日本巫女史

巻頭小言
総論 / 巫女史の学問研究方法巫女史学材料採集補助学科時代区分
固有呪法時代 / 原始神道の巫女呪術の目的と憑き神呪言と呪文呪術材料作法と呪術種類性格変換と生活精神文化の職務物質文化の職務
習合呪法時代 / 道仏二教修験道の発達と巫道信仰的生活と性的生活漂泊生活と足跡巫道の新義社会的地位と生活
退化呪法時代 / 巫道を退化させた世相当代巫女と呪法社会的地位と生活結語
中山太郎
緒話 / 神子舞神子と修験巫女考巫女1巫女2巫女3巫女4巫女5依代日本巫女史評・・・遊女(女郎)の歴史巫女と魔女琉球の宗教・・・
 

雑学の世界・補考   

日本巫女史

巻頭小言 
実を言えば「日本巫女史」の著述は、私には荷が勝ち過ぎていた。私は長い間を油断なく材料を集めて来て、もう大丈夫だろうと思うて、今春から起稿したが、さて実際に当って見ると、あれも足らぬ、これも足らぬと云う有様で、自分ながらも、その軽率に臍を噬む次第であった。
それに私の悪い癖は、研究の対象を何年でも育てている事が出来ぬ点である。常に発表にのみ急がれて、その研究を練る事が出来ぬ点である。之は学者としては此上もない欠点であって、私は自分ながら学者の素質すら有していぬ者だと考えている。
併し、十年越しの宿痾である糖尿病が一進一退している上に、前後二十二年間の記者生活に労れた身の神経の衰弱は、私をして常に余命の長くない事を考えさせるのである。こうした事情は今のうちにウンと書いて置け、良いとか悪いとか云う事は別問題だ、先ず書く事が第一だと、巧遅よりも拙速を択ばせずには措かぬのであった。こんな慌しい気分に追い懸けられながら筆を執る。資料の整理も字句の洗練も思うに任せぬのである。
殊に本年は気象台創設以来三回目という暑熱で、実に応えた。私は前々年に「売笑三千年史」を、前年に「日本結婚史」を、本年は「日本巫女史」をと、三年続けて小著の執筆は、常に盛夏の交であったが、本年の暑気には遂に兜を脱がざるを得なかった。陋屋でペンを執っていると、流汗雨の如くで、強情にも我慢にも書き続ける事が出来ぬのである。加之、私の学問の力に余る難解な問題が続出する。私はすっかり悲観して了って、これは筆を折って出直すより外に致し方がないと、観念の眼を閉ずるに至ったのである。
然るに、その観念の眼の底に映ったのは亡妹の世に在りしときの幼い姿であった。私が明治三十年一月七日(私が特に此の日を選んだのは、父が崇拝した平田篤胤翁が此の日に郷関を辞して江戸に出たもので、昔から此の日に村を出る者は、再び家に帰えらぬという俗信があると父から聴いていたので、新旧の相違こそあれ、私も此の日に村を離れた)に、所謂、志を立てて上京する際に、一番頭を悩した問題は、当年九歳になる季妹梅子の身の処置であった。私は三男に生れ、他家を興したにも拘らず、父が働き残してくれた遺産のうちから、現在の金に換算すれば、約五万円ほどの分前を貰ったので、学資に事欠く憂いはなかったが、五歳にして父を失い、七歳にして母に別れた季妹は、数年間家を外に放浪生活を送っていて、馴染の薄い私が家に帰ったのを、子供心にも頼りとして、兄として仰がねばならぬ気持を察してやると、涙もろい私には可愛くもあり、且つ臨終まで「梅が梅が」と妹の身の上を案じて死んだ母の心根を思うと此の妹だけは私が養育して、不幸を重ねた両親への追孝を尽さなければならぬと考えざるを得なかった。そこで私は、妹の戸籍を私の方へ移し養女とした。——私は此の季妹を家に残して上京することになったのである。
当時、私の一番上の姉婿が、私の生家の留守居をしてくれる事となり、それに本家を相続した弟——即ち季妹の小兄も附近に居るし、大字こそ違うが同村内に二人の兄もいるし、其他に親族や故旧も沢山あるので、相談の結果、姉婿の許に季妹を託す事として私は単身で上京した。
季妹は夙く両親に先立たれる程の薄倖の者であっただけに、健康も恵まれていず、いずれかと云えば、蒲柳の質であった。それに子供心にも両親に別れ、更に兄である私とも離れなければならぬこととなり、兄婿とは云え兎に角に多少の気苦労をせねばならぬ境遇に置かれ、それやこれやで小さき心身を痛めたものか、間もなく不治の病気に襲われた。
私は学窓に居て此の通知に接したので、学業の閑を偸んでは帰郷し、療養の方法を尽し、慰めもし、看護もしたが、遂に明治三十二年の徂く春と共に、私の膝に抱かれたまま「兄やん、兄やん」と私の名を呼ばりながら帰らぬ旅へ赴いてしまった。私は亡くなった両親が、私が妹を愛することの足らぬのを草葉の陰から見て、自分達の手許へ迎えたもののように考えられ、自責の念と骨肉の愛とで、かなり苦しめられたものである。私は、私の学問の為に季妹を殺してしまったのであると考えざるを得ぬのである。
爾来、燕雁去来ここに三十年、季妹の小さき石碑は苔の花に蒸されて「碧雲童女」の法名さえ読みわかぬ迄になって了ったが、妹の姿は常に私の眼底に残っていて、私の下手な横好きの学問の為に犠牲となった事を憶い出すと、いつでも「可愛そうな事をした、誠に済まぬ事をした」と双頬を伝り流るる涙をどうする事も出来なかった。私は此の巻頭小言を書くにも、眼頭から熱いものが、紙の上に落ちるのを止める事が出来ぬのである。
巫女史の執筆が思うように運ばぬ折に、此の妹の事を追懐した私は「私の学問のために死んでくれた妹の為に本書を完成し、そして霊前へ手向けてやろう、これこそ妹を追善する唯一の方法である」と考えつくと、今度はそれに勇気づけられたか、暑熱も忘れ、難問も苦にならず、殆んど筆も乾かず一万言、ペンに亡妹の霊が乗り移ったのか躍るように奔って行く。斯うして書きあげたのが即ち本書である。不出来であろうが、不詮索であろうが、私としては是れまでの著述のうちで、一番努力を尽したものであると同時に、一番、思い出の深い執筆である。私情を巻頭に記すのは慎まねばならぬが、私としては本書の完成が、この私情に負うことの大なるため、実に止むを得ぬことと諒察を乞う次第である。
此の小著を出すために恩師柳田国男先生始め、先学同好の方々の深い学恩に対して、衷心からの感謝と敬意とを捧げるものである。殊に大橋図書館の大藤時彦氏が劇務の傍ら私のために諸書を渉猟して、貴重なる史料を提供してくれた厚誼に対しては、格別の恩義を感じた。鳴謝に堪えぬ次第である。
最後に一言附記せねばならぬ事がある。私は従来著述に故人の名を引用する場合に、一切の敬称を廃して、悉く呼び棄てにした。然るに私の父は、平田翁を狂的に崇拝し、これを神に祭って朝夕奉仕していた。その子である私が学問のためとは云え呼び棄てにするのは非道だと、郷里の者から忠告された。それで故人に対しては翁と云うこととした。私も案外気が弱くなったものだと思わざるを得ぬのである。これを以て自序に代える。
 
総論

 

第一章 巫女史の本質と学問上の位置
第一節 巫女の種類と其名称  
巫女史の研究には、先ずその主体となっている巫女の種類、及び巫女の名称を掲げ、これが概念だけでも与えて置くことが、これから後の記述をすすめる上に必要であり、且つ便利が多いと考えるので、ここにそれ等を列挙し、併せて、その語原等に就き、先学の考察と、私見とを、簡単に加えるとする。
私は便宜上、巫女を分類して、神和(かんなぎ)系の神子(みこ)と、口寄(くちよせ)系の巫女(みこ)との二種とする。勿論、巫女の発生した当時にあっては、かかる種類の存すべき筈はないが、時勢の起伏と、信仰の推移とは、巫女の呪術的職掌や、社会的地位にも変動を来たし、その結果は、遂に幾多の分化を見るようになったのである。而して私は、宮中及び各地の名神・大社に附属して、一定の給分を受けた公的の者を神和系の神子とし、これに反して、神社を離れて町村に土着し、又は各地を漂泊して、一回の呪術に対して、一回の報酬を得た私的の者を口寄系の巫女とする。更に、記述の混雑を防ぐために、前者の総称を神子(みこ)と呼び、後者の汎称を市子(いちこ)と呼ぶこととした。
第一 神和系に属する神子の名称
同じく神和系に属する神子にあっても、その間に、幾多の種類や、階級や、称呼のあることは、言うまでもない。それと同時に、階級が違うからとて、称呼が異うからとて、そう仕事も実質まで別なものだとは言われぬのである。概して言えば、大同にして小異と言えるのである。左に、これ等の主なるものに就いて列挙する。
名称 奉仕又は所属の神社 出典
神子(ミコ)
中山曰。神子は巫女の総称であって、神の子というほどの内容を有っている。「倭訓栞」に「神子をよめり、巫女をいふ也、祝詞式に巫をかんことよめり、神子の義なればみこは其略也」とあるのは、此の意味において要を尽している。併しながら、此の解釈は第二義的であって、ミコの第一義は、神の子ではなくして、神その者であったのである。ミコが神と人との間に介在して、神の意を人に告げ、人の祈りを神に申すようになったのは、既にミコの退化であって、決して原始の相ではない。猶おこれに就いては、後に詳しく言う機会がある。
斎宮(イツキノミヤ) 伊勢皇大神宮 日本書紀
中山曰。伊勢神宮の斎宮は、崇神朝の豊鍬入媛命を始めとし、それより永く七十五代に及んで行われた事は改めて申すまでもないほど著名である。ただ、代々皇親を以て任ぜらるる斎宮を、直ちに巫女と申上げるのは、如何にも畏きことではあるが、併しながら、「神の御杖代(みつゑしろ)」と云い、「御手代(みてしろ)」と云うも、更に斎宮と申しても、その実際は巫女としてのお役に立たれるのであるから、ここに併せ記すこととしたのである。
斎院(サイイン) 賀茂神社 延喜式
中山曰。斎院は、嵯峨朝に、第八皇女有智子内親王を以て任命せるを始めとし、三十余代を続け、順徳朝に礼子内親王の退下を以て終りとせしことが、「斎院記」及び「百練抄」等にて知られる。これは、伊勢の斎宮に対して設けたものであって、朝廷で賀茂社を斯く手重く取扱ったのは、同社が京都の産土神であったためである。
阿礼乎止売(アレヲトメ) 賀茂神社 類聚国史
賀茂社の斎院を一に阿礼乎止売とも称えたことが、「類聚国史」天長八年十二月の条に載せてある。阿礼の語釈に就いては諸説あるも、私は産生(あれ)の意と解してある。賀茂社第一の神事である御阿礼は、即ち産出の事だと考えている。
片巫(カタカウナギ) 古語拾遺
肱巫(ヒヂカウナギ) 同上
中山曰。古くから難問とされている名称であるが、これに関する私見は、本文中に詳述して置いた。
大御巫(オホミカムコ) 宮中八神殿 延喜式
中山曰。ミカムコは御神子の古訓である。鈴木重胤翁の延喜式祝詞講義(巻一)に、「神祇官の八神を斎奉りて、佗社と異なれば取分大御巫とは云也、又大官主御巫と云ふ事聖武天皇御紀神亀九年八月の下に見えたり」云々とある。
御巫(ミカムコ) 宮中の祭神奉仕 同上
中山曰。宮中に祭れる座摩、御門、生嶋等の神に奉仕せる巫女を斯く称したのである。ミカムコは御神子であることは言うまでもない。
巫覡(カンナギ、ヲノコカンナギ) 倭名類聚抄
和名抄(巻二)に云う。「説文ニ云巫{無ノ反和名/加牟奈岐}祝女也、文字集略ニ云覡ハ{乎乃古加/牟奈岐}男祝也」倭訓栞に「かんなぎ」神和(ナギ)の義也、神慮をなごむる意也云々。
中山曰。源氏物語(四五)橋姫の条に「あやしく夢かたりかむなぎやうのものの、とはず語りするやうに、めづらかにおぼさる」云々とあるより推せば、古くから巫女を斯く呼んだものと見える。祝女に就いては、普通の巫女とは異るものがあると考えるので、本文の後段に詳述する。而してカンナギは神社に奉仕する巫女を通称したものである。
キネ 古今和歌集
古今集(巻二十)大歌所の歌に、「霜やたびおけど枯れせぬ榊葉の、たち栄ゆべき神のきねかも」とあるを始めとして、拾遺集にも、キネを詠じた和歌が、二首載せてある。更に最近発見された「小野篁日記」(「国語と国文学」四十四号)によると、「社にもまだきねすへず石神は、しることかたし人の心を」の和歌があり、然も此の歌は弘仁頃の作であろうとの事である。キネの語原に就いては、先覚の間に種々な考証もあるが判然せぬ。「倭訓栞」に「キネは祈念の音もて名くるなるべし」とあるが物足らぬ。「雅言考」に「木ね、もとは草を草ねといふ如く、木を木ねといひしさまなれど、中古神人(キネ)の事になれり」とあるも、これ又頗る物足らぬ感がある。「神道名目類聚抄」巻五に「幾禰(キネ)ト云モ巫(カンナギ)ノ事ナリ」と判ったような事を載せているが、ただ伝統的の解釈を記したまでで、その真義には触れていぬのである。
姉子(アネコ) 松屋筆記
同書(巻七十四)に「曾禰好忠家集冬十首の中に「神まつる冬は半に成にけり、あねこかねやに榊をりしき」云々。新撰六帖(第一帖)に冬夜知家「冬来てはあねこか閨のたかすかき幾夜すき間の風そさむけき」云々。按にあねごは巫祝(キネ)を云ふ。催馬楽酒殿歌に「あまの原ふりさけ見ればやへ雲の、雲の中なる雲の中との中臣の、あまの小菅を割(サキ)はらひ、祈りし事は今日の日のため、あなごや吾皇(ワカスベ)の神の神ろぎのよさこ」とある。「あなご」は「あねご」の通音也云々。「あねご」の「あ」は吾(ア)にて、吾君吾児(アギアゴ)などの如く親みの詞也。「ねご」は「ねぎ」の通音なるべし」とある。
中山曰。「あねこ」の語は、熱田縁起(此の書が従来一部の間に称えられているように価値あるものか否かに就いては私見があるも今は略す)に、倭尊の御歌として「愛知かた氷上姉子は我来むと、床避くらむや、あはれ姉子は」と載せてあり、古く用いられていた語ではあるが、此の語を巫女の義に解釈したのは、寡見の及ぶ限りでは「松屋筆記」以外には無いようである。而して私は、此の解釈は、高田与清翁の卓見であって、それは家族的巫女(職業的巫女の生れる以前)の遠い昔を偲ばせる手掛りとして納得される。猶おこれに就いては、本文の「をなり神」の条に詳記する考えである。而して、キネも、アネコも、又カンナギの如く、神社に奉仕した一般の巫女を称したものであろう。
古曾(コソ) 日本書紀
「孝徳記」大化元年春二月の条に「神社福草(カミコソノサキクサ)」の名が見え、「続日本紀」和銅三年正月の条に「神社(カミコソ)忌寸河内、授従五位下」と載せ、万葉集巻六に「神社(カミコソ)老麻呂」の名があり、「延喜神名帳」に「近江国浅井郡上許曾神社」を挙げ、此の外にも、古曾の用例は、諸書に散見している。これに就き「書紀通証」には「天武紀、社戸訓古曾倍、万葉集、乞字亦訓古曾、盖神社則人之所為祈願、故訓社為古曾」云々とあるが、私に言わせると、少しく物足りぬ気がする。
私は、古曾は、巫女の意に用いたものであって、巫女が神社に属していて、祈願を乞うとき之を煩わしたので、後に神社を古曾と云うようになったのであると考えている。伊勢斎宮の寮頭藤原通高の妻が、古木古曾と称して詐巫を行い(此の事は本文中に述べた)しこと、宇津保物語に古曾女の名あることなどを思い合せると、古曾は巫女の一称と考えても大過ないようである。
物忌(モノイミ) 伊勢皇大神宮 大神宮儀式帳
「儀式帳」職掌雑任の条に「物忌十三人、物忌父十三人」とある。大神宮の物忌は九人で、管四宮の物忌が四人で、合計十三人となるのである。而して、その九人は、大物忌、宮守物忌、地祭物忌、酒作物忌、清酒作物忌、瀧祭物忌、御塩焼物忌、土師器作物忌、山向物忌であって、管四宮とは、荒祭宮、月読宮、瀧原宮、伊雑宮である。これ等の物忌と、皇大神宮(豊受宮にも物忌六人を置かれた)に限られた子等(御子良とも云う)、及び母等(もら)は、直ちに他の神社の巫女と同視することは出来ぬけれども、又一種の巫女であったことも否まれぬので、姑らくここに挙げることとした。猶お、物忌や、子良に就いては、本文中に記述するところがある。
宮能売(ミヤノメ) 三輪神社 大三輪神三社鎮座次第
同書に「磐余甕栗宮御宇天皇(清寧)、勅大伴室屋大連、奉幣帛於大三輪神社、祈祷無皇子之儀、時神明憑宮能売曰、天皇勿慮之、何非絶天津日嗣哉」云々。
中山曰、巫女の祖神である天鈿女命は、一に大宮能売命とも呼ばれていたので、宮能売は巫女の一般称とも考えられ、敢て三輪社に限られたものではないと思われるのであるが、他社で巫女を斯く呼んだことが寡見に入らぬので、姑らく同社に限ったものにして載せるとする。
玉依媛(タマヨリヒメ) 賀茂神社 秦氏本系帳
柳田国男先生の玉依媛考(郷土研究四巻十二号所載)の一節に「玉依姫と云ふ名は、其自身に於て、神の寵幸を専らにすることを意味してゐる。親しく神に仕へ、祭りに与った貴女が、屡々此名を帯びて居たとても、ちつとも不思議は無い。と言ふよりも、寧ろ最初は高級の巫女を意味する普通名詞であつたと見る方が正しいのかも知れぬ」云々と論じ、更に進んで「玉依姫は魂憑媛(タマヨリヒメ)なり」と断定せられている。実に前人未発の卓見であって、然も後世規範の至言である。
惣ノ市(サウノイチ) 熱田神宮 塩尻
同書巻十八所引の「熱田祠官略記」に「惣ノ市、自祝部座出之」とある。勿論、惣ノ市の名は、独り熱田社に限らず、三輪神社(この社の神子の階級等は本文中に載せた)を始め、各社に存し、且つその名称から推すも、神子の取締とか、監督とかいう位置に居った者であることが知られるが、今は姑らく熱田社にかけて掲げることとした。
猶お尾張国中島郡の「一宮市史」に載せたる、真清田神社の祠官佐分但馬守が、文化十一年に取調べたる「歴代神主竝社家社僧一覧」に由ると、同社に「巫女座四人、大之市、小之市、権之市、別之市」等の神子の居たことが挙げてある。
娍(ヲサメ) 香取神宮 香取文書纂
中山曰。下総香取社の娍社は、諸書に記載されているが、何と訓むのか、解するに苦しんでいた。或人はヨメと訓むのだろうと言われているが、今はY先生の御説に従い、斯く訓むとした。
ヲソメ 吉備津神社 吉備見聞記
中山曰。吉備津社の巫女の通称で、彼の有名なる鳴釜の神事を掌っているのも此のヲソメと称する巫女である。
斎子(イツキコ) 松尾神社 伊呂波字類抄
同書、松尾条の細註に「本朝文集云、大宝元年秦都理始建立神殿、立阿礼居斎子供奉」とある。
中山曰。従来、巫女をイチコと称せる語原説は、概してイツキコの転訛(他にも一説ある)であると言われているが、私には左袒することが出来ぬ。イチコの語原に関する私見は、後段に述べるが、読者は予め此の事に留意してもらいたい。
神斎(カミイツキ) 春日大原野両社 三代実録
同書(巻十三)貞観八年十二月二十五日の条に「丙申、詔以藤原朝臣須恵子、為春日幷大原野神斎」云々とある。
物忌(モノイミ) 鹿島神宮 鹿島志
同書(巻下)に「身潔斎して神に仕へ奉るの称なり云々。物忌は亀卜を以て其職を定む。亀卜の次第は、神官の内幼女未だ月水を見ざる二人を選み、百日の神事ありて日数満れば二人の名を亀の甲に記し、正殿御石の間にて朝より夕に至るまで之を焼くに、神慮に叶ふ女子の亀の甲灼ることなし、叶はざれば焼失す」云々。
中山曰。物忌の名は、前掲の皇大神宮儀式帳にも見えているが、その名の解釈は相当に複雑しているので、本文の後段に詳述する。
内侍(ナイシ) 厳嶋神社 山槐記
同書、治承三年六月七日の条に「今暁前太政大臣(平清盛)令参安芸伊都岐嶋給(中略)。於被□経供養竝内侍巫也等禄物料也、三十石可許督」云々。
中山曰。平清盛が内侍を愛し、その腹に儲けた女子を、後白河法皇の後宮に納れたことが「平家物語」にも見えている。同社で巫女を内侍と呼んだのも古いことである。
大市(オホイチ) 諏訪神社 諏訪神社資料
同書(巻下)に「大市。此の職名古代は本社に於ける重役と云ふ。山崎闇斎著垂加考に、諏訪、有賀、真志野各氏、皆信州諏訪郡の豪族、厥先諏訪明神に出づ。神子三人、長は諏訪に居り、仲は有賀に居り、季は真志野に居る、因て各氏となす。諏訪氏を大祝に置き、有賀氏を大市に置き、而して明神に奉仕せしむ、之を神家と云ふ(中略)。大市職は即ち市ノ婆の事か、市ノ婆は女巫に同じ。元来市婆は斎女と云ふが如し」云々。
中山曰。大市のイチが、イチコのそれと共通の語であることは言うまでもなく、これに大の字を負わせたのは階級の上位を示した敬称である。
若(ワカ) 塩竃神社 塩社略史
同書(巻上)に「社人鍵持役、守役云々。又別に若と謂へる者あり、是は所謂女巫の属にして、重儀及び遷宮等のときは、必ず奏楽するを本務とす。然れども之を社人中の家族より選択するが故に給禄の制なし。人員本三名なれども平素は二名を以て事に当る」云々(以上摘要)
中山曰。巫女をワカと言うたことに就いては、次項のワカの条に述べる。
女別当(オンナベッタウ) 羽黒神社 出羽国風土略記
同書(巻二)に「雅集(私註。三山雅集なり)に云、女別当職といふもの有て、諸国の巫女を司り、神託勘弁の家業也(原註。最上郡新庄七所明神に、女にて奉仕する者有り、又土俗是を鶴子のかみといふ。秋田城内のいなりに女にて奉仕する者あり、五十石領す、女別当と称するは此類にや)今も信州には智憲院より許状を得て、羽黒派の神子(ミコ)とて神託する者ありとぞ。寛文年中聖護院の宮ならびに神祇長上より被仰出たる書付、又公儀より着添被仰出たる書付の趣にも、神託宣等する神子は、寺家の手に属するものとは見えず、荘内には羽黒派の神子とて神託するもの、千早舞衣等着する者あり」云々。
更に同書(同巻)に「神子、左(鶴岡七日町に在り)寄木(仙道に在り)とて、両女は料六石三斗づつ、羽源記に云ふ、仙道の寄木大梵寺の左なといふ神子共、一生不犯の行体にて加持しけるにとあり」云々。
中山曰。左は、ヒダリと訓むか、アテラと訓むか、判然せぬ。後考を俟つ。寄木はヨリキで、尸坐(ヨリマシ)の意に外ならぬ。「三山雅集」に、寄木の文字に囚われて、霊木漂着の奇談を以て、これが説明を試みているのは附会であって、採るに足らぬ。
湯立巫女(ユタテミコ) 各所の神社に在る
中山曰。儀式(巻一)園幷韓神祭儀の条に「御神子先廻庭火、供湯立舞、次神部八人共舞」とあるのを見ると、此の種の巫女の古くから存したことが窺われる。而して、湯立と呪術の関係等は、本文に詳記する。
猶お此の外に、出雲大社の子良、鴨神社の忌子、日吉神社の石占井御前、鈴鹿神社の鈴ノ巫女などを記すべきであるが、今は大体を述べるにとどめ、他はその機会のある毎に記載するとして、今は姑く省略に従うこととした。
第二 口寄系に属する市子の俚称
等しく口寄系の市子というも、その階級や、種別は、前に挙げた神和系のそれに比較すると、更に驚くべきほどの複雑と、多数とが存しているのである。勿論、これには斯くあるべき、相当の理由が伴うのであるが、これ等の詳細は、追々と述べることとして、ここには各地方に亘って、その名称と、語原に就き、簡単に記すとする。
名称 通用の地方 出典又は教示者
市子(イチコ) 殆ど全国に行わる 吾妻鏡
同書(巻二)治承五年七月八日の条に、「相模国大庭厨等一古娘依召参上、奉行遷宮事」云々。
中山曰。イチコの名称の文献に現われたのは、寡見の及ぶ限りでは、吾妻鏡が最初のように思われる。而してイチコの語原に就いては、二説ある。(一)は前に載せたイツキコ転訛説で、(二)は「新編常陸国誌」巻十二に記してある中山信名の考証である。ここにその要を摘むに、「市子と云ふは、元市に出て此事を為せし故なり。其証は日本後紀に延暦十五年七月二十二日辛亥、生江臣家道女、逓送本国、家道女越前国足羽郡人、常於市鄽妄説罪福、眩惑百姓、世に号曰越優婆夷とあり。市子の事を市殿と云ひしことは義残後覚にも見えたり」云々。
中山曰。私には此の考証も承認することが出来ぬのである。而して、私案を簡単に言えば、イチとは琉球語のイチジャマ(呪詛する人の意)のイチと同じ語根に属するもので、古くはイチの語に呪詛の意の在りしものと考えている(朝鮮巫俗考に由れば、朝鮮の古代に神市氏というが在ったと記している。或はイチの語は北方系の古語ではあるまいか)。武蔵及び信濃の一部で、巫女をイチイと呼んだは、偶々此の古語の残存せる事を思わしめ、更に九州の大部分で、巫女をイチジョウと称しているのは、同じく琉球語と交渉あることを考えさせるものがある。敢て異を樹てるに急なるものではないが、記して高批を仰ぐとする。
イタコ 陸奥国の大部分と隣国 民族(二巻三号)
中山曰。イタコの語原に就いて、アイヌ語のイタク(itaku)の転訛なるべしと説く学者もあるが、私は遽に同意することが出来ぬ。「源平盛衰記」によれば、紀州熊野で神子をイタと呼んだことが見えているから、古くは全国的に行われたものであろう。記して後考を俟つとする。
アリマサ 陸奥国の一部 津軽旧事談
中山曰。アリマサが尸坐(ヨリマシ)の転訛であることは、多く言うを要せぬと思う。現在のアリマサは「物識り」の意に用いられていて、然もその多くは男子であると云うことだが(中道等氏談)、併し、その「物識り」の古意が霊に通ずる人であることを知れば、古き尸坐の名残りであることは疑いないようである。猶お「物識り」の意義に就いては、本文後段に詳記する。
インヂコ 羽後国由利郡地方 日本風俗の新研究
中山曰。東北人は、清濁の発音に往々明確を欠き、前掲のイタコなども、大半は濁ってイダコと云うている。これから見ても、此の語がイチコの延言訛語なることは、深く言うまでもあるまい。
座頭嬶(ザトカカ) 同国仙北郡 郷土研究(四巻四号)
中山曰。東北地方に於ける座頭は、一にボサマとも称して、古き盲僧の面影を濃厚に伝えている。而して是等の妻女は、概して巫女であったので、遂にかかる俚称を負うようになったのであろうと考える。
座下し(クラオロシ) 同上 鈴木久治氏
巫女の俚称には、(一)呪術の作法より負うたもの、(二)呪術用の器具から来たもの、(三)巫女の風俗に因るものなどあるが、これは第一の呪法に由来するものである。即ち同地方では、死者があると、埋葬後に日時を定めて巫女を招き「七(ナナ)クラオロシ」の行事を挙げる(琉球の神人別(カンプトパカ)れや、土佐のタデクラヘと同じ意味のもので、是等に就いては本文中に詳記する)。クラオロシは、此の意を略したもので、座(クラ)とは一般の神事や、仏事で、一座二座(一回二回の意)というのから来たものである。
盲女僧(マウジョソウ) 陸中国一部 東磐井郡誌
同誌に「天台宗に属したる盲女僧郡中の各村にあり、是は信者の依頼に応じ、祈祷或は卜筮をなし、亡者ある家にては親族婦女子挙りて此の盲女僧に凴りて亡者の幽言を聞くを常とす。之を「口寄」と云ふ」とある。
中山曰。天台宗に属したのは、明治以後取締が厳重になったためで、昔は普通の市子であったことは言うまでもない。
ワカ 陸前国の大部分 牡鹿郡誌
中山曰。陸前の塩竃神社に「若」と称する巫女のあることは既述した。ワカは、若宮、若神子の取意かと思うが判然せぬ。中道等氏の談によると、同地方の巫女は呪術にとりかかる際に、必ず柿本人麻呂の作という「ほのぼのと明石の浦の朝霧に、嶋かくれ行く舟おしぞ思ふ」の和歌を唱えるので、かくワカの名を冠して呼ぶようになったのであるに云うが、覚束ないとのことであった。私も勿論覚束ないと信ずる一人である。敢て後考を俟つ次第である。
オカミン 陸前登米町地方 登米郡史(巻上)
中山曰。オカミンは、御神の意か、御内儀(おかみさん)の意か、判然しない。巫女は神子であり、神の代理者であると信じた思想から言えば、前者が穏当のように考えられるが、更に内儀を「山の神」と称した古意が、家族的巫女に在ることを知ると、後者の解釈も棄てるに忍びぬものがある。今は私見を記して、識者の高示を仰ぐとする。
オカミンサマ 陸前国志田郡地方 わが古川
オワカ 岩代国大沼郡地方 板内青嵐氏
ワカミコ 同国南会津郡地方 新編常陸国誌(巻十二)
以上の三者は、これまでに載せた俚称を繋ぎ合せたもの、又は敬称を附したに過ぎぬものであるゆえ、説明は預るとする。
県語り(アガタカタリ) 磐城国石城郡一部の古語 佐坂通孝氏
中山曰。古く県とは、京に対して用いた語で、現在の田舎(いなか)というほどの意味が含まれている。されば「県語り」とは、本筋ならぬ田舎わたらいの巫女の意に外ならぬのである。
県(アガタ) 同国同郡植野村地方 土俗と伝説(一巻二号)
中山曰。前記の「アガタカタリ」の下略であることは、言うまでもないが、ただ斯かる古語が、今に残っているところが、珍重すべきである。
笹帚き(ササハタキ) 常陸国久慈郡の一部 栗ノ木三次氏
中山曰。大正五年八月に、ネフスキー氏と同地方に旅行した折に、同郡天下野村の小学校長である栗木氏から聴いたものである。「新編常陸国誌」巻十二にもササハタキの名称が載せてある所から推すと、此の話は信用して差支ないようである。而して此の名は、呪術の作法から負うたもので、巫女が自己催眠の状態に入るには、その師承の流儀により、種々なる方法と、種々なる器具を要するのであるが、両手に小笹の枝を持ち、それで自分の顔をはたきながら(湯立巫女の笹で全身をたたくのと交渉あることは勿論である)呪術をすすめるのも一方法であって、ササハタキの称えは、これに由来するのである。猶お、巫女の持物や、笹はたきの呪法に就いては、本文後段に詳述する。
モリコ 同国新治郡地方 浜田徳太郎氏
中山曰。神をお守りするの意と思うが判然せぬ。但し此の守りとは、神を遊ばせる意味の多分に含まれていることは、事実である。巫女の職掌のうちでも、神を遊ばせることは、殊に大切なるものであった。詳細は本文に記述する。
大弓(オホユミ) 同国水戸地方 新編常陸国誌(巻十二)
中山曰。巫女の中には、長さ三四尺ほど(紀州の巫女は六尺二分の弓を用いるという)の弓を左手に持ち、一尺ほどの細長い竹を棒として右手に持ち、これで弦をたたきながら、呪法を行う者があるので、その流儀の者を斯く称したものと思う。大弓に対して「小弓」と云うところもあると、同書に載せてあるが、地名が明記されていぬので判然せぬ。
梓巫女(アヅサミコ) 関東の大部分 著者の採集
口寄せ(クチヨセ) 同上 同上
中山曰。両者とも、少しく誇張して云えば、ただに関東ばかりでなく殆ど全国的に用いられているのである。これは江戸が文化の中心となり、江戸で刊行された書籍によって伝播されたものと思う。而して、前者のアヅサミコとは、梓で作った弓を用いた古義から出たもので、後者のクチヨセとは、生口(イキクチ)と死口(シニクチ)と神口(カミクチ)とを呪術で引き寄せるという意味なのである。猶お、これ等に就いては、本文中に詳記する機会がある。
ノノウ 信濃国小県郡地方 角田千里氏
中山曰。巫女をノノウと言うのは、或は子供達が神や仏をノノサンと呼ぶほどの敬語から来たのではないかと思うが、併しこれだけでは、何となく物足らぬ気がする。敢えて後賢を俟つ。但し同地方では、巫女を陰で賤しめて言うときはボッポㇰと称している。
旅女郎(タビジョラウ) 長野市附近 長野新聞
中山曰。巫女が性的職業婦人を兼ねていた事には、段々と説明すべき資料が残されているが、その古い相(すがた)は、即ち巫娼である。下に載せた甲斐で巫女を白湯文字と呼ぶのも、又此の意味に外ならぬのである。猶お、この事に就いては、本文中に詳述する。
イチイ 同国松本市地方 胡桃沢勘内氏
中山曰。「新編武蔵風土記稿」巻二六一によると、同国秩父郡両神村大字薄の両神山に、一位の墓というがあり、土人の伝に、此の山は女人禁制なりしに、往昔一人の巫女が強いて登り、石と化したのを埋めたものである。方言にカンナギをイチイと云うので、誤って一位と転書したのであろうと載せてある。此の土人の伝は、巫女の化石伝説(この事は本文中に述べる)の一例として、珍重すべき資料であるが、更にこれによって、巫女をイチイと称したのは、独り松本地方ばかりでなく、武蔵の一部でも斯く呼んだことが知られるのである。而して此のイチイの語原は、前に述べたように、琉球のイチジャマと共通するものと考えている。或は巫女にして「稲荷下げ」を兼ねていたところから、稲荷神が正一位と俗称されているので、その隠語としてイチイと呼んだのではないかと言う者があるかも知れぬが、私にはそんな持ち廻った考えには賛成が出来ぬ。
マンチ 越後国小千谷町地方 酒井宇吉氏
中山曰。「北越月令」には満日(マンニチ)と載せてあるが、蓋し同じものであろう。而して、祭のことをマチと呼ぶ地方も多くあるので、此のマンチはそれの延言かとも考えられるが、少しく心もとないようにも思われる。更に「郷土研究」壱巻一二号によると、同国長岡市の、県社金峯神社の末社、股倉神社の祭礼の折に、頭人は木綿鬘を被り、伊達子(イタコ)(妻を唱う)、脇伊達子(ワキイタコ)(妾)と共に、浄衣を装い、神事に従うとあるのから推すと、同地方にも古く巫女(この場合の妻妾は巫女の資格である)をイタコと称したものと考えられる。
モリ 同国糸魚川町地方 木嶋辰次郎氏
中山曰。前に挙げた常陸のそれと同じく、神のお守りの意と思う。
白湯文字(シロユモヂ) 甲斐国の一部 内藤文吉氏
中山曰。甲斐国で古く巫女を白湯文字と称したことを、同国の地誌である「裏見寒話」(宝暦頃の写本)で見た記憶があるが、同書が座右にないので、参照することが出来ぬ。ここには内藤氏の教示のままを載せるとする。而して此の語原は、甲斐の隣国である信濃は、歩(アル)き巫女(ミコ)の本場(この詳細は本文に記述する)とて、関八州は勿論のこと、遠くは近畿地方まで出かけたものである。信濃巫女は常に二三人づつ連れ立ち、一人の荷物を伴うているが、道中する時、着衣の裾を褰げ、白湯文字を出して歩くので、遂に此の名で呼ばれるようになったのである。「郷土研究」一巻四号の記事によると、紀州の田辺地方でも、信濃巫女の特徴は白湯文字であったと載せてある。此の名は、巫女の風俗から負うたものであるが、更に土娼の白湯文字の俚称のある次第と、巫女との関係は、本文中に詳記する考えである。
寄せ巫女(ヨセミコ) 三河国苅谷郡地方 加藤巌氏
口寄せ巫女(クチヨセミコ) 美濃国加茂郡地方 林魁一氏
中山曰。此の二称は、改めて説明するまでもなく、前に記したところで、解釈が出来ようと思う。
叩き巫女(タタキミコ) 播磨国 物類称呼(巻一)
中山曰。弓をたたきて呪術を行いしより負うた名である。而して此の俚称を用いている所は、紀州田辺町を始めとして、各地にあるが、今は煩を避けて省略する。
歩き巫女(アルキミコ) 大和奈良地方 大乗院雑事記
同書、寛正四年十一月二十三日の条に「七道者」と題し「猿楽、アルキ白拍子、アルキ御子、金タタキ、本タタキ、アルキ横行、猿飼」の七者が挙げてある。
中山曰。巫女には、土着者と、漂泊者の二種があったが、大和のは、後者のそれが時を定めて廻って来たので、かく称したものである。
飯綱(イヅナ) 丹波国何鹿郡地方 民族と歴史
同書(四巻一号)に「俗に狐付きをイヅナ附、又はイヅナモチと云っております。が夫れはイヅナという賤民が、狐を遣う人であるからです(中略)。彼等は、クチヨセ、稲荷降シ、諸呪を以て職業として、矢張多く人家と離れて居住しております」云々。
中山曰。イヅナとは、信州の飯綱権現を主神とした巫女の一派?があったので、此の名が生じたのであろうと思う。猶お、此の種に属する巫女の徒が、賤民卑業者として、社会から別待遇を受けた事情に就いては、本文中に記述する。
コンガラサマ 備前国邑久郡地方 時実黙水氏
時実氏の報告によると、同地方では、ミズスマシと云う虫をコンガラマイと称するより、巫女がグルグル人家を廻るので、斯く呼ぶようになったのであろうとの事である。
中山曰。「妻沼町誌」によれば、武蔵国妻沼町には、てんとう虫のことをイチッコと云い、更に四国では巫女をオガムシと云うと「郷土研究」一巻七号にある。共に巫女の動作から来た俚称である。
刀自話(トジバナシ) 出雲の一部 郷土研究(二巻四号)
中山曰。刀自は老女の意であるから、此の地方では、専ら老女が巫女の業を営んだので、それで斯く言うようになったのであろう。「話す」は前の磐城の「語り」と同じく、呪術の作法から来ているものである。
ヲシヘ 石見国 郷土研究(一巻一号)
ナヲシ 中国辺 物類称呼(巻一)
トリデ 筑後国の古語? 筑後地鑑
中山曰。三者ともに、記述が簡単である上に、他に手懸りがないので、何の事やら、皆目知ることが出来ぬ。同地方の読者の示教を仰ぎたいと思っている。
佾(イツ) 土佐国 郷土研究
同誌(壱巻壱号)に、諸神社録を引用して「土佐で多くの社に佾と云ふ者が居るのも、亦是で(中山曰。巫女の意)であらう。其住所を佾屋敷と云ひ、或は男の神主を佾太夫などとも云ふ」云々。
更に富岡町志(阿波国那賀郡)所載の延宝二年学原村棟付帳に「いち神子に入むこ、太次兵衛、此者渭津(中山曰。イツと訓む)籠屋町しやくわん(左官)次兵衛いとこ寛文拾年に参居申候」とある。巫覡をイツと称したのは、独り土佐ばかりでなく、広く四国に及んでいたのではあるまいか。
猶お「土佐国職人歌合」に、博士(呪師)とあるのは、外法箱ようの物に弓を置き、左手に幣を、右手に棒を持っているのは、尋常の神道者ではない。恐らく佾太夫の一種ではあるまいかと思う。
イチジョウ(市女?) 筑後国直方町地方 青山大麓氏
中山曰。九州では概して巫女を「イチジョウ」と称している。而して此の語原は、イチコの条に述べた如く、琉球語の「イチジャマ」と関係あるものと思う。
キツネツケ(狐憑) 肥前国唐津地方 倉敷定氏
中山曰。前に載せた丹波の飯綱と同じく、巫女の呪術の方面から負うた名である。
ユタ 琉球 古琉球
中山曰。琉球は巫女を信仰することが頗る猛烈であったために、本嶋を始め三十六嶋の各邑落まで、巫女の二人や三人居らぬ土地は無いほどである。従って、その俚称の如きも、嶋で異り村で違うという有様で、ここにその総てを尽すことは出来ぬが、詮ずるに、ユタの語が、内地のイチコと同じように、各嶋々に共通しているので、今はこれだけを挙げるにとどめ、他は必要の際に載せるとする。而してユタの語原は、予言者の意であると云われている。
ヤカミシュ 伊豆国新嶋 人類学雑誌(一〇九号)
中山曰。何の事か全く見当さえもつかぬ。勿論、私の浅学によることではあるが、何とも致し方がない。記して後考を俟つ。
ツス アイヌ族 アイヌの研究
中山曰。ツスは呪術の意であるが、後には此の呪術を行う者の名称となってしまった。語原は判然せぬ。
降し巫女(オロシミコ) 地域不明 関秘録(巻七)
一殿(イチドノ) 同上 神道名目類聚抄
中山曰。語原は改めて説明するまでもないほど明瞭のものであるが、使用された地方の判然しないのは物足らぬが、敢て掲げるとした。一殿に就いて、神道名目類聚抄の著者は「神楽みこ」なりと云うているが、私はイチの語原から推して、単なる「神楽みこ」とは考えられぬので、ここに挙げることとした。
猶お、此の他に、里巫女(サトミコ)、村巫女(ムラミコ)、熊野巫女、上原(カンバラ)太夫、白山相人(ハクサンザウニン)など記すべき者もあるが、今は大体を尽すにとどめて、他は必要の機会のあるごとに本文中に記述するとした。
第二節 巫女史の意義と他の学問との関係

 

我国における巫女の研究は、宗教学的にも、民俗学的にも、更に、文化史的にも、重要なる位置を占めているのである。神国を標榜し、祭政一致を国是とした我国にあっては、巫女の研究を疎却しては、政治の起伏も、信仰の消長も、遂に闡明することが出来ぬのである。巫女の最初の相は、神その者であった。巫女が神の子として、神と人との間に介在するように為ったのは、神の内容に変化を来たし、併せて巫女が退化してからの事である。而して巫女史の目的とするところは、これ等の全般に渉って、仔細に研究を試みるものであるが、先ず此処には、巫女史の名称、及びその内容、竝びに巫女史と他の学問との関係に就いて略記する。  
一 巫女史という名称に就いて
巫女史とは、巫女の生活の歴史というに外ならぬが、併し此の文字を学術語として書名に用いたのは、恐らく本書が嚆矢であろうと信じている。巫女に関する従来の研究は、巫女だけを学問の対象として企てたものは極めて尠く、漸く神職の一員——それも極めて軽い意味の、最下級の神職、又は補助神職というほどの態度で取扱って来たので、従って巫女史と称するが如き独立した巫女の歴史は、未だ曾て何人にも試みられなかったのである。然るに、私の巫女に関する研究は、従来のそれとは全く趣を異にし、専ら巫女を中心として、他の神職なり、制度なりを取扱うというのである。ここに多少とも、従来の研究と相違する点が存し、独立した巫女史の内容が伴うものと考えているのである。
我国にも、巫女に対して、覡男とも称すべき者があった。勿論、此の熟字は、支那のそれをそのまま採用したものではあるが、兎に角に女祝に対して男祝があったように、巫女に対して覡男の在ったことは事実であって、然も両者の関係は、頗る密接なるものであった。「梁塵秘抄」に「東(あづま)には女はなきか男みこ、さればや神の男には憑(つ)く」とあるように、巫女と男覡との交渉は、殆んど同視されるまでに、近いものがあって存した。併しながら、私の立場から言えば、巫女が本であって覡男は末である。巫女は正態であって、覡男は変態である。更に極言すれば、覡男は巫女を学んで、その代理を勤める者にしか過ぎぬのである。それ故に、私の此の巫女史からは、覡男は当然除外されべきものである。巫女に詳しくして、覡男に疎なるのも、要はこれが為めである。予め此の点を含んで置いてもらいたいのである。  
二 巫女史の内容と其範囲
巫女史が、巫女の生活の歴史である以上は、これに伴う全般の研究が内容として盛られなければならぬのは、改めて言うを俟たぬ。而して、その内容は、巫女の発生、巫女の種類、巫女の階級、巫女の用いた呪術の方法と、その種類、巫女の師承関係、巫女が呪術を営むより生ずる性格の転換、巫女と戦争、巫女と狩猟、巫女と農耕、巫女に限られた相続制度、及び巫女の社会的の地位等を重なる問題とし、更にこれ等に伴う幾多の問題を出来るだけ網羅して、これを各時代における信仰の消長、政治の隆替、経済の起伏、及び社会事情の推移等を基調として、その変遷を討尋するのであるから、頗る複雑を極めているのである。
而して単に巫女が用いた呪術だけにあっても、我国固有のものに、支那の巫蠱の邪法が加り、仏教の加持祈祷の修法と習合し、猶お我国において発達した修験道の呪法が交るなど、実に雑糅紛更の限りを尽している。加之、更にこれを民族学的に見るときは、我国固有の呪術と、東部アジヤに行われたシャーマン教との交渉、アイヌ民族の残したツスとの関係など、弥が上にも錯綜しているのである。然もそれ等の一々に就いて、克明に発達変遷の跡を尋ねて新古を弁え、固有と外来とを識別するのであるから、その研究はかなり困難なるものではあるが、その困難が直ちに巫女史の内容であると考えるので、そこに巫女史が学問として相当の価値を認められるのである。
巫女史と他の学問との関係に就いては記述すべき範囲が広いので、混雑を防ぐ為に各項目の下に略記する。  
三 巫女史と政治史との関係
我国に関する最古の文献である魏志(巻三〇)の「倭人伝」によれば、倭国の主権者であった卑弥呼(ヒミコ)なる者は「克事鬼神惑衆」ところの巫女に外ならぬのである。此の点から言えば、倭国の原始文化は、巫女によって代表され、呪術に精通したものが、一国の支配者としての、機能を有していたのであって、即ちフレザー氏の帝王の魔術的起原(マジカル・オリジン・オブ・キングス)の学説を事実において証明しているのである。而して、斯くの如き事象は、独り倭国ばかりでなく、我が内地にあっても、又明確に認められるのである。国語の政治を言える「まつりごと」が、祭事から出発している事を知るとき、古く我国が祭政一致であったことを覚ると同時に、巫女が政治の中心勢力者であったことを併せ考えねばならぬ。何となれば、我国で「まつりごと」の国語を生んだ時代にあっては、巫女それ自身が直ちに神であり、且つ巫女の最高者が主権者であったからである。
巫女史の立場から言えば、神璽と共殿同床した時代までは、巫女が政治の中心であったと考えることが出来るのである。然るに、政治と祭祀とが分離し、神を祭る者と民を治める者との区別が国法的に定められ、神それ自身であった巫女が一段と退化して、即ち神子(ミコ)(神の子の意)として、神と人との間に介在するようになっても、猶お神託は、往往にして政治を動かす勢力を有していた。これ等に就いては、各時代において、例証を挙げて、詳記する考えであるが、巫女史と政治史との関係は、決して浅少なるものではないのである。  
四 巫女史と祭祀史との関係
我国の原始神道は、原則として、神を祭り神に仕える者は、悉く女性に限っていて、男子は全くこれに与ることが出来なかったのである。天照神が、我国の最高神でありながら、天神を祭られたのは、女性であった為めである。神武朝に、道臣命が勅命によって神を祭るとき、厳媛の女性の名を負うたのも、これが為めである。崇神朝に、皇女である豊鍬入媛命が神の御杖代となられたのも、又女性であった為めである。今に男子が特殊の神事を行うとき、女装するのも、此の古き原則を守る為めである。而して、女性に限って、神を祭ることを許されたのは、我国の原始神道が、一面巫女教であったことを意味していると共に、一面神を祭る者は、悉く巫女としての資格を有していたことを意味しているのである。然るに、時勢の暢達は、漸く神の内容に変化を来たし、神道が固定するようになったので、神主、祝、禰宜等の男性神職を出現させ、巫女の手から祭祀と神事の機能を奪ってしまい、ここに主客位置を代えて、巫女は下級の神職、または補助神職か、員外神職の如き待遇を与えられるに至ったのである。併しながら、巫女教であった原始神道の伝統は、神道が神祇官流に解釈され、更に神社神道から国体神道とまで発達しても、猶お且つ巫女なる者を泯滅することが出来ず、今にその面影を留めているのである。
巫女は祭祀としての葬儀史にも、亦深甚なる関係を有しているのである。仏教の渡来せぬ以前——即ち、我国固有の信仰と、祭儀とを以て、死体を葬り、死霊を祭るには、専ら巫女がその任に当っていたのである。神職の一つである祝(ハフリ)の語原は、死体を屠(ハフ)るを職とせし為に、葬(ハフ)りとなり、更に祝(ハフリ)となったことを知り、然も此の祝(ハフリ)が、元は巫女の役であることを知るとき、葬儀史における巫女の務めが、如何に重大なるものであったかを考えずには居られないのである。而して、此の問題は、相当に研究を要すべきことなので、詳細は本文に於いて述べるとする。  
五 巫女史と呪術史との関係
巫女の聖職は呪術を行うことに重大の使命が存していた。併しながら、巫女の行うた呪術は、我国における呪術の全体ではなくして、僅にその一部分にしか過ぎぬのである。呪術史の観点に起って、古代の祭祀を検討すれば、その機構をなしている重たる部分は、全く呪術の集成である。従って、神事の宗源と言われた天児屋命及び太玉命は、公的の大呪術師とも考えられるのである。鹿の肩骨を灼いて太占を行うことも、更にこれが亀卜に代っても、その信仰の基調は呪術である。祝詞を発生的に考覈すれば、これの内容に、呪術の思想が濃厚に含まれていたことが、看取される。諾尊が黄泉軍を郤けるとき桃ノ実を投じたのも、神武帝が天ノ香山の土を採って平瓮を造られたのも、共に呪術の一種であると言うことが出来るのである。而して、国民の生活は、その悉くが殆ど呪術的であって、火を鑚るにも、水を汲むにも、更に誇張して言えば、寝るにも起きるにも、食うにも衣るにも、呪術の観念を疎外することは出来なかったのである。科学を知らなかった古代にあっては、呪術が生活の根蔕をなしていたのである。
然るに、巫女の行うた呪術は、これ等の多種多様の呪術より見れば、実にその一端にしか過ぎぬものであって、然もそれが後世になるほど、呪術の範囲が局限され、漸くその面影をとどめるという有様であった。それ故に、我国にも、欧米の心理学者、又は宗教学者が論ずるが如き、幾多の呪術の種類、及び呪術と宗教との交渉なども在って存するのであるが、これ等は一般の呪術史に関する問題であって、巫女史はこれに与(あずか)ることが尠いので、本書は出来るだけ此の種の問題には触れぬこととした。  
六 巫女史と文学史との関係
巫女の始めは神その者であった。従って、神が意のあるところを人に告げるには、その時代としては、出来るだけ荘厳にして、華麗なる口語を以てしたに相違ない。我国の祝詞(ノリト)や、寿詞(ヨゴト)は、ここに出発したのである。従って我国の叙事詩が、古きものほど一人称になっているのは、巫女が神として述べたことに出発しているためである。然るに、神の内容が変化し、巫女は神の子として、その託宣を取次ぐようになれば、巫女は神を降ろし、神を遊ばせ、神を和(なご)め、神を慰め、神を帰すなどの呪文を発明すべき必要があった。而して此の呪文は、古きに溯るほど、律語を以て唱えられるのが常であって、我国の歌謡は、かくして一段の発達を致したのである。巫女が唱えた是等の律語が、如何なるものであって、然もこれ等の律語と歌謡との関係、及び律語が歌謡化され、更に説話化されて、各地に分布された過程に就いては、本文に詳記する機会を保留するが、兎に角に、我国の文学史は、巫女の呪文によって、スタートが切られているのである。
此の機会に、併せ言うべきことは、巫女史と舞踊史との関係である。我国の舞踊史は、その第一ページが巫女の祖先神と称せらるる天鈿女命によって飾られているのである。鈿女命の天ノ磐戸前における神憑(カムガカ)りの状態が、跳躍教とまで言われるシャーマニズムのそれと、如何なる点まで民族学的に共通性を帯びているか否か、更に此の種の神憑りの状態を以て、直ちに舞踊と云うことが出来るか否か、更に我国の舞踊の起原が、性的行為の誇張化から出発しているか否かは、本文に詳述するとしても、巫女と舞踊とは、決して無関係であったとは言えぬのである。巫女と音楽の関係も又そうであって、我国の古代における楽器は、概して巫女が神を降し、神を和める折に用いたものであって、然もこれによって相当の発達を遂げたのである。猶お是等に就いても、段々と記述する考えである。  
七 巫女史と経済史との関係
我国の狩猟時代における巫女の任務は、今人が想像するよりは重大なるものであった。狩区の方面、及び日時の選定は、巫女が山神と海神とを祭り、その神意を問うて決定したのである。更に農耕時代に入っても、穀神は女性であり、挿秧にも、収穫にも、巫女が中心となって、穀神を祭り、その恩頼を祈った。巫女と経済との交渉は、ここに端が開かれたのである。我国の古代にあっては、山に狩るも、海に漁るも、更に田に稲を播くも、畑に麦を作るも、悉く神意に聴くべき信仰が伴い、然も此の神意は、独り巫女によって、人間に伝えられていたのである。
生命を繋ぐべき食物において既に斯くの如くである。従って家屋の建築に、飲料水の保護に、更に機織の道に、裁縫の術に、経済上の生産物は、悉く巫女の呪術によって神々の冥助を仰がねばならぬ状態に置かれていたのである。而して、時勢が降り、巫女が神社を離れて、各地方に漂泊するようになるや、巫女は背に負いし箱を神意に托して、或は村落に入りて農耕の方法を教え、或荒蕪の地に土着して、村を開き里を作る者さえあった。
殊に注意すべきことは、祭祀を中心として発達した工業は、殆んど巫女によって制作せられた点である。鏡作りの祖は石凝姥神であり、機織の祖は天棚機比売神であり、此の外に、酒を作る刀自、稲を白げる搗女など、巫女が経済的に活動したことは、決して尠くないのである。従って、我国の原始経済の状態を知るには、巫女史の研究に負うところが多いのである。  
八 巫女史と売笑史の関係
我国の性的職業婦人の起原は、神寵の衰えたる巫女、又は神戒に叛きたる巫女によって発生したものである。私の所謂「巫娼」なるものは、これを意味しているのである。勿論、巫娼の間には、幾多の種類もあった。それと同時に、我国の古代にあっては、売笑は必ずしも不徳の行為でもなく、且つ決して醜業ではなかった。宗教的の意味を濃厚に含んでいる売笑もあれば、乱婚時代の習俗を承けた売笑もあったが、併しそれ等のものが、純粋なる売笑行為として常習的に、且つ継続的に営まれるようになったのは、巫娼に始まるのである。伊勢の古市遊郭の起原と、子良・母良の関係を知ることは、現在の史料からは殆ど不可能の事になってしまい、更に大和の春日若宮に仕えた巫女と、同地木辻遊郭との交渉を尋ねることも、至難の事になってしまったが、これに反して、摂州住吉神社と乳守の遊郭、播州室津の賀茂神社と同所の遊女の関係は、今も朧げに知ることが出来るのである。而して、我国の名神・大社と言われる神社が、殆ど言い合わせたように、その神社の近くに遊郭を有していることは、古き巫娼の存在を想わせるものである。従って是等の巫娼から出た我国の遊女が、古く流れの身と言われていながらも、猶お立烏帽子を着け、鼓を持ち、更に太夫と称して、歌舞にまで関係していたのである。我国の歌舞伎の源流が、出雲大社の巫娼であるお国によって発したことも、決して偶然ではなかったのである。  
九 巫女史と法制史との関係
我国には、人が人を裁く以前に、人が神の名に由って、人を裁いた時代があった。即ち神判なるものがこれであって、然もこれを行うたものは巫女である。
濡れ衣といえば、現在では冤罪の意に解釈されているが、これは我が古代において、嫌疑者に濡れたる衣を着せ、その水の乾くことの遅速を以て、罪の有無を判じた事実に出発しているのである。更に神水を飲ませて罪を按じ、鉄火を握らせ、探湯(クガタチ)をなさしめ、蛇に咬ませ、起誓の失を判じさせる等の、神判を掌っていた者は巫女であった。江戸期の初葉まで行われていた、神文の鐘を撞くという裁きも、その始めは巫女がこれを主宰していたのである。素尊が天津罪を犯した折に、諸神が神議(はか)りに議りて、鬚を切り、爪を切り、千座の置座を負せて、神逐(はら)い逐い給うたとあるのも、所詮は巫女が神意を問うての結果と見るべきである。こう考えて来ると、我国の法制史と巫女との交渉は、決して浅いものでは無いのである。
猶お、巫女史は、此の外にも、原始神道史や、民間信仰史にも、深甚なる交渉を有していることは言うまでもないが、これ等に就いては本文中に詳記する機会があるので、今は省略する。  
第三節 巫女史の学問上に於ける位置

 

巫女史の交渉する所は、既述の如く、政治、経済、祭祀、文学、歌舞、法制等の各般に及んでいるのであるが、これ等は言うまでもなく、我国の文化の大系であって、これを知るにあらざれば、文化の真相は遂に了解することが出来ぬのである。而して、巫女史の学問上に於ける地位は、大略、左の三点より考察すべきものと信じている。
一 文化史に於ける巫女史の地位
発生的に言えば、我国のあらゆる文化は巫女から生まれたものであると云えるのである。即ち巫女史は、人類文化生活の根蔕である。政治、経済、法制、文学、歌舞、祭祀等の総てに亘って交渉を有し、然も是等の文化事象を生んだ母体であるから、広い意味から言えば、文化史の起源であって、これを疎却しては、文化の発生的意義は、尋ねることが出来ぬのである。文化史に於いて、与えられたる巫女史の地位は、かなり重要なる役割を占めているのである。
巫女史を、文化発達史の方面から見れば、それは母権時代の人類生活を意味している。此の時代にあっては、専ら女子が社会の中心となっていて、所謂、女子政治時代を現出していた。巫女の発生は即ち此の時代にあったもので、鬼道に通ぜる巫女が支配者として、一国または一郡を統治していた。而して、此の時代にあっては、巫道に通じ、呪術に長じたものが、社会の最高位に置かれたのであるから、ここに種々なる巫術の発達を促し、併せて巫道の進歩を来たしたのである。巫女史は、是等の各般に就いて、研究すべき使命を有しているのである。 
二 原始神道に於ける巫女史の地位
人類の間に宗教なるものが発生せぬ以前において、既に呪術なるものが存在し、宗教は此の呪術によって発生したという呪術先行論というのがある。これに反して、宗教の基調である神聖観念は、呪術の発生に先って人類の間に意識されていたので、宗教は呪術の以前に発生したものだという宗教先在論がある。更に、此の両説を折衷して、宗教と呪術とは、元々発生の動機を別にしているもので、これに前後の区別をするのは無理であって、両者ともに併行したものだという併行論もある。而して我国の巫女の有する呪術なるものが、宗教——即ち神聖観念の基調を外にして発生したものか否か、更に原始神道と巫女教との関係が如何であったか、これ等は共に相当の研究を要すべき問題であるが(但しその事は本文中に記す考えである)、兎に角に、広い宗教学の意味から離れて、狭い意味の原始神道の上から見ただけでも、巫女史の研究は、相当に意味の深いものと言えるのである。
現在の如く、神道が固定してしまって、祭神の考覈も、教義の研究も、内務省の神社局から発せられるものが絶対の権威を有つようになっては、巫女と神道との関係の如きは、有無ともに問題にならぬ迄に稀薄なものとなったが、原始神道は巫女教であっただけに、巫女を閑却しては、教義の考覈などは、到底企てる事が出来なかったのである。原始神道の研究は、巫女史を闡明にするにあらざれば、達成することは不可能である。 
三 民俗学に於ける巫女史の地位
民俗学(Ethnology)の目的の一は、異った集団の性質を究める点にある。我国の民族の如きも、現時にあっては、殆んど同一民族と見るまでに、同化し、融和してしまったが、併し是等のうちに、幾多の異った民族の集団の曾て存在したことは、今や、人類学的にも、考古学的にも、更に民俗学的にも、証示されるまでになった。而して此の異った集団は、又各自の巫女を有していたのである。それが巫女の流派として、後世に残されたものである。勿論、此の流派のうちには、師資の関係から来た変化も認めなければならぬけれども、鼓を打って神を降した巫女と、弦を叩いて神を降した巫女とは、民俗学的には、必ずしも同一と見ることは出来ぬのである。これには、文化の移動ということも考慮のうちに加えなければならぬが、巫女史の研究は、民俗学的に見るとき、一段と学問的の価値を大ならしめるものと信ずるのである。 
 
第二章 巫女史の研究方法

 

巫女の研究には、如何なる方法を執るべきかという問題は、相当に考慮を要すべき事であることは言うまでもないが、これには先ず、巫女史を組織すべき史料の蒐集、及び史料の批判、竝に史料の整理と、正しき解釈、及び史論の構成、及び表現等に就いて、注意を払うことが大切である。而してここに、是等に関する私の態度を明白にして置きたいと思う。  
一 史料は出来るだけ多く蒐集
歴史学は、経験の学であって、理論の学ではない。巫女史が歴史の一分科である以上は、当然この支配を受くべきものであるから、史料の多寡が直ちに研究の価値に影響を有することは勿論である。従って、巫女史を研究するには、巫女史の史料となるべきものを、出来るだけ多く蒐集すべき必要がある。証拠の収集の充分でない裁判が、往々にして誤判に陥り易いように、史料の蒐集の不十分な史論は、如何にするも誤謬に陥らざるを得ないのである。而して、多くの史料の蒐集を行うには、先ず雑然として玉石同架している種々なる素材のうちから、特に巫女史の史料となるべきものを、克明に拾収するだけの、用意と、眼識とを備えなければならぬ。換言すれば、巫女史料を巫女史料として認識するだけの、経験と学力とを具備しなければならぬ。それには、何が国民の信仰現象であるか、何が巫女の生活現象であるかを、明確に把握しなければならぬ。併しながら、史料は出来るだけ多く蒐集するが宜いと云ったところで、史料の排列は直ちに歴史ではない。その史料を論理的に按排して、その関連に注意し、正確を保つところに、学問が存するのである。それ故に、何人にでも史料は蒐集が出来るというものではなくして、巫女の呪術なり、生活なりに、相当の理解と、見識とを有する者でなければ、能わぬことである。而して史料を蒐めるのに、戸内的には、出来るだけ多く諸書を渉猟し、戸外的には、出来るだけ各地を旅行し、かくて眼と耳から蒐集すべきことは言うまでもない。
更に一言すべき事は、特に巫女史に限られた問題であるが、これが史料の蒐集は、他の歴史的研究に比較する時、一段と蒐集に困難する点である。即ち巫女の行う呪術なるものは、絶対的に秘密を主として、且つ文字に記さず、多くは口より耳へと相伝したものだけに、これを知ることが容易でないのである。従って、巫女の生活なるものも、その境遇が特殊の環境に置かれてあったために、これもその史料を蒐めることが至難である。加之、巫女なるものは、遠き昔より今に至るまで、常に官憲のために嫌われて、殆ど禁止されていたのであるから、旁々以て史料が多く伝っていぬのである。然るに、これ等の困難を突破して、史料を、より多く蒐めようというのであるから、そこに多大の忍耐と努力とを要する次第である。私は巫女史を書こうと企ててから約二十年になる。然も、此の間に、蓄積した史料なるものは、決して多くはない。私としては、出来るだけの方法と、手段とを講じたのであるが、前記の理由は私の所期の十分の一にも達しなかったのである。それ故に私は、後学のために、蒐めた史料は、出来るだけ、よし、それが断簡零墨のような——史料としては、左迄の価値なきものと思うものまでも、採録することとした。多きを誇るのではなくして、泯びるのを惜しむのである。幸に、衒学の徒と誤解なきよう、特に附記する次第である。 
二 史料は厳重に批判して採択
蒐集された史料は、厳重にこれを批判して、その真偽を判定しなければならぬ。否、史料は最初から出来るだけ厳重に批判して、その真実なるものだけを、蒐集しなければならぬのである。而して、此の史料の批判は、第一は形式上から始めて、次で第二の内容上に及ぶことは勿論である。第一の批判は、それが記録であるなれば、錯簡、攙入、誤脱等の有無を精細に調べ、金石文であれば、金石の質、彫刻、書体等を検し、更に古文書であれば、紙質、書風、墨色等を観て、共に仔細に検討しなければならぬ。第二の批判は、これ等の記載が学術的であるか否かを考察し、次で他の文献なり、又は史実なりと衝突し、或は矛盾した話が有るか無いかを精細に調査し、ここに始めて史料の批判が終るのである。
かくて蒐集した資料が、真実の物であって、虚偽の物でないという見極めがつけば、今度は更に記載してある物それ自体が、史料として幾何の価値を有するかに就いて、稽査しなければならぬ。勿論、これに関しては、その一々に就いて言わなければならぬが、併し概括的に言えば、古文書または金石文の類は、一般に、その当時より幾分かの年代を経た後に作られた書籍よりは価値が多く、又同じ記録でも、編纂されたもの、或は述作されたものよりは、直接その事に当った者の手控又は備忘録というものが価値が多い。従って、史料の批判を行うには、その作られた時代、場所、及び動機、竝びにこれを作った人物の性格、境遇、及び社会的位置等を精細に検査すべき必要がある。昔も今も、平気で偽文書を拵えたり、書物を偽作する人は、決して尠くないからである。
史料の批判に就いて、第一の形式上に関しては、古文書学、考古学、民俗学等の補助学科の力を藉りることが必要であると同時に、第二の内容上に関しても、是等の学科の力に俟つべきは言うまでもないが、更に史学の原則に従うべきは勿論である。而して、筆者として、絶えず注意すべきことは、自己の欲する史料、若しくは自己の導かんとする結論に、好都合なる史料に対しては、格別の批判を加うべき点である。これは、ややともすると、史料に支配される結果に陥ることがあるからである。
更に、此の機会に、一言附記すべきことは、私が本史において蒐集使用した史料中に、雑誌の記事または学友からの報告が、多量に存している一事である。私としては出来るだけ斯かる史料に信頼せぬように心懸けていたのであるが、巫女史にあっては、前述の如く、殆んどその全部が秘密として社会から遠ざけられていた為に、これに関する記録や、遺物も、極めて尠く、明治以前にあっては、纏ったものとては、全く、眼にも、耳にも、入らぬ有様である。然るに、明治となって、巫女の呪術が禁止され、且つ巫女は概して下(さが)り職(しょく)として、社会から排斥されていたので、禁止と同時に、相率いて帰農するか、商売となるか、又は死亡するかして、漸くその事跡が堙滅に瀕するようになったのである。それが明治の終る頃から、恩師柳田国男先生の首唱で民俗学なるものが起り、従来、社会から疎却されていた賤業卑職の徒の消長に就いて好んで記録するようになり、此の学風は、大正に入って一段と隆盛を極め、専門の雑誌も三四を以て数うるようになり、且つ一般の国民を刺激して、此の種の事に留意させるようになったのである。かかる次第とて、私の企てた本史の史料が、雑誌に俟つことが多く、且つ此の種の事象に興味を持たるる学友(その多数が専門雑誌の寄稿者であって、然も郷土史の研究者として令名あり信用ある方々である)を煩わすこととなったのである。私は斯うしてまでも、今のうちに泯滅の途を急ぎつつある巫女の史料を記録に残すことが、我が民俗学にとっては、意義あるものと深く信じている。而して、斯くして蒐集した史料でも、その一々に就いて、厳重なる批判を加え、採るべきものは採り、棄つべきは棄てるに吝ならざりしことは勿論である。 
三 史料の整理とその解釈
蒐集し批判された史料は、更にこれを史論の構成に便利のように整理されなければならぬ。史料の整理方法に就いては、各自とも、その性格と、趣味と、境遇等によって別にしているが、私は柳田先生の流儀に倣って、史料を一々カードに書き留めて整理する方法を採っている。実際、私のような経済的に恵まれぬ一学究として、旧板新刊の書籍(それも私の専攻している民俗学関係の物に限る)を読破しようとするには、読んではカードに記し、記しては売り、買っては読むというようにしなければ、到底、雨後の筍の如く続出する書籍を読み尽すことは出来ぬ。勿論、その間において、少閑を偸んで、各所の図書館へも往き、学友の蔵書も借りるという有様で、その苦心と、努力とは、万巻の書籍を愛蔵している者の、夢にも見られぬところである。私は斯うして書き留めたカードを約二万枚ほど所持していて、巫女史に関するものだけでも更に幾つか細別し、分類して、整理してある。併しながら、これは私の遣り方であって、これを決して理想的のものとして大方にお奨めするのではない。貧しき者の詮方なしの一策にしか過ぎぬのである。
それでは、此の外に、史料整理の方法があるかといえば、「大日本史料」の如く、年代によって排列する仕方もあれば、更に「古事類苑」の如く、事柄によって分類する方法もあり、又「大日本古文書」の家わけ文書の如く、史料の所在、伝来等によって網羅する遣方もある。従って、如何なる整理の方法が最も優れているかは、一概に言われぬ事であると同時に、その人々の嗜好に応じて、適当なる方法を選ぶべきである。
整理された資料は、更に適当に解釈されねばならぬのは当然の事であるが、此の解釈こそ、或は史料を活かし、或は史料を殺すこととなるので、最も注意を払わねばならぬ点である。而して歴史家の解釈力は、如何なるところより生ずるかと言えば、それはその史家の有する史学全般の知識を基調とし、これに補助学科なる考古学、人類学、古文書学、言語学、及び民俗学等に就いて有する該博なる知識より生ずるのである。歴史家は、史料に関して、透徹せる観察によって、史論の骨子を作り、更に史料に就いて、正確なる解釈を下して、運筆すべきである。
歴史が、経験の学であって、理論の学でない以上は、史料を解釈するに注意すべきは、常に客観的態度を採らなければならぬことである。若しこれに反して、主観的態度に出ると往々にして解釈を誤る虞れがあるからである。 
四 史論の構成とその表現法
史論の構成は、演繹的よりは帰納的にする方が安全である。想像と推理は、史論を試みる上には禁物であって、その一々が悉く史料の上に立脚していなければならぬ。併しながら、史料を総合する事によって、関聨を把握し、或る程度の飛躍を試みることは必要である。ただその飛躍が、史料を閑却して、徒に想像に流るることは慎しむべきである。而して、史料を縦横に駆使して、史料の有てる価値を充分に発揮させるのは、全く歴史家たる者の全人格の力に依存しているのである。
史家の認識は、純然たる科学であるが、その表現——即ち史論の記述は、明かに一種の芸術である。ここに於いて歴史家は創作家と同じ程度の技術を有する者でなければならぬ。併しながら、歴史の記述には制限がある。即ち認識の正確を目的とする範疇で許された創作であるから、此の埒外に出ることは注意しなければならぬ。殊に、文体に思いを凝らし、措辞に心を苦しめて、史料を損ずるが如きは邪道である。達意にして、明晰であれば、それで充分である。好んで耳遠き古語を用い、又は生硬なる熟語を陳ねて得たりとするが如きは、史論の表現法としては、与することの出来ぬ点である。 
 
第三章 日本巫女史学の沿革と其の史料

 

記・紀の神代巻には、巫女の熟語は見当らぬ。それでは、我国の神代には巫女は無かったかというに、これは決してそうではない。巫女という熟語こそ見当らぬが、実質的に巫女であった神々、及びその神々が行うた呪術なるものは、立派に存在している。殊に記・紀に比較すると、記述した年代も降り、且つ官撰ではないけれども、「古語拾遺」に神代の事を記した条に「片巫、肱巫」の二種の巫女の名が挙げてあるところから推すと、巫女が神代から在ったことは明白である。然らば、これ等の巫女、又は巫女の呪術、及び巫女の生活等に関する研究は、記・紀または古語拾遺等の研究と共に、相当、先覚の間に尽されているべき筈であるのに、事実はこれに反して、一向に纏ったものが残されていぬのである。
勿論、巫女の語義とか、呪術の意味とか、又は巫女と呪術との関係とかいう、断片的の研究は相応に試みられているが、系統を立て、年代を追うて研究したものは、全く寡見に入らぬのである。果して然らば、巫女史学の考察が、何が故に斯く先覚の間に閑却されていたかというに、これには又相当の理由が在ったのである。而して、その第一の理由は、巫女によって祖述され、発達した、神道に対する解釈の変更と、第二は、神道の仏教化、及び儒教化の結果として、全く巫女を神道の圏外に放逐した為めである。第三の理由としては、出自の高かった巫女達が、信仰の推移と社会感情の消長とにつれて、段々と自身達が堕落して来たことと、これに伴うて巫女の呪術が、詐謀に悪用されるようになり、遂に代々の官憲から禁止された結果として、宮中または名神・大社に附属した僅少の公的巫女(私の所謂カンナギ系の神子)を除いた、他の多くの私的巫女(私の所謂クチヨセ系の市子)は、社会の落伍者として蔑視され、その職業は卑賤なるものとせられ、延いて一種の特種民として待遇されるようになってしまった。而して巫女の境遇が、かかる低級に置かるるようになってからは、代々の識者は、これが呪術なり、生活なりに就いて、記録することを却って恥辱とするが如き感情を養い、それが為めに、巫女の歴史は、全然黙殺さるる結果となってしまったのである。これが奈良朝の末葉から室町期の初葉までの概観である。
然るに、室町期の中葉から、五山文学の隆昌は、当時の有閑階級で且つ有識階級であった公卿を刺激し、これら堂上の縉紳をして国学の訓詁注釈に著手させるに至った。而して此の影響は、伊勢神道に伝って研究を促進させ、更に吉田神道などにも波及して、これ亦相当の成果を挙げさせ、全く閑却されていた巫女の問題にも、極めて微温的ではあるが触れるようになったのである。
かくて、世態が一転し、徳川氏が起って、天下の政柄を握り、江戸に覇府を開くに至り、泰平の滋雨は忽然として奎運の暢達を来たし、国学の復興と共に、神道の研究も隆んになり、記・紀及び祝詞・風土記・物語等に現われたる神和系の神子の考覈も行われ、此の機運は進んで、口寄系の市子の生活、及び呪術の秘密に興味を持ちし、所謂、好事家とも称すべき者が、断片的にも記録するようになり、而して明治期に入ったのである。私は、此の見地に立ちて我国の巫女史学の沿革を、(一)混沌期、(二)室町期、(三)江戸期、(四)明治期の四期に区別して、やや詳細に述べるとする。 
一 混沌期に於ける巫女史学の概観
巫覡の熟語が、我が国史に初めて見えたのは、「推古紀」二年春二月の条であるが、此紀に記された巫覡は、私の所謂口寄系の市子又は男ミコと見るべきものであって、社会的にはかなり堕落もし、且つ軽視されていた者と信ずべき点がある。奈良朝に入っては、巫覡の活躍は相当に見るべきものがあるが、国史に現われたるところは、専らその呪術の悪用の方面のみで、これを律令格を以て禁断し、又は巫覡を遠流した記事が多きを占めている。吉備真備の「私教類聚」と称する遺誡のうち「莫用詐巫事」の一項の如きは、よく当代の巫弊を道破しているものがある。かく奈良朝において、巫覡を禁断したことは、
一、当時の社会感情が、巫覡の行うところの呪術に対して、非常なる恐怖を有していたこと。
二、当時、隋・唐の文化を旺んに輸入した結果として 支那本土の儒教が極力巫覡の徒を排斥せる風を学び、我国でも努めてこれが剿絶に尽したこと。
三、仏教の興隆は、当代早くも、神仏習合の端を発し、やがて将来された本地垂跡説の基をなし、我国の神々は漸く仏教化せんとする思想が上下に瀰漫していたので、仏教の教相の上から、儒教と同じく極力巫覡を排除したこと。
この三点を重なるものとし、更に巫覡の徒に於いては、
一、呪術の方法が、我国固有の神意を問うて民人に告ぐるだけの範囲を越え、支那より伝来した巫蠱厭魅の邪道を以て、民心の呪術を恐るる間隙に乗じて、猖んに社会を荼毒したこと。
二、当時の巫女には、品性の堕落せる者尠くなく、巫娼として売笑せるもの、又はそれ以上に売笑を職業とする者を出して、社会の軽侮を受けしこと。
三、男覡の間にも、無頼の者を出し、自ら社会を狭くしたこと。
こういう事などが、双方から歩み寄って、遂に斯くの如き結果を馴致したのである。
平安期に入ると、巫覡の社会的位置は益々低下して、大同二年九月の「太政官符」の一節にある如き「巫覡之徒、好託禍福、庶民之愚、仰信妖言、淫祠斯繁、厭呪亦多、積習成俗、虧損淳風」の実状を呈し、更に、我国最初の百科全書(エンサイクロぺディア)である「倭名類聚鈔」には、巫覡を遊女、乞食、盗児と同視して、乞盗部に載せるほどに堕落したのである。勿論、宮中及び名神・大社に附属していた神和系の神子にあっては、我国固有の古格を守り、是等の徒とは全く類を異にしていた事は言うまでもないが、神社に離れ、給分を失うた巫覡の輩は、概して倫落の淵に沈んでいたのである。而して当代は、宮廷文学の最高調に達していたのと、過房による神経衰弱の時代であっただけに、迷信も深かったので、源氏物語、栄花物語、大鏡等を始めとして、公卿の手に成れる家乗日記の類にも、巫覡に関する記事は相応に残されている。併しながら、それ等の記事は、悉く断片的なものであって、系統を立てた巫女史なり、呪術史なりは遂に見ることが出来ぬのである。「政事要略」に「蠱毒厭魅及巫覡等事」と題する一節があるが、その多くは賊盗律及び格令等の転載にしか過ぎぬ。而して鎌倉期に入っても、又これと同じで、「吾妻鏡」「沙石集」「古今著聞集」「古事談」等の三四の書籍に、巫覡の事がきれぎれに載せてあるだけで、纏ったものは残されていぬのである。 
二 室町期に於ける巫女史学の概観
室町期の三百年間は、歴史的には闇黒時代であり、民衆には煉獄時代であった。幕府の威信が地に墜ち、海内は挙げて戦乱の巷と化し、群雄は各地に割拠し、山海の賊盗が出没するというのであるから、民衆にとっては、此の上のない受難時代であり、且つ苦患時代でもあった。然るに、迷信は失望の時代に猖んになり、空想は失望の時に羽を広げるとあるように、此の時代に処した民衆は、驚くほど迷信的であり、空想的であった。我国の迷信は、全く此の室町期において集大成されたのである。換言すれば、室町期は、我国の迷信黄金時代とも云えるのである。従って、迷信を生命とした巫覡の徒が、跋扈し、跳梁したのも、当然の帰結であった。
巫覡の猖獗は甚だしきものがあったが、これ等の生活なり、巫術なりに関して、記録したものは、前期に比して、更に尠いことを、嘆ぜずにはいられぬのである。由来、室町期は、総ての歴史を通じて、殊に文献も記録も欠乏している時代である。馬蹄の響きに、吚唔の声は打ち消され、戦乱の為めに古き図書は失われ、その反対に新しき図書は出でず、文字を解する者は僅に特権階級であった僧侶に限られるという有様であった。然るに、此の文教を握っていた五山の僧徒が、漸く文学を振興したので、当時の有閑階級で、且つ有識階級であった公卿を刺激し、これら堂上の縉紳をして、国学の訓詁注釈に著手させるに至った。
就中、一条兼良は稀に見る篤学者で、源氏物語に就いては、花鳥余情、千鳥抄、源語秘訣、源氏物語年立、源氏和秘抄など、極めて多くの研究を残し、更に、日本紀纂疏、伊勢物語愚見抄、歌林良材集等の著述をなし、当代の和学は殆ど兼良一人——又は兼良一家において総合されたかの観がある。後世、村田春海が和学の復興発達は一条兼良に始まるとして、その業績を称えたのも、決して過褒ではないと考える。而して兼良によって投じられた一石は、国学の研究に大なる波紋を生じ、堂上家にあっては、飛鳥井雅親、三条西実隆等の好学者を出し、武家にあっては、今川了俊、東常縁、降っては細川幽斎の如き考覈者を出し、更に僧侶系の文学者としては、正徹、心敬、世阿弥、宗祇、松永貞徳等の研究者を見るに至った。
こうした国学の復興的発達は、神道の方面にも、影響せずには置かなかった。そして、それを第一に受けたのは伊勢神道であった。伊勢神道とは、言うまでもなく、外宮神官の間に発生した特種の神道説であって、その思想は内外両宮を中心として発展して来たのであるが、就中外宮の祭神である豊受大神の位置を決定して、外宮の根柢を確立せんことを一つの目的としたものである。少くも、伊勢神道初期の経典であって、長く此の神道を支配した五部書(一天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記、二伊勢皇太神宮御鎮座伝記、三豊受皇太神宮御鎮座本紀、四造伊勢二所太神宮宝基本紀、五倭姫命世記)は、明かに、此の目的の下に、擬作されたものと見られるのである。
由来、伊勢神道は、南北朝の交に度会家行が出でて、類聚神祇本源(序に元応二年とある)十五篇を著わして、これを大成した。同書の第十二は、神宣篇であって、その内容は、神々の託宣を以て満たされているのであるが、例の或種の目的の下に記されたものだけあって、徒らに、牽強附会にあらざれば、奇怪雑駁の文字を陳ねただけである。従って、我国の神道の本義に触れることは極めて尠く、その神宜篇においても、巫女の神道史上における地位の如きは、全く見ることが出来ぬのである。而して、家行には、此の外に「瑚l集」「神道簡要」「神祇秘抄」等の著述があるが、咸な伊勢神道の衒学にあらざれば、彼れ特自の捏造哲学の愚劣なるものに過ぎぬ。されば、此の流れを汲める伊勢神道の人々は、室町期において二三の文献を残しているが、悉く大同小異のものであって、巫女等に就いては遂に何らの記すところもないのである。
伊勢神道と同じような影響を受けたのは、吉田神道(卜部神道とも、唯一神道とも、更に元本宗源神道ともいう)である。此の神道で、一派の組織をなしたのは、室町期の中葉から末葉にかけ、即ち吉田兼倶にあると伝えられている。元来、此の吉田家は、長く神祇官に勢力を有し、又古典研究の伝統を持つ家柄であって、既に兼倶以前においても多くの好学者が此の一家から現われている。「徒然草」の作者である兼好法師の如きも、此の家の血筋に繋がる者である。殊に、卜部懐賢の「釈日本紀」は、中世における日本書紀研究の上に、一つの時期を劃すべき文献であるとまで言われている。こうした家の学問は、兼倶を出すに及んで、漸次に古典研究の風を移して、時代に一派の神道説を唱えるように導かれて来た。そして伊勢神道の故智を学んで、遂に吉田神道を建設するに至ったのである。而して厳格なる考察によれば、吉田神道は、伊勢神道の影響を、思想の上においても、教義の点に就いても、かなり濃厚に受け容れているのである。換言すれば、吉田神道の完成は、伊勢神道の影響を離れては、考えることが出来ぬのである。そして、それは吉田家の出であって、外宮の神官——即ち伊勢神道の祖述者となった度会常昌と親交のあった僧慈遍(天台宗の学僧)が楔子となっていたことを発見するのである。
僧慈遍の神道史学における位置は、彼の自伝によるも、「抑慈遍、聊神道に赴き、殊に霊験を憑み奉る起りは、去る元徳の年、夢の中に神勅を承るに依て、先神懐論三巻を選み、仏神の冥顯を理り、真佶の興廃を明らむ」に発し、後醍醐帝の上覧に備えるために、旧事本紀玄義(十巻)、大宗秘府(六巻)、神祇玄用図(三巻)、神皇略文図(一巻)、古語類要集(五十巻)を著し、別に「国母の詔を承けて」豊葦原神風和記(三巻)を作っている。此のうちで、私の見たものは、旧事本紀玄義(続々群書類従神祇部所収)と、豊葦原神風和記(同上)の二部だけであるが、併し是等の書籍によって知り得た慈遍の神道観は、全く伊勢神道そのままとも言うべきもので、殊に旧事本紀玄義のうちには、伊勢神道の経典である五部書を始め、神皇実録、神皇系図、天口事書等を盛んに引用して自説を立てている。試みに巫女に関係ある託宣を記した「尊神霊験事」と題せる条(豊葦原神風和記巻中所載)を見ても、五部書中の宝基本紀の一節を丸どりにして、これの終りに自説を添加したまでである。而して伊勢神道の教義が、僧慈遍の手によって、吉田神道に移されてから、約百三十年を経て、吉田神道を大成した兼倶の全盛時代が開けたのである。
吉田神道の特色は、その教義よりは、寧ろ祭祀の儀礼に関する事相方面に存するのである。吉田神道の最高の経典として、伊勢神道の「類聚神祇本源」に比敵すべき「唯一神道名法要集」の著者は、今に何人であるか判然せぬけれども、私は恐らく兼倶が万寿元年吉田兼延に仮託して偽作したものだと考えている。而して更に兼倶の著として疑いなき「神道大意」(神道叢説所収本)に現われたる巫女関係の託神を解して「神に三種の位あり、一には元神、二には託神、三には鬼神なり」とあるのは、僧慈遍の「尊神霊験事」の条に「凡そ冥衆に於て大に三の道あり、一には法性神、謂る法身如来と同体、今の宗廟の内証是也(中略)。二には有覚の神、謂る諸の権現にて、仏菩薩の本を隠して万の神とあらはれ玉ふ是也。三には実迷神の神、謂る一切の邪神の習として、真の益なく愚なる物を悩し、偽れる託宣のみ多き類是也」云々とあるのを、換骨して記述したまでに過ぎぬのである。従って、巫覡に関する史学的の記載を是等の文献より発見することは極めて困難であるが、吉田家は永く神祇伯家の神長官として、後世に至るまで巫覡の徒を監督して、平田篤胤翁の所謂「鈴ふり神道」の総本家であったのである。
室町期に非常の発達をした修験道も、巫覡に似た「憑祈祷(ヨリキトウ)」なるものを好んで演じた。更に、法華経の行者なるものも、真言宗のお加持なるものも、又此の種の託宣じみたことを用いていた。私は此の方面に就いては、極めて尠少なる学問しか有していないので、此の方面の憑祈祷と巫覡の呪術との交渉を、深く詮索することの出来ぬのを遺憾とするが、併し私の乏しき知識からいうも、当代の文献から此の方面の史料を抽出することは困難のようである。猶おこれに就いては、後段に記述する機会があるので姑らく保留する。而して当代に発達した謡曲及び稗史のうちにも、巫女関係のものが二三見えるが、これも数え立てて言うほどの事もない。 
三 江戸期に於ける巫女史学の概観
下川辺長流、僧契沖によって提唱された国学の研究は、江戸期の昌平に促進されて、大きな力となって、上下に迎えられた。更にこれより曩き、林道春が、その師藤原惺窩の廃仏思想を承けて「本朝神社考」を著し、神儒合一の説を唱えたが、此の学風も、同じ流れに滙合され、一種の機運となって、社会に波及した。而して徳川氏が幕府を開いて六十年、元禄の交において、巫女史学に就いて、有益なる記述を残したのは、名古屋の天野信景である。彼はその著「塩尻」において、随筆的な断片ではあるが、学的価値に富んだものを多く伝えた。
然るに、神社神道を種とした荷田春満によって唱えられた国学の復興は、その門から賀茂真淵を出し、更に真淵に贄を執った本居宣長の出ずるに及んで、神社神道は一躍して国体神道となり、その学風を慕いし平田篤胤の現わるるや、一段とその神道振りを発揮するに至った。併しながら、本居翁の神道説は、先ず我国の神々を儒教から引離すことに重きを置いていた。更に平田翁にあっては、第一には、我国の神々を仏教から(本地垂跡説と山王神道、法華神道なども含めて)解放することであって、「古道大意」や「出定笑話」は、これが為に作られた。大には、我国の古神道を、吉田家の俗神道や、山崎闇斎の神儒同一主義の垂加流の神道から切り放すことで、「伊吹颪」や「俗神道大意」は、此の目的によって著わされたのである。
而して、此の運動は、明治維新によって、その功果を遺憾なく実現したのであるが、本居翁も、平田翁も、此の神神の解放に多忙であったのと、神社神道を国体神道に引き上げるに急であった為めに、原始神道が巫女教から発達したことなどは全く忘れてしまって、却ってその当時の巫覡の徒の卑俗なるを見て、古代の巫女まで攻撃して止まぬという態度で莅んでいた。かかる次第であるから、あれほど古神道の復興を高調した本居翁の「古事記伝」及びその他の著書からも、同じく平田翁の「古史伝」及びその他の著書からも、共に訓詁注釈以外には、巫女史学の材料を発見することが出来ぬのである。平田翁自身は、本居翁の学風を相続したものは自分だけであるように言うているが、平田翁は決して本居翁の継承者ではない。私の父は、極端な平田翁崇拝者であったが、それでも「全体、平田翁はほんとうの学者ではない。政治家の地金へ物識りの鍍金をしたやうな人物である」と評していた。
平田翁に比較すると、伴信友翁は、本居翁の継承者として、敬服すべき立派な学者であった。伴翁の考証は、煩わしき迄に、微に入り、細に渉っているが、何処までも、真理を探究して措かぬ態度には、学者として、欣慕すべき点が多い。従って、その著述の中には、巫女史学に関係したものが多く、殊に「正卜考」や「方術原論」や「鎮魂伝」などは、共に不朽の労作であると同時に、私の巫女史も、これに負うところが尠くないのである。
それから、平田翁の門人であって、同翁に比して一段と神道組織の巨腕を有していた鈴木重胤翁も、相当に巫女史学の資料を残している。その大著である「日本書紀伝」と「祝詞講義」とがそれである。猶お神道関係の文献では、白井宗因の「神社啓蒙」や、鈴鹿連胤の「神社覈録」や、小寺清之の「皇国神職考」などに散見しているが、併し別段に取り立てて言うべき程のものはなく、何れも断片的の記事に過ぎぬものである。
是等の文献に比して、やや体系をつけて、巫女史学的の考察をなしたものは、本居内遠の「賤者考」である。これは現代語で言えば、全く民俗学的に記述されていて、且つ各地の巫覡の生活や、社会的地位などが、かなり克明に書かれている。ただ欠点を言えば、その命題が示している如く、専ら巫覡の徒を社会の落伍者としてのみ取り扱い、彼等が斯かる境遇に堕落した過程に就いては、少しの考察も払われていない点である。併しながら、当代において賤民とまで卑しめられていた巫覡に対して、こうまで詳細なる記述を残してくれたことは、内遠翁が凡庸なる訓詁者流の学究でなかったことを、証拠立てるものとして意義がある。
江戸期に現れた千百も啻ならぬ随筆類には、巫覡に関する記事も決して尠くない。併し是等の多くは、筆者が好奇心を以て、興味半分に書き記しただけであるから、巫女史学の素材にはなるが、その沿革として記すべきほどの価値あるものを発見せぬ。但し、是等のうちにおいて、喜多村信節の「嬉遊笑覧」や、高田与清の「松屋筆記」や、松浦静山の「甲子夜話」などに載せたものは、史料としても、参考としても、共に有益なるものである。
同じ江戸期に編纂された地誌類のうちにも、巫女史学関係の記事は決して尠くないが、これも多くは断片的なもので、纏ったものとしては見当らぬ。その中でも、徳川幕府で纂輯した「新編武蔵風土記稿」や、同じ「新編相模風土記稿」を始めとし、会津藩で編輯した「新編合図風土記」、広島藩の「芸藩通志」、紀州徳川家の「紀伊国続風土記」、尾州徳川家の「張州府志」等を主なるものとして、岡田溪志の「摂陽群談」、阿部正信の「駿国雑誌」、松平定能の「甲斐国志」、中山信名の「新編常陸国志」、寒川辰清の「近江輿地志略」、岡田啓の「新撰美濃志」、富田礼彦の「斐太後風土記」貝原益軒の「筑前続風土記」、島津藩編纂の薩隅日「三国名勝図会」等は、量と質においての相違はあるが、巫女史学の材料を多少とも載せている。更に同期に書かれた諸種の遊覧記の類にも見えているが、是等の書名は余りに煩雑になるので今は省略する。
それから茲に注意すべき巫女史学関係の記録がある。それは柳田国男先生によって発見された「諸国風俗問状答」と称するものである。由来、此の記録は、文政年間に、幕府の儒官であった屋代弘賢が、年中行事及び慶弔婚嫁等の民俗の一々に就き、詳細なる設問をなし、各地の藩主に向って答状を求めたものである。然るに、此の問状に接して答状を発した藩主の少かったものか、現在までに発見されたものは、柳田先生によって、秋田、三州吉田領、丹後中郡、越後長岡領の四答状で、別に柳田先生のお指図によって私が発見したものが大和高取藩、私が単独で偶然の事から発見した若狭、及び備後国浦川村の二答状で、合計七種だけ集め得たのであるが、その他にあっては、有無ともに明白になっていない。私はこれが捜索には多年の間注意して、帝国図書館に「輪池叢書」を検討し、新聞記事によって地方好学のお方の配慮を乞うやら、かなり手を尽しているのであるが、今に是れ以上発見されぬのは誠に遺憾の次第である。若し本書の読者中に此の記録に就き御承知のお方があったら、学問のため切に私まで御通知を願いたい。私は百里も遠しとせず推参して写し取り、そして学界へ発表したいと念じている。これが一面には我が民俗学の利益であり、又一面には先覚の学恩に対する礼儀であると考えている。而して此の問状答の学問的価値の高いことは、各地方の眼前に行われていた事実を、そのまま克明に正確に直写した点にあるので、素材ではあるが、史料としては、書物の孫引や、先輩の受け売りなどとは、比較することの出来ぬほどの尊さが存しているのである。
当代の稗史小説及び歌謡・川柳等にも、巫女関係の史料が多少は存している。稗史としては、山東京伝の「稲妻双紙」、滑稽小説では式亭三馬の「浮世床」、十返舎一九の「東海道膝栗毛」等で、歌謡では「松の葉」に収めてある「晴明祈りの詞」がそれである。浄瑠璃の院本にも一二見えているが、是は左迄に重要なものでないので今は省筆する。
最後に、当代の官憲で取調べた書類、又は巫覡の徒から官憲に書き上げた記録も、少しは残っている。殊に、内閣文庫に一本しか伝わっていぬ「祠曹雑識」には、注意すべき史料が載せてある。 
四 明治期に於ける巫女史学の概観
ここに明治期とは、明治につづく大正、及び本書を執筆した現在の昭和四年の上半期までを含めた意味である。明治の維新と共に、奎運遽に長足の進歩をなし、諸般の学問が偉大なる発達を遂げたが、巫覡に関する研究は、余り学者の注意に上らなかった。而してこれの原因は、(一)巫覡の社会的地位が低劣であったので、伝統的に是等の事に筆を執るのを厭うたこと、(二)明治になってから、巫覡の職業を、治安に有害なるものとして厳禁剿絶したので、社会からも忘られ、学者の注意からも逸したこと、(三)巫覡の方でも、明治四年に特種部落が解放されて以来、平民と伍することが出来るようになったので、此の職業を棄てて、他の正業に就くと同時に、曾て自分たちが以前この賤業卑職を営んだことを逃避する態度を執り、努めてそれを隠そうとしたために、材料を得るに困難であったこと、(四)偶々、官憲の眼を忍んで此の業に在りし巫覡は、例の口伝や師承を言い立てて、秘密を守ったので、同じく材料を手に入るるに困難であったことなどを重なる原因とすべきである。
更に、学者側にあっては、(一)当時、此の種の研究を試むべき学風が起らなかったこと、(二)明治も二十年頃までは、欧米の学問を輸入し、咀嚼し、消化するに多忙であった、所謂、翻訳時代であったので、我国の社会制度や、民俗組織を研究する余裕を有していなかった。況して、原始神道とか、巫覡研究とかいう問題に没頭することは、事情が許さなかったのである。それが、明治十九年に、故坪井正五郎氏によって「人類学雑誌」が発行され、次で明治二十六年に土俗学会の集りが催されるようになり、漸次この学風が海内に行き渉る傾向を生じ、引き続いて「風俗志林」「風俗書報」などの雑誌も興り、世人も此の種の問題に注意を払うようになって来たのである。
然るに、明治四十四年九月、柳田国男先生は東京人類学雑誌(第廿巻第六号)に「イタカ及びサンカ」と題せる論文を発表された。これが我国における巫女史学の研究の権輿である。我が柳田先生は、東京帝国大学に於いて、夙に農政経済を専攻されたが、先生の篤学なる、我国の農政に関する多くの書籍及び記録等を読破された結果、更に農村の実際生活にも親しく触れる機会があったので、国法において厳しく制禁されいるにも拘らず、巫覡の潜勢力が根強く農村の間に喰い入っている事を、耳聞目睹せられた為めに、遂に此の論文を発表せらるるに至ったのであろうと思う。
而して更に柳田先生は、大正二年三月に雑誌「郷土研究」を発行され、第一巻第一号より「巫女考」と題せる研究を連載され、これは同巻第十二号にまで及んだ(同誌上には川村杳樹の匿名になっている)。此の「巫女考」は、柳田先生の多年の蘊蓄を傾倒されたものであって、巫女を中心として、或は原始神道の立場から、或は民俗学的の方面から、更に民間信仰の観点から、縦横にこれが考覈を試みられ、而して我が国民史、及び文化史上における、巫女の地位と、使命と、消長とを、明確に論断された。而して柳田先生は更にすすんで、巫女に深甚の関係を有していた「毛坊主」に就いて、同じ「郷土研究」の第二巻において、前後十一回の研究を連載され、猶お此の外に、同誌において巫覡関係の論文として幾多の有益なる研究を発表されているが、就中、一言主考(第四巻第一号)、和泉式部(同上四号)、老女化石譚(同上五六両号連載)、玉依姫考(同上十二号)等は、悉く前人未発の卓説であって、巫女研究のエポックメーキングとして、永久に我国の巫女史学の権威たるを失わぬのである。私の此の日本巫女史の如きも、専ら柳田先生の研究に刺激され啓発されたもので、平たく言えば、先生の研究が余りに高遠であり、且つ論旨が余りに深長であるので、それを平易に祖述したに外ならぬのである。
柳田先生によって提唱された巫女の研究、及び巫女と同じ運命に置かれた特種階級の賤民の考覈は、深く学界の注意を惹起し、大正八年一月に喜田貞吉氏が「民族と歴史」(後に社会史研究と改題す)を発行して、更に此の種の研究を鼓吹し、殊に巫覡関係の論文にあっては「憑物研究号」(第八巻第一号)を始めとして、有益なる多くの研究や史料が掲載されている。而して此の種の研究は、大正八九年頃より昭和の現時に至るに及んで、益々その程度を深め、遂に一種の学風をなして天下を風靡し、好学の士を起たして、此の種の単行本や雑誌が到るところで刊行されるまでの機運を作るに至った。先ず単行本としては柳田先生の「石神問答」、郷土研究社の「炉辺叢書」及び「第二叢書」、温故書房の「閑話叢書」及び「共古随筆」、総葉社の「日本民俗志」、甲陽堂の「民俗叢書」等を重なるものとして、故山路愛山氏の「神道論」(愛山講演集第二篇所収)、鳥居龍蔵氏の「日本周囲民俗の原始宗教」及び「人類学上より観たる我が上代の文化」など、到底ここには書名だけでも記せぬほどの刊行を見るに至った。而して直接巫女史学には関係せざるも、又以てこれが参考とすべきものには、津田左右吉氏の「古事記及び日本書紀の新研究」及び「神代史の研究」折口信夫氏の「日本文学の発生」(日本文学講座所載、及び「古代研究」所収)、土居光知氏の「文学序説」、武田祐吉氏の「神と神を祭る者との文学」、土田杏村氏の「文学の発生」、加藤咄堂氏の「日本宗教風俗史」及び「民間信仰史」等其他がある。更に雑誌にあっては、柳田先生の監修せられた「民族」竝びに折口信夫氏が編輯された「土俗と伝説」を始めとし、京都で発行された「郷土趣味」及び浜松市で発行された「土のいろ」など、これも誌名を挙げるだけでも容易ならぬほど多く存している。猶お、参考論文としては、内藤虎次郎氏の「卑弥呼考」(芸文所載)羽田享氏の「北方民族に於ける巫女に就いて」(芸文所載)、狩野直喜氏の「支那上代の巫、巫咸に就いて」、同じく「説巫補遺」、「続説巫補遺」、及び「支那古代祭尸の風俗に就いて」(以上は哲学研究、芸文等に掲載されたものであるが、後に編輯されて「支那学文叢」に収められた)等が、その重なるものである。
更に巫女史学の素材ともいうべき資料を載せた各地の神社誌及び地誌類にあっては、古く江戸期に編纂されて、明治期に復刻されたもの、新に明治期において編纂されたもの、即ち各種の神社由緒記、国誌、府誌、県誌(又は史)、郡誌(同上)、町村誌(同上)及び名所記、案内記等に至っては、私が読んだだけでも、約七百種の多数に達している。勿論、是等の神社誌や地誌類の悉くに必ず巫女資料が載せてあるというのではないが、是等の書籍から、かなり多くの資料を抽出することが出来るのである。而して是等の書名は如何にするもここに列挙することが出来ぬので、本文に引用した際には、一々註を加えて出典を明白にするとした。
我国内地の巫女史学の研究にとって、重要なる参考史料となるべきものは、琉球のノロ及びユタと、アイヌのツスの考覈である。而して前者にあっては、伊波普猷氏の「古琉球」、「古琉球の政治」、「沖縄女性史」及び「民族」に掲載された三四の論文と、故佐喜真興英氏の「女人政治考」、外に折口信夫氏の「琉球の神道」(世界聖典全集本所収及び「古代研究」所収)及び「続琉球神道記」(炉辺叢書本「山原の土俗」所載)等があり、後者にあっては金田一京助氏の「アイヌの研究」及び「郷土研究」「東亞の光」「民族」等に掲載された多くの研究がある。猶お附言することは、我国の巫女史学と直接間接に交渉を有しているシベリヤ、満州、朝鮮などの巫女史学の沿革、及び新聞紙の掲載された此の種の史料は、一々ここに記述することを省略して、その機会のある毎に記述することとした。 
 
第四章 巫女史の材料と其採集方法

 

第一節 巫女の遺跡的材料
一 集団生活地たる巫女村
江戸期に編纂された地誌類を繙くと、各地に巫女村(ミコムラ)と称する部落の存したことが載せてある。就中、信濃国小県郡禰津村には、四十八戸の巫女の親分ともいうべき者が家を並べて住んでいた。俚称は此の所をノノウ小路と呼んでいた。紀伊国西牟婁郡田辺町にも巫女が多く、近郊の西ノ谷字中西の下から西へ十五六軒、港村字小泉、三栖村字岡、万呂村(以上同郡)などを数えると、四十軒以上も在ったという。壱岐国などでも、あの猫の額ほどのところで、イチジョウと称する巫女が、四十八竃あったと称している。更に大阪天王寺の巫女町(ミコマチ)や、東京亀井戸の巫女町なども、共に軒を並べて営業していたのである。こうして、巫女が集団的に生活を営んでいたことに就いては、段々と説明すべき理由も存しているが、それは後の機会に譲るとして、兎に角にかく密集していた土地は、先ず遺跡として、巫女に関する幾多の材料が残されているのである。  
二 巫女が開拓した村落
漂泊を続けて来た巫女が、その生活に倦怠を感じ、背に負いたる笈を、神箱に托して土に下ろして、芝を起し、草分けとなった村落もある。更に、巫女が開墾したので、その土地を神子垣内(ミコカイト)と称する地方もあり、巫女の居所をイタコ屋敷と云う土地もあり、巫女が呪術を行うた場所を神子塚(ミコヅカ)と称して保存した地方もあり、此の外に、巫女を人身御供として水底に葬った場所とか、巫女が行路に死をを遂げて祟りをするので塚を築いたとかいう種のものも、各地に渉って相当に存している。而して是等の一々が巫女史の材料として相当に役立っている事は言う迄もない。 
三 巫女関係の神社と寺院
巫女の最初は神それ自身であり、降って神と人との間に立つ霊媒者となったが、何れにしても、巫女が神性を多分に有していたことは明白である。従って、これ等の巫女が、或は神妻として、又は神母として、神に祭られ、社に斎かれるのは少しも不思議はない。各地に残っている神子神(ミコカミ)、または姥神(ウバカミ)なるものは、概して巫女関係のものである。而して、巫道が仏教と習合して、巫女が比丘尼と呼ばれるようになり、呪具に珠数を用いるようになれば、自然と寺院に関係を有つようになるのは当然である。殊に、その以前から、社僧と称する者が、神前において読経するほどに神仏が混糅し、神宮寺が名神大社を支配するように神仏が合一され、法師巫(ホウシミコ)という両性的の呪術者さえ出しているのであるから、巫女と寺院の交渉も、又少しも不思議ではないのである。而して是等の遺跡が、多少とも巫女史の材料を提供することは勿論である。 
四 巫女の化石伝説
我国には巫女が化石したという伝説が各地にあって、然もその化石なるものが、今に残っている。巫女が多く化石したという伝説を生むに至った理由に就いては、後段に詳述する機会もあろうと思うので、ここには略すが、猶お化石せぬまでも、巫女石(ミコイシ)と称するものも、各地にある。これ等の怪石譚は、元より伝説であるから、巫女史の材料としては、必ずしも信用すべき限りではないが、併しながら、是等の伝説を生んだ時代の、民間信仰なり、又は民族心理なりを察知する上において、相当の役割を勤めている。これ私が、伝説だからとて無下に棄て去らず、好んで材料として採用した所以である。 
第二節 巫女の遺物的材料

 

巫女の遺物的材料も、猶お左の項に分けて記述することが出来る。
一 巫女の使用した遺物
巫女が使用した呪具には、その師承の流儀によって種々なる物があるも、就中、外法箱(ゲホウバコ)、弓、珠数等を挙げることが出来る。外法箱(壱岐の巫女が用いる此の種の物をユリと称しているが、これは我国の古き面影を残したものである)の大小とか、製作の精粗とかいうことは、その流儀により、階級によるもので、学問的には、元より価値の尠いものであるが、此の箱の中に納めた呪神に就いては、相当に考慮を要すべき幾多の問題が伴っている。弓は、巫女の一名が梓巫女(アヅサミコ)と言われる程であるから、梓弓を最も古いものとし、桑ノ弓、南天ノ弓、竹ノ弓など六種あると伝えられている。一般には竹ノ弓が用いられていたが、その弓も、巫女の俚称に、大弓、小弓とある如く、二三尺ほどの物もあれば、六尺二分のもあり、更に壱岐の巫女は、八尺のを用いたとある。弦は婦人の髪の毛を麻へ撚り合せたものを用いたと云われ、撥は柳の木を一本用いるのと、竹の棒を二本用いるのとの別はあるが、学問的には深い意義がないので略述する。珠数には、東北地方のイタコが専用したイラタカの珠数と称したものと、江戸の田村八太夫とて、関八州及び甲信奥の一部の巫女の取締をしていた者の流儀に属する巫女の用いた切り珠数との二種ある。これは呪具としても、遺物としても、相当に価値あるもので、その詳細は後段に記述するが、是等の遺物が直ちに巫女史の材料であることは言うまでもない。
二 巫女に関する墓碑
琉球の祝女(ノロ)が死ぬと、その葬儀にも、墓地にも、更に埋葬の方法にも、常人と異るものがあると、記録に見えているが、内地にあっては、斯かる区別はないようであるが、私の乏しき知識からいうと、巫女の墓碑は、その形式において、更にこれに彫刻してある戒名において、少しく常人と異るところが存している。これ等は材料としても量が少く、質も亦余りに価値あるものとは思わぬけれども、多少とも参考となるものがあるので敢て採用した。
三 巫女の呪言を留めたレコード
明治期に人情噺の大家として聞えた故三遊亭円右は、よく「とろろん」と題せる落語を高座で演じたものである。此の噺のうちには、巫女の神降し文句が、巫女独特の調律(リズム)で述べられるので、私のように巫女に興味を有していた者にとっては、相当に趣きの深いものであった。然るに円右が殁し、落語が衰えるようになってから、これを演ずる者も無くなってしまい、今では全く泯びてしまったものと思うと、少しく残り惜しいような気がする。
信州に巫女の流行した時代の老人から聞くと、巫女が調律的(リズミカル)に唱える呪言は、恰も今日の浪花節のように面白く、愉快に耳に響いたものであると言っている。殊に同地方の巫女は、概して年若の美人であって、旁ら売笑を兼ねていた位であるから、嬌音を滑かに朱唇より漏らすところ、かなり若人(わこうど)の意馬を狂わせたものらしい。更に常陸の持方で聞いた話によると、巫女の呪言は明治初期の軍歌を聴くようで、誠に勇壮であったと云うている。巫女の呪言の文句も、調律も、その流儀により、元より一様ではないが、兎に角に斯うした声調も段々と聴くことの出来なくなったところへ、富士松加賀太夫が、富士松節(俗に新内節という)で東海道膝栗毛の「日坂宿巫女の神降しの段」の一節を蓄音器のレコードに吹き込んで残してくれたことは仕合せであった。加賀太夫の節調は、私の耳聞したものとは趣きを異にし、聴く人を夢の中に誘い込むような眠むたいものであるが、併しそれが故円右のものとやや同じ調子であることを知る時、江戸を中心として行われた巫女の呪言の節調(勿論長い間に多少とも詰り歪(ゆが)められてはいようが)であったことが察知されるのである。  
第三節 巫女の記録的材料

 

巫女史学に関する史料に就いては、前章において略述したが、ここには更に補足として、記録の材料に関して述べるとする。
一 直接的と間接的との材料
独り巫女史に限ったことではないが、史学の記録には、直接的のものと、間接的のものとが存している。これを巫女史に就いて考えて見るも、(一)直接的のものとしては、前記の巫女関係の記録は言うまでもなく、更に雑誌にあっても「人類学雑誌」や「風俗書報」や、その他「郷土研究」や、「歴史と民族」や、「民族」などに掲載されたものの中には、かなり多数の材料が存している。(二)間接的のものにあっては、古くは令義解や集解に収めてある巫覡に関する法令、及び歴代の是等に対する取締の条文などを始めとし、新しいものでは西村真次氏の「万葉集の文化的研究」中の土俗学的考察と題する一章や、武田祐吉氏の「神と神を祭る者との文学」や、坂野健氏の「記紀時代歌謡の呪的宗教的要素に就て」や、更に加藤玄智中村古峡氏共著の「予言者と憑依」や、南方熊楠氏の「詛言に就いて」などは、又相当に材料が載せてある。私は以上の直接間接の材料を按排して、本史の骨子を組み立てたのであるが、此の点に関しては、深く先輩の研究に敬意を払う者である。 
二 巫女に関する新聞記事
新聞の記事は、日々の社会現象を報道するにとどまるものであって、それが直ちに、学問の資料として幾何の価値を有しているかに就いては、異論もあることと思うが、私が本史に引用した新聞記事は、その性質において、単純なる報道記事とは多少とも趣を異にしているものと考えたので、私は何の躊躇もなく(勿論その内容を厳重に批判して)これを採用することとした。
新聞は概して日刊であるだけに、雑誌に比較すると、紙面が多いので、かなり詳細に、委曲に、幾日かに亘って、連載する便宜を有している。記事が学問的で無い欠点はあるけれども、眼前の事象を書くものゆえ、作為の加わらぬところに長所がある。主要記録とはならぬまでも、補助記録として重要なものがある。私が採用した「都新聞」連載の「巫女の話」や、更に「長野新聞」連載の「巫女の話」などは、これ以外には殆ど絶対的に知ることの出来ぬ内容が盛られているので、実に尊むべき記録であると信じている。 
三 学友から集めた資料
これは私が今回試みて見た一種の便法であって、自分ながら、やや非学術的である事は承知していたが、材料の不足を補うためと、広く各地の状態を知りたいと思うて、余儀なく此の窮策に出た次第である。私は敢て弁解をするのではないが、巫女に関しては、長い年月を要して絶えず材料を集めていたが、遂に思う十分の一も集めることが出来なかった。
併しこれは、その集まらぬのが当然であって、集めようとした私に無理のあることを自覚した。従来の文献学者の弊は、何事でも書物さえ見れば釈然するという、誤った態度である。換言すれば、書物に書いてない事は、悉く信用出来ぬという、書物万能論であり、文献過重主義の短見である。実は、私も此の僻見に捉われていて、巫女に関することも、書物さえ読めば判明するものと盲信して、自ら老体に鞭うちつつ、日頃手から書物を釈く閑も無いほどに読みつづけて来たのであるが、さて、その結果は如何であったかと云うと、巫女の地方称すら、完全に集め得ぬという結果であった。私は自分の態度の誤っていることに、遅まきながら気が付いたので、各地方に現存している巫女の材料を集めようと企てたが、併し私には、マルコポーロや、弘法大師ほどの大旅行家たる資格はなく、よし資格があったとしても、一々実地に就いて調査する事など行われぬことと考えたので、余儀なく各地に在る未見及び曾識の学友に訴えて、
一、貴地方では巫女のことを方言で何と云うか。
二、巫女は盲人か晴眼者か、土着の者か漂泊の者か。
三、巫女の神降しの文句、及び呪術の作法。
四、巫女の修業と師匠との関係。
五、民家で巫女を頼むのは如何なる場合か。
六、巫女の生活及び社会的地位。
等の設問を発して、これが報告を煩した次第なのである。
私の此の不躾なる質問に対し、微意のあるところを高諒されてか、多くの未見及び曾識の学友が、多忙の間を割いて詳細なる報告を寄せられたことは、私として寔に感謝に堪えぬ次第である。就中、磐城国石城郡上遠野村の上遠野小学校長佐坂通孝氏は、大正十五年の初夏五月というに、私のために三里余もある山路を二度までも巫女を訪ねて、貴重なる材料を恵与された。信州上田中学に在職中の角田千里氏は、同じく私のために数里を隔てた小県郡禰津村まで出張されて、委曲を尽した報告を二回まで恵投された。そして筑前国嘉穂郡宮野村の桑野辰夫氏は、数回に及んで巫女を尋ね、私としては到底手に入れることの出来ぬ有益なる材料を恵送された。私は唯々、感涙に唳ぶより外に御礼の言葉も無いのである。
併しながら、友情と学問とは、全然区別しなければならぬ。学友から寄せられた報告であっても、それが学術的で無いと信じたものは、断乎として排拒するに吝なるものではない。好意に反くの罪は大なるも、学問のためには代えられぬので、私としては材料を批判し、厳選するに就いて、充分の注意を払ったことは勿論である。此の点に関しては、遍えに学友各位の賢諒を冀う次第である。 
第四節 巫女に関する慣習的材料

 

巫女の慣習に関しては、これを三つに区別して見ることが出来る。(一)巫女自身に関すものと、(二)同じく巫女の性的方面のものと、(三)巫女に対する社会とのそれである。私は此の観点から、これに就いて記述する。 
一 巫女自身に関する慣習
巫女は代々母子相続——即ち母系相続を以て原則とし、必らず血液の継承を基調としたのであるが、此の慣習は夙く泯びて、後には師匠・弟子の関係で相続するように変遷した。これには又、相当の社会的事情が存しているのであるが、それより更に考えて見なければならぬ問題は、古く巫女は晴眼者であったのが、中世からは盲女が多きを占めるようになり、殊に東北地方にあっては、巫女は盲女に限るという慣習を生んだことである。由来、感受性に富み、神経的(ヒステリカル)な性情を多分に有している女性が、男性に比して霊媒者たる可能性を有っていることは言うまでもないが、それを盲女が好んで営むようになったのは、(一)盲人なるが故に、雑念を去り、精神を統一するに一段と都合が宜かったこと、(二)婦人——殊に盲女の職業が乏しかったこと、(三)師匠と云わるる者が、後継者として、幼き盲女を養子として迎えた(実際は人身売買的に買入れたのも多いらしい)ことなどが、此の慣習を根強くしたのと思われる。中世以降は、婦人の職業といえば、晴眼者なれば、売笑婦となるか、下婢となるか、その以外には無かったとも云えるのである。盲女にあっては、音楽が普及されず、按摩導引の道が開けていなかったので、こうした営みをするより外に致し方がなかったので、遂に是等の事情が歩み寄って此の慣習となったのである。 
二 巫女の性的方面の慣習
巫女は神と結婚すべき約束があったので、人間である男子を夫とすることは許されていなかった。従って独身を原則とし、桂馬式(この事に就いては本文に詳述する)に、姪を以て相続させるのを慣習とする時代さえあった。ここに巫女の性的方面における幾多の民俗学的の慣習が生じたのである。而して神寵の衰えた巫女や、神戒に反いた巫女が堕落して、所謂巫娼なるものに変ったのは、彼等としては当然すぎるほどの帰結であらねばならぬ。殊に、若い女性が、減退した古い信仰を言い立てて、漂泊の旅を重ねているのであるから、男性の方から誘う水がなくとも、彼等の方から謎をかけなければならぬほどの、物質上または肉体上の要求があったかも知れぬ。僧無住の「沙石集」に、熊野巫女が山中で山伏に会うて不浄をなし、巫女は鼓を鼕々と打ち鳴らして「再びかかる目に遇はせ給え」と神を念じたとある光景は、或は随所に行われた茶飯事に過ぎなかったであろう。平田篤胤翁が此の種の材料を蒐集して著した「古今妖魅考」などを読むと、私が斯ういうことの決して誇張でないことが知られるのである。巫女が「旅女郎」の俚称を負うたのも、強ち冤罪とばかりは言えぬのである。 
三 社会の巫女に対する慣習
巫女は一般社会から恐れられてはいたが、決して親しまれたり、愛せられたりしてはいなかった。而してその理由は三つ挙げる事が出来る。
第一は、巫女は神に仕えているために、自由に神を駆使するものとして、換言すれば、犬神(イヌガミ)なり、管狐(クダキツネ)(これ等の詳細は本文に述べる)なりを、思うがままに他人に依憑せしむることが出来るもの、更に換言すれば、巫蠱の厭魅を行うものとして恐れられた。
第二は漂泊者なる故を以て恐れられた。昔の世間は旅の者には油断をしなかった。何処の馬の骨だか知れぬと云う者に対しては、常に警戒と疑惑の眼で見るのであった。又実際に旅の者は何をするか知れたものではなかったのである。村民の多数の生命を奪うような悪疫も、概して旅の者が持込んだものである。平和な村人の心持を不安に陥れるような蜚語も、多くは旅の者が齎らしたものである。これでは田舎わたらいする巫女が恐れられたのも無理からぬことである。それでは巫女も漂泊をやめて、早く土着したら宜かろうというに、これには又そうさせぬ事情が潜んでいたのである。それは古い俚諺に「他国坊主に国侍」とあるように、霊界の仕事に従う者は、余りに素性が知れていたのでは有難味が薄い。ツイ二三年前まで青鼻汁(あおばな)たらして子守りしていた少女が、僅かの修業で巫女になったというても、それでは世間の人が信頼してくれぬ。理窟では承認しても感情が許容せぬ。少しく比喩が大き過ぎて、鰯の譬に鯨を出すようであるが、予言者が故郷に容れられぬのも、此の理由に過ぎぬのである。而して此の理由は巫女の身の上にも移して言うことが出来るので、彼等が他国人として嫌われ、漂泊者として疎(うとま)れながらも、猶その生活を続けて来た所以である。
第三の理由は、巫女は病毒の伝播者たる故であった。即ち悪種の性病の持主として恐れられたのである。出雲の巫女お国に関係した結城秀康が、狂死したという史実が雄弁に総てを物語っている。古川柳に「竹笠を被り×××を寄せるなり」とあるのは、巫女の性的方面を喝破したものである。
以上の三つの理由を主たるものとし、これに幾多の従たる理由が加って、遂に巫女を趁うて特種階級の賤民とまで沈落させたのである。猶お巫女の慣習に就いては、民俗学的に記すべき問題が残されているが、それは本文において機会のある毎に述べるとして今は省筆する。

第五章 巫女史の補助学科と其態度

 

日本巫女史が日本文化史の一文科である以上は、文化史の研究に必要なる幾多の補助学科の力に俟つべきは当然のことである。然らば巫女史には如何なる補助学科を必要とするかと云うに、これは文化史に必要とするものは悉く必要であると云うのが、尤も要領を得ているのであるが、併し物には軽重の差があり、濃淡の別があるものゆえ、総ての補助学科のうちでも、特に巫女史に深甚の関係を有しているもののみを挙げるとする。
第一 言語学
言語学者の言うところによると、我国に曾て行われ、又は現に行われている言語には、四十余国の外来語が存していて、その重なるものとして、朝鮮語、アイヌ語、支那語、梵語(サンスクリット)、南洋語等を数えることが出来るとのことである。私は元より専門の言語学者でないから、果して我が国語中に是等多数の外来語が存しているか否かを批判すべき知識を有していないが、巫女史に関する言語だけでも、アイヌ語、朝鮮語、及び北方民族系の言語、支那語、梵語等の在ることだけは確実だと云えるのである。従って、巫女史の完全を期するには、これだけの言語学の補助を俟たねばならぬことは当然である。然るに、巫女史に出て来る国語なるものは、純粋なる我が国語にあっても、その多くが古代において行われた死語か、それでなければ巫女という特種の階級に用いられた術語(テクニカル・ターム)であるために、一般の辞書だけでは明白にならぬものすらある。
そこで私は、世上にも有り触れている「和名抄」、「伊呂波字類抄」、「下学集」や、更に「和訓栞」、「雅語集覧」、「俚諺集覧」、「物類称呼」等の辞書や、言語学関係の三四の書籍以外に、特種の方法を用いたのである。而して、その方法なるものは、朝鮮語及び北方民族系の言語は、曩に早稲田大学に留学していた朝鮮出身の洪赫純氏を煩わし、アイヌ語はジョン・バチェラー氏の「アイヌ辞典」の外に、幸い私はアイヌ語の権威である金田一京助氏の知遇を永く辱しているので、同氏著の「アイヌ研究」を始めとして、各種の雑誌で発表された諸論文を拝見し、それでも猶お十分でないと思った時は、親しく同氏に会って一々に就き面授を得た。支那語は上田万年松井簡治両氏著の「大日本国語辞典」及び白鳥庫吉金沢庄三郎外数氏の共著にかかる「外来語辞典」に依拠し、梵語は織田得能氏の「仏教大辞典」に遵い、及ばぬところは梵語専攻の学友である池田澄達氏の教えを仰いだ。而して国語中の方言に関しては、柳田国男先生の深遠なる高示を受け、古語に就いては、多年学恩を蒙っている古代民俗学及び古代語研究の天才である折口信夫氏の造詣を拝借することとした。更に内地の巫女の古い世相や制度を、そのまま克明に保存している琉球の祝女(ノロ)及びユタ等を知るためには、同地の出身で琉球語の最高権威である伊波普猷氏の恩誼を受けているので、関係書物の外に親しく同氏から高教に接したのである。
第二 古文書学
古文書学が、史学の根本史料を考覈する上に欠くべからざる補助学科であることは言うまでもないが、此の意味で巫女史にも深い交渉を有しているのである。全体、巫女の呪言とか作法とかに関する古文書は極めて尠いのである。これは巫女自身が概して無学であったのと、口伝を尚んでいたために、文書に認めることを避けた結果である。然るに、これに反して、巫女を取締った官憲の方面、及び巫女の奉仕した神社方面には、かなり多くの古文書が残されている。是等の一々に就いて、真偽を確め、文辞を解釈し、内容を検討するには、如何にしても古文書学の力に由らなければならぬのである。そこで私は久米邦武氏の「古文書学講義」を基調とし、更に星野恒氏の「古文書類纂」、黒坂勝美氏の「徴古文書」、瀧川政次郎氏の「法制史料古文書類纂」等を参考とし、自分の知識で解釈の出来ぬものに就いては、幸い瀧川政次郎氏の雅交を給っているので、一々同氏から高示を仰ぐとした。猶お此の機会に同じ巫女史の補助学科である歴史地理学、系譜学等に就いて言うべきであるが、これは左迄に取り立てて記すべきほどの事もないので、今は省略した。
第三 考古学
先年、上野国佐波郡赤堀村大字下触から、腰部に鈴鏡を提(さ)げた女子の埴輪土偶が発掘されたことがある。而して此の土偶は、上代の巫女なるべしというのが、学界の定説となった。単に此の一事だけでも巫女史の補助学科として考古学が重要なる位置を占めていることは明白であるが、更に巫女の有している呪具や装身具に就いては、考古学的の研究によって始めて開明されべきものであり、進んでは巫女の墓地、墓碑等も、又これによって学術上の価値が定まるのでる。私はこれに関しては「考古学雑誌」の各号において必要なる点を抄出し、更に単行本としては、古きは八木奘三郎氏の「日本考古学」、新しいのでは浜田耕作氏の「通論考古学」及び後藤守一氏の「日本考古学」等を参考し、更に高橋健自氏の「銅鉾銅剣の研究」を読んで裨益を受け、猶お不審の点に就いては、多年高橋健自氏の高示を仰いでいる関係から、同氏の面授に接したのである。終りに巫女史は、人類学とも交渉を有しているので、これの補助も俟たねばならぬのであるが、余りに煩瑣になるので、今は省筆する。
第四 民俗学
風俗と慣習を基調として、文化の諸相を研究する民俗学が、巫女史の補助学科として優越なる地位を占めていることは言うまでもない。殊に私は、これが専攻を続けているのであるから、多少とも、その方面に就いては、特殊の考察と、材料とを有している積りであるが、ただ恐れるのは、余りに私の好むところに偏し、巫女民俗史になりはせぬかという点である。即ち補助学科が却って主なる巫女史学を煩わすような結果に陥ることなきを憂えているのである。併し、これに就いては、出来るだけ自制して、当初の目的を達したいと考えている。而してこれが参考書目に関しては、既に史料及び材料の項において尽しているので除筆した。
第五 民間伝承学
これは従来「伝説」又は「口碑」という名でよばれていたもので、厳密なる学問上の分類から云えば、当然、民俗学の一分科として加うべきものであるが、今は記述の便宜のままに独立して取扱うとした。而して民間伝承学が、巫女史の補助学科として、如何なる点に交渉を有しているかというに、それは相当に広い方面に渉っているが、ここに一例を示すと、各地に小野ノ小町または和泉式部(是等は共に巫女を斯く称したので、その事由は本編に述べる)の化粧水という民間伝承が残っている。併しこれを巫女史の立場から見る時は、古く巫女が水を利用して、呪術を行うたことに、由来していることが判然するのである。従って民間伝承学は、巫女史に種々なる寄与をしているのである。而してこれに就いては、古いものでは「日本霊異記」、「今昔物語」、「古今著聞集」などを主なるものとし、新しいものでは故高木敏雄氏の「日本伝説集」、藤沢衛彦氏の「日本伝説叢書」を始め、佐々木喜善氏の「老媼夜譚」及び「炉辺叢書」中の数種を挙げることが出来る。 
 
第六章 日本巫女史の時代区分法

 

日本巫女史を区分するには、(一)時代によってするのと、(二)職掌によってするのと、(三)地方によってするものとの三方法が存している。更に詳しく言えば、(一)は、従来の歴史の区分法により、国初、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治と、各時代分けにする方法である、(二)は、神和系の神子も、口寄系の市子も、元は同根より発生したものであるが、後には職分を異にして、前者は専ら神社に附属して神に仕え、後者は夙に町村に土着して霊媒を営むようになったので、これを標準として区分する方法である。(三)は、内地巫女史、琉球巫女史、アイヌ巫女史と地方によって区分する方法である。併しながら、是等三種の区分法は、巫女史としては、決して適当であるとは考えられぬので、私は全然是等に拠らぬ新しき区分法を採ることとした。即ち主として巫女の行うた呪術を基調として、(一)固有呪法時代、(二)習合呪法時代、(三)退化呪法時代の三期としたのである。  
一、固有呪法時代
建国の当初より応神朝までを斯く称するのである。年表により年代的に云えば、神武帝の即位紀元より、応神帝の四十一年まで、前後九百七十年間を含んでいるのである。而して神武紀元以前の所謂「神代」なるものは、此の時代のうちにおいて併せ記すこととした。
これは誠に曖昧なる区分法であるが、学問的に見れば、神代とは云うものの、それが記録となったのは迥に時代の降った奈良朝のことであるから、多分の追記もあるし、尠少ならぬ修飾もあると信ずるので、神代を固有法時代において記述することは、決して不当とは思われぬからである。且つ後世より上代を見るのであるから、神代は固有法時代の最も純粋なるものとして考覈すべきものと信じたからである。
二、習合呪法時代
仁徳帝の即位紀元(紀元九七三年)から、正親町帝の天正元年(紀元二二三三年)まで、約一千百六十年間を指しているのである。これは応神朝に韓国から儒教が公然と我国に輸入され、これと前後して支那において発達せる陰陽道(五行説及び讖緯説をも含めて斯く云う)も舶載し、更に秦韓両民族の我国に投化する者も年を趁うて多くなり、是等の関係から我が巫女の呪術にも変動を来たし、固有呪法と陰陽道との習合は、案外早くから行われていた。然るに、欽明朝に仏教が公然と百済から輸入され、これが一般に普及されるようになると、今度は固有呪法は仏教の事相と習合することとなり、巫女の呪法は弥が上にも複雑を極めるようになった。而して此の複雑せる呪法は、平安朝頃の国情と相俟って、益々猖んに行われ、鎌倉期に多少の矯正を見たものの、室町期に入るや、遂に当時民間に勢力を有していた修験道と抱合して愈々迷信を鼓吹し、社会を荼毒すること実に眼を掩うばかりになった。
三、退化呪法時代
正親町帝の天正二年(紀元二二三四年)から昭和帝の昭和四年(紀元二五八九年)まで 前後三百五十五年間を含めたものである。天正二年を退化呪法の初期とした事は、別段に巫女史上重大な意義がある訳ではないのであるが、恰も織田信長が天下に号令せんとする勢力をなし、我が国情も之を境として一変して、やがて江戸期三百年の泰平を致さんとする前提となっていたので、姑らくこれに時期を劃したに過ぎぬのであって、寧ろ江戸期の初葉を以てする方が穏当であったかも知れぬ。併し関東の実際上の巫女頭とも云うべき望月千代女が、武田信玄より朱印状を得たのは、永禄年中の事であるから、江戸期まで引き下げられぬ事情もあるので、斯く区分したのである。而して更に一言附記すべき事は、我国の巫女は明治六年の教部省の禁止令によって一切勦絶され、此の種の業態の者は世に存せぬ事になっているので、それ以後の大正・昭和まで此の時代に含める事は、頗る失当の嫌いがあるように解されるが、巫女の実際は、此の禁止令から逭れて、名を宗派神道の教師と変えたまでで、今にその業態を営んでいる者がある。それ故に姑らく明治以降までかけた次第なのである。
以上の区分は、自分ながらも、余りに常識的であって、非学問的だと知らぬ訳ではないが、さればと言って、普通の日本歴史に依拠して、細かに時代分けとした所が、その時代に相当する史料において欠けるものがあるので、今は暫定的に此の区分に従うこととした。他日、更に豊富なる史料を加えることが出来て、本書も増補改訂する機会があったら、又その折に区分方法を改めるに躊躇するもので無いことを附記して総論を終るとする。 
 
第一篇 固有呪法時代

 

第一章 原始神道に於ける巫女の位置
第一節 我国に於ける神の発生と巫女
我々日本人の遠い祖先達が、始めて発見した神の相(すがた)(超自然的の力と云おうか、非人格的の力と云おうか、神と云うには相当の距離のあるもの)は、それは疑いもなく魔(デーモン)であった。而してその第一は病魔であった。「古事記」に冊尊が火之迦具土神を産んだ為めに「美蕃登炙(ミホトヤカ)えて病臥(ヤミコヤ)せり」とあるのがそれであって〔一〕、「日本書紀」の一書に同じ事象を記して「伊弉冉神、軻遇突智を生ましむとしたまふ時に、悶熱懊悩(アツカヒナヤム)、因て吐(クグリ)したまふ、此れ神と化為(ナ)りましつ、名を金山彦といふ。次に小便(ユマリ)したまふ、神と化為(ナ)りましつ、名を罔象女(ミヅハノメ)といふ。次に大便(クソ)まりたまふ、神と化為りましつ、名を植山姫といふ」とあり〔二〕、是等の神々は、冊尊が病魔に悩された為めに成りました魔(デーモン)であった〔三〕。
而して其の第二は、死魔であった。「古事記」に、諾尊が冊尊の後を追うて黄泉(よみ)に往き、冊尊の神避りし屍体を見ると、「蛆集(ウジタカ)れ蘯(トロロ)ぎて、御頭には大雷居り、御胸には火雷居り、御腹には黒雷居り、御陰には拆雷居り、左の御手には若雷居り、右の御手には土雷居り、左の御足には鳴雷居り、右の御足には伏雷居り、併せて八の雷神成り居りき」とある。而してここに雷とあるのは蛇の意であって〔四〕、即ち蛇の如き形した汚き蛆の居るを言うたのである。而して此の死魔に驚いて諾尊が逃げ還える折に、冊尊が追わしめた黄泉醜女(ヨモツシコメ)が魔(デーモン)であることは言うまでもない。
魔を発見した古代人は、直ちにこれを払うべき呪術を併せて発見した。即ち冊尊を死に導いた火ノ神を払うべく、水ノ神と土ノ神を生み〔五〕、更に諾尊が黄泉醜女——即ち魔(デーモン)に追われる途上に於ける状態を「古事記」は記して、
爾(カレ)、伊邪那岐命、黒御鬘を取て投棄てたまひしかば、乃ち蒲子生(エビカツラノミナ)りき。是を摭(ヒリ)ひ食む間に逃行でますを、猶追ひしかば、亦其の右の御角髪(ミミヅラ)に刺せる湯津々間櫛を引闕(ヒキカ)きて、投棄てたまひしかば、乃ち筍生(タカムナ)りき。是を抜き食む間に逃行でましき。且後には、其の八の雷神に、千五百の黄泉軍を副へて、追はしめき。爾(カレ)、御佩(ミハカ)せる十拳剣(トツカノツルギ)を抜きて、後手(シリヘデ)に揮(フ)きつつ逃げ来ませるを、猶追ひて、黄泉比良坂の坂本に到る時に、其の坂本なる桃子(モモノミ)三個取りて、御撃ちたまひしかば、悉に逃げ返りき(中略)。最後に其の妹伊邪那美命、身自ら追来ましき。爾(スナハ)ち、千引石を其の黄泉比良坂に引塞へて、其の石を中に置きて、各対立して、事戸を度す(中略)。其の黄泉坂に塞(サヤ)れり石は、道反大神とも号し、塞坐黄泉戸大神とも謂(マヲ)す。
とある如く、魔(デーモン)を払う呪術として、鬘、櫛、剣、桃、石の五つが、それに当てられたのである。
而して此の記事は、種々な暗示を投じているが、その第一は、我国における原始的神聖観念(まだ宗教とか神道とかいう段階に達せぬ)とも見るべきものであって、魔に対する呪術の発生を説くものとして注意すべきである〔六〕。
第二、此の記事に現われた諾尊の位置は、宗教学的又は民族心理学的に言えば、全くの呪術師としての仕事をなされた結果となっているのである。
第三は、その呪術師の投げ棄てた物のうちで、鬘より蒲子、櫛より筍、及び桃と、三つまで人類の食料となるべきものが含まれていることである。これは我国の原始時代が未だ農耕期に入らずして、野に山に食料を蒐めた奪略生存時代であることを知ると同時に、呪術師の第一の仕事が食料を齎らすことにあったことが知られるのである。
第四、是等の食料に対して、一種の霊のあることを認めていたのは、当時の万物有霊(アニミズム)の思想を表わしているのである。是等は元より神話のことであるから、直ちにこれを以て人類生活の状態と見ることは出来ぬけれども、由来、神話なるものは、その習慣なり、民俗なりが存していたので構成されるものであって、神話の機構から習慣や民俗が生れぬことを知るとき、此の神話中に太古の人類生活の状態が濃厚に反映していることが認められるのである。
こうした最初の発見の魔(デーモン)は、一面社会的であると同時に、一面個人的のものであった。而して前者の社会的魔は山や河に潜む魔になり、更に森や野に、又は時として空中に迷い、地下に潜む魔となった。そして後者の個人的魔は死体より出ずる魔、病気を起す魔となったのである。けれども、魔は個性を有せず、類型的であるために、後には雑糅されて、魔から幽霊へ、更に幽霊から霊魂へと過程して、遂に精霊なるものとなって信仰されるようになった。即ちこれが古有霊(プレアニミズム)から精霊(スピリット)への発見の過程である。
併しながら、魔と云い、霊魂と云い、精霊と云うも、所詮は眼に見ることの出来ぬものに対する心の力である。此の心の力の動きは即ち宗教的感情そのものであらねばならぬ。而して古代人は、人は各一つの霊魂を有し、その霊魂は或は身体と共に存し(ヴントはこれを一般的身体魂(アルケツスイネ・ケルベルビール)といっている)、又は一時的に身体から去り、離れた所に現れると信じられ、この思想を拡大して行って、土地や、動物や、植物まで、霊魂を有すると考え、更に死によって、霊魂と身体とが永久的に分離する所に、精霊が生ずるのであると信じた。或はこれを価値批判の立場から、精霊の崇高なるものは、土地や、山海や、河川の精霊であって、その最も簡単なるものは、人間や、動物の精霊であって、元の肉体から分離したものであると考えた。精霊は外の生物の中に入って住む事が出来るが、その肉体に属するものとして入っているのではない。実際、霊魂は体と分離し得るとしても、それは生きているうちは、睡眠中における夢の如く一時的のものか、それでなければ死んだ場合に限られるとしていた。こうした思想から導かれて、我国の古代人の世界観は、無数の霊魂と精霊——即ち体を離れた霊魂によって満たされているものと信じていたのである。
然るに我々の遠い祖先である日本人は、魔(デーモン)を発見する以前——若しくは同時に、一種の神聖観念である神秘的の力の信念とも云うべきものを有していた。そしてこれを「いつ」(稜威、厳)という語で現わしていた。而して此の「いつ」の観念は、我国の原始時代の神聖観念の源泉であり、基調であって、神を発見する以前にあっては、専ら此の観念が活いたもので、最近の宗教学、民俗学・乃至社会学者の間において、深甚の研究と、多大の興味を維がれている彼のメラネシヤ民俗の有するマナ(mana)又はイロクオア人(アメリカ・インディアンの一部族)の有するオレンダ(Orenda)、又は支那の「精」(Tsing)(精は気(Khi)の中に示現して、生物を発生せしめる意)と同じようなものを有していた〔七〕。
而して此の「いつ」の我国の用法及び観念は、漢書の註に「神霊之威曰稜」と同じく〔八〕、語源は倭訓栞に「いつ、神代紀に稜威をよみ、皇代紀に厳をよめり、気出(イツ)の義なるべし」とある如く、これが神秘力(ミスティック・パワー)となって、稲の精霊を厳稲魂女(イツノウカノメ)と云い、呪詛することを巌呪詛(イツノカジリ)と云い、呪力を有する武器を稜威之高鞆(イツノタカトモ)と云い、天皇の御大言を厳勅(イツノクシキミコトノリ)と云い、国家の大典を憲法(イツクシキノリ)と云い。更に祭具を厳瓮(イツベ)と云い、斎主を厳媛(イツヒメ)と云い、これより転じて斎きとなり、厳忌(イチハヤシ)となるなど、我国古代の、神聖とか、神秘とか、霊験とか、威厳とかいうべき思想は、悉く此の「いつ」の語によって表現されているのである。従って、我国上代の生命の本質は、実に此の「いつ」の観念に存していたのである。而して此の神聖観念は、精霊観念と或は併行し、或は抱合して、遂に神なるものを発見するまでに進んだのである。
我が日本人が、始めて神を発見したときの神の力は、守護の神霊ともいうべきほどのものであって、個人的の精霊よりは一歩すすめたが、まだ社会的の神とはならなかった。謂わばその中間にある部族を守護する神霊(後の氏神)に過ぎなかったのである。「日本書紀」の一書、諾尊が冊尊と絶妻誓(コトドワタ)しの条に、
盟ひて曰く、族離(ウカラハナ)れなむ、又曰く、族負(ウカラマケ)じ。乃ち唾(ツバ)く時に化為(ナ)る神の号(ミナ)を速玉之男神と曰ふ。次に掃ふ時に化出(ナ)る神の号を泉津事解之男神と云ふ(中略)。其の妹(中山曰。冊尊なり)と泉津平坂に相鬪ふに及びて、伊弉諾尊曰く、始め族(ウカラ)が為めに悲しみ、思哀(シノ)びけることは、是れ吾が怯(ツタナキ)なり。時に泉津守道といふもの白して曰く、言あり(中山曰。冊尊の意を取次ぐもの)曰く、吾れ汝と已に国を生みにき、奈何ぞ更に生まむことを求めんや、吾れ則ちまさに此の国に留まりて、共に去るべからずといふ。是の時に菊理媛神(中山曰、此の神は巫女である。後にやや詳述する)亦白す事あり、伊弉諾尊聞しめして善(ホ)めたまひて、乃ち散去(アラケ)ましぬ。
とある「族離れ」「族負けじ」及び「族の為めに悲しむ」の意は、従来の所謂国学者に解釈させたら、種々なる異説もあることと思うが、神の進化の過程から言えば、それは諾尊が冊尊と絶妻したために部族を離れることであって、冊尊が「吾れまさに此の国に留まりて」とあるのは、即ち冊尊が黄泉の神となられたことを示しているのである。而して此の解釈から、当然導き出されることは、当時の我国の社会組織は、一種の「呪術集団」を以て単位としていたという点である。当時、まだ神という観念が固定せぬので、単なる神聖観念を基調として、専ら同じ呪術を信ずる部族が相集って社会をなし、これが紐帯は同じ祭儀を営み、同じ墳墓を有し、同じ言語と、同じ習慣を有する者のみで組織されていたのである。而して此の精霊から部族の神へ、更に部族の神から社会の神へと聖化し、発展したに就いては、此の神徳を称え広めた巫覡の運動が与って力があったのである。  
〔註一〕「古事記」の国訳は岩波文庫本に拠った。訓み方に多少の疑いもあるが、今は姑らくこれに従う。以下総てこれに同じである。
〔註二〕「日本書紀」の国訳も、同じく岩波文庫本に拠った。ただ私が本書を執筆した際には、「神代巻」だけしか発行されなかったので、それ以下は国史大系本の原文に拠るとした。記事の統一を欠く憾みがあるも致し方がない。
〔註三〕本居翁の「古事記伝」の該条に、詳しく病魔の事が載せてある。猶、この機会に言うて置くが、「古事記」に、諾冊二尊が蛭子を儲けた折に、「天神の命を請い」云々とあるより推して、病魔や死魔以前に、既に神の存したことを説く学者が多いのであるが、私は、此の神は、神話が永く伝承される間に構成されたものだと考えている。
〔註四〕我が古代では蛇と雷は一体であると信じていた。詳細は「郷土趣味」特別号の雷神研究号の拙稿に尽した考えである。
〔註五〕我国では、火の神より、水の神に対する信仰の方が、古くから在ったように思う。火の無い時代は考えられるが、水の無い時代は想像されぬ。これに就いても「郊外」誌上に拙稿を載せたことがある。
〔註六〕こう云うと、如何にも我国には宗教に先って呪術が在った——所謂呪術先行説のように解せられるのであるが、私の知る限りでは、我国に呪術先行を積極的に証示すべき手掛りは、無いように思われる。勿論、私はかかる問題に対しては門外漢であるが、思いついたままを記すとする。
〔註七〕赤松智城氏の「輓近宗教学説の研究」所収下編の「神聖観念論」「宗教と呪法」「マナの観念」等の各篇に拠った。
〔註八〕同上。猶この機会に一言するが、我が古代の霊魂観には、身分の高き者は、その身分に相応した高き霊魂を有しているものと考えていた。即ち稜威(いつ)の活きある者は、その霊魂まで稜威を有していると信じていたのである。  
第二節 我国に於ける巫女の発生

 

我国の原始時代において、神々に対する信仰が先ず生まれ、呪術がこれより後れて生れたかという問題は、一般宗教学または社会学における、宗教先在説と呪術先行論との論議の如く、遽に決定されぬ難問であると同時に、私のような一知半解の者には、到底、企て及ばざるところである。併しながら、我国の古代における神の発生、及び発達の過程に就いて、私の考えたところ、及び知り得たところから言えば、縦しそれが、宗教的意識とか、神道的感情とか言えぬまでも、既述の如く、精霊を信じ、「いつ」を考えていたのであるから、是等の信仰が先ず存して、後に呪術が起ったと見られるのである。換言すれば、我国の古代人は、微弱ながらも、自分より以上の或る神力の在ることを信じ、此の神力を呪術によって利用することが出来るものと考えていたのである。而して此の呪術を行う者を巫女(その頃には別段に巫女と定まった名の無いことは言うまでもない)と云うたのである。
我国の最初の巫女は「日本書紀」にある菊理媛神であると言われている。尤も此の神に就いては、本居・平田の両翁も深く説かず、橘守部翁の饒舌を以てしても、猶且つ態度を明かにせるものが無いのに、独り鈴木重胤翁は、此の神が黄泉に在る冊尊の言を諾尊に白したあることに重点を置き、これは巫女であると言うている〔九〕。
此の考証は、我国の巫女史にとっては、かなり重大なる示唆を与えているのである。即ち第一は、巫女の初見の記事が、恰も後世の口寄の如く、死霊の意を通じていること、第二は、此の菊理媛神の鎮座せる加賀の白山(シラヤマ)神社を中心とせる巫女が、一流をなして永く世に存したことである(これに就いては後段に述べる機会がある)。第三は「白す」という言葉の意味であるが、今に各国の各地で祭のことを「申す」というのは此の名残りであって、然も此の言葉の底には、祭のある毎に託宣のあったことを思わせ、その託宣が泯びてしまってからは、神から人に白すことが、反対に人から——即ち祠官から神に申すように変ってしまったのである。而して此の立場から言えば、菊理媛神より前に、冊尊の言を諾尊に白した泉津道守(重胤翁の考証にては、道守は関守で、男性であろうと云うている)は、覡男であったと考えられぬでもないが、今はそこまで言う必要もないと思うので差控える。我国の巫女はその最初から、幽冥の境に在る霊魂の言を、顕世の人に伝える霊媒者(ミディアム)として考えられていたようであるが、併しこれは巫女の行うた呪術の一面であって、これ以外にも巫女の仕事は夥しきまでに存していたことは言うまでもない。
我国には古く「をなり神」の信仰というがあった。此の信仰は、余りに原始的であったために、内地においては夙に痕跡を残さぬまでに泯びてしまったが、それでも克明に社名や地名を詮索すると、各地に於成神社または母成峠などが今に存しているし、更に「をなりど伝説」なるものが(これに就いては後段に詳述する参照を乞う)、これ亦各地に残っているので、古くその信仰が殆ど全国に渉って行われたことが知られるのである。而して此の「をなり神」なるものは、内地の古俗を化石させて、そのまま保存して来た琉球のそれを基準として考えると、同胞のうち、姉なり妹なり(姉妹のなき者は従姉妹)の女性は、兄なり弟なり、男性の守護神となるという信仰で、此の「をなり神」に姉妹の生身魂の義があると云われている。これに就き、同地出身の伊波普猷氏は、その著「琉球聖典おもろさうし選釈」において、左の如き考証を発表されている。
  すずなりがふなやれのふし
  あがおなり、みなみの
  まぶら、でて、おわちやむ、やれ、ゑけ
  おと、おなり、みかみの
  あや、はべる、なりよわちへ
  くせ、はべる、なりよわちへ
をなり神をうたったオモロ。これは「船ゑとのおもろさうし」の中のもので、表題の「すじなりがふなやれのふし」には、すずなり丸(船名)航行の歌というほどの意味がある。
(釈)一、あがは我が。二、おなりみかみは姉妹の生ける霊の義。五の巻(中山曰。おもろさうし)の六十七章尚真王をうたったオモロに、「をなりぎみたかべ(中山曰。たかべは拝むの意)」という句がある。をなり神を拝む風習は、今尚沖縄諸島全体に遺っている。琉球の上古では、女子の地位はそう低くはなかった(中略)。又氏神は、男神、女神の二柱になっているが、女神が男神の上に位している。そして女神に仕えるおみなり(中山曰。女神の意)おこで(中山曰。託女の意)でも、男子に仕えるおみけり(中山曰。女神の意)おこで(中山曰。同上)の上に位している。これらはいずれも母権時代の面影を留めているものではあるまいか。久高島の結婚式の時に合唱する「ゐけがみぐわ産(ナ)さば、首里がなしみやだいり、ゐなごみぐわ産(ナ)さば、君のみやだいり」(原註。男の子を生んだら、首里の王の御奉公をさせよう。女の子を生んだら、聞得大君(中山曰。内地の斎宮、斎院と同じ意味のもので、琉球王の王姉又は王姪が任ぜられ、古くはその位置は王の皇后より高かった)の御奉公をさせよう)という謡の通り、祭政一致時代には、男子は政治にたずさわり、女子は祭事にたずさわるようになっていたが、特に女子は、神によって神聖な力を附与されたものとして尊敬されていた。久高島では、十二年に一回イザイホーという女子の成年試験(中山曰。内地にも此の種の民俗が行われたが、それは後段に詳述する)が行われているが、これに及第した者は聞得大君に仕える資格があるとされている。男子が海外に出る場合には、をなり神(原註。姉妹のおすじ)が終始つきまとって、彼を守護するという信仰は、今なお沖縄諸島全体に遺っている。そして彼等がをなり神の頂の髪を乞うて、守り袋に入れて旅立つ風習は首里那覇辺にさえ、ついこの頃まで遺っていた。三、まぶらは守らん。四、でてはとて。五、おわちやむは来ませり。六、やれ、ゑけは舟をやる時のかけ声。七、おとおなりは妹。八、あやはべるは綾蝶即ち美しい胡蝶。九、くせはべるはその対語。奇しき胡蝶の意(中略)。一〇、なりわちへは成り給いて。
我が同胞(ハラカラ)なる女神(メガミ)、我を守らんとて、来ませり。(エンヤラヤー)。妹の生ける霊(ミタマ)、美しき胡蝶になりて、奇しき胡蝶となりての意。「やれ、ゑけ」という船を行(ヤ)る時のかけ声などがあるところから見ると、このオモロを航海中に唄ったことがわかる。沖縄では今日でも胡蝶はあの世の使者といわれているが、オモロ時代には生ける「をなり神」(原註。即ち顯(アキ)つ神、姉妹)の象徴とされたことがわかる云々。
此のオモロを熟読し味読した後に、曾て内地に存した「をなり神」の信仰を思い合せ、而して更に、古代の原始神道と、社会制度との関係を考え、併せてこれを巫女史の観点から眺めるとき、実に左の如き事象を認識することが出来るのである。
第一、古代の女性は、その悉くが巫女的生活を営んで居り、且つ巫女となり得る資格を有していたこと。
第二、姉妹が直ちに兄弟の守護神となり得たことは、女子に多くの神性を認めたことであって、その神性の基調は、女子が巫女たる可能性に富んでいたことを証すること。
第三、更に姉妹が直ちに兄弟の守護神となり得たことは、当時の巫女が、家族的巫女(Family Witch)であって、まだ職業的巫女(Professional Witch)が発生しなかったこと。
第四、後世、我国で妻女を「山の神」と称し、宅内の祭祀に服したことは、遠く源流を「をなり神」の信仰に発し、家族的巫女の面影を残したものであること。
第五、女子に多くの神性を認めた結果として、我国の古代には神々に仕える者を女性に限った最大の理由であること。
猶お、此の外にも二三挙ぐべき事もあるが、茲には態と省略に従うが、さて、これ等の全体を尽すには、我が国古代の、社会制度と、原始神道との関係を説かぬと、独り合点に陥るのであるが、これに就いては、追々と記述したいと思っている。
〔註九〕 「日本書紀」巻十一参照。 
第三節 巫女教としての原始神道

 

我国の原始神道が巫女教であったことは、神道発達史から見るも、古代社会史から見るも、更に巫女史から見るも、民俗史から見るも、疑うべからざる事実である。私は此の事に就いて記述したいと思う。
我国の原始神道を説く者で、少しく我国と周囲民族との交渉を知る者は、殆ど言い合わせたように、アジアの北方民族の間に発生し暢達したシャーマン教との関係を言わぬ者はない。併し、我国の原始神道とシャーマン教との関係を学問的に考察して、これを早く我が学界に紹介したのは、故山路愛山氏であった〔一〇〕。これに就いて、愛山氏は実に左の如く述べている。
シャマンと云うのは、満洲の昔、即ち女真の時代に、女の巫(ミコ)のことを云ったのであります。今の満洲語でも同じです。それから言葉の意味が移って、今の満洲では神を代表させる杆を矢張りシャマンと云います(中略)。斯ういう次第で、シャマン教と云うものは女巫(ミコ)の教えであって、神杆を立てて神を祭ることが特色である。然るに日本の昔でもその宗教は矢張り女巫の宗教でありました。そうして多少の変化はありますけれども、矢張り満洲のように神杆を用いたと思はれる形跡が無いではありませぬ。
今先ず日本の教えがシャマニズムと同じように、女巫の教であったと云うことを申上げます。日本では、昔は神主は多く女でありまして、男は少のう御座いました。それ故に斎主を斎姫とも云います。中頃になって、支那の文明を採用し、日本の文明が段々支那流になって来ましたが、それでも女巫の宗教であった時代の遺風として、其時代にも御巫(ミカンナギ)と云うのは女でありまして、娘で神を祭る事が出来る資格の者を採ったのであります。祝(ハフリ)と云うのは神主のようなものであるけれども、これも中世までは女が多く、祝と禰宜(ネギ)とを一つの社に並べて置いた時も、祝も禰宜も女の方が男よりも多う御座いました。中古でさえ此位であったから、其昔に於いて女が多く宗教に携(たずさ)わったことは勿論のことであります。故に大昔には猿女君などと云つて、女を以て神に事えることを職とした種族もあった。天朝でも、天照大御神を祭り、大国魂神を祭るのは、皇女(ヒメミコ)の御役であった。胸肩神と云うのが九州にありますが、采女(ウネメ)を遣って其祭を助けさせたことが、古い書物に書いてあります。神に事える女を巫(カンナギ)と云い、男性で神に事えるのを男巫(ヲカンナギ)と云い、始めは神に事える者は巫と云えば女性であると云うことが分り、男で神に事える者の方は後になって出来たゆえに、男と云う字を附けて男巫と云うようにして、男女を分ったと云うことを考えると、言葉の上から言っても、日本は始めは女巫の宗教の国であったと云うことが明白ではありませぬか。斯様に女性が宗教を掌るのは日本ばかりではない(中略)。地理の上から言うと、日本、朝鮮、満洲、蒙古と、地続きで何れも女巫の世界でありました。私は此事実に拠つても、斯う云う国は何れも女巫の宗教を信ずる国であったと云うことを断定するに足りると思う云々。
更に山路氏は論旨をすすめて、(一)シャマンの祭儀(神杆を樹て、鈴を用いることなど)と、我国の神道の祭儀との共通を説き、(二)シャマンの宇宙観が、天、地、下界と立体的の三層にあることが、同じく我が神道の高天原、顕国、黄泉国と三界に言うのと一致するを明にし、(三)三神を一組にして崇拝する事が日韓満共に同源から出たこと等を挙げて、シャーマン教と原始神道との関係、及び原始神道が巫女教であった事を詳細に論じている。
山路氏は生前野史国士を以て自ら任じ、他も許した人だけに、此の種の文化現象を専門に研究している者から見ると、論旨が大まかで観察も多少藪睨みのところがあるのは免れぬが、それにしても、当時にあって、専門外の同氏が早く此の点に着眼したことは、氏が凡庸の史家でなかったことを証拠立てると同時に、永く此の研究の権輿者たる光栄を荷うものである。私が長々と氏の講演を引用したのも、生前に知遇を受けていたばかりでなく、全く此の微意に外ならぬのである。而して最近になっては鳥居龍蔵氏を始め、上田万年氏、白鳥庫吉氏を重なるものとし〔一一〕、此の外にも多くの研究者を出している。
原始神道が巫女教であったことは、山路氏の研究でその要領は尽きているのであるが、併し私は此の研究の総てを無条件で受け容れる者ではない。成る程、我国の原始神道は、山路氏の言われた如く、(一)地理的に見てシャマニズムの圏内に入るものであろうし、(二)教理的に見て共通の点が多くあるし、(三)祭儀的に見て類似の形式が尠くないことだけは異存もないが、これより一歩すすめて、原始神道は直ちにシャマニズムなりと言うに至っては、私としては如何にするにも承認することが出来ぬのである。専門外の研究ではあるが、現存の学者中にも原始神道即ちシャマニズムと考えている者も少くないようであるから、此の機会を利用して私の考えているところを述べるとする。
私がシャーマン教に就いて有している知識は、誠に恥しいほど稀薄のものではあるが、その稀薄なる聞見から言うも、第一は我国の巫女は教義の基調を祖先崇拝に置いているのに、シャーマン教の巫女は、全く祖先崇拝と交渉を有していない点である。我国の巫女を通じて託宣する神の多くは祖先神(始めは氏神であったのが、後に社会組織の推移につれて産土(ウブスナ)神となった。これに就いて後段に記述する)であるが、シャーマン教の巫女に憑くものは、祖先神でなくして、遊離している一種の精霊にしか過ぎぬようである。第二は我が原始神道における巫女の多くは、直ちに神として崇拝され(又巫女自身もかく信じていた)ていたのであるが、シャーマン教の巫女は、どこまでも精霊と人間との間に介在するものであって、決して神として崇拝されていない。第三は巫女となる形式上の手続きにおいて、両者の間に相違がある。家の娘が母の後を承けて巫女となるに就いては、彼我共に共通の相続を以てしたようであるが、実際の娘以外の女性(親族または弟子)が巫女になって跡を継ぐには、彼にあっては山中にある鏡を拾い得ることを条件とするに反し、我にあっては、多く発熱して、神懸り状態の症状となることが要件になっている。
以上の三点は、その重なるものに過ぎぬが、更に此の理由から派生したものとして、巫女の神祇観において、巫女が行う呪術の方法において、更に巫女の性的方面の作法において、彼我の間に相違するものが相当に存しているのである。而して最近の研究によれば、シャーマンと云う語義、及びシャーマンの有せる宇宙観の如きも、果して彼れ独特のものか否かさえ判然せず〔一二〕、従って我が原始神道の世界観の如きも、シャーマニズムよりも、寧ろ仏教の教理に負うのではないかと云う説あるにおいては、猶お今後の研究を俟つべきものが多いのである。私は原始神道がシャーマン教によく似ていると云うのならば異議はないが、これより進んで全く同じだと云うに対しては、到底左袒することが出来ぬのである。
併し斯く言うものの、私として決して我が原始神道を巫女教にあらずと主張する者ではない。その点に就いては、山路氏よりは更に幾倍して、巫女教であったことを高調する者である。畏きことながら、天照神の高きを以てしても、新嘗をなされたのは、御女性であらせられたためである〔一三〕。更に溯って言えば、我国の最高神である日神が女性であるのは、女子が神の極位を占むべき国柄であったためである〔一四〕。賀茂建角身命の女(ムスメ)が玉依媛と称して、賀茂別雷命を生んだのは、即ち玉依媛は魂憑(タマヨリ)姫であって〔一五〕、一般の女性が巫女としての神人生活を送られていた事を暗示しているのである。神武帝の御母后が同じく玉依姫と称された事も、亦此の事を考えさせるものがある。
而して崇神帝が皇女豊鍬入姫命を以て、伊勢皇大神宮の御杖代(ミツヱシロ)となし給うて斎宮の制を立て、爾来、歴聖が御即位と共に皇親の女性を以て斎宮となし、七十余代に及んだのも、更に嵯峨帝が皇女有智子内親王を以て賀茂の斎院となして範を垂れ、同じく三十余代を続けたのも〔一五〕、共に神に仕えるは女性に限られた古代の聖規を伝えたものである。神武朝に道臣命に勅して神を祭らせし折に、特に厳媛(イカシヒメ)の名を賜ったのもこれがためで〔一六〕、今に神社または民間に於ける祭事に、男性が女装して勤めるのも〔一七〕、亦古き教䡄を残したものである。神功皇后が、畏くも国母の身を以て、躬から神の憑(ヨ)り代(シロ)となられたのも、勿論皇后が女性であらせられた為めである。
山路氏も言われた如く、女祝、女禰宜こそ、我国の聖職であって、男子がこれに代ったのは、寧ろ変則であった。前掲の梁塵秘抄に「東(アヅマ)には女はなきか男巫(ヲトコミコ)、さればや神も男には憑く」とあるのは、その変則を詠じたものである。而して此の女性が即ち巫女であったのであるから、我国の古代は女性が祭祀の中心であり、その神道が巫女教であったことは明確なる事実である。
〔註一〇〕山路氏が主宰した「独立評論」に連載したものを、後に「山路愛山講演集」第二に収めた。今は講演集に拠った。
〔註一一〕鳥居氏は多くの著書において、上田氏は神道談話会、白鳥氏は東洋文庫講演会において、共に高見を発表されている。茲に一々それを記述することは出来ぬけれども、いずれも大家の説とて傾聴すべきものである。
〔註一二〕白鳥庫吉氏の講演で、此の事を聴いた。猶お雑誌「民族」に掲載された、圀下大慧氏のシャーマンに関する論文中には、此の問題に触れたところが多い。
〔註一三〕此の事は「古事記」に見えている。新嘗をなされるということは、即ち神々を祭られる儀式であることは言うまでもない。我国の至上神が猶お神を祭るとあるのは、至上神が御女性であったためである。
〔註一四〕天照神は男性で坐しますという説は、江戸期の一部の学者によって唱えられ、明治期には津田左右吉氏は「神代の新しき研究」において、此の説を発表されたことがある。併し此の説には、私は如何にするも同意することが出来ぬ。巫女教であった我国の最高至上神は、女性で無ければならぬことは、多言を要せぬことである。
〔註一五〕賀茂社に斎院を置かれたことは、単なる信仰上の問題ではなくして、多少とも政治的意味が加わっているように考えられるが、埒外に出るので今はそれまでは言わぬこととする。
〔註一六〕「神武紀」に載せてある有名な記事である。
〔註一七〕拙著「日本民俗志」に各地の類例を集めて説いたことがある。  
第四節 原始神道及び古代社会と巫女との関係

 

我国のことをやや詳しく記録した外国の最初の文献は「魏志」の倭人伝である。而してその一節に左の如き記事がある。
(上略)倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道能惑衆、年已長大無夫婿、有男弟佐治国、自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処(中略)。卑弥呼以死大作冢経百余歩、殉葬者奴婢百余人、更立男王国中不服、更相誅殺当時殺千余人、復立卑弥呼宗女壱与年十三為王国中遂定(下略)。
此の記事は有名であるだけに、我国の古代史を研究するほどの者ならば、誰でも知らぬ者は無いのであるが、然らば此の卑弥呼なる者は何であるかという事になると、誰にでも判らぬほどの難問なのである〔一八〕。私は卑弥呼の研究が目的でないから、これ以上には触れぬこととするが、更に此の記事を巫女史の立場から考覈するとき、左の如き事象を認識することが出来るのである。
第一、卑弥呼(ヒミコ)は即ち日女子(ヒメコ)であって男子の日子(ヒコ)と対立して、我が古代の女性を云い現わす最高の名であること。
第二、卑弥呼が鬼神に事え、能く衆を惑すとは、即ち巫女であったことを意味していること。
第三、卑弥呼が、年已に長ずるも夫婿の無きは、巫女は夫を有たぬ(その実は夫を有していても)のを、原則にしたこと。
第四、卑弥呼に男弟があって、佐けて国を治めたとあるのは、曾て琉球に行われた、神託をきく女君が酋長であったのが、進んで姉(又は妹)なる女君の託言によって、弟(又は兄)なる酋長が政治を行うた時代を想わせるものであること。而してこれに類似した制度が、内地にも古く存したと想われること。
第五、卑弥呼の死後に宗女を王に立てたとは、巫女の相続は女系で伝えたものであること。
女王卑弥呼の治めた倭国なるものが、現在の我国の何処に該当するかに就いては、これ又学界に異説があって、今に定説を見ぬのであるが〔一九〕、その詮議は茲には姑らく措くとして、直ちに私の考えた所だけを述べると、以上に例挙した五項は、古く我国の全体に行われた巫女の作法と見て差支ないと信じている。
第一の卑弥呼が比売子——即ち日女子であることは言うまでもない。古く日女子を比美子と云う例証は、天寿国曼荼羅にも見えている。而して此の名を負うものが、古代にあっては、女性の社会的階級の高位に居る者に限って用いられたことは疑いない。後世になると、姫の名が下級の者にまで濫用されるようになったが、日女は即ち日神の裔という意であるから、古代にあっては、神聖にして濫りに用いることが出来なかった筈である。而して卑弥呼が、此の名で呼ばれているところを見ると、彼女は当時の社会階級の高位に居たことが知られると同時に、原始神道の最高神である日神の裔であると信用され、崇拝されていたことが、併せ知られるのである。
第二の、鬼神に事え、衆を惑すは、改めて言うを要せぬほど明確に、彼女が巫女であったことを語っているのであるが、ただ茲に慎重に考うべきことは、最高の巫女が最高の治者であったと云う点である。而してこの事は、一方社会学的に見れば、我国の古代には、母権社会が行われていたことを想わせる有力なる手掛りとなり、更に一方神道発達史から見ると、神に事える最高の神職は女性であって、神職の最高者なるが故に、一国の治者となり得るのであるという、所謂、祭政一致時代の最も古き相を稽えさせる重要なる傍証となるのである。寔に比倫を失うことではあるが、此の例を神代に覓めれば、即ち天照神がそれであると申すことが出来るのである。前にも記した如く、天照神が新嘗をされたということは、神に事えられたことであって、その時だけは神官としては最高に位し、併せて高天原の統治者であらせられたからである。
第三の、卑弥呼が年長ずるも夫婿が無かったということも、又た我国の古俗を示しているものである。巫女は、原則として、神と結婚すべき約束の下に置かれていた(これ等の実例は後段に詳述する)のである。国中の女性が巫女として神人生活を営んでいた時代にあっては、夫婿を定めるには、悉く神判成婚の形式に由らなければならなかったのである。而して初夜の権利は神が占めべきものとさだめられていた〔二〇〕。「万葉集」巻二に「玉かづら実ならぬ木には千早振る、神ぞ憑くちふならぬ木毎に」とあるのは、此の思想を詠じたもので、更に同集巻三に「千早振る神の社し無かりせば、春日の野辺に粟蒔かましを」とあるのも、亦此の思想を言外に寓しているのである。而して「源氏物語」の若菜巻を読むと、上代貴族の婦人は結婚せぬのを習いとしていたことが釈然する。これは何時でも神に占められることの出来るようにとの必要から来ていたのである。内地の古俗を克明に保存した琉球でも、先五代の王女は結婚しなかったとある〔二一〕。卑弥呼に夫婿が無かったのは、彼女が巫女であったからである。
第四の、曾ては、神託を聞く女君が統治者であったのが、後には、女君の兄弟が治者となり、女君の託言によって、政治を行うたとある一事は、我が古代国家の発達を知る上において、極めて重要なる意義を有していると思うのであるが、併し現在の学問の程度では、これ以上を言うことは、或は官憲の欲せざるところと思うから、態と省略に従うこととする。
第五の、卑弥呼の宗女がその後を継いだとあるのは、巫女の相続は女系を以てし、且つそれが、我が国に母権時代の在ったことの傍証となるもので、我国では後世に至るまで、此の遺風が存し、巫女は女系相続を以て規範としていたのである。
以上の考察より見るも「魏志」の記事は、我が古代の社会制度と、原始神道と、巫女との関係を、明確に記述したものであることが知られるのである。倭国の所在地が九州であったか、畿内であったかは姑らく措くも、更に卑弥呼が、倭姫命であるか、神功皇后であるかは、同じく別問題とするも、此の記事が、我国の全般の巫女に関するものであることは、疑う余地はないのである。
本居宣長翁が「駁戎慨言」巻上において、「後漢書」の卑弥呼が鬼神に事え、以妖惑衆とあるのに対して、「からびと大御国の神の道をしらざるが故に、かかるみだりごとはするなり」と評し、更に「魏志」の「自為王以来、少有見者」以下に就いて、「おのれまことには男にて、女王にあらざるが故に、かの魏の使いにたたにはえあはで、帳などたれて、物ごしにぞあへりけん」云々と言っているが、これこそ却って、本居翁が我が古代の実相を見誤った智者の一失である。
〔註一八〕本居翁は、卑弥呼を神功皇后に擬し、内藤虎次郎氏は倭姫命に擬せられているが、私はそれよりは更に一段と古い時代の女酋であると考えている。
〔註一九〕卑弥呼の治めた国に就いても、九州説と畿内説とがあるが、私は後者の説に従うものである。管見は「考古学雑誌」に発表した。
〔註二〇〕是等に関して拙著「日本婚姻史」に詳記した。参照をねがいたい。
〔註二一〕折口信夫氏の談。  
第五節 古代人の死後生活観と巫女の霊魂観

 

我が古代人は、霊の不滅を信じ、肉の敗滅を事実として信じていた。前に引用した記・紀の諾冊二尊の場合に徴するも、冊尊は火ノ神を生んだ為めに死を意味する神避りをなし、その尊骸は「蛆集(ウジタカ)れ蘯(トトロ)ぎ」たる敗滅の状態であったが、然もその霊魂は諾尊と問答し、又は諾尊を追い走るなど、生前と少しも変らぬ活動を示されている。而して此の思想は、神で無い人間の上にも当然及ぼされて、人は死すると肉体は滅するも霊魂は滅せぬと、全く神の如く考えられていた。それでは、此の霊魂なるものは、何時でも再び人間界に戻って来て、生前と同じように人格を有して活動することが出来るかと云うに、それは決して出来ぬものであると考えていた。何となれば、人は一度死ぬと、黄泉国へ往き、ここで黄泉国の者となるべき儀式の「黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)」をするからでる〔二二〕。即ち一度この儀式を済したからは、不滅の霊魂も再び人格を備えることは出来ぬものと信じていたのである〔二三〕。換言すれば、肉体が滅びた以上は、再び人間になる事は出来ぬと信じていたのである。
我が古代人が、霊と肉とを二元的に考えた例証は、相当に多く残されている。天照神が皇孫を葦原ノ中津国に降臨せしめる折に、
この時に天照大神、御手に宝鏡を持ちたまひて、天忍穂尊に授けて祝きて曰く、吾が児、此の宝鏡を視まさんこと、まさに吾を視るがごとくすべし、与(トモ)に床を同じくし、殿を共にして、以て斎鏡となすべし。
と告げられたのは、即ち肉体を離れて霊魂の存在を認識した思想の現われと見るべきである。他の語を以て言えば、天照神の御魂は、常に此の斎鏡に宿っていて、宝祚の隆んなること、天壌と窮りなきよう守護するとの意味なのである。されば、記・紀その他の文献に徴するも、国家の大事に際しては、常に神託を請うて嚮うべきところを仰ぎ、天照神の御魂も亦屡々現われて、その採るべき方法を啓示されているのである。これ以外にも、霊肉の別と、霊魂の不滅を証する事実が多く存しているが、他は省略に従うとする。
かく霊魂の不滅を信じた古代人は、更に此霊魂の活用を四つに分けて、荒魂(アラミタマ)、和魂(ニギミタマ)、幸魂(サチミタマ)、奇魂(クシミタマ)とした。此の四魂の解釈に就いては、先覚の間に種々なる異説もあるが、私としては高田与清翁の説かれた、
荒魂、和魂は、武魂文魂といはんが如し、神霊の武く荒びたるを荒魂といひ、静に和ぎたるを和魂といふ(中略)。幸魂は幸福の霊をいひ、奇魂は奇妙の霊をいへるなり。
とある解釈の簡明なるを好む(但し同意はせぬ)ものである〔二四〕。併しながら、原始神道の立場から見ると、此の高田翁の解釈は、余りに字義に捉われて古き信仰を忘れたかの感がある。反言すれば、後世の知識を以て、古代の思想を忖度した嫌いがある。
而してこれに較べると、鈴木重胤翁の「荒魂は現魂にて、和魂は饒魂なり」と解釈されたのは、一段の進歩である。然りと雖も、此の鈴木翁の説も、次の如く
現魂は外に進み現出坐て、其神威を示し、又其強異を摧伏せたまはむとなるに、それに引替て、和魂は玉体に服て、御寿を守りたまはむと宣べるは、其玉体を離れず、鎮守御在むと云ふことにて、謂はゆる和魂の饒魂なる所以なり〔二五〕。
と言うに至っては、これとても字義に重きを置いて、古代人の思想を閑却したものとして、高田翁の説と五十歩百歩たることを免れぬのである。
而して、私はこれに対して、巫女史の観点から、極めて常識的に考えているのである。それは、荒魂の古意は現魂であって、即ち現に生きているものの魂であって、これに反して和魂とは、死したるものの魂を云ったものであると言うのである。現人神(アラヒトカミ)のアラは、即ち現存の意であって、荒魂のアラは、これと同じものに違いない。ニギに就いては、誠に徴証が弱いのであるが、「古く延喜式に消炭を和炭(ニギズミ)と称するより推して、和魂は死魂の意なるべし」とある説を採るものである〔二六〕。
全体、荒魂及び和魂の出典は、「古事記」では、神功皇后征韓の折に、新羅国に「墨江大神の荒御魂を、国守ります神に、神鎮りて還渡りましき」とあるのみで、和魂は見えず。「日本書紀」には、同じ神后紀に二ヶ所あるが、始めのは「神有誨曰、和魂服王身而守寿命、荒魂為先鋒而導師船」とあり、後のは「授荒魂為軍先鋒、請和魂為王船鎮」とあるのがそれである。
而して茲に荒魂を授(ホキヲキ)(古点に斯く訓むと云う橘守部翁に従う)と云い、和魂を請(ネキ)と云うたことは関心すべき事で、現魂なればこそ祝招(ホキヲキ)る必要もあり、死魂なるゆえに念(ネキ)た次第と解すべきだと思う。それ故に古くは荒御魂は現人の魂、和魂は死人の魂(魂に此の二つの区別をしていたことは、巫女の職務中の鎮魂の節に述べる)と解していたのを、記・紀が文字に記録される際に、荒和の二字を当てたので、種々なる疑義が生じ、遂に高田翁の如く武魂文魂を以て解説を企てるまでにすすんだことと思う。国学者としては創見に富んでいる橘守部翁が「荒魂は此の時に顯れ給ひし、現人神なる故に先鋒となり給ふ」とあるのは〔二七〕、参考すべき説と考えている。而して次の幸魂と奇魂とに就いても私は別に考えるところがあるが、これは巫女史の立場からは左迄に重要な問題と思われぬので、姑らく高田翁の説に従うこととする。
さて、こうした霊魂に対する巫女の態度は、荒魂も和魂も、その霊魂が能動的に、人に憑(カカ)って活く場合は、何等の予告もなく、場所と時間とに関係なく、突如として現れるものとし。これに反して、霊魂を衝動的に降き招して託宣を聴くことは出来るが、それには或る定まれる祭儀を行う事を必要とし、且つその憑(ヨ)り代(シロ)となり得る資格を有している者は巫女に限られたものと信じていたのである。少しく後世の事例を以て古代を類推する嫌いはあるが、後代の巫女が専ら用いた生口——即ち生ける人の魂を遠隔の地において引き寄せて語るのは、此の荒魂の誨えから出たもので、死口——即ち死せる人の魂を幽界から引出して語るのは、此の和魂の法に由るものではなかろうか。更に後代の巫女が「神口(カミクチ)」と称して、人間のその年だけの運命を予言し、凶を吉に返し、禍を福に転じ、又は与えられた吉なり福なりを、保持し発展するように仕向けた一事は、此の幸魂と奇魂との信仰に負うところがあるのではないかと思われる。それでないと、我国において特種的に発達した巫女の呪術の起原が不明に帰するからである。
〔註二二〕黄泉戸喫のことは、土俗として民間にも今に残っている。その最も顕著な一例は、結婚の夜に、新郎新婦が同じ茶碗に盛った飯を、二人して食うのがそれであろう。同じ鍋の物を食うということは、即ち、彼等が同族になったことを意味するのである。
〔註二三〕我国には古く転生の思想は無かった。これを言うようになったのは仏教渡来後である。
〔註二四〕「神祇称号考」巻二(大日本風教叢書本)。
〔註二五〕「日本書紀伝」。
〔註二六〕「参宮図絵」巻下附録。
〔註二七〕「稜威之道別」(橘守部全集本)。 
第二章 巫女の呪術の目的と憑き神

 

