が建造されますが、武蔵国の国分寺に到っては、そのまんま「国分寺」という名前が市の名前になってしまいました。
なお、詔の中では「人家に近くて悪臭が及ぶのは良くないし、遠くては集まる人々が疲れるので良くない」と、建設の位置まで支持する徹底ぶりですが、なかなか建造が進まない国もあったようで、聖武天皇から、国を治める地方の国司へ、督促もされています。
それから聖武天皇。
大仏を造る、ということも思いつきました。それも、巨大な大仏。これを造れば、きっと世の中は平和になるに違いない、こう考えたのです。しかし、度重なる旅行と都の造営に人々は疲れ切っていました。この上に大仏とは・・・。
そこで聖武天皇。ひらめきます。
「危険な宗教家としていてマークしていた、僧の行基。あのカリスマを利用すればいいじゃないか。」
さて、この行基とは何者か。実は、それまで朝廷からは危険人物としてマークされていた人物です。なにしろ、当時の仏教は国家の統制にあったにもかかわらず、積極的に民衆へ布教し、民衆のために用水施設を造ったり、交通施設を造ったりと社会福祉に貢献していたので、人々から人気があったんです。一歩間違えれば朝廷にとって脅威となります。 
しかし、この人気を利用し、大仏建立のために中心となって働いてもらい、庶民を動員してもらうことにしました。こうして、大仏建立の詔が出され、まずは聖武天皇が都を移していた紫香楽宮で大仏を造り始め、しかししばらくして平城京に戻ったため、ここで再び大仏を造りはじめ、完成したのが東大寺です。行基は完成直前に亡くなっていましたが・・・。
なお、この一連の仏教に関する施策は、聖武天皇が権力を誇示する、しかも庶民の協力も得て、というパフォーマンス的な要素もあったのではないかと、私は思います。特にあれだけ巨大な大仏を造らせた、というのはそれだけの野心があったと推測できます。
ちなみに仏教といえば、唐から鑑真(668〜763年)が来日したことも大きな話題です。
それまで日本の仏教界には、戒律・・・つまりお坊さんとしての決まり事というのが未整備だったため、「取り敢えず坊主になれば食いっぱぐれないや」という、怪しいお坊さんも沢山いました。そこで、唐で活躍するえらいお坊さんに来てもらって、戒律を伝えてもらおう、と要請されてきたのが鑑真でした。これがなかなか大変な来日で、唐の政府からは「勝手に国外へ出るな」と取り締まりを何度設け、何回もトライして、殆ど失明しながらも、ようやく遣唐使船に乗り込んで日本にやってきたのです。
また、仏教的な社会事業としては光明皇后が直々に貧窮民の救済にあたりました。すなわち悲田院、施薬院を設置して、お腹を空かせた人には食べ物を、薬が必要な人には薬を与えたのです。さらに和気広虫という女性は、積極的に孤児の養育に努めました。 
農業生産力を高めよ
ところで、この時代から少しずつ庶民の生活にも変化が出てきます。
それまで貴族は中国風の邸宅に住んでいる一方で、農民の多くは縄文時代とあまり変わらない竪穴式住居に住んでいました。これが、平地に掘立柱を立てた住居へ少しずつ変わっていきます。また、農民は国家から与えられた口分田を耕作し、収穫物を調、庸として都に運んだり(運脚)、さらに雑徭といった労役が義務づけられます。
しかし、農作業だけでも大変なのに、他の作業も非常に手間と暇がかかり、そうすると本業の農作業にも時間が・・・と、非常に厳しい状況でした。あげくに天候が悪いと不作になりますし、疫病も時折流行り多くの人が命を落としていました。こんな状況ですから、口分田を捨ててどこかへと逃げ出す人が続出したのです。
これはマズイ、と考えた朝廷は722(養老6)年に百万町歩の開墾計画を策定し、翌年には三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行し、「新しい土地を開墾したら、あんたから3代まではあんたのものだよ」として、農民のやる気を引き出そうとします。しかし、どうせ3代後には国に開墾した土地を献上しなければいけないので、評判はイマイチ。
そこで743(天平15)年、橘諸兄らは墾田永年私財法を発布し、一定の面積に限って永久に私有してもオッケーという、公地公民の原則を修正する法律を出しました。例え原則を曲げてでも、朝廷への収入を増やそうと企んだわけで、開墾する方にとっても歓迎されました。特に、貴族や豪族、さらに東大寺などの寺院は多くの部下を使って、どんどん開墾させ土地を増やします。これを初期荘園といいます。 
女性を甘く見ると怖い
古代の日本には色々な女性天皇がいますが、なかなか強力なパワーを持ったのがこれから御紹介する孝謙天皇。
大仏が完成する少し前に、父親である聖武天皇から位を譲られました。
治世の初期は母親の光明皇太后が実権を握り、まず甥である藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の子)を「私の実家の勢力が衰えすぎだわ」として取り立て、彼を使って、太政官を押しのけて直々に命令を下すようになります。そして仲麻呂は、橘諸兄を失脚させ、その息子である橘奈良麻呂(?〜757年)や大伴古麻呂、佐伯氏がクーデターを計画していることを察知。先手を打って彼らを処刑します(橘奈良麻呂の変)。
さらに757(天平宝字元)年、聖武上皇が亡くなると、その遺言を無視して大炊(おおい)王を即位させます(淳仁天皇)。光明皇太后、孝謙上皇、藤原仲麻呂の3人にとって操りやすい人物を選んだわけですね。さらに、40年前に祖父の藤原不比等が編纂したまま未施行だった養老律令を施行。これは大宝律令のマイナーチェンジ版で、40年も施行されなかった理由は不明ですが、藤原不比等の死によって改定作業が途中のまま終わっていたのかもしれません。
ともあれ、順風満帆の仲麻呂は、淳仁天皇から賜った、として自らの名前を恵美押勝(えみのおしかつ)と威勢良く改名。「汎(あまね)く恵むの美も、これより美なるは無し」「暴を禁じ、強敵に押し勝つ」という意味ですね。さらに太師(太政大臣)にまで上り詰めます。
ところが。
760年に光明皇后が亡くなり、孝謙上皇が病にかかったことが仲麻呂にとって転落人生の幕開けとなりました。と、言うのも孝謙上皇は、自分の病を治してくれた道鏡(どうきょう)というお坊さんに深く心酔してしまったのです。仲麻呂は「道鏡が取り立てられ、私は用済みになるのではないか」と不安でたまらない。そこで、淳仁天皇に「道鏡を追い出すように、上皇に忠告してくれ」と頼むのですが・・・。
これを聞いた孝謙上皇は大激怒。
「そんなふざけたことを言うのは、仲麻呂ね! いいわ、もう一度私が天皇の座について仲麻呂を追い出してやるわ!」と、淳仁天皇は天皇の座を追われ、仲麻呂と共に挙兵するという事態になりました。まあ、色々と政敵を倒してきた人物ですから、味方が多いはずもなく、近江国高島郡(現・滋賀県高島市)で討たれました(藤原仲麻呂の乱)。 
称徳天皇の政治
こうして、孝謙上皇は再び即位し(称徳天皇)、道鏡を重用して政治を行います。
なんと彼を太政大臣禅師にまで昇進させ、769(神護景雲3)年、九州の宇佐八幡宮より「道鏡を天皇に就任させれば、天下は太平になるでしょう」と神のお告げが出た、と報告が出たことから称徳天皇は狂喜乱舞。
・・・このお告げ、実は裏がありまして、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)は、道鏡の弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)だったんですね。これに、九州全域の神社を管轄する長官である、大宰主神(だざいのかんづかさ)の習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が出世をたくらみ、ニセモノの神託をでっち上げたと考えられています。
そうとは知らない称徳天皇。
・・・しかし、果たして皇族以外の者を皇位に就けていいものだろうか?
よし、もう一度お告げを聞いてこさせよう。と、ここは慎重策を採り、お気に入りの女性(尼)である和気法均(わけのほうきん。尼になる前は和気広虫)を派遣することにします。・・・が、さすがに女性の足で九州は遠いだろうということで、彼女の弟である和気清麻呂(わけのきよまろ)が代わりに派遣されることになりました。
さあ、ここで藤原氏が動きます。中心となったのは藤原百川(ももかわ 藤原宇合の子)。
和気清麻呂に「道鏡を天皇に就けよなんてお告げを報告してはいかん」などと耳打ちしたのでしょう。宇佐八幡宮から戻ってきた和気清麻呂は、「お告げは偽りでした。皇族の血統を絶やしてはいけません、とのこと」と報告。称徳天皇は激怒し、なんと和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と、和気法均は別部狭虫(さむし)と、改名させ、大隈と備後に流刑にしました。
とは言え、これによって道鏡の野望は阻止され、まもなく称徳天皇は死去。道鏡は下野(栃木県)の薬師寺の別当として左遷され、2年後に死去しました。 
 
「白村江の戦」前後の日本史 4

 

1 虚像の天智天皇  
1.1 大和朝廷の日本列島統一は天武天皇の時期
ここまで日本古代史について中国史書を材料として検討してきたが、これまでの分析をもとに、普通に考えると古代日本はどのようであったのか、私の仮説をご説明することとしたい。まず主張したい第一の命題は、「大和朝廷による日本統一は7世紀後半、天武天皇の時代である」ということである。
学校で習ってきた歴史では、大和朝廷による日本列島統一は4〜5世紀のこととされてきた。その根拠となっているのは、古事記・日本書紀という大和朝廷の責任編集による歴史書である。
これらが編集された時期はいつかというと、712年の古事記完成、720年の日本書紀完成に先立つ数十年間である。この時期に大和朝廷が日本を代表する政権であったことは認めていい。では、それ以前の時代についても同様に認めていいのだろうか。
前にも述べたように中国の正史「旧唐書」には、「日本はもともと小国であり、倭の地を併合した」とある。これをそのまま読むならば、大和朝廷はもともとあったけれども、倭を併合して日本列島を統一したのは唐の時代に入ってからと理解するのが自然である。(そもそも、「倭国伝」と「日本国伝」が別にある)
もともと「古事記」や「日本書紀」が編さんされた目的そのものが、「われわれ大和朝廷が、日本列島を支配する唯一正統な政権である」ということを主張するためだった、ということは多くの識者が主張するところである。実際、中央集権的な統一国家ができて、その正統性を将来に向けて維持しようとするならば、こうした形の文書を内外に向けて発表するというのは十分考えられるところである。
しかし、天武天皇の時代まで大和朝廷による日本列島統一がなかったとすれば、問題になるのは絶大な権力を持っていたとされる二人の皇族である。
その一人は聖徳太子。ただし、隋書東夷伝の解説の中で述べたように、隋に「無礼な国書」を送ったのは倭王アマ・タリシヒコであって聖徳太子ではない。そうなると、実像としての聖徳太子の実績は主に仏教の興隆であって、地方政権の実力者という大枠を外れるものではない。
もう一人は、天智天皇、皇太子の時の名は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、有名な大化の改新の立役者である。この天皇こそ、唐・新羅と対抗した日本側の最高責任者であった、とされている。
このあたりの時系列を示すと以下のようになる。
西暦645年  大化の改新(天智天皇、政権を掌握)
同  663年  白村江の戦い(倭・百済連合軍、唐・新羅連合軍に大敗)
同  672年  壬申の乱(天武天皇、政権を掌握)
東アジア全体を揺るがす大事件であった白村江の敗戦が、当事者である天智天皇の政権にほとんど何の影響も及ぼすことがなく、約十年後に直接そのこととは関係ない内戦で、天武天皇に政権が移ったというのが、教科書の教える歴史である。
私は、そんなことはありえないと考えている。以下ではまず、天智天皇とはいったいどういう業績を残した天皇なのかを考察してみたい。この天皇、おそらく相当に脚色されているであろう日本書紀の記事だけみても、かなりおかしなところがあるのだ。 
1.2 天智天皇は、天皇としてはゼロ査定
天智天皇、または中大兄皇子は、教科書による日本史においては古代日本を代表する権力者の一人といっていいだろう。
この天皇は、皇室をないがしろにした蘇我氏を大化の改新で討ち取って実権を掌握し、天皇親政の基盤を固めたとされる人物とされる。しかし、実際にどのような業績があったかというと、ほとんど何もしていないと言わざるを得ないのである。
大和朝廷責任編集の日本書紀が、ほとんど唯一、天智天皇の業績の裏付けとなる史料である。その書紀でさえ、西暦661年7月に斉明天皇が崩御してから始まる「天智天皇紀」のほとんどの記事が、朝鮮半島の動乱と白村江(はくすきのえ)の戦い、その戦後処理について書かれている。
その記事も、天智天皇の行ったことは「○○を△△に遣わす」といった内容である。この時期、朝鮮半島から近畿までどんなに急いでも往復1ヵ月はかかる。わずか数年の間に高句麗、百済が滅亡し、新羅が唐の援護を背景に朝鮮半島を統一するという状況で、いちいち最高司令部のある近畿まで指示を仰ぐなどという悠長なことをしていたとは考えられない。
つまり、仮に日本書紀の記事が本当だったとしても、実質的に朝鮮半島の有事にあたって日本側の意思決定をしているのは現地にいる遠征軍である。そして、形式的には部隊を派遣した天智天皇であるというのが日本書紀の主張だが、私はそれは怪しいと考えている。このことについては、また改めて議論してみたい。
いずれにせよ、白村江の戦いは完敗であり、遠征軍はほぼ全滅、支援していた百済は滅亡、数百年にわたる悲願であった朝鮮半島の利権回復がこの時点で絶望となったのだから、天智天皇の業績としてはゼロ査定である。
そのゼロ査定の天皇が、なぜ英雄視されるのか。それは皇太子時代に自らが関わって成し遂げた大化の改新によるということになるのだろう。しかし、この大化の改新も、考えてみればかなり妙な話なのである。 
1.3 大化の改新の歴史上の意義も疑問
それでは、「大化の改新」が歴史上どういう意義があったのかを改めて検証してみよう。
まず、政治の実権が蘇我氏から天皇家に回復されたということについて、意義があったかどうかは何ともいえない。少なくとも、当時最大の政策課題であった朝鮮半島への進出(百済支援)に失敗したのだから、天皇家が実権をとったから良かったとはいえない。(蘇我氏が政権を維持していたらどうだったのかが分からないので、悪かったともいえない)
それ以外ではどうだろうか。まず皇位継承については、大化の改新後、皇位は皇極天皇(中大兄=天智天皇の母、つまり女帝)から孝徳天皇(天智天皇の叔父)に移った。ところが、この孝徳天皇が亡くなった後、次の天皇となったのは再び皇極天皇(重祚して斉明天皇)である。つまり、せっかく変えた体制を大化の改新前に戻したということになる。
ちなみに、孝徳天皇は都を難波に移し、その子である有間皇子は斉明天皇の時代に謀反の疑いで死刑にされているので(無実の罪であったらしい)、この前後の事実関係について日本書紀をそのまま信用するのはかなり危ない。少なくとも、この時代に激しい権力闘争があったということは間違いないと思われる。
いずれにせよ、皇極(斉明)天皇+中大兄皇太子という関係は大化の改新前後で変わっておらず、その体制が結局白村江の戦いまで続くことになる。つまり、皇位継承については、大化の改新があってもなくても同じだったということになる。
また、中央集権国家の確立という点については、大化二年に出されたとされる改新の詔(みことのり)自体が日本書紀の建前(創作)の意味合いが強く、実際には大宝律令以前に中央集権体制ができていた確たる証拠はない。例えば、行政組織で国の下に来るのは改新の詔では「郡」のはずなのに、それ以降も「評」という記録が多く残されていることは、よく知られている(郡評論争)。
そして、最初の元号とされる「大化」、これもかなり疑わしいこととみられる。日本書紀によると、「大化」「白雉」の後、再び「斉明天皇元年」になってしまう。元号が継続的に使われるのはおよそ半世紀後の701年、文武天皇時代の「大宝」からである。さらに、日本書紀に記録されていない多くの元号が存在するという問題もある。このことについては、後に述べたい。
つまり、8世紀にはいって継続された元号として最初の「大宝」があり、中央集権国家の基本法としての「大宝律令」ができたということになる。「大化の改新」で行われたとされていることは、実はずっと後の時代に行われていた可能性が大きいのである。
大化の改新について確実にいえることがあるとすれば、蘇我氏から中大兄皇子=天智天皇に実権が移ったということだけであって、そのこと自体良かったも悪かったともいえない。そして、改新の成果といわれることの多くは、後の時代のものである。これらのことから、大化の改新そのものの歴史的意義は必ずしも明確であるとはいえない。
天皇としての業績はゼロ査定、大化の改新もあまり意味がないということになると、それではなぜ、天智天皇の業績が過大評価されてきたのだろうか。 
1.4 天智天皇が重視される理由
天智天皇がなぜ重要視されるか、その表向きに最大の理由は、最終的に天皇位を継承したのが天智天皇の子孫だったからであると考えられる。
皇位継承にあたっては、「男系男子の皇族が継承する」ことが原則であり、現在の皇室典範にもその考え方は受け継がれている。ところが、この原則どおりに継承されなかったのが6〜8世紀である。
推古天皇、持統天皇、皇極(斉明)天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙(称徳)天皇と、33代から48代の16代の天皇のうち、半数の8代が女帝である(明治以前には39代弘文天皇が歴代に含まれていなかったので、そうなると過半数になる)。ちなみに、推古天皇以前に女帝はいないし、称徳天皇以降は約850年後の明正天皇まで女帝はいない。
そして、49代弘仁天皇以降のすべての天皇が、天智天皇の子孫である。だとすれば、たとえ自ら皇太子・天皇であった時代に大きな業績を残していなかったとしても、後世の人からすれば「大きな業績をあげた天皇であった」と持ち上げなければおさまりがつかない、ということは当然考えられる。
しかし、ここに一つ問題がある。日本書紀が編纂された8世紀初めには、天智天皇の男系子孫が皇位を継承することは確定していなかったのである。この時代、皇位を継承するとみられていたのは天武天皇の男系子孫であり、天武天皇は天智天皇の弟とされている(これはかなり疑問であると考えられるが、ここでは深く追求しない)。
確かに、この時点の天皇(元明・元正)は天智天皇の娘にあたるので、あまり悪く書くことはできない。かといって、必要以上に持ち上げることもなさそうである。
となると、もう一つの理由をとりあげなければならない。この時代の最高権力者は、藤原不比等であるが、この人物、表向きは藤原(中臣)鎌足の子ということになっているものの、実は天智天皇のご落胤ということが非常に古くからいわれているのである。
どのくらい古くからかというと、平安時代末の「大鏡」にすでにこの説が述べられている。大鏡を単なる説話集とみるのは間違いで、律令時代の国史が日本書紀以降三代実録までの六国史、58代光孝天皇までで止まっていることを受けて、それ以降のできごとを述べているのがこの大鏡なのである。
大鏡の中には、55代文徳天皇から68代後一条天皇までの帝紀(天皇の記録)が書かれているが、それ以上の分量と熱意が、藤原氏各代の大臣・摂関の記録に割かれている。そして、その藤原氏栄華の根拠の一つとして、藤原不比等が天智天皇のご落胤であったから、と述べられているのであった。
奈良時代末、自分に反対する者を次々と粛清した上、最終的に血縁関係のない僧・道鏡に帝位を譲ろうとしたことで評判の悪い称徳天皇が亡くなった後、ほとんど陰謀に近い形で天智天皇の子孫である弘仁天皇を擁立したのが、不比等の子孫である。そして、天智系の天皇の権威を背景に、藤原氏が権力を独占する過程が平安時代ということになる。
つまり、日本書紀の時代には、天智系の女帝とご落胤と噂される藤原不比等にはばかって、天智天皇のことをあまり悪くは書かなかった(しかし、よく読むとあまりいいことは書いていないという結果になった)。そして、平安時代以降は現・天皇の直系祖先であり、もしかすると最高権力者・藤原氏の祖先でもあるということで神聖視されることになったというのが、天智天皇評価の歴史ということになるのではないだろうか。
結論としては、聖徳太子と同様、天智天皇も日本列島を統一した中央集権国家の王者と認定することはできない、ということである。つまり、天武天皇において初めて日本列島が統一されたという仮説をくずす証拠にはならない。
ここでお断りしておきたいのは、天智天皇は古代における中央集権国家の王者とはいえないということであって、彼の存在に大した意味がないと言っているのではないということである。むしろ、古代を倭から日本に差し替えた立役者が天智天皇であると考えている。
このことは、日本書紀でなぜ天智天皇のことを過大評価してあるのかというもう一つの理由、そして天武天皇がなぜ天智天皇の弟という疑わしいことが書いてあるのかという理由とも関係するのだが、そのことはまた章を改めて述べてみたい。なぜならば、そのことは当時の東アジア情勢の分析抜きには、検討することができないからである。
さて、ここでいったん日本列島を離れて、7世紀における朝鮮半島情勢について検討してみたい。 
2 7世紀の朝鮮半島情勢

