国定忠次 (忠治)

国定忠次 / 口説き八木節「忠次一代記」虚構の義賊映画1映画2映画3
関連情報 / 生涯1生涯2生涯3生涯4生涯5諸説1諸説2諸説3諸説4諸説5
登場人物 / お鶴紋次大前田栄五郎円蔵七兵衛伊三郎文蔵左三郎助次郎勘助
やくざ / やくざの生活侠客100選やくざと日本人走れ国定忠治・・・
花札考 / 花札カルタ1カルタ2花札12ケ月虹は龍の化身影とは闇であり謎・・・
 

雑学の世界・補考   

国定忠次 口説き・八木節

 
国定忠次1 (口説き)
今度珍し侠客口説き 国を詳しく尋ねて聞けば
国は上州吾妻郡 音に聞こえし国定村よ
そのや村にて一二と言われ 地面屋敷も相応なもので
親は忠兵衛という百姓で 二番息子に忠次というて
力自慢で武術が好きで 人に勝れし剣術なれば
親は見限り是非ないことと 近所親類相談いたし
地頭役所へお願いなさる 殿の御威光で無宿となりて
近所近辺さまよい歩き ついに博徒の親分株よ
子分子方もその数知れず 一の子分は日光無宿
両刀遣いの円蔵というて 二番子分は甲州無宿
甲斐の丘とて日の出の男 それに続いて朝おき源五
またも名高き坂東安二 これが忠次の子分の中で
四天王とて呼ばれし男 頃は弘化の丙の午の
秋の頃より大小屋かけて 夜の昼のも分かちはなくて
博打渡世で月日を送る 余り悪事が増長ゆえに
今はお上のお耳に入りて 数多お手先その数知れじ
上意上意とその声高く 今は忠次も身も置き所
是非に及ばず覚悟を決めて 子分子方も同意の覚悟
鉄砲かついで長脇差で 種子島へと火縄をつけて
三ツ木山にて捕手に向かい 命限りの働きなどと
忠次付き添う女房のお町 後に続いて妾のお鶴
どれも劣らぬ力量なものよ 髪は下髪長刀持って
今を限りと戦うなれど 子分四五人召し取られては
今は忠次も早たまらじと 危うけれども覚悟を極め
越後信濃の山越えしよと いずくともなく逃げよとすれど
後に付き添う二人の女 命限りに逃げ行くほどに
今度忠次の逃げ行く先は 国はいずこと尋ねて聞けば
これも東国上州なれど 赤城山とて高山ござる
駒も通わぬ鶯谷の 野田の森にと篭りて住めば
またも役人不思議なことに 手先手先をお集めなされ
頭忠次を召し捕らえんと 最寄最寄へ番小屋かける
今は国定途方に暮れて 女房お町と妾に向かい
たとえお上へ召し捕らわれて 重い刑罰厭いはせぬが
残るこなたが不愍なままに さらばこれより国越えせんと
残る子分の二人を連れて 音に聞こえし大戸の関所
忍び忍びて信濃の国へ 忍び隠れて八年余り
鬼も欺く国定なれど 運のつきかや病気が出でて
今は是非なく故郷へ戻る 隣村にて五名井の村の
後家のお徳に看病頼む この家お徳の以前というは
日光道中玉村宿で 数多お客の勤めをすれど
忠次さんには恩あるゆえに たとえこの身は何なるとても
何ぞ病気を本復させて 元の体にひだててやろと
神や仏に願望かけて 雨の降る日も風吹く夜も
裸足参詣を致されまして 茶断ち塩断ち水垢離とって
一所懸命祈ったけれど 天の罰かやお上に知れて
御取り締まりのお手先衆は 上意上意の声かけられて
女房妾や忠次にお徳 それに続いて子分に名主
以上七人召し捕らわれて ついにこれらは軍鶏篭よ
支度できたで厳しく守り 花のお江戸へ差し立てられる
音に聞こえし国定忠次 江戸の役所でご詮議受けて
余り吟味が厳しいゆえに 殊に病気の最中なれば
是非に及ばず一つの悪事 これを白状致したゆえに
関所破りのその咎めやら 木曽の道中臼井のうちで
大戸ばんしの狼谷で 重いお仕置きかけられました
これを見る人聞く人さんよ 男女子供の戒めよ 
国定忠治2 (八木節)
御来場なる  皆さん方え
   平に御免を   蒙りまして
   何か一席    読み上げまする
   掛かる外題を  何よと聞けば
   猫か鼠か    泣く子も黙る
   鬼も恐れる   国定忠治
   然らば此れから
   読み上げまするがアーイサネー
此処に忠治の  此の一代記
   国は上州    佐波郡にて
   音に聞こえた  国定村の
   此の家忠治の  生い立ちこそは
   親の代まで   名主を勤め
   人に知られた  大身なれば
   大事息子は   即ち忠治
蝶よ花よと   育てるうちに
   幼けれども   剣術柔
   今はようよう  十五の歳に
   人に勝れて   目録以上
   明けて十六   春頃よりも
   ちょいと縛えき 張り始めから
   今日も明日も  明日も今日も
日々毎日    縛えき渡世
   遂に悪事と   無職が渡世
   二十歳ばかりの 売り出し男
   背は六尺    肉付きゃ太い
   男伊達にて   真の美男
   一の子分の   三ツ木の文蔵
   それに続いて  数多の子分
子分小方を   持ったと言えど
   人に情の    慈悲善根の
   感じ入ったる  若親方に
   今は日の出に  魔が差したるか
   二十五歳の   厄歳なれば
   総て万事に   大事を取れど
   丁度其の頃   無職の頭
お聞き下さる  皆さん方え
   後段続けて   読み度いけれど
   先ずは此の度で 止め置きまして
   又の御縁で
   伺いまするがアーイサネー  
国定忠治3 (八木節)
ハァーまたも出ました三角野郎が 四角四面の櫓の上で 
音頭取るとはお恐れながら 国の訛りや言葉の違い
お許しなさればオオイサネー 
さてもお聞きの皆様方へ チョイト一言読み上げまする 
お国自慢は数々あれど 義理と人情に命をかけて
今が世までもその名を残す 男忠治のその生い立ちを
 不弁ながらも読み上げまするが オオイサネー
国は上州佐位郡にて 音に聞こえた国定村の 
博徒忠治の生い立ちこそは 親の代には名主をつとめ
人に知られた大身なるが 大事息子が即ち忠冶 
蝶よ花よと育てるうちに
幼なけれども剣術柔 今はようやく十五の年で 
人に優れて目録以上 明けて十六春頃よりも
ちよっと博奕を張り始めから 今日も明日も明日も今日も 
日にち毎日博奕渡世
負ける事なく勝負に強く 勝って兜の大じめありと 
二十才あまりの売り出し男 背は六尺肉付き太く
器量骨柄万人優れ 男伊達にて真実の美男 
一の子分が三つ木の文蔵
鬼の喜助によめどの権太 それに続いて板割浅太 
これが忠治の子分の中で 四天王とは彼らのことよ
後に続いた数多の子分 子分小方を持ったと言えど 
人に情は慈悲善根の
感じ入ったる若親方は 今は日の出に魔がさしたるか 
二十五才の厄年なれば すべて万事に大事をとれど
丁度その頃無宿の頭 音に聞こえた島村勇 
彼と争うその始まりは
かすり場につき三度も四度も 恥をかいたが遺恨のもとで 
そこで忠治は小首をかしげ さらばこれから喧嘩の用意
いずれ頼むとつわ者ばかり 頃は午年七月二日 
鎖かたびら着込を着し
さらばこれから喧嘩の用意 いずれ頼むとつわ者揃い 
頃は午年七月二日 鎖かたびら着込を着し
手勢揃えて境の町で 様子窺う忍びの人数 
それと知らずに勇親方は
それと知らずに勇親方は 五人連れにて馴染みの茶屋で 
酒を注がせる銚子の口が もげて盃みじんに砕け
けちな事よと顔色変えて 虫が知らせかこの世の不思議 
酒手払ってお茶昼を出れば
酒手払ってお茶屋を出れぱ いつに変ったこの胸騒ぎ 
さても今宵は安心ならぬ 左右前後に守護する子分
道に目配ばせよく気を付けて 目釘しめして小山へかかる 
気性はげしき大親方は
気性はげしき大親方は およそ身の丈け六尺二寸 
音に聞こえし怪力無双 運のつきかや今宵のかぎり
あわれ命はもくずのこやし しかもその夜は雨しんしんと 
闇を幸い国定組は
今は忠治は大音声で 名乗り掛ければ勇親方は 
聞いてニッコリ健気な奴ら 命知らずの蛆虫めらと
互い互いに段平物を 抜いて目覚す剣の光り 
右で打ち込む左で受ける
秋の木の葉の飛び散る如く 上よ下よと戦う内に 
運のつきかや勇親方は 胸をつかれて急所の痛手
ひるむ所へつけ込む忠治 首をかっ切り勝鬨あげて 
しめたしめたの声諸共だが オオイサネー 
 

 
「侠客(おとこだて)国定忠次一代記」

あらすじ
上州国定村の忠次は剣術道場を開くため、念流の道場に通っていた。
十七歳の時、誤って人を殺してしまい、玉村宿の親分、佐重郎の紹介で武州藤久保に隠れていた大前田栄五郎を頼った。栄五郎の男気に惚れた忠次は博奕打ちになろうと決心する。
正月に藤久保に挨拶に来た高萩の万次郎と知り合い、兄弟分となり、一年後、上州に戻った忠次は栄五郎の兄弟分、百々村の紋次親分の子分になった。
百々一家は境宿を中心に縄張りを持っていたが、その縄張りを島村の伊三郎親分が狙っていた。伊三郎は紋次の代貸を引き抜いて境宿に進出して来た。信頼していた子分に裏切られた紋次は酒浸りとなり、ついに中風で倒れてしまった。
紋次を見舞いに来た前橋の福田屋栄次郎の口添えで百々一家の跡目を継ぐ事になった忠次は、栄次郎の客人だった日光の円蔵を迎え、一家を立て直す決心をする。
円蔵の策により、女渡世人に壷を振らせ、賭場に客を集める事に成功した忠次は、伊三郎を倒すため、伊三郎の代貸たちを争わせようと考えた。作戦はうまく行き、伊三郎の代貸たちは殺し合いを始めた。平塚の助八が中島の甚助を殺して、旅に出たのだった。
世良田の祇園の賭場の事で、忠次の子分、三ツ木の文蔵が袋叩きにされた事に腹を立てた忠次は、伊三郎を殺すのは今しかない、と円蔵と共に暗殺計画を立て、七月の二日の夜、世良田へと向かう伊三郎を殺した。
伊三郎を殺した忠次らは旅に出、留守は円蔵らが守ったが、伊三郎の子分たちの襲撃は無く、伊三郎が死んだ事によって、跡目争いが始まり、島村一家は分裂した。
一年余り、信州に隠れていた忠次と文蔵が百々村に戻って来ると、留守を守っていた円蔵は境宿を取り戻し、新しい子分も増えていた。
伊三郎がいなくなって、日の出の勢いの忠次は本拠地を百々村から、国定村の隣村、田部井村に移し、名前も国定一家に改めた。玉村宿の佐重郎の誘いで、玉村の八幡宮の賭場を主催した忠次は各国の親分たちと知り合い、名を売った。
天保の飢饉の時は、蔵持ちの旦那たちに隠し米を出させて飢えた人々を救い、日照りに備えて、田部井村と国定村の沼も浚った。
縄張りも広がり、子分も増え、絶頂の忠次だったが、子分の裏切りによって、文蔵が捕まってしまった。何とかして取り戻そうとしたが失敗した忠次は、子分たちに文蔵を取り戻す事を命じて旅に出た。大戸の関所を目の前にし、怒りが治まらない忠次は長脇差を振り上げて、関所破りをしてしまった。
各地の親分のもとに草鞋を脱ぎ、四国の金毘羅参りをして、忠次が帰って来たのは二年後だった。留守を守っていた子分たちと再会を喜んでいると、円蔵が顔色を変えてやって来た。関所を破ってしまったため、まだ危険だという。忠次は子分の千代松の家に隠れ、江戸で曝し首にされた文蔵の墓を立てると、また旅に出た。
それから一年余り、旅をした忠次はこっそりと戻って来た。天保の改革が始まり、幕府の役人たちが忠次を血眼になって探し回っていた。忠次は赤城山に隠れたが黙ってはいなかった。山開きの日に各国の親分衆を集めて、山の頂上で大賭博を催した。
赤城山の賭博を成功させた忠次は四ケ月後、田部井村の又八の家で日待ちの賭場を開帳した。大勢の子分たちに見張りをさせ、各地から旦那衆が集まって賑わった。しかし、夜明け近くに八州役人に率いられた大勢の捕り方に囲まれた。忠次は無事に逃げ切ったが、三人の子分が殺され、八人の子分が捕まってしまった。赤城山に隠れながら、忠次は子分たちを助けようとしたが、警固が厳重で助けられず、裏切り者だと睨んだ三室の勘助を板割りの浅次郎に殺させ、旅に出た。
勘助殺しを機に国定一家を潰そうと考えた八州役人たちは総動員して忠次たちを探し回り、次々に大物の子分たちを捕まえた。軍師だった円蔵も捕まり、忠次の縄張りは縮小した。その後、忠次は四年近くを旅で過ごし、上州に戻って来ても隠れる生活が続いた。逃げる事に疲れた忠次は四十歳になると、跡目を境川の安五郎に譲り、兄弟分のいる会津に行って、のんびり暮らそうと思った。しかし、突然の発作に襲われた忠次は体が動かなくなり、田部井村の名主の家に隠れている所を捕まった。
江戸に送られた忠次は関所破りをした事によって磔刑を言い渡され、雪のちらつく寒い日、大戸の関所で処刑された。  
その目でじっくり、見てやっておくんなせえ
嘉永三年(一八五〇)十二月二十一日、上州(群馬県)吾妻郡(あがつまごおり)、信州街道の大戸宿(おおどじゅく)は朝早くから祭りさながらの賑やかさだった。
その日は粉雪がちらつき、凍るような寒さだった。
にもかかわらず、各地から人々が集まり、これから始まる見世物をそれぞれの人がそれぞれの思いで見守ろうとしていた。
萩生(はぎう)村の農家から出て来た旅の商人(あきんど)が街道を眺めて目を丸くした。
「ほう、こりゃ凄(すげ)えのう。まるで、蟻の行列のようじゃ。ほんま、大したもんや」
独り言をつぶやくと商人は菅笠をかぶり、荷物を背負って、その流れの中に入って行った。
目の前に女連れの一行がいた。
おこそ頭巾をかぶった後ろ姿がなかなか色っぽい年増女が二人と四十年配の男が三人、遠くからやって来たような旅支度で、皆、無言のまま歩いている。
回りを見回すと女連れの者が結構、多いのに商人は驚いた。
これから始まる見世物は女子供が好んで見るような代物ではないはずだったが‥
商人は商人特有の愛想笑いを浮かべると、前を行く一行に声を掛けた。
「えらい人出でございますなア」
二人の女と一人の男が振り返って、商人の顔を見た。
二人の女は確かに色っぽかったが、年増というよりは中年に差しかかっていた。二人共、粋な身なりで料理茶屋の女将という感じだった。
女たちは商人の顔をチラッと見ただけで何も言わなかったが、頬(ほお)っ被りして荷物をかついでいる男は商人にうなづき、「はい。まったく、凄いですなア」と答えてくれた。
商人は軽く腰を屈め、「あたしは近江から来た橘屋(たちばなや)という商人でございます」と名乗った。
「境の絹市で噂を聞きまして、土産話にちょいと覗いて行こうと思い、こうして、やって参りました。まさか、これ程の賑わいとは思ってもおりませんでしたわ」
「近江からいらしたんですか、それはそれは‥わたし共は信州からです」
男は人懐っこい顔をして、橘屋と並んで歩いた。丁度いい話相手が見つかって、ホッとしたという顔付きだった。
「信州?あれ、方向違いのような‥」
橘屋は首を少し傾げた。
「はい。昨夜(ゆうべ)、大戸に着いたんですが、宿屋が一杯で泊まる所がございません。仕方なく、萩生まで行って、何とか泊まる事ができたという次第なんです」
「そうでしたか。信州から、わざわざいらしたんですね?」
「勿論ですとも。まさか、親分さんがこんな事になろうとは‥失礼ですが、親分さんの噂は近江の方にも聞こえておりますか?」
「はい、それはもう聞こえとりますとも。あたし共は上州と江州(ごうしゅう)を行ったり来たりしとりますんで、親分さんの噂は上州の話をする度に話題に上ります。ただ、噂ばかりで実際に会った者はおりまへんし、渡世人の世界の事はあたし共にはよく分かりまへん。いい加減な噂ばかりでございますよ」
「あのう、いい加減な噂とはどんな噂なんです?」と橘屋の前を歩いていた女が急に振り返った。
「はい、まったくいい加減な噂なんです」と橘屋は言ったが、もう一人の女も興味深そうな顔をして、噂の内容を聞きたがった。
「本当かどうかは存じまへんが、親分さんが悪いお代官様を斬ったとか、天保の飢饉の時、お百姓たちにお米や銭をばらまいて救ったとか、いい噂もあれば、若い娘をかどわかして女郎屋に売り飛ばしたとか、赤城山に隠れてて、夜になると村々に出て来て、手当たり次第に娘たちを手籠めにしたり、銭を盗んだとか‥」
「何ですって、誰がそんなひどい噂を‥」
女たちは口惜しそうに唇を噛んだ。
連れの男たちも信じられないというような顔付きで橘屋を見ていた。みんな、悪い方の噂に対して、親分さんがそんな事をするはずはないと信じているようだった。
「はい、まったくいい加減な噂なんです」と橘屋は大袈裟に手を振った。
「そんな、ひどすぎます」
二人の女は顔を見合わせて顔をしかめた。
「はい、ひどい噂です‥あたしには親分さんがどんなお人なのか、まったく見当も付きません。今回、境に行ったら、親分さんの噂で持ち切りで、あたしも気になって色んな人に聞いてみました。それでもやっぱり、よく分かりませんでした。親分さんの地元でも、親分さんを良く言う人もおりますし、悪く言う人もおります。どっちの言い分が正しいのか、あたしにはさっぱり分かりません。そこで、実際の親分さんを一目、見てみようと思いまして、こうして、やって来たわけなんですわ」
「そうでしたか」と女の一人が言った。
「親分さんは立派なお人ですよ。ねえ、お篠さん」
お篠と呼ばれた女はうなづいたが、顔付きは暗かった。
「親分さんの最期を見守るために、これだけ大勢の人が集まるんです。親分さんが悪人だったら、こんなに人が集まるはずありません。親分さんは絶対に立派な人なんです」
女はお篠に言い聞かせるようにしゃべっていた。
「確かに」と橘屋は二人の女にうなづき、回りを見回した。
人々の顔は、ただのやじ馬ではなかった。それぞれが親分さんに対する思いを抱きながら歩いているように見えた。  
惚れた女に振られちまったよ
赤城山に春霞が掛かっていた。
裾野の長い赤城山の手前には広々とした平野が広がっている。しかし、この辺りはまだ山続きのように松林や雑木林が連なり、耕地は少なかった。その少ない耕地のほとんどが桑畑で、若葉が春の日差しの中で黄金(こがね)色に輝いていた。
粕川(かすかわ)のほとりの小高い丘の上に寝そべって赤城山を眺めている若者がいた。
粋な縦縞模様の袷(あわせ)を着て、黒光りした長い木刀を持っている。色が白く眉の太い精悍(せいかん)な顔付きの若者だった。口元を引き締め、何事か決心を固めたかのようだった。
若者の後ろの松林の中では博奕(ばくち)が開帳している。
一勝負着いたらしく、「畜生め、やられたぜ。今日はついてねえや」とブツブツ言いながら、二人の若者が帰って行った。
「おーい、また、来いよ」
勝った者が銭を数えながら叫んだ。
「へっ、いいカモだぜ、まったく。一分ぐれえの稼ぎになったかい?」
「まア、そんなとこだんべえ」
「おい、忠次、おめえよお、まだ、お町の事を思ってんのか?」
腕まくりをした若者がサイコロの入った壷(つぼ)を振りながら、寝そべっている若者に声を掛けた。
壷の中のサイコロの目を見つめていた四人の若者が一斉に、忠次と呼ばれた若者を見ながら笑った。皆、腰に木刀を差し、遊び人という格好だった。
「確かに、お町はいい女子(おなご)だ。あれだけの器量よしは滅多にいねえ。けどよお、嫁に行っちまったんだぜ。しかも、おめえの事をはっきりと嫌えだと言ってな」
「うるせえ!」
忠次は背中を向けたまま、大声で怒鳴った。
「よお、国定の忠次が田部井(ためがい)の名主(なぬし)のお嬢さんに振られたってえ噂は五目牛(ごめうし)にも聞こえて来たぜ。一体(いってえ)、どんな振られ方をしたんでえ?」
「どんなもこんなもねえ、馬鹿な奴だぜ。花嫁行列ん中に飛び込んで行ってよお、花嫁をかっさらおうと企(たくら)んだのよ。ところがだ、お町の兄貴に取っ捕まり、縛り上げられ、あげくにゃア、お町からはっきり「あんたなんか大嫌い、顔も見たくないわ、ふん」って言われたのよ。大勢の見てる前(めえ)でな、いい恥っさらしだ」
「うるせえ、黙りやがれ!」
忠次は起き上がると振り向いた。
「おい、清五、お町は大嫌(でえきれ)えとは言わなかったぞ。ただ、嫌えって言っただけだ」
「どっちだって、嫌われた事にゃア変わりあるめえが」
「それがよお、怒った時の顔がまた、たまんねえんだ。ほんとに、ありゃ、いい女子だぜ」
「おめえなア、まだ、お町に未練があんのか?」
「何を言いやがる。伊与久(いよく)まで行って、お町を引っさらってやろうと思ってたんだがな、もう、きっぱりと諦めた、男らしくのう。それより、俺はもっと大事(でえじ)な事を考(かんげ)えてたんだ」
木刀を抱え込んで座り込むと忠次は五人の顔を眺め回した。
国定村の清五郎、五目牛村の千代松、曲沢(まがりさわ)村の富五郎、この三人は忠次と同い年で、田部井(ためがい)村の又八と国定村の次郎は年下だった。皆、市場村の本間道場に通って、念流という剣術を習っている仲間だった。  
どうして、こんなふうになっちまったんだ
忠次が嫁を貰ってから一年が過ぎた。
初めの頃、年下の忠次に何事も従っていたお鶴も、嫁に来て一年が過ぎると新しい生活にも慣れ、だんだんと姉さん風を吹かすようになった。母親ともうまくやり、朝から晩まで母親と共に働き続け、忠次はのけ者にされたような感じだった。
「ねえ、まだ、免許が貰えないの?一体、いつになったら道場が開けんのよ」
「そんな簡単に取れりゃア、誰だって道場主になれらア。免許を取るってえのは、うんと難しいんだ」
「早く、取ってよね」
「わかってらア。それよりよお、たまにゃア仕事を休んで、どっかに遊びに行こうぜ」
忠次はお鶴を抱き寄せようとするが、
「なに言ってんの。そんな暇なんかないわよ」とつれなかった。
家にいても面白くなく、また、フラフラと遊び歩くようになって行った。
清五郎と富五郎は三室村の勘助の子分になり、嘉藤太(かとうた)と一緒に長脇差(なずどす)を腰に差して村々をのし歩いていた。
勘助は一家を張ると言っていたが、千代松の言った通り、親に反対されて、三室村に一家を張る事はできなかった。仕方なく、田部井(ためがい)村の嘉藤太の家を本拠地にして、妾まで呼んで親分気取りだった。久宮(くぐう)一家の若い者たちと時々、喧嘩をして血を見る事もあったが、うまく追い返していた。国定村はまだ久宮一家の縄張り内だったが、田部井村は勘助のものになったようだった。
千代松は勘助の子分にはならず、忠次と共に本間道場に通っていた。しかし、嫁を貰ってから腑抜けになってしまった忠次と話をする事もなく、稽古が終わるとさっさと帰って行った。噂では、八寸(はちす)村の七兵衛親分の所に出入りしているという。
お鶴と喧嘩をして、ムシャクシャしていた忠次は内緒で銭を持ち出すと、昼過ぎに家を出た。
赤とんぼが飛び回り、北風が道端のススキの穂を揺らせていた。
からっ風にはまだ早いが、風は冷たかった。
忠次は懐手をすると風に押されるように、フラフラと南へと歩いて行った。足は自然と隣村の嘉藤太の家に向かっていた。嘉藤太には会いたくなかったが、久し振りに博奕(ばくち)を打って気晴らしをしようと思っていた。
当時、博奕は厳しく禁じられていた。しかし、庶民の娯楽として日常茶飯事のように行なわれていたのが実情だった。気心の知れた仲間が集まれば、いつでも、どこでも博奕が始まった。仲間の家は勿論の事、畑の中や道端、寺社の境内、坊主が混じって本堂でやる事もある。その中に女子供が加わっている事も珍しくはなかった。だが、そこらでやっている博奕では大金は動かない。ほんの慰(なぐさ)み程度だった。
大金が動く博奕場は貸元と呼ばれる博奕打ちが仕切っていた。貸元は客の安全を保証して博奕を開催し、保証料に当たるテラ銭を勝った客から受け取っていた。
国定村でも養寿寺(ようじゅじ)の縁日や赤城神社の祭りの時、久宮一家の代貸がやって来て賭場を開帳した。その日は村中の者たちが夜の明けるまで博奕を楽しんだ。忠次の父親、与五左衛門(よござえもん)は博奕好きで平気な顔をして大金を掛け、負けっぷりも良かったが、勝った時はみんなに大盤振る舞いをしたと今でも語り草になっている。
祭りの時は大金の動く賭場が開くが、普段はそんな賭場はない。ところが、嘉藤太の家で勘助が貸元になって、いつでも賭場を開いているという。忠次はその噂を聞いていたが、今まで行こうとは思わなかった。しかし、今日は無性に博奕が打ちかった。博奕が打ちたいというより、以前のように清五郎や富五郎たちと一緒に遊びたくなったのかもしれなかった。
意気込んで嘉藤太の家に行ったが、賭場が開かれている様子はなく、やけに静かだった。
忠次が家の中に入ろうとすると、
「おっちゃんはいねえよ」と後ろから声がした。
振り返ると十歳位の子供が竹槍を持って立っていた。この辺りでは見かけない生意気そうなガキだった。
「何でえ、おめえは?」
「留守番だい」と子供は竹槍を構えて、
「おじさんこそ見かけねえけど誰だい?」と聞いて来た。
「留守番だと?嘉藤太はどっかに行ったんかい?」
「嘉藤太さんもおっちゃんも草津の湯に行ったんだ」
「草津だと?」
「そうだい。おじさんは誰なんだ?」
「誰でもいい。いつ帰(けえ)って来るんだ?」
「知らねえ。饅頭を買って来てやるって言ったけど‥」
「しっかり、留守番してろ」  
親分、俺を子分にしてくだせえ
武州の川越街道に面した藤久保村に獅子ケ嶽の重五郎という力士上がりの親分がいた。
将軍様の上覧相撲に参加して勝ち星を上げた事もある有名な力士で、表向きは木賃宿をやりながら、若い者たちに相撲を教え、裏では川越一帯を仕切っている博奕打ちだった。その重五郎親分のもとに、佐渡島(さどがしま)を島抜けした大前田村の栄五郎が隠れていた。
忠次は玉村宿の佐重郎の紹介状を持って、藤久保にいる栄五郎を訪ねた。
「ほとぼりが冷めるまで上州から離れていた方がいい。こっちの事は任せときな」と佐重郎は忠次を栄五郎のもとに送ったのだった。
忠次も栄五郎の噂は色々と聞いていて、一度、会ってみたいと思っていた。しかし、博奕打ちになる気はなく、しばらく、隠れてから国定村に戻って、以前のように剣術の修行に励むつもりでいた。
栄五郎は貫録のある大柄の男で、佐重郎からの紹介状を読むと、
「おめえさん、人を殺して逃げて来たのか?」とドスのきいた声で聞いた。
忠次はうなづき、
「仕方なかったんです」と答えた。
栄五郎は強い視線で忠次を眺め、
「渡世人になりてえのか?」と聞いた。
忠次は首を振った。
「玉村の親分の手紙によると、おめえんちは国定村で名主をやった事もある家柄じゃねえか。何でまた無宿者なんか殺したんだ?」
「そいつは隣村の名主さんに難癖をつけて来たんです。何とかやめさせようとしたんですけど」
「斬っちまったのか?」
「殺すつもりはなかったけど、気が付いたら、相手は死んでたんです」
栄五郎は軽くうなづくと手紙をたたんだ。
「無宿者は久宮(くぐう)一家の客人だったらしいな。俺が話を付けてやりてえとこだが、相手が悪(わり)い。久宮の豊吉は俺を仇だと狙ってるからな。玉村の親分がうまくやってくれるだんべえ。ほとぼりが冷めるまで、ここにいるがいい。だがな、決して、渡世人なんかになろうと思うなよ。ほとぼりが冷めたら国定村に帰(けえ)って、堅気な暮らしに戻るんだぜ」
「はい。剣術の修行を積んで道場を開きます」
煙管(きせる)に煙草を詰めていた栄五郎は顔を上げると改めて、忠次を見た。
「ほう。おめえ、剣術をやってんのか?」
「はい。本間道場に通ってました」
「成程な。本間道場なら本物だ。おめえの腕もまんざらでもなさそうだな。俺も若え頃、浅山一伝流を習ってた。剣術を習えば、誰でも刀を抜きたくなる。俺も人を殺(あや)めちまった。今思えば、馬鹿な事をしちまったと後悔している。おめえもこれに懲りて、二度と人様を斬るんじゃねえぞ」
「はい‥」  
ほう、おめえが噂の忠次かい
「忠次が帰(けえ)って来た」
という噂は瞬(またた)く間に国定村と田部井(ためがい)村に広がった。
忠次は散歩から帰って来たような気楽な顔して、お勝手に行くと、
「ああ、腹、減ったア」と竈(かまど)の上の鍋の中を覗き込んだ。
母親もお鶴も夕飯の支度をしている最中だった。
忠次を見ると二人とも動きを止め、ポカンと口を開けたまま忠次の顔を見つめた。
「今、帰ったぜ」
忠次は照れ臭そうに笑った。
「よう帰って来た‥」
母親は忠次の姿をじっと眺め、目頭に溜まった涙を拭いた。
「よう帰った来たのう」と何度もいいながら、何度もうなづき、
「早く、お父に知らせてやるべえ」と仏壇の方に行った。
その後ろ姿がやけに小さくなってしまったように思えた。
苦労させて済まねえ‥
忠次は心の中で詫びていた。
母親がいなくなると、忠次はお鶴を見た。心配を掛けたせいか、少しやつれたように感じられた。
「何で、何であんな事、しちゃったのよ」
お鶴は忠次に詰め寄り、
「あたし、恥ずかしくって実家に帰れないじゃない」と泣き出した。
「お鶴、会いたかったぜ」
忠次はお鶴を抱き寄せた。
お鶴は忠次の胸で泣きながら、
「もうどこにも行かないで」と涙声で言った。
「ああ、もう離さねえ。おめえのそばにずっといるぜ」
忠次はお鶴を強く抱き締めた。
その夜、お鶴を抱きながら、帰って来て本当に良かったと思った。
一年振りに会ったお鶴は嫁に来た当初のように柔順で優しかった。お鶴のためにもう一度、やり直してみようと忠次は考え直した。  
おめえと会えるなんて夢みてえだぜ
縞(しま)の合羽(かっぱ)に三度笠、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に草鞋(わらじ)履き、長脇差(ながどす)を腰に差した忠次と文蔵は浮き浮きしながら、からっ風の吹きすさぶ中、北に向かって旅立った。
紋次親分は川田村(沼田市)の源蔵親分宛の添え状を二人に渡し、修行を積んで来いと送り出した。
源蔵も藤久保の重五郎と同じように相撲取りから親分になった男だった。茗荷松(みょうがまつ)という四股名(しこな)で江戸で活躍したという。
源蔵は忠次の噂を知っていた。
紋次の子分になったと言うといい親分さんを持ちなすったと歓迎してくれた。
忠次は知らなかったが、博奕打ちの間では忠次の評判は高かった。
まず、久宮一家の客人を国定村の忠次という若造が一刀の下に斬り殺したという噂が広まった。それだけなら、そんな噂はすぐに消えてしまっただろう。しかし、忠次を助けるために玉村の佐重郎親分が久宮一家と掛け合っているという噂が流れると、忠次とは一体、何者なんだと誰もが不思議に思った。さらに、国越えした忠次を大前田の栄五郎が匿ったという事も噂になり、忠次という男はただ者ではないと誰もが思うようになっていた。
源蔵も噂の忠次には興味を持っていた。
百々(どうどう)村の紋次の所から忠次が来たと聞くと、直々に会い、忠次をジロジロと眺め、
「おめえが国定村の忠次かい、成程のう」と満足そうに一人うなづいた。
源蔵は忠次を気に入り、客人扱いした。居心地はよかったが、雪が降る前に越後に行きたかったので、二人は川田村を後にした。