第一節 巫女の行いし呪術の目的と種類
巫女は我国における呪術師の全部で無くして、僅にその一部分であることは既述した。従って、巫女の用いた呪術は、我国のそれの総てではなくして、是れ又その一部であることは、言うまでもない。それ故に、巫女の行うた巫術の目的にあっても、一般の呪術から見るときは、頗る局限されることとなるが、これは巫女史の立場から云えば、寧ろ当然の帰結であらねばならぬ。而して我国の固有呪法時代における巫女の呪術の目的は、大略左の如きものであったと考えられる。
第一 自然を制御し、又はこれを支配せんとせしこと。
第二 神(又は精霊)を善用又は悪用し、或は是等を征服せんとせしこと。
第三 霊魂を鎮め、或はこれを和めて、自己または宗族の保存を図りしこと。
第四 未来を識見して招福除災を企てしこと。
併しながら、目的と行動とは、分離することが困難である。換言すれば、是等の目的を遂行せんとする巫女の呪的所作は、巫女の職務として説明する方が便宜が多い。それ故に茲には、それと重複せぬ程度で解説し、その詳細は巫女の職務を既述する条に譲るとする。
第一の自然を制御し、又は支配せんとする目的の下に巫女の行った呪術は、私の知ってる限りでは、我国には実例も尠く、且つその態度も概して消極的であった。併しこれは言うまでもなく、我国の風土または気候の然らしめた結果である。勿論、我国にも、日ノ神、月ノ神、水ノ神、火ノ神、雨ノ神、風ノ神、土ノ神、木ノ神等の自然その物を信仰の対象とした神は古くから存し、更に国土の精霊と見るべき神御魂、高御魂、生魂、足魂、玉留魂等もあり、巫女は是等に対して呪術を以て、是等の神や精霊を通して制御し、又は支配し得るものと考えていたようであるが、その徴証を覓めて具体的に説明しようとすると、それが極めて稀薄なるに驚くのである。例えば、日ノ神(ここには太陽の意である)に対して「天の御陰、日の御陰」を恩頼(カガウ)ることを祈っているが、呪術を以て天日を曇らせたとか、晴れさせたとかいうものは、一つも発見されぬ。雨風ノ神(ここには風雨そのもの)に対しても、同じく順風滋雨を念ずるばかりで、呪術を以て風を吹かせ、雨を降らせたものは、全く見当らぬ。信濃の諏訪社に行われた「風の祝」の故事や、肥後の霜ノ宮に行われた「火焚きの神事」や、及び是等に類する神事も少くないが併しその目的は、悉く消極的であって、共に悪しき風の吹かぬように、恐ろしい霜の降らぬようにと祈るのみであって、これに反して積極的に、風よ強く吹け、霜よ多く降れと呪ったものは皆無である。
尤も、雩祭(アマゴイ)だけは積極的の呪術と見られるのであるが、これが我国に行われたのは「天武紀」が初見であって、それ以前のは寡見に入らず、然も天武紀の雩祭は、著しく支那の影響を受けているものと思われるので、茲に言う固有呪法時代の埒外に属するのである。勿論、私は文献に見えぬからとて、雩祭というが如き原始的で且つ呪術的の神事は、古代から行われていたものと考えるのではあるが、これは何処(どこ)まで言うても、考えるだけで、それ以上には、一歩も踏み出すことが出来ぬのである。「万葉集」に現われた「雨慎(アマツツ)み」の信仰は、猶お風や霜の如く、専ら霖雨を恐れ、豪雨を避ける態度であった。従って、火ノ神、木ノ神、水ノ神に対しても、恩恵に浴せんとする祈願的呪術は在ったけれども、これを左右せんとする支配的呪術は無かったようである。国土の精霊に対しても、又その如くであったと考えるので今は省略する。但し、巫女以外の公的呪術師が、自然を制御し、又は支配した痕跡は、極めて微弱ながらも存していたように思われる。が、これは本書の柵外に出るので、態と触れぬこととした。
第二の、神(又は精霊)を善用し、悪用し、或は是等を征服せんとした巫女の呪術に就いては、相当に多く存していたようである。一般の宗教学者が言うように、「神は理解されぬ以前に、先づ利用される」とある事実は、蓋し我国にも発見されることなのである。例えば「神武紀」の戌午の年夏四月に、神武帝が大和の孔舎衛坂に長髄彦と戦い、皇兄五瀬命流矢に傷き、王師全く進み戦うこと能わざりしときに、
天皇憂之、乃運神策於沖衿曰、今我是日神子孫、而向日征虜、此逆天道也。不若退還示弱礼祭神祇、背負日神之威、随影壓躡、如此則曾不血刃、虜必自敗(中略)。却至草香津、植盾而為雄誥焉。
とあるのは、畏きことながら神を利用して勝を制したものと拝察することが出来る。而して、「礼祭神祇」とか、「植盾為雄詰」とかあるのは、即ち「神業」であって、今から云えば呪術であって、然も此の呪術が巫女によって行われたことは疑いない(これに就いては、第七章の巫女と戦争の条を参照せられたい)。
而して神(精霊として)を悪用し、征服し、支配した呪術にあっては、「応神記」にある秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の兄弟の母の行える所作が、よくこれを説明している。曰く、
その兄なる子を恨みて、即ち伊豆志河の河島の節竹を取りて、八目の荒籠を作り、その河の石を取り、塩に合えて、その竹葉に裹み、詛言(トコヒイ)はしめけらく、此の竹葉の青むが如(ゴト)、此の竹葉の萎むが如、青み萎み、又此の塩の盈ち乾るが如(ゴト)盈ち乾よ、又此の石の沈むが如沈み臥せ。かく詛ひて、烟(カマド)の上に置かしめき。是を以て其の兄、八年の間干(カワ)き萎み病枯しき。故(カレ)その兄患ひ泣きて、その御祖(中山曰。母の意)に請へば、即ち其の詛戸(トコヒド)を返さしめき。ここに其の身本(モト)の如くに安平(タヒラ)ぎき。
とある。これは明白に神を悪用し、且つ神を征服し、支配する信仰を現わしたものであって、然もその母は家族的巫女たることを明白に示している。ただ、此の呪術に就いて考うべきことは、此の母なる者は、新羅より我国に投化せる天ノ日矛に由縁ある者なるがゆえに、此の呪術は我国固有のものか、それとも新羅より将来したものが、その何れであるかの点である。併しながら、現在の学問の程度では、両者の区別を截然と断定する手掛りが無いので、今は姑らく我国固有のものとして取り扱うこととした。
第三の、霊魂を鎮め、又は和(ナゴ)めて、自己の健康を保持増進し、又は宗族(ウカラヤカラ)の発展と幸福とを増加しようとした呪術は、我国においては太古から存していた。由来、宗教を生物心理学的に考察したクローレー(crawley)の学説として、赤松智城氏の紹介された所によると、宗教は生きんとする意志の活(はたら)きであって、此の意志は、第一は自己保存の衝動となり、これが二つに分れて、(A)防衛衝動と(B)営養衝動となり、第二は種族保存の衝動となり、これも二つに分れて、(A)生殖衝動と(B)血族養育衝動となると説いている〔一〕。此の観点に立脚して、我国古代の巫女、及び巫女の行いし呪術に就いて考説をすすめることは、極めて興味の多いことではあるが、ここには其の余裕を有していぬので差控えるとするも、兎にも角にも、我国の原始神道においても「天之益人」として生きんとする意志が、巫女を通じて、呪術の上に、多分に現れている事は、争うことの出来ぬ事実である。広義に言えば、巫女の行うた呪術は、悉く生きん(自己または宗族)が為の現れとも見られるのである。我国の古代人が、生活価値の本質として神を崇め、更に生活価値の表現として祭(その祭の基調は呪術的である)を重んじたのは、全く此の信仰に出発しているのである。猶お霊魂を鎮め和めた呪術の目的と作法とに就いては、第五章第三節の鎮魂祭の条を参照せられたい。
第四の未来を識見するとは、即ち卜占の呪術である。我国における卜占は、諾冊二尊が蛭子を儲けしとき「今吾が生めりし御子良(フサ)はず、猶天神の御所に白すべしと詔りたまひて、即ち共に参上りて、爾に天神の命以ちて、太占(フトマニ)に卜(ウラ)へて詔りたまひつらく」とあるように〔二〕、開闢の当時から存していたものであるが、此の太占は所謂鹿卜(鹿の肩骨を灼て占ふもの)であって、専ら中臣氏が掌り、鹿卜は後に亀卜と変り、中臣氏に代って卜部氏が勤めるようになったが、これは主として男覡の作業であった。「魏志」の倭人伝の一節にも、
其俗挙事行来有所云為、輙灼骨而卜、以占吉凶。
と見える如く、我が古代にあっては、殆ど事毎に太占を行うのを習礼としていたので、記・紀を始め、代々の記録にも、此の事例や作法が夥しきまでに載せてあるが、巫女が関係したことは、私の寡聞なる、纔に間接的の一例よりしか知らぬのである〔三〕。それでは巫女は一切の占術に関係せぬかと云えば、これは決して左様ではなく、種々なる占術を行うていたのである。今ここに固有時代に属するものを挙げると、その第一は琴占である。延暦の「皇大神宮儀式帳」六月条に、
以十五日夜亥時、第二御門仁御巫内人仁御琴給弖大御事(中山曰。大御命の意である)請祭弖云々。
とあるのが、それである。猶お巫女が神降ろしに呪具として琴を用いしこと、及び此の伊勢内宮の神降しの詳細に就いては、第五章第四節に述べる考えゆえ、参照を望む。第二は、片巫(志止々と称する鳥を以て占うもの)肱巫(米を用いて占うもの)であるが、これも後の機会に詳記することとして、今は保留する。
第三は、辻占(また夕占(ユウゲ)とも云う)とて、現今にもその名残りを留めているものであって、「万葉集」巻十一に「言霊(コトダマ)の八十の衢(チマタ)に夕占(ユウゲ)問ふ、占(ウラ)まさに告(ノ)れ妹(イモ)に逢はんよし」と載せ、此の外にも多くの証歌が載せてある。然るに、辻占の原義に就いては、従来の学者の間に少しも説明されていぬし、且つ此の事は後世の口寄巫女の守護神に交渉を有しているので、私の専攻する民俗学の上から略説する。由来、我が国では、溺死、焼死、縊死等の、所謂変死を遂げた者は、その凶霊が人に憑いて、病気を起させ、災厄を負わせるなど、頗る荒び疏(ウト)ぶので、是等の変死者の屍体は、普通の墓地に葬ることを許さず、屍体も洗わず、棺にも入れず、漸く簀巻か蓆包に(大抵はそのままで然も倒さま)にして、道の辻か、橋の袂に埋めるのを習俗と(琉球には十四五年前まで此の習俗があって路傍に埋め、現在でも変死者は普通の墓地へ葬らぬ)していた。これは、斯かる場所へ埋めれば、往来の人が絶えず池上を踏み固めるので、流石の凶霊も発散することが出来ぬからと考えた結果であった。而して此の凶霊が活(はたら)いて、行人の言を仮り占わせるものと信じたのが辻占の起原で、有名なる宇治の橋姫の伝説もこの思想から出たものである〔四〕。
更に辻占の作法も古くは厳かに守られていたもので、「万葉集」巻十一に「逢はなくに夕占を問ふと帑帛(ヌサ)に置く、吾が衣手は又ぞ継ぐべき」とあるのは、辻占を聴く者は自分の片袖を截って神へ供えたものである〔五〕。また後世の書物ではあるが「拾芥抄」第十九諸頌部に、問夕食歌とて、
フナトサヘ、ユウケノ神ニ、物トヘハ、道行人ヨ、ウラマサニセヨ。児女子云、持黄楊櫛、女三人、向三辻問之、又午歳女、午日問之云々。今案。三度誦此歌、作堺散米、鳴く櫛歯三度ノ後、堺内来人答ヲ、為ナシ内人ト、言語ヲ聞テハ推吉凶ヲ、云々。
とあるのも〔六〕、蓋し万葉頃の遺風を伝えたものであろう。而して後世になると、辻占を聴くは、性の男女を択ばぬようになったので、これを必ずしも巫女の所業の如く言うのは当らぬように思われるのであるが、併しその呪術の対象である岐神(フナドノカミ)が女性であり〔七〕、更に此の岐神を衢神(チマタノカミ)として斎きしものが巫女であることを知れば、元は巫女の所業と見るこそ却って穏当と信じられるのである。まだ此の外に、火占、飯占、歌占などは、共に巫女の行いしものと思うが、是等は後世に発生したものゆえ、其の時代において記述する。
猶お巫女と占術との関係に就いて一言すべきことは、前に述べた辻占にせよ、又後に記す火占、歌占にせよ、その発生当時にあっては、専ら巫女が此の事を行いしに相違ないが、その方法が極めて簡単である上に、呪力も尠く、且つ別段の修練も要せぬこととて、遂に巫女の手から離れて民衆の手に移ったものと考える。それと同時に太占(フトマニ)、石占なども、その発生期においては、或は巫女の手に在ったものが、時勢の推移と共に、巫女が男覡となり、女祝が男祝となり、女禰宜が男禰宜となったように、女性の手から男性の手に渡ったものとも考えられるのである。
〔註一〕前掲の「輓近宗教学の研究」に拠った。
〔註二〕「日本書紀」神代巻にある。
〔註三〕「釈日本紀」巻五(国史大系本)。
〔註四〕宇治の橋姫に就いては、種々なる伝説となって伝えられているが、私は辻祭の起原と同じく、変死者を橋畔に埋めた民俗に由来するものと考えている。
〔註五〕我国には「袖モギ」と称して、神を祭る折に片袖を截る民俗があった。これに就いては、拙著「土俗私考」に、各地の例を集めて論じたことがある。
〔註六〕「拾芥抄」は室町期に編纂されたものであるが、此の記事はずっと古いものと思う。猶お私の見たものは故実叢書本である。
〔註七〕岐ノ神が女性であるとは、鈴木重郷胤翁の「日本書紀伝」に詳しい考証がある。 
第二節 巫女の有せる憑き神の源流

 

我国の巫女は、各自とも呪術の原動力ともいうべき憑(ツ)き神(ガミ)を有していた。併しその神のことを、古くは何と云っていたかは、判然しない。後世の知識でいうと、仏教の守り本尊は、又はアイヌのトレンカムイ(憑き神)と同じようなものである。それで私は姑らく憑き神の名で呼ぶこととした。
我国の神々の発達を民俗学的に見ると、その多くは、始め氏の神であり、家の神であった。従って、我国の古き神々は、その神の血筋を承けた同氏族を保護するに限られていて、神と血筋を異にせる異氏族を保護するまでには進んでいなかったのである。而して、此の氏なり、家なりが、時勢と共に、膨張し、発達して来ると、今まで氏の神であり、家の神であったものが、それにつれて、村の神となり、郡の神となり、国の神となり、更に日本全国の神となるのである。
その一例を簡単に挙げると、常陸国の鹿島神は、始めは、祭神天児屋根命の血筋を継いだ中臣氏の神であった。然るに、中臣氏が藤原氏となって、帝京に居を占め、皇恩に浴して、家門が時めくようになると、氏ノ神を遠隔の地である常陸に置くことは、祭儀その他に不便が多いところから、先ずその分霊を河内国河内郡牧岡ノ里に遷し祀った。これが即ち牧岡神社である。ところが河内に氏神が在るのではまだ不便なので、後に大和国添上郡春日ノ里に遷し、これを春日神社と称した。而して斯くてある間に藤原氏の門葉が天下に茂り、藤原氏にあらざれば人にあらずと云うほどの繁昌を致し、領地が国々に亘り、荘園が各地に開かれるようになれば、それ等の人々によって、鹿島神は各地に遷し祀られる事となる。それと同時に、鹿島社の社格も、氏人である藤原氏の発達に伴い向上して、社領も加り、社領のあるところには鹿島神を祀るものが多く、こうして氏の神が国の神となり、遂には日本国中の神とまで発達してしまったのである。これが我国における氏神信仰の由来なのである。
然るに、氏族の移動が烈しくなり、氏族の分裂が盛んに行われるようになると、氏神信仰は漸次に衰えて産土神(ウブスナ)信仰が起るようになって来た。即ち祭神と血液で繋がれた氏族の守護神は一変して、今度はその神の占領(うしは)くところの土地内に生れ、又は住む者は誰人でも守護するという産土神となった。換言すれば、立体的に父から子へ、子から孫へと血を分けることが信仰の基調となっていた氏神が、後には平面的に神の領する土地内に住みさえすれば宜いという産土神と改められてしまったのである〔八〕。
巫女の憑き神も亦此の推移から脱することは出来なかったのである。巫女の憑き神は、その最初は氏神と同じく、血で繋がれた祖先の霊魂であった。それ故に、後世の口寄の市子が、第三者に依頼されて、幽界にいる霊魂を寄せるときに、依頼者と関係なき者は出て来ぬというのは、これが為めである〔九〕。而して古代の巫女が如何にして祖先の霊魂を自分の憑き神としたか、その方法に就いては全く知る事が出来ぬのである。勿論、一般的の神道から言えば、祖先の霊を祀ることだけで充分な筈であるが、併し普通の祭祀よりは一歩をすすめた呪術を行うための憑き神とするには、何かそこに特殊な方法が行われていたのではないかと考えられる。私はこれに就いて想い起こすことは、壱岐国の巫女(私の謂う口寄系のもので、同地でイチジョウと呼んでいることは既記した)が「ヤボサ」と称する一種の憑き神を有していることである。同国へ親しく旅行して民俗学的の資料を蒐集された、畏友折口信夫氏の手記及び談話を綜合すると、その「ヤボサ」の正体は、大略左の如きものである。
壱岐では巫女のことを、一体にイチヂョウと言うているが、イチと云ふのが正しい形ちなのであろう。今の人はジョウに女の感じを受けているようである。面白いのは、湯立と口寄せとを兼ねているらしい点である。
武生水のK氏という非職陸軍中尉の家が是れであり、又勝本にもあったと柳田(地名)の松本翁が話してくれた。処が、箱崎の芳野家にある「神田愚童随筆」という書に、命婦(イチ)(中山曰。壱岐や対馬では巫女を命婦と書いた例証は文献に見えている)は女官の長で、大宮司、権大宮司の妻か娘を御惣都(オソウイチ)というて、壱岐にその屋敷が二ヶ所あると載せてある。併し大宮司や権宮司の妻子ばかりを命婦(イチ)としたとあるのは疑問である。御惣都(オソウイチ)という名が他の多くの命婦(イチ)の存在を示しているのであろう。
壱岐のイチジョウの祀る神は、天台ヤボサであって、稲荷様はその一の眷属で、ヤボサ様の下であると云うている。そしてヤボサとは祖先の墓地を意味しているようである(在文責筆者)。
壱岐の「ヤボサ」に就いては、曩に後藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので〔一〇〕私は後藤氏から写真の種板の恵与を受くると共に「ヤボサ」の墓地であること——然も原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。而して更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天台矢房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。又「日向国史跡報告」によると、同国に産母神社をヤブサと訓ませたものが見えている。更に此のことを琉球出身の伊波普猷氏に話したところ、琉球には「藪佐」と書いた地名があると教えてくれた。
私は甚だ早速であるが、是等の神名や地名を手掛りとして、此の「ヤボサ」信仰は、古く壱岐・対馬・日向・琉球へかけて一帯に行われたもので、然もその信仰の対象は墓地であって、即ち祖先の霊魂を身に憑けるということが信仰の起原であろうと考えて見た。而してその霊魂を身に憑けるとは、後世の巫女が好んで墓地の土で呪術の源泉としての人形を造ることの先駆をなしているのでは無かろうかと想像して見た。巫女の持てる人形の造り方や、それの材料や、此の種の人形が如何なる呪力を有していたかに就いては、後章に詳述する機会があるので、茲には余り深く言うことを避けるとするが、兎に角に墓地の土——殊に祖先を埋めた土には、祖先の霊魂の宿っているものと信じて(後世になると支那の巫蠱の思想や呪術の影響を受けているが)それを所持し、憑き神として呪術はこれが教え示すものと考えていたのではあるまいか。「神武紀」に椎根津彦と弟猾(折口氏の高示によると弟猾は女性だとある)の二人が、天香山の土を取って天ノ平瓮を造りて戦勝を祈ったのも(此の呪術に就いては第四章第四節に述べる)、香山は古く墓地であったので〔一一〕、殊に此の山の土が択ばれたのではなかろうか。
産土の語源については昔から異説があるも〔一二〕、民間語源説ではあるが「産れた里の社の土」という説も、決して軽視する事は出来ぬのである〔一三〕。こんな事を種々と想い合せると、古代の巫女の憑き神は、祖先の霊魂であって、然かもその霊魂は祖先を埋めた墳墓の土で象徴されていたように考えるのである。
然るに、文献の上から見ると、巫女は古くから「卜庭二神」として太詔戸神と櫛真知神とを私の謂う憑き神の意味で奉持していたように考えさせるのである〔一四〕。併しながら、私の信ずるところでは、前者の太詔戸神は祝詞の神格化されたもの、後者の櫛真知神は波々加木の神格化されたもののように考えられるし、殊に此の両神は巫女の神というよりは、男覡の神として見るべきもののように思われる。而してその詳細は、次の第三章に記述するゆえ参照を乞うとするが、私にはそう考えることの決して無稽でないと信じられる点が存するのである。
巫女の憑き神も時勢と共に推し移るのは当然である。古い巫女の面影を濃厚に残していると思われる奥州のイタコの憑き神は、十三仏中の一仏であり、飯綱遣いとか、稲荷下げとか言われた巫女の憑き神は狐であった。犬神、猫神蛇神の如きも、悉く巫女の憑き神として発生したものに外ならぬのである。
〔註八〕神道学者のうちには、氏神と祖霊神とを区別して説く論者もあるが、私には此の区別は発達的には言い得るかも知れぬが、発生的には無意味だと考えている。
〔註九〕江戸期の随筆物に此の種の記事が見えているが、当然、口寄の市子に聞いて見るも、死霊は氏族の者へでなければ憑らぬと言うている。
〔註一〇〕ヤボサの語源に関して二三の学友に尋ねて見たが、遂に要領を得なかった。併しそれが墓地であることだけは疑いない事実である。
〔註一一〕天香山が墓地であることは、古く藤貞幹が「衡口発」で論じている。私は卓見だと考えている。
〔註一二〕新村出氏の「うぶすな考」が中央公論に発表されたが、私は単に言語学の方面から論断することは、多少の危険が伴うことと感じている。産土神社の、土なり、砂なりを所持して、除災する土俗は、古くから広く行われていたようである。
〔註一三〕或る神社の土なり砂なりを住宅の周囲に撒いて招福の呪法としたことも、又相当に古い民俗である。詳細は「郷土趣味」に拙稿「砂まき」と題して発表したことがある。
〔註一四〕「延喜式」に載せてある。 
 
第三章 巫女の用いし呪文と呪言

 

第一節 古代人の言霊信仰と其過程
言語が人類の間に発達して行くにつれ、人はこれに対して一種の威力を感ずるに至った。而して此の言語感情は、言語を善用するによって幸福を齎し、これを悪用するによって災禍を受けるものと考えさせるようになった。茲に言語の善悪が生じ、禁忌(タブー)が起り、善言は祝言または寿辞となり、悪語は忌詞となり、詛言となり、遂に言語には霊あるものと信ずる所謂言霊(コトダマ)信仰を生むようになったのである。
我が古代人が如何に言語に対して神経過敏であったか、それを証拠立てる史料は夥しきまでに存している。伊勢皇大神宮における忌詞や〔一〕、国造でありながら、用ゆべからざる言語を用いた為めに、極刑に行われんとした事件などは〔二〕、共にその一証として挙げることが出来る。殊に、民間においては、此の忌詞の禁忌(タブー)は、厳重に守られていたものと見えて、旅行の留守に遣ってならぬ忌詞とか、狩猟する折に用いるを避ける去り詞などが存し、殊に男女関係にあっては離れるとか切れるとか云う語を特に嫌ったものである。「万葉集」巻十三に、「菅の根の慇懃(ネモコロゴロ)に、吾が思へる妹によりては、言(コト)の禁(カミ)も無くありこそと、斎瓮を斎ひ掘り据ゑ、竹珠を間なく貫き垂り、天地の神祇(カミ)をぞ吾が祈(ノ)む、いとも術(スベ)なみ」とあるのは、即ちそれである。
言霊に関しては古くから説を立てた者が頗る多く、遂に原始神道を此の方面から説こうとする言霊学とも云うべきものの一派を出すようになったが、所詮は言語に霊があるものとする信仰に外ならぬのである〔三〕。而して此の言霊が文献に現われたものでは「万葉集」巻五の山上憶良の好去好来の長歌の一節に「神代より言伝(イヒツ)てけらく、空見(ソラミ)つ日本の国は、皇神の厳(イツク)しき国、言霊(コトダマ)の幸ふ国と、語り継ぎ言ひ継がひけり」とあるのや、同集巻十三に柿本人麿の長歌の反歌に「敷島の倭の国は、言霊(コトダマ)のたすくる国ぞ、まさきくありこそ」とあるのが、それである。併しながら、是等は一般的に、且つ消極的に、言霊の存在を信仰したまでであって、まだ此の言霊を呪術に利用すると云う積極的の思想は現われていないが、前に載せた同集第十一の「言霊の八十の衢に夕占問ふ、占まさに告(ノ)れ妹に逢はんよし」とあるのは、これを呪術に用いた一例であることは既記の如くである。而して斯く言霊信仰から導かれた当然の結果として、祝言と呪言との区別を生じ、前者は吉事に用いられ、後者は凶事に用いられるようになったのである。  
〔註一〕延暦の「皇大神宮儀式帳」は、仔細に内容を検討するとき、延暦よりは時代の降った頃の編纂と考えられるが、その詮索は本問に関係が少いので姑らく措くとするも、神宮の忌詞にあっては、「延喜式」にも載せてあることゆえ、先ず正しいものと見て差支ないようである。而してその忌詞は、「斎宮式」によれば、内七言、仏称中子、経称染紙、塔称阿良々岐、寺称瓦葺、僧称髪長、尼称女髪長、斎称片膳、外七言、死称奈保留、病称夜須美、哭称塩垂、血称阿世、打称撫、宍称菌、墓称壌、又別忌詞、堂称香燃、優婆塞称角筈とある。
〔註二〕「允恭紀」二年春二月の条に、闘鶏国造が皇后忍坂大中姫命がまだ入内せぬ以前に、マクナキの一語を発したために、昔日の罪を数えて死刑に行われんとし、国造の陳謝により、死を許し、姓を貶して、稲置としたことが載せてある。
〔註三〕言霊語学の発生や、沿革に就いて、茲に言うている余裕を有たぬが、雑誌「芸文」第十二年第三号に載せた佐藤鶴吉氏の「ことだま考」は、それ等に及んでいるので参照を望む。 
第二節 祝詞の呪術的分子と呪言の種類

 

我国の祝詞(延喜式に載せたもの及び台記の別記にある寿辞を含めて)なるものが、その本質的に呪文としての思想が多分に盛られていることは、深い説明の要はあるまいと思う。一二を言えば、新年祭に、御年ノ神に「白き馬、白き猪、白き雞」を備えたことは、即ち古き呪術が祝詞に残ったものである。朝廷で、白き猪の捕れぬままに、祈年祭を延期した例は幾度もある。後には白き猪が如何にするも捕れぬので、普通の猪を白く染めて祭儀を挙げたことすらある〔一〕。是等は呪術の一種であるが、それを称えることは直ちに呪文と云うことが出来るのである。出雲国造神賀詞に、
白鵠の生御調の玩物と、倭文の大御心もすべむに、彼方の古川岸、此方の古川岸に生立てる、若水沼の間弥若えに御若え坐し、濯ぎ振りさく淀みの水の、弥をちに御をちまし。
とあるのもそれであって、即ち変若水(ヲチミヅ)を飲んで、永久に御弥若(イヤワカ)えにませとの呪文である〔二〕。更に中臣寿詞にある
天玉櫛を事依(コトヨザ)し奉りて、此の玉櫛を刺し立て、夕日より朝日の照るに至るまで、天津詔詞の太詔詞言(フトノリトゴト)(中山曰。この事は次節に述べる)をもて告れ、かく告(ノ)らば、兆は弱蒜に由都五百篁生ひ出でむ、それより下天の八井出でむ、ここを持ちて、天つ水と聞し食せと事依し奉りき。
の一節の如きは、呪文そのままとも云えるのである〔三〕。
併しながら私は、決して、祝詞は呪文から発生したものだと、断定する者ではない。成る程、呪文本位の立場から祝詞を見れば、呪文の本質に、祝言(ホガイ)の衣服を着せたものが、祝詞であると云えるようでもあるし、更に祝詞本位の立場から呪文を見れば、祝詞のうちから、呪文の分子を取り除いたものが、祝詞であるとも云えるようであるから、古代に溯るほど、両者の関係が頗る密接なる物であって、殆ど厳格には区別することが出来ぬほどになっているようである。而して両者が斯くの如き関係に置かれてあるのは、恐らく巫女の呪術を母胎として生れた兄弟が、用途と時勢との影響を受けて、一方は呪文として発達し、一方は祝言として発達し、遂に別々なものとなったのであろうと考えている。 
一 祝言から祝詞へ
祝言(ホガイ)の古いものは、「新室ほがい」とて、新築の家屋を祝い、併せてその家の主人の幸福を祝するもので、次には「酒ほがい」とて、新しく醸せる酒を祝い、併せて此の酒を飲む者の栄光を祝するものである。而して前者にあっては「古事記」巻上に、出雲の多芸志の小浜に、天の御舎(ミアラカ)を造りしとき、櫛八玉神が神火を鑚りて言祝(コトホギ)し、
この吾が燧(キ)れる火は、高天原には、神産巣日御祖命のとだる天の新巣の凝煙(スス)の、八掌垂るまで焼挙げ、地下は、底津石根に焼凝して、栲縄の千尋縄打ち延へ、釣らせる海人が大口の尾翼鱸、さわさわに控きよせ騰(ア)げて、折坼(サキタケ)のとををとををに、天の真魚咋献らむ。
とあるのが初見である。そして「顯宗紀」に、天皇が潜龍の折に、播磨国縮見屯倉の新室を寿(ホ)ぎて、
築(ツ)き立ち稚室葛(ツナ)ね、築き立る柱は、此の家長(キミ)の御心の鎮りなり。取り挙る棟梁(ムネウツバリ)は、此の家長の御心の林なり、取り置ける椽橑(ハヘキ)は、これ家長の御心の齊(トトノホフ)なり、取り置ける蘆雚(エツリ)は、この家長の御心の平(タヒラナル)なり、取り結へる縄葛(ツナネ)は、此の家長の御寿(ミイノチ)の堅きなり、取り葺く茅は、此の家長の余りなり、出雲は新墾(ニヒハリ)なり、新墾の十握の稲の穗、淺甕(サラケ)に醸(カ)める大御酒を、美(ウマラ)に飲喫(ヲヤラフル)かね、吾が子(ヒトコト)たち、足曳の此の傍山(カタヤマ)の、小男鹿の角ささげて、吾が儛はば、うま酒餌香の市に、値(アタヒ)も買はず、手(タナ)そこもやららに、拍(ウチ)あげたまへ、吾が常世(トコヨ)たち。
とあるのは、最も有名であるだけに、又よく古代の室寿(ムロホギ)の信仰を具現しているのである。而して後者にあっては「神功記」に、
此の御酒(ミキ)は、わが御酒ならず、奇(クシ)の首長(カミ)、常世(トコヨ)に坐す、石立たす、少名御神の、神寿(カムホギ)、寿(ホギ)くるほし、豊寿(トヨホギ)、寿(ホギ)もとほし、献(マツ)り来し、御酒ぞ、涸(ア)さず飲(ヲ)せ、ささ。
と酒祝いして、応神帝に献りしとき、武内宿禰が帝の御為めに答え奉りし歌に、
此の御酒を、醸みけむ人は、其の鼓、臼に立てて、歌ひつつ、醸みけれかも、舞ひつつ、醸みけれかも、此の御酒の、御酒の、妙(アヤ)に、転楽(ウタタヌ)し、ささ。
とあるので、その事がよく知られるのである。
こうした祝言は、吉を好み、凶を嫌う人情と共に発達して、後には此の祝言を言いたてて渡世する「祝言人(ホガイビト)」なる者を生む様になった。「万葉集」巻十六に載せてある長歌二首は、是等の徒が謡うたものである〔四〕。而して此の祝言は、神道が固定すると共に祝詞(ノリト)に取り入れられて、遂に祝詞の中心思想をなすに至ったのである。大殿祭の一節に、
皇御孫命の天の御翳(ミカゲ)日の御翳と、造り仕へ奉れる瑞の御殿(ミアラカ)を、汝屋船命に天つ奇護言(クスシイハヒゴト)を持ちて、言寿(コトホ)ぎ鎮め白さん。これの敷坐す大宮地は、底つ磐根の極み、下つ綱根這ふ虫の禍なく、高天原は青雲の靄(タナビ)く極み、天の血垂り飛ぶ鳥の禍なく、掘り堅めたる柱桁梁戸牖の錯(キカ)む動き鳴ることなく、引結べる葛目(ツナメ)の緩び、取葺ける草の噪ぎなく、御床の辺の喧ぎ、夜目のいすずきいづつしことなく、平けく安らけく護り奉(マツ)る。
とあるのや、広瀬大忌祭の一節に、
かく奉るうづの幣帛(ミテグラ)を、安幣帛の足幣帛と、皇神の御心平けく安けらく聞しめして、天御孫命の長御膳(ナガミケ)の遠御膳と、赤丹のほに聞しめさむ、皇神の御刀代(ミトシロ)を始めて、親王等王臣等、天が下の公民(オホミタカラ)の、取り作る奥つ御歲は、手肱に水沬画き垂り、向股に泥(ヒヂ)画き寄せて、取り作らむ奥つ御歲を、八束穗に皇神の成し幸へ賜はば、初穗は汁にも頴(カヒ)にも、千稲八千稲に引き据ゑて、横山の如打積み置きて、秋の祭に奉らむ。
とあるなど、祝詞(ノリト)は祝言(ホカイ)の連続とも言うべきまでに修正されてしまったのである。 
二 呪文より呪言へ
呪言と云うも、呪文と云うも、それは文字上の差別で、その内容にあって殆ど共通しているのであるが、私は便宜上これを二つに分けて、言句の短きものを呪言とし、やや長きものを呪文として見たのであるが、それが極めて非学問的であることは、私も認めている。取捨は元より読者の自由である。而してこれには、種々たる固有名詞があるので、それに従って左に挙げるとした。 
トゴヒ
古く「詛」をトゴヒと訓ませているので之に従うが、その意は己れの憎しと思う者を凶言(マガゴト)して、禍(マガ)あらしむるよう行う術である。「日本書紀」神代巻に、天稚彦が天津神の使なる雉を射殺せし矢が天津神の所に至りしとき、
天神その矢を見たまひて曰く、これ昔我が天稚彦に賜ひし矢なり。今何の故に来たると宣(ノタマ)ひて、乃ち矢を取りて呪(トゴ)ひ曰く、若し悪き心を以て射ば、則ち天稚彦は必ず遭害(マジラ)れなん(中略)。因て還し投てたまふ。即ち其の矢落ち下りて、天稚彦の高胸に中りぬ。因て以て立どころに死しぬ。
とあり、更に「古事記」には、此の事を叙して、天神が「若し邪き心しあらば、天若日子、此の矢に禍(マガ)れと宣りたまひき」云々とある。即ち此の「禍(マガ)れ」と宣(ノ)られたことが、トゴヒなのである。同じ「日本書紀」神代巻に、天孫瓊々杵尊が、大山祇命の姉女磐長媛を斥けて、妹女木花開耶媛を召されしとき、
かれ、磐長媛大に慙(は)ぢて詛(トゴ)ひて曰く、仮令、天孫、妾を斥けたまはで御(メ)さましかば、生めらむ児(ミコ)、寿(イノチ)永きこと、磐石(トキハ)常存(カキハ)の如ならまし、今既に然らず、唯弟(イロト)のみ独り御(メ)せり、かれその生めらん児、必ず木の花の如に移り落ちなん。
とあるのも、又それである。更に同じ神代巻の一書に、火々出見尊が、兄火酢芹尊と、海幸山幸とを易えて鈎(ハリ)を失い、海宮に至りてその鈎を獲たとき、海神の尊に教えて、
鈎を以て汝の兄に与へたまはん時に、則ち詛(トゴ)ひ言(イ)はまく、貧窮(マチ)の本(モト)、飢饉(ウヱ)の始、困苦の根とのたまひて、而して後に与へたまへ。
とあるのも、よく呪言の本質を説明している。それから「雄略紀」冬十月の条に、御馬ノ皇子が三輪ノ磐井の側で戦って捉われ、刑に臨んで、
指井而詛(トコヒテ)曰、此水者百姓唯得飲矣。
とあるのや、「武烈紀」冬十一月の条に、
真鳥大臣恨事不済、知身難免、計窮望絶、広指塩詛、遂被殺戮、及其子弟詛時、唯忘角鹿海塩、不以為詛、由之角鹿之塩、為天皇所食、余海之塩、為天皇所忌。
とあるなど〔五〕、咸(み)なトゴヒの例として見るべきものである。 
ノロヒ
伴信友翁は、ノロヒに定義を下して、「ノロヒとは怨みある人に禍を負ふせむと、深く一向に念(オモ)ひつめてものする所為と聞こゆ」となし、更にトゴヒとノロヒの区別を説いて「トゴヒは言霊によりてする術、ノロヒは言に云はず、念ひつめてものするなり」としている〔六〕。よく我が古代の呪術の本質を尽しているものと思う。而してノロヒの方法に就いては、「日本書紀」神代巻の一書に、
日神、新嘗きこしめす時に及至(イタ)りて、素戔嗚尊則ち新宮の御席の下に於て、陰に自ら送糞(クソマ)る。日神知ろしめさずして、径(タダ)に席の上に坐たまふ。是に由て日神体挙りて不平(ヤクサ)みたまふ。
とあるのに対し、「釈日本紀」巻七に公望の私記を引いて、
凡欲詛人之時、必有送糞其坐、若染其糞者、必有憂病、故日神染糞有病、若是古代之遺法也、今代人之欲詛人者、亦有放失者、倣此耳。
とあるのが、その徴証であるが〔七〕、如何にも原始的の呪法として納得されるのである。「神功紀」四十七年夏四月の条に、百済の使久氏等が、我国に来る途中にて、新羅に捕われし事を記して、
新羅人捕臣等、禁囹圄、経三月而欲殺、時久氏等向天而呪詛(ノロヒトコフ)之、新羅人怖其呪詛、而不殺。
とある。これは、言うまでもなく、百済のノロヒの事を記したものであるが、その方法なり、内容なりにおいては、古く我国と共通したものがあったので、かく載せたものと考えられるのである。 
カジリ
カジリと、トゴヒとは、殆んど同義のものであって、僅にその呪術の程度によって、差別するほどのものである。而して両者を形式の上より区分すれば、カジリの場合は、何か物実(モノザネ)を置き、それへ呪力を憑依せしめるものであるのに反して、トゴヒは既述の如く、専ら言霊の活用により呪術を行い、必ずしも物実を要さぬ点が両者の相違である。
「神武紀」戌午年秋九月の条に、
天皇悪之、是夜自祈而寝、夢有天神訓之曰、宜取天香山社中土、以造天平瓮八十枚、幷造厳瓮而敬天神地祇、亦為厳呪詛(イツノカシリ)、如此則虜自平伏(中略)。祭天神地祇、則於菟田川原朝原、譬如水沬而有所呪著(カジリツケ)也。
とあるのは、よくその事象を現わしている。而してカジリに就いて、伴信友翁は、
武蔵の或る田舎人、山伏の憑術行(ヨリワザシ)て、口よせと云ふ事をせる由を話せる詞に、憑(ヨリ)に立たる人に、生霊を「かじりつけて」云々。その「かじりつかれたる」人は云々といへり。又そが平常の詞に、人に対ひて只管に念ひ入たる事を言ふとて、かじりつきて云々すべいと云ひ、又た硬き物喰ふを「カジル」とも「カジリツク」とも云ひて、同詞の遣ひざまに言へり。思ひ合せて言の意を知るべし。
と説かれたのは、極めて要領を得たものである〔八〕。それから、「欽明紀」二十三年六月の条に、
是月或有譖馬飼首歌依(中略)。即収附廷尉、鞠問極切、馬飼首歌依乃揚言誓曰、虚也、非実、若是実者、必被天灾、遂困苦間伏地而死、死未経時、急灾於殿、収縛其子守石与中ョ氷、将投火中、呪曰、非吾手投、呪訖欲投火、守石之母祈請曰、投児火裏、火灾果臻、請付祝人使作神奴。
と見えている。此の記事には、文字の脱落が二ヶ所ほどあって、事由を解するに苦しむところがあるも、茲には歌依がカジリをしたと云うことだけが確実であれば、その他は姑らく措くとするも差支ないと考えたので、敢て抄録した次第である。 
ウケヒ
谷川士清翁は、ウケヒの意義に就いて、
日本紀に誓約ノ字、誓ノ字、祈ノ字、などを訓(よ)めり、又盟をうかうとよむも同じ。請言の義いのりちかふ事をいへり。源氏物語のこき殿などのうけはしげにのたまふと云ひ、伊勢物語に罪なき人をうけへはと云へるは詛(ノラ)ふ方に云へり。よて真名本に呪詛と塡たり。古事記にも宇気比死(コロス)と見えたり。
と言うているが〔九〕、これでウケヒの本質を知ることが出来る。而してウケヒの事例にあっては、「崇神紀」十年七月の武埴安彦が、謀反の条に、
天皇(中略)。吾聞、武埴安彦之妻吾田媛密来之、取倭香山土裏領巾(ヒレ)頭祈曰(ウケヒテ)、是倭国之物実則反之、是以知有事焉。
とある。此の外にも、記・紀に載するところ尠くない。「万葉集」巻四、大伴家持の歌に「都路を遠みや妹が此頃は、誓約(ウケ)ひて寝れど夢に見え来ぬ」とあり、更に誓(ウケ)い狩、又は誓い釣とて、神意を占うために或は獣を狩り、或は魚を釣ることなども行われた〔一〇〕。殊に神功皇后が征韓に際し伊覩県に到りしとき「適当皇后之開胎、皇后則取石挿腰、而祈之曰、事竟還日、産於茲土」とあるのは、ウケヒが一種の呪術として用いられた例証である。 
オヨヅレゴト
神武紀にある「諷歌倒語」の意義に就いては、古くから国学者の間に異説があって、今に定説を聞かぬほどの難問であるが〔一一〕、私は飯田武郷翁が此の語の細註に「万葉集に、狂言香逆言哉云々。とある逆言を、古くサカシマコトと訓り。この逆言はオヨヅレゴトと訓べきよし先達云はれたる、さることなり」とあるを論拠として〔一二〕、諷歌倒語は即ち古きオヨヅレゴトの当て字と断定する者である。而してこれの用例は「天智紀」九年春正月の条に「禁断誣妄妖偽(タハコトオヨヅレコト)」と載せ、「天武紀」には「妖言(オヨヅレゴト)」と見えている。「万葉集」巻三石田王の挽歌の一節に「妖言(オヨヅレ)か吾が聞きつる、狂言(タハコト)か我が聞きつるも」とあり、同集巻一七に長逝せる弟を哀傷(カナ)しむ長歌の一節に「玉梓の使の来れば、嬉しみと吾が待ち問ふに、妖言(オヨヅレ)の狂言(タハコト)かも」とあるのは、共に此の語の呪言としての内容を考えさせるものがある。私は神武紀の諷歌倒語は、かの流言蜚語の意とは全く趣きを異にし、呪言とあるべき(殊更に語を倒(サカシ)まにする事もある)を斯く記したものと信じているのである。
此の一節の擱筆に際し、特に言うて置かねばならぬ事は、以上に列挙した呪言なり、呪文なり、又は祝詞なりは、必ずしも巫女に限り用いたもので無いと云う点である。否、此の反対に文献の示すところによれば、巫女よりは覡男が却って多く用いていたことを証明しているのである。従って此の一節は厳格なる意味から言えば、巫女史の埒外を越えた点が尠くないのであって、広義の呪術史の一節たるが如き観を呈するに至った。
併しながら、巫女が覡男に先だって発生し、後世まで巫覡と並び立っていたことは事実であるので、これ等の呪言や、呪文や、祝詞なども、その始めにあっては、巫女が創作して、覡男が後唱したものかも知れぬのである。且つ如上の呪言や、呪文、その他の一々に就いて言うも、どれが巫女の唱えたもので、どれが覡男が唱えたものか、その区別は、今日からは到底知ることが出来ぬので、姑らく併せ掲ぐることとしたのである。万一の誤解を虞れて、此の事を附記する次第である。 
〔註一〕「明月記」にその事が詳記してある。カードを探したが見当らぬので、記憶のままで記した。
〔註二〕白鵠は「垂仁記」にある曙立王の故事であって、それが呪術的であることは、言うまでもない。更に「おち水」とは、天上の霊水を飲めば、精神も肉体も更新するという信仰から来たもので、典拠は「旧事本紀」に載せてある。現行の正月の若水は、此の信仰の名残りをとどめたもので、折口信夫著の「古代研究」民俗篇第一冊「若水の話」に詳述してある。参照を望む。
〔註三〕兆とは太占のマチのことで、五百篁生ひ出でむとは、既述した諾尊が精霊を逐うときに櫛を投じたら筍になったという故事を寓したものである。此の祝詞が呪術的意味を多大に含んでいることは、此の一事でも知れるのである。
〔註四〕折口信夫氏の研究によれば、元来「祝言」なるものは、神々が民人を祝福したことに始まるもので、従って後世の「祝言人」なるものは、神々の代理として民人に蒞んだものだと云うことである。後世の千秋万歳、大黒舞などを始め、民間行事の奥州のカワハギ、山陰のホトホトなどは、悉く此の信仰を残しているものである。
〔註五〕此の紀の詛を、一般にはノロフと訓んでいるが、私は伴信友翁の「方術源論」に従い、トゴヒと訓むこととした。
〔註六〕伴信友翁の「方術源論」にある。猶お此の機会に言うて置くが、私の此の一節は専ら伴翁の「方術源論」に拠り説を試みたものである。茲にその事を記して、伴翁の学恩を深く感謝する次第である。
〔註七〕誠に比倫を失うことではあるが、今に盗賊が家に忍び込むとき糞まるのは、此の呪術の一片を伝えたものと想われる。民俗の源流の遠き、学問に志す者の注意すべきことである。
〔註八〕同上の「方術源論」。
〔註九〕「増補語林倭訓栞」その条。
〔註一〇〕「うけひ狩」も「うけひ釣」も、共に「神功紀」に載せてある。これに就いては、後章「巫女と狩猟」の項に全文を引用する機会があろうと思うので、今は省略に従うにした。
〔註一一〕伴信友翁の「比古婆衣」を始め、各書に見えているが、茲には煩を厭うて一々の書名は預るとした。
〔註一二〕飯田武郷翁の「日本書紀通釈」の其の条。 
第三節 言霊の神格化と巫女の位置

 

我国における一般的の呪術から言うと、太卜(フトマニ)は最も古き方法であって、然も最も重きものである。文献の示すところによれば、諾冊二尊もこれを行い、天照神の磐戸隠れにもこれを行い、天児屋根命が神事の宗源を司るというのも詮ずるに此の事が重大なる務めであった。人の世となり、鹿卜が亀卜と変り、児屋根命が卜部氏となっても、太卜の呪術的重要さは、依然として少しも渝るところがなかった。従って歴聖も大事のある毎にこれを行い、民間でも稀にはこれを行うことすら有った〔一〕。然るにこれほど重要なる太卜の呪術に、巫女が深い関係を有してゐぬのは抑々如何なる理由であろうか。
一、太卜が文献に記されるようになった頃は、覡男の勢力に巫女が圧倒された為めであるか。
二、それとも、太卜というが如き最高の呪術には、当初から巫女は交渉を有(モ)たぬのであろうか。
これに対する私の答えは、極めて簡単明瞭である。即ち巫女は初め太卜に関係し、然もこれが中心となっていたのであるが、世を代え時を経る内に、神道が固定し、呪術が洗練されて神事となり、覡男が巫女を排斥した結果として、遂にかかる文献を残したに過ぎぬと言うのである。而して私の此の答えは、太卜の主神である卜庭之神(ウラニハノカミ)──即ち太詔戸命(フトノリトノミコト)と、これに仕えた巫女の亀津比女命との考覈を試みれば、それで明白になり且つ確実になるものと信じている。
太卜を行うには、卜庭二神の太詔戸命と櫛真知命(クシマチノミコト)とを祭ることが、儀礼となっていた〔二〕。太詔戸命に就いては「釈日本紀」巻五(述義一)の太卜の条に左の如く載せてある。
太占(フトマニ)
私記曰。問○何是占哉○答。是卜之謂也。上古之時。未用亀甲。卜以鹿肩骨而用也。謂之フトマニ(中略)○亀兆伝曰。凡述亀誓。皇親神魯岐{○原/註略}神魯美命{○原/註略}荒振神者掃々平。石木草葉断其語。詔群神。吾皇御孫命者。豊葦原水穂国安平知食。天降事寄之時。誰神皇御孫尊朝之御食。夕之御食{○原/註略}長之御食。遠之御食之間{○原/註略}可仕奉。神問々賜之時。径天香山白真名鹿{一説云。白/真男鹿。}吾将仕奉。我之肩骨内抜々出。火成卜以問之。問給之時。已致火為。太詔戸(フトノリト)命進啓。{又按。持神女住天香山也。亀津比/女命。今称天津詔戸太詔戸命也。}白真鹿者。可知上国之事。何知地下之事。吾者能知上国地下天神地祇。況復人情憤悒。但手足容貌不同群神。故皇御孫命放天石座別八重雲天降坐。立御前下来也云々(国史大系本)。
此の記事を読んで、当然、導出される問題は、(一)太詔戸命とは如何なる神か、(二)太詔戸命と亀津比女との関係を如何に見るか、及び此の両神と太卜との交渉は如何なる物かと云う二点である。私はこれに就いて簡見を述べて見たいと思う。 
一 太詔戸命は言霊の神格化
私の父は大へんな平田篤胤翁の崇拝家であっただけに、草深い片田舎の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であった〔三〕。その父が生前に書き残して置いたものの中に「六月晦大祓」の祝詞の一節に「天つ菅麻(スガソ)を、本刈断(モトカリタ)ち末(スヱ)打切りて、天津祝詞(アマツノリト)の太祝詞事(フトノリトコト)を宣(ノ)れ、斯く宣らば天つ神は」云々とある「太祝詞」とは何の事か知るに由がないと云う意味が記してあった。私は深く此の事を記憶していて、爾来、本居・平田両翁の古典の研究を始め、伴信友、橘守部、鈴木重胤等の各先覚の著書を読む折には、必ず特に「太詔詞」の一句に注意を払って来たのであるけれども、私の不敏のためか、今に此の一句の正体を突き留めることが出来ぬのである。それでは、代々の先覚者には、此の事が充分に解釈されていたかと云うに、どうも左様ではなくして、多分こんな事だろう位の推し当ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位のものにしか過ぎぬのである。かく碩学宏聞の大家にあっても、正体を知ることの出来なかった太詔詞の一句、田舎親爺の父などに知れるべき筈のないのは、寧ろ当然と云うべきである。然らば、その太詔詞とは如何なる物であるか、先ず二三の用例を挙げるとする。
太詔詞の初見は「日本書紀」神代巻の一書に「使天児屋命掌其解除之太諄辞(フトノリトゴト)而宣之。」のそれで、祝詞では前掲の大祓の外にも散見しているが、重なるものを挙げれば「鎮火祭」には二ヶ所あって、前は「天下依(ヨザ)し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん」とあり、後は「和稲荒稲に至るまでに、横山のごと置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、称辞(タダヘコトヲ)竟へ奉らんと申す」とある。「道饗祭」には「神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉ると申す」とあり、「豊受宮神嘗祭」には「天照し坐す皇大神の大前に申し進(タテマツ)る、天津祝詞の太祝詞を、神主部物忌等諸(モロモロ)聞しめせと宣る」とあり、これも前に引用した「中臣寿詞」には「この玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るまで、天津祝詞の太詔詞言(フトノリトゴト)をもて宣れ」とあり、更に「万葉集」巻十七には「中臣の太祝詞言(フトノリトゴトイ)ひ祓ひ、贖(アダ)ふ命も誰がために汝(ナレ)」と載せてある。
而して是等の用例に現われたる太詔詞に対する諸先覚の考証を検討せんに、先ず賀茂真淵翁の説を略記すると「或人(中略)、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より伝われる言あるならん、と云へるはひがことなり」とて〔四〕大祓の外に別に太詔詞あることを云わず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れていぬのである。本居宣長翁は「太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の宣(ノル)此詞を指せるなり」として〔五〕、賀茂説を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うていぬ。然るに、平田篤胤翁に至っては、例の翁一流の臆断を以て、異説を試みている。
茲にその梗概を記すと、
太祝詞を天津神国津神の聞食せは、祓戸神等の受納給ひて罪穢を却ひ失ひ給う。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事乎宣礼とは何を宣る事とかせむ。
と言われたまでは卓見であるが、更に一歩をすすめて、太祝詞の正体は、
太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御伝へ坐るにて、祓戸神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天児屋命の宣給へる辞も、其なるべく所思ゆ。
とて〔六〕、遂に禊祓を太祝詞と断定したのである。鈴木重胤は平田説に示唆されて一段と発展し、伯家に伝りし大祓式に三種ノ祝詞あるを論拠として、遂に太詔詞は、
吐普加身衣身多女とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普は遠大(トホ)にて天地の底際(ソコヒ)の内を悉く取統て云なり、加身は神にて天上地下に至るまで感通らせる神を申せり、依身は能看(エミ)、多女は可給(タメ)と云ふ事にて(中略)。簡古にして能く六合を網羅(トリスベ)たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり(中略)。此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なるものなり、そは大祓の大祝詞に用ゐららるに祓給幣清給幣の語を添て申すを以て暁(サト)る可きなり云々。
と主張している〔七〕。鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、これを吐普加身云々を以て充当しようと企てられたのは、恰も平田翁がこれを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じことで、共に出典を欠いた臆説と見るべき外はないのである。
然らば太詔詞の正体はと云えば、これは永久に判然せぬものであると答えるのが尤も聡明なようである。恐らく此の神呪はこれを主掌している中臣家の口伝であったに相違ないゆえ、それが忘られた以上は永久に知る事の出来ぬものである。然るに、茲に想い起されることは、「類聚神祇本源」巻十五(此の書に就いては第一篇第二章に略述した)神道玄義篇の左の一節である。
問開天磐戸之時、有呪文歟如何、答呪文非一、秘訓唯多(中略)。又云而布瑠部由良由良止布瑠部文、此外呪文依為秘説不及悉勒、謂天神寿詞天津宮事者、皆天上神呪也。
問何故以解除詞称中臣祓哉、天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何。答以解除詞称中臣祓者、中臣氏行幸毎度奉献御麻之間有中臣祓之号云々。此外猶在秘説歟、凡謂濫觴、天児屋命{○原/註略}掌神事之宗源云々。奉天神寿詞、天村雲命者{○原/註略}捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天児屋命、天児屋命貽神術於奉仕累葉(中略)。次座仁面受秘訓莫伝外人、由縁異他相承厳明也、復次天祝太祝詞、是又有多説、此故聖徳太子奉詔撰定伊弉諾尊小戸橘之檍原解除、天児屋命解素戔鳴悪事神呪、皇孫尊降臨霊驛呪文、倭姫皇女下樋小河大祓、彼此明々也、共可以尋歟(続々群書類従「神祇部」本)。
此の記事に拠れば、太詔詞は全くの呪文であって、然もその呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名によって伝えられている事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手によって著作された此の種の文献を、決して無条件で受容れる者ではないが、兎に角に祝詞の本質が古く呪文であったこと、及び此の書の作られた南北朝頃には、まだ太詔詞なるものが存していたことなどを知るには、極めて重要なる暗示を与えるものと考えたので、かくは長々と引用した次第なのである。殊に注意しなければならぬことは、此の記事によれば、天児屋命は純然たる公的呪術師であって〔八〕、神事の宗源とは即ち呪術であることが明確に認識される点である。まだ太詔詞に就いては、記したいことが相当に残っているのであるが、それでは余りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戸命の正体に就いて筆路をすすめるとする。
伴信友翁は「太詔戸命と申すは、児屋命を称へたる一名なるべし(中略)。名に負ふ中臣の祖神に坐し、はた卜事行ふにも、神に向ひて、其の占問ふ状を祝詞する例なるにあはせて、卜庭に祭る時は、太詔戸命と称へ申せるにぞあるべき。」と考証されているが〔九〕、私に言わせると、是れは伴翁の千慮の一失であって、太詔戸命とは即ち太詔詞の言霊を神格したものと信じたいのである。畏友武田祐吉氏の研究によれば、
言霊信仰は、おのずから言語を人格神としてとり扱うに至るべきことを想像せしめる。その例として、辞代主神、一言主神の如き、言霊神ではないかと思われる。辞代主のしばしば託宣するは史伝に見ゆるところであり、一言主も亦「郷土研究」によれば〔一〇〕、よく託宣したことが見えている。善言も一言、まが言も一言と神徳を伝えたその神が、言霊の神であるべきことは想像せられ易い。
とあるのは至言であって〔一一〕、私は是等の辞代主、一言主に、更に太詔戸命を加えたいと思うのである。伴翁は太詔戸命と共に卜庭の神である櫛真知命は波々加ノ木の神格化であるとまで論究されていながら〔一二〕、何故に太詔戸命の太祝詞の神格化に言及せられなかったのであるか、私にはそれが合点されぬのである。所謂、智者の一失とは此の事であろう。前に引いた「亀兆伝」の太詔戸命の細註にも「持神女、住天香山也、亀津比女命、今称天津詔戸太詔戸命也。」となりと明記し、児屋命と別神である事を立証している〔一三〕。太詔戸命は言霊の神格化として考うべきである。 
二 太詔戸命と亀津比女命との関係
亀津比女命なる神名は、独り「亀兆伝」の細註に現れただけで、その他の神典古史には全く見えぬ神なるゆゑ、その正体を突きとめるに誠に手掛りが尠いのであるが、此の細註に神を持つ女、天ノ香山に住む、亀津比女命、今は太詔戸命と称するとある意味は、既に言霊の太詔詞が神格化されて太詔戸命となり、これに奉仕していた巫女を亀津比女命と称したのが、更に附会混糅されて亀津比女命は即ち太詔戸命であると考えられるようになったものと信ずるのである。而て斯かる例証は原始神道の信仰においては屡々逢着するところであって、少しも不思議とするに足らぬのである。
旁証として茲に一二挙げんに、原始神道の立場から云えば、畏くも天照神は日神に奉仕された最高の女性であって、決して日神その者ではなかったのである。それが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神徳が弥が上に向上されて来た結果は、天照神即日神という信仰となってしまったのである。更に豊受神にしたところが、「丹後国風土記」の逸文を徴証として稽えれば、豊受神は穀神に奉仕した女性であって、これも決して穀神その物ではなかったのである。それが伊勢の度会に遷座し、天照神の御饌神として神徳を張るようになったので、遂に豊受神即穀神とまで到達したのである。而して茲に併せ記すことは、頗る比倫を失う嫌いはあるが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子、酒見郎女の二神も、仁徳朝の掌酒であって、酒神その者ではなかったのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豊受神と同じ理由──その間に大小と高下との差違は勿論あるが、兎に角にこうした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、よく発見されることなのである。亀津比女と太詔戸命との関係も又それであって、始めは亀津比女は神を持てる女として太詔戸命に仕えていたのが、後には太詔戸命その者となってしまったのである。こう解釈してこそ両者の関係が会得されるのである。
亀津比女が巫女であった事は、改めて言うまでもないが、ただ問題として残されていることは、亀津比女の名が総てを語っているように、此の巫女は鹿卜が亀卜に変ってから太詔戸命に仕えた者か、それとも鹿卜の太古から仕えたものかと云う点である。巫女が鹿卜に与ったと云うことは、他の文献には見えていぬので、これを考証するに困難を感ずることではあるが、姑らく「亀兆伝」の記すところによれば、前掲の如く「天香山白真名鹿、吾将仕奉。我之肩骨内抜々出、火成卜以問之」とあるので、巫女は鹿卜時代からこれに交渉を有していたものと見て差支ないようである。後世の記録ではあるが、「続日本紀」宝亀三年十二月の壱岐国の卜部氏のことを記せる条に「壱岐郡人直玉主売」とあるのは、女性のように思われるので参考とすべきである。 
〔註一〕「万葉集」巻十四に「武蔵野に占(ウラ)へ肩灼き真実(マサデ)にも、告らぬ君が名卜(ウラ)に出にけり。」とあり、同巻に「大楉(オフシモト)この本山の真終極(マシバ)にも、告らぬ妹が名卜兆(カタ)に出でむかも」とあり、同巻十五雲連宅満の挽歌の一節にも「壱岐の海人の名手(ホツテ)の卜筮(ウラベ)を、肩灼きて行かむとするに」云々とある。是等は太卜の民間に行われたことを証明しているものである。
〔註二〕「本朝月令」に引ける弘仁神祇式に「卜御体、卜庭神祭二座」云々と見え、延喜四時祭式にも「卜御体卜庭神祭二座、御卜始終日祭之」と載せてある。而して此の二神は太詔戸命と櫛真知命であることは、本居翁の「古事記伝」及び伴翁の「卜正考」等に考証されている。
〔註三〕私の父は平田翁を崇拝の余り、控え屋敷へ平田翁外二翁を併せ祭った霊三柱神社という大きな社を建てて、朝夕奉仕した。従って神典古史も可なり読んでいて、郡中の神職連などは父の弟子分ともいうほどであった。私も此の父の庭訓で八九歳ごろから祝詞を読ませられたものである。拙著「日本民俗志」に收めた「男がお産の真似をする話」に載せた記事の一半は、私の体験と父の庭訓振りを書いたものである。
〔註四〕祝詞考(賀茂真淵全集本)。
〔註五〕「大祓後釈」巻下(本居宣長全集本)。
〔註六〕「天津祝詞考」及び「古史伝」に拠った。但し行文は専ら鈴木重胤翁の「祝詞講義」に要約したものに従うたのである。
〔註七〕鈴木重胤の「延喜式祝詞講義」巻十。
〔註八〕天児屋命が我国最高の公的呪術師である事を考えさせる記録は決して尠くないが、此の「類聚神祇本源」の記事は最も明確に其れを示している。勿論、僧侶の述作ではあるが、古伝説として見るときは、そこに他の記録の企て及ばざるものがある。ただ本書は一般の日本呪術史ではなし、更に日本巫覡史でもないので、ここには深くそれ等に論及せぬ事とした。
〔註九〕正卜考(伴信友全集本)。
〔註一〇〕郷土研究(第四巻第一号)にある柳田国男先生(誌上には川村杳樹の匿名となっている)の「一言主考」を指したのである。
〔註一一〕武田祐吉氏著の「神と神を祭る者との文学」から抄録した。猶お此の機会において、私は此の書を読んで種々有益なる高示に接した。謹んで武田氏に敬意を表す。
〔註一二〕「正卜考」のうちに収めた「波々加考」に拠る。
〔註一三〕伴翁は「亀兆伝」は後作であろうとの意を「正卜考」の中で述べている。或は後作であるかも知れぬが、ここには其の詮索は姑らく預り、釈紀の作られた頃には此種の信仰が事実として考えられていたのであるとして眺めたのである。 
第四節 宣託と祝詞と巫女の関係

 

現代人は祝詞と云えば、それは概して人が神へ請い祈るために、意のあるところを申し上げるものとばかり考えているようである。実際、現行の祝詞なるものは、此の用意の下に作られ、人が神へ祈願するだけの目的しか有っていぬのである。併しながら、かかる祝詞観は、其の発生的方面を全く没却したものであって、祝詞の最初の使命は、これと反対に、専ら神が意のあるところを人に告げ知らせるために発生したのである。即ち祝詞(ノリト)の原意は詔事(ノリコト)であるから、その語意より見るも、このことは会得されるのである。「竜田風神祭」の祝詞の一節に、
天の下の公民の作れる物を、草の片葉に至るまで成したまはぬこと、一年二年にあらず、歳間無く備へる故に、百の物知り人等の卜事に出でむ〔一〕。神の御心は、此神と白せと仰せたまひき。此を物知り人等の卜事を以て卜へども、出ずる神の御心も無しと白すと聞しめして、皇御孫命詔(ノ)りたまはく、神等をば、天社国社と忘るる事なく遺(オ)つる事なく、称辞竟へ奉ると思ほしめすを、誰ぞの神ぞ、天の下の公民の作りと作る物を成したまはず、傷(ソコナ)へる神等は、我御心ぞと、悟(サト)し奉れと誓(ウケ)ひたまひき。是を以て皇御孫命の大御夢に悟し奉らん、天の下の公民の作りと作る物を、悪しき風荒き水に遭はせつつ成したまはず傷へるは、我御名は、天の御柱の命国の御柱の命と、御名は悟(サト)し奉りて云々。
とあるのは、よく祝詞の発生的事象を尽しているのである。
更に詳言すれば、祝詞なるものは、神が人に対して、積極的に、これこれの事をして祭れとか、又は消極的に、これこれの事はするなと誨えたことが、これの起原となっているのである。而して此の意義を理解し易いよう、祝詞のうちから例証を覓めて具体的に言えば、前者の例としては「遷却崇神祭」の祝詞に、
進る幣帛は、明妙照妙和妙荒妙に備へ奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打ち断る物と太刀、馳せ出づる物と御馬。
その他種々の幣帛を横山の如く置き足らわして祭ったのがそれであって、後者の例としては「道饗祭」の祝詞に、
根国底国より麁(アラ)び疎び来む物に、相率り相口会する事無くて、下行かば下を守り、上往かば上を守り、夜の守り日の守りに、守り奉り斎い奉れ。
とあるのがそれである。従って祝詞は、古い物になるほど宣命体となっているが、然もその宣命の一段と古いところに溯ると、託宣となっているのである。而してその託宣は概して神の憑(ヨ)り代(シロ)である巫女の口を藉りて発せられるのである。
古代人は神意を伺う方法を幾種類が発明し工夫して所持していたが、その中で祝詞に最も関係の深いものを挙げれば、託宣である。勿論、此の託宣のうちには、既記の如く、呪言も、呪文も、更に呪術的分子も、多量に含まれているが、託宣は直ちに神の声であり、神の語である。「欽明紀」十六年春二月の条に「天皇命神祇伯、敬受策於神祇、祝者迺託神語報曰」云々とあるのは、祝者──即ち巫女(祝はハフリと訓むとは後章に述べる)が神語を託宣したものである。「万葉集」巻十九に「注の江に斎(イツ)く祝(ハフリ)が神語(カミゴト)と、行くとも来とも船は早けむ。」とあるのや、同集巻四の長歌の一節は「天地の神辞よせて、敷妙の衣手かへて、おの妻と頼める今宵」などを始めとして、書紀・万葉に多く散見するところである。
而して、此の神語なるものは、如何なる形式で表現されるかと云うに、憑(カカ)る神によって、或は散文的の普通の言語を以てし、或は歌謡的に律語を以てするものとあるが、概して言えば、太古に溯るほど素朴で単純であるのに反し、時代の降るほど枕辞を冠し、対句を用いるなど、頗る典雅なものとなる。「肥前国風土記」佐嘉郡の条に、
郡西有川,名曰佐嘉川(中略)。山川上有荒神、往来之人半生半殺、於茲県主等祖大荒田占問、于時有土蜘蛛大山田女狭山田女(中山曰、巫女なり)、二女子云、取下田村之土作人形馬形、祭祝此神必在応和、大荒田即随其辞祭此神、神敵(ウチテ)此祭遂応和云々。
とあるのは、神語の最も簡古なもので、前者の例と見るべく、「播磨国風土記」逸文に、
息長帯日女命{○神功/皇后}欲平新羅国、下坐之時、祷於衆神、爾時、国堅大神之子爾保都比売命、著(カカリ)国造石坂比売命教曰(中略)。比々良木八尋桙根底不附国(ヒヒラギノヤヒロノホコネソコツカヌクニ)、越売眉引国(ヲトメノマヨヒキノクニ)、玉匣賀々益国(タマクシゲカガヤククニ)、苦尻有宝白衾新羅(コモマクラタカラアルタクフサマシラギノクニ)矣、以丹浪而将平賜伏、如此教賜云々。
とあるのは、やや技巧の加ったもので、後者の例として見ることが出来る。更に「神功紀」に載せてある神后の託宣(中山曰、此の全文は後章に引用する、参照を望む)に至っては、対句と畳句を用い、高雅にして典麗を極め、全く歌謡体の律語を以て表現されている。
かくて祝詞の基調となった託宣も、時勢の降ると共に、漸く常識化され、倫理化されて来て、祝詞が固定するようになれば、字句は洗練され、構想は醇化されて、呪文の分子と、託宣の内容は減却されることとなり、且つ神が人に宣る祝詞が、正反対に人が神に申す祝詞と解釈されるようになって来ては、祝詞と巫女との関係は全く世人から忘られてしまったのである。
併しながら、民俗は永遠性を帯びているだけに、祝詞の解釈が故実を失うようになっても、猶おその古き面影を留めるために工夫されたものが「返し祝詞」の一事である。「返し祝詞」とは、人が神に申した祝詞に対して、神がその事を納受した証拠として返答することなのである。洛北賀茂神社の「返し祝詞」は、最も有名なものであって〔二〕、北野天神社、石清水八幡宮にも此の事が存していた。「梁塵秘抄」に「稲荷山みつの玉垣打ちたたき、吾がねぎごとぞ神もこたへよ」とあるのも、蓋し此の思想を詠んだものであろう。  
〔註一〕物知りとは、現代では博識家という意味に用いられているが、古く物とは霊の意味であって、物知りとは即ち霊に通ずる人ということなので、即ち巫覡を指したものである。琉球では、今に此の意味に、物知りの語を用いている。従って大物主神の意味も、これで釈然するのである。
〔註二〕賀茂社では、今に「返し祝詞」を用いていると、宮内省掌典星野輝興氏から承ったことがある。記録では「玉海」承安二年四月十二日の条に「於宝前、申祝歟不聞、次祝帰出自中門於砌上申還祝、其音太高。」と見えている。更に北野社は「北野誌」に、石清水八幡宮は「大日本古文書」石清水書巻一に載せてある。 
 
第四章 巫女の呪術に用いし材料

 

第一節 呪術の材料としての飲食物
諾尊が黄泉ノ国に冊尊を訪れて帰るさに、黄泉醜女に追われた際、桃、筍、葡萄(エビカツラ)の三つを以て撃退したことは既記を経たので再説せぬが、ただ茲に考えて見なければならぬ問題は、此の三つは物それ自体が一種の呪力を有していたということであって、呪術に用いられたので呪力が発生したのとは違う点である。全体、呪術に用いられた材料は、概して言えば、咸な此の種の物に属するのであるが、稀には呪術に用いられたために呪力が発生する物もあるので附記するとした。而して古代の呪術に用いられた飲食物は大略左の如きものである。 
一 米
豊葦原の瑞穂国と云われた我国にも、古くは一粒の米も無かった。天照神が熊大人をして稲種を覓められたという神話は〔一〕、米が外来の物であることをよく説明している。然るに米を獲て蒼生の生きて食うべきものとなるや、その稲は忽ち神格化されて、屋船豊受姫命(俗に宇賀能美多麻と云う)となり〔二〕、精霊を払う呪力あるものとして信仰されるようになった。「日向国風土記」逸文に、
臼杵郡智舖郷、天津彦火瓊々杵尊離天磐座、排天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向之高千穂二上峰、時天暗冥昼夜不別、人物失道物色難別。於茲有土蜘蛛、名曰大鉗小鉗二人、奏言皇孫尊以尊御手抜稲千穂為籾、投散四方、必得開晴、于時如大鉗等所奏、搓千穂稲為籾投散、即天開晴。
とあるのは、米を呪術に用いた初見の記事であって、古代人の米に対する信仰が窺われるのである。
「持統紀」二年冬十一月の条、天武帝の殯宮に「奉奠(クマ)、奏楯節舞」と記した奠(クマ)は、古く米を「くましね」と云ったのから推すと、米を霊前に奉ることは、これに呪力を信じたからである。尚「和名類聚抄」祭祀具部に「離騒経注云{米偏咠}、{和名,久/万之禰}精米所以享神也」とあるのも同じ意である。「大殿祭」の祝詞の細註に「今世産屋,以辟木束稲,置於戸辺乃以来米、散屋中之類也」と載せたも又それである。「古語拾遺」肱巫の細註に「今世竃輪及米占也」も米を用いた呪術に外ならぬ。而して此の信仰は後世の散米(打まき、花しね、みくま、手向米などとも云う)となり、種々なる伝説や俗信を生むようになったのである〔三〕。猶お後世になると、大豆や小豆を呪力あるものとして用いているが〔四〕、古代においては寡見に入らぬので何とも言うことが出来ぬ。
二 水
人類の生活に火の無い時代はあったかも知れぬが、水の無かった時代は想像することも出来ぬ。我国においても火ノ神の信仰よりは、水ノ神の信仰の方が古くから存していたようである。従って水に呪力を認め、これを呪術に用いた例は、少しく誇張して言えば、枚挙に遑がないほど多く存している。誰でも知っている諾尊が日向の檍原で御禊せられたのは、海水の呪力を信じて、黄泉の穢れを払うたものである。「をち水」を飲めば、心身ともに更新すると考えた思想も神代から存し、然もそれは現代にまで若水として名残りをとどめている。「万葉集」巻十三に「天橋も長くもかも、高山も高くもかも、月読の持(モ)たるをち水、いとり来て、君にまつりて、越えむ年はも」とあるのや、同集巻七に「生命を幸くあらむと石走る、垂水の水を掬びて飲みつ
」とあるのは、共に此の信仰によるものである。而して此の信仰は水を神とし、更に水の湧く井を神と崇めるまでに発展し、生井、栄井、綱長井と神格化するように進んだのである〔五〕。我国に観水系(ウォーター)の呪術(ゲージング)(次章参照。)が発明されたのも、決して偶然ではなかったのである。猶お、後世における水の呪術に就いては、各時代下に記す機会が有るので、今は省略する。
三 塩
我国では塩の呪力を認めた信仰は、遠く諾尊の檍原の海水の御禊に出発していることは言うまでもないが、これが呪術の材料として用いられたのは、「応神記」に、伊豆志乙女を争いし兄弟の母が、その兄の不信を憤りて「伊豆志河の河嶋の節竹を取りて、八目の荒籠を作り、その河の石を取り、塩に合へて、その竹の葉に裹み,詛言(トゴヒ)はしめけらく(中略)。此の塩の盈ち乾るがごと盈ち乾よ」とあるのが(此の全文は既載した)古いようである。「丹後風土記」逸文に、天女が老夫婦に苦しめられた折に「思老夫婦之意、我心無異荒塩者」と言うたのは、塩の呪術に詛(トゴヒ)されて患うるに同じとの意味であろう。禍津神を駆除すべき祓戸四柱のうちなる速開津姫が、荒塩の塩の八百道の八塩道の、塩の八百会に座(ヰワ)したことは、よく塩の呪力を語るものである。而して「貞観儀式」平野祭の条に「皇太子於神院東門外下馬、神祇官中臣、迎供神麻、灌塩水訖(中略)。至神院東門、曳神麻灌塩水」云々とあるのや、「古語拾遺」に御歳神の怒りを和めんとて、「以彗子(ツス)蜀椒(ハジカミ)呉桃(クルミ)葉及塩班置其畔」とあるのも、共に塩の呪術的方面を記したものである。
四 川菜
「鎮火祭」の祝詞に、火ノ神が荒び疏びた折には「水神、匏(ヒサゴ)、埴山姫(中山曰。土の精霊)、川菜」の四種を以て鎮めよと載せてある。川菜が呪術の材料として用いられたことは、私の寡聞なる此の外には知るところもないが、古くこれが巫女に用いられた事は、此の一事からも推測されるのである。
猶お、此の外に、酒や、飴や、蒜や、蓬などを呪術の材料として用いた例証もあるが、是等は私が改めて説くまでも無いと考えたので省略した。 
〔註一〕稲の原産地は南支那というが、此の稲が我国に輸入された稲筋に就いては、南方説と北方説との両説が有る。私は我国の稲は朝鮮を経て舶載されたものと考えるもので、その事は「土俗 伝説」第一巻三号に「穂落神」と題して管見を発表したことがある。
〔註二〕「大殿祭」の祝詞の細註にある。保食神は原始神道の上からも、更に民俗学の上からも、研究すべき幾多の材料が残されているのであるが、所詮は稲の精霊であると云うに帰着するのである。
〔註三〕「日向国風土記」の逸文から導かれて、高千穂峰に原生の稲が有あったという伝説は、「三国名勝図絵」や「薩隅日地理纂考」などを始めとして、各書に記載されてもいるし、又た諸先覚の間にも此の事が論議されているが、私には賛意を表することが出来ぬ。稲の野生が我国に無く外来の物であることは疑うべき余地はない。
〔註四〕追儺に大豆を撒き、祝ひ事に小豆飯を炊くなどを重なる物として、此の二つは呪術的には相当広く用いられているが、古代にあっては、その事実が寡見に入らぬ。琉球の伝説を集成した「遺老説伝」によると、大豆と小豆とは、後に外来した物だと載せてあるが、内地にあっても何か斯うした事実があったのではなかろうか。
〔註五〕井の信仰に就いては私見の一端を「郷土研究」第三巻第六号所載の「井神考」で述べたことがある。敢て参照を望む。 
第二節 呪術のために発達した器具

 

呪術のために発生したものと、これに反して、発生の理由は他にあるも、呪術に用いられたために一段の発達をしたものとあるが、茲には是等を押しくるめて記すとする。ただ恐れるのは、本節における私の考覈が、従来の研究と異るところがあるので、異説を立てるに急なる者のように誤解されはせぬかと云う点である。併し私としては決してさる野心の毫も有せぬことを言明する次第である。
一 玉
我国に古く重玉の思想の在った事は言うまでもない。否々、思想と云うよりは、信仰と云う方が適当に想われるまでに、玉を重んじていた。而してその玉は概して勾玉(マガタマ)の名を以て呼ばれていたのである。神代における饒速日命の伝えた十種の神宝は、悉く呪具であることは改めて説くを要せぬが、此のうち、生玉、足玉、死反玉、道反玉と、四つまで玉が占めていたことは、重玉の信仰の容易ならぬことを証明しているものである。「垂仁紀」八十七年春二月の条に、
昔丹波国桑田村有人、名曰甕襲(ミカソ)、則甕襲家有犬、名曰足往(アユキ)、是犬咋山獣名牟士那(ムジナ)、而殺之、則獣腹有八尺瓊勾玉、因以献之、是玉今在石上神宮。
とあるのは、山獣の腹に勾玉の在ったということが、当時の民族心理からは、一つの神恠として見られたのであるが、併しその勾玉が石上神宮に納められたのは、玉を重く信仰した結果に外ならぬのである。
全体、我国の勾玉に就いては、考古学的にも民俗学的にも研究されるべき余地が少からず残されているのである。就中、私の興味を唆るものは、勾玉の形状は何を象徴(シンボライズ)しているのであるかと云う事である。従来の学者の説くところによると、勾玉の形状は、遠い祖先達が狩猟を営んでいた際に、猛獣または食獣を獲た場合に、一はそれを記念するために、一はその歯牙に呪力あるものと信じて、胸に懸けたのに始まると言われていて、此の説は殆んど学界の定説となっているのである〔一〕。
併しながら、私に言わせると、此の考察は余り常識的であって、我国の古い民俗に適応せぬものがあるように想われる。私は茲に勾玉を研究するのが目的でないから、結論だけを簡単に記すとするが、私の信ずるところでは、勾玉は腎臓の象徴(シンボル)であると断定するものである。
由来、我国では心の枕辞に村肝の二字を冠していて、此の村肝とは「肝は七葉群(ムラガ)りてあれば、群肝と云ひ、さて、肝向、心乎痛ともよみたるが如く、心と肝とは相はなれぬ物なれば、しかつづけたりとすべし」と、賀茂真淵翁は説かれているが〔二〕、併しこれとても、私に言わせると「むら」の字義に捉われた説で腑に落ちぬものがある。私は固く信じている。我が古代の遠い祖先達は、狩猟に出て、鹿や猪などを獲たときには、是等の食獣を与えてくれた山ノ神に対して、獣を支解し、その心臓を供物として捧げた習礼のあったことから推して〔三〕、獣類の解剖には(巫女が人間の死体を截断する職務を有していたことは後章に詳述する)相当熟練していたことと、且つ遠い祖先達が神秘なもの不思議なものとして、多大の興味を維(つな)いでいた性器の活(はたら)きの根元を知ろうとしたことである。此の結果として、性器の活きの根源が腎臓にあることは、夙に知られていた筈である。
然るに、此の腎臓の色は紫であって、それが干(かわ)き固(かた)まると、恰も勾玉の如き形状となる。赤き心に対して紫の腎(きも)、これは支那で発達した陰陽五行の説を医術に採用し、心、腎、肺、脾、肝の五臓に、赤、青、黄、白、黒の五色を箝当した医書を見ぬ以前において、確かに、此の赤心紫腎だけの事実は、遠い先祖達の知っていた所である。私は此の干し固めた腎臓を胸に懸けたのが勾玉の古い相(すがた)であって、然もむら肝の枕辞をなした所以だと考えている〔四〕。而して斯く腎臓を胸に懸けたのは、(一)山ノ神に捧げた心臓に対して、自分等がこれを所持することは、神の加護を受けるものとして、(二)性器崇拝の結果はこれに呪力の存在するものとして、(三)原始時代の勇者の徴章又は装身具として用いたものと信ずるのである。
猶お此の機会において併せ考うべき事は、古代人は勾玉を霊魂の宿るもの〔五〕、若しくは霊魂の形と思っていたと云う点である。これも理由を述べると長くなるので結論だけ言うが、我国で、魂と玉を、同じ語(ことば)の「タマ」で呼んでいたのは、此のことを裏付けるものと見て差支ないようである。玉を呪術に用いたことは周知のことである上に、勾玉の解説が余りに長くなったので他は省略する。 
二 鏡
鏡の起りは「鑑」であって、其の用途は、陽燧にあったと云われているが、我国に渡来するようになってからは、専ら呪術の具として用いられていた。「景行紀」十二年秋九月の条に、神夏礒媛(巫女にして魁帥を兼ねたもの)が参向する際に、
則抜磯津山賢木、以上枝挂八握剣、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦素(シラ)幡樹于船舳。
とあるのは、当時、呪具として最高位の鏡、剣、玉を用いたものであって、これと全く同一なる記事が「仲哀紀」にも載せてある所を見ると〔六〕、かなり広く行われていたことが知られるのである。而して鏡が照魔の具として用いられたこと、及び巫女に限って鏡を所持した事などは、共に鏡が呪具として重きをなしていたことが想像される。「万葉集」巻十四の「山鳥のをろの秀津尾(ハツヲ)に鏡懸け、唱ふべみこそ汝(ナ)に寄(ヨ)そりけめ」とあるのは、蒙古に行われるハタツク(此事は次章に云う)と共通の物のように想われるが、兎に角に山鳥は古くから霊鳥として信仰され、且つ十三の斑(フ)を有する尾は呪物として崇拝されたものであって〔七〕、然もその山鳥の 秀尾 (ハツヲ)へ鏡を懸けるとは、言う迄もなく、立派な呪具であったのである。それ故に下の句の「唱ふべみこそ汝に寄そりけめ」とは、即ち魂を引き寄せるだけの力があるものと考えられていたのである。猶お、鏡に就いては、第五章第四節「憑るべの水」の条にも記すので、それを参照せられんことを希望して、茲には概略にとどめるとする。 
三 剣
諾尊が黄泉醜女に追われた折に「御佩(ミハカ)せる十拳剣(トツカノツルギ)を抜きて、後手に揮(フ)きつつ逃げ来ませる」とあるのは、剣に呪力のあったことを物語る最古の記事である。「神武記」に帝が紀州熊野村に到りしとき荒振神に逢い、
神倭伊波礼毘古命(神武帝)倏忽にをえ(中山曰、毒気に中ること)まし、及御軍皆をえて伏しき。此の時に、熊野の高倉下、一横刀(タチ)を齎ちて、天神の御子の伏せる地に到りて献る時に、天神の御子、即ち寝起(サメ)まして、長寝しつるかも、と詔(ノ)りたまひき。故その横刀を受取たまふ時に、その熊野山に荒ぶる神、自(オノヅカ)ら皆切仆さえて、其のをえ伏せる御軍、悉に寝起たりき云々。
と記せるも、亦た剣に呪力のあった事を証明しているものである。而して斯くの如き記事は、我国の一名を「細戈千足国(クワシホコチタルノクニ)」と云うただけあって、僂指に堪えぬほど夥しく残されている後世の巫覡の徒が悪霊退治の呪術を行うとき、剣を揮って空中を斬るのは、此の信仰に由来するものであって、更に「剣の舞」なるものが彼等の手に残されていたのも、又たこれに基因しているのである。 
四 比礼
大己貴命が素尊の許に往き、蛇室に寝るとき須勢理媛より蛇ノ比礼を与えられ、且つ「その蛇昨(ク)はむとせば、此の比礼を三度挙(フ)りて打揆(ウチハラ)ひたまへ」と教えられ、次で蜈蚣(ムカデ)ノ比礼、蜂ノ比礼を与えられて難を逭れたことは有名な神話である〔八〕。また天神より授けられた十種の神宝のうちにも、蛇比礼、蜂比礼及び品物比礼(クサクサノヒレ)の三種が挙げてある。更に「応神記」に新羅から投化した天日矛の将来した宝物の中にも、振浪比礼と切浪比礼との二つがあったと載せている。而して是等の比礼が、呪術用の物であることだけは、明白に知られているのであるが、それではその比礼なる物は何かというと、これに就いては、古くから異説が多いのである。
本居宣長翁は「比礼とは(中略)、何にもまれ打振る物を云ふ、されば魚の鰭(ヒレ)も水中を行とて振物、服の領巾(ヒレ)も本は振らむ料にて(原註略)皆本は一つ意にて名けたるものぞ。然れば蛇の比礼とは、蛇を撥ふとて振物の名なり」と判ったようで判らぬことを言うている〔九〕。谷川士清翁は、記・紀万葉集などから多くの例を挙げた後に「比礼は、もと衣服の事なるべし」と軽く説明している〔一〇〕。鈴木重胤翁は賀茂真淵翁の「冠辞考」に万葉集巻三の、栲領巾(タクヒレ)の懸け巻くほしき妹が名を云々とあるを引用して、然る後に曰く「栲は白き物なれば、実に栲領巾は白き領巾なりしなり。今も京辺りの下様の女など、表立たる礼式に額帽子とて、生𥿻を以て製たる物を夏冬共に必ず帽(カム)るは、領巾の遺制なるべし。予今年下野国足利郡の方へ物せしに、其宿れる家に入来る女、何れも新しき手拭を頂に巻くこと京の額帽子の如し(中略)。こは上古の領巾の遺意の存(ノコ)れるなり。」と〔一一〕、飛んでもない薮睨みをしている。更に飯田武郷翁は、大神宮儀式帳、外宮儀式帳、和名抄等の事例を比較した後に「比礼は古き女の服具にて、白き帛類をもて、頂上(ウナジ)より肩へかけて、左右の前へ垂せるものと聞えたり」と考証している〔一二〕。
私は茲に服飾史の上から比礼の研究を試みることは措くが、是等の諸説のうち、飯田翁の考証に左袒するものである。而して此の服具を、或は蛇比礼と云い、或は蜂比礼と云うたのは、呪具としての用途によって名づけたものと考えている。巫女の比礼に対して、覡男の手繦(タスキ)も又一種の呪具であるが、これに就いては省略する。 
五 櫛
素尊が八岐大蛇を退治して、奇稲田媛を救うことを「古事記」には「速須佐之男命、乃ち其の童女を湯津爪櫛に取成して,御角(ヅラ)髪に刺(ミ)し」と載せ、「日本書紀」には「素戔嗚尊立化奇稲田姫、為湯津爪櫛、而挿於御髻」と記している。而して此の両記事にあっては、素尊が稲田姫を櫛となして御髻に挿したように解せられるので、昔の神道学者──殊に法華神道の似非学者たちは、種々なる神恠を説いているのであるが、民俗学の立場から言えば、女子が櫛を挿す事は男子に占められたこと──即ち良人を有ったという標識に過ぎぬのである〔一三〕。これは後章に詳しく言う考えであるが、伊勢斎宮になられた皇女が、野ノ宮を出て愈々皇太神宮へ群行せらるる折に参内すると、天皇が躬から「別れの櫛」を斎宮の御髪(ミグシ)に挿されるのは、斎宮は神に占められることを意味しているのである。
然るに、櫛(クシ)は奇(クシ)と通じ、更に串(クシ)とも通ずるので、古く斎串を斎櫛の意に用い、櫛に一種の呪力ありとする信仰を養うに至った。従って櫛を神体として祭った神社さえ尠くないのである。諾尊が櫛を投じて醜女を攘うた故事から、櫛を拾うと他人となるという俗信は、現在においても行われている。「万葉集」巻十九に「櫛も見じ家内(ヤヌチ)も掃かじ草枕、旅行く君を斎ふと思ひて」とあるのは、良人の留守に、櫛で髪けずり、箒を用いることは、羈旅にある良人に禍を負わせるものと考えたためである。後世の巫女が櫛占をしたのも、又た此の信仰から導かれているのである。
猶お此の種に属する呪具のうちに、幡、幟、幣などを数える事が出来るのであるが、是等は後に記述する機会もあろうと思うので、今は触れぬこととした。 
〔註一〕故坪井正五郎氏を始め、多くの人類学者や、考古学者は、皆この獣牙説を採っていて、幾多の著書や雑誌に、此の事が載せてある。従って天下周知の事と思うので、書名や、誌名は、煩を避けて省略した。猶お勾玉に就いては、谷川士清翁の「勾玉考」が、よく史料を集めて、古代の重玉信仰を説いている。参照せられたい。
〔註二〕「冠辞考」巻下。その条。
〔註三〕柳田国男先生の著「後の狩詞記」及び「民族」第三巻第一号所載の早川孝太郎氏の「参遠山村手記」及び同氏著「猪・鹿・狸」(第二叢書本)を参照せられたい。
因みに言うが、柳田先生の「後の狩詞記」は稀覯の書であるので、茲にその一節を摘録すると「コウザキ。猪の心臓を云う。解剖し了りたるときは、紙に猪の血液を塗りて之を旗とし、コウザキの尖端を切り共に山神に献ず」とある。
〔註四〕先年雑誌「太陽」へ拙稿「枕辞の新研究」と題して掲載したことがある。誌上には匿名になっている。号数は失念したが、大正六七年ごろの発行である。
〔註五〕瓢が魂の入れ物であるという古代人の信仰に就いては、柳田国男先生が「土俗と伝説」の第二号から連載された「杓子と俗信」の中に述べられているし、更に近刊の「民俗芸術」第二巻第四号所載の「人形とオシラ神」のうちにも記してある。而して、我国の古代において、墳墓を瓢型に築いたのも、亦此の信仰に由来しているのである。人魂の形は、杓子に似ているとは、今も言うところであるが、古代人は、勾玉の形を人魂の形に連想していたことも、考慮のうちに加うべきである。
〔註六〕「仲哀紀」八年春正月の条に「筑紫伊覩県主祖五十迹手、聞天皇之行、抜取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握剣、参迎于穴門引嶋而献之」と載せてある。
〔註七〕山鳥の尾の呪力に就いては、曾て「土俗と伝説」第三号に「一つ物」と題して拙稿を載せたことがある。
〔註八〕「古事記」神代巻。
〔註九〕「古事記伝」巻十(本居宣長全集本)。
〔註一〇〕「増補語林倭訓栞」その条。
〔註一一〕「延喜式祝詞講義」巻九の細註。下野国足利郡は、私の故郷である。従って、此の地方の民俗には、失礼ながら鈴木翁よりは通じていると云っても差支ないと信ずるが、私の知っている限りでは、此の地方で、婦女が手拭を冠って他人の前へ出るのは、髪の乱れを隠すためであって、領巾の遺風などとは考えられぬ。これは鈴木翁の思い過ごしであらねばならぬ。それに、領巾は、冠る物ではなくして、垂れるものである。
〔註一二〕「日本書紀通釈」巻二十六。
〔註一三〕女子の有夫の標識には、種々なる民俗がある。眉を払うのも、歯を染めるのも、更に櫛を挿すのも皆それである。詳細は拙著「日本婚姻史」に諸国の例を集めて載せて置いた。宮城県の磐瀬郡では、昔は未婚者と既婚者の区別は、櫛を挿すと挿さぬとにあったが、近年では、誰も彼も櫛を挿すので区別に苦しむと、同郡誌に記してある。 
第三節 呪術に用いし排泄物

 

人体の性器を以て呪術を行いしことは、第五章に記述する考えであるが、茲には人体から排泄された物を呪術に用いしことに就いて叙説したいと思う。ただ、血液を排泄物として、他の唾液や糞尿と同じように取り扱うことは、少しく妥当を欠く嫌いがあるも、別にこれがために一節を設くるも仰々しいと考えたので、姑らくここに併せ記すこととしたのである。 
一 血液
古代人が他の民俗と闘争して負傷し、又は狩猟に出て猛獣と格闘して負傷したときに、身内から滾々として流れ出ずる血を見ての驚き、及びその血の流れ出ずることが止ると共に生命の尽きることを知って、血は生命の根元なりと信ずるようになったのは、蓋し当然のことと言わなければならぬ。ヴントは、これを血液魂と名づけ、精霊(アニミズム)時代における一つの信仰であると論じている。「古事記」神代巻に、諾尊が、火ノ神迦具土を産んだために冊尊の神避りしを憤りたまい、十拳剣を抜いて火ノ神を斬りしに、その御剣の先に着いた血から三神が成りまし、次に御剣の本に着いた血からも三神が成りまし、更に御剣の手上に集る血から二神が成りましたとあるのは、血に対する最も古き信仰であって、然も血は神を生成する力さえあるものと考えていたのである。反言すれば、血は魂の宿るものと信じていたのである。
かく、血の神秘と、呪力を信じた古代人が、その血を呪術的方面に利用せんと企てたことも、又た当然のことと言わなければならぬ。そして是れが最初の利用は血そのものを飲むと云うことであった。現に我国の侠客と称する者の間において、親分乾児の義を結ぶ盃をするとき、又は兄弟分の盃をするときに、血を酒に和して飲み合うのは〔一〕、これが名残をとどめたものであって、此の事は一面から見れば、親分の血を飲むことによって、親分の有する力を分け与えられたものとする精神的の誓いであって、更に他の一面から見れば、これが為めに親分の命令には絶対に服従する社会的の盟いであった。近年まで、山形県田川郡の各村々では、結婚式を挙げる折に、新郎は左の無名指から、新婦は右の無名指から、針を刺して血を出し、それを一つの盃に入れて飲み合うたというが〔二〕、これは血を飲むことが直ちにお互いの魂を飲み合うことを意味したものであることは言うまでもない。武士階級に行われた血判なるものも、又た此の思想に由来していることは勿論である。
人の血を飲むことが、他の動物の血に移されることは、極めて自然の経過と見るべきである。人の血が容易に得られなくなるようになれば、動物中の特に霊性あるものと信じた鹿や猪の血を以てこれに代えることは、少しも不思議のない遷り変りである。殊にそれが、民間の対症療法として、或る種の病気には或る種の動物の血が効くと云うようになれば、想いも寄らぬ動物の血が、呪術的に飲まれるのは、寧ろ有り得べきこととしなければならぬ。疾病と呪術の関係については、後章に巫女の職務を説く折に詳述したいと考えているので、茲には多く言うことを避けるとするが、血が呪術の材料として用いられたことは決して珍らしくはなかったのである。今に肺病には鼈の血が、肺炎には鯡鯉の血が利くとて好んで飲み、琉球では重病者に、生きた豚に竹の管を刺して熱い血を飲ませるなど、有り触れた事実として見聞するのである。此の事は医学的に言えば一種の輸血法として説明されるのであろうが、こういう点からも、呪術は科学の母であったことが想い合されるのである。
「播磨国風土記」讃容郡の条に、
所以云讃容者、大神姉妋二柱、各競占国之時、妹玉津日女命、捕臥生鹿、割其腹而種稲其血、仍一夜之間生苗、即令取殖(中略)。即鹿枚山(シカヲコロシシヤマ)号鹿庭山云々。
とあるのは、鹿の血に稲種を浸して播いたために、稲が一夜にして苗を生じたことを言うたのであって、即ち血液に呪力を信じたものなのである。由来、我国には北野神社の一夜松の伝説を始めとして〔三〕、各地に一夜にして生えた杉とか、松とか云うもの、又は一夜稲とか、一夜麦とか云う伝説が沢山に存しているが、これはその始めは「播磨風土記」に現れたように、神の意を占うべき誓(ウケイ)として行ったのであるが、それが仏教が渡来してからは仏徒に利用され、その奇蹟を示す手段として行われるようになった。弘法大師が一夜にして稲の芽を出させたなどいうのは、その土に蟻の塔(これは非常に蟻酸を含んでいる)を交ぜて播種すると促生する理法を用いたものだと聞いている。「播磨風土記」の記事は、勿論蟻酸などを用いたものでなく、鹿の血に種を浸したので促生したという、呪力の説明をしたのに外ならぬのである。
而して同書賀毛郡雲潤里(ウルミノサト)の条にも、血を呪術に用いた例が載せてある。
丹津日子神、法太之川底欲越雲潤之方、云爾之時、在於彼村、大水神辞云吾以宍血(シシノチ)佃故、不欲河水云々。
これは稲種を血に浸したのではなくて、宍血を以て田を作る——即ち宍血を肥料にしたというほどの意味に云われているけれど、それが呪術的の効能を期待されて用いられたことは想像に難くない。誰でも知っていることではあるが「古語拾遺」に御歳神が怒って田の稲苗を枯らしたとき、大地主神が、その怒りを和(ナゴ)めるため「以牛宍置溝口」かせたのも、また牛宍の有っている血の呪力を信じたためである。
琉球には、現時でも血の俗信が深く、祖先の遺骨の実否を正すには、これを求むる子孫が指など傷けて血を出し、その骸骨に注ぎかけ、祖骨なれば血が骨に滲み込むと云うている。又た妊婦が流産して出血の甚だしいときは、応急手当として、局部より出た血を口中より注ぎ込めば良いとて行うている。更に豚の料理でも、目上の者に送るには、血いりちと称して、同じ豚の血を以て煮ると定っている。殊に同地では、豚の血を尊重し、漆器の朱塗りの材料に用い、糸満の漁夫は網に此の血を塗ると豊漁であるとて、血を買いに来ることすらあるそうだ〔四〕。また同地の石垣島では悪疫が流行するときは、村道の辻や家並の門に注連縄を張り、これへ牛の血へ浸した藁と、牛骨(方言にてフシマフサハサァーと云う)及び蒜の根を結びしものを縄の中央に懸け垂れて予防の呪符とするそうである〔五〕。
以上は悉く血を魂の宿るものと考えた結果から生じた呪術である。而してこれに類似した俗信は、内地にあっても広く各地に行われていたのである。武蔵国北足立郡箕田村大字三ツ木の山王様へ参詣する者は、必ず紅がらを御神体の局部へ塗るのは、古くそれが血ノ灌頂の俗信から出ていることは言うまでもない〔六〕。土佐国室戸崎の捕鯨場に漁ノ神として蛭子像が祀られてある。漁師は海に出て初めて獲た魚を持ち帰り、その鮮血を此の像に塗ることに定めてあるが、同地の豊漁と不漁とは、此の像の乾湿によって知られると云うことである〔七〕。
斯うした民俗学的の徴証を列挙する段になると、兎に角に私が専攻しているだけに、読者がうんざりするほど夥しきまでに陳列することが出来るが、例証は必ずしも多きを以て尊しとせぬので他は割愛する。此の民俗から推すのも太だ早速ではあるけれども、稲荷神に限って鳥居を赤く塗ることなども、何か曰くがありそうに思われる。
最後に血の信仰に就いて閑却されぬ問題は、婦女の月水を利用する呪術である。「景行紀」に載せた、宮簀媛の襴に月立ちにけりとある一句は、専ら血の忌み、若しくは血の穢れと云う意味にのみ解釈されているが、かく月水に近づくべからず、触るるべからず、と禁忌(タブー)されたところに、呪力の在ることを認識していたのである。余り愉快な問題でないので深く言うことは措くとするが、此の呪術は、時代の下ると共に、大いに巫女に利用されるようになったのである。茲にはそれだけの注意を促すにとどめるとする。 
二 唾液
私は先年、客気に駆られて、紀伊国熊野神社の祭神である速玉男神(ハヤダマヲノカミ)及び事解男神(コトサカヲノカミ)の両神は、共に唾液の神格化されたものが、後に人格神となったのであると云う考証を発表したことがある〔八〕。勿論、当時の私の研究には多くの欠陥があったので、吾れながらもその粗笨であったことを認めざるを得ぬのであるが、然しその結論である熊野神は唾液の神格化なりと云う点だけは、今に固く主張することが出来ると考えている。私が改めて言うまでもなく、熊野社の祭神である速玉・事解の二神は、諾尊の唾液から成りました事は神典に明記されているところである。これを「日本書紀」に徴するに、その一書に、
伊弉諾尊追伊弉冊尊所在処(中略)。及所唾之時、化出神号曰速玉之男、次掃之時、化出神号曰泉津事解之男、凡二神矣云々。
と載せてある。而して斯くの如く唾液が神格化されるようになったのは、古く唾液には呪力が在るものと信じられた為である。諾尊が冊尊を追うて黄泉国に到り、絶妻(コトドワタ)してその穢れに触れたので、此の汚き国を去るに臨んで唾液を吐かれたのは、此の呪力によって、悪気または邪気を払われたのである。
唾液の有した呪力に就いては、これを民俗学的に見るときは、古今を通じて、その例証の多きに苦しむほどであるが、それを一々載せることは差控えるとして〔九〕、更に、事解神に就いて私見を述べんに、これは大和葛城の一言主神が、善言(ヨゴト)も一言(ヒトコト)、悪言(マガコト)も一言(ヒトコト)、言離(コトサカ)の神、我れは葛城の一言主神なりと宣(ノ)られた〔一〇〕。その言離と同じ意味であって、現代語で云えば、唾液を吐いたのは、契りを絶った証拠であって、これ以後は言語も交わさぬぞと云うことなのである。一言主神の言離も、善悪ともに一言に云うぞ、再び問い返しても一度言離りした上は答えぬぞ、と云う意味である〔一一〕。
而して此の神話から派生した唾液の呪力は、古代人の固く信仰していたものと見えて一二の記録に残されている。「日本書紀」神代巻に、天孫彦火々出見尊が兄火酢芹命と山幸海幸を交換し、兄の鈎を失いて海神の宮に至り、海神が此の鈎を得て尊に授けるときに教えるに「兄の鈎を還さん時に、天孫則ち言ひますべし、汝が生子の八十連属(ツヅキ)の裔(ノチ)、貧鈎(マチヂ)、狭々貧鈎(ササマチヂ)と言い訖りて、三たび下唾(ツバ)きて与へたまへ」と載せ、更に「古語拾遺」にも、御歳神の子が、大地主神の作れる田に至り「唾饗而還」と記したのは、二つともに唾液の呪力を示したものである。
而して以上の記事は、一般の呪術に関するものであって、特に巫女に限られたものではないのであるが、今はさる選択をせずに記述したまでである。巫女が唾液を呪術に用いたことに就いては、後章において触れる考えである。 
三 尿
「日本書紀」の一書に、諾尊が黄泉国より追われて帰る時「大樹に向ひて放尿(ユマリ)したまふ。これ即ち巨川に化成りぬ。泉津日狭女その水を渡らむとする間に、伊弉諾尊已に泉津平坂に至りましき」とあるのは、尿に呪力あるものとした記事と思われる。
併しながら、古代の徴証にあっては、私の寡聞なる是れ以外に知るところがないので、何とも言うことが出来ぬ。更に糞を呪術に用いたことは既述したので省き、此の外に鼻汁を青幣としたことが神代巻に見えているが、これも巫女史としては左程に重要な記事とも考えられぬので、同じく省略に従うこととした。 
〔註一〕私の故郷である下野国足利郡地方は、私の少年の頃は謂ゆる「長脇差」の本場であって、博徒の親分と称する者が沢山あった。現に、私の近所にも「親分」なる者が住んでいて、少年の頃によく、親分乾児の固めの盃をする儀式?を目撃したものであるが、親分の血(小指へ針を刺して取る)を冷酒に和し(後には塩を酒に和した)て飲むのであって、その式は立会人とか介添人とか云う連中が居並び、実に悲壮を極めたものであった。兄弟分の盃は、お互いに血を出し合って飲み合うのであるが、彼等の間には「血を飲み合った仲」と云うのは、血肉を分けた親子兄弟よりも義に強い所があった。
〔註二〕「東京人類学雑誌」第一巻第十号
〔註三〕「北野縁起」に載せてある。
〔註四〕「土俗と伝説」第一巻第四号所載「沖縄書き留め」の条。
〔註五〕石垣島観測所長岩崎卓爾氏の「ひるぎの一葉」に載せてある。
〔註六〕此の山王様は、性的神としては有名なもので、諸種の雑誌や書籍に載せてある。今は斉藤昌三氏著の「性的神の三千年」に拠る。
〔註七〕土佐高知市に居住の先輩寺石正路氏より私への書信に拠るが、此の事は同氏著の「土佐名勝巡遊録」か「土佐遺聞録」かに載せてあったと記憶する。
〔註八〕大正五六年頃に、国学院大学に開催された、郷土会の席上で講演した。そして是れには、猶お我国で椿の木を霊木として信仰した由来——即ち椿(つばき)と、唾(つばき)との関係を説かなければならぬのであるが、今は煩を避けて省略する。
〔註九〕岐路に立ったとき唾八卦を行うとか、蛇を指してそのままにして置くと指が腐るので唾を吐きかけるとか、睫毛を唾で濡らすと狐に騙されぬとか、斯うした俗信は、各地に亘って数えきれぬほど沢山ある。
〔註一〇〕「古事記」雄略巻にある。
〔註一一〕一言主神は当時における呪術師——即ち覡男であったのである。此の神に就いては「郷土研究」第四巻第一号に載せた柳田国男先生(誌上には川村杳樹の匿名)の「一言主考」を参照せられたい。神祇官流の学者などには、千両の物を一口に喰うても考い出せぬほどの卓見である。 
第四節 呪術用の有機物と無機物

 

呪術に用いた植物、動物、及び土石等に就いて、一々節を設けて記述しようと思っていたが、それでは余りに本章が長文になるので、今は是等を一節の下に押しくるめて言うこととした。従って、論じて尽さず、説いて詳しからぬ点があるかも知れぬが、欠けたところはその機会のある毎に補うとして筆をすすめる。
一 笹葉
天照神が磐戸隠れの折に、天鈿女命が「天香山の天の蘿(ヒカゲ)を手次(タスキ)に繫けて、天の真拆(マサキ)を鬘として、天香山の小竹葉を手草に結ひて」神憑りしたとある蘿の襷も、真拆の鬘も、笹ノ葉も共に一種の呪具であって〔一〕、然も此の笹ノ葉(襷と鬘に就いては後に言う)を持っている間だけは、巫女に神が憑かっていることを象徴したものである。「神楽歌」の採物に、榊、幣、杖、篠(ササ)、弓、剣、鉾、杓、葛の九種を挙げているが、此の採物は九種共に、所詮は呪具であることは言うまでもないが、就中、榊、幣、篠の三種は、後世までも呪具として用いられて来たのである。神楽歌に「瑞垣の神の御代より、ささの葉を、手草にとりて、遊びけらしも」とあるのも、鈿女命の故事を詠んだもので〔二〕、神遊び——即ち神を降ろして、託宣させるには、手に笹ノ葉を持つことが必要とされていたのである。「万葉集」に、小波(ササナミ)と云う語に神楽声浪(ササナミ)の字を当てたところから見るも〔三〕、神楽に笹ノ葉は附きものであった事が知られるのである。
「皇極紀」二年春正月の条に蘇我蝦夷の通行を目がけて、
国内巫覡等、折取枝葉、懸桂木綿、伺候大臣渡橋時、争陳神語入微之説、其巫甚多、不可悉聴。
とある枝葉に就いては、後世の柴であると云う説もあるが〔四〕、併しこれを笹ノ葉と見ることも決して許されぬことではないようである。更に後世の記事ではあるが、「和漢三才図会」巻七(人倫類)巫の条に、
按、上古人心淳朴而、神託亦分明(中略)、今巫女所業者、奏神楽以慰神慮、或束竹葉探極熱湯、敷注浴於身、既心体共労倦忙々然、時神明託干彼、以告休咎、謂之湯立{○由/太天}、其巫曰伊智、今人疑多、巫女媚不少、而神託何分明耶。
とある如く、神憑りと、笹ノ葉とは、離すことの出来ぬ約束に置かれていたのである。
それでは、何が故に、笹ノ葉が斯うした呪力を有していたかと言うに、本居宣長翁はこれを解して、次の如く論じている〔五〕。
此の故事(中山曰。鈿女命の所作)に因て、神楽には小竹葉を用い、其(ソ)を打振る音の、佐阿佐阿(サアサア)と鳴るに就て、人等の同じく音(コエ)を和せて、佐阿佐阿と云ける故なるべし。
此の説は本居翁としては変った観方であるが、私には合点(うなず)けるところがある。
由来、我国の尸坐(ヨリマシ)(ここには非職業的の意味の者を云う)が、神憑りの状態に入るには、(一)尸坐の身近くで火を焚くこと、(二)集った者が一斉に或る種の呪文を唱和することの二つが、大切なる要件とせられていた。鈿女命の場合に見るも「日本書紀」には明白に「火処焼」と載せている〔六〕。然るに、此の斎庭に集った神々が、何等の唱和をしなかったのは、鈿女命が神憑りに熟練していたために、かかる手数を要さなかったのであるかも知れぬが、それにしても少しく物足らぬ思いのせらるるのが、本居翁の解釈に従えば、これが救われることとなるのである。且つ笹ノ葉をたたく音が、神を招きて身に憑ける合図としたことは、卓見とすべきである。
襷をかけること及び鬘をすることは、共に神に仕える者の当然の装身法であった。祝詞に「忌部の弱肩に太襷とり掛けて」と屡記されているのがそれであって、更に「古今集」の採物歌に「巻向の穴師の山の山人と、人も見るがに山鬘せよ」とあるが如く、鬘の有無を以て山人と神人との区別をしたのである。而して此の襷は、後世の神道家なる者に重要視せられた木綿襁(ユウタスキ)となり、鬘は民俗としては鉢巻となったのである〔七〕。琉球のノロが現今でも三味線蔓の葉を以て鬘とするのは、蓋し鈿女命の遺風を残したものであろう。 
二 賢木
賢木(サカキ)は神事の総てを通じて用いられたもので、特に巫女に限られたものでないゆえ、茲には簡略に記述することとした。
全体我国でも木篇に春夏秋冬の作りを添えた木は、悉く呪力ある霊木として相当の信仰を維(つな)いでいたのである。椿(ツバキ)の枝を持つ女は、我国では巫女であって〔八〕、此の木で作った槌を用いることは、景行帝の海石榴(ツバキ)の槌を以て土蜘蛛を鏖殺された故事からして、昭和の現代でも忌まれている〔九〕。榎(ヱノキ)の信仰にあっては、「崇峻紀」に物部守屋が衣摺の榎を利用して、聖徳太子の軍兵を三度まで撃退したのを始めとして、それこそ僕を代えるも数えきれぬほど夥しく存している〔一〇〕。楸(キササキ)にあっては、支那の梓と同じであるとも、異なるとも云われているが、兎に角に楸の実が今に呪力あるものとして用いられていることは事実である〔一一〕。柊に至っては敢て説明するまでもなく、「景行紀」に倭尊が比々羅木の八尋矛を賜りしを初見とし、京都の賀茂神社の地主神なる柊神社の故事〔一二〕、及び節分の追儺に柊の枝に鰯の頭を刺して戸口に挿すことまで挙げると、これも寧ろ多きに苦しむほどである。
而して是等の呪木と信ぜられたものは多く常磐木であった。現時でこそ、賢木(サカキ)といえば、榊に限られたもののように考えているが、太古にあっては、常磐木は悉く賢木であって、賢木が栄木(サカキ)であることは、これからも説明が出来るのである。後世の口寄巫女が生霊を寄せるときに、常緑樹の葉を用いることに就いては、その条に詳述する考えであるが、これが栄木信仰に縁を曳いていることだけは過りなさそうである。而して是等の常磐木に神が憑けば、即ち魂木(タマキ)(後には玉木と書く)となり〔一三〕、祟(タタ)り木となり〔一四〕、勧請ノ木となり、遂に此の信仰が発達して、神木の思想となったのである〔一五〕。
猶お此の機会に、巫覡の徒が神意を問うために、種々なる樹木を地に挿して、その栄枯によって占うた「挿木伝説」及び此の信仰から導かれた「杖立伝説」を併せ説くべきであるが〔一六〕、是等は必ずしも本書の範疇に属するものとも思われぬので、必要があったら、その条に説くとして今は除筆する。 
三 樺木
太占を行う際に亀甲を灼く燃料の、波々迦ノ木に就いては異説があるが〔一七〕、私は本居翁の、
和名抄に朱櫻、波々迦、一云邇波佐久良、また木具部に、樺ハ木皮ノ名、可以為炬者也、和名加波(カバ)、又云加仁波、今櫻皮有之とみえ、万葉集に 櫻皮 (カニバ)纒作流(マキツクレル)舟とよみ、古今集物名に迦爾婆櫻あり(中略)。これを合せて思ふに、此木の本名は波々迦にて、加爾婆は皮名なり、加婆は迦爾婆の約りたるなり。
とある樺木説に左袒する者である〔一八〕。延喜の「民部式」下に、信濃国樺ノ皮四囲、上野国樺ノ皮四囲とあるのは、鵜飼の燃料に用いたとの説もあるが〔一九〕、私はこれも太占用として考えたいのである。巫女が樺ノ木を用いたことは、私の寡見には入らぬけれども、東北地方——殊に陸中国の上下閉伊二郡にては旧家名族の別称として樺皮(カバカワ)の家と云うているそうだが、これは樺の皮に画ける仏像または名号を所有しているためであって〔二〇〕、それを所持することが家格の高いことを意味しているのだと云うことである。而して此の仏像なり名号なりを古く巫女が伝えたことは、同地方における巫女の勢力を知るときは、自然と解決される問題である。
これと同時に、考えなければならぬ問題は、盂蘭盆会の聖霊迎えに樺の火を焚く習俗の各地に存することである。我国の聖霊は、その子孫の者が焚いて呉れる火の光りを目途にして、遠い幽界から降り(或はその火の煙に乗って来るとも云うている)て来るのであると信じられていて、必ず墓地で迎え火を焚くこととなっていた〔二一〕。都会人が墓参もせず、己の門口で炮烙の上で麻殻を焚き、それで迎え火だなどと済しているのは、都会生活の屈托から儀式を簡略化したに過ぎぬものであって、聖霊に戸惑いさせる虞れがないとも限らぬ。前に挙げた陸中の上下両閉伊郡では、今も盆の迎え火は樺を墓前で焚くことになっている〔二二〕。陸奥国東津軽郡の各村々でも、盆の迎え火には樺を焚くが、殊に平内村(西中東の三村を押しくるめて)では、十三日から二十日まで毎夜戸外でこれを焚き、且つ舞踏をつづけるそうである〔二三〕。信濃国の伊那郡北部を中心とした地方でも、同じく盆には墓前で樺を焚くことと、ドンブヤを振ることの二つが、迎え火となっているのである〔二四〕。
こうした習俗は、克明に各地に亘り詮索したら、此の外にも存していることと思うが、兎に角に年に一度子孫を訪れる聖霊を迎えるのに、樺の火を焚くと云うことは太占の思想に負うところを考えさせると共に、此の木に呪力のあることを信じたもので、然も此の信仰を民間に植えつけたのは、記録にも口碑にも忘られるほど古い時代に、田舎わたらいした巫女の所業であったと想われるのである。 
四 葦
これも必ずしも巫女に限って用いた物ではないが、葦が呪力あるものとして、神意を占う際に重要な役割りを勤めたことは珍らしくないので、書き添えて置く。「新撰姓氏録」皇別の条に、
和泉国、葦占臣、大春日同祖、天足彦国押人命之後也。
と載せてある。記事が余りに簡単なので、此の葦占臣の呪術的方法の如何なるものであったかを知ることは出来ぬけれども、その姓の示す如く、葦を以て神意を占うことを職としていたので、此の姓を負うたものであることだけは明確である。
更に葦を呪力あるものとした信仰に至っては、これも取捨に苦しむほど多く存しているが、各地の神社で追儺の式に桑ノ弓と葦ノ矢を用いることは、支那の桃弓蓬矢の影響を受けたものとも思われるが、併し豊葦原ノ国と云われただけに、我国独特の葦の神事も少くはない。三州豊橋市横田の牛頭天王社では、毎年六月晦日に、茅ノ輪の神事を行うのは他社と変りはないが、此の社の神事は拝殿に薄(ススキ)を長さ二尺四五寸に切り、根の所を葦にて包み、此の葦に青黄白の幣と紙の人形(ヒトガタ)を附ける。輪くぐりが終ると夜の一二時過ぎに、茅ノ輪と葦とを、豊川に流し棄てる。然るに、此の葦の流れ着いた村では、その葦を産土神の地内へ仮宮を建てて安置し、その翌日の一日か又は三日のうちに、日待と同じく村民は悉く水垢離をなし、男女とも業を休んで参詣して祭り、以来七十五日間は毎夜献灯することになっている〔二五〕。紀州熊野の新宮十二所権現の旧九月六日の祭礼には、一ツ物とて馬に編笠着せた人形を乗せるが、古くは若い人を用いたものである。人形は衆徒永田氏から出すのだが、「寛文記」によると、一ツ物は、金襴の狩衣を着て、葦十二本に牛王十二枚挟みしを腰に挿し、飾り馬に乗り、神輿の先に立ったものである。そして此の葦は、大島から献上したものを、一山の衆徒等が七日間神殿に籠り祈祷して出すものだと云う〔二六〕。陸中国平泉町の白山権現の旧四月の祭礼にも、七歳の男児を潔斎させ、腰に葦の葉を挿させ、飾り馬に乗せ、社前に牽くを、お一ツ馬と云うている〔二七〕。東京市に近い王子町の王子神社の八月十三日の例祭にも、神人の行列中に唯一人、箙に青い葦を一本挿している者がある〔二八〕。
かかる類例は際限がないから他は省筆するが、是等から見るも、葦を持っていることが、神の憑かったことを証明しているのであって、葦に呪力を認めた信仰に出発していることは言うまでもない。
猶お此の外に、樒、柳などが存しているが、これは必要の機会に譲るとする。 
呪術に用いた動物も決して少くないが、ここには狭義に解するとして、巫女が用いたもののみに就いて、記述することとした。 
一 しし
古く我国では、鹿も猪も、共にししと称し、これを区別するときには、鹿(カ)ノしし、猪(イ)ノししと呼んだ。而して此のししには、宍(シシ)即ち食し得る肉というほどの意味がある。巫女が呪術に行うに際して、鹿(太占の場合は今は全く省く)および猪を用いたと思われることは、古く黄泉(ヨミ)の枕辞に「宍串呂(シジグシロ)」の語を用いたことから察せられるのである。宍串呂の解釈にあっては、賀茂真淵翁は繁釧(シジクシロ)の意なるべしと云うているが〔二九〕、これは僧仙覚の、串にさして炙たる肉はうまき物なれば味のよしとつづくと云う説こそ〔三〇〕、蓋し上代の民俗に適うたものと考えられるのである。
宍串の民俗学的例証は、私の集めただけでも相当に存しているが、その代表的の物は「出雲風土記」意宇郡安来郷に載せた語臣猪麻呂の記事である。天武朝に猪麻呂が娘を鰐のために喰い殺されたのを怒り〔三一〕、天神地祇に祈ったところ、百余の鰐が一頭の鰐を囲み率いて来たので娘の仇を復したが、その時に猪麻呂は「和爾(ワニ)者殺割而挂(カケ)串立路之垂也」とあるのがそれであって、現代にその面影を残しているものは、大隅国姶良郡東襲山村大字重久の止上(トカミ)神社の贄祭である。社伝に、此の祭は、景行帝が熊襲を退治せられたところ、その梟師の悪霊が祟りをなし人民を苦しめるので、毎年旧正月十四日に、氏子が初猟をなし、獲物の肉を三十三本の串に貫き、地に挿し立てて牲となし、熊襲の霊を祀るに始まると言い、今にその祭礼の次第が存している〔三二〕。
併し乍ら、此の肉串も原始期に溯ると、独り鹿や猪の肉ばかりでなく、人肉を用いたことも在りはせぬかと思われる点である。即ち前に挙げた枕詞の本歌は「万葉集」巻九菟原処女の墓を見て詠める長歌の一節で、即ち「宍串呂(シジクシロ)黃泉(ヨミ)に待たむと隠沼(コモリヌ)の下懸想(シタハ)へ置きて、打嘆き妹が去(ユ)ければ」云々とあるように、死の国である黄泉にかけた冠辞なのである。巫女が屍体を支解する職程を有していたために祝(ハフリ)と称したことの詳細は後章に説くが、宍串が人肉であったことも、此の結論から、当然考えられることである。而して是等の宍串を作る役目は、言うまでもなく巫女であったに相違ないのである。 
二 鵐
「古語拾遺」に「片巫{志止/止鳥}」とあることは既記を経たが、さて此の志止々鳥(シトトトリ)の解釈に就いては、昔から学者の間に異説の多い難問なのである。第一に伴信友翁の説を挙げんに、「正卜考」巻三、片巫、肱巫の条に、
強ひて思ふに、片は肩にて肱に対する言の如く聞こゆるをもて思へば(中略)、漢国にて股肱ノ臣などいふ心ばへに似て(中略)、然称へるにはあらざるか、猶ほ考ふべし(中略)。さて志止々鳥は、天武紀に、摂津国貢白巫鳥、自注に巫鳥此云芝苔々(シトド)(中略)。和名抄に、鵐鳥唐韻云鳥名也、音巫、漢語抄云、巫鳥、之止々、新撰字鏡に鵐字をよめり、また名義抄に、{神冠鳥}をカウナイシトトと訓り、この{神冠鳥}字、漢の字書どもに見あたらず、斯方にて制り(中山曰。国字の意)たる字なるべし、其訓カウナイは、巫(カウナギ)の音便にて、巫しとどと云ふ義なれば、片巫の志止々鳥の占に由あり聞こえ、漢字に鵐と作き、又巫鳥とも云へりと聞こゆるも、おのづから片巫の占に相似て聞ゆ。また枕冊子の、鳥はと云条に、みこどりといへるも、巫鳥と聞こゆ。また秘蔵抄と云ふ書に「かうなぎのかややこ鳥にこととはむ、我思ふ人にいつかあふべき」(中略)。歌林撲樕拾遺に此歌を載て(中略)かややこ鳥は、巫鵐を云ふといへり、これもいの占の事と聞こえたり、されど如何にして卜ふるにか知る由なし云々。
第二に、橘守部翁の説を載せんに、「鐘のひびき」巻一において「磨(中山曰。守部自身を指す)もえ心得ず、只年頃いぶかしむのみなり(中略)、かたなりなる試みをも申べし」とて、先ずこれに就いては自信なきことを告白し、さて曰く、
片巫{志止/止鳥}とあるは、鵐字を分ちて書けるか(中略)。和名抄に、巫{和名加/牟奈岐}祝女也と見えし如く、覡を男祝と云ふに対て、傍(ツクリ)なければ片巫とは云ふ歟。それを鵐鳥にとりなせしなるべし。枕冊子に、みことりといへるを、ふるく鵐の事也といへるなどもよしあり(原註。又按に、只字の上のみならず、此鳥にも、神社に由緣あるかと思ふことあれと(中略)。是はよく考て又も云べし。太刀に鵐目と云は、彼が目の貌に似たるを以て云なれど、鳥も多かるに此鳥の目にしも象るは、いかなるよしか、若は其刀を重みして、巫祝の神を斎くに准らへたるにや(中略)是もよく考へて又も云べし)云々。
とある。猶お此の外にも国学者と称する先覚の間に異説もあるが〔三三〕、それを一々引用することは長文になるので省略し、更にこれに対する私の管見を述べるとする。
私は第一の片巫の解釈に就いては、伴翁の説をそのまま承認する者であって、片は肩にて、肱に対して言うた語と考えている。琉球の祝女(ノロ)の間に行われている肱折り指折りと云う祭祀の作法は、内地の鹿自(シシジ)物膝折伏せ、鵜自物頸根(ウナネ)衝抜てある形容よりは、肩巫肱巫の作法に類似するところがあるように想われる。第二の志止々鳥は、古く頬白(画眉鳥)の事を云うたのではないかと思っている。私が此の志止々鳥に就き二三の学友に尋ねたところ、肥後国宇土郡地方では頬白のことを斯く言い〔三四〕、奥州秋田地方でも同じく頬白のことを斯く称しているとのことであった〔三五〕。而して和訓栞の頬白の条を見ると「頬白はしととの類なり」と載せている。これに就いて想い起こされることは、「神武記」に、伊須気余理媛が大久米命の黥(サケ)る利目(トメ)を見て詠める「胡鸞鶺鴒(アメツツ)、千鳥真鵐(チトリマシトト)」何裂る利目の歌である。此の真鵐は、言うまでもなく、志止々鳥の真なる意味で、真鴨とか真鯉とか云う用例と見て差支ないようである。此の歌も昔から難解に属するものではあるが〔三六〕。私は矢張り簡単に大久米命の目が、鶺鴒や、真鵐のように、円く黥(さけ)てあったと形容したものと見ているのである。従って片巫が呪術に用いた志止々鳥は殊に目の円いものであったと思われるので、それには頬白が最も応(ふさわ)しくないかと考えたのである。而して此の鳥を如何にして呪術に用いたかは、「津島紀事」巻一に「亀兆伝」を引用して「鹿は天の事は知れども地の事は却て知らず、此の故に亀に代ゆと(中略)。又鵐の骨を以て卜しこと古語拾遺に見えたり」とあるのを手懸りとして、鹿卜や亀卜と同じように此の鳥の骨を灼いて占う方法が在ったものと信じている〔三七〕。
然るに私の此の頬白説を打消すに足るほどの資料も存しているのである。第一は、能登国鹿島郡鳥屋村大字一青(シトト)の地名の由来である。「鹿島郡誌」巻上に「三州志」を引用して「一青をシトトと旁訓せり(中略)。小野蘭山シトト種類多し云々。豈この物に取るか、凡そ地名は土宜獣に取れる者多し」と載せたことである。これに由れば、一青というのであるから、志止々鳥は青い鳥でなければならぬのに、私の言う頬白には青いものは見当らぬようである。
第二は伴信友翁が「正卜考」志止々鳥の条に細註に「シトトは青みがちなる毛色にて、俗にアヲジとも云ふ、黒焼にして、金瘡などの血をよく止め治る薬なり」の一節である。アヲジが民間薬として用いられたことは私は他の治方も承知しているが〔三八〕、頬白に此のことを聞かぬとすれば、呪術に用いられただけに、私の説には弱いところがあるような気もする。
第三は陸中国の「東磐井郡誌」に「巫鳥(シトトリ)、田野に棲む、冬季食用とすべし」との記事である。これも頬白は食用にならぬから、志止々鳥と頬白とは全く別なものと考えなければならぬこととなる。
併しながら、私に強弁することを許されるならば、蘭山の云う如くシトトは種類が多く、「神武記」の真シトトは青く且つ食用にも足るものであるが、巫女が呪術に用いたものは、青くない食用にもならぬ頬白であったのではないかと言いたいのである。敢て後考を俟つとする。猶お此の志止々鳥が後世になると時鳥と同じもののように解釈されて種々なる俗信を生むようになったが、それ等に就いては後章に述べるとする。 
三 鵜
全体、我が古代の民族は、人は死ぬと鳥の形となって天に昇るものだと信じていた。我国の「鳥船信仰」なるものの基調はここに存しているのであって、「古事記」神代巻に天稚日子の葬儀を営むとき「河鴈を岐佐理(キサリ)持とし、鷺を掃持とし、翠鳥(ソニ)を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とし」た習俗が行われたのである。倭尊が薨後に白鳥となって飛んだと云う伝説も、更に現代でも琉球を始めとして内地の各所で、葬礼の際に紙で造った鳥の形の物を飛揚するのも、咸(み)な此の鳥船信仰に由来しているのである。従って鳥を神と人との間の使と見たのもこれが為めである。而して茲に言う鵜は、必ずしも此の信仰を如実に現わしているものではないけれども、その呪術として用いられた根底においては、一脈相通ずるものがあると考えたので、敢て記載することとした。
鵜を呪術に用いた徴証は、櫛八玉神が鵜と化したという「古事記」の記事であるが、これに就いては、次項に土のことを言う折に併せ述べる方が便宜が多いと信ずるので今は省き、ここには鵜の羽を呪術に用いた一例だけを記すとする。而して此の徴証は「古事記」の天孫彦火々出見尊の妃豊玉媛が皇子を生みまつる条である。
ここに海神の御女豊玉毘売命、自ら参出て白したまはく、妾已くより妊身るを、今御子産むべき時になりぬ(中略)。爾即ち其の海辺の波浪(ナギサ)に、鵜の羽を葺草にして、産殿を造りき。ここに其の産殿、未だ葺合へぬに、御腹忍へがたくなりたまひければ、産殿に入坐しき(中略)。ここを以て其の産せる御子の御名を、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と謂す。
而して此の鵜の羽を以て産殿を葺いたという事に関しては、古くから異説がある。「釈日本紀」巻八には「鵜口喉広飲入魚又吐出之容易之鳥也、是以象産生平安令葺此羽於産屋者歟」と安産の呪方として鵜の羽を用いしことを述べ、一条兼良も、此の説を承けて、「日本紀纂疏」に「祝其易産之儀」と記している。然るに、新井白石はこれに反して、神話を歴史として解釈せんと試みただけあって、今の荻は昔のうみがやである。日向国ではこれをうがやと云う。産殿を葺けるは此のうがやなるべしと論じている〔三九〕。
私はこれに対する管見を記す以前に、更に鵜に関する民間の俗信を述べて置く必要があると信ずるので、茲にその一つだけを載せたいと思う。能登の官幣大社気多神社では毎年鵜祭というを行うが、「能登名跡志」の記すところによると、祭儀が備うと一羽の鵜を社前に放ち、これが階段を昇るのを合図として祭礼が始まる。かく鵜を社前に供えるのは、鵜の肉は人肉と味を同じくし、古く此の神社は人身を供御としたが、後に此の鳥に代えたのであると伝えている。私は鵜肉と人肉とを食い分けて見たことがないので、此の伝説をそのまま鵜呑みにする訳には往かぬが、それにしても、斯うした民間信仰が在ったことだけは、認めても差支ないと考えている。而して是等のことから、古く我国には産屋(古代は分娩は常住の家宅では行わず、必ず別に一屋を設けてそこで挙げたものである。然も此の民俗は明治の初期までは各地に存していた。産所村の起原の一面はこれである)で分娩するときには、悪霊を防ぐ呪術として鵜の羽を屋上に挿した信仰があったのではないかと考えるのである。我国の祭礼に「一ツ物」と称する尸童が、必ず山鳥の羽を身に附けたのも、琉球の祝女(ノロ)が鴛鴦の羽を頭に挿すのも〔四〇〕、共にそれ等の羽に呪力を信じたからであって、鵜が魚を呑吐するように、産も易かれとの類比呪術の思想から、鵜の羽を産屋に挿したのを、鵜の羽を以て葺くと云うたのではあるまいか。而して此の呪術が、巫女によって行われたことは、古くより出産に参与する者は女子に限られていたのを見るも知られるのである。 
四 蟹
蟹は現代でも呪力あるものとして用いられている。東京市中でよく見かけるが、蟹甲を水引で軒頭に結びつけて置くのがそれである。今日では蟹甲を下げるのは、小児の驚風の厭勝だなどと云われているが、併し此の俗信の由来は遠き神代に発生したものである。蟹を呪術とした文献は「古語拾遺」に、
天祖彦火尊娉海神之女豊玉姫命生彦瀲尊、誕育之日海浜立室、于時掃守連遠祖天忍人命供奉陪従、作箒掃蟹仍掌敷設、遂以為職曰蟹守{今俗謂之借守/者彼詞之転也}。
とあるのがそれである。然るに、此の蟹守の故事は、独り「古語拾遺」に載せてあるばかりで、他の記・紀・風土記などには、全く記してない。ただに是等の書籍に載録を欠くばかりでなく「新選姓氏録」和泉国神別の条には、此の記事と相反するが如きものが記してある。即ち、
掃守首、振魂命四世孫天忍人命之後也、雄略天皇御代、監掃除事、賜姓掃守連、
とあって、掃守は神代の蟹に関することではなくして、雄略朝の箒掃のことに始まると云うのである。併し私は茲に此の両記事の是非を説くことは姑らく措き、ただ分娩に際して蟹を呪術に用いたという点に就いてのみ短見を述べるとする〔四一〕。
私は曾て「蟹守土俗考」と題して、これが考証を発表したことがあるので、茲にはその記事を要約し、更にその後に獲た新たなる資料を加えて載せるとするが、蟹が蝦や蛇と同じように、霊的の動物として、我が古代の民族に崇拝されたのは、(一)蟹の脱殻作用という不思議な生態と、(二)蟹と月の盈虧の関係と、(三)蟹の形状から来たものと思うている。
古代の我々の祖先達は、蟹や蛇や蝦の脱殻作用を見て、これを不思議なるものと考えずには居られなかったのである。人類には決して見ることの出来ぬ此の不思議は、やがて是等の動物は脱殻作用のあるために、幾度となく生命を更新して、永遠に生存するものであるという信仰に導いたのである。復言すれば、脱殻は老いたる生命を若きに返す不思議の霊能のあるもので、かくて何時までも生き永らえるものと思惟したのである。
琉球の伝説に、古代の人間は、蛇と同じように脱皮したもので、然もその脱皮毎に、心身ともに若くなったのであるが、それには正月の若水に身体を浸すことになっていた。然るに或年のこと、若水を浴びようと、井戸へ往って見ると、人間より先に蛇が浸っていたので気味悪く思い、手足の先だけ水に浸して帰ってしまった。それ以来、蛇は脱皮するも、人間は此の霊能を失い、僅に手足の爪だけが脱け変るのだと云うのがある〔四二〕。此の伝説は、内地の若水の信仰で、その基調となっているものは、前に述べた「変若水(ヲチミヅ)」の信仰である。而して此の信仰は延いて、神々の復活ということまでも考えさせるようになった。日神の運行も、月神の盈虚も、穀神(古代人は種子その物を直ちに神と見た)が一度刈られて、また繁茂し、結実するのも、悉く復活に外ならぬと認識したのである。天照神の磐戸隠れも、大己貴命が二度死んで二度とも蘇生したのも、共に生命の更新であって、然も霊能の復活である、と信じていたのである。
蟹の肉が月の盈虚によって肥瘠を異にしたことも、また古代人をして蟹を霊的の動物と考えさせた一原因である。然も月の盈虚が海潮の去来と関係あることを知って、いやが上にも蟹を不思議の物と考える程度を加えたのである。更に蟹の形態——殊に背甲に往々人面に髣髴たる地紋があり、且つこれに中毒して死を招くことなどは、愈々蟹を崇拝せしめるのに有力なるものがあった。我々の祖先は此の種の蟹を以て人間の怨魂が化したものと考えて、今に平家蟹、長田蟹、島村蟹、武文蟹、治部少輔蟹等の伝説を残している。かくして「日本霊異記」に載せた蟹満寺の古縁起となり、近江国甲賀郡土山村の蟹坂〔四三〕、越中国西蠣波郡北蟹谷村大字五郎丸の蟹掛堂〔四四〕、駿河国庵原郡高部村大字大内の保蟹寺の蟹楽師〔四五〕、甲斐国西八代郡御代咲村大字蟹沢の長源寺の蟹仏〔四六〕、美作国久米郡久米村大字久米川南の蟹八幡〔四七〕の由来などを始めとして、江州八幡町の少年が毎年小正月の左義長に蟹に扮する土俗や〔四八〕、此の外に私のカードに数えきれぬほど記してある蟹に関する伝説なども、その悉くは蟹を霊物としたために生じた信仰の結果なのである。
此の見地から言えば、蟹を産室に這わせる習俗は、産児が蟹の如く幾度となく生命を更新して、永く健全であれとの呪術から出たものであって、単に赤児が蟹の如く這うようになれと祝福しただけではないのである。琉球の各島々では、現に出産があると、数匹の蟹を捉えて来て室内を這わせる習慣が残っているが、此の場合に若し蟹の獲られぬときは、その代りに螽斯(方言セーガ)を用いるそうである〔四九〕。蟹の代用に螽斯を以てした理由は、私にはよく判然せぬが、支那には此の事が古くから行われていたようである。「詩経」の螽斯三章は即ちそれであるが、此の祝儀は文字の上だけでは我国でも用いたものと見えて、「山槐記」治承二年十月十日の条所載、建礼門院徳子の皇子降誕の祭文中の一節に「世以歌螽斯之詩、天以授亀鶴之齢」と見えている。而して此の蟹を這わせる役目は、姓氏録に魂振命とあるのから推すと、これが巫女であったことは明白である。何となれば、魂振とは即ち鎮魂の儀であって、これの魂振の聖職を奉ずるもの(次章鎮魂の節参照)は巫女に限られていたからである。
巫女が呪術に用いたと思われる動物は、まだ此の外に蛇(古事記に蛇比礼とある)があり、蜈蚣(同上、蜈蚣の比礼)があり、蜂(同上、蜂の比礼)があったようだが、記事が余りに簡単なので、其の方法すら知ることが出来ぬので、今は省略した。更に、牛、馬、犬、狐等の如き動物にあっては、記録にこそ見えぬけれども、実際にあって呪術に用いられたものと想われるが、是等は後章に説くとして、茲では触れぬこととした。 
呪術用の無機物は、前に鏡や玉を述べた折に、一と纏めにしても差支ないのであるが、是等の鏡や玉は、専ら呪術のために発達したものとも言える程であるのに反して、これから述べようとする石や土は、偶々呪術に用いられたと云うだけで、その間に相当の差違があると考えたので、かく別に記すこととしたのである。 
一 石
石の呪力をやや完全に説くには、我が古代における石信仰の起伏を述べなければならぬ。例えば「成長する石」とか、「子を産む石」とか、更に進んでは、風土記その他に見えている「寄(ヨ)り神(ガミ)」としての石信仰など、茲にその題目を挙げるだけでも容易なことではない。それに今は、是等の一般的の石信仰を論ずるのが目的でないから悉く省略し〔五〇〕、直ちに呪術に用いた石だけに就いて、然も簡明に記述したいと思う。
而して、石に呪力ありとした記事の初見は、諾尊が黄泉国から追われて帰える折に、黄泉平坂に千引石を置いたのを、「古事記」には「その黃泉坂に塞(サヤ)れりし石は、道反神とも号し、塞坐黃泉戸大神とも謂す」と載せている。併しながら、これは単に石の呪力を認めたというだけで、まだ石を呪術に用いたという積極的には出ていないのである。然るに「豊後国風土記」直入郡蹶石野の条の
同天皇{○景/行帝}欲伐土蜘蛛之賊、幸於柏峡大野、其野中有石、長六尺広三尺厚一尺五寸、天皇祈之曰、朕将滅此賊者、当蹶茲石、譬如柏葉而挙焉、即蹶之、騰如柏葉、因曰蹶石野。
とあるのは、明かに石占であることを示している。
由来、我国の石占には、その方法が三種ある。
第一、景行帝の場合の如く、神に祈(ウケ)いて石を蹶り、又は投げて、その石が己れの思いし高さなり、又は遠さなりに達するを以て、神慮の己れを加護するものと占うもの。
第二、石を扛(ア)げて、その軽重によって神意を占うもので、今にこれは俗に「軽重(オモカル)さん」と称して行われている。
第三、或る石を見立てて、草なり、藁なりを、後手で石の長さ位に切り、それを石に当てて見て、その長さが合致するか否かを以て、吉凶を占う方法である。
此の三方法は、古く広く行われていて、「万葉集」巻三丹生王の詠める長歌の一節に「夕占(ユウケ)問ひ石占以ちて」あるのは、軽重さんの方法に由ったものだと云われている〔五一〕。「新選姓氏録」蕃別に、石占忌寸の姓が載せてあるが、これは古く此の事に従うていたために負うたものである。「神功紀」に皇后が征韓の途に上りしとき「于時也適当皇后之開胎、皇后則取石挿腰、而祈之曰、事竟還日、産於茲土」云々とあるのは、畏きことながら、石の呪力を認めさせられての呪術であると拝されるのである。 
二 土
これも石と同じように、土に関する古代の信仰を説かねばならぬのであるが、それでは益々長文となるので茲には省き、直ちに土を呪術に用いたことに就いて述べるとする〔五二〕。而して呪術に用いられた土にあっては、凡そ二つに区別されていた。第一は或る限られた場所の土を用いることで、第二は或る種の土を用いたことである。併しながら両者ともその根本問題として、土に呪力のあることを信じていたのは勿論である。
第一の例証は「神武紀」戌午年秋九月の条に、
天皇(中略)。是夜自祈而寝、夢有天神訓之曰、宜取天香山社中土{○原/註略}以造天平瓮八十枚{○原/註略}幷造厳瓮而敬天神地祇{○原/註略}亦為厳呪詛、如此則虜自平伏矣(中略)。時弟猾又奏曰(中略)。宜今当取天香山埴、以造天平瓮、而祭天社国社之神、然後撃虜則易除也、天皇既以夢辞為吉兆、及聞弟猾之言、益喜於懐、乃使椎根津彦著弊衣服蓑笠、為老父貌、又使弟猾被箕為老嫗貌、而勅之曰、宜汝二人到天香山、潜取其巓土、而可来旋矣、基業成否、当以汝為占、努力愼焉。
とあるのが、それである。かくて、二人は勅命により、天香山の土を得て帰り、天皇これを以て斎器を造り、神祇を祭って、遂にその加護を受けて賊徒を平げ、天業を成したのであるが、如何に此の事に天皇が重きを置かれたかは、勅にこれを以て其業の成否を占うと仰せられたことからも、恐察せられるのである。而して茲に老嫗の貌となって赴いた弟猾は、即ち当時の巫女なのであった〔五三〕。
然るに「崇神紀」にも土を呪術に用いんとした事例が載せてある。即ち同紀十年秋九月の条に、
大彦命到於和珥(ワニ)坂上、時有少女歌之曰(中略)。於是天皇姑、倭迹々日百襲姫命、聡明叡智、能識未然、乃知其歌恠、言于天皇、是武埴安彦将謀反之表者也、吾聞、武埴安彦之妻吾田媛、密来之、取倭香山土、褁(ツツミ)領布、祈曰是倭国之物実、乃反之。
とあるのがそれである。而して此の事が例となって、摂津の官幣大社住吉神社の埴取の神事となるのであるが、それまで言うと、少しく長文になるので割愛する。
第二の例証としては、「古事記」神代巻に、
櫛八玉神、鵜に化りて、海底に入りて、底の土を咋(クヒ)出でて、天八十瓮(ヒラカ)を作りて、海布の柄を鎌(カ)りて、燧臼に作り海蓴(コモ)の柄を燧杵に作りて、火を鑽出(キリイデ)て云しけらく、この我が燧れる火は、高天原には、神産巣日御祖命のとだる天の新巣の凝煙(スス)の、八拳(ヤツカ)垂まで焼挙げ、地下は、底津石根に焼凝して(中略)。天の真魚咋献らむと白しき。
とあって、これは海底の土が択まれているのである。且つここに述べた八玉神の祝言(ホギゴト)は、又一種の呪文とも見られるのである。更にこれとは趣きを異にし、赤土に限って用いた例もある。「崇神記」に活玉依媛の許に夜々通い来る壮夫を知るために「赤土を床前に散らし」て、その壮夫の美和大神であったことが判然した故事があり、猶お「播磨風土記」逸文に、
息長帯日女命{○神功/皇后}欲平新羅国下坐時、祷於衆神(中略)。於此出賜赤土、塗天之逆鉾、建神舟之艫舳、又染御舟裳及御軍之著衣(ヨロヒ)云々。
とある。是等は共に赤土なる故に一段と呪力の強かったことを示しているのである。
猶お此の機会に「灰」を呪術に用いたことも見えているが、これは特種のことではあり、且つ左程に重要なこととも思われぬので省筆することとした。 
〔註一〕巫女の持物である手草に就いては、柳田国男先生の巫女考(郷土研究第一巻連載)の第二号に詳記してある。参照を望む。
〔註二〕「瑞垣」の二字を崇神朝と解する学者もあるようだが、私は橘守部に従い、単なる古代の意味に考えている。
〔註三〕「古事記伝」巻八(本居宣長全集本)
〔註四〕谷川士清翁の「日本書紀通証」に、枝葉は柴なりと載せてあるが、私は必ずしもそう考える必要はなく、笹の葉、または賢木と見ることも、不可能ではないと思っている。
〔註五〕「古事記伝」巻八(同上)。
〔註六〕神降しを行う際には、尸坐の身近くで、熾んに火を焚くことが、普通とされている。これは、第一は、火力によって尸坐の心身を夢の境に誘うことと、第二は、火によって荘厳の気を加えるためと、第三は、火を灯火の代用とする必要から来ていたようである。後世の職業的巫女になると、斯うした形式を採らずとも、直ちに神憑りの状態に入るだけの修業を積んでいたが、単なる信仰心で行う者、又は修験道系の者は、必ず火を焚いたものである。そして周囲の者が大声で呪文めいたものを合唱した。その例証は後章に述べる機会がある。
〔註七〕男女の鉢巻を単なる髪の乱れるのを防ぐためとか、又は景気をつけるための装身具とか見るのは、後世の合理的の解釈であって、その起りは神に対する場合にのみ限られたものである。換言すれば、神を祈るときに鉢巻をしたものである。狂乱の保名が、紫の鉢巻を忘れぬのも、此の名残りであるとは、既に柳田先生の説かれたところである。
〔註八〕我国の椿と、支那の椿とは、用字は同じだが、樹木は異っていて、支那の椿に相当するものは、我国の山茶花だという説がある。併し茲にはそんな詮索は措くとするが、兎に角に椿は霊樹として我国では崇拝されていた。八百比丘尼という有名な巫女は、常に此の樹の枝を所持していた。八百比丘尼に就いては後章に述べる。
〔註九〕「豊後国風土記」大野郡海石榴市の条に載せてある。それから、美作国勝田郡豊国村では、椿の木の槌を用いることを忌んでいると「民族」第四巻第三号に見えている。
〔註一〇〕榎の俗信に就いては「郷土研究」「民族」その他の雑誌の資料欄に、夥しきまで各地の報告が載せてある。一里塚に榎を栽えたのも、又その一つである。
〔註一一〕楸は梓の一種とも、又た同じとも云われているが、此の樹の実は薬剤として、今に民間に用いられているが、特に腎臓病に効験あると云われている。
〔註一二〕賀茂社の地主神である柊社へ、他の杉なり、松なりを栽えても、幾年かの後には柊となってしまうと云われている。これに就いては、「京阪文化史論」に載せた内藤虎次郎氏の「近畿の神社」を参照せられたい。
〔註一三〕出雲の熊野から、冊尊の神霊を賢木に憑けて紀伊の熊野へ遷祀する際に、その霊木を捧持した者の姓を玉木と称したとある。これに就いては、鈴木重胤翁の「日本書紀伝」に詳細なる考証がある。参照せられたい。
〔註一四〕現在では、タタルと云う語は、神の報復とか、懲罰とかいう意味に解釈されているが、古くタタルとは、神の出現という意味に用いられていたのである。信州諏訪神社には「七たたへ」の木とて、松たたへ、檜たたへなどもあるが、これは諏訪神が、是等の樹木に憑って、出現するということなのである。
〔註一五〕我国の神木思想は、民俗学的には、かなり重要な問題であるが、又かなり面倒な問題なのである。私も健康が許したら、そのうちに纏ったものを書いて見たいと思うている。
〔註一六〕「杖立伝説」に就いては、柳田先生の「杖の成長した話」が民族(第一巻第一号)に、「挿木伝説」の一班に関しては同先生の「楊枝で泉を卜する事」が同誌(第一巻第二号)にある。共に参照を望む次第である。
〔註一七〕伴信友翁の「正卜考」の余説として「波々迦考」がある。それを参照されたい。
〔註一八〕「古事記伝」巻八(同上)。
〔註一九〕前掲の「正卜考」に見えている。
〔註二〇〕柳田国男先生著の「雪国の春」に載せた「樺皮の由来」に拠った。
〔註二一〕聖霊迎えのために、墓地で火を焚く信仰の起原は、墓地を暖める思想——即ち人体の冷却は死であるから、これを暖めれば復活すると考えたことにも関係がある。詳説は差控えるが、此の事は考慮のうちに入れて置くべきである。
〔註二二〕「上閉伊郡土淵村郷土誌」その他に拠る。
〔註二三〕「平内志」。
〔註二四〕民族(第四巻第三号)有賀喜左衛門氏の「炉辺見聞」に詳記してある。
〔註二五〕「三州吉田領風俗問状答」に拠る。
〔註二六〕「紀伊続風土記」巻八二。
〔註二七〕「平泉志」。
〔註二八〕「十方庵遊歴雑記」初編(江戸叢書本)。
〔註二九〕「冠辞考」(賀茂真淵全集)。
〔註三〇〕前掲の「冠辞考」に引用してある。
〔註三一〕我国の近海に鰐は居ぬ。従って古典に現われた鰐は鮫であると言われている。白鳥庫吉氏は此の説を称えるお方であって、私もそれに賛成する者である。
〔註三二〕明治二十九年に島津家で発行した「地理纂考」に拠った。
〔註三三〕片巫肱巫に就いては、片を県のカタと連想して、田を祈祷する巫女、肱巫はこれに対して畑の巫女などと云う珍説さえある。
〔註三四〕同地出身の学友小山勝清氏の談。
〔註三五〕同地出身の友人橋本実朗氏の談。
〔註三六〕橘守部翁は「鐘のひびき」において珍説を提出しているが、これは異説を立つるに急であって、全く原義を失うたものである。
〔註三七〕「津島紀事」のそれは、同地方の民俗を以て「古語拾遺」を推測したものと考えたい。猶お「津島紀事」には、異本が私が見ただけでも、三種ある。注意せられたい。
〔註三八〕私の友人である下野国安蘇郡舟津川村の医師武藤隆秋氏の家は、代々漢方医であったが、氏の談に、家伝の婦人用の秘薬は、此のアヲジで製したものだということである。
〔註三九〕「古史通」巻五(新井白石全集本)
〔註四〇〕「一ツ物」に就いては「考古学雑誌」第十巻第一号に拙稿を載せたことがある。そのうちで、鵜の羽を産屋に挿したことに関しても述べて置いた。今その雑誌が手許に無いので、記憶のままで記した。参照をねがえると仕合せである。
〔註四一〕京都で発行した「郷土趣味」第二〇号に拙稿「蟹守土俗考」が載せてある。発行部数が少いので一寸手に入れにくい雑誌ではあるが、これに詳しく私見のあるところを述べて置いた。
〔註四二〕民族(第三巻)に連載したニコライ・ネフスキー氏の「月と不死」の論文は、この伝説の研究である。
〔註四三〕「淡海温故録」巻一。
〔註四四〕「西蠣波郡紀要」。
〔註四五〕「駿国雑誌」巻二四ノ上。
〔註四六〕「裏見寒話」巻九。
〔註四七〕「岡山新聞」大正七年六月分。
〔註四八〕「郷土趣味」第一一号の表紙絵及び記事。
〔註四九〕「郷土研究」第二巻第一〇号。
〔註五〇〕石信仰に就いては柳田先生の「石神問答」を参照されたい。
〔註五一〕伴翁の「正卜考」に見えている。併し、是等の石占のうちには、足で蹴る、手で投げる方法も加っていたものと見るべきである。
〔註五二〕我国の土信仰に就いては「郷土趣味」第一八号に「砂撒き」と題して、私見を発表したことがある。かなり複雑している問題なので、簡単に説くことは出来ぬ。
〔註五三〕弟猾が女性であることは、学友折口信夫氏から教えを受けた。 
 
第五章 巫女の作法と呪術の種類

 

第一節 巫女の呪術的作法
古代の巫女が呪術を行う折に、如何なる作法を執ったものか、その詳細は元より知ることは出来ぬけれども、古文献に現われたところでは、(一)逆手を打つこと、(二)跳躍すことの二つだけは、やや明確に知ることが出来るので、これに就いて記述する。 
一 逆手
古代の巫女を想わせる現今の神子逆手の典拠に就いては、「古事記」国譲りの条に、八重事代主神が「此の国は天神の御子に立奉りたまへと言ひて、乃ち其の船を踏傾けて、天ノ逆手を青柴垣に打成して、隠りましき」とあるのが、それである。然るに、此の逆手の研究にあっては、これ又、古くから異説が多く、今にその定説を見ぬほどの難問題なのである。ここには代表的の研究として二三の異説を挙げる。
本居宣長翁はこう云っている。
伊勢物語に、天の逆手を拍てなむのろひ居るとあると、相照して思ふに、古へに逆手を拍て、物を呪(カヂ)る術(俗にいふ麻自那比(マジナヒ)なり)のありしなり(中略)。ここは船を柴垣に変化(ナサ)むための呪術なり。さて逆手を拍と云ふ拍状は先づ常に手を拍は、掌をうつを、此は逆に翻して、掌を外になして拍を云ふか、又は常には両の掌を同じさまに対へて拍を此は左と右との上下を、逆にやり違へて拍を云か、此二の間今定めがたし。
と説き、更に逆手は吉凶ともに拍つものであること、及び逆手と後手(この事は後に云う)とは別なものであるとて僧契沖と賀茂真淵の両説を難じている〔一〕。
然るに、本居翁の論敵である橘守部翁は、これに就いて先ず本居説を引き、更に曰く、
逆手とは、逆はただ借字にて、栄手(サカデ)の義にこそあれ逆にするにはあらず、栄手とは栄ノ字を、常にさかえともはえとも訓ムごとく、其為術事に栄あらせんとて、手を拍てものとするを云ふ。こを右の古事記以ていはば、即船を青柴垣に変化(ナス)術に栄あらせんとて手を拍てものし給ひしなり云々。
と論じ、猶お「本居氏等の、恒に右の如きおさな説(ゴト)をいひはやせる、打見るも痴(シレ)々しく」と云い、一歩をすすめて「かくて復古の大道開くべき器かはと思へば悲しくさへなりて」とまで極言している〔二〕。
而して谷川士清翁は曰く「天の逆手といへるは、蒼柴垣に隠れたまはんとての事なれば、進むは順退くは逆なれば、逆手打とはいふなるべし。伊勢物語に天ノ逆手打てのろひをりけると見えたるは、人を呪詛するよう逆手を用ゐたる成べし。猶後手(シリヘテ)の義の如し。天とは例文による詞也。今の人逆手を忌といふも是なり。寄海人恋の歌に、我恋は蜑の逆手を打返しおもひときてや世をもうらみん、肖聞抄に海人のかつきに海底へ入らんとて、手にて浪を打也といへり」と述べている〔三〕。
猶お、此の外に、伊勢貞丈翁は、「逆手は退手なり、退くことをさか事と云ふ、人の前へ進みて逢ふ時に、手を拍つ、これ進み見るの礼也、退く時にも又手を拍て退くこれ退出の礼也。天ノ逆手の事を海人の事と云説あり(中略)。色々様々の邪説まちまち也、用ゆべからず(中略)。逆手とてうしろ手に、手をうちて、人を呪詛する事也と云は、伊勢物語の本文に合ふやう作りたる説なり、是ひがごとなり。」と〔四〕、殆んど以上の諸説を否定するが如き駁論を試みている。
而して是等の諸説を参酌して、私の考察を述べんに、事代主命の船を踏み傾けて青柴垣に隠るるとは、即ち入水したことを意味しているのであるから〔五〕、此の場合に拍った逆手なるものが、本居翁の言う如く、吉凶の両方に用いたと解せらるべき筈はなく、さればとて、守部翁の言う如く、船を柴垣に打ち成す栄手とも考えられず、谷川翁の三義も徹底せぬ嫌いがあり、伊勢翁の退手も字義に捉われたように想われるので、所詮は賀茂翁の言われたように、凶事にのみ用いる呪術の一作法と信ずるのである。後手に就いては、「日本書紀」の一書に、海神が彦火々出見尊に教えて「此の鈎を汝の兄に与へたまはん時に、即ち貧鈎(マチチ)、滅鈎(ホロビチ)、落薄鈎(オトロヘチ)と称へ、言ひ訖りて後手(シリヘデ)に投与へたまへ、向ひてな授けたまひそ」とあるように、これは呪術的の意味が明白に且つ濃厚に含まれていたことが知られる。「釈日本紀」巻八に「今世厭(マジナフ)物之時、必以後手也」と述べたのも、決して虚構だとは想われぬ。私は逆手は此の後手と同じほどの内容を有するものと信ずるのである。 
二 跳躍
シャーマン教は、一名跳神教とも言われるほどであって、これに属する巫覡の徒は、猛烈に跳躍をつづけ、その結果催眠状態に入るのであるが、我が古代の巫女が、これと同じように旺んに跳躍したか否か、判然しない。勿論鈿女命が天磐戸の斎庭において神憑りした事を、「日本書紀」には、「巧(タクミ)に俳優(ワザヲギ)す」と載せているより推すも、鈿女命が跳躍的の動作を執ったことは明白であるが、此の動作が、神憑り状態に入るべき必要条件であったか、それとも磐戸に隠れし天照神を誘い出す手段として、八百万神を咲楽せしむるためであったか、その点が少しく釈然せぬ嫌いがある。併しながら、私の考えているところを簡単に言えば、鈿女命は「釈日本紀」に引用せる「天書」第二にある如く、神憑りには熟練せる師巫であったと想われるので、シャーマンの如く狂跳勇躍せずとも、直ちにその状態に入る事が出来たのであろうが、又相当の跳躍的動作をなした事も、覆槽を踏みとどろかして拍手をとり、胸乳を掻き出し、裳紐を番登に押し垂れる有様から見て、疑う余地はない。
ただ、問題として残る所は、鈿女命の此の動作が、シャーマンのそれと、直接なり、間接なりに、交渉を有っているか、どうかと云う点である。私の浅薄なる見聞では、此の問題を解決する事は至難であるが、兎に角に我国の古代は、シャーマニズムの文化圏内に在った所から見ると、全く影響が無かったとは言えぬけれども、さりとてシャーマン即鈿女命と断ずる事は如何かと考えられる。而してずっと後世になると、巫女も猖んに跳躍を試みた記事が散見するが、これが鈿女直系の所作か、或は仏道修験道の影響を受けたものか、その辺が明瞭を欠くので、これを以て古代を反推する訳にも往かぬのである。猶お、巫女と舞躍との関係に就いては、後章に述べる考えである。 
〔註一〕「古事記伝」巻一四(本居宣長全集本)。
〔註二〕「鐘のひびき」巻三(橘守部全集本)。
〔註三〕「増補語林和訓栞」その条。
〔註四〕「貞丈雑記」巻一(故実叢書本)。
〔註五〕事代主命が蒼柴垣に隠るるとは、即ち入水した意味と解釈する学者も少くない。私もそう解釈することが至当であると考えている。 
第二節 顕神明之憑談としての呪術

 

巫女の初見は菊理媛神であるが、此の神に就いては、日本書紀(古事記には載せてない)の記事が余りに簡単であるために、如何なる呪術を用いたものか全く知ることが出来ぬけれども、これに較べると天照神の天磐戸隠れの斎庭における天鈿女命の顕神明之憑談(カミガカリ)なるものは、やや詳しく記載されているので、左に「古事記」から必要の部分だけを抄出し、これに私見に添えるとする。
天宇受売命、天香山の天の蘿を手次に繫けて、天の真拆を鬘として、天香山の小竹葉を手草に結ひて、天の岩屋戶に空槽伏せて、踏轟かし、神懸して、胸乳を掻出で、裳緒を番登に忍垂れき、爾、高天の原動(ユス)りて、八百万の神共に嗤(ワラ)ひき、云々(有朋堂文庫本)。
此の記事によると、神の憑り代となる者は、(一)蘿を襷にかけ、(二)真拆を鬘にし、(三)笹葉を手に持ち、(四)空槽の上に乗って、それを踏み轟かして、神懸り状態に入るのであるが、然も此の状態に入ると、(一)胸乳を掻き出し(二)裳緒を番登に押し垂れるなどの放神的動作に出ることさえあった。併し、此の時に、鈿女命に何れの神が憑り、何の託宣をしたかに就いては、記・紀ともに明記を欠いているので、何事も知ることが出来ぬのである。
由来、巫女が神懸り状態に入る目的は、神の憑り代となって、託宣をすることに存していて、それ以外には殆んど此の作法を必要としていぬのである。それにも拘らず、此の鈿女命の場合に限って、それを欠いているのは如何なる次第であるか、これには又た相当の理由が存しているのである。
天照神の磐戸隠れに就いては、昔から学者の間に異説がある。本居翁の如く、神代巻の総てを一種の信仰と感激とを以て、その在るがままに解釈したものは、これを天照神が素尊の暴逆を怒って、磐戸に隠れたものとしているが、新井白石翁の如く、神代の記事は悉く歴史なりという立場にある者は、此の事件を天照神の神避りとなし、斎庭の儀式は葬祭であると断じている〔一〕。更に、高木敏雄氏のように、比較神話学から此の事を説き、素尊を暴風雨神となし、「暴風雨退散して、天日再び輝ける状を記すものなり」と論ずるあれば(二)、津田左右吉氏は、比較民俗学の観点から此の事象は蛮民俗の間に見る、日蝕の祭儀であると説く者もある〔三〕。
而して私は、是等の四説の中から、第二の新井白石の説を採る者であって、磐戸隠れは、一種の墓前祭(我国の祭祀の起原が、社前祭で無くして、墓前祭で在ったことは後節に述べる)であったと信ずるのである。然らば何故に墓前祭にかかる巫女の神憑りが必要であったかというに、これには又相当に重要なる理由が存していたのである。
元来、我が古代では、人が死ぬと、その屍体を直ちに葬ることなく、八日八夜の間は、殯葬(モガリ)(殯葬(モガリ)の民俗学的意義は後章に述べる)と称して梓宮(アラキノミヤ)に置く習俗があった〔四〕。而して此の殯葬の期間だけは、親族(ウカラ)宗族(ヤカラ)が集って、一方死霊を慰め和げるために、一方遺族の悲しみと憂いを払うために、盛んに歌舞宴遊するのを習わしとしたのである。「古事記」に、天若日子が横死せるを殯葬せし条に、
天なる天若日子が父、天津国主命、及其の妻子ども聞きて、降り来て、哭悲みて、乃ち其処に喪屋を作りて(中略)、日八日夜八夜を遊びたりき。
とあるのが、一証である。而して茲に注意すべきことは、此の殯葬中は、屍体を全く活ける者同様に取扱い、そして生ける者に接するよう、その死顔を見ては、遊びを続けた点である。前に挙げた諾尊が冊尊を追うて黄泉国に往かれたとあるのは、民俗学的に言えば、冊尊を殯葬した霊柩を開いて窺い見られた事なのである。天照神が磐戸に隠れたとあるのは、考古学的に言えば、石棺に入られたことである。
然も此の民俗は、琉球には近年まで残っていた。即ち、同国の津堅島では、二十四五年前までは、人が死ぬと、蓆で包んで、後世山(グシャウヤマ)(中山曰。後世の語には骨を腐らすというほどの意がある)と称する藪の中に放ったが、その家族や親戚朋友たちは、屍体が腐爛して臭気が出るまでは、毎日のように後世山を訪れて、死人の顔を覘(ノゾ)いて帰るのであった。死人がもし若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が、毎晩のように酒肴や楽器を携えてこれを訪ずれ、一人々々死人の顔を覘いた後で、思う存分に踊り狂って、その霊を慰めたものである〔五〕。
此の民俗を知って、再び天ノ磐戸の記事を読み返して見ると、そこに共通の信仰の含まれていることが知られるのである。即ち鈿女命が神懸りしたのは、託宣する為めでなくして、専ら天照神の尊霊を慰め和らげるのに外ならぬのであった。現在では、国語の「あそぶ」に、漢字の「遊」が箝当せられた所から、遊びと云えば、遊楽とか、道楽とかにのみ解釈されているが、我国の「あそび」の古義は、祭祀を指したものであって、祭祀の外に遊びはなかったのである。度会延佳が「遊は神事なり」と断言したのは、最もよく我国の古俗を道破したものである。而して此の遊びに必要として、胸乳を掻出し、番登を露出して、「八百万の神共に咲(ワラ)ひき」とある葬宴になるのである。勿論、これ等の局部が呪力(マジカル・パワー)として死霊の祟りを防ぐことの出来るものと信じての動作であることは言うまでもない。更に「古語拾遺」に此の条を記した末に「あはれ、あな面白し、あな楽し、あなさやけ、おけ」と称えて、神々が手を伸して歌舞したとある。この「面白し」は、昔から如何にも古代にふさわしからぬ措辞として、代々の学者も疑っているのであるが、私に言わせると、琉球津堅島の民俗の如く、屍体の顔を覗き見ては、まだ変相せぬのを、斯く、面白し、あな楽しと言うたのではないかと考えている。天磐戸前における鈿女命の神懸りの目的は、殯祭葬祭の為の遊楽であった。従って茲に憑り神なく、託宣なきは、当然であったのである。猶おこれに就いては、次節の鎮魂の条を参照せられたい。
〔註一〕「古史通」及び「古史或問」に、その意味のことが、明白に記されている。
〔註二〕「比較神話学」一三〇ページに、その事が力説してある。
〔註三〕「神代史の研究」及び「古事記日本書紀の新研究」に見えている。
〔註四〕殯葬は身分の高下により、その期間に長短の差のあったことは言うまでもないが、長いのは五六年も要したものさえある。これは大規模なる墳墓を築造するためである。
〔註五〕雑誌「民族」第二巻第五号の「南島古代の葬儀」参照。 
第三節 鎮魂祭に現われたる呪術

 

我が古代人が我が霊魂を二つに分けて、一は荒魂(アラミタマ)——即ち生ける人の魂と、二は和魂(ニギミタマ)——即ち死せる人の魂としたことは既述したが、更に此の霊魂の解釈は、時勢と共に一段と発展して、人が病魔に襲われるのは、魂が身体の居るべきところに居られぬためである。それ故に、健康を続けんには、恒に魂を中府に置くようにしなければならぬと云うので、ここに鎮魂祭なるものが発生した。然るに、これに反して、死せる人の魂は、凶癘魂となって、疎び荒ぶるものである。これを鎮めるにも同じく鎮魂の神事なるものが工夫された。而して前者は、鈿女命及びその系統に属する猿女君(サルメノキミ)が伝え、後者は伊賀の比自岐和気(ヒジキワケ)に属する遊部(アソビベ)なるものが承けたのである。私はこれに就いて、猶お少しく詳述して、両者の関係と、古代の霊魂に対する信仰とを、明かにしたいと思う。
生身魂(イキミタマ)を鎮める方法に就いては、旧事本紀(第五天孫本紀)に左の如き典拠が載せてある。
宇摩志麻治命、以天神御祖授饒速日尊天璽瑞宝十種(中山曰。瑞宝十種は後に挙げる)。而奉献於天孫(中略)。宇摩志麻治命、十一月丙子朔庚寅、初斎瑞宝、奉為帝后鎮祭御魂、祈請寿祚、其鎮魂之祭、自比而始矣(中略)。凡厥鎮祭之日、猨女君等主其神楽、挙其言大謂一二三四五六七八九十、而神楽歌舞尤緣瑞宝、蓋謂斯歟云々(国史大系本)。
此の記事を文字通りに解釈すれば、鎮魂祭の本義は、瑞宝十種を斎うことに存するのである。而してその瑞宝とは、同じ旧事本紀(第三天神本紀)に、下の如く掲げてある。
天神天祖詔授天璽瑞宝十種、謂、瀛都(ヲキツ)鏡一、辺都(ヘツ)鏡一、八握剣一、生玉(イクタマ)一、死反(シニカヘシ)玉一、足玉一、道反玉一、蛇比礼一、蜂比礼一、品物(クサクサノモノ)比礼一、是也。天神御祖教詔曰、若有痛処者、令茲十宝謂一二三四五六七八九十、而布瑠部(フルヘ)、由良由良止(ユラユラト)布瑠部、如是為之者死人反生矣。是則所謂布瑠部之言本矣云々(国史大系本)。
此の記事を読めば、多くの説明をなさずとも、直ちに是等の瑞宝十種の悉くが、純然たる呪具(Talisman)であることが知られると同時に、唱うるところの一二三の数字、及び由良由良の語が、これ又た純然たる呪文(Spell)であることが知られるのである。而して此の一事は、我国の呪術が医術的方面にも交渉を有していたことを示唆するものであって、然も此の呪術を行えば「死人反生」するものと、信じていたのである。「令義解」の職員令鎮魂の条に「謂鎮安也、人陽気曰魂、魂運也、言招離遊之運魂、鎮身体之中府、故曰鎮魂」とあるのも、又此の方面に触れているのである。
神代に発祥した鎮魂の祭儀は、列聖の間にも、毎年十一月の中の寅ノ日を以て、厳かに執り行われて来た。勿論、その時代により、多生は繁簡の差は在ったことと思うが、今日からは仔細にそれを知ることは出来ぬ。ここには、やや時代が降るけれども、此の祭儀の固定して永く規範となった、然も記録として最も古きものに属する「貞観儀式」(政事略第二十六要所収)から、本節に必要あるところだけを抄録する。
鎮魂祭儀 {十一月中寅日、中宮(祭儀)/准此、但東宮用巳日、}
其日所司預敷神座於宮内省庁事、次設大臣以下座於西舎南(中略)酉二点、大臣以下就西舎座、神祇伯以下率琴師、御巫、神部、卜部等、着榛摺衣、令持供神物、左右相分、入立庭中、神部昇自東階、置神宝(中山曰。十種の瑞宝)於堂上、次舁神机昇、御巫従之、次神部四人各持琴、左右相分(中略)。次大膳職、造酒司、供八代物、縫殿寮、率猨女昇自東側、就座、次内侍令賚御衣匣、自大内退出、昇自東階就座、治部省率雅楽寮楽人歌女等、昇自西側階就座、訖大臣出自西舎、昇自西側階、就堂上座(中略)。大臣宣賜縵木綿、丞称唯退、丞率録史生蔵部等、実木綿於筥、入先賜神祇官人(中略)。訖神祇伯喚琴師、各二人共称唯、次喚笛工、各二人、共称唯、伯命琴笛相和{○原/註略}四人共称唯、先吹笛一曲、次調琴声、訖琴師弾絃、与神部共歌二成、次神楽寮歌人同音共歌二成、神部二人候拍子、御巫始舞、毎舞巫部誉舞三週{○原/註略}大蔵録以安芸木綿二枚実於筥中、進置伯前、御巫覆宇気槽立其上、以桙撞槽、毎十度、畢、伯結木綿縵、訖、御巫舞訖、以諸御巫猨女舞畢(中略)。訖各々退出(史籍集覧本)。
此の記事によって考えれば、宮中に行われた鎮魂祭は、既載の「旧事本紀」の典拠と、「古事記」に記された天磐戸の鈿女命の所作とを基調として、僅にこれに二三の新しい祭儀の手続きを加えただけであって、その根幹となっている祭儀も信仰も、全く同一であることが、明白に看取せられるのである。而してその祭儀が呪術的であって、且つ信仰が、呪術思想に出発していることも、併せて拝察されるのである。
猶お平安期の鎮魂祭に就いては、その機会があれば記述したいと思うているが、根本の信仰にあっては、依然として呪術的範疇に属していたのである。因に云うが、鎮魂祭に関する史料を集めたものには「古事類苑」の神祇部があり、考証的のものには、伴信友翁の詳細を極めた「鎮魂伝」があり、由良由良の呪文に就いての委曲を尽した考証は、同翁著の「比古婆衣」にあり。更に一二三の数字を呪文とした理由(これはやや独断的のものではあるが)に就いては平田翁の「宮比神御伝記」がある。参照せらるると仕合せである。
然るに、これに反して、我が古代には、死人の魂を鎮むるにも、鎮魂の神事が行われていた。而してこれを行うものを「遊部」と称していた。遊部の典拠に就いては、「令集解」の喪葬令の条に、左の如き記載がある。
遊部者、終身勿事、故云遊部也、釈云(中略)。遊部、隔幽顕境、鎮凶癘魂之氏也、終身勿事、故云遊部、古記云遊部者、在大倭国高市郡、生目天皇之苗裔也、所以負遊部者、生目天皇之蘖、円目王娶伊賀比自支和気之女為妻也、凡天皇崩時者、比自支和気等到殯所、而供奉其事、仍取其二人名称禰義余此也、禰義者、負刀、並持戈、余此者、持酒食、並負刀、並入内供奉也、(中略)。後及於長谷天皇崩時、而依罄比自支和気、七日七夜不奉御食、依此阿良備多麻比岐、爾時諸国求其氏人、或人曰、円目王娶比自支和気為妻、是王可問云、仍召問、答云、然也、召其妻問、答云、我氏死絶、妾一人在耳、即指奉其事、女申云、女者不便負兵供奉、仍以其事移其夫円目王、即其夫代其妻而奉其事、依比和平給也、爾時詔自今日以後、手足毛成八束毛遊詔也、故名遊部君是也云々(国書刊行会本)。
是れによると大体次の如きことが知り得られる。
一、遊部とは、生目(垂仁)天皇の苗裔であった円目王に属し、中臣裔の猿女君以外に、一部の部曲(カキベ)をなしていたこと。
二、その職務は、天皇の大喪に際し、殯所において、幽顕の境を隔てて、凶癘の魂を鎮めること。
三、然も此の神事は、伊賀の比自支和気の家に伝っていたこと。
四、神事を行うには、比自支和気の氏人二人を採り、その一人を禰義(ネギ)と云い、他の一人を余此(ヨシ)と云い、禰義は刀を負い、戈を持ち、余此は酒食を持ち(私の謂う葬宴の儀式化したものである)、刀を負い、殯所の内に入って供奉したこと。
五、然るに長谷(雄略)天皇の崩じた時に御食を奉らぬより荒びたので、比自支和気の氏人を求めた所、その多くが死に絶えて、円目王妃一人だけが残っていたので是れを召すこと。
六、女子では供奉に不便だと云うてその夫が代って勤めたこと。
七、遊部は手足の毛の八束になるまで遊べと詔ありて、総ての租調庸を免除されたこと。
而して此の比自支和気の家に伝えた鎮魂の作法が、猿女系のそれと同じく、全く呪術的祭儀と信仰であることは明白である。
然るに、茲に一言注意して置かなければならぬことは、かく猿女系の鎮魂は、生者に対して行われ、これに反して遊部系の鎮魂は、死者に対して行われるように記載してあるが、果たして此の記載のように太古から少しも渝ることなく行われて来たか否かという点である。換言すれば鎮魂をかく両様に差別しているけれども、元は両者同根より発生したものではなかったか否か、その間に、混用なり、併用なりが、ありはせぬかということである。而して更に、此の場合に併せ考えて見なければならぬのは、我が古代に支那において発達した陰陽道の「招魂」の呪術が早くも輸入され、然もそれが行われていたということである。仁徳帝が皇弟の菟道稚郎子が薨去せられた折に、
乃解髪跨屍、以三呼曰、我弟皇子、乃応時而活、自起以居。
とあるのは〔一〕、即ち「礼記」に載する復(ナキタマヨバイ)または「楚辞」の注にある復の思想と作法とをそのまま移されたものである〔二〕。而して此の仁徳帝の行われた呪術的作法が、日本紀の編纂される折に後人から追記されたものかどうか、それは姑らく別とするも、此の呪術が陰陽道の影響を受けていることだけは明確である。従って斯うした事のあったことなどを考え併せると、生者に対して行われたとある鎮魂も、始めは死者に対して行われたものではなかったかという疑いの起るのである。前に引用した「旧事紀」の、瑞宝十種の呪術のうちに「死人反生」とあるのは此の事を想わせる。更に天武紀十四年十一月の条に、
丙寅、法蔵法師全鐘献白朮(オケラ)煎、是日為天皇招魂。
とあるが、当時の用語例より云えば、招魂は死者に対して行ったものである。而して後世の書ではあるが、兼好の「徒然草」に、
真言書の中に呼子鳥の鳴くは招魂の法をば行ふ(中山曰。此の事に就いて後章に述べる)次第あり。
とあるのも、其の事を裏付ているように考えられるのである。
而して是れに対する私の管見を極めて率直に言えば、猿女系の鎮魂祭も、元は遊部系の鎮魂の神事と同じく、死魂に対して行われたのであるが、神道が固定すると共に、墓祭葬宴であった天磐戸の神事が、専ら天照神の復活または再現のこととのみ解釈せられるようになったので、遂に両者を截然と区別するようになったのであろうと考えるのである。勿論、斯う言うものの現人を神と崇め、現人の魂を鎮めることの無かったと主張するのではなく、ただ鈿女命の行うた磐戸前の祭儀はそうであったろうと言うまでで、その点誤解なきよう敢て附記する次第である。
〔註一〕「仁徳紀」に載せてある。
〔註二〕「曲礼」「楚辞」の註に、此の事が詳記してあるが、有名な事であるだけに、原文を引用することは見合せた。 
第四節 憑るべの水系の呪術

 

