昭和の日本 [2]

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坂口安吾 / 戦後を駆け抜けた男堕落論戦後新人論戦後文章論
 

雑学の世界・補考   

昭和の人を垣間見る


よく知られているように、たいして値打のないものを、 「くだらない」 というのは、京都、大阪の「上方」が日本の文化の中心であったころにできた言葉である。
上方から江戸に下ってきたものは上等、上質で、そうでないものは、たいしたことがない。「くだらない」とは、そういう意味だった。
もともとは芝居の役者について言われていたようだが、やがて化粧品や装身具についても使われるようになった。
――この物語は、上方文化がまだまだ優勢であった時代に始まる。
舞台は大阪ミナミ。道頓堀川の向かい、宗右衛門町に「大和屋」という芸妓扱所、つまり芸者置屋があった。明治八年頃にできたというから、南地の花街では新興勢力である。
経営者の名は、阪口うしといった。
阪口うしは大和・五条の素封家(そほうか)に生まれたが、家が傾いたために大阪に出て、南地の芸者になり、置屋を持つまでになった。
城山三郎著「気張る男」は丁稚(でっち)から身をおこし、銀行、鉄道、紡績など数々の事業を始め、「西の渋沢栄一」といわれた松本重太郎が主人公だが、その中に、阪口うしが、まだ海のものとも山のものともわからない出入り商人の松本重太郎に、その人柄と才覚を見込んで、出世払いで大金を用立てたエピソードが紹介されている。
松本重太郎を助けた阪口うしは、後に、松本の力を借りることになる。この縁がなければ、「大和屋」の後年の隆盛はなかったかもしれない。思えば、縁とは不思議なものである。
明治二十九年六月、弟夫婦が子供八人を残して急死すると、阪口うしは子供たち全員を引き取り、その長男の祐三郎を、松本重太郎のもとに丁稚として預けた。祐三郎、数え十三歳のときのことだった。祐三郎は後年、二代目の女将となった姉の後を引き継ぎ、三代目の主人となり、「大和屋」の地位を不動のものとすることになる。
すでに松本は、関西実業界の押しも押されもしない大立者になっていた。丁稚の仕事といえば、来客の履き物をそろえることや、夏は大きな団扇(うちわ)で客に風を送るような類のことである。それでも少年は骨身を惜しむことなく、よく働いた。
それから四年、祐三郎は異例ともいえるスピードで、丁稚から手代に昇格した。
主人の信頼が厚かったのだろう。祐三郎は会計も委されるようになった。
そのころ松本家には、住友や鴻池(こうのいけ)といった財界の名士から、政治家でいえば西郷従道(つぐみち)のような人物まで、訪問する客が多かった。手代となった若い祐三郎は、そうした人物の謦咳(けいがい)に接することができた。そして主人と客の会話を、身近に聴くこともできた。それによって、多くのことを学んだようである。
そうした折に耳にした話だろうか。松本重太郎は新しく鉄道を造るにあたって、袂(たもと)に豆を入れ、通る人間の数を一人一人、豆を使って数えた。いまでいうマーケティングを豆でした、という話である。
明治三十七年、日露戦争が始まると、祐三郎は騎兵第四連隊に入営した。そして翌年、義母、阪口うしの差配で集まった南地の芸妓約二百人の盛大な見送りを受けて出征し、大連に上陸した。
配属されたのは、勇名を馳せる秋山騎兵旅団だった。
コサック騎兵との激しい戦闘で、危うく一命を落としかけたこともあった。
戦争が終わり、兵役が満期となって三年ぶりに「大和屋」にもどると、祐三郎を待っていたのは、 「家業を継ぐように」 という、義母、阪口うしの頼みだった。
祐三郎は、首をタテに振らなかった。事業を興す夢があったからである。
事業の夢というのは、満州の奥地で豆カスを見たことがきっかけだった。奥地ではタダ同然の豆カスが、上海(シャンハイ)にくると高い値で取引されている。これは事業になる、と読んだのである。
満州で、日本から視察にきた渋沢栄一の姿を見かけたことも、事業に対する自信の裏付けになっていた。
第一、芸者置屋など、男子一生の仕事とは思えなかった。
祐三郎の話を黙って聞いていた阪口うしは、あっさり自分の願いを撤回した。
ところがそれから何日もしないうちに、恩人の松本重太郎から、家に来るようにと、電話があった。
祐三郎はこの恩人にも、事業の夢を語った。その話をニコニコしながら聴いていた松本は、聴き終わると、「大和屋」を継ぐことの大切さを静かに説いた。
結果として祐三郎はその勧めに従うのだが、松本重太郎がどのような言葉で説得したのか、わからない。たしかなことは、阪口うしが前もって、松本重太郎に説得するように頼んでいた、ということである。
祐三郎の長女で、父親の跡を継いで四代目の女将になった阪口純久(きく)は、
「花柳界は昔から、泥水稼業と言いましたでしょう。たしかにそれは、どろどろした面もあったわけですよ。しかし泥水でも、置いといたら澄むやないか。その澄んだところで仕事をせえ。それをちゃんとした企業にせえと、重太郎さんにはそういうことを言われたんやと、父は話していました」 と語っている。
明治四十二年、二十六歳の祐三郎は「大和屋」を相続した。しかし稼業のことは、皆目わからない。義母の勧めもあって、全国の花街を見て回ることにした。
最初は北陸の福井から金沢。次に新潟から東京に出て、秋田へ。さらに岡山、広島を経て九州に入り、福岡、鹿児島へ。こうして芸妓が三十人以上いる温泉地や名所を回り、その土地土地の民謡を聴き、その土地ならではの踊りを見た。
これは喜ばれそうだ、受けそうだと思ったものは、後に座敷芸に取り入れた。のちに大評判をとることになる「どじょうすくい」は、その一つである。贅沢な花街行脚も、それはそれでマーケットリサーチになっていたわけである。
その翌年の明治四十三年春、祐三郎は「きみ」を最初の妻として娶(めと)った。きみは「笑鶴」の名で堀江に出ていた評判の名妓で、結婚は義母、阪口うしの強い勧めによるものであった。
祐三郎ときみは結婚とほぼ同時に、 「大和屋芸妓養成所」 を作った。
それまで芸妓を二人、三人と養成していた方式を、全寮制の学校のようにして、踊りや三味線の一流の師匠を招き、大規模に育てるという、画期的なアイデアである。
この方式はたちまち評判になり、世間では「芸者学校」と呼ばれるようになった。
阪口純久は、 「父は軍隊の経験がありましたから、規律には、えらいやかましかったですね。朝は十時から午後の三時まで、ぶっ通しでお稽古。そいでご飯をすませたら夕方の五時から夜十時までお稽古で、ほとんど一日中、お稽古なんですよ」 と語っている。
芸妓養成所の二期生として入ってきた一人が、美貌と地唄舞の名人として知られることになる武原はんだった。
武原はんには、顎が前に出るクセがあった。そのクセを直すために、祐三郎は太鼓の撥(ばち)の先に縫い針をつけ、撥を着物の胸元に差させた。顎が少しでも前に出れば針が刺さって、痛い。そうやって稽古をつけた。
芸妓養成所を出た者は、よく仕込まれているので、頻繁にお座敷がかかる。武原はんを筆頭に、次々とスターが生まれていった。
「大和屋」は、育てた芸者の仕事場を増やすために置屋から茶屋、そして料亭へと、手を広げていった。
茶屋は料理を出すことになっていたが、「大和屋」は自分のところで作る必要がなかった。昭和に入ると宗右衛門町からさして遠くないところに「吉兆」ができ、そこから仕出しを取ればよかったからである。「吉兆」に三十人前、四十人前を注文することが珍しくなかった。
阪口純久は、 「「吉兆」の前のご主人、亡くなった湯木貞一さんは、父が亡くなるまで、盆暮のご挨拶には、よう来てくれてはりました」 といっている。
いずれにしても、芸妓に困ることがないのは、強味だった。
武原はんが養成所に入ったのは十三歳のときだが、養成所にきて間のない女の子たちを「大和屋少女連」と名付け、おまけのようにして座敷に出すと、それはそれで喜ばれた。花代が安くすむということも、あったかもしれない。
阪急電鉄の創設者で、「宝塚歌劇団」を作った小林一三は後に、 「宝塚歌劇は、「大和屋少女連」がヒントになった」 といっていたそうである。
祐三郎は芸者学校の例をみてもわかるように、アイデアマンだった。新しいものを取り入れることにためらいがなく、大隈重信から盛岡の「金山踊り」を勧められると、早速それを芸妓に教えた。サービス精神が徹底していた。
宗右衛門町は、花街でも格式の高いところで、客の多くは船場(せんば)の旦那衆だった。彼らは、料亭を夜遊ぶところというより、情報交換の場、社交の場として使うことが多かった。
「大和屋」はその中でも一流という評判が立ち、政界、財界の名士の社交場として知られるようになっていった。
皇族や海外の有名人、果ては国賓クラスの要人も姿を見せるようになった。
昭和四十年、四代目女将、阪口純久は「南地大和屋」に大きく手を入れ、二階に能舞台を作った。鏡板は、前田青邨(せいそん)が描いたものである。そのときの写真を見ると、前田青邨について助手を務めているのは後の東京芸大学長、平山郁夫である。
能舞台は「大和屋」の格式をさらに高め、評判は評判を呼び、政界や財界ではいつの間にか、 「「大和屋」の座敷に招かれなければ、一流とはいえない」 とささやかれるようになっていた。と語っている。  

阪口純久(きく)の話にしばしば登場する人物に、 「池田のおじ」 がいる。
池田は明治三十二年の生れだから、純久の父、祐三郎より十五歳若い。
大正十四年に京都帝国大学を卒業して大蔵省に入り、事務次官から昭和二十四年に衆院選挙に出て初当選。いきなり吉田茂内閣の大蔵大臣に抜擢された。
「吉田学校の優等生」 といわれ、昭和三十五年に首相となった池田勇人のことである。
池田は戦後、昇り龍の勢いの「南地大和屋」の大きな後ろ盾となった政治家といってよいだろう。
池田と祐三郎の関係を阪口純久が語る。
「父から聞いた話では、池田のおじがはじめてうちにみえたのは、大阪の玉造税務署の署長をしてはったときだそうです。戦前も戦前、昭和のはじめです。父は「ここはあんたら若僧が遊びにくるところやない」いうて、追返したらしです」
「けど、池田のおじはおじで、それきり黙って引き退がるような人間ではありませんでしたでしょう。「俺かて広島の造り酒屋の金持ちの息子や。料理屋が何や、偉そうに」いうて、二度目はうちを贔屓(ひいき)にして下さっていた財界の方と二人で来やはったと、父からはそう聞いてます」
池田勇人と阪口祐三郎では、育ちも生きる世界もまるで違う。しかし二人には、よほど引かれ合うものがあったのだろう。池田はやがて「大和屋」に来ても座敷には上がらず、祐三郎の部屋に直行して碁を打つような間柄になった。
昭和二十五年、阪口純久は人見威雄と結婚するが、その仲人役を務めたのは大蔵大臣、池田勇人である。ときに純久は満の十七歳だった。
その前に、大阪市立船場高等女学校に通っていた純久を、「お前はもう、家の商売をやったらええ。学校に行く必要あれへん」といって退学させたのは祐三郎。娘の気持も聞かず、結婚相手を人見威雄と決めたのも、この父親だった。
純久より十一歳年上の人見は同志社大学に学び、戦前、兵隊にとられる前は「丸善」の美術部にいた。このことでもわかるように、書画骨董に造詣が深い。クラシック音楽とカメラが好きな、趣味人である。
人見は兵隊から帰ると、大阪にあった親戚の美術商に頼まれて、店を手伝っていたのだが、美術商と祐三郎は、戦争前から懇意にしていた。
一方、「大和屋」は昭和二十年の空襲で、器や軸といった料亭に欠かせない道具を焼失し、早急にそろえる必要があった。そうした道具類を市で買いつけては「大和屋」に納める仕事をしていたのが、人見だった。
結婚したときの写真を見ると、色白で小柄な人見は、野性味あふれる祐三郎とは対極にある二枚目で、いかにも美しい物ばかりを見てきた人物として写っている。
結婚してしばらくすると、祐三郎は人見のことを「珍品堂の主人や。商売を知らん」といって腹を立てることがあった。が、この責めは祐三郎自身が負うべきであった。人見が茶器を扱う手さばき一つを見るだけでも、そんなことはわかったはずだからである。口にこそ出さなかったが、人見からしてみれば、迷惑千万な話だったにちがいない。
阪口純久自身は、こういっている。
「私にしたかて、父に芸事はみっちり仕込まれましたけど、お商売のことやお金の儲け方は、ひとつも教わってません。池田のおじはそんなこと先刻承知でした。そやからあれこれ心配してくれはりはったんやと思います。吉田総理が遊説で京都にみえているさかいに一緒に来い、いわれて、京都のお宿についていったことがあります」
部屋に通されると、和服姿の吉田茂は床の間を背に、大きなテーブルを前にして、どっかり坐っていた。純久には吉田の上半身しか見えなかった。なんと大きな人なのだろうと思った。吉田は身を固くしてひかえている純久を一瞥すると、いった。
「お前はスケの何番目じゃ」
スケとは、阪口祐三郎のことである。この男の艶福家ぶりは、時の総理の耳にまで達していたのである。
池田があわてていった。
「これは祐三郎の娘で、純久と申します。私が仲人をして、結婚させました」
その翌日、純久は円山の音楽堂へ、吉田の演説を聴きにいった。どういう演説だったのか、記憶にない。はっきり覚えているのは、前の晩、あれほど大きいと思った吉田が、実はひどく小柄だったということ。演壇の後ろに立った吉田は、ほとんど顔しか見えなかったからである。
そしてもう一つ、吉田が報道カメラマンにコップの水をかけたことである。
祐三郎は池田が大蔵大臣になった年、京都・東山の高台寺の近くに「京大和」を開業したのを皮切りに、昭和二十六年には大阪・北区堂山町に「北大和」、二十九年には東京・赤坂一ツ木に料亭「阪口」、三十五年には京都・東山の「霊鷲山荘」を手に入れ、「京都阪口」として開業したほか、大阪に高級クラブ二軒を持つなど、事業を拡げていった。
池田の方は吉田内閣のほか石橋湛山内閣、岸信介内閣で大蔵大臣、通産大臣を務めた。そしてその間には、自由党の政務調査会長から幹事長と、枢要なポストもこなしていた。
池田は関西にくれば必ずといってよいほど、忙しい日程をやりくりして「南地大和屋」に顔を出した。阪口純久は純久で、上京すれば決まって池田のいる役所か、信濃町の池田の私邸を訪れた。純久は池田の妻の満枝のことを「池田のおば」と呼んで慕っていた。
「大蔵省がまだ四谷にあった時分です。おじを訪ねていくと、徹夜明けの若いお役人が腰に手拭いを下げて、廊下をスリッパで歩いてました。話に聞く旧制高等学校の寮は、こんなふうやったんやろなと、思いました。見るからに国士然とした人が、何人もおられましたね」
純久は池田が「貧乏人は麦を食え」といって世論の袋叩きにあっているさ中にも、信濃町の私邸にいたことがある。
「おじの家には毎朝、政治部の記者さんたちが来てました。おばは、そういう人たちの分まで、食事の仕度をしていました。朝は決まって麦ご飯です。それにシャケとお味噌汁です。おじはずっと麦ご飯やったんです。記者さんたちに「体にもいいから」と勧めていました」
祐三郎は、池田のそういう飾らないところが好きだったようだ。
祐三郎は純久を伴い、政界の実力者、大野伴睦のところに押しかけたことがあった。
「父は、「大野先生は偉いんやから、どうぞ池田を総理にしてやって下さい」というんです。自分の身分も考えんと、何いうてるんやろと思て、聞いてました」
この直訴が功を奏したわけではなかろうが、それからそう何日も経っていない昭和三十五年七月十九日、池田勇人は、第五十八代日本国総理大臣になった。
阪口純久は、祐三郎が子供のように喜びはしゃぐのを見たのは後にも先にも、このときの一回だけだった。
それから半年ほどした昭和三十六年一月五日、阪口祐三郎は癌(がん)のため、七十七年の波乱に富んだ生涯を閉じた。
阪口純久はその何年も前から、自分が「南地大和屋」を継ぐ運命にあることに気がついていた。祐三郎には長女、純久の十四歳上に、母親の違う長男、祐太郎がいた。しかし彼は昭和十三年に志願して出征し、中支戦線で戦死していた。
どう考えても、祐三郎の後継者は純久しかいなかった。しかし大きくなった大阪の家業を、上手に経営していく自信はなかった。
純久は芸者を五人ばかり置いた赤坂一ツ木の料亭「阪口」ならやっていけそうな気がして、祐三郎にいったことがあった。口下手な自分には、大阪よりも東京の方が合いそうな気がしたし、規模も適当だと思ったからである。
祐三郎はそれを一言のもとにはねつけると、当時赤坂に社屋を建てようと土地を探していた東京放送(現TBS)に、「阪口」をさっさと売渡してしまった。現在は「TBS会館」が建っているあたりである。
逃げ道は塞がれた。
しかし祐三郎にも「南地大和屋」に大改装が必要なことは、わかっていた。
「大和屋」は、空襲で骨組だけを残して焼け落ちた。それを応急修理し、移築に移築を重ねて座敷の数をふやして営業を続けていた。中には傾きかけた座敷もあったからである。祐三郎は病床に純久を呼び、大改装をするようにいった。それには二億円はかかりそうだった。
そんな矢先、祐三郎が死んだのである。
純久が真っ先にその死を知らせたのは、時の総理、池田勇人だった。
相続の相談にいくと、池田は「南地大和屋」以外のところは純久の四人の弟妹に分けるようにいった。純久に異存はなかった。
「ところでお純久ちゃん」 と、池田がいった。
「お純久ちゃんは貯金、いくらある?」
阪口純久はそのときのことをこういった。
「私が「おじさん、貯金なんてそんなもん、あらしません」と答えると、おじは「あんなに働いていて、給料をもらってなかったのか」と、びっくりしてました。そら、着物がほしいといえば、買うてもろてました。けど、月給みたいなものは、一度ももらっていなかったんです。おじには「お前はアホや」といわれました」
池田勇人は純久の話を聞き終えると、ゼロから再出発した自分の体験を語った。
――池田は最初の妻を亡くすと、満枝を後添えにした。ところが親はこの再婚に猛反対で、池田は一組の蒲団と一升徳利くらいしか家から持って出ることを許されなかった。満枝との生活は、裸同然で始まったのだった。
池田はその苦労を語ってから、「お純久ちゃん、俺が関西の財界に奉加帳を回してやる」といって、純久を励ました。
純久はその言葉をほとんど唯一の頼りに、大改築にかかった。  

阪口祐三郎は七十七歳で亡くなった。
前の年の昭和三十五年七月はじめ、高野山にある阪口家の墓所に喜寿を祝って建てられた自分の寿像の完成を見届けると、彼は外遊に出ることにした。
親しい旅行会社の社長に誘われたからだが、アメリカとヨーロッパを回る約四十日間の旅である。
旅行には、万一に備えて大阪大学付属病院のかかりつけの医師が同行した。高血圧とひどい不整脈に苦しみ、体調は万全とはほど遠い状態だったからである。
体調に大きな不安をかかえる身でありながら、それでも彼を外遊に駆り立てたものは、何だったのだろう。
彼が日本中の主な花街を回り、マーケティングをしてから、すでに五十年の歳月が流れていた。鋭いカンの持ち主である。ミナミの花街が、曲がり角にきていることに気づかなかったはずはない。
それが証拠に長女の純久(きく)にはときどき、 「お前な、この商売はあかん思たら、やめてもええで。人間、変わり身が大事やねんからな」 ということがあった。
その度に純久は、 「お父さんが苦労して大きくした商売やさかい、私の代で潰すようなことはしまへん」 といったのだが、その一方で祐三郎は古くなった「南地大和屋」が建て替えなければならないことも了解していた。
彼はまた、昭和二十八年に全国の花街の代表が集まってできた「全国花街連盟」の会長でもあった。
祐三郎の頭の中には、欧米の最新の社交場を見て回り、日本の花街の発展に役に立ちそうなものを何か持って帰ろうという計算があったに違いない。
当時、岸内閣の通産大臣をしていた池田勇人は、 「旅先で困ったことができたら、これを持って日本大使館にいくように」 といって、肩書の入った自分の名刺を束で祐三郎に渡した。
祐三郎が純久を供に、自由民主党副総裁の大野伴睦を訪ね、 「池田勇人を総理にして下さい」 と直談判におよんだのは、アメリカに向け羽田空港を飛び立つ日の朝のことである。
一行がアメリカからヨーロッパに渡り、パリのホテルに着くと、待っていたのは「池田勇人総理誕生」の知らせだった。
それを祝い、その夜ホテルのレストランに居あわせた外国人の客も巻き込んで「乾杯」を繰り返した話は、一番の土産話となった。
阪口純久は帰国した父親を羽田で迎えると、帝国ホテルに入った。真っ先に報告しなければならないことがあったからである。
それは、「南地大和屋」の地下を改装し、高級なナイトクラブ「酒肆(しゅし)大和屋」を作ったことである。父親の許しも得ず、しかも留守を狙って勝手にしたことである。
報告すれば、「またアホなことしてからに」と、頭から怒鳴りつけられるに違いない。純久はそう覚悟を決めていた。
「ところがお父っさん、「そらええ考えや。一日もはよ開店せい」ですわ。「それよりお前も、はよ、アメリカとヨーロッパを見にいけ」いうでしょう。怒られずにすんだ、やれやれいう感じでした。もしかすると、欧米の一流の社交場を見て、これからの日本にはお座敷だけでなく、それなりの設(しつら)えを備えた、テーブルとイスの社交場が必要やと、にらんでおったのかもしれません。池田のおじにもらった名刺は、結局、使わずに全部、おじに返してしまいました」
この年の十一月、関西へ遊説にきた総理大臣、池田勇人を京都に出迎えると、 「あんたが総理や」 と、何度も大きな声でいった。
そばにいた純久は、そんな言い方を何回もすれば、「あんたみたいな人間が総理になった」と受け取られはすまいかと、ハラハラして聞いていた。
しかしこの男にとっては、長い間の夢が叶ったのである。それを自分の目で確かめることができた瞬間だったのである。
このときを最後に、純久が父親の無邪気に喜ぶ顔を見ることはなかった。
十一月下旬、祐三郎は阪大病院に入院した。
十二月の半ばには、容態が案じられた時期もあった。が、小康を得て、穏やかに新年を迎えることができた。
年が明けて一月四日、花街ではこの日を「初出(はつで)」といい、得意先に挨拶にいく日になっている。
挨拶回りをひと通り終え、純久が病室に見舞うと、祐三郎は、 「何やお前。今日は初出やないか」 といった。
もうすませましたと答えると、冗談とも本気ともつかない調子で、 「もいっぺん、回ってこい」 といった。
翌一月五日、純久が家族と朝食の食卓を囲んでいると、病院から「大至急くるように」と電話が入った。
病院に駆けつけると、すでに息を引きとった後だった。臨終に立ち会うことができたのは、純久の母、繁子だけだった。
祐三郎は亡くなる直前まで元気で、午前十時半の少し前、回診にきた医師に、
「阪口さん、調子はどうですか。ちょっとノドを診ますから、口を大きくアーンと開けて下さい」
といわれ、口を開けた。
その瞬間に呼吸が止まり、不帰の客となったのだった。
「結局、一月四日の「もいっぺん、回ってこい」いうのんが、父の最後の言葉になりました。お客さまを何より大切にせなあかん、といいたかったのかもしれません」
その死を一番大きく報じたのは地元の新聞「新関西」で、 「再び還らぬ“浪速の偉人”」 と、大見出しがついていた。
一月十八日、大阪・阿倍野斎場での葬儀・告別式は「浪速の偉人」にふさわしい盛大なものだった。
葬儀委員長は、池田首相が純久に「わしはいかれんから、わしから頼んでおく」といった通り、大野伴睦が務めた。
冷えこみの厳しい日だったが、千人近い会葬者があった。関西電力をはじめ大阪瓦斯、住友金属、近畿日本鉄道、阪急電鉄、大林組、清水建設、住友銀行、三和銀行、サントリー等々の重鎮がほとんど顔をそろえ、さながら関西財界人総出の観があった。
これがもし慶事であれば、太閤秀吉の北野の大茶会と重ね合わせる人がいても、不思議ではなかったろう。
いかにも祐三郎らしかったのは、二百人近いミナミの芸者衆が喪服で会葬者を迎えたことである。
関西では、葬儀のときに花輪の代わりに樒(しきみ)の木を並べることがある。モクレン科の常緑の小喬木である。
喪服の芸者衆が樒の代わりに立つという趣向だった。
祐三郎は自分の葬儀の進め方について細かな指示を残していたが、そこまでの指示はなかった。この趣向は芸者衆の発案だった。
後日、「芸者衆に迎えられて焼香をするのははじめてだったから、緊張したよ」と純久にいう財界人が、何人かいた。
祭壇には、三段重ねの金盃が金色燦然と輝いていた。一番下の段の直径が二十センチほどの小さなものだが、その一つひとつに日本三景が彫りこまれている。
それは花街の発展に貢献したというので、戦争前に業界から贈られたものだった。
この戦争で祐三郎は、志願して出征した長男の祐太郎を失っていた。
しかし政府から貴金属の供出を求められると、何か思うところがあったのか、ためらいもなく金盃を供出した。
戦争が終わると、祐三郎はこの金盃の行方をしきりに知りたがった。
「南地大和屋」に何回かきたことのある日本銀行の幹部がそれを知り、手を尽くして探すと、日銀の金庫に無事、収蔵されていることがわかった。
ところが、供出した貴金属を元の持ち主にもどすという法律が、できていなかった。そのため、祐三郎は金盃を手にすることができなかった。
祭壇に飾ることができたのは、法律が作られ、かろうじて告別式に間に合うように返還されたからである。
総理大臣池田勇人の弔辞は、秘書官が代読した。
「池田のおじの弔辞は父との最初の出会いに始まって、碁をした話や庭石談義をした話、もっぱら私的なことでしたけれど、私らもはじめて知るようなことがありました」
東京に出て、すでに地唄舞の名手として名を成していた武原はんは仏前で「菊の露」を舞った。
武原はんは祐三郎が始めた芸者学校の二期生で、祐三郎のことを「にいちゃん」と呼んで慕っていた。はんは後年、 「にいちゃんの仕込みにかかった人はみな姿勢がいいので、すぐわかります。なにごとも、始まりは姿勢です。体が正しい姿勢を覚えこんでいればこそ、稽古を通して芸事の心が入る素地がととのうのです。私もにいちゃんには、オイッ、エイッと強い力で背中を押されたものでした。私を育ててくれたのは、にいちゃんです」 と記している(「大和屋歳時」柴田書店)。
会葬者は、武原はんの舞いの圧倒的な美しさに、息をつめて見ほれた。
葬儀が終わって一段落すると、四代目女将となった阪口純久は、長い間胸にあたためていた夢に向かって一歩を踏み出した。
それは、 「南地大和屋を上方の芸能文化の殿堂にする」 ということである。
何をもって芸能文化の殿堂にするか。純久の頭の中には、すでに青写真ができていた。後はそれを形にするだけだった。
純久は自分の体の中に、こうと決めたら一歩も退かなかった父の血が、色濃く流れていることに気づいていた。
その一方で、夢の中身を知ったら、祐三郎は、 「頼まれもせんと、おまけにソロバンも考えんと、人に誉められるようなアホなことはやめとけ」 というだろうな、とも思っていた。  

仲居は自分で商売を始めても、だいたい成功する。しかし、芸者はたいてい失敗する。――花街では、これが定説になっている。
料亭で仲居といえば、「お運び」という言い方でもわかるように、完全な裏方である。こざっぱりとさえしていれば、身を飾る必要もない。分際を弁(わきま)えていなければ、出来ない仕事である。
彼女たちは、金を稼ぐことがいかに大変か、見聞きして知っている。地味な暮らし方が、自然と身についている。
一方、芸者は座敷の主役、花である。
美しく装い、華やかにして客を楽しませることが務めである。金の儲け方を知る必要はなく、金をきれいに、粋に使うことができればいい。
こういう生活になれている者が商売をしても、うまくいくはずがない。これが、定説の元になっている。
ところが、「南地大和屋」出身の芸者は、例外といってよかった。お座敷づとめをやめて大阪や東京で小料理屋やバーを開くと、手堅く商売をして、成功している例が多いからである。
「それはやはり、父の仕込み方がよかったからやと思います。芸者衆には常日頃から「華やかな仕事してるからいうて、自分も華やかになったらいかん。暮らしは地味に、収入以内の生活をしいや。ええカッコするんは、客の前だけでええんやで」と、そりゃもう、口うるさくいうてました。うちのお父さん、よその娘にはあんだけうるさく教えときながら、娘の私にいうたのは、「株は、資産株以外は持ったらあかん」いうことぐらいですわ。女将になったら知っとかなあかんことを、なんでもっと教えといてくれなんだのやろ。父に死なれてから、何度そう思うたかしれません」
実のところ阪口純久(きく)は、銀行から金を借りるためにはどういう手続きが必要なのか、そんなことすらも父、祐三郎からはきちんと教えられていなかった。
銀行に連れていかれたことは、何度もある。しかし「これこれの日にはこういう用事があるからいく」と、前もって知らされることはない。「いまから銀行にいくさかい、こい」と、命令はいつも地震のように突然くるのだった。
前ぶれなしは、娘に対してだけではなかった。
「南地大和屋」のメイン・バンクは「三和銀行」だったが、祐三郎は銀行にあらかじめ電話をして、相手の都合を聞いておくということもしなかった。
黙ってつき従うしかない純久は、 「大きな会社の社長ならともかく、いくら大和屋の名前が知られているといっても、一介の料亭のオヤジでしかない。そんな人間が、お忙しい方に前もって電話もせずに押しかけるとは、どういう神経なのだろう」 と思って、気が気ではない。
案の定、銀行にいくと秘書が「ただいま会議に入っております」という。
しかし祐三郎はまるで意に介さない。
「そうか」というなり、純久に「お前はそこで待っていろ」と目配せをし、会議をしているという部屋に、ズカズカ入っていく。「わしの邪魔をする者は容赦せん」といわんばかりの勢いである。
純久はいわれた通り、部屋の外で身を小さくして待っている。祐三郎はしばらくすると部屋から出てくるのだが、部屋の中でだれと、どんな話をしたのか、いっさい説明をしなかった。
純久は祐三郎のことを思い返すと、きまって、 「強引で、何でも自分の流儀を押し通す人間のことを「無理ヘンにゲンコツと書く」というそうやけど、ホンマにそういう人やった」 と思うのだった。
不思議なことといえば、花街では何かにつけて占いに頼ることが多いのだが、祐三郎は占いを頭から信用していなかった。
その昔、芸者置屋を始めた祐三郎の義母、阪口うしが頼りにしていた占い師がいた。日露戦争から帰り、「大和屋」を継ぐことを決めた祐三郎はうしにいわれ、占い師のところにいった。
ところが、「あんたはこの商売に向かん」といわれて腹を立て、 「あんた、人の占いでのうて、自分を占うて、金儲けしたらどや」 といった。
それを聞いて今度は占い師の方が怒りだし、カネを突き返してきたそうだ。
祐三郎は家族の者が占いの「う」といっただけで、機嫌を悪くした。
信仰心は人並み以上に篤く、讃岐の金比羅さんと高野山には月参りをしたり、株で儲かると寄進をしたりした。
彼は日露戦争に出征したとき激戦に遭遇し、戦闘が終わってみると、軍帽に銃弾の穴が開いていた。軍帽には、姉にもらった金比羅さんのお札が縫いつけてあった。
また信仰していた弘法大師のおかげで死なずにすんだと信じて疑わない彼は、お礼参りのつもりだったのである。
しかしなぜそこにお参りにいくのか、理由がわからないところにいくこともあった。そういうときのお供は、きまって純久だった。
純久には、子供が喜ぶようなところへ連れていってもらったという記憶がない。
「私の妹のよし子には「よしべえ、よしべえ」いうて、甘いんですわ。私には怒鳴ってばかりで、ほほに手の跡がつくほど叩かれたこともあります。母に、「あの人、ほんとのお父さん?」て、聞いたことがありましたわ」
あるとき、奈良の橿原(かしはら)神宮にいくといわれ、上六の駅から見たこともない立派な列車に乗せられた。海軍大将、米内(よない)光政のための列車だった。
純久は皇紀二千六百年、昭和十五年のことだと記憶するのだが、それが正しければ米内は首相だった可能性が高い。いずれにしろ祐三郎は米内とは面識がなかったはずだから、お付きの武官か何かに、なじみの人間がいたのだろう。
「米内さんの軍服姿はきれいでした。世の中には、こんなに美しい兵隊さんがいてはるんや、思いました」
奈良の吉野にある後醍醐天皇の陵につき合わされるのは、たまらなく苦痛だった。参道に入ると、 「お前も履き物を脱げ」 といわれ、裸足にならなければならないからである。
裸足の親子はそれだけでも目立つのに、祐三郎は土下座までする。勤王の志士、高山彦九郎が京都・三条大橋の上で皇居を遥拝した話は後年、知ることになるが、なぜ父親が後醍醐天皇陵でそうしたのかは、ついにわからずじまいで終わった。理由を聞けば怒られるに決まっていたからである。
女学校を中退させられ、店の手伝いをするようになっていたときだった。やはり突然、「比叡山に石を見にいくからこい」といわれたことがある。
父親が庭いじりが好きで、石に目がないことは知っている。しかし冬の最中、しかも比叡山である。
「そのままでいい。早くせえ」といわれ、洋服に着替える間も与えられず、着物に草履でついていった。もう一人、「南地大和屋」出入りの庭師が一緒だった。
山はどこを見ても、一面の雪景色である。ロープウェーはない時代である。階段を昇ろうにも、雪で段々を探すのも容易ではない。ようやく金堂にたどり着いたものの、坊さんが一人いるだけである。
目当ての石は雪の下で、見ることができなかった。
祐三郎は委細かまわず、傲然と胸を張って歩いている。
純久は着物の裾をからげ、濡れた草履でついていく。歩きながら、なんでこんな目に遭わないかんのやろと思うと、情けなくて、涙がとまらなかった。
一緒に外出をすると、ちょっとした茶店に寄ることがある。店を出た後で心づけを置かなかったことがわかると、怒鳴られる。純久は必ず、心づけを置くようにした。
祐三郎に、 「お前、なんぼ置いてきたんや」 と聞かれ、 「五百円置きました」 と答える。
「アホ。あんなまずい茶に五百円も置くな」 と怒られる。
心づけに五百円は多すぎるのかと思い、次には、 「三百円置きました」 と答える。
すると、 「あんなうまい茶が、タイミングよう出てきたのに、三百円でどないすんねん」 と、雷が落ちる。
祐三郎はいちいち説明はしなかった。しかし純久には、いわんとすることがよくわかった。
客商売というものは、たとえ一杯の茶を出すにしても、客のノドが渇いているように見えたら、ぬるめの茶をたっぷり出す。客が何を求めているか、素早く察知してそれに応えることが大切だ、ということである。
そして、「大和屋」の人間なら、サービスにふさわしい心づけを置け、ということである。
祐三郎はいついかなときも、客を十二分に満足させるにはどうするかを考えている男だった。客に何かをいわれたら、「ハイ」という前に体を動かす。そして次に何をいわれるか、感じ取る。これは子供のころからいわれたことだった。そういうところは、昔から尊敬していた。
ただ一点、たまらなくいやなところがあった。
金にうるさく、娘にも借用証を書かせたり、うっかりツケをもらいそこなっていたりすると、いつまでも文句をいう。
「あんな守銭奴にはなりたくない」 と思っていた。
しかし大きな料亭をうまく切り盛りしていくためには、サービスとソロバンのどちらが欠けてもいけない。
四代目女将となった純久がたちまちそのことに気づき、父親にもっとソロバンの方も教わっておけばよかったと思うのに、たいして時間はかからなかった。  

昭和三十六年一月、父祐三郎の葬儀、告別式をすませると、阪口純久は上京し、信濃町の私邸に「池田のおじ」を訪ねた。
ときの総理、池田勇人である。
「池田のおじ」から純久は、 「困ったことができたら、いつでも相談にこい」 といわれていた。
訪ねた目的は、「南地大和屋」の相続について相談に乗ってもらうことだったが、池田の答えは、 「リンゴは四つに割って、子供たちで分ければいい」 と、明快だった。
しかし祐三郎には、長女の純久の下に息子と娘が二人ずついた。子供は五人である。
子供は五人なのに、どうして四等分するのだろう。純久が怪訝(けげん)な面持ちでいると、池田はいった。
「お前はリンゴの芯を取ればいい」
芯とは、祐三郎が築いた「大和屋グループ」の中心、あるいは臍(へそ)といってもよい、宗右衛門町の料亭のことだった。
それを聞いて、純久は得心がいった。
ありがたかったのは、華やかな世界で華々しく仕事をしながら、祐三郎がどこにも借金のないことだった。
前にもふれたように、彼は十三歳のとき、「西の渋沢栄一」といわれた関西財界の重鎮、松本重太郎の元に丁稚(でっち)として奉公に上がると、四年で手代にとり立てられ、会計も委されるまでになった。そこで厳しく仕込まれたのは、「収入以内の生活をする」ことだった。
松本重太郎を終生「人生の師」と仰いだ祐三郎は、その教えを守り通したのだった。
その一方、大蔵官僚から蔵相も務めた池田勇人からは、 「財産は、現金と有価証券と土地と、三つに分けて持つのがよい」 と教えられ、その通りにしていた。
これも賢明なことだった。
祐三郎が亡くなって日がたつにつれ、純久にも父親の偉さが少しずつわかるようになっていた。
――こうしてときの総理の忠告通り相続をすませると、純久は名実ともに四代目女将となった。
次はいよいよ「南地大和屋」を建て直し、「本格的な能舞台を持った、上方芸能文化の殿堂にする」という、かねてからの夢を実現させる番である。
もともと大阪は「上方能」という言い方があることでもわかるように、能の盛んなところだった。「大和屋」の客には能の好きな経済人が多かったから、純久にとって、能はごく親しいものになっていた。
子供のころから踊ることが好きで、きちんと仕込まれた純久が、 「日本の芸能の原点は、能にあるのではないか」 と考えるようになったのは、ごく自然なことだった。
それに踊りの世界では、 「能や仕舞をすると、足の運びがきれいになる」 と、昔からいわれていた。
実際、純久が能を本格的に習おうと思ったのは、「鏡獅子」を踊ることになったのがきっかけで、そのためにある流派の門を叩き、しばらく稽古にも通った。
しかし決定的な出来事となったのは、母の繁子とともにいった「朝日五流能」という催しで、五十五世梅若六郎が舞う「羽衣」を観たことだった。
五十五世六郎の「羽衣」を観た瞬間、「この先生についてお能を勉強したい」と思い立ったのである。
それは運命的といってもよい出来事だった。
「感動というたら、なんや安直に聞こえるかもわかりませんけど、六郎先生の舞台を拝見したときはほんま体が震えるほど感動しました。芸格が違うてました」
五十五世梅若六郎は、「明治の名人」とうたわれた父親に鍛えられ、早くから「昭和の名人」の名をほしいままにしていた。
しかし、能は格式や序列を重んじる世界である。しかも「名人」では、料亭の娘がいきなり、
「お弟子に加えて下さい」 と頼みにいくことは、許されない。
幸いなことに、大阪には毎月、東京から出稽古にきていた。大阪に旧華族家の当主をはじめ関西財界人の夫人など、お弟子が多くいたからである。
大阪にきたときの定宿は、ミナミにあった「野村旅館」だった。
純久は伝手(つて)を頼り、まずはその旅館の座敷で稽古をしてもらうことで、許しを得た。
朝かなり早い時間、出稽古に出かける前に謡と仕舞をみてもらうのである。
そういう稽古を始めてしばらくしてからだった。偶然、旅館で先々代の中村時蔵に会うと、
「よくお勉強なさいますねえ」 といわれた。
中村時蔵は歌舞伎の女形で、うまい役者の一人に数えられていた。子沢山で、数多い子供の一人が中村錦之助、後の萬屋錦之介である。しかし昭和三十年代のはじめ、時蔵の生活は決して楽ではない、と聞いていた。
そのじぶん、歌舞伎役者は旅に出ると芝居小屋の楽屋に寝泊まりするのがふつうで、よほど売れる役者にならないかぎり、旅館に泊まるような贅沢は許されることではなかった。
事実、純久は時蔵が大阪の新歌舞伎座の楽屋を旅館代わりにしていたのを知っていた。
新歌舞伎座の舞台が終わってから、純久はそこを借りて、踊りの出や入りの稽古をすることがある。稽古をしていると、楽屋の方でだれかが見ている。うす暗い楽屋に目を凝らしてみると、時蔵がすわっている。
彼にはそこが寝泊まりするところだったからだが、純久が本格的に能を始める前には、そういうことがあった。
「お勉強なさいますねえ」といったところからすると、時蔵は「野村旅館」に泊まっていて、稽古を聞いていたらしい。
いずれにしろ声をかけられたことは、中村家の暮らし向きに余裕ができた証拠である。
そう思うと、純久にとっては照れ臭い反面、嬉しいことでもあった。
梅若六郎に“入門”を認められたのは、旅館の座敷で稽古をするようになって四カ月ほどしてからだったが、そのとき純久は、 「阪口さん、はじめからやり直しますか」 と聞かれた。
純久はすわり直すと、 「はい。一からし直します。プロとして稽古をつけて下さい」 と、頭を下げていた。
「踊りの世界やったら極端な話、楽屋に入ってくるなり「えらいこっちゃ」てなこというてお化粧して、「はい、衣装、衣装」てな調子ですわ。ところがお能の世界は違います。楽屋も、ここはおシテ方、ここはお囃子、ここは地謡という具合に、おすわりになる場所からして違います。六郎先生が楽屋にお入りになって、おシテ方のお席におすわりになりますやろ。黙ってはっても、空気が引き締まりますねん。先生の品格がそうさせたんやと思います」
舞台はいうまでもなく、楽屋にも痺(しび)れるような緊張感がある。稽古にしても、稽古というより修業をしている感じがある。そういうところが、純久にはたまらない魅力だった。
五十五世梅若六郎の人となりについて長男、五十六世梅若六郎は、こういっている。
「父が「今日は六時に帰ります」といって、家を出ますでしょ。五分でも早く帰ると、外で立っていて六時の時報を待って家に入るんです。とにかく几帳面で、そして能のことを一日二十四時間、一年三百六十五日考えている人でした」
ともあれこの体験が「大和屋に能舞台を」と考えるようになる土台にあったことは、間違いなさそうだ。
純久は大阪の能舞台で「船弁慶」を舞うことが決まるまで、祐三郎に能を稽古していることはいわなかった。
いよいよという段になってそのことをいうと、 「お前、能舞台に女が上がれるか」 といった。
当日、祐三郎は母の繁子と観にきた。
しばらくして父から、 「お前、「船弁慶」の舞台、なんぼかかった?そのカネ、どないした」 と聞かれ、 「三十万円ほどです。貯めました」 というと、ポンとその金をくれた。
大学卒の初任給が一万円少々の時代である。「守銭奴か」と思ったこともある父にしては、気前のいいことだった。
しかし純久は新しくする「南地大和屋」の中に本格的な能舞台を作ることを、祐三郎には口が裂けても話す気はなかった。
「アホか。お前」といって潰されることは、わかりきっていたからである。
このことは、相続の相談に乗ってもらった「池田のおじ」にも伏せておいた。
相続した宗右衛門町の四百二十一坪の土地に、鉄筋コンクリート造り地下二階、地上五階、建坪千五百六十八坪の「南地大和屋」を建てる構想に着手したのは祐三郎の死後二年、昭和三十八年のことである。
能舞台は二階と三階を吹き抜けにして作り、屋上には庭園を設ける。
この計画に猛反対をしたのは、設計を頼んだ「彦谷建築設計事務所」の社長、彦谷邦一である。祐三郎の時代からつき合いのある人物で、「大和屋」は高級なナイトクラブの設計を頼み、できたものに、父は満足していた。
反対の理由は、 「料亭に能舞台は不釣り合いだし、ソロバンに合いっこない」 ということだった。
純久は一歩も退(ひ)かなかった。
それは、夫の人見威雄も同じだった。  

阪口純久が能舞台に固執した理由の一つに、芸者の地位向上があった。
純久は自身、能を舞ってみて、これこそが日本の伝統芸能の真髄だという確信を深めていた。
芸者の芸は、お座敷芸で終わってはいけない。芸者でも能舞台に立つことができるほどになれば、精進の励みになる。
そして芸を磨き、能を舞うことで一目置かれる存在になれば、芸者の地位を上げ、ひいては花街の発展にもつながるはずだ。純久はそう考えただけで、胸がわくわくした。
父、祐三郎も、芸者衆の地位の向上が必要であるという点では娘と同じ考えを持っていた。
そもそも彼は、「芸者」という呼び方が気に入らなかった。
なぜなのか、理由は純久も聞いたことがない。「芸者」といいながら芸を売らずに身を売る者がいることに、我慢がならなかったのかもしれない。
彼は上京すると文部省に出かけ、 「「芸者」を「芸士」、あるいは「芸師」にしてくれ」 と、訴え続けた。
むろん、歯牙にもかけられなかった。
しかし彼には強力な理解者がいた。
自由民主党の代議士、牧野良三である。
岐阜県高山に生まれた牧野は、明治四十四年に東大法科を出て逓信省に入り、大正九年に政友会から総選挙に出て初当選。昭和二年に田中義一内閣の商工参与官、昭和七年には斎藤実内閣の逓信政務次官を務めた。
戦争反対の雄弁家として名が高かったが、昭和十七年に東条英機内閣の下でおこなわれた翼賛選挙で当選したことがたたったのか、戦後は公職追放になった。
追放を解かれると昭和二十七年に衆議院議員となり、第二次鳩山一郎内閣で予算委員長、第三次鳩山内閣では法務大臣のポストに就いた。
彼がいつごろ、どんなきっかけで「大和屋」にくるようになったのか、純久には記憶がない。
ただ、歌舞伎や新派に造詣が深く、名前と顔は、新橋のキレイどころにも知られた粋人である。一つ年長の祐三郎とは、そんなところから馬が合うようだった。
「白髪がきれいで、うちにみえて座敷におすわりになると、小柄なお体に匂うような気品のある方でした」
純久は何度か、父親の使いで鎌倉の牧野の家を訪ねたことがある。扇(おうぎ)ガ谷(やつ)の、作家の里見や詩人の中原中也など、鎌倉文士が多く住む一角である。
「先生のお宅にうかがうと、池大雅のお軸が掛かっていました。親しいお仲間は同郷の前田青邨のおじいちゃんを筆頭に、錚々たる文人墨客ばかりです。文化人というのンは、こういうお方をいうのやろと思いました」
売春防止法が公布されたのは、牧野が法務大臣をしていた昭和三十一年五月のことだが、彼はこの法律をめぐって、芸者を讃美する論を展開して注目を集めていた。
この法律ができる前年の十二月六日のこと。通常国会に必ず提出するよう、大臣室に申し入れにきた社会党の山口シヅエ、赤松常子ら女性議員に、 「芸者は売春防止法の対象にはならない。芸者は富士山とともに日本のシンボルである。東をどりに出る主役クラスの芸者になると、かく申す法務大臣でも、簡単には座敷に呼ぶことができない」 と答えて女性議員を驚かせた。
どうやら牧野は、売防法を強力に推進する女性議員たちの間に、芸者と娼妓の混同があるのではないかと、疑っていたようだ。
昭和三十一年二月十六日、参議院法務委員会で赤松常子議員が先の発言をとらえ、 「法務大臣は芸者の存在を認めて立派な芸者を作っていきたいと芸者を讃美され、私どもはおやおやと思ったのですけれど、芸者というものに対して、善良なる家庭婦人、婦人一般は、疑問を持っています。法務大臣は、今もなお、そのお気持をお持ちでいらっしゃいますか」 と聞かれ、牧野は、
「私は無条件に芸者を礼讃するものではない」 と断ったうえ、次のような主旨の答弁をした。
「富士山と芸者を日本の象徴とする思想は、明治の頃からアメリカ、ヨーロッパにある。日本の国情から、芸者を全て社会から追放することができないのだから、彼らに自尊心を持たせることが肝要である。幸い、一流といわれる芸者は全て、一芸一能に達した者でなければならない、ということになった。素行の上から非難されるべき者は、春秋におこなわれる大規模な演芸会には出席させないことに私がさせた。私は芸者に、一種の尊敬の念を持っている」
牧野良三は祐三郎にとって、よき理解者を超えて「同志」といっていい存在だった。
翌昭和三十二年十二月、牧野から祐三郎を欣喜雀躍させる書状が届いた。
時候の挨拶に続いて、こうある。
「さて十一月二十五日より十二月七日まで、東京において開催された「犯罪防止及び犯罪者の処遇に関する国際連合第二回アジア会議」において、芸者に関し、別紙の決議がされたことを御報告します。これで日本の芸者の性質と人格とが、国際的に立派に認められた次第です。よろこんで下さい」
牧野は「決議」と書いているが、正しくは「日本国政府の報告書」である。その報告書はこういう内容だ。〈原文は法務省保管〉とメモの付いた牧野の手紙から引く。ちなみに彼はこのとき、法務大臣のポストを離れていた。
「藝者とは、決して賣春婦ではない。藝者は唄、踊り、及び音曲を以て立ち、宴席において興をそえる者に外ならない。
藝者が時として賣春婦のような誤解を受けるのは、昔、藝者と置家との関係が、娼妓と妓楼との関係に似たものがあり、且つ時に雇主が賣春の仲介をなすが如き事実があったために外ならない。
今日においては、最早藝者は如何なる場合でも主人から拘束を受けるようなことはなく、全く獨立をなしている。
しかし或る種の低級な藝者と称する者の中には、賣春婦とみなされるような者のあることはいなむことを得ない」
書状を受け取ると祐三郎は「全国花街連盟会長」として筆を執り、 「前の法務大臣牧野良三先生より送って頂きし手紙、芸妓の人格が立派に認められたのである。然し全国花街連盟は但し書きの低級は入会ささず、此の牧野良三先生は日本の大臣として始めて代表芸妓は日本の國宝であると言て頂きし故早速お目にかかり日本芸妓を代表して御礼を申上げておいた」 と書いた。
「どうだ、わかったか」といわんばかりの筆勢である。
しかし祐三郎の手放しの喜び方にくらべると、純久はやや冷静に受けとめていた。
彼女は子供のときから、「大和屋」の芸妓学校に入ってくる娘たちを見てきた。その多くは十三、四歳で、芸者になる理由のほとんどは、家計を助けることだった。
学校に入れば、衣食住は心配しなくていい。芸と作法を厳しく仕込まれるわけだが、厳しい稽古に耐えられなかったり、家が恋しくなって逃げ出す娘もいた。
連れもどすのは、男衆の仕事である。純久は見ていて、胸が痛むこともあった。しかしどうしようもないことだった。
一人前になって二、三年、お礼奉公をする。「大和屋」にとっては、いってみればこれが投資の回収になる。
それが終わると独立するが、芸者の世界も他の世界と同じように、ピラミッドになっていて、一流になる確率は、決して高くない。
「まずは容姿です。きれいやないと、あきません。それに芸ができて、頭がようないと、一流にはなれません」
頭がいいというのは、気の利いた会話ができること。そして、客の様子を見て、はずした方がいいと思われるときには、さり気なく座敷をはずす。そうした気配りが、きちんとできることである。
売れてくると、「ちょっとにても来てくだされたく候」と書いた逢状(予約)がくる。その紙は短冊のような形で、上が赤一文字(いちもんじ)に染めてあるところから「天紅」といい、これを鏡台に下げる。逢状が多い売れっ子は、「約束芸者」といった。
さらには「お宅行き」というランクがある。著名な財界人が自邸で催す宴に呼ばれる芸者のことである。この中で認められた者が、財界人の後添えに入ったり、歌舞伎役者などの妻におさまっていくことになる。
その逆に、ミナミでは芽が出ず、戦前なら中国大陸へ、戦後は地方の温泉町へ流れていく例は、純久も知っていた。
しかし、純久が考えていた地位の向上は、あくまで芸に生きる芸者に対してだった。芸以外のものを売る者のことは、はじめから頭になかった。
それに、客が分に応じた遊び場所と遊び方を知っているように、芸者も分を弁(わきま)え、それぞれの棲み分けがきちんとできている、と思っていた。ミナミは一流が棲むところであり、中でも「大和屋」は特別だと自負していた。
しかし売春防止法が議論されるようになるころから、純久のいう棲み分けは、徐々に崩れつつあった。全国の花街を見ている祐三郎は、そのことに気が付いていた。牧野からの手紙に飛び上がって喜んだのも、それがわかっていたからである。
純久は父親の喜びようがもうひとつピンとこなかった。それは花街に生まれ育ったとはいっても、「大和屋」の娘だったからだろう。
純久には手紙より気になることがあった。牧野に「人生は三つに分けて生きなさい」といわれたことである。
「第一は一所懸命に勉強する時期。第二は一所懸命に働く時期。たいていはここで終わって、職場から墓場にいってしまう。それではさみしいから、第三の、人生を楽しむ時期を考えなさい。先生には、そういわれたんです」
純久は第二段階に入ったところだった。自分の第三段階までは頭が回らなかったが、反射的に浮かんだ人物が一人いた。  

阪口純久が文人政治家、牧野良三の話を聞いて頭に浮かんだのは、 「松永のおじいちゃん」だった。
“電力の鬼”の異名をとった松永安左ヱ門(やすざえもん)である。
明治八年に長崎県の離島に生まれた松永は、慶應義塾を中退して日本銀行に入り、石炭商から電気事業に身を投じ、戦前日本の五大電力の一翼を担った「東邦電力」(現在の「中部電力」)の社長、会長を務めた。しかし徹底した官僚嫌いから、戦時下の電力国家管理に抵抗して敗れ、一線を退いた。
敗戦から四年後の昭和二十四年、一線に復帰すると、電気事業再編成審議会の会長として現在の東京電力や関西電力など、民間九電力体制の生みの親となった。むろん、純久はそういうことは、話に聞いて知っているだけである。
純久が間近に見ることになるのは、池田勇人や、池田と親しい永野重雄から、 「松永のおじいちゃんのお供をするように」 といわれるようになってからだった。
永野は富士製鉄社長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭を務め、政権が変わっても「財界四天王」の一人に入っているところから、 「財界フェニックス」 と呼ばれた財界人である。
それはともかく、松永は純久が供をするようになったときは九十歳を過ぎ、一線を退いて箱根の山に暮らしていた。
「耳庵(じあん)」の雅号を持ち、阪急電鉄を興した「逸翁」小林一三、荏原製作所を創立した「即翁」畠山一清とともに「大茶人」としても名が高かった。
そして、気が向くと箱根の山から東京や大阪に下りてきて、池田や永野をつかまえて何やかやといっては山に帰っていく。純久の目には、牧野良三のいう「人生の最終章」を存分に楽しむ人物の代表のように見えた。
とにかく、これほど威厳のある人物には、後にも先にも会ったことがない。
五尺七、八寸はあろうかという、偉丈夫である。がっしりした骨格は岩のようで、眉毛が長く、耳が大きい。典型的な長命の相である。声が大きく、晩年、補聴器を離せなくなってからは、文字通り、割れ鐘のような声だった。
「人を射すくめる目ェ、いうのがありますでしょ、それですわ。おじいちゃんの目ェみたいなのを「眼光炯々(けいけい)」いうのやろ思いますね。とにかくおじいちゃんがいられるだけで、その場の風が変わりました」
関西電力の社長や重役が、松永の前に立つと緊張して身を固くする。純久は何回か、そういう場面を目にしていた。
何しろ時の大蔵大臣、時の総理をつかまえて、敬称をつけず「池田」と呼ぶのである。池田は池田で、そんなことはまるで意に介する風もなく、松永のいうことに耳を傾けていた。
そばにいると純久は、自分が小間使いの小娘のような気がした。
松永は東京にくると、料亭「金田中」の斜め前にあった「栄屋旅館」にいた。
そこは純久が「おばちゃん」と呼ぶ女性が女将で、池田のおじと同じ、広島県人だった。格別、器量よしというわけでもない。どこが気に入っているのか、見当がつかなかった。
宿に着くと、松永は玄関を入ってすぐ左手の四畳半に落ち着く。そこは客室ではなく、おばちゃんの居室のようなところで、おじいちゃんは座るところが決まっていた。
夜、八時を回るころになると、池田や永野が集まってくる。日本精工社長、今里広記が加わることもある。こちらも席は、それぞれ決まっていた。いずれも大柄な男ばかりである。体をこすり合わせるようにして、座っている。
おばちゃんは大儀そうに、 「ここは身動きもならん」 というし、女っ気のない旅館なので、小間使いの役は、純久がするしかない。
しかし純久も大柄である。湯茶をかえるにも、身をよじるようにしなければならなかった。
ときどき、おじいちゃんの割れ鐘のような声が響いてくる。まるで師が弟子に小言をいっているように聞こえたが、天下国家を論じているらしい。どうやら池田や永野たちは、松永を掛け替えのない御意見番として遇しているようだ。
若い純久にわかるのは、それくらいのことだった。
会合が終わると、池田を信濃町の私邸に送る。そこには、夜回りの政治記者が待っている。満枝夫人ともども接待役を務める。――これが半ば、習慣になっていた。
池田は昭和三十五年に総理になると、この御意見番に勲章を授与しようと考え、永野を使者に立てた。
「耳庵」松永は、茶を点(た)てて使者を迎えた。
永野は、柔道は強かったが茶道には暗い。運の悪いことに、鼻風邪までひいていた。
「鼻水が出ますでしょ。「それで俺な、懐紙なんか知らんから、その紙で鼻をかんでしもた」と、御本人さんから聞きました」
それが原因ではなかったが、勲章の話は結局、それきりで終わった。
純久は一度、永野の代役として松永をはじめ「塚本総業」社長の塚本素山、「関西電力」社長の芦原義重らを客に迎え、茶会の亭主を務めたことがある。
永野から直々に、 「俺が亭主をすることになっとるが、でけへんさかい、お前がやれ」 といわれたからである。
茶席は、京都・八幡の「松花堂庭園」にある松花堂昭乗(しょうじょう)ゆかりの三畳台目(だいめ)「閑雲軒」である。それを買い取った塚本素山が松永に見てもらうべく催す茶会だった。
松花堂昭乗は江戸初期に石清水八幡宮の社僧だった人物で、茶の湯のほか和歌、能楽、絵画をよくし、書は「寛永の三筆」に数えられていた。今でいえば文化サロンの有力なメンバーとして、名前は天下に轟いていた。
「閑雲軒」は、その昭乗が遺したと伝えられる古図を基に造られた昭乗写しの茶室で、広さが畳三畳分なので「三畳台目」という。
ちなみに彼は、農民が正方形の木箱に仕切りを作り、タネを入れていたのにヒントを得て、木箱を仕切って絵の具入れにしていたと伝えられる。
昭和八年、石清水八幡宮にきてこの伝承を知ったのが、「大和屋」にも仕出し屋として出入りしていた「吉兆」の湯木貞一である。湯木は箱を仕切り、色どり豊かな弁当を考案し、それを「松花堂弁当」と名付けた。
茶会当日の朝、純久は松永を宿に迎えにゆき、供をして栂尾(とがのお)の高山寺を散策した。石段を杖をついて昇る松永に、手を差し出すと、「いらん」といわれたが、その凛とした言い方は、純久の胸に長く残った。
茶席は、夫人を亡くしていた松永のほかは、塚本も永野も芦原も、みな夫人同伴だった。
純久は「大和屋」三代目女将、ゆきに見守られながら、何とか無事に、亭主の役を果たした。
「みなさんから、松永のおじいちゃんとお茶の話はしじゅう聞かされてましたけど、作法がどうの、しきたりがこうのというようなことは、みな超越してはりましたね。すべてが自然体なんです。それでいて堂々としていて、あたりを払うような威厳がありました」
会席料理は、「辻留」の先代、辻嘉一が作った。裏千家出入りの料亭である。
かつては「酒豪」とうたわれた松永も、すでに卒寿をいくつか出ていた。それでも日本酒を二合ほど呑み、料理はきれいに平らげた。そして辻嘉一が挨拶にくると例の大声で、 「実にうまかった。さすがだ」 といった。
辻嘉一は感極まったような笑顔で、深々と頭を下げた。
宴が終わると永野は松永に、 「奥さん方のために一筆」 と所望した。
永野は、松永に向かってズケズケとはっきりものをいう男だった。二人は親子ほど年が離れていたが、松永は腕白小僧がそのまま大きくなったような永野を、憎からず思っていたようだ。このときも、何もいわずに肯いた。
松永の書は、「茶掛け」として使える見事なもので、どういういきさつで書いてもらったのか、確かめたことはなかったが、純久は「大和屋」でも松永の書を何枚か、茶掛けとして大切にしていることを見ていた。
ただちに、硯と墨が用意された。
純久はそういうこともあろうかと考えて、「お宅行き」の芸者を連れてきていた。芸者はゆきから前もって念を押されていたらしく、静かに墨をすった。
墨をすり終えたところで、純久はギクリとした。永野が夫人たちにも聞こえるように、 「おじいちゃん、どうですか。若いのがいますけど」 といったからである。
「おじいちゃん、どういわはりますやろ思うてハラハラしてましたら、「ぴんとはせんけど、むずむずする」といわはった。それでみなさん、大爆笑でした」
純久が一流の人物かどうかの尺度に、「たとえ猥談(わいだん)をしても、品格のあること」という一項目を加えることにしたのは、この夜の松永のひとことからだった。
「そのいい方が可愛らしかったんです。近寄りがたいところと、お茶目なところと、両方を持ってはりましたね」
純久は、「枩(まつ)」の一文字を書いてもらって、おじいちゃんを宿まで送った。
松永は風呂から上がると、男の秘書役が寝酒につくったオールド・パーの水割りを呑み干して床に就き、こうして純久の長い長い、そして忘れがたい一日が終わった。
「電力の鬼」「大茶人」「御意見番」といわれた松永安左ヱ門は、イギリスの歴史学者、アーノルド・トインビーの「歴史の研究」を翻訳した知識人である。そのことを純久が知ったのは、昭和四十六年におじいちゃんが九十五歳で大往生を遂げて、何年もたってからだった。  

松永安左ヱ門(やすざえもん)が電力の世界で名を轟(とどろ)かせ、「日本の電力王」と呼ばれるようになるのは昭和七年、数え五十八歳のころからである。その時点で彼の支配がおよぶ電力事業の資本は、当時の金で十四億円といわれていた。
還暦を迎えると、「論語」の「六十にして耳順(したが)う」から、 「耳庵(じあん)」 と号して茶道に没頭し、大茶人としての風格を備えるようになっていた。
「電力王」から「電力の鬼」となるのは戦後。昭和二十六年に喜寿を迎えるあたりからだが、彼の名はこのときすでに実業界を代表する教養人、文人墨客として、政界、財界に知れわたっていた。
ひとことでいえば、松永安左ヱ門は文武両道の人だった。「耳庵」を師と仰ぎ、そしてまた兄事する政治家や財界人が多かった所以(ゆえん)は、そこにある。
それは「松永教」ともいえるもので、池田勇人や永野重雄は、いわば「松永教」の熱烈な信者といってよかった。
松永はまた、大の艶福家としても名を馳せていた。
しかし阪口純久は「松永のおじいちゃん」がどれほどの艶福家であったのか、話に聞くだけで実際のことは知らない。
純久がおじいちゃんの座敷に出たり、お供を仰せつかるのは、「電力の鬼」と呼ばれるようになって十数年、九十歳をすぎてからだったからである。
純久が知る松永は、若い芸者の「おじいちゃんはいくつまで“現役”でしたの?」という無邪気な質問に、ニコニコしながら、 「八十二のときぐらいまでじゃ」 と答えるようになってからだった。
松永は「大和屋」の座敷で芸者衆とそんなおしゃべりを楽しむ一方、昭和四十年、数え九十一歳で皇太子殿下に「電気事業の現状」を進講し、その二年後には、来日したイギリスの歴史学者で「歴史の研究」の著者、アーノルド・トインビー博士を、京都の「都ホテル」に訪ねている。
松永が「艶福家」として鳴らした時代は、「へそから下は別人格」ということが、世間の常識になっていた。本業さえきちんとしていれば、浮き名を流したからといって、責める者はいなかった。
現在のモラルを適用することに意味がない時代、ということができる。見方を変えれば、男にとっては幸せな時代だった、ということもできる。
その意味でいうと、永野重雄は生まれるのが遅かったといえるかもしれない。
彼が浮き名を流した時期には、「風紀委員」のような雑誌が出現していたからである。
しかし純久の目に映る永野重雄は、大きな腕白少年だった。
「一度、手帳を見せてもろたことがあります。あの大きな体で、ようこんな細い字が書けると思うくらい、小さな字で、予定や人の名前がびっしり書いてありました。夜半に目が覚めて何か閃くと、枕元の手帳に書きとめておくのや、ということでした」
永野はせっかちで、忙しいことが好きだった。
純久が父、祐三郎の使いで東京にきて永野につかまると、一晩に赤坂、新橋、柳橋と、三つの宴席の供をさせられることも珍しくない。麻雀のメンバーが足りないといって、つき合わされることもあった。
麻雀をすると、財界の四天王に数えられる男がなぜそんな安い手で上がるのか、と思うようなことをしては、喜んでいる。
碁の相手をさせられる男の秘書は、純久が見ていても気の毒だった。
日本商工会議所会頭の永野は、一泊二日、二泊三日といった旅程で全国を飛び回る。その予定が近づくと、秘書が純久のところに「会頭が女将にぜひ供をとおっしゃっておりますので」と、平身低頭の態で電話をしてくる。
「ノー」とはいえない。
当日、空港の待合室に入ると、永野は秘書を相手に碁を打っている。秘書はどこにいくときも、携帯用の碁盤と碁石をカバンに入れていた。
出発の時刻が迫っても、「もう一番」と、やめる気配がない。航空会社の社員が「会頭、そろそろ」ともみ手をするのだが、「ホーホー、オーライ、オーライ」と、わけのわからないことをいって、容易に腰を上げない。
機上の人となるや、ただちに碁盤に向かう。目的地に着いても、迎えの車がきていなければ、また碁石を手にする。
寸暇を惜しんで碁の相手をさせられる秘書を見ていると、純久は、碁のできないことを神に感謝せずにはいられなかった。
行き先は、純久のような供の者にすれば、滅多にこられない土地である。観光をしたいと思っても、いつお呼びがかかるか、わからない。景色を楽しむような気分にはなれない。
旅先で仕事を兼ねたゴルフに「つき合え」といわれることもある。宿に入ればすぐ宴会になるか、それまでの時間潰しに雀卓を囲むことになる。宴会の後に麻雀ということもある。
何とか寝てもらうと、午前零時に近い。純久たちは化粧を落とし、風呂に入ってひと息ついて床に入る。うとうとしたかと思っていると、部屋の前で永野の声がする。
「年のせいでっしゃろなあ。朝五時半、六時になると起きてきて、「あの、新聞まだきてないか」ですわ。私ら、ついさっき寝たばかりですやん。そんな調子やさかい、永野さんの旅行のお供をすると、もうクタクタで、社会復帰に三、四日かかりました」
「大和屋」の常連の一人に、谷口豊三郎がいる。昭和三十四年から四十七年まで、「東洋紡績」の社長、会長の地位にあった人物である。
純久は、谷口が永野重雄を団長とする中国視察団の一員に加わると知り、永野が碁の相手に人を選ばないことを話した。そして、 「ひっきりなしに碁を打ちはりますさかい、気ィつけなはれや」 といって送り出した。
視察から帰ると、谷口は「俺、えらい目に遭うた」といって「大和屋」にきた。
「揚子江かどっかの川下りの船で永野さんにつかまったらしですわ。「碁を五十番打ち続けた。もう離してもらはれへんねん。景色ひとつ見てへん。案内役の中国の人が感心してたわ」いうて、「えらい目に遭うた」と、そればっかしいうてはりました」
永野は即断即決の人でもあった。
純久が供をして函館にいったときのこと。大沼公園がすっかり気に入って、 「ここに別荘を建てるから、お前も隣りに建てろ」 といって、きかない。
別荘ができると、その夏から秘書がきて、 「明後日から大沼の方にお願いします」 という。
永野の息のかかった財界人が、どっと集まる。夫人同伴で参加する者がいる。二十人、三十人の集団になることもある。
事情を知らない人間は、 「女将さん、北海道ですか。涼しくていいですねえ」 という。
しかしいけば、ゴルフをつき合わされる。日に三度、三度、二、三十人分の食事を作るのは、大仕事である。それも、口のおごった人間がそろっている。「大和屋」の料理人を連れていくことになる。
毎晩、宴会をしているようなものだった。
「私ひとりでは、どうにもなりませんでしょう。うちから女中さんも連れていかないきません。帰ったらクタクタで、何のために別荘こしらえたのか、わからしません」
永野は糖尿病で、食べ物にいろいろな制限がある。カロリー計算をし、永野用の献立を考えるのも、純久の役目の一つだった。
ところが夜、食事が終わって麻雀や碁になると、口に入れる物が欲しくなる。可哀想な気がして、好物のピーナツやトウモロコシやイモを、カロリーを考えながら出す。あっという間もなく、平らげてしまう。
揚げ句の果てには、 「俺の周囲一メートル四方に、食い物は置くな」 といいだす。
純久は黙って、いわれた通りにして見ているしかなかった。
「ほしたらですよ、碁石を口に入れはりますねん。ほんまに口ざみしかったんでしょうけど、大きなダダッ子でしたね」
永野は晩年、週刊誌に何度か、赤坂の芸者とのスキャンダルを報じられた。
一族は誰もが節子夫人に同情的で、永野は孤立無援だった。内心、 「二十年前なら、世間の指弾を受けることもなかったろうに」 と思っていたかもしれない。
ある朝、永野が食堂のテーブルにつくと、スキャンダルを報じた週刊誌が、これ見よがしに開いて置いてある。
そうしたのが息子なのか娘なのか、永野にはわからない。
「そしたら、奥さまがパッと雑誌を閉じて、テーブルから持っていかれたそうです。「やっぱり家内はありがたいもんや」と、しみじみいうてはりました」
純久は、永野のあまりに傍若無人なものの言い方や態度に腹が立ち、面と向かって、 「のべつガミガミガミガミ、あんたはただのタヌキやない。タヌキとムジナとキツネが合わさった、タムキや」 といったことがある。
しかし「タムキ」もこの男には大した効果はなかった。「私がそういうた次からはですよ、うちの玄関で「タムキがきましたよ」いうて、ニコニコしてはりますねン。あんな大きな人のそんな姿を見たら、つい噴き出してしまいますがな。あのじぶんの大物といわれる人は、どこか憎めんような、お茶目なところがありました」  

早稲田大学の創立者、大隈重信が「大和屋」に遊んだのは、阪口純久が生まれるはるか前のことである。
それも一度や二度ではなかったようだ。
ある夜は三代目女将のゆきに、例の角帽とマントを付けさせ、悦に入っていた。
その写真を見せられた純久は、子供だったせいもあるが、ゆきの異様な姿にギョッとした。
残っていれば、それこそお宝写真になるはずだった。しかし残念なことに、空襲で焼失した。
「大和屋」には、池田勇人を筆頭に帝国大学出身の客が多かったが、私学出身者も負けず劣らず多かった。
その一人に、小林節太郎がいる。
兵庫県に生まれ関西学院高等商業部に学んだ小林は、貿易商社「岩井商店」に入ると昭和二年から七年間、ロンドン支店に勤務し、その間、ヨーロッパ各国に「大日本セルロイド」の製品を売り込んだ。
帰国後、「大日本セルロイド」の写真フィルム部が分離してできた「富士写真フイルム」に営業部長として移り、昭和十二年に取締役。昭和三十五年、社長になった。
昭和三十七年からは、イギリスの「ランク・ゼロックス」と合弁で「富士ゼロックス」を設立し、その社長を兼務した。
「富士写真フイルム」は、昭和二十五年に日本ではじめて、一般公募による写真コンテストを開催し、その翌年には、やはり日本ではじめての総天然色映画、監督・木下恵介、主演・高峰秀子の「カルメン故郷に帰る」のフィルムを製作して、業績を伸ばした。その中心となったのが、小林節太郎である。
阪口純久は、小林が社長になる前後から、間近に接するようになった。
小林は自社の特約店を招いての会合や宴会に京都の「京大和」や大阪の「大和屋」を使うことが多く、ほとんど毎月のように、関西にきていた。
「お顔だけやったら、御子息の方が上と思います。けど、どちらが絵になるお方かいうたら、そらもう節太郎さんの方です。ソフト帽に白っぽいダスターコートの衿を立てはったお姿いうたら、惚れぼれするようで、ほんまの話、映画を見てるみたいやったです。芸者衆とも、「節太郎さんみたいなお方を“ロンドン仕込み”いうのんやろなあ」というたもんです」
ちなみに「御子息」とは、「富士ゼロックス」の社長から会長、合わせて「経済同友会」の代表幹事となる小林陽太郎である。
小林節太郎はロンドン仕込みのイギリス英語を話し、東京暮らしが長くなると、標準語を使うようになった。
「それがおもしろおまんねん。会社の社長室で、「ダメじゃないか、きみ」とかいうて、しゃべってはるわけですよ。そこへ「こんにちは」いうて、顔、出しますやろ。とたんに「あっ、きたんか」いうて、いっぺんに大阪弁になりはりますねん。氏素姓は争えんもんやと、よういうてはりました」
どちらかといえば甘党で、一番の大好物は京都「大市(だいいち)」のスッポン料理だった。京都にくるときは、「待ち合わせ「大市」」というのが合言葉のようになっていた。
「真夏の暑い盛りでしたわ。「フランス人やったらスッポン食べるさかい」いうて、フランスからみえたお客さんを十何人、「大市」にお招(よ)びするいうので、私も呼ばれました。ほいで、「食べなさい、食べなさい」いわはる。けど、スッポン鍋の熱い湯気が、ぶわーっと私らの方へきますねん。前がよう見えんほどの湯気ですわ。気持ち悪なって、食べられへんかったん、覚えてます」
小林は昭和三十九年、ギリシャでおこなわれた東京オリンピックの聖火の採火式で、主巫女を務めた女性をオリンピックの開会式に合わせて、日本に招待した。ギリシャ古典劇を代表する王立劇場の女優、アレカ・カッツェリである。
小林は旅費と滞在費に一万ドル(当時、三百六十万円)を出したが、そのいきさつを、「私の履歴書」に次のように書いている。
「カッツェリ夫人は昭和十一年のベルリン大会(当時十二歳)以来ずっと巫女をつとめていたが、聞くところによるとまだ一度もオリンピックを見たことがないという。採火式の取材をした共同通信の方が、私に呼んであげてほしい、と話を持ちかけた。それならよかろうと私は招待状を送った」
昭和三十九年十月二日、小林は夫人の伸子ともども、エール・フランス機で来日したアレカ・カッツェリを羽田空港に出迎えた。
それからオリンピックの開会式を挟んで二週間、小林は「帝国ホテル」の犬丸一郎夫人になっていた長女、伊津子も動員し、一家をあげて遠来の客を歓待した。
カッツェリは当時、三十九歳。娘二人の母だった。
「ほいで小林さん、「京都を案内するさかい、着物用意して着せてやってほしい」いわはるわけですよ。「どんな方でんねん」聞いたら、小林さん、「外人やけど、そんな大きない」いわはります。私もテレビで見て、そない大きないなあ、思てたんです」
純久はカッツェリがミセスであっても、はじめての着物は振り袖がよいだろうと考え、振り袖を持っていった。
しかし、着付けるのに四苦八苦することになった。百八十センチ近い身長に加え、ギリシャ演劇で鍛えた体は、日本女性とはくらべものにならないくらい逞しく、胸が豊かだったからである。
カッツェリは、東京では歌舞伎「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」と、能「隅田川」を見ていた。
「隅田川」を舞ったのは、五十五世梅若六郎だった。純久が「うちの先生」と呼んで敬愛してやまぬ、能の師である。
思わず純久は、どういうところがよかったのかと聞いた。
「いなくなった子供を探して、橋懸(はしがかり)から舞台に進むところです。哀愁のこもった後ろ姿に、感銘を受けました」 という返事に、純久は、 「名人は名人を知るとは、こういうことをいうのだろう」 と思った。
小林はその夜、歓迎の席に舞妓を呼んでいた。
そういう席で舞妓が舞うのは「わしが在所」だが、その中に、手ぬぐいを折って頭に被る仕草がある。
女優はその舞いがいたく気に入ったようで、手ぬぐいがどういう意味を持つものなのかと、舞妓たちに聞いた。
ところが彼女たちは、 「お師匠はんから、そう教わったんどすえ」 というばかりで、埒(らち)があかない。
代わって純久は、昔、京都の郊外の大原から、燃料にする薪などを頭に乗せて売りにくる「大原女」と呼ばれる女のいたことを説明した。
どういういきさつからだったか、舞妓たちが「踊りはお師匠はんに月謝を払って習っている」と話すと、女優は大層驚いた様子で、自国の事情を説明した。
ギリシャでは、しかるべきクラスの演劇人に対しては生活の心配をすることなく舞台に専念できるように、国家が経済的な援助をしているというのである。
それを聞いて、今度は純久が驚く番だった。
「私、小林さんにその場で「カッツェリさんを大至急、文部大臣に会わしとくなはれ。そしていまの話をしてもろとくなはれ」と、お願いしましてん」
純久にとって、この大女優と並んで忘れがたい海外の演劇人が、もう一人いる。NHKの招きで昭和三十四年、来日したイタリア・オペラのテノール歌手、マリオ・デル・モナコである。
世紀のテナーが「大和屋」にきたのは、NHK幹部の客としてだった。おそらく、「大阪フェスティバルホール」の公演を終えてからのことだったろう。
「普通にお話をなさるときは小さなお声で、そっと話されてました。そらもう、うっとりするようなお声でした」
マリオ・デル・モナコは、オペラ歌手の中でも声を大切にすることで知られていた。自身、「声は舞台のためにとっておくのだ」といって、電話で話すときもささやくようにしか話さなかった。
そのデル・モナコが、ほんのひと節だったが歌ったのである。
「三十畳の座敷でしたけど、歌い出した瞬間、障子という障子がビリビリいうて、震えてました」
それが何という曲の一節だったのか、惜しいことに純久には記憶がない。
小林節太郎はギリシャから大女優を招いたことによって、「富士写真フイルム」の名をさらに輝かしいものにしたが、この大女優については、後日談がある。
東京オリンピックがあった翌年の昭和四十年八月、五十五世梅若六郎は「ギリシャ・アテネ・フェスティバル」の招きを受け、ギリシャの地ではじめて公演をすることになった。
それを聞いた純久は、ただちに小林に連絡をとると、「うちの先生」の舞台がとどこおりなく終わるよう、手配を頼んだ。
カッツェリは梅若六郎を楽屋に訪ね、二人はほぼ一年ぶりに、再会を果たした。
「後で六郎先生の奥様から、えらい感謝されました。「あなたのお陰で、これもろてきたわ」いわはって、指輪を見せてもらいました」
小林節太郎は、イギリスの会社と合弁で会社を創るという困難な事業を成功させてからも、純久には、 「わしは営業マンやない。事務屋や」 といっていた。
彼が活躍したころ、日本にはまだ、「企業メセナ」という言葉すらなかった。
「小林さんのお口からは「文化」いう言葉もお聞きしたことはありません。けど、どないいうたらいいのか、文化に大変な貢献をなさっていたんですね。昔の経営者の方いうのんは、小林さんにかぎらず、皆さん、そういうところがありました」  

昭和八年から戦後の昭和二十二年まで慶應義塾塾長を務めた小泉信三は、「大和屋」の戦前からの客だった。
阪口純久は、昭和二十年五月二十五日夜の東京大空襲で大火傷を負う前の小泉がどれほどの美男子だったか、母から聞かされていた。
「そらもう、「六代目菊五郎か小泉先生かというほど、えらい男前やった」と、よういうてました」
純久が小泉の知遇を得たのは、戦後も昭和三十五、六年ごろのことである。
小泉信三はすでに、皇太子妃(現・皇后)の仲人役を果たし、文化勲章を受けていた。
「先生は、母から聞いていた通り大柄で、ほんとに物腰の柔らかなお方でした。私、先生にいわれて、日記をつけるようになったんです。「毎日毎日書かんでもええさかい、日記というものはつけんといかん」と教えてもろて、そういうもんかなあと思てつけ始めたんです」
日記の勧めに続けて、私家版の「海軍主計大尉小泉信吉」をもらった。海軍大尉として出征し、戦死した一人息子の回想録である。
小泉が刊行を許さなかったため、当時、幻の名著といわれていた。友人の作家、獅子文六をして、 「小泉文学の最高傑作」 といわしめた一冊である。
それを読んで、純久は涙がとまらなかった。
腹違いとはいえたった一人の兄、父の祐三郎にとっては跡取り息子の祐太郎は、家族に相談することもなく志願して満州に出征し、昭和十三年六月、戦死した。
この一冊によって、父祐三郎の痛恨がどれほどのものか、はじめて察することができたからである。
小泉信三についてはもう一つ、思い出すたびに胸が熱くなるエピソードがある。
それをだれから聞いたのか、純久は覚えていないが、こういう話である。
戦後、小泉は自邸にきた占領軍の将校に、 「なぜ、日本は無謀な戦争をしかけたのか」 と聞かれ、
「戦争には断固、反対だった。しかし始めた以上、勝たなければならない。国を愛する者であれば、自分の国の勝利を願うのは、当然ではないか」 と答えた。
するとその将校は、感じ入った表情で、 「オー、ファイン(素晴らしい)」 といったという。
「あのじぶん、アメリカの軍人に面と向かって愛国心を口にすることは、勇気のいることやったろと思います。物腰は柔らかでも、先生は信念の人やったんですね」
実は占領軍将校とのこのやり取りは、家にいた小泉家の長女、加代が聞いていた。
結婚して秋山姓になり、随筆家になった加代はこういっている。
「あのときの父は、堂々として立派でした。その父を「ファイン」と素直に認めたアメリカの軍人も、立派だったと思います。父は文人でしたけれど、精神は誇り高い武人でした。きのうの敵にも「天晴れ」と思わせるものがあったのだと思います」
小泉信三が「大和屋」にくるとき、しばしば一緒だったのが、杉道助である。
杉は、小泉とは慶應義塾の一年先輩だった。
ちなみに祖父、杉民治(みんじ)の弟が、吉田家に養子にいった幕末の志士、吉田松陰である。
杉は清廉で温厚を絵に描いたような人物だったから、小泉と馬が合ったようだ。
慶應義塾を卒業した翌年の明治四十三年、船場の綿糸問屋「八木商店」の創業者の長女と結婚したことが、大阪に根をおろすきっかけとなった。
そして昭和十三年に社長になると、その三年後、大阪商工会議所副会頭に就任。終戦の翌年から五期十四年の長きにわたり、会頭を務めた。大企業の出身ではない人間が会頭になること自体、異例のことといってよかった。
「小柄で色白で、ポチャポチャッとして、可愛いお方です。私欲いうもんがなくて、気さくなお人柄でしたでしょ。財界で何かもめごとができると、「まとめられるんは、杉さんしかおらん」というふうでしたね」
「鐘紡」の武藤絲治社長と「鐘淵化学」の中司清社長は犬猿の仲だったが、「大阪財界のためにも仲ようせなあかん」と、まとめ役を買って出たのも杉である。
そうしたときの舞台、宴席として使われるのが、「大和屋」だった。
「中司さんは、酸いも甘いも噛み分けてはるお方です。一方の武藤さんは、まあいうたら、堅いぼんぼんです。杉さんは「もっと柔らこうささんといかん」いうて、芸者衆について踊るようなことを、一所懸命に勧めておられました」
杉道助は昭和二十五年、大阪に「新日本放送株式会社」ができると、推されて社長になった。そして社名が、「毎日放送」となってからも社長を務めた。
そのころの秘書の一人が、美人女優の司葉子である。
司葉子にとって大阪は思い出の地だった。加えて、姉が大阪のよく知られた耳鼻咽喉科に嫁いでいた。
杉は小泉を大阪に迎えると、「大和屋」で歓待した。その席には、司葉子が加わることもあった。
「杉さんが司さんとうちにみえはるときは、必ず司さんのお姉さん夫婦も一緒でした。何でかいうたら、お姉さんのご主人、皿井五郎さんいいますけど、お父さんの代からのお医者です。杉さんの鼻と喉の主治医みたいなものでしたから、うちの座敷でいっつも、鼻と喉のお掃除をしはりますねん。うちでそないなことしィはったんは、杉さんのほか、よう思いつきません」
杉道助は乗り物に乗れば、いつでも熟睡できる特技の持ち主であった。
「帝塚山にお住まいでしたけど、肩書を考えたら、質素にお暮らしでした。朝はご自分でお庭のお掃除をされて、スライスした玉葱(たまねぎ)にカツオ節をかけて召し上がってました。それが健康法やったみたいです」
人望の厚い杉は、肩書が増える一方だった。
経団連副会長からさらに昭和三十三年には、「日本貿易振興会」の理事長のポストが加わった。
「日本貿易振興会」の前身は、昭和二十九年にできた「海外貿易振興会」だが、杉はそのときからの理事長だった。
昭和三十五年、日本がモスクワで第一回の「日本商品見本市」を開催することになり、杉はその準備に忙殺された。
「大和屋」にソ連からの客がくるようになったのは、このころからである。
「忘れもしません。杉さんが十四、五人、ソ連のお客さんをはじめて連れてみえました。みなさん、そらもう大きな方ばかりでした。そのじぶん、ロシア人なんてめったに見ることがなかったでしょう。いうたら何やけど、クマみたいに大きいんですわ」
彼らは、ウォッカとキャビアを持ってきていた。
「ウォッカは強いし、キャビアなんか、あんまり見たことないでしょう。はじめて見る大っきな外人さんに、芸者衆はびびってしもうて、いくら勧められても、ウォッカにもキャビアにも、よう手ェつけません。お座敷がしれーっとして、はんなりなりませんねん。杉さんかて、ヒヤヒヤされてたと思います。これはえらいこっちゃ思いました」
そういうとき、座を盛り上げられるかどうかで、女将は力量が問われる。
純久は意を決してウォッカのグラスを一杯、受けた。
「とたんに喜んでくれはりましてねえ。拍手喝采ですわ。ほしたら今度は、グラスに半分ついでくれはったわけです。こんなん飲んだらひっくり返るやろなあ思うたけど、引き下がるわけにいかんと、飲んだわけです。それでやっと、お座敷がにぎやかになったんです」
案の定、純久は客を送り出すやいなや、そのまま夜具に倒れこんだ。
「その夜は一晩中、天井がグルグル回ってました」
この見本市が終わって七、八年後のこと。大阪の製薬会社が、ソ連のバイヤーを接待した。接待の席は「大和屋」の座敷ではなく、地下のクラブである。
このバイヤーがまた、ケタ外れに大きかった。彼はクラブに入ってくるなり、酒ではなく水を注文した。
コップの水を渡そうとした瞬間、バイヤーはポケットの中から何かを取り出そうとして横に倒れ、そのまま動かなくなった。
救急車を呼んだが、きたときはすでに呼吸がなかった。
「救急車は息が止まった人を乗せられへんのですて。阪大病院のうちの主治医に電話をしたら、「とにかく早く連れてこい」いうわけです。体が大きな人でしたから、ボーイが三、四人がかりで車に乗せましたけど、結局、無理でした。主人は主人で、新聞ダネにならんように、警察に頼みこんで大変でした」
純久は、製薬会社の社員たちと一緒になって、通夜と葬儀をし、遺体を棺に納め飛行機に乗せた。
昭和四十三年一月、日本政府の公賓として来日したソ連邦副首相バイバコフが夫人同伴で「大和屋」にきた。
純久は、副首相に同行してきた駐日大使から、バイヤーの件で丁重に礼をいわれた。しかし、純久にはそれより、ソ連の警備担当者の徹底した仕事ぶりが印象に残っている。
「昼間、五、六人でみえて、屋上から天井裏まで、とことん調べてはりました」
杉道助は、大阪の地盤沈下に早くから警鐘を鳴らしていた。彼が最初にそれを訴えたのは、昭和二十七年のことである。
沈下を食い止めようと奔走した杉は、東京オリンピックがあった年の十二月、八十歳で他界した。
純久はその翌年、「この人が死んだら、私、自殺せんとあかん違うか」と思う人物の死に立ち会うことになる。  
十一
もう四十年以上も前のことなのに、阪口純久は、山村雄一が「大和屋」にはじめてきた夜を、昨日のことのようにはっきり覚えている。
山村は、九州大学医学部の教授から母校、大阪大学医学部の第三内科の教授にもどったばかりだった。
この人物がやがて学園紛争の嵐吹き荒れる医学部の学部長になり、昭和五十四年から二期六年間、第十一代目の阪大学長を務めることになるとは、神のみぞ知ることだった。
もしそんなことがわかっていたら、純久は初対面でいきなり派手なケンカなど、するはずがない。
父、阪口祐三郎が昭和三十六年一月に死んで、それほど年月がたっていなかった。
その夜山村を「大和屋」に招いた客が純久に、「お女将さん、大変やったなあ。お父さんが亡くなって」と、お悔やみをいった。それを山村が鋭く聞きとがめた。
「どこで死んでん?」
純久は無遠慮な聞き方が神経にさわった。しかしその男が第三内科の新任の教授であることは、客からつい先ほど教えられたばかりである。
努めて穏やかに、「阪大の第一内科です」と答えた。
山村の次の言葉に、純久は耳を疑った。
「なんや第一内科か」 といったからである。それも、「みんなよく聞いとけ」というような大きな声だった。
純久とて、第一内科と第三内科の関係ぐらいは、知らないわけではなかった。しかし第一内科は、「大和屋」にとっては主治医といってよいところである。父の最期を看取ってもらった恩もある。
それをこともあろうに「なんや」といわれ、純久は怒りを押さえることができなかった。
相手をにらみつけるようにしていった。
「なんや第三内科の教授ぐらいで偉そに」
相手も負けてはいなかった。
「若い女将が、なんや生意気に」
完全に売り言葉に買い言葉である。
「私もまだ二十代で若かったですけれど、山村センセも四十の半ばです。いかり肩で怖い目ェして、ギラギラしてました。ガニ股ですさかい、歩き方までほんま、偉そでした。ボッカブリみたいな人や思いました」
ボッカブリとは、大阪弁でゴキブリのことである。
このケンカは昭和四十二年、山村雄一が阪大の医学部長になるにおよんで、ようやくおさまった。医学部の他の教授が純久に仲直りするように勧めたからだが、初対面の夜から数えると、約五年を要したことになる。
「医学部長になりはらはった年やったか、その次の年やったか、「いっぺん終戦記念をしよ」いうのんで、八月十五日にご飯を一緒に食べました」
そのころには純久も、この人物の人となりについてかなりな知識を得ていたが、知れば知るほど、驚かされることが多かった。たとえば、免疫学では世界的な権威であることも、その一つだった。
さらに驚いたのは、彼が患者に絶大な人気のある医者でもあることだった。それも昨日今日のことではない。九大時代も、そしてその前に「国立療養所刀根山病院」で医長をしていたときも、そうだったのである。
彼が医学部長になってからのことだったか。
関西でも特別に裕福な階層の人間しか入れない病院の入院患者が、「山村先生に往診をお願いしたい」と、百万円の現金を持たせて使者を送ってきたことがあった。今の金額にすれば、一千万円である。しかし彼は現金に目もくれず、 「俺の診察を受けたければ、阪大病院にくればすむことだ」 といって、使者を帰したのだった。
彼のこうした言動の根底には、戦争体験があったようだ。
彼は戦時中、軍医として乗り組んでいた駆逐艦が沈められ、多くの戦友を失った。文字通り奇跡的に助かったのである。
彼の頭から「自分は一度死んだ人間なのだ」という意識は、生涯消えることがなかった。
背中に日の丸を背負っているという意識もあったようで、ハワイで学会があるというと、純久には、 「これから戦争にいってくる」 といったものだ。
純久は、彼の遊び方にも好感を持った。
そのころ大阪では、キタでもミナミでも飲んだツケを製薬会社に回す医学部教授が、珍しくなかった。というより、当時の夜の世界では、それが常識のようになっていた。
ところが、山村についてはそうした噂をついぞ聞かないのである。純久にとっては、新鮮な驚きだった。
酒は浴びるように飲んだ。とことん明るい酒だったから、「大和屋」の芸者衆にもファンが多かった。
酔うと、困った癖が一つあった。
座敷から庭に向かって、放尿するのである。
他の教授を連れてくることもあったが、連れにも同じことをさせた。
それを止めさせるために純久は、 「苔が枯れたら、どないしますねん」 と、大きな声を出さなければならなかった。
「センセは、サムライいうようなものではおまへん。ガキ大将がそのまんま大きくなったような、野武士ですわ」
珍しく師走の夜の街に誘われたことがあった。
純久は、ミンクのストールを着て家を出た。どこか高層ホテルのレストランで、夜景を眺めながらのディナーを期待したからである。
ところが、連れていかれた先は、地下街の串カツ屋だった。すわるなり、 「ここの串カツはうまいねん。そこのソースにジャブンとつけるんじゃ。いっぺんしかつけたらあかんで」 という。ムードも何も、あったものではない。純久は、ミンクを着てきたことをつくづく後悔した。
靖国神社に桜を見に連れていかれたときは、茶店のおでんだった。このときも純久は、
「うまいぞ。お前も食え」 という山村を、呆然と見ているしかなかった。
司馬遼太郎と山村の会談を設定したのも、純久だった。
といっても特別に構えたものではなく、作家から「いっぺん会いたいなあ」といわれ、山村の仲間と松茸狩りの予定があったので、そこに案内したのである。
山村には前もって、「司馬センセやさかい、おとなしィしてなはれや」と、念を押しておいた。妻に先立たれていた彼は、以前より純久の言葉に耳を傾けるようになっていた。
ところが松茸でスキ焼きをする段になるや、山村は、 「あっ司馬さん、触わんなはんな。私がします」 といいだし、結局は、彼の手八丁口八丁の独演会になってしまった。
「お二人とも、ひと目惚れです。ああいうのンを、肝胆相照らすいうのでしょうね」
その日のうちに、二人の間には招き、招かれる関係ができあがった。
司馬は年に二回、関西在住の作家、田辺聖子や陳舜臣と語らい、編集者にも声をかけ、「大和屋」で芸者をあげて清遊の宴を催すことを恒例としていた。
そこに山村が加わると、様相は一変した。双肌脱ぎの元海軍軍医の号令一下、軍歌を歌って座敷を一周するのである。
「山村センセは「司馬さん、あんたも立ちなはれ。あんたを海軍戦車隊にしたげます」と、アホなことをいいはりますねん。司馬センセはセンセで、「ほう、ほう。ぼく、海軍の戦車隊」いうてから、ニコニコしてはりましてん。えらい騒ぎでした」
山村は昭和六十年に阪大学長を終えた後も、癌対策十カ年計画の舵取り役として設けられた政府の「がん対策専門家会議」の議長や、厚生省の「厚生科学会議」の座長を務め、忙しい毎日を送った。
しかし相変わらずの医者の不養生である。
たまりかねて純久は山村の弟子たちと相談のうえ、健康診断を受けさせることにした。
胃の写真を撮ると、ピンとくるものがあったのだろう。自分で写真を見るなり、ただちに東京・築地の「国立がんセンター」に手術を頼んだ。
皮肉にもそこは、学長を辞めたときに「総長に」という話があり、純久が、 「あすこの総長にならはったセンセは、みな癌で亡くなられてますさかい、絶対にやめとくなはれ」 と、拝み倒して断わってもらったところだった。
手術が無事に終わったむね、付き添った弟子から電話があり、それから三時間たっていたかどうか。
「本人さんが電話してきはりましてん。「大丈夫ですか」聞いたら、「大丈夫なことない」いうてはりましたけど、「明日から何でも食べられるさかい、お粥さんと鯖の煮つけ持ってこい」いうわけですよ」
純久は翌日から、いわれるままに東京の店に料理を作らせては、運ばせた。見舞いにいった娘から、 「おかあちゃん、センセすごいよ。点滴をつけたまま、堂々と廊下を散歩してはるよ」 と電話があったのは、術後三日目だった。
純久が病室にいくと、見舞いにきた自民党代議士の宇都宮徳馬が「先生、ちょっと風邪気味なんです」と、話しているところだった。
「ほしたらでっせ、「ここへ寝なさい」いうて、自分は起きて宇都宮先生を寝かせて、聴診器を当ててはりまんねん」
山村雄一は平成二年六月、嵐のような七十一年の生涯を閉じた。
「山村人脈」といわれるほど多くの免疫学者、癌研究者を育て、司馬遼太郎との間には対談「人間について」を残した。
学長在任中に「大和屋」の座敷で何回かにわたっておこなわれたものだが、記念すべき第一回の対談で、テープレコーダーのスイッチを入れたのは、阪口純久である。  
十二
昭和三十九年四月に大林組の手で始まった「大和屋」の改築工事は、翌年の春、完了した。
阪口純久はそれまでの「大和屋」のごく一部を残したために「改築」と称していたが、実質はコンクリート造、地下二階、地上五階、延べ千五百六十八坪の、堂々たる新築といってよかった。
一番の目玉が、二階と三階を吹き抜けにして造った能舞台であることは、いうまでもない。能舞台を備えることが、純久の悲願だったからである。
目玉はその他にも、いくつかあった。
それ以前の「大和屋」には、座敷が三十二あった。しかしどの部屋も小ぶりで、一番大きなところでも三十畳だった。
純久は一つひとつの部屋を広くするために、座敷の数を三分の一の十に減らした。大がかりな宴会が増えつつあったからである。
「大和屋」の贔屓筋は政、財界の大物が多く、彼らは総じて、年齢が高い。
そうした客にきれいな空気を吸ってもらおうと、アメリカの原子力潜水艦が備えるような、強力な空気清浄機を特注してつけた。
その抜群の威力に真っ先に気がついたのは、白足袋で座敷に出る芸者衆だった。足袋が汚れないので、途中で履きかえなくてすむ、というようになったのである。
しかし純久にとってはそんなことより、何といっても能舞台だった。
前田青邨が鏡板(かがみいた)を描いた能舞台と向き合う座敷は、実に百畳敷きだった。その真ん中にすわると、純久は能楽堂にいるような気がして、もうそれだけで胸がときめいた。
能舞台を見ていると、上方の芸能文化を守り育てていくためにあれもしたい、これもしたいと、次々とアイデアが浮かんでくる。興奮を抑えることはむずかしく、男なら「武者震いがする」といいたいところだった。
もしかすると、崇高な目的のために身も心も捧げようとする自分自身に、酔っていたのかもしれない。
とにかくそういうときの純久は、遮眼帯(しゃがんたい)をつけた競走馬といってよかった。目ざすゴールしか、目に入らないのである。
「大和屋」の常連客は彼女を「おきく」と呼んでいたが、おきくの競走馬のような一面を評して、 「オニアザミきせつはずれのくるい咲き」 と、戯れ歌にする男もいた。
狂い咲きを最もハラハラして見ていたのが「池田のおじ」、池田勇人である。
昭和四十年四月二十八日、面目を一新した「大和屋」は、関西財界の要人を招き、盛大なお披露目をした。
純久が気をもんだのは、よりによってその日が、全国の私鉄の労働組合がストライキをする日になったことだった。
関西では南海、京阪、阪神、などの労組がストに入り、電車は一日動かないことになった。
そんな日に、いくら「大和屋」のなじみとはいえ、私鉄の社長たちが出席することはできないだろうと、純久は覚悟を決めていた。
ところがフタを開けると、純久の心配は吹き飛んだ。招待した私鉄の社長が、ほとんど顔をそろえてくれたからである。
池田勇人が出席できないことは、前もってわかっていた。
実はこの前年の昭和三十九年九月九日、池田は「国立がんセンター」に入院し、病名は「前がん症状」と発表された。
それから一カ月後の十月二十五日、退陣を表明した。
年が明けて「大和屋」のお披露目の日が決まると、純久のところに池田から、 「自分は出席することができないので、前尾繁三郎に代役を頼んだ」 むねの連絡があった。
前尾繁三郎は池田の盟友、池田派の大番頭である。
「おじは「そのかわり、五月のゴールデンウィークのあたりに選挙区の広島に帰るから、そのときに寄る」というてくれてはりました」
しかしその約束は、果たされずに終わった。七月末には病状が、東大病院に入院しなければならないまでに悪化していたからである。
純久にはしかし、病状の深刻なことがもう一つピンとこなかった。ノドの癌だというが、ガラガラ声は昨日今日のことではない。昔からそうではないか。
おじが本当にそんな厄介な病気だとは、信じることができなかった。
信じたくないという気持ちと同時に、純久は、最初に会ったときの印象で、池田にはどこか常人とは違うところがあり、乱暴ないい方をすれば、それこそ殺しても死なない、不死身のように思われてならなかった。
「はじめておじに会うたとき、びっくりしましてん。顔は、動物でいうたらカバみたいですやろ。もっと驚いたんは、耳の穴に毛ェはえてますねん。そんな人、見たことおませんさかい、ほんま、びっくりしましたわ」
池田は父の祐三郎が心底惚れこんでいるところからして、サムライには違いない。しかし、見かけも言動も後に阪大学長となる山村雄一と似たところがあった。純久には、野武士という方が当たっているような気がした。
あれは池田が総理になってからだったと、記憶する。
「京大和」に総理を迎え、小宴を催していると、表が騒がしい。何やら不穏な気配である。どういう団体なのか、「池田に会わせろ」といっているらしい。
池田はそれがわかると、 「よし、わしが会って話す」 と、単身玄関に向かった。
純久は、もし何かあったらと気が気ではなかった。
しばらくすると表が静かになり、池田は何事もなかったかのような穏やかな顔で、座敷にもどってきた。
その顔を見て、純久はハッとした。
「昔から「顔立ちは生まれつき。顔つきは作るもの」といいますやろ。おじはほんま、男の人って、こんなに顔が変わるもんかと思うほど、顔つきがようなってました」
池田の頭にはいつも、古巣の大蔵省の若手官僚を育てようという意識があったようだ。総理になってからも、大蔵省の人事異動があると、必ず純久のところに電話があった。
「「これこれの人間をしばらく大阪に勉強にやるから、お前、妙なことにならんように気ィつけてやってくれ」と、おじのいうことは、いつも決まってましたね」
池田のいう「妙なことにならんように」とは、女がらみの揉め事でキズのつくことがないように、ということである。純久も、そんなことは百も承知だ。着任した若手官僚が「大和屋」に顔を出すと、 「あんたら悪い遊びをするときは、私にわからんところでやりなはれ」 と、いうことは決まっていた。
若手は若手で、夜の京都、大阪で「大和屋」がどれほどの力を持っているか、先輩から聞かされている。危ない橋を渡るような者はいなかった。
一方の池田は、純久が全く別な意味で危ない橋を渡ろうとしていることに、早くから気がついていた。
彼は祐三郎が死んだとき、遺産相続の相談に乗っていたから、内情がわかっていた。「大和屋」を新しくするために遺産だけではとても足りず、借金をしたことも知っていた。
それだけでも大変なのに、純久は「大和屋」を文化の殿堂にすると、本気で考えている。
文化は、いってみれば贅沢な遊びである。パトロンがいてはじめてできることである。彼にすれば、「庭に金の生る木でもあるのか」といいたかったろうが、こうと決めたら一歩も退かない純久の性分は、よくわかっていた。
顔を合わせれば、「無茶をしたらあかんで」といい、関西の心の通じ合った財界人には、折あるごとに電話などで、「おきくのことを頼む」といっていた。
しかし同時に、彼は、東京より長い歴史を持つ関西文化が、かつての輝きをとりもどすことの意義や、必要性も、感じていた。
純久は池田の言葉の端々から、心のどこかで「いざとなれば、池田のおじが財界人に声をかけてくれるのではないか」と、思っていた。しかしその望みは昭和四十年八月十二日、木っ端微塵に打ち砕かれた。
その日、法事で上野の寛永寺にきていた純久は、池田の家族に呼ばれ、入院先の東大病院にいった。
純久には、ベッドに横たわる池田に深々と頭を下げることしかできなかった。病室を出て、さめざめと泣いた。
池田が息を引き取ったのは、翌十三日の正午すぎである。
その日は夕方から雷鳴とともに激しい雨になった。
純久は体中の力が抜け、病院の廊下から外の雨を見るともなく見ていると、後ろから肩をポンポンと叩かれた。振り返ると、日銀総裁の宇佐美洵(まこと)だった。
宇佐美は慶應義塾に学び、三菱銀行に入った。昭和二十九年に常務取締役、三十四年に副頭取、三十六年に頭取。翌年には、全国銀行協会の会長の要職をも務めるようになっていた。
純久が宇佐美を知るのは常務になってしばらくしてからだったが、父は東京府知事、貴族院議員を務めた宇佐美勝夫。実弟は宮内庁長官の宇佐美毅。母方の伯父は、日銀総裁を務めた池田成彬である。
銀行マンとしてこれ以上はない、という毛並みの持ち主だった。
現職の市中銀行頭取から日銀総裁になったのは、彼がはじめてだった。総裁になったのは佐藤内閣になってからだが、この人事は、池田のたっての注文だった。
宇佐美は純久にいった。
「お前も俺も、二階に上げられて梯子をはずされたな」
彼にしてみれば、官僚組織という“敵地”に一人、とり残された心地がしたのだろう。しかし純久にすれば、池田の死はそんな生やさしいものではなかった。
「私、首くくらなあかんのやないやろうか。父が死んだときでもそんなことは考えしませんでしたけど、あのときは、真剣にそう思いました」  
十三
昭和四十年は、証券不況の嵐が吹き荒れた年である。
阪口純久が大きな借金をして「大和屋」を新しくしたというのに、宴会の客は激減していた。そのさなか、最大の後ろ盾ともいうべき池田勇人を失なったのである。純久が絶望的な気持になったのは、無理からぬことだった。
この当時、「大和屋」は約五十人の芸者を抱えていた。大勢の芸者衆の他に仲居が二十人近くおり、調理場には三十人近い料理人がいた。若い女将の肩には、百人を超える人間の生活がかかっていた。
このときもし、純久に経済の仕組みがわかっていたり、算盤勘定ができていたりしたら、本当に首をくくっていたかもしれない。
「私、ほんまに呑気やってんねえ。借金の元金は返せんでも、金利だけは払えてましたやろ。火の車でも何とか回っていくやろ思てました」
もともと純久は、一生懸命に働いてさえいれば御褒美はきっとあるはずだと考える、楽天的なところがあった。
そして幸運なことに、このときはその通りになった。景気が徐々に回復し、大阪は万国博覧会によって、沸き立つことになったからである。
大阪万博の開催が決まると、純久は万博を芸者の地位向上の場、晴れ舞台にしようと考えた。
大阪市からは、四月二日が姉妹都市のサンフランシスコの日になっているので、「お祭り広場で宝恵駕籠(ほえかご)を出してくれ」といってきた。
「宝恵駕籠」は毎年正月の十日、「大和屋」で一番の売れっ妓芸者を駕籠に乗せ、街を練りながら「商売繁盛、笹持ってこい」の今宮戎神社までを往復する、ミナミの花街の恒例行事である。
「大和屋」のほかミナミの百五十人からの芸者衆に黒紋付を着せて駕籠を出すのは、かなりの物入りだが、市の頼みだから、それはまあいい。いずれにしろ、断るわけにはいかない。
しかし、宝恵駕籠は、いってみれば縁起かつぎのお遊びである。芸者の地位向上につながるとは、いいにくい。
純久が頭に描いていたのは、世界中からくる人たちに、芸者の磨き上げた芸を見てもらうことだった。
万博の事務局に掛け合ったが、にべもなくはねつけられた。言葉の端々に「芸者風情が」という響きがあり、いい感じはしなかった。
そこで「石坂のおじいちゃん」に直談判することにした。この人ならわかってくれそうな気がしたからである。
「石坂のおじいちゃん」とは――戦前から戦後にかけて、「第一生命」と「東芝」の社長を歴任し、「日本生産性本部」初代会長から、「経団連」の第二代会長を務めた石坂泰三のことである。
「財界総理」と呼ばれた石坂は、経団連名誉会長として大阪万博協会会長の座にあった。
「大和屋」には経団連会長のころから、ちょくちょくきていた。巨体に大きなゲンコツのような顔。鼻もまたゲンコツのようだった。
「そらもう泰然自若としてはって、「大人(たいじん)」いうのんは、こういう人のことをいうのやろなと思いました。お座りになっているだけで、重々しい感じがありました」
といって、堅い一方の朴念仁というわけではない。
「一緒にこられた方が「会長、今日はお歌いにならないんですか」とおっしゃいますでしょ。そうすると、長唄を歌われるんです。「鳥羽の恋塚」なんて、ほんまにお上手で、ちゃんと先生におつきになって、きちんとお稽古をされた歌い方でした」
昔の経営者には長唄や小唄のうまい人が多く、ダンナ芸の域を出た人も珍しくなかった。経営者として男同士のつき合いをするうえで、長唄や小唄は一種の“必修科目”になっていた。
政治家も同じで、純久は少なくとも昭和三十年代まではそうだったような気がしている。出世していく男に、人間としての幅と余裕があったのだろう。
石坂には茶目っ気もあった。
鐘淵化学が女性用の鬘(かつら)を開発したときのこと。「大和屋」を贔屓にしていた社長の中司清が芸者衆に、 「お前ら、これをつけて宣伝してくれ」 といって、鬘を配ったことがある。鬘がまだ珍しかったころである。
あるとき、「大和屋」にきた石坂が、 「護衛の諸君には申し訳ないが、わずらわしくてかなわん。だれかわからんように、変装したいぐらいだ」 といって、こぼした。それを聞いて純久は鬘を思い出し、芸者に持ってこさせると石坂に被せた。
「そうしましたらね、ムーミンパパみたいな顔になりはってね。それで大笑いして、「これやったら、絶対にだれかわからへんさかい、これ被って歩いてちょうだい」いいましてん。おじいちゃんは怒るどころか、ニコニコしながら、芸者衆に写真を撮らしてはりました」
万博協会会長になったとき、石坂はすでに八十を出ていた。しかし食欲は衰えを知らなかった。食べっぷりは「健啖家」というより、「大食漢」という方が当たっていた。
大きな仕事をする男に共通することの一つが大食で、石坂はその典型だった。純久は、食の細い大物というのには、会ったことがない。
「大和屋」の真向かいの「三玄」は、純久が父親に無断で出した三軒目の店という理由でこの名にした割烹だが、夜、石坂がふらりと立ち寄ることがある。付いてきた秘書が純久に、
「会長はお昼に肉をしっかり召し上がっています。控えめにお願いします」 と、耳打ちをする。
石坂の年齢を考えれば、もっともなことである。
「軽めにお作りして、お出しします。そうすると、「わしはこれだけの体をして、これからも、まだまだうごかなければならん。魚ばっかりでは、エネルギーが足らん。肉を食わせい」と、決まっておっしゃいました」
万博協会会長室に石坂を訪ねた純久は、「芸者も大阪市民の一員です。万博に出してやってください」と訴えて、熱弁を振るった。
石坂の返事は拍子抜けするほど簡単なものだった。
「芸者も、出たらいい」
そういっただけだった。しかし、それはまさに「ツルのひと声」となった。関西財界が「ミナミ、キタ、新町、堀江の四花街の催しにするなら、金を出そう」といったのである。
純久は花街を回り、「万博は大阪の心意気を見せるチャンスやさかい、まとまりましょ」と説いて歩いた。そして四花街から二百人の芸者衆を出し、舞台には、日本の四季を題材にした新作の舞踊をかけることにした。
万博の開会式を翌日にひかえた三月十三日夜、「大和屋」の座敷は、大蔵省、外務省、それに国鉄の大きな宴会でほとんど埋まった。その夜だけで、二百人を超える客があった。
五月には、二十五日の「ナショナル・デー」の式典のために来日したエチオピアのハイレ・セラシェ皇帝が「大和屋」にくることになった。
外務省からの連絡では、 「皇帝は王女を同伴し、王女が犬を連れてみえる。犬用の座布団と食事を用意するように」 という。
座布団は何とかなるとしても、エチオピアの犬はふだん、どんなものを食べているのか。純久は何回か、外務省に問い合わせねばならなかった。
キモを冷やしたのは、大阪府警から、 「皇帝を狙う暗殺団が入りこんでいるようだが、姿を見失なった。気をつけてもらいたい」 といわれたことだった。「気をつけてくれ」といわれても、どうすればよいのか、素人にわかるわけもない。
「もし何かあれば切腹ものや思て、お帰りになるまで、神棚にお灯明あげて、手ェ合わしてました。結局、暗殺団も犬も現れず、取り越し苦労ですんで、やれやれでした。皇帝は大層小柄なお方でしたけど、威厳がおありでした。立居振舞が凛とされていて、芸者衆と「カッコいいお方やなあ」と、話したものです」
六月になると、二十二日のフィリピンの「ナショナル・デー」に出席するために来日したイメルダ・マルコス大統領夫人を迎える宴が「大和屋」で催された。
「あんなに華やかなお方は、見たことありません。座敷にお入りになった瞬間、光が差しこんだようでした。能舞台がお気に召したようで、舞台で「荒城の月」を日本語で歌って下さいました」
三月十四日に開幕した大阪万博は、九月十三日までの百八十三日間に、六千四百二十一万余人の入場者を記録した。
「経済大国日本」を内外にアピールするうえで、大きな役割を果たしたイヴェントだった。
阪口純久が石坂泰三のひと声で企画した芸者衆の舞台は、万博ホールで三日間、繰り広げられたが、舞台美術は純久が親しくしている舞台美術家の朝倉摂が担当するという、本格的なものだった。
最後は、黒紋付の芸者衆約百人が舞い、その後ろには、やはり百人近い地方(じかた)が並ぶ、絢爛豪華なものとなった。そして、指揮者なしに三味線と唄を呼吸ひとつで一糸乱れずに演奏する日本独特の奏法は、海外からの賓客を驚かすに十分だった。
「大阪おどり」と銘打たれたこの舞台は、各国の大使館から絶賛を浴びることになったが、阪口純久が一番うれしかったのは、おじいちゃんに誉められたことだった。
石坂泰三は、こういったのである。
「芸者は軽く見られとったろ。それが、これだけのことをやった。ここまでくれば、立派な芸術だ。よくやった。オレも鼻が高い」
こうして、昭和四十五年は「大和屋」が「大和屋」らしかった、最後の年となった。  
 
この話で思い出しました。私は東京本社の駆け出しセールスエンジニアでした。
大阪支店長の接待術です。
大事なお客様は、ここで食事をし、市内のクラブに繰り出しました。ここ一番の高額受注案件や、盆暮れの挨拶がわりの接待では、ここで待ち合わせ、ハイヤーを飛ばして祇園まで行きました。
何回か、末席で「接待」を見て覚えさせていただきました。安い酒を飲ませてはいけません、年に一度の接待でも結構、記憶に残る楽しさを味わってもらうことが大事なことと。
 
岡本かの子・斎藤茂吉・永井ふさ子

 

宥(ゆる)されて生きる
かきさぐるものこそ何と問はるれば ただかきさぐるものと答へむ 岡本かの子
わたしは禅に関してほとんど何も知らないのだが、この歌に出会ったときに、禅とはこのようなものなのではないかと思われた。人生だの、生き方だの、真実だのと意気込む肩の力がふっと抜けていく感じがした。しかも、多数の男性との恋愛に身を委ねて生きる奔放な女性作家が、ついに至りついた境地として、ふかく心に残ったのである。この歌は、かの子の死後に夫の岡本一平が編んだ遺歌集「歌日記」に収められている。
十方界が濃い霧に包まれたこの世のなかで、わたしはひたすら何ものかをかきさぐりながら生きてきた。また、これからもそうして生きて行くしかない。そういう様子を見る人がいて、ふと、「あなたが探っているそのものは何か」と尋ねられたら、その時、わたしは「ただかきさぐるもの」とだけ答えよう――。
「掻き探る」でも、「書き探る」でもいいのだろう。降りつもる長く厚い時間の層から、ひたすらに生きる作者の姿が浮かびあがってくるようだ。人はそうやって、人それぞれの孤独のなかを生きているのだろう。甘い愛恋の歌や、ナルチシズムに満ちた歌を作り続けてきたかの子の、晩年の会得のこころといって過言ではない。この世というものを言い得た、精神性の高い一首に仕上がっている。
明治二十二年、かの子は、大地主である「大和屋」大貫家の長女として生まれた。大和屋のあった東京世田谷の二子新地には、当時四十八蔵もあった蔵の一部がいまも保存されている。そこでかの子は、何不自由のない、大変にぜいたくな娘時代を過ごしたのだった。
しかしその甘やかな幸せは、二十歳で流行漫画家の岡本一平と結婚してすぐに崩れ去ってしまう。人一倍に男性の愛情を欲する多感なかの子は、一平の放蕩に耐えきれず、二度も自殺未遂を企てた。その日々から四十九歳で亡くなるまで、かの子の奔放で異様な生命力は、周辺の人々を巻きこみつつ渦となって吹き荒れたのである。かの子と一平が精神的に行きづまって選んだ生活は、夫婦とかの子の恋人が同棲するという異形のものだった。まだ家父長制度の厳しかった当時にあって、世間の非難の嵐は想像に余りあるものとなった。
煩悩に苦しみながら、ついにかの子の至りついた拠り所が仏教の教えだった。三十二歳のかの子は、鎌倉建長寺の原田祖岳師に観音庵にて「正法眼蔵」の講話を受け、参禅の日々を過ごす。その後に、高楠順次郎の指導により「大蔵経」を読み、かの子は歌人から仏教随筆家へと変身していった。
かの子と一平のいわゆる「魔の時代」を救ったのが仏教の教えであった。そのことは、晩年に奔流のように創作されたかの子の小説を語るうえでも重要な転機となっている。世間からは気が狂ったと思われた救いようのない日々に、一条の光があてられた。それが、生命のままに宥されて生きる、ということだったのである。かつて、
桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり
いっぽんの桜すずしく野に樹(た)てりほかにいっぽんの樹(き)もあらぬ野に
狂人(まちがひ)のわれが見にける十年まへの真赤(まつか)きさくら真黒(まつくろ)きさくら
桜花(はな)のあかり厨(くりや)にさせば生魚(なまざかな)鉢に三ぼん冴え光りたり
生ざかな光りて飛べりうす紅(べに)の桜の肌の澄みの冷たさ

「欲身」所収 と情熱のほとばしりを持て余してうたったかの子。そのかの子が、この世はただ「かきさぐるもの」のみであると達観するまで、どれほどの苦悩と情熱の炎が燃やされたことだったろう。歌は、その時その時の、作者のみずみずしい息吹きをそのままに伝えてくれる。そして歌と歌の間に広がる白い空間には、ひたすらに生きた一人の女性の涙が溢れているのである。
あはれひとつの息を息づく
光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく 斎藤茂吉・永井ふさ子合作
同時多発テロが起こった2001年9月11日以降、すべてのものの見方が大きく変わった。政治向きのこととか、「これ以上血を流して欲しくない」という戦況に対する感慨だけではない。何気なく見ていた日々の風景が、自分でもおやと思うほど違って感じられる。
わたしは無類の映画好きで、これという新作はかならず映画館で観る。どのような凡作でも、映画代を損したとは思わない。ああいう爆発テロのシーンは、それこそ特殊撮影やCG画面で何度も観た光景である。映像では見慣れた場面だったが、テレビに映った現実の突撃は違った。テロ以前に作られて、いま公開中の新作「ソードフィッシュ」にも、超高層ビルにヘリが突っ込むシーンがある。このたび客席にいて、観客のほうに、ゆとりをもって荒唐無稽なシーンを眺める楽しさが失せていることに気づいた。
現実のほうが空想を超えてしまった日付、それが2001年9月11日だったのではないだろうか。映像がそうならば、では言葉のほうはどうなのだろう。「歌」はどうなのか、客席にいながらしきりにそのことが思われた。
掲出歌は、斎藤茂吉の晩年の恋人だった永井ふさ子が、茂吉と合作した歌である。というよりは、上の句を茂吉が作り、ふさ子に下の句を付けさせたものである。「光放つ神に守られもろともに」の下に句を付けよという、ふさ子宛の茂吉の書簡が残っている。ふさ子は初め「相寄りし身はうたがはなくに」としたのだが、「弱い」と言うので、「あはれ一つの息を息づく」にしたら「大変いい」と言われた、と後に記した。
茂吉55歳、ふさ子27歳のときの合作であり、恋が成就したころの歌であった。茂吉とふさ子との出会いは、昭和9年、正岡子規三十三回歌会の席だった。茂吉は、歌友である平福百穂と中村憲吉を病いに失い、妻てる子のスキャンダル事件に悩まされ、ひとり失意の底にあった。ふさ子の父が子規の幼友達だったことが、二人を親密な思いに駆り立てたといわれている。
ふさ子の遺歌集となった「あんずの花」(平成5年刊)に永井ふさ子のポートレートが掲げられている。出会いのころの写真である。その光り輝く美しさを見ると、子規のゆかりであろうとなかろうと、茂吉が息を呑んで心惹かれたことは容易に想像できる。
茂吉から送られた手紙は150余通あった。のちに不安になった茂吉から焼き捨てるように頼まれるのだが、ふさ子は30通余りほど焼いて残りを保存した。ふさ子が時を経てからそれを公開したために、秘めていた恋があからさまになったのである。
どちらが悪いというのではない。恋というものは、醒めてみると、そういうような現実的な事態に押し潰されるものである。あからさまになるとまずい、と分かっていながら、「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか」などと150余通の恋文を書き送ってやまない。それが、歌びとであり人間なのである。
茂吉はこの恋を捨て、養子先の斎藤家とアララギの宗匠としての面目を選んだ。それにもかかわらずふさ子は、一度は別の男性と婚約するのだが、茂吉のことが忘れられずに一生を独身で通した。それも、ふさ子という歌人の意思であり選択なのである。どちらが悪いなどの詮索はつまらないことであろう。
だが、わたしは一つだけ心を止めたいことがある。それは、ふたりの恋の歌(性愛の歌)の師と弟子の合作が、わたしにとっては眼もくらむばかりに官能的で、妬ましいほどの力を持っていたことである。それが、9月のテロ事件を経たいま読み返しても、同じ感想をもって迫ってきた事実なのである。
ふさ子は才能のある歌人とはいえない。茂吉との恋愛事件がなければ、美しい若い歌仲間として、アララギ歌人の思い出にのみ残った女性にちがいない。てる子夫人の行動から推察しても、茂吉が男性としてそれほど魅力的だったとは思えない。だが、茂吉は類稀な言葉の錬術師だったのである。ひとえに、歌の道の優れた師とその弟子という関わり方に、普通ではない不可思議な官能の力があるように思えてならない。わたしは、その官能世界が、テロによっても浸食されなかった不思議を思うばかりである。
「あはれひとつの息を息づく」……。実際に、茂吉とふさ子の現実の恋のありさまをのぞくことができたとしても、掲出歌が漂わせる甘やかな吐息の切なさには叶わないのではないだろうか。
ふさ子の唯一の歌集であり遺歌集となった「あんずの花」に、60歳後半の歌が記されている。昭和28年の茂吉の死もニュースによって知ったほど、縁の切れていたふさ子が、49年に茂吉のふるさとを訪ねた折りの歌である。
過ぎにけるひとつ嘆きもおくつきになに愬へむ淡き秋の日
言絶えてわれは額伏すにいのち相触れし縁おもひて
遺されし背広の前に息をのむその腕に胸にし甦るもの(茂吉記念館)
最上川の瀬音昏れゆく彼の岸に背を丸め歩む君のまぼろし
小国川瀬見のいでゆを浴みにけりやうやく君の齢に近く
何年経ってもふさ子の心のなかでは、まるで現実さながらに、恋したときの茂吉の息が流れていたのである。  
砂に生れて我は居るべし
たまきはる命をはりしに 砂に生れて我は居るべし 斎藤茂吉
子供が少年や少女になっていこうとする微妙なとき、誰にも、成長期にともなう不安のようなものが襲ってくる。大人になってみれば何でもないのに、人知れずコンプレックスを抱いて苦しんでいたりする。わたしにも、さまざまに悩みつづけた日々があった。だが、そういう負の思いを、なんとか別のエネルギーに託す努力をしていたように記憶している。このごろは、盗みや苛めや殺人に直結させる少年少女が増えてきた。人間には、コンプレックスやトラウマを、文学や芸術など別の「表現」に変えることのできる大きな力がある。そのことを伝えたい思いにかられる現在である。
「歌の神様」といっていい斎藤茂吉にも、深いコンプレックスがあった。どの教科書にも載っているから、誰もが一度は彼の歌を読んでいるだろう。「死にたまふ母」とうたって、母の死をせつせつと訴えた歌人である。茂吉が何故、せつせつとして自分の母の死をうたったのか。養子だった茂吉は、現実に暮らしていた斎藤家の養父母や妻子よりも、自分の故郷や父母兄弟に殆どの重心を置いてうたっていた。それは何故だったのか。そこに、抑圧された自分のアイデンティティーを守ろうとする、茂吉の負の思いが渦巻いていたのである。
明治15年に、山形県上山市の農家であった守谷家の三男として生まれた茂吉は、大変に優秀な少年だった。明治29年、見込まれて、浅草で病院経営に成功していた遠戚、斎藤紀一の養子となるために上京した。後の青山脳病院である。そこからが、青年茂吉の苦悩の始まりとなった。優秀ではあったが、つよい訛りのある言葉、いかにも田舎の青年といった容姿、そのうえ、斎藤家に男子が生まれたために、養子というよりは居候から入り婿への形をとらされたこと、さらには、女子学習院に通っていた派手好みの「幼妻」との齟齬に苦しんでゆくのである。
農村の稲作文化と新興都市文化とが、突然一つの家に同居したといったらいいだろうか。当然のように、その家においては、古い農村文化を象徴する茂吉が萎縮して暮らすようになった。だから茂吉は一心不乱に勉強した。大きな、いくつものコンプレックスが、追い風となって茂吉を走らせていった。
そういう目で、斎藤茂吉の歌を通読していると、ごく自然にある特色に気づく。「砂」や「塵」「埃」といった微細なものの運動をうたった作品が、全作品の通底音のようにしばしば現れてくるのである。わたしの好きな歌が多いので、いくつか抄出してみたい。
かがまりて見つつかなしもしみじみと水湧き居れば砂うごくかな 「赤光」
ほこり風立ちてしづまるさみしみを市路ゆきつつかへりみるかも
細みづにながるる砂の片寄りに静まるほどのうれひなりけり
電燈の球にたまりしほこり見ゆすなはち雪はなだれ果てたり
春のかぜ吹きたるならむ目のもとの光のなかに塵うごく見ゆ
こういう、微細なものの運動に潜む悲しみをうたった作品は、「赤光」から始まって、「あらたま」「つゆじも」「ともしび」「石泉」など、つづく歌集の中にひっそりと置かれている。茂吉は顕微鏡をのぞいて脳の組織を研究していたから、微粒子の運動をつねに意識していたのかもしれない。密かだが、それが歌集の響きとなっており、ずいぶん良い歌があるように思われる。興味深いのは、文化を異にしていた「幼妻」のことも、そういう微細なものの象徴のようにうたった小品があることだ。「あらたま」の歌であるが、このころは、結婚して婿養子となったものの、「妻」には恋愛中の若い医師がいた。複雑な事情が背後に潜む歌集であった。
妻とふたり命まもりて海つべに直つつましく魚くひにけり  「あらたま」
きぞの夜に足らひ降りけむ春の雪つまが手とりてその雪ふます
みちのくのへ入らむ山がひに梅干しふふむあれとあがつま
後の資料などによると、本来の「幼妻」は、このような慎ましい女性ではなかった。新しい自由気儘な女性で、雪が降れば、茂吉がおずおずと手を取るまでもなく、一人で飛び出していくような女性だった。だが、ほんの一瞬、「つつましく」魚を食べ、梅干しを含んだこともあったにちがいない。この一連は、茂吉の理想とする妻の姿であって、決して有りのままの妻を写したものではない。茂吉の大きなコンプレックスが、ほんの一瞬のつつましい妻の姿を、歌に永遠に止めようとしたのである。
こういう妻の歌の中にも、わたしは、先に挙げた砂粒のような悲哀が流れるのを感じている。微細な粒子の運動を、繰り返しうたっていた茂吉の心には、目に見えぬ「微細な粒」でさえ生きて運動しているという意地があり、大きな抑圧への反動があったのではなかったろうか。
では、茂吉は何故、養子先の医院に潜む時代の闇のようなものを見つめ、そうして、新興都市型の生活者のもつ文化への批評などを、同時に歌にしてこなかったのか、ということが思われる。あるいは、自分のコンプレックスとはパラレルになっていたであろう、「幼妻」のコンプレックスにまで届く作品がまったくないのは何故なのだろう、ということである。今でこそ精神科医といえば通りのよい職業であるが、当時の「狂院」「狂人守」の娘として、華族女学校に通っていた彼女の複雑な心の屈折には、茂吉の思いは全く及んでいない。彼女の密かな負の思いが、茂吉の思いもよらない「派手」な表現をとりつづけた、そういうことがあったのかもしれないのである。
負の思いを晴らそうとして、自己のアイデンティティーを「故郷」に打ち立てようとするあまり、茂吉は、一方の世界を遮断していたのではないだろうか。こうして時代を経てみると、そのうたわれなかった闇が、あの密かな砂粒として命をうたった、茂吉のコンプレックスの激しさとして立ち現れてくるのである。
冒頭に掲げた一首は、昭和二十五年に出版された「ともしび」に収録されている。後の世を砂粒になって生きること、それは六十代後半になった茂吉の、こころからの願いだったにちがいない。  
 
韓日につきまとう歴史の影とその克服のための試み

 

1 転換期を迎えた韓日関係 
1-1 韓国と日本はどんな関係なのか?
今年二〇〇五年は、韓国と日本が改めて国交を正常化してから四〇周年に当たる。もともと両国の政府はこの節目に際し、最近急速に深まりつつある両国民の交流と友好を更に発展させるために、今年を「韓日友情の年」と定め、大々的な記念行事と文化イベントを催す予定であった。実際に、韓日関係は過去四〇年の間、紆余曲折を辿ってきたにせよ、今は年間四百万人もの人々が往来し、七兆円の交易が行われる間柄になった。自国の対外経済関係で相手が占める地位は、世界で一あるいは三位に達するほど大きい。そればかりか、両国民の文化交流でも以前には想像もつかなかった状況が現れている。日本では、韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」の放映をきっかけに韓国の文化(料理、テレビドラマ、映画、エステ美容、韓国語など)に対する関心が高まり、いわゆる「韓流ブーム」が勢いを見せている。韓国でも、日本の大衆文化の輸入開放を機に、日本の文化アニメ、漫画、ゲーム、ファッション、映画、日本語など)を楽しむ人々が急増している。とくに、若者の間ではいわゆる「ニッポンフィール」(NipponFeel、日本趣味)という新しい流行が生じている。
韓日関係がこのように改善の道に乗ったのには、サッカーの二〇〇二年ワールドカップの共同開催の成功を見逃すことは出来ない。歴史的に反目と対立を繰り返してきた両国民の間からは、これをきっかけに、世界的規模のイベントをともに成功させたという達成感が感じられた。当時、「東亜日報」と「朝日新聞」の世論調査(二〇〇二年七月二〜三日)によると、相手国についてもっと親近感を感じるようになったと答えた人は、韓国五四 %、日本五三%で、半年前(二〇〇一年一一月)の調査よりも韓国は一三%、日本は七%増加した。また、これから韓日関係はもっとよくなると展望する人も、韓国七九%、おなじく日本七九 %となり、半年前より韓国は二七%、日本は一五%増加した。ワールドカップの韓日共同開催がよかったと答えた人は、韓国四二%、日本七四%であった。これで分かるように、いまの「韓流ブーム」と「ニッポンフィール」の背景には、実は、両国が取り組んだ共同プロジェクトの成功という地ならしがあったのである。したがって、両国の政府がこの経験をふまえて今年を「韓日友情の年」と定め、国交正常化四〇年の歴史を祝い、またその延長線に、バラ色の未来を描こうとしたことも全く不思議ではない。
1-2 歴史認識の呪縛
しかし、二〇〇五年二月に入ってから事態は一変した。韓国で日本の「歴史認識」(ここでは日本の独島領有権主張、『新しい歴史教科書』の検定合格、小泉首相の靖国神社参拝などにかかわる歴史認識の全般を一括して指す)を批判するうねりが激しく巻き起こった。韓国の大統領は「外交戦争」をも辞さないという勢いで日本の歴史認識を正そうとしたが、日本政府がかたくなな姿勢で反論を繰り広げ、韓国と日本の政治外交関係は「韓日友情の年」どころか溝が深まり、険しい状態がいまだに続いている。
そのせいか、「韓国日報」と「読売新聞」の共同世論調査(二〇〇五年六月一〇日)によると、韓国人の対日不信感は九〇%にはねあがり、日本人の対韓不信感は三五%に達した。また、過去一〇年間、両国民の相互理解は深まったのかという問いに対して、肯定の答は、日本人は五二・六%から五二・八%へわずかに増加した反面、韓国人のそれは四五・八%から二七・九%へ大きく減少した。一方、私も出演したNHKのBS討論番組(二〇〇五年六月一九日夜の放送「日韓の課題いま語りたい」)にネットで投稿した日本人の世論は、韓国に対する不信感がほぼ一〇〇%であった。そればかりでなく、彼らの中には嫌韓のあげく「国交を断絶すべし」という主張も少なくなかった。韓国人が憂慮しながら見守ってきた二〇〇五年十月の小泉首相の靖国神社参拝は韓日の歴史認識の溝をもっと広げるにちがいない。
以上で見たように、いま韓国と日本の関係は友好と対立の分かれ道でさまよう転換期を迎えているのである。  
2 韓日の歴史認識と歴史教科書

 

2-1 なぜ歴史認識なのか?
そもそも、近代以来の国民国家は国家に帰属する意識を持つ国民によって支えられている。国家に対する共同体意識は今日でも我々の日常生活と国際交流に様々な影響を与える要素である。だからこそ、たいていの国家は国民意識の形成のために「我々の物語」としての歴史説話を教え込み、また様々な方法で国民としてふさわしい歴史認識を育てようとする。
歴史教育と歴史教科書は国民の歴史認識を育むのに有効な手段である。しかし、それが隣国あるいは他国を無視して極端な自国家中心主義とか自民族中心主義に傾くと、国粋主義あるいは排他主義に走りやすい。それが結局国家・民族間の戦争と虐殺につながったことは過去二〇〇年の世界の歴史が証明する。
韓国と日本の間にも歪められた歴史認識が不幸な結果を招いた経緯があり、今もその名残が懸案として尾を引いている。すなわち、国交正常化四〇周年を迎えたにもかかわらず、韓国と日本が歴史認識を巡って激しいやりとりを交わす事態を見ると、両国は未だ歴史の呪縛から解かれていない事がはっきりと分かる。韓国の場合は、侵略と支配に対する日本の歴史認識が戦前のそれから完全に脱皮していないと疑う反面、日本は過去の不幸な出来事についての反省と謝罪は、不十分かもしれないが、もう終わったとの立場である。
歴史問題に対する両国民の態度の隔たりをよく表す統計がある。ワールドカップの直前、ソウル大学校と東京大学の新聞が両校の学生を対象にして行った世論調査(二〇〇二年五月二七日)では、韓日関係の改善のために最も重要な仕事として、ソウル大生の七三・二 %は「歴史問題の清算」を、東大生の六〇・七%は「経済文化の交流」を最も多く挙げた。また、日本の首相の靖国神社参拝について、ソウル大生の七二・八%、東大生の一六・三 %が反対の意見を出した。これを通じても、韓国人は歴史問題にけじめをつけることを望み、日本人は現実的交流の利益を重んじることがよく分かる。だから、歴史問題に対する両国民の意識の偏差を埋めなければ、高まりつつある相互友好親善の雰囲気はいずれ覆されてしまう危険性がある事が窺える。実際に、今年の韓国と日本の確執と葛藤は、歴史問題というマイナスシンボルが、「韓流ブーム」と「ニッポンフィール」というプラスシンボルを吹き飛ばす結果となったよい例であろう。
ふりかえってみれば、今年は、日本が大韓帝国を植民地化するきっかけを作った第二次韓日協約の締結から一〇〇周年、韓国が日本の植民地支配より解放され独立したことから六〇周年、という別の意味での重要な節目でもある。韓国政府はこの節目に当たり、国内で近現代史が残した負の遺産を整理する政策を次々と打ち出してきた。だから歴史の専門家たちはいずれ韓日のあいだでも歴史問題をめぐる葛藤が大きく浮上するだろうことは早くから予測していた。実際、私も両国の政府がバラ色の幻を追っていることを控えめに見守りながら、いつそれが破綻するのか心配していた。
では、韓国と日本のあいだにはなぜ歴史の影が色濃くつきまとうのか?その根本的な原因は、日本の歴史認識とくに韓国と関わりのある歴史に対する日本の認識が戦前に形成された「植民地史観」、または「皇国史観」から完全に抜け出さなかった部分があり、韓国が事あるたびにそれをしつこく追及して、お互いの対立と緊張が収まらないからである。
ここではその全貌を明らかにする余裕がないので、とりあえず韓国側の言い分に沿って話を進めていきながら、ところで日本との比較につとめたいと思う。特に話題の中心を日本の歴史教科書と歴史教育に置きたい。韓国人は、日本人の歴史認識が歴史教科書によく反映され、またそれを用いる歴史教育を通じて育まれていると思うからである。ここで一つ断っておきたいことは、韓国人が日本人の歴史認識に関心を寄せるのは、たんに不幸な韓日関係に由来する警戒心のためだけではないという点である。韓国人は、国際化・情報化が急速に進み、他国家・他民族・他地域との共存共栄と相互協調がさらに切実に求められる今の時代に、果たしてどのような歴史認識をもって他の国とつきあえばよいのかについて迷っている。原論的にいえば、現代の歴史認識は民衆レベルの国際理解を深めるのに役立たねばならない。しかし、現実的に表れている各国の歴史認識は、程度の差こそあれ、自国中心主義的であり、ナショナリズム的な傾向を抱えている。このような歴史認識は国家・民族・地域の相互間の摩擦と対立をあおり、国際理解にマイナスに作用する場合も少なくない。貿易額が国民総生産の70%に達する韓国は今や自国中心主義とかナショナリズムだけでは通じない国柄になっている。しかしながら、南北に分断された民族と国土を統一するためにはナショナリズムをある程度強調しなければならない。このような苦悩の中で、かつて極端なナショナリズムを標榜した経験を持ちながら、いまは民主化・多様化・国際化の方向へ進んでいく日本の歴史認識は、韓国にとって「他山の石」でもあるのである。だから、韓国は日本の歴史教育と歴史教科書を批判するだけでなく、実際はそれから学ぶことも多いのである。 
2-2 日本の歴史教科書の特徴
戦後日本の歴史教育と歴史教科書は「皇国史観」を払拭し、市民の民主的資質を養うのに大きく貢献した。ここでは、現代の日本人の歴史認識の方向を導くのに重要な役割を果たした歴史教科書の特徴について述べたい。それにはさまざまな側面があるが、とりあえず次のいくつかを挙げることができるであろう。
第一に、自国史と世界史の二つの種類に分かれていること。中学校の歴史教科書は日本史を中心にして、それに関連する世界史が入り込んだ形になっているが、高等学校の歴史教科書は日本史と世界史が全く別々である。この点は日本を含む東アジア地域(中国・韓国・台湾・北朝鮮)に共通する特徴であるといえる。お互いの国同士で人間と物資の交流が非常に頻繁であるにもかかわらず、この地域がいまだにナショナリズムが強いのは、自国史と世界史の分離教育に多少でも影響を受けているのではないかと私は思うが、それが正しいか否かはもっと調べてみる必要があるだろう。
第二に、小学校・中学校・高等学校の各段階で、内容の詳しさと深さはそれぞれ違うけれども、原始時代から現代までの歴史を繰り返し教えるように書いていること。いわゆる通史を丹念に教え込む形なのである。この点では韓国が日本よりもっと徹底しているかもしれない。これは両国とも一見歴史教育を重んじているように見える。が、同じ事を繰り返して教わる生徒は歴史の学習に飽きて興味を失うことになるだろう。
第三に、教科書が文部科学省の強力な行政指導のもとに編纂されること。日本の教科書は学習指導要領にしたがって書かれるし、その取り扱い方は検定を通じて几帳面にチェックされる。文部科学省は、教科書の内容はもちろん、定価と分量などの範囲までも提示する。先進諸国の中で、政府が教科書に日本のように強く介入する国はない。教育部が自国史の教科書を編纂する形をとっている韓国の方も同様であるが、両国の事情に詳しい私から見れば日本の方がもっと厳しい一面もあるように思われる。しかし韓日のどちらがより巧みに規制を行なっているのかについてはもう少し検討してみるべき余地がある。
第四に、世界史の教科書は世界の各地域を比較的バランスよく扱っている。しかし、書き方の中心は西ヨーロッパ史であり、東北アジアについては中国、特に漢民族の歴史が柱になっている。ほかの国と民族に対する叙述はばらばらで断片的である。韓国の歴史とか韓日関係の歴史については、その実態と重要性に比べて、分量が少ないし、内容も短絡的である。歴史教育が近隣諸国との理解を深める方向へ向かっている最近の事情を考えれば、韓国史と韓日関係史の分量と書き方にはもっと配慮すべき点がある。
第五に、高校の世界史教科書には、自国史がほとんど含まれていない。同じく日本史教科書には世界史が含まれていない。教科書上で日本史と世界史は互いに孤立して書かれているのである。これでは自国史と世界史を関連させて理解するのには妨げとなる。また自国史を世界史からはなれた特殊な歴史として受け止める可能性もある。中学の歴史教科書でさえも自国史と世界史が分離されている韓国の場合は、その被害はさらに深刻であろう。
第六に、日本史の教科書は縄文時代・弥生時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代など、むかし日本でつかわれた道具や権力の基盤がおかれた地名になぞらえた時代区分や歴史用語を頻繁に使用している。これは自国史の流れと個性を独自の概念で理解するのには有効であるが、自国史を世界史の中で他国史と比較して把握するのには不便である。この背景には日本史を特殊史ないし固有史として位置づけようとする意図が潜んでいるのかもしれない。が、日本史を世界史との関連で理解するのに適当であるとはいえない。この点だけを見ると、ナショナリズム的性格が強いといわれる韓国の自国史教科書よりも、日本の日本史教科書がさらに自国中心主義的であるといえよう。 
2-3 改善しつつあった日本の歴史教科書の韓日関係史記述
以上のような特徴を持っている日本の歴史教科書は、韓国の歴史に関連する部分をどう取り扱っているのか?その特徴については前節ですこしふれたことであるが、ここでは最近一〇年あまりの間に、その記述の方法と内容がどのように変化してきたのかを概観してみたい。
まず挙げられることは、韓国の歴史に関連する記述の分量と内容がたいへん粗略である。三五〇〜三八○頁ほどの高校の歴史教科書の中で、韓国史に関わる内容は二・八%(日本史教科書では四・五%、世界史教科書では一・三%)にすぎない。これは南北の韓国・朝鮮に関する内容を合わせての分量である。中学の教科書も同様である。これは、日本の歴史教育が韓国史の取り扱いを軽視していることを端的に示すよい証拠だといえよう。
韓国の歴史についてあまり教わっていない日本の生徒は、当然韓国の歴史に関する知識が乏しいし関心も低い。彼らは韓国の歴史は言うまでもなく、韓日関係史についてあまり知らない。逆に韓国の学生は韓日関係史、特に近代の韓日関係史に関しては詳しい。だから、日本と韓国の学生は韓日関係史に対する知識の量とその見方に大きな隔たりがある。
ところで、日本の歴史教科書の韓国史に関連する内容の記述は、一九九四年以降ずいぶん変わってきた。それ以前にも文部省の部分検定を受けるたびにその内容が少しずつ変わってはきたが、それは基本的に一九七八年に施行された学習指導要領の枠内で起こった変化にすぎなかった(以下、この時期の歴史教科書を旧教科書と呼ぶことにする)。一九八二年に東アジア諸国に波紋を広めたいわゆる日本の歴史教科書の「歪曲事件」は、この学習指導要領による検定から起こったものであった。一九九四年以降の歴史教科書は、一九八九年に、改訂・告示された学習指導要領に基づく検定を受けた。これ以後文部省は「近隣諸国に対する配慮」の次元で検定を緩和したために、教科書の執筆者と出版社は日本のアジア侵略と植民地支配に関する内容を、ある程度自由に記述することができた。(以下、この時期の歴史教科書を新教科書と呼ぶ。ただ、断っておきたいことは、新教科書には二〇〇二年以後いままで使われている中学校の歴史教科書は含まれていないことである。この教科書は二〇〇〇年の学習指導要領の改訂によって教科書の分量が三分の一くらい減らされ、韓国史関連部分もずいぶん少なくなった。これについては稿を改めて検討する必要がある)
それでは、日本の新教科書では韓国史に関する記述が、旧教科書と比べてどのように変化したのか。一九八二年の歴史教科書の「歪曲事件」以来、韓日の間で議論の的になってきた、日本の韓国に対する侵略と支配に関する記述を中心にして概観してみよう。
第一に、出版社別に程度の差こそあれ、新教科書は日本の韓国侵略と植民地支配に関する記述の分量を、旧教科書より一〜二頁増やした。そして大部分の新教科書が「義兵運動」、「皇国臣民化政策」、「強制動員(徴兵・徴用・従軍慰安婦など)」、「韓国人の抗日運動」などの項目を新たに追加し、少し詳しく説明するようになった。特に一九九四年から高校、そして一九九六年からは中学の新教科書のほとんどすべてにおいて、「従軍慰安婦」に関する記述が見られるようになったのは、注目すべき傾向であった。「自由主義史観」を標榜する右寄りのナショナリストが、新教科書に対して攻勢を強めたのはこのことが一つの原因であった。その成果もあって、二〇〇二年以後の中学校の歴史教科書では「従軍慰安婦」に関する記述がほぼ消えてしまった。
第二に、新教科書では現在でも韓日間で懸案になっている事項を、歴史的な観点から記述する場合が多くなった。例えば、戦後補償の問題と関連して強制連行と原爆被害者問題を取り扱うとか、人権運動と関連して在日韓国人・朝鮮人の差別問題を記述したりしている。こうしたやり方は、歴史学習の究極的な目的が、当面する課題を解決するのに役立つ歴史能力を養うことにあることを考慮すれば、望ましい試みであるといえる。
第三に、新教科書は韓・日の連帯の事実を掘り出し、紹介しようとしている。いくつかの新教科書では、たとえ人の数は少なく、またその試みが消極的であったとしても、日本の韓国に対する侵略と支配に批判的であった石川啄木、柳宗悦、石橋湛山などの思想と行動を紹介した。これは歴史を学ぶ世代が勇気と希望を持って、韓日関係の改善に力を尽くすことを期待する布石であるともいえる。このような新鮮な書き方は韓国の歴史教科書の執筆にも影響を与え、同じ日本人の話が韓国の歴史教科書にも載るようになった。教科書の国際改善運動の視点から見れば、これは非常によい事例になるに違いない。ただ、韓国に対する侵略と支配をむしろ「近代化を助けた」と主張する「自由主義史観」(『新しい歴史教科書』)が横行する今日の日本で、きわめて微々たる日本人の消極的な人道的思想と行動を浮き立たせるのが、かえって日本帝国主義に免罪符を与える結果を招くのではないかという懸念が、韓国にないわけではない。
以上で見たように、近現代の韓日関係史に関する記述において、新教科書は旧教科書より分量的にも内容的にも改善されたといえよう。その原因としては、日本政府が一九八二年の歴史教科書の「歪曲事件」以降、教科書検定において「近隣諸国に対する配慮」の姿勢を取ってきたこと、執筆者と出版社が「家永教科書裁判」の支援運動などを通じて、お互いに連携しながら、教科書改善に尽力してきた事などを挙げることができる。またもうひとつの要因として、日本・韓国の歴史研究者、歴史教育者、歴史教科書執筆者などが活発に交流しながら、教科書改善と相互理解の幅を広めてきたことを忘れてはいけない。
幾つかのアンケート調査結果をみると、日本の歴史教科書の韓国史に関する記述の改善は日本の学生の韓国認識をいい方向に変えるのに役に立った。彼らの韓国史観には優越感と差別意識がすこし潜んでいるが、今の韓国についてはむしろ実態よりやや高めにみる面もある。韓国人は民族意識・団結心・主体性・文化の水準と創造性は強い(高い)が、外来文化の摂取能力・侵略性・経済観念は低い(弱い)と思う。代わりに北朝鮮に対する見方は厳しい。日本の学生は植民地支配に対する反省と償いなどは不十分ながら済ませていると思う。また、彼らは韓国との友好協力関係を希望するが、歴史認識を話題にすることについては抵抗感を感じる。
ところで、改善しつつあった日本の歴史教科書の韓日関係史記述が、最近逆戻りする傾向を見せている点を特別に指摘しなければならない。二〇〇二年から使われるようになった中学校の歴史教科書は、授業時間の減少によって教科書の分量そのものがずいぶん減らされた。そのせいもあってか、従来増え続けていた韓日関係史の記述量は格段に少なくなった。真っ先に削られたからである。その上もっと深刻なのは、後述するように、『新しい歴史教科書』の出現に刺激されて、その記述の内容も日本ナショナリズムに傾く方向へ転じたことである。これがまた近いうちに韓日間の歴史認識の溝を広める可能性があると思われる。この問題についてはこれからもっと詳しく検討してみる必要がある。 
2-4 ずいぶん変わった韓国の歴史教科書
従来、韓国の歴史教育と歴史教科書には、近代での日本による侵略と支配、解放後の民族と国土の分断などの不幸な歴史を克服するための苦悩が濃い影を落としていた。そのため、歴史教育と歴史教科書は、愛国心と民族的アイデンティティをあおる、自国史の主体的・内在的発展を強調する、前近代での文化の高い水準を誇る、近代での民族独立運動に光を当てる、現代での民主主義と国際理解を標榜する、対外関係では韓米日関係に比重を置く、などの特徴を持っていた。それが、見方によっては、韓国の歴史教育と歴史教科書がナショナリズムだらけであり、また「反日的」であると批判される面もあった。
末尾の参考文献に挙げたアンケート調査結果によると、このような歴史教科書で教わった韓国の学生の日本認識は厳しい。彼らは日本の歴史に対して断片的知識しか持ってない。特に韓国と関連のある部分のみを以て日本を見る傾向が強い。韓国の学生は、日本が前近代では韓国から文化を学び、近代では韓国を侵略・支配した、つまり恩を仇で返したと見る。彼らは、日本の歴史では倭(古代)、倭寇(中世・近世)、倭軍(近世の豊臣秀吉軍)、皇軍(近代)、自衛隊(現代)が連続性をもって受け継がれているとイメージする。かわりに、現代の韓日関係に関する知識はほとんどない。その結果、彼らは日本の力量を軽視し、いまでも大日本帝国の名残が温存しているとみる。天皇制・日の丸・君が代・政治家の「妄言」などからの連想である。彼らは、歴史的にみて日本は民族意識・団結心・侵略性・経済観念・主体性・外来文化の摂取などの能力は強い(高い)が、文化の水準と創造性などは低い(弱い)と思う。しかし、韓国の学生は日本に対する不信感を持ちながらも、両国が友好協力関係を構築することを強く希望する。
ところで、韓国でも、一九九〇年代後半以後の教育改革、すなわち第七次教育課程の施行により、歴史教育に大きな変化が生じている。歴史教育は、国民共通基本教育課程である初等学校から高等学校一年まで段階別に深化させるように組み立てられている。初等学校では生活史と人物史を通して歴史感覚を身に付けさせ、中学校では政治史中心の通史を学んだ後、高等学校では政治史・経済史・社会史・文化史に分けられた分類史を勉強するような形である。
第七次教育課程に基づいて作られた中学校「国史」教科書の変化は次のようである。
第一に、授業時間が従来の分より一時間減らされ、教科書も上下二冊(併せて四三〇余ページ)から一冊(三六〇余ページ)に縮小された。その代わりに改訂された教科書には参考資料とか図版などが多く組み入れられた。
第二に、内容の取り扱いが探求型、すなわちまず生徒の興味を誘い、みずから学習に取り組んでいくような形を取っている。そのために、「読みとり資料」、「深化課程」などの項目が新しく設けられた。
第三に、版型が大きくなり、多色刷りで刊行した。従来の教科書が白黒の単色であったのにくらべ、新教科書は外観だけを見ればずいぶん豪華なものになったといえよう。高等学校一年で学ぶように編纂された「国史」教科書の変わりぶりも中学校の「国史」のそれと大体似ている。ただ、内容の構成が、先に触れたように、分類史形式をとっている。
ところでこの教科書は編纂に当たって、意外な批判にさらされた結果、もともとの編成と内容に修正が加えられた。高校一年生の「国史」は原則として、近代以前まで取り扱うことだった。第七次教育課程は、近現代史教育を強化するという主旨で、高等学校の深化選択課程として「韓国近現代史」を設け、別の教科書をもって学習するようにしたからである。しかし「韓国近現代史」は選択科目なので、これを選択しない学生は自国の近現代史を学ばずに高等学校を卒業する恐れがある、という批判の世論が巻き起こった。政府は早々と補完策として、「国史」教科書に近現代史の概要を付け加えることにした。これではせっかく設けた「韓国近現代史」と内容が重複するはめになるしかなかった。
韓国の歴史教育ないし歴史教科書の変化の中でもっとも重要なのは、いままで「国史」教科書が「一種教科書」(いわゆる国定教科書)として編纂されてきた制度が、一部にせよ、崩れたことである。高等学校二〜三年で学ぶ「韓国近現代史」は日本とほぼ同じ形で検認定制度を取り入れたのである。
振り返ってみると、韓国でも「一種教科書」に対する批判の世論は以前から高かった。その論拠はおおむね次のようであった。
第一、歴史教育が政権維持の理念的道具として利用しやすくなる。
第二、生徒に画一的な歴史内容を提供するおそれがある。
第三、「国史」教科書を聖典視または絶対視するようにして試験のための準備書に転落させる心配がある。
第四、すべての事実を「当」「否」という白黒論理で理解させるおそれがある。
第五、学問的研究成果の受容を遅らせるおそれがある。
第六、創意ある叙述を事実上不可能にする。
実際に、以上のような理由で著名な研究者が執筆を忌避する場合もあった。
政府はこのような世論を踏まえて「韓国近現代史」を思い切って検認定制度へ持っていった。が、それを実行していく過程で思わぬ批判にぶつかって苦労しなければならなかった。教育人的資源部の検定に合格した教科書が現政権(当時は金大中政権)の業績をあまりにも美化し、一方で前政権の事績は相対的に低く評価しているのではないかということだった。いわゆる衡平性の喪失と政府の圧力を問題にしたのである。「韓国近現代史」教科書が最近(二〇〇四年)もう一度批判にさらされたのは、金日成の抗日武装闘争を大きく記述し、また北朝鮮の歴史についての否定的な部分は殆ど言及しなかったのに対して、李承晩の独立運動は無視しながら、現代の韓国の歴史は暗い部分だけを浮き彫りにした、ということであった。事実の選択と取り扱いの公平、すなわち均衡感覚が問われたのである。
「韓国近現代史」教科書をめぐるこのようなやりとりには、どの国の歴史教育でも、いつ起きてもおかしくない普遍的な問題が潜んでいる。すなわち教育と権力の関係をどのように設定するか、事実の選択と内容の記述で公正性と公平性をどのように確保するか、国家イデオロギーと歴史記述の緊張関係にどのように対処するか、等々の問題を端的に表したと言える。長期的に見れば、歴史教科書とその検定をめぐる韓国内部での葛藤は、これからの教科書制度の発展と教科書内容の充実に大きく寄与するだろう。また韓国が、程度の差はあるものの、韓国と似ている経験をすでに辿ってきた日本と歴史対話を推し進めるのに有効な材料になるにちがいない。 
3 『新しい歴史教科書』の登場と韓日の歴史葛藤

 

3-1 後戻りした『新しい歴史教科書』の韓日関係史叙述
最近、韓国ではまた日本の歴史教科書が世間の注目を浴びている。歴史教育に関心のある教育者とか研究者ばかりでなく、大統領と外務長官までも日本の歴史教科書を政治外交問題にする。「新しい歴史教科書をつくる会」という団体がつくった中学生用の『新しい歴史教科書』が、文部科学省の検定を通過し、二〇〇二年から極めて少数ではあるが学校教育で正式に使用されるようになったからである。
では、なぜ韓国では、『新しい歴史教科書』を問題にするのか?韓国人はこの教科書の登場が戦前の「植民地史観」あるいは「皇国史観」の「新しい復活」ないし「新しい変形」であると受け止めている。韓国の世論は『新しい歴史教科書』が韓日関係史を次のような視点から記述している、という。
第一に、日本は古代に、韓半島に勢力を伸ばし、その南部を支配した。検定合格本では「任那日本府」などの設置を露骨に主張する表現はなくなったが、「任那」などの用語を用いて、勢力の基盤を維持したというニュアンスを強く窺わせる。戦前は「任那日本府」を「朝鮮総督府」になぞらえて、韓国に対する侵略と支配を合理化するのに利用した。
第二に、歴史的に見て、韓国は中国に服属した非自主的な国家だったのに比べて、日本は中華秩序から抜け出した自主的独立国家だった。前近代のアジアでは中国を中心にして、いわゆる朝貢册封体制が外交秩序として機能していた。その強度は北京からの距離によって左右されがちであった。北京にすぐ近く陸接している朝鮮が、海によって隔離されている日本より中国の圧力を強く受けたことはある意味では当たり前である。この教科書は、朝貢册封に関わる韓国と日本の歴史を、国の主体性・独立性の強弱の観点から、頻りに比較してみせる。戦前の「植民地史観」も韓国史の「他律性」と「事大性」を強調し、韓国人の独立精神を抑圧したことがある。
第三に、歴史的に見ると、日本は国内外の情勢に鋭敏に対処して近代化に成功したが、韓国はそれができなくて近代化に失敗した。これは一面の事実ではあるが、この観点からは日本自らが韓国の素早い対応と近代化への動きを踏みにじったという事実がみえない。日本が如何に優れていたのかだけを強調する。
第四に、地政学的に見て、韓半島は日本の安全を脅かす凶器であるため、日本の安全を守るためには列強に先んじてこれを押さえなければならない。検定の過程でさすがに「凶器」という用語は消えたが、その主旨は合格本にそのまま生かしている。これは戦前から日清戦争と日露戦争を正当化し、また韓国に対する侵略と支配を合理化する論理として力を振ってきた。この視点からは過去の侵略と支配に対する反省と謝罪の意志または姿勢が出てこない。
第五に、韓日関係史上の出来事で日本はたいてい正しく、韓国は間違いを犯したので、両国間で発生したかんばしくないものの責任は韓国側にある。この教科書は、韓国と日本のあいだの摩擦と対立、侵略と支配の原因を韓国側に被せる書き方をしている。まさに自国史中心主義の典型である。戦前の「植民地史観」もたいていそうであった。
第六に、日本は韓国の近代化に努めたが、韓国がこれを受け入れず、やむを得ず韓国を「併合」して開発に乗り出した。帝国主義が侵略と支配をするとき、収奪と開発は銅銭の両面のように付きそうものである。収奪をするために開発もする。終始、朝鮮の直接支配を貫徹した日本帝国主義はなおさらである。この教科書は収奪の面には目をつぶり、開発の面にのみ焦点を当てている。
『新しい歴史教科書』の見方に対して、韓国人は、日本の偉大さと光栄を強調するために韓国史がけなされてもよいのか、という怒りを感じる。また、戦前の歴史認識の復活が、忘れようとする過去の不幸な傷跡をほじくり返す挑発ではないか、と憂慮する。もっと残念なことは、戦後六〇年のあいだに、日本が成し遂げた民主主義的歴史研究と歴史教育が果たして何だったのか、という疑念を抱くことである。 
3-2 歴史認識をめぐる葛藤の再燃
一九九〇年代半ば以来、韓国の世論は日本が「日の丸」「君が代」を国旗・国歌として法制化し、「自由主義史観」を標榜する歴史研究者・歴史教育者・文化人・政治家などが、日本的ナショナリズムを高揚するために歴史修正キャンペーンを大々的に展開する動きに対し、戦前の「皇国史観」にも似たような歴史認識が再び堂々と打ち出されるのではないかと、敏感に反応し、警戒心を抱いた。それは二〇〇〇年以後日本が有事立法などを一気に成し遂げ、イラクに派兵する事態を見て一層強まった。
もともと韓国人は日本の皇国史観的歴史認識が、たんなる歴史研究・歴史教育の次元にとどまるのではなく、日本の韓国にたいする侵略と支配を合理化・正当化するイデオロギーとして機能してきたことを体験を通じてよく分かっていた。ただ最近になって、日本の事情に明るい一部の研究者によって、日本の歴史教科書が一九八二年の歴史教科書「歪曲事件」を契機にして、「近隣諸国に対する配慮」という文部省の方針のもとに、漸進的な改善の道を歩んできたという事実が紹介され、少しは日本に対する警戒心を緩めた。ちょうどこのとき、金大中政府は日本の大衆文化の輸入開放などの「対日太陽政策」を推し進め、韓日関係が相互理解の方向に好転する兆しが見えた。したがって、多くの韓国人は、日本人が皇国史観的韓国史観から抜け出して、真の友好親善が可能になるだろうと期待するようになった。韓国人が、ようやく日本に対してこのように好感の念を抱くようになったとたんに、「新しい歴史教科書をつくる会」が日本的ナショナリズムを極端に高揚させる『新しい歴史教科書』を編纂した。そして、これが文部科学省の検定に合格し、ごく一部ではあるが、学校教育でも公的に教えられるようになった。これは韓国と日本の間で歴史認識をめぐって芽生え始まった相互理解の芽をつみ取るできごとにほかならなかった。
国民の世論に押された韓国政府は日本政府に強く抗議し、また三五項目に達する修正要求書を渡した。韓国の強硬な出方に驚いた日本政府は、小渕総理大臣と韓国の金大中大統領とが交わした「パートナーシップ宣言」(一九九八年一〇月)の歴史認識、すなわち、「植民地支配によって、多大な損害をもたらしたことに対する痛切な反省と心からの謝罪」に変わりはない、と繰り返し弁明した。また、
『新しい歴史教科書』は民間人が書いたもので、思想と学問の自由を保障する憲法の下では、政府があの教科書の歴史観を規制することはできないといって、むしろ韓国側に日本の教科書編纂制度への理解を求めた。『新しい歴史教科書』を巡る韓国と日本の一年あまりのもみ合いは、両国の政府が支援する「韓日歴史共同研究委員会」の設置を合意することによって、一応幕を閉じた。私も参加した同委員会は紆余曲折を辿りながら三年間の活動を終えて、二〇〇五年六月に厖大な研究成果を公開した。しかし、その功もむなしく、韓国と日本のあいだではまた歴史認識を巡って熱戦が再発した。両国は首脳会談まで開きながら激しい攻防戦をくり広げたが、歴史認識の溝は埋められず、「韓日歴史共同研究委員会」の活動を再開することに合意して、事態の収拾をはかった。
歴史認識を巡る今度の葛藤は、冒頭でふれたように韓国と日本の国民に深い亀裂を生み出した。韓国人のなかでは日本の皇国史観的韓国史観の蘇りに対する警戒感を抱く人々が急激に増えた。一方、日本国民のなかでは、歴史認識に対する韓国のしつこい攻勢に、「もういやだ」「いつまで謝るの」「いい加減にしろ」など、反発する雰囲気が高まっている。一つ幸いなことは、歴史認識を巡る激しいやりとりも、さすがに両国の「韓流ブーム」と「ニッポンフィール」を封じる込めることまではできなかったことである。韓国と日本の民間レベルの交流はもう歴史認識と政治外交に左右されないほど進展しているのである。 
4 韓日の歴史対話と相互理解

 

4-1 なぜ歴史対話なのか?
韓国と日本のあいだで生じる歴史認識の葛藤を癒すためにはどうすればいいのか?一見、両国の政府がこれを外交問題として取り上げ、一挙に解決すればよいと考えがちだが、それはあまり容易でも効率的でもない。さまざまな歴史観を持っている国民を抱えている両国の政府としては、国益保護を楯に自分に都合のいいこと以外にはいいにくい。だから、韓日両国政府は四〇年前に国交正常化の協定を結ぶ時でさえも、歴史認識については合意に達することができなかった。日本政府が韓国の植民地支配について文書で反省と謝罪の意思を表明したのは、なんと戦後五〇年以上たった一九九八年一〇月のパートナーシップ宣言であった。
しかし、その後も日本の首相は毎年靖国神社に参拝し、一部の閣僚は植民地支配を合理化する「妄言」を繰り返した。その上、『新しい歴史教科書』が文部科学省の検定に合格し、学校教育で使われるようになった。これらの出来事の渦中で両国の政府は歴史認識を巡っていろんなやりとりを交わしたが、その溝はあまり縮まらないで、むしろ両国民の反日・反韓感情をあおる結果になったこともあった。政治家は常に国内の世論の動向を見極めながら、自分の権力基盤を固めたいと思うため、ナショナリズムをそそのかす傾向を持っているからである。従って、歴史認識を巡る葛藤を癒す方法として、両国の政府が前面にたって直接外交戦を繰り広げることは、必ずしも望ましい方法ではないともいえる。
韓国と日本の歴史認識の溝を埋めるには、むしろ民間レベルでの歴史対話を広めていくほうが有効かもしれない。両国は現実でも未来でも深い関係を持ちながら共存共栄して行くしかない間柄である。そのためには両国民の相互理解と友好協力が大切である。歴史認識を巡る対話はまさにその土台をつくる核心的な作業の一つではないかと思われる。韓国と日本は自由民主主義と市場経済システムを標榜し、人権・平和などで価値観を共有する面が多い。学問と言論の自由もほぼ完全に保障されている。だから、歴史を話題にする自由な対話がいくらでも可能だ。ただ、歴史対話では歴史研究そのものも重要だが、やはり歴史教育と歴史教科書の問題を議論しあうことがより効果的であろう。どの国でも両者は国民の歴史認識を育むのに直接影響を与えるからである。 
4-2 歴史対話の経過
一般人はあまり気がつかないだろうが、韓国と日本の問では、もう二〇年以上の歴史対話の歴史が存在する。ヨーロッパで歴史教科書を巡って国際対話が始まったのは第一次世界大戦直後までさかのぼるが、ドイツとポーランドなどが本格的な対話を始めたのが一九七二年であることを考慮すれば、韓日の対話の歴史も決して短いとはいえない。
韓国の歴史研究者と歴史教育者は一九七六年、日本の歴史研究者と歴史教育者を招いて歴史対話を始めた。この年は韓国と日本が朝日修好通商条約(一八七六年)を結んだ百周年に当たり、韓国ではその歴史的意味を再検討する学術会議が開かれた。韓日の歴史対話はその一環であった。
以後、韓日の歴史対話は一〇年ぐらい停滞したが、一九八二年に日本で歴史教科書「歪曲事件」が起こったことをきっかけに再開されるようになった。私はこのとき以来、韓国と日本のいろいろな歴史対話のほぼ全てに参加するようになった。初期の頃の対話では韓日合同の歴史教科書研究会の活動が目立った。このとき議論の的になったのはおもに日本の歴史教科書であった。歴史対話の様子はその都度韓国と日本でマスコミと書物を通じて一般にも知られ、少なからぬ反響を呼んだ。
一九九〇年代半ばに入ってからは歴史対話に大きな変化がみられた。対話に参加する人々が研究者と教育者から学生にまで広がり、議論の対象も日本の歴史教科書ばかりでなく韓国の歴史教科書まで及んだ。教師同士は自分の授業を事例として報告し議論し合った。歴史に関わるいろんな学会と団体はシンポジウムを開いたり共同研究を設けたりした。韓国では歴史教育研究会、日本では比較史・比較歴史教育研究会が重要な会議をたびたび開いた。両国の歴史研究と歴史教科書を相互に関連させて徹底的に検討したのは、私もそのメンバーであったソウル市立大学校の歴史教科書研究会と東京学芸大学の歴史教育研究会であった。それ以外に、学生の修学旅行や一般人の歴史観光を通じても相互理解を広めた。
韓国と日本の歴史対話は二〇〇二年の『新しい歴史教科書』の登場を前後にしてもう一度新段階を迎える。両国の主な歴史研究団体と市民運動団体がそれぞれ連繋しながらこの教科書に対する批判と反対の運動を展開するなど、歴史対話は堰をきったように活発になり、トピックの幅が広がったのは勿論のこと、議論の水準も飛躍的に高まった。一例として、両国の主な歴史研究団体は、二〇〇一年十二月から二〇〇五年二月にかけて東京とソウルで三回の合同シンポジウムを開催した。ここでは韓国と日本の歴史研究、歴史教科書、歴史教育などの現状と展望についてさまざまな意見が交わされた。このシンポジウムに参加した人々は『新しい歴史教科書』の登場とそれによって惹き起こされた韓日間の葛藤を深刻に受け止め、学問的対応を通じて歴史認識の相互理解を広げようと試みた。
一方、両国の政府は歴史葛藤を克服する方法の一つとして、二〇〇二年五月、「韓日歴史共同研究委員会」を設置した。この委員会は、二〇〇五年六月、三年間の研究活動をまとめた厖大な報告書を公開し、任務を終えた。はじめから歴史教育と歴史教科書を研究の対象から外したこの委員会の活動についてはさまざまな批判が寄せられた。その主旨は、この委員会が両国の歴史葛藤を癒すのに何の役割も果たせなかったのではないか、という叱責であった。両国の政府は非難を免れる方法として、メンバーを入れかえてこの委員会を継続することと歴史教育・歴史教科書を研究テーマに含めることなどに合意した。 
4-3 歴史対話の広がり
『新しい歴史教科書』の登場は、逆説的に歴史対話を国際的規模へ拡大する効果をもたらした。いままでの対話がおもに「韓日両国型」であったのに対し、最近の対話ではそれ以外にもいろんな国々が加わるようになった。いくつかの例を簡単に紹介すれば次のようである。
韓国と北朝鮮の歴史研究者は平壌などで集まり、日本の歴史教科書における韓国史の取り扱い方を議論し、皇国史観的な「歴史歪曲」については共同で強く対処することを明らかにした。言うなれば、「南北共助型の歴史対話」である。二〇〇二年五月に平壌で開かれた「日本の過去清算を要求するアジア地域討論会」、同年八月にソウルで行われた「八・一五民族統一大会」においての独島問題に関する南北学術討論会、二〇〇三年二月に平壌で催された「日帝の強制人力動員の不法性に対する南北共同資料展示会」においての学術大会などがそれである。こうした「南北共助型の歴史対話」は、二〇〇一年三月に平壌、同年六月には金剛山で開かれた「日本の歴史歪曲策動」を糾弾する南北歴史学者の集いを継承したものであった。それゆえ、大会の目的と内容は、日本の「歴史歪曲」に抗議し、また真剣な「歴史清算」を要求するものであった。これから「南北共助型の歴史対話」がどの道を辿るかは、北朝鮮と日本の外交交渉がどんな形をとるかによって大きく左右されるだろう。
次は、韓国・日本・中国の三国、またはこれに北朝鮮・ロシアなどが参加するいわゆる「東北アジア型の歴史対話」である。二〇〇二年三月に中国の南京で、二〇〇三年二〜三月に東京で開催された「歴史認識と東アジア平和フォーラム」には、日本の教科書をただす運動本部(韓国)、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館・中国社会科学院近代史研究所抗日戦争研究編集部(以上、中国)、歴史認識と東アジア平和フォーラム実行委員会(日本)などが参加した。同年十月には中国のハルビンで「日本帝国主義の東北アジア侵略」についての国際学術会議が開かれ、韓国・北朝鮮・中国・日本・ロシアなどから四〇名の学者が参加した。日本学術会議歴史学研究連絡委員会歴史研究と教育専門委員会・日本歴史学協会は、二〇〇二年十月、東京で「東アジアにおける歴史教科書の編纂その歴史と現況」という国際シンポジウムを開催した。その席では、最近韓国・中国・日本において多くの変化が見られる歴史教科書の編纂制度や方法などについて、論議がなされた。
歴史対話の広がりを示すもっとよい例としては、韓国・中国・日本などがヨーロッパやアメリカなどと一緒にシンポジウムを開催したことである。言うなれば、「東北アジア・西洋連合型の歴史対話」である。ドイツ連邦政治教育センター東西コロキウム、ケルン日本文化会館、ドイツ・日本研究所は、二〇〇二年九月にケルンで韓国・日本・ドイツ間の国際シンポジウムを開催した。総合主題は「日本と韓国共通の未来を目指すための課題と展望」であった。こうした新しいタイプのシンポジウムが、ヨーロッパでの歴史対話をリードしてきたドイツで、多くの西洋人が参加した中で開かれたのは、とても意義深いことだった。韓国のユネスコ、アメリカのアジア財団、ドイツのエベルト財団なども、単独あるいは共同で韓国、日本、中国、ヨーロッパ、アメリカなどが参加する国際シンポジウムをソウルと東京で開催した。歴史認識をめぐる対話はもはや韓国と日本の枠を超えてグローバル化しつつあるのである。 
4-4 歴史対話のなかみ
韓日の歴史対話ではいろいろなことが議論されたが、その中でもやはり両国の歴史教育と歴史教科書が相手の歴史をどう取り扱っているのかを比較検討するのが主流をなした。その場合、歴史的事実の取り扱いが歴史研究の成果に照らして適切かどうかを検証する事が多かった。一九九〇年代半ばまでは日本の歴史教科書の近代史部分が主に話題になったが、それ以後は韓国の教科書を含めて古代から現代までのあらゆる記述が検討の対象になった。各会議では、両国の歴史教育と歴史教科書が、程度の差はあるにしても、国家主義と民族主義に傾いているのではないか、という意見が多く出された。一方、各会議に参加した教師たちは授業の実践を報告し合いながら、生徒が自分の授業を聞いてから相手国の歴史についてどのような認識の変化を見せるのか、などについて議論した。
一九九〇年代半ば、特に二〇〇〇年以後になると、歴史対話の話題はもっと豊富になり、その内容も建設的な提言が多く含まれるようになる。そのいくつかの例を紹介すれば次のようである。
第一に、韓国の歴史教育と韓国史教科書に対する全面的な批判と対案の模索である。日本の教科書をただす運動本部・歴史問題研究所・全国歴史教師の会・韓国歴史研究会が、二〇〇二年十一月ソウルで開催した「二一世紀における韓国史教科書と歴史教育の方向」というシンポジウムがそれにあたる。このシンポジウムは、韓国の歴史研究者と歴史教育者が日本の「歴史歪曲」を契機に、自らの歴史教育と歴史教科書にも関心を寄せるようになったことを示した。その席では、おもに韓国の歴史教科書の構成と内容がそれぞれ批判の対象になった。また、危機を迎えた世界史教育の正常化方案、歴史教科書編纂制度の改編方向などが論議された。
第二に、日本の「歴史歪曲」の性格を再検討し、それに対する共同対応を試みた。韓国・中国・日本が共同で南京・東京などで開催した「歴史認識と東アジア平和フォーラム」、韓国と北朝鮮が平壌・ソウルなどで開催した学術討論会、韓国・北朝鮮・中国・日本・ロシアの学者が参加したハルビン学術会議などがそれである。日本の「歴史歪曲」に対して近隣諸国の有志が共同対応のネットワークを作ったことは、一方では歴史対話の成果でありながら、もう一方ではこれからの歴史対話の進め方に大きな影響を与えることにつながる重要な出来事だといえよう。
第三に、歴史対話の一環として、韓国と日本の歴史認識の溝を埋める方法の一つとして、共通で使われるような歴史教材の製作を目論んだことである。その作業グループは幾つもあり、すでに本を出した例もある。『日韓共通歴史教材・朝鮮通信使豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ』(日韓共通歴史教材制作チーム)、『日本・中国・韓国=共同編集未来をひらく歴史東アジア三国の近現代史』(日中韓三国共通歴史教材委員会)などがそれである。ただ、これらの歴史教材は古代から現代までの韓日関係史を網羅したものではなく、一項目あるいは一時期を取り扱ったものである。
全時代の韓日関係史を対象にして共通教材を開発しているグループは私も参加したソウル市立大学校の歴史教科書研究会と東京学芸大学の歴史教育研究会である。彼らは一九九七年十二月から二〇〇五年一月まで毎年二回ずつ研究会を開いてきた。この研究会の前半では両国の歴史教科書の記述実態と歴史研究の成果を相互関連させて検討した。そして、後半ではその作業をふまえて共通教材の編纂に取り組み、古代から現代まで約四〇節の編別構成に従って原稿を書き、お互いの議論を経て書き直しを繰り返した。参加者は両方おのおの二〇人前後である。二〇〇六年の上期には刊行されるだろう。この本についての評価はともかく、韓日間の歴史認識を巡るかれらの辛抱強い対話の姿勢だけは高く評価してもよいのではないか、と思う。
ちなみに、両国のカトリック教会でも、歴史の対話を重ねてきた。キリストの愛の精神を韓日の歴史認識に生かしてみたい、という試みであった。その主旨にしたがって、私も執筆に参加して二〇〇四年に『若者に伝えたい韓国の歴史共同の歴史認識に向けて』が両国で出版された。 
4-5 歴史対話の論点
歴史対話で議論になった話題は細かい事実の確認から世界史の見方などに至るまで幅広い。そのなかで韓日関係史の把握に関わるいくつかの論点だけを紹介すると以下のようである。
第一に、自国史をどう相対化して把握するか。韓国と日本の歴史教科書は普通自国中心主義が強いといわれる。これをどう克服するかが度々話題になった。
第二に、ナショナリズム(民族主義)をどう扱うべきか。これは第一にも関連する問題である。対話の中で面白かったのは、日本側の人は日本の歴史教科書はナショナリズムの色彩がほとんどない反面、韓国の歴史教科書はナショナリズムだらけだという。しかし、韓国側の人々は、植民地の経験と南北分断の現実をかかえている韓国の歴史教科書がある程度ナショナリズムの傾向を見せるのは止むを得ないが、過度なナショナリズムの教育によって国が滅びた経験を持っている日本の歴史教科書がいまだにナショナリズムの虜になっているのは理解し難い、という。結局、両者は国際化・世界化が進むこれからの時代にナショナリズムをあおるような歴史教科書はふさわしくない、という点では意見が一致した。
第三に、韓日間で国家の枠を超えた歴史認識、たとえば東北アジアなどの広い枠での歴史認識の設定は可能だろうか。韓日関係史の見方をめぐる激しいやり取りを少し和らげる方法として世界史の中の韓日関係史、あるいは東北アジアの中の韓日関係史を構築すればどうか、という議論もあった。世界史と自国史の教育がはっきり分離されている両国の事情を考慮すれば、その緩衝の歴史舞台として東北アジアを設定するのはいいじゃないか、という意見が多かった。
第四に、日清戦争から第二次世界大戦までの戦争をどのような角度から見るべきか。日本側はその間の数多い戦争は別々の理由と事情で行われたものだというが、韓国側はそれらを一貫した侵略戦争として捉える。日本側では満州事変以後をせいぜい一五年戦争というが、韓国側は日清戦争以後をひっくるめて五〇年戦争と呼ぶべきだという。これは日本近代史の根本的性格を問う面白い議論だった。
第五に、日本の歴史教科書では第二次世界大戦前に形成された植民地史観的な韓国史認識が完全に払拭されたのか。日本側はこの問いそのものにあまり気付かないが、韓国側は日本の歴史教科書にはまだそのニュアンスが残っていると見る。
第六に、韓日の相互理解を増進する歴史教育のあり方は何か。両方は自国史中心主義と偏狭なナショナリズムから脱皮する事が大事だという意見に共感があった。
第七に、韓日共通の歴史教材はつくられるのか。対話の初めの段階では否定的な見方が多かったが、対話が進むにつれて肯定的な考え方に変わった。今は共通の教材を実際に完成したとか、作成の途中にある例がいくつもある。韓日の歴史対話がこのように早く実を結んだのは驚きであり、かつ喜ばしい事である。 
4-6 相互理解の進展
韓国と日本の歴史対話は歴史研究と歴史教育の両面で相手の事情を理解するのに大きく役に立った。特に歴史研究の新しい動向を把握しながら、歴史的事実を厳密に確認する作業は知的好奇心を刺激した。それについての詳しい言及はさておき、ここではとりあえず歴史教育と歴史教科書に関わりのある成果だけを簡単に紹介することにしたい。
第一に、韓日の歴史教育の構造と歴史教科書の実態に関する理解を増進した。歴史対話の初期段階では相手の事情についてあまり知らないし、知っているといっても不正確な場合が多かった。これは歴史対話の速やかな進展と議論の効率的な進行を妨げる要因となった。対話が進むにつれて相互の歴史教育と歴史教科書に関する理解が深まり、議論がもっと活発にまた能率的になった。
第二に、韓日の歴史研究者と歴史教育者、または学生・生徒同士の相互信頼感を形成した。普通、喧嘩は相手の事情を知らない、相手を信じないことから始まる。韓国と日本の歴史葛藤も同じである。度重なる対話によって、参加者同士でお互いの立場を理解し、信じ合うようになったことは、これから韓日の歴史葛藤を癒すのに大きな財産になるだろう。
第三に、歴史対話の経過が書籍とマスコミを通じて一般人に知られ、その重要性にある程度の共感を得ることができた。これは両国民の相互理解を深めることに寄与したのに違いない。反面、反発を招いた面もあるだろう。「自由主義史観」とか、「新しい教科書をつくる会」などの動きはその例であるかもしれない。
第四に、韓日関係史に関する教科書叙述の改善に役立った。両国で歴史対話に参加した人の中には教科書の執筆者が含まれている。彼らは対話を通じて相手国の歴史研究の動向と歴史教育の方向を知り、自分なりの立場からそれを自身の教科書執筆に生かした。ほかの執筆者も図書とマスコミを通じて歴史対話で何が議論されているのかに気づき、それを教科書に反映させる場合もあった。
第五に、歴史の共同研究ないし対話のノウハウを蓄積した。韓国と日本の人々が敏感な歴史問題を巡って対話を交わすにはいろいろな配慮が要る。不適切な言動が相手を怒らせ肝心な話までには入ることもできない状況がたびたび起こった。無駄な対立を回避し、生産的な議論に速やかに移るにはやはりノウハウが要る。それを身につけられたのはこれから歴史対話を推し進めていくのに大きな力になるだろう。
第六に、韓日の歴史対話がヨーロッパなどにも知られ、韓国と日本が歴史問題を巡って争いばかりするのではなくて、それを克服するために真剣な取り組みもしているのだという印象を与えた。これは歴史対話がヨーロッパにおいてだけ行われているのではないというメッセージを伝え、両国のイメージを改善するのにも役に立ったと思う。
第七に、韓日間の歴史葛藤を解決するのにひとつの対案を提示する役割を果した。いままで述べたように、歴史認識を巡って政府同士が直接ぶつかり合うのはひょっとすると国民感情を刺激しやすい。民間レベルでの歴史対話を通じて相互理解の輪を広げることが大事である。歴史対話を通じて共通教材の開発まで成し遂げたことはこの上ない成果である。このような動きがもっと活発になると、歴史葛藤はずいぶん柔らげられるだろう。 
5 韓日の歴史対話と歴史認識の深化のために