 

2.1 唐に徹底抗戦した高句麗
朝鮮半島は、中国東北部と地続きである。したがって、中国の歴代王朝にとって朝鮮半島は領土の一部であり(あえていうと、日本列島も同様である)、当然朝貢してこなければならないと認識していたことは間違いない。
しかし、2世紀に後漢帝国が衰退して以降、6世紀に隋が再び統一するまでの約400年間、中国には強力な統一国家が登場しなかった。魏志倭人伝の「魏」も、呉・蜀と並ぶ三国の一つであり、その後も南北朝という分裂時代が長く続いた。中で争っているため周辺に遠征する余力はなく、その間に朝鮮半島において、中国王朝から独立した国家が成長してきたものと考えられる。
日本書紀の中にも(天智天皇紀)、「高麗の仲牟王、初めて国を建つる時に云々」という記事がある。高麗(こま)とは高句麗、仲牟王(ちゅうむおう)とはテレビドラマにもなった朱蒙(チュモン)のことである。伝説では紀元前後に、朱蒙が朝鮮半島に初めての統一国家高句麗を建国し、その初代王となったとされている(実際には後漢末の混乱期であろう)。
その後、朝鮮半島南西部に百済、南東部に新羅が建国されて、「(朝鮮半島における)三国時代」となるが、領土的にみると中国東北部から沿海州に及ぶ高句麗が群を抜いて大きい。
19世紀になって発見された「広開土王碑」は西暦414年に作られたものと推定されているが、この碑があるのは現・中国の吉林省であり、この碑文には「百済、新羅はもともとわれわれの属国である(のに倭が侵犯した)」と書かれている。このことからも、高句麗が朝鮮半島の盟主として君臨していたことが推定されるのである。
さて、6世紀終わりに、隋が400年ぶりに中国を統一した。しかし、国家の基盤が固まる前に矢継ぎ早に大土木工事や領土拡張のための軍事行動を行ったことにより、隋は建国してわずか20年で滅亡する。その滅亡の大きな要因の一つが、まさに高句麗遠征の失敗であった。
隋を滅ぼして統一王朝となった唐にとっても、朝鮮半島への進出は大きな政策課題であった。618年に建国された唐は、国内体制を整備した後(律令など大和朝廷の国家体制は、唐の制度を真似たものである)、7世紀半ばに満を持して高句麗攻撃を開始した。高句麗は、海を挟んで唐の東にあたる百済と連携し、この動きに対抗しようとした。
ここで問題となるのは、さらにその東にあたる新羅と倭国の出方である。この二つの国は、全く異なる戦略でこの状況に対応しようとした。 
2.2 高句麗・百済に味方した倭国の思惑
高句麗は、百済と連携して隋による4回の攻撃、唐による5回の攻撃をそれぞれしのいだ。この間、倭国はどうしたかというと、物資の支援や援軍の派遣を行っている。基本的に、高句麗・百済連合軍と同盟しようとしたのである。
倭国が数百年来、朝鮮半島進出の念願を持っていたことは、南北朝の「倭の五王」の時代に、何度も「倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍」に任命してくれるよう朝貢を重ねていたことからも明らかである。この間の時系列を示すと、以下のようになる。
西暦400年前後  高句麗・広開土王、朝鮮半島南部の領有をめぐり、倭と交戦。
  441年 広開土王碑が建てられる(倭を撃退した記念碑)。
478年 倭王武、南朝の宋に朝貢、「安東大将軍」の地位を求める。
502年 倭王武、南朝の梁から「征東将軍」に任命される。
562年 倭の朝鮮半島拠点(任那・みまな)滅亡。
612年 隋・煬帝、高句麗攻撃を開始(失敗に終わる)。
644年 唐、高句麗攻撃を開始。
3世紀半ばの邪馬台国が朝鮮半島南部に領土を持っていたことは、魏志倭人伝に記録がある。4〜5世紀にかけて十分な量の記録はないが、広開土王碑や「倭の五王」の記録から、高句麗をはじめとした諸国と倭が朝鮮半島南部の領有権をめぐって、度重なる戦争を行っていたことは、ほぼ確実であろう。
その倭の朝鮮半島拠点が滅亡したとされるのが6世紀半ばのことである。その50年後から開始された隋・唐の高句麗攻撃に際し、倭が朝鮮半島利権の復活を優先課題として考えたのは明らかである(ちょうど、今日の北方領土問題と同様のタイミング)。こうした状況の下で、高句麗・百済に味方しようとしたのはなぜなのだろうか。
まず第一の理由は、高句麗がこのまま勝ち続けるとみていたということであろう。何しろ、唐はついこの間できた国、高句麗は数百年にわたり朝鮮半島に君臨している国である。そして現実に、何度となく遠征してきた隋も唐も、撃退され続けているのである。このあたり、例の「日出る処の天子」の国書と思想が似ているともいえる。結局、国力の差を甘く見ているのである。
そして第二の理由として、高句麗・百済から支援の見返りとして、何らかの利権が約束されたということがあるのではないか。この当時の日本書紀をみると、高句麗・百済から何度も使者や貢ぎ物が贈られている。任那(みまな)が滅びた直接の原因は新羅の攻撃であったから、倭国の朝鮮半島における領土について、新羅を滅ぼすことにより復活させるという密約があったことは十分に考えられる。
一方、倭国と同様に高句麗・百済の東にあたる新羅は、そうは考えなかったのである。 
2.3 遠交近攻の観点から唐と同盟した新羅
新羅は唐とは直接国境を接しない。新羅にとってむしろ脅威を感じていたのは、直接国境を接する高句麗・百済であり、その両国を支援するとともに自分達に敵意をあらわにする倭国であった。
つまり、新羅にとっての仮想敵国はまず高句麗・百済、次に倭国である。その高句麗・百済が連携して唐に対抗している。となると「敵の敵は味方」だから、新羅にとって唐とは利害が共通することになる。
問題は、唐の思惑は当然、朝鮮半島全土の直接支配であるから、唐にとって新羅と同盟することに意義を認めるかどうかである。となると、唐が高句麗・百済に対してきわめて優勢という状況になってしまったら遅い。唐が苦戦しているこの時期しか同盟を持ちかけるタイミングはないのである。
次に倭国に対する考え方であるが、倭と新羅は海を隔てており直接国境を接しない。だから、直接攻撃される危険は少ない。そうなると、できれば高句麗・百済に対する人的物的支援はほどほどにしてもらい、また将来連携できる余地を残しておくために、あからさまな敵対関係にならないようにすることを考えたのではないか。
この時、新羅の特命大使として各国と折衝したのが王族の金春秋である。この金春秋、唐との同盟に先立ち、高句麗に行ったり日本に来たりしており(日本書紀に大化三年=647年来日したという記事がある)、必ずしも最初から唐と同盟しようと考えていた訳ではなさそうだ。
しかし、各国の対応をさぐるとともに情勢分析を行った結果、この戦争は最終的に唐の勝利に終わると判断したのである。新羅が唐と同盟し、国家体制や風俗(言語や服装)を唐と同じものに改めたのは、西暦649年。これは同盟というよりも、唐を宗主国として新羅はその臣下となることに他ならない。
もちろん、こうした方針にはかなりの抵抗もあったはずである。実質的に属国となることによる人的経済的マイナス、それにようやく成長してきた民族文化や伝統を捨てることになる。それを押し切るには相当の決断、その根拠となる緻密な分析、冷静な判断が必要だったはずである。
それでも金春秋は唐との同盟を推し進めた。彼は後に新羅王となり、太宗・武烈王と呼ばれることとなる。 
2.4 唐はその間何を考えていたか
最後に、こうした朝鮮半島情勢をふまえつつ、唐は何を考えていたかということである。
なにしろ唐(中国)といえば、「孫子の兵法」の本家本元である。軍団による直接攻撃を行う一方で、より安全確実に戦果を上げるため、さまざまな手段をとったであろうことは間違いない。
第一の手段は、外交である。先週、先々週考察したように、朝鮮半島の三国は一枚岩ではなく、高句麗、百済、新羅でそれぞれ思惑が違う。これを利用して、三国の間で争わせることが可能であるとすれば、そうすることで唐の朝鮮半島進出はより容易になると考えられる。
「三十六計逃げるにしかず」の三十六計は中国古来の戦略をまとめたものである。その三十六計の一つに、遠交近攻(えんこうきんこう)がある。この言葉は、戦略上、遠くに位置する国とは同盟し近くの国を攻めることが有効という意味である。そうすることにより、いわゆる挟み撃ちをすることになり、敵は2方面への対応を余儀なくされるからである。
今回の場合、唐が攻撃しているのは高句麗であるから、その場合の遠交近攻とは、遠方の新羅、百済または倭国とひとまず同盟することである。それによって高句麗は北方の唐軍とともに、南方にも敵を迎え撃つ必要が生じる。単純計算しても兵力が半減するのである(移動に要する日数を考慮すれば、さらに減少する)。
だから唐の同盟相手としては、おそらく百済、新羅、倭国のどの国でも良かったはずであるが、この中で百済と倭国が高句麗に味方し、新羅が唐と同盟するという方針をとった。おそらく唐の本心としては、いずれすべての国を直接統治するという腹であっただろうから、この段階では朝鮮半島の三国を一枚岩でなくしたということで十分である。
第二の手段は、諜報活動である。敵国内にスパイを送り込み、相手国の内部に路線対立を生じさせる。それにより、敵国の国力を削ぐという作戦で、これは第一の手段である外交を「陽」とすれば「陰」であり、表立って記録に残せないことも多くあったに違いない。
実際、直接の交戦国である高句麗においてさえ、唐との融和を図る勢力があり、対唐強硬派がこれをクーデターで打倒するという事件もあったくらいである。百済にも同様の動きがあり、新羅については、取り込みに成功した。当然、倭国に対してもそうした働きかけは行われたはずであるが、そのことについては後で詳しく考察してみたい。
こうして、朝鮮半島における対立の構図は、唐・新羅vs高句麗・百済・倭という形をとることになった。もちろん当時の戦力の大部分は陸軍だから、北西方面から攻める唐を高句麗が迎え撃つという形になる。ここで唐・新羅同盟のとった作戦が、まず背後の百済への攻撃であった。 
3 白村江前夜

 

