古代日本 諸説 [1]

出雲王朝の「五種の神宝」神話と銅と鉄空海 と九州王朝播磨国風土記大帯考卑弥呼の宮殿「遣隋使」はなかった関東と蝦夷九州王朝の風土記好太王碑筑紫舞と九州王朝法隆寺と九州王朝六釈迦三尊の光背銘好太王碑改削説への反証大化の改新と九州王朝好太王碑諭争の決着九州王朝の落日好太王碑訪中団報告好太王碑研究の意義と問題点好太王碑と九州王朝倭の正体と守墓人制度大王之遠乃朝庭誤読されていた日本書紀好太王碑と高句麗文化楽浪文化多賀城碑万葉集と多元史観金印の謎・ ・・
 

雑学の世界・補考   

出雲王朝の「五種の神宝」 / 『出雲国風土記』の分析

奪われた神宝
出雲王朝が近畿天皇家とは別の神話体系や王権を持っていたことは『古事記』や『日本書紀』(以下、それぞれ『記』・『紀』と省略する)を通じても明確に認められる。「国譲り」は譲るべき国や領土主権があるからに他ならない。古代王権は「神宝」を持っていた。例えば、九州王朝の「三種の神器」や継体天皇の「二種の神器」である。出雲王朝も「神宝」を持っていたことは『紀』において明確にわかる。
六十年の秋七月の丙申(ひのえさる)の朔己酉(ついたちつとのとのととりのひ)に、(一四日)群臣詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「武日照命(たけひなてるのみこと注略)の、天(あめ)より将(も)ち来れる神宝(かむたから)を、出雲大神の宮に蔵(おさ)む、是(これ)を見欲(みまほ)し」とのたまふ。則ち矢田部(やたべ)造の遠祖(とほつおや)諸隅(もろすみ一書略)を遣して献(たてまつ)らしむ。是(こ)の時に當(あた)りて、出雲臣の遠祖出雲振根(ふるね)、神宝を主(つかさど)れり。(『紀』崇神紀)
出雲臣の祖神である武日照命が天より将来してきた神宝は出雲大神宮の蔵にあった。この出雲大神宮とは出雲郡の杵築神社とする説が多い。だが祖神から伝えられた神宝だから、出雲臣がいた意宇郡の熊野大社(島根県八束郡八雲村熊野)であろう。この神宝を崇神天皇は「見(みま)欲(ほ)し」として皇命を下して、献上させたのである。『紀』は神宝の顛末(てんまつ)を載せる。次のようである。
出雲臣の遠祖の出雲振根(ふるね)が神宝を管理していたのだが、振根が筑紫国に行っていた時に、振根の弟飯入根(いいいりね)が天皇の命に従って、神宝を献上してしまった。振根が筑紫より帰って来ると、すでに献上した後であり、弟の飯入根を責めて「数日待つべきであった。何を恐れて、軽く神宝を許したのか」といった。これによって、幾年月を経ても振根は弟に恨(うらみ)を懐(いだ)き、やがて弟を殺そうと思うに至った。そして、弟を欺(あざむ)いて木刀を真刀(またち)に似せて取り換えさせ、ついに撃(う)ったのである。歌が一つ。
や雲立つ出雲彙師(たける)が侃(は)ける太刀黒葛多巻(つづらさはま)きさ身無(みなし)にあはれ
この事情は詳細に朝廷に報告された。朝廷は吉備津彦(きびつひこ)と武淳河別(たけぬなかはわけ)とを派遣し、出雲振根を殺害してしまった。出雲臣等はこの事を畏(おそ)れて、出雲大神を祭らないで時を経た。
この神話は『記』には全く現われない。『記』と『紀』を比較して、一方に出現しない話は「紀の編者の挿入」と見なすことができよう。この論理は古田武彦氏が「景行天皇の九州遠征」説話で九州王朝の発展史を近幾天皇家のそれと換骨奪胎したと説くものである(『盗まれた神話』)。したがって、この説話の「朝廷」は近畿天皇家ではなく、吉備王朝側の歴史であった可能性は高い(この点の分析は古田武彦氏『古代史を疑う』「疑考・「古代出雲」論」参照)。
私が問題とするのは王朝であった限り、主権を持ち、古代国家特有の「神宝」を持つはずであるが、それがどのようなものであり、また、果たして何種あったのかということである。
古代人の意識は王権が「神宝」によって護(まも)られ、「神宝」を持つことでその王権が正統化される。それ故、王の死に際しても墓に「神宝」を埋蔵し、死後も護ろうとしているのである。先の説話は出雲王朝の「神宝」が結局取り上げられてしまう、つまり王権喪失談である。出雲王朝の神宝を追求することは、一方では出雲の悠遠なる歴史を解明すること、他方では出雲と他の王朝(九州・近畿・吉備)との区別や独自性を明らかにすることとなろう。
そして、この神宝は『記』『紀』、とりわけ『出雲国風土記』の分析を通して、手掛りが得られるのである。  
最古の神宝
「天より将(も)ち来れる神宝」とは何か。『紀』崇神紀には、神宝を奪われた後日談が“不思議”な説話として記載されている。
出雲臣等が大神を祭らなくなってからしばらくして、丹波の氷上(ひかみ)の人で名は氷香戸辺(ひかとべ)という人が皇太子の活目尊(いくめのみこと)に次のように曰(もう)したとある。
「己(やつかれ)が子、小児(わかご)有(はべ)り。而(しかう)して自然(おのづから)言(まう)さく、玉萋鎮石(たまものしづし)。出雲人の祭(いのりまつ)る、真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)。押し羽振(はふ)る、甘美御神(うましみかみ)、底宝御宝(そこたからみたから)主。山河の水泳(みくく)る御魂(みたま)。静桂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主(ぬし)」。
この話は皇太子から天皇(崇神)へ報告された。天皇は詔(みことのり)して祭らしめた。
問題のポイントは、「神がかりした小児の言葉」にある。この言葉は「小児」に託され、出雲王朝側の神宝を奪われた怨念に満ちたものである。したがって、そのことに気づいた崇神天皇は勅を発して、出雲側の怨念を鎮魂させようと祭ったのである。つまり、出雲の神宝がいかなるものか、その手掛りを与えてくれているのだ。それ故、一つ一つ分析しよう。
まず、「玉萋鎮石(たまものしづし)」とは何だろうか。本文注に「萋、此をば毛(も)と云ふ」とあるところから、「玉のような藻(も)の中に沈んだ石」であろう。形容語を取り去ると、残るのは「石」である。では、どのような石か。海底に横たわる石はどこにでもある。そのようなどこにでもある石だろうか。そうではあるまい。
「天より将(も)ち来れる神宝」である。出雲にとって、「天」とはどこか。『出雲国風土記』の分析によれば、「隠岐の『海士(あま)』(島前、中の島)」を原点とする概念であろう。そして、隠岐島は黒曜石の産地である。つまり、神宝は「黒曜石」であろう(この点、先行説に古田武彦氏「疑考・「古代出雲」論」『古代史を疑う』がある。ただし、「黒曜石に関するものであったかもしれない」という表現であり、風土記との関連や分析はのべられていない)。
次に、「真種(またね)の甘美(うまし)鏡」は「本物の素晴らしい鏡」である。「押し羽振る」のオシは力を示す美称であり、ハフルは羽を振るように活力を持つ意味で、「力強く活力を振る」となり、「甘美御神」を形容している。「山河の水泳(みくく)る御魂(みたま)」のミククルは「水が流れていく」意味と考えられ「御魂」に掛かかる。「タマ」は「鏡」を指示するという説(岩波古典文学大系注解)もあるが、「玉(たま)」として、冒頭の「玉萋鎮石」の形容としたほうが全体として話がつながると同時に、後にのべるように古代出雲の玉(勾玉を含む)信仰を表現している。「静掛(しづか)かる」は火中に沈んで掛っているという意味で、「御神」のミは美称、神は「鏡」を指示していると思われる。したがって、ここでの神宝は「鏡」と「玉」(勾玉)である。
「小児」の言葉(「神託」)を手掛りとして、まず「石」(黒曜石)、「鏡」、「玉」(勾玉)の三つの神宝を分析した。出雲の神宝はこれで全てであろうか。次に、『出雲国風土記』を中心に分析をすすめてみよう。  
玉(勾玉)尊重の出雲
出雲王朝が玉(勾玉)をたいへん尊重したことは『出雲国風土記』を読めばすぐに解ることである。意宇郡の条に、次のようにみえる。
天の下造(つく)らしし大神、大穴持命(おおあなもちのみこと)、越(こし)の八口(やくち)を平(ことむ)け賜(たま)ひて、還(かえ)りましし時、長江山(ながえやま)に来まして詔(の)りたまひしく、「我(あ)が造(つく)りまして、命(し)らす国は、皇御孫(すめみま)の命(みこと)、平(たひ)らけくみ世(よ)知(し)らせと依(よ)さしまつらむ。但(ただ)、八雲立つ出雲の国は、我が静まります国と、青垣山(あおがきやま)廻(めぐ)らし賜ひて、玉珍(たま)置(お)き賜ひて守らむ」と詔りたまひき。故(かれ)、文理(もり)といふ。
この『出雲国風土記』は『記」や『紀』と比較すると本来全く異なる神話体系を持っていたことがわかる。冒頭の一句、「天の下造つくらしし大神」は「大穴持命(おおあなもちのみこと)」であると誇らしげに宣言されている。「大穴持命」とは『記』では大穴牟遅神、『紀』では大己貴命と書かれ、大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名とされている。この「大穴持命」が出雲を「我が造りまして、命しらす国」とし、「我が静まります国」とし、「青垣山廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らむ」とした国であると主張する。つまり、主権者であった(過去形)というのだ。そして、神宝として「玉」を置いて、出雲国を神の霊代(よりしろ)としての「玉」で守護しているという。
もとより、『出雲国風土記』に述べられている時点でも「主権者」であるといっているのではない。「皇御孫の命」が統治権を奪ったからである(『記』『紀』は「国譲り」と主権の禅譲のように記してはいても、本質上は“奪取”されたのである)。だが、「国譲り」後もなお、出雲は「玉」を神宝とし、神の霊代として主権の標識を「玉」に託して持ち続けたようである。『出雲国風土記』を調べると、次のようにおびただしく玉作(たまつくり)に関連がある神社、玉を祭神とする神社がある。
一、玉作湯の社(八束郡玉湯村の玉作温泉)
一、速玉の社(熊野大社の下の宮)
一、玉結(え)の社(美保関町総津の玉結神社)
一、玉作の社(仁多町の亀高町の東方、玉峰山にあったが、今は所在不明)
なお、これらの神社の他にも玉作街・玉造川・玉作山・玉作湯社などの「玉作」地名が存在するが、これらも玉作集団に源流を持つものであろう(この点、水野祐『勾玉』参照)。古代出雲と玉(勾玉)との関連を否定する論者はまずいないであろう。
「出雲国造の神賀詞(かむよごと)」(『祝詞(のりと)』)に「神宝」として「白玉の大御白髪まし、赤玉の御赤らびまし、青玉の水の江の玉(後略)」とあり、献上する神宝によせて祝の言葉(祝詞)をのべている。『延喜式』の臨時祭の条に、「玉六十八枚(赤水精八枚、白水精十六枚、青石玉四十四枚)」とあるのに対応している。  
神財(かむたから)の弓矢
出雲王朝が悠遠なる歴史を持つことを示す神宝は「弓矢」である。旧石器・縄文時代から使用されてきた。鏡・剣等の弥生期のそれとは、はるかに時間軸をへだてるものである。『出雲国風土記』にはそれが出現している。嶋根郡の加賀の神埼(かんざき)の条に窟(いはや)があり、そこには次のような説話がある。
謂(い)はゆる佐太(さだ)の大神の産(あ)れまししところなり。産(あ)れまさむとする時に、弓箭(ゆみや)亡(う)せましき。その時、御祖(みおや)神魂命(かむむすびのみこと)の御子、枳佐加比売命(きさかひめのみこと)、願(ね)ぎたまひつらく、「吾(あ)が御子、麻須羅神(ますらかみ)の御子にまさば、亡せし弓箭出(い)で来(こ)」と願(ね)ぎましつ。その時、角(つの)の弓箭水の隋(まにま)に流れ出でけり。その時、弓を取(と)らして、詔(の)りたまひつらく、「此(こ)の弓は吾が弓箭にあらず」と詔りたまひて、擲(な)げ廃(う)て給ひつ。又、金(かね)の弓箭流れ出で来(き)きけり。即ち待(ま)ち取らしまして、「闇欝(くら)き窟(いはや)なるかも」と詔りたまひて、射通(いとほ)しましき。即(すなわち)、御祖(みおや)支佐加(きさか)比売命の社(やしろ)、此処(ここ)に坐(ま)す。今の人、是この窟(いはや)の辺(ほとり)を行く時は、必ず声(こえ)磅[石蓋](とどろ)かして行く。若(も)し、密かに行かば、神現(あらは)れて、瓢風(つむじ)起り、行く船は必ず覆(くつが)える。
この説話の「麻須羅神(ますらかみ)」というのは、雄々しく武勇のすぐれた武の霊力を持った神をいうのであろう。動物を躬(い)て食料とした縄文時代から弓矢は貴重なる武器であったことは疑いない。そして、「角(つの)の弓箭(ゆみや)」とは弓矢の矢じりに獣角を用いて、より多くの獣を射ることが出来るようにと願ったものであろう。この説話は弥生時代であるということが次にわかる。「角の弓箭」は投げ廃(う)てられて、「金(かね)の弓箭」、つまり金属(鉄等)で出来た弓矢が登場し、それが暗き洞窟をも射通す力があると讃(たた)えられているからである。そして、弓矢は縄文時代に源流をもち、弥生時代を通じて金属が加わり、「霊力」を持ちつづける貴重な宝であったことがこの説話によってわかるのである。
弓矢が神宝であったことは、『出雲国風土記』の大原(おおはら)郡、神原(かむはら)の郷(さと)の条でも裏づけられる。
神原(かむはら)の郷(さと)郡(こほり)家の正北(まきた)九里なり。古老の伝へていへらく、天の下造らしし大神の御財(みたから)を積み置き給ひし処(ところ)なり。即ち、神財の郷と謂(い)ふべきを、今の人、猶(なほ)誤りて神原の郷といへるのみ。
屋代(やしろ)の郷郡家の正北(まきた)一十里一百一十六歩なり。天の下造らしし大神の[土朶](あむづち)立てて射(ゆみい)たまひし処(ところ)なり。故、矢代(やしろ)といふ。神亀三年、字を屋代と改む。即ち正倉(みやけ)あり。
屋裏(やうち)の郷郡家の東北のかた一十里一百一十六歩なり。古老の伝えていへらく、天の下造らしし大神、矢を殖(た)てしめ給ひし処(ところ)なり。故、矢内(やうち)といふ。神亀三年、字を屋裏(やうち)と改む。
[土朶](あずち)は、土編に朶。JIS第3水準、ユニコード579C
注釈が重要である。神亀三年(七二六)に「屋代(やしろ)」、「屋裏(やうち)」と字を改めたが、元来は「矢代(やしろ)」、「矢内(やうち)」とそれぞれをいっていたのである。いずれも、天の下造らしし大神(出雲の神)が「矢」を射ったところから地名説話となったものである。「[土朶]立(あむづちた)て」とは土を盛り上げて弓の的を置くようにした所であり、「矢を殖(た)てしめ」とは弓射る訓練をしたところであり、いずれも「矢」と地名とが結びつけられている。
この説話の中で、「御財(みたから)」、「神財(かむたから)」と明確に「矢」が「神宝」であったことがわかるのである。  
矛(ほこ楯たて)の神宝
さらに『出雲国風土記』より神宝を追求しよう。楯縫(たてぬい)郡に次の説話がある。
楯縫(たてぬい)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、神魂命、詔(の)りたまひしく、「五十(いそ)足る天の日栖(ひすみ)の宮の縦横の御量(みはかり)は、千尋(ちひろ)の拷(たく)縄持もちて、百結(ももむす)び結び、八十(やそ)結び結び下さげて、此の天の御量持ちて、天の下造らしし大神の宮を造り奉(まつ)れ」と詔りたまひて、御子(みこ)、天の御鳥命(みとりのみこと)を楯部(たてべ)と為(し)て天下し給ひき。その時、退(まか)り下(くだ)り来まして、大神の宮の御装束(みよそほい)の楯を造り始め給ひし所、是(これ)なり。仍(よ)りて、今に至るまで、楯(たて)・桙(ほこ)を造りて、皇神等(すめがみたち)に奉(た)てまつる。故、楯縫(たてぬい)といふ。
この説話は「楯縫」の名前がどうしてついたか、その由来をのべている。日本古典文学大系の『風土記』(秋本吉郎校注)の注(一六七頁)では、「神魂命」を「かむむすびのみこと」と訓じているが、『紀』の神代紀の「高皇産霊タカミムスビ」の神名に合わせようとして無理な読み方をしている。「魂」はタマであり、玉(タマ)を霊力とした出雲の神で「神魂命カミタマノミコト」と素直に訓じるべきだろう。『紀』でいうと第六の一書にある大国主神の別名大国玉(おおくにたま)神、顕国玉(うつしくにたま)神の玉である。「神霊」も「ミタマ」と訓んでいるのと同様にすべきである。
「千尋(ちひろ)」の「尋(ひろ)」は大人が両手を伸した長さで、今日でも釣り等で使用されている。概数を知るのに便利な単位である。長い縄で「天の日栖(ひすみ)の宮」の縦横を計測して、「大神の宮」を造れというのである。天の御鳥命(みとりのみこと)を楯部(たてべ)として大神の宮に納める調度の品として楯(たて)と桙(ほこ)を造って、皇神等(すめがみたち)に奉ったので楯縫(たてぬい)というのである。
この文章の「皇神」はもとより近畿天皇家の皇祖神ではない。出雲郡の杵築郷の場所で、「天の下造らしし大神の宮を造り奉(まつ)らむとして、諸(もろもろ)の皇神等、宮処に参(まい)集りて、杵築(きづ)きたまひき」にある皇神等と同じである。つまり、出雲王朝の神々であり、『出雲国風土記』の段階においても、なお天皇家と同じ「皇神(すめかみ)」を使用しているのは注目される。「国譲り」後もなお“王朝の風格”が感じられる。そこに“出雲王朝”の独自性、輝きがなお残光を放っている(元来、「皇」は輝きである)。
この古代王朝の輝きは、最近の「銅剣」の発見によっても裏づけられる。出雲の斐川町の荒神谷(こうじんだに)遺跡から「銅剣」三五八本、銅鐸六個、銅矛一六本が出土し、非常な注目を集めたのは記憶に新しい。通説では三五八本の「銅剣」と呼んでいるが、「剣」と「矛」の区別は学説上、高橋健自氏の『日本青銅文化の起源』による。「元の方が袋になって柄を挿し込むに適した形式を矛といい、同じ元の方が普通の刀剣のように、茎(なかご)になって、前者と反対に、その茎が柄の中へ挿し込まれるようにできているのを、剣ということにしている」とあり、考古学上の「便利」性から区分されたものである。これに対して根本的な問題提起が古田武彦氏によってなされ、接着技術でもって剣と矛を区別して古代人の意識を規定するのはおかしいというものである(「古代出雲神話の層位学」『銅剣三五八本・銅鐸六個・銅矛一六本の謎に迫る』、『古代の霧の中からーー出雲王朝から九州王朝へ』)。
『記』『紀』や『出雲国風土記』を分析すればハッキリするように「八千剣(やちけん)の神」とか「ヤチツルギの神」などの名称は一切なく、むしろ「八千矛(やちほこ)神」(『記』)とか「八千戈(やちか)神」(『紀』の一書)となっている。それ故、古代人の意識からすれば、三五八本ものおびただしい「矛」は「八千矛」と呼ばれるにふさわしく、今後の出土可能性を含め考古学上の遺跡と文献上の命名とが一致した命名として「八千矛」、「出雲矛」(古田氏)と呼ばれるべきである。なお、埋納についての驚くべき事実を補記でのべる。
『紀』の神代紀第八段の第六の一書に出雲国の神、大国主神の亦(また)の名に「八千戈神(やちほこのかみ)」とあるのが出雲王朝の独自性を物語る。  
草薙剣(くさなざのつるぎ)
素戔嗚尊(スサノオノミコト『記』では須佐之男命、以下スサノオと略す)が八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から得た剣を天神に献上して、「三種の神器」の一つになったものが草薙剣である。スサノオが出雲国の肥(ひ)の河上(『紀』では簸(ひ)の川上)で上流より箸が流れてきたのを見て、川上を尋ねると老夫と老女が泣いていた。自分の娘・奇稲田姫(くしなだひめ)を八岐大蛇に差し出さねばならないという。スサノオは奇稲田姫を櫛に化けさせて(呪術であろう)髪に刺し、八つの酒ダルを用意させ、八岐大蛇が酒を飲んだところを十握剣(とつかのつるぎ)で切りつけた。尾の中から不思議な剣、草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきたので天照大神に献上したという。そうして、スサノオは奇稲田姫と出雲の清地(すが『記』では須賀すが)の地で宮を造り結婚した。スサノオの有名な歌が次だ。
八雲(やくも)立つ出雲八重垣(やへがき)妻篭(つまごみ)に八重垣作るその八重垣を
この八岐大蛇神話は『出雲国風土記』にはスサノオのこととしては一切記載されていない。この点は留意されなくてはならない。「天の下造らしし大神」は出雲国を造った最高の神である大穴持命(おおあなもちのみこと)であり、スサノオではないのである。八岐大蛇の場所も『紀』の本文と一書の第一は「出雲国の簸(ひ)の川上」であるが、第二は「安芸(あき)国の河愛の川上」と伝え、また、第三は場所を記載せず、「剣は吉備の神部に在り」という。
つまり、人物(主人公)は二通り。
(1)、大穴持命・・・『出雲国風土記』。
(2)、スサノオ・・・『記』、『紀』。
八岐大蛇の場所は三通り。
(1)、越の八口(やくち)・・・『出雲国風土記』。
(2)、出雲国の簸(ひ)の川上(肥の河上)・・・『記』。『紀』本文、第一の一書。
(3)、安芸国の河愛の川上・・・『紀』の第二の一書。
さて人物であるが、『記』ではイザナギの命の子としてスサノオの命、スサノオの命の「六世の孫」は「大国主神」となり、「大国主神」=「大穴持命」となり、スサノオと大穴持命はつながることになる。ところが、『出雲国風土記』では「天下大神」(三五回出現)は大穴持命であり、スサノオの命とつながらず、むしろ対立的でさえある。これは一体どうしたことだろうか。ここに『出雲国風土記』の根本的な特徴があるのである。
『出雲国風土記』は巻末に「天平五年二月三十日勘造(略)出雲臣広島」とあるので「天平五年」(七三三)の編述である。これに対して『記」』は七一二年、『紀』は七二〇年の成立であるから、『記』が最も古いのであるが、だからといって先のスサノオと大穴持命の説話に関して、『記』の方が正しいといえるだろうか。
『風土記』は官命に応じて各国庁で編述し、中央へ進達した報告文書であるが、少なくとも二種のものが存した(日本古典文学大系『風土記』解説)。
(1).中央へ進達した公文書正文
(2).地方国庁に残存した副本または稿本
そして、『出雲国風土記』のみが巻首の総記と各郡記と巻末記の三部をともに残す唯一の完本となっている。しかも、その内容は『記』『紀』と比較しても、それらより古い伝承、神話を独自に伝えているものがある。志賀剛氏の『日本の神々と建国神話』も「風土記の神話や歴史の素材は四世紀から六世紀にかけてのもの、すなわち前期古墳から後期古墳時代にかけてのものが多い。これを奈良時代から平安中期にかけて編修したものが風土記なのである」という通りである。
したがって、『出雲国風土記』の「天の下造らしし大神」として大穴持命の説話は本来形であり、『記』ではスサノオの命の「六世の孫」として「大国主神」、つまり大穴持命と付会されたものである。決して、その逆ではあり得ないのである。
出雲における本来の説話はあくまで大穴持命の越の八口を平定したものであるが、そこに『記』『紀』のスサノオの説話が接続されたものなのである。
武力平定は猛烈な威力を持った「蛇」に対する平定とつながり、「蛇」は水神であり、雨乞いとしての水神信仰とつながる。『記』の一書の草薙剣の「本(もと)の名は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。蓋(けだ)し大蛇居る上に、常に雲気(くも)有り。故以(も)て名づくるか。日本武皇子(やまとたけるのみこと)に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ」とある。稲作文化に欠かすこことの出来ない水を雲が運んで欲しいという願望が「天叢雲剣」なのである。つまり、「叢雲」→雨→大蛇→水神信仰→雨といずれも「雨」に集約される。誠に稲作文化に欠くことが出来ない神宝である。  
大国主神の別名・・・“五種の神宝”
出雲の最も古い神宝は黒曜石であった。石信仰は我が国では根本的である。「君が代」の根源もそれであった(古田武彦ら共著「『君が代』うずまく源流」『市民の古代』別冊3)。縄文時代に威力を発揮したであろう黒曜石も、やがて青銅器(矛、剣)に取って代わられる。金属器に代わる説話として媒介的な位置に弓矢があった。出雲ではその弓矢を神宝に残すことでよく伝承を保存している。
時代順に整理すると次のようだ。
黒曜石→弓矢→矛→鏡
玉(勾玉)剣
神宝は本来、人間の生活において具体的有用物であり、それは貴重なものであった。黒曜石の矢じりを矢の先につけ、弓を引くと動物を獲得し、幸(さち)を得ることが出来た。長い石器時代は石の有用性だけではなくて、玉(勾玉)に対して生産、豊穣への祈りが込められ、生命としての魂(タマ)をも含めるようになっていった。具体的有用性から抽象化、普遍化がなされていく。それは矛、剣、鏡を見ても、具体的有用性からどんどん離れ、祭器として大型化し、やがて神宝化するのである。
出雲の神宝にはこの神宝としての歴史、過程が実によく保持されている。そして、この“五種の神宝”は大国主神の“別名”の中に残されていた。
大国主神、亦(また)の名は大穴牟遅(おおあなむち)神(注略)と謂(い)ひ、亦の名は葦原色許(あしはらしこ)男神(注略)と謂ひ、亦の名は八千矛(やちほこ)神と謂ひ、亦の名は宇都志国玉(うつしくにたま)神(注略)と謂ひ、井(あわ)せて五つの名有り。(『記』)
この大国主神の別名は神宝とつながるキー・ワードでもあった。次の対応関係である。
『記』の神名→神宝
(1)、大国主神→玉(勾玉)
(2)、大穴牟遅神→弓矢
(3)、葦原色許男神→剣
(4)、八千矛神→矛
(5)、宇都志国玉神→鏡
次にその理由をのべよう。『出雲国風土記』において「玉珍置(お)き賜」いて出雲を護るとあるように「玉」は貴重であるだけではなくて、主権の標識である。『紀』では七つの名を持つが、『記』と『紀』を比較すると、『紀』の二つは「大物主」と「大国玉神」であり、この二つが『記』よりも多い。そして、この二つの神名は、「大国主神」を拡大し、出雲で重要視された「玉」に本名(もとのな)を求めることができよう。つまり、大国主神は玉(勾玉)が本体である。
「大穴牟遅神」は日本古典文学大系『風土記』の注解では「名義未詳」とするが、『出雲国風土記』を分析すると、神埼の条で窟(いはや)が穴(あな)であり、その穴に弓箭(ゆみや)を射る説話がある。つまり弓矢である。
「葦原色許(あしはらしこ)男神」は日本古典文学大系の『風土記」では「醜みにくい男」と解するが、シコは善きにも悪しきにも使われ、ここでは醜みにくい意味ではなく、頑丈で強い男の意味にすべきで、醜い男なら神の美称とは決してならないであろう。「色許(シコ)」は頑丈で強い、つまり「草薙(クサナギ)」のクサ(臭クサシ)に通じ、ナギの蛇のようなすさまじいという状態を意味し、結局、「葦原色許(あしはらしこ)男」は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と同じ意味をもっているのである。
次いで、「八千矛(やちほこ)神」は字の通り、矛(ほこ)であり、八千(やち)は多いという意味で、出雲から出土した三五八本の“出雲矛”に見る通りである。
最後に、「宇都志(うつし)国玉神」とは鏡を意味する。「宇都志」はウツシ(写し)であり、「玉」は魂(タマ)であり、魂を写す、つまり鏡である。
以上でわかるように、大国主神の“別名”は“五種の神宝”をそれぞれ意味していたのである。
これらの“五種の神宝”は私自身が恣意的に解釈したものだろうか。次に史料上の根拠を見い出した。
『類聚国史』十九国造の天長七年(八三〇)四月二日条に「皇帝(淳和)御二大極殿一、覧二出雲国々造出雲臣豊持所レ献五種神宝、兼所レ出雑物一」とある。これによれば、ハッキリと“五種の神宝”である。もとより、淳和天皇は大極殿で出雲国の国造出雲臣が献じた“五種の神宝”を見たはずであるが、具体的にはそれが何であったかは記録されてはいない。
だが、冒頭でふれたように「献上」ではなく、奪われたものである。それは“五種の神宝”という具体的な物を奪っただけではなくて、神宝にこめられた出雲王朝の独自性、主権、歴史、その一切を奪ったのである。『記』『紀』では「国譲り」ではあるが、『出雲国風土記』では、“不当な纂奪”への抗議が秘められていたのである。  
補記 / 出雲の荒神谷遣跡の埋納の意味について
本年夏、昭和薬科大学諏訪校舎でおこなわれた「『邪馬台国」徹底論争』のシンポジウムにおいて、パソコン通信で馬淵久夫氏(東京国立文化財研究所保存科学部長)と古田武彦氏や講師陣とリアルタイム会議をもった。馬淵氏は鉛の同位体分析で著名な方である。荒神谷の三五八本の「銅剣」は中国の物が主で、一本だけ朝鮮半島の鉛があり、製作地は出雲の荒神谷付近、と氏は推定された。鉛の同位体比の分析によると、三五八本の並び順に、相関関係があったからである。従来、埋納の意味が不明で諸説あったが、この分析から“特定の意味をもった埋納のされ方である”ことが判明した。詳細は別に記す。  
 
古代出雲の再発見 / 神話と銅と鉄

 

1 神話と鉄
『魏志』韓伝に見る古代史の盲点
さて、この標題にもありますように、「古代出雲の再発見ーー神話と銅と鉄」ということで、ご当地ともっとも関係の深い鉄の問題に最後に触れさせていただくという予定でございます。ところがそういう形でやっておりますと、時間の関係から鉄の方になるともうタイムアップになってしまうということで、鉄のことに触れないままで終ることになっては非常に残念です。そこで逆に鉄の間題を先頭に持ってきました。
鉄の問題もいろいろ申し上げたり、また皆様にご意見を伺いたいことはたくさんあるのですが、この一両年、わたしが認識を新たにしてきました重大なテーマをお話しして、そして横田町における古代の製鉄はどういう状勢の中に置かれていたであろうか、ということを申し上げたいので、最初に要点を申し上げて、あと神話等という話に移るという具合に、順序を逆転させていただくつもりでございますので、よろしくお願いいたします。
さて、いわゆる「邪馬台国」と世間で言っておりますが、実は「邪馬一国」と言う方が原文そのものなのでございますが、その「邪馬一国」のお話が出ているのが『三国志』の「魏志倭人伝」というものでございます。これに研究を長らく集中していたのでございますが、昨年(一九八四)、その倭人伝の前にある「韓伝」を見ておりますうちに、ここに従来盲点になっていた問題が存在することに気がついたわけでございます。この点、『魏志』韓伝もいわゆる紹煕(しょうき)本という原本でコピーして皆さんのお手許にございますので、時間があればそれをいちいち「ここのところです」と申し上げたいところなのですが、今日はその点は省略させていただきまして、直ちにポイントを申させていただきたいと思うわけでございます。
当時、朝鮮半島は南半部を「韓」と言っていました。現在の韓国と同じような名前なのですが、この南半部には倭地があった。これも非常に重要な問題なのですが、今日は省略します。その西側のもっとも大きい部分が馬韓です。こちらが辰韓ーー慶州近くですね。そしてこれが弁韓です。こういうふうに別れております。そしてソウル近辺に帯方郡があり、今のピョンヤンである平穣の近辺に楽浪郡がある。こういう形でございます。
韓伝を見ますと、この辰韓の王様のことは書かれている、辰韓の王様は辰王でございます。これもいろいろな問題があるのですが、いまは省略します。そして、弁韓にも十二の国にまた王がいるというふうに書かれています。これも何という王か名前は書いてありませんが、やはり王がいると書いてある。
ところが不思議なことに、馬韓については王がない。王が書かれていないわけです。これは一体なぜだろうと。よく読むとその理由ははっきり書いてあります。と言いますのは、本来ここに当然、馬韓の王はいたわけです。ところが楽浪・帯方郡、つまり当時の中国側が、辰韓の一部どの辺からとは書いてありませんが、これを割譲してしまった。つまり辰韓の方から取り上げて、自分に直属させてしまった。その理由は、元々、辰韓は楽浪郡に属していたからである、こういう理由で取り上げた。
さてこの韓伝には、馬韓が辰韓を統轄していたように書いてある。そこで韓王(馬韓の王)は非常に怒って、これに対して軍をもって楽浪・帯方を攻撃した。帯方郡の太守はそのために戦死した。ですから、当時は馬韓が韓国代表で、韓王の軍が非常に優勢だったわけです。ところが、恐らく中国本国から援軍が来たのでしょう。形勢が逆転しまして、ついに韓王は敗退した。そして、ついに「中国側は韓を滅した」こう書かれております。
東アジアを震憾させた馬韓の滅亡
「韓を滅した」ということは、つまり韓王を消し去ってしまった、言い換えると、中国がこの馬韓の地を直接統治の下に置いたということが書かれております。これは大変な大事件です。このあと、例の倭国の卑弥呼から使いを送るわけです。難升米等(なんしょうまい)です。あの倭人伝に出てくる有名な記事になっている。年代が書いてありますから。そういう順序になっている。この事件は東アジアを震憾させた。特に、倭国の卑弥呼あたりはびっくりしたと思います。そういうことで、難升米等が彼の地を通って帯方郡に行く話は倭人伝であまりにも有名ですが、それは実は滅亡韓国の地を通って行ったわけです。ということは、われわれが倭人伝だけを見ている限り、気がつかなかった。これは非常に重大な問題なんですが。
さて、それでは中国はなぜそんな無茶をやったのか。それはもともと楽浪郡に属していたからか。漢の大帝国がありましたから、その時代は漢の四郡というものを朝鮮半島から北方にかけて敷いておりましたから、元々この辺が、楽浪郡に属していたというのはその通りです。しかし、そんな理由でいまこれを取り立てて直轄地に編入するのだったら、どこでも全部直轄地に編入できるわけですね。要するに、それは単なる口実に過ぎないわけです。辰韓の鉄の産地がほしかった。しかもそれを“直接に手に入れたかった”ということが原因なのです。
では、なぜかというと、その理由が実は韓伝に書いてある。それは辰韓の項目に書いてある。「山に鉄を出す」と。そして「韓・歳*(わい)・倭、従いて之を取る」と。これはわたしの本をお読みになった方はわかると思いますが、この文章は何回か引用しました。
歳*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA
つまり「韓・歳*・倭」の歳*というのは、この朝鮮半島の日本海岸の真ん中辺です。これが歳*。この三つの領域の人々が従って一緒にここに鉄を取りにきている。しかも彼らは貨幣の代わりに鉄を使っていた。つまり、鉄を持って行ったら、この朝鮮半島では何でも買えるわけです。通貨の役目に鉄を使っている。こういう記事があるわけです。これは非常に重大な記事です。ですから、倭人伝の卑弥呼は“鉄の女王”である。弥生期における鉄の分布図を見れば、卑弥呼のいた「邪馬一国」の中心部は容易に判明する。それは筑紫である、という論定をわたしがやったところなのです。
そういうことでわたしは、何回もこの文章を引用したことがあったんです。ところがわたしが見逃していた記事があります。と言いますのは、いまの「従いて之を取る」の記事の最後に「また二郡にこれを供給す」。二郡というのは、楽浪・帯方郡。ここへも鉄を持って行っている。こういう記事が最後にくっついている。わたしももちろん、引用の時にはそういう引用をしたんです。しかし、“楽浪・帯方へ鉄を運ぶぐらい当り前だ”と思って見逃して、その意味を考えなかった。ところが、いま考えてみると、あまりにも散文的で簡単な、この一文こそ、韓伝と倭人伝を解く秘密のカギだったわけです。
ということはつまり、中国が前漢の武帝の四郡以来、朝鮮半島を支配した目的は、もちろん、人間を支配することも目的でしょう。また農作物を税として取り上げることも目的でしょう。しかし、それと同じく、あるいはそれ以上に鉄を押える。と言いますのは、当時、中国は完全に鉄器文明です。ですから、武器としていかに重要かということを百も承知であるのが、当時の中国です。その中国が鉄の問題を抜きにして韓の四郡というものを考えるとは思えない。中国側にとって、この朝鮮半島を支配する最大の目的の一つは、鉄の支配にあった。こう考えてもわたしは決して空想や当てずっぽうではないと思います。そのことを示すのは、「二郡にこれを供給す」の一文です。こちらが主であって、言ってみれば、そのおこぼれといいますか、「韓・穢・倭もこの鉄山の供給にあずかっている」ということです。実は順序から言うと、そういうことなのです。
そうしますと、何か変な“理屈”をつけて中国ーー当時、魏と言いましたがーー辰韓の八国を直轄領に編入したというのは、恐らく鉄山を押えるために必要な処置だったのではないか。これはわたしの仮説ですが、そういう仮説を立てると、一連の事件がはっきりと見えてきたわけです。つまり、この八国が鉄山の産地であるというケース。あるいはこの八国を通って鉄山に至るという、だからこの八国を押えなければ鉄山は確保できない、というケース。これのどっちかはしれませんが、とにかく鉄を安定確保することが本当の理由である。それに対していまのような「元楽浪に属していたから」なんていうのは、ただ口先の理由づけに過ぎないというふうに、わたしは理解したわけです。
以上のようなことで、韓と中国との激突になり、韓が滅亡の憂き目にあい、そして今度は中国が全土を、特に韓の中心であった馬韓の地は直接支配をするという、そういう状況の中で、卑弥呼と中国との国交が始まったわけです。
中国にすれば、やはり倭国卑弥呼との国交は必要だった。なぜと言えば、こんな無茶をやって直接軍事統治の支配をやったわけですから、実際問題として安定するのは難しい。そうするとやはり、その向うの倭国と手を握ることは、この「滅亡韓国」を支配する上で非常に重要な布石であったろうと思います。
ですから、倭国が中国へ行ったのは、倭国は大国中国の財宝、宝物、鏡などが欲しくて行ったという形で従来は理解していたのですが、そんなことだけではなくて、倭国も中国と接触する必要があった。韓国の鉄山の鉄を貰いたければ・・・。ところが、同時に中国側も半島の安定上、向うの倭国との国交を必要とした。こういう理解の方が、わたしははるかに理性的な理解であると思うのですが、どうでしょう。
これがつまり三世紀ーー弥生時代の話です。「倭人伝を理解するのには、韓伝を背景にしなければならない」と。これが根本のルールです。それなのに韓伝をカットして「倭人伝だけで理屈を考えた」のが、従来の手法ではなかっただろうか。こう思います。
好太王碑“改竄”論争に決着
さて、そこでわたしは今年(一九八五)の三月、宿願を達して、高句麗好太王の碑を見てまいりました。これは、朝鮮半島の北端部のさらに北にあります。鴨緑江ーー皆さん懐かしいひびきを持ってお聞きの方もあるでしょう。ヤールー川ーーという川が流れております。この鴨緑江の北岸部に集安県というところがございます。ここに有名な、高句麗好太王碑があります。これは参考文献の七番目のプリントにその全文が出ております。
ここの中には九回、あるいは最近の中国側の学者によると十一回、「倭」という字が出てくるということで、非常に重視されてきた遺跡でございます。ところがこれに対しまして、十三年前ぐらいになりますか、在日朝鮮人の李進煕さんが、「あれは真っ赤なにせ物である。日本の参謀本部がでっち上げた・・・改竄して石の字を削り取って、石灰のにせ字を埋め込んで彫り込んだ。そういうにせの字を拓本、あるいは双鉤(そうこう)本に取って、持って帰ったものである」という説を発表されまして、みんなびっくりしたわけです。
ところがわたしがこれに対して、いちいち再検査してみますと、どうもそうではない。そういう改竄の事実はないという結論に達しました。あれは昭和四十七年でしたか、その五月に出た李さんの論文に対して、十一月の東大の史学会でそれは間違いだ、改竄はなかった、という説を発表した。その学会の席上で李さんと四十分間ぐらい討論をやったわけです。そして今回、いよいよ現地に行けたわけです。
そうするとやはり改竄ではなかった。まぎれもなく「倭以辛卯年来渡海破・・・」と「倭、辛卯年を以て来る」というあの有名な一節も石でちゃんと彫り込まれておりました。
ほかにも「倭」という字があります。わたしが確認できたところでは八力所が確実に石の字で「倭」とございました。戦前は九カ所と言われていたのですが、その一カ所はもうつぶれていまは見えない。中国の学者が言う十一カ所というのは、わたしには確認できなかった。誰が見ても確認できる石の「倭」の字は、現在は八力所でございます。わたしはそう思っております。
ともかく、数はともあれ、「倭が高句麗とそこで戦っていた事実」はもはや疑うことはできない。ですから、十四年来の論争を、初めて、今年わたしの目で決着したことを確認したわけでございます。
王健群氏が判読した碑文(第二面) / 好太王碑のもう一つの読み方
さて、ところがこの好太王碑には、今までに論じられたことのない重要な問題があることに気がついたわけでございます。と言いますのは、好太王碑の文面を見ていきますと、これも一つ一つ原文を説明するといいのですが、時間の関係でそれは省略させていただきます。
そこに「平穣」という言葉が二回出てくるわけでございます。これが今のピョンヤン(平壌)、楽浪郡です。ここを好太王は本拠地にしている。それから「帯方」という言葉も出てきます。その「帯方界に倭が侵入した」という形で現われております。さらにこの石碑の本当の目的は、別に「倭と戦って勝った」ということだけが目的ではありませんで、好太王の墓を守る人間を定めることが第三面、四面にビッシリ書いてある。高さが六メートル半近く、幅が一メートル五十センチぐらいもあるその石碑の文面にビッシリ書いてある。墓守の規定が書かれている。ところがその墓守に、新たに征服して支配した、韓・穢(わい)の民をこれに当てようということが出てくるわけです。
これはいずれも「穢」という字になっておりますが、これは卑しめて書いているのであって、先ほどの『三国志』で言うところのサソズイの「歳*」と同じ存在であると、認められているわけです。この高句麗が征服した韓・穢の民が墓を守る。そして先程言いました倭という字は、八回出てくるわけです。
ところがふっと気がついたのです。と言いますのは、つまりこれをまとめて見ますと、ここには楽浪郡に当るのが平穣、そして百済・新羅などに当る韓と穢を押えて、さらに帯方を好太王は押えようとしている。というのは『三国志』韓伝にあるように、朝鮮半島から鉄が運び込まれていたのは、楽浪・帯方の二郡だった。だから二郡を押えるということは、その鉄を押えることを意味するのではないか。さらに今のように韓・穢を支配して倭と戦った。「韓・歳*・倭、従いて」という、あの国々です。
そうすると、ピタッと一致するわけです。つまり、辰韓の鉄山。朝鮮半島で注目されていた鉄山の権利を持っていた二郡。同時に付属的かもしれないが、鉄の採取が認められていた韓・歳*・倭。それらがすべてピタッと高句麗好太王碑に出てくるわけです。そうしますと、これが「偶然の一致」とはわたしには思えない。つまり、好太王はなぜ南下したか。これはご存じのように、高句麗というのは、集安県に最初からいたわけではございません。もっと北の長春、旧満州時代は新京と言いましたが、あそことの中間に通化というところがありますが、ここに初期の高句麗の人がたくさんいたのです。つまり、そのあたりが高句麗の最初の第一代の基点になったらしいのです。それが第二代のときに南下して集安に来た。
実に素晴らしいところでして、変な表現ですが、“大和盆地に利根川が流れている”という表現。そういう感じのところなのです。皆さん行ってみたいと思う方がございましたら、幸いこの八月の十七日からもう一回まいります。ここにパンフレットがございますので、もし行ってみようという方があったら、どうぞお持ち下さい。
とにかく、そういう素晴らしい天地に南下してきた。ところがこの通化と集安の間に、また鉄山があった。この話も時間があればもっとしたいところですが、要するに集安に至る、途中の鉄の産地帯を押えて南下した。ただ、景色がいいためにとか、南の温かいのが好きとか、だけではないのです。
この好太王がさらに平穣に進出し、この地を根拠地にして、帯方郡へと南下します。これも「倭人が侵入した」と言っていますが、倭人から言えば「高句麗が侵入した」と言うでしょうね。見る立場の違いです。ということは、ただ温かいところが好きだというだけではなくて、やはりわたしは「好太王の目は鉄に注がれていた」と思うのです。そういう意味では、好太王碑を“鉄を抜かして”読んだら、全体はただ「昔の人は戦争好きだったな」という感じになります。ただ“よくも、まあ戦争をやっている”というふうにしか言えない。
しかし、今のように鉄という問題をぽーんとマスター・キーとして入れると、にわかにその行動の真の意味が見えてくる、ということを感じたわけです。
これは、四世紀の後半から五世紀の初めにかけての人、四一二年に死んだ好太王のことを、子供の長寿王が四一四年に立てた勲績・守墓碑であったのです。四世紀から五世紀にかけては、そういう鉄をめぐる、高句麗と倭国との激突ということが行われていたのがこの地帯の状況です。
一言申しそえますと、この守墓人の墓守りに倭が入っていないのです。ということは、どうもあの碑面に書いてある範囲では「倭はしょっちゅう負けている」けれども、どうも最後的にはまだ倭は負け切っていないのではないか。この朝鮮半島の南半部で依然として戦っていたのではないか。ということは、すなわち両者の緊張はまだまだ続いていた。そういうような問題も出てくるわけでございます。
それはともかくとしまして、この当地、横田町でも新羅系の王者の冠らしきものが出てきたということを、さっきお聞きしたのです。それはまだどういうものか、わたしには分りませんが、それが古墳時代のものであるとすれば、こういう情勢の中における東アジア世界の中の当地のものだったわけです。そうするとやはり横田町周辺の鉄、また農富な中国山脈近辺の鉄の産地に対して、束アジア世界の中の倭国の人々、あるいは楽浪・帯方の二郡の人たちが無関心だったと思うことは、わたしには難しい。ということで、この横田町の歴史を、そういう国際的な広がりの中で考え直していただけたら、「そういえばこういうこともあるのではないか」というような、新しい問題提起が生れることになるのではないかと思います。  
2 神話と青銅器文化
「国生み神話」と津田史学
さて、それでは最初のテーマに入らせていただきます。昨年の七月から八月にかけまして、斐川(ひかわ)町から三百五十八本の「銅剣」が出てまいりました。みんな驚きました。学者あたりが真っ先に驚いたようですが、実はわたしはあまり驚きませんでした。大変驚かなかった。変な言い方ですが、「そうだろう、そうだろう。やっばり出ましたか」というのが、わたし自身の正直な反応でございました。なぜかということは、今から申し上げます。
さて、その時わたしは・・・今でこそ皆さん百もご承知の三百五十八という数を覚えるのにちょっと苦労しまして、そこで昔、皆さんも中学・高校の勉強のときにおやりになったと思うのですが、三百五十八を「ミコーハ」と「ミコハ断(た)つ造作説」と、こういう言葉にして覚えたわけでございます。断つというのは、もちろん剣か何か(実は矛か戈ーー後述)だから「断つ」なのですが、「造作」説とは何だというのは、本日の中心をなすお話で、やがておわかりいただけるところでございます。
「造作」説というのは、津田左右吉さんという方が大正から昭和にかけて発表された説であって、「『古事記』、『日本書紀』の神話・説話は嘘である。歴史事実とは関係のない全くの作り話である」ということなのですが、よくもあの時代にあのような説を発表されたと思うのです。大変な勇気だと思います。早稲田大学で、そういう講義をされたわけです。ところが、当時の東大、京大、その他の大学の学者は皆、皇国史観ですから、一切それを相手にしなかった。ところが戦後一転して、この津田左右吉の考えが定説になった。それで学会も教科書も全部、津田左右吉の考えに従って作られてきたわけです。そして神話などは一斉に教科書から追放されてしまったわけです。
わたしが古代史の世界に入りましたのは、遅かったのです。昭和三十年代は親鸞の研究に没頭しておりました。いわゆる「中世」です。そして、昭和四十年前後の頃に古代史の世界に入ってきたわけです。わたしは、「おかしいぞ。神話造作説は問違っているのではないか。神話はそんな作りものではないらしいぞ」、こういう感じを持ったのです。と言いますのは、今から思うと、古代史に入ってきた時期がよかったのです。
なぜなら、昭和三十年前後の頃、文化財保護法ができまして、それまではいいものはすぐ骨董屋へ運ばれていたものが、いきなり国の財産ということで公共の管理の場に出てくるようになった。それで考古学的な出土物の分布図がわれわれの目に入ってきたわけです。
そうしますと、まずわたしが気がつきましたのは「国生み神話」というものでございます。これは年配の方は子供のころ習ってどなたもご存じかと思いますが、伊邪那岐(いざなぎ)命・伊邪那美(いざなみ)命の男女の両神ですね。淤能碁呂(おのごろ)島というところで、海の中に天の瓊矛(ぬぼこ)というものを差し入れて、それを引き上げるとポタポタ(「コホロ・コホロ」と書かれています)と海の滴が垂れて、それが大八州の国になったという話です。瓊矛という瓊(ぬ)は玉ですから、勾玉などを紐で括(くく)りつけた矛という意味でございます。『日本書紀』一書ではここのところが、天の瓊戈(ぬか)となっています。やはり、あとは同じで天の瓊戈を差し入れて引き上げたらコホロ・コホロという形でこうなっているわけです。ですから、五つぐらいの説話は矛(ほこ)であって、一つだけは戈(か)という形で使われている。これは『古事記』、『日本書紀』を見れば冒頭に出てまいります。
その場所は話の全体の流れからいうと、どうも舞台は筑紫であるらしい。ところが、先ほどの分布図を見ますと、今の福岡県、博多湾岸に銅矛の鋳型がほぽ一〇〇パーセント近く集中しております。銅矛の鋳型ーー銅矛は槍みたいなものですが、銅戈というのは鎌の親玉みたいな柄(え)の長いものですーーこの銅戈の鋳型はやはり博多湾岸を中心に、東は宗像(むなかた)、北九州市近く、西は佐賀市に至る、翼が両方に仲びているように広がっておりますが、中心はやはり博多湾岸です。ですから、場所は筑紫でございます。
ここに弥生時代の青銅利器の一大中心があるということは、考古学者の間に異論はございません。ということは、つまり、弥生時代の筑紫では、銅矛と銅戈が大量に作られていた。これは、昭和四十年代前後にはわれわれには常識となっている知識であったわけです。
ところが一方、今のように『古事記』、『日本書紀』の神話を見ると、筑紫が舞台で、矛と戈を主役として、その神話は語られている。筑紫、矛、戈と、この三つの言葉のセットで、弥生時代の考古学的出土物の分布の状態と、神話内容とがピシャリと一致しているわけです。そうなると、果して津田左右吉が言っていたように六世紀の前半の近畿天皇家の史官の「造作」といえるか。ところは、今でいう奈良県です。そこで、机の上で、彼等がお話を面白おかしく作っただけで、歴史事実とは何の関係もない、津田はそう言ったわけです。それを戦後の歴史学者はみんな信奉してきた。しかし、どんな天才であっても、大和の後世の史官が、そんな空想で考えたことが、後になってみたら、それが弥生時代の筑紫圏を中心とする出土状況とドンピシャリ一致したということがありますか。そんな“偶然”というものを考える方が異常だと思うのです。“偶然でない”と考える方が、普通の人間の理性だとわたしは思うのです。
ならばどうなるかというと、ことは簡単です。あの「国生み神話」は筑紫で作られた。いつ作られたか、弥生時代に作られた。それならば両方一致するのは当り前ですね。
大体、あれほどの大量の矛や戈を作るのに、どうせ権力者がバックにいて作らせるのですが、黙って作らせる、黙ってただ作らせるということはあり得ないですね。沈黙のうちに作り、沈黙のうちに配るでは、これは無理ですね。当然、説明がつく。「これはこういう由来のものであるぞ」と。権力者というのは、そういう自己PRこそ非常に大事な仕事ですから、そのPR付きで作られ、配られた、と考える方が自然だと思うのです。そのPRは何だと言えば、記・紀の神話です。全く両者一致しています。
そう考えると、これは何の不思議もない。そう考えないとゴチャゴチャ変な庇理屈を並べなければいけなくなってくるわけです。というようなことで、わたしは「これはどうも津田説はおかしい」と、これは大和の史官が後世に勝手にでっち上げたお話などではないのではないか。弥生時代の筑紫の権力者が、自分たちの権力の神聖な淵源を語るべく作った話が、あの神話である。こういう理解を持っているわけです。これは従来の学者たちが何と言おうとも、わたしの頭が余程変でなければ・・・わたしは大変平凡な頭の持主だと思うのですが、その平凡な頭で理解する限りは疑うことはできない、こう考えております。
「国ゆずり神話」の本質
ところが、怖かったのはその次なのです。と言いますのは、『古事記』、『日本書紀』の神話内容は今のお話だけで終ってはいないのです。むしろ、神話の巻の話の進行のキーポイントを成すのは「国ゆずり神話」である。皆さんご承知の、天照大神が出雲の大国主命に対して孫の邇邇藝(ににぎ)をつかわしたいから、国をゆずれ、ということですが、大国主はこれに対して「私はもう隠退するから、美保の関で釣をしている長男の事代(ことしろ)主命に聞いてみてほしい」と。そこで美保の関に使いをやったら、この事代主命は「承知しました」と答えて、そのあと、海に飛び込んで自殺したわけです。
これは、今は簡単に言っておりますが、当時は、私にとってびっくりした発見なのです。『古事記』、『日本書紀』ではここのところが何となく曖昧に書いてあります。ところが現地の美保の関の美保神杜に行きますと、まさに今言ったようなお話で、お祭が春先に毎年行われている。海の中に進んでいく事代主命を土地の人々が嘆き哀しむその様が神楽になって残っているということを聞いて、びっくりしたわけです。これが恐らく、わたしは本来の姿だと思うのです。それを、それではあまり具合悪いので、曖昧にしたのが記・紀神話の方だ、という判断に達したわけです。この点も詳しくはわたしの『古代は輝いていた』という全三巻の古代通史(朝日新聞社刊)が今年の四月に完結しました。その第一巻でご覧いただければわかります。
多分、その次男の建御名方(たけみなかた)命は諏訪まで退き、そこで降伏したと書かれています。ということはこの「国ゆずり神話」というものの本質を考えてみますと、「権力中心の移動」なのです。それまでは出雲が中心だった。簡単に言ってしまえば、それがこの件があって筑紫に中心が移ったということなのです。いわゆる「天孫降臨」とは、この場所は天国(あまくに壱岐・対馬)から出発しまして、筑紫の中に到着する。そこに降臨したと書いてある。これは江戸時代の前期・中期ぐらいのところでは、むしろ筑紫のどこかだと考えられていたと思うのです。
それを本居宣長が出てきて、近畿の出身の人だからというわけではないでしょうが、彼が新しい解釈をしたわけです。途中に出てくる「筑紫の日向(「ひむか」と訓んだ)の高千穂の・・・」という言葉を取って、これをいわゆる、宮崎県と鹿児島県の境の高千穂の峰へ持って行った。なぜ持って行ったかという理由ははっきりしています。神武天皇は宮崎県に当る日向(ひゅうが)から出発した、と『日本書紀』に書いてあります。彼は、天皇を天照の直系にしたかったわけです。だからむりやり、天孫降臨の地を宮崎県に持ってきた。
「筑紫」という言葉で始まっているのですから、「筑紫というのは『九州全体』のことでしょう」という非常に強引な解釈をやった。それではおかしいのです。そういう先入観念、イデオロギーで事を運ぶのではなく、文献をあくまで実証的に書いてあるとおりにーーこれはわたしの立場ですがーーその目で見ますと、「筑紫」という言葉で始まっているのですから、福岡県の中です。そして、その最終点はクシフル峯(だけ)と書いてあるのですからクシフルに到着しているわけです。
クシフルはちゃんとあります。福岡県の中に博多と糸島郡との問の高祖(たかす)山連峰というところにクシフル峯がある。しかもそこは「日向」という字を書いて「ヒナタ」と読む。だから筑紫の日向の高千穂。高千穂というのは“高い峰がそびえた”という意味なのです。そのクシフルということで、天孫降臨は筑紫のクシフルの地だったわけです。この点で、また面白い話が、時問があればできるのですが、今日は省略いたします。
要するに、今の「国ゆずり神話」の意味するところは、「今までは出雲が中心だった。みんな知っている通りに。しかし、これからは違うのだぞ」というわけです。「国ゆずり」ということを主人の大国主に承知させたのだと思います。今までは家来ナンバーワンだった天照。「天照は家来ナンバーワンだ」と言うと、皆さんびっくりするかもしれませんが、これもわたしの書いた本の第一巻(『古代は輝いていた』)で詳しく書いてありますから、興味のある方はご覧ください。
「これからは私が中心の支配者である。その現われとして、孫を筑紫につかわせる」。これが「国ゆずり神話」の内容の核心なのです。もちろん、神話を作ったのは筑紫の権力者です。ところが自分の権力の神聖な由来を説いて、その権力の正当化のために「出雲から筑紫に中心が移った。以後そういうふうにみんな心得てほしい」と、そういうPRの材料をもりこんだものが、あの『古事記』、『日木書紀』の神話なのです。
いわゆる神武は実在の人物だと思うのですが、日向の国という、今の宮崎県の地方豪族。その末端で、しかももう宮崎県ではとても食っていけない。自分ぐらいの身分では食っていけない、ということで、野心に満ちた青年たちが出発して、近畿の銅鐸圏の中に侵入する。初め大阪湾で破れ、長兄、五瀬(ごかせ)命の方は死んで、そして末弟の若御毛沼(わかみけぬ)命つまり神武は大和に迂回してそこに根拠地をつくる。その意味で、わたしはやはり神武の「東侵」は歴史事実であると考えております。
この点も一口に言って、皆さん方びっくりされるかもしれませんが、これはわたしの先ほどの『古代は輝いていた』第二巻の冒頭で詳しく述べてありますので、またご覧いただければ結構でございます。
荒神谷遺跡は“巨大なる断片”
さて、そこで先に述べたような「国ゆずり神話」が記・紀神話全体の“話の筋”の中心です。そうすると先ほどの「国生み神話」は、弥生時代の筑紫の権力者が、自己PRのために作った神話であるという一点にとどまることができない。つまり、そのもう一つ前には出雲中心の文明圏が存在したのだ、ということも、認めざるを得ない。
「こちらの方は大和の天皇家の史官が勝手にお話を面白おかしく、嘘八百に作ったのですよ」というのでは、これは全く論理一貫しませんね。ですから、筑紫の「国生み神話」が、弥生のリアルな事実であると、わたしは考えざるを得なかった。ということは、論理必然的にその前に出雲中心の時代が存在したということもまた、歴史的事実であると考えざるを得ないと、苦しかったけれども、どうしてもそこにいってしまったのです。
これを書いたのはわたしの第三の本で、朝日新聞社から出しまして、いま角川文庫に入っています。幸いにこの八月中にはまた重版が出る予定ですので、興味があればご寛いただければいいと思いますが、この『盗まれた神話』の最後の章で論証の結論となったのは「出雲王朝」の問題です。
筑紫の中心権力に九州王朝という名前をつけた。それが実は天皇家の母体である。ちょうど小さなイギリスを母体に大きなアメリカが成立したように、小さな九州を母体にして日本列島の統一に成功した近畿天皇家ですね、それを生んでいった。だから天皇家はアメリカである、とは変な表現ですが、九州はイギリスで、天皇家はアメリカであるという、こういう理解をしたのですが、しかし、その九州王朝のさらに前に出雲王朝というものを考えざるを得ない。怖かったんですが、そう書いたんです。
ところが、それに対して学者たちは例によって知らんぷりをしたわけです。今わたしが申し上げたことでどこが間違っていると、皆さんお考えですか。「これはおかしいよ。話が全然変じゃないか」というふうには、皆さんお考えにはならないだろうと思うのです。話は一応合っていると思うのです。学者も話が合ってなければ「だめだ」とバーンと言ってくるのですが、こられないのだろうと思うのです。言ってきません。
しかし、どうも今の戦後の学者は「出雲神話」をみんなバカにしている。「あんなのは嘘八百の代表だ」と。なぜなら出雲には大したものはないじゃないかというわけです。ところがそれも最近はちょっと学者も首を傾(かし)げはじめたのが、四隅突出方墳あるいは四隅突出填丘墓。こういうものが出てきておりまして、これはどうも出雲中心(中国山地近辺をふくむ)で、いまの岡山とか能登半島などに分布したものらしいということになってきましたから、「出雲は何の中心でもないよ」とは言えなくなってきているはずです。
実は、筑紫はすでに「弥生の宝庫だ」ということになっていますが、「出雲はまだかな」という感じでいたのが、今度ドカンと出てきたわけです。わたしは「あれは巨大なる断片である」という言い方をしております。資料でご覧になればおわかりのように、「中細剣」は約十一本出ています。これも勘定の仕方で違うので、もうちょっと数が多くなるかもしれませんが、それにしても中細・中広剣と呼ばれるものを全部合せても十五までいかないくらいです。ところが今度は三百五十八本というのは、バランスも何もない、すごい数のわけです。
すごいけれども、しかしわたしは「断片」だと思います。いわゆる考古学的な出土物は、それだけで考えてはいかん。一つ出てきたら、その五倍、十倍のものが実際は存在した。その五分の一、十分の一のものが、われわれの目の前に現われたと考えなければならないということを、これは森浩一さんが何回も書いておられ、わたしも研究室へ行って直接お聞きして「そうです。その通りです」と賛成したのです。
わたしこの点、ちょっと森浩一さんに対して不満がありますのは、今度の三百五十八本を『出雲国風土記』の神杜の数と合うというようなことを何か言われたという話なのですが、もしそうであるとすれば、これはやっばりおかしいですね。先ほどのように森さんは何回も書いておられ、わたしにも言われたように、「出てきたもので考えてはいかん。その五倍、十倍あるということで考えなければいけない」ということは、あの方が何回も書いておられることで、それが正しいと思うのです。が、今度は出土数と「神杜の数と合う」などと言ったのでは、これは自分の研究思想を自分で破ってしまうことですから。あまりびっくりしてしまって、ついつい普段言っていることを忘れられたのではないかと思います。わたしは、あれはやはり言い過ぎですよといいたいと思います。もし、これ以上出てきたら、困るわけです。
というようなことで、これはやはりいままでの方法論通りに考えるべきで、あれはまだ断片である。しかも、あれを使った人間もいるわけで、無人のはずはない。人聞を統率した権力者もいるわけで、人間たちの住居もあるはずだし、権力者の住居も庶民の住居みたいなところにいたはずはないのです。当然、「宮殿」に住んでいたはずです。それが出てこないはずはない。何年あとか何十年あとかわかりませんが、わたしは予言します。「必ず出ます」と。
四つの神名火山を頂く古代信仰圏
そういうことですから、「巨大なる断片である」ということです。しかも、それは単なる一般論からだけではございません。『出雲国風土記』に具体的な証拠がございます。と言いますのは、『出雲国風土記』によりますと、これはお手許の資料を見ていただければわかります。No.3の資料ですが、神名火山というものが四つございます。その一つが皆さんご存じの仏経山なんです。その麓の神庭(かんば)から今回出てきた。ところがもう一つの神名火山。つまり佐太神杜のところにある神名火山。ここの北隣りのところの志谷奥から今回と全く同型のものが六本出た。ということは、この四つの神名火山からはまだまだ出る可能性があります。わたしは、この神名火山は、仏経山の近辺の人が仏経山という神名火山だけを信仰していて、あとの神名火山は知らん、というものではないと思う。つまり、四つの神名火山がワンセットになって、その神名火山群に対する古代信仰が存在した。つまり、これは古代信仰圏です。こう考えるわけです。
これを一つの仏経山神名火山を信仰し、ほかは全く知らなかったという、そんな状況を想定するほうが、わたしは不自然だと思います。ということは、先ほど言いましたように、あの四つの神名火山からまだまだ出る可能性がある。それと銅鐸の件も、去年の八月の終り頃に現地の教育委員会の方に、「銅鐸がこの辺からきっと出ますから気をつけて下さい」と言ったのです。そうしましたら、「いや、出ればいいのですが、せめて土器でも見つけたいと思っています」と言っておられた。
それからこれも変な話ですが、確か先週の土曜日でしたか、大阪の朝日カルチャーセンターというところで、毎月講演をやっているのですが、そこでこの問題に触れました。あの荒神谷からも銅鐸が出るはずだとのべ、「うんと近くから出るはずですよ」ということを講演で申したのです。その講演が終って、別の写真をちょっと見せてもらうために下の朝日新聞の編集部へ行ったところ、担当の方(高橋さん)が「古田さん、銅鐸が出ました」と言われるわけです。「どこから」とわたし。「荒神谷からですよ」。そこで翌日(七月二十一日付)の新聞を見せてもらったのですが、そこに大きく書かれていました。三百五十八本の出た、すぐそのそばです。
あとで、その前の講演を聞いていた人が「古田さんはそのニュースを知っていたのではないのですか」と言われたぐらいなのです。タイミングがよすぎるというか、予見が早く当りすぎた、という感じですが、これは別に不思議なことではございません。事の性格を追っていけば、時代と地域性において共通の性格をもっている志谷奥で銅鐸が出たことを思えば、今回の荒神谷で出ない方がおかしい。ですから、道理に従って予言しただけであって、決して超能力などというものではございません。そういう目から見まして、わたしはまだまだ出ると思います。これから、銅鐸もまだまだ出ます。(後記ーーこれも、この翌月〈八月〉、四個の銅鐸が出土、計六個となって、さらに“予言的中”となった)そのほかの神名火山からも出ます。わたしはそう思っています。
ということで、まさに「巨大なる断片」に過ぎないと考えます。しかも、そういう巨大な古代信仰圏というものがいつ成立したかというと、わたしは弥生時代ではないと思うんです。もちろん、今回の三百五十八本や銅鐸などは弥生時代ですよ。しかし、弥生時代にポーンと初めて新しくそういう信仰圏が生まれたのではないと思う。それは縄文期に淵源する古代信仰圏であると、わたしは思うんです。
なぜか。それは今の四つの神名火山の一つ、大船山の近くに、立石という部落があります。ここにわたしは去年八月末に行きました。そうすると、そこには四軒のお宅がある。麓では六軒あると初め聞いていたんですが、到着してみると四軒です。つまり、家はあったんですが、おじいさん、おばあさんばかりだから、結局二軒はもはやいらっしゃらないのでしょう。
おじいさんに案内していただき、竹藪のずっと奥の方に、回り回って、ポッと穴があいておりました。そこから入ったんですが、巨大な石神がありました。それが奥に一つ、両側に二つ半。その前に小さな広場があったわけです。思わず驚きの声をあげました。わたしは本当に無信仰な人問ですけれども、思わずそこに跪(ひざまず)きたくなったような雰囲気です。まさにこれは古代巨石信仰が本当に荘厳な姿で現存している。そして祀りつづけられているという感じを受けました。
わたしがなぜそこを目指したかというと、『出雲国風土記』で「大船山神名火山のそばに大きな石神がある、小さな石神が百余りある」と書いてあるんです。それでもしやと思って行ったんです。そこで、今もお祀りしているんです。(後記ーー立石・庄部(しょうぶ)・田ノ戸・黒目繁田(くろめしぎた)の四十軒の家々が北組と南組に分れ、交互に祭儀を担当する。明治維新後、弾圧を受け、わずかに立石の二軒〈本家・分家〉によって敗戦まで祀られていた、という)
こういう巨石信仰というものは申すまでもなく、縄文以前において「時代の信仰の花形」であった信仰形式でございます。弥生に金属が入ってきてからは、だんだん「時代の主役」ではなくなっていくわけです。ところが縄文以前には、「時代の主役」の花形の位置を持っていたのが巨石信仰である。これはもう皆様、ご存じのとおりでございます。
ということは、この神名火山はすでに縄文期に栄えていた信仰形式であることをしめしています。弥生になって初めて、思いついて誰かが作った、というようなものではない。同じく仏経山にも、ご存じのように麓の神杜に「これはあの辺にあった御神体だ」というような、御神体の石が境内にございますね。あれもその断片だと思います。ということで、わたしはこの巨大な古代信仰圏は、縄文期から連続しているものである、という確信を持ったわけでございます。つまり、この場合に大事なこと、それは宍道湖をこの四つの神名火山は取り巻いております。宍道湖をホーリィ・レイク、つまり神聖な湖と考えた。その“神聖なる湖ーー宍道湖を取り巻く四つの神名火山への信仰”というものが、この縄文期に淵源する古代信仰圏の姿であったと思うわけです。
黒曜石産出によって繁栄
では、なぜ縄文時代にそれだけスケールの大きな信仰圏が成立できたか。わたしにはこの答は、一つしかない。明白であるように思われました。その答は黒曜石でございます。これは非常に硬くて黒くて美しくて、そして非常に割れやすい。その特徴を持つことによって、縄文時代においてはダイヤモンド、金・銅・鉄を合わせたような貴重な材質として珍重されたものが黒曜石であることは、皆様もご存じと思います。
日本列島で質がよく、量の多い場所はそれほどございません。北海道の十勝地方、信州の和田峠、出雲の隠岐島、そして九州の国東半島の先にある姫島。ただし、ここは白曜石と言った方がいいでしょうね。それと佐賀県の腰岳、これだけなのです。特に、本州の中では信州の諏訪盆地と松本盆地の問にある和田峠と出雲の隠岐島が二大産地である。
わたしは、去年出雲の隠岐島にまいりました。皆様よくご存じでしょうが、現在でも黒曜石はおびただしくございました。ある海岸では歩きましたところ、拾えども拾えども、ポケットがすぐ一杯になって・・・もっと大きな黒曜石があって、今まで拾ったものを全部捨てて大きいのを拾っていくと、またさらに大きいものがあって、またポケットから全部捨てて拾い直すという、少年時代にやったようなことを経験しました。しかもそれは非常に純黒の良質の黒曜石でございます。
縄文時代に隠岐島では黒曜石を取って取って取り尽くした。今は残骸の島であるはずなのですが、その残骸の島がまだあれほど豊富な良質の黒曜石を蔵している。それほど隠岐島の埋蔵量は大変なものです。その黒曜石をバックにして出雲における黒曜石製品の分布、すなわち縄文文明の証拠を示すものが、資料のNo.4にあります。これは宍道正年さんがお作りになった貴重な地図でございます。A・B・Cと分けてありますが、Aは隠岐島でございます。隠岐島は島前(どうぜん)、島後(どうご)と分かれておりますが、島前が「三つ子の島」です。島後は丸い方の島で、黒曜石は島後しか出ません。そこをバックにしてBの位置、これはほとんど黒曜石の製品ばかりのところです。これは当時の縄文時代においては、みんながうらやむべき豊かな大地です。それが宍道湖を取り巻く地帯です。さらには、次のCの領域を加えますと、もう少し広くなります。
そしてあとD・Eの領域、つまり、いまの瀬戸内海周辺になりますと、非常に黒曜石が減り、サヌカイト(讃岐岩さぬきがん)の方が有力になってまいります。そういうことで、この図が示しますように縄文時代の出雲は、まさに全日本がうらやむべき繁栄の地であったわけでございます。そういう中において、先ほど申しました宍道湖を神聖なる湖とする古代信仰圏が成立した。こういうふうに、わたしは考えているわけでございます。
「国引き神話」の成立は縄文期
さて、そこで皆様ご存じの「国引き神話」がございます。あの「国引き神話」というのは、わたしは縄文時代に成立した、そう考えています。これも今までのいかなる他の学者とも、わたしは見解が全く対立します。なぜ、そう考えだしたかと言いますと、これは先ほどの「国生み神話」と関係します。「国生み神話」の主役は矛と戈であった。矛と戈が主役になるのは弥生期である。だから弥生期にこの神話は作られた、こう考えましたね。
ところが、皆さんご存じの「国引き神話」には金属器は登場しない。わずかに[金且]か何かが乙女の胸か何かの形容のようにして出てまいります。あれは現在カネヘンの字を書いておりますが、[金且](すき)は本来木製でございますので「すき」という言葉そのものは「金属製」とは限りません。後に字を当てた人が金属の[金且]を当てただけです。しかもあれは形容的な言葉に過ぎない。あの肝心の神話を動かす主たる道具は、「杭」と「綱」でございます。いずれも金属ではございません。
[金且](すき)は、金偏に且。第3水準ユニコード924F
このように金属器の登場しない神話が、すでに金属器が華々しく登場した「弥生以後」に作られるとは思えません。その証拠に、ちゃんと弥生期に作られた神話(国生み神話)には「青銅器」(矛・戈)が出現している。また、古墳時代以後にこんな「金属器なき神話」は作りません。なぜかというと、古墳時代以後はもう鉄器が完全に時代の主役です。そんな時代に鉄器を全然無視して神話を作るなどということは、わたしには考えられません。そういう点から言いましても、津田左右吉のように「これらの神話は六世紀以降につくったお話だ」などという考え方は、わたしはそもそもおかしいと思います。六世紀はもちろん、すでに鉄器の盛んな時代です。
そのように考えますと、金属器が一切登場しない「国引き神話」は日本列島に金属器がまだ流入しない時代に成立したということになります。そう考えれば、そこに金属器が登場しないのは、当然ですね。その時代に金属器が現われたらおかしいわけです。ですから、いまのような神話の年代学的な分析、「神話の層位学」と言いますか、“順序立て”から言いますと、「国引き神話」は縄文期に作られた、と言っていいという、怖いような答にわたしはすでに入っていたわけです。しかし、これは一つの論理的思考だけだから、怖かった。
ところが去年、黒曜石の古代出雲文明へ問題を押し詰めていきますと、実はこの黒曜石問題からもまた、これが裏付けられたのです。と言いますのは、皆さんお気づきだと思います。あの「国引き神話」の舞台になっている場所は、あまりにも狭い。石見など全然問題にされていないでしょう。出雲だって全部入っているかどうかわからないような感じです。なぜ、あんなに狭い領域だけを問題にするのだろうかと、ご不審を抱かれた方もおられると思います。
今ご覧になる黒曜石はBの領域、それはまさに狭いでしょう。せいぜいCの領域を入れても、狭い。それがまさに「国引き神話」の舞台なのです。あの黒曜石の時代に作られた神話なら、あの範囲だけを語れば、いいわけです。でも弥生時代になったら、当然もっと広がっていますから、あれでは石見の人も怒りますよ。古墳時代でも、もちろんです。ですから、この黒曜石問題からもまた「国引き神話」が、実は古代黒曜石文明の栄えた縄文期の成立であることを告白しております。
そうしますと、二つの異なった方法、その結論が同じ結論を示した場合は、まずそれは真実であるーーこれは裁判でも何でも普通に使われる自明の方法です。最小限、二つの方法で神話の成立の時間帯を求めたのです。その一方は、金属器が登場しない神話だから、金属器が日木列島に入ってこない縄文期に作られたのだろうという論理と、もう一方は、黒曜石の繁栄している地域と「国引き神話」の対象とされた時代とが一致する、という全然違う論法ですが、それが同じ結論を示した。つまり、縄文期にあの神話は作られた、ということです。それならば矛盾はない、という結論を示した。ですから、わたしは「国引き神話は縄文期に成立したしということが、現在は確言できると考えているわけでございます。  
3 荒神谷“弥生銅剣”への仮説
「剣」ではなかった三百五十八本
さて、次は今日の一つのメインテーマとなります三百五十八本のいわゆる「中細剣」ですが、あれは「剣ではない」というテーマに移らせていただきます。これは皆さん初めてお聞きになるでしょう。わたしは、大阪の朝日カルチャーセンターで「『倭人伝』を徹底して読む」という題の講演を、去年(一九八四)の四月からもう一年半ぐらい続けております。その中でいろいろなテーマを抜き出していったわけです。特に最近は、剣・矛・戈というものについて、『三国志』全体からその記事を抜き出した。また四書五経、『詩経』、『書経』、『礼記』というような文献からも剣・矛・戈を抜き出していく。こういう作業に取りかかっております。
細かいことは抜きにしまして、結論を申し上げます。剣は諸公、あるいは諸王が身につけているものなのです。印象的な一つの例を申しましょう。『三国志』にこういう言葉が出てまいります。「剣履上殿」これは曹操という、魏の第一代の天子、文帝の親父さんです。その曹操が後漢の天子から「剣履上殿」を許された。これは要するに、諸公や諸王や将軍たちが天子の宮殿に来ますと、宮殿の入り口で「お腰のものをお預かりします」と取られてしまう。丸腰にされてしまうわけです。「履物もどうぞおはき替え下さい」と、内履きにはき替えさせられた。
これは当然でしょうね。大化の改新ではありませんが、剣を持ってずかずかと天子の側へ行って「エイッ」というようなことで傷つけられたら困りますからね。だからお召物預かり係というのがちゃんといるようです。ところが曹操に対しては「あんたはよろしい。剣もつけたままで履物もはいたままで上がっていいぞ」と。天子自身はもちろんそうでしょうね。天子自身はいちいち剣を取ったり履物をはき替えたりはしないと思います。同じように曹操にも、あなたは完全に信頼できる人だから、天子なみに「剣履上殿」を許すということです。
このあと、漢が“禅譲”という名で滅亡して魏に移るのですから、大体この話が出てきたらその王朝は終りみたいな感じなのです。次の魏の終りのときにも司馬懿(しばい)が「剣履上殿」を許された。そして今度は魏が“禅譲”という名で滅亡して西晋となった。こういう印象的な事態なんです。これから言いますと、結局、天子、諸公、諸王、将軍たちは剣を身につけているということがわかるわけです。このほかにも今の『書経』とか『詩経』などを見ていきますと、いわゆる周の制度で卿や大夫が、やはり剣を身につけていることが各所で述べられております。
これに対して三世紀の代表的な軍隊の武器、これは矛である。軍勢を揃えることを“矛を揃える”と言いますが、この用例が『三国志』にございます。その意味では倭人伝で「卑弥呼の宮殿が矛に囲まれている」というのは、優れて三世紀的な軍隊の武器のあり方をしめしているわけです。
ところが、これに対して意外だったのは戈ですね。これはあまり出てこない。『三国志』の中ではこういう文例で出てくるのです。「戈を逆さにして迎えた」。つまり、これは周の武王が殷の紂王に対して反乱を起こします。ところが殷の軍隊は、本当は反乱軍鎮圧すべきところですが、すでに紂王に愛想をつかしていたので、周の武王に対して、私たちはあなたたちに抵抗しませんと言って、戈をひっくり返して「戦う意志はありません」という形をして迎えた。これは周の側で書いている文献をもとにしているものですから、あまりあてにはなりませんが、そう書いてあります。
これは元をたどりますと、四書五経の『尚書』にも同じ文面が出てまいります。ということは、殷の終り、周の初めでは戈の方が武器代表として扱われた。ですから、戈の方が古いということができる。大体、農民の鎌がもとで、それにいろいろな工夫をしてできた武器、つま農具が発達したわけです。それが代表的だったのが殷・周初の時代です。だから、この時代には「干戈(かんか)」という言葉があります。「干」がその時代の楯で、「戈」の方が武器の代表だったわけです。
なぜ「干戈」かというと、これは今のように「干戈」が主だった時代にできた言葉だから「干戈」というわけです。これに対して周の終りの戦国期に「矛盾」という故事が出てきます。そして矛が主の時代に変っていくらしいのですが、残念ながら本日は時問の関係で譲させていただきます。
二つの重大な疑点
さて、ここで今の話を整理いたします。つまり、剣というのは諸公や諸王や将軍、せいぜい大夫ーー難升米が大夫だったと倭人伝に書いてありますが、そういう連中が護身用として、またシンボルとして持っていたのが剣なのです。それに対して軍勢が、もちろん全員ではありませんが、軍勢の統率者みたいな連中が持っているのが矛であり、戈である。そうしますと、いま博多湾岸に矛や戈の鋳型が集中している。矛は一〇〇パーセント近く、戈は両翼に広がりながら、やはり博多湾岸を中心に鋳型が存在している。それの実物の分布図は、北は朝鮮半島の洛東江沿いに、かなり広く分布している。「倭人」の関係でしょうね。「倭の土地」があった証拠でしょう。そして、南は四国の西半分ぐらいのところにまで分布している。これは、いいとしましょう。
問題はその東側に中細剣・中広剣という世界があると、考古学者は言うわけです。それが、いま皆さんがお持ちの地図に出ていると思いますが、その地図のNo.5に出ておりますように、出雲から土佐までを含みまして大きなおむすびのような形に囲まれているのが中細剣・中広剣の領域なわけです。それに対してその次の平剣という、さらに幅の広い大きなものになったものが、瀬戸内海周辺の領域に狭(せば)まった。なぜ狭まったかが、また非常に面白い問題になる。ところで、この図では中細剣・中広剣というのは数が少なかった。ところが三百五十八本出てきた。実際に存在したのはその五倍、十倍、あるいはそれ以上である。これは先に申したとおりです。
では、今後どうなるのでしょう。この地帯には東アジアでいえば何と、諸公・諸王や将軍にあたる人々が何百人、何千人いたことになりましょう。これは変だ。そう思いませんか。これは今回、わたしがぶつかった、抜き差しならない問題なのです。いや、もうすでに考古学者が前から気がついていてもよかった。なぜかと言いますと、平剣はかなり出ていますからね。あれも本当に「剣」だとすれば、諸公・諸王のもの。あの瀬戸内海領域に束アジアにおける諸公・諸王クラスの人々がずらずらといた、とはちょっと考えられない。その矛盾に考古学者もほかの古代史の学者も、誰も気がつかなかった。わたしの見たところでは「これはおかしい」と言った人はいない。わたしもその一人だったのですが、今回「これは、おかしい」と思ったわけです。
もう一つあるのです。これは皆さんすぐおわかりのことと思います。これがどうも大国主命の「八千矛の神」「八千戈の神」という言葉と関係するのではないかということは、皆さん必ずお感じになったことと思います。「八千矛の神」「八千戈の神」などというものは戦後の古代史学者・考古学者みんな笑い飛ばしていた。「あんなの大嘘、嘘八百だよ。出雲なんて大したものは出ないじゃないか」と。しかし、今はもう笑える人は、いませんね。「あんなもの嘘だよ・・・」などと言いかけたら、途中で笑いがとまってしまうでしょう、今は。これは、うっかりお笑いになっていると顔が強(こわ)ばりましょう。わたしは昨年、三百五十八本の出た当時、この件について大阪で読者の会(市民の古代研究会)の方々とお話ししたことがあるのですが、わたしはこういうことを言いました。
「大国主命の原産地」と言っては変ですが、彼の本拠は石見の国の方の「大国」だったのです。その「大国村」。わたしは、そこが原産地であろうと考えているのです。ちょうど須佐之男命の原産地が「須佐」であるのと同じく、地名から出発していると思うのです。そこに大国主神杜というのがあって、そこに八千矛山というのがあります。その八千矛山というのは、有名な石見銀山の玄関口です。「ここを掘ればたくさんの矛が出てくるかもしれませんよ」。わたしはそう言ったのでした。
ところがよく考えてみると、これは「おかしい」のです。なぜかなれば、先ほどのわたしの論理からしまして、記・紀の神話は、決して近畿の後世の史官が勝手に小説作るみたいに作ったものではない。歴史上の事実を本質的に反映している。細かにいちいち反映、ではありません。枝葉末節ではなくて、歴史の節目の大きな変転を反映している、こう考えたわけです。
そうすると「八千矛神」というのも、誰かが勝手に面白おかしく、嘘で作った名前とは考えられない。やはりそこに何らかの歴史上の実態が反映しているのではないか。おびただしい矛・戈を持った神として大国主が考えられていたということは本当ではないか。ところが、この場合、八千矛山から矛がたくさん出てきたとすると、また「おかしい」と思います。なぜかというと、今度のは「剣」です。ところが「八千剣の神」などという言葉はないのです。まさか、「剣」の方は無視して、矛の方だけをクローズアップした、というのはおかしいでしょう。「これは一体、何だ」という問題にぶつかった。これで五、六月に悩んだ。七月に入っても悩んでいた。そしてある日、思いつきました。「まてよ、この銅矛とか銅剣とかいう言葉は誰が考えたのだろう」と。
疑問の初めは、こうなのです。いわゆる「剣」というものには金属の部分があります。それに木の柄の部分を付けるわけです。ところが木の柄の部分は三十センチ、二十センチですむとは限らないではありませんか。その柄が「長かったら」どうなるのでしょう。一メートルか、一メートル半もの柄があったら、それは「剣」でしょうか。一定の接着の仕方の場合、二、三十センチの柄は付けられるけれども、それより長い柄は付けられませんよ、ということはあり得ませんね。そうすると、柄が長かったら、それでも「剣」と言いますか。やはり「剣」とは言いませんね。それはやはり矛か何かではないでしょうか。つまり当然のことながら、いわゆる剣というのは柄が短いものです。矛や戈は長いのです。それなのに、いま出土した金属部分だけを見て、果たしてそれが何か、わかるのでしょうか。そのようなことで、わたし、頭がおかしくなってこの五、六月、悩んでいました。
剣・矛・戈の定義
そこでふと気がついて、考古学者が剣・矛・戈とちゃんとはっきりしたように言っているが、それは一体誰が言い始めたのだろう。そう思って、思いついたのです。高橋健自(けんじ)という有名な考古学者がいたのです。上野の国立博物館の歴史課長をしたことのある方で、大正年間に青銅利器の研究をまとめた人として有名です。この人がいわゆる考古学上の銅利器研究の先達となった。京大の富岡謙蔵という人は鏡の研究で有名な人です。この人が「高橋氏の研究に、私は賛成だ」と言ったので、それが「考古学界の定説」となったことは、前から知っていました。それで高橋健自さんの論文を読んでみようと思ったわけです。大正十二年に「日本青銅文化の起原」という論文がありまして、そこにこう書いてあります。
まず、筑紫矛から述べよう。これはその名の示すごとく、九州北部地方から数多く発見されるので、筑紫矛という名で呼ばれたものである。昔は型式の如何にかかわらず、すべて矛と見なされた。
今、われわれが言っている剣や矛は、全部「筑紫矛」という名前で江戸時代は呼ばれていた、というわけです。続けて、
けれども今日、われおれは研究上の便宜からこれらを二大別し、本の方が袋になって、柄を挿込むに適した型式を鉾といい、同じ本の方が普通の刀剣のように茎(なかご)になって、前者と反対にその茎が柄の方へ挿込まれるようにできているのを剣ということにしている。
つまり、こういうことです。「これを剣と便宜上呼んでいる」ということです。そして、「こちらの方を矛ということにしておく」ということです。「こういうことに便宜上しておく」と、こうはっきり高橋さんが書いておられるのです。「実際に剣だったか、矛だったか、戈だったか知らないが、しかし名前がなかったら不便だから便宜上こう呼んでおきます」と、はっきり言っています。“仮設名称”です。
ところが、それがそのお弟子さんたちによって剣・矛・戈と「実体化」されてしまった。怖いことですね。ですから、これがもしわたしだったら、こちらの方をA型。そのI式(従来の「剣」)とII式(従来の「戈」)です。そしてこちらをB型(従来の「矛」)と、こう呼べばよかったのです。これなら誰にも文句ありませんね。突き出た方をA型、引っ込んだ方をB型。これなら「けしからん」と言われない。大丈夫ですね。「実際にこれが使われていたときの呼び名が何であったか、知りませんよ」と言えばよかったのです。それを便宜上、こういう名前にしたために、お弟子さんたちはみんな「実体化」してしまった。考古学者もすべて「実体化」し、博物館の説明も全部それを「実体」視して解説を書いた。
今のように考えてみますと、これは要するに、接着方法なわけです。剣や矛や戈という言葉は、われわれは接着方法で呼んだりはしません。金属部分と木材部分とを総合した、全体名称です。こんな言い方をわざわざするのはおかしいくらいです。金属部分と木材部分を一緒にまとめてわれわれは剣と呼んだり、矛と呼んだり、戈と呼んだりしている。
どう接着しているかを見てみて、「あっ、剣だ」「あっ、矛だ」などと言いますか。言ってはいません。柄が短いのは、どんな接着方法であっても剣であって、矛や戈とは言わない。また、柄が長いのは、これはやはり矛か戈であって、どんな接着方法をしても剣とは言わない。日本の考古学では木材の方が大抵腐って出てきませんので、一応はやむを得ないかもしれない。だから接着方法で分類したこと自体はいいとしても、これにこんな、具体的な、見てきたような名前を与えたことが、わたしは大きな誤りだったと思うのです。
そうしますと、今わかることは、東アジアの常識でこの出雲や瀬戸内海領域が諸公や諸王だらけであったというような、こんな考えを誰が押し通せるか。「日本の考古学」の名において押し通せるか。わたしはできないと思います。また『古事記』では「八千矛の神」と書いてある。ところが『日本書紀』では「八千戈の神」と書いてある。だから、矛ないし戈をたくさん持っていた神様であると言っている。それが後世の想像による「作り物」だとはわたしには思えない。
ということは、この間出てきた三百五十八本は木の柄に付けるものである。こう槍のように直線的に付ければ矛になるし、これを直角に付けて縄でつなげば戈になる。つまり「八千矛の神」「八千戈の神」に関連する証拠になるーーーということが、わたしがこういうところで初めて申し上げるテーマなのです。ここではっきり明言させていただきます。もちろん仮説ですが、わたしはこの仮説の方が筋の通った仮説であって、高橋健自の便宜上つけた、それこそ「仮説」を、「絶対」として疑わなかった考古学者たちは、大きな誤りを犯していたのではないかと思うわけでございます。
四隅突出墳丘墓が語るもの
さて、ここで大事な問題が二つ残っております。まず、四隅突出古墳ーー四隅突出方墳とも呼ばれます。さらに最近は、それは弥生時代の後期に当るということで、「四隅突出墳丘墓」こういう名前で呼ばれるものがあることはご存じのとおりであります。
これはもう(黒板に)書くまでもなく皆さんご存じですが、四隅に祭壇というか、祭式土器などの土器を置いたような場所がある。この型式の墓は出雲(中国山脈あたりを含む)が分布の中心であって、周辺に伝播したらしい。ところが、なぜこのような風変わりな墓が作られたかについての説明は、今のところ考古学者からも古代史学者からも出されていないように思います。しかし、今日のわたしのお話をお聞きいただいていれば、その想像はつくのではないでしょうか。
つまり、宍道湖を神聖な湖として、それを取り巻く四つの神名火山がある。まさに宍道湖の四隅に神聖なる祭の場がある。これがいわゆる縄文から弥生に至る出雲における巨大な誇り高き信仰圏である。そして、弥生の後期になって四隅突出墳丘墓が築かれた。これを自然の信仰形式の発展と考えた。これも仮説ですが、それをバーッと切ってしまって「無関係ですよ」という仮説よりも、そこには自然の流れがある。
信仰というのは、ある人がパッと「私が思いついた。これから四隅にしますよ」などと、そんな形で成立するものとは、わたしは思いません。そんなことしたって誰もついてこない。いかに権力者だって、それほど信仰を左右する力はないと思うのです。やはり、その地帯に存在する信仰の形式を襲うてこそ、権力者は自分の支配を保ち得る。主たるものは、その土地の民衆の信仰の形式である。
一見表に立っているかに見える権力者は、実は信仰への忠実なる従属者であることによって、権威を保ち得る。わたしはこの道理を疑いません。そうすると、いまの四つの神名火山とこの四隅突出墳丘墓との間には関係ありと、こう見なす方が自然ではないでしょうか。
さらに、先ほど申しました「国引き神話」は、あれは何と四つのところから国を引っ張ってきたわけですね。新羅の三埼(みさき)から一つ、北門(きたど)の佐伎(さき)の国で二つ、第三番目が同じく北門の良波(よなみ)の国で、第四番目がいわゆる越(こし)の都都(つつ)の三埼という四カ所から引っ張ってきた。これもやはり無関係ではないのではないかという感じがいたします。
このように、四隅突出填丘墓というのは、「国引き神話」の上にも、その姿を現わしているような、出雲等の古い信仰系列の中に存在すると見る方が自然であるということを、これも今日初めて皆さんの前で明言させていただきます。
日本海こそ世界だった
最後に、この「国引き神話」ですが、わたしは非常に長らく疑問、不満でございました。と言いますのは、岩波の『日本古典文学大系」の注で見ましても、いまの新羅はよろしい。越もよろしい。越がいわゆる、能登半島あたりかということですが、越前・越中・越後のあの土地であることは疑いはないでしょう。問題は第二回目と第三回目の北門ーーホクモンと書いてある。佐伎の国というのは大杜町の北の日本海沿岸に鷺浜とある、その辺だろうということです。そして、また第三回目の良波という、この「良」を直してしまう。これを「農」の間違いだろう、というふうに直して「ぬなみ」と読んでいる。今の佐太神杜の北の方にある「野波」に合せた。これは例によって例の如くです。邪馬一国と邪馬台国みたいに、天皇家の大和に合わせるために、邪馬一国を邪馬台国と直して大和と呼んだ、あれと同じやり方をここでもやっている。こういうやり方はいけません。アンフェアである。
さて問題は、従来の鷺浜や野波から考えているあのようなところが「北門」であったら、あれは出雲の中でしょう。ところが第一回の新羅、第四回の越、これはいずれも明らかに出雲の国ではないのです。ところが第二回と第三回だけが出雲の国の中だったら、タコの足食いです。全然、出雲は大きくならない。それでわたし、困ったわけです。
大阪(他に東京・博多)でわたしの読者の会というものがあります。これは読者の方々が本当に“自分勝手に”お作りになって、定期的にわたしは講演に呼んでいただいているのですが、その中で清水裕行さんという若い神戸大学の理学部ご出身の方ですが、その方が論文を書かれまして、今と同じような不満から、あれを隠岐島の島前と島後に二つの北門の国を当てられたのです(『市民の古代』第3集、一九八一年刊)。しかし、それもわたしは不満です。なぜかと言いますと、隠岐島はやはり昔から出雲の国です。隠岐島が出雲の国以外の国に属したことはない。しかもこれは足どころではない。先ほど言ったように黒曜石の聖地で心臓部ですから、タコの足食いではなくタコの心臓食いになってしまう。(笑)死んでしまいますよ。だからこれもだめだ。
論理的に考えれば、わたしは答は明らかであると思った。つまり第一回の例、第四回の例から見れば、これは出雲国以外から取って来ているのである。そして出雲から見て北に位置することは明らかである。とすれば、地図を開くまでもなく答は明らかである。ソ連領・北朝鮮領これしかありません。まさに、その中でも特に中心はウラジオストック。あれは昔もいまも良港、いい港です。わたしは「良波」の「良」はその意味が「良い」か何か知りませんが、ナミという「ナ」は港のことを言っている。「ミ」というのは海です。だから港のある海。つまり、港を持った湾岸です。これが「ナミ」だと思うのです。まさに、今の「野波」はそういう場所です。そうすると、あちらの北の方で港を持った湾岸といったら、ウラジオストックが一番ですね。「良波」というのはもちろん、日本語ですよ。新羅の三埼だってーー岬は日本語ですーー新羅側は新羅語で言っているでしょうけれども、出雲の人々は日本語で呼んでいるわけです。
もう一つは第二回目の佐伎の国の方ですが、これはわたしは北朝鮮の東岸だと思います。地図でご覧下さい。いい岬があります。一番大きな岬がムスタン岬、他にも幾つかありますが、あそこはまさに、ウラジオストックの湾入部に較べると、突き出た岬の国という感じです。わたしの考えでは、出雲の海上の民がこの神話を作ったと思います。なぜかと言いますと、あの引っ張り寄せ方は、船を引っ張るときの引っ張り方ですね。杭に綱をつけて引っ張る。あのような海の漁民の労働のやり方に立って神話を作るのは、海の民である、漁民であると思うのです。
出雲の漁民で日本海を知らない漁民はいないとわたしは思う。関東を知らなくても、出雲の漁民はつとまります。中国も北京や上海には行ったことがなくても、つとまります。しかし、日本海(ことにその西半分)を隅々まで知らないと出雲で漁民はつとまらない。わたしはそう思うのです。わたしの先祖は土佐の漁民だったらしいのですが、そう思います。
これは皆さんには釈迦に説法ですが、出雲で沖合に魚取りに出て行って、あれよあれよという間にかなり流されてソ連領へ着く。北朝鮮へ着く。これはもう日常茶飯事です。着くまいと思って頑張っても着かざるを得ない、ということなのです。まして、今と違って国境はないのですから・・・。それで死んでしまって一生帰って来れない、という者もいたでしょう。また、何年かたって帰ってきた漁民もいたでしょう。
日本海の隅々を知らずにすまし得るような、“幸せな”漁民というのはいないと思うのです。彼らの生活の知識、言い換えれば、出雲の漁民にとって、日本海こそ世界である。出雲の周辺である。だから、その日本海という世界を舞台にして、この「国引き神話」は作られたと考えるのは、わたしは大変自然だと思う。
なお一言申し上げますと、この場合、語り手としては無人の陸地を引っ張ったか、人問のいる陸地を引っ張ったと考えているか。わたしは恐らく人問の乗った陸地を引っ張ったと考えていると思う。各地から出雲まで行けるわけですから。と言いますことは、これは右の各地と出雲との人的・文明的交流という、悠遠な歴史事実が背景になってこの神話は作られている、ということになります。
新羅と出雲とに交流があったことを疑う人はいませんね。越との問も、そうです。同じ「交流を背景とした」例が、四つのうちすでに二つ認められているのです。とすれば、他の二つもそうです。いまの沿海州、あるいは北朝鮮。出雲とこの領域との人的・文明的交流は非常に遠く深く存在していたと、わたしは思うのです。そちらの資料や考古学的出土物はわれわれまだよく知りませんのでわかりませんが、これが将来わかるようになってきたら、その交流の深さにわたしたちは驚くでしょう。当然のことですが、わたしはそう思います。わたしにとってこれは前の週に発見して、長年のもやもやが解けたと思った件なのです。しかし、わたしが思うに、出雲の郷土史の方やこういうことに関心のある方は、大変平凡なこんな考え方は、すでに早くのべておられる方もいらっしゃるのではないか。ですから、皆さんに「この話はもうこの人が前にこう書いていますよ」ということがきっとあると思いますので、それをお知らせいただきたいというお願いを含めまして、今日の講演を終らせていただきます。  
 
空海は九州王朝を知っていた
 多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ

 

1 千年の論争、弘法も筆の誤りか
京都に住む私にとって、毎月目にする光景がある。月々の二十一日、「弘法さん」とよばれる催しだ。各地から善男善女が東寺(教王護国寺)に集まり、境内はおろか道にまで溢れた出店でにぎわう。この日だけは通勤バスが渋滞で遅れるのもあきらめなければならないが、弘法大師空海の命日にちなんだ、この「弘法さん」も三月が「本番」だ。
さて、今を去ること千百余年、承和二年(八三五)三月二十一日、高野山にて入滅した空海は、その六日前の三月十五日に弟子たちへの教戒として『御遺告』とよばれる文書を残している。
この『御遺告』は現在高野山に十四本あるといわれ(1)、内四本は空海真筆とされてきたが、近年の研究によればそれらはすべて後代の偽作とする説が有力視されている。その代表的な例として、上山春平氏が著書『空海』(朝日評伝選)にて、偽作説を展開している。また、真言宗宗門内部においても豊山派の守山聖真氏が『真言密教の研究』において偽作説を著わしている。
そもそも、『御遺告』は真言宗内部において宗祖空海の遺言として信仰の対象であり、疑うこと自体がタブーとされてきた。にもかかわらず、古来偽作の疑いを持たれ続けてきたことも否定できない事実のようだ。
『御遺告』の注釈・研究書の類は数多く書かれており、古いものでは『御遺告鈔』仁海(九五一ー一〇四六年)著(2)、『御遺告秘決』実運(一一〇五ー一一六〇年)著などがあるが、中でも済暹(一〇二五ー一一一五年)著『弘法大師御入定勘決記』などは問答形式で偽作説に反駁を試みており、この時代すでに偽作説が存在していたことと、それに反論しなければならないほどの問題となっていたことがうかがえる。
かくして、『御遺告』の真贋論争は現在にまで至っているが、総じて述べるならば信仰の対象として主観的なまでに真作説を主張する論者と、その文体の稚拙さや内容の矛盾点などを根拠に偽作説を唱える論者、そして第三の立場として空海の言葉を門人が筆記したという門人筆記説が存在している。
これら各説の論点は多岐にわたり、それらを一つ一つ吟味検証することはもとより私の力の及ぶところではない。本稿において私がなそうとしたことは、従来、偽作説の根拠の一つとされてきた、あるいは真作説側からは「弘法も筆の誤り」として処理されてきた、空海の唐よりの帰国年の一年誤差問題について、多元史観の立場から再検討を加えることであった。そしてその結論として、『御遺告』には空海でなければ述べられない「真実」が含まれており後代の偽作とは考えにくいこと、さらには「空海は九州王朝を知っていた」という表記のテーマに遭遇したのであった。
千年の永きにわたって続けられた『御遺告』真贋論争への多元史観的アプローチとして、本稿が一つの「回答」と成り得たかどうか、諸賢の御批判を請う。  
2 『御遺告』の空海帰国年
『御遺告』には大別して四種類あり、高野山を中心として書かれたもの、あるいは東寺の立場から書かれたものといくらかの相違はあるものの、内容的にはいずれも大差はない。中でも最も詳しく記されているのが、『御遺告二十五箇条』と呼ばれるもので、通称『大御遺告』とも呼ばれている。四種の『御遺告』とそれに記されている日付は次の通りである。
(1).『太政官符案并遺告』承和元年十一月十五日(八三四)
(2).『御遺告二十五箇条』承和二年三月十五日(八三五)
(3).『遺告真然大徳等』承和二年三月十五日(八三五)
(4).『遺告諸弟子等』承和二年三月十五日(八三五)
これら『御遺告』には共通してその前半部分に空海の生涯が略載されているが、本稿の課題である唐からの帰国を記した部分を『御遺告二十五箇条』より見てみよう。
少僧、大同二年を以て我が本国に帰る。この間、海中の人々のいはく、日本天皇崩ずと云々。聞いて是の言を諌めて本口の言を尋ぬるに、船内の諸人、首尾を論じ争ふこと都て一定せず。着岸に注繋して、或る人の言に告げらく、天皇、某の日時崩じたまへりと。少僧、悲を懐き素服を給はる。
(『弘法大師空海全集』第八巻より・遠藤裕純訳)
『御遺告』の諸本はすべて空海の帰国年を大同二年(八〇七)としているが、その前年の大同元年(八〇六)三月十七日に桓武天皇が崩じている。
さて通説では空海は延暦二十三年(八〇四)に入唐しており、この点『御遺告』も同様に記してあり異論はない。帰国年については大同元年(八〇六)の十月に九州に帰っており、唐より持ち帰った品々の目録『新請来経等目録』を高階遠成に託して天皇に上表している。空海自身はそのまま筑紫に留まっていることから、その理由や筑紫での動向が不明なため、後世様々な憶測や伝説を生むこととなった。
『新請来経等目録』には大同元年十月二十二日の日付があり、本文にも「彼の鯨海を越えて平らかに聖境に達す」とあり、この年に帰国したことは疑えない。したがって通説では空海の帰国年は大同元年とされている。しかるに、『御遺告』ではすべて大同二年に帰国したと記されていることから、偽作説の根拠の一つとされたようである。
この矛盾は古来から真作説論者を悩ませたようで、実に様々な弁明がなされている。もっともオーソドックスな説明としては大同元年に帰国して、大同二年に入京したことを『御遺告』では「大同二年帰我本国」と記した、というものがある。しかしこの解釈に対しては偽作説側はもとより、真作説側からも批判がなされていて興味深い。その批判というのは真偽説どちらも、入京は入京であって帰国ではない、都をして「我が本国」とは言わないというものである。
たとえば前節で紹介した済暹の『弘法大師御入定勘決記』では、おおむね次のような説明を行なっている。
(1).大同二年の「二」は「元」の字の下二点が書き忘れられたもので、帰国年は大同元年である。
(2).これは空海の「文筆の誤り」で、御本意は大同元年であり『御遺告』そのものは真作に間違いない。
(3).空海がこのような誤りをおかしたのは「和光同塵」のたとえの通りであり、意図的なもの、言わば方便である。
真言宗仁和寺の僧侶である済暹にしてみれば、このように説明するしかなかったのだろうが、何とも苦しい弁明と言わざるを得ない。しかし、その一方で次のような指摘もしている。
「大同二年に我が本国に帰る。この間〜」とあるのは、筑紫から京都までの間のことではないのかという設問に対し、それを厳しく否定し、その理由として、もしそうであれば筑紫は日本国ではなくなってしまう。どうして王城(京都)のみを指して我が本国と言ったりするものかと反論している。
このように真作説論者済暹にしても「大同二年帰国=入京」説を認めていないのは重要であろう。結局の所、この「大同二年帰国」問題は『御遺告』偽作説に有利な材料として今日まで指摘されているのである。真偽不明の『御遺告』に比べて、大同元年帰国説の根拠とされる『新請来経等目録』は同時代の人物、最澄による写本が東寺に現存しているが、第一級の史料価値を持つ同写本の存在は偽作説にとって大きな支えとなっている。  
3 隠された帰国年、『続日本後紀』空海崩伝
空海の生涯、なかでも前半牛は謎が多い。帰国年問題もその一つであるが、数ある「空海伝」にはどのように記されているだろうか。比較的成立年代が古い「空海伝」には次の三つがある。
『空海僧都伝』真済著
承和二年十月二日(八三五)成立
『続日本後紀』空海崩伝
貞観十一年(八六九)成立
『贈大僧正空海和上伝記』貞観寺座主著
寛平七年三月十日(八九五)成立
これら三つの「空海伝」の中で、最も史料的価値が高いとされるのが、六国史の一つ『続日本後紀』承和二年条に記された「空海伝」で、通称「空海崩伝」と呼ばれるものだ。官撰の正史であることから、豊富な情報と官僚機構を動員して編纂されたものであること、宗門内部の事情とは一応離れた客観的な記述が期待できることから、この「空海崩伝」の内容は検討に値する。それでは問題の帰国記事部分について見てみよう。
(前略)
延暦二十三年、入唐、留学し、青龍寺の恵果和尚に遇いて、真言を稟け学び、その宗旨、義味、該通せざることなし。
遂に法宝を懐いて、本朝に帰来し、秘密の門を啓き、大日の化を弘む。
天長元年、少僧都に任じ、七年、大僧都に転ず。
(後略)
(『弘法大師空海全集』第八巻より・真保龍敝訳)
延暦二十三年(八〇四)に入唐した記事の後に帰国記事があり、次いでいきなり天長元年(八二四)の少僧都着任記事へと続いている。そこには、空海の最大の業績の一つである、日本国への真言密教の伝来年次が記されていないのだ。朝廷側は空海の帰国年を知らなかったのだろうか。否。前述した通り、空海は大同元年十月に筑紫へ帰着し、その地から『新請来経等目録』を天皇に上表している。こうした事実を同時代の中央官僚たちが知らぬはずはない。そして何よりも、帰国後の空海は新進気鋭の宗教家であり、唐より持ち帰った真言密教は都人の注目を集め、空海は時代の寵児として天皇からも崇敬されたのである。その影響力たるや一足先に帰国した最澄をして、空海を師と仰いだほどだ。しかるにその帰国年次を欠くこと、正史にあるまじき不可解な対応と言わざるを得ない。
次に『贈大僧正空海和上伝記』を見てみよう。空海没後六十年に成立した同伝記は、著者の貞観寺座主について異論があるが、その成立時期については疑義はないようだ。そこに記された帰国記事部分は次の通り。
(前略)其の年(延暦二十四年・八〇五)、十二月十五日、恵果和上入滅す。
大同元年(八〇六)十月廿二目、請来した法の文状を、判官正六位上行大宰大監高階真人遠成に附す。
〔此の下に恐らく脱文有り〕
和上十一月廿日に上表す。(後略)
(『群書類従』巻第二百六より)
*()内は古賀注。〔〕内は『群書類従』の行間注。
なんと『贈大僧正空海和上伝記』には、『新請来経等目録』の大同元年上表記事のみで、いつ帰国したかが記されていない。しかも上表記事の部分に脱文有りと細注がなされているなど、これも不可解だ。上表時、何があったのか。そして、なぜその部分が抜けているのか。偶然の脱落なのか、それとも故意なのか。不審である。
このように、「空海三古伝」の内、『続日本後紀』空海崩伝には帰国年も『新請来経等目録』上表記事も記されておらず、また『贈大僧正空海和上伝記』には大同元年の『新請来経等目録』上表記事のみで帰国記事そのものがないという体裁であった。
こうなると、空海の帰国年は意図的に消された、あるいは、記すことができない事情が存在していたのではないか。そのようにさえ思えてくる。  
4 直弟子の証言、『空海僧都伝』
それでは、最も成立が早い『空海僧都伝』を検討してみよう。空海没年の十月二日に書かれた『空海僧都伝』は、空海の高弟真済(八○○〜八六〇)の記と伝えられているが、これには古来より異論が多い。しかし、成立そのものは空海没後二十年頃までで、その内容は『御遣告』」よりも素朴であって、より古い時代の成立とされている。(3)
しかも「空海三古伝」中、同書のみに帰国年が記されている。次の通りだ。
(前略)天、至情を感じて、去んじ延暦の末年、命を銜んで渡海す。(中略)
大同二年をもって、我が上国に帰る。茲より已降、帝、四朝を経て、国家の奉為に檀を建て、法を修すること五十一度、風を息め、雨を降らし、霊験その数あり、上、一人より、下、四民に至るまで、灌頂を授けらるる者、数万人なり。灌頂の嵐、我が師より始まり、真言の教え、この時にして立ちぬ。(後略)
(『弘法大師空海全集』第八巻より・真保龍敝訳)
このように、大同二年に帰国し、それより以降、真言の教えが立ったことを記している。文章の内容も『御遺告』の当該部分と酷似しており、同系列のものと考えられる。
ただ、『御遺告』では「我が本国」とあるのが、同書では「我が上国」となっている。この「上国」という表現は、『偏照発揮性霊集』(空海の著作・手紙などを、弟子真済が編集したもの)の真済による序文中に次の使用例がある。
(前略)真言加持の道、此の日来漸し、曼陀灌頂の風、是の時より彌布せり。これ我が上国、聖、聖運より出て大化兼ね撤せるを以て、印度の新教をして若のごとき人に授けて来者を安むぜしむとなり。(後略)
(『三教指帰・性霊集』日本古典文学大系71)
ここでの「上国」とは日本国を指すこと文脈より明らかであるが、『空海僧都伝』中の「我が上国に帰る」も「入唐」に対応して使用されていることから、同様に日本国を指すこと、これを疑えない。
したがって、日本国のことを「上国」と記す例か、ほかならぬ真済の文書に現われていることから、従来、疑問視されてきた『空海僧都伝』」の著者は、言い伝え通り真済と考えるべきではなかろうか。
いずれにしても、『御遺告』と最も古い、しかも直弟子による『空海僧都伝』の双方が、大同二年帰国と記していることは重大である。これら二例は、どちらも「我が本国(上国)に帰る」と空海自らの発言を引用した部分であり、その史料価値は高く、従来、世の論者をして偽作と退けてきたのはあまりに「安直」ではなかったか。  
5 空海の証言、帰国と着岸
こうして、空海の帰国年はよってたつ史料に統一性がなく、混乱した様相を呈している。何よりも正史『続日本後紀』の沈黙が事態の複雑さを反映しているとも思えるが、果たしてそうか。
今一度、すべての先入観を排して各史料を厳密に精査してみよう。
まず、『御遺告』には大同二年に我が本国に帰るとあり、その間、すなわち大同二年より以前に着岸したと記している。着岸の場所については触れられていないが、その後、太宰府観世音寺に留まっていることが大同二年四月二十九日付の大宰府牒等により明らかである。そうすると、着岸したのは筑紫の地であり、その後、大同二年に本国へ帰国したと『御遣告』は主張していると考えられる。
次に『新請来経等目録』ではどうだろうか。この上表文中で空海は筑紫に着いたことを「彼の鯨海を越えて平らかに聖境に達す。これすなわち聖力のよくするところなり」と表現しているのみで、「帰国」という表現は一切使用していない。大同元年十月二十二日付の上表文であることから、空海の認識では筑紫に着くことは「聖境に達する」ことであり、「帰国」ではないこととなろう。
さらに、空海の私信などを編集した『高野雑筆集』中の藤原冬嗣宛の文面に次の内容がある。
(前略)延暦の末年、大唐に入ることを得、幸いに慈悲の大師に遇いたてまつって、既に本願を遂ぐ。
(中略)
大同の初年、乃ち岸に着くことを得て、即ち将来するところの経及び仏像等、使高判官に附して、表を修って奉進し訖んぬ。(後略)
(『弘法大師の書簡』高木[言申]元著)
高木[言申]元氏の[言申]は、言編に申。JIS第3水準、ユニコード8A37
この書簡は宛名も年月日も欠いているが、弘仁十二年(八二一)十一月に藤原冬嗣に宛てたものとされている。したがって、空海五十歳頃の手紙となる。
ここでも、大同初年(元年)に着岸したと記されており、「帰国」という表現はない。
管見では、空海自らが唐よりの帰国年に直接言及しているのは、これぐらいである。そしてそのいずれもが、大同元年に筑紫に着いたことを「帰国」とは表現しておらず、「着岸」「聖境に達す」と記していることが明らかとなった。
「帰国」という表現は『御遺告』と直弟子真済記とされる『空海僧都伝』のみに使用され、いずれも大同二年のこととしている。このように空海は大同元年「着岸」と大同二年「帰国」とを明確に使い分けている。これが「史料事実」だ。こうした「史料事実」を無理なく説明できる仮説が一つだけある。古田武彦氏が提唱された多元史観、これである。  
6 空海は九州王朝を知っていた
古田武彦氏の九州王朝説によれば、七世紀末まで日本列島を代表した王朝は九州王朝であり、同時に大和朝廷や関東王朝も併存していたとされる。そして七世紀末の白村江の敗北を機に、九州王朝は近畿なる大和朝廷に滅ぼされ、列島の代表者の地位を失うこととなった。
隣国史料の『旧唐書』によれば列島の代表者の交替を次のように記している。
日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す。或は曰う、倭国自ら其の名を雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或は、云う日本はもと小国、倭国の地を併せたりと。
(『旧唐書倭国日本伝』岩波文庫)
中国側の認識として、もと小国の日本国(大和朝廷)が倭国(九州王朝)の地を併合したことを記した部分だ。古田武彦氏の研究によれば七世紀末の九州は大和朝廷の占領地となっている。
その約百年後(大同元年・八〇六)に空海が筑紫を経由して近畿へ帰ったのであるが、その時点でさえ空海は筑紫に帰着したことをもって「帰国」とはせず、「着岸」と表現している。なぜか。大変こわい帰結だが、七世紀初頭においてなお、空海にとって筑紫は「我が本国」すなわち日本国ではなかった、このように考えるしかないのではないか。
そして翌大同二年(八〇七)に近畿へ、すなわち「我が本国」へ帰国したのではなかったか。
傍証がある。『旧唐書』には「或は云う」として、日本国が倭国の地を併せたと記していることから、日本国側の情報を掲載していることがわかる。しかし、その併合がいつであったのか、倭国(九州王朝)が完全に滅亡したのはいつであったのかについては記していない。その後も日本国からの使者が遣唐使として、たびたび唐を訪れているが、ついに倭国滅亡年次を記すことをしていない。
『旧唐書』には学問僧空海の名前も記されているが、こうした、倭国滅亡年次を記していない唐側の認識と、空海の筑紫「着岸」、近畿「帰国」の使いわけは、筑紫と日本国とは別国であるという、中国と日本側の共通認識の現われと言わざるを得ない。
ここにおいて、より深刻な問題が生じてきている。本稿表題とした「空海は九州王朝を知っていた」は、正確には「空海の時代にも九州王朝は存続していた」とするべきであった。もっとも、列島の代表者としての地位は失い、大和朝廷からは鎮西府を置かれ、「従属国家」へと転落していたであろうが、志賀島の金印以来、東アジアの大国であった九州王朝は一夜にして滅亡したのではなかったのではあるまいか。そのような時代の九州王朝の地を経て、空海は入唐・帰国したのだ。
自らの死期を予感した空海が、弟子らに残すべき遺戒を一つ一つ声をふり絞るように述べ、側近の弟子たちは師の言葉を一言も聞き漏らすまいとして病床の空海を囲み、書き留めたもの。『御遺告』の「原型」とはそのようにして成立したのではなかったか。
後に、様々な脚色や「伝説」が弟子たちの思惑により書き加えられていった結果が、現存の『御遺告』の姿であったとしても、真言密教を求め、命を賭して遣唐使船に乗りこみ入唐、帰国した空海本人でなければ述べられない歴史の真実、すなわち「少僧、大同二年を以て我が本国に帰る」は『御遺告』偽作説を否定する性格を持つのである。
すでに述べたことだが、済暹による『弘法大師御人定勘決記』には、筑紫は日本国であるから「大同二年を以て我が本国に帰る」は「大同元年」の誤りであると主張していることは、逆の面から問題の本質を提起したものであった。済暹の時代、十一〜十二世紀には九州王朝は跡形もなく滅び、誰もが九州は日本国の一部であることを疑ってはいない時代に入っていたのだ。したがって、『御遺告』が後世の偽作であれば「大同二年を以て我が本国に帰る」とは絶対に書けなかったはずである。
ひとたび、こうした観点に立てば、『続日本後紀』空海崩伝に帰国年次が記されていないことにも説明がつこう。
正史たる『続日本後紀』の編者であれば、九州も大義名分においては日本国なのであり、当然のこととして空海の帰国年は筑紫に着岸した大同元年とすべきものであった。しかし、『続日本後紀』よりも三十年以上早く成立した『御遺告』、あるいは『空海僧都伝』にある大同二年帰国説が動かしがたい既成「真実」として朝野に流布していたため、苦肉の策として帰国年未記載という不様な体裁を取らざるを得なかったのではなかろうか。
同様の配慮が当の空海自身の上表文にも表われている。『新請来経等目録』にある「彼の鯨海を越えて平らかに聖境に達す」という部分だ。天皇への上表文である以上、天皇家側の大義名分に立った表記とせざるを得ないこと当然だが、空海は筑紫に帰着したことを「帰国」とせず、「聖境に達す」という表現にしたのだった。
筑紫は日本国ではないが、近畿天皇家の勢力範囲、すなわち聖なる力が及ぶ境の内側であった。そうした九世紀当時の日本列島の政治的状況を、空海ならではの正確な表現で著わしたもの、それがこの上表文の内実であったのである。  
7 大同四年入京説批判
以上の論証が指し示すところ、空海の近畿への「帰国」年は大同二年ということになるのだが、これに対して高木[言申]元氏による強力な反対説が存在する。
氏の説を要約すると次の通りである。
大同元年の、遅くとも十月には帰朝されていた弘法大師が畿内にのぼられたのを、多くの伝記類は大同二年(八〇七)の秋とみなしている。この年の二月十一日には、鎮西府の次官田中氏が先妣の周忌を行なったことに関与して、斎を設ける願文を作っておられる。また、同じく大同二年四月二十九日には、入京の日まで暫く観世音寺に止住すべしとの大宰府牒が、この寺の三綱にくだされているから、弘法大師の入洛は、当然それ以前ではありえなくなる。しかし、古来言い仏えられてきた大同二年秋の入洛説を裏づける史料は何一つ存在しない。(中略)
ところが、弘法大師の書簡のなかに、その時期を明らかに示唆しているものがある。しかし、残念なことに、この書簡は宛名も年月日も欠いてはいるが、冒頭で「西府に一たび別れて、今に七年」とあるから、この書状の年代が確定されれば、おのずから、弘法大師がいつ頃、筑紫を離れられたか知ることができる筈である。
(『弘法大師の書簡』高木[言申]元著より)
高木[言申]元氏の[言申]は、言編に申。JIS第3水準、ユニコード8A37
このように、高木氏は空海の帰国年を九州に着岸した大同元年とされた上で、「古来言い伝えられてきた大同二年秋の入洛説を裏づける史料は何一つ存在しない」と断定されていることから、『御遺告』偽作説の立場にたっておられるようである。
さて、氏が指摘されている、空海入洛年を示唆する書簡とは次のようなものである。
西府に一たび別れて、今に七年。悵恋已まず。忽ち有る人の伝え語るを見るに、此日、京に入ると。即ち就いて謁えんと欲するに、私願期ありて山局を出でず。限るにこの縁を以て、馳せ謁えることを遂げず。貧道、聊か三寳を供せんと欲するに、山厨げき然として事ごとに弁じがたし。伏して乞う。米油等を済くことを垂れんことを。
また大唐より将来するところの経疏文書等、数本を写し取りて普ねく流伝を事とせんと思欲う。紙筆等もまた得がたし。また恵みを垂れんことを望む。
ム甲、頓首。
(『弘法大師の書簡』より。『高野雑筆集』所収)
この書簡は末尾の部分を欠いて、宛名も年次も不明だが、おそらくは上洛していた鎮西府の知人宛のものと思われる。
高木氏は、この手紙の経典の書写を依頼した内容が、弘仁六年(八一五)に会津の徳一に宛てた手紙と同内容であることから、同じ弘仁六年のものであるとされ、弘仁六年の七年前の大同四年(八〇九)こそ、空海が筑紫を離れて入洛の途につかれた年であるとされた。
はたして、氏の立論は成立するであろうか、検証してみよう。まず、氏が根拠とされた、弘仁六年の徳一宛の書簡を見てみよう。
(前略)
空海、大唐に人って学習するところの秘蔵の法門、その本、未だ多からずして広く流伝すること能わず。衆縁の力に乗じて書写し、弘揚せんと思欲う。所以に、弟子康守を差して、かの境に馳せ向かわしむ。
伏して乞う、かの弘道を顧みて、助けて少願を遂げしめなば、幸甚、幸甚。
委曲は別に載す。嗟、雲樹長遠なり、誰か企望に堪えん。時に風雲によって金玉を恵み及ぼされよ。謹んで奉状す。不宣。
四月五日沙門空海
陸州徳一菩薩法前謹空
(『弘法大師の書簡』より。『高野雑筆集』所収)
この書簡は弘仁六年(八一五)四月五日に陸奥国会津恵日寺の徳一に宛てたもので、確かに経本の書写を願うことにおいては、前掲の鎮西府の知人に宛てた内容と同じである。したがって、高木氏は共に弘仁六年の書簡とされたのだが、残念ながら氏の説には従いがたい。
二つの書簡に記された空海の状況を詳しく比較すればわかることだが、とても同年のこととは思えないのだ。たとえば、前者では米油などの食料にも事欠き、紙筆がなく経本の書写ができないと窮状を訴えている。しかし後者では「その本、未だ多からずして広く流伝すること能わず。衆縁の力に乗じて書写し、弘揚せんと思欲う」と写本が少なく広く流伝することができないと援助を乞うており、前者の段階よりも生活的にも布教活動にも格段の差を見てとれるのである。
こうした、書簡に記された背景を考慮することなく、共に書写を依頼した書簡だから同年であろうとする氏の論拠は僭越ながら史料批判上、甘いと言わざるを得ない。したがって、これら書簡の内容から判断して後者が弘仁六年ならば、前者はそれよりも前とすべきである。と同時に、筑紫を離れたのも大同四年よりも前ということになる。
かくして、高木氏が大同四年上洛説の根拠とされた、これら二つの書簡ははからずも、大同二年「帰国」説の傍証とも言える例であったのだ。
こうなると、『和州久米寺流記』の大同二年十一月八日、空海が大日経疏を講じたとする記事や、同じく大同二年に大和国添上郡に虚空蔵寺を建立したという伝承も偽作として退けるのではなく、今一度検討の必要があろう。  
8 隣国の証言、『三国史記』
空海の帰国年の年の誤差から発した本稿のテーマは、九世紀における倭国(九州王朝)の存在という。予想もしなかった帰結へと展開をみたのであるが、隣国史料に傍証があった。『三国史記』新羅本紀の次の記事だ。
A(哀荘王三年、八〇二)冬十二月、均貞に大阿[冫食]を授け、仮の王子と為す。以て倭国に質せんと欲す。均貞、之を辞す。
B(哀荘王四年、八〇三)秋七月、日本国と聘を交わし、好を結ぶ。
C(哀荘王五年、八〇四)夏五月、日本国、使を遣わして黄金三百両を進ず。
(『三国史記』新羅本紀第十、哀荘王)
大阿[冫食]の[冫食]は、二水編に食。JIS第4水準、ユニコード98E1
空海が帰国した時期とまったく同時期に、隣国の新羅では、倭国と日本国とを区別して対応しているのだ。古田武彦氏は『失われた九州王朝』において『三国史記』のこの記事を引用し、ここに記された倭国を九州王朝の残映あるいは後裔と表現されたが、本稿の一連の論証からすれば、むしろ近畿天皇家に従属状態とは言え、国家としての「実像」が九世紀においても存在していたのではあるまいか。
たとえ、太宰府に近畿天皇家により鎮西府が置かれたとしても、そのことをもって九州王朝が滅亡した証拠にはならないのではないか。たとえば、多賀城が蝦夷国内に置かれていたことを古田武彦氏は論証されたが、その時点で蝦夷国が滅亡していたわけではない。これと同様の状態が九州王朝にもあったのであり、完全に滅亡するまでには、さらに長い年月が必要であったと考えるべきであろう。
9 九州王朝の滅亡、被征服か禅譲か
『御遺告』真贋論争へのアプローチは多元史観により全く新たな局面へと発展してきたようだ。多元的古代の証言者、空海の遺言は、九世紀における列島の政治地図を復元したのみに留まらず、より深刻なテーマヘと論理を導こうとしている。
それは何か。率直に言おう。九州王朝から近畿天皇家への権力交替は、はたして征服であったのか、それとも「禅譲」であったのか。この問題である。
従来、考えられていたように「征服」による併呑であれば、空海の時代、筑紫は日本国の一部として認識されていても不思議ではない。しかし、事実は違った。空海をして筑紫を「我が本国」とは言わしめなかった。筑紫は依然として「独立」した別国だったのだ。朝鮮半島側の認識も同様であったことはすでに述べた。
とすれば、今一つの権力交替「禅譲」の可能性を視座に入れた論理的展開と諸史料の再検討が必要となる。しかし、この問題は本稿のテーマからあまりにも離れ過ぎており、かつ許された紙幅も尽きようとしている。問題点のみを列挙し、後の研究に委ねたい。
(1).『旧唐書』倭国伝は、貞観二十二年(六四八)になって、また新羅に付託して上表文を奉り、唐と通交するようになった、で終わり、倭国が滅亡したとは記していない。
また、同日本国伝においても、あるいは日本はもと小国で倭国の地を併せた、という、と記すのみで、倭国が日本国により滅ぼされたと断定も、記してもいない。むしろ、倭国と日本国との関係を明確にしきれていないことを告白したような表現となっている。
『旧唐書』日本国伝は開成四年(八三九)の記事で終わるが、言い換えれば、その時点においてなお、倭国の滅亡を記していない、すなわち認めていないことになろう。
(2).拙論「九州王朝の末裔たち」(『市民の古代』十二集所収)でも述べたことだが、神護慶雲三年(七六九)の道鏡事件において、大宰府の主神、習宜阿曽麻呂は皇位継承に関する発言権を有していた。
はたして滅ぼされた側の官僚機構、大宰府に近畿天皇家の皇位継承に発言できる事態をどのように理解すればよいのか。
さらに、九州王朝の政庁名、大宰府がそのまま続いている歴史事実をどう説明できるのか。
(3).古田説によれば、「日本」の国号を最初に使用したのは九州王朝倭国であり、後に近畿天皇家が「日本」を継承したことになるが、戦勝国が自ら滅ぼした国の国号を「使用」するとは、どういう理由からか。
以上、これらの疑問を解決する論理帰結、それは「禅譲」しかない。九州王朝の急速な没落に際して、近畿天皇家が列島の事実上の第一実力者となり、その彼我の現実を「禅譲」により公認させた、そう考えられるのだ。「禅譲」をせまる近畿天皇家に対抗する力も権威も九州王朝は失っていたのであろう。残された道は「禅譲」と引き替えに、自らの九州内の形式的権威と「独立」を得ることではなかったのか。そのように考えると、天智十年(六七一)の筑紫の君薩夜麻の帰国、すなわち白村江の戦勝国、唐が敗戦国の王を帰国させたことにも、積極的な理由がつけられよう。すなわち、「禅譲」の儀式を強要すること、これである。
空海の『御遺告』より導き出された、九世紀における列島の政治地図の復元、それは九州王朝から近畿天皇家への代表権力者の交替が、征服ではなく「禅譲」である可能性を浮かび上がらせた。さらに、付け加えれば、譲られたのは列島の代表権に留まることはなかった。たとえば、年号の公布権であり、法隆寺の釈迦三尊像であり、そして神話を含む「歴史」そのものであった。その集大成が『日本書紀』であり、言わば同書は「禅譲」の書であったのだ。
最後に言う。本稿で述べた「禅譲」は本来の語義のものではなく、血ぬられた力づくの「禅譲」である。それでも「禅譲」の形式を近畿天皇家が必要とした理由は何か。思うに、志賀島の金印の時代から連綿と続いた東アジアの大国、倭国の伝統であり、中国から金印を二度にわたり授与された「歴史の重み」であろうか。本稿で提起した「禅譲」説は新たな課題を提起する。倭国の完全なる滅亡はいつか、この問題であるが、ひとまず、ここで筆を擱きたい。私はあまりにも空海の幻想に取りつかれてしまったようだ。

(1)森田龍僊著『高野の三大宝』
(2)高木[言申]元「御遺告部註疏雑記」『続真言宗全書会報37』所収。
(3)真保龍敝解説『弘法大師空海全集』第八巻  
 
『播磨国風土記』と大帯考

 

木を見て森を見ない現代歴史家達に対し古田説は正しく森を見ているが、残存する資料がとぼしいため個々の木迄には至っていない。(1)
天武の「削偽定実」や桓武の焚書、『神皇正統記』によって失われた真実の木を、現存するわずかな資料の中から見つけて行かねばならない。
『播磨国風土記』揖保郡の条に、「言挙阜右所三以称二言挙阜一者大帯日売命(韓国還上)之時行レ軍之日御二於此阜一而教二令軍中一曰此御軍者慇懃勿レ為二言挙一故号曰二言挙前」とあり。ここに出てくる大帯日売命(オオタラシヒメノミコト)は今迄すべて神功皇后とされてきた。九ヵ所出てくる名前には(大帯日売命・三カ所、息長帯日売命・三カ所、息長帯比売命・一カ所、息長帯日女命・一カ所、皇后・一カ所)であり、人名の音読と訓読や異なる字使いは本来、別伝や別系譜を一つにした可能性があり注意を要する。(2)
『古事記』では仲哀の条、『日本書紀』では仲哀紀と神功紀に書かれている神功事績は本来、橿日宮に伝わる大帯日売伝承であり、景行の九州遠征記事よりはるかに古い。
香椎廟は『延喜式神名帳』に見えず、民部式に「諸神宮司並に橿日宮」とあり「廟司」を置き「守戸」を定めると書かれていて山陵の扱いである。廟は他の神社とは性格が異なり(廟とは中国の皇帝の祖先の神位を祭る所)大和朝廷に廟の思想が現われるのは桓武天皇以後であり(3)、香椎廟は遙かに古く、『万葉集』に冬十一月大宰の官人等、香椎廟を拝み奉り訖(オ)へて退(マカ)り帰りし時、馬を香椎の浦に駐(トド)めて各々(オノオノ)懐(オモヒ)を述べて作れる歌。七二八年(神亀五年)、
・師大伴卿の歌一首(九五七)
いざ児等香椎の潟に白たへの 袖さへぬれて朝菜つみてむ
・大貳小野老朝臣の歌一首(九五八)
時つ風吹くべくなりぬ香椎潟 潮干の浦に玉藻てむてむ
・豊前守宇努首男人(ウノノオビトオヒト)の歌一首(九五九)
往き還り常にわが見し香椎潟 明日ゆ後には見むよしも無し
と歌われている。
『八幡宇佐宮御託宣集』や『八幡愚童訓』に「住吉縁起云。大帯姫新羅軍之時。登四天王寿山。爾時無寿無像後令造之。祈願云。欲降伏隣敵。天王護助給。又以大鈴附榊枝高振呼云。朝底神達乞施神威令降伏敵国」とあり新羅征伐の素材は香椎宮に伝わる大帯日売命伝承で宇佐八幡とは密接な関係がある。社伝によれば養老七年造営とされ神亀元年以後は神功皇后とされる。香椎・宇佐とも本来、仲哀は祭神ではなく(現在は『記・紀』によって香椎宮のみ仲哀を祭神に加える)、神亀元年以前は大帯日売命が祭神である。(4)宇佐八幡は『延喜式神名帳』によれば宇佐三座(八幡大菩薩宇佐宮・比売神社・大帯姫神社)であり名神大社として祭祀にあずかっている。しかし『記・紀』の神功・応神条には全く触れていないし、神代の巻でも宗像三神・綿津見三神は書かれているが、宇佐は記紀成立時点では大和朝廷の神統譜の外に置かれていた。
神功紀には日朝関係記事も多いが、まるで木に竹を接いだ様相を呈している。神功紀の朝鮮関係記事を『三国史記』で見ると、
1).新羅五代(八○〜一一二)波沙尼師今(ハサニシキン波沙麻寐錦)
2).新羅十一代(二三〇〜二四七)助責尼師今(ジヨフンニシキン)の大将軍干老(宇流助富利智干ウルスホリチカ)二四九年死亡
3).新羅十九代(四一七〜四五八)納祇麻立干(トツギマリツカン)に表われる未斯欣(ミシキン未叱喜ミシツキ)(未吐喜ミトキ)のいわゆる朴提上(毛麻利叱喜)の物語
以上のように一世紀から五世紀にわたる四〇〇年の長い時代の出来事すべてを神功紀一代になげ込んでいる。倭女王卑弥呼・壱与を一人の女王として書いているのも同類である。
大帯日売命の系譜は『八幡宇佐宮御託宣集』所引『聖母大菩薩因縁記』に筑前香栖屋郡御廟香椎大明神其名大帯姫とある。その系譜は〔系図A〕のように書かれている。
オオタラシヒメは香椎の女王であり、オオタラシヒコの対語ではないかと考えられ、対称は仲津彦ではない。古代社会では対称的男女名が普通である。イザナギ・イザナミのように。『書紀』の景行紀は1).妻子系譜、2).九州遠征、3).倭建の西征・東征、4).蝦夷の神宮奉献、5).東国巡行、である。このうち他王朝記事から盗用を除くと妻子系譜のみで全く影がうすい。『記』の景行条に「又娶二倭建命之曽孫、名須売伊呂大中日子王之女、詞具漏比売、生御子、大江王」とある。子の曽孫と結婚出来るはずがない。校注者は系譜の乱れで片付けているが別のところにも倭建の子孫の条に「又娶二其入レ海弟橘比売命一、生御子、若建王。・・・娶二飯野真黒比売一、生子、須売伊呂大中日子王。此王、娶二淡海之柴野入杵之女、柴野比売一、生子、迦具漏比売命。故大帯日子天皇、娶二此迦具漏比売命一、生子、大江王」とある。小碓は倭建と別人である。『書紀』は迦具漏比売を見事に消している。倭建とは『常陸国風土記』に十三回も登場する倭武天皇である。(5)小碓は次に記す「ワケ」系譜〔系図C〕の継ぎ役にすぎない。次の〔系図B〕は九州の倭武の系譜からの盗用ではなかろうか。
倭建系譜が本来の王記の一部で景行(オシロワケ)が地方官として倭建の曽孫カグロヒメを娶ったのだろうか。
ワケについては畿内と周辺及び西国にかけて分布するため、朝廷に帰服し王権につながる地位を公認された地方豪族とするが、その中心となる天皇にワケの称号が続く事は絶対矛盾である。大和の王は当時は地方官程度であろう。垂仁の子から反正迄ワケが続く。〔系図C〕まさにワケのオンパレードだ。
ワケ系図の中に帯(タラシ)のつく別系をはめこんだもので、『記』の神武〜武烈(継体が北陸より上って来る迄)の間はこの三代景行・成務・仲哀を除きすべて××命で始まっているが、タラシの三代のみ××天皇で記事が始まっている。後代の大改造の跡が歴然である。〔系図D〕
仲哀については紀の一書に御孫尊とあるのはニニギがモデルであり、妻は神功ではなく鹿葦津(カシツ)姫(木花咲邪姫)つまり香椎津姫で、仲哀の死は神代紀のニニギの短命説話が全くふさわしい。
景行紀と仲哀紀の筑紫と九州平定への出発点が共に周芳の沙婆(サバ)である。『和名類聚抄』によれば佐波郷には達良(タラ)・多良(タラ)の地名があり、その他、多良川(長門)・多良岳・託羅(タラ)峰(肥前)・多良木(肥後)・太良(大隅)等がある。タラシヒコ・タラシヒメの出発点としては佐波(サバ)は大いに意味がある。
「九州神話」は三つの地域神話から成り立つ。
1).最も古い「大国神話」(古出雲神話)は出雲の西と朝鮮南岸の加羅(多羅・倭人伝の狗邪韓国または伽耶)と筑紫を結ぶ海峡地域の神話である。2).つぎに対馬・壱岐・沖ノ島・五島・姫島などの海峡島嶼地の「天国神話」がある。3).筑紫はこの大国・天国の混住地でスサノオ神や宗像三女神は早くから筑紫へ移住した痕跡であり、その後、天国から筑紫に上陸(天孫降臨)本拠を置いた。
以上が「九州神話」である。(6)大帯日売命(神功事績)は羽白熊鷲征伐のように神人混在の時代であり「大国神話」と「天国神話」の境目にあり神功紀のように五世紀ではない。
「東アジアの古代文化を考える会」創立当時(昭和四八年)の事務局長であった明治大学の故鈴木武樹教授が昭和五〇年七月発行の『偽られた大王の系譜』でオオタラシヒコの九州平定談は大和とは全く関係の無い九州の倭王の征服物語であると書かれていた事を思い出す。 

(1)(6)山田宗睦『日本神話の研究』上
(2)中山千夏『新古事記伝』I
(3)平野邦雄・飯田久雄『福岡県の歴史』
(4)塚口義信『神功皇后伝説の研究』
(5)中山千夏『新古事記伝』II 
 
卑弥呼の宮殿の所在と稲荷山鉄剣問題

 

倭人伝の事物は検討に値するか
さて今日の第一のテーマは、いわゆる卑弥呼の宮殿の所在という題でございます。で、これはちょっと一見非常にポピュラーな題目なんですけれども、実は内容的には非常に考古学上、或いは古代史上と言ってもいいかと思いますが、重要な編年の問題、つまり年代決定の問題を扱っているわけです。
「歴史と人物」の一九八〇年六月号にもその問題の特集がありますけれども、これは今、考古学界でいわれているものが特集されているわけですが、ここではわたしが考古学界の編年に対して、果してこれでいいかという問題を提起したいと、こう思うわけです。
これは実はこの前の会だったと思いますが、その時最後の御質問で出まして、「それは今度またお答えします。非常に面白い時間のかかる問題だから」と申し上げた、実はその御質問に対する解答という意味合いを持つものでございます。幸にこの問題は材料的にはもうこの大阪の囲む会の講演会ではズーと申し上げてまいりました。従ってその累積にたってお話しすればいいので、前半でこれをお話ししょうと思ったわけです。もっともそう言いましても、今日初めておいでの方もございますので、簡単にその論旨を箇条的に要約させていただくつもりでございます。
といいますのは、わたしが『「邪馬台国」はなかった』という本でやりましたのは文献による分析、つまり史料批判と申しますか、そういう文字にかかれたもの、特に倭人伝が中心ですが、その分析であったわけです。
それに対して今回の場合はそうではなくて、いわゆる物、つまり考古学的な出土物だけをといってもいいのですが、それを主に扱って分析するという方法であります。それが果して文献の分析と一致するか、しないかということを確認するという作業でございます。
で、この問題を考えます前にと言いますか、先んじまして、この『『三国志』』の倭人伝に書かれている物、つまり考古学的に出土しうるような物です。事物ですね、それは果して真面目に検討するに値いするかという問題を、どうしても吟味しておかなくてはなりません。といいますのは、邪馬台国に関するいろんな本が相次いでおります。その中でかなりいわれていることが、「あんな倭人伝なんてものは、あてにならん。適当な操作というか、空想を交えて書いたものであるから、あんなものを真面目に扱うのが馬鹿だ」と、こういうような口調・論旨を漏らされる、あるいはその立場から色々倭入伝を解釈する人がいることは、皆さんご存知と思います。もしそういうものであれば、倭人伝に出てくる事物を真面目に検討する必要がない、検討してもナンセンスだということになってまいります。
ところがズバり言いまして、わたしはそうでない。つまり倭人伝に出てくる事物は検討に値すると思うわけです。なぜといいますと、問題のポイントは魏の使い、これは帯方郡から直接きておりますから、郡使というべきだという人もおりますが、しかし中国の魏の天子の詔勅を持って来ておりますから、わたしは魏の使いと呼んで差し支えないと思うんですが、その魏の使いが倭国の都に到着しているという命題・結論といいますか、事実がキーポイントになると思うのです。
この事は別にわたしの説ではありません。明白にそう書いてあるわけですね、倭人伝をご覧になれば。この魏の使いが倭王に会って拝仮して、そして詔書を渡したとこう書いてあるわけです。
ここにかかれた倭王というのは当然、卑弥呼である。これも、そうでないという人も一部にはありますが、それは無理だと思います。なぜだと言いますと、そこに書かれてある詔書に「親魏倭王卑弥呼」とそう書いてありますから。魏の側で倭王と認識しているのは卑弥呼唯一人であること明らかであります。倭王に会って詔書を渡したということは、卑弥呼に会って詔書を渡したということに、もう問違いはないわけです。
ところが、にもかかわらず実はそうじゃあないんだ、いわゆる魏の使いは倭国の都に入っていないんだというふうな説をなす人がかなりいるわけですね、江戸時代以来。これは何かというと、その理由ははっきりしておりまして要するに行程の記事が帯方郡治(ソウル付近だといわれますが)からやってきた道筋の書き方が、不弥国までは里数で書いてある。ところがそこから先と考えたんですが、そこから先は日数で書いてあるーー例の水行十日、陸行一月とかですねーーというわけです。つまり簡単にいうとこの前半は里程、後半は日程で書いてあると、こういうふうに江戸時代以来、はっきり言いますとわたしの『「邪馬台国」はなかった』が出るまでは、すべての論者がそう考えてきたわけです。
そうしますと当然、なんでそんな変てこな書き方になっているんだろうかという問いが、必然的にといっていいでしょうか、生れてくるわけですね。その答は、結局実は里数で書いてある所までしか行かなかったんだ。そこから先、日数のところは倭人から聞いて書いたんだという、その解釈を生んできたわけです。これはそうはっきり書いている人もありますが、はっきり書いていない人でも、恐らく内心はそう思っている人は多いんじゃあないか、論者の中には。そう考えないと、どうも話が上手く合わない。
そこでですね、今のように途中でストップした、倭国の都、つまり最終地点までは行ってない、という考え方が非常に多くなってきたわけです。書いている人も多いし、書かないでもそう思っている人を加えると非常に多いと思いますね。で、その場合どこでストップしたかというのが論理的にピシッといけば、不弥国でストップしたという事になるわけです。 
魏の使いは卑弥呼に会っていた
不弥国というのは殆んどの人が博多湾岸、今の博多というふうに考えているわけですが、そこでストップしたと、こうなるんですけれど、どうもそれにしては不弥国というのはあんまり特徴がない国である。だからもう一つ前の伊都国、これはいろんな、かなりいろんな事が書いてある。ご存知だと思いますが一大率とか何んとか書いてある。従ってその伊都国でストップしたんだろう。伊都国から不弥国までは近いから散歩でちょっと行ったぐらいだろうと、そんなことは書いてありませんけれど、恐らくそういう解釈なんでしょうね。伊都国ストップ説というのが、かなり多くの人に信じられているわけです。
しかしわたしはこの考え方は非常に間違いであると。なぜかなれば、片方の卑弥呼に会って詔書を渡したという記事は解釈の如何(いかん)じゃなくて、誰れが読んでもそう書いてあるわけです。で、それに対してですね、片方の行程の理解の仕方は“解釈”なわけです。その証拠に、わたしはそれとは違う解釈をしたわけです。これはまあどっちの解釈がいいかは別にしましても、とにかく、解釈が少なくとも二通りあるということ。それに対して今の卑弥呼に会った、そして詔書を渡したというのは解釈じゃあなくて、ちゃんと書いてある。事実そのものなのです。
そうしますとですね、わたしの考えでは、両方が矛盾する場合には事実そのものを基準にして、事実そのものに合わない解釈を退けるのが正当な方法だと考えたのです。それに対して解釈を生かして、そして事実の方をこれは嘘を書いたんだ、実際は行ってないのに行ってると書いてありますね。卑弥呼に会ってないのに会ったと書いたんだと。こういう解釈を、つまり著者が嘘をついている、或いは魏の使いが嘘をついたという解釈をするってことは、わたしはやはり一言でいってフェアでないと思うわけです。
で、第一に、倭人伝の中で一番重要な記事はこの記事だと思うんです。つまり倭王に会って詔書を渡したというのは他のいろいろ、風俗、産物、・・・いろいろなことがありますわね、倭人伝の中の記事には。しかしどんな記事だってそれは枝葉末節です。中国側の朝廷から見れば。
問題は魏の国の天子がそんな夷蛮の、遠いはるかかなたの夷蛮の地に詔書をもたらしたと、倭国の王に詔書を渡したということが倭人伝の肝心要めのキーポイント、これ以上のキーポイントは無いと思うんです。それを支える表れは、詔書を、あれだけ長文をかかげてあるのが、その表れであるわけです。
だからその一番肝心な所を、これは嘘をついているんだというんだったら、わたしは倭人伝について語ることはやめた方がよろしいと思んです。そんな一番肝心の事に嘘をつくような、魏の使いが嘘をついたか、陳寿が嘘をついたか知りませんが、或いは天子が嘘をつけと命じたか知りませんが、なんせ肝心要(かなめ)の事で嘘をついたような資料を、枝葉末節のことを、自分の気に入った箇所を気に入った解釈で使うなんてことは、自分の趣味勝手でするのは結構ですけれど、学問としては成り立つ姿勢ではない。こうわたしは思うわけです。
従ってこの点からも、実は魏の使いが行ったのは不弥国までであり、そしてその時そこに於て倭国の都に入ったんだ。つまり「不弥国が邪馬一国の玄関だ」というテーマが当然でてくるわけですね。しかし今日はそういう行程解読が主目的ではありませんので、今日の問題は魏の使いが倭国の都に入って卑弥呼に会っているということ、これは倭人伝の根本の事実だという一点を確認したい。
この点は、実は前の講演会でお話した卑弥呼の年令の問題にも関連するんです。なんか今日お聞きしましたら、かわいい一才のヒミコちゃんて方がおいでになっているそうですけれど、卑弥呼の年令がいくつかという問題をこの前お話しました。今日お渡ししていただいた資料にも新聞の記事が載っているようですが、要するに「年すでに長大」とこう書いある。ところがこれをもって従来、わたしも含めまして卑弥呼は非常なおばあちゃん、こういうふうに考えていたんだが、それは間違いだった。
『三国志』の中の長大という用例を全部抜きだしていきますと、その中に明白に年代を示す例がある。それは三十才半ばを示すという点において、どの例においても異論がなかった。つまり明確にそれを示す例が何例かみつかりました。という事は何を意味するかといいますと、これは魏の使いが卑弥呼に会って見た感じを書いていると考えなければいけない。もしこれが倭人に聞いたのなら、例の二倍年暦という、これは『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方はご存知ですが、この問題がひっかかってきまして、三十五歳なら倭人は七十歳と表現すると、そうすると年すでに長大ではなくて、年すでに老ゆというふうな表現か、その他の表現にならなければいけない、という問題があります。
だからこの問題からも、実は魏の使いは卑弥呼に会っているというテーマが出てくるわけです。そしてなおかつ魏の使いは卑弥呼に詔書を渡しただけではありません。卑弥呼からの手紙を預って帰っているわけです。つまり上表文をたてまつって卑弥呼が答謝した、と書いてあるわけです。これはやはりわたしは嘘ではないと思う、なぜかなれば卑弥呼の宮廷には魏の詔書を読める官僚がいた、つまり文字官僚がいた。これは三人だっても五人だってもいいのです。また渡来人であっても、その弟子の倭国の青年であってもいいんですが、とにかく文字官僚がいたと、こう考えなければならない。
そうすると彼らは当然簡単な感謝の文章くらいかける。渡来人なら当然書けますし、その渡来人から習った倭国の青年だったにしても、短い下手な文章だったかもしれないが感謝の手紙ぐらい当然書けるわけです。そうしますと、そこに書いてあるその記事をも疑うことは出来ない。そうなってきますと当然詔書を渡して上表を貰うまで一週間なり二週間なりの日数がいるわけですね。今日詔書を貰って、さあ晩の内に徹夜して書いて、すぐ翌朝渡すとか、そんなことはとても出来ることじゃあないんです。内容をよく検討しなければ、文章的にも、政治的にも検討しなければいけません。だから当然何日間かの日数が経過しているんだと思うんです。
ということはその間に、魏の使いは倭国の都に滞留しているわけです。当然その間において倭国の都を観察してまわっている、こう考えなければならない。案内されて回ったかも知れませんがね。としますと、倭人伝に書いてある倭国の事物は、正に倭国の都に滞留している期間に見聞した、実際に自分の目で見た事物を中心にして書いてあると、こういうふうに考えなければならんわけです。こういうことになりますとね、倭人伝に書いてある事物、物の記載は、これは実地の見聞報告譚に基いているから、これは資料として検証に値すると、こう考えなければいけないのです。 
鏡・矛の大量出土が示すもの
これが大前提で、そしてじゃあその内容はどうか、これは先程から申しましたように今まで何回かにわたって申し上げてきましたので今要約しますと、例えば有名な鏡、「銅鏡百枚」という文句が詔書の中に出ている、そうすると、倭国の都からは銅の鏡が大量に出土しなけりゃあならん。ということは、それに相当する鏡というのは恐らく二種類しかない。
一つは弥生期の遺跡から出土する物として漢鏡と考古学者が呼んでいるもの。前漢鏡・後漢鏡とこうまた名前をつけておりますが、これは圧倒的に博多の近辺を中心に出土している。前漢鏡の九割がこの福岡県に集中し、その福岡県のまた九割が筑前中域とわたしが名を付けました今の糸島郡、博多湾岸、朝倉郡も含めまして、この筑前の中心域に集中しているわけです。つまり全体の八割が実にこの地帯に集中している。だからもしこの漢鏡と呼ばれるものが問題の鏡であれば、もう博多湾岸に決っているわけです。
もう一つの可能性。それはいわゆる三角縁(えん)神獣鏡、三角ぶちともいいますが、有名な三角縁神獣鏡、この場合も銅の鏡です。これは近畿を圧倒的に中心としている。つまり大塚山、京都府の南、ここに一番多いんですが、それが東西に分布している。これは弥生遺跡からは全く出てこなくて古墳の時代、つまり古墳からだけ出てくる。四世紀からほぼ六世紀までの古墳から出てくるんですね。もしこれであるとすれば、これはもう近畿に決っているわけですね。倭国の都は。
ところがこの場合、わたしが大事だと思う一つの方法、簡単な方法ですが、あるんです。倭人伝の中の事物の一つだけとらえたら、今の鏡の例もそうですが、どっちも可能性がある。今のそれ以外は可能性ないですね、はっきりいいまして。文献を解釈していろいろ理屈をつけることは出来るかも知れませんが、物と対応してなければならない。これは空想の世界でなく歴史事実の世界だから。
とすると、もう可能性のあるのは博多湾岸か、この近畿大和近辺しかないということが言えるわけです。そして両方言えるんだけど、もう一つ事物を組合せて考える。つまり二つ或いは三つの事物を共有する地域は何処か、こう考えていくと、一つなら点ですが二つだったら線、三つだったら面になりますから解釈がいろいろ動かしにくくなってくるわけです。
じゃあ次に何があるかと言いますと、これは矛ですね。この倭人伝に卑弥呼の宮室・楼閣がおごそかにあって、そこに人がいて兵を持って守衛している、とこう書いている。この兵というのは何かという説明がありまして、矛・楯・木弓がそうだと書いてある。そうしますと、その中で考古学的に我々がはっきり認識出来る物は矛である。楯が木であれば腐蝕しますからね、矛はまず銅である。鉄・石の矛も若千ありますが銅の矛の出土地帯と矛盾しませんから、まず代表的には銅矛で考えたらよろしい。
矛の出土はその矛と戈(か)の地図にも出ておりますが、圧倒的に筑紫が中心である。そして何よりも鋳型が、細剣もそうですが、中広矛・広矛、こういう矛の鋳型が一〇〇パーセント博多湾岸に、今の春日市を中心にする、春日市・福岡市の博多湾岸に集中しているわけです。ですから矛だけから言っても、地帯の限定性がある。これは近畿にありませんから。しかし古墳の中から多少は矛が出てくるという話もあるかも知れませんが、今の問題は鏡と矛、両方を結び合せまして、その出土する地域は・・・、となると、もうこれは博多湾岸しかないのです。近畿ではそういう大量の矛の出土というわけにはいきませんね。
しかも矛に宮殿が守られているという記述は、さっき言ったように魏の使いが実際に入って行って卑弥呼に会っているんですから。その時、矛を一杯持った倭人の兵士達に囲まれて、間を通って、あるいは自分自身も護衛されてその宮殿に行ったはずなんです。その記事ですから、倭人ではいろいろ武器めいた物はあるけれど、中でも矛が非常に目立ったんだという記述は無視出来ないのです。そうしますと矛と鏡という二点、線になりますが、とらえても、もう博多湾岸しかないわけです。
もう一つは冢(ちょう)、卑弥呼の墓ですね、「大いに冢を作る」と。この冢の議論もこの前やりましたが、簡単に復習いたしますと、要するに『三国志』の中では冢と墳と二つの言葉が区別してある。諸葛孔明伝にあるんですが、自分が死んだら墳は作ってくれるな、定軍山という山を墳に見たてて欲しい、その一角に冢を作って欲しい、それも棺が入る程度の冢でよろしい。この遺言に従って葬ったと書いてある。いわゆる我々が知っている仁徳陵古墳・応神陵古墳を、古墳と呼んでいるものはまさに墳である。ところが冢というのはこんな大きなものではなくて、若干盛土をしたものである。事実、倭人は人が死んだら「土を封じて冢となす」というのが一般の習俗に書いてある。その程度のものなんです。弥生時代の古墳はないんです。若干の盛土をしている程度なのです。そう書いてある。そこに「径百余歩」と。
この議論は時間がかかりますのでやめますが、要するに里数を漢代の里数に基いて考えますと、百余歩というのは二百米弱位の長さになる。ところがそれに対して『三国志』の短里とわたしが呼びました、それは漢代の六分の一の単位である。だからこの歩も六分の一になりまして、それで計算すると百余歩というのは三十メートルないし三十五メートルになる。どっちかというと、それを決めるのはさっきのように冢と書いてある点です。もし二百メートルのものとして読者にうけとって欲しいと陳寿が思ったら、「墳を作る」と書かなければいけない。ところがそう書いてない。三十メートルや三十五メートルのものなら、これは棺が入る程度よりは大きいですね。だから「大いに冢を作る」ーーピシャと合うわけですね。 
卑弥呼の墓は円かった
もう一つ新しい論証を加えますと、当時の『三国志』が出来たと同じ時期に作られた数学書があるのです。これは『九章算術』。算術というのは、昔わたしなんか小学校時代、算術の時間というのがありましたが、あの算術はそこからきているのです。そこを見ますと何里何歩と、歩という字は里の下部単位として書かれている。三百分の一だと注がついている、これを適当に歩いた幅だろうというので解釈している学者もありますが、これは駄目なんです。洛陽の読者はそうは受けとらないわけです。mに対するcmのように里の三百分の一と受けとるわけです。
これが第一。同じくこの『九章算術』と同じ時期に、もう一つ『海島算経』という本も『三国志』の時期に作られた数学書なのです。『九章算術』はそれまでの数学書をまとめたものですが、『海島算経』はまさに三世紀に作られた数学書なんです。それらを見ますと、いずれにも径という言葉が出てくる。ところが径というのは全部例外無しに円の、今でいう直径のそれを表すのに径と書いてある。全く例外が無い。また円周率やいろいろ見事な数学術がそこで示されているんですよ。ピタゴラスの定理みたいな図があって、わたしもびっくりしましたけれど、三角法も非常に発達しているんです。今の『海島算経』では三角法に基いて島の形姿を計る方法を新しくみつけた。確定した、ということで作られたのが『海島算経』なんです。それで壱岐・対馬の面積というものが初めて、『三国志』で表れてくるんです。
中国の歴史によればそれまでの島の面積というのは殆んどないんですね。一つの例外として海南島が出て来ますが、武帝のところで、これは現在と比べて全く当ってないんです。面積が。つまりまだ島の形姿を計る方法が無かったんです。ところが島の面積をれっきとして出したのが『三国志』倭人伝なのです。それが『海島算経』という、島の形姿を計る方法がみつかった、こういう一冊の本ができたその時期にできた『三国志』の倭人伝に、始めて島の面積が書かれた。それが今わたしのいう六分の一の里数としますと、ちゃんと合うわけです。
このピシャッと合うというのも、言いだすといろいろありますが、今日はそれを省略しますが、要するに大幅についてピシャッと合うわけです、その径というのは洛陽の読者がみたら完全に円の直径としか見られない概念なのです。
そうすると卑弥呼の墓が径百余歩とあります。「ああ卑弥呼という女王の墓はまるいんだ」とこう洛陽の読者は受けとるわけです。それを今のように漢代の二百メートルとしといて、前方後円の長径、さしわたしだというような解釈は、日本の前方後円墳を知り過ぎた考古学者や古代史家がそれに合せて原文をひっぱってきて解釈しているだけで、洛陽の読者とは全然違うわけですね。わたしはやはり洛陽の読者がどう読めたか、それで見なければいけない、と思うんです。
卑弥呼の墓は円い、しかもたかだか直径三十メートルないし三十五メートルである、こうなってくるんです。そうなってきますとですね、問題はその冢には鏡が大量に入っているはずだ。銅鏡百枚ですからね。そうしますと前から申しましたのでくわしくは申しませんが、日本列島の弥生と古墳時代の特徴は、中国本土はもちろん、囲りの彼らが夷蛮と呼んだ地域になくて、日本列島にだけある特徴は、墓の中に鏡が沢山入っていることなんですね。それは弥生時代もそうだし古墳時代もそうなんですね。わたしはそれを多鏡墓文明・・・、鏡が多い墓の文明とこう呼んでいいと思うんです。何でそうかという理由はこの前申しましたので省略します。
多鏡墓文明は二つの時期に分れる。つまり多鏡冢の文明、弥生時代というのは今のように甕棺等が畑の中から掘ってるとボコッと出てくる、そこに鏡が三〇〜四〇入ってる。これはもちろん、今畑の下から出てくるだけで当時から畑の下ではないんですね。当時はそれだけ貴重な絶大な宝物を入れた墓ですから、上には当然盛り土があったはずです。ところがそれは大した古墳のような盛り土ではなく、単なる盛り土に過ぎないくらいのものですから、均(な)らされてしまう。
大きさが小さいということが一つ。もっと重大な理由はその神聖な権力がその後断絶した。ズーと現在まで子孫が権力を持ちつづけておれば、あるいは天皇家のように、これは畑の下になったりしないわけです。ところがそれが何時の時代かに断絶した。祀(まつ)らなくなった。ということで畑にならされてしまうようになってる。だから現在は畑の下だけど当時は当然盛り土を持っていたと、こう考えるのが常識というものだと思います。こういう弥生時代の墓というものが冢である。これをわたしは多鏡冢の時代とこう呼んでいいだろうと思います。
それに対して今度は古墳時代、これは近畿を中心に三角縁神獣鏡、その他画文帯神獣鏡というものを含んでいる。これは皆古墳ですから「墳」なわけです。だからこれは多鏡墳の時代と呼んでいいだろうと思うんです。多鏡墓文明は二つの時期に分かれ、多鏡冢期と多鏡墳期に分かれる。こう考えるんです。としますと、倭人伝に書かれているのは、どっちかと言うと、鏡を沢山倭国の権力者はもらった。そして冢に、ーー卑弥呼のような女王ですら、たかだか三十メートルないし三十五メートル、その他の連中はもっと小さいわけです。ーーそういう冢に葬むられた。するとこれは多鏡冢の内容を持っている。倭人伝は多鏡墳ではないわけですが、そうすると今のように鏡だけなら二種類、どっちにでも言えたけれど鏡と冢、この二つの点を結ぶ、つまり線にしますと、もう博多湾岸を中心とする地帯しか倭国の都の可能性はない、とこうなってくるわけです。 
倭国の都は博多湾岸に
次に鉄器の問題ですね。これだけを詳しくしゃべっていると一時問以上かかりますので、結論を申しますと、お配りした表の左側に日本列島弥生遺跡出土の全鉄器表というのが出ていますね。それをみますと九州が三百四十二、それに対して近畿が七十六、だから鉄器において圧倒的に九州がまさっている。これは話の順序が逆になりましたが、倭人伝の中に木弓を用いというところの次に、矢は骨の鏃(やじり)もしくは鉄の鏃を使っていると、こう書いてあります。骨の鏃は縄文文明からありますね。ところが新しく弥生に入ってから登場するのは鉄の鏃。鉄の鏃は武力として、恐るべき威力を発揮したに相違ないんです。骨の鏃等に比べましたらね。従って卑弥呼の国の武力の背景には鉄がある。そう思います。
もう一つ資料がありまして、五尺刀というのをやはり魏の天子が卑弥呼にくれてるわけです。これも鉄の刀とみられる。この分布図もこの前示しましたので今日は省略します。
さらに大事な事は魏志韓伝、というところに、注目すべき記事がある。それは韓地の中から鉄が出土する。その鉄を韓、穢*(ワイ)、倭の人々が従いてこれを取る。市場で物を売り買いする時に鉄で売買する習わしになっている。これは中国で銭を用いるのと同じことだと、こう書いてある。これは鉄を貨幣として、貨幣替りに使っているという意味である。わたしはこれに対して一つの名前を、鉄本位制という名前を与えました。国際間取引で鉄が基準になっている、基準通貨の役目をしている。倭国は鉄本位制下の国、鉄本位制下の女王となってくる。そう考えますと、鉄は邪馬一国をとく鍵として、わたしはどんなに重視しても、重視し過ぎることはない。むしろ経済史からはこういう目から邪馬一国問題になぜ取組まなかったか、わたしは不思議とするところです。
穢*は、禾偏のかわりに三水偏。JIS第三水準、ユニコード6FCA
こういう目で取組みますと答は明析でありまして、当然近畿ではなくて九州、そして九州の中でも他の県に比べまして福岡が抜群の量を誇っております。百六ですね。福岡の中でも筑前・筑後に分けますと筑前が圧倒的であります。これは極端な差を持って、圧倒的に格差がございます。
ということからみますと、鉄本位制下の倭国の富の中心はやはり筑前にしかありえない。筑後、山門(やまと)はどうしたって無理なわけです。筑前の中でも当然ながら糸島、博多湾岸が中心であります。そしてこの場合、先程の甕棺と呼ばれる冢の中から鉄器が随分出てまいります。従って鉄だけでも決定力を持つんですが、鉄と冢、さらに鏡さらに矛、矛も甕棺の中からも出てきますね。細矛なんかその中からも出てまいります。中広矛、広矛。こういう物を三つか四つ合せましたら完全に面ですが、これからみまして博多湾岸しか都の候補地はない、とこうなってくるわけであります。
最後に、興味深い問題として、この前ふれました錦の問題を復習として付け加えさせてもらいます。卑弥呼は魏の使いから貰ったものの中に、おびただしい錦類があることが詔書に書いてある。龍の模様がついた紺地や赤い地等の錦を沢山下賜されているわけです。これに対して倭国の女王卑弥呼の方も錦を献上している。倭国の錦、倭錦や異文雑錦を献上している、というところからみると錦の出土する地帯でなければならない。
前に申しましたように、弥生遺跡の中で錦が出てくるのは九ヶ所に限られる。その中の九ヶ所は博多湾岸、そして三ヶ所が立岩、そして一ヶ所が島原こうなっている。しかもそれが顕微鏡による自然科学的な研究によって、中国の絹と日本列島産の絹とが判別出来る。これは「立岩遺蹟」という非常にすぐれた研究報告の本があるんですが、その中で布目(ぬのめ)順朗さんが書かれている論文です。その中で特に博多湾岸には明白に中国の絹と認定できる物がでてきている。甕棺の中から。それはしかも房になっている。そして現物をナイフで切ってみると、まっさおな色が表れた。つまり紺で染められていた錦である。絹の房である。錦というのは房を、繻子(しゅす)を伴った色どり模様の絹が錦ですから。紺地の錦を与えたと書いてある。それにピタリ合うわけです。
また倭国側で錦を献上している。献上する物が出てくるのは、日本列島全弥生期を調べましても、この九つしか無いんですね。九つの中の一つ除いてあとは筑前のものですね。どっちか判別できないもの。これが立岩と博多湾岸に一つずつあります。そしてはっきり倭国の絹と理解できるものが博多湾岸に三つ、立岩に二つあるわけです。同じ倭国の錦でも非常に質の劣ったものが一つ、島原で出てきておるということですね。
以上が弥生絹のすべてです。だからこの点からも実は倭国の都は決定できる。しかもこれは甕棺から出てきますから、冢と錦という結びつき。しかもさっきの紺の、中国製のであることがはっきり認定できた錦というのは、どうも鏡を包んであるもののようである。だから鏡と冢と錦という、それに細矛が加わりますから、やはり完全に面になって倭国の都はこの地帯だと決定力を持つんだ、ということを申し上げたわけです。 
土と石と木の分明に逆戻り?
これは今まで申しあげた事の要約でございます、ところが今日の問題は、なぜそんなにはっきりしていることを今まで考古学者は言わなかったんだ、という問いなわけです。
これに対してどういう答が出てくるかといいますと、わたしが今述べました物について、ほぼ考古学者は弥生中期の事物として考古学の本に載せているわけです。また展覧会でもそういう解説がついているわけです。
ところが弥生中期というのは一体いつの時期かと考古学者が言っているかといいますと、大体一世紀の後半ですね。弥生中期は前一世紀と後一世紀の二百年間をほぼ呼んでいるんですが、そんな中で特に今の問題の物が出てくるのは弥生中期後半、つまり一世紀ですね。イエスが活躍していた時期を含むわけですね、特にイエスが死んだ時くらいから沢山出てくる。つまり一世紀の後半くらいに沢山出てくると、こういうふうに考古学者は言っている。そして後漢鏡というものになりますと二世紀の初めくらいにかかるんだ、こんなふうにいっているわけです。
いいかえますと、わたしが『「邪馬台国」はなかった』に取組みました時に、非常に不審に思えたことがあったんです。三世紀と考古学者が認定している事物を集めていきますと、いってみると日本列島中どこにもろくな物がないんです。今の九州北岸にもないんですね。今の中広矛・広矛、そういう類の物だけはあるんですが、これはのっぺりした質の悪いものである。今の一時代前とされている弥生中期にあった、細矛といわれる非常にすぐれた鋳上りをもった矛や剣が一切なくなってしまう。
まだしかし、九州北岸は中広矛・広矛というのっぺりした鋳上りの悪いでっかい矛や文が出てくるからいいのです。今の近畿の大和になりますと、この弥生後期というのはひどいもので、ひどいものって変ですが要するに金属が全く出てこない。銅も出てこない。鉄も出てこない。銅と例外的に銅の矢鏃が二十本か三十本くらい出てくるだけで、あと何も金属が出てこないわけです。土と石と木の文明に、ーー縄文期と一緒ですがーー逆もどりしているわけです。だから他のどこを取っても弥生後期には大した物が出てこない。特に弥生後期後半というのを考古学者は三世記にあてているわけです。
それでわたしは、なんでこんなことになったんだろうかということで、当時九州の考古学者の所を歴訪いたしました。そしてある考古学者に会ってみると、その考古学者は「いや川で流れたんですよ。」こう言うんですね。つまり三世紀の遺跡は丁度、川の土砂に流れて現在、玄界灘に眠っている、とこういうわけです。
しかしわたしはこれを聞いて、議論をしに行ったわけでないので、そこで議論はしませんでしたけれど、帰りがけに思ったのは、これはちょっと無理じゃなかろうか。なぜかというと、仮に九州北岸、たいていは三世紀の遺跡が、遺物が出てくる。ところが例えば博多に流れている那珂(なか)川或いは御笠川でもいいですが、そこの個所だけ一ケ所、三世紀の物が欠けているという場合ならこれも玄界灘の底をさらわなければ分らないけれども、川の土砂で流れたんだろうという仮説をたてても、仮説としてうなづけるんですよ。ところが九州北岸全部出てこない。皆、川に流れたんだろうというのはちょっと仮説としても、わたしは仮説のたてすぎというんですか、ちょっとたてうる仮説ではないように思われたんです。で、大和でも三世紀に川で流れたんでしょうか、大和川もありますけれど。これもちょっと無理じゃないかと思ったんです。大和のことまでは、その時聞きませんでしたけれどね。
次に原田大六さんのところにまいりました。これも第一回の訪問はそれを聞くのが目的だったんですね。『盗まれた神話』にちょっと書きましたけれど、その訪問の目的はそれだったんです。その時に答はだいたい予想されていたんです。わたしは書かれていたものを見ていましたから。その通りだったんです。と言うのは、要するに神武東征が理由です。こうおっしゃるわけです。
原田さんの考えによると糸島郡が代々の天皇家の住地、都だった、最後の王者が神武であると。それが大和へ遠征しようと考えて、そして大和へ行ってしまった。だからその後大した物が出てこないんだと。これも前後をめぐる面白い話があるんですが、この中山平次郎という原田さんの先生をめぐる話があるんですが、今日は省略しまして、要するにそういう答である。
これに対しても、わたしはどうもこれは無理じゃないかと帰りがけに考えたんです。神武が糸島を出発したというのは、これは反対で『古事記』、『『日本書紀』』を分析する限りはやはり神武については、日向、宮崎県から出発したと考えなければならない。
文献を厳密に処理する限りは、こう思うんですが、そのことは抜きにしましても、仮に糸島から神武が大和に行ったとしましても、行ったから後、人間がいなくなるわけじゃあない。また豪族がいなくなるわけじゃない。だからいきなり大した物が出ない地帯になってしまうというのは説明にならないのじゃないか。またもう一つ同じ時期の大和から、問題の漢鏡・後漢鏡だかそういう物がパパッと出てくればいいのですが、さっき言ったように、なんにも出てこないわけです。だからどちらから言ってもこれは無理じゃないかと。こう考えたわけです。
まして倭人伝をみるかぎり、倭国の都がどこにあるかは別にしましても、九州北岸が三世紀頃栄えていたことはもう殆んどの人が疑っていないですよ。そこに三世紀に三世紀に何も大した物が出てこないというんじゃあ、やっぱりおかしいと思ったんです。だからわたしは今だからはっきりいいますが、『「邪馬台国」はなかった』で考古学のことを除いておいた。最後にちょろっと触れておいた所がありますが、まず除けておいたのはそういういきさつがあったからです。
今の考古学はちょっとおかしいぞ、これを簡単に使ったらエライ目にあうぞと、正直にいうとそういう感じを持ったわけです。だから文献だけに徹底した。史料処理の原則からいって、それがいいと思ったんですが、もう一つ脇の事情としては、そういう問題があったわけです。そこで一体どうかといいますと、ズバリいいまして、これは考古学の編年がどっか狂っているんではないか、もう一歩立ち入ってはっきりいえば、基準が狂っているんじゃあるまいかと、こう考えたわけです。 
日本の考古学の“宿命”
ご承知のように、日本の考古学といいますのは因業な宿命を荷なっているというと変な言い方になりますが、要するに絶対年代がないんですよね。つまり、ある出土物に関して、これは何年、何年と書いてあればいいんですが、この間の太安麻侶の墓なんていうのは驚異の大発見でしたけれど、まあ通例、殆んど年代が分らない。だから一言でいいますと、絶対年代から見放されている、こう言ってもいいでしょう。
これに対して相対年代と呼ぶものだけが頼りになってくる。いいますのは、例えば壷なら壷をとらえましても、Aの壷、Bの壷どっちが先か、Bの壷Cの壷、どっちが先か後かという、その前後関係を細密につけていくんです。わたしはよく知らなくて言うんで無責任かも知れませんが、恐らくそういう前後関係を微細につけるという点では、日本の考古学者は世界の考古学者の中でも抜群の力量を持っているんではないでしょうか。少なくとも抜群の努力をはらってきたと言えると思います。今の置かれている状況、運命からしましてね。
だからある考古学者によっては、「今や考古学の年代は十年と狂わない。いや実際は五年と、狂わないと実際は思うんですけれどね、大まけにまけて十年とは狂いませんよ」と非常に自信に満ちた言葉を、現在中堅を率いる考古学のリーダー株の学者から聞いたことがあります。そういう自信を生みだす程精密に前後関係をつけているわけです。
問題は、前後関係はつけてみるんだけれど、それが絶対年代ーー西暦も絶対年代。中国の年号も絶対年代ですーーそのどれにあたるかとなりますと分らないわけですよね。そこが泣き所です。その泣き所を支える二つの点があるわけなのです。一つは先に申しました漢鏡と呼ばれるものなんです。もう一つは、今日もちょっと触れるかもしれませんが、天皇陵古墳の問題なんです。
天皇陵古墳の方を簡単にいえば、倭の五王という中国の宋書という五世紀の本に出てくるそれと日本の応神・仁徳から雄略に至る天皇がイコールだという仮説にたって結びつけるわけです。これが古墳時代における一つの定点・支点、つまりささえる点になるわけです。
今度は弥生時代で支える点、これが今の漢鏡なのです。
この漢鏡につきましてはこの研究をやった学者がいる。それは大正年間、富岡謙蔵という京大にいた学者です。皆さんご承知の富岡鉄斎という絵かき、有名な画家の息子さんになるわけです。この人が非常に綿密な研究をやりまして、それまでは漢鏡というから、漠然と漢のものだろうと思った人もあるかもしれませんが、むしろ学界なんかでは普通、中国の鏡で漢鏡といったって、実際は東晋・南北朝以後だと、漢代はもちろん三国時代のものだってないんだというふうな常識が成立しておったこともあるわけです、明治から大正にかけての学界で。
それに対して富岡謙蔵氏が、違うんだ、実は博多湾岸中心に出土する甕棺の中から出土する鏡の中には後漢の鏡がある。後漢の時期とおぼしき鏡があるんだ。さらに中国から出てくる鏡でも新(これは前漢と後漢の間ですが)鏡という文字が現われている鏡があるんだという研究を出して、最後に前漢の文字を持った鏡が今の博多湾岸、糸島郡から出てくるんだ。糸島郡の場合は今の三雲遺跡がそれです。そして博多湾岸では須玖(すぐ)岡本の遺跡から出てくる。やはり一つの甕棺からいくつも、三十面・四十面も出てくるんです。その鏡がそれです。それは前漢の文字を持っているんだという研究を発表したわけです。
これは非常に大きなショックを与えまして、東京の高橋健自という、東京の国立博物館の課長をしてた人なんですが、これを非常にほめるというか賛同しまして、京都・東京合せて、一致した見解になった。もっともそれに対して高橋健自の方は前漢鏡・後漢鏡とこうみなしていいんだというふうな論文を書いて、他にもそういうことを言った人があるようなんです。
ところがその後、富岡謙蔵が非常に重要な論文を書いていることを、わたしは見たわけです。富岡謙蔵が、「わたしが前に発表した論文についてこれを前漢の鏡、後漢の鏡というふうに扱うむきがあったけれど、これは非常に迷惑だ。わたしは唯それが、書体が前漢に始まる、後漢に始まると言っただけで、その書体は後にまでずーと使われたかも知れないから、そういうふうに決めてもらうのは非常に因る。わたしの論文を誤解するものだ。」と、こういう事を書いているわけです。にもかかわらず、その後富岡謙蔵はそれからまもなく死んでしまったということもあったでしょうが、富岡の死後、これは専ら前漢鏡・後漢鏡として考古学界で扱われていくわけです。
しかも前漢鏡と呼ばれる鏡の出てくる甕棺は前漢が終って、まあ一〇〇年、後漢鏡の方は後漢が終って五〇年。これもわたしのような全く素人の考古学にうとい人間から見ると、読んでいて非常に奇妙に感じました。いいますのは、片方の鏡が前漢が終って一〇〇年ぐらいと考えるのなら、こちらの後漢鏡といわれてる方も後漢が終って一〇〇年くらいとなる、ーーとなると三国時代を通り過ぎますけれど、ーーと見ていいじゃあないかなどと思いますが、そういういい方はしないで、前漢鏡の場合は前漢が終って一〇〇年位、後漢の場合は引き続いて五〇年位と、こういう目見当を与えたわけですね。
この点杉原壮介さんという考古学者がおられますが、この人の場合ちゃんと表を作られた。この人は大体今の弥生時代についても、今の弥生期というのは紀元前三〇〇年から紀元後三〇〇年、合せて六〇〇年を弥生期と考え、その初めの二〇〇年を弥生前期、次の二〇〇年、さっき言いました前一世紀・後一世紀、この二〇〇年を弥生中期、今度は二世紀・三世紀を弥生後期。だから三世紀は弥生後期の後半になりますね。そういう表を作られたんですね。それに従って多少ーーたとえば九州の考古学者は五〇年位いさかのぼらした方がいいだろうといってーー微修正を加えながら使って今に到っている。だから考古学者の論文にしましても、また皆さんが御覧になる展覧会の解説にしましても、みんなその流儀で書かれているわけです。
わたしはここで思うわけです。確かに日本のように絶対年代から見放されている場合ですね、一つの仮説を立てる必要はあるだろう。つまりこれがここに当たるんじゃあないかと、一応見なしてみる、という仮説を立てなければ科学というのは進みませんからね。それは非常に結構だし必要なことだと思うんです。ところが問題は、その仮説に立っていろいろ現象を整理してゆきますと、その結果が非常にうまく皆合う、現象に合うということであれば、現象を説明出来るのであれば、その仮説は正しかった、つまり定理といいますか、そういうものに昇格出来るんだと思うんです。ところがそうではなくて、どうもおかしい、非常な矛盾が出てくるという場合には、始め立てた仮説が間違っているんじゃないかと、仮説の再検討を行わなければならないと、こう思うんです。これが科字と実験といいますか、実証という場合の、わたしは、根本の方法論だと思います。ところがですね、今問題は一言でいいますと、三世紀の空白という問題なんですね。 
なぜ“三世紀”は空白なのか
最近、『産報(さんぽう)99』とかいう本の中で、考古学者が三人ばかり集って対談をしておられる。これは近畿や九州の各地の代表的な中堅の考古学者が集っているわけです。そういう意味で非常に信頼出来る内容なんですけれど、どういう題目かといいますと、現在言われている邪馬台国を全部検討してみよう、考古学的な出土物からというので、ずーと逐一やっていくわけなんです。やっていくとどこも、皆邪馬台国に当らないわけですよ。最後に結局、全部駄目だった、「やっぱり有りませんでしたね、ハハハ」という形で、その座談会は終っているわけです。
これは考古学者にとっては、もう座談会の初めから分っていることなんですね。妥当するものがないということは。三世紀の空白ってことは、いわば常識になってるわけです。今の三角縁神獣鏡だって、全部古墳時代から出るものを引き上げて解釈するんですからね。三角縁神獣鏡だけを引きさげたって、他の物は全然無いんですからね。金属が全く無いところに鏡だけ引きさげたって、しょうがないですわね。「やつぱり何処も資格がありませんでしたね、ハハハ」とこうなって終ってるんです。これはこの人達にとっては、予期した結論だったわけです。
しかしわたしからみますと、この日本列島中どこを探しても邪馬台国に当るものがないという結論は、結論じゃなくて、出発点だと思うんですね。つまりどうみてもそうなるということは、どこがおかしいのかという探求を出発させる場所でなきゃならない。
結局、今のように弥生後期後半という名前を付けて、そこを三世紀と当てたーーこれは富岡氏自身は反対しているんだけれど、それにもかかわらずといいますか、その後の考古学界が前漢鏡・後漢鏡として処理し、前漢鏡は後漢鏡の前一〇〇年、後漢鏡はその後五〇年位という目見当ですね。大体、弥生時代自身をあんな六〇〇年、西歴に分けるということじしんが目見当以外の何ものでもないわけですね。要するに日本の出土物がイエスに御遠慮申し上げるわけないですからね。だからそれも目見当。
と言っても目見当が悪いといっているんじゃあないんですがね。仮説なんです。だからその上に立って今の前漢鏡・後漢鏡をこの時期に、絶対年代に当てはめるのも仮説なんです。その仮説という支点を設けた為に、「三世紀」が無くなってしまった。とすると今のように、「倭人伝」あんなもの当てになりませんというムードが古代史界にあるから、考古学者も「何処にもありませんでしたね、ハハ」で済しておられる。
しかし最初にわたしがいいましたように、あの倭人伝は魏の使いが卑弥呼に会って何日問か滞在した、その実地見聞譚である、その報告である。だから史料として信憑(しんぴょう)し得る性格の史料である。こういう基本認定に立ちますと、笑って済ませる問題じゃあないわけです。そうすると今の三世紀の空白を生んだ、その説明は川で流れたと言ってみたけれど、これはどうも駄目、神武東征で説明しようとしたけれどこれもやはり、わたしには納得出来ない。皆さんもそういう方、いらっしやると思いますが、どの方法でも駄目だとなってくると、やはり元をなすホックの支点を留めた留金を、もう一回留めなおしてみなきゃならないではないか、そういうテーマが必然的にせまられてくる。こういうことなんですね。
でも考えてみますとね、大体、邪馬台国問題なんて今まで解けないのが、おかしいんですよ。文献解釈はいろいろ人が考えて、いろいろやれますわね。いってみれば。しかし文献をどう言ってみたって、考古学のぶつ、物からいえば、もう都はここしかないと考古学者はそれを言える立楊にあるはずなんですね。ところがその立揚から見てどこにも無い。これが、わたしは邪馬台国論争百花繚乱の真の原因といいますか、真犯人じゃあないかと、変な言葉を使いますが、そんな感じさえ持ちました。
とすると、一回留め金をはずしてみて、新しい支点は何かというと、これは他でもありません、さっき言いましたように、倭人伝の物を、点で、線で、面で検討していったら倭人伝の内容にあまりにもピタリと合うのは、考古字者が弥生中期と呼んでいるこの時代の北九州以外の何者でもない。九州北岸、とくに博多湾岸以外の何者でもない。
そうしますとそれを新しい、やり直しの再起第一回の支点にし直して、理解し直さなければいけないのではないか。つまり弥生中期といわれてる時期ですね。今の須玖、三雲といった前漢鏡がおびただしく出てくるという時期ですね。その時期の出土物とされていた物を、三世紀だけとはいいませんが、三世紀を含んだ時期の物として、支点を置き直して考えてみる、というのが新しい道ではないかと、こうわたしは考えたわけなんです。これが時間をだいぶ取りましたけれど、この前のご質問に対するお答、今日の前半のテーマであったわけです。 
稲荷山鉄剣問題
この稲荷山の鉄剣問題が去年おこりまして、わたしは久し振りといいますか、初めといいますか、非常に深求の喜びを存分に味わわせてもらいました。この三ヶ月余りですね。といいますのは、こういう古代文字の実物が出現するという、それもかなりの量の文字が出現し、しかもそこに歴史事実を示すその文字がならんでいるということは本当に初めてのことでありまして、これに没頭するということは、わたしにとりまして何物にもかえがたい喜びでありました。いわゆるエーゲ海のクレタ文明とかミケーネ文明なんかの線文字AとBの解読を試みた本を見て非常にうらやましく感じておったのでありますが、まあ今回はたっぷり味わせてもらった、という感じでありました。
もっとも最初この出土物がわたしの「九州王朝論」というものを否定する効果をもつものだという風なとらえ方をした学者、ジャーナリストの方があったようです。しかしこれはわたしには、最初から実は問題にならない事であったわけです。といいますのは、五月の終り実際は六月の初めになると思いますが、朝日新聞杜から出す本があるのですが(『ここに古代王朝ありきーー邪馬一国の考古学』)それで今の考古学的な問題の追求をやっておりまして、いわゆる「九州王朝」というものを考古学的にどうとらえるかということをかなり、少なくとも背骨はがっちり押えたつもりでありまして、それを大体書き終った直後にうまく出てくれましたので、わたしとしてはそういうことは全く心配するに当らなかった訳です。ことに今日は詳しくは触れられませんが、熊本の江田船山の古墳から出てきました銘文については「失われた九州王朝」という第二回の本ではっきり論じていたわけです。というのはこれをタジヒノミズハワケ、つまり反正天皇に当てるのが従来のいわゆる定説であった。しかし大体それは字の読み方自身が無理だ、タジヒとあれを読むのは無理で、むしろ読むならば獲得の獲であるということをわたしは指摘しました。
そして何よりも大事な方法論上の問題を提起したわけです。それは字が欠けている、あそこには二字ないし三字欠けているわけですが、字が欠けている場合はそれを読めないと考えるべきだ。当り前のことですね、考えるも考えないも読めないのです。それに対して学者はこの字はこれではなかろうかという、仮説を出すのは勝手だと思うのです。しかしそれは出来れば枝葉末節の問題、或いは問題自身が枝葉であるか、或いは自分の論証にとって枝葉の部分として、これはこの字じゃあるまいかと言ってみるのはよいと思うんです。ただそうでなくて自分で補っておいてそれを論証の根本に使うこと、これは駄目だ。これはやっぱり仮説なら何んでもいいと言いましても、やはり学間としての慎重さを欠くだろうということを述べたんです。だからこの場合、天皇家が九州まで支配力を及ぼしていたかどうかというような問題を判定する重要な問題に、自分で字を補っておいて証拠に使うのはルール違反だと論じたわけです。そこはやはり、男らしく、人間らしく、これは分らないと、分らないものを分らないと言うことは学者にとってなんの恥辱でなく、むしろいかに自分が良心的といいますか、事実に対して潔癖であるかを示すもの以外の何者でもないんだという意味のことを、わたしは『失われた九州王朝』で述べたわけです。
ところが今度はそれに対して反正はどうも駄目だ、今度はワカタケルなら合うという判断を下して、だから雄略は九州まで支配していたと、これはさきのわたしの信ずる方法論からしても駄目なんです。第一、仮にそれがワカタケルであったとしても、このワカタケルとその熊本の豪族か王者か知りませんが、その両者の関係はまた別問題、つまり賜与、上から下へ賜与したものか、或いは両地域の権力者同志がプレゼントとした物か、こんな事は全然分らないわけです。それにあの文の中に「これを与える」なんて句はないんですからね。そういうことも分らない。なおあれは大王のところばかりでなく、あっちこっち虫喰って読めない所があるわけですから、それをいちいち自分で補って議論をしていたんでは、こちらがそれに応接するのがもったいないというか、話にならないわけです。各自が自分の好きなものを補って、証拠に使いだしたら、もう何んとでも言えてくるわけです。そういうことですので、江田船山の問題は無理ですヨ、と申しました。なおもう一言申しますと、ワカタケルといわれた最後のルも関東のと江田船山のとはちょっと時代が違っているようです。これも今は時間がありませんので立ち入って論じませんけれど。
さて問題を返してまいりましょう。普通に読まれていますのはプリント(資料参照)でお渡しした上の方の文章がそれです。これについての解釈は去年散々新聞等でご覧になったでしょうからとりたてていたしません。今日はわたしがこれに対して、いわゆる通説といいますが、定説だと書いている新聞もありましたが、それに対してもっている疑問点ですね、それにポイントを当て、ついていきたいと思います。 
プリント資料 / 当初の解読
辛亥の年七月中記す。オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オオビコ、其の児の名カリノスクネ、其の児の名テイカリのワケ、其の児の名タカシシのワケ、其の児の名タサキワケ、其の児の名ハテイ、其の児の名カサヒヨ、其の児の名オノワケノオミ。世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(かしら)と為して奉事(つか)え、今に至る。ワカタケル大王の寺(役所のこと)、斯鬼宮(しきのみや)に在りし時、吾、天下を左治(さじ)し、此の百練の利刀作らしめ吾、記し奉事するは□□なり。ーー埼玉県教育委員会発表ーー
まず第一に地理的な問題。といいますのは、この銘文の中で明白な地名がでてまいります。地名を含む固有名詞が出てまいります、これは「斯鬼宮」と読まれる字ですね、まあシマと読む人も若干ある様ですが、まずシキと読むことにおいてさほど異論がないようです。わたしもそう思います。
ところが問題はこの磯城、をもっていわいる大和の磯城とみていいのかという問題です、まずこれを見て感じましたのはこれが大和の斯鬼だったら、やはり「大和の斯鬼宮」と書いて欲しいと思ったわけです。なぜかといいますと、関西の古墳から出てきた、近畿の古墳から出てきたのなら別なんですが、関東の古墳から出てきている。もう一つ気にかかったことは関東にもシキという所がある。それも同じ埼玉県の南40キロメータの所に志木という所がございます。これが何時頃迄地名が逆のぼるかということを吟味すると面白いんですが今は省略します。ともかく『シキ』という所が近くにあるとすれば、その現地でここじゃあない大和のシキ、シキ宮と書くのが当り前だ。まあ文章の心理としましてね。その点そう書いてなくて、いきなりシキ宮、これを知らない者は、もぐりだという風な書き方をしているのをみると現地のシキである可能性を排除してはならない。がその点が第一、むしろ常道から言えば文句なくシキというんだから、その近所にシキがあるというのが第一です。それに対して現地のシキでない大和のシキならば、なぜ大和のシキと書かなかったのだろうかという疑問があるわけです。その点でうっかりこの話にのれないぞと、わたしは感じたんです。実はちよっと時間の順序が逆になりますが、最初九州の場合と違って関東の五世紀の頃であればですね。ここに近畿の天皇の名が何らかの意味ででてきても不思議はないと思っていたんです。まあ先入感といいますかね、銘文を見るまでは。新聞社から話をいろいろ聞きました段階では。
ところが実際に銘文をみてみますと、これはちょっとあわてちゃあいけないぞ、慎重になるべきだと、こう思ったわけです。もう一つ理由があるわけですね、大和のシキにしてもおかしい。といいますのは雄略は長谷の朝倉宮と『古事記』・『日本書紀』に一致して書いてある。それに対して崇神・垂仁、今の雄略よりだいぶ前ですが崇神・垂仁のところでは師木の水垣の宮、師木の玉垣の宮という宮殿名がそれぞれ天皇の居た宮殿として、行政の中心といったらいいでしょうか、そんなものとして書かれているわけです。つまり『古事記』・『日本書紀』の表記に従うかぎりは、師木と長谷は違うわけです。現在の地理でいいますと桜井の駅から北側が師木の水垣・玉垣の宮、箸墓の方角ですね。
あっちへ行った方が師木の水垣の宮、玉垣の宮のあったといわれる地帯です。これに対して桜井から東へ行きますと朝倉駅があり、また向うに長谷駅がございますね、あの長谷駅の近辺が長谷の朝倉の宮跡といわれている所です。つまり近くではあるけれど、やはり長谷と師木は違うわけであります。だからそれを近いからいいじゃないかとか、同じ磯城郡とみても、いいからよいじゃないかと、こういう類の論議は非常にあぶないと思うんですよ。
卑近なたとえでおそれ入りますが、例えばわたしが住んでおります京都の近郊、桂川を渡りまして向日市、向日町といったところですね、そこで長岡京が、今の長岡京市と向日市にまたがってあるんです。中心部、大極殿の有る所は向日市、わたしの住んでいます向日市になっています。ところでですね、そのすぐ北、わたしの家のすぐ京都寄りのそばは、桂離宮なんてございます。ところでですが、これを近いんだから、まあ長岡京も桂離宮とよんでいいんではないか、桂離宮の方を長岡の宮とよんでもいいのではないか、そんなことはとても言えた話ではないのです。とにかくそれは近くてもちゃんと区別しているわけです。
こんなことは言うまでもないことですが、これは現在区別しているというだけでなく、問題は、『古事記』・『日本書紀』のワカタケルに当てようというんですから。『古事記』・『日本書紀』でワカタケルという者は、どの宮に居ると書いてあるかという、その『古事記』・『日本書紀』のルールが問題なのです。ところでわたしは『古事記』・『日本書紀』の表記のルールを、かなりずーと追跡したことがあります。これは『盗まれた神話』という第三の本に書きました。最近もまた別の見地で追跡しておりましたので、ここのところでちょっと、これはおかしいなと、こう思ったわけです。だから雄略とするとこれは長谷の宮とか朝倉の宮とかね、書いて欲しい。だからその点もピシヤッと合わないわけです。合わない所が二重、疑問点が二重にかさなっている。そうするとこれはうっかり雄略の宮殿という風にみていいかどうか問題だぞとこう感じたわけです。これが第一番。
第二番目にですね、銘文の中に二人の現在時点に当る、人物の名前が出てくることに異論がないですね。つまり一人は何とか大王という人物、これをワカタケル大王と読みましたね。わたしはカタシロ大王と読んだんですが、ともかく何とか大王とかいう人物が居ることはまず異論を持つ人はいないと思うんです。もう一方はオノワケノ臣と他の人が読んだ。わたしはコノカキノ臣と読んだんですが、なにせ、あの銘文を、鉄剣なるものを作った、作らしめたらしき人物が出てくることにおいても、まず異論はないですね。
ここのAB二人の現在時点の人物がかかれている。これがまず基本の事実。次に大事なことは、その二人の関係を示す、政治的関係を示す文章、語句があるわけです、文脈があるわけです。それは「左治天下」、「左」はひだり、「治」は統治の治、あめした天下。「左治天下」という文句であるわけです。ところで「左治」という言葉は、明確に中国の古典にでてくる用語であります。どういう意味か確かめられるわけですね。調べてみますと、古いところでは周代。周の第一代は武王、殷朝を亡ぼした、討伐した武王ですね。ところが武王は殷を討伐してまもなく死んだわけです。その後に残されたのが成王という幼い子供、それが天子になったわけです。これが倭人が暢草を献じた王のことです。ところが成王が小さいから、天子にはなったが実際の政治は出来ない、従って親族、おじさん格にあたる、周公が実際上の政治をみておったわけです。
これは有名な孔子が周公ファンでありまして、「おとろえたるかな、夢に周公をみず」わたしもおいぼれたなあ、なぜだといったら、あんなにしょっちゅう、周公の夢をみて、夢の中で周公に激励されたんだが、最近はさっぱり周公の夢をみなくなった。これじゃあ俺も駄目だと、ヘンな論理ですが、本人にしか通用しない倫理ですが、本人には主観的真実なんでしょうね、それくらい周公ファンだったんです。で彼は周代の政治の基盤をすえたわけです。天子ではなかったが、実際上周王朝を行政面で治めた人物、武王は武力で討伐しただけですからね、というわけなんです。
日本で言えば聖徳太子的人気のある人です。そのところに左治天下とか左相ですね、左相天下とか国とかいう表現が出てくるんです。つまり今の幼い成王と年配の周公との関係が、「左治」とか「左相」とか「左助」とかいうかたちで表現されるものであった、ということがまず分るわけです。ほかには、太宰。太宰府の太宰について、天子を「左治」するものだという表現が、『礼記』で出てくるところがあります。これも臣下の、天子を除いてNo.1の地位にある役職なわけです。まあ総理大臣級といっていいでしょうか。
次に、皆さんがよくご存知の例としましては、倭人伝に出てまいります。これは中国の文献であると共に倭国に関係した文献であります。ここでは「卑弥呼を男弟が佐治している」と、これもはっきり「佐治」と同じ字を使っております。左に、にんべんはついておりますが、意味は同じですね。「佐治国」とこう書いてあります。この場合もさっき言いましたように、倭王は卑弥呼に違いありませんが、卑弥呼は宗教的な巫女の様な、神秘な能力を持った女性というわけです。実際の行政をいちいち卑弥呼がやっていたわけではないのです。行政の方はおそらくその男弟とよばれる人物がやっていた、とこうみていいんでしょう。これもそれ程異論はないと思います。その男弟に関して「佐治」という表現が使われている。ここで重要だと思うのは稲荷山の鉄剣を書いた人物はどんな文献を読んでいたか、漢文を書く人ですから中国の文献を読んでいたと思うんですが、倭人伝なんかは読んでいた可能性は非常に大きいでしょうね、と言うのは、中国の文献であると同時に日本列島の倭国の事を書いた文献ですからね。これを読んでいる可能性は非常に高いわけです。これを読まずに中国の他のむつかしいのばかり読んでいたというのはむしろ、考えにくいくらいのものなのです。だから「左治」の意味を考えると倭人伝の用例は非常に重要になってくるわけです。それは『三国志』の一部分ですから、それ以前の中国の古典の用法と一致している。
もう一つ、例はいくつもありますが時問の関係で、性質の違う別の文献をあげます。『日本書紀』にでてまいります。持統紀の最初の方に出てまいりますが、これは「左治」ではなく「佐定」が書いてございます。誰を助けて定めるというと彼女の夫である天武を助けたわけです。いつ助けたかというと壬申の乱ですね。あの時に夫の天武を、「佐(たす)けて、天下を定む」という表現がでてまいります。これは皇后だから助けるのは当り前だともいえますが、他の皇后のところではそんな表現は出ておりませんので、この持統の場合は後に自分自身が天皇になったことでも分りますように、単なる皇后ではなくて、かなり実力派皇后だったというわけなんでしょう、特に壬申の乱の時、かなり天武としては心千々に乱れたと思いますよ。肉親の兄の子を討つわけですからね。それを力になってささえた、「あなたそんなグズグズせんで、決断する時はしなさいヨ」といって、尻をひっぱたいたかどうか知りませんが、とにかく普通の皇后にはない実力を発揮して天武の右腕だか左腕になったんでしょうね。だからそこに「佐けて天下を定む」という表現がでてくる。事実、天武持統合葬陵として、両者は同じ陵墓の中に葬むられていた。
以上からみますと、「左治」という表現は左治される方はもちろん、政治権力圏の中心人物、天子もしくは大王という中心人物に間違いはないですね。ところが左治する方の人物はどういう人物かというと、これは天子を除けば全部臣下という立場からみればNo.1の臣下。さらに場合によると周公の場合でも卑弥呼の男弟の場合でも、実際は佐治する方の人物の方が行政の実権はにぎっている。そして佐治される方の人物は、年が若いとか女である、そういう風な理由で要するにシンボル的存在であるという時に使われているわけです。「佐定」の場合はちょっと違いまして、持統の場合は天武が子供だったりしたわけではないんですから、そこは「左治」と書いていない。壬申の乱の時、実力を発揮して天武を激励してひっぱたいたといいますか、おしりを押したということを「佐定」とかいてあるわけです。ですから「左治」とまでは書いてないわけです。だから今の持統くらいまでは「佐定」とかけても、「左治」とまでは言えない感じなわけです。
今の様に、どの文献をみてもその論理は変るところがないわけです。そうしますと倭人伝を銘文の作者がみたか見ないかは別にしましても、どれをとっても、用法が違わないわけです。だからこの用例にしたがって、この銘文も理解する。わたしはこれは当り前だと思うんです。これは、わたしが『三国志』の倭人伝を解読した『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方は、よくおわかりだと思うんです。倭人伝だけを取り出して自分の好き勝手な方へ色々解釈する、また『古事記』・『日本書紀』に色々くっ付けて解釈するという。これで従来百花繚乱だったわけです。
わたしの方法はそうではないわけで、倭人伝は『三国志』の一部分だから倭人伝で間題になる用語があったら、これを『三国志』全体の用例によって倭人伝を理解する。それで近畿説に有利になろうと、九州説に不利になろうと、それはかまわない。結果は、わたしの関知する所にあらず。とにかく今いった方法だけを、わたしはとります。これが『「邪馬台国」はなかった』全体を貫く方法を、ひと言でいってそうなのです。今度の場合も同じ方法をとるしかないのです。「左治」という言葉は中国語であって中国にかなり用例がある。日本の文献にもあるわけです。その用法が皆一致しているわけです。その一致した用法によってこの銘文を解釈する外ないので、その結果が誰かにとってうまく天皇家だと、大王は天皇家だという結果になってもかまわない。また仮に九州王朝説全部を粉砕する効力を発揮したって、これは全然かまわない。そう論理が示していたら、いくら吹っ飛んだって当然のことです。わたしはそれを非常に喜んで迎えることしかできない。
ところがどうも天皇を示しはしない、となっても、これは困るやっぱり天皇家にしないといけないという手加減を、わたしはしないんです。それはわたしの方法ではないのです。
この立場でみますと今のAとB二人の現在時点の関係はいま言った様な関係で、大王というのに対して、コノカキノ臣かオノワケノ臣という人物は要するに大王が何かの理由で、小さいか女か何か知りませんがそれを補佐した、実権はそれ以上にあったという可能性が充分ある。そして親戚であるか、親族である可能性もあります。何か知らないけれど、とにかくそういう実質上の権力を持っていたという風に理解する他ないのです。そうしますと、このコノカキノ臣に当る人物が今の関東の稲荷山の古墳に葬むられているとしますと、これを近畿の天皇に対してそういう関係にいたとは、わたしの頭ではどうも理解できないのです。こうしますと、ナントカ大王というのはやはり近畿の天皇家の一人物と考えるのは無理だ、これは関東における大王と自称しているのか、カキノ臣という人物が呼んでいただけか知りませんがね、関東の王者である。その関東の王者に対して、カキノ臣は非常に密接な関係にあって、おじさんだか何んだか知りませんが、実質権力を握っているくらいの、大王以上の人物であると、こう判断する他なかったわけです。これがわたしの左治問題に対する理解です。
その後みていますと、この左治問題が各学者共通のウィークポイントになっている様ですね。井上光貞さん、大野晋さんなんかは、これは田舎者の大風呂敷である、嘘をついているんである、とこういう言い方をしているんですね。つまりオノワケノ臣という人物は関東の田舎者だ。だから田舎者という者は大体嘘をついたり大風呂敷をひろげるものだということでしょうかね。実際は近畿へ行って門番をさせられたにすぎない。これは井上光貞さん説でして関東の豪族は自分の二・三男を近畿につかわす、人質という意味を含んで遣わすんだ。それを天皇家は門番に使ったんだという説をずっと早くから発表しておられるんです。だからたかだか門番だったのを大風呂敷、あるいは大嘘をついて「左治天下」と言っているだけで、これをみてもいかに彼が田舎ッぺかが分ると言っておられるのです。大野晋さんもそうなんです。しかしわたしの目から、登場人物を田舎ッペだか嘘つきとして処理する。これも辺ぺんたる端っこの所でそういう感想をもらすなら許しますよ。田舎出身の方は差別だとおこるかもしれませんがね。それは別にして、まあまあいいですよ。
しかし問題の根本をなすところ、さっきいいましたように、二人の人物しか出てこなくて、二人の関係を示す言葉はそれしかないのに、いわば肝心要(かなめ)のところですよ。銘文のそこをね、嘘をついているのだとか、大風呂敷だと言って消してしまう、他の自分の好きなところをとって言うのは空しいとわたしは思うのです。これは先程の倭人伝の事を対照してもらっても、分ると思うのです。これが一つ。
次に今度は、これは銘文の作者がこれを間違えたのだとの説の人がありますネ。要するに実際は関東の豪族ぐらいだからたいした存在ではないと。しかし銘文の作者があまり用語を知らなくて、うっかり間違え「左治天下」と書いてしまったんだと言っている人もいる。しかし倭人伝と同じでした、原文が間違えたんだという言い方をしだすと人によって、あっちこっち好きな所を間違えさせることが出来るんですね。邪馬壹国の「壹」は「台」の間違いという伝ですね。まだあれは版本でした。だから現存最古が南宋本ということですから、陳寿の時代から大分たっている。ところが今度は金石文ですね。金石文まで、書く人間が間違えたなんて、これもやはり根本をなす問題については言うべきではない。根本をなさない問題でも、あまり言うべきでないとわたしは思います。
もう一つ、今のオノワケノ臣という人物を大和の人物だと解釈する、田中卓さんといわれまして『古代天皇の秘密』といって新書版で書いておられる。新書版ですがなかなか面白い本です。井上光貞さんに対する批判なんか、歯切れよくやっておられますけれど。ところがこの場合、この人は大王は雄略でかわりがないんですが、今のオノワケノ臣という人物を大和の人物と考える。この点が違うわけです。大和の人物として何かの機会に関東に行ったんだ。何かの機会に関東に行ったんだというのは、ちょっとボヤーとしてくるんですが。ところがこの左治天下問題をどうしたかというと、このオノワケノ臣というのは『古事記』・『日本書紀』にでてくるこの人物だろう、というのは雄略が天皇の位についた時、クーデターをやったんですよね。兄弟で天皇の位争いをやりまして、その時雄略は負ける寸前だったんですが、逆転ホームランといいますか、逆転出来たのは大舎人、人名ではなくて役名ですが。人名は書いていない。それが普段から雄略に誼を持っていたのか雄略に通報した。雄略をやっつける動きがあることを。それで雄略が断固行動してクーデター。逆転に成功する、したという話が書いてあるのです。この大舎人がオワケノ臣だろう。このオワケノ臣は自分の通報によって逆転クーデターが成功した、そして天皇になったということを、大げさに佐(たす)けて天下を治すと書いたんだろう。これはわたしの夢であると最後にこう書いてあるんです。しかし他の所では用語等厳密に分析している方なんですが、そこに非常にもろい論証の輪がみえたと感じました。クーデターを通報するという事は大事なことかもしれません。しかし大事な事と、助けて天下を治すということは別ですよね。つまり先程の持統ですら、皇后時代の持統ですら「佐けて天下を治す」と書いてもらえなかった。「定む」とは言えても。それを通報したから「佐けて天下を治す」と書いたんだというのは、概念がかなり飛躍しているとわたしにはみえるんですが、皆さんはどうお考えでしょうか。
結局どの学者もこの「左治天下」には解明に失敗しているんですね。或いはある人は、これは関東の王者の自負を表す言葉とみたいと書いている人もあるんです。言葉とみると“自負を表す、”フーンそうかなと思うんですが、よく考えてみるとやっぱり大風呂敷、実際は「左治天下」といった用例のようではないんだけれど、関東の大物が大風呂敷をひろげて自負を表明した、結局同じことになるんです。だからどの人も、世間に説は一杯出ましたから皆さんご覧になっても、結局この「左治天下」を解明できない。
最初からこの解説を手懸けられた岸俊男さん、非常に慎重な学者として有名なんですが、最近『歴史公論』ですが、稲荷山鉄剣特集号に新しい論文を書いておられる。この中でも最後のところで、この「左治天下」についは、うまく理解出来にくい点が多いので今後の保留としたいと書いておられる。まあ保留としたいということは、わたしは慎重をもって知られる岸さんらしく率直な表現だと思うんですが。しかしわたしになお立入って遠慮なく一言わせてもらえば、その保留部分が枝葉末節の保留ならそれはいいですよ。しかし今のように銘文の根本の、根本の関係を示す点を保留にしておいて雄略という結論、これは保留といっていない。これはちゃんと決っていると言っているのは、おかしいと思うんです。率直にいわせていただいて、岸さんも率直に言うことを望まれると思うので言いますが、そこを保留にするなら雄略のところも保留にしなければいけないのであります。だからその「左治」についてちゃんとした解釈、用例等がある。そこで雄略と決定するという筋のもので、「左治天下」は保留にして結論だけを出す、出しうるような部分ではないということなのです。結局どの人もこの「左治」には手を焼いている。あらゆる学界の学者が、また学者に対してジャーナリズムの人達が「左けて定説に定む」という感じですけれども、わたしはどの人に対してもこの点を、あなたはどう答えられますかと問うてゆきたい。これは弱点をチクチクつくんで、つかれる方はかなわんかもしれません。サジズムである、てなことを言われるかも知れませんが、わたしはここは一つのポイントだと思います。
なおその他にも色々ありますが、もう一つ、第二の点を申しますと、文章と単語とを対比しまして文章中心か単語中心かということなんです。つまりわたしは今のワカタケルのところをカタシロ大王と読んだ。別にこれはカタシロ大王と読まないといけないと主張しているのではないのです。ワカタケルでも別にかまわないんです。そうであるかもしれない。またオノワケノ臣と他の学者が読んでいるこの人名をコノカキノ臣と読んだけれど、それもコノカキノ臣と絶対に読むんだと別に固執しているんではないんで、オノワキノ臣かもしれないんです。大体単語については確定できないというのがわたしの基本の立場なのです。邪馬台国論争研究史を逆のぼってみた人なら先刻よくご存知のことです。
邪馬台国問題で内藤湖南京大教授が近畿説を唱えたのは、あの二十一の国名を近畿を中心にして、東は関東まで及ぶ国に当てはめたわけですね。そしてピダッと合うではないか、一部分修正したりしながら合わすんですけれど。今の官名なんかも倭人伝にでてくる『古事記』・『日本書紀』に合わせるわけです。例えば奴佳[革堤]とあり何のことか分らないんですが、あれを中臣だろう、中臣がなまったんだろうという風に、これまたピタッと合うというわけです。そういう風に全部合わせていきましてこれだけ『古事記』・『日本書紀』の固有名詞にピタッと合うんだから、邪馬台国は近畿にきまっていると主張したわけです。
これに対してえらい飛びますけれど、宮崎康平さんが『まぼろしの邪馬台国』で使用されましたのは、今の二十一の旧名を有明海の周辺の国にみなピタッと合う、これだけ見事に合う以上は有明海に邪馬台国は面しているはずだとして、島原半島説を唱えられたんです。その他大勢の人が皆ピタッと合う所をあちこちに発見されたわけです。結局、研究史上の結論はそういう固有名詞を合せたんでは答は出ない。そうわたしは受けとったんです。研究史を見たときにそれは置いといて、はっきりした論理関係を持つ物をさがし出して、それによって確定できないかを見る。それを『三国志』全体の用例によって見る。こういう立場をとったわけです。
だから稲荷山鉄剣が発見されてからまだ一年は経ちませんが、学者がしてきたのをみると、正にこれは邪馬台国研究史をもう一回やり直している様な感じなんですね。近畿説が今優勢ですけれど、その近畿説も専ら官名等『古事記』、『日本書紀』に合わせてこれだけ合うとやるのですね。ところが、合わないところもあるんですが、さっきの様に、シキの宮一つとっても合わないんですが。これは手直しする。で「左治天下」も合わないのは田舎者の大風呂敷、或いは銘文の作者が問違えたといって合わせていっているわけです、だから同じ手法がここで行われているわけです。わたしも同じ方法でみてゆきますと、これはどうも近畿の天皇家では無理だ、やっぱり関東の王者とみなければならない。こういうことなんです。
なお若干の点を補足しますと、一つは最初カミツオヤと読んだ箇所、「上祖。」。あれをわたしは、「祖をまつる」あるいは「祖をたっとぶ」という風に読むんですが、これは小さいですがやはり大きな問題を含んでいる。と言いますのは、「上祖」を「かみつ祖」という読み方は確かにあるんですが、用例はいくつもあるんですが、それで読んでいくと論理は矛盾するんです。といいますのはオワケノ臣からのかみつ祖となりましてその子その子と続いて、最後にまたオワケノ臣が出てくる。そうすると論理的には所有格でずーと結んでいるわけです。何々の何々の何々のと。一番先頭と一番最後が同一人物になる。すると本人の所有格がかかるところが本人になるわけです。わたしはこれはありうることではないと思うんです。この辺も論理関係を中心に考えず、単語中心に考える人は、本人が下手な文章を書いたんだろうという風にやるわけです。わたしはこれは「祖をまつる、祖をたっとぶ」という動詞に読む、そうしますとコノカキノ臣は主格で、あと目的語になる人物を継いでいって、自分に至っている、と、こうなるんですから全然矛盾は無い。それは目的語の説明になってくる。これが一つ。
もう一つは杖刀人首、これを今の定説者的な人達は「タチハキノオサ」と読むわけです。そしてこれこそ近畿天皇家に行って、門番をさせられた証拠だと理解する。この場合問題がありますのは世々杖刀人首たり、こうありますのでこの文章を率直に読む限りは、最初のオオヒコ、わたしはイフヒキ、読みは別にかまわんのですが、そのオオヒコと現在の自分までが杖刀人首だと書いてある。世々杖刀の人首たり、だからオオヒコも杖刀人首なんですよ、この文面そのまま読んだら、そうとしか理解出来ない文章なんです。だからもし杖刀人首がたちはき、門番ならオオヒコも門番なんです。そう読まなければならないんです。ところがそう読まないんですよ、わたし以外の人達は。だから二・三代前ぐらいから門番だろうと読むわけです。しかし二・三代前というのはこちらの都合に合わせた見当でいっているだけで、文面自身を読んだら、あれだけの短い文章で八代書いてあって、世々杖刀人首、オオヒコから自分までが杖刀人首としか読めない論理的な性格をもっている。この点もオオヒコを実在とみるにしても、そうでないとみるにしてもヒッかかるところですね。
それからもう一つ、実体は門番だが大風呂敷を広げて「左治天下」といっているんだというんですが、門番とするタチハキの方は世々杖刀人首なんです。ところが「左治天下」は今なんです。時間帯が違うんです。だから実体は門番なんだが、それを大風呂敷で「左治天下」と言ったというなら、「世々左治天下す」と書かないとおかしいわけです。たがらその点も時間帯が矛盾しているんです。これも客観的には矛盾しているんですが、結論を先に決めてかかっているから、文章を書く人間がちょっと下手だったのだろうとしか処理出来ないわけです。
それからもう一つ、井上光貞さんは次男・三男を派遣したという説を昔発表した、それが裏付けられたということを言っておられたのですが、これも非常に単純な矛盾があるわけです。次男・三男同志は親子ではないわけです。これは当り前ですね、考えてみたら。ところが、その八代は親子で皆書いてある。だからこれは次男・三男派遣事実には全然合っていないわけです。本当にこんな子供でも気が付くようなところが今までの議論では出てないんです。わたしなんかこれは非常に不思議である。単語の一つの意味を優先させ、結論を決めてから文脈・論理関係の矛盾は書く人間が下手だとか、間違ったとかいう処理を施すやり方に入ってしまったら、単純な矛盾すら目にはいらなくなるという風にわたしは思うわけです。
なお終りに、大事な問題を一つ申し添えますと、重大なことは古墳の事実です。稲荷山古墳には棺が二つ有った、有るわけです。そして粘土槨が、いわば中心的位置に置かれている。そして鉄剣が出てきた礫槨、もしくは礫床といわれているものは粘土槨の横にすこし斜めに棺が置かれていたわけです。つまりこの古墳の中心の位置にある物を中心的存在とみるのが普通ですが、そうしますとこの鉄剣の主は中心人物ではないということになってきますね。そしてむしろ粘土槨の人物の方が中心ではなかろうか。もし空白にもう一つ棺があるとすれば、その人物か知れませんがね。とにかく鉄剣の出てきた人物は、この古墳の中ですら中心的位置にないということです。
だからこれを副をなす人物ではないか、という問題がでてくる。また出土物に銀環が出てきています。ところが関東平野の主たる古墳では、殆んど金環が出てくるんです。だから長をなすものは金環を持っている、と言っていいくらいおびただしく金環を持っている。それに対して銀環を持っているのが若干あるんです。その点からもこれは副をなす人物だといえる。残念ながら粘土槨が盗堀されて大半の実態が分らないですから、そっちと比べての比較は副葬品ではできにくいんですが。礫槨の方は全然盗掘されておりませんので、そこから見ると副官としての要素を持っている。これはわたしのいう「左治天下」の姿から見ると極めてふさわしいわけです。「左定天下」と書かれた持統が天武の横に葬られていたということも思い併されます。
最後の一言ですが、この稲荷山古墳の東北20kmの地点、そこに磯城宮と呼ばれる場所があったことが見いだされました。これは今日も来ていらっしゃる今井久順さんがわたしにお知らせ下さって、わたしもびっくりしたんですが、栃木藤岡町20km、さっきの志木、これは南に40kmその半分の近さですね。東北20kmの所に磯城宮という所があったんですね。大前神社というのは延喜式にものっている古い地名なんですが、その延喜式以前の古い段階で磯城宮と呼ばれていたということなんです。わたしが現地に行ってみたところ、正に石碑が神杜の境内にこざいました。明治十二年に建てられた石碑なんです。「囲む会」の中心になってやっていただいている中谷さんに、その後現地へ行って拓本をとってきていただきました。後で、こ覧下さい。(講演会々場に展示された。)横に書いてありますのはわたしが最初に行きました時判読したものです。まさしく磯城宮というのが延喜式以前という古い段階においてすでに存在したことがはっきりしてきたわけです。そうしますと現地、すぐそばの磯城宮をさておいて、大和の師木宮を言う場合ならどうしても大和のが要(い)る。それがなければまずそばの磯城宮と考えてみるのが筋だと思うんです。そばの磯城宮がこういう理由で駄目だとの論証をやってから大和にゆくならいいですが。この磯城宮は、わたしもそうでしたが、岸さんの他皆、こ存知なかったわけです。ないままで大和の師木宮、長谷を師木でもいいだろうというような形でずらして雄略にされたわけです。
この点からも、やはりわたしはいかに定説のように今言われていようと、この雄略説、近畿天皇家説にはまず未来は無い、と生意気な言い方ですが、わたしには感じられているわけです。しかし考えてみますと、まだ出て一年足らずですね。邪馬台国論争自身があれだけ長い年月をかけてきたことを思いますと、一年足らずの間ですから、定説なんて言うのが実際にはおかしいのでしょうね。以上です。わたしは今後大きく、鉄剣銘文問題の視点がぬりかえられてくると思うものです。 
 