 

5-1 歴史対話の望ましい進み方は?
韓国と日本の二〇年以上にわたる歴史対話の経験を踏まえて、これから両国が歴史葛藤を癒し、お互い理解しあいながら共に生きる未来を拓くためには、どのような歴史対話が必要なのか?歴史対話に参加したい人々が取るべき望ましい姿勢と志について、私なりに感じたいくつかの意見を述べてみたい。
第一に、お互いに異なる歴史認識を持っている人々同士の対話である事を理解する。人々は普通付き合いが長ければ長いほど言いたいことを自由に話せる間柄になる。歴史対話もそうである。始めから一気に自分が言いたいことだけを主張し、相手の話には耳を傾けないと、その対話は喧嘩で終わる可能性が多い。お互いに違う歴史と文化で生きた人々との話し合いだという点を前提に、相手の言うことを尊重しながら自分の言いたい事を時間をかけて丁寧に主張する。そうすると共有しうる歴史認識が少しずつでも生まれて来る。
第二に、強い自国中心主義または偏狭なナショナリズムの歴史観を打ち出すことからの脱皮を模索する。韓国と日本のナショナズムはすでに激しくぶつかりあった経験を持っている。韓国に対する日本の侵略と支配、日本に対する韓国の抵抗と戦いはその典型である。このような歴史的経験のため、韓国と日本の歴史対話ではいまでもナショナリズムが浮き彫りになりやすい。ナショナリズムを学問的に論じ合う事は大切だが、それをぶつけて対話自体が進まないようになると困る。先ず対話の雰囲気を作り、その後慎重にナショナリズムを語り合う事が順序であろう。
第三に、お互いの歴史研究と歴史教育の成果を尊重しあいながら、それを批判的観点から積極的に活用する。誤解は無知から生まれ、やがて反感へ転ずる場合が多い。歴史対話を通じて知らなかった事が分かるようになると誤解と反感はその分減らす事が出来る。そのためには相手の歴史研究と歴史教育についての学習が必要である。参加者は歴史対話をその機会として有効に活用しようとする姿勢が望ましい。
第四に、始めの段階から歴史認識の共有を目指すと対話がかたくなになる。最初はお互いに議論の的になるテーマについて歴史的事実を徹底的に確認しあうことが重要である。そのような試みの中で歴史知識の共有が生まれる。歴史的事実についての知識の共有は歴史認識の幅を縮める第一歩でありうる。
第五に、歴史対話の多様なありかたについて議論しあい、新しい方法とノウハウを開発する。歴史対話の進め方は参加者の個性、対話の目的などによって異なる事は当然である。したがって、対話の参加者は今までの実績を踏まえながら自分たちに適切な対話の道を開拓していかなければならない。
第六に、歴史対話における誠実性と信頼性を高める。デリケートな歴史問題をめぐって外国人を相手にして話し合うこと自体が非常に疲れる仕事である。その上、対話の準備のために資料を調べ論文を書くのは多くの時間と精力が要る難事である。歴史対話での活動が自らの学問的業績に直接つながらない場合も多い。だからといって、外国人との対話に関わる仕事を適当に怠けるわけには行かない。歴史対話を成功させるためにはむしろ二倍三倍にも誠実に取り組まなければならない。それが相手の信頼を得る王道である。
第七に、歴史対話のチャンネルを拡大し、対話の主題を多様化する。大げさに言えば歴史認識は人の数ほど各人各様であるかも知れない。だから一つの対話が国を代表する事はありえない。歴史葛藤をやわらげるのにはなるべく多くの人々がいろんな次元でいろんな話題の歴史対話を交わすことがのぞましい。そのような取り組みの中から国民の理解と共感を得られるタイプの歴史対話が自然に現れるだろう。
第八に、歴史対話の進み具合と成果を政府、マスコミ、出版物などを通じて国内外に広く知らせ、国民と外国人に歴史葛藤は克服することができる、というメッセージを与える必要がある。国民は普通歴史問題は自分と関係がないと思い勝ちである。しかし草の根の付き合いのときにも歴史が話題になる事は多いし、国と国の歴史葛藤も結局国民の世論を反映したものである。したがって、歴史対話のさまざまな経過と成果を政府と国民の歴史認識の形成に積極的に活用することは国同士の無駄な争いを減らすのに役立つ。また世界の人々にも韓日の歴史対話を広く知らせ、両国が話し合いで歴史葛藤を乗り越える事ができるのだ、というイメージを与えることが大事だと思う。歴史対話はヨーロッパだけの専有物ではないのだ。 
5-2 パートナーシップの形成のための歴史認識を深めよう
歴史認識をめぐる韓国と日本の対話は、単純に過去の仔細な事実に関する解釈をめぐって争うもののみではない。むしろ共に生きる平和な未来を構築するための歴史的基盤作りの作業である。歴史対話を成功させるためには、まず韓国と日本の密接な歴史関係について改めて再認識する必要がある。両国は二〇〇〇年あまりの間、紆余曲折を経ながらも長く深い関係を結んできた。今日でも両国はヒト・モノ・カネ・情報がもっとも多く往復する間柄である。だからこそむしろ、お互いに誤解・葛藤・不信が多いのかもしれない。両国はこれからも相互の間でいくら困難な出来事が発生してもいままで以上に密接な関係を保ちながら共存していくしかない宿命である。隣国は引っ越しで変えられるものではないからだ。
そうだとすれば、韓国と日本は両国の間に付きまとう歴史の影を取り除く作業に取り組まなければならない。両国の相互理解と友好親善をもう一歩推し進めるのにいつも障害になる事がほかならぬ歴史の呪縛だからである。敢えて韓国と日本に限定しなくても、国際化・世界化がさらに進む二一世紀には異文化、異民族、異国家同士の相互理解と友好協力がもっと強く求められる。いわんや韓国と日本においておやである。これから韓国と日本が真のパートナーシップを強めていくことを望んでやまない。また、両国の国民が相互理解と友好親善を志向する歴史認識を持つことを期待する。そのためにはまず歴史教育と歴史教科書がそのような方向へ変わらなければならない。韓国と日本の歴史対話が両国に付きまとう歴史の影を取り除き、真のパートナーシップを強めることに結び付く事を真に願いたい。
最後に、一言付け加えなければならない出来事が起きた。本稿を校正する最中に、小泉首相がついに靖国神社に参拝し、韓国政府がこれに猛反発して年末に予定されている両国の首脳会談さえ取り消されるはめになった、というニュースが飛び込んで来た。私がいままで繰り返し指摘した歴史の呪縛がまた現実として両国を縛するようになったのである。
私はここで両国の政治指導者、特に日本のリーダーたちにいいたい。歴史認識の溝を克服するための韓日の歴史対話を支援しろとは言わないが、せめてそれに水を差すような言動は控えてほしいと。
すでに述べたように、今年は、いろいろな意味で近現代の韓日関係史の中でたいへん重要な節目に当たる。節目には、両国の指導者がそれに相応しい宣言・儀式・行動をとる必要がある。私は二〇〇五年の初めから両国の指導者がどのような言動を披露するのか、密かに期待しながら待っていた。しかし今年ももう終わりに近づくようになってその願いはほぼあきらめることにした。
その代わりに余計な希望ではあるが、両国の首脳に次のような提案をしたい気持になった。韓国と日本が一〇〇年の過去を克服し一〇〇年の未来を切り開くために、いわゆる「韓日真実和解委員会」または「韓日未来財団」を設ける。ここには両国の政府と民間がともに参加し資金を出し合い、歴史の真実を解明し、その傷を癒し、過去を記念し、若者を育てる、などの事業をする。また、いまの世代の積極的な取組みを次の世代につなげ、過去を忘れないで未来を作る責任を自覚できるようにする。両国の首脳がこの事業を発足させる式典にともに出席し、両国国民の心の琴線にふれるメッセージを送ればいかにすばらしいことであろうか。
ところが、小泉首相はそれどころか今度また靖国神社に参拝した。むなしい気持でいっぱいである。
しかし、それにもかかわらず、われわれは韓日の歴史対話をこれからも続けなければならない。それは共生共栄に向けてのオデュッセイアであるからである。 
 
丸山眞男

 

(まるやま まさお、1914-1996) 日本の政治学者、思想史家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。専攻は日本政治思想史。新字体で丸山真男とも表記される。丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた学者の一人であり、近代主義者を自称し、それまでの皇国史観とは異なる、西洋哲学と社会学を土台とした学術的な日本政治思想史を論じた。
1914年、ジャーナリスト・丸山幹治の次男として、大阪府に生まれた。郷里は長野県。兄に芸能プロデューサー・音楽評論家の丸山鉄雄がいる。1921年(大正10年)には東京四谷に転居。父の友人・長谷川如是閑らの影響を受け、大正デモクラシーの潮流のなかで思想形成をおこなう。四谷第一小学校、府立一中(現・都立日比谷高校)を経て、旧制一高に進学。1933年(昭和8年)、一高の三年生時には長谷川を弁士とする唯物論研究会の講演に赴いたために警察に検挙され、特別高等警察の取調べを受けた。
1934年(昭和9年)に一高を卒業後、東京帝国大学法学部入学。「講座派」の思想に影響を受ける。在学中に懸賞論文のために執筆した論文「政治学に於ける国家の概念(1936)」が認められて助手となる。1937年(昭和12年)卒業。本来はヨーロッパ政治思想史を研究したかったが、日本政治思想史の研究を開始した。当時、日本政治思想史といえば皇国史観に基づくものが多かったが、丸山は学問としての社会科学的な視点から研究しようと志した。日本政治思想史研究を薦めたのは指導教授である南原繁だった。南原は皇国史観に対して批判的であったが、自身がヨーロッパ思想史研究者であり、皇国史観に反論をしうる学問的素地を持たなかったことから、丸山に後事を託したとされている。
1944年(昭和19年)、30歳の時に、東京帝国大学法学部助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。4ヶ月後の1945年(昭和20年)3月に再召集を受け、広島市宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎え、9月に復員した。「上官の意向をうかがう軍隊生活は(大奥の)『御殿女中』のようだった」と座談会で述べたことがある。この経験が、戦後、「自立した個人」を目指す丸山の思想を生んだ。
戦後大学に戻り、1946年(昭和21年)、『世界』5月号に「超国家主義の論理と心理」を発表。戦前日本の軍国主義やファシズムに関する一連の論考は、論壇のみならず広く敗戦後の日本人に衝撃を与えた。以後、戦後民主主義思想の展開において、指導的役割を果たす。戦前の天皇制を「無責任の体系」という言葉で表現したことは有名。サンフランシスコ平和条約をめぐる論争では「平和問題談話会」の中心人物として、1960年(昭和35年)の安保闘争を支持する知識人として、アカデミズムの領域を越えて戦後民主主義のオピニオンリーダーとして発言を行い、大きな影響を与えた。アカデミズムとジャーナリズムを架橋したとも評されたが、後年、本人は現実政治の分析を「夜店」、日本政治思想史の研究を「本店」と称したこともある。
1950年(昭和25年)より東京大学法学部教授。1960年代後半になると逆に、欺瞞に満ちた戦後民主主義の象徴として全共闘の学生などから激しく糾弾された。心労と病気が重なったことで、1971年(昭和46年)に東大を早期退職した。1974年(昭和49年)に東京大学名誉教授。1978年(昭和53年)には日本学士院会員となる。
肝炎などの持病と闘いつつ、長年版元より依頼されていた『丸山眞男集』(岩波書店)を刊行中の1996年(平成8年)8月15日(終戦の日)に死去。家族のみで密葬を行い、約1週間後に死去が公表された。8月26日に「偲ぶ会」が、新宿区信濃町の千日谷会堂で行われた。  
業績
前記の時論的な論述のほか、日本政治思想史における業績も重要である。第二次世界大戦中に執筆した『日本政治思想史研究』は、ヘーゲルやフランツ・ボルケナウらの研究を日本近世に応用し、「自然」-「作為」のカテゴリーを用いて儒教思想(朱子学)から荻生徂徠・本居宣長らの「近代的思惟」が育ってきた過程を描いたものである。これは戦時中に日本を支配した非合理的なファシズム思想に対する丸山の精一杯の学問的抵抗でもあった。明治時代の思想はデモクラシー(民権)とナショナリズム(国権)が健全な形でバランスを保っていたと評価し、特に福澤諭吉を日本近代を代表する思想家として高く評価し、日本学士院ではもっぱら福沢諭吉の研究を行い、日本思想史研究における生涯の大半を福澤諭吉の研究に費やした。そのため、丸山の『福沢諭吉論』はそれ以降の思想史研究家にとって、現在まで見過ごすことのできない金字塔的な存在となっている。
『日本の思想』(1961)の発行部数は2005年(平成17年)5月現在、累計102万部。大学教員達から“学生必読の書”と評される他、この中に収められている『「である」ことと「する」こと』は高校の現代文の教科書にも採用されている。 1985年(昭和60年)にはフランスにおける最初の日本語のアグレガシオン(教授資格試験)の和仏訳、テキスト分析の試験問題にも選ばれている。
早くから海外に翻訳され、現在も再版されていることは特筆に値する。まず、1963年(昭和38年)に『現代政治の思想と行動』Thought and Behavior in Modern Japanese Politics が英訳出版された。続いて1974年(昭和49年)には『日本政治思想史研究』Studies in the Intellectual History of Tokugawa Japan が英訳され、1996年(平成8年)にその仏訳 Essais sur l'histoire de la pensée politique au Japon が刊行された。1988年(昭和63年)には『近代日本の知識人』Denken in Japan が、2007年(平成19年)には「超国家主義の論理と心理」、「近代的思惟」などを収めたFreiheit und Nation in Japan がそれぞれドイツ語訳されている。
また「丸山論」は、没する前後から年数冊のペースで、刊行され続けている。  
影響
丸山のゼミナールからは多くの政治学者・政治思想史家を輩出した。彼らは総じて「丸山学派」と言われ、マルクス主義の政治学に対する近代政治学として日本の政治学界において一大勢力をなした。日本政治思想史専攻以外にも、篠原一、福田歓一、坂本義和、京極純一、三谷太一郎といった東大系の政治学者は、多かれ少なかれ影響を受けており、かつそれをさまざまな形で公言している。
狭義の政治学界の外でも、評論家の小室直樹などは丸山眞男を師と仰ぎ、作家庄司薫、異色官僚の天谷直弘、社会民主連合創設者で、参議院議長となった江田五月、教育学者の堀尾輝久なども丸山ゼミ出身。亡き後の政治学界や言論界にはなお崇拝者、信奉者が多く、戦後日本を象徴する進歩的知識人の一人であった。  
投獄経験に関して
逮捕されて拘置所に送られたとき、「不覚にも一睡もできない拘置所で涙を流した。そのことが日ごろの『知性』などというものの頼りなさを思い切り私に自覚させた」といい、「軍隊経験にまさるとも劣らない深い人生についての経験」だったと述べた。
丸山は元々は、父と同じジャーナリスト志望で、東京帝国大学に残る気はなかった。たまたま助手公募の掲示をみて応募した。そして自身逮捕歴があったのと、マルクス主義に影響を受けた論文を書いたので、特高や憲兵の監視を受けていた。そういう人間を助手として雇うだけの度量が東大法学部にあるのなら、研究室に残ってもいい、というのが22歳の生意気盛りの学生だった当時の丸山の気持ちであったであろう。当時の丸山の指導教授だった南原繁が、丸山の論文のそういう性格を見抜いたうえで、さらには丸山が自分の逮捕歴などを告白したのを聞いたうえで、丸山を助手に採用したのは、南原の本心が、丸山とは“思想の同志”的な位置にいたからである。
「運動」に関して
1968年(昭和43年)の東大紛争の際、大学の研究室を占拠して貴重な資料・フィルムを壊した全共闘の学生らに「ファシストでもやらなかったことを、やるのか」と発言した。
安保闘争後、市民運動が活発になった際に、弟子の松下圭一らは「市民が成熟して「市民感覚」が養われるようになった」と主張していたが、丸山は、そのような政治参加は「パートタイム」的なものにとどめるべきものだと述べた。
思想の系譜に付き、丸山真男→松下圭一→菅直人となる。
交友関係について
『世界』初代編集長の吉野源三郎とは、終生深い親交があった。
作家の武田泰淳や埴谷雄高、中国文学者の竹内好とは家族ぐるみの付き合いがあった。また竹内については、「『ふつう好さんのことをナショナリストと言うでしょう。ぼくはそれだけをいうと、ちょっと抵抗を感じるな。20年以上のつきあいを通して、好さんにはコスモポリタニズムが感覚としてある、と肌で感じます』と述べている」。
鶴見俊輔とは、(戦後初期の)「思想の科学」創刊以来の付き合いがあった。
趣味
ディレッタントを自称し、思想史のほかにも文学や映画、音楽などに造詣が深かった。中でもクラシック音楽への入れ込み方は尋常でなく、東大退官後はレコードやスコアを蒐集して分析するのに多くの時間を費やしたとされる。作曲家ではベートーヴェン、ワーグナー、演奏家ではフルトヴェングラーに傾倒していた。  
批判
丸山は戦後日本に大きな影響を与えた人物ということもあり、様々な立場から批判がなされている。竹内洋は評伝で、丸山自身は批判に余り取り合わず「黙殺」したことで、結果的に丸山の権威が認められたと述べる。
プロレタリア革命を主張するマルクス主義者からは、西洋近代のブルジョワ市民社会を理想とする「近代主義者」「市民派」であると長年批判された。
吉本隆明は丸山を、上空飛行的思考として批判した。吉本の丸山批判は当時広範囲にわたって影響を及ぼした。 
東大紛争では、全共闘の学生から、東大教授という立場に寄りかかった権威主義者、大衆から遊離した貴族主義者であるとして批判された。
日本ファシズム論の定義が曖昧であるという批判や、丸山の議論は西欧にあって日本にないものを指摘する「欠如理論」であるという批判もある。
1990年代後半以降には、姜尚中、米谷匡史あるいは酒井直樹等のようなポストコロニアリズムの立場から、「国民主義」や、ナショナリストとしての一面を批判されている。しかし、このような見方に対しては、斎藤純一、葛西弘隆等のような思想史研究の立場から、確かに丸山は1950年代頃までの論考で明治期の日本国のナショナリズムを肯定的に評価する面があったにせよ、それ以降においては多元主義あるいは市民社会をより重視するようになっていたとする指摘がある。
日本政治思想史研究に対しては、近世思想史の解釈が恣意的との批判がある。また、経書学・日本思想史の立場から、漢籍読解の稚拙さを指摘する論考もある。
丸山のゼミナール出身である橋川文三は、師を継承しながらも、論文「昭和超国家主義の諸相」にて、丸山に批判を加えた。
梅原猛は、思想的伝統が日本には形成されなかったと定義する丸山に対し、『法華経』などの古典などを読まず、また、日本の美術、文学、風俗を調査せずにその様な断定を行うのは許しがたいと批判した。
水谷三公は、学者としての丸山を尊敬しつつも、その政治的言説がアメリカを批判して北朝鮮やソ連に傾くものだったとし、「外交オンチ」「政治的蓄膿症」と言われても仕方がないと評した。
大塚久雄が、梶山力と共訳だったマックス・ヴェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、のちに大塚の単独訳にしたことを、ウェーバ研究者の安藤英治が批判し、梶山の単独訳版を改訂刊行しようとした。その際に圧力をかけてきたのが丸山であったとして、同じ研究者の羽入辰郎は批判を行った。
志村五郎は、丸山の漢学や音楽に関する会話や著作を「一知半解」であることを記述をあげて指摘するほか、特に朝鮮戦争に関して丸山にとって都合が悪い史実(北朝鮮側から開戦)を40年以上にわたり「不可知論」で誤魔化し続けた事実を指摘し、そこに丸山のジャーナリスト的な資質の根本的な限界を見い出した。  
 
温故知新 / 日本の思想

 

1996年にはいろんな人の訃報に接した。
寅さんの映画は劇場では一度も見たことのない私である。しかし渥美清さんの逝去の報に接すると、やっぱりいろんな感慨が浮かび上がってきた。ちなみに『男はつらいよ』シリーズの映画はテレビでは何作か見たことがある。中国で『阿寅的故事』というタイトルでやっていた中国語吹き替え版もなにかの拍子に見たことがある。ほんと何かの拍子に中国でたまたまテレビをつけたらやっていたのである。私の中国語の水準や、私が中国について持っている先入観というようなものとあるいは関係があるのかも知れないことをあらかじめ断っておいたうえで、私がそのとき感じたことを書くと、『男はつらいよ』を中国語吹き替え版で見ても、洋画(欧米の映画)を吹き替え版で見ているときに感じるような「翻訳もの」的な違和感はほとんど感じなかった。それよりは『攻殻機動隊』を英語ヴァージョンで見ているときのほうがよっぽどヘンな感じがする。日本で作られた映像作品がアジアで広く放映され、大衆的人気を集めていることには、日本の映像作品が持つ映画の「文法」みたいなものが、中国語圏や東南アジアの民衆文化と反りが合うということがあるんじゃないだろうか。印象はしょせん印象にすぎないが、そんなことを感じた。
司馬遼太郎の作品も私にはそんなに親しんだわけではない。だが、その逝去の報に私は少しばかりセンチメンタルになってしまった。私は歴史に興味を感じている者である。で、司馬遼太郎さんの「司馬史観」というやつは、持ち上げられることも多いかわりに、たとえば専門の歴史研究者などからは酷く攻撃されるものだったという印象がある。たしかに歴史の専門家から見れば問題は多いのかも知れない。だが、翻って、じゃあ歴史専門家は「司馬史観」を屈服させられるほどの立派な歴史観を持っているのだろうか?そもそも、私は歴史の専門家の口から「歴史観」ということばを実を伴ったことばとして聞いた記憶がほとんどない。私たちの社会が百科全書的知識人を失っていくなかで、百科全書的歴史小説家を失ったことは、やはり私には痛手のように思えた。
丸山真男氏の逝去の報に接したとき、じつは私はもっと冷静でいた。それは丸山氏の体調が思わしくないことを一年前ぐらいからきいていたからでもある。また、私にとって、丸山氏はまず第一にその多くの著書の作者であった。その点ではたとえばマックス・ウェーバーや吉野作造と同列であった。「同時代の知識人」であるという認識はあったが、同時代に生き、行動している人という印象は希薄だった。もちろん、その逝去を悼む点では私は多くの人の後には落ちないつもりである。丸山真男氏が東大でその講義を聴いたはずの政治史学者の岡義武氏が逝去され、その選集が『丸山真男集』と同じ岩波書店から出されたのがほんの数年前であったことを思うと誠に残念であるとしかいいようがない。だが、丸山真男氏の書き残されたものに私が取り組む姿勢は、丸山氏の生前となんら変わるものではない――そんなふうに私は覚悟を決めている。
丸山真男氏の逝去の後、多くのメディアで丸山氏のことがとりあげられていたようである。個人的に多忙な時期であったこともあり、私はあまりそうしたものに接しなかった。だからあくまでおおざっぱな印象に基づいたもの言いであることを最初にことわっておくと、そうした発言の多くが、丸山氏の業績に肯定的なものも否定的なものもふくめて、丸山氏を「戦後民主主義の理論的旗手」のような人物であったと表現していたように私には思える。
読まずに感想を言うのはあまりよくないことであろう。しかし、丸山氏の生前から丸山氏について言われていたことに対するものも含めて、私のささやかな根本的な疑問をここに記しておきたい。それは、
――ちゃんと読んで言ってるか?
のということである。
なぜこんなことを言うか。私の率直な実感(「実感」ねぇ……)に基づいて言えば、丸山氏の書いたものというのはひじょうにむずかしいからである。『日本の思想』を読んだ。むずかしかった。なんかよくわからなかった。『日本政治思想史研究』を読んだ。やっぱりむずかしかった。やっぱりよくわからなかった。さらに、1990年代になってから編まれた『忠誠と反逆』を読んだ。これもやっぱりむずかしかった。これもなんかよくわからなかった。丸山氏がまさに碩学の士の名に値する研究者であることはよくわかった。でも、「よしっ、この本にはようするにこういうことが書いてあったんだな!」という、「把握した」という実感(「実感」ねぇ……)がどうも得られなかったのである。
だから、世の「丸山論」者諸氏がちゃんと読んでわかって丸山真男を論じているのならば、どうも私は特別に頭が悪いらしいということになるだろう。
でなければ、やっぱり、丸山を読まずに丸山を論じてる手合いが多いってことになるんじゃないの?――負け犬の遠吠えに類するかも知れないけど。
そんな、もしかすると「負け犬の遠吠え」かも知れないことをやっていてもしようがないので、その主著のひとつである『日本の思想』を読み直してみた。その印象と、私が接した数少ない丸山真男追悼企画のひとつであるNHKのETV8の特集(タイトルは忘れた)の印象をもとに、私なりの丸山真男についての「中間報告」のようなものをここに書き記してみたいと思う。
丸山氏にとっての大きな思想的転機が「大東亜戦争」の経験にあったのはたしかなように思える。べつにそれは「戦後民主主義」の思想家としてめずらしいことではない。鶴見俊輔・林達夫・花田清輝・吉本隆明――この人を「戦後民主主義」の陣営に入れると怒る人がいるかも知れないが――など、それぞれがそれぞれのかたちで「大東亜戦争」の体験をその思想形成の基礎の抜きがたい一部としている。その体験がその思想のなかでどう活かされているかも千差万別である。
丸山氏がその生涯をかけて対決しようとしたのは、日本を「大東亜戦争」に駆り立てた「思想」の状況であった。その点に対して丸山氏に妥協はない。鶴見俊輔氏のように、「大東亜戦争」のイデオロギーのなかにさえ自分と連帯しうる思想の契機をねばり強く探ろうという志向は強くない。もっとも、戦前の「思想」をひたすら罵倒し、懸命にたんに否定しようという志向からは丸山氏の態度はもっとも縁遠いところにあるといえよう。伊藤博文であれ小林秀雄であれ、丸山氏が批判対象としてとりあげているのは、丸山氏がその思想のなかに評価すべきものを見出しているからである。丸山氏は敵を甘く見てはいない。その敵――「大東亜戦争」のイデオロギーの正体を暴き、克服し、「民主主義の永久革命」を遂行することをみずからに課していたように私には思える(「民主主義の永久革命」についてはETV8で言及されていた)。
『日本の思想』の冒頭におかれた論文「日本の思想」は、日本に「インテリジェンス」の「歴史」についての研究が乏しいという話題から説き起こされる。「何々思想史」という特殊分野の研究ではなく、また「日本思想論」ではなく、包括的な「日本思想史」がなぜないのか?
それは、まさに「日本の思想」が「歴史」として蓄積することを妨げてきた何かがあるからだというのが丸山氏の仮説である。
私の読みとりかたによって整理すると、思想が「歴史」として蓄積するということは、これまでの思想が、この思想を受け継いでこの思想が出てきて、また、外から入ってきたこの思想がこういうふうに受け継がれてこうなった、というように、時系列的に、また系統的に整理されていなくてはならない。それが丸山氏のいう「歴史として蓄積する」ということだ。ところがそういう「歴史」は日本の思想にはない。たしかに儒学などにはこまかい学統があるし、明治以後のアカデミズムの世界にもドイツ型の恩師−弟子の関係が強固にある。だが、それは、丸山氏にとっては、せいぜい「思想家である者」の系統であり、「思想すること」(へんなことばだが)の系統ではないということになるのだろう。たとえば、カントを承けてヘーゲルが現れ、ヘーゲルへの批判者としてマルクスやキェルケゴールが現れたという系統――それが「西洋思想」の系統観として妥当かどうかはいまは問わない――を「日本の思想」のなかに見出すのは困難だ、と丸山氏は言うのである。
では、「歴史」として蓄積しなかったのなら、日本の思想はどう蓄積してきたのか?それは、外から入ってきたものをバラバラにして吸着していつの間にか「自分のなかにもとからあったもの」にしてしまう、いわばブラックホールのようなもののなかにつぎつぎと吸い込まれていったのだ、というのが丸山氏の仮説である。それは、つぎからつぎへと「外」から入ってきては、「外」で持っていた他の思想との関係を断たれ、バラバラにされ、そしてさっさと忘れられ、ときどき思い出され、そして「そんな思想ならむかしから日本にあったじゃないか」と片づけられてしまう。たとえば、儒教が来る、仏教が来る――そうしたときに、それに対して「よろしいんじゃないですか、だって儒教も仏教も日本古来の神道とおんなじものなんだから」と片づけてしまうという思想的態度をとる。そうやって、思想はつねに時空の地平線の向こう側につねに吸い込まれていってしまう。しかも、その思想を吸い込んでしまう重力場は私たちの「日本の」日常をも強く引きつけているのである。そういうブラックホールが日本の伝統のなかにあるというのが丸山氏の仮説のイメージであるように私には感じられる。もちろん丸山氏は「ブラックホール」などということばは使っていない。もっとエレガントに「通奏低音」とか「古層」とか呼ばれるけど――でも「古層」ってのは地質学から借りたイメージなんだから、べつに天文学から「ブラックホール」を借りていてもヘンではないぞ。
西洋とか中国とかから何かの思想が摂取されるということはある。おそらく必要以上に頻繁にある。だが、それは時系列的に整理されることはない。つぎに何かの思想が摂取されれば、それまでの思想はたんに忘却され、「沈降」してしまう。そしてそこからときどき「思い出」されるだけである。その思想がもともと持っていた他の思想との歴史的な関連を、日本の内部にある強力な重力場がむりやり引き離してしまい、そしてブラックホールへと落としこんでしまうのだ。あとは、ときどき、「あ、そんな思想もあったかな」と、他の思想との関係は忘れたままふと「思い出」されるだけである――ホーキングのいうブラックホールが時空の地平線の外に粒子を揺すり出すように。ある思想は別のある思想を継承して出てきたとか、この思想はそっちの思想への批判として出てきたという、整理され順序づけられたものとしての「思想史」という発想がない。いちど、忘却されてしまったものは、千年以上前の儒教の教えであれ、同じ世紀のヨーロッパの思想であれ、区別なく「昔のもの」として「思い出」されるのだ。そして、「日本の思想」では、その脈絡もなく揺すり出されてくる「思い出」がとりもなおさず「歴史」であると錯認される。丸山氏の「日本の思想」についての見かたはそういうものであるらしい。
なお、こういうふうに書くと、丸山氏は新しい思想は「摂取」されるのみで日本の内部で「内発的」に「発展」するという可能性を無視しているようにとられるかも知れない。しかし、丸山氏は『日本政治思想史研究』で日本の江戸時代の政治思想がどのように「内発的」に「発展」を遂げたかをたどろうと試みたわけだから、この批判はあたらない。あたらないけれども、一方で、前近代の中国や近代の西洋などの「外」からの思想的影響なしに発展した「日本固有」の思想というものを発見しようとする試みには丸山氏は非常に警戒的である。それは、「からごころ」・「ほとけごころ」を排するとした本居宣長の国学思想に、「大東亜戦争」を導いた思想状況に通じるものを感じているからではないかと私は思う。私は国学思想についてはほとんどしろうとであるが、この点に丸山氏の考えかたのひとつの特徴が見て取れるとともに、逆から攻めれば国学思想について丸山氏とちがった位置づけをする端緒もあるのではないかという気もする。「内発的発展」を得意とされる方がた、いかがでしょうか?
「思想」的ブラックホールに受け入れられないものもある。日本に「摂取」される以前の思想が持っていた体系である。啓蒙思想も進化論も、それが日本に受け入れられたときには、コント・ルソー・スペンサー・バックル(福沢諭吉の『文明論之概略』に大きな影響を与えたイギリスの思想家)の体系からは切り離され、「綜合的」な社会科学としての性格を失ってしまった。しかも、それがもとの体系から切り離されて独自の発展を果たしたわけではなく、「日本の思想」のなかに埋没し、そのあり方を防衛するために恣意的に「思い出」されては利用される存在になってしまった。伊藤博文の明治憲法制定時の「臣民の権利」擁護の主張は、臣民の「自然権」を否定し、明治国家を「人民ノ保護者」と位置づけることで、国家の人民への監督の権限を正当化するものとして利用された。これがのちの治安維持法につながると丸山氏は位置づける。進化論は天賦人権論を「後れたもの」と攻撃することで、人権の実現という、いまだ十分に実行されていない目標をたんに否定して現存の国家を弁護するためにのみ利用される。
その日本に、「綜合的」な体系性を持って社会的な現実をとらえようとする思想として入ってきたのはマルクス主義だったと丸山氏はいう。だが、それさえ、「日本のマルクス主義」になったときには、「自家中毒」を起こして「理論信仰」に化けてしまい、社会的現実と対抗する思想としての性格を喪失してしまった。
丸山氏は、日本のなかのブラックホールが存在する領域を「共同体」のなかに見出しているように見える。それはいうまでもなくムラ的共同体である。この「共同体」を丸山氏はつぎのように表現している。
この同族的(むろん擬制を含んだ)紐帯と祭祀の共同と、「隣保共助の旧慣」とによって成り立つ部落共同体は、その内部で個人の析出を許さず、決断主体の明確化や利害の露わな対決を回避する情緒的直接的=結合態である点、また「固有信仰」の伝統の発源地である点、権力(とくに入会や水利の統制を通じてあわられる)と温情(親方子方関係)の即時的統一である点で、伝統的人間関係の「模範」であり……(以下略、46頁)。
なんでも受け入れてしまうあたたかな人間関係、いつでもそこに帰って甘えることのできる場所、責任だの義務だのいう「堅いこと」を言わずともしぜんに村人どうしが助け助けられる関係――そういううるわしい共同体にこそ、「日本の思想」にとってのブラックホールは存在すると丸山氏は言うのである。
だが、ブラックホールで何がいけないのだろうか?すべてを区別なく受け入れて溶けこませてしまうもの、対立し相克するように見えるものも、何も言わずに日本のなかに受け入れる。そして何も言わずに自分の一部にしてしまう。平和で、穏やかで、鷹揚でせせこましくなくて、『となりのトトロ』の世界みたいで、いいことづくめではないか。「個」だの「個性」だのわめいて社会の平和を乱し、ひいては国家や民族のエゴをみっともなくさらけだして世界平和を脅かすより、そのほうがよほどいいではないか。
丸山氏がこういう意見を厳しく拒むことはわかりきっている。そして「個性」などという後れた考えを無批判に信奉し、「日本人の日本嫌い」を助長した後れた「戦後民主主義」者としてバカにされるのである。だがこれは悪口であっても批判ではない。なぜ丸山氏がそれを拒んだのかというその思考の過程こそが批判にとっては重要なのである。
なぜそのような「日本」肯定に対して丸山氏が強い批判を持っていたのか?それは、「なんでも受け入れる」はずの「日本の思想」が「大東亜戦争」のイデオロギーとして機能したとき、それは世界の平和ではなく、戦争と破滅以外の何者をももたらさなかったということへの厳しい反省によるのである。最初に述べたことからもわかるように、これは丸山氏の「党派性」がはっきりと表れた局面である。丸山氏はそのことを自覚していた。他人はいざ知らず、自分だけは「党派性」と無縁でいられるなどという甘えは丸山氏にはない。丸山氏をこの点で批判したいのであれば、その「党派性」をイデオロギー的に暴露するだけでは足りず、批判者自身がどのような「価値の選択」のうえに立って批判しているのかを明らかにしつつ、丸山氏を論理によって論駁しなければならない。
丸山氏にとっては、「大東亜戦争」のイデオロギーの失敗は「開国」の失敗であった。
「開国」とは国際社会に対して国や国内の社会を「開く」ことのみを意味しない。国際社会に対して自分を「画する」ということをも同時に意味していた(9頁)。自分の外部と内部の関係は対称的である。外部を知り、外部に働きかけていくためには、その内部がそれとともに変化しなければならない。魔法少女が小さなハートでこつこつと社会に貢献していく物語は、必然的に同時に魔法少女の成長物語でもあるのだ(なんだよそれ?)。
そうやって自分を変化させていくという過程が「日本の思想」になかったからこそ、日本は国際社会への対応に失敗し、その過程が「大東亜戦争」に繋がっていった――丸山氏は論文「日本の思想」の課題を思想に限定しているのでそういう見通しはどこにも明示的には述べられていないけれど、丸山氏が「日本の思想」の問題を扱うときに想定していたゴールはそこにあるにちがいないと私は思う。
ここで重要なのは「過程」が欠けていることである。丸山氏はこの「日本の思想」という論文で「実感信仰」と「理論信仰」という戦前思想の二つの問題を強く批判している。丸山氏自身の「あとがき」によるとこの部分には丸山氏にとって意外な――つまり丸山氏にとっては「的外れ」でしかない批判が多く寄せられたそうである。ただ、ここは、丸山氏自身が書いておられるように、この論文のなかでちょっと荒削りでわかりにくい。丸山氏の批判の意図を読み取りにくい部分ではある。
じつは「実感信仰」とか「理論信仰」とかいうことより、そのどちらにも「過程」が欠けていることが批判の要点なのだ。「過程」というのは、つまり自分から社会的な現実に働きかけていくというアクティブな「過程」である。社会的な現実に自分から働きかけ、同時に自分を変革していく――思想はそのための道具であるべきだ、というのが丸山氏が批判の前提としている考えかたであるように私は思う。もちろん、「社会的な現実」への働きかけとは現実を直接に変革することのみを指すのではない。現実をよりよく認識しようとすることもまた「働きかけ」の一種である。直接行動ばかりに価値があるように見るのは、丸山氏にとってはやはり一種の「実感信仰」または「理論信仰」であろう(丸山氏は「実践に対するコンプレックス」と表現している。60頁)。
自分の感じたことを規範に照らして判断することを積極的に拒否し、ただその「実感」をすなおに享受するというのが丸山氏のいう「文学的」な「実感信仰」である。そこでは「規範に照らして判断する」以前の感性とか感覚とかが一方的に重視されるのだから、そこにはとうぜん「思想」を道具として社会に働きかけたり自分を変革したりするという「過程」は存在しない。むしろそうしたもの以前の「一次的」なものから脱するのを拒否するという点で、それはムラ的共同体の懐に抱かれようとする心情と本質的に同じものである――と丸山氏は「実感信仰」を位置づけているようである。私は「実感」をそういうものとしてとらえられるものかどうか疑念を持っているが、残念ながら戦前文学についての「綜合的」な知識に欠けているので丸山氏に論駁することはできない。
ではマルクス主義の変態である「理論信仰」はどうか?丸山氏が「理論信仰」を強く批判するのは、やはりその理論を「道具」として使い、現実に働きかけたり自己を変革したりしようとしないからである。この批判は「実感信仰」に対するものよりわかりにくい。「理論」とは、まさに現実に働きかけるための道具的性格が表面に強く表れた思想である。それがなぜ「道具」的な「過程」が欠けていることとむすびつけて批判されなければならないのか。
丸山氏はこの疑問に対して、「理論信仰」はまさに道具的な「過程」を飛ばした理論への「信仰」だからだと応じるであろう。「日本の思想」における理論は、それによって現実を検証するための道具としては機能しない。そうではなくて、その「過程」を省略して「これは理論にあてはめればこれこれだ」という一足飛びの「きめつけ」の論理としてしか機能しないのである――丸山氏の論旨はそこにある。「なぜ○○は××なのか?」という探求する「過程」を軽んじ、「○○なんか××である」という「きめつけ」をもっともらしく粉飾するためにだけ「理論」が使われる。それはやはり現実との接触を欠いているという点で、「実感信仰」とすこしもちがわないものである。
こうした「過程」の思考を最初から放棄したところでは、社会的なできごとに対する責任は「無責任」になるか「無限責任」になるかどちらかである。その責任をだれが負うかはっきりしないから、まあ、いいや――とあいまいにされてしまうか、それとも、これだけの重大事件が起こったのだから「すべて私が悪いんです」とか「すべて××が悪いんだ」とかいう思考におちいるか、どちらかにならざるを得ない。責任というものがどういう社会的現実に応じて発生するかということをさまざまな理論を用いてつきつめて考えるという「過程」がそこには希薄なのである。もちろんそういう「責任」意識がまったくなければ法律なんか機能しようがないのだから、明治国家や戦前の国家で法律が機能していたということはそういう思考がまったくなかったわけではなかろう。だが、それは、法律「責任」意識の人民への浸透というかたちで定着したのではなく、逆に実定法的なものが「法律ではほんとはいけないことになっているけどまあいいか」というようにムラ的共同体から浮き上がるという方向に向かっていった――とモデル的には言えるであろう。このへんは丸山氏もはっきり言及してはいないがたぶんそういう論理になるのだと思う。
「無限責任」も「無責任」も、政治的な重大事件から学問のスタイルにいたるまであらゆるところに出現した。そして、それは日本の社会の変革をつねに妨げ、国際社会の動きから取り残させる結果を生んだ。その日本の国際社会への不適応の終着点が「大東亜戦争」だったのだ――というのが丸山氏の仮説ではなかったろうか。
だが、丸山氏の問題意識を、たんに戦前・戦中の日本がどうであったかという問題に限定するのはおそらく丸山氏にとっては我慢ならぬ曲解であったに相違ない。あるいは、丸山氏の論理を用いて、日本のなかにいまだに残っている戦前・戦中的な要素を叩くことのみに終始する態度も丸山氏の本意には反するものであると私はあえて言いたいと思う。
丸山氏がなぜ「民主主義の永久革命」者であろうとしたのか?
丸山氏にとっていちばん恐ろしかったことは、「大東亜戦争」イデオロギーの破綻後、「開国」のやり直しによってようやく手にした「民主主義」が、かつての進化論や啓蒙思想のように、日本的共同体のブラックホールのなかに吸い込まれて解体されてしまうことだったのではないだろうか。「民主主義」が日本のムラ的共同体を粉飾するための論理にすりかえられ、ひいてはそれが日本を国際社会への不適応に導き、そして日本を戦争に導くこと――それが丸山氏にとってもっとも恐ろしい悪夢ではなかったのだろうか?
傲慢なもの言いであることを承知のうえであえて書いておこう。丸山氏が「民主主義」者として認めたのは、「民主主義」をつねに問い直し、それを道具として用いて社会的な現実と対抗することをつづけている者のみである。自分が「民主主義者である」という自惚れに安住し、自分の(丸山氏のいうような)「ムラ的共同体」的な行動に対して無反省な者に「民主主義の永久革命」者である丸山真男の同伴者たる資格はない。
ここまで読んで、「丸山擁護/反丸山」とか「戦後民主主義/反戦後民主主義」とかいう単純な図式しか持ち合わせていない読者は、さては清瀬は丸山擁護の度しがたい戦後民主主義者だとかいう印象を持たれたにちがいない。そういう「単純な図式」にあてはめることを「理論的」であると錯覚することこそ丸山氏のいう「理論信仰」にほかならぬわけだが。
たしかに私はここでは丸山氏の遺著のなかでいちばん手軽な部類に入ると思われる『日本の思想』(たしかに新書版だから重量的には軽いぞ――『「文明論之概略」を読む』みたいに三冊本でもないし)の、それも第一論文「日本の思想」の論旨をたどるという作業をやってみた。ときには丸山氏がこの論文を書くにさいして自分に課したであろう厳格な限定から論文では明示的に書いておられないようなことを、私がかってに推測して書くというおせっかいまでやった。
だが、ほんとうの批判はそういう作業を通してしか得られぬものである。とくに最初に書いたように私にとって丸山氏の著書はむずかしくてよくわからないのだ。それを「わからない」と言って「批判」したり、自分でわかろうとする努力もしないで「批判」したりするというのは批判の名に値しないと私は思う。それは丸山真男氏の業績に対しても庵野秀明氏の業績に対しても同じである。
丸山氏の理論に対しては私は多くの疑問を持っている。はたして日本の村落共同体が丸山氏がモデル化したようなものだったのか、また、その村落共同体のあり方は丸山氏がいうように日本独特のものであってデカルトやカントやヒュームの祖国にはそういうものはなかったのか?「文学」的な「実感」はほんとに思想による世界と自己に対する働きかけを排除する仕組みなのか?明治国家の国家建設はほんとに必然的に「大東亜戦争」に行き着くような性格のものだったのか?そのいちいちに対して、私は、まだ丸山氏を論駁する準備はできていないけれど、しかし疑問を持ち続けてはいるのだ。私は丸山氏に対して批判者でありたいと思うし、戦後民主主義に対する批判者でもありたいとも思う。ただ、それは、丸山批判者であるとか戦後民主主義に対する批判者であるということへの自負で自分を粉飾したいということであってはならないと思っているだけである。
丸山真男氏は本書のあとがきにこう記している。
著者ののぞむところは、右のような色々な問題〔「現にわれわれの当面しているいろいろな問題」〕の論理的なまたは歴史的な関連づけの仕方にたいして活溌な批判がおこり、あるいはこれに刺戟されて、個人の発想のレヴェルから、政治制度と社会機構のレヴェルに至る近代日本の思想的見取図が著者と異った角度からそこここで提出されること以外にない。あるいは本稿のなかに雑多に投げこまれて十分に整理されず、いわんや展開もされていない問題を読者が自由にひろい上げて、討議の素材とするだけでも著者としては満足であり、その際、討議の問題点などを報らせて下されば、著者が今後さらに考察を進めるうえに、一層有難いと思っている。(180頁)
ぜひそうさせていただきたいものだと思う――もっとも私のごときが考察をすすめることで泉下の丸山先生がどんな気もちを抱かれるか、よくわからないけれど。
それと、もう丸山先生に「討議の問題点など」を知らせることはできない。だが、丸山氏はそうした「討議」がムラ的なうちわのものになることを何よりも嫌ったはずだ。自分の考えたことを全世界に向けて公開し、批判を仰ぎ、自分の考えを外界との関係のなかで発展させていく――それが丸山先生の理想であったとすれば、インターネットはまさにそれにうってつけの「道具」ではないかと思うのである。 
 
忠誠と反逆 / 丸山真男

 

丸山真男嫌いだった。
最初に『現代政治の思想と行動』を高田馬場の古本屋で買って読んだ。次に岩波新書の『日本の思想』を武田泰淳に貰って読み、さらに『日本政治思想史研究』を読んだ。
きっと何も掴めていなかったのだろう。どうにもピンとこなかった。なにぶん学生時代のことで、しかも急進的なマルクス主義の本を何十冊も読んでいた最中だったし、それをいっぱしに実践していると自負していたもんだから、丸山真男の装飾文様のようなマルクス主義や、とってつけたような左翼リベラリズムがまったく共感を呼ばなかったのだろう。
そこへもってきて吉本隆明が当時書きおろしたナショナリズム論において丸山をこっぴどく批判した。
こんなことが手伝って、丸山アレルギーが出た。ほんとうは丸山のレベルに手も目も届かなかったのだが、そうは謙虚に思えなかった。つまり役にもたたない読書をしていたわけだ。
それがいつしか少しずつぐらついてきた。
これは勘であって、実体験ではない。自分(松岡正剛)が丸山真男という果実を省いてきたこと(排除してきたこと)、そのことがいささか気になってきたというのが正直なところで、こういう勘はときどき動くものである。ミシェル・フーコーが雑談のなかで「そういえば丸山真男という人はものすごい人だった」という感想を洩らしたのもひとつのきっかけだったが(フーコーは来日した折に丸山を訪ねていた)、ぼくが少しずつ日本の近代を考えるようになったことが大きかったのであろう。
こうして、丸山真男を通過することはどうしても必要なことなのだと思いはじめたのである。
それからしばらくたって『忠誠と反逆』を読んだ。このときも本格的に読めてはいなかったようだ。ちゃんと読めていないということで、思い当たることがある。
たとえば「稜威」(いつ)という概念について、丸山はこの本の「歴史の古層」の章で「勢」(いきほひ)や「活」(いかし)と並べて少しだけ採り上げているのだが、当時はそういうところは目が届かなかった。いや、注目しなかったのではない。
ぼくには10冊か20冊に1冊の割合で本の中に夥しいマーキングをする癖がある。昔は鉛筆、ついで万年筆、そののちは赤か青のボールペン。なぜマーキングをするかといえば、そのマークをする瞬間にそのキーワードやコンテキストを印象づけるためだ。また、のちにその本をパラパラと開いたときに、そのマーキングが“意味のかたち”のインデックスとなって高速の「蘇えり」がおこるからだった。
『忠誠と反逆』も赤いペンでマーキングをしていた。そして、何年かのちに本居宣長のことを調べていて、本書にもたしかそのへんの言及があったことを思い出し、パラパラとめくっていたら、おやおや「稜威」に強いマークが記してあった。あれっ、丸山はこういうことを書いていたんだと、そのときは丸山の深部へのさりげない言及にギョッとした。
いいかえれば、ちゃんとぼくが丸山真男を読めていなかったということだ。
そんなおり岩波が『丸山真男集』全16巻を刊行しはじめ、ついで本人が亡くなった。死後、すぐに『丸山真男座談』全9冊(岩波)が、つづいて『丸山真男講義録』全7冊(東大出版会)が書店に並びはじめた。
これらはときどき店頭で手にとってはみたのだが、そのあまりの物量にいささか腰砕けになっていた。
そこへ『自己内対話』(みすず書房)を読む日がやってきた。これがやっとトリガーとなった。3冊の未公開ノートを編集したもので、ぼくのような編集屋が見ると、かえって構想と断片との関係がよく見えてくる。実にすばらしいノートであった。なんだか丸山が優しくも見え、また切なくも見えはじめ、しかもその思考の構図が手にとれるようになった。
こうしてふたたび丸山を読むようになったのだ。
で、『忠誠と反逆』である。
本書では、丸山の思想のセンサーが動こうとしているところがよく見えた。これまで気取った知識人として防備されていた表層が剥落していって、その奥が覗けた。そしてその奥に、ぼくにはわかりやすい丸山の長所と短所が見えた。
冒頭の1960年執筆の長い「忠誠と反逆」論文は、これがそのまま膨らんだらさぞおもしろいだろうとおもえるもので、日本の法制史がどのように「反逆」を規定してきたかという前提をあきらかにしながら(たとえば養老律令の八虐や御成敗式目の大犯三箇条)、そのあいだを縫って御恩と奉公が、義理や忠義の出現が、君主と臣民の絶対的関係の確定が、さらには山県太華の明倫館と吉田松陰の松下村塾の反逆のイデオロギーが、宮崎滔天や内村鑑三の苦悩が、広津柳浪の『非国民』が、どのように忠誠と反逆のあいだを揺動する精神として醸成されていったかという歴史的構造を明示しようとしている。
この狙いは卓抜である。しかも随所に独自の流れの抽出と鋭い指摘が出入りする。
ただ、全体としてはいまひとつ充実していない印象がある。当初に予定していたらしい大杉栄らのアナーキズムにおける自由と反逆の問題を割愛したことも響いている。昭和維新も出てこない。のちに松本健一がすべてを引き取って思索したことの大半が抜け落ちたのだ。
この視点はおそらく、第233夜に書いた源了圓の『義理と人情』などとともに、今後に持ち越されるべき課題の萌芽とみたほうがいいだろう。今後の課題とは、「日本的方法とは何か」ということだ。
つづいて、佐久間象山の世界観に照準をあてた「幕末における視座の変革」、夷人意識と「知足安分」意識と外圧受容意識の三つ巴を浮き彫りにする「開国」、福沢諭吉を扱った「近代日本思想史における国家理性の問題」などの論文や講演記録が並ぶのだが、いずれもこれまで読んできた主旨とかわらないので、とくに刺激は受けなかった。
それが「日本思想史における問答体の系譜」「歴史意識の古層」で、俄然、光と闇の綾が眩しくなってくる。
「問答体」のほうは、最澄『決権実論』と空海『三教指帰』を劈頭において、日本思想にとって「決疑」とは疑問に応えることだったという視軸にそって、夢窓疎石の『夢中問答集』、ファビアン不干斎の『妙貞問答』などにふれつつ、最終的には中江兆民の『三酔人経綸問答』にこの方法が近代的に結実していたことをあきらかにしたもの、丸山が「方法」に異様な関心をもっていたことがよく見てとれる。
しかし、もっと炎のようにめらめらと“方法のセンサー”が動いているのは論文「歴史の古層」のほうである。1972年の執筆だが、その後に書き加えがあって、本書のなかではいちばん新しいものになっている。
ここで丸山は、宣長が指摘した「なる」「つぎ」「いきおひ」の古語をつかまえ、日本的な思想が「生成」に関してどんなカテゴリー(基底範疇)をつかおうとしたかに光をあてた。
世界の神話では、「つくる」「うむ」「なる」という基本動詞によって世界の発生と神々の発生が説明されてきた。
これらは一連の神々の動作のように見える。しかしながら「つくる」では、往々にして作るもの(主体)と作られたもの(客体)が分離する。ユダヤ=キリスト教やギリシア自然哲学ではここが明快だ。そして、その分離した主体には「うむ」という自主行為も位置される。「つくる」と「うむ」とは一連なのである。ピュシスとはそのことだ。
これに対して「なる」は、こうした主体の分離自立を促さないですむ。「なる」には「つくる」がなくてかまわない。では、いったい何が「なる」という動詞の意味なのか。
本居宣長が注目したのも「なる」である。
『古事記伝』のその箇所を整理すると、宣長は「なる」には3つの意味があるとした。(1)「無かりしものの生(な)り出る」という意味(神の成り坐すこと=be born)、(2)「此のものの変はりて彼のものになる」という意味(be transformed)、(3)「作す事の成り終る」(be completed)という意味、である。
なかでも、「生る」(なる)を「生る」(ある)とも訓んでいたことを示せたことが、宣長自慢の発見だった。
丸山は珍しくこれらの語彙語根を追う。そして日本における生成観念が「うむ=なる」の論理にあることを指摘して、その「うむ=なる」が後世、「なりゆく」「なりまかる」というふうに歴史的推移の説明にもつかわれて、そのような言葉の使い方そのものがどこかで日本人の歴史意識をつくってきただろうことを、ついに告白するのである。
このように丸山が、宣長の発見した論理を日本人の一般的な歴史意識にあてはめながら説明することは、ぼくが知るかぎりは、警戒心の強い丸山がなかなか見せようとはしてこなかったことだった。しかもそれは、丸山がうっかり見せてしまった“衣の下の鎧”というものではない。ややたどたどしい追究ではあるけれど、丸山はこの考え方に魅せられて、その意味を“方法のセンサー”で追いかけている。
それが、「なる」につづいて「つぎ」に注目したことにあらわれる。
宣長にとって、「つぎ」はむろん「次」を示す言葉であるが、同時に「なる」を次々に「継ぐ」ための言葉なのである。
ついで丸山は古代語の「なる」「つぎ」が中世近世では「いきおひ」(勢)にまで及ぶことを知る。しかも「いきおひ」をもつことが「徳」とみなされていたことを知る。どのように知ったかというと、徳があるものが勢いを得るのではなくて、何かの「いきおひ」を見た者が「徳」をもつのである。
これは、儒教的な天人合一型の「理」の思想が日本の自由思考をさまたげてきたと見る福沢=丸山の立場からすると、意外な展開であったとおもう。
儒教・朱子学では、天と人とは陰陽半ばで合一する絶対的な関係にある。しかしながら宣長と丸山が説明する「なる」「つぐ」「いきおふ」という動向の展開は、互いに屹立する両極が弁証法的に合一するのではなく、もともと「いきおひ」にあたる何かの胚胎が過去にあり、それがいまおもてにあらわれてきたとみるべきものである。これはちょっと深いセンサーだった。
こうしてついに丸山は、「いつ」(稜威)という機能がそもそもの過去のどこかに胚胎していたのであろうことを、突きとめる。
「いつ」は、ぼくが山本健吉『いのちとかたち』において、ひそかに、しかし象徴的に持ち出しておいた超重要な概念である。スサノオが暴虐(反逆)をおこすかもしれないというとき、アマテラスが正装して対決を決意するのだが、そのスサノオとアマテラスの関係そのものにひそむ根本動向を感じる機関や第三者たちの自覚がありうること、あるいはそこに“負の装置”の発動がありうるということが、「いつ」である。そこではしばしば「伊都幣(いつのぬさ)の緒結び」がある。
論文を読むかぎり、丸山が「いつ」を正確に捕捉しているとはおもえない。しかし、「いつ」こそが歴史の古層に眠る独自の観念であることには十分気がついている。「なる」「つぐ」「いきおひ」は大過去における「いつ」の発生によって約束されていたわけなのだ。
それを歴史の古層とみなしてもいいのではないかというふうに、丸山真男がこんなところにまで踏みこんでいたことに、ぼくは再読のときに驚いたわけである。
のちに丸山は、日本のどこかにこのような「つぎつぎ・に・なりゆく・いきおひ」を喚起する歴史の古層があることを、いささか恥ずかしそうにバッソ・オスティナート(持続低音)というふうにも呼ぶことになる。
また、このバッソ・オスティナートを歴史的相対主義の金科玉条にしたり、歴史の担い手たちのオプティミズムの旗印にしたりするようでは、この古層がつねに“復古主義”や“国粋主義”と見間違われて、とうてい正当な歴史観になることが難しくなるだろうとも言っている。
こういうふうに表明して、決して慌てないところが丸山真男が思想界から信頼されている理由でもあるのだが、しかし今宵は、ぼくとしては案外知られていない丸山真男の“方法のセンサー”が触れた「ときめき」のほうを指摘しておきたかった。なぜなら、そこからしかぼくの丸山真男探検は始めようがないからだ。  
 
丸山眞男と歴史の見方 / 私の問題提起

 


「丸山真男(1914−1996)は、戦後日本における代表的な政治学者、思想史家であるにとどまらず、戦後日本のデモクラシーの行方を憂慮する各界のこころざしある人々に大きな影響力をもった思想家でもある。その影響力の大きさと質を考えるとき、明治の偉大な啓蒙思想家福沢諭吉に匹敵する『昭和の福沢諭吉』ともいうべき存在ではなかったかといえるかもしれない。福沢は、国民国家日本の将来を憂い、『一身独立して一国独立す』という名言を残したが、丸山真男にとって、デモクラシーの運命は、他人の痛みの分かる『他者感覚』を備えた市民的『主体』の確立にかかっていると考えられていたといわれる。
混迷の時代といわれる今、没後3年、戦後日本のかけがえのない知的遺産としての丸山真男の人と業績をたどり、その思想の歩みを再考することによって、私たちの現代社会に生きる指針を探りたい。」1)
高槻市立生涯学習センターは、1999年9月から10月にかけての土曜日に、戦後日本の思想における丸山真男の業績と位置をテーマとする連続講演を開催したが、上記の文章は、この「丸山真男講座」の企画を依頼された私が、同センターの企画趣意書として執筆したものである。そして、以下の文章は、私が、この講座の最終講として10月23日に行った講演の原稿に加筆したものである。
私は、丸山真男先生には、とりわけ比較ファシズム研究に集中していた時期にその著書・論文等から多大の教えを受け、かつその後の戦後デモクラシーの危機の深化とともに、「戦後デモクラシーの虚妄に賭ける」と言い切られた先生の御言葉に大きな励ましを受け続けてきた立場にある。また、必ずしも常時明言してきたわけではないが、「リベラル左派」という自己規定についても、自分は先生と同じ立場に立っているのだ、という思いをこめてきたつもりである。ただ、どういうわけか、いくつかの私にとって重要な時点での不運な行き違いから、私の先生への思いは、一方通行に終わり続け、しかも、先生の御他界後三年余を経て、ようやく私なりの弔辞をいささか生意気な形で申しあげることとなった。
私がここで、丸山真男を福沢諭吉と並べて評価することについては、直ちにある種の方向からの批判が予想される。現在、この二人を、ともに「健全なナショナリズム」の可能性の追求という「危険な罠」にはまった思想家として論難することがある種のモードとなっているからである。この種の立場の問題性は、例えば、かつての、植民地の独立運動を支えたナショナリズムを始め、ナショナリズムにもさまざまの性質を異にするものがあることを無視して、「ナショナリズムはすべてファシズムに通ずる」というテーゼを強引に押し出すなどの言説に端的に現れているが、私としては今ここで正面から論争する気にはなれない。2)ただ、丸山真男は、とりわけその晩年において、福沢が「脱亜入欧」論を説いたという事実そのものを真っ向から否定して、「脱亜入欧」を福沢の「造語、愛用語、キーワード」であったとしかねない1950年以降の風潮は誤りとする立場に立っており3)、その意味で、この種の立場に立つ人々の気持ちを逆撫でするような主張をしていることになる。それだけに、この点に関する論議は今後とも持続するものと考えられる。
さて、いささか私事にわたるが、私には、この機会に記録に残しておきたい丸山先生との不運な行き違いが2つある。その一つは、私が折角東京大学法学部の第3類(政治コース)に学ぶ機会を得ながら、私の本郷キャンパス時代(1954年4月−1956年3月)には、先生は御病気のため教壇に立たれず3)、結果的には、私はただの一度も先生の講義を拝聴する機会を得ることができず、また、親しく個人的にお教え頂くこともほとんどなかったことである。このことは、私が、自分のファシズム研究において、一面で先生の諸論文に影響を強く受けたこともあって、世評では、しばしば「丸山シューレ」の一人と(勝手に)見なされることが多く、その度に複雑な思いをするということにつながった。
もう一つは、私が日本政治学会の理事長(1990年10月から92年10月まで)をさせて頂いた折りのことである。私は、1989年以降の世界史的激動の開始に圧倒される思いの中で、丸山先生に手紙を書き、同学会のニューズレター(「日本政治学会会報」)に、この激動の中での政治学のあり方をめぐって是非とも御寄稿を頂きたい旨、お願いした。しかし残念なことには、このお願いは、結局実ることがなかった。92年9月24日の日付で頂戴したお葉書によると、当時の先生は『忠誠と反逆』の仕上げに没頭されていたことが絡んで、この私の要請に応えることが不可能だったのである。私は、今回、この講演の準備のために先生の著作集を拝見するなかで、もしあの時のあのお願いが実現していれば、89年以降の事態に対する先生のお考えを知る数少ない貴重な文章の一つになっていたであろうという意味で、あらためて無念の思いが湧き起こってくるのを禁じえなかった。
それはともあれ、私が、以下の文章で取り上げるテーマは、(1)ファシズム研究における丸山真男、(2)発展段階論から異文化接触論への転換という形をとった丸山真男の歴史観の変容、(3)「市民」及び「市民社会論」と丸山真男の3つであり、その全体を「丸山真男と歴史の見方」というテーマにまとめさせて頂くことにする。
このテーマは、丸山先生にとっては、「本店」というよりはむしろ「夜店」での仕事をあげつらうものになる可能性がある。しかし姜尚中氏が、丸山真男の死を悼む講演の中で言った言葉− この種の講演に人が集まるのは、「丸山眞男という一人の思想家、学者をしのんでというよりは、戦後というものについての自分の実体験を踏まえて、丸山先生の語ることに、ただたんに学者が語るということ以上の何かを受け止めてこられたのではないかと思うのです」4) − が正しいとすれば、私が選んだこのテーマは、この種の期待から講演を聴きに来られる方々の期待に沿ったものといえるかもしれない。また、私が、以下の文章の中で、個々の具体的なテーマについて丸山先生と見解を異にすることを強調することが多々あるにしても、それは、丸山先生の「歴史的限界」をあげつらうというよりも、むしろわれわれが生きた戦後50年余の時代の時代体験の多様性をあらためて明らかにしつつ、しかもなおわれわれが丸山先生から教えられるものは何かということを考えたいからである。

1)  掲載させて頂く文章は、私が高槻市立生涯学習センターで行った講演のノートに加筆したものである。この文章の冒頭のこの一節は、同企画の受講者募集のちらしの冒頭に印刷された文章である。
2) この点については、田口富久治「丸山眞男 プロス・アンド・コンス」立命館大学政策科学会『政策科学』7巻1号参照
3) 『丸山眞男集』!5213p.-
4) 丸山真男年譜によれば、先生は54年から56年に入院され、その間に左肺上葉を切除された。そしてその間の「東洋政治思想史」の講義の代講には、家永三郎先生が当たって下さった。
5) 石田雄・姜尚中『丸山眞男と市民社会』国民文化会議編、世織書房、1997、66頁。正確にいえば、引用文中の「というよりは」の部分は、「という人々ばかりではなく」とされるべきではないだろうか。因みに、この高槻市での連続講演においても、募集人員66人に対して100人を越える希望者があった。  
T.ファシズム研究と丸山眞男  
「超国家主義の論理と心理」(『世界』1946年5月号)を皮切りとする丸山先生の一連の(比較)ファシズム研究は、いうまでもなく戦後期全体を通じて、日本におけるファシズム研究に巨大な影響力を発揮した。丸山先生は、これもまた、御自分にとっては「夜店」の一つとされたかもしれないが、これらの論文は、単なるファシズム研究の領域におけるインパクトにとどまらず、わが国の戦後民主主義の出発点において、学術研究者にとどまらない多くの人々に、戦後民主主義が定着しうるためにはどうしても克服しなければならないわが国の精神史における数々の「負の遺産」について鮮烈な認識を提供した点において、歴史的な意義を有する御仕事であった。私自身もまた、先生の御仕事からは、この後者の意味においても衝撃を受けた一人だが、それに加えて、89年以来の世界史的激動がはじまるまで、そして立命館大学政策科学部創設に関連して移籍の招請を受けるまでの私自身にとっては、ファシズム研究は、まぎれもない「本店」そのものであった。そして、この領域では、私はかなり早くから丸山先生に対してもまた明確な自己主張をしてきた。なかでも『ナチ・エリート』(中公新書、1976)と『ファシズム−その比較研究のために』(有斐閣、1979)の2著においては、そうであった。
まず、前著においては、丸山先生が、東京裁判とニュルンベルク裁判とを比較し、裁判の場で自己の責任を徹底して回避しようとした日本の戦犯を、むしろ正面から自分の責任を認めて開き直ったドイツのH・ゲーリングと比較対照させて、そこから「日本ファシズムの矮小性」というテーゼを引き出された点を批判した。1)私からすれば、獄中の戦犯を対象としたロールシャッハ・テストなどを用いたさまざまの心理学者たちの研究の結論として、「ナチ・エリート」の中でそれなりに責任をとろうとしたトップ・リーダーは、H・ゲーリング、A・シュペーアらごく少数の例外にすぎなかった(後者は責任を認め、かつ反省)のであり、日本ファシストの「矮小性」というテーゼをこの比較から引き出すことにはかなりの無理があるように思われた。(私は、日・独のファシズム体制におけるトップ・リーダーの行動様式と性格の違いは、自我の確立の度合や精神的「矮小性」如何の問題というよりは、むしろドイツの場合には、彼らが大衆運動の組織者として力量を発揮して指導的地位に立ったリーダーたちであったのに対して、日本の場合には、軍人であれ国家官僚制の一員であれ、官僚機構の出世の階段を上昇して指導的地位に到達し、限定された任期の間そのポストに座っていた官僚タイプのリーダーであったことによると考えている。)また私は、久野収や橋川文三が主張しているように、昭和のファシストたちの中核部分では、天皇を「伝統のシンボル」と見る一般の天皇観とは異なり、天皇は「変革のシンボル」へと転化していたのだとする考え方に傾くし、さらに、二・二六事件の青年将校たちが「天皇のまわりの黒雲(元老、重臣、軍閥、財閥)を除けば、太陽の光が輝きわたって問題が解決する」という観念的な天皇絶対化にとらわれていたとする丸山先生の認識よりは、西田税、磯部浅一、栗原安秀ら、青年将校たちの中核分子らは、天皇制問題についてもこれを操作的思考の対象としていたとする筒井清忠の認識の方が正しいのではないかと考えている。(彼ら二・二六事件の青年将校の中核分子は、慶応3年12月9日に大久保利通、岩倉具視らが敢行した宮中クーデタのように、「玉(=天皇)を我方へ抱き奉る」式の発想に立っていたという見方は松本清張も紹介している。ただし、松本は、この計画が不発に終わった経緯は「一切の資料から抹殺されている」から、厳密にいうと、そのような計画の存在そのものが疑問である」とも書いている。)2)
こうした事柄は、丸山先生の一連の珠玉のような日本ファシズム分析の諸論文もまた、それが執筆された時点で依拠された戦後初期の実証的歴史研究の水準がその後の研究の前進によって乗り越えられたということであって、実証的な歴史研究の場合にはそれなりに着実な前進がありうるものであると考える立場からすれば、それ以上のことではない。むしろ問題があるとすれば、先生の逝去後の丸山論議の中で、かつてあれほど影響力をもった丸山ファシズム論に関する言及、とりわけ上記の意味での時代的制約の指摘をも組み込んだ批判的な視点からの言及があまり見受けられないということであろう。
しかしながら、丸山先生のファシズム研究における最大の寄与は、「下からのファシズム」と「上からのファシズム」という概念の設定によって、ファシズムの比較研究への決定的な手掛かりを提供されたことであろう。周知のように、丸山ファシズム論では、イタリアとドイツ、とりわけ後者のファシズムは、議会政治下でのファシズムの大衆運動の台頭の結果、そのトップ・リーダーたちが国家権力の中枢部に入り込む形で「ファシズム体制」が成立した「下からのファシズム」であったのに対して、日本の天皇制ファシズムは、国家権力の一郭をなす軍部や官僚機構のファッショ化の結果、節々での大事件はあっても、全体としては、いわばなし崩し的に議会政治からファシズム体制へと移行する「上からのファシズム」であったとされる。
この区別は、イタリアやドイツの事例だけを念頭に置いて、ファシズムには、ファナティックな大衆運動の展開を不可欠と考える欧米のファシズム研究からは容易には受け入れられないままに今日に至っているが、筆者はこの枠組には賛成であり、かつ比較ファシズム研究へのわが国からの貴重な寄与であったと考える。
もちろん、実際の丸山ファシズム論の展開においては、種々の問題が残されていた。この「上からのファシズム」と「下からのファシズム」の対比は、前者の場合の「下からの」諸側面(わが国の民衆レベルや軍内部、とりわけ下士官クラスでの政治意識のファッショ化)と、後者における「上からの」要素、つまり国家支配層の内部での「ファシズムの時代」に対応する「権威主義的反動」の台頭(ドイツにおける軍上層部、経済界の一部、保守政党指導部の一角、国家官僚制の上層部における「体制革新派」の台頭)がそれぞれに軽視されるということになりかねない。(実際、いずれの国においても、ファッショ化の本格的進行に際しては、優位に立つのがいずれであるにしても、「上からの」要素と「下からの」要素の双方が問題とされねばならないのである。)
ただ、丸山ファシズム論には正直のところ、もう一つ、アキレス腱ともいえる問題点があった。それは、簡単に言えば、そもそも「ファシズム」とは何か、という問題、もしくは「ファシズムの本質」にかかわる問題であった。この問題は、そもそも15年戦争の時代のわが国においては、軍部を中心とする支配勢力による一般国民の自由の抑圧は極限に達したとしても、それは果して定義上「ファシズム体制」に当たるものであると言ってよいのか、という問題でもある。
この問題についての私自身の考えは、なお不充分なものを残しながらも、すでに自著『ファシズム』などの中で述べてあるし、また、その詳細をここで繰り返す余裕はない。ただ、一言でいえば、私の捉え方は、1「ファシズム」を、第一次大戦と第二次大戦の間の時期に爆発した、当時の後発国型近代化の悲劇とするところに最大のポイントがあるし、さらに、2本来ならば、軍部独裁体制という規定で充分であったかもしれないわが国の戦時下の体制が曲がりなりにも「軍部ファシズム体制」と呼びうるところまで進展したのは、当時、国家指導部内で中心的勢力となっていた陸軍統制派が、日・独・伊三国同盟という対外政策上の枠組にも支えられて、ナチス・ドイツの思想と国家体制に対する並々ならぬ傾倒ぶりを示すところまで進んだことによる。
その点、丸山ファシズム論は戦時下の日本の分析に「ファシズム」概念を正面から適用する点で、私どもの主張の強力な支えになった反面、私どもから見ると、そこで主張されていることは、表現は「ファシズム」ながら、その内容は実は明治維新後の経過の中から生まれてきた君主絶対主義もしくは軍部絶対主義の極限形態というにとどまっているという印象であった。そのことは、「ファシズムは、20世紀における反革命の最も尖鋭な形態である」とする丸山先生の有名なファシズム規定の解釈にも関係することであった。丸山先生は確かに「反革命」とはanti-revolutionのことにとどまらず、むしろcounter-revolutionのことであるという主張もされたが、先生の主張の事実上の力点は前者にあるように見え、私どものファシズム論にとって最も重要なことの一つであった後者の主張、つまり「疑似革命」としてのファシズムという側面はあまり強調されなかった。(この問題は、橋川文三氏が早くから、丸山ファシズム論への批判として指摘しておられたが、丸山先生は、この批判に答えようとはされなかった。)
ファシズムを「反革命の最も尖鋭な形態」とする丸山ファシズム論は、マルクス主義が極めて強かった当時のわが国の状況の中で社会科学の世界で大きな影響力を持っていた、「ファシズムは金融資本の最も反動的な翼によるテロリズム独裁である」とするコミンテルン(とりわけディミトロフ)のファシズム規定と並ぶ二つの重要な主張の一つであった。私どものように、政治学的発想からファシズム研究に入った者は、コミンテルンの規定の経済主義に違和感を覚え、また、明治以降の国家官僚制主導の近代化の過程の特質を無視した教条主義に辟易したが、といって、丸山先生をも含めて、コミンテルンの規定と正面から争おうとはしなかった。それが当時のわが国の一部の知識人の間での動向であった。
そうした状況が変わったと思ったのは、筒井清忠氏が雑誌『知の考古学』の巻頭論文で「丸山ファシズム論批判」を打ち出されたときである。3)筒井氏は、丸山のファシズム規定は、「革命」=ボルシェヴィズムを正しいとする立場からのファシズムへの弾劾である、とするものであった。私は、それ以前にも、欧米のファシズム研究の中に、丸山ファシズム論はマルクス主義の立場からのファシズム論であるとする見解が散見されるのを知っていたが、筒井氏の指摘には正直言って驚かされた。私どもは、丸山先生がボルシェヴィズム(=ソビエト共産党)の立場だなどと考えたことはなく、丸山先生がファシズムを「反革命」と断じたのは、「ファシズム」というのは、世界中の労働運動・農民運動、さらには植民地・従属国の解放運動がロシア革命によって刺激され、高揚したことに反発し、こうした解放運動を力づくで押さえ込もうとする動きであると規定されたのだと考えていたからである。そして、少なくとも私の場合には、こうした微妙な区別をつけられるか、どうかが「リベラル左派」の知識人の証しであると考えたものである。
しかし、高度経済成長下の脱イデオロギー化、さらにはソビエト・ロシア自体の崩壊などを経て、時代は大きく変わった。戦後革新勢力は決定的に衰弱し、1999年には、日米ガイドライン関連法の成立、国歌・国旗問題の強引な決着など、丸山先生がかつて警鐘を鳴らされた「民主主義の名によるファシズム」の到来を思い出す人もあるかもしれないという状況である。
この難しい問題にどう応えるかだが、自身の歩みを振り返ってみると、私は、先述のようなファシズムの規定、つまり両次大戦の戦間期に、当時の歴史的諸条件に規定されつつ爆発した後発国型近代化の悲劇という位置づけを手掛かりにして、過去を振り返える歴史分析と、将来を展望し、切り開く政治学とを意識的に区別し、前者の領域では、「ファシズム」概念を擁護し、後者の領域では、実証的な現状分析の優位を認めて「ファシズム」概念などの「レッテル張り」はできるだけ避けるという態度を比較的早く確立してきたと思う。そのお陰で、私は、学園紛争時の左翼の暴力にも、ドイツのJ.ハーバーマスが使ったような「赤いファシズム」という表現はついに使わなかったし、いわゆる「新左翼」諸派の人々にも、「ファシスト」という相互のレッテル張りはできるだけ回避し、アッピールしたいと思ったことの内容をそのものとして表現することを勧めてきたつもりである。
その延長線上にいえば、「民主主義の名によるファシズム」という丸山先生の問題提起は、その根底にある、人々の自主性、自発性、主体性の確立こそが基本課題であるとする問題意識において不滅であり、平板な「民主主義」理解が裏目にでる可能性の指摘という点で、今日なお持続的有効性どころか一層その意義を増大させているとさえいえよう。しかし他方では、「危機の理論」としていえば、「危機」の発現形態を1930年代の歴史的体験を基礎にして論じることに集中して事足りた戦後初期と今日とでは、その間に状況の激変がある。そして今日では、深刻な不況をめぐる議論の中で1930年代が想起されることが多々あるにしても、1930年代と激変した今日の状況との区別の自覚が最も必要であり、政治学的にいえば、「危機の政治学」、つまり、現段階の大衆デモクラシーに孕まれたさまざまの堕落した形態(「堕ちてゆく政治」)や起こりうる危険な暴走の諸形態(そのなかに「ファシズム」の名称がふさわしい類型が再設定できるかもしれない)の類型学、さらには、それへの予防的対処策の確立につながるような学問の展開が要請されるのではないだろうか。また、当然のことながら、今日の状況は、地球上のあちこちで民族浄化の悲劇が展開すると同時に、新しくさまざまの意味合いでの「共生」の思想が確実に広がってきているという事実もある。つまり、市民社会や民主主義の新たな積極的展開の可能性も実在しているのであり、その側面をあらためて解明することも極めて重要である。
要するに、丸山先生の遺産を生かせるかどうかは、われわれがどれだけ明確な時代転換の認識を確立できるかということが大前提となるのであり、その時代転換の認識そのものについては、われわれは丸山先生に過度に依存すべきではないであろう。

1) 山口定『ナチ・エリート』中公新書、1976、6-7頁
2) 山口定『ファシズム』有斐閣、1979、83、167頁、松本清張『昭和史発掘』全13巻、文芸春秋新社、1965-72中の第10巻、203-4頁
3) 筒井清忠「日本ファシズム論の再考察−丸山理論への一批判」『知の考古学』1・2、1976  
U.丸山理論における歴史の変動の見方と日本文化  
(1)発展段階論から異文化接触論へ−「方法論的遍歴」
それでは丸山眞男先生は、大きな歴史の流れや、今後に予想される激変をどのように捉えておられたのであろうか?この問題を考えるためには、われわれはまず、先生御自身が1984年の時点で極めて率直に告白しておられることを出発点とすることができる。その一つは、先生には、歴史の変動の見方をめぐって、発展段階論から異文化接触論へという「方法論的遍歴」の体験があったということである。先生によれば、御自身がマルクス主義者であったことはないけれども、「思想的および学問的に非常にマルクス主義の影響を受け」、その影響下に、「世界中にあてはまる歴史的発展段階、具体的には、古代的・奴隷制社会、封建制から資本制へという段階設定、もっと細かくいえばマニュファクチュア段階から機械制大工業へというような生産様式および生産関係を基礎にした歴史的発展があるはずだ」という「基本的な考え方」を持っておられたという。そしてそれが20才代の著作「『日本政治思想史研究』の基底に流れている歴史観」であったという。
ところが、先生が、1959年の論文「開国」で着手され、その晩年に一層集中されることになった「開国」というテーマ(先生によれば、「東アジアの諸国が西欧の衝撃を受けて、西欧に向って−自発的から強制的までさまざまのニュアンスで国を開くというのが開国」である)についていえば、これは「西ヨーロッパの諸国」には存在しない「東アジア特有の問題」であり、この点に着目すれば、歴史の変動を説明するには、「古代的・封建的・資本制的といった歴史的発展の縦の線」に加えて、「(異)文化接触」による「開国」が生む変動という「横の線」への考察が必要になる。
丸山先生は、このようにして「文化接触という横波の契機を日本思想史の視野にとり入れねばならぬと考えるようになりました」とされ、とくに「七世紀の大化改新から律令制度の建設」と西欧の衝撃にさらされた明治維新という「二大転換」並びに第二次世界大戦での敗戦による「第三の開国」に即して、日本思想史の解明に分け入られるのである。
私は、この文章を初めて読んだとき、先生の説明の率直さに感銘を受けるとともに、さすがに丸山先生は先取り的に大きくかつ重大な課題を提出される。しかし先生の回答は必ずしも完成されたものではないし、問題提起自体がもっと整理される必要があるという感想を強くもったものである。
言うまでもなく、ここで先生が指摘される発展段階論は、マルクス主義のものに限らず、国民国家と資本主義的工業化の波が西欧世界を拠点として全世界へと広がり、それによって新しい世界史が始まった近代初頭に生まれたものとして、もっとさまざまのものがあろうが、とにかく、そこに始まり、今、爛熟の果てに行き詰りをも見せている現在の状況では、新しい普遍史的な歴史像が可能なのか、可能とすれば、それはいかなる内容のものになるのか、という問いかけがすべての社会科学者に突きつけられている。そして、そこでは、丸山先生の諸著作ではまだクローズアップされていない国民国家の限界や、地球環境問題や、情報化革命やグローバライゼーションとの関連での異文化接触の新たな諸相などが当然の中心的論点となるであろう。われわれには、「マルクス主義の破産」をあげつらう暇はないし、そうした議論のレベルを越えた課題の存在とその重たさが認識されるべきであろう。ただ、だからといって、私には、具体的な内容を伴った問題提起を行う用意が今あるわけではない。
ただ、丸山先生の問題提起の意味を整理するという意味で、私としては、自分の足跡をも振り返りつつ、この機会に記録しておきたいことは若干ある。
まず、歴史的発展の「縦の線」と「横の線」というその発想は極めて有意義であり、その両者の交錯の分析ということになればさまざまの展開が可能である。しかし、その可能性を追求することはここでは断念して、問題をさしあたり「横の線」に集中する。そこで私にとって、まず浮かぶ疑念は、丸山先生の前記の箇所での説明は、「横の線」=「開国」=「(異)文化接触」となっている。そして「開国」とは、「外圧」という、軍事力をも含めての力の格差を背景にした「自発的から強制的までのさまざまのニュアンスで国を開く」ということばかりでなく、外からの「非常に高度な文化との接触」によって起こる問題としてとらえられている。つまり、ここでは、「開国」は(異)文化接触一般のことではなく、軍事・経済・文化の領域での力の格差を背景とした(異)文化接触のことなのである。
そのように理解した上でのことだが、私は、丸山先生が、「開国」は「東アジア諸国特有の問題である」とされた上で、次のように話しておられることに強い違和感を覚えた。−「すくなくとも英・独・仏・伊・スカンジナビア諸国といったヨーロッパの国にはそういう衝撃(=「開国」)はありません。」
ここで出てくる国々のうち、私がある程度自信をもって語れるのはドイツだが、そのドイツが、隣国であるフランスの大革命とその後のナポレオンの軍事的支配によって、どのような衝撃を受けたかという問題は周知のところであろう。さらにワイマール共和国時代のドイツで、カール・シュミットなどが、西欧的な議会制民主主義はドイツにとって「本質的に異質(wesensfremd)なもの」であるといい、J・ゲッベルスが「フランス革命の精神」を抹殺することがナチズムの歴史的使命である、と語ったことなども知られていることである。要するに、隣国フランスの大革命以来の動き、あるいはもっと一般に西欧民主主義の展開に対する文化的反発の問題を抜きにしては、近代以降のドイツ史の展開、とりわけナチズムの台頭の問題は解けないのである。ドイツの場合、(異)文化接触の問題は近・現代における歴史発展を説明する最も重要な問題なのである。1)
とくにドイツの問題をここで出したのは、さらにもう一つの理由がある。実は私には、長年の大学でのヨーロッパ政治史の担当の経験や、比較ファシズム研究を通じてたどり着いた、前述の「後発国型近代化の悲劇」という観点があり、ファシズムへの歩みとその結末という点で、これはかなりの程度まで、日・独の共通の歴史的展開の説明を可能とすると考えている。実際、筆者は、さらに日・独の比較近・現代史研究からの結論の一つとして、1986年の歴史学研究会の大会で、日本の明治維新の位置づけには、これを「防衛的国民革命(defensive nationalist revolution)」とすることが必要ではないかと主張したこともある。
この提案の背後には、1984年10月から1985年7月におけるのベルリン自由大学客員教授としての「日・独比較現代史」担当の際に、明治維新が欧米の古いタイプの日本研究の中では圧倒的に「meiji-restoration」(つまり「明治の王政復古」)という訳語をあてがわれていることを発見して、これは大変問題だと思った経験もある。しかし筆者がこの提起を行ったのは、明治維新が「日本におけるブルジョア革命」なのか「天皇制絶対主義の確立」なのか、という、文字通り発展段階論的な論理で争われた、かつての「日本資本主義論争」の時代がもう遠くなりながら、それではあらためて、明治維新をどう位置づけるかははっきりしないままに経過してきているかに見える日本における近・現代史研究の状況に一石を投じたかったからであった。私は、ここで、19世紀中葉の日・独・伊の国民国家形成の三つの事例を歴史的な先例として、後発国における近代国民国家の成立自体が「革命」の呼称に値する事態となってきたこと、そして、この新しい出発点としての「国民国家」の成立の仕方と、その後のナショナリズムの高揚に規定された文化・思想界のあり方と国家、官僚制、軍人主導による資本主義的工業化の展開や、さらにはそれを取り巻く国際環境への対応の仕方が生み出す諸問題が当分の間、その国の歴史の歩みを規定することなどを主張したかったのであった。
その観点からすれば、私は、「開国」現象は、解明されるべき「国民革命」の一部分であるし、悠久の歴史の中に、(異)文化接触の大転機とそこでのその国特有の文化変容の有り様を探る研究とは異質な、後発国型近代化の成功と悲劇の諸相を探り、その結末を見通そうとする研究の重要性もまた強調されて良いのではないだろうかと考える。確かに、戦後の高度経済成長の結果、一人当りのGNPで世界の最先端に到達したわが国は、それによって、こうした「後発国型発展」をもう卒業したといえるかもしれない。しかし他方では、官僚主導体制の打破が最大の政治改革の課題とされ、真の「個人主義」の確立や「市民社会」の未成熟が論壇の主要テーマとなり続けているわが国の現状は、少なくとも、こうした「後発国型発展」の負の遺産の残存を示している。いやそれどころか、途上国や、開発独裁によってそれから抜けだしつつあるなかで、なお深刻な諸問題に悩まされつつある多くの国々の今日の状況を見ると、この後者の研究の重要性はいよいよ大きくなってきているといっても過言ではないであろう。  
(2)「原型」/「古層」/「執拗低音」−異文化接触によっても変わらないもの
上述のような歴史の流れを変えるものとしての(異)文化接触の重要性の指摘にもかかわらず、丸山先生が1963年以降、日本文化のあり方をめぐって強調されるのは、歴史上の度重なる(異)文化接触によってもなお変わらない日本文化のある特質である。しかも、この特質について、「原型」(1963年)/「古層」(1972年)/「執拗低音」(1975年)という順序で、その表現を変えられている。そして、「実質的に考えが変わった」ということではないのに「表現」を変えた理由は、御自身の説明によると、「原型」/「古層」については「宿命論的な感じを与えない」ようにするということであり、「古層」/「執拗低音」については、「古層」を「マルクス主義における『土台』」のようなものと理解する「誤解」が「なるべくすくない方がいい」ということであったという。そしていずれにせよ、先生は日本では、「多少とも体系的な思想や教義は内容的に言うと古来からの外来思想」であり、「完結的イデオロギーとして『日本的なもの』をとり出そうとすると必ず失敗する」、しかし、さりとて外来思想は、「それが日本に入って来ると一定の、それもかなり大幅な『修正』が行われる」とされる。ただ、こうした「外来思想の『修正』のパターン」を見ると、「その変容のパターンにはおどろくほどある共通した特徴が見られる、という。そしてこうした外来思想の変容のパターンを規定する「執拗低音」(basso ostinato)」(「執拗に繰り返される、ものの考え方、感じ方についての『日本的な』パターン」)として、先生が摘出されるのが、1歴史意識(あるいはコスモスの意識)における「つぎつぎとなりゆくいきおい」という考え方と感じ方、2倫理意識における「キヨキココロ」「アカキココロ」という考え方と感じ方、3政治意識における「まつりごと」という考え方と感じ方の三つである。
このような丸山先生の主張は、すべての外来思想の以前に「日本的な思想」があったとか、さまざまの普遍主義的な外来思想の流入にもかかわらず変化することのない「日本的な思想」があるといった主張をする「日本文化論」のタイプの「文化決定論」ではない。すくなくとも、そうした主張をするためには、まず「文化」のさまざまのレベルを仕分けする分析がなければならない。その意味では、「古層」理論が丸山先生の「勇み足」とする石田雄氏の主張は、「古層」という表現への批判としては、丸山先生御自身が認めておられるように妥当といえるが、それ以上の意味はない。また姜尚中氏の「宿命論に落ち込む文化的決定論」、「一転すると日本文化論における優越性論に利用される可能性を生み出す」という批判は若干政治主義的ではないだろうか。
しかし、それではこれをどのように位置づけすれば良いのか、といえば、思想史や文化論の専門家ではない私には手に余る困難な課題である。私には、これまでのドイツ研究やドイツでの長期にわたる滞在の経験などから、このレベルでのドイツ文化論として、1欧米の他の国とは異なるドイツ人の日常的な挨拶の中でも普段に出てくる「秩序」という観念(ドイツ人は、ほとんど「今日は」という響きに近い「うまく行っていますか」という挨拶を、直訳すれば「すべては秩序のなかにありますか?」という表現で行う。そしてそこで出てくるOrdnung ( =「秩序」)という言葉が法律用語を中心に多発する。2ドイツ人の思想と行動にはドイツ的徹底性(deutsche Gründlichkeit)とも称されるべき物事への取り組みにおいて徹底する特徴があって、これが、日常生活の中での論争好きや、壮大な哲学体系や、かつての強制収容所や、さらには今日の環境政策への徹底した取り組みを生み出す。3同じく「ドイツ的清潔さ」ともいうべき性癖がある、といった具合である。
しかし、こうした事柄は、私にとってはあまり学問的な話にはなじまないし、学問的に証明することは難しい「国民性」論の領域に属することである。
私は、丸山先生の「古層」=「執拗低音」論については、思想史という学問の領域の凄さに感嘆するほかはないというのが率直な感想であり、この問題についての学問的な日・独比較論などとても展開できない自分を恥じ入るしかない。ただ私は、丸山先生が「古層」=「執拗低音」論で発見された「つぎつぎ」「なりゆく」「いきおい」という日本文化の執拗低音の問題が、かつて『日本の思想』(1961年、12頁)に書かれた次の意義深い指摘と結合されて広範な人々の反省の糧となり、わが国に真の改革派勢力が創出されるのに寄与することを祈りたいものと、常々考え続けている。
わが国では、「新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほど早い。過去は過去として自覚的に現在と向き合わずに、傍らにおしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え『忘却』されるので、それは時あって突如として『思いで』として噴出することとなる」。こうした事態にならないようにするため、われわれはなんとしてでも「これまでいわば背中にズルズルとひきずっていた『伝統』を前に引き据えて、将来に向かっての可能性をそのなかから『自由』に探ってゆける地点」に立たなければならないのである。

1) さしあたり、末川清「『ドイツ特有の道』論について」『立命館史学』19号、1998年11月を参照されたい。
2) 山口定「戦後史研究の確立と革新派歴史学の活性化のための問題提起−政治学の立場から」歴史学研究会編集『歴史学研究』増刊号、1986・10、No.560、173-181  
V.丸山理論における「市民」と「市民社会」  
日本語としての「市民」並びに「市民社会」の概念の厳密な意味は、この二つの言葉がこれほど普及した現在でも、いまだに定かではない。また、戦後日本における近代市民主義の思想の最も有力な代表者と目されることの多い丸山先生の場合でも、先生がどのような意味で「市民」並びに「市民社会」の概念−とりわけ両者の関連−を使われたかということもまた、必ずしも解明されてはいない。この2つのテーマは、戦後日本思想史の最重要テーマに属しており、これからの本格的研究の課題として残されている。このことを浮き彫りにしたのが、先生没後の追悼講演会における石田雄氏の発言である。
石田氏は、そこで、先生が、学生時代に書かれた最初の御仕事である「政治学に於ける国家の概念」(1936年)を除いて、「市民社会」の概念をほとんど使われていないことを指摘し、さらに「すくなくとも丸山が書いたものからは」丸山が「日本において市民社会をつくりだすことを課題と考えたのではないかという仮説」を裏付けることはできない、としている。その理由として、石田氏は、まず第一に、丸山先生は「典型的な西欧民主主義社会におけるファシズムの危険性」(アメリカでの1950年代のマッカーシズムのこと、丸山先生はこれを「民主主義の名におけるファシズム」と規定しておられる)を見て、「典型的な西欧社会を理想化して西欧並の市民社会をつくりだすことを日本の課題とするようなことは考えられなかった」のではないかという事情を指摘している。そして第二の理由としては、丸山先生が、「民主主義」の確立を「永久革命」の課題としてとらえ、これをA・トクヴィルやJ・S・ミルが恐れていた「多数の専制」としての大衆社会状況の問題性を克服する保障と考えていたことが挙げられる。具体的には、民主主義の究極の保障は、例えば議会政治の確立などをめざすさまざまの制度的な保障よりも、「非政治的な目的をもった自発的結社が、まさにその立地から、政治を含めた時代の重要な課題に対して、不断に批判して行く伝統が根付くところに、はじめて政治主義か文化主義かといった二者択一の思想習慣が打破され、非政治的領域から発する政治的発言という近代市民の日常的モラルが育って行くことが期待される」というのである。1)
それでは、われわれは、丸山先生が「市民社会」概念を使用しようとされなかったことについての石田氏のこのような説明をどう考えたら良いのだろうか。
私の率直な印象を言わせて頂ければ、まず第1点については、マッカーシズムのような現象の危険性についての指摘の重要性は当然であるにしても、ファシズム論の重要なポイントの一つは、ファシズムが勝利する条件があるかどうか,の問題であり、危険性への痛切な思いに圧倒されて、この点についての分析が忘れられてはならないであろうということである。その上、「市民社会」論を提起することが、「西欧社会を理想化」することとして論難される状況は今日もなお残存していることは事実であるにしても、「市民」と「市民社会」の日本語への定着は大きく進んできており、問題はむしろ、「市民社会」を論じる際の研究者たちの論調が相も変わらず欧米の研究からの輸入・紹介という形にとどまることが多いという事実にあるのではないだろうか。したがって、石田氏が挙げる第1点の理由は、丸山先生を取り巻いていた時代状況による制約と、私には映る。とりわけ、丸山先生が「市民社会」概念を最初に、かつおそらくは唯一本格的に使用された前記の事例では、「個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもさうした関係は市民社会の制約を受けてゐる国家構造からは到底生じえないのである」という文章になっている。つまりそこでは、個人と国家のあるべき関係は、「市民社会の制約を受けてゐる国家構造からは到底生じえない」とされ、「市民社会」の概念は明らかに否定的に用いられおり、とりわけ、金融資本の時代においては、「民主化」と「市民社会」とは正面から対立する二者択一の関係になることが指摘されているのである。そして、この背後には、「市民社会」=「ブルジョア社会」という、おおむねマルクス主義的思考をとる人々の間での、この概念の当時の一面的な使用法の影響があったのである。2)
そして丸山先生の場合、とくに60年安保における「市民の噴出」の体験以降になると、まぎれもない「市民派」ではあるが必ずしも「市民社会」派ではないという、今日から見ると特異な思想状況が生まれたといえることになる。3)
しかし、私の理解する限りでは、1989年以降の全世界的な「新しい市民社会論」の台頭の中では、それ以前とは異なり、1「市民社会」は「ブルジョア社会」や、「資本主義社会」や、「市場原理」などとははっきりと区別され、むしろそうしたものを抑制し、コントロールできる社会のあり方の模索が「市民社会」概念にこめられるようになっている。そしてそこでは、「市民社会」は、言うまでもなく「民主化」の方向に沿った、肯定的な概念として用いられているのである。2また、「市民社会」問題を考える枠組も、多くの場合、「国家」対「市民社会」という従来型の二元論ではなく、「国家」・「市場」・「市民社会」というトリアーデになってきているし、さらには、3『国境を越える市民社会』という著書もあるように、かつての一国主義的な市民社会論とは異なり、「世界市民社会」への模索をはらんだものなってきているし、4 そこから当然に、異文化共存の問題をとりわけて重視するものとなってきている。4)要するに、「市民社会」概念の大きな意味転換が起こっているのである。そして、丸山理論の検討もこの事実を踏まえてなされるべきではないだろうか。
石田氏の説明の第2点は、丸山先生がポジティブな意味での「市民社会」概念を使わなかったというよりは、むしろ、事実上今日の「新しい市民社会論」にも通用しうる内容を展開する入り口にまで到達しておられたということの証明になるように思われる。先生は、単なる「負の遺産」の克服という後ろ向きの課題設定にとどまらず、当時の松下圭一氏のように「大衆社会状況」への防波堤としての「社会」のあり方を論じている点、並びに多様な非政治的結社をも含んだ自発的結社のネットワークの存在が「非政治的領域から発する政治的発言」の絶えざる再生を可能にしている社会こそが、真の自由の保障になるということを強調し、さらには「近代市民の日常的モラル」という表現さえ登場させている点(1959年時点での発言)で、「市民社会」という概念こそ使用していなくとも、今日にも通じる、堂々たる「市民社会」論の内容を備えていると言わなければならない。5)ただ、丸山先生の場合、「民主主義」の確立が「永久革命」の課題とされ、しかも「エートス」=「民主化」=「主体性」の確立と考えられていたため、具体的な制度構想を伴う「市民社会」の概念を押し出すにはいたらなかったといえるかもしれない。また、丸山先生のポジティブな方向性をもった「市民社会論」(に当たるもの)においては、自由の擁護という基本的には受動的な側面が強く、「市民参加」/「自己実現」という契機はなお弱かったといえるかもしれない。
さらにここで、前述の「新しい市民社会論」と丸山先生との関係についての私の印象を述べておくと、先生は「市民社会」という言葉は使われないまま、事実上「新しい市民社会論」と同質のものに接近しておられるという感じがする。一つは、冒頭でも述べた「他者感覚」の重要性の強調がそうであるが、もう一つは、最晩年の座談会「夜店と本店」での発言である。先生はそこで「個人主義」と「国家主義」の双方を否定され、「残るは社会主義だけということになる。まあ社会連帯主義といってもいい」、「この頃、いよいよ本当の社会主義を擁護する時代になったな、という気がしているんですよ」、「一方ではプルーラルな社会団体の、国家からの自主性を強化し、他方で国家を媒体にしないで直接に国際的に結合して地球社会の構成員になるようなシステムを考えるほかない。まあ、二一世紀に持ち越す問題でしょうが」と言われているのである。6)ここでいう「本当の社会主義」という誤解を生みかねない表現で語られている「個人」でも「国家」でもない「社会」のあり方の重視とか、「社会団体」の「国家を媒体にしない直接的な国際的結合」といった思想が前述の「新しい市民社会論」の発想の重要な一環をなすものではないかというのが、最近の私の市民社会論である。
それでは、晩年の丸山先生が「個人」でも「国家」でもない「社会」のあり方を重視し始めたことが先生における「新しい市民社会論」への接近なのではないかとする場合のその意味内容の核心はどのようなものであろうか。この点で私は、この講座でも登場した間宮陽介氏に教わるところが大きい。
間宮氏は、その評判になった近著『丸山眞男−日本近代における公と私』(筑摩書房、1999)で、丸山眞男においては、その『日本政治思想史研究』以来、「公共性=公的なるものは、政治的なるものとほとんど同義」だったとする。ところがその丸山が家族国家イデオロギーをとる天皇制国家にみたものは、国家が家族という私的な結合の延長と考えられ、そのことによって、公的領域の中心部分が非政治化されるという事態だった。そしてそうなったことについては、日本では、自治都市、教会、ギルドのような公と私の中間にある団体の生育が弱かったことがその背景にあった。さらに、この「公と私の関係」如何という丸山の「本来の問題関心」は、「六〇年安保とその後の大衆社会化の進展を契機」として、戦後民主主義の行方に関する考察へと適用され、大衆デモクラシー下の個人の「私化」が「狭い日常生活、とくにその消費面への配慮と享受に市民の関心を集中させ、社会的関心にまで上昇することをチェックするという事態が生まれるにいたっていることを憂えておられる。要するに、ここでは、「私的なもの」を起点としながらも「公的なもの」として成立する筈の「政治」がまともな形で成立しない日本の状況が問題とされ続けているわけである。
間宮氏によるこのような丸山理解には賛同し、かつ敬服するところが多いが、丸山眞男におけるポジティブな「市民社会」概念への事実上の接近とそのことの正面切っての提起の不発を問題とする私の話の筋からすれば、同氏の説明に若干訂正し補足したい点が一点だけある。それは、同氏が、「公と私を結びつけるもの」として「公共性」の概念を提起し、この概念を導入すれば「丸山のいう『政治的なるもの』は『公的なるもの』とは必ずしも一致せず、むしろ『公共性』と過不足なく一致することが理解できるであろう」とされる点である。7)
私は、間宮氏同様、「公と私を結びつけるもの」として「公共性」の概念を用いることには賛成であり、「自由化や民営化は公の私への包摂であり、公共選択論も公を私化する試みである」とする経済学者間宮陽介に敬意を表したい。ただ私は、「公と私を結びつけるもの」としての「公共性」を担保するものこそ、「市民」であり、「市民社会」の成熟の度合ではないかと考える。そして「政治」の世界における理念はまぎれもなく「公共性」であろうが、現実の政治は理念ばかりではなく権力と利益とが絡まり合って錯綜する場であり、「市民」と「市民社会」が未成熟である程度に応じて、そこでの「公共性」の影は薄くなると考えたら良いのではないだろうか。しかし丸山先生は、今では古くなってしまったタイプの市民社会論、つまり「市民社会」=「ブルジョア社会」とする過去の一面的な言葉の使用法による制約があって、思想内容としては今日の「新しい市民社会」論に事実上接近しながらも、ポジティブな意味での「市民社会」の概念をあらためて定立して、その論理を正面切って展開されるにはいたらなかったと考える。
丸山先生が到達されたことに教わりながら時代が要請する新しい市民社会論を展開することはわれわれ後進者の課題であろうが、その観点から、丸山先生の御仕事で、今日の市民社会論から見れば問題ではないかと思われる点を最後に2点、指摘しておきたい。
まず第1に、丸山先生には、すでに1960年の日米箱根会議での報告ペーパーに由来する「個人析出のさまざまなパターン−近代日本をケースとして」という優れた論文がある。8)そこで先生は、1900-1910年と関東大震災(1923)直後の数年の文学作品を対象として、わが国の近代化過程における「個人析出(individuation)」には「自立化(individualization)」、「民主化(democratization)」、「私化(privatization)」、「原子化(atomization)」の4つのパターンがあり、しかもこの4つのうち「私化」と「原子化」が「自立化」と「民主化」を圧倒するというのが特徴であったとされる。7)私は、この図式を戦後日本の高度経済成長以降に当てはめた場合にどうなるかという問題についての先生の正面切っての発言を期待し続けてきたが、結局、先生の直接の発言はなかった。ただ私のみならず、多くの人々が、この先生の指摘は現在にいたるこの時期にも恐ろしいほど妥当したという実感を懐いているのではないだろうか。ただ、そうすると丸山先生−ばかりではないが−は、いわば出口のない袋小路に入るわけである。ただ、私自身は、かなり早くから丸山理論には、「原子化」「私化」から「自立化」「民主化」への転轍の心理と論理とメカニズムの解明という課題があるのではないかと考えてきた。このことをここでも確認しておきたい。
第二の問題は、先生が「市民」といわれる時に、一般に「主体性」の確立の問題だとしか受け止められないのはなぜだろうか、ということである。前述の「公と私」をつなぎ、その間の協議・協力、転轍を保障する「公共性」あるいは「公共圏」あるいは「公共空間」、あるいは「市民社会」の存立のためには、最近のいわゆる「レパブリカニズム」研究の中などで指摘されているような、単なる個人主義を乗り越える「市民の徳(性)」や、市民の連帯心を支える何らかのコミュニティー意識の存在が必要である。そしてまさしくその点に関連して、例えば、先生がその解説・紹介に努力された福沢諭吉の『文明論之概略』1875(明治8)には、すばらしい公智・公徳論がある。(福沢は、私智・私徳に対置して、これと区別される公智・公徳論を展開し、望ましい「公智」として「人事の軽重大小を分別し軽小を後にして重大を先にしその時節と場所とを察するの働」を、「公徳」として「廉恥、公平、正中、勇強」などの「外物に接して人間の交際上に見はるる所の働」を挙げている。)しかし、福沢の場合には、日本語の「市民」概念をはじめて使用したという功績はあるが、「田舎の百姓は正直なれども頑愚なり、都市の市民は怜悧なれども軽薄なり」という用例に示されるように、そこでの「市民」には、単に「都会の住人」という以上の規範的な意味は込められていない。いきおい、その公智・公徳論はいわば「文明社会」の要件として位置づけられているだけであって、「市民」概念、あるいは「市民の徳(性)」、さらには市民的成熟の問題には結びつけられていない。9)しかし、丸山先生が、それをされないのはなぜなのか。あるいは、先生が福沢を論じるときに、一般に「市民」論や「市民社会」論の福沢における成熟度を検討されないのはなぜなのか、という問題は残るのではないだろうか。いずれも先生没後の今、われわれ自身の課題であろう。

1) 石田雄・姜尚中『丸山眞男と市民社会』国民文化会議編、世織書房、1997、11-23頁
2) この論文では、「市民社会」は「勃興期市民層」もしくは「近代の資本主義的市民層」がリードする社会であり、最初はこの「市民層」の要請を背景に「個人主義的国家観」を生み出すが、「一八七〇乃至九〇年の間に於て世界資本主義は金融資本の段階」「独占資本の段階」に踏み入り、そこでの「市民層と国家権力との抱合関係」が、「ヒルファディング」が指摘するように、「市民層のイデオロギー」を変化させ、「デモクラチックな平等思想に代って寡頭政治的な支配理想」を押し出し、さらに「中間層」の危機状況に対応して「個人主義的国家観」と「中世的団体主義」との「奇怪な折衷たるファシズム国家観」を生み出す。こうした状況下においては「何れの国も、市民社会の存在を犠牲として民主化を推進めるか、民主化の地盤である立憲機構を破壊して市民社会を救い出すかのジレンマに次第に押しつめられる」とされている。『丸山眞男集』第一巻、岩波書店、1996、9-31頁
3) それにもかかわらず、丸山先生が「市民社会」派とみなされることになった経緯については、内田義彦の「市民社会青年」という概念に依存した都築勉『戦後日本の知識人 丸山眞男とその時代』(世織書房、1995)にその一端を窺うことができる。
4) 1989年以降の「新しい市民社会」論の動向については、さしあたり以下の諸文献を参照されたい。山口定他『市民自立の政治戦略』朝日新聞社、1992 坂本義和『相対化の時代』岩波新書、1997 末川清・坂野光俊・山口定・宮本憲一編『戦後五〇年をどうみるか(下)』人文書院、1998(とりわけ、その末尾のシンポジウムでの私の「まとめ」の発言)浅野清・篠田武司「現代世界の<市民社会>思想」(八木・山田・千賀・野沢『復権する市民社会論』日本評論社、1998
5) 『丸山眞男集』第八巻、岩波書店、1996、83頁
6) 「夜店と本店と−丸山眞男氏に聞く」『丸山眞男座談9』岩波書店、1998、284-7頁
7) 間宮陽介『丸山眞男−日本近代における公と私』筑摩書房、1999、213-228頁
8) 丸山眞男「個人析出のさまざまのパターン」(1968)『丸山眞男集』岩波書店、1996、第九巻所収。なお佐藤誠三郎「丸山眞男論」『中央公論』1996年12月号、190-208頁は、まさにこの丸山の論文を「啓蒙主義的個人主義の破綻」と決めつけているが、すでに指摘したように、丸山は良い意味での啓蒙主義の立場ではあったが、国家主義と個人主義の双方を拒否する立場であった。
9) 丸山眞男『「文明論之概略」を読む』岩波新書、1988、中巻、140頁以下。  
 むすび  
以上、私は随分生意気な議論をしてきたかもしれない。しかしすべては、今必要なのは、丸山先生の御仕事のどこから、そしてどこを継承し、発展させるべきかということを、先生没後のこれまでの諸議論よりももっと率直に、かつはっきりとさせるべきであるという主張からのものである。
私には、何人かの気鋭の政治学者たちとの共同作業の成果として、90年代の初頭に、現在世界的に浸透してきている新しい市民社会論と基本的には同じ趣旨に当たることを、日本国憲法が生み出した雰囲気の中で広がってきた日本語としての「市民」の概念の特性を生かす形で発表したという支えがある。1)その思考が、この講演の論調をいささか強引なものにしてしまったかもしれない。
さらに私は、1994年以来、立命館大学の政策科学部に在籍し、政策科学という新しい学問の発展に取り組んでいる。その私にとって、丸山先生がその『自己内対話』1)の中で記録に残している東大紛争にかかわる次の一文は、ことさらに励ましを与えてくれるものである。
学生たちはいう。「われわれは制度の変革などを問題にしてはいない。われわれの『革命』を制度論に矮小化する事は、われわれへの侮辱だ」と。しかし「そういう主張は、彼らのまさにもっとも弱い点である制度的構想力の欠如を正当化し、カバーしようとする意味しか持たない。自由民権運動でさえ、あれだけの私擬憲法の試みがあったではないか。『アンチ大学』などとごまかしてはいけない。」2)

1) 山口定「新市民宣言」、山口定他『市民自立の政治戦略』朝日新聞社、1992
2) 丸山眞男『自己内対話 3冊のノートから』みすず書房、1998、222頁  
 
棟方志功

 

棟方志功 1
1903年、青森に鍛冶屋の三男坊として生まれる(15人兄弟)。小学校卒業後、すぐに家業の手伝いに入ったため中学には行けなかった。17歳の時に母が病没し、家運も傾き父親は鍛冶屋を廃業。志功は裁判所弁護士控所の給仕となった。絵が好きだった棟方は、仕事が終わると毎日公園で写生をし、描き終わると風景に対して合掌したという。
18歳の時、友人宅で文芸誌「白樺」の挿し絵に使われていたゴッホの「ひまわり」と出会う。炎のように燃え上がる黄色に、そのヒマワリの生命力と存在感に圧倒された。カンバスに刻まれたヒマワリから、ゴッホその人が立ちのぼった。

この「白樺」に関するエピソードは小高根二郎が「棟方志功」に次のように記している。
棟方は友人宅を帰る時に呼び止められた。
「ゴッホさ、ガ(君)にける(あげる)」 友人は棟方に白樺をプレゼントした。棟方の指がスッポンの口ばしの様に談笑中ずっと白樺を手放さなかったことに気付いたからだ。
「ワ(我)のゴッホさ、ガ(君)にける」 と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。
「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」
棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、 「ンだ。ガにける」 贈呈の意志が変わらないことを、友は3度重ねて表明した。棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」 と友人の好意に応える覚悟で叫んだ。その後、友の気持ちが変わらぬうちにと、そそくさと帰ったという。

この誓い通り彼は油絵の道にのめり込み、21歳のとき上京した。ところが、簡単には世間に認められない。コンクールに落選する日々が続く。3年、4年と時間だけが経っていった。画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めた。
だが、彼は激しく抵抗した。
「師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない」
彼は新しい道を模索し始めた。当時の画壇で名声の頂点にあった安井曽太郎、梅原龍三郎でさえ、油絵では西洋人の弟子に過ぎなかったことから、この頃の気持を自伝にこう書いている「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」。
そして、とうとう棟方は気付く。
「そうだ、日本にはゴッホが高く評価し、賛美を惜しまなかった木版画があるではないか!北斎、広重など、江戸の世から日本は板画の国。板画でなくてはどうにもならない、板画でなくてはわいてこない、あふれてこない命が確実に存在するはずだ」 「この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)」この言葉が棟方の座右の銘となった。
33歳、上京から12年目にして、ついに自分の作品が売れる。
35歳、帝展で版画界初の特選になる。
36歳(1939年)大作「釈迦十大弟子」を下絵なしで一気に仕上げる。制作中の彼はこんな談話を残した「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」
39歳、論集「板散華(はんさんげ)」にて、今後は「版画」という文字を使わず「板画」とすると宣言。版を重ねて作品とするのではなく、板の命を彫り出すことを目的とした芸術を板画とした。
40歳、ベートーヴェンと出会う。その宇宙的な包容力に深く胸を打たれる。
49歳、ルガノ国際版画展で優秀賞を受賞。
52歳、サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞を受賞。
53歳(1956年)、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタに。「会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画の前に愕然としていました。」(当時会場で働いていた人の証言)
56歳、フランスへゴッホ兄弟の墓巡礼に行く。
57歳、「歓喜自板像の柵」(自画像)を彫る。酔っ払って幸せそうにひっくり返る自分の背後に、写生に出かけるゴッホと、ベートーヴェンをたたえる言葉を刻み込んだ。この頃、朝日賞を受賞するなど、ようやく国内の美術界で正当に評価される。眼病が悪化し、左目を失明。
61歳、自伝「板極道」を出版。
66歳、ヨコ27m、タテ1.7mという世界最大の版画「大世界の柵」を完成。巨大さゆえ板壁画と呼ばれた。
67歳(1970年)、文化勲章を受章。コメントは「僕になんかくるはずのない勲章を頂いたのは、これから仕事をしろというご命令だと思っております。片目は完全に見えませんが、まだ片目が残っています。これが見えなくなるまで、精一杯仕事をします」。
70歳、板画と肉筆画を融合させていく。
1975年72歳で永眠。自ら「板極道」を名乗った男は、「自分が死んだら、白い花一輪とベートーヴェンの第九を聞かせて欲しい。他には何もなくていい」という遺言を残した。 墓は青森三内霊園にある。棟方は死を予感したのか、亡くなる前年に自分の墓の原図を描いていた。忠実に作られたその墓は、なんと敬愛するゴッホの墓と全く同じ大きさ、デザインのものだった 。前面には「棟方志功 チヤ」と夫婦の名を刻み、没年には永遠に生き続けるという意味を込めて「∞」(無限大)と彫り込まれていた。
※墓の背後には「驚異モ/歓喜モ/マシテ悲愛ヲ/盡(ツク)シ得ス」[不盡(ふじん)の柵]と彫ったブロンズ板がはめ込まれている。
最後に彼が板画について残した言葉 「愛シテモ、アイシキレナイ。驚イテモ、オドロキキレナイ。歓ンデモ、ヨロコビキレナイ。悲シンデモ、カナシミキレナイ。ソレガ板画デス。」
※毎年9月13日の命日には、第九が流れる中で「志功忌」が開かれる。棟方が好んだ第九はコンヴィッツニー指揮、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団のもの。
棟方志功 2
明治36年-昭和50年(1903-1975) 日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となる。少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指した。青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだ。
1924年(大正13年)、東京へ上京する。帝展や白日会展などに油絵を出品するが、落選が続いた。
1928年(昭和3年)、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、入選する。
1930年(昭和5年)から文化学院で美術教師を務める。
1932年(昭和7年)日本版画協会会員となる。
1934年(昭和9年)佐藤一英の“大和し美し”を読んで感動、制作のきっかけとなる。
1936年(昭和11年) 国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。
1945年(昭和20年) 戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。1954年(昭和29年)まで在住した。志功はこの地の自然をこよなく愛した。
1946年(昭和21年) 富山県福光町栄町に住居を建て、自宅を「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付け、また谷崎潤一郎の命名にて「愛染苑(あいぜんえん)」ともよぶ。
1956年(昭和31年)、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。
1969年(昭和44年)2月17日、青森市から名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。従三位。
1975年(昭和50年)9月13日、東京にて永眠。青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた“静眠碑”と名付けられた墓がある。
作風 / 棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」「御二河白道之柵」「我建超世願」「必至無上道」など仏を題材にした作品が特に有名である。
「いままでの自分が持っている一ツの自力の世界、自分というものは自分の力で仕事をするとうようなことからいや、自分というものは小さいことだ。自分というものは、なんという無力なものか。何でもないほどの小さいものだという在り方自分から物が生まれたほど小さいものはない。そういうようなことをこの真宗の教義から教わったような気がします」 と言っている。
ゴッホのファンになって以来、頻繁にゴッホの名を語る棟方に対し周囲の知人は「風邪でも引いたのか」とからかったという。
志功は「アイシテモ愛しきれない オドロイテモ驚ききれない ヨロコンデモ喜びきれない カナシンデモ悲しみきれない それが板画です」と言った。
版画の「はん」を版ではなく板と書いてハンと読ませる。それは板の性質をちゃんと使うためであり、版だとそれを半分にしていることになるからだそうである。
清綱彫刻刃物製作所の彫刻刀を愛用。
棟方志功の作品名につく「柵」について、棟方志功は以下の様に語っている。
「柵というのは、垣根の柵、区切る柵なのですけれども・・・私の「柵」はそういう意味ではありません。字は同じですが、四国の巡礼の方々が寺々を廻られるとき、首に下げる、寺々へ納める廻札、あの意味なのです。この札は一つ一つ、自分の願いと信念をその寺に納めていくという意味で下げるものですが、私の願所にひとつひとつ願かけの印札を納めていくということ、それがこの柵の本心なのです・・・たいていわたくしの板画の題には「柵」というのがついていますけれども、そういう意味なのです。一柵ずつ、一生の間、生涯の道標をひとツずつ、そこへ置いていく。作品に念願をかけておいていく。柵を打っていく、そういうことで「柵」というのを使っているのです。」 
棟方志功 3
明治36年9月5日、青森市で代々鍛冶職を営んできた父棟方幸吉・母さだの三男として生まれました。同43年4月に長嶋尋常小学校に入学し、3年生の頃から凧絵に興味を持ち、級友にかいてあげていました。6年生の頃、田んぼに不時着した飛行機を見にみんなと走っていたところ、小川の所で転び、そばに白い花(おもだかという水草)を見つけて、その美しさにひどく感激してしまいました。小学校を卒業する頃から兄と一緒に実家の手伝いをしていましたが、17才の時に裁判所の弁護士控所に給仕として雇われ、仕事のない日や、早朝に合浦公園へ出かけて写生をし、絵の勉強をしました。小野忠明先生から、ゴッホのヒマワリの複製をいただき、深い感銘をうけたのもその頃です。又、絵の仲間達と会を作り、展覧会を開き、後に東奥日報社の編集長になった竹内俊吉氏(元青森知事)から高い評価を受けたこともあって、絵かきになる決意を一層堅くしました。

大正13年、21才の時、志を立て上京し、靴直しや納豆売りなどをして苦労しながら絵の勉強を続けました。上京して5年目の昭和3年10月、第9 回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、見事入選することができました。

「雑園」の入選する前から、版画に心をひかれていましたが、川上澄生氏の「初夏の風」という版画を見て感激し、同郷の下沢木鉢郎氏に連れられて平塚運一氏を訪れ、初めて版画の道に入りました。昭和4年に春陽会に版画4点が入選し、翌5年には、国画会に出品した版画4点が全部入選しました。この頃から「版画」一筋に行くことを決心しました。昭和11年4月に、国画会に「大和し美し」(版画巻)を出品して日本民芸館に買上げられ、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司氏らの知遇を受けるようになりました。

昭和27年4月、スイスのルガーノで開かれた第2回国際版画展で優秀賞を受賞し、同30年7月、サンパウロ・ビエンナーレに「釈迦十大弟子」などを出品し、版画部門の最高賞を受賞しました。又、翌31年6月、ベニス・ビエンナーレに「柳緑花紅頌」などを出品し、国際版画大賞を受賞し、世界の棟方としての地歩を築きました。同34年には外遊し、アメリカの諸都市の大学で講演をしたり、ヨーロッパにも行ってゴッホの墓を訪ねたりしました。

棟方の郷土を愛する心は人一倍強く、凧絵やねぶたは勿論のこと、風物に対しても大変心をよせていました。また青森市の合浦公園には、少年達を励ますために「清く高く美事に希望の大世界を進み抜く」という言葉を刻んだ記念の石碑が建てられています。青森市では、昭和44年2月17日、青森市名誉市民第1号の称号を贈りました。同45年11月には青森県人としてはじめて文化勲章を受章しました。昭和50年9月13日東京都において72年の生がいを閉じました。お墓は、青森市三内霊園にゴッホの墓と同じ形につくられ、静眠碑(「ひ」という漢字を棟方は、石へんから玉へんに変えて命名しています)と名づけられています。

棟方は、版画のほかに、油絵、倭画、書、詩歌などに多くの傑作を残していますし、著書類も多く、「棟方志功板画大柵」「板極道」「わだばゴッホになる」など数十冊にのぼっています。(注)棟方は昭和17年頃の作品から「木版画」を「板画」という字で表現しました。

明治36年(1903) 9月5日、青森市大字大町1 番戸に生まれる。
大正5年(1916)13 歳 3月、青森市立長嶋尋常小学校を卒業、家業の鍛冶職を手伝う。
大正9年(1920)17 歳 弁護士沢地甚蔵の紹介で青森地方裁判所の弁護士控所給仕となる。10月25日、母さだが享年41歳で死去。
大正10年(1921)18 歳 青森在住の洋画家小野忠明にゴッホの「ひまわり」の原色版を見せられ画家になろうと決意する。松木満史、古藤正雄、 鷹山宇一ら四人で洋画の会「青光画社」を結成。
大正13年(1924)21 歳 絵の修行のため上京、初めて帝展に「合浦( がっぽ) 池畔」を出品したが落選。
大正14年(1925)22 歳 10月26日、父幸吉享年56 歳で死去。
昭和3年(1928)25 歳 第9回帝展に油絵「雑園」で初入選し5年ぶりに帰郷、墓前に報告する。この頃から版画を始めるようになる。
昭和5年(1930) 27歳 第7回白日会展で白日賞を受賞。 第5回国画会展に「貴女行路」他4点が入選。青森市善知鳥神社にて赤城チヤと結婚。
昭和6年(1931) 28歳 長女けよう生まれる。第12回帝展に油絵 「荘園」が3年ぶりに入選。
昭和7年(1932) 29歳 第9回白日会展でF氏賞を受賞。 日本版画協会会員となる。 第7回国画会展出品作品のうち「亀田長谷 川邸の裏庭」で奨学賞を受賞。
昭和8年(1933) 30歳 長男巴里爾生まれる。
昭和10年(1935) 32歳 次女ちよゑ生まれる。
昭和11年(1936) 33歳 第12回国画会展に「瓔珞譜(ようらくふ) 大和し美し版画巻」を出品し、日本民芸館 の蔵品として買い上げられる。これを契機 に柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らの知遇 を受ける。
昭和13年(1938) 35歳 第2回文展に「勝鬘譜(しょうまんふ)・ 善知鳥(うとう)版画曼荼羅」31柵のうち 9柵を出品し、版画では初の特選となる。 日本民芸館第12回特別展に「観音経曼荼 羅」を出品、この作品に初めて裏彩色を試みる。
昭和15年(1940) 37歳 第15回国画会展に前年制作の「呵呍(あう ん)譜・二菩薩釈迦十大弟子版画屏風」を 出品し、翌年佐分(さぶり)賞を受賞。
昭和16年(1941) 38歳 次男令明生まれる。
昭和20年(1945) 42歳 富山県砺波郡福光町に疎開。東京大空襲で 住居を焼失し、板木のほとんどを失う。
昭和21年(1946) 43歳 文部省主催第2回日展に前年末制作した 「鐘溪頌(しょうけいしょう)・公案「鯉雨」 板画経」を出品し、岡田賞を受賞。福光町内に住居を建て移り、谷崎潤一郎に愛染苑 と命名してもらう。
昭和23年(1948) 45歳 「釈迦十大弟子」のうち板木を焼失した 「文殊菩薩」「普賢菩薩」を改刻する。
昭和26年(1951) 48歳 疎開先の富山県福光町から東京都杉並区荻窪に転居。
昭和27年(1952) 49歳 スイス・ルガノで開催された第2回国際版画展に「女人観世音板画巻」を出品し、優秀賞を受賞。日本版画協会を脱会し、下沢木鉢郎らと日本板画院を創立。ニューヨークのウィラード・ギャラリーで初の海外個展を開く。
昭和30年(1955) 52歳 第3回サンパウロ・ビエンナーレに「釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」などを出品し、版画部門最高賞を受賞。
昭和31年(1956) 53歳 第6回板画院展「三尊の柵」他2点を出品し、読売金賞を受賞。第28回ベニス・ビエンナ—レ展に「釈迦十大弟子」「柳緑花紅頌」など11点を出品し、国際版画大賞を受賞。
昭和33年(1958) 55歳 1月、「ヨーロッパ巡回日本現代絵画展国内展示会」が開催され「湧然の柵」他2点を出品。(その後、ローマ、ドイツ、フランス、ユーゴスラビア、イランなど6ヶ国11都市を巡回する)
昭和34年(1959) 56歳 ロックフェラー財団とジャパンソサィティーの招きで渡米。ニューヨーク、ボストン、クリーブランド、シカゴ、シアトル、サンフランシスコ各地の大学で板画の講義と個展を開催、夏ヨーロッパを旅行し11月帰国。ニューヨークに「棟方ギャラリー」が開設される。ヨーロッパへ約1ヵ月間旅行しオランダ、フランス、スペイン、スイス、イタリアの美術館、寺院を見学し、この時ゴッホの墓を訪れる。
昭和35年(1960) 57歳 クリーブランド美術館主催「棟方志功展」がシカゴ、シアトル、ロスアンゼルスで開催される。青森県褒賞を受賞。眼疾がすすみ、左眼をほとんど失明。「亀田長谷 川邸の裏庭」で奨学賞を受賞。
昭和38年(1963) 60歳 藍綬褒章を授与される。倉敷市大原美術館に棟方志功板画館が開館。
昭和40年(1965) 62歳 日本の木版画に尽くした功績により昭和39年度朝日文化賞を受賞。セントルイスのワシントン大学及びニューヨークのジャパンソサィティーの招きで二度目の渡米をし、ワシントン大学で「日本の木版画」について講義する。イタリア・フローレンス学士院から名誉会員に推される。ダートマス大学から名誉文学博士号を受ける。東京国立近代美術館に版画を寄贈したことにより紺綬褒章を受章。
昭和42年(1967) 64歳 日本板画院の名誉会長となる。3度目の渡米、クリーブランド市のメイカンパニー主催による「棟方志功板画屏風形体ワンマンショー」を開催し屏風二十双を展示。その後首都ワシントンのスミソニアン美術館でも開催。
昭和43年(1968) 65歳 ニューヨークを出発し、帰国の途につく。途中ハワイ大学で板画について講義をする。青森市制施行70周年記念式に際し市民功労賞を受賞。 
昭和44年(1969) 66歳 青森市名誉市民(第1号)の称号を贈られる。
昭和45年(1970) 67歳 第11回毎日芸術大賞を受賞。文化勲章を授与される。また文化功労者として顕彰される。青森県に棟方志功記念館建設の構想が持ち上がる。
昭和46年(1971) 68歳 第1回佐藤尚武郷土大賞(東奥日報社制定)を受賞。
昭和48年(1973) 70歳 鎌倉市に財団法人棟方板画館を設立する。
昭和49年(1974) 71歳 日本放送協会から第25回放送文化賞を受賞。「志功」を改め「志昴」とする。青森へ帰郷し、三内霊園にゴッホの墓の形をまねた墓をつくり、自身の墓碑銘を書く。これが最後の帰郷となる。棟方志功記念館(青森市)建設着工。71歳の誕生日を記念して棟方板画館(鎌倉市)を開館。「志昴」を再び「志功」と改める。
昭和50年(1975) 72歳 日展常任理事となる。9月13日、肝臓癌のため自宅で死去。同日付で従三位を追贈される。戒名・華厳院慈航真 志功居士 青森市三内にある三内霊園に埋骨され、青森市民会館において市民葬が行われる。11月17日、青森市に棟方志功記念館が開館。 
「板極道」 棟方志功
板画。版画ではなく板画。
棟方志功の『大和し美し』を見たときは腰を抜かした。20枚続きの大作の乾坤一擲。昭和11年(1936)の第11回国画会展に出品された作品。それをのちに棟方志功展で見た。
すごかった。打ちのめされた。版画作品だが、版画ではない。絵よりも文字が多い。美術であって美術ではない。文字が多いが、書ではない。はたして作品といえるかどうか、そのことすらをも突破している。嗚咽であり激闘である。いったいこれは何だ、というものだ。
のちにこれに匹敵する作業と感じたのは、書家井上有一のカーボンによるグテツ(愚徹)の連打の作品くらいなものだろうか。イサム・ノグチの大石彫『桃太郎』を見たときの驚きが匹敵するだろうか。たしかに志功がそのあとに作った『東北経鬼門譜』もものすごいが、それは『大和し美し』を見たあとではすでに強烈な棟方世界の震動をうけた余波のなかで見ているので、もはやぼくも"棟方函数"の読みに入っていた。『大和し美し』はそうではない。かつて誰もが思いつけなかった「出現」であり、それはそれを見たぼくにとっても「出湧」だったのである。
しかし、それほどの衝撃をうけたわりに、ぼくは棟方志功を特別視しすぎていて、異様な天才とおもいすぎていた。その生涯にひそむ努力や貪欲がわからなかった。涙や信仰がわからなかった。それが本書や『板散華』や『わだばゴッホになる』を読むうちに、やっと愕然とさせられた。
たとえば、「板画の道で最も肝要なことは、何より板性質の根本を把握すると云うことです」とか、「板画は間接的な働きに依って作られるものだけに、肉筆では出し得ない効果――直接的なもの以上に韻律の世界を把握して独自の復現的効果を展開する」とか、こういうことが最初はわからなかった。またたとえば、「押した一点、
置いた一点、大小を考察し、そのちりばめた白地を持たして意味深長。引いた一線、走る一線、長短を考察し、その配置に白地を持たして意味深長」などと綴る人とはおもえなかった。もっと激突に表現衝動が溢れている異能者だとおもっていた。
しかし棟方志功は、ぼくが最も注意深く、謙虚に、憧れをもって学ぶべき人だったのである。
明治36年。青森は善知鳥村の鍛冶屋の息子。それも15人兄弟姉妹の三男。その嬌声が鍛冶屋のトンテンカンとともに一家に渦巻いていた。
家には作工場(さくば)があって、いつも青不動の図が掛かっていた。烏帽子をつけた鍛治衣裳の不動明王が赤鬼青鬼二匹に向槌をとらせて先手(さきて)になっている絵柄で、少年志功はいつもこれに睨まれていた。
極貧ながらも父親はひどく厳格な職人で、子供のしつけも強かったようだが、母親はそういう父親の悪口を生涯一言も口にしなかったらしい。あるとき、その父から志功が叱られ鉄瓶を投げられたときは、母は身を呈してそのあいだに分け入って志功を守ったが、おかげで大きな傷を負った。「のちのちまで繃帯で鉢巻をしていた母の愛(かな)しさが、母の教えのように今なお心の中に生きています」と志功は書いている。
少年志功は青森特有の凧絵やねぶた絵に心を奪われていた。歌舞伎絵である。
最果ての凧絵には青森、弘前、五所川原で3つの濁絵の系統があるのだが、その特色をはやくも適確に捉える子供だった。まわりには、本家の棟方忠太郎、北側の左官屋、カゴ屋のトンコといったねぶたづくりの達人がずらりといた。きっと懸命夢中に描き分けていたのであろう。
ついで油絵に魂を吸い取られた。創刊されたばかりの『白樺』のゴッホ『ひまわり』原色版を青森の画人に「どうだ」と見せられて、わーっとまいった。以来、志功は油絵のことをゴッホとよぶ。ゴッホが油絵なのである。志功にはなんであれ、そういう「ひとおもい」の惚れこみが強かった。女も美も神仏も。ただし気にいるものは自分の魂に訴えてくるものだけ。だから日本の油絵なら安井曾太郎・梅原龍三郎は別格として、萬鉄五郎であり関根正二であり、村山槐多・上野山清貢・野口弥太郎・鍋井克之だった。その影響を自分の体にたぎらせた。そういうときは他の連中には目もくれない。文句さえつけている。
当然、青雲の志は油彩画家になることで、それが有名な「わだばゴッホになる」の言葉として残るのだが、青森から上京して画技を習ったとたんに、モデルがよく見えないことに気がついた。
ド近眼なのである。そこで版画制作に転向するのだが、それを決定づけたのが川上澄生の『初夏の風』だった。大正15年に発表された木版画で、独得の流線が初夏の白緑に浮き出されて動きまわっている。「かぜとなりたやはつなつの云々」の文字も絵の中に入っている。そうとうにいい。
志功はこれにやられた。しばらく南蛮趣味・女性賛美・童画感覚と、躍るような流線と絵の中に刻印文字とをもつ川上作品を熱心に模倣する。昭和6年の志功の作品集『星座の花嫁』を見ると、たしかに川上澄生が唸っている。それにしても、何が自分の世界にとって決定的なのかを発見する志功の霊感のような判断力は、このときもそうだし、このあともそうなのだが、目を見張る。狂いがない。相手の作品の奥から現れてくるものを見抜いている。
しかし、川上澄生にいつづけたのでは、志功ではない。志功はしばらく同傾向の作品をつくりつづけたのちに、『大和し美し』で突然の変貌をとげる。
きっかけのひとつは会津八一に出会ったことである。書と画が同じであるという天啓をここで得た。その直後に佐藤一英の新作長詩に会った。それが『大和し美し』である。ヤマトタケルを描いた物語詩。一英とは福士孝次郎の楽園詩社で出会った。
この二つの天啓との逢着で、そのまま20枚の板画を一挙に彫るというのが志功なのである。絵の数よりも字が埋め尽くされたというべき壁画のような板画。そんなものが突如として国画会に出品されたのだから、物議をかもした。受付拒否騒ぎがおき、やがて熱気のような評判がたった。
評判を決定的にしたのは、柳宗悦がこの作品を民芸館で買い上げたからだった。
これ以降、志功は柳や河井寛次郎や浜田庄司に導かれ、人を人とおもわわぬ傍若無人を諌められ、その巨大なエゴイズムの自己訂正に向かっていく。
とくに河井は志功に『碧巌録』を自主講義して、禅と無の精神を伝えようとした。「廊然無聖」である。こういうところは河井という人物の大きなところで、志功もよくこの教えに従っている。水谷良一も志功を善財童子に見立てて、華厳の世界観を教えた。志功はしばらく華厳を彫っていく。襖絵『華厳松』もある。このように秀れた者からの示唆をなんなく受け入れ、これにただちに邁進するところが志功のおもしろいところで、これほど周囲の者の影響を直截に受容して、それをたちまち作品に叩きつけてきたアーティストも珍しい。
水谷は能に『善知鳥』があることも教えた。善知鳥は青森市の古名で、志功が生まれ育った地名である。志功は子供のころの善知鳥神社の絵灯籠を思い出し、傑作『勝鬘譜善知鳥版画曼陀羅』をつくる。昭和13年のこと、よくよく凝縮された仏法記憶の回り投影世界となった。つづいて翌年には志功の名を円空再来にむすびつけた仏教芸術の名品『釈迦十大弟子』も発表した。
志功は仏教によって変わったのである。
しかし、志功にあって柳や河井や水谷にないものもあった。それは「女者」(じょもの・じょしゃ)という感覚だ。
志功にはおそらく小さいころからの女性崇拝が満ちていて、つねに菩薩のようでエロスそのものであるような女者に憧れ、これを表現したいという強い衝動があった。これは民芸にはないもので、志功独特だ。それがどういうものかを説明するより、1955年(昭和30) の国際サンパウロ・ビエンナーレで最高賞をとった『湧然する女者達々』を見るのが一目瞭然だが、これをすぐ縄文的とか、呪文的とかよぶのはどうか。むしろぼくは「頼母しい」という言葉で志功の女者を飾りたい。
そのほか志功については云いたいことがいくらもあるが、このくらいにしておく。なんといっても、ぼくは志功を見るに不明であった。その後はさすがに凝視してきたものの、まだそれで廊然としたわけではない。 
「棟方志功の板画」
虚空の拡がりのように、どんなに進んでも、どんなに教えても限り無い世界、問答用に大 きい世界、それは板画です。倖せにも、わたくしは板画に身心を任せているとい有難さを 歩いて参りました。 自分も他分もない程、普遍な性質に立っているところに板画の炒如 (みょうにょ)があるの です。板画とは、善悪を超えた所にあるように、分別で考えや、 分別では無い程、真実ばか りに出来されるものだということを知らせてくれます。人間の 考えだけでない、広く大きさから生み出されて来る世界に板画はあるようです。こういうよう、ああいうようにと分け隔てのないことから始まって行くのです。 
醜い仕事に決してならないということが、板画の持ち前なのです。
そう考え過ぎ、そう思い過ぎるのは人達の身本意であって、板画本意では無いので す。 必ず美しさに生まれ、育でられるという美の法則に依っている板画の本然な ものを拝んで行くので す。拝めば光って来る世界。いくら覆つても、覆い切れない光 こそ板画です。「間遭えてさえ、本当に 成る」そういうことさえ言い得るところに板画 が置かれてあるです。 美しさ、醜さとは、人間が極めかけたことであって、板画の決した一線でもなく、一点で もないのです。 そういう大きさにあって板画が生みつづけられるのです。広大無辺という言葉は、よく板画のことを言 い表わしているようです。尽無量は十 方半無碍(じんむりょうじっぽうむげ)の世界を持(じ)している板画は、大きく、広 く、また深く、 また永遠です。この道遭こそ、美の世界の無限を、さらに大きく展開さ せて行くことでしょう。特に日本の美しさは、板画の美しさは、どこまでも限りない美の真実を示して行くことでしょう。 (昭和39年刊)    
「わだばゴッホになる」 草野心平
鍛冶屋の息子は。
相槌の火花を散らしながら。
わだばゴッホになる。
裁判所の給仕をやり。
貉(むじな)の仲間と徒党を組んで。
わだばゴッホになる。
とわめいた。
ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。
ゴッホにはならずに。
世界の。
Munakataになった。
古稀の彼は。
つないだ和紙で鉢巻きをし。
板にすれすれ獨眼の。
そして近視の眼鏡をぎらつかせ。
彫る。
棟方志昴を彫りつける。
我はゴッホになる 〜愛を彫った男・棟方志功とその妻〜
昭和2年(1927年)10月。東京は本郷のボロ長屋で、柱に貼った一枚の札に手を合わせる青年がいた。芸術家のゴッホをこよなく愛した棟方志功(劇団ひとり)だ。札にはゴッホの生年月日が書かれており、棟方は帝展(現在の日展)に提出した作品の入選、いや特選を祈願していたのだ。特選を疑わず、ふるさと青森のねぶたを踊り、上野の森の発表会場ではベートーベン交響曲第9番「歓喜(よろこび)の歌」を口ずさむ志功だが…。
その頃、志功の親友、澤村涼二(藤木直人)の家には同郷の芸術家の卵たちが集まっていた。澤村は、志功のゴッホかぶれを馬鹿にする友人たちを一喝。なぜ素直に応援できないのかと言い争いに。そこに、志功がボロボロ泣きながらやって来た。その姿から、みなは落選を悟る。故郷の民謡「弥三郎節」を歌って励まそうとする澤村に、志功は自分の父親が今日、亡くなったと告げた。驚いた澤村は、金は自分がなんとかするから、すぐ帰京するように志功を促す。だが、志功は父親との約束で帝展に入選するまでは帰らないと首をふった。それでも、故郷への思いを隠せない志功を、澤村は心の底から励ます。
次の年、四度の帝展落選にもめげず志功が書き上げた作品を見に来た澤村が褒める。喜ぶ志功は、澤村が伴って来たカツラ(虻川美穂子)が抱いている赤ん坊に気付いた。澤村に子供ができたことを知った志功は、ねぶたを踊って祝う。そんな志功に、澤村は入選していたらすぐに青森に帰れと金の入った封筒を手渡した。澤村の励ましもあってか、志功の作品「雑園」は帝展に入選。志功は、一路、故郷、青森へと凱旋。実家には、親族、友人、近隣が集まっての祝宴が用意されていた。奥の間では、志功の兄、省三(佐藤二朗)が病気で伏せる姉のマサエ(鶴田真由)と話をしている。二人は志功の一番の理解者だった。自分は飲めないが、浮かれ踊る志功を客たちに混ざってじっとみつめる女性、赤城チヤ(香椎由宇)がいる。看護師をしていたチヤは、面白い人がいるという友人に連れてこられたのだ。そして、この時、チヤは友人を介して志功と知り合うこととなった。
客が帰り、亡き父の仏壇に手を合わせた志功は、省三に今後は仕送りはいらないと告げる。絵が売れて金も入るから、雀の涙ほどの仕送りなどと口走る志功に、マサエが激怒。バスの運転手をして、乏しい給金から省三が工面した仕送りを馬鹿にしたような言葉が許せなかったのだ。姉の逆鱗(げきりん)に触れた志功は、涙を流しながら省三に許しを請うのだった。その後、志功とチヤは交際を始める。といっても、しゃれたデートなどではなく、志功の写生に付き従うチヤが、まるで助手のようなことまでやらされるものだった。それでも、チヤは面白くて優しい志功との交際に幸せを感じている。そして、ねぶた祭りの夜。飲めない酒を間違えて飲んでしまった志功の不器用なプロポーズをチヤは受け入れた。昭和5年(1930年)、国展(国画会展)に板画「貴女行路」で入賞した志功は、実家に電話。すると省三が、チヤが無事に女の子を出産したことを教えてくれた。チヤは出産のために志功の実家にいたのだ。電話を代わったチヤに志功は、これからは板画でいくなどと、自分のことばかりを話す。あきれて電話を切るチヤを省三がすまなそうに見つめていた。志功が板画に目覚めたのは、前年の国展で出会った川上澄生の「初夏の風」がきっかけだった。その作品にロマンを感じた志功は、尊敬するゴッホさえも賛美をおしまなかった日本の木板画にのめりこむことになったのだ。
昭和8年(1933年)、チヤは志功の実家で第2子である長男を出産。またしても出産に立ち会わなかった志功のことを省三とマサエがわびていると、チヤあてに電報が届く。それは、借家を見つけた志功がチヤと子供たちを迎え入れる準備ができたという内容。チヤは、嬉しさのあまり泣き出してしまう。
借家を得て、妻子を呼び寄せたとはいえ、棟方家に金の余裕はない。それなのに志功は、ふすまや便所にまで絵を描いてしまい、青森で師と仰いだ野呂先生(笹野高史)が訪ねて来るとチヤたちを追い出す始末。未熟な自分が妻子を持ったことなど恩人に知られたくないというのが志功の理由だ。
野呂先生に“板行”(ばんぎょう)という板画修行に励むよう言われた志功は、昭和10年(1935年)に澤村から佐藤一英の詩「大和し美し」を聞かされ、その板画に没頭することとなる。ようやく自作「大和し美し」を完成させた志功は、国展に出そうとするが出展を断られた。上下2段がけで、版木20枚という大作が審査員から大きすぎると言われたのだ。だが、ひとつの作品として全てを見てもらいたい志功は、居合わせた藤崎(袴田吉彦)に訴える。その藤崎は、民藝運動家で審査員のひとりでもある柳宗悦(片岡仁左衛門)の助手だった。藤崎の口利きで、志功の作品を見た柳は…。  
棟方志功の世界
長部日出雄 / 一九三四(昭和九)年、青森県弘前市に生まれ。早稲田大学第一文学部中退。週刊誌記者。ルポライター、TVドキュメンタリー構成、映画評論などの仕事を経て、一九六九年から小説を書き始める。著書に、棟方の伝記「鬼が来た」「津軽じょんから節」「津軽世去れ節」他。聞きて・広瀬修子。
眼病の棟方志功 眼を剥(む)きて 猛然と彫るよ 森羅万象
谷崎潤一郎がこう歌った棟方志功は、その生き方もまた激しいものでした。何ものかに憑(つ)かれたように夢中になるのは、子供の頃からでした。このような創作態度の中から多くの作品が生まれました。そしてサンパウロ・ビエンナーレのグランプリをはじめ、さまざまの国際的な賞を獲得しました。しかし彼は自分の作品を創り出したとは言わず、生まれた、頂いた、と言っています。「版画」とは書かず、「板画」と書いたのもそのためです。

棟方 私の板画というのは、そうですね、自分から作るというのではなく、板の中に入っているものを出してもらっている。作るというより生まして貰うと言うんでしょうかね。生んで貰いたい、という願いなんですね。そういう一つの自分は、板のもっている生命と言うんですかね、木のもっている生命というものと合体して、自分の思いというものを十分に発揮し、そしてそういう板から受ける大きい生命(いのち)というものか、力というものをこっちの紙に写して頂くと言うんで、作るというより頂くのが多いというので、板画という字を使うんですがね。

棟方志功は明治三十六年、十五人兄弟の三男として青森の鍛冶屋に生まれました。父の腕の良い職人でしたが、世渡りは下手で、家はきわめて貧しかったと言います。生活の苦しさを、父は酒で紛らすこともありました。酔った勢いで、鉄瓶を子供に投げつけるのを、母が庇(かば)って怪我をしたこともありました。家は貧しく、身体も小さく眼の悪かった彼が、いじけることもなく、少年時代を送ったのは、一つ得意なことがあったからでしょうか。それは絵を描くことでした。友だちは紙を持って来て競って役者絵を描いてもらい、それで凧を作ったものでした。小学生の頃から彼の創作態度は独特で、一張羅(いっちょうら)の着物が墨や絵具で汚れるのも気にせず、無我夢中になって描いたと言います。小学校を卒業すると、間もなく裁判所の給仕となり、さらに直向(ひたむ)きに絵の道を歩むことになります。無我夢中という世界は、棟方志功の身近にありました。イタコ(巫女)の世界です。一心に呪文を称え、忘我の境地に入り、霊界の言葉を受け取って俗界の人間に伝える。津軽にはシャーマンの世界が色濃く残っていました。人間を超えるもの、目に見えないものを畏敬する心を子供の頃から身に着けていました。鍛冶屋の守護神・不動明王を一心に祈る父親の姿、信心深い祖母が毎朝あげる読経の声、家の庭のように毎日遊びに行った善知鳥(うとう)神社のたたずまい、志功の日常生活の周りには、いつも宗教的な雰囲気が漂っていたのです。彼が子供の頃から親しんだ世界が、その作品に表れています。棟方志功が子供の頃から愛し親しんだもう一つの世界、それはねぶた祭です。優れたねぶたの絵を描くことが子供の頃の夢だったのです。

棟方 ねぶたの興(きょう)というのは、太鼓と笛とそれから鉦(かね)なんですね。太鼓はダンダンダラダラダンダンダンダカランダンダラカンダンダン・・・笛がピューヒロピューヒロ・・・と、私は言いにくいけれども、あの立派な笛と、鉦はガガスカガン ガガスカガン・・・という単純な鉦の音だけれども、三つにすれば、はじめてねぶたの曲が盛り上がります。そこへこの跳人(はねと)とういうのがありましてね、跳人(はねと)というのはセラセラセラセ セラセラセラセ・・・というんで、もう無常無常になって、自分も忘れて、もう青森のねぶたのことは猫も犬もネズミまでが踊り出しているんですね。もうそわそわして黙っていられないという、このねぶたの祭はね、太鼓と笛と鉦の音が聞こえると、もう青森中の人たちがそわそわして、人任せじゃないですよ。猫でも犬でもネズミまでが、もうそわそわするぐらいの大きい一つの青森県自体のかたまりがですね、ねぶたに集中されますね。   
広瀬 今日の「こころの時代」は、棟方志功の人生、心の展開を追いながら、人生人間の生き方について考えてみたいと思います。スタジオには、作家で棟方志功の伝記もお書きになりました長部日出雄さんにお出で頂きました。よろしくお願い致します。
長部 よろしくお願い致します。
広瀬 生前の棟方志功に、長部さんはお会いになったことはないそうですね。
長部 僕は棟方志功について千七百枚の伝記を書いたんですけどね、直接に会ったことは一度もないんです。遠くから見かけたことはありますけれども。
広瀬 あ、そうですか。じゃ、棟方志功という人については、どんな印象をお持ちですか。
長部 若い頃、学生時代から絵は好きだったんですね。ところが棟方志功は嫌いだった。
広瀬 嫌いだったんですか?
長部 ええ。若い時というのはどうしたってね、外国のもの、新しいもの、今の言葉で言えば、ナウイものがみな好きですよね。ところが棟方志功というのは見るからに、古くさいし、泥臭いし、田舎臭いし、で、自分は同郷であるということもあってなんか恥ずかしいような気がして嫌だったんですね。
広瀬 同郷であるがゆえの厭(いと)うような気持もあったわけですか?
長部 あったですね。例えばこの絵に出ているような、なんか呪術的な感じがありますね。これが戦後の僕らの若い頃というのは、近代合理主義全盛の頃ですから、こういったものはおぞましく思えたんですね。でもって志功というのはなんとなく敬して遠ざけるというか、偉い人かも知れないけれども、あまり好きじゃないな、と思っていたんですけどね。
広瀬 それがだんだんに気になってきたわけですか?
長部 ええ。三十代の半ばに、僕はそれまで東京でもって、週刊誌のライターとか、映画の批評とか、こういうテレビドキュメンタリーの構成とか、いろんな仕事をやって飯食っていたんですけどね。三十代の半ばに、僕は青森県の津軽というところが故郷なわけですが、そこを舞台にして小説を書こうというふうに思って帰ったんですよ。書こうと思った小説の主人公が三味線弾きなんです。津軽三味線というのがありますね。その三味線弾きから津軽三味線の弾き方を習っているうちに、「あ、これは棟方志功の絵の描き方、彫り方と同じじゃないか」というふうに思ったんです。これは、音楽からそんなふうに絵画に関心を持つというのは変な入り方だというふうに思われるかも知れませんけどね。私は、棟方志功の場合はそれでいいんだ、というふうに思うんですね。どうしてそれがいいのか、というのは、後で詳しくお話できると思いますけれども、先ほどVTRでもって、盛んにガガスコジャンとか、なんか盛んにねぶた囃子なんか最初にやっていましたね。あの人がいつも身体の中にあんなリズムを持って、絵を描いたり、版画を彫ったと思う。多分版画を彫る時には、お経を称えたり、歌を歌ったり、きっと身体の中に音楽があって、その外側に出る表現として、彼は絵を描いたり、書を書いたり、それから版画を彫ったんじゃないか。僕はそう思うんです。
広瀬 傍にいる人に一生懸命話し掛けながら、それも独り語りみたいな感じですけれども、やっていらっしゃいましたね。
長部 ええ。よく棟方志功のドキュメンタリーがありますけどね、大抵歌を歌っていますよ、彫る時に。ですから基本的には、彼はとても音楽的な人間というか、それは例えば西洋音楽を学んだとか、そういうのじゃなくて、身体の中にリズムみたいなものがあってね、それが彼の生き方とか、芸術とか、一番基本的なものになっているというふうに気がするんですけど。
広瀬 そういうことに限らず、仕事の仕方にもなんか津軽三味線の弾き手と、
長部 似ていますね。津軽三味線というのが、基本のジョンカラならジョンカラ、ヨサレならヨサレという節がありまして、それを他の人と同じように、昔からずっとあるように弾いちゃダメだ。我流でなくちゃいかん。我流というのは普通悪い意味に使われるけどね、今の言葉で言えば、「個性的」とか、「オリジナル」ということですかね。なんか基本のうちから自分なりの新しい節を弾き出さなくちゃダメだ。それはいくら頭で考えても出てこないというんですよ。それは三味線を叩いて叩いて、津軽三味線は「弾く」と言わず「叩く」という人たちがいるんですよ。叩いて叩いて、何時間も叩いていると、肉体的にも精神的にも疲労の極限に達した時に、ふあっといい気持になって、自分でも知らないうちに新しい節が身体の中から出てきて、撥(ばち)から引き出されるというんですよ。今、志功さんが、「板画は作るんじゃなくて、生まれるんだ、頂くんだ」と言っていましたけどね、津軽三味線も叩いて叩いてくると、自分の中から生まれてくるんですよ。ですから、そういった意味で、津軽三味線も新しい節を作り出す時は、身心ともに疲労の極限に達した時は無我夢中になっていますよね。その無我夢中になって、その中からなんか生まれるように新しいものを作り出すというのが、志功さんの版画の彫り方と津軽三味線というのは共通する、というふうに思うわけです。
広瀬 さっき「跳ねて」という言葉が出てきましたけども、無我夢中に跳ね回るような、ねぶたとか、
長部 そうですね。あれはあんまり常識があったらできませんよね、あんなことは。あれも跳ねているうちに無我夢中になるでしょう。
広瀬 じゃ、そういう意味で勿論津軽という故郷に深く彼は結び付いているわけですね。
長部 と思いますね。津軽にイタコ(巫女(みこ))というのがいましてね。さっき出てきましたけど、死んだ人の言葉を与えるというんですが、この人たちも延々とですね、「出の文句」―仏さまが出るまでの呪文みたいなものを延々と称えてですね、それでもって神憑(かみがか)りになって、無我夢中になってですね、なんかその時意識下から生まれてくる声が死んだ人の声だと、昔の人は言ったんですね。そういった意味では、なんか基本的に津軽三味線の弾き方、或いはイタコの口寄せの仕方、そして棟方志功の版画の彫り方というものには共通しているものがあるような気がするんですけどね。
広瀬 それにしても津軽の人間はみな、ああいう感じというわけじゃないでしょうから、彼の独特の性質というか、資質みたいなものというのは、熱中し易いというようなものがあった?
長部 ああいうふうなカッと我を忘れてはしゃぎ回るというふうなのは、津軽人の中にありますね、特に濃く強く志功さんにはあったんじゃないですかね。
広瀬 大変小さい時から負けず嫌いだし、自我というか、自己主張も強かったようですね。
長部 そうですね。とにかく志功さんという人は、ある時期まではとってもエゴイスティックだった人だと思いますね、たぶん。自分中心でね、自分勝手でね。若い頃に『白樺』というものがありましてね、当時、雑誌の『白樺』というのが、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)とか、志賀直哉とか、柳宗悦とか、ああいう人たちの、この『白樺』というものが、日本中の若い人たちに当時与えた影響というのは大変なものだったと思う。特に地方にいる人たちはみんな古いものに縛られたり、家とかに縛り付けられて、昔の人たちは非常な重圧を感じて生きていたでしょう。それに『白樺』というものが、印象派の画家たちを紹介した。この人たちは古い伝統に反抗して、自分の思いとおりの芸術を作り出していたわけだけど、なかなか認められなくて、非常に苦労しながら、しかし生きていった。ですから『白樺』の西洋絵画の紹介というのが、田舎の若い人たちには人生論として受け取られたところがある、と思うんですよね。
広瀬 これは青森でもそういう『白樺』がとっくに入っていたわけですか。
長部 ええ。それでもって棟方志功という人は、親孝行になる、というんで、鍛冶屋の息子で正規の美術教育をなんにも受けていないのに、東京へ出て行くことになるわけです。その頃白樺派の、いわば西洋の個人主義、それから天才礼賛、或いは芸術至上主義というものが非常に影響が強かったんです。つまり芸術のためにはある意味で周りに迷惑を掛けても、家族を泣かしても仕方がないんだ、というふうな、
広瀬 そういう意味の芸術至上主義、
長部 そうそう。それで志功さんという人は、大変あの人は肉体的にも強度の近視だったわけですけども、精神的にも近視眼的なとこがあったんじゃないかなあ、というふうに思いますね。その例は、東京へ出て行ってから四年間、つまり帝展目指して出て行くわけなんですが、帝展を目指すということには、志功さん流の立身出世主義というのがあると思いますね。やっぱり権威というもの―帝展に入選して特選を取って、やがて審査員になって、偉くなるという望みがあったんでしょうけども、四年間落選し続ける。その間彼が描いたのは何かというと、東京にいるのに故郷青森の風景なんですよ。そんなふうに非常になんか自分の身近なものにこだわる、執着するとこが強かった、と思うんですね。
広瀬 帝展というのはやはり青森でもかなり重きをおかれてみんなから考えられていたわけですね。
長部 当時は地方の新聞というのは、朝夕刊あわせて六頁ぐらいの薄っぺらな新聞です。それに帝展の選考経過から、入選とか伝えるというのは、今でいうと高校野球の報道と同じですよ。ですから志功さんにしてみたら大変な栄光なわけですから、帝展に入るというのは。ですから是非ともそれに入りたかったわけなんだけども、四年間落選し続けるんですね。
広瀬 それからのちに女性崇拝というか、女の人―女体にかなりこだわって描き続ける時期があるわけですけど、やはりそういうものも小さい時から萌芽(ほうが)みたいなものがあったんでしょうか。
長部 そうですね。僕は棟方志功の特徴というのは、フェミニズム―女性礼拝(らいはい)というか、女性崇拝というか、とにかく女の人を自分より高いところへ置いて、これを崇めるという。それを目指してなんか進めていくというのが好きな人なんですね。それからエロチシズム―これもわりと早くからありますね。もう一つダイナミズム―なんか生命力、力があってこの世の中を動かしているのはダイナミックな力だ。そういう三つあると思うんですね。これはわりと最初のほうからあって、特に最初の頃はちょっと少女趣味みたいなところがありましてね、それがだんだんにいろんなものに落選したり、それからチヤ夫人と出会ったり、いろんなことがあって、とにかく滅多にないぐらいの貧乏をする。
広瀬 食べ物もほうも困っていたようですね。
長部 ちょっと絵描きとして独立していないのに、チヤ夫人と結ばれて子供ができる。いろんな苦労とかなんかでもって、だんだんに彼のエゴイズムというのも非常に力の強いものになっていった、という気がするんですね。
広瀬 初めの頃は、幼い、あどけない、無垢な少女にかなり恋をして、憧れたみたいなところもあったという、そういう傾向もあったという。
長部 ですから初期の「星座の花嫁」となんていう版画は、今で言ったら宝塚みたいな感じですよね。そういった幼いところというのが、まあ志功さんには一貫して、道を求めるという永遠の少年みたいなところが最後までありましたね。女性に対する好みとか、そういった点は若い時は非常に幼いというか、純情可憐派とか清純派だったですね。最初みんな清純派を好きになりますけどね。そういうのがとっても強かったと思いますね。
広瀬 かなりそういうものを持ち続けていたわけですね。それでもさっきおっしゃったように肉体的には近視だったけれども、精神的には故郷というものにずっとこだわり続けていたという。
長部 はい。ほんとに自分の目に入るものしか大事ではないというふうな、そういった考え方がずっと続いた、と思うんですね。
広瀬 で、故郷の絵を描き続けていた、ということになるわけですね。
長部 そうです。
広瀬 どんなものを描いていたんでしょうか?
長部 これはずっと後の絵〈八甲田山〉ですけれども、ゴッホに憧れていたわけですから、やっぱり当時の絵を見て知っている人は、「騒々しい絵だった」と言いますけどね。そういうタッチでもって、東京へ出てからも故郷の知り合いの果樹園とか、そんなのばっかり描いていたんですね。
広瀬 で、落選し続けたということになるわけですね。   
棟方志功が上京した翌年、彼はたまたま一枚の版画と出逢いました。川上澄生(すみお)の「初夏(はつなつ)の風」でした。彼はこの作品に深く感動して、以来版画の作品を作るようになります。昭和十一年大作「大和(やまと)し美(うるわ)し」を発表したとき、彼はもう三十三歳、結婚して三人子供があり、生活のもっとも苦しい時期でした。この作品を佐藤一英(いちえい)の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」を主題とした叙事詩二千字を刻み込んだもので、四枚の額からなる大作でした。この作品を国画会に持ち込んだ時、会の委員は全作品を展示することを拒否します。当時国画会版画部に割り当てあれていた展示室は小さな一室だけでしたから、これを掲げると一つの作品が独占してしまうことになるからです。四枚の額のうちの一枚だけ展示を認めたのでした。棟方は四枚セットでなければ作品とは言えないと主張します。この時たまたま通りかかった工芸部の浜田庄司(しょうじ)が、この作品に感動し、全作品が展示されるようにはからってくれます。このことが機縁となって、浜田をはじめ柳宗悦、河井寛次郎など一級の教養人、芸術家、そして民芸運動の人々と深い交わりを持つことになります。  
広瀬 この柳宗悦たちとの出会いというのは、たまたま出会った運命的なものがやっぱりあったんでしょうね。
長部 これは非常に大きかったと思いますね。先に川上澄生さんの版画に出てきましたけどね、僕は冒頭でもって、「若い頃は田舎臭いものは嫌いだった。外国のものが好きだった」と言いましたけど、志功もそうだったんですね。やっぱり外国のもの、ゴッホが好きで、ですから川上澄生の絵の中にあるようなハイカラな感じが凄く好きで、それでさっき言った「星座の花嫁」みたいな、宝塚みたいな版画を彫ったりなんかしたんですけれども、そのうちに中国では、「書画一致」と言って、字も絵も同じもんだ、という考え方を知りまして、それで「大和し美し」という、ほとんど字ばっかりという版画を彫るんですね。これは当時としては大変思い切ったことだと思うんですよ。これは非常に志功の大胆さというものを物語っていると思いますね。二十枚の版画―佐藤一英の二千字の長い詩をそのまま彫ったわけですから、絵も入っているけれども。
広瀬 四枚の額といいますけれども、全部で二十枚の版画だった。
長部 二十枚の版画を四枚の額に収めてあるわけですね。それを全部展示したら国画会の版画部というのは小さい部屋しかないわけですすから、ほとんどというか、かなりのスぺースを志功一人のために取られて、他の人は寄せられちゃうでしょう。あんなふうに彫る。それからその翌年にはもっと大きな版画を出した。その翌々年にはもっと大きな版画を出したわけですよ。壁一つ全部占領するようなですね。その辺にも志功のエゴイズムというのが出ていると思うんです。
広瀬 勿論意識的に、もうより大きいものを、広い部分を取ろうという。
長部 他人(ひと)はどうでも、自分という。でも、これはまた考えようで、人に遠慮して、じゃ、これぐらいの今まで通りの版画というふうに考えていたら―それまで版画というのは、女、子供とか、もの好きが集めて喜ぶぐらいのものとしか思われていないわけですよ。このぐらいの小さいものですね。どうして版画というのが油絵と同じ大きなものじゃいけないのか、或いは壁画というのもあるじゃないか。どうして版画が壁画になってはいけないのか、というふうに考えたわけなんですね。そこが非常にエゴイズムと紙一重でもって、非常に志功の大胆で革命的で斬新なところだ、と思うんですよ。ですから、あんなふうなやり方をしていなければ、のちにサンパウロ・ビエンナーレでグランプリを取ったような「釈迦十大弟子」という、ほんとに大きな版画が生まれたかどうかわからない。そんなふうに彼の中に非常なエゴイズムというのがあって、それは自己顕示欲もあったろうけれども、それがまた新しい世界を開くことになっている、と思うんですね。
広瀬 その自己顕示欲ゆえに、柳宗悦なり浜田庄司なりとも出会ったことになるわけですね。
長部 そうなんです。
広瀬 そこで我を張っていなければ出会いはなかったわけですね。
長部 そうですね。あの二千字の、ほとんど字だけ彫った「大和し美し」を、これは全部展示できない、と言われているところに浜田庄司が来て、全部展示できるように取りはからって頂いたわけです。その浜田庄司をきっかけにして柳宗悦、河井寛次郎という、当時民芸運動を始めていた人たちと知り合うわけですね。
広瀬 ある意味では全然今までの彼がいた世界とは違う世界の人たちですよね。
長部 これは非常に志功にとっては幸運だったと思いますね。志功という人は美術界では正規のコースを歩んでいない。美術学校も出ていないんですからオーソドックスな画壇というものに認められるのは大変だったかも知れない。ところがこの民芸運動の人たちは、画壇とは別なところにいるわけですよ。まるっきり違った考え方をしている人たちなわけですね。つまり民芸運動というのはどういうことかというと、芸術家が作った芸術も良いかもしれないけれども、無名の、昔からいた、例えば朝鮮の李朝の工人たち、無名の工人たちが作ったもの―人々が日常ご飯食べたり、日常使うものの中に大変な美があるということを主張していた人たちです。つまり芸術家でなくて、ごく普通の職人みたいな人の中に、実は「俺は美術家だ」なんて言っている人たちよりか、もっと深い美を創り出している人たちがいる、という考え方をする人たちでしたから、その人たちと志功が出会えたというのは、大変な幸運だったと思いますね。
広瀬 それは職人と自分とを重ね合わせて見、また鍛冶屋だったお父さんをも、ともに認めてもらった、という気持というのは随分あったわけですね。
長部 それまでは鍛冶屋の子供というのは、絵描きになるためには、彼のコンプレックスだったかも知れない。ところが柳さんたちの民芸理論によれば、その鍛冶屋の鎌作る名人は、どんな芸術家にも負けない、ちゃんとしたその人たちもまた立派なものを作る人たちなんだという、値打ちのある人たちなんだということを教えられたわけですからね。ですから、彼にとっては非常にその時コンプレックスから解放されたろうし、それから学歴ばかりが全部じゃない、と。柳宗悦という人は東大を出ているし、河井寛次郎、浜田庄司たちは焼き物を作る人たちですけれども、二人とも東京高等工業学校(現・東工大〉卒業後は京都市立陶磁器試験場に入所するわけです。勤めていたけれども、その月給よりも丸善から買う洋書の代金のほうが上回ったぐらい、非常な勉強家の人たちで、いろんなことを知って、しかも熱心な人たちでしたから、この人たちと出会って、美術とかいろんなものに関して教えてもらった。目が開かれた、というのはとても大きかったと思うんですよ。
広瀬 その河井寛次郎と出会うことによって、仏教の世界に入ることになるわけですか。
長部 ええ。河井寛次郎はその頃仏教というものに非常に打ち込んでいて、さっきもいいましたように、棟方志功は、「どうしても帝展に入りたい、偉くなりたい」という、そういうものにすごくとらわれていた。或いはまた故郷とかいろんなものにとらわれていた、縛られていたわけなんです。その河井寛次郎が、志功に『碧巌録(へきがんろく)』とか、そういう禅のことを教えるわけなんですね。河井寛次郎は京都にいたので、志功は京都に行くわけなんですね。それで河井の家で志功にお弟子さんたちと一緒に『碧巌録』の講義をして教えるわけなんですね。この『碧巌録』というのは、一等最初に出ている言葉が「廓然無聖(かくねんむしょう)」という―つまり秋の澄み切った空みたいに雲一つない、何にもない無一物の境地とかですね、こういったものが最高の境地なんだとか、或いは「東涌西没(とうゆうさいもつ)」といって、お日さまは東から出て西へ没するように、出没自在で融通無碍(ゆうずうむげ)で、何ものにもとらわれない。そういった境地を非常に重視しているわけなんですね。無一物で何ものにもとらわれない。河井寛次郎は、のちに志功さんがまた帝展に落選した時に、「落選おめでとう」という電報を打ったぐらいで、帝展とか、そういう小さい世俗の権威にとらわれていちゃダメだ、ということを言いたかったんだろう、と思うんですよ。
広瀬 河井寛次郎というのは陶芸家としては?
長部 大変な人です。これ大変な人だからまた志功も聞くわけですよ。いい加減なものを作っている人だったら聞きませんけれども、河井寛次郎の焼き物というのは一目見たら大変なものだということが、見る目をもった人にはわかりますよ。ですから志功は、もともと河井寛次郎の焼き物に惹かれていましたから。ですから志功という人はまた乾いた白紙みたいに何でも吸い取るんですよ、吸い込む。それから非常に素直に学ぶというか―但し非常に客観的に正確に理解していたかどうかわからないですよ。非常に自分勝手に思い込みとかですね、自分勝手な解釈も含めてでしょうけれども―それで河井寛次郎から仏教の何にものにもとらわれない、無一物の世界というもの、そういったものがこの世の中にあるんだ、と。そういったことに、つまり入り口を開いてもらった、ということはとても大きかったんじゃないでしょうかね。
広瀬 本を渡されるんですけれども、全部読まないうちに、「あと同じことでしょう」というふうなことを言った、というふうなことを、
長部 気がせっかちなんです。それで『碧巌録』の一則から百則まで全部丹念に読むという性格ではないんですね。おそらくパッパッパッと見て、「あ、これ全部同じだ」と、まあ大体直感型の人でしょうから。
広瀬 「一を聞いて十を知る」といいますけれども、それは全部わかってしまって、自己流の自分のほうに引きつけてわかってしまうというようなところがある。どうなんでしょうか。
長部 まあ大体野球の選手でいうと、長島茂雄とか、ちょっと語弊があるかも知らんけども、田中元総理という人がすぐ「わかった、わかった」と言った、といいいますけども、ああいうタイプじゃないんですかね。
広瀬 とにかく自分の世界にもう吸収してしまう、という。
長部 それが非常に勘の良いというのか、とても一番肝心なところですね、パッと素早く掴む力というのがあったんじゃないですかね。
広瀬 河井寛次郎なり他の人たちも、逆にすごく彼に夢中になっていくわけですね。「すごい怪物みたいな人、芸術家というか、天才を発見した」というふうなことで、彼に直接言ったというのは随分力になっていると思いますね。
長部 大体民芸の人たちというのは、言うことが大袈裟なんですよ。誉める時でももの凄い誉め方をするわけですよ。
広瀬 そういう意味で波長が合う。
長部 合うんです。オクターブが高いわけですよ。河井寛次郎は、「君は畏(おそ)るべきものを有(も)つ人だ。君のものを見ていると、人が嘗(かつ)て山野を駆け廻っていた時の荒魂が頭をもたげる。君は確かに人々の中に隠れている荒魂を呼び返す人だ」と書いている。しかも「天才天才」というふうに、とにかくオクターブの高い言葉で誉められると、またその気になっちゃう人だったんですね。
広瀬 載せに載せられて、それは自然にその気になるんでしょうね。
長部 ええ。
広瀬 それから水谷良一という人にも非常に教えを受けたようですが、同じグループに属している人ですか。
長部 民芸運動の中の一人で、商工省のお役人だったわけですが、東大を出た秀才で、この人がまた仏教にも詳しい。謡曲は習っている、何から何まで知っている人なんですね。
広瀬 今はなかなかいないタイプの人かも知れませんけども。
長部 そうですね。昔も趣味人とか教養人というのが結構いたんですね。水谷さんにまた『華厳経(けごんきょう)』というのを教えてもらったのがすごく大きかったですね。僕も仏教のことはよく知りませんけれども、『華厳経』というのは、一番中心になる仏さまは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と言って、「毘盧遮那(びるしゃな)」というのは「光」「光明」という意味らしいですね。無限の宇宙の果ての果てまで照らし出す光、これは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)という仏さまである。
広瀬 東大寺の大仏さんもそうですね。
長部 そうそう。大仏さん。で、この光によって宇宙の本質が明らかになる。それを掴むことが悟りをひらくということなんでしょうけどね。そういう広大無辺な宇宙というものが、主体になっているわけですから、それに比べたら自分自身なんているものは、芥子粒にも当たらないようなもんで、また『華厳経』の世界ではその芥子粒の中にも全宇宙が含まれているというんですけれども、その芥子粒みたいなちっちゃなものの中にも、微塵の中に宇宙が含まれているというんですが、それにしてもとにかく広大無辺な宇宙というものを、その仏の世界、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の世界なんかと比べてみたら、自分なんか芥子粒みたいなもんでしょう。そうすると、その棟方志功というのが、とても自己中心的で、エゴイスティックで、こだわりが強くて、固執癖があって、偉くなりたかったり、それから故郷に非常に固執していたり、そんなふうだった自分というのが、仏の世界に比べたら、ほんの小さなものでしかないという。そこでもって、「小我」―小さな我から、「大我」―大きな我に生まれ変わるきっかけになった、と思うんですね。この『華厳経』なんかの話を水谷さんから教えてもらって、その世界を彫った。これもまた随分自分勝手で、必ずしも『華厳経』に出てこないような神様が出てきたりね。
広瀬 自分で想像してしまう?
長部 そうです。根本に空想力とか、想像力を発揮する。志功さんのものの作り方というのは、今でいうとSFの作家の想像力の働きに似ています。いろんな怪物とか、出てくるというところなんかはね。
広瀬 自由自在に膨らませたりしておったわけですね。
長部 ええ。教えられたこと、聞きかじったこととか、パッと読んだことなんか、パッと掴んだ、それを金平糖の芯みたいにして、それに色を付けて膨らませていくというのが、志功さんのそれからの芸術になるわけですね。
広瀬 水谷さんは謡曲にも大変造詣の深い方だったわけですね。
長部 ええ。志功さんは青森で育った。青森というのは昔「善知鳥(うとう)」という名前だった、ということは知っていたわけですが、その水谷さんから「善知鳥(うとう)」という謡曲があるということを教えられるわけですよ。自分としては本州の端っこの誰も知らないと思った善知鳥(うとう)という古い名前を聞いてびっくりするわけです。また志功さんは、地名でもなんでも、古い名前が好きなんですよ。大体あの人が書く時は、字が昔の字と今の字が違うと大体昔の字を使うという。
広瀬 字なんかにかなりこだわりがあるわけですね。
長部 こだわりがあります。それは室町時代の初期に世阿弥(ぜあみ)によって謡曲になっているという話を聞いたもんですからビックリしてね。また水谷さんがこの謡曲を見せたりなんかするんですね。
広瀬 当代一流の人を連れてきて見せるんですね。
長部 それを見て感激してね。それでまた善知鳥(うとう)の物語を彫るわけなんですが、この辺りになってくると、とても美術的にいろんな余分なものを削(そ)げ落として凝縮された造形的な美しさというものが出てきている、と思うんですよね。
広瀬 白と黒のこう引き締まった感じがしますね。
長部 そうですね。これは多分自分自身だろうと思うんですよ。これは立山(たてやま)から善知鳥(うとう)へ行く僧なんですけれども、これは『華厳経』に出てくる善財童子(ぜんざいどうじ)みたいな、なんか道を求めている―さっき僕は永遠の少年と言いましたけれども、大体志功さんという人は自分をなんか道を求める永遠の少年というイメージでもって―そういう言葉で意識していたかどうか別として―これはつまり僕の考える志功さん自身ですね。
広瀬 水谷さんでしたか「善財童子みたいな人だ」といったのは?
長部 そうなんです。単にそういう善知鳥(うとう)という物語を離れて、だんだんお終いになるほど、非常に簡潔になってきて、造形的な白と黒との量とか、そういったものの美しさとか、面白さとか、そういうのがとても出てきていますよね。それでとても深い一種の詩情と言いますか、悲しみみたいなものが出てきていますしね。これがやはり志功さんの傑作と言っていいんじゃないか、と思いますけど。
広瀬 謡曲の善知鳥(うとう)のお話というものは、どういうお話なんですか?
長部 これは善知鳥(うとう)の浜でもって、猟師が「うとう」というふうに呼ぶと、「やすかた」というふうに答えて、ヒナが顔を出す。ですから、「うとう」「やすかた」という、そういう言葉を使って、猟師が騙(だま)してヒナを捕っているわけですよ。猟師が地獄へいってから、親鳥がものすごい化鳥に、鉄の嘴を持つような怪物みたいな鳥になりまして、それで非常に虐められやっつけられるわけなんですね。そこに僧が助けにくるという。そういう話なんですね。これはなんか志功さん自体にとってみると、北国というところに生まれた人たちの宿命みたいな、そういうものを感じとったんじゃないかというふうに思うんですよ。お父さんという人はとても腕の立つ人だったけど、お酒飲みで酔って、とても家族を泣かせる。そういうお父さんだったわけですね。お母さんはそのお父さんのために一生苦労した。そういったことがなんか善知鳥(うとう)の物語の中になんか二重写しになって感じられていたんじゃないかなあ、というふうに思います。善知鳥(うとう)の中には、志功さんの頭の中にあるお母さんのイメージだろうなあ、という女の人も出てきますね。
広瀬 この「善知鳥(うとう)」で特選するんですか。
長部 これは文展(昭和十二年に帝展が改組し、文展と名が変わる)でもって、版画としては官展でもって初めての特選になるんですね。
広瀬 版画ではそれまで特選というのはなかったわけですか。
長部 なかったですね。
広瀬 じゃ、世間的にもこれで版画で認められたわけですね。
長部 ええ。
広瀬 そして、どんどん波に乗って制作を続けていたことになるわけですね。
長部 ええ。仏教とかそういったもの、謡曲とかいろんな物語、それから文学、いろんなものに素材をとって、次々に想像力を存分に発揮して、いろんなものを作っていくようになるわけですね。ですから前だったら非常に狭い自分の関心事だけに閉じ籠もっていたのが、その仏の世界というものを知った途端に、ものすごい広い世界に出ていった、という感じがあるんですね。
広瀬 やはり河井寛次郎なり水谷良一なりによって、
長部 或いは柳宗悦。柳宗悦という人が大体「我執を捨てよ」―自分に対するこだわりを捨てよ。小さな自分を捨てて、「大我」―もっと大きな我というものに生まれ変わらなくちゃいかん、というふうなことを言った人ですからね。
広瀬 そして、昭和十四年に代表作が生まれることになるわけですね。
長部 これが「釈迦十大弟子」と言って、多分多くの人が、志功の代表作、多分最高の傑作というふうに認める作品ですね。すごく野性的で、エネルギッシュで、ダイナミックですよね。普通釈迦のお弟子さん―仏像とかだったら、悟り済ましたようなですね、そういった人たちの姿を描く。これはなんかもの凄く欠点も癖も強そうだし、弱点もありそうだし、ひょっとしたら今でも悪いことしかねない、という人たちが、なんか仏の道を求めて苦しんだり、それから自分を鍛えたりしているというふうな、そういった感じがとても出ていますよね。志功は世界的に認められるのは、戦後サンパウロ・ビエンナーレとヴェニス・ビエンナーレでグランプリをもらってからですけど、その主力作品だったのはこの昭和十四年のこの作品なんです。棟方志功という人は、一番貧乏していた頃、無名の頃から漸く抜け出して、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎に出会った、或いは水谷良一に出会った、この辺りに最初の大爆発というのをするんですよ。彼の傑作のかなりの部分はこの時期に生まれているんですよ。ですから戦後、外国で認められたのは、この戦前のこの頃の作品が非常に大きな力になっているんですね。
広瀬 この頃経済的にも苦しい時期ですね?、
長部 この頃は水谷さんとか、みんなの援助があってですね、後援会みたいなのができて、それでもって一応の生活の安定をみたという時期だろうと思いますが。
広瀬 ある時期には食べ物もなかったでしょうけれども、もう寝食を忘れて没頭するという、無我夢中だったという。
長部 ええ。無我夢中となるというのは志功の特色でね。この無我夢中ということが、「我を忘れる」と。「無我」というのは、ほんとに「自分が無くなる」と書きますね。ですから小さな自分とか、こだわりなんかを捨てるということにも、この無我夢中というふうな熱中の仕方というのは、そういう自分を捨てることに役立つと思いますね。
広瀬 傍にいた家族なりなんなりというのは、かなり違った意味で影響を受けている。
長部 大変だったろうと思います。それまで奥さん、子供さんたちは随分犠牲になったというか、苦労したと思いますね。でも何しろ芸術至上主義のものですから、芸術のためには周りの人たちがある程度犠牲にならなければ仕方がないと多分思っておったんでしょう。
広瀬 経済的に困れば、助けの手紙を出せば金が送られてくるみたいな、そういうふうな支えもあったという。
長部 そうですね。またこの志功さんという人は、そんなに貧乏でも少し金が入るととても高いものを買うんですよ。家具なんかでも、イギリスのもの凄い昔の高い家具を買ったり、絵とか、それから美術品も、それからいろんな材料―絵の材料とか、いろんな材料なんかでも貧乏していてもあの人は最高級のものを使うし買うんですね。その辺はとても志功さんという人は志の高い人で、あんまり風貌なんか、そんなふうに見えませんけれども、あれでけっこうおしゃれで、身に着けるものなんかでもけっこう高いものを身に着けていたんですね。
広瀬 そうなんですか。なんでも求めるものは、じゃ一級品だという、こだわるところもあったわけですね。
長部 これはほんとにそうです。何でも好きなものは第一級の物、第一流の物。
広瀬 そして戦争があって、戦後に入るわけですね。戦後、棟方さんの思考というのは、どこか変化をしていくようなところがあるわけですか。
長部 戦争中に戦争の末期、富山県の福光というところへ疎開しまして、当時は日本中どこだって食べる物がないし、みんな貧乏していたわけですが―大体そういったら悪いかも知れないけれども、志功さんというのは、苦しい時ほど、いい仕事をするような気がするんです。それで戦後の何もかも不自由な時期に、また二度目の大爆発というのがあります、この福光の頃にね。この戦後の爆発というのは何かというと、もともと志功さんには戦前から、フェミニズム、それからエロチズム、この芽はありますし、ダイナミズムというのがあるわけなんです。特にフェミニズムとエロチズムが、戦前戦中というのは不自由な時代だったでしょう。あんまりそういった女性礼賛とか、エロチズムの礼賛なんていうことはできる世の中じゃなかった。それが戦後はある程度それが自由になってきたわけですから、そこで彼のフェミニズムとエロチズムというのが全面的に開花した。花が開いたという感じがあるわけですね。この「女人観世音」というのには、志功さんのフェミニズム、女性礼賛、なんかいつでも女性的なるものが自分を導いてくるんだという、そういう感じを非常によく出した作品だと思いますね。この辺の色の使い方なんていうのは、彼が故郷にこだわっていた頃は油絵を描いていたわけですが、そういうものから解き放されて、いろんなものに題材にとるようになってから、かえって、ねぶたなんかの、或いは津軽の凧絵なんかの色彩を思わせるものが出てくるんですね。
広瀬 明るい感じになる。
長部 なんとなく懐かしい、温かみのある色彩ですよね。ですから小さな自分というものを捨ててから、かえって志功の作品というのはもの凄く個性的になって、誰が見ても一目でもって、「これが志功だ」という、そういうスタイル(画風)もつわけです。絵描きにとって一番大事なものはスタイルでね。つまりスタイルというのは、その人が発見した新しい世界の見方、考え方、感じ方だわけなんですよね。ですから志功さんというのは、明らかにスタイルというものを作りだして、この辺りになると、もう版画だって、肉筆画だって、或いは書だって、誰が見ても一目で、「あ、これが棟方志功だ」とすぐわかる強烈なスタイルというのを創り出したわけですね。これが戦後の代表作と言っていいんじゃないかと思います。これには志功さんのフェミニズム、エロチズム、ダイナミズムが全部出ていますよね。非常に力強い、女性礼賛、母性礼賛、生命力礼賛という讃歌が出ていますね。これはサンパウロのビエンナーレでもって版画部門のグランプリを取って、日本ではみんな志功というのは、「古くさい、古くさい」というふうに思っていますけれどもね、サンパウロのビエンナーレというのは、当時、前衛的な作品がみんな集まる場所だったんですよ。そこで認められたんですからね。外国人から見ると、この作品なんかは大変に前衛的な新しい感じを与えるわけなんですね。
広瀬 その他に「流離抄(りゅうりしょう)」というのがあるわけですね。遊びの精神をこう描いた。
長部 僕は、「釈迦十大弟子」とか「湧然(ゆうぜん)する女者達々(にょしゃたちたち)」、ああいう力強い作品は、勿論素晴らしいと思いますけど、「好き」という点でいうと、この「流離抄」がとても好きなんですね。これにはとても「遊び」という感じが出ている、と思うんですよ。それと、もともと絵というのは、子供は字を書く前から絵を描き始めるわけでね、絵というものは基本的に遊びの精神というのがあると思うんですけど、この作品にはとても遊びの精神というのが流れ出ていましてね。それとユーモアがあるんですね。志功さんの自由の要素というのは、ちょっと稚拙味(ちせつみ)を感じさせる、子供っぽさを感じさせるユーモアです。これが例えば、外国でいうとルソーとか、ああいう画家たちにも通じるような、稚拙味を感じさせるユーモアがあるんですね。これが、「流離抄」というのにはとてもよく出ている、と思うんです。吉井勇さんの歌を題材にして彫っているわけですけどね。これなんかユーモアでしょう。マンガといっていいぐらいですよね。
広瀬 そうですね。
長部 色彩がとても奇麗なんですね。ですから、おそらく志功さんはたぶん楽しんで彫ったんじゃないですかね。僕はさっき志功さんは、いつもなんか歌いながら、きっと心の中にいつでも文学とか音楽があって彫っていた、と思うんです。きっとこういう時には吉井さんの歌を絶えず口の中で繰り返しながら彫ったと思うんですよ。そういう遊びの楽しさが、この作品にはとても出ているというふうに思うんです。
広瀬 たしかにそういう感じが溢れていますよね。
長部 色なんかとてもいいですよね。
広瀬 ええ。
長部 僕は、志功さんという人は、生涯目指したのは遊びの境地なんですね。つまり仕事というのは、遊んでいるようにできたらどんなにいいだろう、という。
広瀬 これは私たちでも考えますけど、なかなかそれはちょっとしたくてもできないところがありますでしょう。
長部 ええ。僕ら大体仕事というのは、「嫌だ嫌だ」と思っておりますがね。子供の頃、遊びというのは、それこそ無我夢中になって神社なんかで遊んでいると、ハッと気が付くと辺りが暗くなっている。あんなふうに無我夢中になって仕事ができたら、その人は天才ですよ。ところで「火事場の馬鹿力」とよく言いますけれども、なんかそういう時だったら、ある短い時間なら、かなりの力が出されるかも知れないけれども、それを持続することが難しいですよね。ですから子供の遊んでいるような無我夢中の状態、或いは熱中する状態を持続するのが天才だと思うんですよ。だからほんとに子供が遊んでいるように仕事ができるという人は天才ですね。志功さんという人は、子供が遊ぶみたいに仕事をずっとできた人だと思うんですね。
広瀬 でもはじめは、「帝展、帝展」という気持もあったし、「故郷に錦を飾りたい」とみたいな気持もあったし、
長部 かなり汗くさいみたいな、ちょっと遊びというふうな気持から随分遠いところで切々と、やたら歯を食いしばって頑張るみたいな感じだったろうと思うんですが、だんだん次第次第に、仏というものに出会ったり、広い世界に出て遊ぶという。彼自身は自分の版画は自分が彫っているんじゃない。つまり神様、仏さまのなすがままに、自分はいわば道具になって動いているだけだ。
広瀬 手先になっていると、
長部 ええ。手先になって。神様や仏さまに、いわば遊ばせてもらっているんだ、というふうな言い方をしていますね。
広瀬 仏教なりに出会うと思うんですが、自分を小我から大我へそんなふうに変えていけたというのは、その人のやっぱり力と言いますか、ただの偶然じゃない、出会いだけじゃない。
長部 ええ。彼は小学校を卒業したあと美術学校なんかへ行っていないでしょう。ですから、「絵とは何か」とか、それから「真善美」の「真とは何か」「善とは何か」「美とは何か」というふうな、非常に基本的な問題を、一番根源から考えるという習慣が身に着いていたんですね。ですからいろんな大きな問題なんかは、柳宗悦に教えられたりして、全部自分の頭で考えるという。自分の精神的な胃袋で咀嚼(そしゃく)するということはやってきた、と思うんですよ。ですから彼の宗教というのは、ほんとに仏教がどうか、というのはわからない、と思うんですよ。戦後、彼はキリストの像も彫っていますしね。それからまた神様というのも信じていたでしょうし、仏さまも、神様も、キリストも、何でも全部いいわけですよ。多分彼にとっては、山にも川にも海にも、木にも森にも、みな神様がいただろうし、そうすると、これはもっとも原始的なアニミズムといったようなものですね。それからまた死んだお父さんお母さんもきっと。日本人は仏さまという場合に、ブッダのこともいいますけれども、死んだ人のことも仏さまといいますね。そんなふうに大体日本人というのは、神も仏も神仏混淆(こんこう)ですね。また八百万の神がいて、キリストなんかでもかなり受け入れるというふうにですね、そういった日本人のほんとの宗教というのはない、といわれますけれども、なんか漠然とですね、なんかこの世の中に生きているというか、レベルがほんの少し高いところに目に見えない漠然たる神仏にあたるものがいて、この世を動かしているような、支配しているという、そのものに対する畏敬の念というのは漠然ともっていると思うんです。そういった如何にも日本人的な宗教意識というものを、志功さんという人がとても濃縮された形でもっていたと思うんです。ちっちゃい頃からあの人はなんかデッサンする、或いは写生する時でも、必ず写生の対象を拝んで描き始めて、描き終えた後も拝んだといいますけど、そういったふうに森羅万象の中に生命があって、しかも神がいるというふうな、そういった宗教意識でもってなんかに祈るという気持というのはあったんじゃないですかね。
広瀬 棟方さんが頭にハチマキのように巻いているのは、あれはしめ縄だそうですね。
長部 あれもしめ縄なんですね。ですから神のよりしろになっているわけです。淡谷悠蔵(あわやゆうぞう)さんという人がテレビかなんかで見まして、「あれはきっとしめ縄だろう」と言ったんですね。基本的には志功さんというのは遊びを目指したわけだけれども、その遊びというのは、日本語でも、それから英語のプレイでも、ドイツ語のシュピーレン(spielen)でも、みな一等古い言葉は「踊る」という意味なんですね。ですから神様に一生懸命祈る。その祈りの言葉がだんだん気持が高まってくると歌になる。それがやがて踊りになる。そんなふうにして、すべての芸能と芸術が始まっている、と思うんですよ。一等最初に神に祈る。それが祈りの言葉が歌になって、それから踊りになって、神憑(かみがか)りして、志功さんという人はそういうふうに書を書き、絵を描き、版画を彫ったと思うんですね。僕は一等最初に音楽から入っていったというのは、志功さんの場合はおかしくないというのが、基本に神に対する祈りがあって、それがなんか一種の詩とか言葉になって、音楽になって、それがさらに身体的な表現になっていったという意味で、志功さんの芸術表現というのは、まさに遊びであったと思うんですね。
広瀬 無我夢中に没入していた時にも、版画という世界、ほんとに彼にピッタリした世界に出会ったわけですね。
長部 そうそう。それを見付けたもんですからね、非常にこだわりのあった、ある意味で小さかった棟方志功が、その仏の世界に出会って、それももの凄い広い世界に出ていって、自由奔放に自分を遊ばせて想像力を発揮した。その結果が外国の人たちにもすぐに理解されて認められるようになった、と思うんですよ。日本の画壇は、今もって棟方志功というのを認めていなくて、ただ「海外ジャポニカ趣味だ」と思っているでしょうけれども、外国の人はそう言いませんね。棟方志功というのは、世界の美術家の一人だ。そういう普遍的なところへ志功というのが出ていったんですね。
広瀬 今日はありがとうございました。  
(昭和62年、NHK教育TV) 
棟方志功・雑話
1903年(明治36)年青森県生まれ。鍛冶屋に生まれ、小学校を出ると青森地裁の給仕になり、絵画を独学で勉強。1924(大正13)年に上京し、1928(昭和3)年の帝展で初入選した。この年から、古川龍生、川上澄生の影響で版画の道に入り、1936(昭和11)年国画展に出品した「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する。 その影響から、独特の『板画』を発表し注目される。1952(昭和27)年ルガノ国際版画展で優秀賞、1955(昭和30)年サンパウロ国際ビエンナーレ版画部門最優秀賞、翌年ベネチア・ビエンナーレで国際大賞を受賞するなど、国際的に高い評価を受けた。1965(昭和40)年朝日文化賞、1970(昭和45年)毎日芸術大賞、文化勲章を受章した。1975(昭和50)年9月13日没。
谷崎潤一郎 歌 棟方志功 板「歌々板画巻」より
はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々
谷崎 あれはなかなか面白い。
棟方 ああいう情景が……。
谷崎 字の組み合せが……。歌の組み合せが。あなたは字がなかなか面白いのね。
棟方 いやどうも。又板で彫ると、又字が別に動いて来ますな。
谷崎 俳句の、この間の何とか……あなたの。
棟方 原石鼎(はらせきてい)の「青天抄」ですか。
谷崎 「青天抄」。あれなかなか面白いね。
神林 「はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々」はどちらでお作りになった歌ですか。
谷崎 あれはね、鳥取の方に行った時。
神林 あの、戦時の疎開で津山にいらしった頃ですか。
谷崎 あの時とは違う。
棟方 津山もいいところだったな。鶴ヶ城という城があって。
谷崎 鶴山城!
棟方 ええ、鶴山城。いいところでしたね。あそこでわたくしの歌が一つあるんですよ。
おくられて来しを身ながらおくらるる人の悲しさかえりみもせず……(笑)。
美作路 他 / 棟方志功 昭和27年2月他
美作は旅にしあれどかの君の在(いま)せし津山今は君なし
山(  )あれど河あれどもかの人のまさざる所かなしきばかり
おくられて来(こ)しを身ながらおくりたるひとのさびしさかへり見もせず
おくられて来(こ)しを身ながらおくりたる人のかなしさかへり身はせず
おくられて来(こ)しを身ながらおくりたるひとのさびしくかへりけるかも
おくられて来(こ)しを身ながらおくらるる人の悲しさかへりみもせず
別れ来(こ)し女(ひと)の身ながら別れたる女(ひと)の愛(かな)しみかへりみもせず
別れ来(こ)し女(ひと)の身ながら別れたる女(ひと)の愛(かな)しみ帰身(かへりみ)はせず
津山(  )なる城跡づたいさまよへどかのひとまさず雲流れつつ
どの道(  )も雪道となり暮れゆくや 大寒を美作にして別れゆく
春雪の不明の径(みち)を従へり 埋れ尽し濠の行方(ゆくへ)や春の雪
雪(  )解水満つるがまゝに海へ急ぐ 春の潮岩を越い来て過ぎゆけり
春潮の越え亦(また)越えて夕かな 春の風路次(ろじ)組み形に従へり
春(  )の雨ききてそのまま眠りけり
灼楝記(しゃくれんき)
雄神川、川辺凉しも吾妹子に楝(あふち)花咲く川辺凉しも、元義の歌
去年の秋、招ばれて初めて津山に来まして、美しい人と、鶴山城趾に、まゐつて帰りましたよ。
美しい人は、男の方でもでしたが、矢張り身体に包まれて灼いたのは、志功は身体が、男だけに女でしたよ。
その女のところと、御名は、ナンボ強気の志功でも言へませぬが、まあ意地で探したつて不二、フタツナラヅつて女ですよ。
津山の御方ならもう「あの、あゝあの女か、成程さうか」と目に覚えあることと存じますよ。他所者の志功でさへ一目で参りましたからね。
それ程、志功が身体を灼いてゐるんですが、これは志功だけでその女は知らない事ですから、そこのところは、「婦系図」の言葉でないけれ共、こころ一杯に我儘さしてくださいませ。
今、その女の、居られる鶴山城そばから、十里弱のところ、奥津の湯元に来て、想ひを詰めて居るんですが、想い詰めつてココロも、ありがたいもんですね、一人だけにも関係なくアクビですからね。
昨夜は随分さわぎましたよ。
この湯の主人が、一緒に丸くなつて、飲み崩れてね。志功の布団に、くるまつて、奥様に呼ばれて、夜中に帰りましたよ。奥様つてどこの奥様も、身をもつて主人を大切にするモンですね。つくづく一人になつて感じましたよ。
「カロクダイスケサンナンデシンジヨフヤシタ……」つてわけで、よい気持に騒いで自分も忘れて、ねむつて仕舞ふなんて飲める方の徳と、有難さですね。
バスが、この半年そこそこで、仲々、便利になつて急行に乗れるのは公私ともにまた便利になりましたね。
丁度の雪で、上斎原までは、徒歩でしたよ。おかげで車では知らなかつた、よい景色が、身体にはいつて来てよかつたですよ。何が幸ひになるか、判らないもんですね。
上斎原まで二里の道中は、雪道で辛かつたですが、まんなかの部落で、後から「帰りました」といふ学校がへりの子供に、先を越されましたよ。
子供の足と、大人の足では、矢張り子供の足ですね。すれ違ひになつた時、Y氏は「お湯を熱くして待つてナ」と声を掛けて呉れましたよ。
Y氏の親類の子供だつたんですね。
囲炉裡の中に足を投げて呑んだ、そのお家のお婆さんの手づくりの御茶はよくもまれて細く、頃の湯で解けて美味しかつたでしたよ。
「サアー出掛け様、これから半分かなア」と志功が尋ねたら、その奥様が「百里の径は九十九里を以つて中ばとす。つて事を云ひますナ」と戒しめてくれましたよ。岡山の方は智慧者が多いと聞きましたが、本当ですね。
キンマを引いて来た青年にぶつかつて、重い荷物を救うていたゞきましたよ。
下斎(このあたりの方達は、かう言つてゐます)を通つて、上斎に、着いた頃から日が暮れかゝりましてね。村境の名所、立神(志功はリツジンと呼びたいですね)まで来た頃は、もうトップリでしたが丁度の月がまるで昼の様に照つて見事でしたよ。
下手な歌でも詠んでみたくなりましたね、〜上斎原の立神は……とヤリましたが、そばに歌人をも任ずる詩人のY氏が、喰つ付いてゐるのでニワカモノでは、この景色、この月に叱られる様な気がして、止めましたよ。
上斎原はこれで、三度です。
長屋門の立派な、Y家に迎へられて、志功は大好きなこのあたりの名鉱泉(ツルツルの湯)で沸かしてくれた、湯で身体を撫でていたゞいて、ヤレヤレと心身を喜ばせましたよ。
Y氏の皆々様は元気で、弟さんには御嫁さんが来て賑やかさが、加はつてゐましたよ。
一寸、身体を、そこねてゐた、姉様も、思ふ程の身病みでなかつた事も。ゆつくりな、こころ持に志功を訪ねて来て、くださつたY家の親類、近所の方々と一杯が始まりました。
こころ冲天に飛ばして、といふ事になりましてね、日本原から御一緒くださつた、彫刻家のS氏も至極の御機嫌で得意の児島高徳を、舞つてくれましたよ。
仲々の見事で、何度も何度もの所望に動いて「ヤラシテイタダキマス」といふので骨を折つてくれましたよ。
その夜は、明るい静かなよい晩でした。床に入つて間もなくさつき帰つた、Y家の分家の主人が「あまり三ヶ城山が、月で美しいから、行き戻りましたが、どうしても見せたく思うて来ましたよ」といふ、その景色の様に、キレイな想ひに、飛び起きて、その景色にも人にも打たれましたよ。
水車の米を搗く音を聞き乍ら、いつ寝ついたのか、子供の様に眠つて尽しましたよ。
話はさきにもどりましてね。
昨夜は、「シヨースケサン。」
今朝は、裏の宗匠です。家を発つてから、叶つた御点前の御茶を受けましたよ。
床は、寒山拾得図です。
馬谿写と署名してゐましたが、「バカゲタモンです」といふ大亭主振りでシヤレたあいさつでした。
静かな、唐画の灼き詰めたもので時代も深く、サビたものでした。
三畳台目の席に広蓋の古芦屋でせうか、よい沸音(にいね)を立て湯加減も頃合ひでした。
出された菓器を拝見して、よい一服を重服を乞うて許された、茶?は、この前ここに御邪魔した時、志功の釘彫りしたものを、自窯でヤイタものを御馳走に出してくださつたのでした。
御亭主の、こころもちを泌々して、清い瀬音に身心を洗はれた、朝の茶前は有難かつたでしたよ。
午後4時の急行バスが、発つまえに、この想ひ、おもひの津山をからみ、その女をからみ、お友達をからんだりして、この話を書きましたよ。
文にも、噺にもなつてゐませんが、まあ鶴山城の真下に居られるその女を、悲願の様に立てゝ、灼いて、こがれて、炎えてゐる無作法滅法の志功勝手な振舞を、その女は、おこる事と存じます。思ふ存分おこつていたゞきます。
椿高下のY詩人のところに、これから着いて、その女と会へる、話せる、身を割く様な時間や機があるか、どうか。
話に聞けば、お体を、臥してゐるとか、洩れ聞いてゐます。はるかに、ちかく、こんな言葉はあるか、どうか判りませんが、志功が新しく、つくつて、おからだの全快を祈つて止みません。
無礼者、理不尽者の志功は、この土地の風光をまた美作の人情を、また志功の専門の、板画や絵の事を讃する様、文を書けと言はれたのを、書くも書き、あの女への我儘おもひを臆面もなく、ヌケヅーヅーしく書いたのです。マア正直に言つてその想ひに負け切つたのですよ。これも新聞社に、許していたゞきませうか。
「天衣無縫の文」と、これでも現文壇評論家Y氏に書かれた志功の文ですが、かう負けては駄目ですね。
もう一度みなさんに許していたゞきませうか。
鶴山城、あの大手門の石組の様に、立派で堂々と、さうして優しく清く、男の「組み」を、組みませうか。
――恋しき君の為ならば、どんな踊でもおどりませう 胸のかざりも上げませう 生命もろとも上げませう ――歌劇カルメンの和訳の内より―― 昭和25、3、5、記 棟方志功著「板響神」より
「惜訪」
河内長野市といっても、柳井邸は、一つ手前の××駅で下車して、左手の山に掛って、坂を登って可成りの道を畠の中に這入って行くのだった。
『随分、静かな所だナ』わたくしは、チャコにそう言ったら、柳井氏は、『これでも家があると思えば近いです』『これじゃ、買物が、大変だから、愛子さんが難儀だろうナ』わたくしは柄にもなく、同情を言ったら、チャコも、『ホントにネ。これじゃ、思うたより田舎ネ』『どうだろう、上斎原とは』『上斎原は、街ですよ。ここでは郵便局まで小半里もあるんですから』『ヘイ!』わたくしは驚いて声も出なかった。
そうしている内に天神様だという社になった道に這入った。
鳥居は石の立派なものだった。その鳥居の上に、一杯に石があがってあった。『入学試験のマジナイだとか、何とか言いまして、よく上手に、あのセマイ上に投上げるんですよ。子供は無我に、石を投げるんでしょうね。よく上げますよ』『天神様は、わたくしは好きだから、拝んで行こう』わたくしは、そう言って賽銭は、チャコが出してくれた。
社を抜けて、本路に来たら、大きな桜の木があって、萬朶と咲いていた。『見事な桜だなァ。これを、今年の花見の積りで観ようヨ』
『愛子が』柳井氏が、そう言っても、わたくしには、判らなかった。チャコは、もう見えて笑顔で、向うから走って来る人に答えていた。近くなって、それが愛子さんだった。
庖丁を持っていたには驚いて、『庖丁とは、驚いたョ』そう言ったら、『アラッ! ほんとうに』そう愛子さんが、庖丁を後ろにしたのだった。
『美加奈は、大阪から帰って来なかったかなァ』『未だに来ません。○○さんが送ってお出ででしょうから』そんな話をしている内にもう門口には、知和伎、伊都伎が、コロコロと出て来た。
『随分、広いんだなァー。これじゃ、大したもんだ。土地も、広いじゃないか……』『そうです。金剛、葛城までが、わたくしの領分ですから、大したものですよ』柳井氏は、威張って見せた。
コギトの肥下氏も、ここまで来る途中の駅からのところに居るそうな話を聞いて、お会いしたかった。あんな、よい方が、矢張り、あの様な、変らないよさで大阪の病院に出ているとの事だった。
肥下氏は、よい方だった。何を、どう思うても肥下氏はよい方だった。お会いしたい。
『柿の木が七本。それから、この松が、見事でしょう』柳井氏は、わたくしが驚かない内に、次々とこの家の周囲から、家に就いてまでを話してくれた。
二軒を一緒に、つないで、玄関を一つ潰した柳井家は、ナカナカの広い家で、わたくしも驚いた。
『この次にも、この次にも部屋があって、まるで迷う様だよ。愛子さん、掃除が大変だろうなあ!』
風呂も、新しく築って広くて気持よかった。
ゴットンゴットンと愛子さんがポンプを押して水を注いでくれてた。
『わたくしは、ぬるまが好きだから、先に貰うかなあー。森本さんにお先だナー』
この柳井氏のお父様が、何度か、足を運んで、この家にしたのを思い出されて泪が出て来た。わたくしは鼻声になって、頃合の湯加減につかりながら、
〜土佐はよいとこ南を受けて、薩摩颪がそよそよと……
柳井氏の得意の唄を、その本場から乗って来た節廻しも、あわれっぽくなって仕舞った。
愛子氏が、懸命の料理に舌鼓を打って、わたくし達は枕を並べたのだった。
美加奈、知和伎、伊都伎の歌声で目をさましたが、今日は雨だった。
柳井夫妻の、自慢の「七本の柿の木」は、雨で若葉が綺麗だ。柿の若葉という程あって、ほんとうに綺麗だった。
『裏流、行薹子の御点前で一服、頂戴するかナ』わたくしは愛子氏にねだった。
朝の御茶も美味しかった。
前にも書いたが、開けない玄関には、鎧兜が、真暗い中にかざられてあった。『槍一筋って看板だかナ』『それ程でもないけれども、マアマアってところです』、柳井氏は、あの重々しいバスの声で、うれしそうだった。
『桜の別れッてのか、昨日、あの満開の桜のところまで、みんなにおくって貰って帰ろうかなア』『いや、僕は、大阪まで参ります』柳井氏は、そう言って淋しがりやのわたくしに力をつけてくれた。『愛子さん、また来る。元気一杯で。ナカナカ絵どころではないけれども、たまには、素描でもする時間を無理に見付ける事だネ。そうする事が、また、いそがしい中の本当のいそがしさが生むいそがしさってのだからネ』わたくしは、自分の柄も無く、そんな事を言った。
『そうなると、いいんだけれども……』
雨は、ますます降って来るので、まあまあ立とうというので、帰りの支度をした。
『わたくしも、そこまで、あの桜の下まで送らせてください』『雨の中に……』『雨だから、参ります』そんな事で一家がおくってくれる事になった。
昨日、何の気もなく横に眺めて上って来た坂中のこの桜も、下りになった坂上から小見下しに見て、矢張り名木の様に、雨に満開に含んで見事だった。
『さあ、ここまで、この桜の花を惜しむ様に別れるって乙なもんだ』わたくしは、口とは別になって、ほんとうに泣いて仕舞い、走る様になった足を止める事出来なくなって、一人先達って仕舞って居たのだった。 棟方志功著「板畫の肌」より
柳井道弘
1922「(大正11)年岡山県上斎原(現鏡野町)に生まれる。1940(昭和15)年上京、萩原朔太郎に師事して明治大学文芸科に入学。朔太郎の紹介で保田與重郎を訪ね、同年棟方志功とも会い、保田・棟方両師は柳井の生涯の師となる。この年、萩原、保田両師を顧問に山川弘至らと同人誌『帰郷者』を発行。卒業を半年くりあげられ1942(昭和17)年10月より現役兵として入隊。以後兵舎から詩文などを冊子『コギト』に発表。終戦後除隊し郷里上斎原で農業に従事しながら、保田らの冊子『祖国』に同人として詩を発表した。1954(昭和29)年、戦中の作品『花鎮頌』(はなしづめうた)を日本芸業院から出版、棟方志功が板刻し巻頭を飾っている。2002(平成14)年春秋詩社から復刻版を刊行する。日本文芸協会、日本現代詩人会、会員。他の著書に詩集『相聞』『声』『むらぎも』『宇宙のもっと深いところから』。小説『運命』。伝記『聖徳太子』『良寛』他。随筆『満天の星身をふるはせて』。