3.1 白村江と倭国の百済支援
この時期の朝鮮半島情勢を知る一級資料は、日本書紀である。
これまで日本書紀には信用できない部分が多いと書いているが、これは中国・朝鮮半島から検証することのできない日本国内の記事についてであって、対外的な記事については信用していいのではないかと思う。なぜなら、そこに明らかな間違いが書いてあれば、日本書紀そのものが信用されないからである。
現在みることのできる日本書紀は、漢字かな交じり文で書かれている。これは、現代の日本の読者にはそうでないと読めない(それをさらに現代文に訳すことも多い)からで、もともと日本書紀は漢文(中国語)で書かれている。当時の朝鮮半島や日本は中国語文化圏であった。(ひらがなができたのは平安時代。ハングルはもっとずっと後)
つまり中国・朝鮮半島の人々にとって、同時代に自国語で書かれている文書であるから、日本書紀を入手すればその内容をすぐに精査することができる。だから日本書紀の作者としては、特に中国・朝鮮半島の記事については、可能な限り正確な記事を書く必要があった。そうでないと、日本書紀そのものの信憑性が問われることになるからである。
唐が滅亡してから後に編纂された国書「旧唐書」「新唐書」において、日本についての記事の中に日本書紀から引用されたと思われる部分がある(歴代天皇など)。これは、中国側が日本書紀に一応は信用を置いている、ということであり、この点からみても当時の中国・朝鮮半島の記事について信用することができる、とみる。
従って以下では、日本書紀の記事から白村江前後の状況を検討してみたい。念のため付け加えると、信用できるのは中国・朝鮮半島から検証可能な対外的な部分であって、そうでない国内の動きについては後の政権(日本)にとって有利なことしか書いていない、という前提は変わらない。
さて、朝鮮半島情勢が風雲急を告げたのは、西暦661年である。この年の7月、斉明天皇が崩御されたのと同時期に、唐軍が高句麗城下に進軍したとある。
そして日本書紀によると、皇太子である中大兄皇子は即位せず、天皇とならずに戦争を指揮したことになっている。これが本当だとすると、この時期、日本は国家元首がいないまま戦争状態に突入したことになる。そして中大兄皇子はこのまま、白村江の戦後処理が終わるまで天皇とはならない。
このことが何を意味するかについては諸説ある。中大兄皇子が実の妹であり先代・孝徳天皇の皇后でもある間人大后(はしひとのおおきさき)を妻としていたから、という説もある。しかしどのような理由があろうとも、勝戦国が、敗戦国の元首の責任を問わない、などということは考えられない(特に古代)。
ということは、中大兄皇子は当時唐と交戦した倭国の責任者ではなく、白村江の戦後処理に伴って、日本列島の主(唐からみると日本国王)として認知された、と考えるのが自然ではないだろうか。この問題は後でまた検討することとして、この時代、斉明天皇が崩御してから天智天皇が即位するまでの7年間を「天智称制」と呼ぶ。
朝鮮半島に話を戻すと、唐軍の進軍に伴う対策として、翌月から翌々月(8月〜9月)にかけて倭国から百済に武器、食料の援護、そして援軍五千が送られている。唐が高句麗を攻撃する一方で、新羅が百済に攻勢を強めたからである。
さて、この五千という数、当時の倭(日本)の国力から見て、どの程度の負担となったのだろうか。 
3.2 倭国の支援はどの程度の規模だったのか
百済支援にあたり、倭国は最終的に二万七千の援軍を送ることになる。この数が累計なのかその時点での追加支援なのか不明であるが、少なめにみて累計と考えることにする。
われわれが同時代の戦争として、TV番組等で知識を持っているのは太平洋戦争(第二次世界大戦)である。最終的に日本軍の総兵力としては800万人前後(陸軍550万人、海軍250万人)とされるが、よく指摘される「員数主義」(形式的に数だけ合わせておく)や国内に残存する軍備等から考えて、外地に展開されていたのは200万人前後と考えられる。
さて、昭和20年の人口は国勢調査で分かっていて、約8200万人。これに戦没者300万人を加えると8500万人。この総数に対して800万人が兵力で、うち200万人が外地に展開されているということである。
さて、白村江当時の日本列島の人口はというと、おそらく200〜300万人前後ではなかったかと推定される。
現在の日本の人口は約1億2千万。江戸時代の人口はほぼ2千万人で安定しており、これが100年間でほぼ6倍になったのは、工業化によりより多くの食料が確保できるようになったことと、医療水準の向上により死亡率が下がったことによる。
江戸時代の人口2千万人にまで増えた要因は、金属製農具の普及と牛馬による生産力(および輸送力)の向上であり、具体的には武装農民(=武士)による新田の開発によって増産が可能となったことによる。それ以前(平安時代前半)の日本列島の人口は、おそらく5〜6百万人前後であったと推定される。
白村江はさらにそれ以前である。金属製農具が普及していない以上農業生産はそれほど大きくはなく、魏志や隋書の記事にあるように、半農半漁の生活をしていたと思われる。人口として維持できたのは多く見積もって3百万人前後であろう。
さて、人口3百万人のうち2万7千人を海外派兵するという規模は、割合とすれば太平洋戦争の3分の1程度であるが、相当に高い比率ということはお分かりいただけると思う。さらに、当時は道も輸送手段も整備されておらず、太平洋戦争と違って工業が発達していないので、船さえ十分なものは作れなかったはずである。
そうした中でとりあえず5千人を派兵するというだけで現代の数十万人にあたるだろうし、最終的な2万7千人は太平洋戦争の2百万人に匹敵する負担、と考えることは、それほど的を外れているとは思われない。 
3.3 太平洋戦争クラスの派兵に、県の部長クラスが指揮?
国力の相当部分を傾けた戦争を指揮するのに、どのような人物が現地司令官であるのが自然だろうか。特に考えなくてはならないのは、7世紀には無線も電話もなく、指揮命令は人力に頼らなくてはならないことである。それなりの格を持った人物、最高司令官ないし少なくともその次のクラスでなくてはならないだろう。
さて、斉明天皇七年(661年)の唐軍の攻勢を、高句麗は再びしのいだ。これは日本書紀には、「厳寒で河川が凍結したため」と書かれているが、通常の場合河川の凍結は輸送を容易にするので攻め手(この場合は唐)に有利なはずである。とりあえず、寒地装備が十分でなかったため退却した、と読んでおくことにしよう。
翌、天智称制元年(662年)、気候が暖かくなると再び唐軍が来襲する。百済にも、新羅の攻勢がある。この年の12月、百済首都の州柔(ツヌ)城で重要な会議が持たれる。議題は、百済首都の移転についてである。
豊璋王をはじめとする百済の意見は、「山城であるツヌにいつまでも篭城していては、食べるものがなくなってしまう。平地の避城(ヘサシ)に都を移すべきである」というものであった。これに対し倭国の意見は、「ここ(ツヌ)にいるから新羅が攻めてこれないのであり、ヘサシに陣をひいて守ることは困難である。腹が減ることよりも、滅亡しないことが大切である」というものであった。
この意見を述べたとされるのが、朴市多来津(エチノ・タクツ)という人物である。詳しい素性は不明で、近江の豪族だという。日本書紀の中では、この百済滅亡〜白村江のくだりにしか登場しない。位階は小山下(しょうせんげ)というから、後の官位でいうと従七位下、司令官でもなければ高官とすら呼べない。
しかし、考えてみてほしい。例えば今日の六ヵ国会議で北朝鮮問題を議論している中で、県の部長クラスが会議のメンバーとして発言し、他国の首脳に意見するなどということがありうるだろうか。仮に意見があったとしても、それをしかるべき立場の者に伝え、その人の意見として会議において表明するというのが普通ではないのだろうか。
今と違って昔はそういうことにうるさくなかった、という説明は困難である。昔の方が、身分上下による差別は比較にならないほど大きい。さらに、このエチノタクツ、後段の白村江における奮戦でも記事になっているのである。
ここから考えられることは、おそらくこういうことである。エチノタクツという人物がいたことは確かであろうが(記載のとおり派遣軍の中級役人として)、ここに書いてあることは彼がしたことではない。本当は白村江の戦いの重要人物であるのに、日本書紀としては「いなかったことにした」人物がしたことなのではなかろうか。
ずばり、その人物とは倭国王である、と考えている。この時点まで、日本列島を代表する政権の責任者として認知されていた人物(大和朝廷の天皇ではない)がいて、その人物が百済滅亡から白村江においても重要な役割を果たしていた。しかし、天皇家が万世一系で日本列島を治めていたというのが日本書紀の建て前であるので、その人物の実名は書けなかった。
このエチノタクツに仮託された人物が、隋書のアマ・タリシヒコの後継者(子供か孫)であり、この時点でオオキミと呼ばれていたのではないか。そう仮定すると前後の事実と非常によくつじつまが合うのである。 
3.4 百済滅亡の3つの要因
さて、結論からいうと翌、天智称制2年(669年)に百済は滅亡することになるのだが、その大きな要因となった3つの失敗がある。それ以前に、「唐に味方しなかったこと」が最大の失敗なのだが、これは民族の自立という理由もありやむを得ない面もある。
第一の失敗は、エチノ・タクツ(実際には、同盟軍である倭国王とみる)の意見にもかかわらず、遷都を強行したことである。百済王の思惑通り収穫の時期まで持ちこたえられればまた違ったかもしれないが、実際には平地のヘサシに遷都して早々の2月には、新羅の攻勢の前に首都の確保が困難となってしまった。
都を移すということは、物資と人員という資源を移動するということである。そして、相手の攻勢を受けて首都を放棄するということは、物資(特に食糧と兵器)の多くを置いたまま逃げ出すということである。ただでさえ食糧を心配していた百済王は、余計な遷都をすることによってさらに物資が乏しくなったものと考えられる。
第二の失敗は、むしろ唐・新羅の諜報活動を誉めるべきかもしれないが、百済内部で対立を起こしてしまったことである。この時代の百済は正確には復興・百済であり、原・百済は斉明天皇七年(660年)、義慈王が唐に降伏していったん滅びている。復興・百済はもともと倭国にいた豊璋王と重臣・鬼室福信(きしつ・ふくしん)のいわばレジスタンス政権である。
この政権において、豊璋王と鬼室福信が対立し、鬼室福信は謀反の疑いで斬首されたのだから、攻める側にとっては相手の守備力が半減したということである。福信が処刑されたのが6月、それを知って新羅が山城であるツヌにまで迫ってきたのが8月。電話もインターネットもない時代に、おそろしく早く情報が流れている。やはり、何らかの工作があったとみるべきであろう。
第三の失敗は、戦力を分断されたことである。この年、倭国から百済に派遣されたとされる兵力は2万7千。この時代の人口を考えると、国力を傾けた派兵であることはすでに述べた。そして、日本書紀の記載をみると、山城であるツヌを守る兵力と、倭国の主力とみられる兵力が、どうやら分断されているのである。
ツヌを包囲しているのは新羅軍であり、ツヌへの入口にあたる白村江の河口で待ち伏せているのが唐の水軍である。そして倭軍はツヌを支援するため、まず唐の包囲網を突破して、ようやくツヌの支援ができるという状況なのである。百済と倭国本軍との間に、いつの間にか唐と新羅が割り込んでしまっている。
前年12月の段階で、百済王とエチノ・タクツが作戦会議を行っているくらいだから、この時点では倭国と百済は分断されていない。しかし、翌夏にはこういう状況となっている。やはり、戦術的なミスがあったというべきであろう。あるいは、倭国の反対にもかかわらず百済が遷都を強行したことで、倭国王がへそを曲げていったん国へ戻ってしまったというのが真相かもしれない。 
4 白村江の戦い

 

4.1 白村江当時の状況
天智称制2年、西暦663年8月。百済最後の拠点である州柔(ツヌ)城に新羅の軍勢が迫る。百済・豊璋王は城兵を前にこう言った。「もうすぐ、倭国の援軍1万が到着する。それまでの辛抱である。私は、白村江まで援軍を迎えに行く」
百済が食糧の確保をめざして、平野部のヘサシに一時首都を移転したことはさきに述べた。しかし、移転からわずか2ヵ月、新羅の攻勢の前にヘサシを放棄、豊璋王以下はツヌに戻っている。そして6月、百済内部の内輪もめにより重臣であり武将でもある鬼室福信が処刑されたのを知り、新羅は城を包囲したのである。
ここで当時の状況について再度整理してみたい。
唐と新羅が同盟し、百済は高句麗・倭国と組んでこれに対抗している。国力としては圧倒的に上位にある唐が攻勢を強め、663年秋の時点で、高句麗は朝鮮半島北部(現・北朝鮮)に釘付けとなっている。その間、新羅が朝鮮半島南部(現・韓国)を勢力下におき、百済は白村江上流のツヌ城に包囲されている。唐は新羅応援のため、白村江河口に軍団を集結させた。
白村江は現在の錦江であり、その下流域は現在の韓国でいうと全羅北道と忠清南道の境界を流れている。朝鮮半島南端から200kmほど北上した地点である。対馬対岸の釜山から朝鮮半島南西端の木浦(モクホ)あたりまで300km、九州北岸から釜山までさらに200km、倭国の軍団が九州北岸から出発したとしても700kmにわたる遠征である。
そして、百済を支援しようとする倭国がしなければいけないことは、孤立しているツヌ城に物資−食糧と武器−を補給することである。そのためには、まず白村江河口に展開している唐の包囲網を突破し、さらにツヌ城を包囲している新羅を撃破して、ようやく戦争目的を達することができる。単に、白村江河口の海戦に勝てばいいというものではないのだ。
さて、その軍事目的を達成するだけの装備を、倭国は有していたのだろうか。まず最初に輸送力を考えてみると、約500年後の源平・壇ノ浦の戦いにおいて潮の流れが戦局を一変させたように、この時代の船には動力はない。風力、潮力、人力で動かさなければならない。義経が八艘飛びしたくらいだから、大きさも大したことはない。おそらく漁に使っていた船、中国沿岸でジャンク船と呼ばれるものと大きく違ってはいなかっただろう。
その動力がない小さな船で、仮に倭国からの出発地点が九州北部だったとしても、壱岐、対馬を経て釜山、さらに朝鮮半島南岸から西岸を白村江まで、700kmにわたる航行をしなくてはならない。潮の流れにもよるが移動日数の単位は「日」ではなく「週」、場合によっては二〜三ヵ月を要したとしてもおかしくない。
さらに作戦目的が物資の補給であるから、最終目的地のツヌに届けるための食糧や兵器という積荷がある。目的地に着くまでには戦争をする訳だから、兵士も空腹という訳にはいかずその分の食糧も兵器も必要である。となると、朝鮮半島のどこかに補給基地がないと作戦目的を達成するのは難しい。しかし、白村江までの道のりは663年秋の時点で、すべて敵国・新羅の勢力圏なのである。 
4.2 戦力の差は顕著
補給基地については、日本書紀に将軍・上毛野君稚子(かみつけぬのきみ・わかこ)が6月に新羅の城を2つ落としたとあるので、もしかするとこれなのかもしれない。ただし、周りがすべて新羅の勢力圏だとすれば、水の補給や兵の野営などは可能であったとしても、本来の意味での補給−食糧や武器の補充−には限界があったと思われる。
いずれにしても、ジャンク船程度の輸送手段で、倭国を出てから十分な休息や補給ができなかったと思われる倭国軍に対し、唐はどうだったろうか。中国における大規模な海戦というと、赤壁の戦い、つまりレッド・クリフがあるが、これは白村江より400年前。この時代すでに、唐はある程度の規模を持った軍船を有しているのである。
日本書紀によると、唐軍の軍船は170艘。一方倭国の軍船は400艘(旧唐書)とも1000艘(三国史記)ともされる。日本書紀の記述からみる限り、兵の人数的には倭国の方が少なかったと思われるので、いかに倭軍の軍船が小規模であったかということである。
輸送力においてそのような差があった上に、武器の性能という点でも倭国は唐に劣っていたと考えられる。白村江に先立つ百済支援においても、矢、糸、綿、布、皮革、コメを送っている(天智称制元年・正月)ように、攻撃においては矢、守備においては皮革が倭国の主要装備であった。金属製品が含まれていない。
古墳から鉄剣が出土するように、2〜3世紀以降倭国にも鉄製品があった。しかし、原料となる鉄鉱石はこの時代まだ中国・朝鮮半島からの輸入に頼っており、砂鉄は産出したけれども量的にはそれほど多くは望めない。中国・朝鮮半島からの輸入は、百済が衰えて高句麗は自国の守備に手一杯という状況では、当然難しいということになる。
一方、唐・新羅は自前で鉄製品を用意できる。木製品・皮革製品・繊維製品で武装する倭国・百済と、金属製品を含む武装が可能な唐・新羅とでは、攻撃力・守備力の点でも相当の差があったといわざるを得ない。
このように、輸送力・装備に差があるということは、作戦・用兵上でかなり上回らなくては勝ち目はないということである。しかし、倭国は作戦的にも、かなり拙いやり方をしたようなのである。 
4.3 やみくもに突撃して壊滅した作戦面の拙さ
輸送力と兵の装備のいずれの面でも不利な倭国が、白村江河口の唐軍の包囲網を突破するには、少なくとも作戦面で上回っていなければならなかったが、どうやらこの点においても倭国は失敗したようである。その経緯は、日本書紀によると以下のとおりであった。
八月二十七日、先着した倭軍と唐軍との間に交戦があり、倭軍は負けて退いた。唐軍は深追いせず、陣形を整えて待機した。翌二十八日、倭軍の本隊が到着した。百済王と倭軍の諸将はこう相談した。「われわれが先を争って突撃すれば、敵は後退するに違いない」
軍船の性能でも、攻守の武器の性能でも劣る倭軍が、いたずらに正面から攻撃しても勝つことは難しい。それも、奇襲するとか全軍が一斉攻撃するならともかく、到着した部隊から順に突撃するのは、戦力の逐次導入といって戦略的にはたいへん拙劣な方法である。
倭軍は乱れた隊列で、唐軍の堅陣に対し正面突破を図った。唐軍は倭の軍船を左右から挟み撃ちにして戦った。あっという間に、倭軍は敗れた。
戦力が劣っていても精神力(気合)で勝てると考えるのは、日本にとって伝統ともいえる考え方である。きわめて愚かな作戦とは思うけれども、倭軍であればそういう考えで突撃するのはある意味当り前なのかもしれない。同様のメンタリティは、白村江から1300年後の太平洋戦争でも、根強く残っているくらいである。
その上、倭軍は風向きや潮の流れもほとんど考慮していなかった。下の「気象」という単語は書紀でも使われている。今日の意味と、ほぼ同じであると考えられる。
気象を考えずに戦ったため、船の向きを変えることすらできず、海中に落ちて溺れ死ぬ者は数知れなかった。エチノタクツは、天を仰ぎ、歯を食いしばって戦い、数十人を殺したが、遂に戦死した。百済王は、数人の部下とともに、高句麗方面へと逃げた。
ここで再び、エチノタクツの登場である。日本書紀の白村江の戦いに関する記事は、ほとんど以上の内容で終わる。登場人物は、百済王、諸将(ひとまとめ)、エチノタクツだけ。これでタクツが書紀の紹介どおり、将軍でも副将でもない地方の豪族、今日でいう県の部長クラスというのであれば、なぜ彼の名前だけが特筆されるのか意味が分からない。 
4.4 日本書紀の作者は敗戦があまり悔しくない?
白村江で倭軍の船団が全滅してから八日後の九月七日、ツヌ城は降伏した。頼みの綱である倭国の援軍が来ない以上、やむを得ない降伏であった。このあたりの経緯について、日本書紀の記事は淡々としている。
百済の人々はこう話し合った。「ツヌ城は降伏し、百済の名前は絶えてしまった。事ここに至っては、どうしようもない。先祖の墓所にも、再び行くことはできないだろう。テレ城まで逃れて、後のことは倭の将軍達と相談するしかない」そして、妻子に、百済を去る決意を示したのであった。
テレ城とはどこなのか、百済が滅亡してしまったので確かなことは分からない。おそらく朝鮮半島南岸で、対馬に渡ることができるどこかの海岸近くではなかったかと思われる。ちなみに、朝鮮半島南岸からは、晴れた日には対馬を望むことができる。
いまも昔も、戦争に敗れて他国に逃れることができるのはある程度の財産を持った上流階級の人々であって、一般庶民は新たな支配者の下で耐えるしかない。ベトナム戦争終結時の難民もそうだし、今日脱北して中国の日本・韓国大使館に逃げ込む人と同様である。
百済を逃れた人の多くも、旧支配者層であったり、先端技術者であったりした。彼らはこの後日本に渡り、奈良時代以降急速に進められた技術革新に大きく寄与することとなる。
こうして日本書紀の記事をみてくると、全体の印象として、書紀の作者達は白村江の敗戦をあまり悔しく思っていないということがよく分かる。二万数千の大部隊を派遣し、逃げた者はいたにせよ相当の戦死者が出たにもかかわらず、個人名であげられている戦死者はエチノタクツのみということにも、そのことは現れている。
もっというと、白村江以前の記事の中にも、「これは百済滅亡の予兆ではないか」「占ったところ、高句麗・百済が日本を頼ってくるという結果が出た」など、縁起でもないことが何ヵ所かに書かれている。もしも白村江以前にそんなことを公言していたとしたら、当時そんな言葉はないが「非国民」と言われても仕方がないであろう。
ましてや敗戦後に、「負けることは分かっていた」ようなことを書いて、当時の指導者や戦死者の遺族が面白いはずがない。にもかかわらずそういうことが書かれていて、しかも敗戦の記事がきわめて簡単に、たいして感情移入もされていないということは、どういうことなのだろうか。
おそらくそれは、書紀の作者たちにとって、白村江の敗戦が他人事ということなのである。つまり、近畿・大和朝廷の人々は直接白村江に関わっていない。さらに、白村江の敗戦によって、近畿・大和朝廷の日本列島における相対的な地位が上がったとすれば、日本書紀でこのような書き方がなされていることもうなづける。
ということは、以前に書いた結論、「日本列島における代表的な政権が、白村江以前は倭国、白村江以降はじめて日本=近畿・大和朝廷になった」ということである。教科書にはそう書いていないが、常識で考えるとそうなる。そしてそう考えると、天智天皇に関するいくつかの疑問点にも、納得のいく回答が得られるのである。 
 