二人が越後を目指したのは用があったからではなく、ただ単純に海が見たかったからだった。文蔵の馴染みの飯盛女が越後生まれで、海の近くの村で育ったという。話を聞く度に、海が見たいと思っていた。忠次も海というものを知らないので、行ってみるかと軽い気持ちで賛成した。
越後に行くと言うと源蔵は長岡にいる合(あい)の川政五郎親分に紹介状を書いてくれた。
政五郎は上州邑楽(おうら)郡の生まれで、東海道、中山道、甲州街道と旅から旅へと流れ歩いて男を売って来た親分だった。今は長岡に落ち着いて一家を張っていた。
源蔵の言った通り、合の川政五郎は貫録のある親分で、ジロリと睨まれただけでも縮み上がってしまう程、凄みがあった。口数が少なく、めったに口をきかなかったが、
「おめえの噂は聞いてるぜ」と言ったのには忠次も驚いた。
旅の渡世人が各地からやって来ては一宿一飯の世話になるため、博奕打ちに関する噂はすぐに広まって行った。玉村の佐重郎と大前田の栄五郎のお陰で、知らないうちに忠次は名を売っていたのだった。
政五郎から添え状を貰って、二人は出雲崎(いずもざき)の勇次郎のもとに向かった。
勇次郎の父親、久左衛門は越後一の大親分と呼ばれた男だったが、四年前に捕まり、江戸送りとなって牢内で亡くなってしまった。その時、江戸で捕まった大前田栄五郎と一緒になり、栄五郎に最期を看取られたという。その後、栄五郎は佐渡島に送られ、島抜けした時、面倒を見たのが勇次郎だった。
忠次と文蔵は勇次郎に歓迎された。勇次郎は二十三歳と若く、いつも、年上の子分たちに囲まれていた。命令を聞く子分は大勢いたが、気楽に話ができる相手はいなかった。忠次と文蔵は勇次郎の客人になり、話相手となった。
「凄えなア」と文蔵は雪降る中、荒れ狂った黒い海を眺めながら、首を襟に埋めた。
「あいつもこんな寒(さみ)いとこで育ったんかな‥」
「凄えとこだな」と忠次も背中を丸めた。
「こんなとこで育ちゃア、芯が強くならア」
「おたねも強え女子(おなご)だ。どんな辛え目に会っても決してへこたれねえ」
「兄貴、佐渡島はこの海の向こうにあるんだんべえ」
「そうだ。大前田の叔父御はこの海を越えて島抜けしたんか‥大(てえ)したお人だなア」
二人は冬の荒海を眺めながら、出雲崎で新年を迎えた。
越後の冬は雪が多く、早く、故郷に帰りたかったが、越後と上州の国境は深い雪で埋まっていた。二人は毎日、新鮮な魚をつまみながら酒を飲んでは博奕を打って、村娘を口説いては夜這を掛けたり、時には喧嘩をして暴れながら、雪が解けるのを待ち、三月の末にやっと、百々村に帰って来た。  
裏切り者は許しちゃおけねえ
島村の伊三郎は紋次の縄張りである境宿を狙っていたが、表立った動きはなかった。
伊三郎の子分たちが市にやって来て騒ぎを起こす事もなく、紋次の賭場はいつも賑わっていた。紋次も子分たちに伊三郎の縄張り内に出入りする事を禁じ、喧嘩する事も禁じた。
紋次の子分になって二年が過ぎ、忠次の顔も売れて来た。
何か騒ぎが起こる度に、文蔵と一緒に飛び出して行っては揉め事を解決してやった。絹市の取り引きのいざこざ、酒の上の喧嘩騒ぎ、すりや盗っ人、ゆすり、たかり、下らない夫婦喧嘩に至るまで、騒ぎが起これば、それを解決してやるのも百々一家の仕事だった。騒ぎを治めれば、それ相当の礼金が貰えるので、二人は誰よりも早く現場に急行した。
文蔵は相変わらず、伊三郎の縄張りに行っては素人衆の賭場を荒らして小銭を稼ぎ、木崎宿の女郎屋に通っていた。しかし、忠次は付き合わなかった。お町がいるので、女郎屋に行く必要はなく、また、母親から言われた「弱い者いじめはするな」という言葉を守っていた。
お町は忠次が帰る度に、名主の家から嘉藤太の家に通っていた。兄の所に行くと言えば名主は信じてくれたが、とうとう、忠次と会っている事がばれてしまい、猛反対された。以前のお町だったら口答えもできず、名主の言いなりになったが、今のお町は違う。名主の家を飛び出して実家に帰り、兄と一緒に暮らし始めた。
忠次は暇さえあれば、昼夜を問わず、お町に会いに行っていた。かといって、お鶴の事も忘れていたわけではない。お鶴のもとにも時々、帰っていた。
お鶴はお町の存在を知っていた。お町に再会した日、嘉藤太の家に行ったきり帰って来なかったので、お町と一緒にいたに違いないと悟っていた。当然、お町との事を泣きながら怒ったが、別れるとは言い出さなかった。
忠次の気持ちとしては複雑だった。
お鶴と別れて、お町と一緒になりたいが、お町はお鶴のように母親と一緒に養蚕や機(はた)織りをするような女ではなかった。忠次としてもそんな事をさせたくはない。お鶴には今のまま、母親の面倒を見てもらい、お町には、後に一家を張った時、姐さんとして子分たちの面倒を見てもらおうと都合のいい事を考えていた。最近は、お鶴も諦めたのか、お町の事をあれこれ言う事もなく、お町もお鶴と別れろとは言わなくなり、忠次は二人の機嫌を取りながら交互に通っていた。
市の立つ二日、七日、十二日、十七日、二十二日、二十七日の六日は忙しかった。
境宿には西の上市、中央の中市、東の下市と三ケ所に市場があり、順番に市を立てていた。紋次の賭場も三ケ所あり、上市の開かれる上町の煮売茶屋、伊勢屋の二階、中市の開かれる中町の質屋、佐野屋の離れ、下市の開かれる下町の煮売茶屋、大黒屋の二階がそうだった。市が立つのは一ケ所でも、賭場は三ケ所で開いていた。初めの頃は市の立つ町の賭場だけを開いていたが、一ケ所だけでは間に合わなくなり、開催する市場に関係なく三ケ所で同時に開くようになった。さらに、市の立たない日は下町の料理茶屋、桐屋で賭場を開帳していた。
伊勢屋は境宿の新五郎、佐野屋は柴宿の啓蔵、大黒屋は木島村の助次郎とそれぞれの代貸が賭場を開いた。親分の紋次は大切なお客が来た時だけ顔を出して挨拶をした。市のない日、桐屋は新五郎と助次郎が交替でやり、啓蔵は柴宿の賭場を受け持っていた。その他、各村々で開く小さな賭場は親分の許しの出た子分たちが手のあいている時に開いていた。
忠次と文蔵は代貸の新五郎と行動を共にする事が多く、市の立つ日はいつも伊勢屋の賭場にいた。新五郎が客の銭を駒札(こまふだ)に替え、中盆(なかぼん)の矢島村の周吉が丁半の駒札を揃えて勝負を進行させ、淵名(ふちな)村の岩吉が壷を振った。文蔵と忠次、山王道(さんのうどう)村の民五郎の三人が客のためにお茶を出したり、煙草盆(たばこぼん)を勧めたり、客のための雑用をする。客同士が喧嘩した時、仲裁したり、手入れがあった時に真っ先に客を逃がすのも役目だった。そして、三下奴の富塚村の角次郎と八寸(はちす)村の才市が外に立って見張りをした。
文蔵と忠次は小さな賭場を開帳する事はまだ許されていなかった。素人衆に安全に遊んでもらうためには、まず、雲助どもを相手に修行を積まなければならない。気が荒く、すぐにカッときて暴れ、負ければ銭を払わずに夜逃げしてしまうような雲助たちをうまく扱えるようにならなければ、一人前とは言えなかった。文蔵と忠次は親分から、賭場開帳の許しが貰えるように、毎日、汗臭い人足部屋で壷を振っていた。
保泉(ほずみ)村の久次郎と茂呂(もろ)村の孫蔵が交替にやって来たので、忠次と文蔵はお仙の店で一杯やってから、女の所に行こうとした。  
襲名披露は派手にやろうぜ
代貸の新五郎はじっと我慢しろと言ったが、文蔵と忠次に我慢している事などできるはずなかった。何かをしなければいられなかった。
二人は木崎宿に遊びに行くと言っては出掛け、三ツ木村の文蔵の家で旅人(たびにん)姿に着替えると、手拭いで顔を隠して島村一家の賭場を荒らし始めた。百々村から比較的遠い、利根川の向こう側、武州の中瀬河岸(なかぜがし)から始めた。二人だけでやるので、大きな賭場は襲えない。伊三郎の子分たちが村々で開いている小さな賭場を狙った。しかし、捕まれば簀巻(すま)きにされて、利根川に流されてしまう。失敗は絶対に許されなかった。小さな賭場とはいえ、素人衆の賭場よりも多額の銭が動いている。一回の賭場荒らしで簡単に二、三両の稼ぎがあった。二人は稼いだ銭を無駄使いせず、島村一家との出入りの時に使おうと蓄えて置く事にした。
中瀬河岸で一回、前島河岸で一回と順調に行き、調子に乗った二人は、伊三郎の子分たちは腰抜け揃いだと再び、利根川を渡って中瀬河岸に出掛けた。
梅雨明けの暑い日だった。セミがやかましいくらいに鳴いている。賭場を開いていそうな所を当たってみたが、警戒しているのか、どこでもやっていなかった。
半ば諦め、賑やかな表通りをウロウロしているとニヤニヤした顔の伊三郎の子分に声を掛けられた。近くの河岸問屋の離れで賭場が開かれているので遊んで行かないかと言う。
二人は顔を見合わせ、文蔵はうなづいたが、忠次は首を振った。文蔵は忠次の返事など構わず、さっさと案内させた。忠次も子分たちに背中を押されるように賭場へと向かった。
川べりに建つ離れに案内すると子分たちは二人の三下奴に頼んだぜと言って、引き上げて行った。三下奴は小腰をかがめて、長脇差を預けてくれと言った。
文蔵はうなづき、長脇差を腰から外したが、三下奴には渡さず、刀の柄(つか)で三下奴を殴ると土足のまま中に飛び込んで行った。忠次もこうなったら文蔵に従うほかなく、もう一人の三下奴を殴って、文蔵を追った。
薄暗い家の中では百日蝋燭に照らされて、十人余りの旦那衆が博奕に熱中していた。代貸、中盆、壷振りと三人が揃い、出方の若い衆も四、五人いる。思っていたよりも大きな賭場だった。チラッと見ただけでも、盆の上に漆塗りの上駒(じょうごま)がいくつも張られていた。二、三十両は動いているに違いなかった。
文蔵と忠次が長脇差を持ったまま、賭場を見ていると、
「なんでえ、おめえらは?」と若い衆が睨みながら寄って来た。
この場から無事に逃げるには代貸をたたっ斬るしかないと忠次は思った。文蔵も懐に手を入れ、手裏剣を握っている。久し振りに大暴れしてやると覚悟を決めた。
ところが、文蔵は、
「どうも、失礼いたしやした」と頭を下げると逆戻りしてずらかってしまった。
入り口で気絶していた三下奴が大声で、
「賭場荒らしだ!」と騒ぎ出した。
忠次は長脇差を抜いて逃げようとしたが、刀を抜く前に若い衆に捕まり、外に放り出されてメチャメチャに殴られた。
「おい、てめえらだな、この前(めえ)、賭場荒らしをして銭をかっさらって行きやがったんは?」
代貸が忠次の顔を雪踏(せった)で踏み付けながら怒鳴った。
「そんな事ア知らねえ!」と忠次は叫んだ。
「間違えねえ。手拭いでほっかむりした二人組だ」
「違う、関係ねえ、俺じゃアねえ」
「強情な野郎だ。どうせ、てめえの命はねえんだぜ。おい、三下、てめえはどこのどいつだ?」
若い衆が忠次の手拭いをむしり取った。幸い、忠次の顔を知っている者はいなかった。
「おい、死ぬ前に名を名乗ったらどうでえ。墓もおっ立てられねえじゃねえか。もっとも、おめえの墓を立ててくれる奴がいたらの話だがな」
若い衆が忠次を見下ろしながら、ゲラゲラ笑った。
「武州無宿の国次郎」と忠次は出まかせを言った。
死ぬ前に本名を名乗りたかったが、新五郎の言葉が思い出され、紋次親分に迷惑を掛けるわけにはいかなかった。
「武州のどこでえ?」
代貸が忠次の腹を蹴飛ばした。
「藤久保だ」と忠次は答えた。
「藤久保だと?てめえは獅子ケ嶽(ししがたけ)(重五郎)んとこの三下か?」
「違う。三下なんかつまんねえから、飛び出して来たんだ」
「へっ、三下修行も勤まらねえ半端者が、生意気(なめえき)な真似するんじゃねえ。簀巻きにして放り投げろ」
忠次は両手、両足を縛られ、猿轡(さるぐつわ)を噛まされ、さらに筵(むしろ)で簀巻きにされた。
畜生、死にたかアねえよお‥
死ぬ前にお町に会いてえ‥お鶴にも会いてえ。
くそっ、俺ももう終わりかよ‥こんな事で死んじまったら、ほんとに情けねえぜ。  
てめえら、さっさと出て行きやがれ
日光の円蔵の思惑通り、忠次が百々一家の跡目を継いだという事はあっと言う間に各地に知れ渡った。円蔵が福田屋栄次郎に頼み、大前田村の要吉親分を招待したお陰で、要吉親分のもとに出入りする旅人(たびにん)たちによって忠次の噂は各国の親分衆の間に広まって行った。
弟の栄五郎が各国を旅しながら名を売っているので、要吉の所には各国から旅人が集まって来た。要吉もまた、やって来た旅人の面倒をよく見たので、大前田一家の評判は高く、遠方の親分衆にも知られていた。
十七の時、人を殺して、玉村の佐重郎と栄五郎が動いた事で上州内に知れ渡った忠次の名は、百々一家の二代目を継いだ事で、渡世人たちの間では、上州以外の国にも知れ渡るようになって行った。
百々一家の親分になった忠次だったが、子分衆は少なかった。
三ツ木の文蔵、保泉(ほずみ)の久次郎、山王道(さんのうどう)の民五郎、茂呂の孫蔵、八寸(はちす)の才市の五人と三下奴が保泉の宇之吉と上中(かみなか)の清蔵の二人、客人の円蔵を入れても、たったの八人だけだった。
伊三郎と戦うには、まず、頭数を揃えなければならない。忠次は田部井(ためがい)村に行き、国定村の清五郎、曲沢(まがりさわ)村の富五郎、五目牛(ごめうし)村の千代松、田部井村の又八、国定村の次郎の五人を子分に迎えた。嘉藤太も子分になると言ったが、妾にしたお町の兄を子分にするわけにもいかず、兄弟分の盃を交わすに留まった。
頭数も十五人となり、伊三郎に殴り込みを掛けようとみんなの意気は上がった。しかし、円蔵に止められた。
「戦を甘く見ちゃアいけねえよ。ただ、殴り込みを掛けりゃいいってもんじゃねえ。戦をおっ始めるからには絶対に勝たなくちゃなんねえ」
「へっ、伊三郎なんか、ぶった斬ってやるぜ」
文蔵は自慢の手裏剣を続けざまに柱に投げつけた。文蔵が腹を立てる度に手裏剣を投げるので、その柱は穴だらけになっていた。
円蔵は柱に刺さった手裏剣を眺めたが、顔色も変えずに、
「伊三郎を斬って、ただで済むと思ってんのか?」と文蔵に聞いた。
「なあに、伊三郎が死にゃア島村一家もおしめえよ。百々一家がそっくり、奴のシマを貰ってやるぜ」
「甘え、甘え。そんなこっちゃ、百々一家も二代目(にでえめ)で終わりだな」
「何だと?いくら、客人でも許せねえ」
文蔵は手裏剣を握り締めて、円蔵を睨んだ。
円蔵は文蔵を無視して話し続けた。
「伊三郎が殺されて、大勢の子分どもが黙ってるとでも思ってんのかい?おめえらが国越えしてるうちに、御隠居は殺され、百々一家のシマは全部、島村のもんになってるぜ」
「うるせえ。代貸が殺され、先代の親分が倒れたってえのに黙ってられるけえ」
「ものには順序ってもんがあるんだ。戦に勝つにゃア、まずなア、敵をよーく知らなけりゃなんねえ。こん中に、伊三郎が今、どこで何をしてるか知ってる奴がいんのか?」
「そんな事ア知らねえや。どうせ、昼間っから、妾のケツでもなめてんじゃねえのかい」
孫蔵と才市が顔を見合わせてニヤニヤしたが、円蔵に睨まれてうつむいた。
「敵がどこにいるかも分かんねえで、殴り込みなんかできるか。伊三郎のシマに入(へえ)った途端におめえらの事はすぐに知れ渡り、逆に待ち伏せを食らって全滅するぜ」
「確かに円蔵さんの言う通りだ」と忠次が文蔵に言った。
「奴は百々一家の事をよく調べて、代貸たちを引き抜いたに違えねえ。俺たちも伊三郎の事をもっと調べなくちゃなんねえぜ」
「そうだ。忠次親分を初めとして、百々一家の連中はみんな若え、焦る事アねえんだ。着々と、しかも確実に勢力を伸ばして行くんだ。伊三郎もすぐには事を起こす事はあるめえ。各地の親分さんが今、忠次親分に注目してるのを知ってるからな。下手な事をすりゃア悪者になる。世間体を気にする伊三郎が向こうから手を出す事はねえ。こっちが騒がねえ限りは当分の間は大丈夫(でえじょぶ)だ。その間に、あっしが伊三郎の事を調べる。まず、地盤をしっかりと固める事が一番だぜ」
忠次は円蔵の意見を入れ、伊三郎の事は一切、円蔵に任せる事にした。そして、伊三郎の事を後回しにして、国定村と田部井村から久宮(くぐう)一家の子分どもを追い出す事に決めた。
「その前(めえ)に、まず、第一にやるべき事がある」と円蔵は皆の顔を見回しながら言った。
「唯一の賭場である伊勢屋に客を集めなくちゃならねえ」
「へっ、そんな事ア分かってらア」
文蔵はふて腐れていた。
「何かいい策でもあるんですかい?」と忠次は期待を込めて聞いた。
「ある。ただし、銭儲けの事を考えちゃなんねえよ。あっしら渡世人は堅気の衆におマンマを食わせてもらってる身だ。堅気の衆を大切にすりゃア、客は自然と増える」
「客人は大切にしてるぜ。しかし、奴らは伊三郎の賭場の方に行っちまったのよ。どうせ、伊三郎が裏できたねえ事を仕組んだに決まってらア」
文蔵はまだ、伊三郎殺しにこだわっていた。
「策はある」と円蔵は力強く言った。
みんなの目が文蔵から円蔵へとそそがれた。
「今まで五分デラだったのを四分デラにする」
「四分デラだと?」
文蔵は呆れた顔をした。  
いい女だぜ、境名物の女壷振りは
忠次は伊勢屋の賭場に客を集めるため、まず、テラ銭を五分から四分にした。その噂は徐々に広まり、客は少しづつ戻って来た。
伊三郎は忠次が四分デラで賭場を開いている事を知ったが、対抗して四分デラにはしなかった。しなかったというよりできなかった。伊三郎は代貸たちに賭場を任せ、テラ銭の上前を撥ねていた。それをカスリといい、伊三郎は五分デラのうち二分をカスリとして受け取っていた。四分デラにすれば、代貸の稼ぎが減ってしまうため、伊三郎としても無理に命令はしなかった。
百々一家の場合は伊三郎のように賭場が多くないため、すべての賭場は親分の支配下にあった。テラ銭の七割は紋次のものとなり、残りの三割を代貸を初めとした子分たちで分配した。木島の助次郎や柴の啓蔵が紋次を裏切ったのも、テラ銭の分配にあった。紋次に七割持って行かれるよりも、伊三郎の代貸になって六割を貰った方がいいと考えたからだった。
忠次の四分デラには対抗しなかった伊三郎も女の壷振りには対抗しないわけにはいかなかった。お辰の噂が広まると忠次の伊勢屋の賭場は客で溢れ、伊三郎配下の大黒屋、桐屋、佐野屋の賭場は閑古鳥が鳴く有り様だった。
伊三郎は自分の妾のうちでも一番若くて美しいお北という女に壷振りを仕込んで、大黒屋の賭場で壷を振らせた。しかし、賭場の雰囲気になれていないお北は極度に緊張してしまい、サイコロを壷に入れる事もできずに何度も失敗した。焦れば焦るほどボロを出し、仕舞いには泣き伏してしまった。最初の日は仕方がない、二度目からはしっかりやれと伊三郎は慰めたが、二度目、三度目もうまくはいかなかった。これじゃア勝負はできんと旦那衆は逃げてしまい、お北を見るための冷やかしの客ばかりが集まって来た。他所の親分たちの笑い物になる事を恐れた伊三郎は、すべての責任を代貸の助次郎のせいにして、大黒屋の賭場は閉めてしまった。
そんな時、フラッと弁天のおりんが伊三郎のもとに草鞋(わらじ)を脱いだ。女とはいえ、渡世人として充分に貫録のあるおりんを一目見て、伊三郎は天に感謝した。伊三郎は桐屋の賭場でおりんに壷を振らせて、大成功を納めた。
境宿のお辰とおりんの二人の女壷振りの噂は他国にまで鳴り響いた。おりんが弁天なら、お辰は吉祥天だと言い出す者も現れ、いつしか、吉祥天のお辰という通り名が付いた。二人の天女見たさに各地から旅人が集まり、親分衆までもがわざわざやって来た。弁天と吉祥天のどちらが勝ったという事はなく、伊勢屋も桐屋もいつも客で一杯だった。
おりんは市の立つ日は桐屋で壷を振っていたが、その他の日は伊三郎の代貸たちの賭場を巡って壷を振っていた。おりんが来たといえば、どこの賭場でも客が大勢集まった。伊三郎はおりんを最上級の客人として持て成し、身内にならないかと何度も誘った。しかし、おりんは一ケ所に落ち着くのは性に合わないと断っていた。
おりんが伊三郎のもとにいる時、忠次は伊三郎と争う事を禁じ、地盤をしっかり固める事に力をそそいだ。特に国定村と田部井村の堅気の衆すべてを味方に付けるため、ちょっとした揉め事が起これば、すぐに飛んで行き、村のためになる事には進んで協力した。
いつも騒ぎを起こしている文蔵がお辰に夢中になって、つまらない喧嘩をしなくなったのは都合のいい事だった。お辰の方はおりんに負けられないと壷振りに真剣になっているので、色恋沙汰には興味を示さなかったが、文蔵の事を嫌いではないようだった。忠次としても、二人は似合いの夫婦になるだろうと陰ながら見守っていた。
おりんが帰って来たのは一年近く経ってからだった。半年位で島村一家の内情は大体分かり、離れようと思ったが、伊三郎が離してはくれなかった。おりんは女壷振りを育てるという条件で、さらに半年を伊三郎のもとで過ごした。以前、笑い物になったお北ともう一人、お峰という娘を立派な壷振りに育て上げた。お北は大黒屋で、お峰は桐屋で披露して、共に成功を納めた。
おりんは伊三郎に別れを告げると田部井村の嘉藤太の家に草鞋を脱ぎ、調べあげた内容を忠次と円蔵に告げた。
「島村の親分はかなり評判のいい親分さんですよ」とおりんは二人を見て笑った。
「てめえじゃア決して手を汚さねえからな。汚ねえ事はみんな子分どもにやらせるんだ」と忠次は顔をしかめた。
「あら、そうなの‥そんな悪い人には見えなかったけど」
「おい、おめえ、長え事、伊三郎んとこにいて、奴に惚れちまったんじゃねえのか?」
円蔵がおりんをジロッと睨んだ。
「何言ってんのよ。あたしはね、好きであんなとこにいたんじゃないのよ。あんたに頼まれたから行ったんじゃないのさ。そうじゃなかったら、あんなとこに一年もいやしないわ。さっさと逃げ出して来たわよ。まったく、人の苦労も知らないで、なにさ」
おりんはツンとして、円蔵に背を向けた。
円蔵は慌てて、
「分かった、悪かった。すまねえ」と謝りながら、おりんの機嫌を取った。
怖い物知らずの円蔵もおりんには頭が上がらないらしいと、忠次はニヤニヤしながら、二人のやり取りを眺めていた。ようやく、おりんの機嫌が治ると円蔵は照れ臭そうに忠次に笑ってから、真顔に戻って、
「それで、どうなんでえ?伊三郎の奴を潰す材料は見つかったんか?」とおりんに聞いた。
おりんも照れ笑いをすると、
「それがね」と話し始めた。
「色々と調べてみたけど、親分さん自身には弱みは見当たらなかったわ。人を殺した事もないし、人から恨まれてるような事もないわ。利根川で働く船頭さんや人足たちにも信頼されてるしね。何でも、大雨の度に洪水する利根川を何とかしなくちゃならないって、みんなのために色々と考えてるみたいよ」
「おう、あっしもその話は聞いた事がある。福田屋の親分さんと島村を訪ねた時、自慢気に話してたっけ。しかし、口先だけじゃねえのか?」
「違うみたい。わざわざ、江戸から偉い先生を呼んで難しい相談してたわよ」
「ふうん。まあ、利根川が氾濫すりゃア、奴の本拠地の島村が一番危ねえ。村の者たちに何とかしてくれって頼まれたんだんべえ。川除けの普請が始まりゃア、大勢の人足どもが集まって来る。奴の賭場も大繁盛って寸法だ。それを当て込んでるに違えねえ」
「そうかしら?」
「そんな事より、弱みはまったくねえのかい?」
「そうねえ。唯一の弱みって言えば、女好きって事かしら」
「おい、おめえは大丈夫だったんだんべえなア」と円蔵がまた蒸し返した。
再び、一波乱起きそうだと忠次は思ったが、おりんは大人だった。ニコッと笑うと、
「あたしにも色目を使ったけどね、親分は若い娘が好きみたい。今はお北に夢中よ。でもね、お北に隠れて、また、若い娘をどこかに囲ったみたいね」
「くそっ、すけべ野郎が‥」
「でもね、親分には弱みはないけど、島村一家には弱みがありそうよ」
「なんだ?そいつアどういう事でえ?」
「親分さんはね、島村の船問屋の息子さんなの。元々、お金持ちだし、大勢の船頭さんや人足たちを使ってるのよ。その力で利根川筋の親分たちを身内に引き入れて大きくなって来たの。木崎宿の親分さんと兄弟分になって、御用聞きにもなって、さらに勢力を広げたわ。小さな親分たちは伊三郎親分に逆らう事はできずに、傘下に入るしかなかったのよ。傘下に入ればカスリは取られるけど、伊三郎親分を後ろ盾にシマを広げられると思ったの。実際にそうやってのし上がって来た代貸もいるわ。要するに島村一家は一つのようだけど、一つじゃないの」
「一つのようだけど、一つじゃねえ?」
忠次はわけの分からない顔をして、おりんと円蔵を見比べた。
「本家と分家に分かれてんだな?」と円蔵が顎を撫でながら聞いた。
「そう。本家は島村にあって、伊三郎の直接の子分たちがいるの。伊三郎は自分では賭場を開かないで、自分とこの若い衆を各地の賭場に派遣してるの、見張り役としてね。分家っていうのは各地で賭場を開いてる代貸たちよ。伊三郎親分の下には九人の代貸がいるの。代貸とはいえ、小さな一家の親分と同じなのよ。代貸たちは伊三郎親分の子分に当たるけど、代貸たちの子分は伊三郎親分とはつながってはいないの。孫分みたいな関係なのよ」
「成程なア‥そういう組織なら、確かに弱みはあるな」
円蔵は一人でうなづいていた。
「てえ事は、伊三郎がいなくなりゃア島村一家はバラバラになるってえ事だな?」
「多分ね。今の島村一家には伊三郎親分に代わって、代貸たちをまとめられるような人はいないわね」
「伊三郎を殺せば、島村一家は潰れるんですか?」
忠次は不思議そうに聞いた。
「伊三郎がいなくなりゃア島村一家は潰れるだんべえ。だが、今、親分が伊三郎を殺しゃア、代貸たちが競って親分の首を狙うに違えねえ。親分の首を取った者が島村一家を継ぐ事になるだんべえな。今はまだ早過ぎる」
「どうやったら、境のシマを取り戻せるんです?」
「まあ、焦らず、じっくりとやる事だ。二、三年掛けてな」
「二、三年もですか‥」
「ああ、そうだ。伊三郎だけを殺しても駄目だ。伊三郎のシマをすべて手に入れなくちゃア殺す意味がねえ」
「伊三郎のシマ全部を手に入れる‥まさか、そんな芸当ができるんですか?」
「できるんですか、じゃなくて、あんたがやるんでしょ?」とおりんが忠次を指さして笑った。
「そうさ、親分がやるんだ。おめえさんなら、きっとできるぜ」
伊三郎の代貸の中でも平塚(ひらづか)の助八と中島の甚助は縄張りが隣り合っているため仲が悪かった。円蔵はその二人を喧嘩させる事を企(たくら)んだ。
島村一家に顔を知られていない曲沢の富五郎と田部井の又八が旅人に扮して、それぞれのもとに草鞋を脱ぎ、子分たちを煽った。しかし、うまくは行かなかった。お互いに相手を倒して、縄張りを広げたいと思ってはいるが、伊三郎の力を恐れ、騒ぎを起こそうとはしなかった。このままじゃ帰れないと富五郎と又八は助八の子分の振りをして、甚助の三下奴を痛い目に会わせて引き上げて来た。
作戦はうまく行き、助八の子分と甚助の子分は喧嘩を始めた。出入りが始まるかに見えたが、世良田(せらだ)の弥七が仲裁に入り、仲直りしてしまった。そして、甚助の三下奴を殴ったのが、助八の子分でない事も分かってしまい、富五郎と又八は伊三郎のシマに入る事を禁じられた。
「そう簡単にゃア行かねえな」と円蔵は頭を振った。
「もっと、荒っぽくやった方がいいんじゃねえですか?」と忠次は長火鉢の前で、自慢の煙管(きせる)をふかしていた。親分になって一年余りが経ち、忠次も親分としての貫録が付き始めていた。
「代貸を全員、たたっ斬るというわけにも行くめえ。何としてでも、仲間同士で殺し合ってもらわなくちゃなんねえ。特に世良田の弥七と平塚の助八、中島の甚助の三人の代貸には死んでもらわなくちゃなんねえ。その三人が消えてから、伊三郎を親分自身の手で殺(や)るんだ。そうすりゃア、伊三郎のシマは親分のもんになる」
円蔵はそこで目を伏せると、
「ちょっと、考えさしてくれ」と言って、フラフラと外に出て行った。
おりんは国定村の賭場で壷を振った。おりんの噂は国定村にも流れていて、あの有名なおりんがおらが村にやって来たと旦那衆は勿論の事、若い娘たちまでキャーキャー言いながら集まって来た。意外な展開に忠次は驚いたが、子分たちは若い娘たちに囲まれてニヤついていた。
「親分、あんな娘っ子を賭場に入れてもいいのかい?」と代貸の清五郎がしかめっ面で忠次に聞いた。
「たまにはいいじゃねえか。旦那衆も娘っ子に囲まれて遊ぶのを喜ぶに違えねえ。娘っ子なんざ、放っておきゃア、すぐに飽きちまうだんべえよ」
「そうか‥そうだな、こん中から第二のおりんさんが出て来るかもしれねえしな」
「まあ、無理だとは思うがな」
娘たちは壷を振るおりんの姿を実際に見て、おりんに憧れた。髪形から着物の着方、帯の締め方、何から何まで、おりんの真似をして村を歩き回っていた。おりんが散歩に出れば、ゾロゾロと同じ格好をした娘たちがおりんの後に従った。中には本気に壷振りになりたいと、嘉藤太の家まで訪ねて来る娘もいたが、おりんは娘たちを説得して家に帰した。
お町も例外ではなかった。おりんがよくお町の家に遊びに来たので、お町もおりんの影響を受けていた。おりんから博奕打ちの事を色々と聞いて、ちゃんとした姐さんになろうと努力しているようだった。
国定村と田部井村がおりん旋風に巻き込まれていた頃、円蔵は一人で作戦を練っていた。決定的な作戦は思い浮かばす、取り敢えずは賭場荒らしでもしてみるかと忠次に言った。
「小せえ賭場でいいから、平塚の助八の賭場ばかりを狙うんだ。そして、そこで拾ったちょっとした物を中島の甚助の家の近くにさりげなく落として置け。見つけやすい所じゃまずいぞ。甚助の子分が賭場荒らしをやったとして、用のねえ物を捨てるような所に落とすんだ。一回で決めようと思うなよ。気長にやるんだ。焦るとまた、邪魔が入(へえ)るからな」
清五郎、孫蔵、次郎の三人が長脇差をぶち込んで平塚に出掛け、手拭いで顔を隠して賭場を荒らし回った。一日で三ケ所の小さな賭場を荒らし、テラ銭を奪い取り、空のテラ銭箱を中島の甚助の家の裏の竹薮の中に捨てて来た。続けてやると相手も警戒して捕まる恐れがあるので、一月に一回の割りで賭場荒らしを行なった。
年が明けて、天保三年(一八三二)になった。
平塚の助八は中島の甚助を疑っているようだったが、表立って動く事はなかった。しかし、時々、顔を隠した連中が中島の賭場を荒らしているという噂が耳に入った。そいつらは忠次の子分ではなかった。助八の子分の仕業に違いない。お互いに相手の事を疑っているのは確かだった。後もう少しで、出入りが始まりそうだった。
「おい、今から、一暴れして来ようぜ」
富五郎が清五郎を誘った。
「やべえから、やめるんだ」と円蔵は二人を止めた。
「平塚も中島もお互えに警戒を強めてる。今、捕まっちまったら、今までの苦労が水の泡になっまう」