4月中旬。東京では桜が過ぎて新緑の嫩葉(わかば)になっていた。小雨のバラつく雨の日の午後、私は先生の病室で半日を過ごした。
数え年18歳の少年の日から、53歳の今日まで、30数年に及ぶ会い難い知遇を思い、巨大な森林を想わせる先生の芸業のかずかずをあらためて讃仰しながら、私の心はやはり切なくかなしかった。
やがて巴里爾君もやって来て、先生が病院でお描きになった書画に印を捺すことになった。先生は寝台から起き出され、机の前に正座される。巴里爾君が差し出す一枚一枚の書画に目を近づけて、舐めるように検しながら、気に入らぬ作品はその場で引き裂かれ、残った作品一枚一枚について落款の位置を示され、巴里爾君が捺してゆく。やっと終って、立ち上がりかけた先生がよろめかれ、支えようとする私を制して、しばらく両手を寝台の縁に当てて
痩せ細った体を支え、足がしびれてと呟きながら、ゆっくりと寝台に上がって横になられた。
「酒はないかな。柳井に呑ませるといいんだが」呟くような先生のお声であった。「じゃ、僕が」と、巴里爾君が駆け出して酒を買って来た。
「柳井さん、パパの給食を肴にするといいわ。パパはここの給食が食べられないのよ」奥さんはそう言って、夕餉の支度にかかられる。
次第に夕闇が迫り、巴里爾君は劇団の仕事で出かけた。私は奥さんにすすめられるままに、先生の給食を肴にひとり酒を飲んでいた。すると、寝ていられた先生も起き出され、「わ(私)にも一杯」と盃を出される。先生と盃を挙げ、ふだんは酒をお飲みにならない先生が、ちびちびと酒をお吸いになる姿を見つめながら、私は万感の想いにようやく堪えていた。今生での別盃であった。
「増上寺の鐘が、いまに聞こえるから、聞いてゆくとよい」先生はそう仰言って、またそろそろと寝台に上がってゆかれた。
やがて増上寺の暮六つの鐘が、雨の上がった夕べの空を渡って響いてくる。
私は長い信従の日々を噛みしめるように思いながら、盃を舐め、今生の名残りのような鐘の音を腸(はらわた)に聞いていた。(文・柳井道弘氏)「棟方志功全集 雑華の柵」より

昭和19年春、画家を志して上京。当時、岡山48連隊にいた柳井(現在の主人)の言葉に従い、代々木の棟方先生をお尋ねした。先生は「柳井道弘氏の奥さんになられる方だって」と、奥さんに紹介して下さった。それから、まるで家族のように可愛がっていただき、奥さんはきまって「愛子さん、もうすぐ雑炊ができるから食べて行きなさいよ」と、押し上げポンプのついた井戸を埋め残した食堂で御馳走して下さった。私は何もお持ちするものがないので、勤めていた新宿裏駅に近い淀橋第一小学校の給食用の長い大きなパンを持参した。当時、始業時にでも空襲がはじまると、学校中のパンが残ってどうしようもなかったのだ。先生が御自分でお子さんのために描かれた鯉のぼりをちょうど降ろしていらっしゃる時など、私の抱きかかえたパンの包をごらんになって、「最近子供が、愛子さんの顔が食パンに見えだしたと言っているよ」と、おどけられた。
戦争も次第に熾烈を極め、憂色を深め出した6月中旬、隊にいる柳井から「西太平洋方面行きが決ったから、2日後に結婚式を郷里上斎原で挙げる。棟方先生にかねがねお願いしていた仲人になっていただく件についてお尋ねするように」との知らせがあった。結婚式にのぞむ花嫁でさえ、無用の旅はするべからずというお達しで、なかなか切符を買う許可が下りず、下りても次にその切符がまたなかなか手に入らない時代であったし、もし三人の切符を入手できたとしても、混乱を極めた日本列島を縦断して、はるばる岡山美作の山奥にまで行っていただくことは、到底望めないことであった。先生は、「かねがね用意して置いたこの軸を、棟方と思って式を挙げてほしい」とおっしゃって、“常緑”の軸を手渡された。私はそれをかかえてモンペ姿のまま、無一物で東京を発った。そして、上斎原の柳井の床の間にその“常緑”を掛けさせていただき、簡素ながら無事式を挙げることができた。
終戦後、ようやく落ちついた生活になれて来た昭和42年春、鎌倉山の棟方邸に、棟方先生御夫妻に仲人していただいた者達全員が子供連れで御招待をうけ、奥様手ずからお作り下さった御料理をいただき、数々の記念品まで頂戴した果報者達が御夫妻をかこんだ写真がある。皆々それぞれに仲人していただいた当時を想い、この有難い御恩に感激したことであった。
その時、琴を弾かせていただいた娘は、その後、芸大の恩師のお世話で入手した琴の名器に「野分」と命名していただき、それをそのまま琴に彫り込ませていただき、自分の主宰する琴の会も「野分」と名づけ、先生の御恩をいまだにいただいている。そんな御縁で、娘美加奈の結婚式には、再び仲人をお願いすることができ、親の時には果せなかった御夫婦お揃いの御臨席をいただき、奥様に手を執られ、式場に向う娘の姿をながめながら、親子二代にわたる有難い不思議な御縁に、胸のふさがる思いであった。(文・奥様の柳井愛子さん)「棟方志功全集 雑華の柵」より 
 
二つの御落胤伝説・出口王仁三郎と藤原不比等

 

第一回公判にて
昭和十一年(千九百三十六)、ある裁判が開廷された。それは当時、緊迫していた大陸情勢以上に、日本国民の耳目を集めたさる事件に関するものだった。ところがその第一回公判、裁判官と被告の間では、次のような珍妙なやりとりが行われていたのである。
裁判官「自分は有栖川宮の落胤だというたとのことなるが、それは何時ごろからか」
被告人「私はよく知りませんが、私の祖母がよく母に対して勝手なことをするというて始終いじめておりましたが、母が死ぬ一寸前に母が私に話してくれましたが、母の母親の弟にあたる人が伏見で侠客の大将をしておりましたが、有栖川宮さまがまだ寺におられた頃そこに出入りをしており、また料理屋をもしていたので、伏見にお成りのさいにはよく寄られたとのことでありましたが、また祖母らの話によりますと、母は若い頃は発展家であり、そのため祖父母が母をその叔父の所へ預けたとのことで、そのさいにはお給仕に出たり何かして、それから私ができたというのが母の話であります。母は私にこんなことはおそれ多いからいうなというて隠しておりましたが、母が死ぬころ二、三人にしゃべったらしく、それで広まりました」
裁判官「被告人も人に話したのではないか」
被告人「私は話しませんが、心覚えのために歌で一寸出しておきました」
この被告の名は出口王仁三郎(一八七一〜一九四八)、当時話題の新興宗教・大本の聖師である。この問答は昭和十年に始まる第二次大本弾圧(不敬罪・治安維持法違反容疑)の裁判における一幕である。王仁三郎が有栖川熾仁親王(一八三五〜一八九五)のご落胤だという話は大本の信者の間ではかなり広く噂されていたらしい。王仁三郎自身も多くの歌の中で自らの出生の秘密を暗示しようとしている。たとえば「父君と名乗りもそならぬ運命の綱に曳かれる身こそ悲しき」「惟神奇しき運命たどりつつ世に生まれたる人ぞ地にあり」「ありありとすみきる和知の川水は汚れはてたるひとの世洗う」などである。
ちなみに王仁三郎によると、ヨネは有栖川宮から贈られた菊紋の短刀、短冊、小袖を持っていたが、そのすべては火災で失われてしまったのだという。つまり証拠の品の提出を求められても応じることはできないというわけである。
王仁三郎は公判の場においては、自分から御落胤だと名乗ったことはない、人が勝手に噂するだけで、歌を詠むのも「心覚え」に過ぎないと言い抜け続けた。この人を食ったところが、いかにも王仁三郎らしいとも言えるかも知れない。ちなみにこの第二次弾圧で大本は教団内から発狂者や殉教者さえ出すに至ったが、王仁三郎自身は昭和十七年、不敬罪違反で五年(治安維持法違反は成立せず)の判決を得て、閉廷直後に保釈されている。 
上田家の謎
王仁三郎は明治四年八月二二日、京都府亀岡の一角、穴太村の農民の娘、上田ヨネの長男として生を享けた。父は近所の地主の奉公人から、上田家の婿に迎えられた吉松とされる。伏見の料理屋に奉公していたというのは、このヨネの若き日の話である。
両親は彼を喜三郎と名付けた。王仁三郎の語録の一つ、『玉鏡』によると、そもそも上田家の発祥は大和の藤原氏。信州上田の地に居を構え、上田の姓を称したが、戦乱の内に領地を失い、ついに亀岡まで追われてきたのだという。また、上田家には七代ごとに名を天下にあらわすというジンクスがあり、喜三郎は祖先の一人、上田主水こと円山応挙(江戸時代の画家、一七三三〜一七九五)から数えて七代目だということで、彼の祖父などは大いに期待をかけていたともいう。ちなみに彼の祖母ウノは、国学者・中村孝道の妹で、喜三郎は幼い頃より、祖母から言霊学の手ほどきを受けたという話もある。
自らの出自について、王仁三郎はまた奇妙な暗示をも与えている。
「蒙古とは古の高麗の国のことである。百済の国というのは今の満州で、新羅、任那の両国を合したものが今の朝鮮の地である。これを三韓というたので、今の朝鮮を三韓だと思うのはまちがいである。玄界灘には散島があって、それをたどりつつ小さな船で日本から渡ったものである。義経はこの道をとらないで北海道から渡ったのであるが、蒙古では成吉斯汗と名乗って皇帝の位についた。(中略)また成吉斯汗の子孫母につれられて日本に渡り、五十四歳のとき蒙古に帰りきたって滅びゆかんとする故国を救う、という予言もある。わたしの入蒙はちょうどその年すなわち五十四歳にあたり、また成吉斯汗起兵後六百六十六年目に当たっているのである。かるがゆえに蒙古人は私を成吉斯汗すなわち義経の再来だと信じきったのである」(『月鏡』)
すなわちモンゴル人から見た王仁三郎は、亀岡の農民の子でも、有栖川宮の御落胤でもなく、故あって日本で育てられた義経=チンギス・ハンの子孫(と目される人物)だったということになる。王仁三郎はその予言の正否については言葉を濁しているが、彼が大正十三年(一九二四)のモンゴル行において、源日出雄、素尊汗などの変名を使ったところを見ると、けっこう本人もその気になっていたのかも知れない。この変名の「源」姓は源義経に由来し、「汗」の称号はモンゴルの王号でチンギス・ハンの「ハン」にあたるのだ(王仁三郎モンゴル行の顛末については拙著『幻想の超古代史』)。
閑話休題、喜三郎は弟妹に似ぬ福々しい顔立ちをしており、また小学校入学以前から読み書きができ、十三歳にして小学校代用教員を務めるなど、幼少時から神童ぶりを示すエピソードにも事欠かかない。これが後年、御落胤説にリアリティを与えることになる。
しかし、喜三郎が生まれた頃、かつては豪農だったという上田家はすっかり零落していた。喜三郎は家の貧しさと生来の反骨の気性から、無頼、侠客の世界に身を投じ、明治三一年には対立するヤクザの一団に袋叩きに合う。ところが喜三郎はその朦朧とした意識の中で神秘体験を得て、宗教家としての道を歩み出すのだ。
同じ年に喜三郎は、「艮ノ金神」なる神がかかったという京都府綾部の老女・出口ナオ(一八三六〜一九一八)と会い、明治三三年元旦にはナオの五女・出口スミの婿として出口家に入る。また、ナオのお筆先には喜三郎のことが「鬼さぶろう」と現れていたことから、この結婚直後、彼は「鬼」を「王仁」と改めて、出口王仁三郎と名乗ることになる。
彼にとって「上田喜三郎」の名は執着の対象とはならなかったのだろうか。 
落胤説は成り立つか
さて、出口王仁三郎の有栖川宮落胤説について、これを事実とする論者もある。たとえば作家・宗教家の十和田龍氏(本名・出口和明)である。
十和田氏によると、皇族である王仁三郎だからこそ、絶対天皇制国家の効果的なパロディを演じることができた。また、彼が皇族だからこそ、国家権力は大本を恐怖し、徹底的な弾圧を加えようとしたというのである。しかし、その論拠はといえば、十和田氏御自身の出自に関連した信仰の域を出ていない(十和田『出口王仁三郎の神の活哲学』お茶の水書房、一九八六、『オニサブロー』新評論、一九八七、他)。
実際には、落胤説はチンギス・ハンの子孫というのと同じくらいに眉つばな話といって良い。ここで有栖川宮こと熾仁親王の事蹟をふりかえってみよう。
熾仁親王は有栖川宮家第九世。幕末には国事御用掛として幕府と対立、攘夷論者を尊王倒幕に走らせる旗手の一人となる。文久三年(一八六三)の禁門の変では謹慎処分を受け、うつうつとした日々を過ごす。伏見の料理屋に通いつめることがあったとすれば、この頃だろう。だが、明治元年(一八六八)の王政復古では新政府の総裁に就任。戊辰戦争では東征大総督として倒幕軍の最高指揮官を務め、江戸入城の大功を建てる。さらに会津戦争では会津征討大総督をも兼任した。明治三年には兵部卿に就任、福岡藩知事、元老員議官、同員議長を経て明治十年の西南戦争では征討総督として陸海両軍を指揮し、戦後は陸軍大将に補せられる。明治十八年からは参謀本部長、近衛都督を兼任。明治二二年からは参謀総長に就任。彼は皇族将校として軍事統帥権を掌握し続けることにより、陸海軍の統帥者たる明治天皇の代理をも務めたことになる。
しかし、ここでは単に時期の問題のみについて考えることにしたい。明治元年、政治の世界にふたたび身を投じて以降、数年間、彼は主に東京で、席が暖まる暇もないほどの激務に追われていた。そして、王仁三郎が母の胎内に宿ったはずの時期(明治三年頃)は、この熾仁親王の生涯で最も忙しかったであろう頃にあたっているのだ。これでは伏見の料理屋に通えるはずもない。つまり明治四年八月生まれという王仁三郎の生年からいって、彼が説明するような状況での落胤説は成り立ちようがないのだ。
落胤説はやはり王仁三郎得意のホラ話と見た方がよかろう。十八世紀ドイツの古典『ほら男爵の冒険』によると、語り手ミュンヒハウゼン男爵は、牡蠣が好物だった法皇クレメンス十四世が牡蠣屋の女主人に手をつけて生まれたのだという(岩波文庫版)。洋の東西を問わず、一流のホラ吹きの発想というものは似通っているらしい。 
有栖川宮伝説
しかし、なぜ王仁三郎は自らの落胤伝説を編み出すに当たって、その幻の父に他でもない有栖川熾仁親王を選んだのだろうか。熾仁親王は単に尚武一辺倒の人だったわけではない。彼はまた悲恋の物語の主人公でもある。彼は孝明天皇の皇妹・和宮(親子内親王)の婚約者だったが、周知の如く和宮は幕府老中・安藤信正らや下級公家出身の岩倉具視の画策によって将軍家茂に降嫁したため、この婚約は自然解消となる。
ことあるごとに徳川幕府と対立し、ついに自らの手でそれを滅ぼした熾仁親王の活躍ぶりに、民衆は、彼と和宮との仲を裂いた幕府への怒りを読み取った。
しかも、有栖川宮家そのものも、熾仁親王の後、第十世の威仁親王が大正二年、継嗣を残さずに世を去ったためにそのまま絶えてしまうのだ(その家督を相続させるべく、大正天皇が新たに興したのが現在の高松宮家である)。こうした悲劇性ゆえに有栖川宮家はいくつものロマンチックな伝説を残すことになる。そして、御落胤伝説というのも当事者たちにとってはきわめてロマンチックな話に違いないのである。
松本健一氏は出口王仁三郎の有栖川宮落胤説について、次のように述べる。
「こういう伝説を身にまといつかせることによって、かれは天皇制絶対主義下での宗教的カリスマ性を獲得するのだ。そのさい、その落胤伝説の源は、近衛でも西園寺でも三条でも岩倉でもなく、皇女和の宮の悲恋伝説をもつ有栖川熾仁が最適任だったにちがいない。なるほど和の宮との仲を幕府によって引き裂かれた有栖川宮なら、その恋の傷手をいやすべく料理屋の奉公女に手をつけるぐらいのことはあったかもしれないという想像が伝説の受け手の側に働き、それによってその受け手も伝説の作り手に加わることになるのだ」(松本『三島由紀夫亡命伝説』河出書房新社、一九八七年)
ちなみに松本氏によると、三島由紀夫の父親に関しても、有栖川宮家最後の当主、威仁親王の御落胤とする説があるという。三島の本名は平岡公威である。 
荒ぶる神スサノオ
しかし、熾仁親王が王仁三郎の幻の父に選ばれた理由は単に悲恋伝説ばかりでもなさそうである。王仁三郎は自らをスサノオの神統と見なしていた。
「一体素盞嗚尊は大国主命に日本をまかされて、御自分は朝鮮(ソシモリ)の国に天降り給ひ、或ひはコーカス山に降り給ひて亜細亜を平定され治められてゐた。(中略)ゆゑに素盞嗚尊の神業は大亜細亜に在ることを思はねばならぬ。王仁が先年蒙古入りを為したのも、太古の因縁に依るもので、今問題になりつつある亜細亜問題といふものは、自ら天運循環し来る神業の現はれであるといっても良い」(『玉鏡』)
姉アマテラスを悩ませ、天岩屋戸隠れを招いた罪を背負って高天原を逐われたスサノオの神話は貴種流離譚の原形でもある。そして、禁門の変直後、伏見の料理屋に入りびたる熾仁親王の姿には、なにやら神逐らいにあったスサノオを思わせるものもある。そして、その親王の子が認知されることなく、辺地の貧農の子として育ったとあれば、この話はまごうことなき貴種流離譚ではないか。
また、近世の民衆にスサノオのイメージを定着させた作品といえば近松門左衛門作の浄瑠璃『日本振袖初』(享保三年=一七一八初演)だが、その中に現れるスサノオは、ニニギとの恋争いに敗れ、反逆へと追い詰められたとされている。
恋の怨みから荒ぶる神となったスサノオのイメージは和宮を奪われた怒りから幕府を倒した(かのように見える)熾仁親王に容易に重なってしまう。スサノオ=出口王仁三郎とすれば、熾仁親王もまたもう一人の王仁三郎なのだ。
有栖川宮家は国史・国文関係の写本の収集でも知られ、宮家創設以来約三万冊もの蔵書は現在、有栖川宮文庫として高松宮家で管理されている。熾仁親王自身も書家として名を成した人物であった。この有栖川宮家の家風には、学問(正統的なものではなかったが)と芸術を愛し、晩年はひたすら茶器を焼き続けた王仁三郎の一面と通じるものがある。
また、戦後は平和主義者のイメージが強調されがちな王仁三郎だが、彼はまた兵隊ゴッコの好きな軍事オタクとしての一面をも持っていた。二度にわたる大弾圧も、王仁三郎の軍事がらみの発言や活動を真に受けた権力側の防衛反応といって過言ではない。ちなみに大正十年の第一次弾圧ではその検挙理由が不敬罪・新聞紙方違反容疑に過ぎないにも関わらず、当時の新聞報道は「内乱予備の陰謀として告発」「軍人に深い根を下した大本教」「竹槍十万本の陰謀団」「十人生き埋めの秘密あばかる」などと、昨今のオウム関連報道顔負けの毒々しさである。権力側の疑心暗鬼を招くほどの軍隊好きだった王仁三郎が、日本陸軍の創設者であり、明治天皇の軍事上の代理人だった熾仁親王に憧憬を抱かないはずはない。すなわち王仁三郎の多面的なキャラクターのどの方面からいっても、その幻の父にふさわしい人物としてはまさに有栖川熾仁親王しかいなかったというわけだ。
御落胤などというホラ話の好きな教祖とその虚像におびえる国家権力、大本弾圧事件は権力というものの滑稽さを表す戯画である。しかし、弾圧の中で死や精神障害にまで追い込まれた人々にとって、それはあまりにも過酷な戯画であった。 
「くらもちの御子」の謎
『源氏物語』に「物語の出で来始めの祖」と評された『竹取物語』(十世紀頃成立)には、持統〜文武朝の政界をモデルとした個所がある・・・これはすでに江戸時代の国学者たちによって指摘されてきた事実である(田中大秀『竹取物語解』、加納諸平『竹取物語考』等)。
竹取の翁の下で美しく成長したかぐや姫の下には次々と求婚者がやってくる。そこで、かぐや姫はその内の五人、石つくりの御子、くらもちの御子、右大臣あべのみむらじ、大納言大伴のみゆき、中納言石上のまろたり、という面々にそれぞれ得難い宝物の名を示し、それを持ってくるように願う。かくして、この五人の滑稽な、あるいはスリリングな失敗ぶりが物語前半の見せ場となっているのである。
さて、持統〜文武〜元明三代の都となった藤原京(六九四〜七一〇)の政界には、五人の執政がいた。すなわち丹比真人島、阿部朝臣御主人、大伴宿禰御行、石上朝臣麿、藤原朝臣不比等である。この内、阿部朝臣御主人と右大臣あべのみむらじ、大伴宿禰御行と大納言大伴のみゆき、石上朝臣麿と中納言石上のまろたり、がそれぞれ対応することは、姓名の一致から容易に推測できる。
それでは、あとの二人はどうか。彼らの正体について、最初に精緻な考証を加えたのは加納諸平である。まず、丹比真人氏はもと宣化天皇から出た皇族で臣籍に下ったのは天武朝のことだから、島がかつて御子(皇子)と呼ばれていてもおかしくはない。
また、『文徳実録』によると、古制では皇子はその乳母の姓を名乗ったという。そうすると島の父、丹比王は丹比氏出身の乳母に育てられたと思われる。そして、その丹比氏は『新撰姓氏録』によれば、天火明命を祖と仰いでおり、石作氏と同祖同族なのである。
こうなると、くらもちの御子に対応する人物は残り一人、藤原不比等(淡海公 六五九〜七二〇)その人ということになってくる。不比等といえば、中臣鎌足(藤原鎌足 六一四〜六六九)の子であり、後の藤原氏の栄華の基礎を築いた人物である。
『公卿補任』や『尊卑文脈』によると、不比等の母は車持国子君の女、与志古娘となっているから、「くらもち」の名乗りは母方の姓だということになる。ところが、ここで改めて問題となるのが「御子」の方である。不比等は皇子なのだろうか?
実は『竹取物語』の成立時期からさらに下った時代の文献に、その疑問を解消するような伝承を見ることができる。それが藤原不比等=天智天皇皇胤説だ。 
藤原不比等出生の謎
十二世紀成立の歴史物語『大鏡』には、不比等出生の秘密を語る話が記されている。すなわち、天智天皇の信任厚い鎌足は、ある時、すでに懐妊している女御を天皇より賜った。その時、天皇は、「生まれてくる子が男子なら、汝の子となすように。女子なれば我が子となすように」と約束した。かくして生を享けたのが不比等だというのである。
鎌倉時代成立の『帝王編年記』にも、斉明天皇五年(六五九)、皇太子(中大兄皇子、後の天智天皇)が、すでに懐妊している寵妃・御息所車持公の女を鎌足に賜ったという記事が見える。また、『公卿補任』傍注も不比等を「実天智天皇之子云々」とする。
中大兄皇子と中臣鎌足といえば、学問僧・南淵請安の下に通って儒学を学ぶ帰り道で蘇我氏打倒クーデター(乙巳の変)の計画を語り合い、蘇我入鹿暗殺に際しても現場で行動を共にしたという仲である。天智天皇はその終生変わらぬ忠誠を愛し、鎌足の死(六六九)の直前、東宮皇太弟(大海人皇子、後の天武天皇)をつかわして、大織冠と大臣の位、そして藤原氏の姓を授けたという(『日本書紀』天智天皇八年)。
この二人の関係からいえば、天智から鎌足に寵妃が下賜されるということも、ありえないことではない。
また、実際に天智天皇より、宮廷の女性が下賜されたことを示す傍証もある。藤原鎌足は『万葉集』に二首しか歌を残していないが、その内の一つは次のようなものである。
「吾はもや 安見児得たり 皆人の得がてにすといふ 安見児得たり」(巻二、九五)
これは鎌足が采女の安見児を娶ることができたと喜んでいる歌である。采女は古代宮廷で天皇に近侍した女官であり、地方豪族の娘が貢進されてくるしきたりとなっていた。彼女たちは政治的には地方の中央に対する服属を示す人質だが、神事的には国魂を負うた巫女として、天皇をことほぐ存在でもある。
折口信夫はこの歌について「如何に内大臣鎌足でも、采女を犯すことは、神事上の罪として厳罰を蒙らねばならぬ」以上は理解しがたいとし、この歌が「宮廷の采女を下された時の謝恩しの物」である可能性を示唆して、そこから「藤原不比等落胤説も、此安見児説話を中に置いて、考へるとまんざら価値のないことでもない」としている(「宮廷儀礼の民俗学的考察−采女を中心として−」『折口信夫全集』第十六巻、所収)。
もっとも現在の歴史学者の間では、藤原不比等皇胤説はまったく相手にされていない。それは結局、摂関政治の時代に、藤原氏の血統を権威付け、その栄華の所以を合理的に説明するためにでっちあげられた話にすぎないというわけだ。その上、鎌足の周辺には、より信憑性の高いもう一つの皇胤伝説もあるのだ。 
もう一つの皇胤伝説
一九八七年十一月、京都大学文学部博物館旧館で行われた合同記者会見は全国の古代史ファンの間で大きな話題を呼んだ。同大考古学教室の小野山節教授を中心とするチームの調査で、大阪府の高槻市、茨木市にまたがる阿部山古墳こそ、藤原鎌足の墓であることがほぼ確定したというのである。同古墳は一九三四年四月、すでに京都大学によって、いったん発掘されたが、学内の事情から四カ月後に遺体ごと埋め戻されていた。小野山教授らは五十余年前に収集された資料の再調査から、その結論を得たのだった。
さて、ここで新たにその史料価値を見直されることになった史料に『多武峰縁起』がある。これは藤原鎌足を祭る談山神社(多武峰)の縁起書であり、平安時代初頭の成立とされる。その中にははっきり、「鎌足を摂津の阿威山に葬る」と書かれていたのだ。阿部山古墳の周辺の一帯は古くから「阿威」と呼ばれていた。そのため、発掘当初から、この古墳を鎌足の墓とする説は有力だった。ところが京大考古学教室の梅原末治助教授が報告書の中で、『藤氏家伝』に基づき、鎌足は山科に葬られたはずだと強行に主張したため、鎌足の墓という説は次第にさたやみになってしまったのである。八七年以前では、わずかに梅原猛氏が阿武山古墳をふたたび鎌足の墓として見直すべきだと主張するに止まっていた(梅原「大織冠の謎」『歴史読本』一九七一年八月号)。
こうして見直された『多武峰縁起』だが、それはまた鎌足の長子・定恵(六四三〜六六五)の出生について、次のように述べているのである。
「定恵和尚は中臣連一男、実は天万豊日天皇(孝徳天皇)の皇子なり」
『多武峰略記』にいたっては、孝徳天皇は車持国子の女、車持夫人を寵愛していたが、信任の厚さを示すため、懐妊中の車持夫人をあえて鎌足に賜ったという。そして、その際に、男子ならば鎌足の子、女子ならば皇女と約したと、『大鏡』の不比等出生譚とそっくりな話の展開がなされている。
定恵孝徳皇胤説の方は、不比等皇胤説とちがって、歴史学者にも関心を寄せる人がいる。なぜなら正史たる『日本書紀』に、鎌足と孝徳の妃に関係があったことを示すような記述があるからである。
鎌足は、以前から好意を持っていた軽皇子(後の孝徳天皇)の宮を訪れた。軽皇子は鎌足の志の高さを知り、自らの寵妃・阿部氏に鎌足の身の回りの世話をさせ、すっかり満足せしめた。鎌足は舎人を通じて、軽皇子に「誰か能く天下に王とましまさしめざらむや」と伝え、喜ばせたという。つまり暗に「貴方を皇位につけてさしあげましょう」といったわけである。この記事は皇極天皇三年(六四四)の個所にあるが、実際にはそれより前の事件らしい。同様の話は『藤氏家伝』の「大織冠伝」にもある。そして、実際、乙巳の変のクーデターで発足した大化新政権で皇位についたのは軽皇子だった。
定恵はわずか十一歳にして出家し、さらに遣唐使として異国の空の下に追いやられる。時に白雉四年(六五三)、この年は孝徳天皇と中大兄皇子との対立がはっきりと表面化した年である。中大兄皇子はついに天皇一人を難波京に残し、首都機能を旧都飛鳥に戻してしまった。こうなると、孝徳天皇と鎌足の交友の証である定恵がかえって危険な存在になったということも十分にありうる。
定恵は白村江で唐・新羅連合軍が日本軍を徹底的に破った二年後の天智天皇四年(六六五)に唐から送還され、その直後に死ぬ。若干二十三歳の早逝だった。『藤氏家伝』「定慧伝」は彼が百済人に毒殺されたとしており、なにやら変死を匂わせている。ここから梅原猛氏のように、定恵は父・鎌足によって殺されたとする論者さえある(十年ほど前には鎌足の刺客が定恵を惨殺する場面を出した万葉ものの大河テレビドラマもあった)。
鎌足には男子は二人しかいなかった。定恵と不比等である。それがどちらも皇胤であり、しかもその一方の父が孝徳天皇、一方の父が天智天皇だったとなれば、藤原鎌足こそ、この二人の提携によってなされた大化改新を象徴する人物だったとでもいえようか。
とはいえ、鎌足自身の男子が一人もなかったというのは不自然である。しかも不比等と定恵の母はどちらも車持国子の女と伝承されている。このことから、定恵の出生譚が摂関家の発祥を説明するために脚色され、不比等の伝承になったとする説もある(たとえば笹山晴生『奈良の都』吉川弘文館、一九九二)。しかし、不比等皇胤説の方がまるっきりの眉つばかというと、必ずしもそうとは言い切れないのである。 
不比等の権勢
不比等は自らの女・宮子を文武天皇の夫人となし、さらにその宮子夫人の子を皇位につけて聖武天皇としている。しかも、その聖武天皇はやはり不比等の女である安宿媛(光明子)を皇后としているのである。当時の慣習では、皇族以外から皇后が出ることはありえなかったはずだから、不比等の権勢がいかに大きなものであったかがうかがえる。
また、『東大寺献物帳』には、聖武天皇の遺品にあったという「黒作懸佩刀一口」なるものの説明が記されている。それによると、この刀は元は草壁皇子から不比等に賜られたもので、文武天皇が即位する時に不比等から献じられた。そして、文武天皇が崩じた時にふたたび不比等に返され、不比等の没後は聖武天皇(当時は皇太子)にふたたび献じられたというのである。つまり、この刀は天武直系の男子の皇位継承者と不比等との間をキャッチボールのように往復しており、女帝が立つ時には常に不比等の手中にあったというわけである。このことは不比等がこの時代の女帝(持統・元明・元正)の補佐、あるいは後見人的役割を果たしていたことを暗示している。
不比等には四人の男子があり、その子孫は南家・北家・式家・京家の藤原四家となり、その内、京家を除く三家がそれぞれに権勢を振るうことになる。特に同族間の争いをも最後まで勝ち抜いた北家は後に摂関家となり、その威勢の名残は現在まで続いている。
不比等自身の事蹟としては、『続日本紀』大宝元年(七〇一)の記事には、不比等が刑部親王の下で大宝律令の編纂に携わったことが記されている。また養老二年(七一八)撰の養老律令の実質的撰者が不比等であったことも、『類聚三代格』巻一に収められた「弘仁格式序」や、『政事要略』巻二九にある藤原道長の願文からうかがうことができる。
不比等再評価の気運は一九七〇年代に起こった。哲学者の梅原猛氏と上山春平氏が不比等こそ、律令国家全体のプランナーであり、律令のみならず藤原京と平城京の二度の遷都や、記紀の編纂といった当時の国家的大事業はすべて不比等を中心に行われていたと主張し始めたのである(梅原『水底の歌』集英社、上山『神々の体系』中央公論社、他)。
この梅原・上山両氏の提言は歴史学者、国文学者によっても問題とされ、現在では不比等抜きで七世紀末〜八世紀前半の日本史は語れないという理解が定着しつつある。 
不比等とは何者か
だが、実際には律令の撰定以外に、不比等がいかなる事業を行い、いかにしてその権勢を得たのか、ストレートに語る史料はほとんどない。それどころか藤原氏草創期の歴史を語る一級史料ともいうべき『藤氏家伝』にも、肝心の不比等の伝記が収録されていないという有り様である。そのため、不比等は藤原四家の系図をつなぐための架空の人物だと言い張る論者さえあるほどだ(鹿島f『日本王朝興亡史』新国民社、一九八九年)。
つまり彼の絶大な権勢がどのようにして得られたのか、具体的には判らないということである。実際、不比等ほど日本史の中でも謎に包まれた人物はそうはいない。
藤原氏は中臣氏から出ているわけだが、不比等自身としては自らを中臣氏の一員と考えていなかったふしがある。文武二年(六九八)に発せられた詔勅では、藤原の姓を用いる者は不比等の直系に限り、他の者は旧姓(中臣)に復するよう定められた。そのため中臣氏の人々は政界への進出を阻まれ、本来の職掌である神事に専念せざるを得なくなる。
また、記紀編纂に不比等の意思が反映しているとすれば、その神話伝説の中で不比等が自らに擬した神格・人物は高木神と武内宿禰であろう。前者は天孫降臨の際のアマテラスの補佐にして幼少のニニギの後見人役、後者は神功皇后の補佐にして幼少の応神天皇の後見人役と、その立場は不比等が女帝や皇太子たちに果たした役割とそっくりである。
しかし、この両者はどちらも中臣氏の祖ではない。記紀の神話・伝説に現れる中臣氏の職掌はあくまで祭祀に限定されているのである。つまり記紀の内容は不比等個人には有利であっても、中臣氏全体の利益となるものではないのだ。
あるいは不比等皇胤説は不比等の存命中からすでにささやかれていたのかも知れない。そう考えると、不比等の出世の理由、安宿媛が皇后になれた理由(不比等が皇胤ならその女も「皇族」ということになる)などが説明できる。そして、その異説が『竹取物語』などに跡を留め、後世の私たちをも悩ますことになったのだろうか。真相は藪の中である。 
 
日本人への遺言

 

あの時、米軍を「進駐軍」と呼んだのが大きな過ちだった
日本の歴史教育は、満州事変以後の日本軍の暴走という考え方を戦後ずっと子供たちに植えつけてきた。その結果、あたかも日本が世界に対する侵略国家であるかのような誤った認識が定着した。戦争を知らない世代が政治家や経済人に多くなるにつれ、政治、外交、防衛が旧敵国の圧力で翻弄されるようになってきた。
満州事変以後の「昭和史」に限定して日本の侵略をいい立てる歴史の見方には、一つの政治的意図があった。
日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするというアメリカの占領政策である。自らにとって“都合のいい時代”を抜き出すことで、一方的に日本に戦争の罪を着せようと考えたのだ。
アメリカだけでなくソ連も参加し、特定の期間の歴史を強調した理由はもう一つある。ロシアを含む欧米諸国が400〜500年も前から地球上で起こしてきた侵略の歴史をあいまいにするためだった。
たとえば、イギリスが東インド会社を設立してアジアへの侵略を開始したのは1600年。同じ年、日本では関ケ原の戦いをしており、地球の涯てを犯すという妄想さえなかった。その後イギリスはインドでの覇権を賭けてフランスと戦い、1757年のプラッシーの戦いで勝利する。日本史でいえば本居宣長が生きた時代である。
そこから日本の幕末までの間に英、蘭、仏、露によるアジア侵略はほぼ完了した。1936年時点で、列強の地表面積における支配は、イギリス27%、ソ連16%、フランス9%、アメリカ6・7%で、合計58・7%──じつに地球表面の6割近くをわずか4か国が占領していたというのが歴史的事実だ。日本はそれに対して国をあげてNOといった最初のアジアの国なのだ。アジア解放と自存自衛が大東亜戦争を世界に宣言した目的である。
アメリカは欧米の暗い過去を隠すため、GHQの占領政策のなかでいつの間にか「侵略したのは日本だ」というすり替えを行なった。問題は、このように意図的に仕組まれた占領政策の呪縛から日本がいまだに脱することができていないということだ。
戦後65年経った今も、日本はアメリカに騙され続けている。昔は「英米の侵略」といい、「日本の侵略」という言葉は存在しなかった。それを忘れ気づかない今の日本国民の愚かさは目を覆うばかりだ。いい加減にこの状況から抜け出さない限り、日本という国家はいずれ消滅してしまうだろう。それは、日本人が長い年月をかけて築き上げた歴史と伝統が蹂躙され、「日本人」という“民族”ではなく、外から来て日本に住んでいるだけの“住民”しかいないただの「列島」になってしまうことを意味する。
太平洋戦争は終わっていない
日本人は真実を知る必要がある。大東亜戦争は日本がはじめた戦争では決してないということだ。あくまで欧米諸国によるアジアに対する侵略戦争が先にあって、日本はその脅威に対抗し、防衛出動している間に、ソ連や英米の謀略に巻き込まれたに過ぎない。次に、日本は中国大陸を含め、アジアのどの国も侵略してない。侵略と防衛との関係は複雑である。もしも日本が防衛しなかったら、中国の3分の1と朝鮮半島はロシア領になっていただろう。中国が対日戦勝国だと主張するのは大きな誤りなのだ。
そもそも戦前の中国は国家の体をなしていなかった。清朝の末期から1970年代の文化大革命まで内乱の連続だった。満州事変当時も国民党、共産党のほかに軍閥が跋扈し、いくつもの“政府”があった。日本はそれらの政府の一つと条約を結び、自国の居留民を守るために軍隊を駐留させていた。しかも、その条約ではある時期には中国人を守ってほしいと頼まれてもいた。もちろん英米仏独の各国の軍隊も駐留していた。
日本の駐留基地は盧溝橋事件で中国兵から攻撃を受けた。それは在日米軍基地に日本の自衛隊が攻撃を仕掛けたようなもので、その場合アメリカはこれを侵略とみて日本への宣戦布告の理由にできる。日本が中国兵に応戦したのは当然である。戦争を拡大したのは諸外国の謀略に基づく支援をうけた蒋介石であった。
1945年の敗戦の際にわが国に起こったことは、米軍による「解放」ではなく「占領」である。しかも、米軍は一時的な「占領軍」ではなく1か国による「征服者」だった。アメリカはその後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争と世界各地で戦争を繰り返した。しかし、日本に対してやったような、戦後の社会と政治までをも変更し支配する「征服戦争」は一度もしていない。アメリカにとって日本は初めてのケースであり、その意味で日本の戦争はまだ終わっていない。日本は「大東亜戦争」ではなく「太平洋戦争」という名の新しい戦争を戦後にアメリカから仕掛けられ、今もその戦争は継続している。
征服者を「進駐軍」と呼んでしまったことが大きな過ちだった。連合軍を「国連」と訳し直して(この二つは同じもの)なじみ、敗戦と考えたくなかった日本人は、「終戦」と呼んで経済復興にだけ力を注いだ。この弱さはアメリカと手を携え、反共反ソの思想戦にのめり込んでいった。それが保守と呼ばれた勢力の関心事であり、戦後の保守は親米反共で満足し、真の敵が見えず、自民党の崩壊はその必然の結果である。  
 
私の国際経済学・現代世界経済論研究を振り返って

 

いうまでもなく、大学の存在意義は真理を探究し、真実を語ることです。したがって、学生諸君に語るときには襟を正し、自分が真理だと確証できるもの、あるいは少なくともそう信じていることを率直に話すべきで、疑わしいこと、不確かなこと、わからないことはその旨いって、諸説を紹介するか、自分の考えを留保しておけばよいと思っています。そうでなければ、学生と教師との間の人間的な交流も信頼も、そして何よりも真理愛好精神(フィロソフィ)も育まれないと固く信じているからです。ですから、これから話すことは、自分自身を素材にしなければならないという特異な形をとりますので、出来るだけ客観的に冷静に話そうとは思いますが、そこに多少の誇張やあるいはその反対の過少化があっても割り引いてご理解いただき、いつもの講義と同じく、正確な判断は皆さん方自身に委ねたいと思います。 
1.生い立ち
私は昭和17(1942)年2月25 日に埼玉県入間郡東金子村に生まれたということになっています。というのは、正確なところがわからず、誰も教えてくれなかったからです。母親(実は後に養母であることがわかりましたが)は2月22 日生まれだと私にいい、経歴書にもずっとそのとおり書いてきましたが、戸籍と照合する必要があった折、その間違いを手ひどく指摘されました。運転免許を取りに行ったとき、係官に「自分の生年月日ぐらい正確に覚えておけ」と怒鳴られました。それで自身のことをあまりに知らなさすぎたことに思い至った訳です。のっけからミステリアスな出だしですが、私は生涯に三度、姓が変わりました。最初は「豊泉」、そして幼くして里子に出されて「関下」へ、さらに妻の実家である「朝日」へ養子縁組によって改姓しました。したがって私は姓名には頓着していませんし、誇るべき出自、家系も、自慢すべき学歴も、「幼少より神童の誉れ高い」といった評判がたったこともありません。いたって平凡で目立たない存在でした。というよりも、学校の成績という点でいえば、むしろ劣等生といった方がよいかも知れません。
さて、その後何十年かして、兄弟、姉妹との再会を果たすことになりますが、私は4人兄弟の4番目で、私が生まれて半年後に母親は私を背中におぶったまま息絶えていたのを日が暮れて畑から帰ってきた家族一同が見つけ、電気もつけない暗闇の中で泣き叫んでいる私の声を聞きつけて、あわてて母親の背中から私を抱き上げたそうです。したがって、私は実の母親の記憶が全くありません。乳飲み子を抱えて父親は苦労したそうですが、何せ、父親は4男6女の兄弟の総領で、しかも戦時中のこととて大変な状況だったようです。最初は親戚に里子に出されたのですが、うまくいかず、そのうち子供のいない(実はすでに養子を取っていたのですが、その養子が出征してしまったので、代わりを探していた)関下夫婦の養子になったわけです。
父親の記憶も私にはありませんが、父親は後に一度だけ私を見かけたそうで、それは実母の実家の誰かが亡くなったときに、私も養母に連れられて葬式に出たそうで、その席で父親が見かけて「稔、久しぶりだな」といったら、養母があわてて私を隠してそそくさと姿を消したそうで、「子供をやるんではなかった」と実父が悔やんだとのことを兄弟の誰かから聞きました。
しかし私は父親を恨んだことはありません。むしろその英断に感謝しているといったら、言い過ぎでしょうか。というのは、私のすぐ上の姉は栄養失調で終戦を待たずに亡くなったそうで、私も実家にいたらそうなってもおかしくなかったでしょう。戦後になって父親はこれまた子連れの女性と再婚し、その間に子供が3人できたので、私は実家では7人兄弟の4番目ということになります。ついでにいうと、一番下の妹はフランスに渡って、フランス人と結婚して、2人の男の子をもうけましたが、脳腫瘍で亡くなっています。だから、私の血筋にはフランス人の甥がいることになります。そんなわけで、私の血のつながった兄弟は今、4人が存命です。
そして戦後の生活は悲惨を極めたそうです。元々江戸時代から続いた、この辺一帯の生糸と茶(狭山茶といって、静岡茶、宇治茶、八女茶と並んで全国的に有名な茶の銘柄地です)を栽培し、仲介する有力者だったそうで、ちょうもと(町元あるいは長元とでも書くのでしょうか)と呼ばれていたそうです。来歴はともかく、戦後は土地改革の荒波をもろに受けて、悲惨きわまりない生活だったそうです。おおかたの土地は取り上げられ、小作人もいなくなって茶畑も一家で直接に管理しなければならず、それでは食っていけないので、一家総出でそれこそ月明かりを頼りに耕すといった、赤貧洗うがごとき有様だったようです。そして我が家の没落を加速させたのは、茶の商売を拡張しようとして手形詐欺にあって、大損をしたことです。これは戦後間もなくのことで、新聞にも載ったほどの事件だったそうです。その結果、月明かりで耕すという悲惨な状態に陥ったわけです。父親は後に我が家は三度にわたって没落の過程を歩んできたといっていたそうです。一度目は幕末の開港期に大量の外国産生糸が入るようになって、生糸相場が暴落したこと、二度目は戦後の農地改革によって、多くの土地を没収されたこと、そして三度目は手形詐欺です。こんなことを考えると、つくづく運のない、また時流を見通せない、世渡り下手な一家だったような気がします。そんなことですから、継母との折り合いが悪かったこともあって、兄や姉たちは学校もろくろく出ないうちから働きに行くといった有様で、早くから独立せざるを得なかったようです。そうすると、私が里子に出されたのは、結果的かも知れませんが、賢明な選択だったかも知れません。なお、再婚後に生まれた妹、弟たちはみんな大学教育を受けていますから、姉や兄たちが家を出て行った後は生活は上向きになったのでしょう。
ところで、私はいろんな名前を名乗ることが好きで、いくつも名前を持っています。俳号は「疎水庵尋水」とつけましたが、これは西園寺公望の「望山尋水」から取りました。もう一つ川柳を作る際には「角野面読齋」を使っていますが、これは正岡子規から一部借りたものです。
また原稿の催促がくるので、アメリカの俳優ハーベイ・カイテルをもじって、Hanbun Caitelle という名前も自宅のパソコンのところに張ってあります。また今年4月から名古屋の大学で経営学を教えることになりましたので、昨年の秋以来、にわか勉強で経営学の勉強をしていますが、そのノートの裏表紙には、旭山動物園のオランウータンの写真が張ってあります。
それはあまりに知的で聡明そうですばらしいので、それにあやかりたいと思ったからで、そこでAsahiutanという名前を作りました。名前ばかりでなく、縁起も担いでいます。世界中の知恵の神や知者のご利益(りやく)を得たくて、まず文殊菩薩を梵語で書いた(実はそういって売っていたので、それを信じて買ってきたものですが)ペンダントがかかっています。次にミネルヴァのフクロウが置いてあります。インドの象の置物もあります。極めつけは諸葛孔明の誠子書の一節「澹泊明志 寧静致遠」の言葉です。これは56 才過ぎにカナダから帰ってきてからの私の座右の銘になっているので、自己流の翻訳によって全文を紹介しておきましょう。
「無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。学問は静から、才能は学から生まれる。学ぶことで才能は開花する。志がなければ、学問の完成はない。人を見下す気持ちがあっては自分を奮い立たせることが出来ないし、浮わついた気持ちでは本能に流されるだけだ。
歳月が去るのは早く、意志が弱いと、老いた後世間に忘れられるだけだ。その時、みすぼらしい境遇を悲しんだところで取り返しがつこうか」というものです。このことを日頃から実践しているわけではありませんが、そうなりたいと願って努力しています。 
2.小学校時代
1948 年(昭和23 年)4月に小学校に入学しましたが、養家は東京都中野区本郷通りにあり、竹材商から材木商、そして土建屋に成り上がっていった家で、敷地は広く、北後ろ隣にはお寺、東隣には製瓦工場があり、近所一面焼け野原だったということもあって、遊ぶには不自由のない環境で、学校から帰ると、鞄(といっても軍隊の背嚢を修繕したものでしたが)を窓から放り込んで、家に入りもせずそのまま飛び出していって、遊びに夢中になっていました。家には若い住み込みの若い衆が何人もいて、これまた住み込みの女中さんやらなんやらで、それに養父、養母、そして戦後シベリアの捕虜から引き上げてきた、出征していた義兄(実は養父の末弟なのですが)に私を入れると、12、3人ほどの大所帯で、みんないくつもの部屋で雑魚寝状態でした。もちろん、父も母も朝から晩まで汗水垂らして働いていて、学習環境などは全く整っていません。全くのほったらかしです。そこでこれ幸いとばかりに遊びに励んだわけで、勉強に知恵は出ませんが、遊びのための知恵は湯水のごとく湧き出てきて、あらゆる子供遊びに手を出しました。その腕前を披露することが出来ないのが残念ですが、ベイゴマ、メンコ、ビー玉、おはじき、石蹴り、竹馬、コマ廻し、凧揚げ、釘差し、輪投げ、パチンコ、お手玉、トンボ捕り、金魚すくい、虫取り、チャンバラその他、何でもこいです。紙相撲に凝ったり、野球盤ゲームを作ったりしましたが、そのためのボール紙が欲しくて、選挙のポスターをはがしてもってきてしまい、警察から大目玉を食ったことがあります。父親がPTAの副会長をしていた関係もあって、たまに学校の先生から少しは勉強をするように指導してほしいと小言をいわれると、その時ばかりは帰ってきて「勉強しろ」としかられるのですが、こちらも心得たもので、父兄相談があることがわかると、その晩はさっさと晩飯を食って早めに寝てしまうか、親父がしびれをきらして酒を飲んで酔っぱらうまで家に帰らずにいるかしてごまかしていました。当時の父権というのは絶対的なもので、親父は長火鉢の向こう側に鎮座して、酒を飲みながら小言を言うのですが、酒の勢いもあってか、時によると金属製の火箸で頭をこつんとたたいたりします。食事中にご飯をこぼしたりすると、行儀が悪いといって、これまた火箸でたたく。痛いものですから、よけたりすると、親に反抗するかといって、今度は二度もこつんとやられるといった有様で、いやはや現在では想像できないくらい、「暴力的」(といっても手を挙げることはなかったですが)で絶対的でした。そういえば、こういうこともありました。男は男らしくしなければならない、たとえ首を切られても泣いてはならないというのが口癖でしたが、「でもとうちゃん、首を切られたら、泣きたくても泣けないよ」と反論すると、屁理屈をいうなと、これまた火箸でこつんとやられました。
また家には職業柄、材木屋や荷主などの同業者はむろんのこと、大工、とび職、左官、経師屋、瓦屋、ガラス屋、土方、その他雑多な職業の人たちが行き来していて、中には全身彫り物だらけの異様な人たちや、顔に切り傷のある(あるいは小指のない人も見かけたような記憶もありますが)人たちがしょっちゅう出入りしていました。自然に大人の、それも猥雑で下品であけすけな世界を知るようになり、その中にどっぷりつかって生活していました。ついでに近所を紹介しますと、道路を挟んだ前はハンコ屋さんで、その隣は戦前は裕福な家だったそうですが、戦争で夫と男手を亡くし、女手一人、日雇い労働者をして二人の娘を育てていた、空き地ばかりの中にバラック建ての小屋風の家のあるものでした。これにはちょっとしたエピソードがあって、夫の出征中、しかも母親もそばにいないときに空襲に遭って、幼い娘二人がとっさに近所の防空壕に飛び込もうとしたところ、中はすでに一杯で、入ることを断られたそうです。そこで仕方なく、外の水道の蛇口の下で水を出しっぱなしにして小さくうずくまっていたそうですが、何と、断られた防空壕に爆弾が落ちて、中にいた人はあらかた死んだそうで、水道の下でうずくまっていた幼い姉妹は奇跡的に助かったということです。私の母は「そんな不人情なことをするから天罰があたったんだ」といって、当然だという口ぶりで話していました。
ついでに戦争の話をすると、親父は砲兵として徴兵されたのですが、戦地にいく前に国内での訓練中に大砲の下敷きになって肋骨を折り、名誉の負傷ということで除隊になりました。男手が出払ってしまったこともあり、町内会の会長をしていて、自分の家のことは顧みずに町内の防空・防火に奔走していたそうです。そこで空襲警報が鳴ると、母親が私を負ぶって防空壕に逃げるわけですが、我が家にも小さなものがあり、比較的軽度の時にはそこに入りますが、水がいつも張ってあって、冷たい印象がいつまでも私の脳裏に残っています。それよりも忘れられないのは、大空襲の際、母親がかなり離れた崖に横穴をつけた防空壕に避難する途中、転んでしまい、沢山の荷物をもち、私を背負っているものですから、容易に立ち上がれません。
そこで「誰か起こして下さい」と叫ぶのですが、誰も自分のことで精一杯で助けてくれません。
ようやくのこと、防空壕にたどり着いて、中で席を取ってほっとするかしないかして、「泥棒」と母親が叫びました。財布を盗まれたのです。こんな緊急の時に財布を盗むのですから、ひどいものです。もちろん、財布はすぐには見つからず、後になって、外のどこかに中身を抜き取って捨ててあったそうです。この二つのことは私の脳裏深くいつまでも鮮明に残っていました。
今はもう忘れてしまったようにも思えます。幼い日の特別なことへの印象の深さは私の戦争体験として克明に残っていて、自分の記憶力はたいしたものだと長い間思ってきましたが、さて本当にそうだったのか。あるいは母親が折に触れてそのことをいうのを聞いていて、いつの間にか自分の実体験に基づく記憶のように勝手に解釈していたのかも知れません。なお、大空襲の後、焼け跡の壊れていた材木置き場(林場といいますが)を整理していたところ、いい匂いがするので掘ったら、埋めておいたお米が地熱でいい具合に炊きあがっていたというので、近所中にふるまったら大いに感謝されたという、嘘のような本当の話もあります。
さてそこで、周囲のところにまた戻ると、そのまた隣はペンキ屋さんで、そこにも大勢の職人が住み込んでいました。一方、我が家の一角が空いていたので、100 メートルほど北の川向こうにあった遊郭兼待合い(これを二業地と呼んでいましたが、何と何の二業なのかよくわかりませんでした)の芸者置屋の放蕩息子が当時に珍しく、英文科の大卒者だったので、英語力を利用して進駐軍の通訳などをしていましたが、それで貯めた小金を元手に金貸し業(無尽という仲間組織の形を使って)を始めていて、その店舗(といってもバラックでしたが)に貸していました。そこには派手な化粧をしてブラウス、スカート、ハイヒール姿のモダンな(当時はアプレゲールといっていました)若い女性が電話番と帳付けをしていましたが、そのバラックの前には、およそ周囲とは不似合いな派手な外車が停めてあって、羽振りがいいときには相当なものでした。もっとも没落するのも速く、あっという間に店を畳んで逐電してしまいました。風の噂では女優のマネージャーになったとかで、芸者置屋の息子ですから、若い女性を扱うのは手慣れたもんなのでしょう。その金満家の家で、はじめてテレビを見たときのことは今でも鮮明に覚えています。それで、力道山のプロレスや白井義男のボクシングがあると、この家に見せてもらいに行きましたが、白粉の匂いと化粧道具ときらびやかな着物とカツラが鏡台に散乱する甘美な雰囲気の中で、おおよそそれとは違う殺伐とした男の格闘をみるのですから、何ともへんてこりんなものです。そういえば、近所には後にバンタム級の日本チャンピオンになったボクサーが住んでいて、うちの親父がお金の面倒をみたりしていたこともあって、時々遊びに来たりしていて、東洋選手権に挑戦したときには、そこのおじさんに連れられて両国国技館(当時は進駐軍に占領されていて、名称は違っていたはずですが)に初めて生のボクシングの試合を見に行きました。結果は善戦及ばず、フィリピンのチャンピオンに負けてしまい、それが境目で、その後そのボクサーは落ち目になっていきます。チャンピオンベルトを失い、連戦連敗で、最後にはKOされて、ボクサーをやめましたが、何せ長年にわたってパンチをもらい続けたので、すっかりパンチドランカーになってしまい、寝小便はたれるわ、よだれは出すわ、手は痺れるわ、言語不明瞭になるはで、半分廃人になっていたそうです。それに追い打ちをかけたのは、ボクサーをやめて生活が出来ないというので、日頃鍛えた脚力を生かして競輪選手に転向したのですが、今度はレース中に転倒して頭を打ってしまい、更に症状が悪化したのは当然で、その後どうなったかは知りません。
やくざといえば、新宿の女親分というのがいて、その女親分が子分を2−3人連れて我が家に時たまくるのですが、その中の1人の用心棒がどういう訳か、私に愛嬌を振りまいてくれて、すっかり気に入ったらしく盛んに話しかけたり、土産を持ってきたりしました。なんでも良家の坊ちゃんが身を持ち崩したそうで、外見は色白の優男風なんですが、何かの拍子に背中を見せてくれて驚いたんですが、十センチ以上の切り傷を縫った痕があり、また数センチのへこんだ部分がありました。前者は自転車のチエーンをヤスリで尖らして、まるで鎖がまか鞭のようにして振り回されて打たれた痕だそうで、中には傷が複雑すぎて縫うのが難しいものもあるそうです。後者はドスで突かれたもので、何ともすさまじい代物でした。用心棒ですから、暴力沙汰は日常茶飯事で、別荘と称する刑務所には何度も入っていたようです(つまり前科何犯かだったということでしょう)。こんな人々が子供の目には優しいお兄さんなので、悪い人だとか、社会のくずだとかといった印象は持ったことはありませんでした。なお、我が家は警察とも懇意にしていて、これまたしょっちゅう出入りしていました。これには訳があって、材木商が儲かって、現金を沢山持っていたもので、それには比較的近くにあった東大付属高校を国有財産の処分として、買ってくれないかという話があったくらいで、相当な額だったと思います。
残念なことに、土地なんか持っていたって何にもならないと親父はすげなく断ったそうで、全く先見の明のない人間です。買っておけば、その後土地長者になって左うちわで過ごせたかも知れません。当時は土地持ちということを意識する人はあまりなかったらしく、我が家の店舗を兼ねた広い土地は全て戦前からの借地でした。それで、年始になると、親父は私を連れて、その時ばかりはちゃんと着物を着て、風呂敷に包んだ一升もって、近くの地主の家を尋ねていきます。けっして玄関からは入らず、裏木戸をくぐって、勝手口にまわります。そして、出てきた奥方に挨拶した後、私の方を振り向いて、持ってきた一升を差し出すようにいいます(まさか地代を酒一升で済ませていたわけではないでしょうが)。そうすると、その奥方が「お利口さん」とかなんとかいいつつ、「はいお年玉」と紙に包んだ幾ばくかのお金をくれます。それが狙いで親父は私を連れていくわけです。もちろん、帰りには「子供がお足をもっていてもしようがないから」とか何とかいって、私の手からそのお年玉を巻き上げるのはいうまでもありません。商人はけっして偉ぶらず、万事下手にでて、相手を立てて、頭を働かせて利を得るべきだというのが、親父の哲学でした。そこには士農工商的な遺風がまだ残っていて、地主は一番偉いもので、商人は一番下だという考えがあったようです。それが私にはいやで、歴史の授業で士農工商の序列を聞かされたときは、我が家の職業を恨んだものです。
さて話は戻りますが、我が家には現金がたんまりとあることで狙われたんですが、夏に開け放して寝ていて泥棒に入られ、朝起きて、畳に土足の跡がついていて大騒ぎしたことがあります。十数人もの人間の寝ている枕元を徘徊するのですから、大胆な奴です。その時は都電の車掌さんが首からぶら下げている車掌バッグを我が家では代金の受払用に使っていて、それにはたんまり現金が入っていたのですが、それが盗まれました。しかし別の時にもっと凶悪なことが起きました。二人組の恐喝犯が刃物を持って親父を脅して、カネを出せとすごんだんです。
すぐに家中のものが周りを取り囲んだんですが、なにせ匕首を親父の首筋に突きつけているものですから、遠巻きに囲んで固唾をのんで見守る以外にありません。私も机か何かに上って、中の様子を見ていたのですが、そのうち、お金を持った銀行員風の人が二人ほど到着して、親父を離すと同時にお金を受け取るという段取りになったのですが、この二人が実は警察の人で、恐喝犯はまんまとねじ伏せられてしまったということがありました。そんなことから、警察官がしょっちゅう立ち寄って、酒を飲んだりということが必要になったのでしょう(あるいはそういって警察側が知恵をつけたのかも知れません)。また親父が地域の防犯協会の責任者になったりしていて、警察とも懇意でした。その結果、時によると、例のやくざと警察関係者(さすがに制服組ではありませんが)が鉢合わせすることもあり、さぞかし険悪な雰囲気になるかと思いきや、その反対に至極和気あいあいとしているので、子供心にも、どうも変だなという感じを拭えませんでした。後に、我が家のアパートの一つに住んでいて、調子がよいのですが、気弱そうでいながら、それでいてどこか小ずるそうな、建て売り住宅かなにかを手がけている男がいて、奥さんに逃げられて男手一つで子供を育てているとかで、同情を引くのはうまいのですが、どうも実がないなと思っていたら、突然新聞に顔写真が載り、殺人犯で逮捕されてしまいました。兄貴が「そういえば家賃も滞っていたし、金も無心されたが、殺されなくてよかった」と述懐してるのを聞いたことがあります。その時、いかにも強そうで、粗暴な奴が殺人を犯すとは限らないという実感を強く持ちました。
勉強が嫌いで、外で遊ぶのが好きで、遊びの工夫はいつもやっていましたが、あることをきっかけに本を読むようになりました。それは盲腸の手術をした後(そういえば、その時も親父は男は泣くものではないを繰り返していましたが)、予後の回復のために病院に一週間ほど入院することになったからです。なにせ、寝込んだことがないので、退屈で仕方がありません(もっとも、小学校に入学する以前は栄養失調のためか虚弱体質で、また極めて疳の強い、てんかん持ちの子で、額にはいつも青筋が張り、時たまひきつけを起こしたりしたらしく、舌をかむといけいないと母親がとっさに指を差し入れたら、今度はその指がかみ切られる恐れが出てきで、匙と変えたといったこともあったそうです)。病院の院長夫人が退屈でしょうからと少年少女世界文学全集を持ってきてくれて、これを読みなさいと差し出してくれました。それがきっかけで、小説の世界にのめり込むようになったわけです。もっとも、それ以前から漫画はよく読んでいて、『冒険王』とか『譚(探かもしれませんが)海』といった少年雑誌を回し読みしたり、紙芝居をみたりしていました。その頃読んだものはなんといっても手塚治虫で、それから小松崎茂の『砂漠の魔王』のリアルで精緻な絵に感激したり、更に山川惣治の『少年ケニヤ』や『荒野の少年』といったものに引かれていきました。紙芝居はもちろん『黄金バット』です。しかし、母親は自分で買っておきながら、どこからか漫画は子供によくないといってるのを聞きつけると、漫画はダメということになり、押し入れの奥かどこかに隠してしまったりしました。そんなこともあって、漫画の延長から子供向けの冒険小説、そして世界文学全集へとグレイドアップしていくことになりました。もう一つはラジオです。ラジオ全盛の時代で、有名な『新諸国物語』(「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」「オテナの塔」「七つの誓い」など)より前に、「鐘の鳴る丘」という子供向け番組もありましたが、私の脳裏にいつまでも残っているのは、大人向けの滝沢修の「銭形平次」、島田章吾の「鞍馬天狗」、徳川夢声の「三国志」や「宮本武蔵」で、後には森重久弥と加藤道子の「日曜名作座」をよく聞きました。また「新しい道」とか引き揚げ者の消息に関する「尋ね人」のコーナー、さらに「話の泉」や「20 の扉」などのクイズ番組もよく聞きました。ラジオは人間の豊かなイメージ力を育てるのによく、今でも滝沢修の『銭形平次』のあの柔らかな声音が三味線の伴奏とともに忘れられないし、『三国志』は徳川夢声の語りと小沢英太郎のあの野太い声によって、すっかりその虜になりました。それで吉川英治の小説を読んでもっとフアンになり、最後は平凡社の四大奇書シリーズで『西遊記』『水滸伝』とともに原本を読むようになりました。漱石の『心』の解説を読むと、解説者がこの小説に触れたのはラジオの朗読だったといって、その時の感動が終生忘れられないと書いています。さぞかし『心』の朗読はよかっただろうと想像されます。
そんなわけで、私の少年時代は自由奔放に好きなだけ遊んだ記憶があり、勉強とは全く無縁でした。だから小さいときから、勉強を人に教わったという記憶がなく、興味があると、自分で調べたり、考えたりというやり方をとっていて、それは今も変わりません。ですから、私には師というものがいません。師によって導かれたという記憶がないのです。また私は能力を伸ばしていくための、制度化された教育システムというものに乗っかったことがありません。そういうものに出会うと、たちまちうまくいかなくなります。もっとも、父親は無学でもいいと思っていたわけではなく、その反対に商人は読み書き算盤ができなければならないと考え、毎晩のように、夜になると1日のお金の出し入れを計算して帳簿と照らし合わせるのですが、その時、いつも読み上げ算をさせられ、算盤を入れます。ですから、算盤での四則計算や暗算は小さいうちからやらされていました。とはいえ、母親が死んで、大事なものがしまってある行李の中から小学校時代の通信簿が出てきたんですが、それをみたら、盲腸で一週間休んだ以外は皆勤ですが、成績は惨憺たるものでして、これでよく親ががみがみ言わず、少しくらいの説教で済ませていたなとあきれるばかりです。先生の書いた寸評だか、所見だかには、「時々度を過ごした悪ふざけをする」とか、「授業中落ち着きがない」という書き込みがあったりして、先生を手こずらせていたなあという気がします。事実、これはあまり告白したくないことですが、学校ではしょっちゅう立たされていて(悪戯や規律違反や宿題忘れなどで)、近所の人が「今日も立たされていた」と母親にいうもんだから、それもあって、母親はPTAなるものにいったことがなかったのかも知れません。『トム・ソーヤの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』は、実はそうできなかった少年時代を送った大人たちの、半ば羨望の混じったノスタルジーとしての意味も持っていますが、私の場合は本当に正真正銘そうした遊びを満喫した少年時代を送ったものとしての共感があります。もっとも、トム・ソーヤとは違って、私の場合はベッキーというガールフレンドは出てきませんので、今、家で飼っているーというと正確ではないので、同居しているというべきでしょうーダックスフントはベッキーという名前で、何十年ぶりかでトム・ソーヤの気分を満喫しています。 
3.中学・高校時代
ところで、中学生や高校生の時代のことははるかに弱い記憶しか残っていません。成績がどうだこうだということよりも、面白い遊びをしたという思い出がないからです。本当は大事な時代なのですが、無邪気に遊んでばかりいるわけにもいかず、段々と物心がついてきて、将来のことに関する漠然とした不安といったものが出てきたからです。考えてみると、何の取り柄があるわけでもなく、何になりたいといった積極的な希望も持ち合わせていません。強いて言えば、子供時代がそのまま続くことが一番です。もちろん、こつこつ机に向かって地道に努力したという経験もないので、お仕着せの勉強をしようとしてもすぐに飽きてしまい、ぼおーっとしていることが多かったのではないかと思います。ただ、貸本屋にはよく通いました。時代小説や探偵小説、冒険ものといったエンターテイメントものを片っ端から読みあさりました。
もちろん、世界文学全集や日本文学全集もよく読みました。それから、映画です。映画は小学校の頃から好きで、鍋屋横町や中野駅前にある映画館に頻繁に通っていました。私は手塚治虫、チャップリン、松本清張が大好きで、それはそれぞれ小学校、中学校、高等学校の主要な読書と観賞の対象を占めていたようです。
とはいえ、私の心のどこかには、こうしたことに時間をつぶすのは不真面目だとか、不謹慎だとか、あるいは「高等遊民」だとかいう感覚がたえずあって、人間は額に汗して働かなければならないという道徳心のようなものを、知らず知らずのうちに親から教えられていたように思われます。中学生の頃、一夏引きこもって小説ばかり読んでいたら、兄貴から「なんだそんななまっちろい顔をして」をいわれ、ひどく恥ずかしかった覚えがあります。みんなが額に汗して懸命に働いているときに、ひとりそこから外れて遊惰なことにふけっていてはならないといった感覚です。ですから私には、知識で生計を立てるとか、それで社会に貢献するということに対するある種の後ろめたさや恥ずかしさがあって、肉体労働で生きていかなければならないと思うのですが、さて、子供の頃の自由奔放な遊びの時代はともかく、物心ついて段々と大人の体に近づいてくると、肉体に自信が持てなくなってきます。健康にはむろん自信がありますが、肉体的に強壮とはどう見てもいえないので、体を売り物にはどうしても出来ないなというのが、悩みでした。そうかといって、知的な技能や知識、つまりは医者とかエンジニアとか発明家とか自然科学分野の学者のように、「科学」を売り物にする世界は立派な仕事だが、それらの知識がまるでなく、そうかといって小説や絵画などの芸術とか社会分野(社会「科学」という概念は当時の私にはなく、科学といえば、自然科学ばかりだと思っていました)の仕事をするというのは、それが仕事かという思いと、なにかしら後ろめたいと感じていました。いわんやスポーツや映画や芸能となると、それは完全に遊びであって、そんなことを職業にしなければならないのは、世の中のはぐれものがすることで、まっとうな人間のやることではないと考えていたからです。それは子供の頃、まわりにいたやくざめいた人間にどこか生活の匂いが感じられず、まっとうなことをしていないという思いがどこかにあったのでしょう。またボクサーなども一時的にはいいが、年をとると本来の仕事に戻らなくてはいけないとも思っていました。体に彫り物をした人は若いうちは威勢がよくて立派そうで、自らもそれを誇って縁台などでわざわざ裸になってはその偉容(実は異様なのですが)を自慢していましたが、年をとって、体がしぼんできたり、たるんできたりすると、目も当てられない状態になります。しかもそうした人は例外なく長年の不摂生と酒の飲み過ぎで、体が不自由になったり、舌がもつれたりして、なおかつ蓄えもないので、老後に恵まれないことが多かったのを沢山みてきました。
あれもこれもみんな地道でもいいから、まっとうな仕事につかいないからだと考えていました。
自分はああはなりたくないと子供心に強く自覚していました。この点でフーテンの寅さんの映画を沢山みましたが、それぞれに味わい深いのですが、私のみた最高傑作はなんといっても音無美紀子と小沢昭一がでた、テキ屋の末路を描いた『寅次郎紙風船』です。これは寅さん映画ではない、フランスのジャック・フェデやジュリアン・デュヴィヴィエやルネ・クレールの人情もののような味わいを持った逸品です。こうした一見自由奔放で威勢のよい遊び人、渡世人の、実は美しくない、みっともない末路を近くで多く見てきました。そんなこんなで中学・高校生時代を過ごしたので、段々と暗くなっていき、最後には大学受験にも失敗します。うかつなことに入れるものだとばかり思っていたので、行くところがなくなって、浪人生活と言うことになります。私にとって散々な10 代でした。また世情が段々と騒然とし始めてきていました。勉強どころではないといえば、責任転嫁かもしれません。というのは、60 年安保闘争というのは、私が浪人生活を送っていたときで、ゼネストで国鉄が止まった、国会議事堂がデモ隊に取り巻かれ、樺美智子さんが殺された、ハガチー(米特使)が羽田で動けなくなってヘリコプターで救出されたといった出来事をすでに大学に入学していた同級生の口から聞いたり、新聞、テレビの報道で知ったり、実際に見に行ったりしただけで、そこに直接に参加したわけではありません。でも、世の中が何か動いていくような予感、若者が猛烈に前に出て行くような機運は強く感じました。 
4.早稲田大学時代
私は1961 年4月に早稲田大学第一商学部に入学しました。その時のクラスがケ組で(へ組でなくてよかった)、現在でも同窓会を東京で定期的にやっています。時には、温泉旅行にも行くようです。古典芸術の観劇会を催して、その後、有名レストラン巡りをやったりしているようで、優雅なものです。というのは、私は一度も参加したことがないからです。この連中と疎遠になったのは、今に始まったことではありません。最初の頃は一緒に行動していましたが、途中から私の行動パターンが違ってきて、付き合う相手がまるで違うようになったからです。
でもゼミナールの関係では交流は今でもあります。私のゼミナールの指導教授は柳井哲男先生で、残念なことに、早稲田の大学紛争の際に不慮の死を遂げました。この先生には『資本論』の精読を強く薦められたという経緯があり、それでゼミの仲間数人と一緒に『資本論』を読んでいったという、私にとって終生忘れられない思い出がある先生です。その後、その先生筋にあたる町田実教授の下で指導を受けましたが、町田先生は現在でもご壮健で、定期的に同窓会(「町田会」)を開いていて、たまに参加することがあります。大学の校友会館で開くこの会は盛会で、先生の隠然たる力を目の当たりにします。この会が組織されているのには、卒業生が今でも社会、とりわけ企業の中でしっかりと根を下ろした活動をしているというところにありますが、学内に有力なゼミ卒業生の世話人(副学長)のいることも大事な要素だと思います。
ここで面白いのは、重立った人の挨拶の際に必ず「私は慶応は受験していません」とか、「東大にも入ったけど、早稲田にきました」とかいう人がいることです。後者は今では考えられないような話だと思っていたら、私の娘の同級生にプロのマジシャンがいて、東大(法学部?)と早稲田(政経学部政治学科)の両方に受かったのですが、マジックで地方回りをするので、早稲田なら単位を取って卒業できるだろうと考えて後者を選んだということですが、しかし現実は甘くなく、単位不足で早稲田を退学したそうで、親は泣くに泣けなかったのではないかと我が妻も嘆いていました。もう一つ、この集まりでは必ず最後に記念写真を撮るのですが、何しろ多すぎて一回に収まりません。そうすると「優の数が一桁の者まず集まれ」と号令がかかります。成績優秀を卑下し、劣等を誇るような気風です。高級官僚になったり、大会社の社長に収まったりするのは、秀才がすることで、そんなことは早稲田には向かないという矜恃です(その結果、馬鹿ばっか集まっているとして、「馬鹿だ大学」と揶揄する人もいますが)。この二つのことは稚気に等しい振る舞いともとれますが、それが早稲田のアイデンティティだと感じ、それによってシンパシーを感じて集まってくる人もいることを考えると、同窓会の存在意義として、あながち否定できないことかも知れません。それに加えると、早稲田のホームページには卒業生というカテゴリーとは別に「中退者」という欄があり、これも、早稲田出身者には社会へ出て偉くなった奴には中退者が多いという伝説からきているのかもしれません。そういえば、政治家などで偉そうな顔をして早稲田出と称して、我こそは「早稲田精神」の具現者といわんばかりの奴がいますが、その連中、本当に卒業しているのでしょうかね(あんなに単位を取るのが易しかったのに)。
私の大学生活は安保後の挫折感が蔓延している中で始まりました。学生運動は嘘のように潮が引いていて、学生は授業に出て、成績を上げる以外に他に道がないので、とりあえず出ようかという感じでいました。しかしその授業たるものがひどいものが多く、最初、一般教養関係の科目をとらされるのですが、あまりにお粗末だと思ったのか、「日本史」の授業で、平安時代の貴族の婚姻関係のタイプ分類ばかりやっているものだから、学生が立ち上がって、「われわれはこんなことを教わりにきたのではない。もっとしっかり授業してくれ」と抗議し、それでも改まらないので、授業をボイコットしました。また「人類学」では人間の頭部の縦と横の長さの比率を係数化して、白人、アジア人、黒人、そして日本人でそれぞれどう違うかを一覧表にして出し、どういう根拠かを示さずに日本人がもっとも優秀だという、ナチス張りの人種差別論を展開する授業があって、さすがにみんな呆れてしまい、授業をエスケープするようになったのですが、出て行った学生を追って、この教授は4階の大教室から下まで追いかけていき、さらに逃げるのを追って、正門までいったがついに追いつけずに、憤懣やるかたなく、とぼとぼ4階の大教室までようやく立ち戻ったところ、すでに教室には誰もいなかったというエピソードもあります。そんなわけで、勉強は自分でするもの、仲間を募って、一緒にやるものという気風が自ずと湧いてきました。先輩連中もそうしていたわけで、私も仲間と金を出し合って近所に一部屋借りて、そこに集まって勉強会をしたり、喫茶店を朝から半ば占領して一日中議論したり、あるいはインチキサークルを立ち上げて、部室と称するたむろする場所を、学舎の屋根裏や地下室の物置に確保したりして、勝手に勉強していました。だから、私の大学での勉強は教室で、教授から教わったものではなく、仲間内で好き勝手な議論をするなかで育まれたものです。そしてたまに授業に出なければならない時は、心地よい風に当たりながら、居眠りをして過ごしました。こんなことだから、大学紛争の下地はすでに十分すぎるほど作られていて、後はきっかけでした。
私は大学入学とともに、父親を亡くすことになりましたが、これを契機にあれほど繁盛していた家業に次第に翳りが出てくるようになりました。養父母ではありましたが(というよりも、だからこそというべきでしょう)生後1年になるかならないかの時から本当に私のことを可愛がってくれて、父親に関する思い出はたくさんあります。母親の話によると、毎日の仕事が終わるや、親父は私を肩車か何かして、その辺をぶらつくのですが、その後、決まって屋台かなんかの飲み屋で一杯飲むそうですが、その際に私を懐に入れて首だけ出させているのだそうですが、そのうち私が眠ってしまい、親父も疲れとほろ酔いでうとうとしているそうで、その頃を見計らって、夕飯だとお袋が迎えに行って、一緒に帰ってくるという日課だったそうです。
その話を聞いたとき、じーんとくるものがありました。無骨ではあれ、愛情豊かな父性愛が感じられます。頼りにしていた親父ですが、私が高校生の頃から、体調を崩すようになり、手術や予後の療養のため、転地治療などもしましたが、うまくいかず、ついにはかなくなりました。
親父が死んだ後、大学の授業が面白くもないことから、本気で大学をやめて、兄貴と一緒に家業(当時は材木商よりも土建業の方が中心だった)を継ごうとも考え、学校に行かずに手伝っていました。その後、兄貴が自分が家業を継ぐから、おまえは学業に励めということになって、大学に戻ることになったのですが、おかげで一年生の時の単位取得はひどいもので、わずか4単位でした。
兄が商売を手広く展開し、当時高度成長のさなかで拡張戦略を誰もが先を争って展開していました。当初は景気がいい話ばかりが出てきましたが、そのうち、ちょっとした焦げ付きや何やらから始まって、融資の返済に困るようになり、そこで、新興成金の悲しさで、店や自宅やその他の財産を次から次へと抵当に入れ、それでも金繰りが悪く、ついに倒産ということになりました。兄が家に引きこもっていておかしいなと思っていたら、人相の悪い取り立て屋がうろつきまわるようになり、金を返せないなら、女房、子供を売り飛ばすから、かたによこすか、おまえに保険でもかけて消えてもらうかといった、お馴染みの恐喝まがいの事態になりました。
兄は弁護士に任せているから大丈夫だといっていましたが、その弁護士が危ないと直感したので、私の友人の父親が弁護士(この人は人権派の弁護士としてよりも、高名な日本経済の研究者として有名)でしたので、相談に行きました。君には息子が日頃から世話になっているのでということで、一も二もなく引き受けてくれて、債権者と会って、収拾に乗り出してくれました。後にわかったことですが、実際、兄が頼みにしていた弁護士は相手側とぐるになっておおかたの財産を相手側に引き渡そうと手をうっていて、その寸前で食い止めることができたのです。一次抵当権は銀行がすでに持っていて、それに上乗せするように、二次抵当、三次抵当をつけてお金を借りようとすれば、高利で返済条件がきつくなるばかりでなく、その手の金融業者はみんなうさんくさい連中です。我が家の場合は香港系のヤミ金融業者で、配下に暴力団まがいの取り立て、恐喝専門の連中を多数抱えていました。「君のお兄さんはとんでもないやつに金を借りたな」と友人の父親の弁護士はいっていました。これにはちょっとしたハプニングもありまして、このすごみを利かした、映画に出てくるような迫力満点のヤミ金融業者が乗り込んできて、今すぐこれに判を押せば、借金はチャラにしてやってもよい。そうでなければ、どうなっても知らないから覚悟しておけと脅しました。兄はすっかり弱気になっていて、ハンコを押すようなそぶりすら見せていましたが、私は依頼した弁護士先生から絶対にハンコを押すな。弁護士立ち会いの下できちんと話をするから、今日は帰ってくれといえとアドバイスを受けていましたので、そのとおりいい、しばらくは押し問答を繰り返して、連れてきた用心棒が刃物を出すかのような素振りすら見せたので、玄関から出て行かないなら直ちに警察を呼ぶぞと引きませんでした。こんなことは映画やテレビドラマの世界のことだとばかりだと思っていましたが、まさか自分がその当事者になろうなどとは夢にも思わなかったことです。このことがヤマでその後は平穏な話し合いということで事態は経過してきましたが、結局、家屋敷は競売ということになり、それを買い戻してその後もそこに住んでいましたが、それで立ち直ればよかったのですが、さらに何年かして、再び倒産し、今度は本当に家を手放す羽目になりました(当時は私は京都にきていました)。しかも、借金は我が家の財産ばかりでなく、親戚一同から借りまくったものですから、そこにも債権者がうろつき回り、すっかり鼻つまみ者になりさがり、最後は誰も相手にしないようになってしまいました。その後離婚もし、消息不明になり、長い間音信不通になっていましたが、一昨年秋に亡くなったそうで、納骨の際に長い間一緒に暮らしていた女性と、兄との間の息子という人に話を聞きましたが、それによると、いくつかの職業を渡り歩いたが、自宅で倒れてからは入退院を繰り返していて、すっかりやせ細って小さくなり、最後は廃人のようになって亡くなったそうです。いつも体格・腕力自慢だった兄がと思うと哀れになりましたが、むちゃくちゃなことをして周囲に迷惑をかけ続けたことからすれば、それも自業自得かという思いがしないでもありません。納骨が彼ら一家と私だけの寂しいものだったということが、そのことを雄弁に物語っているようです。
大学時代のことを語るには、どうしても学生運動に触れなくてはなりません。きっかけは授業料値上げでしたが、それに端を発して、不正会計、杜撰な経営内容、いくつもの不祥事から、教育内容の水準の低さや反民主主義的な体質まで、さまざまなことが積み重なって、空前の学園紛争が勃発しました。その渦中にいて、さまざまなことに出くわし、また行動してきました。
本当に1年365 日、毎日大学に行き、おおかたは大学内で寝泊まりするか、近所の友人の下宿に泊まるか、友達と借りていた部屋で雑魚寝するかといった生活を何年か送っていました。この中で得た友達と友情は貴重なもので、大学へきた実感と青春の意味、あるいは友情・連帯といったものを心底味わうことができました。ですから、大学入学時のクラス会とも疎遠になり、一時期うつつを抜かしていた麻雀とも手を切り、ひたすら純粋な気持ちで学生運動に邁進したわけです。したがってもしこのことがなければ、あるいは大学への愛着も、友人との心のふれあいも、まわりの多くの人との新たな出会いもなかったでしょう。したがって、私が早稲田大学に特別の愛着を持っているのは、よく引き合いに出される、虚像としての、どこにも現実には存在し得ないような、奇妙でアナクロニスティックな早稲田精神なるものではなく、実際に自分がそこで経験し、悩み、行動する中で育まれ、血肉化した、共通の価値観を共有する連帯精神を基本とするものであって、それは、日本中のどこででも同じような連帯精神が生まれた時代であって、私たちのものもその一つです。その意味では特別視するつもりはありません。
その当時、毎日のように通っていた大学の近くの友人の家のお母さんには、言葉では言い尽くせないほど、本当にお世話になりましたが、数年前に亡くなったと聞いたときには、全身の力が抜けていくのを感じました。それと一緒に自分の青春時代のあの息吹と情熱に満ち溢れた気概を伴った懐かしい思い出も消えてなくなったような気がしたからです。大学の周辺から高田馬場にかけては私にとっては庭先のようなものでした。狭い路地や通路やその行き先をよおく知っていて、どう辿っていけばどこに出るかもわかるのです。またどこの学部にどんな人がいるかも熟知していたつもりです。しかし、大学紛争にはつらい思い出もあります。卒業できなかったり、精神的に落ち込んだり、親から勘当されたりといったことはむろんのこと、醜いことも起きました。こうした中で、私の先生が消息不明になり、懸命な捜索にも拘わらず、1週間くらい後に玉川上水から死体で上がるという事件がおきました。なんとも痛ましい出来事です。これらのことは痛切な痛みを伴う私の青春時代の忘れられない一コマです。それは喫茶店や部室で口角泡を飛ばして議論していたのどかな時代とは様相が一変する、激動と試練の時代の開始でもありました。 
5.京都での大学院生活
その後、紆余曲折の末、私は京都大学の博士課程に入学し、松井清教授とその弟子の小野一一郎教授の指導を受けるようになりましたが、ここでも学園紛争が火を噴いていて、舞台が早稲田から京大に移動したような状態で、これでは何のために入学したかわからない有様でした。
何しろ、大学院のゼミをやっていると、突然、連絡が入ります。すると、先生はまず退去し、私らは指定の場所に集合します。しかし鉄パイプで武装した連中に素手で立ち向かう訳ですから、簡単に蹴散らされてしまいます。一度など、教育学部前で、バリケード封鎖阻止の座り込みをしていたら、鉄パイプで蹴散らされましたが、後でわかったことですが、私は胸と耳横を鉄パイプで突かれたようで、裸になると、みぞおちの上に丸い鉄パイプの跡がくっきりと残り、一月ほど消えなかったことがあります。いずれにせよ、そんな方針ではらちがあかないので、われわれも武装して、バリケード封鎖の解除に取りかかりましたが、なかなか進展せず、膠着状態になり、授業も自然休講の状態が続きました。そんなこんなで、まともに研究した記憶がありません。
しかしながら、合間を縫って自主ゼミを開き、研究交流を続けたことも確かです。そのうち経済研究所の杉本昭七教授が海外留学から帰り、松井先生の家でお会いしたのが気縁で、研究会をやろうと呼びかけていただき、直接投資研究会を立ち上げることになりました。当時、多国籍企業の研究が始まったばかりで、先生は現実過程の分析に大いに意欲を燃やされていて、直接投資や多国籍企業に関する内外の文献を片っ端からといってよいほど、読んでいきました。
集まったメンバーも多く、今でも国際経済学の諸分野で活躍している優秀な研究者が沢山います。この研究会で議論した内容、研究交流を深めた人々、新たな分野を開拓していったこと、それらは貴重な財産です。夏にはみんなで合宿することが定例になり、和気あいあい、けんけんがくがく、丁々発止、その他何でも形容詞はよいんですが、共同研究していきました。その成果はいくつかありますが、たとえば『現代世界経済を捉える』は現在まで続く(第4版まで)ベストセラーです。この研究会では本当に鍛えられ、共同研究の醍醐味を味わいましたし、私たちの認識も格段に深まり、集団としての自信めいたものも得ました。私の生涯にわたる研究仲間の多くも、このときに知り合い、そして深まっていって、徐々に信頼関係が培われていったものです。
京都大学での大学院のゼミナールは、私が経験してきた、講義に期待できないから自分たちで自主的にやろうというのとは違って、基本は先生の研究室での正規のゼミナールです。さすがに先生方は研究にはみな自信を持っていて、テキストを決めて輪読し、討論するという形で、それにたいして適切なコメントと卓越した理論構成、そしてまた深い学識が随所に現れてきます。容赦ない批判や卓抜な発想法、そして例外なく、研究史や文献渉猟に通暁していて、テーマごとにどこまで研究が進んでいるか、どこが未開拓な分野か、どれが論点か、そのためにはどんな文献がどこにあるか、そしてどれが種本になるかなどが直ちにいえるようになっていて、さすがだとの感に打たれると共に、それを苦もなく理解する優秀な院生ばかりなので、圧倒されたこともあります。ああこれが大学院での研究なのかと悟らされたわけです。京都大学は特にそうなのかも知れませんが、独自色や創意工夫に凝り、それを競い合うような側面があります。したがって、研究においても独自色が出ていないと、そんなことをわざわざ研究する必要があるのかと、一蹴されます。そう直裁にいわなくても、明らかにこいつは頭の悪い奴だという冷ややかな態度が窺われて、その冷たさに思わず身震いするといったことが一再ならずあり、迂闊なことはいえなくなって、自然と萎縮するといったこともしばしばです。またその場で直接に研究指導をせずに、テーマは自分で選び、研究したものを見せにいくわけですが、一顧だにされないこともあります。いちいち手を取って教えるといった初歩的な手ほどきはしてくれませんので、論文を書けない奴は大学院にいる資格が元々ないといわんばかりに扱われます。
電話して先生の家を尋ねようにも(というのは、大学の研究室で勉強している先生は、紛争中のこともあってほとんどいなく、自宅で研究しているので)、そんなつまらないことで電話するなと手ひどくやられることもありました(もっともその理由は必ずしも研究の妨害もしくは中断ばかりでなく、夜通し起きていて、午前中は必ず寝ている先生や、テレビの「水戸黄門」や「銭形平次」が見られなくなるので午後八時台の電話には機嫌が悪いという先生もいました)。
私がそうしたアカデミズムの洗礼を受けたことは、長い目で見ると有益でした。学問を安易に考えず、きちんと制度化された中で、常道を踏んで一歩一歩上っていくというやり方を否応なく身につけさせられたのは、結果的には大変よかったことです。若いうちにこうしたことを身につけていないと、後になっては身につきません。そして身につけるには、容赦なく手厳しくすることが効果的です。それでついてこれない奴は駄目だという基本姿勢です。したがって、院生同士の研究評価も手厳しいものでした。そこには自分たちが日本のその分野の最先端を行っているという自負心が先生方にあり、そこからくる自信に溢れていました。そうしたことが院生にはもっと尖鋭にあり、その点から教授陣への批判と評価も容赦なくしていました。この評価に耐えられない先生のところへは院生が行かなくなるので、先生と生徒の間には研究水準を基準にした綱引きとそこからくる緊張関係がありました。元々京大での学園紛争にはこうした閉鎖的なアカデミズムの弊害、つまりは教授の権威主義への反発が強かったのです。
そんなことが私には大いに重荷になり、また励みにもなりました。だから、テーマの選び方、文献渉猟、視点の設定、データ分析、批判対象、論法、精緻な構成と展開などの、研究上必要な基礎的なテクニックはこの時代に必要性を認識し、鍛えられたもので、その後長い間かかって徐々に身につけていったものです。その点で、私の京都での大学院生活は貴重な体験でした。ですから、今でも京大に行くと自然と背筋が伸びるような緊張感と改まった気分になり、この大学で大学院生生活の最後を送れたことを誇りに思う実感が湧いてきます。とはいえ、京都での私の大学院生生活は全体としてはけっして晴れやかなものでも、満足いくものでもありませんでした。大学紛争が一段落ついて、さて本格的に研究しようということになったのですが、私の研究が進みません。それはそれまで抽象的なことをやっていたのですが、それではなかなか頭角が現せないからです。そうかといって、にわかに現実的なもの、実証的なものに転向出来るわけでもありません。それは息苦しいものでした。 
6.山口大学時代
私の京都での大学院生活が実を結ばないところへ持ってきて、指導教官が急死するという事態が起きました。踏んだり蹴ったりです。途方に暮れかかったのですが、かろうじて論文をいくつか作り上げ、それで山口大学で拾ってもらうような形になりましたが、それには鈴木重靖先生が松井ゼミの出身者で、同門だということが大きく影響しています。私は鈴木先生と巡り会えたことをとても感謝しています。山口大学で過ごした8年4ヶ月の間、先生は陰に陽に私を励ましてくれ、ある時には私の生硬な議論をやんわりと批判し、研究の土俵を広げることを助けてくれました。また別の時にはソ連社会主義の官僚主義と計画経済の弊害を手厳しく批判して、社会主義への多様な道の可能性を示唆してくれました。そしてスミス、マルサス、リカード、ミル、ワルラス、マーシャル、ケインズなどの経済学の代表的な古典を丁寧に読んでいったのも、先生との研究会でのことで、これもすぐに役に立つというよりも、長い間の滋養剤のような効き目があります。小野一一郎先生からは「田舎の勉強、都会の昼寝にしかず」と揶揄されましたが、私にはこの田舎ののどかな雰囲気がよく合うのです。そしてこの山口での8年余は動く、学ぶ、遊ぶの三つにつきます。なお、山口大学に採用されたのは1972 年12 月1日ですが、そのときの私の月給が3万6、000 円(?)で12 月5日に辞令をとりに来いといわれたので、出かけていくと、少しですがボーナスが出ていますといって、ボーナスまでもらいました。それで帰りは山陰側を回って帰ることにし、温泉に泊まったことを覚えています。
さて第1に組合活動に精を出しました(動く)。日教組大学部の執行委員として中国・四国担当ということになり、この地域内の大学に行くばかりでなく、教研集会や大会、執行委員会、その他の行事にもれなく参加しました。おかげで日本中をしょっちゅう駆け回っているような状況で、新幹線がまだ中国地方までは延びていず、行きは金星に乗り込むと朝には名古屋に着き、そこから東京まで新幹線で、帰りは夕方に東京から名古屋まで新幹線で行って、意識朦朧としながら金星の夜行寝台に乗り込むと朝山口に着くという行程が通常でした。3年間にわたって執行委員を務めましたが、そんなに忙しくしていて、授業はちゃんとやっていたんだろうかと今思うと考えますが、多分していたと思います。それでも、この経験で得たもの、つまり組合に結集する多くの教職員と率直に付き合えたのは、私の生涯にとって忘れられない思い出になっています。会議の運営の仕方、決を採るタイミング、方針への批判、論争の仕方、少数意見のくみ上げ方、会議のメモの取り方と総括の仕方、発言の方法、文書作成、スケジュール作りなど、学生運動時とはひと味違う、洗練されたテクニックを沢山学びました。また、夜の宴会を利用した多数派工作のあれこれも垣間見ることになりました。
第2に研究活動にも精を出したつもりです(学ぶ)。大学の官舎に入っていましたから、朝起きて子供が幼稚園に行くのを見送ってから、大学に行き、昼飯を食べに一度帰り、また学校に行って、晩飯を食べに再度帰り、子供と風呂に入ってから、三度学校に行き、そして夜中に寝に帰るといった状態で、ともかく勉強を満喫しました。この時代は本当によく勉強したと思います。ただし、地方にいると、どうしても刺激がありません。また研究仲間も少ないので、状況に流されはじめると、どんどん怠惰になっていきます。そこで、最低限の目標として、1年に1度学会で報告すること、1年に1本の論文を書くことなどの目標を掲げました。そしてともかく、成果を出すことが一番だと得心し、それに最大の重点を置きました。膨大な研究白地図にまず点を打ち込むこと、そして点が生まれたら、次の点を探すこと、そしてさらにその二つの点を結んで両者の関係を考えること、こうして線が出来れば今度はさらにそれを面に広げていくこと、そして面が出来上がれば、今度は立方体にしていくこと、そしてこれらを基に建造物を立ち上げるという順序で、研究の蓄積を図りました。最初、いくつかの点を探し出すことが大変ですが、当初はバラバラであった点が、そのうちに線で結ばれるようになり、そうなると、その中の空いている点がわかるようになり、そうして埋めていくと立派な面が出来上がります。こうなればしめたもので、研究が楽しくて仕方がない、至福の時代が到来し、次々と新たな関心とテーマとアイディアが湧いてきて、それこそ寝食を忘れて研究に打ち込むという状態になりました。次に寡作から多作への、研究成果への考え方の切り替えを図りました。
私は若い人の通例に漏れず、当初は寡作でした。成果発表に自信が持てないこともさることながら、材料を基に具体的な成果に仕上げていく技(わざ)が不足していたのです。そのため、研究の蓄積は進んでも、成果の蓄積が伴いません。その結果、過剰蓄積傾向に陥って、益々研究成果が出にくくなり、どうかすると、これまで折角研究したことを途中ですっかり忘れてしまうこともありました。自家撞着に陥っていたわけです。もったいないなと思い、何とかならないものかと考えあぐねましたが、そうだ、適当なところで切り上げて、成果にすればいいんだと、割り切ることに決めたんです。それには成果になるようなテーマに区切ることが大事になります。そこでそのテクニックを身につけることに腐心しました。
このように、目標設定、多作主義への考え方の転換、そして適当に区切るという割り切り方とくると、その次にはそのために何よりも大事なことはテーマ設定です。それには目の付け所を探し、感覚を研ぎすまし、直感力を高めることです。自分なりの視点を探し出すことは研究者の大事な資質ですが、それは自然に生まれるものではなく、絶え間ない努力と日頃からの観察と熟慮から育ちます。たえず考えていることです。そうすると、何かの拍子にアイディアが湧いてきます。そのために小さなメモ帳を持っていて、どこに行くときも、トイレにも枕元にもそれをおいている人がいます。私も自分にあったアイディア帳を作ってそれに書き込むようにしています。そして定期的に取り出し、何度も何度も読み返して、補充し、整理していきます。夢の中で、すばらしいアイディアが浮かんで、速くメモしなければと思うのですが、その時はしっかり覚えているのですが、朝起きるとすっかり忘れていることがよくあります。もったいなと思います。私の研究仲間の一人で、もう亡くなっていますが、彼は夜中になにかひらめいたら、直ちにその道の泰斗で、夜中中起きている大先生に電話して、意見を拝聴するそうですが、そうすると彼女からは「貴方酔っぱらってるでしょう」とまずお小言を頂戴しますが、その後丁寧にコメントしてくれるそうです。それを必死になってメモするんですが、朝になって見直してみると、酔っぱらって書いたものだから、何が書いてあるのか判読できないといってました。こんな横着なことをやってはいけませんが、ひらめきは大事です。これは私の推測ですが、電話を受けた大先生のほうはしらふですので、彼からのヒントをしっかり自分のものにしていたんではないか。それで研究が中断されてもたいして怒りもせずにいたのではないかなどとも考えています。
まあそれはともかく、もっと楽な近道もあります。それは研究動向をたえずフォローしておくことで、そのためには概説書やファクトブック、私の場合なら、アメリカ議会の公聴会で準備される問題別の議論と立法と資料を整理したソースブックが格好です。アメリカの大学ではリーディングスと呼ばれる課題別の、代表的論者のエッセイや本の中からの一部抜粋を編集したものが大繁盛です。中には市販されずに、今風にいえば、海賊版として簡易製本されたものも古本屋などで売っています。これをまず学生は読んで勉強するわけです。もちろん、自分でこれを作ることが一番です。私も貿易、多国籍企業、多国籍銀行、対外援助、技術移転など自分で設定したテーマごとに、論文の収拾と整理をして自家製リーディングないしはソースブック作りを若い頃からおこなってきました。もちろん、日頃から新聞・雑誌によく目を通し、スクラップ帳を作ることも役に立ちます(私は20 代からはじめて40 年以上新聞のスクラップ帳作りをしていますが、実際にそれを見直すというよりは、新聞をスクラップにする過程で大抵は読んで記憶してしまうので、それで捨ててもいいかもしれません)。さらには、論文や資料、本はコピーの力を借りて、必要と思われるものは何でもコピーして、一カ所にまとめて整理していったらよいのですが、それが一般化していないときには、本を二冊買って必要な箇所を切り抜き、糊で貼り付けて整理するという荒療治もやりました。本はノートであり、材料です。
切り抜こうが、線を引こうが、書き込もうが、折ろうが自由です。もったいないなどと考えていたら、研究は進みません。そしてこうした工夫と努力の末、それらの自家製のソースブックの力を借りて、自分のテーマに最短距離と最短時間で届くようにしました。これは年を重ねると、次第に身につくようになります。そしてその仕上げはテーマごとのノートブックを作るようにし、着脱自由で、自由に入れ替えたり、付け加えたりすることが出来るフィラーノートを愛用しています。後に話をしますが、1990 年代からは出来るだけ1頁に見渡せるように、追加部分をテープを使って貼り付ける方式をとるように変えました。折りたたみ式で、開くと全容がわかる仕掛けになっています(これは大きなボードを壁に括り付け、それに全容がわかるように書き込むというやり方で、さらに応用していくことになります)。そしてあるテーマに関する研究をおえ、原稿に仕上げたら、関連した資料や文献など全てをそこにまとめて記載して、ファイルして、表紙に済みの字を書いて棚に並べておきます。そうすると、自分がどれとどれを原稿にしたか、それらの繋がりはどうか、また欠けているものは何かが容易にわかるようになり、またこの論文を書くときにはどういう手順で、どういうソースブックを使い、またどういうデータを分析したか、またその目の付け所や悩んだことなどもわかるようになります。この4色に分けたファイルブックが200 冊以上も後ろの棚に並んでいて、それは自分の研究生活の証にもなり、いつもそれらを見渡しては、研究の進捗状況をチェックし、またしばし満足感に浸っています。この方式は講義用のノート作りにも応用していて、さらにその中に透明のスクラップファイルも収容して、そこには取り出し自由な切り抜きなどを差し挟んだりしています。私はまた、辞書を活用することにもう随分前から心がけています。辞書を二冊買って、テーマごとに切り抜いて整理し直したり、コピーして同様の整理をしたりしてきました。特に新しいテーマを追うときには、最初に必要な基礎知識、基礎概念をきちんと整理し、頭に詰め込んでおくことが大事なので、辞書の効用を最大限活用するようにしています。最後に研究上の仲間を作ることがさらに大事です。私はこれには若い時分から努力を重ね、仲間作りに精を出してきました。大学時代から、仲間で集まって本を読み議論するのが生活の一部になっているので、何とも思いません。遠慮なく言い合える、真剣に討議でき、仲間内のルール(掟)(このことをホブズボームは研究上の相互扶助関係、研究の貸し借りといっています)をしっかりと守れる仲間を作れたことが、私の研究活動を大いに高めてくれました。自分だけの抜け駆けは仲間組織を解体させ、自分を孤立させ、結果的には破滅に導きます。その際、同門とか、同一学派とか変な縄張り意識は取っ払って、出来るだけオープンに、そして自分とは対極にいる人でも頭を低くして教えを請うという謙虚な姿勢が大事です。もちろん、学派的な結束が社会科学分野の学問を進めたことは否めませんが、私のとるところではありません。平気で他流試合をしに行きましたし、年齢や業績や学閥に関わらず、研究組織を作り、また運営してきました。そうしたオープンで民主的で自由闊達な意見交換が大好きで、その中にいると、自然と啓発され、よい研究が出来そうだという自信が湧いてくるのです。ですから、これらをまとめると、よいテーマ、よい議論、よい運営が共同研究の鉄則であり、それが結果的にはよい研究成果に結びつくと確信しています。そしてこうした共同研究の経験を積み、研究者の輪を広げ、それに習熟することをぜひ若いうちに身につけて欲しいものです。話はそれますが、なぜ「都会の昼寝」なのかといえば、たとえば京大などでは優秀な学生や院生が沢山いますから、彼らに課題を与え、報告させ、議論させておけば、教授は半ば昼寝していても、自然に賢くなるわけで、研究の集積効果があるわけです。ですから、大学がその域に達したら、その大学は研究上、一流ということになります。そういえば、私の先生方もよく居眠りしていましたっけ。
さて第3は遊ぶです。京都で忘れていた、あるいはもっと古く、大学時代以来忘れていた(大学時代は山登りを友達としていたが、その後中断し、さらに立命に移って、50 才過ぎてから、夫婦共に健康で長生きしていかなければならないと気づいて、夫婦で山登りを再開し、そんなこんなで日本百名山の六割方は登っています)生活をエンジョイすることです。昼休みにはソフトボールをやり、日曜には日本海に釣りに頻繁に出かけました。のちには釣りクラブでボートまで購入しましたが、それで危うく遭難しそうになった仲間が出てきました。私が子供の頃満喫していたあの遊びの世界です。これは私の中に眠っていた人間性の回復を呼び覚ましたようです。楽しい時代でした。私は、自分が秀才育成スクールでの制度化されたシステムに乗っかったことがなく、またそれが大の苦手だということもあって、こうした田舎の環境で好き放題に自由に研究することがもっとも合っているような気がします。何かしら、生き生きとしてくるのです。発想も豊かになります。京大時代の追われるような圧迫感から解放され、新鮮な気分で問題意識も研ぎ澄まされてきて、ある発想を得ました。それはアメリカの貿易構造をそのもっともオリジナルなデータに基づいて、実証してみたらどうなるかということです。
私は現実問題への転向を志していましたが、なかなか果たせないでいました。多国籍企業の研究を進めながら、その取っ掛かりを掴もうとしましたが、その前提として、アメリカ貿易の解明をしようと思いついたのです。そこで、内地留学の機会が与えられたのをチャンスに、京都でこれに集中しました。幸いにして、内地留学の終了時には何とか目途がつき、山口に帰った後、さらに発展させて、いくつかのまとまった仕事を研究叢書の形で出し(『アメリカ貿易の歴史的傾向』、『アメリカ貿易の戦前構造』、『70 年代のアメリカ貿易』)、さらにそれらを基に最初の単著であり、博士論文にもなった『現代アメリカ貿易分析』を上梓することが出来ました。
これは私の研究の出発点であり、忘れられない思い出を多く含んだものです。
そのことは私に多くのことを教えてくれました。まず、オリジナルなデータを分析する喜びと楽しさです。ファクトファインディングに目を開かされました。暗黙に前提していた固定観念が、データと違うとき、それをどうするか。色々試行錯誤することは、理論そのものを純粋に突き詰めて行くのとはまた違う味わいと、それが解明されたときの目から鱗が落ちたような爽快な気分があります。まさに醍醐味です。多くの前提をおいて、純粋に論理を積み重ねていくことも、詰め将棋のような味わいがあり、捨てがたいことではありますが、これの弱点は現実が見えないことです。経済学という学問そのものが、日常そのものをそのまま投影したものではないので、それでなくても、概念が何を表しているのか、簡単には想像できません。いわんや、いくつもの前提をおいて、がんじがらめにしておいてから、想定された課題を証明していっても、実際何のことか、あるいは何を証明できたのか、多分ごくわずかの人しか理解できないでしょう。しかも、その前提が現実に迫るための必要な作業と想定であれば、つまり現実性をもっていればいいですが、それが非現実的な想定であった場合には、全てが瓦解する危険すらあります。また、証明したことが極めて常識的なことの場合もあります。それは実証研究でも同じことで、直感的にわかっていることを手間暇かけて作業したに過ぎないということも往々にしてあります。「大木削って楊枝一本」と揶揄した人がいましたが、それも宜(むべ)なるかなという思いもあります。しかし直感で感じられたことをデータで証明出来たことはその直感が間違っていないことですから、そこからさらに深く分析していくことが可能ですし、そのための勇気も湧きます。それが研究には大事なのではないでしょうか。またデータの加工や別々のデータを組み合わせて全然別の世界を作り上げることも有意義です。どのデータもわれわれの考えている意図とは違うものであることがほとんどです。それを加工し、改築して、別のもの、自分が証明しようと考えているものに作り変えていくのです。これは本当に楽しいことです。別の世界が出来上がるのですから。そのためには、データ批判と評価をすることが不可欠です。そしてオリジナルなデータの分析を通じて発言することは相手に有無をいわせない効果があります。経済学や社会科学はともすれば見解の違いで済ませる空中戦が多いのですが、それでは学問は発展しません。かみ合った議論をしていくためには共通の土台、共通のデータ、共通の認識が求められます。そしてこの共通の土台で議論するからこそ、われわれの認識の間違いや評価の違いが、あるいは思慮の浅さが白日の下に晒されるわけです。したがって、データの共有性、共通の認識づくり、評価をめぐる議論を通じてお互いを高める努力をしてきました。それは学問や研究を自己満足や勝手な遊び道具にしないための歯止めになり、成算あるものにしていきます。山口を去ることが決まったとき、下のような稚拙な歌を作って、自分の心境を託しましたが、ゼミ生に書道部の学生がいて、それを掛け軸にして送ってくれました。
我が家の家宝にと考えて、床の間に掛けたりしていましたが、いつの間にかなくなっています。残念なことです。
秋雨の一日想う山口の八歳を越えし自立への道
たどり着き振りかえみれば峰々を越えては越えて来つるものかな 
7.立命館時代
さて、このことと前後して、京都の立命館に変わることになりました。朝日に改姓したこともあり、京都へ帰らなければならないと強く思うようになりましたが、なかなか思うに任せません。いくつかの話が出ては消えていきましたが、最後に立命の話が実現しました。当時、「絶命舘」とも「落命舘」とも揶揄され、幾人かの学会の大先輩からは「君には向かない」とか、「もっといいところがあるだろう」といわれましたし、立命の人にも「やめたほうがいいんじゃない」といわれたりしましたが、意を決して、1981 年4月から移ることに決めました。
そして、京都に戻ってから、上記の本をまとめ、教科書として編集した『現代世界経済論』を、そして奥田、向、鶴田の諸氏と共著で『多国籍銀行』をと、続けざまに成果を出すことになりました。特に多国籍銀行はその題名を冠した、我が国で最初の研究書で、大いに取り上げられ、そしてそれがきっかけで日本での多国籍銀行研究が進むようになりました。それ以外にもいくつか出しましたが、1980 年代は私にとって、「黄金の80 年代」ともいうべき実り多き時代になりました。特にアメリカ貿易の実証分析から、日米貿易摩擦の解明へと進めたことは私の研究の新たな領域を開くことになりました。これは、当初日米貿易摩擦は単なる経済発展上の違いからくる摩擦、つまりは調整問題に過ぎないと理解していました。ところが、偶然デスラー(後にワシントンDCで彼の研究室を訪ねることになりますが)の本を読む機会があって、驚愕しました。日米間の政治上の問題でもあったからです。この地味な装丁の本は日本経済新聞社から出版されたものですが、細かな字の二段組みのもので、たいていの人が敬遠してしまうか、読み始めても、途中で断念しそうな代物ですが、私には極めて新鮮でした。そこには私の年来の関心事である日本の対米従属の一端が明確に示されていたからです。そこで経済過程の政治サイクル化を「政治経済論的アプローチ」というアイディアでまとめて、『一橋経済研究』からの依頼論文を書いたところ、色々のところから反応がきました。特に外務省の関係者に取り上げられたことは、自説に確信を与え、それから機械振興協会や通産省の研究プロジェクトへの参加もあって、自動車問題を中心にしてアメリカ議会での議論やOTAのレポートなどを基に分析を重ね、『日米貿易摩擦と食糧問題』『日米通商摩擦の新展開』『競争力強化と対日通商戦略』という、日米貿易摩擦の政治経済学というコンセプトの下に3冊の本を出すことができました。政治経済学という方法は次第にそれ以外の所へも波及して、一大潮流になりましたが、私もそれによって、後に国際関係学部の開設とともに講義科目に「国際政治経済学」という科目を新設してもらい、学生にこの科目をしっかりと教えることが出来るようになったことは大変よかったと思います。学際的な学部における政治と経済との相互作用、相互転化の考えは大事なことなので、それを講義していくことは有意義です。
また、この研究を進めるにあたって私が重宝したのは、アメリカ議会、各省、ITC、GAO、OTA、USTRなどの政府機関の資料を発掘したり、利用したりすることが出来たことです。私は山口大学にいた頃から、アメリカンセンターの資料室に足繁く通い、そこの資料(特に議会資料で、そのためにCISカタログが大事なのですが、これで検索して、マイクロフィッシュから無制限だったコピーをとってきて、家に帰って読み込む)を利用してきましたが、京都に戻ってからは京都のセンターを活用しました。私がアメリカンセンターをもっとも活用した日本人(の一人)ではなかったかと、今でも密かに自負しています。私のいわば書斎、研究資料室のようなもので、だから大学の図書館はほとんど使わなくても済むくらいでした(後にアメリカンセンターとの資料の互換、協力を進めることにこぎつけましたが、残念なことに京都が閉館になってしまい、大阪に行かなければならなくなり、半ば立ち消えになりましたが、閉館の際には大量の図書を寄贈してくれることになったのですが、わたしが本当に欲しいCISは外に出せないからダメだと断られました。これがあれば、私は研究に困ることがないからです)。
こうした資料の宝庫にアクセス出来たことは、その後ワシントンDCのアメリカンユニバーシティに留学するようになってからは、さらに議会図書館や前記の政府機関、さらには議会の公聴会、議員事務所、ロビイスト(業界の外郭団体)の資料、政府資料販売所(GPO)などにまで拡大していきましたが、いささかも戸惑うことなく、容易に入手することが出来ました。
その意味では私のワシントン留学は資料上は実りの多いものでしたが、その資料の多くはまだ開封されずに我が家の書庫に眠っているような状態で、今度、何かの機会に再び研究テーマが設定できる時がきたら、日の目を見るようにしないともったいないと思っています。ついでにいえば、国連資料も大いに活用させてもらいました。そして関電会館から京都新聞にたらい回しにされて、厄介者扱いされていたこの国連寄託図書館を立命館に持ってくることが出来たのは、大変よかったと思います。
その後、1980 年代末から1990 年代にかけては私の研究生活にとっての「失われた10 年」で、行政に専念した時期でもあります。当時、もう二度と再び研究成果を出せないのではないかと深刻に考えたこともありました。これには私自身の油断や多少の自惚れも災いしたように思われます。80 年代の大量の成果刊行によって、人からは「もう出さないでいいよ」とか「これだけで十分だ」とかいう声が聞こえるようになり、それで安心したという部分があったと思います。そのため、少々成果がでなくてもまあいいやと安易に考える気持ちが私の中に芽生えたのでしょう。この油断と安易さが躓きとなり、その後私の研究生活上の深刻な悩みが生まれてきます。まわりでは次々と成果が出るようになり、はじめは忙しいからなどと勝手に理由付けしたり、慰めたり、あるいはもう出さなくても責められないだろうなどと言い訳していましたが、そのうちに本当に研究が出来なくなったのです。悩みは深刻でした。それにも拘わらず、行政上の仕事は多く、ついにはカナダまで行って教えなければならなくなりました。英語で教えること自体が大変な重荷ですが、何とか乗り越えて、それで1998 年春にカナダから帰ってきました。カナダで教えた経験は私にとってよい経験になり、友人も増え、生活もエンジョイしましたが、なんといっても、研究仲間がいないことが最大のネックです。それで、カナダから戻ったら、一念発起して研究に専念しようと固く決意しました(それで最初に読み上げた諸葛孔明の誠子書を座右の銘にしたのです)。これを突破できないなら自分の研究生活は終わりだとまで決意したのです。しかし始めてみると簡単にはいきません。長年のブランクが固まっていて、頭が回らないのです。ともかく頭が固くなっているのを徐々にゆるめ、やめたくなるのをじっと我慢して、リハビリをするように、単調なことを繰り返しながら、毎日少しずつ前に進めることにしました。そのため、書斎も二階から下へ移し、ノートの取り方やこれまで確立してきた、長年にわたる自分流の研究システム全体を見直し、全面的に改めました。その結果、段々となれてきて、やがて研究成果を出せるようになり、それらを積み重ねて、内地留学の機会を得たのを活用して『現代多国籍企業のグローバル構造』を2002 年に出すことが出来たときには正直ホットしました。これで俺も生きながらえたと実感できたからです。それから、共同研究書を3冊、単著を1冊出すことに成功しましたが、それはこの2002 年までの5年間の苦闘があったからです。
1980 年代は私にとって黄金時代であったが、1990 年代は失われた10 年であったといいましたが、それは研究面でのことであって、行政の仕事が負担になりすぎたとか、教育活動を軽視してよいとかという意味ではまったくありません。それどころか、行政の仕事を必要に応じて担うのは自治の観点から大事なことであり、また必要なことでもあり、横暴な小独裁者や気楽なフリーライダーを生まないための歯止めにもなります。また私が自治会活動や組合活動、あるいは学会などの世話役活動をやってきたのは、それらは他人に任せるのではなく、自分たち自身が担っていかなければならないことだと考えたからであって、別段、功利を求めたり、売名のためではありません。それが仲間意識を生み、連帯感を作るのであって、そのことは一緒に仕事をしていく上で極めて大事なことです。しかし学会でこそ最後に会長の仕事を務めましたが、それ以外はどの分野でも私の地位はいずれも地味で目立たない、いわば縁の下の力的なものばかりでした。だから、スポーツの世界にたとえれば、フットボールでいえばサイドラインか、野球でいえばベンチウオーマーかレギュラーの末席といったところですかね。しかし、それが大事だし、そうした自分の役割に満足すらしています。「けっして目立つな。そして汝の仕事を果たせ」。これが私の集団の中で生きていく際の哲学です。小野一一郎先生がいう「人民」そのものであれという教えです。ジョン・フォードの西部劇には必ず正義感の強い、義理人情に厚い、飲んだくれのアイルランド人が出てきますが(駅馬車の御者だったり、軍曹だったり、あるいは医者だったりの役で)、この飲んだくれのアイルランド人にジョン・フォードは自らを仮託し、アメリカのグラスルーツデモクラシーの根源をみているように思えてなりません。彼がハリウッドの赤狩りに抗して、セシル・B・デミルに面と向かって反論したという逸話を読むと、意外な感じもしますが、アメリカにおけるリベラルとはそういうものをいうのかと納得させられたことがあります。
また行政上の仕事を多く務めましたが、それはなるほどハードな仕事であったことは確かですが、そのために研究が出来なかったというつもりはありません。私個人は行政上の仕事が嫌いではありません。むしろ好きな方かも知れません。ただ、日常的な流れに沿って事務的に処理しているだけのことは退屈ですので、できるだけ効率的にしていく努力と共に、一定の方向性をもって展開することを望みます。いずれにせよ、こうした、思うに任せない苦境から私が得た教訓はbeing good in bad times(不遇な時ほど善行に励め)という言葉です。悪いとき、目のでないときは環境に負けずに、自棄(やけ)にならずに、じっと耐えて、時代が好転するのを待つということです。私は大学受験に失敗した後、いくら勉強しても成績が上がらないときがありました。すっかり落ち込んでいたのですが、その時、「目が出ないときがもっとも実力がついているときなんだから、腐らずに前を向いて進め」と忠告されたことがあります。以来、ことあるごとにこの言葉を反芻していたのですが、being good in bad times という言葉(スーパーボールチャンピオンになったワシントン・レッドスキンズのヘッドコーチであるジョー・ギブスの本にある言葉)はそれに符合しています。いってみれば、みっともない生き方はするな、凛としていろ、ということでしょうか。
さらに教育活動に関していえば、これは大学教員としての私の生命線ですので、これまで一貫して力を入れ、また改善に工夫してきたつもりです。特に1990 年代に入って、私の研究面での前進が止まったように感じられた時でも、教育活動はきちんとやるように心がけてきました。私は昔から予習をしないと講義が出来ない質(たち)で、「よい報告、よい講義をするには、よい準備が何よりも大切だ」というのが、第1の鉄則です。準備が出来ると気持ちに余裕が出来、とっさの応用が効くようになります。また学生の反応がわかるので、質問にも答えられる柔軟性がもてます。第2に過剰な準備をしないことです。若い頃には、自信がないので徹夜で準備したりしましたが、その結果、何もかにも講義しなければという気持ちになってしまって強弱がつけられず、やたらと早口になったり、学生の反応を見ずに一方的にしゃべったりして、授業の効果がでないことがしばしばありました。準備のし過ぎに陥らないためには、はじめから90 分の講義を細かく区切って、15 分単位で6節にするといったことが有効です。そのため、この10 年間ぐらいは1回ずつ必ず完結するように講義を組み立てています。第3に、どんなに忙しくしても、直前の15 分を使って、講義のシュミレーションをしてみることです。
今日はこういうテーマで、これとこれをこういう順序で講義するということを、途中のバスの中で、反芻してみることです。その点では講義開始の1時間前や30 分前に控え室で準備のおさらいをしておくことを励行しています。いわばウオームアップでしょうかね。この事前のシュミレーションは応用性があり、行政上の仕事をする際にも、どんなに忙しくても、たとえ15分でも今日の会議の議題、議論の要点、まとめどころなどについて予想しておいて、どこでまとめたら成功かを頭に置いておくと、その場で動顛しないで済みます。第4に、講義の後、必ずその記録をメモしておくことです。どこがよかったか、どこが不満足か、質問への回答はどうであったかなどをメモして、次に生かすようにします。そうすれば、間違った説明や不明瞭、不正確なものを次週に必ず訂正することが出来ます。このことを怠ると、間違いが広がり、試験での答案への正しい評価が出来なくなる恐れがあります。
アメリカは教育システムが発展しているところで、プラグマティズムという言葉も教育活動と結びついて出てきたものです。何かの折にアメリカで教育の心得に関して読んだことがありますが、そうしたら、教師は学生の話をよく聞き、必要な指摘をおこない、一定の方向に導いていくこと、そして学生は先生に師事すること、時間を守ること、自らを高めるために努力することがあげられていました。それ以来、学生と教師のそれぞの3則を私の教育の基本にし、また学生にもいっています。また、信頼(trust)、敬意(respect)、公平(be fair)を基本としている人もいますが、これも大事な考えです。「学んで然る後、足らざるを知る」と、「教えて然る後、及ばざるを知る」という西園寺の額もありますが、私の3則はもっと単純です。そして教育活動を自分の生命線と考えたことは、結果的には私の研究を深めたと考えています。
学生にわかりやすく、適切な言葉で、きちんと講義するためには、自分がしっかりと理解していないといけません。そのために、自分自身の理解度を検証することが出来ます。曖昧な理解のまま講義すると、必ず躓くし、質問もあります。それによって、自らが反省しなければならない気持ちになります。また学生からの思わぬ質問や指摘によって、不十分なところや誤解が判明します。もちろん、非がわれわれ側にあるとは限りません。学生側にあることも多いので、そのあたりのことは西園寺のいうとおり、相互的、双方向的なものです。 
8.永遠に閉じない円環
そこで、終わりが近づいたので、これまでの研究の総括を行うために、私の研究プランを示しておきましょう。私は国際経済学、現代世界経済を研究するにあたって、1覇権国、2対外援助、3貿易、4多国籍企業、5多国籍銀行、6国際通貨、7軍事、8総体、という大雑把なプランをかつて作りましたが、濃淡の違いはあれ、これまで5までのところを研究成果として出したことになります。そして授業もこれを基に構成しています。ともかく、現代世界経済をトータルに掴むことを心がけているからです。しかし研究の進展はいくつかの重要な点でのプランの修正と変更を必要にしています。
まず第1は多国籍企業と多国籍銀行の結合を考えることです。このことは以前から考え、その一部を出してきましたが、私の多国籍企業研究が進んだ結果、企業内国際分業体制とともに、他方では企業間提携も進展してきており、その後者を考える際にはFPI(海外証券投資)や、FDIとFPIのクロス投資を考える必要があります。そのことから、国際生産の面ではなく、国際投資の問題、国際的な資本結合の問題を取り扱う必要があり、それを「多国籍金融コングロマリット」の解明として提起したいと考えています。ここには、サブパートとして(1)国際企業間提携の個別的で詳細な内容の追求、(2)知識資本とその果実としてのグッドウィル、そしてサービス経済化の内容の解明、(3)戦後の景気循環過程とその変遷、特にモノとサービスの関係の推移が入るだろうと考えています。
第2にグローバル経済の進行過程での「世界の工場」中国の出現が先進国、とりわけアメリカの知財立国との関係で突出するようになり、それをスーパーキャピタリズムと名付けました。
それは現代では「世界の工場」中国をはじめ、モノ作りの拠点になる途上国が一種の「グローバル原蓄」を担う役割を果たしていると考えられます。私は原蓄が資本主義の発展に不可欠な役割を果たしてきたと考え、それを歴史的には本源的蓄積→産業資本の本来的蓄積→植民地原蓄→独占資本の蓄積→グローバル原蓄→スーパーキャピタリズムの蓄積という筋道で考えています。そこでこのグルーバル原蓄を現代における世界経済の問題の一部として解明していきたいと考えています。
第3に日米貿易摩擦以来の日米関係の追求をもう一段深めて、全体としての政治経済関係として解明したいと考え、従来から「日米政治経済学」という課題を掲げてきたが、それをぜひ実現したい。特に、イラク派遣をめぐって日本の対米従属は一段と進んできているので、その本質に迫るためには、何としても象徴天皇制の意味と内容を明らかにしなければと考えています。それはまた今後の日本と世界の行方を考える際にも大事です。
そして第4に未来社会への展望です。21 世紀がどんな社会を目指すのか、世界はどうなるか、その理想はどうかなどに関してぜひとも発言しなければならない時がきているからです。ヒエラルキー的でないフラットな組織、相互的で、転化し合う時代、インターディシプリナーとマルチディシプリナリーの違いと社会科学の総合化(政治経済学から社会経済学へ)、企業、経営、人間の欲望とその充足、そして未来社会の見取り図など、私の未来論を作り上げたい。この中には平和と戦争の問題も入るでしょう。
最後に若干の謝辞を申し上げたいと思います。私は多くの先達から折に触れて貴重な助言と適切な指導を受け、また大いにご厚情をいただき、贔屓にしていただきました。これらの支援なしには今日の私はなかったと痛感しています。少し名前をあげさせていただくと、守屋典郎、木下悦二、深町郁弥、宮崎義一、佐藤定幸、奥村茂次、吉信粛、後藤靖、戸木田嘉久、小野一郎、南克巳、二瓶敏、井村喜代子、北原勇、林直道、一ノ瀬秀文、金田重喜、村岡俊三、尾上久雄、小島清、池本清などの諸先生方です。これらの先生方には一言では到底言い尽くせないほどの、研究上、あるいは行政に関わるご支援をいただだきました。厚く御礼申し上げます。
また内田譲吉先生は私と直接には一面識もないのに、私が初期に書いた『現代世界経済論』を激賞していただいたばかりでなく、立命館大学の校友会会長で、その発展に計り知れない貢献を果たされた南海電鉄社長川勝伝さんとご懇意にされ、そこでの定例の勉強会で、私のこの本をテキストにして何度か講義をされたとの手紙をいただき、その後、添え書きのついた詩集までいただきました。身に余る光栄だと感じています。その他に、多くの私の古くからの研究仲間、同僚、先輩、後輩の研究者の皆さんにも大変にお世話になりました。いちいち名前をあげませんが、この場を借りて厚く御礼申しあげます。いずれにせよ、私の研究生活はこれまで幸福だったと実感しています。
また、私は立命館大学ではおよそ卒業生500 人、大学院生70 名、博士号9名を出しました。
それに山口大学時代の100 名ほどを加えると、積み上げた数はかなりなものがあります。特に国際関係学部においては、第1回の卒業生以来、代々の学部卒業生の顔ぶれを見ていると、そのまま学部の発展の歴史でもあり、感無量なものがあります。私が大学院進学を強く勧めないこともあって、直接に大学院に行くよりはほとんどが社会へ出ていったのですが(したがって、院生は学部からの私のゼミ生はごくわずかです)、社会のそれぞれの分野でしっかりした地歩を築き、歩んでいることは喜ばしいことです。基礎演習ゼミナール大会、オープンゼミナール大会、卒業論文の優秀賞、それぞれに我がゼミナール・クラスが奮闘し、確固たる地位を占め続けたのは、私の密かな誇りです。もちろん、私が指導したからではなく、彼らが優秀だったからです。多くの学生がゼミナールに来てくれたのも、ゼミの雰囲気がよく、彼ら先輩からの勧誘がよかったからでしょう。
さてインドでは一生を、学び−働き−遊びという、学→労→遊の順で進み、最後は人生をエンジョイした後、家族に看取られてひっそりと最後を引きとることが理想だと考える見方があるそうです。そしてごくごく一部の人のみが遊をやめて、社会のために自己を捨てて尽くす、聖人の道を進むそうです(ガンジーのように)。それとの比較でいえば、私の場合は、それとは違って、最初に遊がきて、遅れて学に入ったので、学が終了しないうちに労を兼ねるということになりました。したがって、現在でも学と労が平行しており、当分は終了しそうもない様子です。したがって、現役をまだ続けることになります。私は生きてる限りは現役だと考えており、聖人への道はおろか、人生をエンジョイすることも当分は出来そうにもない様子です。
しかし「生きることは働くことだ」といったヴィスコンティの言葉を噛みしめ、60 を過ぎて「まだ学ぶぞ」と叫んだゴヤに見習って、六十にして立つ(六十而立)と柱に刻みつけました。
まだ私の労も学も終わりません。上にあげた課題を達成するために、場所を変えて現役生活を続けたいと考えています。
学生諸君に残すことは、曇りなき目で全体を鳥瞰し、自分が本当に興味あることや課題や目標を見つけたら、それをしつこく追い回すことが大事です。途中で曲がり道をしようが、挫折しようが気にせず、持続性と一貫性を持って追い求めることです。そうしたら、いつか君たちの目の前に、突然、眺望が開けてくることがあるでしょう。「人生はとどのつまりは二つの言葉に集約される。待て、そして希望せよ」(エドモン・ダンテス=モンテクリスト伯)。つまり展望を持って生きていこうということです。
私のモットーは以下の四つのDに集約されます。第1はDialectic(弁証法)、第2はDemocracy(民主主義)、第3はDetemination(決断すること)、そして第4にDirection(方向性をもつこと)です。この最終講義をするにあたって、私は映画『リバティ・バランスを撃った男』(ジョン・フォード)か『熊座の淡き星影』(ビスコンティ)か、または『猿の惑星』のように、あるいは漱石の『心』のように展開していこうと考えました。それは現実があって、それには謎があり、どうしてなのかというテーマ=課題が提示され、それを解いていくと、また次の謎がでてき、それを再びテーマ=課題として提示し、それをまた解くと、さらにそれ自体新しい謎になり、そしてテーマが提示され、こうして何度か解いていくと、それが最初のところへ帰っていき、なぜ、最初のことがあったのかがわかるという構成です。つまり、現在ー過去ー現在の旅を終えると、現在そのものが解き明かされるという構成を持ったもので、現存在ー根拠ー現実性、そして別のものへ、という論理的循環を描くことが私の考える弁証法の極意です。さて私の本日の講義をどう感じられましたか。冒頭で述べた「真実」を伝えられたか、それとも巧妙な「伝説」(=フィクション)の創造であったか、それは皆さんが判断してください。
幾歳も積み重ねたる講壇の塵振り払う今朝の別れか 
 
日本政治史外交と権力

 