『日本書紀』の史料批判 / 「遣隋使」はなかった

 

九州王朝説と近畿天皇家一元主義史観
私は、先程のご紹介にもありましたように、九州王朝説というものを提出しております。これは従来の日本の古代史学の定説と、根本において、相矛盾するもの、食い違うものでございます。
その要点は、例えば、三世紀の『三国志』魏志倭人伝に書かれている「邪馬壱(いち)国」ーー従来は「邪馬台(たい)国」といっていましたがーーそれは、この九州の博多湾岸にあった、ということです。これは、九州説ということでは、従来にもあったものの一つ、というわけでございます。
ところが、それだけではなくて、五世紀の宋書に出てきます倭の五王もまたーーこれは近畿の応神とか、仁徳とか、雄略とかいう天皇ではなくてーー九州の太宰府を中心とした筑紫の王者である、という考えでございます。
のみならず、七世紀の前半、『隋書』イ妥(たい)国伝ーー倭(わ)国伝と普通いっていますが、正確にはイ妥(たい)国伝と書いてございます。ーーここで有名な、“日出づる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙(つつが)なきや”という名文句があります。これは普通、聖徳太子の国書、推古朝における国書といわれていますが、戦前から戦後にかけて、教科書の内容が日本史については激変したにもかかわらず、この点においてまさに、戦前と戦後の教科書が一致しているということ、歴史教養が一致した場所、というふうになっているものでございます。これに対して、私は、実はそうではない、というわけです。ここで“日出づる処の天子”ということを書いた国書は、これは“多利思北孤(たりしほこ)”という男王だと書かれている。奥さんが“[奚隹]弥(きみ)”と呼ばれ、後宮の女六、七百人をかかえている、と書いてある。これは推古朝、聖徳太子とは関係ないんだ。これもまた、九州の太宰府を原点とする筑紫の王朝なのである、と私は主張したわけです。
イ妥(たい)*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。
[奚隹](き)は、奚編に隹。JIS第三水準ユニコード96DE
時間的にも、紀元前、弥生期ーー縄文期にさかのぼるかしれないが、まあ弥生期ーーから、七世紀の終わりまで、という長期間存在したということ、それが近畿の天皇家に先立っている。むしろ近畿天皇家は、日向における地方豪族で、近畿に侵入をはかって銅鐸圏を支配して拡大したものである。一言でいえば、本流の九州王朝に対する分家、分流である。と、しかもそれを誇りにして、『古事記』・『日本書紀』で述べているわけですが、そういうものだ、という立場にたっています。つまり、時間的に長いのみならず、大義名分の問題において、東アジアの世界で長らく日本列島の中心の王者と考えられてきたのは、近畿天皇家ではなく、九州王朝である、という実像を述べたわけでございます。
これに対して、いわゆる「邪馬台国」問題などについては比較的最近、幸いにもいろいろ反論がでてきて、論争をおこなっているわけでございますが、倭の五王の問題になると非常に少ない。でも多少東大の武田幸男さんなんかとありましたけれど。ところが今の七世紀の『隋書』イ妥国伝になりますと、いよいよもって反論がないに近い。ま、少ないわけですね。で、これは私の方から申しますと、この七世紀こそ本当に論争してほしいわけでございます。といいますのは、三世紀は博多湾岸と、こういうことになったとしましても、それは決して五世紀はどうかということを、すぐには示さないわけです。また、仮りに五世紀が、倭の五王が九州だと承認されたとしましても、それでは七世紀はどうか、ということはすぐには示さないわけです。
ところが、その逆となると、話が違ってまいります。七世紀の『隋書』イ妥国伝にあります、多利思北孤というのが、九州王朝である、とこうなりますと、もうその前の五世紀、倭の五王は当然九州になるわけです。その前の「邪馬台国」、私のいう邪馬一国も当然、これは九州になるわけです。ということですから、この七世紀の問題というのは非常に重大である、論じてほしい課題である、というふうに私は思っているわけでございます。にもかかわらず現在までのところ余り私に対する反論が出てきませんのは、私の一人合点な判断かもしれませんが、ちょっと論争になりにくい、と申しますか、論争をするのも、ちょっと馬鹿ばかしいような向きを帯びているわけです。
といいますのは、なぜかといいますと、『隋書』イ妥国伝には、はっきりとその国書を出した倭国の王は男王である、奥さんもいる、後宮の女もいる、とこう書いてある。ところが推古朝は、推古天皇でございますから、もちろん女性でございます。だからその場合、私以外のすべての人が現在は、いわば「定説」派みたいな感じですが、その人たちは“あれはまあ男と女を間違えたんだろう”という。こちらは“いや裴世清(はいせいせい)がちゃんと来て会っているんだから、会っていて男と女を間違えることはない”というわけですね。“いや、あり得る”というふうに相手の人が言おうとしても、何となくシラケてくるんじゃないか、と思いますね。
それだけじゃありません。今のそのイ妥国があります場所の一番著名な風土として、何が書かれているかと言いますと、「阿蘇山」があります。“火起りて天に接す”と。火が絶えず吹き上げられて、古い石をとどめないくらいだ。いつも新しい石が吹き上げられている、ということが書かれている。これは、どうみたって阿蘇山でありまして、三輪山のことを書いたわけじゃない。
そうしますと、私の方から言いますと、裴世清が飛鳥にまさに来た話ならばーー『隋書』イ妥国伝の中にあるのがですよーーやっぱり三輪山とか、大和三山とか、途中の瀬戸内海あたりかを書くべきじゃないか、と、それが阿蘇山だけってのは、おかしいじゃないか、と、こちらは言うことになるわけです。当然、だから相手の、私以外の「定説」派の人たちは“いや、それは何か間違えて不適当なものを書いてしまったんだろう。それは書いた連中が悪い。だからしようがない”というようなことにしかならないわけですね。これも何となく論争というにはあまりにもシラケた話になってしまう。
ということが、言い出すとまあ当然予想されます。私の『失われた九州王朝』の論点に、反論しようとすると、あえてーーシラケた論争でーー私に反論しようとする方がなかなか現われないのも、そういう点が一つあるんではないかと、これは私の独断的な観察ですが、感じているわけでございます。
といって、いくら“シラケ”るといっても、この重大な問題を放っておくことは、やっぱりよろしくないと思うわけです。
本日は、従来の「定説」、これは一言で言いいますと、「近畿天皇家一元主義の史観」ですね、とにかく日本の古代史、古典一般を近畿天皇という原点一つで解釈してしまおうという、これが、従来、封建期から、いやもう八世紀以来、疑われずにきた史観であると思うんです。
その「近畿天皇家一元史観」が、結局だめだ、という“最後の留金”をはずす論点を、今年になって発見いたしましたので、それを今日報告させていただきたい。そういう意味で非常に不遜な言い方をさせていただきますれば、日本の古代史学の一つの転回点をなす報告を、亡き村岡先生と、この学校にご縁のある皆様方の前で、謹んで報告させていただきたい、こう思って参ったわけでございます。 
『隋書』『日本書紀』記載内容に対する理解
さて、問題の発端にはいって参ります。この場合、『隋書』はさっき言った形でございます。詳しく言いますと、開皇二十年、西暦六百年、七世紀の始めですが、その時イ妥王から使いが来て、それと、その時の天子は隋の第一代高祖ですが、これとの応答が書かれている。
これが不思議なことに、この話は全く『日本書紀』には影も形もみえないわけです。このことも実際はおかしい。かなり詳しく“イ妥国の方の政治の仕方はおかしい、改めろ”とか何とか、おせっかいなことを隋の高祖が言っているわけですね。そのとき、こちら側の政治形態なんかを向うに話している、というような話が出てくるんです。ところが、「推古天皇八年」に当たるはずのこの事件については、『日本書紀』には何の形跡も現われていない、これも、何かの理由で記録しなかったんだろう、というたぐいのことしか、従来言われていないところなんですね。
次に、今申しました「日出づる処の天子」の話が出てくる。ところがそれに対して『日本書紀』の方は、ほぼ同年代のところに推古十五年と十六年、小野妹子が使いし、そして裴世清がやってきて推古天皇に会った、という話が書かれているわけでございます。そこで両事件は同一だ、というのが従来の古代史学の“基本の留金”のようになっているわけでございます。
ところが、これに対して一つ、新しい疑問がでて参りました。といいますのは、『隋書』では裴世清の官職名を、文林郎(ぶんりんろう)」とはっきり書いております。一回出てくるわけですが、「文林郎裴(世)清」と書いてあるわけです。これは中国の史書で、中国の使者の官職名を書いているんですから大変信憑性があるわけです。“彼はまさに、そういう官職名にあった”と、われわれにとって疑うことの出来ない史料性格を持っているわけです。ところが『日本書紀』の方に現われる裴世清の官職名は、全くこれと違うわけです。それは「鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)」というふうに書かれている。掌客は官職名でありまして、鴻臚寺は、まあ外交官庁ですね。その中で掌客というのは、定員十名とかいうような形で定められている官職名でございます。それが書かれている。しかもこの場合ですね、『日本書紀』の方には、中国の天子の国書がのっているわけです。もちろん部分ですけれど、その国書の文面に「鴻臚寺の掌客・裴世清」とはっきり出てきている。だから、国書の中に出てくる以上は、これ以上正式なものはない。正式の官職名と考えなければならない。で、また一方、推古天皇の方の、聖徳太子の方の国書がのっているわけです。短いですが、やっぱりそこにも「鴻臚寺の掌客・裴世清」というのが出てくるわけです。両方の国書に出てくるんですから、これくらい資料として、保証に保証を重ねられた名稱はないと思われる、「正規の名稱」であるわけです。
としますと、この両方の、同一人物の官職名が違っているという間題は、これは大変な、考えてみると不思議な問題でございます。
しかも、この両者は、品(ほん)が違うわけです。つまり何品何品という、日本でも真似してやりましたが、あれは中国の隋、唐にあったものです。それでみますと、隋の文林郎といいますのは、従八品である。ま、これも時代によって変化がありますが、ま、そういう話は時問の関係で省略しますが、結論的に言いますと、大業(たいぎょう)年間、裴世清が来たといわれる大業三年においては、従八品である。ところがそれに対して、鴻臚寺の掌客というのは何かといいますと、正九品なわけです。でこれも細かしい吟味は省きますが、結論としていうと、正九品。これはまあ、隋でも唐でも正九品なんです。と、つまり品が違うわけですね。同一人物が品の違うのを、二つ官職名を持っている、というようなことは、ちょっと、これは無理ではないか。しかもこの場合、名誉的な実体のない官職、という場合はありますけどね、そうじゃございません。一方は、中国の史書の正式の、一回しか出てこない官職名として来ている。この官職名で裴世清は行ったんだ、と中国の史書は述べている。もちろん、中国の史書は、中国側の記録文書を元にして、その史書を作っているわけです。他方の『日本書紀』の方も、その中に、両国の国書の直接引用の形の中に二回とも出てくるんですから、これくらい『日本書紀』に出てくる資料の中で、信憑性のある現われ方はちょっとない。
だから一体これはどういうことか、という疑問が実は出てくるわけでございます。この場合、詳しくご覧になりたい方は「裴世清と高表仁」という池田温さんの論文ですがーー東大の方ですがーーこの方が日本歴史の280号にのせておられますから、これをご覧いただければ詳しくのっています。
この池田さんご自身は、詳しく追われたわけです。裴世清が唐代にも立身出世をつぎつぎにしていく経緯を。主格郎中(しゅかくろうじゅう)という正五品上になったり、江州刺史(ごうしゅうしし)、正四品下で最後終わったらしい、というようなことも非常に緻密に考証しておられるわけです。ところが、今の矛盾問題もちょっと触れてはおられるんですが、まあ“前官を名のる”前の官位を名のることは、あり得ることだ、といったことで、そこはパッと通りすぎておられんですね。
しかし私が思いますのには、たしかに「前官」を名のるというケースは、それでございますよ、中国でも日本でも。しかしこの場合は話が違うと思うんです。例えば、ある官位があってそれをやめた。やめた後も前官を名のって、何か書いているとかね、まあ、そういうふうなケースはあり得るかも知れません。しかし一方の「鴻臚寺の掌客」の方は国書中に出てくるのですから、“「前官」を国書に書く”などということは、当然ないわけです。他方中国史書の方は「文林郎」一つしか書いていないんだから、そのたずさえてきたはずの国書に「鴻臚寺の掌客」と書いてあるのに、わざわざ「文林郎」だけ書くっていう、そんな史書の書き方って、やっぱりないわけです。“前官を書いたんでしょう、他意はないでしょう”というんでは、実はすまない性格を持っている。(「前官」を「兼官」と言いかえても、ことは同じです。ーー後記)これは私、池田さんの論文に触発されながらもですね、そこから疑問を出発させた一点でございます。 
「隋」と「大唐」の読み替え間題
さて次の問題。その『日本書紀』のですね、記事を見てまいりますと、もう皆様先刻ご承知かと思いますが、あまりご承知すぎて非常に不思議な問題がございます。と言いますのは、小野妹子が行った相手の国をどう書いてあるかと言います、「大唐」つまり唐に使いしたと書いてございます。でまた、裴世清がどこから来たかというと、「大唐」から来た、と書いてある。ところがそれを従来の、これはおそらく『日本書紀』に関するすべての注釈書ーー岩波古典大系本なんかも含めましてねーーそれをどう注釈しているかというと、これは“「隋」の間違いだ”、“「隋」のことを指している”という注がついている。だから従来の『日本書紀』を読む人は、その注で、あ、この「唐」というのは「隋」のことだなと、“置換”して読んでいるわけです。しかもそれは一か所や二か所ではないわけです。「大唐」、「唐」、とね。もうずーとたくさん唐がございます。それを全部“「隋」のことだ”というふうにわれわれは読まされてきたわけですね。「隋」のことを「唐」と書いてあるんだとね。間違いで書いたのか故意に書いたのか知りませんが、“とにかく、「隋」のことだ。”というふうに、“翻訳”して読まされてきたわけです。
ところがですね。実は、「隋」という国名も、ちゃんと『日本書紀』の推古紀に出てくるんですね。「推古二十六年」のところに、高麗からですね、“隋と戦ってその時の捕虜をあなたのところへ送る、という話には、ちゃんと、隋の煬帝(ようだい)」という、「煬帝」までついて出てくるわけです”で、これは当然「隋」と解釈するわけです。“「隋」と書いてあったら「隋」だ”と。ところが、“前の、「唐」と書いてあるのも、「隋」だと解釈する。じゃ「唐」と書いてあったら、全部「隋」と読むことになるか”というと、そうではなくて推古三十一年の項目の、「唐」”、これは三回出るんですね.「大唐」、「大唐」、「唐」と、“これは「唐」だ”と、注にある。つまり『日本書紀』に、「唐」と書いてあっても、それは「隋」を意味する時と、「唐」を意味する時と両方ある。というのが現在までの、わたし以外のすべての人の読み方だったのです。
しかし果して、そういうことが一体あり得るものか、というのが、私の第二の疑問点であります。
それで、何でそういうふうに「唐」を“仕分け”して読むかというと、それはもう理由ははっきりしています。次に書いてあります年表をご覧になればわかりますように、推古天皇の時代というのは、前半と言いますか、始めの四分の三くらいは隋代に当たっております。ところが後の四分の一くらいは唐代に当たっているわけです。だからその年表に当てはめまして、“隋代に当たっているところは、「唐」と書いてあっても「隋」のことだ”とこう“翻訳”して読む。そして”年表で「唐」に当たっているところでは、「唐」のことが「唐」と解釈する、そういう“仕分け”で従来やってきたわけでございます。
しかしですね、『日本書紀』の編者は、一体どう思って書いたのか。“「隋」のことだ、「隋」のことだ”
と思いながら、「唐」と書いたのか。こう考えてみますとね、これはやっぱり、うっかりと通りすぎることの出来ない問題を含んでいる、ということを皆様もお気付きかと思います。
思わせぶりはやめまして、ズバリ結論を申しますと、『日本書紀』で「唐」と書いてあるのは、「唐」のつもりで書いたのではないか、つまり『日本書紀』の編者は、“推古朝の聖徳太子の時に「唐」に使いした”ということを主張しているんであって、“「隋」に使いした”とは一切主張していないのではないか。“のではないか”と言うより、実際、文脈通りならば「いない」わけですね。「隋」のことは、一方でちゃんと「隋」と書いてあるんだから。ーーということでございます。
そこで、そういう私の「仮説」ーーと一応言ってもいいんですがーー、その仮説をささえるものがあるのか、という問題に進んで参ります。 
裴世清の官職名
実は五つの鍵がございます。と言いますのは、今のように考えました場合の第一の問題点は、文林郎は従八品である、と、そして鴻臚寺の掌客の方は正九品である。ですから鴻臚寺の掌客の方が位が低いわけですね。そうしますと、隋の時に「文林郎」だったことは間違いないとしまして、唐の時に「鴻臚寺の掌客」になったとします。つまり同一人の役職が違うというのは、つまり同一人で“時点”が違えば役職が当然違うわけですね。だからそれはイコールではないんだ、という考えに立つわけです。そのイコールではないんだという考え方の場合に、当然文林郎が先で、鴻臚寺の掌客は後になります。ところが、その文林郎が官位が低くて、掌客が上になっていれば、官位が上がったというんで理解できるんですが、逆に下がっている形になるんですね。こういうことはあり得るのか。もちろん普通の場合でも、別に上がるばかりではなく下がるケースも当然あるわけですけれども。
ところがこの場合は“普通の場合”じゃないんです。この間に隋から唐への「王朝の変換」という問題がはさまっているわけです。そうしますと、この場合、実は『隋書』と『旧唐書』を比較すればわかるんですが、“進んでいる”のが多いんですね。それも特進、累進というのが非常に多いわけです。旧唐書では、なんでかと言うと、結局、隋を亡ぼして、あれは単なる“禅譲”というよりも、“武力奪取”に近いかたちで唐朝をつくるわけですね。その間、戦乱の時期が数年間はいるんですね。ですから、その時の論功行賞が当然、旧唐書の始めの列伝に表われるような人達には、そういうケースが出ていまして、特進、累進、非常に多いんです。もちろん、特進、累進ばっかりだったら、これは“はちきれ”ます。それが多いということは、逆に、落ちた人や、殺されたり追放されたりした人も、随分いる、ということを、当然、裏側に含んでいるわけです。
そういう人はあまり列伝中には出てきませんけど、よく見ていきますと、やはりそういう例が出てまいります。その例をいくつも見つけましたが、まあ、一、二例あげておきますと、李密(りみつ)という、これは有名な人物ですが彼は隋から唐になって、自分の位置が下がったとーートップ・レベルの人だったんですがーー不満を述べているところが出て来ます。当然、こういう人物もいたわけですね。もっと普通の場合では、崔信明(さいしんめい)という学者ですけれども、彼は隋の時には、尭城(ぎょうじょう)の令(れい)であった。ところが隋の滅亡当時に、いったん、官職を離れまして、再び、貞観六年になって官職についた時には、興世の丞、これは次官の方ですね、つまり役職が下がっているわけです。それからまた、秦川(しんせん)の令にかえって、元通りの「令」の位置にかえって、そして死んだ、というふうに書かれている。でまあ、当然こういう人達もいるわけでございます。
そうしますと、結局、今の同じ裴世清は、隋の時に従八品だったのが、唐では正九品になった、ということも、これはあり得る。それにですね、考えてみますと、「鴻臚寺の掌客」というのは、これは外務官庁の事務官僚。ところがですね、「文林郎」は違うんですね。これは秘書省に属しまして、つまり天子のお膝元というか、懐刀みたいなもの。つまりいろんな専門役職とは別個に、天子の足元というか、懐近くにいまして、天子の意を受けて特別行動をするわけですね。これが文林郎なんです。そのいわれとしては、文学の徒を集める、というところから始まるんですが、実際には煬帝の時には、“天子の懐刀”的な部署になっているわけです。そういう意味じゃ裴世清は非常に煬帝に可愛がられたわけですね。とすると煬帝に可愛がられた人は、当然唐代になると“可愛がられない”わけです。危険視されるわけですね。煬帝というのは、ものすごく唐初に憎まれますから。そうすると、煬帝に寵愛された者など、これは殺されてもしようがない、場合によったら。まして失業させられてもしようがない。実際にそういう人たちも多かったでしょう。
ところが裴世清ーーこれも言いだすと時間がないので言いませんけれどもーー裴氏というのは名家でございまして、そのせいもあったのかーー要するに“追放”されなかった。代わりに、こんどは、かつてのイ妥国へ行った時の力量が買われて、“事務官僚”の形で鴻臚寺におかれている、というふうに考えると非常に話が合うわけでございます。秘書省ではなく、外側の専門官庁の、外務官僚として再生をはかった。こう考えてみますと、官職の関係の話が合います。これが第一点。 
『日本書紀』の年代誤差
第二の問題として、『日本書紀』が、このあたり、少なくとも「十年以上」の“年代誤差“を含んでいる、という問題がございます。
これは私の『失われた九州王朝』で指摘したんですが、舒明三年、六三一年ですが、その時“百済の王、義慈が、王子豊章を入れて質とす”という記事があるわけです。ところが、それを現代の年表でみてみますと、舒明三年、六三一年というと、その時の百済王は武王であった。義慈王ではないわけです。だからこの年代では、この話は成り立ち得ないわけです。義慈王が出てくるのは、六四一年からですから、六四一年以後にならなければ、この話自身がつじつまが全然合わないわけです。ということは言いかえますと、この人質の件は年代が、実際の実在年代よりも十年、少なくとも最小十年は上に、間違えて、上げて記載されている、ということは、これは疑えないわけです。朝鮮側の年代は、中国側の年号で書かれていますから、それを間違っているとは簡単に言うわけにはいきませんからね。これが一つです。
更にですね、こんど新しく見つけました例として、面白い例がございます。それは、推古十七年に「百済の僧道欣(どうこん)等、肥後の国の葦北の津に泊す」と。そこで言うには、“百済の王が命じて呉の国に私達を遣わした”と。呉の国というのは江南でしょうけど、ところが“其の国に乱れ有りて、入ることを得ず、更に本郷に返る。忽ちに暴風に逢い・・・”と。要するに帰りがけに難破して、肥後の葦北の津に来たんだ、ということを言っている話が出てくるわけです。
ところがこれを例えば、岩波古典大系なんかでは困っているわけです。この説明にですね。この時期に当たる大業元年から六年にかけて長城の築造とか、運河の開通とか、東都の造営があったということが書かれている。『隋書』にですね。そのために地方的反乱でもあったのではなかろうか、と想像するわけです。地方的反乱があったとは全然書いてないんです。しかし、あったんではなかろうか、と想像して、だから、「乱れ有り」というんじゃなかろうかと、こう言うんですね。さらに、もしかすれば、このころ、琉球国の征伐を、煬帝はしている、そのことに関連しているんじゃなかろうか、とこう注記しています(岩波古典大系本)。
しかしまあ、私の目からみますとですね、両方とも、全然ピントがはずれていると失礼ながら思うんです。
というのは、長城の造営とか、東都の造営とか、運河をつくるとか、これは国としては“躍進期”でありまして、“乱れがあって使者がはいれない”っていう話にはならないわけです。それを、こっちが勝手に架空の「地方的反乱」を想定して、“それだろう”なんて言うのは、これはやっぱり非常に虫のいい話なわけですね.“琉球国を征伐する”件も、“だから乱れがあってはいれない”などというのはおかしい。話が全然合わないわけですね。つまり、話が合わないので、困って“これじゃなかろうか、あれじゃなかろうか”という注になっている。と、まあ皮肉っぽい言い方で済まないのですが、私にはそう見えます。
ところがですね、これをもし今のように、十年以上、これは“上ずって”いるんだという観点に立ちますと、どうなるか。つまり逆に言うと、これを十年以上、引き下げてみる。そうすると、まさに隋末、唐初の混乱期に当たっているわけです。十年強引き下げますと、唐の二、三年目になりますけどね。唐が始まって二年、三年という時代になっているから、なんでもないように見えるんですが、これは現在の年表だけの話で、『旧唐書』を見ればすぐにわかりますように、その時は、王世充(おうせいじゅう)の、「乱」言うんですか、唐から言えば「乱」ですが、実際は王世充が天子を宣言してですね、そして鄭(てい)という国を開いたわけです.そして年号も作って、開明元年というのを名のっているわけです。ですから唐なんてのは、あっても無きが如しで、実際は、実体はないわけです。それをやっつけて始めて実質的な唐が始まるわけですね、唐の四、五年目に。
ですから年表ではつながっているようですけど、実際は全然ストレートにはつながっていないわけです。ま、混乱期なわけです。そこに当たっている。そうすると正に、「乱れ有りて入ることを得ず」です。その時に呉の国へ行くというのは、“呉の国を通過して長安の都へ行く”のが目的ですから、当然行けたらおかしい。やっぱり引き返さざるを得ないわけです。ということで、ここもやはり“十年強ずり上がっている”と考えると、この記事は、こちらが架空の反乱などをデッチあげなくても、その通りピタリの話になってきます。
そうしますとやはり、この二つのケースからみまして、どうも『日本書紀』のこの辺の年代は、少なくとも「十年強」ずり上がっていると考えざるを得ないのです。逆に、これを「十年強」下へ下げてきますと、聖徳太子の時に使いを送った時点は、正に“唐”になるわけです、“隋”でなく。そうすると正に“「唐」に使いした”という言葉でドンピシャリ当たることになってくる。これが第二点でございます。 
「倭皇」と「倭王」
次は第三点。ちょっと細かい間題にはいりますが、「倭皇(わこう)」という問題がございまして、推古天皇側の国書に、相手を「皇(こう)」と呼んでいる。これはいいんですが、天子と同じ意味ですから、こんどは中国側の国書で、自分のことを皇帝と呼んで、相手側、推古天皇側を倭皇と呼んでいる。これを従来は“「倭皇」は「倭王」の間違いだろう”てなことを、古典大系なんかでも書いております。ところがそれは、そうじゃないんですね。
われわれは、倭皇の「皇」というのと、皇帝の「帝」というのと、あまり区別がないような感じがしているんですね。例えば、皇室というと、天皇の一族という“無上の存在”に当たるものだと、こう思っているわけです。
ところが実は中国側にしてみると違うんです。そこで『魏書』の例をあげます。「魏」というのは、北魏という南北朝の北魏です。そこでその時の天子が、天子になった嬉しさにか、何か知りませんが、やたらに自分の兄さんなどにみんな、何とか皇帝、何とか皇帝という名前を追号するわけです。そうすると硬骨の老臣がおりまして、「それはだめです。そんな例は歴史をふり返ってみても、ありません」そして“「皇」だけならよろしい”と言うのです。“それなら実際は皇帝などにならなかった兄さんにあげてもいい、その例はある。”と。“しかし「帝」というのは、もうこれは使ってはなりません”というようなことを言って頑張っている話があるんです。それが何回も形をかえて出てくるんです。
ですから中国側にしますと、「帝」と「皇」は違うんですね。だから「皇」という名は相手に使ってよろしいわけです。言ってみれば“普通の臣下の身分で死んだ兄さん並み”というわけです。
これに対して「王」となりますと、また、これうるさいんです。なんでかと言いますと、「王」という場合は、当然中国の天子に封冊を受けた外臣てな言葉がありますけれど、外臣として封冊を受けた存在が、王なんですね。封冊を受けないのは「王」とは言わないわけです。われわれが「王様」などというときの漠然たる用法とは違うわけでして、厳しい性格付けがあるわけです。
だからここに、「倭王」と言わず「イ妥皇」と言っているのは、従来封冊を、まだ与えたことがない、という意味を含んでいるわけですね。
で、それに対して『隋書』イ妥国伝では、この倭国の多利思北孤自身は、“私も天子、お前も天子”という、非常に勇ましいことを言っておりますけれども、中国側の地の文では、たえず「イ妥王」です。「王」しか使っておりません。これは要するに、古よりーー卑弥呼の昔よりですねーーずっと封冊を与え続けてきた相手だから、お前(イ妥国)がどう言おうと私(隋)の方は、「王」としてしか扱わない。という意志がはっきりそこに表明されているわけです。
だから“これは「王」の間違い。この国書を勝手に日本側で書き直して、「倭皇」にしたんだ。”なんて、そんな話じゃないんですね。また、そんなに勝手に書き直したりしましたら、これはもうえらいことですね。相手の唐王朝は現在いるんですから。『日本書紀』を作った時の現在時点の相手は唐ですから。その「唐」からきた国書を勝手に書き直して、載せたりしましたら。“『日本書紀』は中国に見せるために作ったんだ”という論がありますけれどね。まあ見せるために作ったかどうかは別にしましても「見る」ことは十分可能性があるわけです。その場合に、自分の方が送った国書を書き直したりしてましたらね、これこそ大きな国際問題。そういう問題をだまって見過ごすほど、中国てのは甘くないのですね。その問題に関しては。他の問題は非常に融通無碍でもね。大義名分に関する問題をですね、そんなに甘く見過ごすような中国ではないわけです。
従って倭皇問題も、実はこれが九州王朝だったら困るんです。近畿天皇家にして非常にふさわしい表現である、ということですね。例の「天子と天子」の問題でも、随分煬帝は怒っていますね。あれは怒るのが当然です、向うの立場からしましたら。 
第一代天子の「宝命」間題
さて、次に意外な論証力を持ってまいりましたのが「宝命(ほうめい)」問題でございます。「宝命」といいますのは、推古天皇と聖徳太子の方に中国からよこした国書ですね、そこに出てくるわけです。「朕、宝命を欽承して」ということが出てくる。私がこれに疑問を抱きましたのは、『諸橋大漢和辞典』などひきましたら出てきますように、宝命というのは「天帝の命」を、宝命というわけでございます。天子とは、天帝の命を受けて天子になる者だ、というわけですね。そうしますと、私が抱きました疑問はですね、これは第一代の天子、つまり革命だか何だか知りませんが、「禅譲」でもいいんでしょうけど、特に「革命」なんかでですね、前の王朝を打ち倒したりして、新しく創立した王朝の第一代の天子の場合は、文字通り“天命を受けて私は、ーーついこの間までは一武将だったり、一庶民だったり、ま一庶民てのはないでしょうけど、まあ一武将、一豪族だったわけ、臣下だった。それが結局天命を受けて、ーー天子になった、”と、こういう言い方をするわけですね。
ご承知かと思いますが、この宝命という言葉が出てくるのは、実は『書経』でありまして、『書経』の中の、周公が、兄さんの周の第一代の武王の病篤き時に、武王に代って書いたという処に出てくるわけです。つまり武王の言葉、意志を表現しているわけですね、そこに出てくる。武王ってのは殷の紂王(ちゅうおう)を打ち倒しましたので、だから“天子の位を前の天子から受け継いだ。”とは言えないわけです。だから「天帝の命を受けて」という表現になるわけですね。それが「宝命」問題の核心です。論理的核心です。
そこで今問題は、今の推古朝の聖徳太子の時の相手方の天子、これは「唐帝」と書いてございます。「唐帝の書」と書いてあります。それを隋帝と翻訳して今まで読んできたわけですね。それを「隋帝」と“翻訳”した場合、当然「隋の煬帝」と考えるわけです。ところが隋の揚帝というのは、第二代なわけです。高祖が第一代。つまり、それに対して私がもうけました「仮説」によって、文字通り唐だと考える時には、まず第一代の高祖になる、まあ第二代の太宗もちょっとありますけど、まずこれは無理で、第一代高祖になる。そのどっちか?ということです。
言いかえたら、二代目の隋の煬帝でも、宝命と言い得るのか、彼はこの用語を使ったのか、という間題になってくるわけです。
そこで私は“もしかしたら”と思って調べてみました。つまり『隋書』の帝紀と夷蛮伝、そして『旧唐書』も、ずっと調べてみたわけです。そうすると意外にも、これは決定的な論証力を持ってまいりました。
と言いますのは、隋、唐、ともに第一代の天子の詔勅では、“朕、天命を受け”という表現が出てくるわけです。ところが第二代以降は、まず出てこないわけですね。これは“前の天子の偉業を受けて”という表現です。言葉はいろいろですが、そういう意味の表現になっているわけです。まあ、考えてみますとですね。第二代や第三代が“私は天命を受けて天子になった”とこう言いましたらね、それは一つの理屈としては、それでもいいようにも見えますけれども、ハッキリ言って前の天子を“無視”していることになりますね。“前代の天子なんか、わたしは問題にしません。わたしは天命によって天子になりました”というようなことになって、ーー言ってみれば、前の天子に対して非常に“失礼”な話になるわけですね。
ですから、そういう言い方はしていないわけです。必ず前代の遺徳を受けるとか、業を継いだとか、という類の表現になっている。これは例を全部調べてみましたが、皆例外はございません(“異例の継承時”に時として準用されるーー後記)
しかもその中でーーこれはもう本当に、やってみなければわからない、ーー意外なことだったのですがーー隋の煬帝の大業三年の用例が出てきます。「朕、獲てーー獲てのは、これは信任を受けてという意味ですねーー祖宗を奉じ、景業を欽承す」この「景業を欽承す」ということは、つまり“前代の天子の遺業を受け継いでいる”という意味なのですね。
でその同じ文章の中にですね、「高祖文皇ーーこれは親父さんの第一代ですーー天の明命を受け」と、こう出てくるわけです。だから、自分については“前代の天子の仕事を受け継ぎ”という言い方をし、同じ文面で、自分の親父さんの第一代のことを言う時には、同じ言い方をせずに「天の明命を受け」と非常にハッキリとご本人が両表現を“書き分けている”わけです。
次は同じ煬帝の大業八年の用例です。有隋ーー隋のことです。隋は大隋ということもあるんですが、有隋の方が多いんです。ーーは「靈命を誕膺し」これは第一代の親父さんのことです.そして「功成り、治定まりて、ここに在り」と、それが自分のことなんです。だから親父さんが「天帝の命」を受けた。それを受け継いで「功成り、治定まって」私のこの時に至って、と、こういうふうになっている。だからやっぱりさっきと同じ思想表現なんです。
そして、あの『日本書紀』の推古朝の、聖徳太子に送ってきた国書には「宝命を欽承し」たとありました。「唐帝の国書」といわれている分です。あれがもし「隋の煬帝」だったとしたら、その自分が明らかに書いたーー『隋書』に書かれているーーその思惟様式を自分で踏みにじって、“私は天命を受けてなった”と、こう言っていることになるんですね。これはあり得ることではない。私はそう思うわけです。
しかも更にーー偶然はいろんな論証を用意してくれています。ーーじゃ「宝命」という言葉自身が、『隋書』に、『旧唐書』に出てるのか、というと、ズバリ出てくるわけです。「朕、宝命に恭膺し(うやうやしく宝命にあたり)率土に君臨す」ーーこれは誰が書いたかというと、問題の唐の高祖、第一代の高祖ですね。しかも、この国書を送った相手は、「高麗の王」です。だから唐の第一代高祖は、「夷蛮」の王に対して、“今までは隋だった。ーー隋のときは高麗と戦争がありましたねーーしかし天命が改まった。そして私は、その天命を受けて国書を送る”というんです。これから和平ですね、平和な国交開始というんで、捕虜返還交渉なんかやるんですがね。そういう時に“宝命を受けて、私は天子の位についた”という言葉を使っているんです。
そうしますと、やっぱり、さっきわたしが考えましたように十年下げて「唐帝」とあれば、やはり唐帝だ、隋帝ではないと、いうわたしの立場に立ちますと、それは正に“唐の高祖が推古天皇に送ってきた国書”となりますので、同じ発想で、同じ「宝命」という言葉を使って、国書を送ってきた、となりますので、ドンピシャリ用法は一致するわけです。ということですから、私は、「隋の煬帝の国書」とか、「隋の煬帝との国交」として、推古紀の記事を考える余地は、まずなくなった、そう断定することが出来たわけでございます。 
国名の「大唐」
なお、最後に「大唐」問題というのがございます。「大きな唐」、これは非常に重要な言葉でございます。といいますのは、われわれにとって単なる“美稱”のように思いがちですが、必ずしもそうではないんですね。といいますのは、唐という名前だけなら、隋代にも唐という土地、地名から発祥しているわけですから、まあそれでも唐でしょう。小さな唐の国とはいえるんですが、「大唐」となると、違います。天下統一して、天子になった時を、明確に表現する術語として使われています。
『旧唐書』でみますと、「我が大唐の使、安(いずくん)ぞ小夷の服を服するを得んや」とあります。これは中国の使いが、南詔蛮という「夷蛮」に対して、「我が大唐」とこう自分の国を呼んでいます。それに対して、百済、新羅、鉄勒(てつろく)、こういう「夷蛮」の国王たちが、唐に対して国書を送る時に、「大唐」という表現を使っている。だから唐から夷蛮に言う場合も、夷蛮から唐に言う場合も、「大唐」というのを、非常に誇らしい正規の名構として“隋に代わった国になった”、ということを示すために用いたものである、という様子が歴々と出ているわけです。
それだけじゃありません。『隋書』にも出てまいります。“是の日、上(かみ)ーー上ってのは、三代目の恭帝。まあ一年くらいで国を奪われるわけですがね。ーーが位を「大唐」に譲る”と。『隋書』でも、「大唐」という場合は、隋が次の唐に天子の位を譲った、という時に「大唐」の用語が出てくる。だから、大唐というのは、隋にあらざる新たな王朝、新興の大国の気概と誇りをこめて使われた表現であるわけです。
ところが、『日本書紀』には、さっきあげましたように、「唐」とならんで「大唐」という用語が、何回も出てまいります。ところがそれを全部「隋」のことだと“翻訳”して今まで読まされてきたわけです。ところが、考えてみますと、『日本書紀』の時代は、その「大唐」そのものと同時代です。その「大唐」を無視して、『日本書紀』を書くなんていうような時代じゃないんです。その「大唐」の国に対して、一時代前の「隋」のことを、「大唐」、「大唐」と書いてですね、すむものでしょうか?しかも“『日本書紀』は中国側に見せるために作ったんだ”なんて、よくそういう解釈ができたもんだなあと、私は、あとで思ったわけです。
やっぱり、そんなことは、東アジアの世界で通用することではない。「唐」も「大唐」も、やはり、唐朝のことをさす、という以外に、私は解釈する方法はない、と、こういう結論に達せざるを得なかったのです。
ここで卑近な例を挙げさせていただきますと、例えば、牛という言葉が出てくる、“しかし牛という言葉が出てきても、実は牛とは限らないのだ、ある場合は馬のことをいう。しかし牛は、全部、馬のことかというと、いや、牛と出てきて、牛のこともあるんだ。”などというようなのが、今までの解釈法なんですね。逆に言えば、“馬と書いてあっても、馬のこともあれば、牛のこともあるんだから、それを判別して解釈しよう”というのです。このやり方に、「馬牛の論法」という、名前をつけてみたんですが、そういう「馬牛の論法」に立っているのが、従来の、私以外のすべての古代史学者の、立場、その手法であると、そういうふうに、生意気ですが、私は言わざるを得ないわけでございます。
次に今回、上野から仙台へ向ってくる聞に、汽車の中で“発見”した、さらにキイ・ポイントをなすと思われる論証がございますので、これを述べさせていただきます。
それは、小野妹子が「大唐」へ行きまして帰ってきた時に“「唐帝の国書」を、百済人に奪われた”という話がありますね。あそこにも、「大唐」と出てくるわけです。
これは、小野妹子の上奏の言葉の直接引用ですね。だからこの直接引用を考えてみますと、ここで小野妹子が「大唐」と言ったはずがないわけです。だってまだその時、従来の「定説」に立って考えますとね、まだ唐朝は誕生していないんです、隋の時代のはずですから。隋の真っただ中で、唐朝が始まっていないのに、小野妹子がですね、「大唐の国書云々」ということを、言うはずがないわけです。これはどうしたって「隋の国書」と言わざるを得ないわけですね。そうしたら「その隋の国書」と言ったのを、記録官が書き取ったんでしょうね、その書き取ったのを、『日本書紀』が転載したいきさつは、まあいろいろの解釈があるでしょうけど、ことの筋は論理的にそうなるわけ。だから、小野妹子は、まず「隋」と言った、それは間違いない、で書き取る方が、「唐」と書き取るはずはないのです。まだ隋の時代なのですから。だから当然「隋」と書き取った。それを『日本書紀』に書く時に「唐」と“書き直した”ということになる。そんなことがはたしてあるでしようか。私にはあり得ることだとは思えません。
更に、もう一つあります。これは最も重大なことがも知れません。といいますのは、推古朝の聖徳太子が国書を送っているわけです、「大唐」に。それで「大唐」からも国書がきているんです。この場合、引用されたのは一部分ですけど、当然それは実物の、中国からきた国書、また日本から送った国書の写しや控えを資料にして、『日本書紀』は書いたものと、思われるわけですね。直接中国からきた真筆を見て書いたか、写しを見て書いたか、それは別としまして、とにかくその資料根拠は、百年前後前の、そういうものですね。その国書には当然、宛名があり、自分側の署名があったはずですね。それがない国書ってのはあり得ないわけです。そうしましたら、推古朝の聖徳太子が送った国書には「隋」と書いてあったはずです、絶対。ーー従来の説通りならば。何しろ唐朝はまだ誕生していないんですから。また向うからきた国書にも、「隋」の「煬帝」と書いてあったはずです。唐と書いてあったはずはないわけです。だからそれを、それを実物だか転写文だかを見て『日本書紀』の編者が引用したのが、現在の部分です。その時に「隋」と書いてあるのに、それをわざわざ「唐」と焼き直して『日本書紀』に記した、そういうことにならざるを得ないわけです。
そんなことは、私は万に一つもあり得ないと思う。そんなことをしたら、それこそ、唐っていうのは“昔話”の国ではないんですから、現実の国ですから、こりゃもう向うがどんなに怒ったってしようが.ない、言い訳がきかないわけですね。「隋」からきたものを、「唐」に焼き直してね、「唐廷からきた」と書いたなんてのは、こりゃよっぽど“国交オンチ”と言いますか、無茶、無体をしたとしましても、ちょっと私には考えられることではないと思うんです。
ということは、まあモタモタ言わずにズバリ言わしてもらえば、その国書の宛名は、「唐帝にあてる国書」の控えであった。だから地の文で“「大唐」にこの国書を送った。”と書いてある、と、わたしは思うんです。また向うの国書には、「唐の天子」からきたもの、と、書いてあった、表書きに書いてあったか、国書自身に自署名があったかだと思います。(おそらくその両方です。)そこに「唐」とあったから、それをもとに、『日本書紀』の編者は、“これは「唐帝の国書」だ”と書いたんだと、私は思う。
それ以外に考えられないですね。“宛名や自署名をとりかえる”など、そんな勝手なことを、例えぱ「中世」の文書か何かで、そんな勝手な解釈をしたらですね、親鸞研究でも何でも、そりゃもう本当に見るも無残にたたかれます。私は、それが人間の常識だろうと思うんです。
という点からみましてね、これは“万に一つも、隋である可能性はない。”とこう思うわけです。 
聖徳太子の「遣隋使」は「遣唐使」の誤り
以上によって論証は終わったわけですが、その意味するところは、従来、長らく戦前戦後の教科書に書かれてきた、「聖徳太子の遣隋使」というのは、誤りである。これは「遣唐使」である。ということですね。では、“ああそれじゃ「遣隋使」が「遣唐使」になっただけのことか”というと、そうではないんですね。
ということは言い換えますと、一方の『日本書紀』に書いてあります遣唐使と、他方『隋書』イ妥国伝に書いてあるーーこれは文字通り「遣隋使」であり、隋との国交です、これは疑いないですね。『隋書』に書いてあるんですから。ーー国使とは別物である。これはもうはっきりと、別物である。
ということは、やはり多利思北孤は推古天皇なんかじゃなかった。「阿蘇山のそばの王朝である」ということを意味するわけです。それ以外の理解は、私はないと思います。
ということは、つまりこの九州王朝が、七世紀前半において存在し、みずから「日出づる処の天子」と稱して、対等の外交を展開せんと欲した。「出来た」かどうかは、疑問ですがね。向うは怒ってしまった。怒ってしまって、もう彼のことは言うな、とこう言って煬帝は怒っているんです。その後、いわゆる文林郎というような、これは正式の外交官ではないわけです。いわゆる“懐刀”ですね、それを派遣して、一体あんな生意気なことを言ってきたのは、どんなやつか、偵察にーーだからこの場合、『隋書』の場合は、国書を持ってきてないわけです。『隋書』イ妥国伝には、国書を持ってきた形跡は全くない。こちらは出してますがね。つまり怒って、もう二度と言うな、と言っている相手に、国書を出すほどーー中国側はプライドが高いですからーー“お人好し”じゃないわけです。
ところが、『日本書紀』の方はちゃんと、国書をよこしているわけ。これをみたって、両事件は違う、と考えるのが本来当たり前だったんですね。他の記事を略してもですね、『隋書』で国書を持っていったことを略する外交記事なんてものは、私はあり得ないと思う。他の、いろんな面白そうな話が出ていますがーーそんなものは省略しましてもね、国書を渡した、という一文がない外交記事ーー実際に渡したならーーそれは、私はない、とこう思います。
このように、いずれからとりましても、いわゆる九州王朝、みずから天子と名のる存在、しかも中国は“代々王として封冊してきたはずだ。それを何でいまさら、天子などとは生意気な。”というね、そういう存在が、九州にあった、それは阿蘇山を含む九州だ。ということは私は動かせない、とこう思うんです。これは“知らん顔をする”以外に、私は動かせないと思うんです。
しかし、やっぱりこういう問題は、いつまでも知らん顔をしていても、後世からみて見苦しいだけである。従って、もし私の今の論証に“誤りあり”と思われるなら、もちろんこの場の方々にじゃないですが、日本の古代史界で遠慮会釈なく反論していただきたい。それがやっぱり反論できないなら、聖徳太子の遣唐使、しかも「対等外交」ではないんですね、あれはもうはっきり。倭皇といいながらも、唐は「朝貢」と明白に書いています。
中国側の国書に「朝貢」という言葉が出てくるんです。それを『日本書紀』に記録しているんです。「朝貢」とあって、何で対等か。否。“対等でない”ところに、みずからをおいたから、近畿天皇家は唐とスムーズな国交に入り得たのだ、と思うんです。逆に「対等」を望んで、打ちのめされたのが、実は九州王朝の方である。
というようなことは、『失われた九州王朝』をご覧いただければ、わかると存じます。
この問題は、最初に申し上げましたように、重大な問題でございますので、関連問題がいろいろございます。例えば、今述べました立場に立ちますと、いろいろ問題を含んでおりました、元興寺縁起の史料批判についても、全く新しい分析が出てくるわけでございますけれども、これはまた改めての機会にゆずらしていただきたいと思います。
 
関東と蝦夷

 

津田学説とその批判説の展開
今日は、「関東と蝦夷(えみし)」の問題と、これも、新しい局面の発端部でございますが、それと九州王朝の関係、これを述べさえていただこうと思います。
実はこの問題の発端はどこにあるかと申しますと、『日本書紀』の中に蝦夷問題というのが、かなり、まとまってとは言えませんけれど、何回となく出てくるわけでございます。
で、その蝦夷なるものの実体が充分につかめない、ということで、明治以来、あるいは本居宣長も含めていいんでしょうけども、明治以後においても繰返し論争になってきている。喜田(きだ)貞吉なんかも、この問題に非常に力を致した学者の一人でございます。
で、これはまた同時にですね、戦後になりましても新しく、意匠(いしょう)を新たにして、といいますか、蝦夷問題は非常に重要な一つのテーマになってまいりました。
と言いますのは、例の津田左右吉によって、『古事記』『日本書紀』の神話・説話が否定された。あれは七・八世紀、早くても六世紀段階位の大和朝廷の史官がデッチあげたものにすぎないと、だからあそこに書いてあるから、それを歴史事実とみてはいけない、という有名なテーゼをだしまして、戦後史学はそれを基本において受け入れたんでありますが、受け入れたけれども、それだけじゃ何もわからない。『古事記』、『日本書紀』を全く無視、といいますか、使えないとなったら手も足も出ないじゃないか。という時に、“いや、その中で使える間題もあるんじゃないか”という研究が、井上光貞さんとか、その他の昭和二十年代の若手の研究者によって次々出されてきたわけでございます。直木孝次郎さんとかいろいろ、もう今や大家になられた人達が、学界に登場してきた時の業績が、津田命題によって否定された『古事記』・『日本書紀』の記事を、いかに再建するか、というのが、いかに史料として使えるか、というのがテーマであったわけです。
その中で、この蝦夷問題も非常に重要な位置を占めてきたんてす。つまり天皇家が蝦夷を支配ーーこの時期にはもう支配したとみていいだろう、と。ならば統一は、この頃にはどういう風になっていたという、つまり天皇家の東側の統一がいつ頃、どこまで進んでいたかという跡付けとして蝦夷問題があるということ。西は有名な朝鮮出兵ですね、あれが一つの手掛かりと見ていいわけですね。朝鮮出兵は、あっただろう、大和朝廷が、例の仁徳陵の出来た前後の頃は、もう九州までも支配は及んでいた、という形で。目見当といえば目見当ですが、大筋をおさえると。東では蝦夷問題で大筋をおさえるというような形で、大和朝廷ーー近畿の天皇家の東西統一、東西支配をですね、もう一回骨組を立て直していったわけです。
その時の一方の大事な要素として蝦夷問題が使われた。しかも蝦夷問題というのは、『古事記』では非常に少ないんです。限られた形でしか出ていない。『日本書紀』はバラバラですけども、かなり出てくるわけですね。それを史料に使った。
そういう使われた史料の中で最も有名な、これはプロの学者にとっては、古代史をやってる学者にとっては非常に有名な史料がございます。それは景行天皇の景行五十一年八月に出てきている記事でございます。あら筋を申しますと、倭建命(やまとたけるのみこと)が東国へ征伐に行ったと。ところが『古事記』では、倭建命は東京湾辺の話で終っているわけです。例の有名な弟橘媛(おとたちばなひめ)が犠牲になって入水していく、自殺といいますか、投身していくあの美しい話で終っているわけですね。だから当然その入水によって竜神の怒りをなぐさめ得て、対岸につけたわけですから、千葉県には行ってるわけでしようけれど。しかし千葉県から後、どこへ行ったか全然書いていないわけです。渡るには渡ったけど、後はさしたることも出来ずに引返したという感じの物語りになっているわけです、『古事記』では。
ところが、一つ例外ともいうべきものは、今の山梨県、甲斐の酒折宮(さかおりのみや)で老人と歌をかわす話に、“新治(にいばり)・筑波(つくは)を過ぎて、幾夜か寝つる”とあります。新治というと常陸(ひたち)ですが、ここに行ったのかなあ、という感じですね。しかし、あれも理屈で考えると、歌をうたっているだけだから、そういう歌がすでにあったのをそこでうたって、歌のやりとりをしたというふうにもとれるわけです。
とにかく、倭建命自身の行動範囲としては、全然今の常陸国に入ったり、まして東国まで蝦夷征伐をしたとか、そんな話は全く『古事記』には書かれていないわけです。行動によってみる限りは、東京湾を渡ったどまり、という感じの表現でございます。
ところがですね、『日本書紀』の方はそうじゃなくて、非常に勇ましく、といいますか、ドンドン、ドンドン行ってるわけです。常陸あたり、さかんに行ってですね、たまには、解釈に違いがありますけれど、東北まで征伐に行ったと、いうふうに読みとる人もあるくらい。とにかくそこまで蝦夷をさかんにやっつけてるというか征伐してるように書かれているのが『日本書紀』なんです。だからこの点、先ず『古事記』のえがく所と、『日本書紀』のえがくところでは非常に違っている、ということが考慮すべき第一点なんです。 
蝦夷の捕虜に対する処置
第二点としましては、『日本書紀』における帰路についての問題なんです。『古事記』は帰りについて、別に蝦夷にかかわる特別な話はないんです。
ところが『日本書紀』では非常に変った話が書かれている。蝦夷を捕虜にして沢山、かなり大勢連れて帰ったようなんです。そう考えないとその後が理解できないんですが。というのは、伊勢の皇大神宮におびただしく連れて帰った蝦夷を全部奉納した、というんですね。奉納って、生きた人間ですから、要するに神社の賎民的な仕事でしょうかね、そういうものに従事させるというか、そういう役民(えきみん)として奉納した、というようなことが書かれている。
ところが奉納された方では大変迷惑するんですね。その時、伊勢の皇大神宮には倭建命の姨(おば)さんの倭姫命(やまとひめのみこと)というのがいたというのは有名な話でございます。倭姫命自身は『古事記』白本書紀に共通して書かれている、そして出発の時に彼女が激励する話は有名でございます。その倭姫命が“非常に騒いで迷惑して困る”と、“だからここには置いてもらいたくない”と、“せっかく貰ったけれど、もうごめんこうむりたい”と、いうわけで朝廷に、この場合は大和ですが、朝廷に蝦夷を全部おくってしまった。
で、おくられた朝廷の方では、御諸山(みもろやま)、つまり三輪山だっていうんですが、その三輪山のそばに置いといた。ところがその蝦夷達が三輪山の木を全部ことごとく伐り倒してしまったと、そして騒ぎに騒いだというんですね。それで土地の人民が蝦夷達の勝手気ままな横行ぶりに業をにやして“もうこれはけしからん、何とかしてもらいたい”という事を天皇に言ったというわけですね。
そこで天皇はこれを聞いて、詔勅を出して言うには“この神山のほとりに置いたところの蝦夷は、人間の恰好をしているけれども、実は獣の心を持っている連中だ”まあ差別的な表現ですが、そう言っているんですね。で「中国(なかくに)」は「うちつくに」と『岩波古典大系』なんかでは仮名をふって、ありますが、この「うちつくに」は、大和国のことらしく三輪山近辺のことらしいのですが、“ここへもう置くわけにはいかん”と。そこでその「情願(じょうがん)に随(したが)い」、これは岩波古典大系の「読み」で読みますと、「その情の願いのまにまに」つまり“彼等の望む通りにしてやれ”、そして「邦畿(ほうき)の外に班(はべ)らしむ」、すなわち“この都の地の外にやってやれ”という詔勅が出て、その結果、蝦夷を播磨・讃岐・伊豫・安芸・阿波、この五国に配置し、それで現在、ここで佐伯部(さえきべ)という連中がいるが、彼等の祖先となった。つまりその蝦夷の子孫が現在の佐伯部である、と、こういう文章がある。
これをですね、戦後史学がはなばなしく取りあげて、“これはどうもこの記事は正しいんじゃないか。津田左右吉は全部否定すると言ったけれども、一応全部否定したとしても、それは原則論である。具体的にはウソばかりではないんであって、例えば、この記事なんかは、かなり信憑性があるんじゃないか”。何故かと言えば、和名抄その他でみますと、佐伯氏というのが瀬戸内海沿岸におると。たしかにいるといえばいっぱいいますよ。わたしが子供の時分にいた広島県に佐伯郡なんてありますしね、淡路島の一村全部、佐伯なんてとこあるようですね。
これは今の話ですが、学問上の議論の場合は、和名抄とか、そういう古い時代の佐伯氏の分布が、この五国にほぼ一致している。全部ピッタリではないけれど、ほぼ一致している、こういうところをみても“この話は大体信用できるんじゃないか”。ということになると、“この段階で、天皇家が蝦夷を討伐したということ、このことは大体承認していいんじゃないか”ーーこういうふうな議論に使われていくわけですね。
そうすると当然、古墳時代に、天皇家は東は関東、おそらくは東北にかけて位のところを支配し、一方では、朝鮮半島に出兵して、九州までも統一下に入ったんだと。だから四・五・六世紀、古墳時代というのは、近畿天皇家は日本列島の大半を、東北地方の北半分位と北海道は別にしましても、関東から東北の南端位のところは支配下においた、こう見ていいという形で国家統一論の骨組、建築がなされていたわけです。
もちろんこれだけじゃありませんけれどね。この話も重要なひとこまとして使われた説話なんです。だからプロの学者は、あぁ、あの話か、あんな誰でも使用済みの手垢のついた話を、何でそんな新しい話みたいに、古田は持ちだすのかと、もし聞いたら思われるだろうと思います。わたしはそんなに新しい、手垢のつかない史料なんてのは抜き出す能力はないわけですけど、そういう古い史料を、わたしの極めて、岡目八目の素人の目で、率直に疑い直す、というしか能はないわけでございますが、わたしはこの話を読んで、ハテナと疑いを持ったんです。この話自身、わたしには率直に言って非常にへんてこなものに感じられたんです。
と言いますのは、第一倭建命が征伐をして、何人かの捕虜を連れて帰った、という話ならわかりますけどね、瀬戸内海周辺にぐるっとバラまくといったらかなりの分量ですね。そういうのをゾロゾロおびただしく連れて帰るというような、そういう感じじゃないですね。あの倭建命の物語みましてもね。それが大群衆を、ゾロゾロ捕虜にして引張って帰ったのかって、これが素朴な最初の疑問ですよ。 
“瀬戸内海定住”への疑問
次にはもっとはっきりした疑問としましては、倭建命は能褒野(のぼの)という所で死にますわね、三重県の辺で死にます。でその後、伊勢の皇大神宮までは帰りついてはいないわけです。それだのに、伊勢の皇大神宮へ奉納したってのは、そりゃ代理に頼んで奉納さしたっていえば理屈はつくけどですね、何となくピンとこない感じがわたしにはしました。
次に、そんな沢山の蝦夷を置いといたら迷惑したってのは、そりゃ迷惑するだろうと思いますけども、それで全部を大和へ連れていったというのも、これもまた大変な話だと思いますけれどね。そりゃ連れていくのはいいとしましても、三輪山のそばにいさせ、彼等が自由勝手に三輪山の木をことごとく伐り到した、と。多少の誇張があるにしましても、あの辺の木を全部伐り倒して騒いだというわけなんですね。これ、果してそんなことが出来るだろうか。わたしなんか近畿で大和の周辺におりまして、三輪山近辺にも行くことがよくあるんですが、なんか、そんなことか出来るような気がしないんですよ、古くから大和の中でも最も神聖な山の一つですからね。
そりゃ神聖なもののそばに、賎しい者を置いて何とかさせる、というのは、これは有り得ることですよ。神宮といえ、陵墓といえ、これは有り得ることですがね。しかしそれは、あくまで彼らは捕虜として、役民としているはずであってね、それが神聖な、山自体が神になっている、その神自身をね、勝手に全部、木を伐り倒してしまったという、そんなことが果してできるものか。ちょっとわたしには出来るような気がしないんです。そりゃ今の“そんな気がしない”というのは、現代の人間の愚かしい主観にすぎない、本当は昔は出来たんだと、ま、おっしゃる方がいるかも知れませんけど。ま、これも決定は出来ませんけど、何となく奇妙だナ、という感じを持ったこと位は、皆さんも御理解いただけると思うんです。
それから一番おかしいのはね、天皇が、“もう仕様がない”と、“もうお手上げだ”と、で“彼らのーーつまり蝦夷のーー願いのまにまに”ですね、つまり漢文を正確に読んでも意味はちがいませんが「其の情願に随い」つまり“彼らの希望通りに、もう彼等の行きたい所に行かしてやれ、ここの都の地にいなくてよろしい”と、そういうことを言ったというんです。そりゃ手をやいて、こういうことを言うってことはわかりますよ。その結果がおかしいんです。その結果、瀬戸内海へ彼等が住むようになったと。蝦らは彼等の希望で“瀬戸内海へ住みたい、あそこへ一回住んでみたかったんだ”と、皆希望をだして、全員がそこへ住みついたっていうことになるんですよね。
わたしは、これは、なんぼ昔と今と人間の人情が違うったって、あり得ることじゃないと思うんです。もし彼らが思うところに行けと言われたら、彼らは当然、故郷へ帰りたいですよ。それが関東であれ、東北であれ、当然故郷へ帰りたいと言うのが当り前で、それが彼らがこぞって、“もうわしらは故郷はいやです、どこか暖かい所で暮したいです”なんていってね、みんなが瀬戸内海に住みついた、なんてね。これはオトギ話にしても、あんまり出来のいいオトギ話ではないと、わたし思うんです。人間の人情をね、人間の心を無視しすぎている。
大体日本人なんて、何十年日本列島を離れていても、晩年にどこへ行くかっていうと、イデオロギーは別にしても、日本へ帰りたいっていう、そういう人種みたいですからね。それを蝦夷がそんなことを、全員が全員、言うなんて、わたしにはユメ・マボロシとしか思えないんです。率直に言いまして。これは岡目八目、素人だと、学者に言われればしようがないが、わたしにはどうもそういう疑いが生じて仕方がなかったんです。 
「中国」とはどこを指すのか
なお、もう一つの実体をもった疑いを申しますとね、ここで天皇が、もうこんなに騒ぐんなら「中国(なかくに)」に住まわし難し、と「住まわしめ難し」といってもいいんですか、こう言っている中国(ちゅうごく)というのを「うちつくに」とよんでいる。これが、おかしいんです。
わたし、『日本書紀』をみてて、チラチラ出てきたのを記憶してまして、そして調べてみますと、たしかに他にも「中国(ちゅうごく)」という表現は出てきます。「葦原(あしわら)の中国(なかくに)」というのは、これは神話時代で、話がちがいます。「葦原の中国」だから、ただの「中国(なかくに)」とはちがいますからね、これは別だと。それは例の博多湾岸近辺だとわたしは思ってるんですが。これは表現も別です。
ズバリ「中国(なかくに)」というのが、他に若干出てきます。一つは文字通り、中国(ちゅうごく)の事を言っている。チャイナの中国のこと。これは要するに、中国(ちゅうごく)の故事をひくところで、これは文字通りチャイナの中国、これは本来の用法ですね。三国志でも出てきます、中国(ちゅうごく)という表現でね。夷蛮の地に対して中国、これは全然別の用法です。
あと二つ出てくるのが、これは雄略紀だったと思いますか、朝鮮半島との関係のところで出てくるんです。任那日本府とか、ああいう類の前後のところですがね、出てくるんです。そこでは、“新羅なんかが、中国(ちゅうごく)に対して、こういう態度をとっている”という、その中国とは、自分の国のことを天皇が、言っているわけですね。
ところが、わたしの立場から言うと、朝鮮半島関係の記事ってのは、実は九州王朝と百済・新羅との関係の記事を、全部移しかえて近畿天皇家のものにしているんだ、という、『失われた九州王朝』で論じた、それに当る史料のところなんです。これは、それ自身として非常に面白い問題を含んでまして、と言うのは、ここでは明らかに、この「中国(ちゅうごく)」はメイド・イン・ジャパンの用法なんです。つまり日本側のことを「中国」といっているんです。ところがこの場合大事なことは、日本側のことってのは、日本側の天皇の支配下、全体を「中国」と言っているわけです。
ということはですね、例えば、本場の中国(ちゅうごく)で使う場合も、「中国(ちゅうごく)」といったら、夷蛮の地ではない、あの中国本土全体です。ま、中国本土自身は時代によって広い、狭いあるでしようけど、大体において、中華の領域全体が「中国」でして、例えば、洛陽近辺だけを「中国」と呼ぶ用法はないんです。
同じく、雄略紀に出てくる朝鮮半島関係で使っている場合も、同じことで、その都の部分だけを「中国(ちゅうごく)」と言っているわけではなくて、「我が国」という意味で中国を使っているわけです。これは中国における「中国」の用法と同じ用法、メイド・イン・ジャパンの用法なんです。
わたしは、これは面白いと思うのは、わたしの考える「九州王朝」では「九州」という言い方を使っているわけです。中国では「九州」というと、まさに天子の支配する直接の支配地、といいますか、夷蛮の地ではない領域を「九州」と呼んでいるわけですね。それであの島を「九州」と呼んでいるんですから。近畿天皇家があの島を「九州」なんて名をつけるはずがないわけです。国が九つだけなら「九国」でも「九邦」でも何でもいいんですからね。「九州」という、中国古典でも有名な天子を原点にする大義名分用語を、あの島につけるわけがない。あれをつけたのは、やっぱり、中心に天子をおく用語ですからね、あれは、それのメイド・イン・ジャパン版ですから。だから、天子はあの「九州」の中にいる、というわたしの一つの論証、補足的な論証になっている間題なんです。
それと同じ考えからいきますと、やはりこのメイド・イン・ジャパンの「中国」という用語を使っていて当り前なんですね。ということで、この点は、この点で面白いんですが、面白い話はそれだけでおきまして、今大事なことはこの雄略紀の二つの例でも、天皇の領域全体を「中国(ちゅうごく)」と言っているのであって、ーー「なかくに」と読むにしても、ーー大和なら大和だけを「中国」という用例では全くない、と。これは『日本書紀』の雄略紀をごらんになったらわかりますが、それ以外には考えようがないわけです。
ところが、それに対して、ここの場合は全然違うわけです.天皇家の支配領域全体が「中国」だったら、瀬戸内海も「中国」になりますからね。「中国に住まわし難し」と言って、瀬戸内海へ置くってのは話がおかしいですわな。だからせいぜい大和か、三輪山の近所だけを「中国」と言っていることになるわけです。
こんな用例は他にないわけです。だから、「用例」という実証的なーー単語と意味をきめるには、やはり用例からいかなきゃいけないわけですが、ーーそれからみてもおかしい。だから素人の感覚としておかしい、というだけじゃないんですね。
なおこれを、より厳密に言っておきますと、「中洲(ちゅうしゅう)」「中区(ちゅうく)」という表現は、また別です。「うちつくに」とか何とか、仮名をふって従来読んでますからね、振仮名で読んでいくと、皆一緒だ、なんてやっていると駄目ですがね。漢字の、字の表現を厳密におさえていきますと、「中国」という表現は、大和をさす用例としては出てこない。ということが、わたしの得た結論なんです。
そうすると今の、この話がおかしくなってくるわけですね。
ということで、わたしは、これはどうかなァと、いろいろ考えあぐねた時期があったわけでございます。そこで一つ、皆さん御承知の問題を出してみたいと思います。 
『古事記』と『日本書紀』の違い
『日本書紀』の景行紀ってのは、これはかなり用心しなけりゃいかん。『日本書紀』全体が用心しなけりゃいかんということが言えるわけですがね、景行紀ってのは特にはっきりしている巻なんですね。それはわたしの『失われた九州王朝』をごらんの方はご存じだと思いますが、そのことを思い出していただけたらいいわけでございます。
例の、西の方の話として、景行天皇が九州遠征をやった、という話が大きく書いてあるんです。周芳の娑麼(さば)から出発しまして、今の豊前から豊後、そして鹿児島湾のそばへ行きまして、そこを討伐すると、日向まで一回帰って、それから今の有明湾のそばを帰りまして筑後の浮羽まで来てストップ。そういう形で書いてある。で後、日向から舟で帰り給う、というふうになっているわけですね。ところが、これがわたしには非常におかしいものにみえたわけです。しかし、これもいったんを筑紫を原点として考えると矛盾がことごとく解消する(『盗まれた神話』参照)。つまり、筑前の前つ君が「筑紫と肥後」を“安定した領域”として、九州の東岸・南岸を平定する、九州一円平定譚だったわけです。それを「景行天皇」を主格にして“すりかえた”もの、それが景行紀の記事だったわけです。
ということで、『日本書紀』は信用しがたいと、ま、全部が全部信用しがたいわけじゃないでしようけども、少なくとも信用しがたい。こう倫理的にっていうんですかね、書物を書く人間として許されない手口、特に歴史家としてなおさら許されない手口が、手法が、行われている、ということを指摘したわけでございます。
こういうような経験がございました。で、この場合特に大事なのは、『古事記』には全く、これはない、ということです。神功の場合もないし、景行の場合もない、その、ない方が正当であった、と。で、『日本書紀』がウソ、というか、資料を盗んできてというか、糊と鋏みたいなもんで、つけ足していた、ということになってきたわけです。これについても現在まで、反論はまだございません。
と、やっぱり、わたしの史料批判の経験からしますと、東の場合も、同じような問題があるのじゃないか。
つまり、最初に申しましたように、『古事記』と『日本書紀』で非常に違う。『日本書紀』では、常陸から、場合によったら東北あたりまで蝦夷を討伐してまわったように書かれている。ところが『古事記』ではそうではない。たしかに東京湾を渡ったけれども、後、書いてないということは、常識的に考えると、あんまりうまくいかなかったんじゃないか。そこから先、うまく進めなかったんじゃないかと。進んで、うんと勢いよく征伐したり、うんと歓待されたりしたら、それを書かない、ということの方がおかしい。だから、そこから先はあまり進むことは出来なかった、『古事記』では理解すべきもの。それに対して『日本書紀』では、非常に調子よく、ぐるぐるまわっているのは、はたして本当だろうか。先程の、西の教訓からすれば、東もですね、同じことがあるのじゃなかろうか、ということがわたしの第一の問題点であったわけです。
そして、それにひっかかってきたのが、さっきの蝦夷を捕虜にして帰って、瀬戸内海へくばったという奇妙な話。これを一体、どう考えたらいいかと、ああでもない、こうでもない、考えあぐねていたわけでございます。途中のごちゃごちゃしたわたし自身の内部の経過は、ここでお話する必要はございませんけれども。 
伊勢神宮と鹿島神宮
そのうちに、ふと気がついたことがございます。神宮に蝦夷を献上した、とあるけれども、この神宮というのは、伊勢の皇大神宮だというのが、従来の通り相場。たしかに『日本書紀』をみれば、何となく、そこであるように出来上っているわけです。「倭姫命」なんて出てくると、やはり伊勢神宮。これが伊勢神宮ではないのではないか、こう考えましてね、関東あたりに神宮はないかな、とみてみますと、御承知のようにございますね。二つございまして、鹿島(かしま)神宮と香取(かとり)神宮かある。神社名鑑を繰っててーー神社関係の方なんかは常識なんてしょうがーーわたしなんか、やっと気がついたんですけども、神宮ってのはめずらしいんですね。神社が勝手に、神宮って言えばいいってものじゃないらしいですね。神宮といえる神社はきまってるんです。関東では鹿島、香取、それから熱田神宮でありますね。伊勢神宮、それから住吉大社も神宮というというんですが、現在はあまりいいませんけどね。そのくらいで、非常に限定されているんですね。あとはみんな神社なんです。細かく言うといろいろ問題はあるでしょうけど、神宮というのは案外少ない、ということに気がついたわけです。(石上神宮も。)
そして関東では、鹿島、香取。そこでですね、その鹿島か、香取かに関係することではないのか、というふうに考えてみたわけでございます。そこで例の常陸風土記というのが出てきました。これは分析すると面白いのですが、今日は全体にはまいりませんけれども、そこに、いくつか、ヒントをなす話が出てまいりました。
というのは、そこに建借間命(たけかしまのみこと)というのがいまして、これは常陸の国造の先祖だというので、水戸市内にその墓だといわれている前方後円墳がございますね。この間も行って見てきたんですが。
その建借間命(たけかしまのみこと)の話としまして、土地の蛮族ーー蛮族は佐伯、っていうのはどうも蝦夷に関係するようですが、それからクズと呼ばれているんですが、土蜘蛛とか、ーーそういう連中を討伐して、今の行方郡ーーこれは鹿島神宮のすぐ隣になるのですが、ーーそこへ凱旋してくる話が、常陸風土記にでてまいります。要するに、常陸の国造の、元祖である建借間命が、常陸一円を統一する、その話の一端が出てきている、それが鹿島神宮の近くへ凱旋してきているわけです。
鹿島神宮は、御存知のように建借間命が関連しているわけですね。「かしま」という同じ名前を持っておりまして、字はえらい違いますがね、これは当て字でございますのでね。で、その常陸の国造などの豪族、英雄たちが、鹿島神宮のところまで支配を及ぼしていた、ということが知られているわけです。だから、そこのところに凱旋してきているわけです。そういうことが、一つあります。
それからですね、もう一つは、建借間命の本拠地は、現在の水戸市近辺でございます。そこは昔、何と呼ばれていたか、というと「なかくに」と呼ばれていた。「那珂郡(なかぐん)」というのが現在ございまして、万葉なんかでは「仲国」と出てまいります。「なかくに」なんです。だから、建借間命の中心地は「なかくに」なんです。その「なかくに」が鹿島神宮のところまで、支配を及ぼしていたということが知られているわけですね。で、その鹿島神宮は、本来、建借間命と関係があるのではないかと、こう考えられているわけです。
そうしますと、「なかくに」という言葉が出てきた、更に、もう一つ、これに関連する資料としましては、意外なところから出てきましたが、『三代実録』これの清和天皇の貞観八年の正月にーーこれは、かなり有名な記事なのですけどもーー出てまいります。
それは、鹿島神宮の宮司が、ーーこの場合、もう当然、大和朝廷なのですがーー言上したと。陸奥の国、つまり東北地方ですね、大体、東北地方南部でしょうけども、“陸奥の国には、我が神宮の分社が沢山ある。で、その分社側に自分のところの奉納物を、お祓(はら)いでもして、分け与える、ということに代々なっていた。ところが近年ーー近年というのは、平安時代ですがーー近年、彼らがそれを断っている、受けつけないようになった。つい最近も、こちらが、そういう奉幣物を持って、東北、つまり福島県の方へ向った。と彼らは、国の境で頑張って、その使いを入れない、そこでしようがないから、その使いは、その持っていった奉幣物を川に流して帰ってきた。だから、こういうことじゃ困るから何とかしてほしい。”ということを訴えているわけでございます。
この史料は何を意味するか。わたし、考えますと、結局、鹿島神宮の分社が、東北地方の南半分に沢山あった、というわけです。これは何を意味するかと言いますと、はっきり言いまして、鹿島神宮を支えていた権力者が、東北地方の南半分、今で言えば福島県あたりですね、そこを征服、支配したってことですね。その征服、支配した証(あかし)として、鹿島神宮の分社をつくって押付けた。押付けたって、言葉は悪いですが、現地の人からみれば、押付けられた。現地の人ってのは、これは当然、蝦夷ですよね、この蝦夷に押付けた。
で、蝦夷たちは押付けられた鹿島神宮のお供えを貰ってきて祀る、祀るだけなら、簡単だと思うんですが、お代か何か取られるわけでしょうからね、やっぱり。で、それをやっていたんだが、鹿島神宮のバックをなした権力者が、力を失ってきたーー大和朝廷の時代になってーーそうしてくると、福島県あたりの部族が、その人達が、もういやだ、こんな鹿島神宮の下に入るいわれはない、と、こう拒否し始めている、というふうに、わたしは考えたわけです。
つまり、鹿島神宮をバックアップしていた常陸の権力者は、東北地方の蝦夷、当然、常陸国内にも蝦夷とか、そういう関係の部族も討伐もするでしょうけれども、今の東北あたりにも支配の手をのばす。そうすると蝦夷が支配の対象になってくるわけです。そして支配した結果、鹿島神宮の神々を押付ける、そういう状態が続いていた、ということですね。
現在でも福島県には鹿島神宮の分社が非常に多いようですね。栃木県に次いで多いようです。千葉県なんかよりずっと多いです。不思議ですけどね。神社の資料で、統計も出ているんですがね、ずっと多いです。現在でも、福島県だけじゃないと思いますが、東北南半に、かなり鹿島神宮の勢力があったとおぼしき神社が多いわけです。ま、そういうことを背景に語られている。 
常陸の話を換骨奪胎か
それからまた、もう一つの史料がありました。『三代実録』の引き続いてですが、嘉祥(かしよう)元年、鹿島神宮の宮司が、こう言うわけなんです。“元々我が神宮は遷宮をする時に、那賀(なか)郡の木を伐って運んできて、神社の材木にする習わしであった”と。“那賀郡には神領があって、神山があった、ところがそこまでは非常に距離が長い、宮を去る二百余里もある、だから鹿島神宮の近所に木を植えて、そこのを伐ることにしたい。”ということを、大和朝廷に、文書を送っているわけですね。その意味するところは、那賀郡というのは、例の常陸の国造の建借間命の本拠地です。その勢力の一端に、鹿島神宮はつかえているわけですから、鹿島神宮の木材は、本拠地の「なかくに」から持ってきて、それを使わせるという、そういうしきたりであった。ところがその後、勢力の変動があって、鹿島神宮と那賀郡との関係があまりなかった。現在、あまり直接ないようです。この前、鹿島神宮へ行って宮司さんにいろいろ親切に教えていただきましたが、もう現在、それはなくなって、近所の材木を使っているようですね。
そうなってくると、距離が遠いから、というのは名目であって、そういう勢力変動の結果、近所に林を作りたい、とこう言っている史料なんですね。でこれは、平安時代の話ですが、それまでは、わざわざ遠くから木を運んでいたわけですね。
ということは、伐る人夫が必要、運搬する人夫も必要だ、ということなんですね。そうすると皆さん、わたしが言いたいことは、おわかりになるでしょう。この話はどうも、常陸の国造権力者を中心にした話なんですね。常陸における統一権力を有するためには、蝦夷との戦いが必要になってくる。そして鹿島神宮をバックにして、武器とイデオロギーとで支配したわけでしよう。その話を換骨奪胎して、天皇家を主語にして取替えたのではないか、ということなのです。
蝦夷と「なかくに」の権力者と戦う。で、連れて帰って鹿島神宮に奉納する。ところがここに置いちゃうるさくてかなわん、で、「なかくに」へ連れていく。その連れていったのは、ちゃんと目的があるので、この神山の木を伐るために連れていってるわけですね。だから別に、勝手気ままに山の木を伐ってまわったというんじゃなくて、ちゃんと目的のために伐らされた。だからその意味じゃ非常に役に立っているんですが。しかし現地の人達は、差別、というか馴染まない。それで文句が出た。そこでこんどは、もうこの「なかくに」には住まわせることは出来ない、だから彼等の願いに応じて帰らせてやれ、と。で当然、自分達の国に帰らせてやっている。そういう話としますと、非常にスパッとはまるわけなんです。
しかも、御諸山(みもろやま)というのがありますが、これは御存じのように、御諸山は全国に沢山あるわけです。言ってみれば、固有名詞ではなくて普通名詞。早い話が、大和の場合でも、固有名詞は「三輪山」ですね。それを神の山だという人で御諸山といった。岡山県にもみもろ山はありますしね、各地にみもろ山という山はあります。要する神聖な山ということです。
ところがですね、水戸のすぐそばに、朝房山(あさぼうやま)というのがありまして、これは『常陸風土記』に出てくる有名な話で、哺時臥山(くれふしやま)ということですね。そこに、ヌカヒコ、ヌカヒメという兄、妹がいた。で妹はある客人と交わって子供を生んだ。その兄、妹は室(むろ)に住んでいた。その室で子供を生んだ、子供は蛇であった、この蛇が非常に変った能力を発揮する話、ーー最後に地域の人が蛇のいる室を祀って、今でも伝えているという話が、『常陸風土記』に非常に印象的な話として出てまいります。これは室があって、神の山として祀っているんですから、当然、「みむろ山」であるわけですね。
で、今のようにこの蝦夷を、「御諸山」のそばに置いた。この水戸の「御諸山」のそばに置いたと考えられないか。で神の山、御諸山自身が神の山であってもいいわけですし、この辺の神領・神山と考えてもいいんですが、この材木を伐らした。しかし騒いで困るから、もう帰らしてやれ、というんでね、何も無理もない、コンバクトな話になっているわけです。
ですから、これも証拠、というとなかなかむずかしいわけですが、わたしには常陸における話としたら、非常にナチュラルで無理なく理解できる。しかし、天皇家を原点に考えた場合には、あまりにも無理が多すぎると、第一、『古事記』にそれが全くないではないか。『日本書紀』がつけ加えたと考えるべきではないかと、こういうふうに考えるわけです。 
『日本書紀』の編み方
なお、もう一つ言いますと、戦後史学でされたんですが、瀬戸内海に佐伯氏がちゃんといると。そういうところからみると、今の話は本当じゃないか、という形の論証。といいますか、しかし、わたしは、これはちょっと、盲点があるんじゃないかと思います。
と言いますのは、五つの国をみて、何かお感じになりませんか。播磨・讃岐・伊像・安芸・阿波、どこか、肝心のある国が抜けてませんか。つまり、吉備が抜けているんですね。これはおかしいわけですね。瀬戸内海へ配るのに、吉備を忘れて配るなんて、ちょっとわたしには考えにくいんです。わたしは、むしろこの瀬戸内海の佐伯氏というのは吉備を原点とする佐伯氏ではないかと思う。
弥生時代においては、平剣(ひらけん)が、瀬戸内海領域に分布しておりますが、あれの中心が、不思議なことにといいますか、始めわたしは、吉備が中心かと思っておりましたら、分布図を書いてみましたら、全然違うんですね。あれは讃岐が中心なんですね。で鉄も、讃岐に出てきますね、弥生時代の鉄が。というんで、弥生時代の平剣は、どうも讃岐が中心のようなんですね。
ところが、その後、古墳時代になりますと、これはもう文句なしに、吉備が、あの巨大な古墳がありますのをみても、吉備が中心でございます。この十一月に、朝日旅行会で、吉備・安芸の旅をいたしますがね、それを巡ってみれば一段とおわかりになると思いますが、もう、これはなんたって、瀬戸内海領域で、古墳時代においては、吉備が一大中心である。
そうすると結局、吉備は吉備だけを支配しておった時代の中心ではなくて、瀬戸内海領域を支配していた、その中心が吉備である、とこう考えなくてはならないと思うんです、古墳時代には。その支配された方に、佐伯氏がいるわけです。それは吉備に支配された、佐伯氏。だから、かつては讃岐の平剣の神かも知れませんね。そういう形で理解されるべきものだと思うのです。そう考えれば、これも非常に無理がないと思うんです。
その話を両方くっつけたのが、『日本書紀』のお話の作り方です。吉備中心の話に、常陸の話を持ってきて、糊と鋏でくっつけて、天皇家がズーっと始めから支配したような話に仕組んでるんですね。
これは、全部を松本清張さんや、司馬遼太郎さんみたいな作家がいて、幸いなことに、頭で全部作って書かれたら、これはもう、なんにも、こちらが反証もあげようもないんですが。そこに独特な手口、というと言葉は悪いんですが、別に悪しき意味で使うんじゃないんですけどね。わたしにも、わたしのやり方の手口がございますね。今お聞きいただきましたように。やっぱり人間にはいろいろ手口がある。『日本書紀』の編者にも、やっぱり手口があるんですね。
自分が勝手気ままに、お話をフィクションで作るというやり方は、どうもしてないようですね。それぞれに現地にあった話を持ってきて、入れ替えたり、何かして作りあげるという、そういう手口を示しているようでございます。ま、そのために、こちらが分析して、より自然な形における、という幸せがあるわけでございます。
この問題は、先程も申しましたように、こういう類の問題の入口でございます。といいますのは、今の様な分析にたちますと、『日本書紀』の中で、他の蝦夷の話、例えば、上毛野君(かみつけぬのきみ)の蝦夷討伐譚なんでございますが、これも天皇家が命じたような形で書いてありますけれども、やはり一度切りはなして、上毛野君が、関東において支配権を拡大していく場合、当然、蝦夷との関係が問題になるわけでして、その場合の対象としての話を、天皇家が命じてやらせたように作り直しているんではないか。というようなことで、そういう目でみてみると、『日本書紀』の中に、かなりいろいろ資料が含まれているんではないか、ということになってくるわけでございます。
さて、そういう手口がわかった上で、もう一回、西の九州をみると、ということになりますと、とても面白い九州王朝の実体論みたいなものが、できつつあるのでありますが、これはまた来年春、内容を充実して御報告できれば、うれしいと思っております。どうもありがとうございました。 
 
九州王朝の風土記

 

本日お話し申し上げる点は二つのテーマに分かれておりまして、前半は四・五十分ぐらいかと思うんですが、これは、従来私が申しておりました論証、いわゆる九州王朝というものの存在をめぐって、或いは邪馬壹国の存在をめぐっての論証に、新しい決め手となる論証で、再確認するというわけです。結論は従来と同じで、論証方法が私の新しく発見したと思うものである。こういうテーマが前半の四・五十分でございます。そして後半の方は一時間余りになると思いますが、今まで私自身も全然思っていなかった新しいテーマ、九州王朝にも風土記が存在したんだ、天皇家の風土記に先だって存在したんだという非常にこわい様なテーマに挑戦してみたい、これが後半でございます。そういう段取りでお聞きいただければ幸いと存じます。 
「闕の論証」ー邪馬一国、国名間題の決め手
まず前半のテーマでございますが三つの確証という風にプリントの方で書いておいたものでございます。この第一番目は「闕の論証」という名前をつけてみました。これは実は一昨年の終りから今日まで、足かけ三年、三木太郎さんという方と論争しているわけでございます。場所は京都新聞でございますので大阪のほうの方は御覧になる事はないと思いますが、京都新聞が意欲的に繰り返し繰り返し論争を扱ってくれています。三木太郎さんは北海道の駒沢大学の教授をしておられる方なんですが、原稿を寄せてこられると、それに私が又、お答えするという形でやってきております。でも中にはいささか感情を交えた非難めかしい事も無いではないんですが、それは問題外としまして、論争しておりますと、私自身も気がつかなかった新しい局面が出てきて、非常な収獲を得るという経験を最近いたしました。それは今年の(一九八一年)四月一日に載った三木太郎さんの論文がもとであります。
それに対して私の方で答えた論文が四月七日の京都新聞に載ったわけでございます。
先ず、前からのわたしの論点を要約させていただきます。いわゆる「邪馬臺国」の「臺」は神聖至高文字である。だからこんな字を陳寿(『三国志』の著者にして魏晋朝、正確には西晋朝の史官)が使ったはずはない。なぜなら中国人が言う夷蛮の固有名詞に彼らは好んで卑字を当てている。例えば、卑弥呼の卑がいやしいという字ですし、又邪馬壹国、或いは邪馬臺国の邪も、よこしまという字である。馬も人間や国名に当てるのにはあまり上等な字といえない。「ヒ」に当たる、「ヤ」に当たる、「マ」に当たる音の漢字は幾つもあるにもかかわらず、わざわざこういったあまりイメージのよくない卑しい字を当てているのが事実である。これは、中国人の当時の中華思想、大国主義というんでしょうか、その立場から周辺の夷蛮は中国人からみると、格下でいやしい蛮族であるというイメージが基本になってこういう字が当てられているということは疑いない事と思う。これは私が別に初めて発見した事ではございません。従来からいわれている事を、再確認したにすぎませんが、そうするとその中で「ヤマト」という音を表す場合でも、「ト」に当たる漢字は幾つもあるんだからその中で、天子の宮殿、さらに天子その人を意味する「臺」という字を当てるはずがない。こういう事が私の論旨であることは、私の『「邪馬台国」はなかった』をお読みいただいた方には先刻御承知でございましょう。その端的な例としましては卑弥呼の場合には、「天子に詣(いた)らんことを求む」という形で書いてある。それに当る個所が次の女王壱与の時には、「臺に詣る」という風に書いてある。これは同じ意味と考えざるを得ない。そうするとやはり「天子=臺」という風に倭人伝の中でも使っている(『三国志』全体でもそうですが)ということが疑えないということを述べたわけでございます。さらに魏朝の高臣である高堂隆という人が「魏臺雑訪議」という本を書いておりまして、ここで魏の天子、明帝の事を、「魏臺」と呼んでいる。これも「天子」その人を「臺」と呼んだ明確な証拠である。こういう風な事実からしますと、先程いった「卑字の大海」の中で、こういう神聖至高文字「臺」を使うのは有りえないというのが私の論点でございました。これは先刻御承知の事を復習めいて申させていただいたわけです。
ところがこれに対して三木太郎氏は、それは違うと、その証拠にあげられた例が、非常に面白いわけですね。それは、「闕」という字の意味です。「闕」という字は三国期をさかのぼる漢代においては「天子の宮殿」を意味する言葉である。さらには「天子そのもの」をもさしていた。例えば、「闕下に詣る」という表現、これは「天子の所に詣る」という意味の時に「闕下に詣る」となるわけです。「闕」というのは本来は“天子の宮殿の門”をいうわけです。実際に門の下に天子がいるわけではないんですが、天子の前に拝謁を願うことを「闕下に詣る」と表現しているわけです。又天子を表すのに、「魏闕」(この魏は国名ではなくて、“はるかに大きな”というのが字の本来の意味)、“はるか大きな闕”という言い方で天子をさす言い方が漢代に使われているわけです。むしろ三国時代の「魏臺」というのは、「闕」に替えるに「臺」をもってしたということでございます。
三木氏は私との論争の中でそういう事実は確認しているわけで、その上にたってですが、鮮卑というグルーブがございますね。いわゆる「夷蛮」です。その鮮卑の大人、倭人伝にも出てきます大人、豪族ですね。その大人の名前、人名(固有名詞)を表記するのに「闕」の字を使っている例がある。つまり具体的には「闕機」という人名が出ている。“これは古田氏によると「閾」は「神聖至高文字」であるはずじゃないか、ところが「夷蛮」の人名に使われているではないか”、という論点が四月一日の京都新聞の反論の最後のところに決め手の様にして載ったわけです。
これは私は非常に鋭い議論だと思うんです。今まで色々論争、榎一雄さんとか、尾崎雄二郎さんとか、いろいろな人達とやってきましたが、大抵不思議と「邪馬台国」の国名問題ばかりで、それが物足りないんですが、ところがその国名では今度の三木太郎さんのが、最も鋭い論点ではないかと思ったわけです。皆さんもお聞きになって、成程と思われるでしょう。
ところが実はこの最も鋭い論点の裏に、私にとっての決定的な証拠がひそんでいるのが見いだされたわけです。といいますのは、三木さん、これがどの資料にあるか明記していらっしゃらないので、こちらで調べてみたら分かりました。これは『三国志』ではないのです。だから何処の資料と書かなかったのかもしれませんが、どこにあるかというと、王沈の『魏書』の中で、『三国志』とは本も著者も違うわけです。王沈の『魏書』の中にでてくる、鮮卑の人名なわけです。王沈の『魏書』の全体は実は現存しておりません。なんでそれが分かったかといいますと、三世紀にできた『三国志』には五世紀の裴松之という人が注釈をつけた。略して裴注。現代われわれが知っている「三国志」はみな、この裴注付き、つまり、裴松之が注を付けた形の『三国志』を使っている。紹煕本とか紹興本といった形で使われているのがそれでございます。その裴松之の注というのは、自分の意見も若干ございますが、殆どが、五世紀の時に実在していた、いろんな本、歴史書が主ですが、それを『三国志』の各条の所につけているわけです。いいかえますと、扱った事件が同じ事件である、或いは同じ人物であるという時に、『三国志』でこういっているが、だれだれのこういう本では、同じ事件をこう書いてある。その人物について、こう書いてある。対照、コントラストさせる形で注をつけるわけです。だから非常に客観的な手法である。もちろん選んで、選択して付けるというのには、裴松之の物の見方、考え方がバックにあるでしょうが。しかし話そのものからいえば対照の例をそこに付けるという中国伝来の客観的な注のつけ方なのですね。時として自分の意見があることもございますが、大体はそういうやり方をしている。その裴松之注に沢山の、おびただしい本が使われている。その殆どの本が、現在は伝わっていない。だから、非常にありがたいわけですね。そこに引用されているものによって、現在は亡んでしまって、伝わっていない本の部分を知ることができる。そういう裴松之が引用した本の中で、一番沢山引用されているものが、実は王沈の『魏書』でございます。この点は私が朝日新聞社から出しました『邪馬壹国の論理』という分厚い本の中に、尾崎さんらと論争した時と思いますが、『三国志』裴注で一番沢山引用された本のベストテンだか何だか挙げた表を書いてありますが(一六〇頁)、それを御覧になっても分かりますように、一番先頭に出ております。だから今問題の『三国志』の東夷伝の中の鮮卑伝、これは倭人伝より少し前でございます。この鮮卑伝の所に裴松之注として、王沈の『魏書』が引かれている。そこに出てくる鮮卑の人名に「闕機」というのがあるわけでございます。この王沈の『魏書』は、『三国志』より少し前に書かれたもので、陳寿が王沈の『魏書』を見ている可能性がある、というより、間違いない。なぜかといいますと王沈が死んだのは、魏から西晋に禅譲の形で国が移りましてまもなく、西晋の初め頃死んだようですね。言い換えますと壱与が貢献してきた頃、王沈は死んでるんですね。陳寿は、呉も滅亡した後、『三国志』を作りますから、王沈と陳寿は同時代人ということもいえますが、しかし明らかに王沈の方がちょつと前の世代に属するわけでございます。王沈は魏朝の人でもあるし、西晋の人でもあるわけですから、同じく魏朝の時に青年時代を、蜀で過し、蜀が滅亡して、洛陽で魏を継いだ西晋の史官になった陳寿からみますと、まさに直前の世代の人であるという事がいえるわけでございます。いってみれば、現在の私からみて、戦前に著書を書いていた人という、そういう感じでございます。
そこで問題は『三国志』の鮮卑伝に裴注が付いて、王沈の『魏書』が引用されている。そこに「闕機」という名前が出てくるわけです。ということは、いいかえますと、『三国志』の本文にも、鮮卑伝にも同じ人物が出てはいないかという事です。で、実は出ているわけです。すると、そこはどうなっているかと申しますと、「闕機」の「闕」が、「突厥」の「厥」に書いてある。“門がまえ”の「闕」でない。「厥」に換えられているわけです。ということは、この「厥」は『書経』なんかで古く使う場合は、「其の」という代名詞の字なんです。これによく出てきます。これは三世紀からみても古い書物なんです。この「厥」に書き直している。書き直しを裏づけますことは、前後が全く同じ漢字表記を使っている。王沈の『魏書』は、「弥加」、弥は卑弥呼の弥ですね。「闕機・素利」となっております。ところが『三国志』の本文では順序が変わっておりまして、「素利・弥加・厥機」と同じ人物が書かれている。そして「素利」も「弥加」も全く同じ表記で書かれている。「厥機」の「機」も同じ表記で書かれている。ところが、問題の「ケツ」だけが違っているわけです。
ということは、明らかに偶然というよりも、陳寿は『魏書』を見ているわけですから、この“門がまえ”の「闕」にかえて、突厥の「厥」に陳寿は直したと考えざるをえないわけです。なぜ直したか、ここは推察になりますが、おそらく間違いはないと思いますが、「闕」という字は漢代においては天子の宮殿、天子その人をさすのに使われていた。事実「三国志」の魏の初めの頃は、その「闕」が使われていたのではないかという感じがありますけれど、少なくとも「臺」が使われるまでは、「闕」が「臺」の役目をしていた。そういう字を曳蛮の人名に当てるのは不適切と考えて、前後はいじらずに、ここだけを替えたと考えざるをえないわけです。これに対して、『三国志』で使った「厥」の方は、意味の方からすると「其の」です。『書経』等の例です。
ということで、従来、私が『「邪馬台国」はなかった』でしたのは“推論”だったわけですね。卑字の大海の中で、天子をさす字を使うはずはない、しかも晋朝の史官で、下級官僚である陳寿がそんな事を、なんでするだろうか、他にいっぱい漢字があるのに、と。いわば、道理というか、理屈論だったわけです。実際に陳寿がそうしているのを、私が見たわけではないんですから。ところが今度の場合は、まさにそのケースのサンプルが出てきたわけです。ここで陳寿は、「臺」と同じく、少なくとも前の時代まで天子をさしていた字をぬき去って、「夷蛮」に不適切ならぬ字に替えている例がみつかってきたのでございます。そうしますと、『三国志』に関して議論しているわけですから、陳寿は一時代前の天子をさした「闕」さえも、「夷蛮」に使うのは不適当だ、表音に使うのは不適当だとこう考えた。まして、現在まさに、宮殿の中で使っている、「臺」という字、一言でいえば天子を意味する、そういう「臺」を夷蛮の国名表記に使うことは全くありえない。こういう非常にコンクリートなかたい証拠、というわけでございます。
この点、私は正直にいわせていただきますと“よかったなあ”と思ったのです。なぜかといいますと榎一雄・尾崎雄二郎さんらと議論している時に、王沈の『魏書』がさかんに出てきたんです。この問題ではないですが、例えば「壹衍[革是](いちえんたい)」。これは「壼衍[革是]」(『漢書』)を間違えたものだが『魏書』にある。だから中国の歴史書には間違いはありうるんだという議論がされた。ところが私は、“字は一般に間違わないなど”とは考えていない。あくまでも今は「壹」と「臺」が間題である。これが第一。“中国の歴史書は、字が間違わないんだ。”などという事を議論しているのではなくて、あくまでも『三国志』の「邪馬壹国」が間違いか、間違いでないかを議論しているんです。それを王沈の『魏書』を、裴松之が引いた形のものに間違いがあるかということ、「壹衍[革是]」が本当か「壼衍[革是]」が本当か、確証はいえません。むつかしいんですが、しかしどちらかが間違っている例が、王沈の『魏書』に関してあったからといって、だから『三国志』の「邪馬壹国」も間違いであるだろう、というような議論は、やはりおかしい。
壹衍[革是](いちえんたい)の[革是]は、革編に是。JIS第3水準ユニコード番号97AE
この『三国志』について議論してもらわなくては困るという事でして、王沈の『魏書』と『三国志』を一緒にしてもらっては困る。『三国志』において議論をすべきだ、という事を強調したわけです。これは先程いいました『邪馬壹国の論理』に載った榎一雄さんや尾崎雄二郎さんへの反論で出ております。そういう、ちょつと考えると潔癖すぎるようにみえた“『三国志』に問題を限るべし。”といったその立場がよかった。中国史書一般とか、魏晋朝あたりの話は、皆これに決まっているといったような議論をしていると、やはり正確ではなかったわけですね。このような議論が出てくるのを予想したわけではないですが、事の道理から『三国志』というものについて厳密に議論するということが必要です。その時代全般論も一応はいいですが、いよいよとなったら、『三国志』という、その文献で勝負をすべきなんだという事をいっていてよかったなあという感じを持つわけでございます。
ここでちょつと余分なことを申しますと、王沈の場合は、“「臺」という字を果して夷蛮に使ったか”といいますと、これは分からないですね。つまり王沈は“「臺」だって表音で使うんだから、ちっともかまわない”という一種の純表音主義者であったかもしれない。或いは“「闕」は過去の王朝の話であって、現在は「臺」を使っている。現王朝に使っている「臺」を、夷蛮に使うのはふさわしくないけれど、前の王朝に使った「闕」は、使ってもかまわない”という、立場かもしれません。そこのところは引用例の数は多いけれど、断片的な引用しかないので、そこまでは分からない。しかし陳寿に関しては、“前の王朝に使った「闕」ですら、夷蛮の表音表記に使うのをさけている。まして現在、天子をさして使ってる、倭人伝でも使っている「臺」を、表音表記に使うことはありえない。”この論証が成り立つわけですね。だから、仮にもし陳寿が「臺」という字にあたる音を、表音表記で使いたいとしましたら、ふさわしい字はいくらでもございます。たとえば、ちょつと簡単にみまして、今の「至」の入った旧漢字の「臺」ですね、これに“手ヘン”をつけますと「擡」、もう全然意味が違うわけですね。下に頭をつけますと、“擡頭(台頭)する”、“頭をもたげてくる”という意昧で、こうなると、天子の宮殿とは全然関係なし。手ヘンをつけた「擡」も、音はもちろん「タイ」です。音韻とも全く同じなわけです。これを使えば問題ないわけです。もう一つ例でいいますと、「臺」に“馬ヘン”をつけるわけです([馬臺])。そうすると音韻は同じだ、少なくとも広韻・集韻のところでは「至」が入った臺と同じ音韻としてあつかっているんです。その意味は“駕馬”、つまり“のろい馬”なんです。のろい馬なんかは「夷蛮」には非常に適切であろう、「邪馬壹国」に「馬」を使うくらいですから。こんなのを使ってもいいわけで、音韻上は同じであるというんですから、そういうのを使えばいいんで、それをわざわざ“単純に「盛土」の意味の時もございますから”とか、他の意味の場合にも使う事もありますからといって弁明しながら、日常使っている“天子を指す字”をあてる必要は、全くない、というのが私の結論でございます。
色々申しましたが、これは私にとって非常に嬉しい、「邪馬臺国」はやっぱり駄目だという、決定的な一つの論証ではないかと思うわけです。だから「いや、邪馬臺国はいいんだ」或いは「邪馬壹国でも邪馬臺国でも、どっちでもいいんだ」と、今後なおいおうとする方は、この問題について、今、私がいったことが“こう間違っているんだ。”という反証をあげずにいわれることは、無理なんではないかと、こう思うわけでございます。そういう意味で、長らく続いておった、邪馬壹国問題に対する決定的な反証が、三木さんのおかげで現われてきたということを皆さんに、御報告させていただきたいと思います。
それでは次のテーマに入らせていただきます。
[馬臺]は、馬編に臺。 
「衙頭の論証」 / 倭の五王間題の決め手
次は「衙頭(がとう)の論証」というものでございます。これは倭の五王、ご存知の讃・珍・済・興・武が近畿の天皇家の王者である。応神から雄略にいたる、その中のどれかである。応神・仁徳・履中、この辺から始まって、反正・允恭・安康・雄略にいたる誰かであるということは、私及び若干の人を除いては、「定説的」になっている、とこういってよろしいかと思います。
ところがこれに対して私は、それはおかしい。これは近畿天皇家の王者ではない、ということを『失われた九州王朝』(朝日新聞社・角川文庫刊)以来申しているわけでございます。この問題についても、必ずしも私から見ますと、充分な反論を得ていないと感じているわけです。
この問題は、ちょつと復習になりますが、整理させていただきますと、従来、江戸時代前期の松下見林以来、私以前まで、一番大きな論証点にしてきたのは、人名比定でございますね。例えば、松下見林は讃は履中である、こういった場合、去来穂別(いざほわけ)という風に、遣使が中国に行って叫んだんだか、つぶやいたんだか知りませんが、とにかくそういう風に言った。それを中国側が聞いて去来穂別なんて長ったらしい、まあ第二音の「ザ」をとってやれ、しかし「ザ」って音があまりよくないから「讃(さ)」にしておけというような事で、讃と記録した。珍は、こちらが書いていった「瑞歯別」の「瑞」の字を見まちがえて、王ヘンの共通している「瑞」を「珍」にしてしまったとかいう調子で、理屈づけをしていたんです。
しかし、私はそういう考え方はおかしいんだ、これもくだくだしくいわず、ズバリ申しますと、倭の五王はいずれも中国に国書を送っているわけです。上表文を送っているわけです。倭王武の上表文は有名で、名文が長く出ております。しかし武だけではございませんで、最初の讃のところですでに「表を奉り貢献す」という言葉が出てまいります。もう讃がすでに上表文を送っているわけです。“あの文章は向うが嘘を書いたんだ”といわない以上は、ちゃんと明記してあるわけですから、確かに国書を送っている。雄略の時に、あんな名文を送れるのに讃の時に送れないという話はないですからね。名文かどうかは別にしましてもね。ですから讃も上表文を送っているんです。
そうしますと国書ないし上表文というものには、必ず自署名がいるわけです。自分の署名が。我々だって人に手紙を出すのに、自分の署名なしに手紙を出したら、どういうことになるでしょうね。受け取った方は困るだけです。まして国書というような最も公的な文書をですね、こちら側の名前を書き忘れて出すというようなことは、まず無いでしょうね。ですから必ずこちら側の自分の署名があったはず。いわゆるし表文の最後か、表書きか、おそらく両方に有ったでしょうね。これは想像であるけれど、当然のことなのですね。これは動かしようのない証拠だと思うのです。その自署名に、讃とあり、珍とありましたから向うが、そう書いたとみるのが当然の事だと思うのです。去来穂別を聞いてどこをとろうかと、聞き書きするといった状況白身が、実は今から思えば考えるのも奇妙な事でしてね。それは上表文と自署名によって書いてある、当り前の事ですね。我々あの親鸞の文書なんかをやっていたら、当然文書を扱う場合の常識であるわけです。この常識が古代で通用しないはずはないわけで、親鸞なんか以上に、さっきいったように、最も公的な文書に自署名がないはずがない。その自署名を手にしておる、中国の史官がそれをぬきにして、使者がこうしゃべったから、こう間違えて書いたという事は有り得ない。これは非常に簡単明白な反論であるわけですね。
こういう風に天皇家に結びつけた、確実な証拠と思ってきた事が、実は全然、証明になっていない。この点については反論は誰れもできてないわけですね。学者達も反論しえていないわけです。
ところが、倭の五王が積極的にどこの王者か。私は九州の王者と、こう考えたわけですが、その証明があるかというと、これも又、必ずしも充分でないんですね。少くとも濃密ではないといってもいいですね。全くないとはいえませんのは、倭王武の上表文の中に、東に毛人、西に衆夷とならびまして、北のことを「渡りて海北をたいらぐ、云々」という言葉が出てくる。朝鮮半島方面を「海北」と表現している。ところが『古事記・日本書紀』では、先程の応神から雄略まで、或いは、その他をとりましても朝鮮半島南端部をさす場合、新羅とか百済をさす場合、必ず「海西」と表現している。ところが、地図で見ますと、確かに大和とか大阪湾あたりから見ると、釜山あたりは、ほとんど真西に近い。真西とまでいわなくても、いわゆる東西南北でいえば、当然西になるわけですね。ですから「海西」と表現するのは非常に的確であるわけです。その中で「海北」と表現した例は、一例もないわけです。
ただ一例あるといわれるのは「海北道中」と言う言葉が『日本書紀』の神代の巻に出てくる。これは九州北岸部の、その場所で「海北道中」という話が神話の中で出てきているんで、近畿天皇家の四世紀なり五世紀なり六世紀なりの、そういう現在時点における、近畿を原点としての表現でないことは当然です。「海北道中」はね。だから「海北道中」とあるから『古事記・日本書紀』にも、海北があるんだというのは、やはり議論として筋違いというか、“すりかえた”議論になる。その「海北道中」を除けば、いわゆる近畿天皇家が朝鮮半島南部をさす場合は、「海西」に決っている。それ以外にないわけです。
ところが今のように倭王武は、朝鮮半島南端部とみえる所を「海北」と表現している。と、違うわけですね。それに対して、もし倭の五王を九州筑紫の王者と考えますと、これはどう見たって、朝鮮半島南端部は「海北」以外ありえないわけですね。と、いうことですから、倭の五王は九州の王者ではないか、という問題を提起したわけです。だからこれ自身も一つの論証になり得ていると思いますが、まあしかし、充分な論証というわけにいかない。特に次の七世紀の隋書倭国伝のような「阿蘇山あり」というような印象的な文句はありませんからね。宋書倭国伝の場合は、一つの徴候がある。九州の王者らしき徴候があるというにとどまっていたわけでございます。
ところがこれに対して、実は非常に確実な論証が成立するんだということを、これも今年の三月一日の夜明けですけれど、発見しまして、それを皆さんに御報告したいと思うわけです。倭の五王の記事といいますのは、今のように否定するにも、肯定するにも、充分な論証ができないというのは当然である。なぜかといえば、三国志の倭人伝、或いは隋書の倭国伝と違いまして、中国南朝劉宋の使いが日本に来た、行路記事であるとか「阿蘇山あり」というような風土・産物をしめす記事は一切ないんですね。で、あるのは殆ど、称号に関する記事である。つまり、官職の称号です。つまり倭の五王はやたらに中国の称号をほしがっておりまして、或いは自分で自称、自分で勝手に名乗っておりまして、それを追認、承認してくれと中国側にいっている。この称号問題が殆ど90パーセント以上占めている、といっていいわけですね。だから、それ以外の倭の五王の都のありかを決める記事自身があんまりないという事に基づくわけです。
そこでですね。この倭の五王の称号問題をみていきますと、どういうことがいえるかといいますと、倭の五王は中国の称号に詳しいし、又それをうまく名乗り、又要求している、そういうことになる。例えば「安東大将軍」等というのを自称して、向うに要求していますが、確かに、中国側には「安東大将軍」というのがあるわけですしね。とんでもないトンチンカンな称号じゃあないんです。それだけではございません。「開府儀同三司」と倭王武が自称して、追認してくれ、これは承認されてませんけれど。これもちゃんと『三国志』以来ありまして、宋書にも盛んに中国側に出てくる。中国側の帝紀や列伝だけじゃなくて、高旬麗王は「開府儀同三司」にすでに任命されております。それを真似して、それにせりあって、肩を並べようとして倭王は自称し、追認を要求したようにみえます。それだけではございません。あの例の新羅・百済とか、任那・秦韓・慕韓とか並べて「六国諸軍事」とか「七国諸軍事」とか「倭国王」につけて長ったらしいのを書いておりますね。あれは東夷伝・夷蛮伝では倭国しかないんですよ。高句麗伝や百済伝では、あんな長ったらしいものは出てこないんです。じゃあ倭王は勝手に名乗っているか、というと、そうじゃあないんです。といいますのは、末書の帝紀・列伝、つまり夷蛮伝以外の所をみますとね、まさにあのスタイルが出てくるのです。この場合は国。何々国。中国内部の何々国、何々国、六国とか七国とか、或いは何々州、六州とか七州、六とか七がなぜか多いんですが、その“諸軍事大将軍誰れ誰れ”というのが出てくる。それはいずれもですね、南朝劉宋の天子の第一の弟とか、二番目の弟とか、三番目の弟とか、そういう連中がそういう称号を名乗っている。だから、かなりいい称号です。その称号の名乗り方をちゃんと倭国王は知っていて、それを朝鮮半島、日本列島型に手直しして、ああいう名のりをしているんです。だからちゃんとお手本を知った上で、それをメイド・イン・ジャパン版にうまく書き替えているんですね。なかなかこれは中国内部の称号通である、という事がいえるんですね。
なおこれは、白分の称号だけではございません。部下にも「司馬」という官職名を置いていたようです。「讃、又司馬曹達を遺わして表を奉り、方物を献ず」が出てまいります。これは、一体「司馬」が姓で「曹達」が名なのか、司馬遼太郎さんって方がいますからね、「司馬」が姓であってもいいだろう、或は「司馬」が官職名で「曹」が姓で「達」が名であるのか、というんで、正直いいますと、『失われた九州王朝』では、まだ答が出なかったんです。それで、この問題に触れなかったんです。しかし今は、もうはっきりしています。といいますのは、この「司馬」は官職名、「曹」が姓であり「達」が名なんですね。中国入は姓は一字、名一字というのは普通ですね。なんでかといいますと、実は高句麗王がすでに、四世紀の終り、讃の直前くらいの時に、すでに「司馬」の官を下に置いているんです。「司馬」だけじゃあなくて、「長史」とか「参軍」とかいう調子の官職名を置いている。その中に「司馬」があるわけです。だからやはりこの「司馬」にせり合って、倭王も置いたという風にも考えられる。しかし“せり合って”なんて、この場合はあんまりいわなくてもいいのです。一番はっきりした証拠は、宋書自身に「百官志」というのがあるわけです。三国志には、これはないので困るんですが、宋書にはちゃんとある。つまり南朝劉宋の官僚組織が、官職名によってちゃんと一覧になって出ているわけです。それを見ますと、大将軍が配下に置くべき官がちゃんと書いてある。その中に「司馬」があるわけです。だから、大将軍というのはちゃんと「司馬」を配下に持つべきものなのです。そうすると高句麗はもちろん、大将軍です。鎮東大将軍でしたね、大将軍をもらっております。ところが倭王も「安東大将軍」をもらっていますね。自称してかつ、追認を受けていますね。そうしますと、当然、自分の配下に「司馬」があって当り前なわけです。むしろ、なきゃあおかしいわけです。という事ですから、讃が遣わしたのは「司馬」という官名の「曹達」を遣わした。こう考えざるを得ないわけです。
この点、実は最近、二月頃ですが、京大の「史林」という雑誌がございます。学術雑誌でございますが、この第64巻第1号(一九八一年一月)に京大の中国関係の先生だと思うんですが、湯浅幸孫という方が論文を書いておられる。その中に倭の五王問題を扱っておられて、なかなか面白い論文なんですが、その中で、「司馬曹達を遣す」を取り上げて、これは部下ではなく「遣わす」というのは「介して」という意味だろう。その場合は「司馬曹達」は中国の中の将軍である。中国にはもちろん「司馬」という名の官職名は当然ある。大将軍は一ぱいいますからね。その「司馬曹達」という人物を仲介にたてて、この上表文や貢物を持ってきたんだ、こう解釈しておられる。それでまあ「遣わす」の用例を一所懸命挙げておられるんですが、しかし挙げておられる例を見ても、どうも「介す」ズバリに当る用例がないんですね。
これは結局、私が思いますのには、この方のイメージとして「司馬」などの官職名を倭王なんてのが、自分の国内に持っているはずはない。中国には当然あるんだから、そうすると“「遣す」を「介して」と理解すれば何とかいける。”とこう思われたのですね。しかしこのイメージの働き方は失礼ながら、いささか主観的であって、客観的ではないと思います。なぜかならば、さっきいったように、宋書百官志に大将軍は「司馬」を配下に持つ、とあるわけだし、高句麗王はすでに四世紀、東晋の時にはもう「司馬」をちゃんと置いているわけだし、これは梁書の高句麗伝に書いてあります。「安(高句麗王)、始めて長史・司馬・参軍官を置く」と過去(東晋代)の歴史を書いているところに出てきます。ですから、その後に続いた、五世紀の初めですが、讃が「司馬」を、「大将軍」(自称、もしくは「将軍」)として配下に持っていて、別に不思議はないわけですね。自称であるか、追認を受けたかは別にしましてもね。と、いうことですから、これを無理して、大体、「遣わして」なんかは、三国志では夷蛮伝にしょっ中でてきますがね。「AがBを遣わして」という場合は必ず、BはAの家来ですね。これはもう普通でしょう。「倭の女王、大夫難升米等を遣わし」というとき、「倭の女王」(卑弥呼)が主人、「難升米等」は家来です。それは当り前ですからね。それをあんまり変わった「遣わし」の意味にとっていこうとするところに実は無理がある、という風に思うわけです。この点は、学術論文に書いていらっしゃるのですから、私の方もはっきりした論文で批判をさせていただかなくてはいけませんが、今、関連していわせていただければ、そう思うわけです。ですから、これは明らかに倭王が配下に「司馬」という官を持っていたという事になるわけです。
もう一つ面白いのは、すると「曹達」という中国風の姓と名を持つ人物が配下で「司馬」の官についていたという事になるわけです。これも一見不思議に思われるでしょうけれど、しかし、それは充分有り得ることではないか。東アジアの状況としていいますと、まあ想像が入りますが、あり得ることではないかと思うんです。といいますのは、ご存知のように、東アジアを一変した事件は、三百十六年に起こりました。北方の「夷蛮」、中国人がいう「夷蛮」、これが一挙に長安、洛陽に侵入して、夜にして西晋は滅亡する。“一夜にして”というのは、だいぶ文学的表現ですけれどね。そこで、滅亡する。そして、当時の建康に都を置いて、東晋として晋朝は存続するわけです。しかし、中国全土にまたがっていた魏・呉・蜀を統一した、その西晋が一ぺんに、南半分になるんですから、そっくり人間がずーっと移ってしまうという事は有り得ないんです。権力者だけとりましてもね。殺された人もおれば、逃げたのもおれば、行方不明のも、いろんなそういう惨擔たる状況が十年、二十年、三十年にわたって展開されまして、そのあげく、南北朝という、我々が知っている二つの王朝にまとまったわけですね。それを三百十六年というメルクマールのある年をとってその年に滅亡した、と表現するだけの事です。そうしますと、今の西晋朝の人々は、死んだ者もいれば、亡命したのも色々いるわけです。「曹」というのは大変な姓でありまして、例の魏の天子が「曹」ですね。この三月の終りから四月の初め中国に行ってまいりましたが、中国の博物館では、三国時代の三世紀の魏をいう場合には、「曹魏」といっていますね。これは、後に出た五世紀の北魏と区別しましてね、我々が魏といえば卑弥呼の時の魏を思いますが、中国の人はそれを「曹魏」と呼んでいる。「曹」は魏の国の天子の姓だったわけですね。西晋になると天子の姓じゃありませんけれど、かなり名門には違いありません。もちろん、天子直系以外にも幾らでも「曹」はあるわけですからね。そういう「曹」を名乗る一派が亡命して倭国に入ってきて、配下にいたという、こういうことは小説の領域に入るかも知れないけれど想像できるところです。もちろん楽浪郡、帯方郡にいた「曹」を名のる人物が倭国へきたと考えても結構なんですけれど。とにかく、状況は想像ですけれど、中国姓を名のる中国人、朝鮮人かも知れませんが、それが配下にいて何の不思議もない。
むしろ、さらにいえば、倭王武の上表文のような漢文として大変な名文、それが書けたということは、もちろん倭王武本人が、書いたわけではないんでしょうからその配下にかなり、中国文に熟達した人物がおったということを意味するでしょう。倭人の青年弟子にもこの段階には、かなりの漢文を扱う人間がいたと思いますけれどね。しかしそういう「曹達」といった人物がおれば、なおさらよかったでしょうね。こういう事を考えましても、「曹達」という中国式の姓を名乗る人物が配下にいたという事は、疑う事はできない。想像は色々にできるけれど、事実としてこれを“遣わして”いるんだから。讃の配下に「司馬」の官にある「曹達」というのがいたという事実を、やはり否定する事はできない。こういう訳でございます。
だいぶ脇道のような事になりましたが、もう一ついいますと、「倭隋等十三人ーー平西・征虜・冠軍・輔国将軍」というのを中国から貰っているんですね。だから倭王だけではなくて、部下も中国式称号というよりも、中国称号そのものですが、それを貰っているわけです。ですから倭の五王というのは、自分にも家来にも中国式の、或いは中国の称号を貰ったり自称したりしていた存在であるという事がいえるわけです。この事は別に五世紀になって初めて、始まったものではございません。例えば三世紀の倭人伝において、すでに先例がございます。「親魏倭王」という卑弥呼が貰った称号。あれは明らかに中国の称号ですね。倭名じゃあございませんね。なお、難升米の「率善中郎将」、牛利の「率善校尉」という風に中国称号そのものを貰っております。
又、自称の例もございます。難升米が行く時にすでに、「大夫」と名乗って行ったと書いてあります。「大夫」というのは周代の称号といいますか「卿・士・大夫」、あの「大夫」、これは明らかに自称ですね。「大夫」にも任命されたわけじゃないんですからね。自称して中国に行っております。ですから、中国式の称号を自称するとか、貰うとかいう例は三世紀にある。いや、もっといえば、一世紀の志賀島の金印がすでに、明らかに中国の称号ですね。「漢委奴国王」。そういうバックを持って、五世紀の倭の五王は、それを一段と大がかりにしたというだけの事でございます。
次に論証に入ります。では倭の五王に、私以外の殆どの学者があてている“応神から雄略まで”の時代の『古事記』『日本書紀』の官職名・称号を、全部抜き出してみますと、いずれも皆、和名称号ばかりでございます。つまり漢字では書いてございますね。「海部(あまべ)」とか「山部」とか「臣」とか「連」とか皆、漢字ではありますよね。しかしこれは、「オミ」や「ムラジ」であって「シン」や「レン」とかいう中国称号じゃあないんですね。漢字はいわば“借りて”書かれたものにすぎない。これは本居宣長が、一所懸命力説した通りですね。つまり、ここに出てくる官職名は、和名ばかりである。中国式称号は一切見あたらない。大体、王者自身が「安東大将軍」だとかいって、自称して威張ったり、追認してもらって大喜びしているんですから。それが『古事記』『日本書紀』に表われないこと自体、この王者が、天皇家の人物なら、本当はおかしいんですよね。しかしその事は仮に抜きにしましても、今いったように部下にまで、ちゃんと「司馬」とか何とかに任命してやっているんですから、それまで全部消してしまわなきゃあならんという話はないですわね。ところが「司馬」という称号も一切ありませんし、中国称号のかけらも、そこには存在しない。和名称号ばかりである。そうすると、この近畿天皇家は“和名称号の王者の王朝”である。ーー正確には分王朝ですがーーそう確認できると思います。
じゃあ日本列島の中では皆和名称号だけであるか、というと、ノー。といいますのは『筑後風土記』、例の筑紫の君・磐井の有名な記事ですね。その中に「上妻の県、県の南二里に筑紫の君磐井の墓墳あり・・・東北の角に当りて一つの別区あり。号けて衙頭と日う。衙頭は政所なり。其の中に一つの石人あり。縱容に地に立てり。号けて解部と曰う」有名な一節があるという事はよくご存知と思います。
ここでまず面白いのは「解部」という言葉ですね。これは明らかに和名称号ですね。それを漢字で当てたものと考えていいでしょう。ただこの場合も、あとで出る議論に関連しますが、注目すべきは、「解部」というような名前は、この段階の『古事記』『日本書紀』にはないわけです。だから、天皇家が任命した官職名じゃあないんです。これは司法官、裁判官を意味するようなものらしいんですが。だから、天皇家とは別個に、磐井が官職名を任命していたことが、ここで分かるわけです。しかも「解部」だけのはずはないんです。つまり、何々部、何々部というのがズーとあって、その中の司法を司るのが「解部」。こう考えるのが筋じゃあないでしょうか。外の行政等は一切なしで、司法だけ、「解部」を一つだけ作るなんてのは、ちょっと、とっぴ過ぎますわね。これはやっぱりそうじゃなくて、何々部、何々部ってのがズーとあった、そのワン・オブ・ゼムがここに表われている。こうみるのが、筋だと思うんです。そうすると、これも同じ理屈によって、天皇家と別個に磐井が、何々部、何々部という官職名といいますか、称号を任命して、それを配下に持っていたという事で、これも非常に重要なテーマが出てまいります。
しかし今、この問題はさておきまして、現在、一番問題になりますのは、「衙頭」でございます。これはどうにも和名に読みようが無いわけです。だから、皆さんがどの風土記の本をご覧になっても、これを和名に読んだものはまずないと思います。仮名がふってある場合は、「ガトウ」となっております。政所というような注がついているんですが、要するに政治の中心を意昧するもののようです。これが漢語である。これも筑紫の君の政治中心に関する重大な用語ですね。
そうすると、回りは全部和名ばっかりで、中心だけ漢語ってのもなんとなく落ちつかないわけです。中国では、回りの小さな官庁名を呼ぶ漢語もちゃんとあるわけですからね。ちょつと脇道に入りますが、例の太宰府に対して周船寺。周船寺は、糸島郡の入口にございます。現在では福岡市に入っています。“周船寺ってお寺は何処にあるのか”初めて行った人は、聞くことがよくありますが、お寺ではございません。これは役所の事を「寺(じ)」という。しかも府の下にある役所が「寺」なんです。ちゃんと中国風の称号を持った官庁名があの辺にあるわけです。
「解部」の場合と同じように、中国風の官庁名、役所名みたいのが少くとも若干はあって、その一番中心にあたるものに関連して「衙頭」のことが述べられている。と、こうみるのが常識的な線だろう。まあ最低限にいっても「衙頭」が漢語であることは疑えない。そうすると、“筑紫の君は、漢語で一番重要な中心官庁名を呼んでいる権力者である”と、こうなるんですね。
そうすると、日本列島に少くとも当時二種類の権力者がいる。近畿天皇家は和名称号の王朝である。それに対して筑紫の君は、中国風の漢語で自分の中心官庁、おそらくはその他をも呼んでいた権力者である事がわかる。これに対して、倭の五王は、漢語で自称し、或は称号を貰う事を喜んでいた存在である。又自分の配下にも漢語で官職名をつけていた。この二つの命題を対照させますと、倭の五王はそのどちらかというと、これはやはり近畿天皇家ではなくて、筑紫の君の方向を指すという、この方向指示器が一つできるわけです。
しかしこの方向指示器だけでも重要ですけれど、問題はこれだけにとどまらない事を見いだしたわけです。それは「衙頭」の意味なんですね。頭は“あたま”の意味でありますが、それ以外に“ほとり”という意味がございますね。だから「衙のほとり」という意味でございますね。「衙のほとり」の意味のキー・ポイントは「衙」という文字の意味になってくるわけです。ところが「衙」という言葉は、ズバリ申しますと、“大将軍の本営”を意味する言葉だったのです。この「衙」を前の『失われた九州王朝』の時に、辞書を引いた事があるんですが、頭がそこまでいっていなかったのか、先入観に迷わされたのか、そこまで行けずにストップしてしまったのです。今度、あっ、これは何んだ、こんなにはっきり示してあるじゃないかと、なったわけです。
調べてみると、そういう例は幾つも出てきました。この「衙」は「牙」と同じ意味で使われている事は、くり返し辞書、その他で出てまいります。例えば、『三国志』にも、もうすでに出てきておる。呉志の周瑜伝、有名な赤壁の戦の戦闘開始のところで周瑜が偽って降服を申し込む。揚子江の北岸の魏の曹操に対して。その時に大将軍の旗、「牙旗」を立てて船が向う岸に近ずいて行くわけです。ところが実際には、その下に薪が一ぱい積んであって、北岸に曹操の沢山の船が、流されないよう鎖でつないである。そこへ近づいたころ、いきなり火を放つ。風が南から北に吹く季節と時間を選んでいるわけですね。そして火を付けてパッと突っ込んだ。向うは鎖をはずす間も無く炎上しはじめている。先ず緒戦に大混乱を生じた。そこで呉の孫権と蜀の劉備ーー実際は諸葛孔明が参謀の中心なんですが、大勝利をおさめる有名な話が、吉川英治の三国志を読まれても出てくるところなんです。ここに現われているのが大将軍の「牙旗」なんです。又「牙門」という言葉がありまして、晋書(西晋・東晋の晋書)。これは西晋の段階だと思いますが、「衙門の将、李高・・・臣、衙門将軍、馬潜」という言葉が王濬伝に出てまいります。今問題の宋書の礼志でも「牙門の将」という言葉が出ております。「封氏聞見記」によってみますと「公府を称して公牙と為し、府門を牙門と為す」。いい替えますと、結局大将軍の居る所を「公府」と称するんだ、「公牙」といういい方もする。なぜかというと、それは「牙」を前にして、“本営の前にある門”を「牙門」というから。何んで「牙門」というかというと、大将軍の旗、「牙旗」を立ててある門だから「牙門」というんだ。「牙門」の所だから「公牙」というんだ。府のある所を「公牙」というんだ。こういう説明になっているわけです。
つまり磐井の墓の別区が「衙頭」といわれたという事は、この墓そのものが、政治の中心という事ではないですから、“政治の中心である「衙」のほとり”という意味です。近くに「衙」があるという事です。それは「府」と呼ばれた、あの太宰府でしょうね。という事で筑紫の君は自らを中国式の大将軍と自称し、或いは与えられていたかもしれませんが、そういう存在である、ということになるわけです。
そうすると「大将軍」を称した倭の五王というのは当然、「筑紫の君」であるという事になってくるわけです。だから磐井は、倭王武がものすごく長生きしたとすれば、倭王武=磐井である可能性も絶無ではございませんでしょう。倭王武は六世紀の始め、五〇二年くらいですかな、そこで称号を貰っているのが梁書に出てまいります。磐井が出てくるのは五三〇年前後のところですからね。ですからものすごく長生きすれば武でないこともないでしょうが、まあ普通に考えれば、武の次か、その次ぐらいの代にあたるのが磐井だと思われるわけです。それが要するに中国の「大将軍」を称していたという事でございます。
以上の論証によりまして倭の五王が従来の「定説」、現在も教科書を支配している「定説」の、近畿天皇家ではない、筑紫の君であるという事が証明できたと、私は考えるわけでございます。
だからこの点も、いやそうじゃない、依然として近畿天皇家だ、とおっしゃる学者、研究者があれば、今の私の論証はどこがどう間違っている、という風にハッキリ言っていただければいい、という事になります。 
倭の五王、九州王朝説の影響ー考古学の年代
この事が及ぼす影響は非常に重大でございます。その一例を申しますと、例えば考古学、これは今日来る時に考えながらきた問題なんですけれど、従来、日本の考古学の場合、宿命ともいうべき弱点は絶対年代が書いてない。つまり土器なんかをみましても何年に作ったなんて、西暦であるとか中国の年号であるとかいう類の年代が刻んであるものがないわけです。ないからそれにかわって、日本人独特の器用さでもって、前後関係を精密につけてきたわけですね。だからある中堅の考古学者の言によりますと、前後関係は“十年とはズレない、まあズレても五年でしょうな。”という事を私は聞いた事があります。それくらい自信をもって言われる程、これより前これより後と精密に前後関係の体系を作っておられるわけですね、土器を中心にしまして。こういう技術に関しては世界屈指じゃあないか、私は世界をよく知らないんですが、想像しておるんですがね。ところがそれは、あくまで前後関係に、つまり相対年代にとどまって、絶対年代は分からないわけです。
その絶対年代にあたるのが二つありまして、一つは、鏡、三角縁神獣鏡・漢鏡とかいう鏡ですね。これが根底にある。もう一つは、いわゆる「天皇陵」と呼ばれる“応神から雄略にいたる”この「天皇陵」の年代である。何で決めるかというと「倭の五王=天皇家」であるから、という事です。倭の五王はハッキリ絶対年代を書いてありますからね。「讃」なり「珍」なり、そういうのが出てまいりますからね。治世年代が分かる。だから「応神陵」はこの頃「仁徳陵」は・・・。或いは雄略陵はこの頃というようにやっていきまして、それを基にして埴輪であるとか、色々な土器その他の編年をたてていくので「倭の五王=近畿天皇家」というのが、日本の考古学で絶対年代を決めるための二つの柱の一つとなっている、という事は有名な話でございます。
しかしその場合もよく考えてみますと、鏡の場合よりこちらの場合はもっと、“有力”なんです。なんでかといいますと、鏡の場合「何年」か分かりませんね。何年に作った鏡で、何年に日本にきた鏡かを書いた、そんな鏡はないんですから。大体のおおまかな「弥生中期」とか、「中期後半」であるとかといった大まかな推定にとどまるわけです。それに対して二つ目の柱が“非常に有難い”のは、「倭の五王=近畿天皇家」の定式でありまして、これは絶対年代が分かるわけです。
しかしこのたてられた体系に対して疑いをもつ考古学者もあるわけですね。例えば森浩一さん、今日も大阪で講演しておられるそうですが、森浩一さんは、“どうもおかしい”いわゆる「仁徳陵」古墳」、大山(だいせん)陵古墳ですな。ここから出てきたといわれる鏡がある。これはボストンの美術館にいつのまにやら云わっていた。それがどうも、今考古学者があてている「仁徳陵」の年代からみると合わない。少なくとも五十年は下げなければおかしいという事を、かねがね言っておられ、私も直接お聞きした事があります。この前、この鏡がボストンからきて堺市立博物館に陳列されまして、そこでくわしい鏡の写真をいただいて私も持っておりますがね、という事だったんです。“おかしい”しかし“そうなっているんだから、しょうがない”ということだったんですが、今のように「倭の五王=近畿天皇家」の定式がはずれますと、普通今まで考古学者が考えていた「仁徳陵」、大山陵古墳の年代が五十年下がっても、全然不思議はなくなるわけですね。
そこで、これから先を今日、考えながらきたんですが、これは大変な事になるかも知れません。というのは、下がるのは一体何を意味するか、さっきいったように五年と狂いませんという精密な前後関係を作っていたとして、それを信用しましたら、全体が五十年さがったら当然始めも五十年さがるわけですね。だから古墳時代の開始は、通説では四世紀の初め頃になってますね。それも五十年さがって四世紀の半ばになるかもしれないという事になるわけですね。いいかえると四世紀の半ばまで弥生時代になる可能性があるわけですね、“五十年”としましたら。森さんは“少なくとも五十年”といっておられたから、五十年よりもっとさがるかもしれないけれど。そうしたら先頭ももっと下がるかもしれないことになるわけですね。これは大変な問題になってきます。
そうすると今まで漢鏡、前漢鏡はいつだ、後漢鏡はいつだといっていたのが、下がってくる可能性があるわけですね。そういう問題にも発展するわけです。それに卑弥呼との関係。卑弥呼の絶対年代は分かってますから、三世紀の半ば近くと分かっていますから、それとの関係も、今まで考古学者が考えていたのとは、ズレてくるという問題にも発展するわけです。
以上のようにいろんな所に影響をおよぼしていきますが、影響がどうあろうと、倭の五王と近畿天皇家を結んできた定式はまず御破算。私がここで述べました「衙頭」の論証を否定しない以上、御破算といわざるをえない。こういうわけでございます。 
「宝命の論証」に代えてー北京の邂逅
最後は「宝命」の論証。これはこの前の会で申しました問題です。『市民の古代』三号に私の講演として載っておりますからここではくり返しませんが、要するに従来聖徳太子の「遣隋使」といってきたのが間違いで遣唐使である。そして隋との国交を結んだ多利思北孤は九州の王者であるというテーマでございます。
この問題に関しまして、この四月二日でございますが、私にとって非常に重要な経験をしました。簡単に申しますと、中国に三月二十三日から四月の三日まで行ってきたわけです。ここにいらつしゃる今井さんも御一緒でございましたが、その最後の日、四月二日に北京大学にまいりました。これは私一人で他の人と別れ、タクシーに乗ってまいったわけです。通訳の胡さんと二人で行ったわけです。その北京大学の日本語科の学者である潘金生(ハンキンセイ)さんという方にお会いしたわけです。私の目的は去年、東北大学で講演した「日本書紀の史料批判」の論文を抜き刷りにして持っておりました。それを五部ばかりお渡しして、日本と中国の関係の歴史に興味をお持ちの北京大学の学者に渡していただきたい、という事を依頼するつもりで行ったんです。
だから、正直にいいまして、講師さんでも助手さんでも、お会いしてそれを依頼すればいい、とささやかな望みで行ったわけでございます。しかし、おもいがけなく潘金生さんが授業の前に、私を九時に待っておられたわけです。そして研究室に招いて下さいまして、そして話し始めますと、これもくわしくは言いませんが、要するに潘さんも私を迎えて私に聞きたい事があった。
何かといいますと、「少なくとも隋書、旧唐書というものには大きな間違いがあるとは思われません。」こういう事を向こうから言い出されたわけです。なぜかというと「お国(日本ですね)から我が国(中国)へ沢山の人が来ています。そして又お国へ帰っています。それから我が国からもお国へ行っています。裴世清です。又帰っています。だからそういう事を基にして書かれたのが隋書や旧唐書です。もちろん沢山の人が往ききした事がバックにあって書かれたものであっても、人間ですから部分的には間違いはあり得ると思います。しかし大きな事で間違いがあるとは思われません」とこう言われるわけです。
で、「大きな事」とは何かというと、「例えば旧唐書、そこにお国の事が書いてありますね」と。ここで私が「倭国と日本国です。」と言いますと、潘さんが「そうです。二つ別々の国として書かれています。そして、日本国の方は西南が海である、東北に大山がある、と書いてあります」と。私が「これは本州の西日本だと思います」と言ったら、潘さんが「そうです本州です」と、こう言われるんですね。それから今度は「倭国の方は島であって、その周りに小さな島がとり囲んでいる、と書いてあります」と。今度は私が「九州です。」と言ったら潘さんが殆んど同じタイミングで「九州です。」と言われたわけですね。“だから倭国は九州、日本国は本州の西半分の国だと書かれています。”というわけです。つまりこれが「大きな事」なわけですね。人間だから間違える事はあるが、それは部分的な事で「大きな事」“国が一つか、二つか。”これ程大きな事はないのです。だからそこに間違いがあろうとは思われません、というのが潘さんの言いたかった事だったのです。
もう一つの隋書もそうです。「裴清(裴世清)が行ってお国の王に会っています」「それは多利思北孤という男の王さんです。」と私が言ったら、向こうが「そうです、奥さんは鶏弥(きみ)ですね。」と言われた。「キミ」と発音されました。日本語科の先生ですから日本語がすごくうまいわけです。私と同じ、私よりうまいかもしれませんが、日本語でしゃべって、そばで通訳の胡さんが手持ちぶたさでおられましたね。それに対して「推古天皇は女です。女帝です。そういう大きな事を間違うとは思われません。」こう言われるわけですね。そこで、私が「その通りです。」と言ったわけです。こっちが言いたかった事ですからね。それで、私が潘さんの机に置いてある紙に「九州王朝」と書いたわけです。その言葉は初耳というか初目というか、初めてのようでしたけれど、「九州王朝、そうです。」と非常に嬉しそうに何度もうなずいておられました。という事で潘さんと私が完全に意見が一致したんですね。
これは考えてみれば、当然の事でありまして、中国の学者やインテリは中国の歴史書、自分の国の歴史書を最初読むわけです、歴史をやりたい人は。そこに書いてある「倭国」なり「日本国」の事を読むわけです。それで第一のイメージを得るわけです。大抵の学者は、そこでストップしているわけです。「ああ、こうなんだな。」とこう思っているのです。疑問を別にもたないわけです。
ところが、潘さんの場合は、日本語科の先生ですわね。それに日本語科というのは、我々が考える日本語科じゃなくて、日本語を基礎にしながら歴史、風土、産物、地理全般をやる、いわば日本文化学科だと後でわかりました。私にとって幸せだったんです。通訳の方はやはり、それを誤解しておられまして、通訳の方は北京第二外語学院の日本語科を出られた方で、「北京大の歴史学科へ行くのじゃないんですか。歴史学科の方がいいんじゃないですか。」といわれたんです。ところが私は歴史学科へ行っていきなりしゃべれればいいけれど、その人が日本語ができなかったら、通訳の人の日本語だけでは、ーー失礼ですがーーとても歴史上の術語なんか無理なようでしたから、日本語の通じる日本語学科へ行こう、とこう思ったんです。それが予想以上に、よかったわけです。今のように「日本文化学科」だったわけですから、だから潘さんは古事記・日本書紀に詳しかったわけですよ。一般の歴史家、インテリは古事記・日本書紀をやるまでいかないわけですよ。だから、矛盾に気がつかない。ところが潘さんは古事記・日本書紀を読んだんでしょう。するとそこには二つの国どころか、神武天皇からズーッと、天皇家中心のスタイルで書いてある。それでおかしい、という疑問を持っておられたんです。
それで最初はこういう話から始まったわけです。潘さんが「あなたは何をおやりですか。」「私は日本の古代史をやってます。」「中国の古代史はやられないんですか。」こういわれますから、「いや中国の歴史書からみた日本の古代史を先ずやっています。その次に古事記・日本書紀からみた古代史をやりました。そして、最初の立場から後の立場を批判するという方法をとっております。なぜかというと、別に日本人が書いた歴史書が信用できるか、中国人が書いた歴史書が信用できるかというような問題ではありません。そうではなくて、中国の史書の場合は、三世紀の日本の事を三世紀の歴史書に書いている。五世紀の日本の事を五世紀の歴史書に書いている。七世紀の事を七世紀の歴史書に書いている。こういう同時代史書ですから。」と。すると、藩さんは「そうです。同時代史書です。」といわれた。「それに対して古事記・日本書紀は八世紀に成立した。」「八世紀の初めですね。」と潘さんが言われる。「そこからズーッと以前の事に遡って書かれた後代史書です。」とわたし。「そう、後代史書ですね。」潘さんがこう言われるわけです。「そうすると同時代史書で描かれた日本の古代史像をまずとらえて、それを基盤にして後代史書にかかれた日本の古代史像を批判する。その中には正しいものもあり、正しくないものもあるから、それを批判する、という事が歴史学の正しい方法だと私は思っています。」と最初にわたしは言ったわけです。
そうしたら、その時潘さんが大変喜ばれて「そうです。それこそ唯物的です。唯物主義の立場です。」こういう風に言われたので、私はビックリしたのです。こんなの私は生れて初めてです。自分が唯物主義の歴史研究家である、なんてことは、いまだかって思ったこともないし、言われた事もなかった。ところが「本場」で、そんなことをいわれたから、ビックリしたんです。その時とっさに思いましたのは、“これはおそらく中国では最高の「褒め言葉」ではないかと。「忘れてはいけませんから、カセット・テープとらせていただけませんか。」「結構です。」ということで話が始まっていったんです。
私が先程から述べましたように“自分の国の歴史書だから矛盾があってもこれでいい、そんな手前勝手を言うんじゃあなくて、同時代史書を基本に考えるべきだ。”ということ。潘さんの目からみると“古事記・日本書紀の後代史書に書かれたものはおかしいんじゃないか、日本の学者は一体どう考えているんだろうか”というのが潘さんのかねてからの疑問だったわけです。だから打って返すように話が一致しましてね。九時に始まって十時半まで。十時半に潘さんの授業が始まったので、十時半ギリギリまで実に濃密な、言っている事が互にパッ・パッと通じる時間だったわけです。お別れする時にはわたしが「初めてお会いしたようには思われません。」と言い、潘さんからは、くりかえし「本当に有難うございました。」とお礼を言われてしまったんです。これは、潘さんにしたら、“年来の疑問”に対して意見が一致したので、非常に嬉しかったんじゃあないかと帰り道のタクシーの中で想像したんです。
で、私もそのとき言ったんです。「日本では私の説は殆どの学者から反対されています。そういう意味では正に『異端』の説です。しかし、今日お会いして本当に方法から結論まで一致したので、今までにない喜びを感じました。」ということをいいました。
そしたら潘さんは「歴史は、人間の理性で理解できる歴史でなければなりません。」といっておられました。最後に「人間の理性」という言葉を使われたのです。これが今度の思いがけない収穫でした。大体自分ひとりで考えてみて、どうも人間の理性からみて、私のように考えるのが本当だと思う。それなのに古事記・日本書紀を基盤にして、それを基に歴史を作っておいて、それに合わないのにぶつかったら、あれは嘘を言っているとか、旧唐書は倭国、日本国は二つに分かれている、あんなデタラメ書いていると言っている。旧唐書、隋書段階になったら、完全に私一人で全学者と対立しているわけです。“これはおかしい。しかし私の頭が狂っているのかな、そんなはずはないが。”こういう自問自答をいつもくり返してきたんですからね。やっぱり私の方法でよかった。従来、日本の学者は“日本列島の中の、井の中の蛙”というんでしょうか、そんな立場にすぎなかった。「天皇家一元主義」というようなイデオロギーにとらわれる必要のない世界的な目、理性的な目からみると、やっぱり私が考えていたのでよかったんだということがわかったわけです。この会の皆様には今までズーッとご支持といいますか、ご支援いただいていたのですが、学会というレベルでいいますと、“自分がおかしいのかな。”といつも思わされてきたのが、今度のことで非常に勇気づけられて嬉しかったという、貴重な経験をいたしたわけでございます。 
新間題の発端
本日のメイン・テーマ「九州王朝の風土記」というものの論証の本質をなす問題をズバリズバリ話させていただき、枝葉末節といいますか、小さな問題は後日書いたりしたもので見ていただくという形にしたいと思います。なお付随しておこる重要な問題があるんですが、できましたら次の機会にでも話させていただこうと、こう思うわけでございます。
今日の前半の話は従来の結論を再確認する論証の問題だったんですけれど、今度は新しいテーマに入っていくというわけです。この新しいテーマに入る場合、私の従来の方法なり結論、それに立った場合、こう考えざるをえないという断崖をよじ登るようなこわい所へ入っていくわけでございます。で私の従来の方法というものを示す端的な一例を思い起こしていただきます。
それは『盗まれた神話」で書きました景行天皇の遠征という問題でございます。九州大遠征です。それが、どうもおかしい。これがおかしいという事は津田左右吉もいっていたんですが、私も別の意味でおかしいと考えました。一つは九州の東と南海岸が遠征であって、西海岸から浮羽に至るルートが凱旋ルートである。これが近畿を原点としたら、逆なら当り前、“東は自分の領域であって西を征伐する”というなら分かるけれど、話が逆になっている。もう一つは筑紫が空白である。景行の九州大遠征では筑紫、特に筑前が空白である。だから最初筑前から出発してもいいわけだし、最後少なくとも筑後の浮羽でストップしたあと、筑前博多の方へ、太宰府の方へ凱旋するのが当然である。ところが全く空白で“日向から帰りたもうた”というのがおかしい。つまり筑前空白問題、さらに地名が非常に詳しく出ていて全部九州の現地名とよく合うわけなんです。ところがこれが出ている日本書紀でこれ以前、これ以後にこんなに地名が連続して詳しく出ている所はない。そういう点でここだけが“浮きたって”いる。この点で明らかに異質の資料を持ってきてはめ込んでいる感じが歴然としている。
ところが一番おかしいのは、これだけの大遠征が古事記に全くない、という事である。この場合、古事記のない方が本来か、日本書紀のある方が本来かと考えると、古事記・日本書紀いずれも天皇家の史官が書いたものである以上、これだけの大遠征は神武のいわゆる「東征」問題、継体のいわゆる「反乱」問題、これらを除けば唯一といっていい天皇個人の大遠征なわけです。これが本来有ったのを、稗田阿礼か、太安万侶か知りませんが、カットするなどという事は考えられない。逆になかったところへ、他の資料を持ってきてはめ込んだ。“天皇家に有利に加削する事はありえても不利に加削する事はありえない。”という、天皇家の史官にとって自明の公理、と私が考えるものからいうと、やはりこの話は“なかった”のが本来、すなわち古事記の方が本来で、日本書紀が“あとからはめこんだ。”と考えなければなりません。どこからはめこんだかというと、これは先程の空白なる筑前、そこを出発の原点とする「前つ君」という人物名を見付けたわけです。その前つ君の「九州東岸部・南岸部」征伐譚、いいかえれば、その場合は筑紫と肥後はすでに安定した領域になっていて、筑紫をバックにして東岸部・南岸部を征伐した九州統一譚、九州王朝発展史の重要な一コマ、こう考えると筋が合う、と論じたわけでございます。
この点は神功紀についても同じである。この橿日宮で仲哀天皇が死んだ。その後で古事記では神功皇后はすぐ新羅へ行くわけです。朝鮮半島で戦闘はしていない。むしろ母方は天日矛ですから新羅系といってもいいわけですが、そこへ“応援を求めに行った”感じである。ところが日本書紀では仲哀が死んだ途端、神功が筑後征伐を行う。羽白熊鷲とか山門県の田油津媛とか征伐する。この神功の筑後平定ってのは古事記には全くない。これはやはりなかったのが本来か、有ったのが本来か。さっきと同じ判定法によって、なかったのが本来。それをどこかから持ってきて入れたものである。どっかから取ってきたものの性格は“筑前を原点にする、筑後討伐”つまり筑前を勢力中心とした王者が、筑後を討伐して、現在でいう筑紫一帯が同一の政治圏になったという「筑紫一円」平定譚。その話の一部を持ってきて、ここに挿入したものである。いいかえれば、「橿日宮の女王」の話を挿入したものである。こういう風に論じたわけでございます。
いずれも『盗まれた神話』で論じてございます。だから、この方法に立って今からあとの問題点を考えていきたい、こういうわけでございます。 
九州に二種類の風土記 / 「県」と「郡」
さて皆さんご存知の風土記ですね。ここには明治以来学者の間で論争の的といいますか、懸案事項がございました。一般の人はあまり知らないんですが、プロの学者なら誰でも知っている論争が明治から続いているんです。論争というほど熱い攻撃の仕合いじゃあないんですがね。次々アイデアを出してきているという程度の事ですけれど。
実は風土記の中で九州だけがちょつとおかしいんです。何かといいますと九州に限って、二種類の風土記があることが見いだされていたわけです。例えば明治時代、井上通泰がこれを指摘しまして、続いて坂本太郎さん、現在も元気でおられますが。あるいは田中卓さん、現在神宮皇学館大学の学長になられたそうですけれど。秋本吉郎さん、岩波古典文学大系の風土記の校注者、亡くなられましたが。こういう人達が次々と意見を出してきておられる。その外にもいらっしゃいますが、これは“何で九州だけ二種類あるんだ”“何でこんな事になったんだろうか”という九州の二種類の風土記の理屈づけですよ。それをいろいろ出してきているんだが、どうもうまく理屈が合わない、というのが、私の方からみた“現状”であるわけです。
どういう二種類かと申しますと、簡単に言いますと「県(あがた)風土記」と「郡(こおり)風土記」といったらいいだろうと思います。つまり風土記に行政単位が出てくるんですが、その行政単位が一方では“何々の県”と一貫して書いてある。県を基本単位にして書いてある。そういう風土記が九州にあるわけです。もう一つは郡(ぐん)と書いて「郡(こおり)」を行政単位にした風土記の一群があるわけです。それで県風土記をA型としてみたんですが、例をあげますと「筑紫の風土記に日く、逸都(いと)の縣。子饗(こふ)の原。石両、顆あり・・・。」B型、つまり「郡」の方では、「筑前の国の風土記に曰く、恰土の郡。児饗野(こふの)。郡の西に在り、此の野の西に白き石二顆あり・・・」大体同じような文章です。ところが、片方では「逸都の縣」となっているのが、他の方では「恰土の郡」となっている。字も「縣」の方はちょつと、むつかしい、みなれない字が書いてありますね。だから同じ事をえがいたのが二種類あることは明らかですね。
そして九州以外の風土記、播磨国風土記とか出雲国風土記とか常陸国風土記とか、いろいろありますね。“断片”は全国にわたっておりますね。あの全国の風土記は「郡」風土記なんです。皆、単位が「郡」で書いてある。だから私の名付け方でいうとB型なんです。九州以外はB型ばかりです。九州にもB型があるわけです。ところが九州だけは、それとダブった形でA型がある。B型とは全然違う行政単位の風土記があるわけです。ということ自体は井上通泰の指摘以来、甲類とか乙類、一類とか二類とかいろいろ名前がつけられたんですが、この辺の詳しい話はやめまして、今日は本質的にいうとA型、B型の二種類あるという事実はすでに気がつかれていたのです。
そして井上通泰の場合、「県」風土記はズーッと後に作られたと考えられておったのです。だからA型の方を二類と称され、「郡」風土記を一類とされた。ところが坂本太郎氏以後は、それは間違いだ、「郡の制」が確立して以後、「県」なんて書く必要はない。だから「県」風土記は「郡」風土記よりももっと古い時代のものであるという論証がなされました。この点について田中卓さんとか、秋本吉郎さんとか、各論者は異をとなえていないんです。だから現在のところでは九州の風土記に二種類あって、しかも他の一般の風土記以前のものがある。しかしそれをどう説明するかについて四苦八苦している、というわけです。
例えば坂本太郎さんは、七世紀の終りくらいに太宰府がそんなものを作ったんとちがうか、といわれるわけです。但しこの場合つらいのは、七世紀の終りくらいにそんなものを作れという命令が、天皇家から出ていないわけですよ。それだのに太宰府で勝手に作ったのとちがうかという、話になるわけですね。
或いは田中卓さんになると、両方とも八世紀に作ったんだ。しかし、A型の「県」風土記の方が早い。なんでかというと太宰府に文人趣味の、文人好みの人がおって、中国の「県(けん)」を真似して、実際には存在しない架空の行政単位で書いてみたんだろう。しかしやっぱり、それではいけないということになって現実の「郡」で作り直したんだろう、というような説が比較的最近の説なんですね。
しかしこの問題を考えてみますと、皆さんご存知のように和銅六年に有名な風土記撰進の詔勅が出ております。『続日本紀』です。これを疑う人はいない。
「(五月)畿内七道・諸国の郡・郷の名は、好き字を著(つ)けよ。其の郡内に生ずる所の銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物は、具(つぶさ)に色目を録せしむ。及び土地の沃[土脊]・山川原野の名号所由、又古老の相伝・旧聞・異事は、史籍に載せて亦宜(よろし)く、言上すべし。」
[土脊]は、土偏に脊。JIS第4水準ユニコード番号5849
これは現在の高等学校の資料集でも出ている有名な和銅六年風土記撰進の詔勅。元明天皇です。これはごちゃごちゃいわなくったって。B型を意味している事はすぐ分かりますね。この中に二回も「郡」という言葉が出てくる。この「郡」の中の変った事を、或いは産物を書いて出せ、こういっていますから、和銅六年の詔勅に基いて全国の風土記が、時期はそれぞれ地方によって違いはありますけれど、つぎつぎ作られていったという事は、まず疑う必要がないわけです。で九州においてもB型の風土記が、この時、作られたと考えていいわけです。
問題は、現在の各研究者がほぼ一致して、「郡」風土記以前と考えている「県」という行政単位を使った風土記が、なぜ作られたんだろうかという点です。ここでもしこれを天皇家が作らしめたと、いおうとすると困るわけですね。つまり天皇家が作らしめたのなら、なんで九州にしかないのか。ほかの瀬戸内海や、天皇家のお膝元の近畿にすらないのか説明できない。だから、太宰府が勝手に作ったんだろうとか、文人趣味のやつが勝手に作ったんだろうとか、そういう説明しか出ようがないわけですね、従来は。だから、どこまでいったって本当の答にはならない、というのが現状であるわけです。
これに対して皆さんは九州にだけ特殊な、和銅六年以前の風土記が有ったっていうんなら、それは九州王朝に関係するんではなかろうかとお思いになるでしょうし、又私もそう思ったんですね。そう思ったのは、だいぶ前に思ったんですよ。しかし、論証がなかなかむつかしい。そんな変った事、九州王朝の風土記があるなんて。九州王朝の存在自身、学者が認めてくれない、それどころか「論争」すらあまりしようとしないのに、その九州王朝が風土記を作っていたなどといい出したら、どう思われますか。私自身、そこまでいう“勇気”がなかったんです。
そこでこの半年間調べていきますと、私の学問の論理と方法からみると、どうしてもそう考えざるをえない、という所にまできたわけです。これはなぜかといいますと、県というのは確かに日本全土にございます。特に古事記・日本書紀の終りのほうになりますと、かなり出てくる。ところが早い時期においては、弥生時代はもちろん、古墳時代はじめあたりの四世紀になった頃にも、全国的に多くの「県」が出てくるわけではないんです。ところが九州にだけ「県」が多く出てくるんです。
それは井上光貞さんの有名な若い時の論文です(「国県制の成立」史学雑誌60ー11、昭26・11月)。表が出てるんですが、「県」が九州にだけ多くでている。あと例外として近畿の一部にある。その近畿の一部を除いては、九州に一番多く出てくる。九州にだけ多くの「県」記事が集中しているのは実は道理なんです。なぜならその「県」が出てくる史料というのは、実は例の「景行の九州大遠征」と「神功の筑後遠征」なんです。ここに「県」が集中している。もう一つは仲哀に関連して、「県」が少し出てくるんですね。これは“神功関係”ともいえますが。
京都郡(みやこぐん)、ここは長峡(ながお)の県というのが出てきます。ここを京(みやこ)というんだというわけですね。豊後では直入(なほり)の県、子湯(こゆ)の県、諸(もろ)の県の君というのも出てきます。熊(くま)の県は人吉市、八代(やつしろ)の県は八代市ですね。島原半島で高来(たかく)の県、八女(やめ)の県、水沼(みぬま)の県の主、こういう風に県、県と次々沢山でてくるんです。
そして神功紀のところでも田油津媛が筑後山門、山門(やまと)の県と書いてある。そういえば、そうだったと思い出される方もあるでしょう。さらに松浦の県、伊覩(いと)の県、こういう風に県、県とズーッと出てくるわけです。ところがこれらからほかでは、後にのべる近畿の一部をのぞいて、ほとんど「県」が早い段階では出てこないわけです。
そうすると私が初めにいいましたように、この史料はどうもおかしい。津田左右吉がいったように、勝手に六・七世紀の近畿の史官が作ったというんだったら、おかしいわけです。勝手に作るのに、この九州にだけ「県」を多く使って作るなんて、ここを作るときだけ気がむいて県をやたらに使ったなんて変なもんですからね。そうするとやっぱりこれは嘘じやない、史実なのじゃないか。さっきいいましたように筑前を原点とする筑後平定譚や筑紫・肥後を拠点とした九州統一譚、つまり「九州王朝成立譚」を切り抜いてきて貼ったものだ。切り抜かれたのが例の〈日本旧記〉という本であるわけです。その本のことは『盗まれた神話」で論じました。
そうするとそこに県、県と連続しているわけですから、日本旧記、つまり、九州王朝の発展史は県を行政単位とする形で書かれていた、という事になります。で又、古い段階の神話と思われる羽白熊鷲とか田油津媛討伐譚は、筑前を原点として筑後を併合するという、そこも又県を単位で書かれていたという事になるわけです。
そうすると結局九州にだけ多くの県が出現するという事は九州に早くから県という行政単位が存在していた。そして、それをバックにした記録、史書が成立していた。それをそのまま取って“貼りつけたから”、ここにだけ多くの県が出てくる。こう考えざるをえないわけです。非常にとっぴょうしもなく、また不思議であろうと、論理的にみて、史料批判の筋からみて、そう考えざるをえなくなった。そしてその九州にだけ、身元不明な“「県」風土記”がある。そうすると、その風土記なるものは九州王朝で作られたもの、そう考えるべきではないか。そのように話が進んできたわけでございます。 
日本書紀の立場 / 二つの風土記
そこで時間の関係で話を終りのところにもってきますと、実は日本書紀自身に、これを裏付ける話があったんです。これはごく最近、四月十日(一九八一年)前後にみつけた話なんですが、日本書紀の履中四年ですね、ここにこういう記事がある。
「四年の秋八月の辛卯の朔・戊戌に、始めて諸国に国史を置く。言事を記して四方の志を達せしむ」
「始之於諸国置国史。記言事達四方志。」
という言葉がある。ここの「国史を置く」というのは、史官ですね。諸国に史官を置いた。そして「言事を記す」や「四方の志を達す」というのは中国の文献に出てくる表現でありまして、“風土記を作らした”という事です。各国の風土・産物・歴史を書かしたという意味の文章なんです。原典が杜預という人の春秋左思伝の序の注釈に出てくる言葉なんです。又漢書芸文志に出てくる言葉を、とって、この文章を作っているんです。岩波の古典文学大系の補注(12ー10)にも出てきます。陳寿と同じ西晋の杜預という人の文章に「四方之志を達す」や「各々、国史有り。」が出てくる。「左史、言を記し、右史、事を記す。」が漢書地理志に出てくる。これを背景にして、キチッとした、きれいな漢文を作っているわけです。
ところがこれは例の「和銅六年の風土記撰進の詔」と違って、あまりご覧になった事がないでしょう。高等学校の資料集にも出てこない。なぜかといいますと、これは津田左右吉によって、否定されたからです。“これは作り物だ。信用できない。”と。履中四年といいますと、今の年表そのままに当てはめますと、四〇三年、五世紀の初めですね。“こんなものは作り物だから信用できない”と認定されたんですね。だからこれは“ない”もの、こういう前提で、戦後史学では風土記問題を扱ってきたわけです。
ところがよく考えてみますと、日本書紀は「二つの風土記有り」の立場なんですよ。なぜかといいますと、日本書紀が作られたのは、元正天皇の養老四年、七二〇年、つまり和銅六年から七年あとなわけですね。だから日本書紀が作られた時点というのは、B型風土記、“「郡」風土記制作開始”のまっさい中というわけです。まだでき上ってはいませんでしょうが、諸国で、ハッパをかけられて、一所懸命作っているまっさい中に、日本書紀が成立しているわけですよ。だから今、B型風土記作成中という事は、日本書紀の著者は百も承知、読者側も百も承知なんです。その日本書紀に、“履中四年に始めて、国々の史官をおいて、地方の風土記を作らした”と書いた。ということは“今、制作中の風土記は初めてではありませんよ、第一回のはもっと古い時代にあったんですよ。”と日本書紀が主張しているわけですよ。つまり“日本書紀の目”にうつっているのは、二つの風土記なんだ。“現在、全国で作らしめているもの以外に、風土記あり。”という前提でこの文章を書いている、と考えざるをえないわけです。
事実、今までのべたように、風土記は二種類ある。「郡」風土記以外に、それ以前と思われる「県」風土記があるんです。しかも重要なことは、この履中四年の記事が、古事記に全くない、ということです。だから先程と同じ論理によりまして、本来“あった”ものを、太安万侶が切ったのか、それとも、本来“なかった”のに、どこからか取ってきで、“付け加えた”のか、という事になってくるわけです。そして先程からと同じ論理によりますと、よそからもってきて、付け加えた、という事にならざるをえない。
しかも履中四年の文章は、見事な漢文です。ところが和銅六年の風土記は、和文を“ひっくり返し”て一見漢文風に書いただけのものです。A型・B型二種類の風土記を比べてみると、井上通泰以後、坂本太郎、田中卓と、各論者が共通して認めている事は、A型の「県」風土記は漢文調、しかも漢字をよほど知っている人でないと書かないような「逸都」なんてむつかしい字を書いている。全体の文章も立派な漢文です。ところが「郡」風土記は和文調なんですね。
この事は学界の中では、共通に認識されていた意見なんです。ところがこの履中四年と和銅六年の文章自身が、漢文調と和文調になっているわけです。そうすると「履中四年」の項は、漢文調風土記つまり「県」風土記に関する記事を、どっかから持ってきてここに“はめ込んだもの”ではないか、という問題が出てきます。
これは大変な問題で、今は論理の骨格を申し上げたわけです。「郡」風土記の実物はどれかといいますと、プリント(最後に掲載)にそれを挙げておきました。一番から七番までが「県」風土記。八番は「県」も「郡」も出てこないから、どっちにもとれるというものです。この一番から七番の「県」風土記は、さらに二つに分けられまして「一・三・五番」の三つと、「二・四・六・七番」の四つは、明らかに違うわけです。
時間の関係で結論をいいますと、「二・四・六・七番」は本来の「県」風土記であるようなんです。それに対して「一・三・五番」は天皇家関連の名前が出てきております。例えば三番、磐井の君の説話ですね。これが「県」風土記なんです。ここを私の『失われた九州王朝」で論じた一節がございましたね。その時に、どうもこの文章はおかしい。磐井の扱い方が、どうも磐井に非常に同情して書いてある。古事記・日本書紀では磐井を斬った、と、簡単だが明白に書き放してある。ところがこの風土記では、「豊前の国上膳の県に遁れて、南山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終る。」なんか“おいたわしや。”という感じで書いてある。又その後の“石人石馬をこわした”にしても、なんか天皇家側が“悪い奴だ”というイメージで書かれている。“乱暴だ。”とね。にもかかわらず、部分的には「雄大迹の天皇のみ世に当りて、筑紫の君磐井、豪強・暴虐にして、皇風に櫃(したが)はず。」と、なんかとってつけたように“磐井をけなす”というか“大義名分上けしからんのだ”という言葉がパッとはさまっているわけですよ。という事は、つまり、一人の人間がズーッと初めからとおして書いたら、こんな“異質”の文体ふくみでは、おかしいわけですよ。
だから“本来あったもの”に、あとから手を加えている。あとから天皇家側の手が加わっている。“部分挿入”されている、という風に考えますと、この文面の正体がわかる。私も『失われた九州王朝』の時、そこまで、この風土記問題までは答が出てなかったんですが、文体がどうも矛盾している、二つの異なったニュアンスがあらわれている、と、その事だけを指摘したのですが、いま考えてみますと、本来の風土記に“新たな手”が、加えられた跡であったわけです。
五番の場合は「檜前の天皇(宣化)のみ世」これは、絶対年代を挿入しただけで、文章内容自身は関係ないと考えられます。
一番は神功が出てきますが、それは、出てきてもかまわない。むろん、筑後討伐が出てきたら、おかしいんですが、筑後討伐の話ではないですから、ここに神功が出てきても不思議ではないわけです。
しかし決め手になる問題は六番です。
閼宗岳(あそだけ)。ここで「筑紫の風土記に曰く、肥後の国閼宗の県・・・。」そして阿蘇山の事を色々いっているんですが、その中に「中天にして傑峙し」「地心に居す。」という言葉があります。「中天ーー天のまんなか、おおぞら、なかぞら」「地心=地球の大地の中心」という意味なんですね。つまり阿蘇山は天地の真中にあるんだ、という形で書かれている。
ところがB型、「郡」風土記の場合は、そうではありません。一番(A型)で神功を扱っているのと同じ説話のB型の方なんですが、「朕、西の堺を定めんと欲し、此の野に来著(つ)きぬ。」神功が「朕」と書いているのは、A型にない現象です。この文は明らかに、近畿を原点として九州北岸部が西の堺だ、とこういう表記になっている。その通りですね。そういう位どりで書いてある。九州の事を書いても、近畿を原点で書いてあるわけです。ところが、さっきの六番では、そうではないんです。阿蘇山も近畿が原点なら当然「西の堺」なわけですが、そうじゃなくて「天地の中心」という書き方をしているわけです。
という事は、「県」風土記は、「郡」風土記と比べて書く姿勢、執筆の原点が違う。九州を領域として、阿蘇山を「天地の中心」として書いている。というわけです。そうするとこれを、天皇家の命令によって書かれたものと、みなす事はやっぱりおかしい。立場が違っている、という事になるわけです。
それともう一つ重大な事は、この阿蘇山の記事が、「筑紫の風土記に曰く」と「筑紫の風土記」として書いてあるわけです。いいかえますと、A型の場合、九州のどこを書いても、「筑紫の風土記」の立場で書かれています。岩波の古典文学大系でも()して書いてあります。だから単に地域的な筑紫じゃなくて、“筑紫で作られた風土記”が九州を“包括”しているわけですね。
これを“天皇家がそういう形にさせたんだ”と、もしいうんならば、なんで瀬戸内海の風土記が、「吉備の風土記に曰く」と、播磨の事を書くのでも、ならなければおかしいでしょう。又近畿のどこを書いても、「大和の風土記に曰く」と書いて、近畿のどこそこを書く、でなければおかしいですよね。ところがそんな形式の風土記などは一切ないわけです。
それを“九州の太宰府だけがたまたま自分中心に、勝手に書いたんだ。”なんてね、そんな議論は勝手すぎるわけですよ。これはやはり、筑紫を“大義名分の原点”として書かれた風土記だから、そういうスタイルになっている、と考えなければ、いけないわけです。つまり近畿を中心、近畿天皇家を大義名分の原点とした風土記とは違うという事ですね。こういう風にA型風土記の中に、純粋に本来の姿を伝えていると思うもの四つ。この中には九州を原点にした姿がありありと残っている。それに後で、近畿側の手が加えられた形跡のあるものもある、というわけです。これは大変な問題でありますから、色々関連して申し上げたい事があるわけですけれど、時間が少し過ぎましたので、一応ここで切りまして、あと補足なり、質問で追加させていただきたいと思います。 
質疑応答
質問 / 風土記A型の六番の中に「閼宗神宮」とありますが現在でも神宮とされているんですか。
答 / これもいい問題だと思っている問題なんです。神社名鑑でみますと、神宮というのは非常に限られているんですね。伊勢神宮とか、熱田神宮とか、関東では鹿島、鹿取神宮とか限られた所しか神宮あつかいされていないわけですね。ところがここは委細かまわず神宮といっているわけですね。現地ではどうでしょう、その点は。私もはっきり確認していないわけですが、少なくとも現在の神社名とは違って、「閼宗神宮」と称している形で書かれているという事は、注目すべき点だと思います。
質問 / 古事記などは写本が問題になっていますね。風土記の場合は、どういうものが中心になっていますか。
答 / 風土記は、古事記・日本書紀のような“丸っぽ(完全形)”はございませんで、多くは釈日本紀とか、万葉集註釈とかいうものに引かれた形で、我々に分っている、という事ですね。まとまったもので出雲国風土記、これは写本がたくさんあるんです。播磨国風土記、常陸国風土記、それから九州筑後、豊後の風士記が多く残っているほうです。写本研究では、神宮皇学館大学の学長になっておられる田中卓さんが、出雲国風土記の写本研究をされたのなども有名ですね。
質問 / 三国志というのは中国で作られたものですから、中国の学者の意見は、どうなっているんですか。
答 / この前、この(大阪)中の島で講演された壱岐一郎さんが、一生懸命、コンタクトをとって三国志をめぐる中国側の意見をつきあわせようというプランを、お持ちのようです。まだ実現していないようです。三国志と、宋書・隋書等全部含めて、中国側の学者と忌憚のない議論がされれば面白いと思いますね。 
補足
実はこの風土記の問題について、ある意味では最も重要なバック・グラウンドがあると思うのです。といいますのは、中国における行政組織の問題ですね。ご存知のように秦の始皇帝が「郡県制」を敷きました。周代に楚の国とか、呉の国とか、国に分けていたのを廃止しまして、全部、全国を郡に分けたわけです。そして官吏を長官に任命し、統治したわけです。その場合、郡の下部単位が県です。ですから、一つの郡の中に県が十あるとか、十五あるとか決まってまして、郡の下に県がある制度を作ったのが有名な、この郡県制度です。それに対して、漢は秦の始皇帝の制度をやめまして、周と秦の制度を折衷したような「郡国制」を作ったわけです。
      |ー郡ーー県
郡国制ー|
      |ー国ーー県
これは郡の下に国を作ったのではありません。全国を郡と国の二本立てにしたわけです。国の場合は、自分の一族とか手柄のあった家来を世襲で、王にしたわけです。そして国でない所へ郡を置いたわけです。例えば楽浪郡、これは楽浪国ではありませんね。つまり郡と国の二本立てにしたわけです。郡の場合は、官吏を派遣して治めているわけです。世襲じゃないわけです。世襲の国と、その都度官吏派遣の二本立てにしたのが、漢の制度なんです。
ところがその場合、郡と国の二本立てだけど、下部単位はいずれも県なんです。これが郡国制度なんです。漢書等をみれば、その差がはっきり分かるわけです。
魏になっても、西晋になっても、この漢の制度を受けついでいるんです。そうすると卑弥呼の使の難升米が、帯方郡治の役所に行った、と書いてあるでしょう。しかしいきなり帯方郡治へ行けたはずはないんで、帯方郡の中の「県」を通って「県」をいくつか通って郡治に到着したはずなんです。それは書いてないけれど、当然そういう仕組みになっているのです。
そこで問題は、卑弥呼が、大夫を名乗って難升米を遣わし、自分は親魏倭王。難升米は率善中郎尉という、中国風の称号を受けたでしょう。そうすると、自分のところに行政単位を作ったら、どうなるか。自分のところは「国」でしょう。倭国です。倭郡ではない。その「国」の下は「県」になるはずなんです。つまり中国内部の「国」とは違う、夷蛮の「国」だけど、「国」に違いないですから、中国の真似をすれば、下部は「県」になるわけです。
そうすると、この倭国においても「国」の下に「県」があった、中国の真似をしたら、当然そうなる。そして、先程のように九州王朝の記録〈日本旧記〉の中では「県」が出てくるわけですね。殆ど九州にだけ多くの「県」が出てくる、という先の問題が出てきます。まさに“九州は、中国の「郡国制度の」一端にいた。”それを証明するもの、と考えれば不思議はないわけです。この点が、重要な根本の問題として、あると思います。
もう一つ先へ進みましょう。さっきいいましたのは古事記・日本書紀の中に、九州にだけ「県」がかたまっている、景行紀・神功紀に他から取って付けたところに、かたまっている。しかし例外として“近畿に若干ある”ということを、先程ちらりと申しましたね。
この例外が何を意昧するか、という事なんですよ。例外だから問題にしない。というのでは学問じゃないです。例外が大事なことがしばしばあるわけですね。どういうところへ、その例外が出てくるか、といいますと、例えば、
(神武)遂に菟田(うだ)下県に達す。『神武紀」
神武が“「○○県」に至った”という形で書いてあるのです。これは一体何か?
さらに、
此の天皇(第三代、安寧)、河俣毘売の兄、県主波延(はえ)の女(むすめ)、阿久斗比売(あくとひめ)を娶(めと)し、・・・。『安寧記』
県主というのが出てくるわけですよ。これは第二代、綏靖のところにも、すでに出てくるんですが、これには「県主の祖」と書いてあるから、「父親」の意味なのか、「何代か前」なのか、ちょつと問題がありますので、それは省きました。第三代のところでは、「県主波延の女」ですから、安寧と同時代にこの県主がいたということになりますね。するとこれは天皇家が任命した県主なのか、それ以前からあった県主なのか、という問題が出てくるわけです。これは大変な問題なんです。次の例ではっきりします。
此の天皇(第九代、開化)、旦波(たには)の大県主、名は由碁理(ゆごり)の女、竹野比売を娶して・・・。
『開化記」つまり第九代の開化が、旦波の大県主の娘と結婚したというわけです。ところが、私が朝日新聞社から出しました『ここに古代王朝ありき』をお読みになった方は、すでにご存知のように、“神武は実在だ。天皇という程のものではなく、九州の一角、田舎の日向の豪族で、九州王朝の血を引く一部で、九州ではうだつがあがらないというんで、「野盗」のように銅鐸圏に侵入した。大阪湾で敗北して、熊野を回って大和盆地に入った。そして一代から九代までは、大和盆地の一角だけを占拠し、支配していた。侵入者として存在した。”という風に私は考えたわけです。
“十代の崇神の時に、木津川の決戦で勝って、河内を支配し、十一代の垂仁の時に、銅鐸圏の中心、茨木市の東奈良遺跡あたりの権力を倒して、銅鐸圏の遺産を継承する。西は広島県、東は静岡県までの、銅鐸圏の遺産を継承する。中心部を喰いちぎることによってそういう展開になったんだ。”そういう論証をいたしました。
その論理性に立ちますと、開化の時、九代の開化の時は大和盆地の中だけの豪族のわけですよ。侵入豪族のわけです。すると、丹波はまだ天皇家の支配下にはないわけです。ですから政略結婚なんでしょうけれどね。天皇家の支配下じゃない、とすると、この大県主というのは、天皇家が任命した大県、王であるはずはない。つまり銅鐸圏側の大県主である、という事になってきます。そうすると、さっき神武が菟田下県に入ったという文も、二代、三代のところに出てくる、いずれも「県」と出てくるのは、“銅鐸圏側の行政単位である。”という大変な問題が出てくるんです。なんで大変かというと、本居宣長が“大変”にしてしまったんです。宣長の古事記伝をみますと、「県」論を延々とやっているわけです。神武記ですかね。それに成務記のところでもやっている。この「県」は、宣長によりますと、“「御県(みあがた)」の略である。「御県」というのは「天皇の直轄地」である。だから「県」は全部、直轄地である。“と。これはだいぶ乱暴な議論で、「御県」と付けば「天皇家の直轄地」でもいいですよ。しかし“「県」は「御(み)」が略されたものだ”とすると「御」が付いても付かないでも、同じ事になりますから、困る事が出てくるんです。それは、
大国・小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺、及大県・小県の県主を定め賜ひき。『第十三代、成務記』(『日本書紀』にも同類記事)
これが有名な成務記に出てくる文章です。日本書紀にもほぼ同じ文があるわけです。ここで“天皇家が、大県・小県を定めた。”とあるわけです。何の先入観もなくこれを見れば、この成務以前の段階に出てくる「県」は、天皇家が定めたものであるはずがないわけです。
ところが宣長は“「県」があれば全部直轄地だ。”とやってしまったものですから、この成務記で、次のように論ずるわけです。“これは新たに作ったのではなくて、今までにすでに定め賜うていたものを、さらに大きく作り直し賜うた。修理し賜うたものだ。”と、非常にご都合主義の論を長々と展開するわけですよ。これはしかし、あくまでも「県」といえば天皇家の制定に決っている、という先入のイデオロギー的な大前提で考えているからで、そんなことなしに解釈すれば、古事記・日本書紀ともに成務記に“このとき「県」を作った”といっているのだから、その前の段階に出てくる「県」は天皇家のものではない、天皇家の侵入以前から存在していた行政単位だ、と、こう考えるのが、筋であったのです。
そうすると“銅鐸というものは神秘な謎だ”というところに古代史の魅力があったのに、“その銅鐸圏に行政単位があった”なんていう話をすれば、もう“何をいっているか”ということになると思う人です。私もやっぱり“こわかった”のですが、考えてみると、これは当然かもしれない。
なぜかといいますと、最近「理論考古学」という事を、私はいっているんです。二月に信州松本で講演した時にはじめて使いました。
「実験考古学」というのがございますね。縄文土器を作ったり、弥生土器を作ったりする。「実験考古学」という言葉があったら、「理論考古学」という言葉があってもいいのじゃないか。従来の考古学、たとえば森浩一さんのような考古学者がしているのは、「発掘考古学」ともいうべきものだと思う。この「発掘考古学」を、「考古学」と一般化して使っているだけですね。
「理論考古学」とは何かというと、「理論物理学」、ベルンで特許局の役人として勤務していたアインシュタインが、一生懸命暇をぬすんでやったという相対性原理、机と紙だけでやったんですね。「理論考古学」もやはり机と紙だけでできる。“すべきものだ”と思うんです。現在の発掘や分布を説明しうる、仮説を提供するわけですね。それが「理論考古学」の使命だと思う。そういう議論が日本では無さすぎる、と思うんです。
詳しくは今申せませんが、『倭入も太平洋を渡った』(創世記刊)という私の翻訳した本を、お読みいただければ「伝播」という一語をめぐって、いかにアメリカの考古学者が丁丁発止(ちょうちょうはっし)、どういう場合「伝播」が成立するか、紙の上の議論を一生懸命やっているのがお分かりいただける、と思います。
そこで、こういう「理論考古学」という立場にたちますと、私は弥生時代の卑弥呼の国なんて、簡単明瞭ではないかと思います。弥生は当然ながら金属器の時代である。銅、鉄ですね。鉄はなかなか生産地の判定が難しいんですが、銅は鋳型がいりますから、鋳型の出土ではっきりする。つまり銅矛、銅父が出ていますね。だから、銅の文明は、鋳型をバックにして考え得ることです。
ある一つの銅文明の中心は、何によって定めるかというとまず鋳型ですね。だから、鋳型出土地点をB地点と考えますと、鋳型が圧倒的多数出土しているのがB地点。A地点は何かといいますと、鋳型で作られた実物が集中している。又銅製品のみならず、鉄とか玉とか、勾玉の鋳型も出ますね。そういう類の権力に関連するような貴品類の実物がゴソッと出る地点がA地点。こう考えます。
A地点とB地点が一致している場合は、文句なしに、その文明中心がそこにある、と考えていいだろう。もしA地点、B地点が全く分離していれば、実物はA地点に固まっている。B地点は鋳型だけあり、実物はなし、という場合、B地点は“工場地帯”というのは変ですが、生産中心に留まるだろう。都とはいえないだろう、こう考えるわけです。
矛や剣の場合、ご存知のように、博多湾岸の福岡市、春日市に鋳型が集中、圧倒的に集中している。そして糸島半島が副中心、あと両側にちょろちょろと一つくらいずつあるわけです。そして実物も又、同じ地域に集中しています。そうすると、A地点=B地点である。これは非常に幸福なケースであって、まず矛文明の中心は、この地帯を除いては考えられない。文献がどうあろうと、考古学的出土を理論的に処理すれば、これしかない、とこうなると思うんです。
ところがそれに対して、もう一つの鋳型が出てくる中心は茨木市の東奈良遺跡である。副中心は唐古(からこ)である。外に、姫路とか赤穂とか東大阪とかいう所に、一つずつ鋳型が出てきている。そうしますと、少くともB地点は東奈良遺跡である。ところがこの場合A地点がない。ないというのは言い方が不正確で、滋賀県の野洲町、神戸市の桜ケ丘に銅鐸が集中して出てきている。
ところがそれが都の跡であるから出てきたのか、というとどうもそういう状況ではない。ご存知のように山の裾などに埋蔵された感じである。宗教的意味なのか、侵入者を恐れてなのか、ともかく埋蔵された形です。“都だったから当然、そこに現われた。”という感じではないわけです。
もっといえば茨木市からは勾玉の鋳型が出てくるんですがそういう勾玉などは銅鐸と一緒に出てきていないんです。銅鐸だけがスポッと埋められている、という感じ。だからいよいよもって、A地点とは言いがたい。
この場合、B地点だけははっきりしているが、A地点が判明しないという不幸な状態であるけれど、結論は『ここに古代王朝ありき』で論じました「こわされた銅鐸」問題からみますと、どうも実物は破壊されたり、持ち去られたり、又それらを恐れて隠匿されたりした、とみるべきではないか。こうなってくると、不幸な状態ではあるけれど、B地点のある東奈良遺跡を中心と考えざるをえない。現在のところ唯一の中心と考えざるをえない、と、こうなってくるわけです。卑弥呼の国は、どっちかというと、中期、後期の銅鐸については、今の広島、山口県の東くらいまでが西の境ですから、そこから西へ行っていませんから。(初期の銅鐸は別にしましてね。)先ず卑弥呼の倭国は壱岐、対馬を含んでいなければおかしい。その上、倭人伝に、矛で宮殿を取りまいていると書いてあります。だから、卑弥呼の国は右の二つの中心地の内、どっちかというと、銅矛のA・B地点が一致した博多湾岸しかありえない。こういうことがでてくるわけです。
もし文献としての三国志倭人伝を解読して、ここ(博多湾岸)になれば、三国志は正しかった、陳寿は正しく書いて、解読も正しかったということになるだろうけれど、もし解読して、ここにならなかったら、三国志が間違っているのか、解読が間違っているのか、どっちかなんです。だから文献いじりは、どうあろうとも、「理論考古学」からいえば、ここ博多湾岸しかないという事に、私はなるだろうと思うんです。
ところが問題はその次で、銅矛の場合、中心はここですが分布圏は実物が出てくる所、北九州、中部九州、鹿児島や日向からも若干出てきますし、四国からも出てきます。これが分布圏。という事は、ここを中心にして、そういう範囲を支配したということです。支配したということは当然、軍事力がなければ支配できない。しかし軍事力だけでは支配できない。“一瞬”なら軍事力だけでいいけれど五十年、百年たった場合は、行政単位が必要です。行政単位なしで、軍事力だけで、ある地域を支配し続けるなんて図は、私には想像できない。
必ず軍事力が背景になりながら、行政単位が存在しなければ、継続した支配はありえない、と思うんです。
そうするとその継続した行政単位は、中国の「郡国制」を真似た「県」であった。銅鐸圏の“不幸な”ケースも、侵入者によって、荒された状態であるけれども、A地点不明という形であるけれども、やはりこの出土状況からみると、東奈良が原点で、西は広島県・山口県東部、東は静岡県まで支配が及んでいた、と考えなければならない。
小林行雄さんが、銅鐸は村々の平和な祭器なんだという理論をたてられた時には、まだ茨木の東奈良遺跡は発見されていなかったわけです。万博の時に、南茨木マンション建設の時に発見されたわけですから。小林さんの理論はそれ以前に作られた。だから生産中心が、見いだされていない段階で、小林さんの理論はできた。
しかし現在、これだけの生産中心が見つかっていれば、現遺跡の西、北方面を掘れば、もっと出てくる可能性はありますが、ここはやっぱり支配領域をもつ、銅鐸圏の中枢域とみなければならない。
そうすると当然軍事力が中心でしょうが、何十年か何百年継続したわけですから、行政単位なしに、支配が継続できたとは考えられません。
そうするとこの銅鐸圏も又、行政単位があって、当り前なわけですね。それが、例えば「大県主」。発音は日本語でどう発音したか知りませんが、これが中国でいう「国」に対する「県」を表現するものであった。こう考えて何の不思議もなかったわけです。
これは銅鐸なるものの、神秘のべールを剥ぐようなやり方ですが、人間の理性で考える限りは、“"行政単位なしの銅鐸圏”は、私は有り得ないと思うんです。こういう前提でみると、私にとっても、とてつもなくこわかった最後のテーマも、やはりこう考えざるをえない。又、こういう立場にたつと、いろいろ問題が次々と解けてくると感じているわけでございます。慌ただしく喋りまして、お聞きとりにくかったと思いますが、又改めて、足らぬところを補わせていただきます。どうもありがとうございました。 
プリント補注 / A型(「県」風土記)のすべて
一、芋眉*野(うみの)
筑紫の風土記に曰(い)はく、逸都(いと)の縣。子饗(こふ)の原。石両顆(ふたつ)あり。一は片長一尺二寸、周り一尺八寸、一は長さ一尺一寸、周り一尺八寸なり。色白くして[革更](かた)く、圓きこと磨き成せるが如し。・・・(下略)・・・。“後半は息長足比売命の説話”。『筑前国』P500。『釈日本紀、巻十一』
芋眉*野(うみの)の眉*(み)は、三水編に眉。JIS第3水準ユニコード番号6E44
[革更]は、JIS第3水準ユニコード番号9795
二、塢舸水門(をかのみなと)
風土記に云はく、塢舸の縣(県)。県の東の側(ほとり)近く、大江の口あり。名を塢舸の水門と曰ふ。大舶(ふね)を容(い)るるに堪へたり。・・・(下略)・・・。『筑前国」P501。『万葉集註釈、巻第五』
三、磐井君
筑後の国の風土記に曰く、上妻の県。・・・古老の伝へて云へらく、雄大迩の天皇のみ世に当りて、筑紫君磐井、豪強(つよ)ぐ暴虐(あら)くして、皇風に偃(したが)はず。生平(い)けりし時、預(あらかじ)め此の墓を造りき。・・・独自(ひとり)、豊前の国上膳(かみつけ)の県に遁(のが)れて、南山の峻(さか)しき嶺の曲(くま)に終(みう)せき。・・・(下略)・・・。『筑後国』P507〜508。『釈日本紀、巻十三』
四、杵島山(きしまのやま)
杵島の県。県の南二里に一孤山あり。・・・「比古神・比売神・御子神」・・・(下略)・・・。『肥前国』P515。『万葉集註釈、巻第三』
五、[巾皮]揺岑(ひれふりのみね)
肥前の風土記に云はく、松浦の県。・・・昔者(むかし)、檜前(ひのくま)の天皇(宣化天皇)のみ世、大伴の紗手(さて)比古を遣(や)りて任那の国を鎮(しづ)めしめたまひき。・・・(下略)・・・。『肥前国」P516。『万葉集註釈、巻第四」
[巾皮]揺岑(ひれふりのみね)の[巾皮]は、JIS第3水準ユニコード番号5E14
六、閼宗岳(あそのたけ)
筑紫の風土記に曰く、肥後国閼宗の県。県の坤(ひつじさる)、廿餘里に一禿山有り。閼宗岳と曰ふ。頂に霊沼有り。・・・(中略)・・・。其の岳の勢為るや、中天にして傑峙し、四県を包みて基を開く。石に触れ雲に典し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫して水を分つ、寔(まこと)に群川の巨源。大徳巍々(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形沓々、伊(これ)天下の無雙。地心に居在す。故に中岳と曰ふ。所謂(いわゆる)閼宗神宮、是なり。『肥後国」P517〜518。『釈日本紀、巻十」
七、水嶋(みづしま)
風土記に云はく、球磨の県。県の乾、七十里、海中に嶋あり、積、七里なる可し。名づけて水嶋と曰ふ。・・・(下略)・・・。『肥後国」P518〜519。『万葉集註釈、巻第三』
八、〈不明〉筑紫国號(筑後国号)〈岩波本〉
公望案ずるに、筑後の国の風土記に云はく、筑後の国は、本、筑前の国と合せて、一つの国たりき。・・・(中略)・・・・・・因りて筑紫の国と曰ひき。後に両(ふたつ)に分ちて、前と後と為す。『筑後国」P509〜510。『釈日本紀、巻五」 
 
