富山の山村生活・住まい・職人

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雑学の世界・補考   

調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
山里を見つめて

山里を後にする人々
平成4年に富山県過疎対策協議会から発行された『山村過疎地域対策資料』に、七十余の廃絶集落名が挙げられている。ほかに、廃村ではないが、戸数が19戸以下の小さな山村集落名も列挙してある。なかには1戸、2戸という集落や、老夫婦だけの集落も少なくない。
19戸以下の小集落のないのは富山市、新湊市、舟橋村、大島町など山村のない8市町村だけで、他の27市町村にはかなりの数で分布している。
小集落の総計およそ300。一番多いのが八尾町の39で、二番目が大山町の21、つづいて小矢部市、婦中町、利賀村、上市町、氷見市その他の順となっている。山村の戸数が減っている分だけ、市街地の人口が増えていることになる。山里から灯が消えて、町はいよいよ殷賑(いんしん)を極め、飽食(ほうしょく)の世に生きて人々は幸せである。水は低きに流れるように、人もまた、山から里へと下りてゆくのである。
炭焼きが不要になって久しい。ベニヤ板に駆逐されて屋根板も要らなくなった。養蚕、製紙、狩猟もまた、山村の生活を維持できなくなった。丹精込めて植樹した杉は伸びるにまかせて放置せざるを得ない。過疎化対策として始まった酪農、養魚、山菜加工も、生計維持の決め手とはならない。粒々辛苦して拓いた田畑は減反をせまられることになり、起死回生策の各種イベントも、盛大に報道されるほど地元をうるおしているかどうか。七十余の廃村に続いて、およそ300の小山村からも灯が消えようとしている。
水を飲むものは、井戸を掘った人の苦労を考えるという。川下の町が賑わうだけに、かつてありし川上の山里にも思いを至したい。そして、繁栄の世をふり返る一つのよすがになれかしと思う。
熊野川流域の場合
神通川の支流に熊野川がある。有峰湖の北西東笠山と西笠山に源を発し、高頭(たかずこ)山の西麓を流れ、大山町上滝付近で平野部に出、富山市有沢橋付近で神通川に合流する。延長58.9キロ。
熊野川流域で、灯が消えた村が11ある。本流流域は下流から長瀬、手出(ていで)、赤倉、小原、千野谷(せんのたに)、河内(かわち)の6集落。支流流域は安蔵(あんぞう)、隠土(おんど)、小谷、大双嶺、千長原(せんながはら)の5集落。いずれも富山市から近い里山なので、私はこの辺をよく散策する。特に本流流域へは足繁く通った。一番奥の村が、山岳人の大先達、槍ヶ岳開山の播隆(ばんりゅう)上人の出生地ということにもひかれるものがあった。
播隆の生誕地河内の対岸の山が1,203.3mの高頭山(たかずこやま)で、下流の熊野川ダムから見る双耳峰(そうじほう)は秀麗である。ダムの上から高頭山を眺めて思った。播隆のように槍ヶ岳への道を拓けなくても、高頭山への細道なら切れるかもしれない。
地元の小原や河内の元の住民たちに相談し、山の仲間を誘い合って、高頭山への道を刈り拓くことになった。足繁く熊野川流域へ通い始めたきっかけの一つがその辺にあった。
村跡へ通う人々
熊野川流域の山へ通い始めて気の付くことがあった。ひと気なき村跡へ毎日のように通う人たちがいる。自家用車で、バイクで、歩いて、時には家族に車で送り迎えさせて村跡へ通うのである。そしてそこで杉の枝打ちをし、山菜を採り、わずかな畑を耕し、昔の生活を続けようとする人たちである。
熊野川本流にあった6集落のほとんどの人たちは、下流の大山町の中心部上滝方面へ出た。そして初めて町の生活を体験することになる。若いものは近郊もしくは富山市へ通勤を始めるが、現役を退いた人たちは、昔の生活が懐かしく、ついかつての村跡へ足が向いてしまう。残してきた家屋や物置小屋を根拠地にして、働き、憩い、自然の中のひと時を過ごすのである。冬は雪で近づきにくいが、雪が解けてから再び雪に閉ざされるまで、彼らはせっせと山へ通う。
長瀬の谷口義松さん、赤倉の城野太次郎さん、河内の河上勝信さんは、家や小屋の前に乗用車やバイクが置いてあるのでそれとわかるが、ほかの方法で来ている人も少なくない。河内の林善一さんは、道端の小屋ではたまに通る車の音がうるさいので、最近山の上部に小さな小屋を建て、夫婦で泊まり込んで山仕事をしておられるということを聞いた。
登山や峠探訪や、一、二等三角点踏査や、県内市町村の最高地点踏査で訪ねた各地の山村でも、同じような人たちのことを見聞きした。
ほかに、廃村にはなっていないが、灯が消えようとしている山里に、最後の灯をともし続けている人たちもまた決して少なくはない。
永遠の安らぎを求めて
ひと気なき村跡に、真新しい墓石を見かけることがある。播隆の出生地河内に播隆上人顕頌碑が出来てからかなりの年月になるが、その後近くの林の中に、河上勝信さんが自分の墓を建てた。昨年は岡本義雄さんが、今年は播隆家親族の中村家の墓が出来た。河内の隣りの小原の村の入口にも、最近大作さんが墓を建て、墓のわきに、家の由来を刻んだ。村を閉じて町へ下りる時、神社の御神体も一緒に町へ下り、ゆかりの神社に合祀(ごうし)されることが多い。水も人も神様も、山から町へ下りてゆく時、どうして墓だけが新しく山に出来るのか。生涯を生きた父祖の地に、永遠に眠りたいという願いからだろうと私は思う。
里山に出来る細道
高頭山に道を切ったのは、平成2年の春であった。山は山麓の小原の人たちの共有林だったので、地主代表の方々と5、6回の話し合いで了解を得ることができ、4月中旬に伐開を開始し、およそ1か月で終了した。参加延人数およそ100人。チロル山の会、大山山岳会、日本山岳会、富山ハイキングクラブ、山雄会、県山岳連盟役員その他いろいろの人が協力してくれた。高頭山登山道伐開協力者各位に送った礼状の末尾に次のとおりある。
「ズコは頭。心の象徴といえます。高頭山の峰低くても、心気高く頂(いただき)を踏みたい。播隆の里に出来た一筋の細道が、草木に埋もれることなく、人の心をより高く導いてくれることを期待してやみません。伐開ご協力有難うございました。」
高頭山以降、二子山(大山町・736m)、大乘悟(だいじょうご)山(細入村・590m)、栃津下嵐(くだらし)尾根(立山町・400m内外)、千垣(ちがき)山(立山町・660.9m)、尖(とがり)山(599.4m)にも、大勢の山仲間が集まって細道を切った。また大沢野町のキラズ山は、頂上部の平野部側を刈り明けて、いくらか眺望がきくようになった。
二子山の伐開に参加した仲間たちが、いつとはなくグループを作って山へ出かけるようになり、それ以降の伐開の主力となった。いま双嶺グループとして顕著な山行を行なっている。
刈り終えて、出来たばかりの道を下る時、これがあのヤブ山だったのかと目を見張るほどである。そして、皆の表情も殊の外明るい。人の道を開くには、人格、識見、修養が足りなくても、山の道を開くのは、山への憧れと情熱があればできる。参加した人たちの表情の中に、私はそのことを感ずるのである。
里山を歩く「四季の登山」
伐開した山道を紹介したいのと、炭焼きやかすみ網の道を懐かしんでほしいという気持から、伐開以降にその山へ「四季の登山」を行なった。伐開直後の1年間に4〜6回の山行をした。残雪の上を、新緑の中を、黄葉の中を、また深雪をラッセルして山中を歩いた。天気の悪い時は中止になるが、天気のいい日は大勢が参加して盛会であった。
かすみ網のこと
立山町栃津の下嵐(くだらし)尾根には、昔栃津の人たちが登り下りした細道があって、炭焼き、放牧、山菜採りに使われた。が、もう40年以上も人が通らぬから、道跡だとわかるところはほとんどない。その丘陵帯の一部を伐開し回遊できるようにした。この尾根の側面の急斜面にも、人が踏んだと思われる踏み跡があった。これが昔のかすみ網狩猟のための踏み跡らしい。
山村から消えた炭焼き、養蚕、養蜂、紙漉き(す)などは、生業として成りたちにくくなって次第に姿を消していった。ほかに、法律で禁止されて姿を消したものにかすみ網がある。山中の渡り鳥の通路に網を張って、野鳥を捕獲する方法である。網の糸が細くかすんで見えるのでかすみ網とよび、秋の40日間ほどだけ捕獲を許可されたが、昭和22年に全面禁止となった。
網にかかったツグミ、シロハラ、アオ、ホオジロなどは、食用として町へ売り出されるが、網場の近くに小屋を建て、来訪する客にも焼いて食べさせてくれた。
全国各地に網場があったが、県内全域の丘陵帯でも捕獲が行なわれ、栃津方面にも4、5か所の網場があったといわれる。
渡り鳥の群れを網の方向に引き寄せるためにオトリが使われた。あらかじめ飼育していた鳴き声の美しい鳥をさえずらせて、渡り鳥の群れを引き寄せるのである。オトリの餌(えさ)を担いで、当時少年だった栃津の岡本勝さん、栃山清さんはよく鳥山へ往復した。当時の鳥山のオーナーだった山本一三さんは、今も栃津に健在である。
峠と峠道
昭和47年、北日本新聞社から出版された拙著『越中の峠』には、県内の50の峠について記してある。25年前の著書だが、その頃はもう峠道は衰退していた。峠の位置は今も昔も変わっていないが、峠を越えて行き来する道は、歩く道から車の道へと変わり、昔の峠道は、草と雑木に覆われて見つけにくくなっていた。 
そして今、あらためて50の峠について考えてみると、その衰退度がさらに顕著なのに驚く。山里と山里とを結んだ峠道で、昔の道筋に沿って歩けるところはほとんどない。峠越えの道を歩いて越えなくても、車で越える道が出来たからである。
歩かねば登れない峠の中で、小矢部市の倶利伽羅峠は観光地として訪れる人が多いから草に埋もれる心配はない。しかし、五箇山方面の唐木峠、朴峠、鹿熊峠、杉尾峠、八尾町の夫婦山峠(松瀬峠)、婦中町の猫坂峠などは、地元有志のボランティアによって下刈されているところが多いようであるが、訪れる人がいなくなれば、やがてまた雑木の中に消えることであろう。
峠には、山里に生きた人たちの限りない哀歓がある。利賀村と平村を結ぶ山の神峠は、二つの僻地を結ぶ大きな峠だけに、悲しい出来事が多かった。利賀川奥の村から礪波地方へ、紡績工として働きに出ていた娘が、正月休みに家へ帰ろうとして、山の神峠の雪の中で倒れて帰らぬ人となった。戦争で応召されてゆく兄を見送っての帰り、妹が峠の雪に埋って帰らなかった。また、冬休みで帰省する分校の先生の遭難もあった。
山の神峠の平村側の山麓に夏焼(なつやけ)の村がある。立ち寄った北村さんの家の座敷には、遭難救助の表彰状がたくさん掛けてあった。
峠に刻む哀感はその衰退とともに、やがては語り継がれることも少なくなることであろう。
峠での変わった話しもいくつか開いた。腰にぶら下げていた油揚をムジナにさらわれた話、キツネの嫁入りの話、タヌキに化かされて峠の木の切り株と相撲をとっていた話、道端の肥溜(こえだめ)につかって「いい湯だのう」と言っていた話などなど。そういう話もまた、やがて聞けなくなることであろう。
昭和56年に越中峠の会が「越中の峠番付」を作成して発表した。番付審査の基準は
1生活、文化、交通とのかかわり
2歴史、伝説の豊かさ
3自然景観、スケールの大きさ
4知名度その他である。
前頭から60の峠の名が挙げられているが、三役以上は次のようであった。
東横綱 倶利伽羅峠  西横綱 針ノ木峠
東大関 ザラ峠      西大関 細尾峠 
東関脇 大多和峠    西関脇 荒山峠
東小結 栃折峠     西小結 松尾峠。
しばらく訪ねていない峠も多いので、近く、好きな峠だけでも回ってみたい。自然にふれ、山里に思い、世の移ろいを感じたいと思うのである。
山村民具のこと
町や農村でも同じだが、山村でも急速に生活の用具が変わってきている。雪深い山村でも、ブルドーザーで除雪しない道を歩くことは少ない。深雪の中を歩くのに履いたかんじきは、いまや屋根裏にしまったままになった。
越中五箇山の利賀村には、全国的にも珍しい舟形かんじきがあった。背丈ほどの長さの細い竹を、スキー状に編んで造ってある。白山麓白峰村の泡かんじきは、普通のかんじきの2倍ほどの大きさがある。越後は日本屈指の豪雪地帯だけあって、長さ1m、幅50cほどのものまである。越後の大きなかんじきについて、江戸時代の文人鈴木牧之は、名著『北越雪譜』に「履きつけぬものは一歩も歩み難し。慣れたる人はこれを履きて獣を追うなり」と書いている。
ほかにアラスカ製、アメリカ製をはじめとして、珍しいかんじきの蒐集(しゅうしゅう)品を昨秋「橋本廣・佐伯邦夫のかんじき&山のスケッチ・写真展」として、立山山麓のレストラン「クムジュン」で催した。登山用具の中で、かんじきだけが民芸的である。その趣きにひかれて蒐集を始めたが、すたれゆく山村民具を残しておきたい心情からでもある。
かんじき以外の山村民具として蒐集しているものに、橇(そり)と背板(せいた)がある。橇はほとんど使われなくなったが、背板は物を担ぐのに今でも使われている。ただ、民芸風のものは次第に減ってきているようである。 
 
山菜と山村の食文化

山菜の条件は野菜と肩を並べる個性的な味を持っていることだ。しかし、おいしくはないが満腹感が得られるといった救荒植物としての山菜もある。最近は野山の自然に親しみ、併せて季節感を味わう人が増えてきた。フキのとうやスミレなどはこのたぐいである。これらの山菜はだれでも手軽に摘み採れるが、一方では玄人でないとかなわない山菜がある。山菜の王と呼ばれている奥山のゼンマイやススタケ(チシマザサ)などだ。これらは太くてみずみずしくておいしい。
雪が育む
奥山の山菜は、なぜ太くてみずみずしいのだろうか。九州から富山に赴任したある青年が、「富山の野山の草は、葉が大きくてみずみずしい。暖かい九州よりもどうして…」と問いかけた。
雪は冷たいものの代表のように思われているが、降り積もった雪の下は意外に温かく、植物の越冬に有利な環境である。雪は空気を含んでいるので、熱の伝導率は綿に近く断熱性に優れている。このため積雪下は真冬でも0度以下にはならず、外がマイナス十数度の寒風が吹きすさんでいても、植物は凍結することがない。また、積雪下は湿潤で植物は乾燥することもない。山菜はこうした環境で越冬し、やがて春になると豊富な雪解け水と、それに伴って新鮮な空気をたっぶり吸って一斉に伸びる。雪国の山菜が太くてみずみずしいのも、また、おいしいのも、まさに雪のお陰なのだ。雪がしんしん降り積もると、山村の人たちは、「ことしゃ、山もんがいいぞ」と、春なお遠い奥山に思いを馳せるのである。
山菜を摘む
一般に山菜は手で軽く折れるところで摘み採る。ワラビやゼンマイなどは、折り口から変質するので、少し硬めのところで摘み採る。摘み採った山菜は、ごみなどを取り除き一握りほどの束にして、きちんと新聞紙にくるむ。ポリ袋はむれるので長時間入れておくのはよくない。
これは山菜摘みの初歩的な心得だが、山村の人々の山菜採りは出で立ちから違う。朝日町蛭谷の長崎喜一さんに、蛭谷の山菜事情についてお聞きした。一般の人は近くの山で山菜を摘むが、いわゆる玄人は奥山のゼンマイに的をしぼる。足はスパイク付き地下足袋。服装は深く裂けた歩きやすい股引きと左袖が大きいぜんまい着。かがる(藁材で編んだ篭)を背負い前掛けをつける。前掛けは風呂敷で、袋状に丸めて摘み採った山菜を一時貯める。かがるには弁当やジュースを入れるが、帰りは摘み採ったゼンマイをどっさり入れる。この出で立ちで朝6時ごろから自分の島(領域)に入り、山越えしながら摘み採る。
昭和50年代までは、ぜんまい場と呼ばれる小屋架けした本格的なゼンマイ摘みがあった。田植えが終わる5月中旬から7月中旬にかけて50〜60日間、海抜700〜1,600mの奥山に入る。摘んだゼンマイはその日のうちに薫製にする。このゼンマイを黒ゼンマイと呼んだ。柔らかくておいしく、虫がつかず長期間保存が可能だ。そのため値段が高く玄人にとっては魅力があった。ゼンマイは釜で茹で、ぜんまい簀に広げて下からいぶし、適当な間隔で天地替えをする。薪は燃えにくい生木がよい。普通6時間ほどで仕上がる。乾燥重量で1日平均700匁(2.6kg)、1シーズン約32貫(120kg)。金額にして約150万円にもなるという。しかし、一方では長期間山にこもるので体力の消耗が激しく体重は10kgも落ちる。そのうえ煙で目を痛めるなど、シーズン後は温泉で休養したという。
昭和60年代になって、このゼンマイ摘みは途絶えた。薫製には生のブナ材が必要だが、国立公園法の整備により伐採が禁止された。入山許可の手続きも必要になった。作業は重労働でリスクを伴うので、高齢化が進むにつれて仲間が減少した。カモシカによるゼンマイの食害が増えた。林道開発により日帰りが可能になったことなどが挙げられる。
山菜を処理する
山菜は「その日に山に帰る」といわれている。鮮度が急に落ちるから、処理はその日のうちにせよという意味だ。
まず新聞紙に山菜を広げ種類ごとに大きさをそろえ、ごみや不要な下葉などを取り除き下ごしらえをする。ススタケ・アザミ・ワラビ・ゼンマイなどは変質しやすいが、ヨシナ(ウワバミソウ)・ギビキ(ギボウシ)・ウドなどは多少日持ちがする。ぬれ新聞にくるんで冷暗所におくと1、2日は鮮度が保てる。
次にあく抜きをする。あくは反面うまみのもとなので、抜きすぎると山菜独特の個性が損なわれる。あく抜きは茹でるという熱処理が基本で、それに水でさらすという処理を加え、そのさらす時間であくの抜け具合を調整する。しかし、あくの成分は多種多様で苦み、渋み、えぐみ、辛み、甘み、その他酸化すると変色する化合物などが混成しているので、重曹や木灰などのアルカリ処理、さらに塩漬けや乾燥処理、その他酢や油などの処理を組み合わせる。塩漬けや乾燥処理は山菜の保存法でもあり、酢や油は調理でよく用いられる。
あく抜きは色、歯ざわりの風味を第一とし茹ですぎないようにする。お湯は多めに山菜は少なめにする。少量の塩は色を鮮やかにする。茹で終るとすぐに冷水にさらしてざるに上げる。変色や軟化を防ぐこつである。あくの少ないギビキ・トラセ・ヨシナ・イラナ(ミヤマイラクサ)・コゴメ(クサソテツ)などは硬めに茹でる。あくの強いアザミ・ワラビなどは木灰や重曹を使う。フキやススタケは米のとぎ汁で茹でる。
塩漬けはウド・アザミ・ワラビ・ゼンマイ・ヨシナなどがよい。生のまま束ねて塩をまぶし1〜2日仮漬けする。水分が出て柔らかくなったら本漬けにする。本漬けは桶に束を並べては塩を振り掛ける。塩の量は山菜の目方の5分の1程度で、白くなるまでたっぶり掛ける。漬け込みが終わると落とし蓋をして20kgほどの重石を載せる。水分が上がると2〜3回汲み捨てて冷暗所で保存する。フキとススタケは仮漬けしないで、その代り茹でて本漬けにする。
乾燥はゼンマイとワラビがよい。下ごしらえをした材料をネットに入れて釜で10分ほど茹でる。筵に広げて天日乾燥する。3時間ほど経過するともみ始める。約1時間半間隔でしっかりもむとあくがよく抜ける。晴天ならばゼンマイは2日で、ワラビは1日で仕上がる。夏場に塩湯をくぐらせ再び天日乾燥して保存する。こうすると虫がつかない。保存はポリ袋に入れ空気を抜いて輪ゴムを止める。
山菜を料理する
山村では山菜料理は日常的だが、保存した山菜はお正月、お祭り、その他の慶事や、法事などの仏事に用いる。山菜料理は色、香りや味などの持ち味を生かすように工夫する。くせの少ないヨシナ・イラナなどは、おひたし・和えものなどのほか浅漬けにする。塩昆布で和えるのもよい。えぐみのあるウド・タラの芽などは天ぷら、油炒め、きんぴらがよい。油を使うと瞬時にえぐみが抜け、山菜のうまみが引き出せる。山菜は一般に種類を問わず味噌汁や煮ものにあうが、ことにアザミはイワシの味噌汁とよくなじむ。また、水煮したイワシとアザミの酢味噌和えもおいしい。
保存した山菜は戻して使う。塩漬けのものは大鍋で1時間余り煮て、そのまま半日〜1日放置する。冷水に2日ほどさらして適当な長さに切って煮ものにする。だしは煮干しと昆布でとり弱火で3〜4時間じっくり煮る。山菜独自の青さが蘇ってくる。味は薄味の方がよい。
乾燥や薫製のものは、沸騰した釜に5分ほど入れて、そのまま一昼夜放置する。束ねて水切りをして味つけした汁で3〜4時間ゆっくり煮る。味汁をたっぷり吸わせ柔らかくして飴色に仕上げる。
山小屋の山菜料理
大正12年1月の冬山遭難事故が契機となって立山の山小屋が増えた。当時の立山登山は千垣から歩いて3泊4日掛かった。食料の調達は困難で山小屋周辺の山菜をごく普通に使った。佐伯文蔵さん(1941〜1991)のお話を紹介する。
山菜は主にタテヤマアザミ、アマナ(オオバユキザサ)、ギョウジャニンニク、ススタケ、ウド、フキ、ヨシナなどである。当時の献立は1汁1菜の質素なもので山菜のほかに兎も使った。味噌汁はタテヤマアザミ、またギョウジャニンニクの葉を細かく刻んで落とす。天ぷらにはタテヤマアザミの葉を用い、塩を少し加えたころもで揚げる。おひたしはアマナで若い茎をかために茹でる。煮物はススタケで煮干しのだしで醤油で煮る。酢味噌和えはギョウジャニンニクの葉をゆでて刻んで和える。味噌漬けはウドでする。皮をむいて適当に切って1晩漬ける。収穫が多いときは漬け込んで保存する。胡麻和えもウドでする。
兎には露をさけてハイマツの合間を通る習性がある。その習性を利用して通り道に罠を仕掛ける。16番線で直径約10cmの丸い罠を作る。夕方、地上約20cmの高さで約30ケ所に仕掛ける。翌朝見回ると2〜3羽は必ず掛かっている。肉と骨はライスカレーにする。骨でスープをこしらえ、これにジャガイモとタマネギを入れて煮る。次に兎の肉を加え、最後に水でといたカレー粉と小麦粉を加える。兎の肝臓と腎臓はもつ焼きにする。チシマザサで作った串に刺し、塩を振って薪の残り火でこんがり焼いたという。
山小屋の生活はきびしかった。たとえばとろろ昆布でさえも干してもみ粉にして節約した。弁当はおにぎりだけでおかずは一切つかなかった。おにぎりを包んだ経木も炭俵の藁を抜いてくくった。気圧が低いので飯釜には約4kgの重石を載せ、また、うるちに、もちごめを1割交ぜてねばりをつけたという。
山と共に生きる
朝日岳から日本海に続く稜線沿いに七人組平というところがある。ここにはその名のとおり7人の玄人が、小屋架けでゼンマイを採っても有り余るほどのゼンマイが生えていたという。1シーズン1人150万円の収穫として7人で1,000万円を超える。大きな恵みの山だ。この恵みを毎年維持するためのルールがあった。1株が3本であれば1本を、5本であれば2本を残す。もちろん小さなものや、男ぜんまい(胞子菓)は採らない。そのほか入山するときは道端の枝を折って入山したことをサインする。後から来た人はこのサインを見て入山を控え、環境への過剰な負荷を避けた。こうしたルールは親から子へ、子から孫へと受け継がれ、山と共に生きるための秩序が確立されていた。今日いわれている「持続可能な自然の利用」ということの、その原点を垣間みることができる。 
 
里山に炭焼く煙

富山県の森林の概要
富山県は日本列島のほぼ中央に位置しており、北は日本海に面し3,000m級の山々が富山平野を取り囲むようにして連なっています。県東部の山岳地帯は急峻な地形が多く、県西部では比較的緩やかな丘陵地帯が広がっています。富山県の県土面積424,800haの67.3%にあたる285,853haが森林ですが、この内、67%が水を蓄える機能を持つ水源涵養保安林や土砂の流出を抑さえる働きをする、土砂流出防止保安林に指定されています。富山県の自然植生を概観すると、平野部から標高500m以下の丘陵帯、標高500〜1,500mの山地帯、標高1,500〜2,500mの亜高山帯、標高2,500m以上の高山帯に分けられます。富山県では、冬季間の降雪が多く、積雪量は山岳地帯では4mを越し、積雪2m以上の地帯は森林の46%に及び、全国でも有数の豪雪地帯に属しています。この積雪が樹木の形態やその分布に大きな影響を与えています。
標高500m以下の丘陵地帯では、昔、タブ、アラカシ、ウラジロガシ、の常緑広葉樹が平野部に繁茂していたと考えられていますが、現在そこはほとんど、耕地や宅地に変わっており、常緑広葉樹はごく一部の地域でしかみることが出来ません。丘陵地帯にはコナラ、ケヤキ等の落葉広葉樹林やアカマツ林などが発達しています。
標高500〜1,500mの山岳地帯では、ネズコ、スギ、キタゴウヨウ等の針葉樹の他にブナ、ミズナラ、トチノキ、ホオノキ、カツラ、サワグルミなどの落葉広葉樹が生い茂っています。
標高1,500m以上の亜高山、高山帯では、オオシラビソ、コメツガからなる針葉樹林が発展しますが、積雪量が多いところでは、高木林が成立せずダケカンバ、ミヤマハンノキからなる潅木林や草原湿原が成立します。
富山県で見られる主な樹木と用途
ケヤキ:寺社の柱板等の建築用材に多く用いられた。そのほか、家具や車両の部材として用いられた。
トチノキ:膳、椀、盆類等の日常生活品や、家具等を作るのに使われた。実は食料として利用した。
ホオノキ:下駄の歯、版木、天秤棒、農具の柄などに利用された。
アカマツ:梁などの建築用材や船体、橋梁用材に用いられ、根からは松根油を採取した。
コナラ:薪や炭の材料として利用された。また、シイタケ生産用のほだ木として用いられた。
スギ:通直で割裂性が高かったことから柱、板、屋根板等の建築材をはじめとして、桶、たらい、箸等の日常生活品として利用された。
森林は利用の形態によって、薪炭林(2次林)、人工林、天然林に分けられます。
薪炭林(2次林)
山里に住む人々の大きな仕事の一つは燃料用の薪と炭の生産でした。ガスや石油がなかった時代においては、自分たちの生活に必要な燃料だけでなく、大都市で消費する薪や炭の生産は重要な仕事でした。特に炭の場合は、高エネルギーで軽く、かさばらず運搬に便利なので、大都市で燃料として重用されました。このような薪や炭を生産する森は薪炭林(2次林)と呼ばれています。
富山県の薪炭林は、コナラ、アカマツ、ミズナラ、クリを中心とする林とミズナラ、ブナ、コナラ、クリ、イタヤカエデ等を中心とする林に大きく分けられます。これらの林は、20〜30年毎に伐採が繰りかえされてきました。質の良い炭が生産出来る樹種は、コナラ、ミズナラでカエデ、ブナ、ケヤキ、アカマツ等がそれに続き、クリ、ミズキは質の悪い炭しか生産出来ませんでした。これらの薪炭林に成育している広葉樹は、伐採されると根元から萌芽し、その萌芽枝によって更新が行われてきました。
炭かまの作成
炭を生産するには、専用の炭かまが必要でした。かま場を築く場合は、炭材を集めやすく、水が便利で緩やかな傾斜地が選ばれました。また、かまを作るのに用いるかま土は、重粘土では収縮率が高くかまにヒビが入り、砂土は固まらず、黒色の有機質の多い土は燃えてぼろぼろになるので、心土6に対し砂4を混合して用いました。また、排煙口近くに置くかま石は、耐熱性の大きい軽石や大谷石が適していました。かま場が決まり、かま造りの材料を集めたら、次の手順でかま造りを始めました。
整地−図面引き−床堀−かま底構築(排湿構造)−かま壁詰上げ−排煙口作り−煙道作り−乾燥焼き−炭材仕込み−切子盛り−天上粘土調整−天上叩きしめ。最後にかまに雨がかからないように小屋を作りました。
炭焼きかまの種類
日本の炭かまには白炭製炭かまと黒炭製炭かまがあります。我が国の炭かまの基本形は平安時代初期にほぼ完成され、その功労者は空海といわれています。かまの構造は作る炭の種類によって異なっています。
白炭かまは高温になるので耐火性の岩石や粘土が必要であり、炭を掻き出して消火するので奥行きは浅くて掻き出しやすいようになっています。黒炭かまは炭を焼く時の温度が低いので耐火性の岩石、粘土を必要としない奥行きの深い大型です。
白炭と黒炭の違い
白炭は、堅く火付けが悪いが、火持ちがよい、黒炭は柔らかく火付きが良いが火持ちが悪い。この違いは炭を焼く時の窯の温度管理の違いにあります。白炭を焼くときには、最初は180〜250度くらいで長く焼き続け、終わりにねらしと称する高温処理(かまの口を開け空気を入れて燃焼を激しくする)により、かまの温度を1,000度以上に上昇させ、真っ赤になった炭を掻き出して湿った消粉をかけて消しました。黒炭の場合は、350度ぐらいで焼き続け、最後に700〜800度ぐらいに温度を上げてから窯を閉じて消火しました。
木炭の歴史
我が国の最古の木炭は愛知県肱川町鹿ノ川の洞窟から発見された木炭で、1万年ほど前のものであると推定されています。木炭には強い還元作用が有り、古くから製鉄及び金属加工用として用いられてきました。古い時代の製炭法は伏焼法として現在に残されていますが、これによって作られた炭は柔らかく砕け炭化の程度も低いものです。奈良時代に入ると、火付きが良い和炭(にこずみ)と中国から伝えられたと言われている火持ちの良い炭(あらずみ)が使われました。この当時における最大の木炭消費は、奈良の大仏の鋳造で、800トンに及ぶ木炭が使われたといわれています。平安時代に入ると、白炭と似たイリ炭が作られ宮中等で広く使われました。
全国の有名炭
日本の炭の傑作は備長炭と茶の湯炭であるといわれています。
備長炭 / 鋸では切れないほどの硬度で燃焼に優れています。ウバメガシを炭材として用い、主に和歌山県周辺で生産されています。日本料理の焼物料理に最適で、ウナギの蒲焼用として重用されています。
茶の湯炭 / 炭の香が有り、茶の湯用として重用されています。クヌギを用いた黒炭で室町末期から初期にかけて開発されました。茶の湯炭の改良に最も努力したのは武野紹鴎、千利休とされています。茶の湯炭には次の様な炭が知られています。
池田炭 / 大阪府池田東北北方、伊勢、妙見山麓一帯から生産されています。
佐倉炭 / 千葉県佐倉付近で製炭されています。
天然林
江戸時代においては、現在のようにスギの造林は行われておらず、建設用材などに用いる大径材は、豊富に分布していた天然林の伐採によって供給されていました。山には巨木がそびえ立ち、木こりたちは敬虔の念をもって山へ入ったものです。木を伐採するときには、大木の前に御神酒を捧げ、山の木を伐採することの許しを請うと共に作業の安全を祈りました。伐採は、すべて鋸と斧によって行われました。普通の伐採は谷川の背からカンドウー(鋸)を幹の三分ほど水平に入れ、その斜上からウケをよぎ(まさかり)で伐る。最後に山側の腹を半分ほどガンドウーで切る。すると、木はウケの方向に倒れる。大木の場合は、幹の根元を三方から切り込んで、3個の支柱を残し、倒す方向の2個の支柱を切り、最後に残りの支柱を伐採し、木を倒しました。搬出の困難な奥山では、大木を必要の大きさに伐採し、それを人力で担ぎ出しました。
伐採した木材の搬出は、雪の上をソリを使ったり、木材で半月形の滑道を作りその上を滑らして搬出する修羅出しや、番木を伏せて、その上を木馬で搬出する方法がとられた。また、沢をせき止め、その水を一挙に流して木材を下流に流す鉄砲流しも行われました。
人工林
富山県の本格的な造林は、江戸後期から明治初期以降にかけて、氷見、小矢部、増山地方で始まりました。造林の最初は、それぞれの地域にある神社や仏閣に生育している大径木の枝をさし木で増殖し、その中で特に形質の良いものを選抜し、造林用品種として固定していったようです。その中で、氷見地方を中心とするボカスギ林業、小矢部市宮島村を中心とするミヤジマスギ林業、砺波市増山を中心とするマスヤマスギ林業が形成されました。このような林業地帯で育成された優良なさし木品種にはボカスギ、リョウワスギ、ミオスギ、サンカクスギ、ハラマキスギ、マスヤマスギ等が知られています。その中でボカスギ林業は特筆すべきものがあります。
ボカスギ林業
明治11年に始まった電信、電話、電気事業の拡大に伴う電柱材の膨大な需要を背景にボカスギ林業は成立しました。ボカスギはその名の通り、ボカボカと太ることから名付けられたといわれており、防腐材の注入が容易で、電柱材の生産に適していました。
ボカスギ林業の特徴は、焼畑と間作が組み合わされたことでした。焼畑は、薪炭林を皆伐した後を焼却して焼畑を作ります。初年度は軽く耕耘してソバを栽培する。2年目は大豆、小豆、3年目に小豆、大麦、甘藷を栽培すると林地は柔らかくなり、木の根もほとんど除去されるので、4年目の春に2年生苗を植え付ける。植栽本数は、ha当たり1,000本程度と疎でした。ボカスギ植栽後は、3年から5年間、引き続き小豆、甘藷、大麦、里芋等の間作をおこないました。このことによって、極めて有効な土地利用がおこなわれました。
タテヤマスギ
雪の多い呉東において、スギの造林が盛んになったのは、呉西よりかなり遅れ、大正年代に入ってからでした。この地帯は、多雪による雪害が多発し、植林したスギを成林させるのが困難なため、雪に強いタテヤマスギ実生が選ばれました。タテヤマスギの種子は、主に、タテヤマスギの天然林から採種されました。 
 