北岡伸一(きたおか・しんいち) 1948年生まれ。東京大学法学部卒。現在、東京大学大学院法学政治学研究科教授。2004〜2006年、国連代表部次席大使。著書に『日本陸軍と大陸政策1906-1918年』『清沢洌』『自民党』など。
山崎正和(やまざき・まさかず) 1934年生まれ。京都大学文学部卒。劇作家・評論家。大阪大学名誉教授。現在、LCA大学院大学学長。戯曲に『世阿弥』『オイディプス昇天』、評論に『鴎外闘う家長』『柔らかい個人主義』など。  
1 前史
山崎正和 北岡さんはたいへんご健筆で、先日は『グローバルプレイヤーとしての日本』(NTT出版、2010年12月)という大変おもしろい本を読ませていただきました。またこのたびは、かつて放送大学教材として刊行された同名の著作を原型に著されたという『日本政治史』を拝見いたしました。これは近代日本政治史ですが、大いに同感するところが半分、教えられるところが半分でした。この本の内容に即しながら、周辺を含めていろいろご意見をお聞かせいただきたいと、本日はここにまいりました。本書は、前史になっている日本史といいますか日本政治そのもの、もう少し言えば日本社会の特質から説き起こされ、そして近代に入ります。そのあたりも私は大いに同感すると同時に、感心しました。考えてみればだれでも気がつくはずのことだけれども、意外に気づかれていないところが、たとえば10頁の「崩壊の容易さと統一の容易さ」の項に出てきます。
日本という社会、江戸時代の日本の政治構造が、ある意味で半分は家産制度、半分は封建制度という複雑な構造を持っていたために、崩壊も簡単であったが再統一も簡単であった、と。このあたりの論理にはたいへん感心しました。私自身は、日本史についてはどちらかといえば文化史といいますか、社会史から勉強してきたものですから、若干補足的に言いますと、そもそも日本の思想、イデオロギーになっているさまざまな要素の中で、私は儒教が中国とはかなり異なると見ています。江戸時代以降を論じる方は、よく日本の朱子学の受容、併せて陽明学の受容を強調されるのですが、実はそれ以前の織豊期に、日本の儒教は商業を援護する形に変わっています。安土桃山・江戸前期の儒者に藤原惺窩(せいか)というたいへんな碩学がいて、これが当時の豪商・海外貿易家である角倉了以、角倉素庵という親子の親友でした。この3人でかなりいろいろと学問をしています。
日本の商人の大きな特色は、彼らは単に商売をするだけではなく、学問をし、広義の技術(テクノロジー)にも長けていることです。同時に金融の技術も発達させていました。一つ話題として言えば、「為替」というのは日本語です。漢字は後で当てたもので、もともとは「交す」という動詞から来た日本語なのです。おもしろいのは、了以と惺窩が組んで、安南(現在のヴェトナム中部)の王様と手紙のやり取りをしています。そこでは、貿易をしようというのが日本側の立場なのです。
日本では当時から商人が国際貿易に熱心でしたが、安南の王様は正統的な儒教の信者で、商売などは下賤なことであり、そういうことをするから国際問題が起こるのだと、貿易を断ってきました。それに対して惺窩らが主張したのは、儒教の中には「信」という言葉がある、ということでした。「信」は、儒教の本来の教えではいくつかの徳目の中で下の方なのですが、惺窩らはそれを一番上に持ってきました。互いに「信」さえ共有していれば、何事も起こるはずはない。商売をすれば、互いの国民を富ませることができて、それは「仁」にもつながるではないか、という論法なのです。
このように「信」を拡大解釈したのが日本の儒教の特色で、少し後には鈴木正三という学者が「信」と「忠」を比較して――もちろん武士道は「忠」です――、「忠」より「信」の方が上だと公然と書いています。その論理がおもしろいのです。「忠」といってもそれは取引であり、主人が何かをくれるから、そのお返しに「忠」を尽くすのだ。その点「信」というのは本来無償の行為であり、「信」を伴ってこそ「忠」も意味を持つのだから、「信」の方が上だ、と言うのです。
こういう考え方が、江戸時代を通じて一貫してありました。同時に、商業ないしそれにまつわる小型のマニュファクチュア(工場制手工業)がかなり盛んであって、それが日本の近代化を早めるもう一つの要素だったのではないでしょうか。
北岡伸一 私も、室町時代以来を扱われた山崎さんのご本は割合読んでいまして、たいへん影響を受けています。本書は幕末以後を扱ったものですが、もちろん江戸時代についても、またそれ以前についても勉強しました。日本における儒教の影響力は、限定的かつ変わった形であったと思います。なんといっても儒教では「孝」が最初に来て、それから「忠」です。つまり、特定の人間関係が重視されるということなのです。しかし、おっしゃるとおり日本では「信」が重要で、「信」はすべての人に開かれています。その意味で日本は古くから貿易国家としての素地を持っていたと思います。本書では鎖国についてもふれていますが、鎖国をどうとらえるか。国際的孤立状態というイメージの鎖国には違和感があるにしても、日本には制度としての鎖国はなかったという最近のリビジョニズム(修正主義)にも私は違和感があるのです。
山崎 それも極端論ですね。
北岡 貿易を通じて成熟した国内市場が発展したけれども、これが国外に発展する可能性は充分あったと思います。
山崎 北岡さんの、ペリーの来航(1853年)は日本国内の沿岸貿易に対する脅威であったという見方は、たいへん鋭いと思います。そこでうかがいたいのですが、日本は近代化を行うにあたって、ほとんど外資の世話にはなっていないのですか。
北岡 そうです。
山崎 そこがかねてから私には不思議で、他のアジア諸国やヨーロッパに近い世界では、まずほとんど外資が入ってきて工業を起こし、商売は西洋人が行います。日本の場合、たとえば絹が非常に潤沢に生産されていて、それが初期の輸出品としてたいへん重要でした。日清戦争の戦費は絹によって賄われたなどとよく聞きますが、それほどでないにせよ相当に資本がありました。もちろん金禄公債が出て、明治になって旧武士が受け取ったお金を銀行に預けるという知恵者がいたようですが、それ以外にも日本には資本があったのでしょうか。
北岡 外債積極論者もいることはいました。幕末にはフランスとの提携論があり、フランスからもっとお金を借りて薩長と戦う、という議論もあったのです。これは、いくつかの理由で却下され、基本的に徹底抗戦しないということになりました。しかし、その時には鉱山採掘権や生糸貿易の独占など、相当の担保を要求されています。心理的に非常に大きかったのは、当時、日本からヨーロッパへ行くには途中で中国、インド、エジプトに立ち寄ったということです。そこで、そうしたかつての文明国が、外国から借金をしたばかりに、それをきっかけに外国の支配下に入ったという印象を、当時のエリートたちは強く刻み込んでいるのです。それが、外資導入消極論になった大きな理由ではないかと思います。
山崎 それを見た人たちは、幕臣ですか。
北岡 幕臣も、明治になってからの人たちもそうです。1879(明治12)年にグラント米前大統領が来日した時も、外国借款の危険性を力説しています。
山崎 グラントがですか。
北岡 はい。当時、アメリカは債務国でしたから。外資導入論者は大隈重信であり、福澤諭吉も積極的でした。鉄道の敷設は外資を導入して行いましたが、日本は基本的に外資導入をしないで日露戦争までがんばったのです。それは、たいへん皮肉なことですが、リーダーが武士であり、武士は借款に対してやや消極的であったなど、いろいろな面があると思います。
山崎 しかし国内では、武士は商人からさんざんお金を借りて、いわゆる大名貸しを行っていたわけです。
北岡 まさか、西洋の借款を踏み倒すわけにはいきませんから(笑)。ただ、同じ時期に統一・近代化を始めたイタリアは外資導入に積極的で、経済は圧倒的にフランスなどの支配下に入ってしまいます。なぜ日本が外資導入に消極的であったかといいますと、決定的にはわからない面がありますが、いくつかの理由があります。一つには、他方で秩禄処分を行うなど大胆なことができた。これができなければ、もう外国からお金を借りるしかありません。
山崎 そうですね。
北岡 とにかく秩禄処分そして地租改正を行った。これについては、薩長の中枢が一致したことが大きいと思います。
山崎 そうですよね。たしか渋沢栄一は、絹の価格が低下したのを見て、蚕を燃やして生産量を抑制しています。そういう国際貿易の原始的な取引に長けていたのです。
北岡 商売の論理では、借金を踏み倒してはいけません。江戸時代のしくみは、そうしたビジネス通商の論理と武士の論理の両方が奇妙に組み合わさっているのがポイントで、幕藩体制の最大の欠陥は、商業に対して課税するシステムをつくれなかったということです。
山崎 そうですね。
北岡 低下の一途をたどる農業収入への課税に依存し続け、他は借金して踏み倒すというのでは、財政はもちません。
山崎 そうですね、それはおもしろいことです。指摘いただくまで気がつきませんでしたが、商業に対する課税はなぜできなかったのでしょうか。江戸時代、商人に対しては家の間口で課税しました。ですから、ご存じのように京都では間口の狭い、奥に深い家を造って税を逃れたわけです。
北岡 実は私の母親の実家もそうで、ずうっと奥まであります。
山崎 お宅もそうなのですか。
北岡 そうです。
山崎 それは、考えてみればおもしろいことですね。
北岡 ただ、課税するということは、実は尊敬するということなのです。
山崎 そうです、そうです。
北岡 ですから、西欧では課税するとそこからブルジョワジー(有産市民層)が勃興し、第三身分(etat)になります。
山崎 それはそうです。
北岡 その根っこには、富の蓄積に対する蔑視があったのではないでしょうか。そうでない人も、儒者を含め多数いましたが、根本的な変化はなかったのでしょうね。
山崎 なるほど。私などは、江戸時代の商人は一貫して誇りも高いし、道徳心もあるし、文化的教養も同時代の西洋人よりははるかに高いと思うんですが。
北岡 もちろんそうです。
山崎 そういう武士に対する商人の意気地に着目していたのですが、考えてみれは租税負担はしていなかったのですね。
北岡 それは、かつての堺や博多の商人の方が自立していて、西欧と立派に対抗できる人たちがいました。たとえば、日本が開国したころドイツはまだ統一していませんから、日本と条約を結んだのはドイツではなくプロイセンなのです。プロイセンがドイツ諸邦を代表しており、その中にはハノーヴァーのような都市国家も含まれていました。ドイツには、田中明彦さんの『新しい「中世」』(日本経済新聞社、1996年〈日経ビジネス人文庫、2003年〉)での議論ではありませんが、そのころまでは都市国家もあるし領域国家もあったわけです。ですから明治初期については、私たちはつい英仏だけを考えますが、英仏以外のいろいろな国とも関係があったことを念頭に置く必要があります。
山崎 そういうわけで、特に日本の政権構造がこういう不思議な形を持っていたことが、明治をスムーズに成立させたというところは、たいへん教えられました。
北岡 その中で渋沢栄一は、商人ではなく、広い意味では農民(豪農)です。ただ彼は、自分は孔子の徒であると自認しており、広い意味の儒教は受容しましたが、その儒教は中国のものとはたいへんに違っていたということです。
山崎 違っていたでしょうね。
北岡 何よりも、「忠」と「孝」の関係が全く違うのです。江戸時代は儒教が非常に強い力を持った時代だ、と丸山眞男さんは言っていますが、そんなことはありません。日本における儒教解釈の多様な発展はすごいものだと思います。
山崎 現代の漢学者もよく言うことですが、仏教の中にかなり儒教が入り込んでしまって、私たちにはほとんど区別がつかなくなっています。たとえば墓参りなどは、本来仏教ではありえないものなのです。仏教の教えでは、死ねば第二の生命に移るか、あるいは解脱して本当に仏様になるかのどちらかですから、仏教には先祖などはありません。ところが、儒教の方は先祖崇拝であって、これを上手に接合するとお盆の墓参りなどになってきます。
北岡 中国では実際の血縁によるつながりが決定的に重要ですが、日本はただ続いている形をとっていればいいわけです。
山崎 そのあたりについては、村上泰亮さんと公文俊平さん、佐藤誠三郎さんが『文明としてのイエ社会』(中央公論社、1979年)に書いています。私はあの議論には半分しか賛成ではありませんが、しかし確かにそういう側面はありました。養子を取って跡継ぎにするというやり方です。
北岡 おそらく日本の文化を一色で説明するのはたいへんに困難で、いくつもの多様なものの興味深い組み合わせになると思います。
山崎 それは北岡さんが本書で一貫してご指摘になっていることですね。私は最近書いている文明史の中で、ちょうど北岡さんが西洋について指摘しているような多元性が、日本の中で小さなミニチュアになって実現していたと見ています。中国は中華秩序でアジアは一つだと思っていますが、日本から見ると中国は外国ですから、異質を自覚しながら影響を受けるのです。日本は、はっきり影響だと思って受け容れています。そこが韓国とは違うようで、韓国は影響とはとらえていません。つまり、儒教は正しいものだから自分たちも信じる。清朝の時代になると、韓国では自分たちの方が本物だと思い始めるのです。つまり、儒教は普遍的なものであり、自分たちがそれを引き継いでいる。清朝はたかが満州(現在の中国東北部)の蛮族にすぎず、国は強いけれども自分たちの方が正統だと言うのです。日本人は全くそんなことは言わず、あくまで外国のものだと思っています。
北岡 朝鮮からすれば、高句麗の時代には中国東北部は自国の版図であったと思っていますから、そこから出てきた満州族がつくった清朝について、朝鮮の知識人は非常に悩んだということなのです。
山崎 そうでしょうね。
北岡 その清朝との関係をどうするか。尊敬できないけれども、従わないわけにはいかない。そこから出てきたのが、実は自分たちこそが本当の中華だという意識(ミニ中華意識)なのです。
山崎 そうです。その点、日本は逆でよかったですよね。武力攻撃を受けるには少し日本海が広すぎるし、文化的影響を受けるには充分近いという、おもしろい関係にありました。
北岡 はい。 
2 軍国化への曲がり角
山崎 さてその明治期ですが、明治以後については本当に緻密に説明されていて、これだけの頁数では入りきれないほど内容がよく詰まってるので感心しました。本日は、前史のところと、日本が軍国化していく曲がり角と、もう一つは戦後の終わりという3つに絞ってうかがいます。昔から司馬遼太郎さんと酒を飲むと、いつも困ってしまう話がありました。どう考えても日露戦争までの日本は正しかった。もちろんそれは、戦争をすることはいけないという左翼論理から言えば日本は悪い国だったのかもしれないし、天皇制も問題だしといったことを言い出せばきりがありません。しかし、少なくとも国際的な振る舞いから言えば、日露戦争まではやむをえず防衛を行って、かつかつで生き延びたという状態です。そしてそれを主導した人たちも、本書で北岡さんが紹介している、私たちがよく知っている人たち、たとえば大久保利通にしても陸奥宗光にしても、それぞれ対外認識において正確であったのみならず、軍人でさえも冷めていて、決してのぼせ上がっていません。むしろ大衆の方に困ったところがあって、日露戦争の講和のためのポーツマス条約調印(1905年)直後に日比谷で交番などを焼き討ちするといった事件を起こしています。ところが、どう考えても第二次世界大戦が良い戦争だったとは思えない。そのように司馬さんも私も思うのですが、では、いったいどこで悪くなったのだろう。本書を拝読すると、実に緻密に、少しずつ少しずつ変わっていくことが書いてあります。学問的にはこのとおりなのでしょうが、あえて雑談風に大雑把に言えば、何がまちがいだったのか。たとえば、対華二十一カ条要求(1915年1月)が悪くなるきっかけの一つで、少なくとも曲がり角だったと、かつて司馬さんと話し合ったことがあります。北岡さんがもしそれを概括されたら、どうなりますか。
北岡 これは、言い換えればポイント・オブ・ノーリターンはどこか、ということですね。どこから後戻り不可能になったかと考えれば、ぎりぎりで言えば真珠湾攻撃(1941年12月)だと思います。
山崎 あそこまでなら、戻ることができましたか。
北岡 真珠湾攻撃直前まで、戻れる可能性はありました。極端に言えば、ハル・ノート(1941年11月)を受け入れればいいのです。
山崎 それはそうです。
北岡 その前の大きな問題は何かというと、全般的な極端な組織化・官僚化の進行です。海軍は海軍のことしか考えない、陸軍は陸軍のことしか考えない。陸軍に負けるぐらいならアメリカに負けた方がいい、などというふうになってきた。自分の所属する組織に対する忠誠が、国家に対する忠誠に対して優位するようになってきた。日本には、何かルールがあると、次にそのための内規を作り、これに関する申し合わせをまた作ってそれにえらく忠実になるという、悪い官僚メンタリティ(心的傾向)があります。
山崎 それは今でもあります。
北岡 今はもう極端だと思うのです。今は、自分たちの組織を守る方が日本の原発の安全よりも大事だ、というような人たちがやっているのですから、同じことだと思います。つまり、それをどこかで「いや、うちの組織についてはこうだけれども、日本全体からすれば、うちの組織の利害は少し押さえ込まなくてはいけない」と考える人、かつそれを実現できる人がいなくなった、ということです。
山崎 ある短い時期をとると、たとえば加藤友三郎が海軍軍縮(1921年)を認め、陸軍も少なくとも宇垣一成が軍縮を進めようとしました(1925年)が、どうしてうまくいかなかったのでしょうか。
北岡 国益のために自分たちの組織の利害を抑えてもいいという人が少し出てきても、その人がトップを外れ、徐々にその間隔が短くなっていくのです。陸軍で、最後に大胆に押さえ込むことができる可能性があったのは、嫌われ者ですが宇垣一成でしょう。ですから陸軍中堅層は、必死で宇垣を排除したのです。もし1937(昭和12)年に宇垣が首相になっていれば、あの時期に軍の中堅が考えていた陸軍増強案は少し過激にすぎる、無理だとして、押さえ込んだと思います。その宇垣を、大変皮肉なことに、陸軍の一番のライバルであった外務省の革新官僚が排除するということが起こります。これは日本によくある形なのですが、ずるずると悪くなって、時々良くなって、まただめになるということの繰り返しで、ついに最後にはあそこまで行ってしまったということです。
山崎 もう一つは、本書に細かく書いていらっしゃいますが、政党です。政党では原敬(政友会)は有力であって、もし原がもう少し元気であれば、あるいは原が後継者をつくっていればわからなかったと思うのですが、結局は原敬どまりでしょう。
北岡 あとは浜口雄幸(民政党)もそれなりに努力した人です。ただ浜口は、金解禁(1930年)で経済政策をまちがえました。
山崎 そうですね、また時期も悪かった。
北岡 やはり、歴史を研究していると、運というのがどうしても出てきます。
山崎 それは本当にそうだ。
北岡 私は、世界大恐慌(1929年)が起こらなければ戦争にはならなかった可能性は充分にあると思います。世界大恐慌は、結局軍の台頭を促すことになりました。歴史には、全部良い歴史もないし、全部悪い歴史もありません。必ず両面あって、いま言ったとおり、必然もありますが小さな偶然も重要です。たとえば山県有朋が84歳まで長生きするとは、だれも思っていないのです。原敬は1921(大正10)年に65歳で暗殺されましたが、普通ならもう少し長生きするはずなのです。それから、海軍では東郷平八郎が87歳まで長生きして、強力に艦隊派の後押しをしました。また、陸軍と海軍が対立する中で、双方が皇族を参謀総長と軍令部長(のち軍令部総長)にかついでしまった。これではどちらも譲歩できません。全局のために譲歩・妥協できる能力を持つ人物がいなくなってしまったのです。
山崎 逆に言えば、それだけ自信と実力のある大物がどの組織にもいなかったということですかね。
北岡 ええ。でもこれは日本社会では創業期を過ぎた組織にしばしば起こることで、次はだいたい年功序列になります。創業期を担っているのは革命を成し遂げた人たちですから、良きも悪しきもこれは自分の国家だという意識があります。彼らからすれば、期の恩賜の軍刀であるかないかなどは、つまらないことなのです。長州閥というのは、外の人間から見れば邪悪な組織です。ですが、中の人間から見ると、機構を超えた横断的結合を保証する組織でもあります。そういう意味で私は、本書では派閥というものに比較的肯定的な面も認めています。
山崎 それはいちいち説得的で、そのとおりだと思います。これは日本史自体の、近代史自体の一種の逆説なのでしょうが、細かく事実の一つ一つを追っていくと、やむをえない選択で流れていきます。ところが、少しカメラを引いて遠くから見ると、全くわからなくなるのです。
北岡 そうですね。
山崎 要するに、英米派さらに言えば日英同盟の後退があります。これにはもちろんアメリカの台頭もあるし、外からの変化が随分影響していると思いますが、やがて英米が結託した時に、日本ではそれに対応して、幣原喜重郎など外交における大局観を持った人たちは後退したわけです。後退したのか、あるいは大局観のない人と交代したと言うべきか、そこはわかりませんが。
北岡 私は、学生時代にマックス・ヴェーバーをよく読みました。ヴェーバーの官僚化の鉄則によれば、組織は必ず官僚化し、ルールなど慣習、先例に則った決定になっていく。そうすると、どんどん細分化して行き止まりになってしまい、それは時々カリスマによって中断されるのです。私は、この官僚化を中断するものの一つは、たとえばビジネスだと思っています。ビジネスでは利潤という形で結果が明確に出ますから、だめだとなれば変えなくてはいけない。それはつまり競争ということです。ですから、対外競争という視点が国民の内側のエリートの中に充分組み込まれていないのです。政党にしても、国際競争の中で生きているという意識が足りない。国際競争の本当の姿はどうなっているかを、認識していません。陸軍などは、アメリカは海軍に任せておくという立場ですが、陸軍自身の行動が対米関係をどれほど悪化させるか考えようとしない。他方、海軍は、それまでアメリカを仮想敵としてきたことから、アメリカと戦えないとは言えない。全体として、日本の大きな国益のために協力していくという姿勢が見られなかった。その一因は、明治憲法に内在する欠陥です。明治憲法では、天皇はそれぞれの国家機関の助言を受け入れることになっています。しかし、それぞれの国家機関が自分の都合だけでモノを言うと、それをまとめる人がいないのです。かつては元老がいましたが、昭和期に入ると西園寺公望一人になってしまいます。強い政党はあったけれども、これが後退すると、もう後がなく、かろうじてこれをとりまとめようとしたのは宮中でした。
山崎 宮中とは、要するに宮内省ですか。
北岡 奥の院が元老である西園寺公望で、それから内大臣、宮内大臣、侍従長ですね。これが、なんとかとりまとめようとしています。
山崎 その最後が木戸幸一内大臣ですか。
北岡 ええ。その宮中を直撃したのは天皇機関説問題(1935年)です。君側の奸が天皇の意思を捏造(ねつぞう)しているという考え方が出て来て、それによって宮中ははるかに防衛的になります。宮中も官僚化し、木戸の時はまさにそうでした。結局宮中の観点は、最終的には国際社会と国内社会の統合だけではなく、クーデタが起こらないようにということで、とにかく国内をまとめることに汲々としています。そうすると、国内でクーデタが起こるよりは戦争というか対外冒険の方がましだ、ということになってしまうのです。常識的な見解ですが、理論的に言えば天皇機関説問題、事実で言えば二・二六事件(1936年)が強烈な衝撃であったと思います。
山崎 その前に、日本は満州を経営する時に鉄道王ハリマンの協力を断っています(1905年)。しかし私は、交渉の余地はあったのではないかと思うのです。たしかに、南満州鉄道株式会社(満鉄)と競争する並行線をつくられては困るでしょう。しかし、満州には鉱山の採掘権であるとか、その他いろいろな権益があります。それを少しアメリカに分けてやって、満州は日米で共同管理しようではないか、ただし日本の権益は侵さないでもらいたい、という交渉がなぜできなかったのですか。
北岡 ハリマンの時はともかく、後藤新平も、機関車や貨車はアメリカから購入して、それでアメリカの共感を得ようなどと考えていました。田中義一内閣のころまで、満鉄の社債をアメリカで発行することも計画しています。ですから、アメリカ資本を入れようという計画はつねにありましたが、大恐慌が起こったり、満州事変(1931年)が勃発したりして、もう少しのところでうまくいかなかったのです。
山崎 そういう障害があったのですか。悪運ですね。
北岡 ええ、そういうことがありました。またアメリカの中でも、時々反日の動きが起こっています。ですから運の悪いこともありました。それとは少し別の話ですが、そもそも関東州(旅順・大連)の租借権は1923(大正12)年までなのです。
山崎 なるほどね。
北岡 これはもともとロシアの権益を継承したものです。二十一カ条要求で延長していますが、中国は二十一カ条要求を認めないという立場ですから、1923年に満期といいますか、買戻権が発生するのです。その1923年に起こったのが関東大震災でした。この時に中国では日本に対して同情が湧きます。しかしこれは、また両国がぶつかってアウトになってしまいます。アメリカは、関東大震災にはたいへんに同情的でしたが、ほんのはずみで翌1924年に排日移民法が可決されます。そういう悪い偶然もありました。
山崎 つまり、一貫していないのは日本ばかりではないということですね。
北岡 もう一つの転機は、満州事変が起こった後、列強諸国のビジネスから見れば、中国の支配下にあるよりも満州は安定した、これは投資のチャンスだと、いろいろな国から投資の申し入れが来ています。しかし、それに対して陸軍が、「満州国を承認していない国の投資は受け入れられない」と偏狭な態度をとったのです。これには、どんどん投資を受け入れ、事実上列強の承認を取り付けていくという賢い外交がどうしてできなかったのか、と思います。
山崎 北岡さんがそのあたりがわからないとおっしゃったら、私にわかるわけがありません(笑)。
北岡 ですから、それはセクショナリズムなのです。現に満州国を握っていたのは陸軍でした。彼らには妥協をうまく利用していくという発想がなく、また外務省との間に信頼関係がないというところで、どうしても挙国一致の経営が行えなかったのです。挙国一致経営を行った後藤新平の時代であれば、きっと外国資本を入れたと思います。特にフランス、ドイツからたくさん申し入れがありました。フランスは二枚舌で行動していますから、国際連盟では日本と対立していても、裏ではうまくやろうとするのです。
山崎 それを言えばドイツも相当に二枚舌で、日独伊三国同盟調印(1940年9月)の直前まで介石に軍事顧問団を送っています。
北岡 はい。よく知られた話ですが、イタリアはエチオピアを侵略した(1935年)けれども、国際連盟には居残っていました。ですから、日本は別に国際連盟を脱退する(1933年)必要はなかったのです。
山崎 そうそう、そこをうかがいたかったのです。連盟脱退は、松岡洋右の単なるフライングですか。
北岡 一番は世論でしょうね。政治も外交も軍事も、時に世論に媚(こ)びてしまう。今日の北朝鮮による拉致問題などに関しても同様ですが、日本はしばしば百パーセントの要求を行います。しかし外交においては、百パーセントこちらの言い分が通るはずがないのです。
山崎 『グローバルプレイヤーとしての日本』にお書きのとおりですね。
北岡 ですから、リットン報告書の採択などは決議されても痛くもかゆくもないというふりをして、日本は満州を実際に統治していけばよいのに、などと思ってしまいます。
山崎 しかも、リットン調査団の結論にはたいへん多義的なところがあって、満州国は承認しないが日本にとって生命線であることは認める、と言っているわけですよね。
北岡 妥協的で、さすがイギリス人という感じのものです。そのことは私は『清沢洌』(中公新書、1987年〈増補版、2004年〉)に書いて、かつて山崎さんに書評していただきました。リットン調査団の報告書は、発表前にジャーナリストに内示されています。当時の外交担当ジャーナリストはみんな、「なかなかよくできている」と言って読んでいたらしいのです。ところが、清沢洌が次の日に新聞を見ると、「こんなものは話にならない」「一歩も譲れない」という紙面ばかりだったといいます。
山崎 私は、日本近代史を誤まらせたものの一つに、基本的に大衆社会というものがあって、それを代表しているジャーナリズムの罪はかなり大きかったと思っています。そこのメカニズムはどうなのですか。専門の記者が褒ほめているものが、どうして本社でひっくり返るのでしょうか。
北岡 でも、それには逆のメカニズムもあります。私の先生の先生は岡義武先生で、そのお父さんは岡実さんといって、毎日新聞の会長でした。その岡実さんに聞いた話というのを、岡先生から何度もうかがったことがあります。満州事変の最中に新聞各社の社長が集まると、「日本はどうなるのだろう、困ったものだ」と言っていたらしいのです。ところが、現場の方からは威勢のいい取材が上がってきます。満州事変の時期には、戦争報道は売れたのです。
山崎 それは世界的にそうです。イギリスの新聞はクリミア戦争(1853〜56年)で伸びた、と言われています。
北岡 これがどんどん過激なことを書くので、時の関東軍が「こんな過激なことを書いては困る」と抗議したこともあるようです。
山崎 有名な話で、ちょうど満州事変の時に大阪毎日と大阪朝日がそれぞれ取材用に飛行機を買っています。この飛行機を使わないと投資を回収できないから、盛んに戦場を飛ばして航空写真を撮り、勝った勝ったと報じているのです。
北岡 ええ、おっしゃるとおりです。
山崎 ですから、戦争が早く終わってしまうと飛行機の使い道に困るから長く続いた方がいい、という雰囲気なのです。
北岡 メディアにとっては、満州事変というのは理想的なイベントでした。
山崎 そうだったようですね。
北岡 一刻も早く原稿を社に持ち帰って、速報を新聞の早い版に載せるというのは、競争の重要な条件です。
山崎 次におうかがいしたいのは、知識人についてです。清沢洌は敗戦の3カ月前に亡くなっていますが、馬場恒吾もいました。吉野作造はもちろんですが、ジャーナリズムにかなりの発言権を持っている学者がいたわけでしょう。その人たちの見解は、これは一括はできないだろうけれども、どうだったのでしょうか。
北岡 吉野作造は、一貫して満州事変には非常に厳しい見解を持っていました。
山崎 ただ、吉野は二十一カ条要求には賛成していますよ。
北岡 その後、「自分はまちがっていた」と自己批判しています。
山崎 そうなのですか。
北岡 吉野は、1915(大正4)年末に起こった袁世凱打倒の第三革命以後、中国の若手留学生や革命派と付き合うようになって、第一次世界大戦中の1916年ぐらいから、「あの時、自分はまちがっていたと思う」と言っており、あとは一貫しています。吉野はとりわけ留学生とのつきあいが多く、しばしば彼らに私費で援助しています。ですから吉野は晩年、すごくお金に困っていました。
山崎 そうですか。
北岡 最後は「貧窮過労死」ではないかというくらいでした。
山崎 そうですか。
北岡 ある時、景品か何かで自転車が当たったのですが、迷った末にこれを売っています。
山崎 驚きました。
北岡 また吉野は、若いころに受験必勝法のような本を書いています。そして彼は、晩年にもう一度『きっとパスする答案のコツ』という本を書いていますが、それも留学生支援のためと思われます。それはともかく、少なくとも第一次世界大戦の終わるころから吉野は、一貫して九カ国条約、不戦条約体制を支持しています。他に一貫しているのは、石橋湛山、馬場恒吾、清沢洌です。ですがこれは、『中央公論』など、少数のエリート向けの議論なのです。
山崎 でも、馬場の場合は読売新聞にいたわけでしょう。
北岡 馬場が読売の社長に就任するのは戦後(1945年12月)です。
山崎 あれは戦後でしたか。戦中はジャーナリズム活動はしていませんか。
北岡 しています。ただ馬場は戦後、読売の社長である正力松太郎がA級戦犯として公職追放されたのを受けて、読売新聞に迎えられたのです。それで一貫しているのですが、多くの学者は一種の転向をしています。京都学派が典型的ですが、満州事変という事態をどう見るかで、地域主義(リージョナリズム)を言い出すのです。主権国家体制ではなく、地域という観念で正当化するようになります。しばらくするとこれがさらに進んで、東亜共同体に行ってしまうのです。
山崎 アジア主義ですね。
北岡 確かに主権国家体制はアジアにはよくは当てはまりませんが、そうでない人は、蝋山政道など後で出てきます。その時期になると、レーベンスラウム(生存権)というドイツの影響も受けてきます。そうすると、吉野やそれにつながる人たちは古い過去の遺物だ、というふうになります。もう一つの大きなファクターは、マルクス主義です。マルクス主義は民族より階級なのです。
山崎 それは、そうですね。
北岡 ですから、民族間の対立を重視しないというのが彼らの特色です。吉野が最晩年に書いたのは、「民族と階級と戦争」(『中央公論』昭和7年1月号)という論文です。満州事変から2カ月ぐらい経ったころの論文ですが、かつて期待した無産政党の一部が満州事変を支持していることを非常に厳しく批判しています。
山崎 本書でも、無産政党についてお書きになっていますね。
北岡 ええ。大正デモクラシーの担い手であった無産政党とメディアが満州事変をなぜ支持するか、と吉野は厳しく批判しています。ただ、これまたいろいろ複合的で、そのような自由主義派の知識人は影響力を失っていたのです。また先ほどの偶然を言いますと、大恐慌でアメリカの時代はもう終わりだという感じが出てきましたから、当時の『中央公論』や『改造』などの総合雑誌を見ると、資本主義は終わりだという議論が花盛りで、論壇ではマルクス主義が全盛期でした。それでも、日中戦争が始まると(1937年)、一種の厭戦気分が広がり、これに対してかなり厳しい言論統制が行われました。実際に日中戦争の1年目に、上海、南京での戦闘で日本人が随分死んでいます。それに対して満州事変は、けっしてよい表現ではありませんが、「うまくいった」戦争で、犠牲者も少なかったのです。日中戦争はそうではなく、膨大な人が死んでいます。
山崎 ですから皮肉な話だけれども、第二次世界大戦が始まった時に喜んだ知識人が随分いました。
北岡 そうです。
山崎 少なくとも気持ちがさっぱりしたと。つまり、弱いアジア人をいじめる戦争ではなく、強い白人と戦う首尾一貫した戦争だと言って、本気で喜んだ者がいたようです。
北岡 山崎さんは、ご記憶はありますか。
山崎 当時私は小学1年生でしたが、開戦を伝える「大本営発表」(1941年12月8日)というあの平出大佐の声を、はっきり覚えています。私は風邪をひいて学校を休んでおり、朝のラジオの臨時ニュースで聞いたのです。私自身の個人的なことを言えば、身体が弱く、今の物差しで言えばいじめられっ子もいいところで、毎日殴られて帰りました。あの時代に身体の弱い男の子というのは、廃物だったのです。
北岡 そうだったのですか。
山崎 殴られて帰ると、「そんな弱虫でどうするんだ」と、今度は親に叱られます。そんな時代ですから、私は否応なしに反軍国主義になり、校庭の隅で本を読んでいましたが、これはもう許し難い「非国民」です。
北岡 三谷太一郎先生は、汽車の中で「大本営発表」を聞かれたそうです。その時の周りの雰囲気は、「えらいことになった」という庶民の普通の反応が多かったといいます。
山崎 えらいことになった。つまり、悲観的にえらいことになったと。
北岡 といいますか、深刻な気分になった。ですから、喜んだのはインテリではなかったでしょうか。満州事変以来の日本の戦争を知的に正当化するのに苦慮していたインテリが快哉を叫んだのであって、庶民といいますか普通の商売人は「これはえらいことだ」と思ったのではないか、という気がします。
山崎 そうでしょうね。 
3 戦後の終わり
山崎 そんなわけで、いろいろ歴史の偶然やら趨勢やらがあって、戦争を行って負けた。本書にもお書きになっていますが、その後占領下で連合国最高司令官総司令部(GHQ)が行ったことは、大半は正しかったと思います。日本国憲法の細部、とりわけ第9条2項などは議論の余地があるにしても、今の私たちの常識からして、男女同権も農地解放も財閥解体も、みな結構なことでした。ですから、私はかぎかっこ付きの、俗に言う戦後民主主義というものを基本的には擁護しているのです。そこで、吉田茂が行った業績や、軽武装・経済国家という路線で彼の弟子の佐藤栄作まで進んできました。吉田の直接の弟子ではありませんが、田中角栄、福田赳夫、大平正芳の時代までが、私が思う戦後なのです。戦後というか、日本の復興が完成していく。それが北岡さんのお説では「六〇年体制」であり、一般には「五五年体制」と言われる体制がずっと続きます。本書を取り上げた『日本経済新聞』の書評(5月29日付)も書いていますが、私は六〇年体制という考え方にはたいへん賛成です。あの時の安保の騒動そのものが、当時のいささか軽佻浮薄(けいちょうふはく)な桃色社会主義というか、少し左がかった大衆も生み出しました。けれども、日本がある種の自由主義体制の中で生きていく覚悟は、全体としてはっきりとできました。その後に起こったいろいろな社会的不安、たとえば学園紛争などは、私は身をもって苦労させられた世代ですが、それも含めてエピソードだったと思います。ところで、五五年体制というか六〇年体制というかはともかく、そういう戦後日本はいつ終わったのでしょうか。
北岡 私は、広い意味では冷戦の終結とともに終わったと思っています。
山崎 その前に竹下登内閣の崩壊(1989年)がありましたね。リクルート事件が表面化し(1988年)、その後の参議院議員選挙での自民党の敗北によって、にわかに首相が海部俊樹など小粒になるでしょう。もちろん世界情勢と重なってだけれども、あのあたりが戦後の終わりなのではないでしょうか。
北岡 先ほどの体制のことについて一言補足させていただきますと、私は六〇年体制という表現をよく使うのですが、体制(レジーム)とはある種の復元力を持ったものだと思うのです。ただなんとなく自民党と社会党の割合が2対1といったことではなく、復元力の一つは、山崎さんがおっしゃった自由主義で生きていこうという覚悟だと思います。もう一つは、憲法や日米安保に手をふれるのは危ないからもうやめておこう、という一種のコンセンサスが自民党と社会党の間に成立して、自民党は手をふれない、社会党もあまり抵抗しないという馴れ合いができてしまったということがあります。私は、本書の一つのポイントとして、内政と外交の連携を重視しています。冷戦の終わりは1989年ですが、その数年前にソ連でミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長として登場して(1985年)、ペレストロイカ(立て直し)が始まりました。日本では中曾根康弘内閣の後半の時期です。他方アメリカでは、ソ連はもはや脅威ではなく、むしろ日本が脅威だという日本異質論が、1985年ぐらいから急速に広がってきます。
山崎 ありましたね。
北岡 1985年を超えて湾岸戦争(1991年)が起こり、日本は国境を越えて安全保障の役割を果たせるのか、という大きな課題に直面します。その背景には、中曾根内閣後半期の日米間の経済摩擦がありました。それから、多くの国がすでに消費税を導入している中で、竹下首相が消費税を導入しようとしました。きっかけはリクルート事件でした。要するに1980年代のバブルが淵源です。
山崎 そういうことですか。
北岡 それは、つまるところプラザ合意(1985年)以後の急速な円高の時期には、経済を充分にマネージできなかったと思うのです。その根っこをたどると、アメリカとの緊張があったと思います。そういう意味では、内政だけではなく、外交も視野に入れる必要があるのです。ただ国内は国内で、あの時は確かに竹下内閣退陣後の参議院選挙で土井たか子社会党が勝ちますが、あれは別に社会党の勝利ではなく、一過性のものでした。
山崎 そうです。
北岡 竹下退陣後、リクルート事件で主だった政治家が軒並み疑惑を追及されます。普通であれば、竹下内閣の次は安倍晋太郎内閣だったでしょう。そうなっていれば比較的順調だったのでしょうが。
山崎 私は、なぜか印象的な言葉を覚えています。竹下さんがすでに田中派を解体して竹下派になっていましたが、竹下派の講演会に呼ばれたことがあるのです。講演が終わった後で竹下さんがやってきて、雑談になりました。そして私が聞いてもいないのに、「私たちの世代は、しょせんはつなぎ役です。次の世代につなぐ役だとみんな思っています」と言うのです。あのくらいの世代の自民党の政治家たちが、みんな思っているというみんなとは、安竹宮(安倍・竹下・宮澤)を指しているのだと思います。なんといってもまだ自民党は大政党でしたが、あの言葉は何だったのかと、いまだに意味がわからないまま印象に残っています。
北岡 基本的に中曾根さんまで――竹下さん、宮澤喜一さんも含めていいのですが――、多くの政治家にとって敗戦というのは原点なのです。そこから日本をどう立て直そうかと、その視野の中で考えてきた人たちです。ところがその後、戦後の高度成長期において、高度成長、六〇年体制を所与のものとして政界に入った政治家が台頭すると、やはり小粒になったという感じは否めません。
山崎 そうか、そうか。
北岡 自分たちが生まれ育った環境というのはたまたまできていたものであって、歴史の中で言えばほんの一頁にすぎない、という意識がないのです。
山崎 私は文化論というか知識社会学の方で、よく明治初代と明治二代目、という言い方をしています。非常に大雑把な言い方で、はっきり年齢で線を引けるわけではありません。つまり、一人の男が、自分にとって、俺よりも国家の方が小さい、守ってやらなければいけない、俺の力で守ってやらないと国家は潰れてしまうと思った世代が明治初代です。他方、国家というのは上に大きいものとしてあって、ひょっとすると俺が押し潰されるかもしれない、だから抵抗するかあるいは服従するか、というのが明治二代目です。そうした感覚の違いがはっきり表れてくるところがあります。それが非常におもしろいのは、話は大正期にりますが、原敬が行った教育改革(1918年の大学令、改正高等学校令公布)です。あの結果、一気にインテリが増えるのです。
北岡 そうですね。
山崎 そして昭和の不況期には「大学は出たけれど」という歌がはやるぐらい、インテリ失業者が増えます。それが収まって一応全員が就職できるようになるのは、1937(昭和12)年です。
北岡 原敬の教育改革までは、大学は5校しかありませんでした。この改革によって正式に大学として認可された大学は、私立大学だけで20校以上ありました。
山崎 旧制高校はナンバースクール8校しかなかったのが、このときに新潟高等学校だとか松本高等学校だとか、地名の付いたかなり上等の高等学校(ネームスクール)がずらっとできるでしょう。
北岡 はい、それが17校です。
山崎 つまり、それが4年経って大学を卒業して、その後そうしたインテリは蓄積していくのですから、増加曲線は非常に急速でした。そのプラス面を言えば、大正―昭和初期には、新聞は各紙とも発行部数が100万部に達し、大衆雑誌『文藝春秋』や『キング』が創刊され、岩波文庫も刊行が開始されています。これはエリート層の少し下の方の人たちですが、中間知識層が出てきました。ともかく、その世代の変化があります。それに似たことが戦後にも起こったのです。
北岡 第一次世界大戦後は景気がずっと低迷し、他方でインテリがわーっと増えたので、産業界が彼らを吸収するのは大変なことだったと思います。私がかつて愛読した山崎さんのご本の中で、『不機嫌の時代』(新潮社、1976年〈講談社学術文庫、1986年〉)が日露戦争後の時代を扱っておられますよね。
山崎 そうです。
北岡 それから『おんりい・いえすたでい'60s』(文藝春秋、1977年〈文春文庫、1985年〉)も愛読しました。こちらは戦後ですよね。
山崎 そうです。
北岡 それがうまく直結するかどうかはわかりませんが、自分がいる環境を所与のものと考えるかどうかは決定的な違いで、明治維新を成し遂げた人たちは、ついこの間まで侍であって戦争をしていましたから、これは全く違います。ですから、中曾根さんにとっては憲法改正を考えるのは当然のことなのですが、その後の人たちはそういうことはあまり考えなくなります。竹下さんは青年団で活動した人ですし、宮澤さんはエリート官僚ですが、その後の高度成長期には橋本龍太郎さんや小渕恵三さんなど二世議員が中心になります。
山崎 小渕さんも二世議員でしたか。
北岡 そうです。
山崎 あのあたりで政治家の質が変わったし、気構えも変わってきたという感じがします。
北岡 それは全く違います。これも私は『自民党』(読売新聞社、1995年〈中公文庫、2008年〉)に書きましたが、制度化が自民党において進行したのです。かつては、派閥のリーダーは、ほとんどが政界に入った時からリーダーでした。ところがそれ以後は、だんだんまずは1年生、2年生として政界で過ごしていくようになります。竹下さんは1971年に当選5回で内閣官房長官になりました(第三次佐藤内閣)が、これは抜擢と言われたのです。それから首相に就いたのが1987年です。
山崎 そういえば、「10年経ったら竹下さん」などというあの人の歌がありました(笑)。
北岡 竹下さんは、内閣官房長官になってから首相になるまでに、さらに16年かかっているのです。
山崎 本当ですね(笑)。
北岡 おそらく、最初は覇気があり、やる気もあり、日本をこうしたいと思っていても、派閥のボスに10年、20年忠誠を誓っていれば、そんなものはなくなってしまうでしょう。政治には一種の賞味期限といいますか、政界に入って年間で行うということがあるように思います。
山崎 それも、後の保証がある、ある意味で立身出世の制度化ができているから、逆に言えばそれで彼らは我慢したわけですよね。
北岡 そうです。3、4回ないし4、5回待てば大臣になれるなどと言われ、ずっとボスの言うとおりにしている。それでいざ首相になったら何をしていいかわからず、ふるさと創生事業で1億円ずつ配ろうか、となったのです。 
4 現在
山崎 最後のおたずねですが、そういう観点からすると、今はどう見たらいいですか。これは社会全体のことを言い出すときりがありませんから、あくまでも権力と外交のところに絞ってですが、今の政治家をどう見ればいいですか。
北岡 今は、落ちるところまで落ちたということです。3月11日の東日本大震災は戦後最大の災害で、原子力発電所の被害はどこまで広がるかわからない大災害です。大きなダメージの後には大きな変革が必要なのではないでしょうか。なんらかの形でよりよい資質を持ったリーダーを選び出し、これが一定期間安定して政権を維持するしくみを作らないとどうにもならない、という感じです。
山崎 どうすればいいですか。
北岡 政権が一定期間安定しているのは、たとえば大統領制あるいは首相公選制です。
山崎 しかし、それは非常に難しいですよね。憲法改正問題から天皇制の位置づけまで入ってくるから、今はそこまで考えないことにして、憲法の少々の改正ぐらいで済むような手立てはないですか。
北岡 憲法改正ということ自体が大問題ですから、憲法改正を行うのであれば、小さい改正でも大きな改正でも難度は同じだと思います。
山崎 それは同じことです。
北岡 行うのなら大改正をした方がいいと思います。象徴天皇制はもちろん残しますが、直接選挙による実権を持ったリーダーの選出が大事でしょう。首相公選制でも大統領制でもいいのですが、天皇制との関係はなんとかなるように思います。ともかく憲法改正を実現すること自体が、日本においては極端に難しいのです。
山崎 難しいです。
北岡 その前に何か手立てはあるかと言いますと、ルールの本質は禁止であって、命令ではありません。年以上やってはいけないというルールはあっても、1年以上続けよといったルールは作れない。ですから、これは本書の隠れたテーマの一つですが、政治とは結局、職業政治家が行うものであり、権力者とは権力闘争に勝ち残る人たちである、そうした権力闘争に勝ち残る人が合理的な政策を実施できるかどうかの成功や失敗の歴史を追っているつもりなのです。今の時代には、職業政治家と官僚という、24時間フルタイムで従事するプロが政治を行うことは必然的なのです。アマチュア(一般国民)に政治はできません。ですから、政治家が権力闘争で権力を手にすることも止められないのです。一つには、衆議院の議決だけで法律が成立するということになれば、それはもっと簡単になります。
山崎 一院制ですね。
北岡 ええ。あるいは再議決要件を簡単にするという手もありますが、これも憲法改正が必要です。
山崎 あれも憲法条項ですか。
北岡 そうです。ですからなかなかできないのです。憲法改正以前にできることといえば、結局のところ連立政権をつくりやすくすることでしょう。
山崎 選挙制度の再改革というのはありえますよね。
北岡 かつて私は、少数意見が過大に代表されることになる、自民党派閥の根源である、金権的選挙になりやすいといったことから、中選挙区制度を厳しく批判していました。しかし最近では、衆議院は定員3人の中選挙区制度に(定員4人以上は弊害が大きいので賛成できません)、参議院は比例制度にしてはどうかと提唱しています。その方が政党間対立が緩和され、連立を組みやすくなるという利点があるのです。一部にはこれを大政翼賛会だと言う人もいますが、それは全く違います。大政翼賛会というのは一つの政党にしたのであり、連立は、定義上は複数の政党があるということです。もう一つ、これを「みんなで渡れば怖くない」という議論で批判する人がいます。しかし今の状況は、「みんな怖いから渡らない」のです。
山崎 そうそう、全くおっしゃるとおりだ。
北岡 それよりは、今はみんなで渡る方がいいのです。「そういうことを言うのなら、あなた渡ってみてください」と、私は政治家に言いたいのです。
山崎 ただ、一つだけおもしろいことを指摘しますと、これは私自身の歴史にかかわることなのですが、佐藤栄作首相が、たまたま楠田實(くすだみのる)という異色の首席秘書官を持っていました。楠田さんは、大学の教授ないしは物書きを、政治家、特に内閣と接触し協力・助言させようとしたのです。その伝統はうまく引き継がれていて、現在まで来ています。
北岡 それは先生ご自身や高坂正堯さんのことではありませんか。
山崎 私は、もうとうの昔に離れてしまいましたが、北岡さんは文字通り大使(国連代表部次席大使)までお務めになったわけです。そこまででなくても、政治家が学者を見ていて引っ張る、あれは明らかに政治的任命(ポリティカル・アポイントメント)でしょう。
北岡 そうです。
山崎 たとえば、神戸大学教授であった五百旗頭真さんの防衛大学校長への起用もそうだし、そういう起用をするようになったのは、やはり佐藤内閣以後のことなのです。学者の方も、もちろん人によりますが、そのことを忌避しなくなりました。政治というのは汚ならしいもので、近寄れば病気になるといった風土はなくなっているのです。そのことはどうなのだろうか。このたびここへ来て、やたらに政治的任命を濫発し始めたという印象があります。
北岡 あります。
山崎 濫発といえば、菅直人首相はやたらに諮問会議ばかり作ったでしょう。
北岡 そうですね。
山崎 その結果、政治家と接触する学者の総量が増えるのは悪いことではないけれども、本当にみなさん達成感が持てるのでしょうか。それを心配するのは、東日本大震災からの復興構想会議が6月25日に提言を出すそうですが、それをきちんと活かして政治家が動かなければ、会議にかかわった方々は、随分苦労していますから、非常な不快感を味わうと思うからです。みなさん真面目に取り組んだのですから、それをきちんと汲み上げるように政治家がしなければいけない。佐藤以降、学者の意見を聴いてそれを政策に反映するということを相当長く行っていました。大平までは確実に行っていました。その後、小泉純一郎も行いました。これは内容には問題がありましたが、ともかく学界との実効性ある接触があった。これからどうなると思いますか。
北岡 政治家と学者の相互に忌避感があって接触がなかったのは一時代で、それ以前には吉田茂が学者の任命を行っていますし、戦前にも学者の起用がなかったわけではありません。
山崎 そうですか。
北岡 明治国家ができたころから、たとえば東京大学の行政法の教授であった一木喜徳郎が文部大臣・内務大臣になるといったことがありました。
山崎 そうかそうか、大臣になったね。
北岡 ただ、本当に意味のある仕事をするためには、もう少し首相の政治のコアの部分に接触して、相互にある種の信頼・尊敬関係がないとだめだと思います。
山崎 そうなのです。
北岡 ですから審議会を作ってつまみ食いというのでは、挫折の連続です。
山崎 そうですね。
北岡 私も、審議会に出席して提言を書いたにもかかわらず、実現されなかったことがたくさんあります。そうするとだんだんやる気がしなくなってきます。山崎先生がおっしゃるとおりで、楠田さんというのは稀有な人なのです。
山崎 まあね。
北岡 ですから、その後のいくつかには、楠田さんが関係しているか、あるいはそのグループとしての存在があったということがあります。最近だと小泉内閣の時も、官房長官は福田康夫さんでしたから、結局は楠田人脈です。楠田人脈が、高坂正堯、山崎正和世代から、少し私たちのところまで下りてきたくらいのことなのです。私の大使任命の場合は公務員ですから、官僚に任命するというのが一つの形です。政治家に任命するというのが先ほどの一木喜徳郎の例です。それから審議会で行うというケースもありますが、もう少し違った佐藤内閣当時の、より時間をとってゆっくり政治社会万般を話し合うような場があれば、その方がいいのではないかと思います。それも、長期に力を持つ政治家が存在することが大前提ですが。
山崎 ありがとうございました。(2011/6/10) 
後藤新平 
後藤新平の生き方は、指導者の一つのあり方を示している。政策ビジョンを明確にし、その遂行のため、有能な人材を集める。そしてそのためにお金は惜しまない。混迷する現代社会において、指導者のあり方が問われている。後藤新平の生き方に一つの解答があるのかもしれない。
私心なき政治家
後藤新平は、明治から大正にかけて活躍した日本を代表する政治家の一人である。台湾総督府の民政局長、満鉄総裁など日本の植民地行政に長く携わってきた。また東京市長(現在は東京都知事)として地方行政にも取り組み、内閣の仕事としては逓信大臣、外務大臣、内務大臣を勤めた。
誰もが彼の政治家としての手腕を認め、総理大臣になる器として評価されながらも、国政のトップには上り詰めることができずに人生を終えた。彼の能力が不足していたからではない。むしろ、彼の偉大さこそが総理の道を妨げたのであった。彼は政治家として潔癖すぎた。金を集めたり、派閥を作ることに関心を示そうとはしなかった。人に媚び諂うこともできない人間であった。
新平にとって最大の関心は、政策ビジョンとその実行である。そこに私心を入れず、妥協がない。その分、敵も多かった。総理になるには偉大すぎたのである。しかし、台湾や東京に残した彼の足跡は、今なお輝きを失うことはない。台湾が日本の植民地としてその辛酸を舐めながらも、比較的日本に対して好意的なのは、新平の植民地経営に負うところが少なくないように思われる。
内務省衛生局からドイツ留学
社会人としての後藤新平は、医者として出発した。福島の県立須賀川医学校卒業後、19歳で医者としての現場を体験した。24歳にして名古屋の愛知県病院の病院長に昇進した。彼の才能と努力があったのは言うまでもないが、明治維新以降、近代医療を身に付けた青年を時代が切実に要請していたのである。
医者として治療技術をマスターした新平の関心は、徐々に予防、あるいは衛生行政に傾斜していった。新平は愛知県令(知事)に衛生行政の意見書を提出した。これが内務省衛生局長の目に止まる。彼の意見書には、近代衛生行政の基本が説かれていた。衛生局長が調べてみると、名古屋における新平の医療は素晴らしい業績を上げている。衛生局長は新平を内務省衛生局にスカウトした。25歳の時である。
1890年、新平32歳の時、ドイツ留学の話が持ち上がった。留学の条件はきわめて厳しいものであった。給料と旅費だけは支給、授業料や研究費はなし。新平は決断した。欧米での調査研究に対する意欲と情熱が、現実の厳しさに打ち勝ったのである。留守家族の生活を妻の実家に依存するという惨めな留学であった。
この留学で新平は多くを学び吸収した。彼が留学した1890年は、ちょうどドイツ国勢調査の年であった。その調査、集計、作表などの方式を彼は詳細に調査し、それを日本に持ち帰ったのである。また翌年、ロンドンで開催された万国衛生会議にも、彼はドイツから出席し、衛生統計調査の重要性を改めて認識することになる。後にドイツの統計局長がドイツを訪問した日本人に対し、「わが局を訪問した日本人は多数いるが、真の統計の理解者は後藤新平ただ一人だ」と語ったという。
ベルリンでは細菌学の世界的権威コッホに師事した。衛生局の後輩北里柴三郎の紹介である。コッホは新平の申し出に、「北里が自分の研究室に君を置いて指導するならよろしい」と答えた。これに対して新平は即座に、「日本の役所に帰れば私が先輩ですが、細菌学では北里が上です。おっしゃる通りにします」と応じた。この率直な態度がコッホを感激させた。新平は後輩である北里の研究室で約3ヵ月ほど細菌学を学び、これを修めた。
その後、新平はドイツの衛生制度と社会政策を学ぶために、ベルリンからミュンヘンに移った。ここで医学博士号を取得している。2年余りの留学を終えた新平を待ち受けていたものは、内務省衛生局長のポストであった。日本の衛生行政に責任を持つ立場である。
台湾へ
1894年、日本は日清戦争に勝利し、台湾を中国(清国)から割譲された。しかし、歴代の総督が頭を悩ませていた問題があった。ゲリラ問題である。アジアの新興国日本がはじめての植民地をどう経営するかは、各国の注目するところであった。日本においても、「ここで躓いたら日本は大国に蹂躙される」という危機感に襲われていた。しかし、このゲリラ問題で日本の台湾統治は暗礁に乗り上げてしまい、台湾放棄論や売却論なども出る始末であった。
こういう中で最後の切札として登場したのが児玉源太郎であった。陸軍の重鎮であり、後の日露戦争の英雄の一人である。児玉は第4代総督就任が決まるや否や、新平を呼んで、台湾民政局長(後に民政長官)の就任を依頼した。当時、新平は内務省衛生局長として辣腕を振るい、その実績は児玉の耳にも届いていた。児玉は、新平が尊敬に値すると考えていた人物の一人である。その人物が新平を真っ正面に見据えて、「今、台湾をやるのは私と君だよ。他にはいない」と言い切った。新平の心は決まった。
1898年3月、新平は神戸で乗船し台湾に向かった。この時新平は40歳であった。児玉総督は、新平を全面的に信頼し、台湾統治の企画立案からはじまって、その運営の大半を任せた。児玉は新平が活動しやすい環境作り、主に本国との調整を行い、この二人の絶妙なコンビが台湾近代化に大きく道を拓くことになるのである。
現地の習慣を重視
後藤新平の台湾運営の基本的考え方は、彼自身がよく口にした「生物学の法則」というものであった。新平はよくこう言った。「平目の目を鯛の目にすることはできない」。平目という魚は目が片側に二つ付いている。鯛は片側に一つづつ付いている。鯛の方が貴重だからと言って、平目の目を鯛のようにすることはできないし、やってはいけない。つまり、日本人が台湾に来て、台湾人を日本人のようにしようとしてもできるはずがないし、やってはならない。つまり、現地の人々の習慣を重んじろということなのだ。
実に新平はこの考えで台湾の近代化に取り組んだ。まずはゲリラ問題。当時、ゲリラの暗躍により殺し合いが頻発し、日本の軍隊や警察はかなり感情的になっていた。これに対して新平の考えは明快である。古来から、武力によって支配を永続できた国はない。台湾の運営は軍政によるのではなく、民政によるべきである。
具体的には台湾全土に向かって「民政優先」を宣言し、「新総督としては、台湾全土の一家団欒を望んでいる。だから、帰順したい者は自由に官邸に来てよろしい。もしこれを疑うならば、民政長官の側からそちらに出向いて話し合ってもよい」と布告した。ゲリラに対する投降の呼び掛けである。
当初、この呼び掛けに応ずるゲリラは皆無であった。しかし、彼らの宣伝と努力が実り、300名あまりのゲリラの一団が投降を申し出てきた。これに対して新平は「投降式をやろう」と言い出した。これに対しては危険だという声が大きかったが、新平はそれを押し切って断行した。この模様は台湾全土に大々的に報道され、安心したゲリラが次々に投降を始めた。
新平は投降するゲリラを拘束したり、投獄することは一切しなかった。むしろ、「職を与えなければまたゲリラに戻りかねない」と言って、彼らを土木工事などに従事させ、彼らの生活の面倒をみたのである。このことが、さらなる相乗効果を生み出して、結果的にゲリラの大半が投稿した。そして、最後まで投稿しなかった一部のゲリラだけが、武力で鎮圧された。ゲリラ掃討の完了まで、新平の台湾赴任から数えて約5年経過していた。
その後、彼の言う「生物学の法則」に基づいて、台湾の近代化を推し進めることに成功した。港や道路、鉄道を整備し、上下水道まで完備した。この上下水道に関しては、東京よりもずっと早く完備したので、台湾の人たちの自慢でもあったと言う。
また殖産のため、三顧の礼をもって新渡戸稲造をスカウトし、台湾の産業育成に尽力した。新渡戸はさとうきびの品種改良を提言し、新平はそれを実行した。その結果、その改良品種は瞬く間に台湾全土に普及し、砂糖の生産は飛躍的に増大した。台湾に多くの富をもたらしたことは言うまでもない。
人のお世話をすること
その後、新平は満鉄総裁、逓信大臣、内務大臣、東京市長などを歴任して、総理大臣候補などにも名前を挙げられることもあった。晩年の新平はことあるごとに「自治三訣」を説いて回った。つまり、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」。
彼の人生は、まさにこの言葉にそのまま表れている。次のようなエピソードが残っている。正力松太郎が新平を訪ねたときのこと。正力は警視庁警務部長で、内務大臣の新平の部下にあたる。この頃、ある事件の警備責任を取らされて失職中であった。そこで、新平に相談を持ちかけた。「読売新聞を買収して経営したい。そのために至急10万円が必要です。何とかなりませんか」と言う。
当時の10万円といえば、バカにならない大金である。新平は1、2分考えた後、「いいよ、用意しよう」と言って、あっさり承知したという。その後、正力はこの金を元手に読売新聞に乗り込み、経営再建に成功し、黄金時代を築いたことはよく知られている。
正力は「この金はどうせ政治家のことだから、どこからか都合してきたのだろう」ぐらいに考えていた。新平は金の出所に関しては何も言わなかった。正力が出所を知ったのは、新平が死んでからであった。実は自宅を抵当に入れて作った金であったのである。正力はこれを知って、男泣きに泣いたという。そして後に、新平の郷里の水沢に日本初の公民館を寄付した。かねがね新平が、「地域で人々が集い、議論するのが自治の出発点だ」と言っていたからである。
新平は、まさに「人のお世話をすること」を文字通り貫いた人生を送った。また「一にも人、二にも人、三にも人」と言って、これぞと思った人材を集め、その世話をし、そのために金を惜しみなく使う。そのため、多額の借金を残して新平は死んだ。死後、麻布の自宅は取り上げられ、現在そこに中国大使館が建っているという。指導者の一つのあり方を後世に残した人生と言って過言ではあるまい。 
 
瀬戸内寂聴の言集1

 

一日一日を大切に過ごして下さい。そして、『今日はいい事がある。いい事がやってくる』『今日はやりたい事が最後までできるんだ』この事を思って生活してみて下さい。
今日も一日これでがんばれます!
心を込めて看病してきた人を亡くし、もっと何かしてあげればよかったと悲しみ悔んでも、亡くなった方は喜びません。メソメソしているあなたを見てハラハラしていることでしょう。早く元気を取り戻して下さい。
「もう十分看病してくれましたよーありがとうー」って思ってますよーきっと
人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗(きれい)になりますよ。やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ何よりの化粧品なのです。
これ、女性だけでなく男性にとっても大事なことだと思うのです。
妻は、やさしくされることを望んでいるだけではない。やさしい心で理解されることを望んでいる。
男性の方、女心わかりますか???
年を取るということは、人の言うことを聞かないでいいということだと思います。あとちょっとしか生きないんだからと好きなことをしたらいいんです。周りを気にして人生を狭く生きることはありません。
おじいちゃんおばあちゃんには好きなことをしてもらいたいですねー老後は楽しく生きましょう!!!
心の風通しを良くしておきましょう。誰にも悩みを聞いてもらえずうつむいていると病気になります。信頼できる人に相談して、心をすっとさせましょう。
心にもやもやをためてはいけませんね!窓をあけて、いつも気持ちよいこころでいたいですねー
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
相手の気持ちが正確に読めたらなぁ、と思ったりもするのですが、こればかりは仕方ありませんねー
大抵の人間は自分本位です。特に女性は、自分中心に地球が廻っていると思っていて、思い通りにならない現実に腹を立てて愚痴ばかり言うのです。思い当たることはありませんか。
自己中はよくありません!もっとまわりのことも考えなくてはですねー
人は所詮(しょせん)一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在です。だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ、自分自身が反抗します。
自分も大事にしなくてはいけないのですねー!!!
人間は生まれた時から一人で生まれ、死ぬ時も一人で死んでゆきます。孤独は人間の本性なのです。だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。
やっぱり、ひとりはさみしいです。。。だれか! 
もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭(か)ける人の心構えなのです。
もっと苦労しなくちゃ!って思います。
人生にはいろいろなことがあります。しかし、悲しいことは忘れ、辛(つら)いことはじっと耐え忍んでいきましょう。それがこの四苦八苦(しくはっく)の世を生きる唯一の方法ではないかと思います。
四苦八苦しながら、楽しいこと嬉しいこともっとたくさんみつけて生きていこうと思います。
別れの辛(つら)さに馴(な)れることは決してありません。幾度繰り返しても、別れは辛(つら)く苦しいものです。それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。それが人間なのです。
出会いがあるから別れがあって、別れがあるから出会いがあるのです!
あらゆる戦争は悪だと思っています。戦争にいい戦争なんてありません。私たち老人は、そのことを語り継がなければなりません。
「いい戦争」って、けっきょくはエゴな気がします。戦争がもたらす悲劇は戦争の形態や大小に関係なく、あってはいけないものだと思うのです。
「念ずれば花開く」という言葉があります。私は何かをするとき、必ずこれは成功するという、いいイメージを思い描くようにしています。
いいイメージはいい行動につながっていい結果にもつながるのだと思います!
いろんな経験をしてきたからこそ、あなたの今があるのです。すべてに感謝しましょう。
よい経験も悪い経験も、みんないまの自分を作り上げてくれた要素。ほんとうに感謝!
相手が今何を求めているか、何に苦しんでいるかを想像することが思いやりです。その思いやりが愛なのです。
愛は思いやり。お互いにできたら素晴らしいですねー
あなたはたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた、大切な存在です。
みんな命は一個しかないのだから、ほかにおんなじ物は存在しないのだから、大切に生きなくてはと思うのです。
人間は善悪両方を持っています。それを、自分の勉強や修行によって、善悪の判断をし、悪の誘惑に負けずに善行(ぜんこう)を積んでいくことが人間の道なのです。
日々勉強!日々修行!悪に負けないようにがんばりましょー
与えられた限りある時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います。
「もっと愛しておけばよかった」と後悔しないように生きたいですねー 
相手の立場を想像する力、相手の欲することを与えることが「愛」です。相手が何を欲しているかを考えて下さい。相手の身になってしたいことをしてあげればいいのです。
「愛」ってすごいものだと思うのです。「自己犠牲」とか「利他的であること」とか。気が利く、気が遣えるそんな愛のひとになりたいです。
私は「元気という病気です」とよく言います。ある講演会の司会者が、「
瀬戸内さんの元気という病気が、ますます重症になるようにお祈りします」と挨拶して、会場が爆笑の渦となりました。
「元気?」って聞かれると、元気でなくても「元気!」ってつい答えてしまう。。。それも病気なのかしらー?
一日に一回は鏡を見る方がいいです。できればにっこりと笑ってみて下さい。心にわだかまりがない時は、表情がいきいきしているはずですよ。
鏡はしょっちゅう見ちゃいますねーでも、意外と自分の表情は気にしてないんですねー疲れた顔じゃあ、美人になれませーん!にっこり素敵なスマイルで!
人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を好きになってしまうことではないでしょうか。
はい。頑張ります・・・でもたしかにそうです。いい面を見るようにします。
若き日にバラを摘め
バラというのは恋。バラには棘がある。摘めば指を傷つけてしまう。恋をすると人は必ず傷つく。それが怖くて恋に臆病になる。若い時は、傷はすぐに治る。だけど年を取るとなかなか治らない。だから若い時に思う存分バラを摘んでおきなさい。ということらしいです!
お子さんに「何のために生きるの?」と聞かれたら、「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげて下さい。
そう子どもに言える親はかっこいいですねー
お返しを期待しない、感謝の言葉も求めない。それが本当の奉仕です。
ついつい期待してしまいますね。。。いけませんねー
あなたは苦しんだ分だけ、愛の深い人に育っているのですよ。
同じ苦しみをほかの人には味わってほしくないと思うから、優しくなれるのでしょうか?
人は、不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。
これ、よくないですねー!
どんな悲しみや苦しみも必ず歳月が癒してくれます。そのことを京都では『日にち薬(ひにちぐすり)』と呼びます。時間こそが心の傷の妙薬なのです。
時がたてば忘れられるのでしょうか??? 
おしゃれの女は、掃除が下手と見て、だいたいまちがいない
外側ばっかりきれいにしていても、内側がきれいじゃないと意味がないですねー
愛とは現在にしかないものだ。
過去でもなく、未来でもなく、「現在」。大事なのは今の愛ということですねー
恋を得たことのない人は不幸である。それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。
失恋することも、大事なことなんですねー
男女の恋の決算書は あくまでフィフティ・フィフティ
寂聴さんの恋愛経験って、すごいらしいですねー
私は自分の手で探り当て、自分の頭で考えて納得したことでないと信じない
人の言うことに左右されないように、自分というものを強く持ちたいですねー
戦争はすべて悪だと、たとえ殺されても言い続けます。
こちらも、寂聴さんの強い思いが込められていますねー
戦争はいかなる名目をつけようと人殺しであり、悪である。
戦争反対を訴える寂聴さんの強い思いが伝わりますねー
健康の秘訣(ひけつ)は、言いたいことがあったら口に出して言うことです。そうすると心のわだかまりがなくなります。
こころのゴミを掃き出す作業をしないとトイレみたくつまっちゃうということなのですねー
人間として生まれると、他の動物にはない誇りが心に生じるのだと思います。学校の成績より、他者の苦しみを思いやれる想像力のある人間こそ素晴らしいのです。
大事なのは頭が良いかどうかではなく、心が良いかどうかなのだと思うのです。
愛に見返りはないんです。初めからないと思ってかからないと駄目です。本当の愛に打算はありません。困ったときに損得を忘れ、助け合えるのが愛なのです。
だんだん「愛」というものがわかってきましたー!!! 
夫婦の間でも、恋人の間でも、親子の間でも、常に心を真向きにして正面から相手をじっと見つめていれば、お互いの不満を口にする前に相手の気持ちがわかるはずです。
わかればよいのですが、なかなかうまくいきません。。。
私は、全ての苦労を喜びに変えてからこなします。それが一番の健康法と美容法です。ストレスがたまらなくなりますよ。
ストレスフリーが一番健康に良いらしいですねー
どんなに好きでも最後は別れるんです。どちらかが先に死にます。人に逢うということは必ず別れるということです。別れるために逢うんです。だから逢った人が大切なのです。
恋愛とかじゃなくても、すべての出会いを大切にしたいと思う今日この頃です。
愛する者の死と真向きになったとき、人は初めてその人への愛の深さに気づきます。「私の命と取り替えてください」と祈る時の、その純粋な愛の高まりこそ、この世で最も尊いものでしょう。
それくらい愛せる相手が早く見つかりますようにー
最近、自分の酒を飲む仕草(しぐさ)が父に似ているとふと気づきました。あの世へいったら、どの縁のあった男よりも一番早く父に逢い、ゆっくり二人で酒を酌(く)み交わしたいと思います。
親に似てしまうものなのですかねー!?
世間的に申し分のない夫や妻であっても、相手が欲していなければ、それは悪夫、悪妻です。そんな時はさっさと別れて、自分の良さを認めてくれる相手を探すことです。
さすが、寂聴さーん!言ってくれますねー!!!
男女の間では、憎しみは愛の裏返しです。嫉妬(しっと)もまた愛のバロメーターです。
ケンカするほど仲が良い!は間違いではない!?
みんなのために良かれと思ってやっていることを、冷たい目で見る人たちがいます。そういう人は、"縁なき衆生(しゅじょう)"と思って放っておきましょう。あなたはあなたで正しいことを、自信を持ってすればいいのです。
正しいことは、堂々とやりたいのですが、でもやっぱりまわりの目が気になってしまうのはよくないですねー
悩みから救われるにはどうしたらいいでしょうという質問をよく受けます。救われる、救われないは、自分の心の問題です。とらわれない心になれば救われます。
あるひとにとっては大きな悩みでも、ほかのひとにとっては大したことがなかったりして、要は気持ちの問題なのだと思います。
大好きな人が死んだのに悲しくないと悩む人がいますが、当初は悲しみが大きすぎて死んだと思えないことがあるのです。その人は、あなたの中に生きているのですから、安心して下さい。
こころの中ではきっと涙で洪水ができているのだと思います。 
人の話を聞く耳を持つことは大事です。もし身の上相談を受けたら、一生懸命聞いてあげればいいのです。答えはいりません。ただ聞いてあげればいいのです。
何も言わなくても、聞いてくれるだけでうれしかったりしますよねー
「私が一人で母を介護した」という人は、それだけお母さんと縁(えん)が深かったということでしょう。
老人介護はそれこそ愛がなければむつしいことのように思います。
夜の熟睡を死んだように眠ると譬(たと)えるのは、適切な表現かもしれません。人は夜、眠りの中に死んで、朝目を覚ます時は死から甦(よみがえ)るのだと考えられるからです。「日々これ新たなり」ですね。
毎朝新鮮な気持ちで一日をスタートできるようにこころがけたいですねー
誰の中にでも仏さまがいるのだと思って、相手に手を合わすような気持ちで接して下さい。
だれにでも優しい気持ちで接することができるようになりたいものです。
本当に苦しんでいる子どもに、いろんな理屈を言っても駄目。まずは、子どもを抱きしめてやることが大切なんです。
言葉でなく行動あるのみ!ですねー
人生とは、出会いと縁と別れです。出会ってから別れるまでの間に、嬉しいことや悲しいことがあって、それを無事に越えていくことが生きるということなんです。
人生いろいろありますよねーいろんな人に出会いますよねーそれは縁なのですねー悲しい別れもありますねーそれが人生ってやつなのですねー
とにかく人のことが気になって気になってしょうがない、これが物事にとらわれている心です。そういう心を無くさない限り、心は安らかになりません。
でもやっぱり気になっちゃう。。。のです!はぅ
私は物心ついた時から職人の娘でした。盆暮れしか休みが無いのが当然でしたから、人間は働くものだと思って育ちました。これは無言の躾(しつけ)だったのでしょう。
親が子どもに与える影響ってやっぱり大きいのですねー
人間は生まれる場所や立場は違っても、一様に土にかえるか海に消えます。なんと平等なことでしょう。
死ぬ時は平等でも、生きている時不平等なのはちょっといやだなぁと思うのですが。。。
学校の成績なんて気にすることはありません。何か好きなことが一つあって、それを一生懸命できるということが人生の一番の喜びなんです。
なにかひとつ長けているものがあればよいですねー 
いくつになってもおしゃれ心を失わないこと、好奇心を失わないこと、若い人と付き合うこと。これが、若さを保つ秘訣(ひけつ)です。
気持ちから若くあることが大切なのですねー
私たちの生きているこの世で起きることにはすべて原因がある、これが因(いん)です。起こった結果が果(か)です。因果応報(いんがおうほう)というように、必ず結果は来るのです。
蒔いたものは刈り取らなきゃいけないのですねー
木々の緑や紅葉や美しい花が地球から消え去ったら、人間の暮らしは殺風景になり、感動することがなくなってしまうでしょう。
自然の美しさ雄大さ、ほんとうに素晴らしいものです!でも、自然を見て「素晴らしい」と思う気持ちの余裕も大事だと思うのです。感動できるこころを持ち続けたいです。
心のこだわりをなくそうとするなら、まず人に施(ほどこ)すことから始めて下さい。施すのが惜しい時はなぜ惜しいかを徹底的に考えてみることです。
こころに余裕がないと、ひとに対して優しくなれないような気がします。
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
不運や不幸も気の持ちようなのかもしれません。くよくよしてばかりだといいことがなかなかやって来なくなっちゃう気がします。
理解できないと投げ出す前に、理解しようと相手と同じレベルに立って感じることを心がけましょう。
なにごとも努力です!理解すれば、よい友達になれるかもしれませんしねー
老人も中年も若者も、自分たちが一番正しいという誤った自信を捨て、無垢(むく)な感性を取り戻し、自分をもっと柔軟にしていけば、滑(なめ)らかな人間関係が生まれてくるはずです。
人間関係に悩んでいるのなら、まずは自分から変わってみるのもよいのかもしれませんねー
人間は、元々そんなに賢くありません。勉強して修行して、やっとまともになるのです。
だから、日々勉強!日々修行!なんだなぁ
人間はいつも無いものねだりなのです。そして心はいつも満たされない思いで、ぎしぎし音を立てています。欲望はほどほどに抑えましょう。
あんまり欲がありすぎるのはよくない。けれど、欲がなければ前に進めない気もします。だから「ほどほど」に!
教師を養成する時、「この職業は聖職です」と是非教えて欲しいのです。未来を担(にな)う素晴らしい魂に直接向き合う、それこそが聖職というものです。
「先生」という職業はほんとうに大変だと思うのですが、でもこの社会においてほんとうにすごい役割を果たしているのだと思うのです。尊敬に値します! 
子どもと目線を同じにして対等に話をして下さい。大人は皆、上から物を言い過ぎます。そして、世の中は生きる価値があると感じてもらえるように大人が努力しましょう。
子どもと同じ目線で物事を考えるのはすごくむつかしいことだけれど、子どもから見てかっこわるい大人にはなりたくないと思うのです。あんな大人になりたいと思ってもらえる大人になれますように。
時代と共に世間の風俗、風習は変化し、それにつれて、人々の思想も道徳も法律も変わっていきます。革新して良くなる場合もあれば、改悪して後退する時もあるのです。
変わるのは大事。でもそれがよくなるか悪くなるかは、そのひとしだいな気がするのです。
私が毎月の法話で話すことはいつも同じ、唯(ただ)一つです。「皆さん、どうぞ心を安らかにして下さい」。これしかありません。
こころ安らかに暮らしたいものです。
「同床異夢(どうしょういむ)」とは、同じ布団で寝ていても同じ夢は見られないことです。愛の情熱は三年位しか続きません。夫婦は苦楽を共にして愛情を持ち続けるのです。
なるほど!苦しい時も楽しい時も仲良く一緒に!ちょっとした努力なしには夫婦のきずなってつづかないものなのかもしれませんねー勉強になります!
人間が好きで小説書きになった私にとっては人との出会いが、たとえそれが苦痛や悲哀を伴(ともな)っても、生きている何よりの証(あかし)として、有難いことに思われます。
「人との出会い」ってどんなものにしても、大事だと思うのです。
結局、人は孤独。好きな人と同じベッドで寝ていても、同じ夢を見ることはできないんですもの。
みんながそうなんだよってことを思うだけでも、気が楽になりませんか?孤独で悲しむのはもったいない!外に出たくなる言葉ですね!
死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。
「死んでも悔いはない」って思える日がくるだろうか・・・。毎日を大切に生きていきたいです。
人間に与えられた恩寵に「忘却」がある。これは同時に劫罰でもあるのですが。たとえ恋人が死んでも、七回忌を迎える頃には笑っているはず。忘れなければ生きていけない。
忘れなければ生きていけない・・・。悲しいのは分かるけど、それをずっと引きずっているわけにはいきませんね。そのために「忘却」がある。
自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない。
孤独を知って、人のありがたみって分かりますよね。苦労は買ってでもしろ!ってのに通じるところがあります。
生かされているのですから素直に有り難いと思いましょう。生きている値打があるから生かされているのですもの。
生きてる意味はみんなある。
 
寂聴の言集2 寂聴と塩野七生「人生、愛を語る」  

 

その日、瀬戸内寂聴さんは得度して35年目の記念日だった。ローマから飛んできた塩野七生さんは静寂で美しい寂庵の庭に見惚れていた。「遠くに見えるあのお山が比叡山です。35年前わたしが買ったときは、ここは何もなかったんですよ。こうしてみんなが木を持ってきて植えたりして、何とか見られるようになったんです。」と瀬戸内さんは感慨深そうに説明した。「苔が優雅ですね。ここのお庭、大好きになりました。凄く落ち着きます。瀬戸内先生のお人柄が出ています」「先生はやめてください。寂聴さんでいいです」「いやいやわたしにとって年長者ですから、やっぱり瀬戸内先生です」世紀の対談はこんなふうにして始まった。 
瀬戸内 ついさっきまで新潮社の編集者がいて、「塩野さんの本は売れて売れて、わが社のドル箱です」といっていました。
塩野 そんなことありません。ある編集者が話していましたけど、瀬戸内先生が全国区なら
塩野七生は地方区だってーー。『源氏物語』はどれくらい売れたんですか。
瀬戸内 全10巻でわたしが覚えているだけで260万部こえています。講談社の新社屋の階段の一つくらいはわたしの『源氏物語』でつくれたでしょう(笑)。あなたの『ローマ人の物語』はもっと凄いでしょう。
塩野 いえいえ、わたしのは15巻ですが、そんなことはありません。
瀬戸内 『ローマ人の物語』は売れたでしょう。わたしたちはシーザーとかクレオパトラをちょこっと知ってるけど、通しての物語としては知らないでしょう。15年かけてあれだけの大作をお書きになったのはほんとに立派です。やっぱり男の読者が多いんですか。
塩野 ところがこのごろ女の人も読んでくれます。昔は4対1くらいだったんですが、いまでは5対5なんです。先生は人前でしゃべることって何ともないんですか。
瀬戸内 それはもう自分でいやになるくらい慣れています。
塩野 羨ましいですね。わたしはどうもみんなの前でのおしゃべりが苦手なんです。とくに瀬戸内先生のように8千人とか1万人とかの前ではとてもわたしにはできません。そういう人たちって先生に何を求めているんですか。
瀬戸内 それがこっちはわからないの。例えば天台寺という東北(岩手県二戸市)の荒れ寺を引き受けましたでしょう。そこはまったくお金がないんですよ。とにかく人が来てくれなきゃ困ると思って法話ということを考えたんです。わたしは50すぎてから仏門に入ったのでお経は下手ですが、話すことなら講演してるからできると始めたんです。そしたらマスコミが頼みもしないのに動いてくれて、ふたを開けたら山に千人も人が来たんです。次の月はもっとワーッと宣伝してくれたから、5千人、6千人と、あっという間に多いときはあの狭い境内に1万人を超す人が集まるんですよ。
塩野 なんかローマ法王みたいじゃないですか(笑)。
瀬戸内 その町の人口はたったの5千人。そこへ倍以上の人たちがバス150台で全国からやって来るんです。外国からも来る人がいます。寺があるのは本当に気の毒なくらい何もない田舎なんですけれど。
塩野 そういうとき先生のお話を一対一で聞きたいという人がいますか。
瀬戸内 います、います。だけどその暇がない。だから法話を一時間やったあとで、会場で手をあげてもらって一対一の一問一答の時間を持つんです。
塩野 なるほど。
瀬戸内 そしたら何千人もいるのに、平気で訊いてくるんです。他の質問者が目には入らないのね。まわりに他人がいるのを忘れて、「うちの亭主は浮気して、また浮気してます。どうしましょう」なんてそういう恥ずかしいことを質問してくる。それから「姑が嫌いで嫌いでたまりません。一緒に墓に入りたくありません」とか堂々と訊いてくるんです。その人はそのとき精神的には私と一対一なんです。
塩野 一万人の人が先生のお話を聞いている。そのときはどんなお気持ちでお話なさるんですか。一万人にそれとも一人一人に。
瀬戸内 会場には赤ん坊を抱えている人から90歳の人までいるんですよ。それをみんな満足させるなんて神業です。だからわかる人だけ聞いてくれればいいと思って話すんです。難しいことは言っちゃダメ。政治のことや仏教の難しいことは話さない。来た人は何か悩みがあるんですね。だから最初はみんな暗い顔をしてるんです。本堂の階段に立ってやりますから、そこからみたら表情がわかるんです。それが帰るときはホントに明るい顔になっているの。
塩野 それは国民栄誉賞もんです。いま日本人みんなを政治家や財界人が揃って暗くしているなかで、人の心をちょっぴりでも明るくすることは大変なことです。先生はそういう人たちにギブだけなんですか。それともテイクはーー。
瀬戸内 それがね、もう何年もやっていたら疲れてしまってね。あるとき何千人もの人に、この小さい体から精気を吸い取られているような気がしたんですよ。そうするとしんどーくなって、くたびれてわたしもう続かない、もうダメだと思ったんですよ。でもふっと視点を変えて考えてみたら、このわたしの小さな体が何千人の人から逆に精気をいただいているかもしれないと気がついたんです。そしたらまた体も気も元気になってきたの。
塩野 だってわたしたち物書きは、やっぱり読んでくれる人が一人でも多いほうが読者から元気をもらって、やる気が出てくるものです。
瀬戸内 たくさん読んでくれた証拠が売れるってことでしょ。
塩野 そうです。
瀬戸内 それが物書きにとっていちばん嬉しいんですよ。あ、これだけの人が読んでくれていたと。やっぱりそうでなければ書けないわね。
塩野 同感です。映画監督のフェデリコ・フェリーニをインタビューしたとき、彼が話していたわ。「映画をつくりたいようにつくるのは少しも難しくない。しかしつくりたいと考えているテーマをつくりたいようにつくりながら、かつコマーシャルベースにのせるのが難しい」って。そしてわたしはふーんと思いながら日本に帰って黒沢明監督にいったんです。そしたら黒沢さんは例の口調で「あったりまえじゃないか。客が入んなきゃ、なぜつくる気になんだよ」って答えたんです。
瀬戸内 まったくそうです。
塩野 もう一つ、読まないのは読者が悪いってよくいう作家がいます。でもわたしだって読まれないのは書き方が悪いんじゃないと反省くらいしますけどーー。ただ単に売れない売れないといってないで、書く側はもっと考えるべきではないかと思うんです。
瀬戸内 わたしもそう感じますね。また反対に売れる作家は低級だという。これは日本の文壇にずっとあったんですよ。売れる作家はバカにされていた。逆に売れない作家は純文学作家って祭りあげられたのね。
塩野 そうそう、ありましたね。
瀬戸内 有吉佐和子さんなんか売れていたでしょう。だから凄くいじめられたのよ。『群像』なんかに有吉佐和子、瀬戸内晴美なんてだれが書かせるかって、ずっと低級扱いされたんです。
塩野 わたしの処女作は中央公論に連載した『ルネサンスの女たち』で3千部でした。瀬戸内先生の最初の本は何部くらいでしたか。
瀬戸内 最初の本は小さな出版社が出してあげますっていってきたので、こっちはいそいそと書いて渡したたら、そこが刷ったのが5千部。そのころ5千部って多いんです。
塩野 そうですね。
瀬戸内 そしたらすぐ千部増刷しましたっていうの。でもお金を一銭もくれないうちに、ちょっとお金貸してくださいっていわれた。わたしは出版社と付き合うのは初めてだからわからなかったので、無理して貸してあげたんです。すぐ返してくれると思ってね。とうとうそれっきり。そこはそれから潰れたの。『白い手袋の記憶』ってわたしの処女作は結局まぼろしの処女作だったんです。
塩野 強烈なスタートだったんですね。
瀬戸内 そのあと『田村俊子』を同人誌で書いたのを読んでくれた文藝春秋のお偉いさんの車谷弘さんが「これはとてもいいから最後まで書いたらうちで出しましょう」といってくれた。文藝春秋から本が出るなんて嬉しくてすぐ書いた。そしたら車谷さんが本当に本にしてくれたの。そのとき「1万2千部でやりましょう」って。
塩野 凄いじゃないですか。 
瀬戸内 わたしも本当? って思ったの。でも実際に売れたのは4千部でした(笑)。当たり前のことですが、きっと販売部は、こんな名もない人を使ってと思ったんでしょう。
塩野 第3作の『神の代理人』のとき、「中央公論」の編集長だった粕谷一希さんに「やっと2百万円になりました」っていったら、「月ですか」って応じるから、「そんなはずないじゃないですか。年ですよ」と返すと、粕谷さんは気の毒そうな顔をして黙ってしまった。
瀬戸内 そう、若いとき筆一本でやっていくって大変です。明治の作家は、筆は一本、箸は二本ってやせ我慢していたんです。
塩野 わたしはどんなふうに作家生活を始めるか知りませんでした。古井由吉はわたしの高校時代の同級生で、彼がいうには「きみはだいたい同人誌の経験がないというのがすぐわかる。あんな長々と平然と書く」。
瀬戸内 だいたいあなたはスタートから違うのね、まさにサラブレッドね。
塩野 いつか山田詠美と対談したとき、顰蹙を買ったんですが「わたしたちは原稿売り込んだ経験がない」っていったんです。
瀬戸内 わたしもないの。ただ少女小説を執筆していたころ、奇特な出版社の社長がいて「あなた小説書いてても、うちの原稿料は安いしほかにあまり注文もなさそうだし、ほかの仕事をしながらされたらどうですか」といわれて、高校の先生になる試験を受けなさいって勧められたんです。でも勉強なんかしてないから、何が出るかわからない。試験場に行ったら大勢の人が並んでる。前の人に「ちょっとあなた悪いけどそのノートを覗かして」って見たのが出て、ヤマが当たって受かっちゃたんです。
塩野 わたしは、試験は弱いんです。瀬戸内先生は強運な人なんだ。
瀬戸内 教師になることを勧めた出版社の人が「せっかく通ったんだからいい学校紹介します」といって、いい女学校に赴任することになった。そのときわたしははっと気付きました。だいたいわたし、先生という仕事が好きなんです。女学校に行ったらいい先生になろうと夢中になってしまうから、もう小説は書けなくなると思って、土壇場で断わったの。
塩野 人生の岐路というか、どっちに曲がればいいかっていう瞬間はありますよね。わたしもある時期、特派員にならないかって誘われたことがありました。そうすれば生活は安定するなって思ったけど、やっぱり断わりました。
瀬戸内 岡本太郎がわたしに教えてくれたなかでいちばんいい言葉があるのね。それは人生の岐路に立ったとき、普通の人なら楽なほうを選びなさい。でも自分が芸術家になりたいなら危険なほうを選びなさいって。
塩野 危険ね。背水の陣ってことですか。
瀬戸内 あえて危険な道を選べって。それでわたし、それをわりあい守っているの。そうするとうまくいくんですよ。
塩野 寂聴先生の偉いところは公職について適度なお金をもらったりしないことですね。そういう人はいっぱいいますでしょう。
瀬戸内 ダメなの。ひとつのところにいるとそこの精気を全部吸い取ってしまうような気がするんです。わたし、年齢と同じくらい引っ越しているんです。男はそんなに替えられないから仕方ないですけど、でもそうしなきゃ前に進めない。
塩野 そう。男はあんまり替えられないから、わたしは作品の中の男を替えるわけです。それだったらわたしの心次第。
瀬戸内 でも結婚なさって息子さんもいるんでしょう。わたしは娘を四つのときから育ててないんです。ほかに何も後悔することはないんですが、これだけが悔いです。そういうといま六十いくつになった娘が怒るんですね。「みっともない、あんなこといって。いわないでちょうだい」って娘に叱られるんですけど、でも本当にそう思っているんです。
塩野 そうですか。それはーー。
瀬戸内 だって孫がもう30いくつになっているんですからね。でもね。一人子供を産んどいてよかったと思います。
塩野 いやーあ、絶対子供はいたほうがいいですね。
瀬戸内 絶対いたほうがいい。
塩野 結婚しないと、男に対する夢が残りすぎますね。
瀬戸内 そうそう。
塩野 子供を育てる喜びというのは、毎日毎日変わっていく動物を見ているような感じかな。言葉が通じるから猫とはちょっと違うのね。そう、わたしは子供を産んでおいてよかったと思います。ただ残念なのは3人か4人産んどきゃよかった。一人息子じゃスペアがきかない(笑)。
瀬戸内 でも孫ができますよ。あなたの息子さんは知的な方なんでしょうね、きっと。
塩野 そんなことありませんけど。わたしは息子のガールフレンドに一切会ったことがないんです。そしてもし彼が結婚したら、これだけは息子の奥さんに頼もうかと思っているんです。「あらゆることは一切、わたしはやる暇がないから、姑を持ったなんて思うな。そのかわり年に一回、息子と二人だけで食事をさせてくれ」って。
瀬戸内 うん、いいわね。家族はいらないとーー。
塩野 だって親はいかに上手にコミュニケーションが取れるようになるか考えながら子供を育てるでしょう。ところがお嫁さんというのはいかにして人間関係を保つかにこだわる。だから同じ愛情といったってやっぱり違うんです。
瀬戸内 たしかにわたしが育てていたら、こんなことはいわせないとか、こんなことはさせないということはありますね。そのたびにこれはすべてわたしが悪かったんだと思って、絶対子供にはいわないことにしているの。高校からずっとアメリカで暮らしているから、日本語があまり読めない。だからわたしの小説もわからないの。それでやれやれと思うんだけど。
塩野 そんなことはないですよ。わたしは息子に英訳を読んでもらっています。
瀬戸内 それは上等なものばかり残していらっしゃるじゃない。わたしは読まれたら困ることばっかり書いているから。
塩野 ただわたし、離婚した前の亭主に恨みを持ったことは一度もないんです。むしろ感謝しています。だってイタリア人医師である彼を通じて地中海文明に入れたんです。彼にとって地中海世界というのは体内に流れている血みたいなのね。だけどわたしみたいな奥さんが身近にいたら大変だったんでしょう。
瀬戸内 でも何年も一緒にいたんでしょう。
塩野 東京で産婦人科の学術会議があって、日本側の議長をした東大の教授が「きみたちはなんたることか。優秀な作家をイタリアの同業者に奪われて」っていったわけ。そしたらうちの彼が立って「いえ、あなた方は実に賢い選択をなされたんです。あなた方はうちの奥さんの書いたものを読んでいるだけ。ぼくはそれがつくられている過程を見てるんです」と反論した。ここまではよかったんですが、わたしはステーキみたいな女ですから、彼は、毎日はちょっと耐えられなくなったのでしょう。だから私のほうから本と原稿用紙とペンと息子とメイドを連れて出たんです。だからわたし離婚して2度とーー結婚は一度で結構だと思っています。瀬戸内先生はどうですか。
瀬戸内 だっていまさら考えてどうするの。
塩野 違います。離婚したあとの若いときはどう思われたのですか。
瀬戸内 わたしももう結婚はしたくなかった。だってね、相手が可愛そうだもの。いや最後の男と付き合っているときに、どうしても同棲しなきゃ相手が納得しなかったんです。本当は男のほうは結婚したかった。でもわたしはもう結婚はしたくなかったの。じゃあ一緒に住みましょう。表札も出しましょう。そこまでいったんですよ。すると初めは嬉しがっていたんだけど、だんだん夜、帰って来なくなる。真夜中に戻ってくるんです。わたしは仕事しているからいいんだけど、ちょっと気になって、「あなた、毎日毎日、夜遅いけどどうして? もうちょっと早く帰宅して早く寝たほうは体にいんじゃない」なんていったの。そしたらこの家に帰って来ると、わたしが仕事していてビーンと空気が張りつめていて、厚いガラスの戸をトンカチでぶち破って入らなければ入れないっていうの。それでつい飲んで酔っぱらった勢いで帰るんだっていった。
塩野 目に浮かびますね、その光景は。わたしは午前中しか書かないけれど、やっぱりそういう感じだったのかも。
瀬戸内 それでまだ彼はわたしより若いし、普通の結婚して子供をつくったほうがいいからと思い「あ、じゃ、もう別れよう。出て行っていいよ」といったけど、なかなかそうしないから、わたしが家出したの。
塩野 先生も出るほうなんだ。
瀬戸内 うん。
塩野 山田五十鈴は男と別れるとき、全部置いて裸一貫で出ていったそうです。何だかわたしたち似ていますね。
瀬戸内 少なからず作家は一人の時間がいります。一人の時間を持つということは孤独なこと。だからそれに耐えられなければ芸術家にはなれません。
塩野 だから、離婚するか初めから結婚しないかどちらだけど、まあ一回くらいは結婚したほうがいいですよね。
瀬戸内 一回はしたほうがいい。子供の一人でも産んだほうがいい。
塩野 わたしもそう思う。これはやっておいたほうがいい。
瀬戸内 女に出来て男ができないのは、子供を産むことだけなのよ。だから、経験になると思う。
塩野 わたし、(トルストイの小説で知られる)アンナ・カレーニナが少しずつ狂っていくのは、子供と会うことを拒絶されたからじゃないかと思ったんですけど、旦那なんて別れたってどうってことない。わたしの場合は別れるとき、あらゆるものは全部あげました。ただ子供はわたしが育てますといいました。すると向こうは、子供をイタリアで育てろ、そうでなきゃ許さんっていう。それで、日本に連れて来ることができなくなったわけです。
瀬戸内 そのためだったんですか。イタリアに居座ったのはーー。
塩野 でもね、わたしは犠牲になるなんていう言葉くらい大嫌いな言葉はないんです。だけどあのときはたしかにそうだったかもしれない。しかしあとで考えてみれば、イタリアにずっと居続けたことは、仕事をするためにはいちばんよかったんです。結局、わたしは何も犠牲にしていないんです。わたし、いつもそういうふうに考えるのね。
瀬戸内 あなたもわたしも好きなようにしているのよ。結局、二人とも自分本位でわがまま。自分の都合のいいように生きてきているんです。だから、周りは気の毒だけどしょうがないわね。
塩野 そうかもしれません。でも、ほかの人が享受していることは享受していないんです。
瀬戸内 でもあなたはまだわたしよりずっとお若い。だから、離婚をいつなさったか知らないけど、そのあと、結婚はしたくなくても男がいなくてはつまらないでしょう。
塩野 それは当たり前ですよね。でも、この話はやめておきましょう(笑)。 
何もかも本当は面倒くさい
塩野 男っ気がなかったら、歴史上の人物だって生き生きと書けません。わたしは2000年以上も前の男に恋情を抱けるんです。書いているときは、彼の胸の筋肉の感触まで感じましたね。
瀬戸内 えーっ!わたしはやっぱり現実の男のほうがいいわ。だって死んでしまった人間は恋情をかきたてても性愛は不可能でしょ。でもきっとローマ時代の男たちは魅力的なんでしょうね。塩野さんの本を読んだだけでも惚れ惚れする男がいっぱいいますよね。
塩野 わたし、男を見る場合、欠点よりもいいところはどこなんだろうと探すんです。そうすると大抵の男はいい男になってくる。
瀬戸内 たしかにそうね。でもイタリアの男は女に徹底的にサービスしてくれるんでしょう。
塩野 そんなことはありません。あれは伝説です。
瀬戸内 そう?でも映画に出てくるイタリアの男はみんな恋愛のテクニシャンじゃないですか。
塩野 イタリアに77歳でノーベル医学賞をもらった100歳の女の人がいるんです。さすがにしわくちゃだけど、お洒落なんです。頭の回転もきちんとしている。言葉遣いもちゃんとしていて理論的に話す。そして生涯独身だった。その彼女がニュース・キャスターの「どうしてあなたはこういう状態を保っていられるのか」という質問に、「わたしはね、明日やることがわかってるの」と堂々と答えたんで、イタリアの連中は仰天したわけです。
瀬戸内 凄いわね。それはわたしも負けますね。日本でも作家の野上弥生子さんや宇野千代さんは100歳前まで現役で仕事をして立派でしたよ。
塩野 そこでわたしも考えたんです。あんなに長生きして立派にいられるのは、常人じゃない。ただごとではない。だから凡人のわたしは体に悪いことをいっぱいして早く死んでやろうって。タバコは吸うわ、お酒は呑むわ、何はやるわ。わたしはあと10年書けたら本望と思っているんです。でもそのあと介護されるなんてまっぴら。若い介護の人に幼稚園児みたいな口調でいろいろいわれたら、わたし憤死するんじゃないかと思ってるんです。
瀬戸内 わたしもそうなったら、相手のおでこんで死にたいね。憤死したい。だけど人間には定命があって、そう思うように死ねないのよ。長生きして老残のみじめをさらすのも人生です。
塩野 寂聴先生は100歳まで生きそうですね。
瀬戸内 いや、もういや。みんな100まで生きるっていうんです。じっさいそうなったらどうしようかと思ってます。いま満で87歳ですよ。この正月で、数えで89歳です。
塩野 だから死ぬようなこと、体に悪いことを全部やればいいんですよ。でも先生はずっとお話しになるのよね。わたしは書くならちょっと自信があるけど、話すことってとてもいや。
瀬戸内 わたしももういや。何もかも本当は面倒くさい。
塩野 でも書いているとき、じっさいはわたし一人なんだけど、自分が書こうとしている人物がいっぱいそこにやってきて一人じゃないんです。
瀬戸内 それは書いて欲しい人があなたに乗り移るからですよ。そういうときは手が勝手に動くでしょう。それがいいのよ。自分の頭で書いているうちはまだ普通なんです。
塩野  あんまり考えないほうがいいみたい。
瀬戸内 あなたはあれだけの大作を書いているのよ。正気じゃ無理でしょう。あれは乗り移っているんです。わたしが『源氏物語』を書いていたときにも、このあたりに紫式部や源氏が来るのよ。何か肩のあたりがほうっと温かくなる。
塩野 たしかにそういうことってありますよね。
瀬戸内 書き出したら、さーっとくっついてくれるの。それで本当にちゃんと自分の思い通りに書けたときには、変な言葉だけどイッた!って感じない?(笑)。それで一気に疲れが飛んでしまう。
塩野 だけどわたしが書いた(ローマの将軍)ユリウス・カエサルは、ガリアに10年くらい遠征していますが、戦争をしている間はセックスが必要ではなかったと思うんです。
瀬戸内 ずーっと精神がイッてるから(笑)。 
慎重になりすぎていませんか
塩野 わたし、原稿に向かうと男になっちゃうんです。先生は書き上げたときには、編集者がお祝いしてくれるんですか。
瀬戸内 編集者によりますね。
塩野 それは脱稿したときより書店に並んだときですか。
瀬戸内 やっぱり売れたときじゃない(笑)。担当の女性編集者が泊まり込みで原稿を待ってくれたときは、なんとか仕上がると思わず抱き合って泣いたりする。そのあと、シャンパンで乾杯!
塩野 わたしは先生も師匠もいないし、文壇も関係ないんですが、寂聴先生は丹羽文雄一門なんていわれていましたよね。
瀬戸内 一門って言葉はいやだけれど、丹羽さんのところへ「文学者」の同人にしてもらって行っていました。丹羽さんはお金を出して「文学者」という同人誌をつくって後進の育成をされていたんです。作家でそんなことをされたのは丹羽さん一人です。そこは書き手がお金を出さないでも原稿を載せてくれました。そんなとこってないですよ。
塩野 偉いですね。
瀬戸内 丹羽さんは偉かったのよ。あそこから作家になった人はたくさんいるんです。河野多惠子さん、津村節子さん、吉村昭さん、竹西寛子さん、新田次郎さん、立原正秋さんでしょ。それにわたしでしょ。随分出ているんです。だけどわたしは丹羽さんを一度も文学の先生だと思ったことがないの。文学の世界には師も弟子もないのよ。盆暮れに挨拶に来ていないって、いわゆる弟子たちから悪くいわれていたらしいけれど、行かなかった。
塩野 ああ、なるほどね。そういうことってよくありますよね。
瀬戸内 そのうち、わたしが女流文学賞をもらったんです。丹羽さんも選者の一人として授賞式で挨拶してくれたの。「瀬戸内君はぼくの『文学者』の同人だけど、ぼくを師匠と思ったことは一度もありません」って(笑)。その意気がいいってほめてくれた。
塩野 わたしは丹羽文雄さんってゴルフばかりやっている作家だと思っていたのですが、大した男だったんですね。そういう鷹揚な人ってなかなかいませんよね。
瀬戸内 そうなの。授賞式のとき、わたしの気持ちをわかっていてくれたんだなと思って、胸が熱くなりました。尊敬できる人格の方でした。あなたはずっとイタリアに住むようになられて、何年になるんですか。
塩野 もう40年以上になります。
瀬戸内 外から見ると日本という国がかえってよく見えてくるんだと思うんですよ。どうですか、日本というところは非常に見苦しいでしょう。
塩野 そうですね。何かここではっきりいったほうがいいんじゃないかというときにはっきりいわない。事を荒立てないほうがいいというのが官僚の論理ですけど、それがすべてを支配しているような気がします。だから元気がないように見えます。慎重になりすぎているので、すべてはちっとも前に進まないのです。
瀬戸内 慎重というか、臆病というかね。
塩野 まあ臆病ですね。 
小沢さんは容貌コンプレックス
瀬戸内 昨年11月、オバマさんが日本に来たじゃないですか。そのテレビを見ていたら、鳩山由紀夫さん、オバマと遜色なくやっているんですね。まあ、よかったと思っていたら、そのうち鳩山さんがお母さんのお金をもらってたとかでワーッとみんなで叩き出したでしょう。自分たちで選んでおいてすぐダメだダメだといって落とそうとする。あれじゃ政治は続かないですよ。少しやらせてみたらいい。
塩野 減点主義というんですかね。そうじゃなくて、いい面をもっと見たらどうでしょう。よいところもやっぱりありますよ。いまの日本には寛容の精神がこれっぽっちもない。
瀬戸内 そうです。マニフェスト全部をすぐ実現しろといったって、それは無理ですよ。あの中の三つでも四つでもできたら大したものです。だからもうちょっと見てあげなければね。
塩野 マスコミは批判勢力であらねばならないということに縛られている。批判をしないとなんだか自分たちの存在理由がなくなると考えている。それが怖いんでしょう。外国から見て、日本の首相が1年ごとに替わるというのはみっともないことです。小泉政権は5年半持ったんですから、今度も衆議院議員の任期の4年くらいは続けてほしいと思います。
瀬戸内 わたしもそう思います。
塩野 まず鳩山さんは下品ではない。あとは知りません(笑)。でもそれは重要なプラスの面でしょう。
瀬戸内 第一、他国の首脳と並んだとき、背がちゃんと高いからいいですよ(笑)。
塩野 日本人としては高いほうでしょうが、もうちょっと背筋を伸ばしていただきたい。
瀬戸内 それはありますね。
塩野 外国人の中に入るとあれくらいの身長の人はたくさんいますから。
瀬戸内 奥さんが怖いから縮こまっているんじゃないかしら。
塩野 とにかくビシッとしてください。もしかしたら、そうすれば肉体的なことだけではなく日本の政治も背筋がビシッとするかもしれません。
瀬戸内 いつだったか、小沢一郎さんが、寂庵に来たことがあるんです。わたしのことだから、初対面なのに「あなたは容貌コンプレックスがおありなんですか」って訊いてしまったの。そしたら向こうはもじもじして困ってるのよ。
塩野 なんで、そのとき小沢さんは「あります」っていわなかったんだろう。
瀬戸内 でも、「あなたは非常にたくましいし、いい男です。あなたは豪快に笑ったら親しみが出ます。いつも怖い顔して睨んでると票が集まりませんよ。和顔施でいきましょう」っていってあげたんです。そしたらその翌日のテレビに出てにこにこ笑ってるの。それがまだ慣れてないから硬い笑顔でした。でもこのごろは随分笑うようになったわね。
塩野 日本の政治家は肉体的にも精神的にも背筋をもうちょっと伸ばして、笑顔を忘れないでいただきたいですね。民衆は必ずリーダーを見ていますから、その姿勢がいいと自分たちもだんだんそうなるものです。
瀬戸内 なりますね。
塩野 わが日本にいちばん求められているのは、背筋をピシッとすることじゃないでしょうか。
瀬戸内 とても重要なことですね。じっさいわたしの歳になると、油断するとすぐ猫背になってしまう。
塩野 いや、わたしだってそうですよ。
瀬戸内 だからいつも意識しているんです。 
わたしたちの死に方は
塩野 着物のときは、わたしみたいな着慣れてない人は帯揚げをのせる台を帯に通すの。あれやるとどんな人でも背筋はピシッとします。ローマでの外国人が集まるパーティのときは、母親のお下がりの着物を着て行きます。
瀬戸内 昔のものはいいからね。
塩野 なぜそれがいいかというと、わたしたち日本の女って洋服よりも着物のほうが背筋がしゃきんとするんです。
瀬戸内 着物は美しい。洋服だと宝石がいるでしょう。着物はそれがいらない。
塩野 わたしたちだけでも死ぬまで背筋をピシッとしていきませんか。
瀬戸内 あなたとわたしはすでに自然にそうしてますよ。
塩野 2000年前のローマの賢人たちは、年老いてちょっと危ないなって感じたときには、ひたすら水ばかり1〜2ヵ月呑んで眠るがごとく死んでいったそうです。先生もわたしも最後は、これでいくしかないですかね。
瀬戸内 天台宗の行に9日間、食事も水もとらないのがある。人間は水だけでも1月や2月生きられます。でも9日間、水も飲まないと死ぬんです。あなたのいう最後の水に葡萄酒をちょっと入れてはダメなの。
塩野 先生の大好きなどぶろくなんて入れたら、また元気になっちゃうじゃないですか(笑)。
瀬戸内 はっはっは。 
 
寂聴の言集3 

 

二股をかけていた彼に復讐をしたいと思うことは間違いでしょうか?
私の彼はオーストラリアに暮らしているイギリス人で、一年半の付き合いになります。私は日本にいるので遠距離恋愛です。彼に別の女性がいることを知ったのは、彼とつきあい始めた直後のことです。その彼女はオーストラリア在住で、もちろん私の存在は知りません。もちろん、私はそのことにショックを受けましたが、もう身体の関係もあり、気持ちものめりこんでいたので、彼と別れることができず、ずるずるとつきあってきました。しかし、最近、ちょっとしたことからオーストラリアにいる彼女が彼が二股をかけていることに気付きだしたようで、それで彼は私を敬遠するようになりました。「罪のない彼女を傷つけたくないから」と、ぬけぬけと言うのです。そんな彼を見て、私は別れることに決めました。私に対しては「君は二番目なんかじゃない」と言いながら、隠し通せるならば二股を続けたいと思っていた彼に失望してしまいました。しかし、ここで私がそのまま身を引いてしまうのも納得がいきません。このまま彼は何事もなかったようにオーストラリアの彼女と幸せになってしまうのは許せないのです。できるものならば、オーストラリアの彼女に彼の本当の姿を知らせて、彼女も私と同じように彼と別れてもらいたい。「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉を彼に思い知らせてやりたいと思うのですが、このような復讐の思いを持つのは間違っていますでしょうか。私の考えていることは醜いことだとは知っていますが、このままで引き下がるのでは悔しくてなりません。(30代女性)

復讐をせずにはいられない、というのであれば、やっておしまいなさい。今のままだと、どうせあなたは彼に対して未練を持ったまま、ずっと引きずって生きていくことになります。元はといえば二股をかけた彼も悪いのですし、そんな彼とつきあっているオーストラリアの女性もいずれ同じような目に遭うに決まっています。ですから、どんどんやって、彼を懲らしめてやればいいのです。
こんな回答をすると、世の中の常識人は「坊さんのくせに不謹慎な」と言うかもしれませんが、しかし『源氏物語』を読めば分かるように、1000年の昔から女性たちは、男の勝手な理屈で苦しんできたのですから、この程度の煽動をしたってちっとも罰は当たらないと私は思っているのです。
もちろん紫式部の書いた『源氏物語』はフィクション、作り事です。しかし、上質なフィクションはフィクションでありながら、世の中の真実を伝えてくれます。
『源氏物語』の中に出てくる姫君たちはみな魅力的でありながら、誰一人として幸せになれませんでした。それともいうのも、彼女たちは光源氏というたぐいまれなハンサムの、しかし身勝手な男に惚れてしまったからでした。
光源氏は口先では、それぞれの女性たちに甘い言葉を投げかけ、生活の保障もしますが、しかしながら、一人の女性に満足することはできずに、さまざまな逢瀬を楽しんでいく。そんな源氏の行状に対して、平安時代の、男性上位が当たり前だった社会に暮らしていた女性たちでさえ、嫉妬から自由になれなかったのです。あなたが青い目の「源氏もどき」に対して復讐を考えるのは当たり前の気持ちです。
もちろん、そうやってオーストラリアの彼女に対して、告げ口をするのはけっして美しいこと、褒められたことではありません。あなたの言うとおり、醜いことでしょう。でも、そうでもしないと気が済まないあなたの気持ちも本当でしょう。だから、私は止めません。不謹慎かもしれませんが、「懲らしめておやりなさい」と言ってしまいます。
でも、そうしたから胸がすくとは保証しませんよ。そんなことをした自分がいやになるかもしれません。でも、黙ってウジウジしているよりも、やってしまったほうがケリがつくというものです。
あなたの未練を断ち切るためにも、彼を懲らしめておやりなさい。 
借金返済のため、子どもの養育のため、風俗で働きたいのですが、これは罰当たりですか?
子持ちのバツイチの会社員ですが、借金があります。会社の給料が少ないので、借金返済のため、風俗でのアルバイトを考えています。人に言えないようなバイトですし、精神的に辛くなる時があるでしょうが、子どものためにも覚悟を決めるしかないかなと思っています。仏さまはこのような人間のことをどう思われるのでしょうか。(30代女性)

はっきり言いますが、そうやって身体を売ってお金を稼いだところで、あなたの借金は減らないでしょう。むしろ簡単にお金を稼ぐことを覚えたことで、ますます金遣いが荒くなり、生活がさらにすさむことになるでしょう。その結果、もっともっとひどい状態に堕落することは目に見えています。
それを昔の人は「悪銭、身につかず」と言ったのです。もちろん、仏様もそのようなことはお認めになるわけがありません。
かといって、借金が多すぎて、いくら耐乏生活をしても返せるあてがないというのでは困りますね。どういう理由で借金が増えたか、その事情は分かりませんが、しかし、結局はあなた自身が蒔いた種であるのだろうと思います。
体を売るだけの覚悟があるのであれば恥をかいても、ここは弁護士さんや司法書士さんに相談して、自己破産をするなり、借金の整理をしてしまうなりして、ゼロからおやり直しなさい。そして、子どものためにも身を慎んで、借金のない生活を送るようにしてください。
「お金さえあれば問題が解決する」と思っているかぎり、あなたは不幸の連鎖から抜け出せません。 
主人の稼ぎがまったく増えず、将来が心配です。
6歳と3歳の子どもを持つ専業主婦です。子どもが成長し、何かとお金がかかるようになってきたのですが、主人の稼ぎがまったく増えません。私がパートに出ればよいのですが、最近近所で物騒な事件があったこともあり子どもを置いて働きに行く事はとても心配です。この先まともな生活をしていけるのでしょうか。(35歳女性)
仕事のできない夫に不安を感じています。
夫がいつ会社をクビになるか分かりません。結婚前は私の稼ぎの方が多かったので、いっそのこと私が働き彼が、子育てをしたほうが良いのではないかと考えています。しかし私の提案を、夫が素直に受け入れてくれるとは思いませんし、彼を傷つけたくありません。どうすればよいでしょうか?(32歳女性)

似たような悩みが二つ来ているので、一緒にお答えしましょう。
この悩みもさきほどの女性(相談8)と同じことです。いろいろ心のうちに悩みを溜め込んでしまわずに、ご主人にあらいざらい現状を伝えて、「このままでは暮らしていけないから、どうしたらいいだろう」「私が働きに出たほうがいいと思うけれども」と相談してみることです。こういうことは一人で悩んでいても、何の解決にもなりません。
夫には相談せずに、実家に援助してもらうという考え方もあるかもしれませんが、まずは夫婦の間でちゃんと向き合って、徹底的に話し合ってからでないと、それではかならず後悔することになりますよ。お二人の家庭、お二人のお子さんのことですから、とにかく夫婦で話し合うことが先決です。
そういえば、こんな話をつい先日ありました。
私が昔からよく利用していたホテルなのですが、そこが経営難に陥って、とうとうリストラをせざるをえなくなりました。私が泊まるたびにお世話をしてくれたホテルマンの男性も──その人は実に優秀な人だったのですが──リストラの対象になったというので、私のところに退職の挨拶に来られたのです。
ところが、その人はあんまり困ったような顔をしていなくて悠然としています。
そこで「仕事がなくなって、おうちの方はびっくりしたのじゃないの?」と聞いてみると、その話を聞いた奥さんも娘さんもお父さんを責めるどころか。「お父さんもずいぶん長い間、休みもなく家族のために働いてきたんだから、休みを取るちょうどいいタイミングじゃない」と言ってくれ、娘さんなどは「お母さんもずっとお父さんを支えてきたから疲れたでしょう。せっかくだから二人で旅行でも行ってきたらどうなの?お金くらいは私が出してあげるから」と言ってくれたそうなのです。
そのホテルマンの人も、会社を首になったと聞けば奥さんも娘さんも大騒ぎをするだろうと暗い気持ちになっていたのに、かえってそうやって優しい言葉をかけられて、自分は幸せ者だとつくづく思ったそうです。
もし、このホテルマンの男性が悩みを抱え込んでしまって家族に相談しなかったら……いったいどうなっていたか分かりません。
最近聞いたところでは、その人は前の職場よりもずっといいホテルに転職できたそうですよ。もちろん、優秀なホテルマンだったからこそ、そうしたスカウトもあったのでしょうが、しかし「自分には支えてくれている家族がある」という自信がその人の中にあったから、幸運が訪れたのだと私は思っているのです。
一人で悩みを抱え込んでいると悪いほうに悪いほうに考えてしまいがちです。お金が足りないのは事実なのですから、それを思い切ってご主人に伝えて、二人で一緒にどうやって乗り越えていけばいいか考えてみてください。一人で考えるよりは、二人で考えたほうがまだいいアイデアが出るかもしれません。
それに何も夫婦は、夫のほうが仕事をして家庭を支えなくてはいけないというわけではありません。女性が外で働いて、男性が「内助の功」を発揮しているカップルは昔からいました。
私が直接知っている範囲でも、つい先年(2007年)、他界なさった作家の大庭みな子さんのご家庭はそうでした。
大庭さんのご主人の利雄さんは東大の工学部を出たエンジニアで、立派な会社の重役をなさっていましたが、「妻のほうが私よりもずっと才能があるから」と、大庭さんの秘書役を務めるため、進んで自分からさっさと会社をお辞めになりました。私たちが大庭さんのご自宅にうかがうと、ご主人の利雄さんが台所に立ってリンゴを剥いたり、お茶を出してくださったことを思い出します。そんな利雄さんに対して奥さんの大庭さんは「それが当然」という顔をされているのですが、利雄さんのほうもとても幸せそうになさっている。
この情景を見て、私は「こういう形の夫婦の幸せもあるのだな」とつくづく思ったものでした。相手の才能を伸ばしてあげるためには自分を犠牲にしてもいいというのは、男でも女でも変わらないのでしょう。大庭さんは晩年、病気で寝たきりになってしまいましたが、ご主人が車いすを押し、大庭さんの小説を口述筆記して、本当に最後の最後まで作家・大庭みな子の才能を支えておられました。
話が長くなってしまいましたが、たとえ収入が少なくて、ご主人が内助の功に徹して、奥さんが働くことになろうと、それで夫婦が納得しているのであれば、世間がなんと言おうとかまわないではありませんか。大事なのは夫婦が真正面から向き合って、会話をすることです。何かと不景気な世の中ですが、だからこそ、二人で支え合って生きてほしいと思います。
世間の目なんて関係ない。大事なのは夫婦が真正面から向き合うことです。 
人と仲良くなれない私。このままではダメですよね。
両親の仲が悪く、愛情関係の薄い家庭で育ったせいか、子どものときから人の好き嫌いが激しい自分のあり方に悩んでいます。ことに嫌いな人に対しては、口も利きたくないし、目も合わせたくないというくらいの状態です。こういう性格ですから、会社に勤めていてもうまくは行きません。特に初対面の人との会話は苦痛に感じるくらいです。「このままではいけない」とは思っているのですが、なかなか変わることができません。(40代女性)

詳しくは書かれていないので分かりませんが、きっとあなたは子ども時代から何事も斜に構えて見る性格で、他人のいいところよりも欠点のほうが先に目についてしまうタイプなのでしょう。
だから、ひとたび他人の嫌なところを見つけると、その人が許せなくなるし、そばにもいたくないと思ってしまう。
そうしたあなたの気持ちは間違いなく相手にも伝わっているはずですから、相手だってあなたに好意的に接してはくれません。これでは悪循環の繰り返しで、心の許せる友人ができなくてもしょうがありませんね。
人間というものは、相手が自分に好意を抱いていると感じると、好意でお返ししたくなるし、逆に悪意を抱かれていると思うと、悪意でお返しをしたくなる性質を持っているのです。猫や犬だって、動物が嫌いな人間のところには近寄ってこないじゃありませんか。人間もそれと同じです。好かれているか、嫌われているか、すぐ分かるものです。
だから、これからのあなたは世間の人に対して、できるかぎり好き嫌いのハードルを下げて生きていくようにしてください。あなたも私も含めて、人間というのは欠点だらけの生き物です。あなたのように他人の悪いところ、ダメなところばかり探していれば、たとえ最初はあなたに対して好意的に接していた人でも離れてしまうのは当然です。
さらに言えば、あなたからすれば欠点にしか見えないことでも、他の人から見れば美質になることだってあります。あなたの「秤」の尺度がつねに正しいとは限らない。そのこともよく心に刻んでほしいと思います。
とはいえ、世の中にはどうしても「この人は苦手」という人間はいるものです。そういう人に対してまで好意的に接しなさいとまでは言いません。むしろ、苦手な人、嫌いな人と一緒にいると、知らず知らずのうちにあなたの中に悪意という毒が溜まってきます。ですから、なるべくそのような相手には近寄らないようにしましょう。
そのように心がけたうえで、多少は他人を見る目を甘くして、今までは嫌いな人が七で、好きな人が三というくらいの割合であったとしたら、それを五分五分にするくらいの努力をしてみてください。
相手のいいところ、長所だけを見るようにして、あえて欠点には目をつぶるようにしてください。そうしていけば、やがて相手もあなたのいいところを見つけてくれるはずです。
あなたはきっと子どものときから繊細で、だからこそ相手の嫌なところも見えてしまうたちだったのでしょうが、その繊細さを今度は相手を思いやる方向にむかって使っていけば、きっと人間関係もがらりと変わっていくと思いますよ。自分だって、人から嫌われているかもしれないでしょう。でも、それを許されて生きているのです。
人はみな許されて生きている──そのことも覚えていてください。
どうしても嫌いな人ならば、つきあうことはありません。でも、多少は他人に寛容になってみましょう。世界が変わります。 
会社の先輩のイジメに苦しんでいます。でも会社は辞めたくありません。
自分は文句を言うだけで、仕事を人に押しつけてばかり──ところが皮肉なことに、そんな先輩から押しつけられた仕事で上司に褒められました。それ以来、彼女からの風当たりが強いのです。いわれのない陰口も叩かれ、精神的に辛いものがあります。それ以外は会社に不満はないので、辞めたくありません。お局様からのいじめはどうしたら回避できますか?(23歳女性)

どんな職場にも、そんな人がいるものです。自分も努力をすればいいのに、あなたのように仕事ができる後輩や同僚がいると、それに嫉妬をして陰湿ないじめをする下劣な人は、昔からいるのです。
もちろん、あなたは辞める必要はありません。一番簡単なのは、そんなお局様なんて、相手にしないことです。きっと彼女にいじめられているという同僚はほかにもいるはずですから、逆にみんなで結束して反撃するくらいでも悪くはないと思います。
とにかく大事なのは辛抱しないこと。黙って我慢していると体や心の調子が悪くなってしまいます。もし、それでも彼女がいじめを辞めたりしなければ、上司にはっきりと伝えて対処をしてもらうのも一つの手段かもしれません。
ただ忘れてほしくはないのは、あなたも仕事を続けていれば、いずれはこのお局様みたいに煙たがられる存在になる、ということです。
今、あなたをいじめている先輩にしても、同じように先輩からいじめられた過去があるのかもしれないし、また、先輩から見るとあなたは生意気で、礼儀を知らない後輩に見えているもかもしれない。せっかくあなたは仕事ができるのですから、そうしたことをちょっとだけ想像するゆとりも持ってほしいと思います。そうでないと、やがてはあなたも、そのお局様と同じようになってしまいかねません。
そんな先輩に負けてはダメ。でも、あなたもやがては「嫌われる先輩」になることを忘れないで。 
好きな仕事に就いていますが、収入がなくてぎりぎりの暮らし。それでも働きつづけるべきですか?
仕事のことで相談させてください。あと数年、今の仕事を続けたのちに独立したいと考えていますが、それまではずっと服も化粧品も買えず、惨めな生活が続くのかと思うと心配で仕方がありません。転職さえすれば経済面は好転しますが、今の仕事は好きなのでそれも諦めたくありません。それでも今の仕事を続けることに価値はあるでしょうか。(28歳女性)

今の世界は不安に満ちあふれていますね。
世界的な不景気で職を失う人が増えているし、日本の社会も少子高齢化でこの先、どうなるのか分からない。あなたが「まだ27歳だというのに、ろくにお化粧やおしゃれも愉しめない生活で大丈夫だろうか」と悩む気持ちはよく分かります。
しかし、そうした暗い面だけを見つめていると、ますます不幸になっていくばかり。お釈迦様は人生は苦に満ちているとおっしゃいました。人は誰もが苦しみや悩みを抱えていますが、けっして不幸なことばかりではありません。
ご相談をお聞きすると、あなたも自分のやりたい好きな仕事に就いているということですね。この就職難の時代に、自分の好きな仕事ができるということは、それだけでもとても幸福なことではないですか。不安や心配はたくさんあるとしても、その幸運をまず感謝するようにしてください。そうやって感謝の心を持っていれば、自然ともっと幸せになれると思います。
たしかに、お給料が少ないのは何かと不自由でしょうが、他人と比べたりせずに「若いうちはみんなそういうもの」と思えば、苦にならないのではないかとも思います。もうちょっとだけ辛抱して、好きな仕事に集中してごらんなさい。きっと、もっといいことが起きるはずです。また、お化粧しないで、スッピンでも仕事ができているあなたの若さにも自信を持ってください。
不幸を嘆くよりも、自分の幸せを感謝してごらんなさい。きっと、もっといいことが起きるはず。 
夫の愚痴に疲れ果てました。
今年から主人の転勤で、とある田舎町に引っ越してきました。休日に気分転換をしようにも周りには娯楽などいっさいなく、友人や親戚も近くにおりません。夫は夫で会社での悩みを家庭に持ち込み、私の話を聞いてくれるどころか、愚痴しかこぼしません。どうすればこのような毎日から抜け出すことが出来るでしょうか。(24歳女性)

夫婦といえども、しょせんは他人。
あなたが環境の変化に苦しみ、夫の愚痴を聞くのに疲れ果てていても、それをはっきりと口に出して言わないかぎり、相手が分からなくてもしょうがありません。
ご主人は、あなたに甘えきっていて、だからあなたの悩みに気がつかないのです。世の男性の多くは、自分の奥さんのことをまるで自分の母親のように思っていて、いくらでも甘えていいと考えているのです。しかし、そんなことは女性からすれば、たまったものではありません。
あなたは「はっきり言わなくても、いつか夫は私の悩みに気付いてくれるのではないかしら」と期待しているのでしょうね。でも、ご主人が気付くころにはあなたのほうがきっとダメになってしまいますよ。
だから、はっきりと「あなたの愚痴につきあわされるのはもう真っ平よ」と言ってしまいましょう。多少の摩擦を恐れるようでは、本当の愛情関係は築けません。「イヤなことはイヤ」とはっきり伝えるのも、ときとして大事なことです。
もし、それでご主人が怒って、あなたのつらさに同情してくれないようならば──まだ、あなたは若いのですから、いくらでもやり直しがききます。昔ならば、離婚すれば女性は傷物扱いされたものですが、今はそんな時代ではありません。じっと我慢したりせずに言ってしまいなさい。おたがいに本音をぶつけあってこそ、夫婦というものです。あとは「雨降って地固まる」という結果になるかもしれませんよ。
夫婦といえども、しょせんは他人。黙っていたら、あなたの気持ちは伝わらない。 
死後の世界はあるんですか?
中三男子です。僕は死後の世界のことが頭から離れなくて、すごくしんどいです。僕には両親も祖父母も全員いますが、「その人たちが死んでしまうと無になってしまうのか」と思うと辛いこと、この上ないのです。でも、そんなことは死んでみないと分からないと思うと、悩んでいる自分がバカに思えて、いらいらします。前世や来世があるんだというスピリチュアリストの人の話を信じたときもありますが、小さな子どもが「空からお母さんが見えたから、僕はお母さんのお腹に入ったんだ」みたいなことを言った、だから前世はあるんだといった話を聞くと、やはり疑わしい気がします。それに死んで無になるのも怖いですが、死んでも来世があって「魂は永遠に生きる」と言われると、それもすごく怖いです。ここまで読んでくだされば分かるでしょうが、僕はいつも他人の意見に流されてしまうのです。でも、僕は未熟者なので精神的な支えがないと強く生きられなくて辛いのです。どうか、今を真剣に生きられるようにアドバイスをください。できれば、死後の世界について信じられるような意見を教えてください。お願いします。(10代男性学生)

死後の世界は、はたしてあるのか──あなたはまだ若いからご存じないでしょうが、少し前の日本では、インテリを自称する人たちの間では「死後の世界なんか、ない」という思想がずいぶん流行ったものでした。宗教などは麻薬のようなもので、そんなものにかぶれるのは堕落だというわけです。
『多情仏心』などの数々の名作を遺した里見ク先生は、志賀直哉や川端康成といった人たちと一緒に文学活動をなさっていた作家ですが、その晩年、私はずいぶんこの里見先生に親しくしていただきました。里見先生も戦前の東京帝国大学文学部を出たようなインテリですから、やはり「死んだら無である」という考えの持ち主で、すでに出家していた私に対しても、そう断言しておられました。
その里見先生は、お良さんという、以前は芸者をしていた素敵な女性と一緒に暮らしておられました。先生には本妻、つまり戸籍上の奥様もおられたのですが、ずっとそのお良さんと暮らしていたし、それを世間にも公開しておられた。
私が里見先生と知り合ったころには、そのお良さんはすでに亡くなっておられました。お良さんと死に別れても、先生がお良さんのことを今でも愛しておられるのはよく存じていましたから、「人間は死んだら無になるとおっしゃるのならば、先生はあの世でお良さんと再会することもできないのですか」とお聞きしました。
すると里見先生は即座に「うん、たとえお良であろうと会えるわけはない。死んだら無だ」と断言されたのです。
さて、それからどのくらい経ってからでしょうか、里見先生が京都にお越しになって、私にご馳走してくださるとおっしゃいます。
招かれたのは「大市」というすっぽん料理屋さんでしたが、店に上がったところで、里見先生が「おい、お前さん、そこでチンしてやれ」とおっしゃいます。
「チンしてやれ」とは何だろうと思ったら、その大市の玄関を入ったすぐのところには、なぜか大きな仏壇がある。そして、その仏壇にはちょうどそのころ亡くなった大市の先代の女将の真新しい位牌があった。
ああ、なるほど「お前さんは出家者なのだから、亡くなった女将さんの回向をしてやれ」ということなのかと合点して、私がそのお仏壇の前に座って、鐘を叩いて拝むと里見先生はにっこりと微笑まれた。そのときの笑顔を私は今でもよく覚えています。
さて、このときの里見先生をあなたはどう思いますか?
私は、普段から「人間は死んだら無になるのだ」と断言していた里見先生が「大市」の玄関で私に「チンしてやれ」とおっしゃったことはちっとも矛盾したことではないと思っているのです。
たしかに私もあなたも、まだ死んだことがないのですから、果たして本当に天国や極楽があるかどうかは分かりません。ひょっとしたら、里見先生がおっしゃるとおり、死後の世界などはなくて、人間は死んだら無になってしまうのかもしれません。
しかし、かりに死んだら無になるとしても、亡くなった人の記憶は私たちの中にずっと生きています。それは断言できます。
私ももう90近くになって、たくさんの人たちをあの世に見送って来ましたが、その人たちの思い出は私の中に今でも鮮やかです。すでに里見先生もその中のお一人になられましたが、あの「大市」の玄関で、私が仏壇の前で拝んでいるのを見ておられた里見先生の笑顔は今でも私の脳裏に鮮やかに焼き付いています。
私たちが仏壇やお墓に向かって手を合わせるのは、単純に死後の世界や霊があると信じているからだけではありません。亡くなった人たちの記憶を私たち自身が大切にしたいと願うからこそ、お墓や仏壇を作るのです。
そしてもし、私やあなたが死んで無になったとしても、私たちのことを覚えている人がいて、ときどき思い出してくれてお墓参りをしてくれるのだと思えば、それで少しは心が安まるというものではないかと思うのです。
里見先生が私に「チンしてやれ」とおっしゃったのも、霊魂があるかないかとは関係なく、亡くなった人に対しては礼を尽くすのが当然だと思われたからでしょう。知った人の仏壇やお墓があれば、そこに手を合わせてお参りするのは宗教以前の問題です。
それにしても、まだ中学生になったばかりなのに、あなたがこうした哲学的、宗教的なことに興味を持つというのは素晴らしいことだと思います。せっかくですから、思いを定めて、今のうちから思想家や宗教家になることを目指して勉強してみたらどうでしょうか。
といっても、それには本を読むだけではなく、お寺に行って参禅をするとか、あるいはキリスト教会に行って神父さん、牧師さんのお話を直接聞くということが大事です。
今のように一人で引きこもって考え込んでいたら、きっとノイローゼになります。とりあえず今は一つの宗教、思想に決めずに、いろんな人に会って、たくさんの本を読んで、いろんな人生の疑問をぶつけることをお薦めします。そうしていくうちに、自然にあなたの道が拓けていくはずです。
私は小説家ですが、小説家を志したのは、たくさんの本を読み、その魅力に惹かれたからです。私の読んだ本を書いた人は生きている人もありましたが、死んでしまった作家もたくさんいたのです。死んだ人の書いたものが、若い私の精神を揺さぶったということは、その人の命が続いているということではありませんか。
私も死んだことがないので死後の世界があるかどうかは知りません。でも、かりに死後の世界がなくても、亡くなった人たちの記憶は私たちの中に生きています。 
会社を辞めてでも、余命いくばくもない母親の側にいるべきでしょうか?
母親が末期癌で「余命半年」と宣告されました。父親は定年退職しているので母親のそばにいることはできるのですが、やはり年老いた父だけに任せるのは心配です。しかし、私も仕事の都合で長期の休みをとる事ができません。介護のために今の会社を辞めようかとも考えましたが、その後の再就職ができるかどうかが心配で、なかなか踏み切れません。仕事を辞めて母親のそばに居ることが正しいのでしょうか?(34歳女性)

日本もいよいよ本格的な高齢化社会に入ったので、このごろはこうした相談を受けることが多くなりました。病気で苦しんでいるお年寄りも気の毒ですが、その面倒を見る子どもたちもみな苦労をしています。本来ならば、社会全体でこうした介護の問題を解決していくべきなのでしょうが、残念ながら今の日本にはそうした仕組みがよくできていません。
癌の宣告を受けたお母さんの介護をしたいというあなたの優しい気持ちはよく分かりますが、しかし、お母さんはきっと「あなたのその気持ちだけで十分」とおっしゃるに違いありませんし、ここで仕事を辞めてしまったとしたら、やはりあなたは後悔すると思います。
相談のお手紙では、どんな会社に勤めているかは分かりませんが、せっかく10年近くも勤めてきたキャリアです。たとえ介護のためとはいえ、ここで会社を辞めてしまったら、今のご時世では再就職はむずかしいと思います。
それにあなたのお父さんはすでに退職なさっているのですから、たとえ蓄えがあったとしても、入院費用などがかかります。仕事を辞めたら、そうした費用をどこから得るつもりですか。また、あなた自身の生活費だってかかることでしょう。そのお金だってバカになりません。
ご両親に対して孝養を尽くしたいというあなたの気持ちは尊いものですが、もうちょっと落ち着いて考えてみてください。
どんなに深い思いがあっても、人間のできることには限りがあるものです。冷たいようですが、あなたが会社を辞めて看病したとしても、いつかはご両親はあの世に旅立ってしまわれます。しかし、あなたにはその後の人生が待っているのですから、軽々に会社を辞めるという選択はしないほうがいいと思います。
ましてやあなたのような優しい人は、きっとお母さんを見送られたあとは深く気落ちをして、「もっと看病をしておけばよかった」「こういうことをしてあげばよかった」と自分自身を責めるに違いありません。そんなふうに思い詰めないためにも、仕事という心の支えがあったほうがいいのではないでしょうか。
世間ではとかく「親の介護は当たり前」と無責任に言ったりもしますが、そんな簡単な話ではありません。どれだけ手厚く介護をしても、介護をした配偶者や子どもたちに後悔は残るものですし、また、後に残された人たちにはその後の人生が待っているのです。介護の相談はたくさん私のところにも持ち込まれてきますが、簡単に答えが出るものではありません。本当にむずかしい問題と思います。
人間のできることには限界がある。あなたのできる範囲で親孝行をしなさい。 
教師も生徒もやる気のない学校に失望しています。
私は今、昔からの夢である教師になる為に、大学の教育学部に通っています。しかし周りには真面目に通っている友人はおらず、授業中に電話するような学生さえいます。しかし、そんな学生に対して大学の先生も何の注意もせずに淡々と講義を進めているだけ。学校の先生からは何の情熱も感じません。「この大学から教師になるのはかなりむずかしい」と言っている先生もいるくらいです。いっそのこと、こんな大学は辞めてしまって、通信教育などで教員免許を取ったほうがいいのかもしれないとも思いますが、親に苦労をかけてまで入った大学を簡単に辞めるのも申し訳ないと悩んでいます。寂聴先生、どうしたらいいと思われますか?(19歳男性学生)

あなたには「教師になりたい」という明確な夢と志があるのですから、他の人が何をしようとどうだっていいではないですか。なぜ他人のことを気にする必要があるのでしょう。むしろ、周りの人たちがそれだけ堕落しているというのであれば、「せめて自分だけは立派な先生になろう」と、高い志を持ってください。
たしかに授業中に携帯電話をする同級生や、自分が奉職している学校の悪口を言う先生は困ったものだと思いますが、そんな人たちの存在に心を乱す時間がもったいないというものですよ。大学の先生たちも頼りないのであれば、大学の図書館に行って自分で勉強なさい。そして、そこにある古典や名著を片端から読んで、自学自習すればいいのです。
そうすれば道はおのずから拓けます。せっかく入った大学なのですから、わざわざ辞めて回り道することはありません。
教授の中にも、かならず立派な人も一人や二人はいるはずです。そういう人を見つけて体当たりで教えてもらいなさい。
「親に苦労をかけてまで」という言葉を聞き、涙が出ました。あなたは真面目なだけでなく、実にやさしい心根の青年なのですね。あなたのために祈ります。
周りと自分を比べないこと。自分の高い志と夢を信じて、一人で進みましょう。 
やはり女性は「見た目」でしか評価されないのでしょうか?
保険会社で生命保険のセールスをしています。入社5年目で仕事もすっかり覚えてきて、それなりに結果も出してきたつもりですが、上司が昨年入社したばかりの可愛い女の子にばかり、いい仕事をふり、私にはチャンスを与えてくれません。周りにも相談しましたが、誰も理解をしてくれません。どうすればよいでしょうか?(27歳女性)

あなたの言うとおり、世間では──特に男性たちは──少々おつむが弱くても、見た目のかわいい女性をかわいがるものですから、見た目のいい女性のほうが得をしているように見えます。
しかし、そうやって周囲からちやほやされて、それに甘えていた女性は、結局のところ、鍛えられることがないから仕事で伸びていくことはない。それに比べて、理不尽な扱いに悔しい思いをした女性は自分なりに勉強し、努力をしていくから才能が伸びて、結局は周囲が認めてくれるものです。だから、今、あなたの後輩が職場の男たちに甘やかされていたとしても、そんなことで心を乱している必要はありません。
入社五年であなたはそれなりの成果を上げているのですから、すばらしいことではないですか。あなたの誠実さが人の心を打った証拠です。他人と比べず、「自分は自分」というプライドを持って、胸を張って生きてください。
それに、あなたのように若いうちに世の中で苦労した人のほうが、恵まれてぬくぬくと育った人よりも、他人の心の痛みが分かる人になれます。「友だちにするならば、不幸を味わった人のほうがいい」という言葉をあなたにプレゼントしましょう。どうかこれからも好きな仕事に打ち込んでください。
友だちにするならば、不幸を味わった人のほうがいい。 
 
寂聴の言集4 

 

祈り。幸せな時にはありがとう。苦しいときには力を下さい。淋しいときには聞いて下さい。いつも地球のすべての人が幸福で平和でありますように。
初鏡ひめごともなく拭き清め
何事も、感謝されたいと思って何かをするのではなく、そうさせてもらえることを自分自身で感謝することが大事です。
心和らぎ、気平らかなる者は、百福自ずから集まる。
和やかな心の人のまわりには人が集まり、自ずと多くの幸せが集まってくる。
人間はたいてい笑ったときの表情がいちばん美しい。誰に会っても、まずニッコリ微笑みましょう。それが和顔施(わがんせ)です。
人間は、自分しかもっていない個性と資質に誇りをもって、わが道を独りでも行くという気概をもつことです。
人間が他の動物と違うところは、心に誇りをもつことです。いまの日本は人々が土地や国に対する誇りを忘れ、だめな国になっています。
「耐え忍ぶことこそ、最上の行。苦しさに耐え忍ぶことこそ、この上なく涅槃なり。」法句経184番
仏教では、悪事をせず、善を行ない、ただ耐え忍べと教えています。私たちは苦しいことにであったとき、この教えを思い出しましょう。 
ひたすら耐え忍ぶしかない苦に出会うのは、この世の定めだからです。しかし、その忍耐の彼方に、必ず涅槃の喜びがあることを信じよと、釈尊はさとされています。
仏教の教えに「殺すな、盗むな、嘘をつくな」というのがあります。しかし、日常生活において嘘をつかないというのは、とてもむずかしいことです。
「さあいそいで、自分のより所をつくること。早くいそいで努めること。知恵を身につけ、汚れをはらい、罪科を清めなさい。そうすれば老と死は遠ざかる。」法句経238番
「心は虚空に似ている。知らないうちに汚れてしまっているから。心は猿に似ている。いつももの欲しげで、様々な業をつくるから。心は怨敵に似ている。すべての苦悩を引き起こすから。」大乗仏教「大宝積経」「迦葉品」
心は移ろい易く、捕らえ難く、なかなか自分のものでありながら、自分の思うように動かない。ままならぬ心から、さまざまな人生の哀歓が生まれるのである。
人間はいつ死ぬかわかりません。だから明日のことで思い悩まない。今日できることは今日してしまうこと。美味しいものをもらったけれど、今日は我慢して明日食べようなどとは思わず、今日食べてしまいましょう。それでいいのです。
巡礼は非日常の時間と空間のたびです。非日常の空間と時間は、どこかで浄土につながっています。だから歩いているうちに心が洗われ、悩みや悲しみも薄れてくるのです。
自分が世の中にたった一人しかいない、ということを自覚してください。地球上の一人ひとりがかけがえのないたった一つの命を生きているのです。
人間には誇りがありまう。誇りとは、自分が自慢できることです。自分は他人とは違うということに誇りをもってください。そして他人の誇りを傷つけず、いいところを認めて尊敬してください。
「涅槃」とは「火を吹き消す」という意味で、煩悩の火を吹き消した全く迷いのない悟りの境地という意味です。 
つねに心が緊張し、神経を研ぎ澄ましていなければ、いくら人生の転機がサインをよこしてくれても、それに気づかないで見逃してしまうでしょう。
日本人は「道」という言葉が好きだ。道をきわめるというのはただ歩くのではなく、道の心を体得し、修行をつんで、その技の究極まで達することである。
道元は「若し道有りては死すとも、道のうして生くることなかれ」といい、孔子は「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」といっている。
鉄の錆は、鉄から生じ鉄を損なう。人の悪も、自分の業が自分を追い地獄へ追いやってしまう。「法句経」240番
私たちは自分自身の心や身体が犯す悪の汚れによって病気になったり、自分自身の運命を狂わせたりする。自分の身についた悪は、ついたその瞬間に清めていくしかない。
いい宗教か悪い宗教かを区別するのは、たった一つ。それはお金を取るか取らないかです。どんな宗教を信じるのも自由ですが、祟るなどといって信者を脅し、お金を要求するのは、すべてインチキです。
世の中には悩みのない人なんてほとんどいません。もしあなたがいま悩みを抱えているなら、少し気持ちに余裕をもって、同じように苦しんでいる人に優しい言葉をかけてあげてください。
人の悩みを聞いて、「よかった、あの人ほど不幸じゃなくて」と思ってはいけません。今の自分の幸福に感謝し、健康に感謝することを忘れないように。
お年寄りは孤独です。若い人は敬遠して近寄らず、同年代の友達は先に死んでしまっている。老人は淋しいのです。若いあなたも必ず老人になります。
「明日のことは、いくら考えてもまからない。過去のことを悔やんでもはじまらない。だから今日を、今を悔いなく切に生きなさい」とお釈迦さまは説いています。 
不愉快の原因は、たいてい自分自身にあります。
「いたましきかな、世の中の人、名利の酒に酔いて、ついに正念なく、財宝の縄につながれて、一生自由ならず」江戸時代の僧、鉄眼道光の「化縁の疏」にある言葉
私たちは死ねば必ず彼岸に行きます。しかし、生きているうちに彼岸に行けないものかと思うのが人の常です。仏教には「六波羅蜜」という教えがあります。六波羅蜜は、生きながら向こう岸(彼岸)に渡るための六つの修行を意味します。
六波羅蜜とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧で、在家の人が彼岸へ渡るための六枚の切符です。
布施(施すこと)、持戒(してはいけない戒律を守ること)、忍辱(辛抱すること)、精進(努め励むこと)、禅定(心の迷いの炎を鎮めること)、智慧(物ごとを正しく判断すること)、この六波羅蜜を行なえば在家の人でも生きながら彼岸に行けると、仏教では説いています。
出家した人の行なうべき修行に八正道があります。八正道とは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定で、これを行なうと煩悩が消え、彼岸に渡ることができるといわれます。
正見(正しいものの見方)、正思(正しい考え)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行ない)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい気づかい)、正定(正しい精神統一)。これらが出家した人の守るべき八つの正しい行ない、八正道です。
無限大の宇宙も、極微小の素粒子も、摩訶不思議な存在ですが、それを認識することの出来る人間の頭脳は、さらに摩訶不思議。
この世は、涯しない流浪の旅に通りすぎる、かりそめの宿りの一村にすぎない。
「好きこそものの上手なれ」といいます。好きなものに挑戦していくことが人生です。 
坐禅とは、結跏趺坐といって脚を組んですわり、組んだ脚の中心に両手の掌を上に向けて重ねますが、そのとき、右の手を下に、左の手をその上に置きます。そして、心を左の掌に乗せて観念しなさいといいます。
悪事は天網恢恢、必ずばれるものなのです。万一、ばれずにしてやったりとうぬぼれていtも、あの世で悪事の報いを受けて地獄へ堕ちるというのが仏教の考え方です。
第253世点台座主の山田恵諦師は、いつも「忘己利他」を説かれた。「いかなる宗教においても、そのもっとも基本となり、尊い行ないというのは、常に『己を忘れて他を利する』ということにある。表現の仕方はいろいろあるでしょうが、世界宗教の中で、これを否定するものはりません。」
「自分の利益なんてことは忘れて他の人々の役に立ち、幸せにすることを日常的に考え、実行することができれば、それは慈悲のきわみ、つまり仏と同じ働きをするのです」山田恵諦師の言葉
あらゆる宗教の究極は、ゆるすことを学ぶことに尽きるのではないだろうか。ゆるすということは、超越的なものがゆるして存続させているこの現世のすべての生々流転を、かなしみの目で見守れるようになることかもしれない。
世の中が悪くなったのは、物質ばかりに目が走って、お金や物を欲しがる生活態度が増え続けたせいです。私たちは敗戦でボタンをかけ違ったのです。思い切って、最初のボタンからかけ直しをしなければ、私たちのゆがんだ服は直りません。
私たちは、目に見える物質やお金より、目に見えない大切なものに心の目を向けるべきなのです。目に見えない大切なものとは、心です、神です、仏です、宇宙の生命、エネルギーです。
少年少女よ、あなたたちの若い体と清らかな精神が、国や世界の未来を背負い、新しい時代を切り開いていくのです。あなたたちこそ、この世の宝物なのです。
少年少女よ!あなたたちが今やらなければならないことは、勉強です。勉強というのは一生懸命しないといけません。よく遊び、よく勉強し、よく食べ、よく眠る生活をしてください。
なぜ青少年は勉強しなければならないのか。勉強することによって自分の好きなことを見つけ、その才能を伸ばして、人間としての誇りをもつようになるからです。 
誰でもいい、自分のまわりの誰かひとりを幸福にする人間になってください。そういう使命をもってこの世に送り出された自分という人間に誇りをもってください。
死ぬときはきれいさっぱり無一物になっておきたいものです。でもいきている間は前向きに、死ぬまで現役で書きつづけたい。どうせ定命まで死ねないのですから、定命の尽きるまで仏まかせで働きつづけるつもりです。
芸術家は人生で岐路に立たされたとき、あえて困難な路を選ぶのだと岡本太郎氏は教えてくれた。私はいつでも迷ったときは、この言葉を護符のように信じ、躊躇なく困難な路を選んできた。
健全な身体に健全な心が宿るといわれてきたが、そうとばかりはいえないと思う。健康な人間の思い上がりと自信ほど、愚かで醜いものはない。
長生きしたいなどと私は一度も思ったことがない。少女の頃は三十代で死ねばいいなあと憧れてきた。しかし美人薄命という言葉を知ってからは、これはとても自分には無理だと思った。
私はいつでも情熱につき動かされて生きてきた。人の踏みかためてくれた道を歩くのは退屈すぎるし、その道の風景には魅力を感じなかった。
いくら計画を立てて、間違いのないように努力しても、思い通りにならないことが、世の中にはたくさんある。
物事が思い通りにならないとき、絶望したり、諦めたりするのではなく、「どうかお助けください。力をお貸しください」と仏さまにお祈りしなさいというのが、仏教の教えです。
私は、若い頃はちっとも仏さまを信じてなどいませんでした。しかし今は、仏さまはおられると信じています。なぜなら、人間の能力の限界に気づいたからです。
巡礼の旅は、日常を離れて非日常の時間に入ることです。思いがけない新鮮な時間に、身も心もよみがえります。 
昔、巡礼装束といえば、決まって死に装束である白衣でした。人間は巡礼に行くことで生まれ変わるためには一度死ななければならないということから、白い衣を着たのです。
仏はいつも私たちを見守っていてくれます。この仏を、死んで仏になった人と思ってもいいでしょう。死んだ人の魂、つまり仏は、いつも愛する者のそばにより添ってくれているのです。気がつかないのは生きた人間の傲慢さのせいでしょう。
人がたとえ 百年生きようと 行い悪く心乱れるなら 徳をつみ 心静かな人が 一日生きるのにも及ばない 「法句経110番」
無為にだらしない生き方をするより、真剣に生きるほうが、たとえ短命でも値打ちがあります。
日蓮は、釈尊の教えはただ正直に生きよということだといっています。正直とは、心が正しくすなおなこと、いつわりのないことです。
人間は生に執着するのが本能であり、自然なのです。釈尊は、生に執着するなとは教えていません。生を有意義に生きよと教えられているだけなのです。
苦しんでいる人、悲しんでいる人には一緒に泣いてあげて、相手が落ち着いたら和顔施をしましょう。和顔施とはいい顔をあげること、ニコニコすること。笑顔は人をいい気持ちにさせます。
人間が渇愛を脱して慈悲に向かうのは、決して楽な道ではありません。人は誰でも仏になれる種をもっていると信じて、忘己利他の行をつむこと、それが割愛から離れるための第一歩です。
「家出」と「出家」は、字面が同じなのが面白い。しかもその内容たるや両極に分かれる。共通なのは、もっているものを捨てるという点である。
「火宅の人」という檀一雄さんの小説があります。「火宅」とは「三界無安、猶如火宅」という「法華経」の言葉からとったもので、煩悩と苦しみに満ちたこの世を、火に焼けている家にたとえていったものです。 
良寛は、終日托鉢をしたところで鉢は空のまま帰庵する日も多いと詩に詠んでいる。しかしむしろ、鉢いっぱいの布施で満たされるよりも、空の鉢を抱いてとぼとぼ山径を帰るときのほうが。詩魂も禅魂も澄みきっていたのではないだろうか。
パンドラの箱の底にただ一つ残った「希望」は、今のような絶望の時代こそ、箱の底から取り出されるのを待っているのではないでしょうか。
私たちは死の瞬間まで、絶望の中に希望の光を見出す智慧の、栄養になるものを残していきましょう。私は書くことと祈りをこの世への置き土産にします。愛しい若い人々のために。
「知足」とは足ることを知るということです。不知足の者は、富んでいても心が貧しい。「法句経」には「足ることを知るのが極みのない財産である」とあります。
「人間は無になると神通力が出る」と一遍上人はいいました。一遍上人は空を飛ぶわけでもなく、人の病気を治すわけでもないのに、彼の生き方に共感して、行動をともにする人がたくさんでてきました。それも一種の神通力でしょう。
「捨ててこそ」ということばが大好きです。何もかも捨てることができたら、はじめて宇宙のエネルギーとつながるのではないでしょうか。
たとえ 髪を剃ったところで 戒を守らず 嘘つきならば 修行僧なんかで あるものか 欲望と貪りにまみれ それで僧侶と呼べようか 「法句経264番」
許すということ、これが仏教の極意です。人を恨んでいたら、自分の心も醜くなります。心が醜ければ顔も醜くなります。美人でいたければ、温かい心、優しい心をもつように。
お釈迦さまは悟られた時、内容をご自分では言葉にしていません。文字などには表せないものだったのでしょう。仏教ではそれを「無上甚深微妙法」と表現します。
禅に「吾、常にここにおいて切なり」という言葉があります。一つの物事に成り切るということです。私はこの言葉をつぶやくと、心の中に涼しい風が起こり、雑念が吹き払われるのです。 
性が人間の重要な位置を占めることはいうまでもないが、人間が他の動物と違うことは、性をコントロールできることだろう。
「自由自在」の自由(自らに由る)とは、自我を投げ捨てて宇宙の大生命の中へ没入したときに生まれる思いのままの姿であり、自在とは、自ずから天地の法則に合致した「欲するまま」であることです。
白楽天が高名な禅師に聞きました。「仏教の極意とは何か」。答えは「諸悪莫作 衆善奉行(悪いことはしない。善いことをいっぱいしなさい)」。そして禅師はいいました。「三歳の子どもが知っていても、八十歳の老人ですら実行できない」と。
うずたかくあふれる花で たくさんの花飾りをつくるように 死すべき人として生まれたからには 生きている間に 多くの善を行うこと 「法句経53番」
花の香は風の流れにさからわない 栴檀も伽羅もジャスミンも けれど善い徳のある人々の香は風にさからっても進む 四方八方にその徳の香は 流れていく 「法句経54番」
人の心は変わるもの、無常そのものという覚悟がなければ、人を信じて裏切られたと、年中泣いたり、悔しがったりしていなければならない。
人生というのは、努力や計算だけではない。どんなに緻密に計算して計画を立て、努力しても、予期した結果が得られないことが多い。そこに人生の味が生まれる。
相思相愛の恋愛でも結婚でも、歳月が過ぎれば情熱は冷め、互いの心が離れていく。これが無常というものです。同じ状態はつづかない。
昨日までうまくいっていたのに、今日になると突然悪くなってしまう。どんなに頑張ったところで、今日が昨日の続きになることはないし、明日が今日の続きになることはない。世の中は無常だからです。
人間の努力や知恵には限界がある。どんなに頑張っても人生はどうにもならない。そう知ったとき、人は信仰心に目覚めるのです。 
出家してから、人のために祈らなければならない機会が多くなり、そこにたしかな霊験を感じるようになった。自分自身のことを祈ってかなえられたことは一度もない。
霊験の多くは、心を無にして人のために祈ったときにだけ現れる。あるいは人が何かを信じきり、任せきったときに現れるものだ。
何をするにも人間の努力は必要だ。しかし、努力の果てに何か人間の力以上のものの扶けが加わったとき、自分でも信じられない能力が発揮される。それこそ宇宙の生命と才能の感応の瞬間であろう。
あなたはもはや、枯葉のようなもの 閻魔王の使者も ほら、そこに来ている あなたはもはや 死出の門口に立っている けれどもあなたは 旅の食糧さえ持っていない 『法句経』235番
「生者必滅 会者定離」は仏教の根本真理の「無常」を表していますが、この原則を私たちはともすれば忘れがちになります。
出家したあとも私は昔からの付き合いの人と、昔と同じ口調でしゃべり合う。けれどもそんなときにも、私の目の前には幻の川がしらじらと横たわっている。あちらは世。こちらは世の外。
お釈迦さまは、自分が死んでも自分の銅像を拝めとか、一番弟子のいうことを聞けとはおっしゃいませんでした。自分自身を灯りとしなさいとおっしゃたのです。このお釈迦さまの遺言のことを「自灯明」といいます。
お盆は、もともと、亡くなった人がどうか極楽浄土に行けますようにとお祈りするためのものです。
いま、仏教は亡くなった人を弔うための宗教だと思われていますが、本来は、生きている人の苦をなくし、楽を与える「抜苦与楽」のための宗教です。
本当なら、お寺は「いかに生きるべきか」を伝える場所であるはずなのに、亡くなった方にお経をあげるだけの場所だと思われているのは残念です。いま悩みを抱えている人にこそ、来て欲しいものです。 
戒名は本当にいるのかとよく質問されます。もしあなたが仏式で葬儀をあげてもらいたいなら、やはり戒名は必要です。戒名は、出家する際に行われる「受戒」にちなんでいます。「今後は仏教の戒律を守ります」ということを誓った人の名前だから、戒名といいます。
私は在家出家を勧めています。なによりいいのは、戒名にさほどお金がかからない点です。
在家出家とは、在家信者のままで受戒し、戒名をもらうことです。戒名はキリスト教のクリスチャン・ネームと同じようなものです。在家出家者も戒律を守るように努めなければなりません。
なぜ死んだ人に戒名をつけるのかというと、死んだ人をあの世に送るためにまず仏教に帰依してもらわなければなりません。ブッダの弟子にならなければお寺で葬儀をすることはできないのです。
葬儀のときに戒名をいただくと、どうしても高くなります。だから、生前に戒律を受け、戒名をもらっておけばいいのです。在家出家なら自分の出せる範囲のお布施をすればいいのですから。
仏壇は家庭における信仰の中心です。仏壇に向かい、お経をあげたり、先祖のご冥福を祈ることによって心を静めるというのが仏壇をまつる目的です。仏壇の大小や値段は関係ありません。
仏壇でお祈りするときは、お花、水(お茶)、仏飯を供え、お香を焚き、ロウソクに火を灯します。この五つを「五供」といいます。灯明は仏の智慧と救いをあらわし、お線香はその場所を清め、自分の心の中も清めるためのものです。
線香は、死者のために立てるのであれば一本。二本ならそのうち一本は死者に話しかけるものだとされます。三本立てると、そのうち一本は懺悔のためといいます。
親切で、慈しみ深くありなさい。あなたに出会った人がだれでも、まえよりももっと気持ちよく、明るくなって帰るようになさい。親切があなたの表情に、まなざしに、ほほえみに、温かく声をかけることばに表れるように。『マザー・テレサのことば』(女子パウロ会刊)
三途とは、地獄道、畜生道、餓鬼道の三つの途をいいます。死後、初七日に、冥途への途中にある三途の川を渡るという説があります。 
私は多く傷つき、多く苦しんだ人が好きです。挫折感の深い人は、その分、愛の深い人になります。
自由に生きるとは、心のこだわりをなくすことです。自分の心を見つめて、ひとつでもふたつでも、そこに凝り固まっているこだわりをほぐしていくことが大切です。
誰の中にも仏さまがいるのだという気持ちで、相手に手を合わせるような気持ちで接してください。
もともと人間は、命とともに自然治癒力を与えられているのに、文明が進むにつれて、その力を見失ってきているのです。
南無阿弥陀仏の「南無」は、サンスクリッド語の「ナーム」という言葉に漢字を当てたものです。これは「あなたにお任せします」ということです。阿弥陀仏にすべてをお任せします、という意味です。
南無阿弥陀仏という念仏を中世の日本人に広めたのは浄土宗を開いた法然上人や、浄土真宗をつくった親鸞聖人でした。
お釈迦さまはこの世におられて彼岸に行く人の後押しをしてくださり、阿弥陀さまは「こちらへおいで」と彼岸へ招いてくださる仏さまです。
墓地に墓石を置いて弔う習慣は、江戸時代以降のこと。それまでの庶民は土に亡骸を埋め、その上に石を乗せただけでした。立派な墓石がなければ罰が当たるというなら、その時代に日本は滅びていたはずです。
おろかな者も 自分をおろかだと思えば その人はもうかしこい おろかなのに 自分をかしこいと思えば その人こそ ほんとにほんとに おろか者 『法句経』63番
涅槃入られたお釈迦さまの遺体は、在家の人たちによって火葬にされ、遺骨は八分されて各国の王が持ち帰り、ストゥパを建てて崇拝しました。これが、お墓の原点です。 
お釈迦さまの開いた仏教は葬式仏教ではなく、この世をいかによく生きるかというための真理を追究して修行することです。
人は思い出をすべて忘れずにいたら、記憶の海に溺れてしまうでしょう。溺死しないように、人間には記憶の多くを忘却するという能力が与えられています。忘却とは神仏の与えてくださった恩寵なのかもしれません。
忘却という能力によって、人は決して忘れてはならない大切なことも、歳月とともに忘れ去ってしまうことがあります。忘却とは神仏の与えた劫罰なのかもしれません。
反省と懺悔の中で善いことばかりをするように心がけていたなら、ちょうどジャスミンの花が咲ききって萎れたら、いつまでも枝にしがみついていないように、人も自然に貪欲の心や執着心が身から落ちていくだろう。
戦争のない地球とは、実現しない夢なのだろうか。あらゆる宗教の宗祖はそうではないと教える。
釈尊はインドの激動の戦乱時に生き、自然に心の中に戦争』否定の立場が固まったようです。釈尊は一貫して、徹底した反戦思想の持ち主で、無抵抗主義者でした。
人間は希望を捨ててはいけない。絶望するというのは、人間として傲慢なことです。
勝者は怨みを招き、敗者は怨み苦しむ。そのいずれでもなく、ここ寂静な者こそ、日々の暮らしは、平安そのもの。『法句経』201番
病気は神さまの与えてくださった休暇だと思って、ありがたく休養するのが一番いい。
美しいもの、けなげなもの、可愛いもの、または真に勇ましいものに感動して、思わず感情がこみあげて、涙があふれるというのは若さの証しです。ものに感動しないのがと年をとったということでしょう。 
日本人はよく年をとると枯れるのが美徳のようにいいますが、とんでもない間違いです。とくに芸術家は、死ぬまで枯れたりは出来ません。
あさねすべからず、ひるねをながくすべからず、みにすぎたことすべからず、おこたるべからず、良寛さんの「戒語」の一つです。
もしひとが、自分を愛するなら、つつしんで、自分を守ろう。賢い人なら、夜の三つの時の、一つだけでも、目ざめて自分を、反省しよう。『法句経』157番
兼好法師は「大事を思い立ったなら、あれも片づけ、これも片づけてからと思っては実行できない、今すぐ実行にうつれ」といっています。
いくら医学が進んで、人の身体を内臓の隅々まで説明してくれても、人の心はどこにあって、どんな形をしているのか、誰もおしえてくれません。
せいぜい長くて百年ほどの現世なんて、永遠の過去世と無限の来世に挟まれたサンドイッチのハムよりも薄い時間にすぎない。そんなに短い現世で、あくせく生きている人間のいのちは、蟻の生のようにはかないものです。
菩薩は、他人の苦しみを自分の苦しみとし、他人の悲しみを自分の悲しみと受け取る。日蓮は菩薩道を実践しているから、世を憂い、人の苦悩をわが事のようにj悲しむのである。
想像力でもって、相手の悲しみや苦しみを察してあげる。これが思いやりであり、愛です。
仏教では愛を二つに分けます。一つは渇愛、もう一つは慈悲です。渇愛は凡夫のセックスを伴った愛、これに対して慈悲とは仏さまの無償の愛です。
渇愛は、お返しを期待する愛です。しかも利息のついたお返しを期待するから、苦しむのです。 
自分を愛してもらいたいから、相手を愛する、それが渇愛です。自分を忘れて他人に尽くす仏さまの慈悲とは正反対ということです。慈悲はお返しを求めません。
大空にいようと 大海にいようと または山奥の 洞窟に入ろうとも およそこの世に 死の力の届かぬ所はない 法句経128番
八正道にある正語とは、悪い言葉である妄語、両舌、悪口、詭語などを話さないということです。両舌とは二枚舌のこと、詭語おべんちゃら、無駄口の類です。言葉を正しく使うのは、大事な修行です。
自分が悪行をすれば 自分がけがれる 自分が悪行をしないなら 自分は清らかだ けがれも清らかさもみんな自分自身がもと だれだって 他人を清めたりはできない 法句経165番
釈尊は亡くなるとき、「自らを灯明せよ」と教えられました。自分で自分を磨くことが、人の生き方だということでしょう。
地球の上にはさまざまな人種が、さまざまな文化・習慣の中に生きています。自分の文化・習慣だけを最上と思い、他者の生き方を認めないという我の強さが、戦争の危機を引き起こすのです。
「他は己ならず」、道元禅師の言葉です。自己を客観視できる目で、他者をも冷静に客観視して認めるところに和が生まれ、平和が保たれるのです。
人は自分の背中の表情が見えない。生活力盛んで、ばりばり仕事をしている人の背中の表情が、はっとするほど頼りなく淋しいのによく驚かされる。
私が出家したのは、小説を書く上で、もっと自分を見つめたかったからで、偉大な宗教家になりたいなど、一瞬も考えたことはない。
私は死ぬまで凡夫で迷いの無明にあえぎ続けるであろう。今でも、はるかかなたの天上からさしてく。 
うすい細い光を仰ぎ見て、私の拙い小説に憧れの灯をともそうとしている。
心を無にすると私たちはこの大宇宙と一体になれます。ふだんの私たちは、大宇宙のなかで一人ぼっちで生きています。しかし、自分を捨て去ると大宇宙につながることができるのです。
自分こそ自分の主人 どうして他人が主人であろう 自分をよくととのえたなら 自分こそ得がたい主人になるだろう
しょせん。人は他人に頼ってもダメなのです。独りで生まれ独りで死んでいく人間は、自分を頼れるものとして鍛え上げるしかないのです。
私たち現代人の不幸は、目に見えいものを信じなくなったことにあると思います。それは想像力がないということです。
仏教ではお釈迦さまが悟りを開いた瞬間のことを「成道」といいますが、その日は十二月八日であったと伝えられています。
人間は愚かな、過ちばかり犯す動物です。それを認めたうえで、あらゆる宗教は救世主を思い描くのです。
私は死の瞬間まで、自分を失いたくない。私は私の生まれ出るところを知らない。しかし、せめて私の死は自分の意識でみとどけたい。
また一年が過ぎ去っていく。この一年実に忙しかったと思いかえされるが、忙しいとは、心を失うことである。出家者としては軽々しくいっては恥ずかしい。
孤独で淋しいと思うときは、旅をするのが何よりです。疲れた心と体を自然がやさしく包み込んでくれ、気分転換も出来、思いがけない縁で、いいお友達にも恵まれます。淋しいときこそ、旅にお出でなさい。
眠れない者には 夜はとても長い 疲れきった者には 道はとても長い 愚かな者には 一生はとても長く 人生の正法を ついに知ることはない 『法句経』60番
釈尊は、時という概念を物理的にとらえず、その人の感じ方、活用の仕方によって心理的にとらえようとなさった。同じ「時」なら、その時を精一杯生ききって、一生をたっぷりと意義のあるものとして過ごせよと教えているのでしょう。 
 
曽野綾子の言集 

 

ある宗教の信仰が本物かどうかを決めるにはいくつかの基準があります。それには、教団がお金をとらない、信仰を強制しない、教祖が自分のことを神とか仏とか言わないことなどがありますが、と同時に、現世での利益を要求しない、現世で報いられることを期待しない、ということも含まれていると思います。
死海は取り込むだけだから、そこには命が生まれない。魚一匹いない、植物一つない。しかし、ガリラヤ湖やヨルダン川は、その水を豊富に周辺に与えるから、そこに花が咲き乱れ、植物が広がる。人間も同じだ。取り込むばかりの人は何も生まない。しかし、多くを与える人のまわりにはいつも豊かな実りがある。
あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には上着も取らせなさい。・・・求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
あなたの目の前にいて、あなたと対している人のなかに神はいらっしゃる。もし医者だったら、神は患者のなかにいるということです。その患者は、わがままで、そして文句ばかり言い、不従順で、かわいらしくない、そういう人のなかに神はいらっしゃるのです。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。・・・・・もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。・・・頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。・・・一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
私をあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、もたらすものとしてください。慰められるより慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、私が求めますように。なぜなら私が受けるのは与えることにおいてであり、許されるのは許すことにおいてであり、我々が永遠の命に生まれるのは死においてであるからです。
だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。 
「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
自分のしたいことをするのが自由ではないでしょう。人としてするべきことをするのが自由です。
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
一神教は排他的だから他宗教はいけないものとして闘いを挑むのだ、キリスト教しかり、ユダヤ教しかり、イスラム教しかり。だから多神教の仏教が立派なのだというが、そんな簡単な図式でもない。一神教だから狭量で、多神教だから寛大なのではなく、すべての人は、穏やかに生きるだけの経済的社会を与えられ、自分で深く信仰についても学び、判断できるように充分教育されれば、自然に寛容と愛を知るようになる、と私は信じている。 
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存知のとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また主イエスご自身が「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。
定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
日本は幸運にも、まだ平和と繁栄の中にいる。人にも運のいい人と悪い人がいるように、国家にも幸運な国と悲劇的な国とがあるようである。日本はその中の、類例を見ないほどの幸運な国といえるかもしれない。 
世界中に、日本ほど政治の理念にも日常の生活にも神のいない国は珍しい。いなくてもやっていければそれで構わないのだが、これからさき日本人は、物質が解決し得ないさまざまなことに出会うであろう。
愛というものは、苦しみを代わることである。最終的には、自分の命を差し出して、人の命と代わることである。もちろん誰もがたやすくできることではない。しかしこの人は、その真理の周辺に到達した。 
 
小津映画に見る日常が底光りする理由

 

最初に見た小津の映画は、「東京物語」だった。私はその頃大学院の学生で、講師のアルバイトをしていた塾の近くのレンタルビデオ屋で、正月休みに他の映画と一緒に借り出した。
当時、私は、ヨーロッパ映画ばかりを見ていた。西洋かぶれの青年だった。日本の映画に、ヴィスコンティやタルコフスキーに相当する人がいるとは、思ってはいなかった。もちろん、「東京物語」が傑作であるということは聞いていた。だからこそ、レンタルビデオ屋で目に止まったのだろう。しかし、「惑星ソラリス」や、「イノセント」に匹敵するような体験が、「東京物語」という作品の中に潜んでいるとも期待してはいなかった。
実際、最初に見た時の印象は、何だか良くわからないものに出会ったという感じだけだった。自分が何を見たのか、良くわからなかった。ただ、見終わった後に、何かわだかまりのようなものが残っていた。
それで、3月末くらいになって、もう一度借り出して見てみた。それで、潜伏していた毒が心の中に回り始めた。智恵熱が出た。しばらくは、東京物語のことしか考えられなくなった。居ても立ってもいられなくなって、私は、2回目にビデオを見た一週間後、新幹線に乗って尾道にでかけた。尾道の細い路地をさまよいながら、映画の中に出てきた風景を探し求めた。
当時の尾道には、「東京物語」の中で、老母が亡くなった直後の朝の場面に現れる船着き場がまだ残っていた。私は桟橋に立ち、朝の海辺の風景が現れた瞬間、観客に「ああ、危篤だったお母さんは亡くなってしまったんだ」と悟らせる、あの映画史上に残る一連のシークエンスのことを思い出していた、笠智衆が、原節子に「ああ、きれいな夜明けだったあ。ああ、今日も暑うなるぞ。」と語りかける、海を見下ろす高台の場所を探して歩き回った。映画の最後で、香川京子が演じる先生が原節子が乗った蒸気機関車を見送る小学校のある場所を求めて、千光寺公園の下の迷路のような道をさまよった。
何が、あの時私を衝き動かしていたのか、今でも十分には言語化できてはない。後にも先にも、映画を見て、あれほど居ても立ってもいられないような気持ちになったことはない。東京物語という作品と出会ったこと、小津安二郎という映画監督に出会ったことは、間違いなく私の人生における一大転機だった。
私の有限の人生において、東京物語との出会いがいかに大きなことであったか、そのことを、今でも、感謝の念を持って思い出す。もし、小津がいなかったら、「東京物語」や、「晩春」、「麦秋」、「秋刀魚の味」といった作品群がなかったら、私にとって、世界は全く違った風景として見えていただろう。黒澤明のケレンも、溝口健二の様式美も、川島雄三のエスプリも、私にとっては、その後をついて行こうとは思うようなものではなかった。ただ、小津安二郎だけが、それまで私が積み上げたヨーロッパ映画、ヨーロッパ芸術の体験に匹敵する、そしてそれを超えるかもしれない何かを私に提示しているように思われた。
自分の生まれた国を愛したくないと思う人間などいない。小津に出会うまで、私はきっと不幸な人間だったのだろう。私は、不覚にも、日本にそれほど大した文化があるとは思っていなかったのである。日本は、文化的後進国だと、本当に思っていた。私の個人的な体験というだけでなく、私の属していたコミュニティの中の一つの傾向だったのではないかと思う。ひょっとしたら、敗戦の精神的後遺症が1962年生まれの私の世代にまで影響を及ぼしていたのかもしれない。
長谷川等伯の松林図に沈潜し、伊勢神宮の内宮の、あたかもそこに今まで宇宙になかった元素が誕生しているかのような佇まいに心を引かれ、本居宣長から樋口一葉、小林秀雄に至るもののあはれの系譜に共鳴する時間を積み重ねた今となっては、どうしてあのような世界観を持っていたのか思い出せないほど、青年期の私は日本の文化を低く見ていた。小津の作品との出会いは、私にとって、「日本への回帰」の重大なターニングポイントだったのである。
二十代半ばの「東京物語」との出会い以来、私は、小津の作品がなぜ私の心をここまで惹きつけるのか、折りに触れ考えてきた。映画について考える時間の半分以上を、小津の作品について考えてきたと言っても過言ではない。

もちろん、小津との出会い方は、人それぞれだろう。私の見る小津が、他の人にとっての小津とどのような関係にあるのか、必ずしも明らかではない。それでも、私が、右のようなきわめて個人的なことをあえて書き留めておきたいと思ったのは、小津映画を繰り返し繰り返し見る中で強まってきた、人間にとって、全ての普遍的なものは、有限の人生の中の個別性に現れるという思いと関係している。普遍性は個別性を通してしか表れないということが、繰り返し確認されるべき、重大なことであると信じるに至ったのである。
私にとっての小津安二郎という普遍は、私の人生の個別性と切り離して考えることができない。私はそう考える。よけいなお世話かもしれないが、どんな人にとっても、小津安二郎の普遍は、それぞれの人生の個別性の中に顕れるのではないか。私はそうも考える。人生の個別性の数だけ、異なる小津安二郎という普遍があるという意味ではない。確かに、抽象的な意味での小津安二郎の普遍を考えることはできるし、様々な体験が収束していく先に見えてくるものはあるように感じられるけれども、そのような抽象的な普遍も、必ず、個々の人生の具体的なエピソードにおいて感じられるということは、決して忘れてはいけないことのようにも思われる。
「東京物語」を見て、熱病になって尾道に出掛け、映画の面影を探して歩き回り、細い路地でおばあさんの曲がった背中を見て、千光寺公園に登ったら桜が咲いていたという、私の人生のきわめて個別的な思い出から切り離して、私にとっての小津という普遍はあり得ないように思う。あの体験が、私のプライベートであるとともに、どこか、「東京物語」という作品の万人にとって開かれた抽象的なパブリックにもつながっているはずだと、私は信じたい気持ちでいる。

人間にとっての普遍的なことがらは、それぞれの人生の個別性において顕れるということを、小津ほど徹底的に貫いた映画作家はおそらくいないのではないか。小津安二郎本人が、そのことを言語化していたか、自覚していたかは判らない。しばしば、芸術の天才とは無意識の天才である。本人が意識していたかどうかは判らないが、生、死、出会い、別れといった人間にとって普遍的な意味を持つ事象を、日常と切り離した観念的存在として描くのではなく、日々繰り返すごくありふれた営みの描写の中に描くことに、小津安二郎ほど洗練された手腕を見せた作家はかっていなかったのではないかと思う。
小津の作法は、戦争のように、人間にとって非常の事象が描かれる時にもっとも先鋭的な深みを示す。小津は、戦争を主要なテーマにした作家ではないが、戦争がその作品にモティーフとして現れることはあった。小津映画において、戦争が穏やかな珊瑚礁の海に遠くからかすかに聞こえる外洋の波の音のように姿を現すとき、どのような表現ジャンルにおいてもかって見られたことのない形で、普遍と個別の交錯の形式が示されているようにさえ思われる。
戦争は人類の歴史における重大事だから、何らかの普遍的な原理を標榜してそれを議論したいという欲望は誰にでもある。一方で、戦争という事象の本質は、それを体験する一人一人の人間にとっては、必ず些細とも思われるような具体的なエピソードの中に現れるのではないかとも思う。
太平洋戦争勃発の翌年に封切られた「ハワイ・マレー沖海戦」は、円谷英二が真珠湾攻撃の特撮シーンを担当したことで知られる。この映画で、私にとって特に印象的だったのは、攻撃の前夜、駆逐艦の中で、士官たちがアメリカの戦艦のシルエットを見て、その名前を当てる訓練を行うシーンだった。教官がシルエットを見せ、士官たちが「オクラホマ!」、「ミズーリ!」などと答える。当たっていれば「轟沈!」と教官が言って士官たちが笑う。外れれば、「お前の嫁さんの顔くらい覚えておけよ」と冷やかす。戦争というものを、抽象的な存在としてとらえているのでは思い着くことさえできないようなそのシーンに、私は当時の日本人にとっての対米戦争体験のリアリティを感じた。
戦争はマクロな事象であるが、それに巻き込まれる人間にとっては、それぞれの有限な人生の個別性と絡んで感じられる、ミクロでプライベートな事象でもあることも確かである。もちろん、ミクロでプライベートな体験そのものが、戦争であると言うのではない。ミクロでプライベートな体験を積み重ねていった時に、ぼんやりと姿が見えてくる巨大な化け物を、私たちは戦争と呼んでいるはずである。最初から、確固とした抽象的存在として、戦争があるのではない。だとすれば、戦争を描くには、ミクロでプライベートな体験の切実さに寄り添う以上の方法はないとも言えるはずだ。
「秋刀魚の味」で、笠智衆扮する「艦長さん」が、加藤大介が演ずる昔の部下と交わす会話は、私にとっては、どのような観念的、イデオロギー的な議論よりも説得力を持つ戦争論であり、大河ドラマ的な演出を超えた、リアルな戦争描写であるように思われる。

「けど艦長、これでもし日本が勝ってたら、どうなってますかね。」
「さあ、ねえ。」
「勝ってたら艦長、今頃あなたも私もニューヨークだよ、ニューヨーク。パチンコ屋じゃありませんよ。ホントのニューヨーク。アメリカの。」
「そうかね。・・・けど、負けてよかったじゃないか。」
「そうですかねえ。うーん。そうかもしれねえな。バカなやろうが、いばらくなっただけでもね。艦長、あんたのことじゃありませんよ。あんたは別だ。」

笠智衆が、「さあ、ねえ」と言いながら浮かべる微笑みに接すると、私はいつも居ても立ってもいられないような気持ちの動きを感じる。先の大戦の是非に関するどのような観念的な議論にも勝る、生の実感がその表情に込められているように感じる。
小津映画においては、俳優の顔の表情が、しばしばイコンとして忘れがたい印象を残す。杉村春子のような例外的な存在を除いては、俳優たちの自発的演技というよりは、小津が意図していたことのはずである。小津が、俳優の顔の表情筋の細かい動きまで指示して演出していたことは、よく知られた事実だ。
笠智衆の顔の表情には、戦争を体験した海軍の艦長さんの実感というものは、確かにそんなものだったのではないかというリアリティがある。顔の表情一つの中に、どんなに実証的な戦記物にも勝るとも劣らない戦争体験というものの切実さが表現され得ているのである。
加藤大介とのかけあいのシーンは、ラスト近く、娘の結婚式を終えた笠智衆が一人でバーに現れるシーンへの伏線となる。岸田今日子が演ずるマダムが、礼服姿を見て「今日はどちらのお帰り?お葬式ですか?」と尋ねると、笠智衆が、「うん、そんなもんだよ。」と応える。この「うん、そんなもんだよ。」が、すなわち映画のテーマである秋刀魚のほろ苦い味の簡潔な表現となっている。
マダムが、気を利かせて、軍艦マーチをかけると、それを聞いて、笠智衆の横に並んで座っていた男の一人客2名が即興で応酬し合う。

「大本営発表」
「帝国海軍は、今暁5時30分、南鳥島東方海上において」
「負けました」
「そうです、負けました」

二人の、おそらく初見の自己紹介も交わしていない男たちが、それだけのことを言い、あとはにっこり笑って黙ってウィスキーを飲む。
この場面は、日常の中で出会う出来事としては出来すぎているようでもあり、どこかに、そのように成熟したふるまいをする大人が確かにいるような気もする。いずれにせよ、この場面が、映画の芸術表現としてきわめて洗練された、忘れがたいものである事は間違いない。
小津は、日常のとりとめもない光景の中のさりげない会話の中に、万感の思い、深い洞察を示すことができた。小津の世代では、そのような立ち居振る舞いは大人の身だしなみだったのかもしれないが、戦争や平和、社会正義といった問題を、イデオロギーに基づいて論ずる嵐のような時代が過ぎ去った直後に大学に入った私には、戦争のような重大事の本質を小津の映画の登場人物のようにさらりと突くことのできる先達たちは、身の回りに探そうと思っても見あたらなかった。小林秀雄のように、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみせるがいいぢやないか」と嘯く大人も見あたらなかった。
秋刀魚の味が公開されたのは、昭和37年。私が生まれた年である。考えて見れば、戦争が終わってから、17年しか経っていない。昭和が終わり、平成になってから今までの時間の流れとさほど変わらない時間が流れ、その頃に撮影された小津の映画というフィクションの中で、バーのカウンターであのような会話を交わす男たちがいる。
戦争の悲惨さ、死んでいくものの無念さについて、多くの言葉を費やして饒舌に語ることも時には必要であろう。そのような映画が沢山制作されていることも知っている。小津の映画は、そのような映画ではない。だからこそ、まだ戦争の記憶が生々しい頃、「晩春」や「麦秋」を撮影した小津安二郎は、時代遅れだとか、のんびりしているとか揶揄されたのだろう。当時の社会的緊張の中、そのような威勢の良い小津批判を行った若い世代の気持ちも判らないわけではない。しかし、今となってみれば、社会的な事象を正面から扱おうとした映画よりも、「浮き世離れ」して「のんびり」した小津の作品群の方が、よほど当時の日本人にとっての戦争の記憶の持つ生々しさをリアルに表現しているように思われる。
イデオロギーは、生の実感、生の具体から浮遊することで、道を誤らせるのである。
そもそも、人類にとって、真理とは何か、善とは何か、美とは何かということを、それぞれの人生の個別性、具体性を離れた抽象的な形で議論することに、どれほどの意味があるのだろう。
素朴に考えれば、個人の生活の具体性に埋没した議論よりも、抽象的な観念と論理に基づいて構築される議論の方が、高尚で普遍的なもののように思われることも事実だ。実際、哲学、思想というものは、個々の人生の具体性を離れた、抽象性、普遍性を獲得してこそ、初めて意味を持つと多くの人が暗黙のうちに前提にして来たのではないかと思う。私自身も、かっては、そのような形で思想を展開し、記すことに価値があると信じていた時期があった。
しかし、思想というものは、そもそも、個人のきわめて具体的な生の実感と切り離せるものではないのではないか。
私には、ニーチェが「悲劇の誕生」の中で展開する「個別化された世界」、あるいは、「アポロ的」と「ディオニソス的」というような抽象概念の持つ力に、強く惹かれていた時期があった。これらの概念が、なぜ、私にとって切実でありえたのかと言えば、何のことはない、きわめて個別的で具体的な日常生活の中のエピソードに結びついていたからこそであると、今となっては思われる。
あの頃の私にとって、「個別化された世界」とは、つまり、自分が思いを寄せる人となかなか心が通じ合わないという恋愛生活上のディレンマのことに他ならなかった。当時のガールフレンドに、私は、人間の置かれている状況の根本的な問題は、それぞれの人々が「個別化された世界」に閉じこめられていることだ、と言ったことがある。いつどこでそんなことを言ったかも覚えている。研究室の飲み会の買い出しをしようと、東大の弥生門から、根津の交差点に降りる坂道を下っている時だった。その時、私のガールフレンドは「わかるけど、世界というものは、そういうものなんだから、仕方がないんじゃないの」と私の幼さをたしなめるように言った。
あの時、私が「個別化された世界」という問題を持ち出した事情には、もちろん、人間と人間がなかなか解り合えないという世の習い一般に対する青年らしい慨嘆もあったけれども、一方で、私の幼さに対して成熟と余裕で接するように感じられた当時のガールフレンドが、なかなか私の心情の中心まで降りてきてくれないことに対する恨みのようなものにも発していた。このような自分の体験を記すことは恥ずかしいことであるが、そのような恥ずかしさを抜きに、私にとっての「個別化された世界」という概念の成り立ちもあり得ない。
自分の人生の生の実感から離れて抽象へ向かうことを良しとする傾向は、死への衝動(タナトス)の一つの表れなのかもしれない。確かに、人間には、それぞれの具体的な人生のエピソード性を離れて、抽象性、普遍性に向かおうとする思考上の傾向がある。青年期に、大抵の人は、自分の考えていること、表現していることが、自分の人生という個別性から離れた普遍的な意味を持っていることを信じたいという衝動を感じるはずである。
放っておいても、どうせ人は抽象性に向かう。それならば、むしろ、どのような抽象的、普遍的な概念も、必ずそれぞれの人の人生の個別性において感じられていると肝に銘じることを心がけた方がよい。「アポロ的明晰さ」とか、「ディオニソス的混沌」は、一体、自分の人生の具体的なエピソードの中で、いつのどのような形で出現していたのか、じっくりと考えてみるのが良い。
そこに現れるものは、「アポロ的」とか「ディオニソス的」といった概念を抽象的なイデアとして考えている時に比べると、みっともなくて恥ずかしくも感じられる、具体と抽象の奇妙な混淆物であるかもしれない。概念の塔に籠もることで、人々は生の現場からの安全圏に自分を囲い込むことができる。しかし、生の現場に自分を投企することなしには、どんな抽象概念も切実さを持ち得ないということを徹底して省察するならば、多くの哲学書、思想書が前提としている生の個別性から遊離した形で立てられる「普遍性」の持ついかがわしさが、逆照射されるはずだ。
小林秀雄のベルクソン論『感想』の主要部分は、抽象的な形でベルグソンを論じた本体ではなく、冒頭の有名な書き出しにこそあると考えるのは、それほど奇妙なことだろうか。

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争という大事件は、言はば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思ふ。(中略)母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。(中略)私の家は、扇が谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れてゐた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでゐるのを見た。この邊りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見たこともない様な大振りのもので、見事に光ってゐた。おつかさんは、今は蛍になってゐる、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考へから逃れることが出来なかった。

もし、思想というものは抽象的で形而上学的であるのをもって良しとするという態度を貫くならば、小林のこの書き出しはカットしてしまえば良かったのだろう。しかし、この書き出しのない「感想」に、どれほどの価値があるのか。「感想」の価値は、この書き出しに尽きるのではないか。むろん、小林のベルグソン論本体に価値がないと言っているのではない。小林が、このような書き出しでベルクソンのクリティークを始めている点にこそ、深く味わうべき魅力があるのではないかと私は感じる。
どのように普遍的なものとして構想されている概念も、個々の人間の猥雑で混沌に満ちた生の具体とどのように交錯するかという問題を離れては、成り立たない。真理や美、善や悪という概念は、そのような普遍が個々人の生の具体とどのように関わって立ち上がってくるのかということを含めて、初めてその成り立ちが完結する。そのように認識する時、普遍哲学的な志向の限界と同時に、個人の生の具体に寄り添って問題を提示する文学の目眩がするほどの可能性が視野に入ってくる。
概念を個別から切り離して論じるのをよしとするいわゆる哲学書、思想書のスタイルよりも、普遍が一人の人間の生の個別にどのように絡みついて顕れてくるのかを提示できる文学こそが、単に人間の生の実感に寄り添っているというだけではなく、思想そのものの本来の表現方法なのではないか。そのようなことを考えながら、たとえばプラトンの『饗宴』のような作品を読む時、人間はひょっとしたら思想の表現法に関して、二千年の迷妄の中にいるのではないかというように思われてくる。

小津映画の魅力の一つが、その練り上げられた台詞にあることは言うまでもない。小津は、おそらくは文学者でもある。野田高悟と別荘に籠もり、毎日酒を飲み、空いた一升瓶を何十本も並べながら書いた脚本において、間違いなく第一級の文学的センスを示している。小津の研究で知られるドナルド・リーチが、最近、東京物語の台本を英訳した本を出版したことからも傍証されるように、小津の映画の脚本は、世界に通じる文学としての普遍性も備えている。
文学においては、登場人物のキャラクターや場面の雰囲気は、具体的な視覚的表象とは独立した、志向的表象として提示される。志向的表象としての純粋さこそが、文学という芸術形式においては、何よりも大切なことである。文学作品の映画化は、その作品世界の志向的純粋性の展開という視点から見れば、多くの場合失望すべき結果に終わる。「雪国」の駒子は、川端康成が書いた駒子という志向的表象において完結しているのであって、どんな名優がどんなに素晴らしい演技をしても、もともとの作品の志向的純粋性には届かない。志向的純粋性を維持することだけに関心があるのならば、映画化など最初からしない方が良い。文学作品の映画化は、作品の志向的世界を忠実に再現することなどでは決してあり得ず、原作と関係してはいるが、別の表象世界を提示する結果に終わる運命にある。
一方、映画という芸術形式においては、志向的意味の世界ではなく、きわめて感覚的な表象の世界において、一つの仮想世界が提示されなければならない。ここに、もっとも普遍的な価値が、きわめて具体的な個別性と絡む、映画に固有の状況が現れる。
どんなに小津に才能があっても、どんなに、松竹の小津組のスタッフが優秀であったとしても、もし、原節子がいなかったとしたら、笠智衆がいなかったとしたら、「東京物語」の最後の告白シーンが、あの特定の感触を持つことはなかっただろう。原節子が、「麦秋」の中で、買ってきたケーキを包んでいた紐を結びながら、見合いの話が持ち込まれている相手について、「専務さん、とっても良いかただっておっしゃるのよ」とうれしそうに言って、それからぽんと紐を投げる、あのシーンの何とも言えないかわいらしい優美さが表現されることはなかっただろう。
小津が、俳優の箸の上げ下ろし、台詞の口調、顔の筋肉の動かし方まで一々指導したという史実には、映画という芸術形式の成り立ちに寄り添った本質的な誠実さが現れている。いかにすぐれた脚本があったとしても、原節子のあの顔が、あの表情で、あの声の質で、あの口調であのような感覚的表象をつくり出すことがなければ、小津安二郎の映画作品があの特定の質感を持つこともなかったのである。
小津という天才が現れたこと自体は、多くの偶然のなせる業である。その出自が偶然の積み重ねであっても、結果として示される天才を、人間は普遍的な価値としてとらえる。一方、その作品を構成するマテリアルとしての俳優も、また偶然のなせる業としてこの世界に出現している。そもそも、原節子のような顔の造形で、声の質で、原節子のような表情を見せ、演技をする女優が現れる確率は、果たしてどれほどのものか。宇宙開闢以来、あの原節子の具体をピンポイントで帯びた女優が現れて、映画に出演する確率は、要するにゼロに限りに近いではないか。
普遍が、具体に宿った形でしかこの世界に出現しない、ということ自体を、抽象的に考えているうちはまだ良い。その具体というのが、原節子であり、笠智衆であり、彼らの具体と小津の具体が出会うことがなければ、小津の映画という普遍も決して生成されることがなかったのだ、と考えると、あたかも、限りない深みから底光りのようなものが見えてくるような感覚が心の中にわき上がってくる。
その感覚こそが、小津の作品の持つ文学性の本質なのである。

小津の映画には、時折、見慣れた日常の中に、神々しい、彼岸の何ものかの気配が侵入してくるシーンがある。「晩春」で、結婚を決意した原節子が演ずる娘と、笠智衆が演ずる父親が記念の京都旅行に出かけ、夜、宿屋で並んで床に就き、その日の感想を話し合う場面がある。再婚したおじさんが、汚らしい、と言っていたのを、原節子が反省する。再婚相手に実際にあってみたら、とてもいい人だったと。笠智衆は、そんなことはいいんだ、と応える。原節子が、
「ねえ、お父さん。私、お父さんのこととてもイヤだったんだけど・・・」
と言いかけて、ふと気がつくと、隣の父は、もう寝息を立てている。
原節子は、まずは父親の方を見て、それから、天井を見る。障子越しに、大きな月影が見え、笹の葉のシルエットが揺れる。月の中央を貫くように、壺が立っている。
象徴心理学的な分析をすれば、様々なことが言えそうなこの場面には、何か異様なものの気配が漂っている。その気配は、京都を発つ朝、原節子が笠智衆に、本当は嫁になど行きたくない、お父さんとこうしてずっと一緒に暮らしたい、と迫っていく場面の尋常ならざる気配につながっている。あの一連の場面での原節子がかもし出している雰囲気は、曜変天目茶碗と同じような様々な要素の化学反応の奇跡である。あのような具体は、決して簡単に再現されるものではない。
もっとも、決して簡単に再現されるものではないのは、曜変天目茶碗や晩春の原節子に限る特別なことではない。本来、私たちが日常の中で出会うことの全ては、容易に再現されることのない一回性のものである。自分の人生という具体に特有の化学反応が生み出した、おそらく宇宙の歴史の中で二度と再現されないものたちである。その一回性を超えて普遍を立てるところに、人間精神に固有の可能性がある。その一方で、私たちは、普遍という罠に思わず知らずのうちにはまって、具体そのものを見失っていくのである。
原節子であり、笠智衆であるところの特別な具体について考えるまでもない。目が覚めて、眠りに落ちるまで、自分が体験する状況の具体が、寸分違わず再び繰り返されることは決してない。「これは前と同じだ」と考えるのは、単なる便宜の問題である。具体との出会いを、一期一会であるととらえても、そのようにとらえること自体が、具体から普遍への飛躍を含んでいる。
普遍への飛躍をせずに、ぐっとこらえて、まさに目の前にある具体の生々しさに寄り添うことは、おそらく私たち人間の脳が進化の過程で獲得してきた普遍化への傾向に反する、かなりしんどいことのはずである。しかし、そのしんどい作業がどのようなことを意味するのか、少なくとも想像してみることなしには、小津の作品の持っている本当のポテンシャルも、現象学の哲学を経て、小津映画を経た現代の我々にとっての文学の可能性も見えてこないように思う。
禅の思想を持ち出すまでもなく、人間が体験する感覚世界の成り立ちからして、神や永遠は、私たちの生の猥雑で混乱した日常を離れては存在し得ない。人間は、往々にして、この地上の生の具体から離れた抽象的な普遍として、神や永遠といったものを仮想したいという衝動に駆られる。そのような衝動は、おそらくはタナトスの一つの変形である。
小津が、美食や酒を愛したことは偶然ではない。人間にとっての普遍は、タナトスの先にあるのではなく、日々の感覚の具体の中にある。舌に載せたチョコレートが溶けていく時の感覚に、トンカツを食べた後ビールを飲む時の感覚に、永遠が宿っていると考えて、何が不都合なのか。そこに神が宿ってさえいると考えても、不敬だと言えるのか。有限で具体的なものが、そのまま、普遍的で永遠なものと等価であると考えては、道を誤るのか。私たちの生の、ごく些細に思われる具体の中にこそ、もっとも永遠で普遍的なものが宿っているからこそ、小津のような芸術家ができるのではないか。
無限は、人間という有限の生にとっては、実無限ではなく可能無限としてしか顕れない。どんなに大きい数をとってきても、必ずそれよりも大きな数を与えることができる、というように、無限を得る手続きを与えることはできても、無限という実体そのものを扱うことはできない。人間にとっての無限とは、すなわち、有限の手続きの意味論の中に潜んでいる、可能性としての無限である。
本来、死すべき人間にとって、普遍は、可能性としての普遍でしかあり得ない。それでも、人間が、実体としての普遍があたかも定立できるように思ってしまうのは、意識そのものの持つ傾向である。人間の意識は、その成り立ちからして普遍という形式に依拠せざるを得ないのであり、現実の世界で遭遇する具体の奔流の中で、その成立の根拠である普遍を探し続けなければならないのである。プラトンが、人間は魂の故郷であるイデアを求める存在であると書いた意味は、おそらくはそのようなことである。
原節子が家の階段を上り降りしながら、次第に変わっていき、映画の最後には全く別の人間になっている。笠智衆が、老妻が生きていた時とまったく同じ恰好で、同じ場所で、近所の人と挨拶を交わす。ご飯の支度をしたり、服を脱いだり、服を着たり、ビールを注いだり、注がれたりしながら、気がつくと家族のあり方が取り返しのつかない形で変わってしまっている。小津の映画に描かれた日常の生の具体の中に、起こるべきことは全て起こっている。人間の生において特筆大書されるべき、生、死、出会い、別れといった出来事は、すべて、日常に由来し、日常に還って行く。
日々の生活の些細な具体の積み重ねを離れて、人間にとって普遍も、永遠もないのだと思い定めたとき、それまで退屈に思われていたかもしれない日常が、突然、底光りして感じられてくる。「東京物語」に出会い、小津との出会いをする前の西洋かぶれの私が、日常生活などくだらない、本当の生活は、ここではないどこか他の場所にあると思い詰めていたのも、今から考えればそのことだったかと思い当たる。
小津安二郎は、私たちの日常が底光りすることの理由をつかみ、表現し得た芸術家であった。今、映画作家としての小津安二郎の輝きが増しつつあるように感じられるとすれば、それは、現代の私たちが、戦争でも革命でも経済発展でもない、ごくありふれた日常に寄り添った精神生活を始めているからかもしれない。マルクスやレーニンは革命を発明した。二十一世紀の私たちは、日常を発明し、再定義しなければならない。そのような努力の向こうに見えてくるのは、具体と普遍の関係についての知見であり、人間性の本質に関する洞察であり、文学の可能性である。 
 
「戦後思想の名著50」岩崎稔・上野千鶴子・成田龍一編

 

魅力的な企画の本である。六〇年におよぶ戦後日本の歴史を振り返り、その中で大きな思想的影響力を持った著作を今の時点でどのように位置づけるかを考えながら読み直すという作業は、ものを考えようとする人たちにとって必須の課題といえるだろう。もっとも、「論壇」というものが今でも存在するのかとか、「思想」という言葉自体が今では死語と化しつつあるのではないかといった疑問もありうるが、そうした問題を含めてさまざまな事柄を考えるきっかけとなる本である。そのような興味深い作業を、比較的コンパクトな形で――一冊の本としてはかなり厚いが、対象の広大さを考えれば、これでもコンパクトな方だろうし、収められている一つ一つの文章は短文ばかりである――まとめたという意味で、非常に便利な本でもある。その便利さがかえってあだにならないかという疑問もないではないが、そうした点については追い追い考えていくこととしよう。  

本書は、第T期「戦後啓蒙の成立と展開(一九四五年‐一九五〇年代)」、第U期「戦後啓蒙の相対化と批判(一九六〇年頃‐一九七〇年代)」、第V期「ポストモダン・ポスト冷戦・ポスト戦後(一九八〇年頃‐一九九〇年代)」という時期区分に対応した三部からなっている。もっとも、第U期と第V期の区別はあまり明瞭でない。対象とされる著作の刊行時期をとってみても、第二部の中で八〇年代以降の著作がとりあげられていたり、第三部で七〇年代の著作がとりあげられていたりする。論評の仕方も、第一部では対象への批判的評価が基調をなすのに対し、第二部と第三部では比較的高い評価が多いということで、後の二つにはかなりの共通性がある。
編者たちの説明によれば、第三部では「「戦後啓蒙」対「戦後啓蒙批判」という対立図式が失効するような歴史的文脈のもとで、新たな知の地政学をもたらそうとした思想の営為」を取り上げたとのことだが(編者まえがき、五頁)、実際の選択基準は編者たちの独自な好みを反映した結果、右の説明だけで読者を納得させることのできるものにはなっていないように思われる。そのことは編者たちも意識しており、「選書には、わたしたち編者三名の選好や恣意が入っています」、「V期に何を取り上げるかについては、もっとも異論があることでしょう」と断わられている(四‐五頁)。だから、そのこと自体を非難しても始まらないのだが、ともかく私自身はこの構成にかなり疑問を感じたということを先ず言っておかなくてはならない。実際、第三部に収められている著作の多くは、私の眼から見ると、内容的には共感するところが多々あるものの、特に斬新とはいえないという風に思われてならない。これを画期的とするのはある特定の価値判断が背後に前提されているからであり、その判断自体がそれほど新鮮とは思えないというのが私の印象である。
本書は大勢の執筆者たちによる共著だから、全体が何らかの共通見解によって統一されていたり、同じトーンで書かれているわけではない。にもかかわらず、私の読後感としては、これだけ大勢の人が書いているわりには、比較的共通の要素が多い本だという気がした。そのことにはメリットとデメリットがある。メリットは、てんでんバラバラで散漫な本ではなく、ある種のまとまりと筋書きをもった本として読めるということだが、デメリットとしては、本来多様性のあるテーマに取り組んだ書でありながら、そのわりには一つの筋書きにおさまる――本書に頻出する表現を拝借するなら「回収される」――印象を与えるものになってはいないかという疑問がある。もちろん、これはあくまでもごく大雑把な印象ということに過ぎない。個々の文章を丁寧に見ていけば、そうした筋書きにおさまらない要素もあちこちにあり、多彩さが感得される。にもかかわらず、三つの時期への区分のせいもあって、大きな流れとしてそのように感じさせるところがあるのではないかというのが私の第一印象である。
論評対象に対する執筆者の姿勢も、個々の文章ごとの差異があることはもちろんだが、ややもすると対象をほめるかけなすかのどちらかに両極分解しがちで、細やかさに欠けるものがわりと目につくような気がした。ほめるにせよけなすにせよ、論者の価値観に照らしての裁断――批判する際には断罪に近い口調、評価する場合には「正典化」という言葉が当てはまりそうな絶賛――という傾向も散見されるように思われる。個々の例にこだわるわけではないので特定の名を挙げるのは避けるが、たとえば、「いまなお読み継がれるべき「戦後思想」の古典」、「本書の現在性は現在までいささかも衰えてはいない」、「パラダイムを根本的に組み換える斬新さ」、「記念碑的記録」、「今後ますますその普遍性を明らかにするだろう」、「なおも色褪せない魅力を放っている」、「以後の議論に決定的な橋頭堡を築いた」等々の言葉を読むと、それはそうかもしれないが、やはり新たな「正典化」とその権威付けという要素が忍び込んではいないだろうかという印象をもってしまう。 

先に、相当多くの執筆者たちが共通の価値基準をもっているように見えるということを示唆したが、その評価の物差しは、敢えて単純化していうと次のようなものである。「西欧近代」を模範とするようなものは駄目、マルクス主義――とりわけ「講座派」系統のそれ――に忠実なものは駄目、アジアの植民地が視野に入っていないものは駄目、男性ばかりを取り上げてジェンダーの視点がないのは駄目、性の問題に触れる際に異性愛を前提しているものは駄目、逆にいえば、こうした限界から自由になっているものほど高く評価される、というのが大まかな共通点のようである。私はそのこと自体に異議を唱えたいわけではない。むしろ結論的には共感するところがかなりある。ただ、過去の思想家の著作を読む際に、ひたすらこういう物差しを当てはめて裁断するやり方がどこまで有効なのだろうかという疑問を抑えがたい。これは極論するなら、コペルニクス以前の人びとはみんな太陽が地球のまわりをまわると考えていたから大馬鹿者だといって批判するようなものではないだろうか(1)。
このような物差しを使うと、第T期の諸著作の多くはいまから見ると問題のあるもので、批判ないし克服の対象と評価されることになる。これに対し、第U期になるとそのことへの批判的意識が出てくるので相対的に評価が高くなり、第V期ではより一層それが明確になるということで、本書の構成は、時代とともに思想が進歩するという図式――もちろん、明示的にそう言われているわけではないが、通読するうちに、何となくそういうイメージが湧いてくる――が暗黙に前提されているような気がする。これは一種の「進歩史観」ではないか、という皮肉な感想も浮かんでくる。
確かに、第一部の対象として取り上げられている著作の多くは、いまとなってはかなり古く、いま読み返すと違和感を感じさせるところが多々ある。しかし、だから古くて駄目だと決めつけるのでは思想史にならないのではないだろうか。そういう、現在の眼から見て違和感を懐かせるようなものが書かれ、広く読まれ、影響力を及ぼしたのはどのような状況においてだったのかを歴史的に理解する努力が必要なのではないだろうか。
大塚久雄「近代化の人間的基礎」を取り上げている山之内靖は、本書の執筆者たちのうちでは例外的に年長世代に属する。おそらく彼はかつて大塚史学の強い影響力にとらわれたことがあるのだろうし、その呪縛から自己を解き放つのに多大の努力を要したのだろう。そのこと自体は尊重に値する事実である。だが、本書の大部分の執筆者や想定される読者の大多数は、大塚の強い影響下にあった経験などほとんどなく、それどころか「大塚久雄って誰?」というような感覚の持ち主であることも珍しくないのではなかろうか。大塚の呪縛から抜け出すために必死になっている様を描くのは、大塚を現代にまで生きている人と描くことに通じる。むしろ、大塚史学がほぼ完全に過去のものとなり、若い世代にはそもそも名も知られなくなっているような状況を前提して、それはどういうものだったかを、改めて「歴史として」理解してみようとする作業が必要なのではないかと思う。これは大塚に限らず、柳田国男、丸山眞男、川島武宜など、第一部で取り上げられている多くの著作家に共通に当てはまる――柳田、丸山は大塚、川島に比べれば、今でも知られている度合いが相対的に高いといった差異があるとはいえ――ことではないだろうか。 

本書の多くの部分に共通する気分のようなものを単純にまとめるなら、現にある社会のあり方に批判的な――ということは、敢えて伝統的な言葉を使うなら「左翼的な」――気分が基調をなしているといえよう。但し、一昔までなら、「左翼」と言えばあれこれの潮流のマルクス主義を指すのが通り相場だったが、ここではむしろ反マルクス主義的な、いわば「ポストモダン左翼」が主流をなしているように感じられる。一九六〇‐七〇年代の「新左翼」が「反代々木の左翼」だったとしたら、一九九〇年代以降の「新新左翼」は「反マルクス主義的な左翼」だということになるかもしれない。それはそれで理由のあることなのだろうとは思う。ただ、そのような立場を深めるためには、批判対象としての「既存マルクス主義」を戯画化して、安易にやっつけるのではなく、もう少し深く捉えて、格闘する作業が必要だろう。その作業が本書ではあまりなされていないというのが、読み終えての一つの不満である。
「旧左翼」ともいうべき潮流の著作としては、ただ一点、石母田正の「歴史と民族の発見」が取り上げられている(執筆は磯前順一)。私自身のこの本へのかかわりをいうと、私が歴史研究を志した七〇年代はもうこの本の影響力が低下した後だったので、書名だけは一応知っていたものの、敢えて読もうという気は長く起きなかった。二〇〇二年にこの本が平凡社ライブラリーとして再刊されたときも、なぜいまという疑問を禁じ得なかった。もっとも、「古くさい」というレッテルが確立したものを敢えて新しい眼で読み直し、それを社会思想史の一素材とするという作業は興味深いものになる可能性があるとは思っていたが、なかなか実際に読む機会がなかった。そういう中、偶然だが、たまたま本書(「戦後思想の名著」)とほぼ時を同じくして石母田著も読んでみたので、私自身の感想と磯前による論評とをつきあわせてみたいという気持ちに駆られた(2)。
先ず、次の言葉が眼にとまった。
「本書が当時の日本共産党やスターリンの権威を前提に書かれたことは否定しがたい。しかし、「歴史と民族の発見」という言葉に託して、石母田が何を語ろうとしたのか。どのように社会状況に介入しようとしたのか。彼の当時の言動を丁寧に読み解いてゆくならば、そこにステレオタイプ化されたナショナリズムの観念に回収されきることのない思考の襞が見出されるはずである」。
これは、後知恵による裁断やレッテル貼りを避けて、歴史内在的に石母田を読み直そうという提言であるようにとることができ、その意味では好感が持てる。だが、問題はそれをどのように遂行するかにある。続く個所では、以下のように述べられている。
「石母田にとって、ナショナリズム、彼の表現でいえば「民族」なる言葉とは、何よりも、自己のうちにひそむ不透明さ、知識人のもつ合理性の限界を知らしめるものであった。彼がたびたび指摘している知識人のおちいりがちな陥穽とは、わたしたちが学問という言説に深くかかわってゆく過程で、大文字の歴史に同化されてしまい、「身ぢかな周囲」や「内面的なもの」への感性を喪失してゆくこととされる」。
おそらく、石母田の「民族」とは、後のナショナリズム論で問題にされる意味での「民族」とは微妙に異なり、むしろ「大衆」「人民」と重ねあわされる部分がかなりある言葉なのだろう。だとするなら、それへの注目は、ここで指摘されているように、「知識人のもつ合理性の限界」やエリート主義への自己批判としての意味をもつということになる。戦後のある時期まで「民族」「ナショナリズム」「愛国」などの言葉が「右翼」の独占物ではなく「左翼」のシンボルでもあったことは、そう考えれば理解できないことではない(3)。だが、問題は、それが現実の民衆そのものというよりも、政治運動の方針に沿ってつくられた観念の中の「人民」「大衆」「民族」に横すべりしがちだったという点にあるのではないだろうか。「生きた現実」とか「生身の人間」とかいった言葉は、往々にして、それ自体がまたもう一つの公式ないしスローガンと化し、「大文字の歴史」に吸収されていってしまう。この点に踏み込むことなく、「「国民のための歴史学」という大文字のスローガンには収まらない筆づかい」といった評価にとどまるのでは、批判的再検討として不十分ではないかという気がする。
もう一つ気になるのは、「ロシア・マルクス主義」という言葉の濫用である。いわんとするところは分からないわけではないが、このような安易なレッテルの乱発は、この言葉さえ出せばすべての悪は説明されるといった印象を与え、折角の議論が薄手のものになってしまう(4)。たとえば、「当時の石母田が日本共産党やコミンフォルムに忠実でありながらも、実質上、ロシア・マルクス主義にとっては異端ともいえる思想形成を経てきた」(一三六頁)という個所があるが、この文章をやや乱暴にまとめなおすなら、悪いのはみんな外(ロシア)からやってきたもので、それと一線を画して日本国内で蓄積されてきた知的伝統を引き継ぐ部分はプラスだ、という図式になる。そのような側面がありうるということ自体を否定するわけではないが、これはあまりにも安手の図式ではないだろうか(5)。
それはさておき、「旧左翼」はともかくも石母田という一つの例が再検討の対象になっているわけだが、かつての「新左翼」は、ほとんど対象として取り上げられてさえおらず、これは一体どういうことだろうかという疑念を引き起こす。こういうと、吉本隆明「共同幻想論」が取り上げられているではないかと反論されるかもしれない。だが、この本は彼が六〇年安保を境に政治的行動から手を引いた後の著作であり、私の個人的印象では、「新左翼のイデオローグ」だった時期の彼を代表するものではない。この本が広く読まれたのは、「新左翼」運動退潮の中で「挫折」という言葉が流行語化する雰囲気の中だったのではなかろうか。もちろん、こうした印象やイメージには個人差が大きいだろうから、私の個人的印象が正しいと言い張るつもりはない。ともかく、私自身が若かった頃に興奮しながら読んだ――どこまで理解できたかはもちろん怪しいものだし、今では内容もほとんどすっかり忘れてしまったが――吉本の著作といえば、「抒情の論理」「異端と正系」「擬制の終焉」「自立の思想的拠点」など、主に一九五〇‐六〇年代のものであり、「共同幻想論」以降の作品はほとんど読んでいない。吉本のことについては、また後で立ち返ることにして、その他にも、広い意味での「新左翼」に大なり小なり関わりのある論者は本書に何人か登場するが、そのものズバリといった著作は一つもない。廣松渉については単独で取り上げられる代わりに、コラムの中で短い言及があるが(一六七頁)、なぜか索引では漏れている。
このように新旧左翼のことがあまり正面から論じられていない中で、岩崎稔の二つのコラム「「戦後革命」の挫折」「夭折する青春の自画像」がやや異彩を放っているように感じた。どちらも岩崎自身の結論は明示されておらず、何を考えているのかはよく分からないが、とにかくこうした問題の所在自体が忘れられている状況に対して異を唱えようとしているもののように感じられ、その限りでは、ある種の共感を覚えた。 