白村江の参戦者たち

 

660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった。
倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県清水市を本拠とした)。
鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにした。筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となった。同行者には、中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中臣鎌足の他、多数の従者。飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となった。

660年12月 飛鳥岡本宮発、難波宮で武器の調達。
661年1月6日 難波津(なにわづ)出発。
 1月8日 吉備大伯海(おおくのうみ−岡山県邑久郡)(大海人皇子と大田皇女の間に大伯皇女誕生)
 1月14日 伊予熟田津(いよにきたづ:愛媛県松山市)着。石湯行宮(いわゆのかりみや:道後温泉)で長期滞在。
 3月25日 那大津(福岡県博多)到着、磐瀬行宮(いわせのかりみや:長津宮福岡市南区三宅)に入る。 
 5月9日 朝倉宮(福岡県朝倉郡朝倉町−博多湾からは約40q離れて内陸部にある)に入る。朝倉宮に来て2か月後の7月24日、斉明天皇が68歳で急死してしまう。
661年5月 一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。
661年8月
 前軍将軍 阿曇比羅夫連 河辺百枝臣 他
 後軍将軍 阿倍比羅夫臣 物部熊 他 
 百済の救援軍を送った。
661年9月 倭国にいた百済王朝の王子、豊璋(ほうしょう)に倭国最高位の「織冠(おりもののこうぶり)」を授け、5000人の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送った。
662年(天智元年)1月 百済の鬼室福信に武器や物資を送った
662年3月 主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
662年5月 大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智天皇の命により、軍船170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送し、王位につけた。
長野県安曇野市の穂高神社には彼の像がある。境内の石碑に次のように記されている。
「大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する。 9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られている。」
なお、飛鳥時代の将軍阿倍比羅夫(あべのひらふ)は水軍を率いて蝦夷を平定した将軍でもあり、白村江の戦いでは後軍の将軍として百済に派遣されている別人。
662年 豊璋と鬼室福信の対立。百済に帰国した豊璋は百済王となり、鬼室福信と協力して戦いを有利に進めた。しかし、だんだんこの二人の考えが合わず不和になっていく。
663年3月 中大兄皇子は百済に2万7千人の兵を3軍編成で送った。
 将軍上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)
 巨勢神前臣訳語(こせのかんざきのおみおさ)
 阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)
 援軍は博多湾から壱岐・対馬を越え、朝鮮半島へ向かった。
663年6月 豊璋は、鬼室福信が謀反を起こしたとして部下に命じて殺害した。
663年(天智2年) 豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
663年8月17日 唐・新羅連合軍が百済復興軍の周留(する)城を包囲。唐軍は軍船170艘を白村江(錦江−クムガン河口)に配備した。
 8月27日 倭国軍が朝鮮半島西岸に到着。百済王豊璋と倭国軍は、「我ら先を争わば 彼自づからに退くべし」と突撃作戦に出た。
 8月28日 白村江(錦江−クムガン河口)で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突。倭国軍は唐の水軍によってはさみうちにされ、軍船400隻は燃え上がり、倭国軍は大敗してしまう。(歴史上最初で最大の敗戦となった) 百済王(豊璋)は逃亡してしまう。
 9月7日 百済が陥落し永遠に滅亡した。
滅亡した百済の王族たちは奈良地方に逃れたが、その後の動乱から逃れるため再び九州地方を目指して船出した。一行は瀬戸内海で時化にあい、九州東海岸の日向市金ヶ浜と高鍋町蚊口浦に漂着した。そして、山間部に入り、父の禎嘉王(ていかおう)は宮崎県東臼杵郡美郷町に王子の福智王(ふくちおう)は宮崎県児湯郡木城町に移り住んだと言われている。(旧南郷村の「百済王伝説」より)

唐は660年に百済を破ると熊津都督府以下、馬韓、東明、金漣、徳安に五都督府を設置し、百済に占領体制を確立した。

667年11月9日 日本書紀に、「660年に百済を滅亡させ、663年に百済の復国運動に参戦してきた九州倭国を白村江で唐―新羅の連合軍で大打撃を与え、九州倭国王筑紫君薩野馬を捕虜にし、百済の熊津に唐の出先機関である熊津都督府を設置していた、唐の鎮将軍の劉仁願と言う人物が、戦後処理の為に九州筑紫都督府から出向してきていた、冠位が大山下の境部連石積という人物を、熊津都督府の役職が県令上柱国で名前を司馬法聰と言う人物に、筑紫都督府まで送って行かせた」
白村江の敗戦の翌六六四年の五月十七日、百済にあった唐の鎮将・劉仁願は朝散大夫・郭務宗を倭に派遣し、翌六六五年十一月に司馬法聡を派遣し、境部連石積らを筑紫都督府に送ってきたと『日本書紀』はこう記す。
十一月の丁巳の朔乙丑に、百済の鎮将劉仁願は、熊津都督府熊山県令上柱国司司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。(岩波『日本書紀』より)
境部石積とは、天武天皇11(682)年、石積が中心となって「新字一部四十四巻」を制作。天武天皇13(684)年には「八色の姓」によって、「宿禰」姓を下賜されている。
唐朝に捕われの身となっていた坂合部連石布等が帰国したのは 666 年(天智紀 6 年条、この年紀は「日本記」の年紀)である。彼らは「筑紫都督府」へ送り還されている。天智紀の「境部連石積」、「坂合部連石積」と坂合部連石布は同一人物。
667年11月09日 百済鎮将劉仁願が、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣し、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送ってきた。(天智6年)
667年11月13日 司馬法聰等が帰国。小山下伊吉連博徳・大乙下笠諸石をもって、使者を送った。
668年1月3日 天智天皇が即位する。(天智7年)
(668年 高句麗もやはり唐と新羅の前に屈するのである。)
669年10月16日 藤原内大臣(鎌足)薨去。(天智8年)

天武治世
9年2月23日 菟田の吾城(壬申の乱のときの故地)に行幸された。
10年1月7日 親王・諸王を内安殿へお召しになった。諸臣はみな小安殿に侍り、酒を振舞われ舞楽を見せられた。大山上草香部吉士大形に、小錦下の位を授けられた。姓を賜って難波連といった。
 1月11日 堺部連石積に勅して、六十戸の食封を与えられ、絁三十匹、綿百五十斤、布百五十端、钁(くわ) 一百口を賜った。
 1月19日 畿内および諸国に詔して、諸の神社の社殿の修理をさせた。
 3月17日 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。
 4月12日 錦織造小分ら合わせて十四人に姓を賜って連といった。
 4月17日 高麗の客卯文らに筑紫で饗応され、それぞれに物を賜った。
 6月5日 新羅の客、若弼に筑紫で饗応され、それぞれに禄物を賜った。
 12月10日 小錦下河部臣子首を筑紫に遣わして、新羅の客、忠平に饗を賜った。(10月18日来朝、調を奉る)
 12月29日 田中臣鍛師ら合わせて十人に・小錦下の位を授けられた。
11年1月9日 大山上舎人連糠虫に小錦下の位を賜った。
 1月11日 金忠平に筑紫で饗応された。
 5月12日 倭漢直らに姓を賜って連といった。
 5月25日 多禰の人・掖玖の人・阿麻弥の人に、それぞれ禄を賜った。
 5月25日 隼人らに明日香寺の西で饗を賜った。さまざまの舞楽を奏し、それぞれに禄を賜った。
 8月3日 高麗の客を筑紫でもてなされた。
 8月28日 日高皇女の病のため、死罪以下の男女、合わせて百九十八人を赦した。
 10月8日 盛大な酒宴を催された。
12年1月2日 「・・・・小建以上の者にそれぞれ禄物を賜い、死罪以下の者はみな赦免する。また百姓の課役はすべて免除する」と云われた。
 9月23日 倭直、栗隈首、水取造、矢田部造 他 全部で38氏に姓(かばね)を賜って連(むらじ)とした。
 10月5日 三宅吉士 他 全部で14氏に姓を賜って連といった。
13年1月17日 三野県主・内蔵衣縫造の2氏に姓を賜って連といった。
 2月24日 金主山に筑紫で饗を賜った。
 4月5日 徒罪以下( 徒・杖・笞の刑)のものはみな赦免された。
 4月16日 宮中で斎会(さいえ)を設け、罪を犯した舎人を赦免した。
 10月16日 多くの王卿に禄物を賜った。
 11月1日 大三輪君 他 全部で52氏に姓を賜って朝臣といった。
 12月2日 大伴連 他 50氏に姓を賜って宿禰といった。
 12月13日 死刑以外の罪人は全部赦免された。
14年1月21日 爵位の名を改め階級を増加した。
 2月4日 大唐の人・百済の人・高麗の人合わせて147人に爵位を賜った。
 7月27日 「東山道は美濃以来、東海道は伊勢以東の諸国の有位の人たちには、課役を免除する」といわれた。
 9月9日 皇太子以下忍壁皇子に至るまで、それぞれに布を賜った。
 9月18日 宮処王・難波王・竹田王・三国真人友足・県犬養宿禰大侶・大伴宿禰御行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹羅・藤原朝臣大嶋の合わせて10人に、ご自身の衣と袴を賜った。
 9月19日 皇太子以下諸王卿合わせて48人に、ヒグマの皮・山羊(かもしか)の皮を賜った。
 9月24日 天皇発病
 9月27日 帰化してきた高麗人たちに禄物を賜った。
 12月4日 筑紫に遣わした防人らが、難破漂流、皆衣服をなくした。防人の衣服にあてるため、布458端を筑紫に発送した。
 12月16日絁・綿・布を大官大寺の僧たちにお贈りになった。
 12月19日皇后の命で、王卿ら55人に、朝服各一揃いを賜った。

朱鳥元年1月2日 宴を諸王たちに賜った。なぞなぞに正解をだした高市皇子に、はたすりの御衣を三揃と錦の袴二揃いと絁24匹・糸50斤・綿100斤・布100端を賜った。伊勢王も当たり、黒色の御衣を三揃・紫の袴二揃い・絁7匹・糸20斤・綿40斤・布40端を賜った。
 1月9日 三綱(僧綱)の律師および大官大寺の僧を招いて、俗人の食物で供養し、絁・糸・綿を贈られた。
 1月10日 王卿たちにそれぞれ絹袴一揃い賜った。
 1月13日 種々の才芸のある人、博士、陰陽師、医師、合わせて20余人を召して、食事と禄物を賜った。
 1月16日 大安殿にお出ましになって、王卿を召して宴を催され、絁・糸・綿を賜った。天皇は群臣にクイズをだされ、正解者に、絁・糸・綿を賜った。
 1月17日 後宮で宴を催された。
 1月18日 朝廷で盛大な酒宴を催された。この日、御窟殿の前におでましになり、倡優(わざひと)たちにそれぞれ禄物を賜った。歌人たちにも絹袴を賜った。
 2月5日 大安殿にお出ましになって、侍臣6人に勤位を授けられた。
 2月5日 諸国の国司の中から、功績のある9人を選んで勤位を授けられた。
 2月14日 大官大寺に食封700戸を賜り、税()おおちから30万束を寺に納められた。
 2月24日 天皇病が重くなられたので、川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させた。
 6月1日 槻本村主勝麻呂に姓を賜わり連といった。勤大壱の位加え、20戸の食封を賜った。
 6月2日 工匠・陰陽師・侍医・大唐の学生および一、二人の官人合わせて34人に爵位を授けられた。
 6月7日 諸司の人たちの功績のあるもの28人を選んで、爵位を加増された。
 6月16日 三綱の律師や四寺の和上・知事、それに現に師位を有する僧たちに、御衣御被各一揃いを賜った。
 6月28日 僧法忍・僧義照に老後のために、食封各30戸をそれぞれに賜った。
 7月3日 諸国に詔して、大祓を行った。
 7月4日 全国の調を半減し、徭役(労役)を全免した。
 7月5日 幣帛を紀伊国の国懸神・飛鳥の四社・住吉大社にたてまつられた。
 7月15日 大赦をした。
 7月19日 諸国の百姓で、貧しいために、稲と資材を貸し与えられたものは、14年12月30日以前の分は、公私を問わずすべて返済を免除せよ。
 8月13日 幣帛を土左大神にたてまつった。
 8月13日 皇太子・大津皇子・高市皇子に、それぞれ食封400戸を川嶋皇子・忍壁皇子にそれぞれ食封100戸を加えられた。
 8月15日 芝基皇子・磯城皇子にそれぞれ200戸を加えられた。
 8月21日 桧隅寺・軽寺・大窪寺に食封それぞれ100戸を30年間に限り賜った。
 8月23日 巨勢寺に200戸賜った。
 9月9日 天皇崩御。 (686年10月1日) 
日本書紀
「大唐の軍曹船戦百七十艘を率いて、 白村江連なれり、大和の船戦のまずいたるものとだいとうの船戦とあい戦う、大和負けて退く、大唐す なわち左右より船を挟み囲みて戦う、時の間に見戦我が大和軍敗れぬ、水におもむきて溺れ死ぬ者多し、 じゅくろですねこれを開戦する事得ず」船を戻すことがほとんど出来なかったという。
韓 国側の資料「三国史記」
「これ新羅の文武をりゅうさくさんねんじょうに和国の船兵来たりて …百済を助く、和船せんつつを留まりてはくしゃにあり」
倭の軍隊は海を越え て行った訳ですから、向こうの記事では、千艘あまりがあの白村江のあたりに集結をしたような記事が あります。一方「くとじょ」と読みます、唐王朝の歴史の一つなんですけど、唐軍、新羅はその唐にで すね援軍をたのんで、唐と新羅が連合軍を組んで、日本から出発をして百済を助けたいという我が国の 軍隊を挟み撃ちにしたわけです。劉仁軌が唐側の総大将の名前です、劉仁軌の水軍が白村、日本書紀では白村江なってますけど、白い江の口というふうに中国側の記録ではなってたんですけど、 倭兵と遭遇し、その船 400 艘を焼く。
続日本後紀
続日本後紀に記された、敗戦後30年ほどのちに帰国して報償された参戦者によれば、出身地域は、筑前、筑紫、筑後、伊予、肥後、讃岐、陸奥、備後、大雑把に言いますと、一例を除けばほとんど西日 本、畿内よりも西側の中国、四国、九州の出身者です 。
捕虜の帰還
690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽東S(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた。幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。
707年、讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部信太形見(こせべのかたみ)らも帰還した。
朴市秦田来津 (えちのはたの-たくつ)
?−663 飛鳥(あすか)時代の武人。古人大兄(ふるひとのおおえの)皇子の謀反にくわわるがゆるされる。斉明天皇7年百済の王子豊璋(ほうしょう)にしたがい,百済再興のため兵5000をひきいて渡海。将軍鬼室福信との対立もあって新羅に攻めこまれる。天智天皇2年8月28日白村江の戦いで戦死した。
越智直
『日本霊異記』にみえる概略
伊予国越智郡の大領先祖越智直は白村江の戦いに参加したが唐軍に捕われた。同じ島に住む同族八人は観音菩薩像を信仰し、舟を造り、帰国できるように祈願した。その結果、西風に乗って無事到着することができた。政府は事情を調べたが、天皇は憐れに思って彼らの願いを聞いた。そこで越智直は郡をつくり、そこを治めたいと申し出、天皇はこれを許可したというのである。この越智直について『予章記』越智系図第二〇代越智守興に擬する説もあるが、同書そのものの信頼性が低いため、疑問としておくのが妥当であろう。
越智氏は小市国造の系譜をもつ伝統的勢力であることからみて、白村江の戦いにおいても一兵士として参加したのではなく、その一族や農民を率いた指揮官の立場にあったと思われる。そして、推古期に越智氏が海上に根強い勢力を有していた紀氏と結びついていることなどから(続日本紀)、越智氏もまた水軍兵力をもって外征に参加したと考えられる。
このことは、建郡(評)についても同様である。越智氏は旧来よりこの地域の最高首長である国造であった。越智直の側からみれば、地方官吏として朝廷の権威を背景に支配できるという利点もあったわけである。このように、白村江の戦いを契機として越智郡に律令的な地方行政組織の前身である評が成立し、郡制創始の前提条件が形成されたのである。
物部薬
伊予国風早郡の人、物部薬は白村江の戦いの時に出兵し、その結果、三〇余年の長期間にわたって唐に抑留された。帰国した後、朝廷は彼の忠節を賞して持統一〇年(六九六)に追大弐を授け、絁四匹・絲一〇絢・布二〇端・鍬二〇口・稲千束・水田四町を与えたと記されている(日本書紀)。この時、与えられた追大弐の位階は大宝令以後の官位では八位にしか相当しない。それゆえ、彼は地方豪族として指導的立場にあった人物ではなく、おそらく一般の公民であったと思われる。
百済救援軍に参加した兵士の本貫地をみると、陸奥・筑後・肥前・備中・備後・讃岐・伊予であり、陸奥国を除けばすべて西日本地域に集中している。
また、備中国邇磨郷で兵士が徴発された例があり(風土記)、物部薬の場合もこのような兵士徴発の際に参加したものと思われる。したがって、この例からもわかるように、百済救援軍は地方豪族層はもとより、彼らの支配下にあった多くの一般公民層をも含んでいた。このような広範な兵士の動員は兵士自らの負担であるだけでなく、兵士を徴発された地域にも過重な負担を強いる結果となった。そのことが従来の氏族的支配を動揺させ、新たな律令的支配を受容せざるをえない状況をつくりあげていった。
国造軍の遺制
律令制の成立以前、地方の軍事組織は主として国造支配下の軍隊、いわゆる国造軍であった。この国造軍が外征に動員されたことは雄略・欽明・推古朝などの記事からも明らかである(日本書紀)。 
 