「成り行きに任せろって言うんですかい?」
富五郎が面白くなさそうな顔で円蔵に聞いた。
「賭場荒らしはしばらく中止だ。できれば、賭場荒らしをしてる助八の子分を斬る事ができれば完璧なんだか‥」
「俺たちの真似をしてる奴らをか?」
「そうだ。難しいぜ。いつ、出没するか分からねえからな。しかし、そいつがテラ銭を奪ってずらかる所をたたっ斬れば完璧だ」
「よし、そいつは俺がやるぜ」と富五郎が勇んで進み出た。
「駄目だ。おめえは顔が知られてる」と忠次が止めた。
「なに、もう三ケ月も前(めえ)の事だ。覚えちゃいるめえ」
「富、おめえはどっちに草鞋を脱いだんだ?」と円蔵が聞いた。
「ええと、助八の方です」
「そうか、平塚か‥賭場荒らしをしそうな奴に心当たりはねえか?」
「そうだな、ねえ事もねえがはっきりとは分からねえなア」
「おめえの頭じゃ無理だ」と清五郎が笑った。
「何だと?馬鹿にするねえ。助八の子分どもはみんな、甚助の奴をやっつけてえと思ってんのよ。誰が賭場荒らしをしたっておかしかアねえんだ。助八は伊三郎が一家を張った時に子分になったんだ。奴は広瀬川一帯を自分のシマにしようと中島に攻め込んだ。ところがよお、甚助の野郎が伊三郎に頭を下げて子分になっちまった。甚助が子分になったんで、助八のシマは西に延ばす事はできなくなっちまったんだよ。甚助は広瀬川の上流へと勢力を広げて行きやがったが、助八のシマは広がらねえ。かと言って、利根川の下流の前島にゃア秀次がいるし、対岸にゃア島村の林蔵に中瀬(なかぜ)の藤十がいる。北の世良田にゃア弥七がいる。八方塞がりの助八はシマを広げる事ができねえんだ。船頭から叩き上げた助八はどうしても広瀬川一帯をシマにしてえと思ってる。甚助は邪魔なんだよ。伊三郎んとこから来てる目付役がいなかったら、助八と甚助はとっくに首の取りっこをしてるぜ」
「その目付役を叩っ斬ったらどうでえ?」と清五郎が円蔵を見た。
「そいつはできねえ」
円蔵は首を振った。
「目付役を斬りゃア、伊三郎が必ず出て来る。伊三郎は御用聞きだ。一応、取り調べの手順てえ奴を知ってる。敵を甘く見るとこっちがやられるぜ。目付役を斬ったぐれえで、百々一家が潰されたらかなわねえ」
「それで、賭場荒らしの方は殺しても大丈夫(でえじょぶ)なんですね?」と忠次は聞いた。
「ああ、助八もてめえの子分が賭場荒らしをして殺されたなどと恥ずかしくって伊三郎には言えめえ」
「成程」
「ただな。万が一、ばれるってえ事もあるからな。殺した後はしばらく、旅に出た方がいいな」
「旅に出るったってよお、俺は上州から出た事アねえぜ」
富五郎が心配顔をした。
「何言ってやがんでえ。おめえが殺(や)るって決まったわけじゃあるめえ。その仕事は俺がやるぜ」
清五郎が胸を張って、富五郎の前に出た。
「馬鹿野郎、おめえは賭場の面倒を見なきゃアなるめえ。長旅なんかできねえぜ」
「何言ってやがる。おめえだって中盆じゃねえか。中盆がいなくなったら賭場は開けねえ」
「兄貴、俺にやらしてくれ」と今まで黙っていた又八が言った。
「おりんさんが来てから、壷振りの俺の仕事はなくなっちまった。文句言ってんじゃねえんだ。俺なんかより、おりんさんの方がずっとうめえからしょうがねえんだ。ただ、今、手のあいてる俺がやるんが一番、いいと思う」
「おい、又、都合のいい事言ってんじゃねえぜ。おめえは早く中盆になりてえって言ってたじゃねえか。俺が旅してる間、中盆をやれ」
清五郎、富五郎、又八が俺がやると言い争っていると隅で控えていた甲斐の新十郎が口を挟んだ。
「その役は新参者のあっしに任せておくんなせえ。あっしなら旅なれておりやすから」
「おい、おめえ、汚ねえぞ」と富五郎が怒鳴った。
「親分、どうしやすか?」と円蔵が忠次を見た。
「そうだな」と忠次は四人を見比べた。
「助八の子分どもを知ってるのは富だけだし、腕も一番立つ。甲斐新と一緒にやってもらうのが一番、いいかもしれねえな」
「決まったぜ」
富五郎は飛び上がって喜んだ。
「顔を見られねえようにしろよ」と円蔵は注意した。
富五郎は月代(さかやき)を広く剃って髷の形を変え、さらに旅の商人に扮して、新十郎と一緒に中島に向かった。忠次と円蔵も事の成り行きを見守るため百々村に移った。
十日が過ぎ、二十日が過ぎても何も起こらなかった。
あの二人、調子のいい事言いやがって、遊び惚(ほう)けてるんじゃねえのかとみんなで言い合っている頃、中島の賭場荒らしをした助八の子分が浪人者に袈裟斬りにされたと噂が立った。
円蔵自らが正確な情報を得るため、山伏に扮して中島に向かった。円蔵の調べた所によると、殺された賭場荒らしは二人組で、手拭いで顔を隠していた。二人共、長脇差の抜き身を持ったまま、一刀のもとに斬られていた。
一人は首の付け根から胸にかけて一尺近く斬られ、もう一人は胴を真横に斬られ、臓物(はらわた)が流れ出していたという。二人の側に空っぽのテラ銭箱が転がっていた。十手を持った伊三郎が村役人と一緒にやって来て死体を調べ、見事な斬り口から、下手人は腕の立つ浪人者の仕業に違いないと結論を下した。
「富の腕なら、そのくれえの事はやれるぜ」と忠次はニヤリとした。
「うまく行ったという事だな」
文蔵が満足そうにうなづいた。
「この後、伊三郎がどう出るかだな」と円蔵は腕組みをした。
「どっちにしろ、あっしらが疑われる事はあるめえ。奴らは浪人者の仕業だと信じてるからな」
「中島の甚助の様子はどうなんです?」
「甚助は賭場荒らしを命じたのは助八に違えねえと恨んじゃいるが、伊三郎にすべてを任せたようだ。伊三郎としても助八をこのままにして置くわけにも行くめえな。落とし前はしっかりと付けなくちゃア笑い物になるぜ」
「賭場を荒らした奴らは死んじまった。俺の知らねえ事だと助八が言ったら、それまでじゃねえのか?」
「いや、助八も黙ってはいめえ。甚助の子分たちの方が先に賭場を荒らしたと言うに違えねえ。そして、甚助の家の裏からテラ銭箱が出て来たら面白え事になる」
「まあ、じっくりと成り行きを見ていようじゃねえか」
結果は以外な展開となった。死体が発見された次の日の夜、助八は子分たちを率いて、中島の甚助を襲撃した。予想もしていなかった突然の殴り込みに甚助は簡単に殺され、甚助のもとにいた伊三郎の目付役も殺された。助八は平塚に戻る事なく、そのまま、国を出て行った。
怒った伊三郎は関東取締出役に訴え、助八一党はお尋ね者となって関東一円に手配書が回った。助八のいなくなった平塚には伊三郎の手作りの子分、留五郎が代貸として入り、中島は甚助の一の子分だった長平が代貸となった。
平塚と中島は依然、伊三郎の支配下にあったが、助八と甚助の二人が消えた結果となり、円蔵の作戦は成功したと言えた。その時以後、円蔵は「軍師」と呼ばれるようになり、忠次の子分ではないが、百々一家の一員になった。  
叔父御は大した貫録だア
その年、天保(てんぽう)三年(一八三二)の春、桑(くわ)が芽吹く頃、大霜が降り、桑の葉が全滅して養蚕ができなかった。その後、梅雨時に雨が少なく、日照りが続き、米のできも悪く、米価は高騰した。農民たちは騒いだが、暴動にまでは至らなかった。しかし、この年の不作が日本全国を襲った天保の大飢饉(ききん)の幕開けだった。
養蚕はうまく行かなかったが、境の絹市にはそれ程の影響はなかった。絹糸にしろ、絹織物にしろ蓄えて置く事ができるので、不作の年はそれらを市に出して現金に代えた。米価が上がり物価が上昇すれば、絹の取引価格も上がり、在庫を多く持っている者は返って喜んだ。
吉祥天のお辰が壷を振る忠次の賭場、伊勢屋は相変わらず客が集まり、伊三郎の桐屋と大黒屋をしのいでいた。伊三郎にはもう一つ、佐野屋の賭場があったが、壷振りが女ではないので客が減り、とうとう閉鎖となってしまった。また、佐野屋の御隠居が百々一家の隠居、紋次と親しいので、伊三郎としてもやり辛かったのかもしれなかった。
境宿の名物となった女壷振りも一年が経つと飽きられて来て、大黒屋のお北は消え、男の壷振りが復帰していた。壷振りで客が呼べなくなると、どうしてもテラ銭の安い忠次の賭場の方に客は集まって来た。
その年の九月、木島村の助次郎と共に紋次を裏切って伊三郎の代貸となった武士(たけし)村の惣次郎が伊勢崎の栗ケ浜の半兵衛親分に殺されるという事件が起こった。
伊三郎の身内になった助次郎と惣次郎は縄張りを広げるために伊勢崎方面に進出して、半兵衛と争っていた。調子に乗った惣次郎が半兵衛のシマ内で無断で賭場を開き、文句を言いに来た半兵衛の子分を斬ったのが原因だった。怒った半兵衛は武士村に殴り込みを掛け、惣次郎と主立った子分たちを殺して旅に出てしまった。伊三郎は半兵衛たちを関東取締出役に訴えて手配したが、武士村に代貸を置く事はしなかった。忠次は武士村に文蔵を送り込んで、武士村を取り戻した。
円蔵の作戦により、平塚の助八と中島の甚助が消え、後は世良田の弥七だった。弥七がいなくなれば、島村一家を潰す事も可能になると円蔵は考えていた。しかし、弥七を消すのは難しかった。
弥七の縄張り、世良田村には祇園(ぎおん)社(八坂神社)と長楽寺があった。長楽寺は将軍徳川家の菩提寺(ぼだいじ)で、境内に徳川家康を祀(まつ)る東照宮があり、世良田村は長楽寺の寺社領となっていた。将軍家に縁(ゆかり)のある朱印地であるため、余程の事がなければ関東取締出役でさえ立ち入る事はできず、賭場を開くには絶好の環境と言えた。世良田の村民は他村に比べると裕福であり、長楽寺の坊主たちも博奕好きだった。さらに、六月に行なわれる祇園祭りは盛大だった。各地から親分衆が集まって来て、あちこちに賭場を開いた。その場所を決める権利を持っているのが弥七で、ショバ(場所)代を集めるだけでも莫大な利益を上げる事ができた。
弥七が世良田村の親分になる事ができたのは伊三郎のお陰であった。伊三郎の後ろ盾があったからこそ、先代の親分から跡目を継ぐ事ができたのだった。最高の縄張りを持っているため、助八や甚助のように縄張りを広げようという野心はない。世良田だけで満足している。ただ欲目を言えば、高いカスリを払わなければならない伊三郎から独立したいと願っているが、その事は胸の奥にしまって口に出す事はなかった。
軍師と呼ばれるようになった円蔵は、弥七を陥(おとしい)れるための作戦をずっと考えていた。しかし、いい考えは浮かばなかった。忠次は焦る事なく、国定村周辺の村々を次々に縄張り内に組み込んで行った。
国越えしていた富五郎と甲州無宿の新十郎が戻って来たのはその年の暮れだった。二人は甲州方面の親分のもとを渡り歩いて修行を積んで来たという。旅の話を自慢気に話してくれた。
年が明けて三月、境宿の諏訪神社の桜が満開で、花見客で賑わっている時、おとなしくしていた文蔵が騒ぎを起こした。桐屋に殴り込み、伊三郎の取り巻き連中に殴られ、血だらけになって帰って来た。
「何てえ事をしてくれたんでえ。伊三郎を殺(や)るのはまだ時期が早すぎるわい」
円蔵は文蔵を怒鳴った。
「違う、違う、軍師、そうじゃねえんだ」と文蔵は顔の血を拭きながら叫んだ。
「小三郎の奴がいやがったんだ」
文蔵は顔を歪めて、腹を押さえた。
「何だと?」と忠次は長火鉢の向こうで腰を浮かせた。
「新五の兄貴を殺った、あの小三郎が帰(けえ)って来やがったんか?」
「桐屋に入(へえ)ってくとこを見たんだ。取っ捕めえてやろうと桐屋に踏み込んだら、伊三郎のくそったれがいやがったのよ。畜生、あの野郎、ぶっ殺してやる」
「小三郎は桐屋にいるんだな?」と聞いたのは相州無宿(そうしゅうむしゅく)の丈太郎(じょうたろう)だった。
丈太郎は以前、紋次親分の世話になった事があり、紋次が病で倒れた事を旅の空で聞いて、一月程前に紋次を見舞うためにやって来た。丈太郎は旅先で円蔵と知り合っていて、偶然の再会を喜んだ。紋次の病は大分よくなり、半身は不自由でも、杖を突けば歩ける程に回復していた。丈太郎も安心したが、兄貴分だった新五郎が殺されたと聞いて驚いた。新五郎の墓参りをし、居心地もいいので、円蔵に勧められるままに長逗留していた。忠次が伊三郎を相手に戦っている事を知り、新五郎のためにも何か手伝う事があればやらせてくれと常々言っていた。
「あっしの出番のようですね」と丈太郎は渋い顔してうなづいた。
「この件は丈太郎さんに任せた方がよさそうだな」と円蔵は忠次に言った。
「任せておくんなせえ。円蔵さんのいう通り、まだ、伊三郎を殺るには時期が早え。今、百々一家が伊三郎に刃向かっても勝ち目はねえ。伊三郎を殺るには少しづつ外堀を埋めて行くしかねえぜ。小三郎の奴は間違えなく、あっしが片付けますよ」
「丈太郎さん、済まねえ」
忠次は頭を下げた。
「本来なら俺たちが落とし前(めえ)をつけなきゃなんねんだが」
「なあに、新五の兄貴にゃア世話になりっぱなしだった。恩返しのつもりで仇を討つのさ」
「死なねえでおくんなせえよ」
「どこで死んでも悔いのねえ体だが、親分さんには迷惑はお掛けしやせん。今度、上州に来る時を楽しみにしてますよ」
「その事なら任せておきねえ」
丈太郎が小三郎を殺す事に決まり、桐屋に宇之吉を送って偵察させたが、当の小三郎は消えてしまった。文蔵に見られたため、伊三郎が隠してしまったのだった。
「くそっ、また、旅に出ちまいやがった」
文蔵は傷の痛みを堪えながら悔しがった。
「いや」と円蔵は首を振った。
「三年近くも国を離れてたんだ。帰って来たばかりで、すぐまた、旅に出たとは思えねえ。どこかに隠れてるに違えねえ。奴に女はいねえのかい?」
「おっと、そういや、確かに女はいたぜ」
文蔵は目を細めて宙を見た。
「確か蛭子(えびす)屋で働いてたはずだ。けどよお、奴がいなくなってからは見かけねえな。おふさとかいう名前(なめえ)だったぜ」
「その女なら伊与久村にいますよ」と久次郎がとぼけた顔して言った。
「何だと?何でおめえが知ってんだ?」
「もう一年も前(めえ)だけど、ばったり会ったんです。向こうは気づかなかったけど、もしかしたら小三郎が一緒にいるかもしれねえと思って、後を付けてみたんです」
「おっ、それで、どうした?」
「後を付けてったら、鶴八兄貴のうちに入(へえ)って行ったんです」
「あんな裏切り者はもう兄貴じゃねえや、馬鹿野郎!」
「小三郎の女が鶴八の女になったのか?」と円蔵が聞いた。
「鶴八には女房も子供もいるはずだぜ。妾にしたとしても一緒に暮らすのはおかしいぜ」
「小三郎が凶状持ちになり、店にいられなくなって鶴八が面倒みてやってんじゃねえのかい?」と丈太郎が言った。
「そのようです」と久次郎はうなづいた。
「離れを借りて暮らしてました」
「そのようですじゃねえや。何で、その事にもっと早く気が付かねんだ、このうすのろが」
「へい、すっかり忘れてました。それに、一年も前の事ですよ。今、いるかどうか‥」
「久次、おめえ、今からすっ飛んで行って確かめて来い」と忠次は命じた。
俺も一緒に行くぜと丈太郎も付いて行った。
久次郎は夜になって戻って来た。
「うまく行ったのかい?」
みんなが期待して集まって来た。
「鶴八んとこにはもういなかったんですけど、何とか見つけ出す事ができました」
「ほう、それで、小三郎の野郎は片付けたのかい?」
「それが、俺がウロウロしてるとやべえから帰(けえ)れって言われて‥」
「見届けねえで帰って来たんか?」
「へい。親分に迷惑がかかるから、さっさと帰れって」
「まあ、いい。丈太郎さんが失敗する事はあるめえ」
次の日、伊与久村は大騒ぎとなった。が、小三郎が殺されたのではなく、小三郎とおふさの心中事件だった。
「伊三郎の奴が小細工しやがった」と円蔵は苦笑した。
「何で、そんな小細工なんかするんでえ?」
文蔵には分からなかった。
「伊三郎の奴はな、新五郎を殺した下手人は小三郎だと八州様に訴えて手配させたんだ。てめえで手配した者を庇うわけにもいかねえ。かといって、てめえの命令に従って仕事をした者を取っ捕まえれば、子分たちの信用をなくしちまう。伊三郎は小三郎の処分に困っていたに違えねえ。あっしらが小三郎を殺してくれるのを待っていたのかもしれねえぜ」
「成程‥」と忠次は唸った。
「しかし、小三郎殺しを心中で片付けるのは解せねえ」
「小三郎を殺した下手人が役人に取っ捕まって、からくりがばれるのを恐れたのよ。伊三郎の書いた筋書きはな、小三郎が新五郎の女に横恋慕して、強引にやっちまった。それを新五郎が怒って小三郎を斬りに行ったが逆に殺されたってえ筋書きだ。その筋書きには伊三郎は一切関係ねえのよ。ところが、下手人が捕まって、小三郎が百々一家から島村一家に鞍替えしてた事が分かり、さらに、小三郎の女が鶴八の厄介になってた事まで分かっちまえば、伊三郎としてもどうしょうもねえ立場に追い込まれんのよ。小三郎の女が伊三郎に命じられたから新五郎を殺したなどと言ってみろ、今まで人を殺した事がねえと自慢してる伊三郎の信用はがた落ちだぜ」
「汚ねえ事をしやがる」
文蔵は吐き捨てた。
「それじゃア、小三郎は伊三郎に利用されただけじゃねえか」
「代貸にしてやるとか言われて、躍らされたんだんべえ。おめえたちも小三郎の二の舞えを踏むんじゃねえぜ。伊三郎の奴は境のシマを諦めちゃアいねえ。百々一家を境から追い出して、すべてを自分のものにするつもりだ」
「そろそろ、向こうから仕掛けて来るかい?」
忠次は円蔵に聞いた。
「多分な。表向きは心中事件で済ませたが、それをネタに何か言い掛かりを付けて来るかもしれねえ。小三郎の件は一切、知らねえとしらを切った方がよさそうだな。それに、今まで以上に騒ぎを起こさねえようにしなけりゃなんねえ。十手に物を言わせて、ちょっとした騒ぎを起こしただけでもしょっ引かれるかもしれねえぜ。とにかく、堅気の衆と面倒を起こしちゃなんねえ。堅気の衆を味方に付けりゃア、伊三郎の奴は手も足も出せねえからな」
円蔵に言われた通り、忠次たちは堅気の衆たちと仲良くやり、伊三郎の子分たちに何を言われてもじっと耐えていた。
四月になって忠次は円蔵と一緒に世良田の弥七の所に出向いた。
弥七を倒すうまい考えが浮かばない円蔵は思い切って、弥七と親しくなってしまえと考えた。円蔵は弥七に一度会った事があり、面倒見のいい温厚な親分だと見ていた。伊三郎と忠次が争っている事を知っていても、下手(したで)になって近づいて行けば邪険にはしないだろうと挨拶に行ってみる事にした。
忠次が弥七の所に出入りして伊三郎がどんな反応を示すかまったく分からなかった。半と出るか丁と出るか、円蔵と忠次は大きな賭けに出てみた。うまく行けば、弥七と伊三郎の間に溝ができ、下手(へた)をすれば、その場で取り押さえられて闇討ちに会う事も考えられた。しかし、弥七が伊三郎のために、忠次を殺す事はないと円蔵は見極めていた。
忠次が来た事を知ると弥七の子分たちは殴り込みかと慌てたが、忠次が二人だけで来て、しきたり通りの仁義を切ると安心して仁義を受けた。
「まさか、おめえさんが挨拶に来るとは驚きだぜ」
弥七はたぬきのような顔をして笑った。
「親分さんの噂はかねてから聞いておりやす。もうちっと早くに挨拶に参(めえ)りたかったんでごぜえますが、うちとしても色々とゴタゴタがありまして、挨拶が遅れてしめえやした。まだ駆け出し者(もん)でごぜえますが、以後、よろしくお願いいたしやす」
「なあに、こっちこそ、おめえさんの噂はたっぷりと聞いてるぜ。若えわりには顔が広え。襲名披露の時、集まって来た親分さんの顔触れを見て、まったく恐れいったぜ。大前田の親分さん(要吉)は余程の事がねえ限り、腰を上げねえとの評判だ。その親分さんがわざわざ出向いて来るなんざ、おめえさんは余程の大物だぜ。それに一家を張ってからも、力づくで縄張りを広げる事もなく、女の壷振りを使って客を集めるなんざ、誰にでもできる芸当じゃアねえ。今だから言うが、もし、おめえさんが力づくに出たら、今頃はうちの親分に潰されていたぜ。おめえさんが長脇差を振り回さねんで、うちの親分も手が出せねえのよ。俺もおめえさんには一度、会って見てえと思ってたんだ」
「お褒めの言葉、ありがとうごぜえやす」
「それで、何でえ?わざわざ、挨拶するために敵地に乗り込んで来たわけでもあるめえ」
「お察しのいい事で」と忠次の後ろに控えていた円蔵が言った。
「おめえさんは確か、前(めえ)に福田屋の親分さんと一緒に来なすったが、忠次の子分になったんかい?」
「いえ」と忠次が答えた。
「お客人として、色々と勉強させて貰っておりやす」
「ほう、そうかい」
「あっしは忠次親分の心意気に惚れましてね。忠次親分を男にしてえと思ってるんでごぜえます。そこで親分さんに頼みがごぜえます」
「何でえ、言ってみな」
「へい、世良田の祇園祭りの賭場に忠次親分も参加させておくんなせえまし。世良田の祇園祭りと言やア、関東中の親分衆が集まるとの評判でごぜえます。是非とも、忠次親分にもその仲間入りをさせておくんなせえ」
「うーむ、俺としちゃア参加させてやっても構わねえがな、うちの親分が何と言うかのう」
「祇園祭りの盆割りは親分さんが仕切ってるんじゃねえんですかい?」
「一応、俺が仕切っちゃアいるが‥」
「親分さん、お願えしやす」と忠次と円蔵は頭を下げた。
「今まで、百々一家は境を仕切っていた。同じ頃、境にも祇園祭りがあって盆割りはうちがやって来た。しかし、今じゃア境の半分以上は島村一家に取られちまった。せめて、世良田の祇園祭りに参加して、百々一家も健在だってえ所を見せてやりてえんですよ」
「しかしなア‥」
「挨拶代わりといっちゃア何ですが、これをお納め下せえ」
円蔵は弥七に十両の包みを渡した。
「まあ、考えておこう」と弥七は笑った。
その後、円蔵は度々、弥七のもとを訪れ、親しくなって行った。
六月になり世良田の祇園祭りが始まった。
忠次は田部井村にいた弁天のおりんを連れて参加し、賭場を開いた。袖の下が効いたとみえて、忠次の賭場は最上とは言えないまでも、結構、いい場所だった。
見回りに来た伊三郎が忠次とおりんに気づき、変な顔をしたが回りに親分衆がいたので、何も言わずに通り過ぎて行った。各地の親分たちもおりんの噂は聞いていて、一目見たさにやって来た。今、売り出し中の忠次と伊三郎の所にいた女壷振りのおりんの組み合わせは親分衆たちの評判になった。
「島村の親分も大(てえ)した親分だぜ。対抗してる忠次におりんをくれてやり、しかも、シマ内の世良田の祇園祭りに忠次とおりんを参加させるなんざ、器量が大きいねえ」と褒める者もいれば、
「伊三郎親分もおりんを忠次に取られて、そのうち、シマまでそっくり取られちまうんじゃねえのか」と陰口をたたく者もあった。
伊三郎は悪口を言われても怒る事なく、祭りの間中、始終ニコニコしながら、親分衆の機嫌を取っていた。何の騒ぎも起こらず、祇園祭りは無事に終わった。忠次からみれば、各地の親分衆とも近づきになれ、決して十両は無駄にはならなかった。伊三郎から見れば、忠次の存在を許す程、器の大きな親分だと褒められたお陰で、忠次を潰す事ができなくなってしまったのは辛かった。
七月の国定村の赤城神社の祭りが終わった頃、ひょっこりと大前田の栄五郎が百々村に顔を出した。六年振りの再会だった。
「おめえの噂をあちこちで聞いたぜ。紋次の跡目を継いで立派にやってるそうじゃねえか」
「いえ、一家を潰さねえように必死で頑張ってるだけです」
「色々とあったらしいな。俺もな、栄次のお陰でようやく久宮一家と和解ができた。まだ、落ち着く気はねえが、上州に帰って来られる身となったぜ」
「えっ、そうですか。そいつはどうも、おめでとうごぜえやす。叔父御が大前田にいてくれたら、何かと心強えですよ」
「いや、大前田には帰らねえよ。大前田にゃア兄貴がいるからな、俺が帰ったら、兄貴だってやりづらくなるだんべえ。今すぐってわけじゃねえが、大胡に落ち着こうと思ってるんだ」
「大胡といやア赤城山の入り口ですね。三夜沢(みよさわ)の赤城神社も大前田一家が仕切ってるんですか?」
「ああ、三夜沢もそうだし、その先の湯の沢の湯治場(とうじば)もうちのシマだ。ただし、お山のてっぺんは今んとこ、空いてるぜ」
「お山のてっぺんで賭場を開くんですか?」
「そうだ。四月の山開きん時は大層な賑わいだ。賭場を開けば稼げる事は確かだぜ」
「成程‥でも、どうして大前田一家はそれをやらねんですか?」
「山開きん時、おめえも一緒にお山に登ってみりゃア分かるよ。あっちこっちで博奕をやってるぜ。役人どもがお山のてっぺんまでやって来る事アまずねえからな。そんなとこでテラ銭が取れるわけはねえ」
「それじゃア、しょうがねえじゃねえですか」
「うむ。普通の賭場を開いても客は集まって来ねえ。工夫が必要だな」
栄五郎はニヤリと笑った。
「客を集める工夫ですか‥」と忠次は考えてみた。
「関八州の親分衆をずらりと勢揃いさせりゃアいいのさ。客はテラ銭を出しても集まって来るぜ」
「えっ、赤城山のてっぺんに親分衆を集めるんですか?」
「そうよ、やってみねえか?」
「俺がやるんですか?」
「おう、おめえがやるんだ」
「どうして、叔父御がやらねえんで?」
「俺は大前田一家の親分じゃねえ。親分は兄貴だ。兄貴はそういう派手な事は嫌えでな、俺もやりてえんだが、俺がやるわけにゃアいかねんだ。今のおめえじゃ、まだ無理かもしれねえが、いつか、そいつをやってみちゃアくれねえか?おめえがやるとなりゃア、俺も手伝わせてもらうぜ」
「はい。是非、やってみてえもんです」
「楽しみにしてるぜ」
その日は丁度、境の市日だった。
栄五郎は賑やかな絹市を見て回り、伊勢屋の賭場で遊んだ。
栄五郎がどんな勝負をするのか忠次は期待を込めて見守っていたが、栄五郎は気持ちのいいくらいの負けっ振りだった。
「いいか、忠次、堅気の衆と勝負する時は、決して勝っちゃアいけねえよ」と賭場を出た後、栄五郎は言った。
「俺たちゃア、堅気の衆におマンマを食わせて貰ってる身だ。おめえも旅先で賭場に出入りする事もあるだんべえが、親分と呼ばれる者が旅先の賭場で稼ごうなんて料簡(りょうけん)を起こしちゃアいけねえ。旅先の賭場では気前(きめえ)よく負けてこそ、親分の貫録ってえもんだ。覚えておけ」
「へい‥」
栄五郎は名古屋にし残した事があるからと、次の日、旅立って行った。
「紋次の事を頼むぜ」と栄五郎は最後に言った。
「大(てえ)した貫録だなア」
栄五郎を見送りながら、円蔵とおりんはうなづき合った。
うるせえ、たたっ斬ってやる
去年の日照り、今年の長雨と不作が続き、とうとう暴動が起こった。
赤城山麓の百姓たちが武器を手にして伊勢崎方面に押し寄せて来たのだった。各村々では若者組を中心に自警団を作って村を守った。
忠次も子分たちを率いて縄張り内の村を守った。国定村と田部井村も暴徒に襲われたが、その数は少なく、追い払う事ができた。しかし、境宿は危険だった。伊勢崎町で暴れ回っている暴徒が勢いに乗って境になだれ込んで来るに違いなかった。
十手を持った伊三郎も大勢の子分を引き連れて境を守るためにやって来た。
「おいおい、おめえらは百々村でも守ってろ」
槍をかついだ助次郎が鼻で笑いながら忠次に言った。
「そうはいかねえ。堅気の衆を守るんが俺たちの務めだ」
「へっ、生意気(なめえき)言うんじゃねえ。それっぽっちの人数で何ができるって言うんでえ。境の事は俺たちに任せて、さっさと帰(けえ)んな」
「何だと‥」
文蔵が長脇差を抜きそうになった。
円蔵が素早く止めに入った。
「助次さん、おめえさんは木島村を守らなくてもいいんですかい?ここに来る前(めえ)に奴らは木島を通るんですぜ」
「うるせえ、今から行くところでえ」
「早く行かねえと手遅れになりますぜ」
「おい、文公、命は大事(でえじ)にしろよ」
大笑いしながら、助次郎は子分を連れて木島村に向かった。
伊三郎たちと喧嘩している場合ではないので、忠次たちも百々村に移った。百々村でくい止めれば境は安全だった。
からっ風の吹きすさぶ中、忠次たちは道を塞いで、命に替えても暴徒たちを通さないと覚悟を決めた。勢い付いた暴徒を食い止めるには並大抵の事では無理だった。まず、相手の出端をくじくような事をしなければならない。鉄砲の名人である八寸(はちす)の才市の鉄砲で脅かし、弓矢も用意して待ち構えた。三下奴たちを伊勢崎に送り、状況を把握しながら待っていたが、幸いにも暴徒が押し寄せて来る事はなかった。伊勢崎の酒井家の侍たちの活躍で、富豪たちが蔵の中の米を施して騒ぎを静め、同調していたならず者たちを残らず捕まえたらしかった。
翌年は天候が順調だったので暴動騒ぎは起こらずに済んだが、忠次の身の上には重大事件が起こった。
天保五年(一八三四)六月、祇園祭りの準備のため世良田に行った文蔵と民五郎が騒ぎを起こしてしまったのだった。
去年の祇園祭り以来、忠次は弥七の所にちょくちょく出入りしていた。時には弥七のために、おりんやお辰を出張させた事もあった。祭りの前にも袖の下を持って挨拶に出向いたので、すっかり安心して、現場の事は文蔵に任せていた。
文蔵は民五郎と三下を連れて去年と同じ場所に小屋掛けするつもりで出掛けて行った。しかし、そこには、すでに伊三郎の代貸、前島の秀次の賭場ができていた。文蔵は文句を言ったが、盆割りは毎年、変わるもんだと笑われた。弥七の子分を見つけて、百々一家の賭場はどこだと聞いて、案内された所は境内の外れで、人が集まるような場所ではなかった。
「おい、おめえ、俺たちをおちょくってんのか?」と文蔵は弥七の子分に食って掛かった。
「俺は何も知らねえ。この図面通りにやってるだけだ」
「へっ、おめえじゃ話になんねえ。弥七んとこへ案内(あんねえ)しろ」
弥七は社務所にいた。文蔵が文句を言うと済まねえと謝った。弥七は去年と同じ場所を指定したが、伊三郎が盆割りを変えてしまったという。
「祇園の盆割りは俺が任されていて、親分は目を通すだけなんだ。去年はいいと言ったんだが、今年はすっかり変えちまった。俺にゃアわけが分かんねえ。この埋め合わせは後でしっかりとさせてもらうから、今回のとこは、まあ我慢してくれ」
「我慢しろだと?あんな場所に賭場を開いて客が来ると思ってんのか?うちの親分を笑い物にしてえんだな。そっちがその気なら、こっちも覚悟を決めるぜ」
弥七に詰め寄った時、文蔵は後ろから思い切り蹴飛ばされた。
「盆割りに文句があるってえのかい?」
後ろで誰かが怒鳴った。
「この野郎!」と文蔵が起き上がろうとするとさらに蹴飛ばされた。
長脇差を抜く暇もなかった。二人に押さえ付けられ、文蔵はめちゃくちゃに殴られた。殴られながら文蔵は弥七が、
「彦さん、やめてくれ」と言っている声を聞いていた。
彦さんというのは伊三郎の手作りの子分で、武士村の惣次郎が殺されてから大黒屋の賭場を任されている小島の彦六に違いなかった。