本書の中で上野千鶴子がどの章を担当するかは、読む前にかなり関心の引かれるところだった。読んでみると、見方によって意外とも当然ともいえるが――私自身の感覚としては、「予想通り」である――、フェミニズムやジェンダー関係の著作は他の執筆者に任せ、自分自身は違う種類の著作の論評に取り組んでいる(コラム「主婦の思想」だけは適任者を探せなかったのか、自らの執筆だが)。そこまでは予想通りだが、吉本隆明「共同幻想論」、山口昌男「文化と両義性」という二冊を敢えて選んだ――編者だから、自分で名乗りを上げたのだろう――のには虚を衝かれる思いがした。というのも、両著とも、私自身にとって「相性が悪い」と感じさせる著作だったからである。
吉本については先にもちょっと触れた。私の吉本読書歴はかなり特異なものなので、あまり普遍性を主張するつもりはないが、とにかく「共同幻想論」は、ああ彼は自分とは違う世界の人なんだな、と感じるきっかけになった本である。いまから思うと、民俗学も人類学も全く知らず、柳田国男を読んだこともなければ、古事記も中学の教科書以来ご無沙汰という私に歯が立たなかったのも無理はない。同時代的に私の同世代の人たちがかなり熱中しているらしいのは知っていたので、一応覗いては見たものの、彼らも一体これを本当に分かって読んでいるのだろうかという疑問しか残らなかった(6)。今回、上野の解説を読んで、なるほどこういうことを書いた本だったのかということがようやくある程度分かってきたような気がして、それはそれでありがたい経験ではあった。「恋愛を「対幻想する」と呼び換えるのは、同時代の女子学生の風俗とすらなった」という個所(三五六頁)などは、ああそうだったのか、という思いをさせられた。そういう恩恵はあるが、それでもなお、本書がそれほどの衝撃力を持つというのは依然としてよく飲み込めないところが残る。
国家は共同幻想であると喝破したのが同書の衝撃の源泉だとはよく言われるところであり、上野もそう書いている(三五五頁)。しかし、「幻想の共同体」という概念だけでいえば、それはマルクスにさかのぼるものであり、それ自体として驚くべき発想とはいえないのではないだろうか。もっとも、マルクスの場合には「幻想に過ぎない」というところに力点があったのに対して、吉本はむしろ幻想に意味があることを強調したという点で独自性があったように思われる。それはそれでよいのだが、そういう指摘に陶酔するタイプの人とあまり酔えないタイプの人とがいるのではないだろうか。私のように散文的な人間は、「それはそうでしょうが、それでどうしましたか」という感想をどうしてもぬぐえない。ついでにいうと、よく似た表現を使ったベネディクト・アンダソンの場合、「想像の共同体」という言葉ばかりがむやみと有名になったが、彼の著作をよく読めば、ネーションが想像の共同体だというのは一つの出発点――それも比較的当たり前の出発点――に過ぎず、重点はネーションが他の「想像の共同体」とどのように違うのか、またそれはどのようにして形成されたかの分析におかれている。そして、その点に関していえば、アンダソンは「出版資本主義」とか官僚のキャリアにおける「巡礼の旅」とかを重視していて、「幻想」どころか物質的な要素を重視するタイプの発想であり、その意味で吉本よりもマルクスの方に近いように思われる。
吉本の場合には、こういった違和感が残るにしてもまだしも納得のいくところがあり、特に上野の解説は鮮やかと思えるのだが、山口昌男になると、もっと私には相性が悪い。本書で取り上げられている五〇冊の著作のうち、私が以前にざっとでも読んだことがあるのは二〇冊弱程度だが、その中で最も印象が悪かったのがこの本である。むやみやたらと外国の著作家の名前を列挙し、これが最新流行の知のあり方ですと解説してみせるという山口のスタイルは、流行を嫌い、衒学趣味を嫌う私にとっては、どうにも受けいれられないものだった。今回、上野の解説を読んでも、「綺羅星のごとく勢揃い」とか「西欧思想の万華鏡」とかいう言葉(五四五頁)をほめ言葉とする神経が私には理解できない。「学問や評論とは、「他人のコトバで自分を語る」迂遠な知の作法だが」という指摘は、日本では往々にしてそうなりがちだという批判的な指摘としてなら理解できなくはない(「横のものを縦にする」とは言い古された言葉である)。だが、そうあってはならない、自分の考えは自分の言葉で語らねばならない、と考え続けてきた私としては、上野のような人にそう簡単にこういうことを言ってほしくなかったと思う。「知の権威主義」という指摘も一応あるのだが、「山口はその権威主義を利用することで、「現代思想」ブームという知のブームを準備することができたのである」と肯定的文脈で語っているのは(五四八頁)、なんとしても理解できない。そうだ、まさしく権威主義じゃないか、「現代思想」をありがたがっていた人たちは、口先では反権威を叫んでも、実際にはまさしく「知の権威主義」を地で行っていただけじゃないか、と私などは言いたい気がする(7)。
こういうわけで違和感が非常に大きいのだが、末尾近くまで来て、オヤと思わされるところがあった。「「文化」と「消費」がキーワードとなった時代に、山口とその周辺の知識人たちはイデオローグとして登場し、同時にみずからがメディアの消費財となる学者文化人となっていった」(五五一頁)。これは批判的要素を含んだ冷静な指摘である。しかも、その後にこう続く。「私自身もその一人であったことを告白しなければならない。/山口を論じることは、レイトカマーがクールに距離をおいて裁断するようには、私にはできない。私は彼の同時代者であり、山口組の一員でもあったからだ」(同右)。ここには、上野の肉声のようなものを聞きとることができるように思う。
常々思うことだが、ちょうど丸山眞男にとって「丸山眞男」というレッテルないし看板が窮屈で重荷だったのと同じように、上野千鶴子にとっても「上野千鶴子」というレッテルないし看板は窮屈で重荷なのではないかという気がする。その上で感心するのは、上野がその看板をきちんと背負いながらも、ときとしてその看板の陰から素顔のようなものをのぞかせたり、肉声を響かせたりする感性を失っていないという点である。上野の文章を読んでいると、「女性的な」性格の私は、ときおりその戦闘精神――「マッチョ的」とさえいいたくなる――に辟易させられることがあるが(8)、それだけにとどまらない肉声を聞き取ることのできるような個所にぶつかると、ああやはり上野の感性はまだ枯れていないのだなと思って、心が温まる思いがする。いま引いた個所などもその一つである。
考えてみれば、上野が最初期に書いた論文に「カオス・コスモス・ノモス」――私が最初に読んだ彼女の論文でもある――があり、最初の論文集は「構造主義の冒険」だったから(9)、その上野がこういう風に吉本の「共同幻想論」と山口の「文化と両義性」を取り上げるのは、まさに彼女の原点を確認するような意味があるのではないだろうか。構造主義からポスト構造主義へ、そしてマルクス主義フェミニズムから構築主義へ、更に最近の脱アイデンティティ論へと、次から次へと息つぐ暇もなく衣装を取り替えているように見える上野だが、その原点は構造主義と人類学にあったのだと考えると、どことなく納得できるような気がしてくる。 

最後になるが、本書の中で特に感銘の深かったものとして、天野正子の担当した二つの章――松田道雄論(「育児の百科」)と花森安治論(「一戔五厘の旗」)――がある(10)。本書で取り上げられている書物の多くは、たとえ正面から「天下国家」を論じるわけでないにしても、いわばそれへの反逆を通して、裏から「天下国家」に迫るようなところがあり、エリートと対抗エリートとの抗争という印象がなくもない。これに対して、松田も花森も、対抗エリートがややもすれば陥りがちな観念性を避け、日常性にしっかりと根を下ろしている点が特徴的である。といっても、もちろん単純に日常性に埋没するわけでもなく、日々の生活の場こそ「民主主義を根付かせる」最大の拠点だという戦略があり、ある意味では「戦後民主主義」――本書の編者流にいえば「戦後啓蒙」――の流れの中にある(松田は一九〇八年生まれ、花森は一九一一年生まれで、「戦後啓蒙」の代表的論者たちと大体同世代)。啓蒙主義者というと、ややもすれば、「知識と教養を持ったインテリが大衆にそれを押し広めていく」というエリート臭が漂い、その点がよく批判の対象とされるが、松田も花森も、そういう高みから見下ろすような恩着せがましさがなく、いま読んでもすがすがしさを漂わせていて、すんなり入ってくる。こういう地に足をつけた議論が、むしろその後には少なくなってはいないだろうかという気さえする(11)。
松田著の対象である育児とか、花森が「暮しの手帖」で主戦場とした家事(暮し)は、伝統的に女性の領域とされてきた。松田著の場合、念頭におかれている読者は明示的に「母親」とされているし、「暮しの手帖」も「女性雑誌」をつくるというところから出発している。この点は、性別分業を批判的に捉える後世の見地からは、当然批判の余地がある。そのことは確かに確認しておくべき点だが、その上で、家事・育児・ケアを「女性の領域」と決めつける通念から離れて、むしろジェンダーに関わりなくあらゆる人がそこに関与すべき領域として捉えなおすことを通して、松田の育児論や花森の「暮し」重視の姿勢を今日に生かす余地もあるのではないだろうか。松田や花森が生きていた時代に比べ、今日では女性の社会進出が曲がりなりにもかなり進んでいるが、そのことは男性の家事・育児・ケア参加の向上を伴うのではなく――ここには男性の意識の遅れももちろん関係しているが、それだけでなく、企業・官庁における労働の組織化のあり方全体が関係しているだろう――家事・育児・ケアの公的セクターや市場への依存度を高めているように思われる。家庭内で、両性の協力によって、家事・育児・ケアが丁寧に営まれていくという展望はあまり開けているようには見えないが、それは「生活者」としての力の低下、「生活民主主義」の敗退につながっていくおそれさえあるのではないだろうか。
こういう風に考えると、上野千鶴子がコラム「主婦の思想」の末尾で、「専業主婦そのものがもはや歴史的に成り立たない時代となった」、「主婦の思想は、その担い手ごと、歴史的に一過性の存在となりつつある」と締めくくっているのは(四五八頁)、やや性急ではないかという気がする。確かに、「専業主婦」のみを念頭において考えるなら、その通りだろう。しかし、純粋の「専業主婦」が少なくなっても、家事・育児・ケアという営みそのものがなくなるわけではない。それらは公的サーヴィスや民間企業に外部化されもするが、家庭内に残っている部分もまだあるし、外部化されたものをどのように利用するかはやはり家庭内の決定事項である。そうした事柄を担当する人々――兼業主婦あるいは兼業主夫(12)――はいなくなったわけではなく、むしろ専業主婦が減ればその分、兼業主婦あるいは兼業主夫が増えるはずである。「生活者の思想」とはそのような部分も含んで成り立つ概念なのではないだろうか。
個別に興味を引かれた例はこれ以外にもたくさんあるが、それらを一々書いていてもとりとめなくおそれがある。とりあえず、この辺で打ち切っておきたい。いろいろと不満も述べたが、そうしたことを考える契機を与えてくれたという意味では、やはりありがたい本だというべきだろう。 

(1)コペルニクスを引き合いに出したついでの脱線。ひところ、「言語論的転回」という言葉が流行したことがあった。その後、それに倣って、「文化論的転回」をはじめ、「○○的転回」という流行語が次々と量産されているようである。私はおよそ流行語にはすべて反撥を感じる天の邪鬼なのだが、その点はさておくとして、この種の「○○的転回」の元祖といえば、なんといっても「コペルニクス的転回」だろう。しかし、この例を思い出すならすぐ分かることだが、今日ではどんな小学生でも地動説を習うのであって、だからコペルニクス以前の人たちより偉いなどといって威張ることはできないはずである。私は科学史には全くの素人だが、おそらく科学史・天文学史の課題は、コペルニクス以前の人たちがいかに馬鹿だったかを論証することにあるのではなく、むしろ今日では一見不可解に見えるコペルニクス以前の天文学がどういうものだったかを理解しようとする点にあるのではないだろうか。今日流行の「○○的転回」にしても、一刻も早く「転回後」の知のあり方をファッションとして身にまとおうとするだけが能ではなく、むしろ「転回前」の知のあり方を、それがいまから見ればどんなに古くさく見えようとも、内在的に理解しようと試みることが、思想史の観点からは重要なのではないだろうか。
(2)但し、私は石母田の本領とする古代史・中世史研究に通じておらず、内在的な石母田理解はできないことを断わっておかねばならない。
(3)この点は、小熊英二「《民主》と《愛国》」新曜社、二〇〇二年の指摘するところである。
(4)この点につき、塩川伸明「現存した社会主義」勁草書房、一九九九年、序章の注6参照。
(5)石母田著を読みなおす上で一つの大きな問題点は、スターリンの一九一三年以来の民族論および一九五〇年言語学論文に対する石母田の受容を今日の観点からどう位置づけるかという点にあるだろう。すべての悪をスターリンと単線的に結びつける通説に逆らってスターリン言語・民族論を新しい観点から再評価する必要性を指摘したのは田中克彦の「言語からみた民族と国家」(何種類かの版があるが、最初のものは、岩波現代選書、一九七八年)をはじめとする先駆的な業績だが、その後、この観点を深める作業はなされていない。私自身は、数年前の著作で、スターリン民族論について既成のイメージから多少離れる像を提示しようと試みたが(塩川「民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T」岩波書店、二〇〇四年)、まだ簡略なスケッチにとどまっており、言語学論文についての再検討もできていない。今後の課題としたい。
(6)ついでに長年の疑問を記しておくと、「逆立」という独自の用語は、「ぎゃくりつ」と読むのだろうか、「さかだち」と読むのだろうか。読み方さえ分からない単語の意味など分かりようもないと思えたし、いまでもその感覚は残る。
(7)その数頁先に、「もっとも権威主義的でない」「権威主義ほど、山口自身から遠いものはない」という特徴づけが出てくる(五五一頁)。だが、これはいったん「権威主義を利用」と書いてしまったことを必死で打ち消すための無理な弁護論ではないかと思われてならない。こういう弁護をわざわざしなければならないという潜在意識がはたらくのだろうか。
(8)いわずもがなのことだが、女性が戦闘的だから特に辟易するのではない。戦闘的な男性も全く同様にまっぴらご免である。
(9)「カオス・コスモス・ノモス」は「思想」一九七七年一一月号掲載、後に、「構造主義の冒険」勁草書房、一九八五年に収録。
(10)ただ、残念なのは、松田道雄がロシア史研究者でもあったということに天野が触れていない点である。松田は大学に籍を置かない在野のロシア史研究者だったが、ある時期までの日本のロシア史研究はそうした在野の研究者がかなりの位置を占めていたし、松田は関西地域の研究者によって組織されたロシア・東欧研究会の精神的支柱ともいうべき存在だった。日本のロシア史研究の歩みについて、塩川伸明「日本におけるロシア史研究の五〇年」「ロシア史研究」第七九号、二〇〇六年近刊参照。関西のロシア・東欧研究会については、同会の作成したパンフレットがある。ソ連というと、レーニン的前衛主義とか、スターリン型の教条的な理論と中央集権的組織化ばかりが思い浮かべられやすいが、そうした現実を熟知するからこそ、地に足のついた自由への希求を松田が鍛えていったという面もあるのではないかと思われる。
(11)脱線するが、ポストモダン系統の論者の文章を読んでいて何となく違和感を感じさせられるのは、普通の読者には分かりそうにない「難解さ」と「高級感」を漂わせたジャーゴンをちりばめるエリート主義、地に足がつかない高踏趣味といったものを感じるからである。松田道雄の文章はそれとは正反対の性格のもののように感じる。
(12)もう少し細かくいえば、第一種兼業主婦/主夫と第二種種兼業主婦/主夫に分けて考えるべきではないかというのが私見である。ギリガン「もうひとつの声」についての読書ノート注36参照。なお、ここでとりあえず「家庭」という言葉を使ったが、この言葉にとらわれる必要はなく、この言葉で思い浮かべられがちな特定の型――異性愛とか、単婚制とか、いわゆる「近代家族」のさまざまな性質――に縛られる必要はなおさらない。ただともかく、公的セクターにも市場にも取り込まれないある領域があるというだけのことである。その領域はうるわしくなることもあれば、疎ましくなることもあり、生き生きとして豊かであることもあれば、索漠としていることもありうるから、それを安易に美化すべきではない。ただとにかくそういう領域が現にある以上は、それを少しでも疎ましくなく、索漠としていないものにするべく努める必要はあるだろう。自己流の解釈だが、「生活者の思想」とはそういうものではないだろうか。 
 
この国のかたち

 

日本人は、いつも思想はそとからくるものだと思っている
日本人は、いつも思想はそとからくるものだと思っている。
とはまことに名言である。ともかくも日本の場合、たとえばヨーロッパや中近東、インド、あるいは中国のように、ひとびとのすべてが思想化されてしまったというような歴史をついにもたなかった。これは幸運といえるのではあるまいか。
そのくせ、思想へのあこがれがある。
日本の場合、思想は多分に書物のかたちをとってきた。
奈良朝から平安初期にかけて、命を賭して唐とのあいだを往来した遣唐便船の目的が、主として経巻書物を入れるためだったことを思うと、痛ましいほどの思いがする。
また平安末期.貿易政権ともいうべき平家の場合も、さかんに宋学に関する本などを輸入した。さらには室町期における官貿易や私貿易(倭超貿易)の場合も同様だった。
要するに、歴世、輸入の第一品目は書物でありつづけた。思想とは本来、血肉になって社会化さるべきものである。日本にあってはそれは好まれない。 
宋学(水戸)イデオロギーが生きた
こういう気分のなかで、光圀は学者をあつめて修史事業をつづけ、その没後もつづけられた。事業は水戸徳川家の財政を圧迫しつつも二百数十年も継続したのである。その気長さにおいて、日本史にまれな偉観であるといっていい。
その修史態度は史料あつめや、史籍の校訂、考証においてすぐれていたが、しかし記述にあたっては″義理名分″をあきらかにし、忠臣叛臣の区別を正すという徴底的な宋学価値観の上に立ったために、後世への価値はほとんどない。光圀も雄大なむだをやったものである。
ただ、この事業によって幕末、水戸が朱子学的尊王穣夷思想の中心的な存在になったことはたしかである。
要するに、宋学の亡霊のようなものが、古爆弾でも爆発したように、封建制の壁をぶちこわしてしまった。
もっとも、それによってひらかれた景色が、滑稽なことに近代だった。この矛盾が、その頃もその後もつづき、いまもどこかにある。
これは夢想だが、もし江戸後期あたりにルソーの思想が漢訳されて日本につたわったとすれば、そういうグループの参加によって明治維新の思想も、器の大きなものになっていたはずである。
現実には、その思想はあとから(明治十年前後)きた。革命政権というのは革命思想を守るものなのである。あとからきた思想は、当然危険思想あつかいにされてしまう。
明治維新は、思想的器量という点では決して自讃に耐えるようなものではない。しかも、明治後、教育の面では、江戸期の日本的な″諸子百家″の思想までが教えられることがなく、ながく宋学(水戸)イデオロギーが生きたのである。左翼のあいだでさえ、水戸イデオロギー的な名分論のやかましい歴史がつづいてきた。
過去は動かしようのないものである。
ただ、これに、深浅いずれにしても苦味を感ずる感覚が大切なのではないか。 
維新の功労者は旧主の統治権をうばいつつも旧主家に対して複雑な感情をもつ
ところで、久光は新政府がまさか版籍奉還はすまいと思っていた。が、新政府は明治二年それをやった。久光は憂憤のやり場なく、鹿児島郊外の磯の別邸でひとり酒をあおり、石炭船を錦江湾にうかべ、終夜花火をうちあげさせたといわれている。明治維新による精神的な痛手は、日本一の勝者であるはずの島津久光においてもっともひどかったのではないか。
久光は、西郷と同様、大久保利通をも憎んでいた。
この両者が、太政官の二大巨頭でありながら、革命の成立後、笑顔をわすれたかのようであったのは、主筋から人格もろとも否定されつづけてきたことによるだろう。
以上の諸例は、日本における国民国家が、フランス革命やロシア革命とは質のちがった深刻さの上に成立したことを私はいおうとしている。
明治初期のジャーナリストで、旧幕臣でもあり、かつ大久保に親英した福地桜痴は、大久保のことを「渾身これ政治家」と言い、明治国家の基礎をこの人物がつくったことをみとめている。沈黙と慎重は大久保の自己表現であり、その風貌をあおぐごとに「北洋の氷塊に逢」うような思いがした、という(『甲東先生逸話』)。旧主を否定することによって成立した大久保としては、福地のいう「冷血」(同上)をもって、情熱のすべてを国家の建設にそそぐ以外になかったのにちがいない。
大久保はおよそ儒教的な思弁性を好まなかったが、かといってヨーロッパずきでもなく、また文明開化をすすめながらも軽桃なところがなかった。あくまでも冷厳あるいは冷酷なほどに現実を見つづけた人物で、太政官のたれもがそういう大久保に畏服しきっていた。たとえば長州派の伊藤博文が、木戸孝允の弟分でありながら大久保のもとに身をよせ、木戸を不快がらせたりした。
そういう大久保が、旧主筋を裏切ったという倫理の基本をゆるがすような呵責から生涯(明治十一年暗殺さる・四十九歳)まぬがれたことがなかったであろうことを思わねば、明治初年という時代は理解しにくい。大久保ほどでなくても、明治初年の太政官の重要な構成員の多くが、政治的には旧主の統治権をうばいつつも旧主家に対して複雑な感情をもち、その感情を礼節でおぎなっていたことは、いくつもの例証で知ることができる。高度な意味でのうしろめたさがかれらにあったのにちがいない。 
秀吉は信長の嫉妬を買わぬよう、できるだけその才を秘めた
四番日の秀吉については、よく知られている。
かれは信長にとっての第二段階である美濃進出の準備期から出頭人になった。
門地などはなく、いわば浮浪児のあがりで、信長によって泥の中から拾われ、実地のなかで信長の″教育″をうけた。信長好みの気塊はあったが、個人的な武芸があったわけではない。
信長は、結局、人間を道具として見ていた。道具である以上、鋭利なほうがよく、また使いみちが多様であるほどいい。その点、秀吉という道具には翼がついていた。
秀吉は早くから信長の本質を見ぬいていた。この徹底した唯物家に奉公するために我を捨て、道具としてのみ自分を仕立てた。ふつうこういう人間にろくなのはいないはずだが、秀吉は稀少な例外といえる。ただしかれは自分を韜晦しながら、いつの時期からか、秘かに自分の天下構想をもつようになった。
信長は、その死まで秀吉のそういう面に気づかなかったにちがいない。道具が構想をもつはずがないと思いこんでいた。
やがて信長は秀吉という道具に、多面性を見出してゆく。早くから経理や補給という計数の才を見出し、ついで土木の才も見出した。
計数と土木の才は、当時も、国主級の大将に不可欠なものとされていた。信長は当然、秀吉をおそれたはずだが、当の秀吉は主人の嫉妬を買わぬよう、できるだけその才を秘め、剛毅で質朴な前線指揮官であるべくふるまった。 
日本人は中国人と比べ常に緊張している
となりに、中国がある。
顔かたちが日本人とまったくおなじというこの隣人に、私などは冬きせぬ興味がある。
中国人はとくに個人がいい。
「ほんとうは、ボクは日本人より中国人のほうが好きなんだ」と、こっそり私の家内の耳もとでささやいた老アメリカ人がいる。
かれは若いころ日本語を学び、その後四十年以上、ジャーナリストとして日本と関係をもってきた。かれの理由は単純明快だった。
「中国人はリラックスしているからね。」私は横できいていて、ひさしぶりで大笑いした。たしかに日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。
鎌倉武士が自分の一所(所領)に命を懸けたように、いまもたとえば一百貨店の社員は他の百貨店に対し、常時戦闘的な緊張を感じている。自分の店内でも、自分の小寸へな売場を公として、他の売場に対して競争をしている。
「日本人はいつも臨戦態勢でいる」と、私の友人の中国人がいったことがある。
そこへゆくと、中国に住む大多数のひとびとは、歯揮いほどゆったりしている。そのときどきの政情に多少の懸念を感ずることがあるにせよ、ほぼ天地とともに呼吸し、食ヲ以テ天トナスー−食えたらいいじゃないか−という古来の風を、革命後ものこしている。 
家紋の源流は室町時代
さらにはこれら地侍をルーツにして戦国期の武士や足軽が成立しもし、またその後の豊臣・徳川期の多くの大名も、その先祖はこの階層から出た。また民間にあっては江戸期(徳川期)の庄屋・大百姓のたいていも、室町期の地侍の子孫であると称した。このことをおもうと、社会像としての地侍は、いまの日本社会の祖であると考えていい。
室町期でのあざやかな現象は、この地侍たちが本来農民でありながら家紋をもつようになったことである。またその一族郎党である惣の小農民たちも地侍と家紋を共有したり、独自の家紋をもったり⊥た。家紋という問題を軸にしても、室町期における革命的なというより多分に生物学的な才平均化運動の動態がうかがえる。
室町社会の末流として−大いに整頓されてはいるものの−江戸社会がある。
江戸社会では、農民は原則として苗字を公称できなかったものの、しかしたいていの農民は先祖以来の苗字をもっていた。
苗字には、セットとして家紋が付属している。江戸期、苗字は公称できなくとも、家紋を用いることはさしつかえなかった。
そういうわけで、江戸落語の大家さんが、「婆さん、羽織をお出し」といって、かけあいごとに出かけてゆくのである。
また江戸期の村々では、たいていの農家が、紋付羽織だけでなく定紋入りの提灯や、定紋入りの祥をもっていた。村役についた場合や、冠婚葬祭のときに必要だったからである。社会の平均化は明治維新で成立したとはいえ、その遠くは、室町時代に地侍や惣の農民が紋章を用いるようになったことに源流があるといってもいい。 
江戸長期政権の理由の1つは税金が安かったから
江戸二百七十年の安泰をもたらした理由の一つは、天領(幕府直轄領)の税金が安かったということである。
以下のことも、すでに触れたことだが、天領の税率は、鉄則のようにして四公六民が守られつづけた。たとえば奈良県(大和)の大半は天領で、税率は右のように安く、そのとなりの和歌山県(紀州穂川藩)は、最悪の時代、八公二民だった。おなじ農民が大名領にうまれるのと天領にうまれるのとで、天地のちがいがあったろう。
ただし、ここでは税率について書こうとしているのではなく、徳川政権の内部の、ほんの一風景について書こうとしている。ついでながら、徳川政権の本質というのは、まず実質としては″最大の大名″ということだったことを知っておかねばならない。幕藩体制は、いわば大名同盟というべきもので、徳川家は、その大名同盟の盟主だったと考えていい。盟主が、対外的には外交権をもち、対内的には国家を代表していた。同時に自領(天領)に対しては一大名として統治していた。 
明治政府には二大汚職事件があったが有能だった
旧南部藩(雫・盛岡)の尾去沢鉱山は、江戸後期式下三大銅山"とよばれるほど活況を呈した鉱山だった。藩営だったが、幕末、藩は採掘権だけを豪商村井茂兵衛に与えた。井上らは官命ということで南部藩からこの鉱山を私的にとりあげただけでなく、井上の親戚の岡田平蔵という者に指名落札させ、さらには採掘権をもつ村井をいじめぬき、ついにそれをとりあげた。たまりかねた村井が、司法卿江藤新平(肥前佐賀)に訴え出たことで明るみに出たのである。江藤司法卿がしらべたところ、ことごとく村井のいうとおりだったという。
火の手をみて、井上は機先を制し、大蔵省を辞職した。そのかわり鉱山の所有を岡田平蔵から自分に名義変更し、山の入口に「従四位井上馨所有銅山」と大書したといわれる。西郷のいう虎狼、福沢のいう人面獣心というのは、このことに相違ない。ときに、明治六年である。
福沢が、明治十年、『丁丑公論』のなかで、西郷の述懐をつぎのようにいう。
「ちかごろのこんなありさまでは、討幕のいくさは無益の労だった。かえって私どもが倒した徳川家に対して申しわけがない」
その述懐は、この事件の衝撃によるものだったろう。
そのうち当の江藤司法卿が佐賀に帰って不平士族にかつがれて乱をおこして敗死したため、事件の調べは縮小してしまった。
おなじく長州人山県有朋が関与した疑獄は〃山城屋和助事件"というものだった。
和助はもともとは萩城下の寺の小僧だったのだが、奇兵隊に入り、野村三千三と名乗り、その才気でもって奇兵隊軍監の山県に重宝された。それが維新後一転して横浜で貿易商になった。
山県は、維新後早々、兵部省に出仕し、同省が陸軍省になってから大輔、陸軍中将になり、省の実権をにぎっていた。もともと山県と形影のようだった和助は省の独占的な御用商人になり、巨利を得た。だけでなく官金を自由にし、その官金でもって生糸相場を張りつづけた。ついに回復不能の大損をしたからこそ露攣るのだが、かれが消費した官金は六十五万円で、当時の政府歳入の一二パーセントにあたり、汚職が国家に与えた被害としては近代史上空前のものだった。
これがあきらかになるのは、尾去沢事件の前年の明治五年なのである。江藤司法卿の命で捜査がはじまると、和助は一切の書類を焼き、陸軍省の応接室で割腹自殺して、すべてを淫滅した。
このようなことがありつつも、明治元年から同十年までの明治政府が世界史上まれといえるぐらいに有能だったことをいっておかねばならない。教育、鉄道、逓信、内務行政、建軍など、近代化のための基礎はほとんどこの十年にやり了せた。とくに明治軍の廃藩置県の財政整理における井上の功と、それと並行した徴兵令による軍隊の育成という面での山県の功は、尋常なものではない。
政府が有能なだけに、有司(官僚)専制という野の声がやかましかった。もっとも、専制と汚職が相共にできるような政体でもあった。
行政府一つだけで、立法府(議会)がなく、司法府も独立していなかった。たとえば江藤司法卿といえども閣内の人間なのである。このため、かれは同僚の汚職を糾しきれず、その主張を貫くためには東京を奔り出て佐賀の乱をおこすしかなかった。 
ドイツヘの傾斜がすすんだ明治・昭和
憲法についても、そうだった。
憲法をつくろうという機運は明治十年代からあり、さまざまな検討がおこなわれたが、結局はドイツの後進性への親近感が勝った。
フランス憲法については″過激″すぎるという印象だったし、英国については、わずかに大隈重信がかの国を参考にせよといったぐらいだった。
ドイツについては、ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさい市民精神の未成熟な国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した。
明治二十二年の憲法発布のときには、陸軍はまったくドイツ式になってしまっていた。
ドイツ式の作戦思想が、のちの日露戦争の陸戦において有効だったということで、いよいよドイツヘの傾斜がすすんだ。
法学や哲学、あるいは音楽も同様だった。
やがて昭和期に入って、陸軍の高級軍人の物の考え方が、明治の軍人にくらべ、はるかにドイツ色が濃くなった。
明治の軍人には思考法に経験主義がたっぷり入っていたし、自国を客観視する能力も、また比較するやり方も身についていた。要するに、かれらはすぐれた江戸時代人だった。
これにひきかえ、昭和の高級軍人は、あたかもドイツ人に化ったかのような自己(自国)中心で、独楽のように論理だけが旋回し、まわりに目をむけるということをしなかった。陸軍の正規将校の第一次培養機関は陸軍幼年学校だったが、ここでは、明治以後昭和のある時期までは英語は教えられず、ドイツ語が中心(他にフランス語、ロシア語)だった。
陸軍が統帥権を根拠として日本国を聾断しはじめるのは昭和十年前後だが、外政面でまずやったのは、外務省や海軍の反対を押し切って、ヒトラー・ドイツと手を組むことだった。
「どうして?」と、冒頭のアメリカの歴史学者がふしぎがるのは、当然といっていい。同国人の私でさえ、この当時をふりかえると、「なぜ」と叫びたくなるほどである。
以上はドイツ文化の罪ということでは一切ない。
明治後の拙速な文化導入の罪でもなかった。
いえることは、ただ一種類の文化を濃縮注射すれば当然薬物中寺にかかるということである。そういう患者たちに権力をにぎられるとどうなるかは、日本近代史が動物実験のように雄弁に物語っている。 
秀吉は類なき独裁者になった
若いころのかれは得手勝手者ではなかった。
むしろ他者に対して気がねをし、相手の感情や利害を見る上では気の寺なほどに過敏なたちだった。
が、政権をえて、独裁者になった。
その政権はわずか十余年だったが、その間、かれは自分の輔佐機関を整備したとはいえ、日本史上、類なき独裁者になった。
ほとんど、超越者にちかい権力だった。それでも、東海の徳川氏や九州の島津氏、また関東の北条氏が存在しているうちは、まだ十分以上に自己抑制のきいた政治感覚をもっていた。
それらが消滅し、その権力がいわば無制限の宙空にうかんだときから、変になった。
関東小田原の北条氏を征討して国内に敵らしい敵がなくなったとき、鎌倉で頼朝の像を見、「それでも君は名門にうまれたじゃないか」という意味のことをいったといわれる(『常山紀談』『関八州舌戦録』など)。頼朝とはちがい、自分は赤裸から身をおこして天下をえたのだという自負であった。これを、かれの一場の機智としてみるよりも、軽い″病気"の症候としてみるほうがいいのではないかル
かりに、軽度のパラノイアと考えることにする。秀吉の性格や履歴、それに、敵をうしなってにわかに無重力的気分になったであろうことなどを考えあわせてのことである。
パラノイアは、四十歳以後の、とくに男性にあらわれるらしい。
病者がもつ妄想世界にかぎっていえば、その内部では明晰で、体系的でもあり、思考、意志、行動に完全な秩序があるようであるが、軽度な場合、決してまわりは変だとはおもわず、むしろユーモラスに感ずるくらいである。
たとえば、−自分は、じつをいうとある高貴の血統の裔である。と言いだすとする。血統は、この病者が好むテーマの一つである。とくに秀吉は、血統のいい頼朝に対して右の場合では優越感をもちつつも、そのことに拘泥していた。 
東京遷都は前島密の案
それよりすこし前の三月十日、「江戸寒士前島来輔」という署名で、大久保の宿所に投書をした者があった。
みると、大きな構想力をもった意見で、精密な思考が明晰な文章でもってのべられており、要するに大坂は非で、江戸こそしかるべきであるという。
大久保の卓越した決断力が、このときあざやかに躍動した。かれはこの一書生の投書の論旨に服し、江戸をもって首都とするに決めた。
″江戸寒士″の投書の要旨は、こんにち蝦夷地(北海道)が大切である、浪華は蝦夷から遠すぎる、とまず言う。
ついで、浪華の港は小船の時代のもので、海外からくる大艦巨船のための修理施設がない。江戸には、横須賀の艦船工場がある。修理工場があってこそ安全港といえる。
さらに浪華は市中の道路がせまく、郊外の野がひろくない。その点、江戸は大帝都をつくる必適の地である。
浪華に遷都すると、宮城から官衝、第邸、学校をすべて新築せざるをえない。江戸にはそれがすでにそなわっている。
浪華はべつに帝都にならなくても、依然本邦の大市である。江戸は帝都にならなければ、百万市民四散して、一寒市になりはてる。
この筆者が、明治の郵便制度の創始者前島密(一八三五〜一九一九)であったことを大久保が知るのは、明治九年になってからのことである。大久保が前島密という稀代の制度立案家を前に、当時を述懐し、あの投書のぬしは君とおなじ姓だが、いったいだれだったろう、といったとき、はじめて前島は自分であったことを明かした。 
村田新八について
勝海舟は、薩摩通であった。明治後、日本国の宰相たるべき者として、維新後、「たとえ西郷・大久保がいなくとも、村田新八(一八三六〜七七)がいる」と、語った。
私事だが、『翔ぶが如く』という作品を書いたとき、なにぶん近い時代であるために、できるだけ書簡や記録、あるいは良質な伝承などから離れまいと心掛けた。
当初は、村田新八を主軸にして書こうと考えていたが、不可能だと気づいた。
新八自身、無口で、みずからについて書いたり語ったりすることがほとんどなかったからである。
かれは、当時の流行語でいう新帰朝者だった。明治四年、岩倉具視や大久保利通らとともに欧米を数年にわたって視察し、明治七年に帰国した。当然ながら新政府にあって大久保に次ぐ地位に立つべき運命をもちながら、その″幸運"をすべてすてた。
明治七年、帰朝後、新八は横浜から栄達が待っている東京にむかわず、そのまま西郷のいる鹿児島に帰り、ともに死んだ。
このときの新八の選択を、当時のひとびとがさほど異としなかったのは、時代が新八とおなじ士風を共有していたからといえる。
新八は、武士にはめずらしく三味線が好きで、名手だったとされている。
よほど音楽が好きだったのか、ヨーロッパで手風琴を買い、すぐ習熟した。
西南戦争の末期、延岡から鹿児島への敗走中、山中でこの洋行みやげの楽器を奏でて独り楽しんだ。ついでながら新八は長身で、戦闘中、フロックコートを着ていた。山中で野宿したとき、「薩摩の士風も結構だが、個というものがない」と、こぼしたという話が伝わっている。新八は、今後の日本は個々が自分を確立すべきである、欧米の文明は個人の独立から興った、と福沢諭吉とそっくりのことをいったらしい。
だからかれは旧制度を恋慕して反乱に投じたのではなく、ただ簡潔に士としての節度に殉じたことがわかる。 
靖国の前身である招魂社は大村が超宗教の形式で設けた
設けるについては、木戸と相談し、場所を九段坂上にきめた。旗本屋敷数軒を毀ったりして三万五千坪を得、まず仮殿をつくり、勧進相撲や花火大会を催したりした。死者たちをよろこばせるつもりだった。大村も木戸も、人ごみのなかにまじって見物した。
右の創設は、明治二年六月のことである(三方月後に、大村は遭難する)。
死者を慰めるのに、神仏儒いずれにもよらず、超宗教の形式をとったのは、前代未聞といっていい。大村は公の祭祀はそうあるべきだとおもっていたにちがいない(この招魂社が、十年後の明治十二年別格官幣社靖国神社になり、神道によって祭祀されることになる)。
余談ながら、長州の農村は宗教色のつよい風土で、隣りの安芸(広島県)とならび、″長州門徒″などといわれて浄土真宗の信仰がつよかった。だから大村には宗教への理解は十分にあった。であればこそ超宗教の性格をもたせたのに相違ない。
もう一つ大切なことは、招魂社を諸藩から超越させたことである。当時、まだ二百数十藩が厳然と存在したこの時代に、諸藩の死者を一両堂にあつめ、国家が祈念する形をとったのは、前例がない。大村にすれば、統一国家はここからはじまるということを、暗喩させたつもりだったのにちがいない。 
不正直で勇気のない軍によって日本は滅んだ
アメリカのポーツマスで小村寿太郎とロシアのウィッテとが日露の和平交渉をするものの、双方条件が合わない。ロシアは譲らない。樺太をよこせ、賠償金を出せと日本側は言う。再びロシア側は、そんな譲歩は必要ない、もう一ペんやるならやるぞ、いくらでも陸軍の力はあるぞと。それに対し、結局はルーズヴェルトの仲裁で、食卓の上にシヤケの一匹でものせたらどうだ−シャケは樺太のことですがその程度の条件で折り合った。
ところが戦勝の報道によって国民の頭がおかしくなっていました。賠償金を取らなかったではないかと反発して、日比谷公会堂に集まり国民大会を開き、交番を焼き打ちしたりする。当時、徳富蘇峰が社長をしていた国民新聞も焼き打ちに遭う。蘇峰は政府の内部事情に詳しく、或争を終わらせることで精いっぱいなんだ″ということをよく知っていましたから、国民新聞の論調は小村の講和会議に賛成にまわり、結果、社屋を焼き打ちされた。
日比谷公会堂は安っぼくて可燃性の高いナショナリズムで燃え上がってしまいました。″国民"の名を冠した大会は、″人民″や″国民″をぬけぬけと代表することじたい、いかにいかがわしいものかを教えています。
この大会あたりから日本は曲がっていきます。要するに、この大会はカネを取れという趣旨であって、「政府は弱腰だ」「もっと賠償金を取れ」と叫ぶ。しかし、もっと取れと言っても、国家対国家が軍事的に衝突しているというリアリズムがあります。いまかろうじて勝ちの形勢ではあっても、もう一カ月続いたら、満洲における日本軍は大敗していたでしょう。
ロシア側は奉天敗戦後、引き下がって陣を建て直し、訓練を受けて輸送されてくる兵員を待ち、弾薬を充実させています。そのときに平野に展開した日本軍はほとんど撃つ砲弾がなくなっている。訓練された正規将校は極めて少なくなり、いきのいい現役兵は極端に減っていました。
日本国の通弊というのは、為政者が手の内とくに弱点を国民に明かす修辞というか、さらにいえば勇気に乏しいことですね。この傾向は、ずっとのちまでつづきます。日露戦争の終末期にも、日本は紙毒で負ける、という手の内は、政府は明かしませんでした。明かせばロシアを利する、と考えたのでしょう。
戦争のことを好んで話しているのではありません。日本の二十世紀が戦争で開幕したことと、戦争がその国のわずかな長所と大きな短所をレントゲン写真のように映し出してくれるからです。
たとえば第一次大戦で、陸軍の輸送用の車輌や戦車などの兵器、また軍艦が石油で動くようになりました。石油を他から輸入するしかない大正時代の日本は、正直に手の内を明かして、列強なみの陸海軍はもてない、他から侵入をうけた場合のみの戦力にきりかえる。そう言うべきなのに、おくびにも洩らさず、昭和になって、軍備上の根底的な誓州を押しかくして、かえって軍部を中心にファナティシズムをはびこらせました。不正直というのは、国をほろぼすほどの力があるのです。 
武士は土地を所有するのでなく支配権があった
大名ならみな国もとに城(小大名なら陣屋)がある。
これも、近代法でいう所有権が大名にあったかどうかはうたがわしい。
たとえば広島に多重の大天守閣をもつ近代城郭を築いたのは、豊臣政権下での毛利輝元であった。設計・施工すべて毛利氏の能力と経費でおこなわれた。
関ケ原の役を境に徳川の天下になり、毛利氏は入城後わずか九年で長門の萩にうつされ、代って広島城に福島正則が入った。ほどなく福島氏が他に改易され、前記の浅野氏がこの城に入った。
広島城が毛利氏によって築かれてからわずか二十八年の間に、三度も所有権が移動しているのである。そのつど代価が支払われたかとなると、そのことは無かった。
城は、漠然とした観念ながら、公のものという思想が確立していたのにちがいない。
右の広島城の例でいうと、大名には居城の使用権があっただけということになる。
全国の城々は明治四年(一八七一年)の廃藩置県によって一せいに国家に無償召しあげされ、国有地になった。当時たれもあやしまなかったところをみても、城は天下のものという観念は、ふつうにゆきわたっていたのである。
土地のことである。
大名たるものは、その領地にあって、農地や市街地に一坪の土地も所有していなかった。大名はひろく領内の支配権をもっていただけだった。
この点、貴族が農場主だった封建時代のヨーロッパや、帝政時代のロシアの場合と異っている。
帝政時代のロシアでは、貴族が金にこまって農場を売るとき、広告を出して、その農地の上に、農奴が多くいればいるほど、高値がついた。
その点、日本の江戸時代の大名は、その領地における土地・人民を支配していたものの、所有していたわけではなかった。ヨーロッパの封建時代やロシアの帝政時代との決定的なちがいといえる。
土地をもつものは、武士からみれば卑しい身分の町人と農民だった。
藩士たちも、土地などは持っていなかった。
「あの角の八百屋の地所は、ご家老が持っている」ということは、ありえなかった。
またある藩士が、こっそり田畑を所有していて、農民に小作させている、などということもなかった。
こまかく例外をいうと、江戸時代のある時期に、富農や富商の一部が、郷土という身分にひきあげられた。この場合、かれらはその後も農地や町方の土地を持っていた。ただし、侍としての身分はきわめて低かった。 
合理的な思考者の村田蔵六
武士の世の終わりを早くから察知していた人物がもうひとりいました。
村田蔵六、のちの大村益次郎がその人です。この人のことは『花神』で語りましたが、彼も長州周防の一介の村医者、身分は百姓でした。恐妻家で妻がヒステリーを起こすと縁側から飛び出し麦畑にひそんでおさまるのを待つという風変わりな、表老荘的気分をもった人柄でした。この無愛想で合理主義のかたまりのような医者が、維新最高の軍略家であり明治陸軍の事実上の創設者になるのですから、ふしぎなものですね。
名将というのは、一民族の千年の歴史のなかで二、三人いれば多いほうといっていいほどの才能なんです。画家や作家や音楽家は、つねに存在しますけれどもね。
それがわかっていたのは木戸孝允でした。いざ倒幕ということになっても、司令官の人材がいないんです。薩摩の西郷は、自藩のなかで伊知地正治という人をひそかに起用するつもりでしたが、やがて西郷は、自分の鑑定ちがいだったことに気づき、長州が出した大村を黙認します。
木戸が蔵六を最初に見たのは、江戸の小塚原で、蔵六が刑死人の解剖をしていたときだそうで、その腑分けのたしかさと、慎重さ、しかも動作に確信の裏付けがあって、むろん多弁ではない人柄に奇妙さを感じたのだそうです。きくと、同じ長州人だという。蔵六のなにかに木戸のかんが働いたのでしょう。
蔵六は木戸の推挙で、第二次幕長戦のとき、山陰への部隊をひきい、石見の浜田城を.あっけなくおとしました。実戦の部隊長としての蔵六は、情報をできるだけあつめ、みずからも木にめぼって敵情を見、勝つと思えば兵力を集中して迅速に攻撃するというやり方でした。やがて戌辰戦争、そして上野の彰義隊の乱とことごとく作戦の指揮をとり、一度も誤りがありませんでした。自身、馬にものれず、むろん撃剣などやったことがありません。変な人を木戸はよく見つけたものだと思います。
ついでながら木戸の政治家としてのえらさは、政治が軍を統御し、軍を政治化させないという堅固なルールを藩内政治の段階でももっていたことでした。彼は奇兵隊の政治団体化をおそれていましたし、のち明治政府に出てからも、この一点にかわりがありませんでした。明治政府になってから、西郷が軍を代表し、しかも圧倒的な人望があったことに、つよく警戒していました。
蔵六に話をもどします。この人ほど合理的な思考者は世にもめずらしいというべきですね。文学的修辞でもって自他を昂奮させるということもない。山陰の浜田方面に行ったときも短袴というサルマタの大きめのものをはき、軍の先登に立って威厳を示すわけではなく、部隊の中途かうしろのほうをのこのこと歩いてゆきました。ともかく蔵六のような人間に軍を任せるというのは長州のよきところでした。会津のような身分秩序そのもののような藩ではあり得ないことです。やはり近代を呼び込む藩はそれだけの歴史と体質を備えています。
江戸攻めの時は蔵六は実質的な連合軍総司令官でした。江戸城から指揮しました。
蔵六の苦心は、江戸の街を火にせず、彰義隊だけを集結させてたたくことでした。これを巧みにやり、市中に分散していた彰義隊を上野寛永寺に集結させました。 
歴史教育の南朝正統論
幕末の″尊王攘夷″は革命思想とまではいえないものの、水戸学的気分がエネルギーになり、明治維新が成立した。
維新後の歴史教育に、水戸学は当然ながらひきつがれた。
ただ、明治の開明主義にあって、どちらも正統であるという南北併立論が主流になった。
その併立論が、小学校教育の場で明快にされたのは、明治四十三年(一九一〇年)の文部省編纂の小学教科書「日本歴史」によってである。
これが、世の虚論家たちの餌食になった。
国会での論議にまでなろうとした、その急先鋒が、大阪の漢学者藤沢南岳の息で、元造という代議士だった。
南朝併立だとすれば、楠木正成・新田義貞たちは忠臣でないというのか。
などという類いのことを、藤沢は、第二十七回衆議院本会議において質問演説すべく用意し、上京した。
首相の桂太郎は、事態を未然にふせぐべく、本会議の前日に上京してきた藤沢を待ちうけ、私的な席を設け、いわば籠絡した。藤沢の性格からみて、買収されたわけではなかった。
桂は、藤沢に対し、かならず南朝正統論の方角で教科書をあらためる、と約束したため、藤沢はなっとくせざるをえなかったのである。藤沢は、この″挫折″に対し、みずからを罰する意味で、議員を辞めた。
結局、その後の歴史教育は、桂首相がその場を糊塗するために藤沢に約束したように、南朝が正統であるという方角にむかった。 
日露戦争までが日本強度の未
そのくせ、浪人結社です。竜馬には、浪人をもって、江戸封建制から脱け出した最初の″通目本人″と考えるような思想がありました。
『竜馬がゆく』を書き終えてから気づいたことですが、竜馬は江戸封建制のなかにあって、架空ともいうべき一点″海援隊″を長崎でつくり、まだ藩にこだわっている革命家たちとはちがう星にいるかのようでした。かれは、世界に対して貿易をすることを夢みていました。それには日本が統一国家にならないとこまるのです。
おりから京都の情勢がもたついている。慶応二年(一八六六年)の薩長秘密同盟へのとりもちも、竜馬のそういう思考の場所から出ていました。
薩長秘密同盟の締結によって幕末の混乱がその終息にむかって躍進したことはたしかです。
場所は、薩摩藩の京都藩邸でした。長州からひそかにやってきたのは、のちの木戸孝允ですが、薩摩側は西郷のまわりに多少の人数の顔ぶれがならんでいました。大山弥助、野津七左衛門という名が見えます。大山弥助はのちの巌、日露戦争の満州軍総司令官です。そして野津七左衛門はのちの道貫、やはり日露戦争で第四軍の司令官をつとめた人物です。日露の戦いまでは、こうした人物たちが指導的地位についていました。ちなみにこの同盟には西郷の弟従道も立ち会っていますが、彼が日活戦争後の日本海軍の充実に力を振るった山本権兵衛の最大の後援者であったこともよく知られているところです。日露戦争が、時期的に強度の未だったことがわかります。 
市民軍が武士に勝ち武士の時代が終える
高杉についてはその天才ぶりが、師の松陰の予測すら超えたものであったでしょうな。恵まれた育ち方をした人で、藩の重職につく人だったでしょう。松陰が煽動したのではなく、高杉自身が、求めてやってきました。その祖父が「どうか大それたことをしませんように」とねがっていたそうですから、天成、風雲に臨むところが気質としてあったのでしょう。
高杉の存在のゆゆしさは、藩の許可を得て、正規の家中のほかに、非正規軍の奇兵隊という市民軍を組繊したことです。これだけで、江戸封建は根底からくずれたといえます。しかものちに藩論が紛糾して、萩の正規武士団と奇兵隊が絵堂という所で決戦して、勝つのです。市民軍が武士に勝ってしまったというのが、武士の世の終わりを、まず長州が示したということになりましょう。
武士の世の終わりを早くから予言していたのは『峠』という小説で書いた越後長岡藩総督の河井継之助もそうでした。彼と高杉が異なったのは、高杉は毛利の殿様には死ぬまで愛情を持ちつづけながら、しかしその反面で長州藩といった藩などもはや用済みに過ぎず。 
戦前と現代
ふと思い立って、『この国のかたち』を読み直してみたいと思いました。単行本が出たのが今から20年前の1990年で、そのとき読んでいるのですが、今回改めて目を通してみると、まさに<目からウロコ>であり、頷くことしきりでした。その内容は、現代に生きる私たち日本人へのメーセージであり、その中から読み取れるものは極めて大きいものがあります。「あとがき」に述べられているように、これは司馬氏が若い頃から抱いていた疑問に対しての歴史を俯瞰してのひとつの答えでもあります。すなわち、“終戦の放送をきいたあと、なんとおろかな国にうまれたことかとおもった。(むかしは、そうではなかったのではないか)・・・いくら考えても、昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようにはおもえなかった”
いまこの時期に『この国のかたち』に思い至ったのは、<今の日本はこのままで果たしてのいいのだろうか?>ということを述べてきた私にとっての何かの「啓示」のような気もします。現代日本の状況について司馬氏は、“文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、国をあげて受験に熱中するという単純化へのおろかしさ。価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるのに、逆の均一性への方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが、戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか”と述べています。まさに、その<衰弱>状態に今の日本はあるのではないか、と思えるのです。
衰弱、言い換えれば「破綻」といってもよいと思いますが、その破綻状態にあることの顕著な表れのひとつが、<官僚体制の腐敗>であります。明治以来続いてきた中央官庁などの官僚機構あるいは公務員制度は、社会保険庁の年金問題をみるまでもなく、自らの特権擁護のみに汲々とし国民不在の状態という、完全に<腐りきった状態>にあります。そして、それは戦前の日本が通ってきた道に共通する面があるといえます。すなわち、戦前の官僚機構である陸軍及び海軍が日本の運命を狂わせ、<1945年の破綻>へと追いやった歴史があります。この点について司馬氏は『異胎の時代』と規定して、次のように述べています。“この異胎は、日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの時間”であり、そのような時代を現出させる中心となったものが、いわゆる『統帥権』です。統帥権とは、すなわち“国家をつぶそうがつぶすまいが、憲法下の国家に対して遠慮も何もする必要がない、といっているにひとしい。いわば、無法の宣言---である。こうでもなければ、天皇の知らないあいだに満州事変をおこし、日中事変を長びかせ、その間、ノモンハン事変をやり、さらに太平洋戦争をひきおこすということができるはずがない”というものでした。

今の日本に統帥権に当たるものがあるわけではありませんが、様々な利権が錯綜し肥大化した中央諸官庁などにおいて、それがまるで自らの「特権」でもあるかのように、国民の「血税」たる税金を湯水のようにムダ使いすることに慣れてしまっていて、そのことは差し置いて消費税の税率の引き上げを公言して憚らない、さらには国民にとって重要な多くの情報が隠蔽されたまま放置されるなどの体質に変貌(徹底した自分本位化あるいは自己目的化)してしまっている、という腐敗(モラルの崩壊)の現状があります。今まさしく、<国民と国との間の信頼関係>は完全に崩壊してしまった実態が露呈されており、公務員は国民全体への「奉仕者」であるという日本国憲法の精神が順守されているとは到底いえない状況にあります。
今まず国として取り組むべきことは、中央官庁(及びそれと関連した公益法人:要は天下り先)を中心とした公務員のムダ使いの実態をすべて洗い出し、それを排除する方策を考えることであり、また国家公務員を含めた公務員の大幅削減を図ることであります。世の中が経済的に大不況の状態に陥ってしまった昨今、今後しばらくは税収の大幅な減収が避けられない状況が予想されることを鑑みればなおさらのことであります。
多くの一般国民が今後さらに苦しい状況に追い込まれようとしている中で、公務員という身分にあるというだけで、多くの優遇を享受できるというこれまでの「公務員(役人)天国」は、一般民間とは大きくかけ離れた非常識なものです。その意味で、民間との間の格差(差別)が余りにも大きすぎる様々な現状があり、それをこれからも容認することは、日本国憲法にある「すべて国民は、法の下に平等であつて、---経済的又は社会的関係において、差別されない」(14条)という理念に反するものでもあり、もはや許されるはずもありません。このままでいけば、税金を「食い物」にしムダに使うだけの(つまりは一般民間に「寄生」している)官僚及び公務員そしてそれらともたれあった(癒着した)政治家たちによって、戦前とは違った意味で現代の私たちは押しつぶされる(破綻させられる)はめになる可能性が大きいと言わねばなりません。 
日本の歴史的無為無策
明治維新以後の近代化(西洋化)を当時の政府が急いだことの理由の大きなもののひとつに、1854年の「日米和親条約」以後、各国と結んだ<不平等条約>の改正問題がありました。このことについて、『この国のかたち』の中で、次のように述べています。「明治政府の要人の意識をたえず支配していたのは“条約改正”だった---幕府が各国とむすんだ条約におそるべき欠陥があって、じつは日本は半独立国であるという、いわばおもわぬ正体を知った---日米条約を範として、露、英、蘭、仏などと同様の条約をむすんだ。その結果、半植民地になった」
このような事態を招いたことの主な要因には、日本が国際法や国際慣習上の知識をまったく持っていなかったことが上げられます。このことを理解した明治政府を担う人々は、いわば<愕然>とするとともに<焦り>(※)を感じることとなりました。そのため、西洋化を急がないと大変なこと、すなわち半植民地化どころか、植民地化されかねないという強い危機感を持ったわけです。諸外国との「条約改正」が成立したのは明治32年(1899年)であり、その数年後に<日露戦争>が起こっています。それはまるで欧米列強と形のうえでは<対等な関係>になった日本が、満を持してあるいは屈辱を晴らすように走り出した(そしてやがて“暴走”した)瞬間でした。
日本の近代化は、ペリー来航に始まった、あまりに突然訪れた先進列強の圧力に驚かされながら、急いで立ち上げなければならなかったが故に、やがてその方向を見誤る結果となってしまった、ということがいえます。そして、そうならざるえなかったことの背景としてあるのが、徳川幕府の約220年に亘る「鎖国政策」(※)であったということです。この<対外的(国際的)無為無策>ともいうべき鎖国政策がもたらした「負の側面」が結果として不平等条約となり、そのことが明治維新以後の急激すぎるまでの近代化推進につながった、ということがいえます。そしてまた、それが日露戦争以後の昭和の<戦争の時代>を生み出すことにもなった、ということです。準備運動なしの急激な運動が体に悪影響を与えるのと同じように、何事も急激に物事を押し進めることはそのマイナスの反動も大きいのであって、明治以後の日本は、何の準備もなしにいきなり近代化を図ろうしたがために、その方向性を見誤ってしまったわけす。このように鎖国政策という国としての<歴史的無為無策>がもたらした「負の遺産」はまことに大きいものがある、といわざるをえません。

ところで、今の時代においての無為無策とは何なのでしょうか?たしかに鎖国のような極端なものはないとはいえ、別な意味でのものがあると思われます。私が思うに、それは戦後の歴史の過程の中にあります。すなわち、戦前の戦争の時代の「歴史的総括」ともいうべきことが、国の意思として明確な形で示されていない、あるいは不十分である、ということにあります。それは戦前の歴史をすべて否定するということではなく、日露戦争(これは自衛のためのものでした)以後の戦争(他国への侵略としての)の時代を形成していったことに対する総括を意味しており、これに対する国家の意思としての明確な総括の表明(ドイツでのヒットラー時代に対するような)とそのことの国民の間での意識の共有が不十分なのではないか、ということです。つまり、戦争の時代を全肯定的に評価する人たちがいる一方で、全否定的にみる人たちがいる、というように、善か悪かのような二者択一的な見方ではなく、私がこれまでも述べてきたように、明治維新さらにはそれ以前の歴史的経緯を念頭においての検証が必要であり、それによって始めてその本質がみえてくる、ということだと思います。さらには、悲惨かつ非人間的な戦争の時代における国民の多大な犠牲のいわば代償としての<日本国憲法>、なかんずく第9条の精神をどう後世まで受け継ぐことができるか、ということを国民すべてが共有することが大変重要な課題である、ということがいえます。
したがって、<憲法改正>を声だかに主張する政治家などが絶えませんが(現在の自民党政権の2つ前の政権がそうでした)、そのような人たちは自らの歴史認識の杜撰さを表明しているようなものなのです。また、このような歴史認識の理解については、司馬氏の『かたち』の中にも豊富に盛り込まれており、こうしたすぐれた先人の適格な歴史的見識を学ぶことを前提での議論がなされない限り、日本の将来への適格なビジョンを描くことはできないのではないか、と思っています。
※この近代化への焦り(切迫感)を表すエピソードとして司馬氏は、東京帝国大学の土木工学の初代の日本人教授だった古市公威がフランスに留学したときのことを紹介しています。すなわち、日頃のの驚嘆すべき勉強ぶりに下宿の女主人が心配して“公威、体をこわしますよ”と忠告したのに対し、古市は「私が1日休めば、日本は1日遅れるのです」と言った、ということです。
※鎖国に踏み切った背景として、<島原の乱>(1637年)があったことが知られていますが、幕府がこの乱を好機として利用した面が大きいとみるべきであって、「仮に鎖国をしていなかった場合でも、キリスト教は今以上に布教された状態にはなっていたでしょうが、その結果が(後々に)日本の植民地化にむすびついたか、というと、必ずしもそうではないのではないか、と思っています。つまり、今でも12月にはクリスマスを祝う習慣があるように、日本人は特定の宗教に偏らない民族であり、現在がそうであるように仏教を中心にキリスト教や他のものが並存する」というあり方と大幅な違いはでなかったのではないか、と思われます。 
日本国憲法
5月3日は「憲法記念日」です。現在の日本国憲法は、1947年に施行されて今年で62年目となります。つい先日も憲法について触れ、次のように述べました。“悲惨かつ非人間的な戦争の時代における国民の多大な犠牲のいわば代償としての<日本国憲法>、なかんずく第9条の精神をどう後世まで受け継ぐことができるか、ということを国民すべてが共有することが大変重要な課題である”
戦前、特に昭和に入ってからの一時期は、日本の歴史のうえでも<特異かつ異様な時代>を形成することになりました。このあたりのことを『この国のかたち』の中で、「昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の“日本”は、別国の観があり、自国を亡ぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた」と述べるとともに、なぜそうなってしまったのかについて、旧憲法(大日本帝国憲法)といわゆる『統帥権』との関連で言及しています。つまり、旧憲法においても<三権分立>が基本であったのが、あるときを境にそれを<超越>する形で統帥権が浮上し、それによって、日本は軍部に<占領>されてしまった、ということです。
それは具体的には、昭和6年(1931年)の<満州事変>から始まりました。「この“事変”が日本の統帥部(参謀本部)の謀略からひきおこされたことは、いまでは細部にいたるまではっきりしている」。統帥権が軍部の謀略の<魔法の杖>となった根拠は、『統帥綱領』と『統帥参考』でした。「綱領」は昭和3年(1928年)に、「参考」は昭和7年(1932年)に陸軍の参謀本部により編集されましたが、それは「軍の最高機密に属し、特定の将校だけが閲覧をゆるされた」ものでした。そして、満州事変の“事変”は旧憲法と密接な関連があることが説明されています。すなわち、旧憲法の第31条にその言葉は出ており、臣民の権利義務に関わる事項(所有権の不可侵,居住・移転や言論・集会の自由など)は、「戦時又は国家事変の場合に於いて天皇大権の施行を妨ぐることなし」というものです。陸軍は、この「条項をてこに統帥権を三権に優越させ、“統帥国家”を考えた」のです。こうして、日本は昭和20年8月15日まで軍部による<占領状態>のもとに、自国ばかりでなく中国を始めとしたアジアの諸国に取り返しのつかない多大な被害を与えるわけです。軍部のほんの一握りの将校しか知りえなかった情報(統帥権という魔法)によって、ほとんどの国民が知らないままに日本の舵取りは奪われ、そして破綻への道を突き進んだ、ということになります。

統帥権を振りかざした軍部官僚によって、国がいわば<乗っ取られた>戦前の昭和の時代がふたたび繰り返されることは、戦後の日本国憲法のもとにおいてはもはやありえませんが、今の日本においては別な面で官僚の問題を抱えているといえます。すなわち、“様々な利権が錯綜し肥大化した中央諸官庁などにおいて、それがまるで自らの「特権」でもあるかのように、国民の「血税」たる税金を湯水のようにムダ使いすることに慣れてしまっていて、そのことは差し置いて消費税の税率の引き上げを公言して憚らない、さらには国民にとって重要な多くの情報が隠蔽されたまま放置されるなどの体質に変貌(徹底した自分本位化あるいは自己目的化)してしまっている、という腐敗(モラルの崩壊)の現状があります。今まさしく、<国民と国との間の信頼関係>は完全に崩壊してしまった実態が露呈されており、公務員は国民全体への「奉仕者」であるという日本国憲法の精神が順守されているとは到底いえない状況にあります”
さて、憲法に関連しては、『憲法改正』について触れないわけにはいきません。これについては、端的に言えば、これこそまさに「人間ならば誰にでもすべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない」形での議論がなされているのではないか、と思っています。この問題を考える場合、まずは憲法というものがいかなるものなのか、という根本的なことから始まる必要があります。憲法はいうまでもなく国の「最高法規」で様々な法律などの基本であって、基本的な理念や物事の指針などを明示したもの、ということです。したがって、時代とともに憲法の中には盛り込まれていない事柄が出てきたとしても(環境権など)、それによって社会的に何か重大な支障が出ているか、といえばそんなことはないのであって、一般の法律によって充分対応できているわけです。
次に、現憲法の中に謳われている「精神」がどこからきているのか、ということがあります。その精神は、『前文』に次のように表されています。“政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。---日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。---日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ”
つまり、戦前のように、政府が勝手に戦争をすることがないようにするために、国民主権であることを明確にした、そのうえでいかなる戦争も決して起こさないという意味での「恒久の平和」を求めるのであって、それを第9条の不戦条項として具体的に明示しており、さらにはまわりの諸国も平和を愛することでは同じなのあるから相互の信頼関係を保ちながら、この恒久的な平和の希求という「崇高な理想と目的」の達成を本憲法のもとに日本国民は誓うものである、ということです。

したがって、今の時代の目の前の現実にとらわれるのではなく、現憲法が成立したときの歴史的原点に絶えず立ち返らなければならないのあって、そうしたことを抜きにした憲法改正という議論はそもそも最初から的がはずれたものでしかない、ということです。私たちは、戦前の昭和の時代に国が軍部に占領されてしまい国民不在となったが故に、自国及びアジアの諸国に幾百万の犠牲を伴う取り返しのつかない「惨禍」を与えたということ、そしてそのこととのいわば<引き換え(代償)>として現憲法がもたらされた、ということであり、そのことが前提であれば、憲法改正ということが議論になること自体がありえない話である、ということだと思います。
しかし現実にはそのような議論が起きているということは、上記に述べた憲法についての基本的な理解がまだ不十分な人たちが多くいる、ということを意味しており、はなはだ心もとない、というより危機的である、とさえいえると思います。その点について私が思うのは、学校教育においての問題がある、ということがあります。すなわち、憲法は一国の国民にとっての一番大事なもので、それを理解しておくべきなのは当然だと思われるのに、それについてのまとまった形での授業があったかといえば、個人的に思い出してみても記憶にない、というのが実態です。このことについて教育現場はもとより、一般国民はあまり疑問をもっていない、ということが、結果的に憲法改正というような議論が起きる下地となっている、という気がしてならないのです。
ここで、日本の教育の元締めである文部科学省(旧文部省)が、憲法についてほとんど重視してこなかったのはなぜなのか?という疑問が沸き起こります。これについて私は、これまでも述べてきたことが当てはまると思っています。つまり、明治以来の「二者択一的思考」に支配されている中央官僚には、○か×かの範疇では理解できない憲法は対象とするには面倒である、という意識がその背景にあるのではないか、ということです。
しかしながら、「前文」にあるように、憲法は「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」という、国民一人ひとりにとって一番大事な内容が含まれているものなのです。それを国民に周知することこそが、戦後の教育行政の大きな役割のひとつであってしかるべきであったのを、実際には怠ってきた官僚の責任は実に重大なものがある、というべきです。したがって、この憲法についての教育での取り上げ方ひとつとっても、戦後の日本の教育の<的外れ>の一面が表れている、ともいえます。
※満州事変が陸軍(参謀本部)による“謀略”であったことからしても、<事変>という呼び方ではなく、<侵略>あるいは<侵攻>という言葉を使うべきなのですが、マスコミで使う呼称を始めとして、教科書での表記も今後改める方向へ検討すべきことである、と思います。 
第9条
引き続いて、憲法に関連して述べたいと思います。憲法の中で特に重要なのが第9条であることはいうまでもないことであり、「前文」での<平和国家の宣言>の中心をなすものでもあります。
第9条については、以前、淵田美津雄自叙伝関連の中で取り上げています。淵田が1953年にニューヨークでマッカーサーから夕食に招かれた際、“マッカーサーは、占領軍最高司令官であったときのことを述懐して、日本国憲法の戦争放棄条項(第9条)に触れ、当時の考えを次のように述べたということです。すなわち、「当時自分は、原子爆弾の出現によって---敵も味方もともに滅亡する。まったく人類の破滅でしかない。そのような見地から、世界は戦争放棄の段階に近づきつつあるとの感を抱いていた。日本を軍事的に無力化する連合国の方針もあったし、また日本をして率先、世界に戦争放棄の範を垂れさせようとの意図もあった」”
マッカーサーがその当時、憲法草案を起草するに際して守るべき三原則として示した「マッカーサー・ノート」には次のような内容が含まれています。すなわち、「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない」
ちなみに、第9条の内容はというと、「1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」となっています。ここで「ノート」との違いは、「ノート」では自衛のための戦争をも放棄している(したがって陸海空軍を与えられることもない)のに対し、9条では侵略戦争(国権の発動たる戦争)と国際紛争の解決のための戦争の放棄としており、自衛のためのものを放棄することまでは踏み込んではいません。

憲法改正という場合、第9条との関連が一番焦点となるところです。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」となっているので、一見すると軍備は一切持てないのではないか、という解釈になりますが、その前の「前項の目的を達するため」となっていることがここでは大事となってきます。つまり、前項で自衛のための武力の行使は否定されていないとみられることから、自衛のための軍備は許される、ということなります。ここに、自衛隊が容認されている所以があるわけです。したがって、現行の9条の内容で日本国としてこまることは何もないのであって、その改正を声高に主張する政治家や保守勢力の根拠は何もないことになります。
つまり、そうした人たちの思惑はまったく別なところにあるのであって、そのことが如実に表れたのが、田母神前空幕長の<論文問題>でした。そこに示されていたのは、“戦前の歴史についての一般的な見方に対する抵抗の意思表示”であり、“戦前の日本は、侵略国家などではなく、アジアの国々を欧米列強の植民地支配から解放した功労者なのだ、という見方を公然と主張”しているわけです。このように、戦前の歴史を肯定化し、国を見当違いの誤った方向へ導こうとする人たちの勢力は少なからずいる、というより今後増えていく可能性さえあります。
しかしながら、“張作霖爆殺事件(その後の満州侵略)そして満州国の建設、さらには「大東亜共栄圏」という<大義名分>の名のもとに真珠湾攻撃へと暴走し、日本国民のみならずアジア諸国民に多大な犠牲を強いた歴史を、肯定的にみようとしても無理があることは、もはや明白なことです。---その戦前の反省のうえに立って成立したのが日本国憲法であり、中でも第9条(不戦条項)”であって、このことを常に念頭におくことが、私たち国民一人ひとりに求められていることなのだ、という思いを強くする次第です。 
統帥権について
私がこれまで触れてきたことの中で、1945年8月に日本が亡んだとき(原爆及び終戦)までの歩みのことの起こりは、結局幕末及び明治維新にまでさかのぼるのではないか、ということがあります。このことについて『この国のかたち』の中で、<統帥権>(魔法の杖としての)との関連で次のように述べています。「わが国の軍隊における統帥権のあいまいさは、すでに幕末にきざしているといえる」。
具体的には、維新の中心的役割を果たしたのが薩摩と長州ですが、薩摩においては西郷隆盛が「藩軍を勝手に動かし」ており、一方の長州においては高杉晋作が奇兵隊をつくり、それを「革命軍として藩都萩に進撃し、士族軍を撃破して藩の政権を佐幕派からうばい」取りました。そして、鳥羽伏見の戦いに始まる<戊辰戦争>においても、「徳川家・諸大名とも、それぞれの統帥権はあいまいであった」のです。さらに、その統帥権のあいまいさからくる<みだれ>は、明治10年(1877年)の西南戦争という「未曾有の内乱をひきおこし---隔世遺伝のように、昭和の陸軍に遺伝」していきました。
したがって、幕末の動乱を経て明治維新へと続く流れの中で、それを動かし可能ならしめたものに<統帥権のあいまいさ>があり、やがてそれは西南戦争という形で<みだれ>となり、その後の日本の歴史を規定していくこととなった、ということができます。ここにも、歴史の<表と裏>の要素が垣間見えるのであって、表としての明治維新以後の西洋化=近代化は、<日露戦争の勝利>といういわば「成功」をもたらしたものの、その裏には、<統帥権のみだれ>が徐々に肥大化しつつあったのであり、結果として昭和に入ってからの<軍部の暴走>へとつながっていった、ということだと思います。
ところで、上述した長州藩における<クーデター>ともいえる高杉晋作による政権奪取がなったのは、その背景として長州藩の長年の伝統が介在しています。すなわち、長州藩の伝統として「『君臨スレドモ統治セズ』の方針をとり、藩政に口出しせず、藩の内閣でどう変わろうとも、その上申に対しては、必ず『そうせい』といった」ということがあります。そしてこのことは、維新後の明治政府の中にもいわば<遺伝>として受け継がれていき、明治天皇以後の君主のあり方を規定していった、ということがいえます。戦前の陸軍が、明治政府の中で中心的役割を担った山県有朋(長州出身)による徴兵制の施行によって発足したことは、統帥権のみだれがやがて乱用へと変わっていったことの中心となったのが陸軍であったことと併せ、その芽が幕末の長州藩(奇兵隊)に既にあったということです。
その意味では、長州藩と日本国というスケールの違い及びそれに付随する犠牲の大きさの違いはあったにせよ、<歴史は繰り返した>ことになります。つまり、長州藩においてクーデタ−により政権が交代したことに対し、ときの藩主(毛利敬親)は「そうせい」ということで追認した(というよりそうせざるをえなかった)ように、満州侵略以後の陸軍(参謀本部)による国の指揮権の<乗っ取り(占領)>をときの政府は追認するしかなかったということであり、両者は<統帥権のあいまいさ>という歴史的構造のもとで成立したという意味で共通しているわけです。 
歴史の中のイデオロギー
『この国のかたち』の中で、<宋学>について度々取り上げていますが、それは日本史においてその影響するところが非常に大きかったからであることが、5巻で4回にわたって述べられています。まず、宋学が日本に入った最初の<イデオロギー>(※)であったとして、次のように述べています。「ここでいうイデオロギーとは---唯一絶対の一個の観念がするどい切っさきをなし、剣のように体系化された思想のあり方---これをもって、地上の諸存在を善か悪かに峻別し、検断する」ものであり、このイデオロギーとしての宋学が日本史において与えた影響は<激甚>であったとしています。
この激甚という場合、それは実際の歴史においては大きく3つの出来事として表れています。最初は14世紀の<南北朝の争乱>であり、次に19世紀後半の幕末-明治維新の時代であり、そして20世紀に入っての昭和の戦争の時代であり、その間およそ600年に亘っています。それらについて時代毎に概観してみたいと思いますが、その前に宋学の特徴とは何なのか?をみてみますと、漢民族王朝の宋の時代の異民族勢力との抗争という背景がありました。つまり、宋は儒教を国教としていて、儒教は「華(文明)であるにはどうすればいいのかという“宗教”で、野蛮を悪」とするものでした。その「形而上的思考」を集大成したのが朱子という人であり、「朱子学にあっては、歴史についても、史実の探求よりも大義名分という観念の尺度をあて、正邪を検断」するものであり、後の江戸幕府は朱子学を<官学>としました。そしてこのことが後々の歴史の節目の中で大きな影響を与えることとなります。
さて、14世紀の鎌倉時代に宋学が入ってきたわけですが、それはさっそく当時の人々に影響を与え、いわゆる南北朝の争乱の元となっていきます。つまり、“正邪”を明確に区別する宋学の考え方に影響された公家や僧のあいだで、宋に対立する野蛮な夷(えびす)としての金王朝(女真人族)は邪(悪)であり打倒すべき存在であったように、本来、日本を統治すべきなのは朝廷(天皇)である、ということが正義であるはずなのに、源頼朝以来の幕府によってそれは形骸化してしまっており、これを正すためには夷(邪)としての武家政治を打倒する以外にない、ということです。ときに1318年に即位した後醍醐天皇は宋学の信奉者であり、宋朝における皇帝による独裁者を理想としていました。そして実際に倒幕の計画(クーデター)を実行しようとして(正中の変,1324年)隠岐に流されることになり、このとき(1332年)から南北朝の争乱がはじまり、その後60年ほど続きます。

次に、江戸時代ですが、幕府の官学であった朱子学が「日本史上の正邪をきめる」までになるのは、水戸徳川家の光圀の編纂による『大日本史』の存在が大きく影響しています。滅亡した明(みん)の遺臣で水戸に保護されていた朱瞬水の史観が色濃く反映した『大日本史』の根本には、徹底した<尊王攘夷>がありました。瞬水は、南北朝時代について「南朝が正しい」とし、北朝は「武士という“夷”に擁されていた」ため非正統(邪)としました。そしてこのことが南北朝時代の南朝方であった楠木正成を巡っての評価との関連でその後も影を落とすことになります。
正成の評価は江戸時代になると「急騰」し、さらに幕末の「尊王攘夷が叫ばれるころには(その)人気は沸点に達した」のでした。また、「水戸学的気分がエネルギーになり、明治維新が成立した」あとも、歴史教育に水戸学は引き継がれ、南朝が正統であるということになっていきました。ここで司馬氏は、南北朝時代の楠木正成と足利尊氏との戦いのときの逸話について述べています。それは京都に尊氏を誘い込み、周りをかこんで兵糧攻めにするという正成の策が、公卿の坊門宰相清忠によって一蹴され退けられてしまい、その結果正成は湊川で戦死してしまうことです。
司馬氏はこの話が昭和に入ってからの陸軍による「統帥権」と無縁ではないことを述べています。すなわち、統帥権の基本に「帷幄(いあく)上奏権」なるものがあるとされていたのですが、これは「天皇の統帥権輔弼者である陸軍の参謀本部の長が、首相や国会にはかることなく−いわば内密で−戦争行為をはじめるにつき、単独に上奏できる」ものであり、陸軍がこれに固執した背景に「正成の策が、当時の行政権の輔弼者だった坊門清忠の一言ではねつけられたという情景が、共有の悲憤としてあったのではないか」というのです。
もしそうだとすれば、南北朝時代の<正成の亡霊>とでもいうべきものが、昭和の時代の軍人たちに乗り移って国を動かした、ということもいえなくもありません。要は、14世紀に中国(宋)からもたらされた、日本にとっての最初のイデオロギーは、<正邪の峻別>というその形而上的明解さから広く浸透し、その後長く日本人の精神を規定することとなった、ということです。そしてそのイデオロギーは、昭和の戦争の時代に、<満州侵攻>以後の中国侵略という形で600年後の20世紀の中国にまるで<ブーメラン>のように戻っていった、という意味で大変な「歴史の皮肉」でもある、ということがいえます。さらに、それに伴う犠牲が幾百万余にも上ったことからしても、その影響が言葉に尽くせぬほど「激甚」であった、ということです。
ところで、正義か否かという二者択一的な判断のもとに、正義という言葉を振りかざして戦前の戦争の時代をいわば<正義の戦い>として唯我独尊的に肯定する人たちが一部いるのも事実です。そのような方々は、上述した文脈からいえば、600来の化石ともいうべきイデオロギーにいまだ囚われている、ということであり、なおかつそのことに本人は気づいていない(というより知る由もない)という状態にある、ということができます。
※イデオロギーとは何か、といった場合、漠然としたイメージがつきまといますが、一般的にいわれるその特徴としてあるのは、極めて政治的である、また同時に偏った見方であり、何らかの先入観を基盤としている、などのことがいえます。司馬氏が日本で最初のイデオロギーとして宋学を位置づけているのも、そうした観点からに他なりません。 
北朝鮮の行動とその背景
北朝鮮がその<暴走>の度を加速しています。いわゆる<瀬戸際外交>などといわれていますが、今の状況はアメリカをはじめとした世界を相手に<脅し>をかけているようなものです。北朝鮮のねらいはあくまでもアメリカとの<直接対話>にあり、その中で<核武装>をいわば既成事実化して、それをアメリカに認めさせるようにもっていくこと(インドの例のように)にあります。そして、それが成ったうえでの最終目標は、韓国の武力による統合です。
ではなぜ今なのか?ということですが、ひとつにはアメリカのオバマ政権へ揺さぶりをかける(その結果として直接対話に引きずり込む)ことがあります。次に盧武鉉(ノムヒョン)・韓国前大統領が自殺したことが上げられます。北朝鮮への<太陽政策>を推進した前大統領の自殺は、韓国の国民に大きな衝撃を与えるとともに、その跳ね返りとして李 明博(イ・ミョンバク)現政権への反発が強まっている状況にあり、北朝鮮にとっては、南への攻勢をかける絶好の機会が訪れたと写っているはずです。最終目的である南北統一のため、核兵器という最終カードを散らかせてアメリカ及び関連諸国を脅しておいて、万一の場合に手を出せないようにするねらいがあるものと思われます。韓国内の世論の動向次第、つまり現政権が危機的状況に追い込まれた場合、北朝鮮が何らかの重大な決断をする可能性さえある、と危惧されます。
ところで、なぜ北朝鮮はこのように国際社会を無視した理解し難い行動に打って出るのか?という疑問を誰しも抱くのではないでしょうか。結論を先にいえば、彼らは14世紀以来朝鮮に連綿として続いてきた<儒教という名のイデオロギー>の大きな影響のもとにあって、それがためにその描く世界は現実を無視した<架空のもの(空論)>とならざるをえない、ということになります。このことについて『この国のかたち』の中で李氏朝鮮(李朝)について触れていることに関連させながら述べていきたいと思います。
14世紀に成立した李朝は、儒教(という文明主義)を国教としそのことを誇りとしていました。その後の歴史の中で儒教は朝鮮人の骨の髄まで染み込むこととなりました【備考】。そしてそれは、現在の北朝鮮の考え方の根幹をなすものとなっています(主体<チュチェ>思想)。儒教は、「形式を重んじ、ときには形式そのもの」であり、「形式を厳格にするためにはつねに他を論難し、つねに自他を正し、ときに咆哮(ほうこう:ほえること)」するという性格をもっています。
この<つねに他を論難し---ときに咆哮する>というあり方は、今の北朝鮮の言動そのものです。また、李朝と中国(清)との関係が、「北京の皇帝は本家の当主であり、みずからは身を屈して分家であることを守った」というように、現在の北朝鮮と中国との関係そのものでもあります。つまり、中国は北朝鮮にとっての<親分>であり、自分は<子分>である、というわけです。そして中国もそのことを充分すぎるほど理解しており、そのため北朝鮮がどのような行動に出ようとも最終的には擁護する立場を崩せないのです。

一方、李朝と日本との関係については、「小中華」(中華の分家という意味)としての李朝に対し、日本は夷(えびす)つまり野蛮人であり、李朝は「日本のことをほとんど正称のようにして“倭夷”」と呼んでいました(この場合の倭も野蛮人という意味をもつ)。また、日本人のことを指すとき、「人」という字を使わず(人とは文明人のこと)、「群倭」(つまり野蛮人の群れ)といっていました。明治維新以後、日本の政権が変わったことを伝える書簡を李朝に数回送ったにもかかわらず、李朝からの返答はなく、明治6年(1873年)にようやくその意思を明らかにしました。しかし、それは日本への外交文書という形ではなく、釜山にあった「倭館に出入りする朝鮮人に対する貼り紙」というものであり、そこに書かれた内容は、日本がその政体を変更し西洋化した、このようなことをする日本人は「人」ではなく野蛮人であり、日本は無法の国である---というものでした(※)。今の北朝鮮の日本に対する見方も、上記のようなものがその根本にあるのではないか、ということは容易に想像できることであり、アメリカに対しても同様であると思われます。
儒教というイデオロギーに支配されている北朝鮮がまともな相手としてみる国は、唯一中華(文明の中心)としての中国しかない、ということです。そうである以上、北朝鮮に対しその方向を変えさせることができるのも中国しかない、ということであり、国連でどのような決議がなされようとも、北朝鮮に対しては一切無駄である、ということになります。したがって、中国(胡錦濤主席)が今後どのように対処するかによって、北朝鮮の暴走を食い止めることができるか否かが決まってくる、ということです。そうした中で日本にできることは、中国へ強い働きかけを行うことしかない、ということも明らかです。
【備考】
前回、儒教としての朱子学が日本人の精神に与えた歴史的影響が「激甚」であったことに関連して述べました。その朱子学が日本にもたらされたのが14世紀であり、李朝が国教とした時期と同じであったということに、歴史上の偶然さ(奇遇さ)を思わずにはおられません。日本の場合、およそ600年後の1945年8月の破綻に至るまでそのイデオロギーの呪縛は続いたわけです。一方、朝鮮の場合、北朝鮮にみられるようにいまだそのイデオロギーから抜け出すことができない状態にあって、今まさにアメリカを中心とした世界を相手に<架空の論理(空論)>にとらわれた行動に走っているのです。そうした意味では、ひとつのイデオロギーが人間の思考様式に与える影響の大きさに驚きを禁じえないものがあります。歴史的に影響が多大であったイデオロギーの例としては儒教の他に、19世紀の共産主義(マルクス主義)があり、20世紀になって<ソ連>という大国を生み出しましたが、70年ほどで破綻しました。
ところで、儒教が与えた影響の日本と朝鮮の質的な違いは、日本の場合、学問的な領域や仏教及び生活様式の一部などに入り込んだ程度であったのに対して、朝鮮の場合、李朝が国教として以来、社会のすべての領域つまり<骨の髄まで>浸透していた、ということにあります。李朝以前の高麗朝は仏教を尊んでいたのですが、「それを亡ぼした李朝は、仏を排し、儒に代えた」という経緯があります。この点、日本との違いで大きなものがあり、日本は奈良時代(聖徳太子)以来、仏教を文化及び精神面の中心としてきたことと併せ、日本と朝鮮の歴史的歩みの違いはまさに「紙一重」であったということで感慨深いものがあります。
そしてその違いは、朝鮮が大陸の一部で中国とは陸続きのためその影響を直に受けたのに対し、日本は大陸とは海を隔ていて中国とは一線を画すことができた、という根本的な要因からきているともいえます。
※このときの李朝の態度が、当時の日本国内での『征韓論』を呼び起こすことにつながった、という事実があります。 
鎮魂の8月について
8月は<鎮魂の月>とでもいうべきものでもあります。8月6日の広島、9日の長崎、15日の終戦記念日と続きます。戦前の特に昭和の初めから20年8月までにいたる、国の破綻の時代がなぜ現出したのかについては、何度問い直してもし過ぎることはない、と考えます。この時代を『この国のかたち』の中で“異胎の時代”と呼んでおり、「ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった---あんな時代は日本ではない。と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある」として強い憤りを込めて述べています。また、司馬氏はその時代を一兵卒として戦争の真っ只中にあり、いつ死ぬかもしれない身を案じていたことを語りながら、「ともかく自分もその時に生存した昭和前期の国家が何であったかが、四十年考えつづけてもよくわからないのである」ということも述べています。その意味では、『かたち』はその疑問を解くための営みでもあった、ということがいえます。『かたち』では、初めの部分で朱子学(宋学)と統帥権が取り上げられており、異胎の時代を解明する鍵がその辺にある、ということが示されています。
そこで、異胎の時代を生み出したものが何であるのか、を探るとすれば、歴史的には明治維新にまで遡ることになります。明治維新を司馬氏は、「国民国家を成立させて日本を植民地化の危険からすくいだすというただ一つの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命だった」と定義しています。と同時に、革命ではあったのですが、その思想はというと、「貧弱というほかない---(その)スローガンは、尊王攘夷でしかない」ものであった、と述べています。この<尊王攘夷>はそもそも朱子学におけるイデオロギー(観念)です。そしてそれは明治維新のはるか前の後醍醐天皇の時代(南北朝時代)でもそのバックボーンとなったものでした。“夷(えびす:野蛮人)は攘(うちはら)うべく王は尊ぶべし”という意味の尊王攘夷は、南北朝時代においては、夷はすなわち鎌倉幕府を指し、王としての天皇が日本国を統治するべきである、というものでした。また、幕末においての夷は言うまでもなくアメリカなどの外国勢力のことであり、天皇を中心とした政治体制をめざすものでした。さらには、その朱子学的イデオロギーは、昭和に入って軍部官僚(参謀本部)において蘇ったのです。

昭和における夷はもちろんアメリカであり、2・26事件などで<昭和維新>ということが唱えられたことの背景には、尊王攘夷というイデオロギー的気分が介在していた、とみることができます。その意味では、太平洋戦争は、軍部官僚がある時点で覚悟したことであって、如何ようにしても避けることはできなかったものであった、ということです。そしてアメリカとの戦争を覚悟するための、いわばツール(方便,魔法の杖)が『統帥権』であった、ということになります。したがって、統帥権を乱用した結果がアメリカとの戦争になったのではなく、戦争遂行のための道具=権力の根拠として統帥権を利用あるいは恣意的に拡大解釈した、というのが実際であった、と私はみています。その意味で、司馬氏がいう<異胎の時代>は、対アメリカ戦を軍部官僚がプランして実行したがゆえの「特異な時代」であった、ということができます。また、それは日本国が軍部官僚にいわば<乗っ取られた時代>であった、ともいえます。そして、昭和の尊王攘夷としての戦争は、広島・長崎への悲惨この上ない阿鼻叫喚のこの世の地獄を現出させて終わった、ということになります。
尊王攘夷という思想は、元来、中国の宋の時代(960-1279)において、ツングース民族の金が華北に進出してきた状況の中で、華(文明主義)としての誇りをもつ漢民族が、夷としての異民族に対する優位性を保持するために生み出されたものでした。したがって、「宋という特殊な状況下で醸し出された一種の危機思想で、本来、普遍性はもたないもの」でした。そのような特殊かつ現実とはかけ離れたイデオロギー的な考え(空論)が、13世紀に日本にもたらされ、ときの政治権力を指向する人々に自らに都合いいように解釈・利用され、歴史を変えるまでの作用をしたわけです。すなわち、それは南北朝時代を演出し、応仁の乱以後の乱世の流れを醸し出し、そして幕末に再び倒幕のスローガンとして蘇り、さらには昭和の時代に日本を破滅に追いやったのでした。
こうしてみてくると、現実を無視した考えに基づく行動とりわけ政治的かつ武力的な行動が、その結果としていかに大衆に犠牲を強いることになるかを歴史は物語っています。戦前の昭和の一時期に日本が誤った方向に大きく舵を切った結果、三百万人以上の国民の犠牲を伴った、という現実を私たちは今後もその都度思い起こす必要があります。また、政治家が現実の問題から国民の目をそらそうとする姿勢がみえたら、それは危険な兆候であるとみる必要があります。今、そうしたことが政治の世界にないのか、と問われたら、「ある」と答えるしかありません。
それは、ここ数年来の<年金問題>ひとつとっても明白であります。中央官庁の官僚及びその代弁者たる政治家の言うことを鵜呑みにはもはやできない状況があり、私たちはそのことを今度の選挙ではっきりと<意思表示>する必要があります。そしてそれはもはや猶予を赦さない、国民にとって切実な課題でもあります。 
日本人の二十世紀
『この国のかたち』には、現代に生きる私たち日本人にとって大切なメッセージが様々な形で盛り込まれており、私はこれまで幾度となく読み返しています。今回は、第4巻の巻末に「日本人のニ十世紀」と題する一文を取り上げたいと思います。内容は、1904年の日露戦争から1945年の破綻までの日本のあり様を中心に述べられています。二十世紀に入って間もない1904年に日本はロシアとの戦争に踏み切りました。その後の日本はまるで戦争することが当たり前のような雰囲気の中で1945年まで突き進んでいくのですが、そのきっかけ(歴史的転換点)となったのが「日比谷焼打事件」(1905年)でした。同時にそれは、当時の日本人がいわば理性を失った瞬間でもありました。
私がもしその時代に生きていたとしたら、ロシアから賠償金を取れなかったことに強い怒りを覚えたことでしょう。その当時の国民の間には、その前の「日清戦争」に勝利したときに賠償金や権益などを得たと同時に、当時満州への進出を図っていたロシアが、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを日本政府に要求したこと(いわゆる「三国干渉」)の記憶が根強く残っており、ロシアに対する国民感情は最悪のものでした。したがって、そのようなロシアへの強い反発心という背景もあって、日清戦争との比較で日露戦争の結末に対してつよい反感を抱いたのも無理からぬ面もあったのです。
日露戦争の結果をボクシングの試合(10R)に例えると、9Rでリフェリー・ストップ(アメリカの仲裁)がかかり日本の「判定勝ち」となったようなものです。実際戦争がもし「もう1ケ月続いたら、満州における日本軍は大敗していた」のです。この判定勝ちであったのを、ときの政府ははっきりと国民に説明すべきだったのですが、事実は「日本は紙一重で負ける、という手の内は、政府は明かしませんでした」。その結果、日本はその後軍備拡大に突き進むと同時に大陸に進出し、さらにはアメリカとの戦争へと「暴走」して破綻するに至ったのです。まさに「不正直というのは、国をほろぼすほどの力がある」ということを如実に示しています。
ところで、時代の流れからみた場合、日露戦争以後の中で大きなインパクトを与えたのが、1929年の世界大恐慌でした。「東京に出稼ぎに来た人が、もう職がなくて帰るのに、遠い故郷まで鉄道線路を歩いて帰るという人が多かった」ということひとつとっても、今の不況とは比較にならないものでした。そうした異常事態の中で軍部が「閉塞した局面が打開できるのではないか、この暗雲たれ込めた不況に穴をあけられるのではないか」という<幻想>を抱き、それがバネとなって満州事変を引き起こし、その後もブレーキがかからないまま暴走してしまった、ということがいえます。そして、日露戦争までの日本人は、少なくともリアリズム(現実を直視するという)をもっていたにもかかわらず、日露戦争に勝利したまさにその瞬間にそれは失われてしまった(日比谷焼打事件)ままに、その時々の時代背景に流されてしまったわけです。

こうしてみてくると、日露戦争に<日本が勝ってしまった>ことの意味を問い直すことに思いを巡らさないわけにはいきません。もし逆にロシアが勝っていたとすれば、日本は巨額の賠償金を課せられ国の財政は破綻し、その破綻の淵から這い上がろうと必死の状況がしばらく続いたものと予想されます。そしてロシアは満州を支配下に収めつつ中国中央部への本格的な足掛かりを獲得し、さらに朝鮮半島をもその管理下においたはずです。また、ロシア革命との関連でいえば、日露戦争に勝利したことで、ときのロシア帝政はひとまず面目を保つことによって、革命の雰囲気を抑えることができた可能性が高くなっていたでしょう。もしロシア革命がなかったとすれば、これは世界史的には大変大きなことであり、その後の歴史が一変していたことは間違いありません。
さらには、朝鮮半島との関連でいえば、日露戦争での日本の勝利がなければ、1910年の「韓国併合」もなかったことになり、半島はロシアの支配下のもとでまったく別な歴史を辿ることになったはずです。そうなればその後の半島の分断と北朝鮮の成立もなかったことになります。北朝鮮とのことでは、日本にとっての重大問題である「拉致問題」が横たわっています。そして日本による韓国併合以後の朝鮮支配ということが半島分断の遠因となっている、という歴史的視点を抜きにしてこの問題は考えられないのであって、この点でいえば政府や多くのマスコミのこれまでの論調をみていると、この視点が欠落していると、つまり拉致という<結果>にのみ目が向いているとしか思えません。したがって、日露戦争以後の歴史的経過という視点をも考慮したうえで北朝鮮の問題【備考】と向き合うことが必要であり、このことを抜きにした議論はことの本質を見誤ると同時にその解決もままならない可能性が大きいと思われてなりません。
【備考】
以前にも取り上げたように、北朝鮮の体制の根幹は“<儒教イデオロギー>(主体思想)との関連を抜きには考えられません。すなわち、北朝鮮の体制は『金王朝』とでもいうべき<独裁体制>であり、またそれがすべてでもあります。北朝鮮国民は、金王朝を支えるためにのみ有り(存在)、またその命を含めすべてを「首領」たる金正日総書記に捧げるためにあり”(09.7.5付け)、問題の基本はここにあることに変わりはありません。 
 
田中角栄

 

実刑判決後の選挙、大量得票で当選
角栄の側近にも、おなじことをいう者がいた。
「彼は豊臣秀吉でなく、織田信長だ。信長と違うのは、田中には比叡山の焼き討ちができないことだ」昭和五十八年十二月十八日の選挙の日は、朝から雪が目路を覆って降りつづいていた。地元の越山会長はいった。
「この雪で、田中票はまちがいなく出るぞ」角栄は″雪の選挙″で負けたことがない。開票がはじまると、たちまち五百票で角栄の当確がきまった。
角栄はただちに佐藤昭子に電話をかけた。
「ありがとう。お前のおかげだよ」得票数は二十二万七票十一票に達した。角栄の得票率は四六・六%。三区の他の当選者は、すべて四万票台にとどまった。
角栄の大量得票は、九万五千人の越山会を中心として、恩返し票の結集をはかった結果であった。
系列に属する十三人の県議、三百人を超える市町村会議員に、各自の後援会票を導入させる。また地元建設グループの徹底した集票運動が功を奏した。
角栄はこれまでの越山会員を対象とした辻説法から、各市町村のミニ集会に戦術を変え、圧倒的な反響を呼びおこす角栄節を語りつづけた。
その結果、戦後三十年間、辺境に光を与えつづけてきた角栄への恩返しの感情と、逆境への同情が、越山会も予想しなかった大量得票につながった。
実刑判決、政治倫理の弱点を吹きとばすこの結果は、角栄の最後の残照であった。
新潟県の投票者の二人に一人が田中と書いた結果は、世論をゆるがすに十分なものであった。
角栄は県下三十三市町村で、二位以下を大きく引きはなす、圧倒的な勢いをあらわした。
大票田である長岡市でも、前回の二万一千票から四万三千票台への、おどろくべき躍進を示した。
中央では角栄の得票は地元への利益誘導と簡単に割りきるが、中央中心に政治が進められてきたことへの地方の反感は、そこに住む者でなければ分からない。
中央マスコミの激しい政治倫理の攻勢を吹きとばし、角栄を支持したのは、住民たちが彼を身内とするつよい連帯感であった。 
子どもの時から浪花節調の話を聴衆を魅了した
先生はやがて角栄の信じられないほどの記憶力におどろかされた。
浪花節は、ゆるやかな節まわしで唄うくだりと語るくだりが交互につづく。唄うというよりも唸るような声で、人情話や任侠、剣客の話をおもしろくまとめ、一席について三十分から一時間のあいだ、聴衆をひきこむ。
ござのうえに座布団を敷きつめ、肩をふれあわせる満員の聴衆は、蜜柑や饅頭を食い、あるいは徳利の酒を飲みながら、苦難の人生に対しひらきなおったような、どこか酢欝な感じのする唸り声に、開放感を味わう。義理人情、度胸ひとつの世渡り話を、わが身につまされて聞くのである。
角栄は、はじめて聞いたチョンガリが記憶に焼きついてしまった。
彼は、たった一晩聞いたチョンガリの物語と節まわしを、吸いこむように脳裡にたくわえ、昼休みの時間に語りきれない部分は、翌日、またその翌日と聞かせつづけた。
同級生たちは角栄の熱演にひきこまれ、言葉もなく聞き惚れていた。
金井氏は、のちに新聞や雑誌などに語っている。
「とにかく、とほうもない記憶力でした。浪曲などにはまったく興味を持たない、若い教師の私でしたが、ひと晩であれだけのことを頭に詰めこめるとは、驚きというより、いいようがありませんでした」のちに、コンピューター付きブルドーザーなどと評される角栄の非凡な記憶力は、この時分から芽生えていたのである。 
叱咤激励よりも温情を知ったエピソード
角栄には、その頃の忘れられない思い出があった。ある夕方、かなり遅い時間になって、高島屋から、紫色に深い切り子のあるガラスの果物鉢四、五個を、至急届けてほしいと電話がかかった。
電話を受けたのは角栄である。彼はその頃、主人に相談せず、自分で注文をうけ、品物をえらび、包装、納品することを任されていた。
−高島屋に納品してから登校すれば、授業に間にあわねえが、仕方がない。少々遅刻するか−
角栄は注文品を急いで包装し、自転車の荷台にくくりつけ、店を飛びだし、満身の力でペダルをこいだ。なるべく遅刻をすくなくしたい。
宮城の前を、馬場先門にむかい右に曲がろうとすると、荷の重みでバランスを失い、自転車に乗ったまま横転してしまった。
角栄は、しまったと痛さを省みずはね起きたが、自転車の荷台のガラス鉢はこなごなに砕けていた。
彼はすぐ琴平町の店へ引きかえし、注文された品物を同じ数だけ包装し、高島屋へ届け、学校へ遅刻出席した。
こわれたガラス鉢は、原価にしても角栄の月給の三、四カ月分の価値があった。
講義を終え、店に戻ると角栄は五味原氏に昼間の失放を報告し、軽率な行いを詫びた。
「大事な商品を破損させ、まことに申しわけがありません。こわれた鉢の原価は、月割りで給料からさしひいて下さい。私は月給の半額だけいただけば、学校の月謝には事欠きません」五味原氏は、角栄が予想もしていなかった返事をした。
「怪我がなくて、なによりやった。おとくいさんに代わりの品をすぐ届けてくれたのは、ありがたかったよ」奥さんも、角栄をなぐさめた。
「くよくよしなはんなや。稼いだら損は取り返せるんや」夫婦は、角栄の月給から弁償金をとりたてようとしなかった。
角栄はこののち、不注意による他人の過失は、絶対に咎めないでおこうという原則を、心にきめた。
五味原夫妻の寛大な扱いによって奮起した角栄は、損失をつぐなって余りあるほどの販売実績をあげた。恩をうけた者は、それにもまして感謝を返す気持ちになるという事実をも角栄は知った。
彼は人を動かすには、きびしい叱咤激励よりも温情がはるかに勝っていることを、肝に銘じた。 
八歳年上のはなと結婚
坂本はなは、これまで幾度か見合いをしたことがあったようだが、話がまとまらないまま、いまに至っていた。
角栄が昭和十七年正月の年賀に坂本家をたずねると、おばあさんが頼んだ。
「田中さんのお店に出入りしていらっしやるお人のなかに、これはいいと思う男性がいたら、はなの婿にお世話下さいませんか」「分かりました。心がけておきましょう」角栄は答えながら、はなさんであれば、私が妻にもらいうけてもいいという考えに、突然とらわれた。
それまでは、はなのために良縁をみつけようと努力した角栄が、八歳年上の彼女と結婚する結果になった。
三月三日、桃の節句の日に、二人は他人ではなくなった。戦況が苛烈になってきた折柄、角栄とはなは、結婚式も披露宴もあげなかった。
口数のすくない、ひっそりと物静かなはなは、その夜、角栄に三つの誓いをたてさせた。一つは、家を出ていけといわないこと、二つは足蹴にしないこと、三つは、将来角栄が二重橋を渡る日があれば、彼女を同伴することである。
当時、庶民が二重橋を渡り、宮内へ参内することは、ふつうではありえないことであった。はなは角栄が政治家になるとは思っていなかったであろうし、実業家として大成功する人物であると、見込んでいたのであろうか。 
徹底した情報収集と分析
角栄は、選挙部長に抜擢された。先輩議員が公職追放で頭上がガラあきになっていたので、一年生の陣笠が、いきなり要職を与えられた。角栄はそれまでに、資金集めで抜群の能力を発揮していたからである。
角栄は選挙部長になると、すぐさまその異能をあらわしはじめる。
民自党所属議員の生年月日、学歴、家族構成、人脈、資金力を調べあげ、さらに選挙区の人口構成、有権者数、支持率、選挙区の産業構造、所得水準まで、調査をゆきとどかせる。
敵対する政党の所属議員についても、同様の調査をする。その一覧表を持って民自党の会議にのぞみ、数字に裏打ちされた戦法の意見を述べる。
そこまで詳細な調査をすれば、敵陣営をつき崩すための要領が、誰にでもよく分かる。
織田信長は、戦いの勝敗は戦場へ出撃するまでに七割がきまっている、戦場で決するのは残りの三割だといったが、角栄のやりかたも、おなじような、徹底した情報収集、分析の戦略であった。
吉田茂は、大政党の首領としての、茫洋とした懐のふかさをそなえていたが、角栄のような撤密な感覚を持ちあわせていないので、よろこんだ。
「田中は現実をきわめてよく把握している。あれは視野の狭いインテリにはない感覚だな」 
収入に乏しい地域に足を運び味方にした
新潟県でもっとも収入に乏しく、半年は深い雪に埋もれている魚沼の人々は、角栄を自分たちの味方であると思った。
豪雪のなか、ソリに乗ってどんな奥地の集落にも姿をあらわし、煤けた民家の囲炉裏ばたで、あぐらをかき、話を聞いてくれる人が十人足らずであっても、熱心に雄弁をふるう。
「あんたがたが、俺にいちばんやってほしことはなんだ。なんでもいいなせ。それを命がけでなし遂げるのが、この田中だんが」いなかの重立ちと呼ばれる人々は、それまで代議士を村に迎えたことはない。
角栄は、膝まで埋まるような雪のなかを、汗みずくで歩いてきて、渋茶をすすって寒村がもっとも求めているものは何かをたずねた。
旦那衆代議士には相手にされなかったいなかの村長たちは角栄を落選させてはならないと、本気で思うようになり、彼らが手をむすびあったおかげで、角栄は当選した。 
三木、福田、大平、中曾根らの抽象世界で生きた人でなく、徹底したリアリスト
国会便覧をパラパラめくりながら、「あと二十年もたてば、これらの人たちはいなくなるな。俺は二十五年たてば永年勤続表彰で、黙ってたって少なくとも衆議院議長にはなれるよ」といったことがあると、昭子は当時を回想している。
「三十代で大臣になり、四十代で幹事長、五十代で総理になる」という、巷間に流布したような言葉を口にするような人柄ではなかったと佐藤は記す。
近年、後藤田正晴氏が、歴代総理大臣の評価をしたとき、田中角栄は特別の大器、異能の人であったと語っているのを、目にしたことがある。児玉隆也は、角栄の本質を『淋しき越山会の女王』で、鋭敏につかんでいる。
独学者の条理は、好きなもの、必要なものはやる。嫌いなもの、必要でないものはやらないに尽きるというのである。
福田剋夫、中曾根康弘らが弊衣破帽の旧制高校生として、カントの原書を手にし、いかに生くべきかの、抽象世界の陶酔に身を浸し、大学を卒業して、高文をパスし官僚になったとき、角栄は官僚に頭をさげ注文をもらう土建屋であった。
三木、福田、大平、中曾根らは、抽象世界でともに生きた友が、全国にあるが、角栄はわが力のほかに頼るものもなく、人の心さえ金で買えるという世界に生きてゆく。その結果、敗戦後に二十代で、全国五十位以内の土建会社をもち、総裁選に献金した。
独学で待ったなしの人生を歩いた人間は自分と同質、亜流の人物を好まない。強烈な自負心が、激しい劣等感とうらはらにあらわれる。
児玉隆也は書く。
「だから、異質の飼い慣らされて訓練豊かな行政経験を授かった人間(官僚)の力を、彼ほど正確に評価し、利用する人間はいない」「彼は、福田や三木の″かくあるべき″にとらわれない。″こうある。これをどうするか″と考える現場処理の天才である。彼はもっとも日本的な政治家と評されるが、彼ほど″ニコボン″にほど遠い政治家はいない」角栄は、自分の置かれた立場を正確に理解し、一瞬のためらいもなく目標を見さだめ前進する、徹底したリアリストであった。 
大蔵官僚への独特の人心収攫術
角栄は、どのようにして大蔵官僚の支持を受け、彼らを思うように動かすか、独特の方法を考えだした。
−次官や局長は、俺のいうことを受けつけないだろう。彼らに接近するよりも、実際に仕事をしている課長、課長補佐から実務の内容を聞きとろう−
角栄は課長、課長補佐と話してみて、感覚のするどい相手を嗅ぎわけると、自宅へ呼んで大蔵省内部の事情を聴き、実務の内容をくわしくたずねる。
彼らの入省年次、学歴、誕生日、家族構成まで調べあげ、自宅へ呼んだ者には高価なみやげものを与える。
ケタはずれの祝儀や贈りもので官僚の気持ちをひきつけてゆく、独特の人心収攫術である。子供が大学へ入学したり、妻が入院すると、いつのまにか角栄が祝儀をとどけ、見舞いに出向く。
そのようにされると、感激しない者はいない。省内の実務にたずさわっている課長たちが、角栄に何事もうちあけて話すようになるまで、さほどの月日はかからなかった。 
人間味ある政治家
元自民党幹事長室室長の奥島は角栄の性格を「中央公論」誌上で的確に把握する。
「勘がいい、人情味、浪花節的、せっかち、短気、わかったの角さん、政策に強い、行動力、コンピューター付きブルドーザー、汗っかき、そして金権。また天才的、勉強家、呑み込み、気さくな、どという言葉が出てきます。それらは一つひとつ卦たっていますが、全体を総合してみて、人間味という言葉が当たっています」 
就職と結婚の世話で獲得した票は絶対にはなれない
角栄は、代議士になると、三区の住民たちの就職の世話を熱心におこなった。
三十三年には、角栄の尽力で就職できた人々が、「誠心会」という組織をつくった。県内の高校、大学の進学率は増えるいっぽうであったが、県内に就職先はすくない。
角栄が、蔵相から自民党幹事長へと出世するにつれ、就職郎蹴のルートがひろがっていった。
電電公社(現NTT)、国鉄(現JR)など公社関係から建設会社をはじめ民間企業に、就職のコネがある。北海道、東北、関東、関西など広い地域にその力が及んでいるので、だいたい希望通りのところに就職できた。
三区からくる就職願いは、在京秘書遠藤昭司が担当し、越山会員でない者の世話も分けへだてなくしたので、会員はふえるいっぽうであった。
越山会によって就職できた者は、のちに一万人をこえたといわれる。
就職と結婚の世話で獲得した票は、絶対にはなれることがない。本人はもとより、親たちは十年、二十年と角栄を支持した。 
関連する法律が全部具体的なケースでヨコにサッと出てくる経験主義
「われわれ役人の頭は、法律の体系のようにタテ割りの知識体系になっている。ところが彼の頭はそれがヨコにつながっている。法律の知識にしても土地に関することなら、それに関連する法律が全部具体的なケースでヨコにサッと出てくる。具体的な土地取引をやったことがないわれわれには、想像もつかないヨコの結びつきが、法律どうしのあいだにあるということが分かる」
角栄は何事についても、具体的な発想、知識では、役人が及びもつかない蓄積にうらづけられた力量を示す。この高級官僚はさらに続けた。
「しかし逆に、マクロにものを見るとか、抽象的に考えるとか分析するといったことは、まるでできないし、興味を示さない。だから財政投融資政策とか、経済何カ年計画とかには全然興味がない。住宅建設計画なら、どこにいつどれだけ建てるというレベルになって、猛烈な興味を示す。経済企画庁の課長を呼びつけて、麹町の土地は坪何百万円するのにマンションが建っている。あんな地価が高いところで、どうしてマンション経営が成り立っているのか、きみ行って調べてきてくれ、といったりする。具体的に具体的にとしか頭が働かない人なんですね。それだけに、目の前の具体的現実問題の解決力は抜群だった」
角栄はそれほど偏った経験主義者で、大局観にかけていたのであろうか。成功の経験がいつまでも成功を導きだすもではないという事実に気づかなかったのであろうか。 
得意技は再建
かつての角栄に近かった番記者の一人はこう語る。
「田中政治とは、二言でいえば合理主義だね。そして得意技は再建だ。これからの政治家は、企業経営の経験者でなければ、適切な処置がむずかしいということもいっていたな」角栄は政治テクニックの天才であったという。
「再建的な考えを、根っこにすえているんだ。問題の着地点を、どう見きわめるか、世の中の動き、つまり世論を重視するんだね。そして、いかなる小さな情報をも大切にする。よく、針の落ちる音も聞き逃すな、といっていた。全部情報を集めさせて、ここしかないという着地点を見つける。それで痛手をこうむる人を、いかにして救済してゆくかが、政治の処理のすべてだと、いっていたね」再建とは、癌をつきとめて切りとって、薬をやることだ。角栄はこのテクニックでは無類の手腕家であった。
逆に世間が繁栄にむかったときの攻めには弱かったという。 
新米の番記者のエピソード
立ち上がりかけて、庭の記者を見ると声をかけた。
「こっちへこいよ。五分間やるから、なんでも聞いてみろ」記者は夢中で応接間に駆け上がり、国会、列島改造論について三つほどの質問をしつつ、「お前、なんてばかみたいなことばかり聞くのか」と思われているような気がした。
角栄は笑いながら答えたが、頭の回転はきわめて早い。
「お前の狙いはこれか」とすべて指摘して、いろいろと説明してくれる。
記者はふと思いついて聞いてみた。
「金儲けの方法はありませんか」ばか、といなされると思ったが、角栄はまじめな顔つきでいった。
「金を買え。上がると思うよ。しかし、お前には資金がないから、どうにもならんか」「もっと現実的な話をしてください」「またな」角栄は立ち上がった。
そのあとまもなく、金価格は三倍に暴騰した。金は作為的に上げられるものではない。角栄はさまぎまな情報を総合して、金は上がるといったのである。
記者が夜回りを許されるようになってから、秘書に自分が近づけられるまでの事情を聞いた。
角栄は、新米の番記者が来た日から、彼を見落としていなかった。秘書にまず聞いた。
「あいつの家はどこだ」秘書は東京に隣接する県の名前を挙げた。
「何時に起きる?」角栄は秘書から、新米の番記者が毎朝四時に起きると聞いた。
「何時に家へ帰るんだ」「午前一時です」「そうか」角栄が新米記者に朝駆け夜回りを許すようになったのは、そのような努力を評価したためであった。 
佐藤や福田にない機微を知る
腰を深くかがめ、あいさつをしながら渡す。
それはいつも人生の特別席におさまってきた、佐藤首相や福田外相のうかがい知る機微ではなかった。
角栄はそうした配慮を、下働きの人々への感謝をこめてするのだが、内奥には彼らのあいだのうわさが世間にひろまる影響力を顧慮する気持ちがあった。
角栄は親しくなった番記者に教えた。
「内証だけど、常にそういったことを頭におきながら行動しなきゃ、この世の中だめなんだよ」まったくその通りであろう。
生きてゆくために、そこまで気を配る人の身辺には、利運がめぐってくるものかも知れない。 
人に金を与えるとき、相手が予想しているより多い額を渡たす
味方だけでなく、敵に塩を送るようなこともあえてして、潜在する応援者をふやした。
福田派の代議士が入院しているとき、角栄が見舞いにいった話はよく知られている。角栄は見舞金として、百万円以上の札の入った封筒を持ってゆき、渡していった。
「これは何も意味のある金ではない。あんたの才能を尊敬し、一日も早い回復を願うだけだ」角栄はその代議士が入院しているあいだに五度も見舞いにきて、そのたびに同額の札の入った袋を置いていった。
福田剋夫よりも、角栄のほうがはるかに多い見舞金をおくったという。
角栄は、人に金を与えるとき、このくらいだろうと相手が予想しているより多い額を渡さなければならない。すくなく渡せば死に金になるよりもマイナスの効果になるといっていた。 
立花の記事が引き金で崩れた
立花の調査内容とそれに対する田中の反応が新聞やテレビで初めて報じられた。それまでは『文聾春秋』だけが書いた金脈問題が、ここで初めて全国的規模で報じられたのである。主役は立花であり、外国人特派員たちであった。
われわれには『反省』している余裕すらなかった。政局は明らかに田中退陣へと急流のように向かいはじめた」
佐藤、福田などの官僚出身の政治家であれば、このような場合、外国人記者クラブなどへ出向くことはことわったであろうが、角栄の軽率な強気が、彼の足もとに思いがけない土砂崩れをひきおこした。
立花リポートが発表されるまで、マスコミは金権政治を必要悪と見て、警察、検察が取りあげないスキャンダルは、見過ごしていた。
それを、立花が金脈の舞台裏のカラクリのすべてをあばき、外国人記者がその間題に飛びついた。権力闘争の推移のみを追っていた政治部記者たちは、突然わきおこった金脈騒動の意味が、はじめは分からず、やがて出し抜かれたとさとり、怒涛のように角栄追及に向かっていった。 
 
「国柄」について

 

1.
憲法改正に向けての一ステップとして、自民党の憲法調査会憲法改正プロジェクトチームは2004年4月に、「論点整理」を公表した。民主党も同党憲法調査会の「憲法提言 中間報告」を、また公明党も同党憲法調査会の「論点整理」をそれぞれ2004年4月に公表しているが、自民党の「論点整理」には「国柄」という概念が明記されている点で際立った特徴を示している。
自民党の憲法調査会憲法改正プロジェクトチームには、参議院のあり方など制度面の改正について党全体の意見を集約していないとの批判が党内に強まったため、同年12月に新憲法制定推進本部を新設して憲法改正作業を続行することとなった。しかし組織は変わっても、憲法改正論議の根底にある思想面については、「論点整理」に示された日本の保守主義の特徴的思考傾向が引き継がれるものと考えられる。
すなわち同「論点整理」は、現行憲法について「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)が現憲法制定時、連合国軍総司令部の占領下において置き去りにされた」とする。
また天皇制との関連で「連綿と続く長い歴史を有するわが国において、天皇はわが国の文化伝統と密接不可分な存在となっているが、現憲法の規定は、そうした点を見過ごし、結果的にわが国の「国柄」を十分に規定していないのではないか、また、天皇の地位の本来的な根拠はそのような「国柄」にあることを明文規定をもって確認すべきかどうか、天皇を元首として明記すべきかなど、様々な観点から、現憲法を見直す必要がある」と主張している。しかし、「国柄」という概念については「歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値」と極めて抽象的に述べているだけで、具体的にどのような「価値」を考えているのかは全く不明である。
2.
自民党的思考傾向に代表されるいわゆる保守主義的価値観から、「国柄」の具体的な意味を探ってみるのも一つの研究手法かもしれない。しかし、保守的と見られる政治家の発言や著作等を分析すればするほど、個々人の強度に情緒的あるいは心情的な思い入れや思い込みが入り乱れ、論理的な共通理念や価値観を見出すのはかなり困難である。
それでもわずかな手掛かりから探ってみると、自民党の「論点整理」が言う現憲法制定時に置き去りにされた国柄とは、 現憲法(日本国憲法)に批判的に論及しているところから、現憲法に先立つ明治憲法(大日本国憲法)の規定の内容を念頭に置いている可能性が最も高いと考えられる。
1) 明治憲法と現憲法の根本的な相違は、専制主義的君主制をとるか民主制をとるかの選択にある。
明治憲法は、その「第一章 天皇」で、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」(第三条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(第四条)、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(第五条)、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第十一条)などの規定によって、天皇が日本を支配する君主であることを明示していた。
従ってこの憲法の下では、全ての権力の根源は天皇に帰属し、国民の日常生活を左右する価値観も、根幹部分は君主と臣民の従属関係を基軸として形成されていた。最高権力者との距離の遠近で国民の上下関係すなわち人間の価値が決められ、それが社会秩序の基盤となるというこの専制主義的価値観は、天皇が最高権力者であった古代から武家が最高権力を握った中世、近世の永い歴史を通じて日本の伝統、文化となっていたという点に関する限り、明治憲法は確かに日本の明治維新以前の歴史、伝統、文化に根ざした価値観を取り入れて制定されたものと言うことができる。
そして、こうした専制主義的価値観ひいては伝統、文化を作り上げてきた主力は、その時々の最高権力者に連なる権力者集団とその家の子・郎党およびその追随者・手先たちである。
明治憲法は、明治維新により最高権力者の座から追われた徳川将軍と幕府に替わって、天皇を最高権力者の地位につけた薩長土肥を中心とする新権力者集団勢力により作られ、天皇の名により発布された憲法なのである。
これに対して現憲法は、、主権が国民にあることを宣言して民主制をとることを明らかにした。この結果、君主や領主と臣民や家来との、身分に基づく上下関係や権威主義的思考法を基軸として社会秩序を形成してきた専制主義的価値観は、大転換を迫られることになった。
現憲法は、敗戦により占領軍の支配下に置かれた政府および国会が、占領軍の意向を取り入れながら制定した憲法であり、占領軍に押しつけられたものであるので無効であるとする主張もある。確かに現憲法は、日本人の価値観が変わった結果として制定されたものではない。
しかしながら、独立して占領軍の圧力が消滅した後も半世紀にわたって、日本国民が現憲法をかつての専制主義的君主制に変えなかったことは、現憲法の制定を切っ掛けに日本人の価値観が変わり、民主制を支持する勢力が優位を占めるに至ったことの証左である。独立後の日本国民は、現憲法を変えない判断をしたことで、現憲法の有効性を自らの意思で確認したのであり、現憲法制定後半世紀を経て、民主制は既に日本の歴史の一部となるに至っている。
2) 明治憲法の下では、日本人たる者は本人の意思に関わりなく全て天皇の臣民とされた結果、「第二章 臣民権利義務」で定められた臣民の居住・移転、信教、言論、集会・結社等の自由権は、法律の範囲内でのみ認められた。言い換えれば、これらの自由権は君主たる天皇により与えられたものであり、従って天皇の名の下に法律を制定する国会および、その法律に基づいて権力を行使する政府を中心とする権力者集団の意のままに、制限ないし奪取することも可能だったのである。こうした権力者と臣民、家来や一般民衆など支配する者とされる者との明確な上下関係ないし階級制度は、もちろん、現憲法制定まで貴族や武士などの権力者による専制政治を繰り返してきた日本の歴史、伝統、文化に根ざしたものである。
これに対して現憲法は、国民は全て法の下に平等であるとし、思想、良心、信教、集会や言論などの表現、居住や移転および職業選択、外国移住、学問などを始めとする広範な自由権を、公共の福祉に反しない限り法律をもってしても制約できない基本的人権であると規定した。
基本的人権とは、君主や国家などから与えられる恩恵ではなく、人が人として生まれたことに伴って当然に享受する権利であるとする、民主主義の根幹的思想である。そして民主主義は、臣民は君主や領主に従属すると考える君主主義や、国民は国家に奉仕するために存在すると考える国家主義とは対極に位置する。
3. 
このように明治憲法と現憲法を比較してみると、保守勢力の言う置き去りにされた歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)とは、少なくとも憲法レベルでは、専制的君主主義や国家主義に根ざした思考傾向や政治・経済・社会制度を指しているとしか考えられないことがわかってくる。
しかし、日本の2000年の歴史は、縄文・弥生まではさかのぼらないにしても、権力の所在によって、豪族分立の古代、天皇と貴族が権力を振るった王朝時代、源氏と平家の興隆に始まる武家の時代、明治維新から敗戦までの絶対主義的天皇制の時代、そして戦後の民主主義の時代と幾つもの大転換を経てきている。そして、その大転換がもたらす社会環境の変化に伴って、伝統や文化も大きく変化してきたはずであり、そうした伝統、文化に根ざす価値観も大変化を遂げてきたに相違ない。
その中で、特に明治憲法に象徴される時代の価値観だけが、歴史、伝統、文化に根ざしたわが国固有の価値(すなわち「国柄」)であると断定すべき理由はない。
保守勢力は、わが国の歴史、伝統、文化が集積してきた集大成が明治憲法下の価値観であり、固有の国柄であると言いたいのかもしれない。
しかし、集大成というのであれば、明治憲法の時代に続いて、敗戦という厳然たる歴史的事実の上に制定された現憲法の下で半世紀以上にわたって育まれてきた価値観こそ、歴史、伝統、文化に根ざした現代の日本の固有の価値観(すなわち「国柄」)と言うべきではないであろうか。
現憲法下の価値観は、明治憲法下の価値観からの変化が大き過ぎるからわが国固有の価値観とは言えないというのであれば、明治憲法下の価値観も、それに先立つ徳川時代の価値観からの大転換であったという意味で、わが国固有の価値観とは言えないということになる。このように、大転換があった時代に先立つ時代の価値観こそがわが国固有の価値観(すなわち国柄)であるとすると、大転換を繰り返してきた日本の歴史の、どこまでさかのぼれば本当のわが国固有の価値観に行き着くのであろうか。
4.
歴史とか伝統とか文化とかいう言葉は、具体的な内容がはっきりしないまま、その言葉だけでなんとなく「良いもの」「尊重すべきもの」と思わせる効力を持っている。保守勢力は、その効力に着目し、良いものであり尊重すべきものである歴史、伝統、文化に根ざす国柄も「良いもの」「尊重すべきもの」との論法を展開している。憲法との関連で言えば、君主制の歴史、伝統、文化が圧倒的に永いので、君主制こそ日本の国柄であると結論づけたいのであろう。
しかし、歴史、伝統、文化はいずれも人間の行為の積み重ねであり、人間の行為が善悪相半ばするものである以上、歴史、伝統、文化も善悪相半ばするものであり、その中から良いもの、尊重すべきものを選択するためには、具体的な事例を検討しなければならない。天皇制との関連で言えば、君主に権力を集中させる君主制は、君主が特に英明である場合には思い切った統治ができるが、通常は君主を利用する特権階級による専制になるのが、歴史の教えるところであり、専制に陥る傾向は独裁的な終身権力者や世襲権力者の場合も同様である。
このような過去の歴史、伝統、文化から学び、君主の権力や政治的影響力は出来る限り少なくし、大統領などの権力者には任期を設けるなどの工夫で専制的統治を排除して、非権力者である大多数の国民の生活と権利を守ろうとする思想が民主主義なのである。従って、君主主義や専制主義の時代が、民主主義を基本理念とする歴史、伝統、文化を育みつつある期間より圧倒的に永かったからといって、それは君主主義や専制主義の優位性を何ら証明するものではない。 
その意味では、臣民を主権者たる国民に変え、天皇制を残しながらも権力者に利用される可能性を最小限におさえた現憲法は、わが国の歴史、伝統、文化から多くを学んだ、基本的には立派な民主主義憲法であるというべきである。これを改正するというのであれば、わが国の歴史、伝統、文化を民主主義の基盤の上にさらに発展させる方向を目指すべきであって、逆戻りさせようなどというのは歴史を無視した蛮行と言わざるを得ない。 自民党の「論点整理」は、現憲法の規定が「連綿と続く長い歴史」や「文化伝統」あるいは「国柄」を見過ごし、結果的にわが国の「国柄」を十分に規定していないのではないかと主張している。保守的思考の流れから推測すると、この「国柄」とは明治憲法下の制度や文化を指しているように思われるが、それならば、はっきりとそう言うべきであろう。いくらなんでも、現在の権力者や資産家とその一族および手先たちの特権的立場を固定かつ永続させるために明治憲法の時代に戻したい、というのでは多数を占める一般国民の支持は得られそうにないからといって、歴史、伝統、文化といった言葉をことさら情緒的に使用し、さらに国柄などという更に意味の曖昧な言葉まで付け加えることで、国民を情緒過多の思考停止に誘導しようとするなどは、国を思う保守主義者の品位と面目にかかわるのではないであろうか。 
5.
そうではなく、「国柄」は必ずしも憲法レベルだけではなく、日常生活のレベルでもいろいろあり簡単には説明できないから、具体的に明示しなかっただけであるということかもしれない。それならば、日本の国柄の何を保守したいと考えているのかは保守主義者の思想の根幹に触れる問題であるはずなので、自民党は改憲の必要性を唱える議論に日本の文化や国柄を理由とするのであれば、「論点整理」以外の場所ででもその具体的な内容を何らかのかたちで明らかにしておくべきであろう。
とは言え、「日本の国柄」なるものの具体的な内容が、納得のできるかたちでそう簡単に出てくるとは思えないが、いつの間にか大小の権力者や声の大きいその追随者・手先たちに、勝手に言い立てられ押しつけられてはかなわないので、この際、少なくとも自分自身の考えは固めておきたい。 
続「国柄」について
1.
国家の基本的な枠組みを「国柄」と呼ぶとすれば、憲法レベルでの国柄は専制国家か民主国家に先ず大別されるが、君主国が専制国家で大統領制の共和国が民主国家ということには必ずしもならない。民主的君主国や専制的共和国の例は珍しくないので、権力の在りかや強さについての規定、あるいは国民の権利についての規定など先ず憲法の内容を見て基本的な枠組みを観察する必要がある。
その結果、君主国と共和国は専制的君主国、民主的君主国、(大統領や時には政党などが独裁的な権力を持つ)専制的共和国、民主的共和国などに分類される。
さらに、専制的か民主的かという憲法的枠組みの両極のあいだでも、実際の国家運営には、国家主義、権威主義、平和主義、軍国主義、家族主義、個人主義、平等主義などの思想や、男性優位、個人崇拝、宗教感情など様々な思考傾向が勢力を競い合い、どのような勢力がどの程度強いかによってその国や社会の独自性が作り出されてくる。 
保守派が好む「国柄」という言葉は、あるいはこのような国や社会の独自性をイメージしているのかもしれない。しかし、国や社会の枠組みを作る思想や思考傾向は、国や社会の内部の状況(人口の変動や、権力者ないし政治勢力の変化など)や外部からの影響(鎖国、開国、貿易、戦争など)によって比較的容易に変化するものであるので、この意味の独自性は保守派が考えるほど固定的なものではなく、時代によって大きく異なっている。
そのため、「国柄」の意味をそこまで拡げてしまうと、それは、当該国のある特定の時代の思想・思考傾向とそれに基づく社会の姿を意味するに過ぎなくなり、広い意味の「文化」という言葉と分けて使う理由がなくなる。それなのに何故あえて国柄という言葉を使うのかというと、それは、国家主義的傾向の強い保守派の言葉遣いの好みの問題と考えるほかない。しかし、保守派といえども同時に「文化」という言葉も使用しているのであるから、国柄と文化という二つの言葉の概念をどう区別しているのか不可解なところがある。仮に、国という言葉が好きで、情緒的に何となく重ねて使っているだけなのだとしたら、そのような曖昧な概念の言葉を少なくとも法律に使用するのは不適切である。
以上のように、保守派が憲法の枠組みを超えた何かを意味しようとしているかに見える「国柄」という言葉の概念は、結局のところ、人と社会の思考と行動の様式としての広義の「文化」の概念と重なっているように思われるが、改めてその意味するところをさらに具体的に探ってみることとする。
(広義の「文化」の概念については、本ホームページ所載の拙著「文化とは何か」序章「文化と価値観」をご参照願いたい)
2.
筆者は、広義の「文化」を、「生活の文化」「感性の文化」「知性の文化」そして「品性の文化」に四分類する。これらそれぞれの「文化」に国柄に相当する事項はあるのであろうか。
1) 生活の文化
生活の文化は日常生活を形成する思考・行動の様式であるが、感性の文化や知性の文化あるいは品性の文化とも重なる部分があり、また相互に支え合ってもいる。
衣・食・住の基本的な部分は典型的な生活の文化であるが、永い歴史を通じて変化してきており、これに国柄を見出そうとすれば、その中で他国にはないものを列挙するほかないであろう。たとえば着物や下駄、寿司などの日本料理、茅葺きの建物や畳敷きの和室などがあげられるが、文化と区別して国柄と呼ばなければならないほどのものとは思えない。
日本が農業国であったころは、農村での生活様式や風俗習慣が日本人の生活の文化の主要な構成要素となっていたのは当然である。村民同士の関係は、地頭の差配のもとで農作業や冠婚葬祭のための助け合いなどを通じて緊密であったが、共同歩調を乱す者には厳しい目が向けられ、村八分にされることもあった。ここから「長いものには巻かれろ」といった強者には逆らわない生活の知恵が生まれ、国民性の一つになったのも不思議ではない。 
平家と源氏が覇権を争って以来明治維新まで日本を実質的に支配した武士は、農民とは異なる文化を作り出した。領主が家臣に土地や俸禄を給付し、これに対して家臣は主君に忠誠を誓う主従関係を基本とする封建制度がその文化の中核であった。諸領主が覇権を賭けて戦う戦国時代を経て、徳川幕府の成立により将軍を頂点とする日本の封建制度が完成し、明治維新まで維持された。この過程で、主君と家臣の主従関係と、家族関係を律する家父長制度という両輪を通じて、世襲の身分を力の源泉として権力者が恣意的に支配する権威主義的社会秩序が形成されたが、この社会秩序とそれを支える思考・行動様式は明治維新後も厳然と存在し続けた。
保守派の国柄を守れとの主張が、第二次大戦後の民主主義的現行憲法に対する批判の半面であることが専らであることを考えると、保守派の言う国柄とはこうした封建制度の遺産の権威主義的思考様式と大勢順応の村社会的思考様式が作り出す社会秩序や風俗習慣・生活様式などであるように見える。それは端的に言えば、国家の名の下に統治する政府やそれに連なる権力者群の号令に従順に従い、異論を唱える者は会社組織や地縁・血縁関係などを使い陰に陽に抑圧し排除して、皆と同じに考え行動することを重視する国民性である。 
とは言え、、現行憲法の下で民主主義を体験してしまったこの日本で、いかに国民的伝統とはいえ、強きになびく権威主義や男尊女卑の家父長制がこれからも守り育てて行くべき思考・行動様式であるとは、さすがの保守派も明言しかねるため、国柄というような内容が曖昧で耳には良く響きそうな言葉を探しだしてきたのであろう。そして、国柄は好ましいものであるとの一般的な印象を利用して、国柄の内容を明らかにしないまま国柄を守れと主張し、自分たちの好みの思考・行動様式を押しつけようと試みているように見える。
しかし、生活の文化あるいは風俗習慣は、歴史上の一定の政治的、社会的、経済的環境あるいは自然条件の下で形成され、歴史の流れの中で存続あるいは消滅してきたものである。多くの人々が好ましいと思うものが存続し、興味を失ったものが消滅するのが自然な流れであるが、強権政治の下では、権力者が自らの利害関係の観点から特定の文化や風俗習慣の存廃を強制することも珍しくない。
民主政治の下では、生活の文化や風俗習慣の形成や廃棄は、基本的に国民の日々の生活の中での選択に委ねるべきであろう。国会議員や官僚も含めた権力者側が、法律や制度によりその存廃を強制したり誘導したりする場合には、残すにしても捨てるにしても、それが誰(政治家?政党?官僚?、財界人?男性?女性?老人?若者?子供?など)にとってどのような功罪があるのか、その理由と基準を具体的に説明する必要がある。それができないまま権力者側の好みで存廃を強制することは、国民の生活の調和を乱し、快適な生活を妨げることになる。功罪の具体的な説明を回避するために、国柄などという一見もっともらしいが実は曖昧な言葉で国民をごまかしてはならないのである。
2) 感性の文化
感性とは、人間の五感に入ってくる印象の美醜を判断する能力であり、この能力に基づく思考と行動の様式が感性の文化である。
「万葉集」から始まり、「源氏物語」や「徒然草」などを経て現代に至る数多くの文学作品、絢爛さや繊細さ、あるいは幽玄さなどを追求しながら発達してきた絵画や彫刻、独特な発展をみせた音楽などは、日本独自の感性の文化の果実である。
さらに江戸時代以降には、公家や武士階級だけでなく、町人や富農層にも和歌、俳句、漢詩、書道、謡曲などをはじめ、茶道、華道その他様々な芸事が普及した。また、江戸や京都、大阪などの大都市だけでなく、多くの城下町や近郊農村にも教養人、文化人、趣味人、風流人の層が存在し、感性の文化に磨きをかけていた。
能や歌舞伎などの舞台芸能あるいは雅楽や邦楽なども独自の発展を遂げ、その他の大衆芸能や郷土芸能と共に人々の感性に働きかけ、生活を豊かにする役割を果たしてきた。
保守派の言う国柄に、このように多彩な分野で独自性のある豊かな果実を生み出してきた感性の文化(の一部分)が含まれているのかどうかは不明である。仮に日本の感性の文化の特に上に列挙したような独自の優れた部分を国柄と呼びたいのであれば、これを守り育てて行くべきであるという議論に一般的に異論はないはずである。しかし、この分野の国柄が好ましいものであるからといって、生活の文化や知性の文化の分野でも、国柄であるからには全て好ましいものであるとの結論に導いて行こうとするのであれば、それは議論のすり替えであり、上記1)の末尾同様にごまかしである。そこには論理に基づく議論は成立せず、ある事柄ないし現象を国柄である、従って良いものであると主張する声の大きい方が、理屈抜きに自説を押しつけることになるだけである。
それに、敢えて言えば、感性にも高低があり、低劣な感性が作り出す文化は、それが如何に多数の国民に支えられて国柄と呼びたいほど普及しているとしても、国家として守り育てて行くべきかどうかは慎重に検討すべきであろう。
やはり、本当に好ましい感性の文化を守り育てて行こうとするのであれば、国柄などという曖昧な言葉は使わずに、守り育てるべき事項なり現象なりを具体的に列挙し提示すべきなのである。
3) 知性の文化
知性とは物事を論理的に考える能力である。従って、知性の文化は、論理的に思考された事柄が行動に移され、その思考と行動が少なからぬ人々によって支持され一般化・様式化されることによって作り上げられる。
上記 2)感性の文化で触れた文学作品などは、感性と知性が支え合って作りだしたものと考えられ、従って知性の文化の向上にも貢献してきた。
生活の文化も、快適な生活を求めて論理的に思考し行動する場合には、知性の文化の向上につながる。
歴史的には、4世紀末に百済経由で伝来した儒教(儒学)が、知性の文化の中核である学問を日本でも本格的に発達させ、6世紀中葉に伝来した仏教と併せて日本人の思想・哲学ひいては思考・行動様式を形成する原動力になったと考えられる。その後、鎌倉時代には宋から朱子学がもたらされ、徳川幕府の庇護のもとに興隆したが、これに対抗する学派として陽明学が研究され、多くの学者や武士階級に影響を及ぼした。また、朱子学や陽明学を批判し、孔子の時代の儒教こそ真の儒教として信奉する古学派と呼ばれる学派も現れたが、いずれの学派も儒教の流れを汲んでおり、儒教こそ日本の知性の文化の源流であると言ってよいであろう。
儒教は、僧侶や学者などの知識階級、および政治権力を握る武士階級に大きな影響力を持ったが、他方、庶民の思考・行動様式は、論理よりも信仰が重みを持つ仏教の影響の下に形成されてきたと言える。江戸時代以降は寺子屋などを通じて庶民も、学問とは言わないまでも読み書き算盤を身につける機会に恵まれていた。さらに明治以降は、産業の近代化と富国強兵のために国民教育に力が入れられて、国民の教育水準は世界のトップレベルに到達した。
このように、知的な面で日本人は独自な発展を遂げてきたが、それにも拘わらず、知性の文化が十分に花開いたかどうかには、疑問が残る。
世界の主流的な知性の文化は、専制主義的統治への疑問と抵抗を原動力として論理を発展させ、幾多の論争を経ながら、好むと好まざるとにかかわらず民主主義思想を優位に置く流れを作りだしてきた。日本の知性の文化の根幹である儒教からも仏教からも民主主義思想は生まれず、西洋から伝来したルソーの民約論(社会契約論)などの影響を受けて明治維新以降に普及したのである。
明治維新まで日本国内で展開された知的な論争は、基本的に儒教ないし仏教の枠内で、儒学者や僧侶を中心に展開されたため、専制主義に対する民主主義のような真っ向から対立する主張がぶつかり合って、論理をとことんまで突き進めたものとはならなかった。 
専制主義に対抗する民主主義的思想が提起されるようになったのは明治以降である。しかし、第二次世界大戦の敗戦まで、神権天皇制の下で社会体制の秩序と安定の維持を最重要視する儒教的思想が、社会の構成員個々人の基本的人権の擁護を優先する民主主義的思想に比べて圧倒的に強かった。そして、天皇機関説を巡る論争のように、近代社会で普遍性を持つ論理は、独善的で時には狂信的でさえありながら時の権力に後押しされた神がかり的な主張にしばしば抑えつけられ、国民の間に論理性を尊重する意識が十分育成されないまま戦争に突入し、神がかりのもたらす苦い結果を味わうこととなった。
論理性が命のはずの学問の世界でもこの有様なのであるから、国民一般の日常生活では、論理性は理屈っぽいとして嫌い、むしろ情緒的、直感的な思考・行動様式を選択する傾向が強かったし、自由な言論が保障されている現憲法の下でも、論理的な論争を敬遠しがちな傾向は国民性と呼んでもおかしくないほど強く残っている。
これが知性の文化の分野での国柄であるとしたら、我々は、これを守らねばならないのであろうか、それとももっと普遍的かつ論理的に思考し行動する国柄に変えて行かなければならないのであろうか。はたまた、そんな国民性は国柄と呼ぶには値せず、本当の国柄は別にあると言うのであれば、それは何なのであろうか。
4) 品性の文化
品性の文化の分野での国柄について語ることは、あまりない。
日本にも、「品位」とか「品がある」といった、品性を評価する言葉があり、 品性を備えた人は確かに散在する。しかし、品の良い人が特別な存在として好意を持たれることはあっても、品性という資質を高く評価し人格形成の目標としようとする一般的な風潮はほとんど存在せず、従って品性の文化も未だ形成されているとは言えない以上、品性の文化の分野で国柄が形成されることはないのである。
国民の品性の高さが国柄と言われるようになる日が、いつか来ることを祈るのみである。
3.
以上のように、文化を「生活の文化」「感性の文化」「知性の文化」「品性の文化」に分けて考えてみても、「国柄」なるものの存在は、はっきりと現れてこない。それらしいものがないわけではなく、それらは過去の特定の時点の政治的、社会的、経済的あるいは自然的な条件の下で意味を持ったのであろう。一族の興亡を賭けて戦い合わなければならなかった弱肉強食の時代には、一族内の団結を固め敵よりも強くなるためには、個々人の権利よりも全体的な秩序と権威を重視する儒教的な思想は、それなりに有効であったかもしれない。 
しかし、そうした条件が大きく変化した現代のような時代に、過去と同じような意味や価値を持つものかどうか、今後もそのままの形で復活させたり守ったりしてゆかなければならないものなのかどうかは、過去に存在し有効であった故に国柄と呼ばれるべきであるというだけの根拠で決定してよいほど軽いものではないであろう。
保守派が「国柄」と呼びたがるようなものも、それは過去のある時代にある条件の下で形成された思考・行動様式に過ぎず、現在および将来の如何なる条件にも適応できるような完成されたものではない。そのような完成された思考・行動様式は、人間が快適な生活と人生を追求する限り存在し得ず、社会の変化に対応して思考・行動様式も変わって行くか、必要に応じて変えられるべきものなのである。従って、「国柄」という言葉を使用する場合には、それがどの時代のどのような思考・行動様式であるのかを明らかにしない限り、思い込みが先走るだけで意味と内容のある議論は成立しないのである。
本稿では、「国柄」に焦点を当てて考察したが、同じようなことは「文化」、「伝統」、「歴史」さらには「国」といったような言葉にも当てはまる。これらの、一見好ましい印象を与えるような言葉も、一皮むけば多様な内容や多面性を持っており、それを明らかにしないまま憲法や教育基本法などにこれらの言葉を多用することは、論理に基づく議論の成立を妨げ、日本人の論理的な思考力の向上ひいては知性の文化の形成・発展を阻害することになるであろう。 
 
戦争と文学

 