画期にたつ好太王碑

 

1 南米エクアドル、そして北京への旅
日本人ピッタリの風土
古田でございます。お休みのところをおいでいただきまして恐縮に存じます。わたしは先程ご紹介にありましたように、昨日、博多(九州ー北九州・博多ーの講演会)から帰ってきたばかりです。博多では今日の午後一時から、テレビ西日本で「古代、九州人は太平洋を渡った」(一九八一年度芸術祭参加番組)という、一時間二十分番組を放映中でございます。
この番組のスタッフの方々が非常に熱心で、力作ができるだろうと思っていましたら、予想にたがわず、飽きるまもない試写室の一時間二十分でございました。
この中に、わたしがバルディビアの海岸を歩くところが出てきます。このシーンは、テレビでは十五秒なんですが、一日かかって撮っているんです。沖合に船を出しまして、「海岸を歩いてくれ」「もう一回歩いてくれ」と言われて、繰り返し何べんも歩くのです。まさに、黒沢監督にしぽられる俳優もかくや、と思ったくらいしごかれました。最後はこちらも、「エイ!面倒だ」と、一キロでも二キロでもと、ずんずん歩きつづけました。そんな苦労をして撮ったのが、わずか十五秒のシーンです。
だから、テレビに出なかった内容は沢山あります。一時問二十分はあまりに短かすぎる。もっと見てほしい題材が、あり余るほど撮ってあるわけですね。普通はテレビに出た部分の方が、出なかった部分より価値が高い、というように思われましょうが、見方を変えますとそうでもないんですね。歴史学という意味で、論証という意味で重要だけれど、古代史に知識をもっていない一般家庭で見てもらうには、そこまで立ち入ったらかえって分かりにくいのでテレビに出なかった題材も多いのです。
今日ここに来ておられる皆様は、テレビに出せなかった、そこが知りたいということがあると思いますので、少し補足させていただきます。
まず環境です。行ってみて素晴らしい環境であるということが分ったのです。エクアドルのバルディビア(「エクアドル」は“赤道”という意味)は暑いだろう、と覚悟していたんです。ただし、首都のキトは高い山地にありますので、涼しいだろうと思って行ったんです。
たしかに、キトは信州の上高地より快適、という感じでしたが。しばらく居ると、われわれ日本人には具合悪いんですよ。「走ってはいけません」「急ぐ時にする小走り、あれはいけませんよ」「水を飲んではいけません」と言われたんです。でもやっばりちょっと急ぐでしょう。すると胸がドキドキするわけですよ。空気が乾燥しているから、いつも喉がカラカラみたいな感じでしたね。
キトは白で統一され、美しいスペイン風の装飾のある建物がズラリと並んでいて、町全体が芸術品のようで素晴らしいのですが、われわれ日本人には落ち着きが悪いのですよ。
だからキトの日本領事館の書記官の方は、「休みになるとグアヤキル(日本でいえば大阪にあたる商都。海岸にある)まで、空気を吸いに行く」とおっしゃるのです。たしかにグアヤキルは低地で海岸部だから、湿度も高いのですよ。でも温度は高いのにと、ちょっとよく分らなかったのです。
ところが、グアヤキルに行って分ったのは、湿度も温度も高いのですが涼しいのです。日本で、温度が高くて涼しいというと意味不明ですが、現地の沖合を南極方面からフンボルト海流という、地球上屈指の寒流が北上してくるわけですよ。この大寒流の上を通ってくる風が、吹いてくるわけです。だから天然クーラーで、なかなか涼しいのです。しかも、湿気があるんです。「空気を吸いに来る」と言うのがよく分りました。
熱帯の町だが、グアヤキルは日本人にピッタリの風土なんですね。これは行ってみるまで、気がつきませんでした。
またここは、魚の宝庫なのですよ。マグロも日本の鰯やジャコみたいに漁れるわけですよ。漁民の中には、マグロを主食にしている人達もいるという話でした。刺身はないけれど、いろんな魚を細切れにして酢で食べる料理がありました。これは抜群に、われわれ日本人に合いましたね。
なぜ、そんなに魚が漁(と)れるかというと、北の方から黒潮が北太平洋海流になって、さらにサンフランシスコ沖から南下して、エクアドル沖合でフンボルト大寒流とぶつかるわけです。この暖流も地球上屈指の大暖流ですね。大寒流と大暖流がぶつかるわけですから、そこは地球上屈指の魚の宝庫になるわけです。だから、やたら魚が漁れるわけですよ。
さて、グアヤキル市外にスタッフの方々が、ちょっと市外を撮ってきますと出て行かれたのですが、郊外まで行かないうちに、「ここがいい。ここで撮ろう」と撮っていたら、レンガの後ろの方から、変な、ものすごい顔をした、巨大なトカゲが顔をだして、自分達の前にスタスタくるのですって。ビックリしたけれど、さすがプロで、そこを撮ったらしいのですが、トカゲ(イグアナか)は全然無害、何もしないわけですよ。市外まで行かないのに、そんなのがウロウロしているようなところだそうです。このフィルムも一時間二十分に入りきらないので、カットされたんですけれどね。 
古代の楽園ガラパゴス
それに、このエクアドルの沖合に、有名なガラパゴス島があるわけです。ご面相のおかしなトカゲ、海トカゲ・陸トカゲがおります。草食ですから大変おとなしくて、傍によってなでても何もしないわけです。
こんな太古さながらの形で、たぜ今まで生きてきたかですね。ダーウィンはここで進化論を思いついた、というんですがね。ここから先は空想で、生物学者が聞いたら笑うかもしれませんが、わたしなりの素人解釈しますと、進化していろいろ能力を変える、その一番大きな理由は食糧だろう、と思うのです。今までの能力では食糧をとれない、生命が維持できないというので、はねをはやしたり、海にもぐったりしたのだろう、とこう考えました。
すると、あそこは大暖流と大寒流の交点です。支流暖流と支流寒流がぶつかったところだったら、ある時期は魚がよく漁れるが、何年かすると全然漁れず、どこかへ漁場が消えてしまうことがある。北海道の沖合でも、すごく漁の豊富な時期があったのに、漁れなくなって町がさびれてしまった、そういう例がありますね。これは、支流と支流のぶつかっていたところだからだ、と思いますね。
しかしエクアドルの沖合は地球上屈指の大寒流・大暖流のぶつかりあいですから、漁場が消えてしまうなんてことはないわけですよ。つまり、太古から魚に恵まれた状態が続いてきたのではたいか。だから、能力を別に変えなくても、太古さながらの姿で、彼らグロテスクな動物たちは生き続けてこられたのではないか。またイグアナのような草食動物も、生態系に変化がなかったから、生きつづけられたのではないかと思ったわけです。これは、わたしの妄想かも知れませんが、そんなことまで思ったりしました。この“魚の宝庫である”というのが一つ。
もう一つ。博物館に行きましたら、黒曜石の矢じりがやたら並んでいるんですよ。「小学生、夏休み用の陳列」とかで、並んでいるんです。「これはどこの黒曜石か」と聞いたら、「こんなの、裏山に沢山出ますよ」と言われるんです。つまり、裏山は黒曜石の宝庫なんです。
日本列島で黒曜石の出るところは、そう数はありません。九州で腰岳、姫島、本土で出雲の隠岐島、和田峠、北海道はかなり出ますけれど、産地は特定されているのです。ところがここでは、前が魚の宝庫で、後ろが黒曜石の宝庫でしょう。だったらやっばり、ここは古代人にとって「楽園」というべき場所だったんだ、ということを、百聞は一見にしかずで実感いたしました。
もう一つ、向うに行ってよかった、と思ったことがあります。サンフランシスコ、ロサンゼルスあたりが、『三国志』になぜ書いていなかったか、ということです。「裸国」「黒歯国」は、舟で東南に一年(二倍年暦)、どうしても南米西海岸くらいになるんです。だけど、そこに行く前に、サンフランシスコや、ロサンゼルスに上陸してもいいではないか。そこを「○○国」「○○国」となぜ書いてないのだろうという、不審があったわけです。
こんな不審は、行ってみたらすぐ解けたんです。ロサンゼルスで一日、日通航空の現地駐在員の方にご案内いただいたんです。その時、「今日はいい天気ですね」と言ったら、「ここは一年中晴れですよ。雨が降るのは一月(ひとつき)しかありません」と言われるわけです。「それでは、水はどうしますか」「コロラド渓谷から大きな管をひいて、水を運んできて、それでこの辺の都市は生活しているんです。農業にも使っているんですよ」。
そういえば、そんな話を読んだ記憶もあるんですが、もう一つピンときていなかったんですね。結局、あの辺の都市は近代の人工都市なんですよ。近代工業の技術力をバックにしてこそ、多くの人が住めるのですね。古代では、一年のうち一月しか雨が降らないところでは、生きていけないわけです。だから、「○○国」なんて、文明ができるはずないんです。
中国の史書は、「陸地があったら書く」というのではなくて「文明の中心があったら書く」という書法です。これははっきりしています。だから、サンフランシスコやロサンゼルスあたりに文明中心ができるはずないんだ、ということが分りました。
日本で、机の上で考えていたのでは、なかなか分らないんですが、現地を踏むとたちどころに、「了解」という感じでございました。 
縄文文明とバルディビア土器
テレビに出なかった一番大事な点は、現地のバルディビアには、バルディビア式遺跡が沢山分布していることです。
はじめ弥生町から出てきたので弥生遺跡というように、バルディビアで最初にみつかったから、バルディビア遺跡と呼ばれているんです。それが現地にいっばい分布している。
だから、日本の縄文土器とそっくりといわれる、あの土器は現地の土を使っていて、焼き方の温度なども日本とは違うということがはっきり分りました。それと、現地にその土器があったかというと、沢山あるんですよ。散乱しているんです。
現地の人達はお人形(土偶)を掘って、観光客に売りつけに来るわけです。骨董品というより、子供の玩具用に売りにくるわけですよ。そのために、遺跡を掘り返している。そのさい土器なんて用はないというので、その辺に散乱しているわけです。驚きました。わたしもエバンズ夫人と拾ったのです。今日ご覧いただくのはその時のものです。
持って帰るについては、次のように考えました。
一、遺跡を荒さない。
二、持って帰った物を私有化しない。(私有化しないということは、日本の博物館に寄贈するということです)
三、代わって日本の博物館から、日本の物(出土物・産物等)を寄贈する。それができない時は、持って帰った物全部を返す。
を三原則にしました。日本からの寄贈は、縄文土器の破片等を、と考えていたら、現地の方は「江戸時代の歌舞伎のお人形でも、たいへん結構ですよ」と言われたんです。そうでしょうね、日本の物はなんにもないわけですから。何時代のものでもいいから、こちらから送って交換にする。それができない場合、博物館が貰うのはいいが日本の物は送りたくないと言うたら、持って帰った物全部を返却する、という原則をたてたんです。
それで、大統領府で許可状を貰って、日本に持って帰ったわけです。
現地でも、このように土器を見たのですが、一番有難かったのは、グアヤキルにある太平洋銀行博物館です。現地には四大銀行がありまして、それぞれ立派な博物館を持っているんです。お互いに競争しているんです。
その太平洋銀行博物館というのは見事でした。地域別・時代別に系統だてて、ビシッと見事に陳列してあるんです。あれだけ見事に系統だてて陳列してある博物館は、日本では残念ながら見たことがございません。素晴らしいものでした。倉庫にも行ったのですが、おびただしい出土物でした。そういう豊富な物を背景にして、非常に客観的に系列づけて立派に陳列しているという、博物館の模範のようなものを見られて幸いでした。
それを見て、やっばりと思いました。それは、『倭人も太平洋を渡った』でエバンズ夫妻がいっている、日本の縄文土器とバルディビアの土器が似ているといいましても、日本の縄文中期前後の時期と似ているのです。つまり、前期後半から後期前半くらい、この間の時期のと似ている。それ以前に似た土器は現地にはないのです。
日本の縄文中期の土器なんて、われわれが見たら簡単に作れると思うけれど、それまでに何千年という技術の伝統があるわけです。何千年という技術の累積の上にたって、縄文中期が成立しているんですよ。それを、現代のわれわれの目からみて、あんな素朴なものとバカにしがちですが、とんでもないことですね。
ところが、現地には、いきなり縄文中期前後が出てくる。それ以前がないのですよ。
「現地の人は日本人より頭が良くて、いきなり何千年の経験なしで作られた」なんていう説明を、誰かがかりにしたとしても、誰も信じませんね。
「人間のすることですから、偶然似たんですよ」というのは、一番ありやすい説明なんですよ。しかし、これも駄目なんですよ。博物館の系統だった陳列を見ますと、日本の縄文中期前後によく似ていて、影響が疑えないんです。
ここで一言、念のために言っておきますと、博物館はどういう「説」でもないんです。しかしエクアドル側では、「あまり日本人の影響云々」を、言ってもらっては困るという感じもあるのです。ナショナリズムがありまして、自分達の一番古い土器が日本人の影響をうけている、というのは何か気分悪いわけですね。そうでなくても、最近日本の自動車があふれていますので。国民の気持もそうだし、学界の方もそういうのがむしろ大勢なんです。だから博物館の陳列は、“日本渡来説に有利にしてある”というのでは全くなく、客観的に冷静に並べてありました。 
エバンス説の「是と非」
さて、縄文土器は中期のあと、後期後半から晩期にかけて見事なものができますね。わたしの知り合いの、清水焼の名人に近い方が、「縄文晩期の土器には、おそれいります。形の似たのはできますが、われわれにはとても、あの土器がかもしだす芸術性は、ちょっとやそっとでできるものではありません」とおっしゃったのですが、恐らく、そうだろうと、私も思います。
ところが、現地にはそういう土器はないのです。全然別の見事なものが出てくるんです。のちのインカ等の系列につながるものが、ドッと出てくるんです。これは、きっと“征服と被征服”というようた問題があったのでしょうね。
だから一つは、前と後がなくて、真ん中だけ似たのが出てくる、という問題を、ここで確認できたことです。
もう一つは、日本列島内のどこの地域の縄文であるか、ということです。日本の縄文というと、東日本の方が数が多く盛んです。ところが現地の縄文土器は、東日本のとは、それほど似ていない。若干、部分的に似ている個所は指摘できますけれど、“部分”的に似ていても駄目ですね。“複合”して似ていないと、証明にならない。しかし、西日本の九州の中でも有明海沿岸の土器とよく似ている。九州東岸や南岸とは、“部分”的には似ているが、“複合”して似ているとか、そっくりとか、いうのではないのです。これがまた、不思議なんですね。
だから、空間的にも、限定された地域と似ているんです。これも、「人問のすることだから、似ることもあります」では、とても納得できないですね。
そこで、やはり何らかの交流が実在したという、エバンズさんの説は、なるほど、そう考えざるをえないなあと思いました。
実態を知らずに、現地も現物も見ないで、日本で「あんなのは、偶然の一致ですよ」と、考古学者が言っているのを聞きました。そういう机の上の議論が、多すぎるようです。
次にこれから申し上げることは(テレビでも言いますが)、大事なことなので、一言いわせていただきます。
わたしは、日本の縄文の文明と現地の文明とは、異質の文明であるという大前提が、大事であると思うのです。その端的な証拠を申しますと、先程の人形ですね。観光客相手に売っているほど沢山でてくる人形が、日本の縄文にはないわけです。もちろん、日本の土偶もありますが、しかし、スタイル、様式が違うのです。だから日本にないのです。
ところが、この人形は、現地の文明にとって大変重要なシンボル的なものだったと思うのです。恐らく、宗教的な意味を帯びていたのでしょう。けっして、子供の玩具用に作ったものではないでしょう。
そういうシンボルをなすものが、日本の(九州の)縄文(中期)にないのですから、両者は基本的に、本質的に別の文明である、ということを認めざるを得なくなります。
先程まではエバンズ説の追認だったのですが、この最後の点になると現地に行って、はっきりそうであると確認せざるを得なかったのです。エバンズ説には、“日本人が現地に渡って、あの文明そのものを作った”というムードがつきまとっていますが、それではどうも具合悪いのです。本質的に別の文明である。
ところが、そこへ有明海人でしょうか、縄文人が一年や二年ではなく、かなり長期間、千五百年か、そこいらの長期にわたる影響を与えた。これはカルチャー・ショックですね。現地はそれを受け入れた。カルチャー・ショックと受容の問題であるのです。
日本人が現地で、日本の植民地みたいなものを作って、当地に日本文明みたいなものを開いたという発想では具合悪いのではないか、とこう思っているのです。
カルチャー・ショックによって、「ミックス縄文」というような文明が現地に成立した。だから縄文と共通の要素と、明らかに違う要素があるのです。あまりに似ていて、偶然とは言えない要素と、明らかに違っている要素とがある。この両要素を、共に説明し得る仮説でなければこの問題の真の解答にはならない、という確信を得ました。
現地に一週間余りいて、この短い間に大変恵まれて、こういう認識を得られたわけでございます。この問題もいろいろ申しあげたいことが他にもございますけれど、時間の関係で本日の問題に入ります。 
好太王碑見学をめぐって
三月の終りから四月の初めにかけまして、中国にまいりました。朝日トラベル「中国古代史の旅」の講師として、上海から南京・西安・洛陽・北京に行き、最後の北京で「古代史の旅」の皆さんと別行動させていただいて、国家文物局にまいったわけでございます。そこで謝さんと、郭さんと会見したわけでございます。謝辰生という方は学術研究室の責任者で、郭勞為さんは外業部の責任者の方であります。このお二人とお会いしたわけでございます。
この会見でわたしの方は、「夏に長春から集安に行って、好太王碑を見たいと思っている」ということを申して、「東方史学会」という名前の願い入れ書を出しました。「東方史学会」というのは、簡単にいえば、“好太王碑を見に行く会”というわけですが、観光というのでは、向う(中国)が受け入れにくいんではないかというんで、学会という形にしてあるんです。事実、物見遊山で行くんではなく、古代史の学問的な興味と関心で行くわけですから、一般の「観光」ではないということで、「束方史学会」という名前で申し込み書を作っていたんです。
わたしはその申し込み書を窓口に渡しに行ったつもりなんです。夏にいきなり地方の長春に行くよりも、中央へ「好太王碑の見学を希望しております」ということを通知しておいた方がよいと、京都の日中友好協会の水上七雄さんからご忠告を受けましたので、なるほどと思って願い入れ書を「窓口」に出しに行ったわけです。
ところがこれは“日本的イメージ”らしかったですね。前の晩、洛陽の時、通訳の方に「国家文物局に行きたい」と言ったら、電話で連絡して下さったんです。通訳の方と二人でタクシーで、国家文物局に行ったら、故宮の奥の立派な接見室に通されまして、そこで中国の要人二人が、わたしよりずーっと年配の方ですが、通訳をつれて堂々と現われ、こちらも通訳をつれ、まさに「会見」という雰囲気になってきたんです。
そこでこちらの希望を述べますと、「好太王碑は開放されておりません」というご返答だったわけです。それでわたしはちょっとガッカリした顔をしていたんでしょうね。郭さんは戦前の早稲田大学出身だそうで、日本語の大変上手な方で、その郭さんが「この好太王碑には拓本がありますよ」とおっしゃいますので、わたしは「いや拓本では具合悪いんです。というのは、好太王碑の現物が改竄(かいざん)されているのを知らずに、あるいはわざとというか、それを拓本にとったものだという学者の意見がありますので、その点を確認したいと思って現地に行きたいわけです」と言いましたら、郭さんは「一部の人がそういうことを言っているのは、よく知っています。しかし」ーーここで声を大きくされまして、「しかしその人は実際の石碑を見たことのない人です。実際の石碑を見れば、拓本と違いはありません」ということを、わたしの表現を入れますと、“義憤を感じて”いるような言い方で、声を大にして言われたんです。義憤云々は、わたしの主観的な受けとり方ですが、声を大きくして今までと違ったトーンで言われたことは、はっきり覚えております。
わたしは、こんなことまで出てくるなんて、予想しておりませんでしたので驚いたんです。が、これは大事なことなんだなと思って、持っていた原稿箋に、「従来の拓本にほぼ誤りはない」と書いて、・・・郭さんの言葉にはほぼという言葉はなかったんですよ、しかしわれわれの方では部分的な字のズレというのが知られていますから、より正確にと思って「従来の拓本でほぼ誤りはない」と書いて、これでいいんですね、と郭さんに見せたわけです。郭さんは早稲田大学出身ですから、日本語は読めるわけで、これをみて「その通りです」とおっしゃって、帰りがけに、国家文物局・謝辰生・郭勞為と署名して下さったわけです。この署名は「国家文物局・謝辰生・郭勞為」まで全部郭さんの字でございます。
謝・郭両氏の「確認」の署名(控) (高句麗好太王碑)古田武彦 従来の拓本でほぼあやまりはない。
一九八一、四月一日故宮にて会見 謝辰生ー国家文物局|郭氏の署名郭勞為ー
これは面白いことに、この時通訳についてこられた胡春女、優秀な通訳さんだったんですが、仕事がなかったんです。わたしと郭さんが日本語で話すから。郭さんはわたしより日本語がうまい。うまいというのは戦前の日本語だからくずれていない、格調高い日本語を使っておられました。
胡さんは、手持ち無沙汰に座っておられたんですが、帰りがけに胡さんが自分の手帳を出して、サインを求めると、今度は謝さんがサインされた。後でタクシーの中で見せてもらったら、謝さんが国家文物局の二人(自分と郭さん)の名前を書いておられましたね。こういうのは日本ではあまりしませんね。他人(ひと)の署名をするってことは。ところが中国では、それが普通みたいで、私に対しては郭さんが両方、通訳の人には謝さんが両方という面白い形になっておりました。
なおついでながら申しますと、兵庫県の西宮で「中国文物展」があったとき、文物局の方、若い方でしたが、その時にわたしが名刺を出したら、向うも名刺をくれまして、三人の名前の印刷してある名刺でした。こういうことも日本ではあまりないですね。われわれの名刺より大きくて三人分の名前が書いてあるんです。中国の人は公用でなければ、名刺なんて使わないわけなんですね。日本に来るので、日本人が名刺好きなのを知って、作ったのかも知れませんね。
こんな話は余分なことですが、郭さんは実に快く署名して下さったわけです。
郭さんが「そのとおりです」と言った後で、「日本にも拓本はありますよ」とこうおっしゃったわけです。その時ニヤッとして言われたから、わたしはこの人は戦前、日本の学校を出た人じゃないかたと思ったんです。後で聞くとはたして、早稲田出身の人だったんです。だから戦前の時から東京あたりで、日本にある拓本を見ておられたんではないでしょうか。そして「従来の拓本にはほぼあやまりはない」と強調されたのです。
これが四月初めの経験でございました。だから「好太王碑」は開放はしていない。その理由は辺境である、国境であるということを言われまして、開放しないというご返事だったわけです。 
「開放」の予告
さてその後、八月下旬、藤田友治(「囲む会」及び東方史学会事務局長)さんと一緒に中国に参ったわけでございます。先程申しました水上七雄さんに、「中国も地方の時代を迎えて、地方のことはなるべく地方に権限をゆだねて決定させるという方針をとっているようですから、好太王碑開放といった問題は、現地(吉林省)の仕事になっていると思います。吉林省の省都が長春ですので、長春の文物局に行けば話がはっきり分るかも知れませんよ」という忠告をいただきましてね。そして京都から日中友好訪中団が中国に行くという話を聞きましたので、じゃあ加えて下さいとお願いして、四月に中央の北京に話をしておいて、八月下旬、現地、長春に行ったわけです。
長春に行ったのはいいのですが、吉林省文物局の方に会えないんです。通訳の人が“(局に)誰もいないので、会えない”と言われるのです。こちらは願い入れ書を出してあるから、(その件では)会いたくない口実かと、失礼にも思ったりしたんですが、そうではなくて本当にいなかったらしいんですね。あちこちの文物のあるところに散って、仕事をしている。吉林省といっても広いですからね。
しかも後で分ったんですが、一番沢山の人が行っていたのが集安。好太王碑のところに行っていたんですね。だから「お会いできません」と、何回も断わられたんです。わたしたちが何回もねばると、「夜なら時問のあく方が、幹部で一人いる。夜は役所が休みだからホテル(南湖賓館)に来てくれるそうです」という話になったんです。
約束の時間にホテルに霍世雄さんがおみえになったんです。そこで一時間ばかりお話ししたんです。そこでおっしゃったことの第一項目は、「好太王碑は必ず開放します」。第二項目は「開放の期日は再来年に予定しております。しかしできれば来年にしたいと思っています」。この言い方に特徴があったんですね。普通なら来年か再来年というところを、今のようにいわれた。おそらく再来年の予定で準備作業をやっていると、案外うまく早く進行しているらしいんですね。だからこれなら来年開放できそうだという感触をもっておられるようでした。
第三項目は、「もし何かのことがあって来年・再来年開放できない場合においても、必ず開放します」。第四項目には、「開放する際には、東方史学会(この名前で申し込んでいましたので)を初め、世界の友好人士に広く開放いたします。例外なく原則によって開放いたします」。
そして第五項目に、「期日が決まったら長春の国際旅行社を通じて、各方面に連絡させていただきます」ということだったんです。
これをわたしの方が書いてくれと言ったんですが、(中国のほうには)書く習慣がないといって、(書いてもらうのが)駄目だったんですが、霍さんが帰られた後、通訳さんにねばったんですよ。最後には喧嘩みたいにまでやったんですよ。艾(あい通訳)さんが「これだけはっきり言うのに信用できないんですか。この話は今度が初めてではないんです。今年四月の終りから五月にかけて、昔、開拓団だった日本の方々が来られて、その時も『好太王碑を見たい』と言われた」。その時の通訳も艾さんで、「その時も文物局に問い合せて聞きました。そしたら今の霍さんと同じ返事でした。だから間違いありません。だから信用して下さい」。こう言うんですね。
しかし、「こっちは、日本では書いたものがないと信用されないんだ」と言いますと、艾さんは、「中国に来ているんですから、中国の習慣に従って下さい」という論理でくるんですよ。「いやこっちは、それは分るけれど、われわれは明日かあさって日本に帰るんだ。日本の習慣の中で生活するのだ。(日本では)こう聞いたと言うだけでは信用されないんだ」「あなたが署名しないのは、後で責任をとるのが恐いんでしょう」とか、お互い突っ込んだ話をしたんです。毎日したんですよ。
好太王碑開放に関する「確認」の署名(控)
一、集安の好太王碑については、必ず「開放」する。
二、その「開放」の時期は来年(一九八二)か翌々年(一九八三)とするように努力している。
三、そのさいは東方史学会をふくむ日本(及び世界)の友好人士の来訪を歓迎する
四、その「開放」に先立ち、その期日を長春国際旅行社を通じて各方面に連絡することとする
一九八一、八月二十五日 通訳艾生地
一九八一年八月廿六日
八月二十四日、夜20:00-21:05吉林省文物局の霍世雄氏の明言による。(南湖賓館にて)
そうこうするうちに互いに気持が通じてきたんでしょうね。普通の「通訳対旅行者」の関係ではなくなってきなんですね。最後の日に五項目のうち第三項目は第一項目の繰り返しと思って省いて、四項目にして書いて、「これに間違いはないか。」と言って、「明日早く飛行機で帰るが、ここに中国語でこの内容に間違いがないと書いてもらえないか。署名はなくていいから」と言いますと、意外にもさらさらと署名をしてくれました。
一見これは“単なる署名”と見えるかも知れませんが、それまでの何日間かを考えますと、艾さんの態度にはきわだってさわやかなものがありました。後で藤田さんとわたしとの三人で固くかたく握手いたしました。
長春からの帰りがけに、また北京に寄りました。そこで郭勞為さんにお会いして、長春でのいきさつをお話ししました。「この点ご存じですか」と聞きますと、郭さんは「知っています。聞いております」と言われたんです。
そこで藤田さんが鋭い念を押して下さったわけです。「(好太王碑開放という)こういう問題はどこで決めて、どういうふうにするのですか」と聞かれますと、郭さんは「吉林省の文物局が決めることです。そしてその期日が決まったら、北京のわれわれのところ(国家文物局)に文書による通知があります。それに対してこちらから何か意見があれば、それを言い、(開放が)駄目だというのもあるかも知れませんし、開放する場合に、この点、あの点に注意してくれという等、こちらの言い分があれば書いて返す。そこで最終的な成立、という形にしております」と、おっしゃったわけです。
わたしが「将来(開放の)期日が決まって、(吉林省文物局からの)正式の文書がきたときには、ぜひOKの返事を返すようにして下さい」と言いますと、(郭さんは)「分りました。上司にそのように伝えておきます」ということで、八月終りの二回目の会見が終ったわけです。
その後(九月二十八日)、共同通信電で「(開放は)嘘だ。前に開放すると言ったけれど、北京の中国政府は開放しない方針である」というのが流れ、地方紙や一部の中央紙でご覧になって、心配なさった方もあると思いますが、これをわたしの方からみると当然であります。わたしたちのことを書いた朝日新聞の記事には吉林省の話と書いてあったんですが、(吉林省の)後で北京に行ってこうだったというのは書いていませんでしたし、(文物局の)権限の話も書いてなかったのですから、その経過を知らずに、共同通信の記者の方が北京に行って郭勞為さんに会ったのですね。そして「日本で『中国政府が好太王碑を公開する』というニュースが流れたが本当ですか。期日はいつですか」と聞かれたわけです。すると(郭さんは)「公開しないという方針は変っておりません」。そういう返答だったんですね。
これは誰が行っても、北京の国家文物局に聞けば、中国は原則を守る国であり、国家文物局としては当然現在は公開しない方針でいるんですから、その返答しか返ってこないんです。(郭さんが)貴任者として、「実はひそかに公開の話を聞いていますよ」とか、「八月に日本から来た人にもこんな話を聞いています」などと言うはずがないんです。ということで、当然くるべき回答がきただけですから、わたしとしては何ら心配をしていないわけでございます。
現状をまとめてみますと、長春の吉林省文物局は本腰かけて(開放の)準備にかかっている。第一は研究。研究というのは、従来の植民地中国の時代は素晴らしい素材を現地が提供して、外国の学者が発表するというタイプでした。シルク・ロードもかつてはそうでしたね。あれはもうイヤだ、中国の故蹟は中国の研究者が研究するんだ、これを原則とするんだ、という誇りある態度でいるんですね。だから好太王碑についてもそれをまずやりたい。
第二は整備で、これは(好太王碑に)たくさんの人が来る場合に、石碑が傷ついたりしないよう、保護施設を充分作るということがあるでしょう。ここから先はわたしの想像ですが、ホテルが集安にいるでしょうね。中国は点だけが開放されていて、面は開放されていないわけです。吉林省では長春と吉林の二つの町しか開放されていない。あとは全部未開放です。点が開放される場合は必ずそこにホテルを作っている。友誼(ゆうぎ)商店を作り、お金を交換する場所を作る準備がいるわけです。当然、集安にもそれらがなければ開放できないわけです。そういう類のものも含めた準備を、現地で一所懸命やっている。もちろんホテルを準備するのを、文物局が直接するわけじゃないでしょうけど、そういうのがすべて整った後に、開放ということになるわけでございます。
しかしその時になって、政治状況が緊張してきたとか、あるいは中央の方で(開放は)絶対駄目だという話が出てきたとか、その他どのようなことが起るか分りませんが、(今)吉林省では一所懸命開放に努力している。一方、中央の北京は従来通りの(公開していない)姿勢で、吉林省の今後の出方を見守っている、というのが現状でございます。 
武国員力*さんとの邂逅
武国員力*(ぶこくしゅん)さんの[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB
さて、長春に行きました時に非常に大きな収穫がございました。長春の博物館に好太王碑の写真があると聞いておりましたが、これは間違いで拓本がございました。その拓本は立派なものでしたが、現在問題になっている改竄説には役立たないものでした。四面を四枚にとった拓本で第三面が展示してありました。(係の人に)聞いてみますと、初めは当然のことながら第一面が展示されてあったんですが、四人組の時に持ち去られた。なんであんな物を持ち去ったか分りませんが、第一面がなくなった。今、三・四面とあるんだが、第三面を展示していると言っていました。
わたしは中国で初めて拓本を見るんだから、写真に撮らして下さいと言って、藤田さんと撮っていたんです。するとその時、学芸研究部の代表者みたいな方が出て来られて、“変な”ことを言われたわけです。「あなたの国に水谷拓本ってのがありますよ。そのほうが(ここのより)いいですよ」というわけです。わたしは「あれ!水谷拓本の名前が出てきた」と思って、「水谷さんにはお会いしましたし、水谷拓本の現物も見ました」と言ったんです。
なんでこんなことを言うんだろうと思っていると、「朝鮮の方が出した本があるでしょう。そこに水谷拓本が出ていますよ」と言われるから、「李進煕(りじんひ)さんの本に、水谷拓本が出ていることは知っていますし、その現物も水谷さんのお宅で見ました」と答えました。そして何をこの人は言っているんだろうと思っていますと、「こちらの方においで下さい」と言われたので、応接室に行ったわけです。
わたしは“(この人は)大分内情を知っているな”という気がしましたので、こちらの考えをストレートにぶっつけようと思って話し始めたんです。「さきの(陳列室で見せていただいた)拓本を見てガッカリしました。あの拓本では、われわれが来た目的の役には全く立ちません」と。すると通訳の艾さんがビックリしまして、“失礼なことを言うなあ、こんなのを訳していいのかなあ”というふうで、すぐ訳してくれなかったんです。(わたしが)「かまいません。その通り訳して下さい」というと、やっと艾さんがその通り訳したんです。するとその方が「あっ」という顔をして、態度が変ったんですね。
拓本は、子供が石に紙をあてて鉛筆なんかでザーとしますね、あれが拓本の正直な原理なんです。だからどんな字が出てこようと、字が出てこまいとかまわないんで、石に紙をあてその通りとった拓本が、一番正直な拓本です。水谷拓本というのはそういうやり方でとった拓本なんです。もちろん水谷悌二郎(ていじろう)さんがとったのではなく、中国側でそういうふうにしてとった拓本を買われたわけです。敗戦直後に買って持っておられるものなんです。それに比べると今(陳列室)の拓本は、黒白をはっきりさせて字を浮きださせているわけです。“これは字だ”“こういう字だ”と判断しながらとっているわけです。その判断が合っていればいいが、合ってないと間違う、という性質のものです。だから「書」として見れば格好はついているけれど、学問研究の上からは(この種の拓本には)問題があるわけです。
だから向うは、“日本に水谷拓本という立派なものがあるじゃないか”と言いたかったわけです。
私達が写真を撮っているのが“嬉しそう”に見えたんでしょうか。“(研究の)役には立たないのに”と思ったんでしょうね。そこでわたしが“日本で水谷拓本を見ている。ここの拓本は研究の役に立たない”と言ったので、“それなら話が分る。じゃあ話をしましょう”という態度になってきたんです。
この方は武国員力*(ぶこくしゅん)という方で、「私は北京の図書館に行って李進煕さんの本を読みました。ところが李さんの本に出ている水谷拓本などの資料は立派なものですが、李さんの改竄(かいざん)説そのものは、全く成立の余地はありません」と明言されたわけです。(武さんの言われるのには)「一昨年、好太王碑のところに行って詳細に調べました。すると李さんが問題にされた『渡海破』は石の字です。石灰の字ではありません。また、(『倭』という字は好太王碑には九つあるわけですが)これらの『倭』の字も全部石の字です」。
武さんは研究者であると同時に、学芸部の責任者でしょう。研究者であると同時に、管理者側なんです。(中国の)博物館は文物局に所属しているんですから。だから文物局の職員でもあるわけです。
好太王碑は文物局が管理しているんですから、だから管理者側の人なんですね。だから現地に行く便はわれわれとは比較にならないんですね。 
李論文の発想の原点
九つの「倭」について、ちょっと注釈がいるので申させていただきますと、岩波の『思想』(第五七五号、一九七二年)に初めて、李さんの論文が出ました時に、わたしは非常に不思議だったわけです。
“「渡海破」がおかしい”と、さかんに書いておられるんですが、九つの「倭」のうちの六つぐらいには、ノータッチ、全然論じておられないんです。すると「倭」という字があり、それが石であるとすると、「倭」と「高句麗」が戦っているんですから、「倭」は海を渡りますよね。当り前のことです。それをわざわざ参謀本部が、「海を渡った」という字を石灰で入れさせる必然性はないですよね。“「倭」が戦っているのに海を渡っていない”なんて、意味が不明ですよね。
そうすると、“「渡海破」がおかしい”というだけでは、話が終らないんじゃないか。話の始まりかもしれないが、終りじゃない。この著者(李さん)は本当は何を言いたいんだろうと、疑問を感じました。そこで李さんに手紙でお会いしたいと書いて送りましたら、「おいで下さい」と言われて、多摩の李さんのご近所の喫茶店でお会いしたわけです。
その時に、こちらはしつこくお聞きしたら、一度目は話をおそらしになって、二度目もそうでした。一時間半くらい話をして、このまま(疑問を聞かずに)帰っては来た意味がない、と思って、ゆっくりと間合いをのばして聞いたわけです。そしたら、やっとお答え下さったわけです。結局“その答は九つの「倭」は九つとも「残」であろう”と。「百済」のことは「百残」と書いています。われわれは好太王碑の中で「高句麗」と「新羅」「百残」の百済と「倭」とが四つ巴で、戦っていると理解してきたわけです。ところが(李さんは)“「倭」は一切姿を現わしていないんだ。「高句麗」「新羅」「百残」の三つ巴であって、「倭」は一切なし”というお考えであったわけです。
(わたしには)これならよくわかるんです。日本側の学者が『日本書紀』、『古事記』を出発点にするように、朝鮮半島側の学者は『三国史記』、『三国遺事』を、出発点にするわけですね。『三国史記』の「好太王」の項には、「倭」と戦ったというのは一切出てこないんです。「百済」「新羅」は出てきますけれど、「倭」は一切出てこないんです。
だから李さんの発想の原点は、“『三国史記』をもとにして「好太王碑」をみると、『三国史記』にない「倭」がえらい出てくる。おかしいぞ。これはどうしたわけだ。「渡海破」は拓本によって、だいぶずれている。ハハーン、誰か改竄をやったな”というところが研究の出発点だったようですね。だから(改竄説の)本丸は「倭」なんですよ。九つの倭なんですよ。それが全部石灰の字だと証明された時に、李さんの研究は「完成」するんですね。
ところが李さんは腎明であって、(九つの倭の「改竄」には)一切触れておられない。「渡海破」は大坂城を攻めるうえでの、外堀の作業なんです。李さんが書いておられる本や論文はみんな、“外堀用”のものなのです。“本丸”は一切書いておられないわけです。しかし諭理的には「九つの倭」までいかないと、話のつじつまが合わない。
わたしが李さんに会いに行く前に思っていたのは、“「倭」の本来の字を「燕」くらいに言われるかなあ、『三国史記』の「好太王」の項には、「百済」「新羅」以外に、「燕」と戦ったことがたくさん出てきて、これが大抵(好太王が)負けているから。しかし「燕」は北京の方で、「百済」「新羅」と方角も方向も違うし、文脈は合わないけれど、「倭」と「燕」は字数が合うから”といったことでしたが、(李さんは)「残」だとおっしゃるんです。
私は論争にいったのではないので、論文執筆者の執筆の意図といいますか、論文内容を理解したいために行ったんですから、「有難うございました」といって帰ったんです。しかし帰りがけの汽車の中で思ったのは、ちょっと「残」は無理じゃないかなあ、確かに『三国史記』は「百済」を「済」と略することはあるんです。ただしその場合は、「済王」とか「済軍」とか「済兵」とか熟語になっている場合に使うんですね。それをただ一字だけで“「済」が”とか“「済」を”とかの一字だけで「主語」「目的語」にしているケースをちょっと知らないんですね。(家に)帰って『三国史記』を調べてみると、やっばり普通はなかったんですね。
第一、なによりも「好太王碑」自身に、その用法がない。「百残」や「新羅」が出てきます。「残王」なんてのも出てきます。けれど一字で「主語」「目的語」にしている文例は、全く出現していない。だからその点からいっても、(「倭」を「残」にするのは)無理じゃないかなと思いながら帰ったわけでございます。
しかしこれについては検証の方法はあるわけです。「渡海破」はいろいろとだいぶいじられているから、現在、はたして満足に残っているかどうか分らないが、現在も「好太王碑」があるんですから、それを見て九つの「倭」という字が石灰であれば、「李説」は正しい。ところがここが石の字であれば「李説」は駄目、となるわけです。「渡海破」のところは日本人が好きで、しょっちゅうとったんでしょうね。梅原末治さんもあそこだけとった拓本を持っておられますからね。だから「渡海破」が磨滅しておりましても、ほかの部分(九つの「倭」)は残っているだろうと思ったんです。 
武国員力*氏の「確認」の署名(控)
中国語なので表示は図のみ。
武さんも同じ理路をたどられたらしくて、私が九つの「倭」はどうでしたかと言ったら、「その点も調べてみましたら、全部石の字です。石灰の字じゃありません。『渡海破』も石の字でした。だから李さんの『改竄』説に関しては、全く成立の余地はありません」と言われたんです。これはやはり貴重な証言であろうと思うわけです。わたし自身は好太王碑の現地に行けなかったけれど、わたし以上に中国の文字に詳しい、特に中国の古い文字の専門家のようでしたが、そういう方で、遠い北京まで行って図書館で李さんの本を見てくるという努力をはらって、そういう問題意識をもっている方が、実際に好太王碑をご覧になって「石の字だ」と言われる重みは非常に深い、と、わたしは思っているわけでございます。
そこでわたしは、来年か再来年、直接現地に行って、直接石碑を見れば分るが、改竄説自体については、見なくてもほぼ解決はついた、と言っていいだろうと思うんです。そういう意味でも、好太王碑研究は、一つの画期点をむかえた、と言っても誤りないであろうと、思うわけでございます。 
2 新しい諸問題
その一、「其の国境」問題
次に“「好太王碑」は事実である。史料として信憑できる”ということになりますと、ここに新しい問題が、この史料から出てくるわけでございます。従来、わたしも含めて、「改竄」かどうかというところに頭がいって、“好太王碑が間違いない”となった場合、史料としての生かし方、検討というのが、随分おざなりになっていたなあと、わたし自身思うんですよ。
今のわたしからみると、好太王碑は、“石”の石碑じゃなくて、全部“宝玉”でできた碑じゃないだろうかと思うくらい、日本の古代史を解く、重要な鍵が沢山秘められていると、思えてきたわけでございます。この点を今から申し上げてみたいと思います。
第一は、「其の国境」問題でございます。永楽九年の項に、
「新羅遣レ使白レ王云、『倭人満二其国境一潰二破城池一以一奴客一為レ民・・・』(倭人、其の国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以て民と為し・・・)
があります。問題は「其国境」の「其」はいったい何を指すか、ということでございます。これは当然ながら、「倭人」というのが主語にありますから、「倭人の国境」つまり、「倭の国境」というふうに、考えざるを得ない。これはもう、はっきりしたことだと思います。この新羅の使者の言葉が「倭人」から始まっているんですから、これ以外に、「其」をうける内容はございません。
「国境」は、片方だけ国があって「国境」というわけにはいきません。両側から国がなければ、「国境」とはいえません。つまり片方は倭であるが、もう片方はどの国であるか。これも明瞭でございます。これは「新羅」側が言っている言葉です。倭人が国境に満ちて、困っていると言っているんですから、当然ながら、これは「倭」と「新羅」との「国境」でございます。それ以外の解釈は、ありえないわけです。つまり、“朝鮮半島内部で、「倭」と「新羅」とは「国境」をもって相接している”ということが「新羅」の使者の直接法の形で、高句麗側の金石文という、第一史料の中で、証言されているわけでございます。
これは大変なことですよ。これと同じ状況が、『三国志』に現われております。わたしの『「邪馬台国」はなかった』に、書いておきましたので、お読みになった方は、ご存じでしょうが、「韓は帯方の南に在り。東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す」。つまり東西は海だ。南は海じゃない「倭」だっていうわけです。南岸部に「倭国」が北九州からのびている。北九州から朝鮮半島南岸にまたがっている海峡国家といいますか、そういう前提で、書かれているわけです。
「弁辰、辰韓と雑居す。・・・其(弁辰)の賣*盧(とくろ)国、倭と界を接す」と、はっきり書いております。海の向うにあるという場合は、「界を接す」とは申しません。たとえば、九州と揚子江河口のあたりの中国と、“国境をもって、接している”なんて言いませんね。だから“海の向うにいる”というのではなくて、「国境」という概念は、“陸地において両側に国がある”とき、「国境」と申すわけでございます。
賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、さんずい編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006
「郡より倭に至るに、……其(倭)の北岸、狗邪韓国に到る」の、「其」は「倭」をさす、ということは、よく言われていることでございます。だから、倭の北岸である朝鮮半島の南岸部を、倭の北岸である、と言っているのであります。そこで“狗邪韓国は倭の一部である”という有名なテーマが出てくるわけです。
郡→狗邪韓国七千余里
倭地、周旋五千余里
郡→女王国万二千余里
当然、七プラス五は十二であるわけです。狗邪韓国を倭地と考えませんと、この計算が合わないわけですね。“対海国から、倭地”と考えたら、狗邪韓国と対海国の間の千里が、倭地に入りませんから、四千里になってしまって、五千里にはならない。この計算上からも、「狗邪韓国は倭地である」という、同じ答が出てまいります。
さらに対海国とあるのは中国側表記であって、日本側では対馬(下県郡の方でしょう)。そして一大国は中国側表記、壱岐が日本側でしょうね。だから狗邪韓国は、中国側表記。日本側の表記が出ていたいんですが、これは「任那」かもしれませんね。好太王碑に「任那」という言葉が出てまいります。この任那は、“酒匂(さこう)中尉が入れたんだ、改竄だ”って話があったんですが、“改竄ではない”ということになれば、第一史料に、任那という言葉が存在する。四世紀末のことを、五世紀初めに書いた第一史料に存在するわけですね。だから三世紀においても、日本側地名が、「任那」だった可能性が非常に高いわけですね。
とにかく、この“狗邪韓国は、倭地である”という重大な命題が、『三国志』の文献の理解から出てくるわけです。そして文献理解だけではなくて、これは考古学上の資料からもいえるわけでございます。
今年(一九八一年)五月に韓国にまいりまして、目をひいたことの一つは、釜山、あの辺を河口としているのが洛東江という、かなり大きな河です。洛東江の流域は、かなり広い領域にたっしています。上流も北に、韓国内部に奥深く入っております。この洛東江流域各地に、中広矛・中広父・広矛の部類が、頻々と出てきているわけです。(韓国の)博物館で何回もお目にかかったですね。それの鋳型が博多湾岸に出てくる。矛については一〇〇パーセソトが博多湾岸。戈については博多湾岸を中心に、東西にいくらか分布している。その鋳型で作られたものと、全く同じ形をしているわけです。いってみれば、大分県で出てくるものと、洛東江ぞいに出てくるものと、そっくりの“人相”をしているわけでございます。
ということは、博多湾岸の鋳型で作られたものを、片方は大分県、片方は洛東江に持って行って、それぞれ埋めたということになる、というのが当然の理解なわけです。
しかし、韓国側の学者で、“これらは韓国製である。鋳型は将来出てくるであろう”と、書いておられる方がありますが、この考えは、学問として具合が悪いだろうと思います。将来出てくるだろうということに期待して、「韓国製だろう」という言い方は、“物に即した”学問の方法ではない、というふうに思います。
二十世紀、現代の国境問題と、これをごっちゃにしますと話がおかしくなります。これはあくまで、過去の事実です。古代史の過去の事実です。現代の国境と一致しないのは、世界のどこの歴史をみても、きまりきったことですからね。それを、混線して“感情移入”すると学問でなくなってくる、と思うわけでございます。
文献からいっても、実物からいっても、“朝鮮半島南部は、倭地である。博多湾岸を中心とする「倭国」の倭地である”ということがいえるわけでございます。
そして、これと同じことが、四世紀の終り、五世紀の初めの、この好太王碑に書かれている。しかもこれは、倭国にとって敵側の新羅が証言し、高句麗が裏づけているんです。資料として、これだけ厳密にできているのはないですよ。もし倭国のほうで作った資料だったら、たとえ同時代資料だったとしても、倭国側が“勝手に自分の手前味噌をいっている”と、みられないこともないんですね。しかし“敵側が証言している”んですから、これを疑うのはちょっと無理なことではないのでしょうか。
これは同時に、考古学、物の方からも、裏づけられます。それは、洛東江の上流地域(慶尚北道の高霊岩)に、岸壁画がございまして、その岸壁に、われわれにはおなじみの装飾古墳の壁画のデザインが出てまいります。たとえば、太陽の二重丸みたいなものとか、靭(ゆき)という、矢筒みたいな、砦(とりで)みたいなものを、一面に描いた岸壁がございます。洛束江のかなり上流でございます。
これを、韓国側の解説では、日本でいえば弥生時代ぐらいにあたる、古いもの(青銅器時代)であるとしています。その理由は、岸壁の下に、その頃の土器があったからだということらしいです。しかし、これはわたしの目からみますと、理由としては具合悪いんじゃないか。土器は、その時代の人がそこに住んでいれば、出るわけであります。土器自身に、同じような画があれば別ですが、その時代に人間がいなかったわけじゃないんですから、土器があって当り前なんです。土器と岸壁画が、結びつく必然性はないわけです。
これは、東アジア全体をみまわしてみて、同類の画と比べなければならない。日本側の装飾古墳は、歴史的な、各段階の発展をもっております。一番古いのは、八代から天草あたりの海峡、あの辺から非常に素朴なものが出てまいります。それが、だんだん複雑に発展してまいります。複雑に発展してゆく、その歴史的な展開に比べますと、先程の朝鮮半島側のものは、かなり、すでに発展した段階に入っているわけです。けっして最初の段階じゃないんです。“韓国人は頭がいいから、発達した段階のものをいきなり作れるんだ”というような説明は、できるものではない。もちろん誰も、こんなことを言っているんじゃないですが、ありえないと思います。
やはりこれは“九州の装飾古墳壁画の一端”として、理解するのがいいのではないか。現代の国家感情を交えず、「過去の事実」としてみると、こう考えざるをえないわけです。これがわたしの理解です。手前味噌のようですが、これが自然な理解と思われるのです。それを好太王碑が裏づけているんです。(好太王碑と装飾古墳と、「古噴時代」という意味では、近い時代ですね。)その古墳時代の中程の「好太王碑」が、“朝鮮半島の洛東江ぞいに倭地がある、倭国がある”ということを、「敵側の証言」として、証言していたわけでございます。
このことは、非常に深い意味をもっておりまして、弥生時代、卑弥呼の時は、広戈・広矛の鋳型をもつ博多湾岸の倭国、それと、古填時代、高句麗の好太王と激戦を交えていた倭国とが、「同一の倭国」である。つまり“九州の倭国である。装飾古墳の倭国である”という問題でございます。
これは李進煕さんがいつも言っておられ、日本のいわゆる「定説」派の学者がいつも知らん顔している、有名なテーマがあります。“「大和朝廷が朝鮮半島に出兵した。好太王碑もこれを裏づけている」ということを、日本の教科書に書いてあるけれども、朝鮮半島に大和朝廷の遺物はあらわれていないではないか”。李さんは何回も、こう書いておられます。本や論文を出される毎に出てきます。わたしはこれはいくら強調されても、いいことだと思います。いくら李さんが書かれても、日本の「定説」派の学者は知らん顔してますね。“朝鮮半島に大和朝廷の遺物が出ていない”。そのとおりなんですよ。
しかし、この場合も、李さんは慎重な方だと思うのは、いつも「大和朝廷」と書いておられて、“「倭国」の、あるいは「日本列島側」の、痕跡はない”などとは、わたしの読んだ範囲では一回も書いておられない。日本語を慎重に、厳密にお使いになる方ですね。あの方は考古学者ですから、洛東江ぞいの岸壁の画が、九州の装飾古墳系の壁画とそっくりだなんて、当然分るんですよ。それに、(中)広矛・(中)広戈の類が出てくるのも、よくご存じですよ。しかし、(中)広矛・広戈は、大和朝廷の近畿の遺跡には出てきませんし、出てくる中広戈は大阪湾型で、違うタイプですからね。こんなことは百もご承知ですから、“「倭国」”のとか“「日本列島側」の”とは書かずに、“「大和朝廷」の”と、書いておられるわけです。これは、大変正確ですね。
ということで、以上のような考古学上の事実と、私の理解とは一致しているわけです。端的にいえば、「九州王朝」というテーマに立つ場合は、「好太王碑の証言」をまともに受けとれるわけです。
ところが、三世紀は「近畿」説、「九州」説いろいろあるけれど、四世紀からあとは近畿天皇家が統一しましたという、日本の「定説」派の依拠している歴史像からは、「其国境」問題を、受けとめることは不可能であります。 
その二、「五尺の珊瑚樹」問題
次は「五尺の珊瑚樹」問題です。じつは、好太王碑をめぐる論争で、滑稽な話がございました。明治・大正年間に出てきた、右翼的な思想家として当時は著名な、権藤成卿という人がございました。この人が言うに、“自分の家に伝わる秘伝の書がある。それは『南淵書』というものである。南淵というのは、遣唐使(従来では「遣階使」)で有名な、南淵請安(みなぶちしょうあん)である。彼は天智天皇の師匠であった。自分の家に伝わっている『南淵書』は、南淵請安が書いたもので、その先頭のところには、請安が、天智天皇に政治の在り方を教えている文章がある”と。そのとおりなんですよ。天智天皇に教えている文章が、漢文で書いてある。これが、事実なら大変なことですよ。『古事記』、『日本書紀』より古い本になってくるんです。
しかも、驚いたことには、好太王碑の「全文」が書かれている。七世紀前半に、南淵請安が唐へ行った帰りがけに、陸まわりで帰ってきた。往きは船で行ったんですが、帰りは船はいやだってわけで、陸まわりで帰ってきた。すると、鴨緑江・集安あたりを通ったわけですよ。それで、近くに「石碑」があるそうだから寄ってみようと、南淵請安が寄ってみた。時期はいつ頃でしょうか。推古と天智の間くらいに寄ってみた。その時は七世紀ですから、今とは違い字がはっきり見えたというわけですよ。だから南淵請安が全部書きとってきた。それが全部、わが家の『南淵書』にのこっておる、と。これが当時の新聞にのりまして、ニュースになったわけですよ。
それで、東大の歴史学の授業の時に、学生が黒板勝美教授に、「新聞で大きく報道されている『南淵書』はどうですか」というような質問をして、黒板氏が「あれはちょっと、インチキくさいと思うけれど」と言ったと新聞に報道されて、権藤成卿が、けしからん、嘘と思うなら私のところに見に来い、など、へんなせりふがつぎつぎやりとりされました。しかし、結局、権藤は『南淵書』を見せないんです。
ところが、これは意外なところから馬脚があらわれてきてなんです。日本側から好太王碑調査団が、学者達が、現地へ行ったんです。当時は行けたんですね。綿密に好太王碑を研究された今西龍なんて人も、大正の初め行ったわけです。
その時、意外な発見があった。好太王碑の第三面第一行、これに字が二つだけ出ております。ところが、従来、この字はなかったんです。酒匂本はもとより、他の拓本、内藤拓本とかいろいろありますが、いずれも、この第三面第一行はなかったんです。ところが、実際に現地に行って調べてみると大きく剥落しているんです。苔がはえていたのを火をつけて焼いて、苔をとったあとを、拓本にとるため石をたたくものだから、いたむんです。そういうことの関係か、端の方が剥落してしまって、字が見えなくなっていたんですけれど、字がうっすらある。それが報告されたんですね。これが第三面第一行の二字なんです。
ところが、なんでこれが問題かといいますと、さっきの南淵請安の書だという『南淵書』には、伏せ字なしで、全部字がつまっていた。従来、欠けていたところには、字がつまっておりまして、その中には「倭のついに屈せざるを知り」好太王が倭をやっつけたと書いてありますね、しかし、やっつけても、やっつけても、屈服しないので、好太王はあきらめて倭と手を結んだ、みたいなことを書いてある。日本側からすると、“いい感じ”になっているんです。
ところが、なんと、権藤氏にとって不幸なことに、第二面の最後の字が、第三面の第二行目につづいておったわけですね。これでは、もうどうしようもないですよね。つまり、第三面第一行目が欠けていることを、権藤氏は知らなかったんですよね。『南淵書』を書いた人が、何晩かかったかは、知らないけれど、一所懸命書いたんでしょう。大変な苦労と思いますけれど。それがいっぺんに、馬脚があらわれてしまったわけでございます。こういう、ユーモラスな、考え方によると不届き千万な、事件がございました。
佐伯有清さんの『研究史広開土王碑』(吉川弘文館)の中でも、これにふれられておりまして、それをお読みになった方には、ご存じの問題なんです。
しかしわたしは、この問題はまだ終っていないと思うわけです。研究史で、あるポイントをああ分った、としてしまって、“そこから出発する問題”を見落している例が、大変多いんですね。これがその一つだと思うんです。
実は中国側に、第三面第一行のある文章が他にもあるんです。一つは王志修の「高句麗永楽太王碑歌攷」、「同碑攷」(一八九五年)というものであります。藩陽(沈陌*)というところが、中国の東北地方にございますね。好太王碑のある集安のちょっと北の方でございます。現在、字はちょっとかわっておりますが、彼はその藩陽の官庁に就任してきていた、清国の<官僚>でございます。
沈陌*の陌*は、こざと編に日。JIS第四水準、ユニコード番号9633
彼が書いたものに、先にあげた二つの詞文があるわけでございます。李進煕さんの本の資料集にものっております。私は、王志修という人について、称揚したいという気持があるんです。王志修は、その詞・文をいつ書いたかといいますと、日清戦争が日本の一方的勝利という形で終って、清国(中国)側には、屈辱的な講和条約が結ばされた、その直後に書かれたんです。誰に対して書いたかといいますと、藩陽の官庁の人たち、そのまわりのインテリ青年たち、彼らを前において発表したんです。
内容はといいますと、好太王碑と自分との関連をときはじめるんです。
“私はここに就任して、好太王碑に非常に関心をもった。好太王碑の「初拓」を手に入れた”(好太王碑がみつかって最初にとった拓本ですね。拓本とは、双鉤本も含めて表現しますから、双鉤本かも知れませんが、とにかく最初にとったものをみた)。集安のある吉林省の省都は今、長春ですが、当時は通溝(つうこう)と呼ばれた「好太王碑」のある場所(集安)を、直接管轄する場所が、当時藩陽だったわけですからね。その藩陽の上級官僚ですから、「初拓」を手に入れていて、不思議はないわけです。“私は、初拓を持って、現地を訪れて、これと比べて、よく内容を理解することができた”こういうことを述べまして、“碑には「倭」と「渡海破」が、かかれている。「倭」が海を渡って云々、ということがかかれている。つまり「倭奴」が当初、かくかくたる勝利を示していた。ところがその後、結局彼らは敗れて、この地から追い払われてしまったと、碑にかかれている。諸君、これをよくみてほしい”ということが書かれている。
お分りでしょう。“日清戦争で、日本軍の大勝利ということで、日本兵が、今、充ち満ちている。そして、わが国(清国)のいろんなところを割譲させられた。そこで諸君は意気消沈している。しかし、歴史をみよ。倭奴は、かつてもはじめは非常に景気がよかったけれど、やがて彼らは、追い払われていったではないか。現在(負けて)こうなったらどうしようもないと、諸君は思っているだろうが、しかし再びその日(追っ払える日)が、必ずくるであろう。諸君、決して意気消沈するなよ”そういう文章なんですね、これは。私が大分おぎなった解釈なんですよ。
講和条約を結んでいる最中、直後ですから、正面きって書けないんです。だから書けない文章の中でも、あきらかに読む人の胸をえぐるような、響きが伝わってくるんですよ。いい意味でのナショナリズムが“真実を見通す、未来を予見する”能力をもちうるケースだと思うんです。ナショナリズムが変にいくと、ゴチャゴチャして、古代史と現実の国家問題とごちゃまぜにする、マィナスの効果を生むこともあるんですけれど、この場合は、ナショナリズムが人間的な意味を発揮した、見事なケースだと思うんです。
そういう意味で、この王志修の文章は、見事な文章だと思うわけです。まさに彼の予言は、あたったわけですからね。
ところで彼の文章にある「倭奴」なんて好太王碑には書いてないんですよ。「倭奴」っていうのは、軽蔑表現ですね。現在でも、朝鮮半島側、韓国側で「倭奴」という言葉を使用するのは、日常的に使われているようですが、「倭奴」は、伝統的なののしりの用語なんです。“「好太王碑」に、「倭」云々とあるのを、諸君はみて知っているだろう。その通りだ”こう言っているわけです。
これは、思想的にも貴重ですが、事実問題においても貴重ですね。“酒匂が書き入れたものを知らずに、信用した”などというものじゃないでしょう。「初拓」を見ているんだし、語られている人達は、好太王碑の現地の人達ですから、好太王碑そのものを、よく知っているんですよ。
王志修は、“諸君がよく知っているとおり、「倭」と「渡海破」とがあるだろう。その「倭」が、そのあとどうなったか考えてほしい”。こう言っているんですから。これは、見事な“現地集団の証言”ですよ。
だから、これをみても、李さんの改竄説というのは、わたしはちょっと無理だったと考えていいだろう、と思うわけです。
この王志修の作った全文の釈文があるんですが、そこには例の第三面第一行が、ちゃんとズッシリあるんです。同じように栄禧(えいき)という人が現地の官僚で、この辺に就任しますが、その栄禧の釈文にも、第三面第一行が出てきます。栄禧の場合は、自分が行ったんではなく、ある人(方丹山)に依頼しまして、現地に行ってとってもらった。その場合、苔のついたところなど、時には一字一紙にするような状態だったらしいんです。それをもとに、一所懸命、順番に貼り合わせて全体を作ったのが、書かれている。この点わたしは前にも注目したんです。しかし、その時はこう考えてしまったんです。今西寵が作った第三面一行の二字、「辞」と「潰」ですね。これが合わないわけですよ。それでわたしは、これはどうも駄目だって思って、論ぜずにしまったんです。
ところが、今考えてみますと、そのときのわたしの判断は正当ではなかったように思います。なぜかといいますと、一字一紙みたいにとってきていますから、貼り合わせる順番をまちがえることがありうる。上と下をひっくり返して、貼っている場合もあるんです。また、苔がいっばいついているところでしたら、正確にとれたかどうか、分らない場合がある。
また、今西龍さんのほうも、はっきり残ってるんじゃないんですよ。かすかに残っているのを、判読して“これはこの字”と読みとったわけです。この判読が合っているかどうか、まあ厳密には分らないわけですよ。
そうしますと、この二字が、先程の王志修や、栄禧釈本と今西釈本が、合ってないといって、それらをしりぞけることは、冒険なわけですよ。むしろ、以後出てくる、全部の拓本や釈本では、全然問題にしていない、第三面第一行をとらえている、出ているということは、第一行がかけ落ちる前の姿が入っているということである。その中の一字一字が、全部正確かどうか、それは分りませんけれどね。しかし、かけ落ちる前の姿がそこに反映している、と、こうみざるをえないわけです。
すると、結局、酒匂本には、第一行がないんですから、酒匂本は、第三面第一行がかけ落ちた後のものだ。だから、王志修・栄禧釈本は、酒匂本以前の姿を反映していると、こうなってくるんです。だから、この問題もよく考えれば、酒匂大尉(当時は中尉)の改竄という問題を、反証する力を持っていたんですね。李さんも、ここは神経を使われたらしくて、“栄禧は嘘つきである”とか、“信用できない”とか、いろいろ論を展開しておられますけれど、嘘つきだとかいう言い方で、この問題を論議してよいか、ひっくり返せるかどうか、これは、やっばり無理なんですね。李さんの「改竄説」が、成り立たないことの分った、今の時点で考えますと、特にね。
そこで、いよいよ王志修と栄禧の証言が、重要になってくるんです。
第一行に、どんなことが書かれているかと申しますと、「官兵移師百残□其城百残王懼復遣使献五尺珊瑚樹二朱紅宝石筆牀一他倍前質其子勾拏太王率」が、入っているわけです。ここで、わたしが注目しましたのは、「五尺珊瑚樹」を献上した、ということです。サソゴ樹という、樹木もあるそうですが、普通に考えると、南海の珊瑚と考えるのが、普通の理解ではないかと思うのです。
そうしますと、珊瑚樹というと南海のものであるのに、百済王がそれを献上するというのは、非常に不思議なことですよね。誰かが、“偽りに思いついて、書く”というようなものではないですね。それなら、もっと似つかわしいものを書きますよね。それで、どうしても“無視できないもの”を、感じていたんです。
その後、調べていきますうちに、これと相対応する問題がでてきました。それは、『隋書』百済伝ですね。「其の南、海行三月、身冉*牟羅(たんむら)国有り。南北千余里、東西数百里、土に[鹿/草]鹿(しょうろく)多し。百済に附庸す」という言葉がある。この身冉*牟羅国を身冉*羅(たんら)国、つまり済州島と注釈しているものがある。諸橋の『大漢和辞典』なんかも、その立場に立っている。
しかし、身冉*牟羅国と身冉*羅国は、似ているけれど違うわけです。三字のうち、二字同じなら、両者は=(イコール)などというのは悪い癖でして、何よりも、二つの国の位置と大きさが違う。つまり、百済の都からでしょうが、身冉*牟羅国へは、南へ船で三ヵ月かかるところにあると書いてある。済州島まで、三ヶ月もかかりませんわね。
身冉*牟羅(たんむら)国の[身冉](たん)は、身に冉。
[鹿/草]鹿(しょうろく)の[鹿/草](しょう)は鹿の下に草。JIS第三水準ユニコード番号9E9E
しかも、島の形が(身冉*牟羅国が、島であるとすれば)「南北千余里、東西数百里」、縦長の形である。短里か、長里かの問題はあるんですが。しかし済州島は、横長ですからね。この点からもちがう。「土に[鹿/草]鹿多し。百済に附庸す」。つまり、百済の属国であると書いてある。
『隋書』に、もう一つ記事がありまして、北朝側の隋が、南朝側の陳を平定したときに、海戦を行ったとき、隋の軍船が漂流して、南のかた身冉*牟羅国に至った。その身冉*牟羅国は、自分の関係筋である百済へとその軍船を送り返した。そして百済から、さらに送られて、隋へと無事に帰れた、という漂流譚が、書かれているわけです。わりと簡単ですけれど、そういう形で描かれている。ですから、中国人が、実際に行ってみた国なんですね。「海行三月」というのも、その経験にたっているんでしょう。だから、これは単なる噂話を書いたものではない。他から聞いて、単なる奇譚として無責任に書いたものではない。ですから無視できないものがあります。
ですから身冉*牟羅国=(イコール)身冉*羅国というのは、やはり間違いで、身冉*牟羅国は南海の国である。そうすると、百済からの献上物に珊瑚樹があっても、不思議ではないこととなります。
時代は、好太王碑の方がだいぶ早いですけれど、身冉*牟羅国は七世紀の隋の時に、いきなり「百済の属国」になったんではなく、それまでに百済と何か関係があったと考えた方が、自然ですからね。そうすると、百済は南海に、自分のルートを持っている、という感じがするわけです。すると「五尺の珊瑚樹」を献上したっていうのも、なんとなく納得できてくるわけです。
今までの、束アジアの古代史上で、おそらく問題にされていないことだと思うんです。“南海に、百済と政治関係を結んでいた国があった。この国は、一体どこであろうか”というテーマが、新たに発生するわけでございます。 
その三、「守墓人」問題
次のテーマにまいります。普通、今まで好太王碑が問題になっていたのは、初めの三分の二くらいまでだったんです。つまり、「永楽五年・・・」「永楽六年・・・」という、歴史的な事実を書いているところが、大体議論の対象になってきなんです。
たとえば、先程の『研究史広開土王碑』(佐伯有清)をみても、たいていそうです。しかし実際は、この石碑の終りの三分の一が主題なんです。この部分はややこしいから、あまりお読みになったことがないと思うのですが、読んでみると簡単なんです。
今、一つ一つ読む時間がないので、読むうえのコツ、というのも変ですが、その“コツ”を申しあげておきますから、お帰りになって、パズルのように楽しんで、読んでみて下さい。この部分は特定の術語が、繰り返し出てくるわけです。たとえば、「国烟」「看烟」という、術語が出てまいります。この意味は、はっきりつきとめることはできませんけれど、要するに、好太王の墓を守るための民、つまり民戸に、国に直属する「国烟」という単位と、地方に属する「看烟」という単位の、二通りがあったみたいです。「国烟」「看烟」を合わせて、「烟戸」という言葉で呼んでおります。それで「国烟」をいくつ、「看烟」をいくつと、ずーっと書いてある。そのほかにも同じような術語が繰り返し出てきますから、同じ術語を同じ色鉛筆でマークすると、文の構造がつかめるわけでございます。
最後の三分の一のテーマは、誰に墓守りをさせるか、ということです。第三面の終りから八行目、上から十字目「於是旋還」までが、歴史的事実です。だから次の「又其」から、第四面終りから五行目の四字目「為看烟」までが“墓守りの話”になっている。
ここで、ちょっと申しておきないことがあります。わたしは好太王と読んでおりますが、広開土王と読んでいる人がおりますね。最近は、「好太王」というと“もぐり”で、正しくは「広開土王」だと思っている人がいるみたいです。教科書にも、そう直したのが出てきましたけれど、これは非常におかしいですね。井上秀雄さんとも、そういうことを話したんですけれど、釈文をご覧になると分りますように、「国岡上広開土境好太王」つまり“土境を広く開いた、よき、正しい、すぐれた、偉大な王”という意味ですね。「国岡のほとりで、広く土境をひらいた好太王」というんですから、「土境」という熟語になっているんです。(二回は好太王の前に「平安」あり)
要するに、飾り文句なんです。それを、土と境のあいだをちょん切って、広開土王なんて勝手なよび方をしてもらっては困るんですよ。「好太王」は「国岡上広開土境の好太王」なんですから。なんで広開土王としたんですかねえ。まあ明治に広開土王とした人もあるんですが、あまりはやらなかった。それが、最近はやってきたのは、朝鮮民主主義人民共和国の学者が、「広開土王」と使いました。李進煕さんも使いました。そのあと、日本の古代史の学者が使いましたね。
なんで、はやったか。これは想像ですが、おそらく、なにか「広開土王」といったほうが、“いばって聞える”“格好よく聞える”と、いうんじゃないでしょうか。なぜ「好太王」にせず「広開土王」とするか、説明を書いていませんから、分らないんですけれど。ところが、それを真似る人が、ぱーっと出てきた。だから無定見ですよね。形容詞の一部分を勝手に切りとって、教科書にのせていくなんて、とんでもないことでございます。(後代史書たる『三国史記』に依拠)
最後に、第四面後ろから五行目、上から五字目、「国岡上広開土境好太王存時教言」。なんと、好太王の直接法の言葉が出てくるんです。金石文で、当時の人がしゃべった言葉が書いてあるなんて、珍しいですよ。そういう意味で、貴重な史料ですね。
「祖王先王但教取遠近旧民守墓洒掃」。「教」を「しむ」と読みます。“お祖父さんの王、お父さんの王のときは、遠くや近くの古くからの属民に、墓守りや掃除をやらせてきた”。ところが、「吾慮旧民転当羸劣」。わたしは旧民だけでは、能力が劣っているのを残念に思って、考えて、「若吾万年之後安守墓者但取吾躬率所略韓穢令備洒掃」。ここで、直接法は終っているんです。
「吾躬率」これが一番大事でして、先の歴史的事実の段のところで、「王躬率・・・」が出てまいります。これにたいして「教・・・」というところが出てまいります。好太王が、自分で先頭に立って戦った場合は「王躬率」で文章がはじまるんです。部下の武将を派遣したときは「教」という形になるわけです。
『失われた九州王朝』でも述べておりますが、「躬率」という、好太王の姿を示す言葉が、ここでは「吾」を伴って出てまいります。前のところは、地の文章だから、「吾」が出てこないんですね。「王」です。ここは、本人の文章だから、“「自分ですすんで征服した、韓・穢の征服民を使って、墓の掃除をさせろ」と、生前に教えて、おっしゃった。だから教えのように、新しく征服した韓・穢の二百二十家をとって当らせた。しかし新しく征服した人達だけでは、今までのルールを知らないのを心配して、旧民百十家をとって、新旧の合計を三百三十家にした。それで墓を守らせた。国烟が三十、看烟が三百、合せて三百三十“と。計算がピタッと合ってますね。
問題はその次です。
「上祖」をーー前は「祖先王を上(まつ)る」と、読んだんですがーー「祖を上(まつ)る」のほうが、いいような気がするんです。「お父さんの時以来、墓のほとりは安全ではない」。倭人がやってきたというのが、関係しているかもしれませんが。
「墓を誰が守るか」というのが、ごちゃごちゃになって混乱するようになってきたから、好太王は、「祖先王のために墓ごとに銘文を付けた石碑を建て、この墓は誰が守るかを、間違えないようにした。また、どういう人に守らせるかを、制としてちゃんと決めた。今から以後は、土地を転売してはいけない。・・・」と、なっております。
最後の「之」は、置字でございまして、中国の四書・五経あたりに出てくる文例で、意味はない。文章の最後に置いて使うものです。だから、この置字をみても、好太王碑の文章は、ずーっと古い文体を使っております。
ここで問題にすべき第一点は、終りから三行目「上祖」を「祖をまつる」と読まざるを得ない。これを「上(かみ)つ祖(おや)」なんて読むと、意味が全然合わない。だから、わたしの言いたいのは「稲荷山の鉄剣」で、いわゆる「定説」派の人達は「オノワケノオミ、上祖(かみつおや)の名はオオビコ、其の児の名カリノスクネ」と、読んでいくんです。そして、「其の児の名」っていうところの「多」を「名」の間違いであろう、あるいは、「名」がぬけているんだろうと解釈するわけです。
しかし『三国志』でもそうですが、まして第一史料である金石文を、“問違っているだろう”という形で読むのは、わたしは“おかしい”と言ったわけです。「乎の獲居の臣、祖を上(まつ)る。意冨比[土危](いふひき)、其の児多加利(たかり)足尼と名づく」。二祖を祭る形、こう理解したわけです。
この好太王碑の文章も、どうも「祖をまつる」ですね。“かみつおやが第一代。先王、つまりおとうさんは第二代”ではおかしいですよね。だから「祖をまつる」でないと、わからないわけですよ。好太王碑は五世紀初め、稲荷山鉄剣は五世紀の終り近くの例ですから、非常に近い先例になっている。「祖をまつる」というテーマが、ここにも出てまいります。
最後にまいりますが、重大な問題があります。
結局、好太王碑の目的は、“誰に、この墓を守らせるか”というテーマが、最終の言いたいことであります。前の方の、“何年にどうした、何年にどうした”は、いわば、“前提条件”みたいなものです。前の方に「○○城」、「○○城」と、いっばい出てくるでしょう。「国烟」「看烟」のところにも「○○城し「○○城」と出てきて、かなりだぶっています。つまり、征服した「○○城」で、「国烟」「看烟」を、いっばいつくっているわけですよ。こういう形で、話は前後相呼応しているわけです。
もちろん、“何年にどうした”という功績をたたえる、功勲碑の性格は当然あるんですが、それが“守墓のテーマ”に、結局結びついているわけです。ここまで読んで、初めて、あの文章の全体の姿がわかった、となるんです。
そうしますと、大事な問題を簡単に申すようになりますが、この文章の最初の方、第二面四行目中程に、百済が降服して「生白」を献上する話が出てまいります。
これは、先程の武国員力*(ぶこくしゅん)さんに聞いて、びっくりしたところです。「生白」は「生口」の間違いである。李進煕さん等は“「生口」が正しいのに、酒匂自身が間違えなんだか、酒匂が命じてやらせたのが間違えたか、分らないけれど、「生白」になっているのはおかしい”といったわけです。これは皆も「なるほど、酒匂本は信用できない」という、感じだったんです。
ところが、武さんは「『生白』が正しいんです。『生口』じゃありません。現地では『白徒』は奴隷を意味する言葉です。『生白』とも申します。非常に古い言葉です。それが使われております」。こう言われるんです。
これは大変なことですよ。“酒匂本が正しい”ということです。酒匂本が、原文を伝えている。石で「生白」になっている。そして「生白」を献上したのが、「守墓」に関連している感じがある。直接は書いてないけれど、ムードとしてつながっている感じですね。
ところで、中国は東アジア最大の生口国家(実体は生白と同じ)ですけれど、東夷の中では倭国が最大の生口国家ですね。中国の歴史書に、生口の記事が一番よく出てくるのが倭国ですから。『後漢書』で、「帥升の生口百五十人献上」。『三国志』卑弥呼のところでも、壱与のところでも、「男女の生口献上」が出てまいります。
この生口は、どういうことをさせられたか。その中の一つに、「墓を守る」ということがあったのではないか。それが倭国の中でも、またやらされていたのではないか、という問題が、一つのテーマとして出てくるわけです。
博多湾岸を中心とする倭国が、生口国家である、としますと、その生口国家の一隅、一端から出て、大和に侵入した神武、私の『盗まれた神話』、『ここに古代王朝ありき』を、お読みになった方はおわかりのように、九州では、うだつのあがらない地方豪族出の青年だった神武が、銅鐸圏の中枢域に侵入して、いったん破れ、副中心の大和に入って「まつろわぬ」者を殺し、従うものを支配下に入れた。崇神・垂仁の時に、銅鐸圏の中心を手に入れた。こういうふうに、私は論証したわけです。
そして、銅鐸圏を支配した直後に、近畿を中心に「天皇陵」とよばれる、巨大古填群が出現してまいります。その墓は、誰をして守らしめたのであろうか、という間題が必然的に出てくるわけです。
あれだけ巨大なものを、守墓人なしに維持していたとは、考えられない。そうすると、古墳時代という意味で、ほぼ同時代の証言(「好太王碑」)で“新しい征服民をして墓を守らしめたのではないか”という問題が出てくるんです。「好太王碑」には、お父さん、お祖父さんの話が出てくるから、四世紀段階からの話と考えていいんでしょうがね。
これは、あまりに重大な問題ですから、簡単に、「拡大解釈」「延長解釈」、いわんや、時問軸を後世にもっていって、解釈をみだりに延長することは、厳につつしまなければいけない。論証ができることをできるとし、論証できないことを、想像で簡単に“おぎなって”はいけない。これは、あくまで「古代史の問題」として考えなければいけないと思います。
しかし、わたしは今後、古代史を論ずる場合に、この重大問題をぬきにして論ずることはできない。この重大間題をぬきにして論ずるのは無理ではないか、という感じをもつものであります。 
好太王碑の諸問題〈レジメ〉
1,「其国境」
問題「新羅遣使白王云、『倭人満二其国境一潰二破城池一以二奴客一為レ民・・・』(永楽九年項)
三国志の証言(東夷伝)
a 韓は帯方の南に在り。東西、海を以て限りと為し、南倭と接す。(韓伝)
b 弁辰、辰韓と雑居す。・・・其(弁辰)の賣*盧国、倭と界を接す。(韓伝)
c 郡より倭に至るに、・・・其(倭)の北岸、狗邪韓国に到る。(倭人伝)
d イ、七千余里(郡→狗邪韓国)ロ、五千余里(倭地、周旋)ハ、万二千余里(郡→女王国)(倭人伝)。
対海国ー△対馬(南島)、一大国ー△壱岐、狗邪韓国ー△X(「任那か」) 〔は中国側称呼、△は日本側称呼〕
《狗邪韓国は倭地》基本命題 (賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、さんずい編に賣。)
2,「五尺珊瑚」問題
「官兵移師百残□其城百残王懼復遣使献五尺珊瑚樹二朱紅宝石筆牀一他倍前質其子勾拏太王率」 王志修・栄禧釈本(第三面第一行)
大正二年、関野貞等の調査団の発見。
(今西)(今西)(朴)
・・・「辞□」・・・・・・「潰□」
△権藤成卿『南淵書』(南淵請安)の偽作性明白化。〔「王(好太王)知倭不屈」などを空白部に当(あ)つ〕
隋書百済伝(従来、身冉*羅国〈済州島〉と同一視)
「其の南、海行三月、身冉*牟羅(たんむら)国有り。南北千余里、東西数百里、土に[鹿/草]鹿(しょうろく)多し。百済に附庸す」 (身冉*牟羅(たんむら)国の[身冉](たん)は、身に冉。 [鹿/草]鹿(しょうろく)の[鹿/草](しょう)は鹿の下に草。)
3,「上祖先王」問題(四、七行)
祖王先王(四、五行)、祖先王(四、八行)上=マツル
自上祖先王以来=×上祖(カミッオヤ)・先王より以来。(意味不通)
◎自(由)りて祖を上る。
乎獲居臣上祖名意冨比其児多加利足尼
×オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オオビコ、其の児の名カリノスクネ (埼玉県教委ーー狩野、田中、岸読解)
乎の獲居の臣、祖を上(まつ)る。意冨比垢、其の児多加利足尼と名づく。(古田『関東に大王あり』創世記刊、第二刷三六四頁) 
 
筑紫舞と九州王朝

 