富山の狩猟民族

 

人と山との関わりといった場合、避けて通ることのできない問題の一つが狩猟である。狩猟対象は熊などの大型哺乳類から狸・アナグマ・野兎といった中・小型哺乳類に至るまで多岐にわたる。ここでは、熊猟を中心に富山県の狩猟民俗の一端に触れたい。
富山県の狩猟民俗に見るマタギの影響
本州のほぼ中央に位置する富山県は、民俗文化の面から見ても、東西両日本の要素が混淆している地域である。西日本方言をベースとして一部東日本方言的要素を加味した富山弁、鮭と鰤の正月魚としての併用などがその代表例である。
それでは、狩猟民俗の面から見ると富山県はどのように位置付けられるであろうか。
結論から言うと、富山県の狩猟民俗は極めて東日本的であると言えるだろう。というのは、富山県東部に東北地方の狩猟専業者たるマタギの影響が強く及んでいるからである。
この点を具体的に説明すれば、以下のとおりである。
すなわち、朝日町羽入で実施される巻き狩り猟法(春先冬眠から目覚め餌を漁る熊、いわゆる出熊を集団で包囲しつつ、山頂近くへ追い詰めて撃ち取る猟法)はフクタロー(福太郎か?)なる秋田マタギによって当地に伝えられたものとされている。また、山中の「センタの狩り」「中山の狩り」なる狩り場名はマタギの姓名を冠したものと言われている。さらに下新川郡宇奈月町内山の捕獲した熊の剥き身の上に熊の毛皮を上下逆さまにかぶせ呪文を唱える熊の慰霊儀礼は、まさしく秋田マタギの「逆さ皮」儀礼に対応するものである。倒木したあとにできた土穴を「あおり」という(婦負郡細入村)のも秋田マタギとおなじである。
このように、富山県ことに東部には猟法・地名・熊捕獲儀礼など多方面にわたって東北地方のマタギの影響が強く及んでいるのである。
マタギの影響を受けて成立したと考えられる前述の巻き狩りに比して、地域差が大きくかつ古風なのが冬眠穴居中の熊、いわゆる穴熊を晩冬から初春にかけて捕獲する穴熊狩りである。県内の各狩猟地域を見渡すと、前者を後者より重視する地域、両者を同等に実施する地域、そして後者を前者より重視する地域の3通りがあることに気付く。それぞれの地域が巻き狩り、穴熊狩りいずれを選択するかは、マタギの影響といった外的要因以外に、猟場の地形、猟に動員できる人数といった内的要因によっても左右されると考えられる。すなわち、地形が急峻かつ多人数(10人前後)を動員できる場合には巻き狩りが、地形が急峻でなく少人数しか動員できない場合には穴熊狩りが実施されたと考えられる。それはともかく、ここでは県下の穴熊狩りを概観してみよう。
熊穴のいろいろ
熊の冬眠する穴の種類として、木穴、岩穴、土穴がある。
まず木穴について述べる。
穴のできやすい樹種としてスギ、シナ、ナラ、トチ、ブナなどが挙げられ、熊の入りやすさから、スギ穴が最上、シナ穴、ナラ穴が次善、トチ穴、ブナ穴が最下位のものとして猟師によりランク付けされている。後二者が最下位に位置付けられるのは、他の木穴に比して木肌が冷たいため、熊があまり入らぬからである。
穴のでき方は樹種により異なる。スギの場合、樹幹下部に横穴ができる場合、樹根の隆起により樹幹と地表との間にわずかな空隙が生じる場合などがあり、穴の位置が低いため、子持ちもしくは妊娠中の雌熊が入る。これに対して、シナ、ナラの場合、樹幹の中途より腐りが入った結果、樹幹の上下を貰通する長大な樹洞ができやすく、雌雄の成獣いずれか1頭が入る。いってみれば、熊の生育段階いかんによりそれぞれが選択する穴の種類が異なると捉えているのである。
しかし、穴のある樹種は相違しても、穴口が熊の頭しか入らぬ狭小なものである点はすべての木穴に共通している。
次に岩穴、土穴について述べれば、その形状は長短曲直、上がり気味のもの、下がり気味のもの、水平なものなど多様である。なかでも岩穴に熊が穴居する際、穴口に石を積んで、木穴同様穴口を小さくすると羽入では観察している。これは寒さ防止のための行為であるという。
熊穴の発見法
穴熊を捕獲するにはまず熊穴を発見しなければならない。熊穴の発見は猟期以前になされる場合と猟期にその場でなされる場合との2通りがある。
前者の場合、他よりの情報提供による場合、穴寵もりに際し熊が初雪上に残した四肢跡を手がかりとする場合、平素の山歩きによりあらかじめ熊穴を見立てておく場合の3通りの方法が採られる。なお、猟期前に熊穴を発見したとしても、捕獲は胆嚢の最も肥大した猟期を待つ。
これに対して後者の場合、熊が樹幹に残した剥ぎ跡、齧り跡、掻き跡を手がかりとする、猟犬に発見させる、雪上の四肢跡を手がかりとする、雪面の変化を手がかりとする等4通りの方法が採られる。
これらのうち、熊が樹幹に残した剥ぎ跡、齧り跡、掻き跡を手がかりにする方法とは、より正確には熊が冬眠に先立って自己の冬眠する穴のある樹幹及び穴に至る途次の木々に付けた剥ぎ跡、齧り跡、掻き跡を手がかりに熊穴を絞り込んでいく方法である。ただし、ここで剥ぎ跡、齧り跡、掻き跡等と一括したが、その地方名、それが指す実態、さらにはそれらが付された木々と穴との距離関係の捉え方は一様ではない。次に雪上の四肢跡を手がかりとする方法とは、2、3月の穴替えの時、及び冬眠から覚醒後の足慣らしの時、雪上に残した四肢跡を手がかりとして穴を発見する方法で、前述の初雪上の四肢跡を手がかりとする方法と対応するものである。
また雪面の変化を手がかりにする方法とは、熊の呼気や塵挨の排出による雪面の変化を手がかりに熊穴を発見する方法で、根元近くの穴、岩穴発見に有効であった。雪と狩猟という面から貴重な伝承である。
熊の存在確認
以上の方法で熊穴の所在を確認した上で、穴中の熊の存在を確認する。
熊の存在確認には肉眼で確認する、穴中に石や雪玉、煙草火を投入したり、樹幹を殴打したりして反応を見る、穴中を雑木の棒で撹拌するといった方法が採られた。
これらに増して興味深いのは植物を利用した熊存在確認法である。
すなわち、五箇山では棒の先に粘性のある栃の新芽を折り取って付け、穴中に差し入れ押したり引いたりしてみて、新芽の先に熊の毛が付着していれば、穴中に熊ありとするのである。
熊の捕獲
穴中に熊の存在を確認するといよいよ熊の捕獲に着手する。
以下、熊の種別に熊の捕獲について述べる。
穴が縦長の樹洞をなす場合、穴中に雑木の枝を切り払ったもの(これを県内ではトメギと称する地域多し)を、切り口を先に差し込んでいくと、熊はどんどんそれを引き込んでいき、ついには自分の居場所もなくなるほど多量の雑木を引き入れてしまう。結果として熊は穴口にせり出してくる。熊が穴口からほぼ半身を乗り出した頃合いを見計らって、すかさず頭を狙って撃つ。このようなトメギによる熊の誘い出し猟法を城端町袴腰山麓ではクマヨビ(熊呼び)と呼称している。猟の実態を言い得て妙である。
ただし同じトメギを、熊誘い出し具ではなく熊に引っ張らせ穴口を閉塞する具と解している地域も結構多い。この場合熊を穴中で仕止めて、樹間に穿った穴から取り出すことになる。トメギが熊誘い出し具なのか、穴閉塞具なのか、それとも両方の機能を果たし得るのかは今後解明すべき課題である。
トメギを使用した猟以外に、穴中に雑木を入れ撹拌したり、煙草火を穴中に落としたり、樹幹を強打したり、細引きに雑木を結びつけたものを穴中へ下ろしそれを上下させるなどして、熊を挑発、挑発された熊が穴より出たところを仕留める猟もなされた。
熊が岩穴・土穴にいる場合、木穴と同様トメギを使用し追い出したり、燻し出したり、猟犬を潜入させ追い出させる等の猟法が採られた。
ところで、対象が木穴、岩穴、土穴を問わず、猟銃普及以前には以下のごとき古風な猟法が採られた。
すなわち、猟師1人が蓑着用の上後退りで穴中へ入る。かくとすると、熊は人に手を掛けないばかりか、かえって穴奥へ引き込むという。このようにして熊の背後に回り込んだ猟師が背中で熊を穴口へ押し出す。押し出された熊を、穴口に控えた猟師が熊槍で仕留めるという猟法である。
この猟法は主として五箇山周辺で行なわれ、『北越雪譜』にも記されたきわめて古風な猟法である。
山神への供犠
捕獲した熊は喉元から陰部、両手先から胸元、両足先から陰部への順に小刀を入れ、肉と毛皮を分離する。その後、剥き身へ入刀、諸臓器を摘出する。摘出にあたっては、最も換金性の高い胆嚢摘出を最優先とするが、それに先立ち膵臓を摘出、次回の豊猟を願って山神への供物とする。捧げ方は肩越しに後方へ放り投げる所(五箇山)、切り刻んで四方及び恵方(その年の幸いがやってくるという方向)にまく所(立山町芦峅寺)、雑木製串に刺して山側に立てる(羽入)等多様である。
とりわけ珍しいのは城端町袴腰山麓の捧げ方である。ここでは、膵臓を股の間から丁度股のぞきをする格好で後方へ投げる。その際「百頭射たせ。」と唱える。捧げ方といい、行為に予祝的呪言が伴うことといい他に例を見ない珍しい事例である。
なお、膵臓以外の諸臓器の利用の仕方については、一切省略する。ただ、諸臓器は徹底利用されるとだけ述べておこう。
冬期の野兎威嚇猟法
冬期の熊狩りに増して一般的なのが野兎猟である。ここでは数ある野兎猟法の中でも、猟銃普及以前の最も古風な猟法である威嚇猟法について述べよう。これは以下のごとき猟法である。
すなわち、野兎が雪上に残した行きつ戻りつする四肢跡(これをテンモドシ、マンツラカイトルと呼称)を手がかりに野兎の寝臥す雪洞を見付けると、そこへ種々の威嚇具を空を切る音がするように投げる。威嚇具は単なる雑木の棒から雑木の棒の裂け目にむしろを挟んだもの、スギ、ヤマモミジ、ブドウヅル等をたわめたものなど地域により多様である。投げられた威嚇具の空を切る音をワシ・タカ等の猛禽類の飛来と思って穴奥に頭を付けすくんでいる野兎を、逃散防止のため一旦雪洞の口を踏み固めた後、バンバ(除雪具)で掘り出し、後肢を持って引っ張り出し撲殺する。
この猟法成立の前提には、雪上の四肢跡を手がかりとした兎穴発見がなければならない。したがって、積雪が野兎の四肢跡を鮮明に留める質のものであるかどうかが問題となる。また、猟師の行動を制約しない程度の適度な積雪量かどうかも問題となる。
このように見てくると、野兎の威嚇猟は熊狩り以上に雪と関わりが深く、雪に左右されるといえる。
精細な自然観察と生態熟知の上に成り立つ狩猟
以上、筆者の聴取資料をもとに、熊、野兎を中心とした富山県の狩猟民俗について概観した。猟師が精細な自然観察と山住み哺乳類の生態熟知の上に狩猟を行なっていることは明白だろう。 かつ、雪国ひいては雪という所与の自然条件を狩猟に前向きに生かそうとしていることを知る。 
 
紙漉き、養蚕、農業

 

越中和紙
和紙、というと何を想起されるだろうか。書画用紙や障子紙のように、日本人の生活に密着したものを挙げられる方や、最近の料理番組に登場する奉書焼きの白い和紙や、若手女優が紙のドレスを着て話題となったことを思い浮かべられる方もいらっしゃるかもしれない。
和紙はその丈夫で柔らかいという特徴と、独特の風合いや美しさで、古来から人々に親しまれてきた。
和紙の産地は、北は北海道から南は沖縄まであるが、越中の和紙は、今から1,200年前の『正倉院文書』や平安時代の『延喜式』にも記されており、越中は我が国で最も古い紙漉き場の一つである。
道の整備されていない古代のこと、都に近い方が至便であると思われるが、原料となる植物の生育が良いこと、また水質が良く、水量が豊富であるという、紙漉きに良い条件が揃っていたためであろう。
和紙の原料は主に楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などの植物である。越中和紙の産地である五箇山や八尾町、朝日町(蛭谷)は、楮を豊富に産した。紙漉きは大まかにいうと、水浸または雪晒(ゆきさらし)→煮熟(しゃじゅく)→アク抜→除塵(じょじん)→叩解(こうかい)→抄紙(しょうし)→乾燥、という工程で作られる。この工程の中には、雪国独特の技法がある。雪上に楮の皮を広げて漂白する「雪晒」や、楮の塵取りを水中ではなく、生乾きのものをこたつの上に広げて、暖を取りながら丹念に選別する「おかより」である。これらは、相当な手間を要するが、独特の風合いと品質を保持することから、今日でも引き継がれている。
五箇山和紙は、光沢があり「洗濯がきく」といわれるほど、耐久性にも富んでおり、主に障子紙、書道用紙、便箋などに用いられている。また、その丈夫さから、蚕室保温の囲いに使われたり、堅いことで有名な五箇山豆腐をこの和紙で包んで持ち運びをしたりした、という。
八尾和紙は、障子紙、提灯紙、傘紙などに用いられる一方、富山売薬とともに発展した。富山藩の奨励によって盛んになった売薬には、薬袋紙や膏薬用紙、懸場帳やお土産用の版画紙など、様々な紙製品が用いられた。その注文の多くは八尾町に集中し、昭和初期まで製紙の生産は高まった。
江戸時代初期の加賀藩の文献によれば、その生産品は殆ど中折紙(障子紙、寺社用紙、記録用紙)などである。この中折紙の寸法は8寸×1.2尺(24cm×36cm)であった。これは富山・石川両県の障子紙の横幅(8寸)に合わせたもので、越中和紙独自の寸法である。
明治維新以降、紙の需要は急増したが、洋紙が大量に輸入されるようになった。さらに戦後の生活様式の変化と洋紙業の発展に押され、和紙の需要は激減していった。しかし近年和紙の良さが再認識されるようになり、現在は文化財の補修や染紙、賞状、はがき、短冊をはじめ、和紙人形などの多くの郷土民芸品の作成が行われている。
越中和紙は昭和63(1988)年に組織などの再編整備を図り、国の伝統工芸品の指定を受けた。現在、越中和紙の更なる名声を確実にするため、生産現場の足元から見直そうと、五箇山地域を中心に楮の新植・改植が行われている。また、秋には五箇山、冬には八尾町で、それぞれ独自の工夫を擬らした「和紙祭り」などのイベントが開催されるなど、その熱意のこもった活動は、全国の関係者からの注目を集めている。
養蚕
男性ならネクタイ、女性ならばハンカチからパジャマ、友禅まで、絹製品をお持ちの方は、あの何ともいえない肌触り、光沢、キュッキュッという「絹鳴り」と呼ばれる独特の音などを楽しんでいらっしゃるであろう。絹製品は身に纏った者を優雅な気分にさせてくれる一方で、他のどの種の繊維よりも吸湿・浸水性に優れ、着心地はもちろん、衛生面からも非常に優れた衣料である。
この絹が蚕の吐く繭糸から作られることはご承知の通りである。絹と人との関わりは、農耕牧畜の始まった新石器時代の初め頃からと言われており、また日本には渡来人により、大陸から養蚕・製糸・織りの技術がもたらされたと言われている。『魏志倭人伝』には3世紀前半の日本においてすでに養蚕が行われていたことが記され、大宝律令には調物として絹が定められていることから、この頃には全国に普及していたと思われる。醍醐天皇の勅により制定された『延喜式』には「越中国 絹100疋(1疋は2反)」とあり、富山県でも養蚕は古くから行われていたことが伺える。
蚕は卵から孵化する初眠(はつのねむり)から四眠(よつのねむり)まで、脱皮しながら成長し、4回目の脱皮を経て約10日間桑を食べて繭作りに至る。孵化から繭作りまでの期間は約1カ月で、年に4〜6回飼育されているが、春先の収繭量が最も多く、繭糸質も良い。蚕は近代日本経済の成長を支えた偉大な虫であるが、非常にひ弱な虫であり、養蚕農家の苦労は大変なものである。伝染病に罹りやすく、突然発病して1晩で全滅するという事例も過去には少なくなく、食料である桑の生育や気候にも蚕は敏感に反応する。養蚕農家では繭の出来に一喜一憂し、良質の種紙(蚕の卵が付いた紙)を多量に供給できる地が養蚕の本場となった。富山県では八尾町や井波町などが桑の葉質に優れ、養蚕は盛んに行われていた。
糸繰りの技術が洋式の製糸技術の導入で一気に向上すると、交配技術などの養蚕技術が発達し、春蚕が殆どであったのが夏秋蚕が普及し、その生産量を伸ばした。また明治4年に官営富岡製糸場が開設され、蚕糸に関する教育・研究機関が設置・整備されると、生糸生産は急激に伸びた。明治末期には八尾町にも県立の養蚕学校が設置され、当時県内には1万4、5千戸の養蚕農家があり、製糸工場も盛んに操業していたのである。
しかし、ナイロンなどの化学繊維の発明と普及、戦争といった激動の時代を経て、繭価は低迷した。これを受けて養蚕農家は専業では成り立たず、兼業また廃業へと追い込まれ、養蚕を支えてきた山村の過疎化や高齢化も進み、養蚕農家は激減した。化学繊維の技術は絹を目指して開発が進められている。だが、石油からではあの優秀な繊維「絹」は創り出せないのである。県内における養蚕農家は数戸となったが、現在も「蚕を養うのは止められない」と頑張っている。
農業
地勢などの地理的条件が悪く、農業の生産条件が不利な、いわゆる中山間地域では、古来、自然との節度ある調和を図りながら、創意工夫を生かしつつ、特色ある農文化を築いてきた。
近年まで、当該地域で栽培されてきた水稲以外の作物を見ると、麦類、豆類、野菜類、なたね、イグサ、雑穀類(あわ、ひえ、きび、とうもろこし、そば、落花生、ごま)、特用作物やその他(たばこ、からむし、すげ、綿、ちゃ、藍、桑、楮、とろろあおい…など)が挙げられる。少量ではあるが多品目の組み合わせによる複合経営が、この中山間地域で営まれてきたのである。
これらの経営形態は、富山県試験場100年の歴史のあゆみからも伺える。昭和20年代の後半から、米の自給率が高まるにつれ、その栽培面積が激減し、統計表からも姿を消していったものが多い。
最近における動向
地形・土壌・気象・植生等、自然条件が多種多様であり、また豊富な観光資源をも有する中山間地域では、
1、自然の恵みの中で山取りをしていた山菜を周辺の田畑で栽培し、冬期間に水稲の育苗ハウスなどを活用して出荷する、アサツキ、タラノメなどの促成栽培
2、自家菜園的な野菜づくりから、夏場に弱いホウレン草の夏作、観光客の需要に応える赤カブの栽培期間の拡大
3、余り手をかけることのなかった楮の集約栽培、あるいは、山間地域で栽培することによって花色が良くなり日持ちが長くなるといわれる菊などの切り花類、また生産コストを費やさないで平地との出荷時期を調整できる作型導入など中山間地の特性と新技術を組み合わせた営農への取り組みが見られる。
今までの稲作を中心とした画一的な農業にとらわれず、単に、農業・林業・漁業の部門間の連携だけでなく、異業種との連携や結合を深め、先進的技術を取り入れた、新しい生産のうねりが期待されているところである。 
 
里山の獣(けもの)たち

 

「里山」
心に響く言葉だ。ところがこの言葉、わりと新しい。
自然離れの都市型生活が日常となった反作用なのだろうか、人々の自然志向が強くなってきた。それと共に「里山」という言葉が、紙面などによく登場し始めた。そこから連想されるのはおそらくあの、「うさぎ追いしかの山、小ぶな釣りしかの川」という失われつつある心の風景なのだろう。
それとも、産業・生活構造の変化で過疎化し、老人がひっそりと暮らすうらさびれた場所か、はたまたアウトドアブームの最新装備で「武装」した、快適な遊び空間のことなのだろうか。
辞典には「里山」とい、言葉はない。
「里」は、「郷」とも書き、「山あいや田園地帯で、人家が集まって小集落をつくっている所。村落。人里」(大辞林、松村明編、三省堂)とある。そこで「里山」とは、里に定住する人々の日常の生産=生活圏としての周囲の山々とみなすことができるだろう。また、人の手が入っていない原生林や高山に対比して使われることもあるようだ。
里山と獣
さて、くどくど里山について触れたのはほかでもない。それが本来、動物の自然分布や生息域を指し示す概念ではないからだ。では何が一番の決め手かと言うと、植物の分布なのである。それは気温と降水量で決まる。日本列島には、北から亜寒帯、冷温帯、暖温帯、亜熱帯の4つのタイプがある。これは標高の変化にも対応している。緯度的には、富山県は暖温帯に属する。垂直分布ではハンノキ林などの低地帯、カシ・シイなどの暖温帯の林からブナなど冷温帯の木が生える山地帯、オオシラビソなどの亜高山帯、ハイマツの高山帯から成り立っている。ある動物の生息域を特徴づけるのに、「○△は『高山帯』の動物」と言うわけだ。そのほか、生態的にみた場合、「森林性」「草地性」とか、「樹上性」「地中性」の動物という言い方もある。
ところが「里山性」というのは聞いたことがない。里山は、山の標高や植生などの環境に規定されない。もっぱら、人が住む集落と関係する。したがって低地から山地帯までを広く含む。地方によっては亜高山帯も入るかもしれない。そして、渓流や河畔、森林、草地、岩、洞穴など多様な環境がある。
では、その里山と動物はどう関係しているのだろうか。ここではよく話題に登る獣(けもの)(ほ乳動物)について考えてみることにする。
人から見た里山の変化
山村の過疎化が著しい。山へ動物調査に出かけると、放棄された畑や休耕田が目立つ。その反面、今まで細くうねっていた道が、立派な生活道路として拡張され、舗装されていることに気がつく。その道は、山の奥にも伸び続けている。
先ほどの里山の定義だと、過疎化が進めば、それに比例して生活圏である里山も減退することになるはずである。
しかし、里山は減っていないと思う。生活手段の変化のせいだ。昔は、山道を、荷を背負って歩く範囲が里山であった。今は、舗装した林道を車で走る。1日の行動可能な範囲は比較にならないほど広がっている。里に住む人だけでなく、町に住む人も車を使い、相当の奥山まで、かなりの人が、かなりの時間、山に滞在している。釣り、山菜採り、バーベキューなど、目的もさまざまだ。それに応えるように、自然志向やアウトドアブームは、山々に多様な施設を作り続けている。
里山は、以前に比べると、利用形態、利用面積、利用人数、利用時間が変わってきた。
獣から見た里山の変化
富山県に生息する獣は約50種類。そのほとんどが山地帯や、山地帯を含む地域を主要な生息域としている。
里山はそこに広がっている。里山の変化は、そこに暮らす獣たちの生活にも影響を与えている。
人との接触の機会が増える
まず、獣たちが人目につきやすくなった。山中を縦横に走る林道と、短時間に長い距離を移動できる車は、多くの人を里山に送り込む。それは必然的に獣たちとの遭遇の機会を増やす。林道を車で走る動物調査法があるくらいだ。
ツキノワグマ、ニホンカモシカ、ニホンザルといった大型の獣から、タヌキ、キツネ、ノウサギなどの中型ほ乳類、時には、イタチやテン、ノネズミ類が林道を横断したり、林道ぶちにいるのを見かける。
獣たちは生活スタイルを大胆に変えることはしない。けれども、林道という人工の「帯び(おび)」は、彼らにとっても利用しやすい場所である。1つは、移動すなわち獣道として。2つは、林道沿いに開けた草地をエサ場として。彼らは少しずつ生活をそれに合わせていく。
エサ場が増える
山裾では休耕田や放棄畑が増え、草地化している。これは結果的には、林縁部の草を食べているノウサギやニホンザル、ニホンカモシカに良好なエサ場を提供することになる。
また、山腹には、ゴルフ場やスキー場が、また、スギ植林のために皆伐された山が広がっている。森林が減り、陽がよく当たる草地の増加を意味する。これも同様に動物たちのエサ場となる。
それでは森林性のモモンガやリス、コウモリなどはというと、残念ながら、どう影響しているか不明である。
休息地の提供
スギの植林地についてはどうか。植物相は貧困で、豊富な食べ物を獣たちに提供してくれない。ところが、スギ林は冬、暖かな場所。その季節には、ニホンカモシカやノウサギ、タヌキなど、それなりに休息場所として利用している。
個体数が増える?
エサ場が増えることは、それを食べる獣たちの栄養状態がよくなることを意味する。その結果、個体数が増える。このことから、「里山の動物全体が増えた」とつい思ってしまう。
たしかに、天敵の少ないニホンカモシカやニホンザルは、その恩恵をこうむっているように思われる。しかし、キツネやテンなどに捕食されるノウサギの個体数変動については、明確な結果が出ていないようだ。
ツキノワグマはどうか。彼らは、春は沢沿いの草本類、夏は昆虫など、秋はブナなどの堅果を食べ歩いている。エサ場の増加はあまり考えられない。むしろツキノワグマの場合は、林道などでの人との接触の機会が増加している動物といえる。いずれにしても、山全般で動物の数が増えている訳ではない。人の動き、獣たちの動き双方を考えると、里山での発見率は高くなっているように思われる。しかし、この現象を、原生林を含む富山県の山域全体に拡大して考えることは危険である。原生林は里山のような変化は少ない。
里山をめぐる獣と人
里山では、昔から獣たちは、大なり小なり、人の生活に依存してきた。タヌキやテンは畑の脇に植えられたカキの実を冬の食料とし、ムササビはスギをすみかとする。
こうした関係がいま、崩れてきている。ニホンザルやタヌキたちの作物荒らしが増えた。富山県に最近、進入してきたハクビシンもさかんに畑に手を出している。ツキノワグマやニホンカモシカが里山から市街地まで頻繁に出没すようになった。
食料が豊富な雑木林が食べ物のないスギ林に変わったら、獣たちは、山裾の畑を新たなエサ場にせざるを得ない。そこで作物の味を覚えた動物たちはさらに、畑を求める。作物は栄養があり、動物の個体数は増える。増えると食べ物が不足し、さらにエサ場を求める。悪循環である。ニホンザルなどのような知能の高い動物は、人への恐怖心も捨てつつある。
里山の変容が、人と獣たちの接点を拡大した。その結果、獣たちの数や行動パターンを変えた。
こうしていままでのバランスが崩れた。これは、人にとっても、獣にとっても、不幸なことである。 作物を荒らしたり、遭遇事故が生ずれば、人の生活と安全のために、「害獣」として獣たちを駆除せざるを得ない。
里山は自然と郷土を見つめる場
里山をめぐる人と獣は、これからもそう関係していくしか方法はないのであろうか。
そうではない。いまでも、これからも、里山は富山県に生息する獣たちの主要な生活の場である。彼らと共存し、後世に豊富な富山の自然を残していくためにも、これからの里山の関わり方を確立していくことが必要だろう。
第一に、人と獣たちの時間的場所的すみ分けを再確立することである。そのためには、「人は怖いもの」ということを動物たちに教え直すことも大事なことである。
第二に、富山の動物たちに関する知識をきちんと学習する場が必要だ。どんな動物がどこにどうして暮らしているのか、それを知らないといい関係は作れない。現在、義務教育をはじめ、教育機関でそれを教えているところはないのが実態なのだ。
第三に、環境と共存していく生活様式を、経済面や生活面など、多様な角度からもっと考えるべきであろう。山菜ブームも結構だが、それはツキノワグマたちのエサでもあるのだ。残してあげよう。里山で獣たちが安全に暮らせる環境は、「日本一住み良い県」の基盤でもある。それがなければ、おいしい水も魚も空気も、富山にはないはずだ。
そして最後、第四に、郷土の自然に対する価値観=自然観をじっくりと育てていくべきであろう。これこそが人と獣を共存させる永遠の力となる。
実はこうしたことは、いままでは親の代から子の代に語り継がれ、受け継がれてきたことである。大量消費生活のコンベアに乗って、便利さと快適さを求め続ける現代社会は、生きる上での直接利害に関係しない分野を捨て去ってきた。自然や風土を見る目や考えを育ててこなかった。小手先の受験技術よりも、よほど人間として考えるべきことにも関わらず。
里山。人も獣も関係する場がいま、変わりつつある。先人から引き継いだ豊かな里山と、そこに暮らす獣たち。わたしたちはそれを後世に残せるか、いま問われている。
里山の獣たちは黙して語らないが、わたしはいつも、彼らの視線を感じている。 
 
山の民の祈り

 