歴史物語 [上代〜平安]

 

1 天皇は神にしませば 
(1) 壬申の乱おこる / 叔父と甥の争い
今から千三百年余り前。壬申の乱(*1)という戦争が日本で起こった。大海人皇子(*2)と大友皇子(*3)の争いである。これは朝鮮半島に対する外交方針の違いが原因という説もある。
『日本書紀』によれば、大友皇子の父である天智天皇の弟が大海人皇子、つまり大友皇子の叔父が大海人皇子である。つまり、壬申の乱は叔父と甥の戦争ということになるが、二人の関係については異説もある。また天智天皇は大海人皇子に暗殺されたとも言われる。
大海人皇子は、伊賀名張の郡家(*4)を焚いて首途の火祭りとし、風の如く鈴鹿の関を突破すると、近江の大友皇子勢を瀬田に撃破して三井寺の山中で自決させた。
瀬田川は琵琶湖から流れ出る唯一の川で、これ以降何度も戦いの場となっている。
織田信長は瀬田橋に欄干をつけ、中島に休憩所を設けたりした。が、それは遙か先の話。
戦いに勝利した大海人皇子は第四〇代の皇位に就いて天武天皇となり、再び飛鳥淨御原宮(*5)に都を移して独裁君主となられた。

(*1) じんしんのらん。672年に起きた日本古代最大の内乱。天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえした。反乱者の大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱。天武天皇即位の元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるため、壬申の乱と呼ばれる。
(*2) おおあまのおうじ。後の天武天皇。
(*3) おおとものおうじ。明治3年(1870)弘文天皇の称号を追号。
(*4) ぐんが。ぐんけ。こおりのみやけ。ぐうけ。律令制で、郡の役所。
(*5) あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや。天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地がある。近年の発掘成果により同村の岡にある「伝飛鳥板蓋宮跡」にあったと考えられようになっている。 
(2) 天武天皇、律令制国家をめざす
我国に於ける軍法、天文、忍法の太祖と仰がれた帝だけに
「政治の根本は軍事にあり」と喝破し、先づ当時の我国を取まく東アジヤの情勢の解明に優れた能力を集中してその対策を練り上げる。
新羅王は、強大な中国大陸に君臨する唐帝国の手先となり、姓まで金や季と改め、朝鮮半島の統一を果そうとした。その戦略に敗れて、二百余年間、南鮮を支配し続けた任那日本府は奪われた。
日本の総力を傾けた百済救出作戦も、天智二年(六六三)の白村江の戦いに完敗して、大国を誇った百済は滅亡した。続いて剽悍な高句麗も亡んだ。
「憎むべき新羅は、今も朝鮮半島の独占を狙って、策謀を巡らし続けている。断呼としてその罠に落ちてはならぬ。皇統を護り、万民の幸福を保つ上で、大唐の高宋(*1)や新羅の文武王(*2)の如き覇王を相手に、国家の自主独立を守り抜けるのは、朕以外になし」との烈々たる斗志と自信にあふれた天皇は信頼する重臣閣僚を一堂に会して
「過ぎし白村江の敗戦で痛感させられたのは大唐帝国に比べて我国はあらゆる面で国家として弱体で、これらを充實するのが何よりも急務。先づ第一に神を尊び仏を敬まい、歴史をひもといて国政を組織化し、王化の鴻基を固めて、彼に劣らぬ律令制国家を樹立するのが根本である。」と激励したと云う。
そして、天武天皇は、次のことを実施した。
1.伊勢と熊野に式年遷宮(*3)の制を定めた。
2.皇女を伊勢の斉宮(*4)に任じた。
3.『古事記』、『日本書紀』の編集に着手した。
4.浄御原宮を建設した。
完成した浄御原宮を見て、壬申の乱の功臣であった大伴吹真の甥の御行がこう詠じている。
大君は 神にしませば 赤駒の はらばう田井を 京となしつ

(*1) こうそう(628〜683)。唐の第3代皇帝(在位 : 649年−683年)。第2代皇帝・太宗の第9子。
(*2) ぶんぶおう(?〜681)。新羅の第30代の王。先代の武烈王の長子。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島を統一。
(*3) 一定の期年において新殿を営み、これに神体を移す祭。伊勢神宮では二○年ごとに行われる。
(*4) 伊勢神宮に奉仕した皇女。天皇の名代として、天皇の即位ごとに未婚の内親王または女王から選ばれた。記紀伝承では崇神天皇の時代に始まるとされ、後醍醐天皇の時代に廃絶。斎王。いつきのみや。 
(3) 天武天皇、歴史書をつくる / 記紀編纂
ここで日本の国の歴史書に就いて考えて見ると、二六代継体天皇の頃から皇室や有力豪族の家に伝わる系図や物語を編集し始め、二九代欽明天皇の十一年(五五〇)始めて『帝紀』と『旧事』が完成したといわれるが、これは誠にお素末なものでとても一国の史書とは云えなかったらしい。
やがて惟古女帝の九年(六〇一)、百済から新しい暦が渡来して辛酉革命(*1)説が教えられるや日本でも国書の改正が始められた。聖徳太子と蘇我馬子によって『天皇紀』と『国記』が完成したのは、惟古女帝の二八年(六二〇)であった。
ところが『天皇紀』と『国記』は、大化元年(六四五)の蘇我氏の滅亡と共に火中に消えた。これを知った豪族達は、好機とばかり、その家系を皇室に結びつけて高官を狙う者が続出したようだ。
「このままでは眞の歴史が失われてしまう。何とか一日も早く権位ある国書を確立せねばならん」と、頭を痛めた天武天皇は、折しも宮中きっての語り部、稗田ノ阿礼の諳誦する古事記を聞かれて編集されんとした。が、余りにもセックスやエロ話の多いのに驚かれ、
「このままでは例え国書にしても唐や新羅の軽蔑と失笑を買うだけだ」と困却されて、川島皇子(*2)らに編集を命じ、天皇自身が次々に難問に裁定を下していった。この時の天武天皇の頭には数々の“古事記”神話の他に三国史の魏史倭人伝のヒミコの資料等も入っていただろう。黄帝以来の夏、殷、周ら中国五千年の長大な国書は勿論、新羅の太白山の聖峯に降臨したという檀君神話等もきら星の如く輝いていたに違いない。神武大帝から数えて満四十代の帝位にある天武天皇の結論は
「易姓革命、力を正義とする覇道主義国家に対抗する最高の国書と云えば、彼らが卑弥呼とさげすむ“日の御子”即ち天照大神以来の王道を旨とする万世一系の天皇制しかない。」という事だったであろう。
聡明な天武天皇だけに宮中の極秘資料によって、十代崇神のイリ王朝と十五代応神の河内王朝には血のつながらぬ実情を知りながらも、『記紀(*3)』を編集して、天壤無窮の神勅と皇統連綿の国体を神聖侵すべからざるものとして各国に宣言し、万民に自主独立の精神を振起せんとしたに違いない。“天皇は神にしませば天雲の雷(*4)”よりも高い皇位にあればこそ、できる裁断だった。

(*1) かのととり、しんゆう。干支(*1-1)の組み合わせの58番目で、前は庚申、次は壬戌。西暦年を60で割って1が余る年が辛酉の年となる。辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。
(*1-1) 干支(かんし、えと)は、十干と十二支を組み合わせたもの。▽十干は、甲(こう、きのえ)、乙(おつ、きのと)、丙(へい、ひのえ)、丁(てい、ひのと)、戊(ぼ、つちのえ)、己(き、つちのと)、庚(こう、かのえ)、辛(しん、かのと)、壬(じん、みずのえ)、癸 (き、みずのと)。▽十二支は、子(ね、し)、丑(うし、ちゅう)、寅(とら、いん)、卯(う、ぼう)、辰(たつ、しん)、巳(み、し)、午(うま、ご)、未(ひつじ、び)、申(さる、しん)、酉(とり、ゆう)、戌 (いぬ、じゅつ)亥(い、がい)。▽10と12の最小公倍数は60なので、干支は60期で一周することになる。 起源は商(殷)代の中国。ベトナム、北朝鮮、韓国、日本などに伝わった。
(*2) かわしまのみこ(657〜691)。河島 ─ とも。天智天皇の第2子。妃は、『万葉集』の題詞から、天武天皇の皇女・泊瀬部皇女であったと考えられる。
(*3) きき。古事記と日本書紀との総称。
(*4) 大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に 盧(いほ)らせるかも (柿本人麻呂) 『万葉集』 
(4) 天武天皇、国名を「日本」とする
そして倭国の「倭」が“うねって遠い”、“みにくい”という意味であることを知ったからだろうか、国名を「日本」と改め、自からも「日子根子天皇」と号した。先賢・聖徳太子の「日出ずる国の天子」に習ったのであろう。
まずは国外に対して誇るに足る八色の姓制(*1)の中央集権制度を作り上げた。天武天皇八年には六人の皇子らと共に吉野の旧宮に行幸して次の歌を詠んでいる。
よき人のよしとよく見てよしという。吉野よく見よ、良き人よく見つ。
長男の草壁皇子(*2)が性来病弱凡庸なのに比べ、次男・大津皇子(*3)は『懐風藻(*4)』で
「容貌魁悟にして気宇峻遠。詩集の興隆はこの皇子によって決まる」と評した程の大物だった。
天武天皇も我身とよく似た気性の彼を内心では最も愛していただろうが、それを知る鵜野皇后(*5)は心中穏やかではなかったようだ。
かくして治政十四年、『記紀』の史書も、アジア最大の新都・藤原宮も見ることなく、
「諸国は家毎に仏舎を建て、朝夕礼拝供養せよ」との詔を最後に、彼は五十六歳で世を去った。

(*1) やくさのかばね。天武天皇が天武13年(684)に新たに制定した真人(まひと) 朝臣(あそみ・あそん) 宿禰(すくね) 忌寸(いみき)道師(みちのし) 臣(おみ) 連(むらじ) 稲置(いなぎ)の八つの姓の制度のこと。『日本書紀』▽旧来の臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)という身分秩序にたいして、臣・連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めた。上級官人と下級官人の家柄を明確にすると共に、中央貴族と地方豪族とをはっきり区別した。
(*2) くさかべのおうじ(662〜689)。天武天皇と持統天皇の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母姉妹である阿陪(あへ)皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王(後の長屋王妃)・文武天皇の父。
(*3) おおつのみこ(663〜686)。天武天皇皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。
(*4) かいふうそう。現存する最古の日本漢詩集。奈良時代、天平勝宝三年(751年)の序文を持つ。編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力だが、確証はない。
(*5) じとうてんのう(645〜703)。第四十一代天皇。女帝。名は鵜野讚良(うののさらら、うののささら)。草壁皇子の母。 
(5) 大津皇子、叔母に殺される / 夏見廃寺の悲劇
天武天皇程に慎重な人柄でも、千慮の一失というか、世を辞す前に草壁皇子を即位させる時を得なかったのが悲劇となった。
父の屍の冷えぬ間に、身近に迫る鵜野皇后のスパイ網にいたたまれず、大津皇子は伊勢斎宮の姉・大来皇女を秘かに訪ねて別れを惜しんだ罪を問われて処刑場に曵かれる。
金鳥(太陽)西山に臨み 鼓声短命をうながす…
と詠じ、哀れや、大津皇子は、二十四才で露と消えた。
続いてその罪に連座し、斉宮の職を解かれた大来皇女も
現身の 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟とわが見ん。
と歌って嘆き伏した、という「夏見廃寺(*1)」のエピソードを伊賀人なら知らぬ者もあるまい。
泉下に眠る天武天皇の魂はそれを見て、大津皇子よりも若い身で道義を守って堂々と戦い、武運つたなく長等山(*2)中で決然と自決した大友皇子の事を考え、正に因果は巡るの一語につきる思いであったろう。
そして僅か三年の後、草壁皇子は皇位にも就けずに若死し、残された幼い孫の軽皇子を見てさしもの勝気な鵜野皇后も断腸の想いであったろう。然し彼女は大唐の則天武后(*3)の如くやがて四十一代持統女帝となって亡き夫の遺志を次々と実現し始める。

(*1) 写真参照。
(*2) ながらやま。滋賀県大津市。
(*3) そくてんぶこう。武則天(ぶそくてん)。623?〜705。中国武周朝の創始者。唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり武周を立てた。日本では則天武后の名前で呼ばれる事が多い。漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」。 
(6) 持統女帝は、藤原不比等に律令の選定を命じる
持統四年(六九〇)秋、耳梨、畝傍、香具山の三山に囲まれた広大な藤原京の造営が着手された。
平成八年発掘の結果、その規模は八木を中心に東西五十三粁、南北四十八粁に達し 二十五万平方粁の巨大さである。当時世界最大ともいわれた大唐帝国の首都長安城を凌ぎ、我国で後に完成する平城京二十四万平方粁、平安京二十三万平方粁よりも巨大豪壮な首都であった事が判明した。
これを以てしても天武天皇、持統の両帝が如何に唐、新羅に対する自主独立の意思を燃やしていたかが察せられる。が、此様な立場を確保する為に、どれだけ艱難辛苦に耐え続けざるを得なかったか。君も臣も誠に気の毒であった、とさえ思われる。
専制君主・持統女帝が十五才の愛孫・軽皇子に譲位したのは持統十一年(六九七)八月である。新帝四二代文武天皇の治政の第一歩が、藤原不比等(*1)に律令の選定を命じると共に、三十年ぶりに山上憶良らの遣唐使の派遣を決した事である。
彼らが長安宮を訪れるや喜んだ唐吏が
「これはようこそ大倭国の客使方!」と歓迎の言葉をかけるや、山上らは毅然として
「否!我らは倭に非ず。日本国の大使なり」と答えたので唐吏らは公文書の中で
「倭の字句が卑しさを含めた意味であるのに気づいたらしい」と記している。
「礼(儒教)の上から中国が一等国、朝鮮が二等国、日本は未開の三等国」とする新羅らの外交政策に乗せられ、唐吏が何時しか中国は長男、朝鮮は次男、日本は不礼な三男という印象を持つのに鋭く反応したのである。独立自存の誇りに溢れていた為で“天皇は神にしませば”の賛辞は何も宮廷詩人のみではなかった。
慶雲四年(七〇七年)、若くして英明で聞こえた文武天皇が惜しまれつつ世を去った。同年、その母・阿倍皇女(天智天皇の娘)が四三代元明天皇として即位し、折しも武蔵国で銅が出たというので、和銅と改元される。

(*1) ふひと。659〜720。天智天皇の寵臣・藤原鎌足の次男。『大鏡』等では天智天皇の子と云われる。藤原鎌足の子で、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くこと許された。不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する事と明確に分けられたため、不比等が実質的な藤原氏の祖と言っても良い。不比等の4人の息子が藤原氏四家を興した。
参考)藤原四家
南家 - 武智麻呂(むちまろ)680〜737年
北家 - 房前(ふささき)681〜737年
式家 - 宇合(うまかい)694〜737年
京家 - 麻呂(まろ)695〜737年 
(7) 平城京がつくられる
当時アジア第一の大都を誇った藤原京が僅か16年で廃され大和北辺の山河襟帯の春日野に方四里の平城京が着手されたのは「天皇の執務室である宮殿が京の中央に在るのは周ノ礼に説く通り理想ではあるが、防衛上は問題があり、隋も唐もそれ故、北辺に置いた」という遣唐使の報告でもあったのだろうか。それとも左大臣の要職に就いた藤原不比等らの強い要望に答えたものか。いずれにせよ遷都というのは当時としては最大の事業であり、庶民にとってはさぞかし難儀なことであったに違いない。
然し計画当事者として不比等は新都が藤原京に比べて小さい事を気にしたのだろう。我家の氏寺を外京の東方に移して興福寺と号し、更にその隣りに聳える三笠山に氏神の社地を設けると、神武大帝が長髄彦を追って橿原から生駒を越える途中、伴をしていた神々を祀る役目の我家の祖・天ノ種子を呼び
「そなたの大祖である天ノ兒屋根ノ命と姫神をあの神津岳に祀って勝利を祈れ」と命じられた歴史のある枚岡神社から分霊を勧進して平城宮の守護神と仰ぐことにしたのは只に新都の威容を高めるのみではない遠謀が秘められていたようだ。 
(8) 藤原不比等は四家を残すが、四兄弟は天然痘で死ぬ
藤原不比等は『古事記』に続いて『日本書紀』がようやく完成し、更には美濃の孝子が酒泉を発見した事から養老と改元され、有名な『養老律令』の撰修に当っていた四年(七二〇)に世を去るが、遺された四人の息子は後に南家、北家、式家、京家の四家を創設し、姉娘は聖武天皇を生み、妹娘はその皇后として名高い光明子となって繁栄するのだから以て冥すべきといえよう。
仏教に心酔し「我は三宝の奴」の勅で知られた45代聖武天皇が皇位に就いたのは神亀元年(七二四)で折しも東国の蝦夷が大叛乱を起こしたので朝廷では公卿評議の末に不比等の息子の中で最も武略に秀でた宇合(*1)を初代征夷大将軍に任じて直ちに鎮圧を命じた。遣唐使として万里の波涛を越えてきた忠良な宇合は恰も天皇家の日本武尊にも似た奮戦ぶりで、多賀域(宮城県下)を拠点として次々に北進して支配地を拡大していったが、武の家柄ではない藤原氏としては何とか日本武神の祖と仰がれる常陸の鹿島、香取大神を三笠山の本宮に勧進して神助を賜わろうと考えたらしい。
けれど困苦に満ちた征討が終えるや、休む暇なく新羅に備えて西海節度使に任ぜられ、さすがの勇将も「往歳は東山の役、今年は西海の行、行人一生の裡、幾度かの辺兵に倦む」と嘆じつゝ太宰府に向う。
折から九州では新羅から大流行してきた天然痘によって死者が続出して苦しんだが、切角大任を負えて帰京した宇合も後を追って襲ってきた病に侵され、天平九年(七三七)兄弟四人共が悉く死するという悲劇を迎える。