1 魏・西晋朝短里の三論証
「里単位」問題は論議無用か
初夏の風薫る本日、わたしの話を聞きにおいでいただきまして非常に恐縮に存じております。
今日は「筑紫舞と九州王朝」という題目でございますが、前半の五十分ほどを「魏・西晋朝短里の反論と三つの論証」というテーマについて話させていただき、休憩のあと本題に入らせていただきたいと思います。ただし本題は内容が豊かといいますか、わたしがそうであったように皆さまにとりましても、従来の概念にないわけですから、わたしの探究のいきさつを申し上げるのに一時間半くらいでは話し尽くせないと思います。この点は、晩の懇親会で足らなかった話をさらに突っ込んでさせていただくということで、時間の許す限りお話し申し上げたいと思います。これはいずれ本になりますので、それをご覧いただけたらと思います。
魏・西晋朝短里の問題は邪馬一国(従来の人の「邪馬台国」)の場所を決める上で、どうしても欠くことのできない基本的な論証である、とわたしは考えております。ところが最近、松本清張さんが毎日新聞社の創刊百十年記念の式典の時に古代史に関する講演をされまして、それが四月でしたか、上・下というかたちで『サンデー毎日』に二回にわたって載ったのをご存じの方もおいでと存じます。(後に松本氏の『歴史游記』日本放送出版協会刊、所収)
「上」の方は邪馬台国の問題が対象になっているわけです。この中で松本さんは「倭人伝の里数問題」に触れて、「私(松本)は倭人伝の里数というものは信用できない。陳寿がいい加減といいますか、適当に数字をあてて書いた虚数であり、あてにならない詐りの数値である、ということをかつて言った。(『古代史疑』あたりで何べんも言っておられますね)そのせいでもないだろうが(これは遠慮しておられるのだと思うのですが)、最近では学界で“倭人伝の里数”をまともに、まともな数値として取りあげる人はいなくなった。つまり“これはあてにならないものだ”“問題にする値打ちがないものだ”ということが、いわゆる学界の通念といいますか、一般に認められているようでございます」ということをはっきりとおっしゃっておられまして、その上にたって従来の里程虚数値説を長い分量をかけて論じておられるわけでございます。
わたしはこれを見て意外に思ったわけでございます。それはこの一両年、「倭人伝の里数」問題、「里単位」問題はおそらく古代史の中では最も熱心な論争が集中されている分野の一つである、と言っていいだろうと思うからです。たとえばわたし自身を振り返ってみましても、一咋年(一九八○)、安本美典さんと七時間にわたる長時間対談(『歴史と人物』七月号)で行いました。そこでも重要なテーマの一つになったのは、いわゆる「里単位」問題だったわけでございます。
また去年(一九八一)の秋に白崎昭一郎さん(福井県のお医者さんで、古代史について次々論文を発表しておられる方です)が、わたしが「江東方数千里」を「約五、六千里」という意味にとったのに対して果してそうとれるかどうか、「数〜」は「約五、六」としていいかということに焦点を絞って、かなりの分量の論文を書いてわたしに対する批判を公にされました。これに対してわたしが論点を一つずつとりあげて再反論をしたわけでございます。(『東アジアの古代文化』28号・29号、一九八一年)というのが、昨年の終り近くにございました。また先日出ました『季刊邪馬台国』12号でもこの「里単位」問題がとりあげられまして、わたしに対する論文が並んでおりました。これはわたしにとりまして有難いことです。
批判がその通りだと思った場合は、当然、それに従ったらいいわけです。自分がこれまで思いつかなかったことを他人(ひと)が教えてくれるのですから、こんな有難いことはないのです。ところがそうではなくて、いくら多くの人の批判でもその論点を検討してみると、採用してみるべきものが見られないとなれば、このことを述べればいいわけです。この他『計量史研究』という東京(住所略、日本計量新報社刊)で発行されているちょっと特殊な雑誌で、わたしのよく存じている青年、篠原俊次さんが非常に長い論文を継続中です。現在三回くらいですか、なお継続中です。これはすべて『三国志』の「里程値」問題である。
ですから、今あげましたもの以外にもございますが、この「里単位」問題は、古代史の世界で今までにない非常に熱気を帯びた論議の的になっている。これはここにいらっしゃる皆さんはおそらく百もご承知のことだろうと思うのです。ですからこういう状態を知っていたら、「里数値」を問題にする人は学界ではいなくなったと、松本さんのような言葉は出ないのだろうけれど、おそらくあれほどお忙しい方でございますから、こういう実状をご存じなくてといいますか、見る暇がなくてああいうことを言ってしまわれたんだろうと、同情しているわけでございます。
ともあれ、今申し上げたように熱い問題です。かつ、現在熱いというだけではなくて、この邪馬台国の問題を解いていく上で「私はこう思う」「私はこう思う」という感想の述べ合い段階ではもはやなくて、基礎をなす問題、決めどころをなす問題は何か、ということな詰めていく段階に、現在は明らかに入っていると思います。その場合、一方では考古学的な出土物ーー鏡・矛・絹等のーー問題がございます。他方、文献でいく場合どうしても避けることができないのが、いわゆる「里単位」問題です。倭人伝の「里数値」はどういう「里単位」に立っているかという問題をやり過ごしておいて、「それはともあれ、邪馬台国はここだ」というのは、今から十年、十五年以前ならいざ知らず、現段階において意義が著しく薄くなっているのではないかと、わたしには思われるわけでございます。
私は去年、「里単位」に関する論文(「魏・西晋短里の方法」/『文芸研究』100号・101号、東北大学文学部。『多元的古代の成立(上)』駿々堂刊、所収)を書いたのですが、この論文を書いたあとになって、新たに面白い問題が見つかってきたので、それをふくめて皆様にご報告しておきたいと思って、今日とりあげたわけでございます。
その一、赤壁の論証
赤壁の戦いというのは中国人にとって非常に有名な戦いでございます。日本でいえば関ヶ原とか桶狭間というふうな、誰でも知っている戦いです。これは『三国志』に述べられている戦いでございます。
概要は、魏の曹操が勝利の勢いに乗って、揚子江の北岸(今の武漢近辺)の赤壁というところへ押し寄せてきた。さあ揚子江を渡って南岸に殺到しようという勢いを示している。これに対して呉の孫権、蜀の劉備が連合して魏の軍を迎え討った。この連合については蜀の名宰相諸葛孔明の、孫権に対する説得があったわけです。ところで揚子江両岸で北と南に相対時したままで戦闘が起らなかったわけですが、やがて戦機が動きはじめた。南の岸の方から船が十艘ばかり北へ漕ぎだしたのを、北岸の曹操側が認めたわけです。
これは呉の名将周瑜(しゅうゆ)という将軍がおりまして、諸葛孔明に相対するような呉の名将でございます。この周瑜の部下に黄蓋という勇敢な猛将がございまして、彼の立案に基づいて彼自身が実行する作戦だったわけです。黄蓋が舟に乗って揚子江の真ん中(中江)に漕ぎいでました時に、一斉に船の中から降服するということを兵士達が口々に叫んだ。黄蓋が叫ばしたわけです。すると北岸の曹操の軍勢は、呉・蜀は利あらずとみて降服したかと思って喜んで、陣営から出て、やってくる船を見ておった。
ところが船がさらに北岸に近づいて“北の岸を去る二里余”のところで、いきなり船に火をつけた。いっせいに火をつけた。それは幕に覆われて見えなかったんですが、実は船の中に鯨油を沁(し)み込ませた枯れた柴や、枯木の類をいっばい積みこんでいたのに火をつけたから、ものすごい勢いで燃えあがったのです。と同時に、兵士達は舫(もや)い舟みたいな形で小さなボートを着けていたらしいのですが、それに乗ってともづなを切って、一目散に南の岸に逃げ帰った。
火だるまになった無人の船が風にのって北の岸に殺到していった。それで魏の方はびっくりして、早く逃げろ、(流されるのを恐れて、おびただしい船を鎖でつなぎあっていたらしいので)鎖を切れといっていたが、間に合わない。火だるまの船が押し寄せ、衝突し、魏の船は次々と炎上した。さらにそれが飛火して陸の上の曹操の張っていた陣営にまで飛び移って、陣営もつぎつぎと火災をおこしていった、ということです。
魏の軍は今までの優勢が一転しまして、ほうほうのていで黄河のかなたへ逃げ帰っていった、というのが、有名な赤壁の戦いでございます。だから戦いといいましても、戦わなかった戦いみたいなもので、奇策によって冒頭において一拳に決してしまった戦いでございます。これが中国人には人気の高い戦いの話の一つになっているわけでございます。
ところで、問題は「二里余」です。これが出てきますのは『三国志』ではなくて、『三国志』の作者、陳寿と同時代の西晋の学者虞溥(ぐふ)が書いた「江表伝」の赤壁の戦いの描写に出てくるわけでございます。「江表伝」は『三国志』より具体的、かつ詳しく描写しています。『三国志』の注釈を五世紀の裴松之がつけたわけですが、その時『呉志』の中で一番よく使ったのがこの「江表伝」でございます。だから『呉志』ではいたるところで出てくるのですが、そのうちの一つが赤壁の戦いの注釈です。
その描写の中に「二里余」が出てきます。「北軍を去る二里余、同時発火す」というわけです。ではこの「二里余」はどれくらいの距離であろうかと考えてみます。わたし以外のほとんどの論者が言っているような、いわゆる“漢代の長里”(一里が約四百三十五メートルと山尾幸久さんが推定されました)によって考えてみます。「二里余」を仮に二・三里か二・四里くらいに考えてみますと約千メートル、つまり一キロ前後になるわけでございます。
揚子江の真ん中、中江に来て降服するという。なぜ降服するかというと、それ以上近づくと敵の側から矢や石が飛んできて危ない。しかし近づかないと、奇策が効を奏さないというので、さらに接近するため、敵を欺くため降服すると言ったんだと思います。
だからこの場合、さらに近づいて千メートルのところで火を放つのですから、揚子江の中江といったところはだいたい千五百メートル前後の感じになってまいります。そうすると揚子江全体の幅は、二千メートルぐらいなければ話はうまくおさまらないことになってまいります。これは“約”でございますけれど。これに対してわたしが言っております「魏・西晋の短里」(魏や西晋時代は漢代の約五分の一〜六分の一の里単位が用いられていた。わたしの計算では一里が九十メートルから七十五メートルの間で七十五メートルに近い)約七十五メートルが用いられていたと考えますと、「二里余」は二・三里か二・四里で計算してみますと、大体約百八十メートルくらいになるわけでございます。
そうしますと、百八十メートルくらい無人の火だるまの船が突入するわけですから、その前の中江は二百か二百五十メートル前後と考えていいでしょう。そうすると揚子江の川幅は五百メートル前後あれば大体話が合うということになってくるわけです。そうしますと、赤壁の川幅は一体どのくらいあるのかというのが問題になります。そこでこの川幅をいろいろと手をつくして調べてもらいましたが、なかなか分りませんでした。
ところが、昨年の一月になりまして、やっと中国側から答が返ってまいりました。北京の『人民中国』の日本語版編集部から回答がやってまいりました。北京の中国人がすぐ分るというものではないらしく、武漢近所の『人民中国』の支社に問い合せるか何かするんだと思いますが、案外時間がかかりました。東方書店の神崎さんを通じて問い合せたわけですが、その回答は赤壁の川幅は四百メートルないし五百メートルであるということでした。ここに写真をコピー(略)してありますのは『人民中国』にかつて載ったものです。赤壁山という字がそこに刻まれており、向う岸が見えています。これはやはり四百ないし五百メートルということでございます。
そうするとこれは、先程わたしの申しました「魏・西晋朝の短里」というものが、当時は使われていたんだ、という仮説とドンピシャリ合うわけでございます。ところがわたし以外のほとんどの人が主張し、今でも頑張って主張しておられる“「魏・西晋朝短里」などはありえない。漢代と同じ一里が約四百三十五メートルの時代であった。「倭人伝」だけがおかしいのだ”という立場、従来の「定説」の立場からみると、全く合わない。
白鳥庫吉以来、皆そう言っているから「定説」と思っているけれど、人間が立てた「説」ですから、ある時期、多数の人の賛成を得ていても「仮説」に違いないのです。その「仮説」が事実に合わなければ、いくら「定説」となっていても、それは破棄されなければならない。これは当然の道理です。ということで、わたしとしてはスッキリした回答が得られたわけでございます。
この点、考えてみますと、もう一つの側面の方が一段と意味があるのかもしれません。それは千五百メートルのところで降服すると言って聞こえるのか、とか、さらには約千五百メートル過ぎたら石や矢が飛んできて危ないのか、とかが問題ですね。京都に三十三問堂の通し矢がありますが、当時の矢はどのくらいの飛行距離があるのかという側面です。さらには無人の火船、火だるまの船が、約一キロも進んで行ったら、その間に燃えつきてしまうのではないか、消えてしまわないかもしれませんが、火の盛りは過ぎてしまうのではないだろうか。だから、到着の時にはかなり火が衰えているのではないか、というような問題があります。
その他、揚子江はかなり流れがあるわけです。船に発動機があるわけではないのです。風に頼って無人の船を放つわけですから、一キロもありましたら、川下の方に流されてしまって目指す北岸の軍船にはあたらないのではないかということです。これは案外馬鹿にできない、物理的な問題として存在するだろうと思います。以上、いずれをとりましてもわたしの言っております「魏・西晋朝の短里」の場合は、極めて自然であるとわたしには思われます。
中江という約二百五十メートル前後からさらに北岸に近づかないと、こういう効果を発揮しないということですから、二百五十メートルで降服すると言えば千メートルよりは聞こえます。また二百五十メートルくらいは当時の矢や石の飛行距離はあったと考える方が、恐らく千メートルあったと考えるより自然だろうと思います。さらに無人で船を離した場合、百八十メートルくらい流されてもまあまあ大丈夫、鎖でつながれた船が目標ですからね。千メートル行くよりも誤差は少ないと考えるのがごく自然だと思います。
だからこそ、いずれをとってもわたしの仮説に立った方が非常に自然に理解できる。ところがいわゆる長里に立った場合には、いずれにおいても一所懸命いろんな理屈をつけて弁明しなければいけない、ということです。これは川幅問題とは別の意味で、重要だと思います。
なお一言つけ加えますと、赤壁というのはいくつか候補地がございます。日本で「邪馬台国」が日本列島だけでなく、かなりの候補地ができておりますように、お国自慢というのですか、うちこそ赤壁だというらしいのです。しかし中国本土いたるところが赤壁というわけにはいきません。戦況が限定されております。赤壁前後の描写がありますので武漢近所になるわけです。ですから川幅がそう大きくは変らない。多少、五十メートル、百メートルは変ることはあるでしょうけれど、五、六倍の違いがあるというような川幅はむつかしいようです。揚子江の河口などにもっていくわけにはいきませんからね。
いくつか侯補地はありましても、先程言ったわたしの申しました論理性、“長里では無理だ、短里だとぴったりする”という問題は動かしようがないようでございます。「二里余」という距離ではなかなか測定しにくい、A点からB点まで二里余りというときには、それが長里か短里かを現在確認はしにくいというのが普通ですが、この場合はそれが、例外的に明らかになるケースなのです。
『東アジアの古代文化』29号のわたしの論文の中で赤壁の問題を出したのですが、この時はまだ正確な川幅は分っていなかったんです。東京の中国大使館に朝日トラベルの竹野恵三さんを通じて、赤壁の川幅を聞いてもらったのですが、川幅は今すぐ分らないが、すぐ傍と言っていい武漢大橋の幅は分っている、約一・四五キロと数値を教えて下さったわけです。
中国に行かれた方はご存じのように、中国の橋は日本の橋とは違います。日本の橋は川の幅と大差ないのですが、中国の場合は平地に比べて土手が非常に高いので、大橋は川幅以上に延々と両側に陸地の上を周行して土手に橋が掛かっているわけです。その全体を橋の長さとして表現しているわけです。わたしは上海の大橋を通りましてそういう状況を見たわけでございます。武漢と成都の大橋には行っておりませんが、行かれた方にお聞きすると同じ状況らしいです。橋の長さが一・五キロ弱とすると本当の川幅は一キロを下まわるだろうということです。
そうしますと長里では成り立たない、という論証で『東アジアの古代文化』29号では書いたわけです。白崎さんも今回の『季刊邪馬台国』12号の論文では、この点、お答えがなかったようです。まだ長里の立場から、赤壁の「二里余」を理解するための方法が見つかっておられないのだと思います。
その二、帯方郡の論証
次は「帯方郡の論証」にまいります。
倭人伝で帯方郡治から狗邪韓国までを「七千余里」と書いてあることは有名ですが、これは最初が帯方郡内、あとが韓地内です。ですから帯方郡内、つまり帯方郡治から韓地西北端までの海岸部も、倭人伝と同じ里単位で書かれていることとなります。また『三国志』には韓伝があります。倭人伝の直前です。そこに韓地の広さとして「方四千里」と書かれています。一辺が四千里四方の正方形に内接する、つまりすっぽりはまるくらいの大きさだということです。
この里数値が「漢代の長里」つまり一里が約四百三十五メートルの単位ではなく、短里と考えるにせよ、誇張と考えるにせよ、倭人伝と同じ里単位に立っているものと見られるわけです。この点は、なぜか明治の白鳥庫吉(これを四周と理解したようです)以来、ながらく見のがされてきていたことだったのですが、幸いにも現在は古代史関係の研究者がほとんど認めているところだと思います。ここにおいても韓国の北の境、東西の北の境が四千里(「方」というのは縦も横も四千里の正方形ですから)ということ、すなわち国境が四千里ということです。
国境は片方だけでは成り立たない。、両側に国があってはじめて国境が成り立つのですから、韓国の北の国は帯方郡であり穢(わい)である。穢はかつて漢の時代に四郡の玄菟真蕃(げんとしんぱん)であった部分が独立して穢になっているわけです。
そうすると国境の北側は、中国側の現在の帯方郡とかつての玄菟・真蕃(旧直轄地)の南の国境を同じ四千里(短里)で認識していることを意味しているわけです。先程の「七千余里」の場合と同じようになってくるわけです。中国側はけっして韓国や倭国だけを短里で書いているのではなくて、自分の直轄領もまた同じ“里単位”で認識して記録しているという問題を含んでいるんだということなのです。韓伝・倭人伝だけが短里、それ以外は全部長里という考え方は成り立たないのだと述べたわけでございます。
この点について、『歴史と人物』の長時間対談のとき、安本さんにハッキリ申し上げたわけですが、くりかえし念が押されたわけですが、安本さんは再度ともお答えになることはできなかったのです。
つまり、このテーマは現在も生きているというわけです。今回の『季刊邪馬台国』12号での安本さんの論文でも、この点の反論がありませんでしたので、つづく号の論文で、かつての長時間対談でお答えになれなかったこの問題をどうお答えになるか、楽しみに次号以下を待っているわけでございます。なお『歴史と人物』の長時間激突対談はかなりのスペースをとってくれましたが、『歴史と人物』に載ったのはごく一部分です。だから全体を収録したものを活字に作りたいとの要求が、出版社や研究会でございます。わたしも大賛成ですので、安本さんにもご賛成いただき、『歴史と人物』の編集部も協力していただいて、一日でも早く、これが活字化されることを希(のぞ)んでいます。
その三、会稽東治の論理
わたしには最近つくづく思えることがあるのです。「この文章は百も承知だ」と思っているところがありますね。ところがそういうところが危ないのですね。見過ごしている。本当の本質を見逃しているのです。自分は知った気になっているから心ここにあらずで、何回読んでもスーッと素通りしていくということを、何回も最近、経験しました。その一つがこれからお話しすることです。
郡より女王国に至る万二千余里・・・其の道里を計るに、当(まさ)に会稽東治(ち旧説ーー冶や)の東に在るべし。(倭人伝)
という有名な文章があるのは、皆さんよくご承知だと思います。「其の道里」の「其の」とは何を指すかはいうまでもなく、その直前にある「万二千余里」を指す他ないのです。だから“万二千余里の道里を計る”つまり計算する、計測すると、当然、会稽東治の東に女王国はなければならない、ということを、陳寿は書いているわけでございます。
いろいろ言わなくても、大陸本土側の里数を陳寿が手元に持っているわけですね。大陸のどこからどこまでは何里ということは、歴史書というものには書きませんから、『三国志』には出てきませんね。地理書とか行政の文書に書いてあるものですから。歴史書にはわざわざ里がないだけで、自明のこととして知っているのです。これを手持ちの知識にして『三国志』を書いているわけです。
“郡”は帯方郡、ソウル付近ですね。ここが中国本土のどこの東になっているか、これも自明の知識です。地図で見ても、山東半島の先の東の方になっているのです。すると山東半島の根っ子あたりから会稽山あたりまでが何里かは皆知っているわけですよ。陳寿も知っているし、読者も知っているわけですよ。だから今さら書く必要はないわけです。
この手持ちの里数記事に対応させてみると、山東半島の東の帯方郡治から一万二千里というのだから、大体会稽山近辺の東に女王国はなければならない。こういう推定・認定を行っているわけです。すると、この両者が同一の「里単位」に立っていなければ、こんな文章は成立できない。もし両者の「里単位」が違うなら、“これは六倍の里単位である”とかいったふうな注釈がいるわけです。それなしにこんな文章を書くことができるというのは、明らかに「中国本土側の里単位」と「倭人伝の一万二千里という里単位」とが同一である、という自明の前提に立ってこそ成り立つと思うのですが、皆さんどうでしょう。
この一点をとっても、白鳥庫吉以来言ってきた“倭人伝だけ特別な途方もない数値、五、六倍も誇大な数値で書いている”という話は成り立たないのです。言ってみれば白烏庫吉はこの「会稽東治」の文章を読んでいなかったんですね。生意気なことを言うようですが、わたしも読んでいなかったんですね。『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社刊)でも地図を使っているのですが、それにもかかわらず、正確にこれのもつ倫理性にわたし自身気がついていなかったわけです。
しかもこのように測定した結果、大体合っているわけですよ。会稽東治をどの領域にとるかが問題ですが、わたしは会稽を会稽国にとるべきだと思っております。それは直前に、夏后少康の子という、会稽国に封ぜられた君主の名前が出ておりますから、それを受けて会稽国、その東の治めた領域という意味です。普通、会稽山を中心に北は揚子江の河口の北側付近までが考えられております。すると「万二千余里」で“大体合う”のです。まっすぐ東にいくと琉球にいくとかの話がありますが、多少「誤差」ができるのは当り前です。直線で「万二千余里」ではないですよ。東へいったり南へいったりしていて、これをどのくらいにとるかによって違いますからね。誤差ができて当り前なんです。しかし大体合っているのです。
これがもし仮に、わたし以外の人が言っているように“会稽東治”を“会稽東冶”と考えてみても話は変りません。“誤差がより大きい”というだけで、やっばり“大体合っている”のです。場所は台湾の対岸の方になりますが。なぜなら、もし中国本土が長里で認識されていて、これを基準尺に持っていてこれを測ってみると、「一万二千余里」の倭国は、当然、赤道の南にいくわけです。とすると、「遥か南方海上にあるべし」といった文章にならないといけないわけです。五、六倍ですから。ところがそうなっていない。
だから基準尺となった中国本土の“里数値”の基礎をなす「里単位」と、倭人伝の「万二千余里」という里数値の「里単位」は同一であったからこそ、大体合うのです。古代史に関心を持つ人なら知らない人のいない、この有名な言葉を本当に理解していたら、“倭人伝誇大里数値説”、魏の使いが恩賞目当てに大嘘をついたとか、「韓伝・倭人伝だけが短里」という部分短里説は、一切成り立つことが初めからできなかった。そのことに、わたし自身が最近気がついて愕然(がくぜん)としたわけでございます。
このことは先程申しました「帯方郡の論証」、つまり“韓伝・倭人伝と同じく直轄領を短里で表現しているということは、魏・西晋朝が短里を公文書の里単位としていることを意味する”というこのテーマとも一致します。また『三国志』と同時代の著者虞溥が書いた「江表伝」で、同じ魏・西晋の短里によっているとみなければ理解できない有名な赤壁の戦いを語る「二里余」の文章がある。これはどう見たって中国本土の内陸部ですから、この話とも一致する。
以上三者を結びつけますと、『三国志』はやはり魂・西晋朝の短里のもとに書かれている、と言わなければならない。この認識を再確認せざるをえないわけです。「『三国志』全体は長里だ」と言いたい人はこの論点を避けず、しっかり答えたうえで言わないといけないですね。この点を逃げて他でいろいろ言ってみたって、本当の論争にはならない、とハッキリ申し上げたかったわけでございます。
以上をもって「魏・西晋朝短里の三論証」をお話し申し上げたわけです。わたし以前のあらゆる人が、女王国の位置を倭人伝の帯方郡から女王国までの距離の里程の各部分を足して「一万二千里」にならないままの考え方でやってきましたが、これではやはり駄目だということです。これが通用していたのは里数は誇大値だ、信頼できないという立場に立って、部分を足して全体にならなくても信頼できない人が書いているのだからやむをえない、などとしてきた廿い認定方法、いいかえれば廿い心理に立っていたからです。
しかし事実はそうではない。魏・西晋朝公認の里単位によって、中国本土と同じ立場で書かれているとなりますと、「部分」を足して「全体」にならないようなやり方で女王国の位置を考えては駄目なんですよ。わたしは道行き読法と島めぐり・半周読法によって、各部分里程の和が総里程になるという立場に立ったので、『「邪馬台国」はなかった』を書く端緒をつかんだのです。仮にわたし以外の方法であってでも、部分里程を足して総里程になる、という立場で、このルールを守って、わたしのいう邪馬一国、従来の人のいう「邪馬台国」の位置は、必ず解読されなければならない、というのが「里単位」問題の結論でございます。 
2 伝承されていた筑紫舞
「四夷の舞」を真似た宮中舞楽
今からお話し申し上げる筑紫舞を、現在やっておられる西山村光寿斉さん、長女の西山村光寿さん、次女の西山村筑紫さんをご紹介いたします。博多や北九州や東京で筑紫舞の話をしたのですが、今日は地の利で、お忙しい中を会場に来ていただきまして、わたしとしては非常に嬉しく存じております。(西山村さん)有難うございます。
わたしは今まで研究をしてきた中で、新しい研究の局面に臨みますと非常に恐い思いをするわけでございます。今までの常識や通念になかったことだけど、こんなことを自分が言っていいのだろうか、自分の勘が狂っていて何かとんでもない大嘘を言っているのではないか、そういった恐怖症にいつも襲われながら新しい局面に入ってきたわけでございます。
ところが今までは文献でございました。続いては考古学の出土物でございました。ところが今回は、それとは全然違ったものです。現在行われている舞、舞楽・芸能の中に古代史の姿が受け継がれていたというテーマでございます。こういうことは、わたしの今までの通念では全くあり得ないと考えられていたことでございます。現在、姫路で西山村さんが教えていらっしゃるこの芸能を題材として古代史の局面を変えるという、今までにない恐怖といいますか、恐さをわたしは感じるわけでございます。しかしながら足かけ三年追求してきました結果、どうもこれは真実と認めざるをえないのではないかというような結論を得てまいりましたので、これを皆さまの前にご報告するということになったわけでございます。
今日の会場には、ご当人の西山村さん及びその関係の方々がおいで下さいまして、わたしとしては他の会場以上に緊張して上がるかもしれません。しかし、反面から言うとこれほど安心なこともないわけです。西山村さんにお聞きしたこと、それに続いてわたしの判断したことをこれから申し上げるわけですが、「そこがちょっと違うじゃないか」とか言っていただける、という安心感があるわけでございます。
さて、わたしにとりまして長年課題としてきたテーマがございます。どこにも書いたことはないのですが、宿題のような形でわたしのおなかの中に温めてきた課題があったわけでございます。
中国の古典・歴史書を読んでみますと、「四夷の舞」あるいは「四夷の楽」という言葉が出てくるわけでございます。これはどういうことかと申しますと、中国の朝廷で、天子の前で東夷・西戎・南蛮・北狄という四方の夷蛮がやってきまして、各自の舞楽(音楽と舞踊)を献納する。今でいいますと民族芸能ということになりましょうか、それを献上する。中国の天子の面前でそれを奏する、舞うことを儀式・儀礼としてやっていた、というのが書かれています。
ところが東夷・西戎・南蛮・北秋の音楽もしくは舞の名前が書かれている中で、東夷は「昧(まい)」と言う、という文章が出てきます。「昧」は無知蒙昧の「昧」です。だから「昧」は、東方に住む蛮族であるために使われた「卑字」(中国が周辺の夷蛮に当てた卑しい字)に類する字とみて大きく狂いはないでしょう。そういう意味の字を当てているのでしょう。もっとも「昧」の木来の意味の“日未だし”の意味だったら、あえて卑字と考えなくてもいいかもしれません。
いずれにしましても、「昧」は現地音が“まい”であるということです。東夷が自分たちの民族舞踊のことを“まい”といっている事実を中国の漢字で現わしているわけです。するとわたしもそうですが、誰でもこれは日本語の“舞”ではないかとピンとくるわけです。すぐそう思うわけです。
しかし中国の周代あたりの上古音と今の漢字の音とは違うのだ、という問題がでてまいりますし、日本側でも現代は“まい”といっているが古墳時代、弥生時代、縄文時代でも“まい”といっていたかどうか、確認不可能な問題です。ですからこの「昧」が現代の日本詔の“舞”だというのは、大変な勇気がなければ言えることではございません。だからわたしはこのことを書いたことがなかったわけでございます。
ところで、この問題に関して、もう一つ論理的にはっきりしていることがございます。天皇家の宮中舞楽には、雅楽に加えて隼人(はやと)舞などがあったといわれるのは、古代史のお好きな方なら常識でございます。ここから論をすすめて、天皇家が隼人の血を引いている証拠であるという議論も、ときにございます。しかしこれはわたしの立場から遠慮なく言わせてもらえば、“早とちり”と言わなければいけないと思うわけです。これは日本の天皇家が中国の朝廷・天子のやり方を真似したのだ、自国の辺境にある舞を“近畿天皇家にきて奉納する”というスタイルに見なしている、とみるのが本筋だと思うわけです。
これを隼人の血を引いているためとするのは、別のはっきりした証明がない限り飛躍がありすぎると感じていたわけでございます。しかしながら近畿天皇家は中国の其似をして“夷蛮の舞の奉納”という形をとっていた、こう考えておそらくあやまりはないと思われます。この近畿天皇家が、日本列島全部ではありませんが、九州から東海領域に支配権が成立したのは、八世紀の初めから、とこう考えているわけです。そうしますと時間的にも九州王朝の方が、近畿天皇家より周代や漢代の天子の国に対してより近い、ということになります。つまり時間的にも空問的にも九州王朝の方が中国に近いわけです。
一方、近畿天皇家が「四夷の楽」を真似していると考えた場合、中間にある九州王朝は当然より早くこのやり方を真似していなければならないということになるわけです。そうすると「九州王朝の舞楽が現在どこかに残っているのではないか」と何度も感じていたわけでございます、しかしこんな考えはうっかり口には出せないわけです。もちろん書くこともできない。ヘタに書くと「何かつまらんことを言う」となりますから。しかし、わたしのひそかな宿題だったわけでございます。
菊邑検校が秘したもの
ところが一咋年(一九八○)の五月の終り、西山村光寿斉さんからわたしのところへ電話が掛かってまいりました。西山村さんは「私はあなたの本(『失われた九州王朝』や『盗まれた神話』)を読みました。そこでぜひ聞いてもらいたい、こちらからお尋ねしたい問題があります」と言われたのです。
「私は舞を教えています。筑紫舞という舞を教えております」。この時に初めて筑紫舞という言葉を聞きましたので、ドキンとしたのはご想像いただけると思うのです。「娘達と一緒にお伺いしたい」とおっしゃられましたので、「六月に(姫路の郊外のわたしの親戚の家で)お会いしましょう」とご返事をしたわけでございます。
六月になって姫路に向う時のわたしの心理は、事の性質上はっきり正直に申し上げますと、自分に対して抑制心や、懐疑心を“あおり”たてておりました。それは「しめた!いい話があった」と思って、こちらの勝手な思い込みをして他から笑い者になることがあってはならない・・・先程言いましたように論理的にはありうる話だという期待があるだけに、うっかり乗ってはいけない、冷静に疑いの目でみようと“心の武装”をしながら行ったと言っていいだろうと思います。まさか現在九州王朝の舞楽などというものが行われていようはずがない、というふうに自分に言い聞かせながら参ったのでございます。お会いしてお聞きしてみると、“まさか”のその“まさか”のケースにあたるのではないかという問題に当面することになったわけでございます。
まず申し上げることは、この筑紫舞(現地音ではちくしまい)の中心をなす舞は「翁(おきな)の舞」と言われるものでございます。「翁の舞」は「七人立(しちにんだち)」の場合、七人の翁が都にきて舞を奉納するという性格の舞でございます。いわゆる能などの「翁」、長寿や豊作を記念する翁や媼(おうな)などとは、全く性質が違っております。筑紫舞の「翁」は各地の長官とか、各地の民俗芸能を代表する人物のようです。「三人立」の場合は三人、「七人立」の場合は七人ですね。ところがこれに関して不思議なことが数々あるわけでございます。ポィントをなす問題を申し上げます。
筑紫舞の東京公演の年(一九七九年)に文化庁の役人の方々から不審が出された。それは「都の翁」というのがあるようだが、「都とはどこなのか」ということで、普通考えてみますと、京都であるとか大阪であるとか奈良であるとか大津とかに考えられる。ところがそう考えると落着きが悪いわけです。たとえば「三人立」「五人立」「七人立」「十三人立」があるわけでございますが、まず原形をなすと思われる「三人立」で考えてみますと「肥後の翁」「加賀の翁」「都の翁」の三人翁があります。
もし「都の翁」が京都とかの近幾の都としますと、なぜ「肥後」と「加賀」が出てくるのか。バランスがよくないわけですね。それで文化庁の役人が「都とはどこですか」と聞いたわけですね。恐らく「京都ですか、奈良ですか、大阪ですか」といった意味だと思うのですが、なんとなくしっくりしないという感じをもたれたようです。これに対して西山村さんはお答えになれなかった。お答えになれなかったというのは、少女時代、神戸でお師匠さんであった菊邑検校(きくむらけんぎょう)という方に筑紫舞を習われた時、「都」とはどこかをお聞きになったそうです。その時、菊邑検校は「それは申せません」という返答だったそうです。
「申せませんて、お師匠はんも知らはらへんのん違いますか」と十代の女学生だった西山村さんはおっしゃったわけです。「いや私は知っています。しかし今は申せません」というご返答だったのです。結局、答え方が厳としているのでそれ以上追求できなくて、「都」がどこか聞くことができなかったということです。
もう一つ不思議な点がございます。この舞には明白な中心人物があるわけでございます。中心人物に「肥後の翁」がなって絶えず舞い、それを中心に他の六人の舞が進行するわけでございます。これがなぜかまた分らない。文化庁の役人が「なぜ『肥後の翁』が中心になるのですか」と聞いたのですが、これに対しても西山村さんは「分りません」「菊邑検校からそう習ったのです」としか答えることができなかったんです。
西山村さんも十代に「翁」の舞を習った時に、当然同じ質問をなさったんですよ。「お師匠はんが肥後出身やから『肥後の翁』を中心にしはったん違いますか」とね。十代の若い女の人だから、遠慮なくズバリ切り込んだ聞き方をされたんです。
するとその時、菊邑検校は非常に恐い顧をして、「いえそんなことはありません。私が肥後出身だからといって、肥後を中心にしたなんてことは全くありません。初めからこのように舞うようになっております」と、すごい気迫で返答された。西山村さんにすればからかい半分で聞いたのでシュンとしてしまった、という経験をおもちだそうです。
筑紫舞「七人立」公演プログラム
(’80・10・5、姫路文化センター)
地唄
一、翁
肥後の翁西山村光寿斉
加賀の翁西山村光寿
都の翁西山村筑紫
難波津より上りし翁西山村若光寿
尾張の翁西山村和光
出雲の翁西山村右寿
夷の翁西山村佳光也
筑紫振り、独特の国問いの翁で七人がそれぞれ国名のりをする珍しいもので、七人立ち翁は民俗学上でも珍しいとされております。
以上のようなことなどで、姫路でお弟子さんに教えておられる時には、現在の娘さん達が相手ですので、同じような質問を遠慮なくされると思うのですが、その場合、先程のような返答をされて、それですんできたのです。ところが文化庁の役人が帰る時、「われわれはいわれの分らないものを推鷲はできませんなあ」という言葉を洩らされたというのです。
西山村さんを前にして言うのもなんですが、やはりショックを受けられたようですね。わたしはこういうことにうといのでよく分りませんが、文化庁から公に推薦されるとされないとでは全然違うのでしょうね。しかしわたしも役人の立場に立てば、そう言うでしょう。役人が公的な場面で推薦する場合には、こういういわれのこれこれというものだ、と根本的なところで説明できなければできませんわね。これは恐らく本音でしょう。このことをお感じになったから、西山村さんがショックを受けられたのも当然だろうと思うのです。今までのお弟子さん相手とは違った意味の悩みというと大げさですが、“煩悶”をされるようになったわけです。
『盗まれた神話』との符合
そういう中で、歴史のお好きな旦様がお読みになっていた本を、「参考にならないか」と西山村さんに示して下さったのです。それがわたしの『盗まれた神話』だったのです。西山村さんがこの本を読んでいるうち、はたと手がとまった個所がある。「景行天皇の熊襲大遠征」の分析のところです。
筑前の主の「前つ君」が筑紫と肥後とを安定した領域にしていって、まだ平定していなかった九州東岸部と南岸部を平定するという九州一円平定譚という性格の話です。これを『日本書紀』は主語を「前つ君」から景行天皇にとりかえて挿入したもの、と分析した話でございます。この話のところの地図に景行天皇(実は「前っ君」)の「征伐」したルートが矢印で書いてあります。この一番最初に近いところ、門司の少し南の「京」に「みやこ」とカナをふってあるところがあります。これは皆様よくご存じだと思いますが、京都(みやこ)郡というところがございます。
これは古代史をやっておられる方ならよくご承知だと思うのですが、一般の方、特に近幾あたりに住んでいて、地理とか歴史とかにあまり関心のない人は、九州に「京都」というところがあるなどということをあまり知らないわけですよ。西山村さんもご存じなかったので、そこに「京(みやこ)」と書いてあるのを見て、「都の翁」の「都」はここではないかと思われたわけです。
それでももう一つ、何かピンとこないところがあったので、著者に素直に聞いてみょうということになったのです。今まで本の著者に直接聞くという経験をなさったことはなかったそうですが、勇を鼓して出版杜に電話して住所・電話番号をお聞きになって、わたしのところへ電話をかけてこられたというわけでございます。
初め、この話をお聞きして「ハテナ」という気がしていたのです。わたしのもっている古代史のイメージと、西山村さんの話があまりに合いすぎる。といいますのは、原形の「三人立」ですね。これはわたしの本をお読みになればお分りのように、先ほどの「前つ君」が九州一円を平定する前の肥後というのは“筑紫プラス肥後”が安定した領域だということです。肥後に入ったら戦闘はありません。凱旋ルートになっていますからね。ということが、まずわたしの分析から出てくるわけです。この点からも近畿から「征伐」に来たと考えるとおかしいわけです。東岸部、日向等がすでに平定された領域で、肥後が「征伐」の対象なら話が合いますが、逆ですから。
もう一つ思ったことがあります。『盗まれた神話』の国生み神話です。国生み神話というのは、従来、近畿の天皇家の六〜八世紀の史官のでっちあげたものであるというのが、津田左右吉に従って戦後史学が考えていたところでございます。ところが、わたしはそうではないと考えました。
理由は、国生み神話の内容を分析しますと、筑紫・大洲(おおくに出雲)・越(こし)の三つを一段地名(ズバリ一つ、「A」だけ)と名付けました。これに対して「AのB」と二段地名になっているのは瀬戸内海岸である。たとえば豊秋津、(近畿にあてているが)本当は豊国(とよくに大分県)の秋津(国東半島の先の方に安岐(あき)川、安岐町があり、港ですから津)です。(豊国の中の秋(安岐)津となって、二段地名で一つの点を指す地名になっている。同じく「伊予二名(ふたな)」は伊予の中の二名(名は港に名い接尾字)、という一点を指している二段地名です。また吉備子洲は吉備の国の中の子洲(こくに)という、「AのB」という二段地名で表わしてある。つまり一点を指している。
言い換えますと、日本海岸の方は一段地名であるから面である。それに対して瀬戸内海の方は点で表されているということです。たとえぼ地中海エーゲ文明で、ギリシアの植民地が各地に点のようにできた時期がございます。それに当るように、瀬戸内海にやっと進出しはじめた、という状況がしめされている。そしてこの神話を作った彼らの母なる中心領域、主舞台は、日本海岸の筑紫・出雲・越であることが分るわけです。
この三主舞台の中でも主副関係ははっきりしていまして、神話の質量とも筑紫が一番で、出雲は従であります。出雲自身は古い歴史をもっておりますが、神話が成立した段階では「国ゆずり」という形で筑紫に従属する姿で現われてくる。越の方はさらに出雲の説話の一部分に、わずかに出現してくる。従の従です。筑紫が主で出雲が従、越は東の辺境、一番端っことして現われている。
もちろん陸地として越の国は一番端っこではありません。山形県や青森県などの領域があることは筑紫の人間は知っていたんです。だから越の国より東はない、ということではなく、別圏がある、自分達の文明とは違った別種の文明の地である、ということを意味しているわけです。アイヌ文明とか、蝦夷国とか、そういうものに関連する別の領域である。自分達の神話の世界。領域は越の国どまりであるという認識を表現した神話である。
だからこういうものは、六ないし七、八世紀の近畿天皇家の史官がでっちあげうるような類の話ではありえない。あくまでもこの神話は筑紫の人間が、筑紫の権力をバックに作ったものである。そして筑紫の権力が日本海岸で勢力をのばしえた、その端っこが越の国であり、瀬戸内海に重要な位置を築きつつあった時期(弥生の前半)に成立した神話である、というふうにわたしは判定したわけでございます。
先程の「前つ君」の話と「国生み神話」との二つを、わたしは弥生の前半と考えております。なぜなら弥生の後半は卑弥呼ですね。卑弥呼の当時になれば、当然九州一円を統治しているわけです。それ以前の話ですから、弥生の前半と考えれば間違いはないだろうという感じでおりました。「国生み神話」も同じく、弥生の前半です。そうしますと、弥生の前半部においては、筑紫を原点にしまして南の辺境は肥後であり、北の辺境は越の国であるという形で、わたしには地理的認識といいましょうか、成立していたわけでございます。わたしの『盗まれた神話』をよくお読みになれば、こういう事実はおのずから浮びあがってくるだろうと思います。そして今問題の「三人立」はこの形をなしている。
「都の翁」の“都”はどこか
ここで問題のキーポイントに触れてまいります。「都の翁」の都は一体どこかということです。これが問題の心臓部でございます。文化庁の役人の方が疑問をもたれましたように、碓かに近畿の都では“落着き”が悪い。その通りなんです。バランスが悪いということも大事ですけれど、わたしには分析して一番はっきりした、と思われることがございます。
もし都が近畿だとしますと「七人の翁」の中に筑紫の翁がいないわけです。筑紫の翁抜きの「筑紫舞」ということになりますね。格好がつかないですね。七人も翁を並べておきながら筑紫抜きである。そして全体を「筑紫舞」です、といっているのです。ナンセンスもいいとこですね。
西山村さんがわたしの本を読んで思いつかれた京都郡を「都の翁」と考えても同じことです。九州らしいというイメージがあって、九州にも京都(みやこ)があったから、これが「都の翁」の都かと思われたようですが、これで駄目なんです。京都郡は福岡に属しております。しかしこれは現在の話で、江戸時代までは豊の国、豊前でございます。『和名抄』でも豊前、豊の国の京都郡になっております。筑紫には属しておりません。
だから「都」を大分県の京都という考えに立ちましたら、二つの問題点が出てまいります。他の出てくる翁は肥後とか加賀とか出雲とかの国名で出てきます。ところが京都という国名はなくて郡名ですから、他は国、これは郡となってバランスがくずれてくる。これが一つ。それから何よりもかによりもおかしいのは、「都の翁」は「豊の翁」「肥後の翁」になり、筑紫の翁が不在の「筑紫舞」という問題がやはり出てくるわけです。西山村さんとお会いした時、「この京(みやこ)が『都の翁』と違うでしょうか」とお話しになったんですが、わたしはお話をひとわたりお聞きし得た後に、「どうも、そうではないと思います」とお答えしました。
それなら「都」はどこか?
わたしには答は一つしかないように思われたわけでございます。この「都」は筑紫そのものである。太宰府、いわゆる都府楼(とふろう)の地ですね、ここの民俗芸能を代表する人、土地の長老といいましょうか、それを「都の翁」といっている。そういう立場という他はない。その立場に立ちますと、「都の翁」は筑紫の翁です。それなら筑紫の翁は「三人立」「五人立」「七人立」等全部にあるわけです。
筑紫の翁が舞う「筑紫舞」となって、本来の中心の、要(かなめ)が決ってくるとお答えしたわけです。こうお答えして考えてみますと、先ほど申しました問題、原形をなすという「三人立」は筑紫を原点にして、面の辺境・肥後の国、東の辺境・加賀の国(中近世風の名前に呼び替えている形跡がございます。本来は越の国)の舞楽を、筑紫の都にきて奉納するというスタイルをとっているのである。わたしはわたしのもっているイメージと合いすぎるのでちょっと恐くなったのです。また西山村さんを前にして恥しいのですが、内心、「わたしの本をお読みになって、考えてこられたのと違うか」と、失礼な話ですが思ったわけです。
最初、「肥後の翁」の話を申しましたが、西山村さんとのお話の順序では後に出てきたのですが、「実は『肥後の翁』が中心になって舞われます。その理由も私には分りません」。というのは、「少女時代、わたしがお聞きすると、菊邑検校は『昔から肥後の翁が中心です』というご返答でした」という、あの問題です。これを聞いてわたしは、「これは・・・」という気がしたのです。
わたしはこの時に「九州王朝」といっておりますが、実際にそれを支持する勢力は時代によって変転しているというふうに考えておりました。弥生時代ですと、中心領域は問越なく志賀島・博名駅・春日市・太宰府です。筑紫豊さん(故人)は“弥生銀座”と名づけられました。わたしは志賀島まで入れて“弥生のゴールデンルート”と呼んでおります。ここが弥生時代の中心なんです。日本列局全体をとりましても、弥生時代にここほど、次々と何かと重大なものが出てくるところはないのです。最近は小型銅鐸の鋳型も出てきました。やはりここが第一の中心であり、第二に“神聖な王の墓域”として糸島郡があると、こう考えていいわけです。
これは弥生時代の話であります。古噴時代になりますとだいぶ様子が変ってきます。中心が南側の筑後の方に移動してまいります。たとえば石人石馬(せきじんせきば)、磐井の墓といわれる岩戸山古墳、そして装飾古墳です。筑後の領域と肥後の領域が非常に濃密な分布領域になってまいります。投近、装飾古墳の領域が広がってまいりまして、従来ないといわれた筑前(博多湾岸室見川流域)にも出てきましたし、日向(宮崎市)にも次々出てまいりました。日向の方から「装飾古墳が見つかりました」というお話があって、その後すぐ「後で聞いてみると前からずいぶん同じようなものが出ていたそうです。われわれが知らなかっただけで、土地の人は、それならあそこにも、ここにも、あらたよ、と続々出てきています」というお電話もいただきました。
というようなわけであちこちに出ておりますが、装飾古噴がなんといっても一番濃密なのは肥後であり、筑後に勝るとも劣らないのは肥後でございます。特に不思議なことに、肥後からは装飾古墳の一番原形といいますか、素朴な古い形のものが出ております。なぜか知らないけれど、肥後から阿蘇山の周辺にかけて、装飾古墳がずーっと覆った時代があるのです。六世紀から七世紀にかけての頃でしょうね。これを疑うことはできない。
するとこの時期の九州王朝というのは、肥後が中心的な支えになっているということです。もちろん表玄関といいますか、公式の中心は太宰府あたりだと思いますが、実質的な勢力基盤は肥後である、という、そういう時期があったようだと、わたしには思われるわけです。
このことは西山村さんにお会いする半年ぐらい前、昭和五十四年十〜十二月に九州の読売新聞に、「倭国紀行」の題で十数回書いた、その終り近くで書いていたのです(『邪馬一国の証明』所収、角川文庫)。肥後を中心とする装飾古墳に描かれている器物が『古事記』、『日本書紀』の神話に出てくる器物と非常によく共通していると論じたところがあります。この論をバックに先ほどいいました問題を考えていたわけでございます。
「継体の反乱」との関連
横道にそれますが、大事なことなので一言申させていただきます。恐らくこの現象は磐井(いわい)の事件が一つのポイントになっている。(わたしは「磐井の反乱」ではなく、「継体の反乱」と考えております)これがポイントになっていると考えています。この事件で、おかしいことがあります。
これは当初、継体が物部麁鹿火(もののべのあらかひ)に“磐井をやっつけたら九州をやろう。私は周芳(山口県)から東をとる。そこから西はお前にやる”という約東をして始まった戦争なんです。『日本書紀』にそう書いてあります。そして磐井を斬ったというのですから、中心人物を斬ったというのですから、われわれが考えたら完全勝利です。それなら約東を実行するのが当り前だと思われるのに、案に相違して盤井の子供の葛子(くすこ)と和睦するわけです。和睦の条件が糟屋郡(かすやぐん今の博多と宗像の近く)というちっぼけなところの屯倉の割譲、それで成立するのです。
中心の権力者を斬っているのに、なぜこれほど遠慮して和睦しなければならないか。東京の毛利一郎さん(東京「古田武彦と古代史を研究する会」所属)が、「これはおかしい」と力説されるところであり、わたしもおかしいと思うのです。この場合、磐井本人を斬ることはできたが、磐井側(わたしのいう九州王朝側)の軍事勢力は必ずしも壊滅してはいなかった。どこに壊滅していなかった証拠があるかといえば、継体の軍、つまり物部麁鹿火の軍が肥後に侵入した形跡が全くない。『日本書紀』を見ても書いていない。本当は侵入していたのに遠慮して全く書かなかった、とは考えにくいですね。ということは、やはり侵入しなかったとみる他ない。とすると磐井の勢力下にあったはずの肥後の勢力は、そのまま温存されて実在したはずです。これが一つ。
もう一つは朝鮮半島側です。「任那日本府」というのは大和朝廷の配下のものではなく、また現在韓国や北朝鮮側の学者がいっているように「任那日本府は架空の話」なのではなくて、「九州王朝の任那日本府」であったというようにわたしは理解しているわけです。磐井の滅亡は「任那日本府の滅亡」より以前ですから、当然、九州王朝の軍勢が朝鮮半島の南端にいるわけです。事実、装飾古墳と同じ模様が洛東江流域のところに出てくるわけです。(『ここに古代王朝ありき』、朝日新聞杜刊)まさに装飾古墳とそっくりたものが出てきております。
ということは、この装飾古墳勢力が洛東江上流までいたということです。そしてこの倭国(九州王朝)と好太王が激突したということが高句麗好太王石碑にあります(第三章「画期に立っ好太王碑」参照)。そして洛東江ぞいに倭地があるということが、新羅王から高句麗好太王への報告の言葉(「其の国境」)から出てきています。同時に、石碑では好太王が連戦連勝しているようにみえていますが、碑面全体の分析からは一〇〇パーセント勝ちつづけていたというわけではなさそうである、という問題が出てくることも申しました。
その証拠は、墓守りに任命しているのは韓・穢(わい)の人間である。新たに占領し、支配下においた人々(韓・穢)に命じている。ここに倭人が入っていない。倭地が新羅と国境を接して朝鮮半島内にあったが、そこは好太王の支配下に入っていないということです。「倭地」は健在であるということを好太王碑自身が証明しているわけです。
言い換えますと、六世紀初めに九州王朝の軍が洛東江ぞいにあった。そして高句麗と新羅の連合勢力と百済と倭国の同盟勢力が対立し、非常に激しい緊張のもとにあった。それが洛東江ぞいの倭地をめぐる状勢だった、ということを意味するわけです。
そのような状況の中で、六世紀初頭になって継体の軍が倭国の中心部に突入してくるわけです。継休・物部麁鹿火の軍が磐井を斬った余勢をかって、朝鮮半島まで行って倭地を占領したとは書いていないわけです。またそこまで占領したなら、糟屋郡だけを割譲してもらってすますことはないわけです。つまり朝鮮半島側の倭軍は一番戦闘的な実戦部隊です。これが依然健在でいたわけです。継体・麁鹿火の軍が筑紫の御井郡(筑後の久留米近く)に入って(非常にスピードある進撃によってでしょう)、そのあと、磐井が斬られた。北(朝鮮半島側)から続々帰国してくるし、南(肥後)の軍隊が推し寄せてくるという状勢の中で和議がなされたわけです。
変な言い方になりますが、継体側は機をみるに敏な将軍であると思うわけです。継体も物部麁鹿火もです。わたしのような者が言うまでもなく、戦争というものは一見圧倒的に有利にみえておりましても、終るチャンスを逃しますと際限なく泥沼に入って、ついには敗戦にのめり込むということです。これはわれわれがいやというほど経験した、眼前の事実みたいなものです。これも変な話になりますが、明治政府の指導者は「善悪」問題は別にしまして、戦争という面では機をみるに敏だったようですね。日清・日露の戦争は日本が勝ったというふうになっていますが、あそこで止めたからこそ、勝った形になったわけです。あの一瞬を逃したら確実に敗戦の泥沼に入っていた、ということは大体の日本人によく分ってきている、と思うのです。
要するに、伊藤博文らが人間的に“いやらしい”点があるというだけでなく、韓国問題等で行った点で韓国側から見て実にいやらしい人物として見えていることは、大事な、また厳粛な事実ですが、それとば別個に、彼らは戦闘の機微を知った連中であったと言えると思います。京都の町で新撰組などと戦っている時、今日はわれわれが有利だと思って油断していたら、大阪あたりから援軍がやってきて逆に明日皆殺しにされる、というふうなことな繰り返していた連中が明治政府を率いているわけですから、戦争に関しては、それほど楽天主義者ではないわけです。
後の東条英機などという、士官学校出の、机の上で勉強した人とは、その点大分違っていたようでございます。彼らの善悪問題とは別個の問題。として、そういう機をみるに敏なリーダーだったことは確かなようでございます。そういう意味で継体や物部麁鹿火は東条流でなかったようですね。だから磐井を斬る、という、見ようによればこれ以上の大勝利はない、という大戦果を前にしても形勢を見てさっと和睦した。当初の大風呂敷といいますか予定からみると、あまりにもささやかな糟屋郡の屯倉の割譲という小さな代償でもって、とりあえず戦闘終結をめざしたというふうに考えられるわけです。
こうみてまいりますと、この和睦後は筑前筑後の勢力以上に無事で、直接の侵入による被害を何ら受けていない肥後が、非常に重要な支え手になって現われてきたということは、容易に想像されるわけでございます。こういうことは、肥後における装飾古墳の濃密な分布に現われている、というふうにわたしは考えていたわけでございます。
しかし、以上のことはわたしが考えていただけで、九州の読売新聞にもストレートに書いたわけではないのです。だから「肥後の翁」が中心というテーマは、わたしの本を読んですぐ思いつけるという性質のものではないわけです。ということですので、西山村さんのおっしゃっている「翁の舞」は、菊邑検校という方から伝承なさったのであるということを認めざるをえなかったわけです。西山村さんにすれば「何とつまらないことを、クダクダと言っているのか」とお思いになると思うのですが、猜疑心で武装して姫路の郊外にまいったわたしとすれば、「肥後の翁」が中心であるということで初めて、「筑紫舞」というものの真実性(リアリティー)を承認せざるをえなかったのでございます。
西山村さんと菊邑検校の出逢い
さて、西山村さんはどのような形で菊邑検校から「筑紫舞」を習われたかを、西山村さんからお聞きしたことを簡単にまとめてみます。
西山村さんは神戸の造り酒屋(売り酒屋も兼業)の一人娘としてお育ちになりました。お父さんの山本十三さんは非常に芸の道、音曲がお好きで、同業の酒屋さんからは道楽者という目でみられていて、現在でもそういう話が現地では残っているようですね。芸に理解のある方のところには、いつとはなしに芸人の方々が集ってくるというのが常だそうで、その中に菊邑検校がいたのです。菊邑検校は盲目で、連れのケイさんは唖者で、二人合わせてわれわれがもっている機能を発揮されるわけです。この二人コンビで滞在しておられたというわけです。このお二人から「筑紫舞」というものをお習いになったわけです。菊邑検校はお弟子さんに教えておられたのだが厳しいのでやめてゆくし、居つかない。
ある日のこと、お父さんに威儀を正して「お娘さんに舞を教えさせて下さいませんでしょうか」と言われた。普通は月謝をとって教えるわけですね。そうではなくて「私に教えさせてくれませんか」と、考えようによっては異例の申し込みをなさったわけです。お父さんは一人娘の西山村さんに「どうする」と聞かれたので、「ええわ」とうっかり答えた。
さてそれからは、しごいてしごきぬかれたわけです。たとえば夜、寝ていても、「ちょっと起きていただけませんか。今思いだしたことがございますので」と言われ、起きていくと何時間でもしごかれる、という日々の連続だったようです。だから普通にちょっと格好をしてみせて教えるというようなものじゃないわけです。鬼気せまるというか、逃げようとしても逃げられない迫力で迫ってき、教えに教えぬかれた、というのです。昭和六年から昭和十八年あたりまでお習いになったということです。
次に菊邑検校自身は誰に習ったのかといいますと、場所がはっきりしないのが残念ですが、太宰府にそう遠くないらしい、あるお寺ーー呼ばれたんでしょうがーーの座敷で住職さんを前に音曲(琴とか三味線等)を演奏しておられた。その時、庭先でトン、トン、トンと足でリズムをとる音が聞えてきた。それが絶妙の間合いである。一秒の何十分の一というくらいの間合いが絶妙である。倹校の方のテンポが速くなっていると、それに合わせて速く足踏みのテンポが全く狂いなく、絶妙の間合いで入ってくる。それが庭先から聞えてきたのです。
で、菊邑検校は「今、庭先で問合いをとっておられるのはどなたでしょうか」と聞いたわけです。すると住職さんは「うちの庭男でございます」とお答えになったんです。菊邑検校は「あの間合いは普通の人にできるものではございません。ぜひここに呼んでいただけませんでしょうか」というふうにお願いしたのです。やがてやってきた人に菊邑検校は「あなたはどこでその間合いを習われましたか。」と聞かれますと、「私は筑紫のくぐつで、ございます。神社の祭礼などに廻ってゆき、それを生計(たずき)としておりましたが、ご覧のように“鼻欠け”の身となり、人様の前に顔を出すことができなくなりました。そこでこのお寺の庭先をお借りして住まわせていただいております。それでお礼にも、と思って、庭を掃かせていただいております」。こういうご返答があったというわけなんです。そこでお二人(ケイさんを入れて三人)が芸の道を通じてお互いを認めあって、深い交わりを結ばれるようになった。
ある日のこと、くぐつが深刻そうな面持ちで話を始めた。「私はごらんのような病気になった者ですから、やがて死ぬと思います。死んだら地獄に落ちると思います。必ず地獄に落ちると思います。なぜかというと、私の師匠(名前が分っていないのが残念です)から筑紫の舞の伝授を受ける時にこう言われました。お前が死ぬまでに必ず誰かに教えきって、死ぬように、ときつく言われました。ところが現在の私には私の舞を教えきった者がおりません。(教えたのに死んだのかもしれませんがね)師匠に合わせる顔がありません。だから私は死んだら必ず地獄に落ちると思います」。
現代の人間がこの話を聞いたら、「こんなの理屈にも、なにもなってない」と思われるかもしれませんね。しかし、くぐつは心からそう思い込んでいる口調でそう述懐をされた。それを聞いた菊邑検校は言下に「じゃあ、私がお順いしましょう」と言って筑紫舞の伝授(ケイさん共々)、受けられたわげです。こういうふうにして伝承されたのが、「翁の舞」を中心にする筑紫舞である、というお話になるわけです。 
表I「筑紫舞」の伝授関係
|菊邑検校(盲人)|
筑紫のくぐつ→||→西山村光寿斉
(鼻欠け)|ケイさん(唖者)|
表II関係年譜
大正10年7月23日光寿斉さん生る
昭和3年小学校入学(神戸市)
6年9月頃(10歳)菊邑検校来宅
9年神戸市立弟一女学校入学
11年(14歳)九州に行き、洞窟の舞(翁・十三人立)を見る
13年10月女学校中退
18年菊邑検校九州に去られ、その後連絡なし
20年4月頃か友人木下(旧姓)登美子さん、長崎で菊邑検校に会う(六月頃聞く)
21年後半から
22年前半ケイさん(通称)死亡の新聞記事とどく。(神戸→徳島回送)
<博多近辺の川で入水自殺の記事>
53年博多東急ホテル二泊西日本新聞座談会、朝倉訪問
(学芸部<文化部>森山氏、武智鉄二氏等)
謎の演技者集団
もう一つ、興味深い問題がございます。それは昭和十一年秋、柿の突が熟し始めた項というのですが、菊邑検校が「本場の舞をお見せしましょう」と言われて、西山村さん(女学校二、三年項)と音曲に理解あるお父さんなど五、六人連れだって太宰府へ行かれたのです。
話は横道にそれますが、神戸に菊邑検校がおられる時に、再々九州から伝令の人がきていた。伝令の人は西山村さんの店先にくると大きな声で「太宰府よりの御(おん)使者参りました」と言われるのだそうです。店の小僧さんというか若い人は「あの人は芝居と問違えてはるのと違うか」と言って、西山村さんのお母さんから「何を言うのですか。そんなこと言うてはいけまへん」と叱られていたそうです。そういう人が来ているのです。
この伝令の人が寝るのに、床(とこ)を菊村検校やケイさんと同じ室にとろうとすると、寝ないのだそうです。どうしてなのかと聞くと、「私どもは、おやかた様と枕を共にするのは、、死ぬ時だけでございます」と言ったのです。仕方がないので別に、納屋のところに床をとると、そこで寝たそうです。わたしの解釈ですが、この話からうかがえるところは、どうも太宰府近辺にくぐつの人達の集団が存在する。その集団の意志を受けて神戸へ伝令としてやってきている。その人個人が一人で来たのではない、ということが考えられるわけです。
先ほどわたしが一言いました「都」は太字府を中心にする筑紫だというのは、西山村さんの話を聞く前に申したことだったのですが、今の話にも何か符合するようでございますね。どうも太宰府近辺に母体をなす集団がある感じでございます。
本題にもどります。「本場の舞を見せてやろう」ということで昭和十一年、太宰府に行ったんです。そこで一晩寝て、のろい汽車に乗って、馬が引く車体(屋根があって窓があり、内部は両側に大人ならずり落ちそうな浅い五、六人がけの腰をかける棚がある)に十分か十五分乗った。降りて少し歩いて(田圃の縁と川の縁)、竹薮のあるところを通って洞窟に行った。洞窟の前で待っていると、次々と人が集まって全部で十三人。みすぽらしいが木樵(きこ)りみたいな服装の人が多かったようです。一部にはかなりいい服装の人がいたそうです。
洞窟のちょっと入ったところで篝火(かがりび)をたいて、外から煙が見えるようになって、篝火の火で「十三人立の翁の舞」が演ぜられた。そばで菊邑検校も西山村さんもお父さん達も見ているわけです。非常に荘厳な形で行われた。荘厳な、といいますとちょっと言い過ぎがありますので、後でまた詳しくいいます。
お父さん達は「十三人立」を見て深く感銘を受けてお帰りになった。非常に感銘されたお父さんが、そのあとで酒樽(大島方面に持って行かれた帰りか何かの)を、お店の人に「太宰府まで持ってきて洞窟のところまで届けてくれ」といって、洞窟のところまで届けに行かせたら、もう誰もいなかった。近所の農家で聞いたけれど、全然教えてくれなかった。「知らない」「知らない」でむなしく帰ってきたということです。
菊邑検校と西山村さん達は神戸に帰りまして、菊邑検校が「じゃあ『翁の舞』を教えましょう」と言ったわけです。「まあせいぜい『五人立』くらいまでだろうなあ」と言っておられたけれど、結届「七人立」まで教えられたというわけです。
昭和十八年になりまして、菊邑検校は「あなたにはもう、すべて、教えました」と言って九州に帰って行かれた。それ以後、西山村さんは菊邑検校にお会いになったことはないというわけでございます。しかしお友達の方がその後、菊邑検校にお会いになったようでございます。木下登美子さんがご自分の用事で長崎に行かれました時、偶然、長崎市の中で菊邑検校にお会いになった。「あ、こいちゃん(西山村さん)とこに居やはった人やありませんか」と呼びかけると、「そうでございます」「何をしてはります」「いや私、今、他にすることはございませんので、やはり音曲を教えております」「じゃあ、お元気で」と別れられた。これが昭和二十年四月か五月くらいの頃であった。
西山村さんがお友達からこれを聞かれたのは、六月頃だったということです。ところが八月に原爆が長崎に落され、それ以後、菊邑検校の音沙汰が全然ありません。それで原爆でお亡くなりになったのではないか、と考え、長崎の原爆の日を命日にして毎年お祀りしております、というお話でございました。
ケイさんにつきましては、不思講な話がありまして、昭和二十〜二十一年の項(長女光寿さんがまだ生まれていない時)、神戸から手紙が相生市に転送されてきた。表は神戸の住所が書いてあるのですが、裏の差出し人が書かれていない。開けてみると中に小さな新聞記事が一つだけ入っていた。記事は通称ケイさんが福岡県あたり(川らしい)で身投げ(入水白殺)といったかんじの記事が書かれてあって、手紙その他は一切そえられてなかった、ということでした。
この時、想像されたのは、この記事を送った人は自分の住所や身元を明らかにしたくないが、神戸でケイさんが西山村さんの世話になったのをよく知っているので、新聞記事だけ送ってこられたのではないか、ということでした。ということでケイさんも亡くなられたようである。これが菊邑検校とケイさんの大体のいきさつでございます。
なお、菊邑検校は若い時代にあるお屋敷の十代のお姫様(唖者)の、音曲の家庭教師みたいなことをしていて、恋愛関係といいますか、そのお姫様に子供ができたということがあって、そこを放逐され、その後にケイさんと知り合った、ということらしいのです。その他、菊邑検校について分っていることは、何度か九州に帰っておられた時、手紙がちょいちょい来た。こちらからもお父さんが出された。長崎県西彼杵(そのぎ)郡、宮崎県臼杵(うすき)郡(西か東か)、熊木県球磨郡、熊木県天草郡本渡(ほんど)町等のあて名を書いた覚えがある。だから九州を転々としておられたようであります。出身は肥後である。神戸を中心に十年余り(九州と行ったり来たりで)おられたようです。
菊邑検校その人の本籍地はどこで、肥後のどこの村か町の出身なのかまで、分ればいいのです。熱心に捜して下さっている方もいますが、なかなか分りません。もしご存じならお教え下さい。また神戸近辺に詳しい方もいらっしゃると思いますので、そういう方で直接、菊邑検校やケイさんを見たとか、知っているとか、あるいは聞いたことがあるとかいう方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えていただきたいと思うわけです。以上が西山村さんからズバリお聞きしたところでございます。裏付けの問題については予定された時間が来ましたので、質問をお受けして、その後また少し話させていただきます。 
質疑応答
質問 / 先生は、九州王朝と継体王朝は同時期に二つあったということでしょうか。
答 / わたしは東アジアにおける日本列島代表の王者は七世紀の終りまで九州王朝であると考えております。それに対して近畿の天皇家(天皇と名実共に言えるのは八世紀と考えます)は、記・紀で主張しておりますように九州から来た、分王朝であった。だから対等に両王朝があったというのではなく、王朝は一つ、九州王朝だけであった。天皇家は自分で言っている通り、分家であります。イギリスとアメリカみたいな関係ですね。アメリカはイギリス(アングロサクンン)からの人々が主体ですね。イギリスより大きくなりましたね。しかし依然としてイギリスから出て来たという記憶は持っておりますし、イギリスに対しては特別な気持を持っているようですね。九州王朝と近畿天皇家は、このイギリス対アメリカの関係であるというふうに考えております。
質問 / 菊邑検校さんがくぐつから筑紫を救えられたのはいつ頃ですか。
答 / 太宰府に近いところにあるお寺に行った、そのあとの時代なのですが、これが正確には分らないのです(大正前後の時代でしょうか)。この年代が分るとありがたいのですが・・・。
質問 / 「五人立」では「出雲の翁」と「難波津より上りし翁」が出てきますが、このことについて少し話して下さい。
答 / これは非常に面白い問題です。「難波津より上りし翁」、これだけ、非常に変った表現をしているわけです。わたしは初めこれが「筑紫の翁」にならないかと思ったのです。“筑紫より難波津を通って”と、「より」を“経過して”と読んで、近畿の都に入った翁と解釈できないかと思ったのです。しかしこれは無理なようで、そうすれば「伊予の翁」でも「吉備の翁」でも良いわけです。もう一つ大事なことは、この「難波津より上りし翁」は「三人立」にはいないことです。だから「筑紫の翁」にあてると「三人立」は筑紫舞ではなくなってしまうのです。
それでは「難波津より上りし翁」は何か、というと、わたしの想像では、仮説としての解釈では、初め「大和の翁」とか「難波の翁」とか、ズバリの名前があったと思うのです。しかしこの筑紫舞が通ってきている年代、天皇家中心(八世紀から現代まで)の時代を通ってきているので、その間にストレートな呼び方を遠慮して「難波津より上りし翁」といっている。婉曲に“言い直した”時期があると思います。
途中で明らかに言い直しているのがありますね。「越の翁」を「加賀の翁」と中・近世風に呼び直しています。この段階で「大和の翁」か「難波の翁」か知りませんけれど、「難波津より上りし翁」と言い直されたのでしょう。トラブルか何かあったのでしょう。婉曲表現に変えているもの、と判断したわけでございます。
なおご質問以外ですが、姫路郊外で初めてお会いした時に「夷(えびす)の翁」は関東の方か東北の方か分らなかったのです。その後どちらか判定できることが分ってまいりました。明らかに中・近世風に言い直されておりますから、「夷の翁」も中・近世の表現であると考えるべきなのです。中・近世で「夷」といいますと関東です。『徒然草』を読みましても東夷(あずまえびす)という形で出てまいりまして、関東をさしているわけです。中・近世風の表現という目でみました時には、「夷の翁」は関東の翁であるということです。決してまだ断定はできませんが、東北や北海道の「夷」ではないと現在は考えております。「五人立」に出雲の翁が加わるのは当然です。「三人立」に入っていて欲しいほどです。辺境ではありませんので「三人立」に入らなかったのでしょう。
「七人立」には「五人立」に尾張と関東がプラスされています。こればなぜかといいますと、解答は出せませんし、無理に出してこじつけになるといけませんが、こういう場所ですので思いあたることを申しあげます。『古事記』、『日本書紀』によく尾張が出てきますね。天照大神の系列の天火明命(あめのほあかり)が尾張連(おわりのむらじ)などの先祖であると何度も出てきます。なぜか知らないけれど、尾張連が天国(アマクニ)の系列をひくんだという話が出てきていることが気になっています。
もう一つ、『常陸国風土記』に筑紫から美濃国を経て、常陸に来た人物の話が出てきます。だから明らかに筑紫から関東の常陸へ天下った、来た事件が『常陸国風土記』に記録されているわけです。「夷の翁」が関東だとすると、関東の舞楽奉納という問題と関係があるのか。関係があるというにしては材料がわずかすぎるから、これも断言はできませんが、これらを思い合わせると興味深い、ということが言えると思います。
なお今後の研究課題として、関東の古墳で九州の装飾古墳になんらかの影響を受けたのではないかと思われるもの、装飾古墳だけでなくいろいろあるようですが、それらは九州と無関係なのか、あるいは何らかの影響があったのかというようなことも、こういうことに関連して興味の持たれるところでございます。これらはいずれも断言はできませんけれど「七人立」で尾張と関東が加わっているということは、なんとなく意味深いような気がしておるわけでございます。
(後記ーー「夷の翁」をもって北海道東北の「蝦夷国」に関連するもの、と解する可能性についても、改めて詳論してみたいと思う。)
質問 / 九州王朝から分れた大和王朝の時期ですが、先生は何世紀頃、『日本書紀』の何天皇の頃とお考えでしょうか。
答 / それはわたしの本をご覧いただけたらはっきりしております。わたしは神武実在説でございます。もちろん神武天皇ではございません。日向という九州王朝の辺境の地の地方豪族の末端の青年達(神武達)が、九州ではうだつが上がらない、駄目だと絶望して、東(銅鐸圏)に新天地を求めて侵入をはかる。最初は大阪湾で敗北して、長兄五瀬(ごかせ)命が敗死している。その遺言に従って末弟の神武が熊野をまわって大和に侵入する。
大和の中で八代(はちだい)の孝元までいって、九代の開化の時には大和盆地全体を抑えているわけです。周辺は皆敵地(銅鐸圏)です。十代の崇神の時に大和の外、東北十二道(東海あたりでしょう)、北陸、丹波、丹後に河内の建波邇安(たけはにやす)王と、「木津川の決戦」とわたしが名づけた戦いに勝つのです。次の垂仁の時に銅鐸圏の中心沙本毘古(さおひこ)、沙本毘売(さおひめ)たちに勝ち、東は静岡県に至る銅鐸圏の遺産を継承した。そして日本列島中枢部の大国家にのし上がっていくという形で理解しております。わたしの書きました『盗まれた神話』、『ここに古代王朝ありき』をご覧いただければ載っております。神武が外部から侵入しましたのは弥生時代の後期であろうと考えています。
質問 / 筑紫舞の種類と内容の概略をご説明いただきたいと思います。
答 /筑紫舞には「筑紫舞」と「筑紫振り」というのがあります。筑紫舞というのが本家本元の筑紫舞です。先ほどから申してます「三人立」等が筑紫舞でございます。「筑紫振り」」というのは筑紫舞独特のテンポがありまして、ほかの舞とは全然違うそうです。他の舞にその筑紫舞のテンポの振りつけをしたものを「筑紫振り」というそうでございます。
筑紫舞には多くの歌詞があります。それは西山村さんにお書きいただいてあります。その他にも、菊邑検校からお聞きになったものには、いろいろあったようです。たとえば、筑紫の漁民で魚を追って各地へ廻って帰ったあと、諸国での伝聞を歌にしたものもあります。これは“救えられた”のではなく、菊邑検校が、こういうのがありますよ、と紹介して下さったもののようです。その中に次のようなのがあります。
「私の可愛がっていた犬が死んで非常に悲しんでいると、『きたる帝(みかど)』(「北の帝」つまり天子ではないかと思います)がおいでになってご相談申し上げたら、まじないか何か教えて下さり、そのまじないをしたところ、死んでいたと思っていた犬が生き返った。ああ嬉しや有難や」というのです。不思議な話ですね。この天子は明らかに呪術天子、まじないの名人の天子のようですね。こんな天子は『古事記』、『日本書紀』を読んでもお目にかかりませんね。こういう歌詞があるのです。
どうやらこれは近畿天皇家と別個の、呪術を中枢においた天子の伝承がそこに反映しているようである。この点は『邪馬一国への道標』(講談杜刊・角川文庫)の中で基山に北帝門というのがあると書いておきましたが、どうもこの辺と関係があるのではなかろうかと、わたしは思っているのです。
それから流罪人が島流しにされて赦免の船を待つ歌があります。「衛士(えじ)のたく火か筑紫の船か」という文句があります。西山村さんは「大和の方から筑紫へ赦免の船が来るのを待つ歌ではないか」とおっしゃられたのです。しかしわたしは何度か繰り返し言っていただいてよく聞いてみますと、衛士(番兵)が罪人を見張っているのです。「船の火が見えるけれど、あの火はいつもの番兵の火だろうか、それとも筑紫の船だろうか」ということですね。「筑紫の船」というのは“筑紫から来る船”のことだと思うのです。逆に大和から筑紫に来る船なら、大和の船か難波の船かと言わなければおかしいのです。これは筑紫が赦免の原点です。言ってみれば“筑紫から”流されて来ているのです。その筑紫からの待ちに待った赦免の船ではないだろうか、という意味です。このように歌詞にも興味深いものがあります。今すべては申せませんけれど、興味深いものが数々あるということを報告させていただきます。
もう一言付け加えさせていただきますと、先ほどの「十三人立」のことです。最初、西山村さんにお聞きした時、「十三人立」が最高の「翁の舞」ではなかろうかと思ったのです。皆様もそうお考えになると思うのです。それはどのようなのですかとお聞きしたのですが、西山村さんは洞窟でご覧になったのですが、詳しくは覚えていらっしゃらない。習ったのは「七人立」までなのです。残念ですね、と言いましたら、西山村さんも残念です、と悪いことをしたみたいにしょげておられたのです。
ただ、思い出された中に「おと(乙か?)」というのがありまして、これが女役で非常にエロティックな舞をして、他の翁の膝の上にもたれかかって誘惑するみたいなのがあったということです。これをお聞きした晩、姫路の旅館で考えておりましてフッと思いついたのです。検校が別れる時に「わたしの教えるべきことは、もう教えつくしました。これでお別れします」と言ったという話。
もう一つ、昭和十七、八年近い頃だと思うのですが、食糧がだんだん不自由になってきた項、新聞に“虫を食べたり雑草を食べたりする人が出てきた”と出ていたのです。十九、二十年には“いたるところで日常茶飯事になったことでしょうが、十七、八年項は新聞記事になる段階だったようです。新聞にそういうことが出ていたので食卓で話題になった。その時、十代後半と思いますが、西山村さんが「お師匠はんかて虫や草まで食べて生き延びたいと思わはりますか」と、検校に聞かれたそうです。すると菊邑倹校が答えられたのは「どうしても私が生きていたいと思いましたら、虫でも草でも食べて生きていたいと思います。しかし今の私は教えることは全部教えました。今の私は抜け殻です。だから虫や草まで食べて生きていたいとは思いません」という返答だったわけです。
尋ねる方はお茶目たっぷりなのに、開かれた方は本格的本質的な答をしておられるのです。あの『歎異抄』の唯円がかなりいい加減なことを聞いているのに、答える親鸞はいつも根本問題として答を返しています。これが親鸞の特徴ですね。菊邑検校もどうもそういう人柄みたいですね。
この話を寝ていてフッと思い出したのです。するとこれはどうもおかしいぞと思ったのです。もし「十三人立」が最高形態であるのに、西山村さんにこれを教えていないなら、“すべて教え尽くした私は抜け殻です。だからそんな物まで食べるつもりはありません”という話と矛盾しますね。するとどうやら「七人立」が最高形態ではないかということです。
姫路で「七人立」があった時、わたしも拝見したのですが、非常に荘厳な舞でした。この方面には無知なのですが、わたしの頭で思っている舞や踊りの概念とは全然違っていました。能のような趣に終始する荘厳な宮廷舞楽、奉納舞楽というスタイルなんです。これと、先ほどの「十三人立」の「おと」のエロティックな舞と全然イメージが合わないわけです。
だから「七人立」が最高であった。菊邑検校がどうしても教えなければと思ったのは「七人立」までだった。「十三人立」は最高ではなくて、プラス・アルファの大衆芸能じゃないか、と思いついて、朝になるのを待って西山村さんに電話してこのことを申しますと、電話の向うで「ハッ」と息をのまれて、「そうかもしれません」と言われたのです。
洞窟でエロティックな「十三人立」が展開されて一段落して、これで千秋万歳の結びの言葉があって、そのあと「七人立」を舞って終ったということと(これはこの時、電話で言われたのですが)、「十三人立」の準備をしている時、伝令の方が女学生の西山村さんが退屈しているだろうと話し相手になって下さって、この時、「この『十三人立』は宰領(さいりょう)さんをおなぐさめするためにやるものです」というのがあったことを思い出された。ですからわたしが想像しましたように「十三人立」はなぐさめの慰労のためのくだけた大衆芸能である。いわば前座である。そして本番は「七人立」である、こういうことのようなんです。と考えると、「七人立」まで教えて、「これで私はすべてをお教えしました。だから失礼します」と九州へ去られたということとも話が合ってくるように思われます。これを大事な話として付け加えさせていただきました。
“同根異系”の筑紫舞
では裏づけの探求を二十分ぐらい話させていただきます。わたしは非常に不思議な話をお聞きしたわけです。しかしわたしの場合は歴史学ですから、歴史学の立場でこれなどう確認できるか、できないか、ということがキーポイントですね。これにとりかかったわけでございます。その中で裏づけというべきものが、かなり表われてきたわけでございます。菊邑検校、ケイさんの個人的な身元については、残念ながらまだほとんど分っていないと言っていいのですが、筑紫舞自身については裏づけというものがかなり表われてきたという状況です。
まず、第一は絵馬です・福岡県の神社の絵馬の中に、筑紫舞と深い関係をもっていると思われる舞が現われてきているのを見つけることができたわけでございます。最初に西山村さんが見つけられたのが一つあるんです。福岡県の朝闇(あさくら)神社にあるお堂の絵馬に、山伏とも木樵りともつかない人物が舞をまっていて、囲りに何人か人がいて、それを殿様らしい人が大きな盃で酒を飲みながら見ているわけです。それに女官みたいなのが十何人とりまいています。そしてどうもそこは洞窟らしいところなのです。向って左の奥の方は山地になっていて、明らかに山伏の姿をした人物が何人か出てきている。何を意味するのか分りませんが、女がそれを迎えている。もう一つ意味深いのは、向って右端の手前のところに坊さんが二、三人おりまして、舞をしたりいろいろしている人たち皆に対して“フン”という顔をして、嫌だというふうにそっぼをむいているのが画いてあることです。
これは一体何を意味しているか分りませんけれど、非常に複雑な図柄の絵馬がかかっております。これは天保二年(一八三一)に奉納されているものです。年代がはっきりしているのは非常に有難いのですが、重要なのは舞を舞っている人物の足です。非常に変わった足をしておりまして、西山村さんが菊邑検校から習われた秘伝の足と同じなんです。中・近世風にルンン足と名づけられた、その足で舞っているのです。だから筑紫舞自身かどうか分らないが、筑紫舞と共通の技術にたった舞が舞われていることは事実なのです。
もう一つ。これはわたしがみつけたのですが、すぐ隣りの宮野神社(宮野村)の絵馬です。これは文永三年(一八五〇)に奉納されております。これも似たような図柄ですが、違っているところは山伏がご馳走をたくさんつくって農民にご馳走をしているところです。農民がされているのです。向って左の方に、農民が帰ろうとすると、山伏が裾をつかまえて食べていって下さいというような図柄もあるのです。そして殿様がいて女官がいて、はっきりと洞窟がありまして山伏が舞っているわけです。こちらははっきり山伏の格好をしています。先ほどの朝闇神社の絵馬の方は山伏とは断言できません。
もう一つの特徴は、殿様の服装は立派なのですが、髪が蓬髪(ほうはつ)、ぼうぼうとした髪をしているのです。朝闇神社の方ははっきり分るのですが、宮野神社の方はすり切れて見えません。なぜ立派な立派な着物を着て髪だけぼうぼうとしているのか、ちょっと謎でございます。九州の講演を聞いた人の中には、彦山の別当大権現ではないかというご意見の方もいらっしゃいました。
西日本新聞の学芸部等で何度も聞いたのですが、現地に筑紫舞なんてありませんということだったのです。博多で筑紫舞というのを教えている方がありますが、これはご自身が戦後独創されたものな筑紫舞といっておられるだけだそうです。ご本人もよくご承知です、ということです。何回聞いてもないということだったので、わたしも駄目だなあと思っておりました。ところが現地で神社に非常に詳しい百嶋(ももしま)由一郎さん(西日本鉄道の「歴史の旅」の講師)の運転で、博名から糸島郡をまわってご案内いただいたのです。
わたしが今まで行った神社ばかりなのですが、かなりの絵馬があるんです。絵馬なんてどうせ近世のものだから古代史には役立たないと思い込んでいたんですね。ところが舞の絵馬は随分あるんですよ。有名な三雲・井原遺跡の裏にある細石(さざれいし)神社。細石神社の裏に三雲・井原があるといってもいいのですが、ここにも面をつけた翁が舞を舞っているんです。翁が一人で不思議な足をして舞っております。ルンン足か、あるいは波足というものか、わたしには判定できませんが、とにかく変わった足の格好で舞っております。
こういう絵馬と同時に思いがけない収穫がありました。博名から糸島に入る入口の、今宿の側に横浜というところがございまして、この横浜に熊野神社というのがあります。かなり小高い山の上にありまして、ドン・ドコと太鼓の音がしていましたので登ってみました。
今日神楽があり、何十年ぶりにやるんですというのです。“それでは見せてもらいましょう、どんな神楽ですか”と聞くと、下の公民館に世話役がいるからそこで聞いてくれといわれたんです。それで横浜公民館に行きまして、世話役の方に聞きますと、台本のコピーされたのを持っておられるのです。それを見せてもらったら、そこに「筑紫舞覚書」とちゃんと大きな字で書いてあるんですよ。ビックリしました。それを写真に撮らせてもらい、十二時から始まった神楽を見たわけです。
この神楽は、西山村さんの筑紫舞とは結果的に言いますとと、同根異形、根は一緒だが現在の姿はかなり交っている。片方は神楽として表で、片方はくぐつの舞として、裏で伝えられているという、表裏の違いはありますけれど、根は明らかに一緒であるというものでした。
たとえぼ菊邑検校の話に「私達の舞の一番もとは天宇受売(あめのうずめ)の舞でございます」というような話があったらしいのです。この神楽の最後のところで天細女(あめのうずめ)が活躍するのです。天細女がエロティックな舞をするわけです。エロティックといっても現地ではいい年のおっさんが面をつけてするんです。猿田彦が出てきまして天孫降臨に反対するんです。来ては困ると反対するのです。それを思兼命(おもいかね)が・・・智謀の神楳ですが、天細女に命じて猿田彦を説得させるわけです。猿田彦は嫌だ嫌だと拒否する。それを延々と神楽でするわけです。そのエロティックな格好は、「十三人立」の「おと」についてお聞きしたことをまざまざと思い出しました。また楽器のひき手と舞い手がありまして、舞い手が多くなったと思ったら楽器のひき手が減っていて、舞い手がえらい減ったと思ったら、楽器の人が増えているんですね。同一人物が交代でしているのです。しかし中に全然交代しない楽器一本の人がいる。
以上のようなことも、西山村さんにお聞きした「十三人立」と同じなのです。そういう、技法の面もまた同じです。このように数々の共通点がございます。わたしが一番嬉しかったのは、この神楽の身元が明らかになったことです。博多市内に田島八幡という神杜がございまして、この田島八幡の社中の人達が頼まれて来ているのです。
六十年ぶりかで来たところへ偶然わたしが会ったわけです。あとで田島八幡の社中の中で中心的な方の一人、船越国雄さんのお宅へうかがいました。その応接室に表装された立派な文書がかかっていました。筑紫舞の由来の文書でございます。これによりますと、筑紫の神主達が寄り集って、この神楽を江戸時代の終りまでしていた。ところが明治維新で、そのあとできなくなった、というのです。
明治のはじめに排仏毀釈で仏数を排撃したのはよく知られていますね。そこで神社の方は非常に得たしたように思っていますね。教科書などにもそう書いてありましたね。これは半ば合って半ば合っていないのです。といいますのは、明治政府の教部省などを占めたのは、平田篤胤の弟子達、平田神道を古神道と称し、それを純粋な神道と考える人達だったんです。この神道以外は“偽物”だと考えた人達だったんです。ところが日本中の大抵は平田神道以外の神道だったんですよ。だから日本のほとんどの神道がえらい圧迫をうけているんですよ。神仏習合はもちろん、山伏も駄目だといって弾圧を受けるんです。それに対して江戸時代の黒田藩のほうはそうではなくて、神楽などをいわば保護育成していたわけです。
明治政府はあんなのはインチキだといって、平田神道以外の神社に対しては保護をやめにしてしまうのです。だから神主さん達は食べられなくなってしまったのです。結局、神楽もできなくなって、別の職を見つけないといけなくなってしまったのです。わたしもすでにこんな話を開いたことがあったのですが、もう一つピンと来ていなかったのです。ということで神楽が断絶になるというのを開いて田島八幡の社中の人達、農民などが、「私達がお習いしましょう」と、一番詳しく知っている神主さんのところで逐一伝授してもらったのが、今に残っているのです。文書にこれは“「筑紫舞」というべし”と出てきております。これで現地に同根異系の筑紫舞があるということがわかり、大きな収獲でございました。
肥後の国「山の能」の伝え
もう一つ、見逃すことができないのは『肥後国誌』というものでございます、熊本県の平野雅廣さんからのお手紙で、九州年号が『失われた九州王朝』で論ぜられているが、江戸時代に作られた『肥後国誌』には、その九州年号がたくさん出てきます、とお教えいただいたのです。その後『季刊邪馬台国』4号に論文を栽せられましたので、ご覧になった方も多いと思います。この方に一度お会いしたいと思っておたずねしたわけです。
お持ちの『肥後国誌』を貸して下さいと強引にお願いしたら、快く貸して下さったのです。平野さんは「九州年号は私が論文に書いたのが全部ですよ」とおっしゃられたのですが、私はもしかしたら「筑紫舞」のことがあるかなあと思ってお借りしたのです。そしたら以外なことに、あったのです。「筑紫舞」に直接か間接か関係があるらしいと思われるものが見つかったわけです。
北宮村について書いてある資料がございます。(『肥後国誌』巻之六、菊池郡・深川手水)ここでは昔から「山の能」というのを伝えていた。「翁」がその能の中心であったと書かれているのです。ところが現地で室町の頃戦争が起こります。龍造寺とか赤星とかが、天正六、七年頃に戦争をして、これに薩摩の島津が応援をたのまれて侵入をしてくるのです。そして現在の菊池市隈府(わいふ)にあった“能面”を戦利品として奪って帰って行った。戦争が終った後、菊池家の能大夫の藤吉雅楽が「“能面”を返して欲しい」と薩摩に行くわけです。するとなぜだか「もう返した」。「どこに返したのか?」「八代に返した」ということなのです。この八代は現代もそうですが、音曲が盛んなところで、代々名人を輩出しているのです。これと何か関係があるのでしょう。とにかく「八代に返した」。それで雅楽が八代に行きまして、首尾よく“能面”を返してもらってくるのです。ところがこれで一件落着かというとそうではなくて、本当の騒動はここから始まったのです。
「山の能」を伝える社中がありまして、「自分達が昔から伝えているものだ」と言いますし、能大夫は「私が苦労して持って帰ったものだ」と三代にわたって争いが続いたらしいのです。雅楽の孫の外記の時にやっと和解ができて、金を出す人がいて、片方は金、片方は能面をとって、やっと落着したと書いてある。ところが落着して間もなく、菊池家は滅亡した。これによって能楽も断絶したと書かれている。さて、私のような素人からみますと、能面くらい、また作ればいいではないかと思うのです。しかし考えてみれば、単に骨董品の能面が欲しいというだけだろうか。つまり能面を付けて舞う「権利」の争奪戦だったから、三代にわたって、もめたのではないか、と思ったのです。
西山付さんが昭和十年代に神戸で舞を舞った。お父さんは一人娘が極意の「翁の舞」を習うことになるのを喜んで、「翁の面がいりますね。一つ京都の方に頼んでやりましょう。一ヵ月もあればできるでしょう」と言われた。ところが菊邑検校は「いえ、面はいりません。私共のほうでは故(ゆえ)あって、面は用いないことになっております。だから面はいりません」と、言ったそうです。
どう菊邑検校はごちゃごちゃ理由を言わないのですね。しかし結果は実にはっきり言って相手がスポンサーであっても譲らない、という方のようですね。
だからお父さんも「そうですか」とあきらめられたという、そういういきさつがあるのです。今も西山付さんは全然「面」を使われないわけです。
ここからはわたしの想像ですよ。先ほどの『肥後国誌』では「山の能」は断絶したと書いていありま寸。しかしわたしが思いますのに、二派で争っているのですから、断絶したのは菊池家の“公的な能の儀式”が断絶した、ということではないか。田島八幡の例もありますように、「山の能」も菊池家が発明したものではなく、在地の農民の方が継承してきているものです。だから、農民の方も菊池家と一緒に「山の能」を忘れてしまう、ということがあるだろうか。公的なものは断絶したけれど、それ以外のもの、農民などの中で続けられたものがあるのではないだろうか。これがわたしの想像なのです。すると先ほどの菊邑検校が「故あって私の方では、、面は用いないことになっております」という話と何か関係があるのではなかろうか。そういう感触をもったわけでございます。
少なくともはっきりしているのは、肥後の国において、「翁」をメインとする能楽が、古い伝承を基に行われていたということです。「翁の舞」とはいっておりますが、舞というより能と言った方がいい印象をうけました。直接か間接か知りませんが、『肥後国誌』に伝える「山の能」と何らかの関係があるのではなかろうか、という感じをもったわけでございます。 
3 西山村光寿斉さんの証言へ
何か目に見えないものでこうなった
司会 これから懇親会を始めたいと思います。最初に質問というかたちで皆さまに出していただき、それについて西山村さん、古田さんにお聞きしたいと思います。
質問「肥後の翁」は西山村光寿斉、「加賀の翁」は西山村光寿、「都の翁」は西山村筑紫で演じられましたが、(一九八○年十月五日、姫路文化センター大ホール)「肥後の翁」は代々光寿斉さんが、「加賀の翁」は代々光寿さんが伝承するということですか。
西山村 そうではありません。「肥後の翁」は踊りを教える者の最高の者がつとめる。次にくるのが「加賀の翁」、その次が「都の翁」であると(菊邑検校から)聞いております。
私は西山村流の宗家(そうけ)で、長女は二代目光寿、家元でございまして、次女筑紫は分家家元で、三人が流派の長ということです。ですから、西山村A子が宗家であれば、「肥後の翁」は西山村A子がつとめるということでございます。
質問 先ほどの古田先生の講演で、筑紫が都の地であるということを聞きました。「都の翁」を演じた人が、筑紫という名前なのはどうしてですか。
西山村 偶然なのです。本当に偶然なのです。次女は本名が河西美夜(みや)子といいます。もともと私が西山村光寿、二代目が若翠(みどり)、分家は美寿世(みすよ)と名乗っていたのです。ところが武智鉄二さんが、七、八年前に筑紫舞を見られまして、「これは大変なものだ。普通の舞ではない」と、わざわざうちの家まで聞きにみえました。私は「実は九州の・・・」と返事したのです。それから東京で、出てくれ、出てくれと話があり、度々上演したのです。そのうちに文化庁や芸能評論家という人達が見にこられるようになりました。
ある時、文化庁の無形文化財の調査官の田中英機(ひでき)さんが、ある文学博士に見てやってくれと、東横劇場に見にきてくれたのです。その時私は光寿で、娘も若翠と美寿世だったのです。その文学博士は「なんだ。弟子の踊りごときを見せるのに、俺をわざわざ呼んだのか」と言われたらしいのです。名前はどうであろうとも、と思ったのですが、武智先生に「名前が悪いよ。(光寿を)隠居しなさい」と言われまして名前を変えたのです。光寿斉は斉明天皇の斉なんです。二代目は光寿に譲って、分家家元はどうしようとなかなか決まらなかったのですが、武智鉄二氏に、「筑紫振りだから、筑紫にしたら」と言われて西山村筑紫になったのです。
一年半ほどして古田先生が、「都(といわれている土地)は筑紫(の地)と違いますか」と言われたので、「ええそうです。“みやこ”(美夜子)は筑紫です」。「都の翁は筑紫と違いますか」「ええそうです。都の翁は筑紫がつとめます」と全然話が合わないことがありました(笑)。偶然の積み重ねでして、何か目に見えないものでこうなったと思っています。
光寿という名も、山村ひさという山村流の師匠から貰った名前が父の気に入らず、父が付けたのです。
質問 この際ですから、筑紫を代々名乗られたらどうでしょう。
西山村 分家はまだ独身で、筑紫の名前をやれる跡つぎがおりません。どなたかよろしくお願いいたします。
質問「翁の舞」の内容、話の筋を教えていただきたいのです。
司会 言葉で言うより、ビデオに撮られたものがありますので見られた方がいいと思います。複製しますので機会を作りまして皆さまに見ていただきたいと思います。
古田 内容は何というものではないのです。台詞(せりふ)としては、おのおのの翁が出てきて名乗りをあげるのです。多少ニュアンスは違うのですが、「自分は肥後の翁である」「加賀の翁である」と名乗りをあげ、その間に複雑な舞が展開していくわけです。舞ですから(「七人立」)二十五分間、肥後の翁を中心に舞われ、その間名乗り(正しくは「国問い」といいます)が入っていくというスタイルのものです。いわゆる掛け合いをしたりという類のものでは全然ないのです。
“死語”を習い伝える
質問 舞を拝見すれば、一番よく分るでしょうが、テーマがあると思うのですが、それは何でしょうか。
西山村 能の「国土安穏(こくどあんのん)」と同じタッチでございますので、寄り集って懇親会を開いているという感じです。
質問 宮廷舞楽となりますと、隼人舞、韓国舞も服属儀礼になるわけですね。そういうものとのからみはないのですか。
古田 わたしの解釈ですが、各国の翁が出てきて自分の“国振り”の舞をそこで奉納するというスタイルになっているわけです。だから今のご質問と共通の要素があるわけです。
自分の好きな舞とか、気に入っている舞を舞うというのではなく、それぞれの国の舞をもって、都へ出てきて舞う、というスタイルの舞になっているのです。
質間 宮廷でする舞楽なのでしょうか。
古田 宮廷でする舞楽のムードをもっています。様式化された舞になっています。これは想像ですが、本来は一つ一つの舞が出雲なら出雲独自の舞、尾張なら尾張独自の舞というものであった可能性があります。今は目立って別々というふうではありませんが、それぞれの翁の所作、台詞に特徴をもたしているようです。
質問「ルソン足」とは、具体的にどんな足をいうのですか。
西山村 やってみなければ・・・・・一口ではいえません。
古田 こういう舞は、理屈を習って理屈に合わせて踊るのではありませんから、実物そのままを伝承しておられるのです。口で上手に説明するのは、むつかしいと思います。実物をご覧になるか、ビデオで見ていただかないと。
西山村 一言、足どりについてご説明申しあげます。私はこれしか知らないので、たいして珍しいものと思っていなかったんです。普通だったら、足を二つそろえて一足にして、ポーンと飛ぶのです。古い歌舞伎に一足にしたまま跳躍して前や後に進むのは残っているらしいのです。
私共の筑紫振りの足では、送り足というのですが、パッパッと速く前に進んでいくのです。そして、足をぐっと引いといてパーンと飛んで跳ねて座るのを一遍にするというので、筑紫振り全体にあります。
ルソン足というのは、つま先をはね上げて、カカトを常に下につけているのをいうのです。話はちがいますが、私の言う言葉は死語になっていてずーっと昔の文献にあったと、文化庁の人が言うのです。八百屋で買い物するみたいに次々、今は使われない言葉を使うのでびっくりしたと言われました。
たとえばおじぎの仕方ですね。翁のビデオを見ていただくと分るのですが、横に手をやってピッとはね、額のところにもってきて、卍(まんじ)を書いて、胸前から下になで下ろしておじぎをする。これを権帥礼(ごんのそち)というのです。「早船」などの時は、手を横にして、前にしておじぎをする。これは帥礼なのです。権帥礼が上等で、帥礼が上等でないというのが非常に面白いと文化庁では言うのです。どんなものでしょうか。
子供の頃から、これは権帥礼である。これは翁に限ると教えられ、七人の翁がズラリと並んで、一糸乱れず権帥礼をすることが、神様に喜ばれると聞いております。それから柱つき、舟つきという言葉があります。これも私だけが言っている言葉らしいです。「(皆が使っている)板つきなんて知りません。柱つきと言っています」と文化庁の人に言いましたら、その時は「そうですか」と帰られたのです。三日ほどして会った時(東京で)、「古い文献に載っていた。家元(現宗家)、誰に聞いたのですか」と言われました。「子供の頃から、そう聞いていたのよ」。家元になってから舞台をつとめねばならない時、リハーサルで狂言方が「これは板つきだっか、どこから出はります?」と聞かれて、板つきて何だろう?とあたふたしまして、そんなことも知らん家元はもぐりと思われたらいかんと、「そうです」と言うたんです。
幕が上がった時、舞台に控えているのが板つきと分って、「なあんだ、これだったら柱つきのこと」と言った覚えがあるのです。ですから、筑紫振りと他の踊りと各名称が違っていますね。変に古めかしい言葉で言われているのが特色だと思います。
古田 今のお話は死語になっていると芸能界で思われている言葉を、西山村さんは菊邑検校さんから習われたということです。
ルソン足など所作を、今実際にしていただくわけにまいりませんので、ビデオで拝見するというのが一つの方法ですね。それから東京で今年の秋十一月二日に、芸術祭に上演なさるそうです。これは翁ではない可能性が強いようですが、その際、場所を借りているから、「五人立」などを見せてあげてもいいとおっしゃって下さっていますので、東京の会の方達で計画して下さっているようです。
司会 ビデオは二種類共あり、会として保存いたします。見たいと希望されます方にはご覧いただきたいと思います。
また西山村さんは姫路にお住まいですから、関西で公演なさる時は、わたしどもから呼びかけますので、その時はぜひご覧になって下さい。(後記ーー現在は福岡市在住)
他に伝承者はいない・・・
質問 現在、西山村さん以外に筑紫舞を伝えておられる方はいらっしゃいますか。
西山村 私はないと思うのですが、ひょっとしたら、私のような人がどこかに居るかも知れませんね。九州の方には残っていないと思うのですよ。これは私の想像ですが、九州に習ってくれる人がいたら、わざわざ神戸まで来て、私をつかまえて教えなかったと思うのです。だから九州にはいないと思うのです。それでも、その人達の仲間が、誰かにこっそり教えていたかも分りませんですね。
私のことがクローズアップされれば、「私も知っている」という人が現われるかも知れません。私は今まで、みにくいアヒルの子でございまして、山村流の中にいて、山村流でない地唄舞をもっているということで随分いじめられて参りました。だから他にいらっしゃるかどうかは知りません。
質問 筑紫舞を現在している人は、いないのですか。
古田 プロの舞の世界で、西山村さん以外に筑紫舞を教えている方は、どうもいないようでございます。東京では高田かつ子さんが、一所懸命手紙や電話で問い合せて下さり、大阪でもわたしが問い合せてみたのですが、どうもいないようでございます。
筑紫舞と名乗るのは、講演で申しましたように、田島八幡にございます。これは神楽でして、神社の祭礼の時に行う、表芸というべきものであります。
また“鼻欠け”の人が、神社で踊っていたという話でしたが、これは翁ではないと思います。むしろ田島八幡に相似た神楽だと思うのです。(後記ーーくぐつの人達が祭礼で行っていたのは、あるいは神楽以外のもの、見せ物・売り物の類かもしれません。)
だから神楽とは別に、くぐつの世界に秘伝として、「翁」を中心とする筑紫舞を伝承しておられたのです。この秘伝としての「翁」を知っている人はいないか、ということになりますと「論理的想像」になります。それは昭和十一年に十三人集って、舞われたわけです。
その方々が生きておられる、あるいはその方々の子孫というか、後継者が生きておられる可能性があるわけです。ついこの間のことですからね。その方々が「十三人立」を演じうるとか、見たことがあるという人が現存する可能性があるわけです。しかしわたし自身も調べたし、博多にお住まいの方にも調べてもらったのですが、今のところ分っておりません。(後記ーー宮地嶽神社の洞窟の舞のときに来合せた方が地元などにおられることがわかりました。)
恐らく表(おもて)をさがしても、見つからないでしょうね。わたしはくぐつですなんて、電話帳に載っていないでしょうし、看板も掛けていないですから。芸能差別ということがありますから、裏側で隠されているのではないかと思うので、そう簡単にはみつからないでしょう。わたしが博多に行き、博多の人が一所懸命聞きまわっても分らない。博多のそういうお師匠さんに、わたしも随分聞いてまわったのですが分らない。
しかしわたしが思いますに、表から行っているから分らないのです。分らないことと、存在しないこととは同じではありません。これに関連して、「太宰府の御(おん)使者」と言った伝令の方が、洞窟の「十三人立」の時、女学生の西山村さんが退屈してはと話をしてくれたそうです。「あの人は京都から来た方です。くじがあるので、これ(十三人立)が終ったらすぐ帰らなければいけないのです」というのがあったそうです。その人はきれいな着物を着ていたそうです。
西山村さんが「くじってなに、くじびきのこと?」とお父さんにお聞ぎになったら、「いや違う。おそらく訴訟のことだろう。訴訟しやはるんやから、だいぶ身分のいい方やな」と感想をもらされたそうです。「公事」と書いて「くじ」と読みますね。今でもそうですが、当時は特に訴訟をするのは、貧乏な人はあまりしませんわね。これから思いますと、京都でちゃんと市民生活をしておられて、伝令がくると洞窟にくるんですね。その方はいい着物を、悪い(というと変ですが)木樵りみたいな粗末な着物に着替えて洞窟で舞われた、というのです。
ここから先はわたしの想像ですが、この京都から来た人などは確実に子供さんかお孫さんがいると思うのです。その子供さんやお孫さんも知っているのではないか?“お父さん、お祖父さんがくぐつだ”ということを知っているんではないでしょうか。場合によったら、今でも伝令が来ているかも知れませんね。しかし恐らく人に触れ歩くことではなくて、秘密のことではないだろうか。だからこちらから探すのは、大変なことなのです。ですからわたしとしては、本などに書いて出しますね、それを見て「実は私は知っている」「私も聞いたことがある」と言って下さる方が現われるのを期待しているわけです。
もう一つ、推測に推測を重ねてですが、筑紫舞の「翁」としての伝承は、くぐつの方々以外にむつかしいなあと思いますが、菊邑検校さんに、西山村さんの友人が長崎でお会いになった時、「何をしていらっしゃいますか?」「いや、他にすることがありませんので音曲を教えておりますしということですので、長崎に菊邑検校さんのお弟子さんはいるわけです。但し「翁」などを伝承されたかどうかは、全く分らないのです。以上のようなところです。
菊村検校に抱いた疑問
質問 服装ですが、翁それぞれに決っているでしょうか。また絵馬の人物の扇に日の丸がありますが、持ちものに特徴があるのですか。
西山村 絵馬にある翁は日の丸を持っていますが、私達は持たないのです。絵馬は絵馬なんです。「七人立」を私が洞窟で見ました時は、日の丸ではなかったように思います。すごく傷(いた)んでいたけれど、扇が金だったような気がするのです。
一般に日本舞踊の扇は(今)普通寸法が九寸五分なんです。山村舞だったら八寸五分なんです。祝儀物の場合は尺ものといいまして一尺あるのです。
その時、私が見ましたのは、尺ものの感じがしました。大きく見えました。仕舞の扇ではないけれど、大きいなあと心に残ったような感じがするのです。別にそんなに深い関心ももってませんし、「ひょっとしたら、あれが尺ものかなあ」と思ったように思います。
服装ですが、衣みたいなのを着ている人だとか、昆布みたいになってぶらさがっているのを着た人がいました。
菊邑検校も琴を弾じてではなくて、ただ最後になるかも分らないから行きましょうと言って、連れて行って下さったのです。だから本当言えば、私達と同じお客さんとして行っているのにもかかわらず(こんなふうにいろいろ細部にわたって研究されてきますと、ふっと疑問に思うのですが)、昆布みたいななんともかんとも言えない、出し昆布の色みたいのに着替えられたのです。
宰領さんなる人が全部の衣裳を預かっているのです、きたない衣裳を。そこへ来る時は、お百姓さんの格好をしたりで、普通の格好をしているわけです。そこへ宰領さんが風呂敷包みを沢山沢山持ってきて、「これあんたの」「これあんたの」というふうに分けるわけです。「おやかた様もどうぞ」と、検校さんのところへ持ってきたのを着替えられたのです。
私の父や母は、私がどこかで踊る時は検校に地方(じかたというのでしょうか)をしてもらわないといけないので、気をつけていて真っ白な羽二重で着物を作ってさしあげたり、鼠小紋の着物や紋付の羽織や袴を、こしらえてあげたりしたんです。
九州に行く時も、父と同じくらいの体だったから、ひょっとして父のおさがりかもわかりませんが、結城紬みたいな着物を、わざわざ着ていっているのに、そこでお昆布みたいな着物に、見るだけなのにわざわざ着替えたのです。
だから私、おかしいなあと思ったんです。今でも私、おかしいと思うのです。
古田 そこで一つ面白い問題があるのです。「十三人立」の舞の準備をしている時、十三人の一人が「おやかた様の前で、これを舞うのもこれが最後でしょうな」という意味のことを言われた。
おやかた様というのは、どうも菊邑検校だと思うのです。講演の時に言いましたように、伝令の方が神戸に来られて、検校と同じ室の隅に床をとろうとしたら、「おやかた様と枕を共にするのは死ぬ時だけでございます」と言って寝なかった。これは明らかにおやかた様、菊邑検校ですね。
洞窟で「おやかた様の前で・・・」のおやかた様は、考えようによって、古墳に祭られた神様の前でと、とれないことはないのですが、同じおやかた様ですから、これはやはり菊邑検校をおやかた様と言っていると、私は判断したわけです。
東京で鋭い質問があったわけです。水戸から出てこられた高校三年生の千歳(ちとせ)さんがされた、「なぜ、菊邑検校はおやかた様といわれるのか」ということだったのです。わたしが「筑紫舞を完全に、“鼻欠け”の人から教えきられた。だからおやかた様と言われるのではないですか」と答えたわけです。すると千歳さん曰く、「じゃあ現在は、西山村さんがおやかた様ですね」。これで私はガクンときたわけです。若い方のストレートな質問で、問題の真相に近づけるわけですが、どうみても、西山村さんがくぐつの方からおやかた様とされているような感じはしないわけです。どうもおやかた様ではないようです。ということは、私が示した一つの解釈、筑紫舞を完全に教えきられたおやかた様というのであれば、西山村さんはおやかた様であり、くぐつはおやかた様を逃がしては駄目なわけです。ところが、くぐつの残党が西山村さんのところへ寄ってきている様子が全然ないわけです。結局、おやかた様は、筑紫舞を教えきられていることもあるかもしれないが、それだけではないのではないか。他の条件がいる。
ズバリ言いまして、くぐつ集団がいまして、その頭領といいますか、統率者というか、そういう力量、実質を持っていなければ、おやかた様という名前は与えられないのではないか。その意味でおやかた様は、両要素を兼ねているのが理想ではないかと思うわけです。
わたしの想像ですが、菊邑検校が西山村さんに伝えられたのは、(言葉は悪いですが)“非常手段”だと思うのです。戦争が近づいてくるという状況下と、自分がいつ死ぬかわからないということで、絶えてはいけないということで、西山村さんに教えられたと思うのです。
お弟子さんに教えていて、お弟子さんが上手(うま)く間合いが合わない。それを小学生時代の西山村さんが、子供がよくするように真似して、「ここはこうするのじゃないの」と舞ってみた。それが非常に勘どりがいい、間どりがいいので、それを見込まれたのでしょう。絶やしてはいけない、伝えなくてはいけないというので、“非常手段”といいますか、例外的に教えられたのでしょう。女の方に教えるというのは、本来は“ない”のでしょう。あの「十三人立」も全部、男でしょう。それを女に教えること自身も異例なわけです。
例外的な、異例のケースである。わたしの想像ですが、本来のケースは、筑紫舞を伝授していると同時に、くぐつ世界の頭領ということで、始めておやかた様と呼ばれるのではないか。菊邑検校は単に、“鼻欠け”の人から舞を習っただけでなく、そういう実質の位置についておられた。だから伝令がしょっちゅう来ていたのではないかというふうに、想像の領域がありますので、(実際は間違っているかも知れませんが)こういう問題があるわけでございます。
「宰領」と「おやかた様」
質問「翁」の時、どういう楽器を使われますか。
西山村 三味線とお琴を使います。
質問 鼓類はどうですか。
西山村 私が洞窟で見ました時は、入っておりました。鼓というより大鼓(おおかわ)でした。
質問「翁」はどういう名乗りをあげるのですか。
西山村 肥後の翁は「われは肥後の翁」と名乗って、「加賀の翁」は「われ」って言わないで「かーがの翁」、都の翁は「都の翁」と言いまして、「われ」は入らないのです。難波津より上りし翁は「われは難波津より上りし翁」と、水をかきあげるふうな中腰になって、チョンチョンと出てきて名乗るんです。
尾張は「われこそは尾張の翁」。出雲の翁は大国主みたいな格好をするのです。初めからなのか、どこかで変ったのか、菊邑検校の好みなのかわからないのですが、「われは出雲の翁にておじゃる」と言って、袋をかける格好をするんです。私は子供の頃に、大国主のことかなと思っていたのです。今こんなこと言ったら、古田先生に叱られるので言いません。何か分りません。
夷(えびす)はチョンチョンと千鳥に飛んで出まして、「夷の地より参りし翁」と言うのです。夷の地ですから、(都から)一番遠いかもわかりませんですね。
質問 宰領とおやかた様の関係はどうなるのですか。
西山村 宰領さんは私の想像ですけれど、その年々の集りというのですか、それをお世話する方ではないのかと思うのです。
質問 道具方ですか。
西山村 そうじゃなくて、世話人みたいでした。宰領さんは「朝倉」の翁だったのです。「十三人立」の時に。「朝倉」か「高倉」だったか、はっきりしないのです。はっきりしないのに言うと、叱られますので。(後記ーーのちに「高倉」のようである、とお話あり。)
古田 先ほどから西山村さんがおっしゃられている「叱られる」云々は、明確な事実と想像の部分を、はっきり分けて下さいということです。菊邑検校からはっきりこうだと聞かれた点と、西山村さんのご想像の部分を、はっきり分けて下さいと、何回も神経質なくらい申しております。そのことだと思います。
質問「七人立」の時、宰領さんは何をしましたか。
西山村「十三人立」も「七人立」も、同じ日でしたので、宰領さんの「七人立」の時、お世話だけだったのとちがいますか。前年の時はどなたが宰領になられたのか知らないのですが、どなたが宰領でも、肥後の翁が一番えらいのです。私が(する肥後の翁が)一番えらいんです。
古田 だから「七人立」の時、宰領さんは舞っていないのですね。この回のといいますか、その年(何年に一回か、年に何回か知りませんが)の世話役が宰領さんということらしいですね。
質問 筑紫舞と『肥後国誌』の「山の能」の関係を、もう一度教えて下さい。
古田 西山村さんの筑紫舞の「翁」ですね、これを筑紫舞と言っておりますが、わたしなどが言ってる踊りや舞とは全然ムードが違うわけです。端的に言えば能といえる。荘厳なものということが第一にあるのです。『肥後国誌』には「山の能」がある。京都などとは違った、伝承された能があり、翁の舞が能のメインになっているのです。
もう一つ、西山村さんの翁は「肥後の翁」が中心で舞われます。ということは(後で言いますが)肥後で伝承されたものではなかろうか、ということです。肥後は装飾古墳の中心になりますね。それらの反映ではないかと、わたしは考えたのですが、それだけではなく、肥後で伝承されたので肥後の翁を中心に舞うのではないかと考えたわけです。肥後で能のような様式をもって、「翁」を中心に舞うものが伝承されていた。一方、「山の能」も能といわれているから、当然能の様式をもって、「翁」がメインである。肥後の中で伝承されている。
両者は非常に関係が深い。しかし最後の一点では、結びつく論証がないわけですが、どうも直接か問接か分らないが、無関係なものとは思えないと思うわけです。先ほどの翁の面の話も、何となく『肥後国誌』と相対応する感じがあるわけです。
断定はできないですが、次のようなことは言ってもいいのじゃないでしょうか。
西山村さんの筑紫舞は、どうも肥後で伝承してきた可能性が強いということ。また肥後の地で、「山の能」にみられるような「翁」をメインにした能が、古くからの伝承として存在していたということ。能を演ずる地域的な伝統があったということだけは言えるのではないかということです。
間のとり方が異なる「ルソン足」
質問「ルソン」というとフィリピンを連想するのですが、筑紫がルソン、フィリピンと歴史の上で、どのような関係にあったのでしょうか。「ルソン足」がどのようにして舞の世界に入ったのでしょうか。
西山村「ルソン足」というのは、ルソンから入ってきたというのではなくて、一つの名称だと思うのです。たとえば権帥礼というように。足のあげ方の一つの名称だと思うのです。
それからこれは私の発想なのですが、鎌倉室町時代に、くぐつの集団、遊芸人のくぐつの集団がいたと思うのです。九州でも遊芸をしながら廻っていたのが、長崎かどこかでルソン人の踊りを見て、足のあげ方が非常に面白いので、筑紫振りに取り入れたとも、私には考えられるのです。
文化庁にも言いましたのですが、地唄舞の中にオランダ万歳というのがございます。私もあまり知らないのですが、これもルソン足をするのです。それを当時生きていた山村ひさ(山村流の師匠)が、「(筑紫舞の)そんな足どりやったら、オランダ万歳なんか面白いのと違いまっか。それで万歳を、オランダ万歳で教えてもらいなはれ」と、菊邑検校に言うたことがあるのです。その時、菊邑検校は「駄目です。似て非なるものだから」と言うたんです。間のとり方が、オランダ万歳の「ルソン足」と、私の伝えている「ルソン足」とは違いますということで、「なまじ似て非なるものだから、習わないでくれ」ということで習わなかったのです。オランダ万歳が三テンポでとるところを、筑紫振りでは五テンポでとるという違いがあります。だからオランダ万歳を習ってしまうと五テンポでいけてたものが三テンポになってしまうということだろうと思うのですが、頑として教えてくれませんでした。
もう一つ不思議なことがありました。数知れないほどたくさん、地唄の踊りを教えてもらったのですが、「曽我物語」だけは、曽我に関係したものだけは、なぜか教えてくれませんでした。タブーみたいに避けてましたね。オランダ万歳のかわりに琉球組(ぐみ)を教えてあげましょうというて、琴の古曲の琉球組を教えてもらいました。
古田 西山村さんの話で、わたしがちょっと注釈させていただきたいのです。「ルソン足」の件です。武智鉄二さんが早くからこれに注目されて、筑紫舞全体が室町か、そのへんに、スペインから来たものではないかという解釈を言われたわけです。これはご意見ですから、ご自由に言われていいと思うのです。
しかしわたしは慎重でなければいけないという気持でいるわけです。菊邑検校が「これはスペイン舞踊です」と教えたなら、それでいいわけです。しかし菊邑検校はそういうことは全然おっしゃっていない。ただ「ルソン足」という形で、足を的確に教えられたということです。
なぜそれを「ルソン足」と呼ぶかという、解釈の間題ですね。仮説はいくら立ててもいいのですが、あまり断定しないほうがいいだろうと思うのです。
西山村さんが、ルソン人か何かが来ていてその足を真似たのではないかと、おっしゃったのはあくまでも仮説なのです。そうであるかないかは、疑問にしていいのではないかと思うのです。それは「翁」の名前が、「越の翁」が「加賀の翁」というふうに、中・近世風に置きかえられていますね。だからルソンも近世風な呼び替えであるかもしれないわけです。
つまりその「足」自身はずーっと古くからあって、近世風に、「ルソン足」と呼ばれるものに似ているから、「ルソン足」という通称を使うようになったという場合もありうるわけです。もちろん、それまで全くなかったのが、ルソン人のしている「足」をとり入れた、という解釈もありうるのです。
このへんのところは解釈ですので、何とも言えない。何とも言えないものは、何とも言わないほうがよろしい。「言わんで下さい」とぼくが西山村さんに言うわけなんです。
なぜ、「ルソン足」と言うのかというのは、今後の課題であるというふうに思っております。
あえて、もう一言、余計なことを言わせてもらえば、「ルソン足」というものが、筑紫舞にとって枝葉末節の、たいしたことのないものであれば、ちょいと真似してやろうということもあるかもしれませんが、大事な要素であれば、ちょいと真似したというのはどうかなと思うのです。
もう一言申しますと、現代の舞などは、大体室町以後のものであるというのが、芸能史の定説というか、通説なんですね。武智さんなどは、その通説の上に立って、「ルソン足」は室町かその辺の時代に、スペインかどこかから入ってきたと理解されたと思うのです。
しかしわたしの理解では、この舞には、弥生期や古墳期にさかのぼれるものがある。わたしはそう思っております。この問題につきまして、申しあげたいことがあります。先日用がありまして、京都の国立博物館に参りました。館長が林屋辰三郎さんで、“中世芸能史の権威”ということになっております。博物館でコピーをお願いしている間に、館長室で林屋さんと少しお話ししたのです。筑紫舞についての話ではなくて、「芸能史に関する常識として、現代に残っている(芸能は)中世か近世、古くて室町、大抵は江戸時代の半ばくらいに始まったもの、という考えがありますが、やっばりそうですか」ということをお聞きしたのです。林屋さんは「文献の人は、そういうことを言うて困るのですよ」と言われたのです。つまり文献の人は、文献に出ているものを大事にするわけですね。一つの芸能を文献でたどれるのは室町までだった。じゃあ、これは室町から始まった、こうやるわけです。また文献でたどれば、江戸時代までしかたどれない。じゃあ江戸時代に始まった、とするわけです。
しかしこれは非常に困るのですよ。これは文字に記録された段階の話でして、芸能というのは文字に基づいてするものではないですよ。だから当然、芸能はもっと古くから、ずーっと伝わってきているものだ、という考え方をとらないといけないのに、文字からいく人は、自分がみつけた一番古い文献を、芸能自身のしょっばなのものと考えて困るんです、ということを言われました。私もそういうふうに考えておりましたので、奇しくも林屋さんと考えが一致したわけです。
ということで、神楽なら神楽をとりましても、江戸時代や室町時代の人が発明して、それ以後やりだした、というものではないですね。歴史をさぐれば、かなり古くから行われていても、文字に現われてくるのは、室町か江戸のものが多いわけです。
もう一つ大事なことは、それ自身古い要素をもっていても、途中でいろいろ変化が加えられるわけです。名前がわかりやすく変えられたりして、古い要素と新しい要素が混在しているのが普通なんです。「ルソン足」は弥生や古墳時代にはないから、筑紫舞は全部もっと後世のものであり、室町以後のものだというのは、ちょっと短絡です。やはり、古い要素と新しい要素という形で、分析していくほうが実態に近いのではないか、ということであります。
質問 この絵馬の写真が西山村さんの筑紫舞となぜ言えるのか、ということをお聞きしたいのです。
古田講演でも申しましたように、この絵馬が西山村さんの筑紫舞と同じかどうかは分らないわけです。しかしわたしの理解では西山村さんの筑紫舞では重要な技法と思う「ルソン足」がここにも現われている。これが一つ。
もう一つ。西山村さんがご覧になった時、洞窟で「十三人立」、「七人立」をしたこと。二つの絵馬にも洞窟らしきものが見えるということも、動かせない共通点である。ということで両者は、無聞係のものではなさそうである。筑紫舞そのものであるかどうかわからないけれど、無関係ではなさそうであるとわたしは判断しているのですが、どうでしょうか。
日本最大の宮地嶽古墳に至る
質問 洞窟でなぜしたのでしょうか。
古田 洞窟の意味そのものは、西山村さんは聞いておられないわけです。
その洞窟についてですが、西山村さんが女学生の時ご覧になった洞窟は、現在のどの洞窟かという興味深い問題があるわけです。五、六年前、博多の西日本新聞(当時の文化部長の坂井さん)をたずねられたことがありました。その席に西山村さんが出ておられ、武智鉄二さんもおられたようです。この座談会のあと、「昭和十一年に太宰府に来て十三人立を洞窟で見た」という話をされたそうです。その時、西日本新聞の論説委員で学芸部関係の森山さんが、「それならありますよ。乗って行かれたのは馬車鉄道というものです。馬車鉄道は朝倉から太宰府までついていました。私は少年時代、朝倉におりましたので知っています。朝倉には私がよく遊びに行った洞窟がありますよ。じゃ、明日行ってみましょう」という話になって、翌朝一同で行かれたらしいのです。
そしたら現在の甘木(あまぎ)市の東の郊外にあたる柿原古墳に連れて行かれました。そこに高木神社というのがありまして、横穴石室が開きっばなしになっており、その上に小さな社が建っていて、それを本殿にした神社なのです。
「ここじゃないですか」と言われて、西山村さんも「こういう感じだった」と思われたのです。ただ行く過程で少し疑問がおありになったらしいのです。これは後で申します。「この辺は宅地開発みたいなことで、昔とはすっかり変りましたよ」と言われたので、「そうかな」ということだったのです。
最初、わたしがお聞きした時も、そのようにうかがっていたのです。しかしわたしとしましては柿原古墳では小さい。十三人も入ったら満員になるのじゃないか、という感じがありまして疑問がございました。
ところが今年の四月の終りに大逆転があったわけです。わたしは歴史学の方ですので、確認できることは確認しておかないといけないと思いまして、馬車鉄道なるものは福岡県で、いつ始まりいつ終ったのかを、博多の読者の方の永井彰子さんにお調べねがったのです。熱心に調べて下さって、西日本鉄道の社史室のようなところで担当職員の方にお聞きになって、ズバリ分ったわけです。それを四月の終りに知らせて下さったのです。
これを見てわたしはビックリしました。福岡県には三つ馬車鉄道があった。一つは北九州市の北方線、小倉の方です。一つは太宰府朝倉線。もう一つは博多の福間(箱崎のちょっと東側)から出発しまして宮地嶽神社を通って津屋崎までの津屋崎馬車鉄道。
北方線は明治にできて、大正の頃に廃止になっている。太宰府馬車鉄道は明治にできまして、大正初めに蒸気機関車、SL化して馬がいなくなった。昭和の初めに電化しているのです。結局、残った津屋崎線が昭和十四年まで存続していたわけです。西山村さんが行かれた、昭和十一年秋、柿のなっている頃、太宰府馬車鉄道はなかったということが分ったわけです。
人間の記憶というのは、確かなようで危ないところがありますね。「私は知っています。馬車鉄道が走っていました」とおっしゃったのですが、恐らく人から聞いて、お父さんか誰かから聞いておられたのでしょう。わたしより若い四十代くらいの方ですから、少年時代に走っていたというわけにいかんのです。
ビックリしましたが、答は一つしかないわけです。つまり西山村さんが乗られた馬車鉄道は、津屋崎馬車鉄道しかない、ということになってきたわけでございます。
それから馬車鉄道に乗る前に、非常にのろい汽車に乗ったということです。というのはお父さんがトイレに行くのを忘れて乗った。「しもた、便所に行くのを忘れた」とか何とか言われたら、「してきて、走らはったら間にあいますわ」と誰かが言った。それくらいのろい汽車だったそうです。
また私は馬車鉄道というものを全然知らないので、永井さんにお頼みして写真を送っていただいたのです。この馬車鉄道の説明が、西山村さんのおっしゃったとおりなのです。両側の腰のところに棚みたいなのがついておりまして、五、六人くらいしか座れない。屋根があって窓がついていた。
西山村さんのご記憶で、緋の着物を着た少年が二人、飛びついてぶらさがった。二人のうち、小さい方だと思うのだが、落ちちゃった。年上の方が自分も降りて、転んだ子を助け起こして、一緒に歩いて来た。それを窓から見ていた西山村さんが、似た年ですからかわいそうに思って、「おじさん、かわいそうやからとめて、乗せてあげたら」と御者に叫んだが、御者の人は九州弁でよく分らなかったけれど、“かまへん、放っとけ”という感じで、知らん顔してスピードを緩めず行かはった。九州の人は冷たいな、と思った、という話があるのです。
この土地の小冊子で馬車鉄道の説明にも、似たような話が出てくるのです。子供が飛びついて遊んで困ったそれが風物誌だというのが出てくるのです。
初めは単なる馬車ではないか、と思ったこともあるのですが、そうではない馬車鉄道だと分りました。
四月に九洲に参りまして、講演後、読者の方が車を運転して下さって、現地をまわったのです。結局、二つしか可能性のある洞窟はないと分りました。
一つは有名な宮地嶽古墳。奥行二十二メートルないし二十三メートルという、開口している現存の古墳としては最大の横穴式石室です。高さも私の背よりずーっと高い天井です。もう一つは、波切不動と呼ばれる横穴石室です。先ほど出ました朝倉の柿原古墳とよく似ています。
わたしは朝倉のことが頭にありましたので、波切不動の方かと思ったのです。結局、ポイントは古墳に行く道です。宮地嶽古墳へは小山になっていて登り道になるわけです。波切不動へはなだらかで平地になっているのです。
わたしの東京講演の時に、西山村さんが芸術祭参加の会の打ち合せで東京に行っておられまして、京王プラザホテルでお会いして古墳への道をお聞きしたのです。
「山道で木の根っこなどいろいろ出ていて、気持ちの悪い思いをしながら昇って行きました。」と、おっしゃられました。朝倉で、西日本新聞の森山さんにも言ったのですが、「昔はこの辺りに山もありました。今はなくなってしまったのです。という話だったのです。
これで大きい方の宮地嶽古墳だという結論を得たのです。日本最大の開口現存の横穴式石室ですから、十三人入ってもビクともしないわけでございます。
それから当時の御者の方にお会いしました。初め十一人だったのがバスが出てきて、競争に負けて四人に減らされることになった。皆やめるのがいやで、文字どおりくじをひいて四人残った。その中の二人はお亡くなりになっているが、二人はご存命でした。最初、八十の方にお会いしたけれど、あまり覚えておられなかった。最後にお訪ねした方は七十二歳で、当時は二十五歳前後で記憶を鮮明にもっておられたのです。
筑紫(ちくし)というと、われわれは福岡県全体を思いますが、宗像郡ですと、筑紫郡、太宰府のほうを言うわけです。その「筑紫から再々神楽を奉納しに来ていました」と最後の方は証言されたのです。「日向から来られた時もありました」というお話でございました。
もう一つ、北九州市の講演の後、山口さんとおっしゃる方が残られて「私は宗像に家がありました。宗像中学に入った年が、講演にありました十一年です。そして母方の実家が宮地嶽神社の前の家でございました。そこへしょっちゅう遊びに行きました。その時はいつも馬鉄に乗って行きました。母親の実家に行った時、宮地嶽神社で舞を見ました。それは洞窟の前だったように記憶しています」とおっしゃったのです。
地理的な条件と御者の人の証言と山口さんの証言を合せまして、まず宮地嶽神社の洞窟(横穴式石室)と考えるのが、少なくとも一番状況に合っているという結論になっているわけでございます。
最後に一番重要な問題にふれます。
現在、洞窟の前に拝殿を造っていますが、四、五年前にわたしが筑紫舞に関係なく行った時は、開けっぱなしでした。子供の遊び場だったらしいので、誰でも自由に使えたようです。端的に言いますとと、くぐつの人達は無料の舞台だから、仮に使ったという仮説。もう一つは、そうではなくて、“この洞窟ですること”に意義があるという解釈・仮説です。どちらとも断定はできませんけれど、今のわたしの感じから言いますと、最初の方の仮説はあまりにも現代風の仮説ではないかという気がします。後の、そこで行うことに意義があったとするほうが、よりいいのではないかという感触をもっております。
これから先は大変な問題になってくるのです。宮地嶽古墳は開口しているものでは日本最大でありということは九州最大であるということですね。森浩一さんは六世紀終りと言われ、小田富士男さんあたりは七世紀終りといわれています。まあ六世紀終りから七世紀終りの間ということになります。だからこの時期でも最大であるということでもあります。
わたしは九州王朝という概念を出しましたが、この古墳は九州王朝の主のものか、家来のものかということになります。家来のものであれば、主人が小さくて家来が大きいとなり、おかしいですのでやはり九州王朝代々の主で六世紀終りから、七世紀終りの間の誰かではないか、ということになります。
ご存じのように、ここからは国宝に指定されたものが続々出てきております。黄金製品とか、金の龍の冠、有名な三重の骨壼などです。外側が土器、次が銅器、一番内側が瑠璃(ガラス)で火葬した骨が入っているのです。ということで出色の古墳なんですね。
このような出色の古墳の事実と「ここですることに意義がある」という仮説とにたった場合、この両者に何か関係があるのか、ということです。もちろんウーンと長い時代のへだたりがありますから、あまり直結さして、短絡させて議論することは危険ですけれど、今後の課題として面白い問題があるということでございます。
心眼による舞の伝授
質問 他の地域、尾張と加賀などで筑紫舞の伝承はどうでしょうか、という点と、何でも九州王朝の真似をする近畿天皇家が、筑紫舞を真似た伝承があれば教えて欲しいという二点をお願いします。
西山村「尾張の翁」が尾張で、「加賀の翁」が加賀で伝えていたとかいうのを考えたことはございません。ただそこ(昭和十一年)に集ってきた人達は、現在住んでいるところか、その土地を代表する名前だと思うのですが、七つも地名が出てくるのに、「私のところにあります」と今まで聞いていないですので、残ってないのじゃないかと思うのですけれど。
古田 それは全くこれからの問題だと思います。現在は全く不明であるというのが、結論でございます。参考に二、三申しますと、『常陸国風土記』に杵島(きじま)舞(佐賀県)が常陸で行われているという話が出てまいります。
ただ写本に疑問がありますので、本当に杵島かどうか確言できませんけれど、普通には九州の杵島と考えられております。もう一つ、東北の方に一部似たのがあると西山村さんに聞いています。
西山村 山形で歌謡学会といいまして、学者の方々の会合がありました。それで山形に行った時、その土地の伝承で足の運びの一部に似たのがありました。
古田 山形で見てこられた稚子の舞の中で、筑紫舞と共通の要素をみて驚かれたとお聞きしたことがあります。
とにかく、各地に舞や踊りがありますが、その歴史的由来というものが全く分っていないのです。それを取りあげてゆくと、そこに何か面白いつながりが出てくる可能性があるかもしれないという感じはもっていますが、現在のところは全く分りません。近畿天皇家が真似をしたというのは、面白いご発想だと思います。講演で近畿天皇家は中国の真似をしたと申しましたが、案外、九州王朝の真似をしたのかもしれませんですね。宮廷舞楽をね。これは今後の非常に面白いテーマでございます。
質問 菊邑検校と唖者のお姫様、それにケイさんとの関係。それに盲人の菊邑検校と唖者のケイさんとで、どのようにして西山村さんにお教えになったのでしょうか。
西山村 その点は皆さん不審に思われるのです。片方は目が見えないで物が言え、片方は見えるが口がきけない、それで舞を伝えられたのかと皆さんに聞かれるのです。目が見えない人は目が見える人以上に分ることがあるのです。たとえば、名古屋の土居崎検校が私達の地(じ)をしてくれているのですが、「すみませんが、そこのところ速すぎるので、しずめてくれませんか」と申しましたら、「ああ、お姉ちゃん(西山村光寿)が下手(しもて)から出てきて、上手(かみて)まで行って、一回ずーっとまわって、中央から前へ四歩進むとこね」と、検校がおっしゃったのです。そこでこの人(光寿)が「え?」と言って、先生(検校)の前に行って、手を上げたり下げたりして、ひょっとしたら見えるのと違うかと顔を見に行ったことがあるのです。
私は菊邑検校が目が見えなくても、手さぐりしたのを見たことがないのです。机の物を取るのも、手をすべらしていって取ったのを見たことがないのです。初めからそこに置いてある時は知りませんが、誰かが「ここに置きますよ」「そうですか、ご苦労様です」と言って、サッと取るわけです。踊りもそうですね。絹ずれの音で四歩退がった五歩出たなどが、みなわかるのですね。菊邑検校だけの特技かと思っていましたが、現在でも目の見えない人で地唄をする方は、私達より勘は発達していますね。土居崎検校もどこに何を隠しても知っていましたね。「窓の外のを取ってきて下さい」と言われました。
菊邑検校は口がきけますので「サッサッサ、フンフン舞って、トトントトン飛んだら三つ出て」と口で言われるのです。それをケイさんがそのとおりにするのです。そして菊邑検校は耳で聞いていて、「ちがう」と言われたら、ケイさんは初めから、やり直されるのです。私に教える時は、口のきけないケイさんが私に見ておきなさいというふうにそばに置いておいて、自分で舞うわけです。それを私がしてるのを、見えるケイさんが見ていて、違っていると私のところまで来て、手などをパーンと叩くわけです。
ケイさんが後ろなどを向いている時、私が頭まで上げる手を肩ぐらいでやめると、菊邑検校が「これ、どうして上まで上げてくれないのですか」と言うのです。私が「見えるんですか」と聞きますと、検校は「それが見えないようで、心眼が見えないようであなたにこんなものを伝えません」と言われたのです。おかしいなあ、見えへんと言うて、ひょっとしてほんまは見えるのと違うかと思って、歩いている検校の前にヒョイと足を横から出したら、本当にひっくり返ったので、本当に見えなかったんですね。(笑)
それにこんなこともありました。夜中の二時頃、私の寝入った頃に、「昼教えたところの間が違ったので、気になって寝られない。今からすぐ起きてくれ」と言われまして、起きました。冬でして、昔のことですからネルのお腰をして寝ていたので、その上に着物を着て「ハイハイ」と検校のところへ行きましたら、「あなたは私を困らすんですか。夜中に起こしたからそんな意地悪するんですか」と言うんです。「どうしてですか」と聞きましたら、「ネルのお腰しているでしょう。そんなことでは私は困ります。羽二重を着て来て下さい」とおこるんです。絹ずれの音で分るんですね。
現在の土居崎検校も同じことを言うてます。普通の人は見えるから、音は聞きませんね。見えないから音だけを聞いているわけです。着物を着て先生の前を行ったり来たりしますね。「ああ今日はいいお召物で縮緬ですね」と言われるのですよ。
肩まで上げる腕と、胸くらいまででやめる腕でしたら、音はそんなに違わないですよ。上げた音ではなくて、それを降ろした音、風のきれ、空気の動きで、上げた腕の高さをみていたらしいのです。そういうふうに習いましたので、私にとりまして少しも不思議なことないんです。
古田 西山村さんのお話に関連してですが、福岡県に盲僧琵琶というのがあるのです。これについて書いてあるのを読みますと、同じ問題が出てくるのです。門付(かどづけ)をするので外を歩く練習をするのですが、家の格好で風の通りが違ってくるらしいのを覚えるのです。電柱がありますと、風が電柱で切れるらしいですね。それでここに電柱があると分るらしいですね。それが分らなければ商売にならないので、そういう勘が鍛え込まれていくらしいですね。
もう一つケイさんの問題で、伝令の方が「ケイさんは小さい頃美しくて、それを妬ねたまれて水銀を飲まされて唖者になった」と言っておられたと、西山村さんからお聞きしました。水銀云々は伝令の人の風聞ですから、本当かどうか知りませんが、後天的に口がきけなくなったということははっきりしています。先天的に口のきけない方は、耳も聞こえないですが、ケイさんは耳は聞こえたのですから、後天的に口がきけなくなったのは確かのようです。
それから一つ付け加えさせていただきます。宮地嶽神社といいますのは、ものすごく大きな、普通の神社を五つ六つ合せた社殿の敷地をもっているのですが、村の郷土史などを研究されている方々にお聞きしましたら、「宮地嶽神社は昔はもっと小さな祠だった。裏にある金比羅さん参りのついでに参ろうかというふうだった」といわれるのです。それが明治維新のあと、いわば“商売の神様”のような形で繁盛しているのです。毎月、月末になると商売の人が皆集って、ものすごい人です。ものすごい雑踏になって、一日(ついたち)の鐘が鳴ると同時にお祓いを受けるんです。それをしないとその月の商売が駄目になるという感じで、宮地嶽神社は大きくなってきたのです。とすると本来の“古墳を祀る祭り”はどこに行ったのか、その祭りと筑紫舞とは関係があるのか、ないのか、というような問題が今後あるわけでございます。
筑紫の国に「高木信仰」あり
質問 レジメにあります高木神社の説明をお願いいたします。
古田 これも面白い問題があります。田島八幡の筑紫舞を見ております時、天孫降臨とかいろいろするのですが、不思議な人物が登場いたします。中富(なかとみ)親王というのが、天孫降臨の真只中に出てきまして、重要な活躍をするわけです。天細女(あめのうずめ)に命令を下したりして、思兼命などと一緒に活躍するわけです。
われわれの知っている天孫降臨には、中富親王なんて出てきませんし、名前も「〜命」とは違う威じですので、非常に異様な感じがするわけです。
舞っている長老の人にお聞きしますと、「神官の祖先やという話です」というお答えでございました。百嶋さんとおっしゃる、神社に詳しい方は、中臣神道、中臣鎌足の神道と関係あるのではないか、というお話でございました。これも一つの正当的な解釈かもしれません。
わたしの友人が太宰府の後ろにいるのです。少年時代の親友で、彼に中富親王のことを話しましたら、面白いことを教えてくれました。博多の電話帳に中富姓がかなりあるそうでして、そのコピーを送ってくれました。持つべきものは友達ですね。
それを見ますと、博多には博多区を中心に九十軒くらいあるのです。また北九州市の博多寄りの方にゴソッと、博多よりは少ないですがあります。その他は激減するわけです。筑後の方にも若干あります。そういう分布があります。
つまり福岡県には、中富姓が博多を中心に分布している、という事実があるのです。これは今後の面白い課題だと思います。今のわたしにとってはっきりしているのは次の点です。その神楽を作った人、見ている人にとって、「中富親王」はよく知った人物であったに違いない。つまり中富親王はこうこういう人物です、という解説がないわけです。台本の「筑紫舞覚書」(田島八幡蔵)を読みますとね。
ということは、そのような解説ぬきにでも「中富親王」といえば分ったのですね、作った当時は。また見ている方も、「あの中富親王だ」と分ったから、説明していないのです。言い換えますと、この神楽を作った側は、年一回中富親王をPRする場であり、見ている側は、あの有名な「中富親王」は、天孫降臨の時こんなふうに活躍されたのか、と満足するわけですね。そういう意味でのPRの劇ではなかったか、と考えるわけです。
わたしは外から来た人間ですから、「中富親王」を不思議に思うだけです。現在の博多の人も不思議に思うかもしれませんが、本来は「中富親王」は演ずる側にも、見る側にも著名の人物であった、と考えるべきではないか、こう考えてみたのです。
そう考えると、わたしの年来の疑問の一つが解けてきたわけです。
『古事記』、『日本書紀』にも同じ問題があるのです。非常に重要な役割で出てきながら、全く解説ぬきの神がいるわけです。たとえば高木神ですね。ニニギノミコトの、片方は高木神系列から、片方は天照系列から、その両方の孫だという話になっていますね。そして一方の天照の方は、かなりの解説ーーいつどこで生れたとか、拗(す)ねて天岩戸に入ったとか、天照のイメージを形成するに足る神話かかなりあるわけです。一方の高木神は、どこで生れたとか、拗ねる男だったか素直な男だったか、など何の説明もないですね。
ということは、「中富親王」の例から考えますと、天孫降臨という神話を語った人達、語られた人達にとっては、説明はいらなかった。つまりその人達にとって、「高木神」という神のことを大変よく知っていて、説明すること自体がばかばかしいようなそれほど著名な神であった。だからことさらには説明していないのだという理解が成立するのではないか、とこう考えたわけです。
さて、高木神はどこの神かと言いますと、安本美典さんも統計をあげておられましたが、福岡県の神社名鑑高木神社というのを抜いてみますと、朝倉郡を中心に福岡県一帯に分布をもっているわけでございます。
ということは筑紫に高木信仰が土着の信仰として存在していた、というとです。一つ一つの神社が昔からそこにあったかという確定はなかなかむつかしいのですが、全体としてみると“筑紫の国に高木信仰あり”ということを言っても、まずさしつかえがないのではないか、といえると思います。
すると、本来は高木信仰の存在する場で語られたのが『古事記』、『日本書紀』にある天孫降臨の神話である。だから語る方は、高木神のPRのチャンスであり、聞いている方は自分達の信仰している高木神が大変重要なところで頑張っているなあと満足する仕掛けであった、というふう理解していいのではないか。そう考えますと、筑紫舞が肥後で伝承されたから、「肥後の翁」が中心になったのではないかとわたしは理解したのです。いかにも安直な勝手な考えをするものだと、お思いになったかもしれません。
しかし中富親王や記・紀の高木神の場合と同じスタイル、演劇的な領域が共通の性格をもっているのではないか。われわれはそれが作られた本来の場における効能を忘れて記・紀で読んで覚えているから、そう思わないだけであり、生きて演じられている姿というものはそういうものではないかと、いうことです。そうすると筑紫舞が肥後で伝承されて、「肥後の翁」が中心だということは何ら不思議な話ではないんではないか、というのがわたしの得た結論でございます。
(後記ーーこの後一九八二年十二月、西山村さんから“「三人立」は都の翁が中心であった”旨のご連絡があった。この新事実に立つと、「三人立」の弥生期成立、「五人立」「七人立」の装飾古墳期成立という問題が改めて浮び上ってこよう。この点、改めて詳述したい。)
地獄に落ちるのがいやだから伝える
司会 長時間、古代のロマンを具体的な舞というもので感じられたと思います。九州王朝がたんに一般的な可能性ということだけでなく、非常に具体性をもっているということを今日学ぶことができました。本日の講演と懇親会の話はテープにとってありますので、『市民の古代』五集にできるだけ反映したいと思います。西山村さんよろしいでしょうか。
西山村 えらい俗っぽい言い方で皆さんお笑いになったと思いますが、息抜きにこんな人もいてもいいのじゃないかと思います。また分らないところ、疑間に思われるところがございましたら、私の分りますかぎり古田先生にお答えいたしますので、どうぞご質問下さい。
質問 先程、まだ無形文化財として指定をうけておられないとうかがいましたが、そのへんはどうなっていますか。
西山村 県会議員の清元功章さんのお力ぞえで昭和五十五年、兵庫県と、兵庫県教育委員会主催で「筑紫振りを見る会」というタイトルで開きました。実はその前年に清元さんがご覧になりまして、「これは大変なものじゃないか」といろいろ聞かれました。「いえ、これはアウトロー的な筑紫振りというもので、私しかもってないものです。地獄に落ちるのがいやだから、娘達に教えています」と言ったことがあります。
また文化庁の先生方は「せっかくお美しい(文化庁の先生が言ったのですよ)お嬢様方に、どうしてそんなきたない踊りを習わせるのですか」と言われたのですけれど、元気な間に私が習ったものは全部伝えたいから、「きたなくなって頂戴」と子供達に教えたのできたなくなりました。(笑)
兵庫県教育委員会の方も、「困ったなあ。いいものだということは分っているが、福岡県が無形文化財の指定をするのなら、話は分るがーー。福岡県のものを兵庫県がどう認定すればいいのか。でもこれは大変なものだから、大事にして下さい。そのうちなんとか花が咲きますから」と言われました。「ええ、いいですよ」と私も申しました。
文化庁の方も、国立文化財研究所の三隈治雄先生とか皆様は、個人的にものすごく好意を持って下さるのですが、無形文化財とかなりますと、役人としての立場上徒労に終るのが恐いんですね。
古田先生のように私の話を基にして、コツコツ一つずつ調べて下さる、あるいは皆様方のようにいろいろおっしゃって下さるお暇がないのですね。もし何年間も調査して何も出て来なければ困るので、誰かが手をつけて調査なさるのではないかと見守っているのが現状ではないでしょうか。
また皆様が筑紫振りを絶やさないよう、年に一回でも見てやろうではないかという会を作って下されば、張り切って出席したいと思います。どうも有難うございました。 
 
法隆寺と九州王朝

 

筑紫舞その後
昨日、宮地嶽神社で『筑紫舞と九州王朝』の題で午前十時から十二時まで講演させていただきました。この時も地元の方始め多くの方、古代史について本を読んだことのない方にも御熱心にお聞きいただき非常に嬉しゅうございました。午後一時から「筑紫舞」の「五人立」を本殿で奉納され、私達一同で拝観したわけでございます。二十二日に私は京都から、西山村さん一行は姫路から同じ列車に乗りまして一絡に博多に着き、この講演会をお世話いただいてます橋田さん、宮地嶽神社の方の御案内で宮地嶽神社にまいりました。宮司さんに御挨拶し、本殿で神前に御挨拶いたしましてから洞窟にまいりました。これは私にとりまして恐いような期待するような一瞬だったわけです。何故かといいますと、前回の講演会でお聞きいただきましたように、私は「十三人立」が舞われた洞窟は朝倉の柿原古噴であるというふうに、西山村さんからお聞きしていたわけです。最初西日本新聞の座談会が博多で武智鉄二さんを囲んでもたれたあと、新聞社のある方が少年時代過した所に洞窟があった、馬鉄も当時通っていたようだという話で、朝倉の柿原古墳で「十三人立」が舞われたのだというふうに聞いていて、私もそう思っていたわけです。ところが博多の講演会の前に、私は馬鉄というものを全然知らないので永井彰子さん(東北大学社会学科で学ばれた、私の後輩に当る方)に調査をお願いしました。その調査によりますと馬鉄は最初福岡県は、北九州、朝倉方面、津屋崎と三つあったけれど、昭和十一年当時は津屋崎一本であったということでした。私はこの時“青くなった”わけです。ですからどの洞窟か分りませんと講演会でお話しした覚えがあります。その後津屋崎線を辿って宮地嶽古墳ではないかということになったわけです。
実は、宮地嶽の近くにはもう一つ、逆の方向ですが、手光(てぴか)古墳というのがあります。ここの前面には、もと竹林があったそうですが、宮地嶽の方にはありません。これがわたしの疑問でした。
というのは、西山村さんから竹薮を通って洞窟に行ったと聞いていたからです。私は京都桂川の西のほとりに住んでおります。家の二面が竹ばっかりの純粋の竹の林です。だから竹薮というのもそのイメージで受けとっておりましたのですが、他の木が生えている中に何本か竹があるのを竹薮といわれたのなら宮地嶽に合うのだがと思い、東京へ行っておられた西山村さんの泊っておられたホテル(新宿)でお会いしてお聞きしましたところ、「灌木があって色んな木が生えていて竹の生えているの、ですよ。」とおっしゃったわけです。その時おもわず「それなら宮地嶽古墳ですよ。」と叫んだ記憶があります。また柿原古墳は小さく十三人は入るが、それだけで満員という感じですが、宮地嶽の場合は開口されたものとして日本列島抜群の奥行きをもっております。測り方の違いで考古学者は二十一メートル、神社側は三十二〜三十三メートルといっています。高さが約三・三メートル、横が二・七メートルのすごい大きさですので、ここなら文句なしに「十三人立」が行われると考えていたのです。西山村さんに写真をお見せしたりしてここだと思いますと申しましたら、「ここだと思います。」ということになったのです。しかし御本人が見ていない内に宮地嶽神社の百年祭にぜひ「筑紫舞」を奉納して欲しいという話があって宮地嶽神社に行ったわけです。だから打ち明け話をしますと、前もって西山村さんと二人だけで見てきませんか、とわたしの方から言っていたのです。しかし私の話をお聞きになって西山村さんは「九十九パーセント宮地嶽に間違いないと思います。」とキッパリおっしゃったので、奉納舞をお引受けする段取りになったのです。
以上のようなことがありまして二十一日に宮地嶽にお連れしたのです。入口には五、六年前には無かったのですが、コンクリートで造られた拝殿ができていまして外から見たら洞窟があるとは思えないようになっていました。だから西山村さんも内心は、「これは違う。」と思われたらしいのです。ところが中に入ってみると、「アッ」というわけです。特に入口の両側の大きな岩と、中にできているかなり大きな両側の窪み(高さ一メートル、幅二メートル、奥行六十センチぐらい)を覚えておられました。人が二、三人並んで坐れるくらいの大きさの窪みが両側にある古墳は珍らしいですね。それを覚えておられ、「この窪みに菊邑検校とケイさんが坐られました。私は十代の女の子だから、というので、岩のゴツゴツのない所に坐りなさいと言われてここに坐りました。」と説明されたのです。そして入口の所の岩の不揃いもよく覚えておられました。西山村さんは「ここに間違いがありません。」とおっしゃいました。そのとき倒れそうにブルブル震えられ、思わず二回も私が西山村さんの肩を支えたほどの感動をしめされました。ということで、西山村さんにとっても、私にとってもなんとも言えない一瞬でした。翌日のわたしの講演も、また舞われる西山村さんの一行の方々にとりましても、晴々とした一日でした。これで昭和十一年の「十三人立」の舞台が宮地嶽古墳であるということは確定したわけですが、筑紫のくぐつの本拠地は何処であるかとか、それはどういう集団であるか等まだまだ不明の点が多いわけです。昨日の舞を御覧になっに方はお分りでしょうが、単に村々の踊りといったものではなく、まことに荘厳な舞であるという印象をうけます。菊邑検校は「宮中で舞われたものです。」と言われたそうですが、「宮中」とは筑紫太宰府を都とする「宮中」ですね。それが何故くぐつに伝承されたのか、(都府楼という言葉が生きて使われた八世紀以前からのものです。)現在まで千年以上延々とどのようにして伝わってきたのか、ーー奇蹟としか言いようのないものです。この辺のことは現地の皆様方の中で、これは面白い、調べてやろうという方が出て初めて明らかになりはじめるだろうと思いますので、ぜひとも皆様によろしくお願いしたいと思うわけです。
私はこの頃読者の方々のおかげを大変深くこうむっています。『「邪馬台国」はなかった』を書く時は全く一人ぼっちでした。現在も一人ぼっちであることには変りないのですが、日本列局各地に実に多くの読者の方に思いがけない御支援をいただき、重要な情報をいただき、研究が思わぬところに進展してまいりました。考えてみますと西山村さんも読者だったわけです。どうか博多の方々には特によろしくお願いしたいと思っているわけでございます。本日の主題とは別の話になりましたけれど、前置きのようにして話させていただきました。御関係の皆様には本当にあつくお礼申しあげます。
小倉駅まで会の方にお送りいただいて本当に嬉しかったと、今朝西山村さんからお電話をいただきました。 
九州王朝とその年号
咋日宮地嶽神社での講演、「筑紫舞と九州王朝」の話の時、前半に何故九州王朝ということをいうか、何故九州年号というのかということをじっくりと話しました。橋田さんはプリントを見られた時「全然古代史を知らない人にこんな話をして分りますかね。」と電話で心配されたのです。私は「資料として詳しいプリントを持っていていただきたいが、話はわかりやすく話させていただきます。」とお答えしました。というのはいきなり九州王朝がどうの、筑紫舞がどうかと話しても、聞く方は九州王朝なんて初めてですから、「九州王朝と筑紫舞は関係がある。」と言っても、九州王朝も初めて筑紫舞も初めての人は「ああそうですか、そうかもわかりませんね。」となるわけです。ところが九州王朝というものがこういうことで出てきて、こういう意味として考えないとおかしいのだというところを納得していただきますと、そういう王朝に舞があっても不思議ではないな、となるわけでございます。
今日もこれと同じでして、突然法隆寺と九州王朝の関係を言います前に、九州王朝という存在それ自身、又九州年号の実在ということを改めて確認していただくと、おのずから答の出てくる性格のものでございます。しかし今日は古代史に関して興味が深い、御造詣も深いという方々にお集まりいただいておりますので、くだくだしくお話しする必要はないと思います。今までお読みいただいた『失われた九州王朝』等を思いだしていただく意味で、核心を手短かに話させていただいた上で肝心の法隆寺の問題に触れたいと思っております。
九州王朝について私が最近書いた論文があります。「多元的古代の成立」(『史学雑誌』一九八一・七)です。三世紀から七世紀までの中国の文献を私の方法(邪馬一国を調べたのと同じ方法)で分析した場合、どうしても九州に倭国なるものが存在し、三世紀から七世紀まで中国との国交対象であり続けたと考えざるをえないということを論文の支柱にしております。それに対して中国と国交のあった倭の五王、日出づる処の天子は近畿天皇家であるという代表的論文を取りあげて一つ一つ批判していったのです。その中には東大の名誉教授の井上光貞さんの論文(お若い頃の代表的論文)がありまして、この論文の基本的な考え方は駄目なんだとのべているのです。もちろん名前も本も文章も書きましてね。又弟子にあたる佐伯有清さんの論文もハッキリ批判させていただいております。倭の五王の専門家とみられている坂元義種さんの論文で、倭の五王を近畿天皇家にするために出てくる矛盾点に対してこれを補強する論文がありますが、それもやはり駄目だと書いたのです。しかしこの論文を審査する人達は批判された人達の同僚かお弟子さんたちでしょうから、今度の掲載は駄目だろうと思っていたところ、意外にも「掲載します。」と言ってこられました。私は今回は、ことのほか嬉しく、感銘いたしました。
この論文、もしこの、渾身の力を込めた論文がボツになりっぱなしになると、困るので学術書(単行本)として出版したいと思っていたところ、駿々堂(紀伊国屋のような大きな書店で最近美術書、学術書出版に力を入れている)から話があり、今年(一九八二年)の末か来年に『多元的古代の成立』の題名の本が出る予定です。結局『史学雑誌』の方にも、少しおくれてこちらの方にも出ることになったわけです。
九州王朝論というものを文献の上から、特に中国の歴史書の分析から的確に論証したものでごぎいます。そこには書けなかったのですが、これに対して私にとって非常に重要だと思われる問題があります。九州年号の間題でございます。御承知のように『失われた九州王朝』で論じましたのですが、江戸時代には今日の邪馬台国論争のように、人気のあったのが、この年号論争だったのです。つまり天皇家の年号として我々が知っている年号以外に、いろんな年号が文書に散見して出てくるわけです。中でも一番大物というのですか、それが九州年号といわれるものであったわけです。鶴峯戊申が『襲国偽僣考』で九州年号というものがあると詳しく紹介しているわけでございます。鶴峯戊申は江戸時代後半の人ですから『九州年号』という写本を見て『襲国偽僣考』を書いたのですから、『九州年号』という題の写本が何処かにあるのではないでしょうか。鶴峯は大分の人ですし、九州年号というのですから、やはり九州にあるというのが一番可能性がありますね。だから九州の何処かに図書館か古書収蔵家の所にでも眠っているのではないでしょうか。鶴峯は「〜に有り」とか「自分が持っている。」とか書いてはいないのですから、誰かから借りて写した感じなのです。恐らく「〜所蔵」と書いていないのは、所蔵している人が名前を出されることをいろんな事情でいやがって、「本は見せるけれど私の所に有ると言わないで下さい。」とかの事情で「〜所蔵」と書いてないのだと思います。写本は一冊ではないと思います。再写本もあるでしょうしね。これを皆様方にお捜しいただければ、本当にありがたいと思うのです。
この内容が何故本物かを申します。六世紀前半、継体天皇の途中から始まって、七世紀の終りまで、年号がビッシリと詰っている。グループで隙間なく詰っているということが一つ。もう一つは天皇家の連続年号(大宝元年)が始まる年(八世紀初め)の前年が、九州年号が終る年であるということです。九州年号は六世紀前半からズーと天皇家の年号が始まるまで続いている。ということは、天皇家より早く年号を連続して作っているということです。
後の鎌倉や室町の段階で、関東の足利氏等が年号を作って使っていたのがあります。これは大事な事だと思います。関東一円でこれが現実に使われていたということです。これは年号なのです。これも調べてみると面白いと思いますよ。皆さんが年表を見られても、足利氏が作った年号で関東一円で使われた年号なんて出てこないでしょう。これはイデオロギーなんです。つまり天皇家が作った年号だけが本物であって、あとは誰が作っても贋物だ、年表に載せるような価値は無いという、こういう姿勢で年表が作られているのです。こんなのはひどいですよ。現にある権力者が年号を作って、自分の支配圏で使わせたのですから。文書に出てくるのですよ。壷に書いてあったり、石に刻んであったりするわけですよ。しかしそんなものは贋物だ、と年表には登場させていないのです。天皇家独尊のイデオロギーからは当然です。しかし歴史学は天皇家のイデオロギーに従う必要はないのです。天皇家を排斥するつもりは別にありません。天皇家の残した記録を我々が大事に扱うのは当然ですが、それ以外に年号を作った存在があれば、年表に載せてこういうのがある、と年表に載せないといけないと思います。私は歴史学の年表ならあるのが当り前だと思うのです。ところが皆さんの持っている年表のどれにだって無いでしょう。学校の教科書ももちろん無いですよ。ここのところなど、日本の歴史の教科書がかなり“歪んでいる”ところなんですよ。
今までは室町とか鎌倉の話なのですが、九州号の場合は、天皇家より早いわけです。しかもビッシリと連続しているわけです。するとこれを全く無視するというのはおかしいわけです。事実江戸時代には古代史の学者であれば、年号問題は半分は楽しみ、半分は学問的関心でやっているんですよ。ところがこれが明治以後ピタッと後を絶ったわけです。学界からも教科書からも。論争が学問的に決着がついたからでは全くなくて、専らイデオロギーの問題からです。例えば水戸学は朱子学の影響をうけて日本的にウルトラ過激派の天皇家中心の歴史学というものをたてたのです。“天皇家以外に年号のあるべき道理なし。”(道理というのはイデオロギーでして、年号があってはけしからん、いかがわしいものか贋物にきまっているから、相手にする必要なし)という、学問的意見というより、一つの思想的攻撃運動が始まったのです。この水戸学の学者が東京帝国大学の国史学科の教授になるわけです。だから初期の東京帝国大学国史科は水戸学の学者などが始めているのです。彼等は年号なんかは東京帝国大学で扱うものではないとしたわけです。そのお弟子さんが各地で同じことをするわけです。本人が意識するかしないかにかかわらず、いわゆる水戸学の有り様が、日本の明治以後の学者の有り様なのです。こういう形になって学問の世界から九州年号などは追放されたのです。
又文部省(当時は教部省)を、本居宣長の弟子、いわゆる没後の門人の平田篤胤の弟子たち(若い二十才代)がにぎるわけです。本居宣長は広い豊かな文献学者としての要素と、非常に狂信的ともいうべき愛国主義者の要素の両面がありまして、両方がミックスしているところが彼の面白味であったわけです。この狂信的なところを一番受け継いだのが平田篤胤でございます。その弟子が教部省をにぎつたのです。
明治政府というのは簡単に言ってしまえばキューバのカストロ政府みたいなものです。要するに三十をちょっと超えたらボス、政府の首相クラス、大臣クラスは二十代後半前後です。伊藤博文が県知事になっにのは二十七才前後ですね。だからやることは思い切ってやるわけです。私はそのやった仕事は敬意に値する素晴らしい仕事だと思うのです。学校を作ったり鉄道・通信をひいたり等、今までの幕府の家老級ではそこまで一遍にやれなかったのを、果敢にやっているのです。反面若いから過激な、識見のないこともしているのです。例えば廃仏毀釈。この影響は大きいですよ。調べていくと、ゾッとするほど大きな影響です。それは仏教だけではございません。神道でも平田篤胤がえがいた神道に合わない神道は皆弾圧されているのです。それで大変多くの古い由緒のある神社・伝承が亡ぼされていったのです。この頃つくづく各地で感じます。同時に教部省(文部省)では狂信的な平田神道の教科書も作られるわけです。だから明治の教科書の何処を捜しましても、天皇家の年号以外の年号は出てこないのです。
明治以後は、小学校で習った人も東京帝国大学で習った人も皆、天皇家の年号しか習っていないのです。「天皇家にあらずば、年号にあらず。」とこういう形でやられてきたわけです。大変な洗脳ですね。国家という装置が総がかりで百年近くかけた洗脳でございます。
私が思いますに「明治以後、敗戦までは仕方がない」と、あるいは言えるかもしれない。しかし敗戦後何故その続きのままで来たのだろうと私は不思議なんです。もう水戸学の亜流である必要はないのです。ですから、新しい歴史学の立場でおおいに年号論争をすればいいのに、「邪馬台国」論争のようにすればいいのに、年号諭争はスッカリ忘れきられたままだったのです。
私が鶴峯戊申『襲国偽僣考』等から年号問題を調べ始めますと、結論としてこれはどうも贋物ではない。本物だという結論に達せざるを得なかったわけです。
『失われた九州王朝』に書いたのですが、要点を幾つか挙げます。
第一点。もし後世(鎌倉か室町あたり)の坊さんが作ったのなら、つまり後世の偽作なら、何故神武天皇から作らないのか。私なら作りますよ。継体からなら一晩あれば作れますし、神武からだって三日もあれば十分作れます。それを継体の途中からというような中途半端な作り方は、私はおかしいと思います。おかしくないという説明があればして下さい。『失われた九州王朝』を出してから誰も反論してくれません。
次の点。年号は天子や天皇が変れば変わるというのが通り相場です。もちろん天子や天皇が生きている途中でも変わります。ちょっといい事があった、ちょっと、悪い事があったといって昔は変わりました。明治以後は一代一元になり、変わらないことにしましたけれど、江戸末期より前は遠慮なく変わっています。
ところが天皇が死ぬ、ということは一番悪いこと、一番不吉な例ですね。だから当然変わるわけです。先輩の中国の年号のどれを見たって、天子が死んで変わらない年号なんてないわけです。その時の状況で一年か半年遅れて改元されるケースもございますが、それはそれだけのことであって、原則として次の天子になれば、進った年号をたてるということです。ところがこの九州年号は継体以後、遠慮なく別の天皇にまたがっているわけです。偽作者が天皇の在位に全く無関心に作り続けたということになるわけです。こんな馬鹿な話はありえないと思うのです。『日本書紀』が信用できないというのは最近の話ですから、室町や鎌倉時代の人が『日本書紀』に出ている天皇の在位年と無関係に作るなんて、あるはずがないのです。
第三点。大化改新というのがあります。六四五年の大化元年は「命長(めいちょう)六年」になっております。「大化」という年号を無視して別の年号を作っているわけです。
先ほどの偽作者説は、大化改新を知らない人間が偽作をしたということになるわけです。年号を作ろうという人が大化改新を知らないなんて、私の常識ではとうてい理解できないのです。
第四点。「僧聴(五三六年)」という年号がございます。「僧聴」という年号は明らかに仏教に関係のある年号であります。恐らく“権力者が僧から仏法を聴く”、“僧侶を尊重する”ということを表現したように思われる年号でございます。これが仏教に関係があるということはどなたも否定されないと思います。
ところがこれは『日本書紀』で有名な欽明天皇の時代、百済の聖明王の仏教伝来(五五二年)より早いわけでございます。戦前は五五二年で習いましたが、戦後は奈良の仏教寺院の金石文で、もう少し早い五三八年であるとほとんどの教科書に書いてあります。両方書いているのもありますが、五三八年が本当であると先生が教えているはずでございます。この五三八年より僧聴は二年早いわけです。
年号に仏教の影響が現われるというのは、その年にすぐ年号にするというのはありえないわけです。当然仏教が入ってきてかなり普及をみて、それを権力者が、国家統治に仏教を役立てよう、という時になって初めて、僧聴という年号が登場すると考えるのが常識、たいへん自然な考え方だと思うのです。仏教が入ってきた途端に年号にするなどということは、まあありえないことです。すると五三六年より前(どのくらい前か分りませんが、かなり前)に仏教が入っていた。権力者のところにも浸透してきつつあり、ようやく年号にまで現われてきにと考えるのが自然です。欽明天皇が百済聖明王の時、仏教に接して「こんな珍しいものがあるのか」と言って、殿の中を走り回って、跳び回って喜んだと『書紀』に書いてあります。そういう記事を知らずに、百済聖明王の仏教渡来の記事を知らずに、いわゆる偽作者は年号作りに没頭していたということになる。しかも仏教関係の年号はかなり出てきます。偽作者は仏教の素養のある人でしょう、その人物が『書紀』の記事を知らず、うっかり作ってしまったなどという、こんな馬鹿げたことを私は想像できません。
以上の観点から見ますと偽作ではありえない。やはり実在した年号である。ーーこう私は結論せさるをえなかったのです。これは『失われた九州王朝』に書いたので、それは読んだことがあると思いながらお聞きいただいたと思いますが、これに対して今まで全く反論がございません。
私の一人よがりかも知れませんが、恐らくいま申しました論点については、反諭しにくいのではないでしょうか。
一人の権力者がある一定の文明圏を配下にもっていて、その権力者が年号を作って自分の勢力範囲の中で年号を使わせる。これが年号の定義といっていいと思います。とすれば九州年号が存在した(「九州年号」として伝えられています)ということは、九州に権力者が存在して、彼らは六世紀の初め頃から年号を作りだしたということがいえます。
年号を作る、というのは大変なことで、年号を作るのは天子なんです。天子が年号を作るのです。だから年号を作り始めたというのは原則的に自らを天子もしくはそれに準ずる存在として自負しはじめた、ということと、ほぼイコール(全くイコールとは言えませんが)なのです。中国では年号を作るのは当然天子なのですから。こういう大変な問題を意味しているのです。
七世紀前半に多利思北孤という男王が「日出づるところの天子」といい、自分を天子と称していた。その国には「阿蘇山あり、火起りて天に接す。」といい、阿蘇という文字を使った上、火山であることをはっきり描写しています。すなわち阿蘇山を中心領域にもった国が多利思北孤の国である。彼はみずから天子と称していた。のみならず九州というのは、中国の四書五経、後の漢書や史記に盛んにでてくる言葉でして(中国の天子が支配する直轄領域、中国本土直轄領域を九つに分けて統治した)“全天下”という意味で「九州」と名付けているわけでございます。政治的な術語でございます。古代術語でございます。九州の外が東夷・西戎・南蛮・北狄でございます。こういう仕組みになっているのです。
この島に九州とつけたのは誰か。国が九つあるから九州とつけたというのは嘘です。それなら四国と同じように九国にすればいいのです。九州とは古代東アジアのインテリなら、知らぬ者とてない、政治上の有名な術語なのです。それをつけたというのは、この島を天下(天子の統治する世界)とみなしているわけです。近畿とか畿内とかいうのは、天皇の都の周辺の地という意味で、これも中国語の真似です。これと同じ様にこの島(九州)は日出づるところの天子の直轄領である。瀬戸内海からむこうは夷蛮の地になるわけです。というような仕組みの言葉なのです。
我々の知っていることとあまりにもピックリあうのです。だから九州年号をめぐる議論を、どの学者にもして欲しいのです。古代史に関心があるという学者、研究者がありますなら、どの人にも九州年号についての意見を聞きたいわけです。九州年号が実在ということになりましたら、“日出づる処の天子”はどっちか、なんて決まりです。九州に決まりです。近畿の推古朝ではないわけです。聖徳太子などと関係はないわけです。倭の五王も決まりです。倭の五王だけ近畿の天皇家で、それからあと天子が九州に出てきたなんておかしいですからね。かねがね私が主張していますように、倭の五王も九州の王者である。それ以前の邪馬一国いわゆる「邪馬台国」も九州ですよ。九州の何処かまでは精密に言えませんが、九州の何処かだということは決まりです。
問題が非常に整備されてくるのです、ゴチャゴチャやっていなくても。ということですから、私は九州年号という問題をぜひ古代史に関心のある方に議論していただきたい、と思うわけです。
しかもこの年号は『襲国偽僣考』『如是院年代記』『麗気記私抄』、朝鮮側の正史にも準ずる、申叔舟が作った『海東諸国記』だけではなくて、日本側の文書の中にもしょっちゅう出てくるのです。熊本市に住んでおられる平野雅廣さん(非常に篤学の方)が、熊本県で江戸時代に学者が作ったものを集大成した『肥後国誌』の中に何回も何回も九州年号が出てくるのを見つけられたのです。例えば神社が何時から始まったとかいう、絶対年代を示したい時に、九州年号を使って示しているわけです。この御報告を聞いて、私も平野さんのお宅を訪れて、『肥後国誌』をお借りして帰り、必要な所を検討させていただきました。
その後、最近ですが、今日も来ておられます高山利之さんから貴重な資料をお届けいただいたわけです。それは久留米藩で作った史料でございまして『久留米史料叢書第六集』です。久留米藩が江戸時代(寛文年間)に領内の各神社等に、それぞれの由緒を書き出すようにと通達を出し、各神社等が来歴を書いた手紙、公式文書を収録したものなのです。こういうのを日本列島の各藩がしてくれていたらありがたいのですが、なかなかそうもいかないようです。この中に九州年号が次々使われているのを高山さんが発見され、それをお知らせいただいたわけです。
(御井郡東鰺坂両村)若宮大菩薩、古来より当村之氏神と致崇敬候。開元建立欽明天王之御字、貴楽弐年ニ立始申候ト承伝申候。(本山民部)
近畿天皇家でいえば欽明天皇の時に、我々が使っている年号でいえば貴楽弐年に建立されたと書かれているわけです。貴楽(九州年号)弐年は五五三年でございます。
筑後国山本郡蜷川村荒五郎大明神、・・・龍宮神知僧二年十一月廿三日ニ此界ニ上給候。(酒見次大夫、安重)
知僧は写本により違いがございまして和僧(如是院年代記、麗気記私抄)とあるのもあります。知僧二年は五六六年でございます。『肥後国誌』とか『久留米史料』を読む人は、教科書やいろんな出版社の出している年表を横に置いて読んでも読めないのです。私の『失われた九州王朝』を持ってくれば読めるのです。九州年号の年表を置かないと意味が分らないわけです。『歴史年表』として出版しているのに、これだけでは役立たない年表を平気で出しているのです。読者もおとなしいせいか、何も言わないのです。恐らく洗脳の結果でしょうね。天皇家の年号以外は何かあやしげな、インチキなものだ。そんなインチキな年号で書いてある由緒書なんかあったら恥しいとかで引きさがるのでしょう。「こんな年表はおかしい。」と出版社に言ってお咎めを受ける時代ではないのですから、言って当り前だと思うのです。そういうことで、このように実用されている年号でございます。
最近面白い情報を丸山晋司さん(大阪「古田武彦を囲む会」幹事)に教えていただきました。兵庫県神戸市(三木市との境)に丹生(たんじょう)山明要寺(みょうようじ)がございます。杜山悠さんという郷土史研究の方が『はりま風土記の旅』を書かれております。その中で明要寺は百済から来た人によって開かれたと、土地で言い伝えられているので百済の年号だろうと紹介されておられたのです。
百済の年号は今のところほとんど残っていないのです。ところが隣の新羅は年号が六世紀の半ばくらいから始まって、七世紀半ばくらいまで続いているのです。『三国史記』という朝鮮半島側の『日本書紀』にあたる中に、新羅の年号が次々書いてございます。何故七世紀の半ばで年号が終ったか言いいますと、唐に叱られるのです。白村江前夜新羅は唐に接近しますね、その時恐らく年号を書いた国書かなにかを持って行ったのでしょう。「年号を作るのは天子だけだ。お前のところは私のところに臣従を誓ってきているのに、自分で年号を作るとはなんだ。」ときつく叱られて、以後年号を作らないことにした、と書かれているのです。
『失われた九州王朝』で御紹介しましたので御存知の方もあると思いますが、十二世紀頃『三国史記』を作った学者が、著者としての意見をそこに書いているのです。「我々は中国の天子の恩恵のもとに国を維持しているのに、年号を作るというのは実にけしからんことであった。」という意見を加えているのです。後の高麗の学者が自分の昔の国新羅に対してまだ怒っているわけです。よく中国との関係が現われているわけです。
これは『失われた九州王朝』では述べなかったけれど、九州年号問題に重要なサジェッションを与えているのです。七世紀前半、近畿では推古朝、新羅では自前の年号を使用している真最中なのです。ところがその真最中に多利思北孤は、「日出づる処の天子」と言ったわけです。“中国が天子なら私も天子だ。海東の菩薩天子だ。”と言っているわけです。
多利思北孤はすぐお隣りの新羅王が年号を作っているのを知っているわけです。「王」でも年号を作っていることを知っている、それを天子と称している自分のところで年号を作らなければおかしいですよ。当然「日出づる処の天子」も年号を作っていたはずなのです。近畿の聖徳太子は大化よりズーと前、だから七世紀前半に近畿天皇家は年号を作っていないことが明らかです。この面からも推古天皇か聖徳太子が「日出づる処の天子」と言ったとするのはおかしいのです。ところが九州王朝だとすると、新羅より十四年前(九州年号は善化(記)元年が五二二、新羅年号は建元元年が五三六年。)に年号を作っているわけです。これから言っても、「日出づる処の天子」は九州王朝と考えなくては辻褄が合わないと思いました。
元にかえりまして、丸山さんは百済の年号を調べてみても、「明要」はない。ところが九州年号にはちゃんとあるんです。明要(海東諸国記では「同要」)元年(五四一年)、これではないかと手紙でおっしゃってこられたのです。私もそうでしょう、とお答えし、現地に飛んで行ったのです。
絵図がありまして、比叡山のように非常に栄えた山だったのですね。それを秀吉が三木城を取り囲んだ時に焼き払ってしまったのです。信長が比叡山を焼き払ったのはよく知られていますが、秀吉も同じことをしているのです。全山華やかに連なっていた寺院群を全部焼き払ってしまった。それ以後中心に当る本堂だけが再興されて、江戸末期まで続いていた。ところが例の明治維新で絶滅させられてしまったわけです。室町期(焼き払われる前)に座主にあたる人が、より大きくしたいと寄付(勧進)の許可を求める文書を書いているのです。この中に明要寺の来歴が書いてありまして「明要元年三月三日にこの寺が建てられた。」干支も「辛酉」と書いてありまして九州年号の明要と全く同じなんです。
丸山さんは明要という名前だけを見て、「どっかにあった、あっ九州年号にあった。九州年号ではないか。」と、こう勘を働かされたのですが、その勘はズバリ当っていたわけです。
「明要元年」というのは年号ですね。しかもその年号は千支によって九州年号の明要とピタリ当てはまりますから、間違いなく九州年号で播暦のお寺の記録が書かれている。この場合は寺の寺号に九州年号がなって、現在まで残っている。現在は廃墟の遺跡として残っていまして、何年か前に兵庫県知事が「丹生山明要寺跡」という大きな石碑を中心の所に建て、今それがあります。
きらに滋賀県にも九州年号らしいのがございます。近江国大津(三重県境近く)に鬼室集斯(『日本書紀』に百済の滅亡以後、亡命してくる話がでてきます)の墓があるわけです。六角の石の塔です。これを私は見てまいりまして、この六面にいろいろ字が彫ってあるわけです。かなりうすれていますが、この中に鬼室集斯が死んだ年として、「朱鳥三年」と書かれています。もちろん「朱鳥」は『日本書紀』にもあるわけです。天武天皇が最後の年に朱鳥という年号を作った、と書いてありまして、その年の内に天武天皇は亡くなります。つまり「朱鳥」は一年、「朱鳥元年」(六八六)しかない、ということになっているわけです。
場所が近江国だから、近畿天皇家の「朱鳥」だろう、というふうに考えやすいのですが、実は『日本書紀』には「朱鳥三年」はないのです。次の「持統元年」に移っていますから。
ところが面白いことに“天武天皇の朱鳥”にダブッて、九州年号にも朱鳥がありまして六八六年から六九五年まで続いているわけです。こちらの朱鳥は十年まであるわけです。同時代に朱鳥があるので不思議なのです。私は『失われた九州王朝』でこれを論じまして、九州王朝側の資料を近畿天皇家がここに挿入したものであろうという考え方を示しました。
同じく「白雉」も九州王朝側の年号記事を挿入させたものであろうと論じました。
年号は“時のものきし”ですから、連続して作らないと意味がないのです。だから年号をチョロチョロと断続的に作るのはおかしいのです。この点からも連続して作られる大宝以前はあやしいと『失われた九州王朝』でいったのです。あやしいと言ったのは「白雉」と「朱鳥」の二つです。
今日重大な問題を初めて申します。但し私の意見ではありません。十月三日に大阪の古田武彦を囲む会で講演会「法隆寺と九州王朝」が終ったあと、喫茶店で懇親会をしました。そこに丸山晋司さんも来られて、いろんな議論で沸いたのですが、その時「大化もおかしいんじゃないですか。」とおっしゃったのです。「えっ」「大化というのは九州年号にありますね。」そうなんです。九州年号に大化(如是院年代記、麗気記私抄)があるのです。「大化改新」が実際にあったとしたら、それより後の時代に出てくる同じ年号ということになるのです。近畿天皇家でつけたのを知らずに、同じ年号を九州王朝がつけたなんて、なんとなくしっくりしませんね。結局これは近畿天皇家側で大化元年とした、という『日本書紀』の記事自身が誤入(あるいは偽入ーー以下同じ。)ではないかというのが、丸山晋司さんのアイデアなんです。恐いですよ、これは。「これは大変な問題です。後でよく考えてみます。丸山さんがお考えになったことですから後で調べて言いますよ。」と申したのです。どんな小さなことでもそうですが、初めて思いついた人のものを、自分の意見のように言うというのは「盗用」です。おっしゃっていただいた方の名前を出す。繰り返し出すことが必要であると思っているのです。
考古学の出土物の場合も同じだと思います。最初に見つけたのが少年であろうと少女であろうと、発見者は発見者なのです。後で学者が見たら、この人が発見したものを教えてもらったと言うのが当り前です。改めて言うのが馬鹿々々しい程当り前のことです。しかし当り前に守られているかどうか知りません。
『日本書紀』の大化の年号は誤入ではないかということです。事件そのものではありません。事件そのものも誤入だという話がでるかもしれませんが、今のところ年号が誤入ではないかということです。
私も大化に気がついていたのですが、そこまで手をつけなかったのは、時間帯が違っていたからです。同じ時期に大化があるなら先ほどの朱鳥のようにおかしいです。しかし九州年号の方が前ならまだしも、後でしょう。だからこれも九州年号だと言う勇気がなかったんですよ。だから『失われた九州王朝』に書かなかったんですよ。
そこに丸山さんは素人の純粋な目で見られて、問題提起をされたんです。重要な問題ですから、ここから考えてゆかなくてはなりません。これが結論で間違いありません、というものではありませんが、こういう重大な問題提起がされていますことを、博多の皆様に御紹介して考えてもらいたいと思います。ということで前半の話はこれで終りたいと思います。 
中国側の「邪馬一国」論
後半の話に入ります前に少し報告させていただきます。今年(一九八二年)十一月二十日、東京の太平洋学会で「中国の考古学界に答えるーー王仲殊・汪向栄説への再批判」という題で二時間の講演をさせていただくことになっています。
壱岐一郎さんは以前から中国との応答が大事なことだと考えておられ、中国といろいろコンタクトをとっておられましたが、充分実現せずにきたわけです。ところが幸いなことに昨年北京の社会科学院の考古学研究所副所長の王仲殊さんが、三角縁神獣鏡に関する論文を『考古』(一九八一〜四)に発表されました。この問題について私も述べさせていただいたことがございます。
又今年に入り汪向栄さんが『邪馬台国』(中国社会科学出版社刊)という単行本を三月に出されました。そして五月にこの本の内容の一番エキスのところを集約して論文にして、社会科学院で刊行している学術雑誌『中国社会科学』(一九八二ー三)に発表されたわけです。先の単行本の方の中で私のことが出てまいります。古田武彦説というの、二回にわたってかなりのページをさいて紹介し、批判をされているわけです。これ等も早くから壱岐さんからお知らせいただき、コピーもいただいていたのです。その後全体を手に入れましたので、それに対する再批判というものを講演の形でやらせていただくことになったわけです。そしてできれば中国に講演の内容を送りたいな、と思っているわけです。あるいは論文の形として『多元的古代の成立』(一九八三・三駿々堂刊)の「跋文にかえて」として「王仲殊・汪向栄説への再批判」を書かせてもらう予定ですので、それを送らせていただくつもりです。この問題は「邪馬台国研究会」の皆様にとって一番興味のおありのところだと思いますので、講演の後御質問がございましたら、お答えさせていただくことにいたしまして、まず御報告させていただきました。
最近は学生も関心が深くて、立命館大学の学生が最近の邪馬一国論争についてというテーマと共に、最近の中国の王仲殊さん等に対する考えも聞きたいと言ってこられまして、十一月五日立命館存心館で午後一時から講演するのです。その時「題」はどうしましょうということになって「『最近の“邪馬台国”についての論争』でいいでしょう」と言ったら、「すみませんが邪馬台国ではなくて邪馬一国を使ってもいいでしょうか。」と言われまして、「ああそれは大変結構です。」とお答えしたんです。学生諸君も活発な反応を示してくださってありがたいと思っています。 
法隆寺釈迦三尊像光背銘文の史料批判
いよいよ本日の主題に入ってまいります。法隆寺につきましては明治以後だけをとりましても、たいへん多くの論文が出ております。なかんずく、法隆寺に存在する金石文等については『日本書紀』以上の第一史料として、敗戦後の史学では特に基礎的なものにされております。だから古代史学、美術史学その他に基本的なものとなっております。ある意味では津田左右吉の批判以来『日本書紀』は信用できないというのが、戦後定着しておりますので、金石文こそ信頼できるとして法隆寺その他の金石文は日本古代史の一等史料の位置を占めていると言って過言ではないと思います。
法隆寺につきまして梅原猛さんの『隠された十字架法隆寺論』がございます。興味深い本でございますが、私の立場から遠慮なく言わせてもらえば、論の基本的骨組みは従来説通り、とみているわけでございます。なぜそうみえるかは、これから一時間程お聞きいただけたら分ると思います。定説と全く同じ骨組に立ったうえで、俗っぽい言い方ですが解釈といいますか、味付けを梅原さん独特の形でされた、というのが私の読後印象でした。
私は法隆寺に対して、今までの定説とは全く違った疑問をもっていたのでございます。しかし事があまりに大きすぎて恐くて、今まで公にせずにきたのです。しかし私の頭がおかしくなっているのでなければ、こう考えざるをえないのではないかと思うので、今日皆様に報告させていただくわけでございます。
法隆寺には本尊がございます。釈迦三尊といわれるものが法隆寺の主をなす本尊であるというのは皆様御承知の通りでございます。この釈迦三尊の光背に銘が書かれてございます。かなりの長文でございます。要点をまとめますとこの文には三人の人物が出てきている。鬼前太后が法興元三十一年に死んだ。翌年法興元三十二年正月二十二日、上宮法皇が病気になった。王后と王子や諸臣等が心配して、上宮法皇と同じ背丈の釈迦像を作るのを思いたった。ところが思いたった本人といっていい王后が、心配と看病づかれからか、病気になって、旦那さんにあたる上宮法皇より前に二月二十一日になくなった。その翌日、后に亡くなられてガックリきたのか上宮法皇が死んだ。三人がつぎつぎと死んだ。後に残ったのは王子や諸臣でしょうね。そこで王后が生きている時願っていた釈迦像を中心とする両側の侠侍(わきじ)、つまり釈迦三尊像を造ろうということになって、翌年(法興とは書いてないので、法興ではなくなったんでしょう)癸未年三月にこの三尊像を造った。造ったのは司馬鞍首止利仏師であると書いてある。
私以外の人すべて(すべてでない例があればぜひ教えて欲しいのです)が、これは聖徳太子が亡くなった時のことであると考えられ、教科書などにも書かれているわけです。この上宮法皇が聖徳太子であるというわけです。鬼前太后が間人皇后(はしひとのおおきさき)である。間人皇后には残念ながら鬼前太后なんて名前が無いのです。『日本書紀』その他を見ましても全く無いのです。絶無なのだが、ともあれ間人皇后ということです。
王后の名前は干食王后とありますが、聖徳太子の后にはこの名前の人はいないのです。しかし何人かいる后の一人である膳夫人(かしわでのきさき)のことであろう。干食を「かしはで」とは読みにくいけれど、そう読んだのだろう、というふうに従来考えられてきたわけです。
多くの学者が色々苦心してなんとかつじつまを合わせようとしたのですが、うまく合わないので別案がでました。十二月で切らないで「・・・十二月鬼前。」で切るのです。文章としておかしいけれど、「太后」が死んだことにする。これなら誰でもいいわけですから。同様に干食王后も「・・・干食。」で切る。「弗[余/心]干食」として、食べ物も上手く食べられなかったことにする。王后だけなら誰でもいいわけですから。というふうにした人があるのです。
[余/心]は、余の下に心です。
これは、理論的には一応成り立ち得るのです。武寧王の墓誌には、武寧王は『日本書紀』の中の『百済新撰』の「斯麻」と同じ字で書かれていたのです。しかし后は名前が無いのです。書いてあるとたすかるのですがね。「百済国王大(太か)妃」とあるだけなのです。考えてみると武寧王のことははっきりと書いてあるのですから、「寧東大将軍百済斯麻王」と特定された人の后ですから一人に決まっている。だから「大(太)妃」でいいわけです。
現在も手紙等で旦那様の名前を書いて、あと「奥様」としますね。奥さんの名前を知らない、というのはよくありますね。しかし旦那さんの名前をはっきり書いているのだから、奥様と書けばそれだけで分りますね。なにか男性優位みたいな変な習慣ですね。その良し悪しは別として、ともかく上宮法皇がはっきりしていれば、「太后」「王后」でいいわけです。しかし聖徳太子みたいにたくさん后がいたりすると困るのですがね。后が一人にはっきり決まっていないと、このやり方はあまり上手く適用できないのですが、ともあれ、その手もある、ということですね。
しかし文章としては成立しないですよ。文章として成立しなくってよろしいというなら、いける、ということです。しかし「上宮法皇」があるから聖徳太子としていいだろうというのが、皆のよりどころなんです。ここで注意いただきたいのは「上宮」は普通名詞であるということです。宮殿が二つありましたら上宮、下宮になるわけです。三っありましたら上宮、中宮、下宮になるわけです。当り前のことですね。だから昔から上宮に住んだ人はたくさんいるわけです。しかし上宮太子というのは聖徳太子だというのが有名ですから、そんな風に思うだけのことです。例えば関白です。関白になった人は大勢いますね。しかしただ関白とだけ言えば秀吉だろう。特に大阪の人などは絶対にそうですね。これは慣例の問題でして、文書を読む時出てくる関白を全部秀吉として読んでいると、えらいことになります。当然のことです。上宮の場合も同じ性格のものだと思います。客観的な話としてとらえていただきたいと思います。だから上宮自身には特定力はないということです。可能性はあっても特定力はないということです。
問題は法皇なのです。法皇の法はおそらく仏法の法ですね。皇は天皇の皇、皇帝の皇ですね。はっきりいいますと天子を指すものなのです。つまり王子には「〜皇」とはつかわないのです。王子というのを皇子と書いたのがありますね。あれは「皇の子」なんです。「皇」は天皇であって、本人が「皇」ではないのです。これも考えてみれば当り前のことです。天皇の位に就いてない、最高権力に就いてない人間を皇と呼ばないのがルールです。『日本書紀』でも聖徳太子を「皇」と呼んだ例は一例もございません。『日本書紀』だけの特色ではなくて、中国の歴史書のすべてがそうなのです。
そうしますとこの「法皇」は本当に聖徳太子なのかという疑間が浮かんでくるわけでございます。そのうえにこの上宮法皇の死んだ年月日、法興三十二年二月二十二日、千支でいいますと歳次辛巳の翌年です。推古三十年になるわけでございます。だからこの上宮法皇は推古朝にあてはめると推古三十年の二月二十二日死んだと書かれているわけです。
聖徳太子は『日本書紀』では何時死んだと書かれているか。「推古二十九年春二月己丑朔癸巳」つまり推古二十九年二月五日に死んだと書かれているのです。
つまり釈迦三尊の上宮法皇と聖徳太子は死んだ年と日が違うわけです。月だけが同じ二月なのです。皆さんどうでしょう。二つの記事がありまして、死んだ年が違う、死んだ日が違う、死んだ月だけが一緒である。だから同一人物の記事だと言えますかね。そんなことをしたら、大抵の人が同じになって同一人物がふえて困ってしまいますよ。月が同じだけで同一人物だとする道理は私にはまず考えられないわけでございます。月だけ同じで、年日が違う人物があれば両者は別人とするしか、私のように単純な頭の持主には他に考えようがない話です。
では従来はどう考えてきたかを申します。従来といいましても戦前は『日本書紀』が正しいと教科書等にはあったと思いますね。学者の世界は別ですがね。戦後は津田史学の洗礼を受けましたので、釈迦三尊の方が本当である。つまり聖徳太子の死んだ正しい年月日は推古三十年二月二十二日であると戦後史学の教科書ではなっているはずでございます。『日本書紀』は嘘をついたか、知らないで出鱈目を書いた、あるいはおだやかにいえば「異伝」である、という処置になるわけです。
しかし私は『日本書紀』が信用できないといいましても事によりけりだと思われるのです。神武のところや、仁徳の説話がおかしいと言うなら、耳を傾ける値打ちは当然あるわけでございましょう。しかし聖徳太子といえば『日本書紀』が成立したときからさかのぼって、百年経つか、経たないかの時の人ですよ。聖徳太子は七世紀前半の人、『日本書紀』の成立は八世紀の初めでございます。百年たっていないのです。しかも聖徳太子は『日本書紀』の中で、天皇を除けばナンバー1の人気者といいますか、筆をついやして特筆大書していることは、『日本書紀』をお読みになった皆様はお分りだと思います。端々の少しだけ書かれている人が間違われているのなら、まだ話は分りますが、これだけの重要人物、天皇を除けば他に例をみない重要人物、しかも最近の重要人物、その死んだ年月日を間進うなんてことがあるでしょうか。『日本書紀』がうっかりした慌て者の歴史家が、チョコチョコと書いた覚え書であれば、死んだ年月日を間違うことはありうると思います。しかし、『日本書紀』は舎人親王を中心としました当時の学者、貴族のフルメンバーで編纂した正史でございます。そのフルメンバー全員がついこの間の聖徳太子の死んだ年月日を忘れて、“大嘘”を書いてしまったという想定は私のような単純な人間には納得できないのです。そんなことがあろうとは思えないのです。
今から明治の初めよりもっと近い話なのです。明治から百年経ちましたよ。それよりもっと近い時代の事で、普通の皇太子よりズーと重要な、皆に注目され、あがめられている人物の死亡年月日を間違って書く、そういう想定をするなんて、言葉は悪いですが“正気の沙汰”とは思えないのです。
そうしますと『日本書紀』の史料は間違っているものとはみえない。死亡年月日を変えにから、聖徳太子に有利になる、天皇家が得をするということが全くないのです。私は“利害のフィルター”によって『日本書紀』は書かれた。天皇家内郎の史官によって、天皇家の為に、天皇家の支配下のインテリ、民衆に見せる為に書かれた本であるというのが『日本書紀』を考える上で基本的な問題だと思っています。だからそういうフィルターがかかっていると考えて読まなくてはいけない。客観的な史学の上に立とうとするならば、天皇家に有利に書いてある場合、有利な形に書いた可能性を考慮しなければいけないという、問題が出てくるのは碓かだと思うのです。
しかし有利であろうが不利であろうが、なんせ出鱗目を書いたりするのですというのは、ちょっとひどすぎるのではないでしょうか。
次に、私はこれは!と気がついた問題があるのです。もしこの上宮法皇が聖徳太子だとすると大変重要な人物が書かれていないわけです。お分りですか、一番重要な人物、推古天皇の影も形もここに現われていない。こんなことってあるでしょうかね。天皇家の中で造っているのですよ。聖徳太子が生きていても推古天皇はナンバー1ですよ。聖徳太子が亡くなったら、推古天皇の双肩にかかるものは一段と増しているわけです。この推古天皇のことを、「まあいいじゃありませんか。カットしましょう。」と言える人がいるでしょうか。言って通るでしょうか。言う必要が誰にどうしてあるんでしょうか。私にはこんなことは全く想像できない。この一点を考えてみるだけでも、今までの人が聖徳太子と疑わずにきたのが分りませんね。狐につままれたような気になったのですが、私の言うとはオーバーでしょうか。推古天皇なき推古朝のど真中でこういうものを造ったとは、とうてい信じられないという、結論に迷わざるをえなかったのです。
その他、やればやるだけ幾つも問題が出てきました。
例えば「王后」です。これは当然ながら中国語です。辞書をおひきになると「王后」の意味がでてまいりますが、“天子の妻”でございます。周王朝におきましては、天子のことを「皇」とか「帝」とかを使いませんで、専ら「○○王」と呼んだわけです。前代の殷は「帝」を使っていたのですが周は一新しまして「王」を使ったわけです。だから周代にできた単語は、天子のことを「王」と呼ぶ単語になっているわけです。
例をあげましょう。「王道」です。後世の話ですが天子の配下に「○○王」「○○王」という諸侯があるとします。それでも諸侯のそれぞれのやり方を皆「王道」なんて言いはしないのです。「王道」というのは“天子の道”なんです。覇道に対して天子のとる道が「王道」なのだというところからできた熟語でございます。要するに周代に成立した熟語は天子を「王」としているということです。周代にできた熟語は多いです。論語も周代にできています。「王后」も周代にできた言葉ですから“天子の后”をさします。後世の「王」が沢山できた時代でも、“王の奥さん”なら皆「王后」と呼べるものではないのです。唯一人なのです。
すると「法皇」は最大の権力者だから一人、天子の后(名前は「干食王后」だか、ただの「王后」だか分りませんが)も一人。こういう仕組みになっています。この光背銘は漢文です。和風漢文ではなく見事な漢文で書かれています。
これを先入観なく見つめてみますと、この中の中心人物は明らかに「上宮法皇」一人です。中心人物のお母さんが「鬼前太后」、奥さんが「干食王后」だか、ただの「王后」なんです。こういう配置になるのです。その他に次の世代の王子や家来がいるだけです。こういう見取図になっている。そして先頭に年号がある。ということはこの年号は上宮法皇という最高権力者が作った年号であるという仕組みの文章なのです。先入観や、あれこれにくっつけようと思わず、文章そのものを読めば、そうなっているのです。
ところで前半の問題と関連してまいりますが、天皇家には「法興」という年号はございません。
年号についてよく“私年号”ということが言われます。『失われた九州王朝』で述べたので、御存知と思いますが、“私年号”は奇妙な言葉でございます。つまり実際に作られ、使われた年号であっても、天皇家が作って『日本書紀』等に載せている年号だけが“公年号”本物の年号である、それ以外は“私年号”である。だから後世の“偽物”とは言わないのです。“偽物”と言うど光背銘全部が偽物になり困りますから、鎌倉時代の偽物等とは言わないわけですよ。年号は先程も言いましたように、一人の人が勝手に作って、日記か何かに使っていたのが流布するなどという道理はございません、そんなものではございません。しかもこれは天皇家のお膝元でしょう。聖徳太子はナンバー2、ウルトラナンバー2です。その人が亡くなった直後に作った、そこで作られたものに使っている年号を“私年号”なんて言っては何のことかわからないですね。
つまり“私年号”の論理性というのは『失われた九州王朝』で述べましたように、天皇家の年号だけが公的年号で、他の権力中心で作られた年号が実在しても“私年号”だということです。本人がひそかに使っていただけのもので本物ではない、遠慮せよという意味の言葉が“私年号”なのです。
この場合その“私年号”が天皇家の真ただ中、一番中心部で使われているのですから、それを“私年号”といったのでは、言葉だけ当てておけばいい、実体までは聞かないでくれと、辛辣かもしれませんが私にはそう思われるのです。
それから一つ解決しておかなくてはならない問題があります。それは「法興元」の「元」です。私はこれは何だろうかなと思っていましたが、解決がつきました。中国の年号は漢代に始まるのですけれど、始元とか中元とか後元とか「元」がついているのです。二字の形になっています。それをつけて年表にしてあります。中国の年号表にもつけて書いてあります。しかし実際は、あれは年号ではございませんで“元”は元号の“元”で、元号ですよというサイン、シンボルなのです。だから「後元〜年」とあれば、「後〜年」というのが本来なのです。「後〜年」だけでは、皆に馴染みがない、知らないので、元号ですよという意味で「後元〜年」と書いたものです。最初の頃は「〜元」というのが、やたらに並んでおります。この「元」なのです。
法興は元号ですよ、という意味の法興元三十一年。これでこの問題は解決がついたと考えました。
法興が天皇家内部で、私年号かなんだか知らないが使われたとしますと、もう一つおかしいことがあります。
法興三十一年の干支が書いてあります。法興元年が計算できるわけです。計算しますと崇峻の四年になるわけです。とすると崇峻天皇の時に、法興元年が作られたということになるわけです。そしてその翌年十一月に崇峻天皇が亡くなります。しかし法興は変わらず延々と使い続けられて三十一年になった。こういうことになるわけです。
年号をつけるということは、中国の真似をして作っているのに決まっているでしょう。“年号というものは、「天子が死んだら改めるものだ」なんて、そこまでは知りませんでした。ただ年号を作ればいい、と思っていました。”などというのは、ちょっとありうる話ではないと思うのです。
しかも崇峻天皇はただの死に方ではないですね。馬子に殺されたんですね。日本の天皇の歴史の中では極めて稀な例の一つでございます。殺された、葬りさられた天皇なんです。不吉なことといったら、これだけ不吉なことはないわけです。これをそんな不吉なことは関係ございませんといって使い続けるなんていうことがあるでしょうか。私には考えられないのです。このことからも法興という年号は、天皇家の中で作られ使われた年号とは、とうてい思えないと私は考えるわけでございます。
さてそれなら法興という年号は何処にあるのかという前に、確認しておきたいのは、この釈迦三尊という仏像は、法興という年号が使われていた文明圏の中心(上宮法皇の王朝)で造られた、という答が今までの検証から出てくるわけです。
じゃあ法興という年号が使われていた所は実際にあるのかと聞きますと、あるわけでございます。『襲国偽僣考』に出てまいります。
初め私は感違いをしておりまして、「喜楽ー端正ー始尖ー始大ー法興」が、「従貴」(海東諸国記)のあとに続くと思っていました。すると釈迦三尊と年代が合わないわけです。
その後フッと気がつきました。初めから八つ日に「兄弟」という年号があります。海東諸国記も如是院年代も麓気記私抄も襲国偽僣考も皆「兄弟」でございます。これは兄弟が同じく権力者であって、互に手を取り合って仲良く統治しているのを記念した年号、としかちょっと思えない。他にうまい解釈がみつからない。一番自然な解釈がそういう解釈でしょうね。
この兄弟の後、年号が二つに分れて、二系列並列して年号が使われ、先程の「従貴」あたりまでに至った。こう理解しますと非常によく分ります。この場合年号の数が同一である必要はないわけです。片方の年号は何かめでたい事で止めた等があったからといって、もう片方が同じように止める必要はないですから。又「兄弟」の後すぐ二つに別れたのか、しばらくして分れたのか、それは分らないのですから、とに角「兄弟元年」以後二つに分れ、「従貴」くらいまで二系列並列して続いていた。その後は又一系列に戻ったという形で理解するのが一番自然であるということに気がついたわけでございます。
イ妥*(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。
それでは兄弟が相伴って、権力を分与しながら共同統治しているというようなことが何処かにあるだろうか、といいますと『隋書イ妥(たい)国伝』の「日出づる処の天子」の記事でございます。西暦六〇〇年、多利思北孤が隋の文帝(煬帝の前代)に使いを送った。その使いの言うのには“我国では天を兄とし、日を弟としている。”そして兄の方が多利思北孤なんです。“天がまだ明けない時には多利思北孤が統治(か宗教的儀式かしれません)をやる。日出るとこれを停め、わたしの弟に委ねる”こういうふうに支配をしていますと多利思北孤の使いが言った。すると文帝が「此れ大いに義理なし(それは道理に合わない)是において訓(おし)へて之を改めしむ(それはやめろ。)」と言った。やめろと言われて「はいやめます。」と言ったかどうかは書いていない。隋書はただ「改めしむ」つまり指導した、と断定して書いているだけです。ということはこの多利思北孤の国は「兄弟統治」という、非常に特異な政治形態をとっていたという証言が、ほとんど同時代(七世紀前半)の史書に記されているわけでございます。
この所は従来の学者にとって、難問だったのです。推古朝の推古天皇は女ですから、「兄弟」になりようがないのです。聖徳太子に弟がいて、弟と一結に政治を行った、なんて話は聞きませんしね。どうにも説明がつきかねて、要するに分らないとにげていたのです。
ところが先程から論じてきましたように九州年号が実在としますと、まさにドンピシャリ「兄弟統治」なのですね。「日出づる処の天子」に多利思北孤、やはり聖徳太子ではなくて九州王朝の王なのです。
しかも多利思北孤が中国からの使者斐世清に会う時、「結跏趺坐」しているのです。仏像で有名な「結跏趺坐」です。男は「結跏趺坐」、女は「半跏扶坐」。「結跏趺坐」だから男ですよ。推古天皇なら「半跏扶坐」です。これを岩波文庫は「あぐら」とかなをふっているのですよ。私はだから初め“だらしない野蛮人”と思って読んでいた記憶がございます。これは仏法の正式な坐り方、つまり修業の形式であるわけです。「あぐら」なんて、とんでもないことです。これによってみても、多利思北孤が“仏法を厚く奉ずる天子”をもって自認していたことが分ります。また多利思北孤の使者が隋に行って煬帝に言っている言葉があります。「我聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと、(私が聞くところによると、あなたは海の西にあたる菩薩天子であるそうだ。重ねてあなたは仏法を輿していると私は聞いた。)」多利思北孤は「日出づる処の天子」と言って、煬帝を「日没する処の天子」と言っているのです。相手を「海西の菩薩天子」と言っているというのは、自分の方は「海東の菩薩天子」である、という自負が前提になっているわけです。恐らく実際に使者は「海東の菩薩天子」という形で言っているかも知れませんね。もちろん言おうと言うまいと、話の文脈はそうです。
自分は「海東の菩薩天子」である。「結跏趺坐。」しかも「天子」を称している。
「重興二仏法一。」この「重」を辞書で調べてみますと、中国語では“二回目に深い”“二回目に濃い”というときは「重」を使うのです。ということは第一回に仏法を興した者がいるわけです。誰か、自分なのです。「私は海東の菩薩天子として、海東において仏法を興した。聞くところによると、あなたも、私に相次いで仏法を重ねて興している、と聞く。」大変な意気込みというか自信ですね。
ところがこの「仏法を興す」を熟語にしてみるとどうなりますか。「法興」なんです。仏法を興した権力者が作った年号だから「法興」です。「私は仏法を興した。」
ところが「あなたも仏法を興した。これはいいじゃないか。感心だ。」と言っているわけです。するといよいよもって多利思北孤が九州年号で「法興」を使っていた。弟の方が「従貴」もしくは「告貴」の年号を使っていた、ということになってきます。
しかも恐いような一致があります。この銘文では「法興三十二年」まで書いてあります。次の年は三十三年とはぶいてなくていきなり「癸未年」となっています、ということは「法興」は止(や)まったということなのです。「法興三十二年」にあたるところで弟の方の年号が変っているわけです。それまでの「倭京」が「仁王」にかわっています。この「仁王元年、癸未」があの「釈迦三尊像」が作られた年です。兄さん(多利思北孤)といっても、ウルトラワンマンみたいな感じの人物が死んだ翌年に、弟の方の年号も変った。不吉な事があったので改元。これはピシャリと合います。そしてこれ以後「兄弟年号」は出てこないわけです。
年号を二つ作るというのは、ウルトラワンマンの(あるいは先代からの)かなり変ったアイデアだったわけで、中国側におかしいと言われているが、彼は聞こうとしなかった。それが死んだ。中国に言われなくても、内部でも二重年号なんておかしいので、彼の死以後は無くなった。ということで上宮法皇が死んで「釈迦三尊像」ができたという年と、年号が変った、兄弟年号が無くなった、という年とピシャッと合っているわけです。
以上のようなことでこの「釈迦三尊像」はどうも九州王朝の中で作られた、それは意外にも「日出づる処の天子」といったあの多利思北孤のことである可能性が大へん強い。もう一度申しますと、多利思北孤は自分で「天子」といっている。「菩薩天子」「結跏趺坐」「仏教天子」です。
ぞれなら「法興」はドンピシャリの表現なのです。私は恐いような結論、しかしあくまでも論理的に導かれてここに至ったわけです。言いたい事は多くありますが、ここでいったん話を終りまして次の問題にいきます。 
法隆寺再建論争と釈迦三尊像の来歴
これから話す問題が、私が最初にぶつかった間題です。法隆寺に関しまして、有名な法隆寺再建論争と申すものがあることは、皆様御承知のとおりでございます。戦前に喜田貞吉氏が再建説をとなえました。『日本書紀』の持統紀に「夜半に火が出て法隆寺が焼けた。一屋余すなし。」こういう文章がでてまいります。“だから現在の法隆寺は焼けた後に建てられた”これだけのことなのです。熾烈な論争があったのですが、ポイントはこれです。反対者は建築家、美術史家等多数でありまして、非再建であるという最大の論拠は、現物の法隆寺を調べてみると飛鳥様式である。天平や奈良様式ではない。これが第一の理由です。
もう一つ、屈強の根強い証拠と考えられましたのは、現在の法隆寺を測ってみると高麗尺で割りきれる。もし天平や奈良以後の再建であるならば、当然唐尺によっていなければならない。今の法隆寺は唐尺で測ると余りが出て割りきれない。高麗尺でできているということは、飛鳥時代にできていなければ話が合わない。物差しの問題だから、法隆寺を主観的に見てどうこうという話ではない。従って説得力があったわけです。
ところが敗戦直前から直後にかけて、石田茂作さんを団長に発掘が行われ、現在の法隆寺の下から、前の法隆寺(若草伽藍)が出てきたのです。だから現在は学問的に再建説が正しいとなっているわけです。
最近法隆寺に行きましたら、解説員の方がいまして、外国人や修学旅行の人が来ていましたけれど、非再建説で「今から一三七五年前に建てられたものです。」と言っていました。まだここには再建説は採用されていない、と思いました。まあこれは観光的な問題、いわばお寺の政策的なことでありまして、学問上は再建説に確定しているわけです。
しかし私は本当は、この再建説はまだ終結をみていないと思っているわけでございます。真の終結はまだであると思うわけです。『日本書紀』のあの文章を、私以外のほとんどの人は次のように解釈していると思うのです。“法隆寺は焼けた。「一屋余すなし」だ。ただし本尊は無事。”と解釈するのです。どの学者も、論文では何処にもそうは書いていないのですよ。しかし私以外の人はそう解釈している、としか、わたしにはみえない。この釈迦三尊が聖徳太子のことを言っていて、太子の死んだ翌年に造られて、それを飛鳥時代から本尊としている、と解釈しているとしかみえないのです。誰もそう言わないだけで、建物は焼けたが本尊は無事だ、そう解釈しているのです。
尤も再建後に持ってこられたと言う人もあります。上原和さんが『斑鳩の白い道のうえにーー聖徳太子論』から持ってこられたんだろうと、特別に論証はないのですが、書いておられます。“焼けたので再建の時に橘寺から持ってきたのだろう、最初からの本尊ではない。”と言っておられるものと解釈したのです。私はこれは“焼けたあと、来た”という点では正しいと思います。
私の国語のセンス、日本語の感覚では、法隆寺が焼けて、馬小屋が一つ残った、ゴミ箱が一つ残ったという時、「一屋余すなし、但し馬屋は無事。」なんて、正史には書きません。正史なんですから書く方がおかしいですよ。しかし話が本尊となれば、違うと思うのです。本尊は寺の生命だと私は思うのです。誰でも皆そう思いますよ。本尊以外は皆“付属品”です。いかに立派な三重塔、五重塔であっても金堂に講堂やたとえ国宝級の宝物がぎっしり詰っていても、あくまで付属品、あくまでプラスαです。何の付属品か?本尊の付属品です。こう答えても誰も反対できないと思います。間違いとは言えないと思います。
としますと、私の日本語の感覚からしますと、もし本尊が無事なら、「一屋余すなし。幸いなるかな、木尊は無事。」そう書くのが、普通の日本語だと思うのです。本尊が無事なのに、そんなこと問題ではない。「一屋余すなし」だけでいいなんて文章は私には書けません。喜田貞吉があの文草を読んで、焼けたと書いてあるから、焼けたんだ、と言うのが、いわば論拠の総てだったのです。そしてそれが正しかったのです。他の人は『日本書紀』が書きもらしたとか、その記事はあてにならないとか言っていたのですが、それは間違いだった。
後日談ですが、飛烏様式、高麗尺はどうなったかと言いますと、若草伽藍の発掘後すぐ、再建するとき元(もと)の様式、高麗尺で作ったのだと、話が決まってしまったのです。岡目八目の私から見ればそんな可能性くらい、初めから考えていいのに、と思うのです。私の理解は喜田貞吉の立場と同じく、あの文章は「本尊を初め、一屋余すなし」という文章にしかみえない。本尊は焼けたわけです。だから本尊は後から持ってこられたものではないか、そういう疑問が私に生じたわけです。その疑問を出発点とした研究をすすめてゆく中で、先にのべた、釈迦三尊像は「法興」という作号を使った文明囲の中枢で造られたもの、という結論になってきたのです。この点になると上原和さんのでは駄目なんです。橘寺では「法興」の出てくるいわれはないのです。聖徳太子とする点では今までと同一なのです。
これに関連して私は非常に興味深い体験をしたことがございます。
京都の妙心寺の鐘(観世音寺の鐘と並んで日本最古の鐘として教科書にも載っている)を、『ここに古代王朝ありき』で扱いました。この鐘は銘文がありまして、造った場所が書いてあります。「糟屋評」で造ったと書かれてあります。糟屋というのは皆様御承知の博多の東隣りでございます。日本最古の鐘が博多の東隣りと、南隣りといいますか観世音寺で造られて、あるいは使われているわけでございます。
最古の鐘だけを造って、野原に置いといたということではなくて、当然“寺があるから鐘を造った。”と想像するのは、「必然の想像」だと思うのです。とすると、最古の鐘だけあって最古の寺だけあって、最古の本尊が無い、そんな寺を作った、というのはおかしいですよ。当然本尊はあったでしょう。ということは最古の本尊をもつ最古の寺が、博多近辺に存在した、ということを意味しているのです。そして従来の欽明天皇の仏教伝来、或いはそれよりやや早いとは称しながらも、いつも近畿中心に考えてきた仏教史というものは、根本的におかしいのではないかという間題提起が出てきたわけです。
つまり九州王朝で近畿天皇家より早く、仏教が公伝していて当然だということになるわけです。公伝は欽明天皇の時だが、私伝はもっと早いのだと、学者や教科書は使うのです。これも考えてみればおかしいのですよ。やはり天皇家だけが「公」であって、他はどのような権力者であれ、何であれ皆「私」である。これは江戸時代の水戸学です。天皇家のみが「公」である、という大義名分論を根本として水戸学はできているわけです。
だから“私伝”“公伝”の評価はきておくとしても、何処に伝わってきたのかが問題なのです。九州の方が近畿より中国、朝鮮半島に近いのです。すると仏教が近畿に入るより前に、九州に入るのは当り前のことなのです。飛び越して近畿に入ったら、おかしいのです。まして九州王朝が存在すれば、そこに入って当然なのです。
以上のことを『ここに古代王朝ありき』で述べたわけですが、この時うっかりとした一文を書いたわけです。京都の妙心寺の鐘には糟屋評で造られたと書かれている。この鐘は糟屋から天皇家に献上され、その天皇家から何時代かに妙心寺へと奉納されたのだろうと、書いたのです。何故そう思ったかと言いますと、“磐井の反乱”(私は最近「継体の反乱」と書いています)以来、糟屋は天皇家の直轄領(もしくは収納権利地)になっていた。これは事実です。この糟屋で造られた鐘だから、当然天皇家に献上され、天皇家と妙心寺は関係があるから、奉納されたと想像で類推したのです。それを(つけ足しながら)書いてしまったのです。
書いた後、気になりまして、妙心寺の鐘をもう一度くわしく見ようと、紹介状を持って行ったのです。長老の方とお会いしますと、長老の方が私の名刺を見て「あんた古田か。わしも古田だ。お前さん何処の古田だ。わしは岐阜の古田だ、今『古田家物語』を書いたところだ。」とえらく調子がよい。それから国宝の鐘を拝見したのです。帰りに庫裏(くり)ですか塔頭(たっちゅう)ですかに寄りまして、聞きたいことを聞いたわけです。
「あの鐘は何時天皇家から奉納されたのでしょう。」
「ああ、あれは買うたんじゃ。」
「えっ」
「大八車に乗せて、寺の門の前に引いてきたのを呼び止めて買うたんだ。買うた住職の名前も分っとる。買うた金も分っとる。安いもんじゃ。」
私は唖然としました。愕然としました。しかしこれは内部では何の隠れもないことだったんです。私はその時、物事は、知識は、足で確かめ確かめしなくてはいけない。類推でこうであろうと、自分の知ったかぶりの知識を基にして行動してはいけないと、本当に思い知らされました。これが第一です。
二番目にいきます。私が考えましたように天皇家から奉納されたのであれば、絶対に観光案内であれ、教科書であれ、書くわけですよ。ところが何も書いてない。ということは天皇から奉納されたのなら、他のことはきておいて、これだけは、寺としては忘れてもらっては困る、と特筆してP・Rするはずなのです。それが一切無いということは、天皇家からの奉納はもちろん、あんまり表だってPRする程の“手に入れ方”ではないのだということを逆に意味していたんですね。この当然の道理を私の独断的な頭の為に見逃していたわけです。
ということを考えてみますと、これは妙心寺だけの問題ではないのではないでしょうか。例えば法隆寺の仏像が橘寺から来たということなら、別に隠すことはないですね。何も恥しい事とちがいますね。「〜天皇からの下賜か奉納」でも、絶対書くわけです。法隆寺再建後に何処かから来た仏像としか思えないのに、全然書いてないでしょう。観光案内にも美術史にも、一切書いてないでしょう。高校の教科書等には「釈迦三尊像」が出てきます。でも「〜天皇奉納」とか「橘寺から来た」とか一切書いてありません。ということは、「釈迦三尊像」の入ってきかたが誇らしいものなら、「こういう所から、こういう特殊な方が、こういう意志をもって法隆寺に献納された。」と第一番のP・R事項にするはずなのです。それが一切無いということは、あまり自慢できる入り方ではなかった。門前を大八車で通ったのを買ったか、九州に行って買ってきたのか知りませんけれど、あまりP・Rすべきものではなかった、だから伝わっていない。或いはP・Rしない筋合いのものだったのです。
これと直接ではないですが、関連するような意味あいの記事がございます。『日本書紀』の持統天皇六年のところです。持統天皇が筑紫の太宰府に対して詔勅をだしているのです。“お前のところに阿弥陀像がある、中国の人(唐の使者郭務宗*)が来た時に造ったものだが、天智天皇の冥福を祈る為に造ったものであるから、こちらに差し出すように。”という詔勅が出されたと書いてあるのです。
郭務宗*(かくむそう)、宗*(そう)は立心編に宗。JIS第4水準ユニコード68D5
筑紫太宰府に天皇家が欲しがるような立派な仏像があったのですね。何処のお寺かは知りませんがね。ところがその仏像が天智天皇の冥福を祈ることを本旨とするもので本当にあるならば、言われなくても大和もしくは近江に送るわけですよ。送らずに自分で持っているのを、寄こせ、と言ってるわけです。そして“寄こせ。”という理由が、「天智天皇云々」です。
仏像を造っている時に、天智天皇が亡くなって天智天皇の冥福を祈ってこの仏像を造りましたと言う、ということも有りうることです。ところがそれを理由に“寄こせ。”となっているわけです。本来は筑紫の太宰府に置く為に造った仏像であるようです。唐の使者が作り、天皇家が欲しがる仏像なのです。天皇家はそれが欲しいのです。天智天皇の冥福を祈ったのだから寄こせと、無理難題と言うとおかしいですが、“こじつけ”を言っているわけです。ひどい言い方ですが、実態はそう違わないのではないかと思います。そう思わないと、私には理解できないのです。筑紫近辺にあった貴重な仏像が、近畿に持ち去られた証拠が歴然とここにもあるわけです。これは状況証拠です。
最後に一つ、面白い問題が残されております。光背銘の最後のところに「使司馬鞍首止利仏帥造」があります。これは普通「鞍作りの鳥」が造ったと解釈されています。私以外には、これに異論なしですね。『日本書紀』では「鳥」を書いてあります。果してこの「止利」を「トリ」と読むかどうかは検討を要する、と思います。「トリ」とも読めないことはないし、「シリ」とも読めます。「トマリ」と読むかもしれませんね。ということで「トリ」かどうか若干不定の要素があるということを、先ず知っておく必要があると思います。
それから不思議なことがあります。鞍作の鳥のおじいさんが「司馬達等」というのだと、『書紀』推古14年条に書いてあるのです。敏達条には「鞍部村主司馬達等」と書いてあります。ところが釈迦三驚像の光背には「鞍首」となっています。姓が違っています。「村主」が「首」にかわったという記事が『日本書紀』にはないのです。天武紀の「朱鳥元年四月と六月」の項に「村主」を改め、姓(かばね)を「連」にしたという記事が出ている例があります。(四月は桑原村主訶都、六月は槻本村主勝麻呂。)わざわざ書いてある人物より「鞍作りの鳥」の方が出色の逸話があってズーと重要人物なのです。ところが「鳥」のお祖父さんは「村主」であるから、子も孫も「村主」なのです。途中で変わったと書いていないのですから姓は「村主」なのです。光背銘とは違っています。これがまずおかしい。
又おかしいことがあります。元興寺(又は法興寺)の本尊を造ったが、仏像が大き過ぎて入らなかった。それを鞍作りの鳥が上手に入れたという逸話が『日本書紀』に出てきます。左甚五郎みたいな名人として『日本書紀』に名人伝のピカ一みたいな人物として書かれています。この功績によって官位「大仁位」(推古条)をもらっています。これは聖徳太子の官位十二階の第三番にあたる、なかなかいい官位「大仁」になっているわけでございます。これは推古十四年でございます。
聖徳太子が亡くなったのは釈迦三尊で当てれば、推古三十年、『日本書紀』では推古二十九年です。だから「大仁」になってから十四年か十五年経っています。少なくとも「大仁」なわけです。「大徳」「小徳」にあがる可能性はあっても、余程の失敗がない限り、「大仁」なわけです。釈迦三尊像の光背には肩書つきで、肩書を重んじて書いてあります。だから「鞍作りの鳥」であれば「大仁」と書かれていなければいけないのに、書いていない。「大仁」なしの「止利」なのです。おかしいですね。
「止利」と「鳥」が同一人物であるなら、もう一つおかしいことがあります。「使司馬」です。「使」を“司馬をして造らしむ”と助動詞に使う使い方もあります。“しむ”と読んだ場合、誰々がという主語がなければならないのですが、それがないのです。
この中に主になる人が三人(鬼前太后、上宮法皇、干食王后)出てきますが、次々死んで王子と諸臣が残ったから、その人達が主語でしょう、という解釈が一応はできるのですが、これは内容的に判断したもので、文章自身として主語になっているわけではないのです。前の段階のところで上宮法皇の病気を心配したと出てくるだけです。それを文章の改まったところにもってきて、主語にするのは意味からいうとそれしかないけれど、文章としてはおかしい、スッキリしないのです。
だから「使司馬」という官職名にするとドンピシャリでいいわけです。「司馬」という官職名は天皇家にはありません。『古事記』『日本書紀』にも載っていません。「司馬達等」とあるのは渡来人で、かつて「司馬」の姓であったか「司馬」の職にあったかで「司馬」となっていると理解されていて、天皇が直接与えた官職名ではございません。
しかし日本列島に「司馬」という官職名がないかと言うとーーあるのです。『宋書・倭国伝』の記事で、最初に出てくる倭王讃の項で「司馬曹達を遣(つかわ)す」という記事が出てきます。この「司馬曹達」の「司馬」が姓で、「曹達」が名前なのか、「司馬」が官職名で「曹」が姓で「達」が名前なのか、これが分らなかったのです。ところが中国の『宋書・百官志』(宋代の官職名が全部書いてある)をみますと、将軍号、大将軍号を貰った人が配下に置くべき官として「司馬」がでてまいります。
高句麗王は四世紀段階に「司馬」の官を置いている記事が出てまいります。倭王は何時も高句麗王と張り合っていたわけで、高句麗王が「〜大将軍」を貰うと、自分もせびって、貰えたり、貰えなかったりしているわけです。倭王は「〜将軍」になっているでしょう。とすれば、なりっぱなしで終りではなく、配下に「司馬」の官を置かなければいけないのです。「司馬」なしの「〜将軍」では格好がつかないわけです。倭王が将軍号を貰ったら当然「司馬」の官はあるべきなのです。だから配下に「司馬」という官職名があるのです。「司馬曹達」の「司馬」が宮職名、「曹」は『三国志』の曹操などの有名な姓で、「達」が名前です。中国人ですね。楽浪か帯方郡あたりに来ていた人かもしれませんね。それが倭王讃の配下になって「司馬」の官に就いているのです。倭王武の上表文が見事な漢文である、その秘密の一端が分るような気がしますね。
倭の五王には「司馬」という官があった。倭の五王は先程からの筋からみて九州王朝ですね。すると九州王朝には「司馬」の官があった。これが第一です。
次は「使云々」です。これは「倭人伝」に面白い例がございます。『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方は、御存知だと思いますが、難升米を派遣するとき「大夫難升米」として派遣しております。倭国は古(いにし)えより使者が「大夫」と称しておった。「大夫」は周代の称号です。「大夫」は「郷(けい)」の下にあたるわけです。ところが二回目に行く時には「使大夫」という形で書かれている。「使云々」という官職名が『三国志」の魏にあるわけです。それを逸速く取り入れて「使大夫」としたわけです。「大夫」は周代ですから、魏には「使大夫」はありません。周代の「大夫」と魏の「使〜」とで合成語を作って「使大夫」と称しているわけです。なかなかの造語力ですね。
ということで、「司馬」の官がございますので、「使司馬」という官職名が現われても何ら不思議はない、こうなってくるわけです。
そうしますとこの人物(止利)は、九州王朝の人物のようであるということになってきます。
「止利」が「鳥」でない、何よりの証拠と思われるのは『日本書紀』の聖徳太子の死んだ時の記事です。非常にこまかく書いてあります。(推古23年)ここに聖徳太子のために「釈迦三尊像」を造ったという記事が全くないわけです。この像が法隆寺に現存していたすれば、『日本書紀』を作った入は皆知っているはずですよ。法隆寺の他の仏像を忘れても、本尊を忘れる、ということはないですよ。大和のど真中のことですからね。それが全然書かれていない。しかも造られた側の聖徳太子は天皇を除けばナンバー1の人物、造ったはずの「止利」は、左甚五郎、ナンバー1のわざし。これだけ絵になる記事はありません。それが一切書かれていない。
「一屋余す無し」と書いてあるから“焼けたんだ”というのを、そのまま裏返しますと、釈迦三尊のことは“書いてない”だから聖徳太子や鞍作りの鳥とは“違うのだ”となるのです。当り前ですね。
だから聖徳太子とみなす余地はない。こうなるわけでございます。 
飛鳥仏教のルーツ
最後に一言つけ加えます。
欽明天皇の時、仏教が入ってきて走りまわって喜んだ。次に蘇我馬子が仏教を宣揚しようと思ったのだが、具体的にどうしてよいか分らない。(敏達13年)それで使者を四方に使わしたところ、播磨国に、高麗人で元僧侶だったのをみつけ、そこに派遣して習わした。その結果建てられたのが飛鳥寺(元興寺ともいう)であると書かれている。
播磨の明要寺は九州年号を使っているのです。播磨仏教を学んだのが、飛鳥仏教である。『日本書紀』にそう書いてあるのです。もし飛烏仏教が大陸直輸入であったとしたら、わざわざ播暦から学んだ、なんて嘘をつく必要はないですからね。
すでに播磨仏教は九州年号を使って、寺号を作っている。一方、法興寺(飛鳥寺、元興寺、三寺とも同じ)が成立したのは、法興六年(推古四年)です。
寺の名前にのっとって、年号を作るということなど、私はありえないと思うのです。明治大学にちなんで、明治という年号を作りました。大正大学があるから、大正という年号を思いつきました。そんな話はないわけです。逆に、明治の間にできたから、明治という年号にちなんで、明治大学。大正の間にできたから、大正大学。当り前ですね。
論より証拠は、明要です。九州年号の明要年間にできたから明要寺。法興年間に造ったから法興寺という別名をつけた、それが自然な関係、少なくとも可能性があるのです。恐いような話です。証拠はないのですよ。播磨仏教を受け継いだ飛鳥仏教だから、可能性があるのです。これは今後の課題でございます。こういう恐いようなテーマを課題といたしまして、今日の話を一応終らせていただきます。 
 
釈迦三尊の光背銘に、聖徳太子はいなかった
 六釈迦三尊の光背銘

 

後半の最初に述べさせていただくのは、ごぞんじ法隆寺のご本尊である釈迦三尊の後ろの銘板でございます。黒く真四角なコピーです。この銘板は、聖徳太子とそのお妃、そしてお母さんが亡くなったときに作られた銘板だという説、法隆寺の中での解説はもちろんそうなっています。また学者のなかでも、わたし以外の学者もぜんぶそう言っている。しかしわたしは、これをどう見てもおかしいと考えています。
それは最近韓国へ行きまして、百済の武寧王陵へ行きその石碑の銘文を見ました。これ自身でもいろいろ発見がありましたが、今回あらためて思い起こして、釈迦三尊の銘板を見直して見ました。この銘板は日本では、最初と言って良い時期の七世紀前半の金石文ですから歴史研究の原点となります。文字自身なら先ほどの志賀島の金印がひじょうに早いですが、日本側で作られてものとしては、早い段階のものとして貴重なものであることは疑いない。
釈迦三尊の光背銘原文
法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願
仰依三寶當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登浄
土早昇妙果
二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳
具竟
乗斯微福信道知識現在安穏
出生入死随奉三主紹隆三寶遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提
使司馬鞍首止利仏師造
(『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編による)
対比するためにずらしてあります。
まず内容を読みますと、
1 法興元三一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩 法興元三十一年、歳次辛巳十二月、鬼前太后崩ず。
2 明年正月二二日上宮法皇枕弗病[余/心](干食) 同年正月二十二日上宮法皇、枕病し[余/心](よか)らず。(食を干かす。)(喉に食が通らず)
3 干食王后仍以労疾並 / 干食王后仍りて以って深く勞疾し、並びに、床に著く。(こう読んで良いか論じますが、従来はこのように読みます。)
4 時王后王子等及與諸臣深懐愁毒共相發願。時に王后王子等及び、諸臣と与(とも)に深く愁毒を懐き、共に相発願す。
5 略(当時の決まり文句なので、四字十句省略)
6 二月二一日癸酉王后即世 二月二十一日癸酉王后、即世す(死去する)
7 翌日法皇登遐 翌日、法皇登遐す。(上宮法皇死去する。身分によって使い分ける。)
8 癸未年三月中如願敬造釈釋迦尊像并侠侍及荘厳具竟 癸未年、三月中、願の如く、釈迦尊像并びに、侠侍及び荘厳の具を敬造し竟(おわ)る
9 略(四字十一句)
10 使司馬・鞍首・止利仏師造る。
[余/心]は、余の下に心です。
(読み解説)
法興元三十一年十二月鬼前太后が崩ず。「崩」は亡くなること。周代は天子を王と言いましたから天子のお母さんを「太后」と言います。同じく天子の妃を「王后」と言います。正月二十二日上宮法皇、枕病して[余/心]らず。母親が亡くなってその一ヶ月足らずで看病していた上宮法皇も(干食喉に食が通らず)病気に成って調子が良くない。この解釈のほうが良いと思います。(干食)王后よりて以って深く勞疾し、並びに床に著く。(干食)王后と読んで良いかは別に論じ、一応そう読みまして看病していた(干食)王后も疲れはてて寝たきりになる。同二月二十一日看病していた王后が先に亡くなる。「即世」は亡くなること。亡くなった翌日、その看病されていた上宮法皇も亡くなる。「登遐」も亡くなること。身分によって使い分けていますが「即世」と「登遐」の実体は同じ、死んだことです。三月中、発願の如く釈迦尊像及び荘厳の具を備え終わる。もちろん天子や王后が死んだわけですから王子や諸臣が作った。(吉祥文句である四字十一句は省略)仏像は止利(しり、あるいはとり)仏師が造った。
この銘板を、従来はどう解釈しているか。言いますと廐戸豊聰耳皇子と『日本書紀』に書いてある。それで上宮法皇が聖徳太子(豊聰耳法王大王)、穴穂部間人皇女が、用明天皇の皇后で、聖徳太子のお母さん。これが鬼前太后である。それで、推古二十九年二月五日聖徳太子が、『日本書紀』推古紀では亡くなっている。太后というのは、中国では天子の妻のことです。周代で天子を王と言ったので、それで天子の妻を王后という。あるいは莵道貝鮹皇(うじかいだこ)女が干食王后である。
ところが内容を見ますと問題は、この銘板が聖徳太子に関するものと考えた場合、一番おかしいのは推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)が出てこない。登場するのは、上宮法皇(聖徳太子)御本人、「鬼前(きぜん)太后」というのは聖徳太子のお母さん、次が「干食王后」ですが「干食」を切り放して別の読みを考え「王后」とだけ読むほうが良いと考えますが。とにかく「干食」を入れて読んでみても、具体的に登場するのはこの三名、「上宮法皇」、「鬼前太后」、「(干食)王后」である。
肝心の上宮法皇の時の天皇である推古天皇がまったく姿を現わさない。そんなことがあるんですか。法隆寺は官寺ではなく私寺だから、別に推古天皇が出てこなくともよいと言われた方がいる。わたしと論争した家永三郎さんもそう言っているが、私寺だから天皇のことはカットしても良いとは言えない。大和のど真ん中では考えられない。それで私寺だからと言ってみても、天皇というだけでなくプライベートに言っても、推古天皇は聖徳太子の四人いる奥さんの正妃のお母さん、中心の奥さん、正妃である莵道貝鮹皇女のお母さん。お父さんが敏達天皇。お母さんが推古天皇。関係ないよとは言えない。常識的に私寺であっても推古天皇は関係ないよとは言えない。入れないほうが不自然。わたしは、そのように考える。これにたいして、だれも答えてくれない。
わたしの古代史における大きな論争は、三例ばかりあるが、榎木一雄さん、三木太郎さん、家永三郎さん、いろいろ論争したが、答えないから、それで良いというわけではない。家永三郎さんとは、市民の古代別巻にあるように往復書簡として「聖徳太子」論争、「法隆寺」論争を行ったが、それなりに意味のある論争と思います。この場合も一生懸命論争したけれども、お答えはなかった。答えないから、それで良いというわけではない。今回読みなおし考え直してみても、推古天皇が出てこないのは、やはりおかしい。
次の問題は上宮法皇の「法皇」とは、明らかに仏教の僧籍に入った天子の意味である。この人は、明らかに自分は天子である。仏教の僧籍に入ってはいるが、いぜん天子である。聖徳太子が、「自分は天子である。」と、そのようなことを言うのでしょうか。聖徳太子はとんでもない人だ。摂政でかつ太子でありながら、推古天皇という奥さんのお母さんを押しのけて、天子と名乗った。そんなことを言えば、聖徳太子は経歴詐称となる。とんでもない人物だとなりませんかね。私にはそうなると思います。「太后」は天子のお母さん。「王后」は天子の奥さん。中国の漢文としては、それしかない。
それから「三者鼎亡(ていぼう)問題」と今回新たに名付けましたが、もし「上宮法皇」が聖徳太子とすれば、まず聖徳太子のお母さんが亡くなり、翌年御本人が病気になって、次に看病していた奥さんが亡くなった。そして翌日に御本人が亡くなった。これは大変な事件である。
この大変な事件が、『日本書紀推古紀』には何も書いていない。『推古紀』には、聖徳太子のことがいっぱい出ている。死んだことも出ている。死んだこと自体も『推古紀』に出ています。しかし今言ったドラマチックな出来事が、その悲劇的な事件が、『日本書紀』にはその気もない。『日本書紀』に書くのを忘れたのですか。この事件は『日本書紀』を書いた時から百年も経っていない。『日本書紀』を書いたご本人は知らなくても、関係者のお爺さんやお婆さんはこの時期の一人ですよ。こんなドラマチックな話を知らないはずがない。しかし『日本書紀』にはその気もない。率直に言って、マトモな神経では、おかしいと思わない方がおかしい。いや、かまわん。「『日本書紀』は信用できないから、かまわんよ。」と言うほうが強引だと思います。しかし私以外の学者は、強引にみんなそう処理している。
これは家永三郎さんと論争した問題ですが、なによりも『日本書紀』には「天智九年法隆寺は一屋余さず焼けた。」と書いてある。法隆寺は焼けてしまっている。「一屋余さず。」という意味は、これは建物及び中の物が全部焼けたという意味であって、本尊だけが残っているはずがない。本尊だけが残っているなら、「一屋余さず。されど本尊は無事。」そう書けばよい。書いても失礼ではない。書かずに「一屋余さず。」と書いてあることは、本尊も含め全部焼けたということです。
この「法隆寺は一屋余さず。」の問題は、別の観点から論争に決着が着いている。法隆寺は焼けて再建されたのか、あるいは焼けずに昔から今のままなのか、という法隆寺再建・非再建論争が戦前華やかに行われた。喜田貞吉、この人はなかなか気骨のある人で、再建説を唱えた。この再建説の理由は簡単。『日本書紀』に書いてある。焼けてもいないのに、書く理由はどこにもない。この事を何回も強調する。これに対して美術評論家や建築史家など多くの学者は非再建説。出来た当時のままだと主張した。『日本書紀』は信用できないという形で非再建説。しかしけっきょく発掘されると、前の遺構が出てきた。前の遺構と今の形は少しずれてはいるが、同じような遺構が出てきた。そういうことが分かって、喜田貞吉の見解が正しかった。喜田貞吉の根拠は『日本書紀』の「一屋余さず。」だけである。こういう経験がある。
今の私の場合は、同じように本尊の存続問題。「一屋余さず。」と書いてあるのに、本尊があるということは、他から持ってきた。非常に簡単明瞭な論拠である。これに対して家永三郎さんからは、お寺は焼けたけれども本尊は焼けたとは書いていない。そういう感じで反論された。わたしは、それでは反論になっていないと考える。
さらに「干食王后」については、やはり私は「干食王后」と読まずに考え、切り放して前の文章につなげ、「上宮法皇、枕病して[余/心]らずして食を干かす」と考える。同じ意見の人ももちろんいる。これは「食物がのどに通らない。薬石甲斐なし。薬を用いても効果がない。」という意味に採るべきだ。中国にもそういう詩があり、それをバックにした文言であると論じた。ですから、前につなげるほうがよい。(市民の古代別巻1『聖徳太子論争』新泉社)
これについては百済の武寧王の銘板でも、武寧王(志摩王)のことは二重に固有名詞が書いてあるが、三年に志摩王が亡くなり六年王の妃が亡くなったという記録がある。三年後亡くなった奥さんの実名がない。志摩王の表現だけしかない。これは我々の年代は、お手紙に奥様の名前を知っていても書かない。「○○さんの奥様と書くべきだ。」と教えられた。名前を知っていても書くのは失礼に当たるという考えを持っている。若い人は「そんな馬鹿な、奥様という名前はない。名前は知っていれば書くべきだ。奥様は失礼だ。」と言うかもしれない。われわれの年代は、奥さんの名前は書かない。それと同じように百済の武寧王(志摩王)の銘板でも奥さんの名前が書いていない。他にも百済の銘文にも同じ例がある。だから釈迦三尊の銘板の場合も「干食王后」ではなく、「干食」は切って前につなげ、「王后」だけで良いのではないか。
それというのも、解釈の中には「干食王后」は別の妃だという説もある。法隆寺の資料から、聖徳太子の奥さんは四人いる。(『日本書紀』は正妃だけ。)「干食王后」を、膳部加多夫古臣の娘である菩岐々美郎女である考える説である。なぜ、そう言えるかというと「干食」は食に関することだ。膳部(かしはでべ)も、御膳の「膳」で食に関することである。だから膳部(かしはでべ)出身の王后だと解釈する。私はずいぶん強引な、こじつけた解釈であると思う。
聖徳太子の妃一覧
正妃敏達天皇が父、推古天皇が母莵道貝鮹(うじかいだこ)皇女
父は蘇我馬子、子は山背大兄皇子刀自古郎女(とじこのいらつめ)
父は尾治王位奈部橘(いなべのたちばな)王
父は膳部加多夫古臣菩岐々美郎女(ほききみいらつめ)
そういう解釈だと、具合が悪いのはお妃は四人もいるが、正妃の莵道貝鮹皇女がいるのに、ぜんぜん触れない。ノータッチ。それから当時勢力がいちばん強かったのは蘇我馬子です。その娘もカット。それに王子とあるが、山背大兄皇子いがいは考えられない。そうすると山背大兄皇子が、この銘板を造ったはずだ。山背大兄皇子が作ったのなら、自分のお母さんもカットするのでしょうか。そして一番身分の低い膳部の娘だけを王后として書いたことになる。私の頭では付いていけない。有力な豪族の娘である尾治王の妃もカットする。なによりも「正妃」もカット。それでは山背大兄皇子の頭が少しおかしいと思う状況です。ところが、いまはそれが通っている。わたし以外の学者は、ぜんぶそのように解釈している。しかしこの学者の意見は、一般の常識のある人からみたら、この解釈で、なるほどとおもう人はいないと思う。
以上、いろいろ不審な理由を挙げましたが、そんなことを言わなくとも推古天皇が出てこない。この一言だけでも、おかしいと分かります。つぎに、三人がつぎつぎと亡くなった。このドラマチックな事件が、『日本書紀』推古紀に影も形もない。これをおかしいと思うのが常識です。おかしくないと言う人が、どんな弁明をしてみても苦し紛れとしか言えない。
しかし、これを聖徳太子ではないと言ってしまったら大変である。銘板が実在する。なによりも証拠の釈迦三尊が実在する。噂の話とか、写しが残っているという問題ではなく実在する。それでは金石文で実在したのは、「どこの王朝の誰のことか。」とならざるを得ない。
ところが、わたしのほうの理解であると、隋書の多利思北孤を上宮法皇と考える。この人物は隋に送った国書の中で仏教を尊崇し、中国の天子を「海西の菩薩天子」だと誉めてはいる。しかしこれは自分は「日の出づる所の菩薩天子」だと、暗に主張していることになる。単なる謙遜や人をほめているだけではない。とにかくそういう菩薩天子の立場をとった人物がいる。この隋書の人物は非常に銘板の人物とイメージが重なってくる。ですから「阿蘇山有り」の九州の「日の出づる所の天子」だとすると無理がない。
しかも「干食」とならんで、従来学者が解釈に悩んできた言葉がある。それは鬼前太后の「鬼前(きぜん、おにのまえ)」である。これはどうみても太后にかかる「鬼前」である。今までの解釈は、どう解釈しても“こじつけ”に成ってしまう言葉である。落ちつきが悪い。ところが北部九州に、糸島に持っていけばどうなるか。先ほど説明した桜谷神社。その右上。そこから車で行けば十分ぐらいで櫻井(さくらい)があり、鬼という地名があり、鬼ノ内という地名があり、そして鬼ノ前がある。ここの出身の人ならば、鬼前(おにのまえ)太后である。そのようなことは思いもしなかったが、このことは多元的古代九州の会の会員であった故鬼塚氏に教えていただいた。ご本人の名前も「鬼」が付いていて、教えられて現地に行きました。
それで補足しておきますが、その時は、鬼(おに)は先住民のことだと理解していたが、今のわたしの理解は違っている。鬼というのは、尾丹(鬼ヲニ)と考えます。尾(ヲオ)は山の尾で、山の尾根の端。そういう地形だと解釈している。丹(ニ)は赤い土のことで、赤い土は貴重な物だった。朱はもっと大切だが、そればかり使うわけにはいかないから、赤い土をお墓に盛んに使っている。古墳時代になっても、朱は装飾古墳などに盛んに使っている。それが出る場所を、地形を含めて尾丹(鬼おに)と言っていたのだろうと考えています。漢字表記を当てにすると具合が悪い。あれは後の当て字ですから。尾丹(ヲニ)というとワ行とア行が交じっているが、この地名に関しては問題ないと考えます。とにかく現地を訪れて、もう一度調べ確認したい。
そのことはいちおう別にしても、そこが鬼ノ前であることは疑いがない。糸島鬼前(おにのまえ)出身の太后というか、九州の太后と考える。大体子供を生むときは実家にかえって生む。そこから地名で皇后の名前を呼ぶ。それから先はまったくの想像ですが、あの「君が代」の我が君が、隋書の多利思北孤であり上宮法皇という立場に立つとすれば、お母さんは、鬼前出身。そうすると我が君は大分具合が悪い。ピンチが続いている。お母さんが鬼前出身の太后ならば、もし、そこの有名な御利益のある女神のコケムスヒメガミのところへ延命のお願いに行っても、なんの不思議もない。そこまでは想像の領域だが、非常に話が会う。とにかく鬼前(おにのまえ)というのは、九州の地名である。先ほどの「利(リ)」もそうであるように。とにかく九州に原点を置けば皆すんなりと解釈できる。みんな解けてくる。全部リアルに解釈できる。それを近畿大和に持ってゆけば、何重にも屁理屈を重ねなければならない。聖徳太子が偉いから、中国人に嘘を付いて煙に巻いた。中国人は馬鹿だから、だまされて嘘を歴史書に書いたとか、本当の意味で「お話」になってしまう。
やはり中国の歴史書にあるように、倭国は志賀島の金印いらいの国である。それで七百一年まで続いた。そう考えれば、それなりに理解できる。当たり前のことだが、それを受け入れたら、今までの明治いらいの体制は、がらりと崩れる。そういうことでございます。