1
日本は、日清戦争、日露戦争、朝鮮併合を通じて、朝鮮半島から大陸への利権を拡張するが、その戦争の過程で、詩人石川啄木は、時代閉塞の状況を感じた。歌人与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」と詠った。しかし、戦争の大義や日本の権益拡充に結びつく戦争に協力すべきであると考えた文化人も多かった。
1910年に、「時代閉塞の現状」を執筆した石川啄木は、1902年(明治35)初めて与謝野家を訪門し、1908年から与謝野家に滞在した。1908年(明治41)5月 啄木の日記には、「与謝野氏外出。晶子夫人と色々な事を語る。明星は其昔寛氏が社会に向って自己を発表し、且つ社会と戦う唯一の城壁であつた。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編集長に雇はれて居るようなものだ!」「小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、(与謝野鉄幹)氏は頻りに漱石を激賞して″先生″と呼んで居た。」とある。
啄木は与謝野晶子『みだれ髪』を愛読していたから、「晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。」という。(blog 漱石サロン ランデエヴウ 引用)
1909年年4月12日の啄木日記には「---予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。---予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。---」とある。
石川啄木『所謂今度の事』
「今度の事とは言うものの、実は我々はその事件の内容を何れだけも知っているのではない。秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。----今度の事件は、一面警察の成功であると共に、また一面、警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。」
石川啄木『日露戦争論(トルストイ)』
「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドン・タイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。
「-----戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。----実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」
「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論ただ論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった。そうして到る処に星のごとく輝いている直截、峻烈、大胆の言葉に対して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を円くして驚いたに過ぎなかった。『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。しかし予は今なお決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に対して、今もなお『偉い。しかし行なわれない。』という外はない。ただしそれは、八年前とは全く違った意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であった。」 
2.
日本は、1925年に治安維持法を制定し、反戦を唱えるような危険思想も弾圧の対象とした。プロレタリア文学作家の小林多喜二は、1933年、特高に逮捕され、死亡した。そのなかで、社会主義思想を放棄して、日本軍や国体を賛美する「転向」が進んだ。
プロレタリア文学は、1917年のロシア革命以降、社会主義的、共産主義的思想が広まる中で、それが文学に影響して生まれた。プロレタリア文学は、政治体制を批判したり、社会問題を論じたりと、社会主義思想の影響を色濃く受けていた。雑誌『種蒔く人』は、1921-23年に秋田県で発行され、「反戦平和」「被抑圧階級の解放」を謳った。このようなプロレタリア文学や社会主義思想は、普通選挙の要求の高まりとあいまって、日本の国体(天皇制)の変革に結びつくことが、大いに危惧された。
1925年に治安維持法は、国体の変革、私有財産制の否定を企てるものを処罰する法律である。普通選挙甫と同時に施工された治安維持法を担う組織が、特高警察(特高)である。1911年に警視庁(東京)に特別高等警察課が設置され、1928年には全国に設置された。特高は、1922年創設の日本共産党、労働組合、社会主義者、さらには自由主義者、民主主義者まで反政府的であるとみなされた人物を取り締まるようになる。そして、拷問、密偵・密告などによる思想弾圧を行った。
プロレタリア文学作家の小林多喜二は、『蟹工船』によって、オホーツク海で創業する漁船の雇用労働者を描き、その過酷な労働環境と資本家による収奪を社会悪として描いた。小林多喜二は、1931年にに合法の日本共産党に入党した。しかし、1932年2月20日に特高に捕らえられ、築地警察で拷問された。監獄内で倒れた小林多喜二は、目を半分むいて痙攣し始めたため、築地署裏にある前田病院に担ぎ困れたが、同日死亡した(享年30歳)。家族に引き取られた遺体には、首筋やこめかみに5、6ヶ所の裂傷があり、首には縄で絞めたような痕が深く残っていた。下半身には内出血が広がり、大腿部には15〜16箇所ほど釘を刺されたように裂けていたという。
小林多喜二の死の真相を報道した新聞はない。毛利特高課長の「決して拷問した事実はない。心臓に急変をきたしたものだ」という談話、友人の江口渙の「顔面の打撲裂傷、首の縄の跡、腰下の出血がひどく、たんなる心臓マヒとは思えません」という談話(都新聞)、家族や友人が「むごくも変わりはてた姿に死の対面をした」(読売新聞)といった表現で、真相をそれとなく匂わせたという。
小林多喜二への拷問にみられるように、特高警察など日本における同胞重罪人への処遇にも厳しいものがあった。したがって、日本人の治安維持法違反(罪人)への処遇も厳しいのであるから、1931年の満州事変で、中国大陸の「匪賊」に対する容赦ない処刑は、なんら残虐なものとは考えられていない。1932年の第一次上海事変でも、暴戻なる敵中国軍の兵士や日本に反旗を翻す中国人叛徒(ゲリラや反日活動家など)に対しては、情け容赦のない処置をとった。これも、残虐行為とは認識されなかったと考えられる。
軍を中心としたファシズム、1925年の治安維持法、特高警察による社会主義・共産主義的思想弾圧によって、プロレタリア文学は徐々に衰退した。その過程で、林房雄のようにプロレタリア文学の立場自体を放棄する「転向」が盛んに行われた。日本プロレタリア作家同盟(戦旗派)は、1934年2月22日、解体声明を出した。
社会主義思想の誤りを認めて、日本の伝統を尊重した文学を重視するようになった転向文学は、政府への迎合という側面もあった。しかし、プロレタリア文学は、政治中心の文学であり、作家の芸術的感性を軽視していたことから、転向文学では作家個人的見解やその心情を芸術表現することができるようになったともいわれる。
戦争にあっては、暴戻なる敵を殲滅する勇戦や英雄的行為は、軍の栄光を増すものであり、高い評価を得た。勇士は、軍隊内の処遇、昇進に優遇された。他方、敵を殲滅、刺殺、斬首できないような弱兵や臆病者は、軍隊内で軽蔑されあるいは処罰の対象となった。戦争では、敵を殺害すればするほど、勇士として遇され、昇進できた。転向者は、戦争を日本の大義を守るための勇敢な行為として理解し、国粋主義あるいは戦争賛美とも受け取れる論を展開する。 
3.
1931年の満州事変、1932年第一次上海事変では、戦争の大義や日本の権益拡充に結びつく戦争に協力すべきであると考えた文化人も多かった。1932年、第一次上海事変の「爆弾三勇士」の伝説は、与謝野鉄幹によって、歌唱になった。田川水泡「のらくろ」でも、「爆弾三勇士」の伝説が取り上げられた。「のらくろ」は、日本をイヌ、中国をブタ、ソ連をクマ、満州・朝鮮をヒツジに譬えた少年漫画で、日本の大陸侵攻の時代を反映しているが、軍部から見て、適切な表現ではなかった。
犠牲的精神の発露による「特攻自然発生説」は、1932年1月に勃発した第一次上海事変で、日本陸軍「爆弾三勇士」という美談となって主張されている。2月22日、日本陸軍第24旅団(久留米)が中国軍十九路軍の陣地を攻撃した際に、中国軍陣地前面にある鉄条網を破壊する破壊筒(4mの筒に爆薬20キロを装填)を運搬した兵士たちの突撃が、犠牲的精神の発露であるとされた。
長崎県出身の北川丞一等兵、佐賀県出身の江下武次一等兵、長崎県出身の作江伊之助一等兵は、第24旅団の下級兵士であり、名前はそれほど人口に膾炙したわけではないようだが、三軍神あるいは三勇士と讃えられた。
1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致 三勇士の忠烈」
「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。内憂にせよ、外患にせよ、国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」
北川丞一等兵、江下武次一等兵、作江伊之助一等兵という下級兵士は、『爆弾三勇士』として、荒木貞夫陸相、鳩山一郎文相、薄田泣董など有名人からも絶賛された。
1932年2月22日、第一次上海事変で、中国軍陣地の鉄条網を爆破するために、破壊筒をもって突撃した「爆弾三勇士」の行動は、犠牲的精神の発露であるとされた。三名の一等兵は、三軍神と賞賛され、マスメディア、教科書、軍歌でも頻繁に取り上げられた。
「三勇士の歌」は、『朝日新聞』『毎日新聞』が公募し、三勇士の突撃から1ヵ月後の1932年3月25日に入選作が発表された。『毎日』の「爆弾三勇士の歌」には、総数8万4177編の応募があり、この中から、与謝鉄幹の作品が選ばれた。
「爆弾三勇士」与謝野寛作詞・辻順治作曲
一、廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣 われの友隊すでに攻む 折から凍る二月(きさらぎ)の 二十二日の午前五時
二、命令下る正面に 開け歩兵の突撃路 待ちかねたりと工兵の 誰か後れをとるべきや
三、中にも進む一組の 江下北川作江たち 凛たる心かねてより 思うことこそ一つなれ
四、我らが上に載くは 天皇陛下の大御稜戚(おおみいつ) うしろに負うは国民(くにたみ)の 意志に代われる重き任
五、いざ此の時ぞ堂々と 父祖の歴史に鍛えたる 鉄より剛(かた)き「忠勇」の 日本男子を顕すは
六、大地を蹴りて走り行く 顔に決死の微笑あり 他の戦友にのこせるも 軽く「さらば」と唯一語
七、時なきままに点火して 抱き合いたる破壊筒 鉄条網に到り着き 我が身もろとも前に投ぐ
十、 忠魂清き香を伝え 長く天下を励ましむ 壮烈無比の三勇士 光る名誉の三勇士
鉄幹は当選歌を発表後、(三)の「答えて『ハイ』と工兵の」の文句が「これでは上官が命令したことになり、事実と相違する」と軍から指摘され、修正したといわれる。
月収40円があれば家族五人が生活できる時代に、新聞社が爆弾三勇士の歌を募集し、賞金500円を与謝野鉄幹に贈呈したようだ。
爆弾三勇士など、当時の日本人の戦争観に大きく影響をされた、あるいは大きな影響を与えた文化人も多い。芸術など戦争の前には動員されるに過ぎない存在なのか、戦争など芸術に資金と活動の場を提供する存在に過ぎないのか。
歌人として有名な與謝野鉄幹は、1894年日清戦争を契機に朝鮮に渡る。招かれて漢城(現ソウル)の「乙未義塾」日本教員として赴任。詩歌草新運動を唱えて1894年「亡国の音」を発表、『二六新報』に国民士気鼓舞の詩歌をしきりに掲載。「韓山(からやま)に秋かぜ立つや太刀なでて われ思うこと無きにしもあらず」1895年10月8日に三浦梧楼ら日本官憲・右翼壮士とともに朝鮮王妃の閔妃暗殺に関与したとされる。朝鮮をロシア、清国の傀儡となるのを避ける日本に必要な国防上の措置と考えたようだ。護送されて帰国する。
鉄幹の妻で、歌人としての評価が高い与謝野晶子は、『君死にたまふことなかれ』によって反戦歌人とされる。しかし、1932年『支那の近き将来』では「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」と、『日支国民の親和』では「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」と述べた。夫鉄幹が、第一次上海事変の「爆弾三勇士の歌」をつくったのは、同じ1932年である。芸術家、文人とは、その作品に宿る心情を本質としており、実生活の行動はもちろん戦争観には拘泥しなくてもいいのかもしれない。ドラマチックな戦争が、芸術家の才能をきらめかせ、プロパガンダが芸術家に活躍の場を提供することが多い。
与謝野鉄幹・晶子が、存命であったのであれば、特攻に赴いた若者をどのような意識で捉えたのか。文学作品として、短歌として名作を残すことができたのか。
第五期国定教科書「アサヒ読本」初等科国語二の二十一に「三勇士」が記載されるようになり、次のよな美談が子供たちにも広められた。
敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。そこで班長は、まづ破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりとかかへ、鉄条網めがけて突進しました。-----すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人はぐっとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただ、その間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
北川は、決死の勇気をふるって、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやうに、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
三人の心は、持った破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
もう死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき渡りました。
すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れていました。「作江、よくやったな。いい残すことはないか。」作江は答えました。「何もありません。成功しましたか。」
班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ、作江を向かせながら、「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」とさけびました。
「天皇陛下万歳。」作江はこういって、静かに目をつぶりました。
『少年倶楽部』昭和7年5月号(1932年)田川水泡の漫画「のらくろ」では、次のような「爆弾三勇士」の場面がある。
ブル連隊長「あの鉄条網はどうしても爆弾で爆破せねば攻めとることは難しいな」
決死隊「連隊長殿 自分達三人で決死隊になります」、ブル連隊長「爆弾を投げに行ってくれるか えらいぞ」
決死隊「御国のためだ 命はいらない」
爆発音
ブル連隊長「それッ このひまに突ッ込めェ」、兵隊「突ッ込めェ」、モール中隊長「あの三人を犬死にさせるなァ」
のらくろ「一番乗り のらくろ一等兵 ここにあり」
戦死した猛犬連隊の3匹の勇士は金鵄勲章の栄誉を受ける。
似通っている別の単行本版の「のらくろ」爆弾四勇士もある。ここでも「連隊長殿、自分たち四人で決死隊になります」「猛犬連隊の名誉のためだ」「命を捨てに行くのだ。勇ましく敵陣に肉迫しろ。」と、特攻自然発生説が採用されている。
1931年から講談社『少年倶楽部』に連載された田川水泡「のらくろ」は、戦争賛美とも捉えられるが、戦争漫画は、太平洋戦争が始まった当初から次々に休刊している。「のらくろ」の連載も、昭和6年1月号から昭和16年(1941年)10月号までで、日米開戦(1941年12月)直前に執筆中止となった。決戦時期に漫画で娯楽とは不謹慎であり、用紙統制令に応じて、発行部数の多い漫画をやめ資源節約と文学報国翼賛に協力するためであろう。「戦争漫画は戦中に戦意を高揚させるためにあったのではなく、今と変わらない虚構の物語を楽しむために存在した」ともいわれる。「のらくろ」のような「出自不詳の孤児の黒いノラ犬」が、大日本帝国の将兵と対比されるのでは、娯楽というより悪ふざけが過ぎる、と軍は考えたのか。 
4.
日本軍による「特別攻撃」は、1941年12月の日米開戦劈頭における真珠湾奇襲に際して、特殊潜航艇による真珠湾突入、雷撃作戦として行われた。ここでは特殊潜水艦搭乗員9名が「九軍神」として大々的に賞賛された。九軍神をたたえる歌も作られた。画家藤田嗣治は、真珠湾攻撃の大作を描いた。
甲標的(甲型)は、1941年12月7日に真珠湾の米軍艦艇を雷撃するために湾内に侵入しようとした。しかし、座礁した潜航艇が真珠湾攻撃の翌日に米軍により引き揚げられた。その後、米本土に運搬され、各地を巡回して展示された。これは、戦時国際の販売目的のためである。特殊潜航艇「甲標的」は真珠湾の湾口に待機していた伊号潜水艦5隻から各1隻、合計5隻が発進した。1941年12月7日(現地時間)のことである。
特別攻撃隊(司令佐々木大佐)の編成 
甲標的(伊22搭載 岩佐直治大尉 佐々木直吉一曹)
甲標的(伊16搭載 横山正治中尉 上田定二曹)
甲標的(伊18搭載 古野繁実中尉 横山薫範一曹)
甲標的(伊20搭載 広尾彰少尉  片山義雄二曹)
甲標的(伊24搭載 酒巻和男少尉 稲垣清二曹)
空母艦載機による空襲前に、特殊潜航艇が、米軍哨戒機に発見され、米海軍駆逐艦に攻撃され撃沈した。しかし、残りの甲標的は1-2隻が真珠湾内突入した。真珠湾では1-2隻が米艦船を雷撃できたようだが、戦果を挙げることはなかった。
しかし、日本では、開戦劈頭の大戦果として、特殊潜航艇も米艦船撃沈を成し遂げたように戦果が公表された。潜航艇搭乗員10名のうち、酒巻和男少尉は捕虜となったため、戦死した9名が「九軍神」として讃えられた。
酒巻少尉と稲垣ニ曹の甲標的は、ジャイロ(羅針儀)が故障していたが、千才一遇の好機を逃したくないと強行発進した。真珠湾への突入に失敗し、座礁と離礁を繰り返すうちに魚雷発射管が故障。母艦が待つ収容地点へ向かうが再度座礁。自爆装置に点火して稲垣清二等兵曹と共に艇から脱出し、米軍の捕虜となる(太平洋戦争での日本人捕虜第1号)。
稲垣清ニ曹は、行方不明だが、海軍二等兵曹から二階級特進し兵曹長になり、軍神として讃えられる。1943年4月8日 合同海軍葬。日比谷公園斎場 葬儀管理者は海軍大臣嶋田繁太郎が勤めた。
1941年12月7日、真珠湾への特殊潜航艇による「特別攻撃」が行われたが、その時の特攻は、部下の志願による犠牲的精神の発露であったとする見解が、流布された。これは1944年10月以降の神風特攻神話と全く同じである。軍が命じたのではなく、戦局困難な状況で、部下が自発的に特攻を申し出て、上層部がその熱意にほだされて、特攻を認めた---。こういうありえないような理由で、1932年2月の第一次上海事変「爆弾三勇士」、1941年12月の真珠湾への特殊潜航艇による特別攻撃、1944年10月の神風特別攻撃隊が説明されている。現在でも「特攻隊自然発生説」が流布されているが、これは1932年の「爆弾三勇士」以来、軍上層部の既定の方針だったようだ。
『画報躍進之日本』海南島攻略号:1940年 東洋文化協会発行。1940年2月10日台湾混成旅団と第5艦隊の協同作戦として、海南島を攻略した。日本の南進と南シナ海沿岸封鎖という目的があった。
昭和17(1942)年4月発行 月刊誌『画報躍進之日本』第7巻第6号(には、それなりの文人が書いた「殉忠特別攻撃隊九軍神の逸話」が載っている。
「寡い力を以て強大な敵に当たるには、この方法よりほかにありません」
「気持ちはよく判る、だが岩佐大尉、死ぬのを急いではいかん、無理をするな」-----
特殊潜航艇は岩佐大尉が幾度か上官に懇願し、無暴にも近いこの特別攻撃実施に当たっては、これを許す上官達としてまた骨身を削る熟慮を重ね、検討に、検討が加へられそして最後に沈黙の提督山本司令官の「断」となったのだ、成功の確算もさる事ながら、志願勇士の烈々たる熱意に深く打たれての「断」であったに違ひない。
----数ケ月後に来る「死」のために、猛訓練を續ける心は何といふ崇高な心情だらうか。時は遂に来た、十二月八日真珠湾攻撃「果たして自分等の微力がよく敵の艨艟を沈める事が出来るか、たゞ大君の御為に醜の御楯となればよいのだ」まことに貴い精神力と云ふよりほかはない「死よりも強し」とは此の事を云ふのだらう
勇士達は、襦袢から袴下まで新しいものに着更へ上官に最後の申告を行った。勇士達は「行って参ります」とは云はなかった、生還を期さないからだ---
----「アリゾナ型」戦艦である。それを見かけて一隻の特殊潜航艇が、海豹の如く進んで行った、瞬くうちに、遥か真珠湾内に一大爆発が起こり火焔天に沖し、灼熱した鉄片が花火のやうに高く舞ひあがった。
真珠湾を攻撃した特殊潜航艇の勇敢な乗員たちを讃える歌が作られた。米山忠雄作詞、若松巖作曲の「嗚呼特別攻撃隊」は、次のようなものである。
一、祖国を後にはるばると 太平洋の浪枕 幾夜仰いだ星月夜 ああ故郷の山や河
二、許して下さいお母さん だまって別れたあの夜の せつない思い必勝を 固く誓った僕でした
三、わがまま言った僕ですが 今こそゆきます参ります 靖国神社へ参ります さらば母さんお達者で
四、師走八日の朝まだき 僕は特別攻撃隊 男子の本懐今日の日よ 待っていましたお母さん
五、天皇陛下万歳と 叫んだはるか海の底 聞いて下さいお母さん 遠いハワイの真珠湾
文部省唱歌作詞作曲の「特別攻撃隊」は、次のようである。
一番 一挙にくだけ 敵主力 待ちしはこの日この時と 怒濤の底を矢のごとく 死地に乗り入る艇五隻
二番 朝風切りて友軍機 おそふと見るやもろともに 巨艦の列へ射て放つ 魚雷に高し 波がしら
三番 爆音天をとよもせば 潮も湧けり 真珠湾 火柱あげて つぎつぎに 敵の大艦しづみゆく
四番 昼間はひそみ 月の出に ふたたびほふる敵巨艦 爆撃まさに成功と 心しづかに打つ無線
五番 ああ 大東亜聖戦に みづくかばねと誓ひつつ さきがけ散りし若桜 仰げ 特別攻撃隊
「死地に乗り入る艇五隻」「みづくかばねと誓ひつつ さきがけ散りし若桜」など、特攻隊の犠牲的精神を高く評価している。特攻隊を称える2曲は、当時の一流の音楽家が、将兵が潔く死んでゆくさまを謳っている。開戦劈頭ではあるが、戦局の悪化した大戦末期と同じような「自己犠牲を厭わない勇士」の感覚こそが「特別攻撃」という自殺攻撃を正当化できることが読み取れる。このような特攻精神の形成と喧伝に、文化人は大きな役割を果たした。
Japan and the Second World War in Asia ;Fujita Tsuguji、 "The day of the Saipan gyokusai [Saipan-to gyokusai no hi]" (oil). Theodore F. Cook、 Jr. William Paterson Universityでも、多角的視点から藤田の戦争画を取り上げている。特攻という生命を祖国に捧げる行為を正当化するのには、宗教にも似た家族愛、祖国愛、天皇などの高次元の精神を体現する必要があろう。
1942年4月『画報躍進之日本』の殉忠特別攻撃隊九軍神の逸話では、特殊潜航艇の開発、真珠湾突入の作戦が一軍人に任せられ、その熱意と修練が戦果をあげたたよう書かれている。しかし、特殊潜航艇の整備、それを運搬する潜水艦との打ち合わせを一軍人が仕切ることはできない。それを軍が許すはずもない。海軍の組織として、特殊潜航艇、潜水艦、燃料、兵器を準備し、部隊を編成して作戦を実施した。
にもかかわらず、特攻について、一軍人の犠牲的精神の発露という面だけを強調・賞賛して、軍の関与を最小限に抑えた発表をしている。このような発表は、軍の関与を隠蔽しようとした所作であり、戦果不明にもかかわらず、「襲撃成功」の無電を偽装し、特別攻撃が失敗した責任を回避しようとした。軍の組織の力よりも、一軍人の精神力、努力のほうが、文化人にとっても、文学表現にふさわしい。
福田逸の備忘録に記載された「特別攻撃隊員」
昭和17年3月7日の朝日新聞に「殉忠古今に絶す軍神九柱」「偉勲輝く特別攻撃隊」「九勇士ニ階級を特進」として、次の記事が紹介されている。
連合艦隊司令長官山本五十六大将は、1942年2月11日、ハワイへの特別攻撃隊は「多大の戦果を揚げ、帝国海軍軍人の忠烈を中外に宣揚し、全軍の士気を顕揚したることは、武勲抜群なりと認む」として、感状を授与した。
朝日新聞に、特攻九軍神を讃へた三好達治の詩「九つの真珠のみ名」、吉川英治の随筆「人にして軍神−ああ特別攻撃隊九勇士」も掲載されている。
真珠湾攻撃では、特別攻撃隊が「九軍神」とされたが、祖国に殉じた者は、兵士、軍属、民間人を問わず、靖国神社に御霊を合祀され、軍神となることができる。軍神は何百万人も存在し、祖国のために殉じる模範を示しておられる。
靖国神社の合祀は、殉国者とその遺族にとって最大の名誉である。祖国への犠牲は、靖国神社に御霊として合祀されることで癒される。これは、軍人恩給、遺族年金などお金では得ることのできない高次元の宗教的慰安を提供する。そして、靖国神社で命(ミコト)として永遠不滅の名誉を手に入れ顕彰される。 
5.
日中戦争、太平洋戦争の期間を通じて多数の文化人、作家が戦争に関連した芸術作品を残している。戦争芸術(文芸)では、従軍記録、詩作、評論から、少年少女向け雑誌、婦人向け雑誌、絵画まで、さまざまな表現を通じて、日本軍賛美、敵撃滅のための戦力強化を謳っている。文化人が、戦争協力したのは、総力戦における国家・軍の要請に応じるように強いられたためといわれる。しかし、率先して戦争に協力した文化人もいたし、消極的に参加して文化人として命を永らえた文化人もいた。いずれにせよ、日本の敗戦後、戦時中の文芸の多くは、黙殺されたり、なかったことにされてしまう。
特殊潜航艇の九軍神を讃えた「九つの真珠のみ名」を詠った三次達治は、市岡中学を中退して大阪陸軍地方幼年学校に入り、1918年(大正七年)東京の中央幼年学校本科に進んだ。そのご、軍隊を除隊して、第三高等学校(現京都大学)を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒業。処女詩集は、1930年の『測量船』で「春の岬」「乳母車」「雪」「郷愁」などが収められている。
三好達治と朝鮮:「四季」派抒情の本質;印藤和寛に依拠して、特異な軍隊経験を追ってみよう。
三好達治は、幼年学校本科課程(1年半)の終了後、1920年朝鮮へ教育赴任した。同級の西田税とともに、4月2日神戸を出発し、4月9日に清津で下船、西田は羅南第19師団司令部へ、三好は会寧第19工兵大隊に赴任した。
この間、「国境」という詩を作った。これは『測量船』に属している。半年間の教育赴任の後、1920年10月に陸軍士官学校に入学する。
1920年6月4日未明、朝鮮独立軍部隊は鐘城北方で豆満江を渡河、朝鮮を併合していた日本軍を襲撃した。日本軍は、約700人の独立軍と激戦を交えたが、豆満江の日本軍3000人の中に三好達治もいた。
1920年10月2日馬賊による琿春の日本領事館分館襲撃「琿春事件」により、日本軍は「間島出兵」する。日本政府は「不逞鮮人らが支那馬賊及び過激派露人と提携」という不穏な情勢に対処するため、中国側の承諾なしで「不逞鮮人討伐」を目的に出兵したのである。日本軍は、朝鮮羅南第19師団、シベリア派遣第13・14師団、関東軍など総兵力は2万に達した。
三好達治は、こうした朝鮮独立軍との死闘直前に教育赴任が終わり、帰国する。しかし、達治は翌1921年9月頃脱走事件を起こし、樺太へ渡るため北海道まで行ったが、憲兵に捕えられた。三好達治は、二カ月間陸軍衛戌刑務所に入れられ、退校追放となり、徴兵検査で「第二乙種」とされた。しかし、大阪に戻った達治は数カ月の勉強の後、三高へ合格する。
「神州のくろがねをもてきたえたる 火砲にかけてつくせこの賊 この賊はこころきたなし もののふのなさけなかけそ うちてしつくせ」(三好達治「馬来の奸黠」)
三好は戦争従軍体験によって、戦闘詩を作り、現在から見れば残虐な感覚も、情緒的な日常性と併存できたといわれる。「「四季」派の詩人たちが、太平洋戦争の実体を、日常生活感性の範囲でしかとらえられなかったのは、詩の方法において、かれらが社会に対する認識と自然に対する認識とを区別できなかったこととふかくつながっている。」
このような意見に対しては、「日本内地における庶民生活の平和さ、暖かさ、やさしい美意識とかけがえのなさが、実は、最前線における敵−他民族、国民と対峙した絶滅戦争の勝利の上になり立っているという認識」を達治がもったとする考えもある。「穏和で心優しい日本人の庶民感覚が、その行き着くところでは野蛮な殺戮者になるというこの二重の構造は、このような政治構造の反映ではないだろうか。」(⇒三好達治と朝鮮:「四季」派抒情の本質;印藤和寛引用)
堀辰雄、三好達治、丸山薫、中原中也など抒情詩人たちは、『四季』に集まり、萩原朔太郎、室生犀星もこれに加わっている。
1938年3月、石川達三『生きている兵隊』は発禁とされた。作品の掲載された「中央公論」1938年3月号が発禁処分となり、作者だけでなく、編集長、発行人が起訴され、有罪判決を受けた。『生きている兵隊』は「安寧秩序ヲ紊乱スル」とされ、新聞紙法違反、発禁処分を受けた。石川達三の判決は禁固4ヶ月執行猶予3年である。
白石喜彦著『石川達三の戦争小説』の書評によれば、石川達三は「戦争ト謂フモノノ真実ヲ国民ニ知ラセル事カ真ニ国民ヲシテ非常時ヲ認識セシメ此ノ時局ニ対シテ確乎タル態度ヲ採ラシムル為メニモ本当ニ必要タト信シテ居リマシタ」と公判調書で述べている。石川は、「あるがまゝの戦争の姿を知らせることによつて、勝利に傲つた銃後の人々に大きな反省を求めようといふつもり」(『生きてゐる兵隊』1945年)、「私が知りたかったのは戦略、戦術などということではなくて、戦場における個人の姿だった」(『経験的小説論』1970年)へと結びついてゆく。戦場の《あるがまゝ》を描こうとした、主張する。
「石川達三は、日中戦争時の日本軍将兵のあるがままを描き出すことで、日中戦争最中に行われた戦争賛美の報道やプロパガンダとは一線を画した。しかし、評者は「戦場の非人間性を告発する一方、《国家の事業》としての戦争に圧倒されている」という。
サイパン島陥落後の1944年7月14日「毎日新聞」に載った石川達三「言論を活発に 明るい批判に民意の高揚」という記事があるという。そこでは、「まず言論を活発化して民衆に声を与えよ。彼らの言論は決して事態を混乱に導くものでもなく、当局に反抗するものでもあり得ない。しかも民衆の言論は相互に是正しあって必ずや今日の道義心の低下を救い、国民総蹶起に資するところ少なからざるを信ずるのである」とある。言論統制の下にあって、これは言うことのできる最大限の表現であろう。(⇒白石喜彦著『石川達三の戦争小説』の書評引用)
日本軍の勝利を希求し、国際関係や占領住民の実態の中で日中戦争を把握できなかったた石川達三は、戦争のもつ大量破壊・大量殺戮という陰惨な認識は薄れていたようだ。しかし、大日本帝国が呼号した聖戦、大東亜共栄圏などの大義名分が欺瞞であることを理解し、言論の自由を取り戻すべきであると考えていた。
弾圧された文化人もあったが、火野葦平『麦と兵隊』の成功は、中国戦線の日本軍に従軍する「ペン部隊」を活気付かせた。内閣情報部は、陸軍班14名、海軍班8名の有名作家を、漢口攻略戦へ従軍させたが、これは「文学に対する軍国主義支配の強化」「純粋な文学精神の喪失」であり、「反動文学の時代」あるいは「暗い谷間」のはじまりを象徴するとされる。「それ以後、文壇は、政府の思想統制に乗せられて、無抵抗で従順な戦争協力ヘとまっしぐらに転落していった。」と否定的に評価されている。
1940年には紀元2600年奉祝芸能祭祝典が開催され、文芸家協会会長・情報部参与の菊池寛が「文芸銃後運動」という講演会開催・傷病兵士慰問を展開した。これには、年内に10万人以上の聴衆を動員できたという。
1941年12月、太平洋戦争勃発とともに行われた全国的検挙では、宮本百合子らが逮捕されたが、「大東亜戦争の理想を中外に宣揚するため」に、作家・詩人・歌人・俳人・評論家・国文学者が集まって大政翼賛会「文学者愛国大会」を開催し、挙国一致を目指した。
1942年5月、政府外廓団体として、日本文学報国会が創設された。新会員は約3000名で、小説・評論随筆・詩・短歌・俳句・国文学・外国文学・劇文学の八部会から成り、役員は情報局・翼賛会が指名し、予算の大部分は政府の助成金であったという。
『光太郎回想』高村豊周(著):高村光太郎;(1883年3月13日 - 1956年4月2日) 1914年、詩集『道程』出版、智恵子と結婚。1937年智恵子と死別、1941年詩集『智恵子抄』刊行。戦時中には、詩集『大いなる日に』を刊行。1945年4月、空襲によりアトリエ被災のため、5月に岩手県花巻町へ疎開。
『昭和戦争文学全集』第4巻「太平洋開戦―12月8日」では、伊藤整が東条の演説を聞いて涙を流し「言葉のいらない時が来た」と書く。高村光太郎も「陛下のみこころを恐察し奉って」落涙する。
草野心平「蛙の参戦」、中勘助「戦車兵」、萩原朔太郎「日本への回帰」、高村光太郎の詩集『大いなる日に』、佐藤春夫『詩集 大東亜戦争』、文化奉公会編『大東亜戦争 陸軍報道班員手記 ジャワ撃滅戦』、三好達治『捷報いたる』などが、戦争賛美とも受け取れる文学である。
「文明の毒は『平和』の仮面のもとにはびこるのである。戦争よりも恐ろしいのは平和である。平和のための戦争とは悪い洒落にすぎない。……奴隷の平和よりも王者の戦争を!」(亀井勝一郎「近代の超克」)
亀井勝一郎は、1942年、「文学界」が中心となった「近代の超克」座談会を河上徹太郎と企画し、日本文学報国会評論部門幹事となる。「大和古寺風物誌」「親鸞」は戦争中の代表作とされる。第二国民兵として軍事教練中に敗戦を迎えた。「近代の超克」は、雑誌『文学界』1942年9、10月号に分載された論文と座談会により構成され、小林秀雄、三好達治、川上徹太郎、林房雄など13名が出席している。そこでは、大東亜戦争を、哲学、文学的に肯定する論が展開された。
「近代の超克」の周辺:伊豆利彦によれば、亀井勝一郎は、近代文明による精神の破壊の様相を分析し、「精神の危機」を招いた「文明の毒」を糾弾した。「殆ど自然的の強制力をもって襲いかかってくる文明の重圧、機械主義、それがもたらす精神のすべての疾病や衰弱、節度を失った人間の自壊作用、滅びるか、なお救済はあるか」という亀井の問題提起は、突然「民草の心に浸透さすべき最大の言葉としては、たゞ御詔勅あるのみ」「文明の毒は『平和』の仮面のもとにはびこるのである」「戦争より恐ろしいのは平和である」「奴隷の平和よりも王者の戦争を!」と言う結論にいたる。たしかに、治安維持法と転向の問題を離れて、文化人の「精神の危機」、ニヒリズムを論じることはできないのかもしれない。
敗戦後、亀井勝一郎は「我が精神の遍歴」((1948)『我が精神の遍歴』講談社)で、戦争協力を〈擬態〉であり、非国民といわれないように、本心を秘密警察・相互摘発から隠して、面従腹背の見せかけの戦争協力を行ったと弁解した。「戦中ほど『死』という言葉が、軽率に或いは威嚇的に濫用されたことはない」「愛と死は人生の根本問題」であるが、それらが粗暴に扱われ、「人間性は致命的な凌辱を蒙ったやうに思われる。結果として国民はどうなったか。巧妙な擬態を身につけていった。人の顔色をみて愛国者であり、人の見ているところで神に祈る。監督者のいるところでのみ働くやうなふりをする。鮮やかなものだ」。己の信ぜざるものを、信じたかのようにみせかけたというのである。
「擬態は人間を疲れやすいものにする。戦いに疲れたというよりは、擬態に疲れて内部崩壊を起こしたといった方が適切かもしれぬ」「私は今まで述べた一切を、戦時の全体主義に固有の現象とのみは思はない。我々の社会生活の一切、社交、交友、家庭の生活に至るまでが擬態の連続ではないかという不安が襲ってくる」。
亀井勝一郎は、戦争責任の問題を、社会生活一般の問題とし、個人の責任を「擬態」の名のもとに免除した。一億総特攻から一億総懺悔への転換である。
相対主義について / 三枝亮介が述べるように、日本では、明治維新以来の文明開化の波によって日本に輸入されてきた西洋文化、機械文明の力で、高い知性が獲得できた。そして、そのことが文化や社会、思想を一旦、最大限に相対化した。つまり、「復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋」という対比が明瞭になった。しかし、戦争の時代は文化人を相対主義にとどまることを許さなかった。大東亜戦争という総力戦の継続という要請の前には、天皇制・国体、聖戦、大東亜共栄圏という絶対的なものによる統一、絶対的価値の正当化が大前提となった。絶対的なものに対して、相対的に考えることは、反逆ともなりかねず、絶対的な流れの中に巻き込まれるしかなかったのか。
大東亜戦争中の「詩歌翼賛運動」では、大政翼賛会宣伝部発行のB6判60頁ほどの仮綴、これが何巻も出され、初版は3万部である。この仮綴の中には当時の詩人全員が網羅されているといってよい。たとえば、北原白秋は《とどろけよ、よろづよの道の臣、大御軍、いざふるへ、いくさびと....》、佐藤春夫は「大東亜戦争史序曲」と題して《勇猛果敢は相模太郎が膽、神速適確は源九郎が略、日本男子由来たたかひにくはし…》と書いている。 
6.
日本では、日米開戦後の1942年、『日本文学報国会」と「大日本言論報国会」を組織した。それは、総力戦に文学も動員するものであった、多数の作家がそれに参加したが、彼らは動員されただけなのかのか。それとも、自らの才能を開花させる場として、報国会を利用したのか。
内閣情報局の指導によって、1942年5月に文学報国会が、1942年12月に、言論報国会が設立された。それぞれ文学者、評論家が参加し、会長は徳富蘇峰。文学報国会設立に際しては、久米正雄が内閣総理大臣東條英機陸軍大将宛てに設立申請書を提出し、佐藤春夫、吉川英治などが理事に名を連ねた。1942年度の収入は35万円である。
言論報国会の設立趣意書には「壮烈なる思想戦の展開に献身せん」とあり、発会式では「思想を弾丸としペンを必殺の銃剣として勇敢に進撃を開始されんことを」と訴える東條陸軍大将祝辞があった。1943年3月の思想戦大講演会は、事業報告によると延べ二万人が出席し、地元新聞社が後援した。言論報国会の1943年度収入は、政府助成金20万円、新聞社などの寄付金32万3000円である。
1942年の愛国百人一首は、文学報国会立案、大政翼賛会後援、東京日日新聞・大阪毎日新聞の協力で行われた。選定顧問 は、川面隆二(内閣情報局第五部長)、井上司朗(内閣情報局第五部長第三課長)、相川勝六(大政翼賛会実践局長)、高橋健二(大政翼賛会文化部長)、生悦住求馬(文部省社会教育局長)、大岡保三(文部省社会教育局国語課長)、谷萩那華雄(陸軍省報道部長)、平出英夫(海軍省報道部長)、関正雄(日本放送協会業務局長)、久松潜一(東京帝国大学文学部教授)、平泉澄(東京帝国大学文学部教授)、徳富蘇峰(日本文学報国会会長)、下村海南(日本文学報国会理事である。
1942年11月20日に発表された愛国百人一首には、万葉時代の歌(23首)、元寇及び吉野朝悲歌(7首)、幕末志士の歌(約20首)が選ばれている。
吉田松陰「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし日本魂」
藤田東湖「かきくらすあめりか人に天つ日のかがやく邦のてぶり見せばや」
徳川齊昭「あまざかる蝦夷をわが住む家としてならぶ千島のまもりともがな」
森迫親正(10歳代)「いのちより名こそ惜しけれもののふの道にかふべき道しなければ」
本居宣長「鈴屋集」からは、「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」が選ばれている。1944年10月の神風特攻隊の部隊名称は、この歌の敷島、大和、朝日、山桜が使用された。源田實は、命名者であるが、当然「愛国百人一首」を読んでいたか、それを知っていた海軍軍人のアドバイスを得たのであろう。
1930年、満州事変勃発の前年、斎藤茂吉は、『連山』(1930-1931年)で次のような歌を詠んだ。
わが体に触れむばかりの支那少女巧笑倩兮といへど解せず
夜ふけて露西亜をとめの舞踊をば暗黒背景のうちに目守りき
茂吉は、旅順・南山は日清・日露の戦いの地を訪ねた。戦で命を落とした兵士を思って詠嘆した。
年ふれる壕の中よりわが兵の煙管出でしと聞くが悲しき
斎藤茂吉は、1941-1942年の『霜』では、勇壮な歌を詠った。
いのちもちてつひに悲しく相せめぐものにしもあらず海はとどろく
茂吉は戦争中は戦争を礼賛する歌をいくつも詠ったようだ。『斎藤茂吉選・佐佐木信綱選・読売新聞社編(1938)『支那事変歌集』三省堂 や、『斎藤茂吉・土屋文明編(1940)『支那事変歌集 : アララギ年刊歌集別篇 』岩波書店も刊行され、「処女われ報国の一途にいで来しを貧しき故と兵ら思ふらし」のような乙女の歌も選ばれている。
漢口は陥りにけり穢れたる罪のほろぶる砲の火のなか
あやまれる蒋介石の面前に武漢おちて平和建立第一歩
茂吉は、大東亜戦争は聖戦であるとのプロパガンダを信じていたからこそ、堂々と所信を表現できた。
「和歌というのはつまり大和魂を詠むことですから、大和魂なしに和歌は作れないわけであって、だから萩原朔太郎や宮沢賢治にはあまりいい和歌がないわけですね。彼らはあまり大和魂じゃなくて西洋魂の方ですからね。だけどあまりいい歌はないですね、聖戦礼賛の歌は。あれね朝日新聞社から電話が来るんですよ。大本営発表で敵のアメリカ軍空母3隻、戦艦1隻、巡洋艦5隻沈没したそうです、先生何かいい歌作ってください−と新聞が電話をよこすんだそうです。電話口で斎藤茂吉は新聞に言うわけですね。そうすると次の日の朝、でかでかと敵空母何隻撃沈、かくかくたる戦果なんとかと出ていて、その下に斎藤茂吉戦勝をことほぐ歌と載るわけですね。そういう歌が多いので、茂吉は本当に聖戦だと思って大東亜戦争を支持はしていた。しかし、それで自分が作った歌が本当にいい歌だとはどうも思っていなかったようです。その当時から。しかし、それでも日本国民の1人として、この戦争に勝たなければ日本は破滅すると思っているわけですから、戦争が敗戦になった時に、本当に茂吉は全く白紙還元を経験したんですね。愕然としたなんていう程度のものではなくて、本当に声も出なくなった。一種の精神がカブラダザーという感じで、白紙に戻されてしまった。」
斎藤茂吉は、戦後の1946年4月、知人の「先生を戦争協力者に挙げている人がいる」との忠告に「俺を戦争協力者とは一体どういうことだ。俺ばかりということはない。歌人のほとんどが皆そうじゃないか。国が戦争をすれば、誰でも勝たせたいと願うのは当然だ。国民としてそれのどこが悪い」と言っている。
斎藤茂吉『作歌四十年』巻末 / 中村稔解説
『いきほひ』から、(あるいは『のぼり路』から)、『昭和十九年抄』に至る本書の斎藤茂吉はまことに無残である。これらの作品に接して私はほとんど語るべき言葉を知らない。----戦争協力とか賛美とかを非難するわけではない。表現のあまりの空虚さ、観照の乏しさをいうのである。(斎藤茂吉には、救いがたい愚昧さともいうべきものがあって、これは『小園』、『白き山』の時期にまで、あるいは彼の生涯をつうじてかわらない類のものであった。-----) しかも意識的な近代詩の作者としての斎藤茂吉を考えるとき、彼はあくまで、何をうたうかについては執拗に盲目であった。このことが、本書でいえば、『のぼり路』以降の無残で悲惨な作品群となってあらわれていた。と同時に、このことは、『霜』、『小園』から『白き山』へ深まりゆく孤独にその叙情を潜めることの妨げともならなかった、と私は思う。私にとって、わが国の短歌、俳句をふくめた近代詩の歴史のなかで、斎藤茂吉ほどに偉大な詩人を他に知らない。しかも、この偉大さ(その意味は又、別に語らねばならないが、)と同時にあわせもっている悲惨さ、というものが、わが国の近代詩のもつ問題の象徴そのものとしか思われない。そして、そういう意味で又、本書こそが、私にとって詩とは何かの反省をしいる最良の書の一であると信じている。
愛国百人一首選定委員川田順(61歳)は、「老若共に国家に尽くさねばならぬ。依つて、尾張浜主の如き百十余歳の人や、森迫親正の如き十余歳の人を採るやうにも注意した。婦人は大切の要素なるゆゑ、見落とさぬやうに努めた。又、増産を喫緊時とする聖戦下のことだから、農業に関する歌は勿論、鉱業や漁業などに関係ある歌も、採るやうに留意した。」という。
歌人斎藤茂吉「皇国民心の精華−反映した万葉歌人の心〈上代〉」朝日新聞(1942年11月21日掲載)で、「純真にして一こくなる上代皇国民の心の精華としての万葉集が、一般に親しまれる大気運に向ひつつあることを立証するものである。同時に大東亜戦争大勝利のさきがけをなすものとして、歓喜至極である」と述べた。
菊池寛「話の屑籠」(1943年1月)では、「文学報国会の『愛国百人一首』の選定は相当の成功であった。従来の『小倉百人一首』は、内容的にいっても文学的にいっても、あまりに低調なものが多いのである。定家卿の時代は日本の歌道の衰頽期であり、万葉集の真摯豪壮な歌調は退けられ、末梢的な感情や技巧の歌が尊重された時代である。とにかく、恋歌が二十九首あるのだから驚くの外はない。もっとも、百人一首を弄んだ青年男女などは、歌詞の意味などは分からなかったから、歌詞から影響を受ける場合などは、案外少なかったかも知れない。『愛国百人一首』は、万葉集から二十三首選ばれている。が、自分のごとく、日本の歌は万葉集につきていると思うものにとっては、五十首でも多しと思わないであろう。」
日本文学報国会編(1943)『大東亜戦争歌集』も、協栄出版社から刊行された。 
7.
日本軍の大活躍は、『少年倶楽部』『少女の友』など子供向けの雑誌でも取り上げられた。そこでは、有名文化人が、執筆し、挿画を描いた。戦争プロパガンダを展開するのに動員されたのか。それとも、自らの才能を開花させる場として、戦争を利用したのか。
1942年、文学や言論を統制するために「日本文学報国会」と「大日本言論報国会」が組織された。
少年物:少年倶楽部 幼年倶楽部 譚海 日本少年
少女物:少女倶楽部 少女画報 少女の友 少女世界 少女界 少女
婦人物:婦人倶楽部 婦人之友 主婦之友 婦人世界 女学世界 日本婦人
新聞雑誌:アサヒグラフ 週刊朝日 サンデー毎日 子供報知
戦争雑誌:子供の科学 学生の科学 青年 家の光 戦争雑誌
このような雑誌で、文化人たちは執筆、挿画に活躍したが、多くは総力戦における動員に従ったような表現であり、敵愾心を沸き立たせたり、敵撃滅を企図したりすることで、結果として戦争賛美あるいは戦争協力に結びついている。
松岡正剛の千夜千冊/鳥越信編(2001)『日本の絵本史』によれば、引用作家や画家たちは、挙国一致のための絵本づくりを版元を通して要請され、内務省図書課の「指示要綱」に従う本づくりを余儀なくされた。浜田広介、与田準一、坪田譲治、百田宗治らがこの統制のなかで、想像を絶する苦闘にまみれる。---逆に「愛国・皇道・忠義」を真っ正面にかかげて一挙に絵本の世界を席巻していったのが大日本雄弁会講談社の新シリーズ「講談社の絵本」である。すでに大人向けの大衆大量販売雑誌「キング」と「少年倶楽部」「少女倶楽部」「幼年倶楽部」の青少年3大誌を当てていた講談社は、野間清治の決断で戦争賛美の絵本づくりに突き進んでいった。絵も名画主義と写実主義で、「ハワイ大作戦」「ツヨイ日本軍」「支那事変美談」などが連打された。---あれで愛国少年にならないわけはなかったというほどの影響力だった。
「少年倶楽部」は、少年雑誌の草分け的な存在で、創刊は大正3年10月まで遡り、1962年12月まで発行され続けた。「のらくろ」の田河水泡、サトウ・ハチロー、江戸川乱歩、井伏鱒二など、各界の著名人が執筆にあたった。太平洋戦争の開戦後、総理大臣東条英機大将も寄稿し、表紙に登場し、また軍人による「戦地からの報告」も増してゆくようになった。発行部数は、大正9年8万部、1927年30万部、1928年45万部、1929年50万部、1925年67万部、1932年70万部と増えつづけ、1936年新年号で75万部の最高記録に達した。
1943年1月、理化学研究所の仁科芳雄博士を中心に、天然ウラン中のウランU235を熱拡散法で濃縮する計画がはじまり、1944年3月、理研に熱拡散塔が完成した。他方、日本海軍も1942年に核物理応用研究委員会を設け、原子爆弾の可能性を検討しはじめた。
日本軍が具体的に原子爆弾の開発を開始する以前に、科学評論や戦記小説の中で、書くエネルギーの軍事利用が注目されていた。たとえば、第一大戦直後、『新青年』大正9年7月号「将に開かれんとする世界の最大秘密の扉」では次のように、原爆の威力が語られている。
「バーミンガム大学のアーネスト・ラザフオード教授-----は、原子(アトム)を分解する事に成功した。で、----或る「力」を解放するに至つた。そして人間を殆ど神様と同様の物にするか、それとも人類文明なるものを粉微塵に破壊して終ふかも、実にこの「力」の掌中に握られてゐるのである。」
「日本に居て米国の市街を灰燼に帰せしめる力」:「若し右の方法が成功した場合には、恰も今日無電が大洋を越える事が出来るやうに、吾々は原子力を放つて、この大地を透過させ、地球の反対の面、例へば日本から云へば亜米利加の一市街を灰燼に帰せしめるやうな事が出来やう。」
「原子爆弾(アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」:「若しこの原子力が、誤れる掌中に入つたならば何うか?/例へば前独逸皇帝の如き人が、この力の秘密を得たならば、其結果は何うであらうか?恐く彼れは、ポツダムの安楽椅子に腰を下して、軽く机上のボタンを押し、それに依つて容易に文明を灰燼に帰せしめることが出来やう…が、併しこれが有益に使用された暁には、人類を塗炭の苦しみに陥るゝ彼の戦争なるものは、永久に不可能のものとなるに相違ない。何となればこの原子爆弾の威力に対しては、如何なる強国と雖も対抗できぬからである。…」
ポツダム宣言、原爆投下、ビキニ環礁の対艦船核実験は、この予言的評論から26年後以降のことである。
『新青年』(第二十五卷)七月號(1944年)米本土空襲科學小説「桑港けし飛ぶ・・立川賢 」は、戦争末期の空想科学的な戦記小説である。内容は、日本が原子爆弾を完成し、原子力エンジン搭載の爆撃機で、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下し、ビルを壊滅させ、70万人を殲滅して、戦局を逆転するというものである。
編輯後記では「米本土空襲、爆砕の夢は吾人の抱くもののうちもっとも大いなるもの。本号では立川賢氏が科学的見地に立っていち早くそれを実現してくれた。夢を夢とするは痴人である。戦うものにとっては、あらゆる夢は現実でなければならない。ワシントン城下の誓いに拍車をかけよう。」と記しているようだ。民間人全滅という非人道的を一顧だにしない点で、戦局挽回の市民的願望がこもっている。(→)『新青年』1944年7月号/「遅すぎた聖断」昭和天皇と日本製原爆開発計画;山崎元引用) 同じ7月号には「アメリカはかく敗れる(敵國現状)・・廣野道太郎」もある。
「新青年の世界」によれば、『新青年』には次のように、一流の人物がものを書いている。
1944年の『新青年』(第二十五卷)八月號「具足一領(武士道小説)・・横溝正史」「狂人ルーズベルト・・大島謙」「前科者チヤーチル・・攝津茂和」
(第二十五卷)九月號「最後の一人最後の一銭まで・・陸軍中將本間雅晴」「讀切長篇冒險小説 無限爆彈・・守友恒」
(第二十五卷)十月號「爲武士者・・吉川英治」「平熱・・大佛次郎」「軍人援護の強化・・軍事保護院總裁 本庄繁」
(第二十五卷)十一月號「これがアメリカ人だ・・中野五郎」「米鬼吸血手帖・・廣野道太郎」
(第二十五卷)十二月號「竹槍・・横溝正史」
実業之日本社『少女の友』(明治41年2月創刊〜昭和30年6月終刊)は、主に女学生を読者層にした雑誌であった。歴代の主筆(編集者兼作家の呼称)は、初代・星野水裏、2代・岩下小葉、3代・浅原六朗(鏡村)、4代にふたたび岩下、5代・内山基、6代・中山信夫、最後は森田淳二郎であった。
主に、口絵、グラビア、詩、小説、様々な特集記事、読者の投稿欄で構成され、最盛期の昭和前期には、350ページ前後の内容があった。初期の執筆者には与謝野晶子、下田歌子など、昭和期には吉屋信子、川端康成、吉川英治、阿部静枝、田村泰二郎、山中峯太郎など人気作家も筆をふるった。川端康成『花日記』『乙女の港』『美しい旅』などの連載小説は、中原淳一の挿絵とともに少女たちに絶大な人気を博し、吉屋信子『桜貝』『からたちの花』『勿忘草』などの秀作も連載している。毎号載せられる数編の詩には、西条八十、室生犀星、サトー・ハチロー、三好達治などの作品があった。(⇒『少女の友』について引用)
確かに、当時の戦局悪化、一億総特攻の状況では、終戦や戦争の行く末やその大義への疑問を呈しただけで、反政府、反軍、非国民、主義者として、処罰されたであろう。文化人も、政府・軍の統制が強化され、動員が推し進められる中で、自己の心情、思想とは反していたとしても、戦争に協力することになったであろう。
しかし、全ての文化人が、不本意ながら、動員に応じて、芸術活動に従事したわけではない。文化人の中には、政府や軍以上に、軍国主義を熱烈に鼓舞し、激烈な敵撃滅、神国日本の勝利を表現した人物もいる。
皇国トンデモ本では、次のような事例を紹介している。
1 『主婦之友』昭和19年12月号:特集「これが敵だ!野獣民族アメリカ」。巻頭の無署名記事「これが敵だ!」では「血のしたたる生の肉を喜んで食うアメリカ人は、野球。拳闘、自動車競争などを殊に好み、死人や大怪我人が出ると、女はキイキイ声を張り上げて喜び、満場大喜びで騒然となる」「貪婪にも、己がより多くの肉を喰らい、よりよき着物を着、よりよき家に住み、より淫乱に耽けらんがために、……非人道の限りを尽くして日本の首を締め続けて……」とある。巻末に賞金30円で「米鬼絶滅を期する一億の合言葉を!」募集している。2番目の無署名記事は「敵のほざく戦後日本処分案」として「働ける男は奴隷として全部ニューギニアやボルネオ等の開拓に使うのだ。女は黒人の妻にする。子供は虚勢してしまう。かくして日本人の血を絶やしてしまえ」「日本の子供は不具にするに限る。目を抉ったり……片腕や片脚を切り取ったり、ありとあらゆる形の不具を作るのだ。こうした動物の如き子供らが街頭を右往左往するのは実に面白い観物であろう」
2 『主婦の友』昭和20年7月号:宮城タマヨ「敵の本土上陸と婦人の覚悟」には「敵の本土上陸、本土決戦は、地の利からも、兵員の上からも……我が方は決して不利ではありません。……一億一人残らず忠誠の結晶となり、男女混成の総特攻隊となって敢闘するならば、皇国の必勝は決して疑ひありません」とある。編集後記に「われわれは勝つことのほかは何も考えてゐません。ほかのことを考える余裕はありません―特攻隊勇士の言葉である。皇国の必勝を信じて、ただまっしぐらに働き、まっしぐらに戦ふ。これが『勝利の特攻生活』である」と述べた。
米国でも星条旗に忠誠を誓って、総力戦に賛意を表明し、動員に全面的に協力しなくてはならない。日米の個人的なつながり、交流は、総力戦の前に否定され、黙殺されなくてはならない。敵も親であり子供である、敵にも家族があるなどという親近感は暗黙裡に排除され、敵愾心を燃やして、戦意向上を図ることが第一となる。日米双方とも、文化人を動員した芸術上の総力戦が展開された。
文化人は、総力戦における戦争協力、すなわち動員に参加することを求められ、強要され、あるいは自ら進んで協力を申し出た。文化人に活躍の場が与えられれば、彼らはそれを最大限に利用した場合が多かった。結果として、政府や軍の戦争方針に協力することとなったが、彼らの目的は、戦争協力というよりも、芸術表現自体にあったようだ。
芸術に活躍する場を与えるものは全て素晴らしいという芸術活動至上主義を信奉しているのであれば、政府・軍の進める国策、動員に何の疑問も批判ももたず、所与の方針として完全に順応しながら、自己の芸術活動を展開できる。国策への従順さを退廃とは感じず、自己表現、自己実現、自己の才能を開花させる場として、戦争を歓迎するかもしれない。文化人が、純粋な芸術を追求し、活躍の場を得たいという芸術活動至上主義者であれば、戦争は資金、活躍の場を提供する格好の機会として認識される。自分の芸術活動の成功の前には、戦争が社会や個人にもたらす結果は二義的となる。 
8.
日本軍による大規模な特攻は、日米戦争末期の1945年3月からの沖縄攻防戦で、実施された。そして、多数の文化人が、特攻隊を報道員として訪問し、記事を書き記録した。歴史小説作家の山岡荘八、ノーベル文学賞の川端康成らが有名である。
1930年代の日中戦争から、作家がライター、従軍記者などどして、前線にも送られているが、その中には多数の有名作家がいる。吉川英治、横光利一、菊池寛、火野葦平、大宅壮一、井伏鱒二、石川達三、山本荘八などである。映画人としては小津安二郎も従軍しているという。このような従軍作家たちは、軍のお先棒担ぎの堕落した作家なのか、軍国主義者なのか。
戦争協力者として、戦争を遂行する助けになるために、戦争の大義を説明したり、自国将兵や戦争を賛美したり、戦争プロパガンダを進めたり、文化人は戦争と縁が深い。人間爆弾「桜花」を配備された特攻部隊「神雷部隊」には、作家の山岡荘八・川端康成も、報道ライターとして、派遣されている。
神雷部隊と作家たち
山岡荘八・川端康成の両氏は1945年4月末から終戦まで、ずっと桜花隊と一緒に生活し、神雷部隊とはもっとも馴染みの深い作家だった。
山岡はセッセと隊員の間を回って話しかけ、誰がどこで何をしているか、戦友仲間よりもよく知っていた。終戦後、鹿児島県鹿屋における体験をもとに新聞に「最後の従軍」を寄せたり、かなりまとまった一冊を書いた。「特攻隊員の心を心として、恒久平和を願って徳川家康を書いた」とも後に語っている。
川端は山岡のように隊員とは付き合うことはしなかったが、顔を伏せ、あの深淵のような金壷眼の奥から、いつもじっと隊員の挙措を見つめていた。終戦後、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と鳥居達也候補生(要務士)に約束した。
山岡荘八『最後の従軍』昭和37年8月6日〜8月10日「朝日新聞」
「沖縄を失うまでは、まだ国民のほとんどは勝つかも知れないと思っていた。少なくとも負けるだろうなどと、あっさりあきらめられる立場にはだれもおかれていなかった。何等かの形でみんな直接戦争に繋がれている。---昭和20年4月23日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった。」
山岡荘八は、明治40年1月11日、新潟県小出町に生まれ、本名は山内庄蔵、のち結婚し藤野姓を名乗る。高等小学校中退後、上京、逓信官吏養成所に学んだ。17歳で印刷製本業を始め、1933年「大衆倶楽部」を創刊し編集長になる。このころから山岡荘八を参加。日米開戦後、従軍作家として各地を転戦。戦後、発表した大河小説『徳川家康』で人気歴史小説作家の地位を不動のものとする。1988年9月30日没。
山岡荘八『最後の従軍』昭和37年8月6日〜8月10日「朝日新聞」
……昭和20年4月23日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった。私たちが、野里村(鹿屋)にはじめて行ったのは、日記によると4月29日、天長節の日であった。----その時の私は、敵機などより数倍おそろしい妄想を描いて震えあがっていた。他でもない。これから行く「神雷部隊」そのものが恐ろしかったのだ。私は、戦争では、あらゆる種類の戦争を見せられている。陸戦も海戦も空中戦も潜水戦も。そして何度か、自分でもよく助かったと思う経験も持っている。しかし、まだ必ず死ぬと決定している部隊や人の中に身をおいたことはない。報道班員はある意味では、兵隊と故郷をつなぐ慰問使的な面も持っている。とりわけ「ライター班」はそうだった。それが、こんどは必ず死ぬと決まっている人々の中へ身をおくのだ。従来の決死隊ではない……と、考えると、それだけで、私は彼らに何といって最初のあいさつをしてよいのか……その一事だけで、のどもとをしめあげられるような苦しさを感じた。
私は、最初の特攻隊としてフィリピンから飛び立った関大尉や中野、谷、永峰、大黒などの敷島隊員の記事が報道(昭和19年10月29日)されたとき、その心事をしのんで茫然としたものだった。その時の関大尉のマフラーをつけて屹然と空をにらんで立った姿は、いかなる仏像よりも荘厳な忿怒像として目に残っている。清純な若者たちをこのように怒らせてよいものであろうか。そして、そのきびしい犠牲の陰でなければ生きられないのかと思うと、自分の生存までがいとわしかった。ところが、その必死隊に、いよいよ私は入ってゆかなければならない。むろん彼等には慰めの言葉などは通用すまいし、といって、話しかける術も知らず質問もなし得なければ、いったいどうして居ればよいというのか……。だれも明るく親切で、のびのびしている。どこにも陰鬱な死のかげなどはない……そう書くことは出来ても「そんなはずはない」と反問されると、私にはそれを更に説得するだけの力はない。これは今の私が性急に割切って書こうとしてはならないことだ。それよりも、こうして底抜けの明るさを私に見せている人々が、最後にどのような心境で出撃してゆくか?出来るだけ自然にその筆跡を残したい……そう思って私は不案内な鹿屋の町の文房具店で、ようやく一冊、ほこりにまみれてあったわとじの署名帳を捜し出して戻って来た。……
秋風と共に去った男 時岡鶴夫 / 人生恩に感ず 大木偉央 / 大き夢に生きん 本田耕一 / 一念 吉田信 / 今死を知らんとす亦楽しからずや 町田道教 / 敢闘精神 石丸進一 / 南無阿弥陀仏 高野(次郎)中尉
和歌を書いたり、大義、撃沈、無、必中など書いて飛立った人々もあれば、きちんと官姓名だけを書き残していった人もある。小林中尉は高野中尉と一緒に出てゆく前にせっせと麦刈りを手伝っていたが「さて、あちらで結婚式場の用意がよろしいそうで」私の肩を軽くたたいて出撃していった。こうした思い出を書いてゆくときりがない。私はいつかアキオと同じように、この必死部隊の、明るさ親切さに魅せられ、川端さんや新田氏とわかれ、そのままここを離れ得ない迷い子になってしまっていた……。
物語の中のふるさと − 九州発によれば、川端康成は1945年4月、報道班員として鹿屋海軍航空基地を訪れ、特攻隊員と接した。戦後に著したのが『生命(いのち)の樹』である。鹿屋海軍航空隊の神雷部隊桜花隊大尉だった林冨士夫さん(82)は、川端をよく覚えている。「背が小さくてやせ、スポーツ選手でもないのに色黒だった。無口。じっと隊員を上目遣いで観察するように見つめていました。とてもこちらから話しかける気分にはなれなかった」士官たちに「いつか必ず特攻隊の物語を書きます」と約束した川端。それは「生命の樹」で果たされた。
「これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」(中略)植木さんには、ほんたうにそれが、星の見納めだつた。植木さんはその明くる朝、沖縄の海に出撃なさつた。(我、米艦ヲ見ズ)そして間もなく、(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)ニ度の無電で、消息は絶えた。
鹿屋海軍航空基地は、1945年3月11日から終戦まで、16〜35歳の隊員908人が出撃。神雷部隊桜花隊員は、基地の西側にあった野里小に寝泊まりしていた。川端のほかにも山岡荘八、新田潤らの作家が報道班員として付近に分宿していた。川端が隊員と距離を置いていたのと対照的に、山岡は積極的に隊員に話しかけ交流を深めたそうだ。川端と山岡は、終戦まで桜花隊と行動を共にした。「桜花」の悲惨な攻撃とは裏腹に「作家の人たちは、鹿屋の特攻隊員には悲壮感が全くないと話していた」と林さんは言う。
あの基地は、特攻隊員が長くとどまつておいでになるところではなかつた。(中略)新しい隊員と飛行機とが到着しまた出撃する。補給と消耗との烈しい流れ、昨日の隊員は今日基地から消え、今日の隊員は明日見られないといふのが、原則だつた。 
9.
日本軍による「特別攻撃」は、日米戦争後半の1944年10月、フィリピン攻防戦で、大々的に採用された。そして、第一航空艦隊司令官の大西瀧治郎中将が「特攻の生みの親」であるとの神話が流布されてきた。日本軍による特攻は、戦後になって文化人には黙殺される傾向にあった。しかし、高名な文学者三島由紀夫は、特攻隊員に感服し、栄えある日本の国体に幻想を抱いた。
三島由紀夫は自殺(1970年11月25日)の1カ月前、江田島(広島)の海上自衛隊第一術科学校教育参考館で一通の遺書を読み、声をあげて泣いたという。その名文の主は、古谷真二中尉で、かれは、945年5月11日「第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」の陸攻隊指揮官として鹿屋基地を出撃、沖縄方面に向かった。特攻戦死後、二階級特進し海軍少佐となった。1970年、自衛隊に決起クデターを呼びかけ、割腹自殺した三島由紀夫は、その一カ月前、フルや中尉の遺書を読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と、声を出して泣いたという(三田評論10/94丸博君の記事による)。この遺書は靖国神社遊就館に展示され、三島の逸話も紹介されている。
三島由紀夫と特攻隊に関して、次の記事がある。
「私の修業時代」で三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続けた。「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」
三島由紀夫はこう考えた。昭和天皇は、二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員を裏切ってしまった。特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまうではないか、と三島は言う。三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。
彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。
「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」
彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。
「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」
自衛隊の決起を促すために自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、撒いたビラの末尾には、「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と書かれていた。
三島由紀夫は、特攻隊員の心情を独自の解釈で無効性に徹することによる有効性と捕らえたが、何のために特攻隊員の死が有効だったのか。生命尊重以上の価値の所在はどこにあるのか。日常生活の単調さを嫌って、激しい戦争に躍動していたのであれば、戦争の持つ一面しか認識しないことになる。 
10.
日本軍による「特別攻撃」は、第一航空艦隊司令官の大西瀧治郎中将が「特攻の生みの親」であるとの神話が流布されてきた。しかし、戦局打開手段を模索した日本軍上層部は、大学人の協力を得ながら、計画的、組織的に特攻作戦を準備、展開した。その特攻作戦の失敗、責任を回避するために旧軍指導者が「特攻玉砕自然発生説」が唱えた。その後、特攻玉砕自然発生説、大東亜戦争肯定論は、有名文化人からも唱えられるようになった。
1943年9月の早慶卒業式(戦局悪化から卒業が6カ月早まった)
午前十時から1400の新卒業生を送る卒業式は、父兄、卒業生だけを講堂に集めて厳粛に開式、特に卒業生のために教育勅語をこの式場に奉讀した小泉信三塾長は、次のように述べた。
「吾々は諸君とともに遠く上海、南京、徐州、漢口の捷報を聞き共に宣戦の大詔を拝し、共に陸海将兵の壮烈なる功業に泣き、いまは国家存亡の機の正に目前に在るを見る、諸君は父兄よりも更にこの機を知っている、すでに幾多の諸君の学友は軍務に服し、けふ三田の丘で卒業式行はるゝを想いつゝ猛烈なる訓練をやってゐるのである」
「今後ももっとも激烈、困難、危険にしてもっとも信頼すべき人物を必要とする場合にはそこに慶応義塾の者が在らねばならぬ、慶応の数箇年の教育は諸君をかかる人物に育成した筈である、国家百年の士を養ふはたゞこの一日のみ、今日の一日の用をなさしめんがためであった」
この日、慶応義塾卒業前に、桜花特攻隊に進む古谷は、次のような遺書を残した。
「御両親はもとより小生が大なる武勇をなすより、身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんことを、朝な夕なに神仏に懇願すべきは之親子の情にして当然なり。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。大君に対し奉り忠義の誠を致さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干伐を執るらんの覚悟なり。」
学徒は未熟練パイロットになるのが精一杯の練習時間と機材しか与えられなかった。しかし、それなるがゆえに、特攻機の搭乗員として送り出されてゆく。学徒を戦場に送り出した大学の学長たちは、有力な文化人であり、特攻出撃に関して、大学人の果たした役割は大きい。
元慶応義塾塾長・小泉信三博士(1888(明治21)年〜1966(昭和41)年)は、経済学者にして教育家である。普通部より慶応義塾に学び、体育会庭球部の選手として活躍した。1912(大正元)年9月より1926(大正5)年3月まで、英国・ドイツへ留学。帰国後、慶応義塾大学部教授として経済学、社会思想を担当しながら庭球部長を務めた。1933-1947年、慶応義塾長。1949年より東宮御教育常時参与として皇太子殿下(今上天皇)の御教育にあたる。1959年、文化勲章受章。マルクス経済学批判の論客であり、皇室の民主化に努めたとされる保守の大教育家で、『練習は不可能を可能にす』という著作もある。
猪口力平・中島正(初版1952)『神風特攻隊』は、特攻隊指揮官たちの共著として今も名高いが、そこでは着任した関行男大尉が、即日特攻任務を引き受けたこと、特攻隊に全員が志願していたことが述べられている。そして、第一線の将兵たちは、祖国に殉じる覚悟ができていた純真な若者であるとの前提で、特攻隊員たちの生への執着、家族への心残りなど苦悩を捨象してしまっている。つまり、特攻は自発的な犠牲的精神の発露であるという「特攻自然発生説」を暗に主張している。そこでは、特攻を命ずる者と特攻を命じられる者に、気持ちのズレが無く、一体化して描かれている。叙事詩的な特攻物語として、祖国愛に殉じる勇士と責任感ある司令官たちが悲壮ではあるが勇ましくそして美しく描かれる。
大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は、1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務となり、2月末、連合艦隊司令部に着任した。自伝(1995)『幾山河−瀬島龍三 回顧録』p.167では、連合艦隊の戦力低下を指摘した後、次のように特攻の自然発生説を主張している。
「しかし、帝国海軍伝統の士気は極めて旺盛であった。3月17日からの九州/沖縄航空戦、次いで3月25日の慶良間列島への米軍上陸、4月1日の沖縄本島への米軍上陸などにおいて水上特攻、空中特攻(菊水)、人間魚雷(回天)、人間爆弾(桜花)など各艦隊、各部隊、第一線の将兵が自らの発意で敵に体当たりし、国に殉ずる尊い姿には、襟を正し、感涙を禁じ得ないものがあった。」
瀬島龍三中佐は、捷一号作戦(フィリピン作戦)を担当し、沖縄戦でも特攻隊を送り出した第五航空軍の作戦にあたった。瀬島中佐は、戦後、シベリア抑留から帰国後、伊藤忠商事に入社、戦後賠償に関わる援助ビジネスに関与し、伊藤忠会長にまで昇りつめた。退社後、中曽根首相の臨時教育審議会委員や臨時行政改革推進審議会長も引き受けた。「特攻は自然発生的なもの」で、特攻作戦に関する上官の責任など、一切ありえないというのが彼の特攻隊認識であった。
三島由紀夫は、特攻に関しても、自己の作り出したイリュージョンと的確に認識していたようだが、イリュージョンの束縛に自らはまり込んでしまい、自衛隊市谷駐屯地旧大本営占拠、自決という自己犠牲的な英雄的選択を誇示しようとした。特攻、さらにアジア太平洋戦争を巡っては、文化人は三島由紀夫以来、再び肯定的に語りだした。
小林よしのり(1995)『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 』も、アジア太平洋戦争までの日本の行動の正当性を主張し、愛国心、戦争を悪と考える愚かしさを訴えている。「大東亜戦争」で勇敢に戦った日本軍将兵、アジアからの白人支配解放の理念を高く評価している。日本の戦争を肯定し、「戦って破れてなお我に正義はあったのだ!」とする。著作には事実誤認も多い。しかし、インパクトある漫画を使ったことで、戦争に関心のない世代にも「大東亜戦争の正当性を訴えて、(大量破壊・大量殺戮も)悪ではない」と信じさせることに成功した。
小林の特攻論によれば、特攻は外道で誤った戦術だが、特攻隊員の精神は誤っていなかった。高木俊朗『知覧 特攻基地』を評して、「特攻を<戦法>からだけでなく、<精神>からも犠牲者として描ききることによって、特攻隊員たちの主体性をいっさい認めない」と非難した。「あの壮大な負け戦の中で、どうしても強烈に輝くものこそが、陸に海に散った兵たちの闘争心である」と述べた。(→charisの美学日誌参照)。特攻隊員たちは「個をなくしたのではない。----公のためにあえて個を捨てたのだ!--国の未来のため、つまり我々のために死んだのだ!」。
ある海軍出身者が、次のように述べている。「遺族のことを考えると、今まで本当のことをいえなかったが、特攻隊員は自ら志願したと言われているが、実は志願ではない。金モールをつけた連中は何もせず、自分達はただ命令に従っただけだと言う。しかし、自分から進んで志願した者も数多くいたことも確かである。選に漏れた下士官が上官に激しく抗議し、特攻戦死しているのも事実。私の攻撃第五飛行隊も----1945年7月25日、第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将の命により、全員特攻隊員(神風特別攻撃隊第七御隊)となり、即日、海兵70期の森正一分隊長自ら先陣を切り出撃戦死をした。軍隊では上官の命令は絶対服従であり、当時、我々下士官は死ぬ事の価値を自分なりに達観していたものである。平和な現在の価値観で半世紀前の人権など論じてもわかってはもらえまい。」
『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり(2003)の娯楽本の表紙で、操縦任務に就くには、眼鏡をかけずに1.2以上視力がないといけない、特攻隊員の飛行服は新品でない。こんな細かい間違いは、漫画プロパガンダでは表現するに値しないであろう。ある書評に「人種の問題、宗教・文明の衝突の問題。素朴な平和主義だけでは解決できない国際社会の現実。そうした「当たり前のこと」に気付かせてくれる本書は、無条件の親米・自虐史観に偏った僕たちの眼を開かせてくれる一種のショック療法です。」とある。別の書評には「辛い現実から逃れて、甘美な幻想に耽ることが、果たして、矜持を持った日本人を育てることになるのか?嫌な情報はプロパガンダ、自虐史観として避け、自説に都合いい情報しか採用しない。客観性はなく、ただ自己主張だけの肥大化したエゴを育むだけではないか? ---私から公への昇華はありえず、ただ批評なき迎合者の群れでぶくぶくと自我を育むだけである。」とある。
「特攻自然発生説」は、次の理由で否定される。
1 直ぐに死ぬべき状況にはない人間が、国に殉ずるためとはいえ、あっさりと特攻に出撃できた若者はいなかった。残されるもの、家族のことを考え、死ぬことに苦悩し、司令官に憤り、日本の将来を心配していた。
2 人間魚雷、人間爆弾を開発、生産することは、第一線の将兵には、できるない。軍上層部の命令によって、特攻兵器が開発、生産されていた。
3 第一線将兵の発意で体当たりをし、陛下から頂いた航空機を「無断で」自爆、破壊させるような身勝手な行動は、軍隊という鉄の規律の前では許されない。軍上層部が、特攻「作戦」を計画し、特攻「部隊」を編成し。特攻を指揮した。
4 第一線の将兵が「特攻作戦」を計画、組織、実行するだけの権限、人員、機材をもっていない。軍上層部が特攻作戦として、実施した。
1944年7月21日、大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し、特殊奇襲攻撃として特攻兵器を開発し、特攻作戦を展開する計画を立てている。
特攻隊の部隊名称に関しても、戦果発表と同時に、規定の部隊名が発表されることになっていた。
「大海機密第261917番電」は、大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案、到着後、特攻隊戦果の確認できた10月26日発信で、特攻の発表は、戦意高揚のため、攻撃隊名称も併せて発表すべきことを指示していた。これらは、海軍上層部が、特攻作戦を進めていた証拠である。
日本海軍は、1944年7月中に人間爆弾「桜花」、人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」の開発を決定した。陸軍も特攻艇「マルレ」を配備し、1945年には、特攻専用の航空機キ-115「剣(つるぎ)」を試作、量産した。
小磯国昭は、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任し、1937年陸軍大将となった。1942年朝鮮総督後、1944年7月、東條内閣辞任を受けて首相に就任。1945年1月20日、大本営の帝国陸海軍作戦計画大綱を決め、「皇土特ニ帝国本土ヲ確保スル」目的をもって沖縄を縦深作戦遂行上の前縁として、本土防衛の準備をするとした。また、沖縄・硫黄島などに敵の上陸を見る場合においても、極力敵の出血消耗を図り、且つ敵航空基盤造成を妨害する持久戦の方針を確認した。
こうして、海軍は「天号作戦」を、陸軍は「決号作戦」を策定し、沖縄守備軍第32軍は、住民に対して「軍民の共生共死」を強調した。
1945年1月25日には、最高戦争指導会議で「決戦非常措置要綱 」を決定し、次のように戦争方針を述べた。
第一条 帝国今後ノ国内施策ハ速カニ物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ 以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スルニ在リ 之力為具体的施策ヲ更ニ強化徹底シテ 近代戦完遂ニ必要ナル国力並国力ノ維持増強ニ遺憾ナキヲ期ス
第二条 国力並戦力造成要綱:当面ノ情勢ニ鑑ミ 国力並戦力造成上ノ基本方針左ノ如シ
 一 作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス
 二 国力ノ造出ハ日、満、支資源ヲ基盤トシ自給不能ナル南方資源ヲ充足シ其ノ総合的運営ノ下ニ近代戦争遂行能力ノ確立ヲ主眼トシ 併セテ各地域毎ノ攻戦略態勢ノ強化ヲ図ル
こうして、全軍特攻化が推進されてゆく。
小磯内閣では、1944年8月4日以降最高戦争指導会議が設けられたが、これは以前の東条英機内閣のときは大本営政府連絡会議と呼ばれていた。
最高戦争会議の出席者は、政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し、軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席した。蔵相ほか閣僚や参謀次長・軍令部次長などが列席する。天皇も臨席する。さらに、天皇には、大臣による上奏、事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達、参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏などのルートで最新の情報が伝達された。
1944年6-7月、マリアナ沖海戦で空母決戦に惨敗し、サイパン島を失った日本陸海軍は、米軍による本土空襲に恐れおののき、特攻兵器の開発・生産、特攻隊の編成を本格的に進める。1945年4月末、沖縄戦の敗退が明らかになると、本土決戦を目指した全軍特攻化、さらに当時の大日本帝国の版図にある人口は、大日本帝国憲法の庇護を受けない台湾人・韓国人を除くと、8000万人であるが、帝国では、「一億総特攻」を叫んでいた。全軍特攻化、一億総特攻によって、死をとして、守るべきは日本の国であり、国体である。住民の生命財産の保全は、二の次とされた。
小磯首相は、米軍の沖縄上陸から1週間もたたないうちに辞任し、1945年4月7日、鈴木貫太郎が、組閣の大命を受け、77歳で内閣総理大臣となった。鈴木貫太郎は、慶応3年(1867)12月24日、大阪生まれで、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官を歴任し、1929年侍従長兼枢密顧問官に就任。鈴木首相は、有利な条件で対米和平交渉を進めるために、本土決戦を準備したが、有名文化人の中には、鈴木首相が組閣とともに終戦に奔走したという人もいる。鈴木首相が、一億総特攻を主張したのは、戦争推進派によるクーデターを阻止するための方便だったともする。ポツダム宣言受諾を決めたが、その前に二つの原子爆弾の投下、ソ連参戦があった。この災厄を抜きにして、終戦の決断が行われたとは思えない。鈴木貫太郎が「終戦内閣」を組閣したとの解釈は、芸術的すぎる。
「一憶総特攻」を計画するのであれば、陸海軍大臣、参謀総長・軍令部総長、軍司令官など高級軍人か、軍籍ある宮様が、特攻機、水上自爆艇に自ら一人乗り込んで特攻、体当たりを仕掛けるのがよい。彼らが、「一億総特攻のさくがけ」となれば、日本陸海軍の一兵卒から小国民にいたるまで、感服したはすだ。国民も、そこまで来たかと、本土決戦に向けて、より力を注いだはすだ。しかし、そんなことは起きないうちに敗戦となった。そこで、「終戦」の言葉が流布されることになる。
特攻作戦も結局は失敗し、日本は戦いに敗れた。その特攻作戦の失敗という責任、敗戦という責任をとることは、軍上層部にとって苦痛であり、軍の名誉も汚される。自らは特攻に出ず、部下に特攻を命じる司令官・参謀たちは、自己保身的な卑怯者のようで苦しかったであろう。そこで、その心理的な負担を取り除くためにも、生き残ってしまったという負い目を逃れるためにも、特攻は、第一線の将兵の発意、犠牲的精神の発露として自発的に行われたという「特攻自然発生説」を信奉するようになる。これによって、認知的不協和を軽減できる。世界に冠たる勇敢な日本軍の指揮官という名誉を保持できる。
「新しい歴史教科書を作る会」は、アジア太平洋戦争に関して、日本の栄えある歴史を見直しえ、誤った歴史観を修正することを目的にしている。この会の2005年4月の賛同者301名には、多数の有名人文化人、ビジネスマンらが名を連ねている。作家・漫画・評論家では、阿川弘之、井沢元彦、石原慎太郎、大宅映子、加藤芳郎、黄文雄、小林よしのり、佐伯彰一、佐藤愛子、長谷川慶太郎、林真理子、深田祐介らがいる。
「1997年1月30日趣意書]には、次のようにある。
「日本はどの時代においても世界の先進文明に歩調を合わせ、着実に歴史を歩んできました。欧米諸国の力が東アジアをのみこもうとした、あの帝国主義の時代、日本は自国の伝統を生かして西欧文明との調和の道を探り出し、近代国家の建設とその独立の維持に努力しました。----ところが戦後の歴史教育は、日本人が受けつぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるものでした。特に近現代史において、日本人は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人の如くにあつかわれています。冷戦終結後は、この自虐的傾向がさらに強まり、現行の歴史教科書は旧敵国のプロパガンダをそのまま事実として記述するまでになっています。---私たちのつくる教科書は、世界史的視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。私たちの祖先の活躍に心踊らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です。---子どもたちが、日本人としての自信と責任を持ち、世界の平和と繁栄に献身できるようになる教科書です。私たちはこのような教科書をつくり、普及するために必要な一切の活動を力強く推進します。」学生時代を思い起こすと、歴史教科書をまじめに勉強した記憶はほとんどない。歴史は好きだが。
文化人は、人間の心情を解き明かし、国家の栄光や興亡というロマンに感銘し、それを芸術的に表現することに長けている。しかし、特攻や住民集団自決を含めて、戦争とその悲劇・栄光は、戦術・戦略、経済社会、生活について、実証的・理論的に分析して、初めて明確なものとなる。心情、精神、思想、宗教、伝統など文化問題だけに着目し、無形のものだけを素材にすれば、創作者たる文化人は、戦争をいかようにも芸術表現できる。 
11.
戦争関連の施設、芸術には、経済的収入、マーケティングに配慮したものもある。これは市場経済の中で影響を受け、あるいは社会に影響を与えるためには当然であろう。有名文化人が、現代でも戦争や特攻を巡って、資金や作品発表の機会を与えられて活躍している。
戦争記念施設や戦争・特攻を扱った芸術には、経済的な意味合いやマーケティングをも配慮したものも多い。個人の力量というより、資金、技術、人員を要した企業や政府、自治体の出番である。
広島県呉市は1889年呉鎮守府、1903年呉海軍工廠の設置以来、軍都として栄えた。そして、2005年4月開設の呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」は、教育・歴史・学術の視点から、明治以降の「呉の歴史」と造船・製鋼など「科学技術」を、「先人の努力」を紹介している。建設費65億円(建物40億円、展示20億円、外構5億円)の予算が投入された。戦艦「大和」の1/10スケールの精巧な模型も作成、展示しているが、これについては次のように「大和ミュージアムのシンボル」のなかで述べている。
「戦艦大和建造の技術は生き続け、世界一の大型タンカー建造---自動車や家電品の生産など幅広い分野で応用され、戦後の日本の復興を支えてきました。10分の1戦艦大和は、平和の大切さや科学技術の素晴らしさを後世に語り継いでいます。」
「大和ミュージアム」は、迫力ある展示で、開館から177日目の2005年11月5日に100万人目の来館者を動員し、地元の観光産業を興隆することに成功した。
2005年末、大スケールの映画「男たちの大和」が、巨匠佐藤純彌監督により「克明かつ力強い人間描写力で、“亡き魂への鎮魂歌”に取り組む」作品として完成した。佐藤純彌監督は、角川書店元社長・特別顧問の文化人角川春樹(1993年麻薬取締法違反・関税法違反・業務上横領被疑事件で逮捕)プロデュースの『人間の証明』(77年)、『野性の証明』(78年)も監督し、今回も同じプロデュースである。「男たちの大和イントロダクション」に「桜の咲き誇るあの春の日、ただ愛する人を、家族を、友を、祖国を守りたい、その一心で水上特攻に向かい、若い命を散らしていった男たち」と文学的表現をしている。事実は、沖縄に出撃する航空特攻を成功させるために、米軍航空兵力を惹きつける囮作戦であり、統帥権を保有する大元帥の意向を受けて、軍令部総長が連合艦隊司令長官に急遽準備させた杜撰な作戦であった。
映画「男たちの大和」の原作は、歌人の辺見じゅん(1983)『男たちの大和』で、この著作は、新田次郎文学賞を受賞している。辺見じゅんは、角川書店の創設者・角川源義の長女、春樹の姉である。作家・歌人として活躍し、『戦場から届いた遺書』(2003年)では、「無名兵士たちが残した遺書・日記・書簡から戦争とは何かを探り、そこに込められた次世代へのメッセージを読み解く」ことができたという。1970-80年代の作品は「銀座ファイト物語」「たおやかな鬼たち」「ふるさと幻視行」「雪の座」など。
映画「男たちの大和」の音楽は、久石譲で、国立音楽大学在学中より現代音楽の作曲家として活躍した。『風の谷のナウシカ』(84年)、『ハウルの動く城』(04年)など宮崎駿監督作品や北野武監督 『HANA-BI』(97年)など、40本以上の映画音楽を担当した。主題歌は、長渕剛で、世代を越え、ヒット曲を生み出している。2003年にはシングルの総売上が1000万枚を突破。
現代でも戦争や特攻に関しては、たくさんの有名文化人が活躍の場を与えられている。これはそれだけの市場、資金が存在することを意味するが、彼らの才能も、自らの芸術的表現を通じて、発揮されているのであろう。
戦争文学とは、政府や軍の動員といった受動的要因だけではなく、芸術家の名誉欲や自己表現への熱情が引き起こす自発的要因からも創作される。そこでは、文学作品の表現力とならんで、表現する心情・思想が問われる。その意味では、文化人の戦争認識が、作品に大きく影響しているが、現在の日本では、大戦中の文化人の戦争認識を問題にすることなく、作品自体の評価もしないまま、封印してしまった。これでは、芸術作品だけではなく、芸術家の評価はできない。
文化人の表現したかった心情は、過去の作品を無視して評価することができないにもかかわらず、現在の作品が全てを物語るというのは、芸術至上主義である。戦争は、特異な思想・心情を兼ね備えた事象であり、戦争にかかわる文学は、作品だけではなく、文化人のもつ心情・思想を抜きに語ることはできないはずだ。芸術家の、戦争認識も作品に影響するはずだ。
国家指導者や軍上層部にとって、芸術などプロパガンダに従事する侍女(はしため)に過ぎないが、芸術家にとって、戦争は自分の活躍の場を誇示し、あるいは作品を通じて自己表現をする場に過ぎないといえる。ともに、死者の名誉を称え、追悼すると同時に、残された指導者が自己の正当性を維持し、大義を確固とするために故人の遺徳を利用しているようにも感じられる。
文化人には、戦争の持つ込み入った実情を解き明かすことだけではなく、それをさまざまな形態で、的確に表現することが求められるであろう。 
12.
戦争を描く作業、戦争への認識を深化させるには、軍の名誉、祖国の栄光、自虐的あるいは誇示的歴史観など、心情、精神、思想、宗教、伝統に囚われすぎては上手くいかない。虚心坦懐に、できるだけ客観的に事実を把握することが第一になるが、その場合、戦略や政略だけでなく、日常生活、戦場生活の観点、さらに戦友、住民、敵の観点も含めて、戦争を捉える必要が生まれくる。漫画家の水木しげるは、それに成功した文化人であると思われる。
『ああ玉砕―水木しげる戦記選集 (戦争と平和を考えるコミック)』:水木しげるは、本名武良茂。大正11年、鳥取県境港市生まれ。武蔵野美術大学中退。太平洋戦争中、ラバウル戦線で左腕を失う。本書は、戦後復員して描いた絵(昭和24〜26年)、昭和60年に「娘に語るお父さんの戦記」のために描いた絵、終戦と同時に移動したトーマで描いた絵から構成。『トペトロとの50年―ラバウル従軍後記 』も2002年に文庫出版されている。トペトロの好意にあまえ続けた後悔も記されている。「僕は戦記物をかくと、わけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない」
水木しげるは、アジア太平洋戦争中に召集令状を受け取り、鳥取連隊で落第兵になる。21歳で南東方面ソロモン諸島ニューブリテン島ラバウルへ出征する。そこでは、食糧不足のなか、食糧生産に従事したり、上陸してきた米兵の攻撃を受けたりした。軍では落第兵であるほど敵近くに送られる。そこは“決死”“玉砕”といった言葉が飛びかう最前線で、「生きて帰りづらい場所」。軍隊では水木さんの哲学は通用せず、“ビンタの王様”とあだ名されるほど、毎日殴られた。部隊が歩く時はいつも先頭で、弾除けにされた。水木氏はラバウルで敵地近くの中隊に入れられた。中隊でも敵の矢面に立つ先発隊員に。先発隊の中ですらも皆より三十メートル程前を一人で歩く役になった。
人間と藝術には、水木しげる哲学と太平洋戦争の項目があり、ラバウルでの中退全滅にかんして、次のように述べられている。
「ある日、見張りをしていた時、敵が後ろから攻めてきて部隊が全滅したことがありました。私ひとりだけ生き残った。夜の間に敵は我々を包囲していて、私が皆を起こしに行くのを待っていた。だけど私は、オウムが面白いので望遠鏡で見ていたんです。オウムは時間がきても面白さをやめないじゃないですか。そのうちに日が昇って、しびれをきらした敵が撃ってきたんです」
---敵の銃撃につぐ銃撃にさらされ五日間彷徨し海軍のいる小屋にたどり着いた。先発隊中ただ一人の生存者と知らされた。陸軍に戻ると、兵隊たちは水木さんの奇跡の生還を喜んだ。しかし上官は言った。「なぜ、死なずに逃げたのか」。ラバウルでは大勢が死んだ。勇敢に戦って死ぬ人も多かったが、上官の無謀な命令や、死が美化されていたので、“卑怯”“生き恥”“面子”などの言葉のために死んだ人も多かった。
「左手がなくなってからは、ある程度規律もゆるくなった。私は純朴で温厚な原住民たちと妙に気があって、つきあっていました。ひとりだけフラフラと集落を訪ね、配給の煙草と果物なんかを交換したりね」
もちろん軍律違反である。集落に姿を見せない水木さんの様子を気遣って部隊にやってきた原住民が、マラリアの再発で弱って動けない水木さんに見舞いの果物を届け続けたこともあった。水木さんは彼らと「畑も、家も、嫁も世話するから、現地除隊しろ」と言われるほどの友情を結んだ。世の中から正しいと教えられることは時代によって変わる。「案外、間違いも多いです」と水木さんは言う。
水木しげるにきくにも、次のように記述されている。
水木しげるの所属部隊は壊滅し、マラリアを発症し、1943年熱で苦しんでいた時、爆撃を受け左手を負傷、切断した。その後暫く死ぬ思いをした。マラリアが悪化した。髪の毛が抜けた。腕の切り口が膿んだ。皮膚病になった。
傷病兵として、あまり敵の攻撃がない同じニューブリテン島ナマレの地に送られた。土人(水木氏の言葉で土の人という意味で差別語ではない)と親しくなり、土人村に通いつめた。トライ族と親交を深め、若いトペトロとの生活が始まった。初めて本当の人間に会ったという気がした。秘密の踊りを見せてもらい、パウロというあだ名がつき、水木氏専用の畑ができた。
終戦を迎える。23歳。土人と暮らすために現地除隊を申し出た。しかし軍医の「せめて両親に会ってからにしろ」という言葉に動かされ、帰国を決意した。土人たちは悲しんだ。お別れに、年に二、三回のごちそうであるプチ(犬)の丸焼きをふるまってくれた。七年したら戻ってくると約束し、一人一人と固い握手をした(実際に再訪するのは二十六年後になったが彼等は水木氏を覚えていて大歓迎した)。
「私の青春はなかったです。環境が悪すぎた。戦争の犠牲の時代でした。気がつくと死が迫っている。ゆっくり考える暇がない。落ち着いてものを考えられるようになったのは戦後二十年程してからです。大変な緊張を強いられました。勇ましくなければならない。命令されて無理とは言えなかった。貸本マンガで生活してた時、年中無休で執筆時間が一日十六時間だったけど、戦争に比べれば遊びみたいなものでした。死なないからね。それに何か食べられるし。
戦争で様々な痛みや苦しみに会い、人生観が変わりました。普通に生活できれば幸せ、耐えられない苦しみは避けようと思いました。地獄みたいな生活は、その時に逃げようと思っても遅い。地獄の入口が見えたら、なるべく早く気付いて入口に入らないようにしなければならない。戦後は何をするにも判断基準が生か死かでした。
今は自由がある。いい時代ですよ。マッカーサーが憲法を偶然いじったおかげで非常によくなりました。ただ、抑えつけられないと刺激がないのか、今の若い人は私から見ると腰に力が入らないという気がするな。やれば何でもできるはずです。ただ、その意欲がない。やりたいことがないんじゃないか?----皆、普段好きなことをしてないんだな。好きなことが見つけられないのかも知れんけど。好きなことをするのは思い切りが要ります。---最初はやりたい内容の非常に浅い部分しか見えてないです。深い所まで行くにはやってみないといかん。やってみると意外とつまらん時もある。私はたまたまスッと命中したんです。---
世界にはいろいろ面白いものがあってびっくりします。君らも若いんだし、面白い生き方を一杯見るといいと思う。歩き回るというのが大切です。教室と自宅の行き来では新しいものは生まれてこないんじゃないかな。書籍以外に真理があるということを、私は65歳位で気付きました。何でもないところに真理がある。外国の人と話すと、様々な人間観があって驚きますよ。
魂は追求しても仕方がないところがある。おいそれと心の支えにはできんですよ。----うすうす感じるのが神や妖怪なんだそうです。人はそれを知りたくて形にするんです。アフリカの部族の作った木像なんてあまりに上手で感心します。専門知識だけを求めるのは神を見にくくするんです。癖のある考えに没頭してしまうから。世界の全体を追求する必要があるんです。そうしないと見えません。
私は妖怪の絵を描く時無心になります。絵を描くと無心になりますよね。---オーストラリア原住民のアボリジニーは、絵でしか精霊や妖怪と会話ができないと言ってます。屁理屈は要らないんです。人は自分の屁理屈に無上の価値をおきます。----人の生活に価値をおいてないんです。馬鹿だから分からんというわけじゃない。宇宙的視野から見れば、たいしたことないのかも知れない。価値をおく必要がないかも知れないんです。それに重きをおきすぎるから人はおかしくなる。
戦争体験を単に悲惨なものとしてのみ考えるのではなく、現地での交流を通じて、得たものがあったのだ。戦艦「大和」の海上特攻にも随伴し、撤退して生き残っていた駆逐艦「雪風」で復員。1951年29歳で紙芝居をはじめ、後の「鬼太郎」を生み出した。1957年35歳で漫画『ロケットマン』でデビューした。1968年46歳の時、テレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の放映を開始した。
経済状況が好転してからは、ラバウルに毎年のように出かけ、旧友たちと会っている。ラバウル詣ではトペトロの葬儀後まで続いた。
水木しげるの描きだした妖怪たちは、15-16世紀のネーデルランドの画家ヒエロニムス・ボスの地獄絵とそこに蠢く怪物、モンスターを思い起こさせてくれる。二人とも、戦争の悲惨さを身をもって知っていた。 
「玉砕」の出典は、北斉書元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(人間は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」とされるが、最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊約2600名が全滅した時である。「全滅」では、日本軍が負けたことが明らかになるから、この責任を回避するために「玉の如くに清く砕け散った」と喧伝したのである。藤田嗣二のアッツ玉砕の名作もそれに触発されたのであろう。それ以降、玉砕は、1943年11月22日タラワ、1944年2月5日クェゼリン環礁、7月3日ビアク島、7月7日サイパン島、11月24日ペリリュー島、1945年3月17日硫黄島、1945年6月23日沖縄と続いてゆく。
しかし、水木しげる(1995)『総員玉砕せよ』では、日本軍将兵と敵兵士が対峙し、打ち合う場面はない。敵兵の姿を見えない。水木しげるの配属されたニューブリテン島の戦場では、所在不明の敵に撃たれ、機銃掃射を行う敵機から逃げまどうなど、勇往な戦闘などひとつもない。陣地構築や食料集めに翻弄していたのである。小隊がゲリラの陣地を奪取したとき、米軍供与の食料を見て「敵はこんなぜいたくなもの食って戦争してたんだなあ」と感じ入っている。古兵や下士官による過酷な私的制裁をうければ、敵と見方という完全な二分法では「戦場」をはかれなくなる。
玉砕前、「みんなこんな気持ちで死んでいったんだなあ/誰にみられることもなく誰に語ることもできず…ただわすれ去られるだけ…」と兵士が言うが、生者と死者との境すら不明瞭になっているためであろう。
水木しげるは、後書きで「僕は戦記物をかくと、わけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」と述べている。
水木しげる「幸福の七カ条」
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。→フランスの作家サンテグジュペリも、「大切なものは、目に見えない」といった。 
13.
フランスのアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exuperyは、戦前から郵便飛行、軍隊入隊などの経験がある作家で、『星の王子さま』で有名である。彼は、悩みながらも戦争に協力し、任務を果たした。これは、日本の特攻隊員にも通ずるものがある。戦後に有意義な活躍がしたいと考えていたのである。
北アフリカや南米で郵便飛行の仕事をし、大戦中、P38「ライトニング」改造の偵察機パイロットとして地中海で活躍したアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exuperyは、1931年の『夜間飛行Vol de Nuit/Night Flight』のなかで、「勇気というやつは、大して立派な感情からはできておりません。憤怒が少々、虚栄心が少々、強情がたっぷり、それにありふれたスポーツ的楽しさが加わったという代物です」と述べた。勇者と勇者が戦争という極限状況ででぶつかれば、殺し合いとなり、陰惨なものとなる。
ドゥ・サンテグジュペリは、1943年の『星の王子様Le Petit Prince』で有名なフランスの作家であるが、 “War is not an adventure. It is a disease. It is like typhus.”とも述べている。
アントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ(1943)『星の王子さま』あるいは Antoine Marie Roger de Saint-Exupery(1943)The Little Prince サンテグジュペリの手になる挿絵も有名である。
王子の星は小さく、他の星を見に行くために旅たつことになる。王子は見てくれ、自惚れ、酒飲、所有する星数を数える資産家などおかしな大人の星を経た後で、地球に到着する。そこで、自分の星のものより高い山、美しいバラを見つけ、自分の星がつまらないものに思えてくる。そこに、キツネが現れる。
遊んで欲しいと頼む王子に、キツネはいう。不幸なので遊べないし、仲良しではないと。"I am so unhappy." "I cannot play with you、" the fox said. "I am not tamed." キツネは「自分は王子にとってただのキツネで、何千ものキツネの一匹に過ぎない。でも、仲良くなり、お互いが必要になれば、君は世界で唯一の存在になるさ」と答える。To you、 I am nothing more than a fox like a hundred thousand other foxes. But if you tame me、 then we shall need each other. To me、 you will be unique in all the world. To you、 I shall be unique in all the world..."
キツネは言う。「世の中に完全なことはないんだ。単調さ。俺は鶏を狩り、人間は俺を狩る。結局、退屈なことさ。」"Nothing is perfect、" sighed the fox. But he came back to his idea. "My life is very monotonous、" the fox said. "I hunt chickens; men hunt me. All the chickens are just alike、 and all the men are just alike. And、 in consequence、 I am a little bored.
「でも、君と仲良くなれば、人生に太陽がやってきて、輝いてくれるようだよ。---俺は小麦を役に立つものとは思わないし、小麦畑は何も俺には語ってくれない。これは悲しいことさ。でも、君の金髪は、実った小麦畑とおんなじさ。君が仲良くしてくれたのは、なんと素晴らしかっのかと考えてごらん。」 But if you tame me、 it will be as if the sun came to shine on my life . I shall know the sound of a step that will be different from all the others. Other steps send me hurrying back underneath the ground. ---- Wheat is of no use to me. The wheat fields have nothing to say to me. And that is sad. But you have hair that is the colour of gold. Think how wonderful that will be when you have tamed me!
旅立つときが近づいて、キツネは泣いた。王子は、仲良くならならなければ悲しまなくてもよかったという。
キツネは言った。「よいことさ。なぜって小麦畑の色だよ。(君と仲良くなったことを思い出させてくれる。)もう一度君のバラを見てご覧。君のは世界で唯一のものだとわかるよ。」"It has done me good、" said the fox、 "because of the color of the wheat fields." And then he added: "Go and look again at the roses. You will understand now that yours is unique in all the world.----."
(これを聞いた王子は、自分がいとおしんだ小さな星はやはり素晴らしかったと理解できた。)"Goodbye、" said the fox. "And now here is my secret、 a very simple secret: It is only with the heart that one can see rightly; what is essential is invisible to the eye." 「大切なものは、目に見えない」 "What is essential is invisible to the eye、"the little prince repeated、 so that he would be sure to remember.
王子は自分の星の配置が来た時と全く同じ配置になるとき、蛇に噛まれ、身体を離れ星に帰還するが、その前に、砂漠に不時着した僕に言う。「皆、自分の星を持っている。でも、違った人には、同じ星はないのさ。」"All men have the stars、" he answered、 "but they are not the same things for different people.
「自分は自分の星に帰るのだから、きみは夜空を見上げて、どこかの星が笑っていると想像すればよい。そうすれば、君は星全部が笑っているように見えるはずだから」You will always be my friend. You will want to laugh with me. And you will sometimes open your window、 so、 for that pleasure... and your friends will be properly astonished to see you laughing as you look up at the sky! Then you will say to them、 'Yes、 the stars always make me laugh!
「星の王子さま」の秘密によれば、物語の「始まり」と「終わり」集中して出現する単語は、重要な意味を持。冒頭で、水を持たない主人公が、話の最後で水を湛える井戸を見つける。王子は、育てていたバラなど重要な「守るべきもの」に水を与えていた。“How could drops of water know themselves to be a river? Yet the river flows on”
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ...」“What makes the desert beautiful is that somewhere it hides a well.”という言葉は殉教者の言葉に聞こえてくる。「井戸の中の水」が生命の源であり、一見不毛の地と見られる砂漠にも、見えないところに水がある以上、生命が宿ることが可能である。砂漠も生命を育む美しいところとなることができる。
「星の王子さま」は、寓話の形をしたサンテグジュペリの遺言(準備)である。との「星の王子さま」の秘密 の指摘は卓見である。
「星の王子さま」出版の4日後、サンテグジュペリSaint-Exuperyは戦う操縦者となるために、米国から地中海・北アフリカに出発する。“I know but one freedom and that is the freedom of the mind.”
皆が仲良くなるのとは、全く正反対に、特攻やテロは、戦争と同じく、人を殺し合いに向かわせる。とても、正当化することはできない。もし、特攻や自爆テロを、そして戦争が正当化できる大義があるのであれば、無防備な市民こそ、効果的な攻撃目標として認めることになる。特攻、自爆テロ、戦争を正当化する大義を認めれば、お互いが自己の大義を振りかざすだけで、殺しあうことになりかねず、平和は遠のいてしまう。
戦争を賛美する文化人は、人間本来の美しさを損なうばかりである。このような役目は、愚劣で悪賢い扇動者にこそふさわしい。文化人は、あくまでも純粋な平和の理念、理想を追求すべきであろう。
1944年7月31日、サンテグジュペリは、偵察任務のためにP38偵察機でコルシカ島を飛びたったが、マルセイユ沖で墜落、行方不明となった。彼の部屋には、General X宛ての手紙が残されていた。
"I do not care if I die in the war or if I get in a rage because of these flying torpedo's which have nothing to do with actual flying、 and which change the pilot into an accountant by means of indicators and switches. But if I come back alive from this ungrateful but necessary "job"、 there will be only one question for me: What can one say to mankind? What does one have to say to mankind?"
「私は、戦争で死んでも、憤怒に陥っても、かまわない。戦争の道具として飛ぶことは、実際の飛行とは比べ物にならない。それは、パイロットを計器とスイッチの一部にしてしまった。しかし、もし、この不快なしかし必要な任務から生きて帰れたなら、ひとつの課題が生まれるだろう。人は人類になんということができるのか、なんというべきなのか。」
サン=テグジュペリは1944年7月31日、コルシカ島を飛び立ち消息を絶ったが、戦死と公式に認定されたのは、1945年9月20日である。
2008年3月17日朝日新聞に、童話「星の王子さま」のフランスの作家アントワーヌ・ド・サンテグジュペリが最後に操縦していた飛行機は、ドイツ軍戦闘機に撃墜されていたことが、記されている。3月15日付の仏紙プロバンス(電子版)は、戦闘機に乗っていた元ドイツ軍空軍パイロットのホルスト・リッペルト(Horst Rippert:88歳)が、第二次大戦中の1944年7月31日、レーダーが探知した敵機を求めて、南仏ミルの飛行場を発進、トゥーロン付近でマルセイユ方向へ向かうP-38ライトニング戦闘機(実際は偵察仕様)を発見。
「接近して攻撃を加え、弾が翼に命中した。機体は一直線に海へ落ちた。機内からは誰も飛び出さず、パイロットは見なかった。それがサンテグジュペリだったことを数日後に知った」と同紙に語った。リッペルトは「サンテグジュペリの作品は大好きだった。彼だと知っていたら、撃たなかった」と話した。
リッペルト(Horst Rippert)氏は「マルセイユ沖の海上で敵機の翼を撃った。海に真っすぐ墜落した。操縦士の顔は見えなかった」と告白。自身もサンテグジュペリ作品の愛読者で「長い間、あの操縦士が彼でないことを願い続けた」と話した。
リッペルトさんは1944年7月31日、トゥーロン(Toulon)付近の地中海上空を飛行中、サンテグジュペリが操縦するライトニング戦闘機が自身の機の下を飛行しているのを目撃。標識を確認し、後ろに回りこんで撃墜したという。  戦後、ラジオのスポーツ記者となったリッペルトさんが、当時撃墜した相手が誰だったかを知ったのはつい最近のことだった。
事実を突き止めたのは、フランス人ダイバーLuc Vanrell氏と、戦時中に撃墜された戦闘機の行方を調査する団体の創設者Lino van Gartzen氏。両氏の調査結果は20日発売の仏語の著書「Saint-Exupery、 the last secret(サンテグジュペリ、最後の秘密)」の中で詳述される。
大戦中、自由フランス軍(Free French)空軍のコルシカ島の基地に属していたサンテグジュペリは44歳の時、作戦中に行方不明になり、その後の消息については長い間謎に包まれていた。1998年、マルセイユ沖でサンテグジュペリのブレスレットが漁師の網に引っかかっているところを発見された。その2年後、ダイバーのVanrell氏が戦闘機を発見して引き揚げた結果、製造番号からサンテグジュペリのものだと判明した。 
14.
永井荷風は、英国、フランスでの滞在経験もあり、銀行員や大学教員を歴任したが、『三田文学』を主宰し、谷崎潤一郎らとともに耽美派として、感覚美・官能美を主張した。耽美派は、美を理想とし、美の実現を人生の至上の目的とし、「芸術至上主義」と呼ばれることもある。しかし、大日本帝国政府による動員や軍上層部による大陸の安定・大東亜共栄圏建設を目的にした戦争には、終始批判的で、それを黙殺するかのように芸術に耽美した。倫理からは、堕落的ともいえる生活をおくったが、戦時下にあって、それは戦争への消極的な抵抗のように思える。
永井荷風の作品としては、海外物がハイカラである。荷風は、1903-1907年(明治36-40年)、25〜29歳の4年間、米国に滞在し、『あめりか物語』を書き、横浜正金銀行リヨン支店に1年弱、海外赴任し、『ふらんす物語』を書いた。1910年(明治43年)5月、永井荷風は、森鴎外、上田敏の推薦で慶応義塾大学文学科教授を勤めるかたわら、雑誌『三田文学』を主宰した。永井荷風は、谷崎潤一郎らとともに耽美派と呼ばれ、感覚美・官能美を主張し、島崎藤村・田山花袋らの写実的な自然派文学に対抗した。美を理想とし、美の実現を人生の至上の目的としたといえる。
永井荷風の『断腸亭日乗』:断腸亭とは荷風の別号、日乗とは日記のこと。永井荷風は、38歳から79歳の死の直前まで42年間、日記を綴った。1930年代から永井荷風は、墨田区東向島の私娼街「玉ノ井」にあるカフェ、ストリップなどに通い、芸妓、私娼と遊び、恋仲になった。
「----彼(兄弟)は余が新橋の芸妓を妻となせる事につき同家に住居することを欲せず、母上を説き家屋改築を表向の理由となし、旧邸を取壊したり。----余は妓を家に入れたることをその当時にてもよき事とは決して思ひをらざりき。唯多年の情交俄に縁を切るに忍びず、かつまた当時余が奉職せし慶応義塾の人々も悉くこれを黙認しゐたれば、母上とも熟議の上公然妓を妻となすに至りしなり。---六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、」(1937年4月30日)
「--六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事なかりき。近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」(1937年6月20日)
永井荷風や『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』を表した谷崎潤一郎など耽美派は、美を理想とし、美の実現を人生の至上の目的とし、「芸術至上主義」と呼ばれることもある。実生活の上でも、酒と女を愛し、美食、贅沢を好むなど、倫理的には、堕落した生活をおくっていた。しかし、大日本帝国政府による動員や軍上層部による大陸の安定・大東亜共栄圏建設を大義名分にした戦争には、終始批判的で、それを黙殺するかのように芸術に耽美したようにも思える。戦時下にあって、それは戦争への消極的な抵抗であった。
時代閉塞感から、芸術、美に耽美した永井荷風、谷崎潤一郎らは、人生を楽しむ本性を受け入れた生活をおくり、戦争を嫌悪し、大義名分を偽りのものと見抜いていた。その虚偽の現実、すなわち権威主義的政府による圧制や軍の暴走には、とてもついてゆくことはできなかった。国家総動員に巻き込まれるぐらいなら、堕落していた方がよかった。このように、耽美派は考えたのではないか。
「支那は思うように行かぬゆえ、今度は馬来(マレー)人を征服せむとする心ならんか。彼方をあらし、此方をかじり、台処中あらし回る老鼠の悪戯にも似たらずや」(1941年1月28日)
資源と土地という生命線の確保、この崇高な国家目的を征服であるとする暴論。さらに、名誉ある皇軍を蝗軍と侮辱した中国の叛徒と同じく、大ネズミの食いチラケというのは、言語道断である。
「日本軍の張作霖暗殺および満州侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て、にわかに名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用いた。」「欧州戦乱以後、英軍振わざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し、南洋進出を企図するに至れるなり。しかれどもこれは無智の軍人らおよび猛悪なくわだてる壮士らの企るところにして、----国民一般の政府の命令に服従して南京米(外米)を喰いて不平を言わざるは恐怖の結果なり。麻布連隊叛乱の状を見て恐怖せし結果なり-----」(1941年6月15日)
ただし、荷風は二・二六事件の「市中騒擾の光景を見に行きたくは思えど、降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す」とも書ている。クーデターなど、何をくだらないことを、といった感覚がうかがわれる。
「余は、かくの如き傲慢無礼なる民族が武力をもって隣国に寇することを痛歎して措かざるなり。米国よ。速に起ってこの狂暴なる民族に改俊の機会を与えしめよ。」(1941年6月20日)
大陸で暴虐な蒋介石政府に反省を促しつつ、資源・市場・土地を確保する対中国戦争、それに続くフランス領インドシナ(ベトナム)への軍隊派遣、これを荷風は傲慢無礼と感じた。12月8日以降は「自存自衛・大東亜共栄圏建設のために」対米英戦争が開始されるが、これについても大義名分を鵜呑みにはしていなかったであろう。
「開戦布告と共に街上電車その他到処に掲示せられし広告文を見るに、屠れ英米我等の敵だ、進め一億火の玉だとあり。或人戯にこれをもじり、むかし英米我等の師、困る億兆火の車とかきて、路傍の共同便処内に貼りしと云う。現代人のつくる広告文には、鉄だ力だ国力だ、何だかだとダの字にて調子を取るくせあり。まことにこれ駄句駄字といふべし。哺下向嶋より玉の井を歩む。両処とも客足平日に異らずといふ。」(1941年12月12日)
総力戦のための動員など人生の楽しみを損なうだけだと、借金を増やすだけだ、くだらないプロパガンダは、便所にでも落としておけ、とでもいうような「非国民」的態度である。
「晴れて好き日なり。ふと鴎外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生墓碣は震災後向嶋興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならずその頃は電車の雑踏殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。余も年ゝ病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、この日突然倉皇として家を出でしなり。」(1943年10月7日)
「-- 数日前より毎日台所にて正午南京米の煮ゆる間仏蘭西訳の聖書を読むことにしたり。米の煮ゑ始めてより能くむせるまでに四、五頁をよみ得るなり。余は老後基督教を信ぜんとするものにあらず。信ぜむと欲するも恐らくは不可能なるべし。されど去年来余は軍人政府の圧迫いよいよ甚しくなるにつけ精神上の苦悩に堪えず、遂に何らか慰安の道を求めざるべからざるに至りしなり。耶蘇教は強者の迫害に対する弱者の勝利を語るものなり。この教は兵を用いずして欧州全土の民を信服せしめたり。現代日本人が支那大陸及南洋諸嶋を侵略せしものとはまったくその趣を異にするなり。聖書の教るところ果して能く余が苦悩を慰め得るや否や。他日に待つべし。」(1943年10月11日)
「余は去年頃までは東京市中の荒廃し行くさまを目撃してもさして深く心を痛むることもなかりしが 今年になりて突然歌舞伎座の閉鎖せられし頃より何事に対しても甚しく感傷的となり、都会情調の消滅を見ると共に この身もまた早く死せん事を願ふが如き心とはなれるなり。オペラ館楽屋の人々は無智朴訥(むちぼくとつ)。あるいは遊蕩無頼にして世に無用の徒輩なれど、現代社会の表面に立てる人の如く狡猾強欲傲慢ならず。深く交れば真に愛すべきところありき。されば余は時事に憤慨する折々必この楽屋を訪ひ彼らと飲食雑談して果敢(はかな)き慰安を求むるを常としたりき。然るに今や余が晩年最終の慰安処は遂に取払はれて烏有(うゆう)に帰したり。悲しまざらんとするも得べけんや。」(1944年3月31日)
戦争目的となる八紘一宇、国体護持も理解できないような下級庶民とされた人たちにも、人間味のある愛すべきところを感じていた。
「三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。火は初め長垂坂中ほどより起こり西北の風にあふられ忽 市部衛町二丁表通りに延焼す。余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き 日誌及草稿を入れたる手鞄包を提げて庭に出でたり。谷町辺にも火の手の上がるのを見る。また遠くの北方の空にも火光の反映するあり。火星(ひのこ)は烈風に舞ひ粉々として庭上に落つ。余は四方を願望し到底禍を免るること能はざるべきを思ふ、早くも立迷ふ烟の中を表通りに走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難かるべしと言ふ。道を転じて永坂に至らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり。時に七、八歳になる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出で溜池の方へと逃しやりぬ。余は山谷町の横町より霊南坂上に出て西班牙(スペイン)公使館側の空地に憩ふ。下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇を見る。荷物を背負いて逃げ来る人々の中に平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまぢりたり。余は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもやや知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中邸の門前に歩み戻るぬ。巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはずれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドルスペルゲル氏褞袍(どてら)にスリッパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ。崖下より飛来りし火にあふられその家今まさに焼けつつあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて来り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各々その住家を捨てて逃げ来りし由を告ぐ。」(1945年3月9日東京大空襲)
「六月廿八日。晴。---この夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひぴかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。」(1945年6月28日)
荷風は、岡山県勝山に疎開していた谷崎潤一郎を訪ねた。「八月十四日。晴。朝七時谷崎君来り東道して町を歩む。----正午招がれて谷崎君の客舎に至り午飯を恵まる、小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり。----谷崎氏方より使の人釆り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ。急ぎ小野旅館に至るに日本酒もまたあたためられたり。細君下戸ならず。談話頗興あり。九時過辞して客舎にかへる。」(1945年8月14日)
「贅沢は敵だ」一億特攻生活が文化人にも謳われていたが、堕落した耽美派の荷風、潤一郎には「贅沢は素敵だ」としか、感じられなかった。戦局の悪化の最中に、美食し祝宴を張る「非日国民」的態度は傍若無人である。戦争末期の暗黒時代とは思えない。
「八月十五日。陰りて風涼し。-----飯後谷崎君の寓舎に至る。鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る。-----駅ごとに応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る。-----新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすぴに昆布佃煮及牛肉を添へたり。欣喜措く能はず。-----午後二時過岡山の駅に安着す。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、-----休戦の祝宴を張り皆酔うて蹴に就きぬ。」大元帥昭和天皇の玉音放送を拝聴することもなく、弁当を味わった。人伝に聞いて、終戦を喜ぶ荷風である。それにしても、大日本帝国の敗戦に深刻な気分に陥らならないどころか、祝宴を張るとは狂っている。それとも、深刻になって総力戦を戦っていたことが狂っていたのか。 
 
女性の歴史の七十四年 / 宮本百合子

 

私たち日本の女性は、これまでの歴史の中で、はたしてどんな政治的な経験と呼ばれるものをうけついで来ているのだろうか。
自由民権時代に、岸田俊子その他の若い女性が活躍したことは周知のとおりだし、大正末期から昭和六七年頃までの期間、多くの若い婦人が政治的な関心をめざまされて活動したことも、まだ記憶に新しいことだと思う。
維新の風雲の間を奔走した女のひとたちはもとより少くなくて、それらの婦人たちは歴史の波瀾のうちに生死をも賭したのであったが、総ての時代を通じて印象を辿ってみると、日本の婦人一般にとって政治的な活動をする婦人は、すぐ一種の女傑になってしまって、家庭生活を中心に朝夕を送っている人々の実感からどことなし一歩はなれた存在となって来た傾きがつよいと思われる。
明治十四年に十九歳であった岸田俊子が、三年の女官生活から一直線に自由党の政治運動に入って行った過程は、いかにもその時代の若々しく燃え立って、形の固定していなかった日本の社会情勢を語っていて、俊子の性格の烈しさの面白さばかりに止まらない感興を後世に与える。俊子は、当時の進歩的な人々のものの考えかたに従って男女平等論や一夫一婦論や女子教育論、あるいは政局批判に熱弁をふるったわけであったが、彼女の政治的見解というものははたしてどこまで深くその身についていただろうか。
年齢が若かったというばかりでなく、たとえばそれらの演説会に出るときの服装などについても、俊子は相当のはったりをきかしているところが見える。「大阪では文金高島田、緋縮緬の着物に黒縮緬の帯という芝居の姫君のような濃艶な姿、また京都その他では黒白赤の三枚重ね」と土地柄を見て演出効果を考えていたことも相馬黒光女史の「明治初期の三女性」の中に語られている。明治十六年の秋京都で「女子大演説会」というものを開いたときには、太刀ふじという七つか八つの女の子に前座をつとめさせたこともあった様子である。
明治十三年に神田の区会に婦人傍聴者が現れたということが神崎清氏の婦人年鑑にあって、それから明治二十三年集会結社法で婦人の政談傍聴禁止がしかれるまで、成田梅子、村上半子、景山英子らの活溌な動きがあったのだが、岸田俊子にしろ当時の自由党員中島長城と結婚してからは、自分の過去の政治活動をあまりよろこばしい回想とはしていない口吻であったことが語られている。俊子の生涯の活動ぶり、情熱の中心は、自分というものが身にもっている容色と才智との全部を男と平等なあるいは男を瞠若(どうじゃく)たらしめる女として表現してゆこうとする意欲に熱烈で、その面には徹底的であったらしいけれども、当時のおくれた無智におかれている同性に対しては決して暖い同情者啓蒙者であるといえなかった点も、今日から見ると、一種のおどろきに似た感情を与えられる。
明治三十二年というと中島湘煙の死ぬ二年前のことだが、その頃青柳有美が大磯の病床に彼女を訪問したときの湘煙の談話は、彼女の女性観をまざまざと示している。
有美はその時分女への悪口で攻撃されていたらしい。湘煙はいくらか同情気味で「私は実は女が大嫌いサ。」といっているのである。
「ドウも洒落な、かまわん所がないからナ……男ならどんな人でも大抵手には余さんが……女と来ると丸で呼吸が分らんでナ……どう向けて善いものやら、……トンと困るテ。遇うとつまらん外部ばかりの話をしてナ……ちっとも面白くないのだ。ドウも疲れるよ。一体女というものには少しも禅気がないからナ。女はみんな魔のさしてるものだよ。」
そして、女の仲間へゆくと自分がすっかり無言になって、非常に縮って、顔が熱くなって来て気が遠くなったような心持がして「この腕もトンと揮(ふる)えんてナ」と述懐している。僅か三十七歳ばかりの婦人の言葉としてきくと、これらの言葉づかいそのものさえ今日の女の心には珍奇に思える。ヨーロッパだからって女ばかりが集ってする話は同じことで、外国の夫婦喧嘩の多いことはおどろくばかりである。
「日本の家庭の方が遙に善いよ。殊に昔風の家庭の方がよいよ」と。
しかし、福沢諭吉はこの明治三十二年に六十六歳で「女大学評論」「新女大学」を発表し、貝原益軒流の女庭訓でしばられた日本の女の社会的な向上のために周密真摯な努力と具体策を示しているのである。
自身女性である中島湘煙が、なぜ女はみな魔がさしているような非条理におかれているかというその原因にまでふれ、沈潜して理解してゆこうとせず、かえって男の福沢諭吉が女のために懇切、現実的であったという事実は私たちに何を教えるだろう。それぞれの人の為人(ひととなり)の高低がそこに語られているばかりでなく、婦人そのものの社会的自覚が、その頂点でさえもなお遙かに社会的には狭小な低い視野に止っていた日本の女の歴史の悲しい不具な黎明の姿を、そこに見るのである。
景山英子は、その生涯の間には、婦人の社会的向上の問題の理解を次第に深めて、明治四十年代「青鞜」が発刊された頃には婦人の社会的な問題の土台に生産の諸関係を見、婦人の間に社会層の分裂が生じる必然の推移までを見て、平塚雷鳥が主観の枠内で女性の精神的自己解放をとなえていた到達点を凌駕した。彼女は明治三十四年に女子の工芸学校を創立したりして、婦人の向上の社会的足場を技術の面から高めて行こうとする努力をも試みたのであったが、その業績は顕著ならずして、時代の波濤の間に没している。
明治二十年以後の反動期に入ると、近代国家として日本の社会の一定の方向が確定したとともに、婦人に求めてゆく向上の社会的方向もほぼ固定しはじめた。当時日進月歩であった新日本の足どりにおくれて手足まといとならない範囲に開化して、しかも過去の自由民権時代の女流のように男女平等論などを論ぜず内助の功をあげることを終生のよろこびとする、そのような女を、明治の日本は理想の娘、妻、母として描き出したのであった。三十二年の高等女学校令は、四十二年後の今日に迄つづいていて、その精神は、古くもないが決して新しすぎもしない若い女の産出をめざしているのである。
六十六歳の福沢諭吉が、日清戦争の勝利の後の日本が、一応進歩的傾向での安定を見出したこの三十二年に「新女大学」を発表したということは、なかなか複雑な社会史的ニュアンスがこもっていると思う。
大体福沢諭吉が益軒の「女大学」を読んで、それに疑義を抱き、手控えをこしらえはじめたのは彼の二十五歳の年、大阪から江戸へ出た時代の事である。「学問のすすめ」は明治五年にあらわれて、日本の黎明に大きい光明を投げたのに、「女大学評論」と「新女大学」とは「幾十年の昔になりたる」その腹稿をやっと三十二年になって公表の時機を見出したということには、それ迄の日本が岸田その他の婦人政客を例外的に生みながらも、全体としては「真面目に女大学論など唱えても」耳を傾ける人のすくない状態におかれていたからにほかならない。
婦人の独自な条件に立って体育、知育、徳育の均斉した発達の必要と、家庭生活における夫婦の「自ら屈す可からず、また他を屈伏せしむべからざる」人性の天然に従った両性関係の確立、再婚の自由、娘の結婚にあたって財産贈与などによる婦人の経済的自立性の保護などについて説いている諭吉の「新女大学」は、今日にあっても私たちを爽快にさせる明治の強壮な常識に貫かれている。
若い女性たちが数百の小説本はよみながら、一冊の生理書を読んだこともないひとの多いことをなげき「学問の教育に至りては女子も男子と相異あることなし」ということを原則として示している。けれども、日本の社会の実際は、女の向上を等閑にして数百年を経て来ているのだから、男と同等の程度に女の学問がおよぶためには相当の年月がいるであろうと見ている。
「文明普通の常識」程度として、「ことに我輩が日本女子に限りて是非ともその知識を開発せんと欲する所は社会上の経済思想と法律思想と此の二者にあり」とする諭吉の言説は、とくに注目されなければならない重要な点だと思う。婦人に経済法律とは異様にきこえるかもしれないが、その思想が皆無であるということこそ社会生活で女が無力である原因中の一大原因である。女には是非この知識がいる。「形容すれば文明女子の懐剣と云うも可なり」そして、この新興日本にふさわしい大啓蒙学者は青年のような英気をもって、「夫れ女子は男子に等しく生れて」という冒頭の一句から全篇二十三ヵ条にわたって真に心と肉体の健やかで人間らしい娘、妻、母を生むために必須な社会向上の要点を力説しているのである。
中島湘煙が、いいといった昔風な家庭の土台をなす益軒流の観念に対して、諭吉は歯に衣をきせず「女子が此の教に従って萎縮すればするほど男子のために便利なるゆえ、男子の方が却って女大学を唱え以て自身の我儘を恣にするもの多し(中略)女子たるものは決して油断すべからず」と警告しているのである。
四十余年前に現れているこの「新女大学」の内容の何分の一が、今日の日本に実現されているのであろうか。
たとえば女子の教育について、まだすべての高等専門学校、大学が女子の入学を許すところ迄行っていない。大正十年ごろ、美術学校や早大慶大が女子本科生入学許可の方針をきめたが、それは却下された。早大が昨年やっと正科に女生徒を入れるようになった。
日本の女子にとっては、一層必要とされている経済や法律思想は、現在一般の婦人の常識と日常生活のうちにどこまで具現されているだろうか。
世界の国々ではどこでも、婦人の政治的な成長の第一歩が常に公民権の獲得からはじめられていることは周知のとおりである。永井享氏の「婦人問題研究」によると、イギリスでは一八六九年(明治二年)に女子に公民権を認められ一九一八年(大正七年)の人民代表法で三十歳以上の婦人に参政権を与えた。それによって約六百万人の婦人が選挙権をもつこととなった。ノルウェイの婦人は、一番早く一九一三年(大正二年)完全な参政権を得ている。ドイツが第一次大戦終結の後一九一九年(大正八年)ヴェルサイユ条約成立と年を同じくして、新憲法による男女二十歳以上の一般、平等、直接、無記名投票権を認めていること、および、ソヴェト・ロシアが一九一七年(大正六年)十一月以来生産的公益的労働によって生計を営む十八歳以上の一切のもの(即ち男女をこめて)に選挙権を認めていることなどはすでに知られているとおりである。
ひるがえって日本の明治以降をみると、さきにふれたように、自由民権時代の末期(明治二十三年)に集会結社法で婦人の政談傍聴を禁止されてから、更に明治三十三年(一九〇〇年)エレン・ケイが「児童の世紀」を書いた年、治安警察法第五条によって、女子の政治運動が禁止された。
神崎氏の年表に、三十六年鳩山春子選挙演説を行うとあるけれども、それは恐らく愛する良人か息子のために、この有名な老夫人が出馬応援したという範囲のことであろう。
大正九年、大戦後の波は日本の社会にもうちよせ平塚雷鳥の新婦人協会が治安警察法第四条の改正を議会へ請願したりする迄の十数年間、日本の一般の家庭婦人の経た政治的訓練というものは、一部の婦人の選挙の前後の内助的活動と、選挙が近くなるとあすこの奥さんは愛想がよくなるよ、という風な庶民的諷刺とにとどまっていたと思えるのである。
大正十二年(一九二三年)普選案が国民全体の関心の焦点におかれたにつれて、婦人参政権建議案が初めて議会に提出された。市川房枝、金子しげりなどの婦人参政権獲得期成同盟会が成立したのは翌十三年のおしつまった十二月のことであり、いよいよ十四年普選案が両院を通過したと同時に、婦選の要望もきわめて一般的なひろがりをもちはじめた。
大正十五年二月には婦人参政建議案が衆議院で可決され、昭和二年の全国高等女学校長会議で、婦選問題が討議されたという事実は、今日の議事題目とくらべて何というちがいであろう。
昭和四年(一九二九年)には、政友民政ともに婦人公民権承認に立ち、この年の一月には婦選デーが催された。しかし、市町村制改正の政府案から婦人公民権は削除され、当時、公民権賛成議員が多くて政府はその対策に腐心したと記録されている。政友民政両党から出された婦人公民権案は、ついに否決されたのであった。
ところが五年の議会ではまたこの公民権がもりかえされて、ともかく衆議院では可決されるところ迄こぎつけたが、貴族院では審議未了となり、全国町村長会議では、婦人公民権案に反対を決議しているというのは、実に町村長などという地方的有力者に代表されている一般観念の根づよい偏見と保守性を語っている。
貴族院もまたその議員たちの属する社会層の伝統の重さ古さによる故であろうか、昭和六年の婦人公民権政府案を貴族院で否決してしまった。
満州事変が昭和六年九月に勃発したことは、以来引つづいて今日に及んでいる日本の全社会生活の大変動の発端をなしているが、婦選運動の流れは、ここにおいて歴史的屈折をよぎなくされている。
従来欠かさず提出されていた婦選案、廃娼案が昭和八年の議会からは、提出されなくなった。これは日本のどのような施政の方針変化を示す事実なのだろうか。
十数年来婦選のために力をつくして来た種々の婦人団体は昭和九年以来、方向転換して母子保護法の達成に協力することとなり、十二年それが可決されてのち、婦選運動家たちの動きは、時局に際して一種の名状しがたい消極的混乱におかれるに到った。「時局研究会」とか「精動」とか種々の委員会への分散的吸収にまかせざるを得なくなって、この夏、新体制の声とともに、婦選獲得同盟は十八年の苦闘の歴史を閉じて解消してしまったのであった。
婦選の動きが日本にあってはこのように見るも痛々しい浮沈をくりかえして、公民権さえもついに誕生し得ないまま未曾有の世界史的変化に当面しているという今日の現実は、明日における主婦たちの政治的自覚を期待する上に、消すことのできない大きい深刻な痕跡を刻みつけているものであることを、私たちは忘れてはなるまいと思う。
金子しげり、市川房枝などの運動と並行して昭和二年(一九二七年)ごろ無産派婦人政治運動促進会というものができ、全国婦人同盟が組織され、その流れは爾後七八年間種々転変しつつ、日本の勤労的な生活にある婦人層の広汎な政治的成長のために尽瘁(じんすい)しつづけた。明治の暁の光の中で半ば生れんとして生れなかった自由民権時代の婦人の社会的覚醒への希望の本質は、むしろこの流れのうちに発展され、うけつがれるべきであったが、日本の社会の歴史の全く独特な襞の深さは、常に歴史のテムポを極度に圧縮し、あらゆる事象の発達の前後の関係に無理を生じさせている実際が、この面についてもいえる。今日までの婦選が一方において中流的な婦人層の政治的な成熟の形となって完成されず哀れや蔕(へた)ぐされて落ちた如く、他方勤労的婦人の生活の声も組織されず、昭和十三年の婦人年表には、母子保護法実施とならんで婦人の坑内労働復活という二つの矛盾した事項が肩をならべて記載されることとなったのである。
日本の歴史に縫いあらわされている婦人のこのような社会力の弱さは、今日の新しい日本の進み出しのあらゆる場面で、種々様々の困難を生じていると思う。女自身の低さに女が苦しんでいるばかりでなく、そのような婦人の低い未訓練な社会的態度というものが、女をそのように導いて来た男の推進にも今や重荷と化していることは明瞭だと思う。
たとえば、「精動」に参加していた名流婦人たちは、彼女たちのいわゆる時局的な動きの間で、はたしてどれだけ真に国民の感情に暖く賢くふれてゆくような仕事ぶりを示しただろう。自身がいわばすでに功成り名をとげた人々であるそれら大多数の婦人たちは、政治的に、すなわち客観的に現実的に社会現象を判断し対処してゆく能力は欠いていて、事大的な追随を政治的な態度と思いあやまって、結果としてはかえって、時局を漫画化する登場人物の役割をもった傾さえあった。同時に、対外的な場面も拡大されているのだがそういうところで日本の婦人が示す言動の、政治を意識する方法の低さから生じる非政治性というものは、やはり案外に大きい意味をもっているのではないかと思う。そういう点では、婦人参政権獲得のために苦難な道を経た先進婦人たちも、日本では政治上直接に婦人が発言してゆく機会をもっていなかったため、いつも間接に、いつも男の代議士を動かして公の声を伝えなければならなかったということで、自身の動きかたを、おのずからふるい政治家流の観念に犯されている悲しさもあるのである。
明日の日本の主婦たち、娘たちが健全な新鮮な政治の理解に立ち、自分たちの日常の生活処理にかかわることとして政治的成長を遂げてゆくことは、決してたやすいことではないと思う。
隣組ができて、そして物資の問題が切迫するようになって来てから、婦人の政治的関心が高まったということも聞くけれども、「贅沢は敵だ」というような標語をその文字の意味で理解するようになったというのが、婦人の政治的成長というのは、あまり、安易な解釈と自己弁護であろう。
成長をうながす一つの方法として、一部では隣組に主婦会をおいて、主婦というものを一つの職能として上部の組織へも代表を送り出して発言する可能をつくろうと考慮中らしい。
主婦という立場を職能とみるべきであるという考えは、日本の新体制からはじまったことではなく、社会施設の完備を目ざしている国々ではドイツでもソヴェト・ロシアでも、主婦の仕事を社会構成上の一職能として評価している。しかしながらきわめて興味あることは、そのようにして主婦に職能としての社会的評価を明らかにしているところでは、そのような婦人に対する社会的評価そのものからみな選挙権その他市民としての政治力を認めていることである。
現在政府の各種委員会に婦人代表として参加している婦人委員たちが、いかなる扱いをそこで受けているかということは、たとえば最近制定された女子の賃銀問題についてみても明らかであると思う。
政治上の権利をもったからといって女が幸福にならず、良人や子供たちを幸福にするものでもないことは自明だけれど、この社会にあって幸福を守り、つくり出してゆく条件の可能を増してゆくためには、一定の社会的評価と契約の表現として、政治上の力は女にとって必要なのである。
一二年来、国防婦人会、愛国婦人会その他婦人を家庭の外へ外へと動員する傾向がつよめられて一般家庭の感情には、婦人を家へ、と取りかえしたい心持が相当湧いて来ていると思われる。
この感情は、婦人の政治的な向上をともすれば外出がちな形をもたらすものと思いちがえさせ、保守に傾かせる危険をもっている。政治的な成長ということは、必ずしも隣組選出の区議を当選させるために主婦たちが活躍するというような末梢のことではあるまい。
大きく日本の世界におけるありようを知って、自分の愛する家族たちの動き、浮沈について利害をこえた理解同情をも抱ける婦人の感情の高まりは、単純なヒロイズムからは期待されまいと思う。
どんな主婦も、その前は娘たちであるのだし、今日の若い娘たちがやがて主婦となるという現実から、今日の日本の学校教育が若い婦人たちにどのような政治的訓練を与えているかを見直される必要があると思う。
政治の本来は自ら自らを治める力と方法との自覚の謂であろうし、万民翼賛の思想にしろその本質に立つものと思うが、たとえば女子の高等程度の学校で、女生徒たちは昨今何かの自主的な活動に訓練されているのであろうか。
学校の寄宿舎生の間に、自分たちで組織している物資融通機関のようなものや、輪読会のようなものや、級自治会のようなものはあるのだろうか。自分たちの生活の必要にたって、必要を整理解決してゆく政治の初歩的なそういう習慣が女学校生活の何年間かに養われるということは、将来に意味あることだろうと思う。
現在ではその間、またさまざま微妙な関係が生じているのではないだろうか。集団の行動を奨励している他の反面では、男や女の学生たちが自分たちで集って何かきめてやるということについて学校当局は神経を過敏に動かすのではないだろうか。
政治的成長というものは、いってみればそのような撞着的事象の本体を洞察して、その間から何か積極的な合理的な人間生活建設の可能をとらえてゆく動的な生活的叡智、行動にほかならないのであろうと思う。そして、ある場合には、婦人の真の政治的な成熟のために、いたずらに画一的な、便宜主義の、判断のない、投票の数をかき集め式な目的をもつ婦人の政治的参加に対しては、婦人自ら追随を拒む必要も生じるであろう。婦人はあくまで自分たちの日常の生活をみきわめて、そこからの智慧と判断で鋭く判断して、成長して行かなければならないのだと思う。
〔一九四一年一月〕 

女性の歴史 文学にそって / 宮本百合子

 

私たちが様々の美しい浮き彫の彫刻を見るとき、浮き彫はどういう形でわたしたちに見られているだろうか。浮き彫の浮きあがっている面からいつも見ている。けれどもその陰には浮き上っている厚さだけの深いくぼみがある。人生も浮き彫のようで、光線をてりかえして浮き上っている面の陰には、それだけへこんだ面があり、明るさがあればそれに添った影がある。
文学は人生社会の諸相を、眼の前にまざまざと見え感じるように描き出す。そこで社会の明るさと暗さはどういう関係において見られるのだろうか。ここに文学の新しい見方があると思う。婦人と文学という問題をとりあげて、それを人類と文学の歴史という問題から見てくると、第一に何故世界の婦人は、これまで男のひとたちよりも文学史的活動をしてこなかったのだろうかという疑問が起って来る。婦人の文学における立場は、知られているとおり、文学史の第一ページから男によって描かれるものとしての婦人であり、創作の対象としてとりあげられている婦人である。このことは意味深い事実だと思う。世界文学の最も古典のものとしていつも語られるギリシアの詩人ホーマーの「イリアード」のなかに、この描かれるものとしての第一の女性が現われている。「イリアード」の中のヘレネは非常に美しく、美しい女性の典型として描かれている。ヘレネは美しさにおいては、ヴィナスのようにも美しかったのであろうが、社会的な存在としてホーマーが彼女を描いているところをみれば、美しきヘレネは当時の支配者たちの、闘争における一人の「かけもの」のような立場におかれている。世界文学にあらわれた第一の女はそのような争奪物としての位置であり「イリアード」が字にかかれる時代には、ギリシアにも、もう家長制度というものが出来上っていたことを示している。ギリシアは自由な国であるとされ、ギリシアの文化はヨーロッパ文明の泉となったけれども、その自由、その文化は奴隷制の上に立っていた。奴隷が畠を耕し織物を織り、家畜を飼って――生活に必要な労働を負担して、ギリシアの自由人の文化生活の可能をつくり出していた。このような地下室つきの自由の上で、たとえギリシアの女の自由というようなことを言ったとしても、現実に女奴隷がその社会に存在しているからには、今日私たちの感情で理解するような本当の自由というものは存在しなかったというのが事実である。ギリシア神話そのものにも、この婦人の立場はよくあらわれていて、たとえばヴィナスは描かれ彫られ、女性の美しさの典型と考えられているが、どの彫刻を見ても、いつもヴィナスは、見られるように観賞物としての女としてあらわれている。織ものをしているヴィナスを見たひとがあるだろうか。子供を育てている普通の女の姿でヴィナスを見た人があるだろうか。キューピッドという彼女の男の子は、いつも恋の使として、金の弓矢をもってヴィナスのそばにいるとしても、ヴィナスの母としての人生、妻としての人生などは見たことがない。彼女は多く裸体で、女性の美しさを発揮しながら、必ず無為の姿であらわされている。ギリシアの生活で働かない女の美しさだけを描いたということは注目されずにいないのである。ヴィナスやヘレネのように女性が芸術の上にあらわれたというところに、人類社会の歴史にあらわれている権力の形の――婦人の悲劇の発端がある。
こうして婦人のうけみな社会的立場をおのずから反映してうけみな対象として文学に導きいれられた婦人は、ルネッサンスの時代、文芸復興期になって、どういう変化をうけたろう。
ルネッサンスは、最も早く商業が発達して市民階級の経済的・政治的実力のたかまったイタリーに十四世紀からおこりはじめた。そして、フランス、イギリス、ドイツと全ヨーロッパに拡がって、それまでの中世的な暗い王権と宗教との圧迫から、自由にのびのびと人間性を解放しようとする運動となり、社会生活と文化は全面的にヨーロッパの近代への扉をひらきはじめた時代であった。
ルネッサンスの時代が進んでからは、婦人の社会的な生きかたもひろがりをもちはじめ、スペインのコルドヴァ大学などで婦人の学者も数人あらわれた。ルネッサンス時代の豊富さ、人間性の横溢を代表する芸術家の一人としてシェークスピアの戯曲が、いつも話題にのぼって来る。シェークスピアの戯曲の登場人物は実に多種多様で、社会の現実そのもののように豊富なのを特徴としている。人間の可憐さ、狡猾さ、奸智、無邪気さ、あらゆる強烈な欲望が描かれていて、そこに登場する婦人も、決して一様ではない。マクベス夫人のようにおそろしい女から、リア王の三人娘のような諸性格、ロミオとの悲しい愛に命をおとしたジュリエットのような姫から、「ウインザアの陽気な女房たち」「奸婦ならし」の闊達おてんばな女、ハムレットの不幸な愛人としてのオフェリアなど、千変万化の女性があらわれている。
ところで、きょう私たちがこのシェークスピアの有名な傑作「オセロ」をみると、その女主人公デスデモーナの運命について、実に痛切に感じるものがある。
オセロはアフリカ生れの黒人の武将であった。勇敢な勝利者としてデスデモーナという、美しいヨーロッパの貴婦人を妻にした。ところがオセロの幕下にイヤゴーという奸物がいる。イヤゴーは単純で正直な人々の生活を、自分の奸智でかき乱して、その効果をよろこぶという、たちのわるい生れつきである。従順で、この上なく美しいデスデモーナと、黒いオセロの睦じい性格は彼の奸智を刺激した。機会をうかがっていたイヤゴーは一つのきっかけをとらえた。その不幸をオセロにうちあけないでいるうちに、イヤゴーはオセロの猜疑(さいぎ)と嫉妬(しっと)をかきたてることに成功した。黒人のオセロは、ただ良人として嫉妬したばかりでなく、一人の人間として、デスデモーナの浮薄さに自分の威厳を傷(きずつ)けられたことをも、たえがたく感じて遂にデスデモーナを殺し、自殺してしまう。オセロはシェークスピアの悲劇の中でも、イヤゴーの奸智、オセロの直情、デスデモーナの浄らかな愛情との点で、今日も活々とした感動を与える作品である。デスデモーナは一枚の見事なハンカチーフをもっていた。それはオセロがくれたもので、なくさないように、もしこれをなくしたら、あなたの愛も失われたと思うよ、という意味を云われて、愛のしるしとしておくられたものであった。イヤゴーの目がそのハンカチーフにひかれた。彼はもち前の巧みなやりかたで、そのハンカチーフをデスデモーナから盗んだ。そして、それはデスデモーナがそっとくれたもののように、周囲に思いこませた。
ハンカチーフを失ったデスデモーナの当惑と心配とはいじらしいくらいだのに、デスデモーナはその大切なハンカチーフがなくなったことについては、ひとこともオセロに話さず、さがすことに協力をもとめていない。
けれども、この悲劇をみているとわたしたち女性の胸は、デスデモーナへの同情にふるえるとともに、デスデモーナへの歯がゆさで煮えて来る。どうして、デスデモーナ!良人のオセロをそれほど愛しているのなら、率直に早くハンカチーフのとられたことを告白して、その不安や困惑を、オセロとともにわかとうとしないのだろうか、と。デスデモーナは、オセロを熱愛しながら、一方で畏怖している。オセロの愛のはげしさをうけみにおそれて、これをなくさないように、と云われたその言葉の力に圧せられ、麻痺させられてしまっている。デスデモーナのこの分別のない過度の従順さ、清浄さ、無邪気さ、品のよさのために、オセロの悲劇は防ぐことが出来なかった。
ルネッサンスに、こういう作品の出来ていることを、わたしたちは意味ふかくうけとらずにはいられない。ルネッサンスは婦人の人間性も解放したけれどもその人間性は、デスデモーナにおいて、どんなにまで受動的であり、分別が不たしかであやうげなものだろう。私達の今日の常識でいえば、非常に大事なハンカチーフをなくした場合は、貴方からいただいたハンカチーフをなくしました、どうか一緒に探して下さいと告げると思う。見つからなくて、非常に叱られたとしても、そのことによって自分の愛情が変っていないこと、失くなったのは一つの災難であるということを認めてもらう。何故ならハンカチーフはものにすぎない。ここで本質的な問題は夫婦の愛の問題である。愛のしるしのハンカチーフは失われても、愛は守らなければならないし守られ得る。そこに人間の自主的で、状況をのりこしてゆく愛情があるわけである。ところがデスデモーナをみると、ルネッサンス時代の上流の婦人というものがそういうふうに自分の愛を守り自分達の悲劇を防いでゆく能力はかけていたということが考えられる。女性のいじらしさとして、男の側からデスデモーナのような性格がみられていたということにもなる。デスデモーナの悲劇は、限りないオセロへの従順さ、献身が、はっきりした判断と意志とを欠いていたために、事態を悪い方へ悪い方へと発展させイヤゴーの奸智に成功を与えるモメントとなっている。こういうデスデモーナを思うとき、私たちの心には、自然さっきのヘレネの問題につづく婦人の立場ということが考えられて来る。
ルネッサンスはデスデモーナに、皮膚の色のちがうオセロを愛させる感情のひろがりをみとめたが、その愛を完成する知性までは開花させていない。ルネッサンス時代は文学作品ばかりでなく、絵画に彫刻に雄大な作品が花と咲き満ちた時期であった。けれどもじっと見ていると、ミケランジェロの絵のなかには何か憂鬱がある。有名なバチカンの壁画など見ていると、宇宙的なミケランジェロの雄渾さとともに一種のみのがせない憂鬱がある。ミケランジェロの伝記を読むと、彼があれほどの才能を持ちながら、法王の我ままと気まぐれのためにどんなに圧迫されたかがよくわかる。ルネッサンスの半面には、まだまだ封建的な苦しいものがあり、法王と芸術家の関係にさえそれが残っていたことがわかる。
当時の法王は、ミケランジェロの才能を認めながら、自分の絶対性を信じる習慣から封建的で、ミケランジェロの芸術家としての人間性を十分認めなかった。ミケランジェロの巨大な才能と大きな人間性のなかには、いつも自分を出し切れない不安があった。丁度デスデモーナが愛と一緒にいつもオセロを恐がっていたと同じように。ミケランジェロは自分の才能と一緒に法王を恐れなければならなかった。
ルネッサンスの表は、華麗豪華な厚肉浮彫の歴史であるが、その陰の部分には封建性が濃くのこっていた。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザはどういう笑いを今日にのこしているだろうか。モナ・リザの微笑は、それが描かれた時代から謎のほほ笑みと云われて来ている。モナ・リザの笑いは、それを見つめている人の心を深くあやしく魅して気を狂わすような微笑と云われている。このモナ・リザのほほ笑みは解放された女のほほ笑みではなく、やはりデスデモーナの不安と、ミケランジェロの憂鬱につながったものであると思う。
世界的な謎の微笑をほほ笑んでいるダ・ヴィンチのこの婦人像は、唇、頬、そして眼の中でほほ笑んでいるだけで、歯をみせて嬉々として笑ってはいない。モナ・リザはじっと何か見つめている。そのまなざしは非常に深くて、こころをたたえているが、それも決して嬉しさにきらきらしている眼ではない。重い、ふっくりと美しい瞼の下の憂鬱な視線である。けれども彼女は、あんなにじっと見つめて、じっと笑いをもっている。モナ・リザ、ジョコンダの笑いの本質はどういうものなのだろう。私たちは女としての自分の心から、モナ・リザとレオナルド・ダ・ヴィンチの心情の中に迫って見ようと思う。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、この美しいモナ・リザの肖像にとりかかって数年間を費したが、到頭未完成で終ってしまった。レオナルドほどの画家が、一つの肖像画に着手して数年をかけながら、それが未完成であったというのはどういうことだったのだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチが一応、モナ・リザを描き終ったと思う間もなく、モナ・リザの顔の上に、眼の中に、そして唇の上に、忽ちこれまでレオナルドの発見しなかった何か一つの新しい人間的な情感、女性としての美しさが閃き出たということを語っていはしないだろうか。
富貴な美しいモナ・リザを描くとき、レオナルドがどんなに心をつくして画室をかざり、音楽を奏させ、彼女をたのしくあらせようとしたかという情景は、レオナルド・ダ・ヴィンチを主人公としてメレジェコフスキーが書いた「先駆者」という歴史小説に詳細をきわめている。モナ・リザの幽玄な表情は、レオナルド・ダ・ヴィンチの限りないひろさと深さをもった知性をとおして、あのように把握されているものだけれども、あの幽玄なうちに充実している官能のつよい圧力は、決して、レオナルドの知性の生んだものではないと思う。モナ・リザの成熟した芳しい女性としての全存在には、あのように深い愁をもったまなざしでどこかを見つめずにはいられない熱い思いがあり、あの優美な手を、そのゆたかな胸におき添えずにはいられない鼓動のつよさがあったのだと思う、そして、また、レオナルドは、何と敏感にそれを感じとり、自分の胸につたえつつ画筆にうつしているだろう。描かれる美しい婦人と、描く聰明なレオナルドとの間に、いつか流れ合う一脈の情感がなかったという方が不自然である。モナ・リザは彼女の感覚によってレオナルドの知性を感じとり、レオナルドは彼のあらゆるデッサンにあらわれているあのおそろしいような人間洞察の能力で、モナ・リザという一人の女性の内奥の微妙な感覚までを把握したのであった。こういう共感が異性の間に生じたとき、これが恋愛の感情でないという場合は非常にすくない。人間同士の調和の最も深いあらわれは、こういうハーモニーにこそあるのだから。
モナ・リザは、彼女の良人に、レオナルド・ダ・ヴィンチとの間に生まれたような複雑微妙な諧調を感じていただろうか、おそらくそうではなかったろう。そして同時に、モナ・リザは、自分のなかに湧きいでた新しい人生の感覚について、それが、どういう種類のものであるかということは、自分に対して明瞭にしていなかったと思われる。さもなければ、どうして彼女の顔の上にあのように無限に迫りながら、その意志のあきらかでない微笑が漂いつづけたろう。彼女が、はっきり自分の女としての感情の実体をつかんだとき、あのような微笑は、苦痛の表情に飛躍するか、さもなければ大歓喜の輝やきに輝やき出すかしずにいないものである。
こうしてみると、ここでもまたルネッサンスの感情の姿が考えられる。モナ・リザは、自分の眼をそこからひきはなすことの出来ない快い情感をああやって見つめ、見つめて、我知らず語りつくせない心のかげを映す微笑を浮べてはいるが、ルネッサンス時代の彼女は、そのあこがれに向って行動しなかった。凝視し、ほほ笑み、そのはげしい内面の流れによって永久に一つの肖像を、未完成とレオナルドに感じさせたにとどまった。レオナルドがこの画を未完成としたこころも推察される。未完成の肖像は、その依頼者であるモナ・リザの良人の館(やかた)に送られずにすむ。そして、モナ・リザは、果して、レオナルドが、それを未完成として、いつも自分の傍にとどめておくことに不満を感じただろうか。モナ・リザは、父兄の命令によってその選ばれた人との結婚をし、やがて良人の権力のままに一生を送らねばならなかったイタリーの婦人の運命を、自分の情熱によって破ろうとしなかった。ルネッサンスは、モナ・リザにああいう微笑を湛える人間的自由は与えたが、そのさきの独立人としての婦人の社会的行動は制御していたのであった。
こうしてみればルネッサンスの華やかな芸術も、その時代の人達を完全に解放してはいなかったことが明かである。
十八世紀になって、フランスではルソーのような近代的の唯物的な哲学を持った人達が現われて来た。働かねばならないという状態をもたらした産業革命は、この時代から本当に働いて、働くことだけで生きてゆかねばならない勤労大衆を産み出して今日に及んでいる。
プロレタリアの婦人というものが歴史の上に現れはじめた。この時代に、イギリスやフランスに、幾人もの婦人作家が擡頭した。十九世紀のイギリス文学では、その名を忘れることの出来ないジョージ・エリオット。ジェーン・オースティン。ブロンテ姉妹。ギャスケル夫人。フランスでは、スタエル夫人をはじめ、日本の読者にもなじみの深いジョルジ・サンドなど。そして注目すべきことは、これらの婦人作家たちがスタエル夫人のほかはみんな中流階級の女性たちであったことである。ジョルジ・サンドは、はじめの結婚にやぶれてのち、生活のために苦闘しながら、女性の権利を主張した「アンジアナ」をかいたし、エリオットも文筆からの収入で生活しなければならない婦人として小説をかきはじめた。これらすべての婦人作家が、様々のテーマを扱いながら、結局は、当時の社会が婦人の生涯に与えるフランスの絶対王権でつくり上げられ形式主義と宗教的なものの考え方に対して、人間の自然性というものを強く要求してルソーが現われた。
哲学者、教育者としてのルソーの考え方は、フランスのルイ十四世から十六世ごろまでの猛烈な専制主義に対して、人間の平等と自由独立、女も男もひとしい人間性の上に立つ自由を主張した。近代民主主義の先駆者であったルソーのほかに、ヴォルテールやディドロのような、近代思想の啓蒙家があらわれた。
一七九三年のフランス大革命によって、フランスおよび全ヨーロッパに新しい息吹きがふきこまれた。このフランスの大革命の中心人物であったマリー・アントワネットは、腐敗しきっていたフランス宮廷生活の中で、その若々しく軽浮であった一生を最も悪く利用された一人の女性であった。けれども彼女の運命は全く受動的で、歴史的にあれほど様々の角度から話題とされる生涯を送りながら、マリー・アントワネット自身は何も書かなかった。オーストリアのマリア・テレサの娘として最も高い教育を受けていたし、最も多い自由も持っていたはずだけれども。彼女の書いたものは、オーストリアの宮廷への密書だけで、ただ一篇の小詩さえかいていない。あのように小詩がはやり、貴婦人の文学熱がたかかった時代だのに。こういう例をみても、婦人の地位とか学識だけが芸術を生むものではないということが判る。
ヨーロッパ諸国の資本主義社会がその発展の頂上に近づいた十九世紀になって、ルネッサンス以後十八世紀になってはっきり方向を定めた人間解放の問題が具体化して来て、特にイギリスではどこよりも早く蒸気機関の利用による産業革命が行われ、繊維産業が非常に発達した。イギリスの婦人と子供が非常に沢山工場に働き出した。機械の力は多くの工場から筋肉の力を必要とする仕事に必要であった男を首にして、女房も娘も子供も桎梏に抗しているところは、十分注目に価する。ジョージ・エリオットは、自分が婦人だとわかると、いろいろうるさい差別待遇がおこるのをいやがって、筆名は男のジョージ・エリオットとしてさえいる。ジェーン・オースティンにしても、イギリスの中流家庭で結婚ということについてどんなに打算や滑稽な大騒動を演じるかということを、諷刺的にその「誇りと偏見」の中に書いている。われわれのまわりでも、まだまだ結婚適齢期の娘をもった母親は、時にふれ、折にふれて眼の色を変えている。食べるものも食べないようにして箪笥を買ったり、着物を拵えたり、何時でも売物のように誰かが買いに来るというように待っている。「女のくせに」ということを男だけではなく女自身が云ってもいる。十九世紀にオースティンが非常に諷刺的に書いた状態は、封建的な風習の多くのこっている日本のなかにはまだつよく残っている。同じ十九世紀に、ポーランドの婦人作家オルゼシュコの書いた小説「寡婦マルタ」を、きょう戦争で一家の柱を失った婦人たちがよむとき、マルタの苦しい境遇は、そのまま自分たちの悲惨とあまりそっくりなのに驚かないものはなかろう。
ところで日本の婦人は、歴史の中でどういう文学を作って来たのだろうか。わたしたちは万葉集というものをもっている。万葉集は当時のあらゆる階層の女の人のよい作品を集めている。女帝から皇女、その他宮廷婦人をはじめ、東北の山から京へ上った防人(さきもり)とその母親や妻の歌。同時に遊女、乞食、そういう人までが詠んだ歌を、歌として面白ければ万葉集は偏見なく集めている。日本の古典の中に万葉集ほど人民的な歌集はなかった。万葉集以前の古事記や日本書紀の中で、最初に描かれた女性であるイザナミノミコトは、古事記を編纂させた人は女帝であったにもかかわらず、それを書いた博士たちの儒教風な観念によって、男尊女卑の立場においてかかれている。
万葉集は、この歌集の出来た時代に日本の社会全体がその生産方法とともにどんなに原始的であったかということをそのまま反映している。人々は直情径行で、美しいことは美しく、泣きたい時に泣き、愛すれば心も身もその愛にうちこむ日本人の感情が現われている。万葉集をみると、当時は支配権力が決して後世のように確立していなかったこともうかがえるのである。
万葉集の時代が過ぎて文学のうえで婦人が活躍した藤原時代が来る。王朝時代の文学は、主として婦人によってつくられたということがいわれている。栄華物語、源氏物語、枕草子、更級日記その他いろいろの女の文学が女性によってかかれた。なかでも紫式部の名は群をぬいていて、「源氏物語」という名を知らないものはないけれども、その紫式部という婦人は何という本名だったのだろう。紫式部というよび名は宮廷のよび名である。大阪辺りの封建的な商家などで、女中さんの名前をお竹どんとかおうめどんにきめているところがあった。そういうふうな家では、小夜という娘もそこに働いているうちはお竹どんと呼ばれるが、宮中生活のよび名で宮中に召使われているものの名であった紫式部、清少納言、赤染衛門というのも、それぞれ使われているものとしての呼名である。紫式部が藤原の何々という個人の名前は歴史のなかへあらわれて来ない。清少納言も同様である。これまで日本歴史の家系譜の中にはっきり名が現われている婦人は藤原家も道長の一族で后や、中宮になったり王子の母となったりした女性だけである。美しきヘレネのように、藤原一族の権力争いのために利用価値のあるおくりもの、または賭けものであった婦人達だけが名前を書かれている。
源氏物語を書くだけの大きな文学上の才能と人生経験をもちながら現実の、婦人としての生活は男子なみでなかったということがよく判る。更級日記をかいた婦人も名がわかっていない。そして、この中流女性の生活をかいた更級日記には、不遇な親をもった中流女性が、不安な生活にもまれる姿が優美のうちにまざまざと描かれている。枕草子は非常に新鮮な色彩の感覚をもっている。青い葉の菖蒲に紫の花が咲いているのを代赭(たいしゃ)色の着物を着た舎人(とねり)が持って行く姿があざやかであるとか、月の夜に牛車に乗って行くとその轍(わだち)の下に、浅い水に映った月がくだけ水がきららと光るそれが面白い、と清少納言の美感は当時の宮廷生活者に珍しく動的である。感覚の新しさはマチスに見せてもびっくりするであろう。十一世紀の日本の作品とは信じまい。その清少納言という人は誰だったろうか、そして、どうなって一生を終ったかということも判らない。文学の歴史の中にさえ普通の個人の婦人の生活は残っていない。そのような当時の社会のなかで清少納言、紫式部そのほかの婦人がそのように文学作品を書いたという動機は何だったのだろうか。藤原家の権力争奪は烈しい伝統となっていて后や中宮に娘を送りこむときその親たちは、政治的権力を社光的場面で確保するために文学的才能のある宮女をその娘たちの周囲においた。装飾と防衛をかねて。その女主人を飾り、優秀な宮女の名声によってその女主人の地位をも高くたもつために紫式部にしろ、清少納言にしろ、傭われていた。そしてまた、更級日記をみてもわかるとおり権門に生れず、めいめいの才智でよい結婚も見出してゆかなければならなかった中流女性にとって、宮仕えは一つの生きる道でもあった。源氏物語の「雨夜のしなさだめ」は、婦人の一生をみる点で紫式部がリアリストであったということを証明している。当時の貴族社会の男の典型として紫式部は光君を書こうとした。今日からみれば、とりとめない放縦な感情生活のなかにも、なお失われない人間性というものがありたいということを彼女は主張した。
当時は風流と云い、あわれにやさしい趣と云って、恋愛も結婚も流れのうつるような形で、婦人は隷属せず行われたようでも現実には矢張り男の好きこのみで愛され、また捨てられ、和泉式部のような恋愛生活の積極的な行動力をもつ女性でも、つまるところは受けみの情熱におわっている。紫式部のえらさは、文学者として美しいつよい描写で光君を中心にいくつかの恋愛を描きながら、一貫して人のきずなのまこと、まごころというものを主張しているところだと思う。「末つむ花」のような当時の文学のしきたりから見れば破格の面白さも、その点からこそ描いた源氏物語には女のはかなさというものへの抵抗が現われている。紫式部は決して、優にやさし、というふぜいの中に陶酔していなかった。
藤原時代の栄華の土台をなした荘園制度――不在地主の経済均衡が崩れて、領地の直接の支配者をしていた地頭とか荘園の主とかいうものが土地争いを始めた。その争いに今ならば暴力団のような形でやとわれた武士が土地の豪族の勢力と結んで擡頭して来て不在地主であった公卿を支配的地位から追い、武家時代があらわれた。やがて戦国時代に入る。ヨーロッパにルネッサンスの花が開きはじめた時代から日本が武家時代に入ったということを、私たちは忘れてはならないと思う。この事実は明治維新に影響し、今日の日本の民主化の問題に重大な関係をもっているのである。
武家時代に入ってからの婦人の生活というものは実にヘレネ以上の惨憺たるものであった。女性は美しければ美しいほど人質として悲惨だった。人質としてとられ、又媾和的なおくりものとして結婚させられる。戦国時代の婦人達の愛情とか人間性というものがどんなにふみにじられたかということは細川忠興の妻ガラシアの悲壮な生涯の終りを見てもわかる。明智光秀の三女であったおたまの方はキリスト教を信仰してガラシアという洗礼名をもっていた。石田三成が大阪城によって、徳川家康に反抗しようとしたとき、徳川の側に立っていた細川忠興の妻であり、秀吉によって実家の一族を滅された光秀の娘であるガラシアは、大阪城へ入城を強要されたのを拒んで、屋しきに火をかけて、老臣に自分を刺させて死んだ。三十六歳の短い生涯の間に、おたまの方は、武門の女の人生の苦痛を味わいつくして、その生をとじたのであった。
この時代には文学の創造者としての婦人は存在し得なくなった。この時代の特色ある文学として現れた謡曲の中に婦人は描かれるが、それは例えていえば物狂い――気狂いとか、愛情の絆によって、生きながら生霊(いきりょう)となり、また死んでも霊となって現れるような、切ない女の心に表現されている。当時の婦人はどんなに自分達の希望を殺して生きていたか、また殺させているという暗黙の恐怖が男たちの意識の底を流れていたかが解る。物狂いと云い、生霊、死霊(しりょう)と云い、そこでは普通でない人間に対する怖れがある。謡曲は僧侶の文学とされている。女のあわれな物語を、現代の闇商売で有閑的な生活に入った人々が唸っているのは、腹立たしく滑稽な絵図である。
徳川家康が戦国時代に終止符をうって江戸の永くものうい三百年がはじまった。この時代の婦人の立場は「女大学」というもの一つを取上げただけで十分に理解することが出来る。徳川三百年と云えば、ひとことだけれども、そこから尾をひいていて今日私どもが解決しきっていない沢山の封建性についての問題がある。支那の儒教の精神を模倣して、封建時代には絶対に家が中心問題とされた。家風にあわざるものは去る。子供を生まねば去る。嫉妬ふかければ去る。七去の掟ということが貝原益軒の「女大学」のなかに堂々とあげられている。妻たるものは早く起きて遅く寝るべきである。女は食物におごってはいけない。この貝原益軒が養生訓をかいて、男の長寿のための秘訣をくどくど説明しているのを見くらべると、私たちは心からおどろかずにはいられない。眠り不足で栄養不良で体のつめたい女に、子を生まなければ去る、というむごたらしさはどうだろう。子のないのを女のせいばかりにする人にどうして養生訓がかけただろう。
徳川時代の文学者としては近松門左衛門にしろ、西鶴、芭蕉にしろ、文学的にはずっと劣るが、有名ではある馬琴だとかが出ている。けれども婦人作家は一人もこの三百年間に出ていない。辛うじて俳句の領域に数人の婦人の名が記されているにすぎない。親や兄、良人、また息子に服従しなければ生きてゆく道がない。自分の意見で生きられない。男が殿様の命令を絶対のものとして服従しなければならなかったとおり、女は男に服従しなければならない時代に、その婦人に文学が書けるはずがない。武士階級にも文学は創造されなくなった。戦さの間には深くものを考えてはいけない。この軍事的教育はついこの間までの日本にも怪異のように存在した。頭を切り取ったその代りに鉄兜をのせられたような人間の生存で、どうして文学という人間らしいうちにも人間らしい創造が行われよう。自分が自分の心の主人であることさえ認められない時代には、それがいつであっても文学は生れない。
芭蕉はどういう境遇のものだったろうか。彼は下級武士で、やがて武士をやめて俳諧の道に入った。芭蕉の風流というものの規準が極端に小さい経済的基礎の上に立っていることは、意味ふかいことである。芭蕉は、小舎の柱に一つの瓢箪をつるし、そのなかに入れた米とそのほかほんの僅かの現世的経済の基礎を必要としただけで、権力のための闘いからも、金銭のための焦慮からも解放された芸術の境地を求めた。それは芭蕉の時代にもう武士階級の経済基礎は商人に握られて不安になっており、したがって武士の矜恃(きょうじ)というものも喪われ、人にすぐれて敏感だった芭蕉に、その虚勢をはった武士の生活が堪えがたかったことを語っている。
大きな商人の隠居だった西鶴はまた違っていた。西鶴が経済的な面で大阪の当時の世相を描き出した短篇「永代蔵」その他は芭蕉と全然違ったリアリティーをもっている。武士出身の芭蕉が芸術へ精進した気がまえ、支那伝来の文化をぬけてじかに日本の生活が訴えてくる新しい感性の世界を求めた芭蕉の追求の強さ、芭蕉はある時期禅の言葉がどっさり入っているような句も作った。その時代を通過してから芭蕉の直感的な実在表現は、芸術として完成された。芭蕉の弟子には婦人の俳人もあった。が女の生活は、たとえ彼女が俳句をつくろうとも、徳川時代の女に求められているすべての義務を果したうえで辛うじて風流の道のためにさかれなければならなかった。芭蕉の芸術のように精煉し圧縮し、感覚をつきつめた芸術の道が、そのような女性の生活ではなかなか歩むにかたいことであった。家事に疲れた僅かの時間を行燈(あんどん)のもとでひっそりと芸術にささげるのでは、女の才能が伸びる可能もまことにおぼつかない。
近松門左衛門は封建の枠にしばられなくなった武家、町人などの人間性の横溢をその悲劇的な浄瑠璃の中で表現した。そして、当時の人々の袖をしぼらせたのであったが、ここには様々の女性のタイプがその犠牲や献身や惨酷さにおいて扱われている。しかし、近松や西鶴に描かれた女性は、自分で自分たち女性の声をかく能力はもたなかった。当時社会のきびしい階級、身分制度によって動かすことの出来なかった堰で、互の人間的発露を阻まれた男女、親子、親友などのいきさつが浄瑠璃者の深情綿々とした抒情性で訴えられている。義理と人情のせき合う緊迫が近松の文学の一つのキイ・ノートであった。近松門左衛門の文学に描かれた不幸な恋人たちは、云い合わせたように心中した。幕府はあいたい死にを禁じていたにもかかわらず、この世では愛を実現出来ない男女が、あの世に希望をつないで死を辿った。
このような哀れな人間性の主張の方法は、決して明治になってからも、日本の社会から消えなかった。そして今日では恋愛から心中しないけれども、生活難から心中する親子が少くなくなって来ていることを私たちは見ているのである。
さて、日本の歴史は明治に移った。明治維新は近代のヨーロッパ社会に勃興した市民階級(ブルジョアジー)が封建社会に君臨した王権を転覆し歴史を前進させた革命ではなかった。日本のブルジョアジーが薩長閥によって作られた政府の権力と妥協し、形を変えて現れた旧勢力に屈従することによって資本主義が社会へ歩みだしたという特殊な性格をもっている。新しい明治がその中にどんな古さをもっていたかということは樋口一葉の小説にも現れている。一葉の傑作「たけくらべ」は、たしかに美しいと思う。雅俗折衷のああいう抒情的な一葉の文章も古典の一つの典型をなしている。
樋口一葉は二十五歳の若さでなくなっている。彼女がはじめて小説を書こうとしはじめたとき、その相談のため半井桃水という文学者との交渉があった。樋口一葉ほどの才能のある女が、桃水のような凡庸な作家とどうして親しくなったかということが、研究者の間でよく話題にされる。小説「雪の日」の題材となる雪の日の日記があって、それを見ると半井桃水は樋口一葉と同様に貧乏であったことがよくわかる。一葉は当時上流人を集めていた中島歌子の塾に住みこみの弟子のようにしていたが、わがままな育ちの若い貴婦人たちのなかで彼女がどんなに才能をねたまれ、つらいめを見ていたかということは、こまかい插話にもうかがわれる。貧乏というものは口惜しいものだということを一葉は日記の中で書いている。半井桃水が借金に苦しめられて居どころをくらまして、小さい部屋にかくれ住んでいる。そこへ一葉は原稿を読んでもらいにもって行く。貧乏な生活が一葉の現実である以上、それをむき出しにしている半井桃水を自分の仲間、一番近い男だと感じたことがうなずける。生活の現実の類似。貧しい仲間だという気持。それが強い動機となって一葉は桃水に親しみを覚えたにちがいない。ところが桃水との交際を中島歌子から叱られる。一葉は桃水との恋などとは思いもよらないことだといって、桃水とのつきあいは絶ってしまった。桃水とつきあいのあった間、樋口一葉に恋の歌は一つもなかった。実際に桃水とのつきあいをやめて、もう誰も自分の身を非難する人がないというようになって樋口一葉はやっと封建的な圧力からぬけて恋の歌をよんでいる。それもどっさりあふれるように、恋の歌をつくっている。これは、明治という時代にあらわれた一つのデスデモーナのハンカチーフだと思う。
ここに一葉の生きていた明治十九年という時代の封建性の強い性格が私たちに多くのことを語っている。この明治十九年という年を世界の歴史でみれば、アメリカで第一回のメーデーが行われた時代であった。そして、はじめて八時間の労働、八時間の教育、八時間の休養を世界の労働者が要求してたった時であった。明治二十三年に日本では、それまでの自由民権運動を禁圧して、専制権力の絶対性を擁護した。この年に世界の国際メーデーがはじまっている。私たちはこんなにヨーロッパ、アメリカとはずれた歴史の本質の上に今日の歴史をうけついでいるのである。一葉の「たけくらべ」は封建的なものと、藤村などによって紹介されはじめていた近代ヨーロッパの文学にあらわれたロマンティシズムの影響とが珍しい調和をもってあらわれた一粒の露のような特色ある名作である。
明治も四十年代に入ったころ、平塚雷鳥などの青鞜社の運動があった。封建的なしきたりに反対して女も人間である以上自分の才能を発揮し、感情の自主性をもってしかるべきものと主張した。田村俊子の文学は明治の中葉から大正にかけて日本の女がどういう方向で独立を求めたかという段階を示している。田村俊子の人間としての女の感情自由の主張の中には、きょうの目からみると非常にはきちがえた素朴な男女平等の考えかたがある。男のするようなわがままは同じ人間である女もしていいものだし、男が煙草を吸うなら、女だって吸ってあたりまえ、というように、男が中心をなして――つまり封建的な社会的風習を批判せず、ただ男がやっているのなら女もする、という考えかたの限界をもっていた。本質的な発展というものが見られていなかった。それにしても婦人が人間としての自分を主張しはじめ、次第に婦人の経済的独立の必要に理解をすすめてきたという点で明治末期から大正にかけての婦人解放運動は意義をもっている。
昭和のはじめ第一次世界大戦後の各国の社会主義運動の擡頭につれ、日本にもプロレタリア文学運動がはじまった。その時代になってはじめて婦人の社会的地位の向上や婦人解放の課題は、その国の大衆生活全体の地位の向上と解放の実現とともに解決される問題であるということが明瞭になった。男に対して女も、という性の対立の問題ではなくて、勤労する大衆の男女がおかれている社会的地位と搾取する階級との間におこっている近代社会の階級の問題であることが理解されて来たのであった。
プロレタリア文学は文学の分野で、はじめて、おくれた資本主義日本の封建的ののこりものの多い社会機構の中で、文化はどういう歪みを強いられて来ているか、婦人はどうして文学創造の能力を低められているかということを追求し、明白にしはじめた。婦人大衆が社会の現実の中で持っている条件、その不幸な社会的な条件の由来するところ、その不幸や不平等は女を苦しましているとともに、男も不幸にしているということを発見したのであった。それまでの小説には書かれていなかった人民の声、訴え、そのよろこびとかなしみ、未来への希望が書かれ、表現されなければならない。女の胸の中に埋められて来た訴え、語られるべき物語、要求と希望とを発表する能力をやしない、その機会をつくって行ってこそプロレタリア文学は本当の意味で婦人の文学を肯定することになる。
昭和のはじめ、日本の歴史のなかにプロレタリア文学運動があったことは、明治維新に解決し残した沢山の社会的・文化的の矛盾をはじめて近代社会科学の光のもとに、整理し解決しようとしたことであった。婦人と社会・文学の問題を、全人民の半分である女の幸福、創造力の発展としてとりあげた。この時代に新しい素質の婦人作家があらわれはじめた。今日作品を書いている佐多稲子、平林たい子、松田解子、壺井栄など。これらの婦人作家は、それまでの婦人作家とちがって、貧困も、勤労の味も、女としての波瀾も経験した人々であった。そういう人達によって、本当に社会矛盾を認識し、人間として伸びようとする女性の声が文学のなかへ現われはじめた。
プロレタリア文学運動が順調に発展していたならば、今日、日本の新しい民主主義文学というものも、よほどちがった明るさに照らされたろう。ところが日本の支配階級が、大衆の進歩性を抑圧することは実に烈しく、特に最近の十余年間は、全く軍事目的のために民衆の意志を圧殺しつづけた。プロレタリア文学というものは、結局新しい社会的発展を求めて、半封建的なブルジョア社会の矛盾と桎梏とを、否定する方向をもつから、軍事的な日本の専制支配権力が、それをうけ入れよう筈はない。人民解放のための全運動とともにプロレタリア文学も殺された。女も率直にものをいいはじめた。ほっておけば、考えも、いうことも、行動も大人になる。男につよい影響を与える女の心と言葉、動きをいまのうちにふさごう。手足を押えようと、解放運動とともに、婦人がほんとの自立にすすむことを否定されてしまった。こうして圧殺されてしまった長い年月が一九四五年の八月十五日までつづいたのであった。
戦時中、少年であり青年であった人々は、どういうふうな生活をして来ただろうか。そのなかには、特攻隊へ連れ出された人もあったろう。徴用でいろいろな職場で働き、学徒動員で、生涯の目標を挫折された人も少くなかった。家を焼かれ、肉親と生活の安定を失った人も沢山あるだろう。めいめいの人生に、深い深い傷を受けて、そうして戦は終った。
民主的な日本にしなければならないというポツダム宣言を受諾した。日本の人民を解放し、民主社会にしなければならない責任を、いまの政府は世界から負わされている。云わば、その責任の故に存在を許されている。ところが、今日において民主的な文学というものへ、どれだけの若い新しい作家がおくり出されて来ているだろうか。自分は新しい日本とともに生れ出た新しい作家であると、そのように生々として、新しい作品をもたらす人はいたって少い。ここに今日深刻な問題がある。
今日の二十四五歳から三十代の人々は、男女ともに戦争のなかった時代の日本の青年たちとは、くらべものにならないほど多くの人生の経験をもっている。自分の生命を、一たん否定して闘っても来ている。餓死する人間も見たであろうし、その人たち自身、栄養失調で這って帰って来たかも知れない。何故そこから新しい文学が生れないのだろうか。歴史的な野蛮行為のなかにまきこまれて、苦悩し、ひそかに泣き、人間らしさを恋うた心が一つもなかった、とどうして云えよう。それだのに、何故それを書いた小説は出ないのだろう。これほど愛を破壊された婦人がいるのに、何故その声がほとばしって来ないのだろう。これこそ、きょうの私どもの実に大きな問題であると思う。
文学が書かれるには、現象の記憶があるばかりでなく、自分がそれをどう見るか、どう考えるか、そこから何を受けとったかという一つの経験に対する複雑な人間的摂取を経なければならない。そこから小説は生れる。もしただ肉体で経験しただけで文学が出来るなら、あんなに苦しい思いをして三度も子供を産んだ婦人はだれでもそれについて立派な小説が書けるはずだとも云えよう。ところが肉体的な経験からだけではどんな小説も出来ない。平和的な人民の一人として、あの戦は本来どういうものであったか。日本の大衆の誰もが戦争の可否について議論し、一票を投じ、決心して参加した戦であったなら、その歴史的意義と個人の運命への影響を反省もし、そこから人間らしい何かをくみとることも可能な経験だったろう。ところがそうではなかった。頭から脳髄をとり、心臓をつぶしてしまって、ただ一つの忍耐という形の中に男も女も干しかためられてしまった。その石にされた心臓、そして脳髄をすりつぶされたような頭に鉄兜をつけて、毒瓦斯マスクをつけ、そしてみんなが運命を賭し、生命を賭した。日本の婦人は、世界の婦人がそれを信じかねるような程度まで自分の愛情さえ主張することが出来なかった。この状態に対してわたしたちはどう抵抗出来ただろうか。権力で戦争に引張り出されるか、さもなければ戦争はいけないという人間として牢屋に引張られた。このなかに云いつくせない惨酷を自分の意志で踏み込んだ経験としてではなく受取った。私どもは人間として誇るべき何ものもない戦に追いたてられた。全く家畜のように追込まれた戦争で、自分たちを犠牲にして来ているために、殆ど夢中で体だけで苦しさに耐え、文学をつくるところまで精神を保っていることが出来なかった。あの当時は女も男も夢中で生きていた。あまりに受身で過ぎた。民主主義文学への翹望は高いのに、何故戦争に対する人民としての批判をもった文学、婦人が母親として、愛人として、また婦人に対して重荷の多い社会の中で経済的に自分が働いて家の柱となって来たその経験について、女の人が文学を書き出さないか。この原因は、今日になってみればただ経験の仕方があまり受けみであったばかりでなく、戦後の生活に安定がもたらされていないということに重大な関係がある。戦争で蒙った心の傷をいやし、文学を生み出してゆけるような生活のみとおし、勤労による生活の確保が失われている。二三ヵ月に物価がとび上るインフレーションは、一人一人の経済を破滅させているとともに、婦人の社会的生活、家事の心痛を未曾有に増大させている。先ず、生きなければならない。生きてこその文学である。文学は逆に云えば、最も痛烈な人間的生の発現である。
私どもはここで、一つの現実的理解に到達した。文学の発展にはそれにふさわしい社会的な基盤が必要であり、勤労階級の生活の安定の要求は全くぴったりと私たちの人間らしい文化の要求と一体のものであるという事実である。改正された憲法は男女を平等としている。しかし現実の生活で男女の労働賃金は同一でない。男女はひとしく選挙権も被選挙権もあるといってもその土台になる経済的・社会的生活のひとしさはまだまだ実現していない。労働組合や、すべての民主勢力が要求している賃金、待遇改善の問題、家事の社会化の実現などは、婦人の二十四時間の内容を男の二十四時間の内容と、おのずからのちがいはありながらも、その社会的質の高さでは等しくしてゆくために、絶対に必要な前提条件である。
あらゆる文化の基本になる教育についてみよう。憲法は、すべての人は教育を受けることが出来るといっている。だが今日、毎日ちゃんと通学している学生が、殆ど有産階級の子弟だということは、民主日本の建設にとって、どういう重大なマイナスであろう。学生も食うために闇屋さえやっている。憲法で云われているだけでは駄目である。実際の可能を作って行かなければ、教育の民主化という問題は甚しい欺瞞となる。
すべての人は働くことができる。そうであるならば最低限の生活の安定がその勤労によって保たれ、勤労人民としての社会保護が確保されなければならない。そのような全人民の社会的な生きかたの要求、その実現の努力とともに、民主文学の可能性も拡大されるのである。労働時間と賃金の問題は、人民にとって、人間的生存の問題であり、文化の問題でもある。人間であれば時間によって命をきざまれている。その時間をその人と社会の幸福のためにつかうか、搾取の対象とされるかでは、本質的な運命のちがいが起る。これを否定するものがあるだろうか。
こういう文化・文学の問題にふれて六・三制の問題を、見直す必要がある。日本の国民学校六年の卒業生の実力が四年修業程度しかないことが、アメリカの教育視察団によって報告された。民主日本建設のために人民一般の知能水準の向上のために義務教育の年限を長くしなければならないとされ、文部省は六・三制ということをきめた。九年の義務教育と云わず六年と三年を分けて六・三制と考えている。何故一まとめに九年制といわないのだろうか。九年制にしてどの子供もその間は勉強出来るように国庫がその保証をしてやらなければこのインフレーションの中で月謝を払い御飯を食べさせ学用品を買ってやるということは益々貧困化して来ている親の多数にとって負担である。
文部省にこの実状がわかっていない筈はないのに、六・三と分けて、後の三年は通信教授だけでもいいということを法文化しようとしている。あとの三年は実際に学校へ行かないでもただ通信教授をうけただけで義務教育は終ったということになる。第一、初等中学三年という新しくふえた生徒のために学校が足りない、教師がない。教科書さえそろわない。しかも一応六年を終った年ごろで親の役に立つようになった子供は買出しの手つだいにも行ったりして困難な日々のやりくりにまきこまれ時間がない。戦災者、復員者、引揚者みんな困窮している人々は六年を終った子供を生計のための助手にしなければやりきれない場合が多い。工場へなり給仕になり店員になりやってせめて喰べるものだけは、何とかして雇主にもって貰いたいという非常に切迫した要求がある。現に職人のところで使われる小僧さんの姿が目立ってふえて来ている。ブリキヤとか大工とか。労働基準法では少年の労働について保護的な規定をもうけているし、労働組合が青少年婦人の待遇改善を要求している。生活必需品の値上げについて賃上げ要求をして七百円から千五百円になり、千八百円ベースの今日、物価はぐっと高くなり公定価も上って、とても千八百円ベースではやって行けなくなっている。つつましく暮して四人家族で五千六百円ばかりかかる現実となった。大学生一人二千五百円もなくてはやれない。あとの三年は通信教授でもいいということになれば郵便のとどくところならば、どこにいても義務教育は完了されるというわけだろうか。学校へ行けないで生活のために工場へやられ職人の内弟子となった子供達に、どんな勉強のゆとりが与えられるだろう。
婦人の問題として繊維産業をみると今日の婦人労働の最低のありさまがよくわかる。どこの紡績工場でも、大体寄宿舎制で、そこに国民学校六年を終っただけの十四五から二十歳前の娘が、何万人と働かせられている。喰べるものは会社で賄って、働いた給料は、すべての紡績工場で、ほとんど全額を娘さんにわたすところはない。その何パーセントしか渡さない。会社で積立てている。四国の郡是という工場では、去年の秋ごろ、二百三十円前後の収入というのが一番多かった。何百、何千、何万の娘たちの給料の半額を会社で預って、預った金を一ヵ月間会社のために流用するなら、その金融的効力はどのくらいだろう。六年制の国民学校を出ただけの、子供のような女工さんには、こまかい話はしても判らない。会社は若い娘の夢をもたせるために、工場の建物を白く塗って、きれいな花壇をつくったり演芸会をしたり、工場の内に女学校の模型のようなものをおいて、お茶や、お花などをやらせている。その若い娘たちの文化水準が、とりも直さず、日本の婦人の文化的水準の基礎となっている。最も労働条件のおくれた日本の紡績産業に働く娘さんたちのもっている最低の文化的水準が、日本の民主的文化水準の底辺なのである。
人民の文学、民主的文学の課題はここから第一歩の出発をよぎなくされている。六年間の義務教育で四年の実力しかなかったのだから、六・三制で六年だけ出た若い人が四年修業者だということは明瞭な事実である。智能の低い、考え判断する能力を与えられていない人民の多数が、自分たちの貧困を克服するために、組織的に行動するよりもアナーキーに陥り、選挙権をもっていてもどういう政党に投票してよいか分別もつかないで、資本主義の搾取というものに疑問をもたない人間として育ってゆくとしたら日本の民主化というようなことは実現しないどころか、政府の無力のため或は無力であることを標榜するより深刻な打算によって、人民大衆は、全く奴隷化した状態におとされてしまわないものでもない。自分の国の政府によって、人民が隷属の立場に追われるようなことを誰が承服出来よう。
このような現実を現実として見て、それを改善の方向に導こうとする意志。それこそ今日の日本人民にとって生きている文化性であり、文学の内容であり、その素材である。今日の文学は芭蕉の風流より、もっと社会的要素において深刻であり、客観的必然に立っている。
愛情の問題においてもデスデモーナのハンカチーフは捨てられなければならない。婦人の生活も、自分の支配者である男のために、女らしさを粧うのではなく、ほんとうに人民の幸福をうちたててゆく道で互に頼りになる男女として、ほんとうに女らしく生きられる条件をつくり出してゆく情熱でなければならない。のぞましい社会の招来のために、その建設の方へ一歩一歩と前進の旅をつづけなければならない。そこに新しい世代の詩があり、歌があり、文学があり、また行進曲があるのだと思う。
文学は何か現実生活とはなれたもののように考えられている習慣があったけれども、決してそうではない。文学は一つの歴史的・階級的な行動であると云える。行動は生存の意義のために、発展の方向を持つことが当然である。わたしたちはこの多難な社会生活の間で自分の爪先がどっちを向いているかということを知ることが大切である。文学に大切な個性ということも、つまりは社会と、そこに存在する階級と自分とはどういう関係にあるかということを理解し、その関係にどう積極的に働きかけてゆこうとしているかという現実のうちに個性はきたえられる。われわれの一歩は、われわれの一生にとってかけがえのない一歩である。私たちは生きる権利をもっている。良心にしたがって、あることを肯定し、あることを拒絶し、社会と自分のために労作し、生を愛するうたを歌う権利がある。その権利を知り、実現する義務をもっているのである。
文学につれてよく才能ということが云われる。わたしは才能ということにふれて語られている一つの忘られない言葉をここにしるそう。
「すべての才能は義務である。」
〔一九四七年四月〕 
 
山口淑子

 

日本の傀儡国家・満州帝国に一大スターが登場した。中国人女優・李香蘭(リーシャンラン)である。美貌と透き通った声で大人気となった。しかし彼女の本名は山口淑子、生粋の日本人女性である。中国大陸の支配を正当化するプロパガンダ映画に利用された前半生は、栄光の裏に苦悩の日々があった。
満州で生まれ育つ
山口淑子は1920年2月12日、満州国(中国の東北地区)に生まれた。現在の遼寧省北煙台である。生後まもなく、山口一家は撫順に引っ越し、13歳までここで過ごした。父の山口文雄は、大陸に憧れて中国に渡った人物で、満鉄(南満州鉄道)に職を得ていた。淑子は父文雄と母アイの間の長女であった。日本の傀儡国家・満州国に生まれた淑子には、二つの祖国があった。日本と中国である。この両国を共に祖国として愛していたがゆえに、二重国籍者に似た悲哀を味わうことになる。
満鉄で社員に中国語や中国情勢を教えていた父は、淑子に中国語を徹底して教え込んだ。将来、日中友好に貢献する仕事に従事することを願っていたという。幼稚園時代、父から一対一で中国語の特訓を受け、小学校に上がると、父が講師をしていた満鉄研修所の中国語夜間講座に参加させられた。
撫順から奉天(現在の瀋陽)に移ったのは13歳の時。一家を招き入れてくれたのは李際春(リージィチュン)将軍。元軍閥の領袖で、当時は瀋陽銀行総裁の地位にあった人物である。父と将軍は、若い頃、北京で出会い、親友の誓いを結んだ仲だった。奉天で父は新たに大同炭鉱顧問の職を得ていた。中国では、家族同士が親しくなると、義理の血縁関係を結ぶ風習がある。李将軍と父は、家族ぐるみの契りを固めるために、養子縁組を取り交わし、淑子は李将軍の義理の娘になった。末長い友誼を誓う名目上の親子関係にすぎないのだが、この時、付けられた名が「李香蘭」だったのである。
歌手の道
奉天で待っていたのが、運命の友となったリューバ・モノソファ・グリーネッツであった。ユダヤ系のロシア人で、父は菓子屋を経営していた。リューバとの出会いは、小学6年生の秋、撫順から奉天に遠足に行った汽車の中で、偶然に隣り合わせになって、言葉を交わしたことがきっかけだった。二人はすっかりうち解け、遠足から戻った後も、頻繁に手紙のやりとりを交わす仲になっていた。淑子は「二人を引き合わせたのは、神の啓示だったとしか思えない」と後に述懐している。
また、このリューバは淑子を歌手の道へと導いた恩人でもあった。肺に病を抱え、病弱な淑子の呼吸器を鍛えるため、健康法としてクラシック歌曲を習うように勧めてくれたのが、リューバであった。有名なオペラ歌手マダム・ポドレソフを紹介してくれたのである。実はこの時、マダムのテストには淑子は不合格だった。しかし、リューバは食い下がり、必死に懇願したという。リューバの淑子に対する友情に根負けしたマダムは、しぶしぶ弟子入りを許可したといういきさつがあった。以後、マダムの元で本格的な発声術、歌唱法が徹底的に叩き込まれた。
奉天放送局から、出演の依頼が来たのは、マダムの特訓のおかげで、歌うことに自信を持ち始めた頃であった。一般中国人の聴衆を増やすため、「満州新歌曲」という歌謡番組の企画があり、その専属歌手を募集していた。条件は、中国人少女で北京語ができ、譜面が読め、日本語を解すること。しかし、この条件に合う中国人少女は見つからなかった。放送局のスタッフが探しあぐね、マダムに相談したところ、淑子に白羽の矢が立ったのである。父は反対だったが、リューバも、マダムも後押ししてくれ、音声放送だけならということで、引き受けることになった。芸名は李香蘭、日本人の手によって作られた中国人歌手は、こうして誕生した。淑子は、まだ13歳の少女であった。
映画女優デビュー
満州国の新京に国策映画会社「満州映画協会」ができたのは、1937年のこと。五族協和、日満親善という国策を推進する文化政策の一環であった。発足当初、音楽映画の企画があった。ところが、主演の中国人女優は全然歌えないという。それで、歌を数曲吹き込むだけでいいからと淑子は誘われた。実は、これは罠だった。録音のため新京に行ってみると、話が全く違う。彼女の立場は、単に吹き替え歌手ではなく、なんと主役ではないか。激しく抗議するものの、「お国のために」と言われれば、断ることができなかった。淑子の女優デビューは苦々しいものだったのである。
デビュー映画は『蜜月快車』という喜劇作品。しかし、これで終わらなかった。中国語と日本語の両方がわかる女優は彼女一人だったので、日満親善の大義のもと、「お国のために」、次々とかり出されることになった。李香蘭の名も売れ始め、女優業が面白く感じるようになってきたものの、淑子の心は晴れなかった。李香蘭という中国人になりきることによって、中国人を騙しているという負い目。それに、彼女の役は日本男子を慕う純情可憐な中国娘。これほど中国人から慕われている日本は、中国を指導すべきというメッセージが込められていた。まさに大陸進出を正当化するプロパガンダ映画であったのだ。彼女は、中国を日本と同様に祖国として愛していた。だからこそ、『支那の夜』『熱砂の誓い』などが興行的に大当たりするにつれ、彼女の心は痛んだのである。
日満親善女優使節に選ばれて、はじめての来日の折、関釜連絡船で下関に入港し、憧れの日本の土を踏んだ。パスポートの提出を命じた警察官は、旅券にある「山口淑子、芸名・李香蘭」と記載されているのを見て、中国服の淑子に言った。「おい、その格好はなんだ!日本は一等国民だぞ。三等国民のチャンコロの服を着て、それで貴様、恥ずかしくないのか」と怒鳴った。憧れの地、日本での最初のこの洗礼に彼女の心は深く傷ついた。
こんな彼女の内面とは裏腹に、李香蘭の人気は日本でも熱狂的なものとなった。騒がれれば騒がれるほど、彼女の憂いは増した。中国人記者から「あなたは中国人なのに、なぜあのような映画に出演したのか?民族の誇りを捨てたのか?」と質問を受けたこともあった。日本人であることを告白したいと懇願しても、受け入れてもらえなかった。
引き揚げ
1945年8月15日、玉音放送(天皇による終戦宣言)があった時、淑子は上海でそれを聞いた。涙が溢れ出た。日本の敗戦は悲しい。しかし、これで日本人と中国人の殺し合いは終わる。ようやく李香蘭から山口淑子に戻れる。偽らざる本心であった。しかし、あろうことか淑子は中華民国政府による軍事裁判にかけられるという。漢奸とされ、「中国人でありながら、中国を冒涜する映画に出演し、日本に協力して、中国を裏切った」という罪状。新聞などでは李香蘭は死刑になると報じられていた。いくら「実は、私は日本人だった」と口述しても、信用してもらえない。それほどまでに、李香蘭の名は中国人に浸透していたのである。死刑を逃れるには、確かな証拠が必要だった。
この窮地を救ってくれたのが、運命の友リューバであった。その頃、リューバはソ連の上海総領事館に勤務しており、淑子の身を案じ、収容所に訪ねてくれたのである。淑子はリューバに懇願した。北京にいる両親のもとには、日本から取り寄せた戸籍謄本があるはずだった。「それをもらってきて」と。リューバは「まかせてちょうだい」と快諾。それからしばらくしてから、収容所に日本人形・藤娘の入った木箱が届けられた。開けてみると驚いたことに、淑子が大切にしていた人形だった。北京にいる母からだった。リューバが父母に会ってくれたのだ。人形の中に戸籍謄本が隠されているに違いない。案の定、人形の帯の内側に丁寧に縫い込められていた。母はこの人形をリューバに託したのである。母は、ソ連領事館勤務のリューバに迷惑がかからないように配慮した。万が一見つかっても、リューバは単に人形を運んだに過ぎないと言い訳ができるように。
1946年2月の軍事裁判所で、裁判長は「これで漢奸の嫌疑は晴れた。無罪」と宣言しながら言った。「一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。中国人の名で一連の映画に出演したことだ。漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」。淑子は言った。「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」。深々と頭を下げて謝罪した。この言葉は彼女の本心だった。
3月末の引き揚げ船に乗り込んだとき、思いもかけず船内のラジオから上海放送の音楽が聞こえてきた。李香蘭が歌う「夜来香」ではないか。淑子はデッキの手すりを握りながら、体が震えるのを感じた。まるで運命の神が、彼女の出航を祝うかのように、彼女の歌を奏でてくれたように思えた。自分の歌を聞きながら、「さようなら、中国。さようなら、李香蘭」とつぶやいた。涙が滂沱のごとく流れ落ちてきた。
帰国後、本名「山口淑子」に戻って、女優業に復帰した。1969年に、フジテレビはお昼のワイドショー「三時のあなた」の共同司会に淑子を抜擢した。72年9月25日は、日中共同声明とその調印式。その生中継のため、訪中した淑子は、共同声明を聞きながら、キャスターの立場を忘れ、涙を抑えることができなかった。声明は、両国の戦争状態の終結を告げ、日本側は過去の戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことを深く反省するとうたわれていたからである。「私の瞼には、時局に翻弄され続けた李香蘭の姿が去来し、こみ上げてくるものを抑えることができなかった」と述懐している。
その2年後、田中角栄首相の要請で、自由民主党の参議院の全国区に立候補し当選。参議院議員として、日中友好、アジア外交、文化活動などに尽力した。2014年9月7日、心不全のため自宅で永眠。満94歳、天寿を全うした。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
山本七平

 

(1921-1991) 山本書店店主。評論家として、主に戦後の保守系マスメディアで活動した。
1921年12月18日 - 東京府荏原郡三軒茶屋(現在の東京都世田谷区三軒茶屋)で、クリスチャンの両親(山本文之助、八重)の間に長男として生まれる。名の「七平」は神の安息日(日曜)生まれから命名される。兄弟姉妹は姉2人と妹1人。父方のいとこおばの夫は玉置酉久(大石誠之助の次兄)。
1937年 - 青山学院教会で洗礼を受ける。
1942年9月 - 太平洋戦争中のため、青山学院専門部高等商業学部を21歳で繰り上げ卒業する。10月、第二乙種合格で徴兵され、陸軍近衛野砲兵連隊へ入隊。その後、甲種幹部候補生合格、愛知県豊橋市の豊橋第一陸軍予備士官学校に入校する。
1944年5月 - 第103師団砲兵隊本部付陸軍砲兵見習士官・野戦観測将校(のち少尉)として門司を出航、ルソン島における戦闘に参加。1945年8月15日、ルソン島北端のアパリで終戦を迎える。同年9月16日、マニラの捕虜収容所に移送される。
1947年 - 帰国。
1956年 - 世田谷区の自宅で聖書学を専門とする出版社、山本書店株式会社を創業する。のち山本書店は新宿区市ヶ谷に移転。
1970年 - イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』を山本書店より発売する。
1973年 - 第35回文藝春秋読者賞受賞
1979年 - 大平内閣の諮問機関「文化の時代」研究グループの議長を務める 。
1981年 - 第29回菊池寛賞受賞
1984年 - 中曽根内閣の諮問機関「臨時教育審議会」の第一部会専門委員を務める 。
1989年 - 和歌山県文化表彰にて文化賞受賞
1991年 - 膵臓癌により自宅で死去した。遺骨の一部はイスラエルで散骨された。 
イザヤ・ベンダサンとの関係
山本による説明
当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも、否定したことはない。」とも述べている。後に、1987年のPHP研究所主催の研究会では以下のように説明している。山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたら、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけで、ジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。キリスト教が日本に普及しないのはなぜかという問題意識のもと、3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちに、まとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。ベンダサン名での著作については、ローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。ローラーは在日米軍の海外大学教育のため来日していたアメリカのメリーランド大学の教授で、1972年の大宅壮一ノンフィクション賞授賞式にはベンダサンの代理として出席した。ホーレンスキーは特許関係の仕事をしているウィーン生まれのユダヤ人、妻は日本人。
山本死後の扱い
稲垣武は、上記研究会での説明および夫人の山本れい子の証言をもとに『怒りを抑えし者』(PHP研究所、1997年)「第9章ベンダサンとその時代」において、『日本人とユダヤ人』は、2人のユダヤ人(ローラーとホーレンスキー)との対話を参考とはしているが、構成も文章も山本のものと結論付けている。同様に、『山本七平ライブラリー』編集部もライブラリー13および14(文藝春秋、1997年)の奥付の初出一覧の脇に、ベンダサン名の諸作品はほぼ山本の著作、もしくは山本を中心とする複数の外国人との共同作業、と考えられるというコメントを付している。2004年『日本人とユダヤ人』が角川oneテーマ21シリーズ(角川書店、2004年)から山本七平名で出版されたり、ベンダサン名で連載された「ベンダサン氏の日本歴史」(『諸君!』文藝春秋1973年1月以降22回掲載)が山本著『山本七平の日本の歴史』(ビジネス社、2005年)として単行本化されるなど、山本の死後10年以上経過してからはベンダサン名の著作が事実上山本のものとして扱われることが多い。『七平ガンとかく闘えり』(KKベストセラーズ、1994年)では、息子である良樹の筆で、ベンダサンはあなたではという母の問に対して「まあ、そういうことなんだよ」と答えたと記されている。 
思想
日本社会・日本文化・日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析した。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれる。
山本は、『現人神の創作者たち』のあとがきで、「もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかった」と語っている。山本は、クリスチャンであるだけでなく、父親の親族に大逆事件で処刑された大石誠之助をもっていた。これらのことが、山本の日本社会・日本文化・日本人に対する思考の原点であるといえよう。
特に、日本人のかつての教養であった中国古典に関する論考には独特なものがあり、『論語の読み方』『「孫子」の読み方』『帝王学―「貞観政要」の読み方』など、多数の論考がある。山本によれば、これらの漢籍に対する研究は、内村鑑三ら、戦前のキリスト教徒が「キリスト教徒なら孟子を読むべきだ」と主張していたこと、山本の父が内村の雑誌を読んでいたことに起因しているといっている。特に『「孫子」の読み方』には、旧日本軍の将校時代に感じた「余りにも非論理的な精神力万能主義の為に旧日本軍が負けた」という考察から、精神論を廃した「孫子」を再度捉え直そうという姿勢が見られるという。
その山本が、最も力を入れて執筆した作品が、『現人神の創作者たち』と『洪思翊中将の処刑』である。前者は、「そんなに打ち込んでは命がもたないよ」と言われながら執筆されたものであり、後者は、「一番書きたいものを書いてくれ」と請われて執筆したものであった。
『現人神の創作者たち』は、題名の通り、いかにして尊皇思想が生まれたかを探求した作品である。山本は、日本に亡命してきた明の儒学者朱舜水を起点とし、山崎闇斎、浅見絅斎、安積澹泊、栗山潜峰、三宅観瀾らの議論を追いながら、尊皇思想が形成されていく様子を描いた。そして、その尊皇思想が、社会全体にどのような影響を与えたかを、元禄赤穂事件をめぐる当時の言論状況をたどることであきらかにしたのであった。山本は、尊皇思想の影響は今もなお残っているのだと語っている。
『洪思翊中将の処刑』は、朝鮮人でありながら、帝国陸軍で中将まで昇進した洪中将を扱った作品である。洪は、中将に昇進したことからもわかるように、帝国陸軍の優秀な軍人である一方で、抗日運動家と秘密裡に関係を持ち、その家族を支援するなど(自身が抗日運動に参加することは拒んでいる)、きわめて複雑な生き方を強いられた人物であった。山本の洪に対する執着の理由のひとつは、そこにあったと思われる。洪は、太平洋戦争後、戦犯として処刑されるが、軍事法廷において一言も発することはなかった。山本は、この作品で、その沈黙の意味をあきらかにしようとしたのであった。 
学術上の業績
山本学は、社会学の中心理論である「構造-機能分析」に限りなく近いという専門の社会学者からの指摘がある。したがって山本の本は社会学を学ぶ者にとって重要な文献となるようである。
山本は終始一貫して在野の評論家として過ごしたが、在野の期間が長かった小室直樹などから評価され、アカデミズムでもしばしば取り上げられた。 1979年に『日本資本主義の精神』が刊行されたとき、世は経済体制は資本主義と社会主義のどちらが優れているか、ということがまだ真剣に議論されていた時代である。この山本の本はユニークな日本人・日本経済論として読まれ、あまり重要視はされていなかったようであるが、のちのソ連解体や共産圏諸国の改革を経ると、現在では資本主義か社会主義かという経済体制はあまり重要ではなく、その国に資本主義の精神があるか、あるとすればどのような特徴を持った精神かということが重要で、その特徴によってその国の経済の強みや弱みが生まれる、ということが理解されてきているようである。したがってこの山本の本は、早い時期に日本の資本主義の精神の特徴を論考していた点で、高く評価されるべきものと思われる。
『現人神の創作者たち』は、日本の政治思想史、天皇制研究で他の代表的な研究、たとえば丸山真男『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』、藤田省三『天皇制国家の支配原理』などに匹敵する研究という評価もされている。 
エピソード
「臨時教育審議会」の委員の会合が終わった後のインタビューで、「もちろん制限はあると思います。国が教育をするわけじゃないですから」と答えていた。教育の主体はあくまで親、ということを言いたかったものと思われる。戸塚ヨットスクールの問題については、「暴力では教育はできないんですね、聖書にも〜という話があって、暴力では教育はできないんですね」と答えていた。また家庭内暴力については、「飽食暖衣、逸居して教なくんば即ち、禽獣に等し、ということですね」と答えていた。
外国人を相手にした講演会で、日本の家庭において、女性の地位が低いのはなぜかという質問に答えて、「では皆さんの国で、亭主が自分の給料を全て妻に渡す国がどれくらいあるか」と反論したという。
小室直樹との親交は長く、小室が研究に没頭して倒れ入院したとき、山本は小室の生活を支援するため、小室が『ソビエト帝国の崩壊』(光文社、1980年)を執筆するための手助けをした。いくつかの偶然が重なったとはいえ、結果的に小室を論壇に登場させたその功績は大きいと思われる。また山本と小室には、二人の長時間にわたる討論によって成立した『日本教の社会学』という本がある。
『小林秀雄対談集 歴史について(文藝春秋 昭和47年4月20日 第一刷)』で、小林秀雄が、河上徹太郎、今日出海との対談で『日本人とユダヤ人』に触れ、「ベンダサンという人が『語呂盤』という言葉を使っている」ことを紹介し、「フランスの教育におけるテーム(作文)の重大性というものはとても日本では考えられぬということを、以前パリにいたとき、森有正君がしきりに言っていた。テームの問題には、数学の定理まであるということを彼は言っていた。面白く思ったから覚えているのだが、それが、今度ベンダサンの本を読んで、はっきりわかった気がした。」「もっと微妙なことを言っているが、まあ読んでみたまえ。面白い。」と述べている。 
評価
『私の中の日本軍』において、自らの軍隊経験から、日本刀は2〜3人切ると使い物にならなくなると主張した。しかし、現実には100円の包丁でもそのように劣悪ではない。刀は鉄製品であり鈍らでも1人目の首が切れて4人目が切れないなどありえない。無抵抗の捕虜の首を切ったのか?武装した軍人の体をヘルメットごと切ったのか?民間人を洋服ごと切ったのか?手が滑って石に当たって歯がが大きくかけたのか?切った人は精強な軍人なのか?疲労困憊していた初年兵なのか?同じ刀を使った場合でも、状況によって切れ味は1,000倍も違う。この部分は、文学者の文学的表現と言われる。また、戦地という劣悪な状況下で日々酷使され、満足に手入れも出来ず自然とナマクラになってしまった刀に限った話であり、本来の日本刀の性能について誤解を招くものだという批判がある。さらに、同書における『戦ふ日本刀』からの引用は、自説に都合の良い部分のみを引用した不正確なものだという批判もある。また、山本は本多勝一との百人斬り競争における論議において、イザヤ・ベンダサンの名義で、持論である「日本刀は2〜3人斬ると使い物にならなくなる」という論理を中心に本多を批判した。この論理はこの論争の後に一般に広がった。
浅見定雄は、『にせユダヤ人と日本人』において、『日本人とユダヤ人』における翻訳の誤りを指摘し(たとえば、聖書の「蒼ざめた馬」を山本は間違った訳であると言うが、これは正しい訳であるなど)、山本の語学力を批判した。山本が訳者となった、浅見自身の師である聖書学者の著書を題材に、山本が高校生レベルの英文を理解できず、明らかな誤訳をしていることも具体的に示し、「ヘブル語やアラム語はおろか、英語もろくに読めない」人物だと批判した。また浅見によると『日本人とユダヤ人』によって、一般に流布されていた「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであり、「こんな無知な人が何をどう言おうとも、現代イスラエル国の裁判所や国会で全員一致が無効とされるわけではなく、また世界各地のユダヤ人が、さまざまな集会から家族会議まで、あらゆる生活場面で全員一致をやっている事実が消えてなくなるわけでもない」と批判した。また「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソードも、実際にはあり得ない話で、「この話は全部、一つ残らず、まったく、ウソ」であると指摘した。そして、同書が「小説ではなく評論」である以上、「解釈の違いは別にして評論の対象は実在しなければならない」にも関わらず「本書は作り話の上に成り立っている」ことから、「本書の価値はゼロどころかマイナス」であると指摘した。
浅見は他にも、あるホステルの主人が、ユダヤ人を「においで嗅ぎ分けた」という話や、「関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは、体臭が違うからと語った老婦人」なども、山本がでっち上げた作り話だと断じた。浅見はこの他にも、数多くの誤りを指摘している。
稲垣武は『怒りを抑えし者 評伝 山本七平』で山本を絶賛した。
小室直樹は、『論理の方法』(東洋経済新報社、2003年)の中で、丸山真男の業績について論じているところで、「丸山教授の偉いところは、知識がそんなに少なくても大発見をしたところです。驚くべき大発見をしています。物事の本質を見抜く能力が凄い。その意味で山本七平氏もよく似ています。山本氏もそれこそ典型的な浅学非才の人。キリスト教の大家なんて言うのは嘘です。専門家と称する人が『聖書』の読み方が間違っているなどと言うのだが、あの人の偉いのはそんなところにあるのではない。ほんの僅かな知識で本質をずばりと見抜く。だから日本史なんて少ししかやらないにもかかわらず、崎門の学、山崎闇斎の学こそ明治維新の原動力になったということをはっきり知っている。」と書いている。
辛口の書評で知られた谷沢永一には、「昭和四十五年から六十二年まで、足かけ十八年間における山本七平の著作三十二冊から、その急所を引き出し、山本学の大筋を読者に眺めわたしていただきたいとひそかに願った」として書かれた著作があり、たとえば『「空気」の研究』について、“この「空気」というのはちょっとコメントをつけにくいが、言われたらいちどにわかることである。これを最初に持ち出した着眼はすごいと思う。日本人のものの考え方、意思決定の仕方に、もしエポックを見つけるとするなら、この『「空気」研究』が書かれたときではないか。”と述べている。
山本は著書『空想紀行』で偽フォモルサ人のジョルジュ・サルマナザールが書いたとされる偽書『台湾誌』を紹介した。イギリス社交界でもてはやされた偽のフォモルサ人(フォモルサは台湾列島にあるオランダ人が領有した台湾とは別の島と主張)であるサルマナザールと、本当に中国で18年間布教をし極東情勢を知っていたイエズス会のファウントネー神父の真贋対決で、サルマナザールは縦横無尽の詭弁で勝利を得た。サルマナザールは極東情勢が殆ど伝わっていなかった英国で、イギリス国教会と対立するイエズス会が極東情勢を故意に隠蔽していると非難し、ファウントネー神父もその陰謀の片棒をかついでいるとするなどの詭弁を繰り返しているが、山本はこのときのサルマナザールの詭弁の論法を分析し、『対象そのものをいつでもすりかえられるように、これを二重写しにしておくこと。これは"フェモロサ"と"タイワン"という関連があるかないかわからない形でもよいし…』などと細かく分析し『以上の原則を守れば、今でも、だれでも、サルマナザールになれるし、現になっている。』と記述している。これは自らが偽ユダヤ人として活躍した山本の面目躍如たるものがあるとする人もいる。
自らを外国人と称し、発言に重みを増す行為はヤン・デンマンやポール・ボネなども行っていたとされる。また、『醜い韓国人』の著者が韓国人ではなく日本人ではないかと言われた際にも、韓国側から当時公然の秘密であったイザヤ・ベンダサンの事例が提示され日本の出版界の体質が批判された。 
 
「現人神の創作者たち」 山本七平

 

山本七平をどのように評価するかという作業が黙過されている。これはよくない。
山本七平はイザヤ・ベンダサンの筆名で『日本人とユダヤ人』を世に問うて以来、一貫して問題作を書きつづけてきた。その論旨には山本七平学ともいうべきものがあったにもかかわらず、ほとんど軽視されている。在野の研究者だからといって、これはよくない。論旨の内容の検討を含めて議論されるべきだ。
ぼくは二度ばかり山本さんと会って、これは話しにくい相手だと感じた。屈折しているのではないだろうが、世間や世情というものをほとんど信用していない。そのくせ、山本七平の主題は日本社会のなかで世間や世情がどのように用意され、どのように形成されてきたのかということなのである。
こういうところが山本七平を議論させにくくさせているのかもしれないが、だからといって放っておかないほうがよい。丸山真男・橋川文三・松本健一とともに、そのホリゾントの中で評価されたほうがいい。
ここでは『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』を採り上げることにした。
最初は日本通史を試みた『日本人とは何か』や、貞永式目が打ち出した道理の背景を探った『日本的革命の哲学』、最も“山七”らしいともいうべき『空気の研究』などにしようかと思ったのだが、本書のほうがより鮮明に日本人が抱える問題を提出していると思われるので、選んだ。山本の著書のなかでは最も難解で、論旨も不均衡な一書でもあるのだが、あえてそうした。
本書の意図はいったい尊皇思想はどのように形成され、われわれにどのような影を落としているのかを研究することにある。議論の視点は次の点にある。徳川幕府が開かれたのである。これは一言でいえば戦後社会だった。北条執権政治このかた300年ほど続いた内戦と秀吉の朝鮮征討という無謀な計画の挫折に終止符を打ったという意味での、戦後社会である。
このとき幕府は藤原惺窩や林羅山らを擁して儒教儒学を政治思想に採り入れようとしたのだが、要約していえば中国思想あるいは中国との“3つの交差”をなんとかして乗り切る必要があった。慕夏主義、水土論、中朝論、だ。いずれも正当性(レジティマシー)とは何かということをめぐっている。
慕夏主義というのは、日本の歴史や特色がどうだったかなどということと関係なく、ある国にモデルを求めてそれに近づくことを方針とする。
ある国をそのモデルの体現者とみなすのだ。徳川幕府にとってはそれは中国である。戦後の日本がアメリカに追随しつづけているのも一種の慕夏主義(いわば慕米主義)だ。“その国”というモデルに対して「あこがれ」をもつこと、それが慕夏である。かつては東欧諸国ではソ連が慕夏だった。
なぜこんな方針を「慕夏主義」などというかというと、金忠善の『慕夏堂文集』に由来する。金忠善は加藤清正の部下で朝鮮征討軍にも加わった武将だが、中国に憧れて、日本は中国になるべきだと確信した。第1段階で朝鮮になり、ついで中国になるべきだと考えた。それを慕夏というのは、中国の理想国を「夏」に求める儒学の習いにしたがったまでのこと、それ以上の意味はない。
この慕夏主義のために、幕府は林家に儒教や儒学をマスターさせた。林家の任務は中国思想や中国体制を国家の普遍原理であることを強調することにある。
しかし、慕夏主義を体制ができあがってから実施しようというのには、いささか無理がある。徳川幕府の体制の根幹は、勝手に家康が覇権を継承して武家諸法度や公家諸法度を決めたということにはなくて、天皇に征夷大将軍に任ぜられたということを前提にしている。そこに”筋”がある。
けれども、その徳川家の出自は三河岡崎の小さな城主にすぎず、それをそのまま普遍原理にしてしまうと、天草四郎も由井正雪も誰だってクーデターをおこして将軍になれることになって、これはまずい。それになにより、中国をモデルにするには日本の天皇を中国の皇帝と比肩させるか、連ねるかしなければならない。そしてそれを正統化しなければならない。
どうすれば正統化できるかというと、たとえば強引ではあってもたとえば「天皇は中国人のルーツから分家した」というような理屈が通ればよい。
これは奇怪至極な理屈だが、こういう論議は昔からあった。たとえば五山僧の中厳円月は「神武天皇は呉の太伯の子孫だ」という説をとなえたが容れられず、その書を焼いたと言われる。林家はそのような議論がかつてもあったことを持ち出して、この「天皇正統化」を根拠づけたのである。
こうして「慕夏主義=慕天皇主義」になるような定式が、幕府としては“見せかけ”でもいいから重要になっていた。林家の儒学はそれをまことしやかにするためのロジックだった。
一方、日本の水土(風土)には儒教儒学は適用しにくいのではないかというのが、「水土論」である。熊沢蕃山が主唱した。
蕃山は寛永11年に16歳で備前の池田光政に仕え、はじめは軍学に夢中になっていたのだが、「四書集注」に出会って目からウロコが落ちて、武人よりも日本的儒者となることを選んだ。そして中国儒学(朱子学)では日本の応用は適わないと見た。また、参勤交代などによって幕府が諸藩諸侯に浪費を強要しているバカバカしさを指摘して、士農工商が身分分離するのではなく、一緒になって生産にあたるべきだと考えた。いわば「兵農分離以前の社会」をつくるべきだと言ったのだ。
これでわかるように、水土論は儒学を利用し、身分社会を堅めようとしている幕府からすると、警戒すべきものとなる。
ただ、蕃山の晩年に明朝の崩壊と清朝の台頭がおこった。これで中国の将来がまったく読めなくなった。加えてそこに大きな懸念も出てきた。ひとつは中国(清)が日本にまで攻めてこないかという恐れである。元寇の再来の危険だ。これは幸いおこらなかった。鎖国の効用である。
もうひとつは明朝帝室の滅亡によって、本家の中国にも「正統」がなくなったことをどう解釈すべきかという問題が降ってわいた。これは慕夏主義の対象となる「夏のモデル」が地上から消失したようなもので、面食らわざるをえなかった。ソ連が消滅したので、突然に東欧諸国や社会党・共産党の路線に変更が出てくるようなものなのだが、徳川時代ではそこに新たな理屈が出てきた。
これをきっかけに登場してくるのが「中朝論」なのである。山鹿素行の『中朝事実』の書名から採っている。
中朝論は、一言でいえば「日本こそが真の中国になればいいじゃないか」というものだ。
もはや中国にモデルがないのなら、日本自身をモデルにすればよい。つまり「中華思想」(華夷思想)の軸を日本にしてしまえばいいという考え方だ。これなら日本の天皇は中国皇帝から分かれたとか、古代神話をなんとか解釈しなおして中国皇帝と日本の天皇を比肩させるという変な理屈でなくてもいい、ということになる。
これはよさそうだった。そのころは林道春の“天皇=中国人説”なども苦肉の策として提案されていたほどだったのだが、日本こそが中華の軸だということになれば、それを幕府がサポートして実現していると見ればよいからだ。
それには中国発信の国づくりの思想の日本化だけではなく、中国発信の産業や物産の”日本化”も必要になる。そこで幕府はこのあと国産の物産の奨励に走り、これに応えて稲生若水の国産物調査や貝原益軒の『大和本草』がその主要プロジェクトになるのだが、中国の本草学(物産学)のデータに頼らない国内生産のしくみの特徴検出やその増進の組み立てに向かうことになったのである。
これが「実学」だ(吉宗の政治はここにあった)。とくに物産面や経済施策面では、これこそが幕府が求めていた政策だったと思われた。
けれども、そのような引き金を引いたもともとの中朝論をちゃんと組み立ててみようとすると、実は奇妙なことがおこるのである。 それは、「中華=日本」だとすると、日本の天皇が“真の皇帝”だということなのだから、もともと中国を中心に広がっていた中華思想の範囲も日本を中心に描きなおさなければならなくなってくるという点にあらわれる。つまり、話は日本列島にとどまらなくなってしまうのだ。
それでどうなるかというと、日本の歴史的発展が、かつての中華文化圏全体の本来の発展を促進するという考え方をつくらなければならなくなってくる。まことに奇妙な理屈だ。
しかしながら、これでおよその見当がついただろうが、実はのちのちの「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」や「五族協和」の考え方のルーツは、この中朝論の拡張の意図にこそ出来(しゅったい)したというべきなのである。日本が中心になって頑張ればアジアも発展するはずだ、日本にはそのようなアジアの繁栄の責任も権利もあるはずだというような、そういう考え方である。
もっとも、幕藩体制を固めている時期には、まだそこまでの“構想”は出ていなかった。ともかくも中国軸に頼らない日本軸が設定されるべきだという議論が確立されてきたというだけだった。「中国離れ」はおこったのだが、それは政治面と経済面では、まったく別々に分断されてしまったのだ。
以上のように、これら慕夏主義・水土論・中朝論という3つの交差が徳川社会の背景で進行していたのである。
これらのどこかから、あるいはこれらの組み合わせから、きっと尊皇思想があらわれたにちがいない。山本七平の議論はそのように進む。
当面、徳川幕府としては「幕府に刃向かえなくなること」と「幕府に正統性があること」を同時に成立させてくれるロジックがあれば、それでよかった。まだ黒船は来ていないからである。いや、この時期、危険の惧れはもうひとつあった。個人のほうが反抗をどうするかということだ。実際にはこちらの危惧のほうが頻繁だった。服部半蔵やらお庭番やらの時代劇で周知のとおり、幕府はこの取締りに躍起になる。
幕府のような強大なパワーにとって、ちっぽけな個人の反抗などがなぜ怖いのか。
山本七平が適確な説明をしている。「その体制の外にある何かを人が絶対視し、それに基づく倫理的規範を自己の規範とし、それ以外の一切を認めず、その規範を捨てよと言われれば死をもって抵抗し、逆に、その規範が実施できる体制を求めて、それへの変革へと動き出したら危険なはずである」。
いま、アメリカがイスラム過激派のテロリズムに躍起になっていることからも、この山本の指摘が当を得ているものであったことは合点できるであろう。
しかも日本では、この死を賭した反抗や叛乱が意外に多いのだ。歴史の多くがこの反抗の意志によって曲折をくりかえして進んできたようなところがあった。たとえば平将門から由井正雪まで、2・26事件から三島由紀夫まで。
日本にこのような言動が次々にあらわれる原因ははっきりしている。日本は「神国」であるという発想がいつでも持ち出せたからである。実際には神話的記録を別にすれば、日本が神国であったことはない。聖徳太子以降は仏教が鎮護国家のイデオロギーであったのだし、第409夜の高取正男の『神道の成立』や第777夜の黒田俊雄の『王法と仏法』にも述べておいたように、神道だけで日本の王法を説明することも確立しなかった。
しかしだからこそ、いつでもヴァーチャルな「神国」を持ち出しやすかったのである。それは体制側が一番手をつけにくいカードだったのである。
ところが、ここに一人の怪僧があらわれて山王一実神道というものを言い出した。家康の師の天海だ。これは、すでに中世以来くすぶっていた山王神道を変形させたものだったが、幕閣のイデオロギーを言い出したところに面倒なところがあった。
天海は結果としては、家康を“神君”にした。これでとりあえずは事なきをえたのだが(後水尾天皇の紫衣事件などはあったが)、しかしそのぶん、この“神君”を天皇に置き換えたり、また民衆宗教(いまでいう新興宗教)の多くがそうであるのだが、勝手にさまざまな“神君”を持ち出されては困るのだ。のちに出口王仁三郎の大本教が政府によって弾圧されたのは、このせいである。
考えてみれば妙なことであるけれど、こうして徳川幕府は「神のカード」をあえて温存するかのようにして、しだいに自身の命運がそのカードによって覆るかもしれない自縄自縛のイデオロギーを作り出していたのであった。
幕府の懸念とうらはらに、新たな一歩を踏み出したのは山崎闇斎だった。
闇斎は仏教から出発して南村梅軒に始まる「南学」を学んだ。林家の「官学」に対抗する南学は、闇斎のころには谷時中や第741夜に紹介した野中兼山らによって影響力をもっていたが、闇斎はそこから脱自して、のちに崎門派とよばれる独得の学派をなした。これは一言でいえば、儒学に民族主義を入れ、そこにさらに神道を混合するというものだった。
闇斎が民族主義的儒者であったことは、「豊葦原中ツ国」の中ツ国を中国と読んで「彼も中国、我も中国」としたりするようなところにあらわれている。また闇斎がその儒学精神に神道を混合させたことは、みずから「垂加神道」(すいかしんとう)を提唱したことに如実にあらわれている。闇斎は仏教を出発点にしていながら、仏教を排除して神儒習合ともいうべき地平をつくりだしたのだ。闇斎は天皇をこそ真の正統性をもつ支配者だという考え方をほぼ確立しつつあったのだ。
闇斎が仏教から神道に乗り換えるにあたって儒学を媒介にしたということは、このあとの神仏観や神仏儒の関係に微妙な影響をもたらしていく。そこで山本七平はさらに踏みこんで、この闇斎の思想こそが明治維新の「廃仏毀釈」の原型イデオロギーだったのではないかとも指摘した。実際にも闇斎の弟子でもあった保科正之は、幕閣の国老(元老)という立場にいながら、たえず仏教をコントロールしつづけたものである。
闇斎の弟子に佐藤直方(なおかた)と浅見絅斎(けいさい)がいた。直方は師の神道主義に関心を見せない純粋な朱子学派であったが、絅斎は表面的には幕府に反旗をひるがえすようなことをしないものの、その『靖献遺言』において一種の“政治的な神”がありうることを説いた。
内容から見ると、『靖献遺言』は中国の殉教者的な8人、屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺らについての歴史的論評である。書いてあることは中国の志士の話にすぎない。
が、この1冊こそが幕末の志士のバイブルとなったのである。どうしてか。
山本はそこに注目して『靖献遺言』を読みこみ、絅斎が中国における“政治的な神”を摘出しながらも、そこに中国にはなかった「現人神」(あらひとがみ)のイメージをすでにつくりだしていたことを突き止めた。
いったい絅斎は何をしたのだろうか。本当に、現人神の可能性を説いたのか。そうではない。慕夏主義や中朝論や、闇斎の神儒論はそれぞれ正当性(レジティマシー)を求めて議論したものではあったが、絅斎は『靖献遺言』を通して、その原則通りの正統性が実は中国の歴史にはないのではないかということを説き、それがありうるのは日本の天皇家だけであろうことを示唆してみせたのだ。
では、仮に絅斎の示唆するようなことがありうるとして、なぜこれまでは日本の天皇家による歴史はそのような“正統な日本史”をつくってこなかったのか。それが説明できなければ、絅斎の説はただの空語のままになる。
で、ここからが重要な“転換”になっていく。
絅斎は、こう考えたのだ。たしかに日本には天皇による正統な政治はなかったのである。だから、この歴史はどこか大きく誤っていたのだ。だからこそ、この「誤りを糺す」ということが日本のこれからの命運を決することになるのではないか。こういう理屈がここから出てきたわけなのだ。
これは巧妙な理屈だろうか。そうともいえる。不可解なものだとも見える。
が、その一方でこれは、「漢倭奴国王」このかた切々と中国をモデルにしてきた日本人が、ついにその軛(くびき)を断って、ここに初めて新たな歴史観を自国に据えようとしているナマの光景が立ち現れているとも見るべきなのだろう。
むろん事は歴史観に関することなので、ここには精査な検証がなければならない。日本の歴史を中国の歴史に照らして検証し、それによって説明しきれないところは新たな歴史観によって書き直す必要も出てきた。
この要請に応えたのが、水戸光圀の彰考館による『大日本史』の執筆編集である。明暦3年(1657)に発心し、寛文12年(1672)に彰考館を主宰した。編集長は安積(あさか)澹泊、チーフエディターは栗山潜鋒と三宅観瀾。この顔ぶれで何かが見えるとしたらそうとうなものであるが、安積澹泊はかの明朝帝室から亡命した日本乞師・朱舜水の直接の弟子で、新井白石や室鳩巣の親友だったし、栗山潜鋒は山崎闇斎の孫弟子で、三宅観瀾はまさに浅見絅斎の弟子で、また木下順庵の弟子だった。
しかも、この顔ぶれこそは「誤りを糺す」ための特別歴史編集チームの精鋭であるとともに、その後の幕末思想と国体思想の決定的なトリガーを引いた「水戸学」のイデオロギーの母型となったのでもあった。
もっともこの段階では、水戸学とはいえ、これはまだ崎門学総出のスタートだった。
安積澹泊の記述に特色されることは、ひとつには天皇の政治責任に言及していることである。「天皇、あなたに申し上げたいことがある」という言い方は、ここに端緒していた。
この視点は、栗山潜鋒の『保建大記』では武家政権の誕生が天皇の「失徳」ではないかというところへ進む。「保建」とは保元と建久をさす。つづく三宅観瀾の『中興鑑言』もまた後醍醐天皇をふくむ天皇批判を徹底して、その「失徳」を諌めた。これでおよその見当がつくだろうが、“天皇を諌める天皇主義者の思想”というものは、この潜鋒と観瀾に先駆していた。
しかしでは、天皇が徳を積んでいけば、武家政権はふたたび天皇に政権を戻すのか。つまり「大政奉還」は天皇の徳でおこるのかということになる。
話はここから幕末の尊皇思想の作られ方になっていくので、ここからの話はいっさい省略するが、ここでどうしても注意しておかなければならないのは、このあたりから「ありうべき天皇」という見方が急速に浮上していることだ。
天皇そのものではない。天皇の歴史でもない。徳川の歴史家たちは、もはや“神君”を将軍にではなく、天皇の明日に期待を移行させていったのである。
こうして、山本七平は「歴史の誤ちを糺す歴史観」と「ありうべき天皇像を求める歴史観」とが重なって尊皇思想が準備され、そこから現人神の原像が出てきたというふうに、本書を結論づけたようだった。
「ようだった」と書いたのは、本書は後半になって組み立てが崩れ、江戸の歴史家たちによる赤穂浪士論をめぐったままに閉じられてしまうからである。
徳川時代の後半、朱子学や儒学の思想は伊藤仁斎と荻生徂徠の登場をもって大きく一新されていく。陽明学の登場もある。また、他方では荷田春滿や賀茂眞淵や本居宣長の登場によって「国学」が深化する。本書はこのような動向にはまったくふれず、あえて江戸前期の「尊皇思想の遺伝子」を探索してみたものになっている。
このあとをどのように議論していくかといえば、いまのべた徂徠学や陽明学や国学を、以上の「正統性を探ってきた試み」の系譜のなかで捉えなおし、さらに幕末の会沢正志斎らの「国体」の提案とも結びつけて見直さなければならないところであろう。
山本七平はそこまでの面倒を見なかったのだが、それがいまもって丸山真男と山本七平を両目で議論できるホリゾントを失わさせることになったのである。
が、ぼくとしては冒頭で書いたように、そこをつなぐ研究が出てこないかぎり、われわれはいまもって何か全身で「日本の問題」を語り尽くした気になれないままになってしまうのではないか、と思うのだ。
 