(*1) うまかい。694〜737。藤原不比等の三男。初めは「馬養」と名乗るが、遣唐使の副使として入唐後、「宇合」に改めたか。 
(9) 聖武天皇、大仏建立を思い立つ
実家を襲った大難に信心深い光明皇后もひどく悩まれ、聖武天皇は五年も都を離れて東国をさまよった末に大仏建立を思い立ったのは当時渡来した華厳経の説く教議に打たれたからである。
それでも「我国は神国であるから天照大神の怒りを買うのではなかろうか」と伊勢に参籠して神意を乞うと
「日本は神国であり神を第一とするのは当然であるけれど、そもそも大宇宙を太陽の如く照し恵んでいるのが大仏−昆廬舎那仏−で人間が仏になったのではなく、法身仏という最高位の大日如来である。そして私自身もその化身なのだから大仏を祭り讃える事は決して誤ってはいない」との霊告を得て大いに安心した。
かくして天平十五年(七四三)大仏発願の詔が発せられ、全国中の銅や木をかき集めて世界に例のない巨大な仏像と仏殿を作る事になり、十余年の辛苦の末に総重量十万貫(三八〇七・)塗金60k水銀二百k高さ16mという大仏が完成したが、その鋳造には百済からの帰化技術者群が八段重ねの新鋳造法に成功してアジア各国の人々を驚嘆させている。
大仏開眼は天平勝宝四年(七五二)春、新帝孝謙女帝によって催され僧一万余人の盛況は国書続日本紀に「仏法東に帰してより未だかつてかくの如き盛んなる事なし」と記しているが、政略的に見れば唐と新羅に対する示威であった事は、後に遣唐使になった大伴古麻呂が唐宮で新羅より低い席を与えられ憤然と「昔から我国に朝貢している新羅を上席に据えるとは道義を失する扱いなり」と抗議して変更させた事でも判り、今日大仏殿正倉院に残る国宝珍財を見てその大事業に舌をまき只呆然となるのみである。 
(10) 鹿島、香取大神、春日山へ勧進される / 藤原氏興隆
そんな中に、かねて宇合が強く望んでいた東国の鹿島、香取大神の春日山への勧進が実現したのは神護景雲二年(七六八)であった。
元来両神は物部氏の祖神で鹿島は武御雷大神、香取は熊野神倉で武御雷が高倉下ノ命に与えた霊剣師ノ霊が神と化し経津主大神と呼ばれた。
両神は白鹿に乗り、竹柏の木を杖にして遙々と旅をされると途上の名張や大和阿倍の里に駐まられて民衆の信仰を高めつゝ三笠山の本宮に到着されたのは、その年の十一月であった。
その一行が三輪大社や石ノ上神宮の山麓を列をなして平城宮めざして行った時、物部、大神一族にとっては内心大いに不満であったに違いないが、蘇我氏が物部を倒し、その蘇我を鎌足らが倒したのだから、こうなるのも時節というものと諦めていたのだろう。
然し藤原氏にとっては、それによって春日四社と興福寺が「神国大和」の最高社寺として仰がれることになったのだから、それを決めた不比等、宇合父子は春日四神に次ぐ存在といえよう。
そして大和のみならず途上に駐まられた伊賀夏見の積田神社や名張梁瀬の宇流布志根神社、或いは安倍田の鹿高、薦生の中山神社等がいずれも元春日とか春日さんと愛稱されて千三百年後の現在でも盛大に祭り続けられてるのだから、信仰というものは底知れぬ力の偉大な流れであると痛感する。 
2 結崎糸井神社史話 

 

(1) 三輪大社
「神話は国家の理想、伝説は民族の夢」と云う信条から大陸の先進帝国主義国家に対し、敢然と自主独立をめざした天武・持統両帝によって待望の古事記、日本書記が完成された八世紀以降になると大和に散在する大小神社の由緒書や社史縁起も大いに整ってきたようである。
そこで大和の中でも出雲神話と深いつながりを持つ磯城郡(しきぐん)の筆頭である三輪大社に就いて調べて見ると、その主神は大国主と天照大神で配神は少彦名命でその由緒は次のように記されている。
第十代の崇神天皇の御代になると天災地変と流行する疫病により人民が塗炭の苦しみにあえいでいた頃、天皇の夢枕に大国主ノ命が出現されて「古くから私を祀ってきた美酒の三輪の神奈備山の社にわが子孫である大田種子を祭主に選んで祀らせれば国中を忽ち平和な世の中にして見せるぞ」と告げられた。
そこで帝は各地に家臣を走らせ調査した処、河内国に住む大田種子と呼ぶ人物の母には、不思議な話が伝わっている事が判った。
彼女は活玉依姫と云い若い頃に毎夜忍んでくる立派な若者と会っているうち肌も許さないのに身ごもった、それを聞いて心配した娘の母は、そっと耳もとで「赤土を床にまいて置き、白い麻糸に針を通して若者の気づかぬよう袖に刺して置き、朝になったらこっそりその糸を辿って見るがいい」と教えた。
娘が云われた通りにすると白糸は三輪山の社の洞穴の入口に止まっていたから
「さては大神様であられたか」と喜んで婿に迎えると云う事件があったと云い。それを聞かれた帝は驚いて「大国主ノ命は我ら天つ族に祀られるより出雲系の彼に祭らせたいのであろう。これはうかつであったわい」と直ちに種子を召して祭主とし、斉王には妹娘の淳名城入姫を選び、物部の祖神の一人である伊カ賀色男に山のように大盃を焼かせると美酒をなみなみと盛りつけ賑やかに祭りを行った。
更に今まで天皇と同床同殿に祀っていた天照大神を別殿を建立して、姉娘の豊鍬入姫を斉王とし笠縫邑に祭らせた処が、果して天災も疫病も退散して平和な世に返ったと云う。 
(2) 石上神社
また治世七年には伊カ賀色男に命じて神武の昔、高倉下命が北陸王となって赴任する時に、師ノ霊の名剣を石ノ上の社に残していったのを布留の里の高庭に鎭め、傍に巨大な武器庫を建てゝ国中の武器を納めさせたので人々の争いも絶えた事から初代神武天皇に劣らぬ肇国天皇と贈名して、その功を永く賛えたのだと云う。 
(3) 伊勢神宮
そして次の11代垂仁天皇の世になると笠縫邑に天照大神を祭った豊鍬入姫が世を去られた為であろうか、天皇は皇女倭姫を斉王として祭り続けるうち、倭姫は天照大神の命のままに伊賀、近江、紀伊と各地を転々と移り住まれた後に現在の伊勢神宮に永く駐まられる事になるのだが、其間五十年近い歳月をへたと云われている。今年平成八年は倭姫が伊勢に遷宮されてから満二千年になると云うので盛大な記念式典が挙行されるそうだが倭姫も三代ほどは、代が変わっているだろう。
西暦でも同じ頃だから紀元〇年前後となり、それから逆算すると神武天皇の建国は紀前三百年になる。
過ぎし昭和十五年は紀元は二千六百年で全国津々浦々で賑わったが、当時でも辛酉革命説によって想定したから約六百年の差があると囁かれていた。その上に当時の暦は一年を六カ月とか十カ月に算定したらしいから案外日本建国は縄文末期の紀前三百年と云うのが正しいかも知れない。
敗戦後は左翼学者の全盛期で弥生時代以前は絶対考えられない神武も崇神も架空で十五代応神帝が精々であると云われていたが、熊野に残る数々の史跡や熊野大神御霊験記から研究を進めて三十余年の現在、紀前三−四世紀と云うのが私の確信する処であり、次々と考古学の発掘によっても縄文時代こそ正しいと裏付けられているのは嬉しい事である。 
(4) 糸井神社1
さて、それでは本題の式内小社の糸井神社史に入る事にしよう。由緒書のトップには「垂仁天皇の三年、新羅の王子天ノ日槍が但馬からやって来て羽太玉、足高玉、鵜鹿赤石玉やら宝剣、神鏡ら多数を献上す。」とあり天皇は三輪ノ君の祖先である大友主らを派遣して調査した状況をるゝと記している。
そして日槍の子孫が糸井神社を繊物神(絹引神)として祀り始めた事を書いて居り、この日槍の娘がかの有名な神功皇后で、仲哀天皇の妃として三韓征伐に従軍し夫に代わって武内宿弥らに助けられ大勝利を博し、帰国すると九州の宇美で皇子−応神帝を生む傳説の女丈夫である。
社記は続いて十五代応神天皇の御代に百済から王仁博士と共に泰族の織姫女・呉羽・綾羽が渡来して機織殿を建て美麗な綾錦を作り人々を驚かせたが、其際に日槍の孫の、糸井姫や三宅連らが活躍したと説いている。
魏史倭人伝には西紀二三九年ヒミコが魏王に「班布二匹二丈他」を朝貢している史料が残されているので問題化したが、応神は四世紀末の王で時代が早過ぎるとして残念にも認められなかった。 
(5) 糸井神社周辺1 / 下池山古墳
然るに平成八年夏、天理市の下池山古墳(三世紀末−四世紀初)から国産の銅鏡を包んだ袋としてブルーの絹織物や柔らかな兎の毛で織られた物が出土し、これは"倭文"と呼ばれる青い縦じまの貴重な絹織物(班布)で七世紀に伝わった高級品と考えられていたのが四世紀も繰り上げられる事となった。
これらによっても縄文文化は優れた織物技術や巨大土木建築技術を持っていた事が裏付けられると共に、或いは女王ヒミコは大和−天理一円か、等と云う資料が発見され、糸井神社の主神豊鍬入姫や呉羽、綾羽神にも新しい視線が投げられる事になったのは誠に氏子の皆さんも誇って良いと思う。
かねて奏の徐福伝に詳記した通り、奏の始皇帝の命により不老不死の仙薬を求めて徐福が熊野に渡来したのは紀前二二〇年の七代孝霊天皇の御代であり都にも参内して神薬探検を許されているが、遂に発見できずこの地に帰化した。
其際に当時の大陸文明の先端をゆく土木、織物、製紙、農耕、漁猟技術を身につけた善男善女五百余人が彼と共に土着し、伊賀へは織女綾羽呉羽らが海路伊賀霊山に定住し、その技術を拡めていった事が記されて居り、現在伊賀−宇治の呉服神社はその系路を語る貴重な史跡とも云えよう。 
(6) 糸井神社周辺2 / 島ノ山古墳
次に同じ八年夏。全国の新聞が一斉に一面に大きく報じたのが糸井神社に縁の深い「島ノ山古墳」の発掘現況で次のように記している。
「奈良県川西町の島ノ山古墳は四世紀末に作られた全長一九〇mの前方後円墳であるが、今回未盗堀の個所から当時の権力者のシンボルである北陸産グリーンタフ製の車輪石、鍬型石、石製腕輪などが百四十点も多量に発見された。
このような例を見ぬ出土によって今迄は空白で謎の世紀と呼ばれていた四−五世紀の大和王朝の勢力が遠く北陸までも及んでいた事を証明する画期的な資料が発見された事によって今後の大きな成果が期待され、古代日本歴史に曙光が輝いたと云える。
今回の埋葬されていた主人公は呪術に優れた女性シャーマン(ミコ)と考えられ、近くの糸井神社には主神豊鍬入姫や呉羽・綾羽明神と呼ばれる織女ら奏氏系渡来帰化一族を祭っている点からも大きな期待が寄せられる」 
(7) 糸井神社周辺3 / 北陸王・高倉下ノ命
このように報じられ「正しく神助!」と喜んだ、と云うのも、かねて熊野年代記(全八巻)に詳記したように、神武天皇の熊野迴航に際し、那智荒坂津で土豪錦戸畔によって大苦戦中を救出したのが新宮神蔵にいた高倉下ノ命であり、天照大神の霊剣師ノ霊を賜わって皇子狭野命を助け、八咫鳥(やたがらす)らと十津川を北上して吉野に出撃し、生駒の長髄彦(ながすねひこ)を倒して人皇一代神大和磐余彦と号して建国の大業を果される。
高倉下は物部族饒速日の長子で天ノ香語山命と云い、やがて天皇の要請で北陸王となり師ノ霊の剣は石上神社に献上して出陣した。
北陸では網による新漁猟法を教えた事から手繰彦王と呼ばれたが没後、越後一ノ宮弥彦神社の主神と祀られて現在も厚く信仰されている。
今回の島の山古墳の出土品は正にその史實を証明したもので今回糸井神社史研究中にその出土を見た事は神助としか思えなかったからである。 
(8) 糸井神社周辺4 / 東殿塚古墳
さらに驚いたことに平成九年七月、新聞はトップニュースとして、初期大和王朝の王墓群と見られる天理市の東殿塚古墳(三世紀末−四世紀初頭に築造)から"最古の葬送船"と云われる「天の鳥船」の円筒ハニワの出土を発表した。
記紀神話や熊野神話によれば、遥々と広大な海洋を乗り越えて渡来されたイザナミ大神の浮宝である。"眞熊野の船"とも総称される船首と尾がそり上がったゴンドラ状の巨大船が新たなロマンと共に英姿を現したのだ。
建国の英雄神武大帝が熊野に回航され、同じく肇国天皇と讃えられる第十代崇神帝の治世に「大船建造と四道将軍の派遣」された記録は決して神話ではなく史実であることの証明とも云えよう。
平成十年の新春を祝うかのように奈良の柳本黒塚(三世紀末築造)から女王ヒミコが魏王から授かった鏡百枚の中の三角縁神獣鏡ら三十三面他が多数出土した。まさに「世紀の大発見」で宣長以来の「ヤマトは畿内か、九州か」の論争に決定打が放たれた事になり、葬られた人物は初期大和政権の中枢的存在の女性武人とも考えられる点から「神功皇后の先駆者か」と感じて今後の研究に大きな期待をかけている。
そして今後のたゆみなき考古学の探求によって日本古代史の始まりは前六世紀(縄文後期)とする熊野年代記の伝説が確実な史実として認められる日が来るに違いない。私はその時こそ戦い敗れて建国さえ明らかでない日本の歴史の真の黎明であると信じている。 
(9) 上代年表
以上の資料を加えて上代年表を作ると次のようになる。但し初期大和王朝の暦年は一年は半年程に算定したらしいから十五代応神天皇までは今後の考古学の発見進歩によって変わるだろうが、敗戦後のように神武・崇神・応神王朝は架空で紀三〇〇年以前は考えられないとの説は覆えされた。
年代      / 西暦   / 記事
縄文後期   / 前六〇〇 / 中国天台山(紹興市)より熊野大神渡来され神蔵に鎮座。イザナミ大神没後に有馬の花の岩屋に葬る。(日本書紀)
弥生前期 / 初代神武 / 前三〇〇 / 神武天皇、熊野入り天磐盾に登る。高倉下と十津川より大和入国し建国。高倉下、北陸平定。
七 孝霊    / 前二二〇 / 秦ノ徐福ら五百人が熊野渡来。
十 崇神    / 前一〇〇 / 大彦命ら四道将軍派遣、大船建造。皇女豊鍬入姫に天照大神を笠縫に祭らせる。
十一 垂任  / 〇 / 皇女倭姫ら天照大神を奉じ伊勢鎮座さる。
十二 景行  / / 新羅王子日槍ら渡来し、永住。
         / 二三九 / ヒミコ、魏に朝貢(班布、生口)。鏡百枚賜う−黒塚より三角縁神獣鏡三十三面出土。
         / 三〇〇 / 天理市東殿塚より天ノ鳥船のハニワ出土。
十四 仲哀(神功) / 三六九 / 神功皇后朝鮮出兵し、任那日本府誕生する。
         / 三七二 / 百済より七支刀献上、石神神宮神宝となる。
十五 応神  / 三九〇 / 川西町島ノ山古墳より北陸産の車輪石、腕輪ら出土
十六 仁徳  / 四一五 / 百済より王仁、織女呉羽ら渡来。中国皇帝より倭王賛に安東将軍倭国王を任命。 
(10) 糸井神社2
糸井神社の社記が天ノ日槍一族を強調しているのは、記紀に神功皇后と武内宿弥をいわゆる三韓征伐の立役者とした天武天皇の裁断とも考えられる。神社草創の主神は豊鍬入姫を祀った三輪一族であった事は、後に井戸氏の家老であった中村一族が、代々別姓を大神(おおみわ)と称している点でも明らかである。
社記にある五十六代清和天皇は「貞観ノ治」をもたらした明君であり「歴史の編集は国家の経営と皇化の根源であり、政治と祭儀上からも貴重な礎なり」と勅令される程だから、続日本記や、日本後記、新選姓字録等を次々と発刊され、神社の由緒書なども厳しくチェックされて一語一句ゆるがせにされなかった。
そして下々の神職や氏子総代なども純真素朴な神仏への信仰心に支えられていたから、そう簡単に書き直したり、デッチ上げや鯖を読む等と云う事は考えるだけで神への不敬として重罪に問われた程であった。
従って「清和天皇の貞観三年(八六一)糸井神社の諸神は本宮豊鍬入姫大明神(従四位)二宮猿田彦命、三宮綾羽明神、四宮呉羽明神」と確定された事から、豊鍬入姫が結崎郷の総産土神と仰がれ、後世には結崎大和宮とさえ讃えられる確呼たる基盤となったと云えよう。
さらに前記古墳群からの発掘出土品の研究結果によっては、初期大和三輪王朝(ヒミコ−日ノ御子王朝)に大きな役割を演じた大切な神々であり、それらを産土神と仰ぐ氏子各位は大きな期待と誇りを抱いて待つべきであろう。
さて、社記には記されていなくても続いて井戸の里にまつわる"つゝ井筒"の由来について述べる事にしよう。 
3 つゝ井筒の由来 