富山県の地形は、東・南・西の三方山に囲まれ、北を海に開いている。古くから人々は海浜に、里部に、山里に住み日々のなりわいを営んできた。民俗学の分野では、こうした居住地域による人々を、「海の民」、「里の民」、「山の民」として分類、それぞれに生産基盤のちがいによって文化・民俗・儀礼等の各分野で特色を示している。今回は、近代化の中でほとんど見られなくなった山の民の生活文化を見詰めなおし、その「こころ」を取戻す指針としたい。
「山の民」とは
「山の民」という概念は、「里の民」との関わりのなかで初めて規定できると考えられる。つまり、社会の基本構造からみると、稲作農耕を生業の主体とする里社会(農村)と山で生計を立てているグループとの関わりである。
具体的には、畑作を基盤とし、伐木(樵)猟師・炭焼きなどをなりわいとし、あるいは、和紙漉・養蚕・塩硝や木地屋といった特殊な生産で一般の里社会と一定の距離を保ちながら、つかず離れずの生業を営み、同時に里社会とのあいだに文化的境界を維持してきた集団を「山の民」というのである。「山の民」と「里の民」とは「モノ」の交換が基本であり、同時には、精神的にも相互に依存する関係をもっている。里社会からみた場合、山地とはあらゆる生産の源泉であり、「山の民」はなにか常人と違った、言わば霊的な存在としてみる場合もあったと思われる。山が生産の源泉であるという考え方は、平地稲作民にとって水田を作るために水をもたらすものが山であるという、すなわち水流分限の山だということに起因し、「山の民」を媒介として、山の信仰や山の「モノ」がもたらされる。したがって「里の民」にとっては「山の民」とは、自分たちの共同体とはあきらかに別の世界の存在であって、あるところまでは立ち入りを認めるけれども、ある一定の距離をおいてしか立ち入らせないと認識した社会である。
「山の民」の文化
「山の民」を以上のように「里の民」との区別の中で定義づけ、「里の民」の文化を稲作農耕を主体とするいわゆる「稲作文化」の伝統のうちにあるとすると、「山の民」は「焼畑に支えられた特有の生活文化」の伝統のうちにあるといえる。この生活文化とは、@焼畑で栽培される多種類の作物をはじめ、A山野に自生する植物や動物を、きわめて多面的に採集・狩猟し、それを利用する生活様式に特色がみられる。それとともに、B森や山のさまざまな場所に住み、山中異界の神として、人々がそれに加護を祈るような「山の神」の信仰とその儀礼が山村地帯に広くみられることが指摘されている。
こうした焼畑や採集による生産は、西日本に深く根を下ろした南からの照葉樹林型と東日本に深く根を下ろした北からのナラ林文化型を生活の基層としていると考えられる。
「山」や「山の神」とその信仰は、その基本的な性格において、東アジアの照葉樹林帯の焼畑民の間にみられる山や森の精霊とその信仰に対比できる性格をもつものであるといわれる。
ところで日本の文化や生産の基相である「山の民」の生活にみられる照葉樹林型生活文化とは、雑穀類(ソバ類・アワ・ヒエ・イモ類)を主作物として栽培する焼畑農耕文化の伝統であり、ナラ林文化型生活とは、アワ・キビ・ソバなどの栽培や堅果類の採集、クマやシカを狩猟する森林・移動・狩猟民型文化の伝統である。
特に富山県の山麓地帯は、かつては照葉樹林型の焼畑文化の伝統が色濃くみられ、その上に斑模様として森林・移動・狩猟民型のナラ林文化の痕跡をみることができるという。いわば日本文化の基層を構成している二つの伝統文化がオーバーラップする地域として存在したのである。
「山の民」のなりわい
「山の民」のなりわいとして、一般的に焼畑と狩猟がセットになっている場合が多くみうけられた。かつては、「山の民」は、僧ケ岳・剱岳・雄山等の立山山麓部、婦負郡八尾町の山麓部、神通川の上流の飛騨の山麓、五箇山利賀・平村の山間部、庄川町の山間部、福光町の山間部、福岡町・氷見市の山間部等の地域に想定することができた。
これらの地域の生業は、近代化の中で、都市化現象が進み、戦前生まれの70歳以上の人々にのみ、いわゆる「山の民」の生活が遺されている。
農業の主体は、焼畑(薙畑ともいう)での蕎麦や稗の栽培であった。八尾の奥とか山田村の山地に「草連」とか「双嶺」と書く焼畑の古い地名の所が多くみられる。北草嶺(桐谷)・滝草嶺(栃折)など30か所に及ぶ。またナギの地名は、焼山(武道原・新屋・室牧の清水)、大薙(杉折)、薙原(西口)など、その他利賀村には夏焼という地名さえある。
また神通川上流の割山・加賀沢、朝日町の大平(だいら)や福岡町の五位山等でもみられた。焼畑は山によってもすこし違いがあるにしても、大体春焼きと夏焼きとあり、山地の草木を焼いた跡に、春焼きは稗とか粟、夏焼きには蕎麦・大豆等が蒔かれた。焼畑や畑のフチでは桑や桐などの生育の悪い場所か、アラシなどの痩地に漆を植え、6月中旬から採液をした。このほかの生業としては、炭焼きや樹木の伐採、狩猟などの稼ぎ、養蚕・竹細工・和紙・木地等の手工芸的産物が生産されていた。
「山の神」信仰
「山の民」を特徴づけるものとしてあげられるものは「山の神」信仰である。
山の神はそもそも山の守護霊だと思われる、里の民は山の神を先祖の霊の一変形とみるに対して、山に実際に生活している人たち山の民にとっては、山の領域を守護してくれる神様だから、ちょうど里の民にとっての氏神さまのような、地域の守護霊というふうに考える。そして山の民の信仰する「山の神」の神格がしだいに里に降りてきて、「家の神」のなかに位置づけられ、稲作を主とする社会にあっては、「田の神」や「正月さま」などのような予祝的な五穀豊穣を祈念する「祭り」となったのである。このような「山の神」のありかたは、本来山の民の独自の神であったものが、やがて平地民の多様な信仰に習合していったと考えられる。
立山山麓の芦峅寺の「うば尊」や五箇山人形山、八尾の高草嶺の伝説に登場する「山姥」の存在や、高草領の山のうえにある猫池にも山姥が住んでいたという伝説、五箇山の小地名に下手のウバガホドクラ、梨谷のンバタンなどがあるなどは、山に霊的な存在を認めたゆえんであったかもしれない。また立山の止宇呂尼伝説や五箇山人形山の伝説は修験道の女人禁制の面影を残しているのかもしれない。「山の神」信仰とは、素朴な自然崇拝を基相とした信仰であり、自然そのものの霊的な存在に対して畏敬の念をもち、さまざまな儀礼はいわばこうした神の意を迎えるということではないだろうか。たとえば猟師に関しては、神の意志を判断するために狩猟をやって、穫れれば「神様が認めてくれた」と判断するのである。「神の意志」を伝える話として、高草領の「神様石」や五箇山の寿川の宮の扉の話等が伝えられている。
山の神の祭りは、五箇山ではヤマノカミサマノマツリというところもあるが(来栖)むしろ、テングサマノショウガツというのが一般である。(中畑・見座・上松尾・上梨)。この日、山へ行くと天狗さまが出るから山へ入ってはいけないという。このように山の神は具体的には天狗さまとしてイメージされていた。
さて、ここで一般に「山の神」の祭りの様子を、立山町芦峅寺の場合で例示してみると、現在は多少変形しているが、この祭りは、3月9日に行われる。当番の班長の家では、前の晩に夜明かしし、夜明け餅をつき、全員入浴して神に参拝する。その時に一般の人も参拝すべく、太鼓を打ち鳴らす。参拝者は賽銭と酒を持参して詣でる。終わると餅を村中に分ける。その日一日は、村の人は山に入らず休養をとる。
猪谷では4月24日に山の神まつりをする。この日は男たちだけが山の神を祀った祠(神の堂)に参る。供えられる鏡餅は、生米を水に浸してからついたもので、古いやり方を今にとどめている。山仕事はこの日休むことにしており、この掟を破ると山神が怒るという。庵谷では秋の「山じまい」の日に、ゴヘイモチをつくって山神に供えた。福光町の山間部の南蟹谷・太美山地区では、春は山の神が木種をまき、樹木をととのうる日として2月9日に、秋は山の神が山深く帰る日として11月9日に、木こり・炭焼き・山林所有者が赤飯、鮮魚を神前に供え、祝い酒を酌み交わして休業とした。
「山の神」信仰と儀礼
「山の神」信仰を示す具体的な儀礼は、「山の民」の生活万般にみることができるが、ここでは特に伐木・炭焼き・狩猟に係わる儀礼に限って具体的にみるとしたい。
伐木の信仰
伐木は芦峅寺や上市町白萩谷ではソウマ、八尾町大長谷地区でソマ、庄川地域でキコリ、氷見市床鍋地域でコビキ、神通川上流の飛騨ではソウマサと呼んだ。
4月から12月まで働く伐木夫は、芦峅寺では、かつて正月は床の間によき・なた・ガンドウの三つの道具を飾って鏡餅を供え、2月9日には「山神さまの祭り」を行って、床の間にミキ・アカママ、あるいは半ゴロシ・ツキアゲ(共にオハギ)をつくって供えた。特に山神さまを屋敷神とする家に、立山町小又の小幡松右衛門があった。山中往復の伐木夫の祈願した山神さまには、片貝川上流最奥の奥平沢(ひらそ)の上流に、激流に突き出した岩頭に安政年間の建立の「奉請山神」、さらにそれから東又谷本流に、北又谷の合流した奥五町には「大山昨命」と刻銘された山神の祠がある。朝日町大平(だいら)を流れる境川を、村から1里余りさかのぼった滝淵の傍らのルイシ平と、さらに奥半里の字フミダシのブナの大木の下にも山神さまの祠がある。ルイシ平の場合は、切石を組み立て、中に5、6丁の剣を祭ってあり、フミダシの神は大木の下に自然石のご神体である。共に村の山人が伐木に入るとき、怪我の無いように酒1升担いて行き参った。朝日町山崎の山人は小川の支流相又谷に入るとき、ナラの大木に剣をうちつけて山の神の加護を願ったという。また、黒部川のヤタゾの奥ではナラの大木に鳥居を立ててあったと伝えている。
炭焼きの信仰
炭焼きの信仰はまさに「山神の祭り」であり、多くのところでゴヘイモチをつくり、山の神に供える儀礼があった。
いまの若い世代にはその伝承も見られないという。
氷見市より、西礪波郡までの県境沿いは、福井・石川県と同じく年2回の山神祭りがあったが、2月と11月の各9日である。この日、氷見市床鍋では、親方持ちの大工・コビキ・炭焼きの子方たちは、親方の家に招かれて盛大な酒盛りをするが、親方の無いものでも縁故を呼んで祝う。一般の村人も、この両日は「山神さまが酒盛りしておられるので邪魔になる。」といって山入りしない。福岡町沢川(そうご)では、この日を「山の神が山を回っておられので山入りしてはいかん」とか、「刃物を手にするな」という。同町小野(この)の炭焼きは、12月9日にテングサマが木の実を拾って貯蔵され、3月9日にその種をまかれるという。村の男たちは、12月のを感謝祭として特別盛大に行い、ゴヘイモチをつくり、山の神に供えて酒盛りをする。中には天狗の面をかぶって踊りはねる者もいる。この餅は、御幣の代わりの串餅である。
大山町小坂でも山祭りはなく、2月中旬に山ネント(年頭)といって、各自で初山入りしたとき、ツトワラに赤飯とイワシを入れ、枝につってくる。旧中・下新川郡の山祭りになると、年1回たいてい2月9日に行われる。いずれも仕事を休み、山入りしない。立山町芦峅寺・黒部市嘉例沢のように盛宴をはる所もあるが、一般では至って簡素にお供えする程度である。朝日町大平(だいら)の山神祭りはゴヘイモチを作るが、山にコロ切りにはいって、雨降り休みの時にもつくる。これを別名ミソカンバともいい、ドブ酒でつくり、ミソをつけて焼く。またバン(板)を台にして、ヨキのせなかでつくのでバンダイモチともいう。また、上市町東種は2月2日に山祭りをする。このほか、大沢野町長では、苗代の蒔種が終わり、炭焼きに入る4月24日に山の神祭りを行う。この日は村の山仕事をする人全員が集まり、もち・うるち米半々のゴヘイモチを矢串にさし、ゴマみそをつけて火にあぶり、酒盛りをする。大きいのはひとつ五合もあり、手のひら大である。朝日町羽入では5月9日である。
狩猟の信仰
県内のクマ狩りでよく知られていたのは、立山町芦峅寺のクマ狩りである。芦峅寺では江戸時代から宿坊以外の家の仕事として、炭焼き・ソウマ(杣)とともに山仕事のひとつであった。各家とも正月は、床の間によき・なた・ガンドウの三つの道具を中心にして、槍・鉄砲の狩猟道具、かま・トングワの7品を飾り、ミキと鏡餅を供えた。この村の猟師は、正月2日に弘法小屋(今の上の子平)まで出かけ、撃初めとして兎をとり、3月9日の山神祭りが済み、15日ころから称名川支谷の人津谷・山伏岩屋を根拠地として、周辺のクマのアタリ(動静)を調べ、兎をとる。狩猟のため山に入ることをカリヤマにいくという。
芦峅寺では、銃に込める玉を「アタリダマ」といい、仕止めた獲物の体内に残っているたまを取り出し、新しい鉛を混ぜ、イリナベで溶かし、鋳型に流して作る。古いたまを混ぜると「山神さまが獲物を余計とれるようにして下さる。」と信じていた。
クマの狩猟には解体儀礼が伴った。クマを撃ちとると、その場でバラ(カイタイ)してタチ(膵臓)を出し、山の神に供え、豊猟と山での安全を祈った。このように山の神にタチを供えるのは、県内はもちろん、東日本一帯にみられる儀式である。膵臓をタチというのは、その形が太刀に似ていることに由来し、そのタチを供えるのは山の神への奉剱習俗と関連があろうと考えられる。利賀村では、タチは山の神に供えるものだとされており、一同に目をつぶらせて「この次もまたよろしく頼みます」といって山に投げたという。
また利賀村百瀬谷や朝日町羽入では前夜の夢見によって、クマのとれることを占うという。上平村皆葎ではクマは山の主とか、山の神といわれてクマをとるとクマドリアレといって荒れるという。福岡町でも山手で同じことが言われる。実際に大クマをとった時は急にあられやみぞれが降るという。
また、古来、山に狩りするものは山を畏れ敬い、山神への信仰が強いので、口笛を吹くな、山神さまが聞きほれて油断なさる(芦峅寺)、山神が嫌われる。(羽入)等多くの禁忌があった。
風の神信仰
この他「山の神」に類する信仰として、特異な自然現象に対しての信仰形態がみられる。
その自然神の一つとして「風の神」がある。城端町是安九万堂の風神を中心として井波町八乙女山の山頂やその麓に位置する杉谷・岩黒・連台寺・清玄寺・東城寺・北市・高瀬・川上中・蓑谷には不吹堂などの風の神を祀っている。この分布は井波から大長谷、そして八尾町(上黒瀬・小井波)へ延びている。そして大沢野町(直坂・舟倉野)、大山町(下又草嶺)にも広く伝播している。こうした不吹堂はいずれの場合も、強風が吹き下ろす場所に、また川沿いの吹き通る場所に祀られ、「暴風を鎮め五穀成就、風雨順和、万国泰平」を祈るものであった。これら不吹堂の建立・管理・運営については風下の村々が共同でおこなってきた。
雪形の信仰
僧ケ岳・五箇山の人形山、山田村の牛嶽など雪形に対する信仰がある。午嶽は、婦負郡と礪波郡の境に聳える山である。古くは『康富記』にもみえる。その残雪の形が牛の形をしており、農業開始の目安にもなり、妖異な山岳として知られた。
牛嶽の祭りは、10月2日婦負郡鍋谷側と礪波郡の庄川町湯山の村人が両方から牛嶽の山頂へ登りつき、おまいりするという素朴なお祭りであった。こうした山岳への登拝の信仰は能登と氷見の境・碁石山にもみえていて、素朴な山岳信仰の形を残している。
午嶽の信仰は婦負郡と礪波郡の各地に分布しており、旧村名で示すと、山田・音川・古里・池多・室牧・仁歩から東山見・栴檀山の各地に広く見え、八尾町山間部村落に多い。また、古く牛嶽神社であったが、その他山岳信仰を反映したものとして、魚津市布施谷の奥にある僧ケ岳もその一つである。北越第二の高山ともいわれていて、大威徳明王が祀られている。布施谷近くの人々は、この僧ケ岳の残雪の形を農作業の目安としている。
修験の山の信仰
この他五箇山と八尾の境界金剛堂山の信仰もある。ここは役の小角がそのはじめ、熊の道案内によって、この山岳へ分け入ったと伝え、修験道の行場でもあった。金剛堂山には山の神道、山の神の地名が残っており、これと続いた五箇山に山の神峠もある。修験道として、忘れることの出来ないのは立山信仰である。立山信仰は、平安時代から地獄の山、浄土の山として知られるとともに、室堂を初め弥陀ガ原の一の谷の行場は修験の場として知られ、その信仰は立山信仰として、江戸時代を中心に、山麓の芦峅寺・岩峅寺を拠点として昭和20年頃まで全国に布教していた。
今や昔日の感がある山の民の祈りと自然との「こころ」の通い方について、もう一度ふり返りたいものである。 
 
山村への郷愁とこれから

 

徹底した低地利用の山国
日本の国土の約7割を山地が占めることは周知のことです。しかし日本は全体として山の文化の国なのでしょうか。答えは否です。これだけの山々を持ちながら、稲作を身につけた人たちが九州に渡ってきて以来、3,000年以上にわたってひたすら水田を増やし続けた結果できあがったのがこの国なのです。
日本は世界有数の人口密度を持つ国です。しかし山そのものに住んでいる人は少ないのです。したがって平野部だけの人口密度をとれば、驚異的な数字になります。このことは何も工業化や都市化が進んだ現代にのみ言えることではなく、生活の基盤が農業であった時代からすでにそうだったのです。
しかし日本の水田が極めて高い生産力を持つことは、山の存在と大きくかかわっています。雨の多いわが国では、山々をうっそうとした森林が覆い、そこから無数の谷川が流れてきます。その谷川が大雨の時に運んだ土砂が低いところにたまったのが、日本の平野なのです。
数え切れないほど多くの中小河川がつくった盆地や平野は、水田をつくるのに恰好な場所でした。広葉樹に覆われた山の土は天然の腐葉土であり、山から流れる泥水はそれ自体が養分を含みます。しかも緩やかな傾斜は水田の取水・排水を容易にし、成長期にたっぷりと水を使い、成熟期に排水するという、味が良くて収穫が多い日本流の稲作を完成させることに役立ちました。背後の山の恩恵を受けながら、狭い平野をひたすら水田のために使ったこと、これが、日本の人々がわずかしかない平野部を主たる生活の舞台にしながら、驚異的な人口を実現してきた秘密にほかなりません。
近代文明のふるさとであるヨーロッパは、広大な平野に恵まれながら、畑作の生産力の低さ故に、山の斜面を牧草地として利用し、おびただしい数の食用・乳用の家畜を飼うようになり、その結果ようやく人口が増えるようになりました。これと比べてみると、家畜なしでいかに日本の人口が大きいものになったかがわかります。
山村のくらし=里山と奥地山村=
このように大きな視点から山村を考えてみると、山村には、比較的平野部に近くて生活の基盤の一部を水田農業に依存しているものと、さまざまな自然的制約から水田農業と無関係に暮らしてきた山村があることがわかります。ここでは前者を里山、後者を奥地山村と呼んで、それぞれの生活の歩みを考えたいと思います。単純化して言うならば、里山には、小規模な水田農業に畑作・養蚕・小規模な林業・山菜採集などを組み合わせた生活、そして奥地山村には、焼畑や畑作での穀類・豆類の耕作、山菜や淡水魚に加えて野生動物を食し、簡単な木工芸品やその原料を移出するという生活がありました。
山村というとすぐに林業を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、木を育てて木材を売るという形での林業が全国的に始められたのはむしろ戦後のことで、それまでは、市場に近いごく一部の山村で、組織的な林業が行われていたにすぎません。かつての山村の代表的な産業と思われている炭焼きも、都市から余りにも遠い山村では行われていませんでした。山村は、広い水田を持つ農村から見れば、複合的な自給農業に基盤をおく、貧しい農村だったのです。この複合的な経済ということが、水田農村に対する山村の特徴といえましょう。そして歴史の展開の中で、かつて水田ができなかったような奥地に近い山村にも、少しずつ水田が描かれていきました。このことは、米とは別の食の体系を持つ山村も、かなり無理をして、米のある生活に移行していったことを示しています。
富山県は、農地の中に占める水田の割合が日本で最も高い県です。実際に山村も里山的な地域がほとんどで、典型的な奥地山村はあまりありません。水田のない山村はほとんどなく、そういう意味では決して山村の本場ではありません。暑い夏を持つ雪国にとって、短い期間で大きな収穫が得られる米づくりが、決定的に大きな流れとなりました。秘境の一つに数えられてきた五箇山も、全国の数ある奥地山村に比べれば、かなり平野部との連絡が密だった地域に入ります。
これに対して西南日本の太平洋側には多くの奥地山村があります。これらの奥地山村は山の斜面に立地していますが、水田ができなくても、冬の前後も晴天が多くて、晩秋や早春にも山の斜面で何とか作物をつくれたために生活が成り立ったからだと、考えられます。
手仕事への郷愁
これだけ米づくりにこだわってきた日本の人々は、なぜ山村に郷愁を覚えるのでしょうか。多くの人々がもともと平野で暮らしてきた日本では、必ずしも山の暮らしに郷愁を覚えなくてもよさそうなものです。これは第一に、山村の暮らしとたたずまいの中に、多くの手仕事で成り立っていたかつての農村の生活の姿を見出す人が多いからだと考えられます。いま平野部を見たとき、そこでは都市は拡大し、水田は大区画に整備され、道路は付け替えられて、まったく昔日の面影はありません。
一方山村においては、一気に近代化できるような農業基盤はなく、集落全体のたたずまいにそんなに変化は生まれませんでした。平野部の農村が兼業化によって経済成長の時代を乗り切ったとき、都市から遠い山村は、兼業先自体に恵まれず、かつての複合経済のままでは所得水準を上げることはできませんでした。職を求めて人は流出し、過疎が進行しました。苦労して造成された棚田は打ち捨てられ、雑木林に戻っていきます。
しかしつい最近まで、そこには多くの手仕事がその土地にしっかりと根を下ろしていました。山村の暮らしは、今流にいえばまさにヒューマンスケールでした。大型の機機を使うわけでもなく、広い土地を造成するわけでもありません。まさに自然のさじ加減に合わせて、一人一人が汗をかいて糧を得ていたのです。
現在でも、若い人が流出して高齢化が進んでいるものの、地域によっては、お年寄りが小さな田畑を耕したり、民具をつくったりと、マイペースで精神的にも充実した暮らしをしているケースもかなり見られます。このような姿は、一人一人の手が届かないような大きな仕掛けの中で生活している都市生活者からみて、かつてのふるさとを強く思い起こさせるものとして、受けとめられているのです。
奥地山村の食文化
富山県は米と魚の本場です。山の地形はけわしいものの、山村から平野部さらに海までの距離はわずかで、本当の山奥の食文化を知らない人が多いと思います。以前平村のお年寄りから、戦前のダム工事の際に、「索道で運ばれた生魚の刺身を食べたときの感激は忘れられない」という話を聞いたことがありますが、これは、山一つ越えた礪波平野での米と刺身という食文化をよく知っているからこその、発言だと思います。
私は20年ほど前に九州山地の五家荘の奥地を何度も訪れましたが、そこでは焼畑で穫れ石臼で挽いたソバ、キビ入りのご飯、豆腐の味噌漬け、干しタケノコ、そしてヤマメ、イノシシ、シカといった、まったく水田農村とは無縁の食文化にふれることができました。すでにイノシシは貴重品でしたが、それ以外はまったく日常的な装いで出されました。残り少ないトウキビのどぶろくもありました。特に民宿のお兄さんが夕暮れ時に、こともなげにヤマメを十数匹とってきたのが印象的でした。
山国の代表である信州は、もちろんソバで有名ですが、小麦粉をこねて味噌や野沢菜などを入れて焼いたおやきが、今また見直されています。実際、今でも急斜面の畑で、麦が栽培されています。また信州には、山肉と称して野生動物の肉を売る店があります。イナゴ・ハチの子も有名です。
このような独特の食生活の体系があったにもかかわらず、多くの一般的な山村では、米と魚に代表される平野部の食生活の方が上だという認識を持つようになり、それとは別の遜色ない味覚の体系をつくるよりは、それに近づくような方向をとってきたのです。
この点ヨーロッパの場合は、山村は家畜飼育の本場であり、ヨーロッパ人の普遍的な食べ物の代表であるチーズやハム類が、個性を持ってつくられてきた点が、大きく異なります。もちろん過疎化が進行している地域もあり、農家民宿などで所得の上昇を図っていますが、生活スタイルを平野部に近づけようという発想はあまりないようです。
山村の過疎化と新しい居住の方向 =自然との新しい共生=
山村は生産活動を大規模にしたり、能率化したりすることが困難な地域でしたから、一般に規模を大きくすることによって経済水準の上昇を実現してきた高度成長期には、一気に人が流出しました。残った人々は、新しく始められた植林事業や道路建設事業などに従事して、所得の確保を図りました。そしてそれを次の世代が受け継がないまま、次第に高齢化していったのです。
私は、過疎山村にかつてのような人口が戻ることはあり得ないと考えています。今や日本の国は、少子化によって全体人口が増えなくなりました。いま人口が増えているのは、中枢都市・中核都市といわれる県庁所在地クラスの都市とその隣接町村です。便利で職場もあり、住宅コストも程々だという、多くの人に支持される特性を持っています。
それではこれからの山村の発展の鍵はどこにあるのでしょうか。それはまず、人口が増えることが発展だという呪縛から解放されることです。かつての山村では、家畜を飼ってハムやソーセージをつくることは考えられませんでした。しかしそのような産業はもう一部で成立しています。大事なのは、今までの通り一遍の土地の使い方から脱皮し、規模は小さくても、それに従事する人が立派な所得が得られる産業を一つ一つつくっていくことです。人が多いほど資源の使い方は限られ、一人一人の取り分は小さくなります。もちろん長くその土地で頑張ってきた高齢者の老後の世話は大事ですが、そのことがそのまま未来の生活をつくってくれるわけではありません。
富山県で最も奥地にあるのは利賀村ですが、ここでは早稲田小劇場(劇団スコット)を始めとするさまざまな芸術集団が活動し、世界演劇祭が催されるようになりました。さらに世界ソバ博がネパール直伝の瞑想の館につながりました。これは、いままでの地元の人とは別の能力を持つ他人に、自分たちの空間を使ってもらおうという発想だと思います。そしてこの中から、少しずつ演劇やソバで飯を食える人間が育っていくことが、小規模だが新しい産業の誕生にほかなりません。交流によって新しい力をつけることが、このような可能性を広げます。
平村・上平村の相倉・菅沼の両合掌造集落が、白川村荻町とともに世界文化遺産に登録されました。両集落ではいまさまざまな周辺整備が行われていますが、現実の生活があることを前提にした世界遺産としての評価を生かすためには、これからその集落で育つ人たちは、集落景観を維持しながら、時代の流れの中で自分たちが納得できる新しい生活の体系をつくっていかなければなりません。これは先例のないことなのです。
このように、人口は少なくても、資源を生かし切った豊かな生活の可能性を山村は持っています。しかしそれを実現するためには、先例にとらわれない独創的な人材と試みが必要です。先日、岡山県の北端にある蒜山高原の山村へ行きました。ここでは9年前から山ブドウのワインに挑戦していて、いまやすばらしい味になりました。ここの酪農協のジャージー牛のヨーグルトは、チーズケーキを思わせる絶品です。これらの加工にかかわる人は、単にお金を稼いでいるだけではなく、都市ではつくれないような、一種のブランド品をつくるエキスパートとして、誇りを持って日々を過ごすように、なりつつあります。これらの生産活動が複合的に組み合わされてさらに効果を発揮し、一人あたりの取り分を増やすことができれば理想的です。 近年Iターンと呼ばれる、都市生活をやめて農山村で暮らしたいと考える人が増え続けています。都会に育っても自然の中で暮らしたいタイプの人が、結構いるのです。このような人たちは、山村の過去を知らず、素直な眼で新しい暮らし方を考えます。そこから独創的な生産活動が生まれることもあります。山田村には、Uターンして奥地の集落に住みながら、パソコンを駆使して、全国的に事業を展開する人もいます。平均値的な発想の人には、中核都市のまわりが住みやすいかもしれませんが、山村の人たちが自然や空間を生かす新しい力を身につけ、さらに独創的な力を持つ人が加われば、そこは豊かな地域になります。それこそ、日本社会が過去に体験した、大きくなることによる発展とは異なる、まさに別の意味で大いなる発展なのです。 
 
遊動から定住へ-縄文の住まい-

 

遊動から定住へ
旧石器時代は造山運動による火山活動が盛んで、氷河期であった。このような厳しい環境に生きた旧石器時代人は、動物を追い求めるハンターで、遊動生活をおくっていた。彼らの住まいはどのようなものであっただろうか。
大沢野町の野沢遺跡では、3か所の石器や剥片が集中する地点があり、そばに3軒の住居があったとされている。石器はそれぞれ直径4mほどの範囲に分布し、そこは石器製作の場であった。また、福光町の立美(たつみ)遺跡でも4か所の石器製作場が発掘され、火の使用も確認されている。いずれも旧石器時代後期(約15,000年前)の遺跡である。
野沢遺跡や立美遺跡は3〜4人程度の男性を中心とした小集団がハンティングの合間に住まいし、石器作りを行っていた場所とみられている。
かれらの住居は、数本の柱の上端を結んで支柱とし、草木や小枝、毛皮などで屋根を葺いた円錐形住居を基本としたテント張り式の住居(伏屋(ふせや)式平地住居)であっただろう。
ところで近年、旧石器時代後期に「やや固定的」な住居のあったことが知られてきた。大阪府の「はさみやま遺跡」では、直径6mの皿状のくぼみが発掘され、円錐形の屋根をかけた住居とされている。また、群馬県富士見村の小暮東新山遺跡からは本格的な竪穴住居が発掘された。直径約3mの円形で深さは約20cある。
これらの住居は単に雨露をしのぐ程度の覆い(シェルター)ではなく、毛皮や樹皮、草などでしっかりと屋根が葺かれた「やや固定的」なものであったとされている。野沢遺跡を発掘した鈴木忠司氏(平安博物館)は、野沢遺跡から出土した敲石(たたきいし)類を植物質食糧の調理用具であるとし、旧石器時代人を、あてどなく移動する放浪の民(たみ)ではなく、半定着的で自然の季節的な要因を背景に移動したとしている。
このように今日、旧石器時代にもある種の定住性が認められつつある。少なくとも竪穴住居の存在からの「定住性」の始原は、旧石器時代を視野に入れて検討されるべき段階となっている。
縄文の集落と住まい
本格的な定住生活は縄文時代になって始まる。労力をかけて造られた竪穴住居が普遍的に現れるようになる。
鹿児島県国分市の上野原遺跡(早期前半で約8,000年前)では、伏屋式平地住居が多数発掘されており、定住集落が縄文早期に確立していることを示す。
富山県で発掘されているもっとも古い竪穴住居は、縄文早期後葉(約6,300年前)の福光町の神明原A遺跡の第2号住居跡である。長径7.7m、短径5.8m、深さ約20cで、平面図は隅円(すみまる)方形である。この住居はただ1棟だけが営まれていた。住居内には、炉の痕跡は確認されておらず、調理が屋外で行われていた可能性がある。神明原A遺跡は、どこかにまだ知られていない中核となる集落があって、ここはその分村であったのかもしれない。
ついで、初期の頃の縄文集落は立山町吉峰遺跡で発掘されている。縄文前期中頃から後半にかけての竪穴住居が24棟営まれている。住居には地床炉が設けられ、壁ぎわには食糧の貯蔵穴を備える。
この遺跡が集落の姿を見せ始めるのは前期中頃からである。台地の中央に広場を置き、その外周の一方に偏って9棟の住居が営まれる。三鍋秀典氏(立山町教育委員会)は、それらは2〜3棟がひとかたまりとなり3グループに分かれているとしている。
縄文集落は、広場を囲んで住居が馬蹄形や環状などに配置されることが多い。吉峰遺跡の住居は環状に配置されており、縄文集落の典型的構造を成している。広場は祭りの場や食糧の分配の場、村人の会合の場として機能したのであろう。もちろん遊びの場としても。
定住生活を営むには、限られた空間で継続的な食糧供給とその増量化がキーワードとなる。自然と調和のとれた共存と、場合によれば植物の育成を含めた食用資源の増量化策がとられていたことが推測される。
大形住居と縄文尺
1973年に発掘された朝日町の不動堂遺跡では、縄文中期前葉〜中葉(約4,800〜4,400年前)にかけての総数19棟の住居の存在が確認されている。発掘された4棟のうちの第2号住居跡(中期前葉)は長径17m、短径8mにもなる小判形をした大形住居であった。広さは約120平方mで、畳が70枚は敷ける。長軸をほぼ東西にもち、炉は長軸方向に間隔を置いて4基設けられていた。東側の2基は長方形炉、西側の2基は円形炉であった。柱穴は16個、太さ30cもある堂々としたものであった。
この住居跡は、当時全国で知られていた一般的な直径が5、6mの円形住居と比べて格段に大きなものであった。大形住居の全国初例となり遺跡は国指定史跡として保存整備されている。
その後、大形住居は東北を中心に発掘されてきており、不動堂遺跡は南端地域に分布することが分かってきた。
不動堂遺跡の第2号住居跡の柱穴は整然と左右対称に並んでいる。規則正しく建物を造るには、長さの基準があったに違いない。2列に並んだ柱穴の幅は4.2m(35cの12倍数)ある。個々の柱の間隔は1.4m(4倍数)、2.8m(8倍数)、などとなっていて、すべての長さが35cで割り切れる。青森市の三内丸山遺跡の6本柱の巨大木柱遺構の柱の間隔も4.2mあって35cの12倍数となっている。
これらのことから縄文時代には35cを単位とする縄文尺が広く用いられていたものと考えられる。
縄文尺はなぜ必要とされたのであろうか。不動堂遺跡の住居の復元に用いられた茅は、普通の住居には約1,300束、大形の第2号住居跡には6,800束を要した。大形住居の建築には、村人総出の共同作業があったに違いない。大形住居の用途には、冬場の共同の作業場や公民館的施設とする説がある。第2号住居には長軸方向に4個の石組炉がある。東の二つは円形、西の二つは方形をしている。この炉の形の違いは、出自集団の違いなのではないだろうか。
近年の縄文社会論の一つに、「双分(そうぶん)原理」がある。二つの異なる血縁集団が寄り集まって一つの大集落を構成するといったもの。それは健康な歯を抜く抜歯習俗に、門歯を抜くタイプと切歯を抜くタイプの2種の人々が一つの社会を構成していたり、屈葬と伸展葬で葬られる2種の人々が同一の村を構成していたりすることから予測されている。
不動堂遺跡では炉の形態度が異なる二つの集団が協同して大形建物を造ったものと考えられる。縄文尺を基に長さの約束事を決めておけば、大勢の人が山から一定の木材を一気に伐りだすことができる。両端から住居を造っても真ん中できちんとかみ合うことができる。
二つの集団が総出で一つの巨大構築物を造る行為そのものが「集団の固め」の効果を生んだ。縄文尺を用いての住居造りには、リーダーとなる人がいたことをもうかがわせる。
縄文尺は、縄文前期から中期にかけての東日本の日本海沿岸に発達した大形住居に多く使用されている。縄文尺は、大形の建物になればなるほど使用率が高くなる。一つの集落の中に、縄文尺を使った建物とそうでない建物もある。使っている建物は大勢の協同作業で造られ、そうでない建物は個人的な家屋として造られたのであろう。
縄文尺は倍数され、分数され様々な場で使用されたものと思われる。縄文人は高い計算能力と計測の概念をもちあわせていたのである。
土屋根住居が富山にもあった
今日、縄文時代の竪穴住居の見直しが進められている。富山市北代遺跡は縄文中期後葉の県下でも有数の大集落である。ここで縄文中期前葉〜中期後葉(約4800年〜4000年前)を中心とした住居が多数営まれている。遺跡は国指定史跡として整備され、1999年上半期には数棟の縄文住居や高床建物が復元され、一般公開される。
発掘された第70号住居跡では、竪穴の中の壁ぞいに黄色土(粘土)が広がって検出された。この黄色土は、屋根を覆っていた土が落下、埋没したもので、第70号住居跡は、「土屋根住居」であったと観察された。
縄文の住居が土屋根であった可能性は、昭和60年代になって北海道の新道4遺跡の焼失住居に葺土があったことから説かれていた。それが1996年の岩手県一戸町の御所野遺跡の発掘で確認された。御所野遺跡では実験的に「土屋根住居」が1棟復元されている。
北代遺跡ではその土屋根住居が営まれていたのである。整備にあたり復元家屋は検出住居の真上に行われる。縄文時代の土屋根住居の復元は御所野道跡と北海道虻田町の入江貝塚に次いで全国でも3例目となる。
その姿は土饅頭を伏せたような形で、外からは屋根と出入口、天窓しか見えない。これまで草葺屋根の復元(富山県内では不動堂遺跡と滑川市不水掛(みずかからず)遺跡に復元家屋がある)に見慣れてきた私たちには、少し異様な感じがする。しかし、これが縄文時代の家屋の一つの姿なのである。それが草葺屋根に劣らず全国に広がっていた可能性がでてきた。これまでの発掘調査では、「土屋根などあるはずがない」と見過ごされてきたに過ぎないのである。
今日では、土屋根住居は弥生時代にも発見されている。高岡市と福岡町域にまたがって営まれている下老子笹川(しもおいごささがわ)遺跡や鳥取県の妻木晩田(むぎばんだ)遺跡の竪穴住居も土屋根住居であった。
土屋根は、カムチャツカ半島のコリヤーク族などの生活にも見られる。古代日本でも『常陸国風土記』の国巣(くず)(=土蜘蛛)を、「いたるところに土の穴倉を掘って置き、いつも穴に住んでいた。誰か来る人があるとそのまま穴倉に入って身を隠し、その人が去るとまた野原に出て遊ぶ」と描いている。
麻柄一志(魚津市教育委員会)は、竪穴住居は冬の家、高床住居は夏の家と見ている。特に、土屋根の家は梅雨の頃には湿気が多くて住みにくいが、冬場は暖かく、高床住居は通気性があって夏場に快適といわれている。イヌイット(エスキモー)はこのような夏の家と冬の家とを持っている。
縄文時代の各種の住居形態をこのような機能面からとらえる見方がある。ちなみに土屋根住居は、竪穴を掘り上げた土を屋根に乗せて造られる。実際は、それだけでは足らず黒土が乗せられている。
やがて草が生えてくれば雨で流れることもなく、草の根が張って屋根がしまり、頑強な屋根となる。
福島県の南郷村や檜枝岐(ひのえまた)村では、屋根のいただきに花ショウブやオニユリを咲かせている旧民家がある。それは「芝棟(しばむね)」と呼ばれている。これなどは縄文住居の名残りなのかもしれない。絶文時代の土屋根の上に、ユリや彼岸花など四季折々に咲きほこっていたと想像するだけでも、ほのぼのしたものがある。
このように、茅葺きの竪穴住居が数棟存在したとするこれまでの縄文住居の概念はくずれた。多種多様な住居によって縄文集落が形づくられていたのが実際であったと見られるようになってきた。
桜町遺跡の発掘
1997年に発掘された小矢部市の桜町遺跡では、縄文中期末葉〜後期初頭(約4,000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあな)、ほぞ穴などといった二つの部材を組み合わせる加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口(木材を凹凸に削って組み合わせる)」といった高度な技法も見られた。渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古とされていた。その加工技術が4,000年前の桜町遺跡ですでに存在していることが明らかとなった。
普通、建物の上屋は長い年月の間に腐りはててしまう。これまでは柱穴の配置から高床建物はあっただろうと予測されてきたが、その構造は不明であった。桜町遺跡で建物の各所の部材が出てきたことで、その姿が描けるところとなった。
高床建物は弥生時代に穀物の保管倉庫として初めて現れるといった通説がこの発掘で消し飛んでしまった。高床建物が、狩猟・採集段階とされる縄文時代にすでに存在していたのである。その用途について、食糧貯蔵や祭殿、夏の家などが議論されている。桜町遺跡では、高床建物の壁材や屋根材といった新事実が次々と明らかになっている。
住居をめぐる祈りと願い
縄文時代の住居には、呪術や信仰に関係した施設が営まれていることがある。その一つに出入口や炉のそばなどに土器を埋め込んだ「埋甕(うめがめ)習俗」がある。不動堂遺跡の第2号住居跡(中期前葉)や富山市杉谷遺跡の第1号住居跡(中期中葉)などにそれがある。埋甕は縄文中期前葉頃に出現し、滑川市・上市町の本江広野新遺跡第2号住居跡(古墳時代初期)にも存在する。これは民俗例の「戸口に胎盤を埋める呪術」との関連性が説かれている。日常的に胎盤を埋納した甕の上を跨ぎ踏むことによって子供が丈夫に育ち、死産した子は再び体内によみがえるようにとの思いが込められている。低い出生率の中での、子を慈しむ母や家族の切なる願いが投影されている。
このような縄文習俗は低次元のものではない。現代に暮らす私たちも、子供の臍の緒を大切にし、手形や足形をアルバムに貼っている。子供に対する母や家族の願いは時代を超えたものがある。
おわりに
縄文時代の住居には、竪穴、高床、平地など様々な形態があり、屋根も草葺きや土置きのほか樹皮葺きもある。縄文の住居は単調なものではなく、様々な形態があった。桜町遺跡の建築材はそれをまざまざと見せてくれた。今、桜町遺跡の建築部材をはじめとして縄文の住居観の見直しが進められている。
最近、北海道八雲町の栄浜1遺跡から縄文中期の軽石製の「住居模型」が出土した(1998年7月25日付、読売新聞ほか)。それは縦14.9cの小さな製品で四角い家で形どっている。壁立ちの四隅に柱を立て、丸みのある屋根には棟がしつらえてある。
その姿は四千有余年も前の建物というよりは、ついこの前まで近所で見かけた佇(たたず)まいそのものである。
縄文時代は決して「原始」ではなかった。縄文遺跡の内容が鮮明になればなるほど当時の技術や文化の素晴らしさが浮かびあがってくる。縄文時代以来の伝統の上に私たちの暮らしや住まいが成りたっていることを再確認させられるこの頃である。 
 