「親分が決めた盆割りに口を挟むたア許しちゃおけねえ」と彦六が言うのを聞きながら、文蔵は気を失った。
気が付くと腫れ上がった顔の民五郎が泣きながら、文蔵を揺すっていた。
やかましいセミの鳴き声が頭に響いた。文蔵は顔を上げると、
「おい、みんな、大丈夫か?」と声を掛けた。
皆、傷だらけだったが、どうやら生きていた。
文蔵は口の中の血の塊を吐き出すと、
「くそっ!もう我慢できねえ」と祇園の森を睨んだ。
「親分が何と言おうと伊三郎の野郎、たたっ斬ってやる。それと彦六のくそったれ野郎も許せねえ」
文蔵たちはやっとの思いで百々村に帰ると忠次に事の成り行きを説明した。
「軍師、今度ばかりは止めても無駄だぜ」
忠次は声をあらげて言った。
「ここまでされちゃア、もう黙っちゃいられねえ。伊三郎の首は必ず取るぜ」
「そう来なくっちゃアいけねえや」
文蔵は腫れた顔を冷やしながら、嬉しそうにうなづいた。
「しかしな、どうもおかしいぜ」と円蔵は首をひねった。
「何がおかしいってんでえ?」
「伊三郎のやった事さ。親分衆の顔色を一番気にしてる伊三郎が去年、一番人気だった親分の賭場を境内の外れに置くなんて考えられねえ。去年、伊三郎は器のでっけえ親分だと褒められたんに、今年、そんな事をしたら、去年の評判はがた落ちだぜ。いくら、親分の事が気に入らねえからって、そんな大人気ねえ事をするとは思えねえ」
「軍師はそう言うがよお、弥七ははっきりと伊三郎が変えたって言ったんだぜ」
「どうも腑に落ちねえ。おめえを殴ったのは彦六だって言ったな?」
「ああ、俺は面まで見なかったが、民がはっきりと見た。大黒屋の彦六に間違えねえ」
「彦六と言やア、伊三郎が最も可愛いがってる子分だ。おりんの調べたとこによると、彦六は十七の時、伊三郎の子分になって、ずっと伊三郎のそばにいたらしい。本家内では伊三郎の跡目を継ぐとまで言われてる。ただ、伊三郎に忠実過ぎて、分家筋の代貸たちにゃア評判よくねえ。分家筋に評判がいいのは代貸の林蔵だ。林蔵は伊三郎の弟分で、伊三郎が一家を張った時の最初の代貸だ。元々は本家筋の代貸だったが、伊三郎が十手を持って御用聞きになってから、体面を重んばかって分家にしたんだ」
「軍師、一体(いってえ)、何が言いてえんだ?」
忠次はイライラしながら聞いた。
「伊三郎がどうして、うちの賭場を隅っこにしたかを考えなくちゃなんねえ」
「そいつはよお、伊三郎の奴は境に彦六を送り込んで、境を乗っ取ろうとしてるに違えねえからでえ」
文蔵は顔を冷やしていた手拭いを円蔵の前に放り投げた。
「かもしれねえな。おめえたちが彦六に仕返しをするのを待ってんのかもしれねえ。彦六を餌(えさ)にして、あっしたちが騒ぎ出したら、取っ捕まえるってえ魂胆だな」
「彦六の野郎なんか放って置いてよお、伊三郎の奴を殺(や)っちまえば捕まる事もねえぜ」
文蔵は首を斬る真似をした。
「まあ、待て。今、伊三郎を殺ったとして、島村一家がどうなるかを考えなくちゃなんねえ。島村一家が潰れるなら伊三郎を殺した方がいいが、伊三郎がいなくなっても島村一家が健在だったら、逆に百々一家が潰されちまうって事だ」
「そんな事ア、やってみなけりゃ分かんねえじゃねえか」
「分かんねえじゃ済まねえぜ。おめえたちは簡単に伊三郎を殺すと言うがな、相手は十手持ちなんだぜ。そいつを殺してただで済むと思ってんのかい?必ず、手配が回り、手配された連中はしばらく帰って来られなくなるんだぜ。その間に留守を守ってる者がやられちまったら、おめえたちは帰る所もなくなっちまうんだ。その辺の所をよーく考えてから行動に移さなくちゃなんねんだよ」
「軍師の言う事は分かるが、このまま、黙ってたら、百々一家は笑い物になっちまうぜ」
忠次は眉間にしわを寄せ、拳(こぶし)を固く握り締めた。
「文蔵が半殺しの目に会ったんは、賭場の準備に来てた奴らに見られてんだ。子分たちは帰って、てめえの親分に事の成り行きを知らせたはずだ。みんな、この俺がどう出るか期待して見てるに違えねえ。子分をこんな目に会わされて何もしなかったら、俺は意気地なしだと笑われちまう。御隠居に会わせる顔がねえぜ」
「確かにな‥しかし、彦六の野郎がどうも臭えぜ。彦六が伊三郎内緒でショバを変えたのかも知れねえ」
「彦六なんか、どうだっていい。真相をつかんで彦六の野郎を殺したって、伊三郎が生きている限り、百々一家は潰されちまう。こうなったら、伊三郎を殺るしかねえんだ」
「そうだな。今がやるべき時なのかもしれねえ。大前田の栄五郎親分も久宮の親分を殺って名を売った。親分もいつかは伊三郎を殺らなきゃなんねえ。今がそん時なのかもしれねえ」
「今が絶好の機会だぜ。今を逃したら、また、何年もこのままの状態で我慢し続けなきゃアなんねえ」
「うーむ、よし、分かった。伊三郎を殺るってえ事で作戦を立てようじゃねえか。絶対に失敗しねえようにな」
忠次は世良田の祇園祭りに参加した。
文蔵が盆割りにケチを付けた事を弥七に謝り、来年はもう少しいい場所を貰えるように伊三郎に頼んでくれと下手(したて)に出た。忠次としてはそんな真似はしたくはなかったが、伊三郎を殺すためには仕方がなかった。忠次が伊三郎に逆らって祇園祭りに参加しないと、伊三郎が忠次を警戒してしまうからだった。
忠次はなるべく目立たないように、女壷振りも連れて行かずに、ひっそりと隅っこで賭場を開いた。伊三郎の子分たちに出会えば、ぺこぺこ頭を下げ、来年はもっといい場所をお願いしますと頼み、去年、贔屓(ひいき)にしてくれた親分衆が来て、伊三郎の事を悪く言っても、去年は伊三郎が先代の親分の顔を立ててくれただけですと自分を卑下(ひげ)した。
その年の祭りでは忠次の事は話題にも昇らず、去年のおりんに対抗して、各地から集まって来た女壷振りが話題になった。どの女も甲乙付けがたい別嬪(べっぴん)で、今年の祭りは華やかだった。特に木崎宿の孝兵衛親分が連れて来た昇り竜のお初は注目の的だった。目の覚めるような別嬪で、しかも背中に見事な昇り竜の刺青(ほりもの)をしていた。島村の養蚕長者の弥兵衛が孝兵衛の賭場に通い詰め、お初の刺青に大金を賭けて勝ち、お初を裸にして全身の刺青を拝んだというのが今年一番の話題となった。
世良田の祇園祭りが終わり、境の祇園祭りも終わり、七月の最初の絹市が二日に立った。忠次は伊三郎襲撃をその晩と決めていた。
伊三郎は市の立つ日、必ず、大黒屋と桐屋に見回りに来る。そして、平塚道を途中から分かれ、中島に出て、利根川を舟で渡って島村に帰るのが、いつもの決まりだった。しかし、今晩は、世良田の長楽寺で日待ちの博奕が開かれる事になっていた。世良田の顔役たちが集まる博奕で、伊三郎は必ず、挨拶に赴くはずだった。いつもなら、日の暮れる前に島村に帰ってしまうが、日が暮れてから始まる博奕に顔を出すからには暗い夜道を行く可能性が強かった。
忠次は伊三郎襲撃に、三ツ木の文蔵、曲沢の富五郎、山王道の民五郎、八寸の才市、神崎の友五郎、甲斐の新十郎、板割の浅次郎の七人を選んだ。
伊三郎の用心棒、永井兵庫という浪人者を倒すには飛び道具がどうしても必要だった。そこで鉄砲の名人である才市、弓の名人の新十郎、手裏剣の名人、文蔵を入れ、念流の使い手、富五郎と居合抜きの民五郎、神道流(しんとうりゅう)を使う友五郎、槍を使う浅次郎を選んだ。他にも連れて行ってくれという者は大勢いたが、伊三郎を殺した後、伊三郎の子分たちが百々村を襲撃した場合の事も考えなければならなかった。日光の円蔵を中心に、国定の清五郎、五目牛の千代松、保泉の久次郎、田部井の又八らに襲撃に備えさせ、留守中の事も頼んだ。
その日、伊三郎に顔を知られていない国定の次郎と鹿安(しかやす)こと鹿村の安次郎を偵察に送り、伊三郎の動きを見守った。
伊三郎が大黒屋に現れたのは昼過ぎだった。供回りはいつもと変わらず、用心棒の永井兵庫、子分の中瀬の信三郎と荷物持ちの三下奴が二人だった。特に警戒している様子もなく、一行は大黒屋に入って行った。大黒屋に半時(はんとき)程いてから桐屋に移った。
桐屋に入ったと鹿安が知らせに来ると忠次は二人づつ組ませて、平塚道から世良田の長楽寺へと向かう道の途中にある高岡村(北米岡)の熊野神社へと送った。
六人を送り出した後、忠次と文蔵は賭場が開かれている伊勢屋に移り、伊三郎が桐屋を出るのを待った。
「伊三郎の奴は本当に世良田に行くんだんべえか?」と文蔵が心配顔で忠次を見た。
「軍師は必ず、行くと言ったが分からねえ。行かなかったら、次の機会を待つしかねえ」
「くそったれが、あの用心棒さえいなかったら、いつでも片付けられるのにな」
「ああ、かなりの使い手だ。噂じゃア、かなり凶暴な奴らしいな」
「伊三郎の用心棒だ。まともな奴じゃあるめえ」
伊三郎は桐屋に一時(いっとき)余りもいた。忠次と文蔵はちびりちびり酒を飲みながら、伊三郎が移動するのをじっと待った。
伊三郎が桐屋を出て、横町の島屋に入ったと鹿安が知らせて来たのは日暮れ近くだった。伊三郎はそこで腹拵えしてから、長楽寺に向かうようだった。
「やったぜ」と文蔵は拳を振り上げて喜んだ。
「伊三郎の命も後わずかってわけだ。たっぷりと名残の飯でも食っておくこったな」
忠次と文蔵も伊勢屋を出て、熊野神社に向かい、伊三郎を待ち伏せする態勢を整えた。挟み打ちにするため、富五郎、才市、友五郎、新十郎の四人を熊野神社の森の中に待機させ、残る四人は平塚道の近くまで出て、伊三郎がやって来るのを待った。
日が暮れてから人通りも途絶えた。空を見上げると月はないが星が輝いている。桑畑に隠れて虫の音を聞きながら、うるさい蚊を追い払い、忠次らはじっと待った。
一時近く経った頃、提灯(ちょうちん)をぶら下げた伊三郎の一行がようやくやって来た。予想通り、伊三郎らは平塚道から世良田へと向かう道に曲がった。用心棒の永井兵庫は酔っ払っているのか、フラフラした足取りで下手くそな木崎節を歌っていた。
一行が目の前を通り過ぎて行くのを見送ってから、忠次らは伊三郎の後を追った。
「やい、伊三郎、待ちやがれ!」と文蔵が怒鳴った。
伊三郎が立ち止まって、振り返った。
と同時に鉄砲の音が鳴り響き、永井兵庫が倒れ、
「卑怯だぞ、てめえら誰だ!」と叫んだ。
新十郎の放った矢が中瀬の信三郎に刺さった。
三下たちが悲鳴を上げて逃げようとしたが、民五郎と浅次郎が道を塞いだ。
三下の持っていた提灯が民五郎の居合抜きに斬られて、真っ二つに割れた。
「おめえは忠次だな」と伊三郎は言ったが、文蔵が投げた手裏剣をいくつも腹に受け、苦しそうに身を屈めた。
「こんな事してただで済むと思ってんのか?」
「うるせえ、てめえの知った事か、たたっ斬ってやる」
忠次は長脇差を抜いて伊三郎に掛かって行った。
伊三郎は左足を後ろに引いて、忠次が振り下ろした長脇差を避け、腰の脇差を抜こうとしたが間に合わなかった。背を向けた格好となった伊三郎の首筋から背中に掛けて、忠次は思い切り、長脇差を振り下ろした。
低いうめき声と共に伊三郎は崩れ落ち、首から血があふれ出した。
「親分、やったぜ」
文蔵が長脇差を振り上げたまま、ゆっくりと伊三郎に近づくと蹴飛ばしてみた。
忠次は倒れている伊三郎を見つめながら、しばし呆然としていた。
脳裏には八年前の殺しがよみがえり、また、やっちまったと胸の中に重苦しい物を感じていた。
「おーい、みんな、大丈夫か?」
文蔵の声で我に返って、辺りを見回した。
伊三郎以外の者は逃げたとみえて、誰も倒れていなかった。
浅次郎が伊三郎の三下から奪った提灯を照らした。伊三郎は体を震わせながら何事かを言っていたが、それは言葉にならなかった。
「何が言いてんでえ。最期の望みとやらを聞いてやるぜ」
文蔵が伊三郎の口元に耳を近づけた。伊三郎は唸りながら左手を伸ばしただけで、ガクリと事切れた。
「死にやがった」と富五郎が言った。
文蔵は俯いている伊三郎の死体をひっくり返すと腹に刺さった手裏剣を引き抜いた。
「へっ、ざまア見やがれ」
文蔵は血だらけの手裏剣を伊三郎の着物で拭った。
「伊三郎の奴は何が言いたかったんだんべえ」と友五郎がぼそっと言った。
「そんな事ア知るけえ。妾の面倒でも俺たちに頼みたかったんじゃねえのか?」
文蔵が冗談を言ったが誰も笑わなかった。
忠次の子分たちに怪我を負った者はいなかった。
用心棒の永井兵庫は才市の鉄砲に撃たれたが、致命傷には至らず、さらに富五郎がどこかを斬ったが逃げられてしまった。
「手ごたえはあった。逃げたとしても命はそう長え事はねえぜ」
富五郎が長脇差の血を拭いながら言った。
中瀬の信三郎は新十郎の弓矢にやられ、友五郎が止(とど)めを刺そうと追いかけたが泥田の中を逃げられた。三下奴のうち一人は浅次郎の槍で刺したが、これも致命傷にはならずに逃げられ、もう一人は提灯を切られた後、すぐに泥田の中を逃げて行ってしまった。
伊三郎を殺せば後の者たちはどうでもいいと忠次たちは百々村へは戻らず、広瀬川に沿って武士村に出て、そこから北上して叔父御である八寸村の七兵衛の家に向かった。
七兵衛は忠次らが伊三郎を殺して来たと言うと目を丸くして、
「何じゃと、伊三郎を殺(や)っただと?とうとう、殺っちまったのかい?」と忠次の顔をじっと見つめた。
忠次がうなづくと、
「そうかい、伊三郎を殺っちまったのかい‥こいつは大変(てえへん)な事になったぜ」と腕組みをして宙を睨んだ。
「そこで、叔父御に頼みなんだが、留守の事をお願えしてえんだ。伊三郎の子分どもが百々村に殴り込みを掛けやがったら、助けてやってくだせえ」
「おう、そんな事なら任せときねえ」と七兵衛は胸を叩いた。
「それにしてもよお、やるならやるで、何で、わしに一声掛けてくんねんだ、水臭えじゃねえか。わしも一緒にやるつもりだったんだぜ」
「叔父御、こいつは俺たちの喧嘩だ。叔父御を巻き込むわけにゃアいかねえ」
「そうか‥伊三郎の奴もとうとう、くたばっちまったか‥」
七兵衛の所で旅姿に着替えた一行は二手に分かれ、夜明け前に旅立った。
忠次、文蔵、民五郎、浅次郎の四人はお伊勢参りに行く糸繭(いとまゆ)商人の若旦那一行に扮して信州へと向かった。勿論、若旦那は忠次で、文蔵は番頭、と民五郎と浅次郎は手代だった。
富五郎、友五郎、新十郎、才市の四人は行商人に扮して、友五郎の故郷下総(しもうさ)(千葉県)へと向かった。
忠次一行を見送った七兵衛は子分を引き連れて百々村へ向かった。円蔵たちは伊三郎の襲撃に備え、喧嘩支度のまま、一睡もせずに起きていた。伊三郎襲撃が成功した事を知ると、円蔵は子分たちに祝い酒を配り、気を引き締めて、殴り込みに備えた。が、いつになっても殴り込みはなかった。
島村一家は伊三郎の仇を討つどころではなかった。本家の彦六と代貸の林蔵が跡目を狙って争い始めた。それぞれの代貸のもとに送られていた目付役は彦六を勝たせるために本家に集まり、林蔵を倒す準備を始めた。
平塚の留五郎は助八が甚助を殺して旅に出た後、本家から送られて代貸になっていた。留五郎が彦六の味方をするために子分を引き連れて本家に行くと、その留守を狙って、中島の代貸、長平が平塚を襲撃して留五郎の子分たちを追い出してしまった。
長平とすれば、伊三郎が消えた今こそ、縄張りを広げ、独立する絶好の機会だと平塚を我が物にしたが、そううまくは行かなかった。彦六と留五郎は林蔵を後回しにして、平塚を攻め、長平を殺した。さらに中島まで攻め、長平の子分たちを追い出した。
彦六と留五郎は平塚と中島を手に入れ、いい気になっていた。しかし、その頃、林蔵が本家を攻めていた。傷を負って寝ていた永井兵庫と信三郎は林蔵の子分に殺された。
長平を殺した留五郎は、
「一人殺しても二人殺しても同じだ。林蔵の野郎をぶっ殺してから旅に出るぜ」と島村へ向かった。
留五郎は林蔵を殺したが、林蔵の子分どもに囲まれて殺された。
結局、彦六は島村には帰れなくなり、平塚を本拠地にし、島村は林蔵の子分、川端の大次郎が居座り、利根川を挟んで睨み合いの状況が続いた。
身内同士の争いを見かねて世良田の弥七が仲裁に入った。
「親分の葬式も済んでねえのに、身内同士で殺し合いを始めるたアどう言う事だ。死んだ親分に合わす顔がねえぜ。ここんとこは仲直りして、島村一家を立て直そうじゃねえか」
弥七はそう言って、双方をなだめた。
その頃、伊三郎殺害の件で八州(はっしゅう)様と呼ばれる関東取締出役(しゅつやく)の吉田左五郎が木崎宿に来たため、彦六と大次郎の争いも休戦となった。
弥七が左五郎に取り入り、伊三郎殺し以後の中島の長平と島村の林蔵殺しは平塚の留五郎の仕業で、留五郎も殺されてしまった。やくざ者同士の争い事なので、一々、表沙汰にしないで欲しいと頼んだ。袖の下を受け取り、納得した左五郎は島村一家の内輪揉めには目をつぶり、伊三郎を殺害した者として、忠次と文蔵の二人を手配した。
伊三郎が殺されてから十一日後の七月十三日の事だった。
当時、八州様にとって、忠次の名は無名に等しく、八州様の道案内だった伊三郎を殺したとしても、所詮、やくざ者同士の争い事だと、それ程、本気になって捕まえようとはしなかった。八州様から見れば、上州一の勢力を持っていた伊三郎が殺されたというのは喜ばしい事で、さらに、その子分たちが殺し合いを始め、有力な子分たちがいなくなるというのは願ってもない事だった。
左五郎は一応、百々一家にも取り調べに現れ、円蔵が応対に出た。円蔵は何も知らない、ちょっとした事が原因で喧嘩になったのだろうと答えた。左五郎は百々一家の縄張りを聞き、境宿の一部だけだと知ると無茶な事をしたもんだなと笑って帰って行った。
左五郎は木崎宿の孝兵衛の経営する旅籠屋に滞在しながら村々を廻っていた。国定村、田部井村にも行ったが、村人たちは忠次なんか知らないと言い通した。五日ばかり木崎宿に滞在した左五郎は取り調べを終えて、玉村宿へと移って行った。
八州様がいなくなると、島村一家の内部抗争は再燃した。
彦六の弟分、尾島の貞次が世良田の弥七を殺して、旅に出てしまった。弥七には野心がなかったが、彦六は弥七が島村一家の跡目を狙っていると思い、殺してしまったのだった。
弥七の一の子分、茂吉が伊三郎を殺した百々一家に助けを求めて駆け込んで来るという奇妙な結果となった。円蔵はどうすべきか迷ったが、助けてくれと頼って来た者を追い返すわけにも行かなかった。円蔵は子分を引き連れて世良田村に向かった。
百々一家が世良田の茂吉と組んだ事に腹を立てた彦六は裏切り者の茂吉を倒そうと抗争外にいた中瀬の藤十、前島の秀次に連絡を取った。ところが、本家のやり方を快く思っていなかった二人は今後、島村一家から抜けて独立すると言って来た。木島の助次郎と柴の啓蔵にも応援を頼んだが、二人も彦六に反感を持っていたため断って来た。助次郎と啓蔵も独立し、後ろ盾を失った助次郎は境から逃げ出して木島村に帰って行った。
円蔵は誰もいなくなった桐屋と大黒屋の賭場を取り戻し、境宿は以前のごとく、百々一家の縄張りとなった。
伊三郎がいなくなった事により、島村一家は分裂し、島村は大次郎、平塚河岸と中島河岸は彦六、世良田村は茂吉、中瀬河岸は藤十、前島河岸は秀次、柴宿は啓蔵、木島村は助次郎と小さな一家がいくつもできた。それらの一家に比べれば境宿を手に入れた百々一家は一番勢力のある一家にのし上がったと言えた。
忠次と文蔵は手配中の身となったが、伊三郎殺しがこんなにもうまく行くとは円蔵でさえ考えの及ばない事だった。忠次には持って生まれた運がある。まだまだ、大きくなれると強く確信した。
上州に帰れねえってえのは辛かったぜ
忠次と文蔵が旅から帰って来たのは翌年の七月だった。
一緒に旅立った民五郎と浅次郎は手配されなかったので、去年のうちに戻って来ている。下総方面に逃げた富五郎たちも去年のうちに帰っている。境宿が手に入ったため、人手が足らなくなり、円蔵が呼び戻したのだった。
百々村に帰ると忠次と文蔵は見知らぬ子分たちに迎えられた。
「おおっ、何でえ、よそんちに帰(けえ)って来たみてえだぜ」
文蔵はじろりと見慣れぬ顔を見回した。
二人の顔を知らない者は殴り込みかと警戒している。
「長旅、御苦労さんでした」
円蔵がニコニコしながら顔を出した。
「親分、兄貴、お帰んなさい」
見慣れた顔がぞろぞろと現れた。
「おうっ、今、帰って来たぜ」と文蔵は威勢よく言ったが、
「おい、千代松、お辰の顔が見えねえぜ」と急に心配顔になった。
「兄貴、心配しなくも、ちゃんと兄貴の帰りを首を長くして待ってるよ」
「どこにいるんでえ?」
「桐屋で壷を振ってらア」
「おう、そうか。ちょっと、顔を出して来らア」
文蔵は旅支度も解かずに飛び出して行った。
「相変わらずだな」と円蔵は笑った。
忠次は汗を流してさっぱりすると、円蔵から今の状況を聞いた。
「境宿は以前のごとくになりましたぜ。大黒屋、佐野屋、伊勢屋の三ケ所を市日に開帳し、桐屋ではほとんど毎日、やってる」
「ほう、佐野屋の賭場も復活したのかい?」
忠次は自慢の市河米庵(べいあん)の掛け軸を背に座り込み、旅先で手に入れた渋い煙管(きせる)に煙草を詰めていた。
「それにな、平塚と世良田にも一ケ所づつ賭場が増えたぜ」
「なに、本当かい?」
「賭場といっても、こっちから出向くわけじゃねえ。カスリが貰えるだけだがな」
「なあに、カスリだけでも大(てえ)したもんだぜ。一体(いってえ)、どうしたわけなんでえ?」
「世良田の弥七が平塚を手に入れた彦六に殺されちまってな、弥七の跡目を継いだ茂吉の奴が、うちに助けてくれって駆け込んで来やがった。見捨てるわけにもいかねえんで助けてやったのさ。一時は出入りになると思われたがな、彦六が頼りにしてた中瀬の藤十と前島の秀次の二人が島村一家と縁を切って、独立しちまったのよ。そうなりゃア、彦六はてめえのシマを守るんが精一杯で、出入りどころじゃねえ。結局、何事も起こらずに、あっしらは引き上げて来たんだが、茂吉の奴は助けて貰ったお礼だと祇園さんの門前にある朝日屋のカスリをくれたのよ」
「ほう、随分、気前(きめえ)のいい事だな」
「あっしらを引き留めて置くための手段に違えねえ。あっしらは茂吉にも彦六にも義理はねえからな、あっしらが彦六側に付いたら大変(てえへん)だと、賭場の一つをくれたのさ。伊三郎にカスリを取られていた頃に比べりゃア、一つくれえカスリを取られたってどうって事アねえのよ」
「そりゃそうだ」
忠次はうまそうに煙を吐いた。
「結局、伊三郎の跡目は誰が継いだんでえ?」
「形の上では島村にいる林蔵の子分だった大次郎だんべえな。だが、縄張りは島村だけだ。後はみんな、独立しちまった」
「伊三郎の仇討ちにゃア、誰も来なかったのかい?」
「威勢のいい三下奴が一人だけだ。威勢だけはよかったが、うちの若え者に叩きのめされてな、あっしが助けて旅に出してやったよ。あっ、そうだ。旅で思い出したが、中島の甚助を殺して国越えしてた助八が三年振りに帰って来てな、うちに草鞋を脱ぎやがった」
「ほう、子分どもを連れてか?」
「いや、そん時、連れてたのは二人だけだったがな、だんだんと集まって来やがった。何としてでも、平塚を取り戻してえと助っ人を頼まれてな、うまく行ったぜ。彦六の奴は不意の襲撃に慌てて、川向こうに逃げて行きやがった。助八は平塚と念願だった中島まで手に入れる事ができて、お礼に賭場をくれたというわけだ」
「助八が戻って来たか‥」
「長旅で苦労したとみえて、随分と角が取れたようだぜ。平塚と中島を手に入れる事ができて充分に満足してるようだ。昔のように広瀬川一帯を仕切ってやると言い切る程の勢いはまったくねえ。まあ、時が経てば、変わるかもしれねえがな」
「それで、彦六の野郎はどこ行ったんでえ?」
「奴か‥奴は運の悪(わり)い野郎だぜ。てめえの子分に殺されちまったわ」
「何だと?子分に殺された?」
「奴は中瀬の藤十んとこに逃げ込んで、平塚を取り戻そうとしてたんだが、藤十はいい返事をしなかったようだ。詳しい事は分かんねえが、奴の子分たちが藤十の身内になったとこを見ると、奴の差し金だったに違えねえ。彦六は伊三郎を笠に着て、威張ってばかりいやがったから、子分たちにも見捨てられたんだんべえ。情けねえ奴だぜ」
「そうか、てめえの子分にな‥前(めえ)に大前田の叔父御が言ってたぜ。子分たちにはできるだけ目をかけて可愛がってやれってな」
「へえ、栄五郎親分がそんな事を言ったんですかい?」
「ああ。下の者(もん)には目をかけてやれ。上の者とは五分に付き合えってな。口で言うのは簡単だが、実行するのは難しいぜ」
「成程、親分さんらしいお言葉だ」
「という事はだな、平塚と中島は助八のもんとなり、世良田に茂吉がいて、島村には大次郎、中瀬には藤十、前島には秀次がいるってわけだな?」
「へい。それに柴に啓蔵、木島には助次って具合だ」
「あの裏切り者たちか‥放って置くわけにゃア行かねえな」
「なあに、親分、焦る事はねえよ。今、百々一家は日の出の勢いだ。あんな奴らは放って置きゃア、そのうち、向こうから頭を下げてやって来らア」
「そんなもんかね?」
「そうさ。親分は知らねえだろうが、伊三郎を殺(や)ってから、親分の株は驚く程、上がったんだ。大勢の若え者が子分にしてくれと集まって来るし、あっちこっちから旅人も大勢やって来る。市日の賭場はどこも客で一杯(いっぺえ)だ。裏の人足部屋までも人足どもが溢れてる有り様だ」
「ほう、人足どもも帰って来たかい。そいつは忙しくなったな」
「なあに、その分、子分も増えた。親分はしばらく、のんびりして旅の疲れを取っていて下せえ。おかみさんも姐さんも首を長くして親分の帰りを待ってますぜ」
忠次は御隠居の紋次に挨拶をすると国定村に帰った。先にどっちに顔を出そうか迷ったが、筋道に従った方がいいとお鶴を先にした。
母親もお鶴も元気そうだった。秋の養蚕が始まり、弟の友蔵の妻と一緒に、忙しそうに働いていた。友蔵の長女、おりんはもう四歳になっていて、驚く程、大きくなり、可愛い盛りだった。おりんという名は勿論、弁天のおりんから取った名だった。おりんが生まれた時、国定村は弁天のおりんの噂で持ち切りで、友蔵がおりんにあやかって付けたのだった。
おりんが生まれてから、お鶴も子供が欲しいと言い出し、忠次もそれなりに努力はしたが子供には恵まれなかった。忠次は半ば諦めていた。しかし、お鶴はまだ諦めてはいなかった。その夜、お鶴は忠次を眠らせず、夜が明けるまで責め続けた。
忠次は寝不足で目をしょぼしょぼさせながら、田部井村のお町の家に向かった。お町なら優しく迎えてくれるだろうと信じていたが、そんなには甘くはなかった。
お町は忠次の顔を見ると、
「一晩中、待ってたのに、何よ」と箒(ほうき)を振り回した。
忠次は逃げ出して、嘉藤太の家に行った。
「親分、頼みがあるんだがなア」と嘉藤太が挨拶の後に言った。
「何でえ、兄貴」と忠次は目をこすった。
「実はな、一家の名前(なめえ)の事なんだが、百々一家ってえのはどうもなア。国定村の忠次なんだから、国定一家に変えたらどうでえ?」
「国定一家か‥」
「村の奴らもな、おらが村の親分さんなんに、百々村にいたんじゃ面白くねえらしいぜ」
「そうは言っても、俺は百々一家の跡目を継いだんだ。御隠居だって、一家の名を変えるっていやア気分を悪くするぜ」
「正式に変えなくもいいんだ。とにかく、こっちにちゃんとした本拠地を持ってよ。こっちにいる時だけでも、国定一家を名乗っちゃアどうでえ?」
「国定一家か‥」
「土地はあるんだ。新しいうちを建てねえか?」
「どうしたんでえ、その土地は?」
「博奕で取られた土地を何とかして取り戻したのよ」
「そうだったのかい。そいつはよかった」
「そこに新しい屋敷をおっ建ててよお、国定一家を張らねえか。ここは田部井村だが、そんな事はどうでもいい。とにかく、親分がそばにいてくれるってえだけでも、村の者たちは安心するんだ。どうでえ、お町のためにも新しいうちを建ててやってくれい」
「うちを建てるんはいいがよお、そんな銭があんのかい?」
「親分は銭の事なんか心配しなくてもいい。こっちに賭場を開帳してから、もう五年にもなる。小銭も五年も溜まれば、うちぐれえ建てられるぜ」
「そうか、その事ア兄貴に任せる。お町のためにでっけえ屋敷を建ててやってくれ」
その後、忠次は嘉藤太の家で一眠りした。目が覚めたら、もう夕方になっていた。
忠次はお町の家に行くと、そおっと中の様子を窺(うかが)った。お町は縁側でぼんやりしていた。その膝の上に忠次が子分に届けさせた土産の人情本が載っていた。
「今、帰ったぜ」と忠次が声を掛けるとお町は顔をふくらませたが、すぐに笑って、
「お帰りなさい」と忠次を迎えた。
「すまなかったな」
「いいのよ、仕方ないもの」とお町は笑いながら言った。
その笑顔はどことなく淋しそうだった。
「お袋に心配かけるわけにゃアいかねんだ。早く、おめえに会いたかったんだけどな」
「もう、いいってば、お鶴さんはおかみさんだもん。しょうがないわ」
「おめえの顔を見て、やっと帰って来たってえ感じだぜ」
忠次は家に上がると大の字になって寝そべった。
「やっぱり、うちはいいなア」
「ほんと?」
行灯(あんどん)に灯(ひ)をともすと、お町が嬉しそうに寄って来た。
「本当さ。おめえと一緒にいる時が一番のんびりできるぜ」
忠次はお町の作った料理を肴(さかな)に酒を飲みながら、旅の話を聞かせた。
「信州の山ん中の野沢の湯ってえ湯治場(とうじば)にずっと隠れてたんだ。湯治客は死にぞこねえの年寄りばっかしでな。遊ぶとこも何にもねえ、つまんねえとこだったぜ」
「何言ってんの、女はいたんでしょ?」
お町は忠次を横目で睨んだ。
「婆さんとガキはいたが、娘っ子は一人もいねえ。みんな奉公に出てんだとよ」
「嘘ばっかし、あんたが女っ気のない所に一年もいられるわけないでしょ」
「そんな事言ったってしょうがあるめえ。信州の中野ってえとこに代官所があってな、俺と文蔵の手配書が回ったんだ。山ん中に隠れてるしかなかったんでえ」
「あたしはよく知らないけど、湯治場にもお女郎さんがいるって聞くわ」
「そんなのは伊香保や草津みてえなでっけえ湯治場の話だ。遊び場もねえ小せえ湯治場にそんな者はいねえ」
忠次はとぼけたが、本当は女がちゃんといた。しかも、忠次はその女と夫婦気取りで暮らしていたのだった。
その女はお篠(しの)といい、宿屋をやっている後家(ごけ)だった。忠次たちがその宿屋に泊まった時、お篠をものにしようと中野の博奕打ち、忠兵衛の伜、原七(はらしち)がやって来た。お篠が嫌がったので、忠次らは原七を追い払ってやった。その後、原七は子分を引き連れて仕返しにやって来たが、それも見事に追い払ってやった。その事が縁で、お篠は忠次に感謝して、ずっと、そばにいてくれという事になってしまった。後家とはいえ、まだ二十一歳、忠次好みの別嬪だった。