 

(1) 平安京遷都
青丹よし 奈良の都は 咲く花の 匂うが如く 今盛りなり
と誇った当時の平城京の人口は二十万、日本全国は約六百万と云われる。
大和は国のまほろばと呼ばれた広大な大和平野には南都六大寺が威容を競い、道鏡を愛した女帝が皇位を譲らんとされるや朝臣は大きなショックを受け、やがて式家の百川と和気清麿の協力で女帝没するや道鏡は忽ち追放された。
宝亀元年(七七〇)久しぶりに天智系の光仁天皇が即位して律令政治が復活し、朝廷の高官達もホッと一安心したものの、井上皇后と皇太子が帝を呪い殺さんとした、とかで宇智郡に幽閉されて自ら命を断つや、老帝は気力を失い藤原系の先妻の子の山辺親王が第五十代桓武天皇となる。
新帝は曽祖父天智の定めた律令政治の確立をめざして精励し、勇将坂上田村麿に十万の大軍を与えて秋田の胆沢城に侵攻して東北地方を支配下に入れた。然し帝は、亡き皇后の怨霊の呪いから逃れんと都を転々とされ、延暦十三年(七九四)には平安京に遷都する。
新都は民衆を酷使して造営に国力を傾け朱雀大路から羅生門に連なる「青柳が花のしだり柳は今盛りなれ」と賛えられたが、百川の子緒嗣は敢然と「今、天下が苦しむのは造営と軍事であり、これらを止めれば全国の百姓は大いに安心すべし」と論じて帝を戒め、その正論を容れ徳政なども計画される中に延暦二十五年帝は在位のまま崩御される。 
(2) 薬子の乱
生涯を平安京の造営に苦斗し続けた父を失い平城新帝は「哀号して立てず」と云われながら新政に取組んだが、再び「異母弟に逆心あり」との訴えでやむなく幽閉した処が、母と子が服毒自殺した事から忽ち怨霊に悩まされ、むりやり弟嵯峨に譲位して、上皇となったが尚も呪いをさけて転居を重ね再び平城の旧都に帰って漸く病は慰えたものゝ、式家の仲成、薬子の兄妹にそゝのかされて復位せんと企てたから大騒動となった。
「二所朝廷」の悪評の中で弘仁元年(八一六)上皇は「都を平城京に移せ」と高飛車に命令したが、これには天皇も承知せず、怒った上皇は遂に東国を出奔して兵を挙げんとしたから天皇は遂に坂上田村麿に命じて武力で阻止して連戻したのが世に云う「薬子の乱」である。
恰も第二の壬申の乱で勝利を挙げた天皇は事を穏便に収めんと上皇は僧となるだけで罪を問わず、仲成、薬子らだけが死んで事件は落着した。それでも皇太子は廃され、次男の阿保親王も皇位継承権を失い、やがてその子供達は臣籍降下を命ぜられる。 
(3) 在原業平1 / 平尾丸
時流に乗れず不運を嘆く阿保親王の邸で桓武皇女の妻の伊登子が五人目の男子を生んだのは天長二年(八二五)で薬子の乱に鎭護国家の修法の霊験新なりと信じられた空海の高野山に修業道場開拓の願いが許され金剛峯寺建設工事も着々と進行していた頃である。
両親はいづれも天皇の子でありながら悲運の星の下に生を享けた幼児は、やがて都を去り、父の所領のある大和石ノ上在原の里で成長する事になる。
この地の東方には平尾山と呼ぶ小丘があり、五世紀の昔、第二十四代仁賢天皇の広高宮の皇居が置かれた処から、幼児は平尾丸と名づけられたらしい。仁賢帝は有名な倭の五王の一人である仁徳天皇の曽孫で百済から五経博士を招いて学び高句麗から工匠を召して建築技術を高めた他、散亡した佐迫一族を再建して居り、その子孫の空海も深く感謝していたと云われている。
阿保親王が平尾山頂にあった補陀落山本光明寺を石ノ上在原に移し、在原寺を建立したのは空海の入定した年で延喜式によれば、当時の平尾山頂皇居跡には尚も稲荷明神社や石ノ上市社が立ち並び祭りともなれば大賑わいであった。と云うから平尾丸も祭りになれば毎年幼な友とここに参じて夢多き少年の日を楽しみ、頂上に立って西に聳ゆる二上山や葛城、金剛の悠大な眺めに時を忘れた事もあったろう。 
(4) 在原業平2 / 東国追放
やがて十七歳で初冠し名も在原業平と改め、右近衛ノ將監に任じられ宮中の女官達から光源氏ノ君にも劣らぬ伊達男ぶりで噂の的となったが、承和九年阿保親王が承和の政変の火をつけた後、敢えなく世を去ったのが彼の前途に暗い影を落とした。
現在の伊賀青山町は昔から阿保親王の墓と稱された古墳が築かれていたので阿保の里と呼ばれていたのだが、親王との縁については不明(*1)で或いは石ノ上と同様にその所領地があった為かとも思われるが確かな資料も見当たらぬまゝに、その名も改められてしまったのは惜しい気がする。
藤原良房が右大臣として権勢を誇っていた嘉祥三年(八五〇)。五十五代文徳天皇が即位され、皇太子には長子の惟喬親王でなく四男の藤氏系の惟仁が選ばれその后に藤原基経の妹高子が目された。
処が彼女には既に相愛の業平があり、それを知るや互に手を取って出奔したので激怒した良房は忽ち捕えて東国に追放する。
業平は、その流浪の旅で武蔵の国の隅田川に遊ぶ都鳥を見て
名にし負わば、いざ言問わん 都鳥 わが想う人の ありやなしやと
との名歌を詠じているが、これは高子への恋と共に、妻である紀ノ有常の娘への切ない慕情でもあったろう。
やがて流罪も許された後の貞観七年(八六五)清和天皇の後室となった高子が皇子を生んだ為に、親王は帝位への望みも絶たれて小野の里に出家される。それを知った業平は大雪の中を秘そかに小野を訪れると、
忘れては 夢かとぞ思ふ 想いきや 雪ふみ分けて 君を見んとは
との断腸の一首を献じたのを見ても、彼は単なる多恨の詩人ではなく、忠誠な臣であったことが判る。

(*1) 奈良市の阿保親王と青山町の阿保親王の違いについては、あくまで別人で「現在の青山町の阿保村は王邑(おおむら)の転化したものではないか」という説がある『阿保山の歴史』。すなわち「奈良市の阿保親王=皇族」、「青山町の阿保親王=豪族」ということか。 
(5) 在原業平3 / 伊勢物語「筒井づゝの章」
このように業平には当時の貴族の常として宮廷の美姫や、後に皇后となられた姫やら伊勢斉宮のやんごとなき方とのロマンスから多情多恨で知られ、我国古典文学のトップを飾る「伊勢物語」の主人公となるのだが、その書出しは常に“昔、男ありけり”で始まるので、それに習って本文二十三段の「筒井づゝの章」のエピソードに入ろう。
昔、大和の片田舎に世を渡っていた高貴な方の子供がいて近所にある囲りをまるくかこった名水で知られる井戸のほとりを遊び場とし、朝夕のどかに群れ集っては楽しくたわむれ過ごした。
その中に一際美しく仲むつまじい男女の童の一組がいて物心がつくにつれて互いに相手を意識し合い、やがては顔を合わせるのもうら恥ずかしくて言葉を交わす日もなくなっていた。
それでも互に心の中で「大きくなったらきっとあの人を妻に、夫に」と決めていたので、年頃になって親達がいくら縁談を持ちかけても決して承知せず、ひたすら機会の来るのを待ちわびていたのは誠にいぢらしい程であったが、成人を迎えた或春、突然乙女の下に恋しい人から次のような歌文が届いた。
つゝ井つの 井筒にかけし 麿が背、過ぎにけらしな 妹見ざる間に
(昔、筒井の周りで遊びながら比べあった私の背丈も久しく会わずに過ごしているうち、今ではもう筒井の高さよりもずっと高くなりましたよ…)
その嬉しい文を手にしてまるで天にも昇らん心地で頬を染めた乙女はやがて心に固く秘めていた熱い想いを込め、
比べこし 振分髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき
(そしてあの頃、仲よく長さを比べあった私の髪も今ではもう肩よりもずっと長くなりましたが、恋しいあなた以外の誰にも決して結い上げる気などはありませぬ。)
と、熱い血の高鳴りをもらし、いつしか二人は夫婦のちぎりを結んで甘く切ない夢のような日々を送るようになったのである。 
(6) 在原業平4 / 辞世
世上で読人知らずとされている伊勢物語の一節で、その中に盛られた数々の話は当時の貴族の子女から深い感動と憧れの的となり千年の後までるゝとして語り継がれ、その主人公と稱される業平は当代一の詩人として仰がれる。然し現実の政治社会の評価は低くその血統の良さにかゝわらず従四位下近衛権中将の身で元慶四年(八八〇)次の歌を辞世に五十六歳の生涯を終える。
遂にゆく 路とは兼て 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを
然し彼の残した数々の名歌は全百二十余段の物語の中で珠玉の如くちりばめられ、歌を世すぎ身すぎの手段とせず名利の為に曲げる事なく生きた純粋詩人として高く賛えられ、「源氏物語」の光源氏の君と並ぶ不動の地位を占めているのだから以て冥すべしと云えよう。
そしてこの“つゝ井筒”のエピソードは何時しか幼訓染の乙女に対する初恋の代名詞となり、井戸のあったらしい結崎糸井神社の社地は井戸の里と呼ばれ、やがて、それを愛して我が名とする武将が生まれ、一族発祥の由緒ある地となるのである。 
4 開祖・右衛門忠文(うえもんただふみ) 

 

(1) 藤原忠文、誕生す
五十六代清和天皇の貞観十四年(八七二)病に侵された藤原北家の攝政良房が子の基経にその地位を譲って世を去り、かねて風雲急を告げていた新羅との国交が一段と嶮しく九州北辺には多数の兵が動員されて戒厳令が発しられていた秋。
大和の九条辰市の倭文神社で生計を養っていた式家の緒嗣の孫、藤時(*1)の邸に元気な産声を響かせて男子が生まれ一族を喜ばせたが、この赤ん坊が後に右衛門忠文と名のって、新しい井戸氏の開祖となる。

(*1) 藤原枝良、の誤記か。 
(2) 藤原藤時、倭文神社の祭主になる
かつて左大臣として世にときめいた緒嗣が七十才で世を去ってから三十余年、何とか家運を挽回せんとした藤時が都を去って遠祖・時風の創建した倭文神社(*1)の祭主になるのだが、この社は何の神であろうかと調べて見ると伊勢物語の三十二段に「昔男ありて過ぎし昔、深くちぎりを結んだ女に数年後になって
昔えの 倭文の苧環(しずのおだまき) くりかえし 昔を今に 為す由もかな
との歌を寄せて再会を求めた。
倭文と云うのは舶来の織物に対して云う国産の織物の倭の文の意味であり、その苧環からくり出される糸のように、もう一度あの愛の糸を蘇えらす術はないだろうかと云い寄ったのだが、女には後髪はないとか云う通り、情なくも何の色よい返しもなかった。と嘆いたと云う業平の恋ざんげ談であろう。
それとも、貧しい農民生活を救わんとの理想に燃えて「良二千石」(名知事)で知られて中央政界に入り、新撰姓字録や日本後記の編集に活躍した緒嗣の志をうけ、大和国府の役人となった孫の藤時であったが、承和ノ変によって一躍権勢の地位についた北家の良房に嫌われて日の目を見ず、任期が終わるや辰市に土着し興福寺一乗院の下司職を許されて倭文神社の神宮寺に入り織物の専売権を握って家内繁栄をめざしたものの、時流に恵まれず苦しんだ彼の嘆歌であったかも知れない。
藤氏の名家の子がと怪しまれるかも知らぬが、何も珍しい事ではなく、後世大和きっての領主となった筒井家の太祖と云われる藤原順武が、現在の郡山に天兒屋根命を奉じて土着しているように、倭文神社は経津主大神ら三神を中臣連時風が奉じたのは史実らしい。

(*1) 倭文神社(しずり、しどり、しとり)という名前の神社は日本全国に伯耆・因幡・但馬・丹後や東海地方など計十四社ある。いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチノミコト)を祀る神社。建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られた。その本源は奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎ・しずりに・います・あまは・いかづちの・みこと・じんじゃ)とされている。しかし、絹織物の技術は仁徳天皇(16代)により導入振興されたとされるのに、崇神天皇期(10代)にその創始を唱える倭文神社もある。 
(3) 藤原忠文、大和国府の檢非違使の長になる
さてこのような中で幼き日を送り、やがて青雲の志に燃えた忠文は宇多天皇の寛平四年(八九二)初冠を終えるや父と同じく大和国府の役人となり、その器量を認められたのは攝政基経に代った時平の時代で、更にその厳正さを買われ大和国府に新設された檢非違使の長に登用された。
それから忠文は、辰市から南に勢力を伸ばし結崎郷、糸井神社(*1)の呉羽綾羽を明神と祀る大神一族の娘を初恋の人とし、めでたく妻にめとり新婚生活を楽しんでいた。

(*1) 奈良県磯城郡川西町結崎六十八。祭神は豊鍬入姫命あるいは漢織呉織の霊。応神天皇(*1-1)十四年百済国より博士王仁来朝、この時呉国より綾は・呉はと言う織女来りて(中略)織女、黒田いほ戸の宮の辺にて始めて綾織をおらしむ。是を機織殿と言う。また結崎の明神或いは絹引神とも申すなり。本殿は豊鍬入姫命(是は大倭明神なり)同二ノ宮猿田彦命(是はちまたの神と申し春日の若宮也)同三ノ宮綾羽明神同四ノ宮呉羽明神。『式内社糸井社縁起』
(*1-1) おうじんてんのう。201〜310年。第15代天皇。別名、誉田天皇・誉田別尊(ほむたわけのみこと)。 
(4) 藤原忠文、都の右衛門府に栄転する
やがて不遇だった式家の彼が都の右衛門府に栄転した。昌泰元年(八九八)と云われる。都では藤氏の血のつながりのない宇多天皇が菅原道真を参議に登用して藤原一族の専横を圧さえんと苦心していた頃で、或いは菅原道眞の口利きであったかも知れない。
そう考えついたのは、切角出世の糸口をつかんだ忠文が、名門藤氏も妻の大神の姓も選ばず、例のない「井戸」を創姓(*1)した事で、何故そうしたのかゞ大きな謎であり、色々と手を尽くして見たが、寛政武家々譜も群書類集も単にその結論のみを記すだけで、何の手かかりにもならない。
更に、姓のみでなく貴族としては大切な紋章を、藤氏の下り藤でも大神氏の龍鱗−△や一本杉でもなく、菅原氏の「梅鉢」を選んでいる。