農村の住まい-呉東・呉西・氷見-

 

消えた草屋根
いつのまにか、見なれていた草屋根がどんどん無くなって、今では文化財に指定された民家以外はほとんど姿を消してしまった。
日本の民家の草屋根には寄棟(よせむね)・入母屋(いりもや)・切妻(きりづま)の3タイプがあるが、富山県では各タイプがそろっている。県下一般には入母屋であるが、砺波平野は寄棟であり、五箇山は切妻(合掌造り)である。また、氷見は入母屋ではあるが勾配がゆるく、北隣する能登と同じなので能登式入母屋とも呼ばれる。入母屋は京都を中心に東西へ広がっており、日本海側では富山がその東端である。その意味では富山の屋根型は上方の影響を受けているということができる。しかし、間取りは広間型が基調で、これはむしろ、東北に近い。このように西と東の特徴が混在しているのは東西日本の接点にある本県の位置によるもので、このことは方言や民俗など、基層文化全般についてもいえることである。
屋根の勾配は氷見を除いて60度と急で、断面は正三角形となる。雪を滑り落ちやすくする工夫であろう。
日本の農家の間取りは、作業空間の土間と住居空間の床(ゆか)部分からなる。この床部分に梁間(はリま)一杯の広間をとり、そのかみ手を2室に分けるのを広間型、床部分を四つに仕切るのを田の字型(整型間取り)という。本県の場合は全般に広間型であるが、氷見地方は能登とともに田の字型、五箇山は小規模のものは広間型であるが梁間の大きい家では田の字型となる。
さて、広間型といっても呉西と呉東では少し間の取り方に違いがある。ここではそれぞれの特徴を示す保存民家によってその違いを見る。
旧中嶋家住宅(呉西の広間型)
もと砺波市江波(よなみ)にあった農家で、現在は砺波チューリップ公園に移されている。
屋根は寄棟、入口は平入(ひらい)りで、間口(まぐち)10間(約18.2m)、奥行3間(約5.4m)の、主屋(おもや)に、後方へ幅3間、奥行4間の中(なか)ヅノが直角に取りついている。東向きで、間取りは3間(げん)四方のオイ(広間)を中央にして、しも手に土間のネワ、かみ手は梁間(はりま)方向に二間(ふたま)続きの座敷をとる。オイの後ろへ広げたツノ部分は、かみ手に6畳のヘヤ(寝室)2室としも手に10畳のチャノマを配す。
オイの上大黒(かみだいこく)柱と下大黒柱の上にはウシと呼ばれる横梁が架けられ、その上にこれと交叉してハルマモンと呼ばれる縦梁が2本架けられている。柱と柱の間はヒラモンとよばれる差鴨居(さしがもい)で連結され、枠を組んだようになっているので、この構造をワクノウチヅクリと呼んでいる。
オイのしも手、やや奥寄りにエンナカ(いろり)が切られ、上からカンサマ(自在かぎ)が下がっている。ここで煮たき・暖房・接客が行われ、食事もこのそばでとられる。エンナカのまわりの座名は、かみ手の座敷を背にしたところがヨコザで一家のおやじが座るところ、その左手台所に近いところはタナマエといって主婦の座、ヨコザの向かいがシモザで火を焚くところ、入口に近いところがオトコザで、家族や来客が座るところである。
かみ手奥のヒラモンの上には神棚が東面して祀られている。入口側は二つに分けてかみ手半分は式台縁となり、しも手はデモシコといって3尺(90c)前へ広げて取りこまれている。本来ここは玄関で、冬期の来客が雪を払う場所で、仮設的に囲ったものが常設化し、床張(ゆかば)りとなったものである。
このようにオイは生活上も構造上も家の中心的な存在である。
オイのかみ手は梁間方向に二間続きの座敷となっていて、その奥側、つまり家の前からみての突当りに仏壇と床(とこ)の間が並んでいる。富山県は真宗王国といわれるだけに、どの家の仏壇も大きくて豪華である。仏事(お座など)・結婚式・葬式などモノゴトのときは、座敷とオイの間のオビ戸をはずしてお寺の御堂のような広い空間として利用する。座敷の外側には土縁があり、障子を開けると庭が見える。外縁の東隅に小間(2畳)がある。
オイのしも手は土間のネワである。東北隅に1間半四方を囲って馬屋がある。ネワは屋内作業をするところで、晩秋にはウススリ(籾すり)、冬はわら仕事をする。ネワの入口左隅にアマバシゴがあり、ここからアマ(屋根裏)へ上がる。アマには燃料のわらや屋根ふき用の茅(かや)などが積まれている。アマバシゴの下にはジョウボ石といってわらを打つ台石が据えられている。
ネワの前玄関のしも手には便所がある。ここは東向きの家では東北隅になる。この地方では西南風が卓越するので、東北隅は風(かざ)しもになる。つまり、便所や馬屋の悪臭が家に入らないように工夫されているのである。
オイの後ろのかみ手はヘヤ(寝室)である。そのしも手はネワの後ろ半分へかけてチャノマと流しになっている。オイにあったエンナカをここへ移し、それとともの煮たきや食事などのプライベイト部分もここへ移ることになる。エンナカの火焚き口はヒガシイレへ移り、そことシモザの間隔は燃料置場のシバヤとなる。
有馬家住宅 (呉東の広間型)
もと立山町榎(えのき)にあった農家で、現在は立山風土記の丘へ移されている。榎はもと榎新村といい、常願寺川中流右岸高原野の1村である。有馬家は高原野の新開とともに成長してさた豪農で、主屋(おもや)の前側に多門(たもん)を構えている。
茅茸き入母屋の屋根で平入り。間口(まぐち)9間半(約17.3m)に奥行3間(約7.46m) の主屋に、後ろへ3間の両ヅノを出し、その間をカケオロシの屋根にしている。
間取りは3間四方のヒロマをまん中にして、しも手は土間のニワ、かみ手は上大黒を境に二分し(実際は1尺5寸後方へずれているが)、前側は座敷、後ろ側はナカノマ(本来は寝室になるところ)とカネンテ。後方の両ヅノとカケオロシの拡張部分は、かみからヘヤ(寝室)、チャノマ、ダイドコロ、ニワとなっている。
ヒロマは奥行2間半に前側へ3尺広げた形式で、そのため柱は隅柱の前3尺にもう1本立てている。これは呉東の民家の特徴で、かみ手の座敷の幅を広くとりたいための工夫である。ヒロマの構造はナカワク(呉西のワクノウチに同じ)になっている。この間(ま)にはエンナカ(いろり)があったはずであるが、後ろへチャノマを設けたために今はない。
ヒロマのかみ手前側は、桁行方向に二間(ふたま)続きの座敷とし、その突当り、つまり妻側に仏壇と床の間を置く。後ろ側のナカノマは普通規模の民家ではヘヤ(寝室)になるところであるが、この家ではヘヤはさらに後ろのツノ部分に取っているので、ナカノマと呼んでいる。
その奥はカネンテという。カネンテというのは座敷から「曲(かね)の手」に曲って入るからで、ここは坊さんの控間になる。
ヒロマの後ろは広いチャノマである。明治期にこの建物は役場に利用された由で、改造されているが、当初はヒロマにあったエンナカをここへ移してあったのであろう。そのエンナカは、さらに隣接してニワ部分へ張り出したダイドコロヘ移されている。
ヒロマのしも手のニワは、さらにツノ部分も含めて広い空間となっている。前側はウチニワ(内玄関)とし、そのしも手に1間半四方の馬屋をとっている。馬屋は中二階とし、そこは住みこみのオトコサ(作男)の寝所となっていた。
仏壇の位置 (呉西と呉東)
中嶋家と有馬家はともに梁間一杯の広間を中央に置く広間型の家であるが、大きく異なるのは仏壇の位置である。これは呉西と呉東の民家の決定的な違いである。すなわち、東向きの家の場合、中嶋家(呉西)の仏壇は東を向いているのに村し、有馬家(呉東)の仏壇は北を向いている。位置的にいうと中嶋家は平側に仏壇・床がある平床(ひらどこ)、有馬家は妻側にある妻床(つまどこ)ということになる。
このような違いはどこから生まれたのあろうか。まず、寝室のとり方によっても規制されるが、何よりも広間への入り方によって「奥」の認識に違いがあったからであろう。呉西では広間の前(東側)から出入りするので、そこから見ての後ろを奥と意識するのに対して、呉東では広間のしも手すなわちニワ(北側)から上がるので南側を奥と意識するのである。この区別は実にはっきりしている。
ただし、呉西でも五箇山の民家は呉東と同じである。むしろ、呉東・五箇山は加賀・越前の妻入民家(前土間型)に通ずるもので、呉西だけが特異というべきかもしれない。それは能登・氷見・射水・砺波の広がりでとらえることができる。それにしても砺波・射水の民家の寝室が、主屋(おもや)の下からはずれて広間の後ろの下屋(げや)部分にあることが不思議である。能登・氷見の場合は田の字型間取りであるから、寝室部分も主屋の中に納まっているのである。
氷見の民家(田の字型)
氷見の民家は基本的には能登の民家と同じだ。屋根は50度ほどの勾配のゆるい入母屋で、間取りは田の字型である。家の規模は俗に「四六間(しろっけん)」といって、間口(まぐち)6間・梁間(はりま)4間が標準とされている。間口6間を3等分して、しも手2間を土間、かみ手4間の床部分を十字に仕切ると田の字型になる。つまり、8畳間4室ができることになる。土間に面した前側がオイ、後ろ側がナンド(寝室)と茶の間(茶の間は土間部分へはみ出すことが多い)、かみ手が二間続きの座敷となり、その奥に仏壇と床の間が置かれる。つまり平床で、その限りでは呉西の仏壇の位置と同じことになる。県下の広間型民家では広間の上にさす(合掌)を組むが、ここでは広間と後ろのナンド部分を含めて梁間とし、この上にさすを組む。その場合、梁間4間では屋根が大きくなりすぎるので、前後3尺入ったところを合掌尻とし、これをマエベと称している。
オイのかみ手には大黒柱がない。また、オイの梁組も県内の広間型民家ではウシ(横梁)をかけてからその上にハリマモンを交叉させるが、氷見ではハリマモンをかけてから横梁をかける。これらはすべて能登の民家に通ずることである。
アズマダチ  妻面の美しい瓦葺きの大屋根
切妻の妻面を前へ向けた瓦葺きの大屋根の家。妻面には太い梁と束を格子に組み、間に大樌(ぬき)を入れる。木部は漆を塗り、間を白壁で仕上げる。これを幅広い破風板(はふいた)が斜めに切る。屋根のまたぎが大きいので迫力がある。県西部、ことに砺波地方に多い。
もともと主屋の後ろへ間(ま)を広げる方法としては、カケオロシの屋根にしたり、ツノ屋根をつけたりしていたが、雨仕舞がよくないので、主屋根と後ろの屋根をとり払って一枚の大屋根をのせたもの。
この地方にこの屋根型式が出現したのは幕末からで、そんなに古いことではない。最初は十村の役宅や寺の庫裡で、それも板葺きであった。金沢の武家住宅の屋根を模したものである。元来加賀の民家は妻入であるからまたぎは小さいが、当地方では平入りの民家にこの屋根を採用したので、またぎが大きくなった。
明治期に入って身分制が緩んでくると大地主の家にとり入れられ、明治末期になると瓦の普及とともに一般化するようになった。茅葺きの屋根をおろしてアズマダチにすることは、一種のステータスとして昭和30年代まで続いたが、そのデザインの美しさに魅かれて現在の新住宅にも影響を与えている。
散居村と屋敷林
散居村というとまず砺波平野が引合いに出されるが、県下では入善あたりの黒部川扇状地にもあるし、常願寺川扇状地の富山市富南地方や立山町高原野にも自然度の高い屋敷林を持った散居村が広がっている。むしろ、富山県では中世末から近世に開けた各河川の扇央部は散居村であるといってもよさそうだ。
散居村は屋敷が散らばっている景観をいうが、重要な特徴は家のまわりの水田を耕作していることである。それは開拓予定地のまん中に住居を定めてまわりを開いて行ったという発生事情によるのであろう。
ほ場整備によって水田は大型化したが、もとは小さいいびつな田が錯そうしており、家へ通ずる道は曲りくねった細い道であった。
家は東向きで、深いカイニョ(屋敷林)に包まれている。強い西南の風を背にするためで、カイニョもその部分に厚い。樹種は杉を主とし、その他アテ・ケヤキ・竹などが混生し、屋敷のまわりはスンゴシワ(杉の生け垣)によって囲まれている。杉は用材となるほか、多量に落ちるスンバ(杉葉)は山に遠い平野部では貴重な燃料であった。竹は屋根葺き、桶のたが、野菜づくりの資材として欠かせず、また大河川沿いの村では蛇かご用に大切なものであった。前庭には必ず柿の木が2、3本植えられ、梅・桃などもあった。屋敷のまわりにはフキやセリ・ミョウガなどが生えており、雑草の中にはドクダミ・オオバコ・ツバブキ・ユキノシタ・ゲンノショウコなどの薬草もある。こうして屋敷林は生活と一体になった存在であった。屋敷へは小川が引かれ、飲料水、生活用水として利用された。
主屋の前には馬屋や作業納屋、家によっては土蔵も建てられている。また屋敷の入口には必ず灰小屋がある。水田地帯では燃料は主にわらであるため、毎日多量の灰が出る。朝、いろりの灰をとり、ここへ収納しておく。灰は肥料になり、また春先野面の雪を早く消すために撒かれた。こうしてわらは土に還るまで有効に利用された。
このような自然と調和した見事な生活システムも、近代化とよばれる生活環境の激変によって大きな転換期を迎えている。たとえば大切な燃料であったスンバも、プロパンガスの普及によって不要となり、逆に庭はきが大変と厄介視されるしまつ。屋敷林は家屋を風雪から守るためのものであったが、屋根は瓦葺きとなり、外装材やアルミ建具によってその必要性は薄くなり、逆に日陰になるからと伐られるようになった。残したくても家屋が大型化したため邪魔になったこともある。
しかし、夏は木陰を作り、冬は家屋を暖かく包む屋敷林の効用を見直したい。健康のための森林浴や平野の緑の資源として新しいメリットを見出し、本県の代表的景観を守っていきたいものである。 
 
富山湾の恵み・海沿いの家

 

浦方十村そして政界で活躍、田村邸
田村家は藩政期に富山湾東部海岸の漁業・海運に関するいっさいの支配・統括を行う浦方十村を代々務め、明治維新後は自由民権運動の中心メンバーとして県議や国会議員を務め、また、北洋漁場の開拓など海に生き、政治・経済界に活躍した。
屋敷は目前に富山湾が広がる位置(黒部市生地)にあり、敷地は約1,000坪の広さを誇る。庭には黒松の美林と黒部の名水が自噴する湧水地があり、全国の銘石と多種の樹木を配し、自然を生かした庭園になる。
建物の外観は中二階の高さで総二階とし、切妻造りの屋根とした姿だが、2階の部屋は片方端にだけ設けるため、窓のほとんど無い下見板張りの質素な造りになる。後述する奇抜な室内と相反した外観は意図的に計画されたものであり、唯一屋根上に建つ3階の望楼だけが異彩をはなっている。
「数寄の境地」モダンな隠居部屋
主屋から突き出した隠居部屋は、1階の中で最も奇抜な意匠になる。正面の壁には大胆な菱形を描き、中央の菱を黄色にして四隅を朱・青・茶・黒の色壁とし一際目を引く。床や書院廻りにも珍木や銘木を多用し、板戸も多種の板材を斜めに張った特異なもので、更には、天井が八角形平面で中央の八角形鏡板に向かって周囲から折り上がり、全体的にダイヤカット状になる。天井板も材質や張り方を変え、数寄屋風に竹や皮付きの細縁で押さえている。
この部屋以外の部屋も奇抜な意匠と変化に富み、1畳大の一枚板を天井一面に張った部屋や、竿縁天井の竿を1本1本色を変えて5色の漆塗りにした部屋や槍を天井竿とした部屋、または1畳大以上もある幅広の一枚板に幾何学的な線彫り彫刻を施した床板の部屋など、形式にこだわらず自由奔放に創作され、見る者を飽きさせない。
この建物は西洋文化の入って間もない明治時代に、前衛的な美的感覚を持った施主の要望に職人が技で応え、はじめて完成をみたものである。
自分だけの遊び部屋
二階への階段口は押入状の襖建としているため家の者にしか分からない、この隠れ部屋的な二階で、心の許せる者だけを招いて自由民権運動を論じたのだろう。各室全て奇抜な意匠になり、東に面する4畳半の和室は、畳を四辻敷とし、トコ板には線彫りを施し、柱は皮付きの松・竹・梅とし、落し掛けには太い網綱を用いている。また、障子の組子や下地窓には羽の付いた弓矢が用いられ、天井は斜め45度に張るといった数寄なものである。
階段室を挟んだ8畳間奥の応接間も、また一段と変化に富み、床は室内中央と窓際端部に舟板を張って他は大小の丸太木口を敷きつめている。壁は赤・青・緑・白等に着色した玉砂利を幾何模様に塗り、壁面には舟の櫓や流木を埋め込み、床の間は竹を縦に隙間無く並べた壁面とし、地袋も様々な細竹で作られる。最も目を引くのが天井で、太い網綱を天井廻縁にして、赤・青・黄・白・紺の色紙が大胆な幾何模様で貼られている。書斎側の掛込天井も竹を隙間無く並べたものとしている。
世界を見ていた三階の望楼
二階屋根上にのる望楼は7畳半ほどの広さがある。戸袋部分を除いて360度眺望できる窓を開け、少しでも開放的な空間を得るために四隅に立つ柱は径1寸程の細い鉄柱としている。室内の中央には大木を輪切りにした円形机が据えられ、その真上の天井には八角形の板が取り付けられる。それぞれに十二支による方位図が描かれ、西比利亜(シベリア)、濠太刺利(オーストラリア)等世界各国の地名がそれぞれの方向に記され、窓上の壁には県内各地の主要な地名が記されている。
階段口にはふちに仕口穴のある舟板に弓を添えた袖壁を立て、「以高山行漫満面魚踊海浩悠」と六言古詩の漢詩が書かれ、天井枚は1畳大にそれぞれ違った材質の板を張り、廻縁や竿縁は面皮付きの細縁を使用し、数寄屋風な造りとしている。
灘浦定置網で財を成す、網元・濱元家
濱元家は代々氷見の網元として漁業を営んできた家柄で現当主で17代目を数える。
名の頭に四郎(良)を付けることから「シロサ」、または網元であることから「オヤカタ」と呼ばれてきた。
現在の建物は明治後期から大正時代にかけて大敷網の豊漁で財を成した14代四郎三郎が、明治42年の泊大火後に再建したもので、火災を教訓に宇波の荻野家を参考に土蔵造りの防火構造としている。屋敷は幅約30m奥行約80mと細長く、手前左手に庭、右手には味噌製造のための土蔵3棟が連続して配され、中央を通路としている。庭境には生け垣が巡らされ、蔵前の余地にも庭石や庭木が植えられており、緑豊かな風情ある門からのアプローチで、奥の式台玄関を望む。
百余坪の平面と防火構造の外観
建物は間口10間半、奥行11間の約116坪もあるほぼ正方形平面で、3列三段平面の二階建て入母屋造瓦屋根になる主屋の四方に、土間や縁を主とした1間半の下屋を付けた構造となる。平面は手前二段がハレの空間で、奥の一段はケの空間とし、竪列は建物の中心を仏間にして、右列は広間、左列を座敷としている。
外観は正面上部に三角形屋根の妻を見せ、軒裏とともに木部をすべて白漆喰で塗り込んだ防火構造とし、二階の窓も鉄板張りの防火雨戸を備えている。
幅1間半の広い通り土間と式台玄関
建物の右手端には通常の玄関口を開き中へ入ると幅1間半、奥行10間程の広々とした通り土間となる。左手の床上境には、分厚い欅の切目縁と内法高には漆塗りの成2尺弱の太いヒラモン(指鴨居)が一直線に通り、奥行の深い独特な空間を作り出している。
正面玄関の左脇には3間幅の広い式台が設けられ、更に座敷前にも庭から飛び石伝いに入る2間半幅の式台がある。共に出は1間半と広く、手前3尺を土間にして中央に沓脱石を据え、奥1間を欅の切目縁とし、天井は漆塗りの格天井とする。
「九(ここ)の間」取り18畳の広間
通り土間に接した広間は、平物を四周に回すが、梁間材を一段高く成(せい)違いに入れて、下を欄間障子とした特異な構造とする。これは意匠だけでなく柱に仕口穴が集中して構造的に弱くなるのを防ぐためと考えられる。また、広間を間仕切る建具は一般的に漆塗りの帯戸を建て込み固い雰囲気で間仕切るが、濱元家の場合は、採光を考えて中抜きの襖にして室内空間を柔らかく見せている。
吹き抜けにして上部に井桁に組まれた梁組は、寸法と曲率を揃えた材が使用されて漆が塗られ、梁組の上に二階の障子窓を開く特異な構成とし、天井は格天井で、格縁が黒漆で面を金箔とした豪華なものである。
前広間の棹縁天井の天井板は、伊勢神宮造営用の檜を払受けたものと伝えられ、長さ2間半で3尺幅の無節材である。
賓客をもてなす座敷・土庇・庭
座敷は12畳半の前座敷と、床・違い棚・書院を備えた10畳の奥座敷から成り、左手には幅1間半の広々とした切目縁を設けた土庇を降ろし、その外に庭を造る。また、正面左端の隅には賓客をもてなすために4畳半の茶室が配されている。
床廻りや書院は意匠も斬新で、材には銘木が用いられて最上級の塗りが施されている。襖や障子も建具師や京師の技術の粋が駆使され、引手も七宝焼や地に名物裂を貼ったものなど変化に富み、欄間も四君子や老い松を題材に空間を生かして彫られた彫刻欄間や正絹に鰤の絵を描いた珍しい欄間等が嵌め込まれている。天井も黒漆塗りの廻縁と棹縁に、2尺幅の屋久杉天井板を張ったものである。
各室の部材はすべて割れの無い十分乾燥された良質の木材と平滑な鉋仕上げの丁寧な大工仕事になり、そして、鏡のように光る上等な仕上げの漆塗りになる。
「銭五」と並ぶ豪商、宮林家
宮林家(新湊市)は代々漁業・海運を営み町役人も努めた家柄で、幕末から明治にかけて海商として財を成し、2千2百石を越す大地主で前田家とも親密な関係にあった。屋号は綿屋と称し、代々彦九郎を襲名しており現在で16代目となる。
屋敷は東西約60m、南北約70mあり、北側に門口を開く。主屋を中心に周囲には土蔵や庭が配され、四周には、かつて幅約8mの濠が巡らされ、海とつながり、舟が蔵に横付けできたと言われる。庭には大きな黒松が生い茂り、座敷前には池が掘られ、全国の銘石と多種の石灯籠や樹木が配されている。明治25年頃までは南西隅の位置に2棟の茶室もあったが、現在は他に移築されて無い。
現在の主屋は、遊康済の号を持つ彦九郎が安政6年に計画し、文久2年に建設したもので、その後まもなくして加賀藩14代藩主前田慶寧の四女慰子姫を養育するために座敷を主に改装している。
落ちついた初期アズマダチの外観
主屋は正面に切妻屋根の三角を見せて、狭い間隔に束を建てて貫を入れたアズマダチになるが、屋根が当初は板葺石置きであったために旧内山邸と同様に緩く、後世に見られるアズマダチのように極端に妻面を強調したものと違って落ちついた姿になる。正面の左手には両袖壁の付いた土間玄関、右手には式台玄関を開き、ともに幅3間の広い土庇状の下屋になるため、一層落ちついた景観を形づくる。
24畳のヒロマと洗練された枠内造
式台玄関の奥は3×4間の24畳もあるヒロマとし、七寸角の太い柱を立てて上部の梁を井桁に組んだワクノウチヅクリ(枠内造)としており、木部はすべて漆塗りになる。一般にワクノウチの場合は内法にヒラモン(指鴨居)を入れて柱を緊結するが、藩政期に一般の住宅では許可されなかった鴨居と長押を回し、内法上の壁も貫を化粧に見せず白漆喰にして書院造風の軽やかな室内空間としている。
1間の畳廊下と1間半の土庇
ヒロマの奥には6畳間を間に、入側の1間幅の畳廊下と、その外に1間半と幅の広い土庇の下屋を設ける。土庇は金沢兼六園にある成巽閣の清香軒と同じように縁板をまったく設けない土庇になり、大きな鞍馬石の沓脱石と飛び石が庇内に配されている。縁桁の下には障子欄間が入れられ、直射日光を遮り柔らかな日差しが室内に取り込まれる。
座敷と庭をつなぐ日本独特の空間である開放的な縁が、現代住宅においてほとんど見られなくなったのは嘆かわしい。
畳廊下に接して8畳床の間付きの見付座敷があり、座敷の内には矩手に中廊下状に鞘の間が付き、奥の御本間へと続く。
姫様教育のための御本間
御本間は慰子姫教育のために総檜で造られた部屋で、10畳間に床と違い棚を設け蟻壁長押まで取り付けられた正統な書院造りになる。壁は朱の色壁とし、襖障子には鶴の絵が描かれ、釘隠や引き手も鶴を題材とし、鞘の間境は襖に山並みを描いて欄間には老松に鷹の緻密な彫刻欄間がはめ込まれている。
外に面しては入側の畳廊下と矩手に縁側のついた土庇の下屋が取り付き、内庭へと連なる。また、縁側を介して美しい色硝子戸を建て込んだ髪結の間や数寄屋造の立派な雪隠が取り付き、御姫様の日常生活空間を垣間見ることができる。 
 
町家とその町並み

 