「なあに、山ん中ばかりにいたわけじゃねえ。時には中野まで行って賭場荒らしをして暴れたもんだ。人助けだってやったんだぜ」
「へえ、人助けねえ‥」
「野沢村はよお、食い物が足らなくてな、賭場荒らしで稼いだ銭で米を買って村に持って行ったんだ。みんな、喜んでくれたぜ」
「よかったわね」とお町は言ったが、ジロッと忠次を睨んだ。
「ねえ、最初っからちゃんと話してよ」
「最初っからか‥」
「そうよ。都合の悪い事も隠さないで」
「何も隠しちゃいねえ。一年前か‥随分と昔のような気がするぜ。あっ、そうだ、信州に行く前に大戸(おおど)の加部安(かべやす)んとこに世話になったんだ」
「加部安って、あのお金持ちの?」
「おう、そうさ。何年か前、境の市場で偶然に会ってな、意気投合したんだ。遊びに来いって言われてたんで、ちょっと寄ってみたんだが歓迎してくれてよお、大層な御馳走で持て成してくれたぜ。おう、そおいや、加部安は酒も造っててな、そいつが何ともうめえ酒だったぜ」
「そのお酒、『牡丹』て言うんでしょ?」
「そうだ。何でおめえが知ってんだ?」
「加部安さんからお酒が届いたって、兄さんが大喜びしてたのよ。上州一の分限者(ぶげんしゃ)から、お酒が届くとは親分も大したもんだって言ってたわ」
「へえ、その酒はまだ、あんのかい?」
お町は首を振った。
「お正月にみんなで飲んじゃったみたい」
「そうか。加部安はわざわざ酒を送ってくれたんか‥」
境の市で出会ったと忠次はお町に言ったが、実際に会ったのは境ではなく、玉村宿の女郎屋だった。平塚の助八が中島の甚助を殺して国越えした時だった。円蔵の作戦がうまく行ったと喜んだ忠次らは玉村宿に繰り出した。
玉村一の女郎屋、玉斎楼(ぎょくさいろう)に上がり、玉村一の女郎、白菊を呼んだ。しかし、白菊はなかなかやって来ない。我慢しきれず、忠次らは白菊のいる座敷に押し入った。そこにいたのが加部安だった。加部安は忠次が思っていたよりも若く、年の頃は三十前後といった所で、笑いながら忠次を見ていた。
「おめえさんが有名な忠次親分かい?おめえさんが来るのを待ってたぜ」
加部安は忠次たちを恐れるわけでもなく、ふてぶてしい顔をして言った。
「俺を待ってただと?」
「そうだ。白菊はおめえさんを怒らせたらまずいからって行こうとしたんだがな、俺が引き留めたんだ」
「何だと、てめえは俺に喧嘩を売ろうってえのかい?」
「そう怒るな。前からおめえさんとは会いてえと思ってたんだ。渡世が違うんで、なかなか会う事もできねえ。それで、こんな手を使ったってえわけだ。こっちから出向いて行ってもよかったんだがな、おめえさんの部屋の隣りに、ちょいと会いたくねえ野郎がいてな、野郎に見られたら何を言い触らすか分かんねんだ。そこで、おめえさんの方から来てもらったってえわけよ。ここで会ったのも何かの縁だ。近づきになってくれねえか?」
「何を言ってやんでえ、この野郎」と文蔵は加部安を睨みながら片肌脱いで、背中に彫った吉祥天の刺青(ほりもの)をちらつかせたが、円蔵が中に立って丸く納めた。
加部安の遊び方はとても真似ができない程に豪勢だった。着飾った女郎たちを全員呼び集め、主人の幸兵衛まで呼んで、大騒ぎとなった。威勢のよかった忠次たちも、加部安の豪快さには腰を抜かしてしまう程だった。
「大した男だぜ、加部安は‥」と忠次がニヤニヤしながら言うと、
「何が?」とお町が不思議そうに聞いた。
「何がって、金持ちはやる事が何でも豪勢だって事だ。加部安のお陰で大戸の関所なんか簡単に通れたぜ」
「へえ、よかったわね。それから信州に入ったの?」
「そうさ。途中、大笹の親分とこに寄ってな、そこから信州の松本まで行ったのよ。松本には軍師の兄弟分(きょうでえぶん)の勝太親分がいてな、しばらくはそこで、のんびりしてろって言われたんだが、あんまり居心地はよくなかった。軍師の手紙を見せたんだが、俺の事なんか全然知らねえし、一応、客人扱いしてくれたが、さっさと出てってくれってな顔付きだ。たまたま一緒になった旅人(たびにん)から、善光寺の門前の権堂(ごんどう)村に合(あい)の川の政五郎親分がいるって噂を聞いてな、そっちに行く事にしたんだ。政五郎親分にゃア越後に行った時、文蔵と一緒に世話になってな、上州生まれの貫録のある立派な親分さんだぜ。親分は権堂村で上総(かずさ)屋ってえ旅籠屋をやっててな、なぜか、源七って名前(なめえ)を変えていた。親分は俺たちの事を覚えていてくれてな、歓迎してくれたぜ。そこにしばらく厄介になるつもりでいたんだが、そうは行かなかった。中野の代官所に手配書が回ってな、仕方なく、山ん中の野沢に行ったってえわけだ。源七親分の子分、茅場(かやば)の長兵衛ってえのが案内してくれてな、その後、ずうっと一緒にいたんだ。いい奴でな、兄弟分になったぜ」
「それからずっと、野沢って湯治場にいたってわけ?」
お町は忠次に寄り添いながら、酌をしてくれた。
「そうさ。野沢を本拠地にしてたんだ、軍師と連絡を取るためにな。時には長兵衛に案内させて、信州をあちこち旅したが、上州に帰れねえってえのは辛かったぜ。山を一つ越えりゃア上州に帰れるって分かっても、じっと我慢したんだ。夢ん中に何度も、おめえが出て来て悩ましやがった」
「ほんとかしら?」
「ほんとだとも。おめえのようないい女はどこにもいねえ」
忠次はお町を抱き寄せ、口を吸った。そして、都合の悪い事は一切省いて、お町に旅の話を聞かせ続けた。
「あたしも知らないとこを旅したいわ。今度、連れてってよ、ねえ」とお町は忠次に甘えながらせがんだ。
忠次もお町を連れて旅に出るのもいいと思った。そのうちに、円蔵とおりん、文蔵とお辰を連れて草津の湯にでも行くかと提案した。お町は子供のようにはしゃいだ。
忠次はお町のもとで、のんびりして旅の疲れを取った。帰って来た事を知らせるために、国定村と田部井村の賭場にも顔を出した。どちらの賭場も賑やかで、忠次が顔を出すと客たちは大喜びした。
境の市日には境の賭場も見て回った。大黒屋では田部井村のお藤が壷を振っていた。
お藤はおりんが仕込んだ娘だった。おりんが田部井村で壷を振っていた頃、おりんの真似をしていた娘の一人で、おりんに何度も断られても諦めずに弟子になり、おりんの後継者になった。どことなく冷たい感じのする、ほっそりとした美人で、それが賭場の雰囲気によく合っていた。能面のように笑顔を見せる事がなく、物知りの旦那が『羽衣(はごろも)』という能に出て来る天女にそっくりだと言った事から、羽衣のお藤と呼ばれるようになっていた。
おりんの方はもう三十路(みそじ)になり、人様の前に出るのは恥ずかしいと壷振りをやめて、境宿で居酒屋をやっていた。その店は以前、お仙がやっていた店で、首吊り事件の後、誰も借り手がいなかった。おりんはお仙の供養にもなると、その店を借りて、若い者たちの面倒を見ていた。
佐野屋にも女壷振りがいた。水沢観音で有名な水沢村から出て来たため観音のお紺と呼ばれていた。お藤とは対照的に、いつも微笑を称えた可愛い女だった。
お紺は四年前に父親と一緒に、境の絹市に来て、おりんとお辰の噂を聞き、父親と一緒に伊勢屋の賭場に入った。壷を振るお辰の姿に憧れ、壷振りになりたいと父親に言うと父親は大賛成し、さっそく、大久保一家で壷を振っていたという老人を連れて来て、お紺に仕込ませた。お紺は老人と共に賭場を渡り歩き、修行を積んで、去年の末に百々村にやって来た。おりんの目にかなって、佐野屋で壷を振る事になった。
伊勢屋の吉祥天のお辰、大黒屋の羽衣のお藤、佐野屋の観音のお紺、三者三様で、どこの賭場も盛っていた。
「軍師のお陰で、境は昔以上の盛況振りだ」
百々村に帰ると忠次は満足そうに円蔵に言った。
「あっしだけじゃねえ。親分の留守をしっかりと守らなくちゃなんねえと子分たちが一生懸命やったからだ。しかし、まだまだ、これからだぜ。親分にはもっとでっかくなってもらわなけりゃなんねえ」
「その事なんだが、平塚の助八と世良田の茂吉を身内にする事はできねえのかい?」
「助八の方は何とかなるだんべえ。奴は中島のシマをうちに取られやしねえかと心配していやがる。奴のシマを保護してやると言やア、身内になるに違えねえ」
「どっちが得でえ?」
「銭勘定にすりゃア、中島を取った方がいい。ただ、助八を敵に回すと、奴は中瀬の藤十、前島の秀次、それに木崎の孝兵衛と手を組んで、うちと対抗するかもしれねえ。そうなると、また面倒な事になる」
「成程な。伊三郎がいなくなってから、木崎一家は動いてんのか?」
「前島の秀次は孝兵衛と兄弟分になったようだぜ。その孝兵衛が世良田を狙ってるのよ」
「なに、木崎一家が出て来やがったか‥」
「孝兵衛の子分に左三郎ってえ八州様の御用聞きになった奴がいてな。そいつがちょくちょく、世良田に出入りしてるようだ」
「左三郎なんて奴は聞かねえぜ」
「団子屋の吉十(きちじゅう)の野郎が、つい最近になって名前(なめえ)を変えたんだ」
「あの野郎か‥何でまた、名前なんか変えたんでえ?」
「何でも、八州様に吉田左五郎様ってえのがいてな、その伜を養子に貰い受けたんで、左五郎にあやかって左三郎にしたとかいう噂だぜ。八州様を笠に着て、あくでえ真似をしてるらしいな」
「ふん、許せねえ野郎だな」
「許せねえ野郎だが、殺す程の値打ちはねえ。一応、祝い金を送っておいたぜ」
「そうかい。それで、茂吉の方はどうなんでえ、木崎になびきそうか?」
「迷ってるようだな。木崎に付けば、うちを敵に回す事になる。かと言って、左三郎に逆らえば、十手をかざして何をするか分かんねえ。本音は中立でいてえんだろうが、そうもいかねえで悩んでるようだ」
「十手持ちってえのは始末におえねえな」
忠次は舌を鳴らした。
「いや、弱みを握ればいいのよ。奴の弱みを握って動けなくすれば、世良田を手に入れる事はできる」
「弱みったってなア、博徒を打ってるとか、女郎屋から袖の下を貰ってるなんてえのは弱みにはなんねえぜ」
「分かってる。もっと、個人的な弱みを捜してみるつもりだ」
「捜してみるって、軍師が捜すのかい?」
「この仕事は子分たちには任せられねえ。下手をすりゃア捕まっちまうからな」
「大丈夫かい、敵は軍師の顔を知ってんじゃねえのかい?」
「なあに、汚ねえ山伏の格好になりゃア分かりゃしねえよ」
「そうか‥まあ、急ぐ事もねえぜ。今までずっと留守を守ってくれたんだ。二、三日、のんびりしてくれ」
「そんな気遣いはいいと言いてえとこだが、たまには、おりんの相手をしてやらねえと逃げられちまうからな、お言葉に甘えますぜ」
「おりんさんに逃げられたら大変だ。たっぷりと可愛がってやってくだせえよ」
「親分、何を言ってるんでえ」
円蔵は照れ笑いをしながら出て行った。
兄弟分の仇は討たなきゃならねえ
柴宿の啓蔵の子分が血相を変えて駈け込んで来たのは、八月の玉村八幡宮の祭りが終わった頃だった。玉村の主馬(しゅめ)が啓蔵の首を狙っているから助けてくれと言う。
「軍師、主馬ってえのは何者なんでえ?」
忠次は首をひねりながら円蔵に聞いた。
「兄弟(きょうでえ)の博奕打ちでな、兄貴は京蔵といって、五月頃、五料宿の常蔵親分を殺して国越えしてるはずだ。弟の主馬が五料に居座ってるとの事だが、今度ア柴宿を狙って来たようだ」
「玉村と言やア、佐重郎親分のシマだ。その兄弟ってえのは親分の身内なのかい?」
「あっしにもその辺の事はどうもなア」
珍しく、円蔵が首を傾げた。
「玉村の事なら民(たみ)が詳しいぜ」と、すでに長脇差(ながどす)を腰にぶち込み、喧嘩支度の文蔵が言った。
山王道の民五郎を呼んで聞いてみると確かに詳しかった。
民五郎の叔父が以前、玉村一家の子分だった事があり、民五郎は叔父の影響でこの世界に足を突っ込んだ。叔父がいた頃の玉村一家とは、古くから玉村宿を仕切っていた一家で、親分は藤五郎と言った。藤五郎は十年も前に亡くなってしまったが、跡目を実力のある代貸に譲らずに、自分の伜、京蔵に譲ったために一家は分裂してしまった。
藤五郎には孫六、佐重郎、常蔵という三人の勢力を持った代貸がいた。孫六は京蔵の後見役として本家に残ったが、佐重郎と常蔵は子分を引き連れて独立した。常蔵は五料宿に帰って一家を張り、佐重郎は玉村で別の一家を張った。
佐重郎は角万(かくばん)屋という女郎屋の主人だったため、角万一家と呼ばれた。後に関東取締出役の道案内として十手を持ち、佐重郎は本家をしのぐ程の勢力となった。大勢の子分たちも集まり、逆に本家の方は落ち目となって、玉村の親分と言えば佐重郎の事で、京蔵の存在は話題にもならなかった。それでも、京蔵は玉村八幡宮の祭礼賭博の盆割りの権利を持っていた。毎年、祭りの時だけは玉村一家の親分として晴れ舞台に立った。しかし、子分が少ないため、各地から来た親分衆の世話をする事ができず、佐重郎の力を借りなければならなかった。京蔵としては分家の佐重郎が玉村宿を仕切っているのは面白くなかったが、岩鼻の代官とも親しい佐重郎に逆らう事はできなかった。また、京蔵の後見役の孫六が京蔵と弟の主馬を押さえていたため、表向きはうまく行っていた。
ところが、去年の末、孫六は病死してしまった。京蔵と主馬兄弟に毒殺されたのではとの噂も立ったが、結局は病死という事で処理された。邪魔者が消え、京蔵兄弟は死んだ伊三郎のシマを狙って動き始めた。まず、今年の五月、常蔵を殺して五料宿を手に入れ、そこを拠点に島村方面に勢力を伸ばすつもりでいた。
「てえと、奴らが次に狙ってんのは柴宿だってえ事だな?」と円蔵が民五郎に聞いた。
「多分。啓蔵のシマを手に入れて、島村や平塚までも手に入れよおって都合のいい事を考えてるんじゃねえですか」
「京蔵の子分てえのは、どの位(くれえ)いるんだ?」
「十人から二十人てとこでしょ。そのうち、四、五人は京蔵と一緒に国越えしてます。大(てえ)した事アねえですよ。俺が行って追っ払ってやります」
「佐重郎親分は黙って見てるのかい?」と忠次が聞いた。
「本音を言やア、京蔵なんかやっつけてえんでしょうけど、先代の親分さんは堅気の衆に人気がありましたからね。その伜を倒すのは気が進まねえんでしょう。兄弟が玉村から島村の方に出てってくれりゃア、文句はねえでしょう」
「八幡様の盆割りの権利を持ってりゃア、それなりの稼ぎはあるだんべえに、どうして、そんなにシマを広げてえんだ?」
「祭りん時は各地の親分さんが集まって来るけど、京蔵は親分さんたちを招待する程の顔じゃねえ。佐重郎親分、五料宿の常蔵親分、京蔵の後見の孫六さんがいたから、親分たちも集まって来たんです。今年は常蔵親分も孫六さんもいねえし、京蔵もいねえ、一応、主催者は主馬だったが、実際、祭りを仕切ってたのは佐重郎親分です。テラ銭の分配までは知らねえけど、ほとんど、佐重郎親分に持ってかれちゃうんじゃねえんですか」
「成程な‥京蔵はまず勢力を広げてから、佐重郎親分と対決するつもりなんだな」
円蔵は忠次を見ながらうなづいた。
「奴は俺の事を知らねえのかい?」と忠次は苦笑した。
「奴らが利根川を越えて来るようなら、許せねえぜ」
忠次は文蔵と民五郎に五人の子分を付けて柴宿に送った。
文蔵たちは主馬の子分どもを柴宿から追い出し、啓蔵は忠次に頭を下げて、再び、百々一家の傘下に入った。文蔵は引き上げ、民五郎は主馬の動きを押さえるために柴宿に残った。
忠次を恐れたのか、その後、主馬が柴宿にやって来る事はなかった。忠次としては佐重郎の膝元で騒ぎを起こす気はなく、利根川を越えるなと命じたが、民五郎は調子に乗って、玉村宿の女郎屋に出掛けてしまった。その帰りに五料宿の居酒屋で酒を飲み、いい気分で靱負(ゆきえ)の渡し場に出た所を主馬の襲撃を受けた。かなり酔っ払っていて、得意の居合抜きをする事もできずに滅多打ちにされた。一緒にいた三下奴が河原の石を投げながら、大声で叫んだため、人が集まって来て、主馬らは逃げて行った。
民五郎がやられた事を聞くと忠次は、
「くそったれ野郎が、許しちゃおけねえ」と怒ったが、円蔵は、
「短気をおこしちゃいけねえよ」とたしなめた。
「今、殴り込みを掛けりゃア、向こうの思う壷だ。大っぴらに事を起こしゃア佐重郎親分も敵に回しちまう。玉村の隣りにゃア岩鼻の代官所があるんだぜ」
「子分がやられても黙ってろって言うのかい?そんな事をしたら、俺はみんなから笑われちまう」
「そうじゃねえ。今はまずいと言ってんだ。主馬のような小物を相手に親分が騒ぐ事もねえ。敵がこっちを甘く見て、油断した所をやっちまえばいいのよ。民五郎の傷が治ったら、奴に誰か付けてやらせりゃいい」
「主馬を殺るのか?」
「そうだ。今頃、玉村じゃア民五郎がやられた事が噂になってるだんべえ。主馬は親分が出て来る事を予想してるに違えねえ。そこんとこを裏をかいて、親分は何にも知らねえ事にして、民五郎と主馬の喧嘩にするんだ。そうすりゃア民五郎が主馬を殺して、国越えしたところで、やくざ者同士の喧嘩という事で片が着くんだ」
「成程‥」
「佐重郎親分としても、その方が都合がいいはずだぜ」
「そうだな、親分には世話になってるからな」
「そうさ、佐重郎親分だって、おめえさんを捕めえたくはあるめえ」
十日後、傷の治った民五郎は、甲斐の新十郎と富塚の角次郎を連れ、行商人に扮して玉村宿に向かった。
民五郎が寝込んでいる間に、円蔵は足の速い国定村の次郎を連れ、山伏姿になって主馬の近辺を調べあげていた。円蔵が思った通り、主馬は喧嘩支度をして忠次らを玉村宿で待ち受けていた。しかし、いつになっても忠次が来ないので、忠次なんか大した事はねえ、臆病者だと見くびり、五料宿に舞い戻って来ていた。主馬には妻子はいないが、身受けした女郎を妾(めかけ)として玉村に囲っていた。
民五郎らは玉村宿に着くと、主馬の妾の家を見張った。妾の家は表通りから引っ込んだ所にあり静かだったが、右も左もくっつくように家が並び、手っ取り早くやらないと騒ぎ出す恐れがあった。三人は交替しながら見張り、主馬が帰って来るのを待った。
運よく、その日の夜遅く、流行り歌を口ずさみながら、主馬は御機嫌で帰って来た。逸(はや)る気持ちを抑え、虫の音を聞きながら半時(はんとき)程待った頃、突然、大粒の雨が勢いよく降って来た。こいつはたまらんと三人は家の中に飛び込んだ。
雨の音がうるさくて、三人が侵入したのも気づかず、主馬と妾は激しく抱き合っていた。長脇差を抜いて民五郎が近づくと、妾が気づいて悲鳴を上げた。主馬も顔を上げると、
「てめえら、汚ねえぞ」とわめき、枕を投げ付けてきた。
民五郎は枕を避けたが、主馬は布団まで投げ付け、そのまま、突進して来た。
不意をつかれて、民五郎は布団と主馬の下敷きにされた。
民五郎を押し潰している主馬を目がけて、新十郎と角次郎は長脇差を斬りつけたが、以外にも主馬はすばしっこく、致命傷を与える事はできなかった。三人が主馬を追いかけているうちに、妾は大声を上げながら逃げてしまった。
「やべえ、早く片付けろ」
民五郎は主馬の足を目がけて斬り付けた。
素っ裸の主馬は悲鳴を上げながら倒れると暴れ回った。新十郎が止(とど)めを刺そうとしたが逃げられ、肩先を斬っただけだった。
主馬は血だらけになりながらも部屋中を転げ回り、手当たり次第に物を投げ付けて来た。
角次郎が突進して行ったが、右腕を斬っただけで首を落とす事はできなかった。
いつの間にか雨がやみ、外が騒がしくなり、三人は慌てて逃げ出した。
「止めは刺せなかったが、あれだけの傷だ。生きちゃアいめえ」と民五郎は忠次に報告した。
「とにかく、しばらくの間、旅に出ろ。折りを見て、玉村の親分と話を付ける」
民五郎、新十郎、角次郎の三人は甲州へと旅立った。
「軍師、主馬のいなくなった五料宿はどうする?」と忠次は聞いた。
すぐにでも文蔵を送って、シマ内に組み込むつもりでいたが、円蔵は慎重だった。
「あそこを手に入れるのはもう少し様子を見た方がいいな。あそこにゃア関所がある。あの宿場は役人どもが幅を利かしている。下手に手を出すと火傷(やけど)をする恐れがあるぜ。頃合いを見て、京蔵に殺された常蔵の身内を見つけ出して、代貸に立ててやった方がよさそうだな」
「頃合いを見てか‥」
「奴らのお陰で、柴宿が手に入(へえ)ったんだ。二度と裏切らねえように、柴から境までをしっかり固める事が先決だ」
「なあに、伊三郎はもういねえんだ。啓蔵の奴も裏切る事はあるめえ」
「いや、今のままじゃ安心できねえ。今回は頭を下げて来たが、腹ん中じゃ何を考えてるか分からねえ」
「確かに軍師の言う通り、奴は本気じゃねえ。だがな、奴にゃア俺に逆らう程の度胸はねえぜ」
「そりゃそうだが、蓮沼から柴までの街道筋を啓蔵に任せる事アねえ。奴の下にいる馬見塚(まみづか)の左太郎、蓮沼の菊三郎、韮塚の梅次、堀口の佐助の四人を啓蔵の配下から外し、代貸にして、それぞれの村を任せてやるんだ。そうすりゃア、奴らは啓蔵と同じ立場になる。啓蔵が裏切ろうとしても同意はするめえ」
「そいつはいい手だ。さすが軍師だぜ。旅から帰って来たら民五郎を山王道に、角次郎を富塚に置きゃア柴方面は万全だぜ。ところで、木崎の左三郎の弱みは見つかったかい?」
「あくでえ事はしてるがな、そんな事くれえじゃ奴を封じ込める事はできねえ。泣き所と言やア養子に迎えた亀吉だが、まさか、ガキをさらうなんて汚ねえ真似はできねえしな。もう少し、調べさせてくれ」
「役人や御用聞きをうまくあしらうのは軍師に任せるぜ。その辺の事は俺にゃアどうも苦手だ。軍師がいてほんとに助かってるぜ」
「親分がそんな細けえ事を気にする事アねえ」
結局、主馬は死ななかった。右足を失い、左手は思うように動かす事もできなかったが、一命を取り留めた。五料宿は忠次には絶対に渡さないと、傷だらけの体で頑張っているという。忠次は子分たちに五料宿には近付くなと命じた。
その年の十月、文蔵の妹、おやすが忠次の子分、上中村の清蔵と祝言(しゅうげん)を挙げた。文蔵は妹は堅気の所じゃなきゃ嫁にはやらねえと言い張っていたが、みんなに説得されて、ようやく折れた。忠次とお町が仲人となり、二人は目出度く夫婦(めおと)になった。
清蔵は忠次に憧れて、百々一家に入り、一度、裏切った柴宿の啓蔵のもとで三下修行を積んだ。啓蔵が裏切った時も啓蔵には従わずに百々一家に残った。忠次が跡目を継いだ時、忠次から盃を貰って、正式な子分となり、今では佐野屋の賭場で中盆を務めていた。なかなかの男前で、気は強いが気立てのいい、おやすとは似合いの夫婦と言えた。
年が明けて、天保七年(一八三六)となった。
境の初市が立つ七日は、市の神様である天王様の御輿(みこし)が町中を練り歩く『寄市(よせいち)祭り』と呼ばれる祭りが賑やかに行なわれた。祭りを見るため、晴れ着に着飾った大勢の人が集まり、賭場も大盛況だった。今年も春から縁起がいいと喜んでいた二日後の昼前、泥まみれになった男が息を切らせて、百々一家に飛び込んで来た。
男は信州野沢の与吉と名乗り、親分に急用なので仁義は省かせてくれとやっとの思いで言った。普通なら、そんないい加減な奴は追い返してしまうのだったが、今にも倒れそうな必死な形相は、信州から休まずにやって来たのに違いないと、応対に出た久次郎は文蔵に知らせた。
文蔵が顔を出すと、
「兄貴、長兵衛さんが殺されちまった」と与吉は泣き崩れた。
信州で世話になった茅場(かやば)の長兵衛が中野の原七(はらしち)に殺されたという。文蔵は三下奴を田部井村にいる忠次のもとに走らせ、与吉を家に上げた。
忠次は長兵衛を知っている浅次郎を連れて飛んで来た。
「おい、与吉、長兵衛が殺されただと?詳しく聞かせろい」
家に上がるなり、忠次は叫んだ。
「原七の野郎がまた野沢に攻めて来やがったんか?」
「野沢は大丈夫だ」と文蔵が渋い顔をして答えた。
忠次は部屋の中を見回したが円蔵、文蔵、清五郎、千代松がいるだけで、与吉の姿はなかった。
「与吉の奴はどうしたんでえ?」
「あの野郎、休まず、雪山を越えて来やがった。俺に言いてえ事を言ったら、ぶっ倒れちまったぜ」
「そうか、雪山を休まずやって来たんか‥」
「頼りねえ野郎だと思ってたが、なかなか骨のある野郎だ」
「それで、何があったんでえ?」
「野沢の事は関係ねえ。原七の奴もお篠さんはとうに諦めて、新しい女子(おなご)と暮らしてるとよ」
「野沢は関係ねえか‥そいつはよかった」
「親分、そろそろ、お篠さんに会いたくなったんじゃねえのかい?」
「何を言ってやんでえ。おめえこそ、お滝に会いたくなったんじゃねえのか?」
「いいなア」と千代松がうらやましそうに言った。
「俺も国越えしてよお、よそに女子を作りてえぜ」
「おめえら何を言ってるんだよお。今は女子の事を話してる時じゃねえぜ」
清五郎が口を挟んだ。
「そうだ。長兵衛は何で殺されたんでえ?」
忠次は顔を引き締めて、文蔵を見た。
「縄張り争いがからんでるらしいな。それに去年の恨みもあったんだんべえ。湯田中に遊びに行った帰(けえ)りに待ち伏せをくらって殺されたらしい」
「殺されたんは長兵衛一人だったんか?」
「いや、もう一人やられた。長兵衛と同じ源七親分の子分だが、俺たちの知らねえ奴だ」
「与吉の奴も一緒だったんかい?」
「いや、与吉は野沢にいた。長兵衛の子分が次の日に知らせに来て、初めて知ったんだ。そして、親分に仇を取ってもらおうと雪山を越えてやって来たというわけだ」
「殺されたんはいつの事でえ?」
「四日だ」
「五日前(めえ)か‥」
「源七親分がもう片を付けたかもしれねえな」と円蔵が初めて口を出した。
「かもしれねえ」と忠次も同意したが、
「しかし、兄弟分が殺されて黙ってるわけにゃアいかねえ」ときっぱりと言った。
「そうだ、原七の奴は許せねえ」と文蔵も力強く言って、円蔵を見た。
「軍師、今度ばかしは止めても無駄だぜ。すっとぼけて、兄弟分の仇も討たねえなんちゅう噂でも立てられたら、この稼業はやってられねえ」
「止めやしねえよ」
円蔵は珍しく反対しなかった。
「ただな、親分が信州で原七とやらを斬っちまったら、当分の間、帰って来られなくなっちまうんが心配(しんぺえ)なんだ。せっかく、これからシマを広げようって大事(でえじ)な時に、親分が国越えしてたら、何が起こるか分かんねえ」
「それなら大丈夫(でえじょぶ)だ」と言ったのは千代松だった。
「親分にゃア絶対にやらせねえ。俺が原七を斬って国越えするぜ」
「おい、千代松、誰がおめえを連れて行くと言った。おめえにゃア留守を守ってもらわなきゃ困るぜ」
「そりゃねえぜ、親分。俺だってよお、たまにゃア旅をしてえぜ。軍師と清五がいりゃア留守は大丈夫だ。それに、富だっているしよお」
「民と甲斐新と角の三人だっていねえんだぜ」
「千代松、親分を絶対に戻してくれると誓うなら、留守は俺たちで何とかする。軍師、それでいいだんべえ?」
「そうだなア‥源七親分の手前、親分が行かなくちゃアなるめえ。文蔵と千代松、絶対に親分の長脇差を抜かせるんじゃねえぜ」
文蔵と千代松は力強くうなづいた。
「早く戻って来て下せえよ」
円蔵は念を押すように忠次に言った。
忠次は文蔵、千代松、八寸村の才市、保泉村の宇之吉、新川(にっかわ)村の秀吉、下植木村の浅次郎、神谷村の喜代松、磯村の豊吉の八人と野沢から来た与吉を引き連れて信州に向かった。五人づつ二組に分かれ、武器を隠して商人姿に身をやつし、大戸と狩宿(かりやど)の関所は抜け道を迂回して、鹿沢(かざわ)から雪の角間(かくま)峠を越えて信州に出た。真田から上田に出て千曲川に沿って北上し、善光寺の門前の権堂(ごんどう)村の上総屋に向かった。
源七は忠次が来るのを待っていた。しかし、原七はすでに捕まり、江戸送りとなっていた。源七が子分たちに命じて捕まえ、中野の代官所に突き出したのだった。
「おめえが来るのは分かってた。だが、おめえの凶状を増やしたくはねえんでな、取っ捕まえて、役人にくれてやったぜ。悪く思わねえでくれ」
源七はそう言って、忠次の肩をたたいた。勢い込んで駈けつけて来た忠次たちは気が抜けたが仕方がなかった。源七の歓迎を受け、忠次たちは三日間、権堂村でのんびり過ごした。
権堂村は善光寺の花街で女郎屋がずらりと並んでいた。勿論、上総屋にも綺麗所の女郎が揃っている。千代松を初め、一緒に来た子分たちは鼻の下を伸ばしながら、女郎たちに囲まれて、たっぷりと異郷の正月を楽しんだ。
「畜生め、国越えなんて言いながらよお、親分と文蔵はこんないい思いをしてやがったのか。まるで、極楽だぜ」
千代松は女郎の酌を受けながら、鼻の下を伸ばして幸せそうに酒を飲んでいた。
「おい、ここの事は故郷(くに)に帰ったら絶対に内緒だぜ」
忠次も文蔵も子分たちに釘を刺した。
四日目の朝、忠次と文蔵は野沢の湯に向かい、他の者たちは故郷に帰した。しかし、千代松は親分を連れて帰らなければ、軍師に会わす顔がねえと言って、一緒に行くと言い張った。忠次は千代松の言い分に負け、一緒に来いと言ったが、才市たちが帰ってしまうと、山の中の湯治場に行ってもつまらねえから、俺はここで待ってるぜと馴染みとなった女のいる女郎屋にさっさと行ってしまった。
「あの野郎、最初っから、ここに残る魂胆だったぜ」と文蔵が笑った。
「たまにはいいさ。奴はかみさんがおっかなくて、故郷じゃ女郎屋通いもできねえ。こっちとしても、奴が一緒じゃねえ方が都合がいい」
「それもそうだな」
二人は半年振りに野沢へと向かった。
野沢は雪で埋まっていた。お篠の宿屋の庭の雪かきをしていた与吉が、二人を迎えると慌てて宿屋の中に入って行った。
お篠とお滝の二人が顔を出した。笑顔に迎えられると思っていたが、二人の女は膨れっ面だった。
「随分、遅かったじゃないのよ」
お滝が文蔵を睨んだ。
「与吉、てめえ、余計な事を言いやがったな」と文蔵は鉾先(ほこさき)を与吉に向けたが、
「人のせいにするんじゃないよ」とお滝の言葉はきつかった。
「しょうがなかったんだ。源七親分に引き留められてな」と忠次が言った。
「女郎屋通いしてたんじゃないだろうね?」
お滝はきつい目をして文蔵を睨んでいた。
「そんな事アしちゃアいねえ。親分も俺も早く、こっちに来たかったんだが、子分たちも一緒だしな。そんな我がままはできなかったんだよお」
「話は後でゆっくり聞くわ」
お滝はフンと首を振って引っ込んだ。
「待ってくれよお」
文蔵はお滝の後を追って行った。
滑稽(こっけい)な文蔵を眺めながら、お篠は笑った。お滝程、お篠は怒っていないようだった。
「与吉が帰って来てから、ずっと待ってたのよ」
「すまねえ。文蔵の言った通りだ。どうしようもなかったんだ」
「分かってるわよ。分かってるけどね、ちょっと困らせてみたかったのよ。お滝さんだって、嬉しくってしょうがないのよ。本当はすぐに飛び出して行きたかったんだけど、じっと我慢して、怒った振りしてたのよ」
「何でえ、芝居(しべえ)かよ」