(*1) 『寛政重修諸家譜(*1-1)』に、井戸氏の出自は、藤原式部公卿宇合の六代の孫で、平将門の乱に追討大将軍となった右衛門督忠文の後裔とある。忠文の後裔・杢之助時勝が寛正年間(1460〜65)に、大和国添上郡井戸城に住して、家号を井戸にしたのが始まり。
(*1-1) かんせいちょうしゅうしょかふ。18世紀末から19世紀初頭にかけて江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集(系図)。徳川家光の代の『寛永諸家系図伝』、新井白石の『藩翰譜』の続集。1799年に編纂され、各大名家・旗本からの提出記録をもとに、校訂。 
(5) 佐藤春夫先生のこと
考えあぐねた末に、フト私が幼き日を過した新宮丹鶴城下の登坂の一角で、やはり明治末期にここで育った詩人佐藤春夫先生が、
「早春の青年の頃、秋祭に境内で会ったつぶら瞳の乙女に引かれて、まるで糸のついた凧のように千穂山麓のその娘の家までフラフラとついていった事がある。」
このように少年が思春期を迎え始めて異性に対して清純な憧れ、欲望を抜いたプラトニックな恋、を知った時、その恰も陽炎のもゆる野にこんこんと沸きでる泉の如き気高い感情を『初恋』と呼び、例え果敢なく散ろうとも少しも怨まず、その面影を生涯胸に抱きしめてゆく、哀れなる性を持つ。これが男の習慣(ならわし)であり、伊勢物語に云う『つゝ井筒の恋』なのである。」
と教えられ、折しも「婦系図(泉鏡花)」の“湯島の白梅”の一節
忘れられよか つゝ井筒、岸の柳の 縁むすび
をこよなく愛唱していただけに、痛く感動したのを思い出した。
そして歴史のエピソードとしては何一つも伝えられてはいないけれど幼き日を辰市の倭文神社で育ち、やがて結崎の糸井神社の姫を見染めて妻に迎えた忠文公は“つゝ井筒”の章にあるような思い出を抱き、その清純な童心を忘れぬ為にも井戸の姓を選んだに違いないと気づいた。 
(6) 「井戸」と「梅鉢」の謎
けれどもはや千年の昔の話だけに確かめようもないが「性来敬神の念が厚く生一本の清廉な武人肌であった」と伝えられる忠文公にそれを尋ねると案外カラカラと笑い
「業平公の“つゝ井筒”の章は余りにも多情多恨にすぎる。切角憧れの君に、恵まれながら、彼女が始めは奥床しく振舞っていたが、やがては馴れてしまい、人もいぬ部屋で手盛りの大飯を食べているのを見て心変りをする等は薄情に近い。
後年になって『倭文の苧環き』などと、繰り返しても最早及びもつかず、色よき返事などあろう筈はない。
わしが“井戸”を選んだのはそんな外見だけのものではなく例えれば、緑の大地からさんさんと限りなく沸きでる玉の如き清烈な水、人が生きてゆく以上に欠かせぬ生命の泉、そのものを愛した故じゃ」と答えられるだろう。
そう考えると彼がその紋章を道真と同じ梅鉢を選んだのも諾け、
「忠文公は権謀術策を常とする北家の時平らに苛められた誠実な詩人肌の道真が好きだったのだ」と納得した。 
(7) 藤原忠文、右府権ノ監になる
右大臣に選ばれた道真が時平らによって太宰府権ノ師に左遷されたのは延喜元年(九〇一)の正月で右衛門府に選ばれた忠文は三十になったばかりの男盛りであり、正義感の強い彼だけにひどく腹を立てたに違いない。
けれども宇多法皇を始めとする道真派の尽力も空しく、道真が太宰府で没したのが延喜三年(九〇八)であったが、道真の没後、俄かに落雷や天災が続き「道真が雷神と化して怨をはらされる」との噂が朝野を囁かれる中に、延喜九年になると、仇役の左大臣時平が三十九の若さで没したから、さしも権謀術策の巧みな北家の高官達も震え上がったらしい。
亡き菅原道真が右大臣に復し、正二位を追贈された醍醐天皇の延長二十三年(九二三)に右大臣忠平は左大臣となり、延喜式の編集に着手すると兄の時平とは違って清廉で正義感が強く文武両道に秀でた忠文を愛して、朱雀天皇が即位された延長八年(九三〇)忠平が攝政関白に就任すると忠文は右府権ノ監に任じられた。
折しも天災地変が続いて、山陽、南海道に出没する海賊共の横暴が激しくなる。
関東では平氏一族の内争が絶えず世相は乱世の様相を呈し始め忠文自身にも思いもかけぬ晴の舞台に立つ日がやってくるのである。 
5 将門・純友の乱 

 

(1) 阪東八平氏の繁栄
平安京を創建した桓武天皇の曽孫・高望王が中央政権での出世を諦めて平姓を賜り、上総ノ介として一族と共に阪東に赴任したのは宇多天皇の寛平二年(八九〇)である。
そして任期が終っても帰京せず、そのまゝ土着して各地の豪族の娘を妾とし多くの子女を生ませて平氏勢力を関東一円に拡大していった。彼らは日常武芸を練りつゝ公領荘園の農耕地の支配と新田開発、そして年貢徴収が仕事で常に武力でその支配地を守る為にいわゆる「一所懸命」となったが、その館は四方を濠に囲まれていて濠の内側に苗床を作り農民に苗を貸して収穫期に年貢を取り立てゝ生活を維持した。
苗地が苗字で名田と呼ばれてその姓となり、大きな名田を支配する武士は大名、小さな名田の主を小名と呼ばれた、そしてその階級は「武士−郎党−一般農民−下人奴婢」の四段階に分かれていたようだ。
高望王の一族は各地武士団の棟梁となり武士達の所領を安堵してその生活を保証する代りに合戦ともなれば著到状を出させ、その武功を審査して承了判を押して返し彼らの地位と名誉をたゝえた。
けれど中央政府に対しては極めて低姿勢で莫大な賄路を献じてその気嫌をとり、窮々として酷使に耐えながら鎮守府や国司役人の高位に任じられ、やがては阪東八平氏として繁栄していった。 
(2) 将門ノ乱1 / 藤原忠平の家臣、平将門
まるで貴族の飼犬でしかない卑屈な武士達の中で敢然と中央政府に叛旗を掲げ「武力を以て正義を貫徹せん」と立上った将門ノ乱は当時としては驚動天地の大事件と云えよう。
然しそれに到るまで十余年、彼は藤原忠平の家臣として下積みの労のみ多い雑務を真面目に勤め続けたが性来要領よく立ち廻って官位にありつくと云う事が出来なかった。
同じ頃故郷を出た嫡流の貞盛のように望む官途にもつけず、遂に失望して故郷に帰ろうとする将門に対し、さすがに忠平は気の毒になったのだろう、伊勢御厨の下司職に推薦している。
当時の反当りの国税は三斗が相場だったが、神宮領は半分ですむから喜んで父から譲られた相馬荘を伊勢神宮に寄進し、毎年の収穫から田からは反当り一斗五升、畑からは五升と云う低い税と山鳥、鮭各百匹を収める約束で国司の横領から守り、これを基盤に新田開拓にも大いに精を出したようである。 
(3) 将門ノ乱2 / 将門、常陸国府を焼討ちする
将門は性来勇猛ではあるが誠実で情深い親分肌の武人で、国中の地主や農民達から深く慕われたが、強欲な伯父・国香や国府役人共を相手に力づくでも正論を貫ぬかんとした結果が度々の合戦となって、国香を殺し貞盛から父の仇と狙われる事になった。
けれど常に雷神の様な勇猛さで勝ち抜いてその武名を阪東一円に輝かし、天慶二年には源経基を懲らしめんとして逆に叛逆人として訴えられたのを怒り常陸国府を焼討ちして役人共を追放してしまった。
そして彼を取巻く興世王ら陰謀家共から「一国を奪って逆賊扱いをされるならば阪東一円を制圧して新王国を築くにしかず」とそゝのかされ、折から神がゝりした巫女の告げる八幡大菩薩と雷神菅原道真公よりの神示を信じて「此際正しい世の中を招き広く万民の幸福をもたらさん」と決意した。
然し弟の将平を始め一族達は逆賊となる事を恐れ「古来より天皇の皇位は天より授けられたもので決して武力や人智で争い取るべきものではない。此際は充分自重し、世上の動きを見て行動せぬと後世に逆賊の汚名を招く事になる」と戒めた。 
(4) 将門ノ乱3 / 将門、新皇と号す
然し将門は「弓矢によって王位を戦い取る例は大陸諸国の常であり、勝者が主となるのが当今の時流だ、ましてわしは国司共が無道に民を酷使するのを見るに忍びず正理を以て百姓の幸福を守らんとして立ったのである。尊い天皇の血をひく身であるのに不当な賊名を蒙ったからにはもはや武力を以て正しい世を招くより外に道はない」と断じた。
そして天慶二年師走、数千の兵を率いて下野、上野の国府を領し翌年正月には武蔵、相模を征圧し石井に皇城を築くと新皇と号し、民衆は喜んで彼に従った。折しも南海では藤原純友が水軍を率いて摂津に迫り、このまゝ将門軍が一気に西下すれば常備軍を持たない朝廷は崩壊したろう。
然るに武勇は絶大でも優れた軍師を持たなかった将門は貞盛の追求のみで日を送り、やがて田植時期が近づくや、軍を解放して兵を故郷に帰した。 
(5) 将門ノ乱4 / 貞盛の逆襲
辛うじて命びろいをした貞盛は、征討軍が編成されて将門を誅すれば五位の高位に任ぜられるのを知り八方に奔走した。
豪雄で知られた田原ノ藤太を始め四千の大軍を集めた貞盛は突如として石井に迫る。急を知った将門は兵をかき集めて迎え討ったが、俄かな事でその兵力は千にも満たず苦戦が続いて遂に皇城も焼かれた。
けれども彼はいさゝかも屈せず、さすが万夫不当の勇者だけに僅か四百の兵を以て四千の大軍に決戦を挑んだのは天祐神助を信じたからに違いない。 
(6) 将門ノ乱5 / 忠文、将門追討の大将軍になる
右衛門府の長官であった忠文が参議に昇進して将門追討の大将軍に任ぜられたのは、帝の意向と彼が昔、将門と親しかったからと云われ、老躬に鞭うって征途に就いたのは天慶三年二月八日であった。
折しも阪東では二月半ばに入ると、将門は雷神の荒れ狂う如き勢いで敵の大軍を敗走させ、折からの逆風をついて貞盛本陣に突入せんとしたが、天運つきたか愛馬の目に砂塵が入り一瞬、棹立ちとなった処に強矢を額に受け、さすがの彼も急所の痛手に再び立てず討死する。
将門ひとりの武勇が頼りで組織が確立していなかった新皇軍は彼の死と共に壊滅し、以後の関東には貞盛を棟梁にした関東八平氏と呼ばれる大豪族軍団が繁栄した。
それでも逆賊として獄門にさらされた将門に対する人々の追慕は深く、神田山王を始め広く各地に「明神」として祭られ、乱後まもなく「将門記」が書かれその武勇を永く讃えたのは、搾取と非道を常とする貴族政権に対し敢然と戦った将門に対する民衆の大きな尊敬と親愛からであろう。 
(7) 純友ノ乱 / 忠文、再び征西大将軍になる
それに比べて不運だったのは総師忠文で、出陣間もなく将門の首を取ったとの報を聞き呆然としていたと云われる。後々まで何の恩賞も出なかったのは北家の嫡男の大納言実頼が猛反対した為で、それを知った忠文は直ちに辞職を乞うたが帝は許されなかった。
そして翌年五月、純友勢が太宰府を焼討ちした事件が勃発するや再び征西大将軍に任じられたのは帝の信頼の厚さからだろうが、それを知った忠文は、遠祖・宇合が征夷大将軍を果たすや忽ち西海節度使を命じられ「行人一生の裡…」と嘆じたのを回顧しつつ、黙々と九州への軍旅を進めるのであった。
然るに不運はついて廻り、今度もかつて天馬空を馳せる勢いだった純友が博多湾の決戦に敗れて斬られ、功は副将・小野好古の独り占めとなる。さしたる賞もないまゝに天慶元年(九四七)六月、忠文は七十五歳で病没し、新帝・村上天皇は中納言を贈ってその冥福を祈られた。 
(8) 忠文の没後
処がその秋、左大臣となった実頼の嫡男と娘が続いて病死した事から朝廷内に「きっと忠文公の怨みからじや」と云う噂が流れた。死に臨んだ忠文が遺族達に「国にさしたる功もなき身に功賞を賜わるも心苦し、汝らは官を辞して大和に帰り先帝の菩提を弔いつゝ清廉を旨として生きよ」と遺言した事がこんな噂の原因ともなったらしい。
真相はともかく、藤氏の日本武尊と評される式家を興した宇合の孫として東奔西走の軍旅に苦斗しながらも武運拙なく忠文は世を去り、その一族は以後の源平、南北、室町の世を、歴史にその名を止める事もなく、埋没雄伏の数百年を迎える事となる時節がくる。 
(9) 源氏一門1 / 経基(嵯峨天皇の子孫)
さてそれではこゝで視野を源氏一門に転じよう。彼らは嵯峨天皇を始めとする九代の帝の血をうけつゝも、専ら朝臣となって権勢の地位を得るのに懸命で、時には藤原氏とも競う程にもなっている。
武家で有名となったのは名張大屋戸を開いた清和天皇の皇子・貞純親王の子孫・経基王(陽成天皇の子・元平親王の血をひくとも云う)の一族である。他にも東国に下り土着した皇孫もあるが平氏系に圧されて強い地盤が作れず、将門の乱のきっかけを作ったその六孫王・経基さえも「介ノ経基いまだ兵道に練れず」と貴族達から冷評され、結局は阪東に地盤を築けなかった。 
(10) 源氏一門2 / 満仲(経基の嫡男)
嫡男の満仲は摂関家の藤原師尹の家人となって仕え、摂津国多田ノ庄に本拠を置き摂津源氏の開祖となった。武将として優れていたゞけでなく仲々の策謀家だったらしい。師尹の腹心となり「光源氏」のモデルと云われる左大臣・源ノ高明を巧みに失脚させている。
その功によって左馬頭に進むと、多田の新発知と呼ばれて所領の拡大に努めながら摂関家の番犬的役割を果たす。花山天皇の出家退位の際も大いに活躍して兼家を喜ばせ、その子・道長にも気に入られて「武士としては天下の一流」と評されるに至った。 
(11) 源氏一門3 / 頼光(満仲の嫡男)
満仲には三人の男子があり、嫡男は頼光で多田を本拠とし、有名な大江山の酒天童児を坂田ノ金時や渡辺ノ綱ら四天王の活躍で見事に退治して勇名を馳せた。そしてその子孫には源平合戦に活躍する源三位頼政や多田行綱を始め大和源氏の祖・俊基や熊野中辺路を根拠とした脇田俊継らが出る。 
(12) 源氏一門4 / 頼信(満仲の三男)→頼義→八幡太郎・義家
けれども政治的に大きく興隆したのは三男の頼信だった。彼は岩清水八幡宮を信仰し河内古市郷を本拠とする河内源氏の祖と仰がれている。
その子・頼義は相模守に任ぜられるや将門ノ乱に追討使となって活躍した平直方の娘婿となって関東に勢力を伸ばした。忠常の乱(一〇三〇)の平定後は鎌倉に在った直方の別荘を譲り受けて、こゝに八幡宮を創建し、鎌倉党と呼ばれる平氏の一団を己の郎党に育て上げた。
直方の娘の生んだ子がかの有名な八幡太郎・義家である。 
(13) 源氏一門5 / 前九年ノ役
永承六年(一〇五一)前九年ノ役で奥州の豪族安部頼良が叛乱を起こした時、陸奥守だった頼義は「地盤拡大」を狙って勇躍出陣し関東八平氏も配下となって奮戦したが、豪勇気で知られた敵の貞任、宗任らの抗戦に初陣の八幡太郎・義家の力戦を以てしても苦戦が続き、出羽の清原氏に助けられ辛うじて鎮圧する事が出来た。
その為に奥羽の支配は安部氏に変る清原氏に占められ、頼義の計画であった奥羽を源氏の傘下に入れる事が出来なかった。それで清原氏の内争から後三年の役が起るや、折しも陸奥守に任じられた八幡太郎・義家は、「時到れり」と勇躍出陣する。 
(14) 源氏一門6 / 後三年の役
けれども敵は大軍で、さすが彼の優れた武勇と大江匡房直伝の孫子の兵法を駆使しての戦法でも仲々鎮圧する事が出来ない。それを知った弟・義光は朝廷に願って救援軍を率い出陣せんとしたが形式主義の政府主脳はこれを私斗であるとして許さない。
義光はやむなく官を辞して一族を総動員し奥州に馳せつけたが、途中足柄山で名箏「交丸」の秘曲を弟子の豊原時秋に伝授して戦場に赴いた話は、義家の
吹く風を 勿来の関と 思えども、
の句や、先の戦いで安部の宗任に
衣の館は ほころびにけり、
と呼びかけ、見事に答えたので助命したと云うエピソードと並ぶ有名な話である。 
(15) 源氏一門7 / 八幡太郎・義家
戦いが終ったのは白河上皇の院政が始まろうとしていた永保二年(一〇八三)で相変わらず朝廷からは何の恩賞も出ず、義家のおかげで奥州の支配者たる地位を占めた藤原清衝は源氏に臣従するより摂関家に直属するほうが有利と巧みに立廻ったので積年の部下将兵の功労に報ゆる財源がない。
やむなく義家は私財を投じて彼らに報い、それに感激した阪東八平氏の豪族達は「今後は例え朝廷に叛くとも八幡殿には決して叛くまいぞ」と誓い合い、奥州を源氏の勢力下に置く事は出来なかったが関八州を確実にその傘下に加え、上野の新田に義重を、下野の足利に義国を婿入りさせて源氏の将来に大きく貢献する結果となった。
このようにして義家は「驍勇絶倫にして騎射神の如く天下第一の武夫」との勇名を朝野に知られ、当時流行した今様の中にも
鷲の住む御山には なべての鳥は 住むものか、
同じ源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや
と讃えられ、各地の豪族達は競って田畑を寄進しその勢力は一段とつよく、義家が元服した八幡神社は全源氏の氏神と仰がれ、河内源氏は一門の棟梁となった。 
(16) 源氏一門8 / 八幡太郎・義家の子孫たち
余りの評判に白河上皇は寛治五年には「田畑を義家に寄進してはならぬ」と云う院宣まで出している。
そして更に源氏の勢力を分散させる為に弟の義綱を対抗馬に仕立てゝ競わせるなど策を巡らしたので、さすが古今の名将と云われた義家もその晩年には栄光の座を保持し得なくなった。
嫡男は若死、次男・義親は粗暴で流罪、三男は他家を継いだので四男・義忠を棟梁にし、その後継者には義親の子の為義を置き六十八歳で世を去る。
然し三年後には義忠が暗殺され、その容疑が叔父・義綱とその子達にかゝって、僅か十四歳の為義が追討を命ぜられ、さしも勇名を馳せた義綱も佐渡に流され、その子達は甲賀山中で全滅と云う悲劇が演じられた。
不運はそれに止まらず、翌年には流罪になっていた為義の実父・義親が亦もや役人を殺して官物を奪うと云う事件をひき起し、まさか子の為義に討たせる訳にはゆかず、上皇の意向で気に入りの平正盛が命じられ、こゝに平氏が桧舞台に登場する。 
 

 

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