町と町家
近世以来の富山県の町をみると、平野の中央には富山や高岡のような大きな城下町があり、海岸には交易や漁業で栄えた氷見・伏木・新湊・東岩瀬・水橋といった港町があり、街道沿いには石動・福岡・小杉などの宿場町があった。そのほか城端・井波・八尾など、あちこちに在郷町があり、地域の中心となっていた。
こういった「町」には、商人や職人の住まいである「町家」が建てられた。町家の基本形である一列町家の間取りは、片側に奥まで続く土間のトオリニワがあり、表からミセノマ、中央にチャノマ、その後にブツマやザシキという部屋が一列に並び、主屋を構成する。トオリニワは主屋の後に続き、台所や便所、風呂の前を通って、いちばん後の土蔵に達している。ザシキの後は庭木を植えた中庭として、ザシキを飾ると同時に、オープンスペースとしてザシキや台所に採光や通風を与えている。町家の間口が大さくなると、二列型、三列型と規模が大きくなるが、表をミセノマとすることや、後の庭に面してザシキをとることなど、その間取りの基本は変わらない。この町家の間取りは、きわめて様式化と類型化が進んでおり、関東より西ではほとんど同じである。
町家は表の道に面して、隣どうし軒を接して建ち並ぶから、「町並み」を形成する。基本的に町並みは、町家の集合体なのである。町並みという言葉は、文字通り定義すれば、町の通りにただ単に家が並んだ状態を指すだけであるが、普通「町並み」というと、伝統的な町家が並んでいて、景観的にも美しい状態である特別な町並みを言う。
良い町並みが今に残されているためには、いくつかの条件が必要である。その条件の第一は、やはりその町が繁栄したことが必要である。町並みを構成する個々の町家が経済的に豊かになれば、良い家が建てられる。質の良い家であるからこそ、住民は自分の家を誇りにして住み続け、家もきちんと維持管理され、良い町並みが残る。
第二に、大火や戦火に遭わなかったことである。町並みにとって最大の敵は火災である。木造で、隣どうし軒を接して建つ町家の家並みは、大火に弱い。かつて北陸の町家の屋根は、すべて板葺き石置き屋根であった。コバ板を並べて緩い勾配の屋根を葺き、風で飛ばされないよう板を石で押さえていたのである。板葺き屋根は非常に類焼しやすかった。そのうえ北陸は乾いて強い風の吹くフェーン現象になりやすく、こういったとき町に火事が起これば、大火は免れなかった。北陸、ことに富山県の町は、しばしばこのフェーン現象による大火に遭っている。
逆に、大火の復興を期に、良い町並みが形成される場合もある。高岡では、明治期の大火の後、防火構造で家を建てなければならないという建築規制のため、土蔵造りという特異な町並みが形成された。
良い町並みの形成と喪失は、その町の経済的発展と大火を巡って展開するといえるのである。
それではこれから、富山県の良い町並みを見てゆこう。
伝統的な富山型町家の町並み / 高岡市金屋町
明治期中期までの伝統的な富山の町家の表構えは、背の低い二階建てで、屋根は板葺き石置き屋根、二階の軒の出は深く、一階庇より前に出るくらいである。
この深い二階の屋根はがっしりとした斜めの登り梁が支える。2階の両側面には、袖ウダツを付ける。一階庇は厚い一枚板の板庇とし、上に押さえ木をのせる。石川県、ことに金沢の町家と富山県の町家とは似ているが、富山の町家は二階軒を深くとり、あくまでも登り梁構造に固執する。富山では今でも一階庇を板庇にしている家が多いが、これは二階軒が一階軒より深く、一階の庇にあまり雨があたらないため、庇の板が腐らなかったからである。いっぼう金沢では、二階軒は簡単な腕木構造で、軒の出が浅いため、一階の板庇はあまり残っておらず、瓦葺きの庇に変わっている。富山の町家は、この太い登り梁と深い庇とにより、がっしりとした印象を受けるし、家の表構えには深い陰影が付いている。これを富山型町家と名付けよう。
この伝統的な富山型町家の建ち並んだ良い町並みは、高岡市金屋町に残っている。金屋町は、1609年に前田利長によって城下町高岡が築かれたとき、高岡の復興のため、金屋がここに拝領地を与えられて居住したことに始まる。江戸時代からさかんに鍋や釜を生産し、明治以後は銅器産業に幅を広げ、現在でも高岡の伝統工芸である銅器の生産や金属業にたずさわっている人が、住民の半分近いという典型的な同業者町である。
金屋はもともと火を使う職業であるため、火事を起こしやすい。したがって金屋町だけは、城下町高岡の中心部をはずれて、千保川の左岸に置かれたのである。後で触れるように、高岡は明治33年に大火に遭い、市街の中心部はほとんど全焼してしまったが、皮肉なことに金屋町だけは、市街地から離れていたため類焼を免れたのである。このため江戸期や明治期の富山伝統型の表構えをもつ町家の家並みがよく残っている。
金屋町のような同業者町は、伝統的なコミュニティーが今でも生きている。現在でもこの町独自で、毎年利長に感謝する「御印祭り」が行われているほどである。昭和57年の町並み調査をきっかけに、400年の伝統をもつ拝領地金屋の家並みを残そうという動きが住民から起こり、住民はすぐにまとまって、格子造りの家並みを大切にしようという住民憲章が制定された。高岡市もこれに呼応して、無電柱化・道路の敷石化・金屋町公園の建設など、町づくりに務め、町並み保存を側面から支えている。
廻船問屋の町並み / 富山市東岩瀬
富山市東岩瀬は、神通川河口の港町で、富山の外港として発展した町である。江戸中期以後、西回り航路の発達につれて、北陸の海は交易のメインルートとなり、とくに江戸後期からは北海道・東北と上方を結ぶ北前船がさかんになる。本土からは米や、むしろ・縄などのわら製品をはじめとする生活物資、北からは魚肥・かずのこ・昆布・サケなどを運んだ。北陸の港町は廻船業で栄え、廻船問屋の巨大な町家が軒を連ねるようになる。廻船問屋は、船を所有する海運業者であり、荷主であり、そういった商品をさばく問屋商人であったのである。
東岩瀬は、明治6年大火にみまわれ町はほとんど全焼した。じつはこの明治初期は北前船の最盛期であったのである。大火は町に大きな損害をもたらしたが、同時に、藩政期からの古い階層と新しい階層との主役の交代を引き起こした。全盛を迎えた廻船問屋たちは、大火からの復興に際し、岩瀬大町の川岸を背にした西側に進出し、その財力にものをいわせ、巨大で念の入った仕上げの家を競って建てていったのである。
東岩瀬の代表的な廻船問屋である森家の平面図である。この家は大火の後十分な準備をして明治11年に建てられている。これは間口の広い三列型町家で、トオリニワに面して家の中央に、屋根裏まで吹き抜けになつた広いオイをとり、いちばん奥にザシキをとるという町家の基本形は変わっていない。ただし三列目の表に前庭をとり、マエザシキやチャシツの格を高めているのが特徴的である。この前庭をもつ三列型の間取りは、東岩瀬の廻船問屋の発展の完成形であり、森家のほか、馬場家、佐藤家、佐渡家などでも用いられている。主屋の後には庭を隔てて、家の道具を仕舞っておく道具蔵が二棟建ち、その後にはかつて米蔵や商品の魚肥を入れておく蔵が並び、船を泊めた後の川に開いた門から直接荷物を出し入れしたという。
注目したいのは、この森家の表構えである。町家の表構えは、「家」が外に対してどうみずからを表現するかという重要なポイントである。町家の間取りはあまり地域性は見られないが、表構えのデザインにはかなり地域性と時代性が表現される。
一階左は入口の大戸である。その右に四つ並んだ細かい横線の入った部分は、スムシコといって、簾を格子のように使ったものである。スムシコは金沢にもほんの少し残っているもので、木の格子(キムシコ)以前の古い形である。
一階の庇はムクリ(膨れた曲線)の付いたコケラ葺きで、雲形の曲線をもった腕木で支えられ、庇の両端の破風板や格子下の持ち送りには刳り形(曲線を用いた彫刻)が施されている。こういった部分や二階の出格子などは装飾的で、洗練された繊細な表現である。
それに対し二階大屋根の軒の出は2mを超し、登り梁、柱などの構造材はきわめて太く、頑丈な造りである。つまりこの家は最大限の念入りな仕上げで、繊細な表情をもつと同時に、重厚な構造の家なのであって、繊細さと重厚さという、いっけんあい矛盾する要素を見事に調和させた表構えになっている。明治初期の最盛期の廻船問屋の財力を背景に、明治になって江戸期からのさまざまな制約から解放された町人の要求と、それにこたえた大工とによって創られた新しい表現なのである。
このようなムクリをもったコケラ葺きの庇にスムシコという形式は、富山の伝統的な町家の形ではなく、東岩瀬廻船問屋型というべき独特の形である。この形は森家、米田家などに見られ、さきほどの前庭を持つ三列型の間取りも含めて、東岩瀬の廻船問屋のプロトタイプになっている。
この東岩瀬の廻船問屋の新しいデザインは、よそにも強い影響を及ぼした。たとえば東岩瀬に近い港町・水橋にも、いくつか廻船問屋の大きな家が残っているが、そのなかで石金家、小松家などは、ムクリをもつたコケラ葺きの庇にスムシコという形である。これらは明治中期以後に建てられたもので、東岩瀬の廻船問屋型町家の形が廻船問屋の新しいプロトタイプとして意識され、水橋の廻船問屋もその型にそって家を建てたものである。
なおつけくわえておくと、すべての東岩瀬の廻船問屋がこういう形で再建されたのではない。先にふれた富山県の伝統的な富山型町家の形の家も同数ほどあったようである。その代表例が、森家の隣に並んで建つ、東岩瀬最大の廻船問屋であった馬場家である。
土蔵造りの町並み / 高岡市山町筋
高岡市の山町筋は、かつては国道筋で、問屋など大きな商店の建ち並ぶ高岡一の繁華街であった。この旧国道筋の通町、御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町、坂下町、大手町には、今でもおよそ100棟ほど、土蔵造りの町家が残っている。土蔵造りとは、木造でありながら木部を厚く土壁で塗り回して防火構造とした建築である。土蔵造りは、もともと土蔵の建築に用いられたものであるが、火災の多かった関東では、表に面する町家の主屋も土蔵造りにすることが奨励された。現在土蔵造りの町並みは川越が有名であるが、高岡の山町筋の土蔵造りの町並みは、それに勝るとも劣らないものである。かつては東京や富山にも土蔵造りの町並みがみられたが、震災や戦災でいずれも失われ、いまでは高岡と川越にもっともよく残っている。高岡山町筋の土蔵造りの町並みは、木造に終始しながらも火災と戦い続けてきた。日本の都市住宅である町家の貴重な遺産なのである。
まずはじめになぜ高岡に、関東で発達した土蔵造りの町並みが見られるか、その経緯を見てみよう。フェーン現象による大火が多かったためか、明治20年に富山県は、市街地に建つ建物の屋根を瓦葺きにするようにという建築制限令を出している。これは、隣の石川県の同様の建築制限令に比べ、20年ぐらい早いものであった。ところが明治32年8月には、富山市の中心繁華街の大半を焼くという大火が起こる。そこで富山県は、同年9月にさらに厳しい建築制限令に切り替えた。これは一般市街地を瓦葺きにするだけでなく、富山市、高岡市、伏木町の国道筋を中心とする繁華街については、瓦屋根の下には厚さ2寸の土を載せること、外部に面する柱などの木部には3寸以上の土壁を回すこと、また開口部は不燃質の囲い戸で密閉でさるようにすることというものであった。これは土蔵造りにせよという規定ではなかったが、実質的には土蔵造りや煉瓦造りしか建築できないという厳しい規定であった。このように厳しい建築制限令を出したのは、東京と富山県に知られるだけである。
富山県のこういった規定は新築家屋に適用されるだけであったが、大火が起こるとそれがとたんに利いてくることになる。この条例が出て1年もたたない明治33年6月、こんどは高岡で市の中心部をほぼ全焼するという大火が起こる。山町筋の家々は復興に際し、土蔵造りで家を建てなければならないことになったのである。土蔵造りは外部に面した木部を土壁で塗り回すから、左官工事に多くの手間がかかる。さらに外壁だけでなく屋根下にも土を載せるため建物の重量が増し、構造も頑丈にしなければならない。とうぜん一般の町家に比べ、はるかに費用がかかったのである。
山町筋の土蔵造りの町家には、大きく分けて2種類のデザインがある。その第一は、関東の土蔵造りの影響を受けたもので、屋根上には大きな箱棟を載せ、外壁は黒い漆喰壁で仕上げ、二階の背も高く、土蔵造りらしい豪快な独特の表現をもつものである。もう一つは、外壁も薄茶色や灰色の砂壁で、二階の背は低く、全体に大げさな表情はもたない建物である。これは、土蔵造りを強制されたため、富山の伝統的な町家建築の外壁をとにかく塗り込んで仕上げたというもので、数としてはこちらの方が多い。後者は土蔵造りという形式にまだ慣れていないという印象で、形としてはとうぜん前者のタイプがおもしろい。
その代表例が守山町の菅野家である。屋根の頂上には、大きな箱棟を置き、その上に一列に雪割瓦を並べ、両端は鯱で飾る。箱棟に付けられた雷文模様の土板も印象的である。二階の壁面は黒光する漆喰で仕上げ、窓には観音開きの漆喰戸を付ける。一階は全面伝統的な格子であるが、その外側に鉄製の防火戸をはめ込むようになっている。きちんと塗り込んだ一階の深い庇は鉄柱で支えられ、庇下にランプをつり下げるようになった洋風の中心飾りの饅仕上げは見事である。家の両端は釉薬のかかった煉瓦を積んだ防火壁がたてられ、先端には花崗岩の石柱が付けられている。土蔵造りは土壁を塗り回すから、重々しい印象をぬぐえない。その重さに負けないためには、洋風の要素を入れ、ダイナミックな表現をとらざるをえない。これこそまさに明治という時代の実現であった。
このように、表構えは煉瓦や鉄柱や中心飾りといった洋風を取り込み、重厚で豪快な表情をもつが、逆に家の内部はあくまでも伝統的な町家建築そのもので、ザシキなどきわめて格調が高く、重苦しさなど感じさせない。間取りは内玄関をもつ三列型町家で、さらに右手に前庭をもった内向きの部分があり、全体の敷地間口は11間半、二階建ての土蔵造りの主屋間口が7間という巨大な家である。 
 
合掌づくり再発見

 

世界遺産としての視点
世界遺産は自然遺産と文化遺産に分けられ、日本国内に見られる文化遺産としての多くは、1994年12月登録の古都京都の文化財(寺院)がその多くを占めている。姫路城や、奈良の法隆寺地域の仏教建造物が1993年12月に最初に登録され、この年は自然遺産として「白神山地地域」と「屋久島地域」も同時に登録された。
文化遺産としての「白川郷・五箇山の合掌造り集落」が登録されたのは1995年12月であった。ユネスコ憲章には「国家は、その価値が人類全体に帰属するような遺跡に共同責任をおう」とあり、1972年ストックホルム国連人間環境会議では「危機に瀕する環境に対して、国家を越えて保全の責任がある」とする考えが定着しはじめた。人類の文化および自然遺産は、本来相互に関連しているという認識が育ち、1972年第17回ユネスコ総会において「世界遺産条約」が採択され、1995年2月世界の140カ国が批准するにいたった。
こうした世界遺産への流れを考えるとき、人類の歴史は多くの過ちをおかし、貴重な世界的遺産を灰燼にきしてきた。第2次世界大戦で京都や奈良が爆撃にあわなかったことは、人類共通の価値への配慮責任が働いたと言われている。五箇山の合掌造り集落では、花火の禁止などをうたっているが、まさにマッチ1本で消滅する世界遺産なのだ。チベットのポタラ宮や中国福建省客家の円楼などを比較するとき、燃えやすい文化と燃えにくい文化の相違点は、平和であったのか、戦いの歴史に翻弄されたのかが、その構造主体にも外観にも現れている。
海に囲まれた日本、外敵の少なかった歴史は、自然災害を前提としたあるいは自然環境に調和した遺産とでも言えよう。日本における世界遺産への誇りは、燃えやすいものを守ってきたことにおいて、「木の文化」への誇りでもある。しかしながら地球を取り巻く酸性雨は石造物や青銅製の銅像などをおかしはじめ、経済活動等が引き起こす新たな課題は、地球環境へのさらなる問題を提起しはじめた。
合掌造りという名称
テレビを見ていたら、滋賀県の方で「合掌造りの民家」があるという話が報道されていた。この話を聞いてどのように理解し考えを整理すべきなのか、現実問題、世界遺産としての「合掌集落」のある県内に住む一人として明確にしておきたい。
本来建築用語としての合掌造りとは、2本の材を山形に組み合わせる扠首(さすくび)造りのことであり、滋賀県の事例もその意味からすれば間違いとは言えない。基本的に屋根というものはそのように造る場合が多いからでもある。では五箇山の合掌造りはどのように違うのかと言えば屋根の大きさと、その勾配がより手を合わせるイメージに近いということではないか。合掌造りのことを別名ナンマンダブツとも言われ、学術論文等では藤島亥治郎著『庄川系民家の調査』(1936年)によれば「いわゆる合掌造りと土地の人の言う…」、五箇山地方では昭和11年の報告書で「土地の人の言う…」という扱いから見て、それ以前からすでに「合掌造り」という言葉が「いわゆる」というただし書きで紹介されている。
さて問題は世界遺産としての「合掌集落の合掌造り」となれば、その意味するところ、建築用語以上の意味をもつ合掌造りとなっているので、言葉の使い方の難しさがある。
五箇山で言う合掌造りも、切妻合掌造りから省略されての合掌造りであり、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」という正式名称として、そこへ世界遺産としての合掌造りとなったとき、滋賀県の事例からの「合掌造り」という言い方が建築用語としてより妥当だったのかもしれない。アナウンサーのイメージからか、世界遺産の合掌造りとダブっての用語使用となっていたようにも感じられるが、現実的には世界遺産の持つ重みが、白川郷・五箇山に限ってのみ用いられる「合掌造り」であることが、社会的にも誤解を少なくするのではないか。また観光土産等でのあやかり商法などにも、いまから商標登録等明確にしておく必要があろう。さらに建築用語がそれ以外の社会的意味を持ったとき、世界遺産に相応しい言葉の使い方が求められている。
合掌造りにみる「総持ち」とは
「総持ち」とは、一つ一つの部材の結合状態全体としてより複合、統合化され、単体としての部材以上の強度や耐久性を、全体として発揮するように構築された状況を言い、また荷重など力の流れが、ダイナミックに骨太に対応処理されている状況をも言う。
合掌造りでは屋根全体にこうした手法、発想が活かされている。
伝統的建築物の倒壊等の原因には、様々な要素を包含しているが、「総持ち」は長い歳月の過程で、自然淘汰された結果としての施工方法であり、その土地に住む人々が永年培った知恵の結晶としてのものであった。
またお互いに親類縁者の住まう建物として、地域全体が一つに結ばれた社会であるだけに、縄の結び目は堅く、合掌造りの信頼性は、こうした側面からも安全なものへと歩ませた。これらの意味を含めた広義としての「総持ち」という概念は、思い、思いやり、愛情のこもった合掌造りへと進化発展したと言えよう。
地域共同型社会としての「ユイ」の存在は、お互いが協力連帯しあう社会としての結びつきであり、豪雪下の道踏みや、様々なコミュニティー機能が、有機的に連携するなかでの合掌集落であり、集落を守るための禁伐林を維持存続できる状況も「総持ち」の意味を持ってくるが、過疎の進む集落ではこうした人の繋がりは希薄なものとなり、集落全体が維持困難となり、昭和40年代、50年代での集団移転や廃村という現実があった。ほころび始めた村社会が、お互いに助け合う「総持ち」の社会であったことを物語っている。
合掌尻は遊びのピン構造
棒が折れるのはその材に力が加わったから折れたのである。目には見えない力で曲がるとか折れるという現実は、確かに力が加わった証拠であろう。こうした目に見えない世界も、経験的にどれくらいの力までは耐えれるのか、失敗を繰り返し経験則で材の使い方、大きさを模索してきたことだろう。
合掌造りのアマヘ上り合掌材の根元を見ると、薄暗く煤けて黒くなっているが、この部分を合掌尻と言い、尖った形になっていて、その受け側のウスバリの上には、コマ尻と言って椀型に窪みを設け、その受け穴(コマ尻)に滑り込ませてある。これは一見不安感を覚える工法であるが、スノーシェッドにも基本的には同じ工法が多く採用されている。この構造手法を構造学ではピン構造と言っている。
一見弱そうに見える構造も、地震や風雪の荷重から逃げる知恵でもあった。現実に強風が吹けば、きしむ音も音エネルギーに結果として変換しているとも言えよう。人の関節に例えて言えば、関節が曲がることで、骨折を防いでいる。こうした遊びがピン構造の知恵であり、合掌造りの屋根がこうした工法を採用していることは、丈夫に造ったと思えば思うほど、材が折れる現実から学んできたものと思わざるを得ない。
チョンナバリは自然が造る構造材
斜面に降り積もった雪は滑ろうとする。その力に抗して出来る樹木が根元曲がりの材となる。まさに内部応力を付加した材である。この樹木の癖を読み取って活かすところが、合掌造りの見せ場でもある。屋根からの荷重をチョンナバリの背に架けることは、理にかなった架構手法なのだ。一般的に住宅建築に、何故そうした材料が使われないのか、それは製材や流通・規格等の都合上、この根元曲がり部分は大量消費の前ですでに除外されてきたからであろう。
こうした例を農作物に見れば、葉のつかない人参や大根が店頭に並び、曲がったキュウリよりも真っ直ぐなキュウリが市場で優先されているのも、野菜である以上に商品であるとする議論である。
チョンナバリの利用は、屋根の小型化や空間構成としても巧みな扱いであり、合掌造りそのものが細部に見せる真のデザインとしての評価すべき点でもある。自然の形態をうまく活かした材は、年輪の筋を切ることなく有効な断面を維持することになった。
こうした扱いは普請帳を見るとき、新たな発見をする。1本の材も山を越え、谷を渡り、村人の協力のもと雪の上を運ばれてきたものである。もったいないとする叡知が合掌造りのなかには込められている。
ハネガイは弓の原理
木造建築の地震対策として筋交いは重要な役割をしているが、老朽化した建物や手抜き建築では、筋交いが名目上の材料となっている。
合掌造りでは筋交いのことを「ハネガイ」とか「コハガイ」とも言い、茅葺き屋根の下地に網の目のように配されている。地震や風雪の合成された力に対して、有効な働きをする部材のことである。
五箇山で見られたケースには、栗などの割材を、対角線上にそってヤナカを縫うように渡して、材そのものを弓なりに用いている。こうすることで、合掌屋根全体が剛性を高めつつ、横からの力に対しても、柔軟に対応している。まさに弓そのものの原理を応用した構造体としての施工方法が取られていた。また、その他の工法としては、屋根の一面に対して合掌材よりも長い材を両妻から交差するように入れることと、個々の合掌材の足元を固める意味からも×印状(コハガイ)に筋交いを入れるケースなどが見られたが、弓なりに用いたケースは細い材を多く使い、長い材をいっきに用いたケースは4本で対応されていた。屋根の葺き替え時期になれば、こうした重要な部材の結び目は、葺き替えの作業に従事した村人の確認を受けることで、安全性は保たれる仕組みが働いた。技術と社会が遊離していないことは、分業化という社会システムの盲点に対する警鐘でもあろう。
環境と合掌造り
雪と合掌造り
近年雪の少ない年が続いているが、一度雪になれば五箇山の生活は雪との闘いとなる。大きな建物になればなるほど、その雪の量は大変なもの、屋根の雪降ろしは、同時に降ろした雪の後始末という大変な労苦が待っている。
かつて合掌造りの中での営みには蚕や紙漉きそして塩硝などが中心であった。そのいずれもが広いスペースを必要とし合掌造りは巨大化へと進んだ。その結果として降ろした雪を融雪池を設けることで、一階部分が雪に埋まることへの解決策になっていた。
近年、上水道の整備普及以外にも塩ビのホースの普及は、谷を越えても水を運ぶことが可能になり、ポリシートとの併用で、冬場だけの仮設型の融雪池やコンクリート造りのケースも見られる。
いずれにせよ、本来平野部に見られるような庭園の池という概念よりも、雪対策上の融雪スペースとしての池の要素が強く、近年は平野部との交流、雪が多く降らなくなったことと併せて、庭としての意識も見られるが、本質的に大自然に抱かれた渓谷美は、借景としてあまりある風景の中にある。
雪割棟
合掌造りの屋根雪は自然に落下するものと考えがちだが、実際には屋根に上り、長い柄のコシケ(除雪具) などを使って棟の雪を取り除くことから始める。これをしなければ、棟には大きな重量の布団をかけたようになり、その雪の荷重は大変ものとなり布団を半分に割るのが、棟割作業としての除雪である。合掌造りの棟に実際上ってみると1m程の巾がありその雪の量に驚く。
こうした労苦の中から、雪割棟の考案が豪雪地帯の各地で取り組まれ、工夫改良が進み新潟県下の景観は克雪住宅の出現で大きく変化した。県内上平村では、楽雪住宅というネーミングで工夫改良されたケースも見られる。長い年月をかけて創られてきた景観美としての合掌造りが、新たな景観として様々な工夫、調和を得るためには、よりいっそうの検討がなされる必要があり、伝統的景観はそれだけで価値を持つ。
現実は合掌造りに住む人々にとっては、今も労苦を伴う雪降ろし作業であるだけに、高齢化の進むこうした地域では、世界の文化遺産の保存という狭間にあって、ことの深刻さは変わらない。
風と屋敷周り
合掌造りの集落は、火災には無防備に近いが、消火栓の設置によって対応がなされている。観光客が多くやってくる集落ではタバコのポイ捨てや花火もこわい存在である。世界遺産の指定によってこれまで以上に危険が増している。こうした新たな問題は、水の便が全くお手上げだった以前の火災の歴史に比べて格段の防災体制になったとは言え、一度火災に見舞われると多くは歴史的史実まで焼失する危険をはらんでいる。
合掌集落相倉の事例では、各家では土蔵や板倉と主屋の関係を、絶えず風上側に付属建物を配置することが行われ、家財は守られてきた。こうした付属建物は、単に距離を置くだけでなく、その間には植栽を施し、類焼を防いでいる。こうした対応は、土地の周辺環境も影響しあい、風の向きと各家の建て方にも様々な配慮がなされ、その集落の景観がこうした植栽とも連携している。
菅沼集落では庄川の湖面水位がダム工事によって上がり、風の量や向きが谷筋に沿って変わったと言われ、自然の改変は微妙に影響を与えている。
高速道路の橋梁工事にともなって新たな影響はないのか、自然環境の真っ只中に存在する文化遺産を守っていくことは、風ひとつにも配慮が求められ、景観を読むことは、そこに住む人々の心を知ることでもある。
オーハエが村を守る
合掌集落で自然解説のボランティア活動をしていると、観光客の方々から「紅葉は何時頃ですか」との質問が多い。風の少ない年の紅葉は美しく、その年によって見頃は1、2週間は相前後すると答え、事前に役場へ確認の電話をいれることを勧めている。
こうした対応以外に、「人はなぜ紅葉に感動するのですか」と、逆に質問してみると美しいからだとの答えが多い。では、なぜ美しい紅葉があるのかと問うとう−んと考え込んでしまう。寒暖の差が美しさをつくるのだが、それ以上に大事なことは美しく紅葉する樹林帯があるからなのだ。特に雪崩から集落を守ってくれる「雪持ち林」。この樹林帯を五箇山相倉では大林(オーハエ)と呼び、雪崩から守るための禁伐林でもある。
土地の掟として、雪崩から守ること以外にも保水力を高め、樹林の持つ真夏の清涼効果は、その土地に住む人々に快適な環境を提供しクーラーのいらない村でもある。
紅葉の季節に、禁伐林の多様な林層が織り成す美しさは視角的にも美の世界を提供し、観光客に感動を与える。このような禁伐林としてのオーハエの中を歩くとき、信仰の対象としての神木も見られ、その昔雪崩から村を救った夫婦欅に、村人の感謝の念が禁伐という掟を生み、村の歴史と村人の心を知る機会でもあった。
地球にやさしい合掌造り
合掌造りを維持するためには多量の茅がいる。茅は元来荒れ地に繁殖する植物で、各家では周辺の山の茅場を維持管理することで、適切な茅を確保してきた。
住まいをかたち造る屋根に使われる茅は、単に屋根のみに使われものではなく、家の周りで乾燥させ、雪垣や防寒敷茅としても用いられた。
冬の平野部山際の集落を回ってみると、約2m四方の茅で編みこんだ、オーダレを見ることができる。家の回りの雪囲いに使われているが、こうした天然素材も、採光の有利さがある塩ビの波板にかわりつつある。
風のことを考えるとバタつく塩ビよりもオーダレが良いという実感も、平野部の土地改良が進み、茅の入手難や、オーダレを作る人手がなくなりつつあることが、茅利用の低下を招く要因になっている。このことは、平地の茅葺き民家が消滅していく理由の一つにもなっていた。
合掌集落は今も茅は重要であり、使われた茅は、古茅となって大地にもどされ、そこで畑の肥やしとして、また、除草の手間を省くための遮光用にも用いられた。こうした利用によって、桑や楮の成長にも活かされ、合掌造りの里も、リサイクルのシステムの機能する社会であった。
茅を得るためには山の茅場まで刈りに行く必要がある。山の生活にはきつい作業が多く、今日では森林組合が一貫した請負制で、屋根の葺き替えまで行っている。高齢化したこの地では地球にやさしいとともに、人にやさしい合掌集落でもある。
能登大窪大工と合掌造り
能登と越中五箇山を結ぶ歴史には、むぎや節や漆の掻職人、そして紙漉きの生産向上には能登大窪大工との交流があった。
今も昔も生きていくためには、地場産業として商品作物を作らねば、金納地では役銀も収められなかった。一村一品運動も考えてみれば、長い歴史上の必然性をもった価値意識である。
元禄期になると、民間では建築がさかんになり、大窪大工の活躍は能登・越中・加賀はもちろん飛騨までに及んでいる。天領飛騨には飛騨の匠としての作用圏と、加賀藩内の作用経済圏があったろう。大窪大工は文化・文政期には一大勢力を発揮したという。
今日でも白川村は富山県側と深く経済交流がなされ、行政上は高山へ傾斜するという。地勢上の必然性が今も続いている。
飛越への活躍の背景には、和紙を作るためには大きな干し板を必要とし、宮大工としての彼らには、槍鉋ではなく平鉋も使える大窪大工の協力が求められた。同時に、冬場の仕事としての紙漉きには大きな作業場が必要で、雪深い五箇山に適した単棟として合掌造りの必要性も高まったものと考えられる。
当時の記録として御母衣の大戸家の棟札には、天保4年(1833年)越中射水郡長坂村の大工(大窪大工と推定)の名が記されている。今は消滅した能登石動山の堂塔伽藍、県内氷見地方の民家に大窪大工たちの技の片鱗を知ることができる。
大窪大工の歴史は、藩の経済力の低下にともない、新たな活路を求めての旅立ちでもあったが、そうした活躍の証が後世に「合掌造り」と命名され、世界遺産になったことに、彼らの歴史的役割の救いを感ずる。
合掌造りの間取り
間取りを分類するとき、妻入りなのか平入りなのか、右勝手なのか左勝手なのか、さらに規模別に分類し、その組合せでその種類わけをする。
それぞれの部屋がどのような性格の部屋なのか、柱にはどのような名前があるのか、イロリの座名はどのようになっているのか、そうした分類と、さらに各地域で部屋の配置形態の変化などを細かく眺めると、その土地土地の特色や風習、仕来たりなどの営みを知ることができる。
オエのイロリは人間関係を知る上で重要なコミュニティーゾーンであり、暖をとり、炊事と作業をする場である。オマエは仏間として神聖な場である。チョウダはナンドともいい、家長の寝室として使われ、きつくつらい作業をして寝てしまうため万年床ともなっていた。言い方を変えれば足の無いベッドでもあった。
このチョウダへ出入りする部分を「帳台構え」と言い、床より5寸上がりの片引き板戸になっている。この部分は格調のある構成美を示している。
ニワは水仕事等をする空間で、紙漉きや風呂場と、ミージャと言って流し場のコーナーがある。
マヤは農耕用牛馬を飼うコーナー、重要なのは厩肥を得るためのものである。間取り図に生活図としての書き込みをすることで、生活の有り様が伝わってくる。時代とともに部屋に置かれている家具や道具等を細かく書き込むことで、生きた間取り図とすることができる。
物質文明にどつぷりと浸かった今日、合掌造りでの生活も、押し入れのない平面であるだけに生活の仕方にも工夫がいる。間取りの形態は田の字型の整形の間取りである。 
 
富山の近代建築史

 