「甘い顔を見せるとすぐに調子に乗るんですって」
「そいつは言えるな」
お滝は旅芸人だった。体の調子を崩し、野沢にフラッと湯治に来て、文蔵と出会った。年寄りしかいねえと腐っていた文蔵はお滝を見て一目で惚れてしまった。必死に口説いて何とかものにし、忠次たちのように夫婦気取りでいたのだった。忠次と文蔵が上州に戻る事になった時、お滝はお篠の宿屋に移り、お篠を手伝っていた。
忠次と文蔵は温泉に入ってのんびり過ごした。
お篠の話によると、野沢村は相変わらず貧しく、正月だというのに餅(もち)も食えない者もあったという。円蔵に早く帰って来いと言われていたが、そんな話を聞いて黙ってはいられない。かと言って、以前のように中野の賭場を荒らせば、源七親分に迷惑を掛けてしまう。何かいい手はないものかと二人は湯に浸かりながら考えていた。そんな時、千代松がひょっこりやって来た。
「いやア、参ったぜ。凄え雪だな。行き違えにならなきゃいいがと心配(しんぺえ)してたんだ」
千代松はほっと胸を撫で下ろすと、湯の中に入って来た。
「おお、いい湯だ。体が生き返(けえ)るぜ」
「どうしたんでえ、女子に振られたんか?」と文蔵がニヤニヤした。
「そうじゃねえ。銭がなくなっちまったんだ。いつまでも、源七親分の世話になってもいられねえしな」
「まだ、銭がなくなるには早えぜ」
「ちょっと、賭場に顔を出してな」
「へっ、旅先で銭目当ての博奕はするなって親分に言われてたんべえ」
「おう、だから、気前(きめえ)よく負けてやったのよ」
「何を言ってやがる」
「それにしても、ここは何にもねえとこだな。よくこんなとこに一年もいられたもんだ」
「おめえと違ってよお、俺たちは酒と湯がありゃ、後は何もいらねえのよ。浮世の事をさっぱり忘れて、雪を眺めながら、のんびりしてんだ」
「もう充分、のんびりしたんべえ。そろそろ、帰るべえよ」
「ところがな、そうもいかなくなっちまった。一仕事やらなきゃなんねえ」
「何でえ、一仕事たア?」
「人助けよ。貧しいこの村の連中に食い物を与えるんだ」
「何だと?江戸で評判になった鼠(ねずみ)小僧でもやんのかい?」
「馬鹿言うな。俺たちゃ盗っ人じゃねえ」
「じゃア、何すんでえ?」
「それを今、考えてるとこだ」
千代松が野沢に来る途中、飯山にあくどい高利貸(こうりがし)がいるという事を聞いた。そいつを一丁こらしめてやれと三人はさっそく、飯山に向かった。噂を聞けば、余程の悪人らしい。一応、博奕打ちの親分として一家を張っているが、子分は五、六人の小さな一家だった。
「同じ渡世人ならやりやすいぜ」
文蔵はニヤリとした。
三人は古着屋に寄って、旅の渡世人姿になると、高利貸の家に乗り込んだ。
仁義も切らずに長脇差を抜き、
「おい、てめえら、堅気の衆を苦しめるたア、渡世人の恥っさらしだ。たたっ斬ってやるから覚悟しやがれ」と文蔵が威勢のいい啖呵(たんか)を切った。
殴り込みだと騒ぎ出した子分どもを簡単に片付け、親分を脅して百両を巻き上げた。その金で米を買って帰りたかったが、まごまごしてると捕まる恐れがあるので、ひとまず、引き上げた。
翌日、与吉を飯山にやって様子を探らせるとあの後、近所の者たちが押し寄せ、気絶していた高利貸や子分たちを袋だたきにして、金品をすべて奪い取って行ったという。
「それで、高利貸どもはどうしたんでえ?」
「その夜、どっかに逃げてったらしいですよ」
「情けねえ野郎だ。しかし、うまく行ったな」
「喜んでばかりもいられねえぜ」と忠次は厳しい顔をした。
「どうしてでえ?」
千代松が不思議そうに聞いた。
「俺たちもああならねえように気を付けなくちゃなんねえ。堅気の衆も怒らすと怖えって見本だ。常日頃から、堅気の衆は大事にしとかなくちゃなんねえって事よ」
「うむ‥」
文蔵も千代松も忠次を見ながらうなづいた。
「奴らがここに乗り込んで来る事はなさそうだ。さて、そろそろ帰るか」
高利貸から奪った百両を村のために使ってくれとお篠に預け、三人が百々村に帰ったのは正月も晦日(みそか)になっていた。
八幡様の賭場を仕切って、男を売るぜ
田部井(ためがい)村に新居が完成したのは四月の半ばの暑い日だった。
忠次は子分たちを集め、新築祝いを行なった。その日は生憎の雨降りだったが、縄張り内の旦那衆が大勢集まって来た。近所の女衆たちも手伝ってくれ、祭りさながらの賑やかさだった。
お町はニコニコしながら忠次を連れて家の中を見て回り、新しい鏡台や化粧道具、衣桁(いこう)に飾られた半四郎鹿(か)の子の小袖を嬉しそうに披露した。長火鉢に煙草盆、布団に夜着(よぎ)、行灯(あんどん)に蚊帳(かや)、食器類から洗濯道具まで、何から何まで揃っていた。それらの家具は縄張り内の旦那衆や子分たちから贈られた物だった。
「凄いわ、夢みたい」
お町は嬉しそうに忠次に抱き着いた。
忠次は田部井村に移ると『百々一家』から『国定一家』と名を改めた。
百々村の家は文蔵とお辰夫婦に任せる事にした。軍師の円蔵がおりんと一緒に境宿に住んでいるので、忠次としても安心だった。そして、国定村には清五郎、田部井村には佐与松、曲沢村には富五郎、五目牛村には千代松を代貸として置き、それぞれ、子分を持つ事を許した。
境宿の市日の賭場は文蔵、神崎の友五郎、甲斐の新十郎の三人を代貸とし、例幣使(れいへいし)街道に沿って柴宿には啓蔵、堀口村には佐助、馬見塚村には佐太郎、蓮沼村には菊三郎、武士村には山王道の民五郎を代貸として置き、その他、韮塚村に梅次、保泉村に久次郎、茂呂村に孫蔵を置いた。田部井村と境宿のほぼ中央の八寸村には子分ではないが、忠次に忠実な叔父御、七兵衛がいた。
さらに、今年になって平塚の助八が忠次の勢力を恐れて、傘下に入れてくれと言って来た。助八が忠次になびくと、世良田の茂吉も頭を下げて来た。何もかもが順調に進み、忠次としては笑いが止まらない程だった。忠次は助八の代貸で中島を仕切っていた為次を助八と切り離して、中島を任せ、助八には平塚だけを任せる事にした。世良田の茂吉はそのまま、忠次の代貸となった。
忠次は十八人の代貸を持つ大親分となり、田部井村から睨みを利かせていた。
その頃、忠次は子分たちが自分の事を『親分』と呼ぶのを禁止し、『旦那』と呼ばせる事にした。それは高萩の万次郎に会った時から考えていた事だったが、なかなか言い出す機会がなかった。国定一家と名称を変えたのを機に子分たちに命じる事にした。
忠次が新居に移った頃より、毎日雨降りが続いた。すぐにやむだろうと誰もが思っていたが、その雨はやむ事なく降り続いた。夏になっても暑くはならず、袷(あわせ)を脱ぐ事ができなかった。それでも、雨の中、世良田の祇園祭りは盛大に行なわれ、忠次が祭礼賭博を仕切って、上州一円の親分衆を集めた。
各地で天気祭りが行なわれたが、雨は一向にやまず、稲の穂は出揃わず、米の相場は急速に上がって行った。四月に金一両で六斗五升の米が買えたのが、七月になると四斗しか買う事ができなくなった。米の値上がりは境の絹市にも影響し始め、取り引きに訪れる客の数も少しづつ減って行った。
大雨で利根川を初めとした河川は氾濫(はんらん)し、中島、平塚、島村などの河岸(かし)は大損害を被(こうむ)った。
忠次も子分たちを連れて、河岸の修繕に赴いたり、人足たちを集めるための臨時の賭場を開いたり、何かと忙しかった。そんな頃、玉村の佐重郎親分が忠次を訪ねて来た。
「来月の八幡様の祭りをおめえに主催してもらおうと思ってんだが、どうでえ、やってみねえか?」と佐重郎は突然、言った。
「えっ、俺が主催するんですか?」
忠次は驚き、信じられないという顔で佐重郎の顔を見た。
佐重郎は笑いながら、うなづいた。
「やってみねえか?」
「あのう、八幡様の盆割りの権利は京蔵が持ってると聞いてましたが‥」
「その京蔵から、俺が預かったんだ」
「預かったんですか?」
「国越えしてた京蔵はな、五月に甲州から帰って来たんだ。弟の主馬がおめえにやられたと聞いて、一時は殴り込みを掛けるって息巻いてたんだが、おめえのシマが柴宿から世良田まであり、子分が百人以上もいると聞いてな、恐れをなして逃げて行きやがったのよ。そん時、八幡様の盆割りを俺に預けて行ったってえわけだ」
「そうだったんですか‥それで、弟の主馬の奴も逃げたんですか?」
「いや、奴はまだ玉村近辺に潜(ひそ)んでるらしいぜ。兄貴が一家をたたんで甲州に行っちまったため、主馬は殺された常蔵の子分たちに五料から叩き出されたらしい。おめえを恨んで、おめえの命を狙ってるんかもしれねえ。気を付けた方がいいぜ。先代の親分に甘やかされて育てられたからな、何でも自分の思い通りになると思ってやがる。それが今の様だ。おめえを付け狙うに違えねえぜ」
「へい、気を付けます」
「ところで、八幡様の事だがな、天気は悪(わり)いし、物価は上がる一方だ。ここんとこ、いい事が何もねえ。縁起直しに各国の親分衆を玉村に呼んで、景気よく騒いでみねえか?」
「えっ、各国の親分衆を呼ぶんですか?」
「そうだ。おめえの名は上州じゃ有名になった。しかし、まだまだ、中山道筋、東海道筋の親分衆にゃア知られちゃいねえ。今のおめえにゃア勢いがある。今こそ、でっけえ賭場を仕切って男を上げる時期だぜ」
「しかし、俺は東海道筋の親分なんて知らねえし‥」
「なあに、その辺のとこは俺に任せておけ」
佐重郎は煙管(きせる)を取り出すと煙草を詰め始めた。忠次は煙草盆を佐重郎の前に用意した。
「親分、どうして、俺のためにそんなにまで」
「前(めえ)に言ったんべえ、おめえの親父にゃア恩があるってな。それに、親分衆を呼ぶんは玉村のためでもあるんだよ。こう不景気になるとよ、女郎屋も上がったりだ。各国の有名な親分衆を集めりゃア、当然、上州の親分衆も集まる。玉村は大賑わいだぜ」
「成程、そういうわけだったんですか」
「そういう事だ。なっ、頼むぜ」
「玉村の八幡宮の賭場を仕切るなんて夢みてえな話です。俺でよかったら、是非、やらせてくだせえ」
「よおし、決まった。盛大な祭りにしようぜ」
煙草の煙を吐きながら、佐重郎は忠次の父親の事を話してくれた。
若い頃、佐重郎は本間道場に通っていた。その時、師範代をやっていたのが忠次の父親、与五左衛門だった。佐重郎は与五左衛門から剣術を習っただけでなく、命を助けてもらった事もあるという。
剣術を習った事で腕に自信を持った佐重郎は得意顔で喧嘩ばかりしていた。ある日、ちょっとした事が原因で浪人者とやり合う事になってしまった。ぼろ同然の着物を着ていたので、腹をすかせた痩せ浪人だと思ったが、以外にもその腕は凄かった。仲間が斬られ、自分もやられると思った時、止めに入ってくれたのが、たまたま、そこを通りかかった与五左衛門だった。
その頃、佐重郎は道場をやめて、玉村一家の子分になっていたが、与五左衛門は佐重郎の事を覚えていて助けてくれたのだった。与五左衛門は用があって馬庭(まにわ)村の樋口道場に行く途中だったという。
与五左衛門が止めに入ったが、浪人者は佐重郎を殺すと言い張り、与五左衛門は仕方なく、刀を抜いた。二人は刀を構えて、しばらく睨み合っていた。やがて、浪人者が気合と共に与五左衛門に斬り掛かって行った。与五左衛門がやられると思った瞬間、浪人者の刀が宙に舞った。負けた浪人者は座り込み、殺せと叫んだが、与五左衛門は首を振った。
佐重郎は自分の未熟さと与五左衛門の強さを思い知らされた。
本物の強さとは何か、という事を与五左衛門から身をもって教えられ、以後、剣術の修行を続けると共に、つまらない喧嘩をしなくなった。佐重郎はその時の恩が忘れられず、いつか、恩返ししようと思っていたが、与五左衛門は急に病死してしまった。それで、伜の忠次に恩返しをしているのだと言って笑った。
「今の俺がいるのは、あん時、おめえの親父に助けられたお陰なんだ。命を助けられただけじゃねえ。本物の男ってえもんをおめえの親父から教わったんだよ」
「本物の男ですか‥」
「そうさ、おめえも親父に負けねえ本物の男になれよ」
佐重郎は忠次の案内で桐屋の賭場に顔を出し、堅気の衆相手に簡単に五両負けた。その時、壷を振っていたのは羽衣のお藤だった。
「いい女だねえ。今度、玉村で壷を振っておくれ」と言うと機嫌よく帰って行った。
忠次は佐重郎の話を円蔵に相談した。
「どうも、話がうますぎやしねえか?」
「うむ、確かにうめえ話だな。玉村の八幡様の祭礼賭博と言やア、世良田の祇園さんの賭博以上に、各国の親分衆には有名だ。何しろ、玉村と言やア上州一の女郎が揃ってるからな。飲む、打つ、買うと三拍子が揃えば、親分衆も集まって来るぜ」
「玉村の親分を信じねえわけじゃねえが、何かうますぎるぜ」
「なあに、心配する事アねえ。玉村の八幡様は佐重郎親分の本家筋が仕切って来た賭場だ。ところが本家は甲州に逃げちまった。佐重郎親分が本家から盆割りの権利を預かったとしても、各地から来た親分衆はどう思う?佐重郎親分が本家を追い出して、権利を奪い取ったと思うに決まってらア。義理を重んじるこの渡世で本家に楯突いたと評判が立ちゃア、佐重郎親分としても生きちゃアいられねえ。かといって、毎年やって来た祭礼賭博をやめるわけにもいかねえ。そこで考えたのが旦那に主催してもらう事だったのよ」
「そうか‥そういう裏があったんか」
「旦那が京蔵を玉村から追い出して八幡宮の権利を奪ったが、佐重郎親分が旦那を説得して、八幡宮の権利を預かったってえ形にしてえのに違えねえぜ」
「成程なア」と忠次は円蔵の顔を見ながら感心していた。
忠次にはとても、そこまで考える事はできなかった。
「佐重郎親分が何を考えてるにしろ、旦那に損になる事アねえと思うぜ。各国の親分衆に顔を売るんにゃア絶好の機会(きけえ)だ」
忠次は佐重郎との打ち合わせに円蔵を玉村に送り込んだ。円蔵は忠次に恥をかかせないように佐重郎の代貸と共に祭りの準備を進めて行った。話を聞いて、忠次の叔父御である前橋の福田屋栄次郎もやって来て手伝ってくれた。
祭りが近づくにつれて、玉村宿には各地から親分衆が集まって来た。
武州から藤久保の重五郎と高萩の万次郎が揃ってやって来た。
「おうおう、大(てえ)した出世じゃねえかい。おめえを兄弟分に持って、俺も鼻が高えぜ」
万次郎は大きな体を揺すって、豪快に笑った。
忠次に負けず、万次郎もすっかり渡世人としての貫録がついていた。本拠地を飯能(はんのう)に移して縄張りを広げ、武州に流れて来た渡世人は必ず、挨拶に訪れる程、有名な親分になっていた。後に、清水の次郎長も万次郎の世話になっている。ちなみにこの時、次郎長はまだ十七歳だった。
野州佐野から京屋元蔵、総州飯岡から助五郎、江戸から新門辰五郎と相模屋政五郎、甲州から柳町の卯吉(うきち)親分の代理として津向(つむぎ)の文吉がやって来た。甲州からやって来たと聞いて、忠次は京蔵の差し金かと警戒したが、文吉は京蔵の事を知らなかった。忠次が自分と同じ位の若さなのに驚き、大したもんだとしきりに唸っていた。
遠方の駿河(するが)からは安東の文吉、美濃からは岐阜の弥太郎、尾張(おわり)からは名古屋の久六、越後からは観音寺の勇次郎とそうそうたる親分らがわざわざ来てくれた。
信州から上総屋源七もやって来た。さすが、源七親分は顔が売れていて、各地の親分たちが入れ替わりに挨拶に訪れていた。忠次も勿論、挨拶に伺った。
「おめえの名もこれで全国に知れ渡るだんべえ。各地から旅人たちも大勢やって来るに違えねえ。大変(てえへん)だろうが、よく面倒をみてやる事だな。俺も近えうちに上州に帰って来るかもしれねえ。そん時ゃア、よろしく頼むぜ」
「えっ、親分が帰って来るんですか?」
「まだ、はっきり決まったわけじゃねえがな。まあ、今回は楽しませてもらうぜ」
「存分に遊んで行ってくだせえ」
遠方から名の売れた親分衆が集まって来ているので黙っているわけにも行かず、上州の親分衆は皆、玉村に集合した。親分衆だけでなく、旅を続けている渡世人たちも噂を聞いて続々と集まって来た。岩鼻の代官所が近くにあるので、騒ぎを起こすわけにも行かず、忠次の子分たちは佐重郎の子分たちと一緒に眠る間も惜しまず見回りに専念した。
代官所の役人は当然、玉村に博奕打ちの親分たちが勢揃いしている事は知っていた。中には凶状持ちもいるのは確かだったが、手出しする事はできなかった。祭礼の賭博は黙認するのが習わしとなっている。厳しく取り締まってばかりいたら、民衆の反感を買ってしまう。時には飴(あめ)を与えて、民衆をなだめなくてはならない。祭礼賭博はお上のお目こぼしとして、民衆をなだめるための飴の一つだった。
代官所としても、何事も起こらない事を願っていた。何かが起こったとしても、それを静める程の人数はいない。十手持ちの親分衆に任せるしかなかった。この時、国定村の忠次の名は代官所の役人にはっきりと知れ渡った。各国の親分を集められたのは佐重郎や福田屋栄次郎のお陰だったが、役人たちは忠次が集めたものと勘違いした。忠次は要注意人物として、今後、役人たちから注目される結果となった。
大雨の中、祭りも無事に終わり、玉村宿も静けさを取り戻した。
忠次も子分たちも皆、疲れ切っていた。しかし、休む事はできなかった。利根川がまた氾濫して、あちこちの村が水浸しになっていた。縄張り内の人たちを守らなければ、祭りに来た親分たちに笑われてしまう。忠次は子分たちの先頭に立ち、泥まみれになって利根川と格闘した。
九月になって、ようやく長雨は終わったが、稲は全滅に近かった。米の相場は上がる一方で、各地で打ち壊しが起こった。境宿に腹をすかせた乞食たちが食い物を求めて集まり、飢え死にした者が道に倒れ伏し、それを野良犬が食い散らかすという光景が何度も見られた。関東取締出役の役人が村々を巡って、米屋に米の売り惜しみをするなと命じて回ったが、あまり効果はなかった。米屋から袖の下を貰い、門前に群がる飢餓(きが)民を追い散らすというあくどい役人もいた。
境の絹市に集まる人も減り、当然、忠次の賭場も閑古鳥(かんこどり)が鳴いていた。
十月五日、忠次が賭場を借りていた佐野屋の御隠居が亡くなった。すると、その門前に飢えた人々が何かを恵んで貰おうと一千人近くも集まって来て、今にも打ち壊しが始まりそうな気配となった。
忠次は佐野屋で代貸をしていた神崎の友五郎を連れて佐野屋と掛け合い、蔵にしまってあった米を人々に分け与えて騒ぎを静めた。佐野屋の蔵の中には想像していた以上の米が蓄えられてあった。ある所にはある事を知った忠次は、賭場で馴染みの旦那衆たちと掛け合って、蔵の中の米を出させた。賭場に出入りしている旦那たちは仕方がないという顔をして米を提供してくれた。しかし、それだけではまだ足らなかった。忠次は面識のない旦那の所にも出向いて掛け合ったが、いい返事を得る事はできなかった。堅気の衆を脅すわけにもいかず、忠次は引き上げ、円蔵と相談した。
「飢えた民衆を味方に付ける事だな」と円蔵は考えた末に言った。
円蔵の策によって、目当ての旦那の屋敷の前で村人たちに暴動を起こさせ、忠次が乗り出して騒ぎを静める見返りとして、蔵の中の米を出させた。忠次は縄張り内の蔵持ちの旦那を片っ端から狙って、蔵に溜め込んだ米を出させ、飢えた人々に分け与えた。
そんな騒ぎの最中、田部井村の名主でお町の養父だった小弥太が亡くなった。新しく名主になったのは、本間道場で師範をしていた宇右衛門(うえもん)だった。宇右衛門は村人たちのために、自分の蔵の米を施すと共に、忠次と協力して村役人たちの蔵も開かせた。そのうちに、忠次が出向かなくても蔵持ちの旦那たちは米を施すようになり、忠次の縄張り内では、何とか餓死者を出さずに年を越す事ができた。
名主になった宇右衛門は村人たちのために何かをやろうと燃えていた。長い間、本間道場で師範をしていたので、腕には自信があり、怖い者知らずだった。正しいと思った事は何でもやってみようという情熱があった。その宇右衛門が忠次に頼みがあると言って来たのは二月の初めの事だった。
「去年は長雨が続いた。わしが思うにゃ、今年は日照りになるでえ」
宇右衛門は独りでうなづいた。
「日照りが続くと水不足になるだんべえ。そこで問題になるんは水を溜めて置く沼だ。この間、見回ってみたらのう、ほとんど埋まっちまった状態だ。あれじゃア何の役にも立たねえ。そこで、おめえに沼浚(さら)いを頼みてえんだが、やっちゃアくれねえかい?」
「俺が沼浚いをやるんですかい?」
「何もおめえにやれとは言ってねえ。おめえに人足を集めてもらいてえんだよ」
「人足を集めるったって、あれだけの沼を浚うとなりゃア、相当の人数がいりますぜ。元手は大丈夫なんですかい?」
「大丈夫だとは思うが‥」
「今の御時世じゃア、銭だけじゃ人足も集まらねえ。おマンマも食わせなくちゃなんねえですぜ」
「まあ、そうだんべえなア」
「大丈夫なんですかい?」
「村のためだ。何とかするぜ」
「それと、博奕を見逃してもらわなくちゃ人足どもを引き留めておくのは難しい」
「それも分かってる。村役人はわしが説得するし、八州様の道案内たちも何とかする」
「それなら話は決まった」
「やってくれるかい?」
「師範には世話になったからな」
「師範はもうやめてくれ、上州一の親分に師範と呼ばれたら照れるぜ」
「まだまだ、俺は駆け出しだ。沼浚いをやり遂げ、男を売るぜ」
忠次は境宿で人足を集め、田部井村に連れて来て、沼浚いを始めた。
田部井村には三つの沼があった。忠次は沼のそばに小屋を建てて、一つづつ順番に浚って行った。勿論、小屋では賭場を開き、そのテラ銭は幾らにもならなかったが、宇右衛門に渡して、人足たちの飯代の足しにしてもらった。飯にあり付けるというので、噂を聞いて人足たちがどんどん集まって来た。博奕に勝った人足は女郎買いに木崎宿に行ってしまうが、代わりの人足はいくらでもいた。雨降りの日が少なかった事もあり、予定よりずっと早く、沼浚いは終わった。国定村の名主、又兵衛がやって来て、国定村の沼も浚ってくれというので、ついでに浚った。
沼を浚ったのはいいが、雨が降らず、沼の水は少しも増えなかった。去年の不作の影響で米の相場は下がる事なく、かえって上がり、四月には金一両で米が二斗しか買えなくなった。梅雨時になっても雨が少なく、六月の世良田の祇園祭りの翌日、ようやく大雨が降り、祇園さんのお陰だと皆、大喜びした。その日より夕立雨が降るようになり、沼の水は溜まって行ったが、その年の稲作には間に合わなかった。それでも、粟(あわ)、稗(ひえ)、麦は八分の取り入れがあり、今年は飢えに苦しまなくても済みそうだった。
玉村の八幡宮の祭礼賭博は去年と同様に忠次と佐重郎が仕切った。全国的に飢饉に見舞われているので、各国の親分たちは呼ばずに、上州の親分だけを招待した。しかし、祭りの前日、台風がやって来て、利根川は氾濫するし、祭りの準備はすべて台なしとなってしまった。祭りは一応、執り行なったが、台風の被害にあった家々も多く、見物客は集まらず、やって来た親分たちも地元の事が心配だと帰ってしまうし散々だった。
「こんな事もあるさ」と佐重郎は苦笑した。
「あまりあって欲しくはねえですがね」と忠次も苦笑した。
この頃、国定一家の台所は火の車だった。賭場のテラ銭は減る一方なのに、物価は上昇する。大勢の子分を抱え、さらに忠次を頼って来る旅人たちの面倒も見なければならない。お町と円蔵が忠次に分からないように必死に工面しているのを忠次も感づいていた。何とかしようと、八幡様の祭りに賭けていたのが裏目に出てしまった。佐重郎の言うように、こんな事もあるさと開き直らずにはいられなかった。
国定忠次のお通りでえ
太田宿の日新と名乗る風変わりな三下奴(さんしたやっこ)がいた。
世良田の祇園祭りの終わった頃、突然、百々村にやって来て、忠次の子分にしてくれと言い出した。見た所、年は二十二、三で渡世人には見えなかった。円蔵が話を聞いたが太田宿の生まれというだけで、今まで何をやっていたのか話したがらない。何となく、ただ者ではないと感じた円蔵は日新を三下奴にして様子を見る事にした。
普通、三下奴は十六、七の若者が多かった。子分とは認められず、朝早くから夜遅くまで雑用にこき使われた。何を命じられても、逆らわずに従わなければならない。飯だけは食わせて貰えるが、銭は貰えず、厳しい修行だった。
日新は年を食っていたが文句も言わず、自分より若い子分たちにこき使われた。返事をする以外、滅多に口も利かず、何を言われても怒る事はなかった。半年余りが経つと、三下奴でありながら、子分たちから先生と呼ばれるようになった。読み書きができ、色々な事を知っているので、子分たちは日新に手紙の代筆を頼んだり、悩み事の相談をしたりするようになった。
忠次もその噂を耳にして、百々村に行った時、円蔵に聞いた。
「軍師、日新とかいう三下だがな、ありゃ一体(いってえ)、何者なんでえ?」
「あいつか、ありゃどうも学者崩れのようだな」と円蔵はお茶を一口飲むと目を細めて言った。
「学者崩れ?お上(かみ)の回し者(もん)じゃアねえだんべえな?」
「そいつは大丈夫(でえじょぶ)だ。あっしもその事が心配(しんぺえ)で様子を見てみた。しかし、そんな素振りは見せねえ。逆に御用聞きを恐れてるような風がある。もしかしたら、何か凶状を持ってんのかもしれねえ」
「奴が凶状持ちだと?へっ、そうは見えねえぜ」
忠次も熱いお茶をすすった。
「なあに、凶状持ちといっても殺しやなんかじゃねえ。あっしが思うにゃア、お上に楯突いたんじゃねえかと‥」
「あの野郎がお上に楯突いた?一体、何をしたんでえ?」
「去年の二月だったか、上方の大坂で大塩平八郎がお上の御政道に楯突いて反乱を起こしたってえのを旦那も御存じだんべえ」
「ああ。飢饉の時だったからな、あっちこっちで騒ぎが起こったが、与力の旦那が一揆を起こして大坂の町を焼き払ったってえ、大(てえ)した評判になったなア」
「へい。その後、大塩の残党と名乗る奴らが、あちこちで一揆を起こしたんだが、越後の柏崎でもそんな騒ぎがあった」
「おう、聞いてるぜ。代官の陣屋に殴り込みを掛けたんだんべえ。何でも、その張本人は上州生まれの浪人だったってえじゃねえか」
「そうなんでえ。あの事件を間近で見たってえ旅人(たびにん)が、うちに草鞋(わらじ)を脱いだんで、あっしは聞いてみたんでさア。その張本人は生田万(よろず)ってえ先生で、館林のお侍(さむれえ)だったんだが、何でも、お殿様に御政道に関する意見書を提出して、お殿様の怒りを買って浪人になったんだそうだ。その後、江戸に出て、偉え先生のもとで勉学に励み、上州に戻ると太田宿に私塾を開いて、若え者たちに学問を教えてたらしいぜ」
「太田宿でか?」
「そうなんだ。日新の野郎も太田の生まれだ。どうも、その生田先生の教え子だったようだな」
「聞いてみたかい?」
「いや、本人がしゃべりたがらねえのに聞いても話すめえと思ってな。まだ、聞いちゃいねえ」
「すると、奴も越後に行って、陣屋を襲撃したってえのかい?」
「その可能性はある。奴がここに来たんは、越後の襲撃から一月も経っちゃアいねえ」
「ほう、面白え奴が転がり込んで来やがった」
「本人に会ってみますかい?」
「そうだな、呼んでくれい」
日新は忠次の前に出ると、
「親分さんの噂はよく聞いておりました。わたしが以前、お世話になった先生も会ってみたいと常々、申してました」とぼそぼそと言った。
「その、先生てえのは生田先生だな?」と円蔵が聞いた。
日新は驚き、円蔵の顔を見つめた。
「どうして、それが‥」
「やはり、そうかい。それで、どうして、うちに来たんでえ」
「それは‥お尋ね者になっちまって、帰る所もねえし、渡世人になって男を売ろうと思いまして‥」
「おい、おめえもあん時の襲撃に加わったんかい?」
忠次が興味深そうに聞いた。
「はい、でも、途中で逃げてしまったんです。そんな自分が恥ずかしくて、一時は死のうと考えましたが、先生の教えをもう一度、実践しようと考え直したんです」
「何だと?おめえ、また、陣屋に殴り込みを掛けるつもりなのか?」
「いえ、そうじゃありません。違います。先生の教えはあんなに過激じゃないんです。でも、あの時は飢饉の最中で、みんな、どうかしてたんです。実力行使をしなければ、お上の目は醒めないとあんな風に‥」
「お上の目が醒めねえ?」
「はい。親分さんは飢饉の時、貧しい者たちを助けたから分かると思いますけど、お上のやり方は酷(ひど)すぎます。あの時、食う者がなくて死んで行った者は大勢います。お上はそんな人たちを助けないで、自分の事ばかり考えていたんです」
「どういう事でえ?」
「お上は侍たちを飢え死にさせないために、あちこちから米を集めて江戸に運んだんですよ。米商人たちはお上のためにせっせと米を集めて江戸に送って、たんまりと銭を稼ぎ、お陰で貧しい者たちは食う物が無くなって飢え死にしたんです。先生は江戸に送る米をみんなに分け与えてやろうとして、陣屋を襲撃したんです。けど、失敗して自害してしまった‥」
「そうだったんかい‥そういやア、平塚からも米を積んだ船が江戸に向かい、そいつを襲撃しようとした連中が取っ捕まったとか聞いたな」
「親分、今の世の中、おかしいと思いませんか?」
日新は真剣な顔付きで忠次を見つめた。
「確かにおかしいような気もするが‥」
忠次は少したじろいだ。
「何とかしなければならないんです。新しい世の中を作らなければならないんです」
「新しい世の中か‥」と忠次は円蔵を見た。
円蔵は何も言わず、日新の顔をじっと見つめていた。
日新はその日から、子分に昇進して、忠次と共に田部井村に移った。
日新というのは勿論、本名ではなかった。新しい世の中が来る事を願って生田先生が付けてくれた号だという。かなりの書物を読んだとみえて、難しい事を色々と知っていた。
忠次は日新を身近に置き、話を聞いては様々な知識を増やして行った。忠次は気づかなかったが、知らず知らずに日新に感化され、世の中の見方も少しづつ変わって行った。
今まで、忠次はお上(幕府)に反抗して来たが、それは自分を捕らえようとしている御用聞きに対してであって、決して、お上に楯突くなんて大それた事を考えてはいなかった。忠次から見れば、お上なんて雲の上の存在で、自分とはまったく縁のないものだった。それが、日新の話を聞く事によって、お上の存在は身近になり、世の中が狂って来たのは、お上のせいなのだと思うようになって行った。
桜も散った三月の半ば、八州様が木崎宿に来た、と女郎屋通いをしていた武士(たけし)村の若者が知らせてくれた。前日、境の市日だったので、忠次は百々村に来ていた。
「旦那、文蔵を連れて、しばらく隠れていてくだせえ」と円蔵がいつものように言った。
「伊三郎を殺してから、もう四年近くになるんだぜ。もう大丈夫なんじゃねえのかい?」