私は昭和二年十月に白鳥庫吉氏が東洋文庫において、前後九回にわたり試みられた「日本周囲民族の古伝説より見たる記紀の神代巻」とも題すべき講演を聴いて、実に多大なる啓発を受けた。就中、大己貴命の元に少彦名命が来られた際に、此の神の名を知るものないので、久延毘古(クエビコ)を召して問いしに、此の神は産霊神(ムスビノカミ)の御子であると答えたとあるが、此の久延毘古は「足は行かねども、天下の事を尽く知れる神にて、今に山田の曾富騰(ソボト)といふ」とあるより推せば〔一〕、俚俗に案山子(カカシ)と云うものに相当しているのである。然らば、何故に此の案山子が天下の事を尽く知るほどの神通力を有していたかというに、これは西洋に行われた水晶占(クリスタル・ゲージング)と同じく〔二〕、水を見詰めて物を占うとある思想と共通のもので、案山子が常に水面を見ているところから、斯かる神話を構成したのであろうと云う一条は、私の耳を聳たせ、目を睜かせずには置かなかったのである。
私は白鳥氏の此の講演を聴かぬ以前から、我国に古く水を見て一種の占いをする水占(ウォーター・ゲージング)の方法のあったこと、及び此の占法が巫女の呪術として行われていたことを、記録または民間伝承の方面から夙に知っていたので、これに関する材料も相当に集めて持っていたのであるが、久延毘古の神通力がこれであるとまでは少しも気がつかず、同氏の講演によって始めて案山子の呪力を知ったと同時に、後世の巫女が「外法箱(ゲホウバコ)」と称する呪具のうちに、小さき案山子を入れて置く(此の事は後章に述べる)理由が判然したのである。此の点に関しては、厚く白鳥氏の学恩を感謝する次第である。而して我国では此の水を見て行うた呪術を古く「憑(ヨ)るべの水」と称していたので、暫らく此の名を以て代表させることとしたが、更に民間伝承では、小野ノ小町の姿見の井とか、和泉式部の化粧水とか、水鏡の天神とか種々なる名で呼んでいたのである。
我国で水を見て物を占うたと思わるる記事の初見は〔三〕、「仲哀紀」八年九月の条の、仲哀帝が神功皇后に神託ありしにもかかわらず、新羅国の在ることを否認された折、
時神亦託皇后曰、如天津水影、押伏而我所見国、何謂無国、云々。
の一節である。これに対して、橘守部翁は、神依板(この板に就いては後節に載せる)を解説した細註において、
その板の下に(中山曰。守部翁は神依板と琴とは別物で、神を降す際には琴の上方に神依板を立てるというている)水を置いてそそぐ、其ノ水影に映り給う也、依瓶水(ヨルベノミヅ)と云う是也、古き釈に依瓶水は、神前の水也と云るは、違はざるを、後世ノ人、神前と思ひひがめて、御手濯(ミタラシ)と一つに心得たるは、いみじきひが事也、仲哀紀に天津水影押伏而云々とあるも、依瓶ノ水に降り居ての神勅也。
と論じている〔四〕。流石に創見に富んでいる守部翁の説とて、誠に敬服(但し琴と神依板とを別物として、板の下に水を置くこと、御手濯を憑るべの水と見るは僻事なりとの三点に就いては、賛意を表しかねる。その理由は後に述べる)に値いするものがある。こう言う点になると、守部翁の独壇場で、本居平田両翁などは、到底、企て及ばざる天才の持主だと信じている。
併しながら、強いて言えば、守部翁の此の解説は、私が茲に言う所の水を観て占いを行う——所謂、水占系(ウォーター・ゲージング)の呪術が、我国にも存していたことを認識した上で、此の解説を試みたか、それとも此の反対に斯かる事には少しも関心せずして、漫然と論じたかと云う点である。琴と神依板とを別物と見たり、憑るべの水と御手濯とを異物と考えたところから推すと、頗る怪しいもののように思われぬでもないが、今は余り深い詮索は措くとして、ただその着眼の非凡なりしことを推称するにとどめるとする。
憑るべの水に就いては、伴信友翁独特の、微に入り細を穿った考証が、その著「比古婆衣」巻十一に載せてある。これに由ると、伴翁は憑るべの水に対して、二様の解釈を下している。(一)は瓶に入れし水を神前に供え置き「此の瓶の水に神の立より給ふを神水とて飲みつれば、有事無事の慥にあらはるる心なり」とて、水を飲んで吉凶を占うものと解し、(二)は「さて其の神水にて占問するには、其水にのぞみて己影をうつして、占ふる方のありしなるべし」とて占うもの自身の影を映すように説いている〔五〕。
此の解説は、我国における憑るべの水の原始的の方法が忘られ、単にその信仰だけを微かに伝えた平安朝頃の和歌や物語を資料として稽えたために、遂に斯うした結論に到達したものと思われる。是等は私がよく言うところの、世の中の事は書物さえ見れば何でも判明すると盲信する文献学者の短所であって、実に伴翁のために惜しむべきことである。今の文献万能学者にも往々此の弊に堕するのを見るが、是は警むべきことである。併しながら、伴翁が琴の代用として神依板を用いしと説き、その神依板の下に水を置くと云わず〔六〕、更に御手濯を憑るべの水の拡大されたもの又は延長したものと考えた点は〔七〕、守部翁のそれに比較するとき、考証学者の第一人者たることが納得されるのである。
私は、此の機会において、神功皇后が啻に「如天津水影、押伏而我所見」と水占(ウォーター・ゲージング)を行わせられたばかりでなく、更に一歩をすすめて、水晶占(クリスタル・ゲージング)を為された事に就いて、管見を述べてみたいと思う。私が改めて言うまでもなく、神后の御一生は、神託を聞いて国威の発揚に努められ、その点から拝すると、最高の巫女としての聖職に居られたとも考えられるのである。而して神后が征韓の途次に、長門の豊浦の津で「如意珠」を得たことが日本書紀にも載せてあるが、此の如意珠こそ、即ち神后が水晶占(クリスタル・ゲージング)を行わせられる折に用いた呪具であると想われるのである。而して此の宝珠は、一に剣珠と称せられて、摂州広田神社の末社なる南宮神社の神体として奉祀されて現今に及んでいるが、これに就いて、元広田神社に関係せる吉井良秀氏の「老の思い出」に左の如く記載されている。ここに本書に必要の部分だけを抄録する。
南宮神社(中略)。其主神と云うのは、神功皇后広田大神を御鎮祭遊ばされた時に御寄せに相成った如意珠、即剣珠で有らねばならない。南宮神は其剣球を祭った神社である(中略)。
抑々剣珠は神功皇后が、書紀に云う所の長門の豊浦の津で得給うた如意珠その物で、広田大神御鎮座の時に納められたと伝えられ、其珠は水晶で高さ一寸八分、径一寸九分強正中に凡一寸二分の剣の形が顕われている。故に剣珠の名があるのである。御袋の如きも何時の物かは知らないが、至極腐損している。此故に古昔は甚尊重せられて有名な物であった(中略)。茲に剣珠が或時代には世間から尊重せられた記事を摘載して見よう。先ず
一、二十二社本緣、広田神社の条に「皇后三韓征伐乃時乃御甲冑並爾如意珠等有里此宝珠和海中仁之天得給恵留由日本紀仁見多里左右仁不能事也如何様仁毛皇后御事仁弖其由有神也」としてある。此書は元弘建武頃よりは已前の物である。
一、僧義堂の詩に、過西宮觀俗所謂剣珠者「袖裏摩尼一顆円、霊光夜射九重天、若従沙竭宮中過、龍女神珠不直銭」とある。空華集に入る。義堂は高僧で名は周信、夢窓国師に参禅し、南北朝の嘉慶二年に寂す、年六十四である。
一、謡曲の内に「剣珠」と云うのがある(中略)。其文句に「汐のひる児の名を得たる西宮にも着にけり云々、此方へ御入候へ、是こそ剣珠の御社にて候、能々御拝み候へ云々」。
一、万葉集に、「玉はやす武庫の渡りに天伝ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ」の歌がある。此玉はやすは武庫の冠辞である。武庫は此所の地名で玉は即剣珠で、はやすは玉を持って映(ホヤ)す意であると古人の説がある。此説は享保頃神主左京亮良行の剣珠祝詞中に見えてある。
剣珠を古く世の尊崇せし事既に斯の如くであって、社中では荘重な宮殿(凡方一尺五寸許)に納めて伝わった事は、維新の最初に、余が西宮神庫に預かっていたので能く知っている云々。
神后が得られた剣珠の用途は、私の独断では、神后が水晶占をなされたものであって、然も此の占いによって神意を問い、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず抜くの捷利を博し、御女性でありながら、万里の波濤を越え、国威を海外にまで輝かされたので、如意珠とも称したものと拝察されるのである。神后は、古史の伝うる所によると、新羅より投化した天ノ日矛の第五世息長家より出でて、皇后に立たせられたお方である。従って、是等の占法が、我国固有のものか、それとも息長家に伝えられた新羅の占法であるか、現今からはその各れとも判断すべき史料も残っていぬが、兎に角に神后が卓越せる占術を会得されていたことだけは、今からでも恐察せられるのである。
巫女が憑るべの水を利用して呪術を行うたことを明白にするには、猶おその予備知識として、我が古代にあっては常人は鏡を見ることを忌み恐れた信仰のあったことを説くことが便宜が多い。即ち古代にあっては、神に仕える巫女以外の常人は、鏡を見ることを悉く忌み恐れていたのであって、それは恰も明治初期の人々が写真を撮るのを忌み恐れたのと同じ心理で、鏡を見ると己れの影を薄くし(古代人は影は生命の一つと信じていた、ヴントの謂ゆる影象魂がそれである)延いて精力を減じ、遂には生命までも危くするものだと考えていたのである〔八〕。反言すれば、常に鏡を所有し、これを見ることのできたのは巫女だけであって、巫女は神の択んだ女性として、鏡を見ても差支ないと信じていたのである。而して此の鏡に対する信仰は、巫女が呪術を行うために利用した事から一転して、呪術——殊に他人を呪詛するときに限り用いられるようになって来て、民間に水鏡天神(ミズカガミテンジン)の迷信や、丑ノ刻参りの女性は、必ず胸間に鏡を懸ける俗信を生んだのである。水鏡の天神に就いては、既に私見を発表したことがあるので、茲にそれを再び繰り返す勇気はないが〔九〕、要するに、他人を呪詛する折に水鏡を見たという古い思想を、型の上で示したものに外ならぬのである。
鏡の原始的用法を今さら説く必要もないが、その発生当時にあっては、鏡は陽火を取るのが目的であって、決して顔面を映すためでは無かったのである〔一〇〕。而して此の思想は、稀薄ながらも、我国にも存していた。併しながら巫女が水を見詰めて呪術を行うた(此の内容は明確には判らぬけれども、水面を凝視していると錯覚を起して、種々な影象が網膜に映じ、それによって禍福吉凶を占ったものらしい。是が実例とも見るべきものに就いては後段に述べる)ことは、恐らく鏡が発明されぬ以前から存していたものであろう。我国の古代の巫女が此の種の呪術を行うたと想われるものが、小野小町の姿見の池、和泉式部の化粧水などと称する民間伝承に残っている。小町や式部に関する此の種の伝承は、私が蒐めただけでも無慮百を以て数うるほど夥しいものである。従ってそれを一々茲に掲げて、伝承の分化、分布、及びこれに伴う批判を加えることは、到底なし能わぬことなので、今は重なるもの一二を挙げ、片鱗を以て全龍を推すこととする〔一一〕。
京都府伏見町に近い深草村の以徳院欣浄寺の境内に、小野ノ小町の姿見の池とて、五坪ほどの雑草に覆われた小池がある。私は此の寺に詣でて、深草少将の文張(フミハリ)の地蔵とか、小町の落歯だとか云うものを見たことがあるが、その頃(明治四十四年)は、殆んど廃寺と思われるまでに荒れていた。東京に近い武蔵国西多摩郡国分寺村に真形池というのがある。これは小町が悪疾を患うて、国分寺の薬師如来に祈請し、平癒した姿を写した池と伝えられている〔一二〕。上野国北甘楽郡小野村大字後貫に、小町の化粧水と云う井がある。旱天にも涸れず、豪雨にも増さぬ不思議を残している〔一三〕。
和泉式部にあっては、選択に苦しむほどで、僅に和泉国一ヶ国だけでも、式部の楊枝の清水、化粧水、鏡石、鉄漿壺、寝覚淵などの故地を数えると三十余ヶ所にも達するという有様であって、少しく誇張して云えば、日本全国に亘って存しているのである。今は著名なるものを挙げると、伊勢国三重郡神前村大字会井に清泉がある。昔和泉式部がその美貌を此の井に写して化粧したところと、勢陽雑記にある〔一四〕。長門国豊浦郡豊田村大字杢路子に和泉式部の子洗い池というのがある。式部が此の村で子を儲けたが、その子が弱いので、生死を占うために、モクロジの木を立てて占うたので、此の地名が起ったのである〔一五〕。山城国宇治郡醍醐村大字小栗栖の御前社の辺にも、式部ヶ井というがある。ここは和泉式部が、此の水を汲んで硯の水に用いたと伝えられている〔一六〕。——これに就いて、柳田国男先生は「御前という名は本来上臈の敬称で、後には遊女白拍子の名にも用いられ、更に転じては瞽女(ゴゼ)の坊(ボウ)のゴゼと迄なった。御前社は即ち巫女優婆夷の傅(かしず)く社を意味したのであろう」と言われている〔一七〕。
例証は際限が無いから、大略にして置くが、此の種に類する伝承は、小町や式部の外にも、又た相当に残っているのである。陸前国遠田郡富永村大字休塚の、鈴木勇三郎氏の宅地内に、姿見の池と云うのがある。これは大昔に、松浦佐用姫が同地へ下向した際に、化粧に使用せる水鏡の池であって、その東方の小丘には、姫の手植の柳があったというが、今は枯れてしまった〔一八〕。美濃国不破郡青墓村大字榎戸に照手姫の清水と称するものがある。これは姫が朝夕水鏡して化粧したところである〔一九〕。河内国北河内郡蹉跎村の蹉跎山の頂に菅原道真の姿見の井がある。俚伝に、菅公流謫の際、この山に登り遥かに京師を望んで別れを惜しみ、山頂の井に我が姿を映して、自作の像を残して往った。公の姫君が後を追うて此の地に来たが、既に父公の出発せられたので、足摺りして嘆き悲しんだので、山の名も村の名も蹉跎と称した〔二〇〕。此の俚伝なども水または井に対する信仰が泯びてしまったので、こうした変則なものになったのであるが、山の頂に井があることは蹉跎——此の語の古い意味が(諸国に佐太とあるのも同義である)即ち塞(さえ)ぎると云うほどの意味を有し、此の井を中心とした信仰が存していたのが、サダに蹉跎の漢字を当てた為に、足摺の意に解せられて、原意を失うようになってしまったのである〔二一〕。
此の蹉跎村から程遠からぬ山城国宇治郡に「足摺池。在柳山麓四宮村之中也、俗謂蝉丸御手洗水、斯人修祓処乎。足摺、義不知為如何、」とあるが〔二二〕、これなども古くはサダと称して神事を行うたところを、蹉跎の字を用いて足摺りの意に曲解されるようになったので、碩学黒川道祐翁をして、足摺りの義如何なるを知らずと嘆声を発せしむるに至ったのである。安芸国賀茂郡の安志乃山の頂に寺趾があるが、ここに紫式部の植えたという杜若の池がある。寺は無くなったが花の種は民間に残っている〔二三〕。
猶お此の外に清少納言とか、小督局とか云う名で、これと同系の伝承が各地に存しているが、他は省略して、如上の乏しき伝承だけに就いて考うるも、是等の姿見の池や化粧水の元の起りが、巫女の観水呪術に発生したものであることだけは疑いない。而して私は、更に一歩をすすめて、これ等の名媛才女の名で伝えられている女性の正体を明らかにし、併せて水の神秘を利用した巫女の呪術を説くとする。
尾張の熱田神宮の社地内に古くから支那の揚貴妃の石塔と云うのがある〔二四〕。俗説には、唐の玄宗帝が、我が日本を征伐せんと企てたのを、熱田の神が覚り、彼の地に生れて揚貴妃となり、玄宗帝を淫蕩に陥れ、国乱を起させ、かくて我が日本を救ったのであると、誠しやかに伝えられている。併し此の俗説は 昔から有名なものであったと見えて、林羅山の「本朝神社考」にも「暁風集」を引いて「熱田大明神は即ち揚貴妃なり云々。神秘にして知ることなし」と載せている。
此の揚貴妃なる者の正体を、巫女史の立場から見ると、それは楊氏(ヤナギシ)を姓とした巫女であって、熱田神宮に仕えた神人にしか過ぎぬのである。楊氏は我国への帰化族で、古く「新撰姓氏録」左京諸蕃の条に、楊侯忌寸、楊侯氏、楊侯直など載せてあり、吉備真備の生母が楊氏であった事は、その墳墓から発掘された骨器の銘に明記されている〔二五〕。此の楊氏の支族の者が、何かの縁故で、熱田神宮に仕えて巫女となり、歿後、その塔婆か墓碑に、楊氏と記されていたか、又は口から耳へと伝承されていたのを、後世の無学にして好事癖ある者が、楊と揚と字体が似ており、国音も同じところから、遂に揚貴妃に附会して、斯かる俗説を生むようになったのである。
併しながら、楊氏の巫女が揚貴妃に附会されるに至った、その当時の民衆の心理を知らなければならぬ。即ち当時にあっては、巫女は尊いもの、神聖なもの、崇むべきものと信じていたことを閑却してはならぬ。若しそうでなかったならば、楊氏が揚貴妃に附会されべき筈がないからである。そして此の心理は、巫女自身の方にも、濃厚に活(はたら)いていたのである。自分は生ける神と同じような高い位置に居る者であるという自信を有していたのである。然るに世が変り、時が遷って、巫女の信用が漸落して来ても、今度は巫女達が自分の信用を維持するために、小町とか、式部とか、又は小督とか、少納言とかいう、史上で著聞している閨秀美姫の名を好んで用いるようになって来た。それは恰も、明治時代に書生役者が式部と称したり、活動弁士が徳川姓を冐して、無理勿体をつけた心理と全く同じものなのである。
これが我国において、僂指にも堪えぬほど夥しき漂泊伝説を残した小野ノ小町や和泉式部の正体であって、然も是等の漂泊者は、悉く村から村へと田舎わたらいした巫女なのである。奥州に多くの足跡を残した佐用姫なるものが、古き遊行婦女の一団であった小夜姫の分れとまでは、年代を引き上げることが出来ぬにしても〔二六〕、これが西から東へと歩みつづけて来た、巫女の名残りであることは想像に難くない。
尚若狭国遠敷郡西津村字松崎の釣姫(ツルベ)神社は、源頼政の女である二条院の次女讃岐を祀ったとあるのも〔二七〕、長門国厚狭郡船木村字逢坂に同じく讃岐の故事を伝えているのも〔二八〕、丹波国何鹿郡吉美村大字多田に残る菖蒲塚は、同じ源頼政の妾である菖蒲ノ前の墳墓とあるのも〔二九〕、伊豆国田方郡韮山村大字南条の西琳寺に、これも源頼政の妾であったという菖蒲屋敷を伝えたのも〔三〇〕、播磨国赤穂郡高田村字西ノ山に、菖蒲前の墓所というがあるのも〔三一〕、越後国中蒲原村大字笹野宿の金仙寺を菖蒲ノ前が開基したと伝えるのも〔三二〕、更に讃岐の琴平神社の祭礼に、頼朝と称する巫女が供奉するのも〔三三〕、共に巫女(又は尸童)をヨリマシと呼んだのを、ヨリマサ、又はヨリトモと誤解した結果に外ならぬのである。
源頼政の墳墓の地及び由縁の神社が各地にある事の真相に就いては、夙に柳田国男先生が先人未到の卓説を発表されている〔三四〕。これを読んで、彼れを想うとき、それが悉く巫女に縁を曳いていたものであることが知られるのである。
私は今度の日本巫女史を起稿するに当り、資料の乏しきを補うために、少々泥縄的の窮策ではあったが、各地における未見曾識の学友に対して、是れが資料の報告をお願いした〔三五〕。然るに福岡県嘉穂郡宮野村の桑野辰夫氏から寄せられたものは、在りし大昔の巫女の観水呪術(ウォーター・ゲージング)の一端に触れているものと信ずるので、左に綱要を抄録する。
福岡県嘉穂郡宮野村大字桑野の楪栄蔵氏の妻女とら子(当年五十三)は、当地方に於る有名の巫女であるが、同女が巫女としての修行は頗る堅固なるもので、七年間を通じて、一日に三度づつ居宅の附近を流るる嘉麻川の上流に身を浸して垢離をとり、これを続けているうちに、御光の射すのを覚えるようになった。そして川に臨める岩の上に端座して、精神を統一するために、水面を凝視していると、流れの淀む渦の上に、不思議にも一寸八分の如来様が立っているのが見える。猶もそれをジット見詰めていると、一体の如来様が数体数十体の如来様となり、それが或は一緒になり、或は分散し、更に分散するかと思うと一緒になるなど、変幻と壮厳を極める光景を目撃する境地に達した。
そして自宅にいて神前に座し、一心に神仏を念じていると、次第に神燈が明暗し、左眼には神様の気高き御姿が現然と拝され、右眼にはお華紋(挿入の写真参照)が映じ、神懸りの状態となって、夢中でそのお華紋を写すのであるが、写し終ると全くお華紋が見えなくなる。そして毎日こうしては別なお華紋を見ては写すのであるが、その数は非常の数に達している。その中で三枚だけお送りした〔三六〕。
巫女とら子は、農家に生れ、別段に教育がある訳でもなく、従って図案とか意匠とかいう知識のあるべき筈もないのに、毎日、異ったお華紋——図案としても、構想としても、やや見るに足るべきものを描き出すとは、全く不思議と云わざるを得ぬのである。写真として挿入されたものは、上部に仏体があり、菊の紋を以てそれを囲みたる所に神意を寓し、人間の顏を図案化して排置したのは、三千世界皆一つと云う意味だと語ってくれた。
此のお華紋には、多少とも曼荼羅の影響を受けているように見えるが、此外に沢山あるお華紋も構想極めて自由であって、然も創意に富んだものが尠くない。こうして毎日描く所から推すと、一種の濫書狂とも思われぬでもないが判然せぬ。私は大本教の婆さんのお筆先きを、字で往かずに、絵で往ったものだと考えている。
(以上、意を取って書き改めた所がある)。
此の記事に現われたところから推測するも、巫女が水を凝視して呪術を行うことは、その修練によって為し得られることのように考えられる。我等の遠い祖先様は、「をち水」を飲めば、精神も肉体も更新するものと信じて、今に若水の習俗を正月に残し、神の甘水に種を浸すことによって豊穣するものと信じて、今に広瀬ノ神の種井の神事を行うている。水から生(ア)れました神もあり、水の底に在す神もある。巫女が水を利用したことも決して偶然ではなかったのである。 
〔註一〕「古事記」神代巻。
〔註二〕我国にも水晶を神体とした神社は各地に在る。「筑紫野民譚集」によれば、九州の彦山神社の神体は大きな水晶であったと云うし、更に「裏見寒話」巻二には甲斐国東山梨郡(?)竹森村の竹森神社の神体も八尺余の水晶だと載せてある。是等は、或は国産を、或は石の神秘を神として祭ったもので、必ずしもクリスタル・ゲージングに関係あるものとも思われぬが、姑らく記して後考を俟つとする。
〔註三〕久延毘古を初見と云うべきであるが、これは解釈の結果で、記事として見えていぬゆえ、姑らく「仲哀紀」を以て初見とする。更に、「開化記」に「日子坐王(中略)近淡海の御上(中山曰。今の三上神社)祝がもち斎く、天の御影神の女、息長水依比売に娶ひて」云々とあるが、此の神の名又は姫の名が、水占系の意味を有っているように考えられ、殊に神后が此の息長家の出であったことは、注意すべき点である。
〔註四〕「稜威言別」巻九(橘守部全集本)。
〔註五〕「比古波衣」は伴信友全集本に拠った。
〔註六〕「正卜考」に詳しい考証が載せてある。
〔註七〕憑るべの水の信仰が拡大されて、御手洗の水で占をした例も伴翁の「よるべの水」に載せてある。更に此の信仰は神水を飲むこと、及び神水に浸した衣服を着させて善悪を裁く(我国の濡れ衣の起原)こと、起誓として神水の失などと云う信仰まで生むようになったが、是等に就いては記述する機会があろうと思っている。
〔註八〕我国における影の信仰に就いては、拙著「日本民俗志」に収めた「影を売った男の話」に大要を尽している。
〔註九〕水の神秘と呪詛の関係に就いては「旅と伝説」第二巻第六号に「水鏡天神」と題して拙稿を載せたことがある。同じく参照せられんことを望んでやまぬ次第である。
〔註一〇〕鏡の発生的考察、及び鑑と鏡との関係等に就いては、松本文三郎氏著の「東洋文化の研究」に収めてある諸論文と、故富岡謙蔵氏著の「古鏡の研究」を参照せられたい。私の考えも悉く是等によって教えられたものである。
〔註一一〕「郷土研究」第四巻第□号に掲載された、柳田国男先生の「和泉式部」と題する論文は、よく巫女としての式部の要領を尽している。私の考えは、此のお説を拝借したまでに過ぎぬのであるが、水占は柳田先生も説かれていぬ。
〔註一二〕元禄年中に古川古松軒の書いた「四神地名録」に見えている。
〔註一三〕「群馬県北甘楽郡史」。
〔註一四〕「勢陽五鈴遺響」三重郡の部。
〔註一五〕「民族」第二巻第二号。
〔註一六〕「京羽二重織留」巻四(京都叢書本)。
〔註一七〕前掲の柳田国男先生の「和泉式部」の一節である。
〔註一八〕「遠田郡誌」。
〔註一九〕「新選美濃志」巻四。因に、此の書の外に「稿本美濃志」という紛らわしい書があるゆえ注意を乞う。
〔註二〇〕「京阪案内記」。
〔註二一〕サダの古義は、先駆、案内、東道というほどの意味であったのが、後にはサダの語に猿田を当てたのをサルダと訓むようになったので、猿が陰陽道の申と附会され、仏教の青面金剛と習合し、遂に塞ノ神となり、岐ノ神となり、道路衢神となり、全く境界の神となってしまって、蹉跎という足に縁ある字を用いるようになった。琉球では今にサダの語を先駆の意に用いていると伊波普猷氏の論文に見えている。
〔註二二〕「雍州府志」巻九古蹟門下(続々群書類従本)。
〔註二三〕「芸藩通志」巻八二。
〔註二四〕「塩尻」巻六(帝国書院発行の百巻本)。
〔註二五〕吉備真備の生母楊氏の骨器の銘文は「古京遺文」に載せてある。
〔註二六〕佐用姫が、小夜媛と称する団体称であって、九州における古き娼婦であったことは、拙著「売笑三千年史」に詳述した。巫女と売笑の関係にあっては、後章に詳記する考えであるが、此の巫女も佐用姫と称するから、私の所謂巫にして娼を兼ねた巫娼であったかも知れぬ。
〔註二七〕「若狭郡県志」巻四(大日本地誌大系本)。
〔註二八〕「長門風土記」巻八。
〔註二九〕「何鹿郡案内」
〔註三〇〕「北豆小誌」。
〔註三一〕「播磨鏡」。
〔註三二〕「越後名寄」巻四。
〔註三三〕「金毘羅名所図会」にその絵まで載せてある。
〔註三四〕「郷土研究」第一巻第九号「頼政の墓」参照。
〔註三五〕永年かかって集めた資料、もう執筆に不足もあるまいと整理して見て、自分ながら貧弱なるのに驚き、書信を以て未見曾識の先輩及び学友を煩し、誠に恐縮に堪えぬ次第である。ただ此の結果私が案外に思ったことは、厚誼を頂いているお方ほど返事をくれぬ片便り、未見のお方が却って懇切に示教された点である。此の不平を折口信夫氏に語ったところ、氏の曰く「中山君は友人から返事をもらうだけの人徳のある方ではないよ」と一本正面から参らせられたが、私はこれに教えられて、頂いた芳信の返事だけは必ず直ぐ書くようになった。
〔註三六〕三枚のうち一枚だけ写真版として載せたが、他の二枚は構想も図様も全く異り、一は神仏融合の図で、一は巫女とら子の宇宙観とも云うべきものであった。此の機会において、珍重すべき資料を恵投された桑野辰夫氏に厚く感謝の意を表する。 
第五節 性器を利用した呪術

 

我国の性器崇拝(Phalicism)は遠く神代から存していた。天鈿女命が磐戸の斎庭で神懸りせる折に「胸乳掻出し、裳紐を番登(ホド)に押垂れ」たのは、性器に呪力があるものと信じたからの所作である事は既述した。「古語拾遺」に、御歳神が怒って、大地主神の営田を損ぜしとき、大地主神が片巫・肱巫に占わせて、田の溝口に「男茎形(ヲバセガタ)」を作って立てたことが記してある。これも性器の呪力を信じた結果であることは言うまでもない。古墳から発掘された男子の土偶埴輪のうち、性器を露出したもののあるのも又これが為めで、殊に元正陵の倍家から出たという伝えのある怪奇なる石人は〔一〕、此の種の信仰を現わした、代表的のものとして人口に膾炙されている。
私は茲に、我国における性器崇拝の起原とか、発達とか云う問題に触れることは、努めて回避したいと思う。何となればそれは余りに周知されている問題であると同時に、また余りに本書の柵外に出るからである〔二〕。従って私は巫女史の立場から、巫女が呪術を行うに際して、如何に性器を利用したかに就いて記述するにとどめるとする。
記・紀の神代巻を読んで、誰でも驚くことは、我国の神々なるものが、性道徳の方面において、全く洗練を欠いていたと云う点である。換言すれば、神代巻に現われた神々の性的生活なるものは、必ずしも道徳的に完全なるものではなかった。更に露骨に言えば、神々は性的方面において道徳的に完全なるものであらねばならぬと云う思想は、まだ是等の神話を構成した、古代人の間には存していなかったのである。従って神代巻に記された巫女が、性器を利用する呪術に大胆であったことも、当然の帰結として考えられるのである。
平田篤胤翁の「宮比神御伝記」に、天鈿女命の磐戸の所作に就きて「女神の恥ぢて得すまじき胸乳を掻き出し、内股さへに顕はし給ひ、裳の紐を陰(ホド)の辺までおし垂れ、わざと可笑しく物狂はしく舞をどり給ひけり」とある註に「今の世に縫物すとて針を失ひたるときに、その女ひそかに信仰の神を念じて、前の毛を三返かき上げ、三返たたけば、失せたる針必ず出づるを、出たるときに前の毛を三返かき下すと云ふ厭勝(マジナヒ)も、此のわざの残れるなり」と記している。而して此の厭勝なるものが、果して平田翁の説の如く天鈿女の所作の残れるものか否かに就いては、多少の疑いなきを得ぬのであるが、兎に角に此の種の呪術が古くから在ったことだけは承認しても差支あるまいと思う〔三〕。
而して更に一段と注意すべき事は、天孫降臨の際に於ける鈿女命の所作である。「日本書紀」に此の光景を記して、
且降之間、先駆者還白、有一神、居天八達之衢(中略)。即遣従神往問、時有八十万神、皆不得目勝(マガチ)相問、故特勅天鈿女曰、汝是目勝於人者、宜往問之、天鈿女乃露其胸乳、抑垂裳帯於臍下、而笑噱向立、云々。
とあるが、此の衢の神が猿田彦命であることは言うまでもない。然も、此の記事のうちには、巫女として天鈿女命が行うた三つの重要なる呪術の存していることが発見されるのである。
その一は目勝と云うことである。目勝は即ち邪視(イビル・アイ)(Evil eye)であって〔四〕、眼光に呪力あることを意味した語である。猿田彦の眼光が「如八咫鏡、而赩然似赤酸醬也」と照り輝くので〔五〕、八十万の従神は、咸な此の視害のために神名を問うことすらも出来なかったのを、独り鈿女命だけが、更に此の猿田彦に目勝したとあるのは、取りも直さず、両神の間に邪視の呪術が闘わされた結果、鈿女命の呪術が猿田彦のそれに打ち勝ったことを、意味しているのである。
その二は天鈿女が、例の胸乳を露わし、裳帯を臍下に抑し垂れたことであるが、かく鈿女が、呪術を行う毎に、一度ならず二度までも、性器を利用した点から見ると、此の所作は太古の巫女の常に執ったところの、呪術的作法とも考えられるのである。
その三は少しく私の想像が加わるのであるが、此の際に猿田彦と天鈿女との間に呪術としての媾合が行われたのではないかと信ぜられることである。それは、昭和四年二月に、豊前国京都郡城井村大字城井馬場の八幡宮に伝わりし神代神楽というのが、国学院大学の郷土会で開催されたが、私は此の古雅なる神楽を参観し、その「天孫降臨」と云う一齣において、猿田彦に扮せる者と、天鈿女に扮せる者とが、顕然として媾合の所作を演じたのに驚異の眼を以て見守らざるを得なかったのである〔六〕。
私は原始的の形式とを伝えている神楽——若しくは祭式舞踊において、此の種の所作が、拝観者の面前にて無遠慮に演じられる幾多の資料に接しているのである。例えば、原始的の匂いと彩りとをそのままに保存している琉球各地のムツクジャと称するものは、全く露骨なる交接祭である〔七〕。内地にあっても、此の種のものは殆んど枚挙に堪えぬほどある〔八〕。殊に信濃国下伊那郡且開村字島田に、毎年正月十五夜に行われる田遊びの神事には、昭和の現代にも尉と嫗に扮した者が、神楽殿において見物の見る眼も憚らず、その所作を演ずると聞いては〔九〕、民俗の永遠性を考えさせられると同時に、その起原の呪術に出発していることを想わせられるのである。時代は下るが、平安朝に書かれた「新猿楽記」に、
野干坂伊賀専之男祭、叩蚫苦本(アワビクボ)舞、稲荷山阿小町之愛法、{鼻偏亢}{魚偏笠}破前(カハラハビ)喜云々。
とあるのや、同じ頃に記された「雲州消息」巻上の一節に、
今日稲荷祭云々。又有散楽之態、仮成夫婦之体、学衰翁為夫、模{女偏它}女為婦、始発艶言後及交接、都人士女之見者、莫不解頤断腸云々。
とあるなど〔一〇〕、実に際限ないほど在って存している。
而してかかる予備知識から導かれていた私は、窃かに、天鈿女と猿田彦との邂逅の場合に、呪術として此の種の事が行われていたのではないかと疑うていたところへ、此の露骨なる神楽の所作を見せつけられて、多年の疑いが解けたと共に、性器を利用する呪術の真相が釈然したのである〔一一〕。我国の現在の学問は種々なる方面から多大の束縛を受けている。就中、性的神事の詳細を記こすとは、稍もすると宜ろしからざる事とされているので、茲にこれ以上を明白に記す事を欲せぬけれども、巫女の性器利用は常人が後世から考えるより以上に、深刻であり、且つ露骨であったことを注意しなければならぬのである。
性器崇拝の当然の派生として、異相の性器を有する巫女ほど、その呪力の増加するものであると考える信仰が伴っていたことも、此の場合に逸することの出来ぬ問題である。而して此の信仰は「七難の揃毛(ソソゲ)」という名で呼ばれているので、私も此の通称に従うこととした。勿論、七難とは、奈良朝から平安朝へかけて民間信仰となった仏説仁王経の七難即滅七福即生の経文から出た語であるから、これを以て仏教渡来以前の古代の信仰に冠することは元より妥当を欠いているが、茲にはその七難の揃毛の古い相——即ち我国固有の信仰を記すにとどめ、詳細は仁王信仰の隆盛を極めた平安朝において記述する。誤解を防ぐために敢て附言する次第である。
讃岐国大内郡誉水村大字水主の水主(ミズシ)神社の祭神は比売神であるが、俚俗の伝えに、此の神は御陰(ミホド)の毛が甚だ長いので、親神が恥じ給い、独木船に乗せて海に放ち流してしまった。それで比売神は、何処ともなく流れ漂うた末に、同郡(?)馬篠の浜に着いた所、同地の土人が比売神の上陸を拒み、船を突いて沖へ流したので、それより東方に漂い、同郡安戸ノ浦へ着き、そこより上陸して鎮座すべき浄地を其処彼処と覓め給うて、遂に水主村に留り、後に水主神社と祭られたのであると云うている〔一二〕。此の俚伝に残った比売神の正体が、地方わたらいの巫女であることは、多くの説明を俟たずして、直ちに会得されるものがある。殊に陰毛が甚だ長かったということは、即ち異相の性器の持主で、然も呪力の効験なる(後章の七難の揃毛を参照せられたい)ものと信じられていた為めである。
全体、私が改めて言うまでもなく、我国にも、毛髪が一種の呪力を有していたものと考えた思想は、古代からあった。神代に素尊が罪を贖うために、八束ノ髯を斬ったのは、ただにその威厳を損じて、懲罰に換えるというだけの意味ではなくして、素尊にとっては、髯は一種の生命の指標(ライフ・インデックス)であるとも云えるのである。大己貴命が素尊の女なる須勢理媛命と奔るとき、素尊の髯を室戸に繋いだとあるのは、私にそう考えさせる暗示を与えているのである。案山子(カカシ)の語源も嗅(か)がしであって、古く人毛を焼いた匂いを鳥獣が恐れて、作物に近づかぬ呪術的の意味が含まれていたのである〔一四〕。「孝徳紀」の大化の詔の一節に於て「為亡人断髪刺股」ことを禁じたのは、髪を断ることは肉に活きても霊に死ぬと云う意味を現したからの迷信を停めるためであった。従って陰毛の甚だ長かったことが、呪力の強烈であるとした考慮のうちには、此の種の毛髪に対する信仰の多分に加っていることを注意しなければならぬ。
七難の揃毛は、此の両者の歩み寄りによって、大成された信仰である。而して是等の毛髪の所有者が、古い巫女であったことは言うまでもない。猶お代々の性器利用の呪術や、是れに伴う毛髪信仰などは、各時代の下に詳述する考えである。
〔註一〕藤貞幹の「好古小録」及びその他の書物にも載せてある。
〔註二〕我が国の性器崇拝に関する書物は夥しきまでに存していて、世の所謂好事家なる者で、此の事を知らぬ者は無いほどである。併し、好事家の手にかかったために、却って学術的には幾分割引された傾きがある。是等のうちで、沢田四郎作氏のファルス・クルッス(全一五輯)。出口米吉氏の「生殖器崇拝の話」及び「原始母神論」の如きは、頗る真摯なもので、学問的にも価値の多いものである。
〔註三〕在朝鮮の未見の先輩である今村鞆氏の示教によると、縫針の失せたときに牝部を撫す呪術は、徳川氏の大奥にあっては、幕末まで行われていたということである。
〔註四〕我国で邪視のことを初めて学術的に論じたのは、実に南方熊楠氏である。氏は「南方随筆」所収の「児童と魔除」の条において、氏一流の内外古今の例を集めて論じている。敢て参照を望む。
〔註五〕赤酸醬(あかがち)とは鬼火の古名で、猿田彦神の眼球の赤いことを形容したものである。此の一事から推して、猿田彦神は異人種であるなどと言う人もあるが、勿論、私は賛成しかねる説である。
〔註六〕その折に恰も先輩の金田一京助氏が隣席に居られたので、互いに顔を見合せて、一寸苦笑させられたと同時に驚かされたものである。
〔註七〕琉球本島のことを書いた「山原の土俗」に、二三の実例が載せてある。此の外にも、琉球の島々には、此の種の祭が尠からず存していたのである。
〔註八〕我国の交接祭は、農業の俗信と交渉するところが深い。これに就いては、拙著「日本民俗志」に収めた「農業祭に現われた生殖器崇拝」に多数の例を挙げて述べて置いた。参照くださると幸甚である。
〔註九〕此の祭礼を目撃された折口信夫氏の談に拠る。
〔註一〇〕「新猿楽記」も「雲州消息」も共に群書類従本に拠った。
〔註一一〕私の知人である川口芳彦氏が、「同人会」と称する相当知名の人の集る会合の席上において語られた所によると、東京府大森町に近き某所の祈祷所の所主は婦人であるが、常に二三名の若き男子を雇い置き、最も大切なる占いをするときは、その男子と合衾し、最高調に達した際に発する言語であって、これを託宣と称しているとて、神前及び託宣する部屋の構造まで詳説された。私は此の一事を以て、古代の巫女が行うた性器利用の呪術を推論する者ではないが、併しかかる原始的のことが、此の祈祷女の発明とも思われぬので、或は遠い昔から彼等の間に伝っていたものでは無いかと想うとき、これに類似したような呪術が、古代に存したのではなかろうかと考えても見たのである。
〔註一三〕讃岐国官社考証(神祇全集本)巻上。因に「全讃史」には、水主神を××天皇第一の皇女百襲媛命としてあるが、元より信用することの出来ぬ附会説である。我国の各地に、高貴の方々の流謫を説く民間伝承は、夥しきまでに存しているが、是れに就いて、柳田国男先生が「巫女考」において説かれた如く、殆んどその全部が、田舎あるきした巫女の身の上に関したものである。猶お陰毛の長かった神のことが「予樟記」にも載せてあったと記憶しているが、座右に同書が無いので、今はこれだけ言うに留める。
〔註一四〕斐騨中学校長であった川口孫次郎氏が「飛騨史壇」の誌上で詳説されたことがある。 
 
第六章 巫女の性格変換と其生活

 

第一節 神人生活と性格の変換
原始時代の巫女は、神その者であった。従って俗人の如く結婚することは、神性を汚すものとして、自ら戒めていた。卑弥呼が年長ずるも夫婿の無かった理由である。次に巫女が神の憑り代として、神の代理者となるようになっても、同じく神性の尊厳を保つ必要から、神と結婚する以外に、普通の男子を良人とすることは、許されなかった。斯うした習礼は、伝統的に、巫女は独身たるべきもの、神以外には通婚せぬものと約束づけられるようになり、これに加うるに、永い年月間の独身生活は、巫女の性格を男子に近づける変換が行われるようになったのである。
伊勢の皇太神宮に奉仕した御子良(オコラ)、及び母等(モラ)の神人生活に就いて、明治の終り頃に神宮司庁で記録に留めて置きたいと企て、是等の生活を送った生き残りの人々に対して、その状態を調べようとしたが「神宮内のことは申上げられぬ」とのことで、遂にその計画は目的を達することが出来なかったと伝聞している。これほど厳秘されている神人の生活、その詳細を知ることは、思いも寄らぬことであるが、鎌倉期に書かれた「坂上仏大神宮参詣記」によると、
当宮には巫女なし(中山曰。斎宮を御杖代とした為めである)。子良とて幼稚のをとめのいまだ夫婦のわざもしらぬが、御膳をそなふる器用にて召仕はるるばかり也。神慮にかなひぬれば二三十(歳)までも月事なし、冥鑑にそむきぬれば十一二よりさはる、さはれば則ち職を辞す。
とある。此の二三十歳に及ぶも通経が無いということは、即ち巫女の性格の変換を指しているのである。而して斯かる類例は、他の神社に仕えた巫女の上にも、発見することの出来る事態なのである。「延喜式」臨時祭の条に「凡座摩巫取都下国造氏童女七歳已上者充之、若及嫁時、申弁官充替」とあるのも、此の一例である。更に「観恵交話」巻上に、
常陸鹿嶋の社人従五位上東長門守胤長物語に、当社には長門守の家より代々斎宮の如く女を神に仕へしむ、これを御物忌と謂ふ。三百石を領す。一家中より二人を選び、百日の神事にて社家ども残らず着座して、神前にて亀二つを灼く。生亀の甲に二人の女の名を書附け、火を活々と起して灼くに、其任に備るはべき女の名は少しも灼けず。それを証拠にして備ふる也。備はりて後は長門守より外の人には一生逢はず。其者の使ふ女も皆少女老女の経水無き者なり。一年三百六十日の内神事にて、平日は神殿の中に居り、社へ行くに我斎屋より輿にて祝詞の屋まで行き、社内の事社人のせぬ事をも勤む。皆長寿にして百歳より百二三十歳に至る(摘要)。
と記し、更に「鹿島志」巻下には、物忌なる者は、其職に在るうちは、幾歳になるも通経せぬと記したのは、性格の変換することを証示している〔一〕。筑前国の宗像神社にても、祭神三柱の中、湍津姫神に仕える巫女は、その職を務むる間は月水なく、今にそうであると伝えている〔二〕。
而して、斯かる記事が、如何なる点まで信じられるものであるかは別問題として、兎に角に古代においては、巫女に通経なしと考えられていた事だけは確かである。丹後国竹野郡竹野村大字竹野の竹野神社は旧社であるが、これに奉仕する祠官は隣接せる同国熊野郡市場村に住んでいる。昔は祠官の家に女子が生れると、飛箭来り屋上に立つ。そうすると、其子四五歳の頃から竹野社に奉り、これを斎女と云う。同社は高山深谷の中に在って、斎女は独り禽獣と交り居るも、決して危害を加えられることがない。かくて天癸を見る頃になると、何処からともなく大蛇が出て来て、眼を瞋らして、斎女を見る。これを機会に宮を致して生家に帰ることとなっていた〔三〕。こうした類例も詮索したらまだ沢山あることと思うが省略する。
さて、是等の記事は、性格変換といっても、月水の未通だけで、事々しく取り立てて言うほどのものではないが、ただ此の裏面に潜む事象を考えるとき、更に後世の巫女のことを思うとき、それは記録にこそ残っていぬが、殆んど男性化した巫女の多かった事が偲ばれるのである。天鈿女命の勇気に就いて「古事記」に「汝は手弱女人なれども、射向ふ神と面勝つ神なり」とあるのは、此の女神の男性化を示唆しているものと信じたい。
〔註一〕「塩尻」巻四五に、「伊勢の子良、鹿島の斎は月のさはり知らぬ少女なり、厳島の内侍は年老迄も仕え侍るにや」と、同じく巫女は通経なきを原則とする記事を載せている。
〔註二〕貝原益軒著の「筑前続風土記」巻一六。
〔註三〕「丹後国竹野郡誌」に「神社啓蒙」を引用して記してある。 
第二節 人身御供となった巫女

 

我が古代に、人身御供というが如き野蛮事が、民俗として行われたか、否かに就いては、先輩の間に異論もあったが、現在では此の民俗の存したことは、単なる文献や伝説ばかりでなく、考古学的に遺物の上からも証明されるまでに研究が進んで来た〔一〕。私は茲にこれが詳説を試みることは、勿論差控えるとするが、此の人身御供に上げられる女性のうちに、巫女がその多数を占めているのは、抑々如何なる理由に因るのであろうか、それに就いて例の独断を記すとする。
併しながら、是れに関する私の資料は、誠に恥しいほどの貧弱さであるが、先ずその乏しきものの中から、明確に巫女が人身御供となったものを挙げる。駿河国富士郡吉原町の瀬古川の上流に深い淵があり、ここに悪龍棲み年々所の祭りとて人身御供を上げた。或る年関東の巫女七人が京都へ往く途中で、此の祭礼に出会い、七人のうち年若きアジという者が御鬮にあたり、人身御供となり、残り六人は柏原辺の浮島ノ池に投身して死んだのを、土地の者が取りあげて一つの墓に葬った〔二〕。旅人を人身御供にする民俗は、かなり広く行われていたが、それを言い出すと論旨が多岐になるので割愛する〔三〕。陸前国黒川郡大衡村大字大衡に巫女御前社というがある。偶伝に大昔用水堰を作ろうとしたが毎に失敗するので、偶々そこを通りがかりの巫女を捉え、堰柱として生埋めにした。その為めで堰が築かれ社を建てて彼の巫女を祀ったのである〔四〕。常陸国筑波郡菅間村大字上菅間の西北を流るる櫻川に女堰というがある。これも古え此の堰を修理しようとしたが、水勢が烈しいので押し流されて目的を果さず、村民これを神意に問うべしとて巫女に占わせたところ、人間を生杭とすれば必ず成就すべしと告げたので、それではその巫女を生杭にせよと川に投じ、その上に堰を築いたので此の名があると伝えている〔五〕。それから第八章第三節「巫女と農業」の条に載せた陸中国上閉伊郡松崎村のボナリ神社の由来も、又これと同じく巫女が人身御供に上げられた一例である。
これは明確に巫女とは記していないが、私の考えでは如何にしても巫女としか思われぬ女性の、人身御供となった話がある。尾張国東春日井郡旭村大字新居の道浄寺の前に大きな池があった。大昔に此の池水が溢れて田畑を害すので、村民が怪んで筮者に問うたところが、五月朔日に一名の女子が機織具を持って通るのを捉えて、水中に投じ、堤を築けと誨えた。村民はその日を待っていると、果して織具を持った女子が来たので、水に投じ築堤した。然るに、池水は溢れぬようになったが、村の女達が五月に機を織ると暴死するので、彼女の怨霊を恐れ、道浄寺を建立して冥福を祈った。此の村では今に至るも五月には機を織らぬこととなっている〔六〕。
これに似た話は、讃岐国香川郡仏生町の榺(チキリノ)宮(祭神若日女)の由来である。社伝に治承二年平清盛が、阿波民部に命じて、淺野という処へ貯水池を掘らせたが、度々堤が崩れるので、陰陽師に占わせしに、人を以て埋めれば成就するとのことで、或る朝路上に出でて行人を候うと、会々柚(チギリ)(中山曰。機織具)を持ち、筬(オサ)(中山曰。同上)を懐にした婦人が来たので、これを人柱に立てた。然るに、その柚が化して松樹となり、筬が化して竹林となり、殃いするので祠を立て神と祀った〔七〕。此の話の筋は池中において機を織る音がするという「機織池伝説」と共通している点が存しているが〔八〕。茲にはその詮索よりは、何処にかく機具——殊に筬(オサ)を持った女性が人柱に立ったのであるかの考覈を試みねばならぬ。
これに就いても、先輩の研究が発表されているが〔九〕、私の信ずるところを簡単に言えば、これはオサメと通称する巫女が〔一〇〕、人身御供となったのを、オサと筬の国音の通ずるところから、機具を持てる女とまで転訛したものだと考えている。若狭国三方郡東村大字阪尻の国吉山の北麓の水田は、往昔は一面の池であったが、或年の冬の日に、一人の女が機具を持って池の氷の上を通る折に、氷が破れて落ちて死んだ。それ以後は水中に機の音を聞くことがある。村民憐んで祠を建ててその霊を祀り、これを機織池と云い、池を機織池と名づけたとあるのは〔一一〕、オサメの人身御供伝説に、機織池伝説が付会されたものと考えている。而して斯く巫女が人身御供となったのは、それが神を和める聖職に居った為めであることは言うまでもない。
まだ此の外に、巫女が他人の子を人柱とした話や、巫女で無くして普通の女性が人身御供になった話も夥しく存しているが、今は大体を言うにとどめて、他は省略した。説いて詳しからず、論じて尽さざるものがあるも、此の問題にばかり屈托していられないので、遍えに諒察を乞う次第である。
〔註一〕此の事は閑があったら起稿して見たいと材料を集めて置いた。動物を犠牲にする民俗に就いては「中央史壇」第十一巻第二号に、駒込林二の匿名で発表したことがある。此の記事中でも多少この事に触れて置いた。御参照をねがわれると仕合せである。
〔註二〕山中共古翁の所蔵本「田子の古道」に拠る。
〔註三〕旅人を人身御供とした神事は、尾張国府宮の直会祭を始めとして、各地に夥しきまでに存していた。此の理由は祭日に人身御供となることを土地の者が知るようになり、これを免れんがために、外出せぬようになったので、かく旅人を捕えることになったのであるが、それも国府宮の如く有名になると、同じく旅人が相警めて通行せぬようになるので尾張藩では藩令を以てこれを制止したことさえある。旅行者も最初の者か第三番目の者か、女子か男子か、その神社のしきたりで、種々なるものが存していた。
〔註四〕仙台領の地誌である「封内風土記」第九。
〔註五〕「筑波郡案内記」
〔註六〕「張州府志」巻一一。
〔註七〕「全讃史」巻五。及び「讃州府志」巻七。
〔註八〕池中に機を織る音を聞くという話は、全国的に分布されているが、此の話はアイヌ語で池のことをパタと云うので、それから思いついた伝説だろうと云われている。私はこれに就いて異説を有しているが、それを述べると長くなるので略した。
〔註九〕「郷土研究」第一巻第十一号に柳田国男先生(誌上匿名)が掲載された「筬を持てる女」を参照せられたい。
〔註一〇〕香取神宮第一の摂社である娍社は、何と訓むのか昔から問題とされているが、K先生によるとオサメと訓むのが正しいとのことである。それで此の娍社が、巫女を祭ったことは疑いなく、且つそれがオサメと通称していた巫女であると考えたのである。誠に未熟な妄断な嫌いはあるが、敢て記して後考を俟つとする。
〔註一一〕日本地誌体系本の「若狭郡県史」巻三。 
第三節 巫女の私生活は判然せぬ

 

古代の巫女の修行や、師承関係や、その給分の実際等に就いては、私の寡聞のためか、皆目知ることが出来ぬのである。全国の女性が、悉く巫女的生活を営んでいたとは云うものの、純乎たる巫女として神に仕え世に処すには、相当の修行を要した事と想われるが、それが尠しも判然せぬのである。更に古代においては、呪術を学ぶには、後世の師匠どりともいうべき関係も存したことと考えるが、これも全く手掛りすら判然せぬ。また神社に仕える巫女には、一定の給分もあったことと思うが、これも又た遂に知ることが出来ぬのである。換言すれば、此の方面における巫女の生活は、一切を挙げて歳月の流れと共に永久に流れ去ってしまって、何事も痕跡だに留めていぬのである。従って下級の巫女の社会的位置なども、詳細には知ることが出来ず、ただ漠然と、相当に敬意を払われたり、恐怖されたりしていたのであろうと想像するだけである。
斯うした時代においても、巫女の間に二つの大きな区別が在った事だけは、やや明白に知られるのである。即ち一は神社に附属して、或る定まれる神以外には仕えぬ巫女と、一はこれに反して、神社を離れて、村落に土着し、依頼を受けて呪術を行うた巫女との存したことである。名神・大社に奉仕した巫女は、前者であって、蘇我大臣の渡橋を要して神語を寄せた巫女や、「皇極紀」にある常世神を祭った巫覡などは、後者であると見て大過ないようである。而して此の区別は、時代の降ると共に、その間が漸く拡大されて来て、前者は所謂カンナギ系の巫女として、益々高く浄く固定し、後者は仏教、道教、修験道などの信仰と雑糅して、愈々低く俗化し、クチヨセ系の市子と堕落したものと考えるのである。 
 
第七章 精神文化に於ける巫女の職務

 

第一節 神その者としての巫女
巫女の発生を「をなり神」の信仰にあると考えた私は、更に神その者としての巫女の位置を説かねばならぬのであるが、我が古代の文献に現われたところでは、既記の如く、巫女の社会的位置は一段と引き下げられて、漸く神の代理者、又は神と人との間に介在する憑(ヨ)り座(マシ)としてのみ伝えられ、神託を宣べる時だけ神として崇拝されたのみで、更に民俗に見るも、伝説に徴するも、巫女を神その者として信仰した事象を捉えることが困難なのである。勿論、天照神である大日霊貴(オオヒルムチ)を巫女として考覈することが無条件に允さるるならば〔一〕、或る程度までは、此の事が明確に知り得らるるのであるが、併しながら、現在の学界の趨勢と、社会感情とは、此の至高神の民俗学的研究は或る程度まで差控えねばならぬ状態に置かれてあるので、これは到底企てられぬことである。そこで洵に窮余の一策ではあるが、他に相当の事例を見出して、間接的にもこれが記述を運ばねばならぬのであるが、それには先ず内地の古俗を克明に保存した琉球の巫女信仰を知る必要があると信ずるので、左に折口信夫氏の所見を挙げ、然る後に内地の巫女に関する私見を述べるとする。
生き神とか、顕(アキ)つ神とかいう語は、琉球の巫女の上で、始めていうことが出来る様に見える。神と人との堺が明らかでない(中略)。神を拝むか、人を拝むか、判然しない場合すらある。のろ(中山曰。巫女)殿内(ドンチ)に祀るのは、表面は火の神(カン)であるが、是は単に宅(ヤカ)つ神としてに過ぎない(中略)。のろ自身は、由来記(中山曰。「琉球国諸事由来記」のこと)などに記したほど、火の神を大切にはしていない。のろの祀る神は別にあるのである。
正月には、村中のものがのろ殿内を拝みに行く。最古風な久高島を例にとると、それは確かに久高、外間(ホカマ)(中山曰。地名)両のろの火の神を拝むのではない。拝まれる神は、のろ自身であって、天井に張った涼傘(リャンサン)という天蓋の下に坐って、村人の拝をうける。涼傘は神あふりの折に、御嶽に神と共に降ると考えていたのであるから、とりも直さず、のろ自身が神であって、神の代理或は、神の象徴などとは考えられない。併し、神に扮しているのは事実であって、それが火の神ではなく、太陽神(チダガナシ)若しくはにれえ神(中山曰。常世から来る神)と考えられている様である。外間ののろ殿内には、火の神さえ見当らなかった位である。外間ののろ或は、津堅島の大祝女(ウフヌル)の如きは、其拝をうける座で床をとり、蚊帳を釣って寝ている。津堅の方は、そこで夫と共寝をする位である。のろ自身が同時に神であると云う考がなければ、こうした事はない筈である云々(以上「山原の土俗」(炉辺叢書本)に載せた「続琉球神道記」に拠る)。
此の折口氏の記事を基調として、更に前に引用した「魏志」の倭人伝の卑弥呼の条を考え直して見たいと思う。
卑弥呼、事鬼道能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治国、自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞、出入居処云々。
魏志の倭人に関する記事は、恐らく帯方にいた支那人が、自分の見聞と、他人の見聞とを搗きまぜて、書いたものと思うが、此の鬼神に事え、衆を惑すの一句は、支那人の知識から書いたもので、その実際は、卑弥呼は直ちに神であると信仰されていたものと考えられる。当時の支那人の知識から云えば、人が神であることは信ぜられなかったであろうし、且つ同じように神といっても、我国と支那とは、神に対する観念が異っているので、支那流の巫覡の思想で、斯くは鬼道に事える者と記したに相違ない。卑弥呼が、巫女——然も最高位の巫女であることは、私とても異存はないが、併しその実状にあっては、神その者として民衆に臨んでいたに違いない。それは王となってから、見る者も少く、且つ千人の侍婢あるにもかかわらず、ただ男子一人あって、飲食を給し、辞を伝うとあるのからも、知ることが出来る。
而して此の男弟があって、治国を佐けたとある一事は、当時の倭の国家の成立と、社会の組織とを考える上に、極めて重要なる史料とすべきものがある。即ちその頃の倭国にあっては、神——特に女性に限られたものが主権者として君臨していたことを伝えているのであるが、これは国家の成立が神の意によって行われ、社会の組織が神の掟によって定められていたことを証拠立てているものである。換言すれば、神の意を行うことが政治であり、神の事を行うのが祭祀であった祭政一致時代の倭国においては、卑弥呼の意は、直ちに神の意であり、神の事は即ち卑弥呼の事であった。ただこれを執行することを男弟が佐けたに過ぎぬのである〔二〕。而してこれが一時代降ると、神その者であった女性の主権者は、こんどは己れが祀る神から託宣を受けて神意を述べるようになり、此の女性の兄、または弟がこれを承けて政治を行う事となるのであるが、ここまで時代が降ると、我が古代にも、その痕跡のあったことが、やや明白に知られるような気がするのである。
我国の祭政は、崇神朝において分離されたのであるが、それでも斎宮の初めとなられた豊鍬入姫命は垂仁帝の皇姉であり、次の倭姫命は景行帝の皇妹であり、代々の斎宮が概して天皇の姉妹であらせられたことは、その古代の政治組織を残したものであって、然も倭国の卑弥呼のそれと共通したものがあったのでは無かろうか。
更に、徴証としては、少しく不充分の嫌いはあるが、「常陸国風土記」行方郡当麻郷芸都里の条に、
古有国栖曰寸津毗古(キツビコ)、寸津毗売二人、其寸津毗古、当天皇{○倭/武尊}之幸、違命背化、甚无肅敬、爰抽御剣登時斬滅、於是寸津毗売、懼悚心愁、表挙白幡、迎道奉拝、天皇矜降恩旨、放免其房、云々〔三〕。
とあるのや、「播磨国風土記」印南郡含芸里の条に、
志我高穴穂宮御宇天皇{○成/務帝}御世、遣丸部臣等始祖比古汝弟、合定国堺、爾時、吉備比古、吉備比売二人参迎、於是比古汝弟娶吉備比売、生児印南別嬢云々。
とあるのや、更に「肥前国風土記」彼杵郡の条に、
昔者、纏向日代宮御宇天皇{○景/行帝}誅滅球磨噌唹凱旋之時(中略)。於茲有人名曰速来津姫、此婦女申云、妾弟名曰健津三間、住健村之里、此人有美玉、名曰石上神之木連子玉(ヒタビダマ)、愛而固蔵不肯示他、神代直尋覓之越山逃走落石岑{○原/註略}即逐及捕獲云々。
とあるのや、まだ此の外に、「垂仁記」にある沙本毘古王とその妹沙本毘売や、「賀茂縁起」にある玉依日子と、その妹玉依日売などを重なるものとして、兄妹または姉弟の一対を物語の中心としたものが多く伝えられているのは、或は卑弥呼と男弟との関係の如き事実の在ったことを意味しているのではないかと想われる。我が古代における家族相婚は、兄妹また姉弟の間に行われるのが普通であった〔四〕。古く妻を吾妹(ワギモ)と称したのは、此の遺風であると考えられるのである。
〔註一〕折口信夫氏は雑誌「民族」第四巻第二号「常世及びまれびと」の記事中で、明確に天照神は最初の最高巫女なりと言われている。
〔註二〕卑弥呼が支配した倭国の所在地に就いては、今に学界に定説がないほどの難問題であるが、明治になって九州説を主張する者は、白鳥庫吉氏、内藤虎次郎氏、橋本増吉氏を始め沢山あり、畿内説を主張する者は、三宅米吉氏、山田孝雄氏等の外に沢山ある。私は民俗学的に見て、畿内説に加担する一人で、私見は曩に「考古学雑誌」に掲載した。
〔註三〕寸津毗古、寸津毗売とあるのから推して、これを兄妹と見ずして夫妻と見るのは、古代の民俗に必ずしも適当したものではない。現に、「常陸風土記」那賀郡茨城里の条に「古老曰、有兄妹二人、兄名努賀毗古、妹名努賀毗刀vとあるように、これは同胞と解するのが妥当である。そして弟(オト)が妹であり、女性である用法も古代には往々ある。
〔註四〕家族相婚は問題が風紀に関するものが多いので、余り深く立入って言うことは避けなければならぬが、それでもその大体は拙著「日本婚姻史」において触れて置いた。参照を望む次第である。 
第二節 司祭者としての巫女

 

神その者であった巫女は、同時に神に斎く祭官であった。然るに時代の暢達は、神々を発達させた反対に、漸く巫女の社会的地位を引き下げるようになり、巫女も後には神託を宣べる時だけが神であって、他は専ら司祭者としてのみ待遇されるようになってしまった。而して此の事象の由って来たるところは、祖霊信仰に出発した原始神道における神々の機能が、道徳的に解せられるようになって一段の飛躍をなし、これに反して、神に仕える者は女性に限られていたのが、男子がそれに代るようになった為めである。換言すれば、此の事象は、神の方からいえば、血で繋がれた氏神が、地域を標準とする産土神となったことを意味し、巫女の側からいえば、家族的であったのが、職業的となったことを意味しているのである。而して巫女が祭祀を司るようになった過程と、職務の内容とに就いては、相当に複雑した信仰と推移が潜んでいるので、茲には簡明を主とし、項を分けて記述することとした。 
一、墓前祭と巫女の職務
神に対して行うた祭祀の起原が墓前であったか、社前祭であったかに就いては、昔から相当に異説が存している。それと同時に、世の謂ゆる官僚神道家なる者は、兎角に社前祭説を主張して、墓前祭説を排斥する傾きがある。勿論これは神道の発生的方面を故意に閑却して、無理勿体を付けたがる手段なのである〔一〕。併し、我国の祭祀は、文献的に見るも、民俗的に見るも、墓前祭に始まっていることは明確なる事実である。「日本書紀」の一書に、
伊弉冉尊火神生みます時に、灼かれて神退去りましき。故(カ)れ紀伊国の有馬村に葬りまつる。土俗(クニビト)此の神の魂を祭るに、花ある時には、亦花を以て祭り、又鼓、吹(フエ)、幡旗(ハタ)を用て歌ひ舞ひて祭る云々。
とあるのが、祭祀の所見の記録であって、然も墓前祭であることは、少しも疑うべき余地は無いのである。
更にこれを、民俗学的に見るも、墓前祭が社前祭より古いことが知られるのである。由来、太古の民族は、人は死ぬとその霊魂は黄泉国へ往く(霊魂が地下の黄泉へ往かずして、天上の高天原へ往くと考えるようになったのは、やや進歩した信仰である)ものと信じていたが、茲に考慮して見なければならぬ問題は、その霊魂は何者の導きも待たずに、自然と其処へ往ったものであるか、それとも何者か其処へ往けるように導きをしたのであるかと云う事である。それと同時に霊魂が果して黄泉国へ往ったか否かという事を、何者がこれを証明したかと云う点である。而して此の問題たるや、原始神道における霊魂観として、相当に関心しなければならぬ事であるにもかかわらず、従来の国学者とか、神道家とか云う者で、遂にこれに触れたことのあるのを耳にせぬのである。私の寡聞にして菲才なる、敢て此の問題を説明し得るとは信じていぬけれども、茲に管見を記して是正を仰ぐとするが、私の考えを極めて端的に言えば、それ等の事を行うた者は、即ち巫女であったと信じている。
私が改めて言うまでもなく、我が古代における屍体の始末は、素尊の言われた如く「顕見蒼生(アオヒドグサ)の奥津棄戸(オキツスタヘ)」で、野外に放棄するほどの原始的のものであって、まだ葬儀とか、葬礼とかいうものが、厳かに執り行われていなかったのである〔二〕。かく屍体が無造作に取り扱われたのに就いては、二つの理由がある。第一は屍体は霊魂の抜け殻と考えたことで、第二は屍体の腐敗を嫌ったためである。而して此の屍体を放棄することが、巫女の職務なのである。我国で、祝——即ち巫祝の徒をハフリと称することに就いては、羽振りの義であって、神官が着た浄衣の袖を鳥の羽の如く振るので、此の名ありと云う説もあるが〔三〕、元より民間語原説(エティモロジー)であって採るに足らぬ。これに較べると、ハフリは投(ハウ)るの意で、古く屍体を投げ棄てる役を勤めていたので、遂に此名を負うに至ったものと解すべきである〔四〕。而して葬をハフリと訓んだことも、又この意であって、「万葉集」巻二に、高市皇子の殯宮のとき、柿本人麿が詠じた長歌の一節に、
言いさへぐ百済の原ゆ、神葬(カミハフ)り葬り座して、朝もよし城の上に宮を、常宮と定め奉りて、神ながら鎮りましぬ……
とあるのや、同集巻一三の長歌の一節に、
朝裳吉城上の道中、角障ふ石村を見つつ、神葬(カミハフ)り葬り奉れば、……
とあるのは、その例証であって、屍体を投棄したことから出た古語なのである。
然るに、古代においては、物を斬り断つことも同じくハフリと言うていた。「崇神記」に、大毘古命が建波邇安王の兵と戦い「其の軍士を斬屠りし故に、其地の号を波布理曾能(ハフリソノ)となも謂ふ」とあるのや、「万葉集」巻十三の長歌の一節に「剣太刀磨きし心を、天雲に思ひ散(ハフ)らし、展(コ)ひ転び泥(ヒツ)ち泣けども、飽足らぬかも」などを始めとして、此の外にも斬ることをハフリと云うた例は多く存し、現に屠の字をハフルと訓んでいるほどである。然らば何故に、我が古代にあっては、葬ることと斬ることとを同じくハフリと言わせ、併もそれを巫祝の上まで及ぼして、これをハフリと称したのであろうか。問題は愈々困難になって来たが、これに対する私の考えは略ぼ左の如きものである。
私見によれば、古く我国では屍体を葬るときは——勿論、その悉くではないが、前に辻占の条に挙げたような変死を遂げた者の屍体は、これをその儘に葬ることなくして、屍体を幾つかに斬って埋める民俗が存していたのではなかろうか。記・紀の神代巻に、諾尊が迦具土神を三段に斬ったとあるのは、諾尊が此の神のために冊尊を喪うたという単なる憤怒の余りではなくして、かかる悪神は幾つかに斬って葬る習わしのあったことが、神話に反映したのではないかと想われる〔五〕。学友内藤吉之助氏が「史学」第三巻第七号に掲載された「喪かり考」は、此の問題に対して、大なる暗示を投じているものであって、私もこれを披閲して、尠からず教えられた所が在って存したのである。而して内藤氏に従えば、喪がりとは、従来の国学者が説けるが如き——殯宮の意味ばかりではなくして、此の間において、屍体に何等の処置が加えられたに相違ない。されば、喪かりのかりは、必ずしも喪あがりの約語でなく、離すことをさかりと云うた。そのかりの意味であるとて、言外に屍体に加えられた処置なるものが、私が茲に云う截断と同じものであることを論じている。実に卓見として敬服させられたのである。
我国の古代に屍体を幾つかに截って埋めた民俗の在ったことは、伝説として各地に存している。こう言うと、それは支那の蚩尤伝説の輸入であると軽く斥けられるかも知れぬが、併し私としては、必ずしもそうだと許りは思われぬ点がある。茲に二三の伝説を挙げて、之に対する私見を述べるとする。屍体截断の最古のものとしては「崇峻紀」二年秋七月の条に、物部守屋の資人捕鳥部万の屍体を梟する状況を記して「河内国司、以万死状、牒上朝廷、朝廷下符偁、斬之八段、散梟八国」とあるが、それである。若し私をして、想像を逞うすることを許さるるならば、国史に載ったのは、僅に此一事だけであるけれども、国史に漏れた此の種の事実が、他に存したと云っても、決して無稽だとは考えられぬ。
而して更にこれを民間伝承に覓めんか、先ず最も有名なものとして誰でも知っているのは、奥州安達ヶ原の黒塚の伝説である。宮廷歌人であった平兼盛が「陸奥の安達ヶ原の黒塚に、鬼すむなりといふは誠か」と詠んでから、此の伝説は、専ら怪談として人口に膾炙されるようになってしまったが、これは当時の民俗として、妊婦が分娩に際し、その胎児を産出せずして死亡した場合には、妊婦の腹を割いて、胎児を取り出して埋葬する事が行われていたのを、居ながらにして名所を知るほどの歌人が聴きかじって鬼としたために、遂に怪談として伝わるようになってしまったのである。而して此の民俗は、アイヌ民族の間に近年まで行われたウフイと称するものと全く軌を一にしたものであって〔六〕、内地においても明治の中頃までは各地に行われたものである〔七〕。更に時代は降るが、陸奥国南津軽郡浪岡村大字五本松の加茂神社は、延暦年中に坂上田村麿が誅した女首悪路王の首を神体として祀り、隣村五郷村大字本郷の八幡神社は、同じ悪路王の片腕を祀ったもので、然もその神体は今に活きて損せずと云われているのや〔八〕、天慶乱に誅された平将門の首塚、胴塚、腕塚などが、東京を中心として各地に在ることなどは〔九〕、共に屍体を分割して埋めたことを物語っているのである。更に、丹波国北桑田郡周山村の八幡宮の縁起に至っては、此の伝説を最も詳細に尽している。社伝によれば、康平年中に源義家が安倍貞任の首を獲て帰洛し、これを埋める場所を占わしたところ、四つに截って東に山あり南に川ある池の四ヶ所に埋めよとの神託により、その地を覓めて同村に埋めたのであるが、猶お貞任の悪霊が荒びるのでそれを鎮めるために、宇佐八幡宮の分霊を勧請したのだと云うている〔一〇〕。
まだ、此の外にも、支解分葬の伝説は各地に存しているが、類例は別段に多きを以て尊しとせぬから他は省略するも、兎に角、我が古代で特種の屍体を截断した民俗のあったことは、事実として認めても差支ないように考えられる。勿論、此の事実の発足点が、怨霊を恐れた信仰に由来していることは言うまでもなく、時代の降るに従って、此の信仰は更に熾烈の度を加えて来たのであるが〔一一〕、後世になれば、流石に支解分葬というが如き野蛮の態度に出づることもなく、漸く往来の頻繁なる道の辻に埋めて、悪霊の分散を防ぐ程度になってしまったが、さて是れとても、その源流に溯って見るときは、此の支解の信仰の派生であることが知られるのである。
而して是等の惨忍なる仕事——即ち屍体を投棄したり截断したりする役目こそ、当時の巫女の職務のうちでも、殊に聖職として考えられていたのである。アイヌ民族に行われたウフイの主役は老婆であって、鎌を揮て妊婦の腹を割く有様は、凄絶を極めたものだと伝えられている。琉球の洗骨も、これに従事する者は女性に限られていて、然もこれとても凄絶眼を掩うばかりであったと云われている〔一二〕。優柔であるべき筈の女性が、此の種の任務に服することは、後世の知識から云うと、頗る矛盾していて、殆ど在り得べからざるように考えられるが、更に巫女史の立場から見るときは、これは一種の性の倒錯であって、女子に多くの神性を認めた時代においては、かかる惨忍事は女子の役目として、社会も認め、また女子自身もそれを許して来たのである。猶お巫女の性の変換及び倒錯に就いては、後章に記すところがある。
霊魂と肉体との関係を、徹底的に二元と信じた原始期の思想が、一転して霊肉一元であるという思想を培うようになれば、今度は投棄した屍体を大切に始末する民俗を見るようになるのは、当然の推移である。而して此の思想を養うに至った原因は、種々存しているけれども、特に重要なる原因となったものは夢である。私は茲に原始民族における夢の俗信を記そうなどとは思っていないが〔一三〕、併し我国でも、古代にあっては、夢の信仰は相当に重大なる位置を占めていて、国家の大事を決定するに夢を以てした例証は尠くなく〔一四〕、現(アキ)つ神といわれる者にあっては、随時に夢を見ることの出来るように修養したのではないかとさえ想われる程である〔一五〕。
此の夢において、霊魂の遊離を知った古代人は、その霊魂の宿る所は肉体であって、然も人間は死後にあっても肉体さえ保存すれば、夢の如く霊魂が再び還り宿るものと考えるようになり、かくて肉体を保存させるように導いて来たが、その結果は屍体を生ける人間と同じように待遇するまでになったのである〔一六〕。記・紀の神代巻の終り頃から、奈良朝の終りに至るまでの、所謂、考古学上の古墳時代というのが、その信仰の最も旺盛の期間であって、大規模の古墳を造り、石棺に斂め、殉死を強いるなど、極めて厚葬に努めたものである〔一七〕。而して此の時期——即ち屍体を投棄した時代から、屍体を生ける人間と同じと見た時代までは、霊魂の宿る所は墓地であって、これが祭祀は墓前においてのみ執り行われていたのである。前方後円式(別名を瓢型と云う)の墳墓が、後円部に霊柩を斂め、前方部が祭場に当てられたものであることは、考古学的にも説明されているが〔一八〕、更に民俗学的に言えば現在の名神・大社といわれる神社の付近には、その祭神を葬ったと思われるほどの古墳を伴っていることからも、此の事実の在ったことが裏付られるのである。
記述がそれからそれへ脱線するが、墳墓を前方後円に築き、その形式を瓢型に作ったことは、古く我国において瓢は魂の入れ物と信じた民俗から出発しているのであって〔一九〕、神社の起原が古墳にあることは疑う余地はない。「神楽歌」に「奥津城にすめ神たちをいはいこし、心は今ぞ楽しかりける」とあるのも其の証で、古くは墳墓即神社であった。従って墓前祭が、社前祭に先って起り、然もその祭祀は巫女によって行われたことも明確である。 
二、霊魂の神への発達と巫女
万有精霊(アニミズム)時代にあっては、総ての霊魂は神として崇拝されていたが、霊魂に善霊と悪霊とあるものと信ずるようになって、茲に崇拝の分裂が生じ、更に善霊中に神格を認め、悪霊中に魑魅を考えるようになれば、霊魂は悉く神ではなくして、その中の一部しか神となるべき資格の無いものと想うようになり、茲に信仰を教理的に解釈するまでに進んで来たのである。
我が古代で霊魂——即ち善霊を神にするのに就いて、如何なる形式が行われたか、それは今から稽うべき手懸りすらない。現代の習俗を基礎として、手近な例を挙げれば、菅原道真が薨去したのを、天満宮と祭りさえすれば、それで昨日の人は今日の神となるという、極めて簡単なものにしか過ぎぬが、此の例を以て古代を推すことは妥当でないと信ぜられるが、さりとて他にこれを説明すべき資料は寡聞に入らぬのである。然るに、琉球においては、霊魂が神にまで発達するには、相当の歳月を要し、併せて複雑なる形式を履んだようである。「東汀随筆」第六回に左の如き記事が載せてある。
第七 人家七世に神を生ずる事
我国(中山曰。琉球)古来の習俗として、人家相継して七世に及べば、必ず神を生じて尊信す。其神は只二位を設く、蓋し祖老以上始祖に至るの亡霊を以て神とするなり。而して親族の女子二名を以て、神コデと称し、之を任ぜしむ。一名はオメケーオコデとなし、一名はオメナイオゴデとなし(原註。方言、男兄弟をオメケーと云い、姉妹をオメナヒと云う)、其神を祭る一切の事を掌る。其祭祀は、毎年二月には麦の穂祭と称し、麦の穂を薦む。三月には麦の祭と称し、酒香{酢下灬}脯を薦む、五月には稲の穂祭と称し、酒香{酢下灬}脯を薦む。亦族中課出金を以て祖考祖妣の神衣を製し、祭祀毎に神コデ二人之を着て神を拝祭す。三月五月の祭には、族中の男女尽く来り、香を焚き礼拝す、コデの酌を受く。而して神の生ずる期月、三年の期月、七年の期月、十三年の期月、二十五年の期月、三十三年の期月には、酒香{酢下灬}脯{麥繞井}餅を具へて以て之を薦む。其費用悉く族中課出をなす。三十三年の期月を畢れば、其翌年復神を生じ、及び期月毎に祭礼すること旧の如し。其コデの任命は専ら祖宗神霊の命ずる所に因る。予め祖宗の神霊あり、其コデと為すべき者及び巫婦の身に附着して言語をなし、或はコデと為るべき者疾病をなし、其女コデとなることを御請すれば即ち癒ゆ。是を以てコデと為ることを得る。コデは終身の職となす。死するときは即ち其後任を選ぶこと復此の如し。故にコデ職は自ら命ぜられんと欲るも得ず、自ら免れんと欲するも得ざるものとす云々(以上片仮名を平仮名に改め、句読点を加えた)。
此の記事は種々なる意味において、関心すべき多くの暗示を与えているが、殊に七世にして神を生ず(或は支那思想の影響かとも思うが、私の学問の力では判然しない)と云うことは、即ち霊魂が神となる過程を説明するものとして考えたい。而してかかる民俗が、古く内地にも存していたか否かに就いては、私は何等の耳福にも接していぬので余り明白には言えぬけれども、これに就いて思い起されることは、土佐国長岡郡の豊永本山等の山村に行われた御子神(ミコカミ)を祭る神事である。
茲に「御子神記事」により、その要領を摘記すると、同地方の神職その他の者で、先規に従い、御子神を祭っている家筋がある。その家では人が死んでこれを御子神に祭ろうとするときは、これを旦那寺に断り、亡父何右衛門事先例を以て後年神に祭る故過去帳に御記しくだされまじくと言って置く。又、当時この断りをせざりし者は、三年忌或は七年忌法事の節、此の者先例を以て今日より神に祭るを以て、過去帳の法名御消しくだされと断り、位牌を墓所へ捨てるのである。位牌を捨てなければ神になることは出来ぬ。かくて愈々神に祭るのは、その年十一月氏神祭の日、神事の済んだ後で、今日は是より何右衛門を神に祭るといえば、子孫血縁の者が皆集り、村長(ムラオサ)を上座に招ぎ、太夫(中山曰。神職なり)二三人又は四五人を頼み、その中の一人を本主の太夫と定め、白幣を振りてタテ食(クラ)えという儀式を行うのである。在生中に正直を第一として悪事を巧(たく)まぬ人は、ただ一度のタテ食えにて早速神の座に直るが、不正直であって謀計多かりし者は、タテ食え五六度に及ぶも猶お神の座に直らぬこともあるが、その時は先ずこれ迄として置くのである。それより更に本主の太夫へ神をのり移すと称して、何やら舞を舞っていると、やがて託宣がある。曰く是より内は木ノ葉の下のオボレ神にてありしが、大小氏子心を揃え今日伊勢のミコが瀧へ請じられ、ホウメンをさましてやあら嬉しやと云う。答えに大小氏子を揃えホウメンをさまします。大の氏子小の氏子悪事災難来り候とも払いのけてちがえ守らせ給えと云い、やあら嬉しや嬉しやと舞う。御子神には名は附けぬが、其の者子ノ歳ならば子歳の御子神、丑ノ歳なれば丑歳の御子神と唱え、年忌盆彼岸にも祭らず、ただ氏神祭の日に作初穂(ツクリハツホ)を出し神楽を舞ってもらうだけである(以上。土佐群書類従巻十所収)。
土佐の此の記事を読んで、更に琉球の民俗を考うるとき、何となく、その間に、一脈相通ずるものが在るように思われる。勿論、土佐のそれは、仏教や修験道の影響を多く受けていて、その元の相(すがた)は判然せぬまでに雑糅しているけれども、仔細にその神事を検討すると、琉球と同じく、霊魂の神への進化の過程と、儀式とを説明していることが、会得されるのである。而して斯うした場合にその神事の中心となった者が巫女であったことは、改めて言うまでも無いことである。
霊魂が神へ進化するということは、他の語を以て云えば、即ち霊魂が神の国(ここでは黄泉国よりは高天原の意)へ安住することを得たという意味である。而して此の霊魂を安住の国へ導くことが巫女の職務の一つであった。記述が伝説から仮説へと脱線するようで少しく恐縮する次第であるが、全体、我が古代にあって、人が死亡した折に、霊界に在る祖先に対して、此の死人はその子孫であるということを、如何なる方法を以て証明したか、それを考えて見たいと思う。ずっと後世になれば、旦那寺から授ける血脈なるものが、此の代用を弁じているのであるが、古代にもこれに似通った信仰が在りそうに思われる。勿論、仏教の血脈信仰の影響を受けたものに相違ないが「熱田旧記」に熱田宮の神詠として「彼の世にていづくの人と問ふたらば、熱田の宮の者と答へよ」とあるのは、神詠に仮託した後世の俗歌ではあるけれども、こうした信仰は我国にも存したところが、決して不思議ではないのである。我国におけるトーテムの研究が進んでいれば、此の種の問題も容易に解決されることと思うが、これは当分研究されそうにも見えぬので〔二〇〕、いやが上にもその解決に困難を感するのであるが、併し私に強弁することを許さるるならば、我国の家紋の起原は、実に此の信仰と交渉を有しているのではないかと考えたい。
アイヌ民族の間に行われている神標(カムイシルシ)の信仰は、極めて神聖なるものであって、家長以外には絶対に知らせぬ事として、今に厳重に秘密を守り、家長が死ぬときに始めて相続人に告げ知らせるほどの大切なものであるが、然もその神標(カムイシルシ)とは、死者に持たせてやる其の家の合標(アイジルシ)であって、アイヌは死人が出来ると、急いで家々に伝わる神標(カムイシルシ)を木の板に彫り付けて死者の肌に付ける。これさえ持って往けば、霊界において祖先が己れの子孫であることを知って保護してくれると信じているのである〔二一〕。
而してこれに似た思想は、南嶋の極地である琉球の与那国嶋にも現存していて「与那国嶋図誌」によると、「嶋の家にはそれぞれヤーハンといふものがあつた。蓋し「家判」の意であらう。それは家紋よりもずつと広い意味に用ゐられた。一方では屋号でもあり、又その家を表示する記号でもあつた。以前は郵便物を配達するにも一々ヤーハンを封筒に記入して配つたといはれてゐる」と載せてある。
これ等のことを併せ考えるとき、我国に行われている輪鼓(りゅうご)や入山形(いりやまがた)などという家々の記号も、その元の形はこうした思想をも含めていたもので、これが始めはアイヌの神標(カムイシルシ)のようなものではなかったかとも思われる。そして此の記号の意匠化されたもの、図按化されたものが、現時の家紋であると信じている。胎児の胞衣に父の紋所が現われるという俗信も、又これと交渉があるのではないかと考える。而して是等の合標を工夫したり、又は合標を死者に与えることが、巫女の職務の一つであったに違いない。
死者が果して神の国に安住したか否かを、知る——と云うよりは占う方法は、古くから種々なる民俗が伝えられている。これも後世になると仏教に附会されてしまって、成仏の印(しるし)とのみ解釈されているが、その方法の如何にも原始的であるところから推すと、却って我が古俗が仏教に取り入れられたものと思われるのである。而してその方法として、殆んど全国的に行われたものは、死者を葬りし際に、墓の上に青竹を三本サギチョウ型に立てて結び、その中央から縄を下げその先端に石を付けるのであるが、此の縄が自然に腐朽して石が池上に落ちたときが、その死者の神となったときであるという民俗である。更にこれを産婦の死の場合には、流れ灌頂とて、俗にサイミと称する麻の粗布へ名号を記し、これを竹にて低く四方に張り、通行の者に水をかけさせ、その布が腐れて穴が明けば成仏したというのが、それである。元より私の寡聞かは知らぬが、かくの如き原始的民俗は、仏教の渡来などよりは迥かに古き時代から在ったものと思われるので、その起原は巫女が死者を取り扱うた時分に工夫したものだと信じたいのである。
琉球の各地では今に死人があると、四十九日目にマブイワカシということをするが、これに就き故佐喜真興英氏の記された「シマの話」によると、
七々日までは亡者はまだ現世に残ると信じられ、嶋人は毎度食事を供え、仏間に亡者の衣類を畳んで置いた。四十九日の供物をうけ亡者は完全にあの世に行くと考えられた。四十九日の晩マブイワカシ(霊魂別れ)という儀式が行われた。ユタ(中山曰。内地の市子)が来て亡者の口寄せを為し、生者と別れを告げるのである。亡者の告別の辞は固より種々雑多であるが、その内容は略同一で、何故に自分は死ななければならなかったかという運命物語がその前半で、さればこれこれ云々の事をよろしく頼む、いざさらばというのがその後半であった(中略)。古くは此のマブイワカシの儀式は、非常に重大なる意味を持って居ったが、嶋人の知識が漸次進むに従ってユタの信用が薄くなり、マブイワカシも次第に形式化して来た云々(炉辺叢書本)
とあるのは、蓋し我が古俗を貽したものと考える。今に内地の各村落でも、死人があると、初日に市子を頼んで死口を寄せてもらうことのあるのは、彼之共通の信仰を物語っているのである。 
三、社前祭と巫女の職務
神に対する観念が固定するにつれて、神を祭る場所も固定した。これが即ち神社の起原である。併しながら、我国の神々は、常には高きところに坐して、人の祈(コ)いにより(又は突然に)、或は定時に、或は臨時に、此の世へ降って来るのであった。それと同時に、我国の神々は、分霊ということには殆んど無関心であって、一神が百にも千にも分霊するという思想は、古文献にも、原始信仰にも、曾て存していなかったのである。それであるから、我国の神社は、神が降って来たときだけ宿るところであって、神は何時でも社殿の奥に坐するものではないのである。換言すれば、如在の神であって常在の神ではないのである。祭礼の民俗に宵宮があり、祭祀の儀式に帰神の神事があるのは、よく此の事象を説明しているのである。
然るに神社が固定するにつれて、巫女の社会的地位は、それと比例して、段々と低下せざるを得ぬようになって来た。これは、神がその時々に巫女に憑って託宣をして祭らせたものが、日時と場所が一定するようになれば、一方において男子の神職が用いられるようになり、一方においては巫女の本来の職務は、これが為めに大半まで失うこととなるので、低下すると同時に、軽視されるようになるのは、止むを得ぬ次第であった。
例えば「尾張国風土記」逸文の丹波郡の条に、
吾縵郷(アヅラノガウ)は、巻向珠城宮に御宇しし天皇{○垂/仁帝}の御世、品津別皇子生七歳になるまで、語とひしたまはず。あまねく臣たちに問はすれども、能くそのよしを申すものなかりき。その語、皇后の夢に神の告ありて曰く、吾は多具国神、名を阿麻乃禰加比女と曰ふ。吾れ未だ祝(ハフリ)を得ず、若し吾が為めに祝人を充てば、皇子能くもの言ひ、亦み寿ながからむと申す。帝、神覓(マ)ぐ人を卜とひ玉ふに、日置部等が祖、建岡君卜食(ウラア)へり。即ち神を覓(マ)がしむる時に、建岡の君、美濃国花鹿の山に到り、賢樹の枝を攀(ヲ)りて、縵を造りて誓(ウケ)ひまをさく、吾が縵の落ちむ処に、必ず此の神まさむと云へり。縵去りて此間(ココ)に落ちぬ。乃ち神ますことを識りき。因(カ)れ社を堅てり。社に由りて里に名づく。後の人訛りと阿豆良里と言ふ〔二二〕。
とあるが、これが一段と古いところに溯れば、此の祝は当然巫女で無ければならぬのに、かく覡男が卜食(ウラア)うことは神社の固定が神の観念の固定から出発し、併せて覡男が巫女に代る様になった事を暗示しているのである〔二三〕。
こうなれば神社における巫女は、祭神の朝夕の御饌を供えるとか、神衣の世話をするとかいう、極めて軽い職務にしか与からぬようになり、(宮中の御巫に就いては第三篇に述べる)延いて社前祭にあっても神楽を奏するか、湯立をするか、その役割りは是また軽からざるを得ぬようになってしまって、纔に伊勢の斎宮、賀茂の斎院に、古い面影を留めるまでになり、遂にその結果は、多くの巫女は神社を離れて、古き伝えの呪術を以て世に処すようになったのである。 
〔註一〕平田篤胤翁は、神社神道を国体神道に引き揚げるに急であった為めに、どちらかと云えば、多分に原始神道の面影を残しているものを、鈴振り神道の、乞食神道のと賤めているなどは、其の一例である。現代の神道観にも、特に発生的方面を忘れて、発達的方面ばかり説く傾きがあるが、それは決して穏当だとは思われない。
〔註二〕雑誌「民族」の第二巻第五号に載せた伊波普猷氏の「南島古代の葬儀」及び同誌次号の「南島古代の葬儀補遺」に、琉球の墳墓のことが詳記してあるが、殊にヌバカ(野墓)の如きは、全く古代の奥津棄戸を偲ばせるものがある。而して斯かる民俗は、内地においても、近世まで各地に存していた。「出羽国風土略記」に載せた「みさき」という葬法は、山林中へ屍体を投棄するのである。更に「阿波志」にある麻植郡宮島村の極楽壙の如きも、又た俗に「投げ込み」と称する埋め方であった。
〔註三〕「増補語林倭訓栞」。而して羽振りの意に解したのも古いことで、「万葉集」にもその証歌と見るべきものが三四載せてある。
〔註四〕山本信哉氏から承ったところである。猶お同氏の研究によると、信州の姥捨は小泊瀬(ヲハツセ)の訛語であって、古く墓地だとのことである。卓見として敬服すべきものと考えている。
〔註五〕従来の学説によれば、神話が元となって民俗が起るものだと云われていたのであるが、現今では此の反対に、民俗が在ったので神話に反映したのだといわれている。私も此の説に従って、民俗と神話との関係を見ているのである。
〔註六〕「アイヌの足跡」に此の事が詳記してある。これによると、気丈夫な老婆がそれに当るのであるが、老婆は葬礼が済むと、鎌を以て妊婦の腹を割き胎児を引き出すが、惨状目もあてられず、老婆の着衣は血で染まるとある。然も此の野蛮事は、明治の終り頃まで行われていた。私は安達ヶ原の鬼とは、此の民俗の伝説化であると考えたので、管見は「東北文化研究」第二号の余白録に投じて採録されている。
〔註七〕私の宅に五ヶ年間行儀見習に来ていた磐城国石城郡植田町生れの松本かう子の談に、姉が難産のために入院したが、その時親戚の者が集って、若し死亡したら胎児を引き出して、それを母に抱かせて葬らなければならぬと相談したことを聴き、同地方には昔から斯うした習俗のありしことを語ってくれた。更に学友長山源雄氏が来宅されたときの談話に、氏の郷里なる愛媛県地方では、その場合には胎児を引き出し、亡母と背中合せにして埋葬すると聞いているとのことであった。而して是等の習俗がアイヌ族のウフイに交渉あることは言うまでもない。
〔註八〕「浪岡名所旧跡考」。
〔註九〕雑誌「旅と伝説」第三巻十一号に掲載した拙稿「将門神社考」は極めて粗笨のものであるが、此の問題に触れている。敢て参照を望む次第である。
〔註一〇〕「京都府北桑田郡誌」。
〔註一一〕我国の怨霊崇拝は、平安朝時代が最も猛烈を極めていた。これは同時代の文弱が、天下を挙げて神経衰弱時代たらしめた結果であって、就中、その代表的のものは、菅公を北野神社と祭ったことである。併して此の怨霊崇拝は、明治時代まで継続したのである。
〔註一二〕琉球の石垣嶋測候所長を三十余年間勤続している岩崎卓爾翁が、私に語った所によると、昔同島では、死者の埋葬後三年目に洗骨をするのが常規となっているが、若し此の三年間に死亡者があると、前の死亡者が一年か一年半しか経過していなくとも、洗骨しなければ新な亡者を墳墓に斂めることが出来ぬ習俗なので、まだ生々しい亡者の洗骨をするのであるが、実見した岩崎翁の言うには、それは眼を掩うばかりの惨忍事で、女子達は手に包丁とか鎌とか携えて、屍体を引き出して、骨に付いている肉を削り取り、それを申訳ばかりの酒(水一升に酒一合ぐらいのもの)で洗うのだが、残酷と臭気で堪えられぬと言うことであった。
〔註一三〕夢で古代人が肉体の外に霊魂のあると信じたことは、先覚も説いているが、それと同時に、高熱のある病気も又た錯覚や幻聴を起させるもので、これにより霊魂が自己の身体から抜け出ることのあるという俗信を得たことも注意せねばならぬ。
〔註一四〕「日本書紀」に崇神帝が、夢によって太田々根古をして大物主神を祭らせたこと、及び同帝が豊城、生目の二皇子に命じて夢を見させ、それを判じて皇太子を定められたことなどを始め、国家の大事を夢によって決定した事例は頗る多く存している。古代人にとっては、夢は神人交通の方法として、殊に重大視せられていたのである。
〔註一五〕我が古代の権力者が臨時に夢を見ることの出来るよう修養されたのではないかと論じたのは、心理学者の小熊虎之助氏の創見にかかるところで、氏は「心理学研究」誌上において、此の事を説かれている。
〔註一六〕私が改めて言うまでもなく、死後の生活を信じたればこそ、棺内に死者の手廻りの道具を入れてやるとか、更に経帷子を着せてやるの、杖を持たせてやるのという俗信は、皆これから起ったもので、墓参りなども、又この俗信によるものである。
〔註一七〕殉死の蛮習が我が古代に在ったか、無かったかに就いては、今に定説を聞かぬところであるが、私は存在説を主張する者で、現在では記録や伝説ばかりでなく、考古学的に遺物の上からも説明出来ると考えている。
〔註一八〕梅原末治氏著の「佐味田及新山古墳の研究」にその事が論じられている。
〔註一九〕瓢が魂の入れ物であるという俗信に就いては、柳田国男先生が「土俗と伝説」第一巻第二号から連載された「杓子の信仰」に詳説されている。参照を乞う。
〔註二〇〕我国におけるトーテムの問題に就いては、余り学界の注意を惹いていぬが、私はこれに就いて短見を発表したことがある。拙著「日本民俗志」に収めた「本邦に於けるトーテミズムの考察」がそれである。
〔註二一〕アイヌに生れて和歌をよくした故違星北斗氏から承った。猶お此の機会に言うが、アイヌ民族は立派にトーテムを有していて、今にその信仰を貽している。而して違星氏の談によれば、そのカムイシルシを見ると、本家、分家、新宅などの関係がよく判然し、更に溯ればその家々のトーテムまで判明するとのことであった。故違星氏は、手宮駅頭の古代文字と称せらるるものは、アイヌのカムイシルシであるとて、此の研究にも手を着けられていたのであるが、完成せぬうち宿痾のために不帰の客となられたのは遺憾のことであった。
〔註二二〕大岡山書房から発行された「古風土記逸文」に拠った。猶お此の仮名交り文は、栗田博士の旁訓を移したものであることを付記する。
〔註二三〕「肥前国風土記」の基津郡姫社郷の条に、これと同巧異曲の文が載せてあるが、これも巫女の勢力が漸く劣えて、男覡がこれに代った傾向を知るべき史料である。 
第三節 霊媒者としての巫女

 

我が古代人が、高天原に在す神々を地上に招(オ)ぎ降(オロ)すに就いて、如何なる方法が最も原始的かというに、私の考えたところでは、神の憑(ヨ)り代(シロ)として樹てたる御柱(故愛山氏が韓国の神桿と似たものと論じたものである)の周囲を匝(メグ)ることであったと信じている〔一〕、諾冊二尊が天ノ御柱を行き廻られたのは即ちそれであって、今に信仰に篤き者が神社に詣でた折に社殿を匝るのは、此の面影を伝えているものと考えるのである。併しながら、是れは単に高きに在す神を地上に降すだけであって、その降(オロ)した神を身に憑(ヨ)らしめ、然も神の意を人に告げる所謂「霊媒者」又は「託宣者」となるには、如何なる方法が用いられたであろうか。而して私は是れに就いては、二つの方法が存したと考えている。即ち第一は、既述した鈿女命の場合に見えし如く、空槽伏せて踏み轟かし、跳躍して顕神明之憑談(カムガカリ)の状態に入るのと、第二は畏くも神功皇后が行わせられた方法である。「日本書紀」巻九神功皇后九年の条に、左の如き記事が載せてある。
三月壬申朔、皇后選吉日入斎宮、親為神主、則命武内宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主、為審神者(サニハ)、因以千渚薯u琴頭尾、而請曰、先日教天皇(中山曰。仲哀天皇)者誰神也、願欲知其名、逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢国之、百伝度逢県之、拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木厳之御魂天疎向津姫命焉。亦問之、除是神有神乎、答曰、幡荻穂出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也、問亦有耶、答曰、於天事代、於虚事代、玉籤入彦厳之事代主神有之也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。於是審神者曰、今不答而更後有言乎、則対曰、於日向国橘小門之水底所居而、水葉稚之出居神、名表筒男、中筒男、底筒男神之有也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。遂不言且神矣。時得神語、随教而祭云々。(国史大系本)
神功皇后の征韓の大事業は、我が国家の発展上に一時代を劃した偉勲であった。従って、これを遂行せらるるに就いては、当時の習礼となっていた神々の加護を仰ぐため、神意に聴くこととなっていたので、皇后の尊き御身でありながら、此の神事を行わせられたのである。それ故に、その儀式において荘重を極め、その精神において原始神道の古義を遵び、我が三千年の歴史を通じて、寔に一例しか見ることの出来ぬ聖範を貽されているのである。「日本書紀」によれば、皇后は、一年の間に三度までも神に託(ツカ)れていて、全く神人としての生活を送られていたのである。本居翁が「此の大后にかく神の託(ヨラ)し賜へりしは、尋常の細事には非ず、永く財宝国を言向定め賜へる起本にしあれば、甚も重き事ぞかし」と説かれし如く〔二〕、国運を賭しての出征を神慮に聴くのであるから、皇后の御心尽し拝察するだに畏きことである。而して此の大事を決定すべき神意が、如何にして伝えられたか、それを前掲の「日本書紀」の記事に徴すると、
一、吉日を選んで斎宮に入られたこと
二、皇后親らが神主となられたこと
三、武内宿禰に琴を弾かせ、然もその琴の頭尾に千渚盾置かれたこと
四、烏賊津使主(イカツノオミ)を審神(サニワ)となし、問答体を以て託宣せられたこと
五、七日七夜に逮んで祈念せられたこと
六、託宣は韻文的の律語を以てなされたこと
が知られるのである。私は此の記事こそ、古代の巫女の作法を考覈する上に全く唯一無二の重要なるものと信ずるので、これに関する先覚の研究を参酌し、私見を併せ加えて、やや詳細に記述したいと思うのである。
第一は、皇后が吉日を選んで斎宮に入られた事であるが、当時、我国には日奉部(ヒマツリベ)と称して、日の吉凶を判定する部曲があった〔三〕。これが後に日置部(ヘキベ)となり、国々に土着して、専ら天文道の暦日の事を掌っていたのである。祝詞などにも「八十日波在止毛今日能生日能足日爾」と見えているから、古くから日の吉凶を定める信仰と、方法とが存していたに違いない。斎宮は、皇后が此の神事を行わせたまうに就き、新に設けられたもので、今にその故址が筑前国糟屋郡山田村大字猪野に在るということである〔四〕。かく吉日を選んで斎宮に入り、神事を行われたのは、此の神事の目的が、前に述べたように国家の運命にも関するほどの重大事であったので、かく荘厳を極めたものと考える。「神武紀」などにも、戦前または戦争中に、神慮を問わせられたこともあるが、これ程に重く取り扱わなかったのは、その事件の軽重によられたことと思われる。
第二に、皇后が専ら神主となられたことであるが、これには先ず神主という語義から考えて見る必要がある。我国で神主の語の初見は、「古事記」崇神朝に、
以意富多々泥古命為神主、而於御諸山拝祭意富美和之大神云々。
とあるのが、それである。而して此の語義に就いて、本居翁は「神主は神に奉仕る主人(ヌシ)たる人を云ふ称なり」と先ず定義を下し、更に、
思フに、神主と云ふ称は、もと此ノ段(中山曰。神功紀)の如く、神の命を請奉る時に、其神の託て命のりあるべき人を、初メより定め設くる其人を云ふ称にぞありけむ、かくてまた神に奉仕る人を云ふ称と為れるも、神託(カムガカリ)のために設くる人よりうつれるなるべし。
と説明している〔五〕。これに従うと、神主とは、神の託宣を人に中言(ナカコト)する者という狭義のものとなってしまうのである。飯田武郷翁は本居説を認めながらも、猶お
神主は、神に奉仕る主人(ヌシ)たるを云ふ称なることは元よりなれど、此にかく皇后の親ら神主と為玉へるを以思ふに、なべて神に奉仕する称とはかはりて、いと重かるべし(中略)。大后に神の託(ヨリ)て坐ける事も、神主と為て神の依坐(ヨリマシ)と定まり賜へるが故なり。
と論じているが、少しく徹底せぬ嫌いがある〔六〕。更に鈴木重胤翁は
神主とは、神に仕奉る人の中の長者を云ふ、神代紀に斎主神斎之大人と有る意ばへを察むべし。
と簡単に説いているが、頗る物足らぬものがある〔七〕。而して是等の諸説にくらべると、荻生徂徠が、
神主といふは、昔はその神の子孫を神主としたるなり、喪主などの心なり。
と云ったのは〔八〕、兎に角に一見識を有していたものと思わざるを得ぬ。
併しながら、私をして露骨に、且つ放胆に言わせると、是等の先覚の諸説は、悉く字義に拉われて、我が古代の民俗を忘れたものにしか過ぎぬのである。換言すれば、神主なるものが、神祇官流の神道に固定した後の解釈であると同時に、文献の上からばかり立論して、神主の発生と発達の過程を疎却した謬見である。私の考えを極めて率直に言えば、神主は即ち神主(カムザネ)であって、神その者であると信じている。それでなければ、信州の諏訪神が「吾れに神体なし、大祝(オホハウリ)を以て神体となす」と託宣したことや〔九〕、併せて此大祝が現神(アキツカミ)として民衆に臨んだ理由が判然せぬ。更に出雲国造が、同じく現神として多年の間を通じて、深き崇拝を民衆から受けていたことや〔一〇〕、更に伊予三島社の大祝が、半神半人として大なる信仰を維(ツナ)いでいたことが、解釈されぬのである〔一一〕。而して此の神その者であった神主が、時勢の推移によって、信仰に動揺を来たし、神の内容にも変化を生じた結果は、遂に祭られる神と仕える人との隔離となり、後には祭神と神主とが全く別物のように理解され、認識されるようになったのである。併し神主が神その者であるという原始的の信仰は、神道の固定するまでは、永く民心を支配していて、これを証明すべき民俗学的の事実は相当に多く存在しているのである。殊に御子神(ミコガミ)の発生は、此の信仰と民俗とに負うところが深甚であるが、これに就いては、後段に述べる機会があると信ずるので、茲には注意までに言うとして、姑らく預るとする。私は此の立場から、皇后が親ら神主となられたと云う意味は、古くは神その者となったと伝えていたのが、日本書紀が文字に記される時分には、夙くも此の信仰が薄らいでいたのと、神主といえば神社に仕える者という合理的の解釈が行われていたので、かかる記事となって残されたものと考えるのである。
第三の神を祭る折に琴を弾くことであるが、此の事は関係するところが頗る広く、且つ巫女の降神術にも交渉を有しているので、精しく述べて見たいと思う。元来、我が古代人は、琴の音と、鈴の響きとは、神の声を象徴(シンボライズ)したものだと固く信じていたのである〔一二〕。現今でも神社へ参詣した者が、社殿に架けてある鈴を鳴らすのは、神の声を聴こうとした虔(つつ)ましき態度の名残りである。神に仕える者のうちで、殊に神に寵せられた巫女が、鈴を手にしたのも、これが為めである。それを斉藤彦麿翁が「神拝の時に鈴を振るは故実なるか」と設問して「古へはさる事なし」云々と、事もなげに答えているのは〔一三〕、本居翁の学風を承けた、私の所謂文献神道の欠陥を暴露したものである。更に平田篤胤翁が古神道の面影を忠実に伝えている巫覡を目して、猖んに「鈴振り神道」と罵倒しているのは、これも私の所謂ブルジョア神道の管見であって、採るに足らぬ。是等に比較すると荻生徂徠が「神道といふは、巫覡が神につかふる道なり」と喝破したのは〔一四〕、学問的には傾聴すべきものがある。琴と鈴とは原始神道においては神の声として尊ばれていたのであって、大己貴命が素尊の許から須勢理比売命と携えて奔る折に、生弓矢生太刀と共に、天詔琴を忘れなかったのは〔一五〕、此の信仰の古くから在ったことを証するものである。更に歴聖が即位の大礼として大嘗祭を行わせられ、天皇が親しく新穀を天神に供える折に、御鈴の神事があるのは、蓋し此の意味に外ならぬと拝察するのである。
原始神道における神々と、琴及び鈴(その他の笛、鼓などの楽器)との関係を説くのは、余りに埒外に出るので省略するが、かく初めは神の声として信じられていた琴や鈴は、後には使用の目的が変って来て、琴は神を招(ヲ)ぎ降(ヲロ)す折の楽器として、鈴は神を愉悦させる楽器として用いられるようになった。併しながら、二つとも神聖なるものとして、神を降すに琴、神を慰めるに鈴を、欠くことの出来ぬものとした点は、古今ともに渝ることがなかった。前にも引用した延暦の「皇大神宮儀式帳」九月神嘗祭条に、
以十五日(中略)。以同日夜亥刻時、御巫内人乎、第二御門爾令侍弖、御琴給弖、請天照座大神乃神教弖、即所教雑罪事乎、候禰宜舘始、内人物忌四人、館別解除清畢云々。
とあるのは、その徴証である。それから、「万葉集」巻九に「神南備の神依板(カミヨリイタ)にする杉の、思ひも過ぎず恋の繁きに」とある神依板は、即ち琴の意であって、出雲大社でも、此の種の神依板を近年まで用いていたということである〔一六〕。更に、神功皇后が神を祭る際に、武内宿禰に琴を弾かせたのも、又、神依板としての呪具と考えられるのである。そして「武烈紀」に「琴頭(コトガミ)に来居る影媛珠ならば、吾が欲る珠の鰒白珠」とあるように、神は琴の音に引かれて天降られるものと信じていたのである。
然るに、後世の巫女(私の所謂口寄系の市子)が降神の際に、大弓小弓をたたき、此の弓の起原は、古代天鈿女命が琴の代りに六張の弓を並べて弦を叩きしに由るなどと言うているのは、これは何事にも無理勿体をつけたがる陋劣なる心理から出たもので、我が古代の正しい記録には、かかる事は全く見えず、且つ神を降すに弓を用いることは、我が固有の呪術では無いと考えているので、此の事は巫女の徒が弓を用い始めた支那の呪術の輸入された習合時代に詳述することとする。
更に神降(カミオロ)しする琴の頭尾に、千(ハタ)高(ハタ)を置いたと云う事に就いては、古くから学者の間に異説があって、今に定説を聞かぬのであるが、私の専攻している民俗神道学の方面から見ると、盾ヘ即ち旛の意であって、細長い小旛を幾本か立てたのを、かく千渚盾ニ形容したものと考えている。而して此の小旛を立てる目的は、琴の音につれて降りし神が歩んで来る道しるべに外ならぬものであって、賀茂の御阿礼(ミアレ)の神事の折に、阿礼木に附ける阿礼旛(アレハタ)と同じものであると信じている。更に民俗学的に言えば、蒙古のハタツクと称する、一本の箭の頭の所へ一面の鏡と、長さ二三尺ほどの色の布とを結びつけた〔一八〕その布と、同じ活(はた)らきを持つものと考えている。更に一段と手近の例を示せば、三河国北設楽郡の山村に残っている花祭の踊りの庭に、ボテ(梵天の意か)から湯蓋(湯立釜を覆えるもの)まで、中空に曳き架ける縄と同じく〔一九〕、神の来る道のしるべと見るのが穏当であろうと考えるのである。
第四は、烏賊津使主(中山曰。「新撰姓氏録」には雷大臣に作る。宗源神事の中臣系の人で卜部である)を審神(サニワ)となされたことであるが、此の審神とは「政事要略」第二十八賀茂臨時祭の条に、神后紀を引き、その分注に「審神者、言審察神明託宣之語也」云々とあり〔二〇〕、更に「釈日本紀」巻十一述義の条に「兼方案之、審神者也、分明請知所案之神之人也」とある〔二一〕。此の両説で、審神の解釈は、要を尽しているのであるが、猶これを平易に言えば、審神とは神の憑り代となれる者に問いかけ、答えを得て、その託宣の精細と諒解とを図るものである。後世の修験道の間に行われた憑(ヨ)り祈祷の場合には、神の憑り代となる者を中座(又は御幣持ち、ヨリキとも云う)と称し、審神の役に当る者を問口(トイクチ)と称したものである。口寄の市子にも又た此の種の役割があって、信濃巫女では荷持と称する者が是れに当った。詳細は後章に記すので、茲では概要を述べるにとどめる。
第五の、七日七夜に逮(およ)んで皇后が神を降すことに努めたとあるが、此の日時の間において、如何なる作法が行われたかは、記録が無いので、何事も言うことが出来ぬ。勿論、神を降す太祝詞もあったろうし、これに伴う神秘的の祭儀も伴うていたことと想うが、茲にはそれ以上に言うべき何等の手掛りさえ有していぬのである。ただ是れに就いて想い起こされるのは、古く我国で神を招ぎ降す場合に、如何なる呪文(Spell)と云おうか、祷文(Charm)と云おうか、兎に角にこれに類した祝詞のようなものが有ったか、無かったかと云う一事である。元より後世の記録ではあるが、「皇大神宮建久年中行事」に載せた左の記事は、少しでも此の事を考えさせる資料になると信ずるので、茲に要点だけを抄録する。
六月十五日御占神事(中略)。御巫内人{衣/冠}自外幣段鵄尾(トヒノヲノ)御琴請(中略)。次以笏御琴掻三度、度毎有警蹕、次奉下神、其御歌。
阿波利矢(アハリヤ)。遊波須度万宇佐奴(アソビハストマウサヌ)。阿佐久良爾(アサクラニ)。天津神国津神(アマツカミクニツカミ)。於利万志万世(オリマシマセ)。
阿波利也(アハリヤ)。遊波須度万宇佐奴(アソビハストマウサヌ)。阿佐久良仁(アサクラニ)。奈留伊賀津千毛(ナルイカツチモ)。於利万志万世(オリマシマセ)。
阿波利也(アハリヤ)。遊波須度万宇佐奴(アソビハストマウサヌ)。阿佐久良仁上津大江(アサクラニウハツオホエ)。下津大江毛(シタツオホエモ)。摩伊利太万江(マヰリタマエ)。
于時大物忌父、正権神主、不浄不信疑以人別姓名、為某神主若有不浄事申(中略)。御琴掻内嘯、件嘯音鳴以清知、以不鳴不浄知也(中略)。其後又御巫内人三度御琴掻、警蹕之後奉上神、御歌如本、但所奉下神御名申、今度帰御申云々。(続群書類従本。但し御歌の訓み方は伴信友翁に従った)。
更に伴信友翁の「正卜考」の附記によると、次の如くである。
この事を、内宮の神官に尋問たるに、この御占神事、今も御占神態(ミウラカワザ)とて、わづかにかたばかり行うに、琴板とて、凡長二尺五寸ばかり、幅一尺余、厚一寸余なる桧板を用う、其を笏にて敲く態を為と云えり、そは後に琴を板に代え、笏もて敲くこととせるなるべし云々。
私は茲に是等の御歌の内容を一々精査することは避けるが、その措辞の古雅なる点から推し、更に儀式の簡素なる点から見て、此の御歌の決して中古の作でないことだけは信じている。それかと言って、勿論、此の御歌を神后期まで引き上げようとする者ではないが、兎に角に斯うした神降しの御歌なり祷文なりが、神后の場合にも存したことと想ったので、その参考として長々と書きつけた次第である。猶お附記して置くが、我国における神降しの呪文とも見るべきもので、私の寡見に入ったものでは、是れが最初のものである。その点から言うも、此の御歌の学問的価値は、かなり高いものと云わざるを得ぬのである。
第六の託宣が韻文的の律語——即ち古き歌謡体を以てなされていることであるが、これも我国の文学の発生を知る上に注意すべき重点である。託宣と文学の交渉に就いては、別に詳記したいと考えているので、茲には後文と衝突するのを恐れて略述するが、始め神功皇后が審神の問いまえらせしに対して、
神風(カミカゼ)の伊勢(イセ)の国、百伝(モモツト)ふ度逢県(ワタラヒカタ)の、折鈴(サククシロ)の五十鈴(イスズ)の宮に居る神、名は撞賢木(ツキサカキ)厳(イツ)の御魂(ミタマ)天疎(アマサカ)る向津姫命(ムカツヒメノミコト)
と答えられ、再び問われて、
幡荻穂(ハタススキホ)に出し吾(アレ)や、尾田(ヲダ)の吾田節(アダフシ)の淡郡(アハノコボリ)に居る神
と答え、三度問われて、
天(アメ)に事代(コトシロ)、虚(ソラ)に事代、玉籤(タマクシ)の入彦(イリヒコ)、厳(イツ)の事代主の神
と答え、四度問われて、
日向の国の橘の小門の水底(ミナソコ)にいて、水葉の稚(ワカヤカ)に出て居る神
云々と答えられているが、かく一句を発する毎に冠辞(まくらことば)を用い、更に語意を強め、用語を荘重にするために折句(おりく)を用いているところは、立派な叙事詩として見るべきものがある。我国の詩は叙事詩に始まり、然もその叙事詩は必ず一人称を以て叙べられている。これは神の託宣に胚胎し、併せて神語(カミゴト)に発生した為めである。而して此の事は、アイヌの叙事詩(ユカラ)に徴するも、琉球の託宣(ミセセル)に見るも、決して衍らぬことを証明しているのである。
私は本節を終るに際し、特に言明して置かねばならぬ事がある。それは外でもなく、私は決して神功皇后を以て、巫女なり霊媒者なりと申すものでは無く、ただ皇后が親ら行わせられた神事の形式、内容、及び結果が、偶々後世の巫女及び霊媒者の行うところと似通っていたに過ぎぬと云うことである。私の不文のため、意余って筆足らず、或は皇后を以て巫女または霊媒者と誤解させる点がありはせぬかと思うと畏きに堪えず、ここに此の事を附記して不文の罪を謝する次第である。
〔注一〕御柱を匝ることが、古代の降神法であったと云う考察に就いては、拙著「土俗私考」に収めた「物の周りを匝る土俗」のうちに述べて置いた。参照を願えると幸甚である。
〔注二〕古事記伝(本居宣長全集本)巻三十。
〔注三〕日奉部及び日置部に就いては、民族(第二巻第五号)所載の柳田国男先生の「日置部考」及び中央史壇(第一三巻第一〇号)掲載の拙稿「日置部異考」を参照せられたい。
〔注四〕飯田武郷翁の「日本書紀通釈」第三十四に引用した、岡吉胤著の「斎宮考」に拠る。
〔注五〕古事記伝巻二十三、同書巻三十に見えている。猶お詳細は原本に就いて知られたい。
〔注六〕前掲の「日本書紀通釈」巻三十四。
〔注七〕「延喜式祝詞講義」巻一、新年祭の条に拠った。
〔注八〕奈留別志(日本随筆大成本)。
〔注九〕「諏訪大明神絵詞」巻上(信濃史料叢書本)
〔注一〇〕「出雲懐橘談」の杵築の条(続々群書類従本の地理部所収)
〔注一一〕「三嶋大祝家譜資料」及び同書に引用せる「三嶋大祝記録」並びに「予樟記」等に載せてある。
〔注一二〕我国の神々と音楽との関係は、原始神道史における重要なる問題で、ここには略述する事さえ困難であるが、私見を摘要すれば、我国の神々は、その神々の系統に属する音楽を有していたようである。例えば、出雲系の神は琴鈴を、高天原系の神も琴鈴を、南方系の神は臼太鼓と称する臼を楽器としたのを、更に笛を鼓をと云ったように特殊のものが在った。「政事要略」第二十八賀茂臨時祭の条に「古老云、昔臨箕攪其背遊」とあるのは、賀茂社に限られた音楽であり、「郷土研究」一ノ四に載せた、磐城国石城郡草野村大字北神谷の白山神社の祭に、氏子の壮者が鍬と鋤とをたたいて踊るのも、此の社に限られた音楽である。而して是等の音楽は、その始めにあっては、神の声であった。それが追々と神が整理され、音楽が統一されるようになって、琴、鈴、鼓、笛が、神の声を代表するようになり、更にそれが変化して、是等の音楽を奏することは、神が出現するときの合図と云うように解釈されて来たのである。巫女が弓弦をたたき、又は鼓を打てば、神を呼び出し得るものと考えたのは、此の信仰に由来しているのである。猶お、巫女と、音楽や、楽器の関係に就いては、本文の後章に記すゆえ、参照せられたい。
〔注一三〕「神道問答」巻下(大日本風教叢書本第八輯)
〔注一四〕前掲の「奈留別志」。
〔注一五〕「古事記」神代巻。
〔注一六〕「東京人類学雑誌」柴田常恵氏の「山陰紀行」の記事中に、出雲大社の神依板のことが、挿図まで加えて詳記してある。
〔注一七〕鳥居龍蔵氏が、先年蒙古の将来品を以て白木呉服店で展覧会を開かれたときに、ハタツクなるものを目撃した。後に同氏著の「人類学上より見たる我が上代の文化」の口絵にこれが原色版となって載せてあるのを見た。
〔注一八〕国学院大学教授折口信夫氏の厚意で、此の花祭を同大学で催された際に親しく見聞し、併せて同氏からその説明も承った。
〔注一九〕「史籍集覧」本。
〔注二〇〕「国史大系」本。 
第四節 予言者としての巫女

 

巫女の最も重大なる職務は、予言者としてである。若し巫女の職務のうちから、此の部分を除き去るとすれば、その大半まで失われてしまうことになるのである。天候に、戦争に、狩猟に、更に疾病に、航海に、巫女の活動し、且つ神聖なるものとして崇拝された所以は、此の予言をする一事に係っていたものであって、これを完全に遂行するために、呪文を唱えたり、神憑りの状態に入ったりするのであった。太卜といい、託宣というも、所詮は此の予言の方法にしか過ぎぬのである。而して、巫女の予言には、狭広両義の双面を有していたと考えられる。即ち狭義としては、巫女自身に神が憑って予言する場合で、広義としては、他人の歌謡なり、行動なりを聴き知って、これを適当に判断することである。而して前者に関しては、既述した神功皇后の執り行われたことが、概略を尽していると信ずるので今は略し、茲には専ら後者に就いて記述したいと思う。
前にも引用したが「崇神紀」十年秋九月の条に、大彦命が四道将軍の一員として出発の途上、少女の歌を聴きてこれを異(あやし)み、天皇に奏せしに、
於是天皇姑、倭迹々日百襲姫命、聡明叡智、能識未然、乃知其歌恠、言于天皇、是武埴安彦将謀反之表者也。
とあるが、この未然を知るとは、即ち歌を判じて予言をしたのであって、此の場合における百襲姫の所業は、巫女そのままであったのである〔一〕。
更に同「崇神紀」六十年秋七月の条に、出雲大社の神宝に関して、出雲振根が誅されて、
故出雲臣等畏是事、不祭大神、而有間、時丹波氷上人、名氷香戸辺、啓于皇太子活目尊曰、己子有小児、而自然言之(中略)。是非似小児之言、若有託言乎、於是皇太子奏于天皇、則勅之使祭云々。
とあるのも、その母親である氷香戸辺が〔二〕、巫女としての素養——当代の女性は、殆んど悉く巫女的の生活を送っていたので、夙くも此の童謡を神託と判ずるだけの知識を有していたのであろう。斯う考えて来ると、例の速断から、古代の託言を意味した童謡(これ以外にも皇極紀や斎明紀にも見えている)の作者は、或は是等の巫女が予言者としての所為ではなかったかとも想像せられるのである。例えば「皇極紀」三年夏六月の条に、
是月、国内巫覡等、折取枝葉、懸掛木綿、伺大臣度橋之時、争陳神語入微之説、其巫甚多、不可具聴(中略)于時有謡歌三首云々。
と載せたのは、その徴証とも見ることが出来るようである。
猶お此の機会に記したいと思うことは、歌占に関してである。後世になると、歌占は白木の弓端(ユハヅ)に和歌を書いた幾枚かの短冊を附け、それを以て占うようになってしまったが(此の詳細は後章に述べる)、その始めは、託宣なり、予言なりを、歌謡体の文辞を用いたにあることは言うまでもない。そして此の歌謡体の文辞を綴ることが、巫女の修養の一つであったことは、恰も後世の巫女が神降ろしの文句や、口寄せの文句を暗記する修業と、全く同じものであったと想われる。且つ古代の巫女にあっては、ただに文辞を綴るばかりでなく、更に他の者に突如として神が憑り、その当時においては既に死語となっているほどの古語を以て託宣した場合には、それを解釈し判断することも、又た一つの仕事であったに相違ない。我国に古く夢占や、葦占や、石占の職掌の者が在ったのも〔三〕、此の理由で説明の出来ることと考える。「万葉集」巻三の持統天皇の御歌なる「否といへど強ふる志斐のが強ひ語り、此の頃聞かずて朕(アレ)恋ひにけり」とある志斐嫗は、「新選姓氏録」左京神別の巻上に「中臣志斐連、天児屋命十一世孫雷大臣命(中山曰。神功紀に審神(サニハ)となりし者)男、弟子後六世孫」云々と記せるより推すと、此の志斐嫗は卜部氏の出であって、宮中に仕えた御巫のようにも想われ、従って彼女が、至尊の側近に仕えて強い語りしたことの内容が、神事に関するものであったと信じられるのである。
〔註一〕「崇神紀」に拠れば、百襲姫は大物主神の妻となられ、大和に箸墓の故事を残された有名なお方だけあって、その平生の生活も、全く高級の巫女として考うべき点が、多く存しているようである。従って、未然を察し、予言をなすことも、当然の所業であると拝察されるのである。
〔註二〕戸辺の用例は、古代には数々見えているが、それは概して女性を意味しているもので、私は我が古代の母権制度の面影を伝えたものだと信じている。而して飯田武郷翁の「日本書紀通釈」には、此の氷香戸辺は男性だと論じているが、私には首肯されぬことである。
〔註三〕葦占連は既記したので略すが、石占連のこと「新撰姓氏録」に見ゆるより推して、古くはこれを職掌とした者があったと考えられる。夢占に就いては、後章に言う機会もあろうが、平安朝には此の職掌の者が置かれてあった。 
第五節 文学の母胎としての巫女

 

紀貫之は「古今和歌集」の序において、我国の文学の発生を説いて「やまと歌は人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける(中略)。この歌天地の開けはじまりける時より出来にけり。しかはあれども世に伝はる事は、久方の天にしては下照姫にはじまり、荒金の地にしては素戔嗚尊よりぞ起りける」と述べている。而して貫之が、更に一歩をすすめて、此の下照姫が巫女であって、我国の文学は巫女を母胎として発生したものであると論じてくれたならば、私は茲に此の題目に就いて何事も言わずに済んだのであるが、千年前の延喜に貫之が此の事に関心せずして、千年後の昭和に私が此の事を記述するのは、貫之と私との学問の相違ではなくして、全く時代の相違と言うべきである。
巫女が神託を宣べるに際し、これを歌謡体の律語を以てしたことは屡記した如くである。更に復言すれば、神を身に憑けるために、巫女が神招(カミオ)ぎの歌を謡い、音楽を奏し、或は起って舞いなどして、愈々神がかりの状態に入って託宣するとすれば、その発するものは神語(カミゴト)であり、祝詞(ノリト)であるから、平談俗語を以てせずして、律語雅言であるべきことは、当然である。而して茲に、古代における託宣の詞そのままの形に近いものを伝えたと信ずべき二三の例証を挙げ、然る後に多少の管見を加えるとする。「出雲国風土記」意宇郡の条に、
国引ませる八束水臣津野命詔たまはく、八雲たつ出雲の国は、狭布の雅国なるかも、初国小さく作らせり。かれ作り縫はんと詔たまひて、栲衾新羅の三崎を、国の余りありやと見れば、国の余りと詔たまひて「童女(オトメ)の胸鉏(ムネスキ)とらして、大魚(オフヲ)の支太つきわけて、幡すすき穂ふりわけて、三つよりの綱うちかけて、霜つづらくるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来(クニコ)、国来」と引き来縫へる国は去豆(コヅ)の打絶よりして、八穂米杵築の御崎なり云々(中山曰。読み易きよう仮名交りに書き改めた)。
これは有名なる国引きの一節であって、従来の研究によれば、此の国引きをした八束水臣命は、素尊の別名であると伝えられているのであるが、私には信じられぬし〔一〕、よし素尊であったとしても、童女の胸鉏とらして以下の文句は、どうも巫女が何かの場合に歌謡体で託宣した事のあるものを茲に転用したものと想われる節があるので、姑らくその一例として挙げるとした。次は一度前に梗概だけは引用したことがあるが「播磨国風土記」逸文に、
息長帯日女命{神功/皇后}新羅の国を平らげむと欲して下り坐す時に、衆神に祷りき。その時、国堅大神の子、爾保都比売命、国造石坂比売命に着(カ)かりて教(サト)しけらく、「好く我が前を治め奉(マツ)らば、我に善き験を出し、比々良木(ヒヒラギ)ノ八尋桙底不附国(ヤヒロホコソコツカヌクニ)、越売眉引国(ヲトメノマユヒキクニ)、玉匣賀々益国(タマクシゲカガヤククニ)、苦尻有宝白衾新羅(コモマクラタカラアルタクフスマシラキ)ノ国(クニ)を、丹浪(ユナミ)もて、ことむけ賜はむ」と教え賜ひき云々(大岡山書店本の「古風土記逸文」に拠る)。
これは言うまでもなく、国誉めの詞の類いであって、我が古代の文献には、相当多く散見するところである。而して長句と短句とを巧みに交えて措辞を修めたところは、一種の歌謡としても立派なものと信ずるのである。更に第三例としては、「皇大神宮儀式帳」に、
そのかみ、宇治の大内人仕へ奉る宇治の土公等が遠つ祖大田の命を、いましが国の名は何ぞと問はし給ひき。これの川の名は、さこくしる伊須々の川と申す。これの川上に好き大宮処ありと申す。すなはち見そなはして好き大宮処定め給ひき。「朝日の来向ふ国、夕日の来向ふ国、浪の音の聞えぬ国、風の音の聞えぬ国、弓矢鞆の音の聞えぬ国と大御心鎮り坐す国」と、悦び給ひて大宮定め奉りき(中山曰。武田祐吉氏著の「神と神を祭る者との文学」所載の訳文に拠る)。
これも又、国誉めの詞であって、その典拠とも見るべきものは、「古事記」天孫降臨の条に、
此地は朝日の直刺国(タダサスクニ)、夕日の日照国(ヒデルクニ)なり、かれ、此地ぞ、いと吉き地、と詔り給ひて、底津石根に宮柱太しり、高天原に氷椽(ヒギ)高して坐しましき。
とあるのが、それである。而して此の外に、前に引用した「仲哀紀」と「神功紀」に載せた託宣の詞は、二つとも此の場合の徴証として数えることが出来るのである。
我国の文学は是等の類例が示しているように、先ず叙事詩によって始められていて、然もそれは言い合わしたように、悉く第一人称となっている。而して、此の事は、独り我が内地ばかりでなく、アイヌにおいても、琉球においても、又た同じ経路を歩んできたものである。アイヌに就いては、金田一京助氏はその著「アイヌの研究」詩歌の条において、概略左の如く論じている。
総じてアイヌは歌を嗜む民族である(中略)。裁判のことばが全部歌でのべられる。大酋長の会見も歌で辞令を交換する。神への祈祷にも、凶変の際の儀式にも、喜びの際の挨拶にも、皆曲調をもつことばづかいをする(中略)。さて最後に、アイヌ文学の特徴である此の第一人称説述の形式は、何を意味するもので、如何にして出来たと解釈すべきものであろうか(中略)。アイヌはユカラは寧ろ男子のもので、オイナは寧ろ女子のものである。そしてアイヌでは婦女子は神へ祈祷することは禁忌であるが、その代り神のよりましとなって其託宣をのべる役をもつのである(即ち巫は女子の専務)。アイヌのオイナが女子に依って伝えられ、そこでそれが第一人称の叙述に成っているということは、即ち神自ら女子に憑って述べた(巫は歌でのべる)ものを伝え伝えた形になっているものに相違ないのである云々〔二〕。
琉球のそれに就いては、伊波普猷氏は、その著「おもろさうし選釈」の前文において、大略左の如く論じ、歌謡の巫女によって発生したことを言外に寓されている。
おもろさうしは(中略)、琉球の万葉集ともいうべきものである。けれどもこれは、形式の方面から見ていったもので、その内容の方面からいうと、オモロはむしろ、万葉・祝詞・古事記の三つに該当するもので、琉球の聖典ともいう可きものである。オモロは普通神歌と記し、又神唄とも書く(中略)。兎に角、祭政一致時代の産物であって、その大部分が神事に関するものであることや、島津氏の琉球入後オモロが頓に衰えて、神事若しくは神と称せられた彼等巫女、その他の神職の間にのみ用いられることからいうと、語原はともあれ、今は神歌と称えても差支ないのである。この神事に関するオモロを能く吟味して見ると、近代の祭司詩人(オモロトノバラ)は、今の神主が祝詞(ノリト)を綴るように、古い鎔(いがた)にはめて之を作ったことがわかる(中略)。世にオモロを措いて、琉球固有の思想と、その言語とを、研究すべき資料はない云々〔三〕。
斯うして巫女の口から発せられた託宣が、歌謡の一源泉となり、時勢の変化と信仰の漸退とは、その末流を職業的詩人の手に移し、茲に文学として発達を遂げるに至ったのである。後世の巫女ではあるが、奥川のイタコが唱える神遊びの詞章や、壱岐のイチジョウが謡う百合若説教の文句などは、その過程を如実に示しているものである。猶お是等の巫女が、文学的歌謡の保存者であって、併せて民間伝承の運搬者であったことに就いては、第三篇以下の各章においても記述する考えである〔四〕。而してそれと是れとを参照するとき、我国の文学が巫女を母胎として発生したことの事実が、充分に会得されるのである。
〔註一〕八束水臣津野命の名は、私の不詮索のためか、古事記・日本書紀には載せてないようであるが、此の神を素尊の別名というのは、典拠のない想像としか考えられない。既に水臣とある以上は臣僚であるから、これを素尊と見ることは不自然である。
〔註二〕金田一京介氏の記述は長いもので、然も詳細に渉り卓見に富んだものであるのを、余りに要点のみ摘録したことは誠に相済ぬことと、お詫びを申上げる次第である。篤学の士は、特に原本に就いて、御覧くださるようお奨めする。
〔註三〕伊波普猷氏の高見は、もっと適切に、巫女と歌謡との交渉を説いた記述が、その著述のうちにあることと信じているが、それが見当らなかったので、姑らくこれを摘記するとした。これも私の懶怠をお詫びしなければならぬのである。
〔註四〕此の機会に、後世の巫女の唱える詞を載せて説明すると、私の記述がもっと明瞭になるのであるが、それは後章と重複することとなるので割愛したのである。 

第六節 民俗芸術者としての巫女

 

茲に民俗芸術とは、第一に舞踊、第二に木偶遣い、第三に文身の、三つを意味しているものと承知せられたい。私は此の三つと巫女との関係に就いて記述する。
一、舞踊者としての巫女
天鈿女命が、磐戸の斎庭において俳優(ワザオギ)したことが、我国における舞踊の所見であるが、此の一事は少くとも三つの大きな暗示を投じているのである。
その一。俳優とは、言うまでもなく、支那の熟語をそのまま用いたものであるが、此の内容は如何なるものであったかという点である。「釈日本紀」巻七に「俳優万態不可殫記」と載せているが、これも大体を形容したまでで俳優の本質に触れたものではない。而して私見を簡単に言えば、ワザオギは態(ワザ)を以て招(オ)ぎまつるの意で、「日本書紀」の一書に、思兼命は日ノ象——即ち鏡を作らせて招(オ)ぎまつり、天児屋命は神祝(カムホ)きに祝きて、招(オ)ぎまつらんとしたのに対するものと見るべきである。換言すれば、磐戸に隠れた天照神を招ぎ(茲には復活の意味が多分に活いている)まつる為に、天児屋命は呪文を以てし、思兼命は鏡を以てしたのに対して、鈿女命は態招(ワザオ)ぎしたのである。而して此の態招ぎたる、必ずやシャーマンが行う様に猛烈なる跳躍を試みたのではないかと想われる点もある。「古語拾遺」の鈿女の名を解して「其神強悍猛固故以為名」とあるのは、蓋しその動作に由来するものと見るべきである。
その二。我国の舞踊は、性行為の誇張的模倣に、出発しているのではないかと云う点である。鈿女命が胸乳を掻出し、裳緒を番登に押垂れたとあるのは、その事の実際を考えさせるものがあると同時に、更に想像を逞うすれば、かかる所作が我が古代舞踊の条件ではなかったかとも思われるのである。我国の舞踊の目的は、男子の腕力に対する女子の嬌態であって〔一〕、古く踊手は女子に限られていて、男子はこれに与らなかったのである。我国の祭式舞踊のうちに、女子が秘処を露わす動作の多い事は、私が改めて言うまでもなく、現時においてすら耳にする所である〔二〕。殊に巫女は、性器を利用して呪術を行うことを敢てする勇者である。鈿女命の此の所業は、性器の呪力によって、葬宴の際に襲い来る精霊の退散に備えたことも知らなければならぬが、これと併せて我国の舞踊が、性行為の模倣に起原を有していることも考えねばならぬのである。
その三。神事に交渉の深い祭式舞踊の発明者である巫女は、更に狩猟に関係して、動物の所作を学んで、鹿舞(シシマイ)、鷺舞等を発明し、又は農業に関係して、旱天には雩踊を、秋収には豊作踊を発明し、或は戦争に従うて士気を鼓舞すべき剣ノ舞を発明するなど、その結果は、祭式舞踊を人間の上に引き下げて、享楽舞踊とまで進化させたのである。
「梁塵秘抄」の四句神歌の一節に「神もあはれと思しめせ、神も昔は人ぞかし」と云うのがある。確に我国の神の多くは、其昔は人であった。而して神それ自身であった巫女の位置が一段と低下して、それが生ける神——即ち神とならぬ以前の人に仕えるようになってからの職務は抑々何であったか。それは決して想像に難いものではないのである。信仰の対象として、霊界に在るべき筈の神々が、盛んに若宮を儲けられたという事象は、果して何事を意味しているのか。然もその答案は極めて簡単である。神となるべき人——即ち神主と巫女との間に挙げられた神子(ミコ)が若宮なのである。神道が固定して、神と人との距離が遠くなったために、若宮の解釈は、弥が上にも合理的になり、八幡宮の若宮といえば、菟道稚郎子と限られるようになってしまったが、それでは春日社の若宮の由来や、「延喜式」神名帳に載せてある多くの若神子(ワカミコ)の由来は、説明されぬのである。
巫女は人間を夫とせずして、神と結婚するという思想は、現代にも存しているが、その源流に溯れば、神とは即ち人であった。ただ神であった人と云う意に外ならぬのである。又しても同じことを繰り返すようではあるが、神に対する観念が固定してから、神主とは、神と人との間に介在する仲言者(ナカコトシャ)のようにのみ合点されているが、神主(カムヌシ)とは神主(カムザネ)であって、神その者であったのである。これと結婚することを余儀なくされていた巫女の職務の第一義は、敢て記述するまでもなく、明白である。而して此の職務のうちに、神を和(なご)め遊ばせる必要から、巫女は歌謡者であらねばならぬし、又同時に、舞踊者でなければならなかった。巫女が民俗芸術の一角である舞踊を受け持っていたのは、これで釈然する。然も此の遺風は、巫女が憑き神を象徴した木偶に対してまで遊ばせ舞わせることを忘れなかったのも、又これが為めである。 
二、木偶遣いとしての巫女
現在行われている人形劇なるものは、支那のそれを夥しきまで受け容れているが、我国には古く固有の木偶の遣い方が在った筈である。「肥前国風土記」基肄郡姫社郷の条に、
珂是古知神之在家、其夜夢見臥機{謂久都/毗枳}絡垜{謂多/多利}儛遊出来、壓驚珂是古、於是亦織女神即立社祭之云々。
とあるのは、久都毗枳という名が、後世の久具都(傀儡)と無関係にもせよ、当時、神が木偶の如く儛い遊ぶという思想のあったことを、考えさせる手掛りだけにはなるのである。私は最近に「巫女の持てる人形」と題して、大略左の如き管見を発表した。元より粗笨なものではあるが、此の問題に触れるところがあるので摘記し、併せてその後に考え得たことを増補するとする。
人間が神を発見したとき、その神の姿を自分達に似せて作ったのが人形(木偶の意、以下同じ)の始めである。祓柱というてもそれが生きた人間であり、蒭霊と言うても、同じくそれが人形(ヒトガタ)であるのも、此の理由から出発しているのである。
関八州を中心として、更にこれに隣接せる国々、及び遠く近畿地方まで活躍した巫女は、信濃国小県郡禰津村大字禰津東町を根拠とした所謂「信濃巫女(シナノミコ)」なるものであった。同村には明治維新頃までは、四十八軒の巫女の親方宿があり、一軒で少きも三四人、多きは三十人も巫女を養成して置いて、年々諸方へ旅稼(たびかせ)ぎに出したものである。(猶これが詳細は第三篇に記述する)。而して此の信濃巫女は、「外法箱(ゲホウバコ)」と称する高さ一尺ほど、長さ八寸ほど、巾五寸ほどの小箱を、紺染めの風呂敷を船形に縫い合せたものの中に入れて、背負うているのを常とし、呪術を行う際には、片手または両手を箱へ載せ、頬杖ついて行うのが習いであった。そして此の箱の中には、一個(又は二個)の人形を入れて置くのが普通で、然も此の人形が呪力の源泉とせられていたのである。
然るに此の人形がどんなものであったかに就いては、報告が区々であって判然しないが、(一)は普通の雛だというし、(二)は藁人形だというし、(三)は久延毘古神を形代とした案山子のようだというし、(四)は歓喜天に似た男女の和合神だというし、(五)は犬または猫の頭蓋骨だというし、(六)更に奇抜なのになると、外法頭と称する天窓の所有者であった人間の髑髏というのもある。
而して、こうした臆説は、巫女が外法箱の中の物を秘し隠しに隠した為めに生じたもので、私が郷里にいたころ目撃したものは、第三の案山子ようの人形であった。併しこれは、その一例だけであって、これを以て他の総てがそうであるとは決して言われぬのである。何となれば、同じ禰津村の巫女であっても、四十八軒も親方宿がある以上は、それが悉く同じ流義で、同じ師承のものとは考えられぬからである。現に、信州の北部では、巫女をノノーと云っているに反し、南部ではイチイと云っている。然もこのイチイは、武蔵の秩父地方にも行われているのを見ると、信濃巫女の間にも幾つかの異流があったと考うべきである。
巫女の所持する人形が、如何なる手続きで、然も如何なる姿に作られるものであるか、これに就いての古代の見聞は、全く私には無いのであって、僅に極めて近世のものしか——それも漸く二三しか承知していぬのである。併しながら此の二三の例証とても、厳格なる意義から言えば、後世に支那の巫蠱の影響を受けた作法であって、決して我国固有の呪法では無いと考えられるのである。それ故に是等の詳細は、第二篇または第三篇において記述することとし、茲には比較的我国の古俗に近いと信じたものだけを挙げるとした。今は故人となったが、上銘三郎平氏(国学院大学生)が郷里の伝説とて語ったところによると、越中国城端町附近の巫女は、昔は七ヶ所の墓地の土を採り集め、その土を捏ね合せて、丈け三四寸位の人形を拵え、これを千人の人に踏ませると呪力が発生するとて、大概は橋の袂か四つ辻に埋めて置き、千人の足にかかったと思う時分に掘出して箱に収め用いたそうである。そして此の人形を同地方ではヘンナと言っていたが、ヘンナはヒイナ——即ち雛の転訛であるそうだ〔三〕。此の話は、私が前に記述した壱岐国の巫女が、ヤボサと称する墓地にいる祖先の精霊を憑き神とし、併せて呪術の源泉と信じたものと一脈相通ずるものがあるように考えられて、私には特に興味深く感じられた次第なのである。
奥州のイタコが持っているオシラ神も、それが人形であることは疑いないようである。そして私の見たオシラ神は、オヒナ——即ち雛の訛語(東北地方ではヒナをヒラと発音し、オヒラと云うている所がある)であって、古くは同じく他の巫女が持っていた人形と異るものでないと信じている。オシラ神は昔は竹で作られ、今では東方から出た紫の桑の枝で作り、然も桑で拵えるのは、此の木の皮を剝いだ匂いが牝口のそれに似ているからだという伝説もあるが、その理由は何れにせよ、人形であったことだけは否まれぬ。それと同時に、オシラ神は古作ほど、人の顔でなくして馬の首であるから、人形ではあるまいと云う説も私には受け容れられぬ。これは巫女の神であったオシラ神が蚕の神となり、更に蚕が馬と結びつけられたのであることを知れば、馬の首の問題は容易に解決される筈である。
こうして巫女は、生ける神の形代である——否、巫女にとっては生ける神も全く同じと信じていた人形を遊ばせるに、第一に発明したものが呪文から導かれた歌謡であって、第二に工夫したものが人形の舞わし方である。然も此の舞わし方は、曾て巫女が生ける神を遊ばせる折に遣った所作から出ているものであって、我国の舞踊の起原を、性行為の誇張と模倣から見ることの出来る一理由である。かくて神寵が衰えた巫女や、神戒に反いた巫女たちが、巫娼とまで成り下がっても、常に人形を放たず、これが更に傀儡(クグツ)の手に渡り、遂に職業的の人形遣いを出すまでになったのである(以上「民俗芸術」第二巻第四号所載)。
斯うは言うものの、古代の巫女の持っていた人形の姿は、今から確然と知ることは不可能である。考古学者の「土磐」と称するものは、或はこれが原型であるかも知れぬが、判然せぬ。前に引用した「肥前国風土記」の珂是古が夢に見たという久都毗枳なるものも、正体は分明せぬ。宇佐の八幡神社の系統に属する各地の八幡社に古く伝えた「細男(セイノオ)」なるものも、伝説によると、磯良神の故態を学んだものだと云われているけれども〔四〕、併しこれが古代から存したものか否かに就いては、伝説以外に証明すべき手掛りさえ残っていないのである。人形は在ったに相違なく、従って人形の舞わし方も存したに相違ないが、現在の学問では、これ以上に溯ることが出来ぬのである。敢て後考を俟つ次第である。 
三、文身の施術者としての巫女
支那から我国へ呼びかけた異称は合計七つほどあるが、その中に「黥面国」というのがある〔五〕。更に「魏志」の倭人伝によると、「男子無大小、皆黥面文身(中略)。諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差」と詳しく記してある。然るに、かく倭人伝には詳記してあるが、翻って我国の古文献にこれを徴すると、誠に明確を欠いているのである。勿論、「神武紀」にある大久米命の割ける利目(トメ)の故事や、「播磨風土記」の餝磨郡麻跡里(マサキ)の条にある目割(マサキ)の伝説や、更に「履中紀」にある淡路ノ大神が、馬飼の黥面の臭いを厭うた記事など散見しているのであるが、文身の大小左右を以て尊卑の標識としたというが如き記録は曾て存在していぬのである。ただ記録に見えぬばかりでなく、人類学的にも、考古学的にも、これを説明すべき出土品すらも、今に発見されぬ有様なのである。茲においてか「魏志」の記事は、その筆者の見聞の及んだ一部の国々に行われたものであって、決して全国に行われたものではなく、且つ行われた年代が余りに悠遠であるために、その後において泯びてしまったのであろうと言われている。此の説は誠に徹底せぬ常識論ではあるけれども、現状にあってはこれ以上に説明をすすめることが出来ぬのである。尤も江戸期の中葉以降に猖んに行われた文身は、自から別問題であることは言うまでもない。
然るに、我国の両極端をなしている北方アイヌ族と、南方琉球民族との間には、古くから近くまで黥面文身の民俗が、女性に限ってのみ行われていた。併しながら、アイヌは我が民族とは種族を異にしているし、琉球民族には我が民俗以外の南方系の民俗が豊富に移入されているので、それとこれとを一律の下に説くことは出来ぬけれども、更に想像を押し広げると、アイヌや琉球の黥面文身の習慣は、古く我が内地の民俗を学んだものが、後には女子の装身法(又は成女の標識)として残ったものではないかと思われぬでもない。併し私は茲に文身の研究をするのが目的でないから大概にして措くが、兎に角に我国にも古くから黥面(文身の記録は見当らぬが、伝説には種々なるものがある)の行われていたことは事実であるが、此の施術者は巫女が職務として行ったのではないかと考えるのである。アイヌでも、琉球でも、女子は通経を境として、前者は口辺に、後者は手甲に入墨をするのであったが、その施術者は共に母親であったと云われている。私は内地にも、此の種の民俗が曾て存在したことを信じている者であるが(併しそれを言うと余りに長くなるので省略する)、此の母親が行うようになったのは、黥面文身のことが、世間から軽視されるようになってからのことで、その以前においては、巫女が神の名によって施術したものと信じたい。それは恰も男子の割礼、又は少女の処女膜を破る民俗が〔七〕、神の名によって、行われたのと同じようであったに相違ないと思うのである。 
〔註一〕学友ニコライ・ネフスキー氏の談に、日本のオドリの語原は、男子が腕力を以て女子を掠奪したことをメトル(娶る)というたに対して、女子が舞踊を以て男子の注意を惹いたオトリ(男取り)の意であると言われたのは卓見だと思う。躍(オトリ)と男取り(ヲトリ)とは、仮名遣いが違うと云うかも知れぬが、囮がオトリであるのを知れば、これは問題にならぬと思う。
〔註二〕我国における女性の祭式裸体踊は、明治初年頃まで、各地に行われていた。それを一々挙げることは省略するが、琉球の各嶋々には、現にその風習を偲ぶべき舞踊が残っていて、伊波普猷氏は曾てこれを論じ、その著「琉球古今記」に収めてある。
〔註三〕上銘氏の談による。人形の拵え方で、殊に注意すべき点は、千人の人に踏ませるということである。これは既述した辻占の呪力の源泉となった屍体の埋め方と共通した信仰から出たものと思う。因みに、上銘氏は民俗学に深い興味を有していた青年学徒であったが、急病のために永眠されたことは遺憾であった。
〔註四〕「八幡愚童訓」を始め、その他の書物に磯良神のことが載せてあり、此の神の所作が、細男(斎男、精農、声納など書く)の最初のように記してあるが、これは猶お研究の余地があるようである。山城の離宮八幡社にある細男は、平板を人物態に截ったもので、両手は別にとり付け、動くようになっていて、頗る後世の人形じみたもので、古代の細男の形かどうか明確でない。更に、細男は、八幡神系以外の賀茂社や、春日社にも伝えられているので、これ等の社と八幡社との関係も調べて見なければならぬ。折口信夫氏は「民俗芸術」第二巻第四号で「才の男は人形であるのが本体である」と、例の天才振りを発揮されているが、私の不敏なる、氏の説明だけでは、まだ納得されぬ点がある。猶お研究して見たいと思っている。
〔註五〕扶桑国、黒歯国などそれであるが、一条兼良は「日本紀纂疏」において、我国の黥面国なることを肯定している。而して我国に「魏志」に載せたほどの黥面文身の民俗があったかどうか判然しない。各地から発掘された土偶にも、それを証拠立てるものが今に見出されぬのである。これも今後の研究に俟つべきものである。 
第八章 物質文化に於ける巫女の職務

 

第一節 戦争に於ける巫女
平安朝における宮廷歌人の一頭目とも見るべき藤原為家の歌に「胡沙吹かば曇りもぞする陸奥の、蝦夷には見せじ秋の夜の月」というのがある。従来、此の短歌に就いては、胡沙は蝦夷人の用いる楽器(胡沙笛)であって、これを吹奏すると悲調は秋の夜の明月すら曇らせるという意味に解釈されて来たのである〔一〕。勿論、居ながらにして名所を知るほどの宮廷歌人、胡沙のことも、蝦夷のことも、全くの耳学問であって、異郷の風物の珍らしさに作歌したまでであるから、事実と遠ざかっているのは無理もないことではあるが、それにしても随分と思いきった間違いを詠じて得意がっていたものである。然らばその胡沙なるものの正体は何かというに、金田一京助氏の研究によると、蝦夷といわれたアイヌ族の間には、胡沙と名づける楽器もなく、従ってこれを吹奏すれば、明月も曇るというような伝説もない。然るに、アイヌ族の民俗として、男子が他部落の男子と戦争する際には、各部落の女子は後陣に出で立ち並び、一種の呪術として口々から吐息して敵陣に吹きかける。そしてアイヌ語では息のことをプサ(HUSA)と云っているが、恐らく為家は此のプサを聴き違い、支那に胡笳と称する角笛のあることを想い合せて、かかる作歌を試みたのであろうと考証されている〔二〕。而して更に、金田一氏は「諏訪大明神絵詞」を引用して、此のアイヌの女子が戦陣に臨むことに就いて、左の如く言われている。
(上略)此中に公超霧をなす術を伝え、公遠隠形の道を得たる類しあり(金田一氏曰。これ中古以来の伝説にて、所謂胡沙吹くということの修辞的発想)戦場に臨(む)時は、丈夫は甲冑弓矢を帯して前陣に進(み)、婦人は後塵に随て木を削て幣帛のごとく(同氏曰。アイヌの所謂イナウこれなり)にして、天に向て誦呪の体(?)なり〔註〕云々。
註。アイヌの戦陣の法、男子は弓矢を帯して前陣に進めば、女子は後塵に随て何か手に手草を取りて husa! Husa! 誦呪の体なること、アイヌの生活を通して、見るが如くに想像し得ることである。大軍のいくさではないが、蝦夷島奇観の画図の中にウラカという決闘の絵があるが、やはり女子がタクサを取りて背後に Husa! husa! をやってるいる所が画いてある。アイヌの敍事詩の中にもそういう状景が常に出て来る(以上。「アイヌの研究」に拠る)。
金田一氏は、此の所作をするアイヌの女子が、巫女であるか否かに就いては説明されていぬが、私の考えるところでは、其の古いところに溯れば、必ずや巫女(アイヌではツスという)がその任に当ったことと信じたい。従って諏訪大明神絵詞に現われた頃になれば、巫女の仕事でなくして、普通の女子の遣る事になっていたのであろうが、それにしても誦呪するときだけは、全く巫女の心持になって、一方には敵兵を詛い、一方には味方を励ましたものと見て差支ないようである。而して戦争に巫女が従ったことは、琉球においては、明確にこれを伝えている。伊波普猷氏は「おもろさうし選釈」二九、「きこへ大ぎみがさやはだけおれわちへがふし」の末節において、左の如く述べている。
尚真王の時、八重山征伐のあったことは、百浦添欄干之銘にも見えているが、「女官御双紙」に、この時久米島の君南風(キミハエ)(中山曰、同地ノロの名で、内地の巫女と同じ)が従軍して功を立てたことが書いてある。
琉球より申の方に当りて御ちさやうの島あり、島名をば八重山島といふ。本は帝王(中山曰。琉球王)に従ひけるが、心かはりしつるに因りて、弘治十三庚申の年討手を御遣し給ふ。その時首里の御神託言はせ給ひけるは、久米島の君南風わたり給はば、彼島の神もなびきなん。神なびきなば、人はおのずから降参すべしとのたまふ。君南風承りて、彼島にわたり給へば、数多の人いくさの支度をして出むかふによりて、陸へよるべきやうもなかりけり。其時筏を浮べ、其上に炬を多くつむ(中略)。彼島の君真物(キムマモノ)(原註。島の守護神)君南風へ迎ひなびき給ふによりて、人は自ら降参す云々。
当時の人はこの時戦争に勝ったのは、君南風の祈祷が与って力があると信じていた。
実際船艦中の大ころ等(タ)、もりやえ子等(タ)はこの女傑のオタカベ(原註。祝詞)に鼓舞されたのであろう云々。
猶お伊波氏は、同書一二「あおりやつがふし」の条において、「尚巴志(せだかまもん)は武力を以て鳴った名称であるけれども、当時は魔術(マジック)が武力に劣らないものであると信ぜられていたから、当時の習慣に従い、物知人(モノシリビト)(中山曰。巫覡の意)を戦の魁として、悪霊を払わせながら、進軍したのであろう。琉球の俚諺に「女や戦の魁(ヰナゴーイクササチバイ)」というのがある(中略)。祭政一致時代には、何処の国でも、女子は神によって一種不可思議な力を附与されて、予言する力や魔術を行う力を持っていると考えられていた」云々と述べられている。
かく我国の南北両端の民族は、戦争に巫女の従うことを伝えているが、さて中央なる内地にあっては、果してどうであったか。私の記述は愈々これから本問に入るのである。而して我国における戦争と巫女の関係は、相当に複雑を極めているので、理解を容易ならしむるために、数項に分けて記述することとした。 
一 物部氏と巫女の関係
武士のことを「もののふ」と称したのは、これ等の者が物部氏に従属していたためで、「もののふ」は物部の転訛であることは明白である。「倭訓栞」に「もののふ、物ノ部と書けり、もののべともいふ(中略)。神武帝東征し給ひし時、饒速日ノ命をもて、内物部を率ゐて武威を示させたまひしより物部氏の任となれるを以て、後世に至つても武士を専ら物のふと云へるなり」とあるのは、極めて穏健な考証であって、然も物部氏と武士との関係を簡明に説示したものである。
然らば、問題は更に溯って、(一)何故に物部氏が斯く武士を統率したのであるか、それと同時に、(二)物部とは抑抑何事を意味しているのであるかに就いて、解説を試みねばならぬ。而して(一)の、物部氏が武士の棟梁と仰がるるに至りし事情に関しては、「旧事本紀」巻五天孫本紀の弟宇摩志麻治命の条に、大略左の如く記されている。
弟宇摩志麻治命。{(上略。)亦云/可美真手命}
(上略)磐余彦尊{○神/武帝}、欲馭天下、興師東征(中略)。中州豪雄長髓彦、本推饒速日尊児宇麻志麻治命為君奉焉(中略)。遂勒兵距之、天孫軍連戦不能戡也、于時宇麻志麻治命、不従舅{○長/髓彦}謀、誅殺佷戾、帥衆帰順之、時天孫詔宇麻志麻治命曰(中略)。朕嘉其忠節、特加褒寵、授以神剣、答其大勳(中略)。復宇摩志麻治命率天ノ物部、而剪夷荒逆、亦帥軍平定海内而奏也(中略)。天皇定功行賞、詔宇麻志麻治命曰汝之勳功矣、念惟大功也、公之忠節焉、思惟至忠矣(中略)。自今已後、生々世々子々孫々八十聯綿、必胤此職、永為亀鏡矣云々(以上。国史大系本)。
これに由って、物部氏の発祥と、同氏が武士を統率するに至った理由は、略ぼ会得されたことと思うが、更に(二)の物部と称する語原の解釈にあっては、一代の碩学といわれた本居宣長翁すら「古事記伝」巻十九において「母能々布と云は、名義は未だ考へ得ず」と兜をぬいだほどの難問題であったが、平田篤胤翁が其の著「玉手繦」において、「物とは神なり」という、彼としては誠に珍らしい卓見を唱え、更に鈴木重胤翁によって、此の説が大成されるに至ったのである。鈴木翁は「延喜式祝詞講義」巻七龍田風神祭の「百能物知人」の条において、概略左の如き記述をなしている。
百能物知人(中略)。師説{○篤/胤翁}に「物知り人とは、太兆の卜事を行ふ人と云称なる事明かなり。凡て物と云称は万に泛く亘る中に、神祇を指て云事常に多し、そは御門祭詞に、四方四角与利疏備荒備来武天能麻我都比登云神乃云々。自上往波上乎護利自下往波下乎護利と有る此同事を、祈年{御門/祭}詞に疏夫留物能自下往者下乎守、自上往者上乎守と(中略)、云へるを対思ふ可し。
(原註)御門祭詞には神と云へるを、祈年祭及び道饗祭詞には物と云る者をや。又神代巻に葦原中国之邪鬼とある邪鬼を、私記には安之岐毛乃と訓み、中昔に物気など云ふ。又物忌、物狂、物の所為、憑物の為なるなど云ふ物も是にて、此は神と云に同じく泛く云る語なり。今云、大物主神と申す御名の物も(中略)、八十万神を領給ふ故に大物主神と申せるなり。又万葉集中に鬼字を母能の仮字に用ゐたる所数多あり。
知とは深く遠く思慮の智有て、神の所為の幽りて著明(シル)からぬを知弁る由にて(中略)、俗に物知とは今現に見たる小事を弁たる程の人をも云へど、そは事知とこそ云ふべけれ豈(イカデ)か物知とは云はむ」と云れたるは然る言なり。
(原註)但、太兆の卜事を行ふ人を云と云はれたるは当らず、神祇の情状を古伝に徴し、古説に合せて悟り得る偉人を云ふなり。卜事は其思慮の至り及ばざるに当て物為(ス)るなれば却て未なり云々。(以上。皇学館本。但し句読点は私に加えたのである。)
我が古代における「物」とは、即ち神または霊ということであって、物ノ部とは是等の神または霊に通ずる母能々布(モノノフ)の部曲(カキベ)を指し、物ノ部氏とは此の部曲の宗家、または氏(ウヂ)ノ上(カミ)という意味になるのである〔三〕。而してこれを基調として古代の戦争を考えると、古語の戦い(たたかひ)は、敲き合いの転訛であるが、更に古語で言い争うことを「口たたく」というのがあるところから推すと、腕力を以て敲き合いする以前に、言語を以て口たたかいをするのが、戦いの式例となっていたことが想われる。これは恰も、後世の戦場において、先ず甲乙の両陣から、代表的の勇者が出て、一騎打ちの勝負をしてから、合戦が開かれたのと同じように、言霊(コトダマ)の神の殊寵を蒙り、特に利口弁舌に長じた者(即ち物知り人)が現われて、互いに「言葉たたかい」をした後に、愈々両方の敲き合いに入る順序と見られるのである。而して此の「言葉たたかい」の任務に当るものが即ち巫女であって、然もその言語は必ずや呪術的の要素を多分に有していたものに相違ない。前に引用した琉球の俚諺に「女は戦の魁」とある如く、我国にあっても、巫女の宗源とも見るべき天鈿女神は、常に陣頭に立つことを伝えているのである。
而してそれと是れとは、大に趣きを異にしているが、思い出すままに記すことは、私の郷国である下野国河内郡地方の村落では、明治初年まで、婚姻の夜に、新婦の附添いとして、弁舌に馴れた婦人一名が、嫁の行列の先頭に立って、新郎の家に赴く。新郎の方でも、同じく口達者の男二名を家前に立たせて新婦を迎えさせるが、その時に先ず聟方の男から「大勢して一体何処(ドコ)から遣(ヤ)って来た」と問いかけると、嫁の附添い女は直ちに「若い者に花を遣ろうと思って来た」と答えるのを序開きとして、ここに猛烈なる言葉たたかいの場面が展開され、聟方の男はあるかぎりの奇智を絞って、無理難題の問いを発し、これに対して、嫁方の女も精根を尽して巧妙に言いぬける。若し此の「言葉たたかい」に、嫁方の女が負けるようなことがあれば、新婦の一行は実家へ引き帰さなければならぬ村掟となっているので、附添い女の責任の大と、舌力の強さとが思われる。こうした一幕が無事に済むと、今度は婚礼の式に入るのである。
此の民俗は、種々なる示唆に富んでいるが、それを言うと本書の埓外に出るので省略するも、兎に角に此の附添い女の役目こそ、在りし古代の戦争における巫女の任務を偲ばせるものがあると信じたので、敢て附記した次第である。 
二 戦争の前途を占う巫女
兵は凶器である。これを用うるに、日時を選み、方角を選み、敵を知ると共に、味方を知ることは、古代から行われた戦法であったに相違ない。殊に、神を信ずることが篤く、霊を崇めることの深かった時代にあっては、戦争の前途を占うて、これが万全の策を講ずることは、将帥たる者の特に注意せねばならぬ点であった。前に引用した神武帝が、日神の子孫でありながら、日に向って戦いをするのは良(フサ)わずとされたことや、更に椎根津彦と弟猾とに命じて天香山の土を採らせて戦勝を占うなど、こうした呪術的の信仰は、必ずや戦争の度毎に行われたことと想われる。殊に神功皇后の征韓戦は、国家の運命を賭するほどの大事業であっただけに、此の種の神事を幾回となく繰り返して、一方、神霊の加護の愈々厚からんことを祈り、他方、従軍の士気を旺盛に導かれたのである。「神功紀」に載せた左の二条の如きは、その徴証として最も妥当のものと考える。
夏四月(中略)。北到火前国松浦県、而進食於玉島里小河之側、於是皇后勾針。取飯為餌、抽取裳糸為緡登河中石上、而投鉤祈之曰、朕西欲求財国、若有成事者、河魚飲鉤、因以挙竿、乃獲細鱗魚云々。
皇后還詣橿日浦、解髪臨海曰、吾被神祇之教、頼皇祖之霊、浮渉滄海、躬欲西征、是以今頭沐海水、若有験者、髪自分為両、即入海洗之、髪自分也、皇后便結分髪而為髻云々。(以上。国史大系本)。
前者は即ち祈狩(ウケヒガリ)の一種であって、後者は即ち毛髪によって、神占を試みたものである。而して共に、戦争の前途を神判した信仰を伝えているのである。此の場合における神后の所作は、前にも述べたように、全く最高位の巫女としての務めであった。されば陣中には、此の種の神事に従うべき巫女を置いて、事毎に或は神祇を祭らせ、或は神意を占わせて常に戦いを有利に展開させることに注意を払ったものと考えられるのである。後世の事ではあるが、源義家が天喜年中に、岩代国耶麻郡慶徳村大字新宮に熊野神社を勧請し、社前において相撲を試み、戦争の勝敗を占ったとか〔四〕、紀州田辺野の闘鶏神社の別当湛海が、源平両氏より味方に加われと勧誘され、赤鶏を平氏となし、白鶏を源氏として、社前に闘わせ、神意を占うて源氏に味方したとか〔五〕、又は「太平記」巻三十三八幡御託宣事の条に、
此勢を散さで、今一合戦可有かと、諸大将の異見区々なりけるを、直冬朝臣許否凡慮の及ぶ処に非ず、八幡の御宝前にして、御神楽を奏し、託宣の言に付て、軍の吉凶を知るべしとて、様々の奉幣を奉り、渉蘩を勤て、則神の告をぞ待れける。社人の打つ鼓の声、きねが袖ふる鈴の音、深け行く月に神さびて、聞人信心を傾けたり。託宣の神子啓白の句言は、巧みに玉を連ねて、様々の事共を申けるが、「たらちねの親を守りの神なれば、此の手向をば受る物かは」と一首の神歌を、くり返しくり返し二三反詠じて、其後御神はあがらせ給ひけり云々。
とあるのや、織田信長が桶狭間の戦いのとき、熱田神宮に詣でて、御手洗川に銭を投じて、合戦我に勝利ならば銭面を現わせと占うたことなども〔六〕、咸は此の信仰に基くものであって、古くは陣中における巫女が専ら此の任に当ったものである。猶お戦争と神託及び戦争と神官並びに巫女との関係等に就いては、第三篇に記述して、以て此の項の足らぬところを補う考えである。 
三 敵兵を呪詛する巫女
「魏志」の倭人伝の一節に、
倭女王卑弥呼、与狗奴国男王卑弥弓呼素不和、遣倭載斯烏越等、詣郡{○帯/方郡}説相攻撃状云々。
とある。之に由ると、 倭国の女王は狗奴国の男王と戦いを交えていた様であるが、さて此の女王の率いた軍隊は男軍であったろうか、それとも女軍であったろうか。勿論、女王の麾下に属すからとて、その悉くを女軍と見るべき理由は少しも無いが、当時、我国に女軍の在った事を参考すると、必ずしも男軍ばかりだとも想われぬのである。「神武紀」に、
天皇渉彼菟田高倉山之巔、瞻望域中、時国見岳上則有八十梟帥{○原/注略}、又於女坂置女軍、男坂置男軍。
とあるように、女子を以て編成した女軍の在ったことが明確に記されている〔七〕。更に「肥前国風土記」杵島郡嬢子山の条に、
同天皇{○景/行帝}行幸之時、土蜘蛛八十女、又有此山頂、常捍皇命不肯降服、於茲遣兵掩滅、因曰嬢子山(ハハコヤマ)。
とあるのや、「万葉集」巻十九に、
物部の八十少女等が酌みまがふ、寺井上の堅香子の花
とあるのから推すと、愈々女軍の在った事が裏附けられるのである。
然らば、是等の女軍は、男軍と対立して、打物とって敲き合いをなし、弓矢をとって射合せ(我国のいくさの語原はこれである)たかというに、これは必ずしもそう考うべきものではなくして、女軍の本来の目的は、他に在ったものと見るべきである。即ち戦勝を神に祈り、神意を問うて軍の行動に便じ、更に敵兵を詛う呪術を行うことが任務であったのである。前に引用した「崇神紀」の吾田媛が、天ノ香山の土を取って祈(ウケ)ひしたのは、これを呪術に用いて以て皇師を調伏せんが為めであった。又これも前に引用した「播磨風土記」逸文に、神功皇后が征韓に際し、赤土を以て天の逆桙、兵船の舳艫及び兵卒の著衣まで塗ったのも、更に「仲哀記」に、神后が住吉三神の教えにより、三神の御魂を乗船に斎き「真木灰を瓠(ヒサゴ)に納れ、亦、箸と平手(中山曰。神供を盛る物)とを多(サハ)に作りて皆々大海に散浮(チラシウ)けて」渡海したのも、神意をかりて敵兵を調伏する呪術に外ならぬのである。而して是等の呪術は、軍中に在りし巫女がその任に服したのである。記録にこそ伝わっていぬが、我国の古代には、アイヌの女子が後陣にあって、プサを吐きし如く、又は琉球のノロが陣中において敵兵を詛うた如き事実が、恐らく戦いの度毎に行われたものと考えても、決して大なる誤りではなさそうである。
後世の事ではあるが、「三代実録」巻一三貞観八年十一月十七日条に、
敕曰(中略)新羅賊兵常窺間隙、災変之発唯縁斯事、夫攘災未兆遏賊将来、唯是神明之冥助、豈云人力之所為、宜令能登因幡伯耆出雲石見隠岐長門大宰等国府、班幣於邑境諸神、以祈鎮護之殊効云々。
とあるのは、巫女の敵兵調伏の咒術が関西九州の十余国に亘る大褂りになったものであって、更に弘安年中の蒙古襲来の国難には「異賊襲来祈祷注録」と題する文献まで纂輯する程の、全国的大規模に此の呪術が行われ〔八〕、遂に此事が弓矢執る武将の間の信仰となり、合戦毎に崇敬する神社の巫祝をして之を行わせる様になったのである。武田信玄が川中島の戦いに際し、信州戸隠神社の巫女をして、此の祈祷をさせた事は今に著聞せる事実である。 
四 士気を鼓舞する巫女
広義に言えば、戦争の前途を占うて勝利に導くことも、神霊に恩頼して敵兵を呪詛することも、共に軍隊の士気を鼓舞旺盛ならしめる手段ではあるが、更に是等よりは一層直接に士気を感奮させる方法が、巫女によって行われたのである。即ち日本武尊が東征に際し、姑の倭姫命から神剣と火鑚とを与えられたのも、倭姫が最高の巫女であっただけに、全軍の士気はこれが為めに振興したに違いなく、神功皇后が祈(ウケ)ひ釣りをなし、毛髪にて神意を問うたことなども士気を緊張させるに、偉大なる力があったと考えられるのである。殊に神后が出征に当り、群臣に賜える勅語は、儼として神語を聴くが如き思いがある。曰く、
夫興師動衆、国之大事、安危成敗、必在於斯。今有所征伐、以事付群臣、若事不成者、罪在於群臣、是甚傷焉、吾婦女之、加以不肖、然蹔仮男貌、強起雄略、上蒙神祇之霊、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。若事就者、群臣共有功、事不就者、吾独有罪、既有此意、其共議之云々。
千載の後にあっても、此の勅語を拝して、誰か奮起せざる者かある。当時、士気の揚がれる察すべきである。
更に、少しく後世の出来事ではあるが、戦争中に神霊が巫祝に憑って士気を励した例証も存している。「天武紀」壬申乱の条に、
先是軍金綱井之時、高市郡大領高市県主許梅(コメ)、儵忽(ニワカニ)口閉、而不能言也。三日之後、方著神(カミカカリ)以言、吾者高市社所居、名事代主神、又牟狭社所居、名生霊神者也、乃顕之曰、於神日本磐余彦天皇之陵、奉馬及種々兵器、便亦言、吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉、今且立官軍中、而守護之、且言、自西道、軍衆将至之、宜慎也、言訖則醒矣。故是以便遣許梅、而祭拝御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣、而礼祭高市身狭二社之神。然後壱伎史韓国、自大坂来、故時人曰、二社神所教之辞、適是也。又村屋神着祝曰、今自吾社中道、軍衆将至、故宜塞社中道、故未経幾日、盧中造鯨軍、自中道至、時人曰、即神所教之辞是也(国史大系本)。
此の二つの事件は明白に神教によって全軍の動作を敏ならしめ、且つその士気を振興させたに違いないのである。而して更に後世の事ではあるが、弘安の蒙古襲来の国難に関する「高野山文書」の一節に、
閏七月{○弘安/四年}晦日夜、摂州広田社巫女詣当社{○丹/生社}而託宣曰、於今度者住吉毛八幡毛属我力至討罰、若託巫覡示此事者、世以可成疑、故以汝令告示云々。又非真言教力、難施降伏霊験之由、蒙八幡之御告、於当山有一万座不動供勧進之侶、以之思之、丹生明神之神変勝于諸神、非唯寄一社巫女之口、金剛乗教之教力、超于余教、誰敢疑八幡正直之告云々。
とあるのは〔九〕、高野山の僧侶によって書かれただけに、その鎮守なる丹生神社の霊験と、真言宗の功徳とが誇張されているが、それでも此の国難に際して、巫女の託宣が武士の勇気を増進させたことだけは、容易に看取されるのである。 
五 御陣女揩ニしての巫女
我国では、古く総帥、亦は大将は、婦人を陣中に同伴することが習いとなっていた〔一〇〕。畏きことではあるが日本武尊が東征に妾(オムナメ)橘媛を伴い、仲哀帝が西征に神后を従えさせられたのは、その例証であって、臣下としては、「仁徳紀」にある上毛野公竹葉Pの弟田道が、妻と共に蝦夷を征討せんとして戦死したことや、「欽明紀」に河辺臣瓊岳(タマヘ)が隨婦と、同じく調士伊企儺(イキナ)が其妻大葉子と、共に新羅軍に捕虜となったことを載せ、また此の外にもこれが類例は相当に多く存している。
それでは斯く陣中に婦人を伴うた最初の目的は、何であったかと云えば、其れは他事でも無く、專ら神霊の加護を仰ぐべき巫女としての勤めに従う為であった。反言すれば、古く我国で戦争に女性を隨行させたのは、其始めは巫女に限られていたのであるが、一般の女性──殊に妻女が神に仕えるようになってからは、巫女の代理者として妻女を伴うに至ったのである。併しながら、総帥とか、棟梁とかいわれる身分ある者の妻女は、育児その他の家庭上の関係から、必ずしも良人と軍旅を共にすることも出来ぬ事情もあったのと、更に一方においては、神に仕えるだけの巫女の職務も、時勢の下るにつれて拡大されて来て、遂に御陣女揩ニして従軍するように変化したのである。
山城国伏見市に鎮座する御香宮(祭神は神功皇后)に附属していた桂女(古くは桂姫と称した)に関する伝説は、此の御陣女揩フ事実を克明に保存しているのである。桂女の名の由来に就いては、彼女の一団が京都桂川の辺りなる桂ノ里(現今の紀伊郡上鳥羽村の一部落)に住んでいたので、地名を負うて斯く称したという説と、これに反して、彼女達は好んで桂(蔓)巻と称する独特の髪飾りをしたので、かく名を得たものとの両説あるが、私としては後説に従うのが穏当だと信じている。而して彼女達の所伝によると、桂女の祖先は岩田姫と称し〔一一〕、神功皇后が懷胎の御身を以て征韓のために渡海せられた折に従軍し、日夜とも左右に侍して御懷抱申上げ、皇后凱旋の後に、今の桂ノ里に土着したが、その証として皇后が陣中に召された綿帽子を頂いて家に伝えている。かかる緣故があるので、神后を祭った御香宮に奉仕し、更に男山に石清水八幡宮が祭られるようになってからは、御香宮と御母子の関係があるというので、石清水にも出仕するようになり、同社の大祭である安居頭には、桂女の血筋を承けた女子が、孫夜叉と称して桂飴を献上する例となっていた〔一二〕。而して桂女は巫女と同じく女系相続を原則とし、これを明治初年まで厳重に守って来たのである。
かく桂女が神后の征旅に従ったということは、とりも直さず、それが御陣女揩ナあったことを物語るもので、初めは巫女として、中頃は巫娼(巫女にして娼妓を兼ねたもの、その詳細は第三章に記述する)として、後には神后助産のことのみ言い立てて、産婆とも、子おろしとも、更に婚礼の介添人ともつかぬ、一種変態な呪術を主とした職業婦人となってしまったのであるが、それでも御陣女揩ニしての昔を忘れず、代々の武将の許に出入し、且つ戦争の有る毎に、陣中に推参して、雜役に服したものである。豊前小倉の旧藩主小笠原家は、武家作法の家元であっただけに、藩中に桂と称する一家を抱えて、代々女子を以て相続させたという〔一三〕。これは御陣女揩ニしての桂女の効用が忘却されて、全く小笠原流の作法による必要の扶持人であったろうが、更に大隅国囎唹郡上之段村の桂姫城の由来にあっては、必ずしも作法のためとのみ限られぬようである。即ち桂女が神后に従い、功績があって、名を勝浦(カツラ)姫と賜った。これより武家では、勝浦姫を愛慕し、島津家では勝浦姫の妹一人を召され、敷根村へ宅地を給し扶持されたことがある。桂姫城は此の旧跡であろうと伝えられている〔一四〕。これによると、桂が勝浦と国音の相通ずる所から、勝を悦ぶ武家が愛するようになったと解釈されているが、如何に勝つことを好み、扶持米に豊かであった島津家にしろ、単にこれだけの所緣で、桂女を召し抱えて置くべき理由がないので、古くは御陣女揩ニして軍中に伴うた桂女の子孫が、時勢の変るにつれて、往昔の任務が忘られ、かかる伝説となって残ったものと見るのが穏当である。
後世の事ではあるが、木曾義仲が陣中に伴うた山吹・巴の両女の如き、徳川家康が戦塵の間に従えたお万の方(徳川義直の生母で、男山八幡宮の祠官竹腰某の女)の如き、共に古い御陣女揩フ面影を残した者であって、遊女が陣営に出入し、然も敵の首の歯を染め、髪を洗う役目を勤めたのも、又之と同じ信仰と理由から来ているのである。 
〔註一〕此和歌は「夫木集」に載せてあるが、「和歌藻汐草」には、角笛のような物を吹けば、霧に似たものが出ると解釈し、「松屋筆記」や「笈埃隨筆」などにも、此の意味のことが記してある。
〔註二〕金田一京助氏著の「アイヌの研究」及び、同氏より聴き得た談話を綜合して載せたのである。
〔註三〕物部氏が霊に通ずる部曲の棟梁であって、然も古代の戦争が、腕力の闘いでなくして、呪術の戦いであることに就いては、学友内藤藤吉之助氏が「宗教研究」誌上に揭載されたことがある。敢て篤学の士の参照を望む次第である。
〔註四〕「新編会津風土記」巻六七。
〔註五〕「源平盛衰記」にある有名な話である。
〔註六〕これも「信長記」に載せてある有名な話である。
〔註七〕此の条の「日本書紀」の書き方は、頗る曖昧であつて、一寸見ると、女軍は皇師に属せずして、敵軍に在ったように考えられるのであるが、同じ「神武紀」の一節に「椎根津彦計之曰、今者宜先遣我女軍云々。天皇善其策、乃出女軍以臨之」とあるのから推すと、女軍が天皇に隸属していたことが明白に知られるのである。
〔註八〕弘安の蒙古襲来は、全く国難であって、上は畏くも天皇を始めとし、下は国内の社寺共に、神仏を祈念したもので、塙保己一の編纂した「蛍蝿抄」五巻は、殆んど全巻この種の記事である。仏教の渡来と、陰陽道の普及と、修験道の発達とは、漸く巫女に代つて、此の種のことを勤めるようになったのであるが、それでも猶お幾分でも、古い名残りをとどめているのである。
〔註九〕前記の「蛍蝿抄」巻五(史籍集覽本)に拠った。
〔註一〇〕現存の養老令の「軍防令」によると、婦女を陣中に伴うことは厳禁されているが、併し実際において、それがどれだけ実行されていたかは疑わしい。且つ養老令などの規定されぬ以前にあっては、大将連は公然と婦人を伴うていた。
〔註一一〕妊婦の腹帯を岩田帯と称するのは、これに始まるという俗説があるも、元より信用することの出来ぬ附会である。
〔註一二〕〔註一三〕同上。 柳田国男先生が雜誌「女性」第七巻第五号に載せた「桂女由来記」に拠る。
〔註一四〕島津家で編纂発行した「三国名勝図絵」巻三五。 
第二節 狩猟に於ける巫女

 

我国に狩猟時代が有ったか、無かったかに就いては、文献の上からは、明確に知ることが出来ない。否、文献にのみ拠れば、我国は開闢の当時から、既に農耕時代に入っているように記されていて、狩猟時代の有ったことなどは、遂に発見することが出来ぬのである。併しながら、文献に見えぬからとて、我国に狩猟時代が無かったというのは速断である。各地から発掘された銅鐸の紋様中には、曾て此の時代の存したことを想わせるものが尠からず残されている〔一〕。更に我が国民の常食となっている五穀の中にも、粟と稗だけは原産していたが、他の米や麦や豆は、悉く外来のものであって、殊に豆類は、一段と新しく輸入されたようである〔二〕。勿論、米や麦がなくとも、粟と稗があれば、生命を維ぐに差支はなかったであろうが、各地に貝塚が存し、その中から獣骨の出る所から考えると、我国の古代民族は狩猟によって獲たる獣肉——又は漁撈によって獲たる魚肉を、主食とした一時代を経過したものと想われるのである〔三〕。若しそうでないとしても、副食物を得るために、狩猟や漁撈を営んだことは明白であるから、私がここに言おうとする狩猟と巫女との関係は肯定されるのである。
我国に狩猟時代があったにせよ、山に棲む獣や野を飛ぶ禽を捕る役は、言うまでもなく男子の所業であって、これに婦女が加ったとは考えられぬ。従って巫女が狩猟に関係を有する点は、狩猟を好結果に導くよう神を祭り、併せて神意を問うて、日時と方角を択み定めることであった。詳言すれば、四季の鳥狩り、獣猟に、それ等の動物の棲む山や野を領知(ウシハ)ける神々を祭り、八十ヶ月のうちより、今日の生日を足日と定め、更に朝狩りか夕狩りか、好ましき時を神判によって択むのが、その務めであった。神祇官流の解釈によれば、山ノ神といえば、大山祇命と治定しているけれども〔四〕、民間信仰を基調とすれば、今に山ノ神は女性である〔五〕。
かく山ノ神が女性であると考えられるに至った根本の理由は、山で猟をするには、巫女の助力を受けることが安全であった信仰に起原を発しているのである。「天野告門」に紀州高野山の地主神である丹生津比売命が、白犬一伴、黒犬一伴を連れていたとあるのは〔六〕、此の女神が古く狩猟に関する巫女であったことを、意味しているのではあるまいか〔七〕。而して私に此の事を想わせるものは、左の「伊豆国風土記」逸文の記事である。
駿河国伊豆の崎を割きて、伊豆国と号ふ。日金の嶽に、瓊々杵尊の荒御魂を祭る。与野の神猟は、年々に国の別なる役なり。八枚の幣座を構へ、狩具の行装のものを出し納るるの次第は図記にあり。推古天皇の御宇、伊豆甲斐の両国の間に、聖徳太子の御領多し、これより猟鞍を停止めて、八枚を別所とす。往古猟鞍の司々、山の神を祭り、幣座の神坐と号ふ。其旧法久しく断ゆ。夏野の猟鞍は、伊藤、与野、年毎に鹿柵射手を撰びて行ふ〔八〕。
山ノ神を祭る儀式及び狩猟の古式は、「吾妻鏡」によれば、源頼朝が建久年間に、富士山麓に巻狩を行うた折には既に湮滅し、漸く肥後国阿蘇大神宮家に伝えた下野(シモノ)の故実を学んで済せたという程であるから、今からその詳細を知ることは不可能であるが、それでも同じ「吾妻鏡」及び、その他の狩猟に関する文献によれば、山神祭や矢口祭は、相応に厳粛であった事が窺われるのである〔九〕。併し、文献や記録によって伝えられた山ノ神——即ち猟の神は、大山祇命と固定してからの信仰を承けているだけに、狩猟と巫女の関係などは、尋繹すべき手掛りもなく、且つ山ノ神は悉く男性であると、神の性までも語りゆがめているのである。これ等の所伝に比較すると、各地に残っている山ノ神に対する民間信仰は、我国の古き正しきものと考えるので、左に各地に亘りこれを抄出する。
盛岡市の南郊藪川村の道の入口に山の神の祠がある。沢山陽物の形をしたものが供えられていて、年に二回、春の始めと、秋の終りに祭がある。春は山の神が里へ下りて里の神となる時であり、秋は里の神が山へ上って山の神となる時だからと云い、又陽物を献ずるのは、この神は非常な醜女で、嫉妬深い神だからという云々。(「民族」第二巻第三号所載金田一京助氏の「山の神考」の一節)。
シャチ山の神 狩人の祀る山の神の名にて、三河国北設楽郡にて言えり云々。
シャチナンジ 女神にて、狩人の守り神なりという。北設楽郡豊根村字分地、遠江国周知郡にても言えり。(以上。「民族」第三巻第一号所載、早川孝太郎氏の「参遠山村手記」の一節)。
安堵峯(中山曰。紀伊国西牟婁郡)辺に、又言伝えるは、山神女形にて、山祭の日、一山に生ぜる樹木を総算するに、成るべく木の多き様数えんとて、一品毎に異名を重ね唱え(中略)、樵夫この日、山に入れば、其内に読み込まるとて、懼れて往かず、又甚だ男子が樹陰に自涜するを好むと云々(「南方随筆」所収の「山神オコゼ魚を好むという事」の一節)。
こうした民間信仰は、未だ夥しきまでに存しているが、山ノ神の研究が目的ではなく、ただ山ノ神が女性であるということだけが判然すれば宜いのであるから、他は省略する。これから見るも、木花開耶姫命が富士の山神であるという伝説の古いことが知られるのである。而して是等の民間信仰を基調として、更に前掲の「伊豆風土記」の逸文を読み直して見ると、八枚の神坐を構えて祭儀に従ったのは巫女であって、然も此の巫女が、古くは狩猟の良否を占問いする役目を有していたのではないかと考えられる。琉球にはウンジャミ祭と称して、各地にノロ(巫女)を中心とした狩猟の神事が行われているが、その中でやや原始的なもので、然も極めて簡単なものを一つだけ抽出して、古くは我が内地にも、かかる神事が挙げられたのではないかと信ずべき旁証とする。「山原の土俗」安田(沖縄県国頭(クンチャン)郡国頭村大字安田)のウンジャミ祭の条に、
旧七月亥ノ日に行う。二日前に神酒を造る。そして神人(カミンチュ)は当日になると、神衣裳を着けて神アシアゲ(中山曰。内地の斎場と同じもの)に集って、神体に向い祈願をする(中略)。それが済むと猪取りの真似をすることになっている。猪には若い青年が一人選ばれ、身には蓑を纏い頭には笊を被ることになっている。又犬は十五歳位の少年を十名位選定す。猪取りは神人で男女各一人で、犬を引き連れて来て御馳走(原註略)を与える。そして愈々猪取りに掛るのである。暫く猪と犬とを闘わせて置いて、時刻を見計って弓を以て之を射る。すると猪はもがく真似をする。その時に女の神人(中山曰。ノロ)が来て愈々矢を以て之を射止めるようにする。かくして儀式が済むと、晩には若い女の臼太鼓踊があり、青年の角力を余興として行う。これは一名大シヌグとも云い、その日はウナイ(女)ウガミ(中山曰。女を神として拝むことで、巫女の起原の条に言うた「をなり神」の意である)とも称えるらしい。女を男が拝する儀式だというている云々(炉辺叢書本)。
これ等は明瞭に巫女が狩猟に参与し、然もその中心人物となっていることを物語るものである。誰でも知っている事であるが、「木原楯臣狩猟説」鹿笛の条に、狩詞の記(群書類従本)を引用して、
鹿の笛の事は、猟人申すは流行(ハヤ)る傾城の足駄にて作りたるがよく寄ると申也といえり。又徒然草に女の執念を戒むる所に、女のはけるあしだにて作れる笛には、秋の鹿必ずよると言伝え侍るも、古き諺ならん。
とある故事も、その源流に溯るときは、巫女が狩猟に交渉を有していたために考えられた俗信ではあるまいかと想われる。
「万葉集」を読むと、狩猟に女性を伴った歌が散見する。例えば左の如きものがそれである。
足引の山海石榴(ヤマツバキ)咲く畳峰(ヤツヲ)越え鹿(シシ)待つ君が斎(イハ)ひ妻かも(巻七)。
江林に猪鹿(シシ)やも求むるに能き白妙の袖まきあげて猪鹿(シシ)待つ我が夫(同上。凱旋歌)。
足柄の彼面(ヲモテ)此面(コノモ)にさす羂(ワナ)の喧鳴(カナ)る問静み児等吾紐解く(巻十四)。
此の第一の短歌の鹿待つ君が斎ひ妻に就いては、異説があって、今に定説を見ぬのであるが、併し単に愛するだけの妻の意ならば、斎うとは言うまいと想われるので、これには何か鹿を取る猟人の間に妻を斎う——恰も琉球の山原(ヤンバル)地方で女を男が拝むというような、呪術的の信仰が存していたのではないかと考えられる。そしてそれが古い時代の狩猟に巫女が参与した伝統を残したものと想われぬでもない。更に想像すれば、太占(フトマニ)に鹿の肩骨を用いたり、山鳥の尾ろの初穂に鏡をかけたり、片巫が巫鳥(シトド)の骨を焼いて神意を問うたりしたことは、古く遠く巫女が狩猟に交渉を有していた時代に発明した呪法であるとも言えるようである。猶お漁撈と巫女との関係は、やや明瞭であって、左迄に考究すべき必要が無いし、それに巫女と製紙の関係を説くと、余りに本節が長くなるので省略した。
狩猟の良好を神に祈るために巫女が舞い、更に豊富の結果を得たので、神に報賽するために、巫女が踊ったものの中から、後世まで伝った動物に扮する舞踊の幾つかを指摘することが出来るようである。而して動物に扮する舞踊の動機(モチーフ)が、動物の習性や所作を模倣したことに由るのは勿論である。琉球の国頭郡大宜味村で、毎年旧七月二十日後の亥の日に行うウンガミ祭に、神アシアゲの左端に各瓜で拵えた猪を据え、右端に槍や弓を立てて置き、巫女(ノロ)や神人が前後四回までオモロ(神歌)を謡いつつ神踊りをなし、猪を取る真似をして儀式を終るのは〔一〇〕、巫女が神へ対して斯くの如く好猟のあるようにと祈る形式だとも考えられるし、更に「山城風土記」逸文の賀茂社の一節に「仍撰四月吉日祀、馬係鈴人蒙猪頭而駈馳、以為祭祀」とあるのは、古く賀茂神が狩猟神としての一面を有していたことを想わせると同時に、動物に扮する舞踊の在ったことを偲ばせる手掛りになる。
私は動物に扮する舞踊のうちで、巫女に源流を発したものと信ずべき幾多の民俗学的資料を蒐めて置いたが、それを一々披露することは、徒らに長文になるので、今は省略する。鶏舞、烏舞、鷺舞などの、女性に相応したものは言うまでもなく、鹿踊とか駒舞とかいう、男性的のものすら、巫女が権輿者であることを考えさせるものがある。後世になると、これ等総ての舞踊は、勇壮とか、活発とかいう方面のみ重く視られた反対に、巫女の月水の血忌みが極端にまで嫌われるようになった結果は、当然、巫女が狩猟と関係を断ったので、舞踊まで男子の手に渡ってしまったのである。
〔註一〕我国における銅鐸は、学界の謎として、今に解決されぬほどの難物であるが、兎に角に、此の銅鐸が有史以前の遺物であることだけは明白である。そして各地から発掘された銅鐸の紋様のうちに、男子が槍のような物を以て鹿や猪を取るところ、又は犬を用いて野獣を取るところの意匠が見えている。これは狩猟時代のことを研究する場合に参考すべきことである。更に信州諏訪神社の御頭祭(鹿の頭を七十五供える神事)における鹿の頭の食べ方や、その他これに類した動物の料理法の原始的なものが残っていることも、動物を主食とした時代を窺うべき手掛りとなるのである。
〔註二〕天照神が天熊大人を遣して稲を覓めさせたことは、我国に稲の野生の無かったことを示唆しているものである。琉球の伝説を輯めた「遺老説伝」によると、豆類は新しく渡来したことが記してある。
〔註三〕「万葉集」巻十六に載せた乞食者の唱えた長歌の一節に「さを鹿の来立ち嘆かく(中略)、吾が肉は御鱠はやし、吾が肝は御鱠はやし、吾が美義は御塩のはやし」云々とあるのは、鹿の原始的料理法を伝えたものと見るべきである。
〔註四〕現今では山ノ神といえば、大山祇命と固定してしまったが、これは言うまでもなく、原始神道そのままではない。山祇は海祇に対立した神名で、山を支配する意で、山ノ神そのものでは無いのである。神祇官流の神道が、総ての神々を記紀に載っている神々で統一しようとしたための結果である。
〔註五〕民間信仰の対象としての山ノ神は、殆んど全国的に女性である。妻女の俚称を「山ノ神」と云うのも、これから導かれたことで、兼ねて妻女が古く家族的巫女であったことを伝えているものである。
〔註六〕「天野告門」は偽書だという説もあるが、私には必ずしも左様だとは思われない。勿論、記事の全部をそのまま信用することは出来ぬが、兎に角に古い文献を土台として後世に書き入れたものと考えている。従って土台になった部分だけは信用し得る古いものとして差支ない。それは恰も「倭姫命世紀」と同じことである。
〔註七〕南方熊楠氏の談に、丹生神社の末社に皮ハギ明神というがある。即ち皮細工の祖神ともいうべきものであるが、これは獣皮を衣服の代用とし、獣肉を主食とした時代の遺物であろうとのことであった。丹生津姫命と犬の関係は、相当に後世まで残っていて、僧空海が始めて登ったときも犬が案内したと言われている。
〔註八〕「伊豆風土記」の逸文は、北畠親房著の「鎌倉実記」巻二に引用してあるのだが、この記事は、他の風土記の文体に比較すると、やや時代の降ったものであることが知られる。栗田寛翁はその著「古風土記逸文考証」において、これは後人の攙入なるべしと云うている。併し記されている狩猟のことは古いものと見て大過はないようである。
〔註九〕「好古類纂」の遊戯部に収められている「木原楯臣狩猟説」は、古今の記録を要約して、よく古代の狩猟のことが輯めてある。
〔註一〇〕「山原の土俗」(炉辺叢書本)。 
第三節 農業に於ける巫女