山本七平と天皇制

 

1 日本の伝統的天皇制 
山本七平が、いわゆる「自虐史観」の元祖と目される本多勝一氏などから執拗な攻撃を受けるようになったのは、氏の天皇制の理解の仕方が、「天皇制を擁護し侵略軍の論理を擁護する反動」と見なされたからでした。これは、イザヤ・ベンダサンが昭和47年1月号の『諸君』に「朝日新聞のゴメンナサイ」を書き、いわゆる「百人切り競争」をフィクションと断定したことをめぐって、本多勝一氏との間で論争になったことが契機となっています。
その時、明らかにされた本多勝一氏の天皇制についての理解の仕方は次のようなものでした。
「天皇制などと言うものは、シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろものだと言うことは、ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いするであろうことも知っている。・・・世界に稀有なこの大迷信によって、戦争中の私たちは、あんなにもだまされ、あんなにもひどいめにあった。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人。侵略の口実とした天皇をそのまま「あがめたてまつって」いる日本人。・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろうが、私もまたその一人なのだ。」
こうした本多勝一氏の天皇制の理解の仕方に対して、ベンダサンは、『日本人とユダヤ人』において、次のような評価を下していました。
「朝廷・幕府の併存とは、一種の二権分立といえる。朝廷が持つのは祭儀・律令権とも言うべきもので、幕府がもつのは行政・司法権ともいうべきものであろう。統治には、宗教的な祭儀が不可欠であることは、古今東西を問わぬ事実である。無宗教の共産圏でも、たとえば、レーニンの屍体をミイラにして一種のピラミッドに安置し、その屋上に指導者が並んで人民の行進を閲するのは、まさにファラオの時代を思わせる祭儀である。・・・このような祭儀行為とこの祭儀を主催する権限とは、常に最高の統治権者が把持してきた、非常に重要な権限」である。
「だが、祭儀権と行政権は分立させねば独裁者が出てくる。この危険を避けるため両者を別々の機関に掌握させ、この二機関を平和裏に併存させるのが良い、と考えた最初の人間は、ユダヤ人の預言者ゼカリヤであった。近代的な三権分立の前に、まず、二権の分立があらねばならない。二権の分立がない処で、形式的に三権を分立させても無意味である。・・・西欧の中世において、このことを早くから主張したのはダンテである。・・・だがダンテの夢は夢で終わった。彼が、日本の朝廷・幕府制度のことを知ったら、羨望の余り、ため息をついたであろう。」
ここで、イザヤ・ベンダサンと山本七平の関係についての私の考えを述べておきます。山本七平は、後に、イザヤ・ベンダサンという著者名は、自分と二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ロウラー、ミンシャ・ホーレンスキー)との合作につけたペンネームだと説明していました。といっても、それらの著作の執筆・編集において山本が中心的役割を担ったことは間違いなく、山本が他の二人のユダヤ人の意見を参考にしつつ(それがどの程度のもだったかはよくわからない)、イザヤ・ベンダサンという別人格をもって書いた、というのが真相なのではないかと思います。
この「別人格をもって書いた」というのが、日本人である私たちにはよくわからないわけですが、山本自身の説明によると、ペンネームを使用するということの本来の意味は、作者とその作品の人格を区別するためだそうです。そうしないと、作者がその作品によって規定されてしまい、自由な創作活動ができなくなるからといいます。だから、そうした事態を避けるためにペンネームを使う・・・要するに、その作品を「作品」として読めば良いわけで、作者の素性を詮索する必要はないということです。
では、山本は、イザヤ・ベンダサンというペンネームで何を語ろうとしたのか。『日本人とユダヤ人』では、日本におけるキリスト教理解の根本的問題点を指摘すること。『日本教について』では、「日本教」そのものの問題点を明らかにすること。『日本教徒』では「日本教」の倫理基準のルーツを平家物語の「恩の哲学」に見ること。『日本の商人』では江戸時代の商人の「商道徳」を紹介すること。『日本人と中国人』では、日中戦争の不思議を解明すること。『イザヤ・ベンダサンの日本歴史』では、武士の作った後期天皇制の意義を明らかにすること、だったのではないかと私は思っています。
これらは、そのいずれも「在野の人物」による全く独創的な仕事でしたので、それだけに、イザヤ・ベンダサンという別人格に語らせることで、その真価を世に問う気持ちもあったのではないかと思います。また、予測不可能な危険から身を守る意味もあったと思います。特に後者については、冒頭に紹介した本多勝一氏とのその後の論争経過や、キリスト教左派に属するという浅見定雄氏による、およそキリスト者によるものとは思われない”悪意に満ちた”攻撃を見ても判ります。なお、松岡正剛氏によると、こうした山本の仕事は、今日もなお、アカデミズムの世界から無視され続けているとのことです。
話をもとに戻しますが、冒頭に紹介した、本多勝一氏とイザヤ・ベンダサンの天皇制についての論争において、ベンダサンは「本多勝一様への返書」で次のように反論しています。
「私は『日本人とユダヤ人』で、例えレーニンの屍体をミイラにしても、そのことは野蛮とは関係がないと書きました。「シャーマニズムから来ているから野蛮だ」とはいえませんし、従って「野蛮だからきえてなくならねばならぬもの」とはいえません。・・・私の考えでは、自分の考え方を最も進んだものと勝手に自己規定し、それに適合せぬものを「消えてなくなれねばならぬ」と一方的に断定する本多ナチズムこそ野蛮です。ナチズムはシャーマニズムよりはるかに新しいものですから、「新しい・古い」は野蛮の基準にはなりません。」
これに対して本多氏は、「私は天皇制を「未開野蛮なしろもの」「世界で最も遅れた野蛮な風習」とはかきましたが「古い」とは、ひとこともいっておりません。・・・天皇制軍国主義がなぜ野蛮か。・・・侵略の口実とした天皇。迷信だろうがオマジナイだろうが、私たちが何千万人もの単位で殺される力につながらないのであれば、何も問題はない。・・・結局あなたは、・・・なにをされたのでしょうか。もはや読者にはあきらかなように、自称ユダヤ人が結果的に天皇制を、「天皇陛下万歳」と、必死で、擁護して下さったのであります。」
ここで問題となるのは、「天皇制」という言葉の定義が、本多勝一氏とベンダサンで違っているということです。ベンダサンは、鎌倉時代以降の「朝廷・幕府の併存という一種の二権分立」を評価しているように、天皇制をいくつかの歴史段階に区分して理解しています。南北朝時代を併存期間として、それ以前を「前期天皇制」、それ以後を「後期天皇制」と呼んでいます。そして後者を「武家が武家のために作った天皇制」ではあるが、武家はあくまでこれを「即天皇去私」の基本姿勢で、それを一種の文化的象徴的権威として維持しようとした、といっています。
この後期天皇制の後に来るものが、尊皇思想に基づくいわゆる「皇国史観天皇制」で、神代に続く天皇の万世一系をその正統性の根拠とし、忠孝一致の家族的国家観に基づく天皇親政を理想としました。実は、この「皇国史観天皇制」イデオロギーが、尊皇攘夷運動から尊皇倒幕へと発展した結果、明治維新につながったのです。こうして、天皇を中心とする一元的国家体制が樹立されたわけですが、明治新政府は、攘夷ではなく一転して開国政策をとり、富国強兵、殖産興業を合い言葉に近代化国家建設へと突き進むことになりました。
だが、このことは、「明治維新によって徳川時代から続いてきた尊皇思想に基づく理想主義が実行に移されたはず」と期待していた岩倉具視らにとっては、こうした新政府の欧化政策は、「朝廷の罪なり」であり、「大衆を欺くものである」と言わざるを得ないものでした。また、「維新を機に実質的に一つの体制をつくろうとした隆盛のような人にとっては、これはまたとんでもない方向違いであり、「死んだ人には誠に相済まぬ」ということになりました。
実際、西郷隆盛は、維新以降、尊皇思想に基づく理想主義をある程度実行しようとしました。その「最初が明治二年二月で、彼は薩摩の参政となって改革を行いますが、この改革が非常に面白い。かつて島津というのは非常に複雑な機構になっていたのですが、その全部に統一的に地頭を置き、この地頭が軍事、警察、司法、行政の一切を行う。また、村の役場は軍務方といい、すべてを戦時状態に置きます。一切が軍隊のようになるわけですが、その下に共同体的な一種の体制を樹立しようと試みたのではないか、と思われる点が彼にはあります。
論理的に、つまり徳川時代からの延長で考えますと、天皇親政で、その下に一種の班田制のようなものをつくるというのは、一番正直なやり方です。・・・彼にとって維新というのは、あくまでも全国で行うことだったはずですが、それは実行されなかった。『西郷南洲遺訓』を読みますと、自分はそれを非常に後悔しているという言葉が出てまいりまして、彼は、「そのために死んだ人に対して面目がない。こんな欧化主義の政府をつくるというようなことは、自分は全然考えてなかった」と言っております。
このような、西郷が理想とした尊皇思想に基づく国家のあり方は、徳川時代を通じて成長してきた朱子学の正統論に基づく理想主義と、日本の国学思想が生んだ日本独特の万世一系の国体観念とが重なったものでした。これが、明治維新の成功と同時に消えてしまい、今度は中国ではなく、ヨーロッパを理想とする近代化の道を歩むことになったのです。問題は、この時、明治維新をもたらした尊皇思想を、思想史的に清算しなかった・・・このことが、昭和になって大きな問題を引き起こすことになるのです。
「つまり、(昭和になって)天皇機関説というのが、なぜあれほど非難されたのかということですが、(尊皇思想を生んだ)朱子学から見れば、これはもってのほかなんです。ただ、非難している人間がはたしてこれを「朱子学から見れば・・・」というふうに意識していたかどうか、それはわかりません。(だが)ヨーロッパの発想からすれば、天皇機関説は当然であるわけです」が、この問題を、誰も日本の思想史上の問題として論じることができなかった。そのため、その有効な解決策を国民に提示することが出来なかったのです。
そうなれば、借り物の西欧の政治思想より、伝統的な日本の政治思想の方が強いのは当たり前です。まして、この日本の伝統思想である尊皇思想は、明治維新という偉業を達成した思想ですから、これを否定することはできない。また、この「皇国史観天皇制」は、日本の歴史を神代から貫く万世一系の天皇制を正統とすることによって、先に紹介した「朝廷・幕府併存」の後期天皇制を「誤り」とし、この後期天皇制を創出した足利尊氏を「逆臣」と規定していました。
ということは、天皇制を「シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろもの」であり、かつ「ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いする」とした本多勝一氏は、この「皇国史観天皇制」を「万世一貫」の天皇制と理解していたことになります。それは、いわば「裏返し皇国史観」とでもいうべきものです。もちろん、これは間違いで、そうした間違った理解を根拠に、自分の意見と合わない意見を「天皇制を擁護し侵略軍の論理を擁護する反動」と決めつけたわけで、これではベンダサンに「ナチスの論理」と批判されても仕方ありませんね。
2 丸山真男の自虐史観

 

本多勝一氏の天皇制理解は次のようなものでした。
「(天皇制)、世界に稀有なこの大迷信によって、戦争中の私たちは、あんなにもだまされ、あんなにもひどいめにあった。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人。侵略の口実とした天皇をそのまま「あがめたてまつって」いる日本人。・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろう・・・」
このような、戦前の昭和における日本の失敗を、全て「天皇制」のせいにして、それを「世界で最も遅れた野蛮な風習」として断罪する論法は、おそらく、その多くは丸山真男の戦後の著作「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの思想と運動」「軍国支配者の精神形態」などに依拠していたのではないかと思われます。
丸山真男は、これらの著作によって日本の天皇制を次のように論じていました。
幕末に日本に来た外国人は殆ど一様に、この国が精神的君主たるミカドと政治的実権者たる大君(将軍)殿二重統治の下に立っていると指摘しているが、維新以後の主権国家は、後者及びその他の封建的権力の多元的支配を前者に向かって一元化し集中化することに於いて成立した。・・・宗教や道徳をも内にふくみ、さらには芸出や学問さえも、いや、ひょっとすると自然まで内にふくんでなりたつ、巨大な共同世界であった。
この、明治以降の日本の一元的天皇制の下においては、日本国民は自由なる市民としての主体的意識を持たなかった。つまり、「行動の制約を自らの良心のうちに持たず、その権威を上級の者に依存した結果、上級から下級への抑圧委譲の体系ができあがった。」この価値体系の中心に位置したのが天皇で、この結果、近代国家のナショナリズムをより露骨に主張する「超国家主義」国家体制が誕生した。
さらに、この中心に位置する天皇は、「無よりの価値の創造者」ではなく、あくまで、万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治する。この天皇を中心にそれを万民が翼賛する体制を同心円で表現するならば、その中心は点ではなく、これを垂直に貫く一つの縦軸である。こうして、この中心からの価値の無限の流出が、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保される。
ここにおいて天皇は「主体的自由の所有者」ではないし、秩序の「作為者」でもない。それは「人間や人格ではないものとして、いうならば一つの場、あるいは一つの空間・時間体としてとらえるべきだ。いいかえれば、天皇は、人間的存在ないし人格的存在ではなく、構造的存在なのだ。日本ファシズムはそういう天皇を必要」とした。つまり、そうした構造的存在としての「天皇制」が問題なのである。
丸山は、これらの「超国家主義」論文によって、「頂点の天皇までをも支配する日本社会の病理」を、天皇制の構造的問題と捉えたのです。そして、そこでは政治的秩序形成における「作為の契機」が働かないこと。天皇自身はもちろん、この天皇の権威を背景に実質的に政治権力を行使する文武官僚も、下僚の下剋上に引き回されてロボット化し、結果的に、「匿名の無責任な非合理的爆発」に支配された。
では、なぜこのようなことになったのか、というと、上述したような「抑圧委譲原理が行われている世界ではヒエラルヒーの最下位に位置する民衆の不満はもはや委譲すべき場所がないから必然に外に向けられる。・・・日常の生活的な不満までが挙げて排外主義と戦争待望の気分の中に注ぎ込まれる。かくして支配層は不満の逆流を防止するために自らそうした傾向を煽りながら、かえって危機的段階において、そうした無責任な『世論』に屈従して政策決定の自主性を失ってしまうのである」。つまり、「下剋上は抑圧委譲の盾の半面であり、抑圧委譲の病理現象」だというのです。
丸山は、こうした「天皇制無責任体制」から脱却し、日本に民主的な政治体制を確立するためには、各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」をもつことが必要だと考えました。これを近代的政治意識の確立という観点からいえば、まず、公的=政治的領域からの私的領域の分離。前者は法規範、後者は道徳規範による。さらに法規範の作為性の認識。そして、権力の民主的コントロール=民主的政治体制の確立、ということになります。
こうした丸山の、天皇制を一種の社会的病理現象を生み出す構造体とみる見方は、多分に彼が経験した軍隊生活に基づいており、その「抑圧委譲の病理現象」というような認識の仕方は、ここにおける屈辱的体験から生まれていたようです。
氏は「東京帝国大学法学部助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。4ヶ月後の1945年3月に再召集を受け、広島市宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年8月15日に終戦を迎え、9月に復員した。」
この間、丸山が経験した兵営生活は次のようなものでした。
「中学にも進んでいない一等兵が、大学出の二等兵に劣等感を抱きながら、それ故に執拗にいじめ抜く。丸山は「おーい、大学生」と呼ばれていた。・・・下士官や上等兵からも始終殴られ、例えば点呼のさい、「朝鮮軍司令官板垣征四郎閣下」とよどみなく叫べるか否かまで、きびしく咎められる。・・・しかも場所は帝国日本の植民地、朝鮮である。「最も意地の悪い」仕打ちを加えてきたのは、陸軍兵志願者訓練所で徹底した「皇民化」教育を受けて入営した、朝鮮兵の一等兵だった」
確かに、近代社会における民主的政治体制を確立するためには、「公的=政治的領域から私的領域の分離。前者は法規範、後者は道徳規範による。さらに法規範の作為性の認識。そして、権力の民主的コントロール=民主的政治体制の確立」というプロセスを経ることが必要でしょう。また、そのためには「各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」をもつことが必要」だといえます。ただし、そうした政治の近代化・民主化と天皇制とが構造的に相容れないとする見方が正しいかどうかは、大いに疑問です。こうした丸山の見方に対して最初に異議を表明したのは、津田左右吉でした。氏は、次のように、明治維新後の天皇制を、昭和の「現人神天皇制」と同一視する見方を次のように厳しく批判しました。
「近年に至って生じたいわゆる超国家主義者の言説に現れているような思想が、明治時代から世を支配していたものであるが如く思い、それによって維新の性質を推測しようとしたものもあるようであるが、さらにそれを上代以来の過去の歴史の全体に及ぼし、わが国の国家及び政治の本質がそこにあるように考える考え方さえもあるらしく解せられる。」
この前段は、以上紹介したような丸山真男の天皇制の理解の仕方、つまり、いわゆる超国家主義者の唱えたような「現人神」天皇思想が、明治維新以来支配的であったかのように見る見方に対する批判です。後段は、それを明治維新以後どころか、上代以来の歴史に遡って、日本の歴史全体を支配した思想であったかのように見る見方に対する批判です。これが本多勝一氏の天皇制理解にも通じているわけですね。
「近年のことで維新を推測し、上代を推測することは、今、言論界にはたらいている人たちが、その年齢の上から、超国家主義の宣伝せられ、または政策の上にそれが実現せられていた時代の、体験のみをもっているために、おのずからこうなったのであろう。なおそれを助ける事情としては、ヨーロッパで行われた色々の改革や革命と同じ性質のことがわが国にもあったように、或はなければならなかったように、考えること、ヨーロッパの政治や宗教に関する知識にあてはめてわが国ものこと解しようとすること、などもあるようである。」
この前段は、丸山の天皇制理解が「その年齢から、超国家主義の宣伝せられ、または政策の上にそれが実現せられていた時代の、体験のみをもっているために、おのずからこうなった」こと。また、後段は、それが「ヨーロッパで行われた色々の改革や革命と同じ性質のことがわが国にもあったように、或はなければならなかったように」考え、また、「ヨーロッパの政治や宗教に関する知識にあてはめてわが国ものこと解しよう」としたため生じた誤解であることを指摘するものです。
「政治上または社会上の特殊な主張をもっているために過去の歴史がゆがんだ形で目に映ずるということも、少なくないらしい。新しい思想により新しい観点から、たえず歴史に新解釈を加えていくことは、もとより必要であるが、そういう解釈は、何処までも事実にもとづかねばならぬ。事実に背き事実を無視することは許されない。何が事実であるは見るものの眼によってちがう、ということは、もとより考えられるが動かすべからざる事実を求めねばならぬこと、また如何なる眼から見ても事実をしなければならぬもののあることも、明らかである。それが無ければ史学というものの成りたちようが無い。」
ここで津田がいう日本の天皇制に関する「動かすべからざる事実」とは、津田にとっては次のようなものでした。
「また昨年に天皇みづからその神性を否定せられるまでは日本人に信仰の自由の地盤が無く、従って国家を超越した道徳の基礎が無かったようにもいわれているが、天皇に神性があるという上代の知識人がもっていた思想は、もともと現代人の考えるような宗教的意義のことでは無く、また明治時代になってからは、そういうようなことは、公式に宣言せられたことはもとよりなく、また一般の常識あるものの思想に存在したのでもない。のみならず、中世以後にはそういう考えは全体になくなっていた。儒教思想の行われるようになってからは、天皇は堯舜の如き聖人とせられたのである。ただ、皇祖を神と称することがあるために、天皇は神の子孫であられるということのいわれている場合はあるが、それは神を人とみてのことである。だから陛下が今さら神ではないと仰せられるには及ばなかったと、私は考えている。ただ近年になって、いわゆる超国家主義者軍国主義者が、天皇を神秘化しようとして様々の荒唐無稽な言説を立てたために、そこから天皇の神性ということがいわれるようになったかと思われるが、それは一般に承認せられたことではなく、また明治時代からのことでもない。神性についてのみならず、天皇を絶対価値の体現とするものの如く解せられるような言説があったとすれば、それもまたこれと同じである。」
もちろん、丸山真男には、先に紹介した「超国家主義者の論理と心理」など、天皇制ファシズムへと向かう日本の近代化を全面的に否定した現代政治論とは別に、儒教(朱子学)の日本的受容に「作為の契機」を探った『日本政治思想史研究』、福沢の独立自尊の精神と「多事争論」を評価した『文明論の概略を読む』、中世武士団の独立精神と個人主義を探った『忠誠と反逆』などがあります。
これらを通読すれば、丸山なりの日本政治思想史研究における「動かすべからざる事実の探求」を見て取ることができます。しかし、一般の読者にとっては、氏が「超国家主義の論理と心理」で見せた、天皇制に対する上述したような強烈な否定の論理が、圧倒的な影響力をもったことは間違いいと思います。本多勝一氏の天皇観などはその典型ではないかと思われます。
そこで次項は、なぜ天皇制は、昭和において「超国家主義・現人神天皇制」となったかについて、山本七平の天皇制研究の成果を、丸山真男の日本政治思想史研究とも対比しつつ、できるだけ分かりやすく紹介したいと思います。 
3 津田左右吉の天皇制論

 

前項で、丸山真男が批判の対象とした天皇制は、昭和の軍部が自らの権力行使を絶対化するために、天皇を「現人神」化することで、国民の軍に対する絶対的忠誠を確保しようとしたものであること。つまり、こうした軍の宣伝による天皇制は、日本の伝統的な天皇制――政治の実権を有せず、文化的権威のみによって、日本国の統合の象徴として存続してきた――とは異質のものであること。丸山真男は、この天皇制を日本の伝統的な天皇制と誤解したために、これからの脱却が、日本の民主的国家形成のためには必要だと考えた、ということを説明しました。
津田左右吉は、なぜこのような誤解が生じたかについて、丸山らは、「その年齢から、超国家主義の宣伝せられ、または政策の上にそれが実現せられていた時代の、体験のみをもっているために、おのずから」こうした軍部の宣伝した天皇制を、日本の伝統的な天皇制と誤解した。また、丸山自身「ヨーロッパで行われた色々の改革や革命と同じ性質のことがわが国にもあったように、或はなければならなかったように」考え、「ヨーロッパの政治や宗教に関する知識にあてはめてわが国ものこと解しよう」としたために、こうした誤解が生じた、といっています。
このあたりをもう少し分かりやすく説明すると、丸山の念頭には、社会の近代化に向けた流れとして、封建制から絶対主義革命を経て、中世の自然法的支配から解放された、社会秩序の「作為者」としての絶対君主が登場すること。次いで、市民革命を経て、市民が絶対君主に代わる社会秩序の「作為者」として登場する。その結果、市民を政治的主権者とする民主国家が成立する、という西欧的な政治制度の発展段階図式があった、ということです。
この図式に照らして日本の天皇制を見た場合、それは皇祖皇宗の縦軸の伝統的(自然的)権威に依存するものであり、天皇は国家運営の主体的な統治責任を負う絶対君主とはならない。それは、天皇を中心に同心円状に広がる階層的権威に秩序づけられるものであり、必然的に政治的「無責任体制」となる、と丸山は考えたのです。つまり、日本の天皇制が西欧的な絶対君主制とはなりえないことが問題だというわけで、そこで、天皇制ファシズムも”矮小化されたファシズム”だといったのです。
こうした丸山の天皇制理解は、実は、丸山の戦前の著作である『日本政治思想史研究』所収の論文にも貫徹されていました。そこで丸山は、荻生徂徠の思想を、「自然」に基底された朱子学的社会秩序を覆す「作為の契機」が見られるとして高く評価しました。そして、その社会秩序の主体的形成者とされた「先王=聖人」を、先に説明した西欧的な絶対君主に同定し、その政治思想としての近代性を評価したのです。
しかし、残念なことに、それは民主国家形成の前段階とされる絶対主義革命にはつながらりませんでした。なぜなら、徂徠の生きた時代(元禄期)の商業資本の発達は未成熟で、封建的支配者に寄生するだけのものだったから、というのです。で、その結果どうなったか。い実は、徂徠が、社会秩序の形成を「先王=聖人」の作為による(禮楽・刑制)としたことは、一方で、そうして形成される政治的秩序の外にある、人間の「内面的心情の世界」の不可侵生を宣言することになりました。
その結果、その「内面的心情の世界」の「政治的作為の世界」に対する優位性が主張されるようになり、こうして、一切のイデーを廃する「内面的心情=まごころ、もののあわれの世界」を認識の基底に置く本居宣長らの国学思想が生まれることになった。その結果、こうした内面的心情の世界を絶対視する思想は、政治秩序を作為する方向には向かわず、「皇祖皇宗の縦軸の伝統的(自然的)権威に依存する」天皇制無責任体制へと、「不気味な発酵」を開始することになった、というのです。
もちろん、このような、尊皇思想を昭和期の「現人神天皇制」に直結させる考え方は、尊皇思想によって明治維新が遂行された――これが幕末期の攘夷思想と結びついて尊皇攘夷運動となり、さらに、幕府の開国政策に対する反発から尊皇討幕運動へと発展し、明治維新に結びついた――という歴史的事実を閑却するものです。なにより、明治新政府が導入した立憲君主(=天皇)制は”作為”されたものであって、問題は、それを裏付ける思想的な根拠を明確にできなかった、ということにあったのです。
といっても、明治維新をもたらした政治思想が「尊皇思想」だったことは間違いありません。となると、それと立憲君主(=天皇)制とを思想的にどう整合性をつけるか、ということが問題だったわけです。従って、もしここで、「政治の実権を有せず、文化的権威のみによって、日本国の統合の象徴として存続してきた」日本の伝統的天皇制と、天皇の政治的責任を国務大臣の補弼責任の下に置くことで、それを「無答責」とした明治憲法下の「立憲君主(=天皇)制」との思想的整合性がとれていたら、丸山が批判したような「現人神天皇制」が生まれることはなかったのかも知れません。
実は、こうした日本の伝統的な天皇制と「立憲君主(=天皇)制」の思想的整合性の取り方は、その「上代日本の社会及び思想」研究が、「日本精神東洋文化」を抹殺するものだとして、蓑田胸喜ら右翼の激しい攻撃を受けた津田左右吉の天皇制理解と同じでした。津田は、戦後、「建国の事情と万世一系の思想」という論文を発表し、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」として、天皇制維持論を展開しました。
次に、その津田がなした「民主主義と天皇制は矛盾しない」という主張を見てみたいと思います。この論文は、終戦直後の昭和21年1月に書かれたものであることを念頭に、お読みいただきたいと思います。
「ところが、最近に至って、いわゆる天皇制に関する論議が起ったので、それは皇室のこの永久性に対する疑惑が国民の一部に生じたことを示すもののように見える。これは、軍部及びそれに附随した官僚が、国民の皇室に対する敬愛の情と憲法上の規定とを利用し、また国史の曲解によってそれをうらづけ、そうすることによって、政治は天皇の親政であるべきことを主張し、もしくは現にそうであることを宣伝するのみならず、天皇は専制君主としての権威をもたれねばならぬとし、あるいは現にもっていられる如くいいなし、それによって、軍部の恣(ほしいまま)なしわざを天皇の命によったもののように見せかけようとしたところに、主なる由来かある。
アメリカ及びイギリスに対する戦争を起そうとしてから後は、軍部のこの態度はますます甚しくなり、戦争及びそれに関するあらゆることはみな天皇の御意志から出たものであり、国民がその生命をも財産をもすてるのはすべて天皇のおんためである、ということを、ことばを加え方法を加えて断えまなく宣伝した。そうしてこの宣伝には、天皇を神としてそれを神秘化すると共に、そこに国体の本質であるように考える頑冥固陋にして現代人の知性に適合しない思想が伴っていた。
しかるに戦争の結果は、現に国民が遭遇したようなありさまとなったので、軍部の宣伝が宣伝であって事実ではなく、その宣伝はかれらの私意を蔽うためであったことを、明かに見やぶることのできない人々の間に、この敗戦もそれに伴うさまざまの恥辱も国家が窮境に陥ったことも社会の混乱も、また国民が多くその生命を失ったことも一般の生活の困苦も、すべてが天皇の故である、という考がそこから生れて来たのである。
むかしからの歴史的事実として天皇の親政ということが殆どなかったこと、皇室の永久性の観念の発達がこの事実と深い関係のあったことを考えると、軍部の上にいったような宣伝が戦争の責任を天皇に嫁することになるのは、自然のなりゆきともいわれよう。こういう情勢の下において、特殊の思想的傾向をもっている一部の人々は、その思想の一つの展開として、いわゆる天皇制を論じ、その廃止を主張するものがその間に生ずるようにもなったのであるが、これには、神秘的な国体論に対する知性の反抗もてつだっているようである。
またこれから後の日本の政治の方向として一般に承認せられ、国民がその実現のために努力している民主主義の主張も、それを助け、またはそれと混合せられてもいるので、天皇の存在は民主主義の政治と相容れぬものであるということが、こういう方面で論ぜられてもいる。
このような天皇制廃止論の主張には、その根拠にも、その立論のみちすじにも、幾多の肯いがたきところがあるが、それに反対して天皇制の維持を主張するものの言議にも、また何故に皇室の永久性の観念が生じまた発達したかの真の理由を理解せず、なおその根拠として説かれていることが歴史的事実に背いている点もある上に、天皇制維持の名の下に民主主義の政治の実現を阻止しようとする思想的傾向の隠されているがごとき感じを人に与えることさえもないではない。もしそうならば、その根底にはやはり民主主義の政治と天皇の存在とは一致しないという考えかたが存在する。が、これは実は民主主義をも天皇の本質をも理解せざるものである。
日本の皇室は日本民族の内部から起って日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた。過去の時代の思想においては、統治者の地位はおのずから民衆と相対するものであった。しかし事実としては、皇室は高いところから民衆を見おろして、また権力を以て、それを圧服しようとせられたことは、長い歴史の上において一度もなかった。いいかえると、実際政治の上では皇室と民衆とは対立するものではなかった。
ところが、現代においては、国家の政治は国民みすがらの責任を以てみずがらすべきものとせられているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立する地位にあって外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意志を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによって、調和せられる。
国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があるることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである。
民族の内部から起って民族を統一せられた国家形成の情勢と、事実において民衆と対立的関係に立たれなかった皇室の地位とは、おのずからかくの如き考えかたに適応するところのあるものである。また過去の歴史において、時勢の変化に順応してその時々の政治形態に適合した地位にいられた皇室の態度は、やがて現代においては現代の国家の精神としての民主政治を体現せられることになるのである。上代の部族組織、令の制度の下における生活形態、中世にはじまった封建的な経済機構、それらがいかに変遷して来ても、その変遷に順応せられた皇室は、これから後にいかなる社会組織や経済機構が形づくられても、よくそれと調和する地位に居られることになろう。
ただ多数の国民がまだ現代国家の上記の精神を体得するに至らず、従ってそれを現実の政治の上に貫徹させることができなかったために、頑冥な思想を矯正し横暴または無気力なる為政者を排除しまた職責を忘れたる議会を改造して、現代政治の正しき道をとる正しき政治をうち立てることができず、邪路に走った為政者に国家を委ねて、遂にかれらをして、国家を窮地に陥れると共に、大なる累を皇室に及ぼさせるに至ったのは、国民みずから省みてその責を負うところがあるべきである。
国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代においては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」はわれらが愛されねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民と共にせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民みずからの愛の力である。
国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底した姿がある。国民はいかなることをもなし得る能力を具え、またそれを成し遂げるところに、民主政治の本質があるからである。そうしてまたかくのごとく皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大なる発露でもある。」
残念ながら、こうした津田の主張は、戦後の天皇制廃止論者たちからは「津田は戦前の思想から変節した」と批判されることになりました。実際は、津田は少しも変節などしていなかったのですが、丸山的な伝統的な日本の天皇制と、昭和軍部によって天皇制理解が戦後の言論界を支配するなかで、その、日本の伝統的な天皇制を近代的な立憲君主(=天皇)制に発展させようとする津田の思想的努力は、当時の国民の十分な理解を得ることができなかったのです。
ではなぜ、こうした津田の主張が、戦後の日本人とりわけ思想界に受け入れられなかったか、ということですが、それはやはり、津田の論理に不足していたものがあったからだと思います。それは、昭和の「現人神天皇制」が、なぜ、当時の日本人――知識階級に属する人たちも含めて、大多数の日本人を巻き込み熱狂させたか、ということについて、それを軍部の宣伝によるものとするだけでは、十分な説明とはならなかった、ということだと思います。
それを、説明した当時の唯一の理論が、丸山の「超国家主義の論理と真理」以下の論文だった、というわけです。その結果、日本の天皇制の誤った理解に基づく、いわゆる「自虐史観」が風靡することになり、それが、戦後の日本歴史の事実に基づく理解を大きく歪めることになったのです。そうした丸山真男の天皇制理解の誤りを指摘し、「現人神天皇制」がどうして生まれたかを、独自の視点から解明したのが山本七平でした。小室直樹はこうした山本の仕事について次のようにいっています。
「近代日本の天皇システムの基礎を築いたのは浅見絅斎です。その基礎に崎門の学,即ち山崎闇斎の学問があります。このことは丸山真男先生が強調なさることですけども,丸山先生の弟子共は無能怠慢で研究しておりません。これほど難しいことをおやりになったのは,山本七平先生です」と。といっても、それは「現人神の創作者たち」の解明に止まり、その「育成者」「完成者」までには至っていませんので、立花隆氏の『天皇と東大』等も参考に、次回以降、その全体像の把握に努めてみたいと思います。 
4 平泉尊皇思想に行き着いたワケ

 

なぜ、「現人神天皇制」という、日本の伝統的天皇制とは異なる「超国家主義的天皇制」が、戦前昭和期の日本の思想界を支配するに至ったか。丸山真男は、この「現人神天皇制」の「超国家主義」的性格を日本の天皇制の属性と見て、それからの脱却を主張しました。しかし、日本の天皇制の伝統は「政治の実権を有せず、文化的権威のみによって、日本国の統合の象徴として存続してきた」ところにある。それは、近代的な三権分立ができる前段としての「祭儀権と行政権の分離」といえるものであり、民主的政治制度確立の上からも、むしろ積極的に評価すべきものである・・・イザヤ・ベンダサンは『日本人とユダヤ人』でそう指摘しました。
では、なぜ、この日本の伝統的天皇制とは異なる「現人神天皇制」が、昭和期の日本人の思想を支配するに至ったか。これが、大きな謎となるわけです。前項紹介の津田左右吉は、戦後、天皇制に対する批判が高まる中で、日本の天皇制のもつ上記のような伝統的性格を、歴史学者として繰り返し主張しました。そして、なぜそれが「現人神天皇制」となったかの原因を、「軍部の宣伝によるもの」としました。しかし、それだけでは、なぜ、当時の日本国民の大多数が、その思想を受け入れることになったかの十分な説明とはなりません。
実は、この「軍部の宣伝によるもの」とされた思想は、明治維新を成功させた尊皇思想でした。しかし、この思想は、維新後新政府が欧化政策をとったために挫折させられました。かろうじて、教育勅語=教育理念・指針として生き残りましたが、政治制度としては立憲君主制度が採用されました。しかし、この立憲君主制は西欧思想(資本主義、自由主義、個人主義)に基づくものであり、今日の政党政治の金権腐敗や貧富の差の拡大等の経済的混乱の元凶である。従って、再度「維新」を実行し、尊皇思想を復活させ、立憲君主制を廃して天皇親政としなければならない、と訴えたのです。
ここで、この天皇親政というのは、実際の政治のあり方としてはどういうものであったか、ということが問題になります。もちろん、天皇が政治の意思決定を全て一人で行うことができるはずはありません。どうしても天皇を補佐する何らかの中間的な組織や機関を必要とする。それが、明治憲法に規定された内閣組織や軍組織、議会及び裁判所であったわけです。つまり、これらの組織が統治権の総覧者として天皇の補弼責任を負うことで、実質的に政治責任を負い、天皇を「無答責」としてきたのです。
天皇親政は、それをどのように変えようとしていたのか、というと、この中間組織を「君側の奸」として、つまり、これが天皇の「大御心」による一君万民平等の政治を疎外していると見て、これを取り除くべきと主張していたのです。では、このあとにどのような組織を持ってくるのかというと、皇道派の青年将校は思想的にはあえてそれをすべきでないと考えた。といっても、そのモデルが全くなかったというわけではなくて、北一輝の「日本改造法案大綱」がそのモデルであったことは間違いありません。
そこで次に、その北一輝の「日本改造法案大綱」が、どのような政治制度や政策を構想していたのかについて見てみたいと思います。
(政治制度)
・クーデターにより、天皇大権の発動により三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令をしく。
・天皇は国民の総代表たり、天皇を補佐すべき顧問員(五十人)を設く。
・華族制廃止、貴族院を廃して審議院(各種勲功者間の互選及び勅撰)を置き衆議院の決議を審議せしむ。
・国民自由の回復、文官任用令、治安警察法、新聞紙条例、出版法等の廃止
・戒厳令施行中国家改造内閣を組織する。内閣院は従来の軍閥、吏閥、財閥、党閥の人を廃し全国より広く偉材を求む。
・国家改造知事を任命する。
・戒厳令施行中普通選挙(男子)による国家改造議会を招集し改造を協議せしむ。改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討論することを得ず。
(経済政策)
・私有財産限度を設く(一家で100万円、現在の10億円程度)。超過額は国納とする。
・在郷軍人会議を設け改造内閣の直属とし、国家改造中の秩序を維持するとともに、私有財産超過者を調査し、その徴収にあたらしむ。
・私有地限度を設く(一家で10万円)超過せる土地は国納。在郷軍人会議をして私有地限度超過者の土地評価徴収にあたらしむ。
・私人生産業の限度を資本1000万とす。限度を超過する生産財は国有とする。
(労働政策)
・労働者の権利を保護するため労働省を設置する。老僧争議は労働省が採決する労賃は自由契約、労働時間は8時間、日曜祭日は有給、純益の二分の一配当、労働者の代表は経営計画及び収支決算に関与する。
・農業労働繁忙期労働時間延長の賃金加算
・借地農業者(小作者)を擁護
・幼年労働(16歳以下)の禁止
・婦人労働は男子と共に自由、ただし改造後は婦人に労働を負荷せしめない。
(国民生活の権利)
・15歳未満父母なき児童は国家が養育・教育する。
・60歳以上の貧困、扶養者なし、不虞廃疾者は国家が扶養する。
・満6歳より15歳まで男女同一の教育をする。
・10年間の一貫せる学制とする。
・英語を廃してエスペラントを第二外国語とする。
・特殊の女子科目を廃止する。
・無月謝、教科書給付、昼食の学校支弁とする。
・男子生徒に制服強制せず
・婦人人権の擁護(姦通罪、有夫の買春禁止)
・国民人権の擁護(官吏による人権侵害の防止、未決監の人権保障、弁護士の任用)
・遺産は母、子女に平等分配
要するに、軍(下層階級)がクーデターを起こして政権を掌握し、天皇大権を発動して戒厳令を施行し、その下で、現行の議会政治や政党政治を排し、新たに改造内閣、改造議会を組織し、「資本主義の特長と社会主義の特長を兼ね備えた」経済体制へと移行する。それによって、私有財産や土地所有の制限を設け、超過分は国に納付させる。これによって財政の基盤を拡張して福祉を充足させるなど社会改革を進める。具体的には、労働者の権利の保障、平等な福祉政策・教育政策の実施、国民の人権を守るための施策の実施など・・・。
この「日本改造法案大綱」は、北一輝が大正8年に中国で40日間の断食を経て書いたといわれるもので、翌9年、北が満川亀太郎や大川周明の主催する猶存社に招かれたことで、猶存者の企画する「日本主義に基づく国家改造指針」となりました。大正15年に北一輝と大川周明が性格の違いから疎隔した後は、こうした革新的日本主義運動は北派と大川派に分裂し、前者は西田税を通して隊付青年将校らに、後者は行地社、大学寮を通して幕僚青年将校らに国家改造熱を吹き込むことになりました。
こうした、ワシントン条約以降、軍内に高まっていた革新気運(軍縮への反発、軍内の薩長閥に対する不満、総力戦への対応などによる)と、これら民間志士の啓蒙による革新熱とが合流して、陸軍の中堅将校が計画し軍上層部も関わったとされるクーデター未遂事件(3月事件、10月事件)を引き起こされるに至りました。しかし、その後、こうしたクーデターによる国家改造計画の是非をめぐって、幕僚青年将校と隊付青年将校らの間に対立が生じるようになりました。
というのは、後者は、「隊付き」であって陸軍省や参謀本部の幕僚将校への昇進の道が閉ざされていた。そのため、幕僚将校らの権力奪取を目的としたクーデターを「皇軍を私するもの」として激しく批判するようになったのです。西田は、この後、心酔する北の「改造法案大綱」の版権を譲り受けてこれを印刷し、全国各部隊の少壮革新分子に配布し、尊皇思想に基づく国家改造を目指して、部隊横断的な同志的結合を進めました。10月事件後は、荒木陸相や真崎将軍を支持し、そのもとで昭和維新に向けた国内改造を推進しようとしました。
一方、前者は、満州事変に成功したこともあって、漸次、合法的な権力掌握へと向かいました。ただし、10月事件以降、荒木陸相就任によってこの事件関係者は地方に転出させられ、宇垣系と目された者も次々と没落させられました。その後、荒木陸相から林陸相に代わると、皇道派青年将校らの部隊横断的結合は、軍の統制を乱すものとして幕僚将校らに排撃されるようになりました。こうして、隊付き青年将校からなる皇道派グループと、幕僚将校からなる統制派グループとの対立が深刻化することになりました。
といっても、両者の国家改造イメージにはそれほどの違いはなく、立憲君主制下の政党政治や議会政治を排し、軍主導の高度国防国家を建設すること。また、資本主義・自由主義経済から統制経済へ移行すること。尊皇思想に基づく一君万民平等の道義国家を建設すること等については、ほぼ一致していたのです。違いは、そうした国家改造を進める主体の問題であって、前者は自らを明治維新における脱藩浪士に自己同定し、後者は、当然のことながら自らをその推進主体としていました。そこで、軍の統制回復を主張したのです。
この両者の立場が微妙な形で交錯したのが、天皇機関説問題とそれに引き続く国体明瞭問題でした。一般的にこの問題は、軍が、明治憲法下の日本の政治体制の解釈を、立憲君主制から天皇親政に転換するために起こしたもののように理解されています。しかし、実際は、この運動を積極的に推進したのは統制派ではなくて、皇道派に属する軍人たちでした。統制派はこうした学問上の問題には当初はそれほど関心を持っていませんでした。それを象徴するのが真崎甚三郎に代わって教育総監となった渡辺錠太カでした。
もちろん、この運動は、蓑田胸喜という一種異常人格の持ち主によって引き起こされた美濃部達吉の天皇機関説攻撃(s9.6.6)に端を発していました。しかし、裁判では美濃部は不起訴となった。ところが、この問題を貴族院本会議で菊池武夫らがとりあげ(s9.11)、さらに衆議院本会議でも山本悌二郎が国体に関する質疑(s10..3)を行ったことから、俄然この問題は政治問題化しました。その結果、貴族院で政教刷新建議が可決され、衆議院でも国体明徴に関する決議が採択されました。
こうして、この問題は、憲法解釈の学理論とは全く関係なく、政治的・社会的問題として紛糾を重ねることになったのです。ここでも、統帥権問題と同じく、政治家が、それを政治問題化することにおいて決定的な役割を果たしていることに注目する必要があります。
その結果、4月には、真崎教育総監が、機関説が国体に違背する旨の訓示を発し、内務省は同博士の『逐条憲法精義』他3冊を発禁処分とするなどしました。さらに、本問題は革新(右翼)団体だけでなく、反政府立場にあった政友会が「国体明徴のための徹底運動」を起こすに至り、ついに政府は、8月3日、国体明徴に関する次のような声明書を出すに至りました。この結果、美濃部博士は起訴猶予処分を受け参議院議員を辞することになりました。また、10月15日には、政府は重ねて「国体明徴声明」を出しました。
「恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、我が国体は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるゝ所にして、万世一系の 天皇国を統治し給ひ、宝祚の隆は天地と与に窮(きわまり)なし。・・・即ち大日本帝国統治の大権は 天皇に存すること明なり。若し夫れ統治権が 天皇に存せずして 天皇はこれを行使するための機関なりと為すが如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るものなり。近似憲法学説を繞(めぐ)り国体の本義に関連して兎角の論議を見るに至れるは寔(まことに)遺憾に堪えず。・・・」 
注目すべきは、こうした運動の背後には、皇道派系右翼団体による倒閣の動きがあったということです。これに対し、軍当局は、最終的には「郷軍各支部長宛これらの団体の策動に乗ぜられないよう」警告を発しています。では、この結果どういうことになったか、ということですが、実は、この運動の「究極目標は自由主義現状維持陣営(元老西園寺公望、牧野伸顕、斉藤実、蔵相高橋是清、枢相一木喜徳郎ら)の徹底的排撃にあったということです。
すなわち、「三十年来唱道されてきた憲法学説を一朝にして崩壊せしめ、政党財閥特権階級の現状維持陣営と通ずと目さるる法律権威者を社会的に葬り、その陣営の一角を突破」することが革新(右翼)陣営の目的だったのです。そして、これに成功した結果、従来、国体観念についてのはっきりした理論もなく、直感的かつ個人的な関係に止まりがちであった革新(右翼)陣営(皇道派青年将校を含む)は、この「国体明徴」の標語の下に戦線統一を組むようになりました。
こうした動きに内心警戒心を強めていたのが林陸相でした。彼は、陸軍の統制強化の必要という点で、統制派に属すると見なされていた軍務局長永田鉄山らと意見を同じくしていました。そこで、皇道派青年将校らに同情的な教育総監真崎甚三郎を辞任させ、代わって渡辺錠太カを教育総監としました。ちなみに渡辺は、天皇機関説問題については、特にこれを不都合としていませんでした。こうした人事に憤激したのが皇道派で、その一人相沢三郎中佐は、白昼堂々陸軍省軍務局を訪れ、永田鉄山軍務局長を斬殺しました。
この相沢三郎中佐の公判中、昭和11年2月26日に発生したのが二・二六事件で、教育総監渡辺錠太カは真っ先に蹶起将校に襲われ殺害されました。こうした軍内部の派閥争いの熾烈さには全く恐れ入ります。というのは、両者の国家改造イメージにはそれほどの違いはなく、ただの主導権争いのようにも見えるからです。なにより不思議なのは、二・二六事件後、反乱軍を指揮した青年将校らが処刑された後、国民を支配することになった思想は、彼ら皇道派青年将校らが唱えた「現人神」尊皇思想でした。
つまり、この「現人神」尊皇思想は、この皇道派青年将校らが国体明徴問題で政治問題化して以降、社会一般に浸透していったものなのです。そして、この思想の理論的指導者であった平泉澄は、この後、文部省に設置された教学刷新会議の委員となり、文部省はこの刷新会議の答申を受けて、次のような「国体の本義」なるパンフレットを全国の学校に配布しました。こうして、日本の学問と教育は、「上から下まで『国体観念、日本精神を根本とする』方向で刷新されることになったのです。
「忠は(略)天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨てて私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。(略)されば天皇の御ために身命を捧げることは、いわゆる自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。(略)実に忠は(略)我が国民道徳の基本である。」
いうまでもなく、こうした思想は、平泉が説いた尊皇思想に基づくものでした。平泉は、昭和7年以降、軍部から高く評価されるようになり講演依頼を受けるようになりました。昭和9年には、当時士官学校の幹事をしていた東条英機少将に招かれ、海軍大学校や陸軍士官学校で講義を重ねました。また、士官学校の国史教程を平泉が編纂し、その弟子が士官学校の教官となるなど、平泉の精神で「陸軍士官学校を全部立て直した」というほどになりました。また彼の私塾「青々塾」には陸士41期から50期まで、30名前後の軍人が正式に塾生になっています。
しかし、そんな平泉も、二・二六事件以降は、彼の思想がこの事件の背景にあったのではないかと疑われ敬遠されることになりました。そのため、その後は、近衛のスピーチライターのようなことをしていましたが、昭和15年7月、第二次近衛内閣がスタートすると、平泉は、戦意高揚のための講演活動で全国を駆け巡るようになりました。その「平泉の思想のエッセンスは、先ほど紹介した「国体の本義」と同じもので、「日本精神の極致は『忠』の一字に帰着する」・・・日本人の忠義は天皇ただ一人にあり、その究極の表現は命を捧げること」というものでした。
それは天皇に対する絶対忠誠を説くもので、従って、二・二六事件のような天皇の意思に反するクーデター事件を起こすなどということは、その「目的がいかに立派であってもそうした行動は一切許されない」としました。そのため、この事件を知った平泉は、直ちに首相官邸に行き、反乱軍の指導者に会ってその行為が国体に違背するゆえんを説き、速やかに撤兵して天下に謝罪するよう勧告、もし聞き入れないならば、一撃を持って天誅を加えなければなりません」といい、青々塾生二人に案内を頼み、一緒に死んでいただけないでしょうか、と言ったといいます。
このように、いわゆる天皇に対する反逆は一切認めないとするのが平泉の思想だったわけですから、軍部が彼の思想を歓迎したのも判ります。といっても、彼ら軍人は、皇道派青年将校の場合にしても、究極的には、天皇に対する絶対忠誠より、自ら自身の思想信条を優先させたわけですし、また、東条英機ら統制派の幕僚青年将校は、張作霖爆殺事件にしても、満州事変にしても、天皇の意思は全く無視して軍事行動を起こした、つまり天皇を「機関説」扱いしていたわけですから、平泉の思想は、彼らにとって、思想というよりむしろ「美学」だった、というべきかも知れません。
しかし、「この平泉史学の骨髄をなす天皇絶対、行学一致の精神は、大東亜戦争の全課程を通じ、戦場の全域において、皇軍が壮烈な戦闘を展開し、時に戦勢非なるに当たってもなお鬼神を泣かしめる奮闘をなし、天皇陛下の万歳を唱え、笑って参加していった、狂信的とも思われる若い将校の行為の強い支えとなっていたのではないかと、私は常に考えているのである」と、青々塾生で平泉の高弟であり、阿南陸相の自刃を見届けた陸軍省内務班長竹下正彦中佐は述懐しています。
つまり、この思想は「生の哲学」としてではなく「死の哲学」として機能したということです。では、この思想は日本の伝統思想のどこから生まれたか。「政治権力を持たず、文化的権威のみを持って、国民統合の象徴として存在してきた日本の伝統的天皇制」と、それとは、どのように関わっているのか。なぜ、この思想は、昭和10年の「国体明徴運動」以降、日本国民の精神を支配するようになったのか。私たちは、こうした疑問に対し納得できる答えを探さなければなりません。
そこで、いよいよ、その思想=「現人神天皇制」の思想的淵源を探った、山本七平の天皇制論に入ることになります。が、その前に、この頃の日本の知識人が、以上紹介したような「国体明徴運動」前後の、訳の判らない思想的混乱状況を、どのように見ていたのか。また、それをどのように克服しようとしていたのかを、見ておきたいと思います。学理的には誠にばかげた天皇機関説問題が、国体明徴運動によって政治問題化した結果、「現人神天皇制」が現出することになったわけで、この「不思議」を彼等は思想的にどのように解釈しようとしたのかが問題となるからです。 
5 日本を救った「国民と共にある」とする伝統的天皇制

 

前項、学理的には誠にばかげた天皇機関説問題が政治問題化し国体明徴運動に発展した結果、「現人神天皇制」が現出することになった、ということを申しました。そもそも、この天皇機関説の主唱者であった美濃部達吉が軍部や右翼に付け狙われるようになったのは、統帥権干犯問題で、美濃部が「東京朝日新聞」に「海軍条約の成立と統帥権の限界」と題する論説を書き、海軍の見解を批判し政府見解を支持したためです。原理日本社の蓑田胸喜が昭和8年に美濃部の天皇機関説を問題にしはじめたのもその延長でした。
一方、この問題は、昭和9年2月、蓑田と手を組んだ貴族院議員菊池武夫らが第66議会で天皇機関説は反国体学説であるとして批判したことから政治問題化しました。一説には、この背後には平沼騏一郎(枢密院副議長)がいて、その狙いは「美濃部の追落しを、天皇機関説遵奉者と目されている一木喜徳郎枢府議長と金森徳次郎法制局長官の失脚に及ぼし、これによって平沼自身が枢府議長に昇格し、その勢力を宮廷、重臣間に伸ばそうというにあった。狙いの二は、法制局長官辞職の責任により岡田内閣を倒すにあった」とされます。
平沼については、その前年(昭和8年)に「帝人事件」をでっち上げ斉藤内閣を潰したことから「司法ファッショ」というレッテルが貼られるに至っており、そのため後継首相は平沼ではなく岡田啓介が奏請されました。そこで、平沼は、首相を天皇に奏請する重臣会議の構成メンバー(西園寺、牧野、一木、斉藤でいずれも平沼の右翼的体質を嫌い首相に推さなかった)の一人一木喜徳郎(美濃部の天皇機関説の師)を追い落とすために、美濃部の機関説を攻撃対象とした、つまり、機関説問題は、平沼によるいわば「敵本主義」の現れだったともいいます。
もっとも、この機関説問題が何を意味しているのか、当時の一般庶民にはとんと見当がつかず、しかし、先に述べた帝人事件の記憶もあって、これは平沼の「王手(一木)飛車(美濃部)取り」だろうという世評を生んだというのです(『昭和東京物語(U)』山本七平)。ところが、政友会が岡田内閣をゆさぶろうとしてこの「天皇機関説排撃」に便乗し、これに民政党・国民同盟が加わって「国体明澄決議案」が三党共同で出されることになりました。政府はそれに押される形で「国体明徴に関する声明」を出すことになったのです。
この辺りの事情について、当時、岡田首相は次のような話をしていたとのことです。
先刻林陸軍大臣が来て、「もうとても自分は続かない。今こうやってこのままでうっちゃっていると、何が起こるか判らない。現にもう若い将校が千人ぐらい団結して、なにかやろうとしているらしい。それで天皇機関説について、もう少しなんとかして政府は処置がとれないかしら」ということであった。・・・「川島にも内々自分に代わってくれるように話したところ、川島は、もう時すでに遅い、何が起こるか判らない、というような話をしていた」
・・・閣議の前に大隅海軍大臣が来て、やはりしきりに「声明を出してくれ。声明をしてくれないと何が起こるかわからん。・・・霞ヶ浦の航空隊の奴なんか、いつ何時何をするか判らん。」・・・「陸軍大臣から『どうしても所謂国体明徴の声明をしてくれ』というので、この際、陸軍大臣が部内の統制に腐心している時であるから、これもまたやむをえないということで」ついに政府は国体明徴に関する声明を発表した。
ここに革新派軍人(皇道派=筆者)は「国体の本義」を手中におさめることによって、権威を確立した。旧体制(明治憲法に規定された立憲君主制)は悪の烙印を押された。機関説的天皇はますます影がうすくなり、代わって統帥権的天皇(というより天皇親政的天皇と言うべき=筆者)が君臨する緒がひらけた。美濃部博士に同情していた司法当局も、その著書を絶版にした。
つまり、ここでは、軍首脳は天皇機関説の扱いについて「団結した若い将校ら」の暴発を恐れていて、政府に「国体明徴声明」を出してくれるよう頼み、政府はやむなく国体明徴声明を出した、ということが語られているのです。では、なぜ、軍首脳は「団結した若い将校ら」をそれほど怖れたかというと、当時、軍の若手将校らの間では「国体明徴」にいう「国体論」(=尊皇思想に基づく天皇親政的国家論)が主流となっていて、天皇機関説問題を契機に、これが皇道派青年将校による統制派に対する攻撃へと転化しつつあった、ということなのです。
その具体的な現れが、その皇道派青年将校の一人である相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の斬殺事件であり、その公判中に起こったのが、二・二六事件でした。しかし、後者のクーデターは、直接統制派の幕僚将校を狙わず、先ず重臣らを血祭りに上げた上で軍首脳に昭和維新を迫るという形で行われたために、天皇の怒りを買うことになり、彼等は叛乱軍として鎮圧され、その首謀者らは処刑されました。
これによって、軍内の皇道派勢力は一掃されることになったのですが、問題は、この「国体明徴」運動で主唱された「国体論」そのものは、軍のみならず国民に対しても、その教化が図られるようになったということです。ではなぜそのようなことになったかというと、「国体明徴」運動は、もともと皇道派青年将校による統制派の幕僚攻撃という性格を持っていて、それが二・二六事件で皇道派が一掃されたことにより、その危険性がなくなったということ。また、丁度、日中戦争が勃発して戦時体制に入ったこともあって、「国体論」の説く「天皇への絶対的忠誠」が全国民に求められるようになった、ということです。
もちろん、この前提としては、こうした「国体論」を説く平泉澄の尊皇思想が、昭和7年以降軍内で人気を博していたことがあります。昭和9年には、平泉は、当時士官学校の幹事をしていた東条英機少将に招かれ、海軍大学校や陸軍士官学校で講義を重ねています。また、士官学校の国史教程を平泉が編纂し、その弟子が士官学校の教官となるなど、平泉の精神で陸軍士官学校は全部立て直された、というほどになっていました。
こうして、「昭和13年頃に国論は完全に一致した。裏の世論(機関説的天皇制=筆者)はすっかり終熄してしまい、表には聖戦完遂と国家体制革新(天皇親政的天皇制=筆者)と新しいモラルが声高く華やかに高唱された。(といってもなお、これは一般国民の心からの確信にはならなかった。国民の気持ちに内的生命がふきこまれたのは、真珠湾のあとしばらくだった)
そして、遠くではあいつづくナチスの光栄・・・。
ひさしい混乱をつづけ、客観的な判断の材料を与えられず、異常な緊迫にあがいて、ついに日本人の頭脳は、ある架空の領域の中で奇怪な回転をはじめた。浮ついた空理空論が揺るぎない現実の力となった。誰も彼もがつよい酒に酔ったように、『矢でも鉄砲でももってきやがれ』というふうだった。」
このように「現人神天皇制」のもとにおける「国体論」が風靡する中で、天皇に対する滅私奉公、東亜新秩序の建設、八紘一宇などの言葉が国民の間に踊るようになったのですが、それは、たかだか昭和13年以降のことなのです。
「私がおぼえているところでは、元来日本人はファッショが嫌いだった・・・満州事変に対しても、インテリは疚しい沈黙を守るか無関心だった。一般人は感激していた(対外抗争が起こった時の自然現象、また純潔な軍に対する期待のため=筆者)。やがて、相つづくテロや軍の無理押しやあてのない戦争になって人びとは倦んで・・・戦争そのものを否定する声はほとんどな(かったが)、陰では多くの人が軍人の悪口を言っていた。盧溝橋事件が起こると、インテリといえども国民感情からこれを支持する気持ちになった人が多かった。」
また、この間の学校教育の様子については、山本七平が、氏が通った青山師範附属小学校の授業を紹介しつつ、次のように語っています。
「大正末から昭和初期にかけてはアメリカの教育法(ダルトン・プラン)が新しく導入されていたのである。そして生徒にとって先ず最も大きな変化は、「甲・乙・丙・丁」と記した「通信簿」なるものがなくなったことであった。これは・・・大正12年に始まり、・・・満州事変後の昭和七年か八年までつづき、そこでまた通信簿が復活したように思う。」ではこういう全くアメリカ流の教育をして周囲の圧迫といったものはなかったかというと、学校は自由に研究し報告する義務があっただけだった。
こうした教育がいつごろから変わり出したかというと、昭和8年頃、『愛国美談』という本が配られた。その内容は満州事変と上海事件の子供向けの戦記もので、柳条溝の鉄道爆破や爆弾三勇士が載っていた。ただそれをそのまま『軍国主義教育』というのは正しくなく、むしろ「時局教育」といった段階で、やがてこの「時局」に即応する形で教育の内容が変わっていった。その「時局」はやがて「非常時」になった。こうして大正自由主義の痕跡が消されていったのだが、それは昭和13年頃からで、所謂軍国主義教育の期間は、わずか7年ぐらいと思っている。
私の周囲の戦中派に属する人たちの中には、戦前の日本は明治以来ずっと皇国史観に基づく軍国主義教育がなされてきたと思い込んでいる人が多いのですが、実際は、それは昭和13年から敗戦までの約7年間の出来事だったのです。もちろん、この時代は急に来たわけではなくて、それは第一次世界大戦後に組織された猶存社(大川周明や満川亀太郎、北一輝らが組織した右翼団体)の日本国家改造運動に端を発しています。そこで彼等の唱えた日本主義が軍に浸透した結果、3月事件、満州事変、10月事件が引き起こされることになったのです。
しかし、これらは幕僚青年将校に軍首脳も関与したクーデター事件であったため、隊付き青年将校らの反発を招くことになりました。その結果、軍内の「日本主義」運動は「天皇への絶対忠誠」を求める、より純化された、一君万民平等の天皇親政を理想とする尊皇思想へと発展していきました。この皇国史観に基づく尊皇思想の主唱者が平泉澄で、昭和7年以降この思想が次第に軍内に浸透していきました。これが二・二六事件を経て、その思想から皇道派による軍の統制破壊的要素が除かれた結果、また、日支事変那が勃発したこともあって、この思想が国民の間に浸透していくことになったのです。
では、この異常な時代を、当時の知識人たちはどのように見ていたのでしょうか。この間の事情を最も赤裸々に表白しているのが、戦後『近代の超克』という優れた論文を書いた竹内好です。氏は、対米英戦争が開始された時の感激を次のように語っています。
「不敏を恥ず、われらは、いわゆる聖戦の意義を没却した。わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。わが日本は、強者を怖れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。我らの疑惑は霧消した。(中略)この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。」
つまり、竹内は、日本はそれまで、東亜建設という美名に隠れて、中国を相手とする弱い者いじめの戦争をしてきたのではないかという疑念を持っていた。しかし、日本が米英という強者に対して戦いを挑んだことによって、そうした疑念は雲散霧消した。また、これによって、それまでの中国との戦争が、西洋の覇権主義的な近代社会を超克する上で世界史的な意義を持っていることに気がつき感動した、といっているのです。中国との戦争は、そうした大義に捧げられるべき、一つの犠牲にすぎないのではないかと・・・。
こうした感想は当時の知識人に一般的に見られたものでしたが、しかし、その結果は惨憺たる日本の敗戦でした。そこで戦後、彼等は、このように自分たちが昭和の日本の戦争を正当化したことについて、深刻な反省をすることになりました。その反省の弁の中で最も興味深いものが、亀井勝一郎によって提出されています。
「いまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年経っているにも拘わらず『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない、例えばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大正の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」
「当時の私は、満州事変――日華事変が、日本のいのちとりになるとはどうしても考えられなかった。・・・当時の気持ちに即して言えば、中国に対しては、高をくくっていたと云える。・・・同時に『民族主義』の復活を背景として、私の日本古典や古寺の研究はすすんでいたが、それまでの『西洋一辺倒』への反撃とも結びついていた。私たちが受け入れた『ヨーロッパ近代』と称するものへの疑惑と、その超克の意思である。」
「昭和17年私たちは『近代の超克』という座談会を催した・・・唯ひとつ、今ふりかえって自分でも驚くことは、『中国』がいかなる意味でも問題にされていないということである。」
この座談会には、当時の日本の知識人を代表する人たち(小林秀雄、三好達治、亀井勝一郎、川上哲太郎林房雄、中村光夫他)が参加していたわけですが、不思議なことに、その会話の中では”『中国』がいかなる意味でも問題にされていなかった”というのです。それは、亀井がいうように日清日露戦争以来の日本民族の「優越感」の現れであったかもしれません。しかし、それだけでは十分な説明とはならない。実は、その背後には「西欧一辺倒」への反動としての「日本思想」の想起という問題があったのです。
そして、その時想起された「日本思想」は、実は、明治維新期の尊皇攘夷思想と深く結びついていたということ。そしてこの時(昭和)は、その「尊皇」思想の適用範囲が日本だけでなく中国さらにはアジアへと拡大されていたということ。また、その「攘夷」の対象は「ヨーロッパ近代」に向けられ、それと戦い「ヨーロッパ近代」を超克することが、日本が盟主となって主導すべき王道文明の使命と考えられていた、ということです。つまり、無意識のうちに中国をその王道文明の「身内」と見なしていたために、「中国」がいかなる意味でも問題にならなかったのです。
このように、中国を「身内」と見る見方や、「ヨーロッパ近代」との戦いに日本の「世界史的意義」を認める考え方は、実は、日本固有の「尊皇思想」の反映であって、現実の中国やヨーロッパとは何の関係もなかったのです。早い話が、日本は自分たちの勝手な「思い込み」を中国に押しつけようとしていたわけです。それだけでなく、「ヨーロッパ近代」を覇道文明と勝手に決めつけ、それとの最終戦争に勝利することを自らの歴史的使命と考え、そうした戦争観を中国やアジア諸国に押しつけようとしていたのです。
このあたりのことについて、竹内好は戦後次のような総括を行っています。
「近代の超克」は、いわば日本近代史のアポリア(難関)であった。復古と維新、尊皇と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争(昭和になってずっと戦争がつづいていること=筆者)の理念の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった。だから問題の提出はこの時点では正しかった・・・しかし、これらのアポリアがアポリアとして認識の対象にされなかったために、せっかくのアポリアは雲散霧消して、公の戦争思想の解説に止まった、と。
つまり、大東亜戦争の意義について、確かに「近代の超克」という看板は掲げられ、上記のようなアポリアの提示はなされた。しかし、それは看板を掛けただけで、実際の思想闘争は行われなかった。そこから思想の創造作用は起こるはずがない。従って、もし、そうしたアポリアを解き新しい思想を創造しようとするなら、もう一度これらのアポリアを課題として据え直さなければならない、というのです。このことを前回指摘した大川周明の思想に即していうならば、「東西文明対立史観」をいかに克服するかということ。明治維新以来日本人を無意識のうちに呪縛してきた「尊皇思想」について、その思想的系譜を明らかにし対象化することでその呪縛を解く必要があるということです。
それができなかったために、戦前の日本の知識人は、大正時代中期以降、次第に東西文明対立史観に捕らわれるようになった。そこでは、東洋文明は王道文明、西洋文明は覇道文明と規定され、両文明の最終的な衝突が予測された。そこで、その最終闘争に備えるためには、同じ王道文明国である中国と連携し資源を共有する必要がある。しかし、中国はこうした日本の世界史的役割を認識せず、日本に協力しないばかりか日本を中国から追い出そうとした。そこでやむなく、日本は満州国という王道国家を作り範を示したが、中国はそれを認めようとしないので、目を覚まさせるため膺懲した・・・。
これが、多くの日本人にとっての満州事変及び支那事変の意味の解釈でした。そのどこが間違っていたかというと、先ず第一に、東洋を王道文明、西洋を覇道文明と決めつけ、前者が後者より優れているとした文明論。第二に、中国と日本を同じ王道文明の国と規定し、中国は日本と協同して西洋の覇権文明に対抗すべきとした最終戦争論。これらは、実は、日本人の尊皇思想に基づく国家観や世界観に基づくものであって、中国人にとっては、それは日本人の勝手な思想の押しつけ以外の何物でもなかった、ということです。
日本人は、戦前、このように自己中心的な思想を中国人に押しつけようとしていたことに気づかなかったのです。その結果、中国の主権国家としてのリアルな姿が見えなくなり、またワシントン体制下の世界秩序が見えなくなっていたのです。それが結果的に、中国に抗日持久戦争を決意させることになった。さらに意外なことに、その中国を覇権国家であるはずの英米が軍事的に中国を支援することになった。そこで、これに対抗するためにヒトラーと同盟したが、それは日本をファシズム陣営に追い込むことになり、英米との全面戦争を余儀なくされた・・・。
こうした絶望的な戦争の推移の中で、昭和13年以降、日本の「国体」思想は政治的なリアリズムを完全に見失って「神がかり」となり、天皇に対する絶対忠誠、尽忠報国が説かれ、八紘一宇という誇大妄想的なスローガンのもと、中国との戦争に加え英米を相手とする大東亜戦争をはじめることになったのです。その結果、一億玉砕の集団自殺さえ厭わない聖戦思想に支配されることになったのです。
ではなぜ、日本人は、このように政治のリアリズムを見失ない、虚構の聖戦思想に身を委ねることになったか。その根本原因は、先ほど述べた「尊皇思想」にあったわけですが、もし、これから脱却するすべがあったとしたら・・・。一つは、こうした思想運動の担い手となった軍人の軍縮下の不満をしっかり認識できていれば・・・。マスコミがセンセーショナリズムに陥らず、より正確な事実に基づく報道ができていれば・・・。政治家が党利党略に走らず、軍人を政治に巻き込むようなバカなまねはしなければ・・・等々が考えられます。
だが、実際には、このいずれも当時の日本人にはできませんでした。そのため、ワシントン会議以降の国際政治の変化を読み切れず、いたずらに対支強攻策をとった結果、中国に抗日持久戦争を決意させることになったのです。こうした意図せぬ結果を日本にもたらした思想が、実は明治維新の志士たちに革命的エトスを注入した尊皇攘夷思想であり、これが昭和期に復活したために、「昭和の悲劇」がもたらされることになったのです。しかし、その破滅を究極において救ったのが、「国民と共にある」ことをその存在の基本様態とする伝統的天皇制の姿でした。
そこで、この日本の伝統的な天皇制の姿と、昭和13年以降、日本の精神世界を支配した「現人神天皇制」とは、どのような関係にあるのか、後者の天皇制はどのようにして生まれてきたのかを、山本七平の日本思想史研究に見てみたいと思います。
以上、前置きが随分長くなりましたが、なぜ山本七平がこうした思想史的研究に取り組むことになったのかを理解してもらうためには、こうした前段の説明が不可欠だと思ったのです。
6 後期天皇制の要諦

 

前項について少し補足説明をしておきます。本当は、前項は「昭和の悲劇は、明治維新の尊皇攘夷思想が『王道文明vs覇道文明』となった結果起こった」とすべきだったかもしれません。しかし、昭和の悲劇が、日本民族の破滅に至らなかったのは、尊皇思想以前の「伝統的天皇制」のおかげではないか、と強く思われましたので、この「伝統的天皇制」のあり方をあらためて想起する意味で、このような表題にしました。
こうした日本の「伝統的天皇制」の明治以降のあり方については、本稿3「津田左右吉の天皇制論は、なぜ戦後思想界に受け入れられなかったか」で紹介しました。また、本稿4「軍内の派閥争いが国体明徴運動を経て平泉尊皇思想に行き着いたワケ」で紹介した美濃部達吉も、戦後、この「伝統的天皇制」の意味について、次のように語っています。
「・・・すべて国家には国民の国家的団結心を構成する中心(国民統合の象徴)がなければならず、しかして我が国においては、有史以来、常に万世一系の天皇が国民団結の中心に御在しまし、それに依って始めて国家の統一が保たれているからである。それは久しい間の武家政治の時代にあってもかつて動揺しなかったもので、明治維新の如き国政の根本的な大改革が流血の惨を見ず平和の裡に断行せられたのも、この国家中心の御在しますがためであり、近く無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられたのも、一に衆心の饗(むか)うべき所を指示したもう聖旨が有ったればこそであることは、さらに疑いをいれないところである。もし万一にもこの中心が失われたとすれば、そこにはただ動乱あるのみで、その動乱を制圧して再び国家の統一を得るためには、前に挙げたナポレオンの帝政や、ヒトラーの指導者政治や、またはレーニン・スターリン・蒋介石などの例に依っても知られ得る如く、民主政治の名の下に、その実は専制的な独裁政治を現出することが、必至の趨勢と見るべきであろう」
美濃部達吉はここで、「無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられたのも、一に衆心の饗(むか)うべき所を指示したもう聖旨が有ったればこそ」と言っています。山本七平は、この美濃部達吉や津田左右吉の天皇制の存続に関する言葉を、昭和の受難者であった彼等の「激動の昭和からの『平成への遺訓』」だと言っています。
では、その「一に衆心の饗(むか)うべき所を指示したもう聖旨」とはいかなるものであったか、ここに、日本民族の生き残りをかけた昭和天皇の日本国の国家統合の象徴としての比類なき覚悟が示されているわけです。これを軍人のそれと比較して見ると、両者の違いが分かります。次は、終戦に向けて発せられた昭和天皇の二回目の聖断の内容です。
八月一四日 御前会議 《機関銃下の首相官邸》
反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。
陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段に出ても、もとより先方のやり方に全幅の信頼を置きがたいことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果に較べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。
わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持を偲び、堪えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、必ずできると思う。わたしも国民とともに努力する。
今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前にも立つ。陸海軍将兵は特に動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい。
こうして、「無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられた」のです。この時の昭和天皇の「わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。・・・もとより先方のやり方に全幅の信頼を置きがたいことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果に較べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる」ということ言葉にこそ、後期天皇制の真髄は示されていると思います。それ故に、ご詔勅への全閣僚の副署も得られたのです。
といっても、8月9日の御前会議における終戦の決定を聞いた陸軍軍人の衝撃と動揺は大きく、終戦当時の陸軍参謀次長であった河邊虎四郎中将は、米国戦略爆撃調査団による調査に対して次のような証言をしています。
「參謀次長として、私は最後まで戦ひ抜くといふ意見を堅持していました。今でもなほ、われわれは最後まで戦ふべきであったといふ信念に変わりはありません。・・・私は、たとへわれわれが上陸軍に痛撃を与えたりすることができないにしても、いな戦局がもっと悪化して重要地点を上陸軍に占領されても、第二のドイツになる犠牲を彿はうとも、とにかく戦争を績けるべきであると考へていました。問 / 最後まで、とにかく抗戦するといふことが、陸軍全般としての態度なり意見だったと言はれるのですか。それとも、それは上級指導部の考へ方だったのですか。答 / それは大体全陸軍を通じての考へ方であったといへると思ひます。・・・私はあの時やめたのが正しかったのか徹底的に抗戦した方が正しかったのかは分りません。しがし、私自身に関する限りは、あくまで最後まで戦ったでせう。」
この点、この終戦の聖断が下された日が8月10日であるということには重要な意味があります。それは、広島(8月6日)と長崎(8月9日)への原爆投下、さらにソ連参戦(8月9日)という報を受けた直後のタイミングでなされたものだということです。これは、「陸軍が自信を喪失するまでは終戦をはかることはできない。うっかりそれをくわだてれば逆効果となって、平和のくわだてそのものが一掃されてしまう」(米内海相の言)との判断があって選ばれたタイミングだった、ということです。
戦後になって、このように終戦の聖断ができたのなら、なぜ開戦阻止の聖断は出せなかったのかとか、原爆が落とされる前に終戦の聖断は出せなかったのか、とかの疑問が提出されました。しかし、開戦時は、政府及び陸・海軍が開戦で一致しており天皇としてはそれを裁可するほかありませんでした。これに対して終戦時は、米内海相が終戦論を堅持し、最高戦争指導会議では賛否同数(3対3)となり、鈴木首相が天皇に聖断を仰いだ結果、終戦となったのです。それも、前述したように陸軍の敗北感が決定的となるまでは不可能だったのです。
この点について竹山道雄は、次のように評しています。
「戦争がはじまった後に、戦闘の場面で軍人が最後まで死力をつくす決心をもってたたかったことは当然であ」る。「戦争を否定するからとてその誉れまで認めないといふことはない。また、敗戦の最後の段階にいたっても、降服をいさぎよしとしなかった人々の気持も、それだけをとりあげるなら分ることである。しかし、軍人の中にはその最上層(すなはち国全体の運命が観点の中にあるべき地位の人)にすら、軍人精紳の激情から眼中に軍事的観点のみあって国の存立を忘れた人々がすくなくはなかった」
「このやうな熱情を抱きながらも、この将軍(先に紹介した河邊虎四郎のこと)は国策の終戦決定には従ってそれ以上の妄動はしなかったのだから、武人としての進退に非難されるところはないと思ふ。しかし、軍人が団体としては、その狭い職業的激情によって終始して国をあやまった方向に引きずったことは否定できなかった。もし軍人がはじめから、このやうな武人精紳はいだきながらも、しかもなほそれが守るべき限界を守っていたらどんなによかったらうに、と残念である。」
そして、このように軍がその「狭い職業的激情によって終始して国をあやまった方向に引きずった」ために引き起こされた戦争を、一億玉砕へと向かうその寸前で止めたものが、「わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う」という昭和天皇の言葉だったのです。つまり、こうした局面において「国民のために身を捨てる」覚悟をなされた昭和天皇のとられた行動ににこそ、後期天皇制における天皇の真の姿が示されていたのです。
では、このような後期天皇制が生まれたのは何時のことかというと、山本七平は、それは、建武の中興がその契機となっていて、それは武家より政権を奪取しようとした後醍醐天皇の前の天皇、花園天皇の北朝イデオロギーとでもいうべき考え方に現れている、といっています。つまり、花園天皇は後醍醐天皇による建武の中興を批判しているわけで、そうした時代の変化の中で、新たな「天皇の位置と役割と任務と将来のあり方を求めたのであり、それを記したのが『太子を誡むるの書』である。
というのも、彼には朝廷が武力によって政権を保持すべきであるという後醍醐天皇のような考え方は全くなく、乱国に立つためにこそ学問が必要で「これ朕が強いて学を勧むる所以なり」と考えた。すなわち、南北朝の争乱を前にしてこれにいかに対処すべきか。「恩賞で武士団を味方に付けるか、乱世に備えて公家の武家化を計るか、否、そうではない。そういう方法では、何も解決しない。それは目前の政争の処理に過ぎず、むしろ『一日屈を受くるも、百年の栄を保たば猶忍ずべし』の道を選ぶべきである。」として次のようにいっています。
「私自身は、生来、拙であって智も浅いが、それでもほぼ典籍を学び、徳義を成して、王道を興そうとしたのは何故であったか。これはただ宗廟の祀を絶たないがためであった。宗廟の祀を絶たないのは、ただに太子の徳にあるのである。他にない。徳を廃して修めなければ、学の所の道もまた用いることができない。これでは「胸を撃て哭泣し、天を呼んで大息する所」となる。最大の不幸は、その代に祀を絶つことである。
なぜそうなってはならないか、「学功立ち徳義成らば、ただに帝業の当年を盈(みた)すのみならず、亦即ち美名を来葉に貽(のこ)し、上は大孝を累祖に致し、下は厚徳を百姓(万民)に加えん」となるからである。それは人民のためである。従って、常に「慎まざるべけんや、懼れざるべけんや」である。そしてそうなれば「高うして而して危からず、満て而して溢れず」である。
そしてまた世に、これほど楽しいことがあろうか。すなわち書中で聖賢とまじわり、一窓を出でずして千里を見、寸陰を過ぎずして万古を経」。楽の最大なるもの、これ以上のものがあるはずがない。「道を楽むと乱に遇うと」はまさに憂と喜の大きな差である。これは自らの決断において選択すべきことであるから、「よろしく、審に思うべき而已」である。
山本七平は、これが北朝の基本的な考え方、いわば憲法であり、「一言にしていえば『天皇=日本教の大祭司職』と宣言し、それに天皇の正当性をおいた文書と言える。これは頼朝の三原則(注1)、泰時の明恵上人への告白(注2)と共に、日本の形成にあたって、最も影響を与えた重要な文書の一つであると私は考える」
「従って、後期天皇制(注3)の祖は彼であると言えるかも知れない。そして高氏はこの皇太子すなわち光厳上皇を奉じて京都に入り、次いで光明天皇が即位し・・・後醍醐天皇はこの天皇に神器を渡し、高氏は幕府を開いて建武式目を定め、十二月に後醍醐天皇が密かに吉野に移り、ここに北朝すなわち後期天皇制はほぼ確立したわけである」といっています。
もちろん、この後期天皇制のあとに、徳川幕府が体制の学として導入した朱子学の正統論に触発された尊皇思想が生まれることになります。そして、これが幕末の攘夷論と結びついて尊皇攘夷論となり、さらには尊皇倒幕論となって、ここに天皇を中心とする中央集権国家体制が樹立されることになったのです。しかし、この時明治新政府を作った元勲らの構想した天皇制は、必ずしも尊皇思想にいう天皇親政ではなく、後期天皇制の伝統を引き継くものだったのです。それ故にこそ、明治憲法において立憲君主制が採用されたのです。
こうした明治憲法下の立憲君主制下の政治体制が、どのような事情で否定され天皇親政が理想とされるに至ったかについては、いままでも縷々説明してきました。ただ、なぜそのような非合理的な「現人神天皇制」下の天皇親政イメージが、軍人のみでなく多くの日本人の心を捕らえるに至ったかについては、上述した後期天皇制との絡み合いも含めてより詳細に検討する必要があります。次 項は、後期天皇制の天皇がなぜ「現人神」とされるに至ったか、その思想的系譜を説明したいと思います。

注1 / 頼朝は、当時の朝廷の中から「政治」といいうる要素だけを、非常に巧みに抽出してきて、それだけを把握してしまった。そして朝廷の非政治的要素はそのまま朝廷に残して、これを巧みに、文字通り「敬遠」した。・・・その結果は彼は、当時の世界では全く創造できない「純政治的政府」を作り上げてしまった。すなわち最も簡素で、最も能率的、最も安価な政府である。そして、その時彼が朝廷に対して示した「三か条」には、まさに「政治」というものの基本的要素が要約されている。彼はいわば「公家権=朝廷権」「寺社権」「武家権」といういうべき権利を承認している。いわば既存の権利の承認である。同時にその権利者の諸権利、特にその権利の基本である所有権は、政権の交代により侵害されることはないという保障である。そして彼自身が持つ権限は、この権利への保護権と監督権、および権利者間の争いへの裁定権である。この「三か条」は幕府政権の「マグナ・カルタ」というべきものであろう。
注2 / こうした幕府政治の基本的性格をさらに徹底させ、日本人の政治哲学の根本を作り上げたのが北条泰時であった。彼は、後鳥羽上皇が正当な理由なく摂津の長江と倉橋二庄の地頭職を停止した上何らかの処置をするよう幕府に命じたことに対して、これを拒否した。それは頼朝の定めた三原則に違反するものであったからである。しかし、朝廷側にしてみれば大化以来、原則として所有権というものを認めない。「一朝の万物はことごとく国王の物に非ずということなし」である。そこで後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を発することとなって、ここに承久の変が引き起こされた。この時泰時は、「王難」という言葉で、「天皇が、民生の安定という彼の義務の遂行を阻害したから、これを排除せざるを得ない」といい、三上皇を遠島にし、後堀河院を立てた。ただし、出発に際し八幡大菩薩と三島明神に誓約し、もし自分の京都進撃が道理に背いているなら、直ちにいま自分の命を絶ってほしい。もしこれが天下の人々を助け、人民を安んじ、仏神を興すことになるならば愛隣を垂れてほしい。そしてこれが成功したら、その後は政治に全く私心をはさまず、万民を安らかにすべく、いわば「即民去私」の生涯を送ると誓った。これが幕府政治ひいては日本の政治思想の基本を形成することになり、この幕府思想が今度は逆に、花園院に見られるような学功と徳義を統治の基本におく「後期天皇制」のあり方を規定していった。
注3 / 天皇制をいわば前期と後期に分けた最初の人は新井白石である。彼によれば、前期天皇制は神話時代から後亀山院さらに高福院までであって、その最後の天皇は後醍醐天皇である。後期天皇制とは北条高時の擁立した光厳院に始まり、白石に時代までで、この前期・後期に併存期間がほぼ南北朝時代でこの期間を彼は120年とする。彼の考え方に従えば、難聴の終わりで前期天皇制は終わり、光厳院に遡りうる北朝の創設で別の天皇制が始まっているのである。そしてこの後期天皇制は、武家のために武家が立てたものであるから、武家はこれを大切にしなければならない――天皇家が栄えることは武家が栄えることなのだから、天皇家を大切にするのは当然の義務だ、という考え方が基になっているのである。と同時に彼は、公家と武家は、はっきり別の物と考え、この二つを一種の「教権」と「帝権(政権)」の分立というような形で捕え、両者は相互に干渉してはならないものと考えている。 
7 日本人を大量「転向」させた尊皇思想に基づく国体思想

 

まず、なぜ戦前昭和期において「現人神天皇制」下の天皇親政イメージが、軍人のみでなく多くの日本人の心を捕らえるに至ったか、について考えてみたいと思います。もしこれが、軍人のみに都合の良い考え方であって、戦時体制下、国民精神を総動員するための方便に過ぎないものであったのなら、国民は強制されたか”騙された”ということで済みます。しかし、実際はそうではなくて、多くの国民が「現人神天皇制」下の天皇親政イメージや、そこで説かれた国民精神の有り様を支持したことは間違いないのです。
そこで、「現人神天皇制」下の天皇親政イメージ(所謂国体観念)とは具体的にどのようなものであったかということですが、前回申しましたように、こうした思想が一般国民の間に浸透するようになったのは、天皇機関説排撃に引き続く体明徴運動以降のことです。もちろん、それ以前に不敬罪(1880)や大逆罪(1882)の制定もあります。また、教育勅語制定(1890)以降の教育の場における御真影の奉拝(1891)という問題もあります。しかし、これらはまだ刑法や教育の問題に止まっていました。
これが、政治上の問題となってくるのは、明治44年の南北朝正閏問題(1911)以降のことで、直接的には、共産主義に対する警戒心から、日本人の思想及び「国体観念」のあり方が問われるようになったのです。大正14年(1925)には治安維持法が制定され、昭和3年には共産党の大量検挙者を出した三・一五事件が起こりました。さらに、これが大学教授の学説に及ぶようになったのが昭和8年の滝川事件で、昭和9年には右翼蓑田胸喜らが美濃部達吉の著書『憲法撮要』を国体破壊にあたるとして不敬罪で告発しました。
しかし、当時の学界や官界では美濃部の学説が定説とされていてこれは不起訴となりました。そこで蓑田は貴族院の菊池武夫に美濃部の天皇機関説を攻撃させ、これを政治問題化しようとしました。結果は、国会論戦で美濃部が菊池を圧倒しましたが、政治的には「機関説」という言葉が天皇の「神聖性」を犯すとして忌避され、貴族院と衆議院で機関説排撃「国体明徴」決議案が可決(s10.3)、続いて政府による二度にわたる「国体明徴」声明、翌年5月には、文部省より『国体の本義』が刊行されるに至りました。
つまり、この天皇機関説排撃を契機に、それまで三十年来唱導され、学界、官界、政界に定着していた明治憲法における天皇の国家法人説に基づく機関説的理解が、あくまで心情の問題として根底から覆えされるに至ったのです。その結果、それまでの日本の思想・政治・教育・宗教などのあり方が、皇国史観に基づく尊皇思想の観点から根本的に見直されることになりました。その後、肇国の精神、万邦無比の国体、祭政一致、現人神、天皇親政などの意味不明の言葉が国民の間に徘徊するようになりました。
一体、この時日本人の思想に何が起こったのかということですが、不思議なことに、一種の国民的「転向(=「回心)」が起こったのです。では、その時の思想はどのようなものだったか、ということが問題になりますが、実はこれがよく判らない。その唯一の解説が、文部省が出した『国体の本義』ではないかと思われますので、次に、それを紹介します。本文はかなりの長文ですので、そのエッセンスを書き抜きます。

第一 大日本国体
一、肇国
(肇国の精神) 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。
二、聖徳
(皇祖の御徳) 伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の修理固成は、その大御心を承け給うた天照大神の神勅によつて肇国となり、更に神武天皇の御創業となり、歴代天皇の大御業となつて栄えゆくのである。・・・天照大神の御徳を日本書紀には「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」と申し上げてゐる。天皇はこの六合の内を普く照り徹らせ給ふ皇祖の御徳を具現し、皇祖皇宗の御遺訓を継承せられて、無窮に我が国を統治し給ふ。而して臣民は、天皇の大御心を奉体して惟神の天業を翼賛し奉る。こゝに皇国の確立とその限りなき隆昌とがある。
三、臣節
(臣民の道) 我等は既に宏大無辺の聖徳を仰ぎ奉つた。この御仁慈の聖徳の光被するところ、臣民の道は自ら明らかなものがある。臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕へ奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。
(忠孝一致) 我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることは出来ない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれに基づく。
四、和と「まこと」
(和の精神) 我が肇国の事実及び歴史の発展の跡を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我が肇国の鴻業より出で、歴史生成の力であると共に、日常離るべからざる人倫の道である。和の精神は、万物融合の上に域り立つ。人々が飽くまで自己を主とし、私を主張する場合には、矛盾対立のみあつて和は生じない。個人主義に於ては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。
(家族の和) この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。
(社会生活の和) 更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。
(国の和) このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。
第二 国史に於ける国体の顕現
一、国史を一貫する精神
(万邦無比の国体)・・・我が国に於ては、肇国の大精神、連綿たる皇統を基とせずしては歴史は理解せられない。北畠親房は、我が皇統の万邦無比なることを道破して、大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云ふなり。と神皇正統記の冒頭に述べてゐる。
(政治の変態) 源頼朝が、平家討減後、守護・地頭の設置を奏請して全国の土地管理を行ひ、政権を掌握して幕府政治を開いたことは、まことに我が国体に反する政治の変態であつた。それ故、明治天皇は、陸海軍軍人に下し賜へる勅諭に於て、幕府政治について「且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」と仰せられ、更に「再中世以降の如き失体なからんことを望むなり」と御誡めになつてゐる。
(北条氏の不遜) 源氏の滅後、執権北条氏屡々天皇の命に従はず、義時に至つては益々不遜となつた。依つて後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は、御親政の古に復さんとして北条氏討滅を企て給うた。これ、肇国の宏謨を継ぎ給ふ王政復古の大精神に出でさせられたのである。然るにこの間に於ける北条氏の悪逆は、まことに倶に天を戴くべからざるものであつた。
(建武の中興) 併しながら三上皇の御精神は、遂に後宇多天皇より後醍醐天皇に至つて現れて建武中興の大業となつた。当時皇室に於かせられて、延喜・天暦の聖代に倣つて世を古に復さんと志し給うたことは、種々の文献に於てうかゞふことが出来る。実に建武の中興は、遡つては大化の改新と相応じ、降つては明治維新を喚び起すところの聖業であつて、これには天皇を始め奉り諸親王の御尽瘁と共に、幾多の忠臣の輔佐があつた。
(忠臣) 即ち忠臣には、北畠親房・日野資朝・日野俊基等を始め、新田義貞、楠木正成等があつて、回天の偉業が成就せられた。わけても楠木正戌の功業は、永く後人の亀鑑となつてゐる。太平記には「主上御簾を高く捲かせて、正成を近く召され、大義早速の功、偏に汝が忠戦にありと感じ仰せられければ」、正成畏まつて「是君の聖文神武の徳に依らずんば、微臣争か尺寸の謀を以て強敵の囲を出づべく候乎」と奉答したと見えてゐる。
(足利氏の大逆無道) 以上の如き建武中興の大業も、政権の争奪をこととして大義を滅却した足利尊氏によつて覆へされた。即ち足利尊氏の大逆無道は、国体を弁へず、私利を貪る徒を使嗾して、この大業を中絶せしめた。かくて天皇が政治上諸般の改革に進み給ひ、肇国の精神を宣揚せんとし給うた中興の御事業は、再び暗雲の中に鎖されるに至つた。
(朱子学の採用) 徳川幕府は朱子学を採用し、この学統より大日本史の編纂を中心として水戸学が生じ、又それが神道思想、愛国の赤心と結んでは、山崎闇斎の所謂崎門学派を生じたのである。闇斎の門人浅見絅斎の靖献遺言、山鹿素行の中朝事実等は、いづれも尊皇の大義を強調したものであつて、太平記、頼山陽の日本外史、会沢正志斎の新論、藤田東湖の弘道館記述義、その他国学者の論著等と共に、幕末の勤皇の志士に多大の影響を与へた書である。
(国学の成立) 儒学方面に於ける大義名分論と並んで重視すべきものは、国学の成立とその発展とである。国学は、文献による古史古文の研究に出発し、復古主義に立つて古道・惟神の大道を力説して、国民精神の作興に寄与するところ大であつた。本居宣長の古事記伝の如きはその第一に挙ぐべきものであるが、平田篤胤等も惟神の大道を説き、国学に於ける研究の成果を実践に移してゐる。徳川末期に於ては、神道家・儒学者・国学者等の学銃は志士の間に交錯し、尊皇思想は攘夷の説と相結んで勤皇の志士を奮起せしめた。実に国学は、我が国体を明徴にし、これを宣揚することに努め、明治維新の原動力となつたのである。
二、国土と国民生活
(国土愛) 我が国土は、語事によれば伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の生み給うたものであつて、我等と同胞の関係にある。我等が国土・草木を愛するのは、かゝる同胞的親和の念からである。即ち我が国民の国土愛は、神代よりの一体の関係に基づくものであつて、国土は国民と生命を同じうし、我が国の道に育まれて益豊かに万物を養ひ、共に大君に仕へ奉るのである。
三、国民性
(わが国の風土) 我が国の風土は、温和なる気候、秀麗なる山川に恵まれ、春花秋葉、四季折々の景色は変化に富み、大八洲国は当初より日本人にとつて快い生活地帯であり、「浦安の国」と呼ばれてゐた。併しながら時々起る自然の災禍は、国民生活を脅すが如き猛威をふるふこともあるが、それによつて国民が自然を恐れ、自然の前に威圧せられるが如きことはない。災禍は却つて不撓不屈の心を鍛錬する機会となり、更生の力を喚起し、一層国土との親しみを増し、それと一体の念を弥々強くする。
(没我・無私の精神) わが国民性には、この没我・無私の精神と共に、包容・同化の精神とその働とが力強く現れてゐる。大陸文化の輸入に当つても、己を空しうして支那古典の字句を使用し、その思想を採り入れる間に、自ら我が精神がこれを統一し同化してゐる。この異質の文化を輸入しながら、よく我が国特殊のものを生むに至つたことは、全く我が国特殊の偉大なる力である。このことは、現代の西洋文化の摂取についても深く鑑みなければならぬ。
四、祭祀と道徳
(現人神天皇) 我が国は現御神にまします天皇の統治し給ふ神国である。天皇は、神をまつり給ふことによつて天ッ神と御一体となり、弥々現御神としての御徳を明らかにし給ふのである。されば天皇は特に祭祀を重んぜられ、賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿の御祭祀は、天皇御親らこれを執り行はせ給ふのである。
(武士道の精神) 我が国民道徳の上に顕著なる特色を示すものとして、武士道を挙げることが出来る。武士の社会には、古の氏族に於ける我が国特有の全体的な組織及び精神がよく継承せられてゐた。故に主として儒教や仏教に学びながら、遂によくそれを超えるに至つた。即ち主従の間は恩義を出て結ばれながら、それが恩義を超えた没我の精神となり、死を視ること帰するが如きに至つた。
(生死一如) そこでは死を軽んじたといふよりは、深く死に徹して真の意味に於てこれを重んじた。即ち死によつて真の生命を全うせんとした。個に執し個を立てて全を失ふよりも、全を全うし全を生かすために個を殺さんとするのである。生死は根本に於て一であり、生死を超えて一如のまことが存する。生もこれにより、死も亦これによる。然るに生死を対立せしめ、死を厭うて生を求むることは、私に執著することであつて武士の恥とするところである。生死一如の中に、よく忠の道を全うするのが我が武士道である。
五、国民文化
(革命思想) 我が国の文化は、肇国以来の大精神の顕現である。これを豊富にし発展せしめるために外来文化を摂取醇化して来た。支那の明時代に著された五難爼に、経書のうち孟子を携へて日本へ往く者があれば、その船は必ず覆溺するといふ伝説を掲げてゐる如きは、凡そ革命思想が我が国体と根本的に相容れないことを物語るものであり、我が不動の精神とこれに基づく厳正な批判との存することを意味してゐる。
(知行合一) 教育は知識と実行とを一にするものでなければならぬ。知識のみの偏重に陥り、国民としての実践に欠くる教育は、我が国教育の本旨に悖る。即ち知行合一してよく肇国の道を行ずるところに、我が国教育の本旨の存することを知るべきである。諸々の知識の体系は実践によつて初めて具体的のものとなり、その処を得るのであつて、理論的知識の根柢には、常に国体に連なる深い信念とこれによる実践とがなければならぬ。
六、政治・経済・軍事
(祭政一致) 我が国は万世一系の天皇御統治の下、祭祀・政治はその根本を一にする。・・・即ち祭祀の精神は挙国以来政事の本となつたのであつて、宮中に於かせられては、畏くも三殿の御祭祀をいとも厳粛に執り行はせられる。これ皇祖肇国の御精神を体し、神ながら御世しろしめし給ふ大御心より出づるものと拝察し奉るのである。実に敬神と愛民とは歴代の天皇の有難き大御心である。
(天皇親政) 尚、帝国憲法・・・その政体法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英国流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三権分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは、肇国以来万世一系の天皇の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。
(臣民の権利義務) 帝国憲法の政体法の一切は、この御親政の原則の拡充紹述に外ならぬ。例へば臣民権利義務の規定の如きも、西洋諸国に於ける自由権の制度が、主権者に対して人民の天賦の権利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の恵撫慈養の御精神と、国民に隔てなき翼賛の機会を均しうせしめ給はんとの大和心より打出づるのである。
(三権分立) 政府・裁判所・議会の鼎立の如きも、外国に於ける三権分立の如くに、統治者の権力を掣肘せんがために、その統治権者より司法権と立法権とを奪ひ、行政権のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が国に於ては、分立は統治権の分立ではなくして、親政輔翼機関の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を弥々確実ならしめんとするものである。
(議会) 議会の如きも、所謂民主国に於ては、名義上の主権者たる人民の代表機関であり、又君民共治の所謂君主国に於ては、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機関である。我が帝国議会は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、国民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て、翼賛せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。
結語
(西欧の個人主義批判) 個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。こゝに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。今や西洋諸国に於ては、この誤謬を自覚し、而してこれを超克するために種々の思想や運動が起つた。併しながら、これらも畢竟個人の単なる集合を以て団体或は階級とするか、乃至は抽象的の国家を観念するに終るのであつて、かくの如きは誤謬に代ふるに誤謬を以てするに止まり、決して真実の打開解決ではない。
(支那思想批判) 我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。
(インド仏教批判) 印度に於ける仏教は、行的・直観的な方面もあるが、観想的・非現実的な民族性から創造せられたものであつて、冥想的・非歴史的・超国家的なものである。然るに我が国に摂取せられるに及んでは、国民精神に醇化せられ、現実的・具体的な性格を得て、国本培養に貢献するところが多かつたのである。
(わが国の国体) 「我が国は、従来支那思想・印度思想等を輸入し、よくこれを摂取醇化して皇道の羽翼とし、国体に基づく独自の文化を建設し得たのである。明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあつたが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亙つて種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以て宏大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。
(西欧の政治経済思想) 西洋近代文化の根本性格は、個人を以て絶対独立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充実に存し、個人が一切価値の創造者・決定者であるとするところにある。従つて個人の主観的思考を重んじ、個人の脳裡に描くところの観念によつてのみ国家を考へ、諸般の制度を企画し、理論を構成せんとする。かくして作られた西洋の国家学説・政治思想は、多くは、国家を以て、個人を生み、個人を超えた主体的な存在とせず、個人の利益保護、幸福増進の手段と考へ、自由・平等・独立の個人を中心とする生活原理の表現となつた。従つて、恣な自由解放のみを求め、奉仕といふ道徳的自由を忘れた謬れる自由主義や民主主義が発生した。(また)個人の自由なる営利活動の結果に対して、国家の繁栄を期待するところに、西洋に於ける近代自由主義経済の濫觴がある。
(西欧の政治経済思想が日本に及ぼした影響) 西洋に発達した近代の産業組織が我が国に輸入せられた場合も、国利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌剌たる自由活動は著しく国富の増進に寄与し得たのであるけれども、その後、個人主義・自由主義思想の普及と共に、漸く経済運営に於て利己主義が公然正当化せられるが如き傾向を馴致するに至つた。この傾向は貧富の懸隔の問題を発生せしめ、遂に階級的対立闘争の思想を生ぜしめる原因となつたが、更に共産主義の侵入するや、経済を以て政治・道徳その他百般の文化の根本と見ると共に、階級闘争を通じてのみ理想的社会を実現し得ると考ふるが如き妄想を生ぜしめた。利己主義や階級闘争が我が国体に反することは説くまでもない。皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競ひ励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利と民福とは一如となつて、健全なる国民経済が進展し得るのである。
(個人主義の功績と欠陥) かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。
(個人主義の是正) 併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。
(我が国民の使命) 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。
(国体明徴) 現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。
(世界文化への貢献) 世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。」

以上、引用が長くなりましたが、「第一 大日本国体」は、尊皇思想に基ずく国体観念と臣民の道徳、「第二 国史に於ける国体の顕現」は、それらの精神がどういう歴史的変遷を経て生まれてきたかを皇国史観に基づいて説明しています。その上で、あるべき政治・経済・軍事のあり方を示しています。そして「結語」では、そうした「国体」精神の有り様を、西欧や支那やインドのそれと比較する中で、その優位性を主張すると共に、これらの文化を摂取醇化することの大切さを説いています。言うまでもなく、こうした日本人の思想的大量転向は、当時日本が直面していた政治、経済、外交問題をより適切に処理するためのものであったはずです。ところが実際には、親善・友好・互恵の関係を結ぶべき中国との泥沼の持久戦争に突入することになり、挙げ句の果ては英米との戦争を余儀なくされるに至りました。  
8 尊皇思想はなぜ独善的・排他的になったか

 

前項は、「日本人を大量『転向』させた尊皇思想に基づく国体思想とはどんな思想だったか」ということを、昭和12年に文部省が出した『国体の本義』に見てみました。これは次の三つの主張から構成されていました。第一の「大日本国体」は、尊皇思想に基ずく国体観念と臣民の道徳について。第二の「国史に於ける国体の顕現」は、この思想がどのように生まれてきたか、また、そのあるべき政治・経済・軍事のあり方について。第三の「結語」は、そうした日本の「国体」を、西欧や支那やインドのそれと比較する中で、その優位性を主張すると共に、これらの文化を摂取醇化する大切さに言及したものでした。
この三つの主張の内、第一、第二は、いわゆる尊皇思想を江戸時代に形成された皇国史観に基づいて述べたものです。これは、徳川幕府が「体制の学」として導入した朱子学が日本的に変容していく過程で生まれたものです。しかし皮肉なことに、それが逆に、幕府を倒して天皇中心の中央集権国家を作る明治維新の革命のエトスに転化しました。また、こうして明治維新が成功し新政府が樹立されると、この思想が掲げていた攘夷は実行されず、さらに、それが理想としていた天皇親政は採用されず、実質的に明治憲法下の立憲君主制として運用されることになりました。
また、三番目の「結語」では、こうして西欧の個人主義・自由主義が日本に流入することとなり、資本主義経済や政党政治が導入されたこと。そのため、個人の価値が偏重され、伝統的な奉仕の精神や和の精神が損なわれて利己主義が蔓延し、貧富の差が拡大し、党派や階級間の争いが常態化するようになったこと。そして、これらの弊害を除去するためには、かっての尊皇思想が主張し結果的に挫折した天皇親政が回復されなければならないことが述べられています。といっても、それがいたずらに排外主義的になることを戒めてはいますが・・・。
ここで注意すべき事は、そうした西欧化の弊害を除去する方策として、天皇親政の回復が主張されてはいますが、それは多分に、統帥権の独立を主張する軍の思惑を反映するものだったということです。といっても、明治以降の近代化の流れの中で、日本人の自己抑制的な規範意識が低下した事は事実です。また、第一次世界大戦後の戦後不況やそれに引き続く世界恐慌、さらに冷害による農村疲弊等が重なって発生した難問に、普通選挙(昭和3年に第一回選挙が行われた)実施後の日本の政党政治が、適切に対応できなかったことも事実です。
これが、満州事変以降、日本国民が政治家よりも軍人を支持するようになった理由ですが、国体明徴運動以降、こうした難問を思想的に解決するとして復活したのが、この尊皇思想だったわけです。というのは、この思想は、万世一系の天皇を宗主とし一君万民平等を基本理念とする家族主義的国家観を持っていて、この伝統思想こそが、先に述べたような日本の近代化に伴う難問を解消する上で有効であると考えられたのです。この思想は、昭和7年以降、平泉澄を通して次第に軍部に浸透し、盧溝橋事変以降日本が戦時体制に突入する中で、次第に国民の間に浸透していきました。
以上述べたように、尊皇思想は、国家社会を家族関係に同定し、君臣関係を親子関係になぞらえることで、いわゆる「忠孝一致」を説いていました。また、こうした日本「国体」の有り様は、日本神話における神々の「国生み」以来、万世一系の皇統によって支えられてきたもので、万邦無比であるとされ、ついには、これを世界的に拡張して天皇を中心とする「八紘一宇」の家族的世界観を唱えるに至りました。その結果、国民には「忠孝一致」から「殉忠報国」さらには「滅私奉公」が求められるようになったのです。
また、そうした家族的国家観に基づく統治観念は、天皇親政という言葉に象徴されるように、天皇の「大御心」による一君万民平等の直接統治を理想としていました。そのため、幕府政治はその正統から逸脱した「変態」であるとされました。そこで、天皇親政の復活を企図した建武の中興の後醍醐天皇が理想化され、その後醍醐天皇を助けた河内の土豪楠木正成が忠臣とされ、後に、後後醍醐天皇の親政に反対して反旗を翻し、南朝に対する北朝を樹立した足利尊氏が「大逆無道」の逆臣とされたのです。
もちろん、こうした歴史観は、徳川幕府が「体制の学」として導入した朱子学が日本的に変容する過程で生まれたもので、日本の歴史を正しく反映するものではありません。いうまでもなく日本の歴史の独自性は、武家が樹立した幕府政治によって形造られたもので、天皇制のあり方もそれに伴って変容したものです。それは、建武の中興が失敗して以降、幕府権力から分立して非政治的・文化的象徴天皇制へと変化しました。それが先に述べたような事情で、徳川幕府政権下、天皇による直接統治が正統とされるようになったのです。
しかし、こうした天皇による直接統治の正統性の主張は、当初は朱子学の正統論によっていましたが、これに対する反発が生じるようになると、その正統性の根拠を、記紀神話に由来する万世一系の天皇制に求めるようになりました。これを文献学的に裏付けたものが国学でした。といっても、国学は、天皇による祭政一致の政治を称揚しつつも、幕府を天皇の征夷大将軍任命下に位置づけることで認めました。一方、朱子学の正統論を引き継ぐ崎門学からは、天皇への絶対忠誠をエトス化する思想が生み出されました。
その結果、国学の天皇を中心とする祭政一致の政治観と、崎門学系統の浅見絅斎らによる天皇への絶対忠誠を求める思想とが結びつくことで、朱子学の正統論から出発した水戸学が後期水戸学へと変容していったのです。この後期水戸学が生んだ国家観が、先に述べた万世一系の天皇を宗主とする家族的国家観だったのです。それが、幕末の攘夷思想と結びついて尊王攘夷論となり、さらに幕府が開国策をとったことを契機として、水戸学の範疇を超えた尊皇倒幕論へと発展していったのです。
つまり、以上のような歴史的経緯を経て生まれた日本の「国体」観と、そこにおける天皇による直接統治の正統性を歴史的に証明しようとしたのが、先に述べたような尊皇思想の歴史観だったのです。こうした歴史観はまず水戸学で説かれ、それが後期水戸学において家族的国家論となり、さらに平田篤胤の「復古神道」によって、国学の「祖先神」的神概念が「絶対神」化された結果、「天皇は絶対神の直系、従って日本は絶対」という超国家主義への危険性を孕むことになりました。
「元来神道には、体系的・普遍的要素がなく、従って外来の宗教混交思想の受容が可能であったわけだが、これが絶対神という概念と結合して絶対化すると、普遍主義的思想ではないため、極端な拝外思想になって不思議ではない。そのためこれ以降の『日本神国論』は、この平田神学の発想を基に、廃仏・廃儒・廃キリスト教・廃西欧、日本絶対という形に進んでも不思議ではないのである。」いわば日本の伝統思想が状況倫理に陥りやすいことが、一方で、全体主義的への傾斜を強めることにもなっているわけですね。昭和の「現人神天皇制」もその現れです。
その点、『国体の本義』では、この「現人神」の定義について、それは西欧の絶対神という意味ではないとして、次のような注釈を施しています。
「かくて天皇は皇祖皇宗の御心のまにまにわが国を統治し給う現御神(あきつかみ)」であらせられる。この現御神(明神)あるいは現人神と申し奉るのは、いわゆる絶対神とか全知全能とかいうが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。」
また、この尊皇思想がいたずらに排外主義的な性格を持つことを警戒して、『国体の本義』の「総括」では、
「今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。」
「現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。」「世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。」
と、述べられています。
この「総括」を見ると、この時期の日本が、なんとかして明治以来の「西洋崇拝」の弊害を克服し、独自の思想的・文化的基盤を確立しようともがいていたことが分かります。そして、これを達成するための思想的・文化的淵源となるものとして支持されるようになったものが、平田篤胤流の復古神道(神道と基督教を習合させたような日本神話の創造神的解釈)をベースとする、絶対的・排外主義的尊皇思想であったわけです。
そのため、こうした「総括」の抑制的書きぶりにも拘わらず、第一の「大日本国体」や第二の「国史に於ける国体の顕現」で説かれた国体思想は、次第に排他的・独善的性格を強めることになりました。さらに、その統治主体とされた天皇は神格化され、その「国体」は万邦無比となり、世界はこの天皇の下に「八紘一宇」の世界家族共同体を形成すべき、とされるようになったのです。
また、こうして神格化された天皇や万邦無比の「国体」に対して、国民の忠君愛国・滅私奉公・生死一如の忠誠が求められるようになりました。また、政治制度としては天皇親政が当然とされるようになり、明治憲法に基づく立憲君主制下の政党政治が否定され、全政党が自主的に解散することになりました。さらに、三権分立の権力の相互牽制機関である議会や裁判所も、天皇親政を補翼する機関とされるようになりました。
あるいは、こうした全体主義的な政治体制の編成は、総力戦下の国家総動員体制の有り様としては有効に機能した部分もあったかも知れません。しかし、以上のような「独善的・排外主義的」尊皇思想に基づくこうした政治体制の編成は、結局、意味不明な日中戦争を防止することも、また中止することもできず、それどころか、加えて英米との全面戦争に突入するという無謀を、あえて選択したのです。
ここでは明らかに、日本の国益をリアル・ポリティクスに基づいて冷静に追求すべき政治家の責任が閑却されていました。それは、「支那事変は自己の利害を超越したる道義戦」などといった空疎な言葉によって”粉飾”され、その実態を見る事ができなくなっていたのです。この事実を指摘したのが衆議院議員斉藤隆夫で、彼が大東亜戦争開始直前に書いた『日本はどうなるか』には、次のようなことが記されています。
「望むところは領土や償金や資金にはあらずして、東亜の新秩序である。而してその新秩序の内容は何んであるかと思えば、共同防共と善隣友好と経済提携と、この三原則の外には出でないというのである。ここに於て国民の頭に浮び出づる最初の疑は、それならば何も戦争をやらなくとも、戦争以外の方法に依りて彼我共に此の目的を達する手段があるではないか。」
これは政治家として当然の指摘です。こうした見方は、もし当時の政治家が軍におもねるようなことがなければ、当然にできたはずなのですが・・・。斉藤は続けて次のように言っています。
「仮に、支那事変なくして今回ヨーロッパ戦争(第二次大戦)が始まったとするならば、我が国は如何なる立場に在るであろうか。国力を内に貯え、倣然として世界に臨めば、英と言わず米と言わずソ連と言わず其の他世界各国は、競って我が国の脚下に膝まづきて我が国の歓心を求むべく、我が国に於ける富の増進は第一次ヨーロッパ戦争(第一次大戦)に比して十倍に上るは無論のこと、之に依りて国力の強化は言うに及ばず、世界の指導権を獲得して東亜新秩序の建設や共栄圏確立の如きは労せずして手に握ることを得るは、鏡の懸けて見るが如きものである。然るに、誤って支那事変を惹起しえに向って国力を傾倒せねばならぬのみならず、事変の前途は暗浩として全く見透しが付かない。其の上、是が原因となりて我が国の周囲に敵性国家が現われ、経済封鎖を断行し、対日包囲陣を形成して、じりヽと我が国を圧迫せんとするのが、今日の現状である。」
これも上記の指摘と同様、政治家としては当然の指摘です。ところが、こうした斉藤の、観念論を排してリアル・ポリティクスに徹すべしとするの主張は、当時もそうでしたが、今日においても、一般的にはなかなか理解されないのが実情です。
そのため、斉藤が二・二六事件直後の2月28日になした「粛軍演説」については、これを高く評価するものは多いのですが、昭和15年2月2日に行った米内光政内閣に対する「支那事変処理に関する質問演説」については、この中で斉藤が、国家間の競争を「道理の競争でも正邪曲直の競争」ではなく、あくまでも「優勝劣敗、適者生存」であると主張したことについて、この事実を無視するものが多いとのことです。
しかし、私は、こうした「リアル・ポリティクスを徹底すべし」とする斉藤の主張は、昭和12年の「粛軍演説」とセットで理解すべきものであり、それはあくまで、国家競争が戦争に発展した段階における理論として理解すべきものであると思います。こう考えれば、「昭和の悲劇」をもたらしたその最大要因は、斉藤が指摘した通り、国家競争及び戦争の論理をリアルに認識できず、これを道義的・空想的言辞で説明した尊皇思想のリアリズムの欠如にあった、ということがいえると思います。
この点、昭和における超国家主義イデオローグの巨頭とされた北一輝や大川周明の場合は、こうしたリアリズムの欠如した尊皇思想には全く囚われておらず、それぞれ独自のよりリアルな日本歴史認識をもっていて、「総括」に述べられたような難問の解決にあたっていました。それ故に、両者共、日中間の戦争はもちろん対米英戦争を(北一輝は理論上、大川周明は外交上)なんとしてでも阻止しようとしたのです。なお石原完爾の場合は、彼が信じた田中智学の「神道・日蓮宗」習合的な国体観が、平田篤胤の「神道・基督教」習合的な国体観と極めて似ていたために、自ずとその外交政策は、独善的・排他的(排欧的)なものになりました。
 
山本七平 2

 

山本七平さんは平成3年12月10日に膵臓ガンのために亡くなられました。その名前が世間に知られるようになったのは、昭和45年の5月に『日本人とユダヤ人』を出版して以降のことです。この本の著者名はイザヤ・ベンダサンとなっており、山本書店がその版元で初版はわずか2500部だったといいます。別に広告もしなかったそうです。
それが、霞ヶ関の官庁街、最初は外務省の地下の本屋、それから通産省へそして大手町のビジネス街(読者は主に商社関係の人たちだったらしい)へと口コミで広がって行き、次は大阪で商社関係の人たちに、そしてうわさは全国へと広がっていき「遂には、問屋と大手書店と現物争奪戦に発展する」までになりました。
私がこの本を知ったのは、確か昭和45年11月頃の『諸君』紙上の対談記事ではなかったかと記憶していましたが、先日、国会図書館で調べたところ、それは同書の11月号「ハダカにされた日本人」という佐伯彰一(文芸評論家)、増田義郎(東大助教授)、小堀桂一郎(東大助教授)の対談であることが分かりました。私がこの本を読んだのはその年の10月25日で、その本の奥付をみると9月30日4版発行となっています。
その後、この本は売れに売れて、75万部ほどに達した頃、社長兼社員の山本七平はその事務上の煩雑さのために出版活動どころではなくなり、それに堪えかねて、文庫本にしたいという角川書店の求めに応じてその版権を譲り渡したといいます。山本七平はこのころ奥様に「売れすぎて嫌んなっちゃうよ。」とこぼしていました。
もともとこの本は、初版が2500部であったように、本人はそれほど売れるとは思っていなくて、ただ、その当時、山本書店で出版することになっていた、岩隅直さんが27年かかって独力でまとめた『新約ギリシャ語辞典』の出版費用の足しにする、その程度にしか考えていなかったそうです。
というのは、この岩隅さんの原稿は、どの出版社に持ち込んでも採算が合わないという理由で断られていたものを、聖書学の権威の関根正雄氏の紹介で山本書店に持ち込まれ、山本七平は赤字覚悟で引き受けたもののどこまでそれに堪えられるか分からす迷っていたおり、たまたま、あるユダヤ人との間でこの本(『日本人とユダヤ人』)の出版の話が持ち上がったものだといいます。
この間の事情は昭和46年4月2日付の毎日新聞に「苦学の『辞典』世におし出す 山本書店、資金できて」という見出し、副題「イザヤ・ベンダサンの予期せぬ貢献」として次のように紹介されています。
「研究に着手してから実に27年という、大変な労作の辞典が、ようやく日の目を見て5月末に出版される。岩隅直さん(61)がまとめた『新約ギリシャ語辞典』。長い闘病生活と貧乏暮らしに堪え、妻にささえられ、打ち込んできた辛苦の結晶である。これを出版するのは『日本人とユダヤ人』を出版した山本書店。山本七平さん(48)が一人きりで社長も社員もかねると言うミニミニ出版社だが、同書が17万部を売るというベストセラーになったため『この利益を、採算を度外視して出版するつもりだった、辞典の出版に投じる』とはりきっており”幻の著者”ベンダサンブームが、思わぬ功徳を生むことになる。」
そしてこの『ユダヤ人と日本人』は、その刊行の翌年、昭和46年の第2回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞することになりました。選考委員の一人である開高健は次のように評しています。
「近頃これくらい知的スリルを覚えた作品はない。一気通貫に読めた。観察眼の鋭利、指摘の微妙、文体の一貫した明晰、文脈の背後にある心憎い気迫のリズム、恐るべき学殖、どこをとっても、いうことはない。ことに平坦俗語から淡々と解き起こして筆を進め、いつのまにやら大変な高地へつれこんでいくあたりの呼吸は、気がついてみると、舌を巻きたくなる。これくらい堂々とした正統の異才を発見できないでいたとはわがマスコミも大穴だらけとさとられる。全編集者は頭をそらねばなりますまい。」
小林秀雄も昭和46年11月の川上徹太郎、今日出海との鼎談で次のように評しています。
「ベンダサンという人が『日本人とユダヤ人』という本を書いた。・・・あれの中に言葉の問題をちょっと書いてあるが、あれは面白いと、僕は思いましたね。・・・あの人は『語呂盤』という言葉を使っているんだよ。そろばんに日本人は非常に堪能だ。計算を意識しなくても、いや、むしろしない方が答えがうまく出て来る。・・・それと同じように、日本語の扱いには語呂盤と言っていいものがあるんだ。その語呂盤で,言葉の珠を何も考えずにパチパチやっていれば,ペラペラしゃべることができる。これは日本語というものの構造から来ていることで、西洋人にはとても考えられないところがあると言うのだ。・・・以前パリにいた時、森有正君がしきりに言っていた。テーム(作文)の問題は数学の定理まであるということを彼は言っていた。面白く思ったから覚えているのだが、それが、今度ベンダサンの本を読んで、はっきりわかった気がした。言葉は、ロゴスだが、ロゴスには計算という意味があるのだそうだ。だから、西洋人には文章とは或る意味で言葉の数式だとベンダサンは言っている。なるほどと思った。・・・もっと微妙なことを言っているが、まあ読んでみたまえ。面白い。」 
山本七平が『日本人とユダヤ人』を出版したのは氏が49歳の時でした。氏がフィリピンの捕虜収容所から無事帰還し佐世保に着いたのは昭和21年12月31日(入営は昭和17年10月1日)25才の時ですから、それから23年が経過していました。この間特に自分を売り込むと言うこともなく沈黙を守り、また、この『日本人とユダヤ人』も前回紹介したように特別売れると思って出版したものではなかったのです。
ところが、『日本人とユダヤ人』出版以降、イザヤ・ベンダサン名の評論が次々と雑誌に発表されるようになりました。最初は『諸君』昭和46年5月号に掲載された「日本教について‐あるユダヤ人への手紙」で、昭和47年10月号まで15回の連載となりました。この9回目の「朝日新聞の「ゴメンナサイ」」が契機となって本多勝一氏との論争になったことは周知の通りです。 これは連載終了後の昭和47年11月25日に『日本教について』という書名で単行本化されました。
そして、昭和47年1月、グアム島のジャングルで横井庄一軍曹が発見されたことについて「なぜ投降しなかったのか」という見出しの評論が山本七平名で掲載(『文芸春秋』47年4月号)されたことを初出に、さらに、同年8月号から「岡本公三を生んだ日本軍内務班 私の中の日本軍隊」という、後に『私の中の日本軍』として単行本化される連載記事が『諸君』に掲載されるようになりました。
結局、イザヤ・ベンダサン名での評論記事は『文藝春秋』昭和52年8月号の「参議院、あまりに日本的な」をもって消滅しますが、この間、約5年間はイザヤ・ベンダサンと山本七平が平行して評論文を発表していたのです。もし、山本七平がイザヤ・ベンダサンだとすると、山本七平は最も多い時期には月に80枚のペースで原稿を書いていたことになるのだそうです。
この間の事情について、山本七平は次のようにいっています。
「──このへんで、山本さんに関して読者や私たちが一番知りたいことをお聞きしていきますが、今までのお話で、他の人が書いたものを翻訳したり出版したりしてこられて、そのうちだんだん、批評もしていきたいという誘惑にかられたのではないかと思われるのですが、いかがですか。
山本 なんの批評ですか。
──いま、『文藝春秋』や『諸君』にお書きになっているような・・・。
山本 これはもう、私のほうから質問したいくらい奇妙なことでしてね(笑)。ああいうものを書き始めた動機は、これまた、きわめて偶然なんですよ。いままで、何か書いてくれっていわれても、絶対に引き受けなかったんです。私の仕事じゃないからって。そういうことをやる気は全くありませんでした。従って、まあ同人雑誌といったような、文学修行的な経験は全くありません。書いたものといえば、自社の広告文だけです。従って、何かを初めて書いたといえば『文藝春秋』のわけですが、それもつまるところ、締切の前日にグアム島の横井さんが出てきた。それだけの理由なんですよ。私が書くようになったのは・・・(笑)。月刊誌というのは、その時締め切っちゃうと、あとは翌月になるでしょう。ニュース性が全然なくなってしまう・・・。それで、なんでもいいから、ジャングルの中の生活体験みたいなものを二、三十枚、すぐ書いてくれって、いやおうなしに頼まれましてね。”横井さん、へんなときに出てきて困る”ってわけなんです(笑)。あんまり言われるので、じゃ、しょうがないっていうんで書いたんですがねえ。
『諸君』のほうはもっと変なことで(笑)。あれも締切の前の日かその前の日かに、テルアビブの事件が起こりましてね。”この前『文藝春秋』にジャングルの中のことを書かれたけれど、こんどはテルアビブ事件の背景みたいなものを『諸君』に書いてください”っていうんです。しかたなしに書いたんですが、そしたら面白いから続けて書いてくれって言われまして、三回連載しました。そのあと、南京の『百人斬り競争』ですか、あれを鈴木明さんが解明されましたでしょう。これは非常にいい資料を集めて書いたものなんですが、鈴木さんは軍隊経験がないので、せっかくのいい資料がちょっと使い切れていない感じだったんです。それで、鈴木さんにこう助言してくれってたのんだんです。”これはこういうことじゃないか、軍人がこう言った場合は、こういう意味です”と・・・。彼ら独特の言い方がありますからね。そしたら、それを書いてくれっていわれましてね。とうとう十七回で七百枚にもなっちゃったんですよ。ただ、この問題については相当積極的な気持ちもありました。というのは、これ大変なことなんです。新聞記者がボーナスか名声欲しさに武勇伝など創作する、これは架空の『伊藤律会見記』などの例もあるわけですが、この『百人斬り競争』の創作では、そんな創作をされたために、その記事を唯一の証拠として、二人の人間が死刑にされているんです。──極悪の残虐犯人として。しかもその記者は、戦犯裁判で、創作だと証言せず、平然と二人を処刑させているんです。しかも、戦後三十年「断固たる事実」で押し通し、それがさらに『殺人ゲーム』として再登場すると、これにちょっとでも疑問を提示すれば「残虐行為を容認する軍部の手先」といった罵詈ざんぼうでその発言は封じられ、組織的いやがらせで沈黙させられてしまう。そういった手段ですべてを隠蔽しようとするのでは、この態度はナチスと変わらないですよ。そのことは、いまはっきりさせておかねば、将来、どんなことになるかわからない。基本的人権も何もあったもんじゃない、と感じたことは事実です。それだけやれば、私は別に、文筆業者ではないものですから、もうこれでやめたと、一旦やめたんです。そう言っておしまいにした時に小野田少尉が出てきましてね(笑)。これも締切の直前(笑)。しかも税金の申告の五日前ですよ。もうちょっと遅く出て来てくれればねー。」 
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小野田少尉の話が出てきたところで、その救出にあたって山本七平がどのような役割を果たしたかということについて紹介しておきます。
まず、小野田少尉の終戦以降帰国までの経過をWIKIPEDIAに見ると次のようになっています。
1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、部下(赤津一等兵:1949年投降、島田庄一伍長:1954年5月7日戦死、小塚金七上等兵:1972年10月19日戦死)と共に戦闘を継続し、ルパング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。その為、日本では1945年9月に戦死公報を出される。
1950年、フィリピン ミンダナオ島で日本軍敗残兵が投降した際、無為に島民に銃殺される事件が生じる。復員省では、日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立する。
1951年、赤津勇一元一等兵が帰国する。残留兵の存在が明らかになるが、フィリピンの政情が不安定な為救出活動は行えず。
1954年、フィリピンの山岳部隊が日本兵と遭遇。島田庄一元伍長の遺体が確認される。これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。
1954年5月、1958年、1959年5〜12月、赤津元一等兵等投降者の証書に基き援護局職員及び小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友によるルバング島の残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。
1972年1月、アメリカ領グアム島で横井庄一元伍長が発見される。日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。
1972年10月19日、フィリピンのルバング島にて警察軍に日本兵(小塚金七上等兵)が射殺される。
1972年10月22日、23日、24日、25日、日本兵射殺事件を受け、援護局職員及び小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友が逐次ルパング島に赴く。遺体が小塚金七一等兵である事を確認する。小野田少尉の捜索が行われるが発見には至らず(後に元少尉は捜索隊の存在を認知しており、密林の中に兄の姿を見ていた事を告白している)。
1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に彼との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。
3月9日に嘗ての上司である谷口義美元少佐から任務解除命令が下り、小野田にとっての戦争は終わった。翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。こうして小野田は30年の戦いを終え、3月12日帰国を果たした。
私は、昭和74年2月20日に青年冒険家の鈴木紀夫さんが、小野田少尉との接触に成功したとして、軍装し銃を持った鋭い眼光の小野田少尉の写真とともに新聞報道された時のことをいまでも鮮明に覚えています。このとき、彼は(1)戦闘状態が終わったとは信じ切れないでいるらしいこと(2)直属上官の指示がなければ出ないという意味のことを言った、と伝えられました。
山本七平はこの情報は確度が高いといい、従来のような救出方法(「戦争は終わりました。出てきてください」と叫びながらジャングルの中を歩き回ったり、小野田氏のお兄さんが捜索に向かい、本人であることを知らせるため、旧制一高の寮歌を歌ったりして、彼らを信用させようとした)では絶対だめだとして、次のような考え方とその救出方法を提言しました。
「未だに敗戦を信じないのはおかしい」という人がいれば、それはその人が国家間の戦闘状態の終結と、小部隊の戦闘状態の終結とを混同しているに過ぎない。小野田元少尉に関する限り、47年10月19日にジャパニーズヒルでフィリピン軍と銃撃戦?を行い、部下の小塚さんが戦死しているのだから、そのときもなお現実に戦闘状態であって、彼自身に関する限り、この状態に根本的な変化があったという確実な保証は、何一つ提示されていないのである。
前にも述べたことだが、・・・”戦後神話”に基づく発想からする対策は一切無意味であり、やる方の一人よがりにすぎないことである。「天皇が直接語りかけたら」とか・・・いう発想がその一例であって、天皇が指揮系統を跳び越えて前線の一少尉に直接語りかけるなどということは、日本軍では空想もできないことである。日本軍では「上官の命令」が直ちに「天皇の命令」であるから、小野田少尉の言っている通り、直属上官の命令か指示があれば、必ず出てくる。従って、原則的にいえばそれだけ伝えれば十分なのである。
では、どのようにして「終戦」を伝達するか。これは「戦争法規」に基づいて行えばよい。日本軍は、戦後はまるで「ならず者集団」のように描かれているが、実際は一つの法規を持った組織すなわち正規軍であり、小野田少尉はその幹部だから、そのように対応すればよいのである。
彼は自分が戦闘状態にあると信じており、また彼自身にはそう信ずべき理由があるのだから、この戦闘状態を一時停止して「話合い」を行おうというのなら、こちらから出向いていくのは銃器をもった討伐軍ではなく「軍使」のはずである。従ってフィリピン軍の援助は鄭重に辞退すべきであろう。軍使は必ず、自国旗と白旗をもつ。白旗は、戦後、降伏のしるしと誤解されているが、それは使用法の一例にすぎない。
白旗については、特権だけでなく、「歩哨の一般守則」として、次の点は兵士まで徹底して教育されているはずである。すなわち「白旗ヲ掲ゲ遠方ヨリ軍使タルヲ表ワスモノト降参人トニ対シテハ敵トシテ取扱ワズ、歩哨線外ニ之ヲ止メ・・・」と。小野田少尉はこれを知らないはずはない。
従って、彼のいると思われる地点に、日章旗と白旗をもった人間が一人か二人で入って行き、「動かず」に、根気よく待てば、それで十分である。大勢で押しかける必要は全くない。・・・(出てきたら)次に食料と医薬品を即座にその場で渡すこと。これは「百の説法」より効果がある。・・・相手が自分たちの身体や健康状態にまで気を配っていると感ずることは、敵対関係ではないという証拠であり、何にもまさる強い信頼感を抱かせる。」
そして救出劇はまさにこの通りに展開しました。そのシーンは2005年8月にフジテレビでドラマ化され放映されていますから、多くの方が見ていると思いますが、その救出のための考え方と具体的な方法をアドバイスしたのが山本七平であったことは、ほとんど忘却されたごとく、ネット上で関連サイトをのぞいてみましたが一件も見つけることはできませんでした。
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山本七平は自らの職業を出版業と見定めていてかたくなにそれを守ろうとしていました。「いままで、何か書いてくれっていわれても、絶対に引き受けなかったんです。・・・私の仕事じゃないからって。そういうことをやる気は全くありませんでした。」という氏の言葉は決しててらいではありませんでした。事実、『日本人とユダヤ人』をはじめ、山本七平名で書かれた本による利益は、山本書店が出版した聖書学関係の書物や論文集の出版費用にあてられていました。
実は、私は大学生時代「自由主義研究会」というサークルに属していて、年に一度講演会を催していたのですが、1973年8月の講演会に山本七平氏に講師依頼をしたことがあります。そのときの返事に「私は自分の本職を出版業と考えておりますので、他のことは少しでも減らしたく・・・」とあり、「今、ギリシャ語と日本語の対訳版聖書の刊行(日本ではじめて)にかかっており・・・これが終わりましたら、少しは余裕もできるかと存じます。どうかこの間はご容赦下さい。」という内容のハガキをいただきました。
そして、その文面には「もちろん私は、そういう場で話をさせていただくこと自体は、絶対に軽く考えておりますわけでなく」とあり、当時私は、この言葉を社交辞令的に受け取っていたのですが、先生が亡くなって後出版された『静かなる細き声』の次の文章を読んで、それは決して社交辞令の言葉ではなかったのだと知りました。
「いま、協会から批判されている集団、たとえば神道連盟、自衛隊、天理教、統一協会等々といった団体、こういう団体から聖書の話を聞きたいと言われれば、私は喜んで出かけていく。天理市に泊まり込んで、天理教の本部の講堂で聖書とキリスト教について語ったこともあれば、神主さんの大会でも、聖書の話をした。また自衛隊でも統一教会でも、呼ばれれば、私は出かけていった。
「誤解されるからやめた方が・・・」といわれることもある。だが私には、なぜそう言われるかが理解できない。いまの教会には、この人たちに招かれたらこう語りたいという、外部への『内心の伝道の言葉』をもう持っておらず、あるのは『内心の批判』だけなのであろうか。」
おそらく、この言葉に山本七平を理解するためのカギが隠されているように思います。
「戦争が終わった。言論の自由が来た。堰を切ったように軍部への批判がはじまった。しかし軍部への伝道ははじまらなかった。おそらく蓄積された『内心の伝道』がなかったのであろう。だがそれは他人事ではなく、私自身もその一人であった。批判の時代、一億総批評家の時代がきた。・・・だがそう言った批判は伝道ではない。
批判とは外部から行うことであり、伝道とはその中に入って、その中の人のわかる言葉で語ることである。・・・相手を批判したところで、達成できることではない。・・・もちろん批判はできる。しかしそれは『内心の伝道』をもっていることでなく、時には逆に、相手と自分の間を遮断してしまうにすぎない。そして、そういう相手にタッチしないことが、なにやら自分の中に、清浄な信仰を保っていることの証拠であるかのように錯覚する。・・・そしてこの『内心の伝道』を失ったとき、それは個人としても宗教団体としても、その生命を失ったときであろうと私は思う。」
山本七平はその評論においてキリスト教徒臭さをほとんど感じさせなかった、といわれています。それは、おそらく相手にわかる言葉で語ろうとした、そしてそれを語りうるようになるためにこそ、復員以降『日本人とユダヤ人』出版までの23年間の沈黙があったのではないかと思われます。この間、氏は、自分を苦しめた軍部、その中にいる人にわかる言葉で語るために、終戦直後は紙くず同然となった徳川時代の著作や文書、尊皇思想家の全集などを読み続けました。
「世の中のことはどうでもよい。世間にどんな思想が流行していようと、それは関係がない。私が関心を持っていることに、世の中もともに関心を持って欲しいとも思わない。まして、私がやっていることを認めてくれとか、評価してくれとかいった気持ちは全くなかった。」その彼が、『日本人とユダヤ人』以降、49才から69才でなくなるまでの20年間に、死後に出版されたものを含め単行本で60巻、共著で101巻、対談60巻、ベンダサン名の単行本5巻を出したのです。
つい最近(2004・3)も、未刊だった「敗因21箇条」(1975.4〜1976.4『野生時代』に連載)が『日本はなぜ敗れるのか』という書名で刊行され、また、2005年3月には、「ベンダサンの日本歴史」(1973・11から22回にわたって『諸君』に連載)が『山本七平の日本歴史』と題して刊行されました。
後者の解説をされた谷沢栄一氏はこの30年ぶりに刊行された本について次のように語っています。
「普通、すでに物故した著作者の遺稿が刊行されても、そのほとんどは余熱であり但し書きであり言い残しであるから、生前からの愛読者にとっては懐かしくはあるものの、ほとんどは聞き覚えのあるメロディーの再生であった。本好きの玄人ならめったに手を出さない。けれども本書はまったく違う。」
「いつも温顔で小声のさわやかな七平は、しかし、肝のなかでは、明治以来の膨大な日本人論の全てをくつがえし、これこそまことの日本人なりと、万人を納得させるに足る紙碑を、ひそかに、しかしかっきりと、打ち立て遺すべしと決意していた筈である。彼の全著作をじっくり通覧してみれば、その意志その願望その決意がありありと見てとれる。世に筆を執る者のほとんどは、胸のなかに触れれば火傷する程の、灼熱した磊塊を蔵しているものですよ」
谷沢氏らしい評だと思いますが、山本七平自身の感想はおそらく「すべては、用いられる時が来れば用いられるのであろう。人は黙ってその準備をしていればよいのであろう」ということではなかったかと思われます。それにしても不思議なことです。 
漫画家の手塚治虫は山本七平の愛読者で、山本もメンバーの一人だったデザイン会議が熊野で行われたとき講師として招かれました。その時、手塚は半蔵門病院に入院中でしたが、病院から抜け出して出席し、会議のあとのパーティーで山本に「あなたを心から尊敬していました。先生の本を愛読しています」といい、「お会いできて、もう思い残すことはありません」と語ったといいます。
一般的に、山本七平のパーソナリティーについては、『日本人とユダヤ人』や『日本教について』のイメージが強すぎて、イデオロギッシュな理解のされ方をすることが多いのですが、彼自身の基本的立場は、決してそのようなものではなく、それは、日本人を無意識裡に拘束している「ものの感じ方やとらえ方」を、宗教的レベルで捉えその歴史的連続性を明らかにすることにありました。
そうすることによって、つまり、日本人を無意識裡に拘束している「考え方の枠組」を明らかにしそれを対象化することによって、かって、彼自身とその一族さらに日本人自身をも破滅の縁に追いやった「現人神思想」、そのもたらす「空気支配」を克服せんとしたのです。「日本教」という言葉は、そうした「考え方の枠組み」を理解するための基本概念であって、特別日本人を称揚するためのものではありませんでした。
とはいうものの、『日本人とユダヤ人』が、敗戦ショックさめやらぬ当時の日本人に、自らの伝統文化に対する自信を取り戻させる上で、一つのエポックメーキングな契機となったことは否めない事実です。このことは、本人の予期に反して、二百万部を超す大ベストセラーとなったことで明らかですが、おそらくこれは、昭和45年当時の日本人の経済の高度成長による自信回復の気分と照応していたのだと思います。
この点『日本人とユダヤ人』には、山本七平自身のものではない別の視点が加わっていると思います。その一つは、「日本人を政治天才とする一方ユダヤ人を政治低能」とする視点です。おそらくここには、この本作りに関わったユダヤ人ミンシャ・ホーレンスキー(山本七平によれば、ユダヤ人のくせにユダヤ人嫌いであり、ユダヤ人のものの考え方や生きざまについて辛らつな批評をするのが常だったという。
また、もう一つの視点は、「安全と自由と水のコスト」の記述に見られるような「スパイ的」視点です。そこには次のような記述があります。
「私は昭和16年に日本を去り、20年の1月に再び日本へ来た。上陸地点は伊豆半島で、三月・五月の東京大空襲を東京都民とともに経験した。もっとも、神田のニコライ堂は、アメリカのギリシャ正教徒の要請と、あの丸屋根が空中写真の測量の原点の一つとなっていたため、付近一帯は絶対に爆撃されないことになっていたので、大体この附近にいて主として一般民衆の戦争への態度を調べたわけだが、日本人の口の軽さ、言う必要もないことまでたのまれなくても言う態度は、あの大戦の最中にも少しも変わらなかった。・・・相手を信用し切るということと、何もかも話すということは別なのである。・・・個人の安全も一国一民族の安全保障も、原則は同じであろう。しかし、日本では、カキに果たしてからが必要なりや否やで始まるから、知らせないこと、知らないことも、安全には必要だなどという議論は問題にされない。さらに防衛費などというものは一種の損害保険で、「掛け捨て」になったときが一番ありがたいのだ、ということも(戦前戦後を通じて)、日本では通用しない。」
言うまでもなくこの「スパイ的」視点は、この本作りに関わったもう一人のユダヤ人ジョン・ジョセフ・ロウラー(山本七平によれば「戦時中は対日諜報関係の仕事をしていたらしい」)のものでしょう。
そして、おそらくこれが、当時の日本人に最も強烈なインパクトを与えた視点で、これは、第12章の「しのびよる日本人への迫害」(国家という国民の生命財産を守る安全装置を持たないままに、経済力だけで他の体制に寄生して生きることを余儀なくされたユダヤ人がどのような迫害を受け続けてきたかについて述べたもの)とともに、日本人の「安全観」の根本的な転換を迫るものとなりました。
同時に、こうした視点に反発を感じる人たちは、イザヤ・ベンダサンを山本七平に同定することでその虚偽性を暴露し、氏を保守・反動=軍国主義の手先ときめつけることによって、その言論を封殺せんとしました。(これこそまさに言論を言論として評価せず、それを相手の政治的立場を判別するための「踏絵」として差し出す日本人の伝統的考え方を象徴するものといえます。)
それから、もう一つの視点、実はこれが最も重要な視点ですが、『日本人とユダヤ人』という本は、はあくまでも「ユダヤ教徒」の視点から書かれたものであるということです。例えば、次のような記述があります。
「新約聖書はキリスト教文書ではない。後代のものと一部の例外を別にすれば、これはあくまでも『新約時代のユダヤ教文書』であって、キリスト教の成立と新約聖書の間には少なく見積もっても三百年の開きがある。キリスト教徒のいう『三位一体』などは新約聖書のどこを開いても出てこない。第一、人間が神を十字架に付けて処罰するなどという思想は、モーセ以来の超越神の下に生きていた当時のユダヤ人の思想の中にあるわけがない。ニケーア会議までのキリスト教徒内の、現代人には全くわけのわからぬような論争は、イエスは神であるという思想を何とかこじつけて新約聖書に結びつけようとしたことにある。キリスト教は確かに聖書に依拠している。だが、聖書はキリスト教にその存立を依存しているわけではない。いわばキリスト教の一方的な片思いだから、たとえキリスト教が消えても聖書は残る。この関係はあくまでも明確にしておかねばならない。」
「ユダヤ人すなわちユダヤ教徒が、キリスト教徒に対して徹底的に反発したことの一つは、彼の偉大性は、その出生が常人と違う点にあるというキリスト教徒の主張である。これはモーセ以来の伝統的な考え方と絶対に相いれない。生まれながらにして偉大なる人間などというものは、ユダヤの歴史には存在しなかった。モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデ、エリヤから偉大なる預言者たちに至るまで、すべて、生まれたときはただの人である。彼らがなぜ偉大なる仕事をなしえたか、それは神に召し出され、神に命じられ、そして使命を立派に果たしたからに外ならない。モーセは捨てられた子であった。サムエルは第二夫人の子であった。ダビデは一郷紳の末子であり、エリヤなどは文字通り、どこの馬の骨かわからないし、そしてその他の多くのものは、出生すら記されていない。また、この神の召命とか神より与えられた使命とかいうものは、当人にとっては有難いことでも、うれしいことでもなかった。モーセは何とかして苦しい使命から逃れようと、一心不乱に辞退している。人間は神の前に平等である。そして神から使命を託された人のみが指導者たりうる。これは神の一存によるのであるから、その使命によってある地位についたからといって、それを自分の所有物のように子孫に譲渡することはできない。これがユダヤ人の根本的な考え方であった。」
また、「少々、苦情を!」の章の「目には目を、歯には歯を」では、この言葉は決して「撲られたら撲り返せ」というような復讐の公認もしくは奨励を意味するものではなく、「与えた損害に応じて正しく損害賠償をせよ」という意味であると述べた上で、次のようにキリスト教徒を非難しています。
「一体どう読めば、撲られたら撲りかえせという意味になるというのだろう。全く不思議である。もっともこれには、キリスト教徒の悪意ある解釈もあろう。彼らは言う『ユダヤ人は復讐を公認した。しかしキリストは右の頬を打たれたら左の頬を出せといった。キリスト教はユダヤ教の復讐公認を否定した愛の宗教であると。』ご立派である。二千年間、そのようにユダヤ人に実行してくれたら、私は何もいわずに頭を下げよう。だが忘れないでいただきたい。『右の頬を・・・』という言葉も、旧約聖書からの(広い意味での)引用であることを。『おのれを打つ者に頬を向け、満ち足りるまで、恥かしめを受けよ。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう』というエレミヤ哀歌の一節であることを。キリスト教徒よ、これを実行してきたのは、あなた方ではない。私たち、ユダヤ人なのだ。ユダヤ人イエスの言葉を語るとき、それを忘れないで欲しい。」
いうまでもなく、山本七平は、『日本人とユダヤ人』の版権収入をはじめ、山本七平名で書かれた自著の利益のほとんどを山本書店が出版した聖書学関係の書物や論文集の出版費用にあてた、といわれるほどの敬虔なクリスチャンでした。その彼が、『日本人とユダヤ人』に関する関根正雄氏の次の批評を読んだとき、私は本書を出した甲斐があったと思った、と次のようにいっています。
「(二)次に著者の聖書の見方はやはり余りにユダヤ的である。旧約の理解ですら私にはそう思われる。著者は聖書の神を全く人間を超えたものと見、それを人間教としての『日本教』と対比するのであるが、新約では神は人となったという点に中心があり、その萌芽は旧約のかなりの部分に見出される私は思っている。そこで日本人が人間中心であるとしても、その評価は著者とはかなり違ったものとならざるを得ない、・・・。
次に、別のページでまた本書にふれられ、『・・・誡命の問題は日本人には本当にはなかなか分からないもので、その点の指摘だけでも、ベンダサンの著書は一読の価値がある。ベンダサンは『信仰のみ』ということについて書いているが、日本のキリスト教の機微にふれたこういう観念は全く驚きである』と評価し、ついで『この書は日本人が偽名で書いたのではないかという噂があるそうで、先日もある新聞社からそのことについて問い合わせがあった。。もちろんそんなことがあるわけがない』と結ばれている。
私の出版の動機も実はこの点にあった。ベンダサン氏は『日本人は聖書は理解できない』とはっきり断定している。私は聖書図書の専門出版社だから、これを肯定するわけにはいかない。そして氏の論証の前にタジタジとなったのは私であった。」
もし、ベンダサン=山本七平とするなら、こうした主張を氏はなぜする必要があったのか。冒頭に紹介した如く、手塚治虫をも心酔させるほどの山本七平の人格、それは、その後の山本七平名で発表された諸著作を通じて自ずと感得されるものですから。(それにしても両者の論理には共通点が多く)、ここにもまた、山本七平の決して無視しえない「不思議」の一端が隠されているように思います。 
『日本人とユダヤ人』の書き手の中に、戦時中のアメリカの対日諜報機関による日本研究に関わった人物がいることは、そのテキストとしてつかわれたという『日暮硯』に関する次の記述でも明らかです。
これは、日本の歴史における「朝廷・幕府併存」という政治体制について、これを統治における祭儀権と行政権を分立した一種の二権分立ととらえ、「日本人が、二権分立というユダヤ人が夢見て果たせなかった制度を、なんの予習もせずいとも簡単にやってのけた」ことを「政治天才」と評価する中で言及しているものです。
「宗教・祭儀・行政・司法・軍事・内廷・後宮生活というカオスの中から、政治すなわち行政・司法を独立させた日本人が、その後どのような政治思想を基にして、現実の政治を運営していったのか。その特徴をもっともよく表しているのは『日暮硯』であろう。この本は、私にとって実になつかしい思い出がある。戦争中、アメリカのある機関で、日本研究のため徹底的に研究されたのがこの本であり、私は今でも、これが「日本人的政治哲学研究」のもっともよいテキストだと考えている。」
「私は今でも記念に、昭和十五年の古い本をそのままもっているが、日米開戦の数ヶ月前に本書を多量に購入してアメリカに送った、当時のアメリカの要路の当局者に、ある意味で敬意を払わざるを得ない。」(著者略歴によれば、大正七年に神戸で生まれ、昭和一六年に渡米、移住し、昭和二〇年に再び来日したことになっている。)
「私は、日本人以上に(?)日本語ができるということで、この翻訳を命ぜられ、できる限り詳細な註と解説をほどこしたテキストを委員会に提出し、委員たちの質問に答えるよう命ぜられた。私は、この日のことを永久に忘れないであろう。驚いた顔、あきれた顔、全く不可解という顔、何をどれから質問してよいのか、みな本当にとまどっていたのである。」
「私は日本に生まれ育ったので、あまり抵抗もなくこの書を訳しただけに、委員たちの質問には、全く、しどろもどろになってしまった。・・・問題の焦点をつき、ある意味で私に助け船を出してくれたのはツィビであった。(恩田)木工をみなが賛嘆するのは、全ての人が支持する「基本的律法」にのっとっているはずだという考え方である。この基本的律法はなんなのか。もちろんモーセ流の神の律法ではない。木工が基本にしているのは「人間相互の信頼関係の回復」ということなのだ。そのためにはまず自分の姿勢を正し(略)相手に対する絶対的信頼を披瀝する(低姿勢で)。この底には、「人間とは、こうすれば、相手も必ずこうするものだ」という確固たる信仰が相互にある。これがなければ一切は成立しない。ということは、「人間教乃至は経済教」ともいうべき一つの宗規が、意識されるにしろ、されないにせよ、「理外の理」として確立していることにほかならない。・・・ここには、日本人が絶えず口にする「人間」「人間的」「人間味あふるる」といった意味の人間という言葉を基準にした一つの律法があるはずで、日本人とはこの宗教を奉ずる一宗団なのだ。(略)義時はすでにその律法を知り、それにより明確に二権を分立した。」
つまり、「日本教」の発見は、こうした戦時中のアメリカにおける対日諜報機関による日本研究の中から生まれたものだといっているのです。
この点、山本七平がこの「日本教」の発見にどうかかわっていたのかということが問題になりますが、おそらく、氏自身も、その三代目クリスチャンとしての生い立ちや軍隊生活での経験を通して、「『日本人』には、特定の宗教はないって言われているけども、非常に厳格な”受容と排除”の基準がある」という発想をもっていたことは間違いないと思います。実際、氏はその探求のために、戦後「紙くず同然」となった尊皇思想家の文献を読み漁ったといっています。
もちろん、戦前のアメリカの対日諜報を目的とした日本研究の視点と、こうした三代目クリスチャン(それも縁戚に大逆事件で処刑された大石誠之助がいる)のその執念ともいうべき日本探求の視点とは異なっており、従って、そこから得られた処方箋に違いがあることは当然で、その点『日本人とユダヤ人』はあくまで前者の視点で書かれたものであること、そのことを山本七平は「私は著作権を持っていない」といういい方で言い表していたのだと思います。
「私は、『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。ただ、私は著作権を持っていないという事実は最初からはっきりいっている。事実だからそういっているだけであって、そのほかのことを何も否定したことはない。」(『特別企画 山本七平の知恵』実業の日本「ベンダサン氏と山本七平氏」)氏は、その後も、幾度となくこの点を問いただされていますが、終生こうした基本的立場を崩すことはありませんでした。
ただ、一般的に見て、「『百姓嚢(ぶくろ)』や『日暮硯(ひぐらしすずり)』といった、特殊な”文献”を自在に引用する「ユダヤ系日本人」が、それまで全く無名であったなどということは、常識的に考えにくい。」わけで、その結果、イザヤ・ベンダサン=山本七平とする意見が大勢を占めることになっているのですが、私は、山本七平は決して偽りをいっているのではないと思います。
むしろ、ここで注目すべきは、戦時中のアメリカの諜報機関による日本研究が当時どれだけの水準に達していたかということではないでしょうか。
このことは、一九四六年に出版されたルース・ベネディクトの『菊と刀』を見ても判りますが、この時期、アメリカには、パールハーバーの衝撃を契機にOSS(戦略局)という強大な諜報機関ができており、「専門のスパイだけでなく、心理学、地理学、語学、化学、歴史学、人類学等々の学者や、各大企業や経済団体の専門家、作家、ジャーナリスト、技術者、牧師、しまいにはペテン師ヤスリ師にいたるまで参加していた」ということです。
また、三田英彬氏(推理小説家)はこのエッセイで、イザヤ・ベンダサンの正体に関わって次のような興味深い推理を行っています。
「この暗い谷間の時代(昭和一〇年代)、各大学、旧制高校等のマルキストないしそのシンパサイザー(マルクスの『ユダヤ人問題』がその入門書だった)は、日共そのものが弾圧につぐ弾圧で壊滅状態にあったときだが、それぞれケルンを組織し、非合法下に研究会を続けている。当時、略称SS(社会科学研究会)とは、こうしたケルンの連合体であったが、なんと恩田木工の『日暮硯』をテキストに用いていた事実があった。(中略)
昭和一〇年夏、第七回世界大会で、コミンテルンが、反ファッショ・人民テーゼ」を呼びかけたとき、労農派どころか、民主主義者、自由主義者まで、これの温床素地をなすと、大量に検挙されている。こうして、逼塞を強いられる状態の強まっていくばかりの日本から、脱出をはかったマルクス主義者の学生も少なくなかった。
この国外脱出には、イワクロ機関なる組織が一役買い、昭和一六年、この機関の手で脱出した左翼学生が何人もいた。彼らのなかには、今日では、別に国籍も取得、学者として、あるいは評論家として活躍しているものもいる。海外生活の過程で、思想的に転向した例だってむろんある。
こうした事実を並べた上で、推理するとき、ベンダサン氏は『ユダヤ人問題』で、マルキシズムに強い関心を抱き、参加したSSで、あるいはSSの周辺にいて、恩田木工の『日暮硯』を知った。なぜなら、氏はすでに、戦時中、アメリカにあって、命ぜられて翻訳し、注と解説を付し、質問にも答えていると語っている。(中略)
以上によって、逆にベ氏を、マルクスによって『ユダヤ人問題』に目を開かされた日本人と見ることも可能である。たとえば、「日本人の口の軽さ」云々以下については、戦時下の、一億総ヒステリー状況を考えれば、碧眼紅毛、いや、ただ肌の色が変わっていただけにしろ、日本人の庶民、大衆が、ガイ人に、そんな調子でものを言うことなどは、ほとんど考えられないだろう。・・・ベイカー氏ともども、日系か日本人かと疑いたくなる。」
これは、その後、『日本人とユダヤ人』を書いたもう一人のイザヤ・ベンダサンの分身が遂に姿を現さなかった、その背景の事情を窺わせるに足る推理といえると思います。このことについて山本七平は、『日本人とユダヤ人』は山本七平と二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ローラーと彼の友人ミンシャ・ホーレンスキー)の会話からなったものだといい、その後のベンダサン名の著作(『日本教について』ほか)はホーレンスキーとの合作だといっていますので、私はそのまま受け取るべきだと思います。
いずれにしても、わたしたちは、このイザヤ・ベンダサン名の著作を通して、アメリカ人あるいはユダヤ人など欧米人の日本理解の水準がどれだけのものであるか想像してみる必要があると思います。こうした感慨は、敗戦直後ルース・ベネディクトの『菊と刀』を読んだときにも感じたことですが、あらためて、その必要を痛感します。
山本七平もこのことについて、『日本教養全集18 菊と刀 日本人とユダヤ人 さくらと沈黙』の解説の中で次のようにいっています。
「まず、何よりも驚かされるのは、この三人の著作における驚くべき量の『資料』とその活用を物語っているその『引用』である。三人の『引用』の仕方にはそれぞれ特色があるが、いずれにしても、これだけの引用を自由自在になしえ、しかもそれぞれがその文脈に実に的確にはめ込まれているの見るとき、われわれは‐否少なくとも私自身は‐彼らの努力と持続力と一種のねばり強さ、というよりわれわれから見れば異常とすら思われる一種の執拗さに、少々驚かされる。(中略)
それだけしてなお三人とも、・・・現状を断定しかつ未来まで断定するような態度はとっていない。しかし一方、その対象に対して、将来可能なことと不可能なこと、ありうることとありえないことは、この三人が三人とも、はっきりと自信を持って判別し言明しているのである。理解とは、おそらくこういうことを言うのであろう。そしておそらくこれが、われわれが学ぶべき基本的態度であろう。」 
 
山本七平 3

 

前回、「山本七平は、『日本人とユダヤ人』は彼(山本七平)と二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ローラーと彼の友人ミンシャ・ホーレンスキー)の会話からなったものだといい、その後のベンダサン名の著作(『日本教について』ほか)はホーレンスキーとの合作だといっていますので、私はそのまま受け取るべきだと思います。」と書きました。
では、これらのイザヤ・ベンダサン名の著作において、山本七平はエディターとしてあるいはコンポーザーとしてどのような役割を果たしたのでしょうか。
おそらく、先の「山本七平の不思議」で紹介したようなエピソードの出所は、戦時中は対日諜報関係の仕事を、当時は駐留米軍兵士に大学教育を授ける「オーバーシーズ・ユニバーシティー」の教授を委託されていたというメリーランド大学教授のジョン・ジョセフ・ローラーや、彼の友人で、「ユダヤ人のくせにユダヤ人嫌いであり、ユダヤ人のものの考え方や生きざまについて、辛辣な批評をするのが常だった」ミンシャ・ホーレンスキーによるものと思われます。(なお、このローラー教授の属するメリーランド大学のカレッジパーク校マッケルデン図書館東亜図書部には、「プランゲ文庫」というのがあって、これは日本における敗戦後の言論・思想の自由を拘束した、占領軍の検閲の実態を示す膨大な日本雑誌のマル秘検閲資料(1946-49年にかけて出版された約13,000点に及ぶ検閲雑誌及びその検閲の実態が記録された文書)が保管されています。)
そこで問題は、「日本教」の発見からその理論化、構造化において、山本七平はどのような役割を果たしたのかということですが、小室直樹氏は「山本さんの偉大な業績は、実に『日本教』の発見にある。このことの重要さは強調されすぎることはありません。」といっています。この『日本教の社会学』は、小室直樹氏と山本七平の共著であり、山本七平自身もそうした見方を否定せず、小室氏の「日本教」の構造神学的体系化に力を貸しています。
だが、山本七平は、この「日本教」という発想について、次のようにも言っています。
「『日本教』という言葉は英語で言えばジャパニーズイズムで、別に不思議な概念ではない。ユダヤ人はユダヤ教徒だ。では日本人は何教徒か。仏教徒か、神道か、いやジャパニーズイズムが一番適当だ、という発想はすぐに出てくる。ところがこれを日本語に訳して『日本教』と言うと、なぜか非常に新鮮になってしまう。」
つまり、「日本教」という発想そのものは、ユダヤ人にとっては特別ユニークな発想ではない、ということで、このことは『日本人とユダヤ人』における『日暮硯』についてのエピソードからも窺うことができます。問題はここから、さらに日本人の意識構造に踏み込んで、実体語と空対語のバランス=「天秤の論理」(『日本教について』s47)や、恩の相互債務論にもとづく「施恩・受恩の倫理」を発見し理論化したのは誰か、ということです。
この「日本教」は、イザヤ・ベンダサン名の著書の中心テーマであり、山本七平単独の著書では扱われていませんが、先に紹介した『日本教の社会学』では、山本七平名の著書で論じられた「空気」(『空気の研究』)や、「純粋人間」(『ベンダサン氏の日本歴史』後『山本七平の日本の歴史』として刊行)、さらに「日本資本主義の精神」の基盤としての崎門の学、そして浅見絅斎の革命思想(『現人神の創作者たち』)などが、「日本教」を解明する概念装置として包括的に論じられています。
しかし、不思議なことに、この本は、その後再販されず(私の持ってるものは第2版)、最近の古本市場では、プレミアムがつく程の希少本となっています。一体、その真の理由はなんでしょうか。私が今まで論じてきたこととの関連で言えば、それは「日本教」の発見に関与したもう一人のイザヤ・ベンダサンの分身が絡んでいるような気がしないでもありません。というのは、この本ではその影が全く消されていますから。
それはともかく、ではその関与がどの程度であったかということになると、正直言って判りません。1山本七平単独のものか(となると、「作り話」を含むことになる)、2某ユダヤ人が中心で、山本七平が自分の持つ資料を加えて編集・コンポーズしたものか。3山本七平が中心で、ユダヤ人の持つ資料をくわえて編集・コンポーズしたものか。私の推測としては、2から3に推移したのではないかと思います。少なくとも1ではあり得ません。
ここで、参考とすべき、もう一つの視点を紹介しておきます。これは、『家畜人ヤプー』の「書評」として、イザヤ・ベンダサンが「ヤプーに寄せる一つの印象‐著書と著者」として述べているものです。
「創作したものが何であれ、作者とは、その作品のみを通して外部から名づけられかつ規定された存在なのである。従って自己規定ではない、ということは、もし小説を書いて読まれれば、それを書いた人は読者にとって小説家なのであり、従って『私は小説家ではない』と自己規定することは許されない。これは、一編の作品もないのに『私は小説家だ』と自称するのと同じように、無意味なことだからである。ということは、あらゆる『作者』とは、いかに規定されまいとしても、結局その作品によって、外部から、一方的に規定されてしまうものだということである。しかし、外部から一方的に規定されるということは、本人の意志が全く無視されて束縛されてしまうことなのである。作品は着実に自分を縛り上げて行き、身動きできなくしてしまう。・・・
この問題は、実に古くからある問題で、昔はペン・ネームという方法で処理できた。ペン・ネームは偽名でも匿名でもない。別名すなわち別人格を意味する名前である。従って作者すなわち作品により規定されるものはペン・ネーム氏であって規定されるのも束縛されるのも、作者という木札を下げさせられるのもペン・ネーム氏であって本人は『私は関係ない』という立場をとればよかった。」しかし、これはこの「両者を同一視しないという伝統が保持されない限り、意味はない。・・・
日本にはがんらいこの伝統はない。・・・従って日本では、前述のように『日本人とユダヤ人』『家畜人とヤプーの著者』という木札を首から下げさせられ、都大路を引きまわされて、ジャーナリズムの獄門にさらされる結果となるであろう、もっともそうされるのが好きで、機会さえあればそうされたいと思う人もいるのであろうが『出世』とか『名をあげる』とかいう概念も言葉もないわれわれにとっては、その心情は興味の対象となりえても、模倣の対象とはなりえない。
もちろん沼正三氏と私の行き方は同じとはいえまい。しかしおそらく氏は、絶対に阻害も束縛も規定されたくない何らかの『自由』をもっておられるはずだ。・・・その『自由』は・・・私の自由とは全く異質のものであろうが、しかしそれを阻害されないためには、あらゆる手段をとる権利をすべての人がもっており、自分ももっていると考えている点では同じであろう。そして、その自由がそのような質の『自由』であれ、それをもつものだけに、何かを書くことが許されていると私は思っている。もちろん、何もせずにこの自由が守れればそれが一番よい。しかしそれを守ることは、己が生命を守ると同様細心の用心が必要なことも事実である。」
さて、もし、山本七平に、こうした見解に与するものがあったのだとしたら、おそらくそれは「天皇制を論じることにおける『自由』」だったのではないか、と私は思いました。 
「以前は、『ベンダサンはあなたではないか』といった質問をよく受けた。そういうとき、私は『日本は法治国家で、ちゃんと著作権法がある。著作権法に基づく著者の概念においては私は著者ではない』とまず答える。ペンネームだと断定した雑誌があったが、ペンネームとは著作権を本名の人がもっている場合にしかいえないことで、私が著作権を持っていないのに、そうであると私がいったらウソになる。私は出版屋だから、著作権・出版権の間系は明確にしておきたい。従ってこれをあいまいにするようなことはもちろん言ったことがない。」
「『共著ですか』って聞かれることがあるんですが、もちろん違います。共著ということは著作権の半分をもっているっていう意味なんですから・・・。私は、もっておりませんから『違う』というだけです。著作権というのは言うまでもなく財産権ですから、この点では、この質問は、ある意味では、土地を指して、『これはあなたの土地ですか』という質問と変わらないわけですよ。・・・
もちろん著作権という言葉は、単に印税の受領権ではなく、その本の内容について最終的な絶対権を持っている人でしょ。その人が改訂するといえば改訂しなければならない。また、こちらがこの点を改訂したいと思っても、その人が否といえばできない。また、こちらが売れるからもっと発行を続けたいと思っても、絶版にせよ、といわれれば絶版にしなければならない・・・。いわばその本の生殺与奪の権を握っている絶対者ですよね。従って、著者=著作権者以外のものが、内容にどれだけ関与したかといった問題は、いわば、”助手がどれだけ任務を果たしたか”という問題にすぎないわけですよ。これは、主任教授の下での共同作業の成果の発表などでもある問題ですが、その著作の成立にあたって最終的決定権を持っている人が、著者=著作権者でしょう。そして著者という言葉は、著作権者よりも強い意味をもつはずです。著作権の保有者なら、相続でもなれますからね。ただそれは、著者の権利のすべてを受け継いだわけではないでしょう。・・・」
私自身、かって、イザヤ・ベンダサンは山本七平のペンネームだろうとか、あるいは共著者ではないか、などと考えたことがありましたが、こうした文章を見ると、やはりちがうと考えざるを得ません。といっても、イザヤ・ベンダサン=山本七平ということは、ご家族の証言もあり、氏を支持する人もしない人も含め言論界の一致した見解となっていることも否定できません。で、いまさら何を?と思わないわけでもないのですが、長い愛読者の一人としては、やはり、氏の言葉によってその間の消息を理解するほかないと思うのです。
「── ただ、山本七平説がしばしば出てくるというのは、ベンダサンの書いたものと、山本さんの書いたものに共通点というか、何か通じ合うものが感じられるからではないでしょうか。
山本 それはあると思いますよ。ただ出版社としては、あのたぐいの本は、こちらとして、見方もしくは考え方に共通点がないと出せるものではないんですよ。こういった例は少しも珍しくないんですよ。また、一時、北森嘉蔵説も随分あったでしょう。
── ありましたね。
山本 やっぱり、どこか似通った考え方があるからでしょうねえ。『日本人とユダヤ人』については、まあいろいろな書評が出ましたが、『福音手帖』の北森さんとチースリクさんの対談はおもしろかったですね。また、『月刊キリスト』の新見宏さんとラビ・トケイアさんのも・・・。私としては、ベンダサンがどこにいるとか、誰々説なっていうことにみんなが興味を持つより、内容のある、ああいう書評が、もっと出てくれるといいと思うんですよ。そうすると、そこから新しい問題も出てくると思いますから。」
この箇所を読んで、この二組の対談を読んでみたいと思い、全国の図書館を検索して、ようやく鹿児島の純心女子短大の図書館で見つけることができ、コピーを送ってもらい読むことができました。とりわけ北森嘉蔵(神学者)とH・チースリク(キリシタン研究家)の対談「日本人の宗教心」─イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』をめぐって─は興味深く、またそれを繰返して読むうち、極めて重要な問題が提起されていることに気がつきました。
本対談は、司会者の次の言葉から始まっています。
「チースリク神父様はキリシタン研究家、日本語でご本もお書きになるほどの日本通です。北森先生は、ある意味で日本を代表する神学者。イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』が出版されてから1年以上になりますが、大変な反響を呼びました。とくにクリスチャンにとって、この本はショックを与えたのです、信仰に対して自信を失わしめた、といっている人も多いようです。」
では、この本のどういうところが、それほどのショックをクリスチャンに与えたのかというと、北森教授は、ベンダサンが「日本教」=「天秤の論理」の世界に神は住みうるか、という問いを発しているところだといっています。それをうけて司会者は「なぜわれわれがショックを受けたかというとを、別の言い方で申しますと─たとえば、われわれは『血も涙もない』ということを非常に嫌うわけです。神に対しても、血がかよい、涙もある神をどうしても日本人は求めるわけですね。(中略)ところが、イザヤ・ベンダサンの出した問題は、・・・何かそういう、血や涙のあるような信仰の持ち方はうそなのではないか。神と人との関係は、血縁関係のような、そんな人間的なものではなくて契約で結ばれた養子関係である。非常にドライなのだ。それに日本人は気がついていないのではないか。─そういうふうにいわれると、こちらは実に不安になってくるわけですよ。」
ここで、この「天秤の論理」というのはどういうものか説明しておきます。これは、日本人が、他者との関係や社会的問題を処理する際に無意識的に用いる「考え方の型」について述べたものです。日本語には「実体語」=「ホンネ」にあたる言葉と、「空体語」=「タテマエ」にあたる言葉があり、まず、「実体語」が「現実」に対応して生まれると(=天秤の皿の上に乗ると)、それとバランスするように「空体語」が、分銅(重さを量るための尺度)として積み重ねられ、そこで得られる平衡点において、一定の判断を得ようとする日本人独特の「考え方の型」を図式化したものです。
この「実体語」と「空体語」の関係は、「理想」と「現実」の関係とは違います。「いうまでもなく西欧では、原則として、『現実』という言葉で規定されるものを自分が現在立っているスタートラインとすれば、『理想』は、そのゴールを規定した言葉」です。「従って論議は常に、言葉によって現実をどう規定するか、また言葉によって理想をどう規定するか、まずこの二つを規定してから、この『言葉によって規定された現実』から『言葉によって規定された理想』までをつなぐ道を、また言葉によって規定し、それをどう歩むかを『方法論という言葉』で規定するという形になります。」
しかし、「天秤の論理」の世界においては、「実体語」も「空体語」も西欧における「理想」と「現実」のように言葉で厳密に規定されることはなく、大切なのは両者のバランスで、そのため、「現実」を改革するための方向性を示すべき言葉(=思想)が、「現実の重さ」に対応する尺度(従って「実体」ではない)としての「空体語」として語られるということです。
つまり、「現実の重さ」に対してバランスをとることが「空体語」(=思想)の機能であって、それは「現実」を、「方法論という言葉」によって「理想」までつなごうとするものではないということです。それは、例えば「『自衛隊は必要である』という『実体語』は口にせず、『自衛隊は憲法違反であるといえる状態も必要である』という『空体語』を分銅として口にし、それによって両者のバランスをとる、という形で現れます。そしてこの「空体語」は、たとえ口にしなくとも自衛隊の存在を認めてはじめて言える言葉なのです。
「将来同じようなことが起きるでしょう。軍備撤廃を主張している政党もありますが、もしこの政党が政権をとったらどうなるか。議論の余地はありません。攘夷論者が政権をとったときと同じ事が起こります。もちろん一時的混乱はあります。(明治維新であれ、第二次大戦の終戦時であれ、それはありましたから)。が、それはすぐにおさまります。『戦力なき軍隊』がすでにあるのですから、『人民の軍隊は軍隊ではない』ぐらいの主張は何でもありません。」まさに、その通りのことがその後起こりましたね。
そして、この「天秤の論理」の世界において、その天秤の支点の位置にあるものが、実は、日本人が「人間的」という言葉で言い表すところのアプリオリの概念で、さらにその概念は、日本人が「自然」という言葉で言い表すところの、一種の宇宙論的概念に包摂されています。つまり、この「天秤の論理」の世界における「人間」(というより「自然」というべきか)という概念は、ヘブライ・クリスト的世界における神概念に代わるものであり、従って、この「天秤の論理」の世界には、「人間」は住み得ても、神は住み得ないというわけです。
こうした指摘が、日本人における神概念が、怒れる神から愛する神=許す神へと不可避的に傾斜する傾向と相まって、日本人キリスト教徒(とりわけプロテスタント系)の人々に、自らのイエス・キリスト像は、あるいは、日本人における天秤の論理における支点としての「人間」像(というより「自然」像というべきか)を仮託しただけのものにすぎないのではないか、「血も涙もあるような信仰の持ち方はうそなのではないか」という疑念を起こさせたというのです。
結局この対談において、北森氏は、日本に「天秤の論理」の世界が存在することを認めた上で、三位一体を決めたニカイア信条についても言及し、キリスト教会はこの「天秤の論理」とキリスト教の神概念(キリストが父なる神と同質とする)とを結びつけようとしてきたのではないか。そして、「天秤の論理」の世界に神がいないということは、著者は、はじめから神を抜きに考えているということで、それは結局「三位一体」の信仰の中にも神はいないといっていることになるといっています。これは日本のキリスト教会に対する伝道上の誠に大きな課題(挑戦?)といわなければなりません。
ところで、こうした論争において、山本七平自身はどこに位置していたのでしょうか。
氏は、「山本七平の不思議4」で紹介したように、関根正雄氏の『日本人とユダヤ人』評─おそらく「人間教」としての日本教と「神が人となった」キリスト教の親近性を認めているものと推測される─を喜びつつ、次のように、この本の出版の動機を語っています。「ベンダサン氏は『日本人は聖書は理解できない』とはっきり断定している。私は聖書図書の専門出版社だから、これを肯定するわけにはいかない。」
しかし、ここにおいて、山本七平は、「天秤の論理」の世界には神は住み得ない、というイザヤ・ベンダサンの断定について、北森氏のように「三位一体」の考え方に特に固執しているようにも思われません。氏はあくまで、イザヤ・ベンダサンのいう「日本人は聖書は理解できない」という言葉に異を唱えているのであって、聖書の思想(個別者と絶対者との絶対的な関係の中に、しかも背理の中にしか「信仰」は得られないとするもの)に学ぶことによって、日本の伝統思想である「日本教」を思想として進歩させることができると確信していたように思われます。
こうして、山本七平は「天秤の論理」について、その、日本人の伝統的思考方法を理解するための社会学的分析用具としての有効性を認めつつも、その「今」のみを絶対とする空間的思考法=空気によって支配される「天秤の論理」の世界の限界性を鋭く指摘しています。日本人は、そうした伝統を生み出した「長い歴史を言葉で体験しなおし」それを思想として再把握することが必要である、と。「個人にとっても民族にとっても・・・進歩とは実はこれ以外には存在しないのである」から。
以上、このあたりでイザヤ・ベンダサンに関する詮索はやめて、山本七平によって語られた思想がどのようなものであったか、ということに論を進めたいと思います。思うに、山本七平に対する批判、とりわけwikipediaの解説に見られるような批判の多くは、浅見定雄氏の批判に依拠しているわけですが、私は、これは浅見氏自身の思想ないしイデオロギーによるものであり、このことについては、今後、山本七平の思想と対比しつつ、一つ一つ考えて行きたいと思っています。 
 
池田信夫の理解する丸山真男と山本七平

 