「いや、危ねえ。去年、将軍様がお代わりになられて、もうすぐ、領内見回りの巡見使が来るはずだ。八州様としても、ボロを出さねえように必死になってる。目障りな野郎はみんな、しょっ引くつもりだぜ。隠れてた方がいい」
忠次と文蔵は赤城山の裾野にある新川(にっかわ)村に隠れた。新川村には子分の秀吉の家があった。
八州様が利根川向こうの玉村に行ったと知らせを受けると忠次は田部井村に、文蔵は百々村に戻った。
三月二十六日、八州様は倉賀野宿へと行き、忠次らはすっかり安心していた。
その日、世良田の朝日屋で賭場が開かれる事になっていた。朝日屋の賭場は茂吉に任せてあったが、その日は祇園祭りの打ち合わせもあるので、是非、顔を出してくれと言われていた。
「六月の祇園祭りにはまだ間があり、早すぎるんじゃねえのか?」と言うと、今年は将軍様がお代わりになって最初の祭りなので、いつもより盛大にやるので早くから準備を始めなければならないと言う。それなら仕方がないと忠次は承諾した。
昼飯を食べた後、忠次が世良田に向かおうとした時、桐屋の賭場に梁田(やなだ)宿の上総屋源七親分が来たと鹿安が知らせに来た。
源七は去年の秋、信州権堂村の女郎屋を弟分の島田屋伊伝次に譲り、一旦は故郷の邑楽(おうら)郡大高島村に帰った。しかし、船問屋だった生家は没落しており、生家を立て直すために、再び、梁田宿で女郎屋を始めた。顔が広く、各地の親分たちにも睨みがきくため、八州様の相談役を務める羽目となり、今回、八州様の道案内として玉村宿まで従った。ようやく解放され、久し振りに忠次の顔を見るために寄ったのだと言う。
「せっかく、源七親分が旦那に会いに来てくれたんだ。世良田の方は俺が代わりに行くぜ」
文蔵が長脇差を腰に差しながら言った。
「そうだな、祇園祭りの相談だ。俺よりおめえの方がいいかもしれねえ。済まねえが頼む」
忠次は子分の喜代松を連れて源七に会うため桐屋に行き、文蔵は子分の佐吉を連れて世良田へ向かった。
市日ではないので、境の宿場はのんびりとしている。高札場の回りで子供たちが遊び、ツバメが飛び回り、軒下の巣作りに励んでいた。
賭場に顔を出すと、源七は堅気の衆に混じって遊んでいた。
忠次が小声で挨拶をすると、
「境名物の女壷振りを見物に来たぜ」と観音のお紺に軽く頭を下げて席を立った。
「遊ばせてもらったぜ」と代貸の甲斐新に五両を渡し、
「みんなでうめえもんでも食ってくれ」と言って笑った。
忠次は源七をおりんの店に連れて行った。
「今日はゆっくりして行けるんでしょう?」
源七のお猪口(ちょこ)に酒を注ぎながら忠次は聞いた。
「いや、そうもいかねえんだ。まさか、玉村くんだりまで付いて行くたア思ってもいなかったからな。もうすぐ、京からお公家さんや例幣使(れいへいし)がやって来る。何しろ、初めての事だから色々とやる事があるんだ。まったく、面倒くせえ所に越して来ちまったぜ」
「毎年の事だから俺は慣れちまったけど、確かに例幣使が来る時ゃア境宿も大騒ぎだ。もっとも俺は表には出られねえんで、子分たちに任せっきりだが宿場役人は大変(てえへん)らしい」
「その宿場役人になっちまったのよ」
「へえ、そうですか‥そいつは大変ですね」
「まあ、しょうがねえ」
源七はおりんが作った、にぼうと(おっきりこみ)を食べると帰って行った。
忠次が源七を宿場はずれまで見送り、百々村に帰って来ると後ろから、
「大変(てえへん)だ!大変だ!」と誰かが大声で叫びながらやって来た。
「親分、大変だ。文蔵さんが捕まっちまった」と男は息を切らせながら何度も言った。
「何だと!てめえ、いい加減な事を言うんじゃねえ」
忠次は物凄い形相(ぎょうそう)で男の胸倉をつかんだ。
男は女塚(おなづか)村の百姓で世良田の朝日屋の賭場に行ったが、今日は大事な寄り合いがあるから、それが済んでからだと言われ、店の中で酒を飲んでいた。そのうちに、文蔵がやって来て二階に上がって行った。まもなく、始まるなと思っていると、血相を変えた文蔵が二階から勢いよく降りて来た。
何事かと見上げると、十手を振りかざした茂吉が、
「御用だ!御用だ!」と叫びながら文蔵を追って行く。
文蔵が朝日屋から飛び出すと祇園さんの鐘が鳴り響いて、捕り方が大勢集まって来た。
文蔵は手裏剣を打ちながら捕り方と戦ったが、手裏剣がなくなると長脇差を預けてしまったため簡単に捕まってしまった。一緒にいた佐吉も捕まったという。
「茂吉の野郎はいつ、十手持ちになってんでえ?」
忠次は怒りを抑えながら円蔵に聞いた。
「知らねえ。そんな事ア、一言も聞いちゃいねえぜ」
「あのくそったれ野郎、裏切りやがって、絶対に許せねえ」
「茂吉の奴ア旦那を捕まえて、手柄をあげるつもりだったんだぜ」
「くそっ!何としてでも、文蔵を取り戻さなくちゃなんねえ」
忠次は喜代松に命じて、子分たちを全員集めさせると共に、文蔵の様子を探らせるため、下田中村の沢五郎を世良田村に送った。
「茂吉だけの考えじゃねえぜ、こいつは」と円蔵は腕組みをして唸った。
「奴にそれだけの度胸はねえ」
「木崎の左三郎が後ろにいるってえのかい?」
「いや、それだけじゃねえ。八州様が後ろで糸を引いてるに違えねえ」
「八州様は倉賀野に行ったんだんべえ」
「本当に行ったかどうか分かんねえぜ」
「源七親分が玉村まで一緒に行ったと言ってたぜ」
「源七親分が玉村から引き返して来たってえ事は八州様だって引き返せるってえ事だ。利根川を舟で下れば、あっという間だ」
「しかし、平塚に上がれば助八が知らせるはずだ」
「平塚じゃねえ。前島から上がって木崎に入ったのかもしれねえ」
「八州様がそんな面倒くせえ事をするかのう」
「とにかく、八州様がいるかもしれねえって考えてた方がいい」
忠次が文蔵を奪回するための喧嘩支度を始めていると沢五郎が帰って来て、捕まった文蔵と佐吉が木崎宿に連れて行かれたと告げた。
「おい、八州廻りはいるのか?」
「よく分かりませんが、木崎の左三郎の奴が得意顔でいました」
「くそったれ!団子屋のガキが‥」
徒党を組んで木崎宿に乗り込んだら、向こうの思う壷にはまるから、もう少し、様子を見た方がいいと円蔵は言ったが忠次は聞かなかった。今まで、ずっと忠次の片腕として働いて来た文蔵が捕まった事で頭がカアッとなっていた。何が何でも助けなければならないと、忠次は武装した子分たちを引き連れて木崎宿へと向かった。
すでに日暮れ間近になっていた。
畑仕事を終えた百姓たちが、何事かと武装した忠次一行を恐る恐る眺めていた。
空ではカラスがうるさく飛び回っている。
三ツ木村辺りまで来た一行は前方を見つめて足を止めた。木崎宿がやけに明るかった。
「おい、火事じゃねえのか?」と富五郎が言った。
「火事なら、兄貴を助けられる」
文蔵の妹婿(むこ)の清蔵が喜んだ。
忠次らは古城跡の三ツ木山に登って、木崎宿の方を眺めた。
火事のようにも見えるが、どうも、そうではないらしい。松明(たいまつ)のようだった。それにしてもおびただしい松明の数だった。
「おい、浅、ちょっと見て来い」
忠次は足の素早い板割の浅次郎に命じた。
浅次郎はうなづくと槍をかついで飛び出して行った。清蔵もじっとしていられずに、浅次郎の後を追った。
三ツ木山には遅れて来た子分たちも集まり、七十人近くに膨れ上がり、絶対に文蔵を奪い返してやると意気も上がった。しかし、偵察に行った浅次郎と清蔵が戻って来ると状況は変わった。
「木崎宿は武装した村人たちが完全に包囲していて、とても入れそうもありません」
「武装してると言っても、奴らはこの辺りの百姓だ。こっちが威勢よく攻め込みゃア、さっさと逃げちまうぜ」と友五郎は言ったが、清蔵も浅次郎も首を振った。
「敵の数は二、三百もいるんです。それにかなりの鉄砲もあります。もし、突破して宿場に入(へえ)れたとしても、今度は逃げられません。少なくても、半分は捕まっちめえますよ」
「二、三百だと?」
忠次は驚いて聞き直した。
「へい。宿場の回りだけでも、そのくれえはいます。宿場ん中にもいるだんべえから、四百ぐれえはいるんじゃねえでしょうか」
「軍師の言った通りによお、こいつは八州様が必ず、後ろにいるぜ」と千代松が口をとがらせて言った。
「俺たちが攻め込むのを待ち構えてるに違えねえ。どうする、旦那?」
「畜生め!」と忠次は唇を噛んだ。
「くそっ、堅気の衆相手に喧嘩はできねえ。出直しだ」
忠次は木崎宿をじっと睨みながら、込み上げて来る怒りにじっと耐えていた。
百々村に戻った忠次は代貸たちを集めて今後の対策を練った。木崎宿で文蔵を救出する事は諦め、江戸に向かう途中を狙う事にした。曲沢の富五郎、甲斐の新十郎、五目牛の千代松の三人に文蔵救出を頼み、神崎の友五郎、八寸の才市、上中の清蔵の三人には裏切り者の世良田の茂吉を殺す事を頼んだ。忠次自身は手配されているため、国越えしなければならなかった。
「奴らは本気になって、旦那を捕まえようとしている。留守の事はあっしらに任せて、旅に出て男を売って来てくだせえ」
円蔵は厳しい顔付きで忠次を見た。
「文蔵の事は頼んだぜ。必ず取り戻してくれ。旅から戻って来た時、文蔵がいなかったら、おめえら承知しねえぜ」
「任せておけ」と富五郎が言うと、新十郎と千代松も力強くうなづいた。
忠次は夜明けと共に、新川村の秀吉、境川の安五郎、太田宿の日新、鹿村の安次郎、赤堀村の相吉の五人を連れて旅立った。文蔵を捕まえた裏切り者、世良田の茂吉に対する怒りをじっと堪(こら)えて、取りあえずは信州へと向かった。
日が暮れる前に大戸に着き、その夜は加部安の所に泊まる予定でいた。加部安の屋敷の前まで来て、忠次は目の前の関所を眺めた。
「おい、日新、何で関所なんてもんがあるんでえ?」
「それは、お上が自分たちを守るためですよ」と日新は言って、詳しく説明を聞かせたが、忠次は聞いていなかった。
じっと関所を睨み、
「あんな物(もん)があったら、旅人たちが迷惑するぜ。あんな物はいらねえんじゃねえんかい?」
「ええ、無用な物です」と日新はうなづいた。
「どこの関所もちゃんと抜け道が用意されてるんですからね。あんな物は無用です」
「よし、あそこを通り抜けるぜ」
忠次は関所を睨みながら、腰の長脇差を力強く握った。
「何ですって?切手もないのにどうやって通るんです?」
日新は驚き、忠次の顔を見た。
その顔は厳しく、忠次の決心を知った日新は背筋が寒くなるのを感じた。
「なあに、加部安の旦那に頼みゃア切手なんか、何とでもならア」と秀吉が笑いながら言った。
「いや、切手なんかいらねえ。切手なしであそこを通り抜けるぜ」
「旦那、そりゃア無茶ですぜ」
力士崩れの大男、安五郎が止めた。
「日新、おめえは世の中を変えなくちゃなんねえと言ったな。旅人たちが迷惑する関所なんか用はねえぜ。てめえ勝手な事をしてるお上なんざ許しておけねえ」
「しかし、そんな無茶しなくも、抜け道があるのに‥」
日新は何とか、忠次の考えをやめさせようと思ったが、無理である事を悟った。
「天下の大道を通るのに、何でコソコソと抜け道を通らなけりゃならねんだ。俺はあそこを堂々と通ってやるぜ」
日新は関所を眺めながら、ブルッと震え、大きく息を吸うと、
「分かりました。やりましょう」と力強くうなづいた。
秀吉も安五郎も鹿安も相吉も覚悟を決め、関所に向かって力強く歩き始めた。
鹿安は鉄砲を隠し持っていたが、それを構え、他の者たちは長脇差の柄(つか)に手を掛け、関所へと向かった。
日暮れ近くで、もうすぐ、関所が閉まる時刻だった。
近所の百姓が四人、のんきそうに並んでいる。
「どいた、どいた、てめえら邪魔だア!」
忠次は長脇差を抜いて、関所に突撃した。
「国定村の忠次郎のお通りでえ」
鹿安が脅しの鉄砲を撃った。
「通行の邪魔んなる関所なんか取り潰せとお上によーく言っておけ」
忠次は怒鳴ると関所を通り抜けて行った。
関所の役人たちはとっさの出来事に何の反応も示さず、あっけに取られたように、忠次たちを見送った。
「関所破りだ!」
しばらくして役人の一人が叫んだが、国定忠次という名を聞いて恐れ、捕まえようともしなかった。
「やったぜ。あの役人どもの馬鹿面を見たかい?」とみんな、大騒ぎして喜んだ。
忠次もお上に一泡吹かせてやったといい気分だった。しかし、この関所破りの付けは後になって大きくのしかかって来る事となった。
死ぬ時くれえ、てめえの名前を名乗りやがれ
忠次の今回の旅は、玉村の八幡宮の祭りに来てくれた親分衆を訪ねる旅となった。
文蔵が捕まった事に腹を立て、大戸の関所を破ってしまったため、一年位では帰れないだろうと覚悟を決め、遠くまで足を伸ばすつもりでいた。
信州に入った忠次はいつものように権堂村に向かった。源七親分の跡を継いで女郎屋をやっている島田屋伊伝次のもとに草鞋を脱ぎ、上州の様子を探った。
文蔵の事が心配で居ても立ってもいられなかったが、子分たちが文蔵を助け出したという朗報は伝わって来なかった。野沢の湯に腰を落ち着けて、朗報を待とうとも思ったが、お滝に文蔵が捕まった事を知らせる事はできなかった。
そのうちに、中野の代官所に忠次の人相書が回ったため、甲州(山梨県)へと旅立った。
人相書には四年前の伊三郎殺しと、文蔵を取り戻すために徒党を組んで騒ぎを起こした件は書いてあったが、関所破りの事は触れられていなかった。江戸から巡見使が来るため、関所破りの件は岩鼻の代官が隠したのかもしれない。そのまま、隠し通してくれる事を忠次たちは願った。
甲州へ向かう前に、忠次は松本の勝太郎の所に顔を出した。勝太郎は忠次を歓迎し、ニコニコしながら円蔵とおりんの事をしきりに聞きたがった。四年前とは打って変わった待遇に忠次は充分に満足した。
甲州に入ると甲府柳町の卯吉(うきち)の所に草鞋を脱いだ。
卯吉親分とは初対面だったが、忠次の噂は聞いていると丁寧に持て成してくれた。忠次が来たとの知らせを聞いて、津向(つむぎ)村から文吉がやって来た。文吉も一家を張ったというので、そちらに移る事にした。
甲州には長老として柳町の卯吉親分と下吉田村の長兵衛親分がいて、対立しているという。玉村の京蔵は長兵衛の客人として、しばらく滞在していたが、今は富士山に登る参拝客相手に旅籠屋をやっているとの事だった。
「ほう、すると、奴はこっちに腰を落ち着けたってえわけかい?」
「らしいぜ。俺は直接会った事アねえが、噂によりゃア野郎は親分てえ器じゃねえ。故郷(くに)にいた頃は、大(てえ)した親分だったってえ親父の影に脅えてたんじゃねえんか。故郷を離れ、親父の影も消えて、今はのんびり旅籠屋のおやじを楽しんでるようずら」
「俺も奴には会った事もねえが、そんな男だったんかい」
「親父が立派な博奕打ちでも、その伜が立派な博奕打ちになるとは限らねえってこんだ。野郎は二度と上州にゃア戻るめえ。京蔵の事ア忘れるこんだな」
「ああ、そうするぜ。奴がこっちの連中を引き連れて、殴り込みを掛ける事もなさそうだ。これで安心して旅が続けられるぜ」
津向の文吉のもとを後にした忠次一行は駿河に入り、安東村(静岡市)の文吉のもとに草鞋を脱いだ。
安東村は駿府(すんぷ)の郊外にあり、賑やかな浅間(せんげん)神社の門前町も近かった。門前町には女郎屋が建ち並び、賭場も開かれ、遊び場には事欠かなかった。さらに、西のはずれの阿部川町には『二丁町』と呼ばれる有名な遊郭まであった。江戸の吉原には及ばないが、木崎や玉村の飯盛女しか知らない忠次たちにとっては、まるで極楽のような世界だった。
海も近くにあった。忠次は以前、越後で冬の海を見た事があったが、ここの海はあの時の海とはまったく違っていた。冬の海は荒れて、波しぶきを上げて唸っていたが、ここの海は波も穏やかでキラキラと輝いている。初めて、海を見た秀吉、鹿安、相吉の三人は、凄えと叫びながら、いつまでも海を眺めていた。
新鮮な魚介類が豊富なので、それらをつまみながら飲む酒は格別だった。山国の上州で育った忠次たちは駿府が気に入り、しばらく、滞在する事に決めた。草鞋銭も心細くなって来たし、向こうの状況も聞きたいので、赤堀の相吉を上州に帰した。
半月後、相吉は戻って来た。忠次は相吉が文蔵を一緒に連れて来る事を願っていたが、そううまくは行かなかった。
富五郎たちは文蔵を取り戻す事に失敗してしまったという。
関東取締出役の吉田左五郎は忠次たちの襲撃を恐れて、木崎宿でろくな取り調べもせず、捕らえた翌日の朝早く、文蔵を江戸へと送った。しかも、中山道を通らず、脇道を通って江戸に向かった。富五郎たちは文蔵の唐丸籠(とうまるかご)が来るのをあちこちで待ち伏せしたが、ついに会う事はできなかった。
文蔵は江戸の小伝馬町の牢(ろう)に入れられ、残酷な拷問を受けながらも、伊三郎殺しの罪を一人でかぶった。そして、六月の二十九日、妹のおやすが差し入れた白無垢(むく)を着て首を斬られ、その首は小塚原(こづかっぱら)に三日間、晒された。文蔵はまだ三十歳だった。
忠次は相吉の話を聞きながら、歯を食いしばり、両手を強く握り締めていた。
あの文蔵が殺されちまったなんて信じられなかった。
文蔵が一体(いってえ)、何をしたって言うんでえ‥
汚ねえ真似しやがって‥
「馬鹿野郎!」と大声で叫びながら大暴れしたい心境だったが、忠次はグッと堪(こら)えていた。
安五郎、日新、鹿安の三人はうなだれ、秀吉はすすり泣いていた。秀吉は三下の頃から文蔵に可愛がられ、文蔵が育てた子分だった。
「くそったれ!‥それで、文蔵を捕まえた裏切り野郎は殺(や)ったんだんべえな?」
「へい。世良田の茂吉の首は取ったそうです」
茂吉は忠次の仕返しを恐れて、常に子分たちを回りに置き、決して一人になる事はなかった。何度も木崎宿の左三郎のもとに出向いて、助けを求めていた。左三郎は子分たちを世良田に送り込み、茂吉を助ける見返りに朝日屋の賭場を貰い受けた。友五郎、才市、清蔵の三人は子分たちを世良田に潜入させ、じっと機会を待っていた。
四月の初めの日光の例祭へ向かう例幣使や公家衆の通行も終わり、十七日には幕府から派遣された御領所巡見使がやって来て伊勢崎に泊まった。百人近くを従えた一向は仰々しく村々を見て回り、国定村で昼食を取り、大間々方面へと向かった。
八州様の道案内となった茂吉は巡見使の先触れとして忙しく働き回り、忠次の子分たちに狙われている事も忘れて、巡見使一行が上州から出て行ってしまうと、ホッと一息ついた。文蔵が捕まってから一月が過ぎ、安心した茂吉は御無沙汰だった妾の家に顔を出した。それが運の尽きとなり、茂吉は殺された。しかし、才市が逃げ遅れて捕まってしまい、半殺しにされた上、江戸送りとなった。才市も文蔵に次いで、小塚原で晒し首にされた。
「才市の兄貴まで‥」
じっと悲しみに耐えていた秀吉は泣きながら部屋から飛び出して行った。
「兄貴‥」
鹿安までが泣き始めた。鹿安は才市から鉄砲を習っていた。
茂吉を殺した友五郎と清蔵はそのまま旅に出たが、顔を見られてしまった友五郎は手配されてしまった。さらに、巡見使がいなくなった後、大戸の関所を破った忠次の噂が徐々に広まって行った。噂はだんだんと大きくなり、百々村に来る頃には忠次が鉄砲や槍を持った子分を二十人余りも引き連れて、堂々と関所を破って行ったという風になっていた。
噂を聞いた円蔵たちは驚き、うろたえたが、代官所からは何も言って来ないのでデマに違いないと問題にはしなかった。ところが、噂を聞いて慌てたのか、翌日になって、忠次が関所破りで大手配になったと玉村の佐重郎が知らせてくれた。今までの手配は関東取締出役の取締り範囲内だったが、今度は全国に指名手配される事となってしまった。
安東の文吉の調べで、駿府にも忠次の人相書が届いている事を知ると忠次たちは賭場に出入りするのはやめ、派手に遊ぶ事も控えた。二ケ月間、滞在した駿府を後にした忠次たちは遠州浜松に行き、栗ケ浜の半兵衛のもとに草鞋を脱いだ。
六年前に武士村の惣次郎を殺して国越えした半兵衛は伊勢崎に帰らず、浜松で一家を張っていた。半兵衛は伊勢崎藩の十手持ちだったし、殺した相手は博奕打ちだったので、普通なら二年も経てば、ほとぼりも冷め伊勢崎に帰れるはずだった。ところが、半兵衛が国越えしている間、留守を守っていた代貸の重太郎が木島の助次郎の子分を殺して、浜松に逃げて来た。半兵衛と重太郎がいなくなり、伊勢崎のシマは助次郎に奪われた。もう故郷には帰れないと覚悟を決めた半兵衛は浜松に一家を張って落ち着く事にした。
翌年、忠次が伊三郎を殺したため、後ろ盾を失った助次郎は半兵衛の子分たちに伊勢崎から追い出された。お陰で、故郷に帰れる身となったが、浜松が気に入った半兵衛は帰ろうとはしなかった。今では栗ケ浜の半兵衛の名は東海道筋の親分衆の間に知れ渡っていた。
半兵衛は懐かしそうに忠次を迎えた。異郷の地で同郷の者に会うのは何となく安心するものだった。お互いに積もる話もあり、忠次は浜松でのんびり過ごした。ところが、浜松にとんでもない噂が流れて来た。上州無宿、国定村の忠次郎が紀州で捕まったという。半兵衛も驚き、情報を集めてくれたが、遠い紀州の事は分からなかった。
その後、大前田栄五郎の兄弟分である尾張名古屋の久六の所に草鞋を脱いだ時、忠次を名乗っていたのが、神崎の友五郎だった事が分かった。
久六は尾張藩から十手を預かっているので、忠次が捕まったと聞くと、真相を確かめるため紀州まで出掛けて行った。忠次の顔を知っていると言うと、役人たちは久六を牢内にいる忠次に会わせた。そこでようやく、捕まったのが忠次ではなく、子分の友五郎だという事が分かった。
友五郎と清蔵は紀州に行く前に、久六のもとに草鞋を脱いでいた。久六は伊勢の新茶屋村の勇蔵を紹介して送り出した。捕まる二ケ月前の事だという。久六は何とかして友五郎を助け出そうと手を打ったが、友五郎の手配書が関東より送られて来たため、どうする事もできず、晒し首にされてしまった。
「なんで、親分の名をかたったんだと聞いたらな、奴は間違えられたんを幸いに親分に成り代わって自分が首を斬られりゃア、親分が助かるだろうと思って、嘘を付き通したと言ったぜ」
「馬鹿な奴だ‥死ぬ時くれえ、てめえの名前(なめえ)を名乗りやがれ」
忠次はそう言ったが、その目は涙で潤んでいた。
「大(てえ)した子分だぎゃア。俺の子分にゃアあれ程の男はいねえ。子分にそれ程まで思われて、おめえさんは幸せ者だでえ」
「でもよお、友五郎の兄貴はどうして、旦那に間違われたんだんべえ」
秀吉が涙を拭きながら、不思議そうに言った。
「どう見ても、似とらんなア」と久六も同意した。
「人相書なんて当てにはなりませんよ」
日新が冷静な顔をして言った。
「友五郎の兄貴が何と名乗っていたか知りませんけど、旅をして回った者なら兄貴の言葉が上州弁だってすぐに分かります。兄貴も結構、貫録がありますからね、貫録のある上州訛(なま)りの親分さんが紀州辺りまで来てるとなれば、凶状旅に違えねえって誰もが思います。兄貴の事だから、賭場に出入りして派手に遊んでたんでしょう。ただ者じゃねえって噂が立ち、そこへ旦那の手配書が回った。怪しい奴はしょっ引けという事になって、兄貴は捕まっちまった。お前は国定村の忠次郎だなと問われて、兄貴はためらう事なく、うなづいたんでしょう」
「確かに奴の言葉は上州弁丸出しだ。生まれは下総なんだが、上州に来て長えからな」
「成程ねえ、まさしく、そうに違えねえわ」と久六は感心しながら日新を見ていた。
「清蔵の兄貴は無事なんだんべえか?」
鹿安が心配そうに聞いた。
「そいつは大丈夫だ」と久六が答えた。
「清蔵は今頃、上州に帰ってるはずだ。手配書によると、世良田村の道案内を殺したんは八寸の才市と神崎の友五郎の二人になってる。奴は手配されとらんから上州に帰してやったでよ」
「そいつはよかった。親分さん、色々と世話を掛けちまってすまなかった」
「なあに、うちの若え者も上州で世話になってるからお互(たげ)え様よ」
その年、忠次は三ツ木の文蔵、八寸の才市、神崎の友五郎と三人の代貸を失ってしまった。怒りと悲しみが込み上げて来たが、それをぶつける対象がなかった。忠次は酒に飲みながら、何に対して怒ったらいいのか、日新に答えを求めて質問した。
「あいつらの仇を討つにゃア、誰をたたっ斬りゃアいいんでえ?」
「誰と言われても‥」
「おめえにも分かんねえんかい?」
「八州様やお代官を斬ったところで、どうにもなりません。もっと根本的な所を何とかしねえと‥」
「根本的なとこってえのはお上の事かい?」
「お上が考え方を改めて、新しい世の中を作ってくれればいいんです」
「へっ、おめえは何かってえと新しい世の中がどうのこうのと言いやがるが、その新しい世の中ってえのは、一体、どんな世の中なんでえ?」
「無用な侍なんかいねえ世の中です。侍の仕事は戦(いくさ)をする事です。戦なんかねえ今の世に、どうして侍がいる必要あるんです?用のねえ侍たちのために、どうして高え年貢を払わなけりゃならねえんです?生田先生は館林の松平家の財政を立て直すには、用のねえ侍たちに新田を開墾(かいこん)させるべきだと意見書を出して、お殿様の怒りに触れ、浪人となってしまったんです。でも、先生のおっしゃった事は正しいと思います。何もしねえで威張ってる侍なんか、本当に無用なものです」
「侍(さむれえ)がいなくなりゃア、確かに住みいい世の中になるかもしれねえ。しかしよお、そんな事が実際にできると思ってんのか?」
「難しいと思います。でも、いつかは誰かがやらなければならねえんです」
「そんなど偉え事を誰がどうやってやるんでえ?」
「それは分かりません。大坂の大塩平八郎のようにお上のお役人が騒ぎを起こすかもしれません。お百姓たちが大規模な一揆を起こすかもしれません。今回、旦那と一緒に旅をして、わたしは博奕打ちの親分さんがどこにでもいる事を知って驚きました。お上が禁止してる博奕を渡世にしている親分たちがどこにでもいるなんて、噂には聞いていましたが、実際に会ってみて本当に驚いてます。しかも、その親分たちは旅人たちによって、色々な情報をつかみ、しっかりとした横のつながりを持っています。もし、博奕打ちたちが一斉に蜂起したら、世の中が引っ繰り返るかもしれません。でも、お上はその事を充分に知っています。だから、道案内というお上の手先を博奕打ちにさせて、博奕打ち同士が争うように仕向けてるんです」
「博奕打ちが一斉に蜂起するだと‥面白え事を考(かんげ)えるじゃねえか」
「できない事じゃありませんよ。親分たちは皆、縄張りを持ってます。そして、縄張り内の堅気の衆を大切にしています。戦国の世の武将たちと同じです。皆、縄張りを広げるために喧嘩して、大きな縄張りを持っていれば、大親分と呼ばれます。もし、旦那が上州一国を手に入れたら、上州中の堅気の衆の面倒を見る事でしょう」
「何を言ってやがる。そんな事ア無理だ」
「もしもの話です。もし、そうなったら、旦那は絶対に堅気の衆の面倒を見て、飢饉になっても餓死者が一人も出ないようにするでしょう」
「そりゃア、ちっと難しいってもんだぜ」
「難しくても、旦那ならやるはずです。子分たちも旦那の手足になって働くでしょう。そうなりゃ、高え年貢だけ取って何もしねえ領主なんか用はなくなります。侍たちをみんな追い出しゃア、今よりはずっとましな世の中になるはずです」
「馬鹿な事べえ言うな。侍相手に喧嘩なんかできるか‥しかしまあ、よくそんな途方もねえ事を考えるな。おめえの話を聞いてると何か、こう、すっきりするぜ」
忠次は日新の話を本気にはしなかったが、この際、各地の親分たちと近づきになっておくのも、今後のためにいいだろうと思った。
名古屋を後にした忠次たちは美濃へと向かった。岐阜の弥太郎のもとに立ち寄った時、ちょっとした出入り騒ぎがあった。忠次たちも助っ人として出向いたが、仲裁が入って、喧嘩にはならずに済んだ。
「すまなかったなア。おめえさんがいてくれたもんで、向こうも恐れをなして仲裁を頼んだに違えねえや」
弥太郎は酒を振る舞いながら、嬉しそうに言った。
「そんな事アねえでしょう。あっしら六人が助っ人したくれえで情勢が変わるとは思えません。親分さんの勢いに恐れをなしたんでしょう」
「いや、そうじゃねえんだ。上州無宿と聞いただけで、この辺りの連中は恐れるんだ。おめえさんにゃア悪いが、上州無宿は何をするか分かんねえって評判が立っていてなア、しかも、おめえさんは上州無宿でも名が売れてるもんやで、向こうが恐れんのも無理アねえ」
「上州無宿の評判はそんなに悪(わり)いんですか?」
「悪いってんじゃねえんだ。上州無宿はこの渡世じゃ一目(いちもく)置かれてるんだよ。合の川の政五郎(上総屋源七)親分とか、大前田の栄五郎親分とか、名の売れた大親分が多いからな。最近は上州生まれでねえ者まで、箔(はく)が付くってえんで上州無宿を名乗っていやがる。そんな連中が悪さをするもんで、上州無宿と聞きゃア恐れをなすようになっちまったのよ」
「偽者の上州無宿が出回ってるんですか?」
「濃州無宿よりゃア上州無宿の方が聞こえがいいもんでな。美濃の連中まで、上州無宿を名乗ってる始末だ」
忠次は岐阜に滞在して、弥太郎の言っていた事が本当だという事を知った。上州無宿と名乗る旅人がやたらと弥太郎のもとに草鞋を脱いだ。そして、忠次がいる事を知ると皆、頭を下げ、上州無宿でない事を告げて盃を欲しがった。忠次は急ぎの旅だから盃はやれないと断った。
忠次は賭場に顔を出すのは控えていたが、手配されていない子分たちが賭場に顔を出して、上州無宿だと名乗ると賭場の雰囲気が急に変わった。まるで、賭場荒らしが来たかのように警戒する。弥太郎は一目置かれていると言ったが、実際、上州無宿の評判は悪かった。
「これじゃア、本物の上州無宿まで、悪く思われますぜ」と秀吉は忠次に訴えた。
「何とかしなくちゃなんねえな。このまま、放っておいたら、大前田の叔父御や源七親分の評判まで、がた落ちになっちまう」
「旦那、上州無宿をかたる偽者は片っ端からたたっ斬りますか?」と安五郎は意気込んだ。
「馬鹿言うねえ。上州無宿を名乗った奴らがみんな殺されちまったら、上州無宿は情けねえ野郎ばかりだと思われるぜ」
「そうか、そいつはうまくねえ」
「世直しをやればいいんです」と日新が言った。
「また、おめえの世直しが出たな」
「上州無宿が貧しい人たちを助けてやれば、評判は上がります」
「弥太郎親分のシマでそんな勝手な真似はできねえよ」
「それじゃア、ここを出て貧しい村に行けばいいんです」
「人助けったってえなア、そう簡単にできるもんじゃねえ。飢饉も落ち着いて来たしな、見ず知らずの村でそんな事アできねえよ」
日新は上州人のためにも人助けをすべきだと主張したが、忠次は取り合わなかった。
そろそろ、岐阜を去ろうとした時、
「ここまで来たんだから、もう少し足を伸ばして、四国の金毘羅(こんぴら)さんをお参りして行けばいい」と弥太郎は言った。