好太王碑文研究の新視点 / 好太王碑改削説への反証

 

一、今日までの好太王碑文研究の経過とその意義について
従来、日本の古代史上の根本的資料として扱われてきた、高句麗の好太王(通称、「広開土王」)碑は、全ての高校の教科書においても取り扱われてきた。注1好太王とは、周知の様に高句麗の中期、最盛期の王であり、正式には「国岡上広開土境平安好太王」であり、好太王と略する方が適切であろう。注2『三国史記』に拠れば、諱(いみな)を「談徳」、「永楽大王」と号した。在位は、西暦三九一年〜四一二年で、碑は王の死後、二年して彼の子、長寿王がその功績をたたえて建立したもので、現在中国吉林省輯安にある。
碑文の建立の目的は、本来的に葬られた者及び高句麗の功績と偉業をたたえるためであるのだが、日本では「大和朝廷」の功績をたたえるために議論されてきた感があるのは一体どうしてであろうか。
通説では、「倭」を「大和朝廷」(政権と呼称する書もある)とし、三九一年に海を渡って、高句麗と交戦して、朝鮮半局のすすんだ生産技術や鉄資源を求め、国内統一の強化に役立てようとしたとし、かつ、高句麗と戦うのであるから、玄海灘を渡るには、進出の根拠地となる九州を支配したことは明白と考え、「大和朝廷」の全国支配の時期を四世紀〜五世紀とする根拠の一つともしていた。
又、碑文は、戦後の「科学的」歴史学を通じて、古代日本の国家統一と古代日朝関係史を考える最大の物的証拠としての論拠を与えるものであり、「最も重要な一級金石資料」であるとされていたのである。
このような状況の中で、一九七一年(昭和四六年)に好太王碑の研究史上、画期的な論文が発表された。
(これまでの通説の確立及び普及の時期を第一期とし、注3研究史上、碑文を即自的に信用してきたのに対し、中塚・李両氏以後は、碑文を対自的に疑い第二期を切り開いた。もっとも、資料・史料は、全てその内容の検討のみならず、信憑性についても論争となる時期があって、研究史上、議論が深まってきた。金印の「漢委奴国王」の贋物論争も、真実は本物であったが、その解釈の研究を深めたことは明らかである。)
即ち、中塚明氏は「近代日本史学史における朝鮮問題ーーとくに『広開土王陵碑』をめくって」(『思想』五六一)で従来の碑文の研究に重大な疑問を提出し、「広開土王碑」がはじめて日本に知られたのは、「拓本」が日本にもたらされた一八八四年(明治十七年)であり、「拓本」をもたらした人物は、おそらくスパイの命をおびていたと考えられる「酒勾景明」という現役の軍人であり、その解読や解釈は参謀本部の中でおこなわれたと主張した。
この論文以後、碑文の研究が前進し、佐伯有清氏が「高句麗広開土王陵碑文再検討のための序章ーー参謀本部と朝鮮研究ーー」(『日本歴史』二八七、昭和四十七年)の中で、参謀本部の将校の名前は、正しくは「酒勾景信」であることを指摘した。
このような問題意識の中で、一九七二年(昭和四十七年)五月に李進煕氏は「広開土王陵碑の謎ーー初期朝日関係研究史上の間題点ーー」(『思想』五七五)で従来の碑文の研究の重大な疑問に対して、一八八四年(明治十七年)に、はじめて日本にもたらされた「拓本」は「双鉤(そうこう)加墨(かぼく)本」であり、これは酒勾大尉(当時は中尉)の属していた日本軍部の参謀本部が、初期朝日関係史の部分の碑文を削りとるか、「石灰塗布作戦」を日清、日露戦争の間に行なったものであると主張した。更に、『広開土王陵碑の研究』(同年十月、吉川弘文館)において、史料編とともに「実証的」に自説を展開した。
この碑文「改削」説は、学界、思想界のみならず、教育界に覚醒をもたらすショッキングな問題提起となった。教育現場においては、この説以後、どのように碑文をあつかうのか、率直にいって困ってしまう場面に遭遇したのである。(私は高校で日本史を担当しているので、実感としても困ってしまった。)
学界の沈黙を破ったのは、むしろ在野において一貰して古代史における「通説」を批判してきた古田武彦氏であった。東大で開かれた史学会大会で(一九七二年十一月十二日)、精密な史料批判の上で、古田氏は「好太王碑文『改削』説の批判」をおこなった。注4論点は次の点にある。
1).宮内庁の「碑文之由来記」は酒勾の筆跡であり、参謀本部の上司に出した報告書である。
2).束京国立博物館にある問題の「酒勾双鉤本」に双鉤したさい符号として書き込んだとみられる文字があるが、この字と酒勾の筆跡は違う。
3).「由来記」は参謀本部の内部文書なのでウソをいう必要はないから「現地人を脅迫して入手した」と書いてあるのは真実だ。
4).従って、“すりかえ”は行われていないし、双鉤したのは清朝の拓工である。
その後、一九七三年(昭和四十八年八月)に『史学雑誌』(第八二編第八号)において、「好太王碑文『改削』説の批判ーー李進煕氏『広開土王陵碑の研究』についてーー」という精緻な批判論文が発表され、又、一般に解りやすく「高句麗王碑と倭国の展開」(『失われた九州王朝ーー天皇家以前の古代史ーー』朝日新聞社、現在は角川文庫)が発表された。
古田氏の李説批判の根本的な動機は、「いうまでもないことながら、わたしには『日本の軍国主義』を弁護しようという、一片の意思もない。いな、むしろ学問をもって『日本の軍国主義」の『犯罪行為』をあばこうとする、李の志を壮とする。しかし、事はあくまで実証に属する。必要なのは、事実にもとづくこと、徹底的に実証的であることだ。」(上掲書、二〇九頁。傍点は引用者。以下インターネットでは赤色表示)ということにあった。従って、李氏が目を通した史料を全て再検査した上で、かつ李氏が発見し得なかった史料、例えば、酒勾自身の「証言」ともいうべき「碑文之由来記」(宮内庁図書寮所蔵)を含めて、精密に論究を加えた上で、碑文の文字の異同は「イデオロギー的加工」によるという客観的証拠はないと実証した。
しかし、現在まで好太王碑の現地調査が、戦後の日本人にとっては、誰も許可されていない現状もあって、いまだに論争が「決着していない」感を与えている。例えば、次のような主張がある。
「今後必要なことは、日本と朝鮮と中国(この碑の所在地)の三国の専門家により現地の実物に即した共同調査を行ない、碑文の真実の姿を明確にすることであろう。」(家永三郎編『高校日本史指導資料』三省堂)
碑文の真実を確定するには、少なくとも研究者に碑の公開が行われなければならない。かつて、毎日新聞が社説において「広開土王陵碑の国際調査を」と論じたが(一九七三年二月二〇日)、これは史学会大会での李ー古田論争の進展を期待したものであった。注5
このような状況の中で、好太王仰の公開に向けて古田武彦氏は長年努力を続け、日本における関係各方面のみならず、中国の関係機関へもねばり強く交渉してきたのである。私もこれらの一連の交渉に参加してきた。(詐細は古田武彦を囲む会発行「市民の古代ニュース」No.19の拙論と、『市民の古代』第四集「好太王碑の開放を求めて」の拙論を参照されたい。)
碑の公開交渉のため、二度にわたる訪中が行われ、その結果として、研究史上、画期をなす(碑の公開がなされれば、それ以後の碑文についての研究を第三期とすべきであると私は考える。その理由は、碑文「改削」説発表後、碑文そのものの確認をして研究することの重要性は明白であるからだ。)碑文の現認者でもある中国吉林省博物館研究者、武国員力*氏と古田武彦氏の中国での邂逅がなされたのである。武氏は李説、即ち「改削」説を熟知した上で、直接碑文を確認した研究者であることから、彼の「証言」と研究上の見解が、従来の古田氏の説と一致したことは重要な意味があるのである。
(詳細は古田武彦氏「画期に立つ好太王碑」(講演録)ーー『市民の古代」第四集所収を参照されたい。)
武国員力*(ぶこくしゅん)氏の[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB 
二、好太王碑の公開を前にしてなされなければならない基本の調査
私達が中国で交渉した結果、確信を得ることができた「好太王碑の公開」を前にして(朝日新聞「好太王碑公開へーー二年以内、中国側が約束ーー」一九八一年八月三十日)、正確な碑文の読解をなし、そこからどのような歴史的事実を了解するのかは非常に重要なことである。
現在までの学界における状況は、李ーー古田論争のまま「進展」・「決着」していないのを反映して、教育界でも「近年の学界では見解が分れている」(高校日本史教科書)とされ、生徒には「よく解らないことだ」となってしまい、不可知論におちいらせてしまっている。もっとも、鋭い生徒はそこから知的興味心をおこし、一体どちらが正しいのかという質問を発してくれるので、この事が私自身の好太王碑研究の根本的な研究動機となってきたのである。
碑の公開を前にして、従来発表されてきた碑文の解釈(これ以後、「釈文」と表現する。釈文は碑の実地調査や拓本等によって作成されたものである)は、どれが最も信頼できるのであろうか。そこで、まず、私が指導する地歴部(大阪府立茨木東高校)では、碑文の拓本、釈文、写真等を入手出来る限り集めて調査に入った。資料は、李進煕氏『広開土王陵碑の研究』の資料編(拓本と釈文)及び本文巻末の写真、古田武彦氏『失われた九州王朝』及び、古田氏所蔵の「大東急記念文庫」の拓本の写真、水谷氏拓本の写真、又、国立国会図書館や天理大学図書館で私が入手した釈文等である。
この調査のはじめの作業は、碑文一八○○字の一字ずつを拓本、釈文それぞれ区分して、比較できるように表にすることであった。この表の完成後、例えば、一面一行一字目はどの拓本も釈文も同じ字であるか否か、というようにして、一字ずつ碑文を吟味していった。これらの調査は到底、一人では出来る性格のものではなく、文宇に対して新鮮な目をもった生徒達(一般に世間では、「現代っ子はあまり文字を知らぬ」と言われるが、かえって先入観をもたないので、一字一字厳密な調査となった)の力によって行われたものである。
二十本の釈文中、一八○○余字について異なる解釈を示したのは次の通りであった。
A釈文の一本が異なる姿を示している文字が、一八○○余字中一六三字あった。(全体の9.0パーセント)
(例:一行29字目「出」は、一本が「世」となっている)
B釈文の二本以上が異なって解釈されている文字が、一八○○余字中一三四字あった。(全体の7.4パーセント)
(例:二行2字目「車」は「幸」「即」などとされている)
同一の碑文から、これだけ異なる解釈の巾を示す例は他にないと言える程、字の解釈が分れているのだ。これだけ解釈が分れる中で、李氏は計二九七ヶ所中の「一八ヶ所」(一八ヶ所とするかどうか論争があるので、後述する)を限定して「改削」と主張するが、今やその根拠が問われなければならない、というところまで来ているのである。
ここで、根本的疑義が生じてくる。つまり、これまでの拓本やそれを基とした釈文の信頼性をどうして測るのかということである。碑文そのものが「改削」されているという「仮説」がある以上、実証的かつ論理的に厳密な史料批判がなされなければならないのは自明であろう。
そこで、碑文の四面の内で、“改削”論争がなされた一面から三面の三行までの箇所をまず保留とした。事実、碑文の欠損は第三面七行目までが著しく、八行目から第四面まではほぼ判読できる。しかも、そこは、「誰に好太王碑の墓を守らせるか」という碑の建立の為の意義づけがなされている重要な所でもある。又、国姻、看姻注6のそれぞれの合計が、碑文の申で三十と三百家として明記されていることでも重要なところである。即ち、碑文には、「守墓戸国姻卅看姻三百都合三百卅家」とある。この部分については、古田武彦氏の「画期に立つ好太王碑」(『市民の古代』第四集)を除き、研究者の間でほとんど取り扱われていない。この箇所は三面八行目から第四面まで、国姻、看姻の戸数がずらりと表記された所であるが、碑文にその合計数が書かれているところから、その数を数えることで客観的に碑文を拓出した拓本やそれに基づく釈文の信頼度を測定しうるのではないか。つまり、拓本ならびに釈文の客観的信憑性を測定しうることに気づいたのである。注7
また一層、厳密に取り扱うために、碑文中に一ケ所(第四面二行三五字目)出現する「都姻」については、その存否について研究者間で「論争」があるから対象から除外し、かつ看姻について少なくとも一ケ所以上(第四面第一行一字〜八字)碑文の欠損があるから同様に除外すると(もっとも近似値は測定しうる。私達の調査では測定したが、この一ケ所の欠損部分に様々な数値の推定が成り立つので除外する。)、結果的には国姻に対象が限定できる。そこで、国姻について、前述した入手出来る限りの拓本、釈文について調査した結果、碑文に明記されている「三十」にピッタリと一致したのは次の三点であった。
一点目は『朝鮮金石総覧』(一九一九年発表)の釈文(前間恭作氏)、二点目は戦前入手した拓本をもとに作成した水谷悌二郎氏の釈文(『書品」第一〇〇号、一九五九年発表)である。そして、三点目は、今回、大阪府立茨木東高校地歴部の手によって初めて復元に成功した大東急記念文庫の拓本であった。
他の拓本、釈文については次の数値であった。酒勾本、三十七。栄禧本、三十二。羅振玉本、三十五。劉承幹本、三十六。末松保和本、三十一。でいずれも碑文の合計数、三十に合わなかった。一点目の『朝鮮金石総覧』は、従来から研究者が最も多く使用してきたものであり、一九六三年の朝鮮民主主義人民共和国社会科学院の歴史学研究所と考古学研究所による調査によって、金錫享氏が『古代朝日関係史』(一九六九年)で発表する際、引用しているものである。二点目は、研究者間で評価の高いものであるが、三点目はこれまでほとんど評価されていない資料であった。注8そこで、次にこの大東急記念文庫の拓本の性格について分析しよう。 
三、大東急記念文庫の拓本の史料価値とその由来
碑文を正確に反映した拓本、釈文を調査するため集めた資料の中で、異色の資料が大東急記念文庫の拓本(雙鉤加墨本)であった。この資料は、古田武彦氏が、現地(東京都世田谷区上野毛の後藤美術館)に行き、拓本の写真をもらい受け、保存していたものを厚意を受けて借りたものである。この拓本は、次の図1を見たら解る様に、独特の保存状態であり、タテに3字分、ヨコに4字分を12字一枚組として、写真に131枚組とられてあった。
一字ずつ数えると、判読可能な文字は一五六七字で、半分が読めるものが二字、合計一五六九字であった。
私達は調査のため、古田氏から借りた拓本の写真をまずコピーし、一面一字ずつ比較をはじめた。はり合わせが独特のため、逆になってあったり(例えば、第一面第一行一四字と一五字)、横になっていたり(例えば、第一面一行二四字)、第四面と第三面の順序が違っていたりして作業は予想をはるかに越えて、難行した。一字ずつ他の拓本等と比べて、コピーを切り取り、はり合わせて、ようやく一本の拓本として完成するのに一週間はかかったのである。
復元した拓本を基にして比較すると、従来、大東急記念文庫についていわれていたことと根本的に異なる姿が現われ始めた。
即ち、李進煕氏は、『好太王碑の謎』で、「大東急記念文庫には、かつて運輸大臣をつとめたことのある久原(くはら)房之助が所蔵した『高句麗古碑考」と、酒勾雙鉤本からまた雙鉤し墨をくわえて拓本らしくつくった碑文がある。」(同上書九六頁。傍点は引用者。)と断定していた。しかし、酒勾本と、復元した大東急記念文庫本の一字々々の比較検討作業の結果は、極めて似ているとは言えるが(恐らく、このことから李氏は酒勾本からのコピーと即断したように思われる)、厳密には両者は異なっていたのである。酒勾本では読みとれなかった空白の箇所に、大東急記念文庫本では字が入っているケースがあるのである。
一面五行十三字目の□(酒勾本)が□(大東急記念文庫本)となっており、又一面十一行三五字目の□に対し、城となっており、二面六行十字目の□に対し新と現われており、二面七行三六字の□に対し、恩となっている。更に、三面では八行一字の□に対し鴨となり、又、四面の最後の文字は、大東急記念文庫本では「之」と正しい位置に置字されていた。
逆に、酒勾本に見える文字が大東急記念文庫本では見えない文字となっているケースもあった。例えば、二面二行二二字の利が□となっていたり、三面三行三六字の率が□となっていた。
ここから、李氏が断定する様な、酒勾本から雙鉤し墨を加えた拓本であるという結論は、到底引き出すことはできないであろう。なぜならば、万一、コピーであるとすると、酒勾本にない字が、大東急記念文庫本にはあるということの現象を説明出来ず、原本より詳しいコピーという元来あり得ない状態を想定しなければならなくなるからである。
そこで、私は大東急記念文庫本の不思議な謎に挑戦すべく、又、古田武彦氏が常にとっている厳密な調査方針、つまり労をいとわず現地(資料)を精査するという方法で、東京の後藤美術館(大東急記念文庫本が、その中に設置されている)を訪問した。(一九八二年六月二三日〜二四日)
拓本は常に展示してあるというものではなくて、蔵に大切に保管してあった。資料は、大東急記念文庫の管理者によると、研究者に限定して見せるものであるが、記憶によると、これまで好太王碑の拓本を見に来た者は三名であり、李進煕氏、古田武彦氏、末松保和氏であった。上記三名は、専門の学者であり、それぞれに好太王碑研究の論文を発表しているが、大論争の割りには一般の学者、学生の現地調査が少ない事実に驚いた。碑文は、木製の箱に折りたたんで四帖に保存されていた。第一帖に六四組、第二帖に六六組、第三帖に六六組、第四組に六七組と分けられ、一組に碑文を三字ずつ、二行とし、合計六字に切りはりされている。私達が人手した写真は、この二組を一枚として写されたものであることが解る(図1参照)。まず、古田氏より借りた写真が原本を正しく写しだしたものであるかどうか一枚々々調べていった(古田氏のアドバイスによる)。こうして、百三十一枚について調べた結果、古田氏所蔵の大東急記念文庫拓本の写真は、原本と完全に同じで正しいものであることが判って一日が過ぎた。翌日も念の為に通ってみて、酒勾本と比較している内に、現地調査でしか得ることができない事実が新たに判明してきた。それは、大東急記念文庫本は、酒勾本と違って一枚々々のハリ合わせが異なっているということである。
下の図2は、酒勾本の原則的なハリ合わせであるが、四字詰めでタテ、ヨコヘ合計十六字であるのに対して、大東急記念文庫本はタテに三字詰、ヨコ二行を一組として六字である。そして、大東急記念文庫本について一字々々を精密にどうハリ合わせているか調査したところ、三字詰が二二ヶ所六六字分、二字切れが二一八ヶ所四三六字分、一字切れが一〇六七字分、合計一五六九字であることが判明した。注9
この事実は何を意味しているのであろうか。仮に、酒勾本から大東急記念文庫本をコピーしてつくったとすると、基本的には同じものができる。字のハリ合わせを違えて、四字詰めを三字詰めに並べ変えたとすると、実際に酒勾本のコピーを元にしてやってみたが、三字詰め、二字切れ、一字切れがほぼ同数になる。しかし、事実は逆に大東急記念文庫本では、非常に一字切れが多く、一〇六七字(全字数の68%)に及んでいる。しかも大東急記念文庫本では一面一行十四字と一五字の「北夫」を「夫北」と逆にはり合わせていたり(仮に酒勾本のコピーとして、酒勾本から切り取ってハリ合わせてみたが、「自北夫」は三字詰ができて、このようにバラバラとなることはない)、一面一行二四字のように、「《女》」のように横転していたりしている。
これらの事実からも、大東急記念文庫の拓本は、酒勾本と異なっており、李氏が主張するコピー説は成立し得ないことが判明した。
では次に、この資料の性格を探るために、入手経過の解明へ向かおう。この大東急記念文庫は、一九四八年(昭和二三年)三月五日、当時東京急行電鉄株式会社取締役会長であった五島慶太氏が、かねてから京都大学に「委託管理」されてあった久原文庫を一括購入したというのが現在までの説明であった。それは、『大東急記念文庫十五年史」(同財団法人発行)や、李氏の言及において解る。しかし、拓本についてそれ以前の状態には誰も溯源してはいなかった。今回の現地調査で、私は大東急記念文庫の拓本が保存されていた木製箱に、大東急記念文庫のラベルの他に、もう一枚の古いラベルがはりつけられているのを発見したのである。そのラベルには、「古梓堂文庫、17、4巻」と書いてあった。ここからは大東急記念文庫に保管される以前には、古梓堂文庫にあったことが判明したのである。
次にこの手がかりから、関係者の証言や資料(例えば、『久原房之助』、『五島慶太』等の記念誌)を探っていって判明したことをまとめると次のようだ。
好太王碑の拓本は、和田維四郎氏(号は雲村)が清国(当時)へ「現地視察」(恐らく明治三〇年〜三五年)の間に現地で購入、蒐集したもので、その後久原房之助氏の財力で所蔵されていたものと思われる。京都大学の教授連の懇望もあり、同大学へ一時寄託されていた後に、久原氏の親戚の藤田政輔氏が藤田古梓堂文庫という形で所蔵していたものである。これを、五島慶太氏がその他の文庫にあるものを入れ総額五一〇万円(当時)で、一九四八年三月五日に購入したのである。
この入手経過からも判明する様に、明らかに酒勾本とは異なった拓本であることが言える。この様に無駄を恐れず、現地を調査して得た結論は貴重なことを明らかにした。
これまで大東急記念文庫の好太王碑の拓本については、李氏によって酒勾本のコビーにすぎないとされ、史料価値がほとんど認められていなかったのであるが、両拓本の比較と現地調査の結果をまとめると、(一)、入手経過が異なり、(二)、保存状態やハリ合わせの違いがあり、(三)、碑文の中に書かれてある「国姻」の合計数が異なり、(四)、それぞれの字面に異同がみられるということであり、しかも、酒勾本では国姻の数が碑文の合計三十に合わなかったが、大東急記念文庫本ではピックリと三十に合致していることから、史料価値が極めて高いものなのである。 
四、“改ざん”説の再検討
前述した様な基礎調査により史料価値が極めて高いと判明した新たな拓本(大東急記念文庫の拓本復元版)を基にして、好太王碑に関する李説のように、“改削”がなされたか否かを照射してみよう。
李氏が“改削”と主張する最初の例である一面三行四一字の「黄」字についてまず検討してみると、李氏は「『履』」とするには問題があるとしても、『黄』字でないことは明らかである。」(『広開土王陵碑の研究』一九三頁ーー以下、同上書は頁数のみを示す。)と断定しているが、東洋文庫拓本や京大人文研拓本、水谷拓本の「厂」字を「履」と見なすのは、李氏自らも言っているように無理がある。これを「履」と見なす例は、水谷氏の釈文のみであり、他は全て「黄」である。又、李氏が自らの書に掲載している資料編の内藤旧蔵写真によっても、明確に「黄」字と判読できる(同上書、資料編五七頁参照)。
今回の私達の基礎調査で信頼をおく、A『朝鮮金石総覧』の前間恭作氏の釈文、B水谷悌二郎氏所蔵拓本を基にした釈文、C大東急記念文庫所蔵拓本を基に復元した拓本ーー以下記号でのみ示すーーの内、A、Cは「黄字」であった。次に、Bにおいて、水谷拓本そのものは、前述した様に李氏できえも「履」とするには間題があると言っているのである。従って李氏は、これを「改削」の意識的な行為と見なすことは出来ず、「意識的にすり替えたというよりも、これが碑裂面上にあって字画が明確でなく」(同上書一九三頁)と主張し、誤鉤であると断定した。しかし、私達はこれを誤鉤とは見なさない。なぜならば、「履竜」と解釈するよりも、「黄竜」とするのが資料批判を通した上で正しいと思われるだけではなくて、以下の様に碑文解釈としても整合性があるからに他ならない。
碑文解釈としては、既に古田武彦氏は豊富に中国文献を引用しながら、「このように黄竜は鳳凰と並ぶ神聖な動物である。天帝の使者たる黄竜に対し、その首を足でふみつけて天に昇るというのはいささか“勇ましすぎる”のではあるまいか。」(「史学雑誌」第八二編第八号二二頁)と鋭く指摘している。
更に、『韓国の民話と伝説」(第二巻、高句麗、百済編、韓国文化図書出版社)によれば、好太王は仏教に深く帰依し、全国至るところに寺を建て、その寺の一つの梵鐘の中に浮彫されていた竜が、あまりにも巧みであり見事な彫刻であったので、ある日、鐘の中の竜がいなくなり、「竜が生を得て昇天したのだといい出す者がいた」(同上書六九頁)という。この伝説は、四一四年以後建てられていた好太王碑の文面を読んで、高句麗の民衆とその子孫によって語られていったものと考えられる。というのは文面に「黄竜負昇天」とあり、黄竜(王を)負うて天に昇るという意味であり、好太王に竜伝説は最もふきわしいものであるからだ。実際、『伝説』には各王の話が掲載されているが、好太王の項では、竜伝説しかなく、両者の結びつきが民衆の永い記憶にとどまったものと思われるのである。
次に、何故に竜を「黄色」と表現するかを考察しよう。『高句麗時代之遺蹟」(朝鮮総督府発行)のカラー図版で見ると、高句麗の古墳や塚の玄室内の壁画には好んで「黄」色が使用され、しかも「竜」をデザイン化したものにも「黄」色が使用されている例がある。(魯山里鎧馬塚玄室左方第一持送文様ーー平安南道大同郡柴足面)
勿論、中国思想の四神の青龍と区別して考えられるが、恐らく「黄」色は、土の色であり、農耕に際して「五穀豊成」(神祠碑『朝鮮金石総覧』))を祈るものであり、更には中国思想の「黄帝」の影響と考察しうるのである。同じく、中国思想の四神の影響も、高松塚古墳の壁画発見の時に盛んに高句麗の壁画古墳が言及されたことでも明らかな様に、高句麗壁画古墳には四神図が描かれている。
四神思想の影響で高句麗壁画古墳に青龍が多いのは自明であるが、黄龍は中国思想の影響に加えて、高句麗の独自の思想の表現と解釈できる。李氏のいう「履竜」では、上述したことが説明できないばかりか、資料批判、文献解釈、民間伝説、古墳壁画等、整合性、総合性を欠くのである。

ここで、次の事柄も諭じる必要がある。李氏の改ざん論争は、好太王碑文が改ざんされたものであるのか、否かが争われているだけではなくて、李氏が改ざんと判断した文字が何十例に及ぶのかも問われていることである。
この議論は改削を主張する側(李氏)が改削を批判する側(古田氏)より少なく例をあげるということから、一般的に解りにくいことではあるが、学問上明確にして厳密に論じなければならない。今、改ざんが何十例に及ぶのかに焦点をあてる目的で、李ーー古田論争を整理する。
(A)李氏は「広開土王陵碑文の謎ーー初期朝日関係研究史上の問題点ーー」及び『広開土王陵碑の研究』等において好太王碑文が日本の参謀本部の酒勾景信によって改削され、その後参謀本部によって「石灰塗布作戦」(数次)が行なわれたと主張した。
(B)古田武彦氏は「好太王碑文『改削』説の批判ーー李進煕氏『広開土王陵碑の研究』についてーー」及び『失われた九州王朝』において、「先人への辛辣な批議を行なった李書に対し、同じく真摯な再批判を」行なった。古田氏は、李書の主張を次のようにまとめている。
(一)酒勾の“すりかえた文字”とされるのはつぎの点である。(上が原形)
(1)履龍→黄龍
(2)□□□□→来渡海波
(3)□卯年→来卯年
(4)大軍→水軍
(5)討□残国→討利残国
(6)関弥城→閣弥城
(7)百戦王威赫怒→交戦王威赫奴
(8)生口→生白
(9)朝貢□事→朝貢論事
(10)倭□通→倭和通
(11)遣使還告→違使還告
(12)往救新羅→住救新羅
(13)官軍→官兵
(14)□□加羅→任那加羅
(15)来背急至→来背息至
(16)□□□潰→倭満倭潰
(17)寐錦→安錦
(18)侵入□□界→侵人帯方界
(二)「石灰塗布作戦」で書きこまれた字とされるのはつぎの点である。
(1)□奴城→貫奴城
(2)□盖*城→□羅城
(3)獻□男女→獻出男女
(4)莫□羅→莫新羅
(5)太王□→太王恩
(三)「第三次加工」の書き入れによる、とされるもの。
(1)牟盧□→牟盧城
(2)安羅人戊兵□→安羅人戊兵満
盖*は、インターネットでは表示できません。議論には直接関係ありません。[強いて言えば、雷/皿、雨の中の四ツ点なし]
(C)李氏は、(B)に対して「広開土王陵碑をめぐる諸問題ーー古田武彦氏の所論によせてーー」(『好太王碑と任那日本府』学生社、一九七七年十月)において、「私は酒勾がすり替えた文宇として以上の十八例をあげた覚えはない」(同上書八二頁)とし、「すなわち、古田氏のあげた十八例のうち、私が『酒勾景信によってすり替えられたとみなす以外に考えようがない』としたのは(1),(2),(10),(14),(16),(18)の六例だけで、他は『酒勾の誤鉤といえる』と書いているのである。」(同上書八三〜八四頁)と主張する。
ここで、両者の論文を再度、精読した上で客観的に論じよう。李氏が主張する六例の内、前述したように(1)履龍→黄龍のところでは、「“履”とするのには問題があるとしても、『黄』字でないことは明らかである」と断定した。古田氏は、拓本(水谷拓本、東洋文庫拓本、京大人文研所蔵拓本)及び写真の精査の上で、「『履』の『尸』はけっして」安定した字画ではない。(ことに「ノ」が左に開きすぎている。ーー李資料編45)すなわち、本来『黄」であったものが削傷をうけて『履』めいて見えだしたのか、それとも本来『履』であったものか、『目による検証』そのものからは容易に断定しがたいのである」(上掲書、二三頁)と厳密に諭じた上で、更に、文面検証の帰結として(1)について、「水谷拓本に非、従来本に是」、即ち「黄」と解釈しているのである。更に、私は前述したように民間伝説、壁画の色等の考察から「黄」とする方が綜合的に正しいのではないかと考えるが、逆に李氏の主張する、「『黄』字でないことは明らかである」という根拠は成立していない。少なくとも、□龍として判断保留をするべきであろう。しかし、李氏は古田氏の十八例は多すぎると抗議した際にも、「酒勾によるすり替え」の六例中の一例として入れている。ところが、李氏の(1)例は、李氏自身が認めているように「誤鉤」と言えるものである。
そうであれば、李氏が白ら主張する酒勾による恣意的改削は五例となるであろう。このように李氏の論述は解りにくい。この解りにくさを古田氏は整理したのであって、この労苦に対して、李氏は「古田氏は不幸にも、私の文章の単純な文脈さえ正確に読みとれなかったわけである」と非難(?!)するのである。

ところで、李氏が「酒勾すり替え」を主張する根拠は、「倭以辛卯年来渡海破百残」において、「時期が降って石灰が剥落すると『海』でない別の字画が拓本や写真にあらわれ、『来・渡・破』も原碑文と認め難いところにある」とする。
ここで「酒勾すり替え」の「五例」中のボイントである(2)□□□□→来渡海波に焦点をあてよう。まず李氏が使用し、引用もしている文献に基づいて考察しょう。金錫享氏は『朝鮮金石総覧』掲載の碑文をもとにして一九六三年の朝鮮民主主義人民共和国社会科学院の歴史学研究所と考古学研究所による調査によって補足をおこない、『古代朝日関係史』(勤草書房、一九六九年十月)で碑文への考察を発表しているが、李氏は同書の引用に際して、厳密でないばかりか意味上の「改削」を行なっているのである。
金氏は実際に碑を再び見ただけではなく、碑文の文字を詳しく検討した結果、1).□は見えないもの、2).□内は不明確な文字、3).傍らに×のついたものはかつてそう読めたというものと三つに厳密に分けて発表しているのであるが、これに対して、李氏は、「1)'.□のなかの文字は、一九六三に年の調査時に判読しえなかったものであり、2)'.□のなかの文字は不明確で、わずかに字画の痕跡を残すものである(金錫亨上掲書=李氏の注)」(傍点は引用者)と変質させる。今、問題のポイント(表3の(一)の(2))でも、李氏の文章では意味が変わるのである。つまり、金氏による「海」は、金氏の2).にあたるが、李氏によれば2)'.となって「わずかに字画の痕跡を残す」となり、ほとんどよく見えない意味に変化する。金氏は「不明確な文字」と発表しているのであり、逆に「来・渡・破」は1).〜3).の記号を使用していないのであるから明確な碑文であると発表しているのである。
仮に「海」字が李氏の言うようだとしても、「来・渡・破」は原碑文であると考えられ、李氏が「酒勾の改削の文字」と主張する根拠となった「『来・渡・破』は原碑文と認め難い」という断定は失われるのである。
古田氏が既に鋭く指摘しているように、金・朴両氏等の朝鮮民主主義人民共和国社会科学院の調査団の報告をも李氏は的確に尊重していない。この報告は二つの意味で重要である。即ち、第二次世界大戦後、今日まで学術調査団の調査報告として唯一であり、最も新しいという点と、この調査団が日本軍国主義のイデオロギーのために「虚偽」の報告をする必然性がないからである。万一、「改削」が行なわれたとするならば、李氏と同じくそれを指弾する立場であることは自明である。ここでも、古田氏が「李仮説の重要なウイーク・ポイントは、研究者の実地調査報告を重視しない点にある。」と批判していたことが有効であるという確認をしておこう。
次いで、古田氏が〔5〕最後の問題として、「『来渡海破」に対する李氏の疑惑の目は、当然その上の『倭」にむけられねば、論理貫徹できない。ーーこれが隠された焦点である」と指摘した問題に入ろう。この問題こそ、李説が論理上自己展開しなければならない根本的な論点であると考えられる。なぜならば、酒勾改削説は、軍国主義にとって有利に展開するために、イデオロギー上、碑文の改削を行なったとする立場であるからに他ならない。従って、基本的には、有利に展開しないものには、改削はおこなわれなかったか、誤鉤と考察される。
碑文上、一八○○余字中に見えない文字を除いて九回「倭」字が出現するのは研究者間で共通に確認されている。この九回出現する「倭」の内、「倭賊」「倭冠」「倭潰」等の文宇が酒勾本には双鉤されているが、古田氏が既に主張しているように、双鉤者がイデオロギー的にあえて「倭賊」などの倭に不利な文面を残しているのであるから、「頭によって左右された」双鉤を行なったものではない、という資料性格をしめしているものである。李氏はこの古田氏の根本的かつ論理的な疑問に、再批判の中でも一切答えていない。
しかも、李氏の史料の取り扱い方は、主観的であることが判明する。一九六三年の朝鮮民主主義人民共和国の調査団の金錫享氏の論文を引用する時に、金氏は「倭満倭潰」と発表しているのに対し、李氏は金氏のそれを、「□□□潰」と改変しているのである。
前述したように、「×(圏点としての×、インターネットでは表示できないので文字を紫色)」は「かつてそう読めた」という判断を示す記号であるのに対し、李氏は、「□」は一九六三年秋現在判読できない」として、「□」つまり不明確な文字に一層近づける「努力」をしている。このような、強引な史料操作をしてまで、あえて「倭」にこだわるのは、何故だろうか。それは、李氏の、日本の学界の「通説」に対して批判する動機が、「倭」は好太王軍と戦わなかったと考えたからであると思われるのである。
(『三国史記」の「好太王」の項には「倭」と戦ったというのは一切でてこない。それ故、九つの「倭」は九つとも「残」、つまり「百済」のことと李氏は考えているようだ。『市民の古代』第四集、56〜57頁参照)
しかし、「倭」=近畿天皇家=「大和朝廷」と等式において考察するところは、通説も、それに対して「強い衝撃」を与えているはずの李説も、根本的には同一であり、好太王碑文の真実を全面的に解明し得ないのではあるまいか。考古学者である李氏が、二つの「倭」しか疑問を提示し得なかったのは、その他の「倭」は、どの現地調査書、拓本、写真、釈文においても明確に碑文そのものであるからに他ならない。
(既に解明したように、「二つの倭」さえも、李氏の史料操作に基づくとしたら、九つの「倭」字は原碑文のものと考える他はないのである。)又、「好太王碑の開放を求めて」で私が報告したように、碑の管理者側でもあり研究者で実地検証もしている、中国吉林省博物館の武国員力*氏は、「倭の字は石灰でつくられた文字ではなくて石の字」であると証言しているのである。今後、好太王碑の公開によって、論争の終焉が期待されうるであろう。 
付記
本拙論は、一九八二年九月一八日の「歴史を語る会」(なにわ会館)で発表したものを基にまとめたものである。調査にあたって大阪府立茨木東高校の地歴部生徒達の力によるところが大きく、又、資料収集にあたっては関係各大学、機関、とりわけ古田武彦氏にお世話になったことを記して感謝したい。
注1教科書に関する調査は、現場の高校教師の共同研究として、既に一九八○年『市民の古代ーー特集、教科書に書かれた古代史ーー』(第二集、古田武彦を囲む会編)に発表しているので参照されたい。
注2近年、学術書、教科許、一般書等において「広開土王」とする傾向が多いのであるが、古田武彦氏が指摘しているように(『市民の古代」第四集参照)、省略に際しても、全体の名称からバラバラに切断して都合よく表記すべきではない。
注3佐伯有清氏は『研究史・広開土王碑』(吉川弘文館)において、九十年にわたる碑文研究を五区分している。碑文の研究史上、それぞれの碑文の扱われ方を明らかにしてるのだが、私は佐伯氏の主張する第一期から第四期を一括して通説の形成期と考える方が根本的であると思うものである。
注4読売新聞、一九七二年(昭和四七年)十一月十日。
注5好太王碑をめぐる李ーー古田の白熱した諭争を、当時ジャーナリズムは「ニセ?本物?広開土王の碑文・史学会大会で論争」(朝日新聞、一九七二年十一月十三日)等注目している。又、共同調査の必要性については「日本、朝鮮、中国三国学者の共同調査をよびかけ」(毎日新聞、一九七三年一月二四日夕刊)、同社説等主張している。
注6国姻、看姻の意味については、従来の研究書にもほとんど触れられていないために、詳細は解らないことが多い。好太王碑の文面に、国姻は二十一回、看姻は四十六回出現している。「姻」とは漢音、呉音ともに「エン」であり、煙に同じで「天地の気気に通ず火気なり」(『大字典』講談社)とあるところから、火葬の際の煙と考えられる。広じて、国姻とは守墓人の役割になったものであろう。「看」とは、漢音、呉音ともに「カン」であり、「手と目の合字、即ち手を目の上にかざしてよく見る義。転じて見守る、見つむる等の意、より看護、看病等の意に」(上掲書)なったもので、「看姻」は墓を見守る役割と考えられる。国姻と看姻を両方合わせて「姻戸」と碑文にあるところから、両方とも守墓人に問違いはないが、両者の関係については説明はない。古田武彦氏は、「国に直属する『国姻』という単位と、地方に属する『看姻』という単位の、二通りがあったみたいです。」(『市民の古代』第四集、六八頁。)と指摘している。
なお、私は「都姻」が碑文中第四面二行三一字・三二字目に出現しているのを、やはり守墓人と考える。
注7国姻についてみると、その合計が「三十」になるのは次の数値である。第三面では、八行二六字「二」、八行三五字「三」、九行十八字「二」、九行二九字「一」、十行三字「一」、十一行八字「一」、十一行二二字「一」、十二行二七字「三」、十三行六字「一」、十四行三十字「一」、十四行三九字「一」、第四面一行二十字「一」、一行二八字「二」、一行三七字「二」、二行七字「一」、二行二五字「一」、二行三四字「二」、三行四字「二」、三行十二字「一」、四行二字「一」、計「三十」。これは碑文中、四面七行二二字にある「三十」の合計と一致する。数値が最も異なるのは、第三面十四行三九字で、釈文中「七」、「六」、「四」、「一」、「□」(不明)と分れる。国姻の数の最大値は、問題の十四行三九字を除くと、「三」(三面八行三五字、三面十二行二七字)であるところから、又、看姻の守墓人より数が少なく(十分の一)重要であると考えられるから、「七」、「六」、「四」は誤鉤であると推定しうる。事実、合計数が碑文に合致するのは「一」のケースであった。
注八末松保和氏『好太王碑と私』(『古代東アジア史論集』上巻、吉川弘文館)において、大東急記念文庫本を実地に調査して、李説と異なり「酒勾本と相似の種本からの複製と想像する」と主張していたことを、私の調査後に、古田氏の指摘で知った。末松氏は、入手経過や大東急記念文庫本の復元や国姻等に言及はしていない。
注九酒勾本、大東急記念文庫の碑文の配列の仕方は次の図の様に異なっている。数字は碑文の文字の位置を表わしている。 
 
大化の改新と九州王朝

 

はじめに
私は、三、四日前、信州にまいりました。東海大学で研究発表がありまして、その帰りに信州にまいりました。主として縄文遺跡を見てまわったわけですが、新らたな感銘をうけました。例えば尖石(とがりいし)遺跡です。ここでは蛇の模様が中心の、広大な文明が存在していたというのは当然でございますが、それが後期初頭になると、滅亡したと一応いっていいのではないかということです。土器に蛇の模様がでてこなくなるのですね。そしてそれまでなかった山梨あたりのものが、あの地域に広がってくる。どうも別の文明にとってかわられた、端的にいうと支配を受けたのではないかという感じをもちました。現地の学芸員の方に「後期晩期の土器はどうなっていますか。」と聞きますと、なさけなさそうな顔で「あの項になると甲州あたりの土器ばかりです。」と、言われたのが印象的でした。要するに蛇の模様が消えさって、他の地域のものがでてくるのですね。これはやはり征服、支配をうけたと考えるべきだという感じをもったのです。自然に無くなって、自然に他地域のものがきたとは考えられない。人為的な侵入という概念をいれなければ理解できないですね。
尖石遺跡には三角形の尖った石があるわけですが、その石が古代の信仰のもとだったんでしょうね。その石の右肩に砥石をすったようにすりこんだ跡がズーとついているわけです。これは弥生や古墳時代につけたとは考えられません。その時代は人がこの辺に全然来ない時代だったですから。やっぱり縄文時代につけたものでしよう。
神様として崇拝しながら、砥石がわりに使うって事は有りえないですよ。だから私は同じ縄文期でも崇拝していた時代と、砥石に使った時代は別なんではないか。崇拝していたのは前期中期の時代で、砥石に使ったのは後期晩期ではなかったか。つまり尖石を尖石として崇敬せざる種族が入ってきて支配した痕跡とみればいいのではないかと考えるわけです。
一見矛盾した砥石だという説と神様だという説の二つが書かれていますが、私は両方正しいのではないか、両方正しいという鍵は征服・侵略ということで、初めて理解できるのではないでしようか。
縄文には政治概念なんかはぬきで考えられていて、それが暗黙の約束みたいになっていますが、政治もしくは軍事という概念をいれなければ、理解できないのではないだろうか。考えてみますと、黒曜石の宝庫の和田峠は当時において他の地域との貧富差はものすごいものですよ。甲州や越後の方はそれをねらって、この間の勢力の確執は甚しいものがあったのではないかと思います。
縄文期における政治的軍事的力学といいますか、こういうものを基にして理解しなければいけないと思います。以前阿久遺跡(縄文前期)をみた時から思っていたテーマにピッタリ合うと思って帰ってまいりました。
又信州の、甲州に近い井戸尻で殷周の銅器とそっくりな模様をもった縄文土器がでてきますね。信州の三本指の神様とそっくりな神様もでてくるのです。単にテザインが似ているだけなら偶然の一致といえますが神様まで一緒ですから、どうしても両者の問に伝播交渉があったと考えないではいられません。そして殷より信州人の方が千年早いのです。もし交渉があったとすれば矢印は中国から日本列島へではなく、日本列島から中国への矢印を考えなければいけません。
もちろん中間地帯、中間国に淵源があるとかいろいろ考えられますが、すごいテーマを我々に提起していると思います。
さて今年の夏は私にとりまして、新しい理解といいましようか局面といいましようか、新しい世界が広がることを経験したわけです。六月の二十九日、三十日から七月一日、二日にかけて大きなショックをうけ、七月八日と京大その他に通いづめに通いまして、関係資料にあたりました。その結果を今日初めて後半の部分でお話しいたします。
前半は先程も申しました東海大学の日本思想史の学会で発表しましたのを話します。後半は十一月十三日東大の史学会で研究発表することになっています。その内容を本日皆様にお聞きいただくわけです。会場の都合で二時間くらいでお話をしなければいけませんので、今日なるべく前後関係、大きな歴史上のイメージをお話しするつもりです。そしてキーポイントと、アウトライン、何がいいたいのかにしぼって話させていただき、時間が余れば補足をさせていただくというプランでお話しさせていただきたいと思います。 
邪馬壱国・九州王朝説とは
さて今日初めて私の講演会に来ていただいた方もあると存じますので、入口のところだけ簡単に申します。私は三世紀の卑弥呼は九州博多湾岸(広くとりますと志賀島から朝倉、狭くとりますと博多駅から太宰府)にいた。邪馬一国はそこにあったと考えているわけでございます。そして三世紀だけでなく五世紀、中国の『宋書』にでてきます倭の五王(讃・珍・済・興・武)もこの九州の王者であると考えます。今まで殆んどの古代史学者が考えていたように近畿天皇家ではなく、九州の王者筑紫の君と考えます。従来の論証方法は天皇家に決まっているという安易な考えのためか、倭王讃はイザホワケのザを讃にした等、あまりにも杜撰である。しかし私は本人の自署名である、天子に使わした手紙の自署名であると述べたわけでございます。
論証を申します。倭の五王は安東大将軍と自称したり、中国から称号を貰ったりしました。大将軍を示す称号は近畿天皇家にはでてこない。和風の名称ばかりである。しかし筑紫の君の場合はそうではない、『筑後国風土記』に筑紫の君磐井のことがでてまいります。ここで磐井は自分の本拠のことを「衙頭」と称している。「衙頭」の頭は「ほとり」で「衙のほとり」という意味です。中国側の歴史書をみますと「衙」は、大将軍の本営のことをいうと書いてある。すると筑紫の君は自分を中国風の大将軍と名乗っていたことになる。この点からみても倭の五王は近畿天皇家ではなくて、九州の王朝筑紫の君であるいう論証「衙頭の論証」を述べました。(一九八三年『史学雑誌』)
次に、九州年号というテーマを従来から提起しております。
従来大学、教科書の知識では八世紀の初め大宝元年から連続した年が始まり、現代昭和まで至っているといっているわけです。それ以前は本日のテーマ「大化改新」の大化が天皇家が作った最初の年号であり、そのあと白雉とか朱鳥とかの年号が断続してあって、大宝以後は連続して続いている。七世紀後半はちらほら三つ程でてくるだけだというふうに、従来いっていたわけです。
ところがそうではなく、実は六世紀前半、継体天皇の十六年にあたる年、九州(私のいいます九州王朝)で年号が作られた。善記元年という年号が作られ、七世紀終り大長まで、三十数個の年号が連続して作り続けられていたのです。そして不思議なことに九州年号が終った翌年から大宝元年が始まっているわけですね。これは非常に意義深いところですね。
この九州年号は実在の年号であると私は述べたわけでございます。これを架空だ、偽作だという人は、(1)後世(平安、鎌倉)の偽作なら神武天皇元年、或いはそれ以前から始めればいいのに、継体十六年という中途から始めたのは何故でしようか、これに答えて欲しいのです。(2)仏教を現わす「僧聴」という年号が四番目にあるけれど『日本書紀』の仏教初伝の記事よりも早い。これも後世の偽作とすれば、考えられないことではないか。(3)『日本書紀』の有名な「大化」と同じ時期に九州年号は「命長」とか「常色」とかの年号がある。これも後世の偽作なら「大化」を知らないことになる。(4)九州年号は近畿天皇家内の即位年とは全く違っている。二つ一致しているだけで残り三十個余りは全く違っている。このことからも後世の偽作とは考えられない。というようなことを述べたわけです。これに対する回答は今のところございません。
新しい論証としては新羅年号の問題があります。朝鮮半島に『三国史記』という歴史書があります。これが成立したのは鎌倉期の頃ですが、内容は大変古い資料を使っておりまして、大体において信用のできる性格の史料でございます。ただ統一新羅がこの資料を集めて高麗が受けついで歴史書にしましたので、敵国であった百済や高麗の資料は非常に脱落が多いですし、新羅自身も六世紀段階ではかなり脱落があるという、欠点といえば欠点があります。しかしその欠点を歴史家がいいかげんに埋めていない、という点が、逆に信用できるわけです。脱落しているから大体の判断で補って書いておこうとやられると、見た体裁はよくなるけれど、資料としては困るわけです。そういうことをしていないわけです。無いところは無いままにしているわけです。そういう点が『日本書紀』とは違うところです。
この『三国史記』によると六世紀の中ば、五三六年に建元元年という年号を法興王が始めて、七世紀の真ん中、六五〇年大和四年まで続いているわけです。およそ百年ちょっと続いたわけです。そして皆様御存知の「日出づる処の天子」。(従来は推古天皇とか聖徳太子。私は九州王朝の多利思北孤。論証として(1)男王とあるのに推古天皇は女である。(2)阿蘇山ありとある。だから大和ではなく九州である。)天子と名乗るなら、天子に年号がいるというのは東アジアの常識であります。隣りの新羅は天子ではなく王です。中国の天子配下の大将軍、王であるにもかかわらず年号をもっている。王の新羅が年号をもっているのを隣りの日本列島側の倭国が知らなかったはずはないわけです。倭国(正確にはイ妥*国)が自らを天子と名乗ったのに、年号だけは作り忘れましたということはありうることではないです。近畿天皇家は七世紀前半には年号がない。だから六世紀中ばから年号の続いている九州王朝の多利思北孤が「日出づる処の天子」でないと、大義名分に関する致命的な矛盾が生じるということを述べたわけでございます。
イ妥*国(たいこく)の、イ妥*(たい)は人偏に妥。ユニコード番号4FCO。
以上、弥生時代から七世紀終りまで、九州には一貫して王朝が存在したのだということです。近畿天皇家は九州王朝の分家です。日向から出発した九州王朝の田舎豪族の末裔で、九州の地に絶望して銅鐸圏に侵入をはかった青年達、それが勢力を拡大して、いわゆる近畿天皇家になったわけです。簡単にいえばイギリスとアメリカの関係であります。アメリカはイギリスより大きくなったけれど、出身地はイギリスであるというふうな関係である。これが九州王朝と近畿天皇家の関係であるということを述べたわけでございます。 
律令体制
それでは本日の前半のテーマに入っていきます。話は七世紀の終り八世紀の初頭のところにまいりました。
「律令体制」「律令国家」という言葉があります。教科書等にもでてまいります。いつのことかと申しますと、八世紀の初め「大宝律令」のことでございます。これをうけて「養老律令」というのができたのが知られています。現在「養老律令」が残っているので、それを某にして「大宝律令」もほぼ推察できるというわけでございます。
この八世紀初めが我が国における法治国家としての体制、つまり律令体制ができた初めであると従来の古代史学では述べております。
しかし考えてみるとおかしいのです。中国で律令体制、律令国家がいつ始まったかを調べてみますと、簡単に分ります。秦の始皇帝が始めたわけです。『史記』にでてまいりまして、律令という言葉を使っております。さらに漢は律令国家でした。卑弥呼が使いした魏、倭の五王が使いした南朝劉宋ももちろん律令国家でした。『宋書』に律令という言葉がよくでてまいります。さらに隋も唐も律令国家であるわけです。
従来の古代史学の説明によりますと「大宝律令」は唐の律令を真似したものだと書いてあります。内容が酷似していますから間違いはありません。唐は七世紀中葉にできた国です。しかし中国では秦の始皇帝、紀元前から律令国家であります。その律令国家に卑弥呼が使いし、倭の五王が使いし、「日出づる処の天子」多利思北孤が使いを送っているわけです。天子というのは中国語です。一番肝心要の用語をとって使っているわけです。にもかかわらずこの間全く中国の国家体制そのものである律令体制、律令という組織に何の関心もはらわず、何の模倣もしようとしなかったというのが従来の考え方です。本には書いてないですが理屈からいうと当然そうなるのです。これはおかしいです。“中国なんて知りませんよ。我国は我国独自でやっているんです”ならいいですよ。そうじゃないでしょう。専ら卑弥呼にしても倭の五王にしても真似に真似している。「日出づる処の天子」は独自ではあるが中国語を使っての独自なんです。ある意味でこれくらい“真似している”ことはないと言えるわけです。それくらい中国文明に対して傾斜を深めていながら、肝心要の律令について知りませんよということがはたしてあるでしようか。この辺に大きな疑問を感じないのはおかしいです。
この前に一つ注意すべき点がございます。律令の性格は発展し変わってきている。今のテーマを明確に考える上で、大きく二つに分けてみますと、唐代の律令とそれ以前の律令の性格は違うわけです。 
律令とは何か
古い律令は秦の始皇帝が始めたのですが、律が中心で令が補いなんです。“覚える”というのは恐いもので、律令という言葉を覚えてない方はいらっしゃらないと思いますが、もし生徒が「令律と何故いわないのですか」と先生に聞いたら、先生も困るでしようね。令律とはいいませんね、律令ですね。これは理由があるのです。秦の始皇帝が始めた律令は、律が中心で令が補いだから令律ではないのです。律が根本だから律が先なんです。今でいえば刑法的な掟が中心で、それを分けて丁寧に説明するのが令なんです。大体これを漢も受けつぎ、魏晋南北朝と受けついでいるわけです。
これに対して隋を承けた唐の場合は少し、あるいは大いにといってもいいでしようが、概念が違うのです。令が法律の基本になるわけです。令を補ったものが格式です。令に対する補いが格で、それに対する補いが式なんです。令格式が中心になるわけです。法律で令格式を作るわけです。その規定(文章で書いたもの)に背いた者を律で罰するわけです。そこに律の役割があるわけです。
それなら現代の法律と一緒ではないかといわれますが、そうです。現代法治国家という所以のもとは、法律にちゃんと書いてある事に背くことをすれば罰せられるわけです。刑法にひっかかるわけです。だから法律に書いてない事ならいいわけです。ズルイ人達は法律のぬけ穴をくぐり大儲けしたりするのです。現代の刑法は“法律に書いてあることなら捕まえますよ、それ以外は、捕まえません”という約束をしているわけです。近代法の概念がこれなんです。我々の近代法の概念はヨーロッパ、アメリカから学びとったものですが、基本概念は唐の律令格式、つまり「大宝律令」以来の伝統の中にあるのです。明治以後ヨーロッパ、アメリカの近代国家を、日本が真似する時にあまりとまどわずに済んだ一つの例がもしれませんね。
唐においてこういう形の概念ができあがったわけです。もちろんだんだん変わってきたのですが、大きく類別するとこういうことになります。
先程の律を中心にして令が条文、補い、このやり方を始皇帝以来のを、古律令と一応名前をつけておきます。これに対して令格式が中心で、これに背いたものを律で罰するという唐が完成したやり方を新律令と一応名前を私がつけておきます。
すると「大宝律令」は新律令を模倣した第一号ですね。唐は七世紀後半に始まったんですから。問題は古律令が日本列島全体に、何らの影響を与えていないかということに絞られてくるわけです。そこで見いだされる大事な例が『筑後国風土記』の磐井に関する記事でございます。
筑後國風土記曰上妻縣々南二里有二筑紫君磐井之墓墳一高七丈周六十丈墓田南北各六十丈東西各卅丈石人石盾各六十枚交陣成レ行周二匝四面一當二東北角一有二一別區一號曰二衙頭一(衙頭政所也)其中有二一石人一縦容立レ地號曰二解部一前有二一人一[身果]形伏レ地號曰二愉*人一(生為愉*猪仍擬レ決レ罪)側有二石猪四頭一號二贓物(贓物盗物也)彼處亦有二石馬三疋石殿三間石藏二間一〈下略〉
[身果](あか)は、身編に果。JIS第4水準ユニコード番号8EB6
愉*(ぬす)は、立心偏の代わりに人偏。番号5077
ここに衙頭がでてまいります。(1)は註釈で「衙頭は政所也」とあります。その後「其の中に一石人有り、縦容として地に立てり、號して解部という」これが裁判官です。「前に一人あり[身果](あか)形にして地に伏す、號して楡*人という。註は生まれて猪を楡*(ぬす)むをなす、よりて罰を決するに擬す。」本文にかえりまして「側に四頭の石猪あり、贓物(ぞうもつ)と號す。」「賊物は盗物なり」ということでここは一言でいいますと裁判の場が石のミニチュアで再現されているわけです。
もちろん衙頭にしても衙はおそらく太宰府あたりでしょう。政治の場全体のミニチュアといえるでしょう。そして眠目といいますか、「目玉商品」は裁判です。しかも注目すべきは(3)の「贓物(ぞうもつ)は盗物(ぬすみもの)なり」です。私はこの言葉は非常に重大だと思うのです。贓物(ぞうもつ)と漢語、中国語で読むんですね。だから「盗んだ物である」と日本語の註釈がいるわけですね。裁判の術語は中国語が使われているんですね。だから「日本語でいうと、盗んだ物です」というふうになるのです。
この前の「號して楡*人という」も、トウジンと読まなければいけませんね。岩波の古典大系等は「ヌスビト」とかなをふってありますが、これは駄目ですね。「トウジン」と漢語で読まなければいけません。
裁判官は解部(ときべ)、日本語です。磐井の周辺に「○○部」という形の行政組織がうまれていたことを示しているのです。その中の一つが解部。当然ながら、日本語も使っていたのです。
しかし肝心の盗人を指したり、盗んだ物を指したりする言葉は、中国語で中国風発音で呼ばれていたわけです。「六世紀の中国風発音」で呼ばれていたわけです。
これは磐井が生前に作らせたというのですが、おそらく磐井が生きている時の政治的行政の中で、最も重要な部分が裁判の法の制定にあたったと磐井が自負していたことの反映である、とみて間違いないのではないでしようか。私の想像ではありますが、これ以外の想像はできにくいと思います。磐井は裁判に関する新しい(倭国側で)政治制度を創設した。「これは私の大いなる業積である」と磐井が思っていたから、死後にまで墓の側に裁判の場の展示場を作らせたと考えて問違いはないだろうと思います。
この政治上の法令の中心は刑法が中心になっていたのですね。この刑法は口で伝える慣習法ではなくて、文章で書かれていたのです。それでなければ、先程のように、発音を「漢語」でされたのでは分りませんよ。文章に書かれてこそ漢語は分るんですからね。これは文章に書かれていて、中国語で中国の刑法上の述語で書かれ、律中心の法体系であった。それを制定したことを磐井は自己の政治的業積の中心をなすものであると考えていた。だから自分の死後までもそれを伝えたいというふうに考えて、こういうミニチュア展示場を作らしめた、と理解するのが私は最も自然な理解ではないかと思います。それをそうでない、気まぐれに、おもちゃに作ったんでしようという方が、ずっと風変りな理解であると思うのです。
そしてこれは先程いいました、古律令ではないかという問題がでてくるのです。六世紀前半に古律令が発布されたなんて信じがたいと、従来の定説をよく御存知の方程お思いになるかもしれません。実はそうではないのですね。
三国史記の史料性格
すぐ向いの新羅、先程の新羅年号を作った
法興王の五二〇年、春正月。領示律令。始制百官公服、朱紫之秩。
という文章が『三国史記』にあるわけです。つまり法興王が律令を発布しているわけです。
これに対して日本の古代史の学者がふれた論文をみたことがあります。おそらく造作ではあるまいが、本当ではあるまいと書いてある文章を読んだことがあります。理由は書いてないですが、私は見当はずれではないかと思うわけです。この人の考えでは律令といえば条件反射で「大宝律令」その基をなす唐の律令(七世紀後半)を、あの新羅ごときが六世紀前半ぐらいに作っていたはずがない、これはおそらく偽物だという判断だと思うのです。
これは基準にするものが違うのですね。新律令と古律令。基準尺を問違えているのではないかということです。
それにもう一つ。造作という言葉ですね。津田左右吉が『日本書紀』で愛用した言葉ですが、これを『三国史記』にむけるというのは見当はずれだと思うのです。先程申しましたように『三国史記』は、『日本書紀』とは性格が違っています。具体例をあげますと倭という字が大変よく「新羅本記」にはでてきますが、「百済本紀」にはわずかしかでてきません。「高句麗本記」には全くでてきません。これはおかしいのです。少くとも「百済本記」には倭が新羅以上にでてきていい感じですね、非常に百済は倭国と仲が良かったんですから。高句麗の方も高句麗好太王が倭と戦ったんですから、倭がでてきてもいいのですが全くでてこない。
この辺を李進照(じんひ)さんは『三国史記』の好太王のところに倭がでてきていないことが下敷になって、あの好太王碑はおかしい。あの倭は偽物ではないかと考えられたようです。
しかし私には、これは『三国史記』に対する史料批判が不充分であると考えられます。何故かといいますと、『三国史記』は新羅が百済、高句麗を滅してから統一新羅になる。統一新羅が高麗に滅ぼされて統一高麗になる。その時作られた本なんです。だから資料は新羅系の資料である。新羅の資料は豊富です。しかし百済や高句麗は滅ぼされたのです。新羅に資料を全部渡して滅亡していくなんてことはないですから、百済や高句麗の資料は捨てられ散逸させられ焼かれたものが少くなかったわけです。だから百済、高句麗については資料は非常に乏しいわけです。従ってそこには倭に関する資料も乏しいわけです。倭がでてこないわけです。日本人である我々がみておかしいと思うだけでなく、朝鮮半島側の人達がみてもおかしいわけです。当然『三国史記』を作った編者からみてもおかしかったはずなんです。しかしおかしいから百済に関する倭の資料を少し水増しして増やしておこうということはしていないのです。少ないままにしている。高句麗に関してはゼロのままにしている。これは残念だけど、有難い。信用できるわけです。
なお倭が一番多くでてくる「新羅本紀」も五世紀まではたいへん多くでてきます。ところが六世紀になりますと倭は全くでてきません。ゼロになります。これはおかしいです。六世紀こそは従前にも増して(仲がいい、つまり友好、または敵対の両ケースを含めまして)関係が非常に深くなっているはずです。ところが何もない。それはこの時期の資料が散逸したからです。統一新羅は統一高麗に滅亡させられているからです。新羅についても六世紀関係のは散逸しているわけです。散逸したままで補なわず歴史書にしているわけです。
こういう性格からいいまして『三国史記』は信用のできる、史料性格をもっている。編者が勝手に作ったのではないということが分るわけです。こういう史料性格からいいますと「領示律令」を、勝手に作ったんだろう、造作だろうというのは、歴史書の性格をわきまえてないということです。『日本書紀』は造作であると簡単に更け入れてすませていた手法を、うっかり全然違う歴史書にもむけてしまったということであると思います。 
律令を作った東アジア諸国
ついでにいいますと律令を作ったという話は百済、高句麗にはないのです。新羅が作るより前に百済が作らなかったはずはないし、それより前に高句麗が作らなかったはずはないです。高句麗はズーと早くから中国と接触をもっていますから、律令を作らなかったはずはないのです。それがないというのは高句麗が律令を作らなかった証拠ではなくて、資料が脱落している痕跡であるとみるのが筋です。そして少くとも新羅について律令を作ったと書いてあるのを造作とはいえない。造作なら百済でも高句麗でも適当に造作して書いておけばいいのです。それをしていないのをみますと、この律令を作って領布したという記事を、私は疑うことはできないと思うのです。
新羅が律令を作っているのに、すぐ向いの倭国が律令に無関心だったとは考えることはできない。倭国は新羅より早くから帯方郡、楽浪郡(中国史書でみる限り)と交渉をもつた。その倭国が六世紀段階においてもまだ無関心であったとは考えられない。少くとも対岸の新羅にあったのに、筑紫の君の国に古律令があったはずはないと、“ガンバル”のは道理ではないと考えます。
従って、磐井の墓にある石造展示物を律令発布の表現、痕跡とみることは最も自然な理解ではないか。というふうに思うわけでございます。
特に新羅と筑紫の君、九州王朝との連絡といいますが関連は、年号によってもはっきりしております。つまり新羅が年号を作ったより少し早く九州王朝側は年号を作っているわけです。九州王朝は律令と年号のどちらが早いかはっきりしませんが、新羅の法興王の場合は年号より先に律令を作っておりますので、磐井も、九州年号(善記、継体十六年)より早く律令を領布していた可能性があります(後に述べます)。ともあれ、相前後して新羅と共にお互に各自の律令を作っていた、というふうになるわけであります。
これは東アジア的視点からみれば何の不思議もない。ところが、近畿天皇家一元主義の目からみれば、天皇家しか律令を作るべきでない、他の者が作るなんてありえないのです。それは戦前の史学であり戦後史学もその枠をでていなかったのです。「天皇家しか、律令を作ることはありえないのだ。」という、全然証明できない先入概念(私はこれを近畿天皇家一元主義と呼びます)イデオロギーを除けて、東アジア全体の法的展開の筋合いからみますと、筑紫の君磐井が六世紀前半において律令を作り領布していた。それに対して近畿天皇家が律令を学んだのはズーッと遅く八世紀の初めからである、というふうに理解せざるをえないわけでございます。 
磐井の「反乱」
これの意味することは何かを次に申します。一つは磐井と同じ時期の継体の方では律令を施いていた形跡が全くない。『古事記』『日本書紀』のどこをみても、「継体が律令を施いた。」という記事はありませんよ。だから律令国家ではなかった、こう考えざるをえないわけです。これは『古事記』『日本書紀』のとっております建前、いわゆる磐井の「反乱」という言葉がいかに逆立ちしているかということを示すものではないでしようか。何故なら「律令を持たない近畿天皇家の配下に、律令を持った国家がある」なんて図は、とても考えられた話しじゃないわけです。むしろ「律令を持った磐井の配下に近畿天皇家が分家として存在する。」近畿天皇家が律令の内にいたか外にいたかは、非常に面白い問題ですが、これを今、確言できないにしても、少くとも近畿天皇家の上位に磐井がいる。武力は強いがより中国から離れ、文化に遠い、中国を基準として「より夷蛮的」な存在が近畿天皇家である等というふうになるわけです。
「近畿天皇家の配下に磐井があった」というのは本末転倒したものであります。『日本書紀』の大義名分から作られた言葉が磐井の「反乱」という言葉であります。事実、磐井は何もしていないのです。ただ「反乱」とレッテルを貼っただけのことなのです。こういうふうに考えられるわけでございます。
さらに考えてみますと、磐井は近畿天皇家に比べて、東アジアの文明中心の中国に近かっただけではなく、現実的に中国の配下の大将軍だったわけです。中国の天子の配下の大将軍を近畿天皇家が「家来にもっている」などということはありえないのです。
以上、いずれの方からみましても、「反乱」という言葉で、我々が長らく惑わされてきました肝心の点、この大義名分問題の逆立ちを払拭しなければいけないのです。
そして正当にみれば「磐井の律令」というものが、後々の「大宝律令」と無関係であったはずはない。近畿天皇家は磐井の律令の大きな影響下で、「大宝律令」を作ったと考えるのが筋ではないでしようか。同じ日本列島ですし、本家と分家です。本家の方が律令を作っているのに、本家の律令には全く無関心で遠い唐から律令を習ってきたと、考える方がおかしいですね。当然中国の影響は本家を通じて受けていて、白村江の戦以後勝利者の唐の新律令を学んだのです。
なお磐井の律令は古律令といいましても南朝系の古律令であります。これに対して、天皇家は北朝系の唐律令を受けついだのです。今時間がありませんので詳しくは申せませんが、現在の律令の中に大体唐の影響で説明できるのだが、それでは説明できない南朝系の条文が入っているという論点が、法制史上解決しがたい問題が、今も残っているわけです。それは従来の常識でみるから疑問なので、私の申しました筋道からしますと、むしろ当り前の話になってくるわけであります。
ただ、『日本書紀』は建前で磐井の「反乱」にしてしまったので、「磐井の律令の影響を受けた」などといってはいけないわけです。全部『日本書紀』では消してあるから、疑問が残るわけです。「唐の律令を真似していながら、何故南朝系の要素が残っているのだろう」という疑問が残るのです。 
九州年号の開始の問題
最後に申しあげますのは、九州年号開始の問題でございます。九州年号の始まりは「善記」か「善化」のどちらであるかということです。さて、九州年号は九州を中心に非常に「実用」されています。
(1)貴楽式(二)年創立(欽明期) (福岡県)御井郡東鰺坂両村、若宮大菩薩 〈久留米史料業書、第七集〉
(2)白鳳十八年創立(天武期) (熊本県)玉名郡内田手水、下津原村、飛尾大明神、春鎮社 〈肥後国誌〉
(3)知僧三年創立(欽明期) (佐賀県)興賀淀姫大明神 〈肥前古跡縁起〉
(4)定居元年(推古期) (山口県)佐波郡、西佐波令、仮屋村、福宝寺、百済の済の琳聖の渡来。〈防長風土注進案〉
等があります。(1)は高山利之さん、(2)は平野雅廣さん、(3)も平野さん、(4)は前田博司さんの御教示によるものです。
これらの実例によると、最初の九州年号は「善化」の方ではなく、「善記」の方がいいようです。これは、『失われた九州王朝』では、むしろ海東諸国記の「善化」の方をよしとした一節がありましたが、これはわたしのあやまりであったようです。なぜなら、
第一、通例、「原文改定」する場合、“意味が通りやすく”改定する場合が多い。この見地からは、「善化」の方が“わかりやすい”。第二、何より決定的なのは、「実用例」です。先にあげた九州とその周辺(山口県)に出てくる、神社などの創建年代などでは、「善化」でなく、「善記」の方が使われています。
では、「善記」の意味は何か。これが今年の夏、八月中旬に、ふとしたことから解けてまいりました。
テレビでふとかいま見た「記代(のりよ)さん」(女子プロレス)という方の名前にヒントをえて詳しく調べはじめたところ、「記」には「教命之書」の意味があり、さらに、「大将軍」のいる「府」から発する「令」を「記」ということが判ってきたのです。(資料参照)
よく知られているように、天子の発する「令」を「詔」とか「勅」とか、いいます。その部下の「大将軍」が発する「令」を何というか。あまり知られていませんでしたね。それが「記」なのです。
とすると、倭の五王は「大将軍」を名乗っていたのですから、その下した法令などは、中国風にいうと「記」となるわけです。
ところが、磐井は、自分の本営を「衙」と称していました。筑後国風土記の「衙頭」(=政府)の用語がそれをしめしています。これは「大将軍の本営」を指す言葉です。「府」のあるところ、なのです。
従ってその磐井の発布した「律令」は、とりもなおさず、「記」である、ということにならざるをえません。
このように考えてきますと、「善記元年」の「記」は、この「記」ではないか、という問題が出てきます。「善教」とか「善学」とかいった類の熟語は、辞書に頻出しています。こういう「善ー」という熟語形をかどにして、「善記」という造語をしたのではないでしようか。
磐井が、死後にまで自分の墓のそばに「律令」実施の石模型を作って残そうとしていた。その意志からしますと、この「記」とは、先にのべた“文章で書かれ、中国風の裁判用譜(「倫人」「臓物」)を使って発布された、律令”を示す、その可能性が強いように思われます。
対岸の新羅、その国王である法興王は、律令を発布し、年号を制定しました(三国史記)。同様に、大きくいって同時期(年号からいえば、やや九州年号の方が早い)に、倭国の王たる、筑紫の君、磐井が、律令や年号を作ったとしても、何の不思議もないのです。以上、わたしにとって、ながらく研究課題となっていた、「九州年号の始源」問題に対して、一つの回答をえたことを報告させていただきたいと思います。 
那須国造碑について
後半に入ります。今年の七月二四日に栃木県の史心会からお招ねきいただき、講演会をさせていただきました。栃木県といいましたら、稲荷山鉄剣の大前神社、磯鬼宮のあるところですが、金石文として「那須国造碑」の存在する所でもあります。それで今年の五、六月頃から調べ始めたわけです。
永昌元年巳丑四年四月」飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹」那須直韋提評督」被賜』歳次康子年正月二壬子日辰節尓』仰惟殖公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳照一命之期連見再甦〈下略〉
とあるのですが、従来説と私の読み方が違うのです。『栃木県史』にでている読み方であるとか、岡崎敬さん、井上光貞さんなどの読み方のどれをみましても、私の読んだようには読んでいないのです。永昌元年から飛鳥浄御原大宮までは同じですが、那須国造、追大壹、那須直と、三つ共本人の肩書に読んで、三つの称号をもっている韋提という人が、評督という称号を貰った。だから貰ったのは評督であると従来は読んでいるのです。誰れから貰ったかというと、「飛鳥浄御原」ですから天武、持統、そしで年代からみると持統(持統三年)です。
年号は永昌元年です。これは中国の年号、則天武后の年号で、天子の年号と則天武后の年号の二本立ての年号があった時の、則天武后の方の年号を書いてあります。これが従来説です。
しかし私は戦前や江戸時代には私と同じ読み方の人もいたのではないかと調べたのです。江戸時代からかなりこの碑は読まれていまして、水戸光圀はこの石碑を基にして韋提さんの墓はどれかと発堀したのです。上侍塚・下侍塚等ですね、江戸時代から非常に注目され、いろんな学者が読んでいるのですが、そのどれを読んでも従来説で私のような読み方をしている人はいないのです。
私は自分の読み方が自然だと思ったのです。その根拠
(1)評という行政単位がでてまいります。藤原宮の木簡で出てきましたように、
己亥年(六九九年・文武三年)十月上挾国阿波評松里
のように“国”の方が上部概念で“評”の方が下部概念である。今でいえば○○県○○市のように、県が上部概念、市が下部概念です。府と市でも同じですね。こういう意味で上の単位が“国”である。下の単位が“評”である、もっと下の単位が“里”であるというのは動がしがたいと思われていたのです。
国造については論議が沢山あるのですが、要するに“国“に関する実力とか名誉とかをもった称号であるのは明らかです。それに対して評督は評に関する督(監督)とか評を支配する権限をもった長官であることも、恐らく明らかでしよう。
すると従来説は「国造」をもっている人が、「評督」を貰って喜んでいる、となるわけです。しかし私の読み方では“評督”を貰っている人が“国造”を貰ったことになるわけです。嬉しいわけです。碑を建てたのは韋提か死んでからですが、石碑を建てるのに値するのじゃないか。このように単純な感じかたで読んだのです。
(2)さて単純な感じ方だけから、“いい。”というわけではめりません。私の「那須直・韋提評督」という読み方、評督の称号が本人の実名の下に付くことがあるのかという問題になるわけです。調べてみますと、あります。
「倉足諏訪評督」〈信濃国、金刺氏系図〉
というのがあります。これは系図ですので読み取り方に問題があるわけですが、問題がないのは
「新家連阿久督領」〈皇太神宮儀式帳〉
です。「督領」は「評督」と同類の称号です。「督領」が実名の下にきています。
私の読んだように「那須直韋提評督」と読んでも、少くとも実例からみると不思議ではないですね。
(3)それから「那須国造」と一連のものと考えられる「追大壱」があります。「追大壱」というのは非常にはっきりしております。天武の末年にこの制度が作られ持統朝に伝えられたのです。大宝からは違う制度になります。「追大壱」がでてくるのは天武の末年から持統までの限られた年代にしかでてこないのです。でてきてはならないわけです。文武五年が大宝ですから、それ以後でてきてはならないわけです。
私の読み方では「追大壱」を飛鳥浄御原大宮から貰ったことになるので、全く矛盾がないわけです。
(4)私が一番決め手になると思ったのはこの文章です。これは漢文ではありません。漢字が並んでいるので、漢文のような気がしますが漢文ではないのです。従来説であれ私の読み方でも漢文ではないのです。それなら何のルールもないかというと、やはりルールはあると思うのです。
どういうルールかといいますと、「永昌元年」で始まり「飛鳥浄御原」となっています。これを逆にしても意味は変らないわけです。「飛鳥浄御原」から「永昌元年」に○○を貰ったとしても意味に違いはないわけです。ただ日本語を漢字で並べてあるだけですから、日本語ではどちらを先に書いても、意昧は通じるんです。では何故に「永昌元年」が先にきているかという「尊卑関係」だと私は思うのです。尊いものを上にして、卑しいものというか、より尊くないものを下にもってきている。つまり「飛鳥浄御原」の方より中国の朝廷の方が尊いわけです。だから「飛鳥浄御原」を先頭にもってきてはいけない、「永昌元年」を先頭にしなくてはいけなかったんだろうと思うわけです。この文章を書いた人の意識は「尊卑」の上下関係にもとづいている、という仮説をたててみたのです。
そうしますと、従来説では、「那須国造・追大壱・那須直韋提」が今までの本人の肩書で、今度貰った肝心のものが、「評督」なのです。とすると飛鳥浄御原からいただいた肝心のものを、自分の足の下に踏んでいる、そういう形になるわけです。
これに対し、私の読み方では飛鳥浄御原からいただいたもの「那須国造・追大壱」を「飛鳥浄御原」の次にもってきて、本人「那須直韋提評督」を一番最後にしている。先程いいました「尊卑の順序」はスーッと通っているのです。
従来説では今度いただいた肝心のものを本人の足の下に置くという、こういう文章になっているのですね。「尊卑のルール」で書かれていると考えると、文章として一つのルールがある。すると私の方は、それに合っているが、従来説では合わない。
(5)それから「評督」は「那須評督」であることは誰れも疑ってないわけです。「韋提評督」と「那須」をカットしています。
従来説だと「那須国造」「那須直」と二度「那須」を付けていながら、肝心のものである「評督」には「那須」をカットしていることになるのです。これは不自然だと思います。他の所をカットしても「那須評督」を貰ったとこれだけはキッチリと書いてほしいですね。
これに対して私の読み方では、「那須直・韋提評督」です。那須の直の韋提評督ですから、評督に那須評督とするとかえっておかしいです。先程の例もそうではないですね。そして今度貰った肝心のものに「那須国造・追大壱」と那須をつけているわけです。ただ国造でなく那須国造とちゃんと書いている。
“貰った、肝心のものに省略がない。”という点も私の読み方ならいいが、従来説では肝心のものに三回目だからめんどくさい、やめとけという形になります。 
那須国造碑の謎
(6)最後に一番の問題があります。
この石碑の最大の特徴といいますか、不思議な点があります。
今までの解説ではこれから説明するところをあまり不思議だとはいってないのですが、私には不思議だと思われるのです。
この韋提が一生の内二回いい目にあったというのを、先程引用しました文の後半でくり返しています。一生の内二回お陽さんのあたるいい目にあった。二回いい目にあっただけでなく、もう駄目だと思ったら又生きかえったという、本人にはショッキングな喜びだったらしいですね。確かにそうですね。御本人は二回称号を貰っているのです。「那須国造・追大壱」を貰ったのと「評督」というのを貰ったのです。「那須直」は姓ですから自分が貰わなくても、お父さんお祖父さんから伝わっててもいいのです。しかし「那須国造・追大壱」「評督」は本人が貰ったのです。特に「追大壱」は御本人が貰ったのに決っているのです。二回いい目にあっているのは本人の称号からも明らかなんです。
ところが不思議なことに、二回いい目にあったのなら二回の時点があり、二回いい目にあててくれた人がいるはずなんですが、石碑には一回の時点と一つしか与えた人が書いてないのです。これがこの碑の一番の不思議だと思うのです。あと一回の称号については、誰れから何時貰ったかは省略しますという姿勢なのです。
これはこの石碑の分量からも不思議です。先程の引用は一部分です。大きな立派な石碑でして、碑面がなくて一回分は省略したというものではありません。一回分を完全に故意にカットしているわけです。ここがこの石碑の不思議なところです。
そこで私の説と従来説の場合、何を表し何を隠しているか違ってくるわけです。従来説では「那須国造・追大壱」を誰れから何時貰ったかは御遠慮申します。省略します。そして「評督」を「永昌元年」に「飛鳥浄御原大宮」から貰らいましたといっていることになります。
私の場合は「那須国造・追大壱」を「永昌元年」に「「飛鳥浄御原」から貰いました。これははっきり碑に書きます。しかし「評督」についてはかって、誰れから貰ったかは触れません、ということになるわけです。
先程いいましたように「追大壱」はどうみても天武持統朝「飛鳥浄御原大宮」の称号ですから、「飛鳥浄御原大宮」から貰ったのは確実です。だのに従来説は誰れから貰ったのか直接書かず、何時かもカットしている。これは非常に不思議だと思うわけです。
ところが私の理解だと文字通り「永昌元年飛鳥浄御原大宮」から貰ったとなり、「追大壱」を貰う時点として、文句なくふさわしいわけです。しかし「評督」については誰れから何時貰ったかについてカットします。ということになっているわけです。
ここに至り、私はこれは非常に大きな問題に発展する、そのことを深く感ぜずにはいられなかったのです。 
郡評論争
戦後の古代史学、大学の学者達の研究の中で一番絢爛たる中心課題をなしたといっていいもの、少くともその一つは、いわゆる郡評論争という問題であります。特に大化改新論をめぐって、それが戦かわれてきたわけでございます。それに関する論文も驚くくらい夥しい分量になっています。単行本とか大学の紀要であるとかがあり、今大学の古代史の教授、助教授、講師になっている人で、何かの点でこういう関係にふれる論文を業績としていない人はあまりいないのではないかという感じさえ強くいたしました。
発端は有名な事件ともいってよいような研究発表です。昭和二十六年十一月の東大史学会で若き日の井上光貞さんが「大化改新詔の信憑性」という題で発表をされたわけです。これに対しては前段階の戦前からの問題がございました。津田左右吉が大化改新はあやしい。非常におかしなところがある。これも「造作」されたものではないかというふうな疑いをなげかけたわけでございます。細かい点は時間の関係でカットします。これに対し、比較的若かった時代の坂本太郎さんが『大化改新の研究』という本を出されまして、これに一、一、反論されたわけでございます。東京帝国大学の殆んどの学者は津田史学を無視しておりました中で、坂本さんが一、一、反論されたのは、坂本さんの立派な、真面目なお人柄のせいだと思います。しかし残念ながら教授達は全然反論しなかった。在野の学者等無責任なことをいっている、反論するのもおこがましいというのでしようね。
だから肝心の神代の巻、神武東征問題、五、六世紀の問題等津田史学の肝心をなす部分については、戦前は最後まで正面の反論はでずじまいでした。これは戦後史学の脆弱点の原因になっていると思います。今立ち入って申しませんけれど、坂本太郎さんが反論を発表されたのは非常に立派だと思います。要するに津田左右吉の疑いは根拠がない、大化改新というのは実在したのだ。あの大化改新の詔勅は虚構ではないのだということを述べられたわけでございます。
そして戦後になりまして、坂本太郎さんの弟子というか、大学の学生でありました井上さん(発表当時は教養部の講師か助教授)の研究発表がされたわけです。その内容は津田氏の疑いには根拠がある。証拠は一点に限定して論じたいのだが、要するに大化改新の詔勅では郡という行政単位を使って述べられている。郡司とか、郡に関する規定とか具体的に数字も挙げて述べられているし、大領、少領というような長官名副官名もでてくるのです。ところが金石文に依ってみると郡という行政単位が使われた痕跡がない、(七世紀後半)、それらは皆評である。評という行政単位が使われていた。例としてレジメに挙げておきました。この例をみても評を使い郡を使われた跡がない。するとこの点をとっても大化改新の詔勅というものを信用するわけにはいかない、という口頭発表をされたわけです。
この時の司会者が坂本太郎さんでして、この後東大でだしている『歴史地理』という雑誌で井上さんに対する反論をだされたわけです。「大化改新詔の信憑性の問題について」という題で、先日の井上氏の発表について、私は承服しがたいのでこれに対して再批判を述べてみたいと、一、一、論点を挙げて一、一、批判されたんです。非常に珍しい事件ですね。これに対して井上氏は「再び大化改新詔の信憑性について」を書かれたわけです。私はこの論文は非常にいい論文だと思うのです。興味のある方は御覧になったらいいと思います。若々しい、井上光貞さんの気迫がでておりまして、一、一、坂本さんの議論を再反論しているんです。そして最後のところは、「以上によって私(井上氏)は坂本先生の反論によって、いよいよ私の立論の正しいことを確信するに至ったことに厚く御礼を述べたい」と書いています。「更に私の言っていることが正しいとしても、それは何も私の手柄ではない。私は金石文、及びそれに準ずる史料に基づいたのであって、それを『日本書紀』という後で作った文献に基づいたのと、どちらの立地にたったかということの結果なのであって、必ずしも私自身の手柄ではない。」こういういい方をしておられるのです。
私は非常に面白い方法論の提起だと思うのです。坂本さんの場合は『日本書紀』を津田左右吉みたいに、やたら疑ってはいかん、それはそれで辻褄がつくんだという立場にたったわけです。
これに対して戦後の研究者である井上光貞氏は、金石文というものの表記によって『日本書紀』というものを批判する。同時代史料である金石文で、後代史料の文献を批判するという方法に私(井上氏)は立った。その結果が坂本先生の反論を受けても、なお確信をもてた理由なんだ。これは私の手柄ではなく私のとった方法の手柄なのであるという、もってまわったような、ある意味では非常にストレートな結合をもった論文だったのです。文字に書かれたものとしてこの「再び大化改新詔の信憑性について」が最初だったわけです。
この後坂本さんが又、反論をされ、それにいろんな学者が加わりまして、昭和二十年代から三十年代にかけまして学界の中でケンケンガクガクの論争が巻き起こされたわけです。田中卓さん等がこれに加わりまして、大阪にある社会事業短大がだしている『社会問題』という紀要みたいな雑誌に、この問題に関する論文を上中下だされたわけです。田中さんは坂本さんの弟子ですから、坂本説の擁護ということで上・中を書きだしたわけです。ところがいろいろ調べていくうちに変ってしまったんです。下では井上説に変ってしまったんです。ぶざまなことで誠に申し訳ないが、こういうことになってしまったと、論文としては珍らしい一幕も演じられる程熱意のこもった論争になったわけです。
これは郡評問題という一つの限定された問題のようにみえますけれど、意味するものはこれだけではありません。大化改新が実在したかどうかという問題、さらには七世紀後半の国家形成といいますか、そういう問題をどうみなすかという問題を含む問題だったわけです。だから法制史関係にも経済史関係にも様々な問題に波絞を巻き起していくという要因をもっておったし、事実各面に発展して、老大家から若い学者まで次々論文を出され続けていったわけです。
ところが熱気をもって質量とも拡大し続けた論争が、劇的に終結を迎えたというふうに研究史上考えられているわけでございます。それは奈良県、大和の藤原宮の遺跡の中から出土した夥しい木簡です。この木簡の中に評という単位がでてきた。藤原宮の木簡は七世紀終りから八世紀初めにかけて、言い換えますと大宝元年(文武五年)以前のものと、以後のものとにまたがっておる。大宝以後の木簡には行政単位は郡としてある。大宝以前は評としてあるということで論争はついに、井上光貞氏の勝利、坂本太郎氏の敗北という形で劇的な決着をみたわけです。私が『「邪馬台国」はなかった』を出す、つい何年か前です。
これによって井上光貞氏の学界における名声は一挙に盤石の重きを示したのです。もちろんそれまでも、「よくやる」という評価はあったのですが、決定的な重みをもって名声が確立したのです。
その後浜名湖の近所の遺跡から出土した伊場(いば)木簡からも同じように、七世紀段階では(えとで書いてある)評八世紀の大宝元年から後は郡という形で出土したわけです。
だから研究史上郡評問題は決着した、井上光貞氏は正しかったという形になっているのが現状でございます。皆様がこういう関係の本をお読みになればそうでてくるはずです。吉川弘文館の研究史シリーズの「大化改新」等を御覧になるとでてまいります。 
郡評論争の真の決着とは
さて私には、これは本当の決着にはみえなかったのです。むろん、結果としては、そのとおりです。『日本書紀』に大化改新の詔勅で郡と書いてあるものは、実際は評であったということは疑うことはできないわけです。しかし問題は何故そんな「書き換え」を『日本書紀』はしたのか、ということです。「書き換え」は『日本書紀』だけではないのです。『続日本紀』は『日本書紀』と違って、実直な事実を書いた歴史書というのが学界の評価なんですが、郡評問題に関しては、同罪なんです。『続日本紀』の先頭は文武元年から文武四年まで、かなりの頁数があるのですが、そこでは単位が全部郡になっているのです。だから評を郡に書き直しているのは、『日本書紀』だけではなく、『続日本紀』も同じことなのです。
何故このようなことをする必要があったのか、ということについて、今の学界の雰囲気としましては、評は郡に直して考えればいいのだ、という感じになっているわけです。大ざっぱにいいましてね。しかし第三者、岡目八目の目でみますと、おかしいです。評を郡に全部直して済むのならいいのです。しかし先程申しました評督ですが、郡督というのはないのです。郡督という言葉がないのです。郡の大領、小領、督領とか評督とか官職名にバラエティがあるのです。地域によって違ったのか分りませんね。だから『日本書紀』に書いているのを復元しょうとしてもできないわけです。この類のどれからとしかできないわけです。単純に評と書いたか、郡と書いたかの表記の違いではないです。これはおかしいです。藤原宮、伊場遺跡の状況からしましても七〇〇年まで評が使われておって、大宝元年(七〇一年)から郡が使われていたのはまず間違いないと現在では考えられているわけです。皆が自然発生的に七〇一年から郡を使い始めるなんてことは有り得ないことです。当然従来の評を廃止して、郡に改めるという詔勅がなければいかんわけです。権力者の命令なしに自然発生的に皆がいっせいに郡にかかわるということは、まず想像できないですね。
ところが『続日本記』のどこにも、評を改め郡にするという詔勅が無いのです。又ある道理がないのです。そうでしよう。大宝元年以前から郡できている形になっているのですから、今さら評を改め郡にするなんて記事があれば、へんなことになります。だから書き忘れたもの、というのではなく、構造上評を改め郡にする、という詔勅が有り得ない、存在しえないのです。しかし実際は確実にあったわけです。不思議ですね。実際には確実にあったものが、そこにでていない。又構造上だせない。これは大変な不思議ですよ。この疑問を解かないで「七世紀初めまでは評だった」では問題は終らないのです。坂本さんとのやりとりは終ったかもしれませんが、歴史上の真実の探求からいいますと、そこから本当の疑問が出現するというのが私の感じかたであったわけです。
坂本さんも当時から同じ感じをもっておられたようです。読売新聞社から『古代史への道』というのがでまして、その中で「郡評論争は私の負けと判断せざるをえないけれど、しがしながら、なお私には不思議である。何故評だけ郡に直さなければいけなかったのかが、私にはなお解(げ)しがたい、疑問に思う。」と二行ぐらいですが、ちゃんと書いてある。「評だけを」の「だけ」の意味は、一官職名、称号は次々かわっているのです。七世紀中ごろから大宝までよくかわっているのですが、『日本書紀』ではそのままになっている、後の称号に書き直していない。だのに何故評だけが郡に直さないといけないのか、ということがどうも解しがたいという意昧の「だけ」なのです。
私もこれを読んで論争の御当人は今もこの不満をもっておられるのだなと思いました。本人がそういわれるのですから、本当の結着はついていないのですね。意地で頑張っているのと違いますからね。
私がさらに興味深かったのは、「那須国造碑」を解読してみますと、評督という称号をもっていながら、評を誰れから何時貰ったかをカットしているのと、『日本書紀』『続日本紀』が評をカットしている、郡に書き換えているのとが共通している。
そして『日本書紀』『続日本紀』とも評という制度を隠すという点では同じですが、『続日本紀』のほうが「那須国造碑」と、より深く共通していると思います。評督という評制によってできた役職名は『日本書紀』には一切でてこない。ところが『続日本紀』には評督という官職名だけがポツリポツリとでてくるのです。井上さんが例を挙げておられます。
評督凡直麻呂等。木国氷高評。衣評督衣君県、助督衣君弓自差〔続日本紀〕
このように『続日本紀』には評督という官職名がでてくるのです。官職名があるからには、評という制度を、いつか誰れかが施(し)いたはずで、その称号も誰れかが与えたはずでしょう。ところが『続日本紀』には評という制度を書いていないから、誰れがいつ与えたかには一切ふれていない。『日本書紀』には全く評の制度はでてこないですから、どちらを続んでも評督という制度の身元は一切分らない。しかし評督を名乗った人達が『続日本紀』にポツポツでている。これは「那須国造碑」と同じですね。「那須国造碑」を私の続み方で続むと「那須国造韋提評督」という人物がおりますので、評督という称号はあるのです。それをいつ誰が与えたかということは、ここではもう触れません、という姿勢なのです。ですから『日本書紀』以上に『続日本紀』は「那須国造碑」と姿勢が大変共通している。しかも「那須国造碑」は七〇〇年、文武四年(韋提の死んだ年)以後しばらくしてできたのでしよう。だから『続日本紀』の領域の時点で碑ができたことは、証拠上、疑いないのです。
近畿における正史といわれる文献と、同時代史料である金石文と、両者共通して「評制隠し」をしている。評督はチラチラみえているが、制度については、誰れが何時施行したかは、カットするしという姿勢において共通しているわけです。
ここで私は最も根本をなす命題を申し述べたいと思います。一つの制度、広汎な領域にわたり一定の期間にわたる制度を「隠す」ということは、一体何を意味するか。隠さなければいけないとは、何を意昧するか。それは当然その制度を施行した権力を隠す、ということを除いては考えられない。制度というのは一人の人問の思いつきで、言いふらして制度になるものではありません。権力が原点に存在してこそ、制度が存在する。これは当然のことですね。その権力が施行した制度を隠すというのは、結局権力自身を隠すということを原点にしなければ意昧をもたない。これが、この問題を解く場合の基本のテーマであると思うわけです。 
評の制度の淵源
それでは評という制度は、どこに淵源する制度であろうかという問題にうつってまいります。
評の歴史について、郡評論争の中で井上光貞さん他いろいろ触れられております。しかし不思議なことに朝鮮半島で、朝鮮で行なわれた制度を日本で真似したという形で触れているに留っているわけです。私は朝鮮で評が行われる前に、中国における評という制度上の述語について、私の見た範囲で誰れも触れていないのが、大きな問題のキーポイントになると思われたわけです。
中国の評という概念は倭の五王のでてきます『宋書』にでてくるわけです。それによりますと、延尉という官職名について述べまして、これは裁判の制度であると同時に軍事の制度である。裁判と軍事を相兼ねたものであるという説明をしてありまして、その長官を廷尉正。現代でも検事正といういい方をしています。これと同じ正です。副官は廷尉監。第三番目の、一番末端の役目が廷尉評なんです。そして
魏・晋以来、直云評。
廷尉評が省略されて、ただ評という言い方で呼ばれるようになった。魏・晋の魏は卑弥呼の行った魏です。南朝劉宋においてもやはり評といわれていた。
ということは私の想像が入るのですが、魏の時代に洛陽等に行きますと、当然廷尉の正・監・評の三者が揃っていたと思うのです。ところが楽浪帯方あたりまでくると、場合によって正監がいなくて評だけみたいだったのではないだろうか。別に楽浪帯方に正監がいてもかまわないのですが、直接人民にタッチするのは評である、帯方郡の評であると考えていいだろうと思います。これが軍事権も握り且つ裁判権も握る。いわゆる中国人だけでなく、朝鮮半島に住む韓人とか倭人とかに紛争が起きたら、評が「評決」する。それに従わない者には軍事力をもって従わせる、という威力を振っていたのが帯方郡における評であるというわけです。
すると卑弥呼の倭国が評のことを知らなかったはずはないわけです。又倭の五王が評のことを知らなかったはずも当然ないわけです。又中国の影響をうけるなら、評の影響もうけたということは、考えられるわけです。それがあるかというと、あるわけです。
(継体二十四年、530、梁武帝、中大通二年)秋九月、任那使奏云、毛野臣、遂二於久斯牟羅一、起二造舎宅一、淹留二歳、(中略)毛野臣聞二百済兵来一、迎二討背評(背評地名)。亦名二能備己富里一也。傷一死者半。〈日本書紀、継体紀〉
とあります。この前に任那の久斯牟羅という、言葉がでてきまして、久斯牟羅というのは任那の地名であることが示されているわけです。この史料を井上光貞さんは挙げられたのですが、“久斯牟羅は百済もしくは任那の地名であろう。”といわれて、朝鮮の評という地名を後に日本が真似したんだろうといつ形で、話を進められたんです。しかし私はそれは正確ではないと思うのです。何故といいますと、百済か任那ではなく、任那に決っているのです。任那の久斯牟羅ですからね。
背評をバックに戦った。背というのは日本語くさいですね。それに能備己富里の能備も日本語みたいですね。吉備等と同じような日本語地名のようです。以上のようば形で評がでてくるわけです。
ということは倭の五王が六国諸軍事大将軍といいました時に、任那も六国の中に当然入っているわけです。倭の五王が六国諸軍事大将軍といった意味は、西晋が滅亡して南の建康(現在の南京)に都を移した。その結果楽浪帯方は実質的に権力の空白状態になるわけです。西晋か楽浪帯方を支配していたのだが、西晋が東晋に移った。東晋が楽浪帯方を大義名分上は支配していたのだが、海を越えてだから実際上の支配権をもたなくなった。そのため北から高句麗、南から倭国が空白をうずめるべく激突するというのが、四世紀末から四世紀にかけての状況になるわけです。
ここで六国諸軍事大将軍と名乗ることは、又自ら開府儀同三司と名乗ったことは、かって帯方郡の評が行っていた軍事、裁判支配権を私が替ってやるのを認めて欲しい、ということなのです。諸軍事のキーポイントは評なわけです。任那日本府というでしよう、任那に評を置いて当り前なのです。だから任那の評というのは倭の五王の六国諸軍事云々の実理した姿なのです。楽浪帯方が健全な時には評はいらないし、作らないかもしれませんが、三十六年以後、空白におち入った後、倭王が任那に評を作った、その根拠地である。言い換えると評というのは朝鮮半島にあるけれど、倭国の称号なのです。官庁名というか軍事名というか術語なのですね。「任那日本府はなかった」という立場に立つ人は違う議論をされて結構ですが、「任那日本府があった」というなら、この評は倭国の倭王の評、軍事裁判権の評とみなさなければならない。
ところがこうした場合、先程の論証のように倭の五王は九州の王者である。そうなりますと筑紫の君の配下の評となってくるわけです。倭国内の評はここに始まっている。こういうふうに考えなければならない。
さてこれは六世紀前半のことでした。この後朝鮮半島内で同じく評を名乗る例がでてまいります。
基色在内曰二啄評一、国有二云啄評・五十二邑靱一〈梁書新羅伝〉
『梁書』に新羅で啄評という言葉を使っているというのがでてまいります。これも六世紀。新羅は啄評というのを使い、倭国側では評というのを使っている、行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね。
さらに高句麗における評があります。
復有二内評・外評・五部褥薩一〈隋書、高句麗伝〉
内評・外評と内外は付いていますが、ズバリ評がでてまいります。これは『隋書』ですから七世紀初めなのです。倭国より史料として遅いわけです。だから高句麗の影響をうけて倭国が作ったというわけにはいかないです。中国の影響をうけて新羅や倭国や高句麗が評を設定した、その証拠とみるべきです。 
筑紫都督府の実在性
さて本日問題にしております七世紀後半の史料を申し上げます。
一、(天智六年)十一月丁巳朔乙丑、百済鎮将劉仁願、遣二熊津都督府熊山縣令上柱国司馬法聴等一、送二大山下境部連石積等於筑紫都督府一。〈日本書紀、天智紀〉
とありまして筑紫都督府というのがでてきます。百済鎮将劉仁願というのは有名な白村江の戦で勝った方の唐側の将軍名です。『旧唐書』『三国史記』にでてきて実在は明らかなのです。又百済に熊津都督府というのが置かれたのも『三国史記』にでてまいりまして、これも疑う人はいないわけです。
ところが筑紫都督府だけ始末に困って、『岩波古典大系』本を御覧になると、“これは造作である、何か文飾であろう。”と注に書いてある。しかし三つある内二つまでが、リアルな実在の人名・官職名なのに、最後の肝心の一つが文飾だっていうのでは話にならないですね。要するに“文飾にしたいから文飾といっておく。”だけのように私にはみえました。三つの内二つがリアルであれば当然筑紫都督府もリアルであると考えなければならない。
大事なことは倭の五王の時代、百済王も当然将軍号を貰っているのです。そして倭の五王も百済王も都督を貰っているのです。六国諸軍事のところは、使持節都督で始まっていますね。だから倭の五王は都督なんです。百済王も都督なんです。都督の百済王の姿が、七世紀後半の姿が、熊津都督府の存在なんです。すると当然倭の五王の七世紀後半の姿が、筑紫都督府の存在なのです。当り前なんです。何の矛盾もなく話が、骨組みができているのです。それを近畿天皇家一元主義でするから、上手く合わない所は文飾であろうといわざるを得なくなってくるのです。
この都督府がいかに重要か、この点についていいます。先程評の長官が評督といいました。評督といいますのは沢山あるわけですね。その評督の中心が都督なわけです。都というのは都(みやこ)と思いやすいのですが、必ずしもそうではなく、「すべて」という意味のようです。その都督が中心にあって、その下に評督が並ぶ、こうなって初めて一元の体系になるわけです。評督だけで中心がないというのはおかしいわけです。
具体的にいいますと、評督が七世紀後半に行なわれていた事は事実ですね。金石文その他で事実です。筑紫に都督府があったことも事実と考えざるをえない。そうするとこの評督と都督が無関係というのは考えにくい、こうなってくる。
就中、九州において都督と評督の関係を立証するものは、
(薩末)衣評督衣君県、助督衣君弖自美〈続日本紀、文武四年六月庚辰〉
です。薩摩の衣評督、これは九州の評督ですから、筑紫の都督府の下における評督と考えるのが筋である。ところが近畿天皇家では(『続日本記』で)評督という称号は認めているけれど、誰れが、どこが中心かは一切触れていない、というのが『続日本紀』の姿でございます。その中心は筑紫都督府ではなかったか、ということでございます。 
庚午年籍問題
さらにもう一つの問題として「庚午年籍」問題がございます。『日本書紀』に
(天智九年)二月造二戸籍一。断三盗賊興二浮浪一。
とあります。ところが誰れが作ったか書いてないのです。この場合普通に読めば天智天皇が主詔になるのでしようが、勿論天智天皇が自分で作るわけではなく、配下の人物が作るのです。他の所では配下の人物をちゃんと書いてあるのに、ここだけは誰れが作ったかは、一切ノータッチ。ただこの年に戸籍ができたということを書いてあるのです。ここの所で論議がいろいろでてくるのです。
それから「令」の問題があります。つまり戸令を基にして戸籍ができるわけです。ところが「庚午年籍」と対応すべきはずの「近江令」が、『日本書紀』に全く姿をみせない。後世の文献にはでてくるのですが、『日本書紀・天智紀』には全く「近江令」の記載がないのです。これも不思議です。
又「庚午年籍」に評督という称号を含んでいたことは確実なのです。
評督凡直麻呂等〔続日本紀、神護景雲元年三月乙丑条。庚午年籍〈天智九年〉・・・自此之後〕
これは「庚午年籍」に関連する記事なんです。ここで評督という名前を名乗っている。だがら「庚午年籍」が評という単位を基にしていたということは、七世紀後半である以上間違いないわけです。評督という称号をかなり含んでいたことも証明できている。
その上不思議な記事がございます。
(神亀四年727)秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午籍七百七十巻。以二官印一々レ之、〈続日本紀、聖武天皇〉
つまり筑紫から「庚午年籍」が七百七十巻でてきた。「庚午年籍」を作ってからウーンと時問がたっているのですが、これに印を押して厳重保管したとあるわけです。
ではできた時の印は、誰れが押したのか、となりますね。関東で百巻たらずでてきたのがありますが、他にこんなのはないのです。何百何十巻というのは筑紫諸国だけなのです。そしてこの七百七十巻は、評と評督を含んでいた。その中心には筑紫都督府があった。こうなりますと、どうもこの「庚午年籍」は筑紫都督府が原点になっているのではないか。だから『日本書紀』は、戸籍を作ると書いても、誰れが作ったかは一切ふれない。又「近江令」というものも、『日本書紀』では一切作ったとはいっていない。 
大化改新疑惑説
この七世紀後半をめぐって、戦前から戦後にかけてありとあらゆる意見がでているのです。
その一々については、今は詳しく申せませんけれど、大体は、
“大化改新詔によって発布された内容が、孝徳・斉明・天智・天武・持統という各代を経て発展し、文武天皇の大宝年間に至って、「大宝律令」として結実するに至った。”
これを批判したのが津田左右吉の大化改新詔疑惑説、というのが戦前的な説の大体です。これに対して、井上光貞さんは若い時に(戦後)、戦闘的な口頭発表や論文を次々と書かれたのです。郡司制についても、若い時書いておられまして、その最後のところに有名な言葉がでてきます。“結局、これによって郡が偽りで評が正しい、「大化改新詔」が一篇の虚構にすぎないということが証明できた。”という印象的な若々しい文章があるのです。
ところがその後の井上光貞さんはいささか違う方向に進まれるわけです。つまり郡を評に直せばいいのであって、後は大体いいのだという方向に近づいていくのです。細かくいいますといろいろ問題がありますが、大きくいうとそうなっていくのです。
原詔の存在を疑えない。ということで、例えば「白髪部五十戸」問題というのがあります。五十戸という単位が木簡にでてきているが、この木簡にでてきている五十戸が、「大化改新詔」にもでてきているというのが証拠だとして、郡を評にかえるべきだが、他の所は大体において認めうるのではないかという傾向に進んでいくのです。この傾向を一番強く代表するのが東北大学の関晃(あきら)さんという人です。
それに対し“いわゆる「大化改新」は嘘なのだ”という主張が『日本史研究』という雑誌を中心にでてきました。門脇貞二さん、原秀三郎さんとかいった人達です。「大化改新」を疑うという、いわば井上さんの若い時の路線を拡大していこうとするわけです。
しかし「大化改新はなかった」という言葉だけをみるとすごいのですが、私の目からはコップの中の嵐にみえるのです。大化改新は否定しなければならない。唯その内容は天智の末年から天武の初年頃に行われたもので、それをちょっと上にズラして大化改新にもっていったということです。だから、なかったといっても何年かズラしただけではないかと、他所から入った我々にはみえるわけです。そして何よりも「天皇家一元主義」という基本は守っているのです。ただ時間的に上下ズラすかズラさないかということにすぎないのじゃないか。大雑把にいいますと。「大化改新はなかった」という言葉は印象的だが、その実態はそういうことになってくるのです。この立場の論旨は、これは国家成立論に関係する重要テーマだ、といいますし、それも嘘ではないのですが、結局それは「天皇家一元主義」の内部での話です。私のように外部からみると、あくまで「天皇家一元主義」の枠の中でしか、ものはいわれていない。蘇我氏の勢力は、大化改新以後も(一部は)続いたとみるべきである、といった類の議論、つまり、より“うちわ”のテーマにとどまるという感じです。これも時間がないので簡単な要約にすぎるかもしれませんが、大局的には、私の立場からは、そうみえるわけです。
「近江令はなかった」という論文を、若い時に青木一夫さんが出されたのです。それに井上光貞さんが反論して庚午年籍は実在するのだから、近江令がなければおかしいという論理がでてくるのです。又“近江令はなかったのだけど、浄御原律令はあったのだ。”“天武・持統の時の浄御原令はあった。”という考え方。“近江令と浄御原律令と両方あった。”とか、“両方でたのだが、近江令は実施が後に延ばされた”等等、学界の中で、ちようどあの「邪馬台国」問題のように、ありとあらゆるニュアンスの議論がでてきているのです。
時間がないので一つ一つにふれませんが、私の目からみると、これは非常にはっきりしていると思います。若き日の井上光貞さんが「再び大化改新詔の信憑性について」〈歴史地理〉の論文の結論で述べられた言葉の主旨こそ、私は正しいと思います。
大阪の四天王寺に「威奈大村骨蔵器(銅製鍍金)〈慶雲四年、七〇七〉があります。ここに、
以二大實元年一律令初定。
という金石文があります。だから大宝元年に律令が初めてできたのです。ということは“近江令も駄目、浄御原律令も駄目”なのです。“大宝律令が最初。”なのです。これは非常にはっきりしているわけです。
先程の井上さんの場合『日本書紀』と金石文が矛盾する場合、金石文をとるという論法だった。この場合必ずしも『日本書紀』と矛盾していないのです。なぜがならば、『日本書紀』はちゃんと正直にも、「近江令を作った」とは、一切書いていないのです。又「浄御原律令を作った」とも書いていない。天武十年(六八二)のところに
(一月)詔二畿内及諸国一、修二理天社地神宮一。
(二月)朕今更欲下定二律令一改中法弐上。
とあります。律令を作りたい。「律令を作った」のではなく、“作りたい”という希望を表明したというわけです。これまで律令ができてない、裏付けでもあるわけです。“今更”とあるから、その前にあったのだという講論もありますが、これはその前の文章をうけているとみるのが素直なとり方だと思われます。
次に持統三年(六八九)をあげます。浄見原律令の根拠にされたものです。
班二賜諸司令一部廿二巻。
「令」しかなくて、「律」がなくて困るのです。そこで“令だけで律がなかったんだ”“両方あったのだが、律は作ったが施行しなかった”等いろいろでてくるのです。
しかしおかしいのは、天武が律令を作りたい、定めたいと希望表明してあと、持統三年の班賜までの間に、「作った」という記事がないのです。『日本書紀』の“詳しさ”からみると、おかしいですよ。作った記事がなく、「班賜」だけがあるのはおかしいわけです。
しかし従来の考え方では、持統天皇が「班賜」した以上は、作った記事がなくても、作ったのだ。作ったということは省略されているのだ。こう考えてきたわけです。私はそう考えないのです。『日本書紀』が作ったといっていないから、作っていない。「班賜」するというのは、自分は作っていないのだから他の人が作ったのを「班賜」したのです。こうなるわけです。
要するに日本列島の中で、律令なんて作れる人間は、天皇家以外、恐れおおくもありえないというのを、論証以前の絶対命題にしてすべての論争、戦後古代史の学者の論文はなされているのです。この土俵の中でされているから、先程のようにいじくっていじくって結論がでないのですよ。文章がこのように不揃いなものですから。
私は思うのですが、このようなのは『日本書紀』を作る直前の話ですよ。七世紀の後半です。皆知っている。本人も知っている。現場にお祖父ちゃんが、お父さんがタッチした、「班賜」したのを見た人達ばかりの中で『日本書紀』はできたのですよ。そこでうっかり、「律令を作った」のを忘れて、書くのを忘れた、などということは、ありえないと思うのです。忘れるにしては、あまりにも、ことが重大すぎます。忘れ得る性質のものではない。にもかかわらず、「近江令を作った」と書いていない。浄御原令なるものも「作った」と書いていない。ということは、ちゃんと作ったとは、書くに書けないものであった。言い換えると、それは近畿天皇家が作ったものではない、ということになってくるのです。 
天皇家一元主義史観の破産
近畿天皇家以外に、律令を作る存在があるのか?先程申しましたように、筑紫の君、つまり倭の五王の後継者は六世紀前半から律令を作り、七世紀前半には中国語を使って天子を称した。天子を称しながら、律令を作らない天子はいないわけです。東アジアの常識では、当然律令を作っている。「班賜」しているわけです。そして七世紀後半では、筑紫都督府と名乗り、その下に評督、評という行政単位をおいていた。この評という制度も六世紀前半に逆のぼる。さらには帯方郡の評に基づくものであった。
こう考えてみますと、近畿天皇家以外に律令を作る公権力があるのが当り前で、無いと考える方が非常に独断的であるわけです。
戦後学界の中で、最も百花繚乱の観を呈した郡評問題は、実は「天皇家一元主義」の中でしか、論争が行われなかったところに、混乱と解決をみない原因がある。
そして一番根本的な疑問。何故評を郡に書き直し、そして「評制を隠す」又「評を廃止して郡を置くという、肝心要の詔勅を消しさる」ということを、しなければならなかったかという問題に対する解答をなしえずにやってきた。
その解答は、近畿天皇家一元主義にたつ限りは無理である。近畿天皇家の胎内、例えば大友皇子が作ったのだろうと、いえればいいのですが、大友皇子が作ったものは『日本書紀』にちゃんとでてきます。
天智十(六七一)ーー冠位、法度の事、施行
〈大友皇子東宮太皇帝(天武)〉
とありまして「東宮太皇帝(天武)が作った」と書いておいて「或いはいわく、一に大友皇子が作る」と最後の方に書いてある。大友皇子が作るという一節、こういう場合一節の方が正しいに決まっているのですが、名目上天智の時、弟の天武が作ったというのを本文にしておく。しかし皆大友皇子が作ったことは知っているわけです。直接の担当だったことは。だから一にいわく・・・。読む人に対してなだめ役みたいなものです。こういうふうに大友皇子が作ったことは、決してカットされていないわけです。まして評制を大友皇子が作ったという説はありません。大友皇子以前から評制はあるのですから。蘇我氏が作ったというのも、うまくいきそうにないです。
ということで天皇家内のミニチュア的な解決では不可能である。天皇家一元主義という根源の枠を外さない限り、これに対する解答はでてこないということです。
今日お話し申し上げましたのは、三世紀、五世紀、或いは七世紀前半という問題だけでなくて、七世紀後半においてこそ従来日本の考古学・古代史の学界が最も深い悩みとして、論争を続けてきた問題、又一見解決したかにみえたが、実際は更に深い困難点をもっていたものが、天皇家一元主義の絶対観念から解放された時に、それに対する解決をみることができる。
少くとも天皇家一元主義というのも一つの仮説であろう。それは認めてよろしい。しかし日本の古代を多元的に理解する、というのも、もう一つの仮説である。一元説の仮説からは解決不可能なものが、多元説にたつ場合は解決されてくる、ということでございます。
つけ加えますと関東の場合、九州王朝直結というよりも毛野君に直結だと思います。那須国造に評督を与えたのは、毛野君であろうと思います。毛野君のバックにあるのが九州王朝。ということで九州王朝が全国一率に評制を施いたということではありません。当然九州で評制を施く。それに倣って近畿天皇家や関東で評制が行なわれる。だから評制は九州王朝が作ったというより、九州王朝系の制度であるといえば、なお正確であろうかと思います。
重大な問題ですので、色々申しあげたい点があるわけですが、大筋のところは申しあげましたのでお分りいただけたならば、幸です。非常に複雑、重大な問題ですので、論文や一般にお読みいただく本等で、詳しく書かせていただきたいと思いますので、それで御理解いただければ幸と思います。
今日は今迄の講演会の中で、一番複雑といいますか、いわば専門的なテーマを申しました。お分りにくかった点があるかと思いますが、これをもって終らせていただきます。
 
好太王碑諭争の決着 / 中国側現地調査・王論文の意義と古田説について

 

最近の中国側現地調査からの研究成果
私達は読売、毎日新聞の報道注1により、中国の理論誌「社会科学戦線」(一九八三年四期、歴史学)において、「好太王碑の発見と拓本」(「好太王碑的発現和捶拓」)と題する吉林省文物研究所の王健群所長の論文が発表されたのを知った。この論文は、現地調査の結果、「李説が主張する酒勾改削は行われていない。石灰塗付及び誤鈎は拓工の手によってなされた」という趣旨の研究成果がまとめられているという。長年念願していた中国側の現地調査をまとめた研究論文を早速入手して翻訳し、その意義の重大性についてここで論じたい。論文の構成は次の様である。
一、好太王碑の建立二、好太王碑の発見三、好太王碑の拓本(一)拓製人員と拓本経過ーー三度の現地調査の報告(二)拓本が誤って描かれるに到った原因、(1)早期の双鈎加墨本に出現した誤字の原因、(1)20世紀の初年以後に拓本に出現した誤字の原因、四、所謂「石灰塗付作戦」について
この研究論文の特徴は、三度にわたって行った現地調査を踏まえて、李仮説の検証をした結果、所謂改削説は成立しないことを明らかとするだけでなく、何故に李説は成立しないかという根拠を、拓工による誤鈎とし、かつ初天富(一八四七年〜一九一八年)、初均徳(一八六五年?〜一九四六年)の拓工父子を具体的に割りだしたことにある。
次に、王論文のポイントとなっている現地調査の報告と、「石灰塗付作戦」についての二点を中心にして、より詳しく考察してみよう。現地調査は、第一回(一九八一年六月八日午前)、第二回(七月一日午後)、第三回(七日三日午後と七月四日午前)と三回にわたっておこなわれた。調査したのは吉林省文物研究所の王健群所長と吉林省博物館研究員方起東氏である。方起東氏は、これまでにも「吉林輯安高句覇王朝山城」(『考古』一九六二年第一期)の論文を発表している。古田武彦氏と私は、好太王碑の現地調査の目的及びその交渉で中国に行った一九八一年に、中国吉林省博物館の研究員武国員力*氏と対談したが、武氏とともに古代の高句麗及び碑文の研究者である方起東氏が現地で調査にあたっておられることを既に知らされていた。注2
王氏らの調査方法は好太王碑文だけでなく、現地の好太王碑の周辺に住む住民に対して徹底した聞き込み調査をおこなうというものであった。訪問対象とされたのは次の三名である。
揚維財(男79才、好太王碑西南側約二百mに住む。)
辛文厚(男、83才、好太王碑北側約五十mに住む。)
初元英(女、59才、黄柏公社の社員)
この調査の結果、次のことが判明したという。一八八三年ごろから約五十年間、地方行政官の命を受けて、碑の拓本を取り続けた拓工初天富、初均徳父子が、苔むした碑に牛の糞を塗って乾かしてから燃やし、拓本をとりやすい状態にして、更に碑文の不明確な個所や凹凸のある個所に石灰を塗り、欠けた字を補った。
拓工が石灰を塗り、欠字を補ったということについては、好太王碑研究史上、既に自明となっていることの確認である。即ち、一九一三年九月から関野貞氏や今西龍氏らによって高句麗古墳の調査がなされ、とくに十月には十一日間にわたって、輯安の高句麗遺蹟を本格的に調査している。関野貞氏は「満州輯安県及び平壌付近における高句麗の遺蹟注3」において、「初鵬度」という拓工が、当時「六六才」で三十年前よりこの地に住んで、「当時知県の命により拓本を作らんとせしに、石面に長華(苔)あり、火を以て之を焚きしに石の隅角欠損せり、石面粗に過ぎ拓本の文字分明を闕くを以て十年許前より文字の周囲の間地に石灰を塗りたり。爾後毎年石灰を以て処々補修をなすと。就て詳細に調査するに文字の間地は石灰を以て塗りしのみならず、往々字画を補ひ、又全く新たに石灰上に文字を刻せる者もあり、而も此等の補足は大抵原字を誤らざるが如し、されども絶対の信は措き難し」(同上書。但し傍点は引用者。インターネットでは赤色表示)と報告している。「初鵬度」という拓工は当時六十六才であったというから、生年は一八四七年となり、初天富と生年がピタリと一致し、初も同姓であり、好太王碑の周辺に住んで拓業に就いているところから、恐らく同一人物であると考えられる。更に、碑面の現状については、今西龍氏は、次の様に詳細に報告している。
此碑欠落せし部分少からず、碑面風雨に浸蝕せられ小凸凹を生じ且つ刻字浅露となれり。第一面・第二面最も甚しく第三面は欠落せし部分少からざれども残余の碑面は第二面のそれに比して稍々平なり。第四面は比軟的良好に遺存せり、如上の状なるを以て原碑面のまま拓本を作りては不鮮明甚しく字形も明瞭ならざるもの多数なるが故に、碑面の深く欠落せる第一面の一部の如きは泥土を以て之を填充し、尚ほ四面ともに全面に石灰を塗り字形のみを現はし、字外の面の小凸凹を填めて之を平にし、唯拓本を鮮明にすることをのみ務めたり、されば文字中全く工人の手に成るものあり、一部分の修補せるものに至りては甚だ多し。拓本作成者は鮮明に文字を現出せば彼には充分なるが故に一切他を顧みざるを以て第三面第一行の如きは之を拓せず、修補の際原字の字劃にも多くの注意を払ひしとは思はれざるに因りて此碑文を史料として史を考証せんとするものは深き警戒を要す。注4
ここから判明するように、拓工は「唯拓本を鮮明にすることのみ務め」るが故に、「四面ともに全面に石灰を塗り字形のみを現はし」たのであって、李氏のいう「石灰塗付作戦」ではない。しかも、今西氏は「深く警戒」を要請するといい研究者としての注意深さを示している。碑面についても、等一面・等二面の欠落は著しいが、第三面から第四面では「比軽的良好に遺存」していることをも、現地調査によって明確にしている。このことは、私達が、拓本、釈文の信頼度を調査した際、論争点や疑義の多い箇所を除外し、第三面から第四面の比較的良好な部分に制限した方法の正しさを教えてくれている。注5
漆喰が好太王碑に塗られていること、及びそれが拓工の手によってなされていることは多くの現地調査が既に指摘している。一九一八(大正七)年調査をした黒板勝美氏は「大王碑の前に百姓屋あり、此家の老人商売の為め多く拓本を取るが、其墨悪しき為め悪臭鼻をつく、又拓本を鮮明にする為め漆喰を施せり。併し此漆喰に由りて明にせられたる文字は、果して皆な原字の儘なるか注6」と重大な事実と疑問を提していた。黒板氏の報告にある「其墨悪しき為、悪臭鼻をつく」とは、王論文の中で、「鍋底の灰から墨をとり、これに膠(にかわ)を混じて煮沸させるときの」(辛文厚氏の証言)臭いであろう。状況の一致は、きわめてリアルである。「此家の老人」とは恐らく、王論文が明確にした初天富であるとすると、当時七十一才で間もなく没することとなる。更に、一九三五(昭和十)年と三六(昭和十一)年に二度にわたり現地調査をした池内宏氏は「拓碑を業とするものは、墨客騒人を喜ばせるが為めに漆喰を以て字画の欠損を補ひ、域は全く不分明なる文字を補填することさへ敢てしてゐる」(『通溝』上巻)とハッキリと記している。
王論文は、今西龍氏、関野貞氏、黒板勝美氏、そして池内宏氏らの現地調査と基本的に一致しているが、それでは王論文の根本的特徴はどこにあるのだろうか。前記の各氏による調査報告でのべられていることの「むし返しに過ぎないのではないか」ということなのだろうか。そうではなくて、事実は一つであることを意味し、碑文の拓工達の事実経過を、周辺住民の調査から、“改ざん”(意図的なものではなく)者の具体名を特定し、かつ初均徳の写真を入手したばかりか、彼のおいの初文泰から初均徳が自ら手書きした碑文を入手し物証を提供したことにある。この碑文は縦63cm、横27cmの紙四枚を使って、四面が毛筆で書かれているという。注7恐らく、拓工達が拓本をとる時の参考にし、持運びやすいサイズにしたもので、これと従来の双鈎加墨本や釈文、更に碑文そのものと比較研究すれば、誤鉤はどれであるか一層判明するに違いないことであろう。
さて、王論文は、日本の参謀本部による“改ざん”がもし行われていたとすれば、その事実を好太王碑付近に住む住民が、一切それを知らずにいることはできないとし、まして李説が主張する全面的でかつ三回にわたる「石灰塗付作戦」を住民に一切気づかわれずにおこなわれたとは考えられないという説得力のある結論を導いている。
ここでは、李説の根本動機となっているイデオロギー論は全く無効である。何故ならば、関野氏や今西氏らの調査では、李氏は総督府の地方局の管轄下におかれていたという事実を指摘し、「土地略奪のために進められた土地調査事業と緊密な提携のもとに行われたことを見逃がすわけにはいかない注8」と主張することによってその状況を批判することができたが、今回の調査主体である中国は、元来日本軍国主義を批判しているから李氏のイデオロギー批判は適用できない。
王論文は、四章、「所謂石灰塗付作戦」について李説を徹底的に分析し、かつ丁寧に李説をまとめた上で、日本の明治維新以後の軍国主義、拡張主義、日韓併合、中国の東北(旧満州)占領という歴史的事実を侵略行為として批判し、赤裸々な弱肉強食であり、「八紘一宇」、「日朝同祖」、「満鮮一家」、「満蒙一家」論等のイデオロギー批判をおこなっており、更に日本の陸軍参謀本部の動向を追跡している。しかし、上記のようなイデオロギー批判と「実事求是」とは厳密に峻別しあくまでも何が歴史における客観存在であるかを求めている。王論文は、「歴史是客観存在、研究歴史必須実事求是」とする。この立場で、王論文は酒勾景信による「改削」及び参謀本部の「石灰塗付作戦」を明確に否定している。次に王論文の主張と従来説との比較をしてみよう。 
二、王論文と従来説の比較
王論文は酒勾景信の双鉤加墨本の性格について、拓工から入手したものであり、酒勾本人が拓出したものではないという事実を指摘する。理由は、次の点にある。好太王碑のような巨大な碑から四面にわたって拓本をとるのは一人の熟練した拓工を使っても、半月以上の時間を要するし、又、酒勾は間諜(スパイ)であったことからして、時間的にも能力的にも到底これをなし得ないからである。
この点については、拙論「好太王碑改削論への反証」(『市民の古代』第五集)でのべた様に、古田武彦氏が酒勾の碑文由来記をとりあげ参謀本部の内部文書なのでウソをいう必要のないところから、「現地人を脅迫して入手した」と書いてあるのを真実とし、“すりかえ”は行われていなく、双鉤したのは清朝の拓工であると主張していたのと合致する(『史学雑誌』第八十二編第八号「好太王碑文『改削』説の批判」参照)。
次に王論文は酒勾の双鉤加墨本の状況を詳細に分析する。一八八三(明治十六)年、酒勾は双鉤墨本を入手し、翌八四(明治十七)年参謀本部で解読作業がはじまり、青江秀や横井忠直等の漢学者の手で解読されたが、碑文四面一三二紙の大小の不ぞろいを配列する際、酒勾本人が立合っていたにもかかわらず錯誤している。例えば「第三面右下角」(即ち第一行は第四一字「潰」を残してほとんど剥落しているので、これを第二行の最末字ととり違えている事実をさしているのであろう)や第四面の三八字から四十一字の全ての位が上に置かれるべき(第一字から第四字)ものであるのに誤っている。この誤りは好太王碑文の最後の字となっている「え」(第四面第九行四一字)が第一字へと移し変えられている事実から、“改ざん”を加えた程の酒勾が碑文を実見しているにもかかわらず、碑面を熟読していないことからおこるという。
現在保存されている酒勾本を用いて、碑文と対象するとわずかに字の誤鉤があるが、字体、部位等において忠実に原碑を写しており、改ざんの痕跡の蓄意を見ることはできないとし、論争のポイントである「倭以辛卯年来、渡海破百残、□□新羅以為臣民」の字を原碑そのものであると調査から判読している。しかも、厳密な分析を加えていることは、次の事を明確にしていることからも解る。「立/木」の字、即ち「辛(しん)」卯年を当時の常識では当然に「辛」につくるが、酒勾のもたらした双鉤加墨本は、これを「来」という字につくっていることから原碑を忠実に写そうとしている事を説明できる。即ち、「立/木」は「辛」の字の古字であり、双鉤者はこれを知らず、「ハ」を碑文に見えるままに写していたのであるからだ。この問題は、たった一字であるが極めて重要な事柄を意味している。
従来から、「立/木」は拓本において「未」(酒勾本、大東急記念文庫本)、「来」(内藤虎次郎旧蔵本)、「立/木」(東洋文化拓本)、「来」(シャバンヌ拓本)等に分れ、更に釈文では「耒」(横井忠直、三宅米吉)、「辛」(栄禧、前間恭作、金敏敝、水谷悌二郎、末松保和、朴時亨)、「立/木*」(今西龍)、そして「立/木」(羅振玉、劉承幹)に分れていたものである。
(インタネット事務局注。内容は、画像で確認して下さい。なお[立/木]は、立の下に木。辛の異体字。)
私は王論文以前に、一九八一年の夏、碑文を現地調査していた中国吉林省博物館武国員力*氏によって「立/木」が現碑文であることを教えられていた。(『市民の古代』第四集「好太王碑の開放を求めて」)釈文や双鉤加墨本における様々な字は、碑面の風化の中で、「立/木」の古字の意味が解らずに「耒*」「辛」「来」等に作字をしたものであるが、意図的な改削ではなかったのである。李氏はこれを酒勾の“すりかえ”字(第一次)とし、「来卯年」としたが本来は□であったとされる。しかし、シャバンヌ拓本にみられるように「来」であっても□ではない。つまり、不鮮明ではあるが、「耒」の字と読みとれるのであるから、空白とする根拠は拓本から到底でてこないのである。李氏は一体何を根拠にしたのであろうか。
武国員力*(ぶこくしゅん)氏の[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB
李氏は一見、酒勾本の「耒」字を「辛」ではないとすることから“改削”と判断したのであろうが、「立/木」字が「辛」の意味の古字であることに思念されながったが故に、再び「第三次加工」というあり得ない場面を想定して、「このことは、『石灰塗付作戦』のとき、酒勾讐鉤本に『耒』字とあるのを「来」に書きこんでしまったことの誤りに気づき、さっそく酒勾讐鉤本どおり「耒」に書き替えたことを示している」(李前掲書、一六五頁)とわざわざ手のこんだ説明をせざるを得なくしている。李氏は「第三次加工」でわずかに三例しか改削を主張していないにもかかわらず、「それらの文字が初期朝日関係史を歪曲する上で、きわめて重要な位置にあることはいうまでもない」(同上書、一六五頁)と断定し、この三例がどのように日朝関係史を「歪曲」したか根拠を一切指摘していない。このことは、厳密性を欠くだけでなく、李仮説の根本的主張であるはずの「石灰塗付作戦」なるものの正体を極めて矛盾に満ちたものにしてしまっている。李氏自らも、「完壁」を期したはずの「石灰塗付作戦」は「いくつかのボロ」を出してしまったと表現せざるを得なくさせている。このように李仮説は矛盾に満ちたもので、到底首肯できない。 
三、好太王碑論争の決着と今後の課題
ある一つの仮説が成立するための必要にして十分なる条件は、現象の根本にある事実や本質を、一つ一つ説明でき、かつ整合性がなければならないのは自明である。李仮説は果してどうか、次に検証しょう。
おびただしい釈文間の異字の出現、同一の碑文からこれだけ異なる解釈の巾を示す他の金石文はない中で、あえて李仮説は限定した数例(第一次加工において李氏自ら六例とする)のみを酒勾らの参謀本部の全面的でかつ三次にわたる「石灰塗付作戦」とする。しかも、“改ざん”とする箇所は「立/木」が「来」であったり、「□」が「海」であったり、倭にとってイデオロギー上重要な意味を欠くことができない場所ではなく、逆に“改ざん”を主張しない箇所に倭にとって極めて不利と考えられる「倭賊」「倭寇」「倭潰」が双鉤されている。ここから双鉤者はイデオロギー上、不利か不利でないかを思惟したものではないと結論づけられる。この事実は、既に古田氏の前掲『史学雑誌』論文に展開されていることに合致する。
更に李氏は豊富な文献資料やおびただしい拓本、写真等を駆使されながら、史料操作は極めて主観的であることは、これまでに論述した通りである。しかも李氏は、従来までの研究史及び現地調査を重視せず、イデオロギーによる批判を加えているだけである。仮に関野氏や今西氏らの調査を「土地略奪のために進められた土地調査事業との提携」と批判し得たとしても、一九六三年の朝鮮民主主義人民共和国の社会科学院の調査や、最近発表された一九八一年の中華人民共和国の吉林省文物考古研究所の王氏らによる調査とも合致しない。しかも、李氏のイデオロギー批判は今回の二国の場合は全く無効である。即ち、両国は何ら日本軍国主義を擁護する立場をとる必要がないばかりか、むしろ両国はアジアにおける日本軍国主義の侵略行為を批判し、最近においても日本の教科書問題として問題提起をおこなった国家及び人民であることは記憶に新らしい(拙論「歴史教育における『侵略』論争と皇国史観について」一九八三年大阪府社会科研究会誌参照)。
論争点のポイントとなっている「倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民」の箇所においても、李仮説は結局は、「海」の一字のみしか疑えず、これも「来渡海破」という文脈でのみ意味をもつのであるから、イデオロギー性をもたない。王論文で明確になった様に、「立/木」の字は「辛」の古字であったということは、従来の拓本が碑文をほぼ正確に反映していることを意味する。このことを認識できなかった李氏は、第一次と第三次の「石灰塗付作戦」という仮説を想定されたのであった。勿論、あらゆる学問において、仮説を設定することは必要である。しかし、肝要なことは仮説の提起だけでなく、厳密な論証による実証が問題なのである。
李仮説が成立するかどうか、私達は徹底的な調査を行った。まず碑文の論争部分や解釈上疑わしい碑文を作業仮説として判断保留して除外し、拓本や釈文の信頼度を調査した。この作業は、碑文の比較的安定している第三面及び第四面の守墓人、とりわけ国畑が合計「三十」になる史料が基礎調査において正確であることを判明させた。更に、一般的には正確といわれる写真判定も問題を含む場合があることも発見した。李氏の『広開士王陵碑の研究』の資料編にある写真では、碑文の第三面第十四行三九字は「六」(同上書六一頁、内藤旧蔵写真による)であるが、一九一三年撮影の写真では「七」となっている。このたった一違う問題はわずかな差として無視し得ない重要な意味をもつ。それは、この数値は国姻の三十家の内(碑文中に国姻は二十ケ所出現する)で最も数値が異なっているところであった。釈文中も「七」、「六」、「四」「一」、「□」と分れたところで、何が正しいのか写真判定による読解を期待した。しかしながら、奇妙なことに写真でさえ数値が異なっていたのである。碑面中、従来これについては論争もなく、イデオロギーに全く関連せず、しかも客観的に如何なる数値であるか確定できる文字(碑文中に国姻の合計数が「三十」であると明確に示されており、国姻数が三十に合致するには、この数値は「一」以外にはない)においてさえ、異なった姿で現われるのは何を意味するのであろうか。ここでも、李仮説では説明不能になっている。新たに見落としがあったとして、「酒勾らによる石灰塗付による例」として追加するのであろうか。だがそうすれば、イデオロギー論からは整合性を欠くであろう。
私達はこの問題について、最近新しい史料を得て解明することができた。中国吉林省博物館蔵拓本(日本では未発表、一九八一年に訪中して写真、八ミリにして藤田保存)を映像化して、編集機にかけて一コマづつ分析したところ、問題の文字が次の様に拓出されており、現碑文の状況が判明した。この文字は図3であった。図3の文字をどう解読するか。碑面の風化は碑面隅角に著しく、この文字もその結果である。「四」と読むには無理があるが、「七」「六」には読みとれなくはない。これに拓工が字画を明瞭にせんとして作字をおこない仮面字をつくったのであろう。「-/」をキズと見なして石灰を埋めれば、「七」となり、「ノ」を埋めれば「六」となる。写真という最も確実に思われる資料においてさえ、光線や撮影の角度によって凹凸が変化し、数値でさえ異なって判読される場合もあろう。ここから、如何に六m大の碑文の拓本作業が困難を極めるか、釈文の異字の多さということにより好太王碑は如何に金石学の常識を疑わせていたか解る。「六/」は風化によるキズであり、正しくは「一」以外にはないが、何故に「七」「六」「四」「一」に分れたか、この拓本は教えてくれたのである。
(この部分は、近似表示。画像で確認して下さい。)
今や好太王碑の「改削」論争は「結着」を迎えた様である。金石学の常識を破る好太王碑の状況は、釈文は勿論のこと、拓本や碑面の写真においてさえ異字を出現させるにいたったのは、風化という自然現象のみならず、拓工を中心とした文字の補填と漆喰等による字画の仮面字によるものである。ここに李仮説は否定され、古田説を中心とした李説批判の正しさが証明された。従来、拓工によるとされた点について、王論文によれば、この拓工は初天富、初均徳父子であると現地調査の結果判明したものである。 
四、好太王碑研究の今後の課題
今後、私達に残されている課題は何か明確にしなければならない。
まず李氏も自らの著書の最後に述べている様に、「広開土王陵碑にたいする朝・日・中三国研究者の共同調査は、日本近代史学における朝鮮史研究、朝・日関係史研究の歪みを正すためにも、四、五世紀の東アジア史研究の正しい位置づけのためにも、三国研究者間の真の連帯関係をふかめるためにも緊急な課題といわねばならない」(前掲書、二四〇頁)し、私は現地調査だけでなく、論争者の対談(李〜古田両氏と中国側研究者)が碑文の事実と解釈を一層解明するのに役立つと確信するが故に、合同シンポジュウムが必要と考える。
又、研究史上、新たに判明した史料性格をもつ大東急記念文庫本(李氏はこれを酒勾本のコピーと断定したが、復元作業の結果、コピーではないことが私達の調査で判明した。)も、双鉤加墨本であり、酒勾本とルーツを同じくする種本があるものと思われる。この分野の研究も、碑文の研究史上欠かすことができないであろう。更に、国姻、看姻等の高句麗の墓制と古墳との関連等、数多くの課題があるが、やはり最大の課題となるのは、碑文中九回出現する倭が近畿天皇家か九州王朝かという点である。
ともあれ、私達は好太王碑文研究史上、ようやく新しい課題にむかってすすまねばならない地平に到達したと言いうるであろう。注9
注1、一九八三年、十一月三十日、読売新聞、毎日新聞。
注2、『市民の古代』第四集、拙論「好太王碑の開放を求めて」を参照。
注3、『考古学雑誌』第五巻、第三・四号、一九一四年。
注4、今西龍「広開土境好太王陵碑に就て」『訂正増補大日本時代史』古代、下巻、一九一五年。
注5、この調査については、『市民の古代』第五集、拙論「好太王碑文研究の新視点ーー好太王碑改削説への反証」を参照されたい。
注6、黒板勝美『歴史地理』第三二巻第五号の彙報欄、一九一八年。
注7、読売新聞、北京発、荒井特派員による。一九八三年十一月二九日。
注8、李進照『広開土王陵碑の研究』吉川弘文館、三一頁。
注9、この課題については、古田氏は斬新で根本的な視点を提起している(読売新聞、一九八三年十二月二四日付)。
主要な四点は、第一に碑文第二面の第七行一八字〜二〇字の「其国境」で其のが前後の文脈から「倭と新羅の国境」が朝鮮半島内に「倭」が存在することを意味している。従来の通説である近畿天皇家一元史観からは判読できないであろう。九州と朝鮮南部に海峡を越えて存在した「倭」とする古田説の正しさが、好太王碑文からも証明される。
第二に「守墓人」について碑文、第三面から第四面についてのべるところ、高句麗は、いずれも自国民を“墓守り”とせずに、むしろ新しく征服した「韓・穢人」を隷属化して国姻や看姻としている。これは、近畿に“巨大な”「天皇陵」古墳群とその墓制を考察する上で、大きな問題提起を含む。今後の古田氏の論述が期待されるところである。
第三に、第一面第八行の三四字から四一字「百残新羅、旧是れ属民」とする高句麗(騎馬民族)の叙述の背後にある論理即ち「分流」とする大義名分論である。碑文は、倭についてこのように言わず、むしろ「倭寇」「倭賊」として敵視しているところから、異民族視している。即ち、倭=騎馬民族説の否定となるのである。この点、重要ななる指摘であり、倭の源流をさぐるのに欠くことができない史料となろう。
第四に、碑文第三面一行で、風化が著しいため、従来四一字「辞」「潰」のみ拓出、解読できずにいたが、更に李仮説で、研究史上、王志修や栄禧本の第一行の文字を疑ったが、李仮説否定後、18字〜22字の「五尺珊瑚樹」問題は、百済と南海との「使献」を伝え、『隋書・百済伝』との関連を古田氏は読解された上で、「南海に、百済と政治関係を結んでいた国があった。この国(身再*牟羅国ーー引用者)は一体何処であろうか。(『市民の古代』第4集「画期に立つ好太王碑」参照)と新たな問題を提起している。
身冉*牟羅(たんむら)国の[身冉](たん)は、身に冉。 
 
九州王朝の落日

 

大宰府典筑紫史益への詔について / 九州王朝の落日(一)
『九州王朝」が存在するとして、その終末が何時かが問題となる。
「三国史記」の新羅本記文武王十年(670)に『倭国が国号を日本と改めた」とあることから、この頃をもって「九州王朝」の滅亡の年とするか、また「冊府元亀」の長安元年(701)に「日本国、使を遣わし、其の大臣朝臣、人を貢し、方物を貢す」とはじめて日本国の名が出るその頃とするかの二つが考えられる。
ある王朝の終期を、その政権が実権を失った時とするか、あるいは名目的にでも政権が存続していればその期間をも算入するかは、多くの見解が分かれるところであろうが、殊に「九州王朝」にあっては、西暦六六三年の白村江の戦における倭軍の大敗とそれに伴う「九州王朝」の主君筑紫君薩夜麻の捕囚が、実質的な王朝衰亡の主因となったことはいうまでもない。ところで、その後の「九州王朝」がどうなったのか。其の軌跡を文献に求めることはできないものだろうか。
「日本書紀」の持統天皇五年正月丙戌(十四日)に「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・ふとぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」とある。このことから筑紫史益(つくしのふびとまさる)という人物が、西暦六九一年を遡ること二十九年の西暦六六二年以来、筑紫大宰府典(ふびと)の職にあることが知られる。
西暦六六三年といえば白村江での倭軍大敗の年である。この注目すべき年から二十九年間、大宰府典の職にあったというか、留め置かれたというか、ともかくその在職二十九年間の忠誠に対して、この年に至って彼は何故か特に報奨が与えられている。
この詔勅のとき、筑紫史益に与えられていた位階は直広肆でありこれは後の従五位下にあたる。当時筑紫大宰であった河内王は西暦六八六年には浄広肆の位にありこれは後の従五位下にあたる。西暦六九四年に筑紫大宰率に任じられた三野王も同じく浄広肆であり、「日本書紀」天武天皇十四年正月の条に「浄」は諸王以上に与えられる位であり、「直」は諸臣に与えられる位であるとされていることから、王族と諸臣の違いこそあれ筑紫大宰府の長官にも比すべき位階を筑紫史益が有して居ることは注目すべきことと考えられる。筑紫の大宰は次々に替っても、その下にあって、しかも位階では長官と対等のランクにあり、大宰府典として事実上九州の行政の実務に永年携わっている在地の有力な人物の像を思い浮かべていただきたい。
典の職はのちの養老職員令によれぱ、大宰府には大典二人、少典二人を置く事になっていて、その相当の官位は大典が正七位上、少典が正八位上であり、三十年程へだたった後代に比して、大宰府典の職位がかなり高いのは何故だろうか。
更に、「清白忠誠を以て」という文言がその詔の中に見えるが、ここに見える「清白」という言葉については、西暦六五八年四月に阿陪臣が蝦夷を征伐した際、蝦夷の恩荷が「清白心をもちて朝に仕官らむ」と誓って居り、西暦六八九年五月には新羅の使が「清白心を以て仕え奉れり」と弁明し、さらにその後にも「清白を傷りて」云々とある。こうした例からみて、「清白」という言葉の裡には、敵対の意志無く服従を誓うといった重要な意味が籠められて使われていることがわかる。国内の諸臣たちや豪族に対して「清白」という用語は使われていない.「清白」という言葉が公文書である詔勅の中に用いられているということは、「近畿王朝」にあって九州が新羅や蝦夷と同等の立場にあることを示している。
「日本書紀」の詔によれば、筑紫史益に対し、特にその「清白」な忠誠をよみして報奨を与えているのはその文面上明白であり、筑紫史益はその「清白」な忠誠によって(さらには、今後も引き続き「清白」な忠誠を期待して)この時始めて食封その他の物があたえられた。彼が、食封五十戸を得たのは此のときが始めてであるのは(それが食封の加増ではなく、新規に与えられた事実は)、文の前後から明らかであり、これまでの彼の位階と比べて奇異の感がする。
筑紫君薩夜麻が白村江の戦で唐の軍に捕われて以後、主君を失って混乱した「九州王朝」の立て直しに対して「近畿王朝」側の政治的干渉が露骨に行なわれ、或いは『九州王朝」の事実上の後継者とは別個に『近畿王朝」の傀儡政権的な有力者を擁立し、大宰府には親「近畿王朝」色の強い連絡役的存在の人物を登庸したであろうことは当然に考えられ、該当する有力者の一人として、筑紫史益が筑紫大宰府典の職に任命されたのであり、そうした立場ゆえに名目的ながら大宰府の長官とほぼ同程度の位階を与えられたのではなかろうか。
彼がその職に携わっていた間に、当地ではいろいろな変革が行なわれた。例えば西暦六七〇年の庚午年籍の作成に彼が実質的に携わっていたのは、続日本紀の神亀四年(727年)の「秋七月丁酉筑紫諸国庚午籍七百七十巻以官印々之」とあることによっても間違いの無いことであろう。
要するに白村江以後は、形式的には(つまり対外的には)「九州王朝」の存在が認められるものの、実質的には「近畿王朝」に統合されてゆく過程にあったといえよう。西暦六七一年に筑紫君薩夜麻が帰還したとき、彼が「九州王朝」の実質的な王者として迎えられたかどうかは疑問である。
形式的にもせよ「九州王朝」の存続を「近畿王朝」が認めていたのは何故か。それは対外的な理由しかない。新羅については比較的に早く、西暦六七〇年に日本国の成立を承認させ得たのだが、唐はかたくなに倭国即ち「九州王朝」のみを日本列島の国家として認める態度をとり続け、漸く則天武后が唐の実権を取って以後の西暦七〇一年に日本国即ち「近畿王朝」が認められたのであって、その間は唐に対しては倭国の名称をもって外交や貿易をせざるをえなかった。「九州王朝」が細々ながらも続き得たのはそうした対外的な理由によるものであった。
中国による日本国即ち「近畿王朝」の公式承認によって、「九州王朝」の存在価値は失われ、以後筑紫君の一族は在地の一豪族でしか無くなってしまう。大宰府典の職位もまた以後急速に低下してゆく。
この時以後、筑紫史益の名は史書から姿を消す。天平十年(738年)駿河国正税帳に「竺紫史君足」とあるが、このことから筑紫史益らの一族は九州の故地を去らなくてはならない何等かの事情のもとに、此の地に至ったものと考えられる。
筑紫史益に対する詔書は、落日の「九州王朝」への最後のはなむけであったといえよう。(前田s博司1983.11.17) 
「九州王朝」における白鳳以後について / 九州王朝の落日(二)
いわゆる「九州年号」において使用されている年号は、そのほとんどが、十年未満であり、西暦五四一年に始まる「同要」の十一年と、西暦六六一年に始まる「白鳳」の二十三年(いずれも最終年を含まない)の二つがわずかに十年を超えている。
平均して、一年号が五・六年に満たないなかにあって、「白鳳」の二十三年間は特に注目すべき存在である。なぜ「白鳳」だけが改元することなく続きえたのかを考えるについて、では「白鳳」年号の間にどのような事件があったのかを探って見よう。
西暦六六一年白鳳改元(辛酉の年)
西暦六六三年白村江の戦に敗れ筑紫君薩夜麻ら唐に捕らわれる
西暦六六五年長門筑紫に山城を築く
西暦六七〇年庚午年籍の作成に着手
西暦六七一年筑紫君薩夜麻帰国
西暦六七二年壬申の乱
西暦六七八年筑紫国大地震
こうした大事件がありながら、『白鳳」年号が改元なしに永年続きえたのは何故だろうか。
「白鳳」が他の年号を含めて、後世の創作であるならば、「白鳳」だけをこのように長期にわたらせるような不自然な作りかたはしなかったであろう。その間だけ手抜きをして二十三年も同一年号にとどめておくような作りかたは考えがたい事である。
(以後のわが国の年号にあっても「白鳳」を越える長期のものは、延暦(782-80)正平(1346-1370)応永(1394-1428)と明治、昭和を数えるのみである。)
この場合考えられることは、改元を阻害する何等かの要因の存在、たとえぱ改元を指令する者或いは機構が弱体化しているか、改元を阻止するヨリ強い他の権力が作用しているか、またはその両方がからみあっているかであろう。西暦六六一年の改元は、おそらく「辛酉革命」説によってなされたものと思われ(「九州年号」はすべて、「辛酉革命」説をうけて、同要(541)、煩転(601)、白鳳(661)と改元されている。一般の年号にあっては、平安期の延喜(901)に始めて「辛酉革命」説による改元が行なわれ、以後維新に至るまでその例による。「辛酉革命」説による改元がこれまでの『九州年号」偽年号説の論拠の一つなっているが、政権が異なる立場では状況は自ずから異なってくる事は言うまでもないことである。)、おそらく「九州王朝』の天子である筑紫君薩夜麻によって詔されたことだろうが、酉暦六六三年の白村江の戦いにおいて事実上倭軍の総指揮官であったと考えられる薩夜麻が唐の捕虜となったため、西暦六七一年に帰国するまで「九州王朝」においては、いわば主君不在の状況が続いたことであろう。
その間は、当然ながら改元しようにも出来ようはずはなく、しかも「九州王朝」の首脳部が捕らわれの身であるなどで弱体化している間に「近畿王朝」の勢力が大きく覆いかぶさってきて、西暦六七〇年頃には後に庚午年籍と称する戸籍の作成が「近畿王朝」の主導下に実施され、薩夜麻が漸く帰国できた時にはもはや「九州王朝」の実質的な実権は「近畿王朝」の管理下に置かれているといった状況にあったものと思われる。
では、何故「近畿王朝」が弱体の「九州王朝」を一気に併合してしまわなかったのか。おそらく、「近畿王朝」としてはそうすることを望んだことであろうが、周辺の国々の圧力によってそれができなかったものと考えられる。
殊に唐にとっては、何としても認められないことであった。百済の滅亡後、親「唐」的な百済国を再建するつもりの唐のプランにたいし、新羅は強硬に自国への併合につっ走り、ついには唐の軍勢を朝鮮半島から追いだしてしまうという挙にでた。唐に対抗するためには、まず背後を固めておくことが必要という立場から、新羅は西暦六七〇年に「近畿王朝」すなわち日本国が日本列島の主権者であることを承認した。「三国史記」の新羅本紀の文武王十年十一月に「倭国が国号を日本と改めた」とあるのは、このことを指している。
いきおい、唐としては、対抗上、従来の「倭国」郎ち「九州王朝」の主権の存続を固執し、それ以外の政権の存在は絶対に認められないという外交的態度を取らざるをえない。このため、「近畿王朝」としては、強大な唐の勢力と争うことの不利益を考えて、唐に対する外交上の窓口的存在としてやむなく「九州王朝」の形式的存続を許さざるをえなかったであろう。ただし、年号の改元については、その権限を認めなかったものと思われる。このことが、結果として「白鳳」年号の永続という事実に繋がったものであろう。要するに、「白鳳」年号の永続は、実際にはその途中以後「九州年号」が中断していた期間であったと理解したほうが適当と思われる。
西暦六八四年、「九州王朝」は、突如として「白鳳」年号の改元を行ない、新年号を「朱雀」と号した。この年に何があったのか。恐らく改元を決意するほどの、何等かの重要な理由が生じたにちがいない。直接的には「九州王朝」の領域内で朱雀が捕えられたといった嘉祥によって改元されたこととは思うが、真の理由は他にあったはずである。
この年、唐においては、則天武后が帝を廃し、自ら政権を樹立した。その政策は従来の唐政権の人脈否定に始まり次々に制度が改められていった。外交の面でも当然のことながら旧弊を排して一新した態度で臨んだことが考えられ、このことは今までの日本列島への外交方針も大きく転換したことを想像させる。従来唐のバックによってかろうじて存続してきた「九州王朝」が、存廃の岐路に立たされたといったような重大な危機感を抱いたのも過言ではあるまい。もはや、唐からも見棄てられようとしている「九州王朝」が覚悟を決めて、自立の道を踏み出したのが、この「朱雀」改元ではなかろうか。いわば「九州王朝」の蘇生を求めて、この年改元という主権行使に至ったものであろう。あるいは、天武天皇の末期ごろから、「近畿王朝」と外交上やや疎遠になりつつあった新羅が、その反動として「九州王朝」に何等かのアプローチを図った、ということも考えられることである。持統天皇即位以後「近畿王朝」と新羅との不和が著しくなっていったのは史書の示す通りである。
「日本書紀」によれば、西暦六八五年十一月、新羅は官位第四位波珍食*の金智祥、第五位大阿食*の金健勲を派遣し、「政を請」して(他国の政冶に注文をつけて)いる。新羅の使節が来朝するのに、その理由は「朝貢」「進調」が殆どで、「請政」(676,685)「奏請国政」(687,695)のような例は四例に過ぎないうえ、このように使節の官位が異常に高いのは、天皇即位の慶賀又は弔喪の時の使節以外には見受けられないことである。
食*は、二水編に食。JIS第4水準、ユニコード98E1
当時、天武天皇は、「朱雀」の元年(西暦六八四年)二月に三野王等を信濃に派遣して地形を調べさせている。書紀には「是の地に都つくらむとするか」とあり、翌年には実際に信濃に行宮を作らせている。いったい、何のために信濃遷都を計画したのだろう。また、西暦六八五年十一月には、「儲用の鉄一万斤を周芳総令(山口県防府か)の所に送」し、「筑紫大宰、儲用の物」「鉄一万斤、箭竹二千連を請す。筑紫に送し下す」と西日本に何か異常事態が起こることを。予想しているように感じられる。
七世紀の後半期において新羅の我が国に対する遣使の官位は、せいぜい第八位程度にもかかわらず、この時、新羅が、異常なほど高官位の使節を派遣して、日本の政治に干渉したのは、何故だろうか。しかも、このような、いわば無礼な使者に対して、翌年の四月には「新羅の客等に饗たまわむが為に、川原寺の伎楽を筑紫に運べり」といった特別な待遇までもしている。このような新羅のこわもての姿勢と、それに対する天武天皇側の異常ともいうべき対応の陰に、当時の「九州王朝」の出方に対する「近畿王朝」側の反応のさまを窺うことができる。さらに、その十二月、「筑紫に遣せる防人等、海中にただよいて、皆衣裳を失えり。即ち防人の衣服の為に、衣四百五十八端を以て、筑紫に送り下す」という書紀の記事は、いったい何事を指すのだろうか。何かが起こった、あるいは、何かが起こりかけたにちがいない。「朱雀」(西暦六八四年)「朱烏」(西暦六八六年)の改元と、西暦六八七年の新羅の「請政」の遣使、。西暦六八七年の新羅の「奏請国政」の遣使とは何等かの関係があるように思われるのだが如何なものだろうか。あるいは、この間に、一時的ながらも「九州王朝」実権奪回があったのかもしれない。
大宰府典即ち大宰府の次官として白村江の大敗の年にその職に就いた筑紫史益に対し、その二十九年にも亙る「清白き忠誠」を嘉みして特に詔芽を下されたのが西暦六九一年のことであり、その詔に「清白」が強調されていることから、当時大宰府の域内すなわち「九州王朝」内において、「近畿王朝」に対する「清白」な忠誠を疑わせる何等かの不穏な動きがあったということは充分に考えられるところである。もっとも、残念ながら、書紀にわずかにうかがわれる、「九州王朝」の事実上自立の動きは、以後長くは続かなかったようである。
「朱鳥」(686)年号は、天武天皇の死去と係りあうとしても、「大和」(695)、「大長」(698)の年号には、いずれも「大いに和し」「大いに長く」と、「九州王朝」の存続を祈求する願望が込められているように感じとれる。それまでの「九州年号」に「大」の字が一度も使用されていないにもかかわらず、終末の頃にあたって続けて用いられたのは単なる偶然だろうか。(「大和」の改元と、西暦六九五年の新羅『奏請国政」の遣使とも、何等かの関連が考えられるのではないだろうか。)
「旧唐書」倭国日本国伝に「日本国は倭国の別種である。其の国は日辺にあるので、故に日本をもって名としている(中略)。あるいはいう、日本はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ、と。」とあるのは、最終的に倭国すなわち「九州王朝」が、日本国即ち「近畿王朝」に併合されたことを如実に示している。
西暦七〇一年に「冊府元亀」が記す「日本国、使を遣わし、其の大臣朝臣、人を貢し、方物を貢す」によって、その年以降日本列島の主権者は「近畿王朝」であることが唐によって正式に承認され、それとともに「九州王朝」は、ひっそリと歴史の舞台から退場していったのである。
この年、文武天皇は始めで以後継続する元号を立て、「大宝」と号したことが「続日本紀」に「建元為大宝元年」(三月二一日の条)と記されている。この時期、「宝」という文字に垂要な意味があったことは、さきに古田氏が詳しく述べられたところである。
(註)下関郷土会発行の「郷土」第二四号(昭和五十三年五月)所載の「長門は国のさいはてー「九州王朝」説による「穴門」史試論ー」(拙論)では「白鳳」年号について次のように述べたことがある。
“「九州年号」の「白雉」につずく年号は「白鳳」であり、西暦六六一年から六八四年までの長期間にわたって存続している。「九州年号」の他の年号が、すべて十年以内のものでしかなく、全体として、平均して一年号五、六年であるのに比べて「白鳳」のみが異常に永いのはことに興味深い。
その間、西暦六六二年の白村江の大敗に筑紫君薩夜麻が唐の捕囚となり、西暦六七一年にようやく帰国するのだが、すでに薩夜麻にとって年号変更(改元)の権能が失われていたものか、あるいは、唐への服属の意を表して年号を事実上廃していたものか、いずれにせよ、こうした理由のため、「白鳳」が、後日、形の上で長期間存続した格好になったものと思われる。”(前田博司1983.11.191984.7.26増補) 
令制雅楽寮に記す「筑紫諸縣舞」について
昨今、話題となっている「筑紫舞」が、奈良・平安期の宮廷においてどのような推移をたどっていったかを文献によって探ってみよう。
「続日本紀」巻十一の聖武天皇天平三年(西暦731年)七月廿九日に『雅楽寮ノ雑楽生ノ員ヲ定ム。大唐ノ楽卅九人。百済ノ楽廿六人。高麗ノ楽八人。新羅ノ楽四人。度羅ノ楽六十二人。諸縣ノ舞八人。筑紫舞ノ廿人。其大唐ノ楽生ハ夏蕃ヲ言ハズ、教習ニ堪タル者ヲ取ル。百済高麗新羅等ノ楽生ハ並ニ当蕃ノ学ニ堪タル者ヲ取ル。但度羅楽、諸縣、筑紫ノ舞生ハ並ニ楽戸ヲ取ル。」と記し、諸縣の舞、筑紫の舞などの名が見える。
「令集解」巻四に記す大属尾張浄足説は、天平年間ごろの事と考えられているが、雅楽寮楽人の内、『大属尾張浄足説。今寮に有る舞曲左の如し。久米舞大伴琴を弾き、佐伯刀を持て舞う、即蜘蛛を斬る、只今琴取二人、舞人八人、大伴佐伯不別也。五節舞十六人田舞師、舞人四人、倭舞師舞也。楯臥舞十人、五人土師宿禰等、五人文忌寸等、右甲を着け并に刀楯を寿つ。筑紫舞廿人、諸縣師一人、舞人十人、舞人八人甲を著け刀を持つ、禁止二人。」云々とあるように筑紫舞は二十人の舞人による舞、諸縣舞は諸縣(舞)師に率いられた舞八から十人による甲を着け刀を持った勇壮な舞であった。
大宝令以下の諸令において、雅楽寮の諸楽師例えば唐楽師、高麗楽師、百済楽師、新羅楽師等と並んで舞師の名が見えるが、「令義解」巻一職員令に記す雅楽寮に「舞師四人。雑ノ舞ヲ教ルコトヲ掌ル」とあり、以下いずれも『類聚三代格』の記載には、
(1)同書巻六の天平勝宝九年(西暦725年)八月八日の大政官謹奏に、「諸縣舞師、堕羅舞師。右准雅楽諸師従八位官」とある。
(2)同書巻四の大同四年(西暦809年)三月廿一目の太政官符に「舞師(四人)。筑紫諸縣師(在此中)」(四人、據令集解補)(在此中三字本書闕今據令集解補之)、とある。
(3)同書巻四の弘仁十年(西暦819年)十二月廿一日太政官符に「定雅楽諸師数事。舞師四人。倭舞師一人。五節舞師一人。田舞師一人。筑紫諸縣舞、師一人。」(按舞師四人下注令集解作倭舞師一人呉舞師一人新羅舞師一人筑紫諸縣舞師一人)、とある。
(4)同書巻四の天長五年(西暦828年)十一月廿五日の太政官符に書生十人を置くかわりに、雅楽寮の歌人五人、筑紫諸縣舞生五人を削減する、とある
(5)同書巻四の承和二年(西暦835年)二月十九日の太政官符に、書生十人を置くかわりに、田舞生五人、筑紫諸縣舞生五人を削滅する、とある。
(6)嘉祥元年(西暦848年)九月廿二日太政官符に「倭楽生百卅四人。減九十九人。定卅五人」で、歌人、笛生、笛工、舞生、田舞生、五節舞生に続いて「筑紫諸縣舞生三人。元廿八人」という記載がある。
これらの「類聚三代洛」にあっては、「続日本紀」などに見える「筑紫舞」の名は無く、かわって「筑紫諸縣舞」の名が出てくる。従って、八世紀の半ばころまでは「筑紫舞」と「諸縣舞」の二つが、それぞれ存在していたものが、やがて統合され、九世紀の治めには、もはや「筑紫諸縣舞」に転じていることがわかる。
「諸縣舞」については、岩波書店の坂本太郎他校注の「日本書紀」によれば、景行天皇十八年三月の条にある「諸縣君泉媛」の注として「諸県は、日向国西部の地名。延喜民部式・和名抄に同国諸県郡がある(中略)。なお、令制雅楽寮に雑楽の一つとして伝えられた諸県舞は、この部族の歌舞であろう。」とある。諸縣の名は「日本書紀」応神天皇十一年是歳の条にも、日向国の「諸縣君牛諸井」の娘、髪長媛として記載がある。また「旧事紀」巻第七には「豊国別命。日向詣縣乃等祖」とあり、「日本書紀」応神天皇十三年の一書に云わくとして「日向諸縣君牛」、「古事記」応神天皇の条に「日向国諸縣君之女名髪長比売」、同書仁徳天皇の条に、「日向之諸縣君牛諸之女髪長比光」とあるように、古くから知られていた地名であった。
こうした記載から「筑紫諸縣舞」について、筑紫は九州を総称する古称とし、「諸縣」を地名と解して、日向の諸縣郡に住む部族の歌舞としたものと思われる。しかし、前述したように記紀などに出てくる諸縣は、いずれも日向国の諸懸とあって「筑紫」の諸縣ではなく、寡聞にして日向の諸縣を「筑紫」の諸縣と記載した例を知らない。
「古代の日本」(角川書店)所載の「芸能の伝承」では、記紀の諸県の君についての伝承を踏まえて、諸県君の大和朝廷にたいする朝貢芸能として、鹿舞が行なわれていたのではないかと論じ、「諸縣舞」を吉野の山人による国栖の舞と同様に扱っているが、確とした証拠はない。
諸県部に隣る鹿児島県には、古くから「隼人舞」という歌舞が存在していた。「続日本紀」養老元年(西暦717年)四月庚午条に「天皇西朝ニ御ス。大隅薩摩二国ノ隼人等、風俗歌舞ヲ奏ス。位ヲ授ケ禄ヲ賜ウコト各差有」とあるように、「隼人」たちによる風俗歌舞が知られているが、日向の諸県郡と隼人の地域とは地理的に近いことから、もし「諸懸舞」がこの地の歌舞であるとするならば、あるいは「諸縣舞」と「隼人舞」とは類似する歌舞ではないかと想定できないこともない。
しかし「隼人」については、『令義解」巻一職員令の隼人司に「正一人。隼人ヲ検校シ、及名帳、歌舞ヲ教へ習ハシ、竹ノ笠ヲ造リ作ル誓ヲ掌ル」云々とあって、治部省所属の雅楽寮とは別個の、衛門府の隼人司の所属とされている。すなわち、「筑紫諸縣舞」が雅楽として扱われる、いわば専業の舞であるに対して、隼人舞は威嚇のための呪文としての舞として扱われていることが決定的に違っている。
令に規定された雅楽の舞師、舞生が、唐楽、高麗楽、百済楽、新羅楽、度羅楽など諸国の楽師、楽生の中にそれぞれ舞師、舞生を置き、それと並ぶ格好の日本国側の舞師、舞生の中に「筑紫諸縣舞師」「筑紫諸縣舞生」の名が見えること、また「続日本紀」や「令集解」など初期の文書に、「筑紫舞」「諸縣舞」と別個に記されていることなどから見て、この「諸縣」は、日向の諸縣郡といった僻遠の一地方を指すものではなく、九州一円の諸「県」を指したものと考えられる。これまで、「筑紫諸縣舞」を特定の地名の「諸縣」地方の舞、あるいは「諸縣」君の、族の舞としてきたものだが、これを「筑紫」の諸「県」の舞と解しては如何であろうか。
ここで思いだされるのは、古田武彦氏がその著「よみがえる九州三朝」に紹介されている「幻の筑紫舞」である。あの「筑紫舞」が、あるいはこの令に記す「筑紫舞」それに続く「筑紫諸縣舞」の系譜に列なるものではなかろうか。
古田氏が力説されている「九州王朝」が、かつてこの九州の地に存在したとすれば、この王朝自体の舞楽も存在していたはずであり、それが「筑紫舞」であった、と言えよう。古田氏は、同書の中で、「当然九州王朝にもまた、中国への模倣としての宮廷舞楽が存在した」「それは、周辺の領域の舞楽を九州王朝に奉納する、という形をとっていろはずである」「それは同時に九州王朝の中心たる、筑紫における舞楽、という形をとっていると思われる」と主張されている。古田氏の説によれば、「九州王朝」は七世紀の後期ごろに滅びたものとされるが、「九州王朝」の舞楽も、王朝の滅亡と運命を共にしたのだろうか。
かつて九州の各地で行なわれていたはずの歌舞の数々、例えぱ「筑紫風土記」の肥前国逸文(「万葉集註釈」巻第三)に記す「杵島曲」といったものも、「九州王朝」に対して、いわゆる「朝貢芸能」として演じられたことであろうし、こうした九州の地方の舞を総称して、「九州王朝」では「諸縣舞」と称していたのではないだろうか。「九州王朝」において、地方の独立した区域を「県」と呼んでいたことは、「風土記」それも「筑紫風土記」と称される古風土記などの記載によって明らかである。こうしたことから、「九州王朝」の舞楽は、(外国の舞楽は別として、)「筑紫舞」と呼ぱれる宮廷舞楽と、「諸縣舞」と称する周辺の領域の舞楽の二つから成リたっていたものと考えられる。
七世紀の末頃、ついに「九州王朝」が「近畿王朝」に併合されると、「九州王朝」側の舞楽もそのままに「近畿王朝」に引き継がれ、その際「筑紫舞」と「諸縣舞」の区別が存するままに「近畿王朝」の舞楽のうちに包含されたのではないだろうか。やがて、時代の推移とともに舞楽が整理されてゆくにつれて、「令集解」の段階までは、「諸縣舞」と「諸縣舞」とは別個の舞楽であるのが、八世紀の後半ごろに「筑紫舞」と「諸縣舞」とが一つに併合されて『筑紫諸縣舞」とされた(「類聚三代格」大同四年太政官符以後)といった経過をたどったものと想定される(「筑紫」の舞と、日向の諸県郡の舞とを一つにするのは理屈に合わないことと思われる)。もともと「令集解」の記枚から推察されるように、「筑紫舞」は多人数の舞人を要する多種多彩の華麗な舞、「諸縣舞」は甲を着け刀を持って舞う勇壮な舞といった厳然たる区別があったものが、時代の推移とともに、そのいずれもが、単に九州地方の舞楽として混同されていったものであろう。すなわち、「筑紫舞」プラス「諸縣舞」、それが「筑紫・諸孫舞」であった。ともかくも、他国伝来の諸雅楽と並んで、雅楽寮において九州の舞楽が雅楽の種目の一つとして代々伝授されてきたのはそれなりの理由があったはずである。
このような経緯から見て、「笈紫舞」「諸縣舞」あるいは「筑紫諸縣舞」といったものが、単なる九州の辺地の歌舞であったとは考えがたく、令において「雑ノ舞」とは云いながらも、「正舞」と共に雅楽の一つとして取り扱われるほどに芸術的に充実し、充分に大宮びとたちの鑑賞に価する舞楽であったからこそ、雅楽寮において教習されるものであり、加うるに、これらの舞楽が、かつての「九州王朝」伝来の舞楽であったがゆえに、とりわけ重視されてきたのではないだろうか。
嘉祥元年に「倭楽生百卅四人」を、三十五人に減員した際、「筑紫諸縣舞生」を「元廿八人」から僅か三人に減じているが、このことは、かつての「九州王朝」の記憶が次第に薄れてゆき、今や一地方に過ぎなくなった九州の舞楽を、いまさら雅楽寮において、習得させる必要性がなくなったためと考えられよう。さらに時代が下ると、ついには「筑紫諸縣舞」それすらも公式の場から除かれてしまい、くぐつ師などわずかに一部の職業階層の者のみが、その伝統を受け継ぎ、今に至ったものと考えられる。昨今、話題になっている「筑紫舞」はかつて雅楽寮に伝わる「筑紫舞」、「筑紫諸縣舞」のかすかな末裔ではないか、あるいは古田氏が主張されるように「九州王朝」から直接に伝来された「原筑紫舞」の後裔なのか、今となってはもはや判然としない。
*註「令集解」「令義解」「類聚三代格」などには、「舞」を「舞*」とするが、ここでは「舞」に統一した。
舞*は、人編に舞。JIS第4水準ユニコード511B
後註(「常陸国風土記」の行方郡に「杵嶋の唱曲を七日七夜遊び楽しみ歌い舞いき」とある「杵嶋の唱曲」が「肥前国風土記」の逸文にある「むらざとの土女、酒をたずさえ、琴を抱きて、歳ごとの春と秋に、手を携えて登りみさけ、楽飲み歌い舞いて、曲尽きて帰る」「是は杵島曲なり」とある現在の佐賀県の「杵島曲」と同様の歌舞と考えられるのはなぜだろうか。九州と同様の装飾古墳が、関東平野の沿岸一帯に分布していることなどからも、九州と東国との関連がうかがわれる。それはともかくとして、このとき「常陸風土記」に見える国栖の名に、『夜筑斯」(やつくし)とあるのは、九州の「筑紫」とは関係のない、偶然の一致であろうか。)(前田博司1983.11.291984.7.26増補) 
山口県内の文献に見える逸年号
使用年号西暦文献名記載箇所
1、善記元年五二二「寺社由来」
熊毛宰判呼坂村
熊毛神社
(現熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)
「人王二十七代継体天皇御宇善記元壬寅歳、法雲宝唱、来朝之時持来、大戸道太神之宝殿籠置」
「長門二ノ宮忌宮神社史料」
二宮御縁起
(現下関市長府)
「日本年号始善記八幡御示現豊前国宇佐郡皇子嶺場」
2、僧聴三年五三八「風上注進奄」奥阿武宰判嘉年村森山八幡宮八幡大菩薩御縁起
(現阿武郡阿東町大字嘉年上)「人王第三十代欽明天皇位に即給ひて十二年に当て始て神明に顕給ふ、大宮司の補任帳には僧聴三年共云ヘリ」
「寺社出来」美禰郡綾木村
綾木鎮守縁起
(現美東町大字綾木)「人王第三十代欽明天皇位に即給ひて十二年に当て、始て神明に顕給ふ、大宮司の補任帳に僧聴三年共云リ」(儒聴三年とあるは転記の際の誤リか。)
3、貴楽元年五五二「寺社證文」南明山乗福寺
(現山ロ県大字大内御堀)「此御宇吾朝善光寺如来渡給、日本仁王三十代欽明天王之御治天貴楽元年奉渡者也」
4、智僧五年五六九「寺社由来」舟木宰判須恵村の内壁田村松江八幡宮
(現小野田市)松江八幡宮新鐘銘
「松江自百剤国智僧五己丑此山霊殿崇観」(「風土注進案」にも同釣鐘銘文の記載がある。)
5、智僧六年
・金光元年五七〇「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
熊毛神社
(現熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)「羅神秘有叡聞天子、神鏡之光其感、詔而知僧六年改金光元年也」
6、賢称二年五七七「寺社由来」奥山代宰判阿賀村
崎所大明神縁起
(現玖珂郡美和町大字阿賀)「寺社由来」奥山代宰判阿賀村崎所大明神縁起(現玖珂郡美和町大字阿賀)『季号賢称丁酉とかやの時、もろこし百済国に(中略)百済琳中皇帝中林聖家之太子こころさし有て五ケ年の後、この和国にわたらんとおほしめす」
7、賢称六年五八一「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
熊毛神社
(現熊毛郡熊毛村大字呼坂勝間)「其後賢称六年辛丑之八月十一日、遠見八播之神鏡、亀井山大戸道太神之神木飛来」
8、鏡常元年五八一「寺社由来」奥山代宰判阿賀村
崎所大明神縁起
(現玖珂郡美和町大字阿賀)「五ケ年を期し鏡(けん)常辛丑之季七月下旬、琳聖太子防浜に来朝し給ふ」
9、鏡常三年五八三「寺社由来」熊毛宰判呼坂村(勝間村)神光院
(現熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)「開山基空尊者(中略)同(敏達)帝御宇鏡常三年癸卯三月十八日入涅槃」
10、鏡常五年五八五「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
熊毛神社
(現熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)「其後鏡常五年乙巳六月晦日、従同帝奉幣之勅使参詣之時、玉扉自開」
11、勝照元年五八五「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
神光院
(現熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)「二代基法論師但、勝照元年乙巳六月八幡宮御本地仏三尊の形像奉彫刻事縁起ニ相見候」
「寺社由来」熊毛宰判呼坂村
熊毛神社
(現熊毛郡熊毛町大字呼坂勝間)「勝照元年乙巳六月仕神託令閉戸、諸人不能再尊像拝」
12、防勝三年五八七「寺社證文」南明山乗福寺
(現山ロ県大字大内御堀)「太子十六歳用明天皇二年防勝三隼丁未摂州玉造岸上建立今之天王寺也」(防勝の年号他書に見えず)
13、(勝煕四年)(五八八)「風土注進案」熊毛宰判塩田村
石木山神護寺
(現熊毛郡平生町大字大野南)「寺伝ニ曰、当山は異域勝煕四年戊申本朝人王第二綏靖天王即位五年初春上漸日三夜、防陽の南畔海中金輪際より湧出ける霊地なり」(註。中国に該当の年号なし。「九州年号」の勝照四年が戊申であり、之に相当するか。)
14、端正元年五九三「風土注進案」船木宰判西須恵村
万福寺子持御前の禄記「我朝人皇三拾四代推古天皇御宇端正元癸丑年ここなる銀鎖岩の上に鎮座し給ふ」
「足引宮は彼の飛車に打飛て大日本国長州厚狭郡本山村に到着あり、頃は推古天皇御宇端正元年癸丑十一月十三日午の刻とは聞へけり」
15、告貴四年五九七「寺社證文」南明山乗福寺
(現山口市大字大内御堀)『凡聖徳太子二十六歳之御時、推古天皇五年告貴四年丁巳夏四月、百済国聖明皇帝之第一王子奉号阿佐太子、為拝見吾朝之生身救世観音来朝」
16、光充元年六〇五「寺社證文」防州吉敷郡山口仁壁
三宮伝記
(現山口市三の宮二丁目)「三宮、往古ハ宮野ノ内宮ノ前ト申所二鎮座ノ処二(中略)、宮ノ前ヨリ終夜玉光飛通り奇瑞有之ニヨリ、今ノ社地江光充元年(朱書『光充元年不承及」)二宮殿ヲ遷サレ候事」
17、定居元年六一〇「大内譜録長門記」『琳聖太子(中略)本朝二渡ラセ玉フ比ハ推古天皇十九年辛本暦号定居元年トカヤ」
「干時推古天皇十九年幸未暦なり百済国の定居元年とかや」
同書(菊川本)「干時推古天皇十九年幸未暦なり百済国の定居元年とかや」
「風土注進案」三田尻宰判牟礼村旧跡仮屋村
(現防府市大字牟礼)「定居元年未年(中略)同十九年未年洋海を漕渡り三月二日周芳国多々良浜に着玉ふ」
「風土注進案」山口宰判恒富村
願成寺・三宝荒神
(現山口市大字黒川高倉荒神社)「高倉山三宝荒神の尊像は琳聖太子御来朝の節、被備船中是守護神ニ、定居元年幸未三月二日佐波之郡多々良之浜え御着船被成」
「風土注進案」山口宰判字野令村
医王寺
(現山口市鰐石町附近にあった)「時三年干期定居元辛未琳聖太子来朝ス」
「風土注進案」三田尻宰判西佐波令
高倉山福宝寺
(現防府市高倉)「当寺は往昔推古天皇之十九年三月二日百済国聖明王第三王子琳聖太子周芳国多々良浜二着玉ふ、天皇佐波郡大内県に皇居を建而定居王と号す」
「大内氏実録」(近藤清石著)「言延覚書に定居元年とし、義隆記定居二年とす。この他定居の年号をかきたるものあれど定居の年号正史に所見なし」
18、定居二年六一一「大内義隆記」「百済国ノ王子琳聖太子ト申セシガ、日本周防国多々良ノ浜へ定居弐年二来迎シ」
「寺社證文」
南明山乗福寺
(現山口市大字人内御堀)「吾朝推古天皇御宇定居弐年壬申(琳聖太子)来朝秋比周防国佐波郡府中多々良浦也」聖徳太子四十歳定居二年壬申百済国渡」「定居弐年壬申秋比周防州府中奥多多良浜汀繋舟」「定居己後大宝以前都合八十九年也」
「寺社由来」都濃部浅江村
賀茂大明神宮由来書
(現光市大字淺江筒井)「聖徳大子治世定居弐年壬申歳、百済国聖明王第三之王子琳聖大子日域有御来朝」
「風土注進案」舟木宰判棚井村
恒石八幡宮
(現字部市大字棚井)大内氏系図「琳聖太子人王卅四代推古天皇御宇五年定居二壬申来朝之」「右大内殿定居ニ壬申来朝在テ、至弘治二丙辰及九百四十五年」
19、聖徳三年六三一「寺社由来」大津郡深川村山上堂山上堂由来書
(現長門市)「寺社由来」大津郡深川村山上堂山上堂由来書(現長門市)「仁王三十五代舒明天皇之御宇、聖徳三歳経七箇月、十月廿八日丑刻誕生給云云」
「自聖徳三年辛卯今天文十六年丁未歳九百十九年ト承、御歳七十二歳(役小角)御入虚云云」
20、僧要元年六三五「寺社由来」厚狭郡末益村
洞玄寺宝珠山洞玄与由来書
(現山陽町大字部)「此時推占天王御持仏一光三尊弥陀尊像下賜、則僧要元年乙未歳云云」
21、光色元年六四七「風土注進案」舟木宰判棚ヰ村
恒石八幡宮
(現宇部市大字棚井)
恒石宮御縁記、於長州古ヱ厚東代系図抜書「二代(厚東)武基号厚東太夫人皇卅七代孝徳天皇御宇光色元丁未御上洛之時備後田恒石ト云所ニテ御船本ヱ従海中戟ト御正体上給」「右当社八幡宮ハ光色元丁未ヨリ至文和三甲午七百八季厚東代崇敬之」
「寺社由来」厚狭郡棚井村
恒石八幡宮「右開基は厚東武基公御上洛の時備後国恒石ト申所より御顕、即光色元丁未歳武基公当社御建立被成」及び前記「風土注進案」と同様の記載あり。
(光色の年号他書に見えず)
22、白雉元年六五二「風土注進案」舟木宰判中山村
明王山広福寺縁起
(現宇部市大字中山)「大化六庚戊年武基より白雉を禁庭江献上せしによって嘉祥の年号として白雉と改元し玉ふ」
「風土注進案」舟木宰判棚井村恒石八幡宮
(現宇部市大宇棚井)
恒石宮御縁記「往昔人皇三十七代孝徳天皇之御宇、当所霜降嶺之本主厚東弐代目太夫武基公御時代霜降之嶺之辺穴戸と申所ニて白キ雉子を生捕大内へ捧玉ふ(中略)又夫より隼号を白雉と改玉ひ目出度御代ニ而候也」
山田家系図
(長門国一ノ宮佐吉神社史料)「醜都禰大化六年春献白鳥、同年孝徳天皇之御代ニ年号ヲ白雉ト改ラル、則大山之位ニ叙」
「風土注進案」奥阿武宰判須佐村松埼八播宮
(現阿武郡須佐町大字須佐)「当杜勧請は人皇三十七代孝徳天皇の大化六年五月初八日今年改元而為白雉元年」
「風土注進案」当島宰判阿武郡椿西分椿郷祇園社
(現萩市)「又孝徳帝大化年中祇園山にて白雉を取、長者椿氏都に持献す。占年の相と叡感有て年号を白雉と改め、長者にも官禄を賜ひ長門守に被任」
23、白鳳元年六六〇「風土注進案」前山代宰判広頻村
白山権現
(現玖珂郡錦町大字広瀬)「社伝ニ日ク、白鳳元年申十月十一日紀州熊野ヨリ森大内蔵と申者勧請と云々」
山田家系図
(長門国一ノ宮住吉神社史料)「彦丸白鳳元年日下之姓ヲ譲テ穴門直之職ヲ賜リ再任」
24、白鳳八年六六七「寺社由来」大津郡新別名村
大願寺人丸縁記
(現油谷町)「寺社由来」大津郡新別名村大願寺人丸縁記(現油谷町)「又吉野の行幸に供奉し、此山の桜を雲と詠しハ天武天皇白鳳八年なり」
25、白鳳十年六六九「風土注進案」山口宰判桜畠村
仁壁神杜
(現山口市三の宮二丁目)「日本書紀天武天皇白鳳十年春正月辛未朔壬申、頒幣帛於諸神砥とありて」「天武天皇白鳳十年春正月辛未朔己丑詔畿内」云々
26、白鳳十三年六七二「玖珂部史」玖珂本郷霊岳山宝嶺寺
(現玖珂郡玖珂町)「天武天皇白鳳十三年甲申十月十日暁ニ此唯人ニ夢ノ告アリ」(増補に記す)
27、白鳳十四年六七三「風土注進案」三田尻宰判三田尻村
厳島大明神(現防府市三田尻)「当社は人王四十代天武天皇白鳳十四酉ノ年、此松原に御鎮座之事卜部家之御記録審なる良古キ御社也」
「寺社由来」大津郡新別名村
大願寺人丸縁記(現油谷町)「白鳳十四年大津の皇子はしめて詩賦を作りしより和歌漸くおとろへたり」
「長門国志」巻六守護第七
厚東氏「物部武忠中将法名道雲白鳳十四年九月六日卒」
28、朱烏元年六八六源平盛衰記」劔の段「しかるを天武天皇朱烏元年に、是をめして内裏にをかる、いまの宝劔是也」
29、朱烏三年六八八「寺社由来」大津郡新別名村
大願寺人丸縁記(現油谷町)「朱烏三年草壁の太子墓しましまし」
30、朱烏六年六九一「風土注進案」山口宰判桜畠村
仁壁神社「日本書紀に、持統天皇朱烏六年五月巳酉勅天社地社」云々
(註)
「玖珂郡史」広瀬喜運著、享和二年成立
「防長地下上申」萩藩編、享保十二年〜宝暦三年成立
「防長寺社由来」萩藩編、主として享保年間成立(明和以後文政元治年間のものもある)
「防長風土注進案」萩藩編、享保十三年成立
「防長寺社證文」永田政純編、享保十年成立
(前田博司1983.11.17作成)(1984.5.16増補) 
 