池田信夫氏が、たびたび丸山真男の「古層」論や山本七平の「空気」論に言及しています。現在のホットイーシューである原発問題やTPP問題をめぐる議論において、事実論と価値論が混同されたり、「是・非」論に終始して「可能・不可能」が論じられなかったりして議論が混乱していますが、これらの原因を見極め問題点を解決するのに、このお二人の日本思想史研究が極めて有効となっているからです。そこで、これらの問題点を一層明確にするため、私なりに池田
氏の丸山真男及び山本七平理解について敷衍的な説明をさせていただきたいと思います。また、氏の丸山真男及び山本七平理解は、私のそれと少し違う部分もありますので、その辺りも指摘させていただいて、両者(丸山及び山本)の論の理解をさらに深めるとともに、上述したような日本人の思考法を改善する上での参考としていただきたいと思います。 
朝日新聞の「第二の敗戦」
この記事は、3.11以降の朝日新聞の脱原発に関する議論が〈「1945年8月14日の(朝日新聞の)社説と、気味が悪いほど似ている。共通しているのは、可能か不可能かを考えず、理想を掲げて強硬な方針を唱える姿勢だ。戦時中は大本営に迎合し、敗戦すると一転してGHQに迎合する。高度成長期には電力会社に迎合して原発推進キャンペーンを張り、事故が起こると一転して「原発ゼロ」に転向する。福島事故は、朝日新聞にとっての「第二の敗戦」なのだ。〉と言うものです。
このように「空気」を読んで大衆に迎合する傾向は朝日新聞に限らない。これは大学の先生と生徒の関係においても、会社の上司と社員の関係においても見られる。そうすることが良い点数をもらったり出世の条件となるからだ。そして、こうした迎合的態度によって「支配的になった空気は、破局的な事態に直面するまで変わらない。そして最終的に破綻すると、空気は一挙に変わる。」
〈これを「日本的ジグザグ型進化」と呼んだのは山本七平だった。彼は70年代の反公害運動を冷静に分析し、そこに日本軍と同じ行動を見出した。〉
この日本人の迎合的態度は、その「二人称的世界」における「和を以て貴しと為す」伝統から来ているのです。そのため、この世界は三人称の世界を意識しない、それ故に一人称の発達も抑えられてきたのです。これが日本人における論理を独特のものにした。ベンダサンはそれを「てんびんの論理」と名付けました。
その論理を簡単に説明すると、「てんびん」の一方に「実体語」(=本音)を置き、他方に「空体語」(=建前)を置く。そして、そのてんびんの支点には日本人独特の「人間的」観念が置かれていて、それは、日本人独特の「自然観」の上に立っている、というものです。問題は、この「実体語」が言葉で定義されないこと(つまり本音を口にしない)こと。一方「空体語」は声高に主張されるが、「実態」から遊離した建前論=空論となること。ただし、両者が支点である「人間的」観念でバランスされている限り、組織の秩序は維持される。
ただし、「現実」が極めて重くなると、それとバランスさせるための「空体語」はますます現実から遊離して「空気」が醸成されることになる。そして、人々がその「空気」に支配されるようになると、支点としての「人間的」観念が非現実的な「空体語」に引き寄せられ、てんびんのバランスが壊れひっくり返る。その時、天秤皿の上の言葉は失われて自然状態(国破れて山河あり)に帰り、心機一転、現実とのバランスを求めて新たな「空体語」が積み上げられていく。この繰り返しが、朝日新聞の上記のような社説の変遷にも典型的に見られるのです。
では、こうした「てんびんの論理」のもつ欠点をどう克服するか、ということですが、簡単にいえば、「実体語」を言葉でしっかり定義すること。「空体語=未来像」を先に言葉で定義した「実体語」から遊離させないようにすること。支点となるべき「人間的」観念を自らの思想として明確に把握すること。その上で、自らの思想を、実態と未来の時間軸に選択的に位置づけることです。この際大切なことは、自分の言葉の時間軸における責任を明確にするということです。 
放射能という迷信
〈さっきの記事の続き。山本七平の日本人論は彼の宗教論とからんでおり、学問的には疑問もあるが、最近の反原発ヒステリーを分析するには適している。〉
ここで、宗教と学問は別に矛盾しないのでは?なお、「最近の反原発ヒステリー」の原因として、山本七平の指摘した、日本人における「対象を物神化し臨在観的把握する伝統」の存在を紹介しておられるのはその通りだと思います。これが日本人が容易に「空気支配」に陥る第一の原因なのです。
では、こうした日本人の事実認識上の問題点(=自己と認識対象を一体化すること)をどう克服するか、ということですが、山本七平は、対象の「対立概念」による把握ということを言っています。これは異なった視点からの対象把握を複数重ねることで、はじめてより真に近い対象把握が可能になる、というものです。もちろん、その視点相互の関係が把握されていなければどうにもなりませんが。
〈「山本は、こうした傾向を日本特有の「アニミズム」だとしているが、これはおかしい。物体に付随する「空気」が感情を呼び起こす現象は「スーパーセンス」と呼ばれ、世界各地で迷信の生まれる共通のメカニズムである。〉
こうした「臨在観的対象把握法」を「アニミズム」と規定してしまってはそれ以上の分析はできません。それは山本よりむしろ丸山の認識に近いような気がします。山本の「空気の研究」はそこに止まらなかったことからこそ可能になったのだと思います。
山本はこの「空気の研究」によって「空気支配」からの脱却を説いたのです。では、その「空気支配」はどこから生まれてくるのか。その論理構造を図式化したのが、冒頭に説明したベンダサンの「てんびんの論理」でした。では、そこから生まれる「空気支配」をどう克服するか。
より具体的にいうと、まず実体(or過去)を事実論として多角的な視点から検証しそれを言葉で確定(=定義)すること。次にその問題点をどのように克服すべきか、その仮説モデルを言葉で定義すること。さらに、両者を実現可能な方法論(=言葉)で繋ぐということ。こうした言葉による創造的な問題解決法を身につける、ということです。
なお、日本では、「実体」や「仮説モデル」をあえて言葉で定義しなくても、両者のバランスをとることで秩序を維持してきました。しかし、これができたのは、「実体」が感覚的に共有され、先進国「モデル」があり、かつ「人間的」観念がメンバー間で共有されていたからです。それは、日本が大陸から適当な距離離れた島国であったためであり、武力侵略を受けず、大陸文化をモデルとして、それを選択的に学ぶことができたからです。日本文化は、そうした地政学的•歴史的産物なのですね。
つまり、〈日本で非論理的な「空気」や迷信が根強く残っているのは、「極東の海に隔てられた別荘」で長い平和を享受してきたせいだとすれば、その呪縛を解くのは容易なことではない〉ということになります。ただし、これはあくまで「地政学的・歴史的産物」であって、日本は明治以降、鎖国政策をやめて主体的に開国し西洋近代文化を受け入れてきた国ですから、こうした思考上の問題点を克服できないはずはありません。
ただ、ここで注意すべきことは、戦後はアメリカに安全保障を依存したために、明治期の独立自尊の精神が失われ、幕末的な「攘夷思想」が醸成され鎖国マインドが復活してきたことです。では、明治期の開国では、いかなるマインドがこれを可能としたかということですが、実は、これは江戸時代以前、鎌倉時代以降発達してきた武士的実力主義的・合理主義マインドであった、ということができます。 
日本人とユダヤ人
〈ユダヤ教やキリスト教というのは、日本人にとってわかりにくい世界である。2人の社会学者がそれを論じた『ふしぎなキリスト教』は、日本人のキリスト教理解のレベルの低さをよく示している。アマゾンの書評欄で多くのキリスト教徒が怒りのレビューを書いているが、こういうでたらめな本が売れるのもよくないので、ちょうど40年前に出版された本書を紹介しておこう。
日本人のキリスト教理解の根本的な間違いについて、私が一定の理解を得ることができたのは山本七平のおかげでした。『不思議なキリスト教』は私はまだ読んでいませんが、かっては一神教であるキリスト教に根ざす近代文明を覇道文明と決めつけ、それに対して東洋文明を王道文明と自己規定して結果的に中国を侵略することになった、その同じ間違いを、多くの日本人が繰り返している様な気がします。この点、日本人にとってキリスト教的な一神教的発想を理解することがいかに大切か、ということを痛感します。
〈本書はイザヤ・ベンダサンというユダヤ人が書いたことになっているが、今ではよく知られているように著者は山本七平(と何人かの外国人)である。これは一時的なお遊びだった(ペンネームも品のよくない駄洒落)と思われるが、300万部を超えるベストセラーになって引っ込みがつかなくなったのか、その後も山本はベンダサン名義を使いわけた。本多勝一との「百人斬り」論争は、内容的には戦地を知っている山本の勝ちだったが、匿名で批判を続けたのはフェアではない。〉
山本自身はこの本について編集者であることもコンポーザーであることも否定していませんが、著作権は持っていないと言っていました。この本は山本を含めた三人(後二人)の合作で、それにベンダサンという一つの人格を設定し著者としたのだと思います。本多勝一との「百人斬り」論争は、諸君紙上でベンダサン名で行われた(後『日本教について』所収)ものだけで、その後は、山本自身の著作(山本の「日本軍隊論四部作」など)で行われています。この『日本教について』は、滝沢克己が『日本人の精神構造』で詳細に論じており、日本人としては大いに学ぶべき点あることを繰り返し指摘しています。
〈本書については多くの批判があり、そのキリスト教理解には怪しい部分もあるようだが、数十年ぶりに読み返してみて、以前とは違う部分が印象に残った。〉
この本については、旧約聖書研究者の関根正男氏や神学者北森嘉蔵氏をはじめ、この本を日本のキリスト教理解の盲点をついたものと高く評価した人は沢山います。wikiでは浅見定雄氏による酷評が紹介されていますが、小室直樹氏はこの浅見氏の『にせユダヤ人と日本人』について、次のように批判しています。
「アマチュアではあるけれども才能もあって、一生懸命努力している人には、プロは、いろいろ助言して励ますべきもの」であって「細かいことで難癖を付けてつぶしてやろうなどということは、一切しないのが常識である」「山本七平先生はただの一度も自分は聖書学者だとは言ってはいないのである。・・本人が署名する場合は、山本書店主と書くし、自分では自分は編集者だと言っているのである」「山本七平先生は学問的には全くの素人であるが、天才的な素人なのである。あの人の直感やフィーリングは、専門家としては最高に尊重すべきものだ。確かに山本さんの理論には、学問的に厳密に言えば、いろいろな点で欠点があるだろう。しかし、そういう批判は、相手が学者の場合にすべきなのであって、相手がそうでない場合は、目をつぶるのが当たり前ではないか」
浅見氏は学者の立場ではなく自分のイデオロギー的立場から、山本を「細かいことで難癖を付けてつぶしてやろう」としたように思われます。そのため、山本七平の提示した、日本教及びキリスト教に関する日本人が学ぶべき貴重な知見の多くが、その価値を減殺されることになりました。この件は、関根氏や北森氏の態度と比較してみれば、その問題点は明らかですね。
〈日本が非西洋で唯一、自力で近代化をとげた最大の原因が、海に隔てられて平和だったからだ、というのは、梅棹忠夫なども論じた古典的な日本人論で、今日ではほぼ通説といってもいいだろう。山本の独自性は、これを彼が経験した軍の非人間性と結びつけ、戦争を知らない日本人が慣れない戦争をやるといかに残虐で間抜けな戦いをするかを明らかにしたことだ。〉
このことについては先に言及しましたが、要するに日本文化は近代戦争に向いていないということですね。ただし、「それは恥ではない」と、山本七平は言っていました。
〈山本も指摘するように、「同じ人間だから」という信仰にもとづく「日本教」は、平時にはきわめて効率がよい。不利な気候条件で稲作をやるために厳密にスケジュールを組んで全員一致で農作業を行なう「キャンペーン型稲作」は、勤勉革命と呼ばれる労働集約的な農業を生み出し、これが近代以降の工業化の基礎になった。〉
人間には遍く「仏性」が備わっているとした法華経の教えが、「仏心」→「本心」となり、脱宗教的な日本教の「人間性」信仰となった。さらに、そうした人間信仰に支えられて、仏行=修行=労働となり、日本人の「勤労のエトス」が形成されることとなり、それが日本資本主義精神となった、というのが、山本七平の説いた『日本資本主義の精神』でした。
〈しかし長期的関係に依存する日本教は、戦時のように社会のフレームが大きく変わるときは、弱点を露呈する。敵に勝つことを至上目的にしなければならない軍隊の中で、勝敗よりも組織内の人間関係が重視され、面子や前例主義がはびこり、組織が組織の存続のために「自転」するのだ(『一下級将校の見た帝国陸軍』)。〉
こうした「人間性」信仰に支えられた日本の組織は、例えそれが軍隊のような機能集団であっても、否応なく共同体に転化する、いや共同体に転化しなければ機能しない、というジレンマを抱えている。従って、この集団が機能性をフルに発揮するためには、この機能性と共同体性を両立させなければならないが、そのためにはその組織が常に倒産の危機にさらされていることが必要となる。この点、日本の組織は経営体に適している。従って、この倒産の危険のない公務員組織は必然的に共同体化し、機能しなくなり、〈面子や前例主義がはびこり、組織が組織の存続のために「自転」する〉ようになる。
戦前は、日本軍が共同体化し、絶望的な情況の中で「空気支配」に陥り「玉砕」を繰り返すことになりましたが、では、なぜ、この最も冷静かつ合理的な判断が求められる軍隊が、こうした「空気支配」に陥ったか。
その第一の原因は、リーダー達が、独りよがりの王道文明論や現人神思想に陥り戦争のリアリズムを見失ったためです。明治期のリーダー達は、脱藩や、戦争・政争も経験した人たちで、人間のリアリズムを骨身に徹して知っていました。しかし、昭和のリーダー達は、幼年学校出のエリート軍人たちであって、彼等が陸大を卒業し現役となった時は日露戦争が終わっており、また第一次世界大戦の大量殺戮も経験しなかった。さらに社会主義的理想主義が風靡した時代だった。つまり彼等はプライドだけは異常に高い観念的軍人たちだったのです。それらが彼等が「空気支配」に陥りやすい条件となっていたのです。
〈こういうとき大きな発言力をもつのが、客観情勢を無視して「空気」に依拠して強硬な方針主張する将校だ。辻政信はノモンハン事件や「バターン死の行進」をもたらし、ガダルカナルでも補給を無視した作戦で2万人以上を餓死させた。牟田口廉也も、無謀なインパール作戦で3万人余りを餓死させた。「数十兆円のコストをかけてもすべて除染しろ」と主張する児玉龍彦氏や朝日新聞は、さしずめ現代の辻政信というところだろうか。〉
その辻正信は、戦後、戦犯を逃れて逃亡し、追放解除後、衆議院議員4期、参議院議員1期を務めています。山本七平はそれを許した日本のマスコミを厳しく批判していました。
〈こういう歴史をかえりみると、財政危機という「戦争」に直面している日本人に、まともな意思決定ができるとは思えない。「増税しないで日銀引き受けしろ」という辻政信のような強硬論が出てくるのも相変わらずだ。破綻がどういう形でやってくるかはわからないが、日本人はそういう「ジグザグ型進化」には慣れているので、どうせ破綻するなら早いほうがいいと思う。あと10年もたつと、高齢化して立ち直れなくなる。〉
池田先生には「増税しないで日銀引き受けしろ」という論者とガチンコで論争してもらいたいですね。手遅れにならないうちに論争らしい論争で決着を付けてもらいたいものです。 
開国と攘夷
〈TPPをめぐる政治家の動きは、尊王攘夷で騒いだ幕末を思い起こさせる。丸山眞男の有名な論文「開国」(『忠誠と反逆』所収)は、この前後の日本の動きを精密に読み解いている。当初は開国を決めた徳川幕府に対する反乱だった尊王攘夷が、いつの間にか開国に変わった経緯については、いろいろな説があるが、丸山が重視するのは、身分制度に対する反抗そのものが開国のエネルギーを内包していたということだ。〉
「身分制度に対する反抗そのものが開国のエネルギーを内包していた」というのは先に言及しましたが、全くその通りだと思います。ただし、それは必ずしも「古層」によるものではなく、武士的合理主義・実力主義の伝統によるものだと考えます。「古層」からこの武士的「作為」が生まれていることを、丸山真男は知ってはいたが十分説明できなかったのでは?
〈日本のように短期間に排外主義が対外開放に変わった国はほとんどない。清は西洋諸国を「夷狄」と見下して真剣に対応しなかったため、侵略されて没落した。これに対して日本の天皇は中国の皇帝のような絶対的権力をもっていないため、相手のほうが強いと見れば妥協し、「富国強兵」のためには西洋の技術を導入する使い分けが容易だった。〉
つまり、日本の鎌倉時代以降の天皇制は「武士が立てたる天皇」(=後期天皇制)で、政治権力からは実質的に切り離され「やわらかに」存在する象徴天皇制となっていたということです。明治の政治家は、この天皇を統一日本国の統合の中心とすると共に、後期天皇制の伝統を生かして、それを立憲君主として明治憲法上に位置づけたのです。それによって、日本の近代化は可能となりました。
〈西洋文明の本質的な影響を受けないで、その技術だけを取り入れることができたのは、このような「日本的機会主義」のおかげである。それが可能だったのは、日本人の「古層」の安定性が強かったためだ。伝統的な社会の規範が弱いと、西洋の技術と一緒に入ってくるキリスト教などの文化に影響されて社会秩序が動揺するが、日本ではそういう混乱がほとんど起こらなかった。〉
「古層」の安定性が強かったから、和魂洋才が可能となったとは、必ずしも言えない。むしろそれは、先ほど述べたように「身分制度に対する反抗そのものが開国のエネルギーを内包していた」ことによるもので、こうした伝統は、江戸時代以前の武士的実力主義・合理主義の伝統の中から生まれたものであり、そうした実力主義とその安定装置としての二権分立的象徴天皇制を組み合わせたところに、明治の創見があったと見るべきではないでしょうか。
従って、変えるべきは「古層」ではなく、明治維新において倒幕イデオロギーとなった尊皇思想が持っていた観念的「王道思想」や「一君万民平等思想」からの脱却(明治維新の元勲にはそれができた)ということではないでしょうか。つまり、これはイデオロギーなのであるから、その思想史的系譜を知ることができれば、比較的容易にそれを対象化できる。その上で、明治維新に「身分制度に対する反抗そのものが開国のエネルギー」を供給した日本の武士的実力主義的・合理主義的精神を再評価すべきではないか。
〈TPPには、かつての開国のような大きなインパクトはないが、それに反対する政治家の行動は、幕末に下級士族を藩に縛りつけようとした藩主に似ている。彼らは、開国によって社会が流動化すると、農業利権のアンシャンレジームが崩壊することを知っているのだ。彼らがグローバル競争を恐れる気分はわかるが、競争を否定してもそれをなくすことはできない。
彼等は、すでに武士ではなく官僚化していた、と見るべきでは。
〈特に今後、中国のプレゼンスが高まる中で、日本が米中の「G2」に埋没しないためには、積極的にアジアの経済統合のリーダーシップを取る必要がある。〉
その際注意すべきは、アメリカとの同盟を維持すること、中国との関係については、かっての「東洋王道文明論」に陥らないようにすること。 
アメリカという父親
TPPに関する議論について、なぜ、この件で日本人に、アメリカに対する「被害者意識」が露呈するのかと言うことについて、池田氏は、再び丸山の「古層」論を持ち出して次のように説明しています。
〈彼等は、父親を拒否して回帰すべきモデルをもっていない。丸山も指摘したように、「古層」は本質的には古代的な閉じた社会の意識であり、それを近代の開かれた社会で維持することは不可能だからです。それでも人々の中に1000年以上かかって刻み込まれた閉じた社会のモラルは、容易に消えない。この葛藤を、われわれはこれからも長く背負っていかなければならないでしょう。〉
これについても、丸山真男の「古層論」(=成る、生む、いきおい)だけでは中華文明という普遍文化の周辺文化としての発展してきた日本文化の特質を捉える事は困難だと思います。「父親を拒否して回帰すべきモデルをもっていない」というのは、中国、次いでヨーロッパの周辺文化として、戦後はアメリカの被占領文化として「モデル」を他に依存してきた日本文化の一面を表すものではありますが、その一方で、先に述べたようなオリジナルの思想的営為も見られるのであって、そうした伝統を生かして次の開国に備えることが、今日、求められているのではないかと思います。 
 
山本七平のこと

 

1. 空気の影響力
「『空気』の研究」のなかで、「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
指摘のとおり、日本人に関する非常に興味深い事実である。われわれの求める正しい道「あるべき姿」は、未来構文の内容である。そして、日本語には時制がないから、未来構文はなくその内容もない。かくして、日本人には哲学が難しく、日本語は、実況放送・現状報告のための言葉となっている。「空気」は、現実構文 (現在構文) の内容である。だから、無哲学・能天気の日本人は感情理論を受け入れる。このことが、わが国民を昔ながらの知的低水準に押しとどめている。わが国は、戦前も戦後もきわめて危険な状態にあることに変わりない。わが国の有識者・知識人は、英語による考え方にも理解を示す必要がある。
2. 気分・雰囲気による決定
「『空気』の研究」のなかで、「わたくしは二十年ぐらい前に、千谷利三教授の実験用原子炉導入の必要を説いた論文を校正したことがある。先日その控がでてきたので、何気なくよんでいて驚いたことは、「実験用原子炉は原爆とは関係ない」ことを、同教授は、まことに一心不乱、なにやら痛ましい気もするほどの全力投球で、実に必死になって強調している。今ではその必死さが異常にみえるが、これは、「原子」と名がついたものは何でも拒否する強烈な「空気」であったことを、逆に証明しているであろう。この論文をもって、当時の反対者の意見を聞きにいったら、その返事はおそらく「当時の空気から言って、ああ主張せざるを得なかった」であろう。こうなると、たとえ「空気の決定」が排除される場合でさえ、一人の学者がそれに使う無駄なエネルギーは、実に膨大なものであろうと思う。」と書いている。
われわれの求める正しい道、即ち「あるべき姿」は、未来構文の内容である。そして、日本語には時制がないから、未来構文はない。かくして、日本語は実況放送・現状報告のための言葉となっている。「空気」は気分・雰囲気で、現実構文 (現在構文) の内容となる。だから、日本人は受け入れざるをえないのである。このことが、わが国民を知的低水準に押しとどめている。わが国は、戦前も戦後もきわめて危険な状態にあることに変わりない。わが国の有識者・知識人は、英語による考え方にも理解を示す必要がある。
3. 大人の自由
「『空気』の研究」のなかで、「『やると言ったら必ずやるサ、やった以上はどこまでもやるサ』で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の ”空気” に支配されて、「時代の先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう。」と書いている。
日本人は、大人になることが難しい。それは、日本語に未来構文がないからである。「未来においては、あなたは人を殺さない」(You shall not kill.) という教えがあるが、これが現実の話でないと考えている日本人は少ないのではないか。この教えの内容は、いうならばわれわれの努力目標であって、現実における調教の為の掛け声ではない。
わが国の有識者・知識人は、英語による考え方にも理解を示す必要がある。
4. 中庸の不徳
「『空気』の研究」のなかで、「非常に困ったことに、われわれは、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し「言必信、行必果」なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである。」と書いている。
日本語には、現実構文 (現在構文) しかない。
現実は、不確定要素で絶対化できない。
絶対化できるものは、現実ではない。
現実の対象を臨在感的に把握するには、現実構文が必要である。
現実構文の内容は絶対化できない。
そこで、比較のために、絶対化できないにも係わらず絶対化できるものと信じる対象を現実の中から捜し出す必要が生じてくる。
それが、現人神のようなものである。つまり、実況放送・現場報告の内容は、絶対神のようなものにはなりえない。
そして、この世のものであるにも係わらず完全無欠と無理にも信じることにより、比較の困難を切り抜けようとする。
かくして、戦時中の新聞は「強大な武器を持つ、無敵の精鋭日本軍」の虚像を作り上げた。
「あるべき姿」と現実を見比べて、その中庸を選ぶ方法は、日本人にとってきわめて信頼が置けない。
というのも、「あるべき姿」は未来構文の内容であり、日本人からすれば、現実構文に載っている未来の内容は虚言に等しい。
そして、ペテン師のような話をする人は、不純な人間と見えるのである。
「虚像」と「不確定要素」を比較して判断する思考形式は、わが国民を限り無く無能に近づけた。
この種の判断は、日本人に関する非常に困ったことである。
5. 上下内外に関する差別の道徳
「『空気』の研究」のなかで、「人間には知人・非知人の別がある。人が危難に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりになるな」ということになる。
この知人・非知人を集団内・集団外と分けてもよいわけだが、みながそういう規範で動いていることは事実なのだから、それらの批判は批判として、その事実を、まず、事実のまま知らせる必要がある。
それをしないなら、それを克服することはできない。と言っている。
「そんなこと、絶対に言えませんよ。第一、差別の道徳なんて、、、」と相手は言った。
山本七平は、非常に興味深い事実を指摘している。日本語には、階称 (言葉遣い) があって、上下と内外を区別して表現することになっている。上下を区別する (絶対敬語) のは韓国人も同じであるが、内外を区別する (相対敬語) のは日本人独特。だから、日本人の判断もそのようになっている。
6. 危険の到来
「『空気』の研究」のなかで、「事実を事実のままのべても、それは事実であるからそれをそのまま口にするだけのこと。口にすること自体は別に大変なことではありますまい。大変なことは、私が口にしようとしまいと大変なことです」と書いている。
宮本政於は「お役所の掟」のなかで「私は理論だったものごとの展開はするが、けっして頑固ではない。メンツだとか、プライドにはこだわらない。すくなくとも自分ではそう思っている。しかし、そのような私の性格が役所ではどうも災いの原因になっていることに気がついた。」と書いている。
こうしたしごく当たり前の態度が、日本人には当たり前とならないのは、日本人の求めるものが感情に基づいた発言だからである。 日本人は、英米流の議論をするために問題を持ち込むのではないようだ。議論をさけて問題を解決したいと願っているかのようである。これは、問題を抱えた時のきわめて危険な態度である。
7. 未来のこと
「『空気』の研究」の中で「公害問題が華やかだったとき、『経団連』をデモ隊で囲んで、『日本の全工場をとめろ』といった発言に対して、ある経済記者が『一度やらせればいいのさ』と投げやりな態度で言った例にその実感がある。これは、臨在感的把握に基づく行為は、その自己の行為がまわりまわって未来に自分にどう響くかを判定できず、今の社会はその判定能力を失っているの意味であろう。」と書いている。
彼の言う「臨在感的把握」は、私の言う「現実構文による理解」に相当する。未来の自分にどう響くかは、未来構文の内容であるから、日本語では把握しがたい。われわれの理解能力を超えているから、日本人は、未来に関する考察には投げやりの態度をとるのである。この事実は、歴史的に見て、わが国の未来にきわめて重要な意味を持つと考えることができる。
8. 自らの意思の難しさ
意思 (will) は、未来構文の内容である。だが、日本語には、未来構文がない。意思の内容が明らかにならなければ、善意も悪意も判定できない。だから、英米人の考え方による『自らの意思に基づく言葉と行為』を判定する裁判は、日本人には難しい。そして、敢え無い最後を遂げる危険性がある。
「ある異常体験者の偏見」の中で以下のように述べている。「『自己批判シロ』『ハイ私は、、、、』『まだ自己批判がタリン』、、、、 こういった方法、すなわち反省の強要という形で判断を規制されていくと、最終的には、自らの判断もそれに基づく自由意思もなくなってしまうわけである。したがってその言葉はすべて『強制された自白』に等しく、その行為はすべて『強要された自主的行為』になり、『命令された』に等しくなる。それがいざ戦犯裁判となると、すべて『自らの意思に基づく言葉と行為』とされる。確かに、上官は彼に反省は強要したけれども、『命令は、していない』のである。」と。
9. 勝ち組は常に正しいか
「今ある姿」は、現実構文の内容である。そして、「あるべき姿」は、未来構文の内容である。「今ある姿」を「あるべき姿」と比較すると、現実批判ができる。英米人とも、話を合わせることができる。
だがしかし、日本語には未来構文がなく、「あるべき姿」がない。それで、現実の中から比較のための (絶対) 基準を捜し出さなくてはならない。
実況放送・現状報告の内容からは、絶対基準は得られるはずもない。
こうして「今ある姿」対「今ある姿」の横並びの形式の比較にすれば、日本人の頭の中にも抵抗なく入る。
「ある異常体験者の偏見」の中で、「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べている。
それにつけても、マッカーサーも、帰国後に行われた上院軍事・外交合同委員会の証言で、「日本人はすべての東洋人と同様に、勝者に追随し敗者をさげすむ傾向を持っている。」と興味ある発言をしている。自己の「あるべき姿」の内容を持つことのない我々は、勝者は常に何事においても、比較の絶対基準になると信じているのであろうか。判断が世俗的であること限りが無い。
10. 現実離れ
「ある異常体験者の偏見」の中で、「多田参謀次長は陸軍の統帥部の最高責任者である。この最高責任者が『負けるから戦争はやめろ』と言っていたのである。不幸にして戦争はすでに始まっている。この場合に最も大切なことは、それに対する最高責任者の判断であろう。そして新聞に『知らせる義務』があるなら、この場合には、この最高責任者の判断こそ、全日本人に知らせる義務があったはずである。なぜこれらの最も重要なことを知らせずに、『戦意高揚記事』を書きつづけて来たのか。」と述べている。
「負ける」という判断自体、縁起がよくない。「縁起でもない」とうことは、気分・雰囲気が良くないということである。一方、戦意高揚記事は読んでいて気分がよくなる。彼らは、心地よい気分・雰囲気を求めて社寺仏閣・キリスト教会を巡り歩いている人たちである。その判断とは、気分のよしあしに基づく判断である。気分・雰囲気の内容は、現実構文の内容である。日本人の脳裏に良く浸透する。この種の判断により、日本人は現実肯定主義者であるにも係わらず現実離れをするのである。 
 
日本人論

 

故山本七平氏の不思議 
故山本七平氏(及びイザヤ・ベンダサン氏)の類まれなる日本人論は端倪すべからざるほど奥が深く、その全貌を知ることは筆者のような浅学非才の徒には決して容易なことではない。というよりも、おそらく故山本七平氏の真意を本当に理解できた者は、この世に実際何人もいないのではないかと思うほど、その膨大なる日本人論の遺産はわれわれの前に今でも高く聳える人跡未踏の山々のように思えてならない。
山本氏の日本人論の核になっているのは、おそらくベンダサン著「日本人とユダヤ人」以来の独特な観察眼であり、それはわれわれが日本人であるかぎり決して見えてはこないユダヤ人の眼から見た独特な日本人論である。といっても、もちろんイザヤ・ベンダサンが実在の人物であるとは到底思えないので、その観察眼はあくまでも日本人である山本氏の観察眼と同じものであるといってもほぼ間違いないだろう。
問題は山本氏が何故にユダヤ人の眼から日本人を見る必要があったのか?あるいはまた何故に山本氏はそのような眼をもつことができたのか?ということではないかと思う。一応、山本氏は熱心なクリスチャンであったといわれている。ただし、その熱心さは通常の意味ではないだろう。なぜなら山本氏が熱心なクリスチャンであると同時にユダヤ人の眼をもちえたということは決して普通ではないからである。ユダヤ人の眼からみるとキリスト教徒というのは現在でも異端者としてしか映らない存在であるはずだ。その逆はキリスト教徒にとってもおそらく同じだろう。しかるに、同じ人間がキリスト教徒であると同時にユダヤ教徒でもあるということはできない。少なくとも既成のキリスト教の教義や組織を重んじる者であれば、必然そのようになるだろう。
非常に面白いことに「日本人とユダヤ人」という書物をひも解くと、いたるところにユダヤ人独特の反キリスト教の立場が記されている。たとえば次のような辛辣なキリスト教批判が書かれている。
キリスト教徒の云う「三位一体」などは新約聖書のどこを開いてもでてこない。第一、人間が神を十字架につけて処刑するなどという思想は、モーセ以来の超越神の下に生きていた当時のユダヤ人の思想の中にあるわけがない。ニケーア会議までのキリスト教内の、現代人には全くわけのわからぬような論争は、イエスは神であるという思想を何とかこじつけて新約聖書に結び付けようとしたことにある。キリスト教は確かに聖書に依拠している、だが、聖書はキリスト教にその存立を依存しているわけではない。いわばキリスト教の一方的な片思いだから、たとえキリスト教は消えても聖書は残る。この関係はあくまでも明確にしておかねばならない。
イザヤ・ベンダサン=山本七平氏であるとすれば、少なくとも山本氏が普通のクリスチャンではないということが、この一言でもいえるような気がする。もちろん三位一体論を実際に信じているクリスチャンは決して多くはなく、おそらくローマ法王でさえそれを疑っているかもしれないので、山本七平がクリスチャンでありながら、そのような反キリスト教的な書き方をしたとしても別段怪しむべきことではないかもしれない。しかし、問題はそのような記述だけではなく、そもそもこの日本には本当の意味でキリスト教徒さえも存在していないというベンダサンの決め付けである。なぜなら日本人は全員日本教徒なので、キリスト教徒というのも、本当のところは日本教徒キリスト派にすぎないのだとされているのである。
この決めつけは、もし山本氏が本当のクリスチャンであれば自己矛盾の表明に他ならない。あるいは少なくとも山本氏は自分をクリスチャンであるとは思っていない証拠だと思われる。もともと山本氏は戦前から親子三代のクリスチャンであったことは確かであるらしい。しかし、フィリピンの戦争に従軍したあとアメリカの捕虜となって、戦後は帰還したものの重い病気を患い、自分の青春をほとんど台無しにすごしてきたあまりにも深刻な人生を歩んできた人だから、40代頃になってようやく軌道に乗り始めた出版業の仕事が多忙になった頃には、自らの人生観や信仰観にも常人には計り知れない内面的葛藤を経験したのだろうと思われる。
戦後、山本氏が始めた出版業の中心は何といっても聖書関係の良書を翻訳して、日本人に紹介することであった。1970年に300万部の大ベストセラー「日本人とユダヤ人」を出版した際にも、本当は聖書のギリシャ語辞典の出版費用をねん出するために、少しでも手助けになればと思って、仕事の合間に某ユダヤ人(実在の人物)との会話を通じて構想されたものであるというのが真相らしい。その本のアイデアや文章がどこまで、その会話相手のものだったのかどうかという話は別にして、少なくとも「日本人とユダヤ人」の出版が山本氏個人の売名的野心からでたものでないことは確かであると思われる。実際上、ベンダサンと山本七平の思想性はかぎりなく近くみられることは否定できない以上、おそらく「日本人とユダヤ人」を直接書いたのは山本氏自身ではないかとするのは妥当であると思われるが、しかし、だからといって「日本人とユダヤ人」が山本氏個人の作であるとはいえないのである。それは聖書のヨハネ福音書がそれを実際に記した2世紀の長老ヨハネ(イエスの弟子ヨハネとは別人物)の作品ではあっても、その内容の多くがイエスの愛した直弟子(誰かは不明)由来のもであるとも考えられるのと同様である。つまり「日本人とユダヤ人」の編集者兼筆者は山本七平氏に違いないと思われるが、そもそもの考案者やいくつもの文章のアイデアを提供したのは実在するユダヤ人だったのではないかと考えられる。
話を元に戻すと、山本七平氏の日本人論の最大の核はユダヤ人ベンダサンの眼を通した日本人論であり、それは必ずしも嘘でも偽装でもなく、実際に山本氏が某ユダヤ人との会話の中で教えられたものがあるはずであり、その会話を通じて山本氏自身の思想がより深められたと考えるのはごく自然である。その話がどこまで真実であるかどうかはともかくも、山本七平氏がクリスチャンでありながらユダヤ人的な視点を持ちえた非常に稀なる人格であるということも事実であり、そのような山本氏の特異な人格から以後の「作家=山本七平」本名の筆による類まれなる日本人論が生まれてきたのだろうと想像する。実際、山本氏の書をいくつか読むと、ユダヤ人以上にユダヤ通といってもよいほど聖書のみならずあらゆるユダヤ文化とユダヤの歴史に通じた人であったということは真に驚嘆に値する。おそらく過去の日本人の中で山本七平氏ほどユダヤ人をよく知っていた人物もいないのではないだろうか?私がもっとも驚かされたのは、イスラエルの死海南端にあるマサダの砦に彼が十回ほど訪れたというのである。この回数が意味することは半端ではない。
マサダの砦というのは一世紀の第一次ユダヤ戦争でユダヤ人たちが最後に立てこもってローマ軍に抵抗したユダヤ最強の砦である。ユダヤ戦争は西暦66年にエルサレムで反乱が始まり、それを鎮圧するためにローマからウェスバシアヌス将軍とその息子ティトス率いる大軍が押し寄せた。ユダヤ人は勇敢に戦ったが、やがてエルサレムの城壁は70年に陥落して神殿は破壊された。しかし、1000人程のユダヤ人がその後もマサダの砦に立てこもってその後3年間も抵抗を続けたのであるが、最後は集団自決という悲惨な結末で終わっている。その戦争の経緯を詳細に記したのが、当時ユダヤ人の司令官として戦いながらウェスバシアヌスの軍に捕まり、後にローマ市民となって「ユダヤ戦記」や「ユダヤ古代誌」を著したフラウィウス・ヨセフスであった。
「ユダヤ戦記」と「ユダヤ古代誌」は現在、筑摩書房の文庫版で出されているが、実はこの二書を初めて日本語に訳して出版したのが山本書店である。この二書は世界中のキリスト教徒の間で聖書の副読本として歴史を超えて読まれ続けた古典中の古典であるが、日本では山本書店から出版されるまでほとんど知られていなかったのである。これだけをとっても山本氏が遺した仕事の偉大さが分かる。
それにしても荒涼とした死海南端のマサドの砦へ10回も訪れた日本人が山本七平氏以外にいるであろうか?大体、中東戦争が延々と続いているイスラエルを10回以上も訪れるということ自体が、危険な旅でもあり、さらにその中心地から遠く離れたマサダの砦となると、いかに観光好きな日本人でも敬遠されるであろう。実際、山本氏はマサダの砦へ行って日本人をみかけたことはないと証言している。2000年前のイエスの十字架の足跡を追ってみたいという日本人のキリスト教徒は多くいると思が、彼らの中でイエスの運動とはほとんど何の関係もないマサダの砦をみてみたいと思う者はまずいないだろう。ただし、ユダヤ人にとってはマサダの砦は彼らの民族の誇りの土地でもあり、それはおそらく日本人にとっての硫黄島に相当するのかもしれない(ただし、硫黄島を訪れたいという日本人はまずいないだろうが)。
いずれにしても故山本七平氏ははなはだ不思議な日本人であると思う。彼の中にはユダヤ人の血が本当に流れているのではないかと思うぐらいユダヤ的な思想を身につけた不思議な日本人である。だからこそ故山本七平氏の日本人論は特異であり、普通の日本人には誰にも気づかないさまざまな問題を露見させてくれるのであろう。次回からそのような故山本七平氏の日本人論(特に日本教徒論)をもう少し考察してみたいと思う。ただし、どこまで続くかは分かりませんので、あらかじめお断りしておきます。 
空気とは何か 

 

そもそも故山本七平が「空気の研究」で明らかにしようとしたこととは何であったのだろうか?山本七平は1921年(大正10年)生まれで、自らの青春を戦争に奪われた世代の最たる世代であった。彼は太平洋戦中の1942年(21歳)に徴兵され、ルソン島の戦闘に加わり、戦後は捕虜としてマニラの収容所に収容された。帰国後、1956年(昭和31年)に東京世田谷に出版社・山本書店を創業する。当初の山本書店の出版物は主に聖書学を中心とする訳書であった。山本氏の名が世に知られようになるのは、なんといっても1970年に同書店から出版されたイザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」である。一般に伝えられるように<イザヤ・ベンダサン=山本七平>ということは、必ずしも明らかだとは思はないが(たとえばユダヤ人作家との共作という説も否定できない)、少なくともベンダサンと山本七平の思想的地平というものには共通するものがあることは事実だろう。
ベンダサンと同様、山本七平の最大の関心事は日本人とは何か?という問題であった。山本七平がその問いをもつようになったのは、まさに自らの壮絶な半生の中で煩悶せざるをえない問題意識としてそれが常に彼の頭の中を駆け巡ったからであろう。なぜ日本人は勝てる見込みもない無謀な対米戦争を始めたのか?なぜ日本人という人種は昭和20年8月15日を契機にして、ある日突然に天皇の現人神信仰を脱ぎ捨て、その前日までは鬼畜米英の敵であったはずの駐留米軍を民主主義の神様と信じるほど素直に受け入れることができたのか?はたまた、それが過ぎると、今度はさしたる根拠もなく学生や知識人が「安保反対」と騒ぎ出し、社会主義国こそ理想の社会だという虚妄のイデオロギーを無邪気に信じ込んでいったのか?時代の空気はなぜいとも容易に180度異なる方向へとその向きが変わり、その空気の変遷とともに日本人はなぜ同じ過ちを繰り返すのか?そのような問いが山本七平の前に常に解決されなければならない命題として彼の頭の中を支配し続けたのであろう。
「空気の研究」はそのような問題意識の中から必然的に生れた傑作の一つといってもよいと思う。山本七平が「空気」という概念をどのように考えているのかここで簡単に整理しておこう。「空気」というものの存在を示す分かりやすい例として、戦艦大和出撃の際の「空気」の威力がいかに強かったかということを紹介した個所がある。
以前から私は、この「空気」という言葉が少々気になっていた。そして気になりだすと、この言葉は一つの“絶対の権威”の如くに到る所に顔を出して、驚くべき力を振るっていることに気づく。「ああいう決定になったことに非難はあるが、当時の会場の空気では…」「あの頃の社会全般の空気も知らずに批判されても…」「その場の空気も知らずに偉そうなことういうな…」等々々、到る所で人びとは何かの最終的決定者は「人でなく空気」である、と言っている。驚いたことに、「文芸春秋」昭和50年8月号の「戦艦大和」(吉田満監修構成)でも「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」という発言がでてくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無効とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに到る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが、一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠はまったくなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。したがってここでも、あらゆる議論は最後には空気で決められる。最終的決定を下し、「そうせざるを得なくしている力をもっているのは一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。とうのは、おそらくわれわれのすべてを、あらゆる議論や主張を超えて拘束している「何か」があるという証拠であって、その「何か」は大問題から日常の問題、あるいは不意に当面した突発事故への対処に至るまで、われわれを支配しているなんらかの基準のはずだからである。
確かに日本人はしばしば「あの空気の中では仕方がなかった…」等ということを口走ることがある。その「空気」という言葉には何か共通の意味が込められているはずだが、通常、われわれはそれを確たる概念としては使っていない。むしろ、その概念は他の言葉では表現のしようのない漠たる概念として無意識に使われているのではないだろうか。たとえば、あのとき本当は自分の考えは賛成ではなかったのだが、その場の「空気」で賛成せざるをえなかったというような場合に、ある種の弁解としてその言葉がしばしば使われるが、その場の「空気」というのは、何か理屈を超えたものを指しているにちがいない。それは何であろうか?
現実の空気は目にはみえないが確実に存在するものである。人間は誰でも空気を吸わなければ生きられない。しかもわれわれは空気を選ぶことはできないので、一方的に空気によって規定されている。空気の存在はわれわれの肉体を具体的に支配する実体であり、その支配力に対してわれわれはどうすることもできない。水がなければ魚は生きられないように、人間も空気がなければ生きられないのである。そのような現実の空気の存在とはまた別にわれわれ人間の精神的な部分を支配する力として「空気」というものが存在するのだと仮定すれば、われわれを精神的に規定する「空気」というものの実体が少しはみえてくるような気がする。
ひと頃、「KY」という言葉がやたらとはやっていたが、この言葉は英語の頭文字をとった略語ではなく、元々は一部の女子高生の間でのみ通用していた日本語の頭文字をとった隠語だそうで、ご存知の通り、その意味は「空気(K)が読(Y)めない人」というような意味である。してみると、女子高生たちは(誰に教わったわけでもないのだろうが)「空気」という概念を彼女たちの短い人生の中で学んでいたのだろう。
実際、「空気を読む」ということは、女子高生だけではなく、われわれの社会で生活してゆくすべての人にとって必須の処世術でもあると思われる。しかし、その言葉が幅をきかすと、文字通り「空気が読めない人」は除け者にされ、「空気」に対して誰も抵抗できないという「空気信仰」のようなものができあがってしまう。すなわち「空気」が一種の神のような存在になって人々を呪縛するようになる。これは「空気の物神化」といってもよいだろう。
「空気」というものは目に見えないが無言の圧力を及ぼすものである。だからそれはまさしく目に見えない神のように振舞うことができるのである。普通の人は「空気」の存在を目で見ることはできないが、しかしその圧力だけは感じるので、誰もがその存在を疑わず、それに抵抗することさえできない。したがって、「空気」に抵抗するということは、通常、無謀なことであると思われる。
空気というものは目に見えない。だから、それはときにわれわれの社会の神のごときものとして君臨する。しかし空気が空気であるゆえんは、その実体が不確かなものであり、いつかは雲散霧消し消えてなくなるものであり、したがってその影響圏は一時的あるいは局所的なものにすぎない。たとえば上記の故山本七平の文章で「ああいう決定になったことに非難はあるが、当時の会場の空気では…」と書いているのは、局所的空間の中でのみ影響力をもつ「空気」であり、一方、「あの頃の社会全般の空気も知らずに批判されても…」というのは社会の中で一時的に影響力をもつ「空気」のことである。戦艦大和の出撃に関して言うと、その当時の社会の全般的空気と同時に大本営という局所的空間の中の空気が、あのような不条理な決定を促したのだと考えられる。その決定に参与した当時の政府と軍の関係者は、おそらく誰にとってもそれ(大和出撃)が有効な作であるとは考えていなかったフシがあるが、しかし、その場にいた者は誰もその空気に逆らえなかったのである。
おそらくそれは大東亜戦争開戦時に至る経緯においても同様であったと思われる。もちろん大東亜戦争開戦の決定に天皇が関わっていたということは事実であるが、おそらくその最終決定を成した御前会議において天皇の影響力はほとんどなかったはずである。ということは、つまり「神」である天皇でさえも「空気」には逆らえなかったのではないかと考えざるをえない。「空気」というものはかくばかり絶大な影響を及ぼすものであり、それはまさしく「神」のごとく振る舞うのであるが、しかし、その「空気」がいったん雲散霧消すると、人々はあの時の空気はいったい何だったのだろうかと、まるで憑きものが落ちた人のように正気に戻るのである。昭和20年8月15日を境にして起こった「空気」の変化はまさにその典型例である。 
日本人は物神崇拝の民か

 

日本人を支配する「空気」の本質とはいったい何だろうか?山本七平によると、それは日本人独特の物神崇拝にあるとされている。山本七平(又はイザヤ・ベンダサン)が「日本人とユダヤ人」あるいはその続編ともいうべき「日本教徒について」(1972年 文芸春秋社)という類稀なる書で展開したのも、日本人は本質的に物神崇拝の民だということであった。物神崇拝とはなにかというと、それは八百万の神に象徴されているように、あらゆる物に神が宿るという感覚である。たとえば日本人は日常の食卓で使う茶碗、皿、盆、箸…、等を自分の体の一部のように後生大事に扱うことを当然のこととしている。なぜならそれらの「物」には神が宿ると考えるからである。これは農耕民族として生きてきた日本人の心と体に染みついたものといってもよいのだろう。
それは遊牧の民が羊の肉や皮をあますことなく使うのと同じことなのかもしれないが、もともと遊牧民であった西洋人はユダヤの一神教の伝統を自らの宗教として受け入れたために、彼らは物神崇拝を極力排する文化をもつようになった。なぜならバイブルの神がなによりも戒めたのは偶像崇拝、すなわち「汝、われ(ヤーヴェ神)以外のなにものをも神とするなかれ」という教えであった。この戒めはモーセの十戒の中で最初に述べられる戒めであり、それは「汝、殺すなかれ」とか「汝、盗むなかれ」「汝、偽証するなかれ」という戒めよりも、真っ先に守らなければならない、より重要な戒めだとされている。したがって西洋の一神教では「物に神が宿る」という考え方はほとんど存在しない。
しかも西洋では、近代化のきっかけとなったデカルトの二元論哲学以来、神や霊の世界と物の世界は厳しく峻別され、一切の物質に神や霊が宿ることはないと考えられた。西洋人にとっては「物」は神から与えられた単なる道具であり、それで作られた物を神のように崇拝するのは偶像崇拝と同じく罪でもあるとされた。ただし、偶像崇拝の戒めは本家本元のユダヤ教に比べ、キリスト教圏ではかなり薄められたものとなっている。イエスの像やマリアの像を造って崇めるという文化が、特にカトリック教徒の間では広く行き渡っているのをみると、仏教徒の仏像崇拝とあまり変わらないようにみえるが、しかし少なくともキリスト教では本尊のイエスとマリア以外の像は造られないことに比べ、仏教では釈迦の仏像だけではなく、おびただしい種類の仏像が造られるという偶像崇拝の伝統がある。
注意すべきことは、同じく一神教徒のイスラム教徒の場合は偶像崇拝を禁じる戒めにおいて、キリスト教徒よりもはるかに徹底した宗教だということである。そもそもイスラム教というのは、ユダヤ教から派生した教えであり、キリスト教よりもはるかにユダヤ教に近い教えである。彼らはユダヤ教徒と同じようにバイブル(旧約聖書)を聖典として仰ぎ、モーセやアブラハムを預言者として信仰している。しかも彼らはイエスの教えさえも素直に受け入れ、イエスをモーセやアブラハムに並ぶ偉大な預言者だとしている(その点ユダヤ教ではイエスの教えを認めていない)。かつてアフガニスタンのタリバン勢力がバーミアンの仏像を破壊した事件は世界中に衝撃的に報じられた。その行為は偶像崇拝に対してまったく罪意識のない日本人にとっては野蛮としか映らなかったにちがいないが、同じ一神教のユダヤ教徒やキリスト教徒の間では、その受けとめ方は少し違っていたはずだ。
おおざっぱにみると、今現在、世界の3分の1はキリスト教圏であり、他の3分の1はイスラム圏である。それに対して、かつては無神論の共産圏が世界の3分の1を占めていたが、90年代以降、旧共産圏でもキリスト教やイスラム教の勢力が強くなってきた。たとえば世界人口の約5分の1を占める中国でも、かつては共産党政府により宗教が一掃されたが、最近はある程度の自由化によって取り締まりが弱くなっている。その結果雨後のたけの子のようにキリスト教徒が異常なほど増殖し、イスラム教徒も少数民族の各自治区で息を吹きかえしている。現在、中国のキリスト教徒は1億人を優に超える信者(大半は地下教会の隠れ信者であるが)がいるとされ、意外なことに世界でも1,2を争うほどの信者数を抱えているといわれているのである。
他のアジア諸国をみると、たとえば韓国は伝統的には儒教国家であるが、キリスト教徒が圧倒的に存在感をもっていて国民の約3割がキリスト教徒であるといわれる。また早くから欧米の植民地となったフィリピンは人口の8割以上がカトリックであり、人口2億3000万以上のインドネシアでは大部分がイスラム教徒である。他にパキスタンやアフガニスタン、マレーシアがイスラム教国であるのはいうまでもないが、人口10億を超えるインドでは多神教のヒンズー教徒が圧倒的に多いが、イスラム教徒の数も人口の10%を超え1億以上の信者がいるといわれる。
このようにみてみると日本という国の特異性が分かる。世界の国々は一神教が圧倒的に多いのである。日本は一応仏教徒に属しているといわれるが、しかし他のインドシナ半島の仏教国(タイ、ミャンマー、カンボジア、etc.)に比べると、同じ仏教でもまったく質が異なっている。日本の仏教は大乗仏教であり、しかも禅宗とか浄土宗のように独自の教えを発展させた仏教国は他に類がない。また日本は八百万の神を祀る神道の国でもあり、その中心である天皇を現人神として信奉してきた。この結果、日本は古来神仏習合があたりまえになっていて、明治以降、廃仏毀釈によって両者の違いが鮮明にされたものの、今でも日本人は正月には神社にお参りをし、お盆には仏壇にお供えをして仏式の先祖供養をすることに何の違和感もない。それどころかクリスマスには一家揃ってイブのケーキを食し、結婚式には牧師の前で夫婦の誓いをして、牧師にいわれれば親族一同慣れないアーメンを唱和しさえする。
世界の他の国々からみると、このような日本人の宗教的伝統や習慣には奇妙にみえることが多々あるにちがいない。日本人はいったい何教を信じているのだろうか?と訝られても仕方がないだろう。 
日本教徒と天秤の世界 

 

イザヤ・ベンダサン(実際の著者は故山本七平であるかもしれないが、本書の著者名にしたがって以下「ベンダサン」とする)によると、実は日本人というのは「日本教」という、およそ世界に類のない奇妙な宗教に属しているのだとされている。これは普通の日本人にはまったく意識されていないがベンダサンというユダヤ人の目から見るとそうとしか考えられないというのである。「日本人とユダヤ人」の結論部で語られているのは、そのような驚くべき洞察である。故山本七平氏(及びイザヤ・ベンダサン)の二百冊を優に超える書物の中で、もっともユニークかつ異彩をはなっているのは、この「日本教」という概念の発見であると私は思う。その中から一部を引用しておこう。
日本人とは日本教徒なのである。ユダヤ教が存在しているごとく、日本教という宗教も厳に存在しているのである。(中略) 日本人はそういう不幸にあっていないから、日本教などという宗教が存在しているという自覚は全くもっていないし、日本教などという宗教が存在するとも思っていない。その必要がないからである。しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界でもっとも強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。日本教徒を他宗教に改宗させることが可能だなどと考える人がいたら、まさに正気の沙汰ではない。この正気とは思われないことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮き彫りにしてくれるのが「日本人キリスト者」すなわち日本教キリスト派であるから、まずこの両者に焦点をあててみよう。
宣教師はまず日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養しなければできない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐに染まるはずである。だから私は宣教師にいう。日本に宣教しようと思うなら、日本人の「ヨハネ福音書」と「ロマ書」はお読みなさい。そしてそれが済んだら日本人の旧約聖書の全部は不可能にしても、せめて「創世記」と「第二イザヤ」ぐらいは読まねばいけません、と。彼らは驚いていう。そんな本がありますか、と。(中略) そこで私はいう。いやなんのご心配もいりませんよ。何十年か一心に日本で伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない、人間味あふれる立派な人だ云々…」。何十年かたったら思い出してください。この「人間味あふれる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト教に改宗したので、あなたの周囲の人がキリスト教になったのではないという事実を。
ベンダサンは、この「日本人とユダヤ人」で初めて展開した「日本教徒」という概念をさらに強固に発展させるべく、後に続編として「日本教について」(文芸春秋)を著わしている(他にも同様のテーマの書「日本教徒 その開祖と現代知識人」(角川書店)もある)。これをみても、ベンダサンが「日本教」という概念に特別な思い入れがあったことが分かる。特に「日本教について」という書は、「日本教」とは「天秤の世界」であるという巧みな比喩を駆使することによって、その本質に迫ったものであり、この書こそベンダサン一世一代の最高傑作ではないかとかねがね思っている。面白いのは、この「日本教」すなわち「天秤の世界」がどのようなものであるかということを解明することで、われわれの社会の「空気」についても解明のヒントが与えられるのである。しかし、それについてはしばらく後回しにし、以下「天秤の世界」とはどのようなものなのか、氏の文章を引用しながら私見を交えて書いてみよう。ただし、これを何の予備知識もなく文章をそのまま引用しても、とっつきにくく、やや難解でもあると思うので、あらかじめどのような論術が展開されているのか、要点を箇条書きにして整理しておきたい。
1. 日本人は例外なく日本教徒である。
2. 日本教徒の教義は天秤の原理によって説明できる。
3. 日本教徒の天秤の支点の中心にあるのは「人間」である・
4. 天秤の世界には分銅の役目を果たす「空体語」をのせる皿がある。
5. 天秤の一方の皿には「実体語」が置かれる。
6. 日本教徒は支点にある「人間」を中心に両方の秤のバランスをとろうとする。
7. 日本教徒には「純粋人間」という概念がある。
8. 「純粋人間」とは「私心のなさ」という日本人の教義を体現した人物である。
9. 「天皇」とは「私心のない」人間であり、最高の「純粋人間」である。
10. 天秤の世界の支点には「純粋人間」としての「天皇」が位置している。
とりあえず以上のような簡単な予備知識をもって、これから「日本教徒について」からいくつかの文章を引用しつつ若干の私見を交えながら書いてみたい。ただし引用は断片的になるので、著者(山本氏又はベンダサン氏)の真意を十分に汲み取ることができないかと思うので、その点はあらかじめご了解をお願いしたい。
従って私は、日本という世界は、一種の天秤の世界(もしくは竿秤の世界)であると考えています。そしてこれの支点となっているのが「人間」という概念で、天秤(もしくは竿秤)の皿の方にあるのが「実体語で組み立てられた」世界で、分銅になっている方が「空体語で組み立てられた」もうひとつの世界です。
天秤が平衡を保つには、二つの要素が必要です。一つは天秤皿の上のものと分銅との関係であり、もう一つは支点の位置です。支点が天秤皿すなわち「実体語」のすぐ近くに寄っていれば、ほんのわずかな「空体語=分銅」で平衡を保ちますが、もしこれが逆になり、支点が「空体語=分銅」へぐっと寄っていれば、ほんのわずかな「実体語」と平衡を保つために、驚くほど膨大な量の「空体語=分銅」が必要になります。
この支点の位置は実は絶えず左右に移動しているのです。日本人全体を見た場合、時代によってこの位置が変わりますし、個々の日本人をみた場合、一人一人で、各々この
位置がはじめから違います。また一個人の生涯をみた場合、年齢により境遇により、この位置が変化していきます。そして「人間は支点であって言葉では表現できない」というのが日本教の教義の第一条なら、「人間の価値はこの支点の位置によって決まる」というのが、日本教の教義の第二条ともいうべきものです。
この第二条は、日本教の非常に重要な教義であって、これに疑いをさしはさむ日本人は皆無だと断言してよいと思います。日本人は人間を「純粋な人間」と「純粋でない人間」に分けます。もっともこのように大きく二分していると考えては誤りで、この「純粋」という考え方は、やや金属の精製度(もしくは純度)に似たものとお考えください。ある人は純金的(二十四金的)人間であり、純度は高いが実用にはならない、別の人は少しく純度が落ちて十八金的人間で、結婚指輪にはなるが、普通の万年筆のペンにはならない。もう一人は十四金的人間で実用にはなるが純度は落ちる、といった類別と似た考え方です。
この純度表が何によって決まるかといえば、前述の支点の位置で決まるのです。すなわち支点が「空体語の世界=分銅」に近づけば近づくだけその人は「純粋な人」です。従って「純粋な人」とは非常にわずかの「実体語の世界」と平衡を保つために、実に大きな「空体語の世界=分銅」が必要です。一方、「純粋でない人」は、支点の位置が実体語の世界に非常に近接しているので、ほんのわずかな「空体語の世界=分銅」で、膨大な天秤皿の上のもの、すなわち「実体語の世界」と平衡がとれるわけです。
(中略)
以上のように書きますと、私がなにか面白い比喩を語っているようにお感じでしょう。しかしこれは単なる比喩ではないのです。この「支点の位置」は倫理以前の人間判別の基本的基準として日本教徒の日々の生活を律しているのみならず、戦前、戦後を通じて実に、法廷における判決をすら左右しています。また日本全体をひとつの天秤と考えるなら、その政策をすら決定しているのです。このことを「個人の場合」と「日本人全体の場合」に分けて、実例をあげて、いずれ説明申しあげましょう。
以上の引用箇所は、「日本教」を解明するための基本的枠組みを述べたものである。
たとえば現実の出来事を例に挙げると、次のようにそれは応用される。
今から1世紀ほど前、日本が鎖国をやめて開港せざるを得ない状態になったと、ほとんどすべての日本人(少なくとも知識人)が内心で感じた時、激烈な攘夷論が起こりました。当時の日本で海外のことを最もよく知っていたはずの薩摩や長州の人々、特に島津斉彬のような人(彼は当時の日本でもっとも進歩した考え方の人と思います)や、彼から薫陶を受けた人々が本心から攘夷論者だったとは思えません。すなわち「開港は必要である、だが攘夷と叫びうる状況も必要である」という平衡の論理があったはずです。従って「実体語=開港」は沈黙し、さらに開港が必要になればなるほど攘夷の声は高くなってゆき、ついに天秤の分銅は最大限、竿秤なら竿の端まで分銅があがってゆきます。そして、その結果はどうなるか。天秤なら平衡が破れて一回転し、天秤皿の上の荷も分銅もおちてしまう―御一新で皿は空、分銅なしの平衡状態となります。従って攘夷論者が政権をとったのに、開港したということは別に不思議ではありません。
実によく似たことが第二次大戦末期にも起こっています。すなわち敗戦が避けられないとほとんどすべての人が内心で感じたとき、分銅は極限まであがって「一億玉砕」になり、ついで天秤は一回転して重荷も分銅を落ちてしまうと、天秤皿は空で、分銅なしの虚脱状態、すなわち精神的空白の平衡が再現し、当然、言葉は失われます。そしていずれの場合も支点は微動もしていません。
ベンダサンがいうように、この二つの時代(維新と終戦)がよく似ているのは、まったく正反対の価値観がある日(ある頃)を境にあっさりと価値の逆転が起こるという現象である。明治維新のときは攘夷と開国(開港)という二つの国論が日本を二分していた。この奇妙な(日本的)現象を理解するためにベンダサンは天秤の世界を考案しているのである。ベンダサンによると、「攘夷」という威勢のよい文句は「空体語(=分銅)」の皿にのっており、そして一方の「開国」という実利的な考え方は「実体語」としてもう一方の皿にあったと考える。ここで空体語というのは、本来の目指すべき大義名分のことである。ところがそれは、もともと実際には実現不可能な言葉であるがゆえに「空体語」となり、他方、「開国」は誰が考えても周囲の状況が押し迫っていると判断される実体語である。維新前夜は多くの反幕府の志士たちが「尊王攘夷!」といいながら、倒幕運動に突き進んだわけだが、その彼らも内心では「開国」も必要であるということは認めていた。結果、維新により天秤皿がひっくり返って「攘夷」という言葉はどこかへ吹き飛んでしまい、あとに残ったのは彼らがあれほど憎んでいた「開国」しかなかったわけである。だから、天秤がひっくりかえって攘夷派が開国派になったのは別に不思議でもなんでもないとベンダサン氏はいうのである。
ただし、ここでベンダサンが付け加えているように、皿はひっくりかえっても「支点は微動だにしていない」のである。その支点というのは他でもなく「尊王攘夷」の前の二語、すなわち「尊王」という言葉であった。
面白いことに、同じようことは昭和20年8月15日にも起こっている。
(以下はベンダサンではなく筆者の分析である。)
ベンダサンの教えに従えば、明治以来の日本は「富国強兵」とか「殖産興業」いう語が実体語として一方の皿にのり、もう一方の皿には「国際協調」とか「議会主義」という空体語があったと考えられる。注意すべきことは、戦前の日本は必ずしも反民主主義国ではなかったことである。正当な選挙で選ばれた議員によって構成された議会は機能していたし、また国際的にもそれなりの地位を占めていた。日米関係も昭和6年の満州事変までは良好であった。昭和9年には日米親善野球が行われ、ベーブルースやルーゲーリックが来日しているのをみても、その良好さは分かる。しかし、昭和12年の日中戦争後、その関係は最悪となった。ただし、それ以降でも「国際協調」と「議会主義」がまったく機能していなかったわけではない。政府は日米開戦の回避のために、多くの努力をしていた。しかし、米国から突き付けられたハルノートを最後に、遂に戦争突入やむなしとなって「国際協調」の代わりに「大東亜共栄圏」が「議会主義」の代わりに「大政翼賛会」が空体語として入れ替わり、ついに昭和16年12月8日、日米開戦に突入することになる。この戦争中の間も実体語(「富国強兵」と「殖産興業」)と空体語(「大東亜共栄圏」と「大政翼賛会」)はそれなりのバランスをとっていたのであるが、昭和20年8月15日の敗戦となって天秤皿の空体語(「大東亜共栄圏」と「大政翼賛会」)は遂にどこかへ吹き飛んでしまい、逆にしばらく忘れられていた「議会主義」と「国際協調(平和主義)」という語が戻ってきたのである。その日を境にあれほど憎んでいたアメリカは、民主主義の先生となり、新たな「日米同盟」の時代へと入れ替わる。ただし、天秤の支点は維新のときと同様このときも微動だにしていない。
同じようなことは、その後の出来事についてもいえる。戦後以来、日本は「民主主義」と「平和主義」という空体語を一方の皿に、そしてもう一方の皿には「日米同盟」と「経済復興」という実体語があった。だが、この二つの皿は60年安保を契機にバランスを失うようになる。「安保反対」デモが連日国会を取り囲み、「民主主義」と「平和主義」という空体語が戦後左翼の旗印となって、空体語(=分銅)の比重がますます重くなり、一方、実体語である「日米同盟」は危機に瀕するのである。このときは岸総理の粘り強い交渉によって安保改定が批准されると、天秤皿の平衡は正常に戻り、あれほど盛り上がった学生たちの安保反対運動は意気消沈して姿を消すようになる。当時の全学連のリーダー格であった東大の西部邁氏は、安保条約改定の中身については当時何も知らなかったということを告白しているが、要するに改定の批准が成立したというだけで、まるで将棋が終わったかのように心変わりするというのも、考えれば奇妙な日本的現象である。ただし、このとき一般市民を巻き込んだデモの盛り上がりのために岸総理は退陣に追い込まれている。
面白い事は、この後を受け継いだ池田内閣では「所得倍増計画」の掛け声によって実体語が再び復活したことである。一方、「民主主義」や「平和主義」の空体語はしばらく忘れられかけたようになるが、やがて70安保闘争に向かって再び安保反対の掛け声の下、盛り上がってくる。その結果は、ここに詳しく述べるまでもなく同じような経過をたどり、学生運動家たちは再び挫折を味わうことになり、その後はまたも計ったように田中角栄の「列島改造論」の呼びかけと共に、再び実体語が復活するのである。 
空体語としての原発再稼働反対 

 

ベンダサンが考案した「空体語」という概念は、「日本教」すなわち「天秤の世界」の中で分銅の役割をしていると考えられている。分銅がなければ皿の平衡は保たれないので、天秤の世界には必ず分銅が置かれている。なぜそれは分銅なのかというと、それはもともと実体語と平衡をとるための言葉でもあるからだと考えられる。実体語というのは現実に必要な考え方を指す言葉であるが、それだけでは天秤の世界の平衡が保たれないので、一方の皿には分銅としての空体語が置かれるというわけである。
ではなぜ平衡が保たれなければならないのかというと、いつの世も人間社会の中には理想と現実の葛藤が生じるからだと考えられる。実体語というのは現実的な諸条件の中で必要だと思われる考え方である。しかし、それだけでは理想とのバランスが取れないので、現実にはあまり必要がなくても、分銅の役割を果たすために、一方の皿に空体語がのせられる。ただし、だからといって空体語は本来不必要なものであるかというと、必ずしもそうとはいえない。それは神や仏の存在が(日本人にとっては)空体語にすぎないからといって、それが不必要だとはいえないことと同じである※。
※いずれ機会があれば詳しく説明したいと思うが、ベンダサンによると日本教徒にとって神や仏の存在は空体語に他ならないのであるが、だからといって日本人が神や仏の存在を決して否定しないのは、それらが天秤の世界の中で必要とされているからなのである。
たとえば自衛隊というのは現実的に必要な存在であるという意見があるが、一方では自衛隊は憲法違反だから廃止すべきだという意見がある。必要性という観点からみれば、自衛隊の合憲論は実体語であり、自衛隊の違憲論は空体語である。もし空体語が必要ないというのであれば、自衛隊の違憲論は無くなってもよいはずであるが、そういうことにならないのは、やはり日本人は両方の考え方を必要だと認めている証拠なのである。ただし、空体語は本来現実的必要性の要求からではなく、別の観点から必要だと考えられているのである。それは一国平和主義とか理想主義という、現実的な根拠ならぬ根拠に基づくものである。ここで空体語が分銅の役目をしているというのは、自衛隊違憲論が存在してはいても、決してそれが採用されるということはないことで分かる。つまり自衛隊違憲論というのは「日本教」すなわち「天秤の世界」のバランスをとるために必要だとされている分銅にすぎないわけである。
ここでちょっと、われわれの現実に戻って考えてみたい。現在、原発再稼働の是非について国論が二分されている。この状況はかつて60年安保条約改定の際に国論が二分されていた状況と非常によく似ている。このところ毎週金曜日に繰り広げられる国会周辺での原発再稼働反対デモは、60年の安保反対デモにしばしば比較される。それは今のところ60年安保ほどの盛り上がりは欠いているが、当時も今も国論を二分しているという点ではよく似ている。しかし、いずれにしても「安保反対とか「原発再稼働反対」というスローガンは、いつの時代にも叫ばれる「空体語=分銅」にすぎないのである。それらが「空体語」であるという理由は、仮にそれらのスローガンがもし現実になると、たちまち国家が成り立たなくなるのは自明だからであり、それゆえそれは分銅としての役割しか果たしていないことが分かるのである。
実際、60年安保当時、仮に日米安保体制を破棄していれば日本はどうなっていたであろうか?いうまでもなく、日本は早晩ソ連の餌食になっていたであろう。当時の日本を取り巻く国際情勢は米国とソ連による綱引きの、そのもっとも緊張した綱糸の一端に位置していた。その証拠に昭和20年8月10日のポツダム宣言受諾後にもかかわらず、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して当時の日本領だった樺太や千島を占領し、さらに北海道内へと侵略を窺っていた。彼らの狙いは明らかに終戦後の日本の分割統治であった。最悪の場合、日本は東西ドイツや朝鮮半島のように分割統治される可能性があった。その後、米ソ間で冷戦がはじまり、日本は駐留米軍の抑止力により、なんとかソ連の餌食となることを防止できたのである。そのようなパワーバランスの中で仮に日本政府が安保を破棄しても、到底、日本の独立は守れなかったであろう。ましてや、当時、自衛隊は十分に整備されておらず、しかもその自衛隊でさえも憲法違反だという世論の反対があった中で安保条約を破棄すると、日本は完全に丸裸同然となり、ソ連の物理的影響下に入ることは避けられなかったであろう。したがって当時の安保反対というスローガンは、幕末の「攘夷運動」と同様、ほとんど現実的な裏付けのない空念仏、すなわち「空体語」にすぎなかったのである。
同じように、現在の「原発再稼働反対」というスローガンも、仮にその言葉通りの社会になれば、日本はたちまち国家として成り立たなくなるであろう。確かに、橋下大阪市長がいうように大飯原発の再稼働がなくても、この夏の電力需要は乗り切れたのではないかという、それなりの数字的裏付けはあるかもしれない。しかし、仮に乗り切れたとしても、関西電力管内においてのその供給体制は相当な無理があり、余程の節電を実行したとしても停電リスクは常に存在していただろう。問題はしかしそれだけではなく、原発ゼロのままで日本経済が果たして立ち行くのかという深刻な経済問題が厳として存在していることである。ちなみに、つい先日(8月20日)の読売新聞社説に次のようにでている。
政府は2030年の原発比率について「0%」「15%」「20〜25%」という三つの選択肢を示している。このうち「0%」が最も非現実的なのは明らかだ。政府の試算によると、国内総生産が約50兆円減少するなど、日本経済への打撃は甚大だ。民間の見通しも厳しい。経団連は、失業者が200万人も増えると警告している。電力多消費産業の鉄鋼業界は電気料金が最大で2倍上がることから、「廃業勧告に等しい」と訴えた。
もちろん、こんな試算は脅しにすぎないという見方はできる。しかし、その種の反論は幕末の攘夷派が「勇敢に応じれば日本の独立は維持できるはずだ」とか、日米開戦前に軍部が「大和魂を発揮すれば個人主義者の多い米国には負けないはずだ」いっていたのと、どこか似てはいないだろうか?いずれ場合も、問題は周囲の状況を客観的かつ詳細に分析し、それに向き合うことをせず情緒的な反応だけで済ましているということである。
たとえば今回の原発再稼働反対デモで音楽家の坂本龍一氏が「たかが電気」などという発言をしたことが物議をかもしている。もちろん坂本氏の発言は政治家の発言ではないので、何を言おうと責任問題にはならない。おそらく坂本氏は芸術家の感性で、そういったにすぎないのであり、その発言を一人の詩人の言葉として受けとめれば別段何の問題もない。おそらく坂本氏自身もそのような発言に政治的効果がないことははじめから分かっているであろう。彼が言いたかったのは、要するに経済よりも命の方が大事なんだという単純な主張にすぎないのだろう。しかし、そのような主張は情緒的なものであり、少なくとも論理的な主張でないことは自明である。なぜなら、論理的に考えれば電力危機は放射能汚染以上に人間を死に追いやるリスクの高いものであることは明白だからである。
坂本氏が言うように(確かに)ほんの150年も前の人々は電気の存在を知らずに生きていたので「人間にとって電気がなくてはならないものではなかった」ことは事実である。しかし、それはもはや過去形でしか言えない。なぜなら「現代の文明人にとって電気はなくてはならないもの」になっているからである。それは現代人にとっては体内を流れる血液であり神経でもある。現に、それがなければたちどころに死を招来する危険が到る所に存在している。たとえば熱中症などという病気は、かつて冷房装置のない時代ではほとんど存在していなかったが、現代ではそれに頼らなければ、たちまち熱中症になって死亡してしまう弱い体質の人が増えている。これは文明病といってしまえばその通りだが、だからといって多くの現代人は昔のような強い体質に戻ることは不可能である。
問題はそれだけではない。われわれの社会の経済は電力に全面的に依存した経済であることを知る必要がある。そもそも生きるということは活動することを意味しており、その活動のためには、どんな生物にもエネルギーが必要である。もちろんあらゆる生物にとってエネルギーの元となっているのは太陽エネルギーである。いわゆる食物連鎖という自然の循環システムは元の太陽エネルギーを再利用しながら、より活動的に生命を多様化(または進化)させようとした自然の仕組みである。ただし、人間だけは例外的に自然エネルギー(再生可能エネルギー)だけでは生きられなくなったのである。近代文明は石炭という化石燃料を活用することから始まった。それ以来、文明社会がもたらした経済は飛躍的に増大し、それとともに新たな帝国主義時代が到来した。江戸時代の日本人が心底恐れたのは黒船(蒸気船)を動かす途方もない石炭のエネルギーであった。そのエネルギーがまたたく間に全世界の人々の生活を変える力となったのである。その後の文明は石炭から石油へ、そして石油から原子力へと主流のエネルギーがシフトしていった。現在のわれわれの生活水準を維持するために原子力がなくてはならないものになっているという状況は一つの現実である。
われわれが心すべきことは現在の世界で原発が全エネルギーに占める比率は、福島事故以来必ずしも低下してはいないという事実である。確かに福島の事故以後、ドイツとイタリアだけは脱原発に移行した。しかし、それ以外の国々では決して脱原発の流れが起こっているわけではない。むしろ日本を取り巻く周辺国、とりわけ中国や韓国では原発依存がどんどん進行している。現在、中国では40基の原発が建設中であり、さらに将来40基以上の原発が追加で建設計画があるといわれている。ヨーロッパ経済の場合は経済共同体としての性格が強いために、ドイツやイタリアが脱原発に移行しても原発大国のフランスがその不足分を補える体制になっているので、それらの国民は困窮することはないが、極東の場合はまったく性格を異にしている。日本、韓国、中国はなんら協力体制を築こうとはしていないし、逆にこの三つの国は経済的なライバル関係がますます熾烈になっている。そのような中で日本だけが脱原発に移行するということは、自ら競争から脱落すると宣言するに等しい。もちろん、それでも別にいいじゃないかというのんきな人もいるのかもしれない。
しかし問題は経済問題だけではない。日本の競争力が低下すると、何が起こるだろうか?まず考えられるのは企業の倒産や失業者の増大であるが、それはやがてより深刻な政治問題へと発展してくる。日本経済が弱体化すると、おそらく日本は米国にとって現在のように重要なパートナーではなくなるだろう。そうなると逆に中国の力が相対的にますます強くなってくるのが目に見えている。日本経済の中国依存度がますます強くなり、いずれ中国は日本を属国扱いにするようになるだろう。日本が経済的にも軍事的にも政治的にも弱者であることがはっきりすると、中国は日本に対してどのような態度をとるようになるだろうか?おそらくは先の戦争の屈辱に対して、この機会に仕返しをしてやろうという心理的気分の高揚を抑制することはできなくなるであろう。
現在のところ、脱原発という決断はそのような将来をも考えた上での決断でなければならないはずだ。しかし、原発再稼働反対の運動をしている者はいうに及ばす、政治家においてもそこまで考えている人々がどれだけいるのだろうかと思うと、ゾッとするような話である。
もちろん脱原発の選択肢は必ずしもそのようなシミュレーションに直結しているわけではない。瓢箪から駒という言葉もあるように、思いもよらぬ幸運が舞い込むこともありうるだろう。たとえば現在、石油に代わる代替エネルギーとして希望を抱かせているのはシェールガスである。その他にも地熱エネルギーや太陽エネルギーなどの比率が高まれば、今後の産業構造の変化に好影響を期待できるかもしれない。いずれにしても脱原発は今後日本が目指すべき方向性であることはいうまでもないことであるが、それがもたらす様々な悪影響をよく考えもせずに、拙速に脱原発を決定するとすれば、取り返しのつかない問題を将来にもたらす危険もあることを忘れてはなるまい。
明治以来、日本の総理大臣は天皇から総理大臣に任命されるときに、直接以下の三カ条を守るように求められたといわれる。第一は憲法に従うこと。第二は国際協調につとめること。第三には財界に急激な変動を与える政策をとってはならない」という三カ条である。戦前の政府はこの三カ条を全部無視して戦争へと突っ走っていったのである。
いまもし原発再稼働反対派が主張するような政策をとったとすると、財界に急激な変動を与えてはならないという明治以来の教えに背くことになり、その結果は第二の敗戦につながることも覚悟しなければならないのである。しかるに政府はたとえ脱原発を目指すとしても、常に財界との相談によってその進め方を決定してゆかなければならない。このような観点から考えると、急激な脱原発を目指す橋下氏らの維新勢力に迎合しようとする政治がいかに危険であるかということが分かろうというものである。彼らのスローガンは要するに「空体語=分銅」にすぎないことは、いずれ明らかになる日が来るであろう。
追記1 / 誤解がないように付け加えておきたいが、筆者は原発再稼働反対のスローガンは「空体語=分銅」だから意味がないなどとは思っていない。むしろそれは「空体語=分銅」であるがゆえにむしろ必要なものでもあり、その意味ではデモの参加者の人々には敬意を表したいと思う。
追記2 / 仮に橋下維新の勢力が政権ととったらどうなるであろうか?これは予言ではないが、おそらくは幕末に政権を握った攘夷派と同じように、もともと唱えていた原発再稼働反対というスローガンはどこかへ吹き飛んで、現在の民主党とほとんど変わりのない緩やかな脱原発方針へと転換することになるであろう。なぜなら彼らが政権を握ったときには、それが空体語にすぎなかったという事実に目覚めるはずだからである。このことは自衛隊違憲論のかつての社会党が政権(村山政権時)にありついたとき、あっさりと自衛隊合憲論を認めたことでも証明済みであり、同じく民主党が政権にありつくや消費増税をあっさりと認めたことでも証明済みである。 
忠臣蔵と5.15事件の奇妙な類似性 

 

話を少し転じるが、「日本教について」のもっとも重要な核心的概念である「純粋人間」という概念について述べてみたい。ベンダサンによると、日本人には「純粋人間」という概念があるらしいのである。たとえば、日本人がもっとも好きな時代劇というと、おそらく「忠臣蔵」であろう。これは江戸時代から歌舞伎の定番として演じられ、昭和、平成の世になっても多くの劇や映画が作られている。毎年末になるとテレビで必ずといってよいほど再放送され、まさに世代を超え時代を超えて語り継がれる物語であり、これほど時を越えて多くの日本人に愛されてきた物語もないであろう。(以下の忠臣蔵に関する文章はベンダサン式思考を応用した筆者の独創である)
冷静にみれば、この伝説上の美談は実際には陰惨で血なまぐさい惨劇であった。しかも、これは水戸黄門のような勧善懲悪の話では必ずしもない。確かに、劇で演じられる吉良上野介は悪役のようにみえるが、よく調べればそんなに彼は悪人とも思えない。今でも吉良上野介の地元では彼は名君であったという評価が高く、悪人イメージはあくまでも劇や映画で作られたイメージにすぎない。普通に考えれば、むしろ悪いのは吉良上野介に突然刃物で襲い掛かった浅野内匠頭の方であろう。いかなる理由があろうと刃物で襲いかかるというのは尋常ではない。しかも場所は江戸城内である。これは国会議事堂内で議員が刺傷事件を起こしたようなトンデモナイ事件である。さいわい事件は未遂に終わったが、責任を取らされたのは当然であろう。あのような事件を江戸城内で起こした浅野が切腹を命じられたのも、当時では妥当な処分であり、むしろ打ち首処分でなかったのは浅野内匠頭の名誉を重んじたがゆえの処分であった。これに対して赤穂藩士が主君の切腹処分が喧嘩両成敗に反する不当処分であると受け取ったのは、まったくの言いがかりである。暴力沙汰を起こしたのは浅野側であり、吉良側には暴力沙汰の罪はないので喧嘩両成敗は成立しないのがあたりまえである。
吉良側からすると、こんな不条理な話はないだろう。そもそも浅野に切腹を命じたのは喧嘩相手とされた吉良ではないのだから、その裁定に不満があるなら裁定者である幕府に対して向けるべきだろう。いずれにしても、この事件は仇打ちとしての要件が揃っているとは到底いえないので、むしろこれは集団謀議による暗殺事件という方がふさわしい事件である。仮に吉良が浅野に対して卑劣な嫌がらせを働いたことが事実であったとしても、そのために刃物で切り付けられたうえに、四十七人もの武装兵から夜陰を襲われ、まったくの無防備の中で武装集団に囲まれて殺されたというのは、いやしくも仇討の名には値しないあまりにも卑劣このうえないやり方である。しかも、こんなに卑劣な惨劇であったにもかかわらず、あろうことかこの事件の最大の被害者を悪役に仕立てて、一方の暗殺団の一味を英雄に祭り上げているというわけだから、これは驚くべき倒錯的な心理であるとしかいいようがない。
このようにみてみると忠臣蔵を愛する日本人の心理というものが実に奇妙にみえてくるのは仕方がない。しかしながら、この忠臣蔵と非常によく似た事件が約230年後にも起こっており、その事件に対する国民の反応もよく似た反応であることを知ると、そのような日本人の心理的反応には何らかの普遍性(あるいは法則性)があるらしいということが否定しえなくなる。その事件というのは1932年5月15日に起こった、世にいう5.15事件である。
私はベンダサンの「日本教について」を読むまでは、歴史の授業で習ったこの事件がこれほど異様な事件であるということを知らなかった。もちろんどのような事件だったのかということは、高校歴史の教科書にもほぼ正確に描かれていると思う。しかし、問題はこの事件に対する日本人一般の反応である。その前に5.15事件の背景から少し説明しておこう、
5.15事件で暗殺された被害者の犬飼首相は、当時、満州国の独立に対して中国の宋主権を認めようとしていた国際感覚のある政治家であった。しかし、軍部は犬飼が満州国独立の件で軍の統帥権に干渉しているとして反発を強めていた。事件が起こったのは昭和7年5月15日のことである。青年将校たちは小銃を携帯しながら官邸を訪れ面会を果たしたうえで、応接間において「問答無用」という一言によって総理を射殺した。ちなみに、当時映画俳優のチャップリンが来日していて事件当日に犬飼首相と面会の約束までしていたが、その前に相撲観戦をしていたために危うく難を逃れたそうである。
この事件の異様さは、そのやり方の非道さだけではない。歴史の教科書には決して記されることはないが、この事件のあと軍事裁判が行われて、彼ら犯人たちは無罪釈放となっているのである。なぜ彼らは許されたのか?現代では到底考えられないかもしれないが、この裁判を日本教という特異な宗教裁判であると考えれば説明がつくとベンダサンは述べているのである。以下、ベンダサンの説明を聞いてみよう。
彼らは天皇に対して狂信的なほど忠誠な軍人であったはずです。それならばこれは、いわゆる「王様クーデター」であったのでしょうか?犬飼老首相は、国会の信任を盾に天皇と対立したのでしょうか?それならば、彼らの行動は、是非は別にして、論理的に理解できます。ところがそうではないのです。当時の憲法では首相の任命権は天皇にありました。従って首相を罷免できるのは天皇だけです。
では犬飼老首相は天皇に罷免されながら、なおその職にとどまろうとしたのでしょうか?そうではないのです。戦後に自殺した近衛公の手記によりますと、天皇は首相を任命するとき三か条の指示を与えたということです。第一条が、憲法を重んじ憲法に従って政治をしなければならない。第二条が、諸外国と協調しなければならない。第三条が、財界に急激な変動を与える政策はとってはならない、という三か条であったそうです。日本には宣誓という伝統がありませんし、あるはずもないのですが、新首相が、この三か条を指示されて、その通りにいたしますと応答したことに、一種の宣誓を行ったと考えてもよいと思います。
では犬飼老首相は、天皇の三か条に反する政策をとった―いわば天皇への一種の宣誓違反を犯したため、天皇に忠誠な軍人たちの怒りを買ったのでしょうか?そうではないのです。むしろ逆であって、犬飼老首相の政策は、まことにこの三か条を忠実に守ったものでした。とすると、一体この軍人たちは何を考え、どのような思考(論理)の結論として、このように行動したのでしょうか。実をいうと、以上のような思考は戦前戦後を問わず、日本人はないのです。
(中略)
では一体、何の罪で彼らは起訴されたのでしょうか。反逆罪です。それなら理解できるとあなたはおっしゃるでしょう。今まで何やかやと不思議だったが、結局は反逆罪で起訴されたなら、日本人にもわれわれと同じような論理的思考がある証拠ではないかと、ところが実はこれが証拠にならないどころか、逆の証拠になってしまうのです。反逆を犯したという意識は、反逆罪で起訴された彼らに皆無であり、起訴した検察に皆無であり、裁判官に皆無であり。一般民衆にも皆無だった、といってよいと思います。
戦前の日本では天皇への反逆は極刑だったはずです。反逆罪で起訴されるということが、即座に死刑を意味したはずです。その上彼らは史上で最も卑劣な行動をとったのですから、日本文化が「恥の文化」なら、このような恥ずべき行いをした反逆者に情状酌量の余地などあるはずがありませんし、たとえ軍の上層部が彼らの刑を軽減しようとしても、世論がこれに承服するはずはない―と考えるのがわれわれの常識でしょう。ところがそうではありませんでした。彼らの受けた判決は、一見重いようでしたが、実質的な服役では、その罪状から考えれば無罪に等しいといってもよいでしょう。
また社会も、彼らを糾弾するようにみえながら、実をいうと、彼らが裁判をうけている最中に、何と35万通もの減刑嘆願書が裁判長の手元に送られてきているのです。これは日本裁判史上、最高の数の減刑嘆願書ではないかと思います。したがって戦後一部の日本人が常に主張するように、当時は軍部が横暴で、他の日本人は言いたいことも言えなかったのだ、とはいえません。
(中略)
したがって法の前に教義があります。裁判がどんな形式で行われようと、裁判官は「裁判官である前に人間(日本教徒)であれ」であり、検事も、弁護人も被告も一般大衆もすべてそうですから、まず日本教の教義の「人間規定」が優先するのは当然です。そこでまず教義の第二条「人間の価値は支点の位置によって決まる」が取り上げられ、被告の支点の位置はどこか、すなわちその「純粋度」をどれだけ認定すべきか、二十四金か、十八金か、十四金かが決定した後に、はじめて法が適用されるわけですから、「人間は法の前に平等で、その行為のみが裁かれる」などということはありうるはずがなく、従って法的には天皇への反逆だから、その「反逆」という行為のみが裁かれるべきだとなどという主張は、まったく教義に従わないための屁理屈になってしまうのです。
それ故、私は日本は徹底した差別の国だと思っております。ただその差別は、必ずしも皮膚の色とか人種・民族によるのではなく、日本教の教義に基づく「人間の純度」という不思議な尺度に基づく差別なのです。(中略)それゆえこの「純粋人」と認定された被告に対しては、その行為がどれだけ卑劣であろうと、三十五万通もの減刑嘆願書が寄せられるわけです。この点はもちろん戦後も変わりません。変わったのはただ「純度表」の表現だけです。
5.15事件の異様さは先の忠臣蔵人気の異様さにも通じるだろう。客観的にみると5.15事件は卑劣この上ない凄惨な暗殺事件であった。これは赤穂浪士の討ち入りによく似ている。どちらも相手が無防備であるときに忍び込んで不意打ちを食らわせ、集団で無抵抗の老人を殺傷しているのである。しかも、両事件とも国民の大喝采をあびているというのは奇妙なほどの符号の一致である。伝説によると、赤穂浪士は吉良邸で惨劇を働いた後、堂々と江戸の町を勝利の雄叫びをあげながら闊歩した。すると江戸の町民から一斉に喝さいがあったというのである。一方、5.15事件を起こした青年将校たちも事件を起こしたあと逃げ隠れすることなく、実に堂々としていて自分たちが罪を犯したという意識は微塵もみえなかったそうである。すると彼らの裁判に対して国民から減刑嘆願書がなんと三十五万通も届いたというのである。いったい、この二つの事件で国民が喝采した理由とは何であろうか?そこにはもしかするとベンダサンのいう日本教の奥義に関わる秘密があるのであろうか? 
「純粋人間」とは何か 

 

ベンダサンによると、5.15事件を起こした青年将校が無罪釈放となったのは、彼らが日本教の「純粋人間」として評価されたからであるとされている。同じように忠臣蔵を日本人がこよなく愛してきたのも、赤穂浪士に日本教の「純粋人間」というイメージが投影されたからであると考えられる。しかし「純粋人間」とはそもそも何なのか?それは果たして少しでも意味のある概念であるといえるのだろうか?この疑問について、前にも紹介したベンダサンの文章に戻って考えてみたい。
日本人は人間を「純粋な人間」と「純粋でない人間」に分けます。もっともこのように大きく二分していると考えては誤りで、この「純粋」という考え方は、やや金属の精製度(もしくは純度)に似たものとお考えください。ある人は純金的(二十四金的)人間であり、純度は高いが実用にはならない、別の人は少しく純度が落ちて十八金えんびn的人間で、結婚指輪にはなるが、普通の万年筆のペンにはならない。もう一人は十四金的人間で実用にはなるが純度は落ちる、といった類別と似た考え方です。
この純度表が何によって決まるかといえば、前述の支点の位置で決まるのです。すなわち支点が「空体語の世界=分銅」に近づけば近づくだけその人は「純粋な人」です。従って「純粋な人」とは非常にわずかの「実体語の世界」と平衡を保つために、実に大きな「空体語の世界=分銅」が必要です。一方、「純粋でない人」は、支点の位置が実体語の世界に非常に近接しているので、ほんのわずかな「空体語の世界=分銅」で、膨大な天秤皿の上のもの、すなわち「実体語の世界」と平衡がとれるわけです。
ここでベンダサンが純粋さの純度が「支点の位置で決まる」と書いていることの意味を少し考えてみたい。ベンダサンがいう「純粋人間」というのは、その支点が限りなく「空体語」の位置に近い人間ということになるわけであるが、これは一体どういう意味であろうか?ベンダサンによると、天秤の世界というのは日本教徒全体の世界であると同時に日本人一人ひとりの中にも存在する世界である。すなわち、われわれは誰でも自己自身の内に天秤の世界をもっているのである。
分かりやすくいえば、人間は誰でも理想と現実の葛藤の中で生きているということになる。この場合、「現実」は「実体語」として一方の皿にあり、もう一方の皿には「理想」が「空体語」として置かれていると考えられる。その支点の中心に立つのが自己自身であり、「純粋人間」というのは、支点の位置が限りなく「空体語」すなわち「理想」に近く寄っている人間だということになる。したがって、純粋人間の「純度」というのは、支点の位置で決まるというわけである。「なんだ、そんなことか…」と思われるかもしれないが、この説明があたっているかどうかは、ベンダサンに聞いてみないと分からない。これはあくまでも私の解釈であることを断わっておきたいが、ただし、この考え方によると、「純粋人間」=「理想主義者」という誤解が生じてしまい、これでは日本教の概念である「純粋人間」の意味がますますぼやけてしまう。当然ながら、日本教の概念である「純粋人間」と、もともと西欧的な概念である「理想主義者」が同じであることはなく、もしそうであるとすれば「純粋人間」の意味はない。
そもそも理想主義というのはギリシャのプラトンに由来する考え方である。プラトンによれば、現実界はすべてイデア界の反映であり、真に実在するのは現実界よりもむしろイデア界であると考えられた。この考え方は西欧人のキリスト教に取り込まれ、キリスト教の一神教に基づく理想主義として発展している。明治以来、日本人はこの西洋的な理想主義を学んできたと思うが、しかし、その根本にあるキリスト教は決して理解できなかった。その原因は日本には元来日本教という、われわれ自身がその存在さえ気づかないほど生活の中に浸透している宗教が存在するからである。
日本教という宗教は厳として存在する。これは世界でもっとも強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。
ベンダサンによると、そもそも日本人は例外なく日本教徒であり、その限りにおいては外来の宗教はすべて廃されるか、または日本教化されるのである。したがって、日本には西欧的な意味のキリスト教徒がいるわけではなく、いるとすれば日本教徒のキリスト派しかいないのである。同様にして、日本教化された独特な仏教は多くあるが、本来の渡来仏教は存在しない。日本には共産主義者のような者も多くいるが、彼らもまた日本教徒の共産派なのである。たとえばスポーツにしても芸事にしても、日本ではすべて日本教の中でなんらかの意味を付与される。柔道、剣道、合気道、弓道、空手道、茶道、華道、書道、…等のように、それらの呼称の後に付けられる「道」という言葉は、すべて日本教を習得するための修行を意味しているのである。
それではいったい、日本教の教義とは何だろうか?残念なことに、ベンダサンは日本教の教義が何であるかということをどこにも書いていない。日本教の教義らしく書かれているのは前にも紹介した次の表現である。
この支点の位置は実は絶えず左右に移動しているのです。日本人全体を見た場合、時代によってこの位置が変わりますし、個々の日本人をみた場合、一人一人で、各々この位置がはじめから違います。また一個人の生涯をみた場合、年齢により境遇により、この位置が変化していきます。そして「人間は支点であって言葉では表現できない」というのが日本教の教義の第一条なら、「人間の価値はこの支点の位置によって決まる」というのが、日本教の教義の第二条ともいうべきものです。
つまりベンダサンによると、日本教の教義というのは「言葉では表現できない」のであり、そして「人間の価値は支点の位置で決まる」という教義でしかそれは表せないと定義されているのである。では「純粋人間」の純度は支点の位置で決まるといい、そして人間の価値も支点の位置によって決まる、とすれば、いったいその「支点」とは何であろうか?この解答は前にも引用した次の言葉に要約されている。
従って私は、日本という世界は、一種の天秤の世界(もしくは竿秤の世界)であると考えています。そしてこれの支点となっているのが「人間」という概念で、天秤(もしくは竿秤)の皿の方にあるのが「実体語で組み立てられた」世界で、分銅になっている方が「空体語で組み立てられた」もうひとつの世界です。
つまりベンダサンによれば、支点とは「人間」に他ならないわけである。ただし、この人間の価値は支点の位置によって測られ、そして「純粋人間」の純度も支点の位置によって決まるとされているので、結局。ベンダサンの表現を借りるとつじつまがあわず、自家撞着になってしまいそうにみえるのだが、私なりに解釈すると、要するにこういうことではないかと考える。
前にも紹介したように、ベンダサンは、維新の時も終戦時も同じように支点は微動だにしていないと述べている。つまり、その支点というのは天皇の存在に他ならないということが分かる。とすれば、日本教の支点にあるのは天皇に他ならず、そして「純粋人間」はその天皇の位置に限りなく近い人間だということになる。ということはつまり純粋人間というのは天皇主義者ということになるが果たしてその解釈でよいのだろうか?確かに5.15事件の青年将校たちは天皇主義者だったというのは間違いないだろう。しかし、赤穂浪士についてはどうだろうか?いうまでもなく赤穂浪士の時代は天皇という存在がきわめて希薄な時代であった。彼らにとって唯一の主君は藩の大名である浅野内匠頭でしかない。しやがって彼らは決して天皇主義者だとはいえない。
また「日本教について」の中でベンダサンがあげている「純粋人間」の例は、他にも何通りも異なったイデオロギーの人々がいる。後に詳しく紹介するつもりであるが、たとえば70年代に圧倒的な庶民人気を保持していた美濃部都知事が、まさに「純粋人間」の見本であるとされている。美濃部氏はどちらかというと左翼思想の持ち主であったが、巧妙にも「純粋人間」のイメージを都民に植え付けることに成功し、人気を確保したのだと思われる(同じようなことは現下の橋本大阪市長についてもいえるのだが、それについてはいずれ詳しく書くことにする)。他にもベンダサンによれば、三島由紀夫や学生運動家なども「純粋人間」の例としてあげられている。
さて、これ以上例をあげてゆくと話が長くなるので、ここらで「純粋人間」とは何かという問いについての私の結論を簡単に述べておきたい。日本教徒にとって「純粋人間」の「純度」というのは特定のイデオロギーには関係なく、「私心のなさ」という基準によって測られるのではないかと私は考えている。たとえば「天皇」は何故に「純粋人間」なのかというと、まさに「私心のない人」の最たる存在だからである。なぜなら天皇は自分の意志で天皇になることはできず、もちろん職業選択の自由も結婚の自由も移動の自由も何一つ存在しない。天皇はその生活のすべてを公人として生きることを強いられた存在であり、だからこそ天皇は日本教すなわち天秤の世界の中心、すなわちその支点に位置しているのである。
そのように考えれば、5.15事件の青年将校や忠臣蔵の赤穂浪士が多くの日本人に評価されるのも納得ができるのではないだろうか。彼らの行為は、いずれも客観的にみると非道で残虐な行為であった。しかし、にもかかわらず、彼らの行為は日本教徒の模範とする「私心のなさ」を体現する行為であると評価されたのではないだろうか?
したがって日本教の教義というのは、その支点に近づくこと、すなわち「私心のない」生活を送ることが日本教徒の模範であるとされるのである。先に述べたスポーツや芸事で「・・・道」と名付けられるのは、それらの業を通じて、「私心のなさ」すなわち「無私」の人間へと近づくためである。それこそがあらゆる日本人すなわち日本教徒の教義の中心になっているのである。
ただし、「私心のなさ」というのは、あくまでも日本教の教義の中での「私心のなさ」であるということを、念のために断わっておきたい。日本教の教義からはずれた「私心のなさ」は、逆にもっとも反日本教徒のそれと判断されるのである。その例は、たとえばかつての連合赤軍やオウム教徒たちの、ある意味での「私心のなさ」に対する反応をみればわかるであろう、彼ら行動はある意味で日本教をはずれた特殊なイデオロギーに殉じた行動であったと判断されるが、それらの行動の純度はそのイデオロギーの信奉者以外には評価されないものであり、逆に日本教徒の基準では日本教を破壊するもっとも悪質なものとして評価されるのである。これについては、また機会があれば考えてみたい。 
恩田木工と美濃部都知事 

 

ベンダサンによると「純粋人間」の見本となる人物は実にさまざまである。分かりやすいところでは幕末の英雄西郷隆盛がそうであり、そして5.15事件や2.26事件の青年将校がそうであり、そしてまた1970年に市ヶ谷の自衛隊駐屯基地でアジ演説をしたあと衝撃的な割腹自殺を遂げた三島由紀夫がそうであったとされている。いうまでもなく彼らに共通しているのは尊王思想である。天皇というのは日本教すなわち天秤の世界の支点に位置する存在であり、「純粋人間」そのものいってもよい存在である。したがって、その天皇を奉じることは「純粋人間」にとっては、絶対に必要な条件であると思われる。しかしながら、ベンダサンによると、それは必ずしもそうとはかぎらない。なぜなら一見天皇制を否定するような人物が「純粋人間」とみなされる例もあるからだ。
その例が美濃部(旧)東京都知事である。美濃部東京都知事というのは、戦前の有名な憲法学者美濃部達吉の長男であり、東大教授を経て1967年〜1979年まで東京都知事を務めた。当時、非常に庶民的な人気のある知事であり、おそらく現在の石原都知事よりも人気があったのではないかと思われる。ベンダサンが「日本教について」の中で特に美濃部氏を例に挙げているのは、まさに本書が書かれた時期に絶頂期にあった政治家の一人だからである。
ただし、ベンダサンは彼の人気にあやかろうとしたわけではもちろんない。ベンダサンが彼を「純粋人間」の例として取り上げたのは、彼の人気の秘密を解き明かすために他ならない。これは現在のわれわれの社会の現象を読み解くことと同じである。たとえば橋下大阪市長がなぜ異常な人気を集めているのかという話題、あるいはかつての小泉総理の人気についてもいえるかもしれない。
ベンダサンによれば、当時の美濃部都知事が人気を博したのは彼がまさに「純粋人間」として評価されたのだということになる。ただし、イデオロギー的には彼はマルクス経済学者であり、いわゆる革新知事と言われた代表者である。当時は京都では共産党の蜷川知事が、大阪でも革新派の黒田知事が、そして神奈川では飛鳥田革新知事がそれぞれ人気を博していた。もちろん国会では自民党が圧倒的多数派を握ってはいたが、社会党もそれなりの勢力があり。共産党も今よりもはるかに勢いがあった。社会主義や共産主義の神話が崩れつつあった時代ではあったが、ソ連ではブレジネフの長期政権がいまだ続き、中国は毛沢東と周恩来の政治が続いていた。そのような国際情勢の中で日本のマスコミは左翼色が強く、いわゆる知識人というと必ず「進歩的」という形容詞がつくほど左翼的知識人が多かった時代である。そのような風潮の中でイザヤ・ベンダサン(または山本七平)は、皮肉にも異色の保守派知識人として誤って(?)認知された時代であった。
そんな時代の寵児のような存在であった美濃部都知事を保守派(?)のベンダサンが「純粋人間」の見本としてあげているのは、いったいいかなる理由があったのであろうか?その文章をいくつか引用してみよう。ただし、いきなり美濃部都知事に入る前に、徳川時代に小さな藩で財政の立て直しをやった恩田木工という人物について詳しく触れられているので、その人物についてまず紹介しておきたい。
恩田木工は徳川時代に小さな藩の財政建て直しをやった人ですが、彼の再建方法を一口でいえば、まず第一に「債権は一切帳消しにする」でした。二年先、三年先まですでに租税を納めている者に対して、「これはお上の取り得だ」といい、第二に俸給を三分の一しか払ってなかった政庁の武士たちに対しては、その未払い分は取り消しだとしました。第三に、金を借りた町人に対しては、支払は無期限に延期(お前たちの子孫に払えることもあろう、といって)と宣言しました。ただ租税の納付不能な者には、その未納分を徴収しないといいました(ただし、これは実績はありません)。これだけ言った上で、当年分の租税は月割にして完納せよ、と言ったわけです。
このような荒治療を行った恩田木工という人物は不思議なことに誰にも恨まれず、逆に領民から喜んで歓迎されたようである。その秘密はいったいどこにあるのだろうかという問いに対して、その答えは恩田木工が自ら「純粋人間」であることを証明したことにあるとベンダサンは書いている。
対話をはじめる前に彼はまず「純粋人間」であることを立証しようとします。そのため必要とあれば妻と離別し、子を勘当し、使用人をいっさいやめさせ、衣服その他はすべて新調せず、最低の食事、最低の生活も辞しません。ついで自分の行為も言葉もすべて「純粋に領民のことのみを考えていること」を立証しようとします(話は横道にそれますが、前述の桂首相も岸首相もこの点では失格で、この二人を日本人はもっとも純粋でない日本人と感じております)。さて、この立証が終わると次に領民との対話集会に入ります。
つまり恩田木工という人物は自らが「純粋人間」であることを証明するために、自分には一切「私心がない」ことを証明してみせるのである。この恩田木工の姿は今現在の大阪市長の姿にも重なるのであるが、それはまたいずれ述べることにしよう。ここでベンダサンは美濃部都知事についても同じような手法がとられたということを指摘している。
美濃部氏の場合も同じで、選挙に際してまず氏が「純粋」であることが、家系及び経歴などを通じてあらゆる面で強調されます。この点では日本はいまだに家系が大きな力をもっていることを、まざまざとみせつけられました。次に氏が「純粋に都民のことのみを考えていること」を立証しようとします。すなわちある種の政党に所属すれば、政党のことを考えて、都民のことを「純粋に」考えてくれないであろう(これは実に面白い考え方です)という危惧を打ち破るため、氏自身、自分は都民党であると宣言します。もちろん、そういった政党は現実には存在しません。存在しないがゆえにこの言葉は、氏が「純粋」であると説得する力があるのです。その上で都民との対話集会が開かれるのですが、・・・・
恩田木工はこの方式で自分の行おうとすることはすべて「純粋に」国民のためのみであることを、一歩一歩と立証してゆきます。そして前述しましたような、実に考えられないような再建案を、全員が喜んで承諾するに至らしめるのです。しかし、彼の行ったことは、当時の法律から見て法律違反でありかつ契約の一方的破棄です。しかし二人称だけの世界には、この対話をする両者を共に律する第三者の法は、はじめから入る余地がありませんから、これは問題になりません。従って法に違反し、契約を破棄した者は称揚され、法の通りに行った者は逆に非難されるわけです。
美濃部都知事の対話集会も原則はこれと同じで、都民を二人称の関係に持ち込むことに成功しました。前述のように日本では「民主的」とはこの関係のことを言いますので、最も民主的な政治家として―ということは、最も天皇制的な政治家ですから、当然、天皇についで人気があり、また天皇に似た人気のある政治家になりました。
上段でベンダサンが美濃部都知事の家系について云々しているのがどういう意味なのかということを説明しておきたい。すでに紹介した通り美濃部都知事は戦前の有名な憲法学者・美濃部達吉の長男である。美濃部達吉というと歴史の教科書でも「天皇機関説」を唱えた学者としてその名前を知る人も多いだろう。美濃部達吉の「天皇機関説」は昭和10年頃を境に国粋主義者から批判の矢面に立たされた、ある意味で軍部台頭のきっかけを与えた学説であった。そうみると「天皇機関説」というのは反天皇制の学説であるかのように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。美濃部達吉はもともと貴族院議員であり天皇制を奉じる保守派の代表的な学者であった。にもかかわらず天皇機関説がやり玉にあげられたのは、その学説を故意に曲解した輩が多かったからである。なぜなら「天皇機関説」によると、天皇は国家の最高機関であると解釈されるので、決して反天皇制ではないのである。ちなみに美濃部達吉は戦後の国民主権を定めた憲法改正には天皇機関説の立場から強く反対したといわれている。
ベンダサンが美濃部都知事の家系が「大きな力をもっている」と書いているのは、おそらく美濃部氏の家系が戦前から由緒ある家系であるというだけではなく、戦前の天皇の地位を定めることに重要な貢献をした憲法学者の嫡男であるという家系の力をも意味しているのだろう。つまり当時の美濃部都知事にはたとえ左翼的な言動があったとしても、その氏素性においては天皇制を奉じる家系に生まれ育ったのであるから、彼はまさに日本教徒の「純粋人間」たるべき資格を有するのである。
本来、日本教徒としては天皇制を否定するイデオロギーは許されないはずであるが、しかし天秤の支点の位置は時代によって変わるとベンダサンがいうとおり、天皇の位置は必ずしも不変ではなく、それと同時に天秤の皿も左右に動くわけであるから、時代が変われば日本教徒の「純粋人間」の純度を測る基準も異なってくるのである。戦後の日本は天皇の地位が国家の主権者から単なる象徴へと格下げされた以上、われわれ日本人の天皇観も異なってくるのはやむをえない。しかしながら、時代がいかに変わろうとわれわれが日本教徒であるという事実そのものは不変である。このことは忠臣蔵が江戸時代から今日の時代に到るまで支持されてきた事実をみるだけでも納得できるのではないだろうか。要は日本教徒にとって「純粋人間」とは、必ずしも天皇を奉じる純度によって測られるわけではなく、そのようなイデオロギーとは別の基準もあるのであり、それは前にも示した通り―筆者の考えでは―「私心のなさ」という一点に尽きるのではないかと思うのである。ただし、その「私心のなさ」というのは、先にも示した通り、いかなる反日本教的イデオロギーにも従属しないということが最低条件である。たとえば日本共産党の党員がいかに「私心のない」人物であったとしても、彼は日本教徒にとっての「純粋人間」とはみなされない。
さて美濃部都知事が何故に「純粋人間」として評価されたのかというベンダサンの分析に戻って考えてみたい。確かに当時の美濃部都知事は社会党に近い人物であり、その意味では日本教の「純粋人間」にはなじまない人物にみえるのであるが、しかし彼はその「負のイメージ」を払拭するために、ある種の決意を実行するのである。それは彼が都知事選に立候補するにあたって既成政党の御輿に乗ることを一切拒否し、自ら都民党という実在しない党を名乗ったことである。これは現在の橋下氏の維新党と似ているようでもあり違うところもある。美濃部氏の場合は都民党とはいっても、実際にそのような名称の党を立ち上げたわけではない。彼はあくまでも都民のために立候補したのだということ、すなわち自分はいかなる政党とも無関係であるということを証明するために、そのような宣言をしたわけである。これによって、彼はいかなるイデオロギーとも無関係な無所属人間となり、同時にそれによって自らが純粋な日本教徒であることを証明したというわけである。なぜなら日本教の純度表によれば、ある人物が外来のイデオロギーと無関係であることが証明されれば、その人物は自動的に「まじりっけのない日本教徒」とみなされるからである。
次に美濃部氏は恩田木工のときと同じように対話集会を通じて都民との二人称の関係に入る。この対話集会というのはいわゆる討論の場ではなく、あくまでも都民との間に二人称の関係を築くための手続きにすぎないのである。周知のように、この手法は小泉総理のときにも使われたし、また橋下大阪市長(知事時代も含め)も同じ手法をとっている。すなわち彼らはいずれも国民との間に二人称の関係を築くことによって疑似天皇のような立場に立つのである。ベンダサンによると、天皇制というのは天皇と国民が二人称の関係で結ばれている状態を指しているのだという意味のことを以下のように述べている。
天皇制とはまさにこの「二人称」の世界の制度なのです。「天皇が存在するから天皇制なのではなく、天皇制があるから天皇が存在するのだ」という意味の言葉を終戦後の混乱期に坂口安吾という作家が述べております。これは当時、日本を共和制にすべきだという左翼の安易な主張への反論も含めていたと思いますが、この言葉は正しいと思います。日本の宮廷のスポークスマンは言うに及ばず、日本の言論人も、天皇が「純粋」であることに異論を差し挟む者はおりません。おそらく天皇が「純粋」であることは、何びとにも否定できぬ事実なのでしょう。第二に、天皇の行動は常に純粋であり、一点の私心もなく、常に国民のことを考えていることも絶えず強調されます。これもおそらく事実でしょう。そしてここに天皇と国民の間に「二人称」の関係が成立しているのです。すなわち天皇はただ一心に国民のためをのみ思い、国民はただ一心に天皇のためのみを思う、という一つの相互関係、すなわち「お前のお前」という関係は、戦争中の「国民はただ天皇のため」「天皇はただ国民のため」という関係によく表れております。
このように日本教というのは天皇と国民との二人称の関係によって成り立つ世界である。東日本大震災で地獄のような災害のさなかにあって、なお日本人は礼儀正しさや助け合いの精神を失わず、世界中の人々を驚かせたことは記憶に新しい。そして天皇陛下と妃殿下が被災地を何度も訪れ、国民のために精誠を尽くす姿にわれわれは涙せざるをえないだろう。これはまさにわれわれが世界でも稀有の宗教的素質を有する国民であることを証明している。
しかし、この日本教すなわち天秤の世界には神はどこにも存在せず、ただ人間しかいないのである。この点が日本教の特異な性格なのだとベンダサンは指摘したかったようであるが、それについてはまたいずれ機会があれば書きたいと思う。
問題は、このような日本教の天皇制的二人称システムの中で本来の民主主義や合理的な判断が歪められることがあるという事実であろう。ある政治家が「純粋人間」として高く評価されると、その人物は疑似天皇のような存在になり、誰もその人物を批判さえできない、そのような異常な空気ができあがってしまう。
前述のように日本では「民主的」とはこの関係のことを言いますので、最も民主的な政治家として―ということは、最も天皇制的な政治家ですから、当然、天皇についで人気があり、また天皇に似た人気のある政治家になりました。
事実、美濃部都知事のときも美濃部天皇とまでいわれたのであった。同じことは今現在の日本社会の「空気」の異常性をみてもいえるのではないかと思う。次回は今現在のわれわれの社会で、あたかも疑似天皇のように振舞っている一人の不思議な人物について少し分析してみたいと思っている。 
「水」の効用及び小泉氏と橋下氏の類似性 

 

われわれの社会にはときどきおかしな空気が支配することがある。空気というのはある一定の時間、あるいはある一定の場所で、その時空間の中にいる人間の思考を支配する不思議な力をもっている。その空気の支配力を弱めるために有効なのが「水を差す」という行為である。「水を差す」という行為は空気に対する反抗を意図するものではないが、ある時空間の空気の中にいる人間にとってはその支配力を弱める唯一の方法である。
「空気の研究」を書いた山本七平氏は、「空気」に対抗するのは「水」の力であるという考えから、「空気の研究」の続編として「水=通常性の研究」というタイトルの論考をしたためている。それによると、「水」の力というのは、われわれの体内にある消化酵素のように一切の物を腐食させ、解体し、そして後に残るのは変質した内容であるが、それがわれわれ自身の栄養素となって、この日本の独特な文化を築いているのであるという。たとえば日本は仏教国といわれるが、それは渡来の仏教がいつのまにか変質して本来の仏教とは異なったものに変質しているのであり、そのような自然的自己同一化の過程こそが日本文化の特性であり、オリジナリティなのである。このような日本の文化はときに異常な空気が沸き起こったとしても、いずれは「水」を差すという行為によって、われわれの通常性が守られるのである。したがって、われわれの社会は「空気社会」であると同時に「水の社会」でもあるということになる。それらの行為によってわれわれは非日常的な興奮状態から、平静な日常性へと戻るのである。
さて、このところ橋下氏に対する批判がやけに目立つようになったのは、「水を差す」行為がそれなりに功を奏していることの表れなのであろう。橋下ブームに対して疑問をもつ人々が声をあげるようになったのは、空気の力が少しずつ弱まってきた証拠でもある。しかし現状では橋下氏に対して正面切った批判というものはなく、あくまでも消極的に「空気」に対して「水を差す」という程度の批判にとどまっているように思う。たとえば今週号の週刊新潮で何人かの著名人が橋下ブームに対する批判的な論調の文章を寄稿しているが、面白いのは大宅映子氏の発言である。大宅氏は橋下氏の考え方に大部分賛成であったという。しかし、にもかかわらず、このところの「橋下ブーム」には何か怖さを感じるのだという。
私、橋下さんお考え方を支持しています。もちろんすべてではないけど、自立や自己責任を求め、「個」を強くしていこうという姿勢や政策には同意だし、競争、彼が言うところの切磋琢磨を教育の現場に導入するのにも大賛成。私は日教組が悪の根源だと思っているから、そこも彼と一緒。でも何かが怖い。・・・それに「橋下ブーム」の怖さも感じます。もしかしたら、これが一番、恐ろしいかもしれない。彼自身のコントロールが利かないところまで、「ブーム」が一人歩きし、先走りしているような気がしてならないんです。
この発言は橋下氏に対する批判というよりも、むしろわれわれの国民性に対する不安なのであろう。大宅氏の不安は決して故ないものではない。おそらく橋下氏自身も分かっていることだと思うが、橋下人気というのはわれわれの網膜に映った虚像にすぎないものである。虚像というのは凸レンズを通してみると、その姿が何十倍にも大きくみえることがある。橋下氏の人気も実際の評価よりも何十倍にも過大に評価されている部分があるのではないか?しかし、そのような過剰な評価が生まれた原因については、誰にもそのはっきりとした理由が分からない。だから不安になるのだろう。
橋下氏に対する過剰な評価はなぜ生まれたのであろうか?実はそのからくりには日本教徒の「純粋人間」という概念があることは、すでに説明してきたとおりである。橋下氏が異常な人気を集めることができたのは、ひとえに彼が「純粋人間」として評価されたからに他ならない。彼がなにゆえ「純粋人間」として評価されたのか、あるいはいかにして彼は日本教の「純粋人間」となりえたのか?あるいはなりすましたのか?そのあたりの理由について、少し考えてみたい。
橋下氏が異常人気を集めた手法はおどろくほど小泉元首相の人気に似ていることが分かる。したがって橋下氏についていう前に小泉人気について振り返ってみたい。小泉氏が人気を集めたのは、ごく大雑把に言うと、一つは旧来の派閥政治を打破する大胆な政策を打ち出したこと、もう一つは既成政党の枠を超えて国民との二人称的関係を作ることに成功したこと。この二点ではないかと思う。あともうひとつ付け加えるとすれば、小泉氏が中国政府や韓国政府の猛反対を押し切って靖国神社参拝を挙行したことであろう。
この三点は、いずれも小泉氏が日本教の「純粋人間」に他ならないことを国民に強く印象付けたのである。小泉氏は2001年4月の自民党総裁選に立候補する際に、「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て(wikipedia)、自民党小派閥からの立候補にもかかわらず、本命の自民党最大派閥の長・橋本龍太郎氏を抑えて総理の座についた。このような小泉氏の手法は前に紹介した美濃部都知事が「都民党」という名称で知事に立候補したときとよく似ている。自分は党や派閥のしがらみと一切関係のない、すなわち「私心のない純粋人間」であるということを選挙民に印象付けることに成功したのだといえる。
小泉氏は当選後も党や派閥ではなく、国民の声をなにより大事にしているという姿勢を明確にするために、首相就任後ほぼ毎日2回「ぶらさがり会見」という場を設け、国民は毎日のTVで小泉総理の発言を聞くことができるという、まさに総理と国民との二人称的関係を築くことに成功した。この手法は橋下氏もとりいれていることはご存知の通りである。また小泉元総理は郵政選挙の際、参議院で郵政改革法案が一部自民党員の反対によって成立しなかったために、衆議院を解散するという前代未聞の手法をとった。このときの小泉氏の弁は、「郵政民営化が、本当に必要ないのか。賛成か反対かはっきりと国民に問いたい」という言葉を真顔で国民に向けて訴えたことはいまなお記憶に新しい。当時の一般国民で郵政の民営化が本当によいのかどうか正しく判断できる者が何人もいただろうか?そんなことは誰にも分からないはずだが、とにかく小泉氏がそのような言葉を真顔で国民に語りかけているその姿をみて、多くの国民は小泉氏が「私心のない」人間として映ったのであり、まさに小天皇のように国民との二人称的な関係を築くことに成功したのである※。
また靖国参拝については、中国や韓国の激しい反発があったが、それでも臆せずにやり遂げることによって、みずからが日本教の「純粋人間」であるという印象を国民に与えることに一定の寄与をしている。もちろん小泉氏はもともと右翼的な思想の持ち主ではなく、どちらかというとアメリカナイズされた親米保守派である。彼は総理大臣になる前は靖国参拝を欠かさずに行っていたわけでもなく、むしろその逆であったらしい。元明治大学教授で自民党員として衆議院議員にもなった栗本慎一郎氏がこんなことを書いている(ちなみに栗本氏と小泉氏は慶応時代からの学友であったという)。
私はかつて国会議員として『靖国神社に参拝する会』に入っていた。そこで、小泉に『一緒に行こうぜ』と誘ったのですが、彼は来ない。もちろん、靖国参拝に反対というわけでもない。ではなぜ行かないのかといえば『面倒くさいから』だったのです。ところが、総理になったら突然参拝した。きっと誰かが、『靖国に行って、個人の資格で行ったと言い張ればウケるぞ』と吹き込んだのでしょう。で、ウケた。少なくとも彼はそう思った。
小泉氏は栗本慎一郎がいうように総理大臣になってから、まるで人が変わったかのように靖国参拝に目覚めたようだが、それは要するにある種の受け狙いだったのではないかというわけである。これが本当だとすると小泉氏は「純粋人間」どころか、むしろ天才的な役者だったということになる。いずれにしても「純粋人間」というのは、日本教徒にとって一つのイメージにすぎず、政治家が「純粋人間」を演じることによって国民の支持を広く集めるという手法は(小泉氏に限らず)ごくごく一般的に取られていると考えた方がよい。政治家というのはそういう役者としての才能も持ち合せなければ、なかなか国民の支持を得ることはむずかしいのではないか?つまり政治家というのは言葉巧みに演説できる才能だけではなく、日本教の教義についても敏感でなければならないと思うのである。その意味では橋下氏はある意味で小泉氏に並ぶほどの天才的な役者であるのではないか(?)とも思う(これはもちろん橋下氏をもちあげているわけではない)。
ちょっと話が脱線するが、靖国参拝を行う人間が親米派であるということ自体、本当は矛盾ではないかと思うが、日本教では決して矛盾であるとはみなされていないところが面白い。戦後の日本人がアメリカに飼い馴らされた子犬のようになってしまった姿を英霊たちがみるとどう思うであろうか?たとえばこれがイスラム教徒であれば、そんな奴らに参拝などしてくれるなと言われそうだが、日本教徒には過去の恨みは「水」に流そうというのが潔いことだとされている。だからこそ日本人は中国人にも朝鮮人にも同じように過去の恨みを「水」に流せるはずだと考えているのかもしれないが、そのような日本教的な(非論理的)美意識は他国の人間には少々分かりづらいのではないだろうか?
※民主党の菅元総理も現野田総理も「私心のなさ」という点では、「純粋人間」の有資格者であると思うが、彼ら二人に欠けているのは国民との二人称的な関係を築く才がないということに尽きるのではないかとつくづく思う。そういえば野田総理は今日の演説で「わたしには私心がありません。国民を心から愛しています」という発言をしていたらしいが、その言葉でさえも国民には空虚に響くのである。菅氏も野田氏も二人とも小泉氏よりもはるかに頭が良いし、人柄も良い人物である。しかし二人には小泉氏のような役者的才能がないのが欠点と言えば欠点なのである。これは民主党の多くの議員についてもいえるのではないかと思う。民主党員は確かに理論や理屈に優れた人物が多いように見うけられるが、多くの国民の目にはそれがかえって頭でっかち人間に見えているのではないかと思う。日本教の教義はあくまでも「心」で感じるものであって、頭で説明できるものではない。そのあたりが民主党の支持が伸びない原因ではないかとも思う(ただし、決してこれは悪口ではない)。 
ハシズムの正体とは 

 

橋下旋風とかハシズムといわれる異常なそのブームを作りだしたのは、決して橋下氏本人ではない。むしろ橋下氏をそのようなブームの主役に駆り出したのは、われわれ国民の方であり、それはわれわれ自身の願望でもあったのではないか?橋下氏はそのわけのわからない国民の願望に乗せられて、まるで時代の革命児でもあるかのように錯覚させられ、ついつい周囲のおだてに本気になってしまい、気がつくとのっぴきならない権力争いの舞台へと登壇してしまったのだろう。それははじめから計算づくであったわけではなく、あくまでもなりゆきにすぎないのであろう。しかし、ここまで来てしまった以上はやるしかないし、いまさら弱気になるわけにもいかない。それが橋下氏の偽らざる胸中ではないかと想像する。
さて、すでにみたとおり橋下氏の異常人気の秘密は小泉人気やあるいはかつての美濃部都知事の人気にも通じる部分があるので、ここで少し三者の共通点を整理しておこう。
1.三人とも大胆な政策を掲げ、既成政党ときっぱりと関係を絶っている。
2.三人とも私心のなさを国民に強く印象付けることに成功している。
3.三人とも国民との間に二人称的関係を築き、小天皇のようにふるまっている。
この三点の他に、特に重要なのは天皇制イデオロギーとの関係である。美濃部氏の場合は左翼的な思想の持ち主ではあったが、彼の実父は戦前に天皇機関説を唱えた美濃部達吉であり、その意味で天皇制護持に重要な貢献を成した人物の嫡男であるという自らの出自が何らかの影響を与えていたことは疑えない。
一方、小泉氏の場合は思想的には親米保守派であるが、靖国参拝の強行によって自らの天皇制イデオロギーに対する立場を鮮明にしている。ただし、彼の思想的立場は女性天皇を認めるという皇室典範の改正を企てたことをみても分かる通り、国粋主義的な右翼とはまったく異質なものであった。
では橋下氏の場合はどうであろうか?彼は決して右翼的人物でもなく保守派であるともいえない。彼の政策をみていると、既成の社会構造を変えようとするいくつかの大胆な革命的政策を掲げているので、むしろ彼は革新派というべきだろう。首相公選制を唱えているのをみても、彼の中に天皇制イデオロギーに対する十分な理解があるとは思えない。なぜなら首相公選制になると天皇を元首と戴く我が国の国体に悖るものであると危惧するのが普通だからである。
にもかかわらず彼が保守派であるとみなされているのは誤解にすぎないのだろうが、それはたとえば日教組や公務員組合に対する厳しい締め付けをしたからだろう。教師が国歌を斉唱する際には起立しなければならないというだけでなく、口パクも許さないという厳しい条例を決めたことで、彼は一部のジャーナリストから思想信条の自由に抵触するとして批判された。しかし、そもそもいかなる国の公務員も国歌と国旗に対して最大限の敬意を払うのが当然だとされているので、橋下氏の条例案はまったくの非常識であるともいいきれない。しかるに、この前代未聞の条例によって一部ジャーナリストの批判は逆に封じ込められ、橋下氏は天皇制イデオロギーを擁護する保守派の政治家として、多くの保守派人士からも評価されるようになった。問題は彼が保守派か革新派かということではなく、一連の日教組バッシングによって、彼は日本教の「純粋人間」としてのイメージを与えることに成功したということであろう。
故山本七平氏が述べているように、「日本教」すなわち「天秤の世界」の中心とその左右に配置する天秤皿は時代とともにその位置が微妙に変わる。日本教の中心すなわち天秤の世界の中心には常に天皇が存在することは変わらないが、しかし左右の天秤皿の位置は時代によって微妙に異なるので、天皇制イデオロギーに対する人々の意識も時代によって異なるのである。美濃部都知事の時代は左翼的イデオロギーが強く、天皇制イデオロギーも希薄になっていたが、しかし、それがまったく無くなることは日本教がなくなることと同じでありえないことである。したがって、美濃部都知事の時代でも日本教徒(すなわち一般の日本人)は美濃部氏に対して天皇制イデオロギーに対するある程度の忠誠を求めていたのである。それがすなわち彼の氏素性がもつ意味でもあった。
一方、小泉氏や橋下氏の時代は左翼イデオロギーが衰退した時代であり、その結果、日本教徒(すなわち一般の日本人)は政治家に対して天皇制イデオロギーに忠誠であることをより強く要求するようになった。もちろん、それは個々の日本人が右傾化したということを単純に意味するものではなく、全体としての日本人の意識が少しずつ変わったということ(すなわち空気の変化)を意味している。したがって小泉氏が靖国参拝を強行したり、橋下氏が国歌斉唱の際に口パクを許さないという条例を通そうとしたのも、そのような日本人の意識の変化に応じた政治家の一つのパフォーマンスだといえる。少なくとも、小泉氏や橋下氏はそれらの行為によって日本教の「純粋人間」としての評価を得たことは確かなのである(その評価が計算づくのものであろうとなかろうと)。
橋下氏が特に優れているのは、日本教のそうした目に見えない「教義」(あるいは「空気」と言い変えてもよい)に対して敏感な感受性をもっているということではないかと思う。彼はもともとTVの人気タレントとしても成功した弁護士であったが、政治家になるにあたって、事あるごとに「私心がない」ということを印象付けることに努力してきた。たとえば彼は大阪府知事になるにあたって、自らのTVタレント時代の3億を超える年収から2000万ぐらいの年収に落ち込んだという。しかも彼は政治家になってから、ほとんど寝る間もなく働いてきたという。弁護士やTVタレントを続けている方がどれほど楽かということは、彼自身がもっともよく分かっているだろう。そのうえ彼は7人の子沢山であり、政治家になることで家庭生活も犠牲にしなければならなかった。にもかかわらず、彼が政治家になろうとしたのは、この国の腐敗したシステムを変えたいという一心であったのだという。
そのような彼の「私心のなさ」は必ずしもパフォーマンスや演技だけのことではないのだろう。彼は決して抜群に演説上手というわけでもなく、小泉元総理のように美形というわけでもない。さらに政治や政策の知識もほとんどが借り物といってもよいぐらい、いい加減なものであり、豊かな見識のある人物であるとはとても思えない。にもかかわらず、彼が人気を集めるのは、ひとえにその行動力のゆえであろう。政治家になって以来の彼は本当に自分を捨てて、公に捧げているようにみえることもあった。その「私心のない」姿がまさに日本教徒の「純粋人間」そのものにみえたのではないであろうか?
政治家というのは公に奉仕するために国民が選ぶ選良である。国民は決して賢明な存在であるとはいえないが、しかし彼らはわけの分からない政策の是非よりもむしろ日本教の教義にしたがって候補者の品定めをしているのではないだろうか?すなわち、どの候補者がもっとも「私心のない」候補者であるかということが、国民の判定基準の中に無意識に入っているのだといえる。
橋下氏はそのような国民の意識を本能的に見抜いているところがあるようにみえる。その証拠に彼は政治家になってからも決して国民に対してスキをみせようとしない。たとえば「市長を辞めて国政にでたら?」という記者の質問に対して「そんなことをすれば、たちまち国民の審判を受けますよ」みたいなことを言っている。今現在の人気がいつまでも続くわけではないということを彼は誰よりもよく分かっているのだろう。
政治家という職業は俳優や歌手のような人気商売と同じではない。政治家というのは常に日本教の教義によって評価される存在なのであり、単に演説のうまさや知識の豊かさや格好の良さだけで評価されているわけではないのである。だから政治家は自らの野心が決して表にでてはならず、あくまでも国民の奉仕者であるというイメージを与え続けなければならない。これは必ずしも日本だけのことではないかもしれないが、中国やロシアのような独裁国は別にして同じ民主主義国の中でも、日本の政治家というのは特にそのような要素が要求される傾向が強いのではないだろうか?
たとえばイタリアの前首相ベルルスコーニ氏は、総理在任時代に様々な汚職と脱税、マフィアとの癒着などで疑惑をもたれていた。最後にはおまけに少女買春疑惑まででてきて、それこそ疑惑の総合商社のような存在であったが、イタリア人はそれでも彼を9年間もの間首相として容認し続けた。それは国民性の違いと言えばそれまでだが、少なくともイタリアはカトリックの総本山のある国であるということを忘れないでいただきたい。もちろんイギリスやドイツ、アメリカのような非カトリックの先進国では、政治家のレベルは日本よりもはるかに高いのではないかという指摘もあるが、それは確かにそうだと思う。しかし、それらの国々では、日本とは違いそもそも政治家は有能であるかどうかという基準で選ばれるのが普通であり、日本のように「私心のなさ」という評価基準はおそらく皆無といってもよいのではないだろうか?
もちろん、だからといって日本の政治家は道徳的に高いとかいうわけでないことはいうまでもないだろう。そもそも政治家になろうとする者が道徳的に高い人種であるはずはなく、むしろ政治家=野心家といってもよいぐらい彼らは途方もない権力欲をもった人々であるというのが普通である。権力欲というのは他人を支配したいという、どんな人間にもある強い欲望であり、その欲望は他人に奉仕するという欲望とは本来正反対のものである。だから政治家に国民の奉仕者になれというのは一つの矛盾であり、ないものねだりといってもよいのだが、しかし、日本教というのは一つの宗教であり、その教義は「私心のなさ」という不文律であるかぎり、日本の政治家たらんとする者は必ずその不文律を自らに課しながら、国民の審判を仰がなければならない存在でもあるのである。
ここまでみてきて、橋下氏が異常な人気を集めた理由というものはきわめて日本的な現象であるということがいえるのではないかと思う。彼は日本教徒にとってのある種メシヤ(救世主)のような存在にまで偶像化されたわけであるが、これはしかし錯覚にすぎない。国民がそれを錯覚であるということに気付けば、いずれ橋下氏は国民から見離されることになるだろう。
一方、橋下氏にとっては自分がここまで偶像化されるとは思いもよらなかったことであろうが、彼はそれでもそれを錯覚であるとは思わず、それを自らの純粋な理想が国民に受け入れられた証拠だと解釈し、この機会にその理想の実現のためにできるかぎり利用しようと考えたのであろう。すなわち彼は彼で自分の理想が国民に受け入れられたのだと錯覚したのではないか?いずれにしても、そこには両者の思い違いが複雑に交錯しているのであり、その結果として、現在の奇妙な政治情勢が現出したのである。
いずれにしても地方自治体の長という立場にある者がその職にとどまったままで国政政党を結成し、国政そのものを具体的に動かそうとするのは前代未聞の異常な事態である。その異常性はかつてのムソリーニやヒトラーの親衛隊をも想起させる事態である。もちろん、今の日本の社会でこのような異常な事態がそのままエスカレートしてゆくとは思えない。しかし、この事態に対してジャーナリストといわれる方々がなんら適切な批判さえできないのは、それこそ奇妙な事態であるといわねばならない。 
純粋人間の純度表 

 

下に公開した座標系は決して真面目に考えた結果ではないですが、今が旬の政治家達(旬ではない政治家もいるが)の純粋人間度を表にしたものです。左右の線はイデオロギーを指標にして右が右翼度(保守系度)、左が左翼度(革新系度)を表します。また上下の線は上が「私心のなさ」を表す指標で、下が逆に「私心がある」を表す指標です。
すべての日本教徒に「純粋人間」として評価されるためにはイデオロギー的に保守的であると同時に「私心がない」という二つの要素が求められます。純粋人間度を表す斜めの線がやや上向きになっているのは、イデオロギーよりも、むしろ「私心のなさ」の方が純粋人間としての評価に強く関係していると思われるからです。
ただし、だからといって各政治家の「私心のなさ」が表の通りだとは考えないでください。これはあくまでも一般のイメージにしたがっただけであり、しかもそれを極個人的に解釈しただけのものであり、そこには何の根拠もありません。同じように誰々のイデオロギーの指標についても、まったく根拠はありません。
だから、これは一つの知的遊戯だと考えていただければ幸いです。
尚、「純粋人間」とはいったい何を意味するのかということは、本章(第七章三節以下)に詳しく書いていますので、そちらを読んでください。日本教の支点に存在するのは完全な「純粋人間」としての天皇の存在に他なりませんが、政治家たちも当然その天皇を崇拝しなければ国民(すなわち日本教徒)から正しく評価はされません。したがって政治家は必ず天皇を崇拝し、自らもまた天皇のように純粋人間たらんとします。
したがって共産党や社民党の政治家のように、天皇制自体を否定するようなイデオロギーの持ち主は、どんなに「私心のない」人物であったとしても、「純粋人間」としての評価は低く、決して一般国民の支持を受けることはありません。同じように、イデオロギー的には多少右寄りであったとしても、小沢一郎氏や麻生元総理のように「私心がある」とみなされた人物も「純粋人間」としては評価されず、国民の支持を受けることはありません。
上の表は、座標にある斜線の純粋人間度を横にならべた結果です。この結果、維新の石原慎太郎代表はもっとも「純粋人間」として評価される存在だと考えられます。ただし、だからといって彼がもっとも人気があるとは限りません。それは決して国民の人気度の指標ではないということをご理解ください(人気と無関係だとはいえませんが)。
ただし、一つ言えることは「純粋人間」として評価される政治家は天皇のように誰からも謗りを受けず、あたかも小天皇のようにふるまえるということです。たとえば石原慎太郎氏は少々の過激発言があっても、決して誰からも謗りをうけないということをみれば分かります。純粋人間度が高い小泉元総理や橋下大阪市長も同じような評価があったとみなされます。逆に純粋人間としての評価が低い政治家は少しの脱線発言でも謗りを受け、非難される傾向があります。純粋人間としては中間の位置にある政治家は特にその種の批判を受けやすい政治家であるといえるでしょう。 
 
「坂口安吾 戦後を駆け抜けた男」 書評 

 

新たな立体的評伝
坂口安吾の生誕百年ということで、フォーラムだの特集だの催しがつづいた。あの世で安吾はほくそ笑んでいるか、苦笑いしているか。
その安吾の評伝にまた一冊、大著が加わった。
相馬正一「坂口安吾」、副題に「戦後を駆け抜けた男」とある。安吾を主人公として戦後の文壇社会を描写記録した含みがある。
著者が上越市に勤務したころ、地元の文芸同人誌「文芸たかだ」に連載、のち一本にまとめた「若き日の坂口安吾」(1992年・洋々社)の続編となるもの。全文十七章千枚に及ぶ大作である。
著者は早く太宰治の実証的研究で知られ、上越に移ってから同じ無頼派安吾に手を広げた。
氏一流の徹底ぶりで、文献資料を博捜(はくそう)し、安吾の足どりを眺望、分析、立体的伝記文学となしあげた。型破りの非常識人間坂口安吾の文学と生涯とがここに遺憾なく描き出されたといえる。
「堕落論」「白痴」「志賀直哉批判」「矢田津世子」のあたりは、在来の通説と重なるところもあるが、評伝の大概は新資料、新見解によってユニークな発想が多い。
安吾の経歴、流行作家であることなどを全く教えられず、ただ一枚安吾の顔写真だけを見せられた易者某は、その観相結果で「この男は反家庭的、放浪的、常識的な相がある」と断じ安吾も納得したという(第十二「巨漢安吾の褌(ふんどし)を洗う女」)。安吾の自信過剰、独断は自らの生活を破壊し、周囲を苦しめた。三千代夫人などが最大の被害者となった。
麻薬中毒、精神病棟入院、税金不払い闘争、競輪判定不正闘争など(第十五「負ケラレマセン勝ツマデハ」)には、独善的エネルギーの憤出や過度の思い込みがあった。
そのほか作品に対する展望もきめ細かく適切、斬新である。「不連続殺人事件」以下十二編の推理小説の解析、「桜の森」その類作「夜長姫と耳男」の系列作、「柿本人麿」以下史伝七編、「サスペンス・ドラマ『信長』」、未完の長編「火」などの解説はいずれも在来研究に見られぬ精緻(せいち)さを備えている。
以上、安吾研究の新たなる一冊の登場を喜び、作品と並行して、かたわらに置かるべき立体的評伝として推薦を惜しまない。
太宰研究の第一人者が語る坂口安吾論
安吾生誕百年の節目を迎えて、県内外において様々なイベントが行われたのは承知のことである。坂口安吾文学賞の制定は、安吾の名を日本中に定着させた感がある。
その坂口安吾を本格的に論じた本著『坂口安吾──戦後を駆け抜けた男』は、安吾生誕百年にふさわしい出版となっている。戦後の売れっ子作家となった時代から、49歳でこの世を去るまでの、安吾文学の本質を作品と時代背景から見事に捉えた労作である。
相馬先生は世に知られているように太宰研究の第一人者でおられ、定評ある実証主義の手法は、この著書でも十分に生かされている。安吾文学を分かり易く説明され、その魅力を十分に堪能できるのは、著者の綿密な説得に適う引用の巧みさにあると言えるだろう。
安吾文学のバックボーンを「時代の本質を洞察する文明批評家と豊饒なコトバの世界に遊ぶ戯作者とが同居しており、それが時には鋭い現実批判となって権力の側の独善さを糾弾し、時には幻想的なメルヘンとなって読者を耽美の世界へと誘導する。」ものとし、作品や手紙、当時の文章から丹念にそれが立証されている。小千谷市出身の西脇順三郎に、シュール・レアリズムの影響を認めているのは、新しい視点であり、初期安吾の思想形成を考える上で、貴重な手がかりと言えるだろう。
また、代表作となる「堕落論」の誕生を戦時下の「日本文化私観」や「青春論」に求め、国家権力に組しない精神を戦前も戦後も保っていた数少ない作家としている。
本著の構成は「堕落論」から始まり「白痴」「桜の森の満開の下」、「信長」などの歴史物「安吾新日本風土記」などが年代順に論じられている。
本著が文学の評論書であるにもかかわらず、実に楽しさを感じるのは、坂口安吾を中心としながらも、太宰治、織田作之助、安吾の恋人の矢田津世子、小林秀雄等が登場し、当時の文壇事情が堪能できるからである。
例えば太宰の死について、安吾は「フツカヨイ的衰弱死」として自殺説を否定している。また、文壇の長に立つ志賀直哉に真っ向から歯向かう無頼派は、欺瞞に満ちた現代社会を痛烈に批判することと重なり、すがすがしい気持ちになってくる。
最終章「おわりに──詩魂と淪落と」において、次のように記される。
「坂口安吾の〈人と文学〉を追跡してみて痛感したことは、伝説化された実人生に対する興味もさることながら、長編・短編・エッセーを問わず、安吾の作品はいずれも理詰めの説得力に富んだものばかりだということである。(中略)この文章の魔力を生み出している源泉は、おそらく天衣無縫の詩魂と若い時に学んだ印度哲学とが融合発酵して醸成された淪落の思想であろう」
ここには安吾文学が後世まで残る確信と、安吾文学への賛歌が伺える。太宰に比べ読者が少ないとされる安吾文学。(特に女性)安吾の誕生から戦前まで論評された「若き日の坂口安吾」と本著を併せて読んでいただければ、安吾文学の良き理解者となることは間違いないだろう。安吾の〈ふるさと〉が呼んでいるような気がするのは私一人であろうか。
相馬先生は安吾を「日本における最後の文士」と捉えられているが、先生ご本人こそ、文学研究の、それを超越した「文士」に他ならない。
安吾文学解読の決定版
現在、文芸たかだ(以下、本誌)に「檀一雄の生涯と文学」を連載中の相馬正一氏は、平成元年7月刊の本誌第182号から「安吾追跡」の表題で連載を続け、平成4年5月刊の第199号で《第一部―出生から敗戦まで》を終了し、これを『若き日の坂口安吾』の題名で同年10月に洋々社から上梓した。その後「井伏鱒二の肖像」の連載を間に挿んで、平成9年7月刊の本誌第230号から再び「安吾追跡」の《第二部―敗戦から死まで》の連載を始めた。平成12年11月刊の第250号で終了、400字詰原稿用紙で600枚を超す労作であった。
実証主義の立場を執る相馬氏の論考は説得力に富み、読み易かったので、我々は《第二部》の一日も早い上梓を期待していたが、その後入手した新資料を踏まえて補筆したい箇所があるということで上梓が見送られてきた。今年は安吾生誕100年に当るので、この機会に上梓することを考え、7月頃から補筆改訂したところ、完成稿は約800枚に膨らんだという。
題名も『坂口安吾―戦後を駆け抜けた男』に改め、本年9月に同氏の『国家と個人―島崎藤村「夜明け前」と現代』を出版した東京の人文書館から刊行された。表紙カバーの装画には、安吾の代表作「桜の森の満開の下」に因んで、三岸節子画伯の傑作「さいた さいた さくらがさいた」の絵が使われている。
相馬氏は本書の「あとがき」で安吾文学の特質に触れ、「安吾文学の中には、時代の本質を洞察する文明批評家と豊饒なコトバの世界に遊ぶ戯作者とが同居しており、それが時には幻想的なメルヘンとなって読者を耽美の世界へと誘導する。……安吾が世を去ってすでに半世紀も過ぎたのに、安吾文学はすべてのジャンルに亘って今なお少しも色褪せていない」と述べている。本書によって安吾文学の魅力に浸ってみたいものである。
 
堕落論 / 坂口安吾 

 

半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。
昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼等が生きながらえて生き恥をさらし折角(せっかく)の名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな。現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つのようだ。十数年前だかに童貞処女のまま愛の一生を終らせようと大磯のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかったし、私自身も、数年前に私と極めて親しかった姪(めい)の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚(せいそ)な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様(まっさかさま)に地獄へ堕(お)ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。
いったいが日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、之(これ)は皮相の見解で、彼等の案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。
武士は仇討のために草の根を分け乞食となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱をもって仇敵の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか。彼等の知っていたのは仇討の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆(かんたん)相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照らし、忽(たちま)ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。日本戦史は武士道の戦史よりも権謀術数の戦史であり、歴史の証明にまつよりも自我の本心を見つめることによって歴史のカラクリを知り得るであろう。今日の軍人政治家が未亡人の恋愛に就(つ)いて執筆を禁じた如く、古(いにしえ)の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった。
小林秀雄は政治家のタイプを、独創をもたずただ管理し支配する人種と称しているが、必ずしもそうではないようだ。政治家の大多数は常にそうであるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸(ぼんよう)な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き者の意志を示している。政治の場合に於て、歴史は個をつなぎ合せたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿に於て政治も亦(また)巨大な独創を行っているのである。この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿に於て独創をもち、意慾をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。何人が武士道を案出したか。之も亦歴史の独創、又は嗅覚であったであろう。歴史は常に人間を嗅ぎだしている。そして武士道は人性や本能に対する禁止条項である為に非人間的反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点に於ては全く人間的なものである。
私は天皇制に就ても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起したこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的に担(かつ)ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代り得るものならば、孔子家でも釈迦(しゃか)家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである。
すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉(たの)しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。
我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲るたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社に就てはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。宮本武蔵は一乗寺下り松の果し場へ急ぐ途中、八幡様の前を通りかかって思わず拝みかけて思いとどまったというが、吾神仏をたのまずという彼の教訓は、この自らの性癖に発し、又向けられた悔恨深い言葉であり、我々は自発的にはずいぶん馬鹿げたものを拝み、ただそれを意識しないというだけのことだ。道学先生は教壇で先ず書物をおしいただくが、彼はそのことに自分の威厳と自分自身の存在すらも感じているのであろう。そして我々も何かにつけて似たことをやっている。
日本人の如く権謀術数を事とする国民には権謀術数のためにも大義名分のためにも天皇が必要で、個々の政治家は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な嗅覚に於て彼等はその必要を感じるよりも自らの居る現実を疑ることがなかったのだ。秀吉は聚楽(じゅらく)に行幸を仰いで自ら盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙の神をそこに見ていた。これは秀吉の場合であって、他の政治家の場合ではないが、権謀術数がたとえば悪魔の手段にしても、悪魔が幼児の如くに神を拝むことも必ずしも不思議ではない。どのような矛盾も有り得るのである。
要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、女心は変り易いから「節婦は二夫に見(まみ)えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理に於て人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、又自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。
まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希(ねが)うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕(お)ちて暗黒の曠野(こうや)をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘(かかわ)らず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落(りんらく)自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。
死んでしまえば身も蓋(ふた)もないというが、果してどういうものであろうか。敗戦して、結局気の毒なのは戦歿した英霊達だ、という考え方も私は素直に肯定することができない。けれども、六十すぎた将軍達が尚(なお)生に恋々として法廷にひかれることを思うと、何が人生の魅力であるか、私には皆目分らず、然し恐らく私自身も、もしも私が六十の将軍であったなら矢張り生に恋々として法廷にひかれるであろうと想像せざるを得ないので、私は生という奇怪な力にただ茫然たるばかりである。私は二十の美女を好むが、老将軍も亦二十の美女を好んでいるのか。そして戦歿の英霊が気の毒なのも二十の美女を好む意味に於てであるか。そのように姿の明確なものなら、私は安心することもできるし、そこから一途(いちず)に二十の美女を追っかける信念すらも持ちうるのだが、生きることは、もっとわけの分らぬものだ。
私は血を見ることが非常に嫌いで、いつか私の眼前で自動車が衝突したとき、私はクルリと振向いて逃げだしていた。けれども、私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾(しょういだん)に戦(おのの)きながら、狂暴な破壊に劇(はげ)しく亢奮(こうふん)していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。
私は疎開をすすめ又すすんで田舎の住宅を提供しようと申出てくれた数人の親切をしりぞけて東京にふみとどまっていた。大井広介の焼跡の防空壕を、最後の拠点にするつもりで、そして九州へ疎開する大井広介と別れたときは東京からあらゆる友達を失った時でもあったが、やがて米軍が上陸し四辺に重砲弾の炸裂(さくれつ)するさなかにその防空壕に息をひそめている私自身を想像して、私はその運命を甘受し待ち構える気持になっていたのである。私は死ぬかも知れぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。然し廃墟に生き残り、何か抱負を持っていたかと云えば、私はただ生き残ること以外の何の目算もなかったのだ。予想し得ぬ新世界への不思議な再生。その好奇心は私の一生の最も新鮮なものであり、その奇怪な鮮度に対する代償としても東京にとどまることを賭ける必要があるという奇妙な呪文に憑(つ)かれていたというだけであった。そのくせ私は臆病で、昭和二十年の四月四日という日、私は始めて四周に二時間にわたる爆撃を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった、そのとき丁度上京していた次兄が防空壕の中から焼夷弾かと訊いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。又、当時日本映画社の嘱託だった私は銀座が爆撃された直後、編隊の来襲を銀座の日映の屋上で迎えたが、五階の建物の上に塔があり、この上に三台のカメラが据えてある。空襲警報になると路上、窓、屋上、銀座からあらゆる人の姿が消え、屋上の高射砲陣地すらも掩壕(えんごう)に隠れて人影はなく、ただ天地に露出する人の姿は日映屋上の十名程の一団のみであった。先ず石川島に焼夷弾の雨がふり、次の編隊が真上へくる。私は足の力が抜け去ることを意識した。煙草をくわえてカメラを編隊に向けている憎々しいほど落着いたカメラマンの姿に驚嘆したのであった。
けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。麹町(こうじまち)のあらゆる大邸宅が嘘のように消え失せて余燼(よじん)をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に坐っている。片側に余燼をあげる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変るところがない。ここも消え失せて茫々ただ余燼をたてている道玄坂(どうげんざか)では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。かたわらに銃剣の兵隊が立っていた。行く者、帰る者、罹災者(りさいしゃ)達の蜿※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)(えんえん)たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすりぬけて行き交い、路上の鮮血にも気づく者すら居らず、たまさか気づく者があっても、捨てられた紙屑を見るほどの関心しか示さない。米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽(さわ)やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。
あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫(ほうまつ)のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。
徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音(あしおと)、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。
特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。
歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡(くつわ)を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪(ろうかい)陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸(きゅう)をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。
私は戦(おのの)きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。
終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。
人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。 
 
戦後新人論 / 坂口安吾 

 

終戦後、私が新人現るの声をきいたのは、升田幸三がはじまりだったようである。十年不敗の木村名人に三タテを喰わせて登場した彼であるが、木村に三タテを喰わせたという事実だけなら、さしたることではなかったろう。彼の将棋は相手に一手勝てばよいという原則を信条として、旧来の定跡の如きを眼中にしない。したがって、旧来の定跡では、升田の攻撃速度に間に合わない、などゝ言われたが、棋界は彼の出現によって、棋士の気風が一変した。既成定跡はフンサイされ、架空の権威は名を失って、各棋士が独自の新手を創造することを手合いの信条とし、日常の心構えとするようになった。
升田をキッカケに新人雲の如く起って、西に升田を叩きつぶす大山あれば、東に木村を破って名人位を奪う塚田あり、A級の十名中には、旧人の名を見ることができない。
一昔前と思い合せれば、月とスッポンの差があって、当時は囲碁界に於て木谷怪童丸と呉清源(ごせいげん)の両新人が現れて、碁界は三連星、天元等々新風サッソウたるにひきかえ、将棋の方は老朽七八段がガンクビを揃えて、あとにつゞく新風なく、養老院のような衰弱ぶりを示していたのであった。
今はアベコベである。木谷は老い、日本棋院も老いた。藤沢をのぞけば、将棋に於ける如く老朽高段者をナデ斬りにするような新人の陸続たる登場はとても望めない。
一人の藤沢あるにしても、独善的に九段を与えて、呉清源や橋本の挑戦に応じさせないという没落貴族の気位の如きものを持している。秘宝を公開しない法隆寺と同じようなバカらしさで、本因坊戦などゝいう一家名の争いを最上の行事として、実力第一の名人戦をひらいて、全世界に覇者をもとめるだけの識見もないのである。他のスポーツやゲームに於ては、すべて国際的にチャンピオンシップが争われているのに、碁に於ては、名人位を国外に持ち去らるるのを怖るるのみではなく、一日本棋院という団体以外に持ち去られることを怖れて、他の流派や団体との争碁すら差しとめている哀れさである。最も取り残されたものは日本棋院で、現代の妖怪変幻のようなものだ。
しかし、新風を怖れる保守思想とか、自己保存思想というものは、特に芸能界に於ては、どこでも見られるものである。それがスッパリなくなったのは将棋界ぐらいのもので、ハッキリ勝負がつくのだから、それが当然にきまっていて、囲碁界では、それをやらない。まして、勝負のつけようのない他の芸能界に於ては、マカ不思議な批評の仕方や、迷信的評価規準が横行するのは仕方がないかも知れない。
五代目はうまかった。円朝はどうだ、小さんがどうだ、今の奴はなっていない、と云う見識のない老人はみんなこう云いたがるもので、五代目や円朝、小さんの生きていたころの老人は、さらに一昔前をなつかしがって、その現代を軽蔑したに極っている。
老人というものは、昔の時代に生きていて、現代には生きていないものであるから、そう云うのが当然で、つまり現代から捨てられ見放されている残骸にすぎない。
安藤鶴夫氏は趣味家で、失われたものゝ良さを現代に伝えてくれる有難い人であるが、わりに老人めいたグチがなく、識見の底が広いようでいて、やっぱり濁りがある。現代に生きていないのである。
法隆寺は今日では最も幽玄な芸術的遺物であるが、その造られた当初に於ては、俗衆の目を見はらせてアッと感嘆せしめるために、人力の限りをつくして、当時最大の豪奢を狙い、華美をつくしたもので、日光の東照宮の造営精神と異るところはなく、雅叙園の建築精神と異るところもない。
落語とても、本来はそうで、八ッつぁん熊さんが粋がっているのも、当時の新流行で、今日の青年がジャズに興ずる如く、当時の青年の生活がそこに実存していたにすぎないのである。芸術本来の姿は常にそのようなものである。生活の中から生れてくるのである。それが時代的に生長せず、一つの型として、取り残されたところに、歪みと不健康さがあるものだ。
今日の歌笑が落語界で人気者なのは当然だ。現代人の生活の中に生きているからだ。江戸時代に於ける落語はそうであった。あらゆる芸術がそうであった。その時代に生きていたのである。
一昔前は、金語楼が落語界の新人であったが、彼の泥臭さに比べれば、歌笑は洗錬されてもいるし、より時代感覚に密着している。サトウ・ハチローと歌笑の座談会で、ハチロー氏が海中でクソに追っかけられる話をしている。海中で脱糞したところが、クビの横へポッカリ浮いてきた。泳いでも追っかけてくる。もぐって首を出しても、はなれない。この話に、歌笑の曰く、それは先生海だからですよ。川だと素直に流れます。まことに素直な歌笑である。万事このように目がとゞいて、クスグリや悪ジャレを相手にしない魂が確立すれば、彼の前途は洋々たるものであろう。
私は然し、終戦後に劃期的な新風をもたらした天才児は、横山泰三だろうと思う。これはたしかに、過去に存在しなかったものだ。良かれ悪しかれ一つの時代をつくったことは否めない。
将棋界が全員とみに活気を呈した如く、漫画界も全員活気を呈した点で戦後の華々しいものゝ一つであると云えよう。
どの雑誌も漫画に一部の購買力を依存していないものはない。読者や観客というものは正直で、つまり、現代に生きている人間というものが素直なのだ。老人や現代に生活しない人々がどんな悪評をあびせたところで、漫画や歌笑の人気は微動もしない。老人のグチとは別に、生活する人間は、生活する芸術と直結しているものである。
漫画の隆盛は、漫画集団の組織の良さにも一部の理由はあろうが、要は個々の漫画家が、それぞれアイデヤをもとめて熱演し、それぞれ良い作品を書いていることが第一の理由であろう。彼らは、純文学のアプレゲールのように、理窟倒れして、一現代と遊離するようなことがない。素直に現代と密着して、作品の中に嬉々と生存を托しているせいだろうと思う。
終戦後の新人のひとつにラジオがある。藤倉アナウンサーの社会探訪や街頭録音にはじまって、アナウンサーがそれぞれ個性的な表現につとめるようになった。しかし、どうも型がある。特に自分も一人の演技者になろうとする努力が、まだナマで、芸になっていない。私はアナウンサーもハッキリ芸人になりきるべきだと考えているが、その芸は、役者に於ける芸とは違って、その基本をなすものはアナウンスであり、アナウンスを行う芸人なのである。
二十の扉と話の泉はアプレゲールの新産物だが、二十の扉のメンバーは、決してカケガエのない、メンバーではない。ちょッと専門的に訓練すれば、あの程度にやれる人はいくらもあり、もッと特殊な個性をもった珍優を発掘することもできるだろうと思う。
一朝一夕で訓練できないのは話の泉で、堀内敬三先生の如きは、まさしく戦後派新人の明星であろう。よくまあ御存知になっている。あのメンバーは、日本歴史はあまり御存知ないが、西洋歴史を良く御存知なのには呆れかえるばかりである。専門とは云え、音楽もよく御存知である。
しかし、あそこに、徳川夢声先生という珍優が一枚加わると、千鈞(きん)の重みとはこのことである。
彼は含宙軒博士となり、含宙軒先生となり、含宙軒探偵となり、変装自在の特技者であるが、彼自身は本業を俳優と云い、文章のたぐいは副業であると称している。 
しかし、私の見るところでは、副業の文章が本職の文士以上にうまいが、俳優の方は、ややダイコンである。なんと云っても、彼の修練はクラヤミに於ける声の表現で、表情や身の動きは中年からの年期であるから、宙を含むの天分ありとはいえ、年期の遅きをいかにせん。表情はいさゝかテレくさく、手の置き場所にもいさゝか困っていらッしゃる。彼の映画は見ている方が辛いのである。
ところが、表情や動きのいらないラジオとなると、さすがに違う。彼の天分は堂を圧してしまう。アア夢声は天才ナリ、と思う。そして、彼の声の登場するところ、春風タイトウとして、人心を和(やわら)げ、心底から解放を与えてくる。又と得がたい声の俳優と申すべきであろう。
しかし、近ごろはメッタに登場せず、登場してもいさゝか精彩に欠けているが、これは含宙軒師匠が禁酒しているせいだろうと思われる。
我々文士が酒をのんでは、小説も書けないばかりで一向役にも立たないが、含宙軒師匠が酒をのむと、全国の皆様を春風タイトウとさせるのだから、ここは身命を投げうって酒を飲むところかも知れない。
戦後派の人気者の一つに職業野球がある。戦前に野球の主流であった六大学も甲子園大会も都市対抗も、今では、プロ野球の新人発掘の温床として注目される程度となっている。
しかし保守思想というものは、こういうハツラツたるスポーツに於ても在るもので、先日読んだ野球雑誌に、日本野球のベストメンバーというのを見ると、一塁が川上でも西沢でも飯田でもなく、死んだ中河になっている。そして中河こそは不世出の一塁手で、生れながらのプロ野球人だなどと絶讃しているのである。
しかし私の記憶によれば、中河が生きて活躍していた当時は、守備に於てはすぐれているが、打撃が全然ダメであるからという理由で、当時ベストメンバーを選ぶ時には、そのころはまだプロ新入生の川上などが却って選に入り、中河をベストメンバーに加える人などは殆どなかったものである。今日は尚のこと打撃時代であり、彼のスマートな守備ぶりがいかほどプロ的であっても、あの貧打でベストメンバーにはいる筈はありえないのである。
老人のクリゴトというものは、いつもこういうものである。しかし現代に生きる観衆はハツラツと生命に溢れており、現実を観賞することが全てゞ、今日プロ野球が人気をさらっているのも、プロ野球に実力と生命がこもっているからであろう。
何よりも、職業人としての心構えの確立がプロ野球を今日あらしめたのである。野球を天与の業として、嬉々と打ちこみ、つまらぬプレーを見せまいとして、ともかく全力をつくしている。
昔はこうではなかった。いゝ大人が野球などやるもんじゃない、という思想が、プロ野球のプレーヤーにもあったのである。そして、いかにも面白くもなさそうに、観衆の声援に対して、アベコベに、自分はお前さんたちのオモチャじゃないんだ、というようなフテクサレタ態度を示したものである。不世出の大打者と云われた宮武がそうであった。そして練習もおろそかに、あたら天分をもちながら、もっぱら三振して、フテクサレていたものだ。現在の選手では、大映の大岡に、こういう職業蔑視の気風がほの見えるようである。
話の真偽は知らないが、さる野球通の話によると、昨年、星野組の火の玉投手荒巻が東大へ入学しようとした。東大の野球部の世話役が大いによろこんで、東大野球部の黄金時代至ると、彼を大先輩の内村裕之博士のところへ連れていった。内村先生も大いに喜ぶかと思いのほか、荒巻にさとして、君もどうせ野球人として一生を終るのだろうから、東大の三年はそれだけムダではないか、すぐプロ野球へはいりなさい、と飜意をうながしたそうである。
こういう思想は過去にはなかった。人が天分に生きることは、罪悪視されていた。つまり、すべて冒険心というものが、醇風良俗に容れられず、日本人の正しい生き方は、小ヂンマリと月給を貰い、平々凡々に死ぬ、それが人並みで、一芸に身を捧げるというようなことは、歓迎すべき生き方ではなかった。
まったく芸界というものは、先の分らぬものであり、誰がどこまで延びるかは、専門家にもちょッと見当がつかない。海のものとも山のものとも分らない徒弟時代は特にそうで、我々のところへ弟子になりたいと云って、父や母につれられてくる子供があるが、まったく返答に窮する。未来がうけあえないからである。万人にすぐれた才能であればとにかく、十人並とか、十人並以上程度では、とてもすゝめるわけに行かない。
荒巻の場合はこれに反して、すでに世評のある人間であり、彼が勉強して、ほかの学業を学んでみても、彼の野球に於けるが如く、他の分野に於てもぬきんでるとは思われない。内村先生の如く一芸に秀でた専門家には、専門ということの尊さが分り、専門家に貴賤貧富のない理がわかるのだ。精神病医として大成するのも、野球人として大成するのも、その修業の激しさに変りはなく、学びの道に変りはない。
時事新報の将棋欄の解説者が、木村名人を評して、彼は何でも出来る人物だから、参議院議員となったらよかろう、と云っていたが、まことにバカげたことで、将棋家は将棋を一生の業とすべく、軍人が政治に口をだしたりすると国が亡びる。政治は本来の政治専門家がやるべきこと、将棋家に政治をやられては、こまるのである。政治は誰でもやれる。良識ある者は誰でもやれる。そういう風に政治を見くびっているから、日本の政治家はダメなのである。政治こそ、最も専門の知識を要するもので、単に人物ができているなどゝいう軽率な基盤で政治がやれるものではない。政治はあくまで政策が主で、そこには専門的な知識がなければならず、古今東西の歴史にてらして、未来を測定する確実な計出を必要とする。最も専門を要する職業なのである。
しかし一般には、こういう専門家の特性は考慮されてはおらず、したがって、専門家というものが、どういうものか知られていない。しかし、自分がまことに一芸に専門家であるなら、あらゆる専門家に貴賤上下の別がないことが分るもので、内村博士が荒巻に与えた訓戒は当然すぎるものであるが、日本の常識としては、これは尚、異端に属するものであるかも知れない。
内村博士のような学壇の壇の深くまつりあげられた超俗の学者が、嬉々として好きな野球随筆に打ちこんでいるのもアプレゲールの新風俗として慶賀すべきところであろう。
これに好一対をなすのが、宇野六段の阪神入りで、往年の学生横綱浅岡信夫が参議院議員になるよりも、宇野六段がバットをふり廻してくれる方が、私にはほゝえましく思われる。その方が筋が通っているからだ。
いったい日本のプロ野球では妙なことを言っている。六大学や実業団からの新人をすぐプロの本選手に仕立てゝグランドに出すのはプロの見識にかゝわるから、入団六ヶ月はグランドへ出すな、などゝ云っている。バカなことを言うものだ。うまけりゃ出すのが当り前だ。十六歳の中学生をいきなりプロの主戦投手にしたって構わない。実力があれば当然なのである。
戦争中の軍人は、艦長一人育てるには二十年かゝる、などと云っていたが、ドングリだから必ず二十年かゝる。天才は二三年でやれる。
野球もそうで、アメリカの大リーグでも、ボールを手にして一年しかたゝないのに、本選手になった天才もあり、ボッブ・フェラーは十八の年にプロ入りしてイキナリ三振十いくつ取っている。天才はそういうものである。
宇野六段は一向にウダツが上らないが、一般にスポーツの神経は似たようなもので、一芸に秀でたスポーツマンは他のスポーツにも応用のきゝ易いものであるから、ルーキーを探すに、現在の野球選手をねらわず、他のスポーツの選手を狙うという手があると思う。土地によっては父兄が野球を好まぬようなところもあるから、あたら天才児が柔道三段ぐらいになっていたりするものである。
新人というのは、職業人としての新人として意味があることで、職業人以外は余技にすぎず、朝日新聞が文化賞へ、アマチュア・スポーツを加えているのは滑稽千万の話である。
職業というものは尊いものだ。なぜなら、そこにその人の一生が賭けられ、生活が賭けられているからだ。金銭もかけられている。だから尊いので、金銭のかゝらないものは尊くない。
生活が賭けられ、一生が賭けられるから、職業に全人格が投入せられ、職業上に精神の安定をもとめ、ショウマンとして洗錬されたマナーも生れてくる。
アマチュア・スポーツが職業スポーツなみに騒がれると、その結果として現れるものは妖怪的な実相で、古橋や橋爪が学生的に銀座の店で物を売るよりは、職業人としてそうする方がどれだけ割りきれて美しいか分らない。美というものは割りきれていなければならないが、アマチュア・スポーツの英雄というものは、まことに妖怪的なものである。
要はアマチュア・スポーツの在り方の問題で、日本に於ては、スポーツは各人がこれを行って楽しむものではなく、見物して楽しむものであるところに不健康さの元があるように思われる。
応援団などゝいうものも、原始的に好戦的なまことにダラシなく野蛮なものである。これもつまりは、自らスポーツを楽しまずに、人のプレーを楽しむ不具的な習性から出ていることだろう。
朝日新聞の文化賞では、アマチュア・スポーツに授賞せず、プロ・スポーツに授賞するのが至当だが、スポーツの授賞の標準が世界新記録ということなら、これ又、滑稽千万な標準で、記録に表現できないスポーツはどういうことになるのだろう。レスリングやボクシングはどうなのか。チェスのようなゲームはどうなのか。スポーツだけで、ほかのゲームは違うというなら、これも滑稽。チェスはとにかく、囲碁や将棋や相撲は?これらはもしも世界的に名人戦をひらけば、碁に於ける呉清源はとにかく、たいがい日本人が選手権をとるだろう。これはスポーツの新記録ほど価値がないのかな。
水泳フリー千五百の一八分一九秒はまだどんどん破られるだろう。陸上百米(メートル)の十秒三が二か一ぐらいになると、ほゞ人間の限界に達して破ることが至難になろうが、長い距離は陸上水泳に限らず、限界は遠く先にあって、まだ当分はヤマが見えない。
文化賞の授賞などゝいうことには、ひろく深い識見が必要で、ジャーナリズムの新人は必ずしも新人ではない。
私の経てきた半生のうちで、現代は、ともかく最も素質ある新人の揃っている時代のようであり、その新風もかなり劃然と一つの新時代到来を感じさせるものがあるようである。新人に良きものなしなどゝ云うのは頭の悪いジャーナリズムとグチッぽい老人どもの云うことである。 
 
戦後文章論 / 坂口安吾

 

言葉は生きているものだ。しかし、生きている文章はめったにありません。ふだん話をするときの言葉で文章を書いても、それだけで文章が生きてくるワケには参らないが、話す言葉の方に生きた血が通い易いのは当然でしょう。会話にも話術というものがあるのだから、文章にも話術が必要なのは当り前。話をするように書いただけですむ筈はありません。「ギョッ」という流行語のモトはフクチャン漫画だろう。横山隆一の発明品である。彼は漫画の中へギョッだの、モジモジだの、ソワソワだのという言葉を絵と同格にとりいれるという珍法を編みだした。
モジモジ、ギョッ、ソワソワを絵だけで表現するのはそうメンドウではないだろうが、言葉を加えた方が絵だけで表現するよりも、はるかに珍な効果をあげる。二科会員隆一先生はそれを見破りあそばされた。凡庸な眼力ではなかろう。
しかし、漫画というものは、絵よりも文学にちかいものですよ。それも少しの差ではなくて、絵が三分、文字が七分、否、一分と九分ぐらいに全然文学の方に近いだろうと私は思っています。
紙芝居は一目リョウゼン、絵は従で、物語の方が主ですが、それにくらべると、漫画の方は絵が多くて言葉の使用は甚だ少い。けれども、その多少によって絵か文学かが定まるわけではなくて、漫画の発想も構成もほぼ文学そのものだという意味です。絵で読むコントであり、落語であります。
ですから漫画家は文章がうまいな。近藤日出造や清水崑の人物会見記は、漫画も巧いが、文章の巧さもそれ以下ではない。
本職の絵カキはデッサンということを云う。文章にはそれにちょうど当てはまるものがないようだが、もしも文章に基本的な骨法があるとすれば、物の本質を正確につかんで、ムダなく表現することだろう。彼らの会見記はその骨法にかなうこと甚大で、それも最短距離で敵の本質をほぼ狂いなく掴んでいるし、さらに文章の綾を加えて仕上げるのが巧妙だ。綾にもムダが少い。漫画というものが、本来ムダがないせいかね。
横山兄弟も、うまい。弟の方は文士の探訪記に同行して挿絵をかいてるが、彼自身が絵も文章も書いた探訪記は文士以下ではないのである。兄貴の方は今日出海の「山中放浪」をそっくり借用して、人物を実名に書きかえて、自分の比島従軍記をこしらえあげてしまったが、まったくこの先生は珍法を編みだす名人である。しかし巧みなものです。歴史漫画の荻原賢次の文章は見たことがないが、これも名手に相違ない。彼が新大阪に連載中のゼロさんと横山泰三のプーサン(夕刊毎日)は社会時評としても卓抜で、その諷刺とユーモアは低俗なものではない。甚しく文学的なものですよ。
サザエさんも絵はあまりお上手ではないが、文章は相当うまいし、特に思いつきが卓抜だ。その他数名の新進流行児が揃って思いつきが相当に新鮮で、ブロンディの思いつきはすぐ限界がきてしまうが、彼らはなかなか限界を感じさせません。思いつきに富むということは何よりのことで、誰でも、というわけにはいかない。敬服すべきことです。
思いつきの点ではサザエさんが特にすぐれて、苦心の程がくみとれるが、絵にムダがあるように、彼女の文章(単行本の序文ぐらいしか読んでいないが)も巧みではあるがムダがある。
そのムダは、絵のデッサンの問題ではなくて、文章の基本的な骨法の問題で、物の本質を正確にムダ少くつかむ、ということが、長老達に及ばないのである。
長老と云っては相済まんが、招かれて二科の会員に参加させられたほどのお歴々であるから、長老と申す以外に手がないな。しかしこの長老のお歴々は、頼まれれば禁酒会会長でも憲兵少将でもイヤとは仰有らずに、オデン屋の開店祝いの招待と同じように馳せ参じるにきまってるから、オデン屋のノレンと同じように二科のノレンをくぐってもおかしくはないね。憲兵大将の部屋や法廷や廊下にデカデカと漫画をかかげるのも、オデン屋の壁にデンスケや河童をかくのも、二科会場へ三百号のデンスケをかかげるのも変りはないさ。彼らの心境はどこのノレンをくぐっても全然不都合がないだろうが、二科の教祖の心境の方が、どうも変だ。ギョッ、だね。
絵カキにも名文家が多いけれども、いかにも美文名文です。型通りではあるが、物の本質を正確に鋭くつかむという文章の基本的な骨法の欠けているのが多いようです。絵と文学はちがうのでしょう。ところが一流の漫画家は例外なく文章道の達人で、それは漫画の文学性によるのでしょう。それに、アップツーデートということにもよる。これも文学性の一ツと云ってよいかも知れません。理解されないアップツーデートというものはない。しかし理解されない大家や教祖の絵は多い。それはその美が深慮であるというよりも、その美には現代に生きるイノチの欠けるものがあるせいではないでしょうか。現代に生きないイノチは過去にも未来にも生きる筈はありませんよ。芸術の誕生は早すぎることも遅すぎることもない。いつも現代に生れるのです。
終戦後の文章で際立って巧妙になったのは、まず各新聞の碁将棋欄です。みんな揃って達人になった。実に短いけれども、卓抜な読み物です。特に三象子がうまい。対局の技術上のことも、心理上のことも、急所だけピタリと押えて一般向きの興味津々たる読み物に仕上げています。
これを新聞の他の連載的読み物と比べてみるとその卓抜なのが分る。たとえばどの新聞にも匿名批評がある。文学のもあるし、政治のもあるが、その一般向きの点でも、文章の巧みさの点でも、本職の文士の匿名批評がとても及ばない。しかも、そのヒラキが大きいね。その他、身の上相談の文章も、スポーツの批評も、とても問題にならない。碁将棋欄の文章だけが各紙そろって達人ぞろいとなり、一般向きの、そして特に興味ある読物になったのはどういうワケだろう。これに匹敵する新聞紙上の花形は、漫画ぐらいのものです。人物会見記も、妙に相手をいたわるような気風が現れてきて、だんだんつまらない物になってしまった。
三象子の文章が特に生きていて、いちじるしく活写の筆力が鋭いのは、彼は木村にも升田にも同情しない。別に悪意は毛頭ない。ただ真実を書ききっているから生きているのですよ。しかし文章もうまいなァ。私の住む土地の静岡新聞というのに、この土地の人なのか、高柳八段が田舎の素人将棋などの観戦批評を書いているが、これも捨てがたいものです。淡々としながら、たくまぬような、しかし巧みなユーモアもあって、急所はピッタリ押えているし、田舎の新聞にはモッタイない逸材です。
人物会見記の筆者は、筆力も観察力も相当の達人ぞろいのようだが、相手に気がねをする気風が起っては、せっかくの才能も死んでしまうのは仕方がない。しかし別に心を鬼にするというような大そうなものではありますまい。日出造や崑の漫画入りの短文が生きているのは、彼らが職人になりきっているからでしょう。職人になりきっておれば、現実的なナマの感情でくもることはないものですよ。それに漫画家は自分だけの角度というものを持っている。それも要するに職人になりきっているということでしょう。ちかごろ正宗白鳥先生が読売の東西南北で署名批評をやりはじめたが、さすがにおもしろい。職人になりきった人の味であろう。職人になりきった人は、年齢と関係なく現代に生きているものである。白鳥先生が明治の話をもちだして、いかに老齢を嗟嘆しても、読者が感じるのは白鳥青年です。しかし、漫画や碁将棋がめざましく生き生きした作品であるのに比べて、本職の文士の文章のダラシのないのはヒドすぎますね。つまり、匿名批評の文士には職人の根性が欠けているのですよ。商品でなければならん。読み物でなければならん、という大事な根性がなければ、すでに職人ではないし、したがって本職ではない。つまり素人なんです。いかに文士であるとあなた自身が強弁しても、あなたは素人だ。本職というものは、もっと仕事に忠実で、打ちこむものだし、手をぬくことを何よりもイサギヨシとせぬもので、あなた方のような雑な仕事をしながら、本職の文章をアレコレ云うのはまちがっていますよ。
先日も小原壮助先生に、安否の文章は講談の弟子だというオホメのお言葉にあずかった。しかし、それは壮助先生の洞察の心眼の鋭いせいではない。当り前の話ですよ。講談というものを知ってる人がよめば、一目で分る筈のものです。私自身が講談落語の話術を大そうとりいれました。ということを何度も書いているのですよ。彼らの話術は大したものです。見習うべきことがタクサンあるのですよ。
しかし、表面的にマネをしてもダメなものです。狂言にはもっと学ぶところが多かったのです。狂言は現代の言葉ではありませんが、表面的には言葉は死んでいても、生きているイノチがめざましい。そして今に至るまで生きているために必要な技術、そういう本質的なことを学ぶことの方が大切でありましょう。
私は文章上にだけ存在している現代の文章というものがイヤなんです。なぜなら、現実にもッとイキのよい言葉を使っているのだもの、習い覚えたペルシャ語で物を書いているような現代の文章がバカバカしくて、イヤにならない人の方がフシギなのですよ。そうではありませんか。
私がこういう文章を書きだしたのは、特に新型を編みだそうという志よりも、習い覚えたペルシャ語で物を書くのがイヤで、イヤで、たまらなくッて、万やむをえず、こうなっているのです。むろん多少の工夫も致しましたが、万やむをえずこうなった後に、おのずから工夫の志も起ったわけで、私の方の考えでは、習い覚えたペルシャ語で物を書いて、フシギだとも、イヤだとも思わない人々、特に本職の心事はワケがわからない。 
私は戦争裁判の証人に戦犯事務局へよばれた友につきそって行ったことがあった。むろん英語の分らん拙者だから、通訳に行ったわけではない。一人ではいささか心細いからたのむ、というから、心得た、と、漫画の長老と同じことさ。私も頼まれれば禁酒会会長でも税務署の徴税部長でも何でもやるさ。しかし友は私以上に英語の心得がないらしく、よって、はからずも実に苦心サンタン、テンテコマイをさせられたね。某将軍は占領地の住民に対して寛大であった、寛大であろうと心がけた、その寛大というのが、どうしても先方に通じないね。ようやく通じて、先方は私の言葉を云い直してくれましたよ。ソフトと云いましたね。そのときはアメリカもアッパレだと思いました。耳もうたれたし、目もうたれましたよ。目をうたれたと云うのはシミジミ相手のお顔を見直したというような心境さ。カラリとした晴天を二千米の峠であびてるように爽快だったね。
言葉はそれでタクサンなのだ。否、単に間に合うというばかりでなく、それは目ざましく生きています。寛大という日本語と、ソフトというアメリカ語との差は、習い覚えたペルシャ語と生きている言葉との相違ですよ。我々の文章が習い覚えたペルシャ語であるために、生きてる筈の言葉にも習い覚えたペルシャ語の死神の相がのりうつッているのですね。死神にとりつかれて蒼ざめた言葉を生気乏しく使っているのですよ。
当り前の言葉で大概のことが言い表わせる筈ですよ。日常生活の言葉で文学論がやれないと思いますか。それだけの言葉では間に合わない深遠な何かがあるのですか。
私は坊主の学校で坊主の徒弟の稽古をやって、あんまり役に立つことがあったとは思わないが、一ツ驚いたことがありました。仏教哲学に倶舎論{クシヤロン}というものがあって、人間の心理を七十五に分類してますが、その分類された心理をどんなに先生にテイネイに教えていただいても全然わからんのですよ。梵語やパーリ語も心得て、西洋の哲学もわきまえて、西洋式の印度哲学に通じた大先生の一人でありましたが、チンプンカンプンで、適確なことはまるで分りません。ところが、真言宗の某派の管長の長老から同じ本を習いました。この長老は小猿のようにチョコチョコした人ですが、倶舎論にかけては天下に及ぶ者なしと実にハッキリと定評のあった倶舎論学者で、この人の講義にはおどろきました。アッと云ったまま、開いた口がふさがらぬようなオモムキがありましたよ。
実になんでもない日常の言葉で、正確にハッキリと説明しきってしまう。人間の心理の分類だもの、難解な筈はないのですよ。ただ七十五というバカバカしくこまかな分類だから、分類がムリなのです。全然その差の有りえないところへ屁理窟をつけてどうしても七十五というこまかさに分類しようという印度聖人のコンタン、日本人の先輩だけのことはある。彼らが用いていた日常の言葉をパーリ語と云いますが、深遠な哲理を俗人と同じ言葉で論議するのは不都合であるというので、学者だけの言葉をこしらえた。これを梵語と云うのです。そういう武装好みの学者だから、すべてコンタンが不穏です。わざと七十五にも心理を分類するという、有りうべからざることをやる。わが長老は小猿のようにチョコチョコと、しかし秀吉よりもゴキゲンうるわしくニコニコしながら、たよりないぐらいタダの言葉で一ツ一ツ御説明あそばすのですが、そのよく行き届いて、適切で、明快なこと。それをかの長老はニコニコと、こんな風なアンバイに仰有るのです。
「メンドウなことを言うとるもんじゃ。これはナ。ナニ、カンタンなことじゃ。くどいことを言いたておるからムツカシく見えるが、ナニ、タワイもないことを言うとるんじゃよ。分ってみればバカバカしいもんじゃナ。区別のないものに区別をつけて、こじつけておるだけじゃよ。きいてみればほんとにツマランことじゃナ」
というような前ブレをつけておいて、ニコニコ、スラスラと説きあかす。語句の一々に説明が適切で、綜合した結果に於て、なるほど前ブレの通りの実にツマラン結論がハッキリと現れてくる。かの長老は益々ゴキゲンうるわしく、
「ツマランことじゃのう。なんで、こうムリに区別をたておるのやら、泣かせんでもいいことに、人を泣かせおるもんじゃのう」
というグアイであった。かの長老のおかげで、倶舎論の真意はわからなかったが、日常の言葉でどんなことも言えるものだし、その方に血も肉もこもっているものだということを、事実に於て教えられたのである。これを開眼というのかね。坊主の徒弟なみに、開眼という非凡なことを、やってきたのですぞ。
大岡昇平と三島由紀夫は戦後に文章の新風をもたらしましたが、その表現が適切に、マギレのないようにと心がけて、まさしく今までの日本の文章に不足なものを補っております。明快ということは大切です。
ですが、小説というものは、批評でも同じことだが、文章というものが、消えてなくなるような性質や仕組みが必要ではないかね。よく行き届いていて敬服すべき文章であるが、どこまで読んでも文章がつきまとってくる感じで、小説よりも文章が濃すぎるオモムキがありますよ。物語が浮き上って、文章は底へ沈んで失われる必要があるでしょう。
御両所に共通していることは、心理描写が行き届いて明快であるが、それは御両者のつかみだしてきた事柄についてのことで、その事柄として明快に心理をつかみとって描いてみせているけれども、その事柄でない方には目をふさいでいる。一方に行き届いて明快であることが、他には全然行き届かぬという畸型を生じております。
それも要するに、文章が濃すぎるということだ。文章というものは行き届くはずはないものです。行き届くということは、不要なものを捨てることですよ。すると他に行き届かないという畸型は現れません。
そして、捨てる、ということは、どういうことかと云うと、文章は局部的なものでないということです。むろん、文章は局部的にしか書けないし、その限りに於て文章は局部的に明快で、また行き届く必要がありますけれども、文章の運動というものはいつも山のテッペンをめざし、小説の全体的なものが本質として目ざされておらなければならない。言葉の職人にとって、一ツ一ツの言葉というものは、風の中の羽のように軽くなければなりませんな。
どうしても、この言葉でなければならん、というのは、そんな極意や秘伝があるのか、と素人が思うだけのことですよ。職人にとっては仕事というものは、この上もない遊びですよ。彼の手中にある言葉は、必然の心理を刺しぬくショウキ様の刀のようなものではなくて、思いのままに飛んだり、消えたり、現れたりする風の中の羽や、野のカゲロウや虹のようなものさ。
言葉にとらわれずに、もっと、もっと、物語にとらわれなさいよ。職人に必要なのは、思いつき、ということです。それは漫画の場合と同じことですよ。ここを、ああして、こうして、という問題のワクがまだ小さいウラミがあります。
要するに、文章が濃すぎると思うのですよ。もっとも、私の言うのは文章だけに目をおいて、言ってるのですがね。
文章の新風としては、今度の芥川賞の候補にのぼった安岡章太郎という人のが甚だ新鮮なものでありました。私は芥川賞に推して、通りませんでしたが、この人は御両所につづく戦後の新風ですね。この人の文章は、山際さんや左文さんのような戦後風景に即しておって、文章としてはたくまずして(実はたくんでいるのでしょうが)おもしろい。作中の人間と、文章がピッタリして、本当に生き物のような文章なのです。そして風の中の羽のように軽い。
けれども、この妖しい生き物のような文章は、文章の限りにおいて面白いが、恐らく文章が全然内容を限定してしまう性質のものです。まア、人間は銘々が自分だけの物をつくればタクサンなのだから、自分は自分の領分だけでタクサンだ、と云えば、それもそうですが、いくら妖しい生き物のような文章でも、内容があんまり限定されるということは、結局作品を骨董的なものに仕立ててしまって、いつまでたっても、それだけのものだ。
だから、文章としては風の中の羽のように軽くて、作中人物は生き生きと浮き上り、結局文章は姿を没するような爽快なオモムキがありますけれども、大岡三島御両所のように後世おそるべしというところがない。文章が濃すぎるということは今だけの問題にすぎない意味があるが、文章が妖しく生きすぎていてノッピキならぬオモムキがあるのは、文章と人間や物語とがピッタリはまりきって、他を入れる余地がないことを意味するように思われる。
内容を限定する危険のある文章はなるべく避けなければいけますまい。どんな人間同士の複雑な関係や物語にも間に合う幅が必要ですよ。
大岡三島御両所の文章は批評家にわからぬような文章や小説ではないね。甚だしく多くの人に理解される可能性を含んでいますよ。
新聞の連載漫画や碁将棋の観戦記に職人のイノチがこもって今日的に生き生きしている目覚しさを、御両所は誰よりもお分りになる筈であろう。批評など相手にするのは愚ですよ。バカになることですよ。 
 

 

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