 

豊葦原の瑞穂国といわれただけに、農業と巫女との関係は、狩猟のそれよりも、一段と明確に知ることが出来るのである。由来、我国における穀物神——即ち農業神の研究は、原始神道の上から見ると、相当に興味の深い問題たるを失わぬのである。現在では農業神といえば、直ちに稲荷神であると考えられるようになっているが、これは言うまでもなく、帰化族秦氏の祖霊神を祀ったものが、いつの間にか祭神が入れ代えられて稲荷神となってからの信仰であって、決して原始的のものでは無いのである〔一〕。「古事記」に、
食物を大気津比売ノ神に乞ひたまひき。ここに大気津比売、鼻、口、また尻より、種々の味物(タナツモノ)を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐之男命、その態を立ち窺ひて、穢汚きもの奉るとおもほして、乃ちその大気津比売神を殺したまひき。
とあるのは、有名な神話であって、然も此神の屍体から五穀その他が生じたという事になっているのである〔二〕。而して此の大気津比売神は、又の名を豊宇賀能売命と称して、我国の穀物神であり、農業神であると信仰されているのであるが、此の信仰には、少くとも二つの、疑いを挟むべき間隙が存しているのである。即ち第一は、「丹後国風土記」逸文、奈具社の条の末節に、天女が、
至竹野郡船木里奈具村、即謂村人等云、此処我心成奈具志久{○原/註略}乃留居此村、斯所謂竹野郡奈具社坐豊宇賀能売命也。
とある記事と、第二は祝詞の「大殿祭」の一節に「屋船豊宇気姫命」と記せる脚註に、
是稲霊也、俗謂宇賀能美多麻云々。
と記せる記事がそれである。これを詳言すれば、前者の奈具社の記事は、天女が穀物神となった事を意味し、後者の大殿祭の脚註は、稲の霊を神格化して穀物神としたことを説明しているのである。
それでは何故に、斯く「古事記」の神話と矛盾するような伝説が存したかと云うに、これは要するに、穀物神に仕えた巫女を、後世から直ちに穀物神とした誤解に基くものであることが知られるのである。換言すれば、元々我国の穀物神は、稲の霊を神格化して崇拝していたのであって(穀物神が斬り殺されるという神話も、これが為めに生じたもので、その事は註に述べて置いた)、稲霊以外には、別に穀物神とか、農業神とかいうべきものは、無かったのである。然るに、神に対する合理的解釈は、稲霊を神とすることを疎却して、次第に此の穀物神に奉仕した巫女(即ち大気津比売とも豊宇賀能売とも云うていた)を、穀物神そのものと信ずるようになって来て、遂に稲霊は全く忘れられて、巫女が代ってその位置を占めてしまったのである。私は此の立場から、穀物神を考えているので、豊宇賀能売命が伊勢に祭られたのは、とりも直さず、皇大神宮に対する散飯神(サバカミ)(サバの事は後に述べる)であって、穀物神に仕えた巫女の神格化と信ずるものである〔三〕。
古代の農業には、専ら女子のみが従事して、男子は多くこれに与らなかった。それは、当時の社会生活から見て、男子は絶えず他部落との間に起る闘争に従うことが重なる役目で、その他は常に山野河海に出でて、狩猟漁撈に励まなければならなかったためである。これに反して、女子は狩猟時代から、山に野に木の芽や草の根を採って食物とした伝統的の経験を有している上に、女子の第一の使命である育児の責任があり、更に体力の関係から烈しい狩猟には堪えられぬので、自然に親しみの深い春耕秋収の農事に服するよう習慣づけられて来たのである。従って古代の農業に巫女の関係することが多かったのである。
柳田国男先生によって唱えられた我国の「をなりど」伝説なるものは、農業と巫女との交渉を考える上に閑却することの出来ぬ大問題である。私は曾て自ら揣らず柳田先生の意中を忖度して此の伝説に就いて「田植に女を殺す土俗」と題し、大要左の如き管見を発表したことがある。  
一 穀神へ人身御供を捧げる
我が古代の農業は、小氏または一部落の共同耕作であって、年々輪番に田主を定めて春播秋穫し、別に田地の永代所有者は無かったのである。即ち経済学上の定期分配耕作共同制とも云うべきものである。従って此の時代における豊凶は、それが部落全体の利害休戚に影響するところが深甚であるだけに、田主となる者の責任は極めて重大なるものがあった。殊に同時代にあっては、田主及び部落民の徳不徳の行為が、直ちに農作の豊凶に影響するものと考えられていた。我国に此の事由を直接に証明する記録の欠けていることは遺憾であるが、それでも猶お間接には這般の消息を窺知すべき文献がある。即ち「神功紀」に天野・小竹の両祝がアツナヒの罪を犯したために天候が不順となり〔四〕、「允恭紀」に木軽皇子が同母妹に通じたために天候に異変を生じ、六月の酷暑に供御の羮が氷ったとあるのは、共に此の思想の在ったことを暗示するものである。加之、自然の恩寵に最も依頼することの多い農業は、旱損霖害、一朝の霜、一夜の風にも長い間の努力を徒労に帰する場合が尠くなく、然も斯かる自然現象の総てを神々の啓示であると信じた時代においては、水は広瀬神、風は龍田神、雨は丹生神に祭られ、只管に是等の神々の荒ぶることを恐れて、専らそれを和め鎮むるに祈念焦慮した。而して此の神を和め鎮むるためには、殆んど手段と方法を択ばなかった。否々、択ぶ余裕が無かったというのが適当である。かくして人身御供が起り、かくして種々なる呪術的祭儀が工夫されたのである。
オナリの民俗も、斯かる時代に人身御供の一として発明された祭儀なのである。オナリの語は世人の多くに忘られてしまったが、それでも一部の間には活きている。伊賀国名賀郡地方では、今に水仕女を此の語で呼んでいる〔五〕。琉球では、オナリの語は、姉妹の意に用いられている〔六〕。内地の神名や、地名にあるボナリ(母成と書く)ウナリ(宇成または於成とも書く)も、又このオナリの転訛である。
オナリは一にヒルマモチとも云われている〔七〕。即ち昼間持のことであって、田植に働く早乙女その他の者の昼飯を運ぶ役に当る女性である。そして此のヒルマモチが田の神の犠牲に供えられるのである。  
二 オナリとしての奇稲田媛
素尊が八岐於呂智を斬って稲田媛を救う折に、尊は媛を立ちどころに櫛と化し、その御髻に挿したとあるが、これの解釈に就いては異説が多く存しているも、所詮は後世の知識を以て神話を合理的に解釈しようと企てたものであって、学問的には価値の低いことは言うまでもない。私見を簡単に云えば、稲田媛を櫛に化して挿すとは、取りも直さず媛を穀神に犠牲として供えたことで、我国の最も古いオナリの民俗が神話に反映したものだと考えている。更に詳言すれば、媛を櫛にして挿すとは、即ち串に挿すの意であって、斯く代々の語部が語り伝えていたのを、文字に記録する折には、夙くもオナリの民俗が泯びてしまったか、若しくは神を串に挿すとは、如何にするも当代の信仰では許されなかったので、かくは媛を櫛と化して髻に挿すと記したのであろうと信じている。我国には、古く神に供える人肉または鳥獣の肉を串に挿した民俗が存していた(既述の曲玉は腎臓の象徴の条参照)。而して是等の民俗から推すも、媛を櫛にして挿すとは、犠牲にした媛を串に挿すの意に解するこそ、却って学問的ではあるまいか。  
三 穀神を殺す古代民族の信仰
我国の穀神である大気津比売命は、素尊のために殺された。何故に我が古代民族は穀神と云うが如き高級神を殺した神話を伝えて怪しまなかったか〔八〕。これには又た相当の理由が在ったのである。
私達の遠い祖先達は、穀物を播種すると、発芽し、繁茂し、結実し、枯死するのを、直ちに自分達の生死から類推して、これを穀物の生死であると考えたのである。結実と共に幹葉の枯れることは死であって、発芽と共に繁茂するのは生であると信じたのである。加うるに、我国にも天父地母の思想が存していた。即ち蒼天を父とし、大地を母とし、総ての自然物は、此の天父地母の交接作用によって生成すること、恰も自分達の交接作用によって子孫が生成するのと同一だと信じていた〔九〕。かくて農業の神事に、トツギ祭りというが如き、奇怪なる呪術的方法が案出されたのである。而して古代の民族にあっては穀物その物が直ちに神であった。文化のやや進んだ民族は、農作の豊凶は穀物を支配している神の左右するものと考えるようになり、穀物と穀神とを区別して認識したのであるが、古代の民族には此の区別は無かったのである。そして穀物の幹茎を刈り取る事は取りも直さず穀神を殺す事なのである。此の思想はやがてオナリ——即ち穀神の代理を殺す事までに発展したのである。  
四 原始農業と女子の位置
「古事記」に雀を碓女としたことを載せ、「万葉集」に「稲舂けば胼(カカ)る我が手を今宵もか、殿のわく子がとりて嘆かむ」とあるのや、同集に「住の江の岸に田を墾(ハ)り蒔きし稲、秀てて刈るまで逢はぬ君かも」とあるなどは、共に古く女性が農業の主要なる働き人であったことを証明している。而して穀神に対する信仰は、依然として女性が中心となっていた。それ故に、我国には御田植の神事に、男子が特に女装して祭儀を勤める例が多い。これは言うまでもなく、巫女が農業に関与した遺風をとどめるものと考えられるのである。
例えば、信州諏訪神社の田遊びの神事は、毎年小正月の夕刻に行われるが、その時に楽員一名が婦人に扮し、振袖の衣服を着て、頭に綿帽子を載せ、折櫃に鏡餅を盛りて神前に向いこれを供え〔一〇〕、その他種々なる式があって終る〔一一〕。山城国葛野郡七条大字西七条でも、小正月の夜に、頭座の男子一人麗しき女の小袖(この小袖はその前年に新婚せる妻女の物に限る)を着し、赤き帯を結び、顔に紅粉を粧い、大なる盒子(ユリ)に注連を曳いて頭に頂く。これをオヤセという。外に鋤鍬を持てる者二人、オヤセの前に立ち、村中の家々に入り、耕作の真似をする。即ち田遊びの祭儀である〔一二〕。
又、摂州武庫郡鳴尾村大字小松の岡神社の田植の神事にも、社頭に供物を献ずる男子一名は、旧例を以てその年に村内に嫁したる新婦の衣裳を着用して、この役を勤めるのである〔一三〕。紀伊国有田郡の各村で、毎年正月に行う御田踊は、相当に大仕掛のものであるが、この踊の中心となるヒルマモチ(昼間持)は、村内で最も美男子が女衣の襲ねを着し、丸帯を太鼓に結び、頭に鬘を被り、簪を挿し、緋布の鉢巻をしている〔一四〕。奥州若松市では、正月になると近村から、田植踊という銭貰いが出て来るが、その中一人だけは、男子が女装して、太鼓を打ち、農歌を謡う〔一五〕。
而してかかる類例はまだ全国に亘って殆んど際限なきほど夥しく存しているが、是等の民俗が古く穀神を女性とした信仰の名残りであることと、併せて女性が農業——殊に田植の中心人物であったことが偲ばれるのである。更に田植に挿秧する女性を、早乙女(サウトメ)と称する語義に就いても説明すべきであるが今は省略する。  
五 農業の神事とトツギ祭
穀物の生成結実を天父地母の交接作用の一部の現われと信じた古代の民族が、その穀神を和(ナゴ)めて豊穣を祈る神事に、トツギの祭儀を行うのは当然の工夫であって、フレザー教授の所謂模倣呪術とも見るべきものである。而して茲には、誰でも知っているような武州赤塚村の杉山社の祭儀や、三河のテンテコ祭、尾張の田県社の神事の如きものは悉く割愛し、余り人に知られない然も有力なるもの五六を挙げんに、陸前国遠野町附近の村落では、毎年二百十日の前日に村中で大きな人形を二個作り、それへ瓜で陰陽の形を作り添えて、田圃へ持って往き、道の辻で両方を合せる行事がある。これを風雨祭と云うている〔一六〕。信州下高井郡秋山村は、粟を主食とするほどの辺鄙の土地であるが、正月七日には粟稈で大なる玄根を作り、今年の粟も此のように稔れと、家毎に持ち廻って祝言するという〔一七〕。我国の七夕はタネハタで、古く田主(タアルジ)夫婦が、此の夜に畠の中で呪術的抱擁をする儀式があった。今に越後国北魚沼郡上条村大字西名の七夕神社では、毎年陰暦七月一日から二十七日まで、里人は同村を流れる破間川の東西の岸の喬木に注連縄を張り渡し、男女の陰具を模した物を藁で作り掲げ、その時異口同音に「破間川に注連引き渡し、西のお姫らしいのでホダレ(玄根の古語)を迎ふ」と云うことである〔一八〕。これもトツギ祭であることは明瞭である。近江国蒲生郡の各村で行う山ノ神祭は大同小異であるが、東桜谷村のは先ず木で男女二体の像を作り、これを神前に供えてトツギの状をなさしめ、白酒を献じ式を終る。そして年番の一人が音頭をとり、参集の村民これに和し「去年より今年は年よし、早稲、中稲、晩稲、二十四の作り物皆よかれ」と唱えて散会するが〔一九〕、是は明白にトツギ祭である。大和国磯城郡纏向村大字江包の素尊神社と、同郡織田村大字大西の稲田媛神社とで、毎年旧正月十日に網掛の神事というが行われる。素尊社では一反分の藁で元根の形を作り、稲田媛社でも同じほどの藁で女根を拵え、神官氏子立会の上でトツギの祭儀を執行する〔二〇〕。この神事は昔から有名なものと見え「大和高取藩風俗問状答」にも載せてある。越前国敦賀郡松原村大字沓見の信露貴神社(男神)と、同所の久豆弥神社(女神)との田植祭は五月六日に行われるが、古来、厳重なる頭屋の制度があり、当日には警固、神官、舞人、早乙女、昼飯持などの稚児が供奉し、本殿にて田植式あり、終って女官に渡御し、後に両宮同例にて、男宮に帰る。式が済むと、馬場先で、三々九度の神事がある〔二一〕。美作国久米郡稲岡村大字南庄の稲荷神社の例祭には、神輿が同所の小原神社に渡御するが、これはトツギの語らいの為めである〔二二〕。肥後の阿蘇神社で、毎年旧二月卯ノ日に田作祭を執行するが、此の祭は中の巳ノ日から亥ノ日まで、子安河原から姫神を迎えてトツギの式があって、五穀を生み、種を播くより、成熟するまでの行事がある。阿蘇谷の村々では、此の祭儀の終らぬうちは、子女の婚姻を禁じているが、これは大昔からの制法である〔二三〕。而して是等の祭儀が、巫女を中心とした農業と生殖との信仰の表現であることは、私が改めて説明するまでもなく、会得されたことと思う。
更に如上の信仰の一段と古いところに溯れば、田植の神事の最中で、オナリが分娩の所作を演ずるのである。そしてかかる民俗も我国には尠からず存しているが、茲には僅に二三だけを掲げるとする。出雲国簸川郡江南村大字常楽寺の安子神社の祭儀は、早乙女が早苗を植えながら安産する有様を演ずるが、今では安産の神として信仰されている〔二四〕。美作国真庭郡八束村大字下長田の長田神社では、例年正月五日に御田植祭を行う。祭具は鋤鍬鎌等の農具で、別に菖蒲で牛の角形を装い作り社前に供え、田舞を奏す。奉幣、祝詞、玉串の献上、苗代の式などがあり、終ると牛使用者が「お三昼飯」と呼ぶ。次に本殿の椽に昇るとき予め紙で拵えた人形を懐中し、焼米を三宝のまま棒持して出ずると、他の祭人御酒と御飯とを持ち、笛太鼓の拍子につれ、左右に舞い終ると、お三と称する祭人(女性の象徴)産米を舞殿の高案の上に直し、本殿に昇ろうとして曩に懐中せる人形を取り出し階段に置く。これ出産を意味するものであって、斎主はその人形を肩にのせ神前に供え、氏子安全の祈祷をする。お産の式と云い終って直会する。〔二五〕土佐国安芸郡吉良川村の八幡社では、三年に一度、五月三日に、御田植祭を行うが、その行列中には、酒絞りと称する女装の男子一人と、取揚げ婆と称する男子一人とが加わり、酒絞りは水桶につぶて杓を入れて頭上に戴き居り、酒絞るとき安産の態をする〔二六〕。豊後国東国東郡西武蔵村の氏神の歩射祭には、オナリと称する女装の男子が、田植の神事の最中に分娩する所作を演ずる。そして生れた子が男か女かによって豊凶を卜するのであるが、その人形の子供は秘かに神官が神意を問うて拵え、オナリに渡して置くのである〔二七〕。而して是等の分娩の役を勤める者が古くは巫女であったことは勿論である。  
六 穀神の犠牲となるオナリ
足利の水使神社の御影下野国足利郡三重村大字五十部の水使神社の縁起に、この祭神は土地の富豪の水使女であって、乳呑児を抱えて奉公していた。或年の田植に早乙女に昼飯を持って田へ往った留守に、主人がその乳呑児を殺してしまったので水使女は気狂いのようになり、附近の池へ投身して死んだ。爾来、その女の怨霊が祟るので神に祭ったのが此の社である。神体は、左手で飯櫃を抱え、右手に飯匙を持って水中の岩上に立っている木像だとて、今にその御影を出している。此の神社は私の故郷に程近いので、私も幼少の折に亡姉に連れられて二度ほど参詣したことがある。而して此の縁起に後人の作為が加わっていることは勿論であるが、兎に角水使女が、(一)田植に昼飯を持参したこと、(二)乳呑児が殺され(これは必ずしも重要事ではないが、此の例も嫁殺し田伝説まで合せると多数ある)ること、(三)そして自分も死ぬという此の三点は、他のオナリ伝説と共通なものであって、然も此の三点がオナリとして穀神の犠牲となった事を語る眼目なのである。同じ足利郡御厨町大字福居字中里(私の生地の隣村)の鎮守は、飯盛飯有神社という珍らしい奇抜な社名で、古老の語る所によると、神体は飯櫃と飯匙とであったそうだが、現今では大気津比売命と入れ代えられて了った。此の祭神などもオナリに由縁あるものと思われるが、社記も伝説も残っていぬので、考覈すべき手掛りさえ無くなって了った。阿波国板野郡撫養町大字桑島の於加神社の神体も、水使神社と同じように、右手に飯を高盛りにしたお椀を持ち、右手に飯匙を握っているそうだが〔二八〕、これなども詮議したらオナリ系の神であるかも知れぬ。陸中国上閉伊郡松崎村大字矢崎に灌漑用の大堰がある。往古、此の堰が年々洪水のために崩壊するので巫女を人身御供として水底に沈めた。堰口はそれ以来崩壊せぬようになったが、巫女の祟りを恐れて、ボナリ(母成と書く)神として祭り、今に毎年初春壬辰の日に醴酒と煮豆を供えてお祭りをする。殊に田植の水揚げするときは、村民団子を作り神に供える〔二九〕。此の伝説こそは巫女がオナリであって、農業に深い関係を有し、然も穀神の犠牲となったことを克明に語っているのである。下総国印旛郡宗像村大字師戸の某の小娘が、同郡船穂村大字船尾の農家に子守奉公していると、或年、田植に働く人々に昼飯を運べと言いつけられ、子を背負うたまま持参すると、小供と一緒に持ってくるとは不都合だと叱られ、遂にその小娘は小供を負うて金比羅淵に投身して死んだ。然るに小娘の怨霊が大蛇となって村に祟るので、村民は鎮守宗像社に併せ祭り、今に七月一二日にはニヒガリとて鎮守社に集り草を刈り庭を清めて、その夜に来る大蛇のために道を払ってやる〔三〇〕。此の話などは、常識から云えば、理窟に合わぬことのみであるが、然し話の基調がオナリにあることを知れば、朧げながらも吾人の腑に落ちるものが存するのである。美濃国瀬川の左岸に昼飯岩というがある。大昔、某家の下女が田植している下男達に昼飯を運ぶために此処まで来ると、突然、岩が崩れて下女が殺されたので此の名がある〔三一〕。此の話なども、是れだけ聴かされたのでは、何の事やら頭も尾もない出鱈目話のように思われるが、古いオナリの条件を備えている穀神の犠牲を語っているのである。猶お此の外に磐城国白川郡竹貫駒ヶ城趾にあるボナリ石の由来や、丹波国何鹿郡東八田村大字於成のオナル神社の縁起など、詮索すれば相当に資料もあることと思うが、大体を尽したので他は省略する。  
七 穀神に対する古代人の態度
瑞穂の国と称しただけに、我が古代人の穀神に対する態度は、その敬虔さにおいて、然もその真摯さにおいて、実に涙ぐましいほどの幾多の習礼が残されている。畏くも伊勢皇大神宮を始めとして、名だたる名神大社に御田植の神事の存していることは言うまでもないが、更に世に謂う叢祠藪神にも此の祭儀の儼然として伴っているのは、全く農を国の基としたことに由来するのであるが、これが民俗は各地の田植において、今に明確に見ることが出来るのである。田植の中心となる早乙女が、月水中は田に入ることを禁ぜられるのも此の信仰であり、更に早乙女が襷や脚袢や手甲などを新調して、穀神を穢さぬように注意するのも、又此の信仰に外ならぬのである。飛騨国大野郡白川村では、早乙女は五ツ紋付の衣服を着し、襷をかけて挿秧する〔三二〕。琉球の石垣島では、田植の朝に数十人の早乙女となる妙齢の女子が盛装を凝らし、赤紐の衣笠を戴き、下衣には純白、上衣には友禅染を重ね、右肌を脱ぎ肥馬に跨り、「かたばる馬」の式を行ってから田植にかかるそうだ〔三三〕。
現時の田植は、実際ということを主眼とするために、大昔にあったような複雑した儀式は段々と泯びてしまうがそれでも中国辺(安芸、石見、伯耆など)に行くと、サンバイサン(私が前に述べた散飯神(サバカミ)の転訛で即ち穀神である)と称する神に扮した神官を先頭とし、これに歌謡い、太鼓打、ササラ摺りなどの楽人が附添い、定まれる田植歌を謡い、早乙女がこれに和しつつ挿秧する有様は〔三四〕、中々に厳粛さを偲ばせるものがある。一代を風靡した田楽舞が、田遊びのそれから発達したことは既に定説もあるが、こうして田植せねばならなかった時代は豊凶とともに一に穀神の手に握られていたと信じて疑わなかったので、オナリの人身御供が考えられるのも又た無理からぬことであった。  
八 オナリと嫁殺し田の関係
我国の各地に残っている嫁殺し田の伝説は、オナリの民俗の一派生として考うべきものである。反言すれば、オナリの民俗の曾て存したことが、此の嫁殺し田の伝説によって、その確実性を裏書するものと信ずるのである。陸前国宮城郡岩切村大字小鶴に小鶴ヶ池というがある。昔、多賀城下の富豪の姑が嫁の小鶴を酷遇し、何町歩とある田植を小鶴一人に一日中に済ませと命じた。小鶴は幼児を背負うたまま終日挿秧するうち、幼児は餓死し、自分も田植が済まぬので、姑に責められるのが悲しく池に投じて死んだ。それで此の池をかく呼ぶようになったのである〔三五〕。而してこれと類似した伝説が同国栗原郡尾松村大字桜田にもあると、近刊の「栗原郡誌」に、安永七年七月の書上の風土記を引用して詳記してある。下総国印旛郡船穂村大字松崎に千把ヶ池というがあり、その池畔に大きな松が一本ある。これは昔田植女が、一日千把の苗を植えよと命ぜられたが果さずして死んだのを埋め、その墓印に植えた松だと称している〔三六〕。この話は前に載せた子守の伝説と同じものが、かく二つになって語り残されたのであろう。信州更級郡更府村大字三水の泣き池は、悪心の姑が嫁を虐待し、持田を一日に植えよと無理を言われて嫁が死んで池となり、その泣き声が聞ゆるので斯く名づけたのである〔三七〕。駿河国安倍郡安東村大字北安東字柳新田に二反歩余の水田がある。嫁を憎む姑のために嫁が田植最中に死んだところで、今に田を耕作すると祟りがあるとて、今に除け地になっている〔三八〕。遠州掛川町在の嫁ヶ田も同じ頑愚な姑に挿秧の無理を強いられ、嫁が田で悶死した故地である〔三九〕。因幡国八頭郡大御門村大字西御門にも嫁殺し田というのがあって、その伝説は他のそれと全く同じである〔四〇〕。安芸国賀茂郡志和掘村にお杉畷というがある。昔お杉という女性が一人で五反余歩の田植中に死んだので、村民これを憐み、杉を栽えて記念とした〔四一〕。而して茲に注意すべきことが、是等の嫁ということは、必ずしも今日の新婦とか、花嫁とかいう意味ではなくして、古くヨメとは一般の未婚者を指していた点である。ヨメの語が、嫁の意に固定したので、意地悪の姑のことが加えられたのであるが〔四二〕、此のヨメは家族的の巫女と見るのが正しいのである。  
九 田植に行う泥掛けの意義
穀神の犠牲にオナリを供えた当時の遺風と思わせるものに、田植の泥掛けの行事がある。土佐の高知市地方には現今でも田植祭の泥掛けが猖んに行われている。当日は、早乙女(いずれも処女であって妻女は加わらぬ)は、綺羅を飾り、挿秧するが、近村から若者達が手伝とて酒肴を携えて来る。早乙女は、是等の人々を見ると、「お祝い」と呼ばりながら泥を打ち掛ける。若者達は散々泥を掛けられ、帰りには早乙女から着替を借りて戻るが、早乙女は後でその衣類を洗濯し、若者の許に持参すると、饗応される例となっている。然も此の日は、誰でも通行の男子は、泥掛けされても苦情の言えぬことになっている〔四三〕。此の土俗は、後世の妻覓(ツママ)ぎの思想が多分に加えられているが、更にこれに較べると、隣国阿波殖麻郡川田村の「のたうち」は一段と古風が存しているようである。同地では、田植の際に通行人を見かけると、「祝ひませうか」と問いかけ、承知をすると、早乙女の多数が田の泥を前垂などに入れて投げつける。逃げると追う。追い詰めては投げつける。老人連中は後から箱などに泥を入れて運んでやる。立腹しても誰彼にかからわず土地の習慣として受けつけぬ。小学校教員、巡査などの他郷人は、此の手にかかって困ったことがあるそうだ〔四四〕。併し此の民俗も、承諾を得ることが、妥協の後世を考えさせるが、壱岐国では穀神を田ノ天神とも云っていて、田植のとき人が通ると、苗を祭りあげるとて泥を掛ける。これは通行人を田ノ神にするのか、田ノ神にあげる意か判然せぬが、兎に角に神を自由に作り得るものと考えていたらしい〔四五〕。是等は前二条のそれに比較すると、原始的の民俗であることが窺われる。曾て柳田国男先生が言われたように、「白石噺」の志賀団七の泥掛けも、此の方面の民俗を作者が利用して脚色したものであろうと思う。
此の泥掛けの行事は猶お種々なる相(すがた)で残っている。武蔵国府中町の大国魂神社の田植の神事は、旧五月六日に行われるが、当日は神領の村長等数十名の早乙女とその事に従う。楓の若葉で飾った傘桙というものに白鷺の形を造り立て、神田の辺りに持ち出て、神領の男児等数人が太鼓を打ち、祝言を唱え終ると、田の泥土の中で角力を取ることになっている〔四六〕。常陸国真壁郡大宝村では田植の終りの日に村内の男女が集って田の中で泥まぶれになる角力を取る。平生怨みを負える者は、油断すると悲しき目にあうべく、男たりとも徒党を組める女達につかまれば、手足を逆しまにつるされて、泥中に頭を漬けおかるることもあるべしとのことだ〔四七〕。而してかくの如き蛮習が、何故に工夫され、然もそれが何故に存続していたかといえば、私はこれに対して、泥掛けの起原は、オナリを田の中で泥を打ち掛けて殺したのに由来するものと考えている。(以上「中央史壇」第十一巻第二号所載の拙稿を訂正した。)
オナリ伝説の考察が意外に長くなってしまったので、此の上に農業と巫女の関係を記すと余りに紙幅を費すので、茲には総てを省略し、不十分の点は、第三篇において、機会があったら補足することとした。猶お巫女と人身御供との伝説に就いては、これも他の機会で記述したいと思っているので、参照を望む次第である。  
〔註一〕私は稲荷の原始神は狐を祭ったものだと考えている。それが秦氏の繁昌によって、同氏の祖先神と代るようになり更に秦氏の没落後に稲荷神——即ち大気津比売命と入れ代えられたものと信じたい。それでなければ、民間信仰における稲荷神と、狐との関係が、判然せぬのである。更に「開化記」には「日子坐王(中略)又其御母の弟袁祁津比売命に御娶ひて、生みませる御子」云々とある。これより推すと大気津比売の名は、玉依姫のそれと同じように、或は古代の貴女の通称の一ではなかったろうか。後考を俟つ。
〔註二〕白鳥庫吉氏の研究によると、諾尊が天照神に賜ったミタナクラとは即ち稲種であるとのことである。
〔註三〕伊勢の豊受大神宮は、皇大神宮の供御の神として祭られたものであって、神格の上からは非常なる相違があり、内宮外宮と押し並んで申上ぐべきものではない。それが殆んど同格神のように国民に考えられるようになったのは、全く外宮神官の昇格運動に由来するのである。此の事は、古く尾張の吉見幸和も極力弁じているが、思い出すままを記すとした。換言すれば、豊受神はサバ神であって、今に各地の田植歌に、サンバイサンと謡われているのは、サバの転訛である。猶おサバ神に就いての詳細は「旅と伝説」の昭和四年十二月号掲載の拙稿「さんばい考」を参照されたい。
〔註四〕アツナヒの罪に就いては異説もあるが、私は岡部東平(嬰々筆語巻一)の考証に従い、同性愛だと考えている。
〔註五〕「名賀郡郷土資料」。
〔註六〕此の事は前掲の「巫女の起原」の条に述べて置いた。
〔註七〕オナリと昼飯持とは別だとの説もあるが、私は姑らく同一だという旧説を支持したいと思っている。
〔註八〕フレザー氏の研究によると、穀神を殺す信仰は、殆んど世界的に存しているそうである。曾て折口信夫氏が主幹された雑誌「土俗と伝説」創刊号に此のことが記載されている。
〔註九〕米人ホルトム氏は、諾冊二尊は天父地母の思想に由来するものだとの研究を発表された。詳細は「明治聖徳記念学会」紀要第十六巻より同二十巻に連載されている。
〔註一〇〕折櫃は曲木細工の浅い盥のようなもので、古く神供はこれへ容れて頭上で運ぶのが常礼となっていたのである。
〔註一一〕「好古叢誌第七編」。
〔註一二〕「諸国年中行事大成」巻一。
〔註一三〕「摂陽落穂集」巻二。
〔註一四〕「日本及日本人」の臨時増刊「郷土光華号」に拠る。
〔註一五〕「新編会津風土記」巻十五。
〔註一六〕「遠野物語」。
〔註一七〕「信濃奇勝録」巻五。
〔註一八〕「越後温故ノ栞」。
〔註一九〕「近江蒲生郡誌」巻六。
〔註二〇〕「郷土趣味」第五巻第五号。
〔註二一〕「敦賀郡誌」。
〔註二二〕「美作国神社資料」。
〔註二三〕「増訂肥後国志」巻下。
〔註二四〕「簸川郡名勝誌」。
〔註二五〕同神社々掌星野謹吾氏報告。
〔註二六〕「国文論纂」所収の古謡集に拠る。
〔註二七〕同村役場よりの回答。
〔註二八〕「阿州奇事雑話」巻三。
〔註二九〕「東京人類学雑誌」第三十三巻第一号。
〔註三〇〕「郷土研究」第一巻第七号。
〔註三一〕博文館発行の「文芸倶楽部」第八巻第十二号。
〔註三二〕「日本週遊記」。
〔註三三〕「ひるぎの一葉」。
〔註三四〕文部省発行の「俚謡集」に見えているし、更に日本青年館で催した第三回郷土舞踊会で此の実演を見た事がある。
〔註三五〕旧仙台領の地誌である「封内風土記」巻四。
〔註三六〕高田与清の「相馬日記」に拠る。
〔註三七〕「日本伝説叢書」本の信濃の巻。
〔註三八〕「静岡県安倍郡誌」。
〔註三九〕「煙霞綺談」巻二。
〔註四〇〕「因幡志」。
〔註四一〕「賀茂郡誌」。
〔註四二〕古くヨメとは一般の女性を言うたもので、吉女の転だという説さえある。詳細は拙著「日本婚姻史」に記述した。
〔註四三〕「風俗画報」第七十三号。
〔註四四〕「郷土研究」第四巻第十一号。
〔註四五〕折口信夫氏談。
〔註四六〕「武蔵国総社志」巻下。
〔註四七〕「日本及日本人」の臨時増刊「自然と人生」に拠る。
第四節 医術者としての巫女

 

荒木田久老の「くし考」を読むと、くしは酒の古名であって「仲哀記」に「この御酒は吾が御酒ならず、くしの神、常世にいます、石たたす少名御神の」云々とあるくしがそれであって、病人に与えて治癒の効があったので、後にこれを薬(くすり)と云うようになり、且つ少名彦神を医薬の神として崇めたものであると云う意味が記されている。然るに、これに反して、伴信友翁は「方術原論」において、病気を禁厭(マジナイ)除く術を行うことをクスルと云い、その術によって食う物をクスリと云うと考証している。これを要するに、前の久老翁は、酒薬一元説を主張し、後の伴翁は、医術方術同根論を唱道しているのである。
薬の語原がその各れであるか、それを究むることは本書の埒外に出るので茲に略すが、兎に角に「迷信は科学の母なり」と西諺にもある如く、古く医術と方術(即ち呪術の意)とが同じ源流から出たことだけは疑う余地はない。そして薬の初めが酒であったことも同断のように考えられる。誰でも知っていることではあるが、「周礼」及び「説文」を見ると、醫の字は古く毉とも書いたもので、これは神々に仕えた巫覡の徒が、専ら療病のことに与っていたので、斯く殹の下に巫を加えて、毉と訓ませたのである。然るに時代が遷り、酒というものが発明されて以来は、これを薬剤として用いるようになったので、今度は殹の下を酉に作ることとなって醫の字となり、茲に呪術と医術とが分離するようになったのである。
而して此の事象は、我国の古俗にも覓めることが出来るのである。「古語拾遺」に、
大己貴神{○原/註略}与少彦名神{○同/上}共戮力一心経営天下、為蒼生畜産定療病之方、又為攘鳥獣毘蟲之災、定禁厭之法、百姓至今咸蒙恩頼皆有効験也。
とあるのが、それである。勿論、私は斯う言ったからとて、決して大少二神を男覡であると申すのでは無くして、巫覡の徒が大少二神の定められた療病の法を伝え、これに由って医術的所作を行うたものであると云うのである。それでは、是等二神の定めた医方は、如何なるものであったかというと、私の寡聞のためか判然とこれを知ることが出来ぬのである。尤も坊間に流布している「大同類聚方」と称する書物を見ると、大少二神の遣方というのが、夥しきまでに記載されているけれども、此の書が後人の偽作なることは、既に学界の定説となっているのであるから、此の書を典拠として説を試みることは不可能である。そこで私は、専ら資料を記・紀等の古文献に覓め、これを数項に分類して、巫女が医療として行った呪術に就き略述するとした。
猶おそれを記す以前に、巫女の行うた医療的呪術の概念に就いて述べて置く必要がある。それは外でもなく、巫女の医療的方面は、大別して二つとすることが出来る。即ち第一は、薬剤ともいうべき物を用いずして、単なる祈祷か又は呪術に由るものと、第二は、是等の祈祷を行うと同時に、薬剤とも称すべき物を用いたものとに区別されるのである。而して此の区別は、更に細別するときは、第一の祈祷呪術は、刺傷、封結、驚圧、呪物等に分れ、第二の薬剤は、供物を薬剤に代用せるものと、純薬剤とに分けることが出来ると考えるので、不充分ながらも姑らく此の分類に従うこととした。
因に言うが、発病以前に難病を排除する呪術を巫女が行うたことは勿論であるが、これは本節に交渉するところが尠いので除外したことである。  
一 身体を刺傷する医療的呪術
「人類学雑誌」第四二巻第十号に掲載された、清野謙次、平井隆両氏の「日本石器時代の穿顱頭蓋に就いて」と題する論文は、我国にも顱頂骨を刺傷する施術の行われた事実を科学的に証明したものである。而して穿顱の目的に就いて、清野氏等は、
生前の穿顱は頭蓋骨の外傷、頭蓋内外の腫瘍、頑固なる頭痛、精神病、癩病、神経痛、憑依等の場合に施行せられ、死後の穿顱は頭蓋骨の崇拝、或は護符の宗教的観念の下に行わる。
と説かれている〔一〕。茲に憑依とは、神がかりとも云うほどの意であろう。而して更に「史苑」第二巻第一第二号に連載された岡田太郎氏の「新石器時代の穿顱術について」と題せる論文には、
此の種の外科手術が、先史時代に行われたことについては、種々なる仮説が試みられた。プロカは、癩癇患者に対する治療法として行われたもので、悪霊が頭蓋骨の穿孔から逃げるものと信じられていたと言っている。多くの場合、前頭骨に手術が行われないで、顱頂部に行われる故に、此の迷信が主要原因であったと力説している。ミュニツワ及びマック・ジィは、穿顱術が呪術的起原を有するもので、本来治療的なものではないとまで極言している云々。
と説かれている。而して是等の研究に従えば、我国の古代に顱頂骨を穿つことが、医療を目的とした呪術として行われた点は先ず疑いないようであるが、それでは此の施術者は何者であったかという点になると、両論文とも少しもこれに触れていないのである。私は例の独断から、此の施術者こそ巫女であって、然も施術の場合には、神意を窺うて行ったものと想像するのである。妊婦の屍体を開腹するほどの蛮勇(勿論それは神の命ずることとして行ったのであるが)を有していた巫女にとっては、当然有り得べき事実と信じたいのである。  
二 物件を封結する医療的呪術
これは或る物を封じ、又は結ぶを以て、医療の目的を達せんとする呪術である。前に引用した「貞観儀式」の鎮魂祭儀の条に、
大蔵録以安芸木綿二枚実(イレテ)於筥中、進置伯前、御巫覆宇気槽、立其上以桙撞槽、毎一度畢伯結木綿云々
とあるのは、此の信仰に由来するものと思う。勿論、鎮魂の祭儀の所見である「天孫本紀」には斯かる手続きは記してないが、併し極めて厳粛なるべき此の祭儀は、神代以来少しも渝ることなく保存されたに相違ないので、それが初めて行われた際にも、此の手続きの存したことと拝察すべきである。而して後世になると、これを「御玉緒糸」とも「御玉結糸」とも申したようである〔二〕。「三代実録」貞観二年八月二十七日の条に、
夜偸児開神祇官西院斎戸神殿、盗取主上結御魂緒等、
とあるより推測するも、糸を結ぶことが此の祭儀の要点であったことが窺われるのである。ただ研究の余地の在るところは、由来、鎮魂祭なるものは、龍体の御健やかにおわします時に行い、御悩の折に行うことが尠いので、必ずしもこれを以て医療ということが出来ぬと論ずる者があるやも知れぬが、併し僅少の場合にせよ、御悩の場合に行わせられた例証も存している。これも前に引用したが、「天武紀」十四年冬十一月丙寅の条に、
法蔵法師金撞鐘、献白求煎、是日為天皇招魂之〔三〕。
と載せ、更に後世の記事ではあるが、「日本後紀」延暦二十三年二月の条に、桓武帝不予のために奈良より巫女を召して鎮魂された(此の全文は第二篇に載せる)事が記されているのを見ても、鎮魂に医療的の信仰が含まれていた事が窺知されるのである。  
三 病魔を驚圧する医療的呪術
古代人は、総ての疾病は、病魔の(古くこれを物(モノ)の気(ケ)というた)の襲うことが原因であると信じていたので、これを回復せんには、その病魔を駆除することが肝要とせられ、此の駆除法には種々なる呪術が行われたようである。例えば、病者の身体や、病室を殴打することや、病魔が嫌いそうな異臭のあるものを病者に食わせたり、又は室内に焚いたりするのや、その他にも様々なものが工夫されていた。而して此の駆除呪術は、斯くして病魔を驚駭させ、圧服するという信仰から出発していることは、言うまでもない。屡記を経た天鈿女命が磐戸の斎庭において「手に茅纒の矟(ホコ)を持ち」神がかりしたのは、葬宴に際して疎び荒び来る物の気を攘うためであったとも思われる。換言すれば、矟という武器によって、物の気を強圧する手段とも見られるのである。漢字通の後藤朝太郎氏から聴いた話に、支那の弔という字は、葬礼のときに人が弓を携えて往った民俗があったので、それの象形文字だということである。それとこれと、思想上に共通があるか否かは、断言できぬけれども、我国にも葬儀に弓を携えて往く例は、各地に行われている〔四〕。或は此の民俗なども遠くに溯ると、鈿女の矟のように物の気を攘うのが目的であったかも知れぬ。「神楽歌」の採物に、弓、剣、鉾などのあるのも、又この信仰の在ったことを想わせるものがある。
病魔の嫌う異臭を以て、医療的の呪術を行ったものとしては、「景行紀」にある倭尊の故事を例証として挙げることが出来ようと思う。即ち
日本武尊被烟凌霧、遙経大山、既逮于峯而飢之、食於山中、山神将令苦王、以化白鹿立於王前、王異之、以一箇蒜弾白鹿、則中眼而殺之(中略)。先是度信濃坂者、多得神気以瘼臥(ヲヱフセリ)、但従殺白鹿之後踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、自不中神気也。
とあるのが、それである。而して此の記事には注意すべきものが二つある。第一は、倭尊が白鹿に化した悪神の不意に出でて、蒜を弾きかけて驚駭させたことと、第二は蒜が邪気を攘う呪力を有するものと信仰されていた事である。現時でも門戸に蒜を懸けて病魔を追うのは、蓋し此の信仰に基いたものであろうが、更に一段と歩をすすめて考えるときは、此の種の信仰は東方アジヤの文化圏に共通しているものであって、古くは支那から渡来したのかも知れぬのである。そして倭尊が蒜に病魔を攘う呪力あること知られていたのは、恐らく姨であり、当時最高位の巫女であった倭媛命から教えられたものと想像される〔五〕。必ずやその頃の巫女は、蒜(蓬または毛などを焼くことも行われたものと思うが古い文献には見えぬ)を用いて此の種の呪術を行うたものと考えられる。そして此の時の呪術が、医療的であったことは、病臥の用語からも察しられるのである。 
四 神霊の力で病魔を駆除する呪術
これは巫女の医療的呪術としては、極めて普通なものであって、別段に取り立てて言うほどの事も無いのであるが少しく心附けるものを記して参考に資せんに、注連縄を張ることは、その一であった。鈴を振る(神の声として)ことはその二であった。社の周囲を匝ること(寛文頃の記録を見ると、宮中では刀自と称する女官が、主上御悩のときに、お千度と称して、内侍所の周りを千度匝ると載せてある)は、その三であった。
而して猶お此の場合に考えて見たいことは、木花開耶姫命が皇子三柱を産みますときに、産室に火を放って焚き、火中において分娩されたという有名なる神話の医療学的解釈である。勿論、出産は生理的のことであって、病気では無いが、古代においてはさる区別は意識しなかったので、姑らく出産を病気として見ることとしたのである。此の神話は皇孫が妹神に対して「天神の子と雖も、いかが一夜に人をし娠ませんや、はた吾が児にあらざるか」と仰せられたに対して、誓(ウケヒ)の考えを以て火中に入られたというのが骨子となっているのではあるが、現に琉球の各地方に行われている民俗として、妊婦が産に臨むと、室内に数個の大火鉢に火を焚き、その熱によって産婦に発汗させることを、安産の呪術と信じているのに比較すると、木花開耶媛の場合も、何か斯うした呪術的の民俗が、神話の成立要因となっていたのではあるまいか。敢て後考を俟つとする。
以上で私の謂うところの第一の祈祷及び呪術による巫女の医療的職務は大体を尽したのである。これから更に第二の薬剤を用いた医療的呪術に就いて述べるとする。 
五 供物を薬用とした医療的呪術
我国でも薬の初めが酒であったことは既述した。然も此の酒が、刀自と称する巫女によって造られることは〔六〕、又た我国における古き習俗であった。神楽の「酒殿歌」に「酒どのは今朝はな掃きそうれりめの、裳ひき裾ひき今朝は掃きてき」とあるのは、その徴証である〔七〕。而して古代の造酒法は、即ち噛み酒であって、その噛む役は、主として女性がそれに当っていたのである。「大隅国風土記」逸文に、
一家水米を設け、村に告げめぐらせば、男女一所に集りて、米を噛みて酒糟へ吐き入て、ちりぢりに帰りぬ。酒香いでくる時、又集りて、噛みて吐き入れし者ども是を飲むを、名づけてくち噛みの酒と云う(大岡山書店本)。
とあるのは、よく古代の造酒法を伝えたものであって、琉球の各地方では、近年まで神に供える酒だけは、村内の処女(経水の無い者に限る)が集って噛んで造ったものである〔八〕。更に琉球では酒のことを「おくすり」と云っているが、これは即ち薬の意で、別に「むしやく」と称するのは、噛むの意であると伝えられている〔九〕。是等に由るも酒が巫女の手で作られ、専ら薬として用いられた事が知られるのである。「万葉集」に「味酒(ウマザケ)の三輪の祝(ハフリ)が斎ふ杉、手触れし罪か君に逢い難き」とある短歌を始めとして、三輪の冠辞に味酒の語を撰んだのは、三輪を酒の実湧(ミワ)く(噛んだ米が唾液中の酸素と化合して、沸々として醸(わ)くこと)に思い寄せたものではあるが〔一〇〕、然もその米を噛んで酒を造ったものは、三輪社に仕えた巫女の仕事であった。
ただ此の場合に考えて見なければならぬ問題は、古代にあっては、神を祭るとき以外には、殆んど絶対的に酒を飲むことを許されていなかったということである。それは恰も、種族を異にし、民俗を別にしているアイヌでは、現在でも酒を飲むときは、如何なる場合でも、先ず神飲(カムイノミ)と称する儀式をして、神に供えたお流れを頂戴するという信仰の下に飲酒するのを常礼としているが、我が古代人の酒に対する信仰も、又これと相択ばざるものが存していたのである。「仲哀記」に神功皇后が皇太子誉田別のために「待(マ)ち酒を醸(カ)みて献らしき」とある待ち酒は〔一一〕、まちの語に祭ることと、占うこととの二義が含まれていて〔一二〕、酒を飲むことは、神を祭る場合に限られていたことを示唆しているのである。而して後世の記録ではあるが、延喜の「玄蕃寮式」に「凡新羅客入朝者、給神酒」と載せ、更に此の神酒の材料となるべき稲は、大和国の賀茂意富、纏向倭文、河内国の恩智、和泉国の安那志、摂津国の住道、伊佐見等の各神社より出させて是れを住道社に送り、別に大和国片岡、摂津国広田、生田、長田などの神社より出せるものは生田社に送り。共にその社の神部をして造らしめたとあるのも、又この間の消息が推知されるのである。
而して、かく酒なるものが重く扱われていたのは、その酔心地が神の作用によるものと信じていたに原因することは言うまでもないが、更に此の酒が薬剤として用いられたのは、神に供物として献げた余瀝を飲むために、一段と効験があると考えたからである。誰でも知っていることではあるが、奈良の正倉院に砂糖若干が秘蔵されている。これは奈良時代にあっては、砂糖は貴重品であったと同時に、又た大切なる薬剤なのであった。今日でこそ砂糖は苦もなく手に入れることが出来るけれども、僅に二百四五十年前の江戸期の初葉までは、甘味といえば、甘草の煎じ汁か、柿の甘みより外には無かったことを知れば、一千余年を隔てた奈良時代の砂糖の尊さが、想いやられるのである。薬用としての酒も、又この事由と同じものと見るべきである。
後世になると、神に供えた総ての物が、医療的呪術を有するように考えられているが、古代においては、その供物が果して如何なるものであったかが判然しないので、それを明確にすることが困難なのである。勿論、祝詞を見ると海の物、山の物、野の物などが供えられているが、これは単なる供物ではなくして、寧ろ神に対する礼代(ヰヤジリ)と思われるので、茲には姑らく省略に従うとした。 
六 薬剤を用いた医療的呪術
諾尊が黄泉軍に追われ、桃を投げて撃退したとき、
桃子に告りたまはく、汝吾を助けしがごと、葦原中津国に有らゆる現しき青人草の、苦き瀬に落ちて、苦しまむ時に助けてよと告りたまひて、意富加牟豆美命といふ名を賜ひき。
と「古事記」に載せてあるが、桃に避邪治病の効験ありとしたのは、支那の思想であって、諾尊の此の記事が「古事記」の編纂された折に追記されたものと思われるので、従って純粋なる我国の信仰とは考えられぬ。
これに較べると、同じ「古事記」に、大国主命が稲羽の兎の傷けるを憐み、
急くこの水門に往きて、水もて汝が身を洗ひて、即ちその水門の蒲(カマ)ノ黄(ハナ)を取りて、敷き散して、その上に輾(マ)い転びてば、汝が身本の膚のごと、必ず差(イ)えなむ。
と教えしものこそ、却って我が古代の民間療法をそのまま伝えたものと信じたいのである。更に此の大国主命が、兄弟の八十神たちのために伯耆の手間の山本にて遭難せることを「古事記」に、
大穴牟遅神(中略)、その石に焼き著かえて死せたまひき。ここにその御祖命哭き患ひて、天にまゐ上りて、神産巣日之命に請したまふ時に、乃ち𧏛貝(キサガヒ)比売と蛤貝(ウムキガヒ)比売とを遣せて、作り活さしめたまふ。かれ𧏛貝比売きさげ集めて、蛤貝比売水を持ちて、母(オモ)の乳汁と塗りしかば、麗しき壮夫になりて、出で遊行(ある)きき。
と記したのも〔一三〕、また我が古俗の治療法であったと信ずべきである。而して蛤が永く薬剤として用いられたことは、「色葉字類抄」に此の字をクスと訓ませたのでも知られるのである。
こうして動植物を薬用としたことは猶お此の外にも相当に存している。何の事か私にもよく判然せぬが、「諏訪大明神絵詞」巻下の、十二月二十四日神長官がしんふくらを祭る折に唱うる詞に、
陸奥国せんせんつかふしのひとり姫御前、腹をやませ給ふに(中略)、東山信濃諏訪郡武居の御里に、いこもらおはします大明神の御室中にある、しんふくらと云鳥を御薬につかはせ給はば、御腹なほらせ給ふべし。
とあるのは、察するに諏訪社に伝えた鳥薬と思われるのである。後世の書物(延喜頃のものか)ではあるが、「本草和名」を見ると、左の記事がある。
石斛 一名林蘭(中略)。 石斛者山精也云々。 和名須久奈比古乃久須禰、一名以波久須利。
是によれば、石斛を少名彦命の遺方として薬用としたことが窺われ、更に同書には、此の外に幾多の呪術から出発した民間療法薬を載せている〔一四〕。而して「医疾令」によれば、医師の外に、呪禁師と呪博士とがあって、古き医呪同根の面影を残し、未見の書ではあるが、伴信友翁の「方術原論」に引用された「医心方」には、一剤毎に一首の呪歌が添えてあるといえば、これも呪術が医薬の先駆をなしたことを示しているのである。そして是等の施術者が巫女であったことは言うまでもなく、然も永い間を——医術と呪術とが全く分離した後までも〔一五〕、此の事に関係を有していたのである。 
〔註一〕清野氏等の報告によると、穿顱頭蓋は、広島、岡山、愛知の三県から発掘され、男女の遺骨ともあるとの事である。
〔註二〕御玉緒糸は「深山御記」に御玉結糸は「宮主秘事口伝」にあると、伴翁の「鎮魂伝」に載せてある。
〔註三〕「天武紀」の招魂が、鎮魂と同じものであることは既述を経た。そして此の事が天武帝の不予のために行われたことは此の翌年に崩御されたことからも拝察されると伴翁も「鎮魂伝」において述べている。
〔註四〕葬儀に、弓を携えて往く民俗は各地に在るが、殊に奇抜なのは、土佐群書類従本「豊永郷葬事略記」にあるものである。即ち同国長岡郡豊永郷では、死人があると、弓持と称する者、竹の弓矢を携えて、棺の後に附添うて往き、墓穴に棺を納めるとき、弓持は棺を覆いし衣物を、弓の先にて取り退け、穴の内に納め、それより弓持は直ちに喪家に立帰り、大音にて「宿かり申そう」と言えば、留守居の者内より「三日跡に人質を取られて宿かすことは出来申さぬ」と答えると、又弓持「然らば艮鬼門の方へ世直り中直りの弓を引く」と云いつつ、矢を番いて、家の棟を射越し、弓も踏み折り、投げ越すとある。更に「年中故事」巻三に肥後米良山の「栃木県河内郡豊郷村郷土誌」に同村の、共に弓を携えて葬礼に行くことが載せてある。
〔註五〕神話と民俗との関係に就いては、前にも一度記したことがあるも、これは神話に在る事実が先に行われて、後に民俗が生じたのでは無くして、既に民俗が存していたのが神話に反映したのであると解すべきである。
〔註六〕従来、酒を造る者をとうじと云い、これに杜司の字を当てていたので、とうじは支那を学んだものであろうなどと、江戸時代の好事家なる者は気楽な考証をしたものであるが、これは橘守部が「神楽歌入文」で創説した如く、刀自即ち巫女である。延喜の「神名式」に「造酒司坐神六座(大四座小二座)大宮売神社四座」とあるのも、更に「文徳実録」斉衡三年九月辛亥の条に「造酒司酒甕神従五位下大邑刀自、小邑刀自等、並預春秋祭」とあるなど、咸な古代の巫女が造酒していることを証明しているのである。猶お刀自を巫女という証拠は、宮中の内侍所に仕える女官を、古くおさい(御斎)うねめ(采女)、とじ(刀自)、めうぶ(命婦)等に区別しているが、是等の女官が古き御巫の末であることは勿論である。
〔註七〕僧顕昭の「袖中抄」によると、賀茂社のうれりめは酒殿に仕えた造酒の巫女である。猶お各地の名神大社の酒殿の巫女に就いては「民族」第四巻第二号に掲載した拙稿「御左口神考」が、多少とも此の問題に触れているので参照を望む。
〔註八〕此の事は琉球の古い事を書いた「遺老説伝」等にも見え、又た同地出身の伊波普猷氏からも聴いている。更に同国石垣島の皿浜出身で、横浜高等女学校の教職に在る前泊克子女史の談によると、同地では酒を「んさく」というが、是れも噛み酒の意だということである。
〔註九〕伊波普猷氏の「古琉球」第□版の附録「混効験集」にある。因に同集は古い同国の辞書である。
〔註一〇〕碩学南方熊楠氏の談に、大和の三輪が酒の名所として知られたのは、酒を容れる樽材として、三輪杉が理想的であったばかりでなく、更に古く同地の杉の脂から、酒を製したことがあったためではないかとのことであった。附記して参考に資するとする。
〔註一一〕待ち酒は「万葉集」巻四にも「君が為めかみし待ち酒安の野に、独りや飲まむ友なしにして」とある。
〔註一二〕祭をマチと云うているところは、今に各地にある。待ち酒のまちは、祭のマチであって、これに待つ人の来るか来ぬかを占う意も含まれていると、折口信夫氏から教えられたことがある。
〔註一三〕此の一条は、我国における神の復活の信仰を記したものにして見るとき、一段の意義がある。併しそれは姑らく措くとするも、ここに𧏛や蛤を人格と見たのは、その効験から来た事で、古く此の種の貝類や母乳を薬用としたことを暗示していると見るも又た意味が深い。
〔註一四〕私の見た「本草和名」は「日本古典全集」本であるが、その底本となったのは、解題によると、森枳園の書入れ本である。そして此の書入れを見ても、「医心方」を引いたところがあるが、これ等によると、我が古代に種々な動植物及びその他の庶物まで薬用としたことが窺われるのである。
〔註一五〕琉球に関する書物を読むと、同地には近年まで「医者ユタ」と称するものがあった。これはユタと称する下級の巫女が医者を兼ねていたので、此の語が生じたのである。更に伊豆七島の事を記した写本類には、八丈、三宅、大島などの島名主は、一人で名主という行政者の外に、神官と医者とを兼ねるのが普通であったと載せている。是等は共に古俗をそのままに保存したものである。 
第五節 収税者としての巫女

 

これも漢字通の後藤朝太郎氏から聴いた話であるが、税という字は「説文」によると、扁の禾は稲を意味し、作りの兌は冠を被った人の意味で、即ち神に仕えた巫覡が、民衆から稲を収めさせたのが税の字の起りであるとのことであった。併し斯うした原始的の社会事象は、人間が横目縦鼻である限りは、どこにでも共通的に発明され、且つ実行されていたことと思われるので、これを我国の古代に移して考えて見たのが、此の一節である。由来、これまでの学者は、余りに文化移動説に捉われていて、支那(その他の国)と我国と類似した思想や民俗があると、直ちに我国のそれは、支那の輸入(又は模倣)だと言ったものであるが、これには相当の欠陥が伴うている事を知らねばならぬ。私に言わせれば、勿論、支那から輸入されたものも尠くはないが、それと同時に支那で考えそうな事は、我国でも考えらるる事で、似ているから輸入だ、模倣だとばかりは云えぬのである。殊に自然科学の発明ならばいざ知らず、人文科学に関する事象などは、彼我類似なものがあるからとて、少しも不思議とするには足らぬのである。茲に言う巫女と収税の如き、又その一例として見るべきである。
我国で国民から徴税したのは「崇神紀」の「男の弓端(ユハヅ)の調(ミツギ)、女の手末(タナスヱ)の調」が、その最初であると伝えられているが、これは同朝において、国法的に定めたという意味であって、その実際においては、ずっと古くから行われていたものと考える。而して私が言おうとする巫女が収税者として働いたのは、国法的に治定されぬ以前の時代であることは勿論である。
我国では神へ供えるものをヌサと称しているが、現今ではヌサと言えば御幣の意味にのみ解釈されて〔一〕、その範囲も頗る狭義のものとなってしまったが、古代のヌサは決してかかるものではなく、神へ捧げた布帛その他を称した広義なものであった。而して古代のヌサは、後世のミテグラと同じものであって、「遷却崇神祭」の祝詞にある如く、
進る幣帛(ミテグラ)は明妙、照妙、和妙、荒妙に備へ奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打ち断る物と太刀、馳せ出づる物と馬、神酒は瓺(ミカ)の上(ヘ)高知り瓺の腹満て双べて、米にも頴(カヒ)にも、山に住む物は毛の和物毛の荒物、大野原に生ふる物は甘菜辛菜、青海原に住む物は、鰭の広物鰭の狭物、奥つ海菜辺つ海菜に至るまで……
在らゆる物が、即ち安幣帛(ヤスミテグラ)の足幣帛(タリミテグラ)であったのである。そして茲に挙げた物資は言うまでもなく、当時の生活においては、欠くことの出来ぬ物ばかりであって、然も是等の物を神へ供えることは、即ち古く此の幣帛なるものが、神の生活の基調であったことが知られるのである。一個の勤労に対する一個の報酬ということは、人と人との間には行われ得べきも、神と人——即ち治者と被治者との間は、此の経済関係を以て律することが出来ぬので、神に捧げる幣帛は、その実質においては、租税と同じものであったと考うべきである。
巫女の収税は、神への「ゐやじり」の名で行われたのである。後世になると「ゐやじり」に礼代の漢字を当てて訓ませるようになったので、専ら神に対する御礼とか、報賽とかいう意味にのみ解釈されているが〔二〕、これは本末を顛倒したものであって、神の保護を受ける為に捧げる誠意の発露で、神の冥助を受けた御礼に供える報酬ではない。結果においては同じように見えるけれども、動機にあっては、決して同じものではない。これを手っ取り早く卑近の例を以て示せば、後世の国民は納税した為めに権利を与えられるので、権利を与えられた為めに納税するのでないのと同じである。
我国の租税が神への「ゐやじり」に起原せることを有力に示唆しているのは、荷前(ノサキ)の制度である。伴信友翁は「比古婆衣」巻七において、
荷前とは、諸国の御調(ミツギ)の絹布の類をはじめ、くさぐさの中の最物(ハツモノ)を撰びて取分置て、其を先ず天照大御神宮に奉り給ひ、又相嘗に預り給ふ神たちの幣物にも奉り給ひ、また御世々々の山稜に奉り給ひ、さて其残りを天皇の受納領す御事になむありける。
と定義し、更に翁独特の、微に入り細を穿つ考証を試みている〔三〕。而してこれによれば、神に捧げし御調の残りを主権者が受領するとは、即ち古く納税は神に対して行われていたものが、その神の後を承けた天皇に継がれたものと解釈すべきである。
少しく後世(桓武朝延暦十一年書上)の記事ではあるが、「高橋氏文」に、景行帝が六獦命を膳夫に任じ、山野河海の雑物を兼摂(フサネ)取持ちて仕え奉れと勅し、
如是(カク)依賜事波、朕我独心耳非矣、是天坐神乃命叙(中略)、諸友諸人催率天、慎勤仕奉止仰賜云々。
とあるのは、よく此の間の事情を尽しているものと信ずるのである。かくて時代がすすみ、租調庸の法が確立し、収税の官吏が設けられるまでは、巫女が主として此の職務に服したことは、彼等が神に仕える当然の仕事であったと考えるのである。琉球の神歌(オモロ)「しよりゑとのふし」の一節に、
かまへつ(租税積)で、 みおやせ、 あけしの(地名)の、 おやのろ(大祝女)
とて、同地の巫女(ノロ)が租税を取立てて歩いたことを語ったものがあるが〔四〕、これ等は内地の古俗をそのまま化石させて残したものである〔五〕。
〔註一〕増補語林「倭訓栞」の附録「桑家漢語抄」(中山曰。此の書は和名抄に引ける揚氏漢語抄とは異るも、同抄の序に載せたる其余の漢語抄の一なるべしとの説がある)巻三に、「幣、沼佐、可書貫棒、有可神納、則都良奴幾佐々具流之義也」とあるように、幣の本質は、相当に容量において、多く、品質において種々なるものが在ったと見るべきであって、現今の幣束は幣の後身ではあるが、これを以て古代のそれを推すことは出来ぬのである。
〔註二〕「ゐやじり」の語に、「文徳実録」天安元年二月乙酉改元の宣命に「礼代乃大幣帛乎令捧持」と見え、「三代実録」貞観三年五月十五日の祈雨の告文に「礼代乃大幣帛乎令捧持」とある。而して是等の記事には、やや「ゐやじり」が第二義的の御礼の意味に使用されている。
〔註三〕荷前の起原に就いては、伴翁の記事細註に引ける「皇代略記」持統天皇段裡書に、荷前事初此代云々とあるが、これは伴翁も言われた如く、単にこれだけでは、徴証が不充分であるばかりでなく、「万葉集」巻二に、久米禅師の歌として「東人の荷前の箱の荷の緒にも、妹がこころに乗りにけるかも」とあり、然も此の禅師は、持統朝より古き天智朝の人であるから、その起原はずっと以前に在ったと見るべきである。
〔註四〕前に引用したことのある伊波普猷氏の「おもろさうし選釈」に拠る。猶お同書によれば、「おもろ」の中には、此の外にも覡や、よた(下級の巫女)や、のろ(巫女)の連中が租税を取立てるのを謡ったものがあるとのことである。
〔註五〕本庄栄次郎氏の「日本経済史」租税の起原の条に、「日本書紀」の一書にある天照神が、天児屋、太玉の両命に勅して「吾が高天原に御す斎庭の穂を以て亦吾が児に御せまつる」とあるのや、「神武記」の「贄持」を租税と見られているが、私には後者は兎に角として、前者は遽に左袒することが出来ぬので、わざと執らぬこととした。
第六節 航海の守護者としての巫女

 

「魏志」の倭人伝の一節に、
其行来渡海詣中国、恒使一人、不梳頭、不去蟻蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰云々。
とある。此の持衰と称する者の民俗学的研究は、相当に興味の多い問題ではあるが、それは茲には預るとして、此の記事の「不近婦人」とは、船中に居る婦人を近づけぬという意味か、それとも陸上に在っても婦人を遠ざけるほどに慎んでいるのかに就いて異説がある〔一〕。併し、その異説も、直接本問には交渉するところが尠いので、深く言うことを避けるが、ただ我が古代の遠洋航海の船中に、婦人が乗組んでいたことだけは、明白なる事実である。倭武尊の妾(ヲウナメ)であった橘媛が、走水ノ海を渡るとき入水されたことは、有力に此のことを証示している。更に前に挙げた「欽明紀」にある河辺臣瓊缶が婦甘美媛を、調吉士伊企儺が妻子葉子を、共に帯同して渡韓せることも、此の事実の存在を物語っているのである。迥かに後世の記録ではあるが、紀貫之の「土佐日記」などを見ても、女性が同船していたことは疑うべくもない。
それでは、此の女性は、既述した如く単なる御陣女臈としての任務に服すだけであったかというに、その条でも言った如く、実際は巫女の聖職に遵い、航海の安全を守護すべき大役が負わされていたのである。我国でも、後世になると、血忌みの信仰から、女性を穢れた者として、乗船を拒んだり、又は乗客の数の奇偶によって吉凶を云うような習俗を生むようになったが〔二〕、古代にあっては、此の反対に、遠路の航海には、必ず女性を同船させる慣習となっていたようである。而して此の事を間接的にも示唆しているものは、(一)焼火明神の由来、(二)各地の御船の神事に巫女が主役を勤めること、(三)俚俗に船霊と称する信仰の民俗がそれである。私はこれに就いて記述したいと思う。  
一 焼火明神の由来と巫女
我国の各地にある龍燈ノ松の正体は、柳田国男先生によって、燈台の代用として、火を焚きしことが伝説化されたものと判然した〔三〕。更に航海中暴風雨に遇い、難船を免がるるために神に祈り、空中に火光を認めて救われた物語は、聖火(セントエルナ)系の説話として、世界的に分布されていることも判然した〔四〕。既に此の二つの問題が解決されている以上は、隠岐国知夫郡黒木村大字美田に鎮座する焼火神社(祭神は神名帳にある比奈麻治比売命)の由来も、簡単に説明することが出来るのである。而して茲に先ず焼火の神名を負える事由を載せ、その後に祭神の正体を突き留めたいと思う。即ち「類聚国史」巻十延喜十八年五月丙辰の条に、
前遣渤海使外従五位下内蔵宿禰賀茂麻呂等、言帰郷之日、海中夜暗東西掣曳不識所著、于時遠有火光、尋逐其光、忽到島浜訪之(中略)。或云比奈麻治比売神常有霊験、商売之輩漂宕海中必揚火光、頼之得全者不可勝数、神之祐助良可嘉報、伏望奉預幣例、許之。
と載せてあり、更に「諸社一覧」第七に、
此社を離火(タクヒ)社と称し奉る事、往還の船、闇夜の比悪風にあひ、或は潮に蕩ふに、船人身を清めて、此神社の方に向ひて離火を祈念すれば、忽然と火起て大なる炬火の如くなり、其時東西をわきまへ、船を直して岸に着ることを得るなり、誠に奇異の神功なり(続々群書類従本)。
とあるので、神名の由来は明瞭となった。然らば此の神火は何物かと云うに、これは「神名帳考証」四十四に「此地辺号大山腰、此山上焼火之神歟」とあるように、日本海に臨める山上で、火を焚いて灯台の代用をしたもので〔五〕然も古く此の焼火の役を勤めたものが即ち比奈麻治比売命と呼ばれた巫女なのである。猶お知夫の郡名も、僧顕昭の「袖中抄」によれば、知夫利ノ神——即ち海中の道振の神に由るものである。  
二 御船の神事と巫女
神社の恒例となっている御船の神事に、巫女が中心となって祭儀を行う習礼は夥しきまで存しているが、茲には重なるもの二三だけを挙げ、以て古代における巫女が航海の守護者であったことを証明する。而して是れが代表的とも思わるるものは、紀伊国新宮町の熊野速玉神社に行われるハリハリ踊の神事である。此の祭は、毎年十月の十五日を宵宮とし、翌十六日を本祭とするが、その十六日に神霊を龍頭鷁首の朱塗船(国宝)に遷して、熊野川を溯航し、河心の御舟島という小島を巡幸する儀式あり、此の神船を曳航するのが有名な熊野の諸手船である。此の船は、大昔から同国南牟婁郡鵜殿村の廻船組合から出すことになっていて、然も諸手船は赤い衣服に赤い頭巾を被った老媼に扮した男子(挿入の写真参照)が操るのであるが、その際に、女装の者が一本の櫂を持って船を漕ぐような舞踏をなし、船中に居る他の二十余人は囃し詞を合唱する〔六〕。そして此の女装の者が、古く巫女であったことは言うまでもない。斯うして一方においては神霊に祈って加護を仰ぎ、一方においては舞踏して水手の勇気を励ましたのである。
安芸の厳島神社の延年祭は、昔は七月十四日の夜に執行された。地盤(船型)と称する台の中に、三尺余の人形を装束美しく飾り、人形の頭は例年七月二日に座主が拵える。台の四方には、梅松桜などを造り、幣を切りかける。薄幕に社役が鳴らす鐘を合図に、東町西町両方より男子皆裸体散髪にて鬨ノ声を挙げ、我れ先にと釣り上げたる地盤の下に集り、伶官の曲が終ると地盤を下ろす。裸体の者、争って彼の人形を取らんとて、大混雑を極む。人形の首を取ると式を終るが、此の首を取った者は福があると云っている〔七〕。此の神事は他にも類例の多い年占の一種と見るまでに民俗化されてしまったが、それでもその船型した地盤に飾られる人形が、巫女(厳島社ではこれを内侍と云いし事は既述した)の面影を残していることが偲ばれる。恐らく古い時代にあっては、巫女が関与した船祭であったに相違ない。
出雲の美保神社の青柴垣神事は事代主命の故事を伝えたものだけに、祭儀も厳粛を極めている。今に頭人を定めて四月一日から六日夜まで前義を営み、愈々七日の祭日になると朝から神事があり、やがて奏者番が御船が着いたと知らせがあると、猿田彦、鈿女命に扮せる者が船迎に出て、続いて巫女二人(綾笠を被る)が八乙女を従え、編札(ササラ)、笛等の役向の者も御船に分乗して、古式の巫女舞をする。それが終ると、総員御船より上陸し、初列は編札の田楽舞を先頭に、鼓笛の音につれて、徐々に巫女八乙女が進み、当屋の妻は屈竟の男の背に懸けた負棒(モリギ)を踏まえ、負われながらに参社し、此の外にも種々なる祭儀があって終るのである〔八〕。そして此の神事は頭屋の妻が古代の巫女の名残りを留めているのであろうと思うが、それを言い出すと長文になるのと、且つそれまで言わなくとも、航海と巫女の関係が克明に存しているので、今は略すとした。  
三 船霊信仰と巫女
現に我国に行われている船霊(フナダマ)信仰は、支那において発達した天妃信仰が、かなり濃密に織り込まれているようである〔九〕。それで茲には、出来るだけ我国固有の信仰を討(たず)ねて見たのであるが、それでも幾分か、天妃信仰の匂いがするような気がしてならぬ。私の学問の力では、これ以上は及ばぬ所ゆえ、敢て陳呉となって後考を俟つとする。
船霊——即ち船舶を守護する神に就いては、昔から学者の間に異説があるも、よく是等の異説を挙げて考証したものは、高田与清翁の「松屋筆記」巻九に載せた「船霊神記」と思うので、左に摘録し、その後に私見を加えることとする。曰く、
船霊の神は、いづれの神にますと云ふこと定かならず、神名帳に津の国住吉郡船玉神社を載す、これ船玉命とまうす神なりといへど、たしかなる書には見ゆることなし。続日本紀(中山曰。天平宝字七年八月壬午の条)に能登といふ船の船霊に従五位のかうぶりを授けられしよし(中山曰。これは船その者を神格化したのである)あり日本紀の神功皇后の巻には、住吉の和魂往来の船を見んとのりごち給ひ。延喜式の使を唐に遣さるる時の祝詞には、船路の平かならんことを住吉の神に祈るよし見え。万葉集には「墨吉の吾大御神船のへに、うしはきいまし船ともにみたたしまして」と詠みたるなど思ひわたすに、舟の守りの神は住吉の大神にて(中略)神功皇后の御魂をまうすなるべし。また廿二社注式の異本には、豊玉姫を申すとも海童を申すとも見え(中略)甲斐国吉田の神官たち注式の異本の説をむべないて、豊玉姫を船霊の神とし斎きまつること久しく、この祈りのしるしをかうふれるもの多かりとなん。豊玉姫は海神の女にて彦火々出見尊の御妃也。こたびその御かたを画き、余にこと書そへてとこふままに、文政の初めの年十二月朔日(中略)高田与清しるす(以上。国書刊行会本。但し句読点を加え仮名を真字に書き改めたところがある)。
これに拠ると、与清翁自身は、船霊神とは住吉三社に神后の御魂を添えたるものと信じているのであるが、依頼せる者は豊玉姫の御姿を画いて持参したので、姑らく此の姫を船霊神としたという結論に達するのである。かく船霊神は大昔から一定せぬ上に、仏家では「元亨釈書」にある如く、華厳経の守夜神を船神とし、叡山では新羅明神が僧最澄の船を守護したので、これを船ノ神となし。更に俗神道家は猿田彦命を船霊と称し、これに加うるに支那の道家の天妃が持ち込まれたのであるから、その混雑は一通りや二通りでは無いのである。併しながら、此の混雑中にも、やや一貫している信仰は、豊玉姫と云い、神后と云い、畏きことながら、兎に角に女性がその中心となっていることは関心すべき点である。
「松屋筆記」巻六九に引用せる「船長日記」巻上に、
船玉とは船のぬし也、帆柱を立る筒の下に納め置くこと也、神雛一対、その船主の妻の髪毛少し、双六の賽二(原註。サイノ目の置方あり)此三品を納め置くを船玉といふ也。
と記し。更に同書の他の一節とて同巻に引用せるものには、
紙鬮を以て大神宮の神勅を伺て事を図る也、此の紙鬮といふは、一升桝に米八合ほど入れ、紙を一寸四方に切て思ふ事を書付け、丸めて其上に置き、扨大神宮を念じて一万度の御祓を其上にかざさば、丸めたる紙の中一つ飛びあがりて御祓へ付也。それを見て知る事也、此の御告はいささかも違ふ事なし。されば日本の船頭は、大神宮の神託のみにて、船を乗り侍る也。
とあるのは〔一〇〕、これ又畏きことながら、大神宮が女性であらせられるために、こうした信仰が生れたものと察しられるのである。而して更に一段と想いを潜めるとき、かく女性である神々が船を守護し、延いて船霊とまで崇拝されるようになった根本的の理由は、古く巫女が船に乗っていたことを示唆したものと考えるのである〔一一〕。
船霊の象徴である賽の置き方に就いては、「天野政徳随筆」巻一に載せてあるが、これは左程に必要のこととも思われぬので省略するが、同書に「秉穂録」を引用して、
船中に祭る船霊は十一面観音也、女人の白髪数茎と双六の采二つ(中略)。大観通宝四五銭、同じく箱に入れて檣の下に納め置く、大観は観音に象るといふ(随筆大観本)。
とあるのは、少しく注意すべき記事である。女人の白髪と共に、十一面観音を併せ信じたのは、此の観音が女性であったからで、仏教の渡来などよりはずっと以前から船霊は女性であると考えられているので、後に観音が附会されたのである。但し大観通宝を観音を象るものと見たのは「秉穂録」の筆者の思い過しで、これは単に、銭には除魔の呪力あるものと信じたと見るべきである〔一二〕。
而して此の信仰が、民俗として現存しているかというに、「民族」第二巻第五号に、
陸中大槌地方船(櫓船でも発動機船でも)を新造すると、必ずお船霊様を奉祀する。船霊には無邪気で健康な女の子(十五歳以上はない七八歳位が多い)を申請ける。そしてその子の髪の毛を貰うて来て、人形(紙製三四寸位)と銭(以前は天保銭一枚位であったが、今は五十銭銀貨位を用いる)と共に、船霊座(船の中央龍骨に張れる横木に帆柱を立てる基底をなすところ)に納めて奉祀する。そして漁に出てしけ(荒天)でもすると、船霊に祈願をこめる。漁があると、先ず船霊へ捧物をする。たとえば、鰹であると、そのホツキ(心臓)二つを捧げる。船霊様に申請けた女の子には、船おろし(進水祝)の時は、反物位、漁ある毎に魚の付け届をする。
とあるので、その大体を知ることが出来る〔一三〕。猶お筏乗りの信仰にも女性を考えさせる習俗があるも、それには及ぶまいと思い、総てを省略した。
かくの如く、船の守護神であった巫女も、後には時勢の変遷によって船から下りるようになったが、猶おそれでも津口埠頭において、航海者の安全を祈ることを忘れなかった。やや後世の記事ではあるが、平安朝に編纂された「本朝無題詩」巻七(群書類従本)に、左の如き詠詩が載せてある。
於室積泊即事   釈 蓮禅
扁艇東行隋汎乎 此津波泊悉名区
煙郊寺裡転経声{○原/註略} 水市社前売卜巫{此泊有古社、称八幡、別当止住、老巫叩皷/売卜、往反之船問安否仍与糧、故云}
潮潟暮松青滉瀁 嶺銜暁月白崎嶇
可憐漁釣罪根重 千介万鱗民戸租
室積は周防の一要津であって、然も瀬戸内海における殷賑の地であった。されば古代より、巫娼の定住所として聞え、彼の有名な播州書写山の僧性空が、生身の普賢を拝まんとて神崎に赴き、遊女普賢を見しとき長者が唱えた今様にも「周防むろづみの中なるみたら井に、風は吹かねどもさざら波たつ」とあるほどで、此処に巫女の落伍者が、卜を売って渡海の平安を祈ったのは、当然、有り得べき事象なのであった。
固有呪法時代における巫女について、その全体を尽すには、まだ幾多の問題が残っていることと思うが、以上でその概略を述べたと信ずるので、ここに第一篇を終ることとした。猶お、欠けたるところは、第二篇以下で補うことは言うまでもない。  
〔註一〕昭和四年三月発行の「考古学雑誌」において、橋本増吉氏は、倭人伝中の生口(中山平次郎氏の論文を反駁せるもの)に就いて論じた際に、此の「不近女」の一句に対して、船中に婦人は居ぬという意味のことを述べられたが、併し倭人伝の記事から云えば、船中に女は居ても、近づけぬと見る方が穏当のようである。
〔註二〕後世になると、乗客以外の女性を船に置くことは絶対に禁じられ、稀には乗客でも女性なるが故に謝絶されることすらあった。室町末期に書かれたと思う「奇異雑談集」には、乗客の奇数を忌んだことすら載せてある。
〔註三〕柳田国男先生の「郷土研究」第三巻第四号に掲載した「龍燈松伝説」の考覈は、古く臨時灯台として、山頂または水辺で柱松を焚いたことを明確にされた有益なる記事である。
〔註四〕航海中の船が暗夜暴風雨に遇い、金毘羅神を祈ったところが、空中に火を認めて助かったという説は、屡々耳にするところであるが、此の事は殆んど世界的に存していて、科学上では空中電気の発光だと説明し、今ではセントエルナ系の伝説として取り扱われている。
〔註五〕隠岐の焼火明神は、その祭神が女神であることから、此の神が古く巫女として船舶を守護したので、かかる信仰を生じたことと思うが、更に想像を逞うすれば、此の地の山上で火を焚くことの起原は、或は対韓関係から発火を以て信号とした古俗の残ったものかも知れぬ。
〔註六〕雑誌「民俗芸術」創刊号の口絵説明及びその他。
〔註七〕「芸藩通志」巻一四。及びその他。
〔註八〕前掲「民俗芸術」第一巻第四号。
〔註九〕天妃信仰に就いては、各地の地誌類に見えているが、支那と内地との物を併せ記したものでは「松屋筆記」巻六九「船霊」の条が詳細を尽している。
〔註一〇〕「船長日記」は、私は未見の書であるが、「松屋筆記」巻六〇に記すところによれば、文化十年十月に尾張の船頭重吉が航海中難風に遇い、異国に漂いし始末を、文政五年十一月に池田寛親が聞書した上中下の三巻本とのことである。
〔註一一〕女子の性器から連想して、船は女性であると、外国では言っているそうだが、我が古代には、此の思想の存在は積極的には発見されぬ。性器崇拝としても、船を女陰の象徴としたことは、私の寡聞のためか、日本の古代には見出されぬのである。
〔註一二〕通貨に除魔の呪力あるものと信仰したことは、古くもあり、且つ広く行われていた。寺社の建築に絵銭を撒いたり銭を持っていれば邪気を防ぐとか言うたのは、皆これがためである。従って大観通宝を観音と考えるのは、観の連想以外には根拠の弱い説である。
〔註一三〕喜多村信節翁は其著「嬉遊笑覧」巻二器用部船玉の脚註において「本邦にて今俗に船玉を女とするは非なり」と言い、此の俗は、支那の天妃信仰を受け容れたるものにて、古くは住吉神が船玉なりとの意を述べているが、私には承認出来ぬ。その理由は本文に述べた如くである。  
 
第二篇 習合呪法時代

 

第一章 神道に習合せる道仏二教
第一節 巫女の呪術に現われたる道教の影響
元来、日本と韓国は同祖であり、同域であったと考えている〔一〕。従って、素尊が韓地に跡を垂れたとか、神武帝の皇兄稲氷尊が新羅に往かれたとか云う伝説のあるのも、決して不思議ではないのである。更に此の反対に、韓国の民族が我国に渡来帰化したのも、遠く神代からである。新羅の王子と称せる天ノ日矛が来朝したのは、「播磨風土記」によれば、大国主命の時代である。任那国から、蘇那曷叱知を遣して朝貢させたのは、崇神朝である。こうして彼我の交通は、先史時代から隆んに行われていたのであるが、茲に注意しなければならぬことは、日韓の交通によって我国は、支那において発達した文物制度を輸入した点である。換言すれば、我国は韓国を仲介者として、断えず支那の文化を吸収していたのである。秦ノ始皇帝の子孫と称する弓月王が渡来したのも、此の結果であって、古く我国へ漢学を舶載し、後に仏教を伝来したのも、共に韓国であったのは、その事を証示しているのである。
勿論、「魏志」の倭人伝に従えば、卑弥呼女王国は韓国を経ずして直接支那と交通していたことを記し、更に輓近各地より発掘せられた剣鏡その他の遺物は、遠く日支交通の存したことを明白に証拠立てているのである。当時、我が国情は是等文化の先進国である秦韓両民族の投化を歓迎すべき理由のあったところへ、戦乱等のために母国に留まることを欲しなかった彼等秦韓両民族の事情と相俟って、神代以来殆んど年々歳々の如く、或は百二十七県の大団体を以て、或は五人七人の小規模を以て、海を済り浪を凌いで我国に移住した。弘仁年中に万多親王が勅命を奉じて、畿内だけに居住せる者の出自を調査した「新撰姓氏録」によると、総数一千一百八十二氏とあるが、此の中で蕃別と称する秦韓の帰化族は約三百五十氏の多きに達し、総数の三分ノ一強を占めている有様である。而して此の計数は、僅に五畿内だけのことであるから、更にこれを全国的に渉って計算したら、北は奥州より西は九州まで、その実数は蓋し驚くほどのものであったに相違ない。奈良朝頃の古文書を見ても、是等帰化族の夥しきまでに存していたことは、□れながら意外とする程である。
斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。
こう詮索し始めると、諾尊の左右の眼から貴神が生れたのは、支那の盤古伝説を学んだもので、諾冊二尊が木火土金水の五神を生んだのも、又た道教の思想であると云えるのであって、此の観点から言うと、我国の原始神道は、シャーマン教よりは、寧ろ道教に共通したところが多いとも考えられるのである。喜多村信節翁は、日本紀を論じて、同書にかく道教の思想が濃厚に加味されているのは、これが編纂総裁であった舎人親王が、道教の信者であった為めであると述べているが〔三〕、これは喜多村翁としては不徹底なものの言い方であって、当時、我国の上下に瀰漫していた道教の思想は、即ち時代思潮の中心となっていたのであるから、舎人親王を措いて他の貴種を以てこれに代えても、此の範疇から脱することは不可能であったに相違ない。それは恰も明治期の文化が余りに欧米の模倣であるのを不可なりとするのと同じであって、当時としては斯うするより外に方法がなかったのである。殊に記・紀が編纂される折に、実際に筆を執って記録を書いたものは、概して如上帰化族の子孫と思われるので、思想も措辞も弥が上に支那化され、道教化されたものと見て大過ないと信ずるのである。 
一、道教思想に養われた呪術
道教の呪術的思想が古代において如実に具現された例証は〔四〕、前にも引用したが、「仁徳紀」の左の記事である。
太子{○宇遅能/和紀郎子}曰、我知不可奪兄王之志、豈久生之煩天下乎、乃自死焉。時大鷦鷯尊{○仁/徳帝}聞太子薨、以驚之従難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之経三日、時大鷦鷯尊標擗叫哭、不知所如、乃解髪跨屍、以三呼(中略)。於是大鷦鷯尊素服、為之発哀、哭之甚慟云々(以上。国史大系本)。
此の記事に現われた(一)髪を解いて屍に跨り三たび呼んだことと、(二)素服して(三)哀みを発して哭くとあるのは、共に道教の思想であって、我国固有の呪術では無いのである。
即ち(一)に就いては、「日本書紀通証」に、「楚辞」の註を引用して、
古者人死、則使人以其服、升屋履危、北面而号、曰皐某復、遂以其衣三招之、乃下以履尸、此礼所謂復。
なりと記した如く、支那の古俗に拠りしに外ならぬのである。而して此の呪術は、大鷦鷯尊が博士王仁より漢籍を学んで知っていられたので、一時的に此の所作に出られたことと拝察するのであるが、それにしても道教の思想がここまで浸潤していたことの徴証とはなるのである。且つ此の復(タマヨバイ)の思想は、前に述べた鎮魂の呪術(振衣の所作)と交渉する所が深く、永く後世まで行われて来たのである。後朱雀帝の尚侍嬉子が薨去せる折のことを「野府記」万寿二年八月七日の条に、
昨夜風雨間、陰陽師恒盛、右衛尉雅孝、昇東対上(中山曰。屋の字を脱せるか){尚侍/住所}魂呼。
と載せ、「徒然草」にも堂上家に此の事の行われた例を挙げ、「越後風俗志」第八輯に、家に新死者あれば、修験を頼み亡魂招(ナキタマヨバイ)をする。死人在生中に着た衣服を携え、東南の方から屋上に昇り、北に向い大音で三度呼び招ぎ、その衣服を巻いて願主の前へ投げ落し、西北の方から地上へ降る。死者が男のときは在世の名を、女なれば家を呼ぶ。魚沼郡には文化頃まで行われていた。而して今に民間において、死者または気絶者あるとき、屋上に昇り、或は井戸に向って、その者の名を呼ぶのは、此の遺風と見るべきである。
更に(二)の、素服に就いては、「葬送令」に「凡為天皇、為本服二等以上親喪、服錫紵」と記し、錫紵に就いては「令義解」に「錫紵者細布(サヨミ)、即用浅黒濃」と載せ、「箋注倭名類聚鈔」に「六典戸部職貢賦注、亦紵布麻布並戴」とあるのから推すと、麻の細布(サヨミ)を喪服とすることは支那の思想で、然もそれが道教に由来していることが知られるのである。
而して(三)の、哀みを発して哭くとは、天稚日子の葬儀の際に「日本紀」に「以鷦鷯為哭者」と記し、「古事記」に「雉為哭女」とある故事に由るものと、因襲的には解釈されているが、更に一歩を進めて考うるときは、此の習俗も、又支那からの輸入と思われる点がある。「允恭紀」四十二年の条に、新羅人が帝の崩御を知り「是泊対馬大哭」とあるのはその手掛りで、今に支那にも朝鮮にも、此の習俗が存している点からも〔五〕、そう信じられるのである。 
二、巫蠱の輸入と呪術の深刻化
かく神道や民俗にまで浸潤した道教の思想は、当然の帰結として、巫女の行うところの呪術に習合せられ、これが事象は明確に指摘し得るほどに現われて来た。「用明紀」二年夏四月の条に、
中臣勝海連、於家集衆、随助大連{○守/屋}、遂作太子彦人皇子像、与竹田皇子像厭(マジナフ)之、俄而知事難済、帰附彦人皇子於水派宮。
とあるのは、その一例である〔六〕。勿論、我が固有の呪術にも人を詛うことのあったのは、既述の如くであるが、その方法は凶言を用いるか、又は物実(モノザネ)である土を採るかの簡単なるものであって、人像(ヒトガタ)を作って呪詛することは曾て存していなかったのである。それが此の時代に斯くの如き呪術の行われるようになったのは、全く道教の影響としか考えられぬのである。
由来、支那の道教の思想によって養われた巫蠱の呪術は、その国民性の反映と見らるる程に惨忍を極めたもので、然もその方法も、又多種多様で、且つ深刻なるものばかりであった。我が養老年中に編纂された「賊盗律」に、
有所僧悪、而造厭魅、及造符書呪詛、欲以殺人者、名以謀殺論、減二等。
とある正条の脚註の一節に
造厭魅、事多方、罕詳能悉、或託鬼神、或剋作人身、繋手縛足、如此厭勝事非一緒、魅者或仮託鬼神、或妄行左道之類、或呪或咀、欲以殺人者云々。
と載せてある呪法は〔七〕、その悉くが支那伝来のものであって、道教の思想によって発達したものとも言えるのである。而して斯かる呪術の行われたことは「続日本紀」神護景雲三年五月の条に、犬養姉女等が巫蠱の罪に座して配流された時の詔の一節に、
氷上塩焼我児志計志麻呂乎天日嗣止為牟止謀氏、掛畏天皇{○称/徳帝}大御髪乎盗給波里弖、岐多奈岐佐保川乃髑髏爾入弖、大宮乃内爾持参来弖厭魅為流己止三度世利
とあるのからも察しられるのである〔八〕。
かくて此の傾向は、時代の降ると共に益々猛烈となり、呪術の弊害は海内に繁延したので、代々の官憲も極めて、或は巫覡の徒を流刑に処し、或は呪術を禁断するの法令を頻発する(此の二つは後に述べる)など、これが剿絶に努めたのであるが、事実はこれに反して愈々猖獗を来たし、殊に平安朝になると、過房による神経衰弱時代の世相と相俟って、全く底止するところを知らず、「袖中抄」巻八の宇治の橋姫の条に、
我をば思ひいてて、元の女を恋ふるにこそと妬く思ひて、男にとりかかりたり。
とある如く、婦人の呪詛伝説を生み、更に此の俗信は発展して謡曲「鉄輪」に記されたように、女性の身で、頭上に灯を点じ、胸に鏡を懸け、一本歯の足駄を穿いて、藁人形に呪いの釘を打つ「丑の時参り」なる者を見るようになった。阿波国三好郡山城谷村にては、大昔より、人を怨みこれを呪い殺さんとするときは、丑の時参りに扮粧して、竹柏(ナギ)の樹の下に至り、祈りて竹柏を折る。枝の折れると共に怨みたる人は死するも、怨む人その半の禍を受けると言い伝えている。それ故に竹柏の木は人の近寄れぬよう設備したのが多いとのことである〔九〕。
こうして民俗学的の類例も相当に多いことと思うが、此の呪術は古く奈良朝にその端を発しているのである。而して一方においては修験道によって唱えられた天狗信仰と呪術が習合し、遂に「台記」久寿二年八月の条に「為咀朕{○近衛帝}打釘於愛宕護山天狗像目」とあるように進んで来た。然も是等の呪術は巫女の堕落と共に頻々として行われ、以て明治期に及んだのである。 
三、巫女の呪具と道教の影響
巫女の持てる固有の呪具は、天鈿女命によって伝えられた手草と矛、息長多良志媛によって伝えられた水晶の珠より外は寡見に入らぬが、道教に導かれ巫蠱の術を移し入れてからは、巫女の呪具も遽に多種なるものとなった。就中その重なるものは、A梓弓を用いるようになったこと、B人骨を用いること、C識神を使うこと、D巫女が湯立を行うことなどである。
A、巫女の梓弓は外来の呪法
巫女が、古くは梓弓を、今は竹弓を用い、その弦を叩きながら、神降ろしの呪文を唱えて、自己催眠(神かがりの状態)に入ることは、文献にも存し、実際にも見るところであって、然も巫女の別名を梓(アヅサ)ミコとも、又は単にアヅサとも言っているほどであるから、巫女と梓弓との関係は、切っても切れぬほどの親密さを有しているのである。併しながら、仔細に巫女が梓弓を用いしことを考究するとき、それは我が固有の呪具ではなくして(神道者の行う鳴弦式も又た道教の影響である)、支那からの輸入であることが知れるのである。従来の俗説によると、巫女が弓を用いる起原は、天ノ磐戸の斎庭において、鈿女命が弓六張を並べて、その弦を弾き、琴の代用としたのにあるとか、又は神功皇后が征韓に際し神を降ろすとき同じように弓を並べて弾いたのにあるとか言っているが〔一〇〕、是等は記・紀その他の信頼すべき記録には全く見えぬことで、所詮は何事にも古代の箔をつけて、無理勿体に俗人を嚇そうとする者のさかしらにしか過ぎぬのである。
勿論、我国にも梓弓の在った事は古代に属し、「応神記」に大山守命が宇治川で戦死された折に、宇遅稚郎子の詠める御歌に「梓弓真弓、伐射らむも、心は思へど」云々とあるのを始めとし〔一一〕、代々の記録にも見えているが、巫女が弓——殊に梓弓の弦を叩いて呪術を行ったと思われるものは発見されぬ。然るに「万葉集」を読むと、此の種の呪術の存したことを考えさせる証歌が、少からず散見している。左にこれが一二を抽出する。
梓弓(アヅサユミ)、引者随意(ヒカバマニマニ)、依目友(ヨラメドモ)、後心乎(ノチノココロラ)、知勝奴鴨(シリガテヌカモ)(巻二、訓み方は橘千蔭の万葉集略解に拠る)
梓弓(アヅサユミ)、末者師不知(スヱハシシラズ)、雖然(シカレドモ)、真坂者君爾(マサカハキミニ)、縁西物乎(ヨリニシモノヲ)(巻一二)
梓弓(アヅサユミ)、引見縦見(ヒキミユルベミ)、思見而(オモヒミテ)、既心歯(スデニココロハ)、因爾思物乎(ヨリニシモノヲ)(同上)
安豆佐由美(アヅサユミ)、欲良能夜麻辺能(ヨラノヤマベノ)、之牙可久爾(シゲカクニ)、伊毛呂乎多氐天(イモロヲタテテ)、左禰度波良布母(サネドハラフモ)(巻一四)
安都佐由美(アヅサユミ)、須恵波余□禰牟(スヱハヨリネム)、麻左可許曾(マサカコソ)、比等目乎於保美(ヒトメヲオホミ)、奈乎波思爾於家礼(ナヲハシニオケレ)(同上)
是等の短歌に現われた梓弓は、悉く「依る」という語を言わんがための序詞であることは明白であって、然も此の依るは憑(よ)る又は寄ると見るべきもので、即ち梓弓の弦に引かれて寄り来る意を寓しているのであるから、当時、霊魂を身に引き憑(か)からせて、口を寄せし巫女が、好んで梓弓を用いた事が推知されるのである。「政事要略」巻七〇に、
古老云、太皇太后{○村上/皇后}於東五条殿{○原/註略}有御産事{○同/上}産難之間、占云、御産之下、有厭者歟、捜求之処、無有其物、見御板敷之下、白頭嫗取梓弓之折、齧立歯居、逐出件嫗、即時御産已了云々(史籍集覧本)。
とあるのは、巫女が梓弓を用いた徴証である。
而して巫女が弓を用いた例の支那に存することは、夙に山岡浚明翁も気付かれていて「類聚名物考」において、
巫女の梓弓を引き鳴らして、死人の口を寄すること唐土にも見え、其さまやや同じ。論衡王充論死篇、「世間死者、今生人殄(ヨミシテ)而用其言、及巫元絃下、死人魂因巫口談」云々。
と載せている〔一二〕。これで我国が支那のを移し入れた点は明瞭となったが、猶お残された問題は、何故に巫女は梓ノ弓を好んで用い、他の檀弓(マユミ)なり、槻弓(ツキユミ)なりを用いなかったかという一事である。此の問題は相当に複雑した内容を有しているのであるが、茲には出来るだけ簡単に記述する。
支那で、梓宮、梓人など、梓の字を用いたものは、概して葬礼の凶事に関係している。これは梓ノ木で棺を造ることに由来しているのである〔一三〕。然るに、我国で梓と呼んでいる木は、支那の梓とは全く別種なもので、棺にしたり、弓にしたりするような、大木では無いのである〔一四〕。それにも拘らず、支那の文物を輸入するに急であった我国では、支那における梓ノ木に関する信仰だけはそのまま受け容れてしまい、梓弓というも実際は竹を合せて造ったものを斯く称していたのである〔一五〕。然るに我国の古俗として、文通する折に文字を梓の葉に書いて造る習俗があったので〔一六〕、いつか書状のことを玉梓の約言——即ち「たまづさ」と云うようになり、此の思想が梓弓に附会して、文通から霊の交通へと導かれて来たのであると考える。
巫女が弓を用いた典拠に就いては、神道五部書の一なる「御鎮座本紀」に「天鈿女命(中略)。天香弓与、並叩絃{今世謂和/琴其縁也}云々」を徴証とする者もあるが、此の書が後世に作られた偽書であることは明確なので〔一七〕、元より典拠とするに足らぬのである。併しながら此の俗説も、かなり古い頃から行われていたものと見え、「源氏物語」箒木巻にも此の事を載せ、「古今六帖」には「六つの緒の寄りめことにそ香はにほふ、ひく少女子が袖やぶれつる」と挙げ、「康富記」には「大炊御門殿被仰云、和琴は天照大神岩戸を出給の時の神楽の器也、弓六張を並て弾之、仍之有六弦云々」と記し、更に鴨長明の「無名抄」巻上に「和琴の起りは、弓六張をひきならして、これを神楽に用ゐける」と云うに至って、此の俗説が大成され〔一八〕、かくて巫女の弓にまで利用されるようになったのである。猶お巫女用の弓の長短、拵え方、弓を用いる流儀と用いぬ者などに就いては、第三篇に述べる考えである。 
B、人骨を用いるは巫蠱の思想
巫女が動物の骨を用いたことは、我国固有の呪法として、鹿の肩骨を灼き、巫鳥の骨を焼いて神意を問うた既載の所作からも察せられるし、更に彼等はイラタカの珠数(この事の詳細は後の修験道と巫道の習合の条に述べる)と称して、羚羊の上顎骨、狐の頭蓋骨、熊の牙、鷹の爪などを紐に通して所持し、これが咒力の源泉であるという流派さえ生ずるようになったが、人骨を呪具とした事は、我が固有のものではなくして、支那の巫蠱に教えられたものと考えざるを得ぬのである。而して支那の巫蠱なるものが、以下に人道に反し惨忍を極めているかは、天野信景翁の「塩尻」巻五三に諸書を要約して載せてあるので、左に引用する。
異邦、巫蠱左道の邪術、古へより多し、巫蠱{我国に謂/ふ犬神}蛇蠱{とうび/ゃう}髑髏神、或は鳴童、預抜神{我国に謂ふ/ゲホウ頭}の類数ふるに遑なし。「続夷堅志」の少童を盗みかくし、日々に食を減じ法酢を灌き、其死を待て枯骨を収め、其魂魄を掬(キク)す。他の事を聞かんと欲する時は、耳辺に於て其事を報ずといへり。「癸未続識」にも又此事を筆し、蠱家人を惨酷せしさまをいへり。「輟耕集(ママ)」にも蠱家童男女を捉へ、符命法水咒語を語らひ迷惑せしめ、活きながら鼻口唇舌尖耳朶眼を割央して、其活気を取り、腹胸を破り心肝を割て各小塊とし、曝乾搗羅(サラシホシツキフルイ)て末とし、収裏して五色の綵帛を用ひ、生魂頭髪と同じく相結び、紙を以て人形様を作り、符水をして兎遺し、人家に往て怪を為し、広く他の財物を持し事を記せり。鳴呼是一箇の邪術財宝を貪り得るが為めに、かかる悪業をなし、其終りは国家の為めに極刑にゥるる類間々聞え侍る。我国白狐犬神等の邪術も其意殆同じ、畏れ避て可也(帝国書院百巻本。但し句読点は私が加えた)。
斯うした呪術が支那から輸入され、更にこれに仏教の呪法が加味され、然もそれを巫女が行うようになって来ては社会を荼毒するところ実に甚大であって、官憲も弾圧に苦心せざるを得なかった筈である。「増鏡」に太政大臣藤原公相が頭が大きくして異っていたので、これを葬りしとき、外法(ゲホウ)を行う者がその塚を発き、首を斫って持ち去ったとあるのは、即ち髑髏神を呪力の根元としたものであって、然も此の邪法は後世になるほど巫女の間に猖んに行われたのである。既載した称徳帝を咒詛し奉らんと、大御髪を穢き髑髏に入れて、宮中に持参したとあるのも、又これが派生的呪術と考えられるのである。
既載の「賊盗律」の脚註にある「或剋作人身」とは、如何なる呪術を指して言ったのか判然せぬが、これに就いて想い起されるのは、我国において人体を仮作する迷信の行われたことである。勿論、これが人身を剋作するものと同じだとは考えぬけれども、併しながら何となくその間に、一脈相通ずるものが在るように思われるので、要点だけを抄録する。而してこれに就いては、桜井秀氏が「郷土研究」第二巻第三号に載せたものが極めて要領を得ているので、それに拠るとした。
平安朝に於ける人体仮作の信仰は、頗る面白いものである。果してどの位にまで信ぜられていたか解らぬが、先ず二三の実例を挙げて見よう。西行法師の著と称す「撰集抄」の巻四に「高野の奥に住みて——人の骨を取集めて、人に作り為す様可信人のおろおろ語り侍りしかば造りて——侍れば人の姿には似侍りしかども、色も悪くすべて心も無く侍りき、声はあれども管絃の声の如し」とある。右の可信人とは徳大寺殿実定?である。——其方法と云うは「人も見ぬ所にて、死人の骨を取集めて——つづけ置きてひさうと云ふ薬を骨に塗り、いちごとはこべの葉をもみ合せて後、藤の若葉の蔓にて骨をからげて、水にて度々洗ひ——髪の生ずべき所には、西海枝(サイカシ)の葉とむくげの葉とを灰に焼きて附け侍りて、土の上に畳をしきて二七日おきて後に生きて、沈と香とを炷きて反魂の秘術を行ひ侍りき」とある。如何にも神秘の術らしいけれども、而も右の企ては失敗した。然るに伏見黄門師仲も人を作った経験があるので、西行に語って言うには、「四条大納言の流れを受けて人を作り侍りき、今の卿相にて侍れど、それと明しぬれば、作りたる物も作られたる物も解(ママ)けうせければ、口より外には出さぬなり」云々。右の四条亜相というのは公任であろうか、ともあれ怖しい話である(中略)。それから師仲卿は、西行の失敗を評して、「香をば炷かぬなり——沈と乳とをたくべきにや、又——秘術を行ふ人、七日物を食ふまじき也」と言ったことがあり、終に土御門右府{○師房/ならむ}も此術を行ったと記し、「土御門の右大臣作り給へるに、夢に翁来て我身は一切の死人を領せる者に侍り、主にものたまひ合せで——骨など取りたまふかとて、恨める気色見えければ——我子孫造りて霊に取られなん、いとど由なしとて、やがて焼せ給ひにけり」云々ともある。此撰集抄は偽作とも言うが、此等の記事は頗る趣味がある。すべて妖術で作った人物は、或特定の条件を守らぬと、消滅するとの信仰は此外にも多い。紀長谷雄が鬼から与えられた美婦も解けてしまった{○長谷雄/草子絵巻}室町時代に出来た「厳島本地」には死人復活の術を記してある云々。
此の記事は、謂ゆる朝神の間に行われた人体仮作であって、道教の思想から考えついた有りのすさびのようにも見え、且つ巫蠱の術とは全く交渉が無いとも思われるが、兎に角に斯うした事が我国に行れたのは、人体剋作の影響としか信じられぬのである。 
C、複雑せる識神の正体
識神(式神とも書く)に就いては、私の学問では余りに荷が勝ち過ぎているので、一知半解のことを言うよりは、寧ろこれに触れぬようにするのが聡明なことかも知れぬが、従来、此の問題に関しては、深く論じた学者のあることを耳にせぬので、茲に管見を記し、以て叱正を仰ぐとする。
「大鏡」を読むと、花山帝が脱屐の折に、陰陽道の泰斗安倍晴明が、識神によって、此の事を予知したと載せてある。而して此の識神なるものは、平安朝の文献以外には、余り記録にも現われぬので、従って代々の学者の注意も惹かず、全く閑却されている始末なのである。併しながら、安倍晴明が好んで使役したとあるからは、此の神が私の謂う道教から出ていることだけは知られるのであるが、さて其の正体はというと誠に捕捉することが困難なのである。山岡浚明翁は「類聚名物考」において、
式神、これは人の魂魄を術を以て使ふ事なり、陰陽家に伝へし術なり、中古の物に多く見えたり。西土の書にも此の術あり。髑髏神と云ふも是なり。俗に外法とも云へり。「清少納言記」しきの神もおのづから、いとかしこしとて云々。「後漢書六術長房伝」翁曰、幾得道云々。又為作一符曰、以此主地上鬼神云々。鞭笞百鬼、及駆使社公、今案に識神或は式神と書く借字なり、知識は人の情心のとどまる所なり、その魂神を駆使するを識神と云ふなり。「輟耕録」巻十三中書鬼案の条に、人の魂魄神を使ふるを云う所に、我亦会遣使鬼魂、我有収下的生魂売与儞云々とあり。鬼魂は即ち是れ識神の事なり。
と記し、識神は髑髏神、又は外法と同じもので、陰陽家に伝えられたものだと考証している。而して是れだけ見ると、識神は道教にのみ属するもののように思われるが、更にこれを仏教方面から見ると、益々その正体が紛らしくなって来るのである。
往年、柳田国男先生の質問に対して、南方熊楠氏が解答された往復文書を浄書して「南方来書」と題し、今に柳田先生が秘蔵されているが、それを私が拝借して抜書したところによると、南方氏は識神に就いて、左の如く考えられている。
東晋三蔵法師仏陀跋陀羅訳、摩訶僧紙律三十一巻に、憍陳如比丘(釈迦の父の家来の子にて、釈迦の後を逐て出家せし五比丘の一也)歿して、四魔天来、欲観其識神不見、已変白鳥而去。文簡にして十分に分らぬが、四人の魔天来り、識神を見んとせしとき、已に白鳥に化して去ったあと故に見えなんだと云うこと(人の魂神鳥に化する信仰、印度外にもあり、日本武尊の御事なども似たり)と存候。只今ここに引ける所の識神は、人の魂と云うことと存候。晴明等の識神は其前後の支那の道家が、此仏家の識神より変じて、作り出せるものながら、死霊を使うと云うようなことで、余り仏家のここに云える所と変らぬことと存候。
識神の字、空華集(大日本仏教全書本)にもあり、タマシヒと振仮名せり(以上。明治四十五年四月十二日の条)。
識神と云う字、仏教で最も古く正しき出所は、増一阿含所会経と思う(黄蘖板一切経第八十六巻)芹奈三蔵曇摩難提訳十二巻三宝品第二十一にあり云々。此文は父母交会及び父母別居の状態、種々なるにより、子たるべき者の霊が来りて、或は胎に入り、或は胎に入り得ぬことを述べたるなり。識、外識、識神、神識と四様に訳しあれど、皆一と見ゆ。英語の Soul (タマシイ)と云うほどの事なり。故に無論晴明などの使いしと云うものと全く一致せず、タマシイを使うと云う意味から、陰陽家にも用い出せしことと覚ゆ云々(以上。明治四十五年五月廿三日の条)。
南方氏によれば、識神は仏説に出たものを、支那の道家が作り変えて我国に伝えたものであるという結論になり、且つ髑髏神とは少しく相違しているように考えられるのである。元々、私の学力では奈何ともすることの出来ぬ難問ゆえ、今は識神に関して先覚中にかかる考証があると云うことだけをお取次して置くより外に致し方がないが、その何れにしても、魂魄を神として、——即ち死霊を駆使したとある点が一致しているのであるから、晴明が使ったという識神も、此の意味に解し大過なきものと思う。而して此の識神が巫女に伝えられてから、口寄せと称する呪術が、一段の発展を来たしたのである。猶おそれに就いては後に述べたいと思うている。 
D、巫女の間に行われた湯立
現在でも京阪の神社に参拝すると、巫女が社前に据えた大釜の湯を、両手に持った笹の葉を束ねたもので掬いあげ、それを自分の身体に振りかけながら神いさめするのを目撃する。これが即ち湯立の神事であって、参拝者は此の湯の飛沫を浴びると除災するとて、好んで釜の近くに押しかけているのを見ることがある。而して此の湯立の起原に就いては、これ又、余り深く研究されず、例の天鈿女の俳優の余風であるとか〔一九〕、更に奇抜なのは、武内宿禰の探湯(クガタチ)の遺俗であるとか〔二〇〕、殆んど耳を捉えて鼻へ押し付けようとするが如き気楽な事ばかり言われているが、私の考えた所では、此の呪法も又た道教の影響であると信じている。
湯立の神事が古くから行われたことは「儀式貞観」巻一の園並韓神祭儀の条に「御神子(ミコ)先廻庭火、供湯立舞、次神部八人共舞」とあるのから推しても知ることが出来る。ただ茲に注意しなければならぬ点は、此の湯立舞は「神楽歌」の弓立てと同じものと考えるので〔二一〕、或はその実際は貞観年中などよりは、更に古い時代から行われていたかも知れぬという事である。
多田南嶺が
神前にて湯立すること、古書に所見あるや、予に於ては知らず、「古語拾遺」の手草とても、比例とはしがたし。武内宿禰の探湯も神事の湯立にはあらず。
とまで断じたのは卓見であるが、これに次いで、
梁塵愚案抄に載せ給ひぬる神楽に、弓立といふあれ共、弓にして湯にあらず。
と筆端をすべらせたのは智者の一失であって〔二二〕、弓立は湯立の仮字であることは、その歌謡からも合点されるのである。然らば湯立は道教の影響なりとする論拠は那辺にあるかと云うに、同じ多田南嶺はこれに就いて左の如く論じている。
神社方にある湯立といふ事、上代は笹の葉と蒼朮(ヲケ)とをもつて、湯をあみる也、ヲケといふは、蒼朮の事也(中略)。唐土にては大切の山神など祭るとき、合湯を用ゆ。合湯とは湯と水となり、能かげんの湯は清浄也〔二三〕。
此の記事を読んで想い起すことは、「古語拾遺」天磐戸の条の「飫憩(オケ){木名也、振其/葉之調也}」の解釈である。此のヲケが木名也と脚註に明記してある為めに、累世の碩学もかなりに苦しんでいて、本居翁は木の葉を振う音のヲケと鳴るべき由なければ、木名とするは非なりとて、宇気のことを、神楽にかく唱えしを誤れるなりと、殆んど急所を避けているし、伴信友翁は神楽に阿知女於介(ヲケ)と唱うるより、ヲケは猿(ヲケ)にて、天鈿女の俳優を褒めて、神等の鈿女猿(ヲケ)と云ったのであろうと、いつに似ず判ったような判らぬことを言い、又一説にはヲケは榊なりとの説もあるなど〔二四〕、全く見当さえ附かぬという有様なのである。然るに四時堂其諺(京都円山阿弥の住職)はこれを考証して、
神代に云ふ飫憩(ヲケ)ノ木とはおけら也、是不浄を除く草なり。又中華にも、今夕(除夜)蒼朮を焚焼して辟疫よし、所説多し。
とて、時珍その他の本草書を挙げて論じている〔二五〕。此の考証が学説としてどれ程の価値を有しているかは、多少の疑念が伴わぬでもないが、榊説よりは傾聴すべきものが在るように思われる。
私は太だ早速ではあるが、以上の両記事から推して、湯立なる呪術は道教から出たものだと信ずるのである。寛文頃の記録にあるとて、学友星野輝興氏の語るところによれば、宮中の内侍所に仕えたおさい(お斎の意で古い御巫(ミカンコ)に相当する者)、うねめ(采女でお斎に次ぐ巫(カンコ))、とじ(刀自で同じく巫)、めうぶ(命婦で下級の巫)等は、決して湯に入ることなく、必ず水を以て浄めるのを恒とし、若し沐浴することがあっても、掛け湯に限っていて、浴槽に入ることは無い。これは浴槽に入ると、自分の垢で自分を穢すようになり、神に仕える清浄となり得ぬからだと云うことである。此の一事から見るも、我国の原始神道には、湯を用いて身体を浄める思想は無く、従って道教の輸入以前には湯立というが如き神事は存しなかったと考えるのが穏当である。
それにしても、此の湯立の神事が、平安朝以後において、神社及び巫女の間に、盛んに行われたのは事実である。源実朝の「金槐集」に「里巫(サトミコ)がお湯立笹のそよそよに、なびきおきふしよしや世の中」とあり、「康富記」文安六年九月廿九日の条に「粟田口神明有湯立、参詣拝見」と載せ、「晴富宿禰記」文明十二年二月廿五日の条に「於左女牛若宮有湯立、自公方御沙汰之由風聞」と記し、此の他にも枚挙に遑ないほど諸書に散見している。
殊に民俗学的に見て、興味の多いのは、出雲国美保神社の一年神主に対する湯立の神事である。同社には正神主横山氏の外に、一年神主とて、氏子中より選定して、一ヶ年間勤める者とある。而して此の神主の選定は、三年前に行うのであるが、先ず九・十両月の間、同町三百余軒の民家のうち、男子十二三歳より老年まで、いづれも美保社の祭神より前後三度の夢の告げがある。その夢が、正神主と、一年神主となる者と同じ(白髪の老人来たりて告げる事あり、又は浄衣烏帽子着たる人の告げもある)であれば、それが一年神主となるのであるが、愈々そう決定すると、その家を煤払いし、塩水で洗い、仏壇は寺へ預け、前後三ヶ年仏事を営まず、更に十二月大晦日の夜から、海辺に出て汐垢離をとり、爾来数日美保社へ参詣して、神主の無事に勤まるよう祈願する。さて三年目の春三月十日は、同社の祭礼とて、その日前年の神主より神役を受取る。これ迄前二年より船着なれば、船中安全のためとて、諸国の回船より米初穂料の金銭を送る。それで三年間の生活費に充てる。此のうち妻に不浄があれば、住宅の裏に他屋(タヤ)とて離れ家を建ててそれへ置き、清浄の時だけ一所に暮す。かくて祭礼の日になると、大なる湯立の釜に、水八分ほど入れ焚き立て、湯玉のたぎる時に、其の年の新神主を、浄衣白無垢風折烏帽子を着たるままで、その湯釜に入れて煮るのである。介抱は前神主数人で皆々その加減を見て、息絶えたりと思う時に、四五人にて釜より出し、神前の荒菰の上に寝かして置くと、暫らくして生き返るので、今度は神社の拝殿まで舁き出して、幣帛を持たせ皆の者は平伏する。その時、近国から参詣の老若男女大勢群集し、心得たる者は神託を書き留めんと、紙矢立を用意し、待ち構える。一年神主は幣帛を三々九度に振り、それが済むとその一年中の農作の善悪、病気の流行など、一々神の告げとて託宣する。事終るとそのまま臥すが、それを再び荒菰の上に寝かせて置くと、やがて元の如くなり、衣服を着かえて帰宅する。但し何時でも願主あって神託を願えば、右の通り湯立して、一年神主を釜へ入れ、祭礼の如くして託宣する。此の初穂料は文化三年頃には金七両二分であった〔二六〕。
此の湯立の神事は、修験者が好んで行った所謂「護法附(ゴホウツキ)」なるもの(此の事は後に述べる)の影響まで受け容れているが、それにしても神を信ずる心の深い者でなければ、奈何にするも行い得ぬ放れ業である。而して湯立の神事から派生したもので、更に一段と簡略化されたものが、京都西七条村で行われた蒸(ム)し講(コウ)である。これは此の村の氏神祭りの日に、神前の大釜に湯を立て、村の老女が世話役となり、幼き男女を抱いて釜の上に翳し、湯気にあててやるのであるが、斯うすると疱瘡が軽いと信じられている〔二七〕。巫女が湯を身にかけて神託をなすのも、更に備前の吉備津神社の釜鳴りの神判なども、咸な此の信仰に由来するもので、然もその根本は、実に道教の思想に負うているのである。 
〔註一〕斯かる事は、今更改めて言うまでもないほど、明確な問題であるが、曩に久米邦武氏は「日韓同域考」を発表し、近く吉田貞吉氏は「日韓同祖論」を発表されている。ただ誤解されたくないことは、日韓同祖とは、我国の根幹を為した民族と、韓民族とが同祖であるということであって、これ以外に南方民族やアイヌ民族等の加わっていることは勿論である。
〔註二〕昭和三年十月に前後九回に亘り東洋文庫で開催された白鳥庫吉氏の「周囲民族の古伝説より見たる神代の巻」と題する講演で、扶桑木のこと及び日少宮のことを述べられた。
〔註三〕「嬉遊笑覧」の附録中に見えている。
〔註四〕「神武紀」の郊祀霊畤の用語は、道教の思想に由来するものであるが、併しこれは、「日本紀」の執筆者が、漢様にかかる文字を用いたまでと見るべきである。
〔註五〕泣き女は、支那にも、朝鮮にも古くから存し、前者は「中華全国風俗志」に、後者は「朝鮮風俗志」に、共に詳記してある。我国にも、琉球、讃岐、加賀、八丈島等には近年まであったが、支那からの輸入と考えている。
〔註六〕「太子伝暦」には、此の時の厭勝のことが、少しく詳しく載せてあるが、今は省略した。
〔註七〕「政事要略」巻七〇(史籍集覧本)「蠱毒厭魅及巫覡等事」の条。
〔註八〕奈良朝及び平安朝には、よく巫蠱の疑獄が起って、貴神大官がこれに連座し、処罰されているが、これには政治的の意味も多分に含まれていて、これを利用し、悪用した政治家も、尠く無かったようである。従って、此の時代に行われた咒術の惨忍さに就いては、注意して見なければならぬ点がある。
〔註九〕「山城谷村史」。私は先年「趣味の友」という雑誌に「呪いの釘」と題して、我国の呪詛伝説に関して、管見を発表したことがある。その切り抜きは大正十二年の震災で焼いてしまい、雑誌の号数は古いことなので失念してしまった。
〔註一〇〕シャーマンは太鼓を叩くが、弓の弦はたたかぬ。朝鮮のムーダンも、又たそれである。然るに我国のミコは、弓の弦をたたいて、太鼓は楽人の手に渡してしまった。我国の巫道が、シャーマンと共通しているところがあるにせよ、ここに両者の区別のあることも知らねばならぬ。そして此の弓の故事を有難そうに説くのが、巫女等の常套手段であるが、元より信用の出来ぬことである。江戸期の関東の巫女の取締であった田村家では、神功皇后説を伝えているが、一噱に附すべき妄談であることは、機会があったら第三篇に述べたいと思っている。
〔註一一〕古風土記を読んだ折に、大国主命が、梓弓を折って橋の代りとしたという記事があったように記憶しているので、そのカードを探したが見当たらぬので、そのままとした。
〔註一二〕同書巻三三〇雑部五、卜筮の条。猶お「淵鑑類函」か「古今図書集成」でも見たら、もっと適切な支那の材料が見出されることと思わぬでもないが、茲には大体を尽せば足りると考えたので中止した。
〔註一三〕これに就いては「礼記」「楚辞」等に載せてある。
〔註一四〕雑誌「風俗志林」第二巻第三号に載せた白井光太郎氏の「梓材考」に詳記してある。
〔註一五〕「松屋筆記」巻九六に見えている。
〔註一六〕「増補語林倭訓栞」その条。
〔註一七〕「神道五部書」の多くが偽書であることは、吉見幸和以降学界の定説である。従って信用出来ぬことは勿論である。
〔註一八〕田辺尚雄氏の「日本音楽講話」によると、弓は琴の代用とはならぬとある。されば、弓が琴の始めだなどと云う説は荒唐無稽であって、糸の下に板(三味線なれば皮)が無ければ鳴るものでないと論じている。
〔註一九〕「神道名目類聚抄」巻五。
〔註二〇〕「増補語林倭訓栞」湯立の条。
〔註二一〕橘守部の「神楽歌入文」にその事を言っているが、これは一度歌を読みさえすれば、誰でも気の附くことである。
〔註二二〕「南嶺子」巻三(日本随筆大成本)。
〔註二三〕「南嶺遺稿」巻三(日本随筆大成本)。因に著者は同じだが本は異っている。混雑せぬよう附記する。
〔註二四〕久保季茲氏著の「古語拾遺講義」に拠る。
〔註二五〕「滑稽雑談」巻廿二(国書刊行会本)。
〔註二六〕黒川春村翁著の「神名帳考証土代附考」(伴信友全集第一冊所収)に拠る。
〔註二七〕「諸国年中行事大成」巻二。因に「年中行事大全」と混同しやすいので注意を乞う。 
第二節 巫道に影響した仏法の教相と事相

 

欽明朝に仏教が公けに渡来し〔一〕、奈良朝に夙くも端を発した本地垂跡説は、平安朝において漸く完成し、神仏一如の教えは弘く通じ、和光同塵の実は普く行われるようになった。而して此の間にあって仏法の教相と事相とは、我が巫道に甚大なる影響を与え、遂に「法師巫(ホウシミコ)」と称する、巫仏一体の実行者さえ出すに至った〔二〕。
元来、我国に仏教が輸入された当時は、専ら宮廷または貴族の信仰に限られていて、殆んど一般民衆とは没交渉の状態に置かれてあった。従って此の仏教が、広く民間信仰の対象となるまでには、長い年月を経過してからであることは言うを俟たぬ。そして少数の貴族の手から多数の民衆の手に移る間には、時勢の暢達と、人文の発展とに促されて、同じ仏教でありながら、幾度か信仰の対象も変遷し、教理や儀軌の消長も伴うたのである。奈良朝の小乗仏教期には、薬師と観音であって、主として加持祈祷が行われ、平安期の大乗仏教期には、大日と弥勒であって、儀軌は前期を承けた上に、更に複雑せる加持や祈祷が続けられていた。鎌倉期になると、阿弥陀と妙見、室町期には地蔵尊が崇敬されていた。勿論、此の区別は、単にその時代における信仰の中心となったものを、概括的に挙げただけであって、起伏こそあれ各仏ともに相当の信仰を維いでいたことは言うまでもない。本地垂跡説が民心を支配するようになってから、我国の神祇の本地仏なるものにも、此の推移が窺われるのである。山本信哉氏の研究によると、伊勢皇大神の本地仏なども、大日、観音、弥陀の三変遷を経たということである〔三〕。而して此の本地仏の推移が、民間信仰の反映であることは見やすい帰結である。
此等の仏教にあって、就中、我が巫道に深長の交渉を有しているものは、僧最澄によって唱えられた天台宗と、僧空海によって創められた真言宗との二宗であって、これに次いでは、少しく時勢は降るが、僧日蓮が弘めた法華宗の、殊に加持方面を伝えた中山流(この流儀は元修験道から出たものである)の祈祷である。而して此等の仏教と、巫道の関係は、かなり複雑したものが存するので、左に項目を分けて、管見を記述することとした。ただ懼るることは、私は仏教に就いては、全くの無智であるために、説くに正鵠を失い、論ずるに軌道を脱し、飛んでもない見当違いや、藪睨みに陥ることがありはせぬかと思う点である。幸いに是正を仰ぐことが出来れば、独り私の仕合せばかりではないのである。 
一、仏教の促成せる巫女の二潮流
原始神道は、祭神の墳墓より発生したことを如実に立証しているのであるが、平安朝頃から、仏教が専ら屍体の埋葬を掌り、墳墓の監理をするようになったので、神道は是等の行き掛りから、従来とは反対に、屍体に近づき、墳墓を扱うことを穢れとして、極端に忌み嫌うようになってしまった。これには神道対仏教を中心とした、政治上の争いなども含まれていて、常に両者の間には柄鑿相容れぬものがあるように導かれて往った。而して此の結果は、仏教が弘通されればさるるほど、両者の距離が遠くなり、神道は生を尚ぶもの、仏教は死を迎えるもの、神社は浄きもの、寺院は穢れたものという、対蹠的の地位に置かれるようになったのである。併しそれと同時に、一方においては、神仏一如であるという、本地垂跡説が発達していたのであるから、当時の思想界は複雑でもあり、且つ混沌としていたのである。
斯うした信仰と世相とは、巫女の態度を、神仏いづれにか決定しなければならぬ機運となって来た。勿論、巫女はその出自から云うも、その職務から見るも、当然、神社に附属しているのであるから、今更に態度を定むべき必要などのあるべき筈はないのであるが、本地垂跡の信仰が一般に考えられるように来ては、そうばかりも言っては居られず、これに加うるに、古くは、禰宜でも、祝でも、女性が主となっていたのが、時勢につれて、男性が割り込んで来て、当時は却って女性が従となってしまった関係などもあり、神社における男女の職掌の競争は、漸次、男性に有利であって、女性に不利の事のみ多かったのである。「八幡愚童訓」は後出(室町期)の書籍である上に、日本一の託宣好きの八幡宮の事を記したものだけに、そのまま無条件で信用することは出来ぬけれども、僧道鏡の事件に就き、和気清麿が神託を受けし光景を叙するうちに、
爰清丸、宇佐の勅使に参じたりしとき、女禰宜が託宣を信ぜざりしかば、御宝殿動事一時計にして、忽ちに御殿の上に紫雲そびき、中より満月輪の如して出まします(中略)。清丸汝託宣を不信、女禰宜が奉仕する元由を知らずや否、女禰宜は受職灌頂にかなふ者を撰仕ぞ、かの位とは妙覚朗然の位に相叶ふ、弥陀仏の変化の御身也(中略)。女禰宜までも軽しむべからず可恐々々(群書類従本)。
とあるのは、極端にまで神仏が雑糅されているけれども、女禰宜が軽視されたことだけは、斯うした事も在ったろうと合点されるのである。而して更に「類聚三代格」巻一に載せた左の太政官符は、女性の禰宜や祝が、男性のそれ等のために圧迫されていたことを証明するものである。
太政官符
去天長二年十二月二十六日符偁、承前之例、諸国小社、或置祝無禰宜、或禰宜祝並置、旧例紛謬、准拠無定、加以或国独置女祝、永主其祭、左大臣宣旨、自今以後禰宜祝並置社者、以女為禰宜、但先置者令終其身者云々(下略)。
貞観十年六月二十八日(国史大系本)。
職務の圧迫は直ちに給分の減少を意味しているので、巫女は従来の如く、神社に属して、高く浄く——併し生活の不安に襲われながらも世に処して往くか、これに反して、家の歴史を棄て、神社に離れて、低く汚く——併し生活には、多少の余裕を有して世渡りするかの岐路に立たされたのである。而して此の結果は、神社に属する「神和(カンナギ)系の神子(ミコ)」と、神社を離れた「口寄(クチヨセ)系の市子(イチコ)」との二つに分れるような趨勢となり、かくて此の区別は、千余年の歴史を通じて、現代にまで及んだのである。 
二、霊魂観の進歩と口寄せ呪術の発達
仏教の渡来は、我国の霊魂観及び来世観に、一段の飛躍的進歩をなさしめた。神は人の死して祀られたもの、人は死ねば夜見の国に往くものと単純に考え、魂は荒魂と和魂とを体とし、奇魂と幸魂とを用とするものと漠然と信じていたところへ、仏教の高遠なる教理によって、分霊の思想を知り〔四〕、来世における地獄と極楽の生活を教えられたのは、全く一種の驚異として迎えたことと思う。而して此の霊魂観は、巫女をして、冥界に居る霊魂を、何時でも呼び出し、又は遠隔の地に居る生ける人の魂を招ぎ寄せて、これと自由に談話を交えることが出来るという思想を懐かせ、更にこれを呪術として発達させるまでに至ったのである。
勿論、此の呪術は古代の文献にこそ見えていぬが、霊魂の不滅を信じ、併せて幽界との交通を信じていた我が民族の間にも存していて、巫女が此の種の呪術を好んで行い来たことと想われるし、殊に道教の影響を受けて、次第に此の種の呪術も巧妙になったことと考えられぬでもないが、併しながら我国の巫女は屡述の如く神その者であり、又は神の代理者でもあって、霊媒者としても極めて狭義の活動に制限され、他界に居る死者の魂を自在に呼び出したり、遠方に在る生者の魂を随時に招ぎ寄せたりして、これと交話するというが如き広義の活動は為し得なかったのである。更に換言して、詳しく述べれば、我国の巫女は道教によって弦寄せ(即ち弓弦をたたいて神を寄せること)の呪術を知ったが、これ以外の口寄せの呪術は余り深くは知らなかったのである。それを仏教の霊魂観や来世観や、更に天台真言の両宗が行った加持祈祷の事相を学んで(是れには猶お修験道と巫女との関係を知らねばならぬが、それに就いては後に述べる)漸く口寄せの呪術を知るに至ったのである。
由来、我国の文献で、口寄せという術語(テクニカル・ターム)の用いられたのは、管見の及ぶ限りでは、平安朝の「栄華物語」が最初である。即ち同書「後悔大将」巻に、「神のまことそらことをも聞むとて、左近のめのと御くちよせにいでたつ(中略)。この巫女(カウナギ)ただ泣きに泣きて」云々とあるのがそれであって、これに次いでは、同期の藤原明衡の「新猿楽記」に「四ノ御許者、覡女(カムナギ)也、卜占、神遊、寄絃(ヨリツル)、口寄(クチヨセ)之上手也」と見え、後世になると、梓ミコと、口寄せとが、彼等を呼ぶ有力なる二代名詞とまでなったのである。
仏徒である僧尼が、巫女の領域に立ち入って、猖んに呪術を敢てしたことは、古代からの陋習であった。「続日本紀」巻七養老元年夏四月に詔して、
方今、僧尼輙向病人、令家詐祷幻怪之情、戻執巫術逆占吉凶、恐脅耄穉云々。
と宸戒を加え、次いで「養老令」においても、固くこれを禁断し、僧尼令に左の如く規定してある。茲には便宜のため「令集解」から摘録する。
凡僧尼卜相吉凶{謂、灼亀曰、卜視地曰/相、占筮亦同(中略)。}及小道{謂、厭符之類也(中略)穴云、/小道、謂、符造左道是也云々}巫術{謂、巫者之方術、既是遙邪多端、不可具/言(中略)朱云、巫術、謂祭神而療病耳/云/々}療治者皆還俗、其依仏法持呪救疾、不在禁限{古記云、持呪謂経之呪也、道術符/禁、謂道士法也、今辛国連行是云々}
これに徴するも、僧尼の輩が巫女的呪術を行った事が知られると共に、仏教と巫道とが如何に密接に習合されていたかが窺われるのである。而して更に注意すべきは、前掲の最後の脚註に、「古記云、持呪謂経之呪也、道術符禁、謂道士法也、今辛国連行是」とある一節である。此の辛国連とは、有名な役行者(修験道の開祖と云われている)を讒して伊豆へ流したと伝えられている韓国連広足の一族と思われるので、此の頃において既に、仏教と巫道と修験道との三つが、相当に習合され混糅されていた事を証示する記事として、関心すべきものがある。「枕草子」に、見苦しきもの、法師陰陽師の紙冠(カミカウフリ)して祓したると記し、「紫式部集」に、弥生の朔日河原に出でたるに、側の車に法師の紙を冠にして、はかせだちたるを悪みと載せ、「宇治拾遺物語」巻十二に、爰に法師陰陽師、紙冠を被て祓するを見つけて云々とあり、更に「古今著聞集」に、藤原基俊が城外の道に小堂の在るを見て、六歳ばかりの小童にその名を問いしに「やしろ堂」と答えたので、基俊口吟に「此の堂は神か仏かおぼつかな」と云うと、小童とりあえず「ほうしみこ(法師巫)にぞ問ふべかりける」と下句を答えたとあるように、此の三者は殆んど区別することの出来ぬまでに、民間信仰としては融合渾成されたのである。
かく仏教に導かれ、道教に誘われて、巫女の有していた固有の呪術は、漸を追うて失われ、形式も、内容も、道教化し、仏教化する余義なき道程を辿ったのである。「古事談」第三に、恵心僧都が大和の金峰山に正しき巫女ありと聞いて、ただ一人にて京都より同地へ赴き、心中の祈願を占えと頼みしに、その巫女の歌占(ウタウラ)に「十億万土の国々は、海山隔て遠けれど、心の道だに直ければ、つとめて到るとぞきけ」と占うたので、随喜の涙を流して帰洛したとあるが、京まで盛名を馳せた正しき巫女にあっても、その言うところは全く仏臭き文句であった。他の正しからざる巫女の仏教化せる、又た以て知るべきである。 
三、巫女の守護神から帰依仏への過程
祖先信仰を基調とした巫女の守護神は、記述の如く、始めは祖先を葬った墓地を人格化し、後にはその土塊を以て造った人形(ヒトガタ)であって、これが呪力の源泉であると同時に、巫女の験者たる事を保証してくれたのである。然るに、仏教が巫道に習合されるようになってからは、此の守護神にまで変動を来たし、後には帰依仏がこれの代用となってしまった。迥かに後世の記録に見えた「後(ウシ)ろ仏(ホトケ)」なるものは、巫覡の徒が共通して用いた呪源であったように思われるが〔五〕、それが大昔から存したものか否かは判然しない。「三河雀」巻三に、
信州善光寺に通夜せる僧の談に、某は羽黒山の者なるが渡世の業に後ろ仏と申す外法を使ひ侍りしが、金銀は心の儘にしてたぐる、富貴なる者には後ろ仏に申して、即座に悩し奇異なる術を使ひ、身の栄華を極るは第一の重宝にて侍れど、常に我身に後ろ仏えみつき、棹投る間も放れず、此苦み堪え難く(中略)後ろ仏を笈に入れ犀河に投入れ、善光寺に来り二六時中念仏す云々(国書刊行会本)。
とある。これによれば、「後ろ仏」は、修験と、仏法と、巫道の三者に関係を有っていたようである。更に「平家物語」巻一赦しの文の条に、
こはき御物(オンモノ)の気(ケ)どもあまたとり入奉る、神子(ヨリマサ)(中山曰。巫女)明王(中山曰。不動明王)の縛(バク)にかけられて、あらはれたり。
云々とあるのは、間接ながらもこれを示唆しているものである。而して後世の巫女は、十三仏と称するものの一仏を帰依仏とし、これを一代の守り本尊として、呪力の根源と為し、或は此の仏と結婚(この詳細は第三篇に述べる)する巫女さえあって、十三仏が巫女の帰依仏となっていたのであるが、され此の十三仏なるものが、民俗学的には、誠に面倒な問題であって、我国において、何時頃(いつごろ)に、誰が、何の理由があって、十三仏を定めたかさえ判然せぬのである。「寂照堂谷響集」巻六によれば、
十三仏十王逆修次第云々。不知誰定、按本朝文粋及性霊集等達噺願文、上古無定法、想中古人効道明蔵川遺意定之矣(大日本仏教全書本)。
と断じ、南方熊楠氏は「仏説大阿弥陀経上巻に、弥陀仏の十三の名ある外、日本に謂う十三仏は無い」と語られ、富田斅純師の「秘密百話」には、十三仏は立川流の大成者たる文観僧正の作ったもので、十三の数は胎蔵界十三大院に象(かたど)ったのであると言われている。是等の諸説によると、十三仏は和製ではあるが、割合に新しいものであって、奈良朝や平安朝の巫女が帰依仏としたという証拠にはならぬのである。
併しながら、十三仏と押しくるめて言うことは、古くないにせよ、その仏の一々は、仏教の渡来と共に存していたのであるから、その後に巫女が、その一々の仏を捧持し、これを守り本尊としたであろうという仮説は成り立つ訳である。「塩尻」巻三七に、
今、巫覡の祈祷とてするは、多くは密家の行法と習合の事なり(中略)。神家は祓修業と称して神人を多く集め、同音に祓の祝詞を唱え、一度毎に手ならしなんどして、千度万度の祓なんといへるいと心得ず(中略)。今社家の祓は僧の千部万部の経を読誦するやうに心得ぬるは、誠に過らずや。
とあるは、極めて微温的ではあるが、巫仏の習合に触れているので、敢て抽出した。仏教に門外漢である私は、これ以上に突っ込んで言うべき材料を持ち合わせていぬので差控えるが、兎に角に、古く巫女が、守護神から帰依仏へ乗り代えたことだけは、事実と見て大過はないようである。
斯うして仏教の影響を受けたとすれば、巫女の呪法も従って変化せざるを得なかったと見え、古代には存せぬような所作が、極めて断片的ではあるが散見している。而してその重なるものは、(A)巫女ノ縛ということ、(B)巫女が仏の供養を営んだこと、(C)巫女の呪具に現われた仏教的要素などがそれである。 
A、巫女ノ縛と不動のから縛
前に引用した「平家物語」巻一に、巫女ノ縛のことが見えているが、これに就いて、山岡浚明翁の「類聚名物考」には、
巫女縛、これは巫女の呪術に憑座(ヨリマシ)を立て、その霊をあらはし縛束して責め伏するを云ふ。不動尊の修法にても縛(バク)の索とて、物を縛りて動かさぬことあるに似たり。俗に不動のから縛りと云ふ。
と解説している。此の記事に従うと、巫女ノ縛は不動尊修法のから縛りと関係があるようで、私の此の場合の例証として誠に都合が好いのであるが、茲に併せ考えて見なければならぬ一問題が存している。それは他事でもない。鳥居龍蔵氏が朝鮮の巫女(ムーダン)に関して調査したところによると、巫女(ムーダン)は、被術者の病気が甚だ重く、容易に荒魂(中山曰。病魔の意)が体内から去らぬ場合には、麻布の長いものを巫女(ムーダン)の身体に巻きつけ、これに荒魂をおわせて退散せしめるそうである〔六〕。而して我国と朝鮮との巫縛を比較すると、前者は憑座(ヨリマシ)として縛され、この苦しみによって禍を人に加えた物の気を払うのであって、後者は鳥居氏の説かれた如く、麻布に病魔を付ける——我国で云えば贖物(アガモノ)の思想であって、その間に相違のあることは言うまでもなく、且つ我国のは仏臭く、朝鮮のはシャーマン臭く考えられるのである。
斯う詮議してから、更に元へ立ち戻って、前の「平家物語」の記事を見直すと、既に山岡翁が云われたように、不動の修法に類似したものと信じられるのである。「保元物語」に、久寿二年、鳥羽法皇が熊野へ参詣した折の光景を記して、
山中無双の巫(ミコ)を召し出し、朝より権現を降ろし参らするに、午の時まで振りませ給はねば、古老の山伏八十余人、般若妙典を読誦して祈誓やや久し、巫も五体を地に投げ肝胆を砕く云々。
とあるのは、シャーマンの呪法に似通ったところがあるようだが、これも修験道の護法附けの呪法を参照すると、寧ろ此の方の影響を受けていることが合点されるのである。 
B、仏の供養を巫女が営む
巫女が亡者に親しみを有していることは、既述の如く、古くその屍体を扱い、又た黄泉国への道しるべまでした関係から見て、少しも不思議ではないのであるが、これが仏教と習合されてからは、愈々その親しみの度を加えたようである。而して私の不詮索から、此の種の文献は、古いものから発見することは出来なかったが、併し斯うした民俗は、突如として起るものではなく、必ずやその起源は、遠い昔に属することと信ずるので、その資料を地誌類から覓めるとした。
「出羽国風土略記」巻四に、出羽国の三崎山は、飽海・由利の両郡堺に跨っているが、山頂に三崎神社(祭神は素尊)が祭ってある。俊頼の夫木集(ママ)に宿世山とあるのは、此の山だと云うている。然るに、此の地方の民俗として、横死者あるときは、塩越(由利郡)の巫女神職を頼み、亡者の菩提を祈る。神壇を構え、幣帛湯釜を飾り、幣の垂紙に島の形を剪る。巫女幣笹を執って、熱湯に浴し、横死の時の苦しみ、悪趣に堕ちて責を受くるなどと語ると、死者の妻子を始め、その座に並居る者は、これぞ亡者の霊魂が、巫女に乗り移りて託するなりとて哭泣する。神職は、巫女の詞に応じて、今日行うところの功徳を以て、必ず菩提に至るべしと申す。事終れば、神職より死者の霊号を送る。願主これを受けて悦ぶが、世に此の事を「三崎はなし」と云う。後に仏徒から苦情が出て、此の事は稀れになった(以上摘要)。
而して此の記事は、前に挙げた土佐のタテクラヒの民俗と共通している点もあるが、これは横死者に限って行うというところに、非常なる相違がある。横死者が、屍体の始末または埋葬の方法に就いて、惨酷なる取扱いを受けたことは、既述辻占の発生の条に述べたので、再びそれを繰り返すことは見合せるが、更に此の記事中には三つの暗示が潜んでいることに注意せねばならぬ。即ち第一は、横死者に限って此の事を行うのは何故か、第二は、何故に此の事を「三崎はなし」というか、第三は、此の事は巫女が持ち伝えた古俗そのままか、それとも仏教の儀式を学んだものかと云う点である。
併しながら、それを言い出すと、説明が他岐に渉るので茲には省略し〔七〕、更に此の種の民俗を書きつづけるとする。陸中国江刺郡の各村落では、死者の葬儀が終り、大概五日目に法要を行い、会葬者に馳走をする。その夜は講中の者が集り、神式にては奏楽、仏式にては念仏をなし、又巫女を迎えて口寄せを聴くのが慣習となっている〔八〕。この行事こそ、琉球の魂(マブイ)アカシと全く同じ信仰であって、古く巫女が死者に親しみを有していた徴証である〔九〕。羽後国仙北郡の村々では、死者の葬礼の終った夜に巫女を招き、口寄せさせて死人の語る体をなさしめ、遺族や親戚も額を鳩め涙を流して聴聞する〔一〇〕。秋田市では、春の彼岸になると、各家々で巫女を頼み、口寄せして亡者の便りを聴くことになっている。田植頃になると、農家は繁忙のために此の事を行わぬが、若しそれでも行うときは、柳に幣(シデ)を切りかけて門に高くかかげ、此の事を遣っている目標とする〔一一〕。岩代国河沼郡冬木沢村(会津若松の市外)の八葉寺は、九品念仏の一脈で、空也上人が開基した古刹と云うている。俚俗この地を会津の高野と称え、毎年旧七月朔日より同十一日までの遠近の男女相集り、死者のために遺歯を堂中に納め、奥ノ院に香花茶湯を奠し、盂蘭盆会を営む。この時諸村より多くの巫女集り来たり、亡者の口を寄せて過去将来の事を語る。又それを聴かんとて参詣する者が夥しく多い〔一一〕。
而して是に類した民俗は、まだ各地に存しているが、第三篇にても述べる機会があるので、今は概略にとどめるも、斯うした民間信仰は、巫道が仏教に征服されたことを意味したものとして見るとき、そこに限りなき興味が湧くのである。全体、奈良朝から平安朝へかけての本地垂跡説の発達した事情に就いては、必ずしも平田篤胤翁が「俗神道大意」や、その他の著述で論じたように、仏徒がその教理を弘通するために、神道を利用したばかりではなく、この反対に、神道の方から仏教の方へ歩み寄った事情さえ存していた。当時、仏法を重んじ、神道を軽んずる為政者の宗教政策は、仏教を興隆に導くのに急であったために、神道はかなり危険の地位に置かれていたのである。奈良朝の初め頃から、宇佐八幡神が頻りに託宣して神仏の掛け合を慫慂し、遂に東大寺大仏の開眼式に、遙々と九州から出かけて来て、今に手向山に八幡宮を残したなどは、よく此の間の消息を伝えている。聖武天皇が、
天下の勢ひを有する者は朕なり、天下の富を有する者も亦朕なり、此の勢ひと此の富とを以て大仏を建立せむ。
と詔し、畏くも躬ら土運びまでせられた大勢から言えば、神道は仏法の前に兜を脱がざる破目に立たせられていたのである。然も此の大勢は、かなり永い歳月を通じて保たれていたのであるから、巫道が仏法に降参して、巫女が尼僧に似たような所作を演ずるなどは、寧ろ当然の帰結と言うべきである。宇佐八幡神を日本一の託宣好きとなし、その分霊が僧行教によって石清水に祀られ、これの身体が僧形であったことや、此の他の名神大社の殆んど悉くが神前に読経したことや、神宮寺が建立せられたことや、神が仏の頤指のままに三十番神にまで利用されたことなども、決して偶然ではなかったのである。 
C、巫女の呪具に現われた仏教的要素
後世の巫女の中で、或る流派に属する者は、イラタカの珠数と称する物を所持していて、他の巫女が弓弦をたたき、又は笹の葉で顔をたたきながら、呪文を唱えて神降ろしをするように、その数珠の珠(タマ)を手で一つ一つ繰りながら神懸りの状態に入る方法を執っている。私の寡聞では、現在イラタカの珠数を用いる巫女は、秋田県を中心としている「座頭嬶」と称する巫女及び宮城・岩手両県のイタコの外には余り多くを耳にせぬが、併し関東を中心とした巫女も、彼等の仲間で「切り珠数」と称して、普通の珠数を中央から切り放した様な物を用い、然もこれで占う事を俗に「珠数占」と言っている所を見ると、古くは奥州のそれの如く、イラタカの珠数を用いていたのではないかと考えさせられるのである。
而してイラタカの珠数に就いては、昔から学者の間に異説があり、イラタカとは珠数の梵語(サンスクリット)だなどいう考証があるが〔一二〕、これは修験者が用いた最角念珠(イラタカノネンジュ)と同じ語原で(但し修験が先きで巫女が後か、或は此の反対に巫女が先で修験が後かは後に述べる)あろうと思う。そして此の珠数は挿入の写真で示したように、私の見たものは、長さ八尺、無患子(ムクロジ)の珠の数は三百を本義とし(写真のは5つほど失われている)、別に「装束」と称して双方の房(フサ)の所に、羚羊の上顎骨、狐の上顎骨(下顎骨を用いぬのは見た眼が悪いからだという)、羚羊の角、熊の牙、鷲の爪、及び鷹の爪、貝が二つ、これに変り銭(絵銭及び文字の異った変り銭)と、秋田藩で発行した鍔銭とが着けてあった〔一三〕。此の珠数は是を用いる巫女にとっては、唯一の呪具であると同時に、呪力の根元となっているのであるから、常に尊崇して、座右を放さず、師匠が死ぬ時に弟子に伝え、以て法統の霊物としたのである。これに反して、切り珠数の方は頗る簡単であって、珠は普通のと異り、丸くなくしてやや平たく、恰も十露盤珠のようで、数は日本総国を象り六十六とし、外に日神月神を象って、水晶の大きい珠を二つ加えている〔一四〕。珠数の説明はこれで大体を尽したが、さて問題となるのは、巫女が此の種の珠数を呪具として用いたのは、仏法に学んだのか、修験道に教えられたのか、それとも巫女独特の理由があったのか、三つのうちどれが正しいかと云うことである。
これに対する私見を簡単に述べれば、既記の如く我国の巫女は、遠き狩猟時代から、或る種の獣骨禽爪等が呪力を有していることを知っていて、常にそれ等を所持していたのである。詳言すれば、意外なる豊猟によって獲たる、獣骨禽爪(骨爪は禽獣の象徴である)を所持していると、幾度でも豊猟を獲させてくれる(一種の交感呪術である)という信仰を持っていたのである。而して此の獣骨禽爪等の元の意味が忘られて、装身具となれば、即ち曲玉となって(曲玉の古い物が腎臓であることは既述した)、男女の胸辺に懸けられるようになったのであるが、此の間において、独り巫女だけ、古き伝統のままに(元の意義は忘れても)獣骨禽爪等を所持していたところ、仏教の渡来によって珠数を知り、ここに獣骨禽爪等の処置に就いて、何時(いつ)の間にか二派を生じ、一派は珠数に真似てこれを造り用い、一派はそれを「外法箱」のうちに蔵して用いるようになったものと考える。此の観点から云えば、修験の最角念珠は、却って巫女のそれを模倣したのではないかとさえ思われるが、併しこれは筆序(ふでついで)に記すべきような簡単の事ではないから、姑らく留保する。
巫女が巫鳥(シトド)の骨を焼いて占いを行うたこと、及び此の巫鳥が俗に頬白と云う鳥であることは既述を経たが、仏教の渡来と、密宗の事相とは、遂に此の巫鳥を時鳥としてしまった。全体、時鳥の考証は頗る厄介な問題であるが、それは本問に交渉が無いので省略するも〔一五〕、此の鳥が巫鳥に附会されるに至ったのは、別名を死出(シデ)ノ田長(タオサ)とも、魂迎へ鳥とも、又た無常鳥とも称したことに由来するのである。死出ノ田長に就いては「伊勢集」に「死出の山越えて来つらむほととぎす、恋しき人のうへ語らなむ」とあるのが古く〔一六〕、魂迎え鳥のことは「藻塩草」巻十に見え、無常鳥に関しては、我国で偽作された「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」の一節に、
一切衆生、臨命終時閻魔法王遣閻魔卒、一名奪魂鬼、二名奪精鬼、三名縛魄鬼、即縛三魂、至門関樹下、樹有荊棘、宛如鋒刃、二鳥栖掌、一名無常鳥、二名抜目鳥(中略)。化成{{{臣ケ}下皿}鳥}{縷鳥}、(中山曰。和名抄には此の字をほととぎすと訓せた)示怪語、鳴別都頓宜寿(ホトトギス)云々。
とある〔一七〕。是だけでも、時鳥の解釈が頗る面倒であるのに、更に此の上に喚子鳥なるものが、これに附会されるに至って、益々複雑を加えて来て、私などの学問では、全く判然せぬまでに紛糾してしまったのである。
喚子鳥は、他の稲負せ鳥、紅葉鳥と共に、所謂「古今集」の三鳥と称せられる口伝の秘事であって〔一八〕、これ又時鳥にも劣らぬ難物が附会されたのであるから、問題は愈々面倒となったが、伴信友翁は「壒嚢鈔」を典拠として、喚子鳥は即ち時鳥の別名なりと埒を明けてくれた。従って元禄元年に撰集した源為憲の「口遊」に載せたる、
与美(黄泉)、止利(鳥)、和加々支毛止爾(我が垣もとに)、奈岐徒奈利(鳴きとなり)、比止美奈支々津(人みな聞きつ)、由久多毛安良志(往く魂もあらし)、謂之鵼鳴時歌云々。
とある鵼の正体は、喚子鳥であって、その喚子鳥は時鳥であることが知れ、延いて「徒然草」に「或る真言の書の中に、喚子鳥啼くとき招魂の法を行ふ次第あり、これ鵺なり」とある事まで明白になった〔一九〕。さなきだに、時鳥は、一種の霊魂動物として俗信を集めていたところへ、仏説によって更に幽怪化されたので、その結果は巫鳥の地位まで奪うようになってしまったのである。
巫道に影響した仏教の教相及び事相に就いては、まだ記すべき多くの物が残されているが、尽さざる点は第三篇において補うとして、余りに長くなるので此の節を終るとする。 
〔註一〕仏教が我国に渡来した年代に就いては、公には欽明朝の十三年ということになっているが、実際は是れより以前に在ることは言うまでもない。仏教学者の間には、此の年代を迥かに古代まで引き上げようと試みる者も少くないが、私の信ずるところでは継体朝の頃ではないかと考えている。
〔註二〕法師巫の平安期の文献に見えたことは、本文中に記して置いたが、更に我国における毛坊主(清僧に対する俗僧ともいうべきもの)は、或は是等の思想から導かれたのも、一原因ではないかと考えたことがある。
〔註三〕山本信哉氏が曾て「歴史地理学会」の講演で此の事を詳しく述べられた。
〔註四〕我国の古代における分霊の思想は、極めて稀薄なものであった。天照神が皇孫に御鏡を親授して、吾が御霊として斎き祀れとあるのが、それだと言っている学者もあるが、猶お考覈すべき余地があるやに思う。一神が百にも千にも分霊するという思想は、原始神道の上からは明確に知ることが出来ぬ。折口信夫氏は「万葉集」巻十四東歌の「あらたまの塞側(きべ)のはやしに汝を立てて、行きかつましじ妹をさきだたね」を解釈して、「魂はやしの式を行い云々、此のはやすには分霊を殖し、分裂させる義がある」と、例の氏一流の天才を発揮しているが、私には必ずしも此の歌はそう解釈されぬ。よし又た折口氏の如く解釈するのが古俗の正しきものとしても、分霊を殖す思想は、仏教の影響であって、我が固有のものだとは信じられない。
〔註五〕後ろ仏のことは、前掲の外には、「慶長見聞集」巻八に一例を発見しただけで、外に在ることの耳福に接しない。誰か此の種のことに通ぜるお方の教えを仰ぎたいものである。
〔註六〕大正五年十二月十五日発行の「大阪毎日新聞」の記事に拠る。
〔註七〕我国には、ミサキと称する社名や、地名が、少からず存しているが、此の解釈は、中々に面倒である。それよりも、私として此の場合に考えて見たいことは、高貴の陵墓を、何故にミササギと称するかと云う点である。ミサキとミササギ——何か関係があるのではないかとも思われるので、附記して敢えて後考を俟つとする。
〔註八〕「江刺郡志」。
〔註九〕「日本風俗の新研究」。
〔註一〇〕「秋田風俗問状答」。
〔註一一〕「新編会津風土記」巻八一。
〔註一二〕山崎美成翁の「海録」巻六に「念珠の梵名アラタカと云へり、いらたかは此の転語なり」と載せたのは、好問堂としては、千慮の一失であった。織田得能師の「仏教大辞典」には、珠数の梵名は「鉢塞莫」とある。「塩尻」巻五四に「いらたかの珠数は、密家の故実もありやと、或真言師に問ひしに、是は修験者の具にして、させる故もなし、最角と書ていらたかと読むと答へし」とある。
〔註一三〕私は秋田県出身の鈴木久治氏の秘蔵せるイラタカの珠数を拝見し、且つ写真の撮影まで許してもらい、併せて有益なるお話を沢山聞かせてもらったことは実に感謝に堪えぬ。ここにその事を記して敬意と謝意を表す。因に柳田国男先生が見られたイラタカの珠数は、長さ十三尺、無患子の珠が三百三十、外に装束が付いて居たとあり。又た東京博物館にあるものは、獣骨禽爪等の外に菱の実が付けてあったと「郷土研究」第一巻(二五九ページ)に記してある。
〔註一四〕江戸期に、関八州全部と、奥州と、甲信の一部の巫女頭を代々勤めていた、田村八太夫の最後の巫女である田村常子の談。猶お同家のこと、及び田村常子のことに就いては、第三篇に詳記する。
〔註一五〕伴信友翁の「比古婆衣」巻五に「喚子鳥」及び「しでのたをさ」の詳密なる考証が載せてある。
〔註一六〕時鳥を死出田長というのは、死出はしで(仕出)の転訛で、勧農鳥の意だという説もあるが、深い詮議は前記の「比古婆衣」に譲るとして、今は省略する。
〔註一七〕十王経は偽経ではあるが、我国の作ではないと、「倭訓栞」に載せてあるが、これは本居翁の「玉勝間」にある如く、我国の偽作と見る方が穏当のようである。そして此の偽経が古くから行われたことは、「袖中抄」に僧寂蓮の此の経に関する語が載っていることからも知られるのである。
〔註一八〕喚子鳥の正体は古今伝授の一として、大昔の歌学者にはやかましい問題であると同時に、又一種の米櫃でもあった。私は晋其角の「六つかしや猿にしてをけ喚子鳥」の方で、深いことは知らぬし、又た余り深く知ることを要さぬと思ったので概略にして置いた。
〔註一九〕前掲の「比古婆衣」巻五。 
 
第二章 修験道の発達と巫道との関係

 

第一節 憑り祈祷に現われた両者の交渉
修験道は、奈良朝において、役ノ小角が開いたものだと伝えられている〔一〕。私は小角が創めた当時の修験道が、如何なるものであったかは詳しく知らぬが、後世の是等の徒が好んで行うた呪術は、俗に「憑(ヨ)り祈祷(キトウ)」と称するものであって、一名の男女(又は子供)を、憑座(ヨリマシ)(仲座(ナカザ)、御幣持(ゴヘイモチ)、尸童(ヨリワラ)、乗童(ノリワラ)、おこうさま、一ツ者(モノ)、護法実(ゴホウダネ)、護法付(ゴホウツキ)、護因坊(ゴインボウ)、古年童(コネンドウ)などとも云う)と定め、これに神を祈り著けて、その者の口より、神の意として、善悪吉凶等を語らせる方法である。私はここに、修験者が行った憑り祈祷の二三の実例を挙げ、然る後に、此の呪法と、巫女のそれとの比較、及び関係に就いて、管見を述べる。ただ前以てお断りして置くことは、此の種の類例は、代々の文献にも非常に多く存しているので、到底ここには挙げきれず、又挙げる必要もないと信ずるゆえ、今は私が専攻している民俗学的の資料を、時代に拘らず載せたことである。「校正作陽誌」久米郡南分寺院部に、
護法社、在岩間山本山寺(天台宗)域内、毎年七月七日行護法、祈其法撰素撲者、斎戒斎浄、諺謂之護法実、至七日、使居東堂之庭、満山衆徒盤境呪持、此人忽尓狂躍、或咆吼忿嗔状如獣族、力扛大盤、若有穢濁之人、則捉而抛擲数十歩之外也、呪法既畢、則供護法水四桶、毎桶盛水一斗五升、其人尽呑了、後俄然仆地即復本敢莫労困、又不自知之耳、謂之墜護法也(以上摘要)。
此の護法実と称する人物が、呪持のために、力大盤を扛(あ)げ、水六斗を呑み尽し、獣族の如くになって咆吼し、穢濁の者あるとき、捉えて数十歩の外に擲つとは、現今の科学から説明すれば、全く催眠状態の仕業であることが容易に知り得らるるのであるが、かかる知識を少しも有していなかった時代にあっては、ただ神秘のこと、不思議のことと信じ、恐れるより外に致し方がなかったのである。昭和の現代においても、真宗の糸引名号や、法華宗の御因縁様などが多数の信者を有している所から推すと、修験道が民間信仰の骨髄にまで浸み込み、護法実や山伏の威力は、私などが今日から想像する以上に更に猛烈であったに相違ない。而して其の旁証とも見るべき記事が、同じ「校正作陽誌」久米郡北分寺院部に載せてある。曰く
二上山両山寺(真言宗)在大垪和村云々。末社護法祠、建治元年七月十日、僧定乗於鎮守廟言護法神託、寺僧書軸為号護法託宣、率千数百字皆不経之言也、相伝、昔有山鬼、名曰三郎坊養勢、常為仏敵、護法神怒執縛之、自後誓不復往山、又山下有護法松、住日法楽之日、寺山某来見、会将央、護法之尸奮然起而攫捉寺山、蓋因其不潔也、寺山勇悍、相撲接峻崖嶮坂輾転而下、二人共死、因合葬其地、後人植松為標、名護法松、(以上摘要)。
此の護法松の由来に就いては、「岡山新聞」に異説が載せてある。重複する点もあるが、如何に当時、この護法信仰なるものが、威力を以て民衆に臨んでいたかを知る上に、参考として附載する。
美作国久米郡の両山寺には、往昔二十四房あったが、過半は廃れて今では六房しか残っていない。毎年八月十五日に武甕槌命の祭典がある。これを護王(中山曰。護法の転訛)と云い、人に神を祈りつけ、境内を飛び走って穢れし人は之れを捕える。これに捕えられた者は、二年すれば死ぬと言い伝えられている。昔、不信心の武士(中山曰。前条の寺山某か)が、わざと魚を食ったまま参詣し、此の護王に追いかけられ、逃げ途を失うて、松の木へ登り難を避けたが、護王がその松に登って来たので、武士は帯刀を揮って護王を斬り殺してしまった。武士が血刀を附近の池で洗ったところ、不思議にも池の水が一時に涸れてしまい、今でも雨が降ると血の色の水が湧くという(摘要。大正七年七月廿六日発行)。
是等の記事は、別段に説明を要するほどの難解のものではないが、ただ一言注意までに言って置くことは、此の護法附の憑り祈祷を行う寺が、双方とも修験道に関係の深い天台宗と真言宗とであることである。私が改めて言うまでもなく、修験道は古くから此の両宗に属し、聖護院派(天台で当山派と称し)と、醍醐派(密宗で本山派と称す)とに分れていて、峰入りも順逆の二つに区別されていた。而して修験道が、此の両宗の袈裟下に投じたことに就いては、多少記すべきことが存するけれども〔二〕、それは余り本問に関係がないので割愛し、更に此の種の憑り祈祷の類例を挙げるとする。護法附に就いては「郷土趣味」第一巻第五号に、左の如き記事が載せてある。
京都の松尾山鞍馬寺(天台宗)では、毎年六月二十日の夜に、護法附という修法を行う。これは有名なる「鞍馬の竹伐」の行事(中山曰。竹の伐り方で年占をするもの)に関係ある雌蛇が、護法神として祭ってあるためである。大昔には、毎年人味(人身御供)を供えたと云うが、今では夜の八時に、堂内の燈火を悉く消し、生贄にする僧(即ち憑座)を坐せしめ、衆僧も共に闇中にいて、代る代る陀羅尼神呪を大声に唱えて、彼の僧を一ツ時ばかり祈り殺す。ここに至って、護法神は人味を納受せられたとて、之にて法式が終る。後にその仮死している僧を板に乗せて堂の後に舁て往き、大桶七ツ半の水を注ぎ流して身に懸けてやると、生贄はやがて蘇生する。そこで裸体のまま護法の祠に参詣する。これを護法附の行事と称している。今日では僧を祈り殺し、祈り活すというような、法力実験は致さぬそうである(以上摘要)。
此の記事は採集者の態度が興味本位であるために、学術上の大きな問題を忘却している。それは此の種の行事の目的は、その憑座の口から神意を語らせ、一年中の豊凶または時疫の有無などを占うことに出発しているのであって、そのことは年占の竹伐りの行事に引続いて挙げられる点からも知れるのである。次に載せる憑り祈祷なども、又それが脱落しているが、ただ面白半分にかかる祈祷が行わるる筈がないので、古意が失われて、行事だけが残ったものと見るべきである。「福島県耶麻郡誌」に、
岩代国耶麻郡月輪村大字関脇の麓山(ハヤマ)神社、旧記に毎年九月十五日民家を掃い清め、注連を引いて大幣二本を安じ、村民の祭りに与る者宿斎し、此家に集会し、大なる炉に薪を焚き、衆人「月山(ツキヤマ)、麓山(ハヤマ)、羽黒の大権現、並びに稲荷(トウカ)の大明神」と一と口に出る如く唱うること数十反、神これに憑る者一人或は二三人、互いに起って幣を執り狂躍し、遂に炉中に入り火上に坐す。或は火を擢み、或は火を踏み、幣にて火を探れども燃ゆることなし。少間ありて神去れば、其人酔の醒めたるが如し。十五日より二十七日まで毎夜かくの如く、二十九日の朝麓山社に詣て神事に交る。これを火祭りと云う(以上摘要)。
以上の憑り祈祷に比較すると、竹崎嘉通翁が「郷土研究」第三巻第九号に寄せたものは、よく古俗を伝えているものと考えるので採録する。
石見国邑智郡高原村大字原村の氏神社では、例祭の折に「託舞(タクマイ)」という神楽が行われる。託とは神託のことで、一人の審神(サニワ)(中山曰。審神は既記の如く神意を判ずる者であるから、此の場合は憑座とか幣持とか云うのが穏当であるが、今は原文に従うとした)を立て、神おろしをなし、種々の問答を試みるのである。託太夫、即ち審神となる神職は、自然世襲の有様で、又それに属する腰抱(コシダ)きという役もあるが、これも亦た世襲の姿であった。託舞の設備としては、大きな注連縄の端を龍頭に似せて造ったものを、神前の左右の柱から相対する方面の柱に引渡す。深更の刻、審神者を上座とし、多数の神官その縄に取付き、幣を持ち、歌をうたい、祝詞を読む。そうすると、暫時にして、審神者に顔色変り、大声を発して、村の某は云々の罪悪がある。某は不信者、本年某の方面に火災があるなど口走り、又た祭主たる神職と種々の問答をする事もある。時によっては神怒を発し、太刀を抜いて荒れ廻り、或は桟敷に飛び込み、怪我人を生ずる事もある。その時腰抱きなる者がこれを抱き鎮める。自分(即ち竹崎翁、因に云うが翁は神職である)は三四度その席に列した事があるが、何時(いつ)も余りの恐しさに、片隅に打伏していた(以上摘要)。
ここまで記事をすすめて来ると、猶お此の種の行事に類する吉野金峯山の蛙飛び(一人の僧を蛙の如く扮装させ、これを鞍馬寺の如く祈り殺し祈り活す)の神事、奥州羽黒山の松聖(マツヒジリ)の行事、近江の比良八荒の伝説、尾張国府宮宮で旅人を捕えて気絶させる直会祭、筑前観音寺の同じく旅人を搦めて松葉燻しにする行事や、その他各地の修験者が好んで行うた「笈渡しの神事」まで説明せぬと、些か徹底を欠くように思われるが、それでは余りに長文になるし、まだ此外に子供を憑座とした憑り祈祷も挙げたいとも考えているので、是等は悉く省略に従うこととし、筆路を護因坊に移すとした。而して護因坊に就いては「近江輿地志略」巻二〇に「日吉記」を引用して、下の如く載せてある。
護因坊、僧形有觜、樹下僧行力巨多也、後身誕生、後二条院勅賜愛智上庄三千石内陣御供料、当社、神位崇敬之社、辻護因坊跡也、奥護因廟所、浄之勝也、内井之護因、比谷川大洪水時、流自大行事迄内井、如此止処建社、号流護因云々(日本地誌大系本)。
美作の護法実にせよ、鞍馬の護法附にせよ、憑代となる者は、或る限られた人物であったにせよ、それでもまだ私達と同じき横目縦鼻の人間であったが、此の護因坊となると、僧形有觜とある如く、全くの天狗と成り了うせている〔三〕。かく人間から天狗に遷り変って行くところが、やがて修験道が道教や仏教を巧みに取り入れて、民間信仰を支配するに至った過程なのである。而して此の憑り祈祷と同じような目的で、憑座に子供を用いた神事も多数に存しているが、茲には僅に二三だけ挙げるとする。
岩代国耶麻郡猪苗代町字新町の麓山(ハヤマ)神社の祭日には、火剣の神事とて、生木を焚いて薪とし、塩を多く振りかけて火をしめし、村民等呪文を唱え、幣帛を振って清め、祈願ある者参詣すれば、火中を渡らせる。又た乗童(ノリワラ)と号けて、祈願する者の吉凶を託宣する。昔は子供が此の事を行ったが、今では老壮の者が遣るようになった〔四〕。飛騨国益田郡下呂村大字森の八幡宮の例祭は、古風を伝えているが、正月十日に、氏子の中から、十二三歳の子供を集め、神前にて籤を取らせ十人を選み、又その中より一人を選み、禰宜と称し、折烏帽子直垂を着し、神事の祭主とする。祭典の十四日になると、祭主の子供が細き竹を長さ二尺一寸に切り携え、これを己以波之(コイバシ)と名づけ、祭礼が済むと、此の竹を群集の間に投げる。拾い得たものは嘉瑞とする〔五〕。これは口で言う託宣を竹に代表させたものである。常陸の鹿島神宮で、旧四月九日に行う斎頭祭なども、私が親しく拝観したところによると、左右の大将となる者は子供であって、今では祭神振武の故事を演ずるといっているが、古くは左右の勝敗によって年占を行ったものだと考えられる〔六〕。類例は限りがないから、此の程度にとどめて、今度は此の修験道の憑り祈祷と巫女の呪術との関係に就き一瞥を投ずるとする。
我国の古代の巫女が、神を己れの身に憑らせて託宣したことは、畏くも既述の神功皇后がその範を示された如く、全く固有の呪法と言うべきものであって、代々の巫女も又この呪法を伝えて変るところが無かったのである。ただそれが、道教が輸入され、仏教が弘通されてからは、巫女も是等に導かれて、固有の呪法に幾多の変化を来たすようになったが、それでも此の固有の所作だけは保持していたのである。此の立場から見れば、修験者の行うた憑り祈祷なるものは、巫女のそれを学んで、然も纔に方法を変えて——即ち巫女自身に憑らせべき神を、仲座と称する第三者に憑らせて、修験者は審神者の地位に立ったと云うに過ぎぬのである。従って、巫道と、修験道との、呪術の関係は、前者の所有していたものを後者が奪い、男性であっただけにそれを拡張したに外ならぬとも言えるようである。殊に子供が託宣することも、既述の如く、これ又た古代からの事象であって、これとても修験者の発明とは見られぬのである。修験道が宗教界の寄生虫と云われるのも、決して故なしとせぬのである。
併しながら、修験道の表道具であった憑り祈祷は、如何にも神怪であっただけに、深く民間信仰を維いでいたことは、争うべからざる事実であった。加之、彼等が此の呪術を自在に為し得るまでには、筆舌にも尽せぬほどの難行苦行を積んだものである。「元亨釈書」の忍行篇に載せてある彼等の行法や、謡曲「谷行」に現われた彼等の作法などは、私のような気の弱い者には、実に卒読にも堪えぬほどである。絶食、絶水、不眠、不臥、手燈、倒懸、刻骨、捨肉、火定というが如き、有りと有らゆる惨酷を忍ぶばかりか、更に加賀の白山禅定、紀州熊野の補陀落渡海の如き、聴くだに戦慄を覚えるような事を、恰も尋常茶飯事のように実行して恐れなかった彼等の心理状態は、よしそれが迷信にもせよ、神や仏に縋ろうとする懸命の信仰を外にしては、遂に解釈し能わぬ問題である。かく詮じ来たれば、修験の徒が、永く民心を支配したのも、決して偶然のことではなく、且つ後世になると巫覡と並び称せられて、覡は直ちに修験者を意味するまでになったのも、又た偶然ではなかったのである。 
〔註一〕修験道を役ノ小角が開いたというのは、彼等の徒の主張であって、必ずしも正しい記録に見えている訳ではない。かかる信仰上の問題は、追々に大成されるものであって、役ノ小角は単にこれに似たことをした位に過ぎぬ者と見るべきである。
〔註二〕修験道に関する書籍は少くないが、纏ったものでは「木の葉衣」「踏雲録」など(共に続々群書類従宗教部所収)で、此の外にも、江戸期の随筆にかなり多く記されている。
〔註三〕我国における天狗信仰は、かなり複雑しているだけに、又た厄介な問題であるが、一言にして言えば、修験道で創作した俗信の対象である。更に砂から工夫した飯綱信仰とか、狼を中心とした三峯信仰とか言うものも、修験者が宣伝したものである。
〔註四〕「新編会津風土記」巻四九。
〔註五〕「飛州志」巻五。
〔註六〕此の事は曾て「国学院雑誌」で拙考を発表したことがある。猶お「元亨釈書」の行尊伝(有名な修験者で、小倉百人一首で、諸共にあはれと思へ山桜、花より外に知るものもなしの和歌で知られている)に小女を憑座としたことが詳しく載せてある。特志のお方の御参照を望む。 
第二節 神降の呪文に見えた両者の交渉

 

謡曲「葵ノ上」を読むと、朝日の巫女が神降(カミオロ)しの呪文として、「憑(ヨ)りましは今ぞ寄り来る長浜の、芦毛の駒に手綱ゆりかけ」という短歌を唱えている。此の短歌は、何時(いつ)の頃に、誰が作ったものか、皆目知れぬと同時に、その解釈に就いても、判然せぬものがある。即ち憑りましが芦毛の駒に乗って寄り来ることは合点されるが〔一〕、何故に長浜から来るのか、それが会得されぬ。併し、分らぬことは分らぬままに後考を俟つとして、更に私に分ることだけ言うと、巫女の用いた神降しの呪文も、時代によって、相当の変遷を経ていることは、当然の帰結であって、神は人の敬うにより徳を増し、人は神の恵みにより福を加うという、神と人とが相互扶助的に対立されるようになって来れば、此の神に仕える人である巫女も、時勢に推し遷ることが生活の第一義であったに相違ない。従って呪文なり、神占の方法なりも、時勢と共に繁より簡に、厳より寛に傾いて来たことも、又た当然の趣向と云わなければならぬ。
それでは中古の巫女が、如何なる呪文を唱えて神降しをしたかと云うに、誠に慚愧に堪えぬ次第であるが、その代表的のものが寡見に入らぬのである。「年中行事秘抄」によると、鎮魂祭の折に用うる呪文的歌が八首載せてあり、此のうちの「たまはこ(魂匣)に、ゆうとりとして(木綿とり鎮て)、たまちとうせよ、みたまあかり(御魂上り)、たまかりまかり(魂上り罷り)、まししかみ(座し神)は、いまそき(今ぞ来)ませる」とあるのは〔二〕、神降しの意を含んでいるように拝せられるのであるが、これは畏くも歴聖の御上に限られた事であるから、それを巫女の輩が用いたなどとは夢にも想われぬことである。それかと言うて、後世の巫女が唱えた「千早振る此処も高天ヶ原なれば、集りたまへ四方の神々」とあるものは、如何にも近世の駄作であって、これが古くから行われたものとは思われぬ。併し、これは文献に見えぬこそ、寧ろ当然であって、探し出そうとするのが却って無理なのである。何となれば、呪文は巫女の秘密にすべきものであって、一子相伝とか、師承口伝とか、努めて他に漏れることを禁じていた筈であるから、そう軽々しく他人に語る訳もなく。従って記録にも残らなかったので、是を詮議しようとしたところが、先ず徒労に終るのが関の山と思わなければならぬ。そんな次第で、古いものは見当らぬが、室町期の作である「鴉鷺合戦物語」巻九に、左の如き神降しの呪文のあるのを発見したので載録する。因に言うが、此の物語は、鳥類を擬人化したものであるから、その事を承知せられたい。
(上略)ここに雀小藤太が妻子のなげき申ばかりなし、せめてもの事に、正しき巫鵐(ミコシトド)を請じて、小藤太を梓の弓にかく、かの巫(ミコ)、梅染の小袖かいとり座敷になをる。弓をうち叩て、
天清浄地清浄、内外清浄、宅清浄、六根清浄と清浄し進候、上は梵天帝釈、四大天王、下は炎魔法王、太山府君、五道の冥官、司命司禄、海内海外、龍王龍象、別しては日本国中大小の神祇、殊には王城の鎮守鴨上下、河内国には飛鳥部大明神、雄黒大明神、和泉国には大島大明神、阿波国には白鳥大明神、東山道に鳥海大明神、火鷹大明神、東海道には香鳥大明神まで、梓の弓をもておどろかし申、それ我朝は神国なり、神明の垂跡はこれ仏陀の慈悲のあまり也、各納受をたれて、只今よりきたる所の亡者の冥路の語、まさしく聞せたまへ。
寄人は今そ寄来る長はまやあしげの駒に手綱ゆりかけ
ありがたの只今の請用やな云々(以上。博文館発行「国文学全書」本に拠る)。
此の神降しの呪文は、鳥類の物語であるだけに、招(オ)ぎ下した神々が、悉く鳥の字の付くものばかりで、殊に香取を香鳥にもじった所などは、如何にも後世の戯作にでもありそうな書き方ではあるが、併しながら、大体において、斯うした文句が、巫女の間に用いられていたことは、第三篇に挙げた他の類例から推しても、ほぼ察知することが出来るのである。
而して是を基準として説を試みるのは、太だ早速ではあるが、此の呪文に現われた思想と信仰とは、我が原始神道とは非常なる距離を有していて、全く修験道の唱えたものの丸写しとも言えるのである。六根清浄の祓は、両部神道者の手によって作られたものであるが、これを好んで用いた者は修験者である。梵天帝釈、閻魔法王は、仏家の説であるが、これを利用した者は修験者である。泰山府君は道教の大達物であるが、これを民間信仰に持ち込んだ者は同じく修験者である。かく神・仏の三者を雑然として織り込んだところは、修験道の何でも御座れを如実に現わしているのである。而して茲に注意しなければならぬことは、こうした修験道の思想や、信仰を、露骨に出している呪文を巫女が平気でこれを用いて憚らなかったという点である。此の問題は一面から見れば、修験道が民間信仰の中心となったことを意味しているが、更に他の一面から見れば、巫女(勿論、全部と言われぬことは、此の種の呪文を用いぬ者も存していたからである)は、修験者に信仰的に征服されたことを物語っているのである。然もその征服された事実は、更に二つに分れて呪的方面と、性的方面とに区別して見ることが出来るのである。
〔註一〕呪歌を常識から解釈しようとするのは、始めから無理なことかも知れぬが、此の長浜は、地名か、人名か、故事か、それすら全く見当がつかぬ。敢て後考を俟つとする。
〔註二〕此の鎮魂歌は、私の所蔵している「年中行事秘抄」に載っていぬので、伴信友翁の「鎮魂伝」から転載した。 
第三節 修験道から学んだ巫女の偶像崇拝

 