東方史学会好太王碑訪中団の報告

 

一 はじめに / 好太王碑開放への努力
戦後、一九八四年までの長い間にわたって日本人研究者の好太王碑現地踏査は、許可されていなかった。(1)好太王碑論争が李進煕氏と古田武彦氏との間で白熱した論議をよぶと、好太王碑を現地で調査することは多くの研究者、市民の一致した希望となり、念願となっていた。中国と日本とが国交を回復した後も、好太王碑がある集安は鴨緑江をはさんで朝鮮民主主義人民共和国との国境にあるためもあり、長い間、外国人に対して未開放地となっていた。好太王碑を研究するということは、全ての金石文研究が実物を精密に観察するところから出発するのと同様、まして「改削説」が提起されて以後、その金石文の真偽をめぐって実地に調査をすることは絶対に必要なことであった。
一九八○年、「古田武彦を囲む会」(当時の呼称。現在の「市民の古代研究会」)の幹事会で熱っぽく議論されて、好太王碑現地調査を目的とした東方史学会の設立が決められ、賛同者に呼びかけられた。(2)中国側への交渉は、会長古田武彦と事務局長藤田友治が中心となってあたることとなった。
手紙だけの交渉ではなくて、実際に中国へ足を運びはじめた。一九八一年三月三十一日、古田が北京国務院で交渉(3)、八月二十七日再度訪中して古田、藤田らで北京、長春それぞれの文物管理局と交渉し、ようやくその結果「二年後に好太王碑の開放を努力する」という中国側の意向を引き出し得たのであった。(4)
約束された二年を経ても、まだ開放されない状況を切り開こうと幾度も東京の中国大使館や関係機関へ足を運んだり、手紙を出して訴えてきた。焦燥感やあきらめさえ感じた時期もあった。
本年、一月十二日の夜、翌日行う講演会(5)の打ち合わせのため東京の古田宅へ集まっているところへ、大阪の土利川正一氏から画期的なニュースが入った。受話器を興奮して握りしめた。好太王碑、将軍塚、国内城遺跡、五[灰/皿]墳、集安県博物館等へようやくにして行けるという。但し、いまだに中国の国家文物局筋は認可せず、長春市政府(中国ではこう表現する)、中国国際旅行社長春分社等の決定であるようだ。
五[灰/皿]墳の[灰/皿]は、灰の下に皿。JIS第三水準ユニコード76D4
長年の私達の努力が、今やっと報いられつつあるという喜びと、未だ好太王碑の前に本当に立つまでは・・・という半信半疑の気持ちとが複雑に私達の胸に去来した。土利川氏に紹介を受けた関西国際旅行社と具体的なスケジュールや中国側に対する私達の要望を出し交渉する日々が過ぎる。
この交渉の結果、好太王碑訪中団として初めて認可を引き出した事項は次の通り。一、好太王碑のある集安の日数と時間は制限しない。二、訪中団員にカメラマン及びジャーナリストの参加を認める。三、家庭用VTRの持ち込みを許可する。四、舞踊塚、角觝塚への参観等の許可。今後に残された要望事項は次の通り。一、好太王碑の柵内からの写真撮影及びビデオ撮り。二、足場となるイス・キャタツ等の使用。三、太王陵、東台子等関連遺蹟の見学。交渉結果が具体化するや早速、長年待ち望んでおられた方々ヘニュースを発送する等多忙な日々が続いた。当初、参加希望者が多い場合、どのような方法で人数制限内に絞り込むかという心配があった。だが、事態は予想に反して全く逆であった。三、四年も前に訪中を申し込んでいた人々にとって、突然十日間以上も長期の外国旅行に出かけるには、いかに熱意があっても健康が許してくれなかったり、既に予定が入っていたりしてそううまくいくものではない。丁寧な断り状が届くたびに眠れない日もあった。以前は中国側が許可せず、私達の側はいつでも出発できる状態だったのに・・・。今度は中国側は許可したが、私達の側がもし早急に団を結成できず訪中できないとなれば、何という悲劇だろう。しかし好太王碑要求運動は学者や教育者だけではなくて「市民の古代研究会」を中心とした市民、ジャーナリスト等に幅広く根づいていた。訪中決定からわずか一ヵ月位で二十名という、戦後最大の団が結成された。とはいえ、諸般の事情で参加できなかった人々も多く、その人達の分まで私達が現地で見聞したことや調査したことを報告しなければならないと痛感した。 
二 いよいよ国境の地・集安へ
(一九八五年)三月二十三日、十時三十分に関西国際空港の国際線ロビーに集合、結団式を行う。一同やや緊張の面持ちで、団長古田武彦の挨拶を受ける。
「長年希望しておりました好太王碑に、やっと現場に到着することが出来そうだと思っていますが、しかし現地に着かなければまだまだという緊張感がございます。是非とも全員無事に帰りつくということを願っています。色々な問題があるようですが、ひとつ一致協力しまして、慎重には慎重を期して帰りには無事帰れるようにしたいと思います。各方面の方々(考古学者や哲学者)もおられますので、いろいろとお教え下さることを願っています。緊張と同時に、旅行も楽しめることを願っています」
一同の今度の訪中にかける思いを代表した挨拶に賛同の拍手。参加者全員の自己紹介(6)の後、十二時三十五分、上海へ向けてCA九一六便で飛び立つ。十三時五十分(以後、日本から一時間早い中国時間で表記する)着、十八時十五分に再びCA六五〇二便で瀋陽へ。二十時二十分着。宿舎に着くなり、中国側国際旅行社と翌日のコースの打ち合わせ(中国旅行の常として、大枠のコースは決まってはいるが、細部や宿舎については現地交渉主義で、前日に打ち合わせが必要)。
初日からたいへんな障害が現われていた。中国側は私達の当初のスケジュール、瀋陽から通化の列車を昼出発としていたが、急に夜行にしてもらいたいと主張。何しろ、この線に外国人が二十人も乗るのは初めてであり、席もないかも知れないという。中国大陸を飛ぶ飛行機では五〜六時間は遅れることが多い(列車も以前はよく遅れたが、最近は少なくなっている)。だが、遅れるどころか席もないという事態にベテラン通訳の老田氏も驚嘆する。
団長は、「年齢の高い人にとって夜行は大変であり、当初のスケジュールを変更して万一団員に病人が出たらどうしますか」と強い調子で訴え、スケジュール通りにして欲しいことを要請する。秘書長である私も三時間近くねばり交渉する。中国側担当者に私達の意志は確実に伝わっていくが、時間が刻々と経っていく。結局、もうこれ以上交渉を続けても、相手は真夜中で寝ている時間となり、早朝から中国国際旅行社の李静敏さんが精一杯私達のために動きましょうということて、不安ながらも眠りにつく。
二十四日、交渉がうまくいったというニュースを李静敏さんが伝えに来てくれた。彼女の目は充血していた。私達がお礼を述べると、彼女は、「まだ全員座れる切符は確保できていないんです。とりあえず乗り込むことです」と申し訳なさそうに応えた。とにかく乗れればよい。列車はたいへんな混雑で、予定時間から既に二時間十五分程度遅れていた。団のトランクや機材(VTR、八ミリ・写真機等)を団員自らが運ぶ(通常は中国側で運んでくれる。今回は未開放地へ行くことで、運ぶ人の手配が間に合わなかった様だ)。通化に到着したのは、もう真夜中の一時十五分。結局十時間四十五分もかかったことになる。しかし、万一交渉がうまくいっていなかったら、もう一日余分にかかることになっていた。通化賓館では翌日の交渉の後、夜中四時頃まで副団長の山田宗睦と歴史、哲学について議論。睡眠時間は三時間を切っている。たいへんな旅にもかかわらず元気なのは、明日こそあの好太王碑の前に立つのだという緊張と期待感が不思議と睡魔を追っぱらっているからだろう。
いよいよ二十五日、六時起床。通化を七時五十一分に出発、老嶺から集安へは、三つのトンネルがある。トンネルと鉄橋の二カ所に、警備のためのトーチカが見える。雪が降っているが、人民解放軍の兵士が警備のため直立不動の姿勢で立っている。その姿は、国境の地・集安がいよいよ近いことを感じさせる。古田、山田両氏は最新式の望遠レンズ、自動焦点カメラ(好太王碑の撮影のため新たに購入されたものだが、偶然同じ機種であった)の手入れに余念がない。いよいよ、車内は緊張感が高まってくる。
列車の窓の外は雪が降っている。コウリャン畑、トウモロコシ畑、大麦畑、そして水田もある。これまで続いていた大陸的平原はなく、低い山々、小川、谷という風景に変っていて、どこか日本の田舎を旅行しているかの様な錯覚さえ持つ位だ。列車は突然、プラットホームもないのに停車。荷物をもった二十人位の中国人が乗車している。なんとも私達には信じられないのだが、畑の中の「駅」のようだ。
三つ目のトンネルを超えるとそこは集安、十一時三十四分、「将軍塚が見えた!」の声があがるや、続いて好太王碑の碑閣、太王陵、五[灰/皿]墳と進行方向左側の窓からパノラマ絵を見るように視界に人っては消えていく。冬の終わりで木々の葉はなく、一年中で最もよく見える季節なのが幸いした。列車は弧を描くようにカーブして、十一時四十一分、とうとう私達は三日かかって念願の集安駅に到着した。 
三 好太王碑について
(1).基礎的調査から
集安賓館の前で集安県外事副主任の王顕春氏らによって歓迎の挨拶と注意事項の説明を受ける。国境の地にあたるため、鴨緑江から朝鮮の側ヘカメラを向けて撮影してはならないこと、その他撮影制限の場所を一つ一つ説明するという旨伝えられる。
マイクロバスに分乗して、いよいよ好太王碑の所任地、太王郷王村へと向う。踏切りを超えると、田園風景の中でポツンと立派な好太王碑の碑閣があるのが見えだした。古田団長は手をたたいて、念願の現地へという思いがようやく実現されようとしている瞬間の胸中を表現する。
鉄柵で囲いを厳重にしてある。二重、三重の柵を鍵で開けてもらう間もおしい位だ。目の前に巨大な石碑が現われている。この巨大な対象は、ちっぽけな個々の様々な感傷をおしのけているようだ。限られた時間を有効に使おうと準備してきたそれぞれの視点から観察を始めだす。
まず山田宗睦氏と私は好太王碑の台座を、曲尺で計測することから始めた。結果は(下の)表の通り。私達の測定したデータを後に上田正昭氏や王健群氏のそれと比較すると両者の中間値のようであった。台座という基本的な数値でさえこのような違いが出るのは何故だろうかと考えた結果、二日目にもう一度測量を始め、今度は視点を変える。数値が異なってくるのは、測定基点と碑面の凹凸に原因があることに気付いたからだ。まず凹凸に関係なく測定基点A→Bを測量し、この数値を最小値とし、次に凹凸に従って曲尺も碑面につけて測量した数値を最大値としてとりだす。この方法によって判明した事実は、碑面は凹凸が台座部においても激しく、約二cmの差がでるということであった。このようにして測量した数値は次の通り。
第一面百四十〜百四十二cm(最小値〜最大値、以下同じ)、第二面百三十一〜百三十二cm、第三面百九十七〜百九十九cm、第四面百四十四〜百四十六cm。
現物に直面すると私達の想像を越える凹凸のひどさがよく解り、とくに第四面から第一面の側面を観察するとよく解る。このような碑面の凹凸の激しさが、拓本上のズレをおこす原因となっていたのだ。
次いで碑閣の基壇の測量に入った。従来は歩測のみで曲尺を使用していない数値であるから、正確に求めようとした。基壇は十m四方にすべく設計されたようだが、実際には計画よりやや大きくなっている。この測量の日は雪が降っていて随分寒く、曲尺を持つ手が痛い。団員の川口平三郎氏、高田かつ子さんと私の三人がかりで計測した。
碑亭については、集安県博物館副館長の耿鉄華氏に質問し説明を受けた。碑亭は好太王碑の保存、保護を目的として、一九八二年五月に工事を開始し、十一月に亭の主体部の俊工を行い、亭の建築が完成したのは、翌八三年の十月のことである。碑亭の高さは十四・三〇m一辺十一・七八mで、面積は百四十・四二m2、古典式の四角攅尖式の建築で宝頂琉璃瓦ぶきであり、碑正面に「好太王碑」とあるのは夏[乃/鼎]氏によるものである。
夏[乃/鼎]は、氏名です。[乃/鼎]は乃の下に鼎。JIS第三水準ユニコード9F10
(2).碑文判読の厳密性をどのように確保するか
好太王碑は、好太王(正式には「国岡上広開土境平安好太王」、西歴三九一〜四一二年の在位)の死後、二年、つまり四一四年に長寿王が父の功績をたたえ守墓人の制を明確とするために建立したものである。今日まで、千五百七十一年もの年月が流れている。従って、碑文は風化により、また発見時苔を焼く時に生じた傷等人工によるものも含め判読不能の文字も少なくない。碑面のこのような状況に対して、今回の調査にあたって、古田武彦氏、山田宗睦氏、藤田友治の三者は討論の結果、次のような方針をもって臨むこととなった。
文字判読に際して五段階に分けることとする。
A・・・完全に鮮明であるもの。
B・・・若干不鮮明であるが、ほぼ字形を確認できる。
C・・・不鮮明で残存した字形が二通り以上に解読できる。
D・・・不鮮明で字形を確認しがたい。
E・・・完全に不鮮明であるもの。判読不能。
同一の文字についても、朝、昼、夕と光線の関係によって変化しうることを想定し、観察時間帯を変える。また、主観による釈文を避けるため、一つの文字に対して三者以上によって確認するというように慎重にも慎重を期した。更に、五段階判定に対して、古田武彦氏の提言により「AないしB」等という組み合わせを認め、五段階判定を九つの組み合せにして一層厳密にしようと申し合わされた。
従来にない長期滞在と私達の熱意がそうさせたのか、四泊五日滞在中、労が降り、雪の乱反射によって従来見えにくかった上部が比較的よく見えるという自然の恵みも得ることが出来た(撮影にはよくなかったが、肉眼による観察にはたいへん好都合であった)。私達が中国に持ち込んでいた大型懐中電燈や集安賓館から借用した鏡よりもはるかに大きな効果を得ることができた。観察は肉眼を基本とし、望遠鏡、双眼鏡、八ミリズーム・レンズ等も使用した。
(3).論争の文字「来渡海破」について
このような方法によって、論争の文字を一字一字判読していった。第一面九行六字から二十字までの「倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅」については次の通り。
「倭」(第一面九行六字目、以下一ー九ー六と略記する)は「AないB」、つまり間違いなく碑文そのものの字であり、勿論石灰の字でなく従って仮面字でないのが確認された。「卯」(一ー九ー九)、「年」(一ー九ー十)、「来」(一ー九ー十一)はいずれも「A」、「辛」(一九ー八)は碑文は「立/木」の字で辛の古字体である(以前に武国員力*氏によって教えられていた通り)。「ハ」がある点は、酒匂本の「来」も碑面に近く双鉤加墨をしていたようである。
「立/木」は、立の下に木。辛の異体字。
武国員力*(ぶこくしゅん)氏の[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB
「渡」(一ー九ー十二)は「C」で、「海」(一ー九ー十三)は「D」である。とくに「海」は「■」となっており、樹脂加工と思われる(碑面を保存するために中国側が入れたもの)「■」が入っている。「破」(二ー九ー十四)は「B」、「百」(二ー九ー十五)は「A」、「羅」(二ー九ー二十)は「BないしC」であった。
以上から結論として、碑文に意図的な改ざんは認められないとする立場が確認された。
(「■」は、表示不可略。下の「女*」も『市民の古代』第7集や故藤田氏の『好太王論争の解明』(新泉社)を見てください。)
念のため「海」字を疑ってみたが、碑面にある「海」(二ー五ー二十二)の例は今日「□」(「E」判定、つまり全く不明)となっており、判定が「D」であるからという一字でもって全てを疑うことは出来ない。最近発表された中国側の周雲台拓本(王健群『好太王碑の研究』)によれば、問題の「一ー九ー十三」の「海」字もはっきりと判読できる。従って、「海」字の一字をもって「改削」説の出発点をなしたようだが、現地調査によって成立しないことが明確となった。李進煕氏が改削説を提起するに至った「来渡海破」の個所は、現碑面を肉眼で観察すると一目瞭然に解ることであるが、碑而の凹凸が著しいところである。李氏は拓本上の差異を調べることによって、「東洋文庫拓本では、『渡海』の位置が著しく下方にずれていて、とくに『海』の字は前行の『平』字(八行十三字〕より約半字分もずれている。そして『海』字はくずれてしまい(石灰)、明らかに別の字画になっている。」(『広開王陵碑の研究』。二百頁)と指摘したのであった。
凹凸のひどさは、上の略図のように、山田宗睦氏と私とで測定し、古田氏が確認したが、二十cmもあるところに「渡海」があたっており、字がズレないで拓出されている方がむしろ不自然であるといえるだろう。現碑面のこのような状態を李氏は現地調査されずに拓本等から疑問をもたれたこと自身はやむを得ないであろうが、現地調査をした学者達(鳥居龍蔵、関野貞、今西龍、黒板勝美、浜田耕作、池内宏、末松保和各氏ら)の成果と報告にあまりにも矛盾する仮説を打ち立てられてしまい、砂上の楼閣を重ねられていったものである。問題提起の大きさと、李氏の根本的動機は大いに価値あるものであり、深く学ぶ必要は今なおあると考えるが、仮説(改削説)の過ちは過ちとして認めなければならないであろう。私達は改削説を越えて、もっともっと好太王碑研究の更なる前進を果たすよう試みる。
(4).「倭」についてはどこまで確認しうるか
倭は近畿天皇家か或いは北九州の九州王朝かという論争以前に、倭は碑文上にどの位確認できるか。
前述の方法(五段階九組合せ)によって三者で確認した文字は次の通り。
一、一ー九ー六「AないしB」。二、二ー六ー四十「A」。三、二ー七ー十五「AないしB」。四、一ー八ー三十一「A」。五、二ー八ー三十九「AないしB」。六、二ー九ー三十六「AないしB」、七、一ー九ー三十八「D」。八、三ー三ー十三「AないしB」。九、三ー四ー十三「AないしB」。
以上が従来の釈文上、既に解読されてきた「倭」についての調査であり、九つある倭の内、八つまでは確認することができた。「倭」の文字は碑文には二つの字体で刻印されているようである。「女」の部分が「女*」となっているグループがあるここれを厳密に区別するために「AないしB」として判読した。この書体は、今日でも看板等に使用されている例をみつけることができる。意味上の違いはない。勿論、全て碑文に刻印された文字である。
さて、最近王健群氏の『好太王碑の研究』によれば、倭を「十一」も解読可能としておられる。従来の九つの倭に単純に「二」を加えて「十一」としたのではなくて、厳密に言うと、従来の「倭」(二ー九ー三十八)を「大」として否定する。私達もくり返し碑文を解読したが、判定は「D」である。つまり、現状では字形は確認しがたい。しかし、「--」のように横の線のみ明確に認めうる。これを測定すると、「--」の(横線と文字上端)の間隔は四cmである(二ー八ー二八の「至」字の縦八cmと比較)。そして他の「大」の字形、例えば「二ー五ー二」の「大」と比較すると「--」(横線と文字上端)間隔が二cmであり、差異がありすぎる。つまり、王氏の言われる「大」ではない。
新たに解読されたという「倭」について、私達の調査結果では次の通り。
一、二ー九ー九「D」。二、二ー十ー二十二「D」。三、三ー一ー四十「E」。
この問題について王健群氏と対談した際(本誌対談録参照、インタネットは未掲載)指摘をしたが、「光線の関係で上の方が少し輪郭が見えると思いますが、これは本当にむつかしい」と主張しておられる。戦後の日本人研究者としては四泊五日と最も長く滞在して、くり返し観察したが、判読できなかった。現状ではわずかな字形の痕跡しかとどめない。このわずかな痕跡から、従来と全く異なった字(倭)に読解するのは研究者の主観性が入る余地があると言える。現地で、しかも碑面を前に王健群氏らとの共同調査をする以外に方法はなく、今後の課題とすべきところであろう。
(5).現地集安博物館副館長耿鉄華氏との出会い
私達が集安滞在中、四泊五日間にわたって、集安博物館、将軍塚や国内城、舞踊塚、角觝塚等の現地で懇切丁寧に案内をしていただき、更に現地での具体的な説明も聞くことができたのは、博物館副館耿鉄華氏が全面的に協力されたからであった。国内城では雪の降りしきる中で一時間以上も立ちつくしたままで熱心に説明をされる姿は、本当に第一線の研究者の気迫に満ちていた。
私は当初、彼を私達の「案内者」であり、また私達の団の「観察者」でもあると思っていた。だが、行く先々で非常に詳しい解説をされ、熱心な研究者であるということが解ってきて、よく考えれば好太王碑に五日間も通いつめたのに、一度も耿氏の説明を聞いていないことに気付いた。これは一体何故だろう。一つは私達が碑文解読に夢中になりすぎていたのと、もう一つは碑文をじっくりと観察させようという私達に対する耿氏の配慮であったのだろう。最終日に、好太王碑の前で私達は耿氏自身の見解「高句麗好太王碑及び高句麗王朝と好太王について」を聞くことができた(本誌耿鉄華氏著、老田裕美訳「高句麗好太王碑及び高句麗王朝と好太王について」「文物天地」文物出版社、一九八四年第六期、を参照、『市民の古代』第7集所収)。 
四 国境の地・集安での四泊五日間
私達の団は集安の地に許される限りの長期滞在を希望した。好太王碑をくり返し観察し調査するという目的と、おびただしい高句麗の遺跡、古墳群があるからである。戦後の日本人研究者として最長の時間を許可されたが、しかしまだまだ調べたいことや見学したいことも多い。毎日団の要望を、中国側と交渉し実現したスケジュールは次の通りであった。
三月二十五日午後、好太王碑
三月二十六日午前、好太王碑
午後、将軍塚、五[灰皿]墳五号
三月二十七日午前、国内城、集安市内参観
午後、集安博物館、鴨緑江の中国側国境視察
三月二十八日午前、好太王碑
午後、舞踊塚、角觝塚
三月二十九日午前、好太王碑の前で総括
次に、要望したが許可されなかった遺跡について報告する。今後、ねばり強く要望し、実現できるよう働きかけたいし、中国側も「整備し調査後実現できるようにしたい」という意向はもっているようだ。
一、太王陵二、丸都山城三、牟頭塚、環文塚等、
これらについては、「現在のところ中央の文化部が許可をしていない」ということであった。そして、交渉の中で舞踊塚、角觝塚について、「今回初めて外国人にお見せします」ということになった。これらの遺跡、古墳については、本誌の織田重治氏「集安の古墳について」で詳細に報告されている。
帰国後、訪中団参加者から様々なデータ、感想等が事務局に寄せられた。川口平三郎氏の「集安県鳥轍図」を見ると集安の様子が一目瞭然となろう。中川友次郎氏は「御礼」と題して、次のような文章を帰国後、事務局に送ってこられた。
「今回の東方史学会の訪中団に加えて頂ました。支度には慌(あわただ)しかったが、今では良き思い出となりました。ほんとうに幸運と終生忘れる事はありませんでしよう、。ほんとうに有難うございました。厚く御礼申しあげます。」
と待望久しき高句麗遺跡に接せられた喜びを綴っておられた。訪中団参加者が一様に、深い感動をもちつつ、これからの大きな研究課題に、立ち向うことは言うまでもない。(文責・事務届。長藤田友治) 

(1),好太王碑に戦後の日本人としてはじめて接した人に、実は土利川正一氏がいる。従来知られていない事実だが、彼は一九四六年十月〜十二月、中国軍政治部の指令によって、集安県(当時)の古墳の外・内部の調査と好太王碑を見学している。また、一九四七年一月に再び訪れている。この土利川証言(テープにして藤田が保存)は、戦後の好太王碑の状況を研究する上で欠かせない。研究者としては、一九六三年、朝鮮民主主義人民共和国社会科学院の金錫亨、朴時亨各氏の調査がおこなわれた以外、外国人には許可されていない。
(2),好太王碑現地調査を目的とした学者、市民の会として発足。東方史学会設立趣旨書は『市民の古代』第三集を参照されたい。
(3),詳細は、古田武彦『多元的古代の成立〔下〕邪馬壹国の展開』(駿々堂)を参照。
(4),詳細は、藤田友治「好太王碑の開放を求めて」(『市民の古代」第四集)や朝日新聞一九八一年八月三十日朝刊を参照。
(5),一九八五年一月十三日、東京都勤労福祉会館ホールで古田武彦と古代史を研究する会及び市民の古代研究会共催で行われたもの。テーマは「中国の好太王碑研究の意義と問題点ーー王健群氏に問う」であり、講師は古田武彦と藤田友治であった。
(6),訪中団参加者氏名は次の通り(敬称略)。団長・古田武彦、副団長・山田宗睦、秘書長・藤田友治、今井久順、織田重治、渡辺好庸、渡辺さ江、高田かつ子、中野治彦、川口平三郎、寺田寛、日野信和、清水泰子、竹谷文男、中川友次郎、杉谷保憲、永島暉臣慎、鳥羽郁夫、吉村久充、岡村秀典、通訳随員・老田裕美、以上二十一名。
(7),寺田隆信、井上秀雄編『好太王碑探訪記』日本放送出版協会、八二頁参照。なお、この本は不正確な部分や間違いもある。例えば、集安の物価で、折畳み婦人洋傘を「千百十元から千三百三十元」、自転車を一万五千八百元から一万六千元」等誰も買えない値となっている。一元は約百円(日本円)だから、恐らく日本円へ換算した時の誤まりだろう。集安の物価の調査は社会科学研究所の渡辺好庸氏にお願いし、データを保存している。
なお、知り得たデータについて発表する場合、私達は国際的信義を大切にしている。従って未発表のデータもある。私達の団に参加されたジャーナリストも基本的に「取材」でなく、団員として参加され、報道を控えている。しかし、世界日報社は、事務局に無断で報道するだけでなく、誤解を与える表現も多く、遺憾である。 
 
特集好太王碑現地調査報告
 中国の好太王碑研究の意義と問題点 / 王健群氏に間う

 

先週の金・土曜日(一九八五年一月十一、十二日)の二日問にわたって、読売新聞社のシンポジウムの会場に行って参りました。ずっとお聞きしておったわけですが、恙(つつが)なく完了したわけでございます。私にとりまして、予期したとおり「恙なく」という感じでございました。私の予期したといいますか、予想しました第一に「碑文改竄問題」について、李進煕さんは従来通りといいますか、ほぼ従来通り「改竄(かいざん)はあった」と言われるであろう。しかし他の講師の方々は、改竄を認めない、積極的に認めないか、消極的かもしれないが従来とは違って改竄を支持する態度を示されないかもしれない。李さん一人が改竄があったと言われる状態になるのではあるまいかというふうに「改竄問題」については予想したわけでございます。これはそのとおりでございました。
また次に「倭」とは何者かというのが話題になると思ったのですが、これについては、いわゆる「大和朝廷」もしくは大和政権中心の連合国家という「大和中心説」が、講師の方々の多くを占めるだろう。これに対して王健群さんは「海盗説」、日本語的にいえば「海賊説」で応答されるだろうが、応答も積極的な論拠を挙げにくいのではないだろうか、それからまた、「北九州の勢力である」というむきの意見もあろうけれども、しかしこれは言葉に留まって実際といいましょうか、具体的な姿を描く人は無いのではあるまいか。
それから、もう一つ私にとって重要な予想としまして「守墓人問題」は殆ど論題にならないであろう。王さんの『好太王碑の研究』の後半で「守墓人問題については従来論議が殆どない」と書かれているのです。だから参考文献も挙がってないわけです。これを読みました時、私は、アッ、王健群さんは藤田友治さんのあの執拗な、次々と展開してこられた論文(『市民の古代』第五、六集)を読んでおられないな、と感じたわけでございます。
これは当たり前といえば当たり前かもしれませんが、そうでもないのです。藤田さんと私は弥次喜多のように二人で吉林省の博物館に出掛けたわけでございます(一九八一年八月)。武国員力*さんという非常に立派な方にお会いして「関係の方々に読んで頂きたい」と『市民の古代』をお渡して帰ってきたわけです。少なくとも吉林省の博物館には『市民の古代」はあるわけです。王健群さんは吉林省の社会科学院の文物考古研究所所長という肩書です。ですから博物館とも関係が深いと思いますが、連絡がよくなかったのか、「御存知ないな」、こう思いました。
武国員力*(ぶこくしゅん)氏の[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB
シンポジウムの講師の方で「守墓人問題」を論じた方はどなたもいらっしゃいませんので、この問題はおそらくでないだろうなと予想したわけです。“守墓人”という言葉は、二、三回出たかも分りませんが、議論は全くないまま恙なく終了したわけでございます。
王さんは土曜の夜宿舎にお帰りになって、「やっぱり『守墓人問題』はでなかったな。あれだけの日本側の権威が集っていてでないのだから、日本側は守墓人に注意を払っていないと書いた私はやはり正しかった」と思っておやすみになったと思うのです。
ところが、皆様は御存知のように、「守墓人問題」で論議がないなんてとんでもございません。「守墓人問題」の研究者は、まさにいるわけでございます。情報の不足で王さんが御存知なかったのはしかたがないにしましても、せっかく日本に来られたのですから、「守墓人問題」の研究が積み重ねられてきているのですよ、ということをお知りにならず、お帰りになるのではお気の毒である、残念である、というふうに思ったわけであります。 
王健群『好太王碑の研究』の出現
私から見まして、王さんの『好太王碑の研究』の前半は賛成といいますか、我が意を得たり、です。私がこの十何年来主張し続けてきたことを一つ一つ裏付けて下さったのです。私の『史学雑誌』の論文(第八十二編、第八号、昭和四十八年、「好太王碑文『改削』説の批判ーー李進煕『広開土王陵碑の研究』について」)もかなり長く引用して下さっているということで、“有難い”“知己を得た”という感じをもったのです。
ところが後半の歴史的位置付けにいたりますと、「これはどうかな」と感じました。「倭」は国家とか、そういうたいしたものではないのだ。「海盗」「海賊」にすぎないのだ。略奪のみをこととする連中であるということを、繰り返し述べられているわけです。しかしこれは歴史の理解とすると、具合が悪い。
十数日間も日本に居られるのです。美しい日本を観光されたり、博物館をまわられたり、も結構ですが、学問のために、好太王碑の研究のために来られたのでしょうから、私がこれから展開する議論に接せずにお帰りになったのでは、お気の毒ではないか。それではひとつ、私の方で場を作っておいでいただけるなら大歓迎いたします、ということで、去年御案内をお送りしたわけでございます。「読んだ」という話が人を通じて返ってきましたので読まれたのだと思います。ところが健康の具合や日程があっておいでになれない。今日と明日は京都・大阪をまわっておられ、次は奈良と、この四日間は関西におられるということです。いろいろ事情があってこられないのは非常にお気の毒である、と思います。
学者、或いは真実の探求者として自分の論点に対して真剣に取り組んで批判をだしてくれる人がいるなら、千里の道も遠しとせず、聞きに行きたいと、というのが学問の研究者だと思うのです。私自身のことを考えましてもそうですし、王さんもそういう方ではないかと思うのです。
王さんの方の御都合もありますので、講演会の途中でも、終わりでもいいですから、おいで下さい、喜んで歓迎いたしますという主旨で東京十三日、大阪十五日と二回いたしますと申し上げたわけです。もちろんこれは本誌にしますので、時間は遅れますが王健群さんの目に届くでありましょう。
本当の友好というのは相手に対してお世辞といいますか、耳に良い言葉を述べるのではない。誉めるべきところはうんと誉める。違うところは敢然とそれを言う。こういう相手こそ真に信頼できる友人であり、長続きのする人間関係であると思うわけであります。
藤田さんからいろいろ貴重な批判がでてきましたが、それにもかかわらず今回の王さんの『好太王碑の研究」という本は画期的な本でございます。雄渾社が頑張って作っていただいたわけですから、皆様に購入していただけたらと思います。お子さんお孫さんの時代になって「うちのお父さんお祖父さんはこんな本を買っていたのか」という性格の本になると思うわけでございます。批判ということと、この本が画期的な意味をもつ、ということとぱ全く矛盾しない。素晴らしい研究であるということをはっきり申し上げさせていただきたい、こう思うわけでございます。 
好太王碑改竄説の破産
さて敬愛する王健群氏の画期的な研究の意義についてまとめてあげさせていただきたいと思います。
第一は「九つの倭」の実在性という問題でございます。一九七二年(昭和四十七年)五月に李進煕さんの改竄説が初めてでました。岩波書店発行の『思想」という雑誌に掲載されたわけです。これを私は読みましてどうも合点がいかなかった。読めば読む程合点がいかなかった。何故かと申しますと、「倭以辛卯年来渡海破」のところに関して詳しく議論されておるわけです。今まで教科書等にも確実な史料として使ってきていたが、これは実は酒匂による、日本参謀本部による改竄(かいざん)であるということを論じられたわけです。ところが「倭」は他にもいくつもでてきておるわけです。今西龍さんによりますと九つ、王健群さんによりますともっと増えまして十一でてきているわけです。皆様お手元のレジメを御覧いただけば判りますが、十一でてきております。ところが李さんが怪しいといわれたのは「渡海破」のところの「倭」とあと二、三なのです。三つか四つくらいの「倭」について疑問をさしはさまれただけであります。それも「渡海破」の「倭」は強くですが、ほかのはそれ程強くではありません。そして他の「倭」については全くノータッチなわけです。
私は読んでいまして、他の「倭」がノータッチということは拓本や双鉤本のズレがないとしか思えないけれど、他の所にちゃんと石の「倭」があったとすれば、参謀本部が「渡海破」の「倭」を“作らせた”のに何の意味があるのだろう。
つまり朝鮮半島の真ん中辺で高句麗と倭が激突しているわけです。今の平壌とソウルの間で激戦している感じなわけです、そういうことが述べられているわけです。こういうことが疑い得ない史料であるとすれば「渡海破」だけを参謀本部が書き改めさせるのはナンセンスだ。つまり「倭」がそこまで行くのなら海ぐらい渡ります。百済でも新羅でも高句麗でも海ぐらい渡ると思いますけれど、まして「倭」は海は大変お得意の人達でしょうから「渡海破」は当り前だったでしょう。それを『海を渡る』を入れなきゃ困るから、酒匂、『海を渡る』を入れてこい」などと参謀本部がいうなんて意味をもたない、と感じたわけです。繰り返し読めば読む程その疑問が強くなってきたわけです。
それで御本人に聞くよりしようがないとお宅へおうかがいしたい、と手紙をだしました。李さんから「私の家は工合が悪い。喫茶店でお会いしましょう」と時間を指定していただきました。李さんは東京で、私は当時京都におりまして、その喫茶店で一時間半くらいお話したわけです。
私は他の「倭」について確かめたかったのですが、李さんは他の事に話をもって行かれてお聞きしてもお答えいただけなかったのです。最後にこれを聞かないで帰ったら来た意味がないと、ゆっくりと間隔をあけて「他の『倭』の意味については、どうお考えでしょうか」と聞いたわけです。すると「それは全部石灰の字だと思います」という李さんの返答だったのです。これで私は来たかいがあったと思ったわけです。論争をしに来たのではありません、李さんの研究思想を知りたかったわけです。
こういうのは個人対個人の話で、李さんの説だというべきものではございません。私も今までこういう場所で言ったことはございません。しかしあとで聞きますと、他の方にもかなり言っておられるようです。鈴木武樹さんとか、京大の朝鮮史研究会の学生さん達とか、いくつかの場所で言っておられたようです。だから秘密ではないのです。大事なことは口で言われただけであります。
それから五、六年しまして李さんの講演を聴衆の一人として聞いたわけです。その時李さんは「他の『倭』について、石灰であるとかどうとか一切書いたことはありません」と言われたのです。「他の『倭』について何も書いたことはありません」他の人は何も思わず聞いていたのですが、私にはよく分かったのです。“言ったことはあるが、書いたことは無い”ということだったのです。
ということで、書かれたことではないから「李説」として扱うべきものではないと思うのですが、にもかかわらずこの話を披露させていただきました理由は、論理的に李説はここに至らないと意味をもちえない、ということです。
歴史学の立場からいえば、高句麗と「倭」が激戦をしたのかという一点が大事でして、全く「倭」が現れていませんよ、「倭」は参謀本部の小細工ですよ、となりますと歴史学の史料としての意味が全く変わってまいります。少なくとも日本の歴史の史料として、直接の史料ではなくなってしまいます。
ところが一つでも、或いは二つでも三つでも「倭」が高句麗と戦っているとしましたら、歴史上無視できない史料です。それも金石文という第一史料となるわけです。
李さんは非常に慎重な方で、たくさんの論文を書いておられらますが、他の「倭」については一貫して口をつぐんでおられます。触れておられないのです。
今度のシンポジウムがすべて予想通りと申しましたが、この点が違っておりました。講師の武田幸男さんが率直に意見を言っておられたのが壇上で目立ちましたが、この武田さん等の質問が中心になりまして、李さんが「渡海破」の「倭」について答えざるをえなくなりました。
李さんは「少なくとも海賊ぐらいのものなら認めてもよい」。こういう言い方をされたのです。これは公開の場における画期的な発言であります。しかし必ずしも他の「倭」をすべて認められたんではないんですね。だからなお石灰の字である可能性は留保しておられるけれど、石に「倭」があったとしても海賊であって、大和政権とか○○政権というそんなたいしたものではないという発言なのです。
ですが、あそこまで言われた事は、今までに書かれたものや講演ではおそらくなかったのではないかというふうに、私は感じたわけでございました。ともあれ李さんの説は、「総ての倭」の問題が本質、最終の問題点ですが、「渡海破」だけに絞って議論する人が殆どです。それでは「倭」の問題を客観的に扱っているとはいえないということになると思います。
このことにつきまして、実は私は答えを得ていたのです。何年か前のことですが、王冶秋さんという中国文物管理局局長さん、日本でいえば文部省とか文化庁という感じの部局の長にあたる方が日本においでになった時、京都の枳穀邸で、付きそった方がいましたが、一応一対一で対談できたのです。その時に好太王碑のことをお聞きしました。王冶秋さん(管理の最高責任者)は、「日本に来る直前に好太王碑のところに行って周囲の状況を見、監督をしてきました。好太王碑を見てすぐ日本に来たのです」。こうおっしゃったのです。「そこに『倭』という字はありましたか」。「ありました。幾つもありました。石灰の字ではなく石の字でした。間違いなく石の字でした。石灰の字については、残っている石灰をどうするかの問題が管理修理のうちの大事な項目だったのでよく見ましたが、『倭』は完全に石の字でした」ということでした。最高級の幹部であり、管理責任者ですからいい加減なことをおっしゃるわけはないのです。しかも見た直後の話でしたから、私は改竄ではないという、確かな証拠を得た感じをもったのです。 
王説の意義
今回、王健群さんも本の中で「石の字である」と繰り返し書いておられます。王さんは四ヵ月間石碑に張り付いて、赤外線をあてたりして、正に学問的調査をされたわけですから、疑う方がおかしいわけです。
というわけで問題の本質をなす「九つの倭」、王さんによると「十一の倭」は、碑文に実在するということでもって実際上改竄(かいざん)説は終りをつげたと言ってよいだろうと思います。
“王冶秋さんに私一人がお会いして”というケースではないわけです。本で、写真付きで示されたわけですから、やはり画期的意味をもつものです。五十年、百年たって「あの時の本ですね」とお子さんやお孫さんが言われる本であることを、私は疑うことができないわけです。
次に王さんの研究は正に石碑に直面した研究であるということです。李さんが一九七二年(昭和四十七年)五月に李説を発表されて、私は十一月の東大の史学会の大会で、それは違うと反論したわけです。私は夏の間必死に駆け回って酒匂大尉の遺族の家を「発見」し、その結果反論を述べたわけです。しかしこれは、考えてみますと、李さんも私も当の石碑を見ていないわけです。実物を見ずに、拓本とか双鉤本とか開連文書とかに対する判断において、李さんと私が対立したわけです。言葉の正確な意味で「論争」になったわけです。
十一、十二日のシンポジウムは「論争」ではないんですよ。お互いに「対等な立場」にたってこそ論争ができるのです。片方は見ていない、片方は散々見ている、というのでは、論争というにはあまりにも段が違いすぎるわけです。だから“言い合って”みてもあまり意味がない、というのが正直なところでございました。
私が“見ず”に“見れない”状況下で発言したのが、今回実物を王さんが見たら、私の発言通りだった、という、追認をして下さったというのが、ありのままの研究史上の事実だと思うのです。
私の方をカットして、王さんと李さんとの間の論争にしているのは、一つの「ある種の姿勢」にすぎなくて、実際は研究史上の事実は、王さんが四ヵ月かかって実物を調べられたら、“私のいう通りであった”ということです。これは我田引水ではなく、事実が示す研究史上の結果です。先日のシンポジウムでは私の事には、全く触れていませんでした。
もう一つ注意しておかなくてはならないことがあります。“王さんの研究は卓越している”“石碑に張りついて研究をされたのだから”ということにはゆるがせぬ意味があるのですが、しかし王さんが「初めて」ではないということを、やはり言っておかなければいけないということです。
つまり戦前、日本の学者がそれをしていた。特に今西龍さんが、朝に夕に繰り返し巻き返し見て見て見抜いた。一緒に行った人が、鬼気せまる執念を感じたほど、見て見抜いたという、その研究結果が残っているのです。これを無視することはできない。しかも王さんよりずっと早い段階ですから、石の風化がより進まない段階ですから、この今西さんの功績を決して忘れてはいけないでしょう。
それじゃあ王さんのはあまり意味がないのか、というとそうではありません。今西さんは外国人ですから四ヵ月も張り付いては調査できませんでしたが、王さんは現地の研究所長ですから、四ヵ月も“張り付けた”わけです。
それに今西さんの時にはできなかった、赤外線を使って調べられています。これは今西さんとは別個に貴重な研究である。
もう一つ忘れてはいけません。戦後、朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨さん、朴時亨さんといった人達も現地で研究して詳細な報告書もでているわけです。これ等ももちろん忘れてはなりません。こういった研究と共に、王さんの研究は“石碑に直面した研究である”というところになによりも重要さがあるということです。 
「初均徳抄本」の発見
次には、王健群さんが「初家の碑文抄本(手控え本)」を発見され、学会に報告されたことです。「初さん」が曾祖父さんから祖父さんと二代にかけて現地で拓本を取り続けてきたわけです。王さんが「初さん」の遺族をお訪ねになった。姉さん(五十代半ば)と弟さん(五十歳前後)の所に行って調べられた。弟さんのお宅に初家伝来の手控え本があった。つまり現物(大きなものです)の字を書き取って、家宝のようにして保存してあった。これが『好太王碑の研究』にもでております。
これはやはり大きな意味をもつと思います。何故かといいますと、この手控え本が第一回手控え本であるかどうか分りませんが、まず大正段階では手控え本は無かったのではないか。おそらく一番最初の拓出の時には手控え本はなかったのではないだろうか。石碑の字は十二cm四角の大きさで、一字の大きさは大きいようですが、拓出には石面を叩きますので壊れるわけです。壊れたら字を再現しようとするわけです。元のように。ところが壊れてすぐそこで直せばそんなに間違わないでしょうが、拓本をべったり、ずっと連続してとっているわけではないのですよ。注文があって拓出し、二、三年たって又注文があって拓出する。その時に前に比べて字が減っている。気になって、自分で石灰をもってきて「作字」というようなことをするわけです。それが何年か前の心覚えでするわけですから、合う場合もあれば、おかしい時もあるわけです。するとどうなるか。新しい拓本が北京にでもゆきますね。すると手に入れた北京の文人が自慢したい。「好太王碑の拓本を持っている」「俺も持っている」と話が始まり「何面には、こういう字がある」「俺の拓本には無いぞ。違う字だ」「そんなことはない」。本当に比べたかどうかしりませんが、比べたら確かに違っているわけです。「おかしい、けしからん」と現地の拓工に文句がゆきますわね。するとやはり初さんとしては困るわけですよ。石灰で字を作って拓出するのはルール違反ですよ。そんなことが分かったらたまったものではないですよ。秘密といいますか、職業上の秘密だったわけですよ。しかし言われてみると事実だからこれはまずいと、その時は謝ったのでしょう。防ぐ方法はないかというので手控え本を作った。お手本を作っておけば毎回同じですという職業上の必要で作られたものだと思うのですよ。
つまり今お話ししましたように、字が拓工に依って変化してきたんだ。だから藤田さんの綿密な研究で示されましたとおり、六の字が七だということになってくるのです。
私は感心したのですが、藤田さんの研究というのは掛値無しの世界一の研究だと思います。日本、中国、朝鮮半島、どこの学者も藤田さんのような精密度をもって判定しうる人はいないわけです。しかも高校の生徒と一緒に研究したというのですから、大変ユニークではないでしょうか。高等学校の先生が、生徒と一緒にした研究が世界ナンバー・ワンの精密度に達している。このありのままの姿を、ぜひ王健群さんに見、そして聞いていただきたかったのです。
実は王さんは日本語ができるのです。私より一つ下です。私は大正十五年(一九二六年)、王さんは日本流にいえば昭和二年(一九二七年)生まれです。つまり敗戦の時、王さんは十七歳、私は十八歳、王さんは東北(旧満洲)の御出身のようですから、日本語がお上手なわけです。少くとも聞くのは全然御不自由はないようです。読売のシンポジウムの時も、中国語訳を伝える耳のイヤホーンを時々外しておられました。外の方はずっと付けっぱなしでしたけれど。やっぱり日本語がお分りになるな、と見ておりました。
というわけで初家の拓本をとられた時期が藤田さんの研究によって一つの判定をえたわけです。これでいわゆる「改竄(かいざん)」の正体というか成り行きを証言するものとして、「初家手控え本」が現れたということです。
もう一つこれには大事な意味があると思われます。この「手控え本」に「倭」がたくさんでてきているわけですよ。この初曾祖父さん、初祖父さんは現地に二代にわたって住んで、拓出のプロでしょう。それが石灰で作った「倭」を知らずに手控えていたなんてことは、余程この方たちを馬鹿にしないといえないことです。四ヵ月どころか、一生“張り付いて”いたのですから。この「手控え本」は、部分的に欠陥はあるけれど大筋において非常に尊重すべきものであると、私はそう思います。
この「初家手控え本」を発見されたことは非常に意味があります。 
現地調査の重要性
もう三王さんの素晴らしい業績は石碑の側にある民家の御老人達を訪ねて、昔の話を聞いておられることです。
初祖父さんが石碑の字が壊れたら、石灰を持ってきてさかんに直しておったという証言を得たり、石碑に馬糞を塗って乾いたのを焼き払ったのを見たと聞いた、それで字が壊れたという証言を得ておられます。また、外国人(日本人など)が来て拓本をとったとか、とらしたとかというのは聞いたことがないという証言を得ておられます。
また、昭和三十年代初めの時点に、ここに住んでいたお祖父さんから状況を聞いた土地の素封家の聞き書きを図書館で王さんが発見しておられるのです。
これが、また値打ちがあるのです。現在のお祖父さんと、四、五年前のお祖父さんと、昭和三十年頃のお祖父さんとは、直面している時点が全然違いますね。より古いですね。
その聞き書きを発見されたのは王さんの大きなお手柄です。これから、我々がいくら好太王碑に幸いに行けたとしましても、土地のお祖父さんに聞きとりしたり、図書館でほこりをかぶり忘れさられたような文書を発見したり、は無理でございます。王健群さんは素晴らしいお仕事をされたと思います。あと三十年、五十年後になりますとこのお祖父さん達はいません。今それをされたということが重要なんです。
なおもう一言、手前味噌のようになりますが、私自身がそれに先んじまして、一九七二年に酒匂家の遺族を追い求めた経験がございます。
李さんが、酒匂という人物がいたといわれているが名前が分らない、何処にいたか一切分からない。これは参謀本部がひた隠しにした証拠である。ということは「改竄」をやらした、一つの証拠にほかならない、というふうに論じられたわけです。
そこで私は酒匂大尉なるものを捜し求め始めたのです。人からきいて、東京・市ヶ谷の自衛隊の戦史室に行ったのです。行ったことがなかったので、初めはいい気持ちはしなかったのですが、行きましたら皆さんが親切に迎えてくれました。そこで文書を調べてますと身元が分りました。名前が酒匂景信、宮崎県都城出身とだけ書いてありました。早速私は都城に飛んだわけです。博物館や郷土史家の方に熱心に聞いてまわったんです。「確かに酒匂景信という人はいた」「その遺族は?」「さあ」というので捜し捜して、旅費が底をつきかけた時に、神が助けたもうたか、「日向市の方に行ったというのを聞いたことがある」という聞き込みがありました。それで日向市に飛んで行って、日向市のお宅を訪れました。「酒匂景信さんというのはこちらの御関係の方ではないでしょうか」と伺ったら、「そうでございます」と言われ、目の前の仏壇の上に写真がございました。また酒匂の自筆の筆跡も残されていたわけでございます。明治天皇に「酒匂本」を献上した御褒美に下賜された銅花瓶もそこに置かれていた。近所の人にも自慢しているんですね。
だから“ひた隠しにされ、秘密の人物である”ようにいわれていたのが、そうではなかった。のみならず、自筆が分ったことにより、東京・宮内庁の書陵部にあった「由来記」(好太王碑に行った報告書)が酒匂の自筆であったということが分ったのです。「由来記」に通溝(当時)に行って好太王碑を見た。清朝の拓工が拓本をとっておった。よこせ、と言ったが、清朝の将軍に頼まれているのだ、駄目だ、といわれた。それで「強迫」して手に入れたと自慢気に書いているのです。これが嘘であるというのはナンセンスである、と思いました。そこでこれを東大の史学会で発表したのです。
要するに、私が日本側でした遺族調査を、何年かして王健群さんが中国側で行ったということです。まさに私は同志といいますか、研究上の知己を得たという思いを深くしたわけでございます。  
酒匂本の持つ意味
石碑の中ではっきりしない字がまだございます。それについてはっきりした字を示された。藤田さんのいわれているように誤りもあるかもしれませんが、重要な業績であることを疑うことはできないわけです。
さらに王さんの論旨は、私が『史学雑誌』で発表した李さんの本に対する批評の論文を数々の重要点において追認して下さっているわけです。私のいう通りだという形では書かれていないけれど、実際の内容はそうなっているのです。
例えば、「酒匂本」の第三面の下の所で何十字かがごっそり間違えて上の所にはられているわけです。漢文として全然続いていないわけです。そういう大きなミスが行われているわけです。こういうのを見ますと、参謀本部が酒匂に字を直してこいというのであれば、かなり酒匂が字を知っていないとおかしいわけです。ところがこういうミスをしている。
それだけならまだいいのです。書陵部に残っている明治天皇に献上した分(「由来記」の冒頭)は、これに三層倍くらい輪をかけた大ミス、勘違いをしているわけです。それを明治天皇に献上しているのです。こんなことは、「改竄」を意図して行った人間のすることではない、と私は論じたわけです。王さんも同じことをいっておられるのです。書陵部の献上本について御存知ない、見ておられないわけですから、ただ「酒匂本」について、こんな配置がえがなされていることからみて「改竄」説は成り立たないといっておられるわけです。
更にもう一つ印象的なのは、「之」という字。第四面の最終行の最終にあるはずの字ですが、「酒匂本」では最終行の先頭にきているのです。「之」というのは、普通我々の漢文の知識では所有格の「之」か、これという代名詞の「之」なんです。ところがどちらにしても意味が通じないのです。最後に所有格の「之」ということはありませんし、代名詞にすると指すものがどこにもないのです。だから最後に「之」があるとおかしいのです。参謀本部で張り付け作業をする時に、「おかしい」というので、ここのところは一字一紙にとってましたので一番先頭にもっていったんですね。先頭だと何故いいかといいますと、前の行の終りが名詞で、最後の行の最初が名詞なんです。名詞と名詞が連なっている時は、○○の○○となります。「之」という漢字がなくても。そこに入れればいい、意味のほうでこれならなんとかなるというので、最終行の先頭に張り付けたわけです。実際の碑面と違っていたわけです。
では「之」はなにかというと、置字ですね。例えば「矣」がありまして、文章の最後につけて江戸時代は「い」と読み、今は読みません。文章の勢いをつける、最後にくる字ですね。これと同じようなのが「四書五経」という古い漢文段階で使われている。
我々が習った江戸時代以降の漢文では、この最終置字はでてこないのです。これが好太王碑文にあるということで、碑文が中国のどの時代の漢文を習って作っておるかということを示す興味深い点なんです。
明治の学者は漢文は強いはずなんですが、江戸時代の漢文に強くて、この時代までに至っていないのです。このように間違っているというのは、実際に現地に酒匂大尉が行って「改竄」していたら、こういう印象的な字ですから気がつかないことは有りえませんわね、この大ミスをしていることからみても、やはり「改竄」ではありえない、と『史学雑誌』で述べたのです。
王さんも同じ論拠で同じ結論、「改竄(かいざん)」ではありえない、こういっておられるわけです。  
黄龍と履龍
もう一つあげますと、「黄龍ーー履龍」問題があります。碑文の第一面の下の方第三行目に「黄龍」というのがでてきます。
ところで水谷拓本というのがあります。最も優秀な拓本であるということに異論のある人がいないと思われる拓本、もちろん水谷さんが拓出されたのではなく、戦争直後、書店かどこかで手に入れられたものです。この水谷拓本では「履」という字にみえるというのです。李さんはこの点でも「酒匂本」を偽物である証拠の一つにされたのです。
これを私が検討して、ちょっとおかしい。「履」にしても「戸」がちょっとおかしい。それに文章の意味が「履」にしますと、竜の頭を履んでというのになる。いかに王であっても、竜を履んで天に登る王は中国にでてこない。やはりこれは「黄龍」でいいのではないかと論じた一節があったのです。
これもやはり、王さんが実物は「黄龍」だ。水谷拓本を王さんも高く評価なさっているのですが「黄龍」だと述べておられます。この点も私の『史学雑誌』の論文に賛成して下さっています。賛成と書いてないのですけれど結果的には賛成して下さっているわけです。というようなことで、私にとって王さんの研究は外国に知己をえたりという感じをもちました。もちろんこれは私にとってだけでなく、研究史上画期的な意味をもつことは、だれ一人疑うことはできないであろうと思うわけです。つつしんで王健群さんに深い敬意と感謝を捧げたいと思うわけです。 
論争の教訓
第二番目としまして論争の教訓、李仮説提出法の問題点というものを考えてみたいと思うわけです。
李さんのは、一つの仮説だと思います。学問において重要な「仮説」だと思うわけですが、しかしその提出の仕方について考えてみると、問題点があったのではないか。
まず第一に現碑に接せず、重大論点を提起していた。現碑に接しないという点では、李さんも私も同じなんです。しかし日本参謀本部が改竄した。酒匂大尉が犯人だということを言うには、やはり現碑に接した上でいうべきではなかったか。もし接しない段階であるなら、抑えた、もう一つ屈折をもった表現、一つの疑問点があるが、この点現碑を見なければ確かなことはいえない、という表現が必要だったのではないかと思います。考えてみると酒匂さんの御遺族はえらい迷惑です。それまでは、「こんな銅花瓶を貰った」と近所に自慢していたのに、「あなたのところは、改竄した犯人だそうですね」というような、犯人の子供達ということで非常にお気の毒な状況だったわけです。この点、もう少し、慎重さが必要ではなかったかと思います。
第二番目に、戦前戦後に現碑調査報告書が出されておった。戦前は今西龍さんが現碑に張り付いて朝も晩も研究されたのです。そこに「倭」がでており「渡海波」もちゃんとでておったのです。また戦後も北朝鮮の学者の調査団が調査をこまかくして報告していたのです。それを軽視して「改竄説」をだされたということは、“軽率”といわざるをえないのではないでしようか。
また次に、以外な問題がございます。それは分布の問題です。もし拓本にズレがありおかしいというのがあったとします。これが東アジア、中国、朝鮮半島、旧満州というところにこういう石碑が点々とあらわれている。しかも同時に、明治なり大正・昭和なりの日本軍の占領した所と結んでみるとほぼ関連性を示しているという分布を示していた場合、これならこの分布なら、どうも明治なり大正・昭和の参謀本部の作戦と一致するのではないか、「意図ある改竄」ではないかといったとしても、この場合は筋の通った仮説だといいうると思うのですよ。
ところが実際は好太王碑だけなんですよ。そして李さんがされた方法は考古学の方法でございます。相対年代です。土器を何型何型と比べていき、前後関係をつけていく。日本の考古学は世界の中でも“名人芸”の部類に入るのではないかと私は思っているのです。李さんは明治大学でそれを学ばれたのです。それを拓本に適応されたという意味では、意義深いわけです。
ところで考古学でもう一つ重要なのは分布だと思うのです。一つの器物だけとって何か言えといわれますと、それは困ります。それと同類の器物が、どういう地帯にどういう分布で出てくるかというのをみることによって、その器物を産出した文明なり、その時の意味を考えなければいけない。これが考古学としてイロハのイの字だと思うのです。
分布が、考古学的判断にとって、重要な要素だという認識をこの好太王碑問題に適用しておられたら、あの「改竄説」は簡単にはだしえなかったのではないだろうか、ということを一つの問題点として提起したいわけでございます。
もう一つは、「倭冠潰敗」問題です。李説を初めて聞いたり読んだりした人は感じたところだと思うのです。
碑面にでてくる九つの「倭」は、いずれも全部負けているのです。また負けた、また負けた、それでもこりずにまた負けたと一貫しているわけです。なんと参謀本部は負けるのが好きだったんだろう。せっかく直すのなら勝った勝ったとすればいいし、全部勝ったにしないでも、最後だけでも勝ったにすればいいのに、と、皆様もそう思われたでしょう。そう思っただけでは論文にならないから、論文にされないだけでそう思っておられたと思うのですよ。
読売のシンポジウムの席でも、李さんは「その問題は誰からも聞かれるのです。しかし私は『渡海破』のところをおかしいと言っているのです。外のところの解釈はしないことにしているのです」というお答だったのです。解釈をされないからといって、疑問は終結していないわけです。
こういう疑問は、人間の正当な自然な理性に基くものです。学問とかいう以前の疑いです。そして今になってみると、人間の自然な理性の疑いは馬鹿にできなかったということであろうと思うのです。これは後でも申しますが、非常に重要な学問上の教訓でございます。 
論争の現状
最後に日本側史料の軽視問題がございます。先程申しました酒匂報告書です。私が自筆だと指摘し、誰も自筆であるとかないとかの反論はしていないのですが、この報告書の「強迫」問題。こういうものの示す日本側史料の意味を軽視し続けてこられたのではないかというふうに私は感じるわけでございます。
李さんは「現地で韓国、中国、北朝鮮の学者の共同調査がされるまで、私の説はひっこめません」とこう言っておられるのです。共同調査ができることは、私も心から望むところです。しかし今回のシンポジウムでも示されていましたように、李説を積極的に支持する人はどうもいなくて、積極的に反対する人はいる、という状況になっております。
現在の実情を正直に率直に言いましたら、「名存実亡」ということではないでしょうか。李さんがひっこめると言われないから「改竄説」の「名」は残っている。しかし「実」はもはやない。王健群さんの本が出た後では特に「実」は見失われてしまったというのが率直な現状ではないかと思うわけでございます。
しかしながら、私は声を大にして申し上げたいことがあります。「なんだ、李さんはくだらない説を言ったにすぎなかったのか」というふうにいわれる方があれば、私は断乎として反対いたします。「李さんの問題提起の学問的意義は重大であった」と、こうハッキリと申したいと思います。たとえば、あの藤田さんの素晴しい研究に結晶しましたような拓本、双鉤本の研究は、李さんの「改竄説」以前は非常に少なかったわけです。殆んどされていなかったのです。それを李さんが大変な苦労をされて史料を集められ、史料集を吉川弘文館から出された。私を始め多くの学者がそのおかげをこうむっている。王さんもこの史料をもとに論じられているようでございます。
だから李さんの問題提起の意義は、従来より一層強調し誉めたたえなければいけないのではないだろうか。この点、明治大学も李さんという素晴らしい学者を擁しているということを誇りにされたらいいと思います。また日本の学会も学的功勲を誉めたたえるべきであるというふうに私は思うわけでございます。もし私の考えに御賛成の方がございましたら、どうぞ拍手をもってお答いただきたいと思います(おおきな拍手。どうもありがとうございます。
それでは続きまして王健群さんの研究の問題点、新たな論争点というところにはいりたいと思います。
最近でた季刊『邪馬台国』で好太王碑の特集がございました。その中で白崎昭一郎さんという方が「倭が何であるかということは論ずべきでない。碑面の文字を確定することが先である」という御意見を書いておられます。
しかし、私は少し違うのではないかと思うわけです。碑面の文字を確定するというのは、今回、王さんがされましたように続けられることは望ましいわけです。しかし実際、不分明な字というのは、正に不分明なわけでありまして、それに対して、より詳しい推定はできましても、要は推定にとどまるわけです。石にちゃんと見えている字ほど確定できるわけはないのです。すると全部の字を確定しておいてから、議論を始めるというならいつ始められるか分らない。
これに対し、同じ号で井上秀雄さんが「金石文の常道として確定した、はっきりした字からまず研究する。こういう常道から研究すべきではないか」といっておられます。私も真にその通りだと思います。
金石文の場合、欠けたり不分明の字がでるのが通例ですから、確定した字によって議論を展開する。不分明なところは、あくまで推定として申し添えるという姿勢を失うべきでないと思うわけでございます。 
王説の問題点
そういう目で、王さんの解読された碑面をみるといくつかの問題がでてまいります。
最初に申しあげておきますが、王さんの論定に私が首をひねったところが、その前半にございます。第三面第一行のところです。現在は欠けて見えないのです。そこが栄禧という人の釈文(酒匂より早く現地で兀(き)丹山という人に拓出させた)では「宮兵移師百残囲其城。百残王惧、復遣使献五尺珊瑚樹二、朱紅宝石筆床一、他倍前、質其子勾拏。」と書いてある。
王志修という人は現地(集安近辺)の長官で、初拓(初めてとった拓本)を手に入れて、現地へ行って比べて全体が分ったといっておりまして「献五尺珊瑚樹二、朱紅宝石筆床・・・」という詩文を作っております。
ところが王さんは「この文面は間違いである。勝手に想像して勝手に書き込んでいる」と非難しておられる。これはおかしいと思うのです。現在、この部分は「ない」のです。現在ちゃんとあって、現在見たらこの文面でないというのならいいのです。現在欠けて無い文面を、栄禧や王志修がとっているのですから、多少読み違いをしているかもしれませんが、まるきり「嘘」を書き込む必要など、どこにもないわけです。
李さんの場合、栄禧を非常に攻撃材料にされまして、栄禧は嘘つきであり、こんな嘘つきの書いたものは信用できない、といっておられます。栄禧は酒匂より前に行っているのですから、「嘘つき」でなかったらそもそも「改竄説」は成り立ちえないので「嘘つき」にされたわけです。
王さんは「嘘つき」ということについては、もちろん退けていらっしゃるわけです。王志修や栄禧が早い時期に行ったのは正しい、という議論を展開しておられるのです。すると「嘘つき」でない人が、「本当つき」の人が「官兵・・・」と書いているのですから、有りもしないものを勝手に書いたといわれるのは、ちょっと言いすぎではないか。「王志修や栄禧がこう書いているが、本当か嘘かは、現在確認のしようがない」と言うこと、それが学者として、最も厳密に発言すべきところではなかったか。この点を一つの問題点として、もし王さんが来られたらお聞きしたいところでした。
もう一つ。「守墓人」のところで「韓・穢」がでてまいります。この「穢」を王さんは百済のこととしておられますが、私は『三国志』にでてくる「歳*ではなかろうか、『三国史記』でも「穢」がでてまいります。また隅田八幡の人物画像鏡にもこの「穢」がでてまいります。ですから文字通り「韓・穢」ととるほうがいいのではないか、王さんに質したいと思います。
歳*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA
それから、ハッとしました点があります。私だけでなく佐伯有清さんもおっしゃっていました「安羅人戊兵」問題でございます。末松保和さん等により、「任那日本府の傭兵であろう」といわれている。これが三回碑面にでてくる。これに李さんは改竄ではないかという疑いをもたれたのですが、王さんはこの字は碑面にある。しかし従来の読みが違っている。つまり「羅人の戊兵を安んず」と読む。羅人というのは新羅人で、新羅の兵隊を安定した型でそこへ置いたという意味である。これに私はちょっとビックリしました。
この点を読売のシンポジウムで武田幸男さんが鋭い批判をだしておられました。「百残は高句麗からみると賊ですから、しばしば残と省略している。ところが新羅を羅と省略した例が他にない。それをここで『羅人』としたのは考えられない」これが第一点です。
第二点はもっと鋭いのです。「『任那加羅』がでてくる。だから『羅人』だけでは『加羅』の人だか『新羅』の人だか分らない」。これはなかなか鋭い意見でしたね。
王さんはこれに対して「『三国史記』で『新羅人』を『羅人』と書いた例、『百済人』を『済人』と書いた例があります」というお答えだったのです。武田さんは当然『三国史記』はよく御存知の分野なんですが、「石碑で『加羅』だか『新羅」だか分らない書き方はないでしょう」という意味であったようです。
これを私の目からみると面白い問題があるのですが、時間がございませんので後で質問があればお答えします。
四番目は大義名分と用語の問題でございます。「永楽」という年号がでてきますが、王さんは年号ではない、ということを言っておられるのです。中国の年号は連続してでてきます。そういう連続した年号でないことは確かです。しかし全く年号ではなく、単に永楽という名前を使っただけであるといいきれるかどうかです。名前をそういうふうに使い、呼んだというのは普通ではないので、まあ“年号に準ずる用法”であるというぐらいのところではないでしょうか。王さんに反対とかいうまでではないのですがね。
問題は、年号に準ずるものが「永楽」である。さらに大事なことは、中国ではこの時点で年号があるわけなのに、それを使っていない。中国の年号を知らなかったということはない。南北朝両方年号がある。それを両方使ってないということの意味は重視していかないといけません。
つまりこの碑文では中国の天子が南北ともにでてこなくて、高句麗の王が天子に準ずる位置で出現するという位相である。これが重大なんです。だから永楽も“年号に準ずる意義”をもって出現するということは、まず押さえておかないといけない、重要な問題だと私は思うわけです。 
好太王碑の大義名分
そういう目でみますと、この文面は高句麗王に対してだけ“天子にむけて使う用語”を使っていると、私は考えるわけです。
例えば好太王が位につくことを「登祚」と書いています。「登祚」は天子が位につく時使うのが本来の用語なんです。それを使っている。さらに「朝貢」という言葉も天子に対して物を持っていくことを示す言葉です。百済や新羅に物を持っていくことを「朝貢」とは書いてございませんで、もっぱら高句麗むけに「朝貢」が使われています。
だから中国の天子が姿を現わさず、中国の天子用語を専ら高句麗の王に対して使われている。これが重要な問題だと思うのです。
読売シンポジウムでは全体の三分の二くらいが「倭・・・渡海波」のところに議論が集中していたわけです。王さんは「倭以辛卯年来」の「以」を「以来」と、西嶋さんが十年前にだしておられた説を知らずに、同じ考えをもたれたらしいのです。ともあれここのところで、いろいろと意見がだされたのです。
私の立場は簡単明瞭、非常にはっきりしています。ここのところは読めない。何故かというと、字が欠けているからです。「渡海破百残」のあと二字か三字が欠けて読めないわけです。王さんは「羅」の直前を「□新」ではなかろうかと枠つきで書かれています。その上の二字は赤外線をあてても見えないのでしょう。分からない。あの二字が分らずに読める人がいません。ここに動詞が入るか名詞が入るか置字めいたものが入るかで全然違ってくる。だから読めないというのが、一番厳密な答であると私はそう考えているわけです。
私の本をお読みになった方はよく御存知ですが、例えば江田船山の鉄刀の何とか大王というのをいろいろ読んできました。補充して雄略だとか読んできました。しかし私はそれは駄目だ。読めないものは読めないとすべきだ。読めるのは何とか大王がいたというものとして考えなければいけない。一案として誰々ではないかといっても、欠けている字を自分で補って論証の重要な柱としてはいけない、というのが私の立場です。
これは何処にいっても同じです。金石文を厳格に扱う場合は皆同じだと思うのです。ここの字は欠けているから読めないというのが一番正確だと思うのです。いろいろ補って、あれこれという想像は結構ですが、あくまで想像です。
すると何もいえないか。私の考えではそうではありません。「臣民」という言葉があります。「臣民」は「朝貢」と同じように特別な用語です。つまり天子に対する用語です。ただの王に「臣民」とはいわない。『三国史記』で「臣民」という場合、百済本記では百済王に対してだけ「臣民」と使い、高句麗本記でも高句麗王に対してだけ「臣民」と使い、新羅本記でもそうです。当り前です。
これは高句麗王側の作った石碑ですから、高句麗王に対する所属関係しか「臣民」と表現しないはずである、というのが私の考え方であります。これは一つのイデオロギー論、大義名分論です。これが本当かどうかは字が欠けているから、裏付けはできないということです。
「渡海破」というのは高句麗王側が「渡海」して百済をやっつけた。丁度、マッカーサーの戦略を逆向けにしたような、朝鮮半島西岸部の「渡海」であると私は考えたわけです。
ということで、この箇所は分からない。「臣民」については、一義的な方向性があるのではないかということでございます。 
古代東アジアの政治地図
次に王さんの説で“太王ーー主”問題があります。従来「百残王」と読まれておったのは、実は上に点があり「百残主」である。高句麗の場合のみ「王」もしくは「太王」、「百残」の場合は「主」と表現しているという王さんの新しい見解でございます。石碑を見ないと、何ともいえないのですが、面白いと思いました。
東京の講演会(十三日)の直前に新しい発見をしまして、自分でもビックリしています。それは北魏の『魏書」を見ますと、夷蛮伝に高句麗伝、百済伝はあるわけです。ところが倭人伝、倭国伝は無いわけです。これに対して『晋書」の夷蛮伝には馬韓伝、秦韓伝、倭人伝があり、高句麗伝がないのです。『魏書」に倭人伝が無いのは前から知っておったのです。『魏書」は同時代史書で、後代史書ではないのです。そういう意味で、『魏書」の研究が今まで少なすぎる気がするのです。
『魏書』に倭国というものは無いのです。これは一体何だろう。倭国は存在しなかったのか。そんなことはない。倭国は北魏に朝貢しなかったから倭国伝がつくられなかった。“なきものとみる”ということです。
『晋書』に高句麗伝が無いということは何故だろう。高句麗と晋(東晋)はかなり関係あるのです。もっと徹底的に『晋書』を調べないといえないのですが、一つの考え方として、高句麗は北魏に朝貢する。高句麗は南北朝両方に使いを送るという外交を長寿王がするわけです。好太王の次が長寿王。長寿王は長生きしただけでなく巧妙な外交をするわけです。好太王碑ができたのは長寿王になって二年目(四一二年)です。これは私の想像ですが高句麗は北魏と深く関係をもちましたので『晋書』に高句麗伝はつくられないのではないかという感じをもちました。
その国があることを知っていても大義名分論から扱わない。厳しいですね。現代の我々もこれに似た状況を地球上にみるわけです。
高句麗は大義名分上では「ない」相手と戦うわけです。するとどう書くか。「王」とは書けないです。「王」というのは「伝」のある国で「王」がありうるのです。この碑文で驚きましたのは、「王」と「主」がいるのは高句麗と百済。新羅はよくでてきて、忠誠を誓っているのに王がないのです。主もないのです。それに対してでてくるのは「寐錦」という民族称号で二回ばかり(王さんの判読)でてくるのです。
東アジアの漢文世界で、王にあたるのは「王」もしくは「主」であります。「主」も中国語。だから新羅は、日本でいえば「みこ」や「ひこ」の類のものしか現れていない。
つまり好太王碑で王のあるところが『魏書』で伝が作られている国だということです。これは偶然の一致ではないのではないか。後にもでてきますが、倭について「王」「主」がでてこないのは、別に彼らは「海賊」だというのではない。大義名分、朝貢で「王」なり「主」なりとして登録されているという存在でないという理解の方が正当なのではないか。一昨日思いついた問題ですので、これから確認、再確認しなくてはいけませんが、これまでのところを提起して、皆様の御意見御見解を待ちたいと思います。
次の「舊是属民」問題も非常に面白いのですが、時間の関係で省略させていただきます。後に御質問いただければ喜んで申させていただきます。 
海賊か国家か
さて、いよいよ王さんの問題点の最大のもの、「倭=海賊」説について申します。これは王さんがいらっしゃる時に述べて王さんにお聞きいただきたいと思った、一つのポイントでございます。
まず「其の国境」問題というのがございます。第二面七行目。「王巡下平穣而新羅遣使白王云『倭人満其国境潰破城池以奴客為民歸王請命』」。つまり高句麗王が平穣にやって来た。この時新羅(王がでてきません)が使を遣わして言うに、「倭人が其国境に満ち満ちて城池を破る」。「奴客」というのは謙遜した表現なんでしょう。「倭人が奴客を以って民と為す」。王というのは高句麗王。だから高句麗王に私達は従って、その命に依って動きますから、どうぞ御指図下さい。こういわばSOSを送ってきたという文面でございます。
ここに「其国境」がございますが、「其」は代名詞で、何か上の名詞を指すわけです。どの名詞を指すかは、大変明瞭簡単でございます。直接法の文章で、上にある名詞といえば一つしかない。「倭人」しかない。これしか指すものがない。だから倭の国境と解釈するしかない。
漢文や英文で、この代名詞は何を指すかという試験問題がよくでてきますが、ここは試験問題にだしようがないほど、はっきりしています。
もう一つの問題があります。国境というのは一つの国では国境にならない。二つ国がなければ国境ができない。倭だけでは国境にならない。相手がいる。それもまた、大変明瞭です。新羅がしゃべっている言葉ですから、「困る」といっているのてすから、当然「新羅」と「倭」の国境です。こうとしか読みようのない文章である。
つまり国境は陸地に関する概念であります。海で隔てているときには、国境とは申しません。でないと日本と中国と国境があることになります。日本とアメリカとだって国境があることになります。こんな国境はありません。陸地に於いて国を接しているのが国境でございます。
ということは倭は「国」である。しかも朝鮮半島内部に倭国の領土があるということを前提にして書かれた文章でございます。
これは史料として最強の史料ということができます。好太王碑自身が金石文。同時代史料の中でも一番の、金石文である。その金石文が九州の方に建っている石碑であれば、倭人が勝手に建てたといえるかもしれません。しかしこれは、倭の敵の新羅が主張し、倭の最大の敵の高句麗王に報告しているわけです。だから、朝鮮半島内部に倭国の領土がないのに、有るように嘘をつく必要は全くない。そういう意味で、同時代史料の中でも最強のものであるというふうに、私は考えるわけであります。 
『三国志』の証言
これは別に不思議なことではございません。『三国志」倭人伝を御覧になった方は“当たり前ではないか”。こうおっしゃると思うのです。『「邪馬台国」はなかった』や昨年でました『古代は輝いていた』で論じましたところです。今簡単に申しますと『三国志』の「韓伝」「倭人伝」にはこれは同様の内容がくり返し、しつこいほど書かれている。
1).(韓地)其の賣*盧国、倭と界を接す。〈魏志韓伝〉
これはどうみても国境を接しているのですね。この「其」は韓地の、弁辰の賣*盧国です。
賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、三水編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006
2).(韓地)東西、海を以て限りと為し、南倭と接す。〈魏志韓伝〉
これもはっきりしていますね。東側と西側は海だ。南は海ではない。倭の領地だと中国側が書いているのです。倭が勝手に書いたものではございません。
3).其の(倭の)北岸、狗邪韓国〈魏志倭人伝〉
この「其」が倭を指すというのは、よく知られているところです。倭の北岸といういい方は、この狗邪韓国も倭地の一部分ではないか。南側に倭の首都がある。という問題に連なっていくのですよ。
4).a帯方郡治ーー女王国(一万二千余里)
b帯方郡治ーー狗邪韓国(七千余里)
c倭地(周旋)ーー(五千余里)
一万二千余里から七千余里を引いて五千余里という考えにたつのが一番素直だと思うのです。この場合、狗邪韓国が倭地でなければこの計算はできない。対海国を東限としますと、狗邪韓国から対海国の千里を引いて、倭地が四千里となり、合わない。この点からしましても狗邪韓国は倭地である。
1).2).3).4).いずれも満足させる答は、朝鮮半島内部に倭地がある。それも南岸部に少なからずある。釜山あたりを中心に洛東江あたりにあると考えなければ理解できない文章でございます。
しかも幸いなことに、考古学的遺物によって裏付けられています。中広矛、広矛、中広戈、広戈が出たのは三世紀、考古学者がいう弥生後期後半でございます。この矛の鋳型は殆んど博多湾岸、戈はいわゆる博多湾岸中心で、東は北九州市、西は佐賀市の方に伸びている。そして実物は北は洛東江ぞいにかなり広く分布し、東は大分から四国の西半分に分布しておる。だから博多湾岸を中心にした鋳型で作られたものが、そういうところに運ばれて分布を作っているというふうに考えざるをえない。
洛東江ぞいにでてくるのは韓国製である、“鋳型はそのうち出てくる”と書いている韓国側の学者がいますが、これは考古学の立場ではないですね。「物に則する」以上は、鋳型が出てきていうべきです。出てこないのに「これは韓国製にきまっている」「では鋳型は?」「いずれでてきます」。これでは「物」にたつ議論ではないと思います。
さらに金海式甕棺によっても論じられます。これは釜山、唐津、博多湾岸、北九州市等に分布しています。金海式といいましても金海が原点ということではありません。弥生式土器といいましても、東京の弥生町が原点で日本列島各地に分布したものではないのと同じことです。ということで、これも博多湾岸を中心に、棺がずっと発展していた時の形態でございます。すると同じ甕棺に葬るのですから、同じ部族が釜山にも墓を作っていたといえるということに注意しないといけないと思います。
さらに逆のぼります。縄文期に腰岳の黒曜石の矢じりが金海近辺からでてきております。「朝鮮半島側が腰岳の黒曜石を輸入していた」と新聞にでたことがありましたが、現在の国境が縄文時代にもあったような書き方です。自然に考えれば腰岳の黒曜石の分布が釜山にも及んでいるということです。案外というか当然というもののようでございます。
今言いましたことが間違っていなければ、朝鮮半島内に倭地があるということは確定的な事実なんです。日本府問題をいう前に、古代に朝鮮半島内に倭地があった。二十世紀の現代ではないわけです。どの時点かで無くなった。いつの時期か、六世紀か七世紀かという議論はありうるにしましても、初めから無かったというのは黒曜石の分布、鋳型、甕棺の無視、『三国志」の無視をしなくてはできない。
さらに重要なことは、三世紀『三国志」において朝鮮半島内において存在した倭地が、四世紀「好太王碑」という倭国の敵側の金石文によっても裏付けられている。
だからこの倭は三世紀からずっと続いている倭であるという命題がでてくる。 
「倭」とは何か
ここで私は、本日の核心をなすテーマについて申しあげたいと思います。
「好太王碑」を書いた人は『三国志』を読んでいただろう。『三国志』から「好太王碑」までほぼ百年。普及する時間は充分あった。そして「好太王碑」を書いた人達は、中国の漢文の素養、「四書五経」の素養のたかい人達だった。『三国志』に無関心だったとは思えない。「高句麗伝」がでてきます。それに無関心だったとは思えない。「高句麗伝」だけ読み、「倭人伝」は読まなかったという人も、時にはいるかもしれませんが、まあちょっと考えられないです。
また、この石碑を読んだ人。書いたけれど誰も読めないというのだったら無意味です。庶民は読まないけれど、かなりのインテリは読めたはずです。その人達も『三国志』は読んでいただろう。少くとも「夷蛮伝」ぐらいは知っていただろうと思うわけです。
さらに『三国志』が三世紀の同時代史料であるということは、東アジアの三世紀の現実を反映しているということです。三世紀の現実は『三国志』にすいとられて蒸発したわけではないのです。百年後にもその現実は続いているはずなのです。
ということは、「好太王碑」の第一面に初めに「倭」という字がでてきます。「倭以辛卯年」で「倭」の説明はないでしょう。一体何者でしょう、という解説は書いていない。「石碑を読む諸君、知っての通り・・・」。つまり『三国志」に書かれたあの「倭」なんです。我々のお祖父さん、お父さんが言っていた倭、それと同じ倭。だから特別説明はいりませんよ、という形で「倭以辛卯年・・・」。これが、
もしお祖父さん達の言っていた「倭」、『三国志」の「倭」と違うのですと言いたければ、「倭の別種」とか「東辺の倭」を書けばいいのです。読む方は、“私達の知っている「倭」と違うんだ”と読む。そう書いてなければ、後漢の光武帝から金印を貰った「倭」だな、『漢書』にでてくる、楽浪海中倭人ありの「倭」だな、魏から「親魏倭王」の金印を貰った卑弥呼の「倭」だなと読む。碑文だって読者はいるんですよ。そう読んでもらって結構です、という形で書かれている。
これは、私の知っている限り明治以来誰も指摘していない。王さんも指摘していない。『三国志』はノー・タッチ、ここに最大の盲点がある。 
三一六年の衝撃
さらに具体的、歴史的に申しますと、「三一六年の衝撃」があります。詳しくは『古代は輝いていたIIーー日本列島の大王たち』(朝日新聞社刊)で述べてありますので、今は簡単に申します。
陳寿(『三国志」著者)が死んで十九年目、三一六年に大事件がおこった。新興匈奴が洛陽、長安を占領し、一夜にして西晋朝は滅亡したわけです。陳寿の子供あたりは、捕虜になったか殺されたりかしたでしょう。そして西晋朝の一族は建康(今の南京)に逃がれ、東晋を築いた。そして匈奴はいわゆる五湖十六国を築き、南北朝が始まった。
これは東アジア全体に重大影響を及ぼした大事件です。朝鮮半島に関していえば、中国が前漢の武帝以来にらんできた楽浪、さらに漢末に分郡された帯方の主なき状態、政治的軍事的空白地帯になってしまった。名目上は東晋の直割地・植民地ということなんですけれど、海を越えないといけない、負けて逃げた国ですから実効ある支配力を及ぼすことはもう無理なんです。
この軍事的政治的空白を埋めるべく浸入してきたのが、北からの高句麗、南からの倭国だったのです。
時間が少くなりましたので、この点、ポイントを申します。「韓伝」があります。従来これは分りにくいとおもってきましたが、私には面白くてしようがない。「倭人伝」と同じくリアルである。
「韓伝」に馬韓が五十余国書かれているが「王」がいない。「王」が書かれていない。「王」が絶滅した。絶滅した理由もちゃんと書いてある。辰韓の八国を楽浪が直割領に編入した。それを馬韓の側が怒って楽浪・帯方と戦った。緒戦は強かったが、やがて中国側の援軍がきたんでしょう。盛り返して「二郡・韓を滅す」と書いてある。だから王がいない。
これに対して、わずか十二国の辰韓に「辰王」はいる。「辰韓はいにしえの辰国なり」とあります。その辰国の王は「辰王」にきまっている。しかしこれは馬韓に隷属する王であると書かれています。
弁辰はさらに小さい国のようですが、「弁辰また王あり」。具体的に、どのような王かは書いていないが「王あり」です。
ところが問題の五十余国の馬韓の方は「王なし」状態です。楽浪・帯方の、いわば軍事統治下みたいな状態ではないでしょうか。その時卑弥呼は帯方郡に使いを送った。だから、貢に何倍もの贈答品を貰ってきたのです。韓地をおさえるために、その向うの倭国と楽浪郡・帯方郡が手を結ぶという、中国伝来の遠交近攻の外交じゃないでしょうか。そういう状況の「韓伝」をしっかり理解しないと「倭人伝」も分らないとつくづく感じました。
つまり、『三国志』の「東夷伝」では北の高句麗は魏と戦って負け続けている反魏政権、これに対し、南の親魏倭王卑弥呼、この二者が、朝鮮半島の勇者だったんですね。そこへ楽浪・帯方の空白。高句麗と倭の激突。
歴史の文脈は大変はっきりしていると思うのです。するとこの「倭」は、倭国は卑弥呼(ひみか)・一与(いちよ)の後継王朝であるということになるわけです。
時間がなくなってまいりましたので「開府儀同三司」のことを、簡単に申しましょう。「任那日本府」については、読売シンポジウムでも問題になっておりました。李さんと王さんの共通の論になっていまして、李さんはこれが「本来の私の主旨であります」とさかんにいっておられました。“改竄という問題は副次的なものです”といっておられました。王さんと共同戦線をはれるのは、ここです、という感じなんです。
私は「任那日本府」に関する王さんの御意見は非常に問題があると思います。「任那日本府」があるなら、石碑にでてこないではないか。なかった証拠だといっておられます。
考えてみますと「任那日本府」という地名はないのです。地名部分は「任那」。「府」というのは役所、中国語の役所でございます。「日本」というのは国名、元は「倭国」といったのが、後に「日本」といいだしたわけです。例えば『日本書紀」の百済系史料で「日本」と書いてあっても、もともと「倭」とあったのを「日本」と書いた可能性がありますから、「任那倭府」といったほうがいいかもしれません。
高句麗が五世紀の初め「開府儀同三司」を称します。倭の五王達はこれを望み、自称しますが、なかなか中国側は認めないわけです。しかし自称しているわけですから、自分の勢力範囲のところに「倭国府」「倭府」を称していたということなのです。
つまり、朝鮮半島内の倭地、任那であれば、それを「任那倭府」と呼んでいたはずなんです。はずなんですけれど、中国でさえ承認しないのに、高句麗が認めて石碑に書くなんてことは全くないのです。倭国側としては、筋は通っているのでしょうが、高句麗から見れば、倭国側の勝手な言い分、「自称」なんです。だから、まかり間違ってもこの石碑にでてくるはずはない。でてくるのは「任那」としてしかでてこない。「任那」はちゃんとでてきています。「任那」も「加羅」もでてきている。
また倭の五王が「開府儀同三司」を自称するのは五世紀終りです。「任那倭府」と倭が“四世紀終りから五世紀初めにかけて”のときに、そのようにいっていたかどうかも、実はあやしいものです。
ということで、王さんの“「任那日本府」があれば石碑にでてくるはず”という議論は、王さんが時間帯と称号のもつ内容分析、構造分析をしなかったためでないか、とわたしは思うわけです。
問題は朝鮮半島に倭地があったと認めるならば、倭側が「開府儀同三司」「任那倭府」を称した時期のあったことを否定することはなかなかむつかしい。中国側の認める称号ではなかったということは争いはない。これと混同してはなりません。
時間がないので、あと少し申しのべさせていただきます。
次は「不軌」問題です。“「倭不軌侵入帯方界」をみても、倭が財宝をかすめ盗るだけの不将な連中であったことが分る。国家なんてものではない”と、王さんはいっておられます。しかしこれは違うと思います。
「軌」は軌道の「軌」ーーレールーー公的なルール、秩序でございます。これを「倭」が犯した、「帯方界」に侵入した、というのです。
「侵入帯方界」も面白いのです。この文面に「平穣」が二回もでてきます。楽浪郡の中心は「平穣」で、ここを好太王は本拠地にしているらしいんです。「倭」は「侵入帯方界」、つまりソウルあたりのところに侵入しているのです。これは先程いいました三一六年の衝撃によって空白になった楽浪・帯方を、誰が支配するかという問題がこの時の最大の問題点であることを、同時代史料が奇しくも反映しているわけです。
それはそうとしまして、簡単なことを申しましょう。もし強盗が貴方の家に入ったとしましょう。貴方は強盗に「法律に違反している」と言いますか。そんなこと言やしません。ところが隣が二階を建て増しした。それが自分の家の庭まで飛び出してきておる。「おかしい、法律違反していますよ」。これは言いますね。
これは、相手が「法律を守る存在である」という前提にたっているからいえるわけです。強盗等に言ってもはじまらないわけです。
言い換えますと「倭不軌」というのは、高句麗国と倭国との間には「軌」があるんだということを、高句麗側が主張し認識しているわけです。その「軌」に「倭国」は違反して入った。
その理屈は書いてありませんが、おそらく楽浪郡は自分が支配する所だから、帯方郡は楽浪郡から分郡した所だから当然自分の支配下に入るということではなかったかと思うのです。
ルールはちゃんとあるのだ。そのルールを「倭」は破っていると非難している。これをもって、“海賊だから無茶をする”証拠だというふうに読み取られたのは、文章の表面を取られ、内部構造をとらえていらっしゃらないのではないか、私にはそう見えるということです。 
中国文献の用例
次は「倭冠」です。読売シンポジウムでも、「倭冠」とあるから海賊であると思います、と王さんは簡単に答えられたのです。しかし有名な「倭冠」は明代のことで、好太王碑を作った人も読んだ人も一切知りません。だから、これを例にされることは歴史学の方法論として無理でございます。
これに対して、百年前の『三国志』にこの「冠」がどうでてきているかを申しますと、「正始三年、宮(高句麗王)、冠西安平」。高句麗王が西安平に兵を進めてきたことを「冠」と中国側は表現しています。この場合、「冠」の主体は高句麗でございます。「冠」といわれているから高句麗王と名乗っていても、本当は山賊だろうといったら大変なことですね。まぎれもなく高句麗王であるが、中国側からみて“大義名分に属する土地”を侵すから「冠」というのです。
この用例にたってみれば、「冠」と書かれていたらむしろ「王の証拠だ」と言うのは言い過ぎかもしれないですが、そういう筋合いのものなのです。「冠」とあるから国家ではない山賊だというのは、石碑以前の用例に従って漢文を読む、という、文章を読むルールを失ったものであると思います。
次は「和通」問題。「今使譯所通三十国」(魏志倭人伝)。大阪の朝日カルチャーセンターで「倭人伝を徹底して読む」(月一回第三土曜日)という講座をしているのですが、非常に多くの発見をさせてもらっています。「和通」問題もそうです。「通」という字を、『史記』『漢書』『三国志』その他の中から摘出しぬいていったわけです。
その結果は、非常に簡単でした。道路が開くとか、言葉が通ずるという「通」もございますが、国際問題で「通」がでてきた場合は、Aという国とBという国の間に国交が樹立した時に「通」という表現を使っているわけです。それ以外はございません。漢書の「西域伝」「大宛列伝」等を御覧になれば、「通」はみごとな術語としてたくさんでてまいります。
ここで百済が国家であるということに、誰も反対しない。山賊だという人はいないです。その国家が倭と「通」といっている。つまり百済が国家であれば、倭も国家であるわけです。
山賊との間に王が裏取り引きもするでしょう。イギリスのエリザベス女王(一世)が海賊と裏取り引きをした話もあります。どこの国でもあると思います。それは「通」とは表現しないわけです。「通」という外交用語を使うことはない。
もし、王さんが「王」が海賊に対しても「通」を使う、とお思いなら、中国の文献、好太王碑以前の文献の中で、その用例をお出し下さい。国家が山賊や海賊と取り引きしたことを「通」と表現した用例をお出しください。
今回の本には出ていませんので、それをお出しになれなければ、海賊説は無理です。
さらに「残賊」問題があります。百済の「済」は佳い字です。「残」はのこるではございませんで、そこなうという字です。「賊」もそこなうです。「賊レ仁者謂二之賊一、賊レ義者謂二之残一。ーー謂之二夫。」『孟子』にでてきます。『孟子』は周代の戦国時代の本ですから、好太王碑よりずっと前です。好太王碑の碑文作者が学んでいるのは周代の文献のようでございます。
ということですから、「倭賊」とあるから「海賊」といわれるのでしたら、これは間違いでございます。
高句麗中心の大義名分を承知しないから、「百残」と表記し「倭賊」と表現したのです。「百残」と表記したから、王ではない、山賊だ、といえないと同様、「倭賊」と書いてあるから国家や王ではない、とはいえない。
どうも好太王碑碑文の作者はどうも『孟子」あたりを読んでいる形跡があるのです。「義」がでてくるのですが、「義」も孟子が好きな言葉ですから『孟子』は確実に読み、素養教養の中に入っているようです。 
残された問題
最後に、最も簡単な問題、出現回数でございます。「倭」という字が今西龍さんの拓本によりますと九つ。王さんのでは十一。これに対して百残が二、残が七。王さんは百残が三、残が七。新羅は四、羅が一(これは臣民の羅だけのところを入れる)。王さんは新羅は六、羅四(先ほどの安羅人戊兵を新羅と考えたのを含める)。すると「倭」が十一。百残が十。残はのこるとかそこなうという動詞である可能性もあるのですが、一応全部「百残」として十。新羅も王さんのいわれる「安羅人戊兵」を「新羅」としまして十です。
すると「倭」は「百残」や「新羅」と同等もしくは、それ以上の出現回数をもっているわけです。
「百残」「新羅」は国家であり、山賊という人は誰もいないのですから、それと同じかそれ以上のウェイトで出てくる「倭」だけ海賊であって、しようもない略奪者であるという解釈は、人間の自然の理性からみておかしいとおもうのです。この自然な理性で感じるところが結局正しかったということになるであろう。わたしはそう思います。
李さんとの論争は十二、三年かかりました。今回の論争が何年かかるか知りませんが、王健群さんは、結局それを認めざるを得なくなるであろうと、私はそう思うわけです。
もちろん、王さんがそう思われずに頑張っておられましても結構でございまして、末長く論争させていただきたい。幸い、年も同じくらいですのでお互い体を大事にして論争させていただきましょう。こう思うわけでございます。長い間、ありがとうございました(拍手)
質間 / 「任那日本府」があったならその痕跡が朝鮮半島に発見されなければならない。李さんは、朝鮮半島に大和朝廷の痕跡はないといっておられます。その辺の関係をいって下さい。
古田 / 李さんは慎重でありまして、「大和朝廷の痕跡はどこにもなかった」というかたちで書かれているのです。事実、従来「任那日本府」という場合、大和朝廷の役所という形で教科書その他扱っております。それを裏返すようにして「大和朝廷の痕跡はどこにもない」という表現をしておられるのです。梅原末治さん等が行かれたのは戦前のことですから、“大和朝廷の痕跡を発見されなかった”のは当然でございましょう。まさか菊の紋章がでてくるなんて、誰も思いませんでしょう。
弥生時代には博多湾岸、私がいいます筑前中域が中心。古墳時代になりましたら、筑後とか肥後が中心になる九州王朝の痕跡がありやなしや、という形で、問題を考えなければいけないわけです。
弥生時代の痕跡はありすぎるくらいあるわけでございます。先程いいました広矛・広戈。倭地が朝島半島内部にあった証拠は弥生時代には動かしえないわけです。次は、その倭地が三世紀の終りに亡くなったか、滅んだかという問題です。
弥生時代にあった倭地が、古墳時代に消えたのなら侵略されたということになるのですが、好太王碑の時も倭地があるのです。四世紀末、五世紀初めにも倭地があった。続いていたということです。朝鮮半島の前方後円墳の時期は三世紀末と四世紀、五世紀初めの間に入るのですから、倭地にある前方後円墳ではないかという問題がでてくるわけです。
私はこの前方後円墳を見ておりませんので詳しくは立ち入りませんが、朝鮮半島内倭地問題を逃げていては、『三国志』倭地問題を逃げていては、この古墳問題を論ずるのは、危険であると思います。
まだ現地に行っていないのに言うのは冒険なんですが、少し言いましょうか。ソウル近辺に前方後円墳があるというのですが、これはかなり遅い時期の横穴式の前方後円墳だとおっしゃるんです。
もしそうであるとすれば、そこが「倭人の墓」である可能性はないのか、という問題です。恐いような話ですが、可能性としては考えておかなければいけない。日本列島に渡来人の墓といわれるものがありますね。大和のまん中にもどうみても朝鮮半島の系列と思われるものがあるでしょう。あって当り前。日本列島の中に高麗人の墓であるとか、新羅人の墓だとかがあっても当たり前だと思うのです。
そうであるなら、朝鮮半島内に倭人の墓があってはいけない、ということはない。もし仮に、好太王の頃帯方から平穣の間で激戦したとします。倭人と百済人が組んで好太王と戦ったのです。当然倭人の将も死にますわね。そこで百済側がこれを厚く葬る、という可能性もあるわけですよ。
これは一つの仮定です。断言などは絶対しませんよ。ただこういう一つの可能性もいれて朝鮮半島内の前方後円墳問題を考なければいけないと思います。
「それはタブーだ」「そんなことをいったら韓国ではえらいことになりますよ」というふうなことをいったら、学問は進歩しない。
繰り返して言いますが、私は断定はしません。ただ「可能性」として、こういう問題を入れなければいけませんよ、柔軟な思考でいきましょう。かたくなな思考は一時は続くけれど、どんな国家も権力も永続させることは不可能です。これが私の立場でございます。
なお、装飾古墳と同じ壁画が洛東江のかなり上流の岩壁のところから出てまいります。『ここに古代王朝ありき」に出ております。
これを朝鮮側ではかなり早い時期においていますが、日本の装飾古墳からみると、かならずしも早い時期ではなくて、前半の終り前後ぐらいの感じなんです。これはやはり九州を中心とする装飾古墳の分布全体図の一環として理解するのが自然なんです。
ですからこれを大和朝廷のこととすると、どうしても無理なんですよ。筑紫の肥後のことという目で見ると、あるのです。“海のこっちと向う”が全くつながりがない方がおかしいのです。
もう一つ重大なことを申します。百済や新羅の王冠には、勾玉が満ち満ちております。この勾玉の原産地、一番旧い発生地は日本列島ではないでしょうか。日本列島では縄文期に勾玉がでてきます。これも考えたら当り前のことです。日本の三種の神器の内、鏡と剣の二つは大陸側が原産です。真似して国産を作った。よその国のものをもってきて宝器にしている。
百済や新羅王が自分の国産品だけを愛用して冠を作る義務はないわけです。他の宝物を冠に付けても不思議はないわけです。日本列島の中に朝鮮文化は大変多くあるんだけれど、逆はないんだ。「朝鮮半島に日本文化はありませんよ」と書いた人はいますけれど、「貴方は本当にそう思っているのですか」と申したいわけです。
繰り返していえば、中国側の学者が楽浪帯方が朝鮮半島にあったからといって、朝鮮半島に対する領土野心やいやらしい根性で言っているのでないこと、それは当然ですね。
同じ事です。もし我々が古代において、朝鮮半島内に倭地があったと言いましても、あくまでも王さんもいわれる「実事求是」です。事実問題であります。現代の領土問題や民族間の問題とは全く関係がない。むしろ歴史を本当に知ることによって、両者が全く対等であり、正視さるべき存在であるということを知ることが、歴史学の最終目標であると私は思っております。簡単でございますが以上です。
質問 / レジメの碑文内実の問題について、説明して下さい。
古田 / 「五尺珊瑚樹、朱紅宝石筆床」は、全くなじみのない問題だと思います。『古代は輝いていたII』で扱っておりますので、それで御覧下さい。非常に面白い問題です。つまり百済が南海に同盟国ないしは付庸国をもっていたのではないかという、面白い問題につらなってきます。「韓穢」問題は、百済と考えるより、文字通り「韓」と「穢」と考える方がいいと思います。
「安羅人戊兵」問題は、先ほど省略しましたので一言述べます。『日本書紀』に百済系三史料というのがあり、そこに「安羅」がでてくるわけです。
ところが、『三国史記』では「阿羅」と書いている。
王さんは『日本書紀』は神話ばかり多い本だといって、『三国史記』を非常に信用なさる。信用できない『日本書紀』と一致するということは議論にならないといういい方をしているのです。
この点、時間の関係で面白いテーマを簡単に申させていただきます。『日本書紀』の中の百済系三史料が馬鹿にできない証拠です。
百済の武寧王の石碑がでてまいりました。そこに「斯麻」というのがでてくる。『三国史記』では「斯摩」と書いてある。ところが『日本書紀』の百済系三史料では「斯麻」なんです。
つまり武寧王碑というのは金石文、同時代史料なんですから一番強いのです。御本人のです。そこに「斯麻」と書かれていたのです。その表記に一致しているのは、『日本書紀』の百済系三史料であって、『三国史記』ではない。『三国史記』が間違いとはいいませんが、一致しているのが百済系三史料です。ですからこの史料は馬鹿にできない。大変な価値です。韓国や北朝鮮の学者は、『日本書紀』の百済系三史料を“馬鹿に”というか、“偽文書”という形で扱うのですが、そうはいえない。
イデオロギー的には、朝鮮半島側蔑視の傾向がありますので、それは我々がどんなに警戒してかかってもいいのです。これが本来の姿であるとはいえない。『日本書紀』に限らず、特に地の文章で、ひどいのです。
しかし、「元」史料自身はかなり信憑性の高い史料ではないかと思うわけです。『三国史記』というのは、かなり後、日本でいえば平安・鎌倉の時期に成立した本でございます。それに比べ『日本書紀』は成立時も早く、そこに引用された史料は表記も信憑性のたかいものではないか、という問題があるわけです。
そうしますと、百済系三史料で従来「安羅」といわれてきたのと、好太王碑とが一致する。『日本書紀』は神話ばかりで信用できない史料だなどと一言でかたずけられない問題だ。やはり「安羅」というのが古い表記であった可能性もありうるわけです。
ただこれも私にいわせますれば、「安羅人戊兵」か“羅人の戊兵を安んず”かは、それぞれ解釈であり安定した解釈ではない。
ここで力を入れて議論をしても、実りはないだろう。しかし、『日本書紀』百済系三史料を信用できないという風潮はおかしいです。武寧王碑を御覧下さい。これを基盤に比べて下さい、ということでございます。「臣民」問題については、先程申しましたように、欠字があるから読めない。ただし「臣民」というのは、大義名分性からみると高句麗を原点として使われているとみるべきではないだろうか、というのが私の考え方でございます。
最後は「舊是属民」問題です。これは重大な面自い問題ですが、時間がないので要点だけ話させていただきましょう。
第一面に「百残新羅舊是属民」がでてきます。王さんはこれを、嘘である、高句麗が歴史事実でないことをオーバーに書いているのだというふうに扱っておられる。「臣民」も同じで、倭が百済新羅を臣民としたとされたうえで、「こう書いてあるんだが嘘である。誇張して書いてある」というふうに解釈しておられる。
しかし、金石文なんかに誇張だ嘘だという概念をもちこむことは非常に危険だというのが私の意見です。私の『「邪馬台国」はなかった』以後の本をお読み下さっている皆様にはよくお分りだと思います。
「舊是属民」というのは、高句麗の目からみたらリアルな表現である、と私は考えるのです。もちろん、古い高句麗の時代に朝鮮半島の南辺までの「大高句麗国」があったということは有り得ない。どの文献をみても、考古学出土物からみても有り得ない。それなら何か。『三国史記』をみますと、高句麗王の第二夫人が第一王子にいじめられて二人の王子を連れて南下した。のちの百済の地に逃げてきて、兄と弟に別れて統治したが、兄の統治の仕方が悪くて弟がこれを合併して、今の百済国になってきた、というのが書いてある。
これが何を意味するかというと、高句麗からみると百済は自国の分家だ、分流だ、属国だというふうにみなすわけです。百済の方からいえば、分家や属国とはいわんでしょうけれどね。百済は夫余の出と主張し、「余何々」と中国風一字名称を名乗ります。高句麗も夫余の出です。だから事実関係は争っていないわけです。大義名分の目からみると違うわけです。高句麗からみると、“百済は本来私の属民、属国である”といっているわけです。
次に『三国志』をみますと、秦の始皇帝の時逃れてやってきた人々を、馬韓王がこれを哀れんで東岸部をさいてそこに住まわせた。そのリーダーは辰王を名乗った。馬韓人を彼の政治顧問につけておいたと書いてあります。
つまり被保護国なんですね。辰韓国は馬韓国の被保護国であったという状況なんですね。結局、辰韓は馬韓の属国になるわけです。ということは高句麗の目からみると、辰韓は自分の属国たる百済の被保護国、属国になるわけです。つまり、我が高句麗の属民である。実際の政治関係がどうとかこうとか以前に、そういう筋道である、という大義名分の論理をいっているわけです。
お互いに貢を交換する。百済の方は対等のつもりで持って行きましても、高句麗の方は「朝貢してきている」という立場で受けとるわけです。新羅に対してもそうなんです。「舊是属民」は以上のような関係を示していると、私は理解する。私の理解を百済や新羅が承認するかしないかは別にしまして、高句麗からは筋の通ったことをいっているのです。別に大風呂敷やありもしないことをいっているのではない、と私は思います。
これは考えてみれば、重大な問題です。百済や新羅には「属民」といっているにもかかわらず、「倭」には属民といっていない。倭は百済や新羅と同じか、それ以上の敵、碑面では最大の敵でしょう。にもかかわらず“属民であるのにけしからん”といっていない。ということは属民ではない、別種の民である、別種の国であるということです。
江上波夫さんが、四世紀の後半、あるいは末から五世紀の初め頃騎馬民族が日本列島に侵入した。要するに騎馬民族の系列だというわけです。百済の属民の分流ということですから、高句麗の属属属民ということです。その連中がやってきたというなら石碑に特筆大書します。ところが書かれていない。
騎馬民族の最強と自称していた高句麗が、四世紀終りから五世紀初めという好太王碑のできる直前の、“日本列島への騎馬民族の侵入”を知らないはずはない。『古事記』『日本書紀」に騎馬民族が海を渡って来たとでていないじゃないかという、これも人間の理性の自然な疑問だったわけです。ところが津田左右吉の説によれば『記』『紀』は「造作」で「嘘」だからということで、江上さんはこの難を退けえたんです。しかし、今度は同時代史料で金石文です。騎馬民族の御本家で建てた第一史料です。それに騎馬民族として倭国を登録してくれとらんわけです。この問題を避けてとおるわけにはいかないのじゃないかということです。
戦後、江上説が果たしてこられた重要な華々しい啓蒙的な業績は、どんなに尊敬しても尊敬し足りないと思うわけです。その御恩返しの意味でこの問題を提起させていただきたい。こう思うわけです。 
 
好太王碑と九州王朝

 

好太王碑の問題は、私が十三年このかた一貫して追い続けてきたテーマでございます。本、論文、講演をつうじて私の話をお聞きの方もかなりいらっしゃると思います。反面、そういうものは一切見たり聞いたりしていない、今日が初めての方もあると思います。それで簡単に、私がこの問題にかかわってきた経緯を述べ、念願の好太王碑に行って何を見、何を考え、何を確認してきたか、さらに、「できるならば」と思っていた王健群氏との対談について、最後にこの好太王碑に関して重要なテーマを申しあげるつもりです。限られた時間ですので、要点を衝きながら話させていただきたいと思います。 
好太王碑研究史
戦前においても好太王碑の研究はなされてきました。しかし、戦後は学校で学んだ一般の人にとって“誰もが知っている石碑”になってきたわけです。それは、戦前では『古事記』『日本書紀」というものが、神話を含めまして正しい日本の歴史だという形でありましたので、『記」・『紀』に書いてあるということと、日本の歴史がこうであるということは同意語であるというふうなことでございます。だからこういう時期に好太王碑がでてきましても、『記」・『紀』、特に『日本書紀』で語られているいわゆる大和朝廷の朝鮮出兵といいますか、経営といいますかそういったことの証拠が石碑にあらわれている、という言及にとどまった。だから好太王碑の写真が教科書を飾るというようなものではなかったのです。
ところが、戦後になると情勢が一変したわけです。皇国史観というものが原則的に否定され、戦争中は異端であった津田左右吉の神話造作説(神話嘘っぱち説、さらに進んで『記』・『紀』の説話が八世紀史官のでっちあげ説)が、戦後になって定説の位置を占めてきた。御存知のように教科書にあった神話、説話の挿絵が墨で塗りつぶされるという時期が敗戦直後にあったわけです。その後、教科書は戦前とは一変した立場で作られなければならないことになったのです。この場合、非常な困難がでてきた。『記』・『紀』の記事は原則として歴史と認められない。特に六世紀中ば以前の記事については認められないとしたわけですから、六世紀以前の日本の古代史は何によって考えたらいいのかということになったわけです。そこで『記』・『紀』とは別個の、石に刻んだ金石文、高句麗好太王碑にでてくる倭(戦前は九個)が証拠だ。大和朝廷が朝鮮に出兵していた証拠であるという形で取り上げられたわけです。
この際、一種の三段論法というのがつけ加わってまいります。この石碑は四一二年に死んだ好太王のことを、子供の長寿王が死後二年目(四一四年)に建設したものです。つまり四世紀の終りから五世紀初めにかけて、大和朝廷が朝鮮半島に出兵していたのだから、それ以前に九州を大和朝廷は支配していたに違いない。大和から朝鮮に行くのに、九州を支配せずには行けないから。四世紀以前に九州を支配していたとすれば、バランスからいっても関東あたりも支配していたはずだ。つまり大和朝廷中心の統一国家(東北、北海道は別)、日本列島の大部分を占める統一国家は、少なくとも四世紀半ばに成立していたはずであるということが、教科書に古代史を書いていくとき、基本の論証になったわけです。ということで、戦後の教科書は例外なく好太王碑の写真か拓本類がでる、史料「倭以辛卯年来渡海破・・・以為臣民」(第一面)の一節は必ずといっていい程、教科書を飾ることになったわけです。
ところが一九七二年(昭和四七年)五月、『思想』(岩波書店)という雑誌に李進煕さんが論文を発表された。その論文で我々歴史学の任務は日本帝国主義の陰謀といいますか、それを暴くことにあるという鮮烈な言葉で始まりまして、日本の古代史の背骨、骨格と考えられてきた好太王碑文というものは、実は真赤な贋物であった。我々が知らされている文章は贋物であったという論文がでたわけです。しかも、明治の参謀本部がスパイの酒匂中尉を派遣して、石碑の文字を削りとって、柔らかな石灰を塗りつけ柔らかなうちに、自分達に都合のよい文字を刻(ほ)りこませ、乾いたのを双鉤本(拓本の素朴なもの、ふちどり本、石碑の上に紙を当て、上から透してみて字の形をふちどり、持って帰って囲りを墨で黒くぬり、字の形だけ白く残す)にした。拓本の場合は、石の上に紙を置き、墨をつけたもので石をたたきにじませてとる。最初はコケむしていたので拓本の方法ではできないということで、双鉤本という方法で作られていたわけです。高さ約六m半、幅一m二〇cmくらいの堂々たる石の四面にギッシリと文字が書き込まれているのを双鉤本にとったものを、酒匂中尉が持って帰った。後々、拓本をとった人も石灰の字を拓本にとった。従って我々が長らく間違いのない史料と考えてきたものは、そうではない。いわゆる参謀本部の作りかえた真赤な贋物であった、という論文がでたわけです。 
私にとっての好太王碑とは
昭和四六年『「邪馬台国」はなかった』を出しまして、次の『失われた九州王朝」を書く直前でした。その時好太王碑にとりかかっていたのです。「倭人伝」は三世紀の同時代史料である。三世紀の中国の使者が、三世紀の倭国、卑弥呼の国にやって来てその実地報告を帰ってした。それを基に書かれたものが『三国志・魏志倭人伝』である。これを正確に分析するということが、日本の古代史を考える場合の基本である。『記』・『紀』というのは正しいにせよ、正しくないにせよ、ずーっと後世の八世紀に成立したものである。そこに神代のことから書いてある。これが正しい歴史事実を伝えているか、いないかということ、すなわち史料批判を行っていかなくては、『記』・『紀』に書いてあるから本当、とはいえない。また津田左右吉のように、“原則として全部嘘”と簡単にはいえない。
結局、同時代史料を正確に分析し、そこから出発して『記』・『紀』を見直すという形にならないといけない。それで「倭人伝」にとりくんだわけです。そうしますと博多湾岸に邪馬一国の中心があった、という結論になったわけです。
では、邪馬一国なるものはその後どうなったか、ということが当然でてくるわけでございます。さて次の同時代史料は百年飛びまして、五世紀初め、先程いいました四一四年に建てられました好太王碑(四世紀末から五世紀初めのことがビッシリ書いてある)です。これは金石文という同時代史料の親玉といいますか、第一史料のベストなるもの、といっていい、その好太王碑にとりくもうとしていた時に、李さんの論文がでたのです。
私はビックリしまして李論文内容の再追跡にとりくんだわけです。好太王碑が李さんのいわれるように贋物なら、それを基にして分析しても意味がないわけですから。
その結果、李説は成立しないようであるということになりました。一つポイントを申します。李さんが、本当の正体を隠して派遣されたかのようにいっておられた酒匂中尉は実在の名前をもつ人物であり、御遺族が宮崎県日向市におられるのをつきとめました。(『失われた九州王朝』「碑文改削説の波紋」参照)。これを同じ年の十一月、東大史学会で発表したわけです。李さんも会場に来ておられまして、壇上の私と四十分ばかり論戦をいたしました。
翌年、東大の史学会から李さんの書評を書くことを求められました。単なる書評では書ききれない、論文の形で書きたいと申しまして、書評論文という変ったものになったわけです。
これに対し、李さんが再批判を翌年の『史学雑誌』にだされたのです。これに対する再反論を私はまとめていたのですが、二つの理由でだすことがためらわれた。李さんの再反論の論証自身は承服しがたい。間違っているように思う。しかし、まず私が出した論文は、普通の論文ではなく書評である。書評に対して批判を加えられたとしても、書評を書いた人間がまた、再批判するというのはなじまない。こだわる必要はないが、ちょっと気になった。これが第一の理由です。第二がより大きな理由です。李さんも私も、現物を見ていない。歴史学では現地へ行く、現物を見るということは、α(アルファ)にしてΩ(オメガ)である。これをせず、机の上の活字ばかりでいってみてもむなしい、と私は思っているわけです。
これは余談ですが、私はお陰様で元気でおりますが、足でも弱って現地に行けないとなってきたら歴史学をやれるかなあ、宗教学や哲学ならいざしらず、あぶないのじゃないか、と心配をしておるくらいです。ですから何かあるとすぐ現場に駆けつける方針でございます。当り前のことでございます。
この大事な真贋論争において、現物を見ずにいろいろ理屈をいいあうのは、歴史学研究者としてあまり気がすすまない。これ以上、口先でいうより現物を見ることが先だという感じが強くしておったわけです。で、再反論を書くというより、現地に行くということに最大のエネルギーを注ぎ始めたのです。
李さんは、古田が再反論を書かないのは自分の意見に承服した証拠であると、講演でいっておられたことがあるようです。 
好太王碑の現地へ
私としましては、私の可能なあらゆる手練手管(といってもしれていますが)を使っていろんな方面に働きかけて、中国側に好太王碑を見せて欲しいという要求を続けていたわけです。あげくは藤田さんと二人で中国に出かけ(一九八一年八月)長春の文物局の人に強引につめより、やっとこの二、三年の間に見せましょうという約束を得て帰った(『市民の古代』第四集)というような行動を続けております内に、土利川さんーーかつて関東軍に属しており、その後八路軍に属するという数奇な運命を経験され、朝鮮半島の北端鴨緑江の真中辺の北岸(現中国領)集安県に一年以上駐屯しておられた。工場の管理のようなことをなさりながら朝晩好太王碑をみつめていた、ーーに、運命の導きといいましょうかお会いすることができ、御尽力いただきました。現在の中国側のお歴々はかっての戦友であるというようなことでございまして、非常に話が今までになくスムースに進みまして、今年(一九八五年)三月に好太王碑に行くことができました。多くの方々の御支援、土利川さんの御力添えも得て我々は現地に行けたわけです。
大阪空港で「本当に好太王碑に行けるかどうか、私にはいまだに信じがたい」という団長挨拶をして皆様にお笑いいただいたわけです。三月二十四日、好太王碑に行きました。バスの中から好太王碑が見えた時は、手をたたいて、こどものようでしたが、それで胸にある何かを表現したわけです。二重三重に鍵がついておりまして、鍵をあけてもらい半日好太王碑の前で、手も顔もこすりつける感じで見たわけです。この時はどんよりと曇っておりました。次の日は朝から行きました。日本でいえば日本晴れ、向うでは高句麗晴れかなにかしりませんが晴天でございました。ところが、好太王碑には屋根がついてまして屋根の影で石碑の三分の一がおおわれて「倭以辛卯・・・」なんてうまく見えない。高さが、六m半くらいですので肉眼では見がたい。出発前夜買い求めた双眼鏡が役に立ち正確に観察することができました。下部にも倭という字があるのですが、これもはっきり石の字でした。結論から申しますと現在倭と確認できましたのは八個。今西竜さん等の研究で九個とされておったのですが、八個ははっきり存在しておりました。
文字の確認について次の方法をとりました。ABCDE五段階に分け、Aは誰がみても確認できるもの、Bはほぼ確認できるもの、Cはα字であるともβ字であるともいえる(説が分れる)、Dはほぼ確認できない(残存するものはかろうじてあるが)、Eは全く読めない、としました。そしてA、AないしB、B、BないしCと九つにクラス分けして問題の字を皆で判断していきました。
山田宗睦さんは文字に対する造詣、情熱のある方で、冗談で“道を間違われたのではないですか。哲学ではなく古文字学に進まれた方がよかったのではないですか”といった程、見て見て見ぬいておられました。第一日目が午後からで曇天、二日目が快晴、三日目はものすごい雪で、これは見れないとガッカリしたのです。ところが行ってみると雪の乱反射でまんべんなく光が当り、字が浮きだして非常にはっきり見える。雪による湿度もからんでいると思います。第二面、三面、四面はこの日が最もよく見えた。しかし第一面は駄目でした。二、三、四面はすぐ塀がかこんでいましたが、一面は前庭がありそこ一面に雪が積んで、そのため光があたりすぎて見えないのです。それでも雪のどんどん降る寒い中、見て見て見ぬきました。
次の日は将軍塚等の古墳と鴨緑江に参りました。最後、帰る日の朝は絶好の晴天でした。屋根の影が邪魔しないよう朝早く石碑に行って一所懸命観察いたしました。 
好太王の墓は
実は、私は行く前に関心は持っておったがすぐには分らないだろうと思っていたことがあります。それは好太王その人の古墳がどの古墳であるかということです。明治以来論争があるわけです。この好太王碑から東北方向にかなり離れた将軍塚であるか、すぐ二百mそばにある太王陵か、二つに一つなのです。この呼び名は比較的最近のようです。戦前はさいさい行けましたし、長期滞在できたわけで、それで分からないのに、私がちょっと行ったくらいではだめだろうと半ば以上あきらめておったわけです。ところが、百聞は一見にしかずといいますか、私には判明したと感じて帰ってきたわけでございます。
この時、集安県の博物館の副館長の耿(こう)さんにお会いしました。黒眼鏡をかけておられ、はじめは、我々を見張っているのではないかなどと失礼な印象をもったのですが、実は非常にすぐれた考古学者でございます。お年は三十代後半くらいの方ですが、お別れする時「あなたはきっと将来世界最高級の考古学者になられると思います。世界の人達はそういう形であなたを知るようになるでしょう。ぜひ頑張って下さい。」といいました。お世辞じゃなく本当にそう思いました。おっしゃることや、示される判断、学問的物の見方等いずれも優れた方だ、若いけれど優れた素質をもった方だ、こういうふうに感じられたわけです。
幾多の点で、私と意見の一致をみたわけです。中国にもこういう研究者がいるんだなあという感銘を深くしたわけでございます。八月にもまた好太王碑に参ります。又耿さんとお会いして、その後考えた懸案をお話できることを楽しみにしておるわけでございます。ですから旅行は物を見るだけでなく、人にも会うことである、ということを感じました。
さて、将軍塚は、私の『失われた九州王朝』にも写真が載り、酒匂中尉が入り内部を実測したという古墳です。完全に積石塚でございます。太王陵の方はお碗をふせた形にみえていますが、将軍塚と同じ積石塚であったようです。それの“くずれ”を今我々は見ていることのようでございます。
この将軍塚は一体何物であるかということで耿さんと話し合いましたら意見は一致しました。一番可能性のあるものとしては長寿王。好太王の子供で、好太王碑を建てた長寿王がピョンヤンに進出し都を作った。その彼が元の高句麗の墓地に墓を作ったと考えるのが一番可能性が高い。断定ではありませんが、可能性が高いということで意見が一致しました。太王陵について耿さんは、好太王の墓であると述べられるわけです。出土物その他から述べられるわけです。私は、私の立場から太王陵が正確に南面している、そうするとこの石碑の中で好太王は天子の位置におかれている。つまり中国の天子はこの碑文にでてこなくて、高句麗の王がでてきて皆天子の用語を使っている。例えば、天子が死ぬことを「薨去」とか、位につくこと「登祚」等、みな天子用語を使っているわけです。そして天子は南面するという比定で好太王碑が書かれている。
二つの中で正確に南面するのは太王陵だけなのです。将軍塚はかなり西南を向いています。他にも幾つも古墳を見ましたが、正確に南面していない。そして内部を見ましたが実に見事なもので幾つも龍がでてきました。しかし石碑にもでている黄龍、天子を表す龍は避けているやり方をしている。好太王は自らを天子の場に立って年号を称した。長寿王は南北両中国に貢物を送り、両方から将軍の称号を貰っています。案外、将軍塚というのはまさに「将軍」ではないかと、心秘かに思ったのです。ともあれ長寿王は自らを天子の位置においていない。また、好太王の前、国内城という所から瓦がでてきます。中国の年号を刻んだ瓦がでてきます。ということは中国の家来、臣下である立場をとっている。これに反し、好太王は珍しく自らを天子の位置においた高句麗の王者なのです。だから太王陵だけが正確に南面している、すぐ近くにあるということも含めまして、好太王の墓は太王陵である。ここから太王陵云々という言葉を含んだ碑もでております。
ということで、知りたいけれど無理だろうなあと思っていたテーマが、意外に答えをうることができたのは望外の喜びでございました。 
国内城探索
もう一つ申しあげたいのは国内城に関する問題でございます。
国内城の近くにわたしたちの泊ったホテルがあります。高句麗時代の壁がちゃんと残っていまして、わたしたちは見ることができたわけです。ところが一月に来日しました賈(か)さんが報告されましたのが注目をひきました。それは国内城の土塁がでてきたが、どうも漢の時代の土塁である。そこからヒントをえて調べてみると、国崗(こっこう)とよばれる丘陵地帯の中に、一万二千くらいの墓がある。たしかに、いたるところにポコポコ丸い古墳が連なっていました。高句麗の墓といわれていたのだが、調べてみると漢代の墓もかなりあった。渤海の“家族全員が一つの墓に入る”という墓(高句麗より後)もあったという報告が賈さんからありました。
その時、私はそれはそうであろう。第一代のときは桓仁(高句麗の古墳がとりまいている)辺にいた。第二代の時に南下して集安県に入ってきた。長寿王の時までここに都を置いていた。長寿王はピョンヤンに南下したというわけです。
とすると高句麗がきた時は当然先住民がいたわけです。もちろん、その時は漢の支配下の所に行ったんです。じゃ漢は“最初からここの支配者”とはどうも考えにくいですね。当然、漢も外部からやってきたのです。漢の入る前は無人地帯だったとは考えられない。やっぱりもともとの住民がいたのではないかという推測をもったわけです。
賈さんは“高句麗の墓だといってましたが、もとは漢でありました。”と。中国としてはそういうことをいいたい感じでしたけれど。ところが私の方からみると、その漢の前はどうでしたでしょうかという感じだったのです。
この点も今回、面白いヒントがえられたわけです。東台(抬)子遺跡の瓦がかなり博物館に展示してありました。そこに「土地神」が祭られている模型図がおかれてありました。これに私は注目したわけです。この「土地神」こそ、高句麗以前、おそらく漢がくる以前の神ではないか。つまり原住民達の神ではないか、というふうに考えたのです。
なお、土地の状況について申します。この集安県という所は、実にいい所なのです。土利川さんから散々聞かされていたのですが、行ってみたら、おっしやったとおりでした。朝鮮より北なので寒いという感じがしますが暖かいのです。山でさえぎられて風が吹かない。しかも水が豊富で米がおいしい。人間が住むために実に適した土地であるなあという感じを持ちました。変な喩えですが、大和盆地の中に利根川が流れているというような感じをもったんです。利根川よりずーっと大きいですけれど。
それに考えてみますと、西の渤海に舟で出撃しようと思うとすぐできるわけです。川は上流から下流に行くのは楽ですから。渤海の方から敵が攻めてこようとするとむつかしいです。川を下流から上流にのぼるのは大変ですから。そういうことから考えましても、この集安県に目をつけた好太王に感服したわけでございます。
今度行けなかった所ですが、国内城の奥に、丸都山城(がんとさんじょう)がございます。ここも整備ができてないというので行けなかったのです。三方を山の頂に囲まれた台地があって、一方に壁を作って丸都山城と称している。つまり、これは国内城とワンペアの装置なんです。つまり逃げ城です。この地は敵が攻めにくい所ではありますけれど、敵が入ってきた時の為に二重安全装置になっているわけです。このスタイル、二重安全装置(逃げ城)を百済も新羅ももっていることは有名です。
こういう二重安全装置の都の形式を、日本列島でもっているものが太宰府です。太宰府はその後ろの大野城、基山、そういうものとワンセットで太宰府ができているわけです。いずれも、“都の装置”であります、高句麗の都や、百済の“都の装置”であります。なによりも“壮大な逃げ城をもつ都”のスタイルです。
そうすると、こういう東アジアの都の条件をもっているのが太宰府である、ということです。大和、あるいは近江では、高安城というものはありますがとても今のような性格には達しないもののようであります。これはまだ現地に行っていないので、皆さんが、もし行ける段階になっていらっしゃったなら、見落さず御覧いただきたいものです。 
角觝塚・舞踊塚にはじめて入る
それから壁画古墳、角觝(かくてい)塚古墳、舞踊塚古墳等を見せてもらいました。いずれも古墳の中に入りますと壁画がよく見えました。電線でライトが入っておりました。上も下も全面に絵がビッシリと画かれておりました。色も鮮明で支配階級や庶民や、いろんな生活がえがかれているわけです。写真を撮ることを許されなかったのですが、写真化して研究すれば高句麗におけるさまざまな局面が明らかになるんではないかと思いました。恐らく、これは中国側で研究し、写真化して本に発表したいということではないかと推察しております。
相撲を取っている図が入っているから角觝(かくてい)塚、女の人が美しく踊っている図があるから舞踊塚とこう呼ばれております。もう一つ、洞匂*(とうこう)古墳群の一つも見ました。竜等が見事に画かれた古墳も目で十二分に見てまいりました。
洞匂*(とうこう)の匂*(こう)は、さんずいに匂。ユニコード番号6C9F
なお、先程私が申しておりました、高句麗の南下、それ以前は漢の文明の東浸。この漢の文明以前に、私は文明があったと思うのです。この文明が恐らく「土地神」にかかわるものであろう。この「土地神」にかかわる文明遺構というものは、禹山(うざん日本でいえば神奈備山にあたる美しい山)の麓の墓地としての国崗(こっこう)信仰、国内城の「国内」というのもそれにかかわる古い呼び名ではなかろうかと思うのです。あれだけの狭い所ですから、ただ高句麗全体の「国内」ということではないでしょう。
ということで、高句麗以前、漢以前の文明はいかなるものであったろうか、非常に興味あるところです。
以上のような具合で、集安県で多くの収穫を得て去ることができました。
集安をでまして、もう一つの目的に私達の心は輝いておりました。王健群さんにお会いし、忌憚ない意見を交しあうことです。 
王健群氏との対談
最初は王さんの挨拶で始まったのですが、東大の新聞研究所の論文でという言い方で“中国は好太王碑を独占しようとしている、けしからん”と書いてあるが、大変心外です。そんなことはありません。中国の主権に対する侵害ですという強い言葉があったわけです。私はその新聞を見ておりませんので、帰って執筆者ないし編集者に、御主旨を正確に伝えますということでとどめたわけです。もっと正確に聞けばよかったのですが、肝心なことに時間が足りなくなると思ったのですぐ次に話を移していったわけです。ところが帰ってきて調べたのですがいまだに分らないのです。東大新聞研究所の方にも調べていただき、東京大学新聞、東京大学新報等に問い合せてみたけれど、それに当るものが無いのでとまどっておるのです。
次に私の方から問いたかった点についてたずねたのです。王さんの本の中に私の『失われた九州王朝』を引用しておられるのです。ところが、どうも九州王朝という概念が王さんの論旨にはないのです。つまり、“大和朝廷か海賊か”という二者択一の形で議論が進んでいる。すると私の本を引用しておられるが、読んでおられないのではないかという、かなり確信に近い疑いを持っておった。それを問いましたところ、やっぱりそうで「読んでいない」ということでした。孫引用だったのです。
又、一九七三年、東大『史学雑誌』に書いた、わたしの書評論文の内容を御自分の本に何ぺージにもわたって引用されておりますので読んでおられると思っていたのです。しかし、この論文で酒匂の持って帰った拓本の第三面の大幅な貼り誤りや、第四面最終字の「之」が、最終行先頭に移してある等から酒匂は、自ら意図的な改竄をしたという人物にはあたりえない、その証拠であると詳しく論じたのを、同じ様に王さんは自分でみつけたように論じてある。おかしいと思ってお聞きしたら、「実は読んでいません。佐伯有清さんの『研究史広開土王碑』(吉川弘文館)の孫引用です。だからあなたの本はまだ見ていません。」ということで、それ以上いろいろいう元気を失ったわけです。孫引用なら孫引用と書いておくものだと思いますが、「今後は、私がすでに述べているという形で御引用下さい」と申しました。「わかりました」ということでした。 
倭とは何か
次はいわゆる本題、海賊説の問題です。王さんが本の前半で改竄ではないと強調されました。これは、私と同一意見です。ところが後半で、「倭」は倭国や倭王ではなく海賊である、海賊の一味であるということを強調しておられるわけです。これに対して、私は質問をしたかったわけです。
第一の論点は、後代たる明代の倭冠で、同時代史料たる好太王碑の「倭」を判読することは、歴史学の基本ルールの違反ではないかということです。王さんはこれに対して、「それはその通りだ。しかし、私はそうではなくて、碑文中に倭に対し好太王が五万の軍をもって交戦したことが書かれている。だから五万の軍で海賊と戦うのはおかしいという意見があった。ところが明代の倭冠に対し三十万、四十万の人間(これは明朝側の軍隊の数ではないかと思いました)、そういうのがでている。だけど海賊である。五万で戦うから、その相手は海賊ではありえないという考え方は成り立ちえない、ということのためにいったので、後代の史料で早い時代の史料を判断していいという立場ではないんだ」という返答をされたのです。
私は「分りました。それじゃあ歴史学のルールに従って、先行史料で、好太王碑に先立つ史料に依って考えて見ましょう。それは一世紀あまり前の『三国志』である。これは三世紀の同時代史料である。ここには、『呉賊』、『呉が冠する』という形で書かれている。これはいずれも孫権(呉)の正規軍のことを指している。魏の立場からみて孫権の軍を呉賊と呼び呉冠と呼んでいるのです。魏の大義名分からみて冠であり賊である。“呉の立場からみると呉の正規軍”というのが『三国志』の用法である。こういう『三国志』の先例に依って、一世紀後の同時代史料好太王碑を解釈するのが、歴史学のルールではないか。
すると好太王碑に出てくる倭冠、倭賊というのは倭国の正規軍である。高句麗の大義名分からみれば倭冠であり倭賊であるというふうに理解すべきであると思いますがどうでしょう。」と聞いたわけです。すると、王さんは「ただ賊とか冠とかの言葉にかかずらわって、海賊と判断したわけではありません。当時の状況からみて、倭を海賊と判断したわけであります。」という返答だったわけです。
これでは、私の方では不満足な答えだったのですが、すぐ次の問いに入ったわけです。「『三国志」に高句麗がでてくるのですが、毋宮倹(かんきゅうけん)という王(高句麗王)が中国と戦った時のことを『冠」と表現している。高句麗王の軍隊ですから正規軍である。しかし中国からみれば『冠』である。対立国の正規軍を『冠』と呼んでいる。すると高句麗が『冠』と呼ぶのは倭国の正規軍、とみるのが筋ではないか」というのが一つ。これは文献です。
さらに同時代史料の王者としての金石文をみてみたい。「毋宮倹という魏の将軍が、高句麗に攻め入って(連戦連勝みたいな感じだったようです)日本海岸まで突き抜けた。そして、そこで紀功碑を作り、その残碑が遼寧省の博物館に残っている。その残碑に四回も『冠」という字がでてきていて、四回共高句麗王の正規軍を『冠』と呼んでいる。しかも大事な点は、好太王碑の石碑が建つ百年前に、同じ高句麗に建っていた、先行する金石史料である。後世の我々が好太王碑を読む場合、ただ後世の人間の勝手で読んではいけない。一番近い(空間的にも、時間的にも)金石文がこの毋宮倹の紀功碑なわけです。ところがそこにでてくる『冠』は、高句麗の正規軍を指しているわけです。別の目でみれば中国が侵入軍といえるのですが、中国側では、高句麗が『冠』したから高句麗という『冠』を討伐したのだという立場を碑にしているのです。だから、直前の金石文に依って好太王碑を理解するのが正しい態度だと思う。それによれば好太王碑にでてくる冠は倭国の正規軍と理解するのが金石文理解の正しい道だと思いますが、どうですか。」といったのです。
これに対しても、王さんは直接の御回答はなく、「当時倭国はいろいろ国が別れていたと思います。その別れた中で高句麗に来たのは海賊であるという判断を我々はもちました。」というふうな御返答でございます。
さらに私は、「この碑文について大事なことがあると思います。『孟子』の文章に基づいてこの碑文はできていると私は考えます。『四書五経』に、もう一つバックはあるのです。『孟子」で大義名分にそむくものを『残賊』とよんでいる。“こそ泥”とか、“物を盗みにくる連中”という意味ではない。『百残』、『倭賊』という言葉を使っているのは、石碑を作った人は『孟子』を読んでいるからです。高句麗中心の大義名分、正義、信義にそむく者であるという立場から、百残、倭賊と表わした。百残は『百済の国』と考え、倭賊は『泥棒の類』と考えるのは、典拠に合っていないのではないか」といったわけです。
これに対しても直接の御返答ではなく、「我々は大和朝廷が日本列島を統一していたという考えがあることを知っています。そういう考えには私は反対です。」この時、えらいはっきり反対ですという言葉がでましたね。「幾つもの国家に別れていてその一つの中での海賊がやってきたと、我々は判断しました」というお答えでした。
(中略)
王さんが志賀島の金印の話をだされ、「これをいいますと中国の天子の臣下であったということをいわないといけなくなりますので、こういうことには触れないほうがいいと思います」ということをいわれたわけです。 
王健群氏との対談を終えて
この晩、北京に向う夜汽車の中でこれをふと思いだしました。読売シンポジュウムで海賊論がでたとき、王さんが同じく、「もし志賀島の金印の話をだしたりしますと、倭国王は中国の臣下であったといわなくてはなりません。これは国際友誼上まずいと思いますのでいわないほうがいい」と言われた。いわれる時一種、変な笑い気味の「言わんほうがいいでしょう」という特殊な表現で言われたのと同じだったな、と思いだしたのです。
王さんとの会見の時は、「日本では歴史上の事件として、中国の臣下だと皆思っています」というストレートな直球で返答したのです。しかし、何故あんなことを何時もいいだされるのだろうか、ということが気になりだして電車の中でうつうつと考えました。王さんは『好太王碑の研究』の前半で「実事求是」(事実をそのままあきらかにする。歴史は客観的事実が大事である)を強調しておられる。だから、「日本の軍国主義を批判するのは大事だけれど、改竄の有無はそれとは別個に考えなければいけない、」と書いておられる。これに、私も大賛成なのです。
ところが、先程の王さんの話では「実事求是」以外の、国際理解、国際友誼みたいなものがでてきているのです。“好太王碑にでてくる倭が、しょっちゅう高句麗に負けている。これは倭国や倭王と関係ないのだ。倭国の海賊だ。どの世にも悪いやつはいる。そういう心掛けの悪い者が何回も負けたのだとしておけば面子が立つではないか。”そういう意味ではなかったのかな。こうなるとおかしいじゃないか。後で気が付いてもしょうがないのですが、こう思いながら夜汽車で朝を迎えたのです。
こういう立場にたつなら、“この間の戦争は日本帝国の軍隊や、天皇の軍隊ではなく、心掛けの悪い山賊や海賊が行ったのだとしとけば互いに面子がたつ”という言いかたもできますわね。これでは自己反省も自己批判もないわけです。やはり「実事求是」、自分にとっていやな実事であればなおさら「実事求是」が大事だと私は思います。これをしてこそ本当の国際理解は開ける、と私は思ったわけです。
もう一ついっておきます。読売シンポジュウムでもいっておられたのですが、「我々の結論は私一人の考えではありません。皆の討議を経た結論です」ということをいっておられたのです。だから、討議の中で“海賊としておけば現在の日中友好の上からもいいのではないか”という話し合いがでたんではないか、と推察ですが、思ったのです。
お会いすると、思いがけない話にぶつかるものです。しかし、私はいかなる権威いかなる事情、何があろうとも一切かかわらず事実を事実として真実を真実としてみつけるのが、イロハのイの字であって最終の日までそうであるということでございます。
私はそういう立場で臨んだつもりであります。王さんのストレートな返答は返ってきたとはいえないけれど、こちらのもっている学問に対する姿勢、考え方は王さんに届いたのではなかろうかと思います。王さんに、“あんなヤツがおるんだなあ”と思っていただけたら幸せです。
会見の最後に、お互い年も同じ位だから百才まで生きて討論を続けましょうといって握手しました。外のバスの所まで出てきて手を振って送ってくれました。あたたかい、なつかしい、いい雰囲気で最後はお別れできたことをよかったと私は思っています。
ともかく一月十五日の講演会「中国の好太王碑研究の意義と問題点ーー王健群氏に問う」で申しましたように、鉄山、鉄を求めての高句麗と倭国の戦いであったというのが、私の仮説ですが恐らく間違いないのではないか、こう考えたのです。 
好太王碑の最終目的
さらに今回、これに関連して面白い事件をみいだしたわけです。第四面最終行です。「又制守墓人自今以後不得更相轉賣雖有富足之者亦不得壇買其有違令賣者刑之買人制令守墓之」。墓を守るルールを書いた。これがこの石碑を作った大きな最終目的なのです。ところが、最後にいっておくがこの制令に対して、この土地を売ったり買ったりしてはいけない。もしこれに違(たが)って売ったり買ったりしたら、売る者に対して処罰する、買ったものに対しては従前通り墓を守らせる。アンバランスですね。売り買いしてはいかんといっているのですから、売り買いしたら両者を処罰するといえばスッキリする。ところが、売る方は処罰するけれど買う方は今まで通り墓を守れよと、大変買う方に遠慮した文面なのです。つまり買う者、富有る者に遠慮した文面なのです。
これは何故か?今までこの問題はだされたことがないと思います。これについて『三国志』に思い当る文章があると思います。『三国志』によると高句麗は五つの部族がある。その中で涓奴(けんど)部から王をだすことになっていた。ところが現在は桂婁部から王をだすことに変った。しかし元の涓奴部は王の格式だけは認められている(『古代は輝いていたI』第四章、物証論、伊都国の秘密)。何故王家のでる部族は変ったのかという説明はないわけです。これに対して私は一つの仮説を考えました。涓奴部は本来王をだす一番中心の部族だったと思うのです。何で桂婁部に変ったか。新たな支配者が外から入ってきたとは書かれていません。すると、ここに大きな経済変動があったのではないか。桂婁部がのしあがったのは“富を獲得する”という経済実力によって涓奴部をオーバーする力が既成事実化して、これをバックに桂婁部に王の継承権が移るということがおこったのではないか。いろんな具体的ないきさつはあったと思いますが、大きくみればこうではないかと考えてみたわけです。何故、富ある新興部族が出現するようになったか?当然鉄ですね。第二代の時、通化あたりから集安県あたりに南下してきて、密集した鉄山を押えたわけです。鉄は非常に重要な経済価値をもっている。『三国志』韓伝では韓・穢・倭は鉄を通貨の替りに使っているのですから。韓・穢・倭に鉄をもっていけば、何でも買えるわけです。中国はもちろん鉄中心の文明になっていますから、中国にもっていってもいいわけです。鉄をバックにして大いに富を稼ぐ部族が存在したのではないか。それが桂婁部ではないか。もちろん鉄だけとはいいません、馬があったりしてもいいのです。しかし鉄も重要な財貨であった。その結果、通化から南下してくることによって、高句麗全体としては強くなったけれど、強くなった代償として中心点の変動があった。好太王は当然桂婁部出身です。富ある新興王家の出身である。だから富ある人々には頭があがらない。それがこの文面になっているのではないか。断定はできませんが、そういう仮説、鉄による新しい富の形成、それによる階層や部族の変遷という概念をもってすれば、一連の動きがスムースに理解できるのではないかと私は思うわけです。
長春の博物館で高句麗の初期の王墓からでてきた出土品が展示されておりました。一世紀、二世紀、三世紀、あるいはもう少し古い段階の見事な鉄製品がならんでおりました。高句麗は一、二、三、四世紀と成熟した鉄文明を出現させつつあったということを、現地にいって知ることができました。
申しあげたい事はつきませんが、この問題についてこの辺で終らせていただきます。
質問 / 王さんは倭はどこの倭とお考えなんでしょうか。
古田 / その点について王さんは北九州近辺の倭と思います。北九州関係の勢力の争いだという認識に立って海盗と考えましたということでした。私の解釈では、王さんの頭には大和朝廷か、海賊かという、二者択一。北九州には大和朝廷はないのだから海賊だという、二者択一の論法のようでありますね。
質問 / 「国岡」というのは、好太王碑のあるあたりを指しているのですか。
古田 / そうです。好太王の名前にある国岡上(国岡のほとり)は禹山の麓の国岡のことでございます。国岡はどういう意味かについて、現地で山田さん等と興味をもったのですが、どうも高句麗という「国」とは思えない。あれだけが高句麗の「国の崗」というのは、変です。又、「国内」城、高句麗の“国の内側の城”というのもおかしいので、あの「国」の概念は高句麗国家の「国」ではなくて、高句麗等が南下する前からある「国」や「国崗」という名前ではなかろうか。禹山(如山)信仰、神奈備山信仰に対応した「国崗」であり、「国内」城ではなかろうか。これは分りませんが、そういう疑問をもったのです。今後の課題でございます。
とにかく、現地で国岡と呼ばれている所は禹山の麓の丘陵部であることは間違いのないこと。石碑にでてくる国岡がまさにこれであることは疑いございません。
司会 / 長年にわたる好太王碑を見るという希望をかなえていただいたのは皆様のお力です。とりわけ土利川さんにはお力添えいただきました。又、古田氏の本を読まれた読者の方の熱意がそれを支えたと思います。古田氏が永年力をそそがれました論証を私達は目の前で実際にみることができました。これは大きな喜びです。
古田 / 長時間にわたってお聞きいただきましたが、まだこの時間内では問題を十分に言いつくすことはできません。アウトラインをお聞きいただいたわけです。
私としましては、十三年来の李さんとの論争は一つの結着をみたということがなんといっても大きな感慨でございます。こういう問題は感情等他の要素をまじえずに、「実事求是」、実証主義に徹底するというのが正しかったという思いをつくづくかみしめるわけでございます。
同時に王健群さんとの海賊説問題も同様の立場で実証によって海賊であると証明されれば喜んで従うけれど、それが無ければ従うことができない。ということで友好的雰囲気の中で厳しく討論していきたいと思っているわけです。
今日、講演ではだせませんでしたが、倭の正体、つまり倭が倭国であり倭王の正規軍であるということは王さんに論証を述べたのです。が、倭国と倭王とは何者か?日本列島の何者か?ということについては時間がなかったので質問できなかったわけです。ここで簡単に言わせていただきます。第一面にいきなり「倭以辛卯年・・・」がでてくる。これはいきなりでてくることに意味がある。つまり、石碑を作り読んだ人達のお祖父さんお父さんの時代から、『倭」といえば○○だと東アジアの世界では常識化していたんだ。常識化していた倭とは『三国志』に現れた倭である。卑弥呼の倭国の中心点をつきとめることは、好太王碑の倭の首都をつきとめることにほかならないというテーマがあるわけです。
李さんの改竄説の時は私に書評を書けといってこられて私は驚いたのです。どうして井上光貞さん等じゃなくて、私のところなんだろうとビックリしたのです。ところが、改竄説が駄目になった時点では、私の方は“お呼びでない”という感じです。悪くとれば、李さんとの対決に利用したんだととれる。これでは駄目なんです。
碑文の倭が、本当に大和朝廷(最近は大和を中心とする倭国連合)なのか、私のいう九州王朝なのかという論証を真剣にするべきだと思う。
幸い、出雲(島根県斐川町、七月二十八日)でシンポジュウム(「銅剣三五八本の謎に追る古代出雲のロマンを求めて」)が開かれ、初めてシンポジュウムに出させてもらいます。今まで話はあってもいつもつぶれておったのです。大和中心の水野正好さん等と討論をするので非常に楽しみにしているのです。出雲のシンポジュウムもいいのですが、好太王碑の倭が果して何者か?大和中心の倭か、そうでないのかのシンポジュウムを本気でするところへいかないといけないと私は思っているわけでございます。
なる程そうだとお感じでございましたら、今後そういう方向で御支援いただければ有難いと思います。
先程、藤田さんがおっしゃったように、今のこの状態にいたりましたのは、本当に皆様の長い間の御支援の賜物であると思います。この御支援の上に土利川さんのような方にもお目にかかれたということだと思います。
また、好太王碑の拓本を持ちいただいた読売テレビさんには、映像を持って好太王碑を見せていただくのを一日千秋の思いで待ち望んでおります。御発表よろしくお願いいたします。以上、私の本日の挨拶にかえさせていただきます(拍手)。
司会 / 会場に土利川さんがいらしてますので一言御挨拶をお願します。
土利川 / 土利川です。二年程前に皆様の前で御挨拶したことがあるのですが、私の証言が、このたび好太王碑視察調査団の二十名の方の証言で事実だったと、皆様の前で明らかになったことを非常に嬉しく思っています。
郭沫若先生が早稲田に学ばれ、中国の第三次内戦の時期にあっても好太王碑と付近の古墳群を戦争の外に置いて大事にしたというのは貴重な存在だったと思います。
また、私は中国と日本が仲良くして、好太王碑や古墳群内部をテレビその他の報道機関を通じて見られたら、いかに立派なものかお分りいただけると思います。日本の高松塚等の内部を見ることは困難ですが、中国は行けば見学できますから、でかけられて御覧になることを期待しております。簡単でございますが御挨拶させていただきました。 
 
好太王碑の新たな論争点 / 倭の正体と守墓人制度について

 

一、はじめに / 王健群『好太王碑の研究』の意義と間題点
私達は長年、好太王碑の現地調査を念願していた。好太王碑は中国と北朝鮮の国境にあるため、戦後の長きにわたって日本人研究者が調査に行くことは阻まれていた。それ故、中国側が好太王碑の現地調査をまとめた研究論文、吉林省文物考古研究所所長王健群氏の「好太王碑の発見と拓本(1)」が発表されたことを知ってたいへん喜んだ。私達は中国大使館のみならず、中国・北京の国家文物管理局や吉林省文物管理局にまで行って直接交渉していたが、現地調査は許可されず、待機させられていたから、碑の現状をどうしても正確に知りたいという思いが、禁止されればされるだけつのっていた。
王論文は、約三カ月にわたった現地調査を踏まえて、李進煕氏の提起する「好太王碑改削説」の検証をした結果、所謂改削説は成立しないことを明らかにし、更に李説は何故に成立しないかという根拠にふれ、その原因を拓工による誤鉤にありと結論づけ、かつ拓工父子を初天富(一八四七年ーー一九一八年)、初均徳(一八六五年?ーー一九四六年)であると具体的に割りだした画期的な研究である。
王論文は好太王碑改削論争の決着をもたらした。周知のように李進煕氏の改削説に対して古田武彦氏の改削説への批判(2)以来、史学界で白熱した論争となり、現地調査による決着が望まれていたのである。古田説は酒匂双鉤加墨本を双鉤したのは清朝の拓工であるとし、酒匂による意図的な改削ではないとしていた。王論文は古田説を追認し、李仮説は間違っていると決着させた(詳細は拙論「好太王碑論争の決着中国側現地調査・王論文の意義と古田説について」『市民の古代』第六集を参照されたい)。
王健群氏は『好太王碑の研究(3)』(一九八四年八月、吉林出版。翻訳は十二月、雄渾社)によって一層詳細に実地調査の成果をもとに自説を展開され、本年一月には日本でおこなわれたシンポジウム(4)に出席され「倭は海賊」であるという説を発表された。
私達は王健群氏の論文、著書の画期的な意義を認めかつその問題点について議論を深めるために「中国の好太王碑研究の意義と問題点ーー王健群氏に問う」と題して公開討論会を呼びかけた。(5)来日しておられた王健群氏に招待状を差し出し、また、中国大使館、出版社等を通じて対談を望んだが、諸般の事情で残念ながら実現できなかった。
本年三月二十三日から四月二日まで、東方史学会主催(古田武彦氏会長)の中国好太王碑訪中団を私達は組織し、好太王碑を日本人研究者の団としては従来になく長く(四泊五日間)現地に調査をした。また、三月三十日に長春、吉林省博物館において王健群氏と対談を行ない、白熱した討議をすることができた(詳細は本誌の「王健群氏との対談会」を参照されたいインターネット上ではなし、見出しのみ)。
雪降る好太王碑から、サクラの咲く日本に帰国するや「春蘭乍放、又聆清音」(春蘭が咲きほころぶとともにすがすがしい声に接し)という文章から始まる王健群氏が私にあてた手紙をうけとった。(6)この手紙は好太王碑に関する対談を呼びかけ、更に王氏の『好太王碑の研究』に対する私の批判に応えた丁寧な返事であった。事実求是を主張しておられる王氏らしく、誤りは誤りとして率直に認められていた。
『好太王碑の研究』は三カ月にわたる貴重なる現地調査を基に、好太王碑研究史上新しい画期を切り開いた労作であることは疑い得ない。待望した論文であるだけに、これを熱読し徹底的な分析を加えた結果、次の間題点が幾個所もあることが判明した(解釈上の視点の違いや見解の相違は除く)。
一、先行学説を解読する上での誤解(五カ所)。二、王氏の判読した碑文について従来の解読と比較すると、王氏が把握する論争点の間違い(十七カ所)。三、王論文と彼自身が作成した研究史年表とのくい違い(六カ所)。
以上、二十八ヵ所、具体的に根拠をあげた一つ一つの指摘に対して、王氏は約三分の二近い部分について誤りを認められ、「たしかに先生のご指摘のとおりで、再版時に改めたいと存じます」と返事され、更にご自身が最近気づかれた一カ所を誤りと認められ(私の指摘以外に)、私に教えて下さった。誤りを指摘した者に対して明確に応えるだけでなく、自ら自己の誤りを見つけ徹底しておられる態度に私は感銘を受けた。(7)
長春でお会いした時には、病気はすっかり治っておられ、非常にお元気な様子であった。改削説否定後、好太王碑に関する研究は新たな出発点、地平に到達した。現地調査を踏まえた議論ができるようになった今日において、実事求是の精神に基づき新たな問題を提起したい。 
二、好太王碑にあらわされた倭とは何か
従来、好太王碑が日本の歴史において非常に重視されてきた理由は、碑文中に「倭」が存在し、四〜五世紀の高句麗から見た東アジア諸国(新羅、百済、倭等)の国際的な関係が記されてあるからに他ならない。
碑文は、戦後の「科学的」歴史学を通じて、古代日本の政権関係と古代日朝関係史を考察する際の最大の物的証拠を提供し、一級金石資料であることは疑い得ない。
王氏は現地調査を経て、倭の出現を碑文中「十一ヵ所」も摘出しておられる。私達は現地でくり返し視察、調査をしたが、「八ヵ所」までは明確に確認し、従来説の「九ヵ所」と推定はできるが、どうしても「十一ヵ所」までを認めることはできない(詳細は本誌の「東方史学会好太王碑訪中団の報告」を参照)。
しかしこの点については、更に時間をかけて確認すればよいと考えるので、当面の問題は倭をどう把握すべきかという問題に的を絞る。
王氏は『好太王碑の研究」において倭=海賊説を提起され、日本におけるシンポジウムや中国・長春における私達との対談会の時の最大の論争点となったが、既に一九八二年の『学習と探索』において次のように提起しておられた。
「歴史からみれば、当時の倭は統一政権を形成してなかった。倭が百済と新羅を侵略したというのは、これは北九州一帯の掠奪者が、群をなして隊を組み、海盗(海賊ー引用者)の方法で朝鮮半島南部に進入し、人を殺して物を奪った、ということにすぎない。」(傍点は引用者、インターネット上では赤字)
王氏のこの「倭」=「海賊」説は、通説の倭=大和政権説とも異なり、新鮮な説であるかのように受けとめられている。が、果してそうであるだろうか。すべての学説は、先行学説を自己の生みの親として持っており、あらゆる意味において時代の子(へーゲル)である。生みの親から離れて、全く単独で独創的な生命が誕生することはあり得ない。王氏の海賊説も生みの親をもっているが、何故か自らその事を明らかにしていない。
一九六三年、金錫亨(キムソクヒョン)氏は朝鮮民主主義人民共和国社会科学院院長として、戦後の外国人研究者としてはじめて好太王碑の学術調査をおこなった。金氏の碑文解釈は、一九六九年『古代朝日関係史ーー大和政権と任那』として翻訳、出版された。
「〔第六〕(永楽十四年項を意味しているーー引用者注)では、対倭の戦勝を強調しているが、百済の出陣もないこの戦いがさほど大きかったとは考えられない。ただ『不軌(き)』にもどろぼうのように攻め込んできたのであって、おそらく船で海賊のように襲いかかり無数の死体を残して逃げていったような比較的小規模の襲来を、碑文では誇張しているものと思われる」(同書三七六頁、傍点は引用者、インターネット上では赤字)
金氏は倭軍を海賊のようにとらえており、この倭は北九州一帯で三、四地域に別れて分布する古墳群の主人公とみなしている。この視点から、金氏は従来の日本の通説となっていた大和統一政権説を鋭く批判していたのであった。戦後の歴史学界において、「天皇主義」を払拭したはずの学者達が、考古学という科学的成果にもとづいて日本古代史を再構成したのであるが、なお近畿大和中心史観にとらわれ、四世紀の全国統一の物的証拠として好太王碑に現われた「倭」を利用していた。金氏はこの近畿大和中心史観に対して、全く逆転させて、「日本列島内において三韓以来三国に至るまで諸分国が実在した(8)」という日本列島内分国論を展開し、従来の日本人学者の朝鮮「植民地」論に対置させた。
このような状況の中から、好太王碑を見直し、再検討すべきであるという問題提起が李進煕氏に引きつがれ、周知のように好太王碑文改削説が生みだされるに至ったのである。李氏の主張も次のようである。
「事実、『三国史記』によりますと、『倭」が四世紀後半から五世紀にかけて新羅をしばしば襲っておりますが、それは波静かな五ー八月に集中しています。また、彼らは領土的支配をめざしているのではなくて、物質をかすめとって引きあげる海賊の集団にすぎませんでした。倭冦の場合は、潮と気象条件のよいときをえらんで行動しますから、植民地を維持するための兵の派遣とは質的にちがうわけであります。(9)」(傍点は引用者、インターネット上では赤字)
李氏の海賊説は『三国史記』を根拠とし、航海条件を考慮しながら倭冦と結びつけている。そして、金氏、李氏ともに朝鮮半島に対する倭の植民地支配を断じて認めないという点は全く同様である。
これらの先行学説に較べると王氏の海賊説は具体的根拠に欠け、またその分析も極めて脆弱である。王氏の議論は後世(十六世紀)の「倭冦」の例をもってきて古代を論じているが、これは明らかに論理飛躍である。
王氏の学問に対する姿勢は私も敬服する。古代の国家関係史を把握するのに、「実事求是の態度で共同研究しなければならない。歴史は客観的な存在であり、実事求是の態度をとり、真理に従いさえすれば、正しい結論をひき出せるのである(10)」との主張には全く同感である。
金氏、王氏、そして古田氏はいずれも倭を近畿天皇家とせず、当時の日本の国家を統一された単一の国家と見なしていない。三者はいずれも倭の勢力を北九州としている。では問題のキー・ポイントはどこにあるのだろうか。
「日本列島がまだ統一されていなかった四、五世紀では、国家関係が成立していたとは思えない(11)」と王氏の主張にあるように、「国家」という概念の把握に問題のポイントが存在する。このことは、王氏がどのような視点で従来の説に対したかを見ればよく解る。
「そこで、伝説と碑文を結びつけて、日本は当時すでに統一されていたと主張し、そうすることによって日本を国家として出現させ、任那日本府を定説化し、もともと誇張された言葉をさらに際限なく誇張したのだった。これは歴史を研究するものの良心に背くものである。」(傍点引用者、インターネット上では赤字『好太王碑の研究』一八四頁)
この点も既に先行説にあたる金氏の主張は次のようである。
「以上のような碑文解釈も他ならぬ彼ら日本人学者の立場と先入観から生じている。朝鮮といえばまず植民地と考え、倭といえば大和中心の統一国家と考えるのである。これはかつて日本帝国主義者が、古代日本の『大帝国』論を歴史的に証明しようとしていた論理体系の基本であった。破産したこの『大日本帝国』式の先入観に、今日も日本の歴史家たちは固執している。」(『古代朝日関係史ーー大和政権と任那』三七九頁)
王氏、金氏のいずれの見解も大和中心主義を批判する限りにおいては全く正しい。だが大和中心史観の歪みを正そうとされるあまり、当時の倭の過小評価、更に国家というものをどうとらえるかという点について矯小化してしまっている。統一大和政権以外に日本に国家がないという命題は、ほとんどの日本の歴史家とそれを根本的に批判しているはずの金氏、李氏、王氏らをも縛りつけ、同じ土俵上において国家をとらえさせている。
統一された国家でない限り、国家として認めないという立場をもし貫徹しようとするなら、当時の東アジアにおいて「国家」はどれ位存在するだろうか。中国の魏、呉、蜀のそれぞれも国家でなくなり、朝鮮の高句麗、百済、新羅もそれぞれが国家でないというのだろうか。表I(中国文献に表された国名表記)を見れば、中国文献は基本的に倭を高句麗や百済、新羅(しばしば記述が欠けている)と同様に国家、異民族集団と認めている。今日の国境や国家形態から古代の国家を論じることはできないのは自明だ。この倭を金氏も王氏も北九州と考えていることは正しい。では、どうして「海賊」というような把握をするのだろうか。北九州を中心にした九州王朝(古田武彦氏の提起)という概念把握に達せず、近畿天皇家以外国家がないととらえてしまっているが故に、国家の認知を受けない略奪者集団、即ち「海賊」となるのであろう。国家の認知した略奪者は、即ち侵略軍(正規軍)である。
碑文においては、倭に対してその侵略行為のゆえに「賊」とか「冦」と表現している。これは事実、倭は「海賊」であったから「賊」とか「冦」とか称したのではない。この問題について、古田武彦氏は中国文献を渉猟した上で、好太王碑に「倭冦」「倭賊」とあるからといって事実をそのように見なすべきではなくて、「正統の天子の支配に冦(あだ)なし、これを賊(そこ)なうもの」という「大義名分論」から冦、賊と表現したのであると分析している。(12)
金氏、王氏の主張される海賊説では、何故に他国を略奪するのかという肝要のポイントが分析できず、この認識では当時の東アジアの国家関係史をリアルにとらえることは到底できないであろう。高句麗の社会構造において支配階層が全人口中に占める比率の高さに比べて、生産性の低さが基本的に他国侵略の主な原因である(詳細は「守墓人の制度」に関連して後述)。「広開土境平安好太王」とは、百済や新羅という隣国からすれば侵略王であり、賊であって決して「好太王」(美称)などではないが、高句麗からすれば広開土境をしたよき王となるのである。
『三国史記』新羅本紀においては倭兵の状況をリアルにとらえている。
「(奈勿王九年=三九四年)夏四月、倭兵大いに至る。王、之を聞き、敵すべからざるを恐れ、草の偶人(人形)数千を造り、衣衣(衣を衣(き)て)兵(兵器)を持たしめ、吐含山の下に列立せしむ。勇士一千人を斧[山見]の東原に伏す。倭人、衆を恃(たの)んで直進す。」
[山見]は、JIS第三水準、ユニコード5CF4
この文章から物資をかすめとる海賊の類がどうしてイメージされよう。新羅、倭軍は敵対する国家関係として把握されない限り、新羅王が「倭兵大いに至る。王、之を聞き、敵すべからざるを恐れ」という表現は理解されない。海賊と把握するところから文献、金石文の示すところとが矛盾を生じる。倭国側の侵略史も自ら次のように上表文として中国の順帝に差し出していた。
「わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏みこえ、席の暖まる暇もなく戦ってきた。東方の毛人を征すること五十五国、西方の衆夷を服すること六十六国、海を渡って北方を平げること九十五国にのぼった。(中略)しかるに高〔句〕[馬鹿]は理不尽にも〔百済を〕併呑むしようと企て、辺隷(百済をいう)を抄掠し殺戮をやめようとしない。(中略)今は亡き父の済は、〔高句麗が〕入朝の海路を塞いでいるのを憤り、戦備を整えた百万にものぼる兵士たちも、義声をあげて感激し、大挙出征せんとしたが、その時、にわかに父(済)と兄とを喪い、まさに成就せんとしていた功も水泡に帰してしまった」(「『宋書』倭国伝」、『東アジア民族史1』井上秀雄他訳注、三百十二〜三頁)。
この記述も倭・百済対高句麗という関係を明らかにしており、倭は高句麗に勝利していない事実を、つまり高句麗側の好太王碑文にある「倭冦大潰」「残倭潰逃」「倭賊退」等の表記とよく合致している。倭王武は順帝から「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」を認められているが、ここに高句麗は当然のことながら記載されていない。「百万にものぼる兵士たち」は誇張があるとは言えども、倭国側の命令で兵士達が侵略している事実は、王氏の国の歴史書である中国の『宋書倭国伝』に、また金氏の国の歴史書である『三国史記』にハッキリと記載されており、海賊の類ではないことを何よりも雄弁に語っていたのである。 
三、好太王碑建立の目的 / 守墓人制度の確立について
好太王碑研究史上、王論文は画期的な意義をもつことは何人も疑えない。王論文の積極的な意義は、改削説の否定や倭=海賊説にあるだけではなくして、最も重要と思われるのは守墓人制度の観点から好太王碑をとりあげたことにある(学説史からは改削説否定は古田武彦氏によって既になされており、王論文は現地調査を踏まえた確認作業であったと言える)。
改削説に多くの学者達がかかわってきた反面、この問題については従来ほとんどとり扱われてこなかった。好太王碑はそもそも高句麗最盛期の長寿王が父の好太王の功績をたたえ、かつ守墓人の制を明確にするために建立したのであるから、従来の研究のように四面あるうちの第一面の第九行の「倭以辛卯年来渡海破百済□□新羅」という文字にのみ集中した感があるのは文字通り一面的であった。この点、王論文によって本格的で全面的な好太王碑研究の視点が切り開かれたといってよい。だが王氏はしばしば先行学説を無視ないしは誤読をしておられるのが目立つ。自らの説を展開する場合、どこまでも先行学説を正確に理解した上で、その先行学説の批判を行ない、確かな基盤の上で自説を展開しなければならないことは言うまでもない。彼は考古学者として、徹底的な実地調査をし、丁寧に仕事をすすめられた。だが、そこからどのように文献学上解釈をするかということとは別問題である。
守墓人とは、好太王碑の墓守り人のことであり、碑建立の根本的意義に属し、碑文にあるように守墓人の制を明確にすることにかかわる重要な問題である。碑文は「守墓戸国烟卅看烟三百都合三百卅家」とあり、国烟を三十家、看烟を三百家とし、合計三百三十家にしている。このことを明らかにするために、碑文の第三面から第四面の文字、即ち全体の約半分近くが費されているのである。国烟、看烟のそれぞれの碑文の出現個所とその出土地と数の分布は、表II(国烟・看烟の調査票)の通りである。
王氏は「これまでは判読に誤りがあったため、百年あまりのあいだ、諸家の統計した烟戸の数は、碑文に記された総数と合致しなかった。あるものはそれを碑文の脱落のせいにし、またあるものはその他の原因を強調したが、実際にはそのどちらでもないのである(13)」といわれ、国烟、看烟の碑文上明確にされた数と合致したのは百年来、王氏だけであると受けとれる。しかし、従来においても国烟については次の三点の資料は碑文の数に正しく合致していた(この点、既に私は次の論文で詳しく明らかにしている。「好太王碑研究の新視点ーー好太王碑改削説への反証」『市民の古代』第5集を参照されたい)。
一点目は朝鮮金石総覧の釈文(前間恭作氏)、二点目は水谷悌(てい)二郎氏の釈文(『書品』第一〇〇号)、そして三点目は、大東急記念文庫の双鉤加墨本(大阪府立茨木東高校地歴部復元釈文)である。
従って、研究史上では王氏の実地調査に基づく釈文は、四点目の正しい資料を提供されたこととなる。ところが、王氏は「水谷氏は、自らの解釈文にもとづいて統計すれば、碑文の合計数と符合するといっているが、それは間違いである。その他の研究者の解釈文によって統計しても、碑文に記載されている総数と符合するものはいまだかつてなかった(14)」といわれる。「水谷氏は第三面第十行第三十四字の『三』を『二』とみなし」と王氏は主張するが、これは王氏の全くの誤解であり、水谷釈文に明らかなように『三』と正しく考えておられる。大東急記念文庫拓本は中国にはないものであり、またたとえ同じものがあったとしても復原しなければ解読できない保存状態であるので王氏はご存知なかったことはやむを得ない。しかし、もともと正しい結論を引き出していた水谷釈文を誤読した上で批判するというのは大きな間違いである。
国烟の数が碑文で「三十」になるとハッキリ書かれているのに、従来どうしてさまざまな数に分かれていたのだろうか(例えば酒匂本「三十七」栄禧本「三十二」、羅振玉本「三十五」、劉承幹本「三十六」、末松保和本「三十一」等々)。この国烟の数を合わなくさせている最大のポイントは、碑文第三面第十四行三十九字目の字であり、この字がブラック・ボックスのようにさまざまな数を示していたからである。ちょうどこの文字は第三面から第四面につづく、スミ角のところにあり、早くから碑面に損傷を受けていた部分であった。したがって釈文のみならず、拓本、写真でさえ異なった数として検出されていたところである。王氏はこの問題について、「第三面第十四行第三十九字の『一」以前は『二』に解されたが誤りである(15)」といわれる。だが以前に「二」と解釈されてきたことなど、この百年間にもわたる碑文研究史上、一度もない。これを指摘したところ、王氏は「六」と書くべきところを「二」と書き誤ったとされたが、これも不正確であり一面的である。(16)私は王氏の書き誤りを批判するのが目的でこの問題をとりあげているのではない。書き誤りは誰にもあり、訂正すればよい。そうではなくて、この文字は従来さまざまな文字に検出されており、国烟の数を合わなくさせている最大の個所であるという認識がないことで問題の本質を把握しておられないことを批判しているのだ。
第三面第十四行第三十九字は、従来次のような文字に分かれている。
1).「七」と判読・・・横井忠直、三宅米吉、今西龍。
2).「四」と判読・・・栄禧。
3).「六」と判読・・・羅振玉、楊守敬、劉承幹、金毓黻。
4).「一」と判読・・・前間恭作、水谷悌二郎、末松保和(17)、藤田友治(18)。
5).「□」即ち不明とする……朴時亨、集安県博物館解釈文(解読者不明)。
この文字が何故に四通りもの数に読みとれるのか、私は拓本、写真等をくり返し比較しながら解明できずにいたが、中国吉林省博物館蔵拓本の「」という文字を見てようやくこの謎を解明することができた(詳細は拙論「好太王碑論争の決着ーー中国側現地調査・王論文の意義と古田説について」を参照されたい)。この文字は拓工によって石灰が塗られ、仮面字となっており、「」の部分は碑面のキズであり、そこに石灰をどう埋めるかによって「七」「六」「一」に分かれるか決まるのである。国烟の総数が「三十」になるのには、「一」以外にはない。私は二年前にこう結論づけていた。
本年、三月下旬、集安の好太王碑の前に立ち、碑文をくり返し精密に観察した結果、やはり「一」が正しいことを確認した(古田武彦氏、山田宗睦氏らの認定も得た)。王氏も「一」と判読されたのは正しいが、何故に釈文の解釈がさまざまに分かれていたのかについての分析もないどころか、基本的に従来説を無視ないし誤読をしておられたようである。
私は王氏を批判するためにのみ、このブラック・ボックスを問題とするのではない。私はこの問題の分析から多くのことを学んだのであり、これからも学ぶために取りあげているのだ。一つは、碑文解釈上の釈文の正確度を測定する目安とし、一つは「改削説」以上に改削個所が存在するという問題(拓工による仮面字)、更に最近判明したことだが、このブラック・ボックスは時期により大きく変化していた。そして、この変化を分析することによって、次の問題を解明する手掛りを得ることができる。
王氏の大きな功績の一つは、初均徳抄本を発見したことだ。初均徳抄本のもつ意味は極めて大きい。拓工による仮面字がどのように作られたかを示しているからだ。ところで、この初抄本はいつ頃作成されたものだろうか。王氏はこれについて言及されておられないようだ。これも第三面第十四行三十九字をどう作字していたかによって手掛りを得ることができる。表III(第3面第14行39字の変化表)でハッキリしているように、一八九八年まで「七」であった文字が、一九〇五年以降は「六」となっており(一九〇九年まで)、第一回目の仮面字の作業は一九〇〇年前後(一八九九年ーー一九〇五年)であることが、初均徳抄本は「六」となっていることから解明できる。これは、李進煕氏がかつて主張されていた「石灰全面塗付作戦」の時期と合致する。拓工(初均徳)による仮面字を日本軍部の「改削」とした李仮説は誤りだが、一九〇〇年前後の石灰作業については確かに存在する。しかし李氏の主張のようにイデオロギー問題には全く関係がなかった。国烟の数を操作することに意味を認めることはできない。李氏の軍国主義批判の動機には全く賛成するが、王氏もいわれる実事求是に基づいてのみその軍国主義批判も説得力をもつ。この問題からも李仮説は破産する。しかし、李仮説の提起によって研究がすすみ、初抄本の年代を確立することができた功績は大きい。 
四、守墓人制度にみる高句麗の支配構造
王氏は守墓人制度を本格的にとりあげ、高句麗の社会制度の問題にまで深めてとらえられた。守墓人、国烟、看烟というのは明らかに奴隷の一形態である。
好太王碑文の第三面、第四面のおびただしい文字は守墓人制度の確立のために費されていたのである(これについては、王論文以前に私は古田武彦氏のアドバイスを得て守墓人、国烟、看烟のもつ問題を解明していた。拙論「好太王碑文研究の新視点ーー好太王碑改削説への反証」を参照されたい)。しかも新来韓穢の烟戸は第一面から第二面に記載されている好太王が戦勝で得た城から略奪してきた烟戸である。表IIの国烟、看烟の調査表は好太王の功績をたたえた第一面・第二面と、守墓人烟戸の制について記述した第三面・第四面とが明確に対応していることを示している。
好太王碑文の最後の文字は、この守墓人の制度を今まで以上に強固に確立させる目的で書かれた成文法であると言える。「自上祖先王以来、墓上不安石碑」とは好太王以前に十八代続いた王墓に石碑を安置しなかった事実があり、守墓人を明確にしなかったことにより、烟戸に間違いが起こったり、貴族間で勝手に売買されてしまった。そこで、「又制守墓人、自今以後不得更相轉賣。雖有富足之者亦不得擅買。其有違令、賣者刑之。買人制令守墓之」と記載したのである。好太王碑文の成文法以後、守墓人を相互に転売してはならず、「富足之者」(貴族)であろうが、勝手に守墓人を買ってはならず、この法律に違反する者があれば、守墓人を売った者は、「刑」(体刑)にし、買った者は法律に従い守墓人にすると明確にしたものである。
『後漢書』高句麗伝や『三国志』魏書・東夷伝・高句麗条には「牢獄はないが、罪をおかした者は、諸加が〔集まって〕評議して死刑にする。その妻子は没収して奴碑にする」とあるところから、「刑」とは体刑であることは間違いない。王氏も体刑であると理解されているが、王墓の烟戸を売る者の罪を「重い」と考え、買った者の罪は「軽い」とアンバランスにとらえておられる。しかし、刑を決める評議制の出席者は「諸加」という支配階級の貴族であり、碑文にある「富足之者」である。従って必ずしも死刑という刑を自らに厳しく律していたか疑問であり、むしろ『説文』の徐[金皆]の注釈にあるように、刑とは刀で斬ることや、『書経』舜典伝にある五刑、入れ墨をする、鼻を切りとる、足を断ち切る、去勢する、極刑に処するような体刑と理解すべきであろう。王陵の烟戸を所有しているのは、一般の民ではなくて支配階級の上層部であり、自らの裁判で自らを死刑とするようなことをするであろうか。逆に、貴族であることをやめさせられ、一生涯最下層の差別された守墓人にさせらさることを、「軽い」と判断する王氏の認識を問う。やはり、どちらも厳しく処罰しようということを決めたと見るべきであろう。
徐[金皆]の[金皆]は、金偏に皆。JIS第4水準、ユニコード9347
「富足の者」とはどのような階層をいうものか考えてみよう。中国の諸文献、『後漢書』『三国志』『宋書』『南済書』『梁書』『魏書』『周書』『隋書』において王族、支配層の官名、被支配層等の記載を全て抜いて表にまとめると次の表IVとなる。
高句麗の王族は有力な五部族(涓奴(けんぬ)部、絶奴(ぜつぬ)部、順奴(じゅんぬ)部、灌奴(かんぬ)部、桂婁(けいろう)部)のうち、かつては涓奴部(消奴部という表記もある)から出ていたが、のちは桂婁部からでている。高句麗の王位継承には、部族間の承認や王を擁立する有力な貴族の認知がいる。認知されないと王となれないことは絶対王権のような支配体制ではなくて、部族連合国家を意味している。
井上秀雄氏は「なおこれらの諸官位名は滅亡期まで基本的に継承されており、絶対王権の時代でもその国家体制の基盤がいちじるしく変更されなかったことを示唆する」(『魏志』に現れた三世紀の朝鮮・日本の国家形態」『世界歴史6』岩波講座)とのべておられるが、表IVを見ていただければ解るように、『後漢書』から『梁書』までは、最高官位の相加から先人までの官位はほぼ一致していると言えるが、『魏書』『周書』『隋書』においては最高官位でさえ異なっている。とくに『周書』の「大対盧」という大官にいたっては、「大対盧は、強者が弱者を抑え奪いとっても自分がその位に就くもので、王が任命するわけではない(19)」とある。更に『翰苑』注の「高麗記」には「大対盧は国事を総和する。三年交代だが適職者があれば年限に拘わらない。交替する日はお互いにつつしまず、兵を整えて攻めあい、勝った者が〔大対盧に〕なる。王は門を閉めて自守し、制御できない」とあり、ちょうど、日本の戦国時代における天皇の位置を想起させる。この事は、井上氏の主張される「官位名の変更なし」を否定するだけでなく、高句麗における「古代絶対王権体制」なる概念をも疑わしむものである。この問題は王権の絶対性を意味せず不安定性を意味していたのである。
更に『三国志』高句麗伝が伝えるように、「高句麗の支配階級は耕作しない。〔したがって〕徒食するだけの者が一万余人もいる。下戸が遠くから五穀・魚・塩などを担い運んできて、〔主家に〕供給する(20)」とあるように、社会全体の人口に占める貴族階層の高率故に他国の侵略を行なわなければ支配階級の存立があり得なかったのである。それ故に、好太王は西暦三九一年から四一二年の在位約二十年の間、百済、新羅、碑麗、東扶余等の外国と戦い、更に倭の侵略軍と戦争をしなければならなかったのである。「国岡上広開土境平安太王」の正式名称は、百済との戦争で[水見]水と漢江の間の広大な土地を奪い、奴隷を奪ってきた功績をたたえ、それ故に新来の韓穢を烟戸とすることもできたのである。碑文を正確に判読する限り、略奪王である「好太王」の功績をたたえ、守墓人の制を明確にするために建立されたものであり、通説のように倭との関係を中心に考えたり、また王氏のように功績碑であることを否定し、墓碑と一面的に考えることも誤りである。広大な土地や人民を奪い獲得するために、即ち略奪戦争を行うためにさまざまな大義名分が碑文に書かれてあるにすぎない。
[水見]は、三水編に見。JIS第4水準、ユニコード6D80 
五、好太王はどこに埋葬されたかーー好太王墓は太王陵、将軍塚のいずれであるか
好太王碑の正面(第一面)に立つとほぼ真正面に禹(う)山(如山)の山頂が見える。第一面は南東、第二面は南西、第三面は北西、第四面は北東にそれぞれ向いている。現地に立ってみると、第四面から将軍塚の正面(開口部)がよく見える。好太王碑から将軍塚までの距離は約千六百六十メートル位である。従来、好太王碑と将軍塚とを関連づけて、将軍塚を好太王陵とする説があったが、将軍塚及び太王陵にしても中国の墓制である参道はこれまでの調査では認められていないので、参道を仮定した議論には無理がある。
一方、好太王碑の約四百メートル位(21)にある太王陵を好太王碑と考える説がある。この説は太王陵が南西の基底の長さ六十三・六メートル、東面六十二・五メートルの大石墓で、将軍塚より規模が大きく、また「願太王陵安如山固如岳」の文字磚(せん)が出土しているところをその根拠としている。
私は太王陵を好太王の陵墓と考える。その根拠については、従来説とは全く違う面から考察している。まず将軍塚を好太王の陵墓とするには、参道が認められないということから否定するだけでなく、好太王碑の第一面、即ち正面が南西を向いていなければならないと考えるのである。好太王陵がもし将軍塚であるならば、碑から正中線上にある将軍塚の正面(南西)と対応していなければならない。ところが、現地に立ってみると、事実は全く逆に好太王碑は南東をその正面としているのだ(机上での議論は、正中線上にあることで結びつけやすいが、将軍塚、太王陵ともに好太王碑と結びつけうる)。
王氏の主張されている好太王碑を墓碑とするならば、どうして太王陵に正面を向けていなかったのであろうか。この疑問は、好太王碑がもつ深い謎へと私達を導いていく。そもそも好太王碑の正面が南面しておれば、そこに「天子は臣下に対して『南面』する」という中国思想の影響を見い出せる。だが、好太王碑の正面はあくまで南東である(私達の団の前に現地に行かれた須藤隆氏のクリノメーターでの調査によっても、磁北から約四六度東である)。好太王碑は本来置くべき位置と実際に置かれた位置とがズレていると考えて、碑面の方位を処理できるだろうか。碑の高さ六・三九メートルもある巨大な一枚岩の角礫凝灰岩のことであるから、設置場所が当初の計画と若干のズレがあるのは免れない(事実、若干のズレはある)。しかし正面の位置をほぼ南か南西かへむけることは出来るだろう。正面をほぼ南東へ向けている事実を全てズレの問題としてすますことができるだろうか。
表V(如山と鴨緑江に面した好太王碑)の集安の地図はこの謎を解明する手かがりを与えてくれる。(23)如山は現在は禹山と呼ばれている。その山頂から屋根を結ぶ線と好太王碑の正面とを結ぶ線とは、ほぼ直角に交叉する。しかも、将軍塚、好太王碑、太王陵を結ぶ線とほぼ平行になっている。好太王碑は建立当初から、如山を正面にして建立されたと考えるべきである。では、何故に如山を正面として建立したのであろうか。
第一面から第四面に書き込められた文字は、好太王の生前の功績をたたえるだけでなく、守墓人制度を明確にするために建立されたものである。墓碑であるならば、陵墓の山頂か墓の前に置けばよい。たとえ好太王碑のように巨大なものであっても、墓の前か横には置ける(従来このように考えられていた)。好太王碑建立の目的は墓守烟戸の制をハッキリと被支配民に告示する高札的側面があったと考えるべきであり、従って碑は好太王が重視した領域の中心的地域に立てられたものである。では、重視した地域とはどこか。
表Vの地図・表VIの図から解るように、「聖なる如山」(この概念は、現地で山田宗睦氏、古田武彦氏との議論に学んだものである)に向い、母なる鴨緑江にも誓って建立されたと私は考える。高句麗の始祖、鄒牟王の父は北扶余の天帝の子であり、これを如山と見、母を河神の娘とし、鴨緑江に具現させたと見ることができよう。この仮説は碑文の第一面の「惟昔始祖鄒牟王之創基也、出自北夫余天帝之子、母河伯女郎」とある文章にふさわしい場所を示している。地図に東崗、西崗とあるように、碑文のある場所は「国崗」という地域であった。好太王の諡号が「国岡上広開土境平安好太王」とあるのは、この聖なる国岡の地に埋葬したことを示す。
将軍塚の位置は、この国岡から離れすぎていて碑文と合致しないことが、この地図からも判明する。「聖なる」地域国岡にふさわしく、この区域には五[灰/皿](かい)墳、四神塚、角觝(かくてい)塚、舞踊塚等墓だらけといってよい位、おびただしく高句麗の墓がある。聖なる如山は、高句麗民族の「偉大なる始祖の父」を具現し、そのふところ(如山の山麓)は聖なる地域とされていたのであろう。
太王陵の表層部から出土した「願太王陵安如山固如岳」の文字磚(せん)は「太王の陵が山の如く、安らかで、岳の如く固きことをいのる(24)」(この訳は一般の考え方である。これに対し、如山・如岳を固有名詞ととり、太王陵を如山に安んじ、如岳を固めるを願うと読むと好太王碑の立地条件とよく関連する)とある。
私達が好太王碑に立った日も、中国側は太王陵を調査、整備していたので、正確な報告書を待ちたいが、従来の調査によっても、太王陵の東側に長さ二百二十メートルの堤が残っており、南側にも三百五十メートルの堤を確認している。耿鉄華氏によれば、陵園の総面積は少なくとも四平方キロメートルとされている。この「聖なる」区域に、好太王碑だけで国烟三十家、看烟三百家、合計三百三十家の守墓人が好太王の墓を守らさせられていたのである。守墓人にとっては、毎日太王陵の墓守りをさせられ、差別されて生き続けた。碑文に明記されたように、奴太王になってから奴隷として身売りされることはなくなったが、一生涯を死者の墓守り人として碑文にある通り縛りつけられたのである。守墓人制度は高句麗社会の厳しい社会構造を示していたのである。
この守墓人の制度を本格的に問題とすることなく、好太王碑研究はなされてはならない。当時の高句麗国家を奴隷制国家か封建制国家かという議論によって、この最下層におかれた守墓人制度の一層の解明がまたれるといえる。 