はじめに−日本の近代建築−
日本は19世紀半ば過ぎ、明治維新を行って開国し、西洋文化、文明を受容して「近代化」を開始した。所謂「文明開化」である。圧倒的な科学技術力を持つ西洋の支配に呑み込まれ、植民地化されない為には、可能な限り速やかに西洋文明を吸収し同化して西欧に対抗する必要があったからである。このことは建築文化においても例外ではなく、明治以来、我々は西洋建築を学び吸収することを今なお続けていると言ってもいいであろう。そうして、この学習、吸収に基づいて創られ建てられた日本の西洋建築と、この「近代化」によって、幕藩制度下の様々な制限から解き放たれ自由に建てられる様になった伝統的和風建築を含めた全体を「日本近代建築」と総称しているのである。時代的には西洋文明が伝来しその学習が始まった幕末から、ある意味でその学習の結果が問われたことになった第2次世界大戦敗戦までの間の建築を指して言うのである。従って日本の近代建築は一般に、西洋建築の学習、受容のしかたや経緯、創り手や近代化の様態などによって、概ね以下五つの種別に区分されている。すなわち、
1、西洋館建築
2、擬洋風建築
3、折衷主義建築
4、モダニズム建築
5、近代和風建築
がそれである。
明治政府は当然のことながら「近代化」「西洋化」を可能な限り日本全国、均質的に行おうとした。それは建築の「近代化」に於いても例外ではない。従ってこの5つの種別の日本近代建築は、規模や数の大小寡多はそれぞれの地方によって異なるが、どの地方にも存在したのである。富山県においても、当然のことながらこの5つの種別総てが存在していたと考えられるが、確認されていないものもある。以下、この5つの種別に分けて富山県の近代建築史の概要を、存在が確認されている建築作品に言及しながら述べてみたいのだが、紙数が限られているので代表的な作品を挙げるに止めざるを得ない。
富山県の近代建築
ところで一般に、庶民が初めて「西洋」を体験したのは、まず洋化された小学校に通学することにおいてであり、さらに役所など公共建築が洋風建築で建てられて行くのを目にすることであり、地域きっての知識人と目された開業医が建てた洋風建築で西洋医学の治療を受けることなどであった。こうした「西洋」の体験が日常的になって行くのは、教育制度の準備に伴う上級学校の普及や、徴兵制のもとで男性総てが体験しなければならない軍隊生活、さらには、徐々に銀行や商店、工場、企業事務所などが洋風で建てられて行き、そうした所を利用し、またそこで働く経験においてであった。富山県においては軍関係の建築は残っていないが、その他のジャンルでは例が残っている。富山県の特徴を言えば、中心都市、富山市が戦災で灰塵に帰したせいもあるが、現存作品で見るかぎり、郡部に多く作品が残っており、この事実は富山県人が進取の精神に富んでいたことを示すものであろう。
西洋館建築
日本近代建築の最初のカテゴリーは、幕末から明治初期、中期にかけて、我が国に渡来して来た西洋諸国の外交官や宣教師、教師、商人などが自らの設計で、主として自らの住宅として建てた所謂「西洋館建築」と呼ばれるものである。これは、設計者が西洋人であるから比較的正確な西洋建築の様式を持ってはいるが、設計者が専門の建築技術者ではない場合が殆どであり、かつ施工は日本の伝統的和様建築の技術者、大工が行ったのであるから、そのデザインには様式的な逸脱や和風の混入があり、この混合が却ってこの建築形態を魅力的なものとなしている。長崎、神戸、横浜など幕末に外国人居留地と定められた都市に多く残り、明治期の富山県にもこうした外国人が住んでいたであろうことは十分考えられるが、今までのところ、住宅としての「西洋館建築」が富山県に存在していたことは確認されていない。しかし、この系譜に連なるもので、西洋人の設計になるキリスト教教会堂が近年まで残っていた。
それは「日本基督教団魚津教会(明治39年・設計・ブルート・ハム)」 で、グレーに塗り上げられた下見板張りの壁面に、ルネッサンス風の三角ペディメントと円弧のセグメンタル・ペディメントを付けた上げ下げ窓を三つ並べ、木造ゴシックのポーチ屋根を持つ玄関を右端に配するコロニアル・スタイルの教会であった。カナダ人宣教師の設計だけあって意匠も本格的で、プロポーションは正確で整っていた。面白いのは間取りで、典型的な「まちや」のプランである。つまり、「みせ」の部分が礼拝堂であり、「とおりにわ」はそのままで、玄関から奥の住宅(牧師館)部分への通路に充てられていた。伝統的なまちやと西洋様式の教会が融合したユニークな作品であったが、惜しくも取り壊されて現存しない。
擬洋風建築
第二のカテゴリーは、この「文明開化」によって全国各地で澎湃として起こった西洋建築建設の要求に、それぞれの地元の大工が応えて創られた作品群である。この大工たちは多く堂宮大工など極めて優秀な伝統的和様建築技術者ではあったが、当然に西洋建築の様式や技術に関する知識も技能も持ってはいなかった。そこで彼らは横浜や神戸などの外国人居留地や東京などに建てられていた「西洋館建築」を見学に行き、それによって学んだ西洋建築の形態を、自らの持つ優れた伝統的和様建築技術で造ってしまうのである。彼らの世界にも類例を見ない精緻な和様木造建築技術をもってすれば、西洋木造であれ西洋組積造(石造、煉瓦造)であれ、その形態をコピーして造ってしまうのは難しくはなかった。この点で彼らは自信に満ちており、かつ西洋文明に対するヴィヴィッドで強烈な好奇心と憧れでもって、いわば力づくで西洋建築をものにしてしまったのである。
しかし、和洋を問わず建築の形態ないし様式には、それぞれ固有の形態上、様式上の「文法」や「構文法」があり、それに則ってデザインが構成されているのである。大工たちは西洋建築のこうした形態構成上のルールに関しては知る由もなかったし、これを習得することも出来なかったのだから、ルールが必要になった局面では伝統的和様建築の「文法」を応用せざるを得なかったし、また形態の細部にはそれを造る和様技術のために和様の形態が混入して来るのも避けられなかった。こうして出来上がった作品は、従って和洋が混淆し折衷されたものとなるが、それは大工たちの西洋文明に対するダイナミックな憧憬と自信を反映して、生命力に満ちた一種幻想的な魅惑的な造形になることが多い。こうした建築を「西洋」に「擬」した建築という意で「擬洋風建築」と呼ぶ。
富山の「擬洋風建築」の現存最古の例は、福光町の「西勝医院(明治18年・設計不詳)」である。もと「高宮病院」として地元の医師、大井精が建てたこの建築の全体の形は、僅かな反りを付けた屋根、正面破風に付けられた懸魚など仏寺風のデザインを加味した和様である。しかし、正面中央に突出したポーチを配し、その二階にヴェランダを付けるのは、1770年頃から1850年頃にかけて主としてアメリカ南部に流行した初期クラシック・リヴァイヴァルと言うコロニアル建築様式の手法である。この形式を入母屋造りで造ってしまい、そこにポーチの菱組天井、二階ヴェランダとその手摺、正面と側面に付けられたアーチ開口部など洋風意匠を集中する。この菱組天井は、インド以東の西洋植民地建築起源のものである。何れもそれらの形態には和様が混入し、また、これを建てた金沢の宮大工と伝えられる棟梁が、ハイカラで洋風と考えて付けた、八角柱や破風の應龍の漆喰細工、怪獣の鬼瓦などの意匠が幻想的な寡囲気を醸し出している。
また、惜しくも解体されてしまったが、朝日町には「育英小学校(明治20年・設計不詳)」が近年まで残っていた。これも「西勝医院」の様に正面にポーチを付け、その階上を貴賓室とした初期クラシック・リヴァイヴァル・スタイルを模した意匠で、唐破風を変形した屋根を載せていた。しかし寄棟二階建ての全体は下見板張り、アメリカン・コロニアルの下見板張りであるクラップ・ボート張りに似た仕上げで、恐らく上げ下げ窓を付けていたと思われ、「西勝医院」に較ベれば遥かに洋風であった。この様な早い時期に擬洋風とは言え洋風の小学校が、当時は辺地と言っていい朝日町に存在したこと自体が驚異であり、富山の人々の先取性が窺える作品であった。朝日町は解体された部材を総て保存しているので、建築史のみならず富山の教育史上でも重要なこの建築が将来に復元再建されることを期待している。
高岡市には「林屋茶舗(明治38年頃・設計不詳)」がある。この作品は町家の正面とミセ部分を洋風としたもので、正面に大きなアーチを二つ並べ、3本の柱で支えるロマネスク風の意匠が特徴的である。だが、この柱もアーチに嵌め込まれた半円形スクリーン(タンパン)も、またミセ吹き抜け上部に回す回廊の手摺も、その形態は和風の意匠であり、そこで和洋が混じり合った南蛮風とでも言った様な感覚を見せている。
小矢部市には、「日本自動車博物館明治記念館(旧水島村役場、明治中期・設計不詳)」が残る。元来は砺波市油田に建てられた野松医院という病院で、昭和11年に移築されて水島村役場となった。戦後は水島村公民館となり、昭和57年に自動車博物館に再び移築、保存された。これも擬洋風建築で、大工棟梁が伝統和様技術で西洋建築を創ろうとする時の典型的なスタイルの一つを示す。つまり、左右対称の寄棟二階建てにコロニアル風下見板張に、上げ下げ窓、正面にポーチを付け、その二階をヴェランダとし、屋根正面にペディメントを見せる。ポーチ、ヴェランダ奥のドアの上部に付けたタンパン、軒のデンティルなど西洋古代やルネサンスに由来する意匠を用いる。けれど全体プロポーションは和風だし、細部の西洋デザインも、例えば正面破風が決してギリシャ式のペデイメントではなく和風の切妻である様に、総て和洋が混合した意匠である。
経済の「文明開化」に不可欠なものは資本主義の中枢のひとつ、バンキング・システムの移入である。近代的な銀行の開設は急速に富山へも及んだが、銀行の建築としては犯罪や火災に対して要心堅固なものが求められる。本格的な西洋組積造(石造、煉瓦造)で建築すれば問題はないが、そうした本格西洋建築技術の富山への伝播は、経済的理由や技術者養成が急には行かないこともあって、遅れていた。従って新しい銀行建築を求めるとしても和様の建築の内にそれを求めるしかなかった訳だが、和様の建築で唯一「要心堅固」という条件を満たすのは土蔵造りであった。また土蔵造りは壁構造が主体の西洋建築と同じ手法のものなので、西洋建築の機能に適合させやすい。更に、明治33年の高岡大火以後の都市防火の観点からの奨励もあって、富山資本の銀行建築には土蔵造りを用いたものが多い。こうして土蔵造りと西洋建築が融合した、外観は和風で内部は洋風という独特の「擬和風」と言って良い奇想の銀行建築が成立した。
その代表的な例が「砺波市立郷土資料館(旧中越銀行本店、明治42年・設計長岡平三、藤井助之丞)」で、当初は「江戸黒」と呼ばれる美しい黒漆喰塗りの壁であった。戦後にタイル張りに替えられたが、他は原型をよく保っている。本瓦葺の重厚な屋根を架け、欅をふんだんに使用し、井波の彫刻の伝統が生きている精巧な彫刻技法によって西洋建築装飾を造っているインテリアは圧巻である。設計の長岡平三は宮内庁技師と伝えられるが詳しい経歴は分かっていない。同じ頃金澤で洋風の「第十二銀行」を設計しており、また、土蔵造洋風の富山資本の銀行、「町民文化館(旧金澤貯蓄銀行)」を設計している。この「金澤貯蓄銀行」には藤井助之丞も参画したのではないかと思われるが確証はない。こうした土蔵造洋風の銀行建築は小矢部市や高岡市にも優れた作品が残っていたが失われ、現在では他に「小杉町民展示館(旧小杉貯金銀行、明治44年・設計不詳)」、「伏木港商工センター(旧伏木商工銀行、明治41年・設計不詳)」を残すのみである。時代はかなり下るが、「沢田繁邸(旧武部家別館、大正初期・設計大工長谷川吉太郎、作太郎父子)」は、特異な住宅で擬洋風建築の流れを汲む作品であると言っていいであろう。正面の切妻破風の意匠は19世紀後半のアメリカの木造住宅様式、ゴシック・リヴァイヴァル乃至スティック・スタイルに由来するものだが、そこに付けられた唐草模様状、雲形状のレリーフは仏寺の意匠に由来する。下見板張の壁に付柱、筋違を顕し、軒に持ち送り(ブラケット)を付けるのもスティック様式だが、その形態は様式に沿わず奔放な形である。正面右にドームを載せた塔屋を配するのも、19世紀末アメリカのクイーン・アン様式に由来するものであろうが、その形態は自由に創っている。この傾向は内部でも同じで、内側から見た洋間の窓の意匠などは、和洋折衷とも言い難い不思議な形をしている。和室部分でも、概ね和様に従いつつも、部分的に規矩を破った造形が多々見られる。これも竒想の建築と言って良いであろう。
折衷主義建築
西洋建築を真に自分のものとするためには、従ってその「文法」や「構文法」などのルールを含めてその様式を「正確」に学ばなければならない。このために明治政府は大学など高等教育機関を作り、そこにお雇い外国人教師を招致して西洋建築を日本人学生に教授させ、外国人建築家に官庁建築の設計を発注したのである。また、日本人が直接西洋の大学その他の建築学校に留学して西洋建築を学ぶことも奨励した。お雇い外国人や外国人建築家が帰国した後は、彼らから本格的に西洋建築を学んだ日本人建築家がその後を承けて、教育機関や設計組織などで後輩に西洋建築を教えるとともに、彼ら自身の西洋建築を創って行ったのである。この様にして明治日本が西洋建築を学び始めた時のヨーロッパは、「折衷主義建築」の時代であった。折衷主義というのは、過去の様々な建築デザイン、すなわち、ギリシア・ローマの古典建築、ロマネスクやゴシックの中世建築、ルネサンスやバロックの近世建築などの様式を、創ろうとする建築の目的に応じて適宜に選択し折衷してデザインする方法である。第三のカテゴリーはこの日本の本格的な西洋建築であり、従ってこれは日本の「折衷主義建築」ということになる。
「福野高等学校厳浄閣(旧県立農学校本館、明治36年・重文・設計藤井助之丞)」を「折衷主義建築」のカテゴリーに入れるのには実はやや躊躇を覚える。と言うのは、この作品は、コロニアル・スタイルと言う木造下見板張りペンキ塗り、上げ下げ窓を付けたスタイルをかなり正確、忠実に作っているので、その限りでは本格西洋建築として「折衷主義建築」と言えるのだが、正面玄関部や特に屋根中央に上げたゲーブル(妻飾り窓)の形などに和風の形態が混入していて「擬洋風」的デザインとなっているからである。ゲーブルの形は基本的にはバロック・スタイルの形だが、円弧・蛇腹、雲形などの細部の形は和風の社寺建築に由来するもので、その結果、「御寺バロック」とでも呼びたい竒想的なデザインを生み出している。しかしそれは部分的であって、やや背の高いプロポーション、骨太で迫力あるデザインの全体は本格的なものであり、ここでは「折衷主義建築」の作品ということにしたい。藤井助之丞は井波の宮大工、松井角平の弟子でやはり名棟梁といわれた。彼は由緒正しい和様の伝統の内に居ながら、最新の西洋建築のデザインを試みるのに熱心だった。その宮大工第一級の和様技術で西洋の形を作ってしまうのである。砺波地方で先述の「中越銀行」も含め、学校など多くの作品を手掛けた。
滑川市にある「高橋医院(明治41年・設計不詳)」は寄棟二階建、下見板張りの壁面にペディメントを冠した上げ下げ窓を並べ、正面にポーチを付けた堂々たるコロニアル・ジョージアン・スタイルの作品である。ペディメントや窓、ポーチの形など細部には和様の形が混入しているが、全体的に見て様式的に概ね正確である。これは創建者の医師が東京に学び、当時の順天堂病院の建築に範を取って建てたことによる。側面から見ると、背の高い杉の屋敷杜を背景に水平に長く伸びた病室棟の下見張りの壁の繊細さと軽快さ、上げ下げ窓のライト・ブルーの窓枠、プロポーションと色彩の対比が素晴らしい。正面でも、壁のピンク、ポーチのライトブラウン、窓枠のブルー、ペデイメントのエメラルド・グリーンなどのカラフルだが抑制の効いた色使いが見事で、建物の魅力を倍加している。富山に残る最も美しい本格洋館建築といっていいであろう。
15世紀イタリアで発祥したルネサンス建築は北欧へ伝播し、その地で煉瓦造ルネサンス建築を生んだ。この様式が明治に西洋建築を学んだ日本人建築家によって東京を始め全国に建てられて行った。所謂「赤煉瓦」建築と呼ばれたもので、高岡市の「富山銀行本店(大正4年・設計辰野金吾)」はこれである。辰野金吾は、東京帝国大学建築学科主任教授、日本建築学会会長を勤めた明治建築界の大ボスであり、煉瓦造ルネサンスの代表的建築家で作風は辰野式ルネサンスと呼ばれる。東京駅及び日本銀行本店は彼の代表作だが地方にも作品は多い。この作品もその一つだが、実際には清水組の担当者が大部分を設計した。よく焼き締められたやや明るい色の緻密な煉瓦の壁面に白御影石の様式的装飾を付ける。煉瓦の赤と柔らかさに対する石の白さと硬さの対照が美しい。正面玄関のエンタシスを持つ二本の柱、その上の三角形のペディメント、窓の上に付けたペディメントなどは割合正確なデザインである。正面屋根上のゲーブル、左右の塔屋の意匠などは幾何学的に簡略化されたルネサンス・スタイルである。県内に積る唯一の本格西洋建築である。
新湊市の「牧田組(旧南島商行、大正6年・設計不詳)」は、北前船時代から日本海側で有数の海運業であった南島家の南島商行の社屋として建てられた。南島商行は第1次大戦後の不景気で大正11年に整理されてしまい、この作品が牧田組の社屋になったのは昭和10年頃である。高岡の富山銀行本店と同様、煉瓦造擬ルネサンス・スタイル。但し真正の煉瓦造ではなく木骨煉瓦貼である。基部をルスティカ風石貼とし、焦茶色の煉瓦を貼り、マンサード(腰折れ)屋根を架ける。建物角に積み込んだコーナーストーン、窓上下のまぐさ、窓台など白御影石を貼った様式的装飾はかっちりした意匠である。二階壁面上部に走る2本の白いバンドコースが全体を引き締めている。玄関部の意匠は、大正時代らしく、表現派的モダンな力強い表現である。正面屋根上のゲーブルの形も自由な扱いだが、全体的には様式的な要は押さえており、東京から設計士を呼んだと言う伝えも信憑性が高い。
紡績産業は戦前日本の産業革命をリードした産業であったが、大量の女性労働者、女工を必要とした。彼女達の多くは貧しい農村部の出身であり、紡績工場へ就職することは、初めての「近代」生活の体験であり「西洋」の体験であった。
紡績工場事務所のデザインは、まだまだ西欧文化に遠かった田舎出の若い女性が工場の門を初めて潜ったときに、彼女達の胸をときめかせる様なロマンティックでピクチュアレスクなデザインが採られることが多かった。この「東洋紡績井波工場事務所(昭和7年・設計橋本勉建築設計事務所)」はその典型例で、中世ヨーロッパのゴシック様式の門を入ると、イギリス式の庭園が広がりその奥にこの事務所が建つ。白い壁面が軽快に走るダーク・ブラウンの貼付柱のパターンが美しい。特に、斜めの筋交いの柔らかい曲線がシックで、クローバーやダイアモンドの形の意匠がなにか童話めいたロマンティックでエキゾティックな寡囲気を醸しだしている。こういう壁面に柱や梁があらわれる西洋建築のデザインは、ハーフ・ティンバーと言って、木造骨組の隙間を煉瓦や石を積んで埋めて壁を造る手法で、やはり中世ヨーロッパの民家に用いられた。この構造を形態だけ写し、グラフィックな感覚でこなしたものである。同種の作品ではやはり同じ設計者の「東洋紡績入善工場事務所(昭和10年)」が、これもピクチェアレスクなゴシック様式の山荘風のデザインで建てられて残っている。
滑川市の「田中小学校(昭和11年・設計不詳)」は富山県内に残る数少ない木造小学校のひとつである。昭和初期までには小学校の二階建て片廊下式の標準的形式が成立しており、この作品もそれに拠っている。玄関のガラス引き戸、中央階段の親柱などに、モダニズムのデザインが見られ、校長室などには様式的装飾を付ける。使い込まれた各部の光沢が美しい。窓の木製サッシをアルミサッシに変えた他は原型をほぼ完全に残している。特筆すべきは、この木造校舎は単に残って来たのではなく、地元の意思で積極的に残されて来たということであり、地域の伝統の一つとなった建築に対する地域の愛情が窺われる。実はデザイン的にこの作品より遥かに美しかった「船峅小学校(昭和4年・設計坂井孫市)」が大沢野町に近年まで残っていたが、これは逆に地元の意思で取り壊されてしまった。
モダニズム建築
ヨーロッパにおいて「折衷主義建築」に対する批判が高まり、合理的で自由、機能的かつヒューマニズムに基づく新しいデザインが創造され始めたのは1920年代である。歴史的な建築形態とその折衷が如何に巧みであるかということ、装飾的形態の構成の良否のみが評価されるデザインを捨て去り、使い勝手や住み心地、便利さ、衛生的であること、また建築における福祉性などを重視する機能主義に基づいた抽象的で「モダン」な形態を基調とする建築デザインが創造された。これが「モダニズム建築」デザインであるが、このデザインはすぐに日本へも波及した。すなわち、「日本のモダニズム建築」が第四のカテゴリーである。
この近代デザインを可能にし、それを支えたのは建築技術および建築材料の進歩であった。すなわち鉄とガラスとコンクリートである。特に鋼鉄でコンクリートを補強した鉄筋コンクリート造(RC造)がモダニズム建築の主要な手段になって行った。庄川町の「木村産業(昭和4年・設計木村長次郎)」は富山県におけるRC造の極めて早い例であり、これが民間の建築であることを考えると新技術の地方への普及の速さに驚く。庄川町の鍛冶屋、木村長次郎は、大正初期に土木請負業の木村組と鉄砲・火薬を扱う木村商店を興した。昭和初期には近くの小牧ダム建設にも加わり会社は隆盛した。この建物はその頃社屋として建てられたものである。正面ファサードのアーチ、唐草模様のレリーフ、建物頂部に回した蛇腹、デンティル状装飾など、西洋様式的な装飾を付けるが、獅子面のレリーフに端的に示される様に全く自由に造形している。内部意匠も同様で、精緻な漆喰細工で人面や龍を柱頭に造り、美しい中心飾りを天井に付ける。擬洋風的な憧憬のエネルギーが感じられ、竒想性の強い建築である。
しかし、何と言っても富山のモダニズム時代の幕開けは、神通川廃川地の開発とそこに建てられた「富山県庁舎(昭和10年・設計大熊喜邦)」の建築であった。大熊喜邦は東京帝国大学建築学科卒業後、辰野金吾と並ぶ建築界の大ボスだった妻木頼黄の支配する大蔵省臨時建築局へ入り、妻木のもとで現在の国会議事堂の建築を担当し、その実現に一生を賭けた。唆工なった国会議事堂は、その後に、これも多くは大蔵省臨時建築局など大蔵省営繕所属の建築家の設計によって整備されて行った地方自治体庁舎のモデルとなった。従ってこの富山県庁の建築も国会議事堂を祖形とする庁舎建築の標式的な平面を持っている。構造はもちろんRC造で、外観は一階を様式的伝統に従って石貼とするが、二階以上は、明るいクリーム色のスクラッチ・タイルを貼ったプレーンな壁面に、縦長の矩形窓を二つ組にして並べるモダニズム的なデザインである。平明で手堅い構成であるが、中央部を強調し、特に玄関を二階に配して高い階段をもってアプローチさせる手法は、古典的でやや権威主義的であり、一階左右に配した大きなアーチの出入口と併せてやや折衷主義的な感覚を残している。
富山県庁の唆工の翌年には「富山電気ビルディング(昭和11年・設計富永譲吉)」が建てられた。富永譲吉もまた東京帝大建築学科出身の建築家で、どちらかと言えば構造設計家として知られている。富山県は昭和初期には既に電源県で、県営、私営、多くの電力会社があり、また県外の大手電力資本が盛んに黒部水系などの開発を手掛けていた。このビルは地元の電力会社中の最大手、日本海電力株式会社によって、地元電力界のシンボルとして建築され、同社の本社社屋の他に、貸事務所、ホテル、レストラン、ホールを入れた複合ビルとして計画された。当時、富山には洋式ホテル、レストラン、ホールなど皆無であったので、この計画は地元の政界、産業界の要請に応えるものであった。垂直線を強調したネオ・ゴシック的なデザインを基調とするが、全体的には抽象的なモダニズム・デザインである。三階、四階に付けたバルコニーの様に機能的だが装飾的な要素も多い。手堅く纏めた安定感のあるデザインである。ただ、複雑な機能を担わされた為、平面計画に首尾一貫しない点も見受けられる。新興の産業富山のシンボル的存在の建築であり、同時に長く唯一の文化施設として「電気ビル」の愛称で市民に親しまれている。
そして、この「電気ビル」と正に同年に「関西電力黒部川第二発電所・昭和11年・設計山口文象」が黒部奥山に完成している。これは山口の作品の中でも白眉であるばかりでなく、日本モダニズム建築の生み出した最も美しい作品のひとつである。柱と梁が垂直に交差するラーメン構造のグリッド・パターンをそのまま見せ、グリッド内全面にガラスを入れる発電機室のフアサードと隣接する制御室の柱と梁を背後に隠した全面ガラスのカーテン・ウォールのファサードとの対比が鮮やかである。モダニズムの本質である構造、機能に忠実な何の変哲もないプレーンなデザインだが、柱梁のグリッドやスチール・サッシのグリッド、建物各部の比例、プロポーション、幾何学的構図の洗練が徹底して追求された結果、透徹した気品のある清冽な作品が生まれたのである。山口文象は日本モダニズムの創始者の一人だが、帝大出の建築家とは一線を画して活動した反骨の建築家であった。昭和初期に国際モダニズムの創始者、ドイツのグロピウスのもとに留学し、建築のみならずダムなど土木設計も研究した。この発電所のダムである小屋平のダムも彼の設計だし、後に庄川の小牧ダム、小牧発電所も設計している。また、富山市蓮町にあった旧制富山高等学校のラフカディオ・ハーン文庫の建築(現存せず)も彼の作品であり、近代和風建築の大牧温泉も彼の手になると言われ、富山には縁が深かった建築家である。
さて、日本モダニズム建築ということであれば、富山には作品は残していないものの、その旗手の一人であった福野町出身の吉田鉄郎に触れない訳には行かない。彼の旧姓は五島で吉田は養子の姓である。東京帝大建築学科を出て逓信省へ入り山田守(彼の作品では元の北日本新聞社社屋があった)と共に、日本モダニズムの牙城の一つであった逓信省営繕の中心的建築家となった。彼の代表作、「東京中央郵便局(昭和6年・現存)」はやはりラーメン構造のグリッドのプロポーションを追求した作品で、日本モダニズムの規範的作品とされた。彼はまたドイツ語に堪能で、ドイツ語で書かれドイツで出版された「日本の建築」と題する書物は、ヨーロッパに日本建築を体系的に紹介した唯一の書物として良く読まれた。戦後は日本大学建築学科教授として後進の養成にあたった。実は、彼がまだ五島鉄郎であった学生時代の作品が福野町に現存していて、それは「授眼蔵図書館(大正9年)」という寺院付属の図書館である。この建築の外観デザインは、鉄筋コンクリート造を用いて木造寺院の形態をアレンジして作ったというもので、一種、擬洋風のような味わいのものである。モダニズムを深く追求した後年の彼は、この若年時の作品を恥じたらしく彼の作品年譜に載せていない。
近代和風建築
さて、しかし、日本人の生活という局面から見れば、この「西洋化」「近代化」が及んだのは専ら公的生活の面においてであって、私的な面ではその生活様式は高度経済成長期までは純和風であったと言っていい。会社や学校では洋服を着、自宅では専ら和服で寛ぐのが一般的であった様に、企業や商店、官衙、学校、病院など生活のパブリックな局面における建築は西洋建築であっても、自宅や別荘、また料亭、旅館など生活のプライヴェートな局面における建築は長く和風建築で建てられたのである。明治以前、この和風建築は木造建築技術としては世界にも稀な精緻さの水準に達していたが、士農工商また社寺などの階級別、格式別に、使用できる材料や様式、形式が定まっていた。四民平等や明治の近代化は和風建築上のこうした制限を取り外してしまったのである。従って、その高度の大工技術を存分に奮うことのできる環境を得た明治以降の和風建築は、極めて優れた作品を生み出す一方で、また技術の高度さ、精緻さのみを徒に競うマニエリスティックな作品も生み出したのであった。このカテゴリーを「近代和風建築」と呼んでいる。
高岡市にある「菅野邸(明治34年頃・設計不詳)」は藩政期の「まちや」の完成された造形に、新しい西洋の思想や技術を導入した富山の近代和風建築の傑作である。明治33年の高岡大火後の、新しい「都市防火」思想によって土蔵造を採用し、それに煉瓦防火壁、キングポスト・トラスによる洋小屋の屋根構造、鋼製耐火扉など技術的に優れた洋建築の技法を併用している。しかし、洋小屋の構造で和様の屋根を架構するので、その形を整えるためにトラスの一部分を和小屋に戻したりしていることなどから分かる様に、西洋技術を用いながら、外観は伝統の造形を、その繊細さを失わさせず、かつ重厚で迫力があり、気品ある造形にまとめあげた力量は非凡である。明治の越中職人と豪商の進取の気性と、確かで洗練されたデザイン感覚、教養のよく偲ばれる作品である。県内最も美しい建築のひとつである。高岡市にはこうした洋風を取り入れた土蔵造商家の優れた作品、「佐野家」「筏井家」などが現存している。
以上、駆け足で富山県の近代建築史を、現存する作品を中心として述べて来た。近代建築遺産は1960年代後半から急速に取り壊され多くが消滅したが、しかし現存するものを拾っていっても、富山県の建築の、すなわち生活の近代化を一応は追うことが出来る。本講座を読まれて興味を持たれたら、是非ここに挙げた諸作品を自身の目で観てみられることをお勧めする。建築デザインを観ることは楽しい体験であるし、そうした楽しさが多くの人に共感されることが、貴重な近代建築遺産を残し後代へ伝えてゆく唯一のエネルギーであると信ずるからである。 
 
住まいの歩みとこれから

 

大変動の潮流のなかで得たモノ失ったモノ
明治の開国(1868年)以来、今年で満130年。欧米風に言えば世紀末を迎え、日本の暮らしも住まいも大きな転換期にさしかかっている。その背景は、地球規模の情報化がもたらした多様で個性的な生き方とか、それまでとはまったく違った核家族化への大きな流れのなかで、日本独特の生命力を失った少子高齢社会に行きあたってしまったからだ。
かつて、山間僻地から都市部への人口流出が、その地域の過疎や廃村につながって、大問題となった。最近は、中心市街地の空洞化が大きな問題となっている。公共による都市基盤が整備されたにもかかわらず、今度は郊外の新興住宅団地への人口移動である。
太平洋戦争の傷もいえはじめた昭和30年前後、健康な地域社会をつくるキーワードとして職住分離論が出現し、もう一つ、人間らしい確かな暮らし様としてプライバシーの尊重ということから就寝分離論がさけばれた。
結果、住まいのなかに障子やふすまにかわって、壁と扉がセットで割りこんで、夫婦の寝室や子供室の独立を促した。そのこと自体けっして悪いことではなかったのだが、新しい生活ルールをつくらないまま、その装置を持ち込んでしまったことに問題があった。同じようなことが、住宅の外周にもいえる。密集市街地は別として、郊外に住宅地を得た人たちは、そこを自分のものと確認するためか、防犯や防災とはかけはなれた意味不明のハンパな囲いを構築していった。
これらの行為が本能的か、または、だれかに刺激されるままやってしまったか、結果は、前者はそれまであったアットホームをこわし、後者は地域社会の連帯を寸断する結果となった。今日のイビツな日本の活力の源泉とコミュニティーづくりのむずかしさの遠因が、どうもこの辺にひそんでいるような気がしてならない。
いずれにしても、核家族化への潮流は日本国中、津々浦々へ急激に浸透し、その風景は国民の目覚めと同時に国力がついてきた証しでもあった。家のかたちでいえば、それまでの常識であった接客本位のつくり様から、本当の意味での住まいづくりへと急旋回して行ったことになるのだが。一方このニーズを飛躍させた背後には国家の繁栄と軌を一にして、住宅産業の急激な成長を見逃すことができない。産業化の初期段階では、その後の新興住宅団地の隆盛がイメージされていたかどうかわからないが、結果は今日の住宅産業の成熟ぶりを見れば一目瞭然である。
反面、陽当たりがあれば日陰ができるのも自然の理である。独立していくたのもしい若者たちのあとに残った親には、一息入れる間もなく、定年退職が待っていた。人生50年時代はとっくに終わり、今日では男女平均80年の人生が待っているのである。実に長い余命だ。この残り時間も現役時代同様といわないまでも、元気に暮らすことを願わない人はないだろう。
建築界でいいだしたプライバシーの尊重というヒューマニズムの一断面が、多様な個性とそこに内在する価値観の多様性を認めるという、人間中心の思想で家づくりも地域づくりも、そして国づくりまでも右肩上がりのまんまで、今日までやってきた。実に手応えのある時間帯を経験させてもらった。
しかし、ここ世紀末にきて、人類の夢だったかぎりない右肩上がりの発展は、にわかに赤信号に変わった。なぜなら地球資源の有限が証明されたからである。20年程前、ローマクラブが発表した地球有限説が、世紀末という臨場感と、これを裏打ちするような出来事(ソビエト連邦の崩壊や中国の改革開放、そして東南アジア諸国の急激な近代化等々)が次々に起こったことによって、価値観の大変換という気分を増幅させている。
気がついてみれば、新世紀への期待もさることながら、この世紀を生きた人類は、大変動の時代を必死で泳いできたことになる。その渦中にあって、自分自身を見失った人もいれば、かしこい人は別にして、なにかをきっかけに自分を発見した人もあろう。筆者などは右往左往しながら、かろうじて後者に入るかもしれない。
建築の単体も、その集合である集落や街並みも、良くも醜くも、そこに住む人びとの時代を生きる様を、正直にかたってくれている。もう一ついえることは、その正直な景観には、多様な時代の多様なその土地の気分を、同時平行して刻み続けているということである。だから、その生き様に緊張感もただようのである。
大変動の世紀の、混沌の風景は日本ばかりでない。地球上どこへ行っても見られるのだが、おもしろいことに住宅建築を見るかぎり、土着の風土とか、それによって培われた、気質のようなものがどこかにかならず組み込まれている。
最もわかりやすい例は、沖縄に見られるシーサーだ。住む人びとの一人ひとりの願いと祈り、そしてトータルに情緒安定のための装置らしい。わが富山の仏壇と近い関係にあるかもしれない。残念なことに各地に確実に遺伝子のように残っていた神聖な精神性が、ここにきて急激に風化しはじめているのである。なにが問題なのか。
情報化の進展とグローバル化の進展はいまや宿命的命題か
このテーマの大半は竺覚暁先生の稿にゆだねるとして、私は国際交流がもたらす家づくりやまちづくりについて少しふれておきたい。
通信衛星が打ち上げられ、実用化が始まって久しい。世界中の映像が、リアルタイムで茶の間に飛び込んでくる。また情報通信の発達は、外国語がまったく不得意な私のようなものでも、少しの時間差があればなんとかやりとりが可能になったし、まして携帯電話は時と処を選ばず、どこへでも割りこんでくるからたまったものではない。いわゆる情報化時代のテーマが、良くも悪くもここに浮かびあがってくるのである。
グローバルスタンダードとかグローカル化(グローバルに発想し、ローカルに行動する)といったことが、言葉としてではなく現実の問題として社会に顕在化してきた。ここに建築や街のつくり様も、地球規模の変化に組み込まれ、グローバルスタンダードという力の論理と人類共通の感性によって、大きくかわっていくことはまちがいないだろう。
ICCA(国際職藝学院)ではいま地方の遺伝子を大切にした未来住宅の建設にとりかかっている。実験中のPRH(完全リサイクルハウス)は、多世代同居とか在宅勤務が可能になるような部屋取り、そして建築資材のリサイクルがどれほど可能になるか、などに挑戦している。この実験住宅は、日本の伝統的な床座と、欧米から入ってきた椅子座を併用しつつも、後者に重点をおいた板の間の多いつくり様となっている。これは、すでに生活空間の国際化というか、住み手が自覚しないうちに欧米の生活様式を多く取り込まざるをえなくなってきている証しである。
私達日本人もそうであったように、人間の感性にてらして良いものは国境を越えて誰にも通じるということか。
サスティナブルデザインとエコロジカルデザインについて
先にもふれたが、ローマクラブによって警鐘されたように、人類があまりにも地球を浪費した末に出てきた反省の言葉が、この二つの概念のようである。持続可能な人間生活とはまさに人類が人類になげかけたテーマである。これを聞いている地球は、苦笑しているに違いない。お前たち人類こそ地球上からいなくなるか、もっと以前のようにつつましくやっていてくれれば、そんなまわりくどいことをいわなくてすむんだ…と、たぶんそう言うだろう。
日本はいま少子高齢化時代に入ったといわれている。1997年に発表された人口動態統計によると、合計特殊出生率が史上最低の1.39ということで、今後この出生率が続けば、百年後の日本の人口は現在の3分の1ぐらいになってしまうらしい。
そうなると、日本社会は持続できなくなってしまう。問題は、多くても少なくてもたちゆかなくなる日本社会を、地球規模で常に検証し、たちゆくようにしていかなければならないということだ。
シナリオは共生か寄生か、建築界の鬼才藤森照信氏の提言によれば、人間は自然と共生するのではなく、自然につつましく寄生していくこと、そして、人間のつくった都市には、自然が立派に寄生できるようしむけていかなければならないという。彼のいいようは、かつて日本人の心根のなかに、やさしくつたわっていた願いを言いあてているのである。それは知恵ある人類だからできることだし、持ち家を旨とする富山だからやらなければならないテーマだと思う。
混沌の世紀を生き抜いてきた郷(さと)の風景は、たのもしくもあり荒れてもいる。藤森氏が言うように、人間が自然につつましく寄生したり、逆に、自然が人工に寄生してもらったりするということは、もっぱら人間の心根の問題なのだろう。
かつて、在日米国大使だったE・ライシャワー氏の言として聞いた話だが、日本人は美しいものに敏感だが、醜いものに鈍感だ! と言って不思議がっておられたという。私自身この話を聞いたとき、一言の反論もできなかった。それからかなり時間がたった今日も、民族の共通の感性が問題なのかもしれないと思うようになっている。
再生成った高岡山瑞龍寺を見せてもらった折、瞬間、「やった!出来た」と思った。積年のE・ライシャワー氏からの宿題が出来ていたのだ! 本気でやればできることを私たちに教えてくれた瑞龍寺復元であった。
再び集住のときがやってくる
市街地の再生や集落の再生は、瑞龍寺のようにやれないものだろうか。仏様がお住まいになる瑞龍寺と、人間が住む郷を混同しては罰当たりというものだろうか。足跡があり手あかがついていて、生活の臭いがあり、昼夜をとわずいつもどこかで老若男女・喜怒哀楽の声がする。そんな町と集落の再生が、新世紀の大きな課題となる。
プライバシーの尊重という概念は、戦後民主主義の産物として生まれた概念だが、最近ではみんなで渡れば赤信号もこわくない! とか、カラスなぜなくの?カラスの勝手でしょ! など、今この時代の気分として、いびつに板についてしまった民主主義感がある。
このような社会風潮を元に戻すことは至難なことだ。しかし、一気にもどせないまでも、面舵一杯、徹底したリサイクル手法の確立や手応えのある省資源手法で、再び人間が助け合う集住を考えないと、人類の余命はかけがえのない地球によって拒否されるにちがいない。
幸か不幸か、この世紀末の不景気風は、地球規模で吹きはじめている。新世紀を担う若者たちのためにも、世紀末の厳しい現実を体感させておくのも大切な親心かもしれない。
省工ネと集住化のすすめ
富山は、持ち家率と家の広さ日本一。住まいの豊かさを誇る県民性に支えられて、親たちが精魂こめて建てた日本一すばらしい我が家なのに、若者たちはおいそれと帰ってこない。親子でも価値観の共有ができないのである。ICCAに通学してくる学生をつぶさに見ていると、驚かされることが多い。先生方よりはるかに高価な車を乗りつけ、意気揚揚。入試の折に、親や学校と約束した大切なことなど入学と同時にすっかり忘れる。要するに社会との関係はその場しのぎなのだ。
こんな彼らも、適度な間合いと、各々の人格の尊重というごく基本的事柄を整理してつきあってみると、意外とすばらしい資質をもった人たちなのでびっくりさせられる。
こんなことをヒントに自信を持ったと言えば言い過ぎになるかもしれないが、新世紀の地球に寄生し永住していかなければならない人類の住まいと暮らしは、近親者といえども一つ屋根の下ということではなく、適度な間合いを保ちつつ、平面的かつ立体的構成に留意しながら、老若男女集住を主とすべきではないかと思いはじめている。しかも、その目標は生活基盤が準備されている既存市街地にである。
私はいま生命力をなくした富山市の中心市街地の一隅で、都市の生体を再生するための再開発事業に挑戦している。かってマチといえば、人がいきいきとかっこよく住むところだった。ひと昔前まではこんな生態はどこにでもあるごくあたりまえの風景だったのに、当節では、とてもむずかしいテーマというから不思議でならない。それだけ世の中の気分が変に自信を失ってしまったということか。問題はお互いにどこで生活しようと、自尊心の持ち様ではないかと思われる。その裏付けとして、再度老若男女が混住し、子育ても老後も安心して暮らせるマチの骨格(スケルトン)の再生を急がなければならないと思うのである。 
 