金毘羅さんの門前の琴平(ことひら)は歓楽街として有名で、博奕も盛んだという。旅に出た親分たちは必ず、金毘羅参りをする。博奕打ちの間では、金毘羅さんは博奕の神様と言われ、一家を張ってる貸元なら、一度はお参りするべきだと勧められた。弥太郎が子分を代参として金毘羅さんに送るというので、忠次たちも一緒に行く事にした。
「金毘羅さんの近くに加賀屋長次郎ってえ変わった野郎がいる。まだ若えが旅人たちの面倒見がいいって評判だア。そいつがなかなかの学者でな、日新と気が合うかもしれねえ」
弥太郎がそう言うと、金毘羅参りよりも人助けの方が大事だとふくれていた日新の機嫌も直り、一行は讃岐(さぬき)の国(香川県)へと向かって行った。
なんで、こそこそ帰らなけりゃならねんだ
忠次一行が上州に帰って来たのは二年後の天保十一年(一八四〇)の六月だった。
金毘羅参りをした後、美濃に戻った忠次は上州無宿の評判が悪い事が気になり、上州無宿を名乗って忠次のもとに集まって来る者たちを子分にした。子分たちに堅気の衆に悪さをするなと命じ、評判の悪い上州無宿がいると聞けば、子分たちを引き連れて、そこに出掛けて行って懲らしめた。勿論、評判の悪い親分たちも退治した。
上州無宿の国次郎と名乗って、美濃の国内を渡り歩いているうちに子分も増え、縄張りもできた。中山道大湫(おおくて)宿(瑞浪市)の六兵衛という落ち目の親分を助けた事から気に入られ、跡目を継ぐ事になった。跡目を継ぐといっても大した縄張りではなく、子分たちを養う事もできなかった。忠次は大湫宿を拠点に縄張りを広げると共に、堅気の衆たちを助けた。日新が円蔵のように軍師の役目を立派にやり、無茶をしようとする忠次を押さえたため、無益な人殺しもせず、捕り方役人たちと面倒を起こす事もなかった。
一年余りを美濃で過ごした忠次は、縄張りを新しく子分になった者たちに任せて、故郷へと向かった。
忠次が田部井村に帰り、留守を守っていた子分やお町と再会を喜んでいると円蔵が百々村から慌ててやって来た。
「旦那、お帰んなさい」
円蔵は息を切らせながら言って、笑った。
「軍師、そんなに慌てて来なくもよお、俺は消えやしねえぜ」
「いや、そうじゃねえんで。まだ、早過ぎるんでさア」
「なに、早過ぎる?帰(けえ)って来たんが早過ぎるってえのか?」
「そうなんで」と円蔵は手拭いを出して顔の汗を拭いた。
「二年余りも旅して来たんだぜ」
「関所破りが悪かったんでござんすよ。お上を本気で怒らせちまった。旦那が帰って来たってえ噂はもう田部井と国定には広まっちまった。明日には岩鼻にも届くに違えねえ。そうなったら、代官どもは黙っちゃいねえ。八州の旦那を集めて、召し捕りにやって来るぜ」
「くそっ!」
「とにかく、ここにいちゃア危ねえ」
「また、旅に出ろってえのかい?」
「いや。まず、村の衆に旅に出たってえ噂を流して、どこかに隠れる事だ」
「よお、俺んちはどうでえ?」と千代松が円蔵を見た。
「そうだな、五目牛(ごめうし)辺りなら大丈夫(でえじょぶ)かもしれねえ」
忠次は再び、旅支度に身を固め、お町を連れて五目牛村に移った。
千代松の家は大きく、忠次とお町が隠れるには充分だった。千代松は前のかみさんと別れ、新しいかみさんを貰っていた。子供もいたが、かみさんと一緒に出て行ったという。
新しいかみさんはお徳といい、玉村宿の小料理屋で働いていた。主人と喧嘩して店を追い出され、知り合いの世話で千代松の家の女中になった。曲がった事が大嫌いの気の強い女だが、優しい面もあり、一緒に暮らしているうちに千代松は惚れてしまった。やがて、二人の関係がかみさんにばれ、千代松は困ったが、お徳にかみさんを追い出さなければ、あたしが出て行くと言われて、かみさんと子供を追い出したという。上品なお町とは違って、まさしく、姐さんと呼ぶのにふさわしい鉄火肌な女だと忠次は思った。
千代松の家で、忠次は円蔵から留守にしていた二年間の事を聞いた。
代貸が一遍に三人もいなくなってしまったので、当初は大変だったが、中盆を代貸に昇格して何とか乗り越えた。二年間の間に子分もかなり増え、縄張りは安泰だという。
「茂吉の野郎と組んで、文蔵を捕まえた木崎の左三郎の奴は放っておいたのかい?」
「奴の事は大丈夫だ。殺す程の事はねえ。奴は茂吉が殺されてから、自分も殺されるんじゃねえかと恐れていやがる。頼みもしねえのに、木崎宿に八州の旦那がやって来る度に、風(情報)を送って来るようになったぜ」
「へえ、奴がかい」
「八州様の居場所を教えてくれるだけじゃねえ。色んな情報を流してくれる。八州様が旦那の事をまだ、諦めちゃアいねえってえのも、奴が知らせてくれたんだ。奴はてめえの命を張ってまで、旦那を捕まえるような度胸はねえ。殺すのはいつでもできるからな、今の所は利用した方がいいだんべえ」
「成程な‥ところで、道案内になった助次の方はどうなんでえ?」
「奴はもう落ち目だ。栗ケ浜の半兵衛親分の子分たちに伊勢崎から追い出されてからというもの、奴の縄張りは伊与久と木島だけだ。代貸だった周吉も殺され、子分たちも減っちまって昔の勢いはねえ」
「奴が俺を売るってえ事はねえだんべえな?」
「そんな度胸はねえよ。奴の回りの茂呂(もろ)には孫蔵、保泉(ほずみ)には久次郎、武士(たけし)には民五郎、下植木には浅次郎、神谷には喜代松と睨みを利かしている。下手な真似をしたら潰されるのは目に見えてる。奴ももう年だ。無茶な事はするめえ。最近、助次郎から助右衛門てえ名を変えたらしいぜ」
「助右衛門か‥そういやア、奴はうちの御隠居より年上だったな。御隠居の具合はどうなんでえ?」
「達者なもんだ。去年、お嬢さんを堅気んとこに嫁に出してな、お嬢さんの花嫁姿を見ながら御隠居さんは泣いてたぜ。こんなにも長生きできるとは思ってもいなかったってな」
「そうか、お糸ちゃんが嫁に行ったのか。そいつはよかったなア」
「旦那は三室の勘助を知ってましたね?」と円蔵は不意に話題を変えた。
「ああ、知ってるが‥勘助がどうかしたんかい?」
「かなり荒れてるらしいぜ」
「どういうこったい?」
「三室は旗本の久永様の御領地で、勘助は久永様の代官所の役人として真面目に働いていたようだ。この間の飢饉の時は村人のために年貢を軽くしてもらおうと江戸まで行ったんだが取り合っちゃアもらえなかったらしい」
「勘助が村人のためにか‥」
「らしいな。しかも、飢饉の最中、勘助の子供が三人も続けて疫病(えきびょう)で亡くなっちまったそうだ。村人のために働いたのに村人からは口先だけで何もできねえと責められ、カッと来たんだんべえなア。奴は長脇差を振り回して大暴れしたそうだ。幸い、怪我人もでなかったんで表沙汰にはなんなかったが、女房子供は出て行ってしまい、勘助は無宿者にされちまった。隣りの小斉(おざい)村に妾がいたらしくてな、奴はそこに移った。毎日、酒浸りで八寸村の七兵衛親分の賭場に出入りし始めたらしい。たまたま、小斉村の代官が勘助の幼馴染みだったらしくてな、その代官のお陰で、八州様の道案内になりやがった」
「勘助が道案内になったんか?」
「ああ。十手を振りかざして、あくでえ事をしてるらしいぜ。勘助は板割の浅の伯父貴だからな、浅んとこに行っちゃア小銭をせびってるらしい」
「兄貴も情けねえ野郎になりやがった」
「奴は世の中を恨んでる。何をするか分かんねえ。旦那が帰って来た事を知りゃア、八州様にたれこむ可能性は充分にあるぜ。気を付けた方がいい」
「あまり目障りなようなら、消しちまえ」
「まあ、今んとこは様子を見てるぜ。あんな野郎を殺して、また、うちの子分が晒し首にでもされたらかなわねえ」
「まったくだ。これ以上、子分たちを晒し首にゃアさせねえぜ」
「言うのを忘れてたが、清五郎が足を洗いましたぜ」
「えっ、清五が堅気になったんか?」
「旦那が関所破りをやったと聞いて、もう付いて行けねえと言ってな。旦那が帰って来るまで待ってくれって引き留めたんだが駄目だった。文蔵はいなくなっちまったが、清五郎は千代松、富五郎と国定一家の四天王だ。そんな代貸に簡単に足を洗われたら、子分たちに示しが付かなくなっちまう。代貸たちを集めて、何とか考え直してくれって説得したんだが、清五郎はみんなの前で指を詰めて、去って行っちまった」
「奴が指を詰めたんか‥今、何してるんでえ?」
「織子(おりこ)たちを使って元機屋(もとばたや)をやってる」
「そうかい。堅気になっちまったのかい」
忠次は子分たちの家に隠れながら、二十九日の文蔵の三回忌に三ツ木村に墓石を立てると、また旅に出た。日新以外の従者を変え、下田中村の沢五郎、上田(かみだ)村の吉三郎、田部井村の喜助、そして、野州(やしゅう)の角太郎を連れて行く事にした。
角太郎だけは忠次が留守の間に三下になった奴で、つい最近、忠次の代わりに円蔵から盃を貰って子分になっていた。野州(栃木県)の大久保村から平塚の念流の道場に修行に来ていたが、渡世人の世界に憧れ、忠次の噂を聞いて三下になったのだという。若いが腕が立つというので、円蔵が連れて行けと勧めた。
忠次一行は旅の商人姿となり越後方面へと向かって行った。
それから一年半が過ぎた。
忠次たちは越後から東北方面を旅して回り、信州野沢の湯で旅の疲れを取っていた。
忠次はお滝に文蔵の事を告げなければならないと重い足取りでやって来たが、お滝はすでに、文蔵が晒し首になった事を知っていた。庭の片隅に文蔵のためにお地蔵さんを立てて、毎日、冥福(めいふく)を祈っていた。
忠次は喜助を上州に戻して、円蔵と連絡を取り、来年の正月は故郷で過ごせる事を願った。円蔵からの返事は、国定村、田部井村、百々村に近づかず、村人たちに見られないように、こっそり帰って来れば大丈夫だという。
「こそこそ帰(けえ)るのかよお」
忠次は不満そうに言った。
「村の者たちだって、俺を売るような奴はいねえはずだぜ」
「軍師にそう言ったんですけど、村の者たちは旦那が帰って来ると大喜びして、あっという間に帰って来た事が知れ渡ってしまうから、駄目だって」
「まだ、八州の役人どもは俺を捕まえる気でいやがるのか?」
「旦那が有名になり過ぎちまったから、目の敵(かたき)にしてるって軍師は言ってました」
「へっ、有名になるってえのも大変(てえへん)なこった」
「これだけ有名になると普通は八州様から十手を持たないかって声が掛かるそうです。でも、関所を破ってしまったため、それができねえ。だから、目の敵にして、旦那をどうしても捕まえようとしてるらしいです」
「ふん。誰が二足の草鞋なんか履くか。そんな筋の合わねえ事ア、俺は殺されてもやらねえぜ」
忠次は円蔵の言葉通り、こっそりと上州に帰り、五目牛村の千代松の家に隠れた。お町を田部井村から呼び寄せ、正月を久し振りに故郷でのんびり迎えようとした。
忠次の帰りを待っていた大久保一角という浪人者がいた。野州の大久保村から伜を捜しに出て来たという。伜というのは忠次と旅をしていた角太郎だった。
一角は大久保村で剣術道場をやっていた。伜に跡を継いでもらうため、平塚の道場に送ったが、知らないうちに道場をやめて博奕打ちになったと聞き、慌てて、連れ戻しに来たという。
忠次は角太郎を呼んで、親父と一緒に帰れと言ったが、角太郎はうなづかなかった。
「俺が言うのは何だが、無理やり連れて帰ったとしても、また、逃げ出しちまうんじゃねえですかい?」
「多分な」と一角もうなづいた。
「わしもな、こんな格好をしてるが本物の侍じゃねえんだ。しがねえ山伏なんじゃよ。親父の奴はわしに跡を継がせたかったらしいが、わしはうちを飛び出して剣術を習い、道場を開いた。親父に逆らったわしの伜が、わしに逆らうのも無理はねえ。伜が博奕打ちになったと聞いて、わしはすっ飛んで来たんだが、おめえさんの一家の厄介になってるうちに、だんだんと考えが変わって来たようだ。おめえさんの子分たちはみんな、よくできてる。おめえさんに会ってみて、よく分かった。伜の事はおめえさんに預ける事に決めたよ」
「お父、すまねえ」
角太郎は父親に頭を下げた。
「この渡世に入ったからには男を磨くんだぜ。中途半端で逃げ戻って来ても、うちには入れてやらねえぞ」
「はい‥」
伜の事を諦めた一角だったが、故郷に帰ろうとはしなかった。忠次を待っている間に博奕の面白さを知ってしまい、一緒に連れて来た右京という山伏と一緒に賭場を巡って遊んでいた。
今年最後の境の暮市も無事に済み、村々を巡っていた八州様も江戸に帰って行った。円蔵が各地の道案内たちに御歳暮を配り、忠次は田部井村の我が家に帰った。
何事もなく、新年を迎えられるかに思えたが、年の瀬も押し迫った頃、事件が起きた。
「大変(てえへん)だ。民五郎の兄貴が殺されちまった」と飛び込んで来たのは武士村の秀五郎だった。
「民が殺されただと?」
忠次には信じられなかった。今時、忠次に逆らう者がいるとは考えられなかった。
「一体(いってえ)、誰がやりやがったんでえ?」
「玉村の主馬の野郎です」
「何だと?あの野郎、まだ、この辺りにいやがったんか?」
「へい、どこかに隠れてたらしくて‥」
山王道の民五郎は柴宿の賭場のカスリを取りに行った帰り、馴染みの居酒屋で酒を飲んでいた。そこに子供がやって来て、『おときさんが渡し場の所で待っている』という言伝を伝えた。
おときというのは柴宿の豆腐屋の娘で、民五郎に惚れていた。民五郎もおときの事が嫌いではなかったが、相手は堅気の娘なので言い寄られて来ても、まだ手を付けてはいなかった。その晩、おときに呼ばれて、酒に酔っていた事もあり、思い切って、おときを嫁に貰おうと考えながら、連れていた子分を残して、一人で渡し場に向かった。しかし、渡し場に行っても、おときの姿はなく、首をかしげている所を後ろから不意に斬られた。
「くそっ!」と長脇差に手を掛けて振り返ると、そこにいたのは杖を突いた主馬とその子分たちだった。
民五郎は怒りに燃え、主馬を目がけて得意の居合抜きをしたが、背中の傷が以外に深く、思うように長脇差を抜く事ができなかった。簡単にかわされ、主馬の三人の子分になます斬りにされた。さらに首を斬られて胴体もバラバラにされ、胴体は利根川に捨てられた。生首を持った主馬は連取(つなとり)村の質屋、源兵衛の店に押し入り、十五両を脅し取って行ったという。
忠次は秀五郎に子分たちを集めろと命じ、喧嘩支度をして、又八と次郎を連れて百々村に向かった。円蔵は民五郎の仕返しは子分たちに任せて、忠次が行くのはまずいと止めたが、忠次は聞かなかった。
「主馬の野郎は俺が留守だと思って、民を殺しやがったんだ。そんな奴を放っておいたら、縄張りを守っちゃいられねえ」
「それは分かる。主馬はどうしても殺らなきゃなんねえ。だが、今、玉村に乗り込んで行っても、奴は隠れちまってるに決まってる。奴を捜し回ってるうちに捕まっちまうぜ。まず、奴の居場所を突き止める事が先決だ」
忠次は円蔵の意見に従い、ひとまず、田部井村に帰った。年内に片を付けようと思っていたが、年の暮れは主馬の行方はまったく分からなかった。
年が明けると田部井村には代貸たちが全員、忠次に挨拶するために集まって来た。
彼らは忠次が一家を張った十二年前の子分や三下奴たちで、当時、十六、七だった三下奴も今では代貸となり、何人もの子分を持つ親分になっていた。久し振りに勢揃いした代貸たちを眺め、忠次はニコニコしながら酒を飲んでいた。しかし、その中に文蔵、才市、友五郎、民五郎の四人がいないのは悔しかった。
三室の勘助がやって来たのは四日だった。
前歯が抜け、頬に醜い傷痕があり、人相がすっかり変わっていた。薄汚れた着物を着て、懐から十手を覗かせている。
「よお、景気いいようじゃねえか」
勘助は家の中を覗きながら、縁側に腰を下ろした。
「何しに来たんでえ?」と又八が怒鳴った。
「新年の挨拶に決まっていべえ。親分さんは年中、旅に出てるからよお、八州様のいねえ正月くれえしか顔を拝めねえ。久し振りだぜ」
「大変だったらしいな」と忠次は穏やかに言った。
「何だと?何が大変だったってえんだ?」
勘助は腹を立てて、忠次を睨んだ。
「色々さ」
「ふん、偉そうな口を利くねえ。てめえの命だって、そう長くはねえんだぜ。他人の事より、てめえの事を心配(しんぺえ)する事だ。まあ、この俺に任せておきゃア悪(わり)いようにはしねえがよ」
忠次は勘助に小判を五両、包んでやった。
「さすが、物分かりのいい親分さんだぜ。困った事があったら、何でも相談に来ねえ」
勘助は鼻歌を歌いながら機嫌よく帰って行った。
「旦那、あんなにやったら癖になりますぜ」
「なあに、俺たちがこの渡世に足を踏み入れたのも、勘助がいたからだ。あの頃の勘助は粋(いき)だったぜ。みんなして兄貴の真似をしたもんだ‥あんなに変わり果てちまった勘助にゃア会いたくなかった」
その翌日、ようやく、主馬が姿を現した。忠次が逃げ回っているので子分たちも意気地がないと安心したのか、玉村宿の女郎屋に入って行ったという。
忠次は子分の中から二十人の者を選んで、玉村に送り込み、忠次自身は四人の子分と一緒に柴宿の居酒屋で子分たちが主馬を連れて来るのを待っていた。
明け方一番の渡し舟で主馬は連れて来られ、啓蔵の家の土蔵に閉じ込められた。その夜、雪の散らつく中、忠次立ち会いのもと民五郎が殺された場所で、主馬はなます斬りにされ、首を斬られて利根川に捨てられた。
主馬の死体は発見されず、主馬の子分たちは逃げてしまい、主馬がいなくなったと騒ぐ者もいなかった。お陰で、忠次の凶状が増える事はなかった。しかし、関東取締出役が忠次をやっきになって捕まえようとしているのは事実だった。
老中水野忠邦の天保の改革が始まり、贅沢とみなされる物はすべて禁止された。無宿者や博奕打ちに対する取締りも強化され、臨時の関東取締出役が二十六名も加えられた。極悪人の忠次を捕まえれば出世は確実だと、皆、血眼(ちまなこ)になって忠次を捜し回っている。飯盛女のいる木崎宿と玉村宿は居心地がいいとみえて、誰かが必ず滞在していた。
七草が過ぎ、八州様が玉村に着いたとの知らせを受けると忠次はしばらく、赤城山に隠れる事にした。初めの頃、山の中に隠れているくらいなら、旅に出た方がましだと考えていたが、暇つぶしに山の中をうろつき回っていた時、ふと、数年前、大前田の栄五郎が言った言葉がよみがえって来た。
忠次は中腹の眺めのいい場所から下界を見下ろし、一人で大笑いすると、さっそく、円蔵を山に呼び寄せた。
「何ですって?お山開きん時に、お山のてっぺんに各国の親分衆を集めて盛大な賭場を開くんですかい?」
「そうだ。関八州は勿論、この間の旅で世話になった親分衆をみんな呼んで、盛大な賭場を開帳するんだ」
「お山のてっぺんじゃア、八州様も来ねえだろうが、客がそんなにも集まるんかのう」
「集まらなきゃア集めりゃいい。何(なん)にもしねえで、山ん中に隠れてたんじゃ面白くもねえ。山ん中にいても、忠次は親分衆を集められるってえとこを八州の役人どもに見せつけてやりてえのよ」
「そうだなア。ここらで派手な祭りをやらねえ事にゃア、子分たちも腐っちまうな。旦那のために絶対に騒ぎは起こすなって強く言ってるからな」
「お山のてっぺんに賭場を開くとなりゃア準備は大変だ。山開きの前に山に登らなくちゃなんねえ。まだ、雪があるかもしれねえしな。けどよお、やるだけの値打ちはあるぜ」
「よし、やってみようじゃねえか」
うまい具合に栄五郎が帰っていた。
忠次は大胡まで行って、栄五郎に相談した。栄五郎は忠次の顔を見ると驚いたが、喜んで話に乗って来た。
「おめえは山ん中に隠れてろよ」と言うと円蔵と打ち合わせをするため、さっさと百々村へと出掛けて行った。
山開きの賭博の準備で子分たちが忙しく駈け回っている最中の三月十一日、御隠居の紋次が突然、倒れ、そのまま亡くなってしまった。
百々村の経蔵寺で盛大な葬式を行なったが、八州様が道案内を引き連れて、寺の回りをうろうろしていたため、忠次は参加する事ができなかった。忠次は赤城山中から、紋次の冥福を祈った。
大前田栄五郎、上総屋源七、福田屋栄次郎と旅で名を売って来た三人の大親分の協力もあって、山開きの前日には各国から、子分を引き連れた親分衆がぞろぞろと赤城山麓に集まって来た。これだけの親分衆が一ケ所に集まる事は二度とないだろうと、噂を聞いた旅人や博奕好きの堅気の衆まで、続々と赤城山目指して集まって来た。
当然、八州様も事前に情報を得ていたがどうする事もできなかった。博奕をするために集まって来た事は知っていても、取り締まる相手が多すぎた。しかも、場所は山の頂上、一緒に山に登って行って、現場を押さえる事は可能だが、その後、生きて帰れるという保証はまったくなかった。
忠次は赤城山の頂上で世話になった親分たちの賭場を巡り、得意になっていた。自分だけの力ではないにしろ、子供の頃から慣れ親しんでいる赤城山に名の売れた親分たちが集まってくれた事に感激していた。渡世は違うが、テキ屋の親分たちも参加してくれ、賭場の回りには露店が並び、登山客も例年の倍以上に上った。
山開きの賭博は大成功だった。しかし、目の前で忠次の力を見せつけられた関東取締出役の吉田左五郎らは絶対に忠次を捕まえて、晒し首にしてやると玉村の女郎屋で赤城山を睨みながら、やけ酒を食らっていた。
しばらく、赤城山ともおさらばだ
山開きの大博奕の後も、忠次は赤城山中を移動しながら隠れ、夜になるとお町やお鶴のもとに通っていた。また、縄張り内の村々に隠れ家を作って逃げ回っていた。
五月八日、伊与久(いよく)村の源太郎が木島村の助次郎に殺された。
源太郎は今年の正月、忠次が盃をやった子分の中の一人だった。その後、保泉村の久次郎に預けたため、どんな奴だったか忠次には思い出せなかった。
「何で、殺されたんでえ?」
忠次は赤城山中の岩屋の中で、加部安から贈られた洋式の短銃の手入れをしながら、久次郎の話を聞いていた。
「どうも、女がからんでるようです」と久次郎は首をひねった。
「女?源太が助次の妾にでも手を出したんか?」
「いえ、そうじゃなくて、源太の幼馴染みに伊与久村の名主んとこの姉妹がいるんでさア。伊与久小町って呼ばれる程の器量良しの姉妹でして、姉ちゃんの方はもう嫁に行っちまったんだけど、妹の方がちょっと変わっていて、旦那に興味を持ってるようなんで」
「俺に興味を持ってる?」
「へい、そのようで」
「何を言ってやがんでえ」
「いや、本当なんすよ。旦那の噂を色々と聞いて、憧れてるというか」
「その娘ってえのはいくつなんでえ?」
「十八とか聞きましたが」
「十八の娘っ子が博奕打ちに興味を持つたア面白え世の中になったもんだ」
忠次は短銃を片付けると、煙管に煙草を詰め始めた。
「博奕打ちというよりは、親父に反発してるようです。名主のくせに村人のために何もしねえ親父に比べて、村人たちのために色んな事をしてる旦那の方が偉えと思ってるようですね」
「俺が偉えだと?偉え奴がお上に追われて、こんなとこに隠れてるか」
「いえ、それが、偉えお人なのにお上に捕まって牢屋に入れられてる人がいるらしいんです。高野長英(ちょうえい)っていうお医者さんでしてね、境の随憲(ずいけん)先生んとこによく来てたらしいんです。その長英先生がその娘のうちにも来たらしくて、色々と影響されたようです。とにかく、頭のいい娘らしいですよ」
「ほお」と言いながら忠次はうまそうに煙を吐いた。
「その長英先生ってえのは、俺も噂を聞いてるぜ。なんでも『夢物語』とかいうのを書いて、それがお上を批判したとか言われて捕まっちまったんだんべえ。日新の奴が偉え先生だって言ってたっけ‥それで、源太とその娘がどうかしたんか?」
「へい、源太の話によりゃア、ただ、時々、会って旦那の話をしてただけだと。多分、親父が助次に頼んだんじゃねえんですか、源太を娘に近づけるなって」
「それで、助次の奴は源太を殺したんか?」
「殺す気はなかったんでしょう。取っ捕まえて、江戸送りにすりゃア当分は帰って来られねえと思ったんでしょうが、誤って殺しちまったってえとこでしょう」
「助次はどうなったんでえ?」
「一応、押し込めという事に。娘の親父が裏で動いたんでしょう」
「子分を殺されて黙ってるわけにゃアいかねえな」
忠次は久次郎に助次郎を殺せと命じた。ところが、忠次を恐れて、助次郎はどこかに逃げてしまった。助次郎のいなくなった木島村と伊与久村は忠次の縄張りとなった。
六月の世良田の祇園祭りも五年振りに忠次が采配した。
表には出なかったが、忠次が上州にいるというだけで、例年よりは活気があった。忠次が祭りの最中に世良田に現れるという噂が広まり、忠次を捕まえるため、八州廻りの役人が木崎宿に集まって世良田周辺を固めた。しかし、忠次は八州様の裏をかいて、祭りの屋台(山車)の上に派手な歌舞伎装束で登場して皆を喜ばせ、何台も出ている屋台に隠れて逃げ去った。
七月の末には、赤城山の山開きの時、気が合った笹川の繁蔵の花会に参加するため下総に旅立った。花会には赤城山に負けない程の親分衆が集まった。忠次は花会が終わった後も、繁蔵のもとでのんびり過ごして、八月半ばに帰って来た。丁度、玉村の八幡宮の祭りの二日前で、忠次が玉村に現れるという噂が広まっていた。玉村宿には八州様が勢揃いして目を光らせているという。
八幡宮の祭りは佐重郎が仕切っていた。恩のある佐重郎の縄張りを犯すつもりは忠次にはなく、佐重郎から頼まれれば出て行くが、そうでない限りは余計な口出しはしなかった。今回も祭りに登場して、八州様を煙に巻きたかったが、八州様の道案内である佐重郎に迷惑を掛けるわけには行かない。忠次は人々の期待を裏切り、玉村には現れなかった。拍子抜けした八州様たちは祭りが終わると忠次を捜すために散って行った。
この頃になると忠次の名をかたる偽者があちこちに現れた。赤城山に隠れているのに、忠次が信州に現れただの、甲州で暴れ回っているだの噂が広まり、八州様は神出鬼没の忠次にてんてこ舞いだった。忠次としてはありがたくもあり、憎らしくもあった。人助けをする偽者なら大歓迎だが、中には悪さをする者も多い。そんな奴は許せなかったが、どうする事もできなかった。
八州様が上州から消えて一安心した忠次は田部井村の又八の家に馴染みの旦那衆を集めて日待ちの博奕を開いた。観音のお紺、羽衣のお藤、お辰の後を継いだ吉祥天のお絹の三人の女壷振りを集めて、盛大に行なった。
三人が揃うのは珍しいと、日が暮れると続々と客が集まって来た。境からわざわざやって来た旦那衆もいるし、助八に連れられて、平塚からやって来た旦那衆もいた。手のあいている代貸たちも集まり、子分たちには厳重に警戒させた。
お辰は文蔵が亡くなった後、壷振りから身を引き、田部井村に移って後継者を育てていた。その日は旦那衆たちの世話をしていたが、是非とも、壷を振ってくれと頼まれ、久し振りに披露した。引退したとはいえ、その手捌(さば)きは見事で、旦那衆から喝采(かっさい)を浴びた。忠次も御機嫌で度々、賭場に顔を出しては挨拶して廻った。
外はまだ暗かったが、鳥が鳴き始め、夜明け間近を知らせている時だった。名主の宇右衛門が血相を変えて飛び込んで来た。
「手入れだ、早く逃げろ!」と宇右衛門は叫んだ。
客たちは慌てたが、忠次がすぐに出て来て、客たちを落ち着かせた。
「廻りは子分たちがしっかりと固めてる。子分たちからは何も言って来ねえぜ」
「いや、村の廻りはすでに囲まれてる。一斉に攻めて来るつもりだ。早く、逃げなけりゃ全滅するぞ」
宇右衛門は木崎宿の左三郎から知らせを受けて飛び出して来たと言う。忠次は宇右衛門の言葉を信じ、客たちを宇右衛門と共に逃がせた。
「旦那も一緒に逃げてくだせえ」と又八が言った。
「後は俺たちに任せろい」
富五郎が長脇差を腰に差してニヤリと笑った。
「頼んだぜ」と忠次は女壷振りたちを連れて逃げようとしたが遅かった。
見張りをしていた子分たちが逃げ帰って来て、
「大変だ。完全に囲まれちまった」と息を切らせながら言った。
「おい、敵は何人なんでえ?」と忠次は聞いた。
「分かりません。分かんねえけど、百人、いや、二百はいそうです。御用提灯が波のように迫って来やがる」
「二百人だと‥おめえ、寝ぼけてんじゃねえのか?」
富五郎は怒鳴ったが、ほかの者たちも二百人はいるだろうと言う。
忠次は二階に行き、廻りを見回した。確かに百以上もの提灯の波が近づいて来るのが見えた。
「くそっ!はかりやがった。こうなったら、敵を突破して逃げるしかねえ。人数はいるが寄せ集めだ。逃げられねえ事はねえぜ」
忠次は長脇差を抜くと、富五郎、甲斐新、久次郎と共に女たちを守りながら、御用提灯に向かって行った。
敵は簡単に道をあけるだろうと思ったが、そうは行かなかった。
鉄砲の音が鳴り響き、先頭を走っていた富五郎が飛ぶように倒れた。
鉄砲に勇気付けられて、様々な武器を手にした捕り方たちは忠次たちに向かって来た。
忠次は長脇差を振り回して戦い、何とか、突破できたがみんなとはぐれてしまった。必死に忠次の後をついて来たのは、匕首(あいくち)で戦って来た観音のお紺だけだった。
「怪我はなかったかい?」
忠次は長脇差の血を拭いながら、お紺に聞いた。
お紺はうなづいた。
「畜生め!富の奴がやられちまった。あれだけの人数を集めたってえ事は、前もって、俺があそこにいる事を知ってたってえ事だぜ。一体(いってえ)、誰がたれこみやがったんだ」
「あたしには‥」
お紺は乱れた着物を直しながら、忠次を見て、首を振った。
「まあ、おめえに聞いてもしょうがねえか。今のおめえは久次の事で頭が一杯(いっぺえ)だんべえからな」
「やですよ、旦那」
「なあに、久次の奴は大丈夫(でえじょぶ)だ。今頃、山でおめえの事を待ってるだんべえ。それより、軍師と相談しなくちゃなんねえ」
忠次が赤城山の隠れ家に着いた頃には夜が明けていた。
清蔵と喜代松がすでに待っていて、忠次を見ると飛んで来た。
「旦那、無事でしたか。心配しましたぜ」
「俺は大丈夫だ。せっかく逃げて来たのに済まねえが、軍師を呼んで来てくんねえか」
「分かりやした」と清蔵は山を下りて行った。
無事に逃げ切った者たちが、続々、赤城山に集まって来た。その中に、富五郎、又八、お辰、秀吉、鹿安の顔がなかった。
夜になって、清蔵が円蔵を連れて来た。円蔵が来たお陰で、ようやく状況がつかめた。
「富だけじゃなく、又八の奴も殺されちまったのかい。畜生め、許せねえ‥」
忠次は焚き火を睨んでいた。
「それとな、日新の奴もやられた」と円蔵がぼそっと言った。
「なに?日新が殺された‥」
忠次は顔を上げると円蔵を見た。
「体中、傷だらけだったらしい」
「逃げ足の速えあの野郎が何で殺されるんでえ?」
「奴は長脇差を振り回しながら、敵の中に突っ込んで行きました」と次郎が低い声で言った。
「奴がか‥」
「もしかしたら、奴は死に場所を捜してたんかもしれねえ」
円蔵が闇の中を見つめながら言った。