(1).「好太王碑的発現和捶拓」と題して『社会科学戦線』(一九八三年四期、歴史学)において発表された。
(2).古田武彦氏は、一九七二年十一月十二日、東大で開かれた史学会大会で「好太王碑文『改削』説の批判」を発表され、その後、「好太王碑文『改削』説の批判ーー李進煕氏『広開土王陵碑の研究』について」(『史学雑誌』第八二編第八号)の論文においてまとめられた。更に「高句麗王朝と倭国の展開」(『失われた九州王朝ーー天皇家以前の古代史』)において李説批判を具体的に展開した。
(3).最近古田武彦氏は「高句麗好太王碑」(『古代は輝いていたIIーー日本列島の大王たち」)において、王論文の意義を正確に評価され、かつその問題も指摘しておられる。
(4).シンポジウムのテーマは「四、五世紀の東アジアと日本ーー好太王碑を中心に」ということであるのだから、奴太王碑改削説の李進煕氏、最近の改削否定説王健群氏の出席は当然ながら、学説史上最初の改削否定論者古田武彦氏への出席要請がなされなかったのは残念である。
(5).この公開討論会は王氏の来日にあわせて、東京、大阪の二会場、いずれでも王氏のスケジュール次第で参加していただくよう準備し、中国側に働きかけていたが、王氏のご病気と日程の関係で王氏の参加はいただけなかった。しかし、両会場とも約二百人の参加者を前に講師古田武彦氏と私とで、好太王碑研究の現段階の意義について深めることができた。
(6).二月初旬に私から王健群氏にあて直接差しだしたものと、別に雄渾社を通じて送付された手紙(翻訳して)に対して、王氏は吉林人民出版社を通じ雄渾社へ送付された。雄渾社は翻訳の上送って下さったものだが、間接ルートのため約一カ月以上を要し、結果的には王氏と対談をしている三月下旬ころに、日本に着いたものである。
(7).王健群氏が自ら指摘する誤りは、第二面第七行三十八字の“称”を釈文では誤って“衿”と書いている所であり、日本語でも文章中“矜(称)”としているのも誤りであると訂正された(王健群氏から私あての手紙より)。
(8).金錫享「三韓三国の日本列島内分国について」(『古代日本と朝鮮の基本問題』)参照。
(9).李進煕共著『古代日本と朝鮮文化』(プレジデント社)一〇八頁。
(10).王健群『好太王碑の研究』一八五頁。
(11).同書、一八五頁
(12).古田武彦『失われた九州王朝』二五三〜二五四頁。
(13).王健群『好太王碑の研究』一五九頁。
(14).同書、一一九頁。
(15).同書、一五七頁。
(16).王健群氏から私への手紙によると、再版時に改められるとのことである。
(17).末松釈文は、第四面第二行三四字を「二」と一つ多いために、合計「三一」となってしまった。
(18).大東急記念文庫本を大阪府立茨木東高地歴部の生徒達と復原して釈読したもの
(19).『周書』高麗伝、『東アジア民族史1』井上秀雄他訳注、一六三頁。
(20).『三国志』高句麗伝、同書一一五頁。
(21).文献によってデーターが違う。耿鉄華氏によると約二百メートル、李進照氏によると約四百五十メートルとあり、太王陵のどこを基点とするかによって異なるものと思われる。中国側は現地調査をやっているようなので、いずれ判明する。現時点では地図上から算出した数値である。
(22).寺田隆信、井上秀雄編『好太王碑探訪記』五九頁。
(23).好太王碑と太王陵、将軍塚とのそれぞれの関連について、方向論から現地で古田武彦氏、永島暉臣慎氏らとの議論で認識を深めることができた。また、帰国後、渡辺好庸氏の提出された疑問に応える形で、私自身の考え方をまとめることができた。
(24).如山は現在、禹山と呼ばれているが、発音「如」は、ruであり、「禹」はyuであり、似ているが違う。 
 
「大王之遠乃朝庭」について

時間の関係で十分とはいきませんので要点を申しあげたいと思います。「大王之遠乃朝庭」という言葉をめぐってでございます。この言葉については、講演会の後等によく喫茶店へ行った時に何回も御質問をうけたことがございます。私も「大王之遠乃朝庭」は面白いですね、関心をもっておりますとお答えしておったのです。また、ずっと以前に小松左京さんにお会いした時にも「大王之遠乃朝庭」はどうですかといわれたのが印象に残っております。
最近、この問題に取り組んだわけです。『万葉集』が面白くなってきておりまして、いろんなテーマができてその中の一つが「大王之遠乃朝庭」です。正面からぶつかってみると、私なりきの答えが得られたと思いましたのでそれを御報告申しあげたいと思います。 
研究史から
例によって、私以前の、従来の解釈をおさえておきたいと思います。
一番代表的なのが、大槻文彦の『大言海』だと思うのです。「(一)京都ヨリ遠ク隔リテ、朝政ヲ行フ所。筑紫ノ太宰府、陸奥ノ鎮守府、諸国ノ國衙ナドナリ。コレヲ、ひなのみやこ(都)トモ云フ。」とあって万葉集の例が二つでております。「(二)専ラ、太宰府ノ稱。」とあってこの後も『万葉集』の例が二つでております。三番目に「(三)又、三韓ヲモ稱ス。」とあってここでも『万葉集』の例がでております。これが大槻文彦の解釈です。
その他、いろいろ集めたのですが大体『大言海』を踏襲しているようです。その中で代表的なものとして『日本国語大辞典』をあげてみました。「(1)都から遠く離れた地にある官府。陸奥の鎮守府や諸国の国衙(こくが)などがこれにあたる。(2)特に、太宰府のこと。(3)新羅(しらぎ)に置かれた官家」というふうになっているわけです。
契沖の『万葉代匠記』、真淵の『万葉考』にほぼ同じ解釈がありまして、契沖、真淵の解釈を『大言海』が受けつぎ、小学館が受けついだ。大体においてこういうことになっているわけです。韓国等を入れたのは比較的新しい、『大言海』以来の感じです。要するに地方の政庁というかたちで説明が書かれております。
どの辞書を見ても一致した解釈をしている。問題はないではないか。にもかかわらず古代史や『万葉集』に詳しい方々に「大王之遠乃朝庭」はどうですかと質問され、小松左京さんに質問された所以のものは、これが筑紫と何か関係がありそうだ、一体何でだろうかというところが御質問のニュアンスだと思うのです。私自身も筑紫と非常に関係の深い言葉だと感じておったのです。辞書をみましても太宰府とでてきますから関係はあるわけです。
また、ただ筑紫に関係が深い、というだけでなく従来の解釈にもう一つピンとこないものを感じておられるのだろうと思うのです。それで私にどうですかという御質問になった。こう思うのです。確かに私自身もそのように感じていたわけです。
『万葉集』の用例
そこで今回『万葉集』から用例をぬいてみたのです。
(一)
柿本朝臣人麿、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首
303<省略>
304大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
これが人麿の歌です。
(二)
日本挽歌一首
794大君の遠の朝廷としらぬひ筑紫の国に・・・・・
家持の場合、これも筑紫がでています。
(三)
天皇の、酒を節度使の卿等に賜ふ御歌一首
973食國の遠の朝廷に汝等し・・・・・
これは一体どこかが、私の解釈上の問題点になりました。後で申します。
(四)
筑前國の志麻郡の韓亭に到りて・・・・・
3668大君の遠の朝廷と思へれど・・・・・
筑前国の志麻郡は筑紫に関係があるわけです。
(五)
壹岐の島に到りて・・・・・
3688天皇の遠の朝廷と韓國に・・・・・
韓国とか任那日本府とかを指すという解釈がでてくるのはこの歌によるわけでございます。これも後で問題にいたします。
(六)
追ひて防人の別を悲しぶる心を痛みて作る歌一首
4331天皇の遠の朝廷としらぬひ筑紫の國は・・・・・
これも、完全に筑紫の国と結びついております。以上がひとまとまりの例だと思うのです。
これと違う例が二つあります。七と八です。いずれも大伴家持の作った歌です。
(七)
放逸せる鷹を思ひて・・・・・
4011大君の遠の朝廷そみ雪降る越と名に負へる天離る・・・・・
家持が越の国の国司になって行ったとき作った歌です。越と結びついて作られた例です。
(八)
庭中の花を詠めて作る歌一首(注9)
4113大君の遠の朝廷と任き給ふ官のまにまに(注10)み雪降る越に下り来・・・・・
これも越と関係のある歌です。「任き給ふ官のまにま」は挿入句だと思うのです。他の解釈もありえましょうが、ともかく、越との関連で使われているのは明らかであります。
入力者による注
注9万葉集原文は「庭中花作歌一首」とあり、「詠めて」に当る文字はない。
注10万葉集原文は「官乃末尓末」とあり、「官のまにま」とするところであろう。
これで『万葉集』の例は全部なのです。そして私が不思議に思いましたのは、『大言海』や小学館の辞書の中で陸奥の鎮守府とでてくるのですが、『万葉集』には陸奥の鎮守府を遠の朝廷とよんだ例は全然ないです。どこからこんなのを考えついたのだろうという感じがするわけです。 
問題の所在
第一グループ(一)から(六)の例を見ます。時間の関係で結論から申します。このグルーブは筑紫に関連して使われているものではないか。はっきり筑紫と書いてあるのが四つ程ある。はっきり書いていない(三)を分析してみますと、「大王の」ではなく「食國の」となっているところが違うわけです。何故かはすぐわかります。作者が天皇だからです。「大王」御本人が作っているから「食國の」(統治されている国々の)に言葉が変えられているというふうに理解できるわけです。詠む主体の違いにすぎない。「節度使」とあるところから、注釈では、これは地方の国衙に派遣する節度使だということになっているのですが、この歌は前の歌の続きなんですね。
四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時に、高橋連蟲麿の作る歌一首
これは「西海道節度使」に遣わしているわけです。西海道というのは筑紫を中心とした名前でございます。おそらく、筑紫を原点とした西海道節度使に遣わそうとした時に高橋麿が作ったとなっております。その次に、天皇が酒を卿等に賜うとなっておりますので、前の歌をうけているわけです。つまり西海道節度使の卿等に賜う御歌という意味ではなかろうかと理解したわけです。前の歌と切り離して、どこの国の節度使でもよろしい、節度使達にという意味に従来解釈してきたのは、必ずしも妥当ではない。
そうすると、筑紫に赴任して行く藤原宇合卿等に賜う歌となりますので、「食國の遠の朝廷に」も筑紫を指すのではないだろうか。
歌の中に「筑紫」が歌われている(二)の場合ははっきりしています。しかし、歌の中に現われているケースばかりではないということは、元祖をなす(一)を見ればわかります。ここには筑紫はでてこない。詞書に「筑紫の國に下りし時」とありますので、「島門」は関門海峡あたりだろう、この海峡から向こうが筑紫だという所で、「大王の遠の朝廷とあり通ふ」となっているので「大王の遠の朝廷」は筑紫を指す。ともあれ、従来、結論としては、そう考えられてきたことが多かったのです。ですから、歌自身に「筑紫」がなくても、詞書に現われていたらよろしいんだという立場になるわけです。
そうしますと、(三)の天皇が節度使に酒を賜うも、西海道の節度使になった藤原宇合等に酒を賜うということで「食國の遠の朝廷」といっている。これも筑紫に関連した用法と考えていいのではないかと考えられるわけです。
ということは、筑紫が「大王の遠の朝廷」であることのみならず、「食國の遠の朝廷」であるという理解になっていることになるわけです。
(五)に入ります。任那日本府が遠の朝廷だという解釈がでてくるのですが、これはかなり飛躍ではないかと私は思うのです。ここでは壹岐の島に到りて、雪連宅満というのが急に病気になって死んだというので、それをいたんで歌を作った。「壹岐の島に到った」という。では、どこから到ったか。当然ながら筑紫から、筑紫を出発して壱岐島に到って、韓国に行こうとしているわけです。つまり、彼の現在の現任地は筑紫である。そういう観点からみますと、「天皇の遠き朝廷と韓國に」というのは「天皇の古い朝廷」の筑紫から韓国へ渡って行く我が背は途中の壱岐の島で死んだ、というふうに理解する方が妥当ではなかろうか。ただ文法的に、だけなら、韓国を「遠の朝廷」と呼んだ、と解釈できないことは、むろんありませんがね。
しかしこれも又、筑紫に関連して使っている例と考えた方が妥当ではなかろうか、とわたしは理解してきたわけでございます。壱岐島自身も昔は筑紫だったという解釈もできるかもしれぬと思うのですが、そこまでいかなくても、先程のように理解すれば、やはり筑紫に関連して使った例であります。ズバリ筑紫の「真上」で作ったと限らない。筑紫を中心としてその周辺部で「関連して」使われていると理解するべきではなかろうか。人麿の場合もそうですね。筑紫に行ってない、筑紫を向うに望んで作っている。
(一)から(六)まではいずれも、筑紫と筑紫周辺部に関連して使われている同一の用例とみなすべきである。
これに対して(七)(八)は、越の国に関連して使われている用例とみなすべきではないか。こう整理していきますと、契沖、真淵以来、『大言海』が世間にPRした感じの解釈でおかしいところは、陸奥の鎮守府についての例がまったくない。私がこの一週間夢中になっている多賀城の問題、これに大槻さんが一所懸命になった時期があるのでその反映ではなかろうかとちょっと思っているのです。とにかく、これは大槻さんの思いつきで、自分の解釈でこういう単語をほうり込んだだけにすぎないもののようでございます。
陸奥の鎮守府というのは例にだしただけですから、全国の国衙(天皇の命で作られた地方の派出所)を「遠の朝廷」というのだというのは、仮説だと思うのです。決まり決った、断定できる解釈というより一つの仮説。『万葉集』を理解する一つの仮説だと思うのです。この仮説がおかしいのは、何故、筑紫と越だけに限られているのか。筑紫と越だけが地方の官庁ではありません。四国にも関東にも国衙はあるでしょう。出雲にもあるでしょう。そういう所で歌も作っております。関東の歌等かなり多いわけです。ところが、他のどこの派出所も天皇の遠の朝廷とよんでいる所はありません。そうすると、その解釈の上に立ってたまたまの一つが出ている、と言ってみても、「余分」が多すぎるという問題が、私の方の疑問としてでてくるわけです。契沖、真淵に対して問いたいところなんです。 
人麿と家持の間
もう一つ問題があるのです。(一)から(六)までの第一グループの発端となりましたのは人麿の歌であることは、どうも間違いはなさそうでございます。
ところが、人麿の歌を見るとおかしいのです。「大王の遠の朝庭とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ」。要するに、筑紫を見たら、神代のことが思われる。どうして地方の派出所を見れば神代のことが思われるのでしょう。どこへ行っても地方の派出所はあるのですから、どこへ行っても神代のことを思わないとイカンわけですよ。
『万葉集』には、派出所へ行ったら神代のことが思われるなどとは歌われておりません。人麿も他の所ではそういうのは歌っておりません。
何故、筑紫の時だけ神代のことを思うのか。こうなりますと、先程は空間の分布でございましたけれど、時間の分布において、「地方の派出所」という契沖、真淵的な解釈では、でかたがあまりに唐突である。
好太王碑の話と偶然似たようになりますが、時間的分布からも、空間的分布からみても地方の派出所説はちょっとおかしいな、ということを感じ始めるに至ったわけです。
この場合、筑紫を越を一度に解決するのはむつかしい。ありていに言いますと、最初は七世紀以前と以後に分けて考えようと思った時期もあったのですが、どうも駄目だということになったのです。
よく見ていきますと、第二グループは(七)(八)の二つですが二つ共、大伴家持の作った歌なんです。つまり、「大王の遠の朝廷」を越に適用したのは大伴家持一人。他の人は誰も倣わなかった。
人麿の場合、筑紫の場合は果然皆は後に続いて、この系列の歌を、天皇自身まで作った、ということなのです。ということで、一応第二グループは除いて、第一グループについて考えてみようということになったのです。
整理してくると答えは簡単でございます。筑紫は『古事記』『日本書紀』の神代巻の示すとおり、神代は筑紫を中心に語られている。神代巻の国名を全部単純に抜いてみると圧倒的に筑紫が多いわけです。出雲は大国主を中心に、筑紫は天照達を中心に展開されている。天皇家は、大国主の子孫と称するのではなく、天照の子孫と称しています。『記』『紀』を素直に読めば天皇家の元祖の中心の空間帯は筑紫にある。現代のように津田史学によって「『記』『紀』は嘘だ」などと読む人は、七〜八世紀当時はいなかったのですから。当然天皇家の元祖である天照達の世界は筑紫を中心とする世界であったという認識は、基本の歴史認識として疑えないものになってくるわけです。
私は従来の解釈は非常に無理をしていると思いあたったのです。まず言葉の解釈です。表音で書いた例と表意で書いた例があります。人麿の例は「大王之遠乃朝廷」、「大王」と書いてオオキミと読ませる。大王は大王多元論(『古代は輝いていた』)の立場からしますと、ここで近畿の官人である人麿達が読んでいるのは近畿の天皇に間違いはない。 
「朝廷」とは
問題は「大王の遠の朝廷」、「遠」は空間的に遠いのも時間的に遠いのも『万葉集』では使われております。すると「大王の遠の朝廷」は大王にとっての朝廷で
はないかという問題になるわけです。
さて「朝廷」は万葉集の中でかなりでてまいります。「三門」「御門」等で、御門が一番多いのです。これはまず天皇に関する言葉です。もう一つ皇子に関してもでてまいります。それ以外の地方の豪族なんていうみかどはでてこない。だからみかどは天皇と天皇家の皇子達に関連して使われている、ということが『万葉』の例からみて間違いのないところだと思います。
それ以上に「朝廷(ちょうてい)」という言葉が「みかど」の表記とされている点が重大です。「朝廷(庭)」という言葉は中国の古典です、『四書五経』以来の言葉でございます。『四書五経』にでてくる「朝廷」は全部「天子の政治の場」を指す。皆さん聞いてらしておかしいかもしれませんね、分りきったことですから。周なら周の政治の場を「朝廷」と呼んでいる。地方の役場等を「朝廷」と呼んでいる例は全くございません。そんなことをしたら不敬罪になってしまいます。中央の中央的権力者の政治の場を「朝廷」と呼ぶのです。命を受けているからというと、中国のそこいら中の役所が皆「朝廷」になってしまう。そんな用例は『四書五経』のどこをさがしてもございません。
それだけではございません。『続日本紀』にも「朝庭」が再々でてまいります。これも又、すべて天皇家中心の権力の場を「朝庭」と呼んでおります。地方の権力の場を「朝庭」と呼んでいる例を私はまだ見ていません。当り前といえば当り前ですね。
「朝庭」が中心の権力の場、中心権力機構を意味するのは、中国の用例しかり、日本列島の用例しかりです。そうすると『万葉集』も日本列島の人達が作ったのですか
ら、その用例に従って読むのが当然じゃないでしょうか。
つまり、筑紫が「朝廷」とよばれていることは誰も疑えないわけです。ということは、筑紫を「中央権力の場」とみなしている、とこう考えざるをえないわけです。
誰にとっての中心権力かというと、大王にとっての、大和なり天皇にとっての中央権力の場という意味にならざるをえない。 
「神代し思ほゆ」
そんなことがあるのか?ここに「遠の」があります。現在、八世紀なら八世紀の中心権力とはいってない。それなら「遠の」はいらない。「遠の」は空間も遠いので
しょうが、時間的にも遠い。つまり神代。『記』『紀』にはちゃんとそうなっている。何の不思議もないわけです。『記』『紀』の素養をもてばこうなる外ない。私達が知っている範囲では人麿が最初に詠んだんでしょうが、皆がそうだそうだと続けて詠んだのは『記』『紀』的素養に合っているからです。
「筑紫に分布が偏っている」ことを否定できる人は誰もいない。そして、他を指す用例があまりにも乏しい。節度使を西海道と切り離して、全国にしてみてやっとなる。ズバリ他の所を呼んだ例は無いんです。筑紫が圧倒的に優勢なのは間違いない。
筑紫と理解すると、空間的分布とも合致するし、時間的に人麿が神代を思ったのも不思議はない。ということで、私としては解決をみたわけです。
次に、家持はなぜ風変わりな個人プレーの歌を作ったか。誰にも真似されない賛成されない歌を作ったかをいいます。家持は先程の用例は当然知っているわけです。人麿の歌も知っているわけです。それの応用版を試みたわけです。独特の解釈で、彼は国司になって行った時に越に対して「大王の遠の朝廷」といううたい方をしたわけです。
なぜ、越が「大王の遠の朝廷」といえるのか?継体ですね。『日本書紀』に継体が后を迎えるとき三国にいた。三国は越前国、つまり越の国のあたり。又、「高向(たかむこ)は越前国の邑の名なり。」ここにも越の国がでてまいります。継体は大和に入り天皇になる前に越の国に居た。『古事記』の方はあまりないですが、『日本書紀』の方はPR気味の文章ですが、大和に入る前に越の国で政治をしていたということが書いてある。これも家持は当然知っていた。これにたって家持は、『記』『紀』の神代巻に天皇家の祖先が筑紫で中心権力として実在している土地であるから
「大王の遠の朝廷」といえるのなら、越も又いいうるのではないか。というのが家持にとっての理屈付けだろうと思うのです。
この歌を皆があまり真似しなかったのは、共通点はないではないが、差異点もかなりあるからです。筑紫の場合は一人や二人ではなく天照以来代々いたよう感じである。神代巻の国名を挙げていくと圧倒的に筑紫が多いということが示しているように。
ところが継体の場合は、どうも代々中心権力であったとは考えられない。継体にしてもすでに越の国において中心権力であったとは、ちょっといえないわけです。かりに継体自身については、ひいき目にいってみてもお父さんお祖父さんには、もう到底いえないわけです。
というわけで、越の国を美化するためでありましょうが、ちょっと理屈のつけすぎの感じがあるわけです。そういう点で、これを真似する者は、結局でなかったのではないか、というふうに思うわけです。 
まとめ
私としては『万葉集』すべての例について解答がでたと申せます。考えてみますと、家持の個人プレーを含めて考えて見ますと、『古代は輝いていた』全三巻で述べたところは、天皇家の淵源は日向から来た。日向の神武たちの源流は筑紫にあった(直接的には岡田宮、北九州らしいんです)。ということで、筑紫の神話を自分達の神話として『記』『紀』に留め、この神話を背景にして自分達の統治の正当性を言おうとしたわけです。
ところが、大きな断絶亀裂が現われたのが武烈の時です。『古代は輝いていた』の最後から『古代は輝いていたII』の始めに述べましたように、武烈に子がなく、王位継承戦が大和で繰りひろげられた形跡がある。恐らく当初は応援を頼まれたのでしょうが、越の武将継体が入って来て疲れ果てた当事者達にかわって、これらを倒したかもしれませんが、自分が天皇の位に就いた。
ということですから、七、八世紀、天智・天武・元明・元正・聖武とかの人々の直接の先祖は継体なんです。「応神五世の孫」とか、「六世の孫」とか書かれていますが、そんな理屈はどの武将だってつけているのです。直接には継体が祖先なのです。これは『記』『紀』に書かれた事実をバックに述べただけなんです。これが私のいいます歴史の流れの大局だったわけです。
その歴史の一番の節目のところを「大王の遠の朝廷」の使用例が示していた。まあ家持の個人プレーを含めてですが、示していた。
何か故ありげにみえていたこの言葉は果たして、歴史的背景をもつ用語であった。この言葉を正確に理解すれば、私の述べた歴史像がでてくる。そうではなく、生意気にいわせてもらえば、グロテスクな解釈、「地方の官庁全部がそれである。」「陸奥の一部もそうである。」「他の例はたまたま『万葉集』に例がなかっただけである」と契沖、真淵以来、現代の万葉学者すべてが唱えてきたということは、ズバリ、歴史を『記』『紀』の語る形で理解できなかった、ということです。
いわゆる天皇家中心主義。最初から天皇家は日本列島の中心だったのだ、他は、単なる地方政権にすぎなかった、という、『記』『紀』の作者も聞いたらビックリするような新イデオロギーで「遠の朝廷」解釈を契沖、真淵などの国学者がした。この新しい国学のあやまった財産を今日まですべての万葉学者が受け継いでいた、ということになるのではなかろうか、と現在私は考えております。 
 
誤読されていた日本書紀
 天皇の神格性の意味、及びその発生消滅に関する考察

 

はじめに
戦後「天皇論」「皇国史観」に関する論文は数えきれないほど発表されているが、唯一つ「何故、いつから天皇は神であったか」に関し納得できる説明をされている学者はいられないようである。戦前の皇国史観の根底には「天皇は神である」という独断があった事実を何人も否定できないであろう。当時の御用学者はこの独断を発展させ、聖戦を宣伝し、如何に多数の日本人・外国人を問わず、尊い生命が「神である天皇」の名の下に失われたかは周知の事実である。然るに、敗戦後、天皇は一片の「人間宣言」において自らを「現御神」ではないということにより、戦争責任を廻避してしまったのである。
その人間宣言の内容は、天皇を、現御神と呼ぶのは架空と観念であるというに止まり、何故それ迄現御神といわれていたのか、また何故現御神が架空の観念なのかは一切説明されてはいないので、戦後四十年を経た現在も皇国史観の亡霊が横行している(教科書検定の実状、憲法改正により天皇権の増大を企てる改憲論者の存在)事実はそれに淵源しているとしか思えないのである。また、以下に明らかになる通り、この問題を明らかにすることにより日本古代史の真実が浮上して来たのである。 
天皇の神格性の意味
I通説
天皇が神であった事実の一番一般的な説明は次の通りであろう。
(a)、通説的には伊勢神宮天照大神は皇室の皇祖神(祖先神)として最高神の地位にある。
(b)、故に、(a)を逆説的にいうと、天皇は最高神である天照大神の子孫であるから神(肉体を持った神)であると。
この説の弱点は少しでも論理的思考を持つものには明らかであろう。
もし、『記紀』に書かれている通り、天皇が天照大神の直系の子孫であったとしても、子孫全体が必ずしも神ではなかったのである。
(a)、天皇が神といわれたのは天皇位を継承したからであり、何故天皇位を継承したもののみが神といわれたのか理解できないのである。
(b)、神武以来の大王達全員が神であったとは思えない。少なくとも前期飛鳥時代迄の大王達には神意識は認められない。
故に、通説的に天照大神を単なる皇祖神(祖先神)と解釈する学説には誤りがあるといわざるを得ないのである。
II鳥越憲三郎説
次に、I説の弱点を補強し、今迄にこの問題に関し唯一理論的に説明したと思われる学説を紹介しよう。
鳥越憲三郎『天皇権の起源』
略説すると、同氏は中国史書の「倭」は大和朝廷以外にはあり得ないという独断的偏見に立脚し、
(a)、三国志魏志倭人伝の卑弥呼と男弟王
(b)、隋書、イ妥*国伝の阿毎多利思北孤と男弟王
(c)、隅田八幡宮の鏡銘日十大王と男弟王
を引用し、我国の古代の政治体制は全て兄弟統治であったと断定し、その分担は、
兄─祭祀権者─神
弟─政事権者─天皇
であったとし、神武〜天智間に両者を無理矢理にこじつけ的に推定し、そして壬申の乱に勝利を収め、飛躍的に権力を増大させた天武の時代になり、両者は一体化し、「天皇=神」という定型が完成したと説明されているのである。
イ妥*国のイ妥*(タイ)は人編に妥です。
この学説に村する批判は次の通りである。
(a)、大和朝廷の古代統治体制が兄弟統治であったという鳥越氏の断定は独断という外なく、いくら『記紀』を読み返してもそのような事実を発見し得ないのであり、
(鳥越氏も『記紀』に於いては確定的な証拠を挙げられてはいない)
(b)、前記三例は全て古田武彦氏により九州王朝における事例であると証明されている。
(c)、天皇=神の定型はむしろ大和朝廷の国王の称号が大王より天皇への変化に対応しているというべきであり、天皇の称号の使用は比較的新しいといわねばならない。
なお、この学説に対する決定的反論は以下IIIに譲る。
III自説
以上の通りI・IIでは、何故必然的に大和朝廷の天皇に神格性が発生したか(私も神武以降全ての天皇が神ではなかったことを証明された鳥越氏の功績に対し敬意を表するものである)を説明できなかったのである。
私見を述べると、今迄の学者達は『日本書紀』を誤読していると断定せざるを得ないのであり、解答は明らかに『日本書紀』に書かれていたのである。まず、次の事実を確認していかねばならないのである。
“神武を皇祖(始祖)と做なし、神武即位の日を太陽暦に換算し、戦前の紀元節、戦後の建国記念日に当てた明治以後の政府の方針が日本古代史を泥沼に追い込んだ。”と。
このようにいうと、明治天皇の発布した教育勅語にいう「皇祖皇宗」の解釈、即ち、「神武及び以後の天皇」に反し、殊更に異説を唱えるものとして批難を受けるかもしれない。しかし、古代の歴史書、『日本書紀』は神武を皇祖とは認めていないのであり、むしろ『日本書紀』の示す皇祖は別に存在しているといわねばならないのである。 
神武即位前紀
“神日本磐余彦天皇曰く……皇祖皇考乃神乃聖にして……天祖の降跡りましてより以逮、今に一百七十九萬二千四百七十余歳なり。”
この皇祖を誰と解釈するとよいのであろうか。
この場合、『日本書紀』がその型式を中国史書にならった事は明らかであるから、中国史書がどのような型式により編集されているかを明らかにする必要があるのである。そして『日本書紀』成立以前に成立し、『日本書紀』が記事を引用している中国史書では例外なくその王朝の成立を次の通り表現しているのである。
“天帝─天命─天子─高祖”
繙って『日本書紀』神代紀を視ると、
(a)、天帝に相当する天照大神
(b)、天命に相当する、天壌無窮の神勅(神命)
(c)、天子に相当する天孫ニニギ尊
の型式が備っていることは明らかであり、
(d)、神命(天壌無窮の神勅)を受けた天孫ニニギ尊こそ、中国史書の天命を受けた高祖に相当する皇祖と判定せざるを得ないのである。
“天照大神─神命─天孫─皇祖”
以上の推論はまた次の事実により裏付けられているのである。
“天孫ニニギ尊の降臨地「竺紫の日向の高千穂峯」の比定は通説的には日向国(現宮崎県)とされていたが、古田武彦氏は『盗まれた神話』において、『記紀』の記事を正確に読みとるならば筑紫は単に筑紫国を指すのみであり、天孫降臨地は筑紫の日向(ヒナタ)峠を含む高祖山であると主張されたのであるが、今もって他の歴史学者により黙殺されているのであるが、今迄説明した通りニニギ尊が皇祖(高祖)であるのであるから、読み方は異っても高祖(タカス)山以外には天孫降臨地はあり得ないと断言し得るのである。”と。
そして以上の説明を理解されるならば、
A『日本書紀』末期の天皇の敬称である。
明神(アキツミカミトシテ)御宇(アマノシタシロス)天皇
B『続日本紀』の天皇の敬称
現神(右ニ同ジ)御宇天皇
こそ、中国史書における各王朝の二代目以下の皇帝の自称、
「天命を継承して、国を治める皇帝」(各皇帝により表現は異なるが大意はこのようである)の日本版であり、
Aの明神は、「明二神命一」
Bの現神は、「体二現神命一」
の省略型であったのである。
故に、皇祖=ニニギ尊が乃神乃聖、即ち、神聖とされ(神武即位前紀)天武・持統が「大君は神にしませば……」と歌われた(萬葉集)のは神命(天孫降臨に際し天照大神がニニギ尊に授けた天壌無窮の神勅)を或は受け或は継承して神(天照大神)の代行者として国を治めていたからであるといえるのであり、平安時代以後、遣唐使の廃止、武家政治の開始により、国際外交の舞台から天皇が姿を消すことにより奈良時代の天皇の公式称号「現神御宇天皇」を使用する機会が無くなり、天皇=神の伝承のみが伝わることとなり、「天皇は肉体を持った神である」と変化して戦前の皇国史観の最盛期に到ったと推定されるのである。
以上の通り、『記紀』の編者は中国史書を換骨奪胎することにより、成立時(奈良時代)の天皇の神聖性の意味及び発生を見事に説明していたのである。そしてこの論理により『記紀』神代紀を読むと今迄神憑り的超自然的であるが故に荒唐無稽な作り話に過ぎないと思われてきた説話が、実は体系的な国家成立の説明であった事実が次の通り判明したのである。
(1)、神代紀のメインテーマは、中国史書における天帝の天命に相当する天照大神の天壌無窮の神勅を受けたと称するニニギ尊の新王朝建国であった。
(2)、サブテーマは次の二点である。
イ、天帝に相当する天照大神の説明
ロ、ニニギ尊の王朝の領土の範囲(国生み神話)と、その沿革(国譲り神話)。
天命=天壌無窮の神勅
私はここまで論理を展開した時、日本古代史の真相を発見した一番目であると内心自負したのであるが、為念、「現神御宇天皇」の称号を現在の天皇の称号と比較した時痛棒を喫したのである。
a、明治五年、琉球藩冊立の詔
「朕上天ノ景命ニ膺り萬世一系ノ帝祚ヲ紹ギ奄ニ四海ヲ有チ八荒ニ君臨ス……」
b、大正四年即位礼ノ勅語
「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ……天壤無窮ノ神勅ニ依リテ萬世一系ノ帝位ヲ伝ヘ………」
すなわち、天皇家においては自らの神聖性の根本が実は、本稿で私が説明してきた「天命=天壌無窮の神勅」であることを自明の理として使用していたのであるが、その事実を神秘のヴエールに覆い一般に分り易く説明していなかっただけであり、歴史学者達も一杯食わされていたのである。
しかし、炯眼な読者諸君は、先に略説した鳥越憲三郎氏が『天皇権の起源』で説明された通り「神武以後の天皇達には神格性が認められない」と矛盾するではないかといわれるであろう。私も以下の理由によりそれらの天皇達が「神命を代行する」=「神としての天皇」とは認めがたいのである。
イ仲哀紀・神功皇后紀に出現する「神」は『記紀』を詳しく読むと天照大神であることが判明する。然るに仲哀はその天照大神の神託を信頼せず、罰として死を与えられている。
ロ雄略・崇峻のような悪逆無残な天皇の存在。
この点において鳥越氏の卓説に敬服せざるを得ないのである。そして私は鳥越説以外に(鳥越説は前述した通り信用できない)この矛盾を説明し得る記事があるのではないかと『日本書紀』を読み返した結果、今一人の「皇祖」が出現していることを発見したのである。 
孝徳
大化二年、皇太子より天皇への上奏文、(長文であるので略記す)
朝廷の用に資する為(班田制の為か)かつて皇族領であったのが、現在民間領となっている
(イ)代々の天皇の子代入部、
(ロ)代々の皇子らの御名入部、
(ハ)皇祖大兄の御名入部
を献上させよといっているのである。
「皇祖大兄」に註として彦人大兄が当てられているが、果して正しいかが問題となるのである。なるほど、この記事は孝徳紀であり、彦人大兄は孝徳の祖父に当たるから一見妥当なように見えるのであるが、「皇祖」を「皇の祖」と分断する方法に問題があるのである。
(1)皇祖を皇ノ祖父と解釈するならば、『記紀』全体を通じ無数の皇祖がなければならないのに、「皇祖」と表現されているのは、ニニギ尊とこの「皇祖大兄」のみである。
(2)彦人大兄は皇位にも就かず(敏達の後を継がなかったのは敏達より早世であったとも考えられる)、
(イ)代々の天皇
(ロ)代々の皇子ら
に匹敵する程の領地を持っていたとは思えない。
故に、この註は『日本書紀』成立当時の註ではなく後で入れられた註であると解釈すべきである。 
皇祖大兄
しからば「皇祖大兄」は誰であろうか。
私見を述べると、この場合戦後の歴史学の成果である「大化改新はなかった」の立場を導入すると、この問題は解決するのである。「郡評論争」により、既に大化改新の詔に文武の詔が混入されていることは明らかであり、この大化三年の記事も、天皇を持統、皇太子を文武に比定するならば、「皇祖大兄」は中大兄即ち天智であるといえるのである。
何となれば、天智を皇祖に比定することにより、次の問題が解決するからである。
『日本書紀』を読まれた方は、斉明が皇祖母尊・斉明の母吉備姫、欽明の母糠手姫が皇祖母命と諡名されている事実をご存知であろう。通説的には『古事記』成立時の元明の祖母が斉明であるから、「皇の祖母」の意味であろうと解釈されているが、その誤解は明らかであり、皇祖=天智が基準であり、一親等の母である斉明に皇祖母尊、二親等の祖母である糠手姫吉備姫が皇祖母命であり、「尊」の方が「命」より上位であることが理解されるであろう。
なお、私は前にニニギ尊が皇祖である事実を説明する論拠として、ニニギ尊が所謂天命に相当する天壌無窮の神勅(神命)を受けたるが故に、中国史書の高祖に相当する皇祖であることを示した。故に再び天智を皇祖と判断する基準として天命ないし神命の表現が示されていればよいのであろう。そして天命の降下は明らかに示されていたのである。
(1)、天智七年
時人曰、天命将及乎
天智の即位記事の締めくくりとして、この一行があるのであるが、現在の最高権威者により編集されたと自負している岩波古典文学大系『日本書紀』では「ミイノチマサニヲワリナムトス」と読んで居り、その誤読の根本は「天命将及」を革命、即ち王朝交替を意味すると解釈し、大和朝廷にあっては天智の時代にはそのような事実はないのであるから、無理矢理にフリガナ付けをしたのであり、「天命将及」が革命を伴わない新王朝の成立(独立)を意味している場合もあることに思い到らなかったからである(中国に於いては三国、南北朝時代に複数の天命を受けた国家が併立していた事実がある)。
(2)、懐風藻序文
「淡海先帝の命を受けたまふに及びて、帝業恢開……」
懐風藻が孝謙の時代に編集された詩集であることは確実であり、その序文に「受命」と明記されているのであり、中国史書においては「受命の君」とは高祖に該当することは明らかであり、天智が皇祖であった事実の明白な証明である。
(3)、『続日本紀』孝謙天平宝字元年
藤原仲麻呂の上奏文
「淡海大津宮御字皇帝は天縦聖君なり………」
「天の縦せし聖君」が天命を受けた天子であり、天智以外にこのような敬称を受けた天皇はいず、初めて天命を受けた皇祖にふさわしい敬称であるといえるのである。
(4)、以上を通観すると、天智の諡名「天命開別」は「天命を受け別国(新王朝)を開いた」天皇であることは明らかであり、通説的な読み方「アマノミコトヒラキワケ」は古代の真実を見失った後世のふり仮名に過ぎなかったのであり、何を意味しているか分からない。
(5)、さらに、視角を変えて詳説しよう。
『続日本紀』に奈良時代の天皇達、元明・聖武・孝謙・桓武の即位の詔に原文は省略するが、
「この食す国(治める国)は淡海大津宮御宇天皇(天智)の定め賜える不改常典により出来たのだ」という一節が含まれているのである。この即位の詔はいわゆる「宣命」であり、作為の混入し易い史書の編集とは異なり、群臣公開の場に於ける天皇の発言であるから、作為の入りようがなかったはずである。このことを前提として「不改常典」とは何かを検討してみよう。
まず明白なのは成文法ではあり得ないという事である。何となれば今迄歴史学者達は近江令ではないかとして、その成立不成立を論争されたのであるが、近江令がもし成立していたとしても、その後天武の浄御原令、文武の大宝律令、さらに養老律令と変化しており、到底「不改常典」と形容することはできなかったはずであり、一般にいう「令」、「律令」とは異なるものであったはずである。そこで考えられるのは古代の国家成立の為の最も必要な条件であり、天智が受けたとされている「天命」以外ではあり得ないのである。そして「天命=天壌無窮の神勅」であったのであるから、天壌無窮の神勅は二度降りたと判断せねばならないのである。
天壤無窮の神勅が天智に降り新王朝が開始されたと解するならば元明・聖武・孝謙・桓武の即位の詔の意味ははっきりと理解できるのである。
王朝成立の必須条件である天命=天壤無窮の神勅が二度降り、二人の皇祖ニニギ尊と天智が実在した事実は果して何を意味しているのであろうか。この事実は両者が全く別個の王朝であったことを明白に証明しているのである。何となれば中国史書における天命の使用法によると、同一王朝に複数の天命降下はあり得ないからであり、この法則は全て先例を中国に求めた『日本書紀』の編者にとって自明の理であったはずであるからである。
『記紀』共に神武が九州より出発し大和に定着した事実を伝えている。このことを従来通説的に神武が九州の王朝を挙げて大和に移動したいわゆる神武東遷であると解釈してきた。これに対し古田武彦氏は『古代は輝いていた』で神武は九州王朝の傍流に過ぎず、新天地を求め開拓者的に大和に侵入したのであり、神武東侵に過ぎないと主張されている。どちらが正しいか自ら明らかであろう。神武は天命=天壌無窮の神勅を継承した正統の王朝ではなかったのであり、天智が天命を受ける以前の大和の政権は「王朝」ではなく、単に「豪族」に過ぎなかったからであり、中国史書に継続して出現している「倭王朝」は九州に継続して実在した九州王朝であったのである。
(代々の中国王朝が豪族に過ぎない大和の地方政権と継続し交渉を持っていたとは考えられない)。
然らばなぜ大和の豪族が突然天智の時代になり、天命を称する王朝に変化したのであろうか。その原因は古田氏の提唱されている通り、白村江の大敗を契機とする日本列島上における九州王朝の地盤低下であったのである。
そして九州王朝の頽勢挽回は遂にならず、遂に文武の時代になり、先行したニニギ尊を皇祖とする九州王朝は後発の天智を皇祖とする大和朝廷に併合吸収されてしまった(この事は九州年号の消滅、大和朝廷の年号である大宝年号の開始により裏付けられている)。
東北を除く日本列島の覇者となった大和朝廷は、その王朝に箔を付けるため吸収した九州王朝の史書を盗用し、自らの王朝が古来より唯一の王朝であるかのように朝鮮半島諸国との交渉史を引用した『日本書紀』を作成したが、真実の皇祖である天智の功績に対する敬称「天命開別」迄は消すことはできなかった(周知の事実であったから)。またその史書には皇祖天智の影がちらりと姿を現わしていたのである(孝徳三年皇祖大兄、天智七年天命将及乎)。
(6)最後に今一つ天智が大和朝廷における真の皇祖と推定し得る資料を示そう。
延喜式(十世紀前半成立)に国忌の規定があり、その内容は各省より出席すべき定員、参加者への記念品、無断欠席者の罰則等明細に定められているのであるが、ここで注目しなければならないのは、肝心の被祭祀者が『日本書紀』『続日本紀』に出現する天皇全員ではなく極めて限定されている点である。
以下に示すが桓武以後の天皇皇后は除く、何となればそれ等の天皇皇后は延喜式成立直前の天皇であり、近親祭祀に当り、祭られて当然であるからである。 
国忌
イ、天智天皇十二月三日崇福寺
ロ、天宗高紹(光仁)天皇十二月二十三日東寺
ハ、桓武天皇三月十七日西寺
桓武忌は桓武が平安京に都を遷した天皇なのであるから、平安時代の朝廷にとっては最も重要な天皇であったはずであるから国家の記念日である国忌に登場するのは当然であろう。
光仁忌は桓武の父であり、平安朝の国忌は桓武より始り継承されたはずであるので桓武が父親である光仁の忌日を国忌としたのも当然である。
光仁以前の天皇達のうち、国忌として定められている天皇は天智のみである事実を何と理解すべきであろうか。官撰の歴史である『日本書紀』には堂々と神武以下の天皇が継続しているのである。
(1)、或は次のようにいわれるかもしれない。
「国忌は仏式で施行されるから、仏教伝来以前の天皇を祭るはずはない。」と。
しかし仏教伝来以後の天皇でも天智しか祭られていないのである。
(2)、また、次のようにいわれる方もいるであろう。
「壬申の乱で近江朝を倒し皇位に就いた天武系の皇統は孝謙で絶え、天智の孫である光仁以後平安朝の皇統は天智系であるから、直系の祖先である天智を敬慕するため国忌に入れた。」と。
現在の歴史家は壬申の乱に勝った天武に大きな評価を与えられているようである。論文の量がそのことを物語っているのである。しかし、私見を述べると、壬申の乱は大友皇子(弘文)に対する天武の私怨であり、単なるクーデターに過ぎず、コップの中の嵐であるとの評価を下し得るのではなかろうか。なぜなれば乱後も天武の天智の他の皇子達に対する待遇は公正であり、また、天武系の天皇である元明・聖武・孝謙の即位の詔においては天智を「大倭根子天皇」と礼賛し、反対に天武に対しては全く何も言及していないのである。また、もし平安朝の朝廷に天智系・天武系を区別する考えがあったとしても、両者に共通する斉明以前の天皇を国忌より省くのは不自然である。
となると結論は一つしかないのである。
「延喜式成立時代の朝廷は、元明・聖武・孝謙・桓武の各天皇が即位の詔において云っている天智が定め賜える不改常典が、前に説明したように天壌無窮の神勅であり、天智が大和朝廷の皇祖である事実を正確に知っていたからである。」と。
以上長々と現在ではほとんど死語である「天命」「皇祖」を引用して天皇の神格性の意味及びその発生を説いたが、天命、皇祖が古代王朝成立の不可欠の必要条件であり、その意味が理解できなくては天皇の神格性の意味の究明が不可能であったからである。 
天皇の神格性の消滅
さて、本論に戻りいよいよ天皇の神格性の消滅を検討しよう。天皇の神格性の消滅が敗戦後の昭和二十一年頭のいわゆる「人間宣言」における「現御神は架空の観念である」という発言によるものであることは周知の事実であり、本稿の読者は既にその「架空の観念」である所以を十分理解されているはずである。
それぞれ、天皇の神格性の根本であった天命の思想は中国に於いては股王朝の時代には使用されていた王朝を権威付けるための思想であり、近代の合理主義民主主義の史観とは全く調和できない古代の遺物であったのである(第二次大戦後植民地より多数の独立国が誕生しているが、皆共和国であり、その独立宣言を調べても天命神命に類する発言をしている国は全くない)。
そして、中国の「天命」の思想が中国革命、ヨーロッパ諸国の「王権神授説」がフランス革命・ロシヤ革命等により否定された現代も我国は「天命(神命)」の史観を持ち続けた数少ない精神的後進国の一つであったのであり、明治以来流入して来た近代的合理主義的歴史哲学により、当然天命の史観は否定されるべき運命にあったのである。
しかし、戦前の天皇制政府は国体擁護の美名の下に近代的歴史哲学を拒否し弾圧を加え、「天皇は神である」ことをかたくなに主張していたのであるが、敗戦により近代的歴史哲学(民主主義)の導入が不可避であると判断し、人民より天皇の神格性批判の声が出るにさきがけ、天皇自身が「人間宣言」において「現御神は架空の観念である」ことを宣言したのであり、もし「人間宣言」がされなければ、連合軍は当然戦争責任者の筆頭に天皇を指定したであろうと推定され、「人間宣言」は一石二鳥の効果があったのである。
なお、憲法改正論者の中には「人間宣言」は占領軍の強制であったとし、天皇の神格性は不動のものであると盲信されている方もいられるようであるが、とんだアナクロニズムであるといわねばならないのである。 
付記
読者は本稿が単に天皇の神格性の研究に止まらず、日本古代史の根本に関係していることを認められるであろう。少し考えるだけで、
イ、天皇の初称は天智である。懐風藻序文に「受命帝業恢開」の記事がある。
ロ、倭(ヤマト)王朝の出発は天智である。倭の五王、好大王碑の倭は大和朝廷と解すべきではない(天智以前は豪族に過ぎない)。
ハ、天照大神が倭(ヤマト)朝廷で最高神に昇格したのは天智に天命を降したからである。
ニ、「ヤマト」の表記の変化が天智受命により説明できる。
が、無理なく解けるのである。今後本稿の原則を適用し、古代の真実を解明してゆくつもりである。 
 
好太王碑と高句麗文化について / 日本列島内分国論と九州王朝

 

はじめに
今回は朝鮮民主主義共和国の先生においでいただき、お話を直接聞き、又討論させていただくということで、筆舌につくしがたい嬉しいことであると考えております。共和国側の御意見を聞くチャンス、意見を交換するチャンスは、地球上のいかなる地域におとらず、乏しかった、という遺憾な状況が永らく続いていたわけです。にもかかわらず我々日本の古代史を明らかにするうえではこの作業無しでは前進できない、少くとも効果的な前進は見ることができなかったわけです。これは申すまでもございませんが、こういう状況下におきまして私は、今日のこの会を非常に有意義なものと考えます。なお、こういう有意義な限られた時間ですので、私の考え方を端的に適確に申し述べさせていただきます。私の考えが、共和国側の学者と一致するところもあり、一致しないところもあるわけですが、本日で結論がでるわけではありませんので、今後何百何千年続く、対話の第一回というふうになれば幸いであると思っているわけです。 
改竄説の真相
好太王碑改竄(かいざん)説というものが李進煕さんによって出されまして十二、三年を経たわけです。これについて、もはやほぼ決着がついた、李さんは説の撤回をしておられませんが、名存実亡といった状況にあると私は考えるわけでございます。現地に行かれた方(この会場にもいらっしゃいます)が、石の字で倭が存在するのをはっきり確認されたわけでございます。
ところで、今回朴時亨さんの『広開土王陵碑』(全浩天訳「そしえて刊」住所・電話番号略)がでました。これだけ翻訳文化の盛んな日本で朴さんが書かれた本が二十年目にして翻訳が今年でた。これは、日本の古代史の研究を遅らせたと思うのです。これは深くは申せませんが、全さんが最後につけ加えられた解説(単なる翻訳の解説ではございません)を見て、私はビックリしたのです。一九六三年に共和国調査団が現地に派遣されたということはよく知っていたんです。その契機は、共和国内における改竄論争が一つの原因である。改竄ではないかという意見が強くなり、事実を確認しなくてはいかんということで、現在中国領にある集安に調査団を派遣し、その結果、改竄ではない、日本帝国主義側の改竄とはいえないという結論を得たという事実が初めて朴さんによって明らかにされているわけです。もっと早くこれを我々が知っていれば、この十何年かはずい分違った様相を示していたのではたいか。私が遅れたというのはそういうことでございます。この改竄については孫さんと私とは同じ立場ですので、今日はもう触れないでおきます。 
好太王碑研究のポイント
さて好太王碑に多くの問題があるのですが、第一に注意したいことは「辛卯年」問題です。好太王碑を論ずる場合、大部分のエネルギーを傾注してきたところなんです。しかし、私はこの問題には大事な原則があると思うのです。それは「辛卯年」に対する絶対的なといいますか端的なといいますか、結論はでないということがはっきりとしているという認識から出発しないといけないということであります。これは当り前のことであります。あの碑面に三字ないし四字見えない字があるわけです。「倭人伝」のように全部見えている、字が全部見えていても意見が分れるのですから、見えてなくてはっきり結論が出せるほうがおかしいのです。残念ながら結論はだせないというのが大前提です。これは意見のいかんをこえた、共通の了解事項にならなければならないわけです。その上で、それを前提として、私はこう思う、という具体的な意見を出すことはいいのですが、「辛卯年」に対する自分の解釈をある立場からグッと出して、それを守るため、後々の議論を展開していきますと、熱はこもるんでしようけれど、客観性のない議論になってしまう。この点を今後幾百、千年続くであろう論争のために、ロスしないよう、根本のポイント、基点と考えるべきであるということを提言させていただきたいと思うわけです。
その上に立って、私自身、これは少し注意してもらいたいという点がありますので、それを申させていただきます。 
碑文の論理
「臣民」論でございます。好太王碑の中には「天帝・登祚・棄国・朝貢」等の言葉がでてまいります。これは間違いなく高句麗王を原点とする用語であります。百済や新羅へもっていったのには「朝貢」なんて絶対に使っていないのです。又百済王や新羅王にあたる人が位についても「登祚」とは絶対に表現していないわけです。つまり、中国で普通天子にあてている言葉が、ここでは全て高句麗王にあてられている。これはわかりきったことでございます。
同様に「臣民」というのは同じ性格の言葉です。一つの国で使われれば、その国の臣民をいうわけです。その国の「君・臣・民」という統治秩序を表す言葉なのです。この点、『三国志』に二つ例がございます。「呉志」に「民臣」(逆ですが意味は同じ)とあり、これは当然ながら呉における統治秩序、呉の孫権を皇帝と称しまして、これに対して民臣という言葉を使っております。もう一つは、直接法の中で「彼の臣民」というのがでてまいります。魏のことを論じている直接法の中ででてきます。「彼の臣民」とありますから当然魏における「君・臣・民」の秩序をいっているわけです。大変明確な例でございます。
ということで、好太王碑の地の文章であり高句麗中心の文脈で、「臣民」という言葉を使えば、高句麗を原点とした「君・臣・民」とみなすのが筋であると、私は考えたわけでございます。この議論は『失われた九州王朝』で十年くらい前に展開したのですが、日本の学者は賛成、反対だれもしないわけです。この一点からしましても、倭を主語にして、「倭の臣民」と考えるのは(日本側の多数説)成立できないと思うのです。
同様に、朴時亨さんが『広開土王陵碑』で示しておられる「百済が新羅を臣民にしたのだ」という解釈もやはり成立できないと思うわけです。当然「高句麗が新羅を(百済は消えていて分りませんが、新羅は『羅』らしきものがあるので)臣民にした」。高句麗が主語、新羅らしきものが目的語、というかたちで理解しなければならないと思うわけでございます。孫さんがそういう御理解であれば、私と意見が一致するわけでございます。
もう一点、論証を付け加えさせていただきます。新羅が使いを高句麗好太王のところに遣わせていった文章のなかで「奴客を以て民と為す」が出てきます。ちょっと我々には耳慣れない言葉ですが、『宋書』にでてまいります。『宋書』では、天子に自分のことを言う場合には「臣」というのを絶えず使う。倭王武も自分のことを「臣」と言っています。ところが、北朝側では「臣」にあたる言葉を「奴」というんだといっている個所が出てまいります。事実、北朝系の史料では、自分のことを「臣・・・」というところが「奴・・・」と使った例で出てまいります。そうしますと「奴客」の「奴」は、まさに「臣」を意味する「奴」であるというふうに考えられるわけです。そして「臣」には「内臣」「外臣」がありまして、国内の「臣」が「内臣」、国外の服属する国が「外臣」になるわけです。中国に対して卑弥呼は「外臣」になったわけです。ということで「外臣」を表すのが「客」という言葉なのだと思うのです。だから「奴客」といっているのは「外臣である私」という意味の表現である。新羅がそういう表現を使っているというのは、高句麗が新羅を「臣民」にしたという内容と対応するのではないか、という問題を新たに提起させていただきたいと思います。 
倭=海賊説への批判
次に、朴さんのすぐれた本の中で私には承服できない点がございます。「好太王碑にでてくる『倭』というのは『海賊』である」という説です。これは、中国の王健群さんが述べられて日本でも有名になりました。これより二十年前に朴さんが「倭=海賊」論を展開しておられるわけでございます。私はこの「倭=海賊」論は正しくないと思うわけです。その証拠を一・二あげます。
好太王碑文に「倭賊」という言葉がでてくるのは御存知のとおりです。いかにも、海賊だという感じを与えるのですが、そうではない。といいますのは、好太王碑に先だつ、しかも直前の同時代史料が『三国志』でございます。この『三国志』に「魏賊」という言葉がでてまいります。これは呉が魏の正規軍を「魏賊」とよんでいるのです。けっして魏の中にいる、うろちょろしている山賊という意味ではございません。ところが同じ「呉志」の中に「海賊」という言葉が出てまいります。この「海賊」の身元はどうかというのはむつかしいのですが、正に「海賊」で、少くとも先程の「魏賊」という表現とは格を異にしているわけです。海からやってきた賊であるわけです。つまり「海賊」と「魏賊」とは区別されている。これが好太王碑に先だつ先例です。東アジアの文字文化の中心的位置を占めたといって、どなたも反論されないと思う中国、その中国側の例なのです。
そうしますと、この碑文に「倭賊」とでてまいりますと、「魏」と同じ様に「倭」も国名でございます。「倭人伝」に何度か「倭国」とでてまいります。すると「国名」+「賊」という表現は「倭国の正規軍」を大義名分の逆の側からみて呼んだ名前である、と理解するのが、正確な理解である。これに対して、はるか後世の明代の「倭寇」をもってきて議論の援用とする人がいるなら、歴史学のルールをわきまえないものである、といわざるをえない、とこう思うわけです。なお「蜀賊・呉賊」という言葉も同類の用法で『三国志』に出てまいります。したがって先ほどいいました「魏賊」は決して孤立した例ではございません。 
其の国境とは
もう一つ、重大な問題がございます。この碑文に出てくる「其の国境」問題です。新羅が、平壌に来ていた好太王に使いを遣わせて言ったところです。
「倭人、其の国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以て民と為す。王に帰し、命を請わん」
この「其の国境」の「其の」という代名詞は何を指すか。これは直接法の文章であります。その上にある名詞は「倭人」しかないのですから当然、「倭人」(「国境」ですから「倭」)の国境と考える以外の理解はないわけです。
国境は二つ国がないとできませんので、「倭」と「国境」をもっている国は、文意(新羅が言っている)からして「倭と新羅の国境」である。その「倭と新羅の国境」に「倭人が非常に沢山やってきて」という話になるわけです。
としますと、当然「倭国」は朝鮮半島内部に領土をもっている。そして、その領土は新羅と「国境」をもって接している、こう理解する他、ないわけでございます。
ところが先ほど挙げました王健群さんの議論はこの点(失礼な言い方ですが)混乱しているようでございます。王さんは、「ここは直接法ではないのだ。『其の』は前の新羅を指すのだ。『国境』というのは『国土』であって必ずしも国の境ではないのだ。」という議論を展開しておられるわけです。訳にも問題があるのかもしれませんが、かなり理解しがたい原文のようでございます。中国語に堪能な方に翻訳を私もしてもらったのですが・・・。
ここで王さんの議論になるのですが、「云」という言葉は
云ーー他人の言葉を引用していふ。
牢曰く、子云う。吾試(もちい)ならず、故に芸あり。〈論語、子罕(しかん)〉『諸橋大漢和辞典』
この場合、弟子本人については御存知のように「曰」で表現している。ところで「牢」にとって孔子は第三者です。つまり、他人の言葉を引用する時に「云う」と表現している。同様に好太王碑においても二回「曰く」がでてまいります。「鄒牟王曰」又第四面に「好太王曰」が出てまいります。ところが問題の個所においては「新羅が『云う』わけです。」高句麗からみれば第三者、だからここは「曰く」ではなく「云う」をつかっている。このように『論語』のしめします用例と全く同じ用例をしめしているわけです。当り前といえば当り前ですけれど。つまり、ここを王さんの様に直接法ではない、といういい方はできない。明らかに直接法である。「其の」が指すものは「倭」しかない、という結論でございます。
朴さんは、「直接法ではない」といういい方はされませんで「国境地方に」(全さんの訳で)といっておられます。「国境」が、どことどこの「国境」かをしめしておられない。なんとなく百済と新羅の「国境」かな、という感じに読めるわけです。もし、私の理解したように「倭と新羅の国境」というようにとりますと「倭=海賊」説は成立できないわけです。「『国境』をもった『海賊』」という概念はございませんから。この点は触れないままで、どことどこの「国境」かはしめさないままで朴さんは議論をすすめられておられるわけです。ということで、「海賊」説を守るために文法を曲げたり、あいまいにしたりする、のは、本道ではございません。やはり、東アジアにおける漢文の用例に従って読む。自ら立てたアイデアに合うか、合わないか、によって、それを曲げることをしない、というのが文章理解の本道だと思います。この立場からしますと、朴さんの「倭=海賊」説、又、王さんの「倭=海賊」説は成りたたない、といわざるをえないわけです。
この点は不思議でもなんでもございません。『三国志』の「韓伝、倭人伝」をみますと、「朝鮮半島内に倭地(倭国の領土)有り」という立場から理解しないと理解できない文章がいくつも並んでおります。『「邪馬台国」はなかった』や最近の『古代は輝いていた』で書きましたので、ここでは繰り返しません。 
倭とは何か
次に、好太王碑に出てくる「倭」の性格についてもう一歩、つっこんだ議論をさせていただきたいと思います。『宋書』の「夷蛮伝」との比較です。『宋書』は五世紀に出た本ですので、好太王碑とほぼ同時代の史料であるわけです。これを比べますと、非常に深い一致がございます。
〈宋書夷蛮伝〉〈好太王碑〉
高句麗伝高句麗ーー王
百済伝百残ーー王
倭国伝倭
(新羅)新羅ー寐錦
『宋書夷蛮伝』に高句麗伝・百済伝・倭国伝があるのは御存知のとおりです。ところが新羅伝はございません。ということは、高句麗・百済・倭国には「王」がいるわけです。しかし、新羅王は『宋書夷蛮伝』には存在しないわけです。新羅がでてくるのは、例の「六国諸軍事・・・」の中の一つにでてくるだけです。ところが、好太王碑にも高句麗・百残・倭・新羅と出てまいります。そして高句麗百残についてはオフィシャルなリーダーのことを、「王」(あるいは高句麗の場合は太(たい)王)、百残の場合は「王」(王健群さんは「主」という解読をしておられますが、「王」、「主」どちらでも議論は変わりないのです)。これは、当時の東アジアの普遍語ともいうべき、中国語・中国字で表されているわけです。中国語を中国字で表現しているわけです。ところが、新羅については「寐錦」という表現で表わされている。一回ないし二回でてきます。これは、いわゆる民族風名称であって、東アジア普遍語の「王」ないし「主」ではないわけです。この場合、高句麗のオフィシャルなリーダーの民族風名称を知らないということはありえない。知っているにもかかわらず、それを採用せずアジア普遍語で表記している。どちらの格が上かを考えますと、高句麗・百済の「王」の表現の方が格が上である、東アジアの常識である「王」という存在だという認識に立ってみると。ところが新羅については「王」と表現していないわけです。民族風名称にとどめている。ということは、明らかに両者に格差を設けているわけです。
先程の『宋書夷蛮伝』の格差と全く一致している。主として出てくる国名が四つ、まさに対応している。平面的に両者が一致、対応しているのみならず、「王」の格付けという面まで両者は一致している。いわば立体的、構造的に、両者は一致しているわけです。
さて、そこで一つ検討すべき問題がございます。「倭」について、好太王碑では王も民族風名称もでてこないわけです。これは何故かというと、その理由は、私は明らかだと思うのです。あの好太王碑の中で、高句麗にとって倭は「交渉相手」として登場することは一回もない。たえず「戦争相手」ですね。これに対して、百済や新羅の王や寐錦は何らかの「交渉相手」となってでてくる。ところが倭の場合、一切「交渉相手」として登場しないので全然出てこない。「倭は王でもないし、民族風名称も高句麗が知らなかった」から書かなかった、とは考えられません。そういうことではなく、文面の客観的にしめす内容から、倭ではリーダー名が表われてきていないのだ、というふうに理解すべきであると思います。
こういう一点を頭において考えますと、『宋書夷蛮伝』と好太王碑とは構造的に一致している。とすると、構造的に一致している『宋書夷蛮伝』の「倭国」と、好太王碑の「倭」は「同一の倭」である。つまり、好太王碑にでてくる「倭」は海賊なんかではなくて、『宋書夷蛮伝』に現れる「倭国」である、と理解しなくてはならない、というのが私の見解でございます。 
朴提上列伝
さて、今日、新たに一つ強調したい点がございます。この時代、四世紀から五世紀にかけての時代を示す貴重な史料、朝鮮半島側の史料『三国史記』『三国遺事』がございます。「朴提上」(『史記』)「金提上」(『遺事』)説話でございます。私の『失われた九州王朝』でもそれぞれ全文(日本語訳)を載せております。このアウトラインを申しますと、新羅は高句麗と倭国の両方に人質を送っていたという話から始まります。四世紀から五世紀半ば頃の話です。倭国に送られた王子を取り返すために、朴(金)提上が倭国に乗りこんで倭王に会う。そこで、倭王と友好的な感じで会い、夜の内に王子を脱出、逃亡させて、かわりに朴提上がベットに居るわけです。朝になって、倭国の兵士達がそれに気付いて脱走した舟を追うのだが追いつくことはできなかった。王子は無事新羅に帰りつくことができた。その後、倭王は朴提上にむごたらしい死を与えた、という話でございます。
『史記・遺事』の間に違いはあるのですが、共通点をみますと、倭王のいる倭国の都はとうてい近畿大和ではありえない。夜中に逃げられて朝には間に合わないのですから。それでは都は何処か?九州北岸、おそらく博多湾岸としますと、この状況にドンピシャリあたるのでございます。だからここでしめされる倭国の都、倭王の都はどう間違っても九州北岸、おそらく博多湾岸であろうということを『失われた九州王朝』でも述べたところでございます。今、問題はその時期が好太王、長寿王(高句麗)の時代にあたっていることです。 
『三国史記』・『三国遺事』の史料性格
この新羅をはさむ高句麗と倭の関係と、好太王碑に出てくる高句麗・新羅・倭の関係が全く別物だという理解は、余程『三国史記』『三国遺事』を「軽蔑」しなければできない。あんなものは史料として値打がない、嘘ばかり書いている、という立場なら別ですけれど。私は、『史記・遺事』は非常に史料的価値が高いと思います。残念ながら、脱落している記事はかなりあるけれど、そこに書かれた記事は、嘘で後から作ったような、記事は見いだすことができないと考えています。この『史記・遺事』の性格からしましても、この史料を無視したり軽視したりすることは許されない。つまり、同じ時代(四世紀から五世紀にかけて)に倭国と呼ばれ、倭王と呼ばれたものが、二つあろうとは思われない。『宋書夷蛮伝』で倭国と呼び、倭王と呼んでいるものと、『三国史記』・『三国遺事』が倭国と呼び倭王と呼ぶものとは別物である、という考え方は、どんな無理をしても、できない、と思うわけです。
『日本書紀』を基にすることは駄目だと思います。今までこれについては何回も述べました。『記・紀』と『史記・遺事』とは性格が違う。特に『日本書紀』にあって『古事記』にない記事はほかからもってきて入れられたものであるから、これをもって天皇家の記事である、そのまま大和の記事である、という史料に使うのは正しくない、と論じました。この点、私に『日本書紀』のこの記事を「天皇家の事実」として使えるのだ、という論争をしようとする、日本古代史の専門の学者は日本国内でみたことがございません。(後記ーー安本美典氏の『古代九州王朝はなかった』、翌年刊行)
中国の史書と『三国史記』『三国遺事』が一致する内容からみれば、「九州北岸にこの時代の倭国の倭王の都があった。」こう理解しなければならないわけです。すなわち、好太王碑の「倭」を海賊と見なすことは、正しくない、ということになるわけです。 
「分国論」批判
時間がせまってまいりましたので、最後に金錫亨さんの「分国論」の問題にうつらせていただきます。一口で申しますと、「日本列島の国々は朝鮮半島の国々、高句麗とか百済とか新羅とかの分国、簡単にいえば植民地であった。」という議論であります。時間があればいろいろくわしく申し上げたいのですが、簡単にいえばこういうことです。これが出ました時(一九六三年)、日本の学会は非常にショックをうけたわけです。この分国論は従来の天皇家中心主義(戦前の皇国史観はもとより、戦後の皇国史観ともいうべき天皇家一元主義)に対して大きたショックを与えたわけです。しかし、私は端的にいってこの分国論には、大きな誤りがある、と考えざるをえないわけです。
最初の論文で金さんはこう言っておられる。つまり「倭の五王が海北を平らげた」とあるがそれは近畿大和の天皇が九州を征伐したのである。なぜかなれば、日本では方角を90度くらい間違えることはよくあるんだ。邪馬一国問題でも、日本の学者によって証明されている、と注記していっておられます。しかし、これは皆様御存知のように近畿説の学者の「一派」の意見にすぎません。全員がこれを承認したというものではございません。南と東を間違えた、というふうにいわないと、近畿説にならないわけです。これが一つ。
これを例にして、倭の五王の時代に、近畿からみて九州を「北」と彼らは方角違いをしていたのだ、という議論は、今ではもう、非常に無理な議論であると思います。これが一つ。
もう一つ、七支刀の問題があります。先程も孫さんが触れられましたが、この七支刀を使って当時の倭王は百済王の家来なんだという議論がかってなされ、現在もなされているようです。これは、私は大きな誤解であると思います。金さんの議論は、「泰和四年」を百済の年号であると理解された。たしかに、これが百済の年号であるとすれば(好太王碑の例のように年号をもっているのは天子を称している存在)、そこで「侯*(=候)」王といえば自分の配下の「侯*(=候)王」なわけです。倭王を「侯*(=候)王」といっていることは明らかです。そういう理屈が成り立つのです。
侯*は、侯の異体字。JIS第四水準ユニコード77E6
しかし、問題は「泰和四年」という年号が百済には全く見当らない、見当らないけれどおそらくあったのだろう、という立場で議論をしておられるわけです。金さんが先ほどのように言われて二十年程たちましたが、依然として百済に「泰和四年」という年号があった形跡は全く見いだされておりません。高句麗においても、高句麗王が天子にあたる位置を称したのは非常にまれなケース、つまり好太王という、まれな人です。その前後は、中国に対して臣下を称している。この間、集安に参りまして国内城から太寧(たいねい東晋)の年号をもった甎(せん)がでているのを聞きました。「太寧」とすると三二三年から三二六年です。中国の年号を使っているのですから、四世紀前半期において高句麗は中国の臣下の立場をとっているわけです。又、好太王碑を建てた長寿王自身が、将軍の称号を中国(北朝、南朝)から貰ったという話は有名です。高句麗の場合も、例外的な好太王を除けば、ほとんど中国の臣下の立場をとっていた。まして、百済が好太王のように自らを天子の位置に置く、年号を作るという態度をしめした形跡は、全くこれを見い出だすことはできません。『晋書』『宋書』をレジュメに挙げておきましたように、この間に相当するわけでございますから、百済が年号を作ったと考えるのは、無理であろう、こう思うわけでございます。 
如山問題
最後に、最近日本側の若い研究者の方々に導かれて、私が当面してきた興味深いテーマを提起させていただきたいと思います。まだ試案ですので、そのつもりでお聞きいただき、お帰りになって共和国側で検討いただければありがたいと思います。
太王陵のもとになりました「願太王陵安如山固如岳」という甎がでたわけです。これに対して、従来の読み方は“太王陵の安きこと山の如く、固きこと岳の如くならんことを願う。”でありました。ところが、これはどうもおかしいという意見が渡辺さん(先程「社会科学研究所」を代表して挨拶された方)御夫妻から出てまいりました。三月に私達と御一緒に好太王碑に行かれたのです。又、その時大変御苦労いただいた藤田さんからも同じ疑問が出てまいりました。実は、「如山」というのが集安の真ん中にそびえているわけです。日本流にいえば神奈備山の如くそびえているわけです。どこから見ても見えるような素晴らしい山です。それだけでなく、太王陵の前に立つとその後ろに「如山」がある。残念ながら我々は太王陵の前に立てなかったんです。又、好太王碑の一面から写真をとるとどうとっても後ろに、この「如山」が入るわけです。そうすると、先ほどの甎の中の「如山」を“安きこと山の如く”と読んでいいのかどうか。「如山」は「如山(うざん)」という固有名詞ではないかという問題提起が出てきたわけです。又、碑の位置も、「如山」を原点とすれば、この位置が理解できる。私は、誤解して「好太王碑の前に立った人間」の立場で考えておりました。すると好太王碑は東南に向っております。おかしいわけです。
如山

太王陵(南面)好太王碑(東南面)
これが将軍塚説(関野貞)が出てくる理由になったわけです。将軍塚については時間の関係で申しませんけれど、この問題もふくめて、私と耿(こう)さん(集安県の博物館の副館長)と意見が一致しました。やはり太王陵が好太王の墓である。としますと、この好太王碑の位置がおかしくなってくる。しかし「如山」を原点として考えればこの位置は理解できる。この立場で甎をみれば“太王陵の、如山(うざん)を安んじ、如岳(うがく如山)を固くせんことを願う”と読めるわけです。
漢文の文法としてはどっちも可能なわけです。問題はどちらの意味が結論として適切か、です。意味は全く違います。つまり、従来説の方は「太王陵がこわれませんように」という祈願なのです。ところが、新しい読法は「『如山』が永遠に神聖な山として続きますように。太王陵を建ててそれを守ることによって、バックにそびえる神聖な『如山』が永遠に安泰ならんことを」という、高句麗側の「如山」信仰というものを背景にした、祈願文であるということになってくるわけです。
こういう点は、祈願文の例、高旬麗ではこれより古い例はないのですが、中国側の例をこれから集めたいと思っていますので、今後検討を続けていくつもりでおります。 
守墓人問題
最後に申しあげたいことは、碑文の中に「『舊民は』羸劣(るいれつ)であるのでまかせておけない。全部、韓歳*の民(捕虜あるいは征服民)に好太王陵をまかせた。ところが、彼ら(新征服民)は法則を知らない、だから上手にいかなかったので新しく折衷案として舊民三分の一、新しい征服民三分の二のバランスですることにした」と書かれている点です。
歳*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA
この場合、「法則」という言葉の理解についての議論を従来あまり聞いたことがないのです。朴さんの本を見てもでてこないのです。これについて、ただ掃除をしたり、くずれたのを直すだけだったら新しい捕虜でも十分できる。ところが、そんな簡単なことではなくて、いわゆる「土地信仰」を背景にした墓の守り方、それが必要だ。それが碑文でいっている「法則」なのである。「土地信仰」は、韓歳*の民では駄目だ、その土地に昔からいる(恐らく高句麗が北からやってくる以前からかもしれません)舊民達が必要であった、というふうに考えますと、「法則」という点が理解しうるのではないでしょうか。
この点、朴さんの本(全さんの訳)で拝見しましたら、「羸劣(るいれつ)」というのを経済的に貧しくなったというふうな意味にとられたようにみえるのですが、これはちょっと違うのではないかと思います。「羸劣(るいれつ)」というのは「羸(るい)は劣なり、又弱(じゃく)なり」というのですから、「舊民」を一段下においた表現とみることが自然ではないか、ということは、少くとも高句麗の「臣」とは違う、もしかしたら「旧き被征服民」である可能性があるのではないか。「非自由民」であるとは朴さんも言っておられます。何故、「非自由民」になったかというと、「古い段階の征服、被征服」がその背景にあるのではないか、という見地を導入した場合、さらに好太王碑の内容は明確になってくるのではないか。このような目でみますと、先ほどの太王陵の碑を土地信仰と関連して理解するというのも、まだ断定できませんが、可能性のある、一つの試案ではなかろうか、と思います。特に現地で見ました東台子遺跡(土地神を高句麗が祭った遺跡)とも関連して今後興味深いものではないか、こう思っているわけです。 
真の学問的交流
以上によって私の論証は終ったのですが、最後に申しますと、日本の学界は、私の提起しましたような「筑紫の王権が倭国の中心の王者であった」という(十年以前から出している)議論に対して相手にしない、論争の場にも席を同じくしないという態度を常にとり続けております。これはやはり学問として非常に不幸なことである。
戦後の日本の体制は天皇家を権威の中心にしている、こういう体制の中だからこそ、「基本的(主観的に)に合わないと考える者は論争に入れない」という傲慢な態度が許されているんだと思います。しかし、これはあくまで一つの体制の中で酔いしれている者の夢にすぎません。前の敗戦もしめしましたように、時間がたてばそのような傲慢なやり方は、学問の名において許されない、と思います。その点、私は色々と批判させていただきましたが、日本列島の古代状況に対して果敢な批判を若い時代から展開されてきた金さんとか朴さん、又それを受けつがれました孫さんとか、そういう方々と、そういう先入観のない立場で、あくまで客観的実在としての歴史を探求するという立場で、今後百年千年万年、おつきあいできれば大変に嬉しい、こう思うわけでございます。非常に失礼な言葉を重ねましたことを深くお詫び申しあげまして、私の報告を終らせていただきます。 
討論・好太王碑と高句麗文化について
孫永鐘(朝鮮民主主義人民共和国・社会科学院・歴史学研究室室長)
古田武彦(日本国・昭和薬科大学教授)
<略>
「好太王碑と高句麗文化について」
古田武彦講演録
それでは、後半の方に入らせていただきます。だいぶ忙しかったのですが、限られた時間の中では、かなり立ち入った議論をしはじめた(これはまだ始まりですから)、始めという意味では一つの、お互いの手がかりができたのではないかと思います。孫さんがお帰りになって、恐らく、朴さん金さん等に、こんな話が出たと(レジュメもお渡ししました)御報告いただけると思います。
一つの収穫
今日、一つの収獲だったのは、朴さんの主張が違ってきている。前進がみられる。つまり、朴さんは「百済が新羅を臣民にした」と解釈しておられるのに対して、孫さんが来日前に金さんや朴さんと話し合って「高句麗が臣民にした」ととるべきではないかと、問題提起をされたらしくて、朴さんも「それがいいと思う」というので、二十年前の説を朴さんが変更された、と孫さんがいっておられました。
この点について、私と意見が違いがなかったわけです。高句麗側と私の共通の意見と、日本の通説との対立ということになってくるわけですね。だんだんと、整理されかつ前進しつつある、そういう手がかりが得られてきたという意味でも非常によかったと思っております。
辛卯年について
休み時間に御質問をいただきました。「辛卯年」のところに、皆様一番御関心がありますので、そこについての御質問がございました。先ほどよりもう少し詳しく説明させていただきたいと思います。
ここで大事なことは「属民」という言葉と「臣民」という言葉の違いだと思うのです。
「属民」というのは、私の理解では(『古代は輝いていた』をお読みいただいた方はお分りのように)、大義名分上の概念である。実際問題として、大高句麗国があって、かつては朝鮮半島全部が領土だったといっているのではないのです。そういっていると理解した人が「属民」は誇張だといういい方になってくるわけですね。
私は、高句麗はそんなことを主張していない。中国の歴史書をみても、何をみても、そんな形跡(朝鮮半島全部が大高句麗国だった)は全くないわけです。それを、誇張であろうと、嘘であろうと、碑文に刻むということは私には考えられない。どうせ嘘をいうなら、日本列島も大高句麗国に属していたといっちゃえばいいわけです。そしたら、全部反乱になりますから。そうはしていない。私はリアルた歴史事実をいっている、こう考えたわけです。
簡単に申しますと、百済というのは高句麗の分家である。『三国史記』にも出てまいります。はじめ、高句麗の王家に第一夫人、第二夫人がいて、第二夫人に子供が二人いた。第一夫人の子供が当然高句麗王になるのですが、第二夫人と子供をいじめる(いじめられた方がいっているのですが)ので、ここにおれないと、第二夫人と子供が高句麗を脱出した。それが、のちの百済の地(扶余近辺)にやってきた。そこで、兄さんと弟と分れて統治した。兄の方が統治に失敗して、弟の方がそれを接収して百済ができあがっていったという、有名な話が書かれている。
これは、高句麗からみれば、あれはメカケの子孫だ、というわけで高句麗国に対して服属を誓って忠節を誓うべき存在だ、こうみているわけです。
だから、高句麗と百済の間で、プレゼントというのですか、礼儀の物の交換があったと思うのです。百済の方は必ずしも、御主人へもっていったと言わなかったと思うのです。言ったとは限らない。少くとも、高句麗の方は分家の、属民の側からもってきた、という形で受けとっておったと思いますね。これが一つ。
今度はさらに、百済と新羅の問題については、中国の『三国志』に出てきます。三世紀では、百済は馬韓、新羅は辰韓といっておりました。なぜ、辰韓が成立したかといいますと、秦の始皇帝の時に中国から亡命した集団があった。その亡命集団を、馬韓王はあわれんで、自分の東界におらしめた。その辰韓の王を辰王という。騎馬民族説の江上さんがこれをクローズアップされるのですが、私の理解では、辰王は「辰韓の王」以外ではありえないのです。といいますのは、「辰韓はいにしえの辰国」という文章で始まっておりますから。辰国の王は辰王にきまっています。ということですので、辰王というのは神秘的な、不思議な存在じゃたくて、又日本に来てしまったら、辰韓の王がいなくて困ります。辰王は朝鮮半島にいる存在であると、私は理解しているんです。
ところが、辰韓の王である辰王は自立していない。独立、自立度百パーセントではない。さっきのようないきさつで、馬韓の被保護国みたいな形である。そこで、馬韓人を政治顧問にして政治をやっている、ということが三世紀段階で書かれているわけです。三世紀段階においては、新羅のもとの姿、辰韓は、百済のもとの姿、馬韓のいわば服属国である。
それを、高句麗はもちろん知っているわけです。高句麗の立場からいえば、辰韓のあとをひく新羅というのは、自分の分家である百済の被保護国、分家の家来、俺とは格が違うというわけです。新羅から何かもってきたら、新羅がどう言ってもってきたかしりませんが、「朝貢」であるというんですか、そういう形で受けとる。
これは、歴史事実だと思うのです。どう理屈づけるかは、理屈の問題です。核をなすのは歴史事実だと思います。小説家が作った話ではない。誇張した話ではない、と思うのです。
好太王碑の先頭の第一面で、歴史事実がいろいろはじまる最初のとこで、新羅と百済は属民であるといっているのは、高句麗の目からみた「筋論」をいっているのです。
それに対して「辛卯」のところ、私は何回もいいましたように、ここは分らん、何回いってもいいのですが、ここが分らんというのが大事なことだと思うのです。ここが分ったと言う人はインチキだと思うのです。単に、こう思うという自分の想像を言っているだけです。本来分るものじゃないわけです。それが、最初にして最後、いくら強調しても強調しすぎることはないと思うのです。
臣民論
しかし、その中で、そういう前提で、私は「臣民」という言葉は、高句麗を主格として理解しなければならない言葉じゃないか。
「朝貢」と出てくるところで、前後の文面がおかしいところがありますね。しかし、あれを前後の意味が分らんから、百済へ高句麗がもっていったんじゃないか、という解釈はできないわけです。しちゃならないわけです。
百済の石碑だったら、百済原点の朝貢という言葉を使っていると思いますよ。高句麗の石碑で、前後の文章がわかりにくいからって、百済に朝貢って、解釈することは許されない。
同じように、「臣民」という言葉も、『三国志』でみるかぎり、「君、臣、その下の民」という君臣の秩序にたった表現なんですね。
レジュメにもかきましたが、『史記』、『漢書』あたりで、西域のことを書く時、西域のABCDと国がいろいろかいてありますわね。その時に、Cという国はDという国に「これに臣す」。つまり、これに隷属している服属しているという意味に「臣」という言葉が使われるのです。
だから私も、この例からみれば、倭が新羅やなんかを隷属させたというふうにとってもいいかなと迷ったこともだいぶあるんですよ。しかし、これは『史記』や『漢書』の話で『三国志』はそれより後です。『三国志』の世界になると、それを抜きだしてみたら、予想以上に「臣民」の用法は明確な用例なんです。
先ほど挙げましたように、「魏志」の部分では(「臣民」はでてきませんが、「臣」、「民」はしょっちゅう出てきます)、「臣」とか「民」とかでてきたら必ず、魏の「臣」であり「民」なんです。一つ一つ魏臣、魏民などとかは書かないわけです。
又、「呉志」に「臣」がでてきたら呉臣であり、呉の民であるわけです。一つ一つ呉臣とか、呉民とか書かなくていいわけです。
それに対して、「臣民」という熟語ということで抜きだしたのは、先程挙げた二つの例です。
一つは「民臣」ですが、意味は違いないと思うのです。「民臣」というのは呉の「民臣」という形でかかれている。呉の「君」に対する「民臣」です。民をちょっと重きをおいたので、先頭にきたのかもしれません。身分秩序からいえば「臣」が上ですが、「君」の統治対象とすれば「民」が大事なポジションなんですね。「臣」は「君」にとって補佐役にすぎないんですから。我々は耳慣れないけれど「民臣」というのは決して不思議ではないわけです。
それに対して、はっきり「臣民」がでてくるのは、先ほど挙げた例「彼の臣民(魏)」が唯一の例であります。」直接法の中であり、「彼の臣民」とあるから、「魏の臣民」を指す。当然ですね。
『三国志』を見ていきますと、少くとも三世紀段階では、「臣民」の使い方は非常に確定している、はっきりしてきているとみられるのです。
そういう目でみますと、あそこの文面も、高句麗原点の「臣民」と考えざるをえない、というふうに私は理解してきたのです。
さてここで、倭が「辛卯年」に来たというのだが、どこに来たのかという御質問を紙に書いてこられましたのでお答えします。
これは、高句麗本土、及び自分の属民であると考えている百済、新羅に来たら、「倭が来た」です。だが、朝鮮半島内の倭地にいるだけでは「来た」と考えていない。これは、もともといるんですから。
早い話が、腰岳の黒曜石が縄文期の釜山近辺から出てくるわけです。これを、新聞に「貿易をしていたことが分る」なんて書いてありましたが、とんでもない話です。現代みたいに、海の中に国境があるわけではないんです。貿易も何もないわけで、腰岳の黒曜石の分布圏が、洛東江ぞいの釜山(プサン)近辺におよんでいたというだけなんです。
あそこが倭地だというのは、実は縄文期に、腰岳の黒曜石の出土という時期にさかのぼらなければいけないわけです。縄文からズッーと、腰岳縄文人がいるわけですね。ということでございます。
だから、高句麗は縄文にさかのぼって「来た」とはいかないわけです。「辛卯年」ですから、要するに、倭地以外のところ、高句麗からみれば、「自分の服属民の地」と大義名分上思っているところへ、「倭が入ってきた」とこう言っているわけです。
なぜ入ったか、これも私は推察がつくと思うのです。私の『古代は輝いていた』(朝日新聞杜)をお読みの方にはお分りのように、三一六年の大事件ですね。『三国志』を書いた陳寿のいた西晋が滅亡するわけです。滅亡して、東晋というのが建康に都をおくのです。ところが、その場合、北の黄河流域は、新興匈奴、その他次々と北方系の民族が北朝系をたてますので、実際上、楽浪、帯方が軍事的空自地帯になる。そこを、誰が継承するか、北の高句麗か南の倭か、なんですね。
倭は、南朝側を代表して帯方を受け継ぐんだと主張するんですね。それは、楽浪を支配している高句麗からみると、楽浪を分郡した帯方ですから、当然、高句麗が楽浪及び帯方の地を支配するんだ、ということですから、そういう倭国の態度は、“不当に倭がやってきた”つまり「来」という表現でとらえることになるわけですね。「『臣民』となす」は、主語が高句麗である。相手は「羅」という字があるから、新羅だろう。他の羅、加羅等ありますが、新羅だと今までの人もそう考えていたし、私もそう考えています。新羅を「臣民」にしたというのは、あるわけです。ただ百済を「臣民」にしたかどうかは、字がないからなんともいえない。
ところが、こういう姿勢は高句麗側の一方的な、単なる大義名分論ではなくて、実質的に「君・臣・民」の体系を、少くとも新羅におよぼす。場合によったら百済にもおよぼす、と言っているかもしれません。そういうことは当然、新たな緊張をまねくわけです。倭国はそれを承知しないし、百済も承知しないでしょう。
ということで、「臣民」にしたという、高句麗の一方的なといいますか、新たな方針が次の激突をまねいている、ということになるわけですね。倭国の方からいいますと、倭国側の大義名分論があって、何か宣言をやっているんだと思いますね、当然、高句麗とは全くあいいれない、そういう宣言だと思います。こういう形で理解すべきである。
倭と「和通」・「不軌」問題
先程省略した中で申しあげたいのは、レジュメNo.5の「与倭和通」問題、「倭不軌」問題です。
「和通」の「通」は、『史記』、『漢書』で見ますと、A国とB国と二国間の国交関係の成立を指す(「大宛列伝」「西域伝」)。ということは、百済が倭と「和通」したと非難している。「通」という言葉がつかわれている。当然中国の用語の「通」なんです。
百済が「国」であることは、当然です。誰でも認めているわけです。では、倭も「国」である。海賊ではない。海賊との間に「通」なんて言葉をつかった例はない。あると思うなら、それをお出し下さい。王健群さんにしろ、朴時亨さんにしろ、好太王碑にでてくる倭が「海賊」だと主張されるなら、「通」という言葉が「国」と海賊(山賊でもいいですが)との交渉(なんらかの交渉はありうるでしょう。エリザベス女王と海賊とも、なんらかの「関係」はあったでしょう。)で、「通」と表現した例をあげられるべきです。「裏取り引き」はしても、「通」というのは、れっきたる「国」と、れっきたる「国」との間の国交関係につかう、術語なんです。国際用語なんですね。元は地(道路ーー編集者注)が通じるという単純な言葉から発しています。
ということで、「与倭和通」とある点からみますと、「倭」は海賊ではなくて「倭国」を理解しなければならない。
こういう議論になるわけです。同じく、「不軌」は、レールに反している、無茶をやっているというので、いかにも海賊にふさわしいと考える人があれば、私は全く見当違いである、と思うのです。
ここで、もとになっているのは「軌」という概念である。つまり、レールである。レールというのは、東アジア、特に朝鮮半島を中心にする東アジアで、国と国との間にレールが敷かれているんだ。ルールがあるんだという立場をとっているんですね。
そのルールを倭が、倭国が侵した、と非難しているわけです。だから、海賊だったら、ルールがあるんだ、それを侵したなんて言ったってはじまりません。およそナンセンスな表現である。
一見無謀にみえる表現は、実は、高句麗の論理からいっても、「本来倭国との間には、こういうルールがあるはずだ。」こう言っているわけです。そりゃあ、あると思いますよ。あとあとのことを考えてみますと、高句麗はいちはやく、中国から「開府儀同三司」というふうな「楽浪公・開府儀同三司」というふうな称号をもらっています。
倭国も、それを真似(まね)して、といいますか「開府儀同三司」をくれ、と、何回も要求しているが、結局くれないわけです。いいかえれば、中国を原点とする東アジアのルールから言って、高句麗は倭国は対等じゃない。私の方は「開府儀同三司」を貰っているんだ。「三司」というのは、中国の天子のもとのナンバー1から3までをいうのです。それと同じ態度で儀礼を行う、天子を除いた最高のナンバー1から3の身分のものと同じ身分として儀礼を行ってよろしい、と、その承認をもらっているわけです、高句麗は。
倭国はくれくれ、と言ったけど、中国はくれていないわけです。と、いうことは、単に儀礼だけのことではなくて、要するに高句麗の理解とすれば、当然、「朝鮮半島は楽浪を原点として、我々が支配する。で、倭国はその秩序の中において、我々の承認のもとに行動すべきだ。」という論理で、当然出てくると思うのですよ。
しかし、これは五世紀の話ですから、ちょっとあとです。こういう、あとあとの様子からみても、この時に高句麗の目からみれば、今のべたような、高句麗側の論理があった、と考えても、単なる空想では、恐らくないと思うのです。
そういう意味で、高句麗側からみると、東アジア公認のルールに倭国は反している、と、こう言っているわけです。
と、いうことは「倭」を海賊と思っている証拠ではなく、れっきたる「倭国」と思っている証拠なんです。この点も、中国にしろ共和国にしろ、今後も「海賊説」を主張し続けたいたらば、この問題に対する適確な解答をして欲しい、ということがあったわけでございます。
時間がオーバーしましたが、一応ここで、つけたしとしては余りにも不足でございますが、説明をさせていただきました。 
質疑応答
質問 / 公孫氏(ユウソンシ)が三五〇年に亡びたわけですがその後、高句麗が好太王を含めて七世紀まで栄えたということは、どういうことでしょう。倭国と倭・韓のあたりの、力関係が大きかったと思われるんですが、その点、どういう風にお考えでしょうか。
古田 / 公孫氏と高句麗の違いは、民族が違うといういい方があるかどうかわかりませんが、少なくとも公孫氏はあの段階では、中国の一部分と、公孫氏自身考えているわけですね、だから、紹漢(ショウカン)元年というような年号があるわけです。その年号があるときは、戦斗開始という感じになるんですね、かなり短絡したいい方になるかもしれませんが。要するに公孫氏は、漢の時代は後漢ですが、漢の忠実な配下だと言っていたわけです。ところが、魏は、それに対して、漢を禅譲で受け継いだと称したのですが、どこもそうは思わなかったみたいですね。魏以外は。つまり、その当時、漢の最期の献(けん)帝は殺された、みたいなですね、そういううわさが、東アジアにずーっと流れましてね。蜀の方は非常に憤慨して、漢の正統を受け継ぐと称して自立を深めていくわけですね。一時、呉は魏に非常に心服を誓ってた時期があったのですが、それがやがて、反旗を翻すというんですか、又自ら天子を名のっていくわけです。魏にとって最初、公孫氏は、自分に忠実にやってくれているように見えていたわけです。ところが、今のように「紹漢元年」を名のって、「後漢をうけつぐ」ということになって、魏は戦いをいどむわけです。この理由は、はっきりしていると思うんですが、要するに公孫氏が、そこに、そういう形で、漢をうけつぐということにたりますと、蜀との後方、カニバサミみたいな両側からこれは軍事的に見て非常にまずいということになりますね。それからもう一つは、公孫氏が東夷の国々に対してもっていた力、これは、漢が公孫氏を通じて、あらゆる東夷の国々を支配していた要素があるわけです。単に楽浪・帯方だけでなくて。それがあぶなくなる。そうすると東夷の国々が、今の蜀系列に入るとか、いよいよもって、一公孫氏だけではなくて、東夷の国々が漢系列の蜀と相呼応するとなると、いよいよ魏は具合悪くなる。それだけではないと思いますが、他に理由があると思いますが、そういう軍事的要請からみましても、公孫氏を断固うつという決意をしていくこの間の面自い話のやりとりがあるんですね。これは時間の関係で省略させていただきますが・・・。
それに対して、高句麗自身は、別の民族ですから、これを亡ぼさなければならないという理由は、中国側にはない。高句麗が、中国の国家権力と激突する場合は、その例は魏の時に、高句麗へ毋丘倹(かんきゅうけん)を派遣して、高句麗をうち破って、日本海まで行っているんですが、しかし、この時でも、中国は、高句麗をなしにする、「亡国」にするという意図はなかったようです。公孫氏領域が、本来中国かどうかは、むずかしい問題があるわけですが、少くとも、公孫氏の段階では、中国の一部と考えられていた。しかし高句麗は、中国の一部とは考えてはいない。さっきの言葉で、うまく説明すれば「内臣」と「外臣」という言い方からすれば、高句麗は、「外臣」に属するわけです。公孫氏は、「内臣」に属するという、違いがございます。
質問 / 第三〜四面の守墓人問題について説明して下さい。
古田 / 守墓人問題ですね。これは藤田さんが非常に高い水準を保っておられる研究者なんですが、私が一応もうしあげて、そのあと、藤田さんに補ってというよりも、それ以上の所を言っていただきたい。守墓人問題は、従来、非常に議論が遅れております。今の、李さんの改竄説のマイナス面としてあげた、一つの例なんです。これは一目瞭然誰がみてもわかりますように、好太王碑は、一、二面は好太王の軍事行動というものが、はなばなしく描かれております。しかし、それに劣らず、三〜四面になりますと、守墓人間題に大きな分量がさかれているわけです。だから、好太王碑の目的は、好太王の勲績を明らかにすると同時に、守墓人の問題を確定する碑石であると言えます。先頭には(碑文の一面)高句麗の歴史が入っていますが、ところが守墓人問題を見ていきますと、いろいろ問題があるわけなんです。
藤田さんによりますと、拓本や雙鉤本で守墓人の数がまちまちであるということです。用語も違いがある。例えば国烟、看烟、という用語がでてくるんですが、都烟という概念が出てくる拓本と、出ていない拓本があるんです。そういう問題は藤田さんに言っていただくとして、私が申したいのは、軍事行動と守墓人問題が関係があるということなのです。
先ほど申しましたように、好太王は「旧民」というものをどうも「羸劣(るいれつ)」として、どうしようもなく劣った、差別的表現としか私には思えないのですが、そういう風に扱っている。これは問題とすべきところです。 
 
高句麗文化と楽浪墓 / 楽浪文化について

 

最近の学問的交流
冬の入口なんでしょう。しかし、ポカポカと暖かい陽気の日曜日においでいただき恐縮に存じております。
私は、今年は非常に忙しい日々でございました。中国の好太王碑、念願の好太王碑に二回(三月と八月)まいることができました。又、これも念願のアメリカのワシントンにまいりまして、エバンズ夫人とお会いし、討論し、かつスミソニアン研究所所蔵の土器類を十分に見せていただきました。さらに、九月(二十日)には朝鮮民主主義人民共和国の学者と大阪の茨木市で討論(ほんの入口ですが)をおこなうチャンスに恵まれました。今日の話も、共和国の方からもたされた史料に関する私の分析です。そして十月にはソ連の学者(イリーナさん)と大阪でお会いするというチャンスがありました。それに関連して、ソ連の学者から私の本(『多元的古代の成立』上・下)を読んで感想(論文のようなものー本誌・書評欄に掲載ー)が寄せられました。四、五日前、同じ方から今度は日本語でしっかりした内容の論文のようなお手紙をいただきました。これは、大阪でイリーナさんにお会いした時お預けした『古代は輝いていた』全三巻、『古代史を疑う』等を読んでの感想として、しっかりした骨組みのお手紙をいただきました。
国際的といいますが、海外の学者と交流、理解がわずか一年(本当は半年ちょっと)内に密集してあったわけです。もちろん中国でも王健群さんとか、集安県の博物館の耿副館長とかいった方々とお会いしたり討論したりしたことも非常に有益で記憶に残っております。
ということで、私として今までにない幸せな半年あまりでした。のみたらず皆様も御存知のように考古学的出土物が次々とでてきまして、東奔西走のうれしい悲鳴の一年間を過してまいりました。 
朴提上説話について
皆様にお話し申し上げたい件は大変多いわけですが、時間の関係で大きな間題に絞って四点ばかり話させていただきたいと思っているわけです。
ところで「十三日の金曜日」という映画がきているようですが、私は十三日の金曜日というのがツイておりまして、大変いい発見があるというジンクスがあります。この九月十三日の金曜日にもありました。新しい発見というのではなくて、従来から分っていたはずなんですが、大事な意味があるということを再確認いたしました。このことをまず最初に御報告申しあげたいと思います。
朝鮮半島側の歴史書であります『三国史記』の一節「朴提上説話」でございます。『三国遺事』では「金提上説話」となっておりますが同じ人物でございます。御存知のように日本の『古事記』『日本書紀』にあたるようなものを朝鮮半島側では『三国史記』『三国遺事』と申しております。『古事記』にあたるのがどちらかといえば『三国遺事』の方で、『日本書紀』にあたるのは『三国史記』の方でございます。この両方に共通してでてくる話というのは、案外少ないのです。その中で最も大量に共通している、全体として共通している話がこの「朴(金)提上説話」でございます。
時代は訥祇王(四一七〜四五七年)、五世紀前半から中葉にかけての新羅の王でありまして、この人が即位したとき起った事件である。四一七年時点の話なのです。つまり、王に即位したとき、この訥祇王はどうも嬉しそうな顔をしていない。そこで家臣達があやしんで聞きますと、「心の底に気持の晴れないものがあるのだ。私の弟二人(一人は高句麗へ、一人は倭国へ)は人質にとられている。自分のお父さんの時代から人質にとられていて帰っていない。このことを思うと自分が国王になったからといって、私一人が喜ぶわけにはいかない」ということを言ったわけですね。そこで家臣達がなるほどと、三人の賢者に相談した結果、智謀もあり勇気もある一人の人物に委託するよりしようがないだろうということで推薦されたのが朴(金)提上といわれる人物であったわけです。
この朴(金)提上は、「分りました」といって、まず高句麗に行った。ここのところは『三国史記』と『三国遺事』とではニュアンスが違うのです。この時の高句麗王は長寿王(好太王碑を建てた)。四一三年で即位しておりますから、即位して五年目の事件です。この長寿王のところに行って、訥祇王の兄として弟に対する気持を述べた。高句麗王は「分った」といってスンナリ人質を返してくれた(『三国史記』)。この点『三国遺事』はちょっと違います。高句麗は承知してくれないのでトリックを用いて脱出した話を、それ程長くはないのですが載せております。ここのところは、だいたい同じだけれど『三国史記』と『三国遺事』の話はどちらが先かとか、それぞれのバックにあった国際情勢如何というようなことを議論する場合は面自いのですが、今日はそのことは省略します。とに角、高句麗に人質に行った弟は国に帰ってきた。
今度は倭国だ、というわけです。『三国史記』によって申しますと、朴提上は「倭国は高句麗と違って、口で話しても聞く相手ではない。だから詐謀、トリックを用いて人質を取り返してこよう」、このように言って倭国へ出かけて行った。そして倭王に会って「私は新羅にあいそをつかせて逃げてきた。今度は倭王に忠誠をつくしたい」こう言った。ところが倭王は簡単に信用しなかった。しかし何日かたっている内に、朝鮮半島の雲ゆき、軍事情勢に大きな変化があらわれてきた。そして、朴提上がもらした「こういう風になると聞いています」という内幕と、国際情勢の変転が一致していった。そこで倭王は「このような正しい秘密をもらしてくれたからには、朴提上の言うことは信用できるのではないか」というふうに考えて、人質の王子と会わせることにした。ある日のこと、再会を祝するといいますか、倭王側と一緒に都のほとりの海で、一日舟をうかべて、魚を食べて遊んだ。一日遊んで疲れて夕方帰ってきた。そして寝室に入ったわけですが、いきなり朴提上が人質の王子に「さあ、準備してあるから舟に乗って脱出しなさい。私は残って後はなんとかやります。」と言うと、王子は「それではお前は危いではないか」「いや大丈夫です」こう言って王子を送りだした。王子は舟に乗って海上にのがれた。
翌朝、王子は起きてこない。番兵は「おかしいな。昨日、ああいう宴遊があったので遅れたのかな。」と思ってしばらく待っていたけれど全然出てこない。ということで、寝室に入ってみると提上だけで王子はいなかった。大変だということで王子の舟を追った。しかし海上はけむっており、王子は新羅の方へ帰っていたので追いつくことはできなかった。
その後、倭王は非常に怒り、朴提上を呼びだし糾問して、焼けた鉄の上に乗せて拷問し斬り殺してしまった。その後、朴提上の妻子は倭国に向っている岩に上がって、夫(父)に対していつもなごりを惜しんでいった。この点、『三国遺事』の方はより詳しく書いてありますが、大体においてこういうような話であります。 
『失われた九州王朝』以後の新発見
私の書きました『失われた九州王朝』の中に、この話をクローズアップして両方の原文訳を載せてありますので御記憶の方もあると思います。この時、私は『三国史記』『三国遺事』というものは彼ら朝鮮半島の人々の心情を深く表現しているものである。この点、津田左右吉が、『古事記』『日本書紀』に比べて『三国史記』『三国遺事』は全く情緒もなにもない、実に文化の低いくだらない本であると書いているが、とんでもない説であるということでこの話を載せたわけです。
それには違いないのですが、今回、九月十三日(金)に重要な論証に気がつきました。朴時亨さんの『広開土王陵碑』の日本語訳が八月に出ましたので、これを読んでいるうちに朴提上説話がでていました。それでくり返し『三国遺事』、『三国史記』を読んでみますと、これは独立して一つの論証になりうる、しかも重要な説話であるということに気がついたわけです。今、お話しした状況を考えてみますと、倭国の倭王の都というのは一体何処にあるのか、これはどう考えても飛鳥ではありえない。飛鳥は海に面しておりません。では浪速ならどうか。浪速でもどうも工合い悪いだろう。浪速が都だということになりますと、真夜中から朝までの時間で逃げきってしまう、新羅の方へ消えてしまうということがはたしてできるだろうか。とても無理ですね。瀬戸内海を逃げないといけないのだから、当時は狼煙というものがありますから、たちまちのうちに下関ぐらいまではアッという間に連絡がいってしまうかもしれません。瀬戸内海をうまく通りましても関門海峡で待っていてつかまるわけですから、真夜中から夜明けの間でとても逃げるわけにはいかない。もちろん、何かいい方法で逃げのびられないとは言いませんが、あの瀬戸内海もいかにして舟で逃げのびていったかという話が、説話として非常に重要な面白い話になってくる。ことに、関門海峡で両側から網をはっているのをいかに逃亡したかという、説話として実に面白い血わき肉踊る話になるわけです。朝鮮半島の読者は、瀬戸内海のことも関門海峡のこともよく知っているわけですから、浪速から逃げてきて夜明けに霧の中に隠れて後を追えなかったなんていうのでは読者は満足しないですよ。実際上逃げにくいし、逃げたとしてもお話として、その部分はかなり重要な部分にならないとおかしいわけです。
と、しますとこの倭王の都というのは浪速ではありえない。では何処か?一番分りやすいのは九州の北岸部、特に博多湾岸からですと、この状況は非常に分りやすい。対馬海流、我々の知っている海流ですが出雲から能登半島にぬけている。ところが実際は壱岐、対馬の辺りから分岐して北上するわけです。そして、ウラジオストックの方から南下してきた北鮮寒流と東鮮暖流とぶつかるから、竹島とか鬱陵とかは魚が豊富で漁船がここにきて拿捕(だほ)されたりすることになるわけです。この海流の存在を我々一般の日本人は意識していないわけです。こっちは知らなくても、朝鮮半島の人達は知っているわけです。そうしますと、博多湾たら博多湾を脱出するのが第一、対馬海流に到着することが第二、ヘタをすると出雲に行ってしまいますから、北上する海流に乗ってしまいますと逃げる方の勝ちなんです。追手がその海流に乗ると一緒に慶州に行ってしまいますからどうにもならない。相手が北上する海流に乗った、と分ったらあきらめざるを得ない状況なのです。これに必要な時間はまさに深夜から夜明けまでで十分なわけです。この間に博多湾岸を脱出し、北上する暖流に乗るかどうかというのが脱出の岐路を分つもの、になるわけです。ということで話は土地勘、地理勘にドソピシャリなわけです。朝鮮半島の人は海流の状況を知っていますから、あそこをその時間帯で乗り切ったんだなあと、血わき肉踊る思いがして読む、あるいは聞かされているわけです。まず計算し勇気をもって実行した英雄譚になっている。というふうに考えると倭国の都は浪速ではない、近畿ではない。九州の北岸、おそらくは博多湾岸あたりと考えると、ドンピシャリあたるという性格をもっているのです。 
史料批判
一方中国に『宋書』という本がございます。五世紀のことを五世紀に書いた同時代史料です。『宋書』の中に「倭国伝」がある。そこには有名な倭の五王(讃、珍、斉、興、武)のことが書かれていることを、古代史に関心のある人で知らない人はいない。
としますと、同時代史書である『宋書』と後代史書ではあるけれど内容的には非常に信憑性の高い『三国史記』、『三国遺事』(『失われた九州王朝』、『古代は輝いていた』で繰り返し述べたところですが、この二書には長所もあれば短所もある。日本でいえば、平安・鎌倉といった時代にできた後代史書である。しかし、長所として後で歴史家が書き加えたり、嘘の史料を差しこんだり、そういう形跡はどうも無い。過失で間違えているところはあると思いますが、意図して問違った史料を作った形跡は、まず私には見いだすことはできない。したがって『三国史記』、『三国遺事』にある史料はまあ一応信用できる。しかし、そこに無いからといって、事実が無いとはいえない。はやい話が、倭国の倭の事は『三国史記』の「新羅本記」では五世紀までは非常にたっぷりでてくる。六世紀には全くでてこない。これは倭国との交渉が無かったのではなく、六世紀部分の史料が脱落した。統一新羅の時にまず作られ、後代に受け継がれますので、両者の関係は禅譲ではないですから、平和的な権力移譲ではないですから、その時に多くの史料が焼かれたり滅びたりしているわけですから、六世紀の倭の史料がない。七世紀後半になると又でてきます。同様に、百済について倭の史料がないのは、百済と倭の関係が無かった証拠ではなく史料が失われた証拠である。高句麗についても、倭の史料が全く無いのも、高句麗が倭と全く関係をもたなかった証拠ではなくて、倭に関する史料が皆失われてしまったからです。百済も高句麗も滅ぼされてしまった「亡国」ですから。「亡国」の史料が散逸しているのは当然のことである。というふうな史料批判を述べたことがあります。ということでありますから、そこに存在する史料は信憑しうる性格の歴史書である。この点、日本の『日本書紀』等とはだいぶ性格が違うというわけなのです。)の両方を対比してみると、両者にある「倭国」というのは同一の「倭国」ではないか?両方にでてくる「倭王」というのは同一の「倭王」ではないか?今「ないか?」という疑問形をとったのですが、とるのがおかしいくらいなのです。なぜかというと、例えば同じ世紀に片方の中国の歴史書に「高句麗」とあって、片方の朝鮮半島の歴史書『三国史記』に「高句麗」とあって、それを別の「高句麗」でしょう、二つ「高句麗」があったんでしょうという人はだれもいないでしょう。「高句麗王」にしても、同じ世紀に同じ時間帯に「高句麗王」が二人あったんでしょうという人はまあいないわけです。「百済」についてもそうです。「新羅」についてもそうです。同じ世紀に「新羅」といえば同じ「新羅」です。偶然同じ名前の国が二つありましたという人はだれもいない。
同様に、人間の理性からみて当然のことですが、同じ判断に立ってみると『宋書』にでてくる「倭国」と、『三国史記』、『三国遺事』が共に述べている「倭国」は、同じ五世紀ですから(この話は五世紀前半から中葉にかけてです。『宋書』もそうです)これは同一の「倭国」である。そして又、同一の「倭王」であるとみなすのが、最も自然な人間の理性ではあるまいか。
これが何を意味するかといえば、倭王(倭の五王)は近畿の王者ではない。従来、日本の学界でこれだけは間違いないと教科書でも扱ってきました。「邪馬台国」は近畿説、九州説があるけれど、倭の五王については近畿に間違いがないのだという立場で、学界でも教科書その他で扱ってきました。実は、それは大きな誤りを犯してきたのである。倭の五王の都は九州の北岸部(おそらく博多湾岸)に面した所にあったのではないか、というテーマでございます。
この論証の特長は、『古事記』『日本書紀』という貴重な史料も含んでいるけれど、扱いによって危険なといいますか、後世の造作が加わっているというので非常に問題を含むものを一応のけておいて、第三者、お隣りの国、朝鮮半島の歴史書、中国の歴史書の両方の対比だけで答がでるということは、私は非常に重要なところであろうと思います。
中国や朝鮮半島の方は意図して、日本側の都をどこに移さなければいけない利害関係はないわけです。そういう意味では第三者の証言でございます。第三者が複数あって、両者の一致したところというのは、これはにわかに疑うことはできない。『古事記』、『日本書紀』の知識にたって「それは困ります」という疑い方は史学としてフェアでない、客観的でないといわざるを得ないであろう。
と、なりますとこの論は非常に重要な意味をもつのではないでしょうか。『失われた九州王朝』を御覧いただいたら、そういうことになっていたのですが、流れでズーと書いてきてましたので、この説話もその立場で理解できると処理していって、もっばら津田左右吉の歴史に対する見方は皮相である。朝鮮半島側の歴史書には、半島側の民族の深い歎きや悲しみがこめられているというところにポイントを置いたので、今言ったような独立した論証というところに、必ずしも私は目をむけていなかったということを、九月十三日(金)に再発見いたしました。
これはやっばり学界に対して、この問題を問うていきたい。この論証が間違っているとしたらどこが間違っているのか。「こういう史料は信用できるかどうか分りませんよ」と、自分のもっている歴史観と矛盾するからといって、そういう曖昧な言い方でもって回避してはたらないであろう、というふうに考えたわけでございます。
徳間書店からでます『古代の霧の中から』でもこのことを述べております。繰り返し学界に対して、この問題を提起していきたい、こう思っておりますのでまず皆様にお聞きいただいたわけです。 
楽浪文化について
次に、本日のメインをなします一つであります楽浪文化の問題に入らせていただきます。今年の九月、朝鮮民主義人民共和国の学者団が日本に来られ、同時にピョンヤンの壁画の写真とか模造品といいますか、そういったものを大がかりに展示しておられるわけでございます。東京の皆様は御存知ないと思いますが、九月に関西の宝塚でシンポジュウムが行われ、大阪梅田の阪急百貨店で展示が行われたわけでございます。十一月は神戸だったと思います。あと、博多か北九州の方で展示がされて、最後といいますか、来年の五、六月頃東京で展示が行われるということでございますので、その時に皆さんは御覧になれると思います。
ここで提起する問題は、皆様が展示を御覧になった後でお話しした方が適切であるということもいえるわけです。しかし又、反面からいいますと、この九月から来年の五、六月の問は共和国側の学者が次々と日本にやってこられているわけです。九月に共和国側の学者とお会いしたことは申しましたが、十月には別の学者達が来られたと聞いております。こういうチャンスが多いであろう。そうすると、当然、共和国側としては、これを国外に出すことによって、外国というか日本側のそれに対する応答といいますか反応を知りたいということが含まれてもいいと思います。そういう意味では国交がない国でございますのでちようどそのシリーズの間にこちらからの反応というものをださせていただくということは、有意義な国際的な学問的交流という意味で非常に適切なんじゃないか、こう考えましてこれから皆様に申させていただくわけでございます。
この内容は結論から申しますと、共和国側がもってきた結論・立場と大変違う、全く違うといっていい程相反する見解になるわけでございます。
共和国側の学界の性格からすれば、各学者の別々の意見があっても、こちらへもってくる時は、わりと意見統一をはかってこられるようです。「高句麗文化展」という立派なカタログを販売(阪急)されたわけですが、この内容もこういう統一的見解にたって作られているようであります。
この内容に対して、私はおかしいのではないかというふうに考えたわけでございます。しかし、おかしいのではないかというのは、国際友好上失礼であるという見方もあるでしょうが、私はそうでないと思うわけです。ちょうど中国の王健群さんともそうでした。私は遠慮なく、王健群さんの海賊説は誤っている、ということを三月にも八月にも論証をこめて直接申し上げたわけです。そういうことによってかえって深い友情といいますかそういうものを王健群さんとの間にいだくにいたった、というふうに私は感じております。
同じ様に、共和国に対して、ごもっともです、立派です、と言うことだけが学問的友情ではないのであって、間違っていると思った場合は間違っていると思う、とはっきり言うことが、本当の友情であろうと、私はそう考えているわけでございます。
お断りしておきますと、勿論これには大きな、一つの史料上の問題がございます。それは、私自身ピョンヤン(広い意味での)のそばのその古墳に行ってみていないということです。だから見ずにしゃべっている。これは歴史学上非常に危険なわけです。いってみれば、好太王碑の去年までの私と一緒なわけです。好太王碑の現物を見ずに、我々の手に入った史料から見ればこう判断できる、とこういうことでやってきたわけです。幸いにも私の判断は間違っていなかった、改竄はなかったということは事実上結着をみたと私は思っているわけです。李進煕さんはガンバッておられるようですが、名存実亡、論争の名前は残っていても実質の論争は、もはや解消されたというふうに思っているのです。
同じ様に、今回実物を見ずに、共和国側から提起された(幸い銘文の文章などがはっきりとでている)物によって議論をしているわけです。今日、私の申し上げる議論が本当に正しいかどうかということは、私がピョンヤンに行って、その古墳の壁画なり銘文を実際に見せていただいて、その結果、やっばりそうだ、とかいや私の考えは間違っておった、とかいうふうになるべきものであろうと思うのです。
だから、私が反対意見をもつことによって共和国側の学者が「それはおかしいよ」とこうおっしゃっていただくのなら、私の方は大歓迎でございます。「ならばぜひ実物をお見せいただきたい」というふうに申すつもりでございます。
こういう前提にたってこれからの話をさせていただきます。 
安岳三号墳
まず第一に問題になりますのは安岳三号墳です。壁画をもつ古墳として年代がはっきりしたもののなかでは、最も早いものとして知られているわけでございます。後で申しますように「三五七年」を示す絶対年代が書かれております。このように、古墳の中に絶対年代が書かれてあるとしたら、我々としては、うらやましくてうらやましくてしようがないという感じでございます。どれ程すごい値打ちがあるかお分りいただけると思います。
しかも、この古墳はワンルームではない。ワンルームというのは変なんですが、我々が知っている飛鳥の高松塚古墳はいってみればワンルームなんです。ところが安岳三号墳はワンルームではなくて、部屋がビッシリあるわけなんです。地下宮殿なんですね。この地下宮殿の各部屋に壁画がビッシリつまっているわけです。それを見るだけでも、論争の為なんていうことではなく、見たいという感じがするわけです。皆様もそうだと思います。壁画がビッシリつまっているだけでなく、そこに人物がおびただしく描かれているわけです。皆様にお渡ししたコピーではだせませんでしたけれど、「行列図」というものがございます。これは王と王を護衛する文武高官、楽隊、儀伏兵、武士達二百五十名が登場する。しかも、二百五十名なんて点や棒の様に描かれていると我々は思いがちなんですが、そうではないのです。朝鮮画報社から大冊がでている『高句麗古墳壁画』を見ますと、二百五十名一人一人人相が書いてあって、はっきり分るというふうな画なんですね。まさに壮観で、保存状態もいいわけなんです。本当に瞠目(かつもく)すべき、驚くべき壁画でございます。
さて、こういう古墳壁画で何が問題かを言います。ここにこの古墳の主、つまり被葬者の顔がでている。皆様のお手元のコピーの右側がそうです。古墳に葬られた人の顔が分るなんていうのは、我々にすれば夢みたいなものです。ここにはちゃんと顔や姿が描れている。コピーでは省略して分からないのですが、左側にはお后の顔や姿がきっちりと描れているわけです。これが、古墳の主であること、中心の被葬者であることはどうみても疑いないわけです。こういう人物は一人だけですから。
ところが、ここに奇妙な人物が一人いるわけです。入口のところに「帳下督(ちょうかとく)」といわれている人物が描いてある。「帳下督」というのは侍従武官を意味する役職名です。それがここに描いてある。これは先程の人物より格がだいぶおちるという服装をしております。これが何故「帳下督」と分るかといいますと、赤い字でそばに書いてある、朱で「帳下督」と書いてある。これで、この人物が「帳下督」という役目の人物だということが分るわけです。
有難い話ですね、例えば、高松塚でも壁画の横に役職名を書いてくれていたら、学者が議論しなくてすむわけですよ。ところが、それがないから、いろいろ苦労するわけです。
それはいいのですが、その上に字がピッシリと書かれているわけです。私は文献から古代史に入った人間ですから、字があると目が輝くわけです。字が書いてある。読んでみます。
永和十三年十月戊子朔廿六日
癸丑使持節都督諸軍事
平東将軍撫夷校尉楽浪
相昌黎玄菟帯方太守都
郷候幽州遼東平郭
都郷敬上里冬寿字
□安年六十九斃官
永和三年は三五七年です。共和国側の統一見解だと思いますが、
この墨書は、燕から高句麗に亡命してきた冬寿が、高句麗の各官職を歴任して三五七年十月二六日に死去したということを語っている。同時に、この墨書は、下の入物図によって示されているように冬寿が、高句麗において侍従武官すなわち、帳下督(チャンハドク)をしていたことを語る。
という解説があります。
つまり、この解説によりますと、この人物の上に書いてある文章は、長い大変素晴らしい経歴です。「使持節都督」なんていうと、『宋書』の『倭国伝』をお読みにたった方は倭の五王のところで出てくる表現だということを御記憶でございましょう。倭王なみですね。そして、「撫夷校尉」とか「楽浪相」とか。「昌黎」というのは地名です。「玄菟」は玄菟郡の「玄菟」、「帯方」は帯方郡の「帯方」の「太守」、そういう役職をもっている。その次の「幽州」(現在の北京を中心にして遼東半島にかけて、時代によって広い狭いはありますが、広がっていた)の中の遼東半島の中の敬上里という所の出身であるというかたちで書いている。この土地の出身の冬寿という人物が非常にきらびやかな官職を歴任していることが語られ示されている。
ところが、これは解説によれば帳下督の肩書である。こういう輝かしい地位にあった人が高句麗に亡命してきた。そして、高句麗王の侍従武官(古墳の入口の所に描いてありますから、古墳の中にいろんな人物が並んでいるなかの一番下)になってつかえていた。その人物のことを書いているんだという解説なんです。
つまり、この古墳は高句麗王の古墳である。だから高句麗壁画である。ここにもっている本にも高句麗古墳壁画となっています。高句麗古墳壁画の最初を飾っているのが、この安岳三号墳です。『高句麗文化展』にも載っています。つまり高句麗文化の先頭を飾るのが安岳三号墳である。なぜかなれば、それは高句麗王の古墳であるからということになるわけです。
私は、これを読んで非常に単純な疑問を感じざるを得たかったのです。皆様も、今お聞きになってどこかひっかかるところがあったと思うのですが。
つまりこれは古墳であります。一人の人間が死んだ、中心人物が死亡したことによって造られた墓があります。こんなことはいうまでもないことです。これは間違いのないことですね。ところが他方において、地下宮殿のような宏大な古墳ですが、この中に死亡記事が一つだけある。今読んだ「冬寿」に関する死亡記事、これ一つしかないわけです。他にはどこにも死亡記事はないのです。文章のあるのはここだけだし、その文章も、死亡記事としての文章が一つしかない。
ところが、共和国側の共通見解によれば、その一つしかない死亡記事は死亡した人の墓である御本人とは無関係なんだ。かつては偉かったんだが今はペイペイになって高句麗王につかえている、その人が死んだ死亡記事にすぎないんだという処理になっているんです。
「これ、本当かな?」という気がしませんか。別に亡命生活をしたから死亡記事を書いてはいけないとはいえないですよ。書いてもいいんだけれど、それなら、より麗々しく死んだ高句麗王のことを書いて欲しいじゃないですか。日本のように死亡記事を壁画に書かない国ならしようがないですが、書く習慣なんだから、これだけの文章によくこれだけ盛り込んで整然と書いているんでしょう。だのに、肝心の御本尊のことは一切、名前もいつ死んだかさえ書いていない。これは、ちょっとアンバランスすぎるのではないか、というのは、人間の一番の常識に属することだと、と思うのです。
私の言いたいことはお分りでしょう。この墓の中に存在する唯一の死亡記事はこの墓の主の記事ではないか。これは勿論、私が初めて気がついたことではたいのです。従来、しばしば「冬寿墓」とよばれているのです。「冬寿」と名前がでてくる墓だから、議論がどれほどされたか知りませんが、なんとなく「冬寿」自身の墓だろうという感じで扱われてきたのは普通だろうと思うのです。
ところが、これに対して共和国側は違うのだ。「冬寿」というのはペイペイの侍従武官の名前である。この古墳は中心の高句麗王の古墳である。というふうに、新しい共同見解をだして、この共同見解をバックに日本で展示するということになってきたようです。
さて、今私が申しましたのは常識論でありますから、この常識論でいいのか、悪いのかという論証がキーポイントになってまいります。そこで、私は「ああ、これは!」と思ったことがございます。先程の行列図のところにこういう解説が載っております。ちょっと読ませていただきます。
壁画の雄壮な内容と規模の大きさには高句麗人のおおらかな気性と覇気が反映されている。この行列の中に旗手がいるが、彼らは行進する時、王の輿車の前で王の身分を示す旗を持って立つ。安岳第三号墳・行列図の標識旗には「聖上幡」の文字が黒地に朱色で書かれている。聖上は王を意味する。この旗は主人公が王であることを知らしめす御旗(王様の旗)なのである。
つまり、二五〇人を従えた行列の中に旗を持っているのがいる。その旗には黒地に朱色で「聖上幡」と書かれている。「聖上」とは王を意味するものである。だから、この行列は王の行列である。
これは、共和国の共同見解がいかなる結論に達したかということを、簡単なこういう解説ですが、ここに盛りこんである。解説というのは、簡単にみえても時間をかけて共同討議の上で作られた、非常に周到な解説という感じがいたします。我々にとっては有難いことです。
これに対して、私は「これは違うな」と思ったわけです。「聖上」という言葉は中国で作られた言葉です。『史記』、『漢書』、『三国志』、『宋書』とでてくる言葉でございます。ところが、「聖上」という言葉は王を意味する言葉として使われたことは一回も無いと、私には感じられているわけでございます。誤解をしていただかない為に申しますと、周代には「王」という言葉は「天子」を意味しています。その「王」ならいいのです。つまり、私が言いたいのは、中国では「聖上」とは、天子を指す言葉なのです。
日本では「聖上」といえば天皇を指す。戦前の方はよくお分りでしょう。例えば、皇太子やその弟さんを「聖上」と言えば「なんだ」ということになるでしょう。やはり天皇しか「聖上」と言えないはずということは年配の日本人たらピンとこられると思います。
中国の歴史書で「聖上」は天子以外には用いない。皇太子や諸王には用いない。しかもこの用例は古く『史記』、『漢書』段階からありますと同時に、いわゆる『晋書』(東晋の史料)の中にも「聖上」がでてくる。東晋の天子を指す用例がでてまいります。
しかし皆様は、中国ではそうかも知れないが、現代日本で「聖上」と言えば天皇であるように、高句麗の国で「聖上」と言えば高句麗王を「聖上」と言えたんではないだろうか、こうお考えかもしれません。
ところが、それは駄目です。何故かと言うと、先程の「永和十三年」という年号がこの古墳の中にちゃんと書かれている。これは言うまでもなく東晋の年号でございます。これは共和国側も異論はないわけです。
東晋の年号を使うということは、どういうことか。これは、単に便利だから使うということではなくて、“東晋の天子を原点と考える”という大義名分上の意義をもっているわけです。現在の我々が西暦を使うというのとはだいぶ違うわけです。西暦を使うというのは、本来クリスチャンでございます。だから「イエスが生まれました年を、元年と考えます」という信仰告白のはずなんです。本来は。だから、アラブ等に行くとなんだ、お前はと言われたという話があります。アラブ諸国は、「アラーの神以外に神聖な最高の存在はない」とこうなるわけです。ところが、我々日本はそういうところがなくて、クリスチャンではなくても便宜上西暦を使っています。実はこの方が異常といいますか、安直なんですね。信仰告白というのが本来の使い方であるということなんです。
余談になりますが、明治、大正、昭和というのは保守的だ、進歩的な歴史をやるには西暦にすべきだという議論がありました。特に戦後言われたり書かれたりしました。しかし、私なんかは少しひっかかるわけです。西暦というのはクリスチャンの大義名分用語でありますから、それを進歩的といわれても「本当かいな」という感じがあるわけです。便宜的にクリスチャン年号を借用しているというのにすぎないのじゃないのか。アラブ人もクリスチャンも共通に使えるような年号を人類が発明すべきだと思います。要するにイデオロギー年号というのが普通であって、イデオロギーを脱した年号を人類が今後発明するか否かにかかっているといっていいのじゃないですか。歴史を学ぶ者は、流儀や宗派にとらわれざる年号を発明するところに至らなければ、人類史は新しいポジションを獲得できないのではないか。話は余分ですが、少しこういった問題をはさませていただきました。
年号のもつ大義名分性というものから考えまして(我々が西暦を使っている現代ではないです)、しかも、南朝と北朝が対立していた時代です。東晋の年号を使うということは北朝と敵対する、北朝を敵視するという表明であるわけです。「イヤーうっかり使いまして」が通用できない時代です。だれのことをいったものであろうとも「永和十三年」は古墳の中に書かれているから、この古墳の中の文章は東晋の天子を原点として書かれております、ということなのです。私には、こうとしか理解できません。
としますと、東晋の天子を原点として「聖上」といえば争う余地はないわけです。東晋の天子のことを「聖上」といっていると考えなければならないわけです。高句麗王である、年号はちょっと借りましたという、現代人の安直な理解でなくて、四世紀における、正当な見方に立とうとするならば、「聖上」は、東晋の天子以外を指すことはできない。では、何故東晋の天子がでてくるかといいますと、行列の主人公が東晋の配下の主人公ではないだろうか。東晋の天子の配下、「楽浪相」であるとか、「帯方太守」とかは東晋の天子の配下の「楽浪相」、「帯方太守」である。
我が家の、自分で作ったデザインの旗を持って行列するのではないわけです。東晋の天子の旗を持って行列するのです。これは、要するに虎の威を借る狐じゃないですが、「楽浪相」自身がえらいのではなく、東晋の天子の任命によって「楽浪相」なので、「楽浪相」に刃向うことである、これがこの旗のもつ意味たのです。
これは、大義名分論からいってもそうなんですが、それだけではございません。『晋書』、同時代史料として著名な『宋書』にはっきり書かれておる。将軍が持つべき旗は天子の旗、それを掲げて行進するという規定が書いてある。『宋書』には「百官志」とか「礼儀志」とかいういろいろあるわけですが、その中に「持つ旗」のことまで書いてある。もし、将軍が天子の旗ではなくて自分の旗を持ったら不遜で、「自分が一番えらい」と思っていることになるわけです。そうではなくて、自分を将軍に任命して下さった天子の旗を持って行進する。「こういう身分の者には、こういう旗」とみな書かれている。その表記に一致しているわけです。
そうなりますと、いよいよもってこの行列の「聖上幡」の「聖上」というのは、東晋の天子の配下から見た「聖上」のことでなければならないというわけです。
さて、それでは問題は、共和国側の学者の論点(これが高句麗王の墓だというのは、言い換えれば、唯一の死亡記事が真下の「帳下督」の死亡記事だと同じ論点なのです)です。
この論点に非常に有利にみえるのは、この死亡記事が墓の中心人物、威厳をもった人物のものなら、威厳をもった人物の頭の上に書いたらよかろう、何故「帳下督」と朱で書かれた、貧相なというとおかしいですが、瓜実顔の、それほど威厳があるとは見えたい人物の真上に書かれている。これは真下の人物の説明であるからだ、というのが共和国側の学者の一つの強調する論一点で、「成程」と思われるところがあるわけです。
ところが、この問題も解決がついてまいりました。私の解読が「間違いないな」と感じましたのは「帳下督」という名前が『晋書』にでてくるからです。文章の中に「帳下督のだれだれに命じてどこどこに行かせた」と東晋の時代にでてまいります。又、先程の「百官志」にもでてまいります。
つまり、「帳下督」というのは東晋の官職名なのです。文章の中では「帳下督のだれだれに命じて」という形ででてくるだけなんですが、「百官志」をみますと、「帳下督(くわしくいいますと、帳下都督というのが正確な名称なのです。帳下督は略称。都というのはミヤコという意味ではありませんで総て、『都合○○』というときの意味です)」と、それに対するものが「外都督」(将軍の配下の一角にいる)。
考えてみますと、「帳」というのは「とばり」で、「将軍の陣営」のことを「帳」といっているようですね。陣営の内部のポジションすべてを監督するのが「帳下都督」、略して「帳下督」。
それに対して、陣営の外、将軍の配下の軍隊をすべて監督するのが「外都督」。この二つの職が将軍のもとにあるようです。
しかも他の官職名をみていきますと、「令史」あるいは「記室督」という記録官が将軍のもとにある。これは「帳下都督」の方に属するようですね。つまり、将軍配下の陣営内部のことは(書記局というんですか)みんな「帳下都督」が支配しているようなんです。
言い換えると、「令史」とか「記室督」とか記録官は「帳下都督」の支配下にあるようです。
それに対して、純粋な軍事の方は「外都督」に属するようなんですね。
言い換えますと「帳下都督」というのは書記局長みたいなものですね。記録官を取り締っているわけです。本人は武官なんですよ。しかし、将軍配下の文官たちというのですか、記録官を取り締っている役目なんですよ。と、しますと、この将軍が死んだ時にその死亡記事を記録するのは、「この帳下都督」の下の「令史」か「記室督」の役目になるわけです。
だから、「帳下督」の頭の上に書かれていたというのは“「帳下督」の責任でこういうふうに記載いたしました”ということで本人の頭の上に書いてある、というふうに理解すべきであるというふうに私は考えたわけでございます。
これは仮説です。「帳下督」の頭の上にあるから「帳下督」の経歴だというのも一つの仮説です。
私が理解しましたように、頭の上にあるのは「帳下督」は書記局長で、本人が直接書くのではなくて、自分の配下の者に命じて「こういうふうに死亡を記録いたしました」という意味で書かした、というのも一つの仮説です。問題はどちらの仮説が全体と合致するかということです。先程言いました「聖上幡」の問題とか、年号の問題とかの問題に対応するのは、私の方の仮説(「帳下督」の頭の上にあるのは本人の経歴だから頭の上にあるのではなくて、記録する係だから「帳下督」の頭の上にあるのだ)で、全体の理解と合致するわけです。
なお、一番最後に私にとり興味深い問題があらわれました。
「斃官」です。辞書にないのですが、初め官に斃ると理解した。「斃れてのち止む」という言葉がありますように、“官を遂行中に死んだ”という意味に考えざるを得ない。そうすると「官」というのは、その直前に長ったらしい「冬寿」の官が書いてありますから、あの官の途中に死んだというふうに文章を読まざるを得ないわけです。“あれは、過去の昔の「官」でありまして、亡命してきまして、今、侍従武官に拾ってもらいまして、その侍従武官の「帳下督」の時に死にました。”ということでは、「官に斃れる」とはいえないわけです。
官に斃るを、上の文章の続きを無視して、朱で書いた横の人物「帳下督」の真最中に斃れたんですというのは、やはり、文章の読解としてあまりにも不自然だと考えます。したがってこの人物は先程の高位の任務を遂行中に死んだ、こう考えたのです。「帳下督」ではなくて「楽浪相」がなにか真最中に死んだ、と理解したのです。と納得しておったんです。このあと、よく見てみると、とんでもない問題があらわれてきました。
『高句麗文化展』をよく見ますと、「帳下督」の上に墨で書いた字がかなりよくでております。「斃(こう)」が「薨*」なのです。「薨*」は古くは「薨(こう)」が正式な字なのです。すると、どうもこれは「薨」という字じゃないか。
これは、私だけの独断ではなくて韓国側の金元竜が(金さんが読まれたのか、それまで読まれたのを受けつがれたのか知りません)「薨」と読まれている。
写真版がないと判断できかねるのですが有難いことにピントの合った写真版を図録で共和国側が提供してくれましたので、これを見ますと、私の目には「薨」なんです。「斃官」ではなく「薨官」だとすると、「薨官」は辞書には無い(辞書というのはそれなりのまとめた知識ですから、辞書に無いから嘘だとはいえないのですが、辞書に無いことが私には気にかかっておったのです。辞書に無いなら無いで論証がいるわけです)。
「薨官」も無いのですが、『宋書』、『晋書』をみていきますと、文章の中に「卒官」がでてまいります。これも辞書にはないのですが、文章前後をみると間違いなくこの人物は真面目で、二四時間仕事に勤務精励していたがついに「卒官」。つまり「官に卒す」、仕事をしている真最中に死んだ。職務遂行中の死ということで、「昔そういう官職にいた時に死んだ」というのではないでしょう。まさに、「自分の任務の真最中に死んだ」というのを現わすのに「卒官」と表現している。
そうしますと、「卒」と「薨」では意味は同じで位が違うわけです。つまり死ぬことには違いない。だれでも「薨」とはいえない。一定の身分がないと「薨」とはいえない。時代によって「薨」を使う身分は変化しております。唐は唐の用例がありますが、古くは、そんな細かい用例ではなくて、諸侯が死んだ時に「薨」という。
御存知のように、天子が死んだら「薨」ではないですね。「崩」です。諸侯等に「崩」といったらえらいことです。「崩」というのは天子しか使えないというように、同じく「薨」というのは「諸侯」が使うのです。
私はまだ「薨官」というのを発見しておりませんが、「卒官」というのははっきりありますので、身分が違えば、「卒官」があれば「薨官」という用法があっても不思議ではない。辞書にはないけれど、これでいいと、私は考えたのです。
ながながと私が言っている意味はお分りでしょうか。つまり、この死んだ人物は諸侯である。「帳下督」ではない。「帳下督」で死んだら、侍従武官です。こんなものを「薨官」とは表現できない。
「亡命」等という大事な事を推定して、引っぱりこむのではなくて、あの墨字の文面だけで読めば、どうみたって「楽浪相、昌黎、玄菟、帯方太守、都郷侯」の真最中に死んでいるわけです。これは「薨官」になるわけです。
だから、この墨字の人物は侍従武官ではない。諸侯である。しかも、東晋の天子を原点とした諸侯である。それが死んだ、こうなるわけです。
だから「薨」の判読は非常に重大なわけですよ。「聖上幡」に並ぶというか、それ以上の決め手になるわけです。
これから先は言うと言い過ぎになるかもしれませんが、遠慮なく言わせてもらえば、共和国側がなぜ「斃官」と読んだか。「薨官」と読めば、「帳下督」の説明にならないと知って読み変えたとすると、ちょっと具合い悪いですね。「斃」と書いてあるのは誤植があるかもしれませんので、このへんは、共和国側の論文とか、そういうもので見たいと思います。ハングルの読み方を習って読みたいと思います。そういうものを見た後でないと、正確な判断はできません。
ともあれ、この活字が「斃官」なら、同じく辞書にはないが、「帳下督」の説明でいけるわけですが、私が写真判読で見たように「薨官」であるとすれば絶対に「帳下督」の死亡記事ではあり得ない。この古墳の中心人物「楽浪相、昌黎、玄菟、帯方太守」で、出身は「遼東半島」の「冬寿」の墓である。
これは、言ってみれば東晋墓、東晋配下の墓、言いかえれば楽浪墓である。
「相」というのは「宋書百官志」にいきさつが書いてある。「宰相」というのは皆様御存知ですね。総理大臣を意味するものとして知っていますね。ところが、総理大臣だけではなく、各将軍にも「宰相」がいたと書かれています。その後、都も各将軍の所も「宰相」では具合いが悪いから、「宰相」は都だけにし、よそは「相」と呼ぶことにしたと書いてある。この「相」ですね。ちゃんと南朝の呼び名に「相」があるわけなんです。
この場合、楽浪の太守が別にいたのかも知れません。それはちょっと分りませんが、『宋書』にでてくる「相」という東晋の官職を名乗っている人物なのです。
「楽浪相」であると同時に「昌黎、玄菟、帯方太守」を兼ねている。兼ねている場合、申し上げなきゃならない大事な問題があるのです。「帯方」は「楽浪」から分れたのですが、「楽浪」より位が低いというとへんですが、より由緒があるのは「楽浪」なんです。
ところが「昌黎、玄菟」という所を東晋が支配していたということは、まず私の理解では無いと思います。当然、北朝側の支配下です。南朝側ではない。それでは、「おかしいじゃたいか」と思われるでしょうが、そうではない。当時の南北朝というのはややこしくて、東晋から言えば(我々が東晋といっているだけで、洛陽(都)を中心とした晋が建康に移っただけで、北半分は「反乱軍の占領下にあるというだけ」の立場)本来晋の一部なんですから、その領地の官職名も任命されているわけです。
逆も又真なりで、北朝側の魏書を見ますと、南の方、揚子江流域の官職名もでてくるわけです。本当に北が支配していたかというとそうではない。虚名といいますか、形式的に官職名を任命しているわけです。
例えば、『宋書』をみていきますと、こういう官職を書く場合、ややこしいですわね。こういう場合ちゃんとうまい言葉がありまして、「偽○○大将軍△△」つまり「偽者の○○大将軍△△」というわけです。南朝にでてくると北朝側の、北朝側にでてくると南朝側のと分る仕組みになっているわけです。
余計なことを申しますと、今年二回中国に参りましたが長春の博物館に行きますと、いわゆる日本軍の侵略を問題として展示した博物館がありまして、藤田さんや山田宗睦さんと見学したのです。解説に「満州国帝云云」という言葉がでてくるのですが、この場合「偽満州国皇帝云云」。この「偽」がなかったらえらいことです。この「偽」というのは、はじめは「ギョッ」としますが、中国の伝統のある「偽」の用例なんですね。似たようた現象が、大陸の中国と台湾の中国とであるのではないでしょうか。私は知りませんけれど、おそらく、あるんじゃないでしょうか。
日本ではあまりこういう形の経験が比較的少なかったかもしれませんが、中国では書式まで歴史書の伝統があるわけです。と、いうことで、ここの「昌黎、玄菟」というのは実際に東晋がここを支配したということではなくて、形式的な授号であろうと、私は理解しているわけであります。
と、いうことで、この高句麗画の筆頭にきます最も有名なといいますか、大事な高句麗壁画といわれるものは、実は高句麗壁画ではない。東晋系列の楽浪墓であるという答になってきました。
しかし、私が言ってきたことはそう不思議な議論ではないと思います。おそらく、従来はそう理解されることが多かったのではないかと思うのです。先程言ったように、私は戦前の研究を再検討しなおすという作業をまだ出来ずにいますので、来年度はまたそういうことをお話できるかもしれません。梅原末治さんの本等をみましても、必ずしも粗雑な意見ではたいと思うのです。ところが、何十年来か、しばしば耳に入ってきた共和国側の研究によると、「楽浪文化といってきたけれどあれは間違いだ。あれは元々朝鮮文化だというのが大変はっきりしてきた。」という話が何回か耳に入ってきておったのです。しかし、それは何を意味するのか、楽浪郡というのがちゃんとあるのにどうしてそんなことがいえるのだろうと不思議に思っていたんです。ところが今の問題などは、楽浪墓と考えるのは間違いで高句麗墓、高句麗文化、朝鮮文化であるという主張を共和国側が共同理解として日本にもってきたものであったようでございます。
もちろん、私の方は楽浪郡をひいきするいわれもないのですが、問題はどちらに有利とかどちらをひいきとかいうのではなく、歴史学はあくまで実証である。実証のおもむくところは、どちらが有利になろうと、不利になろうと(こちらが歴史を作るわけではございませんので)どちらでもいい、というのが日本列島の中の『古事記』、『日本書紀』を扱う場合の私の姿勢であることは、皆様御存知いただいているとおりであります。
この問題でも、実証的に文献を処理するかぎりは、さっき申したような結論にならざるをえない。これは、東晋配下の楽浪墓という形で理解せざるをえないのではないかということでございます。 
徳興里壁画古墳
さて、次に安岳三号墳につづいて重要とされている高句麗壁画がございます。」レジュメNo.2の「徳興里壁画古墳」というものでございます。ピョンヤンの南にあたる徳興里にある壁画古墳です。
この古墳にふくよかな顔の人物が描かれておりまして、これが葬られた中心人物でありますことは、まず疑いがないわけです。この人物の墓誌が壁に書かれているのです。日本のいわゆる「天皇陵古墳」といわれているものを開けてこういうのがでてくると本当にうれしいですけれど、そういうのがちゃんと書かれている。
参考表示(これを元に史料批判は論外です。少しは、文章が分かりやすいと考えて表示しています。
□□郡信都[杲*彡]都郷□甘里
釈加文佛弟子□□氏鎮仕
位建威将軍国小大兄左将軍
龍驤将軍遼東太守使持
節東夷校尉幽州刺史鎮
年七十七薨[口人]永杲*十八年
太歳在戊申十二月辛西朔廿五日
乙襾*成遷移玉柩周公相地
孔子擇日武王選時歳使一
良葬送之(後)富及七世子孫
番昌仕宦日遷位至侯*王
造[土蔵]萬功日[急攵*]牛羊酒宍米粲
不可盡[手□]旦食監[豆攵]食一椋記
之後世寓寄無[弓亘*]
(後)は、不鮮明。「後」と読んだものです。
[杲*彡]は、杲の「日」の代わりに「白」。さんづくり。
[口人]は、口偏に人。
杲*は、杲の「日」の代わりに「白」。
襾*は、襾の下に一。
侯*は、異体字、JIS第4水準ユニコード77E6
[土蔵]は、土偏に蔵。
[急攵*]は、心の代わりによつてん。JIS第4水準ユニコード715E
[手□]は、表示不可。手偏にほぼヨと田と一。
[豆攵]は、豆偏に攵。
[弓亘*]は、弓偏に「亘」を書き、中の「日」の代わりに「田」。
一行目は、この人の出身地なんでしょう。二行目「釈加文佛弟子」と仏教の弟子であることがでてまいります。そして「□□氏鎮」、この「鎮」が名前で、姓にあたるのが「□□氏」ですが、消えている。
三行目「国小大兄」は疑いのない高句麗の官職名(解説にもでてまいります)です。六行目「薨」がでてまいります。将軍であり太守であり刺史でもありますから、諸侯扱いの「薨」でいいわけです。「永杲*」は好太王碑にでてくるので有名な「永楽」です。好太王碑にでてくる年号と同じ年号がでてくるので、非常に注目されるところです。
八行目「周公相地」、周公というのは周の第一代武王の弟で、第二代成王の叔父さんで「左治天下」摂政の役をした有名な周公です。「相地」、周公は土地が、いい土地かどうか見分けるのがうまかった。
九行目「孔子擇日」、孔子はこの日はいい日かどうかを見分けるのがうまかった。「武王選時」、周の第一代の武王は時を選び、殷を打ち倒した。革命の時をよく選んで成功した。土地と日と時を選ぶ名人を書いてある。「歳使一良葬送之後富及七世子孫」、土地を選び、日を選び、時を選んで葬ったので、その報いは七世の子孫にまで及ぶであろう、ということが書かれています。
これの解説をみますと、「信都は今の博川、雲田地方で、鎮という人は建威将軍から始まって国小大兄、左将軍、龍驤将軍、遼東太守等をえて使持節東校尉、幽州刺史の官職を歴任した。二番目の国小大兄は、高句麗だけにある固有の官職である。彼は高句麗第一九代の広開土王(好太王)の臣下であり、年令七七才で死去し、永楽十八年(四〇八)十二月二五日、ここに葬られたのである。
ここに見える永楽という年号は、広開土王が独自に用いた高句麗の年号である。この墓誌銘を通じで、高句麗にも幽州があり、その版図が遼河を越えて実に広大であったという極めて重要な事実が初めて明らかにたった。」と書かれている。
つまり、この解説の主張は、「幽州の刺史(幽州だけでなく、周辺のいくつかの太守を支配する、監督する役目をもっている)という重要な役目をもっているのだが、この幽州というのは高句麗の中の幽州であった。」というのです。
幽州というのは中国で有名な場所です。この幽州ではなくて、高句麗の中に別な幽州があったという重大な事実が分ったという説明になっているのです。どの辺になるかしりませんが、高句麗にも幽州があったんだという重要な事実があったという解説になっているのです。
ところで、皆様もお感じになるでしょうが、東アジアの世界で幽州といえば中国の中です。それを知らなきゃモグリであるという感じです。それに接近して、高句麗にも幽州があったという解釈をしているわけです。そこの官職名だといっているわけです。
同じ時代に、倭国が一つ、である。高句麗が一つ、百済が一つであるように、倭国が一つであると申しましたね。
ここでは、幽州が二つあります。中国の幽州と高句麗の幽州が二つ並んでいたということになるわけです。本当にそうだろうか、というのが私の疑問となったわけです。
ところで、皆様もお気付きでしょうが、「永楽十八年」というのは、好太王が十八才で位についてから十八年目、三十六才くらいですね。好太王が位についた時は、この人物は七七引くと十八ですから五九才、今の私ぐらいの年令で位についた。言いかえると、好太王が位についた時は、大体この人物は自分の生涯のかなりの部分を終えていたわけです。
すると、ここに書いてある彼の麗々しい官職名は、もしかしたら、四十代、五十代の官職名ではないだろうか、という問題があるわけです。
しかし、「永楽」という年号があるわけですし、これが高句麗の年号であることは間違いないわけです。安岳三号墳は、東晋の年号がでていながら、それを原点に理解するという立場を共和国側がとっていたかったわけです。私はおかしいと生意気にも手厳しく申し上げたわけです。
今度は、「永楽」という好太王の年号がでているから、この文面にでてくる官職名は全部高句麗の官職名である。だから、幽州も中国ではなく高句麗の幽州である。それだけではなくて、国小大兄以外、全部中国にあるわけです。建威将軍、左将軍、龍驤将軍、遼東太守、使持節東夷校尉等、特に使持節は完全な中国の有名な官職名です。倭の五王、倭国伝で御存知のように、中国側の有名な官職名の表現法です。それ等とそっくり同じものが高句麗内部にあったという解釈になっているわけです。
すると、地理的に幽州が並んでいるだけではなくて、龍驤将軍というのも中国製の龍驤将軍と高句麗製の龍驤将軍、中国製の左将軍と高句麗製の左将軍、中国製の使持節東夷校尉と高句麗製の使持節東夷校尉というふうに、しょっちゅう同じ名前で並んでいたという解釈になるわけです。
そうあってはいけないとは申しませんが、本当にそうだろうか。高句麗側は永楽以外に年号を使った例はそう多くありません。延嘉という仏像にでてくるのがありまして、これがいつかというのが悩みの種になっているのですが、他に全く年号がないとはいえませんがあまりみられないわけです。
逆に、集安県の国内城の壁の中から東晋の年号をもった磚(せん瓦)があらわれてきております。好太王以前に、四世紀後半に東晋の年号のもとにいたということが分かる。もちろん、好太王のあとの長寿王になると、両頭外交というのですか、北朝と南朝の両方に使いを送って、交々に将軍というのを貰っております。自分を天子とみなし、自分で年号を作った形跡は全くありません。というようなことで、この人物の称号というのは、この年号からすぐ感じられるような永楽、好太王配下の官職名なのか。これは一つの仮説ですね。この文面だけみていると自然な仮説かもしれませんね。
もう一つの仮説は、好太王が位につく前の、彼の生涯の四十代、五十代の時に貰ったものではないかという問題を私は疑問点としてもつわけです。
これに対する答を与えるものは、同じ徳興里壁画古墳の中のもう一つの文章です。レジュメにある人物の両側に壁画みたいなのがありまして、人物が沢山あらわれてきています。皆これに○○大守○○大守と肩書がついている。燕郡太守、范陽太守、上谷太守、代郡太守、北平太守、遼西太守、昌黎太守等が衣冠束帯を正してやってきているわけです。その先頭に、四行の縦書きの文章が書いてある。これがやはり一つの決め手になると私は思ったわけです。
参考表示(これを元に史料批判は論外です。図を見て下さい。少しは、文章が分かりやすいと考えて表示しています。)
[口□]十三郡属幽州部[杲*彡]七十五州
治廣薊*今治燕国去洛陽二千三百
里都尉一部并十三郡
[口□]は、表示不可。口偏。叱か?。
[杲*彡]は、杲の「日」の代わりに「白」。さんづくり。
薊*(かい)は、表示不可。草冠に魚の旁のよつてんなし。
ここで大事なのは「今」という言葉です。つまり、「今」は「燕国」に属している。ここでは二つの時点にわたっての文章です。
一つは、この人物は廣薊*(こうかい)にいて幽州を統治していた時です。この人物の活躍期。廣薊*にいて幽州の刺史であった。
今は、永楽十八年(十八年か、一、二年経っているか、今はそこまで問題にしないとしまして)で、この人物の活躍期とは政治情勢は変っている。今、廣薊*(こうかい)は燕国の行政区域になっている。
ところが、その当時は彼の統治中心であったということをいっているわけです。
明らかに、永楽十八年の話とこの人物の活躍期とは時期が違う、といっているわけです。それが「今」という重要な言葉の意味するところだと、私は思うわけです。
先程、私が疑問をもちましたように、七七才で死んだ人物が、六十以後にわかにバタバタと、好太王から高句麗なりの幽州、高句麗なりの左将軍、高句麗なりの使持節を貰ったという(一つの仮説)のではないのじゃなかろうか。六十才くらいになるまでに、そういう官職名をもっていたのではないか、という疑いがこの文章によって明らかになる。
つまり、彼のこういう官職名は、高句麗内の別の幽州でもっていたのではたくて、北京に近い幽州でもっていたということが分ります。ですから、「二つの幽州」説はどうにも無理です。
しかも、それを最後に決定するものが、「去洛陽二千三百里」です。つまり、洛陽を原点にしてこの距離が書かれているわけです。
ところが、この時期、南朝と北朝が対立しまして、この洛陽は北朝に属していた。南朝、東晋側には洛陽はなかった、ということがはっきりしているわけです。
とすると、北朝系の古都を原点に廣薊*(こうかい)までの距離をかいているのはなぜか?
彼に幽州の刺史を与えた原点は北朝である。もし、彼が南朝に属しておれば、建康からの距離をかくわけです。洛陽からの距離は分ったけれど、建康からの距離は分りませんでしたのでかきません、などということではないわけです。分らないからかかないのではなく、原点とするものが建康ではなく洛陽である。
もしこれが、共和国側の解読のように、集安(この時、好太王は集安に都をおいておりました)を原点とする官職名であったなら、集安(当時は集安とはいわなかったでしょうが)を去る○○里とかけばいいのに、洛陽までの距離をかいているということは、この官職名は北朝系の官職名であるということを意味している。
先程、後ででますが、と申しました『魏書』(『宋書』等と比べると注目されることは少ないですが、北朝系の同時代史書として常に重要な本だと思います)をみますと、さっき古墳の中心人物の両側にズラーと太守が衣冠を正してといいますか(何か幽州の刺史に任官したのをお祝いにやってきて、盛大な儀式が行われた、そういう姿を再現しているんだと思いますが)そういう太守達の名が(『魏書』に)九割がたでてきます。「広蜜*」とか「玄菟」「帯方」がでてこないのですが、他は『魏書』の行政区画にでてくるのです。『魏書』は四世紀の終りです。この人物とはちょっとズレています。この人物は魏につかえたのではなくて、おそらく燕につかえたのだと思います。『魏書』という、北朝系の直前の時代の史料で推定しているだけなんです。
蜜*は、虫の代わりに冉。
だから、ここに集まってきている太守達というのは、どうも北朝系の太守達、燕国系の太守達であるらしい。又、「帯方太守」なんかは例によって虚名である可能性がありますね。北朝が実際に帯方郡を支配していた証拠と考えるのは、あさはかです。「ちゃんと当局に『帯方太守』はいますが、反乱軍が今は帯方郡を支配しております。あの倭国がその反乱軍を助けております。」というようなことであってもいいわけですね。
ということで、ここにでてくる太守名が北朝系の『魏書』の行政区画とほぼ一致する。又、権威の原点が洛陽(この時の洛陽は荒廃していたというのですが、よくは分らんのですよ。五胡十六国の国々が『魏書』のようにそれぞれ同時代史料を作っていますといいのですが、後代史料〔唐代〕しかないので、正確には把握できない状態です。)にある。姓は分らないが「鎮」という人物は北朝系の官職名をもち、いた場所はほぼ北京に近い「廣薊*(こうかい)」で「幽州」の「刺史」として、君臨していた人物であるということが分かってくるわけです。
ということで、共和国側の「幽州」が二つあるというのはどうにも無理です。「幽州」は一つで、この人物は北朝系の官職名の「幽州」の「刺史」であった「鎮」である。この「鎮」という人物が「永楽十八年」に死んだ、ということです。
この人物と好太王の関係はよく分りませんが、臣下といえば臣下でいいんでしょう、永楽年間では。ただ、単なる臣下というよりも、「好太王のおじさんである」とかいったような人物ではないか、という気がします。それは、高句麗好太王側で墓が作られているからです。
この場合、高句麗墓といっていえないわけではないですが、その内容からしまして(洛陽原点の表記)、北朝系の色彩が大変強い高句麗墓である。前半北朝系、後半高句麗編入という感じであるということが分るわけです。
問題は、この分析にとって一番大事な問題は、好太王がおそらく北朝系の「鎮」の勢力を吸収して、好太王の領域が成立していた。又、完全に吸収できないから、絶えず燕との衝突がおこっていた、ということが考えられる。
要は、好太王は北朝系の大義名分の継承者ではないか。つまり、好太王の三六才の頃に作った古墳に、「永楽十八年」という年号もあらわれているが、「洛陽」原点の表記もあらわれている。二段階の表記を残しているということは、北朝系列の色彩が大変強いのが、高句麗好太王の時代である、という問題がでてくるわけです。
「この『鎮』という人物のもっていた称号は、私(好太王)が継承するのだ」という立場をとっていたのでしょう。好太王は年号を作っています。自分を天子に準ずる位置においているわけですから、仮に「おじさん」とすると、「この人物のもっていた勢力範囲は、私が受け継ぐ」という立場に好太王はたっている。
好太王は、北朝の大義名分をバックに登場しているわけです。楽浪を原点にした人物の古墳を作っているわけですから、壁画に並んでいる「帯方太守」等は、先程とは逆の意味の形式的な虚名だと思うのです。実際は東晋側の勢力範囲ですから。
高句麗の好太王が北朝系の大義名分(遺産相続)をバックに登場してきているのに対して、倭国は、あの倭の五王は終始一貫して南朝系なんですね。
『晋書』をみますと、「高句麗伝」がないのです。『晋書』だけを読むと「高句麗はなかった」ということになるのです。逆に『魏書』という北魏の同時代史書をみますと、なんと倭国がないのです。当時、東アジアに「倭国はなかった」というふうにみえるのです。これは、倭国が北魏に朝貢していなかったから、あくまで南朝側にたっていたからですね。
高句麗が平壌から帯方郡へ侵入してきたのは、北朝側の大義名分、朝鮮半島部分の遺産相続権限者としてである。そして、倭国は南朝側の大義名分にたって、高句麗に相対していたという状況が考えられる。
となりますと、ここで大事なことは、好太王碑にでてくる好太王の大義名分は「当然楽浪郡、帯方郡は『鎮』という人物の支配下にあるべき場所だった、それを私は継承しているのだ」という立場で書かれている。
ところが、倭国は南朝側にたっているから、それとは逆に、「楽浪郡、帯方郡は南朝の支配下にあるはずだ。私が南朝の天子のかわりに、楽浪、帯方を安定するんだ。」という立場にたっているんですね。
そうしますと、だからこそ高句麗好太王碑では、倭国の正規軍のことを「倭賊」とよぶわけです。倭冠という表現がでてくるわけです。
こういう私の理解が正しいとしますと、好太王碑に「倭賊」とあるから海賊だ。倭は海賊だと、共和国側が最初にだした見解、あるいは、最近の王健群(中国)さんの倭=海賊説はやはり、文字の大義名分の使用法、東アジアの「衝突する大義名分」という内容を、実態を理解されなかったのではないか、というふうに私は考えるわけでございます。
好太王碑だけをみていたのでは、こう解釈できる、ああ解釈できるというものであったのですが、やはりこういう安岳三号墳、徳興里壁画古墳の前後する文章と、それら三点をセットにして、その上にたって安定した理解をたてないと、真の史料価値が見出せないことになっているのではないか、そう思うわけでございます。 
 
多賀城碑について

 