暮らしの職人-畳職人と建具職人-

 

住まいを彩る建具と畳
今、住まいに建具や畳があることが、当たり前になっている。奈良時代までは、閉ざされた外壁と出入口しかない住居で、内部には間仕切り建具もなく、床は板敷きが一般的であった。
その後、間仕切りのないバリアフリー的な生活空間をマルチ・パーパスでしつらえ、住まいとした過程で、多くの建具や畳の発祥をみた。
外回り建具から間仕切り建具へ (板戸・用語名)
昔は、出入口に風雨を避けるために、竹・葦・草を用いて編(あ)んだ簾(すだれ)を編垂(あみだれ)式にした蔀(しとみ)が使用されていた。
風止(しと)むの語源を持つ蔀(しとみ)は、一枚板から数枚の板を併せた板蔀(いたしとみ)となった。
その後、出入口装置の蔀は、大陸伝来の技術による扉式の桟唐戸(さんからど)になった。
現在、蔀といえば、格子蔀であり主として外回りの建具として用いられている。
桟唐戸は、四周の框(かまち)と縦横に配置された数本の桟によって骨組みを組み立て、その間に板(入子板)を入れた建具で、扉(開閉式)や遣戸(やりど・引き違い式)として今も多くの神社仏閣で用いられている。何かと暗く、間仕切りのない生活空間では、不都合で不便なこともあり、障子、襖(ふすま)・几帳(きちょう)・屏風(びょうぶ)などの新しい建具が考案された。
障子は、本来遮(さえぎ)るもの、障(さ)ふものの意である。最も古い形式は、細い木製の格子を骨組みとして、その両面に布または紙を貼り、衝立(ついたて)式に台脚の上に立てたもの、衝立障子式であった。
襖は、木で骨を組み、両面から紙や布を貼ったもので、襖障子・唐紙障子がある。
几帳は、家内に立てて隔(へだ)てとする具。台に高さを3尺〜4尺の細い2本柱を立て、柱の上の1本の長い横木に帳(とばり)を掛けたもの、これら障子類は、生活の場を華麗に装束・室礼(しつらい)するのに用いられた。
初めは、時に応じて設置され、或いは撤去されるものであった。また華やかな障屏画(しょうへいが)が現われ生活の場も一層明るくなった。障屏画は、障子・襖・杉戸や屏風・衝立てなど移動の出来る建具の面に描かれた絵画である。壁などに描かれた絵画は、障壁画(しょうへきが)と言われる。
本来外回りだけであった建具が、内部の間仕切り建具に変わることによって、飛躍的に種類が多くなり複雑になった。
建具職人が集う地区
砺波市栴檀野(せんだんの)福岡は、福岡建具として県内一円で広く知られている。
福岡には、江戸時代正保4年(1647年)頃に、西方約3qの権正寺付近から移築された古刹厳照寺(ごんしょうじ)がある。
明治初期に、能登の田鶴浜から来て厳照寺の建具を補修していた「次平」という建具職人(戸大工)がいた。この「次平」から建具技術を習得した大工の中岡源三郎が、福岡建具の開祖と言われている。その後多くの大工職人が、建具職人に転向し、多いときには七十数人を数えた。この建具専門職人の努力と福岡地区背後の増山杉・クサマキ(イヌマキ)・アテ(アスナロ)など良質な建具材の存在が今日の基礎を築いたと思われる。
現在も十数軒の建具店と二十数人の職人達が技を競っている。
さらに、高い技術を要する砺波地方の豪農家屋建具の需要と栴檀野建具組合の存在や厳照寺本堂前の太子堂に安置されている聖徳太子像を祭る太子講などが、建具職人の経済面や精神面・技術面の支えとなり、今日のように希有な地域にと発展した。(聖徳太子像は開祖中岡源三郎が所持していたと伝えられる)
高い建具技術を今に引き継ぐ
福岡建具の技術の高さは、厳照寺や福岡神社の建具に見られる。最近、栴檀野組合の建具職人によって新装された福岡神社の建具は、今の技術の確かさを実証しているようである。
厳照寺の本堂正面には桟唐戸がある。桟唐戸は、中央に縦桟を立て横桟を3本いれ、上部の入子板に、紋様を、円型にして填込(はめこ)み、更に金銅八双金具を用い変形や歪みを防いでいる。その内側には、腰の部分が横舞良戸仕立の荒格子硝子戸が入っている。共に引き違い戸(遣戸(やりど))として使用されている。
本堂正面の両脇戸の外側には、禅宗様の桟唐戸で、横桟を2本吹き寄せに、中央に縦桟を立て、上部に細い組子の筬(おさ)欄間を入れた戸で、桟は山形に鎬(しのぎ)をとっている。内側には、水腰障子戸で、晴れた日には、外側の唐戸は開けて明かりを取り込んでいる。明治時代頃まで、外側に唐戸や板格子を、内側に障子戸や硝子戸を併用したことが多い。
日本建築の中でも、人や地方によって呼び名が異なることがある建具の名ほど複雑でややこしいものはないと言われている。
一般的には、全体構造上の名称(板戸類・障子類・格子類・らんま類・襖類)を基に、工作名、使用箇所、建付け方法、材料名を冠した表現が多い。
建具は家の顔
建具には、その家と人の顔があり、その家の文化を知るバロメータになるとも言われている。
大部分を機械にたよる大量生産品は、注文建具に比して低価格で工期・納期も短いが、その家の特色を十分に醸成する建具ではないと思われる。
能登の田鶴浜の建具は、大量生産型であるが、福岡の建具は、小量で複雑な注文建具を主としている職人達の仕事が多いことが特筆される。
島田久雄・裕也さん親子も、その一員であり、伝統的な高度の技術を保持されている。最近手掛けられた建具に、簾戸・帯戸・腰付き障子がある。
中でも、欅造りの帯戸は、欅の特性を十分に知り尽さないと、帯桟の柄(ほぞ)や、鏡板の取り扱いは出来ないとされている。
注文建具の第一歩は、大工職人の意図を汲んだ、寸法取りとデザインと素材の選択にあると言われる。
粗工程を機械化しても、最終工程では手仕事となり、後に補修や修繕が出来る建具として仕上げることが、注文建具の必須条件とされている。
板の間から畳敷きへ
日本文化を代表する畳は、藁と藺草(いぐさ)を素材に、布と紙と木を小量付け加えて形成され、平安時代の昔から住生活には、切り離すことの出来ない床材である。
畳は「たたむ」ことを意味し、折り返してたためて、重ねられるものから、昔は、円座(えんざ)・筵(むしろ)・菰(こも)など、敷物のすべてを総称していた。
平安時代に厚畳が現われ、室町時代には部屋全体に畳が敷かれるようになった。
一般庶民のものとなったのは、江戸時代中期以降で、農村では更に遅く明治時代に入ってからであった。
一般的になるまで畳は、座具であり寝具であった。座る人の身分や地位を表すため、畳縁・長短・厚薄などに厳密な用い方が定められていた。
村田珠光(茶道の始祖=15世紀の後半)の時代に、風流で茶を楽しむようになり、畳の技術が飛躍的に発展したと言われ、それと共に畳職人も、畳刺し・畳大工・畳師・畳屋・畳工と呼ばれるようになった。
畳は藁で出来ているか
畳は、畳床(たたみどこ)・畳表(たたみおもて)・畳縁(たたみへり)の3部分に分別できる。
畳床は、もともと藁製で、藁の裏菰(こも)上に藁と菰を縦横交互に数段重ねて菰で覆い、最後に床の上面に畝(うね)藁をあてて圧縮し糸締めをしたものであった。
今は藁床は殆どなく、床芯に発泡スチロール、スタイロフォーム、ウレタンフォーム、棕櫚(しゅろ)など藁と併用したサンドイッチ型の化学床である。又、畳職人が畳床を手掛けることも殆んど無い。
畳表は、土用入り前の7月上旬頃に刈り取った藺草を、染土を溶かした泥水の中に漬けて乾燥し、その藺草を緯糸に、麻糸を経糸として織られたもの。
備後表・肥後表・備前表・豊後表や流球表や大分の青表がある。
畳縁は、絹、麻、木綿、化繊を用い、色と柄などを織りだしたもの、上等なものから順に、高麗縁(繧繝縁(うんけんへり)など)、高宮縁・松井田縁・光輝縁などがある。
高麗縁は、社寺や御殿などに用いられる。高宮縁は、滋賀県高宮産で麻の紺と茶が多い。同様なものに、富山産の加賀布紺縁もあった。松井田縁は、麻の紺で耐久力が強く一般用であった。
光輝縁は、主として木綿を染色したのちに光沢加工したもので、現在は、化学繊維の光輝縁が、一般的に使用されている。縁のないものは、坊主縁・坊主表畳と言われ、柔道畳などがある。
富山は田舎間
江戸時代初期には、すでに畳は規格化され柱間が決められた。
富山の畳は、すべて田舎間畳であり、それに合わせるように、柱間や建具の寸法が決まっている。
関西と関東では、畳の大きさは異なる。関西間では、6尺5寸を1間とするので、長手が6尺3寸、短手が3尺1寸5分、厚さ1寸8分となる。関東間では、6尺を1間とするので、長手が5尺8寸、短手が2尺9寸、厚さ2寸となる。
名古屋地方は、間(ま)の間(ま)畳で、長手が6尺、短手が3尺となる。
関東間の畳を田舎間畳、五八間畳、江戸間畳といい、関西間の畳は京間畳と呼ばれている。両者の広さを比較すると、関西間の6畳は関東間の7.1畳に相当し、関東間の4畳半は関西間の3.8畳に相当する。
畳職人の技の振いどころ
畳床も縁付けや頭板(かしらいた)付けも、殆んど機械化され、畳職人の技術を発揮する分野も少なくなった。
機械化されても、正確な寸法割付が出来、その寸法割付に基づき、縁付けをする平刺しや差し込み藁を入れての返し縫いなどができ、畳の形を正確に補正し仕上げられるかが技の振いどころである。
畳表を取り付ける作業の工程には、寸法割り付け、畳床の選択・畳表の選択・框(かまち)造り・縁付けがある。
寸法割付けで、室の曲(くせ)や歪(ゆが)みを測り、畳の形を決め、部屋の位置により畳床を選び、畳表の目を見て畳を部屋に配置する。婦中町鵜吸の一級技能士北村孝さんによると、畳の仕上がりの良否は、四隅3寸で決まると言われる。隅は框と縁とが重なる場所で、頭板(耳板)で角を正しく保つために付ける技と、縁付けする技が鏑(しのぎ)合う所で、大切な、且つ高度な技を要する部分だからである。
畳糸は、昔は日本麻糸のみであったが、麻糸は湿気に弱いこともあり、今は、化繊や綿糸が用いられている。
一般に藁畳床は、調湿・調温・弾性・感触などに優れており、藺草には二酸化窒素ガスを吸着し、空気の浄化を助ける機能があると言われる。
畳の需要も年々少なくなって来ているが、最近現代建築の前衛的構造物にもマッチする新感覚の畳を要求される領域の展開も見られるようになった。
自然を取り入れた建具や畳には、人間性を健やかに醸成する機能が豊かに存在することを、理解して頂きたい。 
 
熟練技の用具-曲げ物、指し物、結い物の世界-

 

民具には 「○○物」といわれるものが4つある。刳(く)り物、曲げ物、指し物、結い物等である。ここでは、これらのうち曲げ物以下3つについて述べることとする。
指し物、指し物師
指し物とは馴染みのない言葉だろう。ここでいう指し物とは箱、椅子、机、棚等の板を組み立てて作った木製品の総称で、その名は物差しを当てて板の寸法を計測しつつ製作することに由来する。
またその製作者を指し物師と呼称、17世紀に戸障子師(建具師)とともに家大工から分化したと考えられており、その姿は『職人尽くし絵合わせかるた』等の古画にも描かれている。
ここでは指し物の実態を、小矢部市後谷在住の指し物師沢田由雄さんからの聴取資料に基づいて述べてみよう。
指し物師沢田由雄さんは大正4年2月小矢部市生まれ、父も指し物師であった。昭和5年、15歳の時、金沢市尾張町の名指し物師伊藤伊斎に師事、5年間の修行の後昭和12年応召。昭和15年戦地より帰還するや桜井洋家具店(後の桜木工)石動支店に入社、昭和20年まで勤務した。そして昭和20年に自立、爾来平成6年まで指し物業にいそしんだ。
この間沢田さんの製作した指し物は飾り箱、掛け軸の箱、香炉台といった小物から火鉢、茶棚、箪笥といった大物に至るまで多岐にわたる。
これらのうち、大きさは小さいながらも飾り箱製作が最も手数を要し、茶棚がこれに次ぐ。ことに前者の製作が難しいのは、いわゆる木口(こぐち)を見せない技術が要求されるからであるという。
形の相違・大きさの大小はともかく、沢田さんによれば、指し物の具備すべき要件として、@箱物の場合、身と蓋の合わせ目が水平であり、蓋がスーッと入っていくことA部材と部材の合わせ目がきれいであることB床に置いた場合、ぐらつかず水平を保っていること等が挙げられる。
指し物の部材
指し物の材料は桐、杉、ケヤキ(欅)等である。
これらのうち最も多用されたのは桐である。昭和50年以前は地元のキリノキヤ(桐の木屋、石動に4、5軒存在、下駄屋を兼ねる)より地元産を、それ以降は石川県津幡町のキリノキヤから岩手県南部産や会津産を入手した。後者の方が身が太く、かつ木目に茶色の斑紋が混じるので良いとされた。
また、杉、ケヤキは地元の材木屋から入手した。
部材と部材の接合
前述のとおり、指し物の要諦は部材と部材をいかにうまく、かつ、きれいに接合するかということである。
通常部材と部材の接合には2通りの方法が挙げられる。
1つは木釘もしくは竹釘を使用する方法、いま1つは組み合わせようとする部材の木口(こぐち)にそれぞれ凸部、凹部を作りそれらを組み合わせる方法である。
ここでそれぞれについて記す。
木釘もしくは竹釘による接合は主として箱などの小物に対してなされた。
沢田さんの場合、部材接合に使用する木釘はオツギ(ウツギ、空木のこと)製である。釘としてこの木を使用するのは、材が堅くかつ入手しやすいからである。
材料のオツギは近辺の山から採取した。採取したオツギは20c程度に裁断後、水に浸して一旦柔らかくする。柔らかくなった頃合を見計らって、木釘いわゆるオツギクギを削り出す。その際、「三角形に削り出そうとせず、丸く削れるようにする」ことがコツだという。釘の大きさ(長さ)は、釘穴を穿(うが)つ際使用するキリ(錐)の大きさ(長さ)によって規定される。製作したオツギクギは使用時フライパンで炒めて再度堅くする。
このようにオツギクギの使用は、樹木の性格に関する植物学的な知識に裏打ちされているといえる。
ところで一般に小物の部材接合にはオツギクギだけで事足りるが、対象がケヤキ(欅)のような堅木製の場合、以下のような工夫がなされた。
すなわち、ツボギリ(壷錐)で釘穴を開けたのち、ポンチを使って金釘の頭を木の表面から2ミリ程度の位置まで沈ませる。そして陥没した部分を木片で埋める。このような陥没部分2ミリを埋め、さらには金釘を隠す木片(樹種不問)をダボ、ダボで陥没部分を埋めることをダボ埋めと称する。ダボの使用により、部材が金釘で止められていることがわからなくなるのである。極めて巧妙な隠蔽技術と言えよう。
一方、部材同士を組み合わせ接合する方法の一つとして、アリザシ(蟻差し、アリグミ[蟻組み]とも称する)なる技法が挙げられる。
これは一方の部材にアリガ夕(蟻形、台形のこと)ほぞ(凸部)を、一方の部材にアリガタ凹部を作り両者を組み合わせるやり方で、強度があり変形しにくいため茶棚の天板と立板(天板を両脇で支える板)の接合や火鉢(角火鉢、長火鉢)製作に用いられた。むろんアリの数は物によって異なる。
なお木組みを見せたくない高級品の場合、アリザシを内側に隠すカクシアリ(隠し蟻)なる技法も採られた。
弟子の訓練
親方に弟子入りした職人は段階的な訓練を経て一人前になった。
まず小物製作に不可欠な釘削りが課せられる。沢田さんによれば、1日千本製作のノルマが課せられたことさえあったという。
次に「手から出血するほど」反復してカンナ(鉋)の刃の研ぎ出しが命ぜられる。時に研ぎ出しの練習が1週間以上に及ぶこともあった。このように刃の研ぎ出しが重視されたのは、部材の整形にカンナが重要な役割を果たすからである。事実、指し物師が使用するカンナの種類は極めて多い。
以上のようないわば基礎的訓練を経てようやく実作に取り掛かる。
下駄箱のような簡単なものから始めて、手のこんだ茶棚や箪笥を作れるようになると一人前とされた。
結い物
タライ(盥)、ヒツ(櫃)、タル(樽)、オケ(桶)を総称して結い物と称する。
これらは名称こそ違え、ソコイタ(底板)、クレ(樽、胴を構成する板)、タガ(箍、樽を組み合わせた胴部を外から締め付ける竹製もしくは針金の輪)といった共通要素から成る。ここでは、それら結い物について、富山市太郎丸在住のオケ職人平野宗一郎さんからの聴取資料を基に述べよう。
結い物の組み立てと製作用具
結い物の組み立て方には、まずソコイタを作ってからそれにクレを添わせて測り胴部を形作り、タガで締めるやり方と、クレを組み合わせて胴を作ったのち底の内径を測定、ソコイタをはめ込むやり方の2通りがある。
平野宗一郎さんの場合、大方は後者の順で組み立てるものの、ソコイタの内径が測定しにくい卵形のオケ(風呂オケが代表)のみ前者の方法で組み立てる。
製作用具としては、ソコイタ製作にナタ(鉈)、ソコマワシ(底回し、のこぎりの1種)、セン、ソコガンナ(底鉋)を、クレ製作にナタ、タテビキノコギリ(縦挽き鋸)、ウチマルガンナ(内丸鉋)、ソトマルガンナ(外丸鉋)、ヒラガンナ(平飽)を、クレの組み合わせにはツバノミ(鍔鑿)、竹釘(自製)、キヅチ(木槌)、仮輪(仮締め用のタガ)、本輪(本締め用のタガ)をそれぞれ使用する。
結い物相互の相違点
先に結い物相互の共通性を述べたが、以下相違点を述べよう。
まずクレの形の相違が挙げられる。
例えばタルの場合、クレの側面(オケ職人の間ではショージキと呼称)が上から下まで曲線をなす。これに対してオケの場合、中よりやや下でショージキを更に削り込み、下の方が少し細くなるようにする。結果として、仕上がったオケの形はコシ(腰)の辺りでふっくらとする。またタライの場合、すべてが直線である。これらのうち上から下までが曲線をなすタルのクレ製作が最も難しい。
次にタガを入れる箇所や材料の相違が挙げられる。
タルの場合、胴の上部、下部にタガを入れるのに対して、タライ、ヒツの場合、上部に入れず中部、下部に入れる。
その他、漬物オケ、味噌オケ、風呂オケには上から下までだいたい平均に入れる。タガの材料については、ヒツ、タライ、風呂オケが針金製であるのに対して他はすべて竹製である。
第三にクレの材質の違いが挙げられる。
ヒツの場合、吸湿性に富み中の飯に臭いが付着しない杉の白身が選択される。逆にサワラ(椹)は飯に臭いが付着するがゆえに良くないとされた。
その他、洗濯ダライには撥水性のあるアテ、クサマキが、漬物オケには塩分を通さず木の臭いが付着しない杉の赤身がそれぞれ選択される。
このように各結い物の用途に応じた素材選択がなされるわけである。
製作のポイント
平野さんによれば製作のポイントは2点あるという。
1つはクレの合わせ目いわゆるショージキの削り方である。クレが柔らかい材の場合、削り方が少々まずくても、外よりタガで締め付ければショージキ間の空隙は自然に塞がる。ところがクレがアテ、トーチンボク、クルミといった堅木の場合、タガで締め付けても空隙はなかなか埋まらない。よって後者の場合、ショージキの削り方に細心の注意を要する。
今1つはソコイタの周りの削り方(勾配の付け方)である。
コイタの勾配がクレの勾配よりも緩いと、ソコイタの上部に空隙ができて漏れる。したがってソコイタの勾配をクレ勾配よりもほんの少し強めに削ったほうがよい。
人生儀礼と結い物
ところで結い物は、人生の節目節目に登場する。
出産時、汚物を洗い流し、新生児に産湯を使わせ、更におしめを洗うのに使用されるのが外径1尺6寸、深さ6寸5分の白木製のタライいわゆるシモダライ(下盥)である。
婚礼時には嫁の里方から嫁ぎ先へ、向かい合った1対のクレを伸ばして角状にしそこへヌキ(貫)を通したイワイダル(祝い樽、その色からアカダル[赤樽]とも呼称)が贈られる。
また、婚礼後の初チョーハイ、初節句、土用には、婚家と嫁の実家との間を赤飯・餅を入れた蓋付きの漆塗りの楕円形樽いわゆるミヤゲビツ(土産櫃)が行き来する。
更に不祝儀時(ぶしゅうぎ)には5個もしくは7個のオケを入れ子状に組んだイリコ(入れ子)が煮〆容器として使用される。
このように見てくると、結い物はケ(褻)の容器である以上にハレ(晴れ)の器としての性格が強いと言える。
製作上の問題点
平野さんが挙げる製作上の問題点は何といっても良質の材料が入手しずらくなった点である。
具体的にはタガの竹に最適なマダケ(真竹)が少なく、粘性に欠けた脆弱なハチク(淡竹)のみが多くなった点、そして目が細かく、節がなく、赤身の場合華やかな赤色を呈する良質の杉材が少なくなった点が挙げられる。
たまたま良材を発見しても、発見の手間を材料費に上乗せせざるを得ず、結果として製品価格の上昇となる。良質で安価な手工業製品を供給しようという立場からみて、甚だ不都合なことになる。
ともかくも結い物においても他の手工業同様、材料難が深刻化していると言えるだろう。
曲げ物について
富山市堤町通りと中教院前通りとの交差点から南へ6m入ったところに曲げ物屋、「福沢すいのや」がある。曲げ物とは檜のへぎ板を湾曲させて作る木製容器のことである。
ここでは、現店主福沢信司さんからの聴取資料をもとに、曲げ物の中でもことにフルイ(篩)製作について述べよう。
フルイ製作は概ね以下のように行なわれる。
まず円く湾曲した檜のへぎ板を、外側から縄で緊縛して整形する。その内側にさらに8枚のへぎ板を入れ込む。これら9枚のへぎ板を一球(ひとたま)と称する。一球を十分乾燥させた後、内側のへぎ板から順に取りだし大きさの異なる枠にする。枠の掛け合わせ部分をガワハサミで締めてメサシで穴を開け、桜皮で綴じる。出来た枠の底にカツラ(桂、細く割いた檜の輪)2枚の間に挟み込んだ網(馬のたてがみ・真鍮・鉄・ステンレス)をはめ込み、篩(ふるい)に仕上げる。この底への網のはめ込みにいちばん技術を要するという。
作られた篩は、薬剤の選別用、麦粉・小豆の裏ごし用として主として県内の薬種商、菓子商向けに出回る。とはいうものの産業全体の近代化に伴って、篩を含めた曲げ物一般の需要は極度に落ち込んできている。また、掛け合わせ部分を留める山桜の皮の入手難、後継者不足など、この産業をとりまく情況も厳しい。ために、戦前は旧市内に3軒を数えた曲げ物屋も平成11年現在、当店のみとなった。
結びに
以上、指し物、結い物、曲げ物について述べた。いずれの場合も、材料の入手難、後継者不足が深刻化しているのは再三再四述べたとおりである。ことに後継者不足は、営々と伝承されてきた技術の消滅に直結する。これは極言すれば日本伝統文化の消滅とさえ言い得る。手仕事万般にわたる体系的な後継者育成が急務である。 
 
道具を作る-鉈職人と鑢職人-

 