巫女は自身が神その者であったので、従って自身が他人から崇拝を受くるとも、他に崇拝すべき偶像を有っていぬのが、その本義でもあり、且つ特色でもあったのである。勿論、祖先崇拝という原始神道に培われた古代の巫女が、祖先の墳墓を神格化し、その土塊を以て造った人形(ヒトガタ)を持っていた事は、偶像崇拝と見られぬことも無いのであるが、これは単なる呪力の根元として所持していただけで、所謂、一般の偶像崇拝とは信仰を異にしているのである。換言すれば、血液で維(つなが)れた氏神信仰を基調とした巫女が、此の種の人形(ヒトガタ)を携えていたのは、これを持っていることが、氏神の末裔であることを証明し、併せて神性を承けていることを体認する方法にしか過ぎぬのであって、一般人の神体や、仏像や御影に対する偶像崇拝とは、その間に截然たる区別が在って存したのである。然るに中古の巫女になると、漸く偶像を崇拝するように変じて来た。奥州のイタコと称する巫女が、オシラ神を崇拝した(此の神の由来や分布に就いては後に述べる)のは、その最も代表的なもので、更に前にも載せた「後ろ仏」を所持する(これは察するに修験者の笈から思いついたものであろう)とか、笹ハタキと称する巫女が、笹の代わりに御幣を以て呪術を行いしこと、及び各地の巫女が、十三仏中の一仏を以て守り本尊として崇拝したのは、悉くその徴証として挙げることが出来るのである。
勿論、巫女の偶像崇拝の動機なり、過程なりを、単に修験道の影響のみと断ずることは妥当を欠き、これには仏教なり——更に仏教の影響で神道が偶像を造り崇拝し、一般の信仰が偶像崇拝に堕した大勢にあったことに注意しなければならぬが、巫女に直接に此の刺激を与えたものは、修験者であったと信じたい。各地に夥しきまで祀られている天白社(テバクシャ)(手箱、天獏、天凾など書く)なるものの多くは、巫女が或は手にし、或は背にした箱を(此の事は後に巫女の土着の条に詳述する)祀ったものへ、道教の太白神を附会したものであって、巫女の箱が、修験の笈に教えられたことは疑う余地はない。修験にとっては、笈は神霊の宿るもので、片時もこれを放すことなく、これを措いては呪術を行うことの出来ぬまでに重要なものであった。高野聖(ヒジリ)と称する徒が、瓢を二つ割にしたような珍妙な笈(明治になると此の笈は新案特許となり他の者の製作を許さなかった)を背負い、此の中に護摩の灰を入れて、諸方を流れ歩き、到る所で小盗を働き、婦人にも関係するので、遂に草賊のことを「護摩の灰」と称し、更に「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」の俚諺を生むようになったが、此の笈なども修験のそれに学ぶ所があったものと考えられる。而して此の巫女の偶像崇拝は、次項に述べる両者の性的結合——修験の妻は概して巫女であったということを想い合わすとき、決して偶然でない事が知られるのである。 
第四節 生活の機構が導いた両者の性的結合

 

弘安年中に僧無住の書いた「沙石集」は、鎌倉期の世相を考覈するには、有要なる史料で満たされている。その巻七「無嫉妬之心人ノ事」と題する記事の末節に、
或る山の中にて、山伏(ヤマブシ)と巫女(ミコ)と往きあひて物語しけるが、人もなき山中にて凡夫のならひなれば、愛欲の心起りて、此みこにおちぬ、此みこ山沢の水にて垢離かきて、鼓を鼕々とうち、珠数おしすりて「熊野白山三十八所、猶もかかる目にあはせ給へ」と祈りけり。山伏又垢離かきて、珠数おしすりて「魔界の所為にや、かかる悪縁にあひて不覚を仕りぬる。南無悪魔降伏不動明王、今はさてあれと制させ給へ」と云て、二人行き別れにけり。
と載せてある。而して此の記事は、少くとも、(一)両者が同じように信仰生活に処したこと、(二)且つ同じように漂泊生活を営んでいたこと、(三)然も同じように性行為に就いては、多少とも世間をかねる境遇に置かれていたことの三つの暗示を与えているのである。
巫女と修験の信仰生活が共通したことは既述したし、漂泊生活が類似したことは後既に説くゆえ、ここには性行為に就いて一言するも、巫女は原則として良人を有たず、浄き独身生活を送るべき約束があったのである。修験は教義の上からは、妻帯する事は禁じられてはいなかったが〔一〕、信仰に生き、霊界の事に従うものは、常人の為しかねる事を敢てする点に、威望が繋がるのであるから、如何に有髪の優婆塞でも、女性に関しては遠ざかるほどの態度を持することが必要であった。平田篤胤翁の「古今妖魅考」三巻は、翁一流の廃仏拆僧の考えを以て著わされただけに、極端にまで僧尼の非行乱倫を列挙してあるが、是等によるも、彼等信仰生活を営んだ者が、如何に性の問題に就いて苦しんだかが窺われるのである〔二〕。
然るに、社会の大勢は、これ等の巫覡の呪術を軽視するようになり、巫覡それ自身の信仰も、漸次堕落して来るようになれば、同気相求むると云うか、同病相憐むと云うか、兎に角に、此の両者が一つになって——夫婦として共同生活を営むようになるのは、先ず当然のこととして認めねばならぬ。而して此の傾向は、近古に至って益々増長を加えて来たのであるが、それ等の実例、及び共同生活の内容等に関しては、第三篇に詳しく述べる機会があるので、今は除筆する。
巫女と修験道との呪術的関係に就いては、猶お幾多の問題が残されている。「七十一番職人歌合」に、地者(ジシャ)と称して男子が女子を装い神事を行う者を載せているが、これは巫覡の習合その頂上に達したものであろうし、巫女が竃払いをしたのもそれであるし、巫女が呪符を用いたのもそれである。併し茲には、大体を記すにとどめて、他は機会のある毎に補足するとした。
〔註一〕我国の修験者を、仏法の優婆塞に、更に巫女に同じ優婆夷の語を充て、説明する者があるが、これは大へんに相違していると思う。仏法上の用例に従えば、両者は五戒を受けて、近く三宝に仕えるだけの者で、即ち在家の篤信者にしか過ぎぬ。又た我国に於ける清僧が、性の問題に触れて修験者になった幾多の例もあるが、ここにはその研究が目的でないので省略した。
〔註二〕私は曩に「泡子地蔵が語る堕胎史の一片」と題して、此の種の問題に就いて、多少の考察を試みたことがある。拙著「日本民俗志」に収めて置いた。御参照を乞う。 
 
第三章 巫女の信仰的生活と性的生活

 

第一節 巫女を中心として見たる神々の起伏
「琉球国旧記」を読むと、同国の神々は正しい名の外に、必ず「イベ名」というのを、一つか二つほど有っている。チャンバレン氏は、此のイベ名は内地の諱(イミナ)と交渉があろうと言われているが〔一〕、私にはその詮索よりは、琉球の神々は何故にかく一神にして多くの名を有しているかの考証に、興味が惹かれるのである。而して更に近刊の「対馬嶋誌」を見ると、神社篇に引用してある八幡伝記(鎌倉期の文治年中の記録と伝えられているが、私の信ずる所では、もう少し新しいものと思われる)所蔵の神名を読んで、その大半までが全く何の意味やら見当すら付かぬのに、我れながら驚き入ってしまった。勿論、これは私の無学に原因していることではあるが、併し私とても、多少は神々の研究を試みたもの、自分だけには相応の予備知識を有していると信ずるのに、見当さえ付かぬのであるから、今更のように己れの無学と寡聞とが恨めしくもなった。ここに二三の例を挙げると、「よらのぐんつ」とか、「さごのもしこ」とか、「したるのつと」とか云う類のもので、恐らく私ばかりでなく、誰でも一寸手の下しようがない難問だと考える。然るに、これ等の分らぬ神名のうちで、殊に私が関心したのは「つなのろかんよる」と云う神名であった。これは私の乏しき琉球語の知識から見ても、直ちに綱と称する巫女(ノロ)に神が憑(ヨ)るので、かく神名を負うに至ったのであると判明した。かく琉球で行われている言葉がある以上は、此の方面から手掛りを得ることが出来ようと思い、その方法を講じて見たが、これも結局は徒労に終ってしまった〔二〕。そこで、私の考えたのは、此の対馬の神名も、琉球の神の有(も)てるイベ名と同じ性質のものではないかと思い付いたので、専らその方針でイベ名の発生に関して詮索を続け、漸く大体の見当だけを突き留めることが出来た。それが本節の中心であって、我が古代の神々の発達と巫女との関係を知るに至った次第なのである。
琉球の巫女(ノロ)の制度は、我が内地の古代のそれと少しも変るところがなく、巫女(ノロ)の最高位に在る聞得大君(キコエオオキミ)は、国王の姉妹を以て任命するのを原則とし、大昔にあっては王后の上位にあって、国内における女性の最高者としての待遇を受け、その下に「大(ウフ)あむしられ」と称する取締のような機能を有する巫女が若干あって大君を補佐し、更に此の「大(ウフ)あむしられ」の下に、各村々々の巫女(ノロ)が、適当に配置されて隷属していた。そして此の巫女(ノロ)(内地の神和系の神子と同じようなもので、一定の給分を受けていた)の外に、ユタ(内地の口寄系の市子に似たもので、給分は無くして、一回の神事に対して、一回の報酬を受けていた)なる者が存していたのである〔三〕。然るに、是等の巫女(ノロ)が、国家または郷邑に有事の場合に、その事件の大小難易によって、或は高級の巫女、又は下級の巫女が、神意を承けて託宣をするとき、或は自発的に、又は審神の問うがままに、此の託宣は何々の神の聖慮であるとて、頻りに神名を唱えるのを常とする。これは神の名によって事件を決しようとするのであるから、神名を唱えることが託宣を聴く者の信用を保つ点から必要であるために、こうした結果を見るに至ったのであって、巫女中心の原始的宗教においては、当然、将来すべき傾向に過ぎないのである。
然るに、茲に困難なる問題の伴うのは、神託を承くるときの巫女(ノロ)の身体上の工合や、巫女(ノロ)に憑(カ)かる神の性質——即ちその神が荒ぶる神か、和(ナゴ)める神かの相違によって、同一の神の憑(ヨ)り代(シロ)となっていながら、巫女(ノロ)の唱える神名なるものが、或は前の場合と後の場合と矛盾し、或は始めの折と終りの時とは全く別箇のものが出るということである。而してかかる場合には、先に称していた神名を正しきものとし、後に唱えた変ったものをイベ名と云うたので、かく琉球の神々は多くのイベ名を有するようになったのである。換言すれば、琉球の巫女(ノロ)は、託宣に際し、往々にして神の名を創作するのである。同じ御嶽(ウタキ)に鎮り坐す神を招(オ)ぎ降ろしながら、場合によっては、一般に信じられている神の名を言わずして、意の動くままに、飛んでもない新しい神の名を言い出すが、その際は新しいのをイベ名として伝えていたのであって、これでイベ名の正体が朧げながらも知ることが出来たのである。対馬の神名の不可解なのは蓋し此の創作されたイベ名を伝えたものではないかと考える。
然るに、猶おここに併せ考えて見なければならぬ問題は、琉球における神々の高下ということと巫女(ノロ)との関係である。他の語を以て言えば、神に大小があり、高下があり、更に霊験の著しい神があり、これに反して霊験の余り聞えぬ神もあるが、こうした神々の相違に就いて、巫女(ノロ)が如何なる交渉を有していたかと云うことである。併しながら、問題は割合に簡単に説明の出来ぬことであって、好んで巫女(ノロ)に憑(カカ)る神が早く名を知られ、憑った神の託宣が有効であれば、その神の位置が向上し、かくて幾度か同じことが繰り返えされるうちに、何々の神の託宣は常に霊験があるとなれば、その神は他神を圧して名神大社に昇り、圧せられた神は叢祠藪神に降り、神々の世界にも淘汰の理法が行われていたと解して差支ないようである。
それでは、斯うした問題は、独り南方の嶋々に限り存したことで、内地の古代にはこれに類似し、又は共通した信仰は無かったかと云うに、此の事たるや、特に筆端を慎しまぬと、意外の誤解を受ける虞れがあるので、流石に無遠慮に物を書くのに馴れている私でも、余り突っ込んだことは差控えなければならぬが、許された範囲内で説を試みると、これと共通した信仰が、我が古代に顕然と存していたことだけは認めねばなるまいと思う。前に引用した「日本書紀」に、神后が親しく神主とならせ給い、烏賊津臣を審神(サニワ)として神意を承けさせられた折に、審神が、誰神か其名を知らんと問いしに、第一に撞賢木厳之御魂天疎向津姫命と答え、第二に天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神と答え、第三に表筒男中筒男底筒男神に答えられている(詳細前掲の書紀の本文参照)。勿論、これは琉球のそれとは異り、同じ神を他の名で称えているものではないが、それにしても、神憑(カムガカ)りという事は、必ずしも一神が憑るものではなくして、二神または三神が一時に憑り、審神の問うにつれて、その神々の名を称えるものであるという事だけは、拝察されるのである。
然るに、私の寡聞なる、これに類した文献の他にあることを知らぬので、これ以上のことは何も言われぬのであるが、琉球の例を以て古代を推すときは、教養のない巫女の間にあっては、或は一神を他の名で称えたり、或は同じ神を降ろしながら、前の時と後の時と名を異にするようなことが、往々にして在ったのではないかと想像されるのである。「神名帳」にある出雲の神魂伊能知奴志とか、「地神本紀」にある久々紀若室葛根神とか云うのは、或は巫女によって創作された神の名ではあるまいか。而して此の伝統を承けたものか、後世の巫女は隆んに神の名を創作したようだが、誰でも知っている八幡社の出現も、欽明朝に巫女(職業的の者ではないが)に憑りて「我は誉田の八幡丸なり」と神託されたので八幡神の名が起り〔四〕、菅公も村上朝に巫女(同上)に憑りて、天満大自在天神と託宣されたので、天満神の称が起ったなどは〔五〕、その顕著なる例証として挙げることが出来るのである。
更に巫女によって神格を向上した神としては、先ず八幡神をその徴証とすることが、好適でもあり、且つ安全だと考える。前にも言うた如く、八幡社は我国第一の託宣好きの神で、これを集めた「宇佐託宣集」だけでも、十八巻の多きに達している。従って国家に有事の際には、殆んど懈怠なく託宣をされるが、殊に著聞せるは、「続日本紀」天平勝宝二年十一月(辛卯朔)の条に、
巳酉、八幡神託宣向京、甲寅遣参議従四位上石川朝臣年足、侍従従五位下藤原朝臣魚名等、以為迎神使、路次諸国差発兵士一百人以上、前後駆除、又所歴之国、禁断殺生(中略)。十二月戊寅(中略)、迎八幡神於平群郡、是日入京、即於宮南梨原宮造新殿以為神宮、請僧四十口、悔過七日、丁亥大神禰宜尼大神朝臣杜女{其輿紫色/一同乗輿}拝東大寺。天皇{○孝/謙帝}太上天皇太后同亦行幸、是日百官及諸氏人等咸会於寺(中略)。奉大神一品比盗_二品(中略)。左大臣橘宿禰諸兄奉詔白神曰、天皇我御命爾坐申賜止申久、去辰年河内国大県郡乃智識寺爾坐盧舍那仏遠礼奉天、則朕毛欲奉造止思登毛得不為之間爾、豊前国宇佐郡爾坐広幡乃八幡大神仁申賜閉止勅久、神我天神地祇乎率伊左奈比天必成奉旡事立不有、銅湯乎水止成、我身遠草木土爾交天、障事無久奈佐牟止勅賜奈我良成奴礼波、歓美貴美奈毛念食須、然猶止事不得為天、恐家礼登毛御剣献事乎、恐美恐美毛申賜久止申、尼杜女授従四位下主神大神朝臣田麻呂外従五位下、施東大寺封四千戸奴百人婢百人云々(国史大系本)。
の一条である。当時、孝謙女帝は、父聖武帝の宿願を継いで、盧舎那仏(即ち奈良の大仏)を鋳造せられんとしたが、鋳造術の幼稚なる、幾度か鋳損じたのを、これは仏像を鋳ることを、我国の神々が悦ばぬためだという風説があったので、殊の外に叡慮を悩まさせられた折に、真に突如として九州の一角にある八幡社が託宣して、必ず成就せしめんとの事であったので、かくは帝都に八幡神を迎えたのであるが、その盛儀の実に意外であったことは、続紀の記事に尽してある。更に「詞林采葉」巻一によれば、
聖武天皇(中略)正八幡大菩薩を此寺{○東/大寺}の鎮守{○手向山/八幡宮}と崇めたてまつらんとて、勅使を鎮西宇佐宮へたてまつらせ給ひければ、乗物なきよし勅答あるによて、帝のり給ふ神輿を奉らせ給ひしかば、やがて乗うつらせ給ふ、南都へ入せ給ふ、自其以来代々の御門の祖神一朝ノ宗廟四維八紘を擁護し給ふ者也。
とは、誠に以て託宣の力が如何に偉大であったか、千載の後からでも恐察されるのである。殊に、巫女である杜(社)女が、禁色の輿に乗り、主神田麻呂の外従五位下に対して、従四位下に叙せらるるなど、巫女の勢力の如何に甚大であったかが推測されるのである。従って、斯く皇室の御信仰を深く受けていたればこそ、神護景雲三年七月、僧道鏡の事件の起るに及んで、和気清麻呂を宇佐八幡に遣して、神託を仰ぎ奉らしめたのである〔六〕。然るに、此の八幡神が清和朝に僧行教によって、石清水に分霊鎮座されてより、一段と神威を加え、更に清和源氏の棟梁達の信仰を博してから、式神として朝野の崇敬を受け、九州の一地方神であったのが、天下の高位神として、全国に祭られるようになったのである。 
〔註一〕此の事に関しては、柳田国男先生が、先年、折口信夫氏の宅で、琉球見聞談を二回ほど試みられた際に、詳しく承っていたのである。
〔註二〕琉球出身の伊波普猷氏に、此の事の教示を仰いだが、「八幡伝記」の神々の名には、琉球語は多く発見されぬとのことであった。
〔註三〕同上伊波普猷氏の「沖縄女性史」に同国の巫女の事が詳記してあり、且つ巫女の体系や関係が図になって示してある。篤学のお方の参照を望む。
〔註四〕「八幡愚童訓」及びその他の書にも見えている。因みに言うが、八幡はヤハタと読むのが古訓であって、然もそのヤハタなる語は地形から来ているものであることは、既に小山田与清翁も「松屋叢話」及び「松屋筆記」に述べている。而してこれをハチマンと読んだのも新しいことではないが、此の読み方は僧侶が仏教に附会せんがために、古意にするところがあったのである。
〔註五〕「北野縁起」及び「北野天神絵巻」の詞書にも見えていたと記憶している。
〔註六〕託宣好きであった八幡神は、或意味から云えば、余りに饒舌に過ぎて、思わぬ失敗を招かれた事すらある。「続日本紀」天平勝宝三年七月の条に「八幡大神託宣曰、神吾不願矯託神命請取、封一千四百戸田一百四十町、徒旡所用如捨山野、宜奉返朝廷唯留常神田耳、依神宣行之」とあるのは、その一例である。更に習宜阿蘇麻呂が、八幡神の託宣を矯めて、僧道鏡に媚びた顛末、及び当時の大政治家であった藤原百川が、如何に此の八幡神の神威を有効に利用して、僧道鏡を退けたかに就いては、故田口卯吉翁の「史海」に載せた藤原百川伝に尽している。八幡神に就いては、猶お記したいことが沢山あるが、深入りして誤解を受けることも如何と考えたので割愛する。 
第二節 巫女神信仰の由来と巫女の位置

 

記・紀・風土記及び延喜の神名帳に現れた御子神(ミコカミ)を、悉く巫女関係の神と云うことは許されぬまでも、此のうちの幾神かは、巫女その者を神と祀り、又は巫女と神との間に生れた御子(ミコ)を神に祀ったものであることは認めねばならぬ。私は此の見地に立って、先ず「神名帳」から是等の神々を検出し、然る後に、巫女神(ミコカミ)、及び御子神の由来と、巫女の地位に就いて、多少の考察を試みるとする。
第一 巫女を神に祀りしと思考する神社
所在地      神社名
山城国愛宕郡 天津石門別稚姫神社
大和国葛上郡 櫛玉比女神社
伊勢国多気郡 天海田水代大刀自神社
尾張国愛智郡 火上姉子神社
伊豆国賀茂郡 佐伎多麻比当ス神社
伊豆国賀茂郡 優波夷命神社
美濃国賀茂郡 坂祝神社
信濃国更級郡 氷銫斗売神社
同国埴科郡   玉依比売命神社
越前国敦賀郡 天比女若御子神社
出雲国出雲郡 神魂意保刀自神社
紀伊国名草郡 都麻都比売神社
伊予国風早郡 櫛玉比売命神社
讃岐国大内郡 水主神社
(備考。式外の古社にあって巫女を祭ったと考うべき神社も相当数多く見えているが茲には省略した)
是等の神々に就き、一々その出自の由来と、神名の解釈とを加えぬと、或は私の独り合点に陥って、読者に納得されぬ点も多々あることと思うが、併しそれを試みるとなると、非常なる紙幅を要するので、今は省略に従い〔一〕、更に御子神を祭ったものを同じ「神名帳」から摘録して、是等の神々に対する私見を述べるとする。
第二 御子神を祀りしと思考する神社
所在地      神社名
山城国愛宕郡 片山御子神社
大和国宇陀郡 神御子美牟須比命神社
河内国高安郡 春日戸社坐御子神社
遠江国磐田郡 須波若御子神社
同上       御子神社二座
常陸国新治郡 鴨大神御子神主神社
陸奥国牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社
同上       鹿島御児神社
同国 行方郡  鹿島御子神社
同国 栗原郡  香取御児神社
加賀国能美郡 気多御子神社
対馬国上県郡 和多都美御子神社
同上         胡禄御子神社
同  下県郡   島大国魂御子神社
(備考。これも前記と同様であるが今は態と省略に従うこととした)
我国における「御子神(ミコガミ)」信仰は、決して新しいものではない。「常陸風土記」行方郡の条に、日本武尊が躬ら鴨を射られた鴨野ノ里に、夙に香取神子神社の在ったという記事から推すも、此の信仰が古代から民族の間に行われていたことが知られる〔二〕。而して御子神とは、その神名が示している如く「神々の神子」と云うことであって、古く巫女のことをミコと云うたのも、又此の意味に外ならぬのである。
併しながら、既に信仰の対象として祭られている幽界の神々が、顕界にある人間と同じように生殖を営み、御子神を幾柱となく儲けるということは、後世の神祇観から言えば、誠に腑に落ちぬ理窟であるが、これは神というものの内容が、時代によって変遷することを会得すれば、忽ちに釈然する問題なのである。白河法皇の「梁塵秘抄」に「神も昔は人ぞかし」とある如く、原始神道の立場からいえば、神主は直ちに祭神その者であった。古代にあっては、名神大社は云うまでもなく、更に叢祠藪神の末までも、苟くも神主のある以上は、その神主は「現神(アキツカミ)」としての待遇を受けていたのである。
現今でこそ、神主といえば、神と人との間に介在して、神の意を人に伝え、又は人の請を神に告ぐる職掌のように解されているが、神主は即ち神主(カンザネ)であって、大昔は此の職掌は専ら巫女が当ったもので、神主は活ける神として、是等巫女の上に臨み、殆んど絶対の神権を有していたのである。既述した諏訪神社の大祝や、出雲の両国造や、大三島神社の神主などが、明治期になるまで、特殊の地位を占めていたのは、此の古俗を遺したものなのである。而して此の現神である神主と、その神主に奉仕した巫女との間に生れた子が即ち御子神なのである。
後世になると、此の御子神を「若宮」と称する様になったが、それでも若宮の名が「延喜式」臨時祭の条に見えている故、此の称も相応に古い事が知られる。然るに中古になると、此の信仰が泯びて了ったので、若宮を有している神社では、これを常識化し、合理化するに種々なる苦心を重ねて、その破綻を防がんと試みている。春日神社の若宮は最も著名な神であるが、これが出現に就いては、「大和志料」巻上に、旧神主千鳥家所蔵の古記録を引用して、
長保五年三月三日巳時、従第四殿板敷、心太(ココロブト)様ノ物三升許落つ、暫の程ありて従件物中に、五寸許なる□(欠字)地出、従乾柱下登入同殿内畢(中略)、即時神宮預是忠奉見記也。
とあるのを典拠として〔三〕、これが若宮の出現であると言っているなどは、詭弁この上なしで寧ろ滑稽に感ずるほどである。石清水八幡宮でも、摂社に水若宮(本宮の東方、若宮殿の南に在る)というのがあるのを、無理に史実に合うように解釈せんとて、これの祭神を菟道稚郎子としているが〔四〕、水若宮とは、常識的にいえば、流産した水子のことであるから、これでは却って史実に遠ざかることになるのである。我国の御子神——及び若宮の出現は、さる廻りくどい解釈をせずとも、古き信仰さえ知れば、容易に合点される問題であると同時に、又かくの如く解釈するのが最も妥当であって、そうで無ければ、東北地方に散在する鹿島神三十余苗裔の御子神の由来や、熊野神の九十九王子の信仰なども、遂に不明となってしまうのである。
而して是等の巫女——即ち御子神を儲けた女性は、神母(或は人母、聖母とも云う)と称して特に崇敬を受け、往々神として祭られたものであって、前に載せた巫女神(ミコガミ)のうちの幾柱かは、蓋しそれに相当しているのである。更に紀州海草郡宮村の官幣大社日前国県神社には、古くから人母と称する上揩ェ、二人づつ神官として仕えていた〔五〕。土佐国長岡郡長岡村大字陣山小字神母の神母神社では、今でも性神(セックス・ゴッド)として知られているが〔六〕、これも神に仕えた巫女を祭ったものであろう。筑前福岡市西町の島飼八幡宮では中央に八幡大神を、左方に宝満大神、右方に聖母大神を祭っている〔七〕。九州には聖母大神、又は聖母屋敷と称するものが各地に存しているが、是等は古く神母としての巫女に由縁のあった神々であり、土地であったに違いない。遠江国磐田郡佐久間村大字半場小字神妻に郷社神妻神社というのがある。社記によると、昔一人の巫女が神を生んだが、その神が神妻社の祭神となったので、神の母なりとて同社の傍に墳墓がある〔八〕。肥後国鹿本郡吉松村大字船島の菅牟田神は、元は阿蘇大神の妾であったが、正妻の嫉妬のために、神となっても阿蘇山の見えぬ処に宮造りをするそうだが〔九〕、これも神母のそれと見て差支ないようである。前に巫女神の一例として挙げた、紀州海草郡東山東村大字平尾の都麻都比売命神社は、土人の伝えには、此の神は同郡の古社である、伊太祁曾神社の妻女であるので、一切の神事は、伊太祁曾社の社人が勤めることになっているというが〔一〇〕、恐らくこれも巫女が神妻となったものと考うべきである。
更に柳田国男先生の研究によると、民間伝承(フォークロア)として最も豊産なる人聞(ジンモン)菩薩は、この人母又は神母と関係あるかも知れぬと云う事である〔一一〕。「三代実録」元慶四年三月二十二日に正六位上を授けられた筑前国の託神盗_の如きも、その神名から推すも巫女神であって、然も神母ではなかったかと思われるのである。前引の「万葉集」巻二に「玉かつら実ならぬ樹には千早振る、神ぞ憑(つ)くちふならぬ樹毎に」とあるのは、神に占められ易き女性の身の上を詠じたものであるが、然もその由って来たる所は、神主と巫女との関係が、その基調となっていたのである。 
〔註一〕神祇の研究に関する文献は、余りに多く存していて、その書目を挙げるだけでも容易でないが、そのうち重なるは林道春の「本朝神社考」、白井宗因の「神社啓蒙」、鈴鹿連胤の「神社要録」、伴信友の「神名帳考証」、栗田寛の「神祇志料」と、外に柳田国男先生が「郷土研究」と「民族」との各号に載せられた諸研究の論文、及び折口信夫氏著の「古代研究」の民俗学篇などをお読みくださると、私がここに挙げた神々の出自や機能も、よく御合点が往くことと思う。
〔註二〕八幡宮の祭神が古く王神(ミコガミと訓む)であったのが、偶々王神の国音が応神に通ずるところから、応神帝が祭神となられた過程に就いては、柳田国男先生の玉依姫考(郷土研究四ノ十二所載)に段々と考証されている。八幡宮の祭神に関しては、国法の認むるところによれば、極めて明白であるが、併し学問上には、昔から研究すべき余地が存していて、栗田寛翁も「栗田先生雑著」巻一の「八幡神考証」において、祭神は彦火々出見尊なるべしと、主張されたように記憶している。
〔註三〕神主千鳥家に伝えた古記録は「若宮御本縁又根元、同六所諸神根元、並進物日記」と云う長い書名だと同志料に載せてある。
〔註四〕「山城綴喜郡誌」。
〔註五〕「官幣大社日前国県神宮本紀大略」。
〔註六〕「土佐史壇」第一巻第十三号。
〔註七〕「筑前続風土記」巻三(益軒全集本)。
〔註八〕「明治神社志料」巻上。
〔註九〕「肥後国志」巻一〇。
〔註一〇〕伴信友翁の「神名帳考証」。
〔註一一〕「民族」第二巻第二号「健児松王」記事参照。 
第三節 社会相に現われたる巫女の勢力

 

奈良朝の情熱歌人であった山上憶良が、天平五年三月に記した「沈痾自哀文」の一節に、
我何罪を犯し此重疾に遭ふ、初めて痾に沈みて已来年月稍久し(中略)。禍の伏する所、祟の隠るる所を知らんと欲し、亀卜の門、巫祝の室、往きて問はざる無し云々。
と載せてある〔一〕。憶良は渡唐留学までした当時の新知識であって、今で云えば、随分ハイカラであるべき人物であるにも拘らず、猶お病気となれば、巫祝の室に赴かざるを得なかったのは、巫祝の勢力が社会的に重きをなしていたことを物語るものである。更に奈良朝の大政治家であった吉備真備が、子孫のために「私教類聚」三十八則を残し、その三十一において莫用詐巫と題して「凡偽巫覡、莫入私家、巫覡毎来、詐行不絶」と記して(此の全文は後に掲げる)警戒した如き、又以て巫覡が社会的に相当の地歩を占めていたことが推測されるのである。而して私は、是等の巫覡のうち、特に巫女の勢力が中古の社会相に如何に現われていたかに就いて、管見を記すとする。 
一 政治方面における巫女の勢力
祭政一致を国是としただけに、世が降っても、その規範は史上に多く貽されている。「欽明紀」十六年春二月の条に、百済王子恵が来朝して援兵を乞いしとき、蘇我稲目これに対して言うに、
昔在天皇大泊瀬{○雄/略帝}之世、汝国為高麗所逼、危甚累卵、於是天皇命神祇伯、敬受策於神祇、祝者迺託神語報曰、屈請建邦之神、往救将亡之主、必当国家謐靖、人物又安、由是請神往救、所以社稷安寧(中略)。頃聞、汝国輟而不祀、方今悛悔前過、修理神宮、奉祭神霊、国可昌盛、汝当莫忘云々。
とあるのは、よく此の問の消息を尽していて、然も神語を託する巫祝の勢力が、政治的にも、軍事的にも、顕然として信じられていたことが知られるのである。
而して斯くの如き状態は時に消長あるも、依然として政治に現われ、前に挙げた孝謙朝に東大寺の建立となったのも、称徳朝に僧道鏡に非望を懐かせ、更にこれが成否を神意に問うたのも、共に巫覡の力が政治に及ぼした影響と見ることが出来るのである。殊に奈良朝になってからは、此の余勢を承けてか、巫覡の跳梁はその極度に達し、政府も神託の濫出に苦しみ、これを禁断する法令は(その事は後に述べる)殆んど雨の如く下されたが、猶おその猖獗を奈何ともする事が出来なかった。嵯峨朝の初めに、太政官符を以て、国司に神託の真偽を検察せしめて、一面巫覡の跋扈を防ぎ、一面妖言と神託との詮議をしたのは、当時、前時代の遺弊を受けつつあるも、その剿絶の期し難きを覚った政府の弥縫策であることが知られると同時に、併せて奈良朝における巫覡の勢力を窺うことが出来るので、左にこれが官符を抄載する。
類聚三代格(巻一)太政官符(国史大系本)。
応撿察神託事
右被大納言正三位藤原朝臣園人宜偁、奉勅怪異之事、聖人不語、妖言之罪、法制不軽、而諸国民信狂言、申上寔繁、或言及国家、或忘陳福禍、敗法乱紀、莫甚於斯、宜仰諸国令加撿察、自今以後若有百姓輙称託宣者、不論男女、随事科決、但有神宣灼然其験尤著者、国司撿察定実言上、
弘仁三年九月二十六日
これが更に平安期となると、社会を挙げて、鬼神を恐れ、物ノ怪を信じた神経衰弱時代だけに、巫覡の妖言に惑溺する事一段と猛烈なるものがあった。藤原兼家が摂関の高位にいながら、賀茂の若宮のよく憑かる「打臥しの巫女」というを招ぎ、手ずから装束を奉り、冠を着せ、然も自分の膝に枕させて、物を占わせたとあるのは、「大鏡」の筆者が「さやうに近く召し寄さるに、言ふかひもなき程のものにもあらで、少し侍女(オモト)ほどのきはにてありけり」と冷笑的に記しているところから推すと、曰くのありそうな信仰であることが知られるが、併し此の時代でなければ、決して見ることの出来ぬ事象である。更に「宇津保物語」藤原の君の巻に、致仕の大臣三春高基が、徳町という巫女を後妻に迎えたことが載せてあるが、架空の物語ものにせよ、当時、かかる世相のあることを著者が知っていて記したものと考うべきである。
殊に注意しなければならぬ点は、当代において藤原氏が、幼帝を擁し奉って政権を争うたため、その手段として往往巫蠱の疑獄を惹き起し、これを以て政敵を陥れた事である。勿論、この手段たるや、決して平安朝に突如として悪辣なる政治家の間に発明されたものでなく、遠く国初時代から慣用せられて来たのであるが、奈良朝において猖んに悪用され、平安朝はこれを踏襲したに過ぎぬのであるが、深く迷信に拉われていた時代だけに、その陰険さは一段の熾烈を加えたのである。
「政事要略」巻七〇に載せた藤原為文、同方理、佐伯公行の妻(高階光子)、方理の妻(源氏)及び僧円能等が相謀り、上東門院、及びその父藤原道長を呪詛したという巫蠱罪の判決文は、当時の人心が如何に巫蠱の徒を恐れていたか、併せてその結果が如何に政治に現われたかを知るに便宜があるも、余りに長文なのでここに摘録することすら出来ぬのは遺憾である〔二〕。
併しながら、斯うした事件も平安朝にあっては決して珍しい事ではなかった。承和皇太子の廃されたのも、源高明が失脚したのも、巫蠱を利用した政治家の犠牲になられたのである。此の事は一般の歴史にも記されていることであるから、余り深く言うことは差控えるが、又以て巫蠱の勢力の侮ることの出来なかった事が知られるのである。「古今著聞集」巻一に、長暦二年大中臣佐国祭主となり、罪を獲て、翌三年六月に伊豆国へ流された。然るに、同七年十月と十六日の両回に、斎宮内侍に御託宣があり、同十九日に勅命によって、佐国が召還されたのは、託宣が政治を動かした例として最も適切なるものである。而してかかる事は後世にも往々行われたと見えて「康富記」文安五年九月二十九日の条に、西宮左大臣高明に従一位を贈ったが、これは備前国の某村人に神託があったのを、山科中将顕言が耳にし奏聞した為めだとある。 
二 軍事方面における巫女の勢力
神策を受けることが、戦勝の唯一の原因とした時代にあっては、巫女が前代に引つづき、軍事方面に勢力を有することは当然である。「推古紀」十年春二月の条に、
来目皇子為撃新羅将軍、援諸神部、及国造伴造等、並軍衆二万五千人云々。
とある「神部」の解釈に就いては、学者の間に多少の異説も存しているようであるが、これは飯田武郷翁が説かれた如く、
神部とは(中略)中臣、斎部、猿女、鏡作、玉作、盾作、神服、倭文、麻績等の氏人、また其氏人に隷属せる人共をも、ひろく云う名なるが、今新羅を撃給わんとして、さる職掌ある人を授け給えるは、いかにと云に、これは兵士の方にはあらで、むねと神祭の為なりけり。さるは上古は、天皇を始奉り、大将軍を遣して叛者を伐しめ給えるも、まず神祭を厳にして、神に乞願い、吾軍の恙なくして、敵の亡びん事を祈願し給えるは、神武以来御代々々の史に数多く見えたるが如く、これ上古の道なれば、行先処々にて忌瓮坐え、神祭をなし給わん為に、諸ノ神部をも率て行き給うなり(日本書紀通釈その条)。
とあるのが、よく古代の事情を尽しているものと考える。記事が少し前後するが「雄略紀」九年三月の条に、
天皇欲親伐新羅、神戒天皇曰、無往也、天皇由是不果行。
とある此の神も、恐らく巫祝に憑って託宣されたものであろうと推察される〔三〕。更に「扶桑略記」巻六に、
養老四年九月、有征夷事、大隅日向両国乱逆、公家祈祷於宇佐宮、其禰宜辛島勝代豆米、相率神軍、行征彼国、打平其敵、大神託宣曰、合戦之間、多致殺生、宜修放生者、諸国放生会、始自此時矣(国史大系本)。
とあるのは、元より正史には見えぬ事であって、且つ放生会の縁起を説こうとする仏徒の術策のように思われるが、併し此の事は「濫觴抄」(群書類従本)にも載せてあるので、多少ともこれに似寄った事があったのではないかと考え直したので採録するとした。而して禰宜の辛島勝代豆米は即ち刀自であるから、女性であった事は推測に難くない。更に「将門記」には、巫倡があって将門を占い、これが意を迎えた事が記してある。巫倡の文字から推して、尋常の巫女でないようにも思われるが、兎に角に神策を問うに必要なる巫女が、陣中にいた事だけは明白である。
斯うした信仰は、伝統的に戦士の間に残り、合戦に際して血祭りをするとか〔四〕、又は兜に神体を籠めるとか〔五〕、鎧の袖に仏像を縫うとか〔六〕、様々なる工夫を凝らし、以て冥助を受けん事を祈ったものである。迥に後世の記事ではあるが、尾張国西春日井郡萩野村大字辻に、浅野秀長の腕塚というがある。俚伝に秀長山崎合戦の折に誉田別尊の神像を奉持して臨み、敵軍に包囲されて右腕を斬り落されたが、死地を脱して一命を保ち、安井村に隠栖して此の地に腕塚を築いたのだと云うている〔七〕。而して陣中に女性が禁止されるようになれば、巫女に代って男覡がこれを勤めるのは当然のことであって、壱岐の神職の棟梁である吉野末秋は、豊公征韓の際に前後七年間杉浦氏に属して従軍し、武運長久勝利の祈念を専とした。凱旋の後に食禄百石を賞賜せんとしたのを辞し、子孫永く壱岐国惣大宮司兼社家支配役たらん事を許されたとあるのは〔八〕、蓋しその一例である。猶お男覡を軍事探偵に用いた例は沢山あるが、これは巫女史に直接関係がないので省略した。 
三 信仰方面における巫女の勢力
巫女の存在価値は、信仰方面にあるのであるから、これは改めて記すほどの事もないように思われるが、その信仰も時代によって多少とも変遷するものゆえ、茲にはその点を略述したいと思う。而して巫女が尤もその威力を発揮したと信ずべきものは、「日本後紀」巻十二に載せた左記の事件である。
延暦二十三年二月丙午朔(中略)。庚戌運収大和国石上社器仗於山城国葛野郡(中略)。二十四年春正月辛未朔廃朝、聖体{○桓/武帝}不予也(中略)。典闈建部千継被充春日祭使、聞平城松井坊有新神託女巫、便過請問、女巫云、今取所問不是凡人之事、宜聞其主、不然者不告所問、仍述聖体不予之状、即託語云、歴代御宇天皇、以慇懃之志所送納之神宝也、今踐穢吾庭、運收不当、所以唱天下諸神、勒諱贈天帝耳、登時入京密奏、即詔神祇官并所司等、立二幄於神宮、御飯盛銀笥、副御衣一襲、並納御轝、差典闈千継充使、召彼女巫、令鎮御魂、女巫通宵忿怒、託語如前、遅明乃和解(中略)。返納石上神社兵仗云々(国史大系本)。
石上神宮は物部氏(物部が霊界に通ずる者の部曲(カキベ)であることは既述した)の氏神であるだけに、此の社の兵器を故なく他に遷したというので神怒を買い、巫女に憑(かか)って桓武帝の聖寿を咀わんとしたのであって、これには在朝の百官も慴伏したことと思われる。然も、その巫女たるや、京に召されても、通宵忿怒を続けるに至っては、更に恐れざるを得なかったのである。桓武帝は此の不予より大漸に陥り、遂に翌大同元年三月を以て崩御あらせられたが、当時、民間にあっては、此の巫女の凡庸でなかったことを取沙汰したものと推測される。
然るにこれとは事情を異にするが、巫女の徴験あることを記したものがある。「政事要略」巻七〇に「善家異記」を引用して、
先君、貞観二年、出為淡路守、至于四年、忽疾病危篤、時有一老媼、自阿波国来云、能見鬼知人死生、時先妣、引媼侍病、媼云、有裸鬼持椎、向府君臥処、於是丈夫一人怒、追却此鬼、如此一日一朝五六度、此丈夫即似府君代(氏カ)神、於是先考如言、祈祷氏神、媼亦云、丈夫追裸鬼、令過阿波鳴渡既畢、此日先考平復安和、其後六年春正月又疾病、即亦招媼侍病、媼云、前年所見丈夫、又於府君枕上悲泣云。此人運命已尽、無復生理、悲哉(中略)。其後数日、先考遂卒(中略)。此事雖迂誕、自所見、聊以記之、恐後代以余為鬼之薫狐焉(史籍集覧本)。
とあるのが、それである。而して「政事要略」の編者である惟宗允亮も、これには頗る感心したと見え、「詐巫之輩、雖其制、神験之者、為云其徴、載此記耳」と記している。
斯うした事件は、鬼を信じ巫を好んだ平安朝には、到底ここに挙げ尽せぬほど多く存しているが、就中、左の事件の如きは、神託の霊験を知る上に必要であると考えたので、最後の類例として抄出した。「大神宮諸雑事記」巻一に、
長元四年六月十七日、大神宮御祭也、仍斎内親王依例参宮(中略)。而爰斎王御託宣云、我皇大神宮之第一別宮荒祭宮也、而依大神宮勅宣天、此斎内親王仁所託宣也、故何者、寮頭相通、並妻藤原古木古曾及数従者共仁、年来狂言之詞巧天、我夫婦仁和、二所大神宮翔付御奈利、男女之子供仁荒祭宮乃付通給也、女房共仁和、今五所別宮乃付給也止号志天、巫覡之事遠護陳天、二宮化異之由遠称須、此尤奉為神明仁毛奉為皇帝仁毛、極不忠之企也云々。同年八月二十日寮頭相通者伊豆国、妻古木古曾子者隠岐国仁配流云々。
鎌倉期になると、流石に、武断政治を以て天下に号令しただけに、巫女を信頼する事、前代の如きものはなかったが、それでも決して絶無という次第ではなく、源頼朝ほどの人物でも、又これを全く閑却することは出来なかったのである。前掲「吾妻鏡」巻二治承五年七月八日の条に、「相模国大庭御厨庤一古(イチコ)娘参上」と見え、同書巻六文治二年五月一日の条には、
自去比黄蝶飛行、殊遍満鶴岡宮、是怪異也(中略)。有臨時神楽、此間大菩薩{○八/幡神}託巫女給曰、有叛逆者(中略)。日々夜々、奉窺二品{○源/頼朝}之運、能崇神与君、申行善政者、両三年中、彼輩如水沫可消滅云々。
と載せてある。これに反して、民間には、前代の余弊を承けて、巫女を崇拝して、鬼道を聴くことを悦んだ例が、夥しきまで存しているが、既に大体を尽したと信ずるので他は省略に従うた。
巫女の託宣によって、国家が神社を剏祭したことは、前に宇佐八幡宮及び北野天満宮のそれを挙げたが、かかる類例は猶お此の外にも存しているのである。本節の結末を急ぐために、茲には一二だけ掲げるにとどめるが、「伊呂波字類抄」筑前筥崎八幡宮の条に、
延喜二十一年六月二十一日、於観世音寺西大門、若宮一御子七歳女子橘滋子仁就御志天託宣(中略)。延長元年癸未歳、従大分宮遷御仏教已了、奉号筥崎宮矣。
とあり。更に「日本紀略」巻十二の長和四年六月二十日の条に「依疫神託宣、立神殿、奉崇重也」とあるのがそれである。霊験衰えたりと云えども、中古の信仰方面における巫女の勢力は、猶お後世からは信ずる事の出来ぬほどの強大さであった。 
〔註一〕「万葉集」巻五。
〔註二〕平安朝の巫蠱の疑獄は、政治的であっただけに頗る複雑している。一々茲にそれ等の事件を挙げて批判することは出来ぬが、篤学の方々は一般の歴史によって夙に知って居らるることと思うので多く言うことを避けた。
〔註三〕軍事と巫女との関係に就いては、第一篇に略述したので、本編には再びそれには触れぬ考えでいたのであるが、それでは折角集めた資料も無駄になるし、且つ第一篇に尽さぬ嫌いがあったので、又々記載することとした。かかる次第ゆえ記事の時代が前後して頗る不体裁のものとなってしまった。稿を改めればよいのであるが、それも思うにまかせず、そのままとしたことを深くお詫びする。
〔註四〕軍神の血祭りと云うことは、よく物の本では見るが、さて我国に於いて具体的にその祭儀を記したものは寡見に入らぬ。敢て高示を俟つ。
〔註五〕兜に仏像を収めて戦勝を祈った例は「聖徳太子伝暦」にも見えている。兜の頂辺を「八幡座」と云うのも、ここに神霊の宿るために言い出したものと思われる。
〔註六〕鎧の袖裏、または胴に、不動尊その他の仏像を画き、または刺繍したものは、「集古十種」の武具部などにも載せてある。旗指物に神々の名を記したものは、余りに知られているので、改めて言わぬこととした。
〔註七〕「西春日井郡誌」。
〔註八〕「壱岐郷土史」。 
第四節 巫女を通じて行われた神の浄化

 

「元享釈書」の僧行基伝にある一節は、元より荒唐無稽の説であることは、敢て平田篤胤翁の考証を俟つまでもなく〔一〕、多少の注意を払って読書する者ならば、誰でも気の付くことではあるが、ただ問題となる点は、斯うした思想が、古くから、我が神々の間に存していたということである。換言すれば、僧行基が、伊勢の皇大神宮に参詣した折に、畏くも仏舎利を給わり、渡りに舟を得たようだとか、闇夜に燈を得たようだとか仰せられたとあるのは、虚偽には相違ないが、此の虚偽を事実であろうと信用するほどの交渉が、古い神と、仏との間に在ったことだけは、注意せねばならぬ。
奈良朝に芽を発した本地垂跡——即ち神仏一如の思想は、必ずしも仏徒の方面ばかりで提唱したものではなく、その根底には、神々の方から歩み寄った形跡のあることは、既述した。更に、道徳を超越していた我国の神々が、道徳的に浄化された過程に、仏教の力の加っていたことも記載した。然るに、此の傾向は、平安期から鎌倉期にかけて、巫女を通じて行うことが、特に目立って来た。これは巫女の方から云えば堕落であるが、神々の方から見れば進化であって、他の時代には多く見ることの出来ぬ、巫女の新しい任務の一つであった〔二〕。而して、此の事を記したものは、相当に多く存しているけれども、左に二三を抄録する。「私聚百因縁集」巻九「山王に詣てる僧担死人許す事」の条に、
中比ノ事ナルニ、無事ナル法師世ニ歎有、自京日吉ノ社ヘ有詣百日僧(中略)下向過大津ト云ふ所ヲ、或ル家ノ前ニ女ノ目モ不知サクリモアヘス溶々有泣立、此ノ僧見此ノ気色(中略)何ヲカ問ヘハ悲シムト、女ノ云フ様ハ(中略)母ニテ侍ヘル人ノ、日来悩ミ侍ヘリツルガ、朝終ニ無墓成リ侍ヘル也(中略)僧聞之(中略)我レトモカクモ引隠サント(中略)日暮レヌレバ夜ニ隠レ遷シテ送リテ便吉キ所(中略)ツラツラ思フ様、サテモ詣八十余日事成徒止ナン事口惜シキ事ナレド、為名利不為只詣テ、知ル神ノ御誓様ヲ(中略)又日吉ヘ打向フテ詣ル通道サスガ胸打騒キ、空恐シク畏ルル事無限、詣リ付テ見レバ二ノ宮ノ前ニ人ノ所モナク集レリ、只今十禅師ノ付テ巫様々ノ事ノタマフ節也ケリ、此僧思知リテ身ノ誤(中略)為帰ント程ニ、巫遙ニ見付テ彼者僧近ク寄、有リト可云フ事ノタマフ(中略)汝勿恐事イミシク為物哉ト、見レハ我身本非神、哀ミノ余垂タリ跡ヲ、信ヲ発サセン為メナレハ忌物事又仮ノ方便也(中略)、僧ノ心斜ナランヤ、哀レニ忝ナク覚ヘテ流涙ツツ出ニケリ云々(大日本仏教全書本)。
此の記事なども、平田翁流に解釈すれば、仏徒が仏法弘通の方便として言い触らしたものであって、所謂古川柳の「神道の廂(ヒサシ)をかりて大伽藍」の一例となるのであるが、斯うして神から仏へ歩み寄った信仰は、此の時代の特徴として数えることが出来るのである。僧無住の書いた「沙石集」巻一に載せてある十項の記事は、殆ど此の神と仏との歩み寄りを伝えたものであって、畏くも皇大神宮を始めとして、大和の三輪明神、尾州の熱田神宮、奈良の春日明神、安芸の厳島明神などが、その対象の重なるものとして挙げられている。而してその方法は、概して巫女が仲介者となっているのであるが、左にその一例を示すとする。同書巻一「神明慈悲貴給事」に大和三輪の常観坊というが、吉野へ詣でる途中不幸なる女子の死骸を葬り、身に不浄を負いたれば、金峯神社へも参詣せず、
さて恐もあれば、御殿よりはるかなる木の下にて、念誦し法施たてまつるに、折節巫神(カンナギ)つきて舞をどりけるが走出て、「あの御房はいかに」とて来りけり。「あら浅猿、これまでも参まじかりけるに、御とがめにや」と、胸うち騒ぎて恐思ひける程に、近づきよりて「何に御房此ほど待入たれば遅くはおはするぞ、我は物をば忌まぬぞ、慈悲こそたうとけれ」とて、袖をひきて拝殿へ具しておはしける(中略)。そのかみ慧心僧都の参詣せられたりけるにも、御託宣有て、法門なんど仰せられければ、目出たくありがたく覚えて、天台の法門不審申されけるに、明かに答へ給ふ(中略)。此巫柱にたちそひて、足をよりてほけほけと物思すがたにて、「あまりに和光同塵が久しく成て忘れたるぞ」と仰せられけるこそ中々哀に覚し云々(国文学名著集本)。
斯うした思想は「日本霊異記」以来の伝統的のものであって、それを集成したものが「今昔物語」であるが、その詮索は姑らく措くとするも、兎に角に神々の浄化が仏法によって行われ、然もその仲介者が常に巫女であったことは注意すべき点だと考えている。
〔註一〕「出定笑語」や「俗神道大意」などに、平田一流の説が載せてある。
〔註二〕巫女の任務に就いては、その作法が秘密とされていただけに、文献にも現われず、伝説にも残らぬ多くのものが在ったようである。併し、此の事は今からでは、既に知ることの出来ぬものとなってしまった。 
第五節 神妻より巫娼への過程

 

「万葉集」巻十六に「吾が門に千鳥しばなく起きよ起きよ、吾が一夜妻人に知らゆな」という短歌が載せてある。而して此の短歌は、平安期に刪定を経て「庭鳥はかけろと鳴きぬ起きよ起きよ、吾が一夜妻人に見られな」として、神楽歌に採用されている。然るに、従来の物識りと称せられた好事家は、此の「一夜妻」を以て、後世のそれの如く解釈して、直ちに性的職業婦人と同視しているが、これは言うまでもなく、驚くべき速断である。即ち、私はこの「一夜妻」を以て、巫女——同集に散見する遊行女婦よりは時代において古く、実質においては純なる一時的巫女——即ち一夜だけ神に仕える家族的巫女であると考えている。換言すれば、或る定められた一夜(神楽の夜)だけ神に占められる役目(古代にあっては此の役目は義務ではなくして、却って名誉として悦ばれていた)を有っていた女性を、かく呼び習わしたものだと信じている〔一〕。
更に換言すれば、古代の女性はその悉くが殆んど巫女的生活を送っていたことは既述した。それと同時に、我国の巫女の起原が、此の家族的巫女にあることも、是れ又た既載した。而して後世の伝説ではあるが、神の使の標(シルシ)である白羽の矢が家の棟に立ち、その家の女子が、人身御供にあがるという思想の最初の相が、此の一夜妻であったのである。伝説の通俗化は、我国の「生(イ)け贄(ニエ)」と、支那の「犠牲」とを混同させ〔二〕、人身御供といえば、邪神か悪神のために、忽ち餌食として、取り殺されるように盲信させてしまったが、古き人身御供のうちには、単なる神寵であって一時的の神妻であり、神ノ采女(ウネメ)に過ぎなかったものの在ることを知らねばならぬ。これが一夜妻の正しい解釈であって、然もこれを勤めたのが、私の謂うところの家族的巫女なのである。
そして私の此の解釈が、我が古代の実状であったことを裏書きする証左として想い起されるものは、各地の神社の祭儀に、一時女臈(一夜官女とも云う)と称する女性が参加することと、併せて一夜妻となり得べき——即ち神寵を受ける資格を定むる儀式の存していたことである。茲には、例の如く、僅に一二を挙げるにとどめて置くが、摂津国西成郡歌嶋村大字野里の氏神祭には、毎年、宮座二十四軒のうちから〔三〕、六名の少女を選み出し、これを一夜官女と名づけ、夏越桶(ゲコシオケ)と称する飯櫃様(既述した洛西七条のオヤセの頂くユリと同じようなもの)の物を供の者に持たせ、夜中に参拝するのを古式とした〔四〕。前掲の摂津国兵庫郡鳴尾村の岡神社は、俚俗「おかしの宮」と云うが、同社の例祭には、祭主となる村男が、その年に村内へ嫁した新婦の衣裳を着て、一時女臈というを勤める。その折に氏子が大勢集って手を叩きながら「一時女臈、アアおかし」と囃し立てるので、此の名があると云う〔五〕。常陸国西茨城郡笹間町の氏神祭には、新婦が鍋を被って参列するが、その鍋の数は、恰も近江筑摩社の鍋被り祭の如く、初婚なれば一枚、再婚なれば二枚と、結婚した数だけ被るのである〔六〕。摂津国豊能郡中豊島村大字長興寺の氏神祭にも、その年に此の村へ嫁した新婦は、鍋を頭に頂いて参列する役目を負わされていた〔七〕。而してこれ等の記事を親切に読まれた方ならば、私が改めて説明するまでもなく、これ等の祭儀に参加した女臈や、新婦の最古の務めが、神に占められる一夜妻であったことを既に気付かれたことと思う。それと同時に、男子が花嫁の衣装を着けて代って勤めることが、此の最古の信仰が崩れて後に工夫された新儀であって、且つ飯櫃様の物が後に鍋に代ったことも、併せて気付かれたに相違ない。然らば、その神寵を受くべき女性の資格は、如何なる方法を以て決するか、今度はそれに就いて説明すべき順序となった。
琉球の久高嶋では、十二年目毎にイザイホウと称して、島中の処女をカミアシャゲ(神事を行う斎場)に集め、その庭に、高さ二尺ほど、長さ二間許り、幅一尺五寸位の、小さく低い橋のようなものを作り、処女をしてそれを一人一人と渡らせる儀式を行う。然るに、同嶋古来の信仰として、一度でも異性に許したことのある女子は、此の橋を無事に渡り得ず、必ず途中で墜落して死ぬと伝えられているので、身に暗いところを有っている女子は、その以前に姿を隠くしてしまう(これは女子としては最上の不名誉であって、此の者は島内では結婚する資格の無いものとされている)か、又はその暗いところを押しかくして出場しても、神の祟りを恐れて、僅に二尺ほどの橋から(然も下は平地である)落ちて、気死する者さえあるということである〔八〕。而して、此のイザイホウなるものが、処女であるか否か——即ち神寵を受くべき資格があるか否かの、試験であることは言うまでもない。此の試験を無事に通過して、始めて神人(カミンチュ)(内地の家族的巫女と同じ意である)となることを許されるのである。だから、此の橋が滞りなく渡り得られたということは、久高島の女性にとっては、社会的にも、信仰的にも、深い意義が含まれていたのである。
内地においては、私の寡聞のためか、これほど明確に女性を試験する民俗の存することを承知せぬが、併しながら、久高島のそれと共通したものの曾て在ったことを思わせる手掛りだけは残っている。即ち各地に伝えられている「裁許橋」の由来がそれである。肥後の官幣大社阿蘇神宮の奥宮に詣でるには、阿蘇山(往古は此の火山が神として崇拝された)から噴出する硫黄の臭いを嗅ぎながら、左京ヶ橋という小さな橋を渡らなければ往けぬような道順になっているが、古くからの言い伝えに、邪慳の女が此の橋を渡ると、神の祟りで結髪が自然と解けるとあるので、この橋が無事に渡れるか否かで、その女の心の曲直が判るとて、誰もが純真の心持となり、敬虔の態度で橋を渡る。古歌に「音に聞く左京ヶ橋に来て見れば、誠いはう(硫黄)の心地こそすれ」とあるのは、此の事を詠んだものである〔九〕。此の左京ヶ橋が裁許橋の転訛であることは改めて言うまでもあるまい。遠い昔にあっては、久高島のそれの如く、処女か否かを試験した神聖なる場所であったことが知られるのである。而して各地の裁許橋に就いては、夙に柳田国男先生が「西行橋」と題して高見を発表されているが〔一〇〕、是等の橋々が、女性の試験所であったことは、直ちに点頭(うなづ)ける問題である。近江国筑摩神社の鍋被り祭は、宮廷詩人の歌枕に好んで用いられたために有名となり、江戸期の物識り連は、筑摩社の祭神が穀物神であるから、祭儀に鍋を被ったのであろうなどと、例の理窟に合わねば承知せぬという態度の詮索をして得意がっているが、これは折口信夫氏の言われた如く、鍋一枚を被る女性にして始めて神寵を受くる資格あるものとした、内地におけるイザイホウの一種であったと考うべきである。
斯うして神寵を受けた女性が、神社に常住するようになれば、家族的巫女から離れて、職業的巫女となるのであって、更に此の職業的巫女を世襲したものを神ノ采女と称したのである。然るに、神も感情に支配されることもあるし、又往々にして、気まぐれのこともなさる。それと同時に、神寵を受けている巫女にあっても、神戒に背き神社の掟を破るようなこともする。かくて神母であった者や、神妻であった者が、社を離れて身の振り方を如何にしたか、——それには古信仰の衰えたことや、世相の変遷なども手伝って、こうした女性の落ち往く先は、殆んど言い合わせたように、倫落の淵であったのである。巫女は斯くして、巫にして娼を兼ねるようになり、ここに巫娼として新しい生活の道を覓めるようになったのである。 
一 巫娼の宗家であった猨女君
我国における売笑の起原を説くことは簡単には往かぬが〔一一〕、巫娼がその先駆者であったことだけは明白である。而して此の巫娼の宗家は猨女君(サルメノキミ)であった。猨女の出自や、職掌に就いては、屡記したので再び言わぬが、猨女の名が職業上から常に戯謔を敢てしたところから、ジャレメ——即ち戯れ女から負うたことを知るとき〔一二〕、更に現時でも用いているオシャレと云うのは、遊里に縁のある語で、娼婦をオシャレ、又はオシャラクと呼んでいたところの尠くないことを併せ考えると〔一三〕、猿女君と巫娼との関係は決して浅いものではなかったのである。源順の「和名抄」に、巫覡を乞盗部に載せ、遊女と同列に見たことは、当時の性的生活の反面が窺われ、「新撰字鏡」に「{女偏茇}、妭、魃」の三字を挙げ、共に「巧也、治也、遊也、加牟奈支(カムナギ)」なりと記し、「倭訓栞」に「巫(カンナギ)、神和の義なり(中略)、県巫女は娼婦を兼ねたり」とあるのや、「風来六部集」に娼女の異名を列ねたうちに「長崎にてはハイハチ」とあるのを、「賤者考」の「関西にて巫女をハイチと云う」とあるに対照すると、両語原が同一であって、然も巫娼の意であることが、容易に看取される。「中右記」元永二年九月三日の条に、神崎の遊女小最の名が見えているが、柳田国男先生によれば、これはコサイと訓み、小道祖の義であって〔一四〕、神名を用いたところから推すも、古い巫娼に縁を引いていることは疑いない。「日吉神道秘密記」に「令託寄妓(ヨリマシ)御歌」と端書して「ここに来てここにありとは思へども、目に見ぬほどぞ恋しかりける」とあるのも、前に載せた「将門記」の巫倡と同じく、倡や妓の字に曰くがありそうに思われるし、陸中国稗貫郡地方では、巫女をクグツ(傀儡女が娼婦であったことは明確である)と称したこと〔一五〕、及び近年まで箱根その他の修験派の道場においては、山伏の女房は凡て比丘尼と称して即ち巫女であり、然もその巫女の最下級者は倡を兼ねていたことを想い合せると〔一六〕、巫女が娼妓となったことも古いことで、且つそれが広く行われていたことが知られるのである。而して江戸期における巫女の大半までは、表芸の呪術よりは、裏芸の売笑で繁昌したのも、又遠い夤縁から来ているのである。 
二 浮世の果は皆小町の采女達
神母の末路と共に、併せ考えなければならぬのは、采女といわれた女性の身の行末である。采女の制度が神妻に起り、後に蕃客を待遇する貸妻に遷ったことは、曾て私見を発表したことがあるので省略する〔一七〕。而して宮中の采女は、地方郡領の子女を召す事になっていたが、その人員は今から明瞭に知ることは出来ぬ。それを新井白蛾翁は、何によって計算したか、平安朝の小町の局にいた采女だけでも六十名あるから、小町を一人の名と特定するのは無理だと云っている〔一八〕。勿論、私も世に謂う小野ノ小町が一人でなかったという説には異議はないが、併し此の計算だけは、甚だ覚束ないものとして、賛成しかねるのである。私は古代に遡るほど采女の数は多く、恐らく六十名などよりは遙に夥しくいたことと思っている。郡県の制は、大化期に完成されたのであるが、国郡の区劃は、遠く成務朝に行われ、その数は相当多数に達していたと思われるので、当時宮中及び各神社(神社の采女は百姓から召募した。それは後で述べる)に召された采女の数は、意外の多数であったと信じたい。
果して然らば、是等多数の采女達が、その任期を無事に終えてからの残生涯を、何処の地で如何なる方法で送ったであろうか。勿論、采女は神母とは違い、由緒もあり地位もある郡領の子女であるか、そうでなければ、相当に生活していた百姓(当時の百姓とは必ずしも農民ではなく、種姓のやや低き者を斯く称したのである)の子女である。任期の尽きた後は、都の手振り神の宮仕えに馴れた身を故郷の者に羨れつつ、幸福なる生活に恵まれた者も多かったろうが、此の中には「雄略紀」九年二月の条にあるような、重臣のために傷けられた采女も、尠くなかったであろうし〔一九〕、更に奈良猿沢池の衣掛柳の故事として伝えられたような采女も多く存していたであろう〔二〇〕。否々、私の想像するところでは、多年宮中の生活を送り、久しく社内の起居を習うた采女は、恰も現代の女学生が、一度都会生活に親しむと、土臭い田舎を嫌うのと同じように、草深い故郷に帰る事を好まず、次手を求めて京洛の地に留るか、それでなければ、神社の付近に居を占めたのではなかろうかと考える。都会が常に地方の人口を集めることは、昔も今も渝りはない。然も当時の神社が、或は国府に近く、又は景勝の地に鎮座して、文化の中心となっていたことは言うまでもない。是等の事情は、采女の残生を送るに気安くもあり、都合も宜かったので、多くの采女は好んで所縁の地に土着したことと思われる。我国に古く、佐用姫、小野小町、和泉式部、菖蒲前というが如き、名媛才女と同名の巫女の徒が、夥しきまでに各地に住み、又は各地を漂泊したことは既述したが、是等のうちには、采女の土着したもの、若しくは漂泊したもののあることを考えなければならぬ。而して是等采女の子孫が巫女となったのは、彼等が此の事に多少とも由縁を有していたからである。後世の俳諧の附句に「様々に品かはりたる恋もして、浮世の果は皆小町なり」とあるような、気の毒な境涯に終った采女も少くなかったのである。 
三 処女は悉く娼婦たりし民俗
我国古代の「処女(オトメ)」の意義は、現今のそれとは大に内容を異にしている。即ち人妻であろうが、娼婦であろうが、或る定められた物忌み(但し此の物忌は頗る厳重なものであった)だに完全に仕終うせれば、幾度でも処女となり得るものと確信していた。反言すれば、性の復活を信じていたのである。我国に古くから「腹は借りもの」という思想のあったのも、更に「操は売っても身は汚さぬ」という性を二元的に見た思想の存したのも、所詮は性の復活に由来しているのである。従って古代の「処女(オトメ)」という語は、人妻で無いという事だけは意味しているが、決して童貞を意味していたものではない。万葉集には未通女を「をとめ」と訓ませて、此の「をとめ」に童貞の意を含ませているが、これは奈良朝になってからの事で、その以前には全く見当らぬことである。否、それどころではなく、奈良朝にあっても、「をとめ」の名で、売笑を職業とした婦人さえあった〔二一〕。神に仕える女性は、処女たることを原則としていたが、人妻であっても、娼婦であっても、物忌だに済せば、再び元の処女として、神に仕える事を許されたのである。而して此の思想は、巫女と娼婦の境界線を撤廃するに、大きな力となって、社会的に動いていたのである。
私はここに、我国の定期婚や、試験婚や、更に労働婚などの婚制の根底に、微弱ながらも売笑的意識のあったことを説こうとは思わぬ。又、純粋なる共同婚は、売笑と択むなき事情を論じようとも考えていないが〔二二〕、古代の処女は、一面において、巫女性を帯びていた(此の事は屡述した)と同時に、他の一面においては、娼婦性を有していたことを言うにとどめるが、此の世相はモルガンの所謂娼婦制(ヘテリズム)に相当するものである。而してその遺物とも見るべきものは、古く羽後国鶴岡町の小岩川に近き厚見辺の村里では、富める者も、町人も、総て娘を持てる限り、遊びくぐつに遣るを習いとした。これを「浜のおば」と呼んでいた〔二三〕。伊豆の下田港でも、明治以前は、良家の娘でも、好んで旅客の枕席に侍したものであるが、こうせねば一人前の女になれぬと云われていた〔二四〕。肥前国の平戸町に遠からぬ田助浦は漁村であるが、此の地の娘は、悉く娼妓の鑑札を受けていて、客が招けば貸座敷に出かける。平生は宅にいて家事をとっているが、他国には見られぬ慣習である〔二五〕。志摩国の的矢港は、昔は大阪江戸間の寄港地であり、避難所でもあったので、船が入ると女の名のつく者は、悉く船客船員の需めに応じた。古い俚謡に「的矢港や女郎ヶ島、チョロ(艀のこと)は冥土の渡し船、しに行く人を乗せて漕ぐ」とあるように〔二六〕、殆んど全港の女子が娼婦であった。更に「信州叡山藩盆踊薩摩歌」にある「嫁に往くなら越後今町いやでそろ、昼は三味ひく、夜さりはお客の褄をひく」とある俚謡も、又た此の意味に解釈されるのである。私などが覚えてまでも、伊勢や越後などでは、娘を娼妓に売ることを、行儀見習に遣る位に手軽に考えて居り、肥前あたりでは娼妓あがりの女子を却って悦んだというのも、古い民俗の残片と思われるのである。これでは愛の標の白羽の矢が立ったとき、その召に応ずることは名誉であったに違いないのである。
猶おこれには、我国における旅人に貸妻する各地の民俗を述べぬと徹底せぬのであるが〔二七〕、今はそれにも及ぶまいと考えたので割愛した。 
四 琉球に残存せる巫娼の伝説と事実
我が内地の古俗を化石させ、それを親切に然も克明に保存した、琉球の売笑発達史において、巫娼の成立と存在とを、更に有力に暗示する伝説と、証示する事実とが残っていた。同地出身の伊波普猷氏は、これに就いて大体左の如く記述している。
琉球には尾類(ズリ)と称する一種特別の売笑婦がいるが、その由って来たるところが判らない。彼女等自身が自分等の鼻祖は、御姉妹(オミナンベ)(王女)であると云っていることや、一種の神(原註略)を祭り、兼ねて遊郭内の一切の世話を焼く長老が、牡前(オイメー)と云われていることや、老妓が巫女(ノロ)同様に世間の人から、一種の尊敬を払われているところなどを見ると、尾類(ズリ)の鼻祖は、やはり他の民族の歴史において見るように、神に仕える巫女にして売笑を兼ねたもので、その歴史も亦た琉球の歴史と、同じ古さを有っているものと思われる云々(以上「新小説」第三十一巻第九号)。
更に伊波氏は、琉球にも内地の采女の制度に類似したものがあり、然も此の女性達が售春したことに関して、大要次の如く記述している。
琉球の城人(クスクンチネー)という者が、此の采女の類では無かったかと思われる。混効験集(AD一七一一年編纂)という古代琉球語の辞書に、天妃のことを「みきよちやの美御前加那志(ミオマエカナシ)」と書いてあるが、これは御息所や御台所などと同じ義があろう。第二尚氏のことを書いた「王代記」という本を繙くと、代々の国王には、王妃の外に一両人の婦人と幾人かの妻のあったことが判る(中略)。記録には見えていないが、国王には此の外に大勢の城人(クスクンチネー)という女があったということである。思うに、古くは寵愛を失った城人(クスクンチネー)が、農村に帰らないで、首里その他の都会を徘徊して、春を売ったことがあったであろう云々(同上)。
而して那覇の辻遊郭の開祖は、尚真王の世子浦添王子尚維衡の妃であって、併せて此の王妃が尾類(ズリ)の鼻祖であると伝えられている〔二八〕。王妃が遊郭を開くとか、娼婦の初めと仰がれるとか云うことは、現在の社会感情から見れば実に在り得べからざる事であると共に、又た許すべからざる不祥の事であるが、併しながら、同国の古俗が、既述した如く、王妹は巫娼に縁故深き巫女(ノロ)の最上官である聞得大君(キコエオオギミ)として、国中の巫女(ノロ)を支配した国情に置かれたことを知れば、この伝説は必ずしも無稽だとばかりは云えぬのである。琉球では今に娼妓をズリの名で呼び、此のズリが守護神の祭日——即ち尚王妃の命日である毎年正月二十日に行う「ズリ馬」と称する祭礼は、全く娼婦が中心となっている。然もこの祭礼を度々目撃した同地出身の友人金城朝永氏の談によると、巫女(ノロ)が祭典に列するために着用する神聖なる式服と、この「ズリ馬」に出る娼婦の盛装とが、悉く同一の形式であるということは、彼之の間に深甚なる関係のあったことを考えさせるのである。更に辻ノ遊郭に、男子の楼主が一人も無いことも、古俗を偲ぶ上に関心すべきことで、内地も大昔にあっては、楼主は女性に限られていたもので、その起原は遠く巫娼時代の部曲に縁を引いているのである。而して是等辻ノ遊郭の楼主中から、力量あり人望ある者が推されて、牡前(オイメェ)(この語には神前に奉仕する人の義がある)と称する司祭長で、兼ねて遊郭の事務を総轄する者を選定する。由来、同遊郭は、前村渠(アンダカリ)、上村渠(サンダカリ)という二部落に分れて互に競争しているので、従って二名の牡前(オイメェ)がある訳であるが、この二名の牡前は、前者は白堂(シラドウ)の拝(オガン)所(内地の神社とも云うべき霊地)に仕える尸婦で、後者はクバツカサに仕える尸婦である〔二九〕。是等の事情を総合して考えると、琉球の娼婦は初め巫女(ノロ)から出て、拝(オガン)所を中心に生活したことが明確に知られるのであって、我が内地の古俗も又これと共通していたことが想像されるのである。 
五 神社中心に発達したる各地の遊郭
神社は国家の宗祀であって、然も国民崇敬の対象であるという、現在の神社観から云えば、不浄であり、不倫である遊郭が、神社を中心として発達したとは、誠に以て言語道断の事であるが、併し、民俗神道学の立場から見れば、既に神社に仕えた巫女——若しくは神社を放れた巫女が、娼婦の先駆者となっているのであるから、各地の遊郭が神社を目安として発達し繁昌したのは、寧ろ当然の結果とも云えるのである。
伊勢の古市の娼婦の発生を説くに、御子良の堕落せるものが相集りしに初まると云う者があるも、私は此の説に容易に賛成することが出来ぬ。寡見の及ぶかぎりでは、斯かる事を考えさせる記録に接しぬからである。併しながら、古市が参宮道者の攀花折柳に、都合よく設備されていたのは大昔からのことで、全国に亘り「夫婦連れで参宮したのでは御利益が薄い」という俚諺が行われていた裏面には、道者は必ず古市で剪紅摘緑の遊びをしなければならぬように仕向けられていたのである。私の生れた南下野地方では、昔は伊勢参宮を殊の外手重いものとし、参宮するとその者の生涯の運が極まると称して、五十歳以上にならなければ参宮せぬ習いとなっていた。現に私の父も五十三歳で参宮したが、私なども此の潜在意識が活いて今に参宮した事がない。その癖、伊勢へは幾度となく旅行して、宇治山田へも往ったこともあるが、態々参宮だけは差控えている有様である〔三〇〕。而して此の五十を越してからの参宮という事情は、古市の梅毒を非常に恐れたからであって、参宮して発病した梅毒は、伊勢の水で治療しなければ全治せぬという迷信が伴い、それが為めに思慮の定まった知命以上を条件としたものと思う。古い俚謡に「伊勢の古市女郎衆の名所、戻らしゃんせよ迷はずに」とあるのも、更に昔の川柳点に「伊勢まゐり太神宮へも寄って来る」とあるのも、共に此の間の消息を伝えたものである。
古市遊郭が既にかくの如くであるから、上を見倣う下々にあっては、少しく誇張して云えば、名が聞え徳の高いもので、附近に遊郭を有していぬ神社は無いというも、決して過言ではないのである。ここに四五の例を挙げると、京都に近い伏見市の泥町と、深草の撞木町とは、稲荷と藤ノ森の両者のために発達し、「くらわんか船」で有名な牧方及び橋本の両地と男山八幡宮、奈良の木辻と春日社、摂津住吉社と乳守、広田社と神崎、下ノ関の赤間宮と稲荷町、筑前の筥崎宮と博多柳町、讃州金毘羅社と新町、日吉神社と大津の柴屋町、出雲の美保神社と同地の遊里、越後の弥彦神社と寺泊、越前敦賀の気比神宮と六軒町、熱田神宮と宮ノ宿、静岡市の浅間神社と弥勒町、伊豆の三嶋神社と三嶋女郎衆、常陸の鹿嶋社と潮来の遊郭、武蔵府中の国魂神社と同所の遊女町、信州の諏訪社と高嶋遊郭、陸前の塩釜神社と門前の遊郭などを重なるものとして、殆んど枚挙に遑あらずという多数である。就中、珍重すべきは筑波神社を祭れる筑波山の半腹と、安芸の厳島の孤嶋に遊里の営まれていることである。これ等は神社に参拝するために赴くのか、遊女を買わんがために往くのか、恐らくは信心と道楽とを兼ねていたのであろうが、蓋しその関係は、歴史的にいえば、太古から伝統的に残されていたのである。「梁塵秘抄」に、
住吉四所のお前には 顔よき女体ぞおはします。
男は誰ぞと尋ねれば 松ヶ崎なるすき男。
とある此の女体こそ、即ち神社に附属していた神ノ采女の末であって、併も「すき男」を歓び迎えた巫娼その者である。住吉社と乳守遊郭との関係は、後にも述べる機会もあるが、古く此の巫娼が乳守の発達に与っていたことだけは、見逃すことの出来ぬ点である。併しながら、是等は神社に属するか、又は神社を離れていても、まだ上位に数えられる者であるが、全く神社を棄てて各地を漂泊した巫女、又は采女の名に隠れて媚を售った「歩(アル)き巫女(ミコ)」に至っては、殆んど後世の「道の者」か、或は土娼と異るなきまでに堕落していたのである。
同じ「梁塵秘抄」に、
吾が子は十余りになりぬらん 神巫(カウナギ)してこそ歩りくなれ。
田子の浦に潮踏むと 如何に海士人集ふらん。
問ひみ問はずみ調戯(ナブル)らん いとをしや。
給分を失い、神社に離れ、併も衰えた古い信仰を言い立てて、情海の一角に辛うじて生活の血路を求めた多くの神采女や巫女の身の成り果ては、それは奈何にするも涙に富んだ、憐れな境遇であったに相違ない。巫女の売笑も決して新しい問題ではなかったのである。 
六 神社の祭礼に遊女の参加する理由
神社の恒例祭に遊女が参加し、又は遊女が祭礼の中心となる民俗は、各地に亘り、相当の数に達している。前掲の琉球のズリ馬は、遊女が祭儀の中心となっているだけに大掛りであって、恰も在りし昔の吉原か嶋原の花魁道中の如く、廓内の名妓は、定まれる式服を纏い、派手やかな色布で鉢巻をなし、木で作った馬の首に紅白(今は模様物)等の縮緬の手綱をつけ、それを前帯に挟み、両手に手綱をとって、廓内を練り歩くのである。播州室津町の賀茂明神は遊女を具して降臨したと伝えられるだけに、祭礼には同地の遊女は、錦の袴に紫の帽子を頂き、二人づつ並んで、歌を謡い、笛太鼓を鳴らして、町中を廻ったものである〔三一〕。摂津の住吉神社では、毎年二回づつ、卯ノ葉の神事には、大阪新町の遊女が八乙女として参加し、田植祭には乳守の遊女が早乙女となって参加し、昭和の現代でもそれが懈怠なく行われている〔三二〕。下ノ関の赤間宮の先帝祭には、祭神に扈従した女性が生活に窮し遊女となったというので参拝供奉するのは有名な事である〔三三〕。長崎市の諏訪神社の大祭には、丸山・寄合両町の遊女が、毎年交代で参加する〔三四〕。京都祇園の八坂神社の神輿迎えにも、古くは白拍子、加賀女等の遊女が出て、舞を奏したものである〔三五〕。静岡市二丁目の遊女も、昔は毎年元朝に打揃うて浅間神社に参詣することになっていた〔三六〕。
而して是等は悉く当時の名神大社であって、現今でも官国幣社として国民の崇敬を集めているのであるが、此の他の名もなき叢祠藪神の祭儀にも、遊女の参加した例は決して尠くない。備中国浅口郡玉嶋町の天神祭には、芸娼妓が盛装を凝らし多くの船に乗込んで、神輿船に従い、海上を漕ぎ廻り、大騒ぎをする〔三七〕。遠江国磐田郡見付町は、明治以前には売女が二百人余りいて、毎年旧二月初午には同郡中泉町御陣屋の稲荷祭に美服を纏い、参詣するのを恒としていた〔三八〕。陸中国紫波郡見前村大字津田志町の大国神社は、同町の総鎮守であるが、祭日には鍬ヶ先から遊女が参拝に来て、振袖の色を争い同音に弾き立てる三絃の音に、信徒の心を狂わせたとある〔三九〕。更に奇抜なのは羽後国山本郡能代町で、毎年旧三月四日に遊女調べを行うが、その場所は同町の氏神住吉社の長床と定まっている。然も当日は、能代方、木山方、出入役所の三吟味、及び庄屋、町宿老等が出張し、遊女を長床にこぼれるほど集めて盛宴を張った〔四〇〕。遊女の点呼を神社で行うとは、遊女が祭礼に参加するよりは一段と珍しい事ではあるが、詮索したら、更にこれより奇態な事があるかも知れぬ。併しかかる事を書き出すと、際限がないので大抵にするが、兎に角に遊女屋を氏子に有していた神社ならば、其総てが祭礼に遊女の艶容を見たといっても差支えない程である。大嘗祭の翌年に朝廷の名で執り行う八十嶋祭にも、遊女に纏頭を与えるのが恒例となっていたのであるから〔四一〕、祭礼と遊女の関係は古くもあり、且つ親しくもあったことが知られるのである。而して斯くの如き事象が永く存したのは、遊女の発生が神社に交渉ある巫娼にあったためである。 
七 神に祭られた巫娼と遊女
源流を神妻に発した巫娼——よしそれが、神母、神妾、神婢、采女として伝えられているにせよ、是等の女性が軈て神として祭らるるべき充分の可能性を有している事は既に記し、併せて神母の祭神となった類例も既に挙げた。
私は更に、巫娼又は遊女が、古くは神、新しくは仏に祀られた事実に就いて述べるとする。延喜の神名帳に載せてある伊勢国度会郡の久具津比売神社は、社伝が全く失われているが、その神名から推して巫娼に交渉あるもののように想われる。丹波国多紀郡の母上(ハハカミ)神社は、後世には多田満仲の母を祭ったものだと伝えているが〔四二〕、これは古く神名帳の大比売社であって、母上は即ち母神の仮字であるから、神母か巫娼に関係ある神のように考えられる。江州坂本の日吉神社の末社に唐崎明神というがある。「日吉記」には琴御館妻とあり、更に「日吉秘記」には、石占井御前を祭ったとある〔四三〕。併しながら、此の社を別に女別当と呼んだ所から見ると、同じく神母か巫娼に由縁あったものとして差支ないようである。伊勢国鈴鹿郡片山神社の鈴ノ御子に関しては、後世の謡曲や、お伽草子の為に書き崩されてしまって、その正体を知ることが困難であるが、それでも此の御子を祭った鈴鹿御前社が巫娼関係のものであることだけは看取される〔四四〕。京都八坂神社の末社である美御前三座の如きも、社家の説には素尊の生める三女神とあるが、その神名を第一京上掾A第二岐御(ミサキ)前、第三小上揩ニあるのを聴くと〔四五〕、何となく神妻か巫娼に所縁があるように察しられる。上総国長生郡土睦村大字岩井に玉崎祖母大明神というがある。里人はばあかみさまと云っている。往古、一宮神社の祭礼毎に誇って参り来るので訴訟となり、官より姥神の名を差止められて、鵜羽山大明神と改めたとある〔四六〕。記事が簡単であるために委曲を尽さぬが、想うに一宮祭神に関係あった神妻か、神妾の為に、誇って参詣したものと見るのが妥当であろう。
猶お、民間に人気のあった和泉式部、小野小町、菖蒲前と称した巫女(又は巫娼)を祀ったものは、各地に亘り夥しきまでに存している。和泉式部は、寡聞なる私でも二十余ヶ所を知り、小野小町でも十余ヶ所を、菖蒲前も数ヶ所を挙げることが出来るが、ここには煩を避けて、一人一所づつを示すにとどめるとする。紀伊国那賀郡中貴志村大字上野山に和泉式部社というがある。俚伝に式部が熊野参詣の帰途ここで病死したので、埋葬の地に社を建てて祀ったのである〔四七〕。美濃国加茂郡蜂屋村の小野寺は、小野小町の開基であって、境内の観音堂は、小町の護身仏と小町とを併せて祀ったものである〔四八〕。丹波国何鹿郡吉美村大字多田字聖塚に菖蒲前を祀った塚がある。俚伝に源頼政の妾であったと云うている〔四九〕。是等の乏しき類例から推すも、巫娼の勢力と分布とを、窺知するに足るものが在って存するのである。
更に巫娼より一段と世の降った純粋なる娼婦を神または仏に祀った例も尠くない。ここには僅に一二を挙げるとするが、近江国野洲郡祇王村大字中北は、平清盛の寵愛を受けた祇王祇女姉妹の生地で、同所と隣村の富波の両所に姉妹の祠堂があり、村民はその命日には精進する〔五〇〕。此の事象は、儒者気質の伊藤東涯には余程不思議に考えられたと見えて、その著「輶軒小録」にも載せている。駿河国富士郡鷹岡村大字厚原字中宿の玉渡神社は、曾我祐成が買い馴染んだ大磯の遊女虎御前(中山曰。虎という巫女が、式部や小町の如く各地を漂泊した事跡が多く残っている。これに就いては後で言う機会があろうと思うている)を祀ったもので〔五一〕、同国安倍郡長田村大字手越の少将神社は同じ遊女の少将を祭神としている〔五二〕。陸中国東磐井郡千厩町の千寿長根と称する山麓に千寿塚というがある。伝説に平重衡に愛せられた名妓千寿が狂乱して、ここに迷い来て死んだので祀ったのだと云っている〔五三〕。美濃の大垣市に近い結村には、小栗判官の寵妓であった照手姫を神に祀り〔五四〕、上野国多野郡新町のお菊稲荷神社は、同町の妓楼大黒屋の売女お菊を併祀したものである〔五五〕。更に近世のことではあるが、東京市の永代橋の袂には、遊女高尾を祀った高尾神社なるものが、明治初年まで存していたという。而して斯くの如く、巫娼遊女が神に祭られ仏と崇められて、一部の崇敬を受けていたのは、その大昔において是等の者が神妻として、又は神妾として、更に神母として、神に親しみ、神を生んだ信仰に系統を引いているためである。
神妻から巫娼への過程は、これでやや輪廓を尽したと思うので本節を終るが、更に此の遺風余俗は、熊野信仰の興隆につれて、絵解比丘尼より、売り比丘尼を出すに至り、江戸期においては、巫女の大半まで売笑するまでに堕落したのであるが、是れの及ばざる所は、彼に補う考えであるから、併せ読まれんことを望む次第である。 
〔註一〕折口信夫氏は、一夜妻の対手となるものは、賓神(まれびとがみ)であって、此の信仰から旅客に貸妻する土俗が派生したのだと説いている。私はそうまでせずとも、一夜妻の対手は、考えられると思うのである。
〔註二〕我国の生け贄は、その言葉の如く、神の占めている山なり、池なりに、放ち飼いにしてある獣や、魚を云ったもので、必ずしも支那の犠牲と同一に見ることが出来ぬのである。詳細は長くなるので見合せるより外に致し方がない。
〔註三〕宮座とは、祭神に対して特種の権限を有する氏子のことで、詳細は「社会学雑誌」に載せた拙稿「宮座考」を参照せられたい。
〔註四〕「摂津名所図会」その他にも載せてある。
〔註五〕「摂陽落穂集」巻二。
〔註六〕「郷土研究」第一巻第七号。
〔註七〕「摂陽落穂集」巻四。
〔註八〕「女性改造」第三巻第九号。
〔註九〕「阿蘇郡誌」。
〔註一〇〕「郷土研究」第四巻第七号。
〔註一一〕猿女ノ君と巫娼の関係、及び我国の売笑の発生等に就いては、拙著「売笑三千年史」にやや詳しく述べて置いたので、参照を望む。
〔註一二〕猿女の語原は、従来、鈿女命が猿田彦の名を併せ得て、かく称したのであると言われているが、信用すべき限りでない。猿田はサダと訓むべきであって、サルダと訓むべきでない。此の事も前記「売笑三千年史」に詳しく述べて置いた。
〔註一三〕「物類称呼」巻一遊女の条に、信州軽井沢にて「おじゃらく」、奥州にて「おしゃらく」というと載せ、「米沢方言考」に「おしゃめ女郎」と挙げ、「異本洞房語園」巻六に、越前三国にて遊女の別名をシャラと云うとある。「鹿嶋もうで」に、旧三月九日に、鹿嶋神宮で行われる斎頭祭に用いる俚謡の一句に「おしゃらく目の毒」とある。此の辺にても古くは斯く言いしものか。
〔註一四〕「東京人類学雑誌」第二十八巻第二号以下に連載された、柳田国男先生の「イタカ及びサンカ」と題せる研究は、巫女と売女との関係並にその過程が詳記されている外に、先生独特の創見に富んだ記事である。私のはそれを真似たり、拝借したりしたものであることを明記し、謹んで先生に敬意を表する次第である。
〔註一五〕「くぐつ」の娼婦であったことは、改めて言うまでもないが、これも「売笑三千年史」に詳記して置いた。
〔註一六〕前掲の柳田国男先生の記事に見えている。
〔註一七〕我国における貸妻の発生、その他に就いては、拙著「日本婚姻史」に詳説して置いた。
〔註一八〕「牛馬問」(温知叢書本)。
〔註一九〕「雄略紀」に「遣凡河内直香賜与采女、祠胸方神、香賜与采女既至壇所、及将行事奸其采女云々」。
〔註二〇〕「大和物語」その他にもある有名な話である。
〔註二一〕「万葉集」巻九に載せた上総の末の珠名郎子がそれである。こは、本居内遠の「賤者考」に考証してある。
〔註二二〕是等の婚姻の種々相に就いては、前掲の「日本婚姻史」に尽して置いた。
〔註二三〕天明四年九月に記した菅江真澄翁の「齶田濃刈寐」に拠る。
〔註二四〕「新小説」第十一巻第十号。
〔註二五〕「週刊朝日」第九巻第廿三号。
〔註二六〕雑誌「性之研究」特別号「売淫研究」参照。
〔註二七〕貸妻及び妻女を交換する土俗に関しては「日本婚姻史」に述べた。
〔註二八〕前掲の「沖縄女性史」に収めた「尾類の歴史」。
〔註二九〕「新小説」第三十一巻第九号所載の「琉球の売笑婦」に拠る。
〔註三〇〕皇太神宮に対して、私幣禁断の制は、古くから国法として行われていた。従って、本来なれば、華士族でも、平民でも、幣帛を捧げ、参詣するなどとは、過分の振舞である。慎しみ畏れなければならぬ事である。
〔註三一〕「明治神社志料」巻上。因に、遊郭が神社中心に発達した人文上の理由も、他に相当に存しているが、ここには煩を避けて省略した。誤解なきように敢て附記する。
〔註三二〕「東成郡神社誌」及び「住吉名勝記」。
〔註三三〕「長門志料」。
〔註三四〕「官国幣社特殊神事調」一。
〔註三五〕「八坂志」乾巻
〔註三六〕麗沢叢書本の「晁東仙郷志」。
〔註三七〕文芸倶楽部増刊の「花柳風俗誌」。
〔註三八〕山中共古翁の手記「見付次第」。
〔註三九〕「紫波郡誌」。
〔註四〇〕「能代由緒記」。
〔註四一〕「江家次第」巻十五。
〔註四二〕大日本風教叢書本の「神社啓蒙」巻七。
〔註四三〕大日本地誌大系本の「近江輿地志略」巻十五。
〔註四四〕「勢陽雑記」巻二。
〔註四五〕同上の「神社啓蒙」巻三。
〔註四六〕「房総志料叢書」続篇巻五。
〔註四七〕紀州徳川家で編纂発行の「紀伊続風土記」巻三十七。
〔註四八〕「新選美濃志」巻二十三。因に「稿本美濃志」と間違わぬよう、注意せられたい。
〔註四九〕「何鹿郡案内」。因に言うが、茲に頼政とあるのは、即ちヨリマシの訛語であって、初め巫女をヨリマシと称していたのが頼政と訛り、更に頼政から菖蒲前が附会されるに至ったのである。此の過程に就いては、柳田国男先生の「郷土研究」第一巻第九号の「頼政の墓」と題せる研究に尽してある。
〔註五〇〕「淡海温故録」巻一。
〔註五一〕山中共古翁の手記「吉居雑話」。
〔註五二〕「駿河志料」巻二十六。
〔註五三〕「封内風土記」巻二十。
〔註五四〕「三河雀」巻四。猶お同書によると、羽前山形市の近村に、金売り吉次が、遊女亀鶴を神に祀り、社領五百石を寄せたと記してあるが、此の事は山形地方の地誌類にも見えていぬので、真偽ともに判然せぬけれども、五百石は少し多きに過ぎるので、少しく怪しいように思われる。
〔註五五〕「多野名勝誌」。 
第六節 采女制度の崩壊と巫女の堕落

 

采女の制度は国初期から平安朝まで行われて来たが、藤氏繁葉の放漫政策は、漸く帝室費の窮乏を来たし、その中期以降は、采女の徴募は絶えてしまった。かくて宮中には采女の影は消えてしまったが、一部の国造や神主が、神社用として召募した所謂「神ノ采女」なる者は、猶お依然として残存していた。而して是等の神采女が、初めは神妻であったことは既述したが、平安期になると、その名は旧時のままの神采女であるが、実際は、国司、国造、または神主の婢妾に、成り下がってしまったのである。これは采女ではないが、当時、是等の支配階級に居た者が、一般の女性に対して、如何に乱暴の態度を以て莅んでいたかを証明すべきものが、「催馬楽」の一章に残っている。
挿し櫛は、十まり七つ、ありしかど、武生の椽の、朝にとり、夕さりとり、
取りしかば、挿し櫛もなしや。さきんだちや。
此の歌謡は、越前武生の椽の誅求のために、少女の挿し櫛まで失いしものと説く学者もあるが、私は橘守部説に基き、国司の漁色の亡状に苦しめる少女の叫びと信ずるのである〔一〕。当時の国司は、民衆に対しては、殆ど生殺与奪の権を有していたと同時に、苛斂の限りを尽したものであって〔二〕、万一にも農民において納租を懈るが如きことあれば、その妻や女を拉し来って、伐性の犠牲にすることさえ、珍らしくなかったのである。年貢未進のために、農民が妻や女を売ったことは、夙くも此の頃から行われていたのである。
然るに、多淫にして支配意識に燃えていた彼れ国司、国造等は、神威と権威(彼等は行政官であって神主を兼ねていた)とを笠に被て、濫りに艶容なる女性を召して枕席の塵を払わせた。弊涜の極まるところ、遂に延暦十七年十月十七日に、右の如き官符の発せらるるを見るに至った。「類聚三代格」巻一、「神主司神禰宜事」の条に、
太政官符
禁出雲国造託神事多娶百姓女子為妾事
右被右大臣(神主)宜偁、奉勅今聞承前国造兼帯神主、新任之日即棄嫡妻、仍多娶百姓女子号神宮采女〔三〕、便娶為妾莫知限極、此是妄託神事遂煽淫風、神道益世豈其然乎、自今以後不得更然、若娶妾供神事不得已者、宜令国司注名密封卜定一女不得多点、如違此制随事科処、筑前宗像神主准此(国史大系本)。
是等野獣の如き国造の人身御供となった神采女が、やがて紅顔褪せ、寵愛衰えた暁に、身の振り方を情海の濁流に任せて、誘う水のまにまに、巫娼と堕ちて往くことは、当時の傾向としては、極めて容易に合点されるのである。而して斯くの如き事実は、決して出雲国造や、宗像神主だけにとどまらず、他にも多く在ったものと見るべく、偶々、官符に現われたのが、此の二者であったと見るべきである。従って斯うした生活を余儀なくされた巫女の堕落は、時勢の降ると共に、益々その速度を早めたのである。既記の如く、天長年間に編纂された「和名抄」に、巫女は遊女と同視されて、乞盗部に載せられるまでに軽蔑されるようになったが、更に乞盗とは、乞食と盗賊との一字づつを採った熟語であることを知れば、如何に巫女の社会的地位が低下したかが察しられるのである。されば、当時にあっては姓氏に巫部を称することさえ忌み嫌って、これが改姓を朝廷に訴える者が続出する有様であった。その顛末を簡単に述べれば、「新撰姓氏録」和泉国神別の条に、
巫部連(カムナギベノムラジ)、雄略天皇、御体不予、因茲召上筑紫豊国奇巫、今真椋大連率巫仕奉、仍賜姓巫部連。
此の記事によれば、雄略帝の不予に際し、遠く九州から巫女を伴いし者が、その偉功によって此姓を賜り、然もそれは家門の名誉として、永久に誇るべき事柄であるのに、此の事あってから約三百五十年を経た巫部連の子孫は、かかる姓を冒していることは、却って不名誉なりとして、改姓のことを朝廷に訴えて允許を得た。即ち「続日本後紀」仁明帝の条に、左の如く載せてある。
承和十二年秋七月巳未、右京人中務少録正五位下巫部宿禰公成、大和国山辺郡人散位従六位下巫部宿禰諸成、和泉国大島郡正六位上巫部連継麿、従七位下巫部連継足、白丁巫部連吉継等、賜姓当世宿禰、公成等者神饒速日速命苗裔也、昔属大長谷幼武天皇{○雄/略帝}公成等始祖真椋大連奏、迎筑紫之奇巫、奉救御病之膏盲、天皇寵之賜姓巫部、後世疑謂巫覡之種、故今申改之(国史大系本)。
先祖はこれを無上の光栄とし、子孫は敢て進んで不名誉という。同じかるべき巫部の姓が斯く変遷したことは、とりも直さず、巫女その者の変遷である。雄略紀には、巫女の威望が高く、君側に仕えて御悩の平癒を祈ったものが、代を替え時を経るに随って、次第に声価が下落して来て、巫女の関係といわれる事は、大なる恥辱となってしまったのである。而して此の変遷と、下落とは、巫女の徒が、全く娼婦と化し去った為に外ならぬのである。「続日本紀」天平勝宝四年五月の条に「免官奴鎌取、賜巫部宿禰」とあるのは、官奴にせよ奴隷に賜ったものであるから、余り名誉の姓でなかった事が想われる。更に「延喜式」臨時祭の条に「凡御巫取庶女、堪事充之」とあるに至っては、愈々巫女の低下した事が知られるのである。後世においても、巫女は一般社会から嫌悪され、蔑視されていたが、これは平安期のそれとは又た事情を異にしている所があるので、第三篇において改めて記述する考えである。
〔註一〕「催馬楽譜入文」(橘守部全集本)巻中。
〔註二〕「今昔物語」に、信濃の国司が谷へ落ち、その序に箪を採り「国司は転んだら土でも掴め」と云う警句を吐いた有名な事件が載せてある。当時の農民は、全くの搾取機関としてのみ生活を許され、国司は誅求を以て総ての職務だと心得ていた。永祚年中に、尾張国司藤原元命が余りに苛誅に過ぎ、農民より三十余ヶ条の非政を挙げられて弾劾されたことは、これ又た有名な事件であるが、然し当時の国守にあっては、その大半までが、悉く元命の亜流と見て差支なかったのである。
〔註三〕古代における百姓の意義は、後世のそれの如く決して農民だけを指しているのではなく、貴姓にあらざる者を広く意味していたのである。改めて言うほどの事もないのであるが敢て附記した。 
第七節 女系相続制と巫女堕落の関係

 

平安期を境界線として、巫女の堕落が殊に著しくなったのは、勿論、幾多の原因が在って存したことは言うまでもない。想い出すままを数えて見ても、(一)時勢と環境とが淫蕩靡爛であったこと、(二)彼等に対する信仰が全く衰えたこと、(三)給分を失い、収入の減損したことが、重なるものであるが、他に併せ考うべきことは、(四)巫女は原則として女系相続制度を強いられていたことも、又た大なる原因であると見るべきである。
元来、巫女が好んで独身生活を送ったことは、屡記の如く「神に占められた」古き信仰を墨守した為であるが、此の結果として当然、二つの事象が随伴していたのである。即ち第一は、独身なるがゆえに(後世になると神妻とも成り得られぬため)実子のあるべき筈がないので、その遺跡は、自分の兄弟の子(それは必ず姪に限られていた)に譲った女系相続制度であって、第二は、巫女の行う呪術は択まれた女性以外には相伝することの出来ぬものであって、且つ此の継承者は、自分の血統に属する者に限るという——一種の血液の迷信に囚われていたのである。大和の葛城山麓の、前鬼・後鬼の家は、修験道の開祖といわれる役小角が初めて峯入りした折に、これを助けた所謂「鬼筋」として有名の子孫であるが、この家などでも、血筋の混濁するのを恐れて、幾十代となく、血族結婚のみを(後世になると却って一般人から通婚を忌まれ、拠ろなく血族結婚をしたのである)続けていたが、近世になり他氏族の血液を加えてから、祖先に比して、飛行・隠形等の呪術が衰えたと云うていた〔一〕。而して此の心理状態は、等しく神に仕え、呪術を生命とした巫女にあっても、全く同一であらねばならぬのである。血液を濁すまい、呪術を堕すまいとの志願から、古き信仰に引きずられて、女系制度を厳守して来たのである。然るに、平安期になって、此の制度が漸く崩壊を見るようになった。「朝野群載」巻九に左の如き文書が載せてある。
丹後国司解 申請 官裁事
請被殊蒙官裁依采女従五位下丹波勝子辞譲姪同姓徳子補任采女職状
右得勝子解状偁、謹検案内、去天慶七年被補当職、従事之後、未闕職掌、依其労効、安和二年初預栄爵、永延元年更叙内階、計其年労、三十五個年于今遺命不幾、且暮難期、方今以所帯職、譲与同姓姪之例、継踵不絶、近則紀伊国采女寛子、譲於同安子、備前国采女壬生平子、譲於同貞子等是也、以往之例、不可勝計者、国加覆審、所申有実、仍言上如件、望請、官裁以件徳子、被替神采女職、将令勤譜第之業、仍録事状謹言
 永祚二年二月二十三日 正六位上行□□(紙魚不明、以下同じ)坂上□□(史籍集覧本)。
此の国司解を仔細に検討すると〔二〕、巫女(神采女とあるが、その実質の同じものである事は既述した)が、その職を姪に譲るに、他の類例を挙げて、証左とするところは、既に此の制度の崩壊期にあることを物語るものである。何となれば、若し従来の如く姪に譲ることが当然であったとすれば、別段に他の類例などを挙げる必要がないからである。而して世襲の職務と給分とを有する神采女までが、斯くの如き地位に置かれたのは、一般の神社に奉仕する巫女が堕落したので〔三〕、官憲としては出来るだけこれを取締り、併せて女系制度を廃止する計画が存していたのであろう。さなぎだに艶聞の伴いやすい巫女にあって、殊にそれが女系制度のために、人道に反した独身生活を強いられては、耳に余り眼を掩うような醜態が頻出したであろうから、官憲は彼等の信仰が落ち、神事の形式も漸く女子の手を離れて男子に移ろうとした変革期を機会に、此の不自然な制度を根絶せんために、特に厳重に相続を監督したのであろう。前に記した京都の桂女が古くから女系相続を固守して明治期まで伝え〔四〕、更に紀伊国海草郡加太町の淡嶋神社の祠官前田氏が、同じく女系のみで相続したとあるのは〔五〕、共に特別なる事例であると言わねばならぬ。
併しながら、巫女の独身生活は、極めて形式的ではあったが、その後とても続けられていたのである。世が変っても、巫女は神と結婚すべきもの、常人の男を良人としたのでは信仰に反くものであるという潜在意識は代々相続されて来て、内縁の夫は持ちながらも、猶お表面だけは、独身を装うことを忘れなかった。畏き事ではあるが「古事談」第一に「前斎院、斎院は、人の妻となっても、無子息」とあるのも、蓋し此事を言うたのではあるまいか。而して単に良人を持たぬばかりでなく、稀には親子の縁まで切って巫女に出る習わしさえあった。「和歌童蒙抄」巻二塩竃の条に左の如き記事がある。
ミチノク(陸奥)ノチカ(千賀)ノシホガマ(塩竃)チカナガラ、カラ(辛)キハキミ(君)ニア(逢)ハヌナリケリ
昔ミチノク(陸奥)ノカミ(守)、シホガマ(塩竃)ノ明神ニチカ(誓)ヒ申コトアリテ、ヒトリムスメ(独女)ヲヰテマヰ(参)リテ、カノ神ノ宝殿ノウチ(内)ニオシイ(押入)レテカヘ(帰)リケリ、コ(此)ノムスメ(女)ナ(泣)キカナ(悲)シビテ、神殿ヨリサシイデ(出)タリ、チチ(父)コレヲミ(見)ケルニ、心マド(惑)ヒニケリ、ソレヨリコノ神ノ命婦(中山曰。巫女の意)ハ、ミヤヅカサ(宮司)ノカザムカキ(限)リハ、オヤコタガ(親子互)ヒニミ(見)ユマジトチカ(誓)ヘリ、年ニヒトタビ(一度)ノマツリ(祭)ノヒ(日)ナラヌカギ(限)リハ、ヒト(人)ニアヒミ(合見)エズ、件ノムスメ(女)ノ子孫イマ(今)ニツギ(継)テ、ソノ命婦タリ(中山曰。傍訓の漢字は私に加えたもの)。
如何にも簡古の記述ではあるが、これによって、巫女は親子の俗縁を断って神に仕え、併も神に占められて子孫を挙げることを如実に伝えている。筆路が多少脱線するが、「源平盛衰記」巻十一金剛力士兄弟事の条、静憲法印熊野参詣の次に、
皆石皆鶴兄弟を請出て見参し(中略)、此児童兄弟はいかなる人ぞと尋給えば、祐金答申て云、母にて侍し者は、夕霧(ユウギリ)の板(イタ)(中山曰。熊野で巫女をイタと称したとは、奥州のイタコと対照して関心すべきことである)とて山上無双の御子(ミコ)、一生不犯の女にて候し程に、不知者夜々通事有て、儲けたる子どもとぞ申侍し、其御子(ミコ)離山して今は行方を不知とぞ申す。
とあるのは、神を夫とする信仰の残れるを証示すると同時に、寔に畏きことながら、古き百襲媛の故事まで想い出され、更に「処女受胎」の古俗が偲ばれるのである。
斯うした生活は、近世まで続けられていて、琉球では巫女(ノロ)は原則として亭主を持つことが出来ず、内地にても内縁関係以上にすすむことは憚っていた。「新編常陸国志」巻十二に、大略次の如くある。
近き世までも神主を宮市子と云ひて、女子の勤めしがままありしなり。夫はあれど奴僕の如し。然るに近き頃に至り、夫たる者吉田家の仮官など授かりて、自ら主人の如くなれり。当地辺にも此類まま有るなり。当国の内さるべき神社には、大市小市又は市子と呼ばれて、祭事に預る婦女あり。又神主をも、市とも市子とも云ふ村々あり。これは女の名いつと無く男子の方に移れるなるべし云々。
更に柳田国男先生の記すところによれば、
近頃、越前のテテと称する、或神官の家の系図を見たが、十数代の間婦女から婦女に相続の朱線を引き、夫の名は女の右に傍註してあった。処女の間ばかり神職を勤めたものならば、直系で続く筈が無いから、これは疑いも無く不処女になっても神子をして居たのである云々〔六〕。
巫女の性生活も又た幾多の変遷を経て、以て堕落期に到達したのであるが、此の問題こそ巫女自身にとっても、更に巫女史にとっても、一番複雑していて、然も一番困難な問題なのである。
巫女が娼婦と化した事象に就いては、猶お熊野比丘尼及び此の後身なる売り比丘尼のことを記さねばならぬが、それを言う以前に一言して置くべきことがある。それは外でもなく、古代から平安朝の末頃までは、遊女というものの社会的地位は、必ずしも後世の如く低劣ではなかったという一事である。勿論、いつの時代でも高下のあることは言うまでもないが、平安朝までは高級の遊女は畏くも宮中にも召され、又た仙洞にも聘せられ、更に金枝玉葉の身近く招かれた例さえ、史上に少からず存しているのである。而してかく遊女が社会から卑められなかった理由は、ここに詳細を尽すことは埒外に出るので、省筆するのが当然と考えるので〔七〕、これ以上は何事も言わぬとするが、此の理由は、或る程度までは、巫女から出た巫娼の上にも適用されることであって、後代の成心を以て当代を推すには、そこに相当の手心を要することが必要なのである。
〔註一〕享保頃に書かれた「諸州採薬記」に拠る。猶お「大阪毎日新聞」(大正四年七月廿四日)によると、大和国吉野郡天川村大字洞川が後鬼のいた所で、同郡下北山村大字前鬼が前鬼の住んだ所で、極端なる血族結婚の事情が載せてある。又「紀伊続風土記」巻三十三には、前鬼より分れたる子孫が、同国那賀郡粉河町大字中津川に居住し、同じく家族相婚した事が記してある。
〔註二〕これと同じ国司解が「類聚三代格」にも載せてある。更に物忌(巫女と同じ)の補任に就いては「類聚符宣抄」巻一「太政官符神祇官」の条に左の如きものがある。
応補坐河内国平岡神社物忌大中臣時于事
右得官去正月十三日解称、彼社物忌大中臣吉子、長体之替撰定件時子、言上如件、望請官裁、彼補物忌、将会勤職掌者、中納言従三位兼行左衛門督源朝臣高明宣、依請者、官宣承知依宣行之、符到奉行、
防鴨河使位 右大史位
天暦六年五月十一日
初めは本文に採録する考えでいたが、余りに同じようなものと思うたので略し、ここに参考までに附載した。
〔註三〕巫女の堕落には、制度とか環境とか云う以外に、巫女の内的衝動から来るものが多いことも注意せねばならぬ。前に挙げた平田篤胤翁が「古今妖魅考」三巻に集めた比丘尼の性的苦悩の事情は、当然、巫女の身の上であらねばならぬ。茲には詳細を尽すことが出来ぬが、特に此の種の問題に興味を有さるるお方は、同書に就いて知られたい。
〔註四〕桂女が時勢の推移に頓着せず、古きままの女系相続を墨守したために、思わぬ悲劇まで惹起したことがある。詳細は前掲の柳田国男先生の「桂女由来記」に載せてある。
〔註五〕「和歌山県海草郡誌」。
〔註六〕「郷土研究」第一巻第十号。
〔註七〕是等の事情に就いては、拙著「売笑三千年史」に詳記して置いた。参照がねがわれると仕合せである。 
 
第四章 巫女の漂泊生活と其の足跡

 

第一節 熊野信仰の隆替と巫道への影響
紀州の熊野神社は、古代に出雲の熊野から移住した民族が遷宮奉祀したものであるが、平安期に至り、朝野を通じて、熾烈なる信仰を集めるようになった。宇多帝より亀山帝に臻る九帝の行幸は、実に九十八回の多きに達し、皇后王妃の行啓もまた決して少くなかった。就中、鳥羽帝は二十一回、後白河帝は三十四回、後鳥羽帝は二十八回まで、共に御一代のうちに幸詣されている。上の好むところ下これより甚だしきのはなしの譬にもれず、皇室の尊崇が既にかくの如くであるから、権門勢家より農民商估に至るまで、総ての階級を通じて、殆んど神詣でといえば、熊野詣りが信仰の中心となっていた。俚諺に蟻群の集り走るを今に「熊野参り」というのは、当時、四方より雲集する熊野道者を形容したことから出たもので、更に後世の子守歌に熊野道中の悲劇を題材としたものが多いのは、又た当時の伝承であることが知られるのである〔一〕。
私はここに熊野信仰の由来や発達を記すことは、多岐に渉るので省筆するが〔二〕、既に平安朝には本地垂跡の説が大成され、神仏一如の思想も普及され、殊に熊野の地は伊弉冊尊が、有馬の花ノ窟に葬られたという伝説から導かれて古代から同地は死に由縁の深い場所とせられていた。中古、本宮を現世の極楽浄土と観じた様子は「源平盛衰記」等にも載せ、現今でも、妙法山を近郡の死人の霊が、枕飯の出来る間に必ず一度は詣るべき所とするなど、仏法渡来以前から死霊に大関係ある地として、一般に信仰されていたのである〔三〕。加之、観音信仰の隆盛になった平安朝の中頃から、熊野浦は補陀洛渡海(生身の観音を拝むとて舟に乗り、浪のまにまに自ら水葬する方法である)の解纜地として俗信を博していた〔四〕。
斯うした事象だけでも、熊野神は、民間信仰を集めるのに、総ての要素を具えていた上に、更に有力なる一事象を加えていたのである。それは他事でも無く、熊野神への参詣は、伊勢の内宮・外宮と同じである——否々、熊野の祭神は、伊勢皇大神の親神であるから、これへ参詣することは、伊勢へ参詣するよりも、御利益が多いと世間が考えていたことである。勿論、世間が斯う考えるに至った理由は、伊勢神宮は国家の宗廟として、皇室の祖神として、古くから「私幣禁断」の制が厳かに施かれ、貴姓臣僚といえども濫りに奉幣することは許されず〔五〕、況んや農商漁樵輩に至っては、神官に近づくことすら警められていたのである。殊に斯うした関係から、伊勢神宮の分祠は絶対に禁ぜられ、神宮に由緒ある各地の御厨でさえ、漸く神明宮の名で祭ることを、黙許されていたという有様であった。かくて伊勢神宮に対する民間信仰は、熊野神に移るようになり、後には熊野明神と称して崇拝されることとなった。
熊野の祭神は既記の如く、諾尊の唾液の神格化である速玉之男・事解之男の両神であって、之に冊尊を加えて所謂熊野三所権現と称した〔六〕。更に此の外に九柱の神を加えて、熊野十二所権現とも云っていた。而して熊野の主神である速玉・事解の二柱は、前にも述べたように、「占いの神」であるから、古くから巫女に親しみあるものとして、彼等の特殊の崇敬を受けていたことが推察される。殊に冊尊が併せ祭られるようになってからは〔七〕、前に言うた如く、死霊に関係深き神として、一段と巫女に信仰される密度を加えたのである。されば、物の本には見えていぬが、熊野に巫女の居ったことは、殆んど古代からであると云うも大過なきものと考えられる。それが平安期において、熊野信仰が全国的になり、本宮、新宮、那智の三山が繁昌するようになってからは、熊野は巫女の本山の如き有様を呈するに至った。「古事談」第三に、
法性寺入道殿{○藤原/忠通}発心地、少将阿闍梨房覚奉祈落之貶{○原/註略}僧伽の句云、南無熊野三所権現五体王子云々、後日件事申出之人ありければ被仰云、如然之僧伽の句は、近来の御子験者とて劣る事也。
とあるのを見ると〔八〕、当時、熊野に巫女が居り、然もそれが仏教と融合していた事が知られるのである。やや後世の記事ではあるが、「宴曲抄」巻上の熊野参詣の一節に、「印南、斑鳩、切目の山、恵みもしげき梛の葉、王子王子の馴子舞〔九〕、巫女(キネ)が鼓も打ち鳴し、頼みをかくる木綿繦(ユフタスキ)」とあるのでも、当時の隆盛が想像される。
然るに、鎌倉期に入るに及び、さしもに旺盛を極めた熊野信仰も漸く衰え始め、蟻の如く集った道者も、次第に影を潜めるに至り、更に同期の末葉に入ると、全く寂寥を感ずるようになってしまった。天野信景翁は此の理由を討ねて、「元弘建武之後、帝{○後/醍醐}遷南山、道路不通、此後熊野参詣絶跡」と論じている〔一〇〕。かく熊野信仰が衰滅したとなると、ここに当然湧起した問題は、如何にして三山の祠堂を経営し、併せて社僧神人等の生活を維持すべきかという事であった。然るに是より先に、同じ紀州の高野山に属する非事吏(ヒジリ)と称する徒が〔一一〕、前述の如く護摩ノ灰なるものを頒布して諸国を勧進した故智を学び、三山の巫女達は、或は口寄せの呪術を以て、或は地獄極楽の絵解き比丘尼として、更に牛王及び酢貝を配って金銭を獲る為に、己がじし日本国中に向って漂泊の旅に出た。それは恰も後世の伊勢の御師の如く、現今の越後の毒消し売りの如く、田舎わたらいに、日を重ね月を送ったのである。而して是等の巫女又は比丘尼が女性の弱さから倫落の淵に堕ちて売色比丘尼と化したのであるが、然もその収入は極めて多かったものと見え、「倭訓栞」に
熊野比丘尼といふは、紀州那智に住で山伏を夫とし、諸国を修業せしが、何時しか歌曲を業とし、拍枕(ビンザサラ)をなして謡ふことを歌比丘尼と云ひ、遊女と伍をなすの徒多く出来れるを統(す)べて、その歳供を受けて一山富めり、この淫を売るの比丘尼は一種にして、県神子とひとしきもおかし。
とある如く、熊野は尼形売女の大本山として、是等多数(広文庫所引の「青栗園随筆」には数千人とある)の比丘尼を統括して収入を計り、為めに一山富むほどの繁昌を致したのであるが〔一二〕、然も此の色比丘尼なる者は、江戸期の中葉まで、猖んに情海に出没したものである。
かく多数の熊野の巫女が、全国の津々浦々まで足跡を残す様になれば(此の考察は次節に述べる)、兎に角に曾て存した熊野信仰の余勢を背景とし、それが一般の巫女の呪術、及び風俗等に影響せずして終るべき筈がないのである。果して近古における巫女とその呪術とは、これが為めに大なる衝動を受け、教育され、感化されるところが多かったようである。ただ私の寡聞なると、近古以降の巫道が極端に堕落して、何も彼も混淆雑糅したので、その中から、熊野系統の呪法なり、呪具なりを識別することが、至難になってしまったことである。然るに、これに就いて、折口信夫氏は、奥州の巫女が持つオシラ神を中心として、此の神は熊野巫女の持ち運んだのであるとて、大要左の如き考証を発表されている。
おひら様と熊野神明の巫女
人形を神霊として運ぶ箱の話では、更にもう一つのものについて述べて置きたい(中略)。其は奥州のおしら神である。金田一京助先生の論文で拝見すると、おしらはおひらと言うのが正しい。おしらと言うのは、方言を其まま写したのと説かれてある。此所謂おひら様は、いつ奥州へ行ったものか、此は恐らく誰れにも断言の出来る事ではないと思うが、少くとも、此だけの事は言えそうだ。元来、東国にこう言う形式のものがあったか、其とも古い時代に上方地方から旧信仰が止まったか、或は其二つが融合したものか、結局此だけに落つく様である。
私は、其考のどれにでも多少の返答を持っている。先、誰にでも這入り易いと思う事から言うて見ると、おひら様と言うものは、熊野神明の巫女が持って歩いた一種の神体であったろうと思う。熊野神明と言うのは、伊勢皇大神宮でない、紀州に於ける一種の日の神である。即、宣伝者が、神明以外に他の眷属を持って歩いた(中略)。おひら様なるものも、熊野神明其ものではなく、神明の一つの眷属で、神明信仰を宣伝して歩く巫女に直接関係を持った精霊——神明側から言うて——であったと思われる。神明の外に、神明のつかわしめとも言うべきものがあった、其がおひら神であったのだ(中略)。にこらい・ねふすきい氏が磐城平で採集して来られたおひら様の祭文と称するものを見ると、此は或時代に、上方地方でやや完全な形に成立した簡単な戯曲が、人形の遊びの条件として行われていた事が察せられる。即、おひら様の前世の物語で、本地物語とも言うべきものが随伴して居った訳である云々(「民俗芸術」第二巻第四号並に「古代研究」民俗学篇第二)。
私は折口氏とは多少所見を異にする者であって、オシラ神は神明の形代と考えているので、従ってこれに反する神明の眷属とか、又は使令(ツカワシメ)とか言うことには左袒せぬが(猶おオシラ神に就いては後に述べる)、その他においては、大体同氏の説を認めて差支あるまいと信じている。前掲の「源平盛衰記」に、熊野で巫女をイタと称したとあるのは、奥州で今に巫女をイタコと言うているのと、或は関係があるかも知れず、更に東北地で同じ巫女をワカと云うのは、熊野九十九王子の若宮信仰と交渉を有し、又た巫女の一名をクグツと呼んでいるのも、木偶舞しの傀儡(クグツ)から出たもので、それが熊野比丘尼から学んだものであるかも知れぬ。奥羽六郡の太守であった藤原秀衡が夫人を携えて熊野へ参詣し、その帰るさに夫人が分娩したので、子持桜の故事を残したとか、誰でも日高川の物語で知っている清姫の情人安珍も、又た奥州の若き修験者である。奥州と熊野との交通は案外頻繁なるものがあった。
而して殊に注意しなければならぬ点は、古く関東から奥州へかけて、熊野神の社領が、多く存していた事である。これに就いては、故八代国治氏から詳しい話を聴いたこともあるが、東京に近い箱根も王子も、共に熊野の社領があったので、ここに三所権現を勧請したのである。こうした例証は、奥州においても、随所に発見せらるることなのである。かく熊野社領の多かったことは、元より熾烈を極めた熊野信仰に負うところのあるのは言うまでもないが、更に一段と思いを潜めて、斯くまで関東や奥州へ熊野信仰を宣伝し移植した者は、是等多くの巫女——即ち熊野神明を持ち歩いた彼等の活動によることを考えなければならぬ。古き俚謡に「熊野道者の手に持ったも梛の葉、笠に挿したも梛の葉」とあるのは、此の木が熊野神の神木であって、伝説によれば、冊尊の神霊を出雲から紀伊へ遷すときに梛ノ木に憑け、それを奉持したのに由来するというが〔一三〕、此の俚謡が殆ど全国の人口に膾炙されたのも、熊野信仰を普及させた彼等の宣伝の力である。後世に伊豆の走湯権現を熊野に比し「こんど来るとき持てきてたもれ、伊豆のお山の梛の葉」と歌わせるまでに至ったのである。当代における熊野巫女の活動は、実に驚くべきものがあったのである。
〔註一〕「南方随筆」の紀州俗伝に見えている。
〔註二〕熊野神社研究に就いては、宮地直一氏著の「神社の研究」に収めてあるものが、詳細であり、正確であり、且つ尤も権威あるものである。敢て参照を望む。
〔註三〕前掲の「南方随筆」の「牛王の名義と烏の俗信」に載せてある。
〔註四〕補陀洛渡海に就いては、「台記」、「吾妻鏡」、「中外経緯伝」等に見えているが、纏ったものでは、未見の学友なる橋川正氏の「日本仏教文化史」に収めてある。これも一読をすすむ。
〔註五〕「延喜式」伊勢太神宮の条に「凡王以下不得輙供太神宮幣帛、其三后皇太子若有応供者、臨時奏聞」と。かくて私幣禁断の制は永く続いていたのである。
〔註六〕熊野三神に就いては、速玉、事解の二神の外に、菊理媛神を加える説が「類聚名物考」に「玉籤拾遺」を引用して載せてある。而して此の説は、古代の熊野巫女の出自と、由来とを考覈する上に、多くの暗示を与えているのであるが、それを言い出すと長文になるので省略し、今は通説に従うこととした。
〔註七〕熊野三神のうちに冊尊を配した年代に就き、林道春の「本朝神社考」中の三に「古今皇代図」という書物を引用して、崇神朝の六十五年にあるように記してあるが、元より信用すべき限りでない。本当は判然せぬというのが穏当である。
〔註八〕「古事談」は「史籍集覧」本に拠った。
〔註九〕ここに「馴子舞」とは、巫女が売笑したことを意味しているのである。
〔註一〇〕「塩尻」巻四十六(帝国書院の百巻本)。
〔註一一〕高野山には学侶、行人、非事吏の三者が居て、各々その勢力を争ったものである。詳細は「紀伊続風土記」の高野山部に載せてあるが、非事吏の社会的地位とか、その仕事とかに関したものでは、柳田国男先生の「郷土研究」第二巻第六号所載の「聖という部落」が卓見に富んでいる。
〔註一二〕「熊野郷土読本」によると、江戸期に紀州徳川家の財政を救済するための一策として、熊野宮の祠官に資金を与え、それを他の大名旗本農商へ高利で貸付け、幕末には利殖の額十余万両に達し、明治維新の際に、紀州藩が江戸を無事に引払えたのは、此の金があったためだと載せてある。紀州の高野金は、他の座頭金、エタ金と共に、江戸期庶民の金融機関の一つであったが、熊野社人が別に斯うした事を遣ったとは、余り世に知られていぬので、敢て附記した。
〔註一三〕鈴木重胤翁の「日本書紀伝」巻十二に見えている。此の神木の奉持者を玉木氏と云い、更に分れて鈴木氏、穂積氏となったという事である。 
第二節 笈伝説に隠れた巫女の漂泊と土着

 

我国には古くから、笈に納めて背負うて来た神体、又は仏像が遽に重量を加え、人力を以て動かすことが出来ぬままに、遂にその土地に祀ったという伝説が、各地に亘り、殆んど更僕にも堪えぬほど夥しく残っている。然も此の事たるや、明治中葉までは、その信仰が儼として生きていたのである。下総国匝瑳郡野田村大字野手には、法華宗六老僧の一なる日朗の出生地とて、朗生寺という巨刹がある。明治十五年中に、備中国後月郡高屋町の矢吹伊三郎なるもの悪疾を病み、廻国のため、佐渡身延等を経て房州に往かんとて、同寺に参詣せしに、背にせる笈急に重くなりて動かず、奈何ともする事が出来ぬので、止むを得ず、此地に足を留め、朗尊の霊に奉仕せんと決心し、日夜心身を尽して仏を念じ、病者のために祈祷を続けたとある〔一〕。此の話なども故日下部四郎太氏に聴かせたら、直ちに得意の力学を以て縦横に論じて、信仰にあらず、詐謀なりとでも言うたかも知れぬが〔二〕、兎に角に斯うした信仰が、大昔から民間に存していて、神も咎めず、仏も怒らず、又た人も怪しまなかったことだけは事実である。私はここに神体や仏像が動かぬままに、これを奉持した者が、笈と共にその地に土着し、又は奉祀したという類例を挙げ、此の笈伝説に隠れた巫女漂泊の故郷遠き旅の姿と、荒蕪の地を開拓して部落を作った経過を記述して見たいと思う。
ただ前以て一言お断りして置かねばならぬことは、時勢の降るにつれて、巫女と修験者とが余りに接近し、余りに親密となったために、記録の上においても、両者が全く雑糅されていて、巫女のことを修験者として誤り伝えたと思うものや、これに反して修験者のことを巫女として民俗に残したと思うものがあり、更にその持物などにあっても、笈は修験者の背に負うもの、巫女は外法箱を肩に(中古の絵巻物など見ると笈を背負うた女子も多く存していた)するものと、記録の書かれた後世の事相から見て、古えも斯うであったと推定したものさえあり、かなり混雑していて今からはそれを明確に判別することは出来ぬのである。殊にその頃は、民間信仰の上からは、神と仏との境界線が殆んど撤せられていた所へ、修験は神仏道の三つを一つものとしていたし、巫女も此の影響を受けて、神も仏も無差別という有様なのであるから、神とあるも仏のことやら、仏とあるも神のことやら、これも極端に混淆していて、到底その一々を截然と識別することが出来ぬのである。それで止むなく、玉石同架といおうか、巫覡一体といおうか、兎に角に、私が巫女に関係あるものと考えたものを、雑然として列挙した点である。現在の私の学問の程度では、これ以上は企て及ばぬことゆえ、取捨は読者にお任せするとして、予め賢諒を乞う次第である。
神体または仏像が重くなった為に、その場所に奉祀したという伝説は、余りに夥しく存しているので、ここにその総てを尽すことは思いもよらぬので、やや代表的のものだけを、奥羽、関東、中国、四国、九州にかけて抽出する。一は同じような事の陳列を控えるのは、読者を倦怠から救うことであるし、二はさらぬだに物識りぶると思われるのを避けるためであり、三は例証は数の多きよりも質の良いのが尊いと考えたからである。
羽後国河辺郡豊崎村大字戸嶋の戸嶋神社(祭神素尊)は、昔京都鞍馬山の林正坊なるもの不動尊を笈に入れ、諸国遍歴の途次この地に休息すると、俄に笈が重くなって動かず、遂に此地に留まって祠を建てて祀ったが、明治になってから神社と改めた〔三〕。岩代国耶摩郡月輪村大字中小松の郷社菅原神社は、俚伝に神良種という者が、此の像(高さ五寸七分の鋳物)を京都に得て、廻国の折に、此の地へ来たところ、急に重くなって動かぬので、鎮座したものである〔四〕。常陸国多賀郡松岡村大字赤浜の妙法寺の境内に、僧日弁(日蓮の俗弟という)の墓がある。法難のため、弟子達が日弁の棺を負い此処まで来ると、急に重くなったので、やむなくここに祭り寺を建てた〔五〕。千葉市の千葉神社は、古く妙見社と称していたが、領主千葉成胤の弟胤忠が家督を奪わんとして、神像を負い、往くこと数百歩にして、遽かに重くなって棄てたので、此処に社を建てて祀った〔六〕。武蔵国北埼玉郡下忍村大字下忍の薬師堂の本尊は、昔藤原秀衡の守護仏で、奥州信夫の郷に安置してあったのを、夢想により、相州鎌倉へ遷さんと同所まで来たりしに厨子重くなりて動かず、仏意なるべしとて一宇を建てた〔七〕。上野国邑楽郡羽附村大字野木前の楠木神社は、俚伝に延元二年七月四日楠氏の遺臣、小林、田部井、石井、半田、江守等が、正成の首級を笈に納め、此の地を過ぎり野中の大樹の下に到りしに、笈重くして負うこと能わず、由って此地に留り、首級を大樹の下に埋め、祠を建て野木明神と称し、遺臣も此処に土着し開村したとある〔八〕。此の話などは、下総国古河町に頼政神社を祀った縁起と、全く同巧異曲のものである〔九〕。併しながら、摘録するつもりでも、斯う書き列べて国尽しをするのでは、それこそ富士山の張りぬきを拵えるほど原稿紙を要するので、此の辺から筆を飛ばすこととする。
越後国北蒲原郡加治村大字金津新村(?)、蒲原神社の境内五社明神の社殿に、比丘比丘尼の二木像がある。昔秩父六郎重保夫婦が、源義経を慕うて此の国へ来て剃髪し、死後居宅を寺となし、白蓮寺と称した。後年寺は亡びたが、住僧は夫婦の木像を持って出羽に赴かんと、偶々此地に来たりしに、木像忽然として重きこと金石の如く、やむなくこれを五社の拝殿に置いたという〔一〇〕。能登国鳳至郡浦上村大字西円山の地蔵尊は、始め同郡鵠ノ巣村大字西大野に在ったが、或る年西円山の村民が此の地を通ると、路傍に声あって、「共に往く」と云うので、此の地蔵尊を担いて帰りしに、今まで軽かった像が、忽ち重くなって動かぬので、此処に安置した〔一一〕。越前国坂井郡棗村大字深坂に百姓半助というがあり、家に源頼光が大江山入りのとき用いたと称する、古き笈を所蔵している。此の笈の縁起二巻あるが、由来は、以前福井藩の仕士であった太田安房が、祖先の源三位頼政から伝えた此の笈と、獅子王の剣と伝えて来たのを同藩中の柳田所左衛門に譲った。所左衛門後に此の村に退いたが、半助はその玄孫である〔一二〕。これなどは、頼政がヨリマシの訛語であることを知れば、頼光大江山のもので無くして、憑り祈祷を遣った修験の物であることが直ちに釈然する。
土佐国香美郡徳王子村の若一王子神社も、永源上人という者が、紀州熊野から神体を得て厨子に入れ背負うて来たとある〔一三〕。周防国玖珂郡余田村字北迫に流恵美酒社がある。土地の伝えに、五六百年も前に、広嶋から流れ着いたもので、「ゑびす様は広い広嶋に縁が無くて、狭い田布施の田の中に」という俗謡がある〔一四〕。肥後国球摩郡上村の谷水薬師は日本七薬師の一と称されているが、此の本尊は、元奥州金華山にありしを、或る六部が背負うて廻国の途すがら、此処で像が重くなったので、祀堂を建てた〔一五〕。大隅国姶良郡牧園村大字巣窪田の熊野権現社は、大永三年の社記によると、昔異人があって、熊野三所神を笈に入れて負い来たり、岩上に安じて一夜を明し、翌朝に笈を挙げんとせしに重きこと磐石の如く、故に此の地に祀ったとある〔一六〕。
さて以上書き列ねて来た此の種の笈伝説は、一面から見れば、巫覡の徒が漂泊に労れて、その土地に居着こうとする方便として利用したのかも知れぬが、斯うして神や仏を背にして、国々を遍歴した彼等の心情を察するとき、必ずしも利用とばかり見るのは酷で、或は現今でも行われている「おもかるさん」のような信仰が伴っていたものと信ずべきである。
以上は雑然と笈伝説を並べただけであって、此の中のどれだけが、巫女に限られたものであるかさえ、判然せぬほどであるが、今度はやや明確に巫女に、関したものを検出するとする。然るに、これに就いては、夙に柳田国男先生が「郷土研究」第一巻第八号で、卓見を発表せられているので、左にこれが要点を転載する。
巫女の旅行用具として、最重要なる物は其手箱である。此箱の中は極秘であって、見た人が無いから色々の臆説があるが(中略)、兎に角口寄の霊験は其力の源を、此箱から発していると見て宜しい(中略)。此箱の形が古今東西を通じて同じであるか否か、自分はまだ深く調べて見たのではないが(中略)、箱ならば其引出しや入れ底に少々の雑品を蔵って置いても、さして不体裁でもないから、結局、これ一つで天下を横行することが出来たのであろう。此点から見れば、男の修験者が背に負う所の笈も、巫女の手箱も目的は一つで、一所不在の伝道者が本尊を同行する方法としては、箱が一番好都合であったことは想像に難くない。
今一つ箱類の方が便利であったかと思う点は、行先々任意に樹の陰石の上などに安置して、自分も拝み人に信心させるのに手軽であったことである(中略)。やや大胆な仮想説ながら、諸国の雑神の名目にテバク(天白)サンバク(山白)ノバク(野白)などと云うのが多いのも、事によると白神(シラカミ)の思想に影響せられた、箱の神であったかも知れぬ。中山共古翁の説に、遠州中泉の西南に野筥という部落があって、白拍子千寿の本尊仏を安置したという千手堂及び千寿の墓又は朝顔の墓などという怪しい古跡もある。又野筥という地名は、昔能の面を埋めたのに基くと云っている(見附次第)。
巫女の口碑が、いつの間にか、小野小町、和泉式部、俊ェ僧都の娘、さては大磯の虎などという古名媛の伝記に附会せられていることは、極めて普通の現象である。かの曾我兄弟の霊を思い掛けない土地に祀っているのも、大磯の虎を中に置いて考えぬと分らない。美作苫田郡上田邑の箱王谷では、俚民箱王の像を刻ませて之を祀って居た。「作陽志」には箱王は如何なる人か知らず、此辺に金丸烏帽子町などの地名があって、何か由来があるらしいとある。此も多分は大磯の虎の故事にこじつけられて居るだろう。「曾我物語」に五郎時致の童名を箱王とあるが、其動機は何であったか。箱根に成長したから箱王だと云ってもよいが、それも亦小説であったなら、どうして其趣向が浮んだかを尋ねたい。白王権現という祠は土佐に甚だ多い(南路志)。此神の王の字は王子の王で古人の幼名に何王何若の多いのが、何れも元は神のミコに擬して、其保護を仰いだのと同じく、神託を仲介すべき人の称号から移った名であろうと思う云々(中山曰。誌上には川村杳樹の匿名になっている)。
柳田先生の研究に従うと、筑前箱崎八幡宮の箱松の由来や〔一七〕、若狭国の筥明神や、更に各地に在る箱清水の中からも、巫女関係のものを見出すことも出来るように思われるが、今はそれにも及ぶまいと考えたので省略する。
漂泊の旅をつづけた巫女の成る果は、好運の者でも、名もなき堂守りか、非運の者は並木の肥料となるのが落ちのようにも考えられるが、その中には神社を興す者もあり、稀には一村落を開拓して、永く草分け芝起しの土産神と仰がるる者もあった。筑前国早艮郡脇山村字子谷に十二社神社(即ち熊野十二所権現である)というがある。土地の口碑に、昔比丘尼某が紀州熊野神の分霊を奉じて此処に土着し、谷口、内野、原田、上ノ原、寺地の六部落を開拓したので、今に六部五十余戸の産土神となっている。此の比丘尼の墓は谷口に残っているが、貞観年中に椎原の下日ノ堰(轡堤ともいう)を築き水路を通じ、脇山地内八町歩、内野地内十六町歩の田に灌漑して農利に便じたということである〔一八〕。阿波郡美馬郡祖谷村は山深い片田舎であるが、俚伝に此村は、昔エイラミコと称す巫女が来て、耕耘機織の道を教えたので、今にそれを祀った祠堂が存している〔一九〕。讃岐国小豆郡坂手村も、大昔にセセ御前と土人がいう巫女が来て、開拓したのが村の始まりだといわれている〔二〇〕。飛騨の牛蒡種と称する憑き物の本場である双六谷の部落なども、又かかる人物が土着開拓したものと思うが、既に此の事は管見を発表したことがあるので割愛する〔二一〕。村々の開発とか産業(殊に製紙事業)の発達とかいう点と、巫女の関係を究めることも興味の多い問題ではあるが、今は此の程度にとどめるとする。
本節を終るに際し、開村の序に一言すべきことがある。それは、大昔の農民が他村に移住し、又は居屋敷を潰して社地とする際に、信託を受ける信仰の存した事である。安芸国安芸郡倉橋嶋の農民が、享保十五年正月に鹿老渡へ移住を企て、有志三十六人相談して里正に訴え、里正吉凶を神意に問わんとて、同二月一同打揃って八幡神社に詣で、神官藤村大和は、神社の舞台において、白刃を持って舞うこと久しく(これを御託の舞と云う。猶お刃戟を持って舞うことの起源は、巫女の呪術と交渉があるのだが、それを言うと長くなるので省略する)やがて神の告げ吉なりとて衆議一決して移住した〔二二〕。越後国蒲原郡芹田村に、昔吉見御所という貴人が暫らく居住した。後に此の御所跡を神慮に任せんとて、氏神熊野神社の神主式部太夫朝日ノ御子という者に命じ、阿気淵という所にて神託を乞わしめ、その神告により、高出村に移住し、居地には若宮を祀った〔二三〕。巫女が民間信仰に深い交渉を有していたことは、此の一言を以ても容易に知られるのである。 
〔註一〕「千葉盛衰記」。
〔註二〕故日下部氏は、御輿荒れを力学から説いた遍痴奇論者であった。その顛末と日下部氏の謬見であったこととは「祭礼と世間」(炉辺叢書本)に詳しく載っている。
〔註三〕「河辺郡誌」。
〔註四〕「福島県耶摩郡誌」。
〔註五〕「多賀郡誌」。
〔註六〕「新撰佐倉風土記」。
〔註七〕「新編武蔵風土記稿」巻二一六。
〔註八〕「群馬県邑楽郡誌」。
〔註九〕「許我志」に載せてある。これには渡辺競が頼政の首級を負うて来たとある。
〔註一〇〕「越後野志」巻九。
〔註一一〕「鳳至郡誌」。
〔註一二〕「越前国名蹟考」巻一〇。
〔註一三〕「諸神社録」。
〔註一四〕「郷土研究」第三巻第十一号。
〔註一五〕「球磨郡郷土誌」。
〔註一六〕「三国名所図絵」巻四十。
〔註一七〕「筑前続風土記」巻十八参照。
〔註一八〕「早良郡誌」。
〔註一九〕「美馬郡郷土誌」。
〔註二〇〕「讃岐史」初篇。
〔註二一〕拙著「日本民俗志」所収の「牛蒡種という憑き物の研究」参照。
〔註二二〕「倉橋島志」。
〔註二三〕旧会津藩領の事を書いた「新編会津風土記」巻一〇二。 
第三節 漂泊巫女の代表的人物八百比丘尼

 

若狭国の八百比丘尼——苟くも我国の民間伝承に興味を有った者で、更に巫女の考察に趣味を有った者で、恐らく此の名を知らぬ者は無かろうと思われるほどの有名な人物であるが、さてその正体はと云うと、恐らく誰でも突き留めた者は無いというほどの厄介な人物なのである。これに関しては、古く山崎美成翁も記述を残し、近くは西川玉壺翁も考証を試みたが〔一〕、前者は断片的で報告にとどまり、後者は言筌に落ちて、失敗に終った。私は此の怪談に包まれた八百比丘尼こそ、漂泊巫女の代表的人物と考えているので、茲にやや詳しく短見を述べるとする。
八百比丘尼の伝説は、室町期に大成されたものであるが、その出自が、怪奇を極めている上に、此の伝説を運搬したものが、漂泊をつづけた巫女だけに、殆んど全国に分布されている。加之、運搬の際に、幾らづつか語りゆがめたものも見え、時により、処により、話の筋に多少の出入があって、頗る複雑なものとなってしまった。さればと言うて、その伝説を一々挙げて、これが異同を究めるのは、容易なことではないし、又それ迄に広く探す必要もあるまいと信ずるので、先ず伝説の本筋とも見るべきものを示し、これを基調として、二三の異説を対照して、次に私見を述べるとする。
林道春の「本朝神社考」巻六都良香の条に、
余が先考嘗て語りて曰く、伝へ聞く、若狭の国に白比丘尼と号するものあり、其父一旦山に入りて異人に遇ふ、与に倶に一処に到る殆ど一天地にして、別世界なり。其の人一物を与えて曰く、是れ人魚なり、之を食するときは年を延で老いずと、父携へて家に帰る、その女子、迎へ歓んで衣帯を取る、因りて人魚を袖に得て乃ち之を食ふ{蓋し肉芝/の類か}女子寿四百余歳、所謂る白比丘尼是なり、余幼齢にして此事を聞きて忘れず云々〔二〕。
とあるのが、先ず伝説の本筋である。若者道春が幼齢で此事を聞くとあるのは、室町期の末葉天正十五六年の交と思われるので、此の頃は既に立派に伝説は完成されていたのであろう。尤も八百比丘尼が京都へ来て俗信を集めたことは、信用すべき史料なる「康富紀」及び「臥雲日件録」の文安六年五月から七月までの記事に見えているので、此の比丘尼の出没は、天正頃よりは更に百五六十年も前のことであるのは疑いないが、その伝説がやや纏って物の本に記されたのは、神社考が最古のように考えたので、先ずこれを典拠として説を試みる次第なのである。而してこれに由ると、(一)若狭国の生れであって、(二)白比丘尼と称したこと、(三)人魚を食うて長寿を保ち、(四)四百歳を生存したことが知られるのであるが、然るに是等に就ては、その一々に異説があるので、それを掲げて見ようと思う。元々、巫女が持ち歩いた伝説に過ぎぬものを、力瘤を入れて詮議するのも心無いことのように考える者もあるかも知れぬが、巫女の漂泊者が、極めて小さな意味の文化ではあるが、伝説や歌謡や物語などを、足跡のとどまる所に植えつけて往ったことを知る上に、相当の意義が潜んでいると信ずるので、敢て此の態度を執るとした。
第一の生地に就いては、若狭というのが通説となっているが、併し「若狭郡県志」にも「向若録」(同国の地誌)にも、八百比丘尼は遠敷郡の後瀬山麓の空印寺にある洞窟に隠栖したとは記してあるが、決して同国で生れたとは載せてない。「勢陽五鈴遺響」鈴鹿郡平野村八百比丘尼塚の条に、
白比丘尼俗に八百比丘尼と称す、若狭に神に祭りて八百姫神明と崇めたり、和漢三才図会引若狭国風土記云、昔此国有男女、為夫婦共長寿、人不知其年齢、容貌若如少年、後為神今一宮是也、因称若狭国云々。
と載せてあるが、流布本の三才図会にはかかる記載なく、且つ若狭風土記などいう書物は寡見に入らぬ。よし又、これが記載してあったとしても、単にこれだけでは、若狭生れの証拠とはならぬ。
然るにこれに反して、若狭以外の生地に就いては、段々と各地に資料が残されている。奥州会津地方の俗伝によれば、秦勝道なるもの、元明朝の和銅元年に岩代国耶摩郡金川村に来て、里長の娘と相馴れて、養老二年元朝に一女を儲けた。勝道予て庚申を崇信し、村の父老を集めて庚申講を営むと、或日、駒形岩の辺りなる鶴淵から龍神が出て、大衆を饗応した。その中に九穴ノ貝あり、人怪んで食わず、道に棄てたのを、勝道拾って帰宅し、女それを食して(中山曰。人魚でないことに注意されたい)長寿を保ち、八百比丘尼となった〔三〕。美濃国益田郡馬瀬村大字中切に治郎兵衛という酒屋があった。龍宮に至り「キキミミ」と称する虫鳥獣の物言うことを聴き分けるものを貰って来た所、その娘がこれを開き、中にあった人魚の肉を食い、八百年の長寿を得て、諸国を遍歴した。死ぬるときに、黄金の綱三把を埋め、杉を折って墓標とし、「漆千杯、朱千杯、朝日輝き夕日うつらふ其木の下に、黄金の綱三把あり」と記して死んだ。杉の木は枯れたが、根は今に残っている〔四〕。此の末節の謎のような歌は、墓所の地相を詠んだもので〔五〕、後から比丘尼に附会した話である。同国稲葉郡蘇原村字三柿野に、昔アサキと云う長者があり、娘一人を残して死んだ。娘は麻木の箸で食事をなし、その箸に付いた飯粒を池魚に施した功徳で、八百歳の永生きをした。後に各務村に住み、古跡今尚六字の名号の碑を存している〔六〕。此の話も箸信仰に関するものを〔七〕、後人が継ぎ合せたもので、前の話とともに、八百比丘尼の伝説としては価値の少いものである。飛騨国吉城郡阿曾布村大字麻生野字森之下で、八百比丘尼は生れたもので、本名は道春というた。同郡上宝村大字在家の桂本神社にある七本杉は、比丘尼が鎌倉から持ち来って栽えたものである。根は一本で、六尺ばかりのところで七本に分れ、根の囲り十抱えある大杉で二本ある〔八〕。
それから越後国三嶋郡寺泊町大字野積字岩脇の漁家納屋事高津某に一女があった。妖色仙姿にして、年を経るも齢傾かず、常に十六七歳の処女に等しく、三十九度他家へ嫁し(中山曰。婚数が諸書必ずしも一致しない点に、伝説の成長という事が考えられる)、後に剃髪して諸国を巡り、若狭小浜の空印寺境内に草庵を結んで止住した。既に八百年を生存するも、処女の如かりし故に、八百比丘尼と称した。諸方の候伯に召されて、往事を語るに確然たり、世に八百比丘尼物語という書物がある。尼は天然に死ぬことが出来ぬと悟り、元文年中境内に入定し遺品がある。尼の生家は、高津金五郎と称し現存し、遺物とて越後の古絵図一枚ある〔九〕。此の伝説は、八百比丘尼が名の如く八百年生きたものと信じて書いたところに、古人の質朴さが窺われ、且つ尼の生家が残っているなどは、益々以て面白いことである。伝説と歴史との相違を判然と知らなかった著者には、無理もないことであるが、それにしても元文といえば僅に百五十年前ばかりのころであるのに、此の不思議な尼が生きていたと信ずるとは罪の無いことである。殊に尼が天然に死す能わずと悟って入定したとは、愈々以て伝説の世人を迷わす事の大なるを感じた。播州神埼郡寺前村大字比延に、八百比丘尼が投身した場所があると伝えているが〔一〇〕、これなども余り長く生きるのに呆れて飛び込んだ所かも知れぬ。
能登国には、何故か不思議に、八百比丘尼に関する遺跡や、伝説が多いので、茲にその総てを挙げることは出来ぬが、一つだけ掲げると、「能州名跡志」巻一に、
羽咋郡富来より二里の間八百比丘尼の植し椿原といふあり。按ずるに若狭の白比丘尼の旧跡は所々にあり。是は伊勢国白子の産故に、白比丘尼とも、又八百比丘尼とも云ふ。又越中黒部の庄玉椿の産とも云へり(中略)。廻国して若狭の白椿山にありしとて今に絵像あり。手に椿の枝を持てり(中山曰。椿の枝を持つことが、尼の巫女であった一証である。注意せられたい)云々。土地の伝に、昔越中黒部川港に玉椿の里とて幽なる所あり、以前は玉椿千軒とて繁昌なる土地なりしが、ここの里長友と共に上洛の途中武士と道連れとなれり。此武士は越後国妙高山の麓に住む三越左衛門といふ千年経たる狐なり。馳走すべしとて長を伴ひ往き、人魚の料理を出す、長は食はず、長の友は懐中して帰宅し、其女土産と思ひて食し八百比丘尼となる(中略)。又能登国鳳至郡縄又村の産れとも云ふ。
とある。人魚を食わせたものを、非類の狐にするとは、伝説を合理化しようとした、昔の人の苦心するところである。佐渡国佐渡郡羽茂村大字大石字田屋に、八百比丘尼誕生の屋敷跡というがある。昔庚申待の折に、田屋の爺さんが、人魚の肉を持ち帰り、家の少女に食わせたのであると伝えている〔一一〕。因幡国岩美郡には八百比丘尼の生地を二ヶ所伝えている。前者は稲葉村大字卯垣の古城主が、河狩のとき竹ヶ淵で人魚を獲て食し歿したが、その後落城の折に男子は悉く討死し、女子一人残りて長寿を保ったと云い、後者は面影村大字正蓮寺の老婦が、人魚の馳走を持ち帰り、娘が食って八百比丘尼となったと云うている〔一二〕。父が食って娘が長生したという話も可笑しいが、更に此の事を記した著者が、「惣じて比丘尼屋敷又は比丘尼城など云ふは、国中所々にあり、皆毛無山の俗称なり」と論じているのも、比丘尼と称する者が漂泊し土着したことを閑却した説である。
紀伊国那賀郡丸栖村大字丸栖の村老相伝えて、八百比丘尼は、此の村の産と云うている。今その証拠となるべきは何も無いが、此の事は若狭でも信じていると云う〔一三〕。土佐国高岡郡須崎村多之郷の鴨神社の華表の傍に、八百比丘尼の塔というがある。白鳳年間の事であるが、漁人が大坊海で人魚を獲て娘が食い、長寿を享け、諸国を遍歴し、若狭に留りしが、後に帰郷して死んだ〔一四〕。筑後国山門郡東山村字本吉の俚伝に、奈良朝頃に唐人竹本翁というが住み、その娘が同郡舞鶴城主牡丹長者に仕えた。或る時、肥後の桑原長者から稀有の螺貝の肉を贈ったのを、娘盗み食って長寿を保ち、一良人に二三十年。又は六七十年仕えしも、合計二十余人の多きに達したという〔一五〕。此の話は「仙女物語」の骨子となっているのであるが、それを言い出すと長くなるので割愛する。猶お筑前遠賀郡芦屋町庄ノ浦にも、長寿貝を食った八百比丘尼系の伝説を載せているが〔一六〕、これも埒外に出るので省略した。
第二の白比丘尼と称した事は、既載のうち伊勢、若狭、能登の記事にも見えているが、まだ此外にも存している。相模国足柄下郡元箱根塞ノ河原に白比丘尼の墓がある。文字数十字を鐫れど漫滅して読めぬ。武蔵国足立郡植田谷領にも白比丘尼の旧蹟が残っているそうだ〔一七〕。伊勢国鈴鹿郡関町の地蔵堂に、白比丘尼が宝蔵寺と自筆した額が什物として残っている〔一八〕。詮索したら、猶お幾らでも出て来ると思うが、此の事は八百比丘尼の一名を白比丘尼と称したという点が明確になりさえすれば、宜しいのであるから、今は詮索の手を余り延さぬ事とする。
第三の人魚を食ったという点であるが、これは既記の如く、多数はこれに一致し、僅に九穴貝と螺貝を食ったというのが一二あるだけゆえ、これも深い詮索は差控えるとする。殊に伝説の本筋から言えば、人魚でも長寿貝でも、更に林道春の考えた如く肉芝であっても差支はなく、要するに、長命を合理化させんために、異物を食したことに仮托したまでのことである。
第四は尼の長寿の年数であるが、神社考には四百歳と云い、他は概して八百歳と云い、然も八百比丘尼の名の起りは、此の年寿に由るものだと称している。此の問題も、武内宿禰の三百六十歳や、浦嶋の年の数と同じく、四百歳というも、八百歳と云うも、伝説のことゆえどうでも宜しいのであるが、更に考えて見なければならぬ事は、八百比丘尼の名の由来が、果して年寿から負うたものか否かという点である。曾て南方熊楠氏は、これに就いて、
八百比丘尼ということ、劉宋天竺三蔵求那跋陀羅訳「菩薩方便境界神通変化経」中巻に、世尊説是経時、八百比丘尼脱優多羅僧衣以奉上仏云々。文字麁なる時代には、こんな事を説解して、八百人を八百歳と合点し伝説出来しかとも覚ゆ。しめじが原のさしもぐさは衆生の事なるを(中山曰。此の歌は新古今集に清水観音の詠としてある)、しめじが原の艾は名産と心得、例の瀉をなみから片男波も名所となり、蜀山人の書きしものに、松年という女郎にきかばやという舞妓も出来し由の類か〔一九〕。
南方氏一流の考察を試みられているが、私は別に稚見を有しているので、後で纏めて述べる事とする。
而して尼の在世時代に就いては、諸説全く区々としている。遠く奈良朝の白鳳年間というのがあるかと思えば、或は近く江戸期の元文年中というのもあり、更に越後柏崎町の十字街路にある石仏には、「大同二年八百比丘尼建之」と彫刻して、今に文字鮮明なりと云っている〔二〇〕。殊に馬鹿げたものには、尼が若狭に居るとき、源義経主従が山伏姿となって、奥州へ落ちて行くのを、目撃したという話の伝えられていることであるが〔二一〕、これ等は共に、伝説が持ち運ぶ人により、移し植えられた所により、如何ようにも変化し、成長するものであるということを示唆する以外には、学問上、さして価値のある問題ではない。要するに此の伝説は、室町期において大成されたものと思えば、間違いないのである。
私案を記す前に、猶お八百比丘尼の足跡が、如何に広汎に印されているかに就いて、極めて大略だけを(前載の地方と重複するものは省筆して)述べて置きたい。これは中古の巫女が、漂泊生活を送った旁証として、多少の参考となるものと信ずるからである。武蔵国には、此の尼の由縁の地が数十ヶ所ほどあるが、殊に有名なのは、北豊嶋郡瀧野川町大字中里に庚申ノ碑三基あるが、その中央に建てるは、尼の建てし古碑と称し、高さ四尺ほどある。又これより東北十丁余の田の中に、雑木の茂れる森があるが、俗に比丘尼山と云い、八百比丘尼の屋敷跡と伝えている〔二二〕。北足立郡新郷村大字峰の八幡宮の境内に、銀杏の老樹がある。尼の手植えと云い、更に尼は同郡貝塚村の人とも云うている〔二三〕。猶お此の外に、尼の守護仏であった寿地蔵を祀った土地もあるが省略する。下総国海上郡椎柴村大字猿田に、比丘杉とて樹齢一千年以上を経た老木がある。八百比丘尼が植えた物と伝えていたが、明治三十八年六月に伐採された〔二四〕。駿河国沼津市に八百姫明神というがある。来由未詳だが、一説には尼と関係あるとも云う〔二五〕。隠岐国には尼の手植えの杉が三本あったが、その中一本大風に吹き折られ、その木だけで一宮の本社拝殿の普請が出来たと云われている〔二六〕。まだ各地に残っているが、概略にとどめて、愈々結論に入るとする。
さて長々と書きつづけて来た八百比丘尼の正体は、聡明なる読者は既に気付かれたことと思うが、一言にして云えば、オシラ神を呪神とした熊野比丘尼の、漂泊生活の伝説化に外ならぬのである。オシラ神の発生や、分布に就いては、後に述べるが、此の尼が古く白比丘尼と称したとあるのは、即ちシラ神を呪力の源泉として捧持したのに所以するのである。それを白の字を充て嵌めたために、伊勢の白子で生れたとか、更に白ッ子と称する女性で、何年たっても処女の如しとか云う伝説を生むようになったのである。
尼が長寿を保ったと云うのに就いては、室町期において発生した他の長寿譚を併せ考えて見る必要がある。これに関しては、既に柳田国男先生が説かれた如く、常陸坊海尊、残夢和尚、鬼三太等が、三百年五百年の長命をしたという物語が、一般民衆の間に歓迎されていたことである〔二七〕。然るに、オシラ神を持って諸国を漂泊した白比丘尼が若狭国の八百姫神社に附会されるようになった。「塩尻」巻五に、
俗間に八百比丘尼の影とて、小児の守にも入れるものあり、これ何人ぞ。曰く八百姫明神の事なり、祠若州小浜に有り、姫の歌に「若狭路や白玉椿八千代へて、またも越しなむ矢田坂(ママ)かは」その縁起は実に妖妄の事なり。
とある如く、これに附会されると同時に、一方長寿譚の影響を受けて、ここに八百姫から思いついた八百歳説が唱えられるようになり、更に長寿を合理的に考えさせるために人魚や九穴貝のことが〔二八〕、段々と工夫され、追加されるようになったのである。
室町期は、暗黒時代と云われるだけに、民衆は政治的にも、経済的にも、塗炭の苦杯を続けざまに満喫させられた。それだけに迷信が猖んであって、巫覡の徒はその間隙に乗じて跋扈跳梁した。江戸期から明治期の後半まで民間に行われていた有らゆる迷信は、殆んど室町期に大成されたものであって、我国の迷信史においては、平安期と対立して重要なる位置を占め、殊に前者が貴族的であるに反して、後者が民衆的であっただけに、一段と関心すべき内容を有しているのである。斯うした世相において、巫覡の徒が、民間信仰に培われた八百比丘尼を利用し、これを言い立てて、漂泊と収入の便としたことは見易いことである。「康富紀」文安六年五月の条に「若狭白比丘尼上洛、又東国比丘尼於洛中致談議事」と記し(中山曰。目録のみ本文は欠けている)、更に「臥雲日件録」文安六年七月二十六日の条に「近時八百歳老尼、若州より洛に入る。洛中のもの争ひ観んとす。堅く居るところの門戸を閉て、人に容易く看せしめず、かかれば貴者は百銭を出し、賤者は十銭を出す、然らざれば門に入ることを許さず」とあるのは〔二九〕、全く伝説を利用した計画の図星に当ったものと云えるのである。
而して此の尼が手にした椿(又尼が植えたという椿山は既記の能登の外にも各地にある)こそ、古き熊野神が諾尊の唾液(ツバキ)から化生した事を象徴したものであって、然も此の椿が(我国のと支那のと同字異木である事は既述した)嘉樹瑞木としてよりは、更に我国における生命の木とまで信仰されるようになったので、これを持つことが、彼女の巫女であったことを物語っているのである。猶お、八百比丘尼と対立して考うべきものに、七難の揃毛(ソソゲ)を有した巫女の在ったことである。これは後段に述べるが、彼之を参照するとき、此の種の巫女が室町期に出現するのも、決して偶然でないことが知られるのである。 
〔註一〕山崎翁の説は「海録」に、西川翁の説は「上毛及び上毛人」に連載された。西川翁には、生前二三度お目にかかったこともあるが、私の所謂ブルジョア神道の、更に化石したような説の持主であった。
〔註二〕「本朝神社考」は、原本は漢文であるが、ここに「大日本風教叢書」本の訳文を引用した。
〔註三〕「新編会津風土記」巻五十五。
〔註四〕「岐阜県益田郡誌」。
〔註五〕朝日夕日の歌が、墓所の地相を詠じたものであることは、故坪井正五郎氏が夙に「東京人類学会雑誌」で論じている。
〔註六〕「美濃国稲葉郡誌」。
〔註七〕青萱の箸、竹の箸、南天の箸など、箸に関する俗信は多く存している。併し今はそれを言わぬこととする。
〔註八〕「飛騨遺乗合府」。
〔註九〕「温故の栞」第十八篇。
〔註一〇〕「増補播陽俚翁説」。
〔註一一〕「日本伝説叢書」佐渡之巻。
〔註一二〕「因幡志」。
〔註一三〕「紀伊続風土記」巻三十五。
〔註一四〕「土佐古跡巡覧録」。
〔註一五〕「耶馬台探見記」。
〔註一六〕「諸家随筆集」(鼠璞十種本)。
〔註一七〕「新編相模風土記稿」巻二十七。
〔註一八〕「参宮図絵」巻上。
〔註一九〕「南方来書」巻十(明治四十五年四月十二日附)。
〔註二〇〕「笈埃随筆」巻八(日本随筆大成本)。
〔註二一〕「提醒紀談」巻四(同上)。
〔註二二〕「十方庵遊歴雑記」四編下(江戸叢書本)。
〔註二三〕「新編武蔵風土記稿」巻一三八。
〔註二四〕「千葉県海上郡誌」。
〔註二五〕「駿河志料」巻六十二。
〔註二六〕「西遊記続篇」巻一(帝国文庫本)。
〔註二七〕「雪国の春」の附録「東北文学の研究」に見えている。
〔註二八〕九穴貝の俗信も古くからあった。「雲陽秘事記」によると、出雲大社の御神体もこれだとある。元より信用すべき限りでないが、こうした俗信のあったという証拠だけにはなる。
〔註二九〕「臥雲日件録」の分は、カードを蔵いなくしたので、前載の「提醒紀談」巻八から転載した。
 
第五章 呪術方面に現われた巫道の新義

 

第一節 巫蠱から学んだ憑き物の考察
我国における蠱術は、巫女よりは修験道の山伏が、深い関係を有していた。巫女がこれに交渉を持つようになったのは、恐らく山伏と性的共同生活を送るようになってから、これに教えられたものと思われる。此の見地に立てば、憑き物の考察は、巫女よりも山伏が対象となるのであるが、教えられたにせよ、巫女が此の事に多少とも関係を有していたことも事実であるから、今は巫女を中心として、簡単に記述することとした。既に憑き物に就いては、諸先輩の研究が発表されているので〔一〕、詳細はそれに就いて知る便宜があるからである。
而して茲に、憑き物とは、上下両野のオサキ狐、信濃のクダ狐、三河のオトラ狐、飛騨のゴホウ種、近畿のスイカズラ、四国の犬神、出雲のジン狐(コ)、中国のトウビョウ等を重なるものとして、此外に、猫神、猿神、飯綱、蟇つき、狸つきなどの名で呼ばれ、更に白神筋(シラカミスジ)、ナマダコ、ゲトウ、院内等の「物持筋」となり、一般に社会から嫌厭される家筋まで含めての意である。従ってここに言う憑き物とは、悪霊、死霊、生霊等の人間の霊魂が、人間に憑くという意味よりは、動物の霊が人間に憑くという方に重きを置くことになっているのである。而して是等の憑き物に共通している大体の俗信は、
一、是等の憑き物は、年々のように繁殖して、常に飼っている家でも困却しているということ。
二、その家の子女が、他家へ聟または嫁に往くとき、憑き物がついてその家に入るということ。
三、憑き物筋の者は、他人の健康や作物を害さんと思うと、その憑き物が活いて、健康を害し、作物を損じ、更に現金まで持って来るということ。
四、この憑き物を持っていると勝負運が強いということ。
五、物持筋が憑き物を放そうと思うても、どうしても放れぬということ。
この五点である。而して巫女は、随意に此の憑き物を使役する者として恐れられた。それでは是等の憑き物という俗信は、何によって発生したか、先ずそれから考えて見るとする。猶お此の問題は、第三篇においても記述すべきであるが、多少の変遷ありとするも、同じ問題を二度書くことは気がさすので、茲には明治期まで押しくるめて記すとした。敢て賢諒を乞う。 
一 オサキ狐クダ狐など
狐や蛇がヴントの所謂霊的動物として崇拝されたことは既述した。それと同時に、我国の神の使令(ツカワシメ)(又は眷属ともいう)と称する幾多の動物——例えば、稲荷神の狐、熊野神の鳥、日吉神の猿、春日神の鹿、貴船神の百足、三峯神の狼と云うが如きものは、古くはそれが原祀神ではなかったかと云うことも、併せて既記を経た。それ故に是等の動物が、恰もアイヌ民族に見る如く、憑き神(トレンカムイ)から守り神(シラツキカムイ)にすすんで往く過程も考えられるし、更に是等の動物の霊が人間に憑くという、俗信の発生も考えられぬでもないが、此の俗信を強く、然も深く、我国に植え込んだのは、前にあっては、支那の巫蠱の呪術で、後にあっては、仏法の吒吉尼の邪法だと信じている。
而して蠱術に就いては略記したので、今は吒吉尼に関して云うが、此の邪法も古くから行われていたのである。伴信友翁の「験の杉」に引用された「拾葉抄」に、
東寺ノ夜刄神ノ事云々。中聖天、左吒吉尼、右弁財天也、天長御記云、東寺有守護天、稲荷明神使者也、名大菩提心使者神也。
とある天長御記は、淳和帝の御記と思われるので、僧空海の在世中に、早くも吒吉尼信仰の行われた事が知れる。勿論、稲荷信仰に伴う狐の崇拝は、吒吉尼の乗っている動物と類似している所から、両者の関係を密接ならしめ、その結果として、僧空海と稲荷神と面談したなどと云う俗説まで生れたが、兎に角、両者の歩み寄りが、狐を一段の霊物とし、稲荷神を吒吉尼化したことは、やや明白に看取されるのである〔二〕。「文徳実録」仁寿二年二月の条なる藤原高房の伝に、
天長四年春拝美濃介(中略)。席田郡有妖婦、其霊転行暗噉心、一種滋蔓民被毒害、古来長吏皆懐恐怖、不敢入其部、高房単騎入部、追捕其類、一時酷罰、由是無復噉心之害云々。
とあるのは、「谷響集」に「真言演密抄」を引いて「荼吉尼是夜叉趣摂云々。盗取人心食之」とあるより推して、此の妖巫が吒吉尼の邪法を行うたことは、疑うべからざる事実である。而して此の信仰から導かれて、狐の神格的地位は段々と向上し、一方においては専(トウノ)女御前となり、三狐(ミケツ)神となり、遂には倉稲魂神と誤解されるまでになり、更に一方においては、神狐とか、霊狐とか云われて、俗信を集めるようになったのである。狐を殺した為に、配流された例は多いが〔三〕、「中右記」長元四年八月四日の条に「京洛之中、巫覡祭狐枉定大神宮、如此事、不然之事也」とあるような事態を見るに至ったのである。民間の惑溺また思うべしである。大江匡房の「狐媚記」の如きは此の産物である。
私の郷里である下野国足利郡地方の村々では、私の少年の頃までは、オサキ狐の話をよく耳にしたものである。大昔に、九尾ノ狐が帝都を追われて、那須野に隠れたのを、坂東武士のために狩り出されて、殺生石となったが、その折に尾が方々へ散って狐となり、これを尾先狐と云うのだと故老から聴かされ、又た誰々の家には、その狐が七十五匹戸棚の隅に飼ってある。毎朝、飯匙(シャモジ)で釜の端を叩くのは、狐に餌を遣る合図だというて、私などが過って此の所作をすると、父母から厳しく叱かられたことを覚えている。かかることで、オサキ狐に憑かれた家の人ほど気の毒なものはないが、それでも私の地方などは、他国に比較すると、まだ気の毒の程度が軽いようである。通婚にも、交際にも、余り忌み嫌われていぬからである。
これに反して、信州松本平の中央山脈の麓寄りの方から、木曾の谷へかけて、薮原、宮ノ越、福島などの各駅から美濃堺まで、クダ狐の憑いている家が多い。殊に福島駅に近い新開村字大原は、四十戸ばかりの部落であるが、その中に五六戸は「あすこはクダを飼ってる」と昔から言われている家がある。此の評判が立つと、部落からは元より、やや遠い所の者からまでも特別の扱いを受け、「おれの家は腐る方だが、あすこは是れだからな」と、物を掻く手真似をして見せる。腐るとは癩病の血統で、掻くのは狐を意味している。即ち癩病よりもクダ狐を恐れる意味である。従って通婚は此の者同士に限られている。クダ狐持がこうまで嫌われるのは、これに憑かれると、すっかり狐になってしまい「某の死んだのは、おれが締め殺したのだ」或は「某の家の馬の病気は、おれがしたのだ」また「某の家の南瓜はおれが挘ったのだ」というような事を口走る。そしてクダ狐は、元は伏見の稲荷社から受けて来たものだと伝えている〔四〕。
出雲のジン狐に関する気の毒な事実は、夥しき迄に学会へ報告されている〔五〕。それは大正十一年の事であるが、出雲の某村の有力者が、息子に嫁を迎えようとしたが、世話をする者がないので、段々と調べてみると、その家はジン狐持ではないが、主人の妹が嫁した家の遠縁の者に、その疑いのあることが判然し、親族会議の結果は、妹の家と絶交することとなり、それを言い渡すときの光景は、見るも憐れなものであった。老母の顔は涙に曇り、言渡す主人の声もふるえていた。絶交された妹は、世の成行きと、自分の運命で、代々続いて来た綺麗な家の血筋を濁すことには代えられぬと、観念の眼を閉じたということである〔六〕。
而して斯うした社会の圧迫と、家庭の悲劇とは、独り信州や出雲ばかりでなく、狐憑きの俗信の行われているところには、何処にでも存しているのである。元より俗信であり、理由のない事であるから、疾くにも泯びなければならぬのに、今に此の陋習が依然と行われているとは、如何に俗信の力の偉大なるかに驚くのである。
狐持の家筋が、狐に憑かれた事に原因することは言う迄もないが、その狐を憑けたものが、巫覡であることも、勿論である。「栄花物語」巻七鳥辺野長保三年十二月の条に「かかる程に、女院(円融后東三条院詮子)ものせさせ給て、なやましう思しめしたり、との(藤原道長)御心をまどはして、おぼしめしまどはせ給(中略)、御物のけを四五人かりうつしつつ、おのおの僧どもののしりあへるに、此三条院のすみの神のたたりと云う事さへいできて、そのけしきいみじうあやにくげなり」とある如く、物の怪を四五人にかりうつすとは、即ち憑(ヨ)り祈祷であって、此の憑座(ヨリマシ)の口から、種々なる御託が発せられ、三条院の場合は、すみの神の祟りという事であったが、これが狐が憑(つ)いているとか、蛇が憑(つ)いているとか云えば、それでその人は、狐つき、蛇つきとなってしまい、心理学上の暗示に支配されて、狐の真似したり、蛇の様子して座敷を這い廻ると云うことになれば、その家は忽ち「持物筋」となり、それが子孫へまで遺伝することになるのであるから、是等の持物筋の発生が、巫覡の憑り祈祷にあることは明白である。これに就いて、本居内遠翁は「賤者考」において、左の如く述べている。
犬神狐役(ツカヒ)などいふは、唐土(モロコシ)の蠱毒の類にて、かの土には金蚕蝦蟇蜈蚣などの毒種と見ゆれど皇国にはきかず、犬神といふ術四国にありときけど(中略)、出雲の狐持といふ家も是と等し、先年領主より命ありて、此種を絶んとて多く刑にも行ひ、追放もせられしかど、猶その余残あるうへに(中略)。又そのさま怪しげに偶々聞ゆる事などあれば、狐つかひならむと云ひはすめれど、それも又別術なるか、事発覚に及ばざれば又弁知しがたき物なり。おのが是まで聞及べるは、神仏に託して奇に人の上を言ひあてて祈などに金銭を貪り(中略)。昔名高かりし真言僧などの行法に奇特とてありし事、又修験加持などして、よりましとて生霊死霊を人にうつして憤恨を云はせたり。しりゃうの事、前に云ふ打臥しの巫(中山曰。此の巫女の事は既述した)の類、皆此狐役の術なるべし。今も日蓮宗の僧徒の中に、疾病の祈をなし、よりましを立てて言はする類まま聞ゆ。仏法の行力なくば、その宗の徒はすべてなすべきを、たまさかなるは狐使の別術なる故なり云々(本居全集本)。
狐憑きの発生が、憑り祈祷にある事は、これから見るも明かであって、憑座に対して問(ト)い口(クチ)(大昔の審神(サニワ)の役)をする者が、仕向けるままに放言する与多(ヨタ)が〔七〕、遂に厭うべく悲しむべき結果を生むようになったのである。
飯綱信仰は、信州の飯綱山に起り〔八〕、室町期に猖んに行われたものであって、殊に武田信玄と上杉謙信は、これが篤信者であったと伝えられている。併しながら、その行法は吒吉尼を学んだもので、他の巫覡と同じように狐を遣い、飯綱遣いとは狐遣いの別名の如く民間からは考えられていた。飯綱に関する資料も相当に存しているが、今は深く言うことを避けるとする。 
二 蛇神託とトウビョウ
蛇が狐にも増して人に憑くものと考えられるのは、あの醜悪なる形態と、これに伴う幾多の説話からも知ることが出来る。今に全国的に行われているものに、蛇は執念深いものゆえ、半殺しにしておくと、人に祟るということである。而して此の蛇が、人に祟りをしたという伝説は、狐に比して更に多くのものが存しているが、これは直接ここに関係がないので省略する。古く蛇が託宣したことが見えている。「明月記」建久七年四月一七日の条に、
刑部卿参入、中世間雑談等、新日吉近日有蛇、男一人随其蛇、吐種々狂言、称蛇託宣、又云後白河院後身也云々、此事不便、書奏状進之云々。
とあるのが、それである。然るに、私の寡聞なる、此の種の類例を他に全く知らぬので、比較して考察を試みる事もならず、それに此の記事だけでは、蛇が如何なる方法を以て託宣したのか、解釈に苦しむほどゆえ、ただ鎌倉期の初葉には斯うした俗信もあったと紹介して置くにとどめる。而して此の蛇が民間の憑き物となったトウビョウなるものにあっては、中国を中心として各地方に存していた。柳田国男先生は、これに就いて、左の如き有益なる研究を発表されている。
蛇の神はトウビョウと云うのが、元の名であるらしい。「大和本草」に、中国の小くちなはとて安芸に蛇神あり、又タウベウと云ふ。人家によりて蛇神を使ふ者あり。其家に小蛇多く集りゐて、他人に憑きて災をなすこと四国の犬神、備前児島の狐の如し云々とある(中略)。石見などでもトウビョウと云うのは蛇持又は蛇附きのことで、此を芸州から入って来たと云っている(日本周遊奇談)。安芸の豊田郡宮原村の海上に当廟島という小さな島があるのは、恐らく此神がまだ公に祀られていた時の由緒地であろう。備中にも川上郡手ノ荘村大字臘数(シワス)に小字トウ病神がある。今日の如く此神に仕えることを恥辱と考えて隠す世の中なら、到底こんな地名は出来ぬ筈である。備中には海岸部落は犬神の勢力範囲であるが、山奥の田舎から出雲へかけてトウビョウ持と云われる家筋が多い。此辺でもトウビョウは蛇だと云うが、その形状及び生活状態というものが余り蛇らしくない。先ず其形は鰹魚節と同じく、長(タケ)短くして中程が甚だ太い。それを小さな瓶の類に入れ、土中に埋め其上に禿倉(ホクラ)を立て、内々これを祭っている。此神を祈れば金持になるとのことで、其家筋の者は皆富んでいる(中略)。此神の甚だ好む物は酒であるから、折々瓶の蓋を開いて酒を澆いでやらねばならぬ。祟りの烈しい神である(藤田知治氏談)。
密閉した酒瓶の中に生息する蛇というものが、動物学上果して存し得るものか、大なる疑問である。四国は昔から犬神の本場であるが、讃岐の西部には之とよく似たトンボ神の俗信があることを、近頃荻田元広氏の親切に由って知ることが出来た。かの地方ではトンボ神と口で言って文字は土瓶神(ドヘイジン)と書くそうである。之を思い合す時はトウビョウも亦土瓶の音で、即ち蠱という漢字の会意と同じく、本来虫を盛る器物から出た名目であった。讃岐のトンボ神は、往々にして蠱家の屋敷内に放牧してある事もあるが、又土甕の中に入れ台所の近く、人目に掛らぬ床下などに置き、或は人間と同じ食物を遣るとも、又酒を澆いでやるとも伝えられている(荻田氏報告以下同)。唯虫の形状に於ては頗る備中のものと異り、小は竹楊枝位から大は杉箸迄で、身の内は淡黒色、腹部ばかりは薄黄色、頸部に黄色の輪があって、之を金の輪と云う。身を隠すことも敏捷だとある。土瓶神持は縁組に由って新に出来る。相手の知る知らぬを問わず、娵又は聟(?)が来るときには、神も亦分封して附いて来る。連れて来るのか独りで附いて来るのかは未だ詳ならず。トンボ神持は如何なる場合にも、世評を否認するにも拘らず、金談其他で人と争でもすれば、兎角その威力を利用したがる風がある。世間の噂では、或者に怨みを抱くとなれば、土瓶神(トンボガミ)に向って斯う言う。お前を年頃養ったのは、こんな時の為めである。何の某に我恨みを報い玉わずば、今後は養い申すまじ云々(中略)。気の利いたトンボ神は此相談を聞く迄もなく、家主の心の動くままに、直に往って其希望を遂げさせるとのことである。此の蟲が来て憑くと身内の節々が段々に烈しく痛む、医者に言わせると急性神経痛とでも言いそうな病状である。之を防ぎ又は退ける方法は、一つには祈祷で、之を役とするヲガムシと云う巫女を依頼する。第二の方法は、至って穢い物を家の周囲などに澆き散らす(中略)。
一旦土瓶神持となれば、永劫其約束を絶つことがならぬ。唯偶然に知らぬ人の手によって、根を絶(たや)すことが出来れば、家にも其人にも、何等の祟りが無いと云うことで、窃にそんな折を待っている云々(以上「郷土研究」第一巻第七号)。
瀬戸内海に面した備前、備中、安芸、及び讃岐のトウビョウは、以上の記事によって詳細を知ることが出来たが、それでは日本海に面したものは如何に伝えられているかと云うに、これに就いては、「雪窓夜話抄」巻七に「伯州のタウベウ狐の事」と題して、下の如き記事が載せてある。
或人曰く、伯州には村々にタウベウを持たる者あり。殊に倉吉あたりに多くありと云へり。国の御法度強く其所の人もタウベウを持つといへば嫌ふ故に、他人に深く隠して云ざるなり。是はタウベウキツネと云て、常のキツネとは変りて、別に一種のキツネなり。形はキツネにて常の者よりも、甚だ小さく大さ鼬鼠程あり。是を見たる者は多くあり。其狐に主有て先祖より子孫に伝はりて其家を離れず(中略)。犬神に少も違はず、他の家に往て心の中にほしきと思ふ時には、本人の知らざるに向の人に附て、其物ほしきと口走りて、本人は口外に出さぬ事を他人に披露して却て其人を恥かしむ。或は瞋恨ある人には、本人は心中にて思ふ計りなるに、其人に付って讐をなす事あり(中略)。先年も倉吉に牛疫はやりて多く死せしに、此れを頼みてマジナイせしむれば即座に治す。是に依て大分の米銀をもうけたり。タウベウ持の方より附たる疫病なること、忽ち露顕して追放せられたり。少も犬神と変る事なし。狐の一名を専女(タウメ)と云と古き書にも記せり、専女と云べきを誤てタウベウと云へるにやと云たる人もあり、さもありぬべき事ならんか。是も犬神と同じく、其人に飼れては末代まで家を離るる事なし云々(以上「因伯叢書」本)。
此の記事は、恐らく享保前後に書かれたものと思うが〔九〕、伯耆にあっては、トウビョウは狐であって、然も此の名称は、狐を専女(トウメ)と云える訛語であろうと説いている。そして伯耆は言うまでもなく、因幡、美作、石見等のトウビョウは、今でも概して狐だと云われているが、事に東伯地方では、七十五匹が一群団であって、世間の噂にトウビョウ持の家に往くと、縁側とか板ノ間とかなどで、間々これの足跡を見受けることがあるそうで、こうした家で拭き掃除を怠らぬのは、即ちその足跡を人目に触れさせぬ用心だと言われている〔一〇〕。トウビョウが、蛇であろうが、狐であろうが、所詮は巫覡が糊口の為めに言い出した俗信上の動物であって、大昔から誰あって定かに見極めたという者がないのであるから、私は此の詮索には余り深入りせぬ考えである。 
三 犬神と猫神と狸神
四国は昔から狐が居らぬと言われているだけに、狐憑きは無いが、その代りに、犬神と称する憑き物が跋扈している。犬神の起源に就いては、「土州淵岳志」巻六に、
讃州東ムギといふ所に何某あり、讐を報ずべき仔細あれども時至らず、日夜これを嘆く。或時、手飼の犬を生ながら地に掘埋め首許り出し、平生好む所の肉食を調へて、犬に言って曰く、やよ汝が魂を吾に与へよ、今この肉を食はすべしとて、件の肉を喰はせ刀を抜いて犬の首を討落し、それより犬の魂を彼が胸中に入れ、彼れ仇を為したる人を咬み殺し、年来の素懐を遂げぬ。それより彼が家に伝りて犬神と云ふものになり、婚を為せば其家に伝り、さて土佐国へは境目の者、かの国より婚姻しけるにより、入り来たると云ふ。
と載せてある。これに由れば、犬神の本家は讃岐という事になるが、讃州にとっては、此の上もない迷惑千万のことと言わなければならぬ。全体、こうした憑き物などは、どこが本家で、どこが分家だなどと云われべきものではなく、土地によって、多少の前後と、粗密こそあれ、そう明確に知れる筈がないのである。併しながら、同じ四国でも此の犬神なるものが、阿波国が殊に猖獗を極めていただけは、事実のようである。「阿波志料飯尾氏考」に収めてある緒方氏所蔵文書に左の如きものがある。
犬神下知状
阿波国中使犬神輩在之云々。早尋捜之可致罪科之旨。相触三郡(中山曰。麻殖、美馬、三好の三郡)諸領主堅可被加下知候由也。仍執達如件。
文明四(年)八月十三日  常連(花押)
三好式部少輔殿
こうして領主が公文書まで発して、犬神の剿絶に配慮しているところから推すと、阿波の国民は、相当に此の問題で苦しめられて居たことが知れる。勿論、領主が斯かる手段を採ったことは、独り阿波だけではなく、柳田国男先生によれば、
土佐の犬神は「土佐海続編」に最も詳しく、其形は山中に栖むクシヒキネズミに似て尾に節あり、毛は鼠に似たり、乾して持つ者往々にしてありとある。長宗我部氏の治世に犬神を吟味して、死刑に行い家を絶(たや)したが、其子孫稀に存し、昔は之を賤んで参会言語する者が無かった。其家では口寄などと同じく、狗の首を神に祀っているともあれば、犬神の名称は使う神の形からでは無いのかも知れぬ。又こんな事も書いてある。犬神は伝教大師に伴い帰り、弦売僧(ツルメソ)に附属する神なり、サイトウ、オオサキ、クダとも謂う。土州にて捕えたるはサイトウと云う者なり云々。
とあるのを見ると〔一一〕、土佐の犬神の跳梁も、又頗る猛烈であったようである。更に前掲の「土州淵岳志」の続きの記事に、
土州の地に蠱を畜うる者多し、別て幡多郡に多し。「御伽奉公」という草子に土佐幡多郡狗神の事とある之也。能く人を魅す、然も大人正明の人に入ること無し。一度此蠱に逢えば、病形痛風にて骨節犬の咬むが如く、熱盛んにして譫言妄語す。蠱を畜うる家其祖先に、此鬼を祭りて財を利し富を致す者あり、遂に其家に托りて去らざるなり。民間義を知る人は、蠱を悪む事癩脈の如く婚嫁をなさず、婢僕を召抱えるにも之を詮議する事也。蠱家は之を包み隠せども、其鬼を避くるの術無し。愚婦庸夫に付くに針灸祈祷するに、偶々去る事あり。或は筋骨を咬みて遂に殺すことあり(中山曰。茲に其一例を挙げてあるが省略す)。按ずるに讃州予州に猫蠱と云うものあり土州に無し。「北山医話」に本邦四国之地、不知蠱狐、其気何自相反也、俗に言う狐魅の人四国に来れば、其魅自ら去ると。
猶お此の外に、周防長門両国の犬神、肥後阿蘇谷のインガメ、琉球のインガマなど書くべきことも相当に残っているが、大体を尽すにとどめて、今は省略に従うこととした。
猫神に就いては「伊予国宇摩郡では、猫を殺すと取りつくと称して、決して猫に害を加へぬ。先年、上山の弥八といふ豪農の主人が誤って猫を殺し、遂に発狂して「猫がとりついた」と独言を云ひつつ乞食になった」と伝えられている〔一二〕。併しながら、是れはまだ個人的の問題であって、巫覡を介しての社会的問題にまでは発展していぬが、更に紀州辺の猫神のことを聞くと、ここでは純然たる巫女の憑き神になっている。而して南方熊楠氏の報告を集めた「南方来書」巻十には、左の如く載せてある。
田辺町と山一つ隔てし岡(中山曰。紀伊国西牟婁郡岩田村の大字)という村落の小学校長の談に、此の岡には今も代々の巫子数家あり(中略)。此の者の言うには、蠱神は三毛猫を縛り置きて、鰹魚節を示しながら食わせず、七日経るうちに猫の慾念はその両眼に集る。その時その首を刎ね、其頭を箱に入れて事を問うとの事なり。熊楠思うに、かかる事は毎度聞くところにて、安南にても犬をかくする事あり、吾国の犬神に同じ。又国により人の胎児を用うることあり。「輟耕録」に見えたる小児を生剥して、事を問う術なども大抵似たことなり。此の岡の巫子は隠亡の妻なりと聞く。猿、犬、猫などは仮話にて、実は人間の頭を用うるならずやとも存ず云々(大正元年十二月二十八日附)。
此の猫神の作り方は、誰でも知っている大昔に本願寺の毛坊主が、好んで信徒に与えたと伝えられてる「お白薬(シロクスリ)」なるものと、全く同一の製法であって、ただ原料が猫と犬との相違だけである。少しく蛇足の嫌いはあるが、こうした怪事が行われたという往昔の民間信仰を知る旁証として、要点だけを下に摘録する事とした。「松屋筆記」巻三十九に「抜莠撮要」と題する上州高崎善念寺の僧秀覚筆記の復写本を引用して曰く、
紀州法然寺円成上人ハ、十八歳ニシテ出家ス、則一向宗ノ人也(中略)。其母語云我宗ニ御白ト云事アリ、何ヲ以テ作ル事ヲ知ラズ、或云白犬ヲ養ヒ、其犬ヲ全ク地中ニ埋ミ、首ノミヲ出シテ種々ノ珍味ヲツラネ其首ノ前ニ置ク、白犬此ヲ喰ント食物ヲ念ジテ、気単ニ逼ルニ及ビテ犬ノ首ヲ切テ、是ヲ焼灰トナス、此灰ヲ人ニ与ル時、其人大信ヲ起シテ単ニ身命ヲ顧ズ、財宝ヲナゲウツト云(中略)。両本願寺東都参向ノ時分、道俗均ク御杯頂戴ト云フ有リ、御杯頂戴ノ事ニアラズ御灰頂戴ノヨシ、各土器一枚ヲ得テ歓喜ス、此灰ハ親鸞聖人ノ遺灰ニシテ、此灰ヲ服スル時此身則親鸞聖人ナリト伝授ス、一説ニ此事ヲ御白ト云ト(中略)。御白ノ事西国中国辺ノ人ハ時々云出ス事アレド、関東ニテハアマリ沙汰セヌ事也、秀覚{上野高崎/善念寺僧}知己ニ深川某寺ノ上人モト一向宗也、児ノ時御白ノ事ヲ聞知リ、御白ハ白犬ノ灰也ト云テ、母ニ叱ラレシト語キ、此上人モ中国産也云々(以上「国書刊行会」本)。
かかる事が果して行われたものか否か、今から思うと腑に落ちぬことであるが、それにしても斯うした悪説を宣伝された本願寺にとっては、此の上もない迷惑のことであったに相違ない。併しその詮議は、姑らく措くとするが、兎に角に、大昔にあっては、斯うして、猫なり、犬なりの首を、一種の呪力あるものとして信じていたことだけは事実である。讃岐の犬神の作り方に就いても、これと全く同じ方法が伝えられている所から見ると〔一三〕、古くは蠱術家が一般に遣ったことと思われるのである。
狸神は寡見の及ぶ限りでは、殆んど阿波一国に限られているようである。由来、阿波には動物に関する不思議の伝説が多く、事に首切り馬の如きは、今に正解を見ぬほどの難問題である。而して同国の狸神に就いて、未見の学友後藤捷一氏の記す所によると、狸が人に憑いたり、又は悪戯をするので、これを神に祀った祠は、枚挙に遑なしというほど夥しく存しているが、就中、徳島市寺町妙長寺の「お六さん」というのは、狸合戦(有名な八百八狸の物語である)に関係した女狸で、相場師、漁夫、芸妓などの俗信を集めている。同市佐古町大谷臨江寺の「お松さん」も、同様に、狸合戦に出た女狸であるが、これは縁結びの神として崇拝されている。同市住吉島町に「おふなたさん」と称する神社があるが、此の神体は子供を十二匹連れた狸で、子供の無い人が祈願する。そして何処の家でも、狸が憑くと、先ず陰陽師か修験者を頼んで、祈祷して貰うのが常であるが、これを落すのに、唐辛で燻べ殺したということも耳にしている。併し大抵は、神々の護符を戴かせて、退散させるのである。此の時には必ず、狸が憑いた動機や名前を語り、最後に祠を立てて祀ってくれなどと註文を出すそうである〔一四〕。併しこれに由ると、狸神は、狸その者が無邪気であるだけに、犬神や蛇神などにくらべると、極めて罪が浅いようである。猶此の外に、備後のゲトウ、伊予のジャグマ、陸中のオクナイサマなど記すべきものもあるが、大体において共通したものと信ずるので、一臠を以て全鼎を推すとして省略する。 
四 牛蒡種と吸い葛
「牛蒡種」は、飛騨国の一部に行われている憑き物であるが、これに関しては、曩に私見を発表した事があるので〔一五〕、これを要約して載せるとする。即ち牛蒡種とは、その憑き工合が、恰も牛蒡の種のそれの如く、一度ついたら容易に離れぬと云う意味に解されているが、これは全く護法実(この事は既述した)の転訛にしか過ぎぬのである。而して此の俗信の行われている地域、及びその状態に就いては、「郷土研究」第四巻第八号に左の如く掲げてある。
牛蒡種という家筋は、飛騨の大野、吉城の二郡と、益田郡及び美濃国恵那郡の一部とに散在し、更に信濃の西部にも少しあると云う。此の家筋の男女は、一種不思議の力を有すると云われていて、家筋以外の者に対し、憎いとか嫌だとか思って睨むと、その相手は、立ちどころに発熱し頭痛し、苦悶し悒悩して、精神に異状を来たし、果は一種の瘋癩病者の如くになり、病床に呻吟するに至る。幸に軽い者は数十日で恢復するが、重い者になるとそれが原因で死ぬこともあるという。そして此の力は家筋同士の間には効験がなく、また他の者に対して斯くの如き力を用いつつある間も、自分には何等の異状を起さぬそうである。吉城郡上宝村大字双六という部落などは全戸この家筋から成立ってるように噂されていて、他村の者は甚だしく之を怖れ憚っている。また美濃国恵那郡坂下村大字袖川という所にも、此の家筋の者が居住し、或はその家から女を妻に貰った男などは、妻に対して如何ともする事が出来ず、一朝、妻の怒りに触れると、夫は忽ち病人になるという有様で、此の種の女を妻とした男は、是非なく洗濯もすれば、針仕事もするというような訳で、全く奴隷同様の境遇に落ちるという話である。但し牛蒡種の威力も、いくら部外の人でも、郡長、警察署長、村長とかいう目上の者に対しては、効果を発揮することが出来ぬ云々(中山曰。此の点は土佐の犬神と同じで、これが俗信であることを証明する上に注意すべき点である)。
此の憑き物の正体は極めて簡単であって、既述した護法実(ゴホウダネ)と称する巫覡の徒が、此の地に土着し、それの子孫が一般の民衆から忌み嫌われたために(此の例は殆んど全国に存している)生じたものにしか過ぎぬのである。従ってこれが、下層の民衆の間にのみ行われ、知識階級に対して少しも呪力が無かったというのも、又この結果に外ならぬのである。
吸い葛の行われている範囲に就いては、寡聞のためよく判然せぬが、「雍州府志」巻二によれば、洛北の貴船神社の末社に、吸葛(スイカズラ)社の在ることが見えているので、古く近畿に此の俗信の行われたことが推察される。更に「嬉遊笑覧」巻八に「屠龍工随筆」を引用して、
いづことも限らず、すいかづらといふも有となむ、その祀りやう人の知らざる密なる所に穴を掘て、蛇をあまた入置き神に崇めて遣ふ法、大かた犬神にひとし。すいかづら付られたる人は、熱甚だしく心身悩乱するを、病家それと知りぬれば、宝を送り遣せば病癒ると聞けり。
と載せてある。之に由れば、蛇神の一種で、トウビョウの地方化とも思われる。猶お此の外に、オトラ狐、ナマダコ、白神筋など云う憑き物も存しているが、別に取り立てて言うほどの特種のものではなく、且つナマダコや、白神筋に就いては、後段でこれに触れる機会もあろうと考えるので割愛し、最後に是等に対する結論ともいうべきものを附記して、本節を終るとする。
是等の憑き物が、我国の固有のものでなくして、殆んどその悉くが、支那思想の影響であることは、疑うべからざる事実である。されば、此の事に就いては、古くから識者の間には説があり、「榊巷談苑」の著者の如きは、
四国に犬神といふまじものあり、唐国にては犬蠱と云ふ(中略)。又陶瓶をば蛇蠱と云ふ、共に干宝の捜神記に見えたり。
と言うている。山岡浚明翁も又その著「類聚名物考」において、全くこれと同じ意見を述べ、然も猫鬼の事にまで論及している。
私は彼之の共通——と云うよりは、更に一歩を進めて、我国が支那の巫蠱に学んだことを証示する為に、茲に「捜神記」より、その原拠となっている文献を検出するとするが、犬神に就ては、同書巻十二に、
鄱陽趙寿有犬蠱、時陳岑詣寿、忽有大黄犬六七、群出吠岑、後余相伯婦、与寿婦食、吐血幾死、乃屑桔梗以飲之而愈、蠱有怪物若鬼、其妖形変化雑類殊種、或為狗豕、或為蟲蛇、其人不自知其形状、行之於百姓、所中皆死。
とあるのがそれである。勿論、支那のものがそのまま我国に行われているとは云えぬが、併しその蠱術の根本が、共通したものであることは、肯定されるのである。次にトウビョウと称する蛇神に関しては、同書同巻に、
滎陽県有一家、姓廖、累世為蠱、以此致富、後取新婦、不以此語之、遇家人咸出、唯此婦守舎、忽見屋中有大缸、婦試発之、見有大虵、婦乃作湯灌殺之云々。
とあり、彼之全く一致していることが推知される。殊に柳田国男先生の記された所によると、
旧幕時代に、或人が国普請の夫役に当って、讃岐中部の某村に往き、ある家に宿を借りて日々普請場に通っていた。一日家へ帰って見ると家の者は皆留守で、台所の鑵子に湯がぐらぐら煮えている。一杯飲もうと不斗床の下を見ると蓋をした甕がある。茶甕かと思って開けて見れば、例の神(中山曰。トンボ神)がうようよと丸で泥鰌の籠のようであった。乃ち熱湯を一杯ざっぷと掛けて蓋をして置いた(中略)。其家では大喜びで、普請で知らぬ人を宿したお蔭に、永年の厄介物を片付けることが出来たと云っていた云々(以上「郷土研究」第一巻第七号)。
とあるのは、「捜神記」に、何も知らぬ新婦が、熱湯を以て蛇蠱を灌殺したとあるのと、全く同巧異曲の物語と云えるのである。
更に狐蠱にあっては、一段の類似性を有している事が発見される。例えば寛政頃に奥州の事を書いた「黒甜瑣語」第四編に載せた、羽後の秋田で、梓巫女に宿を貸した男が、巫女に酒を強いて酔潰れて、臥た間に、巫女の用いる髑髏と、墓地で拾って来た只の曝頭と入れ換えて置くと、翌朝一旦帰った巫女、面色土の如くなって戻り来り、悪戯も事にこそよれ、早く本物の髑髏を返せと云うので、その理由を語れと云いしに、この髑髏は、千歳の狐、形を人に変ぜんとする修行に、頭に戴いて北斗を拝するとき用いたもので、稀には野外でこれを見つけることがあるも、その徴には必ず枯木で作って杓子のような物が添えてある、これをボッケイと云うとあるのは、時珍の「本草綱目」に「狐至百歳礼北斗、変為男婦」とあるのから派生したもので、私などが子供の折によく見た大雑書には、狐が髑髏を頭に載せて北斗を拝んでいる挿絵があったものである。猫神も狸神も、その原拠を支那に求めることは決して難事なく、従って是等の蠱術が挙げて支那のを学んだものであることが判然するのである。
由来、我国の巫女の行いし呪術は、その原義においては、北方民族の間に発達したシャマニズムの系統に属しているものであるが、その発生地であるシャーマンに是等の蠱術の存在せず、且つ我国で工夫されたものと、積極的に説明すべき証左の無い点から見るも、これが支那の影響である事は、多言を要する迄もないと信じている。 
〔註一〕我国の憑き物の就いては、前に柳田国男先生が「巫女考」のうちに連載され、後に「民族と歴史」では「憑物研究号」の特別号を出されている。詳細は是等によって知ってもらいたい。
〔註二〕稲荷神と、吒吉尼天との習合に関しては、伴信友翁の「験の杉」に委曲を尽している。三州の豊川稲荷は、その代表的のものであって、古くは稲荷というも、実際は荼吉尼天であったと聞いている。
〔註三〕狐を専女と称し、これを殺したために配流された例は、「古事談」その他に散見しているが、今は煩を避けてわざと載せぬこととした。
〔註四〕「郷土研究」第一巻第七号。
〔註五〕「民族と歴史」の「憑物研究号」参照。
〔註六〕同上。
〔註七〕ヨタと云う言葉は、現時では、出鱈目とか、戯談とかいう意味に用いられているが、その起源は、神託に関係ある言語であるらしい。近江の官幣大社多賀神社を初めて祀った者を与多麿と称し、紀州の官幣大社日前国県神宮に与多と称する神職があり、更に下総の官幣大社香取神宮に近きところを与多浦というなどは、此の考えを裏付けるものと思うている。
〔註八〕飯綱信仰に就いては、記述すべき多くの資料を有しているが、余りに長文になるのを恐れて省略した。そして此の信仰を言い立てた行者は、山伏と殆んど択むなき呪術を行ったもので、信仰の対象にこそ多少の相違はあれ、実質は両者ともに同じようなものである。
〔註九〕「雪窓夜話」の筆者である上野忠親は、宝暦七年に七十二歳で死んでいる。更に同書巻七に「備前のたふべうの事」と題せる記事が載せてあるが、此の方のトウビョウは蛇だとあるから、古くから此の物の正体が不明であったことが知られる。私は是等の動物(オサキ狐、クダ狐、ジン狐、トウビョウなど)は、所謂、妄想上の動物であると信じているから、正体を見た者がなく、従って正体不明が却って正当だと考えている。
〔註一〇〕前掲の「憑物研究号」。
〔註一一〕「郷土研究」第一巻第七号「犬神蛇神の類」参照。
〔註一二〕同じく「憑物研究号」。
〔註一三〕「憑物研究号」に讃岐の犬神の話とて、白犬を首だけ出して地中に埋め、飯を見せびらかした後に首を切ると云うのが載せてある。
〔註一四〕これも「憑物研究号」に拠った。
〔註一五〕私が、牛蒡種は護法実なりとの考証を「医学及び医政」の誌上へ発表連載したのは、大正九年頃と記憶している。其の折に喜田貞吉氏から、拙稿を見て自分もそう考えていたとの書信に接した。そして喜田氏が「憑物研究号」に牛蒡は護法実なりともいうべき論説を掲載されたのは、大正十一年のことである。喜田氏は有名のお方であるのに反して私は無名の者、学説を剽窃したなどと思われるも折角だから、誤解を避くるため敢て附記する。 
第二節 奥州に残存せるオシラ神の考察

 

陸中国を中心として、陸前と陸奥と羽後の各一部にかけ、イタコと称する巫女の持っているオシラ神なるものは、我が民俗学会における久しい宿題であって、今に定説を見るに至らぬほどの難問なのである。私の菲才にして寡聞なる、到底この難問を解決することは不可能であるが、ここに所信を記述して、江湖の叱正を仰ぐとする。 
一 オシラ神に関する伝説
オシラ神を学会に提出したのは「遠野物語」であると信ずるが、その由来に就いては、概略左の如く記してある。
昔ある処に貧しき百姓あり、妻はなくして美しき娘あり、又一匹の馬を養う。娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、遂に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘に知らせず、馬を桑の木に吊下げて殺したり。其夜娘は馬の居らぬより、父に尋ねて此事を知り、驚き悲て桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父は之を悪みて斧を以て、後より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき、本にて作りしは山口の大同にあり、之を姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎という人の家にあり(中略)。末にて作りし妹神の像は、今付馬牛(ツクモウシ)村にありと云えり云々〔一〕。
此のオシラ神由来記とも云うべきものが、支那の「捜神記」の蚕神の伝説の影響を、多分に受け容れていることは言うまでもない〔二〕。而して此の記事に就いては、更に注意すべき三つの点がある。
第一は、此の神を、民家で祭っていたということである。併し、これは初めからの習慣では無くして、巫女の家の後か、又は巫女の手を離れた神を、篤志の者が祭ったと見るべきであろう。現に磐城国石城郡上遠野村附近では、オシラ神のことをシンメイ(神明)様と称え、在家では之を祭らず、修験行者(ワカと称する巫女)の徒が祈祷の折に持参し来って拝ませるとあるのでも〔三〕、その古い時代のことが想われるのである。
第二は、神体を桑の木で作るということであるが、これも古い時代にあっては、必ずしも此の木に限られたものではなくして、多くは竹で作っていたようである。菅江真澄翁の「月の出羽路」巻廿一に、羽後国仙北郡地方の事として、次の如く出してある。
谷を隔てて生立る桑ノ樹の枝を採り、東の朶(エダ)を雄神、西方を雌神とし、八寸余りの束(ツカ)の末に人の頭を作り、陰陽二柱の御神に準う。絹綿を以て包み秘め隠し、巫女それを左右の手に取りて、祭文祝詞を唱え祈り加持して祭る。
此の記事から推すと〔四〕、桑で作ることも、決して新しいものでは無いが、更に遠き昔においては、竹で間に合せたよううである。恐らく、オシラ神が「捜神記」などの影響で、蚕の神となってから、桑で作るようになったものと考えて差支ないようである。
第三は、馬の首を斬ったという事であるが、これは阿波国に残っている首斬り馬の伝説と同じもので、何か両者の間に共通したものがあるのではないかと思われるのである。而して姉崎正治氏は、曾て「中奥の民間信仰」と題せる記事中にて、オシラ神に関し下の如く述べたことがある。
盛岡付近にては、不動の変形を「オシラサン」と称して崇拝し、其神体は桑樹の四枝を出だせる枝四体にして、常に此四体を離せば罰を受くと信ぜり。此神は婦女小児の心願を成就せしむとて、彼等は布を以て之が頭を蔽うを以て、之が崇拝の方法となし、多くは小児の守護神として、時には小児等之を街上に引廻す事あり。此神霊は又時に桑梢の四岐せる所に宿れるを以て、此の如き桑樹は霊樹として切るべからず、之を切る者は明を失し、其他重病に罹ると。此神に附属せる古き神札を見れば、明かに阿遮羅尊の名を記し、其二童子の名を附記せり。故に「オシラサン」とは阿遮羅尊(Acala)即不動なるも、「オシラサン」として祀れる者は不動と同一なるを知らざるなり。何れにしても之を威力の神として、特に疾病に関係ある神として祭れるに至りては一なり云々〔五〕。
姉崎氏の記事は、明治三十年頃の古いもので、且つ盛岡地方に限られた採訪であるから、これに対して批評がましい事を言うのは差控えねばならぬのであるが、其中の一つだけを云えば、オシラ神と不動尊とが一体であるといわれたのは如何かと考えられるのである。前にも記した如く、東北の巫女は神と結婚する古俗を忠実に守っていて、愈々一人前の巫女となるとき、神附(カミツ)けと称して十三仏中の一仏と結婚し、これを一代の呪神——即ち守り本尊として(是等に就いては第三篇に詳述する)崇拝するのである。されば姉崎氏が見られた神札に不動及び二童子の名があったというのは、偶々不動尊を守護仏とした巫女の出したものではないかと思われるのである。 
二 オシラ神の神体と装束
此神に関する諸種の報告を参酌すると、オシラ神の神体は陰陽二体を原則とし、古いものほど竹で作り、長(たけ)は八九寸どまり、頭は鶏頭(トリガシラ)、姫頭、馬頭などあり、これも古いものほど動物で、新しくなると人間になっている。装束(方言でセンタクと云う)としては、方一尺ほどの布の中央に穴を開け、それへ頭を通して被せるもので、俗に貫頭衣という形式そのままである。そして此の装束は、年に一度正月十六日に新調して被せるのであるが、その折にも古いものをそのままとして、上へ上へと幾重にも被せるので、古い神体になると、十枚も二十枚も重ねているのがある。而してこれを祭るときには、顔面へ白粉を塗り、巫女が神体を左右の手に持ち、祭文を唱えながら、踊らせるように動かすのである。此の装束の被せ方は、他地方における雛人形のそれと全く同じもので、オシラ神が人形であったことを自ら証拠立てる一つである。更に祭りの日に、顔へ白粉を塗ることも、我国には種々形式で残っている民俗であって〔六〕、これも別段にオシラ神に限ったものでは無いのである。 
三 オシラの語原と其の分布
此の神を何故にオシラと言うかに就いては、相当学界に異説もあるが、ここにその大略を摘記すれば、第一説は、前掲の折口信夫氏の云われたように、元はオヒラと称して、ヒナ(雛)を意味していたのが、斯く転訛したのであると云うのである。第二説は、加賀の白山神社(シラヤマジンジャ)に仕えた巫女が、古く此の神体を呪術に用いたのが、東北の巫女に伝り、その名を負うてオシラ神となったのであろうと云うのである。第三説は、此の神は元々アイヌ民族の持っていたもので、同民族では守り本尊とも云うべき神のことを、シラツキカムイと称しているので、その転訛であろうというのである。第四説は、此の神は蚕の神であって、蚕のオシラ(白彊蚕)を舎利と称して尊敬した俗信があったので、それに由来するのだろうというのである。第五説は、オシラ神はお知らせ神の転訛であるというのである。第六説は、ネフスキー氏の主張するシベリヤからの輸入説(この事は後段に述べる)などが存している。
私はオシラ神の語原に対する態度を明かにする以前に、更に此の神が我国の如何なる地方に分布しているかに就いて述べるとする。此の神が、東北一帯——殊に陸前、陸中、陸奥、羽後にかけて分布していることは、既に述べた如くであるが、此の反対に、他地方には、全く見ることの出来ぬ神のように解されていた。換言すれば、オシラ神は、東北地方の特殊神であって、此の以外には、存在せぬものである如く見られていたのである。
併し、私の寡聞を以てするも、此の解釈は全く誤りであって、かなり広く分布していたことが知られるのである。最近の報告によると、武蔵国西多摩郡の各村落にては、此の神(但し神体は異っていて、此の地方のは仏像である)を祭り、今にオシラ講というのが各村に在ることが証明された〔七〕。柳田国男先生の記事によって知った、越後長岡辺では昔は蚕の事を四郎神と云い、正月、二月、六月の午の日に、小豆飯を以てこれを祭ったのや〔八〕、上野国勢多郡宮田村などでも、正月十四日の夜をオシラマチと呼び、神酒と麺類とで蚕影山の神を祭ったとあるのも〔九〕、共にオシラ神の分布されたものと見ることが出来るようである。
更に「延喜式」の神名帳に載っている武蔵国播野郡の白髪(シラカミ)神社も、後には祭神清寧天皇と伝えられたが〔一〇〕、これなども清寧帝が偶々白髪であったという故事から、白髪に附会したさかしらで、古くはシラカミと訓んだものと解する方が穏当であって、然もオシラカミに関係があったのかも知れぬ。美作国苫田郡高野村大字押入に白神神社というがあり、社記を刻した長文の石碑が建ててあるが、それに由ると、即ちシラカミと訓むことが明白である〔一一〕。出雲国大原郡佐世村大字下佐世に白神明神があり、俚俗に祭神は素尊と稲田姫との二柱で、素尊の髪が白いので、斯く称すのだというている〔一二〕。猶お同村には白神八幡という神社もある。此の俚伝も、前の清寧帝のそれの如く、シラカミに後世から附会したものであることは言うまでもない。紀伊国有田郡田栖川村に白神磯という地名がある。これは「万葉集」に「由良の崎汐干にけらし白神の、礒の浦みを敢て漕ぎなむ」とあるのがそれである〔一三〕。安芸の広島市の国泰寺の附近にも白神神社というがある。以前は竹竿に白紙を挟んで、海中瀬のある所に立てたものを神に祭った〔一四〕。此の二つは共にオシラ神であることは言うまでもないが、海辺に祭られた理由に就いては、私には判然せぬ。而して是に関して、想い起されることは、下総銚子町の歯櫛神社の由来である。「利根川図誌」などによると、歯櫛の二字から構想して、長者の娘が失恋して入水し、歯と櫛が漂着したので、神と祀ったのであるなどと、とんでもない怪談を伝えているが、これは古くシラカミに白紙の文字を当てたのを、更にハクシと訓み過って、歯櫛の伝説となったことが知られるのであって、何か海辺に此の神が由縁を有していたこと、前記の紀州や安芸のそれや、及び渡島の白神岬などと共に考うべき点である。阿波国美馬郡口山村宮内の白人神社や〔一五〕、「筑後国神名帳」に載せた上妻郡の白神神社も、これまたシラ神であって、阿波のは白神を白人と訓み習わしたのを、後にかかる文字を当てたものと見るべきである。
以上は手許にあるカードから抽出したのに過ぎぬのであるが、克明に全国に渉って詮索したら、まだ幾つかのシラ神を発見することが出来ようと思う。而して此の貧弱なる類例から推すも、古く此の神が殆んど全国的に分布されていて、決して東北地方に限られた特殊神で無いことが釈然したと信ずるのである。従って此の立場から言えば、オシラ神の語源に、第一説のヒナ(雛)の転訛と見るのが、尤も妥当であると考えるのである。そして此の神を東北に持ち運んだのは、熊野比丘尼の徒であると思うのである。 
四 オシラ神のアイヌ説
此の神はアイヌ民族の持っていたものであるという説も、かなり古くから伝えられている。例えば「蝦夷風俗彙纂」に引用した「松前記」の一節に「蝦夷にはオホシラ神といふ物あり、何の神という其由来を知る者なし、桑の木の尺余なるに、おぼろげに全体を彫る、男女の二神なり(中略)。其神、巫女に懸りて吉凶をいふ(中略)。中国にある所の犬神といふものにひとしきか」と載せ、更に明治になってから出版された「あいぬ風俗略志」にも、これと同じような記事が見えている。併しながら、是れは柳田国男先生が言われたように「信仰は普通に単なる二種族の接触のみに由って、一が他を感化し得るものとは想像し難く、殊に敗退者たる本土アイヌとして、其神を故地に留めて今日の盛況の原因をなしたということは、決して推断し易い事柄では無いと思う」とある如く〔一六〕、此の神をアイヌの遺物とすることは無理だと考える。殊にアイヌ民族の研究者として当代の権威である金田一京助氏にお尋ねしても、オシラ神を持っていた伝説も聴かず、又これを崇拝している痕跡も見えず、殊に「松前記」にかかる記事は載っていぬとて、近刊の「民俗学」第一号で発表されているから、これは内地の神と見るのが穏当である。 
五 オシラ神は呪神で無い
斯う考えて来ると、オシラ神は、その始めは巫女が行う所の呪力を授ける神ではなくして、恰も傀儡女(クグツメ)の持てる木偶、遊女の信仰した百太夫の形代(カタシロ)の如きものであったと見るべきである。殊に現在でも、此の神を持っている巫女(イタコ)が呪術を行う時とは、昔の守袋に似た円筒形の筒と、イラタカの珠数とを大切に取扱い、オシラ神はただ舞わせるだけだと云う事からも、その間の事情を察知し得るのである。折口信夫氏は、既記の如く、オシラ神は熊野明神の使令(ツカワシメ)だと云われているが、私の信ずる所では、我国の用例として、動物以外に使令(ツカワシメ)の意義を有たせたもののある事を発見せぬので、これを直ちに使令と見る説に賛成しかねるのである。折口氏は、抽象的の仮定で推論する天才であるが、動物以外の使令の類例を示してくれぬ以上は、氏の説は困難だと信ずるのである。猶おオシラ神の舞わせ方、その折に唱える祭文の如きは、第三篇に述べる考えであるから、これとそれと参照されん事を希望する。 
〔註一〕「遠野物語」は、柳田国男先生が、遠野町に近き陸中国上閉伊郡土淵村大字山口生れの佐々木吉善(当時は繁と云った)の話を記されたもので、我国の民俗学上には意義の深い著述である。
〔註二〕「捜神記」の記事は余りに有名で、誰でも知っていることゆえ、わざと省略した。
〔註三〕「郷土研究」第三巻第二号。
〔註四〕同上第一巻第五号
〔註五〕姉崎氏の記事は「哲学雑誌」に載ったものだというが、今は八濱督郎氏編纂の「比較宗教迷信の日本」に拠った。
〔註六〕神や仏を祭るときに、その像へ、白粉や、獣魚の鮮血や、更にベニガラ、泥などを塗る民俗は各地にある。殊に、面白いのになると、小豆飯の汁だの、饀などを、塗りつけるものさえある。
〔註七〕八王子市出身の学友村上清文氏の談。因に、同地方のオシラサマの仏像は「民俗芸術」の人形芝居号に、写真版になって挿入してある。
〔註八〕「郷土研究」第一号第五号所引の「北越月令」。
〔註九〕同上所引の「宮田村沿革史」。
〔註一〇〕「神名帳考証」に拠る。
〔註一一〕「東作誌」。
〔註一二〕「雲陽誌」巻下。
〔註一三〕「有田郡誌」。
〔註一四〕「芸備国郡志」。
〔註一五〕「美馬郡郷土誌」。
〔註一六〕「民俗芸術」第二巻第四号。 
第三節 性器利用の呪術と巫女の異相

 

男女の性器に呪力ありとした民間信仰は、古代から存したことは既記の如くであるが、更に巫女が娼婦化し、巫道が堕落するようになってから、此の信仰が、一段と助長したことは、明白に看取される。ここには、その代表的事実として、毛髪信仰に由来する巫女の七難の揃毛に就いて記述を試みんとする。 
一 原始的な毛髪信仰
毛髪を生命の指標(ライフ・インデックス)とした信仰は、古くから我国にも存していた。「神代紀」に、素尊が種々の罪を犯して、高天ヶ原を逐われるときに、八束の鬚を断られたとあるのは、即ち此の信仰の在ったことを裏付けるものと見て差支ないようである。降って「孝徳紀」に「或為亡人断髪刺股而誅」を制禁したのも、又た髪に生命の宿ることを意識していた民俗に出発しているのである。現にアイヌ民族では、巫女(ツス)の呪力は鬢髪の間に深く蔵されていて、髪を剃れば巫術は行われぬものと信じている〔一〕。こうした信仰から導かれて、毛髪には或る種の呪力の存するものとして、崇拝された民俗は、今に様々なる形式で残っている。
例えば、田畑に立てる案山子(カカシ)の語源には異説もあるが、これは毛髪を焼いた匂いを鳥獣が嫌う為に、これを木に吊し、竹に挟んで立てた即ちかがせ(嗅せ)の転訛と見るのが穏当である〔二〕。節分の夜に、虫の口を焼くとて、鰯の頭を毛髪で巻き、柊の枝に刺し、豆殻を焚きながら唄える種々なる呪文も〔三〕、咸な臭気を以て、農作に損害を与える動物を払うためで、それが毛髪を焼いたことに源流を発していることは明白である。既載した琉球の「をなり神」の信仰は、男子が旅行する際に、姉なり妹なり(姉妹なき者は従姉妹)の毛髪二三本を所持していれば、息災であるというているが、これに似た信仰は、内地にも広く古くから行われていたのである。
ここに二三の類例を挙げれば、妊婦の横生逆産を安産せしめるには、良人の陰毛十四本を焼研し、猪膏に和して、大豆大に丸めて呑ませると宜い〔四〕。人が若し、蛇に咬まれた時は、その人の口中に男子の陰毛二十本を含ませ、汁を嚥めば、毒の腹に入ることはない〔五〕。私の生れた南下野地方では、男子が性病にかかったときは、三人の女子の陰毛をもらい集め、これを黒焼にして服すと、奇功があると云うている。これなどは、広く尋ねて見たら、更に他地方にも行われていることと思う。それから、芝居の興行師や、茶屋女などが、来客が少くって困るときは、陰毛三本をぬき、一文膏へ貼り、人に知れぬよう他の繁昌する店頭へ貼って来ると、必ずその店の客を引くことが出来ると信じていた〔六〕。
而して以上は、専ら男女の陰毛に関したものであるが、これ以外の毛髪に就いても、又た深甚なる俗信が伴っていたのである。播州飾磨郡地方では、悪疫流行の際に、袂の底に毛髪を二三本入れて置くと、悪疫にかからぬと云っている〔七〕。山城国葛野郡小倉山の二尊院の門前に、長(タケ)明神というがある。社伝によると、檀林皇后の落ち髪を祀ったものだと云うている〔八〕。記述した称徳女帝の御髪を盗んで、犬養姉女等が呪詛したとあるのも、髪に生命の宿ることを信じていたからである。京都市外の双ヶ岡の長泉寺には、吉田の兼好法師の木像があり、外に辞世の「契りをく花と双びの岡の辺に、あはれ幾代の春をへぬらむ」の歌を、兼行が剃髪の毛で文字を綴って作った掛幅がある〔九〕。同じ京都市外の栂梶の西明寺には、中将姫の髪の毛で、祢陀三尊の種子を作った掛幅がある〔一〇〕。これと似たものが、上野国邑楽郡六郷大字新宿の遍照寺にもある。これも中将姫の毛で、弥陀三尊の梵字を一字づつ織り出しているが、俗に頭髪の曼荼羅と称している〔一一〕。
それから、甲州御嶽の蔵王権現の宝物中に、北条時頼剃髪の毛というがある。その毛は、綰ねて捲子の中に納め、その外に「最明寺殿御髪毛、愛宕山へ納め候を、当将軍様{○家/光?}御申下し、愚僧方へ参り候を、当山へ奉納候、寛永一六年正月吉日、納主不明」と記してあるそうだ〔一二〕。更に、雲州出雲郡神立村の立虫神社は、社家の伝に素尊の毛髪を納めたところだと云っている〔一三〕。そして薩摩国日置郡羽島村の髢大明神は、天智帝の妃大宮媛が、頴娃に下向のとき、同村を過ぎ髢を遺されたのを祀ったものと伝えられている〔一四〕。こうした毛髪信仰はまだ各地に存しているが、煩を避けて他は割愛した。昭和の現代でも、嬰児のうぶ毛を保存して置くのは、此の古い信仰の名残りであると言うことが出来るのである。
それでは、斯かる信仰は、何に由来しているかと云うに、その総てを尽すことは、アニミズム時代から説かねばならぬので、それは茲には省略するより外に致し方はないが、兎に角に、(一)毛髪が自然と伸長すること、(二)黒い毛が年齢により白くなること、(三)死体は腐ってしまっても、毛だけは永く残るという事などが、古代の人々をして毛髪にも一種の霊魂が宿るものと考えさせたに起因するのである。而して古代人は、異常は必ず神秘を伴うか〔一五〕、又は神秘の力を多分に有しているものと併せ信じていた。ここに頭髪なり、鬚髯なり——殊に陰毛なりが、異常に長いことを、一段と不思議とも考え、神秘力の多いものとも考えるようになった。巫女の七難の揃毛は、此の信仰から発生し、これに仏法の仁王信仰が加って完成されたものである。 
二 各地に存した七難の揃毛
七難の揃毛(ソソゲ)の文献に現われたのは、「扶桑略記」巻二十八が初見のようである。即ち治安三年十月十九日(七月十三日に万寿と改元)に、入道前大相国{○藤原/道長}が、紀州高野山の金剛峯寺へ参詣した帰路に、奈良七大官寺の一なりし元興寺に立寄り「開宝倉令覧、中有此和子陰毛{宛如蔓不/知其尺寸}云々」とあるのが、それである。勿論、これには七難の揃毛とは明記してないが、此の和子の陰毛が宛も蔓の如く、その尺寸の知れぬほど長いものであったということは、他の多くの類例から推して、明確に知り得られるのである。
而して私は、茲にこれが類例を挙げるとするが、先ず東京市の近くから筆を起すと、北千住町の少し先きの、武蔵国北足立郡谷塚村大字新里に、毛長明神というがあった。昔は長い毛を箱に納めて神体としていたが、いつ頃の別当か、不浄の毛を神体とするは非礼だといって、出水の折に、毛長沼に流してしまった。此の毛長明神の鳥居と相対せる、南足立郡舎人村大字舎人には、玄根を祀った社があったが、今では取払われて無くなってしまった〔一六〕。下総国豊田郡石下村の東弘寺の什物に、七難の揃毛というがある。色は五彩(五色の陰毛とは注意すべきことで、後出の記事を参照されたい)長さ四丈有余、何者の毛か判然しない。伝に、往古七難と称する異婦があって、この者の陰毛だと云っている〔一七〕。これに就いては、「甲子夜話」巻三十に僧無住の「雑談集」を引用して、「俗に往昔の霊婦の陰毛なり」と載せている。今、私の手許に雑談集が無いので、参照することが出来ぬが、若し此の記事に誤りがないとすれば、僧無住は、梶原景時の末裔で、嘉禄年中の出生であるから、此の揃毛は鎌倉期にはあったものとして差支ないようである。
それから、伊豆の箱根権現の什物中にも、悉難ヶ揃毛というものがあった。「尤草子」に長き物の品々にも、七なんがそそげとあるのを見ると、長い物であったことが想われる〔十八〕。上野国多野郡上野村大字新羽に神流川というがある。慶長頃に洪水があり、その時に、此の川の橋杭に怪しい長い毛が流れかかり、村民が大勢して拾いあげて見ると、長さ三十三尋余りあり、その色黒くして艶うつくしく、何の毛か分らぬので、村民も驚いたが、そのまま打ち棄てて置くことも出来ぬので、巫女を招んで占わせたところが、此の毛は同村野栗権現の流した陰毛だというので、直ちに同社へ送り返した。同社では毎年旧六月十五日の祭礼の節には、神輿の後へ此の陰毛を筥に入れて、恭しく捧げ持ち、今に陰毛の宝物とて名が高い〔一九〕。然るに、此の毛髪は現存していると見え、近刊の「多野郡誌」によると、新羽村の新羽神社の神宝にて、橘姫の毛髪長さ七尺五寸と記してある。
更に、同様の例を挙げれば、信州の戸隠神社にも、古く七難の揃毛というものがあったが、現今では山中院と称する宿坊の物となり、平維茂に退治された鬼女紅葉の毛と伝え、色は赤黒く縮れていて、長さ五六尺ばかり、丸く輪になって壺の中に納めてあるという事である〔二〇〕。それから、天野信景翁の記すところによると、尾張の熱田神宮にも、昔は此の種の長い毛があったと云うことである〔二一〕。そして、飛騨国大野郡宮村の水無瀬神社の神宝は六種あるが、その一に七難の頭髪というがある。社家の説に、昔この地に鬼神がいて、名を七難と称した。神威を以て誅伐されたが、その毛髪だと云っている〔二二〕。
尚、近江国の琵琶湖中にある竹生島の弁才天祠にも、七難の揃毛があった〔二三〕。同国石山の阿痛(アライタ)薬師堂には、龍女の髪の毛というのがある。琵琶湖に栖んでいた龍女が得脱して納めたものだと伝えているが、その髪は長くして、地に垂れるほどのものである〔二四〕。これには、戸隠のそれと同じく、別段に七難の揃毛とは明記してないが、併し鬼女といい、龍女というも、結局は揃毛の呪術が忘れられた後に附会した説明であるから、元は揃毛であったことは、他の類例からも知ることが出来るのである。大和国の官幣大社——巫覡に縁故の深い物部氏の氏神である石上神宮にも、また七難の揃毛というのが現存している。最近に発行された絵端書で見ると〔二五〕、今に婦人が用いる「ミノ」と称する髢(かもじ)のようなもので、余り長いものだとは思われぬ感じがした。同国吉野のどろ川という所の奥の天(テン)ノ川の弁天堂に、七難のすす毛とて、長さ五丈ばかりのものがある。俗に白拍子静御前の髪の毛だとも云い、また縁起を聞くと、甚だ尾籠なものだと云う事である〔二六〕。備後国奴可郡入江村の熊野神社の末社に、跡厨殿というのがあるが、祭神は判然せぬ。神体は男女とも毛が長く、一に毛長神とも云っている〔二七〕。越前国大野郡平泉寺村から白山禅定の故地に往く道に、七難の岩屋というが残っている〔二八〕。此の二つは、やや明瞭を欠く所もあるが、毛長といい、七難とといっているので、姑らくここにかけて記すとした。 
三 陰毛の長い水主明神
巫女と七難の揃毛を記す以前に、猶お予備として、陰毛の長い神の在ったことを述べて置く必要がある。讃岐国大川郡誉水村の水主神社の祭神が、陰毛が長いために、親神から棄られた縁起は既載した。但し、親神が何が故に、陰毛の長いのを恥じたのか、理由が判然せぬが、恐らく磯良神が変面を恥じたという伝説と共に、異相であったことを心憂く思ったものと考えられる。而して讃岐の隣国なる、阿波三好郡加茂村字猪乃内谷の弥都波能売神社にも、神毛にまつわる信仰が伝えられている。此の神社は、僅かに一筋の長い毛であるが、常には麻桶に入れて、神殿の奥深く安置してある。神慮の穏かならざるときは、その毛が二岐に分れて大いに延び、桶を押し上げて外へ余るようになる。これに反して、神意の和(なご)むときは、本の如くなると、里人は語っている〔二九〕。これには陰毛だとは明記してないが、同書の附載として「大和国布留社(記述の石上神宮のこと)にも大なる髪毛あり、ソソゲといふ由」とあるのから推すと、筆者が態(わざ)と此の点の明記を避けたものと考えられる。
日向国児湯郡西米良村大字小川字中水流の米良神社は、祭神は磐長媛命と伝えられているが確証はない。此の社にも、昔は一筋の毛髪があって、これを極秘の神宝としていた。俚伝によると、祭神が世を憤りたまい、此の地の池に投身された折の神毛だというている。元禄十六年の洪水で、此の神毛は流失してしまったが、これの在った間は、神威殊に著しく、不浄は勿論のこと、外人殊に下日向の人を憎んで、一歩も境内に入れなかったと云う事である〔三〇〕。俚謡に「お竹さん、×××の毛が長い、唐土(カラ)(又は江戸)までとどく」とあるのは、いつの世に、誰が何の理由があって、言い出したものか知る由もないが、七難の揃毛を背景として考えるときは、常人にすぐれた長い陰毛を持っているということは、或る種の呪力有している人と見られていたのであろう〔三一〕。そして此の信仰は、巫女が性器を利用した呪術に発し、これに仁王信仰が附会して、巫女が好んで陰毛の長大を誇り、併せてこれに種々なる装飾を加えるまでに至ったのである。 
四 仁王信仰と七難即滅の思想
現在では、仁王尊といえば、寺院の門番と思われるまでに冷遇されているが、古く奈良朝から平安朝へかけては、仁王信仰は上下の間に深く行われたものである。而して仁王尊の功徳に就いては、仁王経に載せてあるが、これに関して南方熊楠氏の言われるには、
七難のこと、仁王経にあり(中略)。是等七難を避くるために、五大力菩薩(五人の菩薩名は略す)の形像を立て、これに供養すべしとなり。朝家に行われし仁王会の事なり。然るに、それは一寸大仕事ゆえ、七難即滅のために一種の巫女が七難の舞をやらかせしにて、それより色々と変り、猥褻なる事にもなり、陰を出し(中山曰。所載の貴船社の巫女と和泉式部の件参照)通しては面白からぬゆえ、秘儀を神密にせんとて、殊更に長き陰毛を纏いしなるべし。凡て仏法に隠れたる所にある長毛を神霊とせるは「比丘尼伝」の外に「大唐西域記」巻十中天竺伊爛孥伐多国、室縷多頻没底抅胝(聞二百億)の伝にも見えたり(中略)。此人(釈迦の弟子)は、一足の裏に長き金色の毛あり、甚だ寄なりとて、国王が召して見たことがある。
とある〔三二〕。以上の説明によって、七難の揃毛の由来と、巫女が好んで陰毛の長きを利用した事情が、全く釈然したであろうと思う。
更に下総の東弘寺に伝った陰毛が、五彩であったという事であるが、これに就いても、南方熊楠氏は、
姚秦三龍仏陀耶舎共笠法念訳、四分律蔵二十九巻に、爾時薄伽婆(仏の事)在舎衛国給孤独園、時六群比丘尼、蓄婦女、装厳身具、手脚釧及猥所荘厳具(印度は裸で熱い所故に、衣服を飾りても久しく保たず、汗に汚れる故に、髪腕足の輪環又陰毛を染め、甚だしきは陰部に玉を嵌める等の飾りあり)諸居士皆見識嫌云々。
との例を挙げ〔三三〕、我国のもこれを真似たものだろうと言われている。
以上の俗信を頭脳に置いて、古い七難の揃毛のことを再考すると、それは前にも述べた如く、仏説を土台とした巫女等が、猖んに長いほど呪力の加わるものとして利用した結果が、三丈五丈のものを残すようになったのである。巫女の堕落と、異相も、ここに至って極まれりと言うべきである。猶お本節を終るに際し、南方熊楠氏の示教に負うことの多きを記して、敬意を表する次第である。 
〔註一〕金田一京助氏の談。
〔註二〕川口孫次郎氏が「飛騨史談」において、詳しい考証を発表されたことがある。私の記事は、これに拠ったものである。
〔註三〕「水戸歳時記」によれば、同地方では「隣りの嫁さんの××の臭さよ、ふふん」と唱え、更に「吉居雑話」によれば、駿河の吉原町辺では「ながながも候、やッかがしも候、隣りの婆さん屁をたれた、やれ臭いそれ臭い」と云う由。共に臭気を以て、鳥獣を逐うた名残をとどめたもので、更に此の問題は、悪臭のする草木を呪符の代用した俗信にも触れているのである。
〔註四〕 「千金方」。
〔註五〕 時珍の「本草綱目」。そして以上の二書は、支那のものであるが、これ等の呪術が我国に行われていたので、敢て挙げるとした。
〔註六〕 「東京人類学雑誌」第二十九巻第十一号。
〔註七〕 「飾磨郡風俗調査」。
〔註八〕 「山州名跡志」巻九(史籍集覧本)。
〔註九〕 「甲子夜話」巻五十二(国書刊行会本)。
〔註一〇〕同上。
〔註一一〕「群馬県邑楽郡誌」。
〔註一二〕「甲斐国志」巻六十四。
〔註一三〕「出雲国式社考」巻下(神祇全集本)。
〔註一四〕「三国名勝図絵」巻十。
〔註一五〕俗に白ツ子という者や、低能者などを、異常者として、一種の崇敬した例さえある。
〔註一六〕元禄年中に、古川常辰の書いた「四神地名録」に拠る。
〔註一七〕「和漢三才図会」巻六。
〔註一八〕加藤雀庵の「さえずり草」。
〔註一九〕「閑窓瑣談」巻四(日本随筆大成本)。
〔註二〇〕「日本伝説叢書」信濃巻。
〔註二一〕「塩尻」巻二(帝国書院百巻本)。
〔註二二〕「斐太後風土記」巻四(日本地誌大系本)。
〔註二三〕「和漢三才図会」同条。
〔註二四〕「近江輿地誌略」巻三十六(日本地誌大系本)。
〔註二五〕東京の温故会と称する好事家の集りで秘密に出版したものに拠る。
〔註二六〕「塵塚物語」巻四(史籍集覧本)。
〔註二七〕「芸藩通志」巻四。
〔註二八〕「大野郡誌」下編。
〔註二九〕「日本伝説叢書」阿波巻。及び「阿州奇事雑話」に拠る。
〔註三〇〕「郷土研究」第四巻第十二号。
〔註三一〕福島県石城郡草野村大字北神谷の高木誠一氏の談に、同地方では「百舌鳥(モンズ)モンモの毛、太夫(巫女)さんの×××毛三本つなげば江戸までとどく」と言うそうだ。
〔註三二〕「南方来書」明治四十四年九月十三日の条。
〔註三三〕同上。明治四十四年十月十日の条。 
第四節 巫女の間に用いられた隠語

 

巫女が呪術の際に用いた隠語は、その時代により、更にその流派(又は師承)により、必ずや異ったものが存したように想われるけれども、遺憾ながら、詳しいことは、寡見に入らぬ。誰でも知っている「東海道膝栗毛」日坂の条で、巫女の母子が口寄せした折に、夫の事を唐の鏡と云い、妻の事を相の枕と云ったとある程度のもので、誠に自分ながら慚愧に堪えぬ次第であるが、今のところ奈何ともする事が出来ぬので、知り得たところを記して、敢て後人の集成に俟つとする。
南総珍(房総志料叢書本)市子の隠語の条
タカラ(子供) 弓取(夫) 相ノ枕(妻) ヘラトリ(男) 松ノ露(孫) 瓜の蔓(兄弟) 唐ノ鏡(世間) 舞台(身代) 烏帽子宝(惣領)
登米郡史(宮城県)巻上、方言の条
唐ノ鏡(妻) 相ノ枕(夫婦) ヘラトリ(主婦) ヰクラダイショウ(主人) ヰクラナラビ(隣家)
鈴木久治氏談(秋田県仙北郡長信田村出身)巫女の隠語
相の枕(夫婦) 弓取(男) ヘラトリ(女) 居家を踏まへる弓取(相続人の男子) 又や続きの弓取(家の次男) 一の親類(本家) ふるさと(嫁聟の生家) こひしき(縁談) やくし(医者) 宝弓取(寄せられた仏の子の男) 宝へら取(同上の女子) 宝同然の弓取(同年輩の他人の男子) 宝同然のへら取(同上の女子) 親神の弓取(父親) 親神のへら取(母親)
元より秘密にしている巫女の隠語であるから、明確に総てを知ろうとするのは無理なことであって、此の乏しき例に就いて見るも、既に二三の相違があり、殊に「南総珍」に載せたヘラトリを男とした如きは、全く誤りであることが知られるのである。
而して斯くの如き巫女の隠語が、何時頃に定められたものか、これも明確には知ることの出来ぬ問題ではあるが、曾て南方熊楠氏が、私に語った所によると、「巫女の隠語中に、弓取、烏帽子、鏡などの語のあるところより推して考えるに、是等の物が家の体面上、又は身の装飾上に必要欠くべからざる時代に出来たものと見て差支なかるべく、それは概ね鎌倉中葉以降と見るべきである」との事であった。私は別に異説がないので、茲に南方氏の意見を取次ぐだけにする。
 
第六章 巫女の社会的地位と其の生活

 

第一節 歌舞音楽の保存者としての巫女
神懸りにおいて舞踊を発明し、歌謡の源流である叙事詩を生んだ巫女が、更に是等を発達に導き、併せてその保存者となるべき地位に置かれるのは、寧ろ当然の帰結である。神遊び(後の神楽)は、時勢の降ると共に、漸く複雑化せるも〔一〕、猶お遊びの前後に阿知女(アチメ)の作法を行うほどの用意を忘れず、歌謡も神楽歌より、催馬楽、今様、風俗と多くの種目を加えたけれども、その歌手は概して巫女か、それでなければ巫女から出た歌女(カメ)と称するものであった。併しながら、時勢の発達は、舞踊や、歌謡を、いつ迄も巫女の手に委ねては置かず、それぞれ専門の者を出すようになったが、茲にはその過程に就いて記述する。 
一 歌占の発達と巫女の詩人的素養
古代における巫女の託宣が、俗談平語を離れて、律語的に、且つ叙事詩的に発せられるのを常としたが、此の傾向は、漸次に歌占と称する歌謡の形式を以て行われるようになった。前載の、恵心僧都が金峯山に巫女を訪ねたときに答えたるものが、その一例であるが、更に「平治物語」に鳥羽法皇が熊野へ参詣し、
権現を勧請し奉らばやと思召て、まさしき巫女やあると仰せければ、山中無双の巫女を思召す、御不審の事あり、占申せと仰せありければ、権現すでにおりさせたまへりと云へるところのことを(中略)半井本には、巫、法皇に向進らせて、歌占を出したり、「手にむすぶ水に宿れる月影は、あるかなきかの世にはありけり」とありて、下文にさて云々と申たてば、巫女取あへず「夏はつる扇と秋の白露と、いづれかさきに置まさるべき」、夏の終秋の始とぞ仰せられける。
とあるのも、又それである〔二〕。更に「安居院神道集」に、「和歌抄」を引用して、左の如き記事がある。
白河院御時、御両所市阿波ト云御子を召、御□(紙魚不明)云事ハ何様ナル事アラント、銀ノ壺ニ乳ヲ入テ、此ヲ亦物ニ入ツ、蓋ヲシテ、帝ト后トノ二人御心ニテ、亦人ニ不知之、サテ此中ナル物ヲ占ヘト、御子ノ前ニ差出ケレバ、度(シバラク)計跟蹡ナル歌占ニ、「シロカネノツホヲナラヘテ水ヲ入ハ、フタシテカタク見ルヘクモナシ」ト、□出、御涙ヲ流給テ□勇事哉ト思食サレタリケリ、□銀共ヲ賜ハリケリ(宮内省図書寮本)。
斯く巫女が、託宣を歌謡の形式を以て表現するようになったのは、巫女の伝統的因襲の外に、歌謡の流行したことを併せ考えなければならぬ。私は曾て自ら揣らず「我国の神詠の考察」と題する剪劣なる管見を発表したことがあるが〔三〕、代々の勅撰歌集を読んで見て、平安朝以降において、神々の詠歌と称するものの遽かに増加した事は、注意すべき点である。熱田、賀茂、住吉、大神(ミワ)の各神を始めとして、神託の形式を殆んど和歌に仮りているのである。而して此の流行?は、仏教方面にも取り入れられて、又た盛んにこれが利用されているのである〔四〕。勿論、私は是等の神詠なるものが、巫女によって仮作されたものであるなどとは、夢にも考えていぬ所であるが、斯うした和歌流行の世相は、巫女を駆って歌人的素養を深からしめた事だけは言い得るものと信じている。更に一口に、巫女と云っても、その中には自から階級があり、名神大社に仕える者と、叢祠藪神に仕える者との間に、出自、品性、素養の相違あることは言う迄もないから、高級者にあっては、短歌や、今様ぐらいは、平生の嗜みとしても、作り得らるるだけの用意はあったろうが、それにしても巫女をして詩人たらしめる世相の存したことは看取される。
然るに、此の託宣を歌謡を以てすることが、固定するようになれば、その歌謡を以て直ちに神意を占うことに利用されるに至った。換言すれば、曾て巫女によって制作された歌謡、又は神詠と称する歌謡、若しくはその他の歌謡の或る数を限り、此のうちの何れかを取り当てたもの(即ち後世の御籤に似たもの)に由って、吉凶を判ずるという信仰を生むようになった。「長秋記」長承二年七月六日の条に、
自女院被仰云、七月七日当庚申時、於乞巧奠前、不論男女、七人会同、各書旧歌百首、都合為一巻、用歌占、如指不違云々。
とあるのは、即ちその一例で、然も是が民間に移されて、七夕の星祭に、歌占を以て男女の縁を結ぶ(神判成婚の意)民俗にまでなったのである〔五〕。而して更に此の信仰の最も通俗化したものが、謡曲の「歌占」と称する方法である。これに関しては、「参宮名所図会」巻下にも記載があるので、彼之を参酌要約すると、概ね左の如きものであったことが知られるのである。
伊勢国度会郡二見郷三津村に、度会家次(謡曲にある歌占の発明者という)の子孫なる者があって、家号を北村と称し、此の者が歌占の弓という物を持ち伝えていた。即ち長さ三尺ばかりの丸木弓の握り柄を赤絹にて纏き、上を糸で巻き、その弓の本末に短冊一枚づつ付けて、本には「神心たねとこそなれ歌占の」と書き、末には「ひくもしらきのたつか弓かな」と記し、別に弓弦に短冊八枚を付け、これに下の如き歌一首づつ書きつけてある。
増鏡そこなる影に向ひゐて、しらぬ翁にあふここちする(中山曰。拾遺集の歌なり)。
年を経て花のかがみとなる水は、ちりかかるをや曇るといふらむ(同上。古今集)。
末の露もとのしつくや世の中の、おくれさきたつためしなるらむ(同上。新古今集)。
ものの名も所によりてかはりけり、なにはの芦は伊勢のははまをき(同上。蒐玖波集)。
鶯のかひこの中のほととぎす、しゃが父に似てしゃが父に似ず(同上。万葉集長歌の一節)。
千早振るよろづの神も聞しめせ、五十鈴の川の清き水音(同上。出所不明)。
北は黄に南は青くひがし白、にしくれなゐにそめ色の山(同上。同上)。
ぬれて乾す山路の菊の露の間に、散そめながら千代にも経にけり(同上。古今集)。
斯うした短冊の一枚を依頼者にとらせ、その歌の文句によって判断するのであって、後世の御籤というものと、全く同じ方法に過ぎぬのである〔六〕。謡曲の「歌占」には、父を尋ねる子方が、鶯のかいこの中の時鳥という短冊をひき、さては親を尋ねるのだなと占うている所を見ると、その方法も、解説も、極めて浅薄なものであると同時に、如何にも室町期の中頃に行われそうなものであったことが知られるのである。 
二 複雑せる巫女と傀儡女との交渉
巫女の工夫した神体としての木偶を、巫女の手から奪って、木偶を舞わせることを独立的に発達させ、傍ら売笑を兼ねた者が、即ち傀儡女(クグツメ)である。従って古代に遡り、源流を究むるほど、巫女と傀儡女との境界は朦朧として、一身か異体か、全く区別する事の出来ぬほどの親密さを有しているのである。前述の東北地方の一部で、今に巫女を傀儡と称しているのは、よく古俗を残したものであって、又その親密さを、よく明らめているのである。藤原明衡の「新猿楽記」の左の一節の如きは、明白に此の間の消息を伝えているのである。
四ノ御許者覡女也。卜占、神遊、寄弦(ヨリツル)、口寄(クチヨセ)之上手也。舞袖瓢トテ颻如仙人ノ遊。歌声和雅ニテ如頻鳥ノ鳴。非調子ノ琴ノ音。而天神地祇垂影向。無拍子ノ皷ノ声。而□□(紙魚不明)野干必傾耳。仍天下ノ男女継テ踵来。遠近ノ貴賤為市挙ル。熊米(クマシネ)積テ無所納。幣紙集不遑数。尋レハ其夫則右馬寮史生。七条已南ノ保長也。姓ハ金集(カナツメ)。名百成。鍛冶鋳物師〔七〕。并銀金ノ細工也云々。(以上。群書類従本)。
同書は、人も知る如く、藤明衡が、当時(平安期の中葉)西京の猿楽師右衛門尉一家の、三妻、十六女、九男に託して、世相の一端を記したものであるから、直ちにその悉くが事実なりとは断ぜられぬけれども、内容は明衡が耳聞目堵したしたものと思われるので、大体において信用することが出来るようである。而して此の記事に由れば、卜占、神遊、寄弦、口寄等の呪術を行うに際し、舞袖は仙人の遊びの如く、歌声は頻鳥の鳴くに似て、琴の音は神祇を影向させ、皷の声は野干の耳を傾けさせるとは、かなり形容が誇張に過ぎているようではあるが、殆んど巫女か、舞伎か、更に傀儡女であるか、寔にその識別に苦しむほどのものが存するのである。試みに、下に大江匡房の「傀儡子記」の一節を抄録して、如何に両者の内的生活が近似していたかを証示する。
傀儡子者、無定居、無当家、穹廬氈帳、逐水草以移住(中略)。女則為愁眉啼、粧折腰歩齲歯咲、施朱伝粉、唱歌滛楽、以求妖媚(中略)。夜則祭百神、鼓舞喧嘩以祈福助(中略)。動韓峨之塵、余音繞梁周者、霑襟{人偏{{⺕⺕}下女}}不能自休、今様、古川様、足柄片下(アシガラカタオロシ)(中山曰。是に関しては後に述べる)、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満周、風俗、呪師、別法士之類、不可勝計、即是天下之一物也云々(以上。群書類従本)。
彼と之とを比較するとき、巫女は神事を表面の職業とし、傀儡女は唱歌滛楽を世渡りの職業としただけの区別はあるが、その内的生活に至っては、殆ど相択むものなきまでの交渉を有している。殊に、傀儡女が得意とした今様、足柄片下、催馬楽、田歌、辻歌等の総ての歌謡は、悉く元は巫女の得意とし、且つ歌い出したものであるのを、後に傀儡女がこれを以て独立した職業に移したまでなのである。それ故に、巫娼史の観点より言うときは、巫女と傀儡女とは同根の者であったのが、巫女は神に仕える古き信仰を言い立てて糊口の料とし、傀儡女は神を離れ(併し全く離れきれぬ事は百神を祭る点からも察せられる)、信仰を棄てて、倡歌と売笑とを、渡世の業とした区別にしか過ぎぬのである。「和訓栞」に「まひまい虫(中山曰。東京辺の水すまし虫)を備前美作にミコマヒ、東四国にてイタコ虫と云ふ」とあり、更に備前邑久郡にては、巫女の事をコンガラサマと云うのは、同じく水すまし虫のことを、コンガラと称するより出でし方言で〔八〕、共に、巫女が此の虫の如く跳ねたり、踊ったりするので、その動作より形容したものである。併し此の一事は、巫女の古き呪法にシャマニズムの跳躍方面を多分に存していたことを想わせると同時に、後には此の方面と、是れに伴うた歌謡とを傀儡女に持ち去られ、纔に仏法や修験道に寄生して、残喘を保つようになったのである。 
三 巫女と遊女と傀儡女と
我国には、古く神々が、定期または臨時に、人里に天降(アモ)りして、氏子の間に神意を啓示する民俗があった。琉球では近年まで此の事が克明に行われていた。曲亭馬琴の「椿説弓張月」に引用した「琉球事略」に載せてある所謂キミテスリの祭は、必ず十月であって、七年に一回の荒神、又は十二年に一回の荒神があり、遠国島々一時に出現す。その年八九月の頃から、前兆として山々の峯にアヲリ(天降(アモ)りの意?)という雲気が現われ、十月に神が出現すれば、託女王臣各々鼓を打ち、歌うたいて神を迎う。王宮の庭を以て神の至る処となし、大なる傘二十余を立つとある。更に「徳之島小史」には、此の光景を一段と精細に記述して、祭典にはカンギヤナシ(内地の巫女と同じ)が各々珍絹を頭に被り、筒袖の白衣を著し、珠玉(内地の曲玉と同じ)を纏い、恰も天神の天降りに擬す。これに随属せる少女をアラホレ(見習巫女とも云うべき者)と称して、十二歳乃至十六歳の無垢神聖の者を以て充つ。アラホレも亦、振袖の白衣を着し、袴を穿ち、頭には鴛鴦の思い羽、或は鷺の寸羽を翳し、日陰蔓を以て鉢巻きなし、大小五色に編みなせる曲玉粒玉の襷をかけ、手には或は軍配団扇の如き物(檳榔葉製)を持ち、或は長刀を携えて舞をなす。此の時一種異様の鈴の響き(琉球本島では鉦)が微かに聞ゆるかと思えば、これぞ神の出現する時だと云っている。而して此の民俗に共通した神事の、我が古代に在ったことは、誠に微弱ながらも、推知し得べき資料が存しているのである〔九〕。これ即ち「賓神(マロウドカミ)」であって、人里に大事が起る前とか、又は祭典の折などには、天降りますのが常であった。殊に、歳旦とか、田植とか、刈上げとかいう節々(我国の節供の起原はこれである)には、氏子を祝福し、作物を豊穣にするために「寿詞(ヨゴト)」を下すのを習いとした。而して此の寿詞を伝誦していて、或る場合には、神々の代理者(古代はこれを神その者と考えていた)として述べるのが、巫女の聖職の一つであった。
此の信仰と神事とは、国初期から奈良朝までは厳存していたのであるが、奈良朝の中頃からは、神々の正体が知られて来ると同時に、漸く衰え始めて〔一〇〕、此の寿詞の言い立てをする一種の営業者ともいうべきものが生れるようになった。これが「万葉集」に見えている「乞食者(ホカイビト)」であって、彼等は年の始めの吉慶に、家屋の新築の棟祝いに、更に旅行の無事を祈る餞別、或は災危を払う呪願などを、当時の美辞麗句で綴りあげて、それを旋律的(リズミカル)の調子で歌い歩いて、世過ぎの料とした〔一一〕。後世の、千秋万歳、ものよし、大黒舞などは、悉く此の賓神と祝言人との系統に属しているのである。
古く我国の巫女が、好んで鼓を携えていたのは、此の寿詞を唱える折に必要であったためである。鈴も、琴も、鼓も、その古き用法の意味は、神の御声としての象徴であった。曾て鳥居龍蔵氏から承った所によると、我国のツヅミという語は、ウラルアルタイの語系に属し、蒙古、満洲、朝鮮、我国とも、同語原であるとの事である〔一二〕。そうすれば、鼓はシャマニズムと共に北方から輸入されたものであって、巫女の神を降ろすに欠くことの出来ぬ楽器であったとも考えられる。「梁塵秘抄」には、巫女と鼓との関係を詠じたものが尠からず載せてある。
金峰山(カネノミタケ)にある巫女(ミコ)の打つ鼓。打ち上げ打ち下げ面白や。我等も参らばや。ていとんとうとも響き鳴れ。如何に打てばか此の音の。絶えせざるらん。
殊に、ここに挙げたものなどは、両者の交渉をよく説明しているものである。更に「東北院職人歌合」の巫女の条に、嫗の双手に鼓を持てる絵に対して「君とわが口を寄せても寝まほしき、鼓も腹も打たたきつつ」とあるのもその一例であって、巫女と鼓とは離るることの出来ぬ間柄であった。然るに、此の巫女と深甚なる関係を有している——即ち巫娼一体の境地に在った遊女が、やがて、此の鼓を巫女の手から奪って自分の物としてしまい、同じく「梁塵秘抄」にある如く、
遊(アソビ)女の好むも雑芸(中山曰。後世の今様)鼓、小端船(コハシブネ)、大傘かざし艫取女(トモトリメ)、男の愛祈(アイノ)る百太夫。
となるのである。かくて巫女は、歌謡を傀儡女に持ち去られ、鼓(楽器としての)を遊女に委ねばならぬようになったのである。古い信仰が世の降ると共に影が薄くなり、曾て存したものが様々に分化して、世に推し移って行く有様が偲ばれるのである。巫女が社会の落伍者として、生存の競争場裡から置いてきぼりにされたのも、決して偶然ではなかったのである。
併しながら、傀儡女や遊女に、歌謡や楽器を渡す以前にあっては、音楽と歌舞との保存者は巫女であった。前掲の「傀儡子記」にある足柄片下(アシガラカタオロシ)とは、即ち足柄{○相/模国}明神の伝えた神歌なのである。「郢曲抄」によれば、
足柄は神歌にて、風俗といへども其の品替るなり(中略)。足柄明神の神歌故に、風俗といへども其の音あり。
と記し、更に高源光行の「海道記」には、
彼山祇(ヤマズミ)の昔の歌を、遊女(中山曰。巫娼の意)が口に伝へ、嶺猿の夕の啼は、行人の心を痛ましむ、昔青墓{○美/濃国}の宿の君女、この山を越えけるとき、山神翁に化して歌を教へたり、足柄といふ是なり。
とあるように、神歌を伝えたものは巫女であった。これを後に残したものが遊女なのであった〔一三〕。かく考えて来ると、巫女と、傀儡女と、遊女とは、一元から出発したもので、然も此の三角関係が意外に複雑しているのも道理であることが知られるのである。 
〔註一〕神遊びの後身が直ちに神楽であるという説には、多少の疑義があることと思うが、私は屢記の如く、神楽は古く葬礼にのみ限って行われたものと考えているので、姑らく此の説を支持したいと思う。
〔註二〕伴信友翁の「正卜考」後附に拠った。流布本の「平治物語」にもあるが、半井本と多少の出入があるので、今はこれに従った。
〔註三〕国学院大学の郷土会で講演したことがある。誠に拙きものではあるが、神詠なるものが、平安朝になってから、急に増加したことは、我国の託宣史上、注意すべき点である。
〔註四〕「野守鏡」の序文に、神仏の詠まれた和歌の多くが載せてあるが、更に「新古今集」の神祇部と、釈教部とにも多く載せてある。
〔註五〕拙著「日本婚姻史」に、神判成婚の一例として挙げて置いた。敢て参照を望む。
〔註六〕我国の御籤なるものも相当に古いもので、「斉明紀」四年十一月の条に「短籍」とあるのがそれで、降っては「吾妻鏡」脱漏元仁二年三月卅一日の条、及び「明月記」貞永二年正月廿一日の条などに見えている。
〔註七〕シャーマン教における巫女と、鍛冶職との関係に就いては、有賀右衛門氏が「民族」誌上に高見を発表されている。我国には、是等の関係を考覈すべき資料が残っていぬが、偶々「新猿楽記」に此の一事が見えている。これは遇然のことであろうが、参考までに言うとした。
〔註八〕これは総論第一章第一節に挙げて置いたので、報告者の氏名は略すが、兎に角に、昔の巫女は甚だしく跳ねたり踊たりしたものと見える。今に見る神楽巫女の動作だけでは、かかる俚称は起ろうとも思われぬ。
〔註九〕折口信夫の談によると、鈴木重胤翁の「祝詞講義」の大殿祭の条に引用した文献に、それを考えさせるものがあるとの事である。
〔註一〇〕「山原の土俗」に神を捕える話が二つ載せてある。そして捕えた神は巫女であって、殊にその一つには、捕えた男の母が神の中に加っていたとのことである。
〔註一一〕此の条は折口信夫氏の研究をそのまま拝借し、且つ祖述したものである。明記して敬意を表す。
〔註一二〕星野輝興氏が主催されていた祭祀研究会の講演で承ったものである。
〔註一三〕「更級日記」に、足柄山で遊女が歌を謡ったことが載せてあるが、或はこれは神歌の面影を伝えたものではなかろうかと思われる。全文は有名なものゆえ、態と省略した。 
第二節 巫女の給分と其の風俗

 

巫女の給分及びその収入等に就いては、神社に附属せる神和(カンナギ)系の神子と、町村に土着せる口寄(クチヨセ)系の市子とに区別して記述するのが正当であるが、私の寡聞のため、前者に関しては多少の資料を有するも、後者に関しては全く知見するところが無いのである。そこで止むなく、茲には前者に就いてのみ記し、後者に就いては仮定を述べて、後人の大成に俟つこととする。
伊勢の斎宮、賀茂の斎院は、普通の巫女と申上げることは出来ぬので今は省くが、先ず宮中における御巫、巫等に就いては、(一)一定の給分と、(二)臨時の給分とがあった。而して一定の給分に就いては「延喜式」巻三に「新任ノ御巫ニハ皆給へ屋一宇ヲ{長二丈。庇二/面長各二丈}」とあって、現今なれば、官舎ともいうべきものを給り、外に「凡諸ノ御巫者。各給夏ノ時服絁一疋。冬ハ不給。其ノ食ハ人別ニ人ニ白米一升五合。塩一勺五撮」とある。併し、これ等の給分は、誠に寡少のものであって、金額に見積れば、実にお話にならぬほどであるが、要するに、宮中における御巫や、巫等は、神々に仕える聖職であり、且つ無上なる名誉でもあったので、余り物質上のことなどは苦にせぬ人々であったに相違ない。殊に、宮中のことは、九重雲深くして詳細に漏れ承ることは出来ぬが、これ等の御巫や巫等は、世襲的に奉仕したものと察せられるので、旁々、その給分の如きは、問題とされていなかったであろう。然るに、これに反して、臨時的の給分にあっては、その祭儀により、元より一様ではないが、相当の収入となったようである。「延喜式」に散見するところを要約して、左に記載することとした。
春日ノ神四座ノ祭
斎服料
物忌一人ガ料。夾纈(カフケチ)ノ帛三丈五尺。羅ノ帯一条。紫ノ絲四両。錦鞋一両。{已上/封物}錦二条。{一条長三尺五寸。一/条長六尺。並広四寸}絁三疋二丈九尺。縁ノ絁一疋。紗七尺。韓櫛二枚。紅花一斤二両。東絁三尺五寸。綿三屯半。支子五升(中略)。右祭ノ料依前ノ件。春ハ二月。冬ハ十一月ノ上申日祭之(中略)。其物忌一人食。日ニ白米一升二合。塩一勺二撮云々(以上。巻一、四時祭上)。
大原野ノ神四座ノ祭
斎服料
物忌二人ニ。別ニ夾纈ノ帛。浅緑ノ帛各三丈。絁一疋二丈五尺。帛一疋五丈六尺五寸。表裙(ウハモ)一腰。帯一条。縹(ハナダ)ノ帛二丈四尺。緋ノ帛一丈五尺。紫ノ絲二両。綿四屯。東絁三尺五寸。履一両。紅花五両。支子(クチナシ)五升。御巫一人ガ絁一疋。浅緑帛一匹。綿二屯。表裙一腰。物忌御巫別ニ縁ノ絁一疋云々(同上)。
平岡ノ神四座ノ祭
斎服料
物忌一人ガ装束料絹四疋九尺。夾纈ノ絁三丈五尺。綿三屯六両。錦九尺五寸。紗七尺。紅花一斤三両。支子五升。錦鞋一両。紫絲四両。韓櫛二枚云々(同上)。
松尾祭
斎服料
物忌王(オホギミ)氏夏ハ絹五疋。{冬加/一疋}綿十屯。紅花小六斤。銭一貫六百卅文。{冬料/准此}和(ヤマト)氏。大江氏並ニ夏ハ別ニ絹二疋。{冬加/一疋}綿三屯。紅花小三斤。銭六百卅文。{冬料/准此}云々(同上)。
大殿祭
斎服料
供奉スル神今食御巫等ノ装束。{十二月/不給}
御巫絹四疋。絁一丈一尺。綿二屯。細布六尺。紅花六斤。銭百卅文。{中宮御/巫亦同}座摩(ヰカスリ)。御門。生島。東宮ノ巫各絹三疋。絁各九尺。綿一屯。細布六尺。紅花一斤。銭百卅文。
供奉神今食人等ノ禄。
(前略)。御巫ニ絹三疋。{中宮御/巫亦同}座摩。御門。生島。東宮ノ巫各二疋(同上)。
鎮魂祭
官人以下ノ装束料。{中宮宮/主准此}
(前略)。御巫{中宮。東宮。/御巫准此}御門ノ巫一人。生島ノ巫一人ニ。各青摺ノ袍一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。下衣(シタカサネ)一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。単衣(ヒトへ)一領。{帛三/丈}表裙一腰。{表裏別帛/三丈。腰料一丈}綿二屯。下裾一腰。{同/上}袴一腰。{帛三丈/五尺}綿二屯。単袴一腰。{帛二/丈}帔(ウチカケ)一條。{帛二/丈}褶(ヒラミ)一條。{緋帛/四丈}紐一条。{錦三/丈}髻髪并襪料細布一丈。領布ノ紗七尺。櫛二枚。履一両。座摩巫一人ニ青摺袍一領{表裏別帛/二丈五尺}綿一屯。下衣一領{同/上}綿一屯。単衣一領。{帛二丈/五尺}表裙一腰。{表裏別帛三丈/腰料一丈}綿一屯。下裙一腰。{同/上}袴一腰。{帛一丈/五尺}綿一屯。単袴一腰。{帛一/丈}帔(ヒ)一條。{帛一/丈}褶一條。{緋帛一/丈五尺}紐一条。{錦一/丈}領巾・六尺。襪ノ料細布五尺。履一両(以上。巻二。四時祭下)。
以上の祭儀を一々詳述して、御巫及び巫等の職掌を細説し、而して是等の給分の事を説明すべきであるが、そう克明に渉らずとも、大体は会得されることと信じたので省略した。而して、伊勢の両皇太神宮における物忌の定員、及び給分等は、「延喜式」巻四によると、大略左の如きものである。
太神宮三座
(前略)。物忌九人。{童男一人/童女八人}父(チチ)九人云々。
荒祭宮一座
内人二人。物忌。父各一人。
度会宮四座
(前略)。物忌六人。父六人云々。
多賀宮一座
内人二人。物忌。父各一人。
九月神嘗祭
太神宮
祢宜。大物忌二人ニ。各絹三疋。綿三屯(中略)。物忌。。絹一疋三丈。綿一屯云々。大物忌云々。日ノ祈(ミ)ノ御巫云々。絹一疋。綿一屯云々。荒祭ノ宮(中略)。物忌一人ニ。絹一疋三丈。綿一屯云々。
度会宮
(前略)。大物忌一人ニ。絹二疋。綿二屯云々。物忌。絹一疋三丈。綿一屯云々(中山曰。これは僅にその一節を挙げたもの、詳しくは本書に就いて見られたい)。
祭儀の行われる毎に、伊勢両宮の物忌は、臨時の給分を受けたことは、以上の一例を以て知る事が出来るが、更に一定の給分としては、同じ「延喜式」巻四に「物忌太神宮四人。度会宮三人。給年中食料、日ニ各米八合」とあり、猶お三節祭の直会には「物忌ニ汗袗一領」を給することとなっていた。これも宮中の御巫などと同じく、給分としては、誠に些少のものであるが、併し大物忌は、荒木田氏の女に限り、その他の物忌も、各々家筋が限られていたほどの名誉の職掌とて、物質上の問題などはどうでも宜いという境遇であったようである。而して後世に、此の物忌が御子良と改り、物忌ノ父が母良と改まるようになると、神領のうちからそれぞれ一定の給分を与えたものと見えて、「神鳳抄」に左の如き記事が散見している。
諸神田注進文(建久四年云々)
安濃郡
重昌神田、宮守子良神田五段云々。
中万神田十一町之内二町五段之宮守子良神田。
一町七段百八十歩、大物忌子弘子良粮料。
二町五段在安東郡、大物忌父季貞神主、子良衣粮料。
一町五段在安西郡、同季貞神主子良衣粮料。
三町七段在安西郡、大物忌父光兼子良衣粮料。
一町四段在安西郡、大物忌父氏弘子良衣粮料。
伊勢国安西郡
母良神田{一丁三/反大}子良神田{四丁/余}(中略)。舘母神田。
「神鳳抄」は、源頼朝が鎌倉に覇府を開いた折に、伊勢神領の整理をした記録であるが、これに由ると、物忌、子良の給分は、相当に豊富であったように考えられる〔一〕。併し、これ以外の神楽料等の雑収入が、如何に是等の者に配分されたかは、遂に寡見の及ばぬ問題である。
宮中及び伊勢の御巫、物忌等の給分に就いては、極めて概略の記述を試みたが、さて是れ以外の、賀茂、春日、八幡、熱田等の大社に附属していた巫女の給分はどうであったか、これは各神社の古記録を仔細に検討したら、容易に知り得らるることと思うが、今の私としては此の容易の問題を詮索する余裕を有たぬので、誠に申訳の無い次第ではあるが、触目した資料だけを掲載し、一臠を以て全鼎の味を推すこととする。而して既述した宇佐八幡宮の巫朝臣杜女に従四位下を授け、これに伴う封戸を賜ったことは元より例外であるが、普通の巫女の給分は大体において尠少であったようである。「延喜式」巻卅五大炊寮の条に「松尾社物忌一人。料米三斗六升、小月、三斗四升八合」とあるが、これは日割にすれば、一升二合にしか当らず、然も小ノ月には一日分を控除するとは、かなり手厳しい待遇と云わなければならぬ。更に「三代実録」には、巫女の給分に関する記事が二ヶ所ほど見えているが、第一は貞観十二年六月二十七日の条に「松尾神社物忌一人、充日{○一本/作月}粮、立為永例云々」とあるが、恐らく、前掲の給分が一時的であったのを、定制としたまでであろう。第二は、元慶三年閏十月十九日の条に「伊勢高宮物忌、准諸宮物忌、永充月粮、以神封物給之」とあるのも、他の物忌に准ずとあれば、同じく食米を給せられる程度であったと見て大過ないようである。
これでは如何に物質に縁遠き聖職にある巫女であっても、その日の生活にも追われがちではあるまいかと想像されるが、神々に仕え、信仰に活きる者には、又た相当の収入が在ったようである。これに就いて、既述の摂州広田、西宮の両社に仕えて、五十年の神職生活を送られた吉井良秀翁が、その著書「老の思い出」に載せられた「平安末期に御巫が置かれて有った事」と題せる一節は、よく広西両社の巫女の臨時収入の点を明かにし、且つ一般の巫女の生活にも触れているところが多いので、左にこれを転載することとした。
この頃、巫女(ミコ)など云うと、洵に卑いように思われるが、昔は決してそうで無い。宮中を始め、諸国の大社々々には、何方も置かれてあって、我広田西宮にも同様であった。今日では、里神楽と称して、各大小神社の私祭に雇われて来る者がある。之は各社でも、其の待遇が粗末で、一般からも軽視されている。伊勢神宮や、住吉、春日などは、その神楽所のみに、奉仕しているは別段で、是は品位を保たせてある。昔は何れにても、普通一般神社の如くで無く、品位を有ったものである。我が広田西宮でも、優に位置高く置かれてあった事は、書に見えてある。併し上下の階級はあったらしい。平家時代の厳島神社の如きは、幽雅美麗の御巫が置かれてあった事は〔二〕、高倉院厳島御代の途次、福原(中山曰。神戸市)の御所に御立寄の時、予て厳島から招き寄せてあった内侍八人(原注。内侍としてあるが全く御巫である)の舞楽を叡覧に入れ、終って御神楽を奏している。内大臣土御門通親公が、天人の降りたらんもかくやとぞ見ゆると、周囲の装飾もあったからであろうが、劇賞して日記に書いている。厳島御参拝の折にも、内侍ども老いたる若き、さまざま歩き連りて、神供まいらせ、とりつづきて、がくどもして、御戸ひらき参らせ云々とある如く、栄えたる神社には、いつも斯うした御巫があった。当神社(中山曰。西宮社)でも、古くは置かれてあったと見えて、近衛天皇の康治元年の事であるが、美福門院が新に寵を得られて、待賢門院の侍女で津守島子が、其夫なる散位源盛行が待賢門院の旨を受けて、広田神社の御巫朱雀と云うを召して、美福門院を呪詛せしめ、其事露顕して、検非違使を遣わし、盛行を捕え、銀筥を西宮神宮に得て、盛行を流に処した事がある。是は「百練抄」に書いてある(原注。「大日本史」にもある)当時朱雀と称した巫女が、西宮にあったと見える。之を想像して見ると、現今大小神社にある所の巫女の様でなく、神前に常侍して居たもので、位置も決して卑しい者では無かったのである。夫れから五十年許りの後、後鳥羽天皇の建久頃に、巫女寿王と云う人が、当社にある事を「諸社禁忌」と云う書物に書いてある。此寿王という巫女も、文意を見ると、社中の上位に置かれた人である。それから又三十年許り後の、後堀河天皇の貞応三年に、神祇伯王が当社に参拝せられて、巫女の四条女宅を宿所とした。是は代々の例であると、「神祇官年中行事」に見えるが、此時伯王の行列と云うものは盛んな事で、船七八艘して下向し、大勢の行列で西宮浜に着き、伯王は乗輿で、衣冠の力者十二人で舁いで、神祇官員若干も皆衣冠、諸大夫以下皆布衣とあって、大層な様子に書いてある。夫れが巫女の四条の宅を宿所としたのである。されば巫女の宅は宏荘な物であったであろう。仮令、随行者皆迄が、此家で宿泊したのではあるまいが、兎も角も長官伯王の宿所と定めてあるから、夫れ相応な設備を要する資格の家でなければならない。況や代々の常宿であるらしい。巫女といえど社中でも立派な位置に居たものと見える。夫れからまだ書いてある事に、「今夜女房の宿願を果す為に、又夷宮(ヱビスノミヤ)に参る、前に御神楽を行ふ、夷三郎及御大教前に於て、種々の事等あって、衣一領を「北宮四条に給ひ」絹一疋を「南宮兵庫一戎台」直垂「史巫為延」已上巫女等に給り了ぬ。此他堪能の巫女に纏頭を給ふ。大口一領、守護袋、帖紙等の類である」としてある。其四条とは巫女の名で北宮は広田社であろう。南宮兵庫の兵庫は巫女の名で、南宮に専属の巫女であろう。一戎台は何とも解き難かけれど〔三〕、夷社、専属の巫女の名であろう。史巫為延は即ち覡で、男の巫であろう。其他堪能の巫女にも夫々今云う祝儀を呉れたのである。之を見ると、巫女等の人数も、随分多かった事と見える。巫女に物を与える事は、当節の慣例と見えて、「厳島御幸記」にも、一々綿を給った事が見えている。今から七百八十年以前(中山曰。昭和三年より起算して)、巫女が当社に仕えていた。その地位を察すると、現今各社に用いる巫女の如きで無く、一廉の地位を占めていたらしい。此件を見て往昔広田西宮の隆昌であった事が知られる。序に云うて置きたい事がある。明治維新当時まで、当社には男の巫子が二人あって、表門前に宿屋を兼業していた。元禄正徳頃には幣司、鳥飼、大石、五十田等の名が見えている。維新頃の所作を見ると、神楽と云う程で無く極簡素な業で、講中や氏子の乞いにより、神楽所にて鈴の行事を行うのである。社役人と同じく下級の社人となっていた。然れども苗字帯刀はしていた(中山曰。読み易きよう句読点を加えた所がある)。
当代の巫女の生活と収入とを説いて詳細を尽しているが、併し斯うした事象は、独り広田西宮の両社に限られたことではなく、他の名神大社に附属していた巫女の上にも在った事と想われる。勿論、神徳の高下や、神社の隆替によって、その悉くが軌を一にしていたとは言われぬが、大体において共通したものと考えて差支ないようである。従って巫女の収入は一定の給分よりは、臨時に参拝者より受くる纏頭が多きをなしていたのであろう。江戸期になると、巫女の神社における位置は極めて低下し、殆んど有るか無きかの待遇に甘んじなければならぬ迄に余儀なくされていたが、それでも神楽銭の分配だけは収得する権利を有していた。是等に就いては、第三篇に述べるので、茲に保留して置くが、平安朝頃の巫女の臨時収入は蓋し尠くなかったであろう。さればにや、既述の如く、金持の巫女を後妻に迎えた大臣のあったことが「宇津保物語」に見え、更に「源平盛衰記」によれば、平清盛が厳島の内侍(巫女)を愛し、その間に儲けた女を宮中にすすめ、然も此の内侍は、後に土肥実平の妻となったことが載せてあり、所謂、氏なくして玉の輿の好運を贏ち得た者もあったに相違ない。時代は降るが、室町期に常陸国鹿島神宮の物忌(即ち巫女)が、田地一町歩を同地の根本寺に永代寄進した古文書(著者採訪)が同寺に保存されている。左にこれを転載する。
奉寄進田地之事
合壱町者{鹿嶋郡宮本郷之内/神野下青木町也}
右彼田者依有志限永代寄附根本寺者也末代於此田不可有他之違乱妨如往古可被知行仍為後証寄附之状如件
応永十九年{壬/辰}十二月三日
鹿島太神宮 物忌 妙善
当寺長老水賛西堂
鹿島社の物忌は、他の巫女とは多少性質を異にし(此の事は既述した)ているし、殊に此の寄進者は物忌でありながら、仏教の篤信者と思われるので、此の一例を以て、他の総てを律することは、元より危険である。否々、危険ばかりでなく、是等は一般巫女の生活から見れば、全く稀有のことであって、その多くは薄給に苦しみ、世過ぎの途に窮していたのである。例えば「越知神社文書」に、
大谷寺(表袖書)「得石御子補任谷下禰宜子」
補任 八乙女神人事
橘氏女
右以彼人所補任神人八乙女等宜承知、敢以勿違失、依大衆僉議、所補任之状如件
延徳二年四月 日  公文在庁法印
             院主伝燈大法師
とある。大衆の僉議の、補任のと、大袈裟であるから、巫女の収入もこれに伴うものかと思えば、事実は極めて貧弱のもので、漸く祭礼のある毎に「大飯二前」か、「大飯三前、小飯四前、酒二瓶子」かの分け前を受ける外には、「御神楽料米銭成在所」として「六斗応神寺、八斗在田村、八斗坪谷村、二斗厳蔵寺、壱貫文田中郷」等の給分を〔四〕、然も神楽に従事する楽人や、八乙女など、大勢で分配するのであるから、その収入は実に粥を啜る程の乏しきものであった。されば、信仰の衰えると共に、巫女の地位も下り、後には下級の神人の妻女が、片手業にこれに従事するようになってしまったのである。
記事が少しく前後するが、武家が勃興した鎌倉期にあっては、武家のために往々神領を奪取され、神社の経営にすら困難を来たすようになったので、さらぬだに軽視されていた巫女にあっては、猶お一段と給分を減少され、或は没却される破目に置かれるのであった。「吾妻鏡」巻三十三に、此の事を考えさせる左の如き記事が載せてある。
一、神宮御子職掌等、依為祠官、所充給之地、無指罪科、乍帯其職、不可点定事
一、同社司給地、無上仰之外、別当以私心、不可立替遠所狭少地事
一、依為社司、令拝領地輩之中、無子息之族、或譲後家女子、或付養君、権門致沙汰之間、新補宮人無給地之条、不便事也、自今以後、子息不相伝之者、付職可充行其地事
以前条々、社家存此旨、不可違失之状、依仰下知如件
延応二年二月二十五日  前武蔵守(泰時)
斯うして幕府の保護のあるうちは、まだ巫女の給分も多少の確実性を有していたが、これが武家の押領が猖んになり、此の反対に神威が行われぬようになれば、巫女の生活の如きは、有るか無きかの境地に落されたのも、又た止むを得ぬ世の帰趨であった。
更に神社を離れて村落に土着した口寄系の市子の収入であるが、之に就いては、皆目知ることが出来ぬのである。これこそ、全く私の寡聞の致すところではあるが、止むを得ない。江戸期になると、多少とも知るべき手掛りが残っているが、それ以前にあっては、その手掛りすら発見されぬ。併しながら、強いて想像すれば、その収入は決して多かったものとは考えられぬ。後世の事情を以て中世を推しても、流行ッ児とか上手とか言われる程の者であったら、生活するだけ位の収入もあったろうが、それ以外の者では、漸く糊口の料を得るのが関の山であったろう。旅を漂泊した巫女にあっても、内職の性的収入を別にしたら、その所得は必ず尠少であったに相違ない。
巫女は聖職に服する関係上、その風俗において常人と異るものがあったと思うが、之を証示する資料は余り多く残されていない。「続日本紀」巻三慶雲二年十二月の条に「令天下婦女、自非神部斎宮宮人及老嫗、皆髻髪云々」とあるのは、古代から巫女は、放ち髪(後世の下げ髪)であって、然も文武朝においても、猶お髪を結ばずとも差支ない事を許されていたのである。鉢巻と千早は、神に仕える女性が一般に用いた古制であるから、口寄せ市子も必ずやこれに倣ったことと思う。時代が迥かに降って室町期の末頃になると、関東辺の市子は、武田信玄が許せるという特殊の竹ノ子笠(此の事は第三篇に詳述する)を被り、信濃巫女は一名を白湯文字と呼ばれただけに、二布の白き湯具を纏うのを常としていたようであるが、これ以外にあっては、未だ耳福に接して居らぬのである。
〔註一〕古代から中世へかけての巫女は、恰も近古の琉球の祝女の如く、一定の口分田を有していたことと思うが、これを明確に証示する資料は見当らなかった。後世の「御子免(ミコメン)」又は「神楽免」或は「獅子免」などと称する神田は、各地方の神社の附属地として存していたもので、即ち巫女の給分であったことを意味しているのである。併し、それも江戸期になると、多く民有地となってしまい、纔に耕地の字名として残るようになってしまった。
〔註二〕「山槐記」治承三年六月七日の条に「今暁前太政大臣(平清盛)令参安芸伊都岐嶋給(中略)於放被□経供養竝内侍(巫也)等禄物料也、卅石可有許督云々」と見えている。即ち巫女の臨時収入の一例である。
〔註三〕此の問題は、吉井翁の洽聞を以てしても、猶お解し難しとある如く、相当に難問ではあるけれども、茲に試みに私見を簡単に記せば、西宮神社のエビス神には、末社に一ノエビス、二ノエビス、三ノエビスと三社あり、後にこれを、一郎殿、二郎殿、三郎殿と呼び習わしたものと信じている。それ故に一戎台とは、即ち一ノエビス(一郎殿)に仕えた巫女で、台とは女性の通称を用いたものと思う。後世の巫女の「神おろし」の一節に「一郎殿より三郎殿、番もかわれば水もかわる」云々とあるのは、必ずしもエビス神を指したものとは言えぬかも知れぬ(此の事は猶お第三篇の本文に述べる)が、之が一神、二神、三神の意であることは、明白である。エビス三郎とあるより推して、事代主命が三男であるなどという合理的説明の信用すべき限りでない事は、既に拙稿「エビス神異考」(郷土趣味連載)で発表したところである。吉井翁、果して私見を是認せらるるか否か、参考までに附記するとした。
〔註四〕「越知神社文書」の享禄二年五月の「越知山大谷寺所々御神領坊領目録事」その他に拠った。因に言うが、越知神社は、越前国丹生郡糸生村大字大谷寺に鎮座の郷社である。 
第三節 巫女の流せる弊害と其の禁断

 

巫女教であった原始神道が、時勢に促されて神社神道となり、更に政治的の意味が加って、国体神道とまで発達するようになれば、従来は正信と認識されていた巫女の言行は、漸くにして悉く迷信と解釈せられるのは、蓋し止むを得ぬ世相の成り行きであった。加之、支那の蠱術を受け入れ、仏教の吒吉尼の邪法を附会するようになれば、巫女の言行は全く有害無益のものと化し去ってしまったのである。而して此の流毒は、既に古代から存していて、治者の間には、厄介なる問題として、取扱われて来たのである。「皇極紀」三年の条に、
秋七月、東国不尽川辺人、大生部多、勤祭虫於村里之人曰、此者常世神也、祭此神者、致富与寿、巫覡等遂詐託於神語曰、祭常世神者、貧人致富老人還少、由是加勧捨民家財宝、陳酒陣菜六畜於路側、而使呼曰、新富入来、都鄙之人、取常世虫、置於清座、歌舞求福、棄捨珍財、都無所益、損費極甚、於是葛野泰造河勝、悪民所惑、打大生部多、其巫覡等、恐休其勧祭云々(国史大系本)。
こうした迷信騒ぎが、常に巫覡の手によって醸され、その弊害は各地に存したことと思うが、就中、それを助長したのは、奈良朝の聖武・称徳の両朝が、事に猖獗を極めたようである。聖武帝は崇仏の余り、正信の境を越えて、迷信に玉歩を入れさせられたように拝さるる点もあり、称徳帝は女性であらせられた上に、前には恵美押勝を、後には僧道鏡を召されるなど、此の両朝には、巫覡の徒が跳梁すべき間隙が相当に多く存していた様であるから、自然とかくの如き結果を招致したものと考えられる。「続日本紀」天平勝宝四年八月の条に「捉京師巫覡十七人、配伊豆隠岐土佐等遠国云々」と見えたるを始めとし、同じ天平勝宝六年十一月の条には、左の如き記事が載せてある。
薬師寺僧行信、与八幡神宮主神多麻呂等、同意厭魅、下所司推勘、罪合遠流、於是遣中納言多治比真人広足、就薬師寺宣詔、以行信配下野薬師寺、丁亥従四位下大神朝臣杜女、外従五位下大神朝臣多麻呂、並除名従本姓、杜女配於日向国、多麻呂於多褹島、因更択他人補神宮禰宜祝云々。(続日本紀巻十九)。
此の杜女は屢記の如く、孝謙朝に東大寺の大仏が建立せらるる際に、遠く九州より宇佐八幡神を奉じて入京し、神仏一如の実を示したので、御感に入り、従四位に叙せられ、封戸を賜った巫女であるが、忽ち或種の事件に触れて、遠流に処せられたのであるが、その理由が蠱術にあることは言うまでもない。而して此の事は、前にも一言したが、奈良朝から次期の平安朝へかけて、頻りと蠱術に由る疑獄が起っているが、これは一面において、当時こうした事実の猖んに行われていたことを明かにするものであると同時に、一面においては、是等を利用する政治家の在ったことを注意せねばならぬのである。当時、巫覡の徒が、如何に識者の嫌厭を買っていたかを証示するものとして、吉備真備の「私教類聚」のうちから、左の一節を引用することが出来る。
莫用詐巫事
右詐巫之徒、里人所用耳也、真之巫覡、官之所知、神験分明、不敢所謂者也、但子孫汝等、好用詐巫、具聞巫言、何費若此、又生死病死、理之所然、天下含生、何物不死、詐巫邪道、豈得更生、何者巫之子孫、何為夭折、巫之家道、何至貧窮、未得我身、何与他願、宜知此意莫信詐巫、又常経他家、詐説怪異、教以解潔、即脱衣裳、損失過多、絶而无益、凡偽巫覡、莫入私家、巫覡毎来、詐行不絶(史籍集覧本「政事要略」巻七十所載)。
此の「私教類聚」なるものが、果して真備の遺誡であるか否かは、学問的に見れば、多少の疑いなきを得ぬのであるが、その詮索は姑らく措くとしても、兎に角に「政事要略」が編纂された平安朝においては、そう信じられていたことだけは、事実と見て差支ないようである。而して此の文意を解釈すると、真備は、(一)巫女を二大別して詐巫と真巫とに分ちしこと、(二)詐巫は里人の用うるもの、即ち後世の口寄系に属し、真巫は官用のもので、即ち後世の神和系に属するものとしたこと、(三)詐巫は主として邪道を行いしこと、(四)詐巫の説くところは延命と招福とにあったこと、(五)そして彼等を信ずると多大の失費を要した事などが知られるのである。若しこれにして誤りなくば、千年余を経た江戸期の市子と殆んど択むなき言行と云うべきである。
巫覡の弊害は、年と共に甚大を加えて来たようで、遂に光仁朝の宝亀年間には、左の如き禁断の勅令が発布さるるに至った。即ち「類聚三代格」巻十二に載せてあるものが、それである。
禁断京中街路祭祀事
勅、比来無知百姓、構合巫覡、妄崇滛祀、芻狗之設、符書之類、百方作怪、填溢街路、託事求福、還渉厭魅、非唯不畏朝憲、誠亦長養妖妄、自今以後、宜厳禁断、如有違犯者、五位已上録名奏聞、六位已下所司科決、但有患祷祀者、宜於京外祓除、(国史大系本)。
宝亀十一年十二月十四日
此の禁令の内容によれば、当時、巫覡の詐術に迷うたものは、決して無智の百姓ばかりでなく、五位六位の有識階級にも少くなかったことが窺われ、且つ巫覡が専ら延寿招福を説き、種々なる呪術を敢てし、殆んど後世の医師の如き真似までしたことが想われるのである。而してかかる巫覡の出没は、恰も野火焼いて尽きず、春風吹いて又生ずる雑草の如く、官憲の力を以てしても、根絶することは出来なかったと見え、歴聖ともに、これが禁断の法令を下している。同じ「類聚三代格」巻十二に、大同年中の禁令が見えている。
応禁断両京巫覡事
右被右大臣宣、称、奉勅、巫覡之徒好託禍福、庶民之愚仰信妖言、滛祀斯繁、厭呪亦多、積習成俗、虧損淳風、宜自今以後、一切禁断、若深祟此術、猶不懲革、事覚之日、移配遠国、所司知之不糺、隣保匿而相容、並准法科罪、
大同二年九月二十八日
此の禁令で、特に注意すべき点は、巫術を行う者は勿論のこと、それを信仰する者、並びに情を知って不問に附せる所司、及び是等を隠匿せる隣保の者まで、連座して罪科に処すと規定したことである。察するに、尋常の刑罰を以てしたのでは、到底、この習を積み、俗を成した害毒を掃蕩することが出来ぬので、遂に遠流というが如き重刑を科した上に、隣保を以て互に相警戒させる方法に出たものと考えるのである。併しながら、飯の上の蝿の如き彼等は、追えば散ずるも、追わねば直ちに集り来て、以前にも幾倍した跋扈をつづけて止まぬのであった。勿論、当代において、かく巫覡の徒が民心を支配していたのは、その時勢が要求したことを考えなければならぬ。貴族政治はややもすると、国民を一種の搾取機関として軽視する傾きが生じ易く、民権は常に圧迫されて伸長する機会は与えられず、此の反対に、悪疫は絶えず生命を脅し、群盗の出没や、飢饉の襲来は生活を不安ならしめるなど、民心は弥が上にも、迷信に奔らざるを得なかったのである。従って、官憲において、巫覡禁断の法令を雨下したところが、その根患が救済されぬ以上は、中々に払拭さるべき筈がないのである。されば代々の朝廷が、これが剿滅に努めたるにもかかわらず、神託は依然として濫出し、巫術は以前にも増して猖行されていたのである。左に掲ぐる太政官符の如きは、神託の濫出を官憲が持て余した内情が窺われるのである。即ち「類聚三代格」巻一に曰く、
応検察神託事
右被大納言正三位藤原朝臣園人、宜、称、奉勅怪異之事、聖人不語、妖言之罪、法制非軽、而諸国民信狂言、申上寔繁、或言及国家、或妄陳禍福、敗法乱紀莫甚於斯、宜仰諸国令加検察、自今以後若有百姓輙称託宣者、不論男女随事科決、但有神宣灼然其験尤著者、国司検察定実言上(同上)。
弘仁三年九月二十六日
こうした禁令も、仔細に詮索したら、まだ此の外に存することと思うが、今は大体を尽すにとどめて、本節の結論に急ぐとする。而して私の寡聞かは知らぬが、此の種の禁令も平安前期を境として、それ以来は余り厳重なる取締法の発布に接していぬのである。それでは、巫覡の出没と、余弊とは、全く跡を絶ったかと云うに、事実はこれを裏切って、益々その数と量とを加えているのである。此の事象を見て、私の考えたことは、古代から平安前期までは、官憲の力を以てすれば、これを掃蕩することが出来ぬまでも、幾分なり制御し、矯正し得られたのであるが、平安後期以降にあっては、社会の紐帯も弛み、上下とも迷信に惑溺した為に、これを取締る力が全く失せてしまった許りでなく、却って之れを増長せしめるような態度さえ見える位である。而して斯うした世相は、時に消長あるも、鎌倉・室町の両期を通じて大なる渝りもなく、更に江戸期に入っては、巫女の堕落が、自己の地位を低め、殆んど問題とされぬまでになったので、厳重なる禁令もない代りに、漸く余喘を保つという有様を持続したのであるが、かくて明治期に入り、遂に禁絶さるるに至ったのである。
本篇を終るに際して、一言附記すべき事がある。それは外でもなく、総論において述べた「巫女化石」の伝承によって、当代の巫女に対する俗信を記述しようと思い、その材料を集めて置いたのであるが、これに就いては、既記の如く、柳田国男先生が「郷土研究」に連載した「老女化石譚」に尽しているので、私の浅学を以てしては、これ以上に言うべきことは少しも無いと信じたので、今は総てを省略し、篤学のお方は同誌に就いて御覧を願うとした事である。偏に読者の寛容を乞う次第である。 
 
第三篇 退化呪法時代

 

第一章 巫道を退化させた当代の世相
第一節 巫女の流派と是れに対する官憲の態度
従来の史家は、室町期三百年間を闇黒時代と言っている。成る程、将軍の威令が地に墜ち、社会の秩序は毀たれ、海内は群雄の一起一仆の戦乱の巷と化し、国民は塗炭の苦を続けると云うのであるから、闇黒といえば言われぬこともないが、併し国家としては、相当の発達を遂げているのである。将軍代々の僭上好きは東山美術を大成し、五山文学の振興はやがて儒教の普及となり、支那及び和蘭との交通は、海外の新知識を呼吸するなど、後代の文化を招致すべき準備が講ぜられていたのである。殊に、巫女史の立場から見て、注意すべき点は、戦乱の苦杯を満喫させられた社会と民衆は、物質的にも精神的にも、深甚なる困憊を経験したのである。而して此の結果として、民間に著しき増加を来たしたものは迷信である。江戸期から明治期の中頃まで、民間に行われた迷信の多くは、概して室町期において集成されたものである。財神信仰である七福神も、暦術の中段下段の穿鑿も、七曜九星の方術も、更に明治初年に廃止された修験道も、此の修験道と運命を共にした市子なる者も、その他の冠婚葬祭、及び日常生活に伴う細大の迷信的事象は、殆んど此の室町期に工夫されたものか、又は大成されたものである。迷信と空想とは、失望時代の産物である。巫女史の観点に起つとき、室町期は注意すべき時代たるを失わぬのである。
此の室町期に代った江戸期の三百年は、軍国政治を基調としただけに、重刑主義と威嚇主義とが幕府の総てであった。勿論、幕府は、当時の神道や、仏教が、共に形骸だけであって、民心を支配し、陶冶するに足らぬことを知っていたので、隆んに儒教を重用して、教化主義を鼓吹した。併しながら、搾取機関として存在を許されていた国民の生活は、単純でもあり、寂寥でもあり、且つ空虚でもあった。従って迷信が国民の生活に彩りを加えて、単調を救うようになったのも、当然の成り行きである。実際、江戸期の国民は、迷信を好んでいた。然もこれを勇敢に実行したものである。市子の如きは、此の時代にあっては、極端にまで堕落して、夙にも自滅すべき程の状態にありながら、猶お且つ全国の津々浦々にまで存在していたのは、国民が挙って迷信に沈湎していたためである。
本篇においては、此の室町期の末葉から江戸期を通じ、更に明治の禁断と、大正の余喘期を述べるのであるが、巫女は堕落し、呪術は胡盧を描くにとどまっているので、少しく不熟の嫌いはあるが、姑らく退化呪法時代と称した所以なのである。
市子(口寄系)の流派は、前代を承けて、これを形式から見るときは、紀州熊野系、加賀白山系、稲荷下げ、飯綱遣い、夷子おろしなどが存していたようであるが、その悉くが、殆んど雑糅してしまって、私の浅学では、それを明確に区別することが出来ぬのである。更に呪術の方法においても、梓弓(長短の二種がある)を用いるもの、珠数を用いるもの、例の外法(髑髏)神を用いるものなどが在ったようであるが、これも全く混淆してしまって、同じく私の寡聞では、仔細に判別することが出来ぬのである。換言すれば、熊野系は珠数を用いるとか、白山系は梓弓をたたくとかいう分類が出来ぬのである。
例えば「丹後宮津府志」巻中に、同国与謝郡宮津町字中ノ町の鉾立山大乗寺の中興開山僧寛印が、下向の途すがら丹波の桂川にて一女に逢い、破戒して之を伴い、同町字波路町に居住するうち、一女を儲けた。後に寛印これを悔い枳椇(ケンホナシ)の病気に利くと謀りて、婦人を黒崎山に赴かしめ、その身は死せりと偽り、鱇魚(コノシロ)を焚き、火葬の態をした。婦女帰り来て、此の事を聞き悲しみて、海中に投じて死んで了った。残った娘は、成長して後に巫女となったが、これが我国の梓巫女の始めである。その子孫代々波路町に在りて、巫女を業としていたが、近世に至り、同所は断絶し、但馬国に末孫が残っているそうだ。波路町に神子(ミコ)屋敷、神子川などの地名が今に在るのは、此の由縁である云々。僧寛印が丹後に赴いたことは「元享釈書」にも載せてあり、その年代は、凡そ一条朝の寛弘八年頃と考えられるが、これの娘が我国の梓巫女の権輿者などとは信じられぬし、更に鱇魚を焚いて、火葬の態をすることは、下野国の室ノ八嶋の故事を附会したものと思われるので、従って、此の記事の学問上の価値は、頗る割引されるのであるが、強いて云えば、何か僧寛印から呪法を学んだ巫女のあったことを意味したもので、所謂、一派をなした巫女があったのではないかと考えられぬでもないが確証なきが如く、概念的には巫女の異流別派を認めるものの、さて具体的には、克明に詮索することが出来ぬのである。これは雑糅されてから余り多くの年代を経たのと、元々、公札の裏の営業であったために、長い間の秘密が、斯うした結果を将来したものと見るより外に致し方がないのである。
室町幕府が是等の巫女に対して、如何なる態度を以て臨んだかに就いては、是れ又た何事も寡聞に入らぬ。併し幕府としては、戦乱に慌しくして、さる些末の事には配慮する余裕もなかったろうし、或は制令を下すようなことがあったとしても、下克上を世相とした当代にあっては、励行されたとは考えられぬ。然るに国々の領主にあっては、おのがしじ適当と信ずる方法を以て、巫女に対していたようである。その一例を覓めれば、武田信玄は巫女を公許し、巫女頭と称する取締人を認め、これに左の如き免許状を与えている〔一〕。
今度自身聞附の神託無誹謗真法顕然之至令感人畢依而分国之内右職分ニテ徘徊之輩
対当家江守護長久可抽之旨依而如件
今福民部奉
丸龍朱印 永禄十二年 巳五月 日
甲信両国神子頭
   千代女房へ
戦国の英雄は、概して迷信が強く、信玄の好敵手であった上杉謙信の如きも、篤く飯綱の邪法に陥り、それが為めに生涯、女色を遠ざけたとまで伝えられている〔二〕。信玄も又その一人であって、常に巫覡の言を信じ、或は利用したものと見え、此の外にも信州戸隠神社の巫女に祈願を命じた文書が残っている〔三〕。而して此の免許状を受けた千代なる巫女は、信州の名族滋野氏の末裔で、此の女が後に小県郡禰津村に土着し、日本一の巫女村(ミコムラ)を造るようになったのであるが、それに就いては、後段に詳述する考えである。
江戸幕府は伝統政策として、特殊の職業に対しては、出来るだけ自治を許し、所謂、治めざるを以て治むる方針を執ったのである。盲人に当道派と称する団体を認めて、殺人、放火、姦通の三罪以外には、団体の名を以て刑の執行まで許し〔四〕、修験道にあっては、更に石子詰の極刑まで黙認したと伝えられている〔五〕。従って巫女の如きは「帳外者」として、一切の納税を免除すると同時に、古くはエタ頭弾左衛門の配下とし〔六〕、後には「遊民」として之を取扱った。「続地方落穂集」巻二の「人別四段認様之事」と題せる記事中に、遊民として「陰陽いち御子の類、釜祓、瞽女、虚無僧、鉦打、行人」等を挙げているのが、それである。既に帳外者であり、遊民である以上は、巫女の社会的地位は極めて低級なるものであって、全く普通民とは伍することの出来ぬ境涯に置かれ、院内、算所、願人などと同視されていたのである。されば殆んど全国に亘って巫女を賤め、甲斐のシラカミ筋、中国のミコ筋を始めとして、普通人はこれと通婚する事さえ絶対に拒否したものである。「徳川禁令考」巻四十「神社神職之者評定所着席之例」に「神子女に候得者、下椽」と定め、更に但書にて「巫女と認候ても神子(ミコ)と読申候」としたのは、即ち神社に附属する神子であって、巫女は神子の名によって、漸く此の資格を得るという有様であった。それであるから、江戸期には神社附属の神子と、町村土着の市子との権限、及び作法を厳重に区別し、前者は悉く吉田家の管下となし、後者は関八州にあっては田村家の配下となし、その他は、国々の触頭ともいうべき者に、支配させたのである。「聞伝叢書」巻四(日本経済大典本)に載せた左の裁許状は、前者の作法を明記したものである。
神子之事
信濃国小県郡古町諏訪大明神新町諏訪大明神両社之神子志摩着赤色早舞衣任先例神事神楽等可勤仕者
神道裁許状如件
宝暦七年四月十六日
   氏刂阝月
神祇管領長上従二位神権大卜臣兼雄
   示畐礻𠦝
四組木綿手繦之事許宮神子志摩起、向後可掛用之状如件
宝暦七年四月十六日
   神祇管領
右之外中臣祓三種祓六根清浄大祓相渡也
右は吉田家より長久保町神子志摩へ之許状写也、且神子官位之儀者、師匠神主祠官等之取次にて相添由志摩申聞候、且国名を不附朝日春日抔と申名之神子は無官にて、瓔珞金入之千早等者不相成神子祠子山伏等を師として七釜条抔と申法を請、鶴亀模様等之白絹千早着神楽等勤候段、右志摩申聞候事。
即ち此の裁許状の証示するところに由れば、(一)神子は、志摩とか、山城とか、国名を附けることが出来たが、市子は、それが出来ぬので、朝日とか、春日とか称したのである。(二)神子は、瓔珞金入りの千早を着ることが出来たが、市子は鶴亀模様の白絹の千早より着ることが出来なかった。猶お後出の文書によると、(三)神子は、湯立の神事を行うことを許されていたが、市子は行うことを禁じられていたようである。而して後者の所属(関八州の市子の事は次節に述べる)に就いては、「民族と歴史」第四巻第四号所載の「須富田村(中山曰。土佐国香美郡?)疋田七五三太夫文書」に下の如き下知状が見えている。
追而申遣候、物部川より東甲浦限、両郡中所々算所取前神子くし之事、前々のごとく此主馬太夫に申付候間、先代□□万事可申付候、並、役義等之事無油断可仕候也
二月六日  (山内)一豊(花押)
   かかの郡
   あき郡
    所々庄屋中
此の文書によれば、土佐国にては、市子は算所の配下に属し、然も算所に対して、多少の役銭(取前神子くしとは此の意なるべし)を納めたようにも思われるのである。市子の社会的地位は、全くドン底であったとも云えるのである。猶お、吉田家管下の神子と、修験派支配の市子との間に起った、権限作法等に関する訴訟に就いては、後段に記すので彼之を参照せられたい。
〔註一〕此の古文書は、東京市外杉並町馬橋百四十番地町田良一氏の発見保管せるものにて、同氏の好意で、茲に掲ぐることが出来たのである。謹んで謝意を表する次第である。
〔註二〕「関八州古戦録」で見たと記憶している。
〔註三〕「徴古文書」の乙集に載録してあるが、本書には関係が少いので、省略した。
〔註四〕「当道大記録」、「瞽幻書」、「当道式目」等参照せられたい。
〔註五〕「郷土研究」第四巻第六号所載の拙稿「石子詰の刑に就いて」を参照されたい。
〔註六〕弾左衛門の家に伝えた治承年間源頼朝の下し文のうちに、賤業卑職二十八種を挙げて、支配すべしとあるうちに、巫女がある。勿論、此の文書は、疑いないまでの偽書であるが、然も此の偽書であることを知っていながら、幕府が弾左衛門に支配させたところに、治めざるを以て治むるとした政策が窺われるのである。 
第二節 関東の市子頭田村家の消長

 

江戸期のうち約二百年の長きを通じて、関東八ヶ国と、甲信二ヶ国、及び奥州の一部へかけての市子は、江戸浅草田原町一丁目に住した田村八太夫(代々此の名を通称としたが、家の伝えによると、関八州の支配をしたので八太夫と称したとある)なる者が、代々市子頭として、一切の取締りをして、明治期に至ったのである。従って、田村家の詳細を知ることは、一面江戸期における神子の生活に触れ、一面八太夫配下の市子の呪術の他と異るところを考えさせるものがあるので、茲に私が親しく田村氏の遺族を訪ねて、見聞せるものと、諸書に散見せる記事とを参酌して、出来るだけ委曲を尽したいと思っている。江戸期における或る種の意味の名家であった田村氏も、明治期の大勢に打ち敗られて退転し、遺族も僅に女子一人を残しただけで、他は悉く死に断えてしまったので、今にその事跡を伝えなければ、遂に煙滅に帰してしまうと考えたからである。 
一 田村家の由来と舞太夫
田村家の家系は、何でも彼でも無理勿体をつけたがる江戸期の影響を受けていて、かなり粉飾されていると同時に誇張の限りを尽したものである。明治二年に東京府へ書上げたと称する書類の手控に由ると、同家は本国は参河、佐々木源氏の支流で、一時兵乱を避けて、相模国田村郷に住んだので、田村を姓とすることになったが、初代田村直親が、天正十八年小田原征伐のとき、徳川氏に仕えて戦功があったので、釆地二百石を賜り、後に慶長五年関ヶ原の戦役に、又々殊勲あって、三百石を加増され、代々旗下の士として、江戸幕府に仕えて来た。然るに、四代田村道則のときに至り、正徳三年正月、関八州及び甲信奥の十一ヶ国の、神事舞太夫の支配を願い出たところ、
権現様(中山曰。家康)御由緒を以て、職号を習合神道関東一派武官神職と相唱改、国々職掌之者法例取極渡度旨、安藤右京亮殿を以て御許容(中略)、是迄頂戴の高差上、惣支配下より役料と唱壱人別鐚六百孔宛取立度旨相願候処、同十二月中御聞済(中略)、代々各例を以支配一手に御任被遊、御用書物役所と唱、京都に差図を不受、進退共仕候事云々。
と先ずその由来を記し、更に、
天文年中十一ヶ国御免勧化永代御容ノ義、松平左近将監殿奉願候処、御聞済に相成御代々様無滞被下置候事。
と記載してある。而して更に、同家に伝えた別紙の系譜に由ると、田村氏は饒速日命より四十三代(一々神名と人名とが書いてあるが省略する)を経て、印葉太郎物部政雄より分れ、幸松物部直親より四代を経て、前記の初代田村直親になったと記してある。
是等の家系や、由来が、到底、信用すべき限りでない事は、記事そのものが、有力に証示している。私はこれに関する管見を述べる前に、更に十三代目田村甲子太郎氏(即ち最後の田村八太夫)が、大正七年四月二十六日より同年翌月三日まで、前後七回に亘って「都新聞」に連載した記事中から、家系に関する主なる点を抄出して、両者の間に如何程の相違があり、従って同家に伝えた由緒書なるものが、如何にするも無条件では受け容れられぬことを明示したいと思う。即ち、
大阪落城の折に、徳川家康を助けた桶屋の親爺が江戸へ下り、浅草田原町に住し幸松勘太夫と称し、関八州の巫女の取締りとなった。吉田家(陰陽師の家)、土御門、白河、幸松の四家だけで通婚して、他家とは縁組しなかった。関八州の取締となったので八太夫と通称を言うようになり、後に浅草三社権現の祠官となったのである。
これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子(最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族)は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために「桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶がわで家康を助けたのである」と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶がわの中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。
更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賤業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、
江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。
と記している。而して私の愚案を簡単に云うと、田村氏の祖先は、三河院内の作太夫の徒であったのが、家康が江戸に幕府を開いたので、その縁故を言い立てて、神事舞太夫の取締となり、後にずるずるべったりに、巫女の取締まで兼ねるようになったのであると考えている。全体、江戸期における舞々は、帳外者の職業であって、その取締は、例の弾左衛門がして来たものである。その舞々に、少し毛が生えた位の舞太夫を、好んで勤めるほどの八太夫、饒速日命は愚かのこと、作太夫と同じ畑の者と見るのが至当のようである。殊に家系にも幸松の姓が見え、八太夫の記事にも幸松とあるのから推すと、作太夫の徒が幸松の業を学び、江戸に居ついたものと考えても、差支ないようである。 
二 習合神道と舞太夫の関係
文化年中に、江戸幕府で、諸国の地誌の編纂を企て、これが資料を覓めて、一二の地誌の脱稿を見るに至ったが、その中に、文化十三年に江戸市内から書上げさせたもので「御府内備考」と云うのがある。此の巻十六浅草田原町の条に、田村家に関する詳細なる書上が載っているので、少しく長文に亘る嫌いもあるが、左に転載して、これに私見の蛇足を添えるとする。
習合神道神事舞太夫頭田村沢之助
 沢之助幼年に付後見友山求馬書上左之通
一、習合神道神事舞太夫家道之儀は、往古より相立、頼朝公御治世始て支配頭相立、乍恐、御当家に至ては、御入国之砌参州より御供仕、習合神道神事舞太夫頭被仰付、京都神家之不請差図、御公儀御威光を以一派相極め被下置、支配下の神主宮持並社役之者には、頼朝公並北条家之御墨附致所持候もの、又は御府内御免勧化被仰付候者有之候、且支配下へ風折烏帽子装束之許状差出申候。尤右免許之儀者私代替家督被仰付候段、御奉行所於御内寄合に先格之通被仰渡候、且呼名国名等も差免し候事。
一、習合神道一派に三像札御許容有之候。
一、竃神青襖札、古来より年々正・五・九月御府内御免、配札名代のもの巡行為致候事。
一、御免絵馬札配札之儀者、文化十三年子年十一月中、阿部備中守様え友山求馬奉願、同十二月十八日、松平右近将監様於御内寄合に願之通被仰渡、年々正月配札名代のもの御府内致巡行候。且在々えは配下のもの致配札候事。
一、当四月(中山曰。文化十三年)二十五日吹上へ被召出候一件は、吉田殿関東執役宮川弾正より、下総国葛飾郡栗沢村茂侶神社神主友野相模え吉田家配下見廻り役申付候故、同人儀田村沢之助支配下、下総国印旛郡米本村神事舞太夫小林丹波へ呼状相付、装束へ差障候に付、其段友山求馬並本庄内記、鈴木豊後より友野相模相手取奉出訴候処、段々御吟味之上今般熟談、御吟味下げ奉願候は、友野相模儀習合神道之儀者京都神家之不請指図、御公儀御威光を以一派御極め被下置候を不相弁、呼状相付職道へ差障候は重々心得違に付、訴訟方へ相詫、且宮川弾正儀も向後手入ヶ間敷儀致間敷筈にて、規定致し候事。
一、吉田家、白川家配下神主社人どもに許状無之ものは、御奉行所、御評席且御評定所へ被召出候節は、牢人台之御取扱に候得共、私支配下老若男女共に武家に属し致故、御評定所にては上訴訟へ被召出、御評席にては上椽通之御取扱に御座候事(中山曰。以下、浅草三社権現祭礼、天下乞の神楽、観音市、稲荷社の四項を省略す)。
神事舞太夫由緒
一、神事舞太夫家道之儀は、習合神道にて往古より武家に属、乍恐御公儀様御威光を以、神事舞太夫職は一派御極被下置、職札、法例、烏帽子装束之許状御許容被成下、他之神職相構候義無之、一派之職道相立来候、且又私支配之儀は関八ヶ国並信州甲州、会津表迄散在仕、配下之輩には神主に宮持、社役人之品有之、各社例を以神事祭礼相勧来は、宮々は御朱印地之配当を請、又は御料、私領之内御除地所持仕候者共数多有之、其外総支配下神事舞太夫の義は、宮持社役人未流にて、総応の且中相分習合神道を以家職勧来候。
一、関東に支配頭相勤罷在候起りは、頼朝公御治世鶴若孫藤治と申者、頭役相勤申候御墨附頂戴仕、其子孫今に相州平塚宿に罷在、御除地所持仕、鶴岡八幡宮の社役相勤罷在候、将亦小田原北条家時分天十郎と申もの、関東八ヶ国の頭役相勤御墨附頂戴仕(中山曰。此の事は「新編相模風土記稿」にも載せてある)其子孫今以相州小田原に御除地所持仕罷在候、右両人の子孫私支配下の神職にて、今以相続仕罷在候、此砌より武家に属、一派之神職相立来候。
神事舞太夫由来
一、私支配下之儀は諸国散在仕神主、社役人之品有之、代々社例を以神事祭礼神楽相勤、御除地之宮社所持仕罷在候、且亦社役人之内には天台真言或は社家本山修験之宮社にて、従古来由緒筋目を以御朱印配当、又は御除地所持仕候もの共数多御座候(中山曰。以下、水戸東照宮、水戸砂金山、浅草三社権現、千葉妙見社、武蔵六所明神、相州高麗大権現の六祭礼の神事舞太夫の記事を省略す)。
一、神事舞太夫帯刀之儀は、宮持社役人平配下之者一統従古来致来申候。去る明和三年戌二月二十四日、土岐美濃守様帯刀之儀御尋御座候に付、古来より支配一統仕来候段、親父八太夫時代書付差上申候。且又席之儀は支配下之者一同願、訴訟御座候節は先々御下通へ罷出申候。此段相違無御座候以上。
此の書上は、同じような事を幾度となく繰返して記しているが、結局は種の無い手品を遣う様なもので、取りとめたものは、一つも無いと云えるのである。元々、舞太夫の由緒に過ぎぬ問題を兎や角と詮議立てするのも大人気ない話ではあるが、「家道は往古遠久」の一点張りで逃げ道を開け、頼朝の墨附があるなどと云うかと思えば、それは田村家ではなくして鶴若家だとは、かなり人を喰った言い分と云わなければならぬ。併し、そんな事は巫女史の上からは、どうでも宜い問題であるから、深く洗い立てせぬとするが、此の書上に附いて見るも、田村氏が市子の取締をしたということは、一言半句も説明していぬ。これは如何なる事情であろうか、私としては此の詮議こそ出来るだけ充分に尽さなければならぬ問題である。以下これに就いての管見を述べるとする。 
三 田村家の巫女取締とその呪法
八太夫が関八州の梓巫女(ミコ)の取締となったのは、果して何年頃に如何なる理由に基くのか、少しも判然して居らぬ。前掲の書上にも、神事舞太夫の事は管々しいと思うほど書き列ねてあるが、市子に関しては、遂に一言半句も触れていない。若し、各地の舞太夫の妻女は概して市子であったから、夫の舞太夫を取締るという事は、直ちに妻の巫女を取締ることを意味しているのであると云えば、此の問題も容易に解決する訳ではあるが、それでは舞太夫以外の修験者の妻女である市子や、更に人妻で無い市子(此の数は決して少くなく、恐らく、修験者関係の市子と独身者の巫女の合計は、舞太夫関係の実数よりは、迥かに多かったと思われる)を如何にしたかと云う問題が残されるのである。併し、此の事の真相は、寡見に入っただけの資料では、遂に判然せぬ問題ではあるけれども、兎に角に、田村氏が江戸期の中葉から関八州の市子の取緒をして来たことだけは、否定されぬ事実である。前に引用した「聞伝叢書」巻四に左の如き文書が載せてある。
神事舞太夫並梓巫女之事
神事舞太夫次第書
一、神事舞太夫家法之儀は、往古遠久之職道にて国々散在致し、何れも習合之神道之則法を以、且中之諸祈祷相勤来申候、然に社法之儀者天台真言社家、並本山修験等之宮々に順往古より社礼を相勤申候、依之其社々之衣之装束風折烏帽子着用致し相勤申候、且又梓巫女権与之儀者、往古遠久呪歌之伝授にて、梓神子一家之法式にて他家に不伝、習合神道之行法を以諸祈祷等相勤申候、有増如斯御座候事、諸国配下の者共の儀は、乍恐常陸国水戸東照宮様御神事を奉初、同国金砂大権現大祭礼七十三年一度宛の御神事、正徳五年三月朔日に執行仕候まで十三度に及申候、依之国々に於て社礼之儀、天下泰平御武運御長久御祭礼相勤来申候事。
一、元禄十五年閏八月二十七日西宮神職と争論之節、阿部飛騨守様、永井伊賀守様、本多弾正少弼様御裁許之上にて猶以相極申候、各社役之儀、委(ママ)は正徳元年卯正月十八日本多弾正少弼様、森川出羽守様、安藤右京進様御裁許の上にて、梓神子法例文章御吟味之上御極被下置候事。
右は今般家法之儀御尋に付、支配頭田村八太夫之儀御座候得者、難尽筆紙之儀は、猶又御尋も御座候はば、乍恐以口上逐一言上可申上候、以上
江戸浅草三社権現神主
田村八太夫支配国役人
宝暦六年子三月 信州北条郡長窪新町 飯嶋与太夫(印)
   梓神子法例
諸国之散在神子如伝来相勤、諸神勧請次(ママ)家法之梓致執行、勿論神差帰上之法式、並荒神鎮座之祓及び幣帛等、以習合神道而壇中之諸祈祷可相勤之者也、若於国々粉敷梓神子於致徘徊者、以此判而相改、堅可停止事。
右書附之趣厳密可相守之矣、若以新法他職而乱家法者於有之者、急度可為越度者也
正徳巳亥暦正月十八日 神事舞太夫 田村八太夫(印)
   飯嶋 兵庫(印)
   国役人 丸山 式部(印)
之に由れば、田村家が正徳年中には、既に巫女の取締をやっていた事は明白であるし、更に「高崎誌」巻下に、
下横町に神事舞太夫という者三四人あり(中略)、彼等が妻は多く梓巫なり(中略)、彼等は江戸浅草神事舞太夫田村八太夫と云う者より、職法書を受て三社権現を祭る由云々。
と記してある。猶お少々煩雑に過ぎるようではあるが、前掲の信州長窪町の神事舞太夫である飯嶋与太夫が、妻、妹、娵の三梓巫女のために差出した関所通行の文書があるので、参考までに抄録した。これに由ると、舞太夫の家庭に在る女性は、悉く巫女を営んだようにも思われ、且つその名称などに就いても、多少の資料となると信じたので、鶏助の譏りを知りつつ、敢て此の挙に出た次第である。
上野国甘楽郡磯沢村御関所梓神子人別帳
信州小県郡長久保宿 飯嶋与太夫(印)
   妻梓神子 注連翁
   妹梓神子 宮 高
   娵梓神子 朝 日
右之通人別帳差上候処、少も相違無御座候、如例年御関所御通被遊可被下候、右神子之内紛敷者壱人も無御座候、若粉敷ものと申もの有之候はば、私共何方迄も罷出急度申訳可仕候、為後日仍如件
   年号月日
    梓神子組頭 飯嶋与太夫
右は長久保宿神事舞太夫蛭子方梓神子有之、宗門帳も別帳に差出候、然る所諸国散在梓神子共、御関所御手判なしに通候抔と所々にて申候由に付、右宿名主前右衛門を無急度内糺し候処、右之通前右衛門を以書付坂本役所へ差出候也(前掲の「聞伝叢書」巻四に拠る)。
斯うした資料がある上に、「甲子夜話」巻七十七にも、「田村氏関東の梓巫女を支配す」と裏書をしているし、且つ代々の八太夫の妻や、娘が、市子を業としていた事から考えても疑いはない。
それでは田村家に伝わった呪術の方法は、如何なるものであったかと云うに、先ず詠(ヨ)み歌(この歌詞は教えると飯の種がなくなるとて常子さんも教えてくれなかった)三十六首を基調とし、神占を依頼する人が神前へ入るまでに一首、入って坐った時に一首と云った風に声低く唱え(ここでは単なる和歌ではなくして呪文としてであることは言うまでもない)て往って、呪術を行う市子の膝の前には六張の弓(これを六首六張と云うている)を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら残りの歌を詠むのを、神懸りの作法としていた。そして六張の弓とは、梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて撚り合せたものである。此の弓の故事は、神功皇后が征韓の折に神占をなされたが、弓が無かったので、手頃の木を切って弓となし、弦には畏くも御自身の髪の毛を用いたものだと伝えている(以上「都新聞」記事摘要)。併し、私に言わせると、是等の呪法は、別段に八太夫独特のものではなく、九州の巫女が、十三仏や西国三十三番の詠歌を唱えて(此の事は後段に詳述する)神懸りするのと、全く同じものである上に、更に弓の故事などに至っては、無理勿体をつけて、俗人を嚇すほどのさかしらにしか過ぎぬ。神后の征韓といえば、戦いに赴かれる陣中であるのに、武器である弓が無いとは辻褄の合わぬ話である。
八太夫の血筋を伝えている唯一人の田村常子さんは、本年三十五歳の女盛りのお方であるが、呪術は実母の故菊子刀自(相模国愛甲郡生れ)から学び、更に菊子刀自は、祖父(十二代目の八太夫)に教えられたもので、常子さんは十九歳の娘の時から是れに従事したそうである。私が第一回に訪ねた際には、家に伝えた呪術用の外法箱(ゲホウバコ)(高さ一尺ほど横八寸ほど幅五寸ほど、外は黒漆塗り内は朱塗り、印籠蓋になっていて、蓋をとると中に深さ一寸位のかけ盒があって、常には玉珠数を入れて置いたという)や、玉珠数(これに就いては後に述べる)その他の秘伝書まで見せてくれ、種々親切に話してくれたが、その折に外法箱に関して語られるには、
この箱はずっと以前には用いたそうですが、母の代からは遣わぬことになっていました。外の梓巫女は、此の箱の中へ犬の頭だとか、又は木偶だとかを入れると聞きましたが、私の家では是等の物は一切用いず、ただ十八柱の神の名(この神名を尋ねたが、常子さんには明確に答えられず、多分、天神七代に地神五代を併せ、その他に六柱を加えたものでしょうとの事であったが、それでは後に載せる常子さんの亡父八太夫の話とは少しく異る点がある)を紙に書いて入れたに過ぎません。
と殆んど弁明的の態度で語られたが、紙に記した神名を納めるには、如何にも箱が深かすぎるので、或は古くは他流の市子と同じく、何か異物を納めたのではあるまいか。
猶お「都新聞」の記事によると、八太夫も後になると、
古風の通り遣っていたのでは、頼む方が笑って相手にせぬので、切り離した珠数(常子さんの話に、此の珠数の珠は我国の数を象って六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加えてある。そして神占のときには、その珠を九々で払って往って、残った数でやるのだという。私は全く周易を真似たようなものだと考えた)一本と、錦襴の布に包んだ女神六柱と、男神六柱の神名を書いたもので、伺いを立てた。
と語っている。そして此の珠数を用いる事を、俗に「珠数占(ジュズウラ)」と称している。又た同家に伝えた呪術に「九気(キュウキ)」の法とて、一気天上ノ水、二気虚空ノ火、三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気欲界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九気山中ノ金というがあり、更に「神降(カミオロ)し」の呪文は、神を祭るとき、仏を呼ぶとき、生霊を招ぐとき、病気を治すとき、神占のときなど、事毎に別のものがあるとて、これは教えることを好まぬようであったので、私も深く尋ねることを差控えるとした。併し強いて言えば、九気の法と称するものは、現に一部の迷信者の間に行われている九星と称するものと、さして変っているとも思われぬし、且つ数珠占も、他の市子(大正六年、東京市外亀井戸町の天満宮の裏門の所に市子がいるので、学友ネフスキー氏と携え訪ねた時にも、此の数珠占のことを聴かされた)も用いるので、神降しの呪文も又そうしたものではないかと考えられる。
そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が「一二三四(ヒフミヨ)南無阿弥陀仏」を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は「一二三四五六七八九十百千万」と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである(以上「都新聞」記事摘要)。
呪文の正体(これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて)は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方で行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は「月山羽山(ツキヤマハヤマ)、羽黒の大権現、並びに稲荷(トウカ)の大明神」というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して怒鳴(どな)りさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。後に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。 
四 巫女の修行法と田村家の収入
八太夫の記事の一節に
いち子は七つから十五歳まで、諸方の神社へ八丁舞籠(マイコモリ)の神楽巫女(カグラミコ)に差出し(中山曰。これは、神楽みこと、口寄みことを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする)、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領(中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう)とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々の訛(なま)りを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々(以上「都新聞」記事摘要)。
とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占(珠数占の事)、六首六張、神差帰上(ミサキアゲ)(死霊を祀る事)、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、
自分は修行の方法として、方々の神社仏閣へ毎日のように参詣に遣られたものです。催眠状態に入るには相当の修練を要しますが、馴れて来ると、直ぐに此の状態になることが出来ます。巫女と神様との関係は、親子夫婦よりは親密なもので、覚醒しているときでも、更に常住坐臥ともに、絶えず神様がついているように気持が致します。本来なれば、巫女は亭主は持てぬこと(中山曰。常子さんは岡田光太郎という良人を有し、三人の子供を儲けている上に、私が第二回目に訪ねたときには臨月に近い大きなお腹をしていた)になっていました。そして身体の不浄なときには、神様に近寄らぬようにしますが、永年この神懸りをしていますと、女子でありながら段々男子のようになって(即ち性格変換である)来ます云々。
とのことであった。
更に常子さんの語る所によると、
亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつであったと記憶しています。
との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。 
五 明治維新と田村家の退転
明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、「是迄の通り頭役仰付」との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。
神事舞太夫職ノ儀に付、先般配下職業勤方、以箇条書雛形相伺候件々(中山曰。此の伺書は田村家に残っていぬ)ハ、不正ノ節ニ付一切禁止申付候事
一、神事舞太夫頭之名目差止、向後舞夫頭ト唱可申事
一、神社祭礼之節、神楽相勤候儀、是迄之通不苦候事
一、舞夫支配ノ儀ハ是迄之通、東京ヘ居住之輩而己配下ト可相心得事
一、大国主命之像配り候儀禁止之事
一、幣帛ヲ以テ竃土公ヲ祓候儀禁止之事
一、月待日待祈念之時、幣帛ヲ以執行、符字差出候儀禁止之事
一、梓神子之名目差止、向後梓女ト唱可申事
一、玉占之儀不苦候事
一、青襖札ヲ以竃之向ヘ張、竃ヲ祓候儀禁止之事
一、絵馬札配リ候儀禁止之事
右之条堅可相守、配下之輩モ禁止ノ廉無洩相触、急度為相守可申候、此段相達候事(中山曰。句読点は私の加えたものである)
巳七月  東京府
       社寺局印
この布達に由れば、八太夫は、従来の特権の大部分を失い、僅に、(一)東京に居住する舞太夫だけを配下とすること、(二)神楽舞を勤めること、(三)梓女を支配することだけに局限されてしまったのである。田村家の打撃は言うまでもないが、「巫学談弊」を著して、所謂鈴振り神道なるものを極端にまで嫌厭した、平田篤胤翁の学風が海内を吹巻り、併もその学風が、当時の神祇官の方針となっていた明治維新の変革としては、蓋し止む得ぬ結果と見なければならぬのである。
然るに明治初年の混雑は、神道や仏教方面にも多大の影響を来たし、万事を改革するに急なる余り、かなり非常識の事も行われ、神仏分離を励行しながら、神仏習合の神社を拵えるやら、祭神の入れ変えをするやら、社地の誤認をするやら、今から思うと少からぬ手落ちもあった様である。殊に民間信仰の対象となっていた富士講は扶桑教となり、御嶽講は神習教となり、就中、富士講は一先達であった宍野半という人物が、一躍して扶桑教の管長となり、然も道教の管長は宍野家代々の世襲たるべしという両本願寺を真似て、管長を独占してしまった。而して是等の現状を見せつけられた八太夫は、巫女を中心として一種の教会を建設し、これを支配下に置こうと企て、幸い東京府の布達にも梓女を認め、玉占を許しているので、ここに「神道梓女教」なるものを造り、従来の如く、諸方の巫女を集めて呪法を教え、左の如き免許状を出して収入を計り、独立を期したのである。
九気、玉占、六首六張、神差帰上(ミサキアゲ)、八方責、招魂式、神占、佐々(ササ)祓祈祷法
右八ヶ課ヲ修行セシ事ヲ正ニ証ス
明治 年月日
   神道梓女教 田村八太夫 印
此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏(常子さんの良人)の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。
記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勘右衛門(元の神事舞太夫頭)が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。 
第三節 当山派の修験巫女と吉田家との訴訟

 

江戸期における口寄系の市子には、私の知っているだけでも、(一)田村八太夫系の巫女、(二)当山修験の妻の巫女、(三)信州禰津村系の巫女、(四)奥州のイタコ系の巫女、(五)此の外に所属不明の巫女等の、五大系統のあったようである。而して此の所属の相違は、多少とも呪術の方法にも相違があったと思うが、その点は余り明確に知ることが出来ぬ。併しながら、所属の相違は、管轄の相違であるから、ここに其の管轄する者の、流儀なり、新古なり、又は勢力の多寡等によって、その間に利害を異にし、事情を別にすることの生ずるのは当然である。殊に江戸期における俗神道——平田翁の所謂「鈴振り神道」の宗家は、吉田家であるにもかかわらず、各地の巫女が吉田家を外に見て、口寄系の市子より更に一歩をすすめて、神前で神いさめまでして、神和(カンナギ)系の神子の領分を浸される様になったのでは、吉田家としては由々しき問題であるために、これを防止せんとして訴訟を惹き起すに至ったのも、当時としては又余儀ない結果と言わざるを得ぬのである。
これに関して、柳田国男先生は、左の如く記述されている。
守子のモリは元来、神に奉仕するという語であろうから、この名称は弘く一切の巫女に付与すべきものであるのに、後世に及んでは、田村八太夫の一類など、わざと避けて之を用いず、特に山伏の女房の口寄をする者ばかりを、守子と呼ぶようになっていたらしい。京都の神祇官領家の如きは、殊に此名を嫌って居た。相州秦野町の曾屋神社に、文化頃の吉田家の神子免許状がある。中にも、神子たる者は決して守子の作法をまねてはならぬとある。併も実はこの二種の巫女の業体は、田舎では頗る紛わしかったのである。その事実を例証するために、文政年中佐渡に起った当山派(中山曰。密宗三宝院派)の修験神子(ミコ)と吉田家との訴訟の始末を、少し長いが記述して見たいと思う。
吉田家の側の主張に依れば、昔寛文年中に奥州岩城において一度本山派(中山曰。台宗聖護院派)の修験神子と社人との間に出入があった。其折の判決は神道の方の勝利で、本山神子は湯立神楽を勤めてはならぬ。千早舞衣を着用してはならぬ。並びに神子と称する称号も相成らず。必ず守子と唱え申すべしとの沙汰であったから、吉田家の雑掌は茲に本山派山伏の惣支配たる聖護院御門跡の坊官等と相談の上、社家と修験とへ双方より法度書を触れ出して事落着した。其例を以て当山派の修験神子も同様に相心得、既に享和二年中吉田家の役人某々等諸国を巡廻し、右の寛文の御条目及び天明二年の御触れなど読み聞せ、吉田家より許状を受けて神事祭礼神楽託宣等相勤め候儀は格別、無官の神子は必ず守子と唱え、修験寄附の幣を持ち、数珠錫杖箱を持ちて檀廻致し候は差支なきも、鈴を持ち神事神楽等相勤め候儀は相成らぬ。以後左様の勤方致し候わば最寄の下社家共へ申付け置き見つけ次第装束等剥ぎ取らせ候間、其旨相心得守子共へ漏れなく申聞け、心得違い後悔無之ようにと申渡した。併し此節神子の官致し度き者は貧窮に候わば当分少々の官金を指出し、跡金の儀八年賦に貸し附けても宜しいと申聞け、彼等に請印をさせようとしたものである。
之に対する当山派の攻撃理由は極めて簡単なものであった。本山派と当山派は同じ山伏でも全然別派である。天台山伏が承服したからとて三宝院の配下は之に従うわけには行かぬ。当山の修験神子は往古より立来りたるものであれば、吉田家の配下に附かねば神子の作法が出来ぬ理由が無いという主張で、此訴訟は山伏の方が勝った。即ち真言山伏の妻たる神子も神主の女房と同じように託宣営業が出来たのである。併し是等の判決は、果して私領の隅々までも其まま行われ、神仏二類の区別が明白となったか否かは、大いに疑わしい云々(以上。「郷土研究」第一巻第十号)。
田村八太夫などが、特に関東武官一派神道などと奇妙な名を付けて独立したのも、所詮は吉田家の支配から離れると同時に、部下の舞太夫なり、梓巫女なりから、一定の役料を納めさせる必要から来ているのである。これでは吉田家も存立が怪しくなって来たので、斯うした訴訟まで見るに至ったのであろう〔一〕。
〔註一〕私は此の訴訟記事の出所に就き、柳田先生の許に往き、お尋ねした所「此の本にあるよ」と仰せられて「祠曹雑識」抄録本二冊を貸与された。それを帰宅後調べると見当らぬので、「郷土研究」を転載することとした。 
 
第二章 当代に於ける巫女と其の呪法

 

第一節 文献に現われたる各地の巫女と其の呪法
巫女は堕落し、呪法は形式化した当代のこととて、文献に現われたものは、異流を雑糅し、異法を混淆してあって、それを体系づけて、一々整然と書き分けることは、殆んど不可能と云っても差支ないほどである。それ故に、私は大体同じような記録を一まとめに記述する程度にとどめて置くとする。元より資料の整理が行届かなかったという高叱は、此の場合甘んじて受ける所存である。 
一、巫女の持った人形の二種
「謡曲拾葉集」に、前に載せた葵ノ上の「寄(ヨ)り人(マシ)は今ぞ寄り来る長浜や、芦毛の駒に手綱ゆりかけ」の呪歌を解読して、
寄人は寄神とも降童とも云ふ、或は生霊死霊を祈る時、彼の霊の代りに童子をそなへ置て祈つけ、降参さする事なり、或は霊を人形に作り藁にて馬など拵へかの人形を乗せて祷り、終りて後に川へ流す事もあり、この歌も是等の事を詠めると見えたり。
とあるのは、遂に巫道に通ぜぬ千慮の一失であった。解説の前半は、その通りであるが、後半の霊を人形に作り、藁の馬に乗せて川に流すとは、全く贖物の思想であると同時に、芦毛の駒云々の字句から想像した無稽の事である。此の呪歌の意義に就いては、私の学問の力では釈然せぬことは既述の如くであるが、拾葉抄の著者が考証したような事実を、此の呪歌から検出することは無理であるし、且つかかる呪法の存したことを曾て見聞せぬのである。何か巫女の持っている人形などから、想いついた説のようにしか信じられぬ。併しながら、当代の巫女が、怪しげなる物を呪力の源泉として、所持していたことは考えられる。而して是れには、(A)外法頭を持ったものと、(B)単なる人形を持ったものとの二つの系統が存していた。 
A、外法頭を持った巫女
「嬉遊笑覧」巻八に、「龍宮船」という草子を引用して、左の如き記事が載せてある。
予が隣家に、毎年相州より巫女来りけるが、往来の事を語るに当らずといふ事なし。或時、袱紗包を忘れ置たり。開きて見るに二寸許の厨子に、一寸五分程の仏像ありて、何仏とも見分がたく、外に猫の頭とも云べき干かたまりし物一ツあり。程なくかの巫女大汗になりて走り来り、袱紗包を尋ねける故即ち取出し遣し、扨是は何作なるぞとたづねければ、是は我家の法術秘密の事なれども、今日の報恩にあらあら語り申べし。是は今時の如く太平の代には致しがたき事なり、此尊像も我まで六代持来れり、此法を行はんと思ふ人々幾人にても言ひ合せ、此法に用ゐる異相の人を常々見立置き、生涯の時より約束をいたし、其人終らんとする前に首を切り落し、往来しげき土中に埋み置く事十二月にて取出し、髑髏に付たる土を取り、言ひ合せたる人数ほど此像を拵へ、骨はよくよく弔ひ申事なり。此像はかの異相の神霊にて、是を懐中すれば如何やうの事にても知れずといふ事なしといふ。今一ツの獣の頭のことも尋ねけるが、是は語りにくき訳あるにや大切の事なりとばかり言ひける由、これなん世上にいふ外法つかひと云ふ者なるべきか(近藤活版所本)。
是れ殆んど符節を合わすが如き狐の髑髏を持つ事実のあったことが、奥州の見聞を書いた「黒甜瑣語」に載せてあるが、これは既述したので、ここには省略する。 
B、人形を持った巫女
奥州のイタコが公然と持っているオシラ神と称する人形とは異り、外法箱の中に、秘密に収めた人形を持った巫女は、諸書に散見しているが、やや詳しく記してあるのは、根岸鎮衛の「耳袋」巻三に、「矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事」と題せるものと思うので、左に転載することとした。
宝暦の始めには、三州矢作橋、御普請にて、江戸表より、大勢役人職人等、彼地へ至りしに、或日人足頭の者、川縁に立ちしに、板の上に人形やうのものを乗せて流れ来れり(中略)、面白きものと、取て帰り、旅宿にさし置けるに、夢にもなく、今日かかりし事ありしが、明日かくかくの事あるべし、誰は明日煩ひ、誰は明日いづ方へ行べしなど、夜中申けるにぞ、面白き物也、これはかの巫女などの用る外法とやらにもあるやと、懐中なしけるに、翌日もいろいろの事をいひけるにぞ、始めの程は面白かりしが、大きにうるさく、いとひ思ひしかども、捨てん事も又怖ろしさに、所のものに語りければ、彼者大に驚き、由なきものを拾ひ給ひけるなり(中略)、其品捨給はでは禍を受る事なりと言ひし故、せん方なく、十方にくれて如何し可然哉と、愁ひ歎きければ、老人の申けるは、其品を拾ひし時の通り、板に乗せて川上に至り(中略)、彼人形を慰める心にて、其身うしろに向いて、いつ放すとなく、右船を流し放して、跡を見ず立帰りぬれば、其祟りなしといひ伝ふ由、語りけるにぞ、大きに悦び、其通りなして放し捨しと也(日本芸林叢書本)。
此の拾った人形が、単なる木像であったか、それとも前掲の如き、外法頭系のものか判然せぬが、私は木像であったと考えたい。それは、記事中に「其人形のやう、小児の翫びとも思はれず」とあるが、神仏いずれとも見定め難きほどの物と思われるので、ここには単なる木像と見るのが穏当であろう。而してそれとこれとは、趣きを異にしているが、斯うした呪物が、水を恐れる話は、他にも聴いている。南方熊楠氏の談に、紀州の某が、大阪で、猫神を所持していると、米相場で金儲けが出来るとて、それを所持していたところ、金は儲かるが、夜となく、昼となく種々なことを告げ知らせるので、うるさくもあり、怖ろしくもなり、遂に淀川の水中に身を没し、天窓まで水をかぶっていて、漸く猫神を離したとのことであった。 
二、口寄せの種類とその作法
市子の呪術も、当代に入るとその範囲も狭められて来て、専ら民間の——それも少数の愚夫愚婦を相手にするようになり、国家の大事とか、戦争の進退とかいう、注意すべき問題に全く与ることは出来なくなってしまい、漸く、
一、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子の身に憑(かか)らせて物語りをする(俗にこれを「死口(シニクチ)」という)か、これに反して、遠隔の地にある者の生霊を喚び寄せて物語りする(俗にこれを「生口(イキクチ)」という)こと
二、依頼者の一年間(又は一代)の吉凶を判断する(俗にこれを「神口(カミクチ)」とも「荒神占(コウジンウラナイ)」ともいう)こと
三、病気その他の悪事災難を治癒させ、又は祓除すること
四、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること
五、紛失物、その他走り人などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること
この位のものになってしまった。而して是等のうちで、尤も依頼者も多く、市子としても収入の多かったものは、死口、生口、神口の三つで、当代の市子といえば、直ちに口寄せを意味し、口寄せといえば、又この三つを意味するものと思われるまでになっていたのである。就中、民間の信仰をつないでいたものは死口であって、亡き両親や、同胞の死霊、又は亡き恋人や、友人の死霊が、市子の誘うままに幽界から出て来て、明界にいる子孫なり、関係者なりと、談話を交えるというのであるから、不思議にも思われ、神事(カミゴト)と信じられたのも無理のないことで「巫女(ミコ)が語る声まで、死んだ母親そっくりだ」などとは、幾度となく聴かされたことで、且つ三歳か五歳で夭折した子供の死霊が現われて、地獄の苦しみを物語る哀れな声音(こわね)を耳にしては、その親たるものは、涙を絞り袖を濡らし、信ぜざらんとしても、迷わざるを得ぬのである。最近に金田一京助氏が記された実見談によると、
姉の家で、口寄せした時には(中略)、例の珠数を押し揉み押し揉み、口に唱えごとを繰返しているうちに、それが一種の歌に聞きとられる様になって来た。その歌詞は、姉などは聞き覚えに暗(そら)んじている程、いつもきっと出て来るきまりの文句らしく、「……声はすれど、姿は見えの(ぬの訛りらしい)、影ばっかりに……」すると、髣髴として、亡き魂がそこに降りでもするような気分が座に満ちて来て、笑ったものも笑顔を収め、動いていたものも鳴(なり)を鎮めてじっとする其の時、呪女の口からは、「五十九で亡くなった仏様を」とだけ頼んで、にじり出た姉へ向って云うような口調で「お前には苦労を掛けた……」と聞かれるような歌になった。と亡父の生前死後、羸弱な身を以て私に代って一家の世話を見つつ、浮世の辛酸を、滓の滓まで飲み尽した姉は、わっと泣きくずれて、「お父様、もう其の御一言で沢山です」と咽び入る云々。
とあるように〔一〕、気丈なものでも——馬鹿々々しいとは思っていながらも、引き入れられるのが常である。巫女が科学を万能とする現代においても猶お、残喘を保って、各地に存しているのは、全く此の呪法を行うことに由るのである。而して此の呪法を行うには、又左の如き種々なる作法があったのである。 
A、手向の水ということ
市子は口寄せの折には、その対象が、死霊と生霊と神口との別なく、必ず依頼者に、茶碗その他の器物に水を盛らせ、それを巫女の膝の前(又は机の上)に置かせて、死霊の場合には、枯葉(又は樒の葉)で左廻わしに三度水を掻かせ、生霊の場合には、青い木葉(種類は何でもよい)で右廻わしに三度掻かせ、神口の場合には、紙撚り(併しこれも流派によって一定せぬが、大体は先ずこうである)で水を三度掻き廻させる。此の水を手向けることは、巫女が呪術を行うに大切なものとされていて、出て来る霊魂が「よくこそ水を手向けてくれた」と云うほど、重い儀軌?になっているのであるが、さて此の理由に就いては定説を聞かぬ。「松屋筆記」巻八七に、
塩尻(中山曰。天野信景翁の著書)一ノ巻に或人云、凡そ亡者の霊に水を手向るは仏法に効へるなりと、予按に是我国上古の習俗歟、「日本紀」十六に鮪臣が死せし時、影媛哀傷の倭歌を詠じて「玉笥(タマケ)に飯盛(イヒモリ)、玉椀(タマモヒ)に水盛(ミヅモリ)」などいひ、其葬の時「水喰(ミヅクヒ)ごもりみな酒(ソソ)ぎ」の詞あり、これ我国仏教来らざる以前の事也、仏氏といへども餓鬼の他、仏菩薩等に水手向る事なし(中略)「空華談叢」巻一に亡霊薦水六則あり、可考合。
と載せてある。之に由れば、巫女がその霊に水を手向けることは、我が古俗のようにも考えられるのであるが、単に是だけの資料で決定するのは危険である。殊に仏法にも亡霊薦水の法があるというし、且つ故前田太郎氏の研究によると、死者の霊に水を手向ける土俗は、殆んど世界的に遍在していたというから〔二〕、これは我が古俗にも存し、仏法にも在ったもので、巫女のそれは、古俗に仏法を加えたものと見るのが、微温的ではあるが、穏当だと考える。樒ノ葉を用いるに至っては、仏法の影響と見るも〔三〕、蓋し何人も異議のない事と思う。故長塚節氏の力作「土」には、茨城県下の農村における巫女の所作が克明に委曲に描かれているが、生口を寄せる一節に、巫女が「白紙手頼(タヨ)り水手頼り、紙捻(コヨリ)手頼りにい……」と唱えたと記している。此の水の手向けは古くから広く行われていたようである。而して此の手向の水ということが、後には市子に祈祷してもらえと云う意味に転用されるようになり、呼び出される死霊が「水が足らぬ」とか「水向(ミズムケ)を頼む」と云うのは、即ち市子が死霊の言に託して、自分の収入を謀った狡猾なる手段なのである。 
B、巫女の唱えた神降しの呪詞
当代に入ると、巫女の用いた神降(カミオロ)しの呪詞も、修験道の影響を濃厚に受け容れて、殆んど古き相は摘(つま)むほどしか残っていぬという有様になってしまい、然もその文句たるや、余程無学者が作ったものと見え、神仏の混雑は、当時の信仰から推して、先ず恕すべきとするも、措辞が野卑である上に、文理が滅裂で、全く体裁をなしていぬ。それを無智な巫女達が、矢鱈に唱い崩し、言い訛ったものと見えて、中には何事を意味しているのか解釈に苦しむものさえある。而して是等の呪詞は、京伝の「昔話稲妻表紙」を始めとし、三馬の「浮世床」や、一九の「東海道膝栗毛」等に載せてあるが、何れも多少の出入こそあれ大同小異で、僅に巫女が呪法を行う土地の一ノ宮または産土神(ウブスナガミ)の名を変える位で、その他は取り立てて言うほどの事もないし、それに是等の書物は、流布本の多いものゆえ、ここにはその中でも、やや古いと思う「稲妻表紙」から抄出するとして、他は省略した。同書巻四「仇家の恩人」の一節に、
扨ある年の春、藤波が祥月祥日にあたれる日、妻小枝妹阿龍等がすすめにより、県巫女をやとひ、藤波が口をよせて、冥途のおとづれをききぬ。さて降巫上座に居なほりて、目うへの人にや目下にや(中山曰。今では此の事は聞かず、、ただ黙って頼めば、巫女の方で言いあてる)、生口か死口かとたづぬれば、小枝すすみ出で、目下の者にて死口なりと答へつつ、樒の葉にて水むけすれば、巫はささやかなる弓をとりいだし、弦を打ならして旦(まづ)神保(カミオロシ)をぞ唱へける。
夫(それ)つつしみ敬てまうし奉る。上は梵天帝釈四大天王。下は閻魔明王。五道の冥官。天の神。地の神。家の内には井の神。竃の神。伊勢の国には。天照皇太神宮。外宮には四十末社。内宮には八十末社。雨の宮。風の宮。月読日読(ツキヨミヒヨミ)の御神(おんかみ)。当国(中山曰。近江)の霊社には。坂本山王大権現。伊吹の神社。多賀明神。竹生島弁財天。筑摩明神。田村の社。日本六十余州すべての神の政所(まんどころ)。出雲の国大社(おほやしろ)。神の数は九万八千七社の御神。仏の数は一万三千四個の霊場。冥道をおどろかし此(ここ)に降(くだ)し奉る。おそれありや。この時によろづの事を残りなく。おしへてたべや梓の神。うからやからの諸精霊。弓と箭のつがひの親。一郎どのより三郎どの。人もかはれ水もかはれ。かはらぬものは五尺の弓。一打(ひとうち)うてば寺々の。仏壇にひびくめり。
梓の弓にひかれひかれて、藤波が亡き魂ここまでまうで来つるぞや。懐しやよく水手向て玉はりしぞ、主君とは申しながら、畏れ多くも心には、枕ぞひ(中山曰。圏点を打ちし句は巫女の隠語、既載のものを参照あれ)とも思ひしから、烏帽子宝を産みはべりて、唐の鏡とかしつがれ、おん身等にも安堵させ、楽しき暮しをさせ申さんと思ひし事も左り縄、云ひがひもなき妾が身の上、露ばかりも罪なくて、邪見の刃に身をほふられ、尽きぬ恨みの悪念が、此身を焦す炎となり、晴れぬ思ひの冥道に、今に迷ふて居り候云々(以上。帝国文庫本)。
此の神降(カミオロ)しの呪詞は、別段に解釈を要せぬまでに明白であるし、又た解釈を要するほどの「一郎殿より三郎殿、人もかはれば水もかはる」云々の如きは、これを唱えていた巫女にも解らず、従って他の者には、皆目見当もつかぬものである〔四〕。殊に、神の数が九万八千とか、仏の数が一万三千とかいうのは、全くの出たら目で、何等の根拠もなければ、理由もなく、ただ巫女が旋律的(リズミカル)に唱える上に、舌に唾のたまらぬよう、語呂の点から択んだ文句に外ならぬのであって、それが古く歌謡の系統に属していた名残りをとどめているのであるが、夙に歌謡は、巫女の手から離れて、独立した芸術として発達しているのに反し、巫女は堕落して、糊口の料に神降しを唱え、それも旧態を保つに懸命であって、生面を拓くことが出来なかったので、益々世相と遠ざかるようになってしまったのである。
巫女は別名を「大弓」とも「小弓」とも、更に梓巫女(アヅサミコ)とも言われているほどとて、呪術を行う場合に、弓弦を細き竹の棒にてたたくことは既述したが、この作法は、必ずしも総ての巫女に通じて行われたものではない。私の知っている限りでは、(一)都会に定住していた者と、(二)漂泊をつづけた歩き巫女と。(三)奥州のイタコと称する者は、概して弓を用いず、これに反して、町や村に土着した巫女は、弓を用いたようである。折口信夫氏のノートに拠ると、壱岐のイチジョウと称する巫女は、長さ八尺もある黒塗の木ノ弓(二ツ折になって袋に入れて、持ち歩くに便にしてある)に、麻の弦をかけ、南天の葉をひいて油をとりしものを弦に塗り、盒(ゆり)(中山曰。曲物(まげもの)にて楕円形をなし、高さ四五寸、大きさ一尺二三寸なり)を伏せて、麻縄で二ヶ所くびった上に、弓を持たせかけ、釣り竿のように反った一尺五寸ほどの竹の棒二本で、弦をたたきながら、初めは「神寄せ」の文句(中山曰。此の文句は判然せぬ)を唱え、次に「御籤(ミクジ)あげ」をなし、それから「百合若説教」を宜いほどに唱える(中山曰。百合若説教のこと注意されたし)そうである。
然るに、常陸辺では、既述の如く、二三尺位の粗製の竹の弓を用いるとあり、私が同じ常陸の潮来町で聴いたところでは、巫女は弓を持参せず、往く先々で青竹を切って、二尺ほどの弓を拵えてもらい、それを用いるとのことであった。而して此の弓の弦をたたく音は、弦がゆるく張ってあるためか、ベンベンと如何にも眠気を誘うような響きがするものであって、巫女がこの響きにつれて神降しの呪詞を唱えすすむうちに、催眠状態(その実際は後世の巫女は催眠を仮装するだけで覚醒している)にでも入りそうな心もちのするものである。因みに「笹ハタキ」とは、その文字の如く、始めは笹の葉を両手に持ち、それで自分の顔を軽くたたきながら催眠状態に入ったので負うた名である。これも後には雑糅されてしまって、小さい弓を用いる巫女まで、此の名で呼ぶようになったのである。猶お巫女の修業、神つけの方法、各地の神降し等に就いては、文献には見えぬので、次節の報告の条に詳述する。 
三、イタコのオシラ神の遊ばせ方
奥州のイタコ(これは殆んど悉く盲女であって、精眼者あるを今に聞かぬ)と称する巫女が、オシラ神を持っていることは屢記したが、さて此のオシラ神は、如何なる場合に用いるか、併せてその用法は如何にと云うに、イタコは依頼者の意を受けて、生霊なり、死霊なりの口寄せをするときは、金田一氏の記事にある如く、イラタカの珠数を両手で押し揉み(秋田地方では揉まずに珠を繰る方法もある)ながら、神降しを済ませ、憑(ヨ)り人(マシ)となって種々なる呪法を行うことは、昔の普通の巫女と別段に変りはないが、呪法が終ってから、依頼者の希望により、その家(奥州では草分け百姓とか、又は旧家とか云われる家には、各相伝のオシラ神がある)のオシラ神を遊ばせる(春秋二期のオシラ神祭りの日は云うまでもない)ことがある。而してその遊ばせ方に就いては「民俗芸術」第二巻第4号に、小寺融吉氏の詳細なる記事があり、更にこれを遊ばせる祭文は、「民族」第三巻第三号に、中道等氏の寄稿があるので、幸い私は両氏の厚誼を辱しているので、甚だ勝手ながら、左にこれを自由に取り交ぜて、抄録することとした。
東北地方に名高いオシラ様の祭を私{○小/寺氏}は、偶然にも昨年{○昭和/三年}東京で見ることが出来た。それは柳田国男先生のお宅に、以前から届いてあった此の神様を、本式に祭るため、はるばる奥州から盲目の巫女が、三月一八日の祭日を期して上京したのに列席したのであった云々。
祭壇を前に石橋貞(さだ)子という老いた盲目のイタコ(巫女)が静かに座った。常の髪形(かみかたち)、常の服装のままで、黒い袈裟を左肩から掛け、次に長い数珠を首に掛けた。数珠の玉は黒くて大きい。そして円筒形の筒(中山曰。呪力の源泉である神を入れたもの)を押し頂いて、右肩から左脇へ掛けた。この筒は神秘不可思議で、中に何があるか分らない。
さて祭壇と云っても、ただの机だが、その上にイタコから見て、正面に一対のオシラ神、右が女神左が男神(原註略)。右の奥に茶碗に水、その前に蝋燭、左の奥に菓子、その前に蝋燭、そして中央の前に、右には塩、左には米が在る。
抑々オシラ様の御神体は、八寸ほどの長さの桑の木(中略)、毎年の祭に着物(東北でセンタクと云う)を上に一枚づつ重ね参らせる。着物と云っても一枚の布(きれ)を冠(かぶ)せるだけで、首の上からスッポリ冠せるのと、布の中央に穴を明けて、穴から首を出すのと二通りある(中略)。今日の御神体は首を露出せぬ方だが、首を包んだ布のまわりに、小さい鈴を女神は四個、男神は三個結んで区別している云々。
イタコは先ず塩を取って振りまいた。次に我昔所造諸悪行……一切我今皆懺悔の四句の懺悔文を誦し、次に般若心経に移った(中略)。そして般若心経の時に、途中で息を切って一寸休む折りは合ノ手のように、しきりに数珠を揉んだ。これは左掌を下にし、右掌を上にして揉むので、胸の前で合掌するのとは違う。次に普門品の偈だけを読んだようで、念被観音力、還著於本人なぞの文句が聞き取れた。これを終って柏手を打ち、いよいよオシラ祭文に移った。 
千だん栗毛物語(オシラ遊びの経文)
しら神の御本尊
くはしく尋ね奉れば
我が京にては白神の御本尊と申也
朝日の長者ようひ長者と申して
数の宝を相添ひて
おがひ申して
おがひに長じて身を清め
よき金三百両
こがねのにはちで納め置く
鰐口ちょうと打ならし
南無や大慈大悲の親世音さま
願はくば赤子一人授けてたまはれと
願はくばおどうかうによう申すべし
そげんの破風に瑪瑙の垂木
やんくゎぎぼうに至るまで
金銀の入ればに
表しろかね中こがね
厚さ三寸五分なり
錦のとうざう七流れ
我も子のことかなしみて
とりかへかきかへ申すべし
大千世界めぐりて
鳥類畜類めぐれども
汝らに授くる宝も無し
今度この度しらの種申し下す
此子は六つ七つに至りては
命に恐れあるべし
東方父にて西方母
兄は御いきと申すなり
左りの袂より右りの袂へ
すらりと入れると覚えて
夢さめて長者夫婦の人々は
斯うまで有難き御利生を
七度の礼物なされけり

我が家に帰りついたる時
懐胎となって
当る十月と申して
御産の紐を開せとくがや
玉や御前と名をつけて
二つになるから三つ四つと心を用いて
六つになる年右の御手に筆とらせ
七重の愛馬に飼立てられたる千だん栗毛
立つに千段すはるに千だん
三千四だん五だんの形をもたせ玉ふ
めん馬に乗じて馬の頭を
おしなでかきなでたまひて
この屋形のうちに入らせたまふ
一才になるから二才三才やうなる
御育ておいた徳を以て
前足のつき相を見れば
てむく茶碗をすゑたる如く
後足のつき相を見れば
ごばんちょうこすゑたる如く
目鼻尾のつきあひ
毛はだまでもやうなる様に
御育て置いた徳を以て
今日も見物人ひとは百人
またも二百人三百人の
見物人の無い日とてはあるまい
おれも見物に出でて見ようと云うて
十二ひとへを重ね
十二人のつまとりを附け
つまどりには褄を取らせ
七重のまや迄見物に出でたるれば
上のまやには赤きめん馬百三十三匹
下の厩には青きめん馬百三十三匹
中の厩には白きめん馬百三十二匹
後ろ残りし一疋のせんだん栗毛
見るまも無く玉や御前のほめるには
前足のつき相を見れば
てむく茶わんをすゑたる如く
後足のつきあひを見れば
朝顔の咲いたる如く
目の色はからかね目
目鼻耳のつきあひ
毛肌までもふしのつけやうは無い
これが人間のからだなれば
どうぞ夫婦になりそめたいものと
三度までも馬のからだを撫でたまふ

声は千だん栗毛の耳にとまりまして
恋のわづらひとなりました
糠草も食することは無く
粕や米糠くぢょやすすき草
どの様に食わせても食することは無く
如何致したわけである
この家の亭主に伺ひ見るべしと
伺ひ見たならば
はくらくでも取りよせ見たならば
せんだん栗毛の相分るべしというて
西東北南四うぢ隅より
伯楽の三十七人までも取寄せたけれども
どの伯楽も千だん栗毛の病気
名をつけるはくらくはあるまい
天が下に無いほどの西の方には
よい占い師があることだ
そんなら取りよせ見るべしと
取りよせ見たなれば
憚りながら此家の千だん栗毛の病気は
外なる病気ではない
二階ひとり姫玉や御前
恋がけの病気と判じたれば
金満長者の夫も腹を立てて
さて憎い畜生だ
畜類は人間に恋をするといふこと
此世には無いことだ
早く千だん栗毛を
投げ棄てて来いとのいひつけをさるる

さてせんだん栗毛せんだん栗毛
今までは七重の馬
あいの馬に飼育てられたる千だん栗毛
今更姫に恋して投棄てらるるぞよと
どのやう意見そひしんされても
頭をふり上ることは無い
これは二階の一人姫
玉や御前を見舞させたなら
せんだん栗毛の病気は相分ると謂うて
二階一人姫玉や御前さまに
見まひを致しくれといひば
二階一人姫玉や御前も人目を忍んで
夫婦のちぎりある故に
ゑ顔あげて十二ひとへ引重ね
十二人の褄どりをつけ
つまどりには褄を取らせ
右の手には萩を持ち
左の手にはすすきを持ち
二階はしごを下りまゐり
七重のまやまでとり運ぶ

さて千段栗毛せんだん栗毛
おれの為に病気になって
居るさうだと謂うて声かけたるれば
すぐ頭をふりあげて
萩やすすきを一本ままではむこと
以前と異ならず
玉や御前と千だん栗毛と別るる時は
生木の枝を割かるる如く
血の涙で別れおいて
とうとう二階一人姫も病気になりました

これは来る三月一六日に
御神明のみかぐらでも企てたならば
姫の病気は快気になるかと
いうて企てたなれば
おれも見物に出でて見ようと云うて
十二ひとへひき重ね
十二人のつまどりをつけ
つまどりには褄を取らせ
七十人の供をつれ
一沢越え二沢越え三沢目の
大きな桂の大木の根に腰をかけ
うつの宮より褄取りとも人皆ほろき落して
ただ御神楽よそに見て
千相桑の林に一飛び運び参り
真砂の珠数御手につまぐり
それそれははかせを喚んで
博士は八十三のこよみ
さて千だん栗毛千だん栗毛
玉や御前がこの処に運んだについて
しんが有るなら一声出せと
大声あげて歌をよみあげる

すぐなまぐさき風は吹き
五色の雲をたなびきて
八間四方の皮をならされた
御姫さまをぐるりと巻取って
天に昇り天竺の方に参ったり
褄取り供人は皆つらづらになりまして
家に帰りしなれば
我々の命は一ときも堪らんものか云ふて
早く伺ひ見るべしと
一飛びに運ぶ

さて金満長者の旦那さま
うちのいたはしき二階一人姫
玉や御前さんは千だん栗毛の為に
盗みとられました
おらの命ばかりは御助けなされてくだされと
それは手まへだちのかかはりたる事では無い
姫はさうあなたはいの因縁づくと云うて
涙にくれて居るところへ
虫は二十四疋ふりくだる

白き虫の顔見れば
おら処の玉や御前に似たる顔
黒き虫の顔見れば
千だん栗毛に似たる顔
米はませても米はまず
粟はませても粟はまず
麦はませても麦はまず
豆はませても豆はまず
百人二百人三百人の
見物人は参りしなれど
何はむ虫と判ずる人はあるまい
七十あまりのぢいさまは
桑の杖をついて見物に出たなれば
残らず其の杖につたはりました

これは何の木、これは桑の木
これは何虫、桑の木のもえを食ふ虫
ととこ虫とあらはれて
三十七人の桑とりをまはす
しろがねのまな板こがねの庖丁で
きり刻みて与えしなれば
残らずさりこんではむこと
一をり板しけば二をりの板
二をり板しけば三をり板
三をり板しけば四をり板
四をり板しけば五をり板
五をり板しけば六をり板
六をり板しけば七をり板
七をり板しけば八をり板
十二をり板
きんこ糸を取る時なれば
一さをかければ二さを
二さをかければ三さを
三さをかければ四さを
四さをかければ五さを
五さをかければ六さを
六さをかければ七さを
七さをかければ八さを
十二さを
金満長者のおんしょう返すが為に
つぼの松に下り
馬とともに十六ぜんの
大しらのしら神にあらはれ
尾張の国金満長者は
日本一の真綿屋と名をつけられて
銭かねに不自由なく暮すさうや
父がそひてあつかひば父になづく
母がそひてあつかひば母になづく
庭にそひてあつかひば庭になづく
竹にそひてあつかひば竹ごともなづく
舟にそひてあつかひば舟子ともなづく
あれ乱風大風火難盗難
あきなひその他作る田畠も護らせたまふ
家内安全商売繁昌の御祈祷と
敬ってまをす〔五〕 
○中山曰。小寺氏の記事には、祭文の文句は記して無いのを、私が勝手に中道氏の寄稿から、此の文句ならんと考えて掲げたのである。
オシラ祭文は、オシラ神の由緒を物語る長い叙事詩を歌うので、長者の厩に飼われたせんだん栗毛という名馬が長者の姫に恋をして、結局二人が蚕の神様になるという歌で、イタコは歌いながら、両手に持つ二つの御神体を動かすので、「如何に動かすか」が私の興味なのである。そこでイタコは机に並んだ位置をそのままに、右手で女神左手で男神を持った。センタクの下へ手を入れ、柄(つまり人形の胴体)を持つ、この人形は手足はなく、首と胴と着物のみである。
男は右、女は左の法則なのに、何故か此のイタコは右に女神を、左に男神を持った。然しこれは神がイタコに乗り憑(うつ)るのでなくて、イタコはあくまでもイタコとして、神を舞わすのであるという意味かも知れぬ。そこでイタコは俯(うつむ)いて、自分の顔を御神体に触れて、何事か云った。それから胸の前に出して、半分倒すようにして持つ、自分の膝に対して垂直には持たない。これが基本の形である(中略)。
長い恋物語のオシラ様由来記が終ると、イタコは一休みした。それから一年十二ヶ月の年中行事に関する謡いものに移り、やはり左掌を下に、右掌を上にして小指を組合せ、何か印を結ぶような事をし、次に拍手(かしわで)を打ち、再び人形を取り上げた。前の祭文が荘重厳粛であるとすれば、これは打ちくつろいだもので、人形の動かしかたも変って来た(中略)。
次に一休みして、「えびすまい」。次に「地獄さがし」。これは鼻歌でお経を読むと思えば、見ない人も、ほぼ想像がつく。珠数を拍手とりつつつまぐり、それに合せて歌うので、人形とは関係はない。少し可笑味のものである。最後に「神送り」と云い、神を山林山野に送る歌を、祝詞(のりと)式口調で歌った。イタコも大分疲れたので、これだけで全部を終り、あとは二三の人を占いをして散会した(中略)。
オシラ神の鈴は、人形自身の声である(中略)。イタコの歌は、人形の鈴の音の意味を、人間の言葉に翻訳しているとも見ることが出来る云々〔六〕。
此の記事によっても知らるる如く、イタコの持っているオシラ神は呪神では無く、呪神は何物か納めてある円筒形の筒の中にあるので、オシラ神は此の筒の中の神を和(なご)めいさめるために舞わし遊ばせるのに過ぎぬのである。従ってオシラの元は神ではなくして、人形その物であったと信ずべきである。 
四、各地方の市子と其の作法
市子に幾多の流派のあったことは看取されるが、その独特の作法を比較して、異流を検出することは雑糅された後に残された文献を基調としたのでは、その労のみ多くして功がなく、結局は何が何やら判然せぬものになってしまう虞れなしとせぬので、此処には寡見に入った各地方の市子と、その作法とを列挙して、読者に異同を研究する資料を提供するにとどめるとする。猶お文献以外の報告によるものは、後節に記述する。同じような事を二度に分けて書くことは、少しく煩しい嫌いもあるが、資料の整理上から、斯うすることが学問的であると考えたからである。 
A、羽後国仙北郡地方の座頭嚊
同郡長信田村の出身で、今東京市外田端町に居る鈴木久治氏の談に次の如くある。
私の国では「いちこ」を座頭嚊(ザトカカ)と云う。嚊と云っても、東京辺の賤民の妻を呼ぶような下賤の言葉の意味では無く女房を一体に「かか」と呼んでいる。その座頭嚊は、女子の盲目な者がなるのであって、其亭主は普通の百姓をしている。さて人が死んで、葬式を済ませた後、この座頭嚊を招んで仏を寄せて語って貰う。其時には近所の人に知らせてやると、近所の人達は重箱へ食物を詰めたのを持って集って来る。神仏の有った家では仏壇の前へ家内の者や村人が大勢集まる。この場合は先ず神仏を呼んで貰う(中山曰。鈴木氏はこの事を「座下(クラオロ)し」と云うと語り補うた)のが例である。そうで無く死霊を招んで貰う時もあるが、呼んで貰う霊を心に念じて仏前の水に樒の葉を浸すと、呼び出される霊は必ず奇妙に当る。そこで座頭嚊は神寄せの呪文を誦(とな)える。何でもよくは知らないが、日本国中の一ノ宮の神々を寄せるらしい(原註。神寄せの呪文と門語(カドカタ)りの呪文とがある云々)。この口寄せがすむと、次は他の人で呼んで貰いたい霊があれば、又仏壇の水に樒の葉を浸すのである。座頭嚊の持物には箱も弓もない(中山曰。此の事は注意すべき点である)。只長い木欒子(もくれんじ)の珠数を爪繰っている(中略)。私の国では女児や男児が生れても、ひ弱くて早死する様な憂のある児は、座頭嚊の「取子(トリコ)」にして貰う。取子というのは、胎内にある時から座頭嚊に頼んで、生れた子の丈夫に育つ様に祈祷をして貰うのである。其時は珠数の木欒子の珠を一つお守として頂いて、巾着なんどへ大事に入れて置く。そんな事で珠数の数は「取子」の為に分けてやるから、多い人と少い人とある訳だ云々〔七〕。 
B、陸中国東山地方のオカミン
「郷土研究」第三巻第四号に次の如き記事がある。
陸中国東磐井郡門崎村近傍では、巫女をオカミサマと云う。盲目の女子の仕事である。巫女になるには、七箇年の年季で弟子入りし、其期間は師匠の食料までも自弁する定めである。さて一定の修業が終ると「 神附 (カミツケ)」と云う式を行う。是れがオカミン様の卒業式である。至って荘厳な式で、若しも不浄な者が式場に入れば、神が附かぬと云っている。式の荒増(あらまし)を言えば、先ず舞台を設けて注連縄を張り、真中に神附せらるべき女子その近親に擁せられ、眼(ママ)を手拭で鉢巻して坐る。その周囲を多数の巫女が取巻いて坐り祈祷するのである。然る後「何神附いた何神附いた」と問うと、真中に坐った女子「八幡様附いた」とか「愛宕様附いた」とか言う。斯うなれば、一人前の巫女となったものとして大なる祝宴をする。時には神の附かぬことがある。その時は列座の巫女たち御迎と称して坐を立つ。然る後は、大抵「何神附いた」と言うものである。巫女の業務は「口寄(クチヨセ)」をすることである。これは死人あったときの一七日、お盆(ぼん)又は秋の彼岸に、各戸殆どこれを行わぬ者は無い。
口寄を行うには、巫女は神降しと称して暫時祈祷をした後、希望せらるる死人となって、希望した人に対して言葉哀れに語り出す。婦女子等は大抵泣いて之を聴く。その聴いているうちに問口(トイクチ)(中山曰。古代の審神(さにわ)である)と云うことをする。即ち聞手の方から口寄につれて色々の事を問うので、巫女はこの問口が無いと語り苦しいものだと云っている。又口寄の言うことの中に「日忌(ヒイミ)」と云うのがある。例えば何月何日何方へ往けば損をするとか、不治の病に罹るとか云う類である。地方では之を信ずること甚だしく、その日は必ず在宅して謹慎する風がある。この迷信の結果、自分等(寄稿者島畑隆治氏)幼少の時までは、学校さえも欠席したものである。今は日忌の風は次第に薄らいで行くが、巫女に口寄させる風に至っては、まだ減退せぬようである云々。 
C、越後国三面村の変態的巫術
越後と羽前の国境なる三面村(越後国岩船郡に属す)は、肥後の五箇ノ庄、飛騨の白川村などと共に、山浅く谷幽なるだけに異った生活を営んでいる村落として有名であるが、明治二十九年八月に同地の土俗調査のため旅行された宮嶋幹之助氏の記事の一節に、下の如くある。
此村の一年間の楽しみは、正月と、盆と、旧十月の山神祭礼なり(中略)。旧十月十二日には、山神の祭とて(中略)。山伏を招き、一週間位は全村業を休み置酒す。而して祭には神下(カミオロシ)と云うをなす。其法、村人皆神前に集まりて、村中にて最も実直にて、少しくぼんやりせる男を撰び神子(ミコ)とし、「ボンデン」を携え坐せしむ。衆人は之を囲み、手に藁を縄にて巻きたるを持ち地を打ち、一斉に大なる声にて「ホーイ、ホーイ」と唱う。繰返すこと暫時にして、神子は一度眠れるが如くなり、次で携うる「ボンデン」を勢いよく振り舞わす。此期を外さず村民は、傍より歳の豊凶を問い、禍福を尋ぬれば、言に応じて答う。問を止むれば、神子は倒れ、昏睡して、不覚となる。後に至り、醒むれば、自身が何を言いしや覚えずと。度々神子となりたる者は、少しく雑沓の場にて衆人の喧しきに逢えば、恰も神下しの時の如き現象を呈すと云う。案内者の言に依れば、舟渡村(中山曰。同郡なれど三面村と六里を隔つ)其他の村にて、神下しの時に衆人の唱言は異って、
トラウハ、シマンテ、キリカミテンノウ、ハヤウデカノウハ、ソーワタダイテン
と是を幾遍も繰返すなり。又一種異れる神下あり。「邪権付(ジャケンツキ)」と云う。其唱に曰く、
一ヨリ二ヨリ、三ヨリ四ハラヘ、五ダンノマキモノ、六七サイホウ、八ポウカタメテ、イーノルナラバ、イカナルジャケンモ、ツイニハツカンデ、カンノーマイヨ
と是を繰りかえせば、衆人が呼出さんとする人の霊、神子に付きて、種々の事を口奔ると云う。此神下の唱えは米沢地方の山神祭に言う所と同じ云々〔八〕。
此の三面村の巫術の方法が、屢記した護法附と、全く軌を一にしていることは言う迄もないが、更に一段と古いところに遡れば、神子が巫女であったことが推知されるのである。それは「邪権附」に唱える呪文なるものが、私の接した報告によれば、磐城国の「笹ハタキ」と称する巫女が用いているのと同じであるからである。猶おその呪文等に就いては次節に述べる。 
E、信州における二三の市子と其作法
信州は古くから巫女の名産地で、諏訪郡からも出ているが、殊に多かったのは、小県郡根津村であった(此の事は次節に詳述する)。「郷土研究」第二巻第六号に「信州では口寄巫を一般にノノウと呼び、その夫をボッポクと云う。神社に属して、神楽を奏する巫を鈴振ノノウと云う」とある。而して「民族」第三巻第一号には、同じ信州における巫女に関して、次の如く載せてある。
川中島では竃祓いをノノサンと云った。松本の近在から来るという事であったが、出所は明かでない。矢張り婆さん(中山曰。精眼者である)が多かった。千早を着て、髪は御守殿風に結び、提げて来る風呂敷包は、松本のと似ていた。「ごめんなさい」と云って入って来た(原註略)。鈴を振りながら経を誦んだ。口寄せの如く神口をきいた。お神楽を上げるときには、右手に鈴を振り、左手に布紗に包んだ経本の如きものを持ち、経を誦みながら、両手を頭上高く挙げ、やがて、ぴたりと鈴を止め、「我が一代の、守り神であるぞよ……」から初めて、神口をきいた(中略)。
北小谷(中山曰。北安曇郡)の竃祓いは、あの辺ではモリと云った。盲目の巫女が多かった。根知(小谷下流の越後分)から多く来た。四隅をしばった風呂敷包に鈴を持って居り、家の者に挨拶してから祓にかかった。御洗米といって米一升に銭若干が礼であった。モリは神口もきいた。若い女が多かった(中略)。
川中島地方では、別に梓巫をクチヨセと呼んで、竃祓のノノサンと区別していた。「お神楽を上げれば一段上り口寄を寄せると二段下へ下がる」といったから、竃祓の方を位良しとしていたのであろう。針箱位の風呂敷包を背負って、それに傘一本いつけて来た。その箱の中には人形が入っているということであったが、どうしても見せなかった。風呂敷包の箱に靠(もた)れて、神口、生口、死口をきいて、口寄せをした。神口のときには「神の初めは伊勢明神、越後ぢゃ弥彦の明神よ、信州ぢゃ一は諏訪さんよ……」と節調をつけて、神々を招ぎ降す。死口をきくときには、よく「某(嗣子の名等を呼び)は馬鹿だし、俺も行くところへ行かれぬ、それに水が呑み不足で一足出れば三足戻る……水向けしろや、お線香を立ててくれろや、さうすりゃ俺も助かる」などというので、身内の者などは涙を流して聴き入ったものだという(中略)。
小谷では之をイチコと云った。イチコの箱の中には外法仏が入っている。何か練って拵えたものだという事であったが、誰も見たものは無かった。ところが明治十年頃の事だったろうか(と話手の老人は云った)、イチコの泊っている家に集まって一杯やっていた博労共が、段々酔って来る中に、イチコがぶらりと遊びに出て行ったのを見てとり、その不在に主人の制止するのもきかず、箱の中から外法仏を出して見た。中には土で拵えたキボコ(人形)が入っていた。聖天様の様に男女のキボコが口を吸い合ってからまって居た。後でイチコが帰って来て「俺を勿体ない、いびりものにした」と腹立ち、箱に靠れて外法仏に聞いて、「誰と誰が云い出し、誰が風呂敷を解き誰々が箱を開いて、誰々で見た」と云った。皆の者弁解に窮し、それに薄気味悪くなって、繋銭(中山曰。各自銭を出し合うこと)をして包金であやまった事があったと云う云々。 
F、大阪市天王寺村の黒格子
江戸期には、江戸郊外の亀井戸村(天満宮の裏門脇)、京都郊外の等持院村〔一〇〕、大阪郊外の天王寺村に、小規模ながら市子の集団的部落があった。明治四十四年に、私が在阪中の余暇を偸み、天王寺の巫女町(みこまち)を訪れた時は、まだ三軒ほど黒格子独特の暖簾を下げた家があったので、呪術を頼んで見たが、禁制だと称して口寄せはしてくれなかった。東京の亀井戸も、大正六年に私がネフスキー氏と尋ねた折には、家の表へ注連縄を引き回した家が二軒あって、昔の巫女町(みこまち)の面影を微かにとどめていたが、ここでも官憲の命令だといって、口寄せに応じてくれなかった。而して天王寺に就いては、「浪花百事談」巻九に、
梓みこ数軒住ける地なり、其家みな格子造りにて、表の入口の外には、長三尺計りの三巾暖簾を木綿にて製し、それに大なる紋を染ぬき、仮字にてくろがしら何々、やぶのはた何々など、巫の名をも染ぬき、入口の上には注連縄を張る、黒格子といへるは、格子を墨にて塗り、家の内の表の間には、何か祀りて薄暗くせり云々。
とある。格子を黒く塗り、家を薄暗くするのは、神がかりする為の便利から来ているのであろうが、遂にそれが黒格子と云えば、巫女(ミコ)と思われるまでの俚称となったのである。大近松が宝永三年に執筆した「緋縮緬卯月の紅葉」二十二社めぐりの段に、お亀が情人の与兵衛の身の上を案じて、黒格子の巫女に生口を寄せてもらう光景が、巣林子の麗筆を以て叙述されている。而して此の一節は、単に大阪の古い巫女の存在を知るばかりでなく、その神降しの呪文にも、隠語にも、他のそれと異ったものが記してあるので、少しく重複に渉る嫌いはあるが、必要と思うところだけを左に抄録する。
幼き時より気に入りて、幾春秋をふりと云ふ、年季の下女を身になして、隠す事をも語りしは、黒格子の辻とかや、上手と聞きし神子(ミコ)の門、ああ申し、ちと口寄を頼みませうとぞ案内ける。弟子の小女郎心得て、お通りなされと戸をあくれば、お亀は一間(ひとま)に入りにけり。暫くあって立出づる、神子もよっぽど見えるもの、アァようお出でなされました、大阪のお衆で御座りますか(中略)。
して先づ御用の事ありとは、生口か死口かと云へば、いやさればとよ、頼みたきとは生口なるが、海山隔てし方(かた)でもなし、只二三里の道を越え、五日六日の便(たよ)りもなし、どうがなかうがな、くよくよと、案じわびたる御身の程、寄せたべとぞ仰せる。神子は合掌目をふさぎ、珠数をくりひく梓弓、神下して寄せにける。
天清浄地清浄、内外清浄六根清浄、天の神地の外、家の内には井の神、庭の神、竃の神、神の御数は八百万、過去の仏、未来の仏、弥陀薬師弥勒阿閦、観音勢至普賢菩薩、知恵文殊、三国伝来仏法流布、聖徳太子の御本地は霊山浄土三界の、救主世尊の御事なり、此の御教への梓弓、釈迦の子神子(ミコ)が弦音に、引かれ誘はれ寄り来り、逢ひたさ見たさに寄り来たよ。
なう懐(なつ)かしの合の枕(圏点を附せるは隠語)や、我懐かしとはおぼつかなみの、寄り来る人は誰ぞいの、誰とて二人思ふ身が、一つねふしの二股竹与兵衛を、夫と思へばこそ問ふてたもって嬉しやの、問はれて今の恥かしや(中略)。とは云ひながら扇の影の立烏帽子、舅といひてもとは伯父(中略)。額(ひたへ)に角も入れたもの、丁稚小者を云ふ如く、内の手代や庭宝の侮り者になし果てて(中略)。語るに尽きぬ生口も今は是まで梓弓、引いては帰る習ひなり云々(帝国文庫本)。
大近松の慣用手段とて、情景併叙の筆を運び、殆んど天衣無縫の如き感あるも、それでもお亀が問口(トイクチ)をなし、市子がそれに答える遣り取りの工合が、巧妙に描かれている。それにしても、此の神降しの呪文は、神を言うよりは、仏を称えることが多いのは、兎に角に注意すべき点だと思う。 
G、紀州地方の算所と巫女の関係
本居春庭翁の「賤者考」の一節にこうある。
サンジョと唱ふる所ありて、大抵忌む所夙(しく)に同じ、伊都郡(紀伊)相賀荘野村今陰陽師あり、同郡官省符荘浄土寺村{今巫村なり日高/郡茨木村のうち}などをいひて他村より婚せず、サンジョは産所の意にて、昔産婦はここに出て産し、穢中を過して本村に帰りしなりなどいへれば、夙の所にいへる意に同じ、是も後には陰陽師巫女など移り住みしなるべし、夙よりはいささか勝れる如く他村にていへども、同火を禁ぜざるのみにて婚を忌めば同じ事なり(中略)。陰陽師、巫女、神楽舞やうの者も、人の同歯せざる事あり(中略)。巫女は前にいふ伊都郡浄土寺村、在田郡藤並荘熊井村などなり、、其他一二戸づつなるもあり云々。
猶お同国田辺町の巫女に就いては、既載したので省略する。而して「賤者考」の記事にもある如く、江戸期に入っては、巫女の堕落はその極に達し、漸く賤民として、落伍者として、社会の一隅に噞喁したまでであって、その社会的地位の如きは、殆んど問題とされず、修験の徒や、陰陽師の妻女となって、大昔の勢威などは夢にも見ることが出来なかった生活であった。 
H、出雲地方の刀自ばなし
「郷土研究」第二巻第四号に、出雲国の一部に就いて、次の如く記載してある。
死者の精霊を呼んで、生前の物語を聞くことを「とじばなし」と云う。小庵の尼寺に至り、「とじばなし」を乞うと、尼は萩の弓(中山曰。此の萩の弓は他国には見えぬ)を射て、戒名と命日を唱えて精霊を呼び出して、物語をはじめる。昔死んだ子を呼んでもらって、茶の袷と杖を信州の善光寺まで届けてくれと頼まれて、長の旅路に財産を無くした母親もあった。「とじばなし」は精霊を呼ぶのは易いが、返すのは容易でない。若し誤ると亡霊は勿論のこと、遺族にも不幸が来る云々〔一一〕。
以上は寡見に入った文献に現われた巫女の作法であるが、更にこれが詳細のもの、及びここに漏れたもので、報告に接している分は後出する。さて此の乏しき資料を比較して巫女の異流を考うると、
一、奥州のイタコの如く盲女に限るものと、これに反して、常陸のモリコや、大阪の黒格子の如く、精眼者のあったこと
二、梓弓を用いる者と用いぬ者
三、珠数を用いる者と用いぬ者
四、神降しの呪文にあっても、神道七分に仏法三分というのと、此の反対に仏法七分に神道三分のもののあったこと
五、稀には萩の弓を用いる者のあったこと
等が知られるのである。併し、斯かる異流が何故に生じたか、更に異流双互間の関係等に就いては、遂に何事も知る事が出来ぬのである。猶お本節中に収むべき記事も相当に残っているが、余りに長文になり、且つ大体を尽したと信ずるので、他は別に節を設けて記述することとした。 
〔註一〕金田一氏の故郷である盛岡市の令姉の御宅で行われたこと、詳細は「民俗芸術」第二巻第三号に就いて御覧を乞う。
〔註二〕前田太郎氏著の「世界風俗大観」参照。前田氏は言語学を専攻された方と聞くが、民俗学にも興味を有していられたと見え、此の種の研究や、考察が「東京人類学雑誌」その外に多く載せてある。宿痾のために、壮年で易簀されたのは惜しいことであった。
〔註三〕我国の榊(栄樹)とは、古くは常緑樹の総てであったから、樒もそれであるなどと云う学者もあるが、覚束ない。私は我国には、樒の野生はなく、支那あたりから輸入されたものと考えている。従って、樒が常緑樹だからとて、榊としては取扱はないことだと思う。尤も、私も正月の門松の代りに樒を用いる村が、日本で一ヶ所あることだけは承知している。併し、此の一例だけでは、榊説は成り立つまい。
〔註四〕「一郎殿より三郎殿」の私案は、前に述べたが、その後考え直すと、此の呪文がエビスオロシと称する者によって工夫されたという証明が出来ぬ以上は、甚だ覚束ないと自分でも思っている。敢て後賢を俟つとする。
〔註五〕柳田国男先生の御説によると、此の千だん栗毛の祭文に比較すると、同じ「民族」第一巻第六号に載った「まんのう長者」の方が、一段と古いものだとのことである。成る程、そう言われて両者を比べると、新古が明確に判然し、且つ「千だん栗毛」の方は、詞章をそのまま伝えたものでなく、意味だけ伝えて、文句は後人が勝手に言い改めたものであることが知られる。それに、此の祭文の中心思想である、姫と馬の交りから蚕が生れるという筋は、支那の「捜神記」そのままである。そして之れが奥州に残り、イタコに伝ったのは同地が名馬の産地であるのと、養蚕にも関係が深かったためであろう。
〔註六〕小寺氏の記事は、詳細委曲を尽した長文のものであるゆえ、猶お詳しくは、本文に就いて、御覧を願いたい。更に此の機会に於て、私の運墨の都合から、小寺中道両氏の記事を、勝手に取り交ぜて引用した失礼を、深くお詫びする次第である。
〔註七〕「郷土研究」第四巻第四号。因に、私は鈴木氏と親交ある香取秀真氏の御紹介を得て、鈴木氏を市外田端の御宅へ両度まで参上し、有益なるお話を承った上に、氏の秘蔵せるイラタカの珠数の撮影まで許された。ここに感謝の意を表する。
〔註八〕「東京人類学雑誌」第一二六号。
〔註九〕常陸で巫女を「大弓」又は「モリコ」と云ったことは、「新編常陸国誌」にあること既述した。これを重ねて呼ぶことは如何かと思うが、今は本文に従うとする。
〔註一〇〕京都市外等持院村が巫女村であったことは、京都の地誌類に見えているが、詳細が知れぬので、在京都の友人に、詳細を尽せる書名なりとも知らせてくれと頼んだが、遂に返書にすら接しなかったのは、遺憾千万であった。それで茲に、新井白蛾翁の「闇の曙」巻下(日本随筆大成本)に拠ると、同地方では巫女を俗にヒンヒンと呼んだようである。これは弓弦の擬声から来ていることは言うまでもない。ただ同書には巫女の無学と、弊害とが力説されていて、その呪法や生活に触れていぬのは物足らなかった。
〔註一一〕猶お此の外に、アイヌ民族の間に行われた巫女(ツス)の呪法や、琉球の各島々に在る巫女(ユタ)の作法などに就いて、記述すべき幾多の資料を蒐めて置いたが、今は長文になるのを恐れて、内地だけにとどめるとする。 
第二節 報告で知り得たる各地の巫女と其の呪法

 

予め問題を設けて之れが報告を求め、若しくは学友を訪ねて談話を承り、それに由って考説を試みることは、大に警戒を要すると共に、学徒としては寧ろ回避しなければならぬことである。私は深く此点に留意しているので、巫女史を起稿するに際しても、資料を厳撰し、出典の確実でないものは採用せぬよう心懸けることを忘れなかった。然るに、江戸期から明治期へかけては、巫女の社会的地位が余りに低下しているのと、その職程が余りに退化している為めに、文字に親しむ者は、之を伝うることを疎んじ、実際を知った者も、これを語ることを厭うと云う有様で、文献だけでは、如何にするも、その呪法なり、生活なりの委曲を知ることが出来ぬので、そこで回避すべき事とは知りながらも、未見曾識の学友に対して設問し、敢て報告を仰いだ次第なのである。
而して、その結果は、各位の芳志により、私の予期した以上の功果を収めることが出来たのは、非常なる仕合せであると考えているが、学術上の資料としては、その方法において、欠くところがあると信ずるので、ここに此の事を明記して、取捨は読者の高批に任せるとする。ただ、呉々も言って置きたいことは、私は報告を採用するに当り、全く私心を放れ、これを要約する場合にも、決して毫末の作為も加えぬという点である。勿論、当然のことではあるが、学徒としての私の面目をかけて、此の事を明記する次第である。 
一、奥州のイタコと神附の作法
中道等氏の談話を左に掲げる。
イタコは悉く盲女である。盲女が此の事を専ら営むようになったに就いて、聴くも哀れな伝説が残っている。奥州では気候が寒冷のため、年穀の稔りが充分でないところから、大昔は盲人が出来ると、官憲がそれを一つ処に集め、五年に一遍、十年に一度という工合に、悉く殺害したものであった。それは恰も、琉球の与那国島で、食糧の自給自足を計るために、一定の人口以上は殺害し、今に「人はかり田」の哀話を残しているのと、同じような惨事が行われていた。然るに、或る年に盲人を殺すこととなったとき、領主が盲人にても何かの役に立つ者もあろうとして、一名の盲女を召し、庭前に何があるか言うて見よと命ずると、その盲女はイタコとしての修養があったものか、松の木の下に燈籠があると言い当てたので、爾来、盲女はイタコとして、生命を助くべしと定まり、これからイタコが公許されるようになったと云われている。
奥州のイタコが何時(いつ)ごろから在ったものか、それを正確に証示する記録はないが、江戸期に書かれた「遠野古事記」や「平山日記」などに見える所から推すと、相当に古い年代からと思われる。当時、音楽は普及されず、導引は工夫されず、盲女としては、積極的に生くる道が他に無かったのと、消極的には、神憑りするには、却って眼の見えぬ方が雑念を去る便利があったので、相率いて此の道に入った様である。そしてイタコは各々師匠をとって弟子入りをし、三年なり五年なりの年季が終り、愈々独立のイタコになるとき「神附」の式が挙げられる。この神附とは、そのイタコ一代の守り神となって、即ち呪力の源となるのであるから、イタコとして最も大切な事なのである。その式は、神附するイタコ米俵に馬乗りのように跨り、両足の先に神に供えるのと同じ種々の御馳走を盛った膳(膳には壱厘銭三十三個を置く)を踏まえ〔一〕、師匠始め大勢のイタコがそれを囲って呪文を唱え、終ると「何神が附いた」と囃し立てる。すると大抵は十三仏中の普賢が附いたとか、不動が附いたとか云って、それが一代の守り神と定る。そうすると、今度はその守り神と結婚する式を行うのであるが、最近では単に歯を染めるだけで済している。併し之は深い考察を要すべき点であって、古く我国の巫女が神と結婚した遺風を残しているものと信じられる。十三仏中では、弥陀と阿閦だけは余り附かぬようだが、他の仏はいづれも能くイタコに附く。之も又遠い昔にあっては、仏でなくして我が固有の神——若しくは先祖の霊が神として附いた事を考えなければならぬ。それは此の行事を「神附」と云っている点からも知る事が出来る。
私の知っている八戸町の石橋さだ子(中山曰。小寺氏の記事にあるオシラ神を遊ばせたイタコと同人である)は同地方きっての高名なイタコであるが、十六の時に完全に神が附いたほどの天分を有していた。同地方では此の神附に際し、七日の行を厳しく修めてから、三十三夜は生魚を食せず、熱心に先輩のイタコ共が集って祈るのであるが、中々憑り給わぬが普通であるのに、流石に聡明な少女であったと見え、僅に一日一夜にして託宣を得てしまった。守本尊は普賢菩薩である。此のさだ子の師匠のイタコも偉い女であって、その又先の師匠は八戸の領主の御殿へ上り、正月のオシラ遊びを始め、盆中の口寄から万般のことを占ったので、その名が遠近に聞え重きをなし、今のイタコに伝わる総ての秘法は、多く此の先々代が持っていたものだという。此のイタコの若い頃に、自分の前へ八分目ほど砂を入れた赤塗の鉢を置き、口寄せを始め、頼んだ先祖の仏を祈り下すと、いつの間にやら無数の小穴がポツポツと砂の上に現われた。これは仏の足跡だとあって、イタコよりも眼明きの方が吃驚したという話も残っている云々〔二〕。 
二、磐城に残る笹ハタキの呪文
磐城の笹ハタキ(佐坂通孝氏の写生)
巫女が示した免許状(半紙半分の原紙)
此巫女は鳴弦式の免許状なれど神座も仏座も両方をやる
惟神教会とあれど何処に在るが全く知らず従って教会の主神も判然せず
磐城国石城郡上遠野村の佐坂通孝氏より受けた報告は、学術的に頗る価値多く、従って種々なる暗示に富んだ貴重なるものであった。左にその報告の全文を原文のまま掲載し、更に多少の私見を加えるとする。
一、神子の名称には、神子(みこ)、巫女(ふじょ)、ワカ、モリッコ、子守(こもり)、アガタ語り、笹ハタキ、其他色々ある由なれども、当地方にてはワカとのみ云う(中山曰。佐坂氏のスケッチにより見ると、呪術の作法は、明かに笹ハタキと思わるるを以て、私は姑らく斯く呼ぶこととした。殊に此の呪法は、私としては僅に一例しか知らぬ珍重すべきものと考えたからである)。
二、ワカの呪術を行う形式に二方法あり。一は、鳴弦式=仏座、一は神降し式=神座と云う。
鳴弦式、青竹にて弓を作り、弦は麻を撚りて之に充て、一尺五寸ばかりの竹の鞭にて、弦を打ち鳴らしつつ祈言(中山曰。呪文なり)をなしつつ、自己暗示によりて催眠す。催眠状態に入れるを普通、乗った(神仏が)と云う。神仏は弦に乗って来て、巫女に乗り移ると云っている。
降神式、珠数(中山曰。佐坂氏のスケッチを挿絵としたが、これを見ると、他の巫女が用いるのと同じ切り珠数のようである)を押し揉んで、祈言による自己暗示にて催眠に入る。
三、服装は、普通の着物の上に、赤色の法衣様(ころもよう)の外被を為す。
四、机を前に置き、水を上げ、乗り移って来た時、竹ノ笹束を顔にあてて語り出す(中山曰。挿絵参照、これ即ち笹ハタキの作法である)。乗り移って来て笹を握るとやたらに震い出す(但し語る時は震えない)。
五、最初、乗り移るまでには、相当の時間を要す。祈言、唱え言、般若心経、神降し、仏降し等を、混合して繰返し繰返し約四十分ばかりにて乗り移って来て、笹を手に取り震い出して語り始めたり。私の語らせたものは四十五六の女なり。
第一回が済んで第二回、第二回を終るときには五分か十分。仏一人分を語り終ると眼が覚めるなり。そして第二回をする時には同様の祈言をなす。
一、左の祈言は、巫女に言わせて漢字を其音にあてはめたものなれば、漢字は全く当にならず。
一、無学文盲の者なれば、語る処誤謬多くして、少しも意味をなさぬ所多し。少しも訂正を加えず、全く其ままなり。
一、巫女の言う通りを書きつけたれば、清音も濁音に、濁音も清音になりて、意味の反対に思わるる箇所もあり。
一、語句も文法も少しも当にならず、何が何やら全くチンプンカンプンなり。只大意を捉うるより外なし。
一、此は神下しをする前に、静に言わせて書きたるものなり。数回反復させても同じことなれば、文句には間違なし。
六根清浄の祓
無上信心(むじょうしんじん)、無明法益(むみょうほうやく)、千万劫(せんまんごう)、南窓劫(なんそうごう)、禍根元(かこんげん)、かんげに如来、真実儀(しんじつぎ)、天孫降臨(てんそんこうりん)、供奉(ぐぶ)三十二神、天清浄、地清浄、内外(ないぎ)清浄、六根清浄、天清浄とは、天の二十八宿を清め、地清浄とは、地の三十六神を清め、清めて汚(きたな)きもたまりなければ、濁(にご)り穢(けが)れあらじとの玉垣、清く清しと申す。六根清浄の祓い、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)曰(のたまわ)く、人は(心はとも云えり)即ち神と神とのあるじ、我がたましいたまし、もろことなかれ、故(かるがゆえ)に、目に諸々(もろもろ)の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず(思わずとも云えり)、口に諸々の不浄を言わず、鼻に諸々の不浄をかいで、身に諸々の不浄を触れで、中間(なかま)に諸々の不浄を思わず、此の時に清く潔(いさぎよ)ければ、神にも穢れる事なし、事を取らばハンベかりし(又はんべかりき)皆花よりなる、此の身となる、我身は即ち六根清浄なり〔三〕。
神を降す時の祈り言 (荒神様や其他の神を降すに用うと云う)
南無や般若(はんにゃ)の十六善神、三昧剣はそびらにのせる、弓手(ゆんで)馬手(めて)の矢壺をそれいる、般若の弓は引きたおめる、引いてはなせば悪魔を払う、観音の正座の、病者も速(すみや)か平癒を、タラトカンマン(中山曰。こは不動真言の怛羅吒ヨ𤚥(たらたかんまん)の転訛と信ず)。
仏を降す祈り言
奥の院には、駒もありそろ、駒もあれど花も咲きそろ、花ももりそろう、一丈五尺の駒だの、其上(そのうえ)、りんりんとうこう、かざはなざらば、音はりんりん、調(ちょう)からからと、三世の諸仏も天降る、白き御幣は三十三本、赤き御幣は三十三本、青き御幣は三十と三本、合せて九十九本の御幣ははぎ奉れば、病者も速(すみや)か平癒をタラトカンマン、南無や観音大菩薩〔四〕。
生霊を出す祈り言
一より二けんの三勝(かつ)しはらい、五たんの巻物、六七ソワカ、八万(中山曰。難?)即滅、九(く)もつをととのい、十分祀(まつ)れば、それにたたりは恐れをなし候(そろ)、病者も平癒をタラトカンマン〔五〕。
翼(つばさ)ぞろい
雀と申す鳥は、聡聴(そうちょう)な鳥で、親の最後(さいご)と申す時に、つけた鉄漿(かね)もうちこぼし、柿のかたびら肩にかけ、参りたれば親の最後に逢うたとて、日本の六十余州のつくりの初穂、神にも参らぬ其の先に、餌食と与えられ。
燕と申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、紅(べに)つけ、鉄漿(かね)つけ、引きかンざりて、参りたれば、親の最後に逢わぬとて、日本の六十余州の土を、日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。
けらつつき申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さ、はやのンぼりて、親の最後に逢わぬとて、一ツの虫は日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。
水ほし鳥と申す鳥は聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さはやのンぼりて、親の最後に遇わぬとて、水ほしや、水欲しやと、よばわる声も恐ろしや、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。
鶏と申す鳥は聡聴な鳥など、親の最後と申す時に、干(ほ)したる物をかきこぼし、干したるものを打ちこぼし、日に三度の餌食には、かき集めたるものを与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど(大正十五年八月十七日採集)。
以上の報告は、その一つ一つが巫女史の資料として価値の多いものであるが、就中、関心すべきものは最後の「翼ぞろい」と題する一章である。此の呪文の内容は、現今においては童話となり、然も全国的に語られているものであるが、その古い相が巫女の呪文であったことは、全く佐坂氏の報告に接するまでは、想いも及ばなかったのである。
而して此の一事から当然考えられることは、第一は、此の「翼ぞろい」なる呪文は、私の知っている限りでは、最も古いものであって、前に載せた「千だん栗毛」などよりも更に一段と古いものであると思われる点である。第二は、これを証拠として、まだ他に沢山の呪文から出た童話がありはせぬかという想像である。第三は、斯うした童話の種を国々へ撒き歩いたのは巫女であって、大昔の巫女は小さき文化の運搬者であったことが判然した点である。第四は、更にこれから類推されることは、巫女の用いた呪文と歌謡との関係である〔六〕。
此の事象に就いては屢記を経たが、最近に金田一京助氏を訪ねた折にも此の事を語り合い、巫女が口寄せの折に、神降しの文句から他の言葉に移るときの境目(さかいめ)は「声はすれども姿は見えぬ」という一句であるが、これへ下の句の「君は野に鳴くきりぎりす」と附けて、一首の歌謡としたのは、古い作者が呪文から思いついたものだろうと話したことがある。即ち巫女の呪文は、一方には童話となって国々に行われ、一方には歌謡となって広まったことが、此の「翼ぞろい」から考えられるのである。第五は、此の「翼ぞろい」は、何処で生れたかという点である。南方熊楠氏ならぬ私には、これと類似または同根の説話が、どんな工合に分布されているか知ることは出来ぬが、恐らくは日本のみに限ったものではなく、印度か支那が母国ではないかと思うのである。そして此の文句が呪文となって、巫女の手に渡るようになったのは、都会から地方へ及ぼしたものであろうと考えている。勿論、それ等を具体的に説明することは、私の学問では企て及ばぬ所であるが、兎に角に斯うした手掛りだけでも与えて下さった佐坂氏の御配慮に対し、深く感謝の意を表する次第である。 
三、信州禰津の市子の口寄せ文句
信濃国小県郡根津村は、我国随一の巫女村であった(此の事は後に詳しく述べる)。その根津の最後の巫女であった初音(はつね)ノノウというが、長野市において口寄せをした事実が、明治四十一年一月十四日から同十九日まで六回に亘り、同市発行の「長野新聞」に連載されたということを、上田中学に教鞭を執って居られる角田千里氏から通知を受けたので、私は直ちに此の記事の謄写を同社に依頼したところ、劇務に従われている同新聞記者伊勢豊氏が、私の閑事に深く厚意を有たれ「学問上の資料となるのであるから、一字一句も誤らぬよう写した」とて、左の如き記事を恵与してくれた。此の口寄せの文句は、私にとっては実に唯一のものであると同時に、こうして、死口、生口、荒神占(神口ともいう)三種を克明に記したものは、他に多く存していようとも思われぬので、少しく長文の嫌いはあるが、その全文を転載し、終りに二三の私見を添えることとした。
巫女(みこ)俗に口寄せと云うものは、死口、生口、荒神の、三ツに分ってあって、死口は死人を呼出し、生口は現在の人を呼出して其思惑を聞き、荒神は一年の吉凶を占うものである。今は禁止されてあるが、偶々或る機会から其三口を聞くを得たから掲ぐる事とする。
或芸者が死んだ母親を呼出した死口から始めよう。
巫女の前には盆があって、盆の上に茶碗、茶碗の中には水が盛ってある。芸者は巫女の前に進み、枯れた木の葉を茶碗の水に入れ、右へ三度廻して亡母の行年を告げる。巫女は行くところとして必ず携帯する丈五寸横八寸程の黒い風呂敷を掛けた箱を前に、そこに右の手を頬杖に突き、左の手は肱から手を箱の上に横たえ、瞑目する事二分時、眼を閉じたまま静かに、和讃ともつかず、くどきともつかぬ可笑な節をつけて語り出した。 
第一、死口 (亡母、行年五十四歳。本人某妓)
「千々に思は増す鏡、家を便り座を力、一度は聞いて見ばやとて、能うこそ呼んで呉れたぞえ、来るとは云うも夢の間に、夢ではうつつあずさでは、声聞くばかりで残り多い、姿隠(かく)して残念だ、身も世が世でありたなら、何か便りにもなろうけれど、力になるもなれないし、便りになるもならずして、最後をしたが残り多い、往生したが残念だ、身さえ丈夫で居さえすりゃ、誰に負けなく劣らなく、両手を振って暮らすけれど、惜しい所でお終(しま)いし、心残りに思うぞよ、定めし其方もくよくよと、俺に死なれて此方へは、嘸(さぞ)張合いが悪かろう、嘸力が落ちたろう、身は片腕をもがれたように思うだろう、惜しい所で終いして、後の所も乱脈だ、誠に後の張合も、俺があったる其時とは、はらからながらの所でも、何処か拍子の欠けたよう、何処か振合も違うよう、心残りだ後々の二人は二所、三人は謂わば三所と云うように、身も散々の振り合で、心残りに思うぞや、身も残念に思うけど、ツイ因縁が悪ければ、真実後さえも其儘に、何が何やら少しでも、物の極りと云うもなく、何うか後をばアアカリて、あれも纏めうと死ぬまでも、丹精に丹精苦労して、纏めもしたる身なれども、どれが纏めた廉目(かどめ)やら、どれがかなでた廉目やら、纏めきらぬで最後をし、かなで切らぬで往生した、後へ歎きを掛け放し、運勢の悪い俺だから、死んだ此身は何うならむ、何うも残した後々に、マダ苦になる事もあり、案ずることもマダあるぞ、どうか苦になる後々を、どうぞ纏めて、成るたけ世間の人様に、お世話にならぬようにして、ならぬ中にも精出して、出来ぬ中にも丹精して、何うか互に睦まじく、何うか依るべき血の中を、大事に掛けて暮されよ、何と云うても云われても、血は血でなければならぬから、身は身でなければならぬから、何か依るべき血の中や、遺した中だからとても、義理に切られぬ中だぞよ、何うぞ互に往復も、仏がなけりゃアアじゃないか、今の様はと陰からも、世間の口端に上らないで、何卒たっしゃで暮して呉れるように、思えば思う其度に、心残りに思うけど、これも前世の約束や…………。」
巫女の声は憐れにしめって来た。アノ世から悲しげに囁く声とも思わるる、陰にこもった声である。始めからハンカチで眼を抑えていた芸者は、ここに至って堪えがたくなったのであろう。慈愛ある母の面影さえ忍ばれたのであろう、身を慄わしてヨヨと啼きくずれたのである。
芸妓は人目も恥もかまわずに、其場へヨヨと泣きくずれたまま顔を上げ得ない。居合わせた者も憐れを誘われ鼻(はな)をつまらせて眼をうるませる。一座はシンとして咳の音さえもない。
「去るものは日々に疎し」悲しい死別れに、身も世もあらぬ胸の悲しみも日を経て漸く薄らぎ行きしを、今日の口よせに依って、亡母が悲しい事の数々や、心残りを語られては、今更当時の有様を再びする心地して、正体もなく泣き沈んだのは無理もない。巫女は妙に人を引付ける抑揚のある哀調を以て尚も続ける。
「言い置く事もありたれど、身の死際の敢なさに、ツイ云う事も云わないで、語る事も語らなく、此方の事も間に合わず、目を閉ず時だからとても、末期の水も貰い外し、身の因縁が悪ければ、仕方もないが後々が、マダ血の中もあるだから、先祖の蔓(つる)の切れぬように、後の纏めをして呉れろ、西を向いても他人様、東を向いても他人様、他人の中の身の住居、長い月日の間には、善い事ばかりはなにあらん、詰らぬ事もあるだろうが、必らず悪い了簡や、そでない胸を出さないで、どうぞ彼の世の仏にも、又は身内の人々の、顔をよごさぬようにして、身の安心の出来るよに、喜ばしやれと云うように、暮して呉れろ頼むぞよ、只残念はあの時に、云い度い事の一言や、遺す言葉がありたるに、ツイ言わないで終いをし、後の所も其儘で、別れて来たるそれのみが、誠に誠に残念だ、他人様にも身内にも、皆心配を掛けた儘、ツイ一礼も告げないで、世話になったり放し、苦労掛けたら掛け棄て、終いをしたが残り多い、之も運勢が悪いので、仕方がないと諦めて、居たら居たらと思わずに、身の納まりを大切に、仏に安心させてくれ、今日の一座はようくれた、久しぶりでの物語り、語りて云おうとした心、話して胸が晴れたぞや、言えば語れば限りもなし、一日言うたからとても、話し切れない事もあり、語り切れない事あれど、何と口説いたからとても、旧の姿にゃならぬから、之で忘れて諦めて、名残惜しくも暇乞い、遙か来世へ立帰る…………」
終りを消えて行く——死んだ人が仮りに此世へ現われて、又冥途に帰って行く、それに丁度相応わしい——様に語り終った巫女は、静かに瞑目して居った眼を開いた。泣沈んだ芸妓は、漸く涙を歇め顔をあげて、其泣きはらして赤くなった瞼に、淋しい笑を浮べて一座を見渡す。雨後の名月、一段の美添えて却って痛々しい。
巫女は依頼者の悲しさも喜ばしさも関する所でない。自己の職務を為す上に於て、人の哀楽は対岸の火事である。語り了った彼女は、徐に頬杖を突いた手を解き身を起し、平然として次を待って居る。
代って他の芸妓が出る。前の死口の陰気なのに引替えて、是は亦生口の、情人?を呼出して、其意中を聴くと云うイキな派手やかなもの、一座の手前を憚(はばか)って、やろうか遣るまいかと躊躇の体、幾度か笑を浮べて一座を見廻し人の気を読んだ上、思い切って巫女の前に進む。
巫女は前同様箱に肱をして頬杖を突き、静かに眼を閉じる。芸妓は巫女の前に進んで、茶碗の水を紙の小捻に三度息を吐きかけ、右へ三遍廻し、口の中で極めて小声に男の年を告げた。誰れかが「イヨー」と声を掛ける。芸者はサッと耳元を赤くして一膝身をすさった。男の年を聞くを得なかったのは残念であった。 
第二、生口 (女より男の意中を聞く)
「心の程も知れないと、案じて一座呉れたのか、苦労になるも無理はない、女心の一筋に、思い過ぎしが身に余り、どう云う積もりであろうかと、今日の一座も思うだろうが、身を疑ぐりて呉れるなよ、俺が心は了簡も知れない事もない筈だ。又身の上だからとても、自由になるもならないも、予て承知でありながら、身を疑ぐりて呉れるなよ、当(あて)にならない事もなし、力にならぬ事はない、今斯うやりて身の上も、思う自由にもならぬから、其処のところからは推量して、必らず何うか俺が事、届かぬものだよくよくな、そでないものと身の上を、さげすまないで居てくれろ、今の住居をしてみれば、目上目下の中に立ち、身分も好きに往かないし、身体も自由にならぬから、其処の所は推量せよ、又往く始終や後々は、ならぬ中にも精出して、何うか力も添えようと、心に掛けて居るだから、アァは云うたが嘘らしい、斯うは云えども何うだろう、末の力になるまいか、後の便りになるまいかと、身を疑らず居て呉れよ、俺は人のように兎や斯うと、言葉の艶も嫌いだし、上手云うのも嫌いだが、腹に悪気のないだから、又往く始終や、後々はどうか此身も側にいる、人に云われた意地もあり、側で堰かれた意地もあり、又分別もする積り、身の了簡もあるだから、悪く思うて呉れるなよ、能うこそ今日の一座を、何う云う積りで居るやらと、思い過して呉れたろうか、知れない事もあるだろうが、今お互いに寄合って、是ぎり会わぬ訳じゃない、身も対面の其上は、身の善悪も知れること、何うかと疑う事はない、心に別な事もなし、身分に変る事もなし、是で聞分してくれろ、此上長座はならぬから、右で体(からだ)は立帰る……」
右にて終る。一座の者は「お奢りお奢り」と芸者に迫る。芸者は嬉し気にニッコリ、座は急に陽気になる。
代って一人、厳めしい洋服の紳士が出る。先生、先にやりたさは遣りたし、一寸変な工合だしと躊躇して居たのが、既に芸者と云う瀬踏みがあったから、猶予なくそれへ進む。紙を細く切ってそれに息を吐きかけ、撚って例の如く茶碗の水を右へ三遍、「先方は女二十六」キッパリ言った。「最早年寄ですネ」等冷かす者ある。紳士は、この場合聊か極りが悪い。笑を浮べた眼に一座を顧み、「出ように依っては奢るよ」と、お茶をにごして身を退ける。
老巫女は一座の動揺めくに関せず瞑目して、同一の口調を以って語り出す。 
第三、生口 (男三十三歳、女二十六歳、男より女の意中を聞く)
「確と様子が知れぬから、何う云う心で居るだやら、どの了簡のものだかと、案じて寄せて呉れただろが、案じられるも無理はない、苦労になるも無理はない、身は一所にいてさえも、知れない事があるだもの、殊に斯うしてお互に、間離れて暮して居りや、どう云う様子で居るだかと、嘸ぞ心配に思うだろ、定めし苦労になろけれど、どの了簡で居られるか、何う云う運びであろうかと、案じて居ない事はない、苦労に思わぬ事はない、後の所や末始終、力になりて呉れるやら、便りになるかならないか、明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない、安心させて呉れるのが、始終力になるのやら、但しは頼りにならないが、一つはお前の了簡だ、心一つのものだから、身の了簡を取極め、心定めて往後は、何うか末々お互に、力になりて頼むぞえ、便りになりて暮そうぞえ、何う云う運びに致すのも、一つはお前の胸次第、心一つのものだから、よく了簡を取極わめ、心定めてどちらになりと、力になるかならないか、何う云う運びに致すのか、どちらになりと一道の、身の挨拶をしてくれな……」。
座中の眼は紳士の一身に集まる。紳士は天井を仰ぎ、胸の時計の鎖を弄びながら得意満面?
「心懸りに思うから、何卒了簡を定めて、暮らして呉れるようにしな、身の対面の其上で、互の胸も話すべし、此上幾ら云うたとて、此処で埒がつくでなし、道理のつかぬ事だから、別けても亦物事は、余り座中も多ければ、話の出来ぬ訳もあり、身の対面をした上に、委細様子を話すから、その対面を待ちるぞえ、くどく云うまい語るまい……」。
巫女は約八分時にして語り終る。座に教員あり、官吏あり、商人あり、芸妓あり、皆一斉に紳士に向って、種々の矢を放つ。四面楚歌の裡にある紳士は、天井を仰ぎ、一層胸を突出し、右手に鎖をチャラチャラ鳴らし、大口開いて呵々と笑う。
巫女はけげん相に順序よく一々端から皆の顔を見る。
「今度は君がやって見給え」先の紳士が一人の青年を顧る。「僕ですか——まァ止しましょう」と笑う。「やり給え、面白いぞ」「でも僕には呼び出す身内も故人も知らないし、又貴方の様に意中を聞くべき者、ハハハハ女ですね、そう云う者はありませんから」「何うだか疑問だが……じゃ一年の吉凶を見る荒神と云うのをやったらいいだろう」「そうですね、敢て御幣をかつぐ訳でもありませんが、今年丁度厄年に当りますから、一ツそれをやって見ましょう」。青年は巫女の前に進み、茶碗の水に青木の葉を入れ、型の如く右へ三遍廻す。 
第四、荒神 (男子二十五歳)
「天が庭には風騒ぐ、天清浄と座を祓い、地清浄と座を清め、身体を祓い身を清め、一代守る御神の吉凶大事を告げるから、心静かに聴き給え、生れに取れば随分に、心も大に平らかに、生れて来たる身であるが、身の運勢の振合いから、十と一とも云う時に、後ろ楯にもなる中に、力貰いが薄いのか、身の定まる縁談や、人の身定めて人の身の、心配をして出たが、五七年とは申すれど、中取分けて二三年、何うも好まぬ所あって、自分の常に思うよう、丁度に行くや行かないのは、身の心配もあるだろう、目上の人の言う事が、何うも自分の気に入らず、我身で思う其事が、目上の人の気に入らず、兎角心が前後して、合う辻つまが合いかねて、別けても去年一昨年の身の心配もして居たし、既に斯うかと云うような、気を揉む凶事もありたれど、マダ運勢が強かりし、目上の人の精分や、其方の自力が強いさに、後へ後へと去りながら、凌いで来たが逃れたが、見つ当年の春からも、大事の坂がありたるぞ、今年やお前の厄年だ、大刀(かたな)なら目貫、扇なら要と云う所だから、モウ了簡を穏かに、心静かに企てろ、大事な所だ今其方も、一つ思案を違えると、目上の人の気も損ね、側の用いも薄くなり、第一運も乱れるし、今大切の身の上だ、随分其方の胸次第、了簡次第末始終の、身の安心や運勢もないのでないが、マダ何うも、身の了簡に定まらぬ、落つきかねる処あり、今身の上も色々に、どの了簡がよかろうか、どの手にしたが増しだかと、身の心配も多くあり、心も迷い気も狂い、何にかに苦労があるけれど、先ず物事も急がずに、心静かに企てろ、身の心づけ二三月、身の心配を求むるか、大事な月に当るぞよ、首尾よくそれを凌げれば、四月五月に宜けれども、六七月の表から、僅な事のいきさつで、身の心配を求むるか、云い聞けられて気を揉むか、之も宜くない大切な、月に当るが気を付けて、それを無難で逃れたら、先ず其方も八月九月に穏かで、十月よいが十一月へ掛けては、其方の大切な月に当るぞ気を付けろ……」。
紳士は青年の肩を叩く。「どうだ。君、気を付けたまえ」「イヤ一ツ的中しそうに思われる処があります」と言葉を切り、一寸首をかしげて「成程、そうかな」と独言する。
「まてまて僕が一ツやる」座の一隅から、大声を上げて巫女の前に出たのは一人の書生、黒木綿の五ツ紋に、ヒダもくずれた袴を着けた、満身元気に満ち満ちた面魂。巫女の前に座ると「僕の先生に対する感想を聞きたい、頼むぞ」と例の茶碗の水を紙捻で廻す。 
第五、生口 (男より男の意中を聞く)
「言って聞かせる此身より、其方の胸が分らない、その了簡が知れかねる、何ういう胸で居るだやら、何ういう積りのものだやら、其方の胸が知れかねる、今斯うやって見て居れば、定めし陰じゃ色々に、アァは言いそもない筈だ、斯うはしそうもないものだ、義理も人情もなきものと、必ず思うて身の上を、さげすまないで居て呉れナ、悪く思うて呉れるなよ、義理ある中を義理悪くする了簡もないし、又理を非に曲げて意気悪く、否やを云うた訳じゃなし、兎や斯う云おうと思わない、一ツは其方の胸次第、藤にもなれば柳にも、ならない事もないだから、必ず必ず身の上を、思い過ごして色々と、身をさげすんで呉れるなよ。少しの物のいきさつで、拠ろない訳からで、ツイ其方にも悪くなる、届かぬ所もありたれど、今の運びであるけれど、身は斯うやりて居ながらも、どの成行がよかろうか、何う云う手段がましだかと、色々胸じゃ気を揉むし、考え見ない事もなし、心配しない事はない、ヨモヤ斯う云う訳がらで、余計な気込みを致そうも、身の心配をしようとは、微塵が程も思わねど、これも余儀ない訳がらだ、又身の上も、七重の膝も八重に折り、事の法立も致そうけれど、真個余儀ない訳がらで、届かぬ処もあっただし、悪かな所もあったれど、其処の処は不承して、必ず悪く思うなよ、篤と合点の往くように、何うか其方へ知れるように、陰の噂や陰からの、人の陰言云わないで、内事に掛けて居てくれナ、今斯う此処の座で、言い訳らしく愚痴らしく、兎や角う云うたからとても、身の言訳をするばかり、只だ愚痴らしく此処の座で、所埒の付かぬ事だから、一座は之で聞きわけて、推量ありて頼むぞえ、能うこそ今日の一座をも、何う云う積りで居るやらと、身の親切があればこそ、今日の一座も呉れたろが、身の対面の其上で、委細様子も知らそから、今日の一座はこれ迄に、聞きわけあって頼むぞえ、気も取込みて居て見れば、思う長座もならぬから、右の体に立かえる……」。
書生君「馬鹿ッ」と一喝、「僕の先生が、そんな愚痴のような弱い事を云うものか」と肩を怒らして、大いに威張る(完)。
是等の口寄せの文句を通読して、直ちに感ずることは、第一は、その文句が極めて通俗であり、粗野であり、如何にも無学の市子が、口から耳へ聞き覚えそうなものという事である。併し、強いて言えば、全国を旅から旅へかけて渉り歩き、あらゆる人々(殊に女子)を相手にするのであるから、斯うした俚言俗語をつらねたものが、必要とされていたのであろう。
第二は、文句が始めから終りまで、何等捕捉するところがなく、下世話にいう鰻に荷鞍の譬えのように、のらりくらりとしたものであって、依頼者の考え方一つで、右にも左にも、又良くも悪くも、解釈の出来るように、不得要領のうちに、何となく要領を得ていることである。勿論、これは敢て、此の文句に始まったことではなく、古い「歌占」にせよ、更に寡見には入らぬが、昔の口寄せの文句も、必ずや斯うしたように、解釈は聞く人の心まかせに融通が出来たことと思われる。
第三は、この文句は禰津の市子に限られたものか、それとも全国とまで往かずとも、関東だけでも共通していたものかどうかの問題であるが、これは他に比較すべき材料を有たぬ私には、何れとも言うことが出来ぬけれども、兎に角に、禰津と同じ流派に属していた市子だけは用いたものと見ても、間違はあるまい。
第四は、此の文句の中で、同じような事を繰返して「最後をしたが残り多い、往生したが残念だ」とか、又は「明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない」とか云うのが眼につくが、これは聴く者の胸を打ち、納得させる必要から来た一種の修辞であろう。これも大昔から「旛(はた)すすき穂に出(で)し神」とか「天の事代、地の事代」とか繰返して云ったのと同じ意味で、ただそれが典雅であり、卑俗であるとの差別であって、古くから伝統的に残っていたものと考えられる。語尾に「ぞえ」を添えるのも、又それであろう。
第五は、此の文句の作者と、その時代であるが、作者はいずれの修験の徒か、又は市子の亭主であろうと思うが、どちらにしろ余りに物を知っている者で無いことは疑いなく、時代はその時々に適応するよう改作されたようにも考えられるが、江戸期の中葉であると見れば、さしたる誤りはないようである。 
四、外人の見た巫女の作法とオシラ神
大正四年の春に、我国に留学されたニコライ・ネフスキー氏は、巫女の事に興味を有していて、我々日本人が思い及ばぬほどの深い研究を試みていた。殊に、オシラ神と、これを所持しているイタコとの考証には、同氏独特の意見を有っていた。私は、同氏が留学された年の秋から交際を始め、昭和四年九月に、前後十五年の長い星霜を経て、本国ロシヤに帰えらるるまで、厚誼を重ねていたが、此の長い間に、同氏から書状や、口頭で教えられた、巫女の呪術や、作法や、更にオシラ神の由来などに関したものが、尠からず存している。
例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、
東北地方に現存しているオシラ神は、太古の時代に、北方民族の持っていたものが、輸入(或は民族の移住と共に将来されたか)されたものと信じて誤りがないようである。それは、ポーランドのチャブリツカ女史の書かれたアボリジナル・オブ・サイベリヤに拠ると、蒙古のブリヤート族は、モリニ・ホルボ(モリは馬、ホルボは棒)という神を持っている。そして其の棒の長さは二尺位で、頭は馬、下は蹄になっていて、これに五色の布や、小さい鈴などを付けている。
日本のオシラ神に、馬の頭のある事は言うまでもないが、陸前国気仙郡の鳥羽氏から受けた報告によれば、同地には、頭は馬で、足が蹄のオシラ神が、立派に存在しているとの事である。五色の布はオシラ神のセンタク(着衣の俚称)と同じものである所から見るも、これは決して偶然の一致ではなくして、両者の間に交渉があるものと考えるのが至当である。
更に、もう少し微細な点を述べれば、オシラ神のセンタクの着せ方は、北方民族の古俗とも見るべき、貫頭衣(一枚の布の中央に穴をあけ、そこから首を出すもの)であって、即ち、北地寒国において工夫された、胡服系の形式である。
而して加賀の白山(しらやま)の主神である菊理姫命と、オシラ神との関係に就いては、深く考慮したことがないので、有無ともに断言することは出来ぬけれども、此の神の出自が、日本の神典ではやや明白を欠いているが、若し日本海方面に多くの例を示している「渡り神」の一つであるということが証明されるようになったら、両者の関意すべきであろう云々。
とのことであった。ここに聴いたままを記して後考に資するとする。 
五、三州刈谷地方の市子と其作法
三河国碧海郡刈谷町の加藤巌氏よりの高示によれば、
一、市子の名称は、よせみこ、くちよせと云っているが、蔭では悪称して、狐遣い、クダ遣いと云っている。
二、市子は悉く精眼者であって、盲人は無い。
三、市子に口寄せを頼む場合は、死人を呼び出すとき、行衛不明の人の、所在、方角、生死等を尋ぬること(実験者の談によれば、死人を呼び出すと、市子の声が死人の声になり、生前の事も知りよく当るが、生きた人の事は当らぬが多いという)。
四、口寄せの作法は、他と同じく、外法箱を前に置き、手向の水を、死人は枯葉で、生者は生葉で掻き廻し、その雫を外法箱に振りかけさせ、市子は箱に両臂をつき、呪文(これは判然せぬ)を唱え、催眠状態に入るのであるが、その折に、片手を挙げて、自分の顔を数度軽く撫で廻す(中山曰。前の笹ハタキと云い、此の市子と云い、何か顔へ触れることが、催眠に入る条件のように思われるが、判然せぬ)。それから種々と口奔るようになるのである。
五、口寄せに対する世人の信用は、全く有るか無きかの状態である。「死んだ妻の三十五日だから、一度逢って来よう」という程度の気休めに、それも極めて下級の者が頼む位のものである。中には、市子の言を信じて、亡者の供養をするとか、百万遍の念仏を行うとか、八十八ヶ所廻りをするとか、新しく仏壇を買い入れるとか、その人々に相談した事をやる。市子の弊害はここに存し、いずれかと云うと、死人に託して祈祷を続いて行わせ、祈祷料を貪るのが目的のようにも考えられる。
殊に馬鹿気ているのは、或る人が亡妻の霊を寄せたところが、その死霊の云うには「私は迷っているが、その迷いの元は、××さんに衣物一重ね差上げたのを、今になって娘にやれば宜かったと思いつき、それで迷っています。あの衣物を取り戻し、娘に遣って浮ばせてください」とのことに、その亭主は仔細を語り、衣物を貰い返したという話もある云々〔七〕。 
六、美濃太田町附近の市子と其の生活
美濃国加茂郡太田町の林魁一氏よりの高示を次に掲載する。
明治維新前には太田町には二人の市子あり、一人は信州の親方に縁付き、一人は死亡して、現今は全く影だになし。隣村の同郡坂祝村大字取組には、現在一人の市子居住し、本年八十歳の老婦(精眼者)にて、幼少の時に信州にて修行せるものと云っている。全体、美濃国に常住し、又は漂泊し来る市子は、多く信州上田在(中山曰。既記の禰津村なり)から来るのである。ここには四十八軒の親方あり、親方は男子にて、二三人以上数人の巫女を養い置き、市子が各地を旅かせぎする折は、親方も同行した。市子は免許状を貰って独立して、幾分の税金の如きものを親方へ送ったものだと云う。
市子を頼むのは、他地方も同じと思うが、死人の行処及び死人の心を知りたきとき、並びに遠方に在る生ける人の心を知るとき、又は生死不明の事を知りたきを第一とし、その他には、縁談、病気、失せ物、悪事災難の多い折などであるが、現今では市子の信用が無くなったので、依頼する者は極めて稀である。
此の地方の市子は、常に紺風呂敷に包みたる蜜柑箱ほどの箱(取組の巫女の箱は桐製である)を出し、その上に長方形の肱蒲団の如きものを置き、右手に念珠を持ち(以上、取組にて見し所なり、以前は念珠を持たぬと云う人もあり)、箱の上に両手の肱をつけ、箱の前には之れも他地方と同じく茶碗に水を入れて、それへ南天の葉を載せて置き、依頼者は南天の葉に水をつけ、三度その箱に注ぎかけるのである。死者の際は枯葉を用いると云う。然る後に、市子は神降し(此の文句は秘密とて教えぬ)と称して、日本諸国の神々の名を称え、それが終れば、目的の依頼を受けたることを、神降しと同じような口調で述べる。依頼者はこれを聞いて事の善悪その他を知るのである。市子が称え終ってから後は、問い返しても答えぬのを習いとしている。
市子の口上の一例を、縁談に求めれば「北より東は宜いと云う、心に緩みのないよう、大事のことじゃ、ここがかなめで、南か西はおく(止めるの意)ように、二月か三月往かざれば、八月は身のため」云々と云うようなものである。即ち「方角は北東を吉とし、二月三月に嫁せざれば八月が宜い」と知るのである。茶碗の水と、南天の葉は、終ってから依頼者が捨てることになっている。
現今の市子の生活状態は、普通の民家に住み、農業か舟乗業を兼ぬる家族であって、一回の口寄せは二三十分間を要し、料金は二三十銭を貰う由にて、生活は言うまでもなく中流以下である。明治維新以前には、信州から二三人づつ組をなした市子が太田町に来たり、紺風呂敷に箱を包みこれを赤紐で結び背負い歩き、地方の人達はそれを呼び込んで依頼したものである云々〔八〕。 
七、近畿地方の市子と性的生活
京都府立第二中学校の井上頼寿氏から、前後四回まで高示に接しているが、その多き部分は、伊勢神宮の御子良及び母良に関するもので、然もその内容は、発表を憚からねばならぬ事もあるし、発表しても差支ないものは、私の言う口寄せ市子に交渉するところが尠く、所謂、帯に短し襷に長しというものである。それで茲には、前後四回の報告を、私が勝手に按排して、専ら近畿地方の巫女と、性的生活の方面を記すとした。此の点に就いては、深く井上氏の寛容を冀う次第である。
山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式(中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか)が、行われたようだとの事である。同郡のかわらやと云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。
井上氏の同僚河野氏の談に「二三日前に大津市太郎坊のみこ(婆)の所へ、叔父の神経痛の薬を聞きに往きしに、年齢を問い、自己催眠の如き状になり、一種の節にて、急にぞんざいなる言葉にて物を言い始め、その中に薬を云うのであった。薬は悉く草根木皮の漢薬であるが、大てい本草綱目等に書いてあるもので、猶お、大和国宇陀郡地方の巫女(みこ)も、かくの如き薬名を神託によせて教えるとのことであった」云々〔九〕。 
八、阿波国美馬郡の市子と作法
阿波国美馬郡出身の後藤捷一氏の高示によれば、同郡地方の市子は、土着の精眼者で、社会的の地位は低く、生活も余り豊ではない。民家で市子を頼む場合は、原則としては喪家に限り、普通の家では特別の事情に由る外は、頼む事はない。横死するとか、夭亡するとかの場合に、その者が死んで仏となったか否か、それとも迷っているかと懸念して市子を煩わすのであるが、俚俗この事を「弓打(ゆみうち)かける」と云っている。そして弓打かけに往く時は、必ず死者の位牌を持参し、市子は此の位牌に向って、何か呪文を唱え(中山曰。讃岐香川郡の市子は此の時に、白布で包んだ例の外法箱へ片手を載せ、その掌に飯を盛った茶碗を持つと聞いている)ているうちに、市子は何時しか位牌の主の死者となり、依頼者と談話を交換するのであるが、併しその文句は概して定まっていて、よく来てくれたとか、誰々が来ていぬとか、石碑を建ててくれぬので仏になれずに迷っているとか、或は死者が幼年である場合は、冥土で祖父さんに抱かれているとか、お父さんが来ていぬが、どうしたのかなどと云い、更に妻を残して死んだ男なれば、子供の事を呉々も頼むとか、殆んど版に起したような事を言うが、往々冥土にいる筈の祖父が健在したり、子供が無いのに頼むなどの失敗を繰り返すこともある。依頼者は、言うまでもなく、迷信の深い婦人達であって、稀には三里も五里もある遠い市子の許まで、頼みに出かける者もある。但し、同地の市子は、此の外の祈祷、縁談の吉凶、家相の善悪などの事は一切関係せぬ。喪家以外の民家で依頼する場合は、その家に不幸が続くので、何か古い時代に悪い死に方(横死憤死など)をした者の祟りではないかと思うとき、巫女を煩わして死者の望みを聞き、それを果してやる時である云々〔一〇〕。 
九、土佐高知市の市子と其の呪法
高知市の寺石正路氏の高示によれば、同市潮江町に巫女(みこ)が居り、岸本竹子と称し、五十七八歳の老人にて夫あり、夫も祈祷師を営んでいる。世上この婦人に頼み、先祖の霊など呼び出す故、俗に「呼び出しをしてもらう」と云っている。巫女の家には、東方の棚に八百万の神々を祭り、西方の棚に諸仏を祀る。依頼者の望みにまかせ、神霊でも、仏霊でも、直ちに呼び出す。但し正月三ヶ日、或は神祭日には、神の霊は来るが、仏の霊は来らず、又た仏の霊の来たる日は、神の霊は出ず、同じ日に神と仏と憑りうつることは無いと云う。
呪法は昔の面影はなく、ただ神棚なり仏壇なりに向い、暫らく合掌祈念しているうちに、依頼者の指定した男なり女なりの霊が移り、依頼者と問答するのであって、祭り方はどうせよとか、墓の石が傾いたから直せと云うようなことを言い、更に依頼者から質問があれば、それに答弁する、巫女の声は、憑(かか)った男女、老若の声となるのが、不思議だと云われている。そして長いのになると、二三時間もかかり、それを一日に幾度も繰返すと、非常に骨が折れるものと見え、汗を流すと云う。猶この巫女は流行していて、今に毎日数人の依頼者がある。以上は、高知銀行員木股茂里馬氏及び潮江町の宮地昌次氏の実験談を聞いたものである〔一一〕。 
一〇、筑前国直方附近の市子と其の呪法
筑前国鞍手郡直方町の青山大麓氏からは、前後三回の高示に接しているが、ここには同氏の寛容に愬えて、私が勝手に要約することとした。但し事実においては、些末の相違なきことは改めて言うまでもない。左に掲載するものがそれである。
宗像郡上西郷村大字内殿に居る「みこじょう」は、久保田直子とて、本年六十歳ほどの老婆、私(青山氏)が訪ねた時は、籾摺りをしていた。此の家は神理教の教会になっているが、元は農家であって、現に農業を営み、教会は内職という有様である。私は附近の農家で教えてもらった通りに「仏様の御到来を聴きに参りました」と云ったところ、籾摺りの手をとどめ、直ちに私を仏間へ招じ、私の住居と死者の死亡年月日と行年及び姓名を問い仏前に蝋燭一本を点じ、線香四本(私の妻が死んで四年目だというので線香を四本立てたのか聞き漏らした)を立て、先ず初め十三仏の御詠歌とて、左の如き普通に行われている詠歌とは全く異るものを中音で唱えた。
一、不動さま     神となり仏となりて水の中、雷火の中に立つは世のため
二、釈迦如来さま   大小(ママ)の年も習わぬ教文を、瑠璃を唱えしこれぞ教文
三、文殊菩薩さま   普陀洛や居ながらとなう善根を、皆成仏の導きとなる
四、普賢菩薩さま   としさそう只一人も百合の花、つぎざにのぼる慈悲な善根
五、地蔵菩薩さま   善悪もつくりし罪は一心に、ねがえ助くる地蔵誓願
六、弥勒菩薩さま   世の中はうそいつわりを納めおく、来たる未来は偽りはなし
七、薬師如来さま   唱えれば薬の利益かいきある、時節を待てど養生はなし
八、観世音菩薩さま  神ほとけよくめも願いある深き、心をひとつ誠となえよ
九、勢至菩薩さま   生れ来てそよしる事と知りながら、後生を願う人は少し
十、阿弥陀如来さま  父母のそだてし恩も忘れなば、救う阿弥陀の網にとまらぬ
十一、阿閦如来さま  願うなら仏と思う父母に、後生の元は親に孝行
十二、大日如来さま  幼な子よはてしこの子は契りなし、育てし親にあたえとの事
十三、虚空蔵菩薩さま 風さそう哀れつれなし灯火の、消えし我が名は面影はなし
   打ち返し    面影は無いと云えども願うべし、先の苦楽はあからかにゆく
殆んど意味の通ぜぬものがある迄に唱え崩された詠歌が終ると、両手を揉んで、狐憑きのように頻りに震っていたが、今度は西国三十三番(これは流布のと同じ)の御詠歌を巡礼の口調で唱え、その終りに四五回欠呻(あくび)をして仏を招じた。この欠呻はほんとに冥府から来たというような陰気な長いものであったが、愈々仏が来ると「よう参って来てやんなさったナァ、こっちへ近う寄んなさい、今日は緩りお話をしましょう」と云うような事から始まって、色々の事を言ったが、初めから終りまで泣くことばかりであった。
仏との話が済んで、仏が帰えるとき前と同じく四五回欠呻をして、「よう参って来てやんなさった、私はほんとに嬉しい」と云って、一度泣いて仏は帰り、次で信濃の善光寺の御詠歌を唱えて終りとなった。料金は一回三十銭から五十銭だというので五十銭置いて来た。
内殿附近で尋ねた農婦の話では、祈祷を呼ぶ場合には、前に古い仏(祖父とか父親とかの仏になったもの)を呼んで、次に新仏を呼んでもらうものだと聞いたが、私の場合は直ぐに、四年前に死んだ妻の霊が出て来たのである。それから私の地方では、仏をそうして呼び出すと、位が下がると云うていて、軽々しく仏を呼んではならぬと戒めているようである〔一二〕。
此の外にも三四の学友から高示を受けているが、市子の呪法も、生活も、社会的地位も、殆んど既載のものと大同小異であって、別段に取り立てて記すべきものが無かったので省略した。ただその中で注意を惹いたことは、浄土真宗の隆んに行われている地方には、市子の全く存して居らぬと云う事実であった。これは宗義として雑行を禁じているためであることは言うまでもない。而して以上各地の状況を高示によって比較すると、
一、奥州のイタコが何として古俗を伝えていて、殊に守り本尊と結婚すると云うが如きは、山城の相楽郡のそれと同じく、遠い昔に、巫女が神々と結婚した遺風として、珍重すべき資料である。
二、磐城の笹ハタキの唱える呪文中にある「翼ぞろい」の一章は、種々なる意味で有益なることは既載の如くであるが、それにしても、斯うした古い事象が残っていたことは、案外であった。
三、九州の「いちじょう」が唱える十三仏の詠歌が、普通に流布している以外のものであったことも、又私にとっては意外であった。
単にこれだけを手懸りとして考察を試みることは早速であるが、民間に行われた十三仏の信仰は、その地方毎に内容を異にしていたものがあった事が知られると同時に、九州にても巫女がこれを護持仏とし、遠く離れた奥州のイタコがこれを守り本尊とするところを見ると、諸仏のうちから十三仏だけ引きぬいた信仰は、或は神道から放れた巫女が仏教に歩み寄った折に工夫したものではあるまいかとも思われる。極めて大胆な且つ粗笨な考え方ではあるが、記して後考を俟つとする。
猶お、此の機会において、高示を賜りし各位に対して、謹で敬意を表する次第である。 
〔註一〕青森県八戸市廿六日町のイタコ、根越スエ子(四十六歳)が、曾て「神付」を行うた折の、、用品調べというべきものを、中道等氏から恵贈されたので、茲に載せるとした。その用品の重なるものは、四斗俵二俵(一俵には米三斗三合三勺入れ、他の二俵には何にても三斗三升三合入れる)、八升俵二俵(これには米七升七合七勺を入れる)、白酒木綿四丈五尺一本、注連縄同上一本、イタコ着用の白木綿の単衣二枚(丈四尺)、腰巻二本、手拭二本(三尺三寸)、鉢巻二本(五尺五寸)、木綿一反(以上、白に限る)、白足袋二足、白扇(無地)二本、水桶(手洗鉢、盥とも三個)、膳椀(二人分)、オサゴ米、茣蓙二枚、幣束七本、礼拝用の小銭(三十三枚、五厘でも一銭でもよし)等である。尚「神付」を行う間は、イタコは一日に二三度づつ、垢離の代りにして入浴し、且つ七日間の修行中は、他家にて一切飲食せぬことの定めである。
〔註二〕中道等氏は、青森県八戸市のお方で、曩に「青森県史」の大著があり、民俗学にも造詣が深く、大正の末頃に東京に移住されてから、度々お目にもかかり、文通もし、少からず裨益を受けている学友である。
〔註三〕笹ハタキの唱える六根清浄祓などは、原の文句とは似つかぬまでに唱えゆがめられていて、別段にかかるものを事々しく記載する必要はないのであるが、それを承知しながら、紙面を割いたには又相当の理由が存しているのである。それは外でもなく、先年私は九州における盲僧の徒が、堅牢地神品を琵琶に合せて誦することを中心として、盲僧派と当道派との関係を記した拙稿を「歴史地理」誌上に連載したことがある。勿論、その時は、地神品とあるから、金光最勝明王経のそれであろうと速断して記述したところ、後になって岩橋小弥太氏から「嬉遊笑覧」によると、盲僧の誦した地神品は、誠に埒ちなきものであると云うが如何と、一本参らせられたことがあるので、今度はそれを想い起し、唱えゆがめられたものでも、後世に伝えるのは、又学徒の責任だと考えたので、敢て此の態度に出た次第である。因に言うが、佐坂氏は、石城郡上遠野村小学校に教鞭を執られているお方である。
〔註四〕大正六年八月に学友ネフスキー氏と携えて、茨城県久慈郡天下野村大字持方へ旅行したことがある。その夜、同地の小学校長栗木三次氏が来られ、同地の巫女の唱える呪文とて、此の「白き御幣が三十と三本」云々の事を語り、且つ「その節調は軍歌の如く、勇しきものである」と話されたことがある。
〔註五〕前に載せた越後国三面村の「邪権附」の呪文と同根であって、然もまだ此の方が余りに崩れていぬようである。猶おY先生のお話によると、此の呪文は他の地方にも行われているとのことである。
〔註六〕猶、この場合に、佐坂氏の記事の暗示から導かれて、その真相がやや明確に知ることの出来たのは、平安朝に一派をなしていたと想われる「藤太巫女」の正体と、「炭焼藤太」の伝承の分布とである。而して、前者にあっては「梁塵秘抄」に「鈴はさや振る藤太みこ、眼より下にて振るときは、懈怠なりとて、神は怒らせたまふ」云々とあり、後者にあっては、柳田国男先生の「海南小記」に「炭焼小五郎が事」と題して、各地の類話を挙げ、これが詳細なる研究が試みられている。これに就いて、私の考えるには、此の「炭焼藤太」の伝承は、元は藤太の一派に属していた巫女が、謡い物として、各地を持ち歩き、その結果、西は琉球から、北は奥州まで、到る所に、此の伝承が、植えつけられたのではあるまいかと云う事である。管見を記して、江湖の叱正を仰ぐとする。
〔註七〕加藤巌氏は「民族と歴史」の寄書家として知られていて、私もこれで知ったので、お手数を煩わしたのである。高示は昭和四年一月廿三日に接手した。
〔註八〕林魁一氏は斯界の先輩で、「東京人類学雑誌」「郷土研究」「民族」などで、芳名を存じあげていたのでお願いした。高示は昭和四年二月四日に接手した。
〔註九〕井上頼寿氏は、京都府立第二中学校に奉職されているが、雑誌「民族」で芳名を知り、御無理をお願いしたのである。同氏は明治の碩学井上頼国翁のお孫さんだと伝聞している。
〔註一〇〕後藤捷一氏とは「郷土趣味」以来文通をするほどの親しみを持っていたので、それに甘えて、御手数をかけたのである。高示は昭和四年二月十二日に接手した。
〔註一一〕寺石正路氏は、海南中学の教職に居り、著書も「食人風俗志」「南国遣事」その他多数あり、現に「土佐史壇」の牛耳を採って居らるる大先輩である。私は先年から書信を以て、常に高示に接しているので、又々その御厚誼に縋り、お願いしたのである。高示は昭和四年三月八日に接手した。
〔註一二〕青山大麓氏は、氏が先年国学院大学に在学中から、交際を頂いていたので、今度も少からぬ御迷惑を懸けた次第なのである。氏は現に直方町の県社日方八幡宮に奉仕されている祠官で、少壮の篤学者である。 
第三節 我国随一の巫女村の起伏

 

信濃国小県郡禰津村が、江戸期三百年を通じて、我国で随一の巫女村(みこむら)であることを、私は上田中学の角田千里氏から教えられたので、早速、同地へ出張して調査しようと企てたが、角田氏の居所は、同村へ近いというので、私の旅行嫌いをよく知っている同氏は、劇務の時間を割いて、昭和四年弐月一七日に態々同村を踏査され、土地の故老に就いて訊く所があり、更に遺物に就いて調べる所があり、前後三回に亘って、詳細なる(一回の通信便箋にて三四十葉のもの)高示を寄せられた。而して私はこれに由って、禰津村の概略を知ることを得た。
ただ、更に一歩をすすめて、何故に禰津村に市子が土着し、然も斯うした大規模の巫女村を構成するに至ったか、それが判然せぬので、多少苦しんでいたところ、学友樋畑雪湖氏が此の事を聴かれ、同氏の親友である、上田市の先輩で、且つ江戸軟文学の研究家として令名ある飯嶋花月氏に、此の間の事情を文通せられたので、飯嶋氏から返信を得たとて私に示された。私はこれに由って、禰津村の由緒と、此処に市子の土着した事情が判然し、更に同氏の高示により、「本道楽」にて、禰津村の巫女の鼻祖となった千代女のことも釈然して、日本一の巫女村の消長をやや明確にするを得たのである。
然るに、更に今度は「長野新聞」で明治四十一年一月廿日から同廿五日まで、此の村の巫女(前に載せた記事に引続いているが、標題は異っている)を書いた記事の謄写を、同社記者伊勢豊氏から恵贈を受けたので、ここに充分なる資料を得て、此の稿を起すことが出来たのである。執筆に際し、此の事を明記して、私のために配慮された各位に感謝の意を表する次第である。猶お此の記事は文体を統一する必要と、資料を按排する関係から、私が随意に書き改めたものであるが、その出典は記事の終りに註として附記した。 
一、名族滋野氏の末路と巫女頭
滋野氏は信濃源氏の名族であって、鎌倉期の初葉において、已に二十三家に分れ、信濃国の佐久・小県二郡の大半を領地としていた。木曾義仲が信濃で旗挙げした時は、此の一門が中堅であって、南北朝期には、望月・海野・禰津の三家を始めとして、多くは南朝に属し、諏訪の神家一族と共に、隣国上野の新田氏と呼応し、長く東国の官軍の間に重きをなしていた。而して室町期の末葉に、武田信玄が甲斐に起り、越後の上杉謙信と矛を交うるや、永禄四年に信玄の甥なる望月盛時(入道して印月齊と称す)が、川中嶋の戦に討死したので、信玄はその後室千代女に対し、甲信二国の巫女頭たるべき朱印状(この本文は既載した)を与え、千代女は旧縁を頼って禰津村に土着し、ここに禰津村が我国随一の巫女村となるべき基礎が置かれたのである。
勿論、千代女が、当時の社会感情から見て、余り尊敬を払われなかった巫女頭になったに就いては、又併せ考えなければならぬ事情が存していたのである。それは外でもなく、同じ滋野氏の一族であった滋田氏が、望月町の月輪山郷東寺と称する当山派の修験者であって、佐久郡の触頭を勤めていた関係から、叔父に当る信玄に請うて巫女頭となり、その収入によって、安気に世に処し、兼ねては亡夫の後世を弔う意味の含まれたものと解すべきである〔一〕。 
二、禰津村の由来とノノウ小路
禰津村は、江戸期には、禰津東町、禰津西町の両部落に分れ、旗本久松氏の領地であったが、明治二十二年に町村制が施行された折に、姫子沢外一二の村落を併合して、今の禰津村となった。而してその西町と俚称する所が、市子の根拠地であって、俗にこれをノノウ小路と呼び、又た古御館(ふるみたち)(中山曰。巫女頭千代女の遺跡?)とも呼んでいる。明治の初年までは、此の両側に数十戸(又は四十戸とも云う)のノノウ宿(やど)があって、夫は重に農業に従事し、妻は専ら呪術に従い、毎年或る期間を定めて、各地へ出稼ぎに往くときは、老人と若い男子が留守居をなし、夫は「荷持(にもち)」と称して、市子一行の荷物を持ちながら、妻やその他の者が呪術を行うときには「問口(といくち)」の役を勤め、傍ら一行の監督をしたものである。禰津村は、滋野氏と関係が深かっただけに、昔は種々なる遺跡もあったが、今は大半まで亡びてしまって、纔に禅宗拈華派の本山定津院と、俗にお姫尊と称する領主久松氏の庿がある位のものである〔二〕。 
三、ノノウの養成法と抱主との関係
同地のノノウは、各戸の親方が抱主(かかえぬし)となって、或は年限を定め、又は養女として抱えるのであって、抱主は自家のノノウに就いては、監督権を有していたことは言うまでもなく、古くは更に立ち入った権利をも有していたようである。従って抱主と、ノノウとの間柄は、師弟関係というよりは、寧ろ主従関係と見るべきものであった。抱主は、少きは三四人、多きは三十人位まで抱えていて、此の総数は時に消長あるも、常に二三百人を降らぬ大勢の巫女が、此の小路に居たのである。
ノノウになる女子は、抱主が巡歴先から連れてくるもののみで、その多くは美濃・飛騨の両国からだと云われているが、実際はそんな狭い範囲ではなく、広く往く先々(さきざき)から連れて来たらしい(中山曰。信州巫女の足跡は東は関八州から西は紀州辺まで及んでいた)。土地の者は「容姿の綺麗の女の子の、八九歳から一五六歳までの者を、貰ったり買ったりしたものだ」と語ったというが、之は実際の事で、抱主が毎年のように出かけて往く土地へ頼んで置いて、安い金で貰ったり買ったりして連れて来たのであろう。容姿の美しいことが条件となっていたのは、此の種の市子が内職として営んだ収入に大なる関係を有していたためである。
而して新しく連れて来たノノウの候補者を仕込むには、毎年、寒中でも水を浴せて仕込んだものだということである〔三〕。禰津最後の初音(はつね)ノノウが、長野新聞記者に語ったところに由ると、彼等の修業は少女時代であって、これを教える者とて別に専門のものはなく、ただ先輩に就いて教えられるのであるが、その時は斎戒沐浴して、身体を清め先輩のノノウと対座して、生口、死口の文句の口授を受けるのであるが、一通り覚えるには、その者の天分によって遅速があるも、普通三年から永くて五年かかる。文句を覚えると、今度は各自の修業によって、所謂、上手な巫女ともなり、また下手な巫女にもなるのである。一寸聞くと、彼等の言う文句は、殆ど千遍一律で、版に刷ったようで多くの相違はなく、従って文句を覚えるだけに三年も五年もかかるとは信ぜられぬが、生口と云い、死口と云うも、年齢や、境遇や、男女の別などで、十人が十人まで事情を異にしているのであるから、どんな口寄せの種類を頼まれても、間誤つかぬように手際よく遣ってのけるには、どうしても是れ位の年月を要すると云う。更に上手下手とは、同じ事を言うにも巧みに応用の出来るもの、又は対手の顔を見て、芝居を仕組むことの妙を得た者と、これに反して絶句したり、思い違いしたり、芝居の拙い者とあり、その者の天分で致し方の無いものだとの事である。そして修業中は、その者により相違はあるが、塩気を断つとか、甘味を断つとか、何か一種断物をする。修業期を過ぎると、断物と毎日の水垢離だけは許されるが、併しノノウをしているうちは、寒垢離と獣肉を喰わぬことだけは守らねばならぬ掟となっていた。 
四、巡業中の収入と生活の一班
禰津のノノウは、毎年旧正月から同四月までに、己がしじ得意を持っている地方々々へ巡業に出かける。それは各戸一定して一時に出発するのではなく、各戸の都合で随時随時に出かけるのであるが、愈々出発するには、吉日を択ぶのは商売上いうまでもなく、一戸毎に一団となり、多きは二三十人、少きは四五人で列をなして往く。かくて出先きで、又幾団かに区分され、先輩に率いられて、西に東に袂を分ちて稼ぐのである。ノノウが出かける時は、村の人達にも一々叮嚀に挨拶して、後を頼んで往くが、これは旅から旅を、若い女の身の上で半年以上も漂泊するのであるから病気その他の事でどうなるかも知れぬという哀愁の心から来ていたのである。毎戸とも少しばかりの留守居を残して出払うのが習いで、幼者と老人が毎に残されるのである。
ノノウが出発する時の荷物は、大懸りのものであって、夏冬の衣類から一寸した手廻りの道具まで持って往ったものである。土地の伝説によると、ノノウは鑓一筋(千石取りの旗本)の格式を与えられていて、荷物は宿場々々の問屋場に公然と運搬方を依頼する事が出来て、関所も手形なしで(中山曰。巫女にも手形を要したことは既述した)通れると言われていたほどで、往く先々には、毎年の定宿があった。抱主が是等と同行し、指揮し、監督することは、前に記した如くである。而して彼等は毎日のように定宿を出でては、附近の村々に入り込み、依頼を受けて呪術をなし、雨の降る日や、夜などは、定宿を訪ねる依頼者を迎えて、呪術をしたのである。かくて半歳余を渡り鳥のように送り暮して、十一月の末か十二月の初めまでは、各戸とも殆んど言い合せたように故郷の禰津村へ帰って来る。途中で事故があっても、必ず大晦日までには帰村するように習慣づけられていた。
昔はノノウ連中が帰ると、急に村が裕福になり、金廻りが良くなったものだと、今に語られている。彼等は半年余を到る処で稼ぎ溜め、それぞれ大金を持って帰村し、或る者は村の資産家に預金する者さえあった。帰村の折には、村中の懇意の家々には土産物を贈り、又家に招いて留守中世話になった礼心に馳走するなど、毎年ノノウが帰った当座は、八ヶ嶽の山々は雪を被って寝ているのに、村は春のように陽気になったそうである。そしてノノウ達は、帰村してからは、毎日家にいて神々を祭り、偶には近村へ出かけ、又は来宅する者に呪術を施したが、此の収入も決して尠くはなかったと云われている。
ノノウの収入は、決して少いものではなかった。旅に出て、一回どの位の礼金を取ったものか、それは正確に知ることは出来ぬけれど、彼女たちの一年間の生活を、優に支えて往けるだけの費用を得たことだけは事実である。従って、彼女達は、村人の生活としては、驚くほど贅沢であって、食う物も、着る物も、山家には見られぬほどのもので、冬中は毎日遊び暮していた。これは旅に出る身とて、旅籠飯(はたごめし)に馴れて口が驕り、衣服も華美を好むようになったためであろう。
併し、服装は華美でこそあれ、普通の女性と異ることなく、結髪も特種の習俗はなかった。巡業中は旅姿であるから、例の外法箱を紺の風呂敷で背負い(風呂敷は舟形に縫うを定めとす)、白い脚袢を穿き、下襦袢だけ下げて(中山曰。紀州田辺町地方では信濃巫女は、白湯文字を出して歩くので、俚称を白湯文字と云ったことは既述した)、上衣は裾高く括りあげて歩いた。呪術する時には、その裾を下すのを作法としたが、そのままで遣ることも、珍らしくはなかった。
ノノウは修業年限を終ると、毎月幾らと抱主に支払うべき金額(食料とか借金の返済分とかを含めて)が定まっていて、それ以外はノノウ個人の収入であった。又ノノウが独立して、抱主の家を離れようとするときには、一定の礼金を納めたようであるが、正確のことは判然しない。明治になってから呪術料は依頼者の心まかせで、一回五六銭から五十銭まで、外に白米五合から一升まであった〔四〕。 
五、ノノウの性的生活と旅女郎
ノノウは夫を持たぬというのが、表面上の立前であった。併し事実はこれを立派に裏切っていて、抱主の妻は悉くノノウであった。又抱えられているノノウでも、旅へ出ると必ず男を拵えた。反言すれば、男を拵えることは、彼女等の内職の総てであった。併し、これに対する抱主の態度の割合に寛容であったのは、要するに抱主は、ノノウが男を拵えようがどうしようが、金を沢山に儲ける者が大切であったからである。「長野新聞」の記事の一節に「ノノウの事を一に旅女郎とも云った」と載せ、倫落する過程を詳しく説明しているが、これは第二篇に屢述した経路と全く同じ道筋を歩んだものであるから、重複を避けて省略した。元来が信仰に根ざした聖職でなくして、貰われたり、抱えられたりした営業である以上は、ノノウが斯うした浮名を到る所で流したのは、当然のことである。但し、禰津村に居る時だけは、厳格に独身生活を持していた〔五〕。 
六、ノノウの階級とその遺物
禰津のノノウには、その全体を統率しているような棟梁はなく、各自の家々が独立して遣っていた。又今日の組合というほどの機関もなく、ただ古い習慣のままであった。此の点から察すると、此の巫女村は一人の鼻祖から分れて数十戸をなしたのではなく、類を以て集った人々の寄り合いにしか過ぎぬことが会得される。各戸内でも、別段に姉弟子と妹弟子という階級も無かったと云われているが、これは自然と先後輩位の階級はあったと見る方が穏かであろう。金を取ることの上手であったノノウは、金を遣うことも荒く、抱主なども又それであって恒産を持っている者などは殆んどなく、一年の収入は、一年に支出するという風で、旅稼ぎに出かけるのに、路用がなくて借金する者も少く無かった。併し此の金は、如何なることがあっても返金したそうである。
明治維新の改革は、此の禰津村をして一人のノノウも存せぬまでに変化させてしまった。ノノウ小路の名も、古御館の跡も、老人ならでは知らぬようになってしまった。従って今日では、土地の者さえ、禰津村が日本第一の巫女村であったなどとは知らぬ有様であって、遺物としては、漸く墓碑に彫った法名が普通人と相違している位のものに過ぎなくなってしまった。而してその法名は「観林良音社士」とあるのは抱主で、「無相妙瑞社女」とあるのはノノウである。斯うした神女、または社尼と刻んだ石碑は、訪ねる者も無いと見え、墓畔の孤松が時に無韻の歌を奏して、これら薄倖なりし人々の魂を弔う如き感じがした〔六〕。因に、島崎藤村の「破戒」は、禰津村に起った事件を描いたものだと言われている。 
〔註一〕静岡県で発行された「本道楽」第六巻第六号所載の町田良一氏の記事に拠り、これに多少の敷衍を加えた。
〔註二〕此の一項は、専ら飯島花月氏の高示に拠り、他に角田千里氏の高示を参酌した。
〔註三〕此の項は角田千里氏の高示に拠った。角田氏は磐城棚倉町のお方と聞いているが、私は氏が国学院大学に在学中から御懇意を頂いていて、今度は殊の外の御骨折をかけたことを鳴謝する。
〔註四〕角田氏の高示に拠る。
〔註五、六〕同上。 
 
第三章 巫女の社会的地位と其の生活

 

第一節 歌謡の伝統者としての巫女
先年、慶応義塾大学で開かれた「地人会」の例会で、その年に壱岐の民俗採集に赴かれた、折口信夫氏の採集談を承ったことがある。席上には、柳田国男先生、金田一京助氏、小沢愛圀氏の外に、数十名の学生がいた。私も席末を汚して拝聴した。
折口氏の講演が終ってから、苦茗をすすりながら、氏の講演に関しての、批評やら、質問やらが続けられた、いつも斯うした場合に、話の中心者となるのは柳田先生であって、私などは折口氏の講演が高遠であって了解せぬところの多いのを、柳田先生のお話により会得することが出来ると云う有様であった。その時、折口氏の話に、壱岐のイチジョウと称する市子は、神降ろしの祭文として、ユリ若説経を語るのを常とし、然もそれを語る時は、ユリと称する曲物(まげもの)を弓に載せる(此の事の詳細は既述した)との一節があった。
私は此の話を聴いて、我国の百合若伝説の名はこれから起り〔一〕、然も巫女が説経を語ることが、同じ九州にいる盲僧が、琵琶に合せて地神経を読み、祈祷が済んでから、望まれれば崩(くず)れを語る風を起したものであろうと言うたところ〔二〕、柳田先生は即座に「それは近頃の発見だ」と言われたことがある。
現在、壱岐のイチジョウが語るユリ若説経には、新古の二種あって、共にその内容はユリセスの影響を受けて、全くの英雄物語となっているというが、その遠い昔の説経が単なる英雄譚でなかったことは想像される。折口氏から借用したノートブックには左の如く記されてある。
壱岐には、百合若説経を書いた書物が、尠くとも二本ある。一本は、イチジョウの話では、箱崎渚津の或る家にあると云うたが、諸吉南触(中山曰。地名)の松永熊雄氏の家の八十老翁は、八幡の馬場氏が持っていると言うた。今一本は、後藤正足氏の家にある本である。此方は借覧したが、イチジョウから聞きとった筋とは、幾分違うようである。
此説経は、宇佐・由須原両八幡の本地物である。万能(まんのう)長者と朝日長者との、宝比(たからくら)べの段から始まって、宝多くて子の無い万能長者は、貧窮で子十人も持った朝日長者に、「百の倉より子が宝」と負けてしまう。それから申し子の段になる。その次がくらまんだん(原註。鞍馬の段か)、忍びの段となって、王様のお姫様を盗んだ咎で、百合若は嶋流しになる。その後が鬼攻めの段で、あくどこお(原註。悪路王か)と云う鬼の目に、百合若の姿が見えないで、退治られると云う話。最後が末の段である。緑丸その他の件は、此の段に出て来るのである。トドの詰りは、百合若の妻たる王の姫は、豊後の宇佐八幡、百合若は由須原八幡になるのである。外の段は遣る事も遣らぬ事もあるらしいが、「宝比べの段」は大事故、イチジョウのお勤めには、必ず唱える事になっている。説経の間は、例の竹で弓を叩いているのである云々〔三〕。
此の折口氏のノートによって、誰にでも知られるように、市子が唱えた古い説経の筋は、万能長者と朝日長者との交渉を語っていたものである。そして、百合若が嶋流しになる以下は、ユリセスの影響を受けたものであることが明確に認められる。即ち此の説経は、折口氏が言われたように本地物であって、古く巫女が歌謡者であったことを証示しているものである。
本地物は、室町期の中頃から、巫女によって隆んに謡われ(その起原は、古く平安朝まで遡り得ると思うが)るようになった。そして故荻野由之氏によって蒐集された「お伽草子」に載せてあるものだけでも、信州諏訪明神の本地である物臭太郎、厳島本地などを始めとして、決して少いものではない。伴信友翁が「此の書はすべて漫語を記せるもの」として斥けた「安居院神道集」には、殆んど各神社の本地物を集成したのではないかと思われるまでに、おびただしく採集してある。
而して、此の本地物を謡って、各地を歩いた者が、巫女であることは、勿論である。同じ諏訪本地でありながら、物臭太郎よりは、更に一段と古いものと思われる甲賀三郎伝説が、殆んど全国的に行き亘っているなどは、諏訪を守り神とした巫女の、漂泊の結果に外ならぬのである。単にこれだけの事を論拠として、此の上の推測を逞うするのは慎しむべきことではあるが、私をして真に思う所を言わしむれば、室町期の初葉において、関東で発達した曾我物語なども、古くは箱根権現の本地物を、巫女が謡い歩いたのに端を発していると思う。而してこれが、好事家によって、文字に写される時に、大成されたのではないかと言いたいのである。柳田先生が、その高著「雪国の春」で説かれた、奥州文学の発生に、巫女の偉大なる力が潜んでいたように、歌謡者としての巫女の面影は、微かながらも当代の初期までは残っていたのである。
然るに三味線が渡来してからは、これの発達が専ら男子の手によってなされ、且つ諸種の謡い物が三絃を伴奏楽とすることを条件としたので、巫女は古き伝統者でありながら、遂に謡い物を棄てなければならぬようになり、漸く呪法一つで世に処すこととなったのである。熊野比丘尼が歌を謡い、瞽女(ごぜ)と称する者が生れたのも、共に在りし昔の巫女の一端を偲ばせるものである。
〔註一〕百合若伝説に就いては、曾て坪内雄蔵氏が「早稲田文学」において、ギリシャのユリセスの伝説が輸入されたものであると考証されてから、此の考証が殆んど定説の如くなっているが、私は遂に首肯することが出来ぬ。百合若の文献に現われた初見は、「言継郷記」であるが、京都の公家である山科言継の日記に書かれる以前に、更に幾十年か幾百年か民間に行われていたと思われるので、日欧交通の始期がズッと引き上げられぬ限りは、ユリセス説は成立せぬと考えている。私は九州の巫女が古くユリ(ユリと称する物を叩きながらやるので此の名ありと思う)の説経を固有しているところへ、後にユリセスの伝説が附会したものだと考えている。
〔註二〕九州の盲僧が、地神経を琵琶に合せて読むことは、「平家音楽史」、「三国名勝図会」等によると、頗る古いことのように記してあるが、その新古は姑らく別とするも、これを巫女の故智に学んだことは、疑いないようである。そして後世の薩摩琵琶とか、筑前琵琶とかいうものが、此の盲僧の琵琶から発達したことも疑いないようである。
〔註三〕折口氏が秘蔵のノートブックをお貸しくださったことを厚くお礼申上げる。 
第二節 日陰者としての巫女の生活

 

儒教の七去三従が、婦人道徳の基調となれば、巫女の身の上にも動揺を来たさぬ理由は無い筈である。神社に附属していた神子(みこ)にあっても、神々に仕える者は女子に限られた制度は、疾くの昔に泯びてしまって、男子の神職の下に、有るか無きかの日陰者とならざるを得なかった。
更に、神社を離れて町村に土着した口寄せ市子にあっては、賤民として、帳外者として、社会の落伍者として、軽視されたものである。当時の神子の地位や収入が、如何に貧弱なものであったかを証明すべき記録は、諸書に散見しているが、ここには煩を避け、一臠以て全鼎を推すとして、大和国大神(おおみわ)神社に関するものから抄出する「三輪社諸事記帳」の一節に、左の如きものがある。
神楽銭之儀ニ付出入之覚
一、宝永二年酉ノ五月十五日ニ、戎重織田内匠殿より拾弐貫文之神楽御願被成候所ニ、神楽銭之配当ニ付、八乙女方よりとやかく申ニ付、出入(中山曰。訴訟の意)ニ罷成、南都御番所妻木彦右衛門様御奉行之時対決御座候、彦右衛門様被仰候は、壱貫弐百迄は右之通八乙女方へ遣し、夫より以上ハ壱銭(ママ)ニ而社中不残配分致申候様ニ被出仰候而、同極月二十三日相済候、其済高(ママ)宮ニ有之候、但シ此出入は十八年跡之通ニ被仰付候。十八年以前之対決も此度の対決も同事ニ相済申候、尤此儀神主了簡ニ而壱貫弐百文より以上ハ弐つ割ニ致シ半分は惣社中へ配分、半分は八乙女へ配分也(三輪叢書本。以下同じ)。
これに由れば、大神々社にて奏する神楽料は壱百二百文を定めとし、此の分配方に就いて、神主側と神子側との間に紛議を生じ、遂に奈良奉行の採決を受けることとなり、定めの壱貫二百文までは、全部神子側の収入とし、それ以上の神楽料を得た場合に限り、その過剰の分は折半して、神主と神子とに分配することとなって、落着を告げたのであるが、然も此の記録に徴すれば、宝永二年に先立つ一八年前——即ち元禄元年にも、此の種の訴訟を見たことがあるというから、神楽銭の配当問題は、長い宿題となっていたことが推察されるのである。大神々社は大和の大社であるから、信徒の奉納する神楽も尠くなかったことと思われるが、壱貫二百文の料金は、他の物価に比して軽いものであったと共に、これが八乙女(必ずしも八人ではなかった。その人員が六人であったことは、次の記録でも知れる)の収入の総てであったとすれば、決して多いとは云えぬのである。されば此の少き収入を更に神主側に引き去られたのであるから、生活を維持する点から、対決騒ぎをしたのも道理である。更に正徳三年七月十八日付の「御朱印替ノ覚」の一節に、
泉州踞尾村北村六右衛門方より、神酒五升一樽、並かます少々、神楽料銀十二匁被申上候、右之神楽料八乙女方へ渡し申候、又神酒壱升斗八乙女へ遣し申候、是は此方了簡ニ而遣し申候、重而例ニは無之候
と高宮神主越宮内昌綱の名で記してあるのを見ると、常に神子が神主に経済的にも圧迫されていた事が判然する。換言すれば、神子は神主の手盛に対して、異議を唱えるだけの権限すら与えられていなかったのである。而して更に左記の記録に徴するとき、神子の収入如何に些少であったかが知られると同時に、社領の分米に就いても、如何に神主に重くして、神子に軽かったかが併せ窺えるのである。
   享保八年四月十三日太神楽次第事
一、新銀三百目  神楽料
  此銭二十三貫七十二文云々(中略)。
  〆銀七匁四分、此銭五百八十二文、七十六文かへ、三貫五百六十文、二口〆四貫百四十六文
引残テ社八乙女一人ニ付七百四十九文ヅツ、其外配分頭割ニテ済云々
  享保中大神社覚書
  六十石(中山曰。全社領百七十五石)
    八乙女
   高一斗六升  惣ノ一
   同断     左ノ一
   同      右ノ一
   同      豊ノ一
   同      富ノ一
   同      梅ノ一
  三石六斗 社家 越 内膳
越氏は大神社の首席神主であったとは云え、神子の約二十三人分の配当を受けている事になる。分米において、既に斯くの如くであるから、神楽料は宝永の裁許により、規定の額だけは神子に渡したのであろうが、その他の参拝者の賽銭とか、信徒の奉納金とかいうものは、これ等の神主以下の者に壟断され、神子の収入とはならなかったのであろう。従って神子の生活たるや、実に惨憺たるものであって、漸く下級の神人を夫とし、或は農民を入聟として迎え、纔に内職として神社に奉仕するの余儀なき事情に置かれたのである。享保六年中に書き上げた「系譜」中に、左の如き記録が載せてある。
    八乙女
○田中氏云々
やど  神前勤候 出生不知    夫 甚五郎
名不知 不勤   大福村出生   夫 八兵衛
同断  同断   当村八右衛門娘 夫 長五郎
おさわ (中略)         夫 清五郎
 同高宮氏被官○北村氏ニ改
名不知 当村出世         夫 仁兵衛
おかめ 神前勤候云々       夫 弥八郎
女郎  おかめ婿源八娘也云々   夫 弥八郎次男
辰くつた 女郎妹也
 同 ○森氏ニ改
名不知              夫 次郎兵衛
右ノ一 おさつ 神前勤申候    夫 久右兵衛
    前夫善九郎ハ粟殿より入聟、此久右兵衛門黒崎村之出生
 同 ○森本氏ニ改
名不知 馬場村出世        夫 清介
同断  山城之出生        夫 五郎兵衛
おかち 薬師堂生神前ヲ勤     夫 半十郎五郎兵衛弟也
    妻ハおかち娘       夫 宇兵衛
宮一ひさ おかち孫也       夫 又兵衛茅原村より養子也
 同 高宮氏被官也 ○藤本氏ニ改
名不知 穴師村出生        夫 与右兵衛
惣ノ一 小まん 神前ヲ勤初瀬出世 夫 清兵衛
右近  おかね 小まん孫也    夫 与平次
 同 ○倉橋氏ニ改
名不知 慈恩寺村出世       夫 助右兵衛
おたま 神前ヲ勤申候蔵橋村生   夫 次右兵衛
権ノ一 おみや (中略)     夫 勘三郎
 同 ○松村氏ニ改
おなで 神前を勤当村生      夫 又三郎同所入聟
おつま              夫 与八郎同断
右ノ一おつや 神前ヲ勤云々    夫 清八郎同断与八郎甥也
延喜式内における名神大社の大神々社にあってすら、神子の位置は以上の如く哀れにも気の毒な境遇に甘んじなければならなかったのである〔一〕。されば、朱印地を有さぬほどの小社に属した神子にあっては、近江国栗太郡大宝村大字霊仙寺の神子が、十四五ヶ村の村々へ傭れて往ったとあるように〔二〕、それは恰も現在の村社や、無格社に仕えている神職が、十社も十五社も兼帯せねば衣食に窮するのと同じようであったに相違ない〔三〕。これでは神子が神の目を偸んで不倫を働くのも、又た是非もない成り行きであった。
それでは、町村に土着した口寄せ市子の社会的地位、及びその生活はどうであったか。これこそ、神子に比較する時、更に一段と劣等視され、全く賤民として取扱われて来たのである。三馬の「浮世床」や一九の「東海道膝栗毛」に描かれた市子は、共に作者のために興味本位に書き歪(ゆが)められ、且つ甚だしく誇張されてはいるが、それでも社会の落伍者として、日陰者として、一般からは通婚まで忌まれ、殆んど乞胸、物吉、願人、鉦打、茶筅、事触、夷舞などの帳外者と少しも択むなき生活を営んでいたのである。
「祠曹雑識」巻七十二に載せた左の記録は、市子が独立の生活を維持することが困難なるために、同気相求むると云うか、同病相憐むと云うか、兎に角に類似した境遇から修験の妻となり、然も恵まれぬ日常を説明するものがあると考えるので、本間に必要ある点だけを抄出する。
一、明和五子年八月、寺社御奉行土井大炊頭殿役人小宮久右衛門殿
   神子之儀支配之訳相尋ニ付、今八月十日書上、左之通
   当山派修験添合ニ而巫女勤来候訳、並相改候趣
一、当山派修験之内ニ而、添合之神子古来ヨリ家ニ附連綿仕相勤候者、並注連弟子等外江嫁娵、当山派修験神子ヨリ注連ヲ請神子勤候者、縦社家之妻或者百姓之妻ニテモ、都而当山派ヨリ前々相改候、並社家ヨリ注連請候神子ニ而茂、当山派之添合ニ御座候得者、一同当山派ヨリ相改申候
右相改候趣者、延宝二年之頃、当山派修験年寄共有之、寺社御奉行所江改之儀申上置、其後元禄拾弐卯年三月、拙寺先々住、未タ鳳閣寺住職不破仰付前ニ而、吉蔵院卜号候節、寺社御奉行井上大和守殿江伺書差上、当山派修験添合神子注連弟子多ク有之、不法之儀モ相聞候ニ付、吟味之上不届仕候者ハ神職停止、当山添合分之者一派切ニ相改、国々ニ而不埒無之様可申付旨申上、相改候用脚トシテ、当山派修験添合神子並注連下之神子共ヨリ、青銅拾匹宛差出可為申哉之段、相伺候処、同四月十一日、松平志摩守殿ヨリ、於御内寄合井上大和守殿、伺之通被仰渡候以来、今以連綿仕、当山派ヨリ相改申候
右之趣ヲ以国々当山派触頭共江申付置、相改サセ申候儀ニ御座候以上〔四〕。
  八月   鳳閣寺
これに由れば、(一)当山派の修験の妻で市子を営んだ者が相当に多かったこと、(二)是等の市子は注連下と称する弟子巫女を有していたこと、(三)修験の添合である市子、及びその弟子は、江戸浅草の当山派触頭鳳閣寺の支配を受けたこと、(四)改め料——即ち役銭として青銅十匹づつを鳳閣寺に納めたことが判然する。
此の結果として前掲の神事舞太夫頭の取締を受ける市子は舞太夫の妻と娘と、外に修験に属せざる特種の市子だけに限られたことが釈然とした。但し当山派以外の本山派の修験の妻にも市子があったか、若しあったとすれば、何者がそれを支配したかは、此の記録では何事も知られぬのである。而して此の乏しき資料から推すも、江戸期における市子の所属や管轄は、かなり複雑したものであることが察しられるのである。
釜払と称する下級の女子神職が、山伏(修験)と同棲し、日陰者として生活しているところへ、仰向笠(笠の置き方で売笑を営む事を暗示したもので、その由来は次節に述べる)と称する市子が来て大喧嘩をなし、互いに身の上の秘密と非行とを摘発し合うた事件が、宝暦四年に出版された一応亭染子著の「教訓不弁舌」巻一に、「巫女(イチコ)釜払身の上諍」の条に、極めて露骨に描かれている。勿論、著者の誇張が加わり、事実そのままとは考えられぬけれども、克明に両者の社会的地位と生活の内容と、併せて当時の社会が如何なる態度で、これ等の者を待遇したかが窺われるので、長文の中からこれを証示するものだけを抄録する。
(上略)実(さ)にや渡世とて、相模三河の辺より女の身にて、お江戸見ながらとの、思い付かは知らねども、すこし亀の甲形(なり)の笠をかぶり、姿りりしく腰帯しゃんとしめて、木綿装束にて、何の商売ともしれず、ただぶらぶらと表を歩く者あり、此名を巫女(イチコ)と呼べり。また神いさめと名付、宮祠の{女偏巫}(ミコ)をまね、大麻(ぬさ)鶴亀の模様の付たる白染衣を着、鈴扇を持て、人の門々を塩からき声、又はさもいつくしき声にて、時々の祝ひ詞にふしを付て言ふもの、是を釜払といふ(中略)。
ある時、一ツの家に巫女を呼入、なにか知らぬが箸を持、茶碗に水を入れて、梓弓とやらむ、豆右衛門が二百石の時、用ひたると見てし弓を前に置、箸に水を付けて索(なめ)、何やらんたわいなき事をいへば(中略)、今まで功者に口を利(きい)た婆々が(中山曰。市子を呼入た婆さんなり)、俄に涙を流してくり返しくり返し涙をはらひながら、水をむけ、仕廻(しまい)には銭十二銅米などを(中山曰。これが普通一回の口寄せ料であろう)泣きながら出せば、なにが長屋中の婆々嚊、聞き伝へ、寄あつまって、皆々水をいち女(コ)にかけて銭出して泣て帰る(中略)。
偖(さて)もそれ程に泣たいものかと、隣に住みし、かの釜払の女房が、亭主の山伏と咄しする所を、いちこ聞付(中山曰。釜払が商売敵の市子の毒口をいうのを市子が聞き、押かけて大口論となり、その結果、先ず釜払が市子を罵って)、そち達が行ゥがあるといふが何の行ゥがあるぞ、大かただましよい所は、十二銅を取って、だましてあるき、若い衆の居る所で呼べば、笠を仰向(あおむけ)にして這入、百銭程づつも取ってあるくであらう(中山曰。今度は市子が釜払を賎めて)、さう云ふ、そちたちが、世間を歩行(あるい)て、若衆が呼んで、鈴はなりますかと問へば、アイといふて、小宿へ這入り、銭をとり馴染をかさねては、櫛笄あるひは鈴扇まで買ふて貰ふたであらう(中山曰。両方の口論が嵩じて、その果ては、先ず市子が釜払の前身を占いて)、我は是、元釜払なれども、鈴なりの土手組なり〔五〕。(中山曰。更に次には、市子自身の前身を神がかりの体にて)、我も元は仰向笠の同類なり云々(中山曰。すっかり己の不倫を自白してしまい、此の騒ぎを見聞した長屋の人々は、怒って市子を追い、釜払も亭主に前身を知られて離別されることになるのである)。
此の記事を勿論そのままに信用することは危険であるが、当時この種の巫女や釜払が多く市井を徘徊し、こうした醜態を演ずることも決して稀有ではなかったであろう。巫女の末路も又哀れにも涙多きものであった。
〔註一〕此の「系譜」を見て注意を惹くのは、入聟の多いことである。これに由ると、神子は後世に至るも、古い女系相続の面影を残していたようである。
猶、此の系譜に載せた巫女の職名に「惣ノ一」又は「梅ノ一」などある一は、イチコの意なるべく、更に又別に「右近」とあるのは、古き小町や式部のことが想い出される。而して最近に、福島県石城郡草野村大字北神谷の高木誠一氏を訪うた所、同氏所蔵の「元禄九年子二月朔日禰宜神子書上」と題せる古文書の北神谷村の条に「神子市兵衛後家竹女、市兵衛娘とら女、大蔵後家北ノ宮、彦左衛門後家三ノ宮、彦十郎女房まん女」の名が見えている。片田舎のモリコの身で、北ノ宮の、三ノ宮のと、宮号を用いるなどは、怪しからぬことであるが、巫女が神ノ子であるという、古い俗信の一片と見るとき、その価値の多いことが知られるのである。
〔註二〕「栗太志」。
〔註三〕先年、栃木県神職会足利支部の講演会に出席した際、来会の神職から、同県には一人で十八社を兼務している神職があると聞いた。こうせねば、生活が出来ぬとは気の毒であると、痛感したものである。
〔註四〕「祠曹雑識」は柳田国男先生の所蔵本に拠る。
〔註五〕土手組のことは、私にはよく判然せぬが、売笑を内職とした釜払の徒が集っていた所を、斯う謂うたものと考えて大過ないと思っている。 
第三節 性的職業婦と化した巫女の末路

 

巫女が売笑したことは、決して当代に始まったものではなく、既記の如く、国初期より伝統的に、当代にまで及んだのである。ただ古代と当代との相違を云えば、前者は動機において、宗教的であるのに反して、後者は全く物質的であった。そして結果に就いて言えば、前者は生活の手段としてではなかったが、後者は全く世渡りの方法として利用した点である。
而して是れにも又、神和系(かんなぎけい)の神子と、口寄系(くちよせけい)の市子とは、その境遇が異る如く、その態度にも多少の相違があったようである。即ち前者は、常に能働的であるだけに受身であり、漸く隠れ忍んで行うにとどまり、後者は衝働的であって絶えず働きかけ、かなり大ぴらに営んだものである。従って資料にあっても前者に尠く、後者に多いのは当然のことである。 
一 神和ぎ系の神子の売笑
熊野から出た勧進比丘尼の流れを汲んだ歌比丘尼は、当代に入ってから一段の飛躍をなし、売り比丘尼として都鄙を横行し、猖んに風紀を紊したものである。勿論、熊野比丘尼というも、売笑婦と同視されるようになっては、既に神社を離れた者と見るべきであり、更に此の故智を学んだ売り比丘尼にあっては、ただその形容と方法とに、熊野比丘尼の面影を残しただけで、実質的には、純然たる土娼となってしまったのであるが、それでも雀百まで踊りを忘れず「脇挟みし文匣に巻物入れて、地獄の絵説きし血の池の穢れをいませ、不産女(ウマズメ)の哀れを泣かする業をし、年籠りの戻りに烏牛王(カラスゴワウ)配りて、熊野権現の事触れめきた」ことを忘れず〔一〕、且つ既記の如く、熊野一山は是等比丘尼の歳供を受けて富めりとあるのから推すと、当代の初期にあっては、全然、神社から離れたとも思われぬので、姑らくここに併せ記すとした。
寛文年中の刊行と伝えられる、浅井了意の「東海道名所記」に見えた比丘尼の記事は、当代では古いものであり、且つ三ヶ津を離れて田舎あるきの比丘尼とて、彼等の足跡と、生活とが窺われるので、左に摘録する。同書巻二、沼津の旅宿の条に、
酒などすこしづつ飲みける処に、比丘尼ども一二人いで来て歌をうたふ、頌歌は聞きもわけられず、丹前とかいふ曲節なりとて、ただああああと長たらしく引きづりたるばかりなり。次に柴垣とやらん、元は山の手の奴共の踊り歌なるを、比丘尼簓(ササラ)にのせて歌ふ。その外色々の歌をうたひけり(中略)。いつの頃から比丘尼の伊勢熊野に詣でて行(ギャウ)を勤めしに、その弟子みな伊勢熊野に参る。この故に熊野比丘尼と名づく。其中に声よく歌をうたひける尼のありて、歌ふて勧進しけり、その弟子また歌をうたひけり。又熊野の絵と名づけて地獄極楽すべて六道の有様を絵にかきて、絵解きをいたす(中略)。いつの間にか称へを失ふて、熊野伊勢へ参れども行もせず戒を破り、絵解きを知らず歌を肝要とす。残りの眉細く薄化粧、歯は雪よりも白く、手足に臙脂(ベニ)をさし、紋をこそ付けねどたんがら染(中略)黒茶染に白裏ふかせ、黒き帯を腰にかけ裾けたれて長く、黒き帽子にて頭をあぢに包みたれば、その行状はお山風なり。ひたすら傾城白拍子になりたり云々(温知叢書本)。
此の記事に由れば、熊野比丘尼も、伊勢比丘尼も、同じ業態を営んだように見えるが、これは私が改めて言うまでもなく、筆者了意の誤解であり、速断であるように思われる。熊野は時代において、伊勢よりも古く、更に六道の絵解きは熊野に限られていて、伊勢はこれを携えていなかった。伊勢上人と云われた慶光院中心の伊勢比丘尼にも、いずれは女性のことではあり、殊に時代が時代とて、多少とも風紀を紊すような者もあったかは知らぬが、それは到底熊野比丘尼の公然たる売笑には比較すべくもない。
井原西鶴の「織留」巻四に、伊勢に徘徊せる売り比丘尼のことを記して、
銭掛松のほとりに三十四五年この方、道者に取つきて世を渡りたる歌比丘尼二人ありける。所の人異名をつけて取付虫の寿林、古る狸の清春といひて、通し馬の馬士駕籠までも見知らぬはなし。
とあるが、これも地方を流れ歩いた熊野比丘尼であって〔二〕、伊勢比丘尼で無かった事は、その文意からも知ることが出来る〔三〕。名古屋市東区伊勢町の縁起となった「花守」という巫女に就いて「尾張志」に伊勢町の繁昌院(修験)は、伊勢の巫女なりし十七夜(つきもり)といえるが伊勢を退去し、尾州鳴海に来て八幡宮の神子となっていたが、後に名を花守と改めた。繁昌院はこの花守の許へ聟養子として入り込んだもので、同市で古く神子の通称を花守と云い、住める所を伊勢町と称したのは、これに基くと載せてあるが、これは純然たる伊勢比丘尼ではないが、尾州地方にも神子が修験の妻となる習俗のあったことを示すものとして筆の序に記すとした。
江戸期になってから、近畿地方の巨刹が、霊仏秘宝を繁華の土地に運んで、出開帳なるものを盛んに興行するようになった。当時、神社の経営に困難していた神主は之れを学んで、同じように神体または神宝を各地に遷して、出開帳を試みて相当の収入を挙げていたが、後には開帳屋ともいうべき一種の営業者さえ出すようになった。而して此の出開帳の場合には、必ず神体に扈従して神楽を奏する神子に、特に美人を択むことが、お賽銭なり、初穂料なりの収入に、重大な関係があったのである。太田南畝翁の「半日閑話」巻十二に、
明和六年三月四日より、本郷湯嶋天神社内に於いて、泉州石津神社ゑびす開帳あり群衆多し、神楽堂にて二人の乙女神楽を奏す名をお浪お初と云ふ。振袖の上に千早を着たり。容貌麗しくして参詣の人心を動かす凡そ開帳毎に神楽巫女の美を択ぶこと是なん俑を作りけらし、この二人の巫女錦絵に出たり(新百家説林本。摘要)。
先学山中共古翁より承りし話によると、江戸期における神仏の出開帳は頗る盛んであって、殆んど毎年市内に幾ヶ所というほど興行され、寺院では、京都嵯峨清涼寺の釈迦、同清水の観音、信州の善光寺如来を始めとして、神社では奥州の塩釜社、伏見の稲荷社など沢山あった。勿論、是等のうちには、本寺なり本社なりは全く関知せず、所謂、開帳屋なる営業者が無断にて計画し、宝物の如きも出鱈目の物を偽造し、只々賽銭を集め、御影を売るのが目的であって、それが段々と堕落して来て、後には開帳用の宝物を損料で貸すという、不思議な商売まで起って来た。従って名神巨刹の霊仏秘宝だけでは、間に合わぬようになり、少しでも世間に知られているものならば、何でも探し出して来て開帳する騒ぎであった。
かかる次第とて、随分馬鹿馬鹿しい話柄を残しているが、中にも大磯の鴫立庵の、西行法師の木像が出開帳した折に、同所にある虎ヶ石(遊女虎御前が化した石という)を陳列したが、此の開帳が大失敗に終り、虎ヶ石を質入れして尻拭いをしたものの、それを受け出すことが出来なくて、数年間質蔵の中に入れられたということである。而して是等の開帳の人気の中心——それが神社に関する場合にあっては、錦絵にまで売り出された神子であることは勿論であって、然もその神子の内職が何であったかは、私が改めて言うを要せぬところである。
当代の「川柳点」に現われたもので、神子の内職を暗示しているものに左の如きがある。
神楽堂迯げた翌(アシ)タは母が出る(柳樽一編)   神楽堂目にかかる迄おして出る(同上十六編)
見物も悦びのある鈴を振り(同上十編)    神楽堂しまひにきざな目をふさぎ(同上十六編)
尻目などつかひ神楽を奏すなり(同上十一編) 神楽過きうまし乙女へ大一座(同上十七編)
神さびる筈この頃は婆々ァ舞ひ(同上十三編) もろもろの鼻毛あつめる神楽の顔(書名不明) 
二 口寄せ系の市子の售春
口寄せ系の市子にあっては、奥州のイタコ(これは盲女であった事と、信仰に活きた為である)を除いた他の多くは、全く性的職業婦を兼業としていたといっても、過言と思われぬまでに堕落していた。新井白蛾翁の「闇の曙」巻上に「江戸にて三月ごろ笋笠を着て町々を過る女は口寄みこ也、それ故江戸の女子に、笋笠を着るもの一人も無し」とある〔四〕。而して此の笋笠の由来に就いては「俚諺集覧」に「霊姑(イチコ)、市中を歩くに竹ノ子笠の蒲鉾なりを被りたるを其の印とす、此笠は甲斐の信玄より下されしものと云ふ」と載せてある。
此の記事は、即ち前掲の信州禰津の巫女頭である千代女と信玄の関係を言っているのであろうが、真偽は元より知ることは出来ぬ。ただ此の二つの記事によって知り得たことは、江戸市内を歩き廻った巫女の多くが、信州巫女のそれであって、然も笋笠を被ることが、彼等の標識となっていたという点である。而して是等の徒が売笑をしたことを明白にする資料は相当に残っているが、先ず京都の大原神子から大阪の釜払いを述べ、後に江戸の市子を記し更に地方へ及ぼすとする。
京都の大神子は、その始め彼等が奉仕した大原神社が、有名な雑魚寝の本場として、風紀を紊したものであるだけに、神子の売笑も又有名なものであった。「嬉遊笑覧」巻十二に引用した、江嶋共磧作の「賢女心化粧」の一節に「亭主の手ばかりまもって居ずとも、大原どのの神子に化けてなりとも、面々が稼がれよ」とある如く、かなり公然と醜業を敢てしたようである。
貞享版の「好色貝合」大原神社の条に、
千早かけて菅笠、家々に入って鈴を振り、幾度も袖をひるがへして舞ひぬる。太鼓うちは一荷の櫃をかたげながら、しゃらしゃらの拍子にあはせて、でんづでんづと、そそけずに一拍子そなはって大原殿の神楽なり。神子は暖簾の内に入れば(中略)いかようのやりくりもなる事なり。しかのみならず、すこし手占を頼みたいといへば、二階へも奥の間へも呼ぶ所へ来る。何なりと占はせて、世の咄にするに、それしゃの女、あぢには気が遠くなり、あののもののと濡れかける云々(宮武外骨氏著「売春婦異名集」所載)。
大阪の釜払いは、井原西鶴翁の「男色大鑑」巻二に、「竃払ひの巫女、男ばかりの家を心がくる」とある如く、是れも大ッぴらに押し売りしたようであるが、更に同翁作「好色一代男」巻三「口舌の事ふれ」の筆端に、左の如く記してある。
あら面白の竃神(カマカミ)や、お竃の前に松植ゑてと、清(スズ)しめの鈴を鳴らして、県御子(アガタミコ)来れり。下には松皮色(ヒワタ)の襟を重ね、薄衣に月日の影をうつし、千早懸帯結び下げ、薄化粧して、黛濃く、髪は自から撫下げて、其有様尋常なるは、中々お初穂の分にてなるまじ、不思議と人に尋ねければ、よき所へ心の通ふ事ぞ、あれも品こそ替れ、望めば遊女の如くなれるものなり。それ呼び返して、男住居の宿に入れて、その神姿取おかして、新たに女体にあらはれたり。勝手より御神酒出せば、次第に酔心、かたじけなき御託宣、ありつる告をまたんとて、(中略)、……名残の神楽銭、袖の下より通はせて、見るほど美しく、淡嶋様の、もしも妹か思はれて、お年はと問へば、嘘なしに今年二十一社、茂りたる森は思い葉となり云々。
而して、是等の巫女や、釜払いが、江戸においても、猖んに売笑したことは言うまでもないが、ここには飯嶋花月氏より高示せられたる「川柳点」と、その解説とを挙げて、これに代弁させることとする。
竹笠をかぶり××こを寄せるなり(続川傍柳) 笠の置きやうで男の口も寄せ(同三十六編)
寄せ申候と竹笠ころばせる(柳樽十五編)  竹笠をうつ向けられて萎えるなり(末摘花三編)
是等の句によって考うるに、口寄せを表看板として竹笠を被り、淫を鬻ぎ歩けるを詠めるものなるべし。即ち竹笠を仰向けに置くは応諾のしるし、俯伏せるは拒絶のしるしと見るべきなり云々。
地方を漂泊した巫女に、不純の行為の多かったことは、一九の「東海道膝栗毛」日坂宿の条に詳記してあるが、これは余りに周知のことと思うので、態と省略する。而して更にこれが例証を他の方面に覓めると、少しく極端の嫌いああるが、「民族」第三巻第一号に、
越後山寺では、神降ししていたモリ(市子)が、「どうしても神様がのらッしゃらぬ、どうしたがかや」と独言を云って嘆ずると、「貴様に俺がのらう道理がない、俺は今日はのらんわい、今朝夜明まで、若い衆が入替り立替り、のりッ通して居たぢゃないか」と不謹慎に混ぜ返した者があった。
と載せてある。是等は元より、一場の戯談にしか過ぎぬとは思うけれども、また斯うした醜行の多かったことは否定されぬのである。
猶お此の場合に、併せ考えて見なければならぬことは、民間において、市子と関係するのを、幸福を増し、利益(りやく)を加えるものと迷信した土俗の存したことである。信州の松本市附近の村落では、昔は此の迷信が強く行われていて、旅をかけた市子が来ると、その宿を若者が競うて襲うたものだと云うことである〔五〕。かかる迷信が何によって発生したか、更に此の迷信が何時(いつ)ごろから、何れの地方にまで行われたか、他に類例を知らぬ私には、全く見当のつかぬ問題ではあるけれども、田舎わたらいの巫女の性的半面に、斯うした迷信の伴うていることは、注意すべき点だと考えたので、附記して後考を俟つとする。
紀州の田辺町では、信州から来る巫女を「白湯文字」と称したことは既述した。而して江戸期になると、京都、大阪、筑前、伊勢、能登などの各地で、私娼の一名を「白湯文字」と呼んだのは、恐らく此の信濃巫女が伝播した不倫に原因しているのではあるまいか〔六〕。私の生れた南下野では、信州から来る「歩(ある)き巫女」は、私娼と同じ営みを辞さなかったと聞いている。 
〔註一〕正徳年中に書かれた増穂残口の「艶道通鑑」巻五。
〔註二〕井原西鶴の「好色一代男」によれば、泉州の酒田で熊野比丘尼に出会った話が載せてある。彼等は奥州には伝統的に因縁が深かったと同時に、その足跡が殆ど全国に印されていたことが推測される。
〔註三〕天野信景翁の「塩尻」巻八十四に「伊勢の上人、善光寺の上人、熱田の上人といへるも比丘尼なり(中略)。是等は共に清尼にして那智の如くにあらず、其中、善光寺の比丘尼所に集る衆尼、多く不蒙の女刑にあふべき身の、此所に走り入は主家其罪を許し侍る故、かかる者あまた髪を剃て、心ならぬ尼のみなりとかや。鎌倉の比丘尼所(中山曰。縁切寺とて有名な東慶寺)も又あるひはかかる風俗ありてふ故に、まま猥りがはしき事聞え侍る」とあれば、伊勢比丘尼は先ず操行は正しいものと見るべきか。
〔註四〕「日本随筆大成本」。猶お同書には巫女の記事が一二載せてある。
〔註五〕在松本市の学友胡桃沢勘内氏の高示に拠る
〔註六〕拙著「売笑三千年史」の室町期に詳述した。 
第四節 明治の巫女禁断と爾後の消息

 

明治維新の完成が、復古神道の思想を基礎としていただけに、神道及び仏教に関する施設に就いては、頗る峻烈なる態度を以て臨んでいたようである。殊に明治四年に発布された神仏分離の法例は、これを実行するに余りに勇敢であったために、遂に常識の軌道を脱して、廃仏毀釈の埒内にまで立ち入ってしまった。勿論、これは千年余を通じて、仏教と僧侶の為に圧迫されていた神道及び社人の、反抗的空気が磅礴したものである事は言う迄もないが、兎に角にその猛烈なる運動と、果敢なる実行とには、国内の上下を挙げて張耳飛目せざるを得なかったものである〔一〕。斯うして神道方面の改革に注意した明治政府は、当然、口寄せ神子の上にも及んで来て、明治六年に教部省の名によって、左の如き巫女禁断の法令が発せられたのである。
   達第二号   府 県
従来梓巫市子並憑祈禱狐下ケ杯ト相唱玉占口寄等ノ所業ヲ以テ人民ヲ眩惑セシメ候儀自今一切禁止候条於各地官此旨相心得取締厳重可相立候事
   明治六年一月一五日 教部省
当時、教部省の幹部をなしたものは、殆んど悉くが平田篤胤系の神道学者であったので、鈴振り神道を嫌うこと蛇蜴の如かりしため、市子が禁断されるのは自明のことであって、且つ市子自身が社会的に存在の意義を失っていたのであるから、此の禁令は当然の措置と言わなければならぬ。併しながら、国初以来、国民迷信の対象となっていた神子の呪術は、相当深刻に国民の皮肉に喰い込んでいたので、明治政府の威力を以てしても、中々一回の禁令では剿絶されなかったものと見え、翌明治七年六月七日には、再び「禁厭祈祷を以て医業等差止め、政治の妨害と相成候様の所業」を堅く取締るべき法令の発布を見た。かくて市子の名は永久に消え、その実も永久に断たれた訳であるが、事実はこれを明確に裏切っていて、禁令の発布を見た明治六年から、約六十年を経過した現時においても、猶お依然として、各地にその弊害を流しているのである。
市子は、名こそ変ったが、今に各地方に歴然と残っている。呪術も、方法こそ変ったが、今猶お顕然として存している。彼等は、明治の禁断以来は、宗派神道の教会に属して、肩書を教師と改め、神降しの呪文の代りに、御禊祓とか、中臣祓とかを唱えているが、その実際の所業は、昔の市子のそのままを伝えているのである。彼等は、素性の知れぬ依頼者に対しては、官憲の禁止を楯にして、古き呪術は一切行わぬが、顔馴染の者には公然と、是れが依頼に応ずるのである。
殊に民間における彼等の勢力には、実に驚くべきものがあって、私が昭和四年六月に常陸の潮来島に遊びしとき、近村に有名なる巫女の在ることを聞知して訪ねたところ、同人は旧正月に家を出たまま、篤信者にそれからそれへと招かれて、今に帰宅せぬとのことであった〔二〕。更に同年七月陸前の松嶋に遊び、同じく附近の高城町に知名の巫女が居ると聞き、人を派して在否を確かめさせたところが、これも三ヶ月前から村から村へ稼ぎ歩いているとのことであった。而して私は此の二回の失敗に就いて、これは巫女の方で特に辞を設けて遁げるのではないかと疑って見たが、これは私の僻見であって、実際に斯うして例は各地に存していることを耳にした。
是等の事実を目睹した私は、窃に斯う考えている。市子というが如き迷信は、恐らく人類の存する限り、時に消長あるも、永久に存するものではなかろうかと、市子の力も亦た偉なりと言うべきである。
〔註一〕明治初期の神仏分離、及び廃仏毀釈の運動に就いては、記すべき多くの事件もあり、これと同時に、是等の機運が巫女に波及した事実も若干知っているが、今は大体にとどめて省略した。神仏分離に関しては、辻善之助氏等の編纂した大部の書籍がある。
〔註二〕「旅と伝説」第二年第六号所載の拙稿に詳記して置いた。 
 
結語

 

私は、第一篇の固有呪法時代において、我が民族国家の宗教である、原始神道における巫女の位置を、闡明にしたいと企てた。換言すれば、巫女教である原始神道を基調として、民族国家の成立を説明しようと試みたのである。然るに、此の企てたるや、単なる私の空想に終ってしまって、その結果は、殆んど予期せるところを裏切ってしまったのである。
例えば、祝詞に現われた「八百万神等乎、神集々賜比、神議々賜氐」とある内容が、北方民族の間に行われたクリルタイと交渉があるか否か、更にそれが、古く琉球に行われたユーウテー(国家の大事件を謡うの義)や、オホサスニカタヅケルー(多数決の義)と、同じ性質のものか否かさえ、確然することが出来ず、随って、是等の事象の中心人物となっていた巫女に関しては、全く論及することすら意に任せなかったのである。極言すれば、是等の事は記述せねばならぬと承知していながら、猶おそれに触れることが出来なかったのである。
勿論、これは私の不文の罪に帰することではあるが、強いて言えば、我国の学問の現状は、決して是等の事象を、放胆に論議し得るまでに進んでいないのである。神道の研究にあっても、或る種の目的のため、意識的に、その発生的方面は、特に閑却されて、専ら発達的方面ばかり高調されている時代にあっては、原始神道と巫女との交渉や、巫女教と国家成立の関係などに就いては、論旨の明快は慎しまねばならず、且つ筆路の自由は警めねばならぬ。天津神や、国津神の考覈が、無条件で許されぬ以上は、此の記述は或る程度の窘束は余儀ないこととして忍ぶより外に致し方がない。
久米邦武翁が「神道は祭天の古俗」を公にして、筆禍を買ったことは、既に歴史に属している程の、古い事件である。更に白鳥庫吉氏が「神代史の新しい研究」に序文を書いた為めに、多大の迷惑を蒙ったことも、昔話になるほどの古い事実である。併しながら、歴史はややもすると同じようなことを繰り返すものである。私としては、これを繰返して、その渦中には投じたくないと考えて、記述を運んだ。
その代り、許された範囲で、出来るだけ大胆に、且つ露骨に管見を発表するに躊躇する者ではなかった。而して、此の立場から、原始神道は、シャーマニズムの文化圏内にある事を断じ、併せて、原始神道は、巫女教であることも明かに論じ、古代における巫女の位置を説き尽したと信じている。
私は、第二篇の習合呪法時代において、道教及び仏教の輸入が、我が神道に習合した結果、巫女の呪術、及びその作法に、甚大なる影響を与えた顛末に就いて記述を試み、殊に修験道と巫道との交渉に関しては、管々しきまでに多言を費した。而して道教の巫蠱の呪術や、仏教の荼吉呢の邪法等に教えられて、我国の巫術が深刻になり、惨酷となり、その結果は、遂に巫女自身の堕落を致し、併せて社会に害毒を流して、官憲のために、屢々禁断さるるに至ったが、猶も執拗に民心を支配したことを略述した。就中、現に社会の一部に存している「憑き物」と称する迷信と、巫女との関係は、出来るだけ詳細に記した考えである。
私は、第三篇の退化呪法時代において、巫道が仏教や修験道のために圧倒され、征服されてしまって、この道に携った巫女の徒が、社会の落伍者として、窮迫せる生活に堕せる過程に就いて、大体を尽し、更に明治期において、剿絶されたにも拘らず、今に所在して余喘を保ちつつある事を記述した。
而して、巫女史の教える所を通観して、知り得たことは、我国の巫女の出現は、民族国家の紐帯であった古神道に発していて、その始めは、決して迷信を説かず、蠱術を行わなかったのであるが、それが社会の暢達から置き去りにされ、鈴振り神道であった原始神道は、神社神道となり、更に国体神道とまで発達向上したにも拘らず、独り巫女だけが、古き信仰と、古き作法とを固持していた為に、遂に日陰者たらざるを得なかったのである。
巫女が政治に参与し、軍事に参加し、更に文学に、音楽に、医療に、農業に、航海等に対して、多大の発言権を有していたことは明確であるが、それが落伍者とまで成り下ったのは、全く時代と歩みを同じくすることが出来なかったからである。
併しながら、私は信じている。人類に、霊魂不滅説の存する限り、人力以上の或る種の力が、宇宙に在ると考えられている限り、巫女なる者は、決して消滅せぬと云うことを。これを以て結語とする。
日本巫女史 終
 
中山太郎

 

(1876-1947)民俗学者、栃木県足利市生まれ。歴史的民俗学を唱え、文献記録に記された民俗を広く集成し、その歴史的変遷を考える特色ある立場をとった。東京専門学校(早稲田大学の前身)を卒業後、新聞記者、編集者などの仕事をしながら民俗学に入った。柳田国男に師事したが柳田民俗学の本流の外にあり、弟子もなかったが、近年評価が高まってきている。民俗の対象を常民に限らず、「日本民俗学辞典」や数種のテーマ別通史を著した。
中山民俗学
民俗学研究の一般的手法であるフィールドワークを殆ど行わず、史料文献を多用する研究方法から自らの学問を歴史的民俗学と称した。
中山民俗学の基礎は、上京後に図書館通いを続けあらゆる地誌類を読み作り上げた三万枚ものカードであった。柳田国男に「上野の図書館の本を全て読もうとした男」と怖れられるほどの読書家でもあった。
中山は研究者として執筆活動に専念した五十歳のころに売笑・婚姻・巫女・若者・盲人・祭礼・信仰・葬儀・伝説・職人の十種の研究を上古から現代まで民俗資料をもとにして編年史を纏め上げる壮大な野望を持った。うち五つは完成させた。
そうした実績の割に中山太郎の評価が低い理由は、中山の史料批判の弱さであり、その使用方法や方法論に問題点があると言われる。柳田国男は中山の「日本巫女史」(1930年刊行)を評価しつつも「(前略)欠点をいふならば読んで余りに面白いこと、もしくは史料が雑駁に過ぎて、強ひて価値不同の事実を継合せて、急いで堂々たる体系を備へようとした点であらう(後略)」と述べている。
また南方熊楠も方法論について「中山太郎氏は小生毎度いろいろ世話になる人なり。しかしながら、この人は多忙の人ゆえ、いろいろと氏得意のカード調べに間違い多し。氏の書いたことは出処の沙汰はなはだおろそかなり。(中略)氏の「日本巫女考」ははなはだ有益なるものなり。しかし麁笨なることも多し。」と辛辣な意見を述べている。
中山は「ジャーナリストの悪いところだけ受け容れて、間口ばかりで奥行のない人間となってしまひ」とこうした批判を認めるようなことも書いている。 
 
 

 

 
神子舞

 

神子(みこ/巫女)は、神に仕えて神楽・祈祷を行い、または神意をうかがって神託を告げる役割を持ち、ヒミコ(日巫女)や伊勢神宮の斎宮のように、本来は、信仰の中心的存在でした。
しかし、意外に思われるかも知れませんが、現在の神道においては、正式な神職の中に神子(巫女)というというものは存在しません。神道の儀礼化とともに、神子の地位は奪い取られ、抹殺されてしまったのです。現在、神社においてはアシスタントやアルバイトとしか認識されない状態になってしまい、恐山のイタコや沖縄のユタのように民間巫女にその面影を残すのみとなっています。
神楽は、本来、年の終わりに、神座(かみくら)に迎えた神の霊を採り物で舞う神子にかからせ、神の託宣を得て、神と人とがいっしょになって饗宴を繰りひろげ、衰えかけた生者の魂(たま)をふりおこして(タマフリ)、新しい年の幸と豊饒を乞い、祈るものです。
漢字の「無」は、「何もない」の意味に使われていますが、「無(ない)」は「舞(まい)」から転じたもので、「神のために舞う時は、もう人間社会に対して何も借りが無い状態の意味から、「無い」の意味に使用されるようになった」といわれています。神に仕える神子(巫女)は、一切の邪念を払って、神の依り代として舞ったのです。
各地で行われている民間の神楽は、大きく三つの系統に分けられます。
湯立神楽
伊勢・熊野・諏訪の山岳信仰の宗教者たちが、湯立による祈祷に主体を置き、神迎えして、湯釜を中心に激しい舞を舞い、来訪霊の鬼と問答したり、面影の舞を演じたりするものです。本州中部に分布し、奥三河(愛知県)の花祭りに代表されます。
獅子神楽
本州中部から東部にかけて、権現と呼ばれる獅子頭を神座として祈祷や悪魔ばらいをして巡行した者たちがいました。伊勢太神楽や東北地方の修験者たちによる権現舞では、翁舞を含む古風な猿楽能が舞われます。山伏神楽・番楽や法印神楽に代表されるものです。
採り物神楽
西日本では、中世後期以降、郷村の形成とともにその氏神の祭祀のほかに、血縁による小共同体の名(苗・みょう)の祖霊祭祀が神楽によって行われてきました。法者(ほうしゃ)などと呼ばれる祭司が村々の氏神の宮の脇に住みつき、神子(巫女・みこ)や男巫と組んで、弓神楽の家祈祷・死霊のしずめや、名の祖霊の祭りを行いました。採り物舞で神迎えして、神がかりの託宣を聞き、死霊の魂しずめ(タマシズメ)やさまざまな神霊を示現させて祝福の舞を舞わせたり、悪霊の鬼をはらわせたりする神楽能を演じます。
吉谷神社の神子舞(伊豆大島町元町吉谷神社正月十六日)
島の言葉で「ミコンジョーロ」と呼ばれる舞手の男の子がすごく奇麗です。一心に舞う少年の姿が、あまりに美しくいたいけなため、古い時代の人身御供の名残ではないかとも言われています。かつては7歳から10歳だったそうですが、現在は小学校高学年から中学校低学年までの男子から一人だけが選ばれます。祭りでは、村内を南北の二組に分けて年番、非年番として、年番の組が初めに神子を舞うことになっています。
衣装は、正月15日の赤門(旧神主藤井家)での検分の時は紫ちりめん、16日の本祭りの時は、浅黄色のちりめんに金銀糸の鶴亀模様の刺繍を施した裾模様の振袖で、頭には色とりどりの糸や布で飾った花冠をのせ、お化粧してきらびやかな装束で舞います。
「千早ふる天の岩戸を押し開き、神楽をあげて舞いたまう」と歌頭(じがしら)が一人で長くひいて歌う厳かな調子の神楽謡が終わると、「タローソツコデショ」と声がかかり、畳一枚の真ん中に正座していた「神子」が立ち上がって、右手に鈴、左手に白扇を持ち、ゆっくりとした笛と太鼓のリズムで、静かな動きで舞われます。一回舞い終わるのに約五分、普通二回繰り返されます。
「神子舞」は「記紀」の天の岩戸の神事を擬したもので、氏神に、噴火を鎮め豊作と安全を祈願するものといわれます。 
 
『神子と修験の宗教民俗学的研究』書評

 

「あとがき」が、全体を把握するのに一番良いと思われたので、ここから書き始めることにした。
「あとがき」の中に著者は、「本書は一九八二年から現在に至るまで断片的に調査を行ってきた。」と述べ、およそ二十年間に亘って、「岩手県陸中沿岸地方の神子をめぐる修験道と地域社会とのかかわりについて、とくに神子を中心にして、宗教民俗的な立場から考察を試みた論文の集大成なのである。」そしてそのきっかけとなったのは、一九八二年に宮古市黒森神社の祭礼において、湯立託宣で見た山野目キヌ神子との出会いであった、と記している。
次に神子について著者は、「私自身も柳田国男が「巫女考」の中で書いているように、神社で神子舞を舞っている神子は、形式化されたものと思っていた。」と述べている。正しく日本の民俗学は柳田国男が提唱したものであり、従って本人ならびに弟子の存命中は已むを得ないことであったと思われる。しかし著者が実際に見た陸中沿岸地方の湯立託宣における神子舞は、そうした先入観を打ち破るものであった。その理由は「まづ地域の人たちの神子を見る目が違っていた。すなわち神子が語る託宣を聞く態度が真剣なのである。さらに神子は、湯立託宣以外にも、本論で言及しているように、ねまり託宣、オシラ遊ばせ、病気治し、口寄せなど、さまざまな場面で活躍していた。」と記し、当地の神子は柳田が「巫女考」の中に書いている神子とは、全く違うものであったことを述べている。
その違いについて著者は、「陸中沿岸地方の神子の行動は、私の予想をはるかに超える広く深いものがあった。これまで日本民俗学で言及されてきた巫女は、民間巫女であり、修行巫女であり、多くは盲目であった。一方シャーマニズム研究において言及されてきた、シャーマンあるいは行者と分類された者たちの多くは、巫病を経験し、自身の心得統御による憑依技法の体得と、自己治癒を目的としながら巫業を行っている。これらの巫女あるいは巫者と比較してみると、陸中沿岸地方の神子は、それらのどれにも当てはまらない。それゆえ一方では、先行研究のない暗闇状態の中でもがいていた。他方では、日本民俗学やシャーマニズム研究史の中に、この神女を位置づけたいと四苦八苦する時期が続いた。一時期はそうした先行研究からはづれて、陸中沿岸地域における神子研究は、地域研究であると開き直ったこともあった」と記し、一時期には苦境に立たされたこともあったことを率直に述べているが、事実その通りであったと考える。石津照璽先生が中心となって行った東北地方の巫女調査に、筆者もメンバーの一員として参加させていただいたが、陸中沿岸地方の神子が調査対象から除外されていたのは事実であり、その原因は著者が述べている理由に基づくものであった。
次に神子たちが修験道と深くかかわっていた点について著者は、「神子たちは師匠からの師資相承の筋道を持ち、それらを迹ると歴史の分野に入る。当地域は近世期には修験者の数が多かった。」と述べているが、筆者がこの方面の地域を調査した時にも、本山派・当山派のほかに羽黒派修験の数も多く、修験者が葬式にも関与していた。この点で著者が羽黒山において、荒沢寺の秋峯修行を勤めたことが、この地域の神子さんと深くつながる関係ができたものと考えられる。
また著者は地域の多くの方々、特に調査地域の神子たちと日常生活を共にすることで、この地域の人たちのカミや霊魂についての考え方を教えられたことをあげているが、これは著者の有する人徳の賜であると思う。さらに地域内神社の関係者、宮古市役所内には「神田委員会」と称する特別委員会ができて、協力して下さったもののようである。この間には亡くなられた方々もあって御冥福を祈念しておられるが、著者の慈愛の深さが伝わってくる。
以上のほか著者の所属せる慶応義塾大学の宮家研究室の方々の協力をはじめとして、学外者の桜井徳太郎、崔吉城、高梨一美、佐治靖などの協力も得ている。
このように途中紆余曲折を体験しながら調査研究を継続努力し、一応学位論文をもって一段落に到達した。しかし著者は段落であって終了ではなく、今後のこの地域の変化や神子たちの後継者の問題など、見守ってゆかなければならない問題が、数多く横たわっていることを述べて結びとしている。
本書は慶応義塾大学社会学研究科委員会より平成一一年(一九九九)六月九日に学位(社会学博士)を受けた博士論文を基にし、大幅な加筆と修正を加えて刊行したものである。なお刊行にあたり出版費の一部として、平成一二年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)ならびに敬和学園大学学術図書出版助成費の交付を受けている。
以上「あとがき」の概説をふまえて、本論に先立つ序論を見ると、「一研究の目的と意義」、「二本論の構成」、「三調査」に分けられている。
一研究の目的と意義の初めに著者は、「巫女は、神々や諸霊との間に立つ媒介者である。」とし、地域社会の人々の不安、悩みを模索する相談相手で、具体的にそれらの解決策、方向付けを指示する存在でもある。」と記している。そして巫女は日本では古代以来時代を通じて存在し、またどの地域でも様々な方法によって人々の依頼に対応してきたと述べていることには異論のないところである。本書では近世期まで修験道各派に所属していた東北地方の巫子、中でも中心になるのは岩手県陸中沿岸の「神子」と呼ばれている巫女を取り上げている。初めに神子を歴史的に解明し、次に関東や東北地方では吉田神道と修験道各派の間で、神子をめぐる騒動や訴訟の記録が、福島県や佐渡などに残っていることも述べている。
岩手県における修験道所属の神子は、地域社会の中で湯立託宣や神子舞を舞い、春祈祷、おしら遊ばせ、厄払い・病気治し、口寄せなどを行いながら生き残ってきた。しかし湯立託宣と神子舞を舞うことが神社ミコと同一視されて、研究の対象から除外された。その原因は柳田国男が「巫女考」の中で、巫女を神社ミコと口寄せミコの二種類に分類したことに基因することを指摘している。巫女の研究としてはその後、中山太郎、桜井徳太郎、萩原龍夫など、宗教学や宗教人類学の分野では堀一郎、佐々木宏幹などで、石津照璽先生は東北地方の巫女の調査に多年に亘って傾注し、この時筆者も参加させていただいた。
東北地方の巫女の研究については、小井川潤次郎の八戸地方のイタコの研究、楠正弘の津軽のゴミソや下北のイタコの研究、佐藤正順の宮城県のミコの研究、武藤鉄城の秋田の巫女の研究、戸川安章や烏兎沼宏之の山形の巫女の研究、岩崎敏夫の福島の巫女の研究などがある。このように東北地方の巫女に関しては、精緻な蓄積があるにもかかわらず、陸中沿岸地方の神子は調査対象から除外されていた。またわが国における巫女の研究の蓄積は長く深いにもかかわらず、柳田国男ならびに柳田に続く民俗学者たちは、舞を舞う巫女を神社ミコとして調査研究の対象に入れなかった。しかし陸中沿岸地方では今も神子の託宣の結果は、地域の人々にとって一年の生活の指針となっているのである。このように著者が陸中沿岸地方の湯立託宣と舞を舞う神社ミコ(神子)を、研究の対象として選んだことが本書成立の根幹であり、日本における巫子研究の新分野を切り開いたものである。
また柳田国男の巫女研究が文献資料を中心に行われたので、柳田以後の民俗学や宗教学の研究者たちが、地域社会に残る文献調査が少なくなって、実証的な聞き書き中心の調査が多くなったことも、やむを得ない傾向であったと思われる。民俗芸能の分野で本田安次が、昭和初期における陸中沿岸地方の湯立託宣と神子舞について、調査報告書を発表したのみで、その後は取り上げられていないのが現実であると言えよう。
本書の目的は、わが国における従来の巫女研究史をふまえて、宗教民俗学的研究の立場から巫女の活動を、方法論も含めて再検討することにある。すなわち初めに近世から近代にかけての神仏分離令、修験道廃止令、明治期における民間巫者に対する禁止令などの変革期を、どのようにして乗り越えてきたのかを再検討することである。そして次に神子の生活誌を分析し、神子の系譜、生活史、霊魂観や他界観念を踏まえての災因論、地域社会の視点から見た神子の姿を明らかにすることである。そして神子たちの活躍を歴史的に位置づけるために、地域社会に残る文献を利用し、近世期における巫女の変遷とか、組織や地域社会の中での位置付けを検討するのである。その上で神子の行っている湯立託宣や病気治療など、儀礼の諸相を取り上げ、儀礼の有する論理と宗教的世界観を分析することである。最後に新たな巫女研究に向けての方法論を提起する。以上が本書の目的と意義であると述べている。
序論の二は本論の構成となっている。著者は日本の巫女研究の再構成をめざしているが、それは現在活躍している巫女の生活誌を、地域社会の人々とのかかわりの中で構築することであり、その背景となる巫女の歴史的変遷をたどりながら分析することであり、そして巫女が実際に行っている儀礼を分析することである。そしてそのために採用した方法は、聞き書き調査から得た生活史の分析であり、地域社会に残る文献の検討であり、巫女の関わる儀礼の構造分析と世界観の抽出にあった。
著者は以上の巫女研究の観点に立って本書では、第一部で「巫女の研究史」、第二部では「神子の生活と地域社会」、第三部で「歴史的変遷とその分析」、第四部で「神子の儀礼と世界観」、を取り上げ、それらの分析を経て「新たな巫女研究に向けて」、という構成をとっているが本書の研究方法がわが国の巫女研究に新しい分野を切り開いているのは確かである。
序論の「三調査」に、本研究の対象は近世期に修験道に所属していた神子であり、この存在を明らかにするために、神子たちが所属していた組織、必要としていた地域社会、彼女たち自身の修行の経過や巫業の実態ならびに生活全般を把握する必要があるとして、調査研究した成果を四部にまとめている。すなわち
第一部は四章に分けて「巫女の研究史」を取り上げ
第二部は六章に分けて「陸中沿岸地方における神子の生活と地域社会」を
第三部は四章に分けて「神子と修験のかかわりの歴史的変遷」
第四部は六章に分けて「神子の儀礼と世界観」 となっている。
最後に結論として、「巫女と修験の新たな研究に向けて」と題して、本論で考察してきた結果を述べ、新たな巫女と修験研究に向けての提言をしている。
東北地方全域を見ても、陸中沿岸地方の神子についての研究史は見るべきものはなく、この地域の巫子研究の全体像は空白のままであった。この地方にはイタコ、カミツキ、神子の三種類の巫女がいる。そのうち盲目のイタコ、巫病を経験して成巫したカミツキは他地域の巫女と同じ部類に属するが、神子はこれとは異質なのである。というのはこの地方の神子は口寄せもするが、盲目の「口寄せミコ」ではなく、また神社の祭礼で舞を舞うが神社に所属する「神社巫女」でもない。
このような巫女の実態を踏まえ、神仏習合思想を現在に引き継いでいる神子の活動の実態を明らかにし、歴史的な変遷を分析して、わが国における巫女研究の再検討をすることが本書の目的であり、巫女と修験の関係を明らかにすることとも関連するのである。
次に筆者は陸中沿岸の神子の特徴に言及し、神女の自立化の問題、神女の歴史を近世に遡って追いかけ、神女の儀礼の分析により憑依から統御へという流れを明らかにしている。
終わりに著者は「巫女はカミとホトケと共に生活しながら、仏教や神道と地域の文化を融合させ、換骨奪胎し、読み替える文化の創造者であったのかもしれない。人々が求め信頼の基盤としていた託宣はその中から生み出されてきたのであり、この異次元からの呼びかけは今も魅惑をもって我々に迫ってくる」と結んでいる。
筆者は本書を読ませていただき、これからわが国の巫女ならびに巫女と修験のかかわりなどについて、調査研究なさる方には是非本書を一読して下さることをおすすめしたい。

巫女考 [柳田国男の昭和]

 

柳田国男が最晩年にいたって自己の歩みをふり返った『故郷七十年』という聞き書きにふれながら、かれのめざしてきたことを追体験しようとしている。
「柳田国男の昭和」というテーマからすれば、よけいなことかもしれない。しかし、長い人生の終わりにあたって追想される過去には、いまに伸びた芽があるいっぽう、途中で立ち枯れになった幹もあったはずである。その全体が柳田国男という森の全体をつくっている以上、われわれもまたかつて存在した可能性としての樹間に、しばし足をとどめてもよさそうである。
『故郷七十年』のなかで、国男はかつて心血をそそぎこんだ月刊誌「郷土研究」について、ほとんどといっていいくらいふれていない。「郷土研究」が発行されたのは1913年(大正2)3月から1917年3月にかけてである。このころ国男は貴族院書記官長となり、多忙な日々を送っていた。官舎での生活は、昼間は公務、夜間は執筆と雑誌編集に明け暮れていたのである。
何がそんなに国男を突き動かしていたのだろう。このころの国男は、まるで水が堰を切ってあふれるように、猛烈な勢いで民俗への関心を広げていた。それはのちに結晶する柳田民俗学の分野には収まりきらない多彩な関心で、むしろ人類学的、民族学的視点さえ含んでいたといえるかもしれない。
この雑誌には多くの人材が結集した。前に述べた南方熊楠をはじめとして、信州松本の胡桃沢勘内(くるみざわ・かんない)、のちに『花祭』を著す早川孝太郎、国学院講師となる折口信夫、栃木出身の異端の民俗学者、中山太郎などである。その周辺には『遠野物語』の佐々木喜善、アイヌ研究の金田一京助、スターリンの粛清によって悲劇の死を遂げるニコライ・ネフスキーなどの姿もみられる。
国男はこうした逸材とともに切磋琢磨しながら、民俗の領域へ踏みこんでいくのだが、全部合わせると20近いペンネームを使い分けて、毎月64ページの雑誌の残った誌面を埋めていく作業は、ほとんど神業に近かったとえいるだろう。
なかでも力を入れた論考としては「巫女考」や「毛坊主考」が挙げられる。ともにほぼ1年の連載で、かなりの分量にのぼる。いま、この曲がりくねった坂道を登るような論文を詳しく紹介するのは、いささか骨が折れる。細かく分析していけば、このふたつだけで新書1冊を要するだろう。
そこで、ここでは赤坂憲雄の『漂泊の精神史』に依拠しながら、この論考の概要を示しておくことにする。国男がこの溶岩流にも似た、混沌に満ちた熱い論考を単行本に収録することがなかった理由も、そこからおぼろげに見えてくるはずである。
「巫女考」には何が書かれているか。
まず、巫女の種類が大きくふたつにわけられる。ひとつは神社に付属して、例祭の行列に加わり、神前で鈴を振って歌舞を奏し、さらにさまざまな神事をおこなう、おなじみの神社ミコ。もうひとつは神や死者のことばをひとに伝える、ちょっと異様な雰囲気をただよわせる旅の口寄せミコである。
国男自身のことばを引いておこう。それは子どものころ、実際に播州でみた光景から発している。
〈自分の生国播磨などでは、ミコと称する二種類の婦人がある。第一はやや大なる神社に付属してその旧境内に居住し、例祭の節は必ず神幸(しんこう)の行列に加わるのみならず、神前に鈴を振って歌舞を奏し、また湯立(ゆだて)の神事に関与するものである。いま一種のミコは、あるいはまたタタキミコとも口寄(くちよせ)ともいう、たいてい何村の住民であるかよくわからず、少なくも五里八里の遠方から来る旅行者である。この口寄というのは古い語で、その意味は隔絶して近づくべからざる神または人の言語を、眼前の巫女の口を介して聞くこと、すなわち託宣託言を聴かんと求むることであって、従ってその仲介を業とする女をも口寄というのである。現代のタタキミコも人に頼まれて不在者の口を寄せることは同様であるが、その寄る者は主としていわゆる生霊か死霊、すなわち生きている人または死んだ人間ばかりで、神がこの者に降ることは極めてまれなようである〉
「巫女考」での関心が、旅する口寄せミコに向けられていることはいうまでもない。村人から物もらいに等しいと軽蔑される存在だ。しかし、国男はこのふたつのミコが元をたどれば同じだと考えていた。人びとに神意を伝えるという点は変わらないからである(ちなみにクリント・イーストウッド監督の『ヒアアフター』をみれば、霊能者による口寄せが日本だけではなく西洋でもおこなわれていることがわかるだろう)。
ミコとはもともと「御子」、すなわち神の血筋を受けた者である。赤坂によると、国男は人びとが毎年、神子や神主を、くじ引きや順番などによって選ぶのが古い信仰の慣例だと考えていたという。それが次第に固定されて、神主やミコの家筋がきまってくる。
それではなぜ一部のミコは漂泊するのだろう。残念ながら国男は明解な結論をだしていない。こう書くだけである。
〈なぜ、そのように多数の巫女が、一所不住の旅に立出ることになったのか。彼ら[彼女ら]もしくは彼らの母、祖母、または曾祖母の本貫[出身地]はどこであったか。日本の国内かはたまた海外のいずれの地方かという大なる疑問については、自分はまだまだ一箇の仮定説を提出するだけにも大胆でありえない〉
口寄せ巫女がどこを出身地とするかはわからないが、古来、土地とは無縁の漂泊民が男女をかぎらず数多くいたことを認めている。のちに否定されるものの、人類学の影響を強く受けていた国男は、当初こうした漂泊民を異民族ではないかとみていたきらいがある。空想のなかでしか見たことのない山神すなわち山人を、当初、異民族と考えていたのと同じである。
山人が台湾の「蕃族」のような存在だとすれば、巫女や毛坊主は文字どおり異人種の「ジプシー」ではないかと思っていた。実際、国男は朝鮮半島からインドを出自とするジプシーが日本に渡ってきた痕跡を調べたこともある。だが、この説はすぐに否定される。
気づいたのは、何はともあれムラという共同体から離れて、土地をもたぬまま各地をさすらう漂泊の民が無数にいたことである。そのなかで国男はとりわけ遊行する宗教集団に興味をもった。
国男は口寄せミコのスタイルに注目している。旅の道具として、いちばんだいじなのは、本尊を収めた手箱だった。そこには宗像、八幡、熊野、白山、蔵王、諏訪、駒形といった、さまざまな神が収められており、彼女らは口寄せによって、神と人とを仲介する。巫女は村々に霊験あらたかな神を伝える運び人だったともいえる。
巫女たちは吉凶を卜したり、託宣を伝えたり、荒ぶる神を祭ったり、親しい仏の降霊をしたりした。外からやってくるカミは、時に村に活気をもたらし、時に村を危機におとしいれた。そのカミを仲立ちしたり、なだめたりするのが、巫女の役割だったと思われる。
そして、巫女たちは次第に漂泊から脱して、村境に定着し、現在も類似の地名が残る比丘尼屋敷や姥屋敷をつくるにいたった。そうした場所には神が降臨したとされる腰掛石や、神のヨリマシを祭る「頼政」の墓なども多く残っていると国男はさまざまな例を挙げて論証している。
「巫女考」で赤坂憲雄が注目しているのは、国男が巫女と遊女の関係に論及していることだ。「中世の社会においてもクグツの副業は売色で、遊女はまた一派の巫女であった」と国男は記しており、「これとても昔の社会道義によって寛容せられた、この輩相応の由緒ある業体[業態]である」とコメントしている。
それ以上、具体的な論証はなされていない。だが、論点としては魅力的である。「遊女はまた一派の巫女である」──ここからは漂泊しつづける女たちの隠された歴史が浮かび上がってくる気配さえただよう。
「巫女考」の論述は、のちに『妹の力』にも引きつがれていく。だが、そこでは漂泊する口寄せ巫女や遊女の論点は深められることなく、どちらかといえば希薄になっている。そして「巫女考」は「毛坊主考」と同様、単行本に収められることはなく、死後「定本」や「全集」に収録されるまで公刊されることはなかった。
おそらく国男は巫女と遊女を同列視することが神社界を刺激し、大きな反発を買うことを恐れていたのだろう。もうひとつの恐れがあったとすれば、それは国男がひそかに巫祝と天皇のつながりを連想して、暮夜、身震いしたことと関係しているのではあるまいか。断念の向こうには、もうひとつの宇宙が隠されていた。 
 
巫女 1

 

巫女といえば、今では神社で初詣の際に登場し、授与所でお守りなどを販売する存在です。緋袴をまとった女子学生たちをよく見かけることでしょう。巫女という神秘的な存在に、小さい頃から憧れている女子学生も多いようです。巫女は、太古の昔、日本では政治的にも、宗教的にも国をあげて重要視されていた存在でした。何しろ、自分の身に神を降臨させてその神託を告げるという偉大なる業を行っていた者だったからです。巫女について、歴史と特徴をひも解いていきましょう。
巫女とは
巫女は、古来より神託を得たり、口寄せなどを行ったりする重要な役割を担い、雅楽の舞や占い、祈祷などに長けていた存在でした。神社で神事の奉仕をする役目がスタートしたのは、明治時代以降だったといわれています。巫女は日本の民俗学者の代表ともいうべき柳田國男や中山太郎によって研究され、朝廷の巫(かんなぎ)としての役割と、民間において活躍した「口寄せ」としての役割に、二分できるといわれてきました。柳田によれば、この二つに分けられる巫女は、元々は同一の者を表していたそうです。しかし時代と共に、特定の神社に所属するのではなく、全国を遍歴して祈祷や託宣、勧進などを行いながら生活をしていた巫女たちの歴史が築き上げられました。
朝廷の巫(かんなぎ)
本来の巫女が持つ神がかり的なイメージは、祈祷などによって自己の意識を一種のトランス状態に持っていくところからきているようです。交信する存在に己を明け渡すのです。そして、神託として人々に伝えることを役割とします。これを一般的に「巫(かんなぎ)」と呼びます。巫が交信するのは、神々の他、精霊をも含んだ、神界や霊界、自然界に存在するものたちすべて。世界の歴史では、古代ギリシア時代にすでに確認することができます。例えば、ギリシアのデルポイにあるアポロン神託は、アポロンの神官たちによる神託を意味します。また、巫女といえば古代日本の邪馬台国を統治していたといわれる卑弥呼がそうであったと伝えられています。古代は、祭政一致の時代であり、巫女たちが国家権力の一部を担い政治に参画していたとみられています。このことは、古代の古墳文化にみられる埴輪に、巫女像が出土していることや、神話の至るところに巫女の族長や巫の呪術に関する記載が多く見つけられることからわかっています。
民間の口寄せ系巫女
朝廷や神社で巫女としての能力を発揮していた者たちとは別に、自らの「死人の口をきく」術である「口寄せ」を行いながら、決まった住居も持たずに各地を放浪していた巫女もいました。特定の神社に属せず放浪していた巫女として有名な存在として「梓巫女(あずさみこ)」がいます。主に関東地方や東海地方、南関東地域と甲信地方などの東国を中心に活動していたといわれています。彼女たちは、託宣や呪術も執り行っていたようです。その託宣の方法は、まず梓弓を鳴らしながら紙卸の呪文を唱えます。そして神懸かりを行い、生き霊や死霊を呼び出して、その呼び出した霊に対して仮託し、託宣や呪術を行っていたと伝えられています。
古代、中世、現代の巫女
現代社会において、巫女は主に神社に奉仕する未婚の女性というイメージがあります。表向きには祈祷の受け付けや神事における神楽の舞などがその仕事となります。古代では、巫女王政治が行われ、国権をにぎっていたとすらいわれる巫女は、時代が進むごとに政権の座から姿を消していったといわれています。そして、巫女たちは芸能集団として再び姿を現すのだそうです。それが中世期に当たります。彼女たちは、「今様」と呼ばれる、平安時代中期から鎌倉時代にかけて、宮廷で流行した歌謡を伝え歩いたり、歌舞伎の原型を生んだりと、大きな活躍を見せています。
巫女に関する素朴な疑問とその答え
ここで、巫女に関する素朴な疑問を解消していきましょう。まず、古代の巫女は、どのように巫女になっていったのでしょうか。ある日、神から啓示を受けて巫になったというエピソードは、よく聞くお話です。巫女へのなり方については、いく通りかに分かれているといわれています。啓示によって巫女になる者の他に、修業によって成る者もいるといわれています。東北地方で口寄せに長けた存在にイタコがいますが、彼女らは盲目の少女時代に師匠に弟子入りし、巫業を修業した末に試験を受けて一人前のイタコになるのだそうです。また、巫女といえば、目が見えない者というイメージがありますが、実際のところどうなのでしょうか。
東北地方の巫女の習俗によれば、古くから巫女として存在していた女性たちは、「盲目の者」と、「晴れ目の者」とに分かれていたようです。口寄せなどを行うのは、盲目の巫女が大半を占めていたようです。盲目になったがために、やむを得ず巫女になることを選んだという者もいたそうです。そもそも盲目の女性は死者と交信する者という特別な役割が与えられていたといわれています。
巫女が古代から政治に関わって、国家を動かしていたという時代からは、随分遠のいている現代の巫女。今もなお、神社で神職の補助的な役割を担っている巫女は、古代においては、神道の神に仕える存在でした。現代においても、そのような神秘的な存在であることには変わりないといえるでしょう。  
 
巫女(みこ、ふじょ) 2

 

主として日本の神に仕える女性のこと。神子(みこ)、舞姫(まいひめ)、御神子(みかんこ)と呼称される場合もある。
古来より巫女は神楽を舞ったり、祈祷をしたり、占いをしたり、神託を得て他の者に伝えたり、口寄せなどをする役割であったが、明治以降は神社で神事の奉仕をしたり、神職を補佐する役割へと変化していった。なお、現在、一部の仏教寺院で白衣に緋袴という、巫女装束そのもの、または類似の服装で奉職する若い女性もみられるようになっている。
巫女は柳田國男や中山太郎の分類によると、おおむね朝廷の巫(かんなぎ)系と民間の口寄せ系に分けられる。柳田によれば巫系巫女は、関東ではミコ、京阪ではイチコといい、口寄せ系巫女は京阪ではミコ、東京近辺ではイチコ アズサミコ、東北ではイタコと呼ばれる。これらの呼称に関する点から、柳田は「もともとこの二つの巫女は同一の物であったが、時代が下るにつれ神を携え神にせせられて各地をさまよう者と、宮に仕える者とに分かれた」という説をだした。なお、日本に限らず他国の女性シャーマンも巫女と訳されることが多いが、堀一郎によれば日本の巫女は「海外のシャーマンのように、全員が精神的疾患を持っていない」「『神にせせられて』さまようものの、いわゆる憑依の症状をしていない」「そもそもシャーマンは『口寄せ』をしない」という点から、歩き巫女を含めた巫女とシャーマンを区別しうるとする。
巫女となる女性には、穢れを払う、神、貴人にマナを付与する(霊鎮め)、など様々な行為を行なう職掌であることから、心身ともに健康な者が求められた。柳田國男『巫女考』によれば、巫(かんなぎ)系巫女、口寄せ系巫女を問わず多くの巫女が結婚した後も巫職を継続したものの、座摩巫(いかすりのみかんなぎ)のように7歳頃から勤め結婚後引退する者や、常陸の鹿島神宮に勤める物忌(ものいみ)、斎女(いつきめ)、伊勢神宮の斎王(いつきのみこ)のように終生結婚せずに過ごした巫女も存在した。
歴史
古代
古神道での、神を鎮める様々な行為のなかで特に、祈祷師や神職などが依り代となって、神を自らの身体に神を宿す、「神降し」や「神懸り」(かみがかり)の儀式を「巫」(かんなぎ)といった。これを掌る女性が巫女の発生と考えられる。男性でそのような祭祀に仕える者は覡と称される。
『古事記』・『日本書紀』に記される日本神話では、天岩戸の前で舞ったとされる天鈿女命(アメノウズメ)の故事にその原型が見られる。また、『魏志倭人伝』によると、卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)記述があり、この鬼道や惑の正確な意味・内容は不明だが、古代に呪術的な儀式が女性の手で行われたことがうかがえる。
平安時代には神祇官に御巫(みかんなぎ)や天鈿女命の子孫とされた猨女君(『貞観儀式』)の官職が置かれ、神楽を舞っていたと推定されている。平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。
中世
中世以後、各地の有力な神社では巫女による神楽の奉納が恒例となった。さらに神楽も旧来の神降ろしに加えて、現世利益を祈願するものや、必ずしも巫女によらない獅子舞や、曲独楽などの曲芸に変貌したとされ、そのためか、現在でも祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例がみられる。
歌舞伎の元である「かぶきおどり」を生み出したとされる出雲阿国(いずものおくに)は出雲大社の巫女であったという説もあり、古代の呪術的な動作が神事芸能として洗練され、一般芸能として民間に広く伝播していった経過がうかがわれる。
渡り巫女
渡り巫女(歩き巫女)は、祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされる。旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではないので後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた。
近世
近世社会においては郷村から近世村落への変遷において、神社の庇護者であった在地土豪の消失や社地の縮小による経済的衰退、神主による神事の掌握などを事情に神子は減少した。また、近世社会においては名跡を継ぐことが許されるのは男性のみであったため、神子の多くは神子家を継承させるため夫を迎えていた。
近代
明治維新を迎え、神社および祭祀の制度が復古的・抜本的に見直された。明治4年9月19日(西暦1871年11月1日)には神祇省に御巫(みかんなぎ)が置かれ、宮内省の元刀自が御巫の職務に当たった。1873年(明治6年)1月15日には教部省によって、神霊の憑依などによって託宣を得る、民間習俗の巫女の行為が全面的に禁止された(cf. s:梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件)。これは巫女禁断令と通称される。このような禁止措置の背景として、復古的な神道観による神社制度の組織化によるものである一方、文明開化による旧来の習俗文化を否定する動きもうかがえる。
禁止措置によって、神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女はほぼ廃業となったが、神社あるいは教派神道に所属し姿・形を変えて活動を続ける者もいた。また、神職の補助的な立場で巫女を雇用する神社が出始めた。後、春日大社の富田光美らが、神道における巫女の重要性を唱えると同時に、八乙女と呼ばれる巫女達の舞をより洗練させて芸術性を高め、巫女および巫女舞の復興に尽くした。また、宮内省の楽師であった多忠朝は、日本神話に基づく、神社祭祀に於ける神楽舞の重要性を主張して認められ、浦安の舞を制作した。
現代
現代日本では巫女は神社に勤務し、主に神職の補助、また神事において神楽・舞を奉仕する女性を指す。巫女に資格は必要ないが、神職の資格を持つ女性が巫女として神社に勤務することもある。なお、巫女は男女雇用機会均等法の適用外なので、女性を指定しての募集が認められている。
   本職巫女
資格が不要なため、心身ともに健康な女性ならば巫女になれる。本職巫女の多くは神職の娘・近親者など、その神社に縁がある人が奉仕することが多く、本職巫女の求人はあまり多いとは言えない(本職巫女を置けるのはおおむね大規模神社に限られる)。本職巫女の求人は、新聞・求人広告、ハローワークなどに掲載されることがある。また、神職養成機関には、神職の他に少ないながら本職巫女の求人が寄せられることもある。女性が本職巫女として奉仕できる年数は短く、義務教育終了後(現実的には高等学校卒業)から勤務し、20代後半で定年を迎える例が多い。短大・大学を卒業してからの奉仕であれば、数年間しか在職しないことになる。定年以降に神社に勤務する場合は、神社指定の制服や松葉色・紺色などの袴を履くなどして服装で区分され、また職掌の上でも神事に奉仕する女性職員を巫女、それ以外の事務作業などを行うのが一般女性職員と区分されることが多い。なお、神楽を奉仕、指導する巫女については、結婚後も、技術継承などの問題から神社職員として勤務する例もある。
   助勤巫女
正月などの繁忙期には、神社の大小にかかわらず臨時のアルバイトを採用している例が多い。一般的にアルバイトは神社では「助勤」「助務」と呼称される。神社独自で雇用を呼びかける、あるいは大学・高等学校などへの求人の呼びかけなどで採用される。また、神職養成機関に所属する女子学生が研修生・実習生として臨時に助勤巫女として奉仕する例もある。神社によっては、千早の着用の有無などで本職巫女と区別される場合もある。
   神事・催事の巫女
大規模な神社においては、前述の神社に勤務する巫女が祭祀の際に浦安の舞や伝統の巫女神楽を奉納するが、主に小規模な神社では、臨時に年少者が巫女として奉仕する例も多く存在する。その多くは神社の氏子である少女によって奉仕されている。祭礼に併せて行われる稚児行列にも巫女装束の年少者が加わる例もある。神楽を奉納する場合は化粧を施すことが多く、特別な場なので厚化粧となる場合もある。
   巫女の装束
現在では、巫女装束は白い小袖(白衣)に緋袴を履くのが通常である。元来、袴は襠(まち)ありであったが、明治になって教育者の下田歌子が女学生用の袴として行灯袴を発明し、好評だったため後に巫女の分野にも導入されることとなった。したがって、現代は行灯型の緋袴が一般的であるが、伝統的な襠有りの袴を採用している神社もある。特に神楽を舞う場合は足裁きの都合上、襠有りでないと不都合が生じることがある。また、神社によっては若い女性向けの「濃」(こき、赤紫色)袴を用いるところもある。神事の奉仕や神楽を舞う場合など、改まった場面では千早を上から羽織る場合もある。髪型については、長い黒髪を後ろで檀紙や水引、装飾用の丈長などを組み合わせて(絵元結と呼ばれる)束ねるのが基本だが、髪の長さを足すために髢(かもじ)を付ける場合もある。
研究史
神子に関する研究は民俗学・歴史学の両面からアプローチされ、民俗学においては1910年代から30年代にかけて、柳田國男、中山太郎、折口信夫らによって東北地方をフィールドに展開され、1990年代には神田より子による研究が展開された。歴史学においては、1990年代に義江明子が古代社会における神子を社会・経済的に位置づけ、西田かほるは近世社会における神子の存在を身分的周縁の観点からその多様性を指摘している。
巫女と女性シャーマン
本項で取り上げた大和の神道における巫女や琉球神道の神人(かみんちゅ)である祝女(ノロ)以外にも、「巫女」を「女性のシャーマン」として広義に解釈するのであれば、民間のユタや台湾における尪姨、韓国の巫堂(무당;ムーダン)の他、シベリア、アメリカ原住民、アフリカなどにみられるシャーマンなども巫女の一種である。また、フィクションでは西洋宗教などにおける神職を指すこともある。この場合は「神子」と表記されることが多い。
中山太郎は、口寄せ巫女にユタ、アイヌのツス(トゥス)を入れる。
古代ギリシア・ローマの伝説に現れる女予言者「シビュラ」(Sibyl, sibylla)なども「巫女」と訳される。神懸かりとなり神託を伝えるのはシャーマンの特徴であり、古代ギリシアではデルポイの神託は尊重されていた。神の言葉を介するもの、という意味からメディア(media. 中間にあり媒介するもの)とも称される。
民間伝承では救世主を待望する異教徒のシンボルであり、キリスト教美術の図像にはアトリビュート(持物)として書物を持つ姿が多く見られる。他に「ペルシアの巫女」は頭にヴェール、「リビアの巫女」は灯りのともった蝋燭、「キンメリアの(イタリアの)巫女」はコルヌコピア(豊穣の角)、「エリュトレイア(リディア)の巫女」は「受胎告知」の預言者として百合、「サモスの巫女」は「キリストの降誕」の預言者として秣桶(まぐさおけ)か揺り籠、「クマエの巫女」も「キリストの降誕」の預言者として貝殻、「ヘレスポントスの巫女」は「キリストの磔刑」の預言者として釘、「アグリッパの(エジプトの)巫女」は浅黒い肌で「キリストの笞打ち」の預言者として笞、「エウロパの巫女」は「エジプトへの逃避」の預言者として「嬰児虐殺」の剣を持つ。「フリュギアの巫女」は「キリストの復活」の預言者として十字架を伴い、「ティブルの巫女」は片手を切り落とされている。巫女の単独像は少なく、多くは群像として表現される。
エゼキエル書13章18節に、「手の節に呪縛の組紐をつけ、諸々の頭に合う呪祓の被り物(ミスパホート 散らすを表すサパーフから)を作り被らせる」巫女が罵倒されている。組紐(占い紐 あるいは枕)と訳されるケサトートが、「縛る」を表すカシートの派生語であり、「鳥を捕らえるごとく魂をとる」と表現されているので、そのような儀礼を行う者であったらしい。  
 
巫女・神子 ふじょ・みこ 3

 

神に仕えて神意を伝える女。未婚の処女とされる場合が多い。みこ。かんなぎ。
神に奉仕して、神楽(かぐら)などをする者。また、祈祷を行ない、神託を告げたり、口寄(くちよせ)などをしたりする者。未婚の女性が多い。かんなぎ。ふじょ。いちこ。
神社に属し、神楽を舞ったり神事に奉仕して神職を補佐する女性。かんなぎ。祈祷・卜占(ぼくせん)や死者の口寄せをする女性。東北地方のいたこ、沖縄地方のゆたなどの類。ふじょ。「恐山(おそれざん)の―」。古代ギリシャや古代ローマにおいて神に仕え、神の意思を託宣した女性。
神子とも書く。神に奉仕する女性の総称。本来は、神社において憑坐 (よりまし) として神託を伝えるのを務めとし、このため清浄な女性であることが条件とされ、未婚の女性を任命し、結婚とともに退職させるのが決りであった。現在では、その職能は縮小され、神楽舞や湯立神事などの儀式に奉仕するのが務めとなっている。一方、これらの神社に奉仕するものとは別に、諸方を旅して暮す歩き巫女と呼ばれる存在もあった。地方によってイチコ、イタコ、梓巫女などさまざまな呼称がある。彼女らは口寄せ、卜占などを行いながら村々を回って生活したが、のちには、その語る神歌や神句は遊芸化し、彼女らも本来の性格を失って、多くの者が絵解比丘尼 (→絵解き ) や遊女に化した。
神霊に奉仕する女性、童女のこと。古来、日本には宮廷や神社に仕え、神職の下にあって祭典の奉仕や神楽(かぐら)をもっぱら行うものと、民間にあって神霊や死霊の口寄せなどを営む呪術(じゅじゅつ)的祈祷(きとう)師の二つの巫女の系統がある。前者の例では、神祇(じんぎ)官に仕える御巫(みかんなぎ)(大御巫、坐摩(いがすり)巫、御門(みかど)巫、生島(いくしま)巫)、宮中内侍所(ないしどころ)の刀自(とじ)、伊勢(いせ)神宮の物忌(ものいみ)(子良(こら))、大神(おおみわ)神社の宮能売(みやのめ)、熱田(あつた)神宮の惣(そう)ノ市(いち)、松尾神社の斎子(いつきこ)、鹿島(かしま)神宮の物忌(ものいみ)、厳島(いつくしま)神社の内侍(ないし)、塩竈(しおがま)神社の若(わか)、羽黒神社の女別当(おんなべっとう)などがあり、いずれも処女をこれにあてた。これに対して、民間の巫女には、市子(いちこ)の語が全国的に用いられている。市子は、斎子(いつきこ)の転訛(てんか)であるともいう。また、東北地方では、巫女のことを一般にいたこといい、これらの巫女はほとんど盲目である。そのほか、関東の梓(あずさ)巫女、羽後(うご)の座頭嬶(ざとうかか)、陸中の盲女僧、常陸(ひたち)の笹帚(ささはた)きなどの称がある。これら二つの系統の巫女は、その起源をたどれば、もともと神に仕えるのが女性であったことに由来する。たとえば、邪馬台(やまたい)国の卑弥呼(ひみこ)が鬼道に仕えたとする記事や、記紀の伝承にみえる天照大神(あまてらすおおみかみ)、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、倭姫命(やまとひめのみこと)、神功(じんぐう)皇后などには、神に仕える女性としての原型がみられる。沖縄では現在も主として女性のみが神に仕えることができる、という根強い信仰がある。のろやゆたがこれで、のろは女職で、その名称は神託を宣(の)ることに由来し、各集落のウタキ(拝所)やカムアシャギなどで祭祀(さいし)を行ったりオモロ(古謡)を歌い舞う。これに対し、ゆたは、いたこ、市子などと語源的に同系のものと思われ、中年を過ぎて突発的に神がかり状態になり、その資格を得ることが多い。神がかりをしていろいろの占いや死霊・生霊の口寄せを職とする。本州では、のろにあたる女性司祭者の地位が、早く男性神職にとってかわられ、神社巫女として神職の補助的な役割を担うようになったと考えられている。
(古くは「ぶじょ」とも) 神につかえてその託宣を人に告げる女。かんなぎ。みこ。※新撰朗詠(12C前)上「羌児が旧曲は残溜を移す 巫女が別粧は暁の風に染む〈村上天皇〉」。
古代、神に仕え神託を告げた女性。シャーマンの系統。邪馬台国 (やまたいこく) の女王卑弥呼 (ひみこ) や垂仁天皇の皇女倭姫命 (やまとひめのみこと) などが有名。伊勢神宮の斎宮など純粋性こそ失ったが広く後世に残っている。
…東北地方の津軽・南部地域で活躍する巫女の名称。多くは盲目の女性で、初潮前の少女期に師匠を決め弟子入りする。……佐々木喜善(きぜん)の《聴耳草紙》に採録されている長須田(ながすだ)マンコの話では、生まれたばかりの赤子を鷲(わし)にさらわれ、13年後に地獄山で愛児と再会する母の名前がマンコである。マンコは後に愛児が修行する寺の近くの地獄山に庵を建てて住み、巫女となって毎日念仏を唱えたとされる。地獄山には今日でもマンコ屋敷跡があって、あたりには賽(さい)の河原のように小石を積んだ小さな塔がたくさんある。……その機能は司祭、巫医、卜占予言、霊媒、神話の伝承者、芸能娯楽的機能等であるが、最も重要なのは芸能娯楽的機能である。ムーダンは本来〈歌舞降神〉の巫女を意味し、歌舞に巧みなことが巫女としての資格の重要な要素である。 朝鮮のシャーマンは入巫形態から降神巫と世襲司祭巫の二つに分類される。…
巫女とは、神に仕えて神託を口寄せしたり、神楽を舞ったり、祈祷したりする者。多くは未婚の女性。かんなぎ。ふじょ。巫女は、霊威ある者に対して心からおそれ敬いを表す「御」に、女性の意味で「子」がついた「御子(みこ)」が語源と考えられる。また、神の子の意味で「神子(みこ)」か、同じ漢字で「かみこ」の上略とする説もある。漢字は「巫女」と同じ意味の「巫(かんなぎ)」に「女」が付いたもので、意味からの当て字であろう。現代では、巫女は神社で神主の補佐的役割のようになっているが、かつて巫女は神と人間の中間的存在で、司祭者となったり、死霊や生霊の口寄せをしたり、呪術的な祈祷なども行っていた。
巫女とは、神に奉仕する女性の総称です。神楽を舞うなどの神事を行い、神職の補佐的な役割を行います。古く巫女は神楽を舞い、祈祷を行い、占いや口寄せをするといった役割を担い、神から託されたメッセージを第三者に伝えるという立場にいました。近代以降では、神社における神事の際の奉仕などを行います。
現代では、巫女は神社に勤務していて、神楽や舞の奉仕を行います。巫女になるには特別な資格は必要ではありません。神職の娘や近親者などの、神社に縁のある人が見個として奉仕することが多く、一般的には20代後半で定年になります。しかし神楽を奉仕、指導する巫女には、技術継承などの問題があり、この限りではありません。また、正月などの繁忙期になると、神社が臨時のアルバイトを採用するケースもあります。こうしたアルバイトの学生などは「助勤」「助務」と呼ばれます。巫女が身に着ける衣装は、巫女装束と言われます。各神社ごとにそれぞれのしきたりがあり、特に神職の資格がある巫女に関しては、女性神職として服装に関する規定があります。  
 
巫女 4

 

神社に属し、神楽を舞ったり神事に奉仕して神職を補佐する女性。神社に属し、神楽を舞ったり神事に奉仕して神職を補佐する女性。
巫女(みこ、ふじょ)、または神子(みこ)とは、神道において神に仕える女性のこと。神社で祭祀を行う女性(女性の神主、すなわち女子神職)とは異なる。※巫女は神職には含まれない。現在の神社では、神職の補助者としての位置づけになっている。また、海外の女性シャーマンも巫女と訳されることが多い。
神道の巫女になるには、未婚の女性でありさえすればよく、特に資格などは必要とはされない。現代の神社で仕事をする「巫女」は、神職の娘や近親者などの、神社に縁のある人が巫女として奉仕することが多く、一般的には20代後半で定年となる。しかし神楽を奉納、指導する巫女には、技術継承などの問題があり、この限りではない。また、正月などの繁忙期になると、神社が臨時のアルバイトを採用するケースもある。こうしたアルバイトの学生などは「助勤」「助務」と呼ばれる。
巫女(巫子、神子)は、古くは神の言葉(神託)を得て他の者に伝えることが役割とされていた。また、古代には男の神子(覡 / おかんなぎ)も少なからず存在していたという。柳田國男・中山太郎の分類によると、概ね朝廷の神和ぎ(かんなぎ)系巫女と民間の口寄(くちよせ)系巫女に分けられる。沖縄県ではかんなぎ系がノロ、口寄せ系がユタ、と呼ばれる。また、中央集権国家がなかったアイヌにおいて、トゥスマッ、ヌプルマッ、という巫女はそのような区別がない。
琉球神道では神人(かみんちゅ)と呼ばれ、古来のシャーマン的な巫女の名残をとどめている。
日本の巫女に対する英単語にも統一的なモノが無く、和英辞書を調べても辞書ごとにバラバラである上にその内容も説明的である。特にサブカル方面では、外来語としてとらえてそのまま「Miko」とされる場合もままある。
日本史と巫女
歴史上においては、おそらく邪馬台国の女王・卑弥呼が最も有名な巫女と言える立場であろう。また古事記の神代までさかのぼるなら、女神アメノウズメもまた巫女としての職技を披露しており、のちに「猿女(さるめ)」呼ばれる神前で神楽を奉納することを生業とした女性たちの始祖とされた。白拍子もまた、芸妓と巫女の両面を併せ持った存在である。また巫女としての職技で知られたわけではないが、大祝鶴姫という巫女が「陣代」と呼ばれる戦の勝利を祈願し、戦神の代理として軍を率いる役職として戦国時代に戦場で将を務めたという伝承が残っている。
「鶴姫伝説」
鶴姫の生い立ち
『大祝家記』によれば、鶴姫は1526年(大永6年)正月、伊予・今治の別名にあったという大祝家屋敷にて、大山祇神社第31代大祝職・大祝安用とその女中・妙林との間に生まれたとされる。彼女は顔立ちが整った大きな女児で、生後百日足らずで声を上げて笑い、成長すると力量・体つきも優れて男子も及ばぬほどの勇気を備えるに至り、人々から明神の化身ではないかと噂されたという。父・安用はそんな鶴姫を寵愛し、幼時より武術や兵法を習わせたとされる。
大内氏との戦いと鶴姫の活躍
1541年(天文10年)6月に大内氏配下の水軍の将・白井縫殿助房胤らが侵攻すると、大祝職となった長兄・安舎に代わって次兄の安房が陣代となって三島水軍を率いて出陣し、河野氏や来島氏と連合して大内軍を迎撃するも討死した。兄の戦死を聞いた鶴姫は三島明神に祈請し、明神を守護しようとして甲冑を着て馬に乗り、大薙刀を振るって敵陣へ駆け込むと味方を奮起させ、大内軍を撃退したという。
同年10月にも大内氏が侵攻すると、戦死した安房に代わって16歳の鶴姫が出陣し、大内軍を撃退したとされる。この戦で、鶴姫は甲冑の上に赤地の衣を羽織って早舟に乗り込み、これを見て遊女が近づいてきたと誤認し油断した敵方に攻撃を仕掛け、敵船に乗り移ると素早く敵将の小原中務丞隆言を捕えて「われは三島明神の鶴姫なり、立ち騒ぐ者あれば摩切りにせん」と啖呵を切って小原や敵兵を討ち取り、焙烙や火矢を放って大内軍を追い払ったという。彼女はまた、この戦いの後に安房の跡を継いで陣代となった、安舎配下で一族の越智安成とやがて恋仲になったとされる。
恋人・越智安成の戦死と鶴姫の最期
1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣し、瀬戸内海の覇権の確立を目論んだ。河野氏とその一門は全力で迎え撃つが、多勢の大内軍の前に多くの一族が討たれ、鶴姫の右腕で恋人でもあった安成も討死した。これを受けて大祝職の安舎は大内氏との講和を決断したが、鶴姫は残存兵力を集結させると島の沖に停泊中の大内軍に夜襲を仕掛けて壊走させ、大三島から追い出した。しかし、戦死した安成を想う鶴姫は、戦いの後に三島明神への参籠を済ませると沖合へ漕ぎ出し、そこで入水自殺して18歳の生涯を終えたと伝わる。
鶴姫は辞世の句として「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」と詠んだといい、『大祝家記』にある彼女の伝記は「鶴姫入水したまう所、鈴音いまに鳴り渡るという也」という一文で締め括られているとされる。
ただし、『大祝家記』は戦後の彼女の動向について、自殺以外の2つの別伝も掲載しているという。1つは今治の大祝家屋敷に戻って祈祷に明け暮れる生活を送ったというもの、もう1つは今治の別宮宮司の大祝貞元の子・八郎安忠(のち安舎養子となり大祝職を継ぐ)に嫁いだとするものである。  
 
巫女・御子(かんなぎ) 5

 

巫女/神子・御子(かんなぎ)/巫覡(ふげき)
巫女と言えばよくお祓いなど執り行う時や奉納など神社に居る女性を思い浮かべる方が多いですよね。また、稚児などを含め神子ってのもあります。
では、巫女と神子とありますがどう違うか?元は区別がありました。神を自らに降ろし託宣をしたり神楽を舞い、後に現在の神社巫女となった巫女と祭祀を自ら執り行い、現在の女性神職となった女性祭祀者の神子と言います。
また、男性の場合は御子(かんなぎ)と言われます。朝廷(官僚など)の巫(かんなぎ)系と民間の口寄せ系に分けられる。巫系巫女は、関東ではミコ、京阪ではイチコといい、口寄せ系巫女は京阪ではミコ、東京近辺ではイチコ、アズサミコ、東北ではイタコ、沖縄県周辺では、ユタ・ノロ(祝女)という古代日本の巫と同じ能力・権能と呼ばれています。
巫(かんなぎ)系巫女、口寄せ系巫女を問わず多くの巫女が結婚した後も巫職を継続したものの、座摩巫(いかすりのみかんなぎ)のように七歳頃から勤め結婚後引退する者や、常陸の鹿島神宮に勤める物忌(ものいみ)、斎女(いつきめ)、伊勢神宮の斎王(いつきのみこ)のように終生結婚せずに過ごした巫女も存在したようです。
古神道での、神を鎮める様々な行為のなかで特に、祈祷師や神職などが依り代となって、神を自らの身体に神を宿す、「神降し」や「神懸り」(かみがかり)の儀式を「巫」(かんなぎ)といった。これを掌る女性が巫女の発生と考えられる。男性でその様な祭祀に仕える者は覡と称される。どちらも神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々に当たります。
よく聞かれる降霊術ですがこっくりさんやダウジングなどを含むものが一般的に知られていますが、それには必ずその神・霊が正か邪かを判断し依代の命を護る者が必ず必要となります。
と、言うのは低級霊などは神や守護霊と言いながら偽る事が往々にしてあるからです。これが俗に言う低級霊による憑依に繋がり狐憑きなどと言われる現象で、その多くは浮遊霊ですが必ずしも生前は人と限らず野生の動物などもこれに該当します。ではどうして動物が人の言葉を話せるのか?魂の容積は小さいようで実は同じなんですよ!というのは魂の器である人の身体に対して魂の容積が一緒というのは、何ら生前の人と同じに変わりなく活動していた人のスキルはそのままなんですね。でよく憑依された人は常人の常識では考えれない力で大人が数人がかりでも取り押さえるのが困難というのは、人の脳では 自分の身体に必要以上に負荷がかからない様にリミッターが掛かっているんですね〜。自分で自分を壊さない様にって事ですね。憑依したものにとっては そんなのは関係ないです。
人の脳は本来30%くらいしか使っていないのも頷けますよね、実際に 100%を発揮することは次の瞬間死を意味しますからね。寿命を自ら 縮める事など 生存本能からしてもそんな事はしませんからね。
依代になる巫女には必ずそれを護る審神者(さにわ)が居るんです。 
 
依代 (よりしろ)

 

依代とは、神霊が寄りつくもの、神霊の憑依物のことです。樹木、岩石、人形、人間などが依代として考えられています。また、神体や神域のことを依代と言います。古く日本には、八百万の神という言葉があるようにあらゆるものに神や精霊や魂が宿ると考え、自然やものへの感謝と畏怖をこめた習わしが多くあります。そのため、岩や古木などを祀り、注連縄を飾って信仰の対象としているものが多く残っています。
日本書記や古事記によれば、人として捉えられている神は、所縁のある者に依りついて初めて具象化するとされています。神社の中には、もともと古神道で信仰されていた依代にあたるものがあるところに神社を建てているケースもあります。お祭りでは神輿や山車を使いますが、これらも臨時的に神霊を降臨させるための目的があります。巫女はかんなぎと呼ばれ、依巫とも言われるように神下しを行ったり、神託を一般に伝える役割をしました。神楽の芸人、相撲の力士などもかんなぎの一種で、縁起の良いもの、特別な力があるとされてきました。 
 
柳田國男も高く評価した『日本巫女史』

 

中山太郎の師・柳田國男は、中山に対して厳しく、終始一貫してその業績を認めようとはしなかった。しかしその柳田も、一度だけ中山の業績を高く評価したことがある。
それが、『日本巫女史』に対する評価であった。すなわち柳田は、一九三〇年(昭和五)五月二七日付の大阪朝日新聞、「読書のペーヂ」に載せた書評「日本巫女史」の中で、次のように述べたのである。
―中山氏の前著『売笑三千年史』〔一九二七〕は、巫女史と同一の意図の下に著はされた姉妹篇ともいふべきものだが、不幸にして在来の遊蕩文学の連想があるために、読まれた割合には婦人問題の研究者からは、疎遠なる待遇を受けてゐた。今度の巫女史の方は交渉がずつと広い。独り〈ヒトリ〉女の力といふことを知りたいと思ふ者のみでなく、日本の神道の元の姿、少なくとも官府の眼を離れた村々の信仰が起り、また衰へた原因を考えてゐる人にも、興味豊かなる読物になると思ふ。/もし欠点をいふならば読んで余りに面白いこと、もしくは史料が雑駁〈ザッパク〉に過ぎて、強ひて価値不同の事実を継合せて、急いで堂々たる体系を備へようとした点であろうが、これはむしろ後にこの書を利用する人々に、さらにより簡潔なる名著を作らしむべく、大いなる張り合いをもたせるに足るものである。社会は単に珍奇なる民俗資料の索引としてだけでも、大いにこの書を歓迎する理由があると思ふ。―
この引用部分より前の部分でも、柳田は、「これに答へるだけの材料は中山君しか持合せてゐない」とか、「当時中山君のやうに潤沢なる史料を抱持する友人が無かつたために」などと書いている。「史料が雑駁」と言いながらも、中山が史料収集に払った努力に対しては、一応の敬意を払っているのである。
ところが、昨日のコラムで見たように、ウィキペディア「中山太郎(民俗学者)」の項の執筆者は、この柳田の書評を次のように紹介していた。
―柳田國男は中山の『日本巫女史』を評価しつつも「(前略)欠点をいふならば読んで余りに面白いこと、もしくは史料が雑駁に過ぎて、強ひて価値不同の事実を継合せて、急いで堂々たる体系を備へようとした点であらう(後略)」と述べている。―
この紹介は、事実において誤りではない。しかし恣意的な紹介になっていることは否定できない。この紹介を読んだ読者は、柳田は、『日本巫女史』を評価しながらも、史料面で問題があるとしていた、と受け取るであろう。
しかし、柳田の真意は違う。あえて欠点を挙げようとすれば、「史料が雑駁に過ぎて、強ひて価値不同の事実を継合せて、急いで堂々たる体系を備へようとした点」などが挙げられるものの、基本的に柳田は、この本を「興味豊かなる読物」として高く評価しているのである。「もし欠点をいふならば読んで余りに面白いこと」という素直でない表現も、柳田としてみれば、最大の褒め言葉として使っていた可能性がある。
また、この書評の冒頭で柳田は、「女でなくては出来なかつた大きな精神運動が、不思議にも今までは同性の人達にさへ省みられてゐなかつた」と述べている。いかにも持って回った表現だが、こうした言い方によって、柳田は、『日本巫女史』の出版を祝福したと見るべきであろう。
ウィキペディア「中山太郎(民俗学者)」の項の執筆者が、『日本巫女史』について、どのような評価をおこなおうと自由である。しかしそれは、執筆者があくまでも、自己の見識に基いて評価している場合に限る。柳田國男の書評を恣意的に引用し、それが『日本巫女史』に対する標準的な解釈であるかのごとく装うのはいかがなものか。
南方熊楠の同書に対するコメントについても、同様なことが言える。南方は、基本的に中山太郎の民俗学のよき理解者であって、同時に中山太郎という人物を信用していた。だからこそ、『南方随筆』(一九二六)、『続南方随筆』(一九二六)の編集を中山に委ねているのである。『南方随筆』の跋文「私の知つてゐる南方熊楠氏」(中山太郎執筆)の記述をめぐって、第三者であるはずの柳田國男が激怒したときも、南方はむしろ中山をかばおうとしているのである。
たしかに南方は、中山の研究について、「氏得意のカード調べに間違い多し」などの厳しい指摘をしているし、そうした指摘は当たっているのである。しかしそれは、中山の民俗学を肯定した上での、また中山の研究をよく読みこんだ上での「苦言」なのであって、中山太郎あるいは中山民俗学そのものの否定と捉えるべきではあるまい。
驚く者必ずしも伝ふるの力ある者で無かつた
柳田國男の言葉。書評「日本巫女史」(一九三〇年(昭和五)五月二七日付の大阪朝日新聞1930・5・27)に出てくる。かつて巫女〈ミコ〉が「その不思議の言語」をもって男たちを導いた時代もあったが、「忌みてこれを記述せず」、また驚きを伝える力を持つ人ばかりでなかったこともあって、巫女の活動は次第に落ちぶれていった。――こう柳田は言う。柳田の文章は、そこで語られていることの当否を論ずる対象ではなくして、そこに含まれているレトリックを味わう対象のように思える。 
 
遊女(女郎)の歴史

 

巫女(みこ/シャーマン)
御託宣(ごたくせん)の神事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムにおいて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。ダンシング・ハィは、未開地の土人にも共通する「神と伴に」や「神に供える」と言う「踊りと信仰の一体」に解されている。そして踊り続ける行為は、情報伝達物質「ドーパミン」に依る興奮と共に情報伝達物質「オレキシン」と関わっている。情報伝達物質「オレキシン」は、睡眠と覚醒を制御する物質であり、神経ペプチドの一種である。「オレキシン」は覚醒作用の摂物質であり、食中枢として知られる視床下部外側野 限局するニューロンに局在する。
視床下部外側野に存在する神経細胞が産生している「オレキシン」が活性している間は睡眠が制御され、眠気を覚えずに活動ができる。或いは、夜通しディスコや夜通し盆踊りでダンシングハィ状態になる現象と、この情報伝達物質「オレキシン」に睡眠が制御されて情報伝達物質「ドーパミン」に依る興奮と連動して作用するのであれば納得できるのではないか。その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させる事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。この神前性交、確かに「現代の精神思想とは掛け離れている」とお考えかも知れないが、簡単に結論を出して「眉唾な話し」とは思わず読み進めて頂きたい。歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。
その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。この巫女が「神懸かり」になる為の社殿神前性交が基と成り、やがて飛鳥期頃に神社と官人(高級貴族役人)の間で社殿神前に於ける官人接待の習慣が起こり、歌舞・音曲・性交がセットに成った神前娼婦と言う形態が出来上がる。氏神は地域の守り神で、鎮守様とも言う。成立したばかりの大和朝廷(ヤマト王権)は地方を掌握する為に細かく鎮守を派遣し、赴任して来た氏一族がその地を管理した。つまり鎮守神も氏神の別称だが、中央の大和朝廷(ヤマト政権)からその地の鎮守を委任されて赴任して来た氏一族が、紛争の仲裁などして地方を掌握して行く。赴任して来た氏族が、そうした地方運営に成功してあがめ祀(まつ)られて鎮守様・氏神様と神格化した。それが鎮守様・氏神様の起源である。
神社の氏神(うじがみ・氏上)は文字通りの旧領主や旧赴任者が司執(つかさど)っていて、神社の社領を維持拡大しなければ成らない。勿論神前娼婦(巫女)は簡単な情報収集の使命も負って居て、現代風に言えばハニートラップ(性を武器にする女スパイ)である。何故なら、神社側は旧支配者が土着した郷士の末裔であり、官人は現支配者として赴任して来た相手で、御機嫌取りと腹の内を探る必要が在った。つまり「氏神(うじがみ・氏上)神社」は土着した有力氏族の象徴的な施設で、中央から赴任して来た「官人」との暗闘の場でも在った。ハニートラップ(性を武器にする女スパイ)は、安全保障の手段である。日本は平和ボケしているからハニートラップ(性を武器にする女スパイ)など夢物語だが、現在でも世界中で採用されている最も有効な手段である。いずれにしても、権力者を喜ばせる事は金に成ったり権力と結び付いたりの効果的な手段である。そこで、新たにその土地に赴任して来る官人(高級貴族役人)を取り込む為の接待は欠かせず、一族の存亡に関わるからその接待は疎(おろそ)かには出来ない。勿論新たに中央のヤマト政権から赴任して来た官人も、地元の有力者(氏上)と揉(も)めては赴任先での任が果たせなくなるから、そこは思惑が一致して上手く接待に乗る。飛鳥期から平安期に到る時代的に考察すれば、この時代の巫女は神に仕える憧れの花形の職業で、勿論神前性交も神とのコンタクトと言う神聖な儀式で、性交に違和感は無いのである。官人(高級貴族役人)接待に於いても、何しろ巫女は神と交わり浄化された身であるから、官人としてもその歌舞・音曲・性交接待を大いに喜んで居たに違いない。それが遊女の原型と成り、平安末期には白拍子と呼ばれる遊女と繋がって行く。
日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。それは性交の儀式を執り行う事である。大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。
弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。 語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。
理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。当初は専門の巫女が居た訳ではない。征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。
つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?
現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説され、その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。
神前祭祀(しんぜんさいし)と大麻(おおぬさ)
ご存知の様に、大麻草(マリファナ)を焼(く)べればその煙を吸引した人は陶酔作用を引き起こす。為に日本では、大麻草は大麻取締法の規制により、大麻の化学成分(THC、CBDなど)は麻薬及び向精神薬取締法の規制 対象に成って居る。しかし薬剤について知識が深くない時代の古代信仰に於いて、大麻(マリハナ)の不思議な作用(陶酔作用)を神とのコンタクトに利用する考えを持っても当然ではないだろうか?そして大麻(おおぬさ)が神前祭祀(しんぜんさいし)に用いられたは、その陶酔作用だけでない効力があったからである。実は、日本神道に於ける大麻(おおぬさ)の信仰には、経験学的な大麻(おおぬさ)の薬効を奇跡として認知していた。つまり現在では麻薬として禁止薬物扱いの大麻(おおぬさ)で、当時不治の病と思われた病気が劇的に回復し、その現実で神秘的な信仰を集めたからである。それが現代医療で見直され、日本では禁止薬物だが末期癌には大麻有効で改善の兆候を示す為、米国の於いては医療用大麻の使用は認められている。
この大麻草(マリファナ)は、陶酔作用・鎮痛作用・食欲増進などの薬理作用がある事などから、日本での古くは「大麻 (おおぬさ/神道)」を神道の神札として活用されて来た。ご推察の通り、大麻草(マリファナ)の陶酔作用は、神殿に於ける祭祀に感性的な補完作用が在った事から、祭祀の「お払いの草」として採用された。大麻草(マリファナ)で陶酔すれば幻覚も見、それを素直で真面目な人物ほど「信仰の奇跡」と捉えるのは自明の理である。祭祀は神(かみ/上)をもてなす為の行為と定義つけられている。それ故に、初期の神事である「神前娼婦(巫女)の性交接待に於いては大麻(おおぬさ)を焼(く)べた陶酔作用は効果的だった」と想像に難くない。但し現在の祭祀に使う大麻(おおぬさ)は、白木の棒の先に特殊な断ち方をして折った紙・紙垂(しで)または麻の繊維を原料として作った糸・麻苧(あさお)をつけた祓串(はらえぐし)とも言う「はたき様の道具」である。祭祀の大麻(おおぬさ)は現代では、お祓いを受け目に見えない罪穢(つみけがれ)を祓い、元の清浄な状態に戻す際に用いられる神道の儀礼様式化した道具で、勿論エロチックなものではない。
「おおぬさ」の本来は「ぬさ」の美称で、「ぬさ」とは神への供え物や、罪を祓う為に使用する物の事である。主として麻(あさ)や木綿(ゆう)、後には布帛や紙が使われていた事から、神事に使う布帛や紙の事を大麻(おおぬさ)と呼ぶようになった。只何の裏付けも無く祭祀に採用される訳も無く、その大麻(おおぬさ)採用の本質は、明らかに神懸り的効果を演出する陶酔作用だった。つまり当時は、学問的よりも純粋に陶酔現象を神懸りと受け止めた所から大麻(おおぬさ)は神をお迎えする神の道具とされた。この大麻(たいまそう/おおぬさ)は中国を経由して、大量に自然自生する遥かヒマラヤ高地のチベット、ネパール、ブータンと言った山岳仏教の国々からはるばる「夜這いの風習」や「桜の原木」と伴に伝わったものである。宮中の大嘗祭(おおにえのまつり)に於ける祭祀や、昔から夫々(それぞれ)の神社の祭祀でも、大麻(おおぬさ)は使われる。大嘗祭(おおにえのまつり)は、天皇が即位の礼の後に初めて行う一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚(せんそ)の儀式である。
巫女(みこ)と遊女(ゆうじょ)
原始的な土人の踊りや音楽にしても、元々は神に捧げるシャーマニズム(呪術)の踊りと音楽である。欧米の音楽や踊り、イスラーム社会の音楽や踊りもそのルーツは宗教音楽(教会音楽)から発生して発達し、後世に娯楽の側面を持つに到った。 日本に於ける音楽や踊りにしても例外では無く、最初は神を祀り祈る誓約伝説の神事から発生して神楽舞(かぐらまい/巫女舞)に発達し、神事であるからこそ楽士は神官が勤め、踊り手は巫女が勤めた。神道発祥初期の頃は、人身御供伝説でも判るが、神官の出自は渡来系氏族である。実は、神社を司る氏神(うじがみ)は氏上(うじがみ)で、氏神主(うじがみぬし)も氏上主(うじがみぬし)も国造(くにのみやっこ)や県主(あがたぬし)の系図(天孫族)を持ち、つまり神主(かんぬし)は氏族の棟梁の兼業であるから、官人(高級貴族役人)接待は身分保身や出世栄達の為に大事な勤めだった。古墳期から平安期にかけて中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から地方に派遣され赴任が解けた後も土着した氏姓(うじかばね)身分の鎮守氏上(うじかみ=氏神)は、その地方の有姓(百姓)・有力者となり一定の勢力を持つ。そこへ中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から新たな官人(役人)が地方に派遣され、赴任して来てその地方の有姓(百姓)・有力者と権力の二重構造が発生した時、対立するか懐柔策を採るかの地方有力者の選択肢の中で、鎮守氏神を祀る巫女に拠る官人接待は始まった。
巫女は俘囚と呼ばれる身分の蝦夷族の中から調達された。そして踊り手の巫女はシャーマン(巫術者)であり、その神事の中で神(神官が神の代理を勤める)と性交をし、恍惚忘我(こうこつぼうが)の境地に至り神懸かって御託宣を神から賜った。
神楽(かぐら)の事を「神遊び」とも言い、過って日本の遊女は神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた貴人(特権階級)相手の神殿娼婦だった。この遊女について、「本来は芸能人の意味を持つ言葉」と建前の解釈をする方も居られるが、発祥が神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていた「遊び女(あそびめ)」と呼ばれる神殿娼婦だった事から、「芸能のみに従事していた」と綺麗事にするには無理がある。勿論神前娼婦(巫女)は簡単な情報収集の使命も負って居て、現代風に言えばハニートラップ(性を武器にする女スパイ)である。何故なら、神社側は旧支配者が土着した郷士の末裔であり、貴人・官人は現支配者として赴任して来た相手で、御機嫌取りと腹の内を探る必要が在った。日本は平和ボケしているからハニートラップ(性を武器にする女スパイ)など夢物語だが、現在でも世界中で採用されている最も有効な手段である。特記すべきは「芸能の神様」とされる天宇受売命(あめのうずめのみこと)の岩戸神楽の原型は、「天宇受売命(あめのうずめのみこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」が伝説上での遊芸のルーツとされる点である。また天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、猿田毘古神(サルダヒコカミ)との誓約(うけい)の和合(性交)の実践者でもあるのだ。遊女の元々のルーツ(起源)は、「官人(高級貴族役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠る」とされる事から、歌舞音曲の遊芸もそうした環境の中で育ち、次第に様式化されて源義経の愛妾・静御前で有名な平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。
それと言うのも、元々俘囚身分の蝦夷族社会には自然信仰と群れ婚(集団婚)の習俗が残っていて共生村社会を営んでいた経緯が在ったから、それが容易だったのである。そうした経緯を踏まえて考えれば判る事だが、出雲阿国は最初出雲神社の巫女だったが神社修復の勧進(寄付集め)の為に旅回りの巫女踊りを始め、「そこから大衆演劇・歌舞伎踊りに到った」とされる。そして阿国が評判を得たのがツンツルテンの衣装を着た「ややこ(こども)踊り」と言う子供の踊りであった。そうとするなら、現在の映画やテレビドラマのような優雅な踊りではなく、下着を身に着ける習慣がないノーパンティ時代に丈が足りない衣装で腿も露(あらわ)に踊った事に成る。もっともこれを史実通りに映画化すれば、今の時代では十八禁指定を採らなければ成らないだろう。
白拍子(しらびょうし)
平安末期、「保元の乱」の頃から、後白河法皇の庇護(ひご)と贔屓(ひいき)を得て、高級遊女「白拍子」が皇族、貴族社会で活躍する。飛鳥期の神前娼婦(巫女)も簡単な情報収集の使命も負って居て、現代風に言えばハニートラップ(性を武器にする女スパイ)だった。何故なら、神社側は旧支配者が土着した郷士の末裔であり、貴人・官人は現支配者として赴任して来た相手で、御機嫌取りと腹の内を探る必要が在った。その神前娼婦(巫女)の進化形ハニートラップ(性を武器にする女スパイ)が、「白拍子」だった。日本は平和ボケしているからハニートラップ(性を武器にする女スパイ)など夢物語だが、現在でも世界中で採用されている最も有効な手段である。その流行(はやり)は瞬く間に殿上人の間に広がり、平清盛も例外でなく祗王と仏御前の二人の白拍子を、女間諜とは知らずに妾にしている。
近頃やたらと「品格」が問題になる。しかしこの「品格」、権力者が求めるのは一般民衆に対してだけで、自分達の事は「棚上げ」である。どうやら「特権階級」は文字通り特別らしく、白拍子遊びは、高級料亭の「芸奴遊び」に代って、料亭政治は昭和の中頃まで続いた。もっとも勤皇の志士も、倒幕の密談場所は「似た様なものだった」そうだから、正に「政局は夜創られる」と言う事らしい。この「白拍子」、実は急造の組織ではない。密教陰陽道の修験呪術「歓喜法」の呪詛巫女として、勘解由小路党が手塩にかけて育成された美しい娘達だった。それ故に神に対する知識は豊富で、男装の神楽舞と殿方相手の性技は年季が入っている。
この白拍子を、現代の感覚で単なる娼婦と誤解しては困る。男性にとっての付加価値観は、「高嶺の花を抱く」であり、性技や芸技の修行は基より知性と教養をも修めた女性が始めて白拍子に成れた。白拍子には諜報機関の女性諜報員としての側面も在ったから、時の為政者も納得するほどの知性と教養を兼ね備えて下手な不勉強者よりも「充分に論議のお相手が出来た」と伝えられている。後の世の花魁(おいらん)も然りだったが、その遊び女としての価値観は美貌と美しい姿態に加えて知性と教養を兼ね備えた女性と遊ぶ事であり、格式が高い点ではまさに高級娼婦だった。
定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人(高級貴族役人)を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?
男の武術と同様な位に、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、大事な生きる為の女の武器(能力)だった。一般の女性でもその心得を持たされる時代だったから、遊女(あそびめ)の白拍子は、それなりの高度な修行を積んでいた。大体に置いて、静御前(しずかごぜん)の鎌倉での舞は、最近の映像で再現される様な優雅な舞ではない。そもそも白拍子が舞う今様は、男舞を女性が舞う仕掛けの動きの激しいものだった。それを袴の着用を許されない私奴婢身分の白拍子が激しく舞うのだから、裾が少し乱れる所では収まらず、しかも無防備に今日の様な現代下着は着用していない。記述した様に、有物扱いの私奴婢(しぬひ)の出身で、身分が低い白拍子が、身分の高い者が着用する袴の着用は赦されない。身分の低い者の男装をして「男舞」を舞踊る所に、その真髄がある。この狙いが、当時貴族社会で「白拍子」が流行った、真実の所以(ゆえん)である。これ以上は露骨な表現を控えるが、膝を上げたり、腰をかがめて中腰に成ったりする「男舞」を舞い踊となれば、その情景はおのずと想像が着く。その辺りをうやむやにするから、源義経の愛妾・静御前が御家人衆やその女房達の前で舞を強制させられた位で、「大げさなエピソードを」となる。しかしそうした真実は、情緒的な理由で綺麗事に脚色されて今日に伝わっている。最もこの名場面、裸身を伴うから史実通りにはドラマで再現し難い事情がある。それで、静御前の屈辱的心理が表現し難いものになってしまった。
静御前(しずかごぜん)
源義経の愛妾・静御前は当時の高級遊び女・白拍子だった。白拍子は遊び女と言っても、基本的に上流社会の男性を相手にしていたから当時としては相当高度な知識を持っていた。同時に床技(性技)にも長けて居なければならない白拍子を、「誰が育てたのか」、考えた事があるだろうか?実の所、静(しずか)には高位の権力者の相手が出来るだけの教養と芸妓術、性技術が備わっていた。若い義経には、今まで出会った事の無い新鮮な女性に見え、彼はそれにコロリと参ってしまった。静御前の性格は優しく何事も受動的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れていた。
源義経の愛妾・静御前は、源頼朝、北条政子、源範頼、北条時政、梶原景時等を始め、坂東武者とその妻女達の前で、白拍子舞の披露を命じられた。この白拍子舞、テレビや映画で表現される優雅な舞ではない。後世までその「エピソードが残る」と言う事は、「何か尋常ならない強烈な事実が存在した」と見るべきである。状況的に条件が揃っていて、しかも静御前は都一の美女と謳われた白拍子だった。このエピソードを優雅に描くと源頼朝の人となりが正確には表せないので、夢を壊して申し訳ないが現実を描写する。永い流人生活で屈折して育った頼朝は、源氏の棟梁でありながら負け戦ばかりの体験で死の恐怖と戦いながら漸くここまで辿り着いた。そうしたトラウマを持つ頼朝にとって、正直な所義経の愛妾・静は陰湿な愉快を提供してくれそうな存在だった。静は自分に逆らった義経の愛妾で、これは自分に逆らえばどうなるかを御家人衆に知らしめる見せしめみたいな物だから、それは御家人衆の面前で「静に半裸で踊らせる」と言う効果的な恥をかかせねばならない。
今様神楽と呼ばれる白拍子の神楽舞の原点は、須佐之男の乱暴狼藉で「天の岩屋戸」に隠れてしまう天照大神が、天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて「何事か?」と覗き見の隙間を開けさせた伝承に拠るもので、里神楽同様に伝承に即したストーリー性を持っていた。従って今様神楽にはそうしたエロチックな部分が根幹を成していて、遊び女の白拍子舞はお座敷芸として殿方の人気を博していたのである。つまり白拍子舞の基本は巫女神楽であり、巫女の身体は、本来天岩戸(あまのいわと)伝説の神楽の「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)」の胸も女陰も露わなストリップダンスの様式を踏襲(とうしゅう)した「依(うつ)りしろ舞」である。後に囚われの静御前が鎌倉の大舞台で、当節の「当世風白拍子の舞いを舞った」と言う事は、実は殿方相手に座敷で密かに舞うべき淫媚な遊び舞を、裸身が透ける当時としては相当豪華な薄絹衣装で公に舞うと言う「晒し者の屈辱を受けた」事になる。これは、長い流人生活で鬱積した残忍な性格を持つ鎌倉殿(源頼朝)の仕置きである。そもそも鎌倉中の御家人とその女房共を集めての八幡宮・白拍子舞の宴で、鎌倉殿(源頼朝)が「わしに逆らうとこうなるぞ」と、自らの力を御家人達に誇示するのが目的のあるから、半裸で舞を舞わせ晒し者にする義経の愛妾・静御前に憐憫の情や思い遣りなどある訳が無い。目的が辱めであるから、静御前の鎌倉での舞は、最近の映像で再現される様な優雅な舞ではない。
記述した様に、有物扱いの私奴婢(しぬひ)の出身で、身分が低い白拍子が、身分の高い者が着用する袴の着用は赦されない。身分の低い者の袴を着さない男装をして裸身を晒す「男舞」を踊る所にその真髄がある。腰巻の上に重ねて着ける裾除(すそよ)けの蹴出(けだ)しは勿論、腰巻の普及さえ江戸期に入ってから武家や裕福な町人の間で始まった物で、時代考証としてこの鎌倉前期に衣の重ね着は在っても下着は無い。それで白拍子の静御前が激しい男舞いを舞ったり、後の案土桃山期に歌舞伎踊りで出雲阿国が丈の短い幼子(ややこ)の衣装で踊れば着物の裾が乱れる結果は明らかで、つまり「見せて何ぼ」の娯楽だった。娯楽の踊りに色気は付き物で、白拍子の「男舞い」にしても阿国歌舞伎の「幼子(ややこ)踊り」にしても、要は乱れた着物の裾から踊り手の太腿(ふともも)が拝める事で人気を呼んだのだ。この狙いが、当時貴族社会で「白拍子」が流行った、必然的真実の所以(ゆえん)である。静御前は、その屈辱的な舞を披露させられた挙句の果てには身ごもっていた義経の子を、男児と言う理由で出産と同時に鎌倉海岸の浜で殺されている。話が少し脱線するが、この「静御前」の八幡宮舞の折、鼓(つづみ)を担当したのが、「楽曲に巧みな工藤祐経(くどうすけつね)だった」と言うエピソードがある。頼朝主催の「富士の牧狩り」のおりに曽我兄弟に親の仇を討たれた、あの工藤祐経であった。後ほど事の顛末(てんまつ)を示すが、この工藤祐経(くどうすけつね)暗殺事件は、源頼朝の弟・源範頼(みなもとのりより)の運命にまで波紋が広がる大事件だった。
遊郭(ゆうかく)と遊女(ゆうじょ)
元々遊郭(ゆうかく)の発生は、風紀の取り締まりなどを求め「他所での開業を認めない」と言う為政者側の管理思想が背景にある。江戸幕府は、遊郭惣名主・甚右衛門と条件を交わして江戸市中の遊女街を一ヵ所に集めた公娼(公許)の地を吉原遊郭(よしわらゆうかく)と呼んだ。吉原遊廓は敷地面積は二万坪余り、最盛期で「数千人の女郎(遊女)がいた」とされ、最大級の規模を誇った公娼街である。芝居(しばい)の猿若町と日本橋、そして吉原が江戸市中の中でも「一日に千両落ちる場所」と言われて、吉原遊廓は最大級の繁華街と言う事ができた。また、江戸・吉原のみならず大坂や京都、長崎などに於いても大規模な公娼遊廓が存在し、地方都市にも小さな公娼(公許)遊廓は数多く存在した。遊郭(ゆうかく)は傾城(けいせい)とも言われ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)とも同じ意味である。傾城屋(けいせいや)は女郎屋を意味し、傾城(けいせい)は公娼(公許)の遊女屋の集合設置場所を意味して、江戸及び関八州に限れば町奉行所や寺社奉行所ではなく、幕府公認の穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)が治安を受け持つ特殊例外な一郭の場所だった。
遊女(ゆうじょ)は、女衒(ぜげん)と言う職業の者が仲介し遊郭(ゆうかく)に集められた。女衒(ぜげん)には仲介ルートがあり、地方(在方)の女衒(玉出し)が貧しい家の親や兄、叔父などから主として十代前半の若い女性を買い、それを都会の女衒に売り都会の女衒はその女性を遊郭などに売った。多くの遊女は年季奉公という形で働かされて、現実にはそう多くは無かったが一定の年限を働くか遊女を購った金額を返却できれば解放された。また、非人総取り締まり役の穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)は、死罪一等を減じられる「奴(しゃつ)刑」で穢多(えた)・非人の身分に身を落とされた女性の下げ渡しを受け、遊郭に売る権限を持っていた。この「奴(しゃつ)刑」の場合は年季明けは無く、建前では穢多頭(えたかしら)配下の非人として一生遊女(ゆうじょ)で暮らす実質娼婦刑である。遊女の元々の起源は、官人(高級貴族役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠るとされ、平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。
古墳期から平安期にかけて中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から地方に派遣され赴任が解けた後も土着した氏姓(うじかばね)身分の鎮守氏上(うじかみ=氏神)は、その地方の有姓(百姓)・有力者となり一定の勢力を持つ。そこへ中央政府の大和朝廷(ヤマト王権)から新たな官人(役人)が地方に派遣され、赴任して来てその地方の有姓(百姓)・有力者と権力の二重構造が発生した時、対立するか懐柔策を採るかの地方有力者の選択肢の中で、鎮守氏神を祀る巫女に拠る官人接待は始まった。その白拍子は源義経の愛妾・静御前が有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?
吉原遊廓(よしわらゆうかく)と廓内女郎折檻(くるわうちじょろうせっかん)
遊郭(ゆうかく)は傾城(けいせい)とも言われ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)とも同じ意味である。元々遊郭(ゆうかく)の発生は、風紀の取り締まりなどを求め「他所での開業を認めない」と言う為政者側の管理思想が背景にある。江戸幕府は、遊郭惣名主・甚右衛門と条件を交わして江戸市中の遊女街を一ヵ所に集めた公娼(公許)の地を吉原遊郭(よしわらゆうかく)と呼んだ。また、江戸・吉原のみならず大坂や京都、長崎などに於いても大規模な公娼遊廓が存在し、地方都市にも小さな公娼(公許)遊廓は数多く存在した。 吉原遊廓は敷地面積は二万坪余り、最盛期で「数千人の女郎(遊女)がいた」とされ、最大級の規模を誇った公娼街である。芝居(しばい)の猿若町と日本橋、そして吉原が江戸市中の中でも「一日に千両落ちる場所」と言われて、吉原遊廓は最大級の繁華街と言う事ができた。そして誤解が多いのだが、吉原遊廓の女郎(遊女)は借金に縛られ女衒(ぜげん)に奉公期間を売られた年季奉公の女性とする解説には欠落がある。 実は吉原遊廓の女郎(遊女)には、重罪を犯して町奉行所で裁かれ、罪一等を減じられて現代で居言う終身刑にあたる奴刑(しゃっけい)に科された者がいた。つまり吉原の女郎(遊女)には年季奉公の女性と、建前終身非人として遊廓で客を取る奴刑者(しゃっけいもの)の二通りが居たのだ。
女郎(遊女)の年季明けの者の平均年齢は二十七歳で、女郎(遊女)に病死が多く寿命が短いは俗説であり、当時の町人の罹病率と極端な差はなく、早期身請けを含む年季明け率は約八割で、実稼動期間は十年から十五年と言われている。奴刑者(しゃっけいもの)が年齢を重ねて女郎(遊女)としての仕事が難しくなった場合は「やり手(女郎上がりの世話係り)」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。女郎(遊女)にはランクが在り、美貌と機知を兼ね備えて男性の人気を集める事が出来る女性であれば、女郎の中でも高いランクに登る事が出来た。女郎の最高のランクは、宝暦年間まで「太夫(だゆう)」と呼ばれ、以下「局(つぼね)」、「端(はし)」とされていたが、湯屋を吉原に強制移転した際に花魁(おいらん)と呼ばれるようになる。花魁は気位が高く、振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿(かぶろ)と呼ばれる子供を従えており、気に入らない男性は「中々相手にして貰えなかった」と伝えられている。まぁ、多分にスター娼婦を演出する商売上の付加価値創造と言う所だが、吉原遊廓は一歩中に踏み入れたら寺社奉行所は勿論、町奉行所も管轄外の別世界で、非ずの場であるから非人差配の穢多頭(えたかしら)が管轄していた。つまり日常生活の場とは異なり、非ずの場であるから粋に振舞う事が男性のステータスと特殊な世界に考えられ、そうした夢想空間として演出され、男性の下心を上手く使ってお金を搾り取るのが遊廓全体の仕事である。
投げ込み寺(浄閑寺)の事を、女郎(遊女)の末路とする解説が多いが、実際には吉原の掟を破った者に限られている事が、最近の研究で明らかになっている。浄閑寺に投げ込まれてのは、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った者と奴刑者(しゃっけいもの)に限られている。この吉原の掟を破って死に到った場合、人間として葬ると後に祟るので、「犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」と言う迷信により亡くなった女郎(遊女)は素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。吉原遊廓内では町奉行所もその権限が及ばないから、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った場合、これを裁くのは持ち主である遊廓主である。また、「足抜け(逃亡)」などで遊廓外に抜けた場合は、その探索を穢多頭(えたかしら)とその配下の穢多役人(えたやくにん)が受け持った。吉原の掟を破った場合、女郎(遊女)は折檻(せっかん)にかけられるが、その折檻にも誤解が在り、そのまま店に置くにしても他所に売るにしても肉体(からだ)は売り物だから痛め付けると言うよりも苦しめる事を主眼にした見せしめを施した。例を挙げれば、寝させない、食事(水)を与えない、丸裸にして縄で縛り上げて吊るし、そのまま水に漬けて呼吸を苦しめるなどである。先を考えない竹木での吊るし叩きなどは、遊廓主が痛め付けて死んでも構わないと判断した特殊な場合だけで、その場合は文字通り「打ち殺す」で在った。
女衒(ぜげん)
女衒(ぜげん)は「女衒(おんなう)り」の意味で、主に若い女性を買い付けて遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業者である。歴史は古く古代からこのような職業が存在していたと考えられ、古くは「女見(じょけん)」と言い「七七四草(ななしぐさ)」には「女見の女を衒(う)る所より、女衒と書き、音読み転訛してゼゲンと呼ばれるに至れるならん」とある。女見(じょけん)は文字通り遊女(娼婦)としての商品価値を見極める品定めの意で、その目利きの良い者をそう呼んだと言う。
江戸時代の女衒(ぜげん)は、身売りの仲介業として生計を立てていた。女性を苦界(遊郭)に落とす職業など「酷い話だ」とするのは簡単だが、当時の身分事情には違う事情の側面も垣間見える。 江戸期当時の女性の刑罰には余り死罪などは為されず、穢多(えた)・非人に身分を落とす閏刑(じゅんけい)が一般的であり、女罪人を受領した非人総取り締まり役の穢多頭(えたがしら)は、それが衒(う)り者になる女性だったら女衒(ぜげん)に売る権利を認められていた。基本的に女性に科される見せしめの為の「奴(しゃつ)刑」であり、受刑した非人は既に人ではないから女衒(ぜげん)に売られても文句は言えない。最も、世間も裁きを言い渡す方も、穢多頭(えたがしら)が女衒(ぜげん)に売り渡すのは承知の上で、言わば苦界(遊郭)で身をひさぐ事が、実質的な刑罰の執行だった。しかし女郎に成る事は、生まれ付いて先祖末代まで穢多(えた)・非人とされた女性や貧しい家の女性にとっては喰って行ける道だった。そして、そうした境遇に生まれの女性や、この刑罰に拠って穢多(えた)・非人に落とされた女性にとって、女衒(ぜげん)の行いはその境遇から抜け出し、差別を抹消できる唯一の方法でもあった。女衒(ぜげん)に売られて遊郭を回りに回ればいつしか出自が判らなくなり、年季明けや身請けなどで無事に遊郭を出て来る事が出来れば、町人になる事が出来た。この女衒(ぜげん)にも仲介ルートがあり、地方の女衒(玉出し)が貧しい家の親や兄、叔父などから十代前半の若い女性を主として買い、それを都会の女衒に売り、都会の女衒はその女性を遊郭などに売った。
江戸期が終焉を迎えた明治維新、欧米列強の影響で人身売買禁止法が制定され女衒は消えたかと言うと、それは表向きの話で実際はそのような事はなかった。明治期から大正・昭和期になっても貧しい家では女衒により女性の売買が続行され、当時日本は現在の台湾や南樺太を領有し、大韓帝国(朝鮮)を併合し傀儡国家・満州国を建国して、国の内外に娼婦として売り飛ばされて行った。強制で在ったのか或いは高額の金を条件に本人や親の承諾が在ったのかは定かでは無いが、内地(本土)の女性以外にも日本領朝鮮や台湾から、現地女性が女衒の仲介を経て「からゆきさん」と呼ばれる娼館の女郎に売ったりしたとされている。この事実に、朝鮮人が朝鮮人の女性を拉致し売り飛ばしたや日本人が強制的に連行して慰安婦にしたとの証言も存在し、従軍慰安婦問題として現在でも未解決となっている。
この女衒(ぜげん)に相当する職業は、現在でも国や地域によっては半ば公然と行われている所もある。
閏刑(じゅんけい)としての奴刑(しゃつけい)
江戸期の講談話しなどで、生き残った心中の片割れの女性が女郎に売られる話がある。実は、江戸期に於ける穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)身分つまり非人の補充は、主として罪を減じた閏刑(じゅんけい)に拠るものである。町人身分の男は人別改帳から除籍(本籍を除き)し、穢多頭(えたがしら)に下げ渡され非人手下(ひにんてか)としての人生が待っている。町人身分の女性なら奴刑(しゃつけい)と呼ばれる身分刑で、人別帳から除籍され穢多頭(えたがしら)に下げ渡された後に女衒(ぜげん)に売り渡されて遊郭女郎に身を落として客を取る。非人手下(ひにんてか)と奴刑(しゃつけい)は犯人の社会的身分に影響を与える身分刑で、言わば良民身分から奴婢(ぬひ/奴隷)身分に落とされる刑である。
江戸期の司法は身分によって犯罪の構成や刑の適用が違い、閏刑(じゅんけい)は身分者や弱者に関する刑罰で、身分の高い有位者或いは僧侶・婦女・老幼・廃疾の人に閏刑(じゅんけい/本刑に代えて科せられる寛大な刑罰)として行われる事が多い。律令制の下では、官吏の免官、僧侶の還俗(げんぞく)などの寛大な刑罰を閏刑(じゅんけい)とし、江戸時代には、武士の閉門、婦女の剃髪刑(ていはつけい)などの寛大な刑罰を閏刑(じゅんけい)とした。江戸期の刑罰にも身分刑は存在し、大名・大名・旗本の場合は死刑を免じてその領分・地行所の没収、役儀取上・御家断絶を意味する改易と言う武士に対する閏刑(じゅんけい)が在った。江戸期当時の町家女性の刑罰には余り死罪などは為されず、大罪でも晒(さら)し刑である罪状書きの高札で罪を示しての市中引き回しの上、穢多(えた)・非人に身分を落とす奴刑(しゃつけい)と言う「身分刑」としての閏刑(じゅんけい)が一般的である。穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)などと言うと随分古い話しだと思うかも知れないが、江戸期にもまだこの身分制度は存在し、その身分に落とす身分刑も存在した。つまり町奉行所では女性には刑一等を減ずる慣習があり、よほどの重罪でなければ女性に死刑判決が下る事がなく、見せしめの為に「奴刑(しゃつけい)」とする事が多かった。奴刑(しゃつけい)とは庶民たる婦女にのみに適用される閏刑(じゅんけい)で、女性の罪囚に対し人別改帳から除籍(本籍を除き)し希望者に下付し奴婢(ぬひ/奴隷)として無償で下げ渡される刑罰で、早い話が女郎屋に下し置かれて建前では一生遊郭から出られない身分刑である。
人別改帳から除籍された女罪人を受領した非人総取り締まり役の穢多頭(えたがしら)は、それが衒(う)り物になる女性だったら女衒(ぜげん)に売る権利を暗黙の了解で認められていた。理論的には、処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に女郎にされても仕方が無い。そして衒(う)り物にならない女性女性の場合は、そのまま非人手下(ひにんてか)の群れの中に留め置かれて慰め者の日々を過ごす事になる。つまり「奴刑(しゃつけい)」は、事実上の娼婦刑だったのである。苦界と言うからには接客態度で客から苦情を言われたり、客取りに励まなければお仕置きの私刑(リンチ)に遭うのが相場の業界で、勿論、過酷な肉体労働であり半端な気持ちでは女郎は勤まらない。この遊郭女郎にして客を取らせる現代で在ったら人権問題に成りそうな奴刑(しゃつけい)の刑罰でも、当時のおおらかな性習俗の価値観では死刑よりは随分お情けのある裁きで在った点は、現代の感覚とは大分時代的な相違がある。それにしても、現代では終身系に相当する非人手下(ひにんてか)や奴刑囚(しゃつけいしゅう)を早々に牢屋敷から穢多頭(えたかしら)に下げ渡して無駄飯を喰わせない辺り、経費の点では現代より遥かに経済的である。確かに人道人権問題は残るが、犯罪を犯された上にその被害者まで税金で間接的に受刑者を喰わせるのは釈然としない話で、被害者側の人権はどうなっているのか? 被害者側からすれば、死刑に成らないなら「一生酷い目に合って貰いたい」と想うのが普通の感情かも知れない。
只し、こうした身分刑は日本だけの存在ではない。例えば、隣の国・旧李氏朝鮮王国でも罪を犯した者の刑には、身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級身分)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人身分)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷身分)で、日本の制度と若干の共通性がある。日本では、吉原以外の闇娼婦が摘発されれば、吉原へ三年間無償奉公させるのもこの奴刑(しゃつけい)の一種である。
穢多(えた)は読んで字のごとく「穢(けが)れ多き」と言う意味だが、仏教の教えに絡んで家畜の屠殺(とさつ)やその皮革の取り扱い、或いは死人の始末や磔獄門などの刑死の下働きを生業とした特殊な身分の者の事である。非人手下(ひにんてか)とは庶民のみ適用される刑で、罪囚の庶民たる身分を剥奪し庶民の人別改帳より除籍した上で非人頭(えた頭)に交付され非人に身分を落とされ非人別改帳(ひにんべつあらためちょう)に登載し、病死した牛馬の処理や死刑執行の際の警護役などの使役をさせた。なお、犯罪内容が凶悪な場合は遠国非人手下として遠方に送られる。
江戸町方人別帳(えどまちかたにんべつちょう)
将軍家のお膝元江戸の地は大発展を遂げ、当時でも人口が百万人を超える世界有数の都市と成って行く。人口は絶えず拡大を続けて江戸を東日本に於ける大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。人別帳の正式名称は人別改帳(にんべつあらためちょう)で、基本的に流動性のあるものだから常に変動実態の把握調査をしていた。江戸の人口は、参勤交代に伴う地方からの単身赴任者や地方から流入する出稼ぎの者など流動的な部分が非常に多く、幕府もその人別(戸籍)管理には苦慮していた。中でも町方の出居人・出稼人に関しては江戸に居付いて江戸の下層町人となる者が多く、さながら現代の米国に入国して下層階級を形成している移民や密入国者のような状態だった。またその反面として現在の農業政策問題にも通じる所であるが、諸国人別(在方)が減少して村高と村の機能を維持する事が難しく成っていた。
つまり都市人口集中問題が、当時から政策課題になっていた。その為に幕府は、千七百八十年(安永年間)頃に村役人へ村高と村の機能を維持するのに必要な人数を見積もり、余剰人員のみを出稼人として出すように命じている。町方人別制度の改定が行われ、江戸に入り込んで妻子なく裏店を借り受けている者の内には、裏店を一期住まい(いちごすまい、終の棲家の意)とする者もあるが、これらの者は早々に帰国を命じるとし、ただし商売をして妻子のある者は、この改定の特例として格別の御仁恵をもって帰国を命じないものとする。今後江戸に人別(戸籍)を持たない者が新たに在方から「江戸の人別に入る事」は禁止し、特に必要があって在方から江戸に入る場合は出稼ぎの期限を定め、支配の代官・領主地頭に願い出て、これら役人の印と村役人の連印の免許状を持参して出府(江戸へ出る)すると決められていた。江戸に住居する者(人別を持つ者)は、この免許状によって同居させたり店(たな)を貸したり(借家人に)する場合は、免許状は家主が預かり、当人を人別帳に加えずに出稼ぎの者・仮人別帳に記入して置き、期限が来て帰国する際に免許状を返してやる。また、武家方中間、町方下男、武家町方下女等奉公出稼人も同様に出稼ぎの期限を定め、支配の代官・領主地頭に願い出てこれら役人の印と村役人の連印の免許状を持って出府する。
江戸に住居する者(人別を持つ者)は、この連印免許状に拠って請人となり奉公をさせ、免許状は奉公先主人が預かり奉公人が暇を取る際に返すものとしていた。また、江戸市中の内に於ける転居の場合は、出元支配の町名主から転出先支配の町名主へ転居通知を送達する「人別送りをする事」とした。いずれにしても人別政策は厳重で、名主が保管していた人別帳は毎年四月に両町奉行所に人別帳を一通ずつ差し出し、町名主には控えを預けて置く。人別改めは家主が、店子その家族、召仕、同居の者まで生国・菩提所・年齢など詳しく記して名主へ差し出し、名主は一人ずつ呼び出して判元を見届けて人別帳に調印させた上で、両町奉行所に差し出す分を町年寄へ提出する。名主が保管する人別帳には改め後の存亡、結婚による増減はもちろん、同居人の出入まで委細に記入しておき、判形を改める者があればその旨断り書きをして調印させ、不時に奉行所から尋ねられた際に差し支えのないようにしていた。四月に名主が奉行所へ人別帳を差し出す際には、奉行所で前年の人別帳と付き合わせて取り調べるものとし、毎年九月には四月に差し出した人別帳を名主に下げ渡すから、四月以降の増減を断り書きして書き出す事としている。
またこの町方人別帳(まちかたにんべつちょう)搭載者に於いて罪を犯した場合、その刑の裁きに罪囚の庶民たる身分を剥奪し庶民の人別改帳より除籍した上で非人頭(えた頭)に交付され非人に身分を落とされ非人別改帳(ひにんべつあらためちょう)に登載し、男性なら非人手下(ひにんてか)、女性には奴刑(しゃつけい)と言う事実上女郎身分に落とされる刑が存在した。尚、町方の者が出家したり頭を剃って道心者や願人坊主になったり、吉田(神道)・白川(伯家神道/はっけしんとう)・陰陽師・神事舞太夫などの門下となるなど身分不相応の許状を得た際は、町役人(町年寄・名主・家守)から町奉行所へ申し出、奉行所は吟味した上で許可するものとする。この内、吉田神道は亀ト占術(きぼくうらない)を司どるト部(うらべ)氏の後裔・吉田兼倶(よしだかねとも)が室町末期に唱えたもので、白川・伯家神道(はっけしんとう)は朝廷の祭式儀礼を継承してきた神祇伯白川家(じんぎはくしらかわけ)の事である。
穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)
穢多頭(えたがしら)・矢野弾左衛門(やのだんざえもん)は、江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の代々世襲頭領で、江戸期を通じて十二代(十三代名があるが、初代と二代は重複)を数える。戦国期、小田原近在の山王原の太郎左衛門が後北条氏が認めた関東の被差別民の最有力者で在ったが、徳川家康が関東支配を始めると、徳川家康は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者・弾左衛門に被差別民支配権の証文を与えた。山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に弾左衛門屋敷はあり、屋敷一帯は浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であった。弾左衛門囲内は、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていて、屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、穢多頭(えたがしら)差配の三〜四百名の穢多役人(えたやくにん)家族が暮らす住宅も在った。弾左衛門は、支配地内の配下は勿論の事、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。弾左衛門(だんざえもん)・矢野家は、幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領等一部を除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭(ふれがしら)と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。
「穢多頭(えたかしら)」は幕府側の呼称で、自らは代々長吏頭(ちょうりがしら)・矢野弾左衛門を名乗り称した。矢野家は浅草を本拠とした為に、通称として「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。大きな権力を世襲する弾左衛門(だんざえもん)家であるが、身分はあくまでも非人・穢多頭(えたかしら)であり、名字帯刀を許された訳では無いので矢野と言う名は私称で、公文書に矢野が使用される事はなかった。弾左衛門(だんざえもん)は、非人・芸能民・一部の職人・傾城屋(けいせいや・遊廓/ゆうかく)などを支配するとされ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)と同じ意味である。傾城(けいせい)は公許の遊女屋の集合設置場所を意味し、遊女の元々の起源は神社の巫女による官人の接待とされ、平安期の白拍子などもその遊女の分類に入る。芸能民に関しては、猿飼(さるかい)・大道芸を生業とした乞胸(ごうむね)などが、非人同様に弾左衛門(だんざえもん)の差配下にあった。また町方の庶民が罪を犯し、町奉行所の裁きで女性の罪人が非人穢多(えた)身分に落される「奴刑(しゃつけい)」や男の罪人が非人穢多(えた)身分に落とされる「非人手下(ひにんてか)」は、弾左衛門(だんざえもん)に下げ渡され、女性は廓(くるわ)に売られ、男性は市中引き回し刑や処刑場の手下(てか)となる。弾左衛門(だんざえもん)は幕府から様々な特権を与えられ、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇り、格式一万石、財力五万石などと伝えられた。
八百屋お七と天和の大火
天和の大火(てんなのたいか)とは、「八百屋お七の火事」とも呼ばれた江戸の大火である。千六百八十三年一月二十五日(旧暦天和二年十二月二十八日)に駒込大円寺から出火したとされ、正午ごろから翌朝五時頃まで延焼し続け、死者は三千から三千五百名余と推定される。この天和の大火により焼き出された加賀藩御用達の大商人(おおあきんど)・八百屋・八兵衛(太郎兵衛説あり)の一家が吉祥寺(本郷の円乗寺とも言う)に避難して八兵衛の十六歳に成る娘のお七が、寺小姓・生田庄之助(山田左兵衛説あり)と知り合い恋仲になった。所が、やがて八兵衛の八百屋が再建され、お七は寺の小姓と離れて暮らさねば成らなくなり、寺小姓・生田庄之助へ恋しさが募ったお七は、また家が焼ければ会えると想った。為にそのお七はまた会いたい想いばかりで、幸い大きな火事にはならなかったが、あちこちに放火してみつかり捕縛されてしまった。放火は大罪で死罪(火刑)が相当だったが、捉えた奉行所ではお七を哀れに想いなんとか助けようとして、当時の十五歳以下の罪が減一等規定を適用しようと何度も「十五歳であろう」と年齢を尋ねたが、お七は頑として十六歳と正直に申告した。
現代のような戸籍制度がない時代の事で、年齢の確認は本人の申告次第で在った為にそこで奉行所の意図を汲み「十五歳」と応えればお七の命は助かったのだが、お宮参りの記録まで提出して十六歳で在る事を証明した。 実はこれには訳が在り、当時の死罪相当刑の女性の罪一等を減じれば奴刑(しゃつけい)となり、人別改帳から除籍(本籍を除き)され、非人・穢多(えた)として穢多頭(えたがしら)に下げ渡される。奴刑(しゃつけい)を科せられた女の非人・穢多(えた)は、下げ渡された後に女衒(ぜげん)に売り渡されて遊郭女郎に身を落として客を取らされるのが相場だった。判り易く言えば、十六歳の八百屋お七は命が助かっても下げ渡された穢多頭(えたがしら)に陵辱された後、一生遊郭女郎として客を取らされる運命が待っていたのだ。
苦界と言うからには接客態度で客から苦情を言われたり、客取りに励まなければお仕置きの私刑(リンチ)に遭うのが相場の業界で、勿論、過酷な肉体労働であり半端な気持ちでは女郎は勤まらない。こうした奴刑(しゃつけい)が存在した事実を過去の汚点として、体裁の為に触れずに「お七が素直過ぎて嘘が付けなかった」とする解説が目立っている。まぁ、人情話しの越前守・大岡忠相や遠山金四郎景元が、映画やテレビドラマのお情けの裁きで、死罪を減じて「奴刑(しゃつけい)」と言う訳には行かないので「遠島刑」で誤魔化す事になり、通念として事実が歪められたのかも知れない。時代ごとの民衆意識と定め(司法)には、時と伴に「ずれ」が生じる事は多い。元々「奴刑(しゃつけい)」に裁かれるような大罪を犯す女性は、相当の「阿婆擦(あばず)れ」か群れ婚状態の共生村社会の在方から出稼ぎで流れて来たものだから、そう女郎家業には抵抗がない。死罪を免じるのだからお情けの裁きで在ったが、それが氏族である百姓文化側に育ったお七は大店の娘で、受け取り方が違った。この奉行所の慈悲とお七との量刑上の価値観に対する認識の違いは、お七が町場ではなく村落部の人間であれば夜這い文化の共生村社会でさほど苦にならない女郎の生業(なりわい)が、既に性の習俗に変化が起こりつつ在った町娘には大きな抵抗に成った為である。放火の大罪を犯せば火刑か、命が助かっても女郎屋に売り飛ばされて客を取らされる事は当時は周知の事実で、まぁ本人が「死んでも女郎は嫌」と言う事なら火刑も仕方がない。死を選んだお七は、ご定法通り八百八町を引き廻しの上、鈴ヶ森刑場で火炙りの刑(火刑)に処せられ、浄瑠璃や歌舞伎芝居などの題材と成って今に伝えられている。お七がこの連続放火事件を起こすきっかけになった火災が天和の大火(てんなのたいか)だった事から、天和の大火(てんなのたいか)を人々が「八百屋お七の火事」と呼んだ。
市中引き廻し(しちゅうひきまわし)
市中引き廻し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた死刑で、死刑囚を馬に乗せ、罪状を書いた捨札等と共に刑場まで公開で連行して行く制度である。市中引き回しは死罪相当の重罪に対する見せしめの付加刑で、本刑は打首獄門や極刑である火刑や磔(はりつけ)が該当し、知名度の高い罪人が引き回しに処される時にはさながら物見イベントと化した。罪人が貧相な風体をしていると江戸市民の反感を買いかねない為、それを嫌った幕府は引き廻しの時に調度を整えさせ、死出の旅と言う事で、罪人には金子(きんす/お金)が渡され、求めに応じて道中酒を買わせたり煙草を買わせたりした。伝馬町牢屋敷から江戸城の外郭にある日本橋、赤坂御門、四谷御門、筋違橋、両国橋を巡り、当時の刑場である小塚原や鈴ヶ森に至る「五ヶ所引廻」の後打首獄門なら牢屋敷、火刑は鈴ヶ森の刑場、磔(はりつけ・磔刑/たっけい)は小塚原の刑場で執行された。この市中引き廻し(しちゅうひきまわし)とその後の処刑・火刑や磔(はりつけ)の一切の雑用をするのが同じ穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)身分の男性・非人手下(ひにんてか)の役目だった。
八百屋お七の火刑場について一部の解説に小塚原刑場説があるが、火刑は鈴ヶ森の刑場と決められていた。断って置くが、今でこそ死刑を「残酷だ」などと言っている西洋文化では近代化以前の処刑はもっと残酷で、日本の処刑のように罪人を着飾ったり求めに応じて酒食を与えたりせず、男女構わず素裸体で市中引き廻す見せしめをした。その上、鋸挽き刑(のこぎりびきけい)、十字架刑(じゅじかけい)、杭打ち刑(くいうちけい)、串刺し刑(くしざしけい)、石打ち刑(いしうちけい)などの絶命までに時間を要する処刑を公開でしている。正直共産政府の一部では現在でもみせしめの市中引き廻し(しちゅうひきまわし)は存在し、回教徒の国では宗教上の理由から今でも杭打ち刑(くいうちけい)や石打ち刑(いしうちけい)が残っている。つまり近代化が図られる前の江戸期の刑罰は、若干「目糞鼻糞を笑う」の感はあるものの、当時の処刑水準としては飛び抜けて残酷とは言い難いものだったのである。
湯女(ゆな)
湯女(ゆな)の起源については、中世に於いて有馬温泉など温泉宿にその原型が見られ、次第に「諸国の都市部に移入された」とされている。また文献を紐解くと、江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の生母・於由利の方は紀州藩第二代藩主・徳川光貞を湯殿で世話をしてお手が付き、源六(吉宗幼名)を懐妊したとされる。大名家や大身旗本などでは奥女中が湯殿で世話をするのは一般的だったから、そうした情報も庶民に伝わって湯女(ゆな)誕生に影響したのかも知れない。湯女(ゆな)と言う名称が一般化したのは、江戸時代初期の都市部に於いてであり、当初は銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性とされ、垢すりや髪すきだけだったが、次第に飲食や音曲に加え性的なサービスを提供するようになって諸国で湯女が流行(はや)った。つまり現代のソープラントに於けるソープ嬢の走りが、江戸前期の「湯女(ゆな)」と言う事になる。性的なサービスを提供するようになった為に幕府はしばしば湯女禁止令を発令し、江戸では千六百五十七年(明暦三年)以降は吉原遊郭のみに限定された。禁止後は、三助と呼ばれる男性が垢すりや髪すきのサービスを行うようになり、湯女(ゆな)は「あかかき女」、「風呂屋者(ふろやもの)」などの別称で幕府の禁止令を逃れようとした歴史が在って現代に至る。
従軍慰安婦問題(じゅうぐんいあんふもんだい)
戦前戦中の負の遺産に「従軍慰安婦問題」が在る。従軍慰安婦?この名称「従軍慰安婦」は、戦時中に娼婦として軍に同行していた女性が補償を求めて訴えを起こした事から、戦後に後追いで名付けられたものである。歴史的背景を考えない歴史認識とは何だろうか?戦前から太平洋戦争当時まで、【娼婦(館)・女郎(屋)】と言う物が存在した。少なくとも当時は「公娼制度が社会合意されていた」と言うその肝心な歴史的視点を忘れ、インテリジェンスに欠ける感情論だけでこの問題を論じて良いものだろうか? 古来多神教自然主義の日本列島の民(大和族)は性におおらかで、性行為は神との共同作業であり新しい命の恵みを授かる「お祭り」と言う神事の文化を持つ国だった。そうした庶民性文化の歴史的流れがあり、この頃の日本では「公娼」が認められていて、事の善悪は別にして「合法の存在」だった。所謂、公に許可された売春宿である。戦前の「公娼制度」は、良くも悪くも社会的安全弁に成って居て、性犯罪の防止効果は勿論、経済困窮に対する一つの救済制度の側面も持っていた。
日本政府は、建前とは別に本音の「必要悪」と考えて「公娼制度」を温存する現実的な方策を採っていた。当時の「日本の現状は」と言えば、予算の多くが軍事費に回される軍事大国を標榜し、為に【軍部と結託した財閥】に富が集中して地方経済は貧困にあえいでいた。蛇足ながら、これは最近の国際競争力のお題目に拠り【政府・官僚と結託した大企業】の富の集中化に酷似していて将来的に恐い話しで有る。いずれにしても当時の庶民は貧しく、特に農家に現金収入を得る道が無かった。それで当座の金に困ると「生きる為に、身内を喰わす為に、」田畑を質(しち)に借金をしたり、娘の身を売らざるを得ない境遇の農家が数多く居た。今でこそ「公娼」と言うと単純に「下劣な職業」と思われ勝だが、果たしてそんなに単純な受け取り方で良いのだろうか? 当時の社会情勢で、米作以外に収入が無かった地方の農村にとって、不作や米価下落に見舞われれば生きては行けない。そこで娘が「公娼」に身を落として親兄弟の窮状を救った。これは受け取り様の問題だが、「公娼に身を落として親兄弟を救う」と言う行為は「下劣」ではなく「高尚(こうしょう)」である。つまり業として行う娼婦行為と「親族を救おう」と言う心情精神とでは、心情精神の方が遥かに重いのである。それを、「下劣な職業」と見下してかたずけてしまう所に、現在の極端な個人主義社会の病根を見る思いがする。「時代が違う」と言われる事を承知で言うが、現在の私権主義に害され「自分が大事で親兄弟は二の次」と言う精神よりも、例え身を汚す職業でも親兄弟の為に「公娼」に身を落とす娘の方が「心が高尚(こうしょう)だ」と思うが如何か?この身を落とす娘の受け入れ先が、【娼婦(館)・女郎(屋)】だったのである。
列強国と言われた日本の内地でも当時の社会環境がその状態だったから、半島や大陸の人々の現実はモット経済的に困窮して居た筈である。それで仕方なくとは言え、娼婦や女郎の成り手は多かった。つまり、半島の女性は【応募した】と言う説がまともであるが、「親に売られた」と言う現実を認めたくない心情は理解できる。また、帰国後に取り巻く社会環境においても、「強制された犠牲者」で居続けなければ身の置き場が無いのも理解できる。これらの娼婦館・女郎屋の類は「民営」で有って公営ではない。その業者が、戦線の拡大と伴に商売として外地へ進出して行った。勿論【従軍慰安婦】なる言葉は無かったし、軍が直接管理運営していた訳ではない。しかしながら、軍が業者に要請していたのは事実で有る。そう言う意味で、【実質従軍】と取られても仕方が無いが、これが【強制連行による】とされるのは少々疑問で有る。
実際には【日本人娼婦が大半】で有り、将兵の好みから軍の要請も出来るだけ日本女性を同行するように慰安婦業者に要請していた現実がある。軍が要請していた事は、大きく分けて二つの意味(見方)を持つ。ひとつは【国家絡み】と言う事で、国がその全ての責任を負うべき事である。その対極にある見方が、いまひとつの、【戦地と言う特殊環境の中で】、見落とされ勝ちだがこの娼館・女郎屋を占領地に帯同したのは、「日本軍の良心」とも取れるべき事である。世界で唯一本音の性に関する治安対策を考えたのが日本軍であり、他国軍は性に関する治安対策をしていなかっのだ。残念ながら、人間の性は一筋縄ではいかない。何しろ武器を持った若い野獣が、うろつくのが戦争である。建前では無い現実としても、明日をも知れぬ命の前線の軍人が性的行動を戦地で起こさない方が不思議で、表面化しないが兵による個人の性犯罪は何処の軍隊にも存在する。そうした意味では、占領現地の女性を守る為に軍が要請した【娼婦(館)・女郎(屋)の画期的制度】の事が問題で、野放しの【他国軍の個人の犯罪】は問題視されないとしたら大いに矛盾ではないだろうか?この問題、【性の問題】だけに綺麗ごとの建前でものを考え易い。建前だけで言うと「そんな悪い兵隊(人間)は世界中に居ない事」になり、軍の慰安婦業者同行要請は【そのものが不埒】と判断され易い。だが、現地での日本軍の不幸な出来事は、慰安婦業者同行で相当に抑止された。つまり、【日本軍は基本的に紳士だった】ので有るが、この事実も、娼婦・女郎の【犠牲】の下に成立っているのでおおっぴらには威張れず、現に、戦後の日本復興と伴に【娼婦館・女郎屋】はその存在を問われ始めるのだ。後の昭和33年4月・赤線廃止令は執行される。
戦後の社会情勢の中で売春防止法(昭和三十三年施行)が成立し、確かに表向き「公娼と言う下劣とされる職業」は無くなった。結果、その後の日本社会は本能の逃し所を失って売春組織は非合法化して闇に潜り、その手の女性は存在しているに関わらず非合法化で蓋をされた為に保護が得られず、返って危険な状態に身を置く結果に成った。表向き安全な性的捌(はけ)け口が無くなって本能の行き場を失った為に性に関する治安が悪化し、折からの携帯電話やインターネットに拠る性犯罪が急増し殺人事件に至るケースさえ有る。戦後は占領政策で欧米化教育が成されて個人の私権が強くなると同時に、環境的にも【農地開放政策】で農家が【土地持ちの資産家】に変身し、【身売り】の最大の供給源は無くなった。欧米化教育が成されて私権が強くなると、世間の様変わりで女性にそう言う犠牲を強いる事は【社会合意】から外れ、現在では過去のその「公娼制度」が存在した事実だけでも相当に後ろめたい。軍の要請で、占領地に進出した【娼婦館・女郎屋】であるが、基本的に戦争と言う【異常心理の中での可能性】と言う前提があっての性的治安対策である。建前だけ「レイプはするな」と命令した他国の軍隊より、日本の占領政策の方が余程現実的で実効が在ったのだが、この行為は相手国には評価されない。つまり、【戦争そのものが犯罪】で有り、他国への【軍の進攻そのものがレイプ】なのである。そう言う意味では、何を言われても仕方が無い。
だが、【世界でも稀な良心的軍隊】の一面が在った事を証明できるのが、【従軍慰安婦問題】の側面でも有る。この性に関する対策問題、【忘れ勝ち】だが、実は戦後の早い時期にも政府の対策として施行した実績がある。敗戦後の米進駐軍占領時代に、臨時日本政府は性的治安に危惧を抱き【性の防波堤】として、「やまとなでしこ」を募集した。どちらにしても、こうした起こり得る「性の本音」に、現実的な政府が対処をしている所を見ると、建前は民衆に押し付けていても本音が別にある事は充分に承知していて、それを使い分けるのが「二枚舌の国家権力」と言う事に成る。募集され女性たちが、無理解な一般の人たちから【パンパン、オンリー】等と卑下されながらも、【尊い犠牲】の上での占領米軍人の暴走対策とした生々しい事実は、遠い記憶になりつつある。戦中の【軍の慰安婦業者同行】や戦後すぐの【性の防波堤「やまとなでしこ」】を募集した背景に、当時の政府がまだ日本国家が成立した頃からの「誓約(うけい)の概念」や「夜這(よば)いの文化」と言った我が国独自の性におおらかな文化が在ったからである。つまり在って当然の現実に、建前の綺麗事を採らず具体的かつ現実的な有効手段を講じたのである。【強制連行】と【従軍慰安婦】は、事実関係が限りなく怪しい。あえて「強制的だった」としたら、これは国内の日本女性の身にも有った事だが、考えられる事は「借金の肩に」と言う当時の日本の清算習慣に拠る貸し金業者や公娼業者の強引さだったかも知れない。しかしそれは、良くも悪くも当時の日本の社会慣習であり、米国議会がこの当時の日本国の社会慣習を考慮に入れないで現在の物差しで安易に非難するのであれば、米国における先住民(ネイティブアメリカン/アメリカンインデアン)の処遇や奴隷貿易に拠る黒人奴隷の歴史を今更蒸し返されても仕方がない。
でもね、これは時代の置き土産だから強制連行だったかどうかは別にして彼女達に「国家賠償はするべきだ」と考えている。結果的に軍票や戦前の紙幣は敗戦で屑同然になって、彼女達にまともな金を払ってはいないからである。従軍慰安が例え合意の上で在っても労働対価は払うべきで、敗戦は国家責任で「雇い主の責に負わすべきでは無い」と考えれば、当時日本の法律では売春が合法だったのだから彼女達にまともな労働対価を「国家が賠償するべきである」と考えても良いのではないだろうか?これは、戦争の【負の遺産】であるから、どちらかと言うと問題を先送りにして来た過去の官僚、政治家に責任がある。本来、その【リアルタイムに至近で有るほど】実際に近い検証ができ、【世間の物差しのメモリ】も互いに近いと言える。六十年も経つと、「身売り」等と言う当時の感覚はなくなり、先方の言い分も「現在の物差し」が基準になる。これは、【歴史認識問題】も同じで有る。日本の政治家、官僚は、【日本式に蓋をし続けて】こじらせてしまった。他国政府から言われ続けている原因が、自分達の先送りにある事に、日本政府は気が付いていない。
両班(ヤンバン・特権貴族階級)
清廉を謳い文句に「儒教の国」と誇り高き朝鮮半島においても、性的愛玩を含む身分階級制度は、間違い無く存在していた。朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)で、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)である。最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)は、公に王朝政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められ、被差別階級に組み入れて隷属的に支配されていた。つまり、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は非人(奴隷)であり、家畜同然だったから儒教の精神は都合良く及ばない理屈で、公奴婢(くぬひ)の遊技の妓生(キーセン)制度は公に存在し、私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩要素を含む慰め者だった。処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に性の愛玩物にされても仕方が無い。この辺りの考え方は、ご多分に漏れず国家体制を維持する為に特権階級を設けて実力者を取り込み、王朝に忠誠心を持たせる狙いである。
貴族特権とは王権に対抗し得る有力者の懐柔目的も在るから、如何に儒教の国とは言え王権維持の為の実利的例外に性奴隷としての奴婢身分は、法の抜け道として必要だったのだろう。都合が良い事に、人に非(あら)ずの家畜である「奴婢(ヌヒ)身分」には儒教の精神思想は除外で、奇麗事の「儒教の精神」に組しない例外の扱いだったのである。また宮廷の医女(イニョ)も身分は家畜扱いの公奴婢(くぬひ)であり、遊技の妓生(キーセン)同様に女医と言うよりも両班(ヤンバン)のストレス解消の為の慰め者だったのが実情で、現代で言うヘルス嬢的な愛玩要素を含んでいた。身分を示す帽子状の被り物の形状が、医女(イニョ)と妓生(キーセン)はまったく同じで、医女の身分は「奴婢(ヌヒ)」であった。だから、両班(ヤンバン)に取っては逆らえない性奴隷同然の存在で、医女を妓生(キーセン・日本で言う芸者)扱いする悪弊は、李氏朝鮮の燕山君の時代に生まれ、内医院(ネイオン・宮中の医局)の風紀が乱れ、「儒教の国」の精神も多分に統治上の権力的例外が存在したのである。
旧李氏朝鮮王国でも罪を犯した者の刑には、身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。その点では日本の江戸期までの女性に対する奴刑(しゃつけい)と扱いが共通する。  
 

 

 
「巫女と魔女」

 

1.はじめに
かって、私は「セクシュアリティにおける男女の視差」と題して、歌舞伎と宝塚歌劇の比較を試み、その序論の序(『京都精華大学紀要・第14号』所収)を書いた。今、その続編を記すにあたり、あらためて「はじめに」から書き起こすのは、前論を顧みてあまりに粗雑の感を拭えず、かつ、エピローグで予告した課題をより明確にしたいからである。この間、「セクシュアリティにおける男女の視差」(以下「視差」と略)を御高覧いただいた方々から貴重な助言・教示を賜った。これは以下本文中で明らかにしたいが、私の不明を恥じるとともに、徒手空拳で専門外の分野に挑むことに少なからぬ勇気を与えられた。感謝の意を表したい。
「視差」では専ら、アカデミックなフェミニズム論(とりわけその仏教批判)に焦点をあて、本来のテーマたる「歌舞伎と宝塚歌劇」に触れることが十分でなかった。また、フェミニズム批評としても持論を展開できていないことをも自覚し、反省している。そこで、これからの構想を明示し、あわせて何故「歌舞伎と宝塚歌劇」をとりあげるのかを再度確認しておきたい。まず、第1部では、「巫女と魔女」と題して日本の古代〜現代にいたる巫女と欧米の魔女とを比較し、女性だけの劇団=宝塚歌劇団のルーツを探る。次に第2部では「女方と男装の麗人」と題して、異性装の問題を特に日本の演劇の分野に焦点をあてて論じる。第3部では「原作者と演者」を歌舞伎と宝塚歌劇双方から検討する。最後に第4部では、「見る性と見せる性」の本質を人間の生物学的性差(sex)の問題として捉え直し、既成のフェミニズムに対する私の観点からの批判に代えたい。
2.隠喩としての魔女
1964年、東京オリンピックが開催され、日本の女子バレーボールチームは見事優勝し金メダルを獲得した。回転レシーブで名を馳せた選手たちが「東洋の魔女」と呼ばれたことは、当時中学生であった筆者にとって、今も鮮烈な感動とともに記憶されている。大松博文監督は、その後1968(昭和43)年、自民党から参議院全国区に立候補し7位で当選、河西昌枝らかっての「魔女」たちも祝いにかけつけた。(『「現代日本」朝日人物事典』1990参照)。駒尺喜美『魔女の論理』(エポナ出版、1978)は、70年代フェミニズムを代表する著作の一つである。すでに高村光太郎の妻智恵子をモデルにした後年の『高村光太郎のフェミニズム』(講談社、1980)への片鱗が窺われるが、果たして光太郎(男)が智恵子(女)を「魔女」にしたという文脈は成立するのかどうか?前掲の「東洋の魔女」をも含めて再検討の余地があろう。
最も重要なのは中村雄二郎『魔女ランダ考』(岩波書店、1983)である。インドネシアのバリ島に伝わるバロン(善なる怪獣)を主人公とする劇に登場する「魔女」ランダを中村は次のように規定する。
バリ島の演劇や舞踊のなかで、〈魔女ランダ〉のもつきわめて統御しがたい怖るべき力を、もっともよく体現しているのは、チャロンアラン劇という呪術的な劇であり、そのなかでのランダである。そこではランダは、バロンのような神話学的に同じレヴェルの好敵手をもっていない。おそらくそのために、在り様がいっそう不安定で、逸脱的で、恐ろしいのであろう。〔中略〕けれども、バロンとランダの間の関係は、キリスト教における善と悪や、光と闇の対比とはちがったあり方を含んでいて注目に値するし、また、バリ島における、価値的でかつ方位的なトポロジートポス論へと問題を拡げていく上には、好都合な糸口となる。(前掲『魔女ランダ考』、傍点は原文)
以上見てきた3例のうち前2例は日本、残りはインドネシアの「魔女」に関する事例である。私の関心事は、東洋に魔女は存在するのか?いやもっと端的にいえば、キリスト教(カトリックとプロテスタント)世界の外に「魔女」は存在した或いは存在しているかという事である。「魔女狩り」や「魔女裁判」をタイトルに含む多くの論文・著作が刊行されている。その大半は、前記のキリスト教世界に関するもので、しかも、カトリックとプロテスタント地域に限定される。そうした魔女の範疇に男が含まれていたことは既に言及した。(「視差」参照)
3.語義について
シャーマニズムの領域における女性の「巫女」の他にシャーマン一般をさす「巫覡」という漢字がある。「巫」という文字は訓では「かんなぎ」、音では「ふ」と読むが、字義を明確にするため、『広辞苑』(第4版、岩波書店、1991)を引いてみた。
まず、「巫女」では【巫女・神子】〈神に仕えて神楽・祈祷をを行い、または神意をうかがって神託を告げる者。未婚の少女が多い。〉とある。次に「巫覡」は(ブゲキとも)〈神と人との感応を媒介する者。神に仕えて人の吉凶を予言する者。女を巫、男を覡という。〉となっている。念のため、「魔女」を調べると1の意味として(witch)〈ヨーロッパの民間伝説にあらわれる妖女。悪魔と結託して、魔薬を用いたり呪法を行なったりして、人に害を与えるとされた。〉つまり、シャーマンについては人に害を与えることがないのに、ウィッチ(魔女)は害を与えるとなっている。なお、2は〈悪魔のように性悪な女〉である。そこから、「魔女狩り」に関する説明も、1〈中世から近世初期のヨーロッパで、諸国家と教会とが異端撲滅と関連して特定の人物を魔女に擬し、これを糾問する魔女裁判を行い、焚刑に処したこと。17世紀前半が全盛期。〉この説明中、「諸国家と教会とが異端撲滅と関連して」や「魔女裁判を行い」や「焚刑に処した」などの表現はかなり問題がある。その理由は後で述べる。次に2の意味として、〈比喩的に、異端分子と見なす人物に対して権力者が不法の制裁を加えること。〉が追加されている。
『広辞苑』の解説で注目すべきは、シャーマンについては、地域を特定していないのに、魔女・魔女狩りについては、いずれも本来の字義たる1で、ヨーロッパに限定している点である。私は、前者の地域不特定に異存はないが、後者については欧米(但し、カトリック・プロテスタント地域の一部)とするべきであると思っている。これについても理由は後述する。
少なくとも、『広辞苑』を見る限り東洋には、いやヨーロッパのほかには魔女は存在しない(しなかった)といえる。それは、魔女とキリスト教(カトリック・プロテスタント)とが不可分に結びついていたからに他ならない。なお、魔女とキリスト教に関する優れた研究文献として、上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社学術文庫、1998)をあげておく。
『広辞苑』では、魔女とキリスト教との結びつきが明確に説明されていない。これは、ないものねだりというべきであろう。僅か一冊の国語辞典兼百科事典に、『旧・新約聖書』の成立過程からキリスト教の内容、魔女狩りの歴史的経過や犠牲者数にいたるまで、詳細に記述していけば、ゆうに数十巻を超える百科事典になる。
キリスト教の経典で「魔女」という言葉がでてくるのは、日本聖書協会編『新共同訳・聖書』(1995)によれば、たった一ヶ所にすぎない。『旧約聖書』のイザヤ書33章14節に荒野の獣はジャッカルに出会い山羊の魔神はその友を呼び夜の魔女は、そこに休息を求め休む所を見つけるの部分である。(室町教会牧師樋口進氏の御教示による)『旧約聖書』はユダヤ教の経典でもある。前掲の『魔女とキリスト教』には、「魔女狩り」の根拠を『旧約聖書』の魔女(女呪術師、女占い師)は生かしてはならない(『出エジプト記』22・18、『レビ記』20・27、『申命記』18・10−14)にあると繰り返し強調されている。出典が明記されていないので、どの版の『旧約聖書』かはわからないが、ユダヤ教徒が魔女狩りの犠牲者となることはあったとしても、魔女狩りを行なったとする記録を私は知らない。
念のため、『新共同訳・聖書』で該当箇所を調べてみた。まず『出エジプト記』では22・18ではなく、22・17に「女呪術師を生かしておいてはならない。」とあり、次に『レビ記』20・27には「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる。」最後の『申命記』18・10−14では「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。」以上『新共同訳・聖書』で見てきたように、『魔女とキリスト教』に引用されている『旧約聖書』の出典3カ所のうち、呪術師・占い師を女性と特定しているのは『出エジプト記』のみであり、かつ「魔女」という言葉はどこにもでてはこない。
『広辞苑』の「魔女狩り」に関する記述中、そのピークが17世紀前半であったとする箇所は、私が管見した「魔女」および「魔女狩り」研究書に共通する認識として定着している。歴史を事実の記録(もちろん記録者のフィルターを通してではあるが)とすれば、それを研究・解明しようとする者にとって、時には「宇宙の誕生」にも似た残酷な命題となる。アインシュタインがE=mc2→∞0のパラドックスを遂に説き明かすことができなかったように、「魔女狩り」の根拠をユダヤ教に求める言辞は空疎である。
ユダヤ教のヤハウェ絶対神からキリスト教の神と父と子の三位一体論への変遷が見られるとしても、ユダヤ教とキリスト教は、父権的一神教でくくれることはいうまでもない。サタンに仕える魔女の元型もユダヤ教に遡ることができる。(前掲、『魔女とキリスト教』)
それでは、イスラム教は父権的一神教ではないのか?ユダヤ・キリスト両教徒を啓典の民としている7世紀前半に成立したイスラム教に「魔女狩り」の記録がないのは何故か?『魔女とキリスト教』にその答はない。(誤解を避けるため付言するが、私は上山著『魔女とキリスト教』に価値がないと言っているのではない。この分野における日本では稀な貴重な業績と高く評価していることは先に述べた。)
4.キリスト教の中の魔女
キリスト教を大きく三分すれば、ローマ=カトリック教・ギリシア正教・プロテスタント諸教派となる。これらの内、「魔女狩り」があったと記録されているのはローマカトリックとプロテスタントの一部地域で、およそ現在の西および南ヨーロッパとアメリカ合衆国に相当する。同じキリスト教でありながら、ギリシア正教とその後継たるロシア正教には記録がない。395年に東西ローマ帝国が正式に分離して以降、西ローマは早く姿を消し(476年)、古代ローマの伝統をその終焉時たる1453年まで形式的にせよ固守したのは東ローマ=ギリシア正教であった。コンスタンティノープル総主教は、ローマ市民およびその代表者で構成される元老院において承認されたビザンツ皇帝を権威・権力の双方において一度たりとも凌ぐことはなかった。(渡辺金一『コンスタンティノープル千年』岩波新書、1985。および和田廣「ビザンツ帝国論」、岩波講座『世界歴史〔8〕ヨーロッパの成長〔11−15世紀〕』1998。参照)
あくまでも仮説であるが、「魔女狩り」が行なわれた地域そしてキリスト教宗派の特徴は、皇帝(王)権と教皇権との軋轢が存在したか、又はかって異端とされた新教(プロテスタント)が胚胎した旧教地域に限定される。(合衆国に関しては特異例※)
※少し長くなるが、アメリカ合衆国における「魔女狩り」を浜林正夫・井上正美『魔女狩り』(教育社歴史新書、1983)に見てみよう。しかしこの自由の天地にも魔女狩りの嵐は吹き荒れた。そのもっとも有名なものは1692年のマサチューセッツ州セイレムの魔女狩りであるが、それが唯一の事例ではない。これほど大規模ではなかったとはいえ、そのほかにもいくつかの魔女狩りがある。その最初のものは1642年コネティカット州におこったもので、このときには四名の女性が告訴され、一名が死刑となっている。また1685年にはメリーランド州で五名が訴えられ、やはり一名が死刑となった。マサチューセッツ州では1647年、48年と魔女処刑があり、セイレムの魔女狩りの四年前にも、州都ボストンで魔女狩りがおこなわれ、ひとりの年老いた洗濯女が死刑となった。それは彼らの祖国イングランドでは、もはや魔女処刑が終わってしまったときのことであった。しかし全体としていえば、アメリカの魔女狩りはセイレムを除けば小規模であり、地域的にもかぎられていたといってよい。それは、ニュー・イングランドとよばれる東北部諸州(のちにアメリカ合衆国として最初に独立する地域)にかぎられ、これらの諸州のなかでも、ニューヨーク州やペンシルベニア州ではほとんど魔女狩りはなかった。〔中略〕それはセイレムだけではなくボストン、アンドーヴァ、チャールスタウンなどにもおよび、五月の末までに五〇名以上の魔女容疑者が投獄され六月十日に一名、七月十九日に五名、八月十九日に五名、九月十九日に一名、二十二日に八名が処刑された。なかには自白をあくまで拒否したために、裁判官が「告白をしぼりだしてやる」と胸におもしをのせ、その上に石をつんでいったために、ついに圧死したという八十歳の老人もあった。ほかに獄中で病死したもの、自殺したものも何人かあり、逮捕された容疑者の総数は二〇〇名におよぶといわれている。
世俗権力が聖職権力とせめぎ合う時、自然科学より迷信が支配する近世以前のヨーロッパで、上は教皇・君主から下は名も無き民衆まで父権的一神教の名の下に、「魔女」という生贄の羊を要求したのではないか。いまさら断るまでもないが、ルネサンスと宗教改革が「魔女狩り」を抑止するどころか、逆にあおったことは、宗教改革よりルネサンスが不当に過大評価されていることを批判し、啓蒙主義こそ近代文化であると捉えたエルンスト・トレルチ(1865〜1923)の次の言葉に見事に要約されている。
キリスト教世界に対立する原理的結集点を形づくるとか、新しい社会を形成しようとする政治的・社会学的衝動であるとか、哲学的な思想の深化とか、まさにそのようなものこそあのルネサンスの時期には欠如しているのだ。これらはみんな啓蒙主義の時代になって始めてもたらされたのであり、しかもそのばあいルネサンスの主として芸術的貴族文化とはまるでちがった仕方においてである。(トレルチ著・内田芳明訳『ルネサンスと宗教改革』岩波文庫、1959)
もっとも、「啓蒙主義」の内容を「ルネサンス」と「宗教改革」との歴史的妥協(融合)とみることによって、逆にこの啓蒙主義(近代文化内容)をルネサンスと異なるものとして峻別した。(前掲『ルネサンスと宗教改革』内田「解説」)とトレルチにおいて高く評価された「啓蒙主義」が、「魔女」の迷妄から真の意味で女性を解放したのではない。
女の持ち分となっている仕事を私たちから男たちが奪わないようにとりはからってください。生計をたてていけるように私たちに針と紡錘を残してください(ガリーナ・セレブリャコワ著・西本昭治訳『フランス革命期の女たち〔上〕』岩波新書、1973)と1789年にルイ16世〔位1775〜1789〕に訴えた第三身分の女たち、とりわけ「革命共和婦人協会」の会長で元女優のクレール・ラコンブ(1765〜?)を例にあげよう。1794年4月から約1年4ケ月にわたる彼女の投獄のきっかけをつくった張本人、ジャコバン左派のコミューン検察官ショーメット(1763〜94)の口癖は造物主は女にこうおっしゃったんだ、−女であれ。こどもにやさしくし、こまごまと家事を見、母親としてあたたかく心をくばる−これが女の仕事である。その褒章として女は家庭という聖域に神としておさまることになるんだ、とね。(前掲『フランス革命期の女たち〔上〕』)
女性に参政権が与えられるのは、アメリカ合衆国において1890年ワイオミング州、次いで93年コロラド州、合衆国全体では1920年、国単位の嚆矢はニュージーランドの1893年であり、イギリスでも1920年(但し、男女平等普選は1928年)、フランスでは第二次大戦中の1944年で日本の敗戦の僅か一年前(ちなみに日本は1945年占領軍によって賦与)、ラコンブは生まれてくるのが約百五十年早かったと言わねばなるまい。(京大西洋史辞典編纂会編『新編・西洋史辞典(改訂増補版)』1993参照)
5.巫女と魔女
野村伸一はその著『巫と芸能者のアジア』(中公新書、1995)の中で、朝鮮半島のシャーマンをとりあげ、李朝初期の文献に現われる「僧広大」に代表される僧形の芸能者を日本古代の「空也念仏」、王朝末の田楽の流行、鎌倉期の「踊躍念仏」に比している。また、朝鮮半島では巫をクッと発音するそうであるが、これは日本の傀儡師と通ずるもので、人形浄瑠璃→近松の歌舞伎(=世話物)→歌舞伎狂言の系譜を辿る時、巫女と歌舞伎の共通点を示唆するもので興味深い。次いで同書では、最後の第六章「アジアへ」でバリ島のランダについても触れられている。中村雄二郎はランダを魔女としたが、私はこれを隠喩(メタファー)として捉える。
インドネシアのバリ島に「少女が天のカミの意を受けておどりつつ悪しきものを祓う、あるいは収穫を感謝する儀礼」(前掲、『巫と芸能者のアジア』)のサンギャン・ドゥダリがある。1994年8月にこれを観た野村は、その時の印象を次のように記している。
「悪魔祓い」という西欧式の表現はわれわれにはなじまないことがわかる。たとえばバトゥール湖の大爆発やコレラの流行のようなとき、サンギャン・ドゥダリは広くおこなわれたのであるが、それは悪魔ではなく、カミの意思のあらわれとすべきであろう。コバルビアスはバリ島の向かいの島ヌサ・プニダからくる悪霊や呪術を使う女レヤックをとりまとめて「悪霊」といい、かれらの作用を「悪の力」とひとまとめにするが、それはアジアの基層文化にはとうていなじまない捉え方である。わたしたちはこうした諸霊にもっと人間くさく接してきたのではなかったか。(前掲、『巫と芸能者のアジア』)
この見解は明らかに中村雄二郎の説く「魔女=悪魔ランダ」の図式と対立する。私もランダを初めキリスト教世界のほかに魔女は存在しない点で野村の考えと同じであることは先に述べた。野村は直截的にランダに関して以下のように定義する。
ランダはレヤックをインド由来の密教の影響下に変容させたものである。つまり醜怪な仮面をつけさせられたものであるが、その根底は苦悩する女であった。この苦悩の堆積の別の表現がサクティーとよばれる「呪的エネルギー」であろう。一方、レヤックはもともと正式な祭司バリアンと同じ訓練をへた者である。コバルビアスはレヤックになる道のりは「長くて骨が折れ、少しずつ進まねば達成できない」といい、修業をへて徐々に悪霊と一体化していくのだと述べている。(前掲、『巫と芸能者のアジア』)
それでは、野村のいうアジアの基層文化になじむ悪霊とは何か。野村の『巫と芸能者のアジア』では、日本について言及されていないが、古くは菅原道真が太宰府に流され怨霊となったため、道真ゆかりの各地に天神社が造営されたこと。(京都の北野天神境内が出雲のお国の舞台となったのも縁なしとはいえまい。)そして、つい最近まで女性のみに憑依現象が迷信として残っていたことが石塚尊俊や吉田禎吾によって報告されている。(詳しくは石塚尊俊『日本の憑きもの−俗信は今も生きている−』未来社、1972、および吉田禎吾『日本の憑きもの−社会人類学的考察−』中公新書、1992参照)なお、吉田著には悪霊の語源とその地域差ならびに性差について興味深い記述があるので以下挙げておく。
まず悪霊の語源に関しては人に憑く悪霊を現わすシェタニという語はアラビア語のシェイタン(悪魔)からきており、これが邪術者によって用いられると、相手を死にいたらしめることができると信じられている。「ジニ」(アラビア語のジン〔悪霊〕に由来する)といわれる悪霊もシェタニの一種で、船が転覆して溺死した漁師はジニにつかまったためだといい、事故のあったあたりの海面にパン、米、バナナなどを投げこむとあり、現在イスラム圏のアラビアにも悪魔は存在することがわかる。しかし、悪魔憑きについて吉田は日本の特殊性を強調して次のように述べている。
中世ヨーロッパの悪魔憑きにおいて、男の悪魔であるインクブスは女性を襲い、女の悪魔スックブスは男性を襲うと信じられていた。〔中略〕ある尼僧は、寝床にはいりこんでくるインクブスを追い払うために、一心不乱の祈りや告戒を行なってもききめがなかったが、ザカリアス経を唱えたところ、悪魔はたちまち退散した。また別の尼は、夜インクブスに迫られたとき、十字を切り、聖水を撒いて、追い払うことができたという。※
※吉倉範光『精神医学の黎明』白水社、1948、pp.112−116(原注)
日本の憑きもの現象では、男性の憑きもの持が女性を襲うといったことは聞かないし、憑きもの持とそのキツネ、イヌガミ、オサキなどの間には、性的関係といったものは問題とされない。ところが、ほかの民族には、こういう人間と使い魔としての動物や精霊とが、性関係や婚姻の関係を結ぶ場合が少なくない。(以上いずれも前掲、『日本の憑きもの−社会人類学的考察−』)
上記の吉田の論考から私は吸血鬼ドラキュラを想起したのだが、アラビアのみならずアフリカにも存在する悪魔は、狂暴さにおいてヨーロッパの悪魔にはるか遠く及ばないと吉田は断っている。
日本の憑もの筋に対する差別や圧迫は、アフリカやヨーロッパにおける妖術者に対する処置に比べれば、比較にならないほどおとなしいものであった。バクウェリ族のように妖術者とおぼしき者に毒薬を飲ませて有罪か無罪かを占ったあとで、有罪者を処刑した例もある。しかし、妖術者に対する告発や迫害は、西洋の民族におけるほど激しく行なわれたことはない。ヨーロッパで魔女として処刑された者の総数は正確なところは分からないが、1484年(法王インノケンティウス[=インノケンティウス8世〔位1484〜92〕冨塚注]の教書発布の年)以後、処刑された魔女は三十万人という説から九百万人とする説まである。※(前掲、『日本の憑きもの−社会人類学的考察−』)
※森島恒雄『魔女狩り』岩波書店、1970(原注)
6.女帝と女王
日本の場合、憑きものがつくのは圧倒的に女性が多い。巫女もまた女性であれば、男より女のほうが恨みや妬みが強く、執念深いといわれる。「うらめしやー」と出てくる幽霊もたいてい女だ。(前掲、『日本の憑きもの−社会人類学的考察−』)という分析も、女性差別とうけとられるかもしれないが、「ヒステリー」=女性特有の病的症状と解される日本では十分首肯できる。
かって平塚らいてうは「元始女性は太陽であった」と高らかに宣言した。3世紀に耶馬台国を支配した女王卑弥呼は文字どおり巫女であった。歌舞伎の創始者出雲の阿国も自ら出雲大社の巫女を名乗った。日本では、果たしていつから女性の社会的地位が低下したのか。
高群逸枝によって明らかにされた『源氏物語』の謎、すなわち三條の左大臣(父)と葵の上(婚姻後の娘)との同居=招婿婚の存在は、単に母系制を示すだけでなく、奈良時代以前において稀ではなかった女帝の存在の名残ではないのか。梅山秀幸が『竹取物語』の分析において、随所に巫女の影を追いながらも遂に捕らえきれなかった平安時代以降ぷっつりと途絶える女帝の践祚※の謎も、巫女と深く関わっている。(梅山秀幸『後宮の物語−古典文学のレクイエム−』丸善ライブラリー、1993参照)
※実は女帝は、奈良時代以前に8人、江戸時代に2人存在する。江戸期の女帝は第109代明正(位1630〜1643)と第117代後桜町(位1763〜1770)である。前者の母は東福門院(1607〜78)であり、彼女の父は徳川秀忠で、徳川氏の婚姻政策により元和6(1620)年に後水尾天皇の女御となり、寛永1(1624)年に中宮となる。寛永6(1629)年院号宣下。後者は、高柳光寿・竹内理三編『角川日本史辞典・第二版』(角川書店、1974)によれば、桜町天皇第2皇女。母は青綺門院舎子。名は智子。日本最後の女帝で、和歌に長じ御製千数百首がある。日記41冊。また「禁中年中の事」を残した。陵墓は京都月輪陵。となっている。二人とも徳川の政略により作られた女帝で、政治の実権は大君=将軍に握られており、徳川氏15人の将軍中に女性は一人もいないのは周知の事実である。また、鎌倉時代に北条政子、室町時代に日野富子が現われたことを考慮すれば、江戸時代の女帝は後述する白川ー真木説の時代(7〜8世紀)よりはるかに地位・権力ともに劣化していたと言わざるをえない。(春日局の菩提寺に将軍家光が寄進した石高は300石にすぎない。)
真木悠介(実名=見田宗介)は7世紀〜8世紀の女帝について白川静の説を引用し、次のように断定する。
当時の観念で正式の皇位皇霊が男帝から男帝へと継がれるものであり、持統をはじめ当時多かった女帝はすべて「王位曠欠の際の天皇霊の保持者」として皇統を中継するものであった(真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1981)
仮に白川−真木説が正しいとしても、応神・仁徳期(4世紀)まで遡れば女帝、否女性の政治的存在の大きさに改めて驚かされる。梅山も指摘するように、采女と称して各地から大和の地へと遣わされた女性たちこそ天皇の権力の支えであったのだ。(前掲、『後宮の物語−古典文学のレクイエム−』参照)これらの女性たちの地位の低下が、平安時代以降顕著であるのは、女帝の不在そして巫女から白拍子そして遊女への転落と轍を一にするものである※。
※日本の女帝(女性の天皇)の存在については、"女帝を原則として認めない中国に較べれば、その中国を古くから手本にしてきた前近代の日本において、八人(十代)の女帝がいたことは、単なる例外扱いですまされない重要な意味をもっているにちがいない。"(高橋紘・所功『皇位継承』文春新書、1998)という興味深い見解もある。
司馬遼太郎はドナルド・キーンとの対談において、日本の宗教は原始あるいは古代神道の皿の上に、儒教・仏教がのっていると語っている。(司馬遼太郎、ドナルド・キーン『日本人と日本文化』中公新書、1972参照)私はこれに道教やキリスト教も加えてよいと思うが、実は、司馬のいう神道こそ唯一日本のオリジナルな宗教であり、いうまでもなく古代女性の社会的地位の高さもこの神道に由来する。
日本に仏教が伝来したのは538年欽明天皇の治世であり、儒教は仏教より早く、応神天皇時代に百済の王仁博士によって伝えられたとされている※。(前掲、『後宮の物語−古典文学のレクイエム−』参照)だが、いずれも広く民衆の間に普及するには鎌倉時代以降まで待たねばならなかった。
※欽明天皇の即位年代については、『日本書紀』によれば位510〜570第20代継体天皇第3皇子〔中略〕531即位という説がほぼ確定しており、この年から539までの間は、欽明天皇に対立して安閑・宣化両天皇が列立していたと考えられている。応神天皇〔位270〜310〕については『日本書紀』によれば、第15代。仲哀天皇の皇子。母は神功皇后とされる。名は誉田別命。記紀の所伝は伝説的色彩が濃いが、この時期に大和朝廷の勢力が内外に飛躍的に発展したことを述べている。以上いずれも、前掲『角川日本史辞典・第二版』参照。なお、王仁については、大和時代の有力な帰化系氏族西文(河内書、かわちのふみ)氏の祖と伝える人物。『日本書紀』には応神天皇十五年八月条に、百済王が阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を貢上してきたが、阿直岐はまたよく経典を読んだので、天皇が汝に勝る学者があるかと問うたところ、王仁という者が秀れていると答えたので、上毛野君の祖の荒田別と巫別を百済に遣わして王仁を召したとあり、翌年二月条に、王仁が来たので、太子莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)はこれに諸典籍を学んだ。この王仁は書首(ふみのおびと、西文氏)らの始祖であるとある。また『古事記』応神天皇段では王仁を和迩吉師(わにきし)と書き、このとき百済王は王仁に『論語』十巻と『千字文』一巻を付して貢進したとする。そのためこの伝えは学問または典籍の初伝として古くから喧伝されてきたが、応神朝ころにこのような事実があっても不自然ではないにしても、年次・人名などの細部まで確かな事実とはなしがたい。また『論語』十巻は加註本とすれば巻数が過多とはいえないが、『千字文』は梁の周興嗣のそれの成立と時代が前後するために、江戸時代以来種々議論があって確説はなく、この二書は経書と小学の書の代表的なものを象徴的な意味で掲げたにすぎないとみることもできる。(国史大辞典編集委員会編『国史大辞典・第十四巻』吉川弘文館、1993)と儒教の日本伝播説に執筆者の関晃は疑義を差し挟んでいる。
義江彰夫が神宮寺の形成過程の検証において明らかにしたように、古代から中世へと日本の歴史の転換期において、神道の優越から仏教の優越へと変遷する神仏習合の過程は神に仕える巫女の地位の低下でもあり、ひいては女性の社会的地位の低下の過程でもあった。(義江彰夫『神仏習合』岩波新書、1996参照)
それでもなお、奈良時代以前とはいえ女帝(政・教の最高権力者)を多く輩出したことは特筆に値する。中国において則天武后〔位684〜705〕ただ一人であり、ビザンツ帝国においてさえイレネ〔位797〜802〕とゾエ〔位1028〜50〕とテオドラ〔位1055〜56〕の3人にとどまる。大陸の西ヨーロッパの諸王・帝国(例外として神聖ローマ帝国のマリア・テレジア〔位1740〜90〕が挙げられるが、前掲『西洋史辞典』では、この間の皇帝はカール7世〔位1742〜45〕・フランツ1世〔位1745〜65〕・ヨーゼフ2世〔位1765〜90〕となっていてマリア・テレジアの在位年代は明記されていない。)やローマ教皇及びアメリカ合衆国大統領においては絶無である。それでは、イングランドではどうか?浜林正夫『魔女の社会史』(未来社、1978)によれば、ウォリス・ノートステイン(17世紀前期の政治史を専門とする歴史家)の『イングランド魔女史、1558〜1718年』(1911)−W.Notestein, A History of Witchcraft in England from 1558 to 1718, New Yor k, 1911, r ep. 1968−をオリジナルな資料に裏付けられた画期的な書物と評価しつつも、利用した資料に巡回裁判記録が欠落している点で、C・レストレンジ・ユーインに劣るとされている。浜林が最も優れていると賞賛するユーインの諸著作※を『魔女の社会史』の中の引用部分についてみると、以下のような記述に出会う。
※『星室庁における魔女』(1938)、『ノーファク巡回裁判における魔女』(1939)など。
ロンドン周辺5州についてかれは詳しい統計をのせているが、それによると1558年から1707年までの間に告訴件数790、魔女数513、うち処刑されたもの112である。かれは自分がしらべた記録は全体の70パーセント強だから、全体では処刑数は150ぐらいであろうと推定し、全国ではこの6倍ぐらい、巡回裁判以外の処刑数をこれと同数とみると総計一千八百となるが、ロンドン周辺五州は全国平均より多いと思われるので、おそらく全国での処刑総数は一千人程度ではなかったかと結論している。三十万人にたっするといわれるヨーロッパ大陸の魔女処刑数にくらべれば、これはケタ違いに少ない数だが、それでもノートステインの推定数の二倍半である。〔中略〕まだこれから新しい研究はでるであろうけれども、処刑された魔女数約一千名、時代別では市民革命期(とくに1644年と45年)とエリザベス朝※にピークがあり、それにつづいてはジェイムズ一世の時代に処刑が多いという結論はうごかないであろう。(前掲、『魔女の社会史』、ただし傍点は冨塚)
※イングランドでは、テューダー朝の時代、エリザベス1世〔位1558〜1603〕より前にカトリックのメアリー1世〔位1553〜58〕がおり、スチュアート朝時代にメアリー2世〔位1689〜94〕・アン〔位1702〜14〕、ハノーバー(現ウィンザー)朝にヴィクトリア〔位1837〜1901)・エリザベス2世〔位1952〜〕と6人の女王を数えることができる。
実は、キリスト教世界において唯一「魔女狩り」を免れた地域ギリシア正教圏こそ、女帝の存在した希有な地域であったことがわかる。もっとも、ビザンツ帝国を例にとれば、時には衆愚政治とも見えるほど古代ローマ帝国の理念(元老院を中心とする共和制の伝統)を固守していたし、頑迷固陋に見えさえするロシアですら、エカテリーナ2世〔位1762〜96〕を含め18世紀に合わせて三人の女帝が出現している。(彼女をドイツ人だと例外扱いするわけにはいくまい。ロシアでこそ皇帝になれたのである。※)
※ロシア正教に関する優れた最新の業績として中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書、1996)を挙げておく。該書は正教・ニコライと近代日本との関係のみならず、正教の特質を要領よく解説して余すところない。
東欧史を紐解けば、そこは疑問の宝庫である。ポーランドはカトリック、旧ユーゴスラビアはイスラム・カトリック・ギリシア正教と宗教の坩堝である。時間をさかのぼればきりがない。女性が政治と宗教の最高権力者の地位につける可能性を認めたキリスト教国には「魔女狩り」が存在しなかった又はあってもその処刑には寛大であった。消去法だがそうとしか言えない。〈図1〉参照
     〈図1〉巫女と魔女
ここで、ノーマン・コーン著・山本通訳『魔女狩りの社会史』( Nor man Cohn, Europe's Inner Demons, Pal adi n, 1976)〔邦訳は岩波書店、1983〕に触れないわけにはいかない。日本の魔女の研究者の多くが、森島恒雄『魔女狩り』(岩波新書、1970)を引用している。先に私が参照した『日本の憑きもの−社会人類学的考察−』の著者=吉田禎吾もその一人である。ノーマン・コーンが森島『魔女狩り』の通説を覆したのは、次の2点においてである。ひとつは、魔女狩りの先鞭をつけたのは14世紀初頭の仏王フィリップ4世〔位1285〜1314〕による「テンプル騎士団」の解体と断定したこと。もうひとつは、魔女(魔男も含む)の定義をマレフィキウム(呪術)を行なうか否かに限定したことである。但し、多くの「魔女狩り」が被告の告発(誣告)のみで裁かれた(断罪された)事実は否定できないが…。「テンプル騎士団」については今野国雄の諸著作ならびに篠田雄次郎『聖堂騎士団』(中公新書、1976)および橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫、1994)などを参考にされたい。前掲の『魔女の社会史』は、ノーマン・コーンの『魔女狩りの社会史』についても言及された珍しい書物である。
7.フェミニズムの超克
かって「視差」で、私はアカデミック・フェミニズム理論について批判した。それは、セクシュアリティの部分を生物学的性差(sex)と社会的・文化的性差(gender)とを同列に捉えることで、マイノリティ(社会的弱者)を結集してマジョリティに変えようとする動機をみたからである。試みに上野千鶴子・江原由美子のセクシュアリティと私のそれとを比較するため、次のような図(〈図2〉)にしてみた。(あくまで、私の主観であるので、上野・江原両氏は異論があるかもしれない。)
     〈図2〉セクシュアリティのパラダイム
1998年10月16日、埼玉医大で、医療行為として日本初の性転換手術が行なわれた。患者は性同一性障害の30代の女性で、幼いころから女性の体であることに強い違和感を覚え、男性の肉体になることを望んでいたという。手術は、約6時間かけて子宮や卵巣を摘出し、乳房も切除された。近い将来には男性器を形成して性転換手術はすべて完了する。(『毎日新聞』1998年10月16日付夕刊)
ところで、性同一性障害を英語で何というか?sex identity disorder ではなく、gender identity disorderなのである。彼女(ではなく彼?)の場合、生物学的には、女性として生まれた。しかし、後天的に男性として生きることを望んだのである。従って、sexではなくgenderであると言われても納得がいく。問題は、生物学的に女性・男性と決めかねる場合にどう表現するか?sexなのかgenderなのか。最終的に本人の意思でどちらかの性が選択されるのだから、やはりgenderではないかと私は思う。そうなるとトランス・ジェンダー(社会・文化的性の越境)はあっても、トランス・セックス(生物学的性の越境)はない。つまり、人間→生物学的性差→社会的文化的性差のヒエラルキーは普遍である。
社会的文化的性差(gender)を、生物学的性差(sex)を飛び越して人間(humanbeing)に還元するのは危険だ。特に日本においては、「男女雇用機会均等法」から女性の深夜労働除外の条件を撤廃する論拠を提供することになる。
それでは、sexとは何か?産む性と産まない(産めない)性に二分するのは極論だろうか。近未来に人口子宮が発明されるとしても、今のところ両性生殖動植物の雄には出産は不可能である※。男女平等社会とは、この生物学的性差を踏まえた上で初めて成り立つ。
※1999年2月22日付『毎日新聞夕刊』で「男も妊娠可」の見出しで、"受精胚を内臓に着床、開腹手術で出産"のセンセーショナルな記事が掲載された。但し、男性が卵子を提供することは未だ不可能である。今後の医療科学技術の進歩の推移を見守りたい。
20世紀もあと数年を残すのみとなってなお、日本の社会では、欧米(とりわけ北欧)に比べ、格段に女性の地位が低い。1997年現在、合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子どもの数の平均)は1.39(この数字が2.06以上なければ、人口ピラミッドは逆三角形になる。)に落ち込んだ。選択肢が多いほど自由な社会といえるが、「子どもを産まない」選択肢を選んでもらっては困る。(外国から移民を受け入れればいいという意見もあろうが、まだ外国人の指紋押捺制度が残る国=日本である。)
百パーセント平等で同時に百パーセント自由な社会はありえない。とりあえずと言うと日和見主義と非難されるかもしれないが、とにかく平等を優先して女性が子どもを産みやすい環境を整えることが急務である。抽象論を展開しても始まらない。もっと具体的に述べよう。
1 育児休暇を増やし、所得と雇用の保障をする。
2 育児に父母が同等に参加できるように配慮する。
3 子どもの養育に関わる諸費用の公的負担を増やす。
4 上記3条件を実現するための社会資本(インフラストラクチュア)の整備。
この四項目を並べてみて、虚しくなった。今の日本はこれらすべてに逆行しているからだ。結局は政治の問題となる。経済も政治と密接に結びついている。
1989年のベルリンの壁崩壊、1991年のソ連の解体以降、マルクス・レーニン主義の社会主義国家が東欧で相次いで瓦解する一方で、西側では1999年2月現在、スペインとアイルランドを除いてほとんどが左派か若しくは中道・左派連合となった。かっての社会主義国家は繁栄を望んで資本主義を目指し、かっての資本主義国家はさらなる繁栄を求めて穏健ではあるが社会主義化しているのは、歴史の皮肉としか言いようがない。(梶田孝道『統合と分裂のヨーロッパ−EC・国家・民族−』岩波新書、1993参照)
日本とヨーロッパとの違いは政権交代の有無にある。山口二郎が指摘する小選挙区比例代表並立制の日本が、ドイツのように小選挙区比例代表併用制になったら政権交代が果たして可能になるのだろうか?(山口二郎『日本政治の課題−新政治改革論−』岩波新書、1997参照)そもそも、選挙制度を変えるのは国会議員である。政権交代がなければ、選挙制度が変わらないのなら、この議論は堂々巡りとなる。スウェーデン、ノルウェーなどで国会議員・大臣の約半数が女性だというのに、わが日本では1999年2月現在、女性大臣は野田聖子郵政相ただ一人とは前途暗澹たる思いがする。
8.結びにかえて
「はじめに」でおことわりしたにも拘らず、またもや歌舞伎と宝塚歌劇についてはほとんど触れることなく、この続編も終盤にきてしまった。次の機会には必ず本編を書き上げるつもりなので、ここに第2部〜第4部までの構想を以下改めて列挙しておきたい。
【1】第2部「女方と男装の麗人」では、歌舞伎の名女方(元禄時代に名を轟かせた初代芳沢あやめと現代の板東玉三郎)と日本における男装の麗人(川島芳子と水の江滝子)を比較し、さらに19世紀までのヨーロッパにおける女性の異性装の禁忌をその実態と併せて明らかにしたい。
【2】第3部「原作者と演者」では狂言作者河竹黙阿弥に焦点をあて、鶴屋南北と坪内逍遥を繋ぐ結接点としての役割と、近世から近代へかけて作者と役者の関係が歌舞伎においてどのように変化したか、また宝塚歌劇では、オペレッタ→レビュー→ミュージカルと変遷する80有余年の歴史において、石井鐵造と植田紳爾の演出家二人にスポットをあて、彼らが男役をどのように育てたかを「タカラジェンヌ」をキーワードとして探りたい。その際、少女マンガとの関連性についても触れるつもりである。
【3】第4部「見る性・見せる性」では、本稿の7でとりあげた生物学的性差とジェンダーによる異性装(トランスヴェスティズム)との関連を手がかりに、現代日本女性のメンタリティーとその根源に迫る。
[付記]
最初に記したように、拙稿「視差」(『京都精華大学紀要第14号』所収)に関しては、数多くの先学ならびに図書館司書の方々にお世話になった。浅学ゆえの過ちを数多く犯していると思われるが、すべて筆者の責に帰するものである。とりわけシェークスピアがご専門の辻英子氏には英国に「女優禁止令」はなかったこと、更にElizabeth Howe の The first English Actresses, Cambridge Univ. Press, 1992という興味深い本を紹介していただいた。17世紀のイングランドにおける女優の誕生史については石井達朗『異装のセクシュアリティ人は性をこえられるか』(新宿書房、1991)にハウとは違う見解が示されているが、ここにそれを論じる紙数は最早尽きた。
最後に日本の女子教育史に造詣が深い宮澤正典氏には旧制大学に女子大学生が存在したことを御教示いただいた。ひとえに不明を恥じるばかりである。その学恩に深謝申し上げるとともに、池井優『女子学生興国論』(共同通信社、1991)の一節を借りて、お詫びと訂正をかねることをお許し願いたい。
「男女共学」−それは当時の日本人にとって画期的な出来事であった。終戦直後の昭和二十年十二月、日本の閣議は占領政策受け入れの一環として「女子教育刷新要綱」を了解した。大学における男女共学制と女子専門学校、高等女学校の学科程度引き上げを定めたのである。〔中略〕それまで大半の大学では女子を受け入れておらず、旧帝国大学でも、特に優秀な女子に門戸を開いたのは、東北帝国大学など、ごくわずかにすぎず、東京帝大、京都帝大はもとより、私学を代表する慶應でも、女子は入学資格すら与えられていなかった。(因みに、宮澤氏によれば、同志社大学は戦前に於て女子に門戸を開いていた数少ない私立大学の一つだそうである※。)
※戦前(太平洋戦争前)において、既に女子大学生を受け入れた大学の端緒は、東北帝国大学で大正10(1921)年、次いで北海道帝国大学(農学部)が翌大正11(1922)年、私立大学では同志社大学が最も早く、大正13(1924)年に入学を許可している。なお、東京帝国大学でも女子学生の聴講を昭和3(1928)年に認めたが、この制度は定着しなかった。戦前において、大学令ではなく専門学校令において大学を名のることを許可された女子大学に東京女子大学および神戸女学院大学などがある。(以上、いずれも宮澤氏。なお詳しくは、上野直蔵編『同志社百年史・通史編1』pp.810811参照。)  
 

 

 
琉球の宗教 / 折口信夫

 

一 はしがき
袋中大徳タイチユウダイトコ以来の慣用によつて、琉球神道の名で、話を進めて行かうと思ふ。それ程、内地人の心に親しく享け入れる事が出来、亦事実に於ても、内地の神道の一つの分派、或は寧、其巫女教時代の俤を、今に保存してゐるものと見る方が、適当な位である。其くらゐ、内地の古神道と、殆ど一紙の隔てよりない位に近い琉球神道は、組織立つた巫女教の姿を、現に保つてゐる。
而も琉球は、今は既に、内地の神道を習合しようとしてゐる過渡期と見るべきであらう。沖縄本島の中には、村内の御嶽オタケを、内地の神社のやうに手入れして、鳥居を建てたのも、二三ある。よりあけ森の神・まうさてさくゝもい御威部オンイベに、乃木大将夫婦の写真を合祀したのが一例である。
国頭クニガミの大宜味オホギミ村の青年団の発会式に、雀の迷ひ込んだのを、此会の隆んになる瑞祥だ、と喜び合うたのは、近年の事である。此は、内地風の考へ方に化せられたので、老人仲間では、今でも、鳥の室に入ることを忌んでゐる。其穢れに会ふと、一家浜下ハマウりをして、禊いだものである。併しながら、宗教の上の事大の心持は、此島人が昔から持つてゐた、統一の原理でもあつた。甚しい小異を含みながら、大同の実を挙げて、琉球神道が、北は奄美アマミの道の島々から、南は宮古、八重山の先島々サキジマ/\まで行き亘つてゐる。
二 遥拝所――おとほし
琉球の神道の根本の観念は、遥拝と言ふところにある。至上人の居る楽土を遥拝する思想が、人に移り香炉に移つて、今も行はれて居る。
御嶽拝所オタケヲガンは其出発点に於て、やはり遥拝の思想から出てゐる事が考へられる。海岸或は、島の村々では、其村から離れた海上の小島をば、神の居る処として遥拝する。最有名なのは、島尻シマジリに於ける久高クダカ島、国頭クニガミに於ける今帰仁ナキジンのおとほしであるが、此類は、数へきれない程ある。私は此形が、おとほしの最古いものであらうと考へる。
多くの御嶽オタケは、其意味で、天に対する遥拝所であつた。天に楽土を考へる事が第二次である事は「楽土」の条クダりで述べよう。人をおとほしするのには、今一つの別の原因が含まれて居る様である。古代に於ける遊離神霊の附著を信じた習慣が一転して、ある人格を透して神霊を拝すると言ふ考へを生んだ様である。近代に於て、巫女を拝する琉球の風習は、神々のものと考へたからでもなく、巫女に附著した神霊を拝むものでもなく、巫女を媒介として神を観じて居るものゝやうである。
琉球神道に於て、香炉が利用せられたのは、何時からの事かは知られない。けれども、香炉を以て神の存在を示すものと考へ出してからは、元来あつたおとほしの信仰が、自在に行はれる様になつた。女の旅行者或は、他国に移住する者は、必香炉を分けて携へて行く。而も、其香炉自体を拝むのでなく、香炉を通じて、郷家の神を遥拝するものと考へる事だけは、今に於ても明らかである。また、旅行者の為に香炉を据ゑて、其香炉を距てゝ、其人の霊魂を拝む事すらある。だから、村全体として、其移住以前の本郷の神を拝む為の御嶽拝所オタケヲガンを造る事も、不思議ではない。例へば、寄百姓で成立つて居る八重山の島では、小浜島から来た宮良メイラの村の中に、小浜おほんと称する、御嶽オタケ類似の拝所をおとほしとして居り、白保スサブの村の中では、その本貫波照間ハテルマ島を遥拝する為に、波照間おほんを造つて居る。更に近くは、四箇しかの内に移住して来た与那国ヨナクニ島の出稼人は、小さな与那国おほんを設けて居る。
此様におとほしの思想が、様々な信仰様式を生み出したと共に、在来の他の信仰と結合して、別種の様式を作り出して居る所もあるが、畢竟、次に言はうとする楽土を近い海上の島とした所から出て、信仰組織が大きくなり、神の性格が向上すると共に、天を遥拝する為の御嶽拝所オタケヲガンさへも出来て来たのである。だから、御嶽オタケは、遥拝所であると同時に、神の降臨地と言ふ姿を採る様になつたのである。
三 霊魂
霊魂をひつくるめてまぶいと言ふ。まぶりの義である。即、人間守護の霊魂が外在して、多くの肉体に附著して居るものと見るのである。かうした考へから出た霊魂は多く、肉体と不離不即の関係にあつて、自由に遊離脱却するものと考へられて居る。だから人の死んだ時にも、肉霊を放つまぶいわかしと言ふ巫術が行はれる。又、驚いた時には、魂を遺失するものと考へて、其を又、身体にとりこむ作法として、まぶいこめすら行はれて居る。
大体に於て、まぶいの意義は、二通りになつて居る。即、生活の根本力をなすもの、仮りに名付くれば、精魂とも言ふべきものと、祟タヽりをなす側から見たもの、即、いちまぶい(生霊)としにまぶい(死霊)とである。近世の日本に於ては、学問風に考へた場合には、精魂としての魂を考へることもあるが、多くは、死霊・生霊の用語例に入つて来る。
けれども古代には、明らかに精霊の守護を考へたので、甚しいのは、霊魂の為事に分科があるものとした、大国主の三霊の様なものすらある。
但、琉球のまぶいは、魂とは別のものと考へられて居る。魂は、才能・伎倆などを現すもので、鈍根な人を、ぶたましぬむうんと言ふのは、魂なしの者、即、働きのない人間と言ふ事になつて居る。又、たまと言ふ語ことばを、人魂或は庶物の精霊に使用する例は、恐らく日本内地から輸入したもので、古くは無かつたものと思ふ。強ひて日琉に通ずる、たまの根本義を考へると、一種の火光を伴ふものと言ふ義があるやうである。
精霊の点トモす火の浮遊する事を、たまがり=たまあがりと言ふのは、火光を以て、精霊の発動を知るとした信仰のなごりで、その光其自らが、たまと言はれた日琉同言の語なのであらう。だからもとは、まぶいは守護霊魂が精霊の火を現したのが、次第に変化して、霊魂そのものまでも、たまと言ふ日本語であらはす事になつたのであらう。そして、魂が火光を有もつと言ふ考へを作る様になつたと思はれるのである。
此守護霊を、琉球の古語に、すぢ・せぢ・しぢなど言うたらしい。近代に於ては、すぢ或は、すぢゃあは、人間の意味である。其義を転じて、祖先の意にも用ゐてゐる。普通の論理から言へば、すぢゆん即、生れるの語根、すぢから生れるものゝ義で、すぢゃあが人間の意に用ゐられる様になつたのだ、と言ふことが出来よう。然しながら、更に違つた方面から考へれば、すぢが活動を始めるのは、人間の生れることになるのだから、すぢを語根として出来たすぢゆんが、誕生の動詞になつたとも見られよう。其点から見ると、すぢゆんは、生るの同義語であるに拘らず、多くは、若返る・蘇生するなどに近い気分を有つて居るのは、語根にさうした意味のあるものと思はれる。後に言ふ、聞得大君御殿チフイヂンオドンの神の一なる、おすぢの御前は、唯、神と言ふだけの意味で、精しくは、金のみおすぢ即、金の神、或は米の神、或は楽土(かない)の神と言ふ位の意味に過ぎない。而も其もとは、霊魂或は、精霊と言ふ位の処から出て居るのであらう。琉球国諸事由来記其他を見ても、すぢ・せぢ・ますぢなどを、接尾語とした神語がある。柳田国男先生は、此すぢをもつて、我国の古語、稜威イツと一つものとして、まな信仰の一様式と見て居られる。
とにかく、近代の信仰では、すべてが神の観念に飜訳せられて、抽象的な守護霊を考へる事が、出来なくなつて居る。けれども、長く引続いて居る神人礼拝の形式を溯つて見ると、さうした守護霊の考へられて居た事は、明らかである。
沖縄に於ては、妹オナリをがみ・巫女ノロをがみ・親オヤをがみ・男オメケリをがみ等の形を残して居る。
おもろさうし巻二十二、てがねまるふしに、
きこゑ大きみが おぼつ、せぢ、おるちへ あんじ、おそいよみまぶて
と言ふ歌がある。此意味は
名にひゞく天子がことを言はむ。楽土なるせぢをおろして、大君主をみまもりてあらむ。
と言ふ位の意味である。此を見ても、せぢが神でなく、守護霊であることは、考へられる。又、くわいにやの例として、伊波普猷氏が引かれた、久高クダカ島のものには、かういふものがある。
にらいどに、おしよけて かないどに、おしよけて のろがすぢ、せんどう、しやうれ 主がすぢ、せんどう、しやうれ きみがおすぢ、みおんつかひ、をがま しゆうがおすぢ、みおんつかひ、をがま
此意味は、
楽土への渡りどに、大船おしうけてあれば、此船に祈る巫女のすぢよ、せんどう、しませ。天子のすぢよ、船頭しませ。われはかくして、女君のおすぢを、をがみ迎へむ。天子のおすぢを、をがみ迎へむ。
と言ふ意味であらうが、此は、巫女を拝み、君主を拝む事に因つて、それ/″\のすぢを拝む事になるので、古くから、此すぢと、すぢのつく人との間に、区別が著しくは立つて居らないのである。畢竟、我国古代の、あきつかみと言ふ語も、此すぢを有つ天子を、すぢ自身とも観じたのである。即、主がおすぢと同じことになる。但あきつかみに於ては、其すぢが、神に飜訳せらるゝほどに、日本の霊魂信仰が、夙つとに変化して居つたことを示して居る。
四 楽土
琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内ギライカナイである。さうして、其処の主宰神の名は、あがるいの大神オホヌシといふ。善縄大屋子ヨクツナウフヤコ、海亀に噛まれて死んだ後、空に声あつて、ぎらいかないに往つた由、神託があつた。而も、大屋子ウフヤコの亡骸は屍解してゐたのである。天国同時に、海のあなたといふ暗示が此話にある様である。(国学院大学郷土研究会での柳田先生の話)
昔の書物や伝承などから、楽土は、神と選ばれた人とが住む所とせられたやうである。六月の麦の芒ノギが出る頃、蚤の群が麦の穂に乗つて儀来河内ギライカナイからやつて来ると考へられてゐる。此は、琉球地方では蚤の害が甚しい為、其が出て来るのを恐れるからである。儀来河内は、善い所であると同時に悪い所、即、楽土と地獄と一つ場所であると考へ、神鬼共存を信じたのである。
儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。国頭クニガミ地方ではまだ、儀来ギライに海の意味のあることを忘れずにゐる。謝名城ジナグスク(大宜味オホギミ村)の海神祭ウンジヤミのおもろには「ねらやじゆ〔潮〕満サすい、みなと〔湊〕じゆ満ミチゆい……」とあつて、沖あひの事を斥さすらしい。那覇から海上三十海里にある慶良間ケラマ群島も洋中遥かな島の意らしく思はれる。かないは、沖に対する辺で、浜の事ではなからうか。かな・かねで海浜を表す例が多いから。つまりは、沖から・辺からと言ふ対句が、一語と考へられて、神の在います遥かな楽土と言ふ事になつたのであるまいか。さうして其儀来河内ギライカナイから、神が時を定めて渡つて来る、と考へてゐる。其場合、其神の名をにれえ神がなしと称へてゐる。
先島では、にいるかないを地の底と考へてゐる。にいるに、二色を宛てゝゐる。毎年六七月の頃、のろの定めた干支の日、にいるかないから二色人ニイルピトが出て来ると言ふ信仰が、八重山を中心として小浜・新城・古見の三島に行はれてゐる。石垣イシガキ島の宮良メイラ村には、なびんづうと言ふ洞穴があつて、祭りの日には、此穴から二色人ニイルピトが現れて来ると言はれてゐる。
此祭りは、少年を成年とする儀式で、昔は二色人ニイルピトが少年に対むかつて色々の難題を吹きかけたり、踊らしたりしたといふ。にいるぴとは、それ/″\赤と黒との装束をしてゐたので、二色人と言うたのだと言ふが、他の島では一定した色はない。今は二色人を奈落人と考へてゐる。沖縄の言葉は、日本語と同じく、語部に伝誦せられた神語・叙事詩から出たものが多い。だから、対句になつてゐる儀来河内ギライカナイも其例の一つと見てよい。
沖縄本島から北の鹿児島県に属する道の島々並びに、伊平屋イヘヤ島に亘つては、其浄土を、なるこ国・てるこ国と言うてゐる。其処から来る神の名を、なるこ神・てるこ神(又、ちりこ神)と言ふ。なるこは勿論、にらい系統の語であらう。此伊平屋イヘヤ島は南北の島々の伝承を一つに集めてゐる様に見える場所で、沖縄本島近辺と同じく、にらいかないを信じ、にらい神・かないの君真者キムマムンの名を言ふと共に、なるこ神・てるこ神を言ふ。其ばかりか、まやの神・いちき神といふ名称をさへ、右の海を渡つて来る神に、命ナヅけてゐる。
まやの神は、石垣島で六月の頃行ふ穂利フリの祭りの日に、ともまやの神を連れて家々を祝福して歩く神である。此神には勿論、村の青年が仮装するのであるが、村人は、神である事を信じてゐる。手四箇では盆の四日間にあんがまあが来る。もとは芭蕉の葉で面を裹つつんでゐたが、今は許されなくなつて薄布を以てする。また、老人の神うしゅめい(おしゅまい)・老婆の神あつぱあに連れられて来る亡者の群もある。此等は皆、同一系統のもので、後生グシヨから来ると言ふ。後生グシヨは、地方に依つては墓の意味に用ゐられてゐる。まやの神は、何処から来るか、訣らない。まやには猫の義があるが、此処ではそれではないらしく、土地の名であらう。此信仰は台湾に亘つて、阿里山蕃族が、ばく/″\わかあ山或はばく/″\やまから出て、分れて一つはまやの国へ行つたと言ふ伝説があるから、琉球の南方でも、恐らくまやを楽土と観じてゐたのであらう。
なるこ・てるこは、北方即すなはち道の島風であり、まや・いちきは南方、先島サキジマ風の呼び名である。而も更に驚くのは、やはり右の渡り神を、場合によつては、あまみ神とも言うてゐる事である。あまみは、言ふまでもなく、琉球の諾冉二尊とも言ふべきあまみきょ・しねりきょの名から来てゐるのである。あまみきょ・しねりきょは、沖縄本島の東海岸、久高クダカ・知念チネン・玉城タマグスク辺に、来りよつたと言ふ事になつてゐるが、其名はやはり、浄土を負うてゐるものと見られる。ぎょ・きょう・きゅうなどは、人チユから出た神の接尾語で、あまみ・しねりが神の国土の名である。其を実在の島に求めて、奄美アマミ大島の名称を生んだものであらう。しねりに、儀来(ぎらい・じらい)との関係が見えるばかりか、あまみのあまには、儀来同様、海なる義が窺はれるのである。
決して合理的な解釈を下す事は出来ない。北方、奄美アマミ大島から来た種族が、沖縄の開闢をなしたと考へるのは、神話から孕んだ古人の歴史観を、其儘に襲うた態度である。あまみ・しねりは、やはりにらい・かない、なるこ・てるこ同様に、信仰の上の理想国に過ぎないのであらう。まや・いちきと言ふ語も、同音聯想は違つた説明をも導く様であるが、やはり南方での、儀来河内ギライカナイなのであらう。楽土の主神の名のあがるいは、東方アガリと言ふ意を含んでゐる。東海の中に、楽土を観じた沖縄本島の人の心持ちが見える。
此外に尚一つ、天国の名として、おぼつかぐらと言ふのがあつた様である。混効験集には「天上の事を言ふ。いづれも首里王府神歌御双紙に見ゆ」とある。天帝(太陽神)の居る天城で、あまみきょ・しねりきょも其処から来たものである。併し、此も「……雨欲しやに、水欲しやに、おぼつ通ちへ、かぐら通ちへ、にるやせぢ、かなやせぢ、まきょにあがて、くたにあがて……」などあるのを見ると、此語のなりたちも、大体は想像がつく。
屍解して昇天する話は、限りなくある。此は選ばれた人ばかりが、儀来河内ギライカナイに入るとせられた考へから出たのである。善縄大屋子ヨクツナウフヤコの様なのもあるが、大抵は神人の上にある事なのである。のろに限つて、洗骨せぬ地方もあり、洗骨しても多くは、家族と同列に骨甕を列べないのを原則としてゐるのは、屍解昇天する人と然らざる者とを区別したので、若し此に反くと、神人昇天出来ぬ為に、祟る事があると考へられてゐたのであらう。此事は我内地の文献にも、同様の例を留めてゐる。
五 神々
琉球の神々を、天神と海神とに分つ。此等に関した文書は、琉球神道記の他に、球陽がある。球陽を漢訳したものが、中山世鑑である。
琉球の王室で祀つた神を、君真者キムマムンと言ふ。真者マムンとは、尊者の称呼である。此を正しい文法にすると、真者君と言ふことである。琉球の神々と、内地の神々との最甚しい差異点は、琉球の神々は、時々出現することである。此出現を、新降(あらふり)と言ふ。球陽の説では、君真者キムマムンは、天神と海神との二つで、色々の神々を、此二つに分類して居る。此神々は、年に一度出現する神もあれば、三十年に一度出現する神もあり、一年の間に度々出現する神もある。其中で、最著しい神は、与那原ヨナバルのみおやだいり(御公事)の神である(中山世鑑)。この神は、琉球の王廟の中に祭祀する。其祭祀する者は、此国第一位の女神官である。天子の代の替る毎に、聞得大君チフイヂンが出来る。首里より一里程海岸の与那原ヨナバルに聞得大君が行く時に、与那原のみおやだいりの神が現れる。みおやだいりは、其神に奉仕するのであつて、其祭りに奉仕する時は、此を神と認めて儀礼を行ふのである。
毎年、夏の盛りに出現する神を、きみてすりと言ふ。此神は、仕官を司る神で、沖縄本島の北方にある辺土(ふいど)に出現する。此神の出現する時は此御嶽に神の笠が降オり、其附近の今帰仁ナキジンにも笠が降りる。此笠をらんさんと言つてゐる。此は、天蓋の如きもので、其を樹てると、神その蔭に現ると信じて居る。此らんさんの天降(あふり又はあほり)の時に言ふ言葉を、おもろと言ふ。柳田先生は、あふりとおもろと、同一であらうと説明されて居る。此おもろが、朝廷に伝はり、地方にも自然的に伝播する。即、地方の神官の家には、代々伝へられて、保存せられてゐた。
此を考へて見ると、太陽信仰の存する処には、笠はつきものなのである。琉球の大切な神を、おちだがなしと言ひ、ちだと略称して居る。台湾には、みさちだと言ふ太陽神がある。笠の観念は、月が暈かさを着ると言ふ信仰によるものと、尊い神に直接あたらぬ様にすると言ふ、二つの信仰が、合したものであるらしい。
琉球の女官・后・下々の女官・神職に到るまでの事柄は、女官御双紙に載つて居る。神職の名前の中で、今帰仁ナキジンの神職に、あふりあぇと称して居る者がある。又一地方に、さすかさのあじと言ふ者がある。あじは按司(朝臣)であると言ふ。あふりはおらんさんの事で、さすかさも、翳サし蔽ふ笠の事だと言ふ説がある。笠が最後に王城の庭に樹ち、王始め群臣の集つて見て居る前で、おらんさんが、三十余り立つて踊る。即、人間が神の姿を装うて居るのだが、其間は、すべての人間は、其仮装者に神格を認め、仮装者自身も、其間は神であると言ふ信念を有つて行動するのである。
島尻郡の知念チネンには、昔、うふぢちう(大神宮)と言ふ人があつた。ちうとは、睾丸の義で、うふぢは大の義である。此人の子が、また、大豪傑であつた。うふぢちうの死後棺の蓋を取つて見ると、屍体は失くなつて居て、柴の葉が残つて居た。此は、昇天したのだと言うて居る。此人は、琉球神道記によると、実在の人物ではなく、海神であると見えて居る。此海神は、大きな睾丸を有つて居て、肩に担いで歩く。此頃では、国頭郡の方へ行つて居ると言ふ。どう言ふ訣か、解説に苦しむ事柄である。此海神の子孫が、現在字あざをなして残つて居る。
正式に首里王朝で認めて居る神の中に、変な神がある。其神の根本は、天から来る神と、海から来る神とに分つが、先島サキジマ辺りは、此分け方は、行はれて居ない。此分け方は、民間信仰に基礎を置いたものであるが、島々の見方によると、多少の相違がある。琉球では、太陽神の他に、自然崇拝そのまゝの形を残して居る。それ故恐しい場所、ふるめかしい場所、由緒ある場所は、必、御嶽オタケになつて居る。自分の祖先でも、七代目には必神になる。中山世鑑は、七世生神と書いてゐる。此は、死後七代目にして神となると言ふことである。以前には、人が死ぬと、屍体を、大きな洞窟の中へ投げこんで、其洞窟の口を石で固め、石の間を塗りこんだものであるが、此習はしが次第に変化して、墓を堅固に立派にするやうになつた為に、墓を造つて財産を失ふ人が多くなつた。七代経つと、其洞の中へは屍を入れないで、神墓(くりばか)と称し、他の場所へ、新墓所を設ける。神墓クリバカは拝所となる。此拝所ををがんと言ふ。時代を経るに従つて、他の人々も拝する様になる。此拝所ヲガンが、恐しい場所になつて来る。拝所ヲガンを時々発掘すると、白骨が出て来る。此を、骨霊コチマブイと言ふ。
琉球神道の上に見える神々は、現にまだ万有神である。恐しいはぶは、山の神或は、山の口(蝮クチか)として、畏敬せられ、海亀・儒艮ジユゴン(ざん=人魚)も、尚神としての素質は、明らかに持つてゐる。地物・庶物に皆、霊があるとせられ、今も島々では、新しい神誕生が、時々にある。
而も其中、最大切に考へられてゐるのは、井カアの神・家の神・五穀の神・太陽神・御嶽の神・骨霊コチマブイなどである。大体に於て、石を以て神々の象徴と見る風があつて、道の島では、霊石に、いびがなし〔神様〕といふ風な敬称を与へてゐる処もある。又一般に、霊石をびじゅるといふのも「いび」を語根にしてゐるので、琉球神道では、石に神性を感じる事が深く、生き物の石に化した神体が、沢山ある。井カアの神として、井の上に祀られてゐるものは、常に変つた形の鐘乳石である。此をもびじゅると言うてゐる。ある人の説に、びじゅるは海神だとあるが、疑はしい。家の神の代表となつてゐるのは、火の神カンである。此亦、三個の石を以て象徴せられて、一列か鼎足形かに据ゑられてゐる。巫女の家や旧家には、おもな座敷に、片隅の故ことさらに炉の形に拵へた漆喰塗りの場処に置く。普通の家では、竈の後の壁に、三本石を列べて、其頭に塩・米などの盛つてあるのを見かける。火の神の祭壇は、炉であつて、而も家全体を護るものと考へられてゐるのである。家があれば、火の神のない事はなく、どうかすれば、神社類似の建造物の主神が皆、火の神である様に見える。巫女の家なる祝女殿内ノロドノチ、一族の本家なる根所ネドコロの殿トオン、拝所になつてゐる殿トオン、祭場ともいふべき神あしゃげ、皆火の神のない処はない。併し恐らくは、火の神の為に、建て物を構へたのは一つもなく、建て物あつて後に、火の神を祀る事になつたので、某々の家の宅ヤカつ神、と考へて来たのに違ひない。
火の神と言ふ名は、高級巫女の住んでゐる神社類似の家、即、聞得大君御殿チフイヂンオドン・三平等ミヒラの「大阿母ウフアムしられ」の殿内トヌチでは、お火鉢の御前オマヘと言ふ事になつて居た。
尚シヤウ王家の宗廟とも言ふべき聞得大君御殿チフイヂンオドン並びに、旧王城正殿百浦添モンダスイの祭神は、等しく御日オチダ・御月オツキの御前オマヘ・御オ火鉢の御前オマヘ(由来記)であるが、女官御双紙オサウシなどによると、御オすぢの御前オマヘ・御火鉢の御前オマヘ・金の美御ミオすぢの御前オマヘの三体、と言ふ事になつて居る。伊波普猷氏は、御オすぢの御前オマヘを祖先の霊、御火鉢の御前オマヘを火の神、金の美御すぢを金属の神と説いて居られる。前二者は疑ひもないが、金の美おすぢは、日月星辰を鋳出した金物の事かと思はれる節〔荻野仲三郎氏講演から得た暗示〕がある。併し語どほりに解すると、かねは、おもろ・おたかべの類に、穀物の堅実を祝福する常套語で、又かねの実ミともいふ。みおすぢの「み」が「実ミ」か「御ミ」かは判然せぬが、いづれにしても、穀物の神と見るべきであらう。或は、由来記を信じれば、月神が穀物の神とせられてゐる例は、各国に例のあること故、御月オツキの御前オマヘに宛てゝ考へることが出来さうである。
御すぢの御前は、琉球最初の陰陽神たるあまみきょ・しねりきょの親神なる太陽神即、御日オチダの御前オマヘを、祖先神と見たのだと解釈せられよう。琉球神道の主神は、御日オチダの御前オマヘで、やはり太陽崇拝が基礎になつてゐる。国王を、天加那志チダカナシ(又は、おちだがなし、首里ちだがなし)と言ふのも、王者を太陽神の化現即、内地の古語で言へば、日のみ子と見たのであるらしい。
祖先崇拝の盛んな事、其を以て、国粋第一と誇つてゐる内地の人々も、及ばぬ程である。旧八月から九月にかけて、一戸から一人づゝ、一門中一かたまりになつて遠い先祖の墓や、一族に由緒ある土地・根所、其外の名所・故跡を巡拝して廻る神拝みと言ふ事をする。首里・那覇辺から、国頭クニガミの端まで出かける家すらある。単に此だけで、醇化せられた祖先崇拝と言ふ事は出来ない。常に其背後には、墓に対する恐怖と、死霊に対する諂コび仕への心持ちが見えてゐる。
六 神地
琉球神道では、神の此土に来るのは、海からと、大空からとである。勿論厳密に言へば、判然たる区別はなくなるのであるが、ともかく此二様の考へはある様である。空から降ると見る場合を、あふり・あをり・あもりなど言ふ。皆天降アモりと一つ語原である。山や丘陵のある場合には、其に降るのが、古式の様だが、平地にも降る事は、間々ある。但、其場合は喬木によつて天降るものと見たらしい。蒲葵クバ(=びらう)の木が神聖視されるのは、多く此木にあふりがあると見たからである。蒲葵の木が、最神聖な地とせられてゐる御嶽オタケの中心になり、又さなくともくば・こぼう・くぼうなど言ふ名を負うた御嶽の多いのは、此信仰から出たのである。
神影向の地と信じて、神人の祭りの時に出入でいりする外、一切普通の人殊に男子を嫌ふ場処が、御嶽オタケである。神は時あつて、此処に凉傘リヤンサンを現じて、其下にあふるのである。首里王朝の頃は、公式に凉傘リヤンサンの立つ御嶽と認められて居たものは、極つて居た。併し、間切々々マギリ/″\の御嶽の神々も、凉傘リヤンサンを下してあふるのが、古風なのである。御嶽のある地を、普通森モリといふ。「もり」は丘陵の事である。高地に神の降るのが原則である為の名に違ひない。其が、内地の杜モリと同じ内容を持つ事になつたのである。
神は御嶽オタケに常在するのではないが、神聖視する所から、いつでも在イマす様に考へられもする。内地の杜々モリ/\の神も、古くは社を持たなかつたに相違ない。三輪の如きは「三輪の殿戸」の歌を証拠として、社殿の存在した事を主張する人も出て来たが、あの歌だけでは、此までの説を崩すまでにはゆかぬ。杜モリ・神南備カムナビなどは、社殿のないのが本体で、社あるは、家ヤカつ神ガミ或は、梯立で昇り降りするほくらの神から始まるのである。社ある神と、ない神とが、同時に存在したのは、事実である。社殿に斎いつかなかつた神は、恐らく御嶽と似た式で祀られてゐたものであらう。
処によつては、極めて稀に、御嶽の中に、小さな殿を作つてゐる処もある。此は必、祭儀の必要から出来たもので、神の在り処でないであらう。
御嶽は、神人カミンチユの外は入れない地方と、女ならば出入を自由にしてあるところとがある。女には、神人となる事の出来る資格を認めるからと思はれる。どの地方でも、男は絶対に禁止である。島尻の斎場サイフア御嶽でも、近年までは、女装を学ばねば這入れぬ事になつてゐた。
大きな御嶽オタケなら、其中に、別に歌舞アソビをする場処がある。久高の仲の御嶽オタケの如きが其である。併し多くは、其為に神あしゃげがある。
神あしゃげ多くは、神あさぎと言ふ。神あしあげの音転である。建て物の様式から出た名であらう。此建て物は、原則として、柱が多く、壁はなく、床を張らぬ事になつてゐる。天地根元宮造りの、掘ホつ立ての合掌式の、地上に屋根篷トマの垂れたのから、一歩進めたものであらう。古式なのは、桁行ケタユキ長く、梁間ハリマの短い三尺位の高さのもので、地に掘つ立てた数多い叉木マタギで、つき上げた形に支へられてゐる。つまり伏せ廬の足をあげたものであるからの名と思はれる。此式は国頭クニガミ地方に多いが、外の地方は、大抵屋根は瓦葺き、柱は厚さの薄い物に、緯ヌキを沢山貫いて、柱間一つだけを入り口として開けてゐる。勿論丈も高くなつて、屈むに及ばない。中はたゝきになつて居て、一隅に火の神の三つ石を、炉の形にした凹みに据ゑてある。大抵御嶽オタケからは遠く、祝女殿内ノロドンチからは近い。御嶽オタケに影向あつたり、海から来た神を迎へて、此処で歌舞アソビをする。其中では、祝女ノロを中心に、根神おくで其他の神人カミンチユが定まつた席順に居並ぶ。其中のあすびたもとと言ふ神人カミンチユが、のろ等の謳ふ神歌オモロ(おもろ双紙の内にあるものでなく、其地方々々の神人の間に伝承してゐるもの)で、舞ふのである。舞ふのは勿論、右のあしゃげ庭ナアと言ふ建て物の外の広場でゞある。又、唯あしゃげとばかり言ふ建て物がある。此は、根所々々の先祖を祀つてゐる建て物で、一軒建ちの、住宅と殆ど違ひのない、床もかいてある物である。此は正しくは、殿と言ふべきもので、根所之殿・里主所之殿など、書物にあるのが、其であらう。
殿トノ(又、とん)と言ふのにも、色々ある。右のやうな殿もあり、又、祝女殿内ノロドンチ(ぬるどのち=ぬんどんち)の様に、祝女の住宅を斥サす事もある。が、畢竟、神を斎いてあるからの名で、なみの住宅には、殿とは言はぬ。琉球神道では、旧跡を重んじて、城趾・旧宅地などの歴史的の関係ある処には、必殿を建てゝ、祭日にのろ以下の神人の巡遊には、立ちよつて一々儀式がある。
殿・あしゃげと区別のない建て物か、又建て物なしに必拝む場処がある。其が海中である事も、道傍の塚である事も、崖の窟ガマである事もある。総称してをがんといふ。拝所即をがみである。
人形遣ひをちょんだらあと言ひ、其子孫を嫌つてゐるが、此に似て一種の特殊部落の如きねんぶつちゃあと言ふのが、首里の石嶺に居る。此は葬式の手伝ひをし、亦人形を遣ふ。人形を踊らせる箱をてらと称するが、内地のほこらと同じやうなもので、寺とは全く違うてゐる。
七 神祭りの処と霊代と
神の目標となるものは香炉である。建築物の中には、三体の火の神カンが置かれてあると同様に、神の在す場所には、必香炉が置いてある。それ故、その香炉の数によつて、家族の集合して居る数が知れる。琉球の遊廓へ、税務所の官吏が出張して尾類ズリ(遊女)の数を見定めるには、竈の側に置いてある香炉の数で知る事が出来ると言ふ。
香炉は、其置く場所を、臨時に変へることは出来ない。女は各自、必香炉を所有して居る。女には、香炉は附き物である。香炉がなければ、神の在る所がわからない。其ほど、香炉に対する信仰がある。形は壺の如きものや、こ穢い茶碗の縁の欠けた物等が、立派に飾られてある。香炉がある所には、神が存在すると信じて居る故、香炉が神の様になつて居る。拝所には、幾種類もの香炉がある。八重山のいびと言ふ語は、香炉の事であると思ふが、先輩の意見は各異つて居る。
八重山には、御嶽に三つの神がある。又、かみなおたけ・おんいべおたけと言ふのがある。八重山のみ、いび又はいべと言ふ事を言ふが、他所のいびとうぶとは異つて居る。うぶは、奥の事である。沖縄では、奥武と書いて居る。どれがいびであるか、厳格に示す事は出来ないが、うぶの中の神々しい神の来臨する場所と言ふ意味であると思ふ。八重山の老人の話では、御嶽のうぶではなくて、門にある香炉であると言つて居る。即、香炉を神と信ずる結果、香炉自体をいびと言ふのである。処が火の神にも香炉がある。中には香炉だけの神もあるが、要するに自然的に香炉を神と信じて居る。其香炉が、又幾つにも分れる。香炉が分れるけれども、分れたとは言はないで、彼方の神を持つて来たと言ふ、言ひ方をする。つまり、嫁に行つたり、比較的長い間家を出て居るものは、香炉を作つて持つて行く。尾類ズリ(遊女)は、此例によつて、香炉を各自持参するのである。
沖縄には、遥拝所がある。三平ミヒラの大阿母ウフアムしられの殿内ドンチ即、南風ハエの平ヒラには首里殿内シユンドンチ、真和志の比等ヒラには真壁殿内マカンドンチ、北ニシの比等ヒラには儀保殿内ギボドンチなる巫女の住宅なる社殿を据ゑ、神々のおとほしとして祀つてある。即、遠方より香炉を据ゑて、本国の神を遥拝するのである。此遥拝する事から、色々の問題が出て来る。例へば、祝ノロの家にも香炉があり、御嶽にも香炉がある。のろは、家の香炉に線香を立てゝ御嶽に行く。時によると、香炉を中心にして社を造る事がある。沖縄の辺でも、久高島を遥拝する為に、べんが御嶽を作つて居り、八重山の中でも、よなぎ島より来た人々は、よなぎおほんを作り、宮良村では、小浜村より渡来したのであるから、小浜おほんを作り、各香炉を据ゑて、遥拝所として居る。又、白保スサブ村の波照間おほんの如きも其である。此等は皆、御嶽に属して居るけれども、個人で言へば、尾類ズリが竈に香炉を置いて遥拝するのと同様である。
一族の神を祀るは、女の役目である。其家の香炉を拝するのは、其家の女であると言ふ観念が先入主となつて、女の旅行には必、此香炉を持つて行く。此は男にはよく訣らないが、女は秘密裡に此等を保存して居る。家によると、香炉が沢山ある所がある。中には、理由の訣らぬ香炉が出て来る。大昔、其家を造つたと称する者の香炉が二つある。嫁した娘の若死によつて、持つて行つた香炉が戻つて来る。さうして居る間に、何年も経ると理由の訣らぬ香炉が出来て来る。八重山では、香炉の格好が大分異つて来る。香炉に、ふんじんと、かんじん(又はこんじん)の二種類がある。ふんじんは、其家の分れて後の先祖を祀るもので、本神とも言ふ意味である。こんじんの名義は不明である。かんじんは、女でなければ触れる事すら出来ない。其に供へた物は、女のみが食し得るものである。此は女でなければ、供へ物をする事は出来ないと言ふ意味である。かんじんは、女の人の喰べ余りと言ふ解釈にもなる。かんじんは、女の嫁入りする時に持つて行く。而して、仏壇が別である。ふんじんは男も拝する事が出来るけれども、かんじんは女の専有物である。
沖縄本島では、自分の家の香炉を有つて来ても、別の場所に置いてある。自分の家の神は亭主が祀つてもよいが、嫁の持つて来た香炉は、女以外の人間の、全くどうする事も出来ないものである。こんじんは、根神より出たものではなからうかと思ふ。
八 色々の巫女
琉球の神話では、天地の初め、日の神下界を造り固めようとして、あまみきょ・しねりきょに命じて、数多くの島を造らせた。それが後の有名な御嶽或は、森となつた。さうして其二柱の産んだ三男・二女が、人間の始めとなつてゐる。長男は国主の始め、二男は諸侯の始め、三男は百姓の始め、長女は君々キミ/″\の始め、二女は祝々ノロ/\の始めと称せられてゐる。
のろは、始終ゆたと対照して考へられる所から、君々キミ/″\はゆたの元と考へられ勝ちであるが、男の方でも、三つの階級に分けて考へてゐる以上、女の方も亦、上級・下級二組の区別を見せたものと見てよいはずである。君キミと祝ノロとは、女官御双紙を見ても知れるやうに、琉球の女官と言ふ考へには、普通の后妃・嬪・夫人以下の女官と聞得大君キコエウフキミ・島尻の佐司笠按司サスカサアジ・国頭の阿応理恵按司アオリヱアジなどの神職を等しく女官として登録してゐる。思ふに君キミと言ふのは、右の三神職の外に、首里三比等ミヒラの大阿母ウフアムしられ其他、歴史的に意味のついてゐる地方の大阿母ウフアム・阿母加奈志アンガナシ(伊平屋島)・君南風ミキハエ(久米島)など言ふ重い巫女たちを斥すものであらう。君南風キミハエは、南君と言ふのと同じ後置修飾格で、南方に居る高級巫女の意である。毎年十二月、君々キミ/″\御玉改めと言ふ事があつて、三平等ミヒラの大阿母ウフアムしられの玉かわら(巫女のつける勾玉)を調べたよし、由来記に見えてゐる。又、君キミに三十三人あつた事は、女官御双紙に出てゐる。君々キミ/″\の祖、祝々ノロ/\の祖とあるのは、巫女の起原を説いたので、巫女に高下あるのは、其祖の長幼の順によつたのだ、とするのである。
女官の中、皇后の次に位し、巫女では最高級の聞得大君チフイヂン(=きこえうふきみ)は、昔は王家の処女を用ゐて、位置は皇后よりも高かつたのを、霊元院の寛文七年に当る年、席順を換へたのである。王家の寡婦が、聞得大君チフイヂンとなる事になつたのも、可なり古くからの事と思はれる。昔は、琉球神道では、巫祝の夫を持つ事を認めなかつたのであらうが、段々変じて、二夫に見まみえない者は、許す事になつたのである。地方豪族の妻を大阿母ウフアム・祝女ノロなどに任じた事も、可なり古くからの事らしい。唯形式だけでも、いまだに、独身を原則として居るのは、国頭クニガミの巫女たちで、今帰仁ナキジンの阿応理恵アオリヱは独身、辺土のろは表面独身で、私生の子を育てゝゐる。其外のろの夫の夭折を信じてゐる事も、国頭地方に強い。神の怨みを受けると信じてゐたのである。此は、国頭クニガミ地方が、北山時代からの神道を伝へて、幾分、中山・南山の神道と趣きを異にしてゐる所があるからであらう。久高島では、結婚の時、嫁が壻を避けて逃げ廻る習慣があつたが、其は夜分のことで、昼の間は現れて為事を手伝うたりした。夜になつて壻が大勢の友人と嫁を捜すのをとじとめゆん即嫁ヨメさがしと称する。此島には現在のろが二人居るが、其一人の老婆は、七十余日の間逃げ廻つたと言ふので有名である。
聞得大君チフイヂンは、我が国の斎宮・斎院と同じ意味のもので、其居処聞得大君御殿チフイヂンオドンは、琉球神道の総本山の様な形があつた。此琉球の斎王が、皇后の上に在つたと言ふ事は、琉球の古伝説に数多い、巫女と巫女の兄なる国主・島主の話を生み出した根元の、古代習俗であつたのである。
久高島の結婚の時に合唱する謡
女神殿ヰナグメガナサは、君キミの愛メデ(?)。男神殿ヰキガミガナサは、首里殿愛スンヂヤナシメデ。
と言ふ文句は、新郎なる此島男は、国王に愛せられむ。新婦なる此女は、聞得大君チフイヂンに愛せられむとの意であらう。民間伝承にすら、此様に国王と、聞得大君とを双べ考へてゐる。
琉球本島を分けどつてゐた、昔の北山・南山・中山の三国は、各大同であつて小異を含んだ神道を持つてゐて、中山は聞得大君、南山は佐司笠按司サスカサアジ、北山は阿応理恵按司アオリヱアジを最高の巫女としてゐたものであらう、と柳田先生も、伊波氏も言うてゐられる。其三巫女の代理とも言ふべきものを、首里三平等ヒラ(台地)に置いた。南風ハエの平等ヒラには首里殿内シユンドンチ、真和志の平等ヒラには真壁殿内マカンドンチ、北ニシの平等ヒラには儀保殿内ギボドンチなる巫女の住宅なる社殿を据ゑて、三つの台地に集めた、三山豪族たちの信仰の中心にしてあつた。而も、殿内々々には、聞得大殿同様の祭神を祀らして居た。此等の殿内は皆、三山の主神の遥拝所オトホシとして設けたのであらう。三殿内には、真壁大阿母志良礼マカンウフアムシラレ・首里大阿母志良礼シユンウフアムシラレ・儀保大阿母志良礼ギボウフアムシラレを置いた。其上更に官として、聞得大君が据ゑてあつたのである。三つの大阿母志良礼ウフアムシラレの下には、其々の地方の巫女が附属してゐる。佐司笠サスカサ・阿応理恵アオリヱは、実力から自然に、游離して来る事になつたのである。併し、此とて、元々別々のものが帰一せられたものではなく、同根の分派が再び習合せられたものと見るのが、当を得てゐるであらう。
三比等ヒラの殿内の下には、間切マキリ々々(今、村)、村々(今、字)の君キミ並びに、のろたちが附属してゐる。のろは敬称してのろくもいと言ふ。くもいは雲上と宛て字する。親雲上ペイチン(うやくもい)などゝ同じく、役人に対して言ふ敬意を含んでゐるのであらう。王朝時代は、役地が与へられてゐて、下級女官の実を存してゐたのである。一間切に一人以上ののろがあつて、数多の神人カミンチユ(女)を統率してゐる。女は皆神人となる資格を持つのが原則だつたので、久高島の婚礼謡の様な考へ方が出て来る。上は聞得大君チフイヂンから、下は村々の神人に到る迄、一つの糸で貫いてあるのが、琉球の巫女教である。のろの仕へるのは、地物・庶物の神なる御嶽・御拝所ヲガンの神である。又、自分ののろ殿内ドノチの宅ヤカつ神なる火の神に事ツカへる。其外にも、村全体としての神事には、中心となつて祭りをする。間切、村の根所ネドコロの祭りにも与る。
根所ネドコロと言ふのは、各地にかたまつたり、散在したりしてゐる一族の本家の事である。根所ネドコロは元々其地方の豪族であつたものであらう。根所々々には、先祖を祀つた殿或はあしゃげがあつて、其中には、仏壇風の棚に位牌を置くのが普通である。此神が根神ネガミである。標準語で言へば、氏神と言ふ事になる。一つ根所ネドコロの神を仰いでゐる族人が根人ネビト(ねいんちゆ=にんちゆ=につちゆ)である。処が、根所ネドコロの当主に限り特に根人ネビトと言ふ事も多い。此は男であつて、而も、神事に大切な関係を持つてゐるもので、勢頭神シヅカミ又は、大勢頭ウフシヅなど言ふ者が、巫女中心の神道に於ける男覡である。根人腹ネンチユバラ(原と宛て字するのと一つであらう)と言ふ事は、氏子・氏人の意が明らかにある。
根神ネガミに仕へる女を亦、根神ネガミと言ふ。根神おくで(又、うくでい)と言ふが正しい。併し、ある神と、ある神専属の巫女との間に、区別を立てる事をせぬ琉球神道では、巫女を直に、神名でよぶ。根神おくでの略語と言ふ事は出来ないのである。御オくでは、くでとかこでとか言ふ語が語根で、託女と訳してゐる。古くはやはり、聞得大君チフイヂン同様、根所ネドコロたる豪族の娘から採つたものであらうが、近代は、根人腹ネンチユバラの中から女子二人を択んで、氏神の陽神に仕へる方を男オメ(神ケイ)託女オクデ、陰神に仕へるのを、女オメ(神ナイ)託女オクデと言ふ、と伊波氏は書いてゐられる(琉球女性史)。地方にあつては、厳重に此通りも守つては居ない様である。此根神おくでの根神ネガミが、一族中に勢力を持つてゐるので、一村が同族である村などでは、根神ネガミはのろを凌ぐ程の権力がある。根神ネガミはのろの支配下にあるのであるが、のろと仲違ひしてゐるものゝ多いのは、此為である。而も村の神事には、平生の行きがゝりを忘れて、一致する様である。根所々々にも、のろの為には、一つの御拝所ヲガンであり、根神も、一方に村の神人カミンチユである点から、根所以外の祭事にも与つて、のろの次席に坐る。
祖先崇拝が琉球神道の古い大筋だとの観察点に立つ人々は、のろが政策上に生まれたものと見勝ちである。けれども、祖先崇拝の形の整ふ原因は、暗面から見れば、死霊恐怖であり、明るい側から見れば、巫女教に伴ふ自然の形で、巫女を孕ました神並びに、巫女に神性を考へる所に始るのである。地方下級女官としてのろの保護は、政策から出たかも知れぬが、のろを根神より新しく、琉球の宗教思想に大勢力のある祖先崇拝も、琉球神道の根源とは見られないのである。
内地の神道にも、産土神・氏神の区別は、単に語原上の合理的な説明しか出来て居ないが、第二期以後の神道には、所謂産土神を祀る神人と、氏神に事へる神人とが対立して居た事が思はれる。厳格に言へば、出雲国造の如きも、氏神を祀つてゐたのではない。のろは謂はゞ、産土神の神主と言うてよいかも知れぬ。
のろ・根神の問題から導かれるのは、ゆた(ゆんた・よた)の源流である。伊波氏は、ゆんたはしやべるの用語例を持つてゐるから、神託を告げる者と言ふのと、八重山で、ゆんたと言ふのは、歌といふ事だから、託宣の律語を宣のるものとの、二通りの想像を持つてゐられる様に見える。佐喜真興英氏は、のろよりもゆたが古いものだらうと演説せられてゐる(南島談話会)。私は、女官御双紙ニヨクワンオサウシに見えた、国王下庫裡シタゴリへの出御や、他へ行幸のをり、いつも先導を勤める女官よたのあむしられと関係がないかと想像してゐる。場合は違ふが、天子神事の出御に必先導するのは、我が国では、大巫オホミカムコの為事になつて居た。王の行幸に、凶兆のある時は、君真者キンマムン現れて此を止める国柄ゆゑ、行幸・出御に与る此女官に、さうした予知力ある者を択んで日時トキの吉凶を占はしたので、ときゆたなどいふ語も出来たのか、よた(枝)の義の分化に、尚多く疑ひはあるが、此方面から見る必要があり相である。よたのあむしられの今は伝らぬ職分の、地方に行はれたのが、ゆたの呪術ではあるまいか。正当なのろ・根神などの為事から逸れた岐路といふので、ゆた神人カミンチユと言うたのが語原ではあるまいか。此点から見れば、よたのあむしられも、神事から分岐した為事に与る女官の意かも知れぬ。
久高島久高のろの夫、西銘ニシメ松三氏の話では「根神はしゆんくりの様な事をする」との事であつた。しゆんくりは同行の川平カビラ朝令氏にもわからなかつたが、東恩納寛惇氏は総括りと言ふ様な語の音転ではないかと言はれた。久高島の語は、沖縄本島の人にすらわからぬのが多い。西銘ニシメ氏の前後の口ぶりでは、本島のゆたのする様な為事を、根神ネガミがする様な話だつたので、私は尚疑問にしてゐる。柳田先生が、大島で採集して来られたしよんがみい(海南小記)と同根でありさうに思ふ。此は、ゆたの為事をする男の事である。根神ネガミは一村の人と親しい事、のろよりも濃かるべきはず故、冠婚葬祭の世話を焼くは勿論、運命・吉凶・鎮魂術マブイコメまで見てやつた処から、ゆた神人たる職業が分化して来たのではあるまいか。沖縄県では、のろは保護せぬまでも虐待しては居ないが、ゆたは見逃して居ないにも拘らず、ゆたの勢力は、女子の間には非常に盛んで、先祖の霊が託言したのだと称して風水見フウシイミ(墓相・家相・村落様式等を相する人、主に久米村から出る)の様な事を言うて、沢山の金を費させる。先祖の墓を云々したり魂マブイを預つて居る様な所は、根神ネガミの為事のある部分が游離して来たものらしい気がする。全体、琉球神道には、こんなゆたの際限なく現れるはずの理由がある。其は、神人に聯絡した問題である。
広い意味では、のろ・根神までも込めて神人カミンチユといふが、普通は、村の女の中、択ばれてのろの下で、神事に与る者を言ふ様である。殆どすべてが女で、男では根人ネビト、並びに世話役とも言ふべき勢頭シヅを二三人、加へるだけである。神人になるのは、世襲の処と、ある試験を経てなる地方との二つあるのである。発生から言ふと、後の方が却つて、古い風らしい。大体母から娘へと言ふ風に、神人を襲つぐ様である。だから、神秘の行事は、不文のまゝ、村の神人から神人に伝はる。夫や子ですらも、自分の妻なり母が神人として、どう言ふ為事をして居るのか決して知らない。神人には役わりがめい/\割りふられてゐて、重いものは何某の神に扮し、軽い者で歌舞アソビを司る様である。さうして一々にそれ/″\神名がついて居る。山の神・磯の神或はさいふあ(斎場御嶽の事か)神・にれえ神など言ふ風な名である。其外に、神人の神事に与つて居る時は、あそび神・たむつ神など言ふ風に言ふ。さうして其中、其扮する神の陰陽によつて、誰はうゐきい神(男神)彼はをない神(女神)と区別してゐる。人としての名と神としての名が、何処ののろに聞いても混雑して来る。
事実、あちこちののろどんちに残つた書き物を見ても、神人の常の名か、祭りの時の仮名ケミヤウか、判然せぬ書き方がしてある。殊にまぎらはしいのは、七人・八人とかためて書く様な場合に、七人・八人、又は七人神・八人神と書いたりする事である。実名も神名も書かないで、何村神と書いて、一年の米の得分を註記してある類もある。何村何某妻何村何某妻うし何村何某母親などあるかと思ふと、何村伊知根神何村さいは神何村殿内神など言つた書き方も見える。神人自身、神と人の区別がわからないので、祭りの際には、尠くとも神自身と感じてゐるらしい。其気持ちが平生にも続く事さへあるのである。神人を選択するのはのろ、根神ネガミは、一人子の場合は問題はないが、姉妹が多かつたり、沢山の女姪の中から択ばなければならなかつたりする時は、ゆたに占うて貰ふと言ふ変態の為方もあるが、大抵は病気などに不意にかゝつて、次の代ののろとして、神から択ばれたといふ自覚を起すのである。
処が、唯の神人カミンチユは、さうした偶然に委せることの出来ない程、人数が多い。それで選定試験が行はれる。大体に於て、久高島に今も行はれるいざいほふといふ儀式が、古風を止めてゐるに近いものであらう。いざいほふをうける女は、若いのは廿六七、四十三四までが、とまりである。午年毎に、第三期まで勤めあげた神人と交迭するのである。十三年に一度、其年の八月の一日から三日間、殿庭トンニヤアとも、あさぎ庭ナアともいふ、神あしやげ前の空アキ地に、桁ケタ七つに板七枚渡した低い橋を順々に渡つて、あしやげの中に入るのである。此を七つ橋といふ。此行事を遂げたものが皆、神人カミンチユになるのであるが、若し姦通した女が交つてゐる時は、其低い芝生の上に渡した橋から落ちて死ぬものと信ぜられてゐる。そして、新しく神人になつた者の神名は、いざい神で、其を或期間勤め上げると、たむつ神の時期に入る。此が又、二期に分れてゐる様で、たむつ神を勤め上げて、神人関係を離れるのはどうしても六十を越してからである。西銘ニシメ氏は、七十で満期だというてゐる。此いざいほふは、内地の託摩ツクマの鍋祭りと同じ意味のもので、久高人クダカビトが今日考へてゐる様に、貞操の試験ではなく、琉球神道に於ける神人資格の第一条件である所の二夫に見えてゐない女といふ事が、根本になつてゐる様である。他の地方では今日それ程、厳重な儀式を経なくなつてゐる。
現在の久高クダカのろは大正十年の春、前代の久高クダカのろの子の西銘ニシメ氏の妻であつたのが、嫁から姑の後をついだのであつた。それまでは、矢張りたむつ神として神人の一人であつた。此嫁のろの制度は、久高島では初めてゞあるが、本島では早くから行うてゐた処もある。それは、のろ役地を、娘のろであると、其儘持つて嫁入りするといふ虞おそれがあるからである。
九 祖先の扱ひ方の問題
七世生神は、人が死後七代経てば、其死人は神となると言ふことである。其が、父神(ゐきい神)母神(おめない神)の位に分れる。つまり、一番新しい家で言へば、其家には神がない。此を新宗家シンムウトと言ふ。それより古い家を、中むうとと言ひ、其中、宗家の宗家を、大宗家ウフムウトと言ふ。即、八重山では、新建物に火の神を祀る。時によれば父・母二神の上に、根神の存する事がある。処が、おめない神・ゐきい神は、両方とも根神である。其で、ゐきいおくで・おめないおくでを統括するねがみおくでがある。即、ねがみおくでは、総本家の女房である。此女房が先達となつて、もとはか詣でに出かける。此は、今では一種の遊山旅行であるが如くになつて来た。(ほんとうの神体として、沖縄本島では、銅製の鏡を立てるが、八重山では、此を嫌つて居る。)
毎年時候のよい時に、総本家の女房に率ゐられて、数多くの拝所ヲガンを、拝みながら巡回する。琉球の島にあつて、神に関係ある場所は、此等の人々に大抵関係があるので、一つ/\巡つて歩く。少しでも関係ある墓等も、遺りなく拝み巡る。それ故、遠近の差で、其拝む度数が定まつて来る。又、血縁の遠近によつても、拝する度数が定まつて来る。其他、ゆたの言によつて、諸処を拝んで歩く。琉球の女は迷信深いから、到る処を拝してまはる。それで、西参り・東参りの話が出来た。此は西巡礼・東巡礼の如きものである。婚姻後には、更に巡礼する場所が増加して来る。参拝は、彼等にとつて、最大なる事業である。此巡礼をせなければ、神の祟りをうけると信じて居る。巡礼の原因は、死人の霊の祟りを怖れて、其霊魂に仕へる為であるが、此意味が次第に薄らいで来て遂に、神様になつたのである。古い時代には、途に骸骨等があると、自分の家と反対の方向へ向けて戻つた。其は、此骸骨から、魂が自分の家の方へ来てはならぬ様にするからである。塚なども、厳重に守られた。昔は、洞窟の中へ死体を入れて、其口を漆喰等で厳重に固めたのである。それで、現今古墳の漆喰の隙間をのぞくと白骨が非常に沢山見える。沖縄本島では、墓を祀つたものは大切にしないが、宮古・八重山では、墓をおほんとしたものが多い。即、墓の前に拝殿を築いた様なものも多くある。本島の方にも、此があるらしく想はれる。此墓から、うやあがん・ふあがんが出来て来るのである。
一〇 神と人との間
日本内地に於ける神道でも、古くは神と人間との間が、はつきりとしない事が多い。近世では、譬喩的に神人を認めるが、古代に於ては、真実に神と認めて居たのである。生き神とか現つ神とか言ふ語は、琉球の巫女の上でこそ、始めて言ふ事が出来る様に見える。即、神人は祭時に於て、神と同格である。
薩摩の大島郡喜界个島では、てんしゃばら(天者の系統)と言ふ家筋がある。昔、此附近へ女神が降りて来た時、村人は尾類ズリ(遊女)が降つたと言うて嘲笑した。天女は再び天へ上り、異つた地へ天降つた。此村のある百姓が発見して大切に連れ戻り、天女と結婚して子孫を挙げた。後に此女は高山へ登つたが、其櫛・かもじ等が、洞窟の中に残存して居る。此女の子孫が、天者腹テンシヤバラであると言ふ。此は人間界の話を、神格化した物語である。此様な話は、内地から琉球へかけて非常に沢山ある。研究して行くと、此女は神人であつて、神人が結婚し得ざる時代、神人に男が関係する事の出来ない時代の話に他ならない。
神と人との境の明らかでないことが、前に述べた程甚しいのであるから、神を拝むか、人を拝むか、判然しない場合すらある。のろ殿内に祀るのは、表面は、火の神カンであるが、此は単に、宅ヤカつ神としてに過ぎない事は既に述べた。のろ自身は、由来記などに記した程、火の神を大切にはしてゐない。のろの祀る神は、別にあるのである。
正月には、村中のものがのろ殿内を拝みに行く。最古風な久高クダカ島を例にとると、其は確に久高クダカ・外間ホカマ両のろの火の神を拝むのではない。拝まれる神は、のろ自身であつて、天井に張つた赤い凉傘リヤンサンといふ天蓋の下に坐つて、村人の拝をうける。凉傘は神あふりの折に、御嶽オタケに神と共に降ると考へてゐるのであるから、とりも直さずのろ自身が神であつて、神の代理或は、神の象徴などゝは考へられない。併し、神に扮してゐるのは事実であつて、其が火の神ではなく、太陽神チダガナシ若しくは、にれえ神と考へられてゐる様である。外間ホカマのろの殿内には、火の神さへ見当らなかつた位である。外間のろ或は、津堅ツケン島の大祝女ウフヌルの如きは、其拝をうける座で、床をとり、蚊帳を釣つて寝てゐる。津堅ツケンの方は、そこで夫と共寝をする位である。のろ自身が同時に、神であると云ふ考へがなければ、かうした事はない筈である。本島に於て、神を意味するちかさ(司)は、先島ではのろと言ふ語の代りに用ゐられてゐる。ねがみおくでの「おくで」は、久高島では、神の意味らしく使ふ。
生前さへも其通りだから、死後に巫女を神と斎くは勿論である。本島から遠い離島ハナレに数ある女神の伝説は、殆どすべて、島々に巫女として実在した人の話にすぎない。即、沖縄神道では、君キミ・祝ノロに限つては、七世にして神を生ずといふ信仰以上に出て、生前既に、半ば神格を持つてゐるのである。羽衣・浦島伝説系統の女神・天女に関する限りなき神婚譚は、皆巫女の上にありもし、あり得べくもあつて(柳田氏)民習の説話化したものに疑ひない。其上余り古くない時代に、久高の女が現にある様に、一村の女性挙つて神人生活を経た者と見えて、今尚主として姉を特殊の場合に、尊敬してうない神といふ。姉妹神の義である。姉のない時は、妹なり誰なり、家族中の女をうない神と称へて、旅行の平安を祈る風習が、首里・那覇辺にさへ行はれてゐる。うない拝ヲガみをして、其頂の髪の毛を乞うて、守り袋に入れて旅立つ。此は全く、巫女の鬘に神秘力を認める考へから出たものである。尤、一村の男をすべて、男神ヰキイガミ(おめけい神)と見る例は、語だけならば、久高島の婚礼期にもあつた。国頭郡安田アダでは一年おきに、替り番にうない神を拝み、ゐきい神を拝むと称して、一村の女性又は男性を、互に拝しあふ儀式がある。併しゐきい神を男子を以て代表させることは、女であつて陽神専属・陰神専属の神人があつたことの変化したものではあるまいか。でなくては、厳格にゐきい神といはれるのは、根人だけでなければならぬ。事実、男の神人は極めて少数で、男逸女労といはれる国土でありながら、宗教上では、女が絶対の権利を持つてゐたのである。
神人の墓と凡人の墓とを一緒にすると、祟りがあると言ふ。紀に見えた神功皇后の話も此と一つである。
久高・津堅二島は、今尚神の島と自称してゐる土地である。学校あり、区長がゐても、事実上島の方針は、のろたちの意嚮によつてゐる形がある。
神託をきく女君の、酋長であつたのが、進んで妹なる女君の託言によつて、兄なる酋長が、政を行うて行つた時代を、其儘に伝へた説話が、日・琉共に数が多い。神の子を孕む妹と、其兄との話が、此である。同時に、斎女王を持つ東海の大国にあつた、神と神の妻メなる巫女と、其子なる人間との物語は、琉球の説話にも見る事が出来るのである。
此短い論文は、柳田国男先生の観察点を、発足地としてゐるものである事を、申し添へて置きます。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

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