金石文について
ご存知のように、七世紀から八世紀にかけて、日本における古い金石文、石碑ですね、これが六つある。関東に四つ、群馬県に三(山之上碑、金井沢碑、多胡碑)、栃木県に那須国造碑、京都に宇治橋碑(破損して一部しか残ってないようです)、それに、仙台にある多賀城碑がございます。これ等が日本の古い金石文の代表とされております。
考えてみると面自い話です。東北、関東にかけて圧倒的に多い。わずかに近畿は一つだけ、九州はない。これは一体なぜだろうというのが面白い問題になるのですが、今日はそういう問題にたちいりません。
那須国造碑については、分析をいたしました。『古代は輝いていた』三巻にでてきております。私としては非常に重要な分析にたったわけです。現代の日本の古代史、特に井上光貞さん等によって始められました七、八世紀の理解というものが、基本的に間違っているのではないかということを書きました。
井上さんが自分の考えをたてられたのは那須国造碑が大きな証拠になったのです。私が疑ったのも、那須国造碑が一つの出発点にたったのです。この点は、今日は申しあげる時間はございません。とにかく、那須国造碑というのは、八世紀の初めにできた非常に重要な金石文であるというふうに考えているわけであります。 
多賀城碑について
ところで、私は東北にあります多賀城碑について一回もふれたことがございません。大学時代から聞かされていたのに、「多賀城碑というのは、どうもあやしいんだ。あれは史料としてちょっと信憑できないのだ」という話を聞かされていたのです。『日本歴史大辞典』等をみても偽作説が強いという説明がかいてあります。ということで、そういうものをもとにしては、笑われるというのでふれずにきたというところでございます。
ところが、たまたま今年の六月、仙台に行くことがありました。江戸時代から偽作説が強いわけですから、自分が一回ぐらい見ただけで解決はしないだろうが、現物を見てみたいと思って行きました。多賀城碑をかなりの時間観察し、そばにあります現地史料館のレプリカを見せてもらい、史料ももらったわけです。これに非常に興味をもちまして、次の日は他の遺跡めぐりを全部やめまして、朝から晩まで、一日近くかかって、県の図書館でこれに関連する史料をだしてもらって、コピーしてもらって(郷土史料室の方が親切に協力して下さったのです)、山のような史料をもって東京に帰ったのです。
これを分析してみますと、これはどうも私なりの答がでそうだということになりました。しかし、この問題は奥ゆきが深いといいますか、波及するところが大きい間題ですのでとてもすべては申せません。
私自身の感想からいいますと、倭人伝の解読をやりまして、島めぐり読法等を発見して解けたと思った時がございます。『「邪馬台国」はなかった』を書くことになったわけでございます。その時の発見と相対対比されるような、私にとって大きな発見であろう。倭人伝の解読から出発して、先程の高句麗のところまですすんできたわけですから。こういった大きな影響を今後私自身に与えるだろう、というふうに予感しているわけでございます。
この出発点をなす多賀城碑分析問題のポイントを皆様に、報告させていただきたいと思います。
初めての方もいらっしゃると思いますので一応文面を読んでみます。背の高さは二・五mくらいです。
多賀城去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
とありまして、次に文章があります。
此城神亀元年歳次甲子[木安]察使兼鎮守将軍
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之取?
也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省郷兼[木安]察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝葛*修造也
天平宝字六年十二月一日
[木安]は、木編に安。JIS第4水準ユニコード6849
葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366
こうなっているわけです。 
偽作説
これについて、なぜ長らく偽作説がいわれてきたか、という問題からはいらせていただきたいと思います。
江戸時代に、これは偽作ではないかといわれるようになって、伊達公あたりが作らせたのではないかというような話が、江戸時代の学者から、こもごもいわれていました。その史料も、仙台の図書館の江戸時代の史料でいくつも見ることができました。
そういうことをバックにして、明治以後、近代史学の中でこれがとりあげられてきました。田中義成(たなかよしなり東大教授)が、『史学会雑誌』(東大)でにせものであると偽作説をだした。次に、喜田貞吉。私の研究はいつも喜田貞吉さんと関係が深く、この人の論文を興味をもって読むんです。この問題にたいしても論文をだしておられまして「真赤なにせものである」という非常に強烈なものを書いておられます。これは、文章内容の方からいう偽物論です。
これに対して、字体にたいして、文字の方からだしましたのが、中村不折という画家兼書道家です。有名な方です。この人が『書道および画道』という雑誌に、多賀城碑偽物論を詳細に、明確に、といいますか、議論されたわけです。
歴史家からみても、書道家からみても偽物だ。それぞれ、東大教授とか中村不折という一流の学者や書道家が偽者といったので、ほぼこれの史料価値は命脈を絶たれてしまった、というのが、学界における大体の推移なんですね。
もちろん、この間、本物説の方もありました。『大言海』を書いた大槻文彦さん等は、本物だという説を書かれましたけれど、これは大論文というものではなくて、偽物説の堂々たる迫力には及ばないという、判定負けみたいな変な形で受けとられたようです。
これが再び日の目(というのもヘンですが)を見はじめてきましたのは、敗戦後、東北大学の伊藤信雄さん(私が東北大学にいた頃より後ですが)あたりが中心にたって発掘をやられた。
この辺のことは、関東におられる皆様はよく御存知だと思いますが、関西にいると新聞にあまりでないのです。簡単に申しますと、発掘がすすむにつれて多賀城の規模が広大である。官衙がたくさん中にある。だから、初めは単たる「砦」と思っていたのがとんでもない、一つの壮大なる「都城」の様子を、性格をもっているものである、というふうなことが次々知られてきたわけです。
この中で特に大事なことは、最初に書かれた「神亀元年」の年が、大体、遺跡の発掘から、土器の出土状況からみられる年代とほぼ矛盾しない、ということが注目されてきたわけです。
この碑を江戸時代の人が作ったとしたら、発掘してほぼ年代が合うというのもヘンな話です。偽物作りが上手すぎますので、「これはやはり案外、本物ではなかろうか。しかし、今までいろいろいわれた難点は十分克服できない」という感じなのです。
東北歴史史料館で『多賀城と古代東国』という立派なカタログができ、その他の報告書が次々だされております。いただいたり、コピーしていただいたりして全部もって帰ったのです。そういうものは、「どうも嘘とはいいにくいんだけれど、しかし、本物というには疑問点が多すぎることは確かだ」というようなムードであつかわれているようでございます。
この年代の問題をちょっと申しておきます。「神亀元年」というのは七二四年でございます。八世紀の初めでございます。『日本書紀』が作られたのは七二〇年。それの四年後。それから「朝葛*」の方が「修造」した「天平宝字六年」というのは七六二年でございます。八世紀の半ば過ぎ、万葉がまとめられて大成しはじめた時期でございましょうか。
さて、今まで出された疑問点とは何であるか、まず、基礎をなすのは宇体の間題です、文章の解釈以前に字体というものがおかしいというのが一番基本問題でございます。
どこがおかしいかといいますと、中村不折さんによりますと、この字がバラバラである。普通、石碑の文字といいますと、「何流の文字」と統一されている。何流であってもいいけれど、「全部○○流の文字である」というのが当り前である。ところが、この字は何流、この字は何流という、「集字」である。「集字」というのは書道で最も嫌うところである。ところがこの石碑は明らかに「集字」をしている。行書みたいなのや、草書みたいなのや、楷書みたいなのが入ってきている。こんなことはありうることではない。奈良時代の栄えた古雅なるべき古人の作としてありうるべきものではない、というのが論の基本にあるわけです。今までは簡単に言われていたのですが、具体例を挙げて非常に周密に述べられているわけです。
「集字」論について、私の方の目からみると、話は全く逆になってくるわけです。中村さんの考え方では、“本物であれば古雅でなければならたい。偽物であれば「集字」で稚拙である。奈良時代の人がきちんと書いたとしたら、非常に古雅な、全体としておもむきのある習字の手本にでもしたいような、そういうものでなければならない。ところが偽物は、インチキな野郎が作るんだから、ヘタくそな矛盾をいろいろ含んだものにたっているはずだ。”という考えを大原則として、議論がすすんでいるように私にはみられるわけです。
中国の石碑等を考える場合、唐代の石碑等の場合はそういうことがいえるかもしれません。この基準は、いいと思います。
しかし、日本の東北地方の最初にできた石碑ですね。という状況を歴史的状況においてみると、この中村不折さんの大前提は本当にそうかな、という感じがするわけです。
石碑を作る技術者がいますね。初めて石碑ができるのですから、石碑の専門家であるはずがないです。だから作る方は初体験、しかしこの字を書いてくれと紙に書いてだされると思うのですが、どういう書体で書くかというのは大問題ですね、刻む方とすれば。
つまり、ある流派の字が全部そろっていて、それをみたらどの字でもでてきますというのを、もっていれば問題はないです。はたして、東北で全部そろっていたかどうか。おそらく、これから初めて石碑を作る段階で、全部ピシャッとそろっていたという方が、むしろ奇跡である。若干のお手本字はあるでしょうけれど、これをみたら全部はいっていますというものはなかった、という方が自然である。そんなものありましたよ、というのは、かなり希望的観測にすぎないのではないか。
すると、当然最初に刻む人がやるべきことは、断片的な文字のお手本は当然あるでしょうから、拓本字とか、習字帳とかあるでしょう。しかし御注文の字が全部でてこないから、あっちでとったり、こっちでとったり、「集字」をやらざるをえないわけです。
「集字」をやっているという事実は、東北地方で初めてこういう石碑を作った。日本全体でも、先程いった六つの内の一つです。こういう状況の中では、集字こそ自然である。
逆に、江戸時代なら(偽物説は江戸時代)、お手本は全部そろっているじゃないですか。その時代に作るとしますと、「集字」は忌むべきだということは、江戸時代の書道家は知っています。それだのに、わざわざ、あちこちの違う流派の字を作って偽物を作るような偽物作りがいるとは、ちょっと私には考えにくい。
私の経験にたってですが、親鸞の研究をする場合、親鸞の書いたものが本物か偽物かという判断が一番根本ですよ。それをしっかりやらないで、偽物の上にたって「親鸞聖人は」といえば笑いものですから。この中で私がえたことは、偽物なりによく作ってある。親鸞というと、いい字ばかり書くかというと、そうはいかない。いつも、外向きのいい字ばかり書いているんじゃないんです。走り書きしたり、間違った字を書いたりしている。だから、走り書きだから、間違った字だから親鸞聖人がこんな嘘字を書くはずがないといった風にやっていたんですが、けっしてそうではない。
「稚拙だから偽物だ」という判定に走るのは危険である、という認識が私自身の経験にあったことは事実なんですが、中世の親鸞という話ではなく、八世紀に初めて作る場合、「集字」であるからといって、これを疑う中村不折さんの論点には、基本的な論定の誤りというか方法上の問題があるのではないか、という問題が一つあるわけです。
さらに、碑文の「多賀城」の下にある「去」が右左全部そろっていますわね。ところが、次の字がえらいガタピシしていると思いませんか。二、三、四、五行目の「里」という字が下で横に揃ってますね。これを揃えたかったんじゃないかと思っているのですが、その為、上にある「下野」がバーと上にあがってしまった。まことに下手くそですね。
こういう下手なやり方は、江戸時代の人はしないですよ。親鸞を調べている時、江戸時代の写本をしょっちゅう調べたのですが、こんな下手はしません。上をきちっと揃えますよ。
いかにも、石碑を作りなれたい人が、下の「里」を揃えるためか、なにかのアイデアを元にして、こういうガタピシを作ってしまった。ということで、このガタピシのあり方は、「偽物説」に不利である。偽物を作る人が、こんなヘンな偽物をなぜ作ったか、という、疑いをいだかせるものである。
もう一つ大事なこと。ある意味で決定的なこと。江戸時代から偽物と疑った一番大きな理由は、「此城神亀元年」という字です。コピーでは分りませんが、現物の前に立てばすぐ分ります。この字だけ他の字と全く彫りが違うのです。他の字はVの彫りになっているのです。この六字だけは凹の彫りになっている。この石碑の前に立つと目立つんですね。字の見え様が違うのですね。六字だけがどぎつく浮かび上がってくる。なんとなくヘンなんです。江戸時代にあやしいというのは、この印象が大きいと思います。六字だけ彫りが違うというのはありうることではない。中村不折さんも、それをいうわけです。
私の立場は、又違います。偽物を作る人が見るからに六字だけヘタな字を彫る必要がなんであるか。偽物作りは、本物にみせたいというのが偽物作りの条件で、偽物にみせたい偽物作りなんていないですから。だから、こんな異様な六字を彫る偽物作りなんて、私には理解できない、偽物の問題に没頭した経験からみて、こんた偽物作りなんて聞いたことがない。 
多賀城碑の意味
では、偽物じゃない場合、この六字の彫りをどう説明できるか。私は一つの仮説をもったわけです。つまり、この石碑が建てられたのは、ここでいう「天平宝字六年」という年代。七六二年に建てられた。だから「天平宝字六年」のことは分っているのですが、その前の、多賀城が作られた「神亀元年」の話から書きはじめたわけです。ところが、この「神亀元年」が「甲子」であることは分っていた。しかし「甲子」が年号で何年にたるか「天平宝字六年」には分らなかった。
これは、現代の我々からは考えられない。年表を見ればいいじゃないか、と思いますね。私はしょっ中年表(東方年表)を持って歩いています。しかし、この時代は年号が作られて間もない時代です。まだ、皆年表をもって歩いている時代じゃないわけですよ。
「甲子」に作られたことは、分っているんだけれど、それが天皇家の年号で、なんのなん年かが分らなかった。しかし、取りあえず石碑を作る必要があった。取りあえず六字分あけておいた。
なんで六字分あけておいたかということです。年号は二字(あとで四字の年号もでてきますが、八世紀の初めですから四字の年号はありません)である。「年」というのは一字。二十一年とかいうと、年号をたして六字分いるわけです。年号を作りだして(太宝元年から二十年程たったころ)まもないころですから、何百二十一年ということはないわけです。最大三字です。
もし、二字、十二年とかだったら、どうしたか。私の場合だったら「此」と代名詞を入れます。もし、一字だったら「此城」と入れる。この場合、ダブッているのですね。「多賀城」といっているのだから「此城」といわなくていいのです。「○○○○年おくところなり」といえば、先頭に多賀城があるんだから「此城」はたくていいわけです。そういう姿を示しているわけです。
つまり、後で年号を入れた。すぐ年号を調べるというわけにいかない。大和と連絡がついて、それが何年先か分らたいけれど、そこで年号を書き加えなければならない。年号が分った時に建てればよかったのでしょうが、その前に造碑の命令が下って、しょうがない、とにかく、年号は後で入れましょう、ということで、ここで最大限の六字をあけた。これが第一次ですね。
第二。これはある方のサジェッションをうけたのですが、なぜ、二回目に彫る時に同じ彫り方をしなかったか、です。
この人が、うっかり坊主で違う彫り方をした、とは私は思わない。最初彫った人が死んだか、病気になったか、同一人ができなかった。その弟子かなにかが彫りこんだ。
その場合、二つ方法があるわけです。代人、別人であるのをわからないようソックリ彫りこむというのが一つ。もう一つ、「これは別人であります。前の人とは違います。あとで彫りこましてもらいました。」ということを示すために、別の印象を与えるかたちで彫りこむ。という、二つの方法があると思うのです。どちらが正しいか知りませんけれど、この場合は、あとのケースですね。だれがみても違うように、そうみえるように彫ったんです。
ということで、これは想像ですけれど、こういうケースが本物説の説明です。こういう仮説がたてられるわけですね。
ところが、江戸時代のプロの偽物作りが、いかにも変な六字だけ彫りを変えた、としてその意味を考えることは、私にはできないのです。仮説のたてようがない。
ということで、中村不折さんとは逆に、「本物説」には有利で「偽物説」には不利だなあという印象をうけたわけでございます。
次に、偽物説の一番の大ポイントがございます。田中義成、喜田貞吉、東大、京大の両御所が強調したところ、それは「多賀城去・・・」のところ、三行目、四行目です。三行目「去常陸国界四百十二里」四行目「去下野国界二百七十四里」これです。
結論からいいますと、「常陸国」今の茨城県から福島県の境に勿来関がございますね。一方「下野国」には白河関がございます。仙台から、それぞれまでの距離はほぽ等距離なんです。「多賀城」に原点をおいてコンパスでかけば、同じ足でかける。ほぼ同距離なんです。当時の街道でみても、だいたい同じ、大差ないわけです。
ところが、「常陸」は「四百十二里」、「下野」は「二百七十四里」。えらい違うわけですよ。これがおかしい、というわけです。
田中氏の『史学会雑誌』の論文も「これは第一の偽作の証拠なり」と二重丸をうってあるのです。喜田氏も、「この矛盾をすくうべくいろいろ試みたのだが、結局駄目だ。」と、この矛盾を第一の証拠として、偽物とした。
本物説の大槻文彦も「これはたしかにおかしいが、おかしいからといって偽作を断定できないのじゃないか」というに留まって、それ以上の解明ができなかった。
本物説、偽物説をとおしてこの問題を解明した人を見いだすことが、私にはできなかった。ところが、この点について、新しい解釈(私以外には、このような理解は、まだないと思うのですが)を見いだしたわけです。
それは、こうです。一番はっきりした点が、盲点になって見のがされていたのではないか。一番はっきりした事実は「西」という字です。
これは、今までの人が皆困っているのですよ。「なんで『西』と書いてあるのか。解釈としては、この石碑が西に向っているから『西』と書いたんだろう。それにしても、西に向いたから『西』と書くのは解しがたいが、ほかに解釈の方法がない。」というのが各論者の書き方なんですよ。
そら、そうですよ。だって西に向いているから「西」と書くんだったら、どの石碑だってどこかへ向いているのです。どの石碑だって、「東」とか「北」とか書いてあってよさそうなものですが、他には全くないです。私の知っているのでもないし、今まで研究した人がどう調べても見つからなかったわけです。高句麗の好太王碑だって、東南にむいているけれど、東南とはかいていません。だから、西に向いているから「西」と書いてあるというのは、もう一つピントこない。
ところが、私が思いますのは、これだけ大きく「西」と書くというのは、読者に、下の文章を読む場合「西」を忘れてくれるなという注意を喚起した書き方だと思うのです。
それと、もう一つ。「○○里」「○○里」と書いてあります。「倭人伝」から古代史に入った私にとって、特に印象的なんですが、これには必ず方角がつくんです。
方角なしに何里とかいてあったら、東西南北どちらに行ってもいいわけですから、指定力がないわけです。『史記』『漢書』もそうです。例外的に、『西域伝』を書く時なんかは一つ一つ西と書いていないが、あれは西に進むと最初に書いてあって、次々進むから西へ西へとこっちは読んでいくわけです。一回書いとけばいいわけです。分らなければ毎回書く、これは常識から見てもそうだし、中国の歴史書の用例から見てもそうなんです。ところが、従来の読み方の人は皆、この「西」を入れずに読んでいる、と私には見えたわけです。
もう一つ、大事な事があります。ここで特色ある熟語が使われている。「国界」という熟語ですね。
「京」の場合はありません。これは奈良の都です。二番目から五番目までの四つはいずれも「蝦夷(えみし)国界」「常陸国界」「下野国界」「靺鞨(まっかつ)国界」と「国界」という概念がでてきている。
これも、私の平凡な、常識的な頭で理解しますと、「国界」というのは、その国が矩形だとします。少くとも、東の「国界」か、西の「国界」か、北の「国界」か、南の「国界」か、それを言ってくれなければ、「国界」だけではどこの国界か分らない、と。私はそう思います。これも方角が必ずいるわけです。
先程いいましたように、従来、白河関、勿来関までが等距離だといっているのは、要するに北側の「国界」に決めているわけですね。
さて、ここで一つ問題があります。我々が仙台の方をさす場合、北と考えるか、東と考えるかという問題があります。今、北海道を考えるとき「北」だといいますね。「東北」は八分法ですね。これを四分法でいえといった場合、「北」というか「東」というかですね。今だったら、北海道につられて、「北」といいたい人が多いと思います。.
ところが、東日本、西日本という場合は、東北も北海道も「東」ですね。だから、これを「北」というか「東」というかは別にきまりはないわけです。
どこを支点にして呼ぶかです。東京あたりを支点に呼べば、「北」といいたくなるのだが、関西を支点にすると「東」とよびたくなるかもしれませんね。こんなものは慣例であって、決まったものではない。
早い話が、関東というけれど群馬県がなんで「関東」だ。関東というのは、「箱根の関所の東だ」というのでしょう。群馬県は箱根の関所の北じゃないか。なんで東なんだと理屈をいわれたら困りますね。まあ、イメージの問題ですね。
同様に、この場合、東北や北海道を北ととったか東ととったかというと、私は、やはり奈良を京とよんでますから、東日本という、あの伝で、北海道の方へ、カラフトの方ヘズーといくのを「東」ととっている。京の方へいくのを「西」ととっている。
という大前提にたちまして、考えますと、ここの問題は「常陸国界」「下野国界」を従来の人(私のみた範囲ではすべての人)は東の「国界」と解釈しているわけです。つまり、これは東の「国界」なわけです。
ところが、上に、忘れちゃいけませんよ、「西」という大前提で読んでくださいよ、といっているわけです。ここで問題になっている「国界」は「西の国界」と読まなければいけない。とすると、勿来関や白河関の方では駄目なんです。つまり、今でいえば、茨城県と千葉県の境が「常陸国」の「西の国界」。そして、栃木県と埼玉県の方が「下野国」の「西の国界」になるわけです。そうしますと、「常陸国界」の場合、海上でゆけば、仙台から海岸を通りまして銚子のところまでくる。これは最短の西日本から銚子までですね。しかし、都に行くのですから、そこだけで終らないと思うのです。茨城県と千葉県の境を通って、東京都の境辺まできてはじめて「西の国界」という距離がいわれるのではたいか。最低は銚子、最大は東京都、というのが「西の国界」までの距離である。
それに対して、「下野国界」といった場合は、埼玉県と栃木県の境の方ですから、真中をとおっている東山道がシューときている(東の国界より長くなります)。この場合はだいぶ差がありますね。そうすると、「四百十二里」と「二百七十四里」ですから、ガタピシが当然あらわれてくる。そう考えますと、これでいいわけです。
「偽作説」の場合は、江戸時代の仙台の偽作作り人が作った、というわけですね。「本物説」は、奈良朝の八世紀半ばに仙台の石碑作りが作ったわけですね。どちらの人にしても、白河関や勿来関までの距離が、だいたい同じぐらいだということを知らたい仙台人はいないと思うのですよ。必ず知っていた、と思うのですよ。
第一、本人がよほど頭がトンチンカンな人でも、石碑を見る人皆が文句をいいますよ。見る人のいない石碑なんてありえませんから。見る人は皆、仙台の人ですよ。その仙台の人がみて「これはおかしいよ。距離が全然違っているよ」と必ず言いますよ。言われたら造り直しますよ。二つと造れない貴重品といった材質じゃないですから。それが、ちゃんと建っていたんでしょう(途中たおされていたという話はありますが)。
ということは、仙台人の共同の常識で、これが納得できたということです。できたというのは、本当にそうだから納得できた。今、私がいったように理解したら、できたわけです。ところが、「東の国界」と考えたら、誰も理解できない。
だから、これを偽物説にすればすむというものではないのです。おかしいから偽物説だと田中義成東京帝国大学教授、喜田貞吉教授もいったけれど、その方々が目の前にいたらいいたいのです、「『偽物説』にしてみても、駄目です。こんな偽物を造る人は仙台にはいません」。
私のも仮説です。私の仮説にたった場合は、まず字面が生きる。「西」という字面が生きる。そして、里程が間違いでなくなる。
さらにあるわけです。先程の本文をみますと、この石碑を造らせたのは「藤原恵美朝臣朝葛*(かつ)」です。彼の肩書は「東海、東山節度使」とあります。東海道と東山道の「節度使」である。
「節度使」というのは、一つの国の国守であるだけでなく、隣国の国守を監察する任務を天皇家から与えられているのです。すると東海道の「節度使」という場合、まさか多賀城にいて東海道全部(名古屋から岐阜まで)監督するというのは考えられたいわけですよ。しかし、少くとも隣国の「常陸国」を監督しなくては「東海節度使」とはいえないわけです。同じく、東山道の最初の隣国の「下野国」を監督しなければ「東山節度使」とはいえないわけです。
つまり、彼は単に多賀城領域の支配者、国守のみならず、隣りの東海道隣国の「常陸国」東山道隣国の「下野国」の「節度使」をおおせつかった、と自慢しているわけです。
だいたいこういう石碑を建てるのは、建てさせる人間の自慢ですね。嬉しがって建てている。
これを、従来の人、「偽物説」の人も「本物説」の人も、単に地理的記載と読んでいた。「多賀城」はどこからどれだけ離れていると、距離をただ地理書みたいに書いたと考えていた。そうじゃなくて、彼は「自分の勢力範囲」を示そうとしているわけです。そう考えると、「下野」や「常陸」の入口まででは駄目なんですね。自分の勢力の及ぶ範囲を、「西の国界」までをえがこうとしていると理解すると、文面とも合うわけです。
こういうことは、江戸時代の偽物作りが考えることではありませんので、やっばり本物であるというふうに、私は考えたわけでございます。
かつて、田中義成・喜田貞吉氏達が最大の偽物の論証と考えたところが、実は最大の本物の論証となると考えたわけであります。
もう一つ、大事なことを申しあげます。従来の読み方は、この「多賀城」を陸奥国にあると考えていた。今までの、偽物、本物どちらの人も全部そう書いてある。これを、私は「陸奥国中心読法」と名付ける。私以外の、今まですべての人の読み方を。
しかし、私は「これは駄目だ」と思う。なんでかと申しますと、この文面に「陸奥国」という言葉が全然ないわけです。「蝦夷国」、「常陸国」、「下野国」、「靺鞨(まっかつ)国」とあって、全く「陸奥国」はないわけです。ない言葉を中心にすえて読むというのは、私はおかしいと思うのです。
従来はどう読んだかを申します。「去蝦夷国界一百廿里」、仙台から東へ(我々がいう北へ)一百廿里とって、今の岩手県から向うを「蝦夷国」と理解しているんですよ。つまり、宮城県や福島県は「陸奥国」だと考えているわけです。「陸奥国」の中の「多賀城」だというのが、おそらく教科書その他、全部そのかたちで説明してあると思います。
私はこれは駄目だ。なぜかといえば、金石文を他の本(『日本書紀』等)をもとに読むというのは駄目なんですね。先ず他の本を読んで、そのあとでこの石碑の前に立って下さいというのではないですから。その金石文で読まなければいけない。というと、なにか。「去蝦夷国界一百二十里」というのは、仙台から西へ一百二十里。だから、少くとも宮城県から福島県の境。実際に里程問題をすると面白いのですが、今日はしません。どうも「蝦夷国」の里程より少し長いようなので、茨城県の境辺近くまでいくかもしれません。とにかく、「蝦夷国」はそこまでいく。東は三千里というのですから、北海道は含まって、カラフトも含まってという感じだと思うのですが、それが「蝦夷国」。広大な三千一百二十里の東西幅をもつ「蝦夷国」。
その「蝦夷国」の南端部のところ、「多賀城」に居を置いて「朝葛*」の抱負は「蝦夷国」を支配することを大和朝廷から委ねられているんであるという大義名分にたっているわけです。
「靺鞨(まっかつ)国」は、沿海州かなにかしりませんが、そこは自分の範囲と考えてないわけです。しかし、「三千一百二十里」は自分の直接の勢力、統治範囲であると考えている。
しかし、これは彼がそう考えているだけであって、実際に、実効的な統治がおよんでいたとは、私は思いません。
『日本書紀』に出てきますように「熟蝦夷麁蝦夷、都加留蝦夷」があって、「熟蝦夷」は天皇家の支配下に入っている「蝦夷」、「麁蝦夷」はまだ支配下に入ってなさそうな「蝦夷」、「都加留蝦夷」は津軽から北海道とそのまた向うでしょう。八世紀の半ばでありましても、「三千一百二十里」は、ほんとうに、実効的な支配範囲に入っていたとは思わない。しかし、彼はその「立場」にたってかいているわけです。
もう一言いいます。『続日本紀』は「陸奥国」という概念で書かれています。「陸奥国」というのは、「道の奥」が略されたものです。辞書に「陸という字を、五、六の六で表わし、ムツと読んだ」とありますが、そのとおりだと思います。「道の奥」というのは「道の内部」は東海道、東山道で、そこから向う、全部なんです。
天皇家の支配領域より向うは、全部、底なしに、シベリアだってアメリカ大陸だって皆「道の奥」なんです。そういう概念なんですよ。メチャクチャといえばメチャクチャなんですが、自分の支配範囲外だから、しょうがないんです。
ところが、「蝦夷国」は『失われた九州王朝』を見ていただいたら、論じてありますように、中国に使いを送っているわけです。れっきとした国なわけです。実在的な国であるわけです。
『続日本紀』は天皇家中心の「陸奥国」という立場で書いている。そういう色メガネというか、色のつけ方で書いている。それをもちこんで読んではいかんわけです。やっばり、「朝葛*」が立った「蝦夷国」という実在の国の南端近いところに、これをおいて、今はそこまでいってないけれど、将来的にはこの「蝦夷国」全体を統治する任務に私はあるんだ、という、彼の抱負を示したものである、というのが私の「蝦夷国中心読法」というものでございます。
申し上げたいことはいろいろあるのですが、金石文の解読が基本です。それを基にしないで、『日本書紀』や『続日本紀』の蝦夷関係記事(いつも反乱を起し、鎮撫されてばかりいる存在)で判断するのは誤りである。
「蝦夷国」は確固たる独自の文明をもった国である、という視点から、見直す、という作業が、金石文を基点にして、『日本書紀』『続日本紀』の史料批判を行うなかで、あらわれてくるであろう、というふうに私は思っているわけです。そういう時がきたら、又、くわしく報告させていただきます。
 
万葉集と多元史観

 

雨の中をよくおいでいただきました。朝から雨もようで、そのうちにどしゃ降りになってきましたので、これではなかなか皆さんもおいでになりにくいだろうと、三人でも、五人でも、おいでいただいた方々に、ゆっくりお話しさせていただこうと思いながら、実はやってきたわけでございます。
ところが、非常に多くの皆さんがたにおいでいただきまして、非常に恐縮しております。
今日は、『万葉集』という、わたしにとっては新しいテーマについてですね、お話し申し上げたいと、こう思っているわけでございます。
『万葉集』というと、かなり時代がさがるんですけれども、七世紀後半から八世紀となるんですけれども、そんな時期になって、果たしてそういう歌なんかがわたしの言ってる多元史観、そういう歴史観と何か関係があるんだろうかと。しかも、『万葉集』となるとですね。歴史学者だけでなくて、それよりも、いわゆる国文学・国語学・万葉学という分野でですね、非常におびただしい、俊逸な論証、というより、注釈・考証がですね、たくさんできてきているはずだと。それを今さらですね、何か新しいことが果たして言えるのであろうかと、そういう風におそらく疑問をお持ちになりつつ、おいでになったんじゃないかと、わたしは想像するわけでございます。 
『万葉集』の史料性格
しかし、考えてみますと、この『万葉集』というのは、そのいずれも同時代史料でございます。
国語、国文学の人からみると、『万葉集』が同時代史料だなんていうと、なんかこうですね、至極感情のもられた、そういうものを単なる冷たい史料としてみてるのかと、まあお思いになるかも知れません。これは勿論、そういうすばらしい文学であると同時に、半面ではまた、歴史学上の史料でもあると、これは当然でございます。
しかも史料の中でも『古事記』・『日本書紀』というものは、いわゆる後代史料です。ーー後の時代になって、神代の昔から書いた、というものですねーーそういう意味では、八世紀という後の時代に成立した史料であるから、後代史料、或は後代史書、というべきものであるわけです。
ところが歌というものはですね、これはいずれも、いわゆる同時代史料である。その時の人が、その時に作ったわけでありますからね。
後の人が、その時の身になって作ったという点もあるでしょうけれども、こういうのは例外であって、その時、その人が、その人の感情を歌にするというのは、まあ原則でありますから、いずれも同時代史料である。言いかえれば、第一史料である。あるいは、直接史料である。歴史学で最も尊重すべき、そういう史料の性格をもっているわけです。
この点、例えば金石文というのが同時代史料であり、第一史料である、ということは皆さんご存じの通りだと思うのです。その金石文と同じ性格、ある意味において基本的な性格を持っているもの、それがこの「歌」なんですね。
そう考えると、この「歌」というのは、やはり非常に重大だというわけです。同時代史料だという性格は、例えば『古今集』とか『新古今』とかになっても、もちろん同じでございます。江戸時代、明治、現代に作られても、もちろん、同時代史料でございます。
しかし、『万葉集』の場合ですね、特におもしろいのは、七世紀の後半から、八世紀にかけてという最も大きな権力交代があったとーー私はこう考え主張しているーーこのいわゆる両時間帯にまたがって作られている、その時期の直接史料である、ということになるわけです。
といいますのは、ご存じのように、わたしの考え方では七世紀の終わりまで、いわゆる「九州王朝」というものが、日本列島の九州の筑紫に存在して、これが東アジアにおける日本列島の代表的な王朝であった。これに対して、天皇家はそれの分王朝、分家である。実力は古墳時代において、事実上ナンバーワンというべき勢力になったけれどもですね。
しかし、名分上というんですか、名目上というんですか、大義名分上はいわゆるナンバーツー(分家)であったと。それだけではない、それ以外にも、例えば関東上毛野君とか、そういう関東において、やはり統一的な王朝が成立していたのです。
その他においても、例えば沖縄において、例えば東北、北海道ーー或いは、北陸においても、かもしれませんがーーそういう各地域に、それぞれの地域的な統一権力者といいますか、そういうものが存在して、併存、併立していたのである、ということをわたしはかねてから主張してきたわけでございます。 
多元的古代史観
さきほど御紹介ありました、駿々堂の『多元的古代の成立』。これは東大の『史学雑誌』に出した論文の題目を、そのまま本の題名にしたんですが、それはまさに、そのテーマを表現しているわけでございます。
ですから、この場合、問題は簡単なわけです。つまり、従来の、わたし以外の学者が主張してきましたーー天皇家一元史観とわたしは名をつけるんですがーー日本列島では、天皇家しか統一中心はできなかった、中心勢力はなかったと。弥生はいざ知らず古墳時代、四世紀以降は、もう天皇家が完全に統一中心勢力であったというのがわたし以外のほとんどの学者の意見なんです。
これをわたしは「天皇家一元史観」、こう呼ぶわけです。この一元史観で、もし『万葉集』がきれいに割り切れて解釈できたなら、これは一元史観は正しいわけです。直接史料に合うわけですから。
ところがその一元史観でいくと、どうにもおかしい矛盾がでてくる。いわゆるもってまわった理屈、屁理屈というんでしょうか、そういうこじつけをしなければ、どうにもこの歌が解釈できない。多元史観によると、すっきり解釈できる。歌の解釈ひとつずつの解釈のみならず、『万葉集』全体についてもすっきり解釈できる。こうなれば多元史観が正しいわけです。
つまり、さっき言いましたように、『万葉集』というのは金石文と同じ第一史料である。しかも、金石文というのは、そうたくさんは日本列島の古代にはないんですね。それが何百何千と、いわゆる金石文と等しき性格をもった第一史料があるんですからね。それに当ててみるわけです。要するに史観というのは、結局言ってみれば仮説ですわね。歴史に対する考え方ですから、その仮説としての一元史観でいけば、どんぴしゃり全部解釈できれば、一元史観が正しいことは、当然証明されるわけです。
で、こんどは、一元史観でうまく説明できかねて困ってるところが、多元史観によってどんぴしゃり解釈できれば、多元史観が正しい。当り前のことなんです。一元史観といいますのは要するに、『古事記』・『日本書紀』の建前を自分の史観の建前とする。つまり『古事記』・『日本書紀』は、それは「神武」からずうっと日本列島全体を天皇家が中心であるように一見みえる形で全体が構成されておりますね。それを正しい、とするわけです。戦前は勿論そうでした。戦後は、神武から開化までの九代、それは承認しないけれど、あるいは「崇神から後」とか、あるいは「応神から後」とか、その辺から後はもうあれでいいんだと。『古事記』・『日本書紀』の建前通りの天皇家中心で正しいんだ、というのが、いわゆる戦後史観の立場なのですね。
津田左右吉もそういう立場です。津田左右吉は、もっと古くから天皇家が中心だったという「信仰」が強烈なのですが・・・。戦後史観も津田史学の立場を受けついで、崇神から垂仁とか、応神から仁徳とか、これら以後はもう天皇家が西は九州まで、東は関東、東北の南部あたりまで支配していたんだという、修正『古事記』・『日本書紀』という立場が、従来の歴史観=歴史家のとっている立場なのです。また、国語学、国文学者も等しく従っている立場なのです。
これに対しまして、わたしの立場は中国の歴史書に依拠しているわけです。つまり、『三国志』や『宋書』・『隋書』(イ妥国伝)というところを受けつぎまして、特に、今の七・八世紀の問題となりますと、『旧(きゅう)唐書』ーー「くとうじょ」ともいわれてますがーーこの『旧唐書』に書かれた立場なんですね。
『旧唐書』によりますと、この七世紀の日本列島はまず、倭国ーー九州島と覚しき地形で書いているーーこの倭国が、卑弥呼以来の倭国であるということが書かれているわけです。
これに対して、日本国というのは、もと倭国の一部分である。小国であった。それが、自分の母国、親もとである倭国を併呑して、そして全体を日本国と称するようになったと。こういう例は、中国、朝鮮半島その他各地で、そう珍しくないと思います。一部分の、いわゆる分流であったものが、主人の国と権力が逆転して、自分が中心的な支配者になるという例は歴史上珍しくないと思うのですが、日本国も、もとは小国であったのが倭国にとってかわった。だから言いかえますと、西は九州から、そして中心部分は近畿の形で書いてありまして、それが日本国になったんだと。そして八世紀初頭に、則天武后がこれを日本国として承認した、という記事が別に出ておりますね。
ところが、日本国は、西は八世紀になって統一したんだけれども、東はまだそうはいかなかったというのが、「大きな山があり、限りをなしている。その山の東は毛人の国である」と、こういう風に書かれている。大きな山というのは、中国から見ての話ですから、日本列島で一番目立つ大きな山というのは、日本アルプスを抜きにしては、ちょっと考えられないと思います。で、日本アルプスのどのあたりをとるかは、そのへんは中国側からみての話ですから、わかりませんが。
要するに、日本アルプスが境になって、そこから東はまだ日本国の支配ではなかった。少なくとも七世紀ではなかったらしい。八世紀になるとどうだったかまでは、はっきりとは書いてありませんがね。
とにかく、その毛人国であったと、それより東、その大山より東は毛人国であると、こういうわけですね。だから、現代の我々の言葉でいえば、関東から甲信越ーー甲信越全部を含むかどうかわかりませんが、大体関東を中心に甲信越地帯ーーが毛人国として、日本国ではない国として描かれている。少なくとも七世紀ではそうである。
そして今度はですね、そこから向こうはどうかというと、『旧唐書』の「倭国・日本国伝」といわれる伝なんですが、ここには出てこないですが、他の場所に出てくるわけです。つまり、「蝦夷国」というのが出て参りまして、これが中国にやはり使者を送ってきているわけですね。それはどうも、今の東北地方北半分から北海道を含む概念のようですけれどもね。それは「蝦夷国」である。
勿論、沖縄の方は、又、琉球国というのがあります。こういう形で唐側は認識されていた。琉球国は『隋書』に出てくるので有名でございます。「琉球国伝」ですね。というのが、中国側の認識なんです。
しかも、この場合、わたしは中国側の認識が馬鹿にできない、一目も二目もおかねばならないと思いますのは、『旧唐書』ができたのは唐が滅んでからですけれども、しきたりで、王朝が滅んで、その王朝の歴史を作るという慣例が中国にあるようです。
しかし、当然ながら、唐という国は文字を使う国でございます。大変よく使っている国でございます。七世紀段階、唐でいえば初期ですが、この唐の初期にも、勿論文字がございますから、その唐の初期に書かれた、つまり、唐の同時代史料をもとにして『旧唐書』ができていることは、誰も否定する学者はいません。
しかも、その唐の初期に、この日本列島を観察しました場合に、ただ、中国側から遠く眺めやって書いているのではなくて、いわゆる阿部仲麻呂という、日本列島から行った有名な人物が唐の朝廷の中枢にいた。しかも、ベトナム大使までやって、又晩年、長安でその生涯を終えたことは、有名でございます。
今、西安ーー長安の近くの西安ーーに行きますと、仲麻呂の碑が建っていますね。中国人にとって、あの仲麻呂というのは、非常によく知っている、歴史上の日本人の一人なんですね。まあ、二人、三人とはいない、一人でしょうね。卑弥呼っていうのは知りませんね。中国中あちこちで聞いても知りませんね。阿部仲麻呂っていえば、知らない通訳の人はいない、というぐらい有名なんです。その阿部仲麻呂が、生涯唐の朝廷の中心部で、高級官僚として生涯を終えたわけです。
だから、その『旧唐書』のいわゆる史料的根拠はですね、阿部仲麻呂の情報によっていると。或は、阿部仲麻呂が「それでいい」と「イエス」を与えていると考えるのが筋であると、わたしはそう思うんです。
勿論、これは阿部仲麻呂だけでありませんで、いわゆる遣唐使っていうのは、日本から何回も行っていますからね。しょっ中、長安には、そんな連中がごろごろしているといったようなーー遊んじゃいなかったでしょう。一所懸命勉強していたと思いますがねーーわけですから、そういう「確認」をとるには、事欠く状況じゃないわけです。
それだけではございません。この唐というのは、その肝心の「倭国」と戦った、白江の戦いーー日本で白村江の戦いといっていますがーーで大勝利をおさめた国でこざいます。
その戦ってやっつけた国のことを、知らないでやっつけたなんてのはちょっと考えにくいわけでして、当然知っていた。それもですね、いわゆる隅々、端々のことまで知っていたとはいえませんね、なんぼ戦ったからといって。
しかし、その日本列島の中に国がいくつあるか、大体の国境関係がどうなっているかくらい、知らずに戦うってことは、これはありえないわけです。
同様に、この阿部仲麻呂も、日本列島のことは何でも私に聞いて下さい、全部知っております、とは、いくら彼が頭がよくても言ってはいなかったと思います。しかし、国の大体がどうなっているか、ぐらいは、阿部仲麻呂は知っていたと、わたしは想像するのです。「想像」ではあっても、「そんなのはただの想像だ」なんていえる人はいないと思います。「いや、知らなかったかも知れないよ」という「想像」の方が、これは随分でたらめな想像だとわたしには思われます。
そうしますと、そういうニュースソースをもとにして書かれた『旧唐書』は、大まかな国家関係そのものについて、嘘を書いているとはわたしには思われない。
しかも、その一番大事なことは、唐側は、倭国ないし日本について、嘘を書くべき理由はどこにもない。勝ったんですから・・・。負けて嘘を書くなら、それはあるかも知れませんがね。一〇〇パーセント勝ってるんですから・・・。それで、倭国だか日本国だか、天皇家だかに遠慮してですね、嘘を書く必要はどこにもないわけです。
そういう風に考えてみますと、その史料的性格からみて、『旧唐書』の国境認識を疑うべき根拠はない。わたしの理性では、そうとしか思えないのです。それに対して『古事記』・『日本書紀』は残念ながら、両方ともそのまま信用できない性格の史書である。何故かといえば、これは明らかに“天皇家の中で、天皇家の学者(御用学者といったら、言葉が悪いですが)を使って書かしめた”ものである。
その目的はですね、天皇家の、要するに偉大さを「証明」するというか、P・Rするための本であって、決して、天皇家に有利であっても不利であっても、事実をお書きなさい、というーーそうあって欲しいんですけれとも、本当はーーそういう本ではない。このことは、これはもう戦前はいざ知らず、戦後においては反対する人はないと思います。これは天皇家が天皇家のために作らしめた本であるという性格は、これはもう疑うことはできないわけです。
だから、今に至るまで神武天皇から、天皇家が中心です、というムードで書いてあるんです。だから、その大義名分、建前をこう書いてあるから本当だとは、とても言える性質の歴史書ではない。
こう考えますとね、『古事記』・『日本書紀』と『旧唐書』と、どちらの「大づかみな骨格」の把え方が、客観的であり、どちらが主観的であるか。これは、わたしは冷静に観察すれば、疑うことはできない。これが、わたしの基本的な理解でございます。それがもし、そうだ『旧唐書』の認識が正しいということになれば大きな問題でして、七世紀・八世紀だけの問題ではないわけです。七・八世紀においてそうであれば、先程出てきましたように、倭国というのは九州で、それは卑弥呼の時代以来の国である、と書いてあるわけですから。そうすると、もう、邪馬台国ーーわたしの言う邪馬壹国、ーー世間でいう邪馬台国問題も、一挙に解決して、九州にきまってくるわけです。
それに、あの「倭の五王」ですね、「宋書」の。これも九州にきまってくるわけです。これはもう、わたし以外の大多数の人は、近畿だ、雄略だ、といってますけどね。そうじゃないことは、この問題からはっきりするわけです。
で、『隋書』の「日出づる処の天子」の中心地、これもまた、九州であることがはっきりするわけです。つまりこれは、一連のものすごいテーマを含んでいるわけです。
だから、わたしに対して、「いや、それはまちがっている。『古事記』・『日本書紀』の方が正しい。」という反論をしてくる学者がほとんどないのは、あまりの問題の大きさにためらっているかどうか知りませんけれど、この問題はそういう決定的な意味あいをもっているわけです。 
『万葉集』について
さて、『万葉集』につきまして、みなさんは普通、こういう風に教科書でお習いになったでしょうね。いわゆる、上は天皇から、下は農民、乞食に至るまで全国の国民が歌を詠み、これが『万葉集』に載せられているという風に、小学校、中学校、高等学校で、習った覚えがおありのことだと思います。
しかし、はっきりいいまして、あれは大きな嘘でございます。
なぜかといいますと、じゃあ、お聞きしますが、九州の人が作った歌というのは、みなさん、頭に想い浮かべることがおできになりますでしょうか。「九州で」作ったんではないんですよ。関東や近畿の人が九州へ行って、九州で作った歌なら防人の歌や、その他あるわけです。そうではなくて、九州の人が九州で作った歌ですね。そういうものを想い浮べようとしても、ちょっとみなさん、頭に想い浮んでこないでしょう。
事実、ないんですね。ほとんどないんです。いわゆる『九州の万葉』って本が出ていますが、あれも大体は九州へ行って、そこで作った歌が多くて。いわゆる九州の人が作った歌というのは、ほとんどないわけです。そしたら、九州の人は歌を作らなかったのか。ちょっとわたしは、そういう概念は、頭に思い浮べることはできない。
それだけではございません。たとえば、瀬戸内海の人がですね。まあ、瀬戸内海人とでもいってみましょうか、これが作った歌ってのは、『万葉集』にどんなのがありますか。瀬戸内海で、瀬戸内海を歌った歌は、いくつもみなさん頭に思い浮べられますでしょうね。
ともしびの明石大門に入らむ日やこぎ別れなむ家のあたり見ず
これは、人麻呂が、あそこを通っている時に作った歌で、決して彼は瀬戸内海人ーー瀬戸内海出身の人ではこざいません。
じゃ、瀬戸内海の人が作った歌ってのは、やっぱり同様にほとんどないわけです。ゼロとはいいませんが、ほとんどないわけです。
それじゃあ、瀬戸内海の人間も歌は作らなかったのか。わたしはそういうことは、夢にも想像できないですね。九州人や瀬戸内海人が、歌を作ることができない人ばかりが住んでいたとはね。
近畿や東国の人は、あれだけ作っているのに。必ず、九州人も瀬戸内海人も歌を作った、と独断ですがね、わたしはそういう立場にしか立つことができない。
ところがこれに対して、従来の万葉学者はどのような説明を与えてきたか。みなさん、万葉の本を読んで、説明がありましたか。
或は、小・中・高校で、こういうわけで、九州人や、瀬戸内海人の作った歌は、万葉には載せていないんです、という説明をお聞きになりましたか。或は、有名な万葉学者の本で、その解説にふれましたか。おそらく、お見かけになったことはないじゃないですか。みんな知らぬ顔をしてるわけです。
もっとも、例外はございます。例外という言葉はあたらないんですが、これを問題にされた方はございます。この方は、愛媛大学教授(現在、追手門学院大学教授)の中小路さんです。
わたしの、創世紀から出しました『関東に大王あり』(新泉社より復刊)をお読みになった方は、その本の最後の章で、中小路さんがわたしに送って下さった長文のお手紙をごらんになったことと思います。それを御紹介しますと、要するに、中国の唐の人が作った詩、しかも、日本国からきた留学生というんでしょうか、使者との別れの宴で作った歌の中に、『旧唐書』の示す国境の認識をバックにしなければ、理解できないのがいくつもあると。
例えば、あなたは「『倭国』の東の、そのもうひとつ東の国」から来たんだ、という文句が出てくるわけですね。だから、この原点になる国は、どうも九州あたりになるらしいんですが、そこからみてもう一つ東の国があると。そのもう一つ東の国からあなたはやってきた、という表現が漢詩の中に出てくるんですね。これなんか、『古事記』・『日本書紀』を元にしたら、「何のこっちゃ、この人血迷ったか」ということですよ。
ところが、今の『旧唐書』の概念からすれば、これはどうも、毛人国、東国の人ではないかという形に理解できる。
これも、それと同じような意味で、中国側が作った唐詩というのも、これは第一史料、直接史料ですからね。その直接史料の、まあ日本の和歌なんかよりは、もっと中国の漢詩の方が、そういう論理性というのが、国境関係を表わす表現は、より出やすいわけですね。文体や様式からしまして。
それに、そういう国境関係を示すのが、ひとつならず、いくつも出てくるわけですね。こういうことを、中小路さんが、わたしに手紙で知らせて下さいました。
後に、単行本でもその事をお書きになったようです(中小路駿逸『日本文学の構図』桜楓社刊、参照)。さらに大学の『紀要』で指摘された点は、今の『万葉集』が、九州の人や、瀬戸内海の人の歌を含んでいないという問題です。これは『紀要』の論文で指摘されました(右書所収)。
これは、すぐには断定すべきではないけれども、おそらく、古田がいった、あの九州王朝というテーマに関連しているテーマであろうということを、大学の『紀要』の論文で、はっきりと書いておられるんです。やっぱり、わたしは、非常に深い敬意をもつわけであります。
こういう方は例外でございまして、それ以外の方では、どのように有名な万葉学者でも、その問題に触れ、正面から解説を出したものを、わたしは見たことがございません。
みなさん、ごらんになったことがあれば、お教えいただきたいと、こう思うわけでございます。
ではそれはいったい何だと、事実はそうかも知れないが、いったいどう考えたらいいんだということですが、これについて端的に提起すべき、一つの仮説があるわけでございます。 
「倭国万葉」
それはもう簡単でございまして、要するにわれわれの知っている現存『万葉集』以前に、すでにもう一つの『万葉集』があったとーー『万葉集』っていう名前でなくてもいいんですが、仮にそういう名前でいっておきますーー或は「九州・瀬戸内万葉」或は「倭国万葉」。現在われわれが知っている万葉を「日本国万葉」とするならば、それ以前の「倭国万葉」というのが、すでに存在したと。それは当然ながら、九州・瀬戸内の歌をふんだんに含んでいたと。従って、それに収録された歌は、原則として「日本国万葉」には収録しなかったという仮説を立てることができるわけです。
これが本当にそうか、ということはまた後で検証いたしますけれども、これが一つの仮説として成り立つとすれば、そこがスポーッと空いていることが何とか説明がつくと、今のところはこういう風にお考えいただければ、結構でございます。
それで、言うまでもないことですが、その九州・瀬戸内の人が歌を作ったという概念そのものは、みなさん、おそらく反対なさることはないと思うわけです。「連中、歌なんかよう作らなかったろう」なんていう人はいないと思うんです。
同時に、その九州においては文字があった。しかも日本列島で最も早く、文字の衝撃をうけた土地が九州である。これはもう、わたしの「説」ではなくて、事実であります。
志賀島の金印が日本列島に来たのは、一世紀半ばでございます。
だから、もっとも日本列島で早くから、文字に触れた領域でですね、「歌」は作ったが、それを「文字」に書くことを忘れていた。なんてことは、これはちょっと仮説としてもですね、成り立つ仮説じゃない。最も自然な考え方は、九州・瀬戸内で歌を作り、かつ文字に書かれていたという方が自然な状況であるということを一言つけ加えさせていただきます。
このことをですね、なおつっこんで参ります前にもう一つ、万葉で注目すべき領域がございます。
それが申すまでもない、東国、防人の歌でございます。これが、非常に独自の、他の万葉世界とちがった独自の歌の世界を形成していることは、これはみなさん、百も御承知のことでございます。ところがですね、あの防人、東国の歌について、不思議なことがございます。
なぜかといえば、みなさん、あの愛すべき歌をですね、思い浮かべられましても、それはほとんど恋の歌ではございませんでしょうか。
恋の歌以外で、何か思い浮かべられる、東国、防人の歌がございましょうか。
おそらく、ほとんどこれはないんじゃないかと思います。絶無とは言いませんよ、若干はありますからね。しかし、おそらくみなさん、覚えておられるのは、恋の歌ではないでしょうか。
じゃあですね、東国の人は恋しか歌に詠まなかったんでしょうか。といいますのは、例えば東国といいますのは、日本アルプスより東、つまり、関東から甲信越を広く含んでの話ですがね。例えば、東海の人はですね、自然を詠まなかったのか、つまり、富士山なんてのは、東海の人は歌に詠まなかったか。
勿論みなさんは、『万葉集』の富士山の歌、有名なのがあるじゃないか、「・・・不盡の高嶺に雪は降りける」というね、しかしあれは近畿人が旅先で詠んだ歌ですね、山部赤人という人です。
だからあれは、絵のように詠んでますね。じゃあ、旅の人は富士山を歌に詠んでも、東海の人は「富士山なんてのは、あんなくだらない山は、歌になんか詠めないよ」といって詠まなかったんでしょうかね。わたしはそうじゃないと思います。
もう、「詠んだ」どころかですね、数限りなく詠んだんじゃないですかね。短歌にも、長歌にも詠んだと思います。
しかも、その歌はですね、わたしの信ずるところでは、山部赤人の歌よりもずっと優れていたと、ある意味では、本当に優れていた、と思います。なぜかといえば、その東海の人々にとって富士山はですね、ただ絵のように美しい山ではございません。あれは必ず、神々がいます山であり、神々をめぐる神話の語られている山であり、また、自分の祖先が、神話に参加している山であり、また、自分に近い所の人が、何回か富士山で遭難して、悲しいむくろとなった、そういう山であったはずなんですね。
つまり、富士山というのは、そういう歴史や信仰や愛憎がふんだんにまつわりついた山であったはずなんです。東海や山梨の人にとってはね。だから、彼らが富士山を詠めばですね、必ず、そういうものをバックにして、その伝統や、信仰や、愛憎が歌われたと思うのです。それは、わたしは非常にすばらしい歌であったと、まあ、無いものをそういってもしようがないのですが、わたしはそう信じます。
それにくらべますと、あの赤人の歌はなんにも「中味」はないですね。ただ行って、きれいだなあ、絵のようにきれいだなあと歌っているだけです。それはそれで結構ですよ。そういう歌はくだらないと、わたしは言うつもりはございません。それはそれで結構ですけれども、それに勝るとも劣らないのは、さきほども言ったですね、先祖代々の信仰と生活と、また愛憎のこもった歌こそね、歌としてみれば最も優れた歌であると、こういっても「それはお前の独断である」とおしかりはいただかないと思うのです。
同様に、関東の人は果して、あの利根川ーー阪東太郎ーーを歌に詠まなかったのか。わたしはそんなことはないと。それどころか、あの阪東太郎の近くでですね、多くの戦いがおこなわれ、また、恋がなされ、恋を失ったり得たりね、さまざまの、いわゆる人間の悲劇や喜劇が、くり返されたことだと思うのです。
そしてそれは数限りなく長歌や、短歌にですね、この生命をこめて、感情をこめて、歌われたであろうと。想像だけど、わたしはこの想像を一度として疑うことはできないのです。
ところが、そういう歌はいっさい『万葉集』の東国の歌には、あらわれていないわけです。また、この東国の歌には、挽歌がない。『万葉集』には御存じのように、人麻呂その他のすぐれた挽歌が、かなりのボリュームでありますね。
じゃあ、東国でえらい人は死ななかったか。そんなことはないですけれども、死んでも短歌なんか作らないよと、恋は歌に歌えるけれども、挽歌なんか作るのは歌の役割じゃないよ、といってね、誰も挽歌なんか作らなかったのか。
わたしは、そんなことはありえないと思います。やはりあれだけ多くの、人間の真情のこもった恋の歌を作れる人々であれば、やはり自分の真情を吐露した、自分が尊崇し、或は愛し、或は時に憎んだその人の歌を、いわゆる近畿の挽歌とは、またちがった率直性をもって書かれたであろうこと、これもわたしは一度として疑うことができない。
ところが、それらの歌は、いっさい東国の歌には出現しないわけです。となりますと、ここには、なぜそうなのか。要するに、実際に作られたものの中で、大きな重要なものがーー自然や、挽歌っていうのは、その一例ですがーーこれらのものがすべてカットされて、現存『万葉集』には採録されていないのではないかという問題が出てくるわけです。
しかも、実は、東国の場合は、九州・瀬戸内の場合とはちがって、非常に端的な証拠がございます。
というのは、防人歌のところですが、「抄写してーー抜き写して、という風に読んでますがーーこれを記す。」という表現が、註に出てまいります。ということは、当然ながらそれのもとがあって、まあ百ある中から十をピックアップして写したというのが抄写ですね。だから、当然、そのもとがあったということを、おのずから語っているわけです。
のみならず、さらにたくさん出てくる言葉は、「拙劣なる故に載せず」という表現が、いつも出てくるのです。この東国歌のはじめの歌のところにね、はじめの歌なんか特にそうですが、「拙劣不載」と、しかもまあ五十首あるんだけれども、十五首だけ載せたと、あと三十五首は拙劣不載であると。こう書いてあるわけです。
これを文字通りとりましたらね、あんまり下手だったから載せなかった、という意味ですがね。
じゃあ、お聞きしますけれども、『万葉集』に現在ある歌は、みんなうまい歌ですかね。
みなさんが覚えていらっしゃるような歌はね、みんないい歌ですよ、それは。まあ、「万葉秀歌」とか、教科書に載せられたような歌はね、それはいい歌ですよ。それはしかし、言うなれば、『万葉集』の中のエリートみたいな歌でしてね。
何千とある、『万葉集』の中の歌は、大部分が拙劣ではないかと、わたしは思うんですがね。こんなことを言ったら、怒る人もあるかも知れませんけどね。
ま、同じようなテーマのくり返しであったり、舌足らずであったりですね、いろいろな欠点をもっていますよ。だから、「万葉秀歌」なんか作ると、そこには入らないわけですね。という意味では、ほとんどが「拙劣」である、といっても、わたしはそう『万葉集』を馬鹿にしたことにはならないと思うのです。そんな、秀歌ばかり何千も、なんぼ日本人が、文学的才能があるからといって、作れるわけないですから。
それじゃあ、もう、「お前がいう拙劣よりもっと拙劣だったんだろう」と、「もう見ちゃおれないぐらい拙劣だったんだろう」と、まじめな人はそう解釈するかも知れませんがね。
しかし、現実はさっき言ったように、現在、東国歌に、防人歌に採録されているものは恋の歌しかない、他の人間生活の中で、重要な、おそらく欠くべからざる、例えば「神々への信仰」を歌ったなんてのも、これは欠くべからざるものですよ。そういう類のものが、一切採られていないことをみますとーーまあ一切ということは、言いすぎですけれども、ほとんどとられていない、といえは全く正確ですがね、ということをみるとーー実はこの「拙劣不載」というのは、それをカットするための大義名分の言葉というんですかね、きまり文句ではなかったか。
要するに、別の理由でカットしているのだけれども、その表向きの理由は、「拙劣不載」といっておけば、まあ無難だというわけですね。「当時では通る」というものではなかったかと。だから、真面目な方は文字通りとられ、まあ、万葉学者というのは、大体みな「真面目な方々」ばかりらしくて、まじめにとっておられるように思えるんですけれどね、註をみてみますと。
しかし、わたしのように、東国歌の全体像からみますと、どうもたまたま、神々を歌ったり、自然を歌ったり、挽歌を歌ったりしたのが、みな、そういうものに限って「拙劣」だったってことはね、わたしには信ずることができない。
さっき言いましたように、ああいうすばらしい恋の歌を、率直な、すばらしい恋の歌を作る人々が、やはり肺腑にしみ通るような、詠む人をして、涙を流さしめるような、挽歌を作りえなかったということが、わたしには、どうしても信ずることができないですね。
そうしますと、「拙劣不載」というのは、一つの、採らない、カットするための表向きの“きまり文句”であると。万葉学者に言わせれば、乱暴だといわれるかもしれないが、大局からみると、私にはそういう判断の方が、リアル=真実ではないかと、こう思うわけでございます。
それと、さらに大事なことは、『万葉集』においては、東国においても別の『万葉集』があらかじめ存在、潜在していたということです。われわれの知っている万葉以前、「日本国万葉」以前に、いわば「毛人国万葉」といいましょうかーー毛人国というのは、これは日本国側で言ってる言葉ですから、御本人で言っている言葉でないでしょうけれど、まあ、仮に『旧唐書」の表現によっていえばーー「毛人国万葉」というものが存在していた、という風に考えざるをえないわけです。
そうでないと、この「抄写」とか「拙劣不載」とかいうような言葉自身が、理解できない。口で五十首位言わしてみて、その中で拙劣でないものだけ書きとったという概念は、実際問題として無理でございます。
のみならず、その東国歌に出てくるのに、「一本に曰はく」というのが出てくるわけです。
つまり、東国歌が書いてあるんだけれども、一本では、第一句はこうなっているという別の表現が書かれているわけです。
ということは、これははっきり言いまして、「東国万葉」というものは、一回ポッキリできていたものじゃなくて、すでに何回も歴史を経て、見本が成立していたということを示すものなんです。
これは、現存の『万葉集』の「一本に曰はく」という意味にとる人もあるかもしれませんが、(万葉の研究家はたくさんいますからね、その全部をみたわけではないですが)これはやっぱり、わたしは無理だと思うんです。
なぜかといえば、現存の『万葉集』自体について、いろんな異論があることは御承知の通りで、例えば、あの岩波古典文学大系の『万葉集』で四冊になっておりますね。あれの解説の部分に、異本・異伝ということが、いろいろ書いてございます。あれは、現存『万葉集』についての異本であるわけです。
ところが、今の場合、「東国歌」について「一本に曰はく」、とある場合については、当然、東国歌について、すでに成立していたものの「一本に曰はく」とみるのが一番普通のとり方でございます。
だから、そういう普通のとり方による以上は、(わたしのいう「毛人国万葉」というのは言葉が汚ないから、「東国万葉」という言葉を使っていますが)「東国万葉」はすでに何本も成立して、歴史を経ていたものであるという風に考えざるをえない。
これはさらに、その証拠といいますか、例の柿本人麻呂歌集というものが、『万葉集』の材料としてくり返し出てくることは、御存じの通りでございます。
これに載っているものが、人麻呂自身の歌なのか、他の人の歌なのか、その割合はどうかってなことで、非常に議論が昔から行われております。
最近、梅原猛さんなんかも論じておられますがね、その全体について立ち入るつもりはございませんが、少なくとも、今の問題について言いますと、まず「東国歌」をあげておいて、柿本人麻呂の歌集では、第一句はこうなっている、という註がついているわけです。
ということは、これは内容からしましても、どうしても「東国歌」の口調であり、内容でございますので、人麻呂が詠んだ歌とは思えない。で、そこに、人麻呂の歌集に採録しているわけですね。人麻呂が勉強のためか何か知りませんが、その自分より先立って存在した歌を、そこに採録しているわけです。
その採録した「東国歌」は「現存万葉」が採用した「東国歌」とは、第一句が違っているわけです。それが註されているわけです。
ということは、この点からみましても、いわゆる「東国万葉」は、すでに何本も異本が成立していたと。人麻呂がみた「東国万葉」とこの「現存万葉」ーー大伴家持が作ったんじゃないかといわれておりますがーーからみた「東国万葉」とは、もうすでに部分的に違うところがあった、異本である、ということが証明されるわけでございます。
なお、この点につきまして、万葉の研究は多いですから、まだ全部どころか、ほんの一部しか読んでないですけど、読んでいて、わたしなんか“ハッ”とびっくりすることがあるんですね。
というのは、例えばある学者はですね、「防人歌」というのは、東国から九州へ行くさいに、その防人を近畿の方で呼びとめて、そして、歌を歌わしてみて、それを書きとったものだろうと、そういうことを主張している学者もいるんです。これはまあ、ごく一部の学者のようですけれども、もっと多い学者の中には、こういう説があるんですね。
というのは、あの「東歌」というのはですね、近畿の官僚が、関東のある地域の長官になって行って、そこでその現地の歌を聞いて書いたのだろうと、それが「東歌」だろうと、これはかなり有名な説というか、有力な説として出てきますけどね。
これは、わたしなんかの目ーー万葉なんて少年時代は、夢中で読んだことがありますが、久しく遠ざかっていたのですーーそのわたしなんかの第三者の目からみますと、「そんなことよく言えるなあ」と。
そういう考え方の説が書いてあればね、万葉にーー宴会の席で御本人が書きとったものだとか、ある東国人が歌のことを話した。すると、「お前ちょっと待ってくれよ、お前、何か歌詠んでないのか、書きとるから」と、まるで民俗学の採集みたいに書きとったとかーーこう書いてあれば別ですよ。そんなこと、何も書いてないんですから、ただ、現代の学者の「説」なんですから。
その説のバックにある「思想性」というか、「考え方」というのはね、結局、この東国の人間が歌を作ったということは、これはもう否定する人はいないでしょうね。九州・瀬戸内の場合とちがって、ちゃんと出ているんですから。歌を作ったことは確実だと。ところが連中は歌はつぶやけるけれども、書く能力はなかったと。文字に書くということは、あんな野蛮人にはできなかったにちがいない。文字に書くのは、近畿の人間が呼びとめたり或は、関東へ行って、現地へ行って書きとったりしなきゃならなかったろうという「観念」をもっていたのですね。
これは、わたしとんでもない観念だと思いますね。そういうことを前提と考えるとは書いてないですけど、「学説」自身をよく眺めてみれば、そういう前提で書いている、としか思えない。
といいますのは、古代史の方では有名な事ですけれども、七世紀後半から八世紀にかけての「金石文」ですね。これが六個あるわけです。そのうちの四個は関東です。二個がそれ以外です。
その二個のうちの一個は、御存じの「大化云々」で問題を含む、京都宇治橋の断碑、現在その一部しか残っておりませんが、それが一つ。
もう一つは、これも信憑性で非常に問題が出てきますが、あの東北の「多賀城碑」。
この二つが関東以外で、あとの四つは関東なんですね。いわゆる栃木県内の北にあります「那須国造碑」、それから、群馬県に「山上碑」・「金井沢碑」・「多胡碑」と三個ございます。関東全体で四個。
つまり日本列島ってのは、われわれ歴史研究家にとっては残念なことに、古代の金石文の少ない列島なんですけれども、その少ない列島で、三分の二を占めているのが関東なんです。しかも、その石碑は七世紀後半から八世紀にかけてのものですから、この『万葉集』の時期と全く一致しているわけです。
ところが、『万葉集』というものについてですね、「関東の人は、金石文には非常に文字をよく書いた。ところが、歌は詠むには詠むけれども、文字はわたし下手ですから書けません。」ということになるわけです。
全くバラバラですね。日本列島の三分の二を占めるくらいの金石文に文字を書くのが好きな関東人であれば、当然ながら、詠んだ歌を金石文に書かなくても、紙だか布だか知りませんけどね、そういうものに書いたのは当り前です。それが「関東の人間は文字を書くのが下手だったろう、いやだったろう」なんて概念はとんでもないことです。
特に最近は「稲荷山鉄剣」の出現によってですね、七、八世紀どころか五世紀から、あれだけの文字を書く権力者を持っていた。こうなりますと、それが七、八世紀になっても、歌さえろくに書けなかったとか、これはもう想像するのも馬鹿げています。
今のような説を出した人は「稲荷山鉄剣」は知らないで出したのかも知れませんけど。しかし、金石文は知っていたはずですから。そういう概念は、全くナンセンスである。わたしはそう思うんです。
そうしますと、当然、「東国万葉」に当たるものが歌われ、かつ書かれていたと。だからこそ、「抄写」や「不載」ということも出てくるんだということでございます。 
甲類・乙類問題
なお、この点、もう一つ駄目押しとでもいうべき論証をあげさせていただきますと、『万葉集』で有名なテーマに「甲類・乙類」という問題がございます。
同じ「み」といいましても、神の「み」と水の「み」とは、われわれは同じ「み」に発音しているが、当時は「甲類・乙類」発音がちがい、表記もちがっていた、というテーマでございます。
これを発見されたのは橋本進吉さんで、正確には再発見、江戸時代に学者(石塚竜麿=本居宣長の弟子)がすでに発見していたものの再発見でございます。
それによりますと、『万葉集』では「甲類・乙類」の区別は厳密に守られている。ところが、それには例外がある。つまり、「東歌」には、「甲類・乙類」が厳密に守られていない、乱れている。だから、東国に関しては、この「甲類・乙類」の原則は成立できないんだ。と橋本さんが繰り返し書いておられる。
これはやっぱり、非常に良心的な学者であろうと。お会いしたことはないですけれども、書かれたものを見てそう思うわけです。
この点、余談になりますけれども、橋本さんのお弟子さんになる大野晋さんと、例の『週刊朝日』で対談しました時に、大野晋さんは「あの『稲荷山鉄剣』を読む場合に、『甲類・乙類』を厳密に守って読まなければならない、と。私のはそうだが、あなた(古田)のはそうなっていないじゃないですか」とこういわれるわけですね。ところが、わたしは「それはちがうと思います。なぜかというと、あなたの先生の橋本進吉さんが、繰り返し書いておられるように、東国においては『甲類・乙類』が必ずしも守られていないということを言っておられる。だから、五世紀後半、六世紀初めの『稲荷山鉄剣』において、『甲類・乙類』を守ってこれを読まなければならないということはない」。
とまあ、こういうことを申し上げたわけです。と、大野さんは「いや、これは七、八世紀においてこそ乱れたけれども、五、六世紀においては、厳密に守られていたと私は思います」と、こういわれるわけです。それで、わたしは、いや、それは一つの考えとしては結構です。ですけど、五、六世紀の史料がない以上は、五、六世紀の『万葉集』がない以上は、それはわからないわけです。だから五、六世紀は、日本列島で全部「甲類・乙類」を守ってきたんだが、何故か七、八世紀になって、東国の人間だけ怠けて「甲類・乙類」を忘れてしまったというケースも、それはないとは言えませんけれども、たまたま、そういう仮説に立って「稲荷山鉄剣」を読みましょうといわれるのは、私は全く反対いたしません。しかし、それはあくまで一つの仮説であって、他の人間も全部「甲類・乙類」によって「稲荷山鉄剣」を読まないかん、「甲類・乙類」に立って読まないから、言語学的に間違いだとか国語学的に間違いだ、という言い方をされるのは、これは間違ってます。
東国では、七、八世紀に「甲類・乙類」が守られていなかったように、五、六世紀でもーーなお一層かも知れませんがーー守りれていなかった可能性はあるわけですから、その立場に立って読む人があっても、実はちっともかまわないじゃないか。どっちが正しいかは、別史料、今後の史料が出てくれば別ですが、現段階では決定できないんじゃないですか、とこう言ったら、大野さん、黙っておられましたけれどね。これは横道のエピソードですけれども。
橋本さんて方は、非常に厳密な方で、今のように自分が発見したーーまあ再発見だったんですがーー守りれた原則をですね、しかしこれには例外がある、適用できない領域がある、とはっきりと繰り返し書いておられる。これはやっぱり非常に良心的な学者であると、こうわたしは思うわけです。
さて、問題はですね、少なくとも七、八世紀の東国人が、「甲類・乙類」を厳密に守ることをせずに語っていたということは、今、だれも反対する人はいないと思います。
問題は、書く方なんですね。書く方の人は厳密に「甲類・乙類」を区別する人が書きとったかどうかということなんです。
近畿の人はそうですね。ただこの場合、歌ですから、近畿では意味はわかるわけですよ。神さんの「み」か、水の「み」かということは、もし仮に言う方が神さんの「み」を水の「み」みたいな発音したとしましても、意味がわかってるから「神さんだな」と思えば神さんの方、甲類なら甲類の「み」を書きとると思うんです。その時はうっかり書きとっても、後で見直してみて、あ、これなんだ、神さんの「み」じゃないか、これじゃ、ちょっとこの表記じゃまずい、ということで直す、と思うんです。そうすると、意味不明の歌で残っちゃうのがあるにしましても、大体は「甲類・乙類」が守られた表記になっているんじゃないかと、わたしはそう思います。
ところが、これに対して、写しとる方も「甲類・乙類」をあまり守らない人が写しとったら、どうなるか。これはもう当然「甲類・乙類」を守らない「結果」になりますよね。
言う方も「甲類・乙類」に束縛されずにしゃべって、書きとる方も同じ立場の人が書きとったらね、もう当然、このできあがったものは「甲類・乙類」を守ったものにはならないはずですわね。
つまり、現存の『万葉集』ーー「東歌」のようになるわけです。
こういう点からみましてもね、この「東歌」というのは、この東国で書かれたものが収録されたということです。
収録する場合に、勿論、全部近畿流に直して収録するというやり方と、その元のままやるというやり方があるわけですね。また、中間で、一部分直したけれど、徹底せずに写してしまった、というケースもあるわけです。これはまあ第二の問題ですが。
要するに、現存の『万葉集』の、東国における「甲類・乙類」の乱れーー乱れといっても、これは近畿の立場からの「乱れ」で、東国の人は「乱れ」とは思っていないでしょうけれどねーーその「乱れ」と称する問題はですね、これも又、「東国万葉集」がすでに先立って成立していたと、その考えに立つ時に、もっとも素直に理解できる。
今のように、近畿の人間が関東へ行って、そこで宴会で書きとったなんていうのはね、そういう説の場合は、説明に窮するであろう。ま、酔っぱらったから「甲類・乙類」まちがってしまったと。書きとる時、うっかりまちがえたなんて言いだしたら、もう議論は終りですけどね、ということでございます。 
「九州・瀬戸内万葉」
さて、それでですね、反転しまして、近畿にわれわれの知ってる現存の『万葉集』があり、東国にもそれに先立って「東国万葉」があると、こうしましたならば、やはり最初に申しました「九州・瀬戸内万葉」が、先立って成立していたという、最初の仮説はいよいよ動かしがたくなるんじゃないかと。
なぜならば、日本列島で最初に文字がやってきた、志賀島を含むこの九州で、歌を文字にすることを怠たっていたということは、到底考えることはできないということになるからでございます。
それではそれは理屈じゃないかと、実際にそういう証拠の断片があるのかという問題が当然出てくると思います。私は幸いにもそれがあるということを、今日、お答えすることができるわけでございます。といいますのは、巻第七のですね、一二四七番から一二五〇番までの四つの歌がありまして、その最後に、
右の四首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ
とこういう註がついているわけです。で、その最初の歌は
おおなむち少御神の作らしし妹背の山を見らくしよしも
つまり、「おおなむち」=大国主と、「すくなみかみ」つまり少名彦、この二人が作った妹背山ってのは、どうも奈良県の二上(ふたかみ)山みたいに、山がこう二つ突出したのが並んでるんでしょうね。片方は一寸背が高くて、片方は背が低いんでしょうがね。それを妹背とね、恋人同志にたとえたんだと思いますが、恐らく固有名詞かも知れませんね。
その「妹背の山」を見ることは、非常にいいことだと、こう言ってるわけです。
この歌で、要するに、目の前にある妹背の山という山は、おおなむちと少御神が作った山だという、その土地の伝承をになっているんですね。その伝承をバックにして歌を作っているわけです。これは『古事記』・『日本書紀』に出てくる伝承じゃないですから。妹背の山なんてのを二人で作ったなんていう伝承は出てきませんからね。
そうすると、これは出雲の人が出雲で作った歌ではないか、という問題がまず出てくるわけです。
その次に一つ飛んで、一二四九。
きみがため浮沼の池の菱採むとわが染めし袖濡れにけるかも
あなたのためにーーだから女がつくってるわけですねーーあなたのために浮沼の池で菱をとろうとして、わたしが染めた袖がぬれてしまった。染めた色がとけて流れなきゃいいんですけどね、といって心配してるんですね。乙女が心配してるわけです。まあ非常に可愛らしい歌ですね。
この浮沼の池というのは、決定的ではございませんが、言われている説では、島根県大田市の三瓶山の西麓の池であると、こういわれているわけです。
やっぱり、だから出雲、島根県の歌である。これは女ですから、当然人麻呂ではありませんね。やはり作った内容からみますと、まさにこの浮沼の池のそばに住んでいる乙女が作った歌である。
それに対する、今度はやはり男の歌は、その次に載っております(一二五〇)。
妹がため菅の実採みに行きしわれ山路にまとひこの日暮しつ
ということですね。明らかにこの両者がこの浮沼の池の近辺を生活圏にする恋人同志であることを示しているわけです。今、抜かしました第二の歌では(一二四八)
吾妹子と見つつしのばむ沖つ藻の花咲きたらばわれに告げこそ
これは、沖つ藻というのを普通名詞にとれば地名は出てきませんが、出雲の隠岐の島の「おき」という可能性はありますね。
ということで、これはまだ断定はできませんが、四首を通して、これはどうも出雲の歌、しかも出雲へ旅して、旅先で作った人麻呂の歌ではなくて、出雲の人が出雲で作った歌、それが柿本人麻呂の歌集に採録されている。
これをまず一つの事実として確認しておきたいのです。
さて、ところがその直前にですね、五十首、同じムードの歌が並んでおりまして、その最後に
右の件の歌は古集中に出づ
という註釈が出てくるわけでございます。その五十首というのは、番号で申しておきますと、一一九六から一二四六まででございます。その一番最後の二つをまず問題にしますと(一二四五)
志賀のあまの釣船の網あへなくにこころに思ひて出でて来にけり
志賀というのは、志賀島の志賀、金印の志賀島でございます。あまというのは、例の白水郎、問題の言葉ですが、白い水の郎と書いて「あま」。
志賀の白水郎の釣船の網がもたないで切れてしまいそうなように、私の心ももう切れてしまいそうな感じになって。まあ恋の歌でしょうけどね、そう歌っているわけです。次に同じく(一二四六)
志賀の白水郎の塩やく煙風をいたみ立ちはのぼらず山にたなびく
やはり志賀島の白水郎が塩をやく煙が、風が非常に激しいので、上へ立ちのぼらずに山にたなびいていることよ。
これもですね、旅先で詠んだのか、この博多湾岸に旅にきて詠んだのか、或はここの人が詠んだのかわからないけれども、とにかく志賀島が舞台になっていることは確かなんですね。
次に、前の歌、千二百四十四ですね。
少女らが放(はなり)の髪を木綿(ゆふ)の山雲なたなびき家のあたり見む
つまり、少女たちが、放(はなた)れた、乱れた髪をゆうという掛詞で、そのゆうの山、木綿の山。
これは要するに、註釈でもみな言われておりますように、「ゆふ」というのは「ゆふ嶽」大分県の由布嶽である、というように言われていますね。木綿という字も勿論書くわけですよ。その由布嶽に雲がたなびいている。そのためにわたしの家の辺りが見えない、だからその雲よ、どいて欲しい。とまあ、こういう歌なんですね。
ところがこの場合、本人がどこにいるかによって情景が変ってきて、由布院盆地という、別府湾があって、その西側の山が由布嶽で、その由布嶽の西側が由布院盆地でね、わたしの『盗まれた神話』で、例の「蜻蛉のとなめ」で問題になった盆地なんですがね。
これがもしですね、近畿から来た人の歌った歌と考えますと、旅先の歌と考えるとしますと、今の由布院盆地にいて、そこで東の由布嶽を見て、その雲がのいてくれたら近畿が見えると、そういっている歌になる。
しかし、これちょっと近畿では遠すぎましてね。雲がのいてくれりゃ見えるにしては、ちょっとピンときませんね。
よりいいのは、今度は別府におりまして、別府湾の方におりまして、そしたら西に由布嶽がある。その雲がどいてくれたら、これは今の筑紫とね、福岡県と大分県の境の山々が見えるわけです。
あれは家のあたり、こっちの方は・・・ということになりましてね、よく分る。もっともこの場合も、これは大分県の人が詠んだ歌とも考えることができるわけです。自分の家が由布院盆地にあると、それではあんまり近すぎましてね。
それともう一つポイントは、この歌は掛詞でできているんですが、
少女らが放の髪をゆふ
の「ゆふ」は結ぶをゆふと由布嶽のゆふが掛詞になっているんです。
もう一つ掛詞がある、と思うんですね、わたしは。というのは
少女らが放の髪を
といっているのは、髪がほどけたというのと、わたしが遠く家から離れてきたという、そういう「はなれ」というのが掛けてある。
だから、この歌は非常に技巧的に「進んでいる」わけですけどね。
そうしますと、先刻言いましたように、別府にいたとしましても、これは自分の故郷からかなり離れてきたんだと、そして離れてきた故郷をしのんでいる。こう解すればいいんじゃないかと。そうすると、やはり、自分の家が由布院盆地にあるというよりも、筑紫にある、博多湾岸にある、としますと、まさにこの歌の内容にぴったりしてる。
例えば他の例をあげますと、『古事記』の倭建命の歌で、倭建命が関東へ行って、帰りに三重県に来て、当芸野ですか、そこでもうわたしは最後だと、いう時に歌う歌がありますね。
はしけやし吾家の方よ雲居たちくも
恋しいことにわたしの家のあたりから雲が起ってくる。
これはやはり、三重県に来ているから、つまり彼の家は奈良県の大和盆地にあるわけですから、あ、あの雲の立ってくる山の上にーーこの場合も西の山でしょうねーーあれは私の家の辺りから立ってきた雲だ、っていうような、ですね。三重県にいるから、これにつながるので、関東におって、西の方にあるからあれは私の家の方からくる雲だっていっても、ちょっとピンときませんね。
まあこういう点から言いましても、今の由布嶽の歌は、博多湾岸から別府にきて、そして西の由布嶽を見て歌っていると考えた場合に、一番きちっと歌がきまるわけでございます。
そうなってきますと、この五十首は非常に同じムードの歌なんですが、この中で一番疑問に思ってきた歌がある。皆さんもそうだと思うんですがーー皆さんの中からも私に御質問になった方もいらっしゃいますがーー次の歌が入っているんです(一二三〇)。
ちはやぶる金の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神
金の岬というのは、金印の志賀島の先っちょにある岬である。それの枕詞が「ちはやぶる」です。それを過ぎてしまったとしてもわたしは忘れまい、志賀の皇神(すめがみ)を。普通、「皇神」という字があるでしょう。勿論「皇神」というのは、現在の『万葉集』の当字でありまして、本来は「須売(すめ)神」といった風に書くべきものでございましょう。
「須売」というのは、統べる、統一するという意味ですからね。だから「皇神」とあててあるのも間違いではないでしょうね。
ところで、何でそこに統一神が出てくるのかと。
従来これは、近畿の人が旅先で詠んだ歌と理解しているでしょう。そうすると何でそこで、皇神が出てくるのか、志賀島が出てくるのか、気になって仕方がないですね。もう一つ、ピンとこなかった。わたしもそうだったですね。
ところが、今考えてみますと、これは博多湾岸の人が作った。としますと、朝鮮半島か中国の方へ、異国へ旅に出るわけです。おそらく使命を帯びて出るのでしょうね。
今から異国へ行くけれども、しかし私は決して忘れはしない。わたしの郷里の、都の、志賀の皇神の魂を。つまり、日本人の魂のことでしょうか。「倭国人の魂」の方でしょうかね。筑紫人の魂をね、私は異国へ行っても決して忘れはしませんよ、と。
こういう歌に理解しますと、始めてわたし、どんぴしゃり、イメージが決まったんです。
近畿一元主義だと、この歌はどうもなんだかわからない。今のように、これを筑紫原点の作者の歌としますとね、実にぴしゃっとはまるわけです。
ということでみますと、この五十首はですね、「古集」といっているのは実は「筑紫万葉集」のことではなかったか、ということがでてくるわけでございます。
これは面白い問題をいろいろ含んできましてね。この五十首の中には、例えばこんな歌もあるわけでございます(一二三八)。
竹島の阿戸白波はさわぐともわれは家思ふいほり悲しみ
「竹島の」、これは普通「高島の」と読んでいるんですが、わたしはこれは「竹島」と読んだ方がいいと思いますので、原文通り「竹島」と読んでおきます。『隋書イ妥国伝」にも竹島と出てきます。何故これが問題かといいますと、皆さん、これはどっかで聞いたような歌だとお思いになりませんか。
ささの葉はみやまもさやにさやげどもわれは妹思ふ別れきぬれば
これは同一のリズムです。どっちが先かっていうと、「竹島」の方が早いわけです。つまり、あの有名な『万葉集』きっての秀歌である人麻呂の歌が、この歌をバックにできあがったのです。この歌は柿本人麻呂歌集ではない、「古集」中のものですけれどもね。しかし人麻呂はこの歌を確かに見ている。そして、こういうーーこれ一つだけではないですけとーーこういう歌をバックに、素養にして、あの名歌ができている、ということを私には疑うことができないのです。
「いほり」というのは、我々がいう、のちの平安朝あたりの「いほり」と同じかどうか疑問だと思いますが、要するに仮の宿ですね。いわば朝鮮半島あたりへの途中の仮の宿だと思いますが、そこで自分の家を想い出して、悲しんだのですね。なつかしんでいる歌です。これをバックに、人麻呂の歌ができているわけです。
以上で申しましたように、この「古集」とされる五十首は、「筑紫万葉」となります。
この人は瀬戸内に行っても、いい歌作っているんですけど、これは時間がないので省略しますけれども、こういう「筑紫万葉」をバックにして、あの人麻呂の歌も成立している、というような問題も実は出てくるわけです。だから従来の「万葉」とは違った意味で、鑑賞がここに生まれてくるかもしれません。 
防人について
さてそれでもう一言、重要な問題を最後に言わしてもらいます。
といいますのは、先程出てきました「東国防人歌」ですね。
防人について、わたしは古代史に、大袈裟にいいますと、疑問を持ちはじめた最初が、それだったような気がするのですが、二十代の前半で。といいますのは、国語の教師なんかしておりまして『万葉集』なども教えるわけですけれども、防人というのは、あれは何の防人かと。ちょっとおかしいんじゃないですか、あの配置の具合ですね。
といいますのは、この対馬と、壱岐と、それから筑紫。さらに、「さきもり」の「さき」というのは、何とかの先。何とかという本体があって、その先があるわけです。「さき」だけということはありませんね。山崎とか、川崎とか、何とかというものがあって、その先があるわけです。
あれ、何の「さき」かというと、『万葉集』に出てくるところでは、「つくしのさき」というのが出てきますね。長歌の中に、「防人歌」で。ところが「やまとのさき」なんてないわけですからね、当然あの「さき」は「つくしのさき」である。
だから「筑紫」を本体にして防人が存在するという形になっている。
なぜ、おかしいと言ったかといいますと、あれをですね、私を含めまして、従来すべての人が、といっていいかと思いますが、近畿を原点にする防人と考えていたのです。でもそれはおかしいところがあるんじゃないか。なぜかといえば、いわゆる中国なり朝鮮から攻めてきたとしまして、それは確かに、対馬・壱岐・筑紫とくるルートは、ひとつのルートですよ。元寇の時も、そういう風なルートで来たというんですから。
しかし、そう来るとは限らないですね。たとえば、関門海峡を来たっていいわけですね。関門海峡を、門司・下関のところで抑えて、そしたら後は、楽々瀬戸内海へ入ってこれますもんね。非常にうまい攻め方ですわね。
関門海峡の存在を知らなかったなんて、彼らがね。中国は唐と新羅の連合軍ですから、関門海峡を知らなかったなんて、考えられないですから、七、八世紀に。そういう見方も出てくる。そして更にですね、他の方法もできるんですよ。
といいますのは、出雲に上陸できるんですね。対馬海流にのったら、スーッと出雲に行きますわね。今の「密輸」なんかの、ああいう船でも簡単に来れるらしいですからね。その出雲に上陸して侵入できる。もう少しがんばれば、丹波か舞鶴の方へ来て上陸して、近江から大和へ攻めてくれば、大変これはいい攻め方ですね。
ところが、そういう心配は全くございませんと、思ったこともございませんと、いう風にですね、「舞鶴の防人」やですね、「出雲の防人」なんていうのや、「関門海峡の防人」なんていうのはいないわけですよ。専ら、「筑紫の防人」ばっかりいるわけです。考えてみれば、これはおかしいことです、天皇家を始めから原点としておったらですよ。私のような初歩的な軍事知識しかないものですら、そう思うんです。
それから、もう一つ。じゃあ、ああいう風に防人という「動く要塞」としての人間を配置するのは、良いとしますね。ところがその配置する御本人、一番の権力中心ですね、それがその「動く人間」だけじゃあ、さびしいわけですよ。やはり動かない要塞をもって、自分自身を囲みたくなる筈なんですね。
ところが筑紫には、これがあるわけなんです。 
神籠石
ご存じのように「神籠石」。「神籠石」というものが佐賀県にもありますが、簡単にいうと、あれは福岡県とその周囲をとりまいているんです。
「神籠石」という、これもいろいろ霊域説や、山城説がありましたが、まず山城説が決定的です。といっても、霊域説を必ずしも否定するものではないですがね。という形になっております。
あの「山城」が、はっきりいえば、太宰府をとりまいている。要するに、筑紫をとりまいているわけです。あれは「動かない要塞」です。あれを『古事記』は勿論ですが、『日本書紀』にも「天皇家があれを作らしめた」という記事はないわけです。
大野城や、ああいう類の水城とかいうものにしても、あれは天智紀に出てくるだけで、「誰が大野城を作らしめた」、「誰が水城を作らしめた」とは書いてないですね。こちら側が、天智紀にあるから「天智天皇が作らしめたんだろう」と、補って解釈しているだけで、よく読めば主語はないですね。
まして、主語どころか記事もないのが「神籠石」です。記事もないのに、「あれは天皇家が作らした」と現在の考古学者は言っているわけですね。
しかしこれは、あの鏡山猛さんが佐賀県のおつぼ山の、非常に理想的な報告書を作られたわけです。
鏡山さんは、各神籠石は、みな統一した間尺で作られているということを、報告書で結論を出したわけです。だからこれは、個々ばらばらに豪族が作らせたのではなくて、統一的な権力者がこれらすべての神籠石をつくらしめたんだ、ということを報告書で書いていました。
それは私にも納得できたんです。ところが報告書にはないけれどーーまあ鏡山さんは尊敬する考古学者ですから名前を出さしていただくんですがーーその鏡山さんがテレビでおっしゃったのは、今の報告書の内容をかいつまんでおっしゃって、「だから、天皇家がこれは築かせられたものと思います」と、こう結ばれたんです。
ここへくると、私はわからないわけです。なぜならば、そういう考古学者であるならばですね、専ら「物」によって判断をすべきである。というのは、「神籠石は統一した権力者が、統一した意志によって作らしめた」ということは、間尺の問題その他でわかったとしますね。としたら、その統一権力者がどこにいるかというのは、「物」による限りは、その神籠石に囲まれた中に権力者は居るわけです。
ところが、天皇家がいる大和だか近江だか神籠石で囲んだ形跡はないわけですね。今の少なくとも、九州の二倍か三倍の、厳重な、壮大な神籠石群で囲んで欲しいですよ。その形跡はないわけです。専ら、筑紫ばかりを囲んでいるわけです。
それはいくら天皇が筑紫信仰の心深くて、「私よりも筑紫の方を守れ」とおっしゃったなんてことを言ったら別ですけどね。そんな権力者は私はいないだろうと。だから「筑紫が重要だ」ってことは、いくら言っても良いけれども、「自分より重要だ」ってことを言っては終わりですね。
ですから、今のように神籠石という「物」の示すところは、神籠石を作らしめた、いわゆる権力中心は神籠石群の内側にいると、つまり太宰府を中心とする筑紫の権力者が作らしめたと、こう考えるのが「物」が指し示すところによる限りは、そうなんです。神籠石っていうのは、現在のところ、六世紀から七世紀にかけて作られたと、早くみて六世紀、遅くみて七世紀なんですね。そうするとそれは防人の初期の時期に当っているわけです。と、防人が「つくしのさき」だというのとの関係ですね。
筑紫へ攻めるんだったらね、これはもう、先ず対馬へ上陸し、次に壱岐に上陸して、次に筑紫を狙うと。何回失敗したって、両方の島を抑えていれば、それはもう絶対、筑紫は参りますよ。だからそれを守るんだったら、防人の配置は実にこれ以外ないという守り方ですね。
そうすると、実はわれわれは『万葉集』によって「防人は天皇家の防人である」と信じこんできた。しかし実は防人というのは、本来は筑紫を原点とした「筑紫の防人であった」のではないか、少なくとも七世紀の段階では。
それを天皇家が統一倭国を併呑してそして肩代わりしたんだけど、天皇家のためとすれば、それはもともと不合理なものであるから、やがて廃止されていったんではないかと。廃止されたことは御存じの通りですね、八世紀の半ばに廃止されたことは。
という風に天皇家が最初から始めた制度と考えた場合にはおかしい。この問題は、防人が「なぜ東国から」という問題もあるんですがね。それと同じく、非常に重要な問題ではないかと。これはやがて「なぜ東国から」かと、言いかえれば「なぜ毛人国の軍隊か」という問題へと、翻訳して考え得るわけですね。
以上で、なお面白い問題が続々出て参りますが、時間もありませんので、後半に入らしていただきます。
今最後に申しました、防人の問題も非常に面白い間題を含んでおって、後半続いて申したいと思ったんですが、後半一時間しかございませんので、二時間ぐらい欲しいところなんですけれども、時間がございませんので、それは懇親会の時のテーマにさせていただきまして、今は後半の方に入らしていただきます。 
『万葉集』の成立
実は『万葉集』の問題、今日の問題にももちろん関連してですが、『万葉集』の、さきほど言いましたのは全体の、いわゆる『万葉集』の骨組みといいますか、そういう問題でございます。
その骨組みから見ると、『古事記』・『日本書紀』のような、天皇家一元史観からではうまく理解できないのが、こういう、いわゆる「倭国万葉」というのが先立って存在したと、でまた「東国万葉」というのも存在したと。もちろん近畿でも、歌集はあったわけでしょうが。そういうものをバックにして「現存万葉」を考えた場合にはですね、「現存万葉」の仕組みが理解できるのではないかというテーマでございます。
更にもう一度、前半に落としましたところを申し添えますと、これと似たようなテーマは、実は『日本書紀』にもあったわけでございます。といいますのは、例の『日本書紀』の「神代巻」で「一書曰く」、「一書曰」とたくさん出て参ります。ところが、神武が九州を、日向を離れて大和へ入って以後は、その「一書」がプッツリと姿を消してしまいます。
ということは、即ち、九州において神話を豊富に語った歴史書が数多く存在していたということを意味するわけでございます。
当然、それはその本の題名があり、また作者名あるいは編者名があったはずでございます。それを『日本書紀』の編者は知っているはずでございます。にもかかわらず、その本の題名と作者名をカットして「一書曰」という形で利用したわけでございます。
それと同じく、『万葉集』でもですね、今言った「古集中に出づ」とこう言ってますけれども、その古集が「題を持たない古集」であったという可能性は、私は少ないように思います。
で、また、編者のわからないものばかりであったとも、私は考えません。いわんや、作者もわかっている方が普通だろうと思います。
ところが、それらをすべてカットして、作者なしの、題名なしの、編者名なしの「古集」という形で「現存万葉集」に採用している。そういう痕跡がみられるんですね。こういう点において、『日本書紀』と現存の「日本国万葉集」と共通の手法を示しているという点も、指摘させていただきたいと思います。
さて、そういうことになってまいりまして、全体の骨格だけではなくて、部分部分の歌の解釈においても、同じ問題が出てくるということを、指摘させていただきたいわけでございます。
いちいち例をあげますと、とてもここではあげきれないくらいでございます。たとえば、東歌の中で、
うち日さす宮のわが背はやまとめのひざまくごとに吾をわすらすな
という歌がございます(三四五七)。
これなんか註釈を見ますと、東国の恋人がーー女性が作っているんですが、その夫が、恋人がですねーー近畿の宮殿に、護衛に、門番にいくんだと。その時門番に行って大和で、大和の女と一緒に寝ても、東国にいる私のことを忘れなさいますなという意味に解釈しているんですね。
ところが、そこには門番とか、全然書いてないわけです。東国で「うち日さす宮」と言えば、もう近畿しか「宮」はないという概念で解釈している。実際は、ところが東国にも「宮」はあると思うんですね。
これは余談になりますが、先日実は千葉県の木更津の方、後で話が出ると思いますが、そちらへ行って参りましたら、そこに「だいり塚」という大きな古墳がございます。これはやはり、今、「字内裏(だいり)」というわけですね。更には、後でも出てくるんですが、いわゆる大塚山古墳というのが木更津市にございますが、そこの小字が「小御門(こみかど)」、そういう小字でございます。だから「内裏」だとか、「小御門」とか、「御門」もあるんですね。私が「斯鬼(しき)の宮」だと言った大前神社という所には「御門」という字(あざ)がございます。
こういうようなものがあるわけですね。ということは「宮」があってこそ「御門」だとか「内裏」だとかいうことが言えるわけです。「宮」もないのにただ「御門」や「内裏」が字(あざ)につくはずないわけですからね。
ところが、今の「万葉」の解釈では、「宮」というものは関東にあってはならない、「宮」といえば近畿にきまっている、大和にきまっているというような解釈をするわけですね。で、門番なんて書いてないのに、彼は門番だったなんて解釈しているわけです。
ところが、そういう風な先入観を持たずに解釈しましたら、当然、東国の歌ですから「うち日さす宮」というのは、東国にある宮殿である。その宮殿に自分の恋人がいると。その恋人よと、あなたは主人の使者としてーー何の使いだか、あるいは他の用だか知りませんがーー大和へ行くと、そこで宴会の招待か何かでーー大和の女を、提供されたのか、その類の習慣があったのか知りませんがーー要するに大和の女と昼を、或は夜を共にすることもあるでしょう。歓待をうけることがあるでしょう。しかし、東国にいる、肝心の私をお忘れなさいますなよと、まあそういう意味ですね。私なんか、初めて読んだらそうとしかみえないんですけどね。
それをその、門番にあなたが行ったからとかね、“門番の相手に大和の女がなる。”らしいんだけど、そういう解釈をするなんていうのはね、ずい分ひどい解釈。これはまあ特定の註釈者がしてるんですが、『岩波古典文学大系」の解釈なんか、そういう解釈をしているんですね、びっくりするんですね。
要するに、近畿一元史観に立った解釈である、とこう思うわけです。こんなのは、本当に部分的なテーマですが、もっと大きなテーマではですね、例えば
おほきみのみことかしこみ
という言葉が、よく出てくることは皆さんよく御存じの通りでございます。
今日よりはかへりみなくておほきみのしこのみたてといでたつわれは
といった、戦争中、年輩の皆さんには、“なつかしい”歌もございますね。
こういう場合の「おほきみ」という言葉、これはいろんな書き方をされています。
たとえば「大王」と書いて「おほきみ」と読む例があることも御存じの通りでございます。
他にもいろんな書き方がございますけど、ただこの「おほきみのみことかしこみ」という言い方が出てきますと、これは「天皇の御命令を承わって」という意味に、従来どの万葉註釈も、註釈してきたようです。契沖、賀茂真淵以来、そのようでございます。
ところがですね、この「きみ」というのは、女が自分の恋人に言う場合に「きみ」というのが出て参りますが、で、あと、「おほきみ」というと奈良県へ行っちまうんですね。関東における自分の御主人なんかどうなるんでしょうね。「きみ」というのは御主人じゃなくて、自分の恋人なわけでしょう、女の方からみた。ところが「おほきみ」といえば奈良県の天皇になってしまう。在地の自分のすぐ上の御主人や、もう一つ上の御主人やなんかは、あれは「何きみ」なんでしょうね。
こうみてくると、非常に素朴な疑問につき当るわけでございます。
日本中どこでもみな「おほきみ」といえば奈良県の天皇のことを言っていると解釈しているわけでございます。といいますことは、今かりに問題を簡単にするため、「大王」という言葉に表記をしぼって申しますが、「大王」とあれば日本列島中どこで「大王」といっても、これは近畿の天皇しかないというのが、従来の万葉の読解法のルールであったわけであります。
われわれ、こういうルールで万葉の歌を教えられてきた、戦争中から教えられ、現在も教えられているわけです。それは本当なのか。「大王」といえば日本列島でただ天皇家のみかという、論理的にはそういう問題が出てくるわけでございます。
ところかよく御存知ように朝鮮半島では、そうじゃございません。高句麗も「大王」だし、百済も「大王」、新羅も「大王」、駕洛国王も「大王」と書かれております。
しかし日本列島では、“大王”といえば天皇家だけなのかという問題でございます。そこで、大王を表わしている金石文をですね、見てみようということになってきたわけでございます。 
法隆寺釈迦三尊像
さてそれで、「法隆寺釈迦三尊」、前の講演でもお話し申しあげましたし、それは「市民の古代』(第五集)にも採録されております。更に最近は私が、『佛教史学」という学術誌に「法隆寺釈迦三尊の史料批判」という詳しい論文を書きましたので、まあそういうものによってご覧いただければ結構です。
今、かいつまんで、一言だけを申さしていただきます。初めてお聞きになる方、びっくりされるかも知れませんが、詳しくは今申した論文等によってご確認下さい。要するにこの法隆寺の金堂にある本尊とされてるものは、聖徳太子の死後作られたものである。というのが、従来のすべての学者の理解であったわけです。しかし私は、果たしてそうかという疑問を、提出したわけでございます。(編集部註・釈迦三尊像光背銘文の原文は本誌第五集を見られたい。)
ここには、三人の人物が出て参ります。
一人は、二行目に出てくる「上宮法皇」。
そしてもう一人は、一行目に出てくる「鬼前大后」。
もう一人は、二行目の中ほどに出てくる「干食王后」。
この三人でございます。
「鬼前大后」というのは、間人大后だという風に従来解釈しているのですが、なぜ、間人大后を「鬼前大后」と書くかという説明はできていません。
また「干食王后」というのを膳(かしわで)夫人だというんですが、何故「膳」が「干食」になるかも説明されていません。「弗レ[余/心]二干食一」と返り点をつけて、原文には返り点はもちろんないんですが、「食によからず」と読んでいるんですがね。「食によからず」という漢文の文章はないわけです。
[余/心]は、余の下に心。
全体は見事な漢文なんですね、これが。明晰な漢文なんです。そういう漢文なのに「食によからず」など、用語例がない。それにどうも文字そのものはやはり「干食王后」となっている漢字なんですがね。
ところが、「干食王后」がなぜ「膳夫人」か説明がつかない、それはひとえに「上宮法皇」が聖徳太子だと。そうすれば、お母さんは間人皇女にきまってるし、后はたくさんいるけれども、膳夫人だろう、ということになっているわけでございます。
「上宮」というのは、「上宮・中宮・下宮」というように、これは普通名詞であります。「上宮」に住んだ権力者は、限りなくたくさんいるわけです。九州にもですね。たとえば阿蘇山にも、今の阿蘇神社は下宮であり、この火口近くに上宮があったといわれております。大分県の方にも「上宮山」という山がございます。そして、太宰府のところにもですね、竈門(かまど)神社に「上宮・中宮・下宮」とあり、一番上にあるのが「上宮」でございます。というわけで「上宮」というのは普通名詞でございます。丁度「関白」といえば秀吉、ということになっているんだが、実際には「関白」になった人物はたくさんいます。その中で一番われわれに有名であるのが、あの秀吉であるに過ぎないわけです。
同じように「上宮」に住んだ権力者は非常にたくさんいるんですが、最も有名な人物が「上宮太子」であるに過ぎないわけです。
だから「上宮」とあれば聖徳太子だというのは、「関白」とあれば、全部秀吉に解釈するのと同じ無茶であるわけです。一番大事なのは「法皇」という字で、これは僧籍に帰した天子という意味であります。「僧籍に帰した天子」つまりこれは、ナンバーワンを意味する言葉でございます。
ところが聖徳太子は、かつてナンバーワンになったことのないまま、死んだ人物である。常に、ナンバーツーであったわけですね。だから「上宮」とはいえても、上宮法皇とは言えない。だから『古事記』はもとより『日本書紀』にもですね、「上宮法皇」と聖徳太子を呼んだ例はございません。同じく最初の、鬼前大后の「大后」というのは、天子の母を意味する言葉でございまして、いわゆるナンバーツーの太子のお母さんを「大后」と呼んだ例はございません。同じく二行目の「王后」というのは天子の后でございまして、いわゆる「王子の后」を「王后」などというのは、俗解でありまして、そういう例はございません。
中国の用語によりまして、王后とは天子の后である。だから、いずれもこれは、中心人物は「天子」である。「仏法に帰依した天子」である。その天子の母親と、天子の奥さんという形で書かれているわけです。
だから、この一点をとりましても、聖徳太子には似ても似つかないわけでございます。
それと、もう一つは、いわゆる没年月日が違う。ここで「上宮法皇」という人物は、推古二十九年から話が始まって翌年に死んだと書いてありますので、推古三十年の二月二十一日が、その王后の方。
次の日、つまり二十二日に法皇が死んだと書いている。だから、推古三十年二月二十二日に死んでいる。これはもう、はっきりしているわけです。
ところが、『日本書紀』によりますと、聖徳太子は推古二十九年の二月五日に死んでいる。つまり、没年月日の一致しているのは月だけで、年も日も違っている。年も日も違った死に方をしている人物が同一人物ということは、ありえないわけです。
だから、この点からも、聖徳太子ではありえない。
それから決定的なのは、この中に、推古天皇が出てこない。推古天皇に当る人物が全く姿を現わさない。聖徳太子に関することなら、彼が死後、この仏像を作る側としては、当然推古天皇を中心とする以外、考えられない。
推古天皇の名前が、全く姿を現わさないということは、もしこれが聖徳太子を悼んで作られた仏像だったなら、これは万に一つも、あり得べきことではないと思う。だから、なぜこれを「聖徳太子のもの」と言い継がれてきたのか、私にはその方がむしろ不審である。
では何かというと、先頭にある「法興元卅一年」。元号であることを示す「元」ですが法興卅一年とあります。千支から計算しますと、法興元年が推古の前の、崇峻天皇の四年になっている。ということは、崇峻天皇が死んでも、法興という年号は替えられていないということがわかる。天皇が代っても年号がかわらないってことはあり得ない。公年号、私年号ってのを使ってみても、それはあり得ない。
しかも、普通の殺され方でなくて、崇峻天皇は蘇我氏によって殺されたわけですね。暗殺というか、殺されてしまった。最も異常な殺され方をした天皇です。にもかかわらず、年号だけは平気でつづけて使います、「私年号」だから使います、とか、そんなことはあり得べきことではない。
この点をみても、この「法興」というのが近畿天皇家内の年号でないことは、疑うことはできない。
じゃあ、どこの年号かというと、これは「九州年号」ですね。「失われた九州王朝」でわたしが論じました、「表」を出しました「九州年号」の中にこの年号が出てくる。ということから、この上宮法皇というのは実は、「隋書イ妥国伝」に、「日出づる処の天子」として書かれた多利思北弧その人であるという結論が出てきたわけです。それは「阿蘇山下にいる天子」として書かれているのですから、当然といえば当然ですけどね。
しかもそれは「僧籍に、仏門に帰した天子」として出てくるわけです。ということで、これは実は九州で、九州王朝の中で作られた仏像である、という意外な結末が出てきたわけです。
これに関連しては、いろいろな論証がございますが、先ほど申しましたような理由で、今回は省略させていただきます。
ところでですね、ここで振り返ってみますと、従来、この仏像がいわゆる推古仏、飛鳥仏の典型的な代表とされていたことは、有名な事実でございます。そのために、被害を蒙ってきた仏像がございます。
というのは、お隣りにあります。つまり法隆寺に入りますと、金堂の正面が、この釈迦三尊。向かって右側が薬師仏。この薬師仏が、被害を蒙ってきている。向かって左側はこれ、鎌倉時代の仏像でございます。
といいますのは、向かって右側の薬師仏もまたこれこそはっきりと、推古天皇の名前が出てきまして、推古天皇の時に作られたと書いてあるわけです。聖徳太子の名前も、ちゃんと出てくるのです。ところが、いわゆる釈迦三尊像は、皆さま御存じの、あの飛鳥仏のあの何ともいえないですね、クールといいますか、ドライといいますか、感情を表面に出さないような独特の表情をしています。
ところが、お隣りの薬師仏はどちらかといいますと、ポッチャリ顔といえば言い過ぎですが、白鳳天平の仏像に連なるようなイメージの仏像なわけです。だから、こちらの薬師仏は、これははっきり言えば「にせもの」だと。これはまあ、仏像研究の学者はうまい表現を使いまして、「これは追刻である」といった風に上手に言われるわけですね。なかなかお上品に書かれてありまして、白鳳天平の頃に作られたものは、これは「推古朝に作った」と書けば完全に「偽作」ですよね、はっきり言えば。「偽作」と言えば悪いから「これは追刻でしょう」と、上品に言う、表現を心得ているわけですね。
ということで、要するにこれは「にせもの」扱いをされているわけです。だからこれを推古仏の代表に扱った教科書なんかは、あんまりないわけですね。
薬師仏像銘文
じゃあどうか、ということで、この薬師仏の銘文を今から検討したいと思います。
金銅薬師佛造像記
池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時、歳
次丙午年、召於大王天皇与太子而、誓願賜、我大
御病大平欲坐、故将造寺薬師像作仕奉詔、然
當時崩賜、造不堪者、小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王、大命受賜而、歳次丁卯年仕奉。
またこの文章は、釈迦三尊のと違いまして非常に下手な文章でして、読みにくいんですが、まあ一応こう読める、という形で読んでみます。
池辺の大宮に天の下を治らす天皇、大御身労を賜る。時に、歳次丙午年、大王天皇と太子を召して請願し賜う。
この次の行から直接法に入るんですね。
「わが大御病・・・」
直接法でありながら、自分のことを「大御病」なんてのはおかしいですが、用明天皇の言葉です。
「わが大御病、大きく平らかならむと欲し、故に当に寺の薬師像を造り作し、仕之奉らむ」と詔す。
しかるに、時に当りて崩じ賜い、造り堪えざれば、小治田大宮に天の下を治らす大王天皇及び東宮聖王、大命を受け賜いて、歳次丁卯年、仕之奉る。
まあ一応、こういう文章なんですね。これは漢文じゃありませんで、まあ日本文を“漢文風”に、漢字を並べてみたと、まあ「漢文風味の和文」であるというような感じでございます。
で、その内容はですね、「池辺の天皇」これは当然用明天皇で、用明天皇が病気になられたと。でその時に、「大王天皇」というのは後にも出てくる「小治田大宮に天下治しめる大王天皇」と同一人物と思われますので、これは推古天皇。ところがその次の「太子」をね、聖徳太子と、これは『寧楽遺文」という、あの本からコピーさせてもらったんですが、私はこの聖徳太子という解釈は間違いだと思います。
なぜかと言いますならばですね。まずいわゆる「大王天皇」、これは要するに、用明天皇は文句なしの天皇として扱っています。推古天皇は、これもストレートに「天皇」だっていいはずなんですがね。これは人が違うから称号を違えなきゃ、とこの作者は思ってるわけです。
それでその、いわば「大王天皇」てのは、「天皇ダッシュ」みたいな感じで使っているらしいんですね。
で、その「天皇ダッシュ」が、最後にきている時は、文字通りの「天皇ダッシュ」でいいんですが、この今の用明天皇の枕元に呼ばれた時には推古天皇は何でもないんです。何でもないってのは、「天皇」じゃ勿論ないし、「太子」でも何でもないんです。「もと敏達天皇の后だった人」に過ぎないわけです。だから「大王天皇」じゃ勿論ないんですがね。
しかし、後に「大王天皇」と表現したから、そのまだ「大王天皇」になってない時期のことも、「大王天皇」と使っているわけです。こういう使い方をするわけですね、この人は。そうするとね、その後にくる、この仏像を造った時はもう、推古天皇と「東宮聖王」、これはもう聖徳太子と考えざるを得ない、「東宮聖王」はね。
そうすると、最初に、二行目に出てくるのが聖徳太子なら、ここも「東宮聖王」としてもらわなきゃ困るわけです。現実には「東宮聖王」になってないけどね。しかしさっきのような理屈でいえば、当然ここも「東宮聖王」としなきゃならないわけです。
ところが、「東宮聖王」とせずに、太子という別の表現を使っているってことは、これは聖徳太子とは別人物だと考えざるを得ない。わたしは、そう考えるわけです。じゃあ、用明天皇の時に、「太子」と言われる人物はいるかっていうと、いるわけです。聖徳太子はもちろん太子じゃないですよ、この時は。
この用明天皇の時に、太子として出てくるのはですね、「彦人皇子」です。
これはどういう人物かと申しますと、例の敏達天皇の第一后、これがその広姫といいますね。これが、后に認められて、といいますか、儀式が行なわれて、その年の内に死んでしまうわけです。そしてその翌年ですね、第二の后が立てられて、これが「推古」なんです。後の推古天皇ですね、第二の后です。
この彦人皇子ってのは、前の后、広姫の子供が、彦人皇子なんです。これは『日本書紀』に書かれているところでね。その彦人皇子が、この用明天皇紀のところに“一回だけ”太子として出てくるわけです。
ですから、用明天皇の時に太子にされていたのは、この彦人皇子であるというのは、『日本書紀』によってわかるわけです。ここは用明天皇が生きている時の話なんですから。そこへ「太子」として出てくれば、彦人皇子と、考えざるを得ない。で、これは聖徳太子と別人物だから、別の書き方で書いてある。こういう風に、私は理解すべきであると思うわけです。
さて、こういう風に理解しましてですね、要するに、用明天皇が死ぬ前に、推古天皇と彦人皇子を、枕元に呼んで、「私の病気をなおすために、薬師仏を造って欲しい」とこういう遺言、というか、遺言するつもりはなかったでしょうが、依頼をしたわけです。ところが、そのことが実現しないうちに、用明天皇は死んでしまったと。そこで、その遺志を実現すべく、この二人のうちの一人であった推古が天皇になって、そして、聖徳太子と一緒にこの薬師像を造ったと、用明天皇の追善のために造ったと、いう文章なんです。
ところが、この文章の中に一人だけ抜けている人物がいるわけですね。というのは、ご存じのように用明天皇と推古天皇の間には、崇峻天皇の時代があるはずなんです。ところが、崇峻天皇は一切この銘文に姿を現わしていないわけです。
これはなぜか。ここで『日本書紀』というものの性格に触れなきゃいけないんです。 
『日本書紀』の性格
『日本書紀』の中では、崇峻天皇の最後の所は皆さんご存じのように、崇峻天皇が蘇我氏によって、その家来を使って殺されたという記事をもって終っているわけです。
これは考えてみると、大変なことでしてね。『古事記』・『日本書紀』で、天皇がその治世の最後を、こういう言葉で終わられているなんて天皇、他にいないわけです。しかし、これはうっかり書いてしまったというようなもんじゃない、と私は思うんです。つまり、『日本書紀』にとっては、これはどうしても書かなきゃいけない“一行”だと、こう思うわけです。なぜか。その理由は“虫の如くに入鹿を切る”つまり、「むしのごとく」の六四五年のですね。
あの不法のクーデターがその原因だと思うわけです。つまりあれは、当然、大義名分によって、「天皇の命」によってなんか、やったんじゃないんですね。天皇の位置につくべきはずでなかった皇子たちが、同じく権力を握るべくもなかった豪族一族と手をつないで、あのクーデターを断行したわけです。その結果、権力を握って、やがてそれぞれが天皇になり、ナンバーワンの豪族に成り上がっていったわけです。
それがつまり、天智、天武、その子供ね、持統、元明、元正、彼らの王朝であったわけです。
ということは言いかえると、あのクーデターによって、本来ならば天皇になるべき血筋の人達は、或は殺され、或は閉門、ちっ居させられ、或は流され、そういう中に、あの七世紀後半から、八世紀が迎えられたということは、おそらく間違いないことでしょう。
ということは言いかえると、今、その権力を握っている天智、天武や、その子供たちは、本来は正しい継承者ではないんだと、不法のクーデターによって、あの地位を握ったのだということが、歴史事実としてでなくて、現実の事実として、人々の胸に泌みていたはずなんですね。
そういう目で、いつも、天智や、天武や、その子供たちは見られていたはずなんです、大和、その他の界わいで。
その中で『日本書紀』は出された。
その『日本書紀』の中で、あれは、あの時、不法のクーデターと見えるだろうが、そこで葬られた蘇我氏は、実はこれ程悪い奴だと、つまり、崇峻を殺すという大逆を犯すような悪者だったんだと、だから、俺達はやったんだと。つまり、自分たちの権力の合法化ですね。
そのために、あの『日本書紀』は書かれている。勿論、それだけではないでしょうけど、それを最も近い一つの目標としてですね、目標の一つとして、『日本書紀』は書かれている、ということを私は疑うことができない。
だから、あの崇峻紀の最後の一節は、ついうっかり書いたので、チェックすべきだったのをつい洩らした、などというものじゃなくて、まさにあれが必要であったという風に私は理解するわけです。では、崇峻は、どのように語られていたのか歴史を元に戻してみますと、先ほど言いましたように用明天皇の時は彦人皇子が太子である。だから本当は、用明天皇が死んだら、彦人皇子が天皇になるはずですね。太子はそういう役割なんですから。ところが、彦人皇子はここで一回出たきりで後は全く姿を現わさないわけです。だから用明が死んでも天皇になるどころか、一切消えてしまって『日本書紀』に姿を現わさないわけです。だからこれはどうも葬り去られた、殺されたのか、幽閉されたのか、そこまでは分かりませんけどね。歴史の表面からは葬り去られた、こうみられるわけです。
それにかわって、いきなり、太子でないのにかつぎ出されたのが崇峻なわけです。勿論この時には、その持ち出した、擁立したバックは蘇我氏であるはずなのです。だから当初は、蘇我氏にとっては崇峻は自分の意志通りに動いてくれるはずの天皇であるべきだったのですね。ところが彼はロボットでなかったから、そう動いてくれなかったわけです。そこで消された。細かなニュアンスを無視すれば、大体の筋はそういうことだと思うのです。そしてついに、いよいよ自分の手持ちの我が娘、推古を天皇におし立てた。そしてとても評判の良かった聖徳太子をその補佐としてつけた。というのが蘇我氏のプランです。推古朝という名前のプランだったのです。
だから、推古朝という時に、人々の間でなぜ、彦人皇子もそうですけど、今問題のところで言えば、あの崇峻天皇は消えたんだろう。まさか、蘇我氏が「私が殺(や)りました」とP・Rするはずはないですからね。この間まで元気で儀式に出ていたのに急にいなくなったと。何か「ご病気により」と出ているけど、本当かな、怪しいなと、おそらく陰の方では、真相は耳から耳へと伝わっている。だが、オフィシャルな場では言ってはならない。推古朝という時代の、崇峻に対する態度だったと私は思うわけです。
ところが、この銘文では、まさにその崇峻について一言も触れていない。大体書こうと思えば簡単ですよ。だって今のように、用明が死んだ後、次に崇峻天皇がお立ちになった。しかしその時には、薬師仏建立の志が遂げられなかったので、次に立った推古天皇と聖徳太子がそれを実現なさったと、こう書けば何ともないですよ。一行が惜しいということはないわけでしょう。何のことはないのに、かたくなにと言いましょうか、崇峻天皇の存在を完全にカットしたわけです。
ということは、先に言いました推古朝の雰囲気からみると大変ふさわしいわけです。
逆に言うと「虫のごとく入鹿を切る」の後ではおかしいわけです。ということで、この銘文はまさに、「虫のごとく入鹿を切る」以前、つまり推古朝そのものに成立したという性格をもっている。ともかく、現在の仏教史では、釈迦三尊を文句なしの「飛鳥仏」にしてしまった。そうすると、仏相からみてもどうも薬師仏が同時代とは見えない。同じ時代の同じ王朝に作られたものには見えない。文章も上手下手が分かれすぎている。ということで、これを白鳳、天平の偽作づくりのしわざにしてしまったわけです。
ところが今のように、釈迦三尊が九州で七世紀前半、推古朝と同じ時代ですが、九州で作られた。と、こうなります時に、この薬師仏が浮上して、“書いてある通り”なのですが、現在の仏教史の扱いから言うと浮上して、これこそ真の推古仏である、近畿の飛鳥で造られた飛鳥仏である、という本来の地位を回復することになると、私は理解するわけです。
そうしますと、文字が早く伝来した九州で、そこで非常に漢文をみごとに使いこなした、又、仏教伝来の早いことを私はかつて述べたことがありますが、そこで、この釈迦三尊が成立する。新しき追いついてきた文明、今から始まろうとする近畿で、この薬師仏、「漢文風味」の和臭の濃い文章を持った薬師仏が成立した。ということで、全体の流れにマッチしているという風に私は理解しています。
その点、多くの学者は今のような通説に従って、まあ上原和さんでも梅原猛さんでも、この「釈迦三尊=推古仏」説を基準にしてこの薬師仏を処理していますが、これは具合が悪いと思います。この薬師仏こそは、真の推古仏である、ということできたわけでございます。
そこで、こういうことをなぜ言うかと申しますと、そこで、「大王(だいおう)」ということばが出てくる。近畿で「大王」ということばが使われていたことは確かである。「大王天皇」というのは「天皇」ダッシュみたいな形で使われている。これに注意しておきまして、次の「伊予温湯碑」にまいるわけです。 
伊予温湯碑
そこで「法興六年十月」とありますので、もうこれはグダグダ言いませんでも「法興元卅一年」と同じ九州年号の「法興」であるという問題が最初から出てくるわけです。「我が法王大王」。これは一人と、他の人も私も考えておりましたが、これはどうもそうではない。今日もきておられる原田実さんが、「これは二人でないですか」ということを講演の後の喫茶店でいっておられたことを、覚えております。「それは十分可能性ありますよ」とこう言いましたが、まさにその通りで、これはどうも一人ではないようです。なぜかというと、これは従来の理解では、「大王天皇」という“二階建て”のことばがありますね、薬師仏に。だから、ここで「法王大王」という変な“二階建て”があってもいいだろう。大体このくらいの感じだったと思うんですね、従来は。ところが考えてみますと、「大王天皇」と言えましても「天皇大王」というのはないわけです。
つまり、「大王天皇」で「天皇」が重い。「天皇ダッシュ」という感じになっているわけです。だからこれを“二階建て”ならいい、「天皇大王」でもいいというわけにはいかないらしい。どうもそういう例はないわけです。だから、こっちの場合ももし一人なら「大王法王」と言ってほしいんで、「法王大王」では表現がおかしいのです。これが一つ。それとですね、もう一つ「恵総法師」、聖徳太子の方は、「恵慈法師」でありまして、人物が違うと。これも時間がないので細かく申せませんが、慧聰(えそう)というのが推古三、四年の頃にあるのですが、字が違う。これとぴったり同じ「恵総」が崇峻元年の頃に出てくるのですが、それは九州王朝関係の資料をはめこんだものである。少なくとも聖徳太子と関係がない。
一口でパパッと言ってお分かりにくいと思いますが、要するに「聖徳太子に関する、恵慈法師ではない」ということがはっきり言えるわけです。「葛城臣」というのは、蘇我氏が葛城を称したというのがあるのですが、彼は大臣(おおおみ)であって、それをわざわざ「臣」と言うべき理由はない、というポイントがあります。もっと言いましたら、この聖徳太子がこれであるとすると、聖徳太子が若い時なんですね。六世紀(五九六)です。法興六年というのは。六世紀から聖徳太子が「法王大王」という名前を持っているなんておかしいです。これにもし聖徳太子が伊予に行ったのなら、それは、瀬戸内海の港々を回って大変な盛儀だったわけだし、それから百年余りしか経たない時には、近畿からついていった人達全員の子供や孫は忘れてしまう、また迎えた瀬戸内海の人達が忘れてしまうはずはないので、『日本書紀』にそれが書かれていないのはおかしいわけです。『日本書紀』には「聖徳太子が伊予に行った」という話は全くありませんからね。後世の話です。『日本書紀』にそれがない、ということは、実は聖徳太子は伊予へ行かなかったから、『日本書紀』は、聖徳太子は伊予へ行ったと書いてない、当たり前ですけどね。そういう自明の理解からしましても、これは聖徳太子のことではありえない。
なお、この文章の作者は、二行目、「夷与村に逍遥し、正に神井を観る。世の妙験を歎じ、意を叙べんと欲し、聊か碑文一首を作る」とあります。この「作る」の主語が、当然いるわけです。「我が法王大王」と言っているわけですから、「我」にあたる人物がここに出ていなくてはおかしいわけです。誰か。「法王大王」ではありえない。「恵総法師」、この「法師」は敬称だから、これでもありえない。残るところは葛城の臣しかないわけです。葛城の臣が「我」であり「聊か碑文一首を作る」の主語である、というように私は理解したのです。その葛城の臣が作った文章が「惟ふに夫れ、・・・也」に到る、この文章である。「早駆けり」で申しておりますが。実は、「法興」というのは、この時九州年号が二つ並列している、兄弟年号の時期であると論証しました。今日は省略しましたが。
ですから、ここでは、「法王」・「大王」と二人が伊予へやってきたという風に理解すべきだろうと思います。ということで、ここでは九州に「大王」あり、「法王」と並んで、「大王」ありというテーマが、ここで出てきているという問題を指摘したかったわけでございます。 
人物画像鏡
更に、その次の「人物画像鏡」。九州だか朝鮮半島に行って持ってきたと言われている鏡ですが、この解読は『失われた九州王朝』でやりまして、これも「癸未年八月、日十大王年、男弟王」おそらくこれは兄弟ですね。この二人が「意柴沙加の宮に在る時、斯麻・・・」これは、百済の武寧王だという指摘を『失われた九州王朝』でいたしました。これに対して、井上光貞さんは、允恭天皇のことで、奥さんが忍坂之太中津比売という名であるから、奥さんの実家へ行った時の文章であるだろうと言われたわけです。
それに対して私は、実家へは行くだろうけれど、実家へ行ったからと言って、「・・・の大王・・・の宮に在る時」という言い方はしない。「その『大王』がそこで天下を統治していた時」という意味の慣用句であると、「実家へ遊びに行ってた時」というような意味には使わないんだ、という批判をしたわけです。お答えなしに井上光貞さん、お亡くなりになってしまいましたが。他の方からもお答えはございません。
私は、やっぱりそう考えて、九州王朝の兄弟統治であると述べたのですが、私は「イシサカノミヤ」と読んだのですが、この「イシサカノミヤ」がどこにあるか、『失われた九州王朝』では指摘できなかった。ところがその後、太宰府の裏に私の友人が住んでいるんですが、筑紫の地、太宰府や観世音寺を目の下に見る丘の上ですが。そこで「『イシサカ』ってどこかにないもんかな」と、何回か泊めて頂いた家なんですが、三回か四回目かの時に、つぶやくように聞きますと、「いや、この家はイシサカにあるんだよ」と、ここは「字、石坂だ」というわけです。びっくりしまして、調べてみると確かにそこは石坂なんですね。しかも、太宰府や観世音寺を目の下に見る位置からみましても、今でこそ新しい住宅地になっていますが、当時は庶民が住めるような場所ではないわけです。やはり私は「イシサカノミヤ」の「イシサカ」はここであろうと、太宰府の一角と言いますか、太宰府を真下にみる低い丘の上にあたるこの「石坂」であろうと考えております。
ということで、この「大王」も九州王朝における「大王」である。いうまでもなく、「稲荷山の鉄剣」の「大王」は関東における「大王」である。これは、先ほどの藤田さんからご紹介いただいた本(『関東に大王あり』新泉社)で述べたことで、去年、現地の埼玉県教委で呼ばれて講演をしまして、県教委の方々は、私の説を大変重要なものとして評価して下さっていて驚いたのですが。そこで講演しまして、今度それが活字になりまして、一緒に講演をした井上辰雄さんの講演と私の講演を二つで一冊の小冊子になって出ました。稲荷山の県の資料館で頒けているようですがね。そこでまたご覧頂ければ結構だと思いますが。もちろん関東にも「大王」はいる。
と、こうなりますと『万葉集』で「大王のみことかしこみ」と書いてありましても、それは関東でいえば、関東における「大王」であり、九州で言えば、九州の「大王」である。つまり、「大王」多元説の立場から『万葉集』を読むべきである。ところが、従来は「大王」一元説であって、九州のものが言おうと関東のものがいおうと、どこでいおうと、「大王」と言えば、奈良県の天皇の“みことかしこん”で関東の端へやってくるという、戦争中に習ったあのイメージが『万葉集』の定説中の定説といいますか、それ以外の解釈に私はお目にかかったことはないわけでございます。しかし、東北における自分の直接の上司や、また上毛野君のようなああいう存在を全部通り越えて、見たこともない奈良県の「大王の命をかしこんで・・・」という歌を作るという、そういう考え方に果たして飛躍はないだろうか。要するに、「大王」多元説か、「大王」一元説かを実証した上でやってほしいと思います。一元説を実証すればいいけれど、多元も一元もないそれは常識だ、「大王」といえば、朝鮮半島はいかであれ、中国はいかであれーー中国でも、「大王」はたくさんいますから、複数、多数おりますからねーー我が日本列島だけでは、「天皇家」のみであるという、戦争中の必勝の信念のような、その信念をもとに、もちろん国学者は『万葉集』をそう註釈しました。その国学者の『万葉集』註釈を、戦前はもとより戦後の万葉学者も全て継承して現在に到っていたのではないか、というのが私の提起するところでございます。 
柿本人麻呂について
さて、そこで、後十分位しかないので、「扶桑国」問題という面白い問題が出てきたのですが、これは懇談会に譲ることにしまして、どうしても省略できない歌を取り上げさせて頂きます。それは最後の柿本人麻呂の有名な歌でございます。
近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本人麻呂の作る歌
玉たすき畝火の山の橿原の日知の御ゆあれましし神のことごと樛の木のいやつぎつぎに天の下知らしめししを天にみつ大和をおきてあをによし奈良山を越えいかさまに思ほしめせか天離るひなにはあれど石走る淡海の国のささなみの大津の宮に天の下知らしめしけむ天皇の
神の尊の大宮はここと聞けども大殿はここと言へども春草の繁く生ひたる霞立ち春日の霧れるももしきの大宮処見れば悲しも
有名な歌ですね。この歌の内容はどういうことかというと、結局「畝火の橿原の日知の・・・」というのは神武天皇以来、各代の天皇はことごとく、次々と、大和=奈良県に都を置いてきた。ところが「いかさまに思ほしめせか」、何を思われたのか、このXという天皇は、「天離るひなにはあれ石走る淡海の国のささなみの大津の宮に天の下・・・」つまり近江に都を移された。その近江の宮の跡をたずねていったけれども、それが分からずただ霧の中にかすんでいるのが悲しい。とこういうんですね。そして、この大和から滋賀県に都を移した天皇とは天智天皇のことである、というのが、私が今まで見ました全ての解釈の一致しているところでございます。たとえば、契沖、賀茂真淵から最近では、『万葉集』の独特の解釈で有名な犬養孝さん、それから、西郷信綱さん、中西進さんにしましても、全てこれを天智天皇のことであるという風に書かれている。もちろん、岩波古典文学大系の『万葉集』もそう書いております。角川文庫の本もそう書いております。
しかし、私にはーー昔、国語の教師をしていた時は、やはりそう教えたのでは、と思うのですがーー今こうやってみてみると、どうにも天智天皇のこととは思えないんですね。私の頭がおかしいのかなとずんぶん悩んだのですが、私以外の人みんな天智天皇にしていますから、江戸時代から現代までずっと。一所懸命『万葉集』に関するものを最近あさって読んでいるのですが、全く例外が出てこない。全部、天智天皇で、万場一致なんですね。
私には全く天智天皇にはみえない。なぜかと申しますと、ご存じのようにここで言っているのは、代々大和にずっと都を置いてきた、ところが、何を思ったのかこの天皇が大和を離れて近江へ都を持っていった。そういう意味だと私は思うのです。ところが、天智天皇以前の代々はことごとく、大和に都があったか。とんでもないことですね。たとえばあの仁徳天皇は難波に都を置いた。「民のかまどはにぎわいにけり」という有名な話があります。そんなに古くまでいかなくとも、天智天皇(中大兄皇子)自身が、「虫のごとく入鹿を切った」後で、難波に都を移して孝徳天皇の「第二次難波京」で、大和を出ていますね。斉明天皇だって九州へ行って没しています。都を移したわけではないですけどね。継体天皇なんて、大和に入るまで二十年も時間がかかって山背あたりに都を次々と移したという話がちゃんと書いてありますね。だから、代々大和にあったどころか大和以外から来た入もいるわけですから、全然合っていないわけです。どうまかりまちがっても、天智天皇には全く合わないわけです。それがどうして全員一致して天智天皇なのだろう、と深い懐疑にとらわれたのですね。
では、天智天皇以外に近江に都を置いた天皇はいたのかと、当然いたわけです。『古事記』・『日本書紀』を見ればちゃんと書いてありますから。これは、『古事記』によりますと、成務天皇、これが「淡海の志賀の宮に坐しまして天の下治ろしめし天皇」と、『古事記』ははっきり書いております。それよりもう一つ前のが『日本書紀』にありまして、『日本書紀』では景行天皇。景行天皇が最初は大和に都を置いていたんですが、晩年に近江に移って、三年間そこで遊んだわけではなくて統治して、そこで死んだと。その後、成務天皇が、子供ですから、そのお父さんのそれを受けついで、近江に都を置いていたらしい。だから景行から成務にかけては近江京であったわけです。
これが「第一次近江京」で、「第二次近江京」は後の天智天皇の近江京である。これは客観的な事実ですね。私の「説」でも何でもないわけです。そうすると、この二つの近江京の内のどっちがこの歌にあたっているかというのが、第二番目の話ですわね。「同定」作業に移りますと、答は非常に簡単でございます。なぜかと申しますと、さっきの「第二次近江京」はどうみたってこの歌の内容にあたっていないわけです。それに対して「第一次近江京」は、ぴったりあたっているわけですね。というのは、第一代神武から第九代開化までは大和盆地の中だけ、行動範囲も中だけのようです。
ところが、第十代崇神だけは、東海や北陸や丹波辺りに軍を進めましたが、自分のその都は大和を出た形跡はない。大和に都を置いていた。次の垂仁も、沙本毘古、沙本毘売を、沙本城で大包囲戦の後、落城させたと。これは、私は奈良市郊外ではなくて、今の茨木市の東奈良遺跡近辺の佐保川近辺だと考えているわけですが。そこでの大包囲戦、つまり、銅鐸圏との戦いに勝ったと私は理解するんですが。その大包囲戦は摂津でやりましたが、しかし垂仁の都はやはり大和を出た形跡はない。『古事記』・『日本書紀』とも大和で、大和として書かれているわけです。次いで、垂仁の次の今の景行ですね。それで、景行の時には、やはり大和でずっと、彼の大部分は大和で、最後何を思ったか近江に移って、そこで三年間経って死んだ。で、成務はやはり近江に都を置いた。
だから、この人麻呂の歌の内容にぴったりなんです。何の矛盾もないのです。という点からみますと、第一次か第二次の両方がある。そのいずれであろうかという問いをたてること、これは正当な問いの順序だと私は思うのです。この順序を立ててみれば、これは「第一次近江京」の景行天皇を詠んだ、としかないと思いようがない。私はそう思うんです。
それに対して、皆さんの中に、それは歴史事実から言えばそうかもしれませんが、そんな歌なんてそう細かに書く必要はないので、途中に例外はあってもかまわないのだと言われる方があるかもしれません。そんなことは簡単でして、たとえばここにありますように、「いかさまに思ほしめせか」非常に複雑な内容をみごとに一句か二句で人麻呂は表現しています。ところが、同じように、その大和以外にお出になったことはあるけれども、しかしよりによって近江の都に・・・とこうやればいいんですね。二句か三句ですむわけです。長歌でね。人麻呂くらいの力量でそれができないはずがない。
ということは、やはり合わないのはおかしい。それでは、次の問題の「しかし、この歌は、壬申の乱というのがあるから、この歌はいい歌になるのだ。あの悲劇があるから。ところがお前の言っている『第一の近江京』はそんな悲劇があったのか」。
その通り、あったのです。といいますのは、景行、成務の後は仲哀です。例の神功皇后を連れて九州へ行って熊襲と戦って死ぬという天皇である。ところが、この仲哀期について、去年話したと思いますが、不思議なことがある。それは都ですね。各天皇とも、「天の下を治らししなり」と書いてある。それが、ここでは山口県(穴門の豊浦宮)と福岡県(筑紫の詞志比宮)で、「天の下治らししなり」と書いてあるわけです。ご存じでしょう。しかし、遠征の途中の寄留地です。遠征の途中に「天下を統治する」なんておかしいわけですし、それ以上に出発地が、出発の「都」が書いてないのがおかしいですね。遠征に出る前は政治をやっていなかったのか、遠征に出た後は、留守番がいなかったのか、そんなはずはないわけです。当然いたわけですよね。留守番がいて留守番に政治を委嘱して出るべきであるし、誰に委嘱したかは、分かるわけです。
というのは、第一の妃(大中津比売命)がちゃんといまして、神功は第二の妃、現代風に言えば“おめかけさん”で、若い彼女を連れて遠征に出ただけの話です。その第一の妃の皇子はちゃんといたわけです。それが有名な、香坂王と忍熊王です。この二人なのです。もし自分に万一のことがあったら、この香坂王・忍熊王が、天皇のーー天皇と呼んたかどうかは知りませんがーー「位」を継ぐように、という遺言をして出たはずです。その第一妃共々、この二人に委ねて出た、とみるのが当然だと。実際万一のことがあったわけですね。仲哀は死んだのです。香坂王が次の天皇、天皇という呼び名があれば天皇、もしくは、「天皇にあたる位」をついだはずなのです。ところが、遠征軍は、神功達は、仲哀の遺志に反して新羅へ行くわけです。神功の母方の先祖の地で、『古事記』による限りは“戦争をしていない”のですが。そして帰ってきたわけですから、香坂王の立場から見ると、これは自分達の命令に反した反乱軍になって都に帰ってくる、と見えたわけですね。
そこで、摂津の近辺で両者が対峙した話が出てきますね。『古事記』・『日本書紀』ともに書いてあります。香坂王は、猪にくわれて死んだそうです。当然、忍熊王がその天皇の位を代行する。儀式はなくても代行していたものと思います。だから、大義名分上、忍熊王が天皇を受け継いだ地位にある。そして、それを持たない第二の妃神功と、それが旅先で生んだ子供を連れて、建内宿禰が黒幕でしょうけれど、これは反乱軍の性格を持っている。ここで戦って忍熊王は負けたわけです。どこに逃げたかというと、近江の沙沙那美の地に逃げたと、『古事記』・『日本書紀』共に書いてある。瀬田の渡りで、舟に浮かんで、ここで琵琶湖に沈んでしまった、ということが書かれているのですね。
ここで、大事なことは、忍熊王が琵琶湖に沈んで死んだということは、『古事記』・『日本書紀』の中に語られている伝承なんですね。
それに対して、壬申の乱で、弘文天皇=大友皇子は、山前で首をくくって死んだと書いてある。山前は、色々説がありますが、一番有力なのは大山崎です。要するに、山の一角で首をくくって死んでいるわけです。琵琶湖底に死んだというような説はないわけです。
ところが、先ほどの歌の最後をご覧下さい。反歌がございますね。
ささなみの志賀の辛崎辛くあれど大宮人の船待ちかねつ
“出ていった大宮人の舟は帰ってこない。どこに行った。湖に沈んだらしい”。そういう反歌になっていますね。
ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
「昔の人」というのは、普通は歴史上の人をさす。壬申の乱というのは、人麻呂の子供の時分です。子供の時分のことを「私の昔のころは」ということもありますけれど、「昔の人」と言った場合、歴史上の人物を指す方が普通なのです。これを従来は「自分の小さい頃の人」を指すものと詠んできた。ところが、忍熊王として詠めば、当然「昔の人」である。決定的なことは、「湖に沈んだ皇子」と、「山前で首をくくった皇子」との違い。これは当然、「第一近江京」の方が適切であるわけです。それだけではございません。更にもう一つ、人麻呂の歌でこういう歌があるのをご存知でしょうか。
もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行く方知らずも
という歌があります。これは従来、解釈に学者たちが悩んでいるわけです。岩波古典文学大系でも三つくらいの解釈が並べてあります。無常感という解釈では、『万葉集』ではあまり無常感を歌う時代ではないが、ということです。
ところが、実は、今の忍熊王の屍骸を、建内宿禰がさんざん探させたわけです。ところが、その屍骸が見つからないので、建内宿禰が怒っているのです。『日本書紀』で。
忍熊王、逃げて入るる所無し。即ち五十挾茅宿禰を喚びて、喚びて曰わく、
いざ吾君五十挾茅宿禰たまきはる内の朝臣が頭槌の痛手負はずは鳩鳥の潜せな
即ち共に瀬田の濟に沈りて死りぬ。時に、武内宿禰、歌して曰はく、
淡海の海瀬田の濟に潜く鳥目にし見えねば憤しも
是に、基の屍を探(か)けども得ず。
つまり、屍を発見するのに家来達に命じたんだけれども、どうにも見つからないので腹を立てている歌がのっているわけです。
要するに、生きて出てきたらこわいわけです。向こうの方が「正統」です。こっちは「反乱」を起こしているわけです。一挙に形勢が逆転する可能性がある。だからどうあっても屍をとらえろというわけですね。
「然して後に、日数(へ)て菟道河に出づ。」琵琶湖と宇治川は通じている。おそらく、例の網代木辺りにひっかかって浮かんだんでしょうか。
建内宿禰、亦歌ひて曰はく
淡海の海瀬田の濟(わたり)に潜(かず)く鳥
田上(たのかみ)過ぎて菟道に捕えつ
ついに屍を宇治で見つけてとらえてやったと。なんか日本人離れしたというか、執念ですね。という歌が『日本書紀』に残っているわけです。その宇治で、人麻呂が、しかも「近江の国からのぼって宇治川に来た時に作った歌」として、先ほどの歌がのっています。
もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行く方知らずも
だから、彼の脳裏にあるものが「忍熊王の運命」である、というのはこの点からも疑うことはできないわけです。ということで、私は、この歌は従来の一切の学者の説と相反して「第一次近江京」を歌った歌であると、こういうことが言えると思います。
最後にもう一つつけ加えますと、それでは、その時その歌を詠んだ人麻呂の脳裏に、壬申の乱のことはなかったか、大友皇子のことが頭の中になかったか。とんでもない。子供の頃に、強烈な印象を与えた事件だったはずなんです。そして、長ずるに及んで、歴史を知るに及んで、それと同じような事件がかつて琵琶湖を中心に起こっていたことを知ったわけですね。その歴史を詠んでいるわけです。この歌を見せられた方も、百人が百人、壬申の乱と、忍熊王と似た運命、山と湖で死んだ場所の違いはあっても、同じ運命をたどった、あの大友皇子のことを思い浮かべたであろうこと、それを私は疑うことができない。
いわゆる、御用宮廷歌人であった人麻呂にとって、その時の天皇は天武、持統、反乱で勝った人達が権力を握っているさなかにね、負けた方に同情するような歌が作れる時代かということです。どうみても人麻吊の歌は「同情」というか、「負けていい気味だ」という歌ではないですからね。あの長歌をみても、そんな歌が作れる時代ではないと思う。彼は「歴史」を歌ったわけです。
しかし、詠む全ての人は、亡びさった大友皇子達の運命をいたんだことであろう。そういう二重構造を持って作られているのがこの人麻呂の歌であろ。それをあたかも「歴史」を忘れて「時事問題」、少年時代の話「時事問題」を歌った、しかも歴史風なムードで歌った歌と従来の学者は考えていたのではないかと。しかしそれほど“浅い”歌ではないように私には思われる。
このように分かり切ったことが、戦後もなぜ、問題提起さえもされなかったのかということ。神功とか応神とか、あの辺は「架空のもの」として歴史から消してしまってあるんですね。何かまともに、「第一次近江京」・「第二次近江京」のどちらかという、当然の問いを立てることを怠っていたのではないか、戦後はね。歴史学者がそうしたものだから、歴史学の影響を受けて、国語学者、考古学者もそういう客観的な問いかけで「同定」作業をすることを、怠ってきていたのではないか。生意気ですが、私は今そのように思っているわけでございます。また、ご批判を賜われば幸いと存じます。 
 

志賀島金印の謎

 

金印に関する「定説」
わたしたちが「邪馬壹国」の歴史という大河の流れを、過去にさかのぼろうとするとき、必ず出会うのは志賀島の金印である。この印文は、通常「漢の委わの奴なの国王」と読まれている。そして博多湾岸の那珂(なか)川流域(福岡市の中心部より春日市に至る一帯)に存在した奴国王が、後漢の光武帝から建武中元二年(五七)に授与されたもの、と解説されている。
高校、中学の教科書も、通例この解説を採用している。現今の、いわゆる「定説」だ。しかし、わたしの『「邪馬台国」はなかった』を読まれた読者は、わたしがこの「奴ぬ国」について、つぎのように解説したのを記憶されているであろう。「『奴国』が那珂川流域(福岡市域)だという旧説はまちがいだ。倭人伝の行路記事を『三国志』の表記法の示す通り解読すれば、それは糸島郡の平野部に求めるほかないと。
前記のいわゆる「定説」は新井白石の『外国之事調書』にはじまる。 
奴国 那珂郡
ついで本居宣長は、『馭戎慨言ぎょうじゅうかいげん』において、「かの伊都イト国の次にいへる奴国は、仲哀紀に灘ナノ県、宣花紀に那津ナノツとあるところにて、・・・」と述べて、「奴国=博多」説を定説化する道をひらいた。
その後、いわゆる「邪馬台国」の所在は近畿か九州か、と紛議錯綜し、はげしい論争の的にさらされるところとなった。これに対し、「奴国」の方は、永く論争の圏外にあり、いずれの論客も、「奴国=博多」の定説については、これを「既定の事実」と即断してきたのであった。
しかしながら、今やこの「聖域」にも、史料批判の矢は向けられた。その結果、この博多湾岸こそ、女王の居城する「邪馬壹国」の中心領域であることが判明し、「奴国=博多」説は拒否されることとなった。では、古き「奴国=博多」説と新しき「邪馬壹国=博多」説の当否を、同時代史料において決定するものは何か。それは、博多湾頭、志賀島出土の金印である。 
印の探究
わたしが従来の金印文の解読法に疑いをいだいたのは、他でもない。「漢の委の奴の・・・・」という風に、あまりにも細切れな読み方だ。こんな「三段細切れ読法」 ーーとわたしは名づけるーー が、本当に正しい印文の読み方だろうか。わたしはそれを深い疑いとし、それを解くために、中国古代の印文の実例を渉猟しはじめた。できるだけ豊富な実例から、一定の解読のルールを見出し、それにしたがって読む。 ーーそれがわたしの方法だったからである。
古印の実例の収集は、はじめ、きわめて困難な作業に見えていたが、実際にやりはじめてみると、まさに“案ずるより産むがやすし”だった。中国には、印の好事家が多かった。彼らはみな、自己の蔵印の豊富さを誇り、それを押印してそれぞれ印書を版行してくれていたからである。『顧氏集古印譜ししゅうこいんぷ』『師意斎印譜しいさいいんぷ』『漢銅印叢かんどういんそう』『続古印式ぞくこいんしき』『十六金符斎印存きんぷさいいんそん』をはじめ、数多くの印の本があった。中には一枚に一個ずつ押印した豪華本もあった。
また、大谷大学図書館内禿庵文庫には、大谷螢誠氏の蒐集にかかる各種の印の実物が蔵せられていた。それらを一つ一つ検査していった結果、印文の国名表記法には、一定のルールが存在することが検出されたのである。 
印文のルール
古代中国の印文の実例をあげよう。
漢帰義胡長(銅印駝鈕 大谷大学禿庵文庫現蔵『中国古印図録』収録・・・・以下「大谷大学現蔵」と略記する)
魏烏丸率善佰長(二百蘭亭斉古印らんていせいこいん収蔵)
魏鮮卑率善仟長(銅印駝鈕だちゅう大谷大学現蔵)
晋匈奴率善佰長(銅印駝鈕大谷大学現蔵)
晋烏丸帰義侯*(銅印駝鈕〜大谷大学現蔵)
晋帰義羌王(銅印塗金ときん兎鈕とちゅう ーー 常延年じょうえんねん『集古印譜しゅうこいんぷ』)
侯*は、侯の異体字。JIS第4水準、ユニコード77E6
以上は、いずれも信憑性の高い印書の事例だ。しかし、一般に印を論ずるとき、いつもわたしたちを悩ませる厄介な課題がある。印の真偽問題だ。しかしこの場合は、幸いにもそれにわずらわされる必要がない。なぜなら、左のルールに例外がなかったからである。
すなわち、それらはすべて「二段国名」である。最初に印を授与する中国側の国号を書き、つぎに授与される側の国号(部族名)を書く。つまり、「AのB」という風に、国名を二段に記してあるのである。これに対し、「AのBのC」という、三段国名の表記は全く存在しなかった(「率善そつぜん」「帰義きぎ」といった語は、中国の天子に対し忠実に服従していることを賞するための術語であって、国名ではない)。
考えてみれば、これは当然だ。なぜなら、中国の天子が夷蛮の長に印を与えるという行為は、与える側(漢・魏・晋など中国側)と与えられる側(夷蛮の長)との間の、直接の統属関係を示すものだからである。したがって、「中間者の存在」を許容しない。ために印文の文面も、二者の関係だけが記されているのである。それゆえ、志賀島の金印を「定説」のごとく、「漢の委の奴の国王」と三段に読むことはできない。 
悪適戸逐王
中国古印の実例中、一見三段のように見える一例があった。「漢匈奴悪適戸逐王」(銅印駝鈕 ーー 大谷大学現蔵)、しかし、これも実は三段国名ではなかった。『漢書』(匈奴伝上)に「匈奴右賢王」といい、『後漢書』(南匈奴伝)にも、「匈奴奧[革建]日逐王」とあるように、匈奴の部族の王号であって、いわゆる国名ではないのである(これは、匈奴の単于〔ぜんう匈奴の王の呼称〕の下に属する「諸王」の印である)。(悪適戸逐あくてきしすい・奧[革建]日逐おうけんじっすい)
もしかりに、このただ一つの例を「三段国名に準ずるもの」と見なしてみても、これを先例として、志賀島の金印を三段に読むわけにはいかない。なぜなら、この悪適戸逐王の印は「銅印」である。銅印は、中小国家の王や蛮夷の小君長などに与えられる(それらでも、右の一例以外、すべて明瞭な二段国名である)。
これに対し、金印は、中国の天子から見てその夷蛮の地域の各種族統合の中心王者として認定されたとき、はじめて与えられるものだ。だから、金印は特に、「AのBのC」というような三段服属の国に与えられる筋合いのものでは決してないのである。それゆえ、志賀島の金印を「定説」のごとく「漢の委の奴の国王」と三段に読むことは、やはりできない。 
眞*王の印
上の例は、近年中国の雲南省晋寧(しんねい)県の石寨(せきさい)山古墳(演地の東岸)から発掘された金印である。この場合は、「漢」という授与者名がない。
しかし、中国側から金印を授与されているのであるから、与える側は「漢」であり、与えられる側は「眞*てん王」である。すなわち、表面は「一段国名」であるが、その実質は、いわば“与える側の国名が背後に隠された二段国名”ともいえよう(次の節のように、中国側は匈奴の単干に対しても、はじめ「漢」を冠せず、のち新の王奔(おうもう)になって「新」を冠した〔『漢書』匈奴伝〕。また『三国志」東夷伝夫余伝にも、「穢*王之印」という印が伝世されていた旨、記せられている。「眞*王之印」と同じく「漢」を冠しない様式である)。
それゆえ、このような「眞*王之印」の実例から見ても、同じ金印である志賀島の金印を、定説のごとく「漢の委の奴の国王」と三段国名に読むことはできない。
眞*は、三水偏に眞。JIS第3水準ユニコード6E37
穢*は、禾偏の代わりに三水偏。JIS第3水準ユニコード6FCA 
王莽の先例
志賀島金印の直接の先例は、『漢書』匈奴伝に出現している。「故印文曰『匈奴単干璽ぜんうのじ』、莽更曰『新匈奴単于章ぜんうのしよう』」。漢の天子は匈奴を兄弟国と見なし、「漢匈奴単于」というような「漢」字を冠しなかった。支配、被支配関係を表現しないためである(前節、「眞*王の印」参照)。そして、璽(王者の印。天子の璽は、「玉漓*虎鈕」をもってするという)という最高の印を贈ったのである。
漓*は、三水偏の代わりに虫。JIS第3水準ユニコード87AD
これに対し、前漢を滅ぼした新の王莽は、「新」字を冠した上、「璽」を「章」字に代えた(章は、印款の義。吏秩比二千石以上、銀印亀鈕きちゅう、其文曰レ章。〈漢官儀かんかんぎ〉)。この変化をめぐる王莽と凶奴の単于との間に生じた確執のエピソードが『漢書』匈奴伝に描かれている(建国元年の条)
さて、この王莽の与えた印章と志賀島の金印とを比較してみよう。
新匈奴単干章(新の王莽)
漢委奴国王(漢の光武帝)
王莽の「新」と同じく、光武帝も「漢」という国名を冠した。漢と倭人の国王との間が兄弟国などではなく、明確な支配と被支配の間がらであることを示したものだ。と同時にその反、「金印」であるから、倭人の国々(百余国〈『漢書』地理志倭人項〉)を統率する、一大王者として認めているのである(王莽のとき、匈奴側との紛議を生んだ「璽」「章」などに当る字は、カットされたものと思われる。
この王莽の授印は、建国元年(九)だ。志賀島の金印が光武帝より与えられた建武中元二年(五七)と同じ世紀の前半に当っている。その上、光武帝が王莽を打倒して漢を再生させたのも、一種の宮室革命であった。だから、両朝の実際の印文起草者は、同じ教養の継承者であったこと、これを疑うことはできない。
したがって、志賀島の金印を解読するとき、このもつとも密接した「二段国名」の先例に対応させて解読するのが、もつとも自然な方法である。それゆえ、志賀島の金印を「定説」のごとく、「漢の委の奴の国王」と三段に読むことは、先例から見てもできない。 
匈奴と委奴
王莽が匈奴の単干に与えた印と、志賀島の金印との間には興味深い共通点と相違点がある。
(一) 「匈奴」の単干は、漢や新にとって、夷蛮中最大の存在であった。これと比肩した形で「委奴」(倭奴)の国王と記されている。百余国の大部族の長として遇せられているのである(共通点)。
(二) 「匈奴」の「匈」は、“たけだけしい、さわがしいという意味だ。「天下匈匈」〈『史記』項羽紀〉、「匈虐きょうぎゃくを図る」〈『漢書』礼楽紀〉。これに対し、「委奴」の「委」は、“したがう、すなお、おだやか”という従順を意味する文字である。「委、委随いずい也、从レ女从レ禾〔段注〕随、従也」〈説文〉。後漢の光武帝の生涯の大半は、宿敵匈奴との確執に明け暮れた。これに対して、東方の倭人百余国の統率者は、みずからすすんで遣使奉献してきた。すなわち、北と東の両部族は、漢にとって、反と服、相反する性格をもって映じていたのである(相違点)。
以上のような「字面の意義」についての考察が妥当であることをわたしたちに示すのはつぎの史料だ。「(天鳳二年、一五)莽・・・・・・其の号を改め、匈奴を号して恭奴と曰い、単干を善子と曰う」〈『漢書』匈奴伝〉。ここでは、王莽は匈奴の恭順を賞し、従来の「匈奴」「単干」に代えて、「恭奴」「善干」の字面を使ったという。これは志賀島の金印を遡る四十二年前の事件である。
光武帝の代となると、ふたたび匈奴との凄惨な戦いは長期にわたった。北匈奴のごときは、ついに服することがなかったのである。その光武帝の晩年(建武中元二年正月)、東方の倭人の王者はみずから帰服してきたのである。光武帝がこれに「委奴」の字面を用いたのも、偶然ではない。その翌月(建武中元二年二月)光武帝は死んだ。それゆえ、志賀島の金印を「定説」のごとく、「漢の委の奴の国王」と三段に読むことは、字義から見てもできない。 
光武帝の先例
この明白な先例に対し、なお異論をのべる人があるかもしれない。同じ世紀であっても王莽はあくまで「新」の天子であって、「後漢」の天子ではない。だから、「新」の印文を先例としたのでは、まだ確定的とはいえない、と。
こういう人々に対して、後漢の光武帝その人に属する先例をあげよう。『後漢書』東夷伝につぎの文がある。「建武二十年(四四)、韓人・廉斯れんし人・蘇馬[言是]そばてい等楽浪らくろうに詣(いた)り貢献す。光武、蘇馬[言是]を封じて漢の廉斯の邑君と為す。楽浪郡に使属し四時朝謁せしむ」〈韓伝〉。右の「廉斯」について、唐の李賢注では「廉斯は邑名なり」と記している。韓地の中の一邑(むら、さと。また、諸侯・大夫の領地)なのである。この地の「邑君」である蘇馬[言是]に対し、光武帝は「漢廉斯邑君」という称号を与えた、というのである。
[言是]は、JIS第3水準ユニコード8ADF
この場合、韓伝内に記されていることからも明らかであるように、廉斯は韓地内の一邑である。にもかかわらず、光武帝は、「漢の韓の廉斯の邑君」といった三段表記をしていないのである。これは、先にのべた“支配と被支配の直接関係”を示し、中間者の介在を許さない、という中国の天子の論理から当然である。
この事件は、志賀島の金印(建武中元二年、五七)のわずか十三年前だ。そして、授与者は同じ光武帝だ。それゆえ、志賀島の金印を「定説」のごとく、「漢の委の奴の国王」と三段に読むことは、ついにできないのである。 
金印の研究史を遡る
中国古印の大量検査と中国史書の検証によって、わたしたちはすでに志賀島金印の平明な解読に到達した。 ーーこれは「漢の委奴いど(ゐぬ)の国王」という二段国名に読まねばならぬ、と。
これに対して、読者は不審とするかもしれない。“なぜ、そのような平明な道理に反して、従来はこの印文を三段読みにしてきたのか”と。そうだ。わたしも同じく、それを不審とした。そこで、この金印の解読の研究史を遡っていったのである。
天明四年(一七八四)、志賀島の一農夫によってこの金印が発見されてのち、当代の学究相乱れ、それぞれの読解を発表した。 
「委奴=大和」説
まず現れたのは、「委奴=大和」説である。
・ヤマトノクニト云詞ニツイテ、奴ノ字ヲ加ヘテ、倭奴国ヤマトノクニト記シタルナルベシ。奴ハ華音ニテ、「ノ」ト出ルナリ(亀井南冥なんめい『金印弁或問』天明四年)。
・倭奴ハ日本ノ古号ナリ、・・・疑ラクハ後漢ノ光武帝ヨリ垂仁天皇ニ授ケラレタル印ナランカ、・・・此印如何いかニシテ当国ノ海島ニ埋レタルヤト思フニ、寿永年中安徳帝此国ヨリ他国へ移リ玉フ時、路ニテ取落シタルカ。又ハ入水ノ時、海中ニ没シ、此嶋ニ流寄テ、終ニ火中ニ埋レタルニテモアランカ(竹田定良等『金印議』天明四年)。
すでにはやく、『新唐書』が「日本ハ古ノ倭奴ナリ」と書いていたように、この理解はいわば自然だった。しかし、同時にこの理解は宿命的な難点をもっていた。大和の王者がもらった金印が、なぜ志賀島から出たのか? そういう地理的疑問に答えることができなかったからである。この点、竹田の「取落し」説はその苦心の告白をなすものであった。
このような地理上の難点があったため、この理解はつぎのような「委奴=イト」国説にとって代られることとなったのである。 
「委奴=伊都」説
「今度穿出せし金印は、此時(『後漢書』所伝の建武中元二年倭奴国奉貢)に可二推当一歟。・・・然して此の委奴と云うは皇朝の称号にあらず。当今筑紫の里名にて、『魏志』に云う伊都国是れ也」(上田秋成『漢委奴国王金印考』天明四年) この上田秋成による「委奴=伊都国」説は、以後ながらく「定説」的位置を占めた。藤井貞幹さだもと 『漢委奴国王印』寛政九年(一七九七)、青柳種信あおやぎたねのぶ 『後漢金印略考』文化九年(一八一二)、伴信友『中外経緯伝草稿』嘉永元年(一八四八)九月、村瀬之熈*[木考]亭ゆきひろこうてい『芸苑日渉』安政四年(一八五七)等、いずれも上田説に従った。
熈*は、熈に二水追加。JIS第3水準ユニコード51DE
[木考]は、JIS第4水準ユニコード4FBE
明治に入って、明治の日本古代史学界の重鎮、久米邦武(くめくにたけ)も、「委奴=伊都」説をとった上で、これが後来筑紫の国造(くにのみやつこ)となった、と論じた(『行政三大区の一鎮西考』明治二十三年)。ただ、星野恒(ひさし)は、「委奴」を宗像(むなかた)の「恰土郷」に当てている(『日本国号考』明治二十五年)。
これらを通観すると、天明四年から明治二十五年までの間は、「委奴=イト」という読解が支配的であった。しかし、ついに音韻上の弱点を痛撃される日が来た。 
三段細切れ読法の三宅説
明治二十五年十二月、三宅米吉は『漢委奴国王印考』によって学界に巨石を投じ、従来の「委奴=イト」説を排斥した。彼は、論文の冒頭につぎのようにのべた。「漢委奴国王の五字は宜しく『漢ノ委ノ奴ノ国ノ王』と読むべし。委は倭なり。奴ノ国は古への灘(な)の県、今の那珂郡なり。『後漢書』なる倭奴国も倭の奴国なり」。ここに現今の「定説」が誕生した。
三宅によると、従来説には二つの欠陥があった。
第一「委」は「ヰ」であるのに対し、「伊」は「イ」である。また「奴」が「ド」であるのに対し、「都」は「ト」である。すなわち、両字とも音韻が合わない。
第二『後漢書』の金印記事の項目中に「倭奴国・・・・・・倭国の極南界なり」とある。しかし、伊都国は九州の北岸であって、右の説明に合致しない。これに対し、「奴国」なら説明がつく。つまり、『三国志』倭人伝には二つの「奴国」が出現している。一は、戸二万の奴国(=博多湾)であり、一は、国名だけ記された二十一国中の最後尾の奴国である。范曄は『後漢書』倭伝を書くにさいし、『三国志』倭人伝を参照した。そのとき、光武帝より金印を授与された「奴国」を後者ととりちがえて錯覚し、これを倭国の極南にあるものと見なして、右のように記載したのである。
右の三宅理論は学界にうけいれられた。ことに第一点は音韻学上の論断であったから、これをしりぞけがたい、という空気が学界を支配したようである。 
三宅説への反論
わたしは金印研究史上に、右の三宅説に対する反論を求めた。そしてついに、稲葉君山の『漢委奴国王印考』(明治四十四年)を見出したときは、思わず再三にわたり深いためいきをもらさざるを得なかった。
君山は、三宅のように「漢の委の奴」と分って読むのは漢制に反するとし、つぎのように三宅説に反論した。
(一) 金印は「奴」のような小国に与えるものではない。
(二) 金印を与えるのは宗主国(中心の統率国)に対してであって、その陪従者(被統率国)ではない。
(三) 漢が、倭の陪従者である「奴」を認めて大国の王とし、金印を与えたとするのは、すなわち漢制に反している、と。
先にわたしが中国古印群より検出した「二段国名」の道理が、ほぼすでに先取りされている、といってよい。しかし君山は、その鋭い三宅批判にもかかわらず、代って自己の読解をのべるに当って、「委奴=イト」説以前の旧々説に後退した。すなわち、委奴=Ya-du(Ya-tu)であって、ヤマト(Ya-ma-to)の中間音「ma」が省略されたもの、とのべたのである。これはまさに“ま抜け”の論だ。かつて、天明四年に展開せられた亀井・竹田の論と同じく、地理的難点を救うことは到底できなかった。
もっとも、君山自身は“三宅説の非を説くことを焦点とする”ことを強調した。けれども、学界はその三宅説批判のもつ論理性に目を深くそそぐことがなかった。さらに下って戦争中の昭和十八年四月、市村讚*次郎は、『支那の文献に見えたる日本及び日本人』の中で三宅説についてつぎのようにのべた。「一寸面白い読み方ではありますが支那の方から異民族の国王等に贈りました印は大抵漢何々王印とありますが、漢の委の奴の国王と云ふ三段に書いた所の印は無いのでありますから、この説は実際に於て如何かと思ひます」。ここでも文章は短いけれども、三宅説の弱点が見事にえぐられた。市村はこのとき、やがて自分の見解を発表するつもりだ、とのべたが、敗戦直後没したためついに実現しなかった。九州説(山門か)に立っていた市村がどのような読解の道へとすすんだか、実に興味深い問題だが、今は知る由もない。
市村讚*次郎の讚*は、言偏の代わり王編。JIS第3水準、ユニコード74DA
さらに戦後昭和三十年、大森志郎は『魏志倭人伝の研究』において、「漢ノ委奴ノ国王」と読んだ。委奴の読みは「ヤマト」ではなくても、その実体は近畿大和にある、と彼はいう。そして「鬼道のタブー」から辺境の志賀島に隠匿せられたものだろう、とした。
以上を通観すると、明治より敗戦の前後にわたり、三宅説が中国古印の印制に反する点に関しては、時あって鋭く指摘されてきた。しかし、いずれも自己の読解法をのべる段にいたって、同じように地理的困難に苦しんだ。大森の隠匿説も、「鬼道のタブー」といった一見新しい概念を導入したものの、その本質は天明四年の竹田の「取落し」説とそれほどへだたったものではない。いずれも「倭奴=倭人の中心国」という自然な理解に立った瞬間に、その中心地域(近畿大和、差は筑後山門など)と志賀島への地理的へだたりに悩むほかなかったからだ。
ために、稲葉ーー市村ーー大森説は三宅批判の正確さにもかかわらず、学界の迎えいれるところとはならなったのである。 
伊都国説への批判
ここで、「委奴=伊都国」説について一言しよう。
この旧「定説」は、すでに三宅の音韻批判によって学的地位を失った。しかしこれは、一に、中国古印の表記ルールに従った「二段国名」の読み方であり、二に、現今も時としてこの説に従う人もあるようであるから。
今、この読解に対する批判を行なってみよう。
この伊都国説にとって致命的な障碍(しょうがい)は、『三国志』倭人伝中のつぎの記事だ。「伊都国・・・世ゝ王有るも、皆女王国に統属す」。つまり、伊都国は代々すべて女王国(邪馬壹国)に統属してきた、というのだ。統属というのは統合下に属する、という意味である。この二字中の、「統」と「属」の関係を考える上で、類例を見よう。
(1) 自始はじめ、全燕の時嘗て真番・朝鮮を略属せしめ、為に吏を置き、章*塞しょうさいを築く。
如淳じょじゅん云う、燕嘗て二国を略し、以て己に属せしむるなり。
応劭云う、玄菟げんとは本、真番国。〈史記、朝鮮列伝〉
章*は、JIS第3水準ユニコード9123
(2) 燕王盧綰ろわん、反し、匈奴に入る。満、亡命す。・・・・・・梢ややありて、真番に役属えきぞくする朝鮮の蛮夷及び故燕・斉の亡命者之を王とす。〈史記、朝鮮列伝〉
(『漢書』も、これとほぼ同文を引用記載している)
(1)は、はじめ燕全盛のとき、燕が真番・朝鮮の地を攻略し、この地方(の蛮夷)を真番・朝鮮の二国に属せしめ、自己の支配下においた、というのである。魏の如淳(じょじゅん)が、燕が二国を攻略して己に属せしめた、と注しているように、「略」は燕の行為である。
(2)は、燕王の匈奴服属後しばらくして、真番に使役されて服属している朝鮮の蛮夷や、滅んだ燕や斉の亡命者が、これ(もと燕人で、燕滅亡のため、ここに亡命してきた満を指す)を王とするにいたった、というのである。つまり、この「役属」の「役」は、真番や朝鮮がその地域の蛮夷を使役していたのである。
右の諸例から見ると、倭人伝の場合も、「統属」の「統」とは、女王国が伊都国を統合していた、という意味であることがハッキリする。
この点、阿部秀雄は『卑弥呼と倭王』において異説を立てた。右の(1)(2)について、
(燕は)真番・朝鮮を略属す。
(漢は)真番・朝鮮蛮夷を役属す。
という特異な「属」の用法であるとした。その上でこれを「先例」として、倭人伝の文面を、「(伊都国は)世ゝ皆女王国を統属す」と読んだのである。しかし、いずれも文脈読解上、誤解であるというほかない。
「属」の用法は「〜ニ属ス」である。「A属レB」という場合、本質的に、AがBに属しているという意味以外にない(先の(1)の例は、これを使役の形に転用したものである)。したがって、倭人伝の場合は、やはり通説のように、“伊都国が女王国に属している”というのである。しかも、女王国の統合下に代々皆伊都国が入ってきた、といって、両国の支配、被支配の関係が永続してきたことをのべているのである。 
陳寿の目
一方、倭人伝は一番最初に、「倭人・・・山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢の時朝見する者有り、今、使訳通ずる所三十国」とあるから、伊都国について「世ゝ皆」といっているのは、「旧ーー今」にわたった表現であると見るほかない。しかも、「漢の時朝見する者有り」といっているのは、具体的には後漢の光武帝の時の金印授与、安帝の時の帥升の奉献を指している。
なるほど、わたしたちは『後漢書』倭伝によってはじめてこの記事を知った。范曄は、当時(南朝劉宋、五世紀)に遺存していた後漢の直接資料によって、これらの記事を書いたものと思われる。これに対し、後漢のあと三国の統一者である晋の王朝の史官であった陳寿が、これらの史料に対し未知であったとは信じられないのである。『漢書』における「歳時を以て来り献見す、と云う」という慣例的・伝聞的表現は、陳寿によって「朝見する者有り」という直截な表現にかえられた。この背後に、光武帝へ建武(中元二年)の「奉貢朝賀」、安帝(永初元年)の「請見を願う」の知識が存在していたこと、これを疑うことはできない。
以上によって、漢代(後漢初)より代々皆伊都国は女王国に属していた、 ーーこの事実がハッキリした。つまり、“一世紀の中ごろには伊都国が倭国の中心であり、倭人部族全体の王者として光武帝より金印をうけた”という発想は否定されざるをえない。すなわち、「委奴=伊都」説はこの点からも成立できないのである。 
再び三宅説について
以上によって「委奴=伊都」説を批判したが、これは、同時に「漢の委の奴」説に対する批判でもある。
『三国志』倭人伝中、王の存在を記すのは、つぎの三つだけだ。
南、邪馬壹国に至る。女王の都する所。
(伊都国)世ゝ王有り。皆女王国に統属す。
其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。・・・女王に属せず。
右の事は、端的につぎの事実を証明している。中国(魏晋朝)側から「王」として認識されているのは、この二者しかないこと。 ーーすなわち、少なくとも三世紀の時点においては、奴国や投馬国は、戸数が巨大であるにもかかわらず、「王の存在」は記されていない。“しかし、一世紀時点では存在したかもしれない” ーーこういう推測はこの場合無理である。なぜなら、伊都国の場合に見たように、倭国の中心国である女王国と他の倭国内の国々との関係、三世紀だけについて書かれているのではない。、「旧(漢) ーー 今(三国期)」にわたって記されている。こういう史料性格から見ると、三世紀時点について、王の存在がなく、兒*馬觚(しまこ)という官によって支配されていたと書かれている奴国が、一世紀前半においては倭国の中心国であったろうという想像は恣意的というほかないのである。
兒*は、凹の旁に儿(ひとあし)。JIS第3水準ユニコード5155
とくに中国側の視点から見て、光武帝が金印を与えた当の中心国について、もし中心国に変動があったとしたら、それが『三国志』倭人伝の中に全く反映していないことは不可解だ。なるほど、陳寿のときまでに漢ーー魏ーー西晋と、中国の王朝は交替しているけれども、この三国の関係はそれぞれ「禅譲」である。だから、宮廷の官人たちは絶えることなく連続している。すなわち、中国側に“情報の断絶”が存在した形跡はない。
このように歴史的な継承をもった、『三国志』倭人伝の文面に対して、「奴国」という国名だけを抽出して利用しその国名をふくむ全体の史料性格をかえりみない。 ーーこれが、三宅の「奴国」説の根底に厳存する弱点である。 
極南界とは?
ここで、さらに三宅のとりあげた「極南界」問題に目を向けよう。
三宅は、『三国志』倭人伝に「奴国が二回出ている」という史料事実の上に立ち、これに“范曄のとりちがえ”という概念を導入して解釈した。しかし、この三宅解釈を冷静に点検すると、このようなとりちがえはおこりえないことがわかる。なぜなら、二回出てくる奴国のうち、一回目は戸数二万余の大国であり、官と副官が書かれている。これに対し、二回目の奴国は戸数も官も副官も一切書かれていない。国名だけが投げ出された二十一国の末尾というにすぎない。
もしかりに、范曄が光武帝の金印を与えた国を「倭の奴国」と見なした、と仮定してみても、その「奴国」を『三国志』倭人伝内に求めたなら、当然第一回目の戸数二万余の奴国に当てるはずだ。皆目正体不明の第二回目の奴国を、金印を与えられた国として想定するはずはない(その上、この奴国については女王国自体からの方角も距離も書かれていないから、これをもって「倭国の極南界」とする根拠もない)。
このように吟味してみると、一見、一応の解釈を与えたかに見える三宅の「極南界」論も、実は無理なこじつけとしかいいようがない。この点において、三宅説の支柱は意外にもろいのである。では。と読者は問うであろう。“三宅の提議した「極南界」問題について、他にどんな理解ができるのか”と。これについて解明しよう。 
范曄の真の錯覚
これは、実は范曄の「里単位」に関する混乱にもとづくものだ(以下『後漢書』)。
(1) 軍行三十里、程と為す。日南を去る九千余里。三百日にして乃ち到る。〈列伝七十六、南蛮伝〉
(2) 九真・日南、相去ること千里。〈列伝七十六、南蛮伝〉
(3) 穎*、之を追い、且は闘い且は行き、夜昼相攻め、肉を割(さ)き、雪を食(くら)うこと四十余日。遂に河首積石山に至る。塞(さい)を出づること二千余里。 〈列伝五十五、暇*穎*伝〉
(4) 雲中・五原の西より漢陽に至る二千余里。〈列伝五十五、暇*穎*伝〉
(5) 楽浪郡徼(きょう)、其の国を去る万二干里。其の西北界狗邪(こや)韓国を去る七千余里。〈列伝七十五、東夷伝倭伝〉
暇*は、日なし。JIS第4水準ユニコード53DA
穎*は、禾の代わりに火。
右の(1)に「軍行三十里」というのは明らかに漢の里単位にもとづいている。またこれは、後漢末順帝の永和二年(二二七)、荊・楊・交・予(荊州と楊州と交州と予州)四万の兵をもって日南の徼(南方のとりで)外の蛮夷を征討するという計画に対して、李国が反対した言葉の中のものである。
したがって「荊・楊・交・予(最北端は予州、曲阜あたり。北緯三十五、六度近辺)ーー日南」間を「九千余里」といっているのは、漢代の里数にもとづくものである。(2)で、九真はトンキン湾のタンホア付近、日南はベトナム南半の「ユエ ーー ダナン」間近辺であるから、この間「千里」というのは、明らかに漢代の里単位である。(3)では、「二千余里」を「四十余日」かかった、としている。これは四万の大軍ではないから、一日約五十里の行程なのである。これは左のような三国時代の一日三百里の行程と比べて「六対一」の里単位であることがわかる。
昼夜、三百里来る。〈魏志六、裴松之注所引「英雄紀」〉
駑牛一日三百里を行く。〈蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」〉
(4)で、「雲中・五原の西」というのは現在の臨河の南方に当る。漢陽は現在の天水の地である。したがってその間を「二千余里」というのも、漢の長里である。
以上のように、『後漢書』では主として「漢の里単位」によって記述されている。これは当然である。ところが、(5)は右と異なる。「楽浪郡の徼」とは、後の帯方郡治(京城付近)の地を指した表現である(帯方郡は漢末、曹操がこの郡をおいた)。したがって、ここに「一万二千里」といい、「七千余里」といっているのは、『三国志』倭人伝のつぎの記事に従っていること、明白である。
(1)郡より女王国に至る万二千余里。
(2)其の北岸狗邪韓国に到る七千余里。
ところが、この倭人伝の里数値は『三国志』全体の各里数値と同じく、漢代の六分の一の短里、「一日三百里」の魏短里にもとづく数値なのである(『「邪馬台国」はなかった』復刊版、一八〇〜一九七ぺージ)。
范曄は、この重大な誤差を見失った。ために、(1)〜(4)のような里数値と、別単位の(5)のような里数値とを同一の本の中に並置したのである。その結果、右の(5)の記事に接読して、「其の地、大較おおむね会稽の東冶の東に在り、朱崖・擔*耳と相近し」と書くに至ったのだ。すなわち、『三国志』の「会稽東治」を「会稽東冶」と改定し、朱崖・擔*耳(海南島)と倭国の中心部とを同緯度におくこととなったのである。一つの錯覚が他の錯覚をよびおこしているのだ。
擔*は、手偏の代わりに人偏。JIS第3水準ユニコード510B
さて、右の(5)の記事から帰結されること、それは当然、「狗邪韓国 ーー 女王国」間は五千余里だ、という認識である。事実『三国志』倭人伝に「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋五千余里なる可し」とある。范曄も当然それを見ていた。ただ、(5)から簡単に算出できるものであるから、簡略を貴んで記載しなかっただけである。しかし、問題はその実体である。范曄の目には、すべての里単位は「漢の長里」で見えていた。したがって、右の「五千余里」もその六倍の長さに見えていたのだ。朝鮮半島と九州の間の「三千里」も、六倍に映じていた。
ところが、狗邪(こや)韓国は倭国の西北界(『三国志』では倭の北岸)である。だから倭地とは、その中心領域を朝鮮・対馬・壱岐の三海峡とする海峡国家だ。“倭国の中心地(三世紀の女王国)”は、倭国の西北の入口から五千里の極南の地帯に存在している。これが『後漢書』倭伝の「倭国の極南界なり」という表現の背景をなす范曄の地理観だったのだ。
すなわち、范曄にとって、一世紀の「倭奴国」とは、三世紀の卑弥呼の国と同一地域において連続した同一王朝、と見えていたのである。そしてその中心地を、倭国領域内に入った狗邪韓国からなお五千里(漢里では六倍の実体、二二五五キロメートルを指す)の彼方にある、と錯覚していたのであった。 
「大夫」の証言
范曄は、「倭奴国」を「女王国」の前身であると見なしていた。 ーーそれを示す、もう一つの証拠は「大夫」問題だ。
(1)古より以来、其の使中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。〈三国志、魏志倭人伝〉
(2)建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。〈後漢書、倭伝〉
右の(1)について、つぎの二点が注意される。
(一)「大夫」というのは、夏・殷・周の古制とされている「卿・大夫・士」の名にならったものだ。これは、天子のもとにある宮廷の制度である。したがって、この名を使用する国とは、すなわち、倭国の中心国でなければならない。すなわち、(1)の「其の使」とは、倭国の使、すなわち邪馬壹国の使であって、倭地の群小国の使たちという意味ではない。したがって、「皆」とは、邪馬壹国の使は昔から今まで皆という意味である。
(a)景初二年六月 ーー大夫難升米なんしょうまい
(b)景初二年十二月 ーー汝の大夫難升米(詔書)
(c)正始四年 ーー使大夫伊声耆・掖邪狗いせいきえきやこ等八人
(d)壹与遣使 ーー倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人
右のいずれも、「卑弥呼ーー壹与」の女王国が「大夫」と称している、という事実を反映している。
(二)陳寿は、「古より以来」といっている。つまり、この「大夫」の称が魏代にはじまるものでなくずっと古くから連続してきていることを示しているのだ。ところが漢代は、魏・晋朝にとってはけっして「古」ではない。むしろ「近代」だ。だから、漢のような「近代」ではなく、もっと古い夏・殷・周という「古」の聖天子の感化をうけて、倭国は今に至っている。陳寿はそのようにのべたのである(『「邪馬台国」はなかった』第二章一「禹の東治」参照)。
これに対し、范曄が(2)において“「倭奴国」の使が「大夫」と称して朝賀してきた”と書いたとき、右の『三国志』の記事を念頭においたことは確実だ。
もつとも、右の(1)(2)の両者の比較だけからいえば、つぎのようにもいえよう。一世紀にA(倭奴国)、三世紀にB(女王国)とそれぞれ「大夫」を称しながら、倭国の中心は「A→B」と移行したのだ。つまり「A ーー B」は連続した王朝だと見る必要はない、という見方だ。しかし、このような見方を拒否するのは、范曄の『後漢書』倭伝のはじめのつぎの記事だ。「国、皆王を称し、世世統を伝う。其の大倭王は、邪馬臺国に居る」。この記事のもつ、大きな問題点(「国、皆王を称し」の真偽や「邪馬臺国」の称)については、のちにくわしくのべる。ただ、今の問題は、つぎの点だ。范曄の頭の中に描かれた倭国の国家体系は、
    |ー王
    |
大倭王ーーー王
    |
    |ー王
という形である。その上、この統一と従属の整然とした形式は、代々連続していた、と范曄に認識されていた。この点から見ると、“范曄の認識”に関する限り、先の「A→B」という中心国移行があった、と考えていなかったことは明瞭だ(范曄は後漢末の倭の中心国を卑弥呼の早い時期として描写している)。それゆえ、「大夫」問題からも、「倭奴国=女王国」という等式が成立するのである。 
帰結
さまざまの方向から論証をすすめてきた。しかし、その到達点はただ一つだ。“志賀島の金印は「漢の委奴の国王」と読む。そして、光武帝から「委奴国」と呼ばれたのは、のちに魏晋朝から「邪馬壹国」と呼ばれた国だ。それは博多湾岸に都する九州の王者であった”と。
どの視点からの論証も、みな一致してこの同一命題をさしている。そして、他のいかなる解釈をも拒否しているのだ。今、論点を整理してみよう。
(一)金印の印文は、中国古印の表記法に従うかぎり、「漢の委奴の国王」と二段に切って読まなければならない。それゆえ、三宅説のように三段細切れに読むことはできない。
(二)しかし、「委奴」を「伊都」と読むことはできない。なぜなら、『三国志」の記載に従うかぎり、“一世紀に伊都国が倭人の中心国であった”という可能性は、全く認められないからである。
(三)また、「委奴」を「ヤマト」と読んだり、その意味に解することはできない。なぜなら、もしこれが「近畿大和」または「筑後山門」のような地域を示すとしたら、その王者のもらった金印がなぜ志賀島から発見されたのか、という根本的な疑問を解くことができない。「隠匿」「隔離」「紛失」といった類の説明は恣意的だ。それらは「委奴=ヤマト」説の地理的困難を告白しているにすぎない。
(四)「委奴」は倭人部族全体という意味をあらわした名称だ。それは、博多湾岸に存在した倭国の中心王朝に対して光武帝から与えられた国号である。そして、その直接の後身が、三世紀の卑弥呼の王朝となっている。
右の結論によって、つぎの四点は結合された。
「中国の印文の表記法」「『三国志』、『後漢書』の倭国歴史記事」「志賀島という出土地点」
「金印をもらった倭国の中心王朝」この四点いずれもピッタリ適合して矛盾のない解読。それがはじめてここに成立したのである。(三木太郎「『漢委奴国王』印について」は、「漢ノ委奴ノ国王」と読み、「委奴=伊都」としている)。 
金印の役割
この解読結果の意義を簡単にふりかえってみよう。
今まで、江戸時代から明治・大正・昭和の三代にわたって学者たちがさまざまの読解を試みた。だが、それらはいずれもどこかに矛盾があった。“帯に短し、たすきに長し”だった。
従来の論者も、国名二段表記が古印の自然な姿だ、ということを知らなかったわけではない。前記の稲葉・市村・大森の各氏はもとより、「天明四年〜明治二十五年」間の旧定説が「委奴=イト」説であったのも、この事実を顧慮したからであったと思われる。
また、明治二十五年以降、三宅説に同調して現在の定説を形造った「三段細切れ」論者も、“金印はその地域の部族全体の統率者に与えられる”という中国古代の印制を、必ずしも念頭におかなかったわけではない。
そのためにこそ、「一世紀、倭国の中心国は奴国だった」とするような仮定をたてなければならなかつたのである。しかしそれは、「委奴国」を「委の奴国」と分割して読む、という細切れ技法にだけたよっている。そして、『漢書』(一世紀)ーー『三国志』(三世紀)ーー 『後漢書』(五世紀)という、印を与えた側の史書には全く適合していないものであった。
このような旧説、旧々説の苦心に対し、今わたしが自然な解読に到達できたのは、ほかでもない。「邪馬壹国=博多湾岸 ーー倭国の中心」という視点に立っていたからにすぎない。これは、今までのすべての論者の夢想だにしないところであった。
この事実を逆の側から見よう。わずか一辺二・三センチメートルの小印であるけれども、この年代の明確な黄金の金石文は「邪馬壹国=博多湾岸」説を頑固に支持している。そして、邪馬壹国の過去の歴史の線上に輝いているのである。 
倭国の時間軸
わたしたちは、「委奴国=邪馬壹国」という等式を樹立した。
この二つの時点の間を時間の軸にすると、建武中元二年(五七)から景初二年(二三八)まで同一王朝が連続していたこととなる。
    57                       238
___|_______________________|___
  建武中元二年                     景初二年
それではこの間の百八十一年間について、考えてみよう。『後漢書』倭伝では、光武帝の記事のあとに二つの事件を記している。
(1) 安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。(補「生口を献ず。百六十人、請見を願う。」)
(2) 桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更ゝ相攻伐し、歴年主無し。
この両記事とも、当然「倭奴 ーー 邪馬壹」王朝の事件となる。(1)は、一〇七年、(2)は、一四七年 ーー 一八八年(桓帝一四七〜一六七、霊帝一六八〜一八八)の記事だ。そこで、これを時間軸に記入すると次のようになる。
    57       107    147    188    238
___|______|_____|_____|____|___
   建武中元二年   永初元年  桓・霊の間     景初二年
ほぼ五十年前後の間隔で邪馬壹国の歴史が記されていることとなる。(1)で注目すべきは、この記事が「倭国」という名称のあらわれた初見であることだ。
さらにここに加えるべきは、『三国志』倭人伝のつぎの記事だ。「其の国、本亦男子を以て王と為し、住とどまること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年」。ここで「歴年」といっているのは、『後漢書』の「桓・霊の間」に当る。范曄が時限を特定したのは、『三国志』以外に直接の後漢資料が存在したからであろう。
ところで、右の男王「七、八十年」というのは、実際には何年だろうか。このような問いを発するのは、『「邪馬台国」はなかった』でのべたように、倭人の「二倍年暦」という問題があるからだ。
(1) 魏略に曰く、其の俗正歳四節を知らず。
但ゝ春耕秋収を計って年紀と為す。  〈三国志、倭人伝、裴注所引「魏略」〉
(2) 其の人寿考、或は百年、或は八、九十年。
(3) 又裸国・黒歯国有り。復其の東南に在り。船行一年にして至る可し。
右の(1)の自然な文脈理解によれば、倭人は春と秋に二回「年紀」(年のかわりめ)をもっていた、ということになる。この点から(2)(3)をともに実年齢(一年に一回齢をとる普通の方法に換算する)の二倍の数値になっている、と理解したのである(実年齢は、(2)は五十乃至四十〜四十五年、(3)は船行半年となる)。
今、ここの「七、八十年」も、倭国の歴史を倭人から聞いて書いているのだから、普通の年数計算に換算すれば「三十五〜四十年」のこととなる。これは先の時問軸では、「永初元年(一〇七)→桓帝のはじめ(一四七)」にピッタリ収まる数字だ。とすると、『三国志』倭人伝にいう男王とは、ほかならぬこの「帥升すいしょう」その人であるという可能性が高い。
ここを「帥升等」の三字を倭国王名と見なす人もある。しかし、『後漢書』東夷伝中には、
(建武)二十三年(四七)冬、句麗の蚕支落の大加、戴升たいしょう等万余口楽浪に詣りて内属す。〈高句麗伝〉
元朔元年(前一二八)穢*君わいくんの南閭なんりょ等右渠ゆうきょに畔そむき、二十八万口を率い遼東に詣りて武帝に内属す。〈穢*伝〉
建武二十年(四四)韓人・廉斯人、蘇馬[言是]等楽浪に詣りて貢献す。〈韓伝〉
というように、「〜等」という表記はたくさんある。だから、同じ東夷伝中の倭伝の「帥升等」の「等」も、これと同じ「など」の意味と見なければならない。
帥升が即位直後、後漢への奉貢献使を行なったのである(もしそうでなければ、帥升は『三国志」倭人伝にいう「男王」の前代の王者であり、その最晩年が永初元年の貢献に当る、と考えられよう)。
ともかく、わたしたちの確認すべきことは、「帥升」が邪馬壹国の王朝において、王名の定かな最初の王者であること、卑弥呼の先代(おそらくは前代)に当ること、この二つの事実である。そして、おそらくこの両者の間には、約四十年前後にもわたる「倭国歴年の乱」(『後漢書』では「大乱」とする)が存在したのである。
以上が史料によってわたしたちの知ることのできる邪馬壹国の過去の歴史である。こうしてみると、はじめにのべた「連鎖の論理」の最初の環、「委奴国〔『後漢書』では倭奴国〕(一世紀)=邪馬壹国(三世紀)」という等式は正しかったことが判明した。
〔追記〕重松明久「魏志倭人伝をめぐる二、三の問題」は、金印文を「漢の委奴の国王」と二段に読んだ上で、「委奴」を「委と奴」と解し、“伊都国(委)と奴国の連合国家”と見なしている。しかし『三国志」によると、伊都国は漢代より女王国に統属し、奴国は「王」さえ存在しない。『後漢書』では「大倭王」(女王国)を歴代にわたる倭国の統合者と見なしている。いずれから見ても、この重松説は成立しがたい。 
 

 

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