鉄との出会い
鉄鉱石を溶かして鉄を製錬する技術は、紀元前1500年頃の小アジアで発達したと言われています。それ以前は、隕鉄(隕石)を叩いたり曲げたりして鉄製品を作っていました。紀元前1500年頃の技術では、完全に鉄を溶かす温度に出来なかった為、不純物が多く入った海綿鉄と呼ばれる鉄しか出来ませんでした。しかし、何度も海綿鉄を加熱し叩いていくと、不純物が取り除かれて炭素分をほとんど含まない鉄にすることが出来ました。こうして出来た鉄を錬鉄と呼びます。ところが錬鉄は、炭素分が少ない為に柔らかく、刃物に使用することが出来ません。そこで古代の人は、錬鉄を木炭の中で加熱し何度も叩きました。その結果、刃物に使用出来る硬い鉄「鋼」を手に入れることが出来たのです。
古代の人達は、鋼を使用し、生活を支える道具を作り始めました。長い年月をかけて使いやすい道具を考え、技術を磨いてきたのです。そして、技術が高度になるほど、それを体得するのは困難になり、各分野の専門家が生まれることになったのです。
人は、生きるために道具を作り、生きるために道具を使います。その人間のサイクルの中に鉄という素材が混じり合いました。鉄をどのように使うかということを考えることが、人間の文明社会を支える基盤の一つとなってきたのです。
泊鉈
鉈は、中世あたりから普及した刃物と考えられています。それまでの時代は、厚鎌か斧を使用していたようです。しかし、山で仕事をする者にとって、持ち物は少ない方がよい。そこで登場したのが、鉈だったようです。
現在、泊鉈が使用されている地域は、広範囲にあります。なぜ泊鉈が、富山県外に多く流通したのか。それは、泊鉈を作る鍛冶屋と、県外に働きに出る人夫達の住む地域が同じだった為です。つまり、人夫たちが、泊で作られた鍛冶道具を持参し、各地方に移動していたのです。そして、各地域で「使いやすい優れた道具」という評判があり続けたからこそ、遠方からの注文が多くあるのです。
泊舵の特徴
@トンビの嘴のような突起が、鉈の上部についていること
泊鉈は、越中鉈と呼ばれたり、その形態からトンビ鉈とも呼ばれています。また、泊鉈の突起だけを指して、トンビと呼びます。
トンビがあるおかげで、木の根元を切断する際、刃先を保護する効果が得られます。土中には、石が混在しているのでトンビがないと刃先が欠けてしまうのです。また、先端部分にトンビがあるので、鉈を振り下ろす際に重さが加わり、威力が増します。そして、トンビを使って遠くの枝を引さ寄せたり、伐採した木をまとめてくくる際の強く締め上げる為の道具として使われます。
A鉄を7対3に割り、そこに鋼を入れること
泊鉈を作るには、蒲鉾の底板のような形をした鉄の板を使います。その鉄の板の側面部分を7対3に割り、鋼を入れます。その結果、泊鉈の表と裏に出る鋼の表面積が違ってきます。この様な製作をすることが、長期間にわたる刃先の研磨を可能にしたのです。例えば、泊鉈に使われている鋼を割り入れせずに裏打ちをすると、地鉄と鋼の間に溝が出来やすく、そこからひびが入ってしまいます。溝が出来ないように薄い鋼を使うと、刃先が欠けやすくなります。また、地鉄の裏に厚みのある鋼を全面に裏打ちすれば、鉈1つの値段が高くなってしまうのです。
B鉈の形態が緩やかな曲線を描き、刃先があまり鋭くない
鉈の刃先は、強い力がかかります。泊鉈は、その力に耐える刃先にする為に鋼を厚くするだけではありません。刃の根元から先端にかけての断面は、トンビの嘴のような曲線を描いています。また、泊鉈の使用方法は、肩を軸に、上前方から下後方へ移動するように切断します。その為、手に持った鉈は、大きな円孤を描くような動きをします。その結果、木の切断面は、美しい楕円形となります。
このような動きと刃先の形を有効に使用するには、鉈全体の形態が、刃先を内側にして緩やかな曲線を描いているとよいのです。
これらの特徴は、作り手と使い手の意見交換による試行錯誤があったからこそ、完成された特徴なのではないかと考えられます。
朝日町で、泊鉈の製造をする最後の鍛冶屋・大久保中秋さん
大久保さんは、鍛冶屋歴54年目になる朝日町で唯一の鍛冶屋です。大久保さんは、ちょうど終戦から3日経った昭和20年8月18日に泊の鍛冶屋に弟子入りをしました。そして、4年という短い修業期間で技術を体得し、19歳で独り立ちをしたのです。
鍛冶屋に限らず職人の仕事は、「見て覚えるもの」と言われています。つまり、職人の仕事は、仕事を覚えようとする集中力と、覚えた仕事を正確に再現するための実行力と器用さが必要になります。大久保さんは、それらの能力を潜在的に持つ人物だったからこそ、4年という短い修業期間で独り立ちをすることが出来たのです。しかし職人の仕事は、それらの能力だけでは成り立たないのです。
職人は、常に使う人の側に立ち、誰よりも良い道具を作る、という意志を持ち続ける必要があるのです。
大久保さんが作る道具の種類は、林業や農業、そして台所で使われる道具など、多岐にわたります。その為、作った経験もなければ、体験したこともない分野の道具を作らなくてはならない時もあります。しかしどのような時も大久保さんは、注文者側の話す内容に集中し、最良の道具を作り続けてさたのです。また、大久保さんが作った道具やそうでない道具が、修理のために持ち込まれると、その状態を見て、使い手の癖や作業環境を見抜き、さらに使いやすい道具にして手渡すのです。そして道具から見えてくる情報は、使い手の作業環境に関することだけではないのです。修理のために持ち込まれる道具からは、作られた地方や、鍛冶屋の技量も判断出来るため、遠く離れた鍛冶屋同士の交流がなくても、鍛冶屋に関する情報を手にすることが出来たのです。
現在でも、大久保さんのもとにくる注文の中には、大久保さんが疑問に思うほど、遠い場所からの注文もあるのだそうです。
そうした事実は、大久保さんが、相手の要求を正確に見抜く洞察力と、要求以上の道具を作り出す高度な技術を持ち合わせている人物だということを、使い手が信じているからこそだと考えられます。
作り手と使い手の繋がりは、お互いの信用によって成り立つものなのです。そして大久保さんは、その信用を積み重ねた者のみが生き残れる世界で鍛冶屋を続けているのです。
高岡銅器と岡崎鑢
鑢(やすり)は、金属のみならず木やプラスティックなど、多彩な素材の切削に使用される道具です。特に銅器製作で全国シェアのほとんどを占める高岡では、鑢製作者達が技術を競い合いながら銅器加工業者を支えてきました。しかし近年、簡易的で加工時間の短縮を可能にした機械や電動工具の発達・普及によって、手道具の需要が少なくなりその生産量は激減しています。このような環境の中でも、銅器製品にする最後の微妙な仕上げは職人の手で行われています。これら職人のニーズに応え、良質な鑢を製作し続けている岡崎喜久治さんは、職人つまり切削を伴う加工業者を支えている貴重な存在であると言えるでしょう。
かつて高岡では、銅器加工業者自身が切削しにくくなった鑢目の修理を行いながら使用していたといいます。「トントン目」と言われていたその修理方法は、磨耗や欠けを起して切削しにくくなった鑢目を残したまま、さらに新たな鑢目を作る方法でした。その切削能力はそれほど高くなかったと容易に想像することができます。以後、鑢製作の専門家である稲垣久四郎氏が名古屋から来て、鑢地を横に送りながら目切り(鑢目を作る)を行う「横切り法(西洋切り)」の技術を伝えました。銅器の町高岡で育った岡崎さんは、18歳から父親に就いて「横切り法」による鑢製作に従事し、厳しい修行を積むことになります。しかし数年後、岡崎さんは師となる父親を亡くし、手探りでその製作方法の開拓を余儀なくされ、技法や技を極めてきました。
優れた鑢製作
現在の経済システムでは、製作者が一方的に製品を作り、使用者はそれを工夫して使うという関係で製品が流通しています。しかし、より優れた製品を製作・提供をしていくには、使い手と作り手両者の協力関係が必要です。岡崎さんはこの点を重要と考え、使用している加工業者からの要求やフイードバックに耳を傾けて模索し、より優れた鑢製作に努力を重ねました。ここにその要求例の幾つかを挙げてみます。
・鋳造品の切削を行う際、銅器の複雑な形態に合わせた特殊な鑢が欠かせません。
・鋳物砂にも欠けない鑢目を保持できるような硬度を持った耐久性のある鑢が必要となります。
・岡崎さんの所には打ち直し(鑢目の修理)に返ってくる鑢があります。それに付着した金属粉(鑢屑)や鑢目の減り具合、欠け具合などを観察し、その使用目的や切削方法などを推し量って使用者の要求をとらえます。
また、岡崎さんのこだわりとなった特徴的な要求例とその対処法を簡単に挙げてみます。
一般的に鑢は、鉄を切削する道具であると認識されていますが、切削する対象物の素材は多種にわたります。高岡銅器に使われている主な素材は、鉄をはじめブロンズ、真鍮、アルミニウムなどです。その中でも柔らかい素材であるアルミニウムを切削するには、その屑によって目詰まりを起こさせてしまうので、単目(たんめ)が使われます。しかし単目は、対象物の表面を滑ってしまうことがよくあります。岡崎さんはこの対策法として、鑢目の目切りに工夫をこらしてました。軟質物が美しく切削できるように、鑢目の刃角や立上がりの角度を鋭くし、また対象物との引っ掛かりを改善するために、下目を浅く切った単目の形に仕上げています。このことによって切削性と目詰まりを解消しました。
また、ある納入先の企業から欠陥部分の金属組織を顕微鏡で見せられ、焼き入れ状態の優劣を指摘されました。工学的な知識やそれに基づく対処の要求です。だからといって生産する量からしてもコンピュータ制御設備を採用できません。岡崎さんは決して近代的とはいえない仕事場で、工学的なデータに裏付けられた勘と経験を身につけ、一歩進んだ鑢製作を行うにいたったのです。そして納めた製品全てをこの企業が要求する金属組織や硬度に再生産し、納品しました。
これらの例はごく一部に過ぎませんが、このような要求やフィードバックが岡崎さんに優れた鑢製作へのこだわりを形成させたと言えるのではないでしょうか。
製作工程、究極の鑢を求めて
手打ち鑢の製作工程は、鑢地となる鋼の軟化を目的とした焼鈍(やきなまし)から始まります。その後、鍛造加工や焼鈍によってできた酸化膜や脱炭部(だったんぶ)を除去するとともに、鑢の形態を整える目的でグラインダーによる切削を行います。特に脱炭部の除去は、鑢目の磨耗や欠けを早期に起こさせないよう入念に行われます。
次に、鑢で大切な鑢目の目切りを行います。目切りは、鏨(たがね)によって鑢目となる突起を作る工程ですが、特に工夫をこらしているところです。目切りをしている映像で見る全ての行為は、体が自然に反応するといった感じで、その動きの連動や鎚音のリズムは美しくもあり見事です。鏨をもった左手は、ある一定の角度を保ちながら、左から右へと打ち上げた鑢目を一つづつ飛び越えて次の目を打ち上げます。その位置を決めるのは、全て鏨の刃先から手に伝わってくる微妙な情報によって判断している、と岡崎さんは言います。
また、現在もなお使われている金槌の柄は、次頁上欄の写真を見ると、異様なまでに美しく変形しているのが分かると思います。この変形は、常に機械のごとく同じ鑢目を立ち上げるため、握られた指によって擦れて削りとられた跡です。この金槌から、50年以上の歴史と、作られてきた鑢の数や切削加工業者の仕事量を想像することが出来ると思います。そして金床の左側に散在しているおびただしい数の鏨、この何の変哲もなく見える鏨には、岡崎氏さんの目切りに対する考え方の集大成が隠されています。
目切りが行われた鑢地は、切削可能な硬さにするために焼入れを行います。鉄と炭素の合金である鋼は、その割合によって焼入れ後の硬さに違いが生じます。鑢に使われている炭素工具鋼はSK−2E(炭素1.10〜1.30%)であり、焼入れ温度は760〜820℃(水冷)HRC63〜65°の硬度が得られます。焼入れの際、岡崎さんは温度計を使わず全て勘と経験によって行います。そのため焼入れに適した温度は、塩の混合物(塩化ナトリウムの融点は809℃)を鑢地に塗布し、その溶融する状態によって820℃の微妙な焼き入れ温度を判断しています。その他、塩の混合物を使用することによって、冷却水のガス抜き・急冷度や酸化・脱炭防止の効果が得られます。
また、加熱された鑢が投入される冷却水は、50年以上使われています。毎回新たな水で冷却すると、その中に含まれているガスが発生して冷却する時間に差ができ、硬度に斑が出てしまうからです。
ここに取り上げた「目切り」と「焼き入れ」以外にも多くの工程があり、それぞれに工夫とこだわりの部分があります。それらは、作業をスムーズに進め、全て優れた鑢の一点に凝縮しています。しかしこの二つの工程は、鑢の切削能力に大きく影響するために独特のこだわりが反映されているのです。
勘と経験の世界、職人技と精神性
職人技は、微妙な動きあるいは間(ま)にも全て意味があり、一流と言われる人ほど無駄なく作業が行われます。そしてそれらが製品に集約されていくのです。少しでも優れた製品を作るために、岡崎さんが自らの好奇心と努力によって工学的な知識に裏付けられた実験を繰り返す姿や、そこで得た技法・技に私たちは感動すら感じます。そして、その恩恵に感謝するばかりです。このような優れた物に接することによって感じ取った精神性は、日常生活や趣味において少しでも深く物事を理解するための手助けになるのではないでしょうか。誠に地味な鑢製作は、現在後継者がいないと耳にしますが、せめてその精神性だけでも受け継がれなければならないと思います。 
 
饅頭と落雁-富山の和菓子職人-

 

菓子は果子
菓子とは何かということには、人それぞれの見解があるであろう。現代においては、あらゆる食物の中で何を菓子と定義するのかすらおぼつかない。それ程、菓子の多様化は進んでいるのである。
しかし、菓子はもともとは「果子」と表記した。「果」は、木の上に実のなっているところを表す漢字であるという。つまり菓子とはもともと草や木になる実、すなわち果物のことをいっていた。昔は、加工されていない、自然のままのものであったのだ。したがって、菓子として加工されたものができ、食べられることが一般的となっても、果物は菓子として扱われ続け、この二つがきちんと識別されるようになったのは、明治時代以降のこととされている。この間、果物には水菓子という異名が存在する。現在もわずかではあるが果物を水菓子と表現する場に出合うことがある。
では、加工された菓子が日本で食べられるようになつた時期はいつ頃かというと、仏教の伝来以降のこととされる。当時の菓子は、麦粉・豆粉などをこね、さまざまな果物や花の形に作り、油で揚げるといった製法のいわゆる「唐菓子」のことであった。その後、時代の文化の発達とともに菓子も変化をとげながら今日に至るのである。
富山県の菓子
ここで富山県の菓子の特殊性を考えてみたいと思う。
現在、富山県で銘菓として生産されている菓子の大半は、分類上和菓子に属するものである。
そして、それらの多くは全国的に形の定まった菓子、すなわち全国共通の菓子であるといえよう。饅頭、最中、落雁などという名称で共通に理解される菓子、そしてその仲間と分類できる菓子がそれである。
すなわち、特殊性を見い出し難いということが、富山県の菓子の特殊性なのである。
菓子の形態や分類から考えるとこのように無味乾燥なことになってしまうが、菓子にはそれを育んだ風土や、それを愛した人々の思い、そして何より菓子を生み出した職人の心が込められている。であるから、どこにでもある菓子と考えられるものも、富山にしか存在しない唯一無二の菓子と成り得るのである。
ところで、富山県は呉羽山を境にして多くの点で差異が見られるということは周知の事実である。菓子においても、同様のことがいえるのではないかと考えられる。主に加賀藩前田家の領地であった呉西地域においては、京風の茶席などで用いられるような菓子店の数が多く、富山藩前田家の領地であった富山市を中心とする地域では、饅頭、羊羹といった個別の菓子を主に商うような店が、古い伝統を受け継いでいる。これは、あくまでも百年以上の伝統を受け継ぐ店についての調査をもとにした見解であり、少し乱暴な言い方になっていることをおことわりしておきたい。
金沢では前田家が藩主であった時代から茶道が盛んであったため、茶会で供される和菓子が発達した。加賀藩の領地であった高岡でも同様のことが考えられるのである。
高岡市には天保9年から暖簾を掲げる落雁の店がある。現在は落雁以外の菓子の商いが主であるが、昔は落雁が中心であった。それは、店の蔵に残る多くの落雁の木型からもうかがえる。
茶席で用いられる高価な和三盆糖を用いて作られる菓子は、高価で高級な非日常の菓子である。
また、落雁は仏事にも欠かすことのできないものであったことも事実である。明治・大正・昭和初期という時代には、引菓子としての落雁は重要なものであった。
そして富山市で安永年間からその伝統が受け継がれている酒饅頭は、冠婚葬祭に用いられる菓子の代表でもあり、富山藩主の口にも入ったであろうが、やはり庶民に最も親しまれてきた菓子である。その店の称号は、寛政2年に富山藩主前田利謙から賜ったものであるという。
礼法書に見る和菓子
明治31年に出版された『新撰女礼鑑』には菓子についての礼儀作法が述べられている。これは一通りの食事の作法の流れの最後部である。
菓子のこと
蒸菓子は縁高に盛り、足打にのせ、黒もじ楊枝一本を縁高の前隅に添へかけ置くべし。(この後、濃茶の記述があるがここでは省略する。)
干菓子のこと
干菓子は、相当の盆、又は鉢に盛り、これも足打にのせ、箸を添へて出すものなり。これを後菓子といふ。其故は蒸菓子・濃茶を出して、又干菓子を出し、薄茶を薦むればなり。これは最正式にして、これを畧すれば、始に薄茶を出し、後菓子を省きて、果物など出す事もあるなり。後ろに菓子の盛り付けが図によって補足されている。ここでも菓子と果子の扱いが、まだはっきりとはしていないことがわかる。また、一連の饗応の流れの最後に菓子が添えられることも、菓子のあり方の一つとして興味深いものである。
駄菓子ということば
駄菓子の発生は文化、文政年間頃のことという説がある。これは、黒砂糖の普及と関連があると考えられている。それ以前は、庶民が口にする 「おやつ(八ツ時すなわち午後2時頃の間食)」は、甘いものではなく塩味であったというのだ。しかし、この頃から「お茶請け」と呼ばれる甘い菓子をおやつとして食べる習慣が始まったのではないかと考えられている。江戸時代の書物『嬉遊笑覧』には次のような興味深い記述がある。
…よからぬもの駄といふ。乗馬ならぬ駄馬より云ふにや…
「駄」という文字は、馬が荷物を背負う形からでたものであり、「駄馬」と言えば騎馬に用いられる「良馬」とは異なり、荷物を運搬するための下級の馬という意味である。そこで、駄菓子ということばを辞書にあたると「下級の菓子」とか「粗末な菓子」という説明にでくわすことになる。駄菓子の異名として「一文菓子」という名称もある。これは、わずか一文銭で買える菓子という意味である。この名称は、後に「一銭菓子」という、1銭、2銭で買える駄菓子の名称につながる。安価な菓子としての駄菓子を象徴するものである。
『嬉遊笑覧』には正徳5年以前には高級菓子はほとんど無かったが、駄菓子はたくさんあったことが記されている。
…今は品数許多にて枚挙に遑あらず…
この表記から、その数の多さを窺うことができよう。ところで『嬉遊笑覧』を見る限りでは駄菓子ということばにはマイナスのイメージが強い。いやそればかりか、現代の辞書においてもしかりである。しかし、ほんとうにそうなのだろうか。駄菓子こそが、実は民衆にもっとも近く、そしてもっとも深く愛されたものだと考えることができるのではないだろうか。それを解く鍵の一つが「パカーン」や「ポン菓子」などという名称で親しまれた穀物菓子にあるのではないだろうかと考えるのである。
パカーンが来るとき
「パカーン」というものすごい破裂音とともに、真っ白な煙がもくもくもく…山王さんのお祭りには欠かせない景気付けのような場面である。数十年前には、自宅のお米を持ち寄って作ってもらって食べたなどという話も聞く。正式名称などはなく「ポン菓子」「ドカーン」「パッカン」など、作るときに欠かせない大きな音がそのまま菓子の名前のようになり、親しまれている。この菓子は米作が盛んな富山の駄菓子の代表ではなかろうか。まだ、ほのかにあたたかさの残る間に飴をかけてほんのり甘−く仕上げるのだ。これは、祭りのときのものとばかり思っていたが、富山県の漁村では、漁師たちが間食として日常に食していたことがわかった。たいへんな労働であるから、間食として「ポン菓子」を日常的に食べることはエネルギーの補給という意味でも理に叶っているのではなかろうか。びっくりするような大きな音とともに出来上がる、ほんのり甘い米であってもはや米ではなくなった菓子は、美味しいお米がとれる富山に深く根付いた駄菓子である。
朔日饅頭-ほんのり甘酒の香-
富山市では6月1日の「朔日饅頭」が風物詩である。「まんじょやまんじょ、まんじょいらんけまんじょ」と言いながら町内を売り歩いたという。5月から6月にかけて、麦の収穫の時期に、饅頭を作り皆で口にすることで邪気を払うと信じられていた。俳句の季語に「麦秋」があるが、麦の穂が黄金色に波打つ姿は、豊穣を感じさせる美しい風景である。「朔日饅頭」は、口元にはこぶとほんのりと甘酒の香がして、しっかりとした皮のほのかな酸味が甘い餡と絶妙の調べをもたらしてくれる。この酒の酵母を用いた発酵には秘伝がある。この酒饅頭は「葬式饅頭」としても用いられる。いや「葬式饅頭」としての方が人々に馴染みが深いといっても過言ではなかろう。法事に用いる不祝儀用の饅頭を一般的にはこのように呼ぶ。饅頭は人の死を悼む時にも欠かすことのできない大切なものであった。そしてまた、饅頭は結婚式にも欠かせないものである。お祝いの饅頭をわけていただき、ともに口にすることで、新郎新婦の末長い幸せを願い、また彼らの幸せを口にした人々にも分け与えてもらえると信じられたのである。この酒饅頭は、茶席に用いられる小振りで腰高で丸々とした利久饅頭や織部饅頭などとは異なり、大振りでおおらかに平たく作られている。饅頭は、中国から伝来した蒸菓子である。その伝来は、鎌倉時代から室町時代頃のことであったといわれる。一説には鎌倉時代のはじめともいわれる。饅頭自体は、蜀の諸葛孔明が作り出したものだといういい伝えもある。中国では、野菜や獣肉などを餡としたのであるが、日本では赤小豆で製した塩餡をいれたものであったらしい。砂糖の流通が増加する江戸時代中期から、現在のような甘い饅頭が作られるようになったと考えられる。饅頭の伝来については、虎屋饅頭系と塩瀬饅頭系の2説があることも有名である。
落雁
和三盆糖で作られる落雁は、一般的には高級な菓子と考えられている。それは、落雁が主に茶席など非日常の場面で多く用いられることや、大きさのわりに高価であることに起因しているであろう。しかし、私たちが日常的に眼にする菓子の中にも落雁は存在する。和三盆糖ではなく、砂糖や他の穀物粉で作られたおおぶりなそれはお供え用の落雁である。これは、富山の土地柄が大きく影響しているであろう。富山県は真宗王国といわれるほど、仏教が深く根付いた土地である。そこで、お彼岸などには、和菓子店だけでなく、近所のスーパーなどにも蓮や菊などの形をした落雁が売られているのを眼にしたことがあるという人も少なくないであろう。この落雁という名杯は、『倭訓栞』には「落甘」がもとの表記であると記されている。また『類聚名物考』には次のように記されている。
…もと近江八景の平砂の落雁より出し名なり。白き砕米に、黒胡麻を、村々とかけ入れたり。そのさま雁に似たればなり…
米や麦や豆などといった穀類の豆類の粉に砂糖を加えて押し固めた菓子の総称が落雁であるが、もともとはその表面に点々と散らされた黒胡麻を舞い降りる雁に見立てたことからこの名称が付いたといわれている。雁が舞い降りる情景は、鎌倉時代から江戸時代にかけて情趣深いものとして好まれ、特に画題として多く扱われている。瀟湘八景図の中の「平沙落雁」が中でも有名である。先の近江八景は、この風景を日本の名所に見立てたものである。後に雁に見立てた黒胡麻が使われなくなっても、落雁という名称だけは残ったのである。古く落雁は、保存や携帯を目的として穀物を押し固めたものであるといわれている。当時、形は四角や丸といった単純なものであったという。現在のような、装飾的な形態になったのは元禄年間前後ではなかろうかと考えられている。
木型を用いることによって、一つの菓子を一枚の絵画のように、また季節ごとの花や風景や物に作り上げることを可能にした。このような精巧緻密な写実的表現を可能にしたことが、この菓子の特異性を如実にしている。他の和菓子を考えても、これほど多様な表現は存在しないであろう。そういった意味においても画期的な菓子である。だからこそ、和菓子職人、また木型を作る職人の技の冴えが必須であった。近松門左衛門作の「傾城反魂香」の初演時(宝永5年・竹本座)には「落雁、カステラ、羊羹より、菓子盆はこぶ腰元の、饅頭肌ぞなつかしき」という台詞がある。当時、珍重された菓子を並べたものといえよう。江戸時代後期には、落雁は現在の私たちの想像もつかない程の大きさに作られ、大名の贈答用に用いられるようになる。このような落雁は庶民の手の届かない特別な菓子であった。その一方で、高級な素材を用いない麦などで作られた素朴な落雁も存在した。
そして大名菓子の伝統は、戦前に三井家など財閥が祭祀などといった諸々の行事において作らせた御前菓子などに受け継がれていく。そしてまた戦時中は、軍艦や飛行機などの意匠の慰問用の落雁が作られたという事実もある。高岡の歴史と伝統のある菓子屋の蔵に残る木型は、茶道に用いられる京菓子の伝統を受け継ぐ四季折々の美しいものもあり、また寺社でお供えされるために作られた木型もある。仏様にお供えされたものを、人々がともに口にすることによって、そのご加護を願うのである。
菓子の未来
日本は四季の美しい国である。富山県もその例外ではない。特に、四季の変化に富んだ風情のある土地である。多くの菓子は、そのうつろいを写し、また強く意識させるものであった。
祭りなどとともに訪れる駄菓子職人、季節を小さな掌にのるような落雁に封じ込める菓子職人、そして人々の喜びや悲しみとともにいつもそばにある酒饅頭を作る職人。
そのどれもがけっして失いたくない大切な富山の文化である。これらを21世紀の未来の人々へも受け継いでいかなければならないと痛感している。
そのために必要なのは、技を守り受け継ぐ職人たちだけではなく、それらを深く愛し享受していく私たち自身の心なのである。 
 
農家の手仕事-菅笠作りとソウケ作り-

 

笠の使用と加賀笠
蓑笠といえば雨天の外出に欠くことのでさない用具であった。笠は雨天だけでなく雪中や日差しにも使われ、両手が自由になるから外仕事にはきわめて便利な実用品であった。
福岡町は江戸時代から笠どころとして知られており、山間地を除いてほとんどの家が笠作りに従事してきた所で、品物は「加賀笠」として全国に販売されてきた。
どのように 軽く見えても皆人の下には置かぬ 加賀の菅笠
これは文久3年(1863)に加賀藩主前田斉泰(なりやす)が14代将軍徳川家茂(いえもち)に従って入洛した時、朝廷より厚遇されたことを風刺して京都に流れた風評である。菅笠は加賀藩の主要移出品であり、藩主が菅笠に譬えられるほど全国に知れわたっていたのである。
川の氾濫と沼地での菅栽培
福岡町は面積の約3分の1が宝達山丘陵地を成し、3分の2が砺波平野の一画を成す平野部である。平地の中央には小矢部川が西から東へと流れており、戦国時代までは庄川も砺波平野を北上して福岡町で小矢部川と合流していた。江戸時代になってもたびたび水害に襲われ、耕地整理が行われるまでフコと呼ばれる沼地が多く残っていた。菅草はこのような低湿地に自生していたもので、古くはそれを利用して蓑作りを副業とする人々もあったと伝えられている。
福岡町で菅笠が作られだした時期ははっきりしないが、慶長13年(1608)に伊勢の国(現、三重県)から大野源作が町内に移住し、伊勢笠の製法を教えたのが始まりといわれている。その後近江や越後の人によっていろいろな形の菅笠が伝授されていったようである。
菅の需要が伸びると次第に栽培面積も増え、江戸時代中期には山沿いの村や平野部も、ほとんどの村で作られていた。菅はどんな陰地でもよく育つので、水田の不適地にも栽培できる利点があった。また、一度植えると3、4年はその古株から出る新芽を間引きするだけで、手入れや刈取り期が農閑期であるのも都合がよかった。
菅は2mほどに育ったのを夏土用に刈り取り、先端を切り捨てて1把ずつそろえ、3日間ほど広げて乾燥させるが、場所は道路縁や社寺の境内、なかでも小矢部川の川原が最適地であった。天日で充分乾燥することによって色艶よく仕上がり、製品も良いものになる。
笠骨作り
菅笠の製作には竹を割って笠骨を作る仕事と、笠骨に菅を当てて縫いつける仕事があり、昔から笠骨作りは男の仕事、笠縫いは女の仕事とされてきた。
笠の形には大野笠・三度笠・玉子笠・富士笠・一文字などの名称で、三角形や半球形のものがあり、寸法も数種類あるが作る要領は一緒である。道具は竹・ナタ・小刀・竹のこぎり・目刺し・糸・火鉢コンロ・炭・ヨリコ(細い菅)などである。笠骨は笠の大きさを決める「がわ竹」と、形を作りあげる「中竹」、小骨と小がわ竹とでできている。
側(がわ)竹は笠の外縁になる部分で、孟宗竹を必要な寸法に切ってナタで小割りし、幅1cほどのものを小刀で面取りし、両端を削って一部重ね合わせて円形にする。つぎ目はヨリコを巻きつけて止める。中骨をさしこむ爪穴を作るため、目刺しで輪の内側から外側の竹の皮面に向けて斜めに穴をあけておく。
中竹は笠の種類による特徴的な形を作るものであるから、曲がりやすいニガ竹を使うが千葉県産のものが好まれる。棒状に小割りにした竹を手板という寸法の記された台の上で切り揃え、小刀で両端を削って鋭くし、中央部の頭頂に当る部分を削ぎ落とすなどの作業をする。できた中竹をコンロの火にあてて丸みをつけ、型板にはめて冷えるまで待つ。曲がった状態の中竹を先の側(がわ)竹にあけた爪穴に対角線に差し込む。組み終えると中心部の中竹が重なりあった部分を糸でしっかり結ぶ。小竹と小側骨は竹をヒゴに割ったもので、小側骨は型のくずれないようにした補助的なもの、小骨は笠を縫う際のおさえ骨となるものである。このような作業で1人1日20枚ほどの笠骨が作れ、できあがったものは10枚ずつ紐で結んで出荷を待つことになる。
笠縫い作業
笠縫いは笠骨に菅の葉を当てて縫いあげていく作業であるが、冬場の女の仕事とされてきた。必要な道具は長さ10c余りの笠針・布製の指ハメ・ハサミ・サシビラ・コキビラ・糸巻・笠コマ・これらを入れる笠ボンコなど、簡単な道具ですむ。
次に笠の内側に菅を巻く「仕掛け」の作業に入る。ハサンケともいう。中ぐらいの幅の菅の中央をサシビラで刺し、上下に引き裂いて2本にする。笠骨の頂上部に笠紙という和紙を当てて菅で押さえ、その周囲から外縁部へ向けてクモの巣のように菅を中竹に巻きつけていく。これが笠の内側から見える部分である。
次にノズケの作業に入る。子骨と呼ばれる竹ヒゴを糸で側骨に取り付け、その隙間に幅の広い親菅を差し込んでいく作業で、コマに巻いた糸で菅が抜けてこないようにしっかり止める。これを1周するまで続けると、外周に菅の端が取り付けられる。
いよいよ笠縫いとなるが、コクビラで菅の上下をこすって柔らかくしておく。笠針で一目一目外周から中心部への渦巻き状に縫っていくが、針は右手小指の指ハメで押しながら縫い、左手で針の先へ菅を送り込んでやる。縫うにしたがって菅が重なり合うので、不必要な菅を切り落とし、縫う間隔も均一にきれいに仕上げる必要がある。中心部まで縫い終えると、菅先を20cほど残して切り揃えてできあがりとなる。
笠作りは手間がかかるため1人1日2枚ほどしかできないが、すべて家庭でできる手軽な仕事であり、冬仕事として非常に効率のよいものであった。しかも子供でも老人でも作業の一部を分業できる利点もあり、福岡町では笠縫い道具は嫁入り道具の一つになっていたほどである。また、嫁をもらうのに笠を上手に縫うことも大事な条件であったので、女の子は小さい時から手伝いをさせられたのである。
仲買商人と菅笠の販売
縫い上がった笠はお得意とする仲買人が買い付けて回り、大きな風呂敷に2mほど積み上げて背負って持ち帰った。仲買人は注文に応じた型と数量を取り揃えるが、自宅で頭巾という白布を頂上部に縫いつけたり、周囲に白布を巻いたりして出荷した。文化7年(1810)の記録によると、福岡町で菅と笠をあつかう商人が商家の半数以上を占める状況であった。江戸時代末期に砺波郡全体の輸出量は約210万枚におよび、販路も東北地方から九州まで、加賀笠は全国生産の7割に達したといわれている。
昔は船や馬で運ばれたが、鉄道が開通すると、菅笠を150〜200枚荷造りしたものが駅構内に何十本と並んでいたものである。しかし次第に需要は減り続け、近年は民謡踊りの笠や車のマスコット、正月の注連飾りなどに菅製品が出回っている。
竹細工の里
氷見市の市街地から約12キロ北上した所に竹細工の里、三尾(みお)と床鍋(とこなべ)の集落がある。県境を越えると石川県志雄(しお)町である。両集落は1.5キロほどの距離の隣村であり、宝達山丘陵にあるとはいえ三尾で海抜70mくらい、床鍋で150mくらいの低山性の丘陵地である。
集落の周辺にはいたる所に緩傾斜地を利用した棚田が造成されており、いわゆる千枚田の景観を残している。江戸時代は三尾の草高108石、床鍋の草高130石と、中規模の村落であったようである。しかし地すべり地帯でもあり、田地は相対的に不足した。集落の維持に必要な収益は副業として「竹ソウケ」()作りをもたらし、氷見の特産品として今も盛んである。
ソウケ作りは三尾・床鍋では、寺院を除いて一戸残らず作っていたそうで、この2集落に限らず近辺の老谷(おいだん)、葛葉(くずは)でも作られていたが、一般に三尾のソウケの名が知れわたっていた。
その発祥については定かでないが、床鍋の伝承によると五箇山から入植した人によって開村されたといわれている。その子孫の藤兵衛という者が前田家の金沢築城に際して、人夫が使用していた「丸ゾウケ」を見てその製法を習いうけ、床鍋の村民に教えて製造されたのが始まりであるという。次第に近辺にまで波及していったようである。
竹細工の原料である竹は地元のものを使ってきたため、昔はいたる所に竹薮が繁茂しており、県下一の面積を誇っていた。それもこの地が地すべり地帯であるために、根の張る竹が植えられた生活の知恵であったのかも知れない。そのころは真竹(まだけ)の皮がお金になったもので、子供達は夏休みの早朝に竹の皮を拾いに行ったものであるという。しかし30年余り前に竹に花が咲いて9割ほど壊滅してしまった。その後、県の奨励もあって植林がなされたため、今日、県道を通過しても竹薮はあまり目につかない状況である。
竹切り
竹ソウケに使われる竹は孟宗竹と真竹であり、ほとんどの家が自家栽培のものを利用した。孟宗竹は全般に固いが節は自由に曲がる性質があり、真竹は節が固くて丸くしにくい性質がある。ソウケは部分によってそれぞれの性質を生かした用いかたがなされる。10月下旬から11月一ぱいにツルカケノコギリで丁寧に切るが、これは大方男の仕事であった。ケンケンナタで枝をおろして家へ運び込む。作業場の大きさから物指を用いて11尺5寸(約3.5m)に切ったものを1コロとし、1本の竹から2コロ取れる竹を選んで切る。
竹の外側の節をきれいにそぎ取って大割りする。切り口にボンサマナタで十文字に割り込みを入れ、そこヘヤを入れてハタキ棒でたたいて四ツ割りにする。アテという木の台の上で身の内側の節もきれいにはつる。この荒割りしたものを4、5本に小割りして1cほどの幅の割り竹にする。この小割りしたものをさらに皮の方と内側の身の方にヘギ分けるが、この皮ヘギが一番むつかしい作業で、4、5年の経験が必要だそうである。身の方は弾力がないのでソウケには使わず燃料にする。
皮の部分をさらに身肉と皮にヘギ分ける。真竹は皮竹を4本くらいに細かく「あさ割り」すると、1本の竹から80本くらいの細かい竹ヒゴができることになる。これがアミ竹となる。身の方はアテ板に使用する。孟宗竹はヒゴにしないでガワ(フチ)に用いる。これら竹を割る作業は全てボンサマナタを使用するが、これは刃を殺してあり、撫でても切れずむしろ錆付いているようなものである。以上の材料を用意するのが男の仕事とされてきた。
ソウケの編み作業
床鍋や三尾で作られるソウケは「米あげゾウケ」として昔から各家庭の必需品であった。茹でた素麺の水切りや、食品の収納や運搬にも使われた。大きさによつて八升あげ(大)・五升あげ(中)・三升あげ(小)の3種類あり、かつては一斗あげ(特大)も作られていた。容量が違えば当然長さや幅も違うが、作る要領は同じである。編むのは女の仕事とされており、農閑期を利用して主に冬の間に作られたが、竹をしまっておいて夏にも少し作った。作業は家の広間や作業場で行なう。ソウケの部分名は口のところをクチ、あるいはダシグチ、その反対側をソコ、縁部をガワという。
作業は皮付の孟宗竹(幅1c、厚さ5ミリ)で卵形の輪を作り、ソコの部分で合せ口を針金でしばる。真竹のヘギ落とした身の部分をタケボネとして、真竹をヒゴ状にしたアミダケでまん中の部分5cほどを茣蓙目に編み、湾曲させながらガワに取りつける。続いてソコの方へ向って編む。その際にタタキパイで編んだ部分の目を詰め、キバサミでガワからはみ出すアミダケを切り落とす。ホネダケはクチの部分とソコの部分で4cほど余裕をもたせて切り落とし、その部分を裏側へ回してアミダケの中へ通す。通りにくい場合はメサシを使う。
クチは真竹の皮の部分で編んでクチマキをして補強する。ガワの上に孟宗竹の皮の部分をつけ細く割ったもの6、7本をのせるが、これをササラという。ササラの外側に孟宗竹の皮の方のアテブチを、内側に身のアテブチを取付けて、針金でガワと一緒に数か所縛るとソウケができあがる。
ソウケの販売
ソウケは大中小の3個1組とし、20組で1コロ、あるいは1本と数える。数では60ゴオリともいう。また、大と特大で1組とし、これも20組で1コロ、この場合は40ゴオリである。大人が6人いる家で1カ月に28本作った記録が最高とされているが、普通は夫婦と子供3人で1カ月5〜7本作っている。
ソウケ編みは女の仕事とはいえ男も編むし、子供も簡単な部分を手伝わせられた。小学校3、4年生でクチマキ、6年生にもなるとササラ巻きができるようになり、家族全員でソウケ作りに励んできた村である。
氷見のソウケは真竹を使い、しかも身をほとんど使わず主に皮の部分で作るので長持ちすると評判がよく、氷見市内の数軒の卸屋を経て、販路は北陸一帯から長野県、北海道へも広がっていた。昭和20年ごろは20組1本が値段で10円であり、その年暮には30円くらいになり、23年ごろは100円、30年代は1万円近くになったという。
ソウケ作りには原材料から材料加工、製品化まで自家でこなすため収益性は非常に良い。しかし、プラスチック製品が出回るようになると卸屋も数を扱わないようになり、行商として売りに出るようになっている。 
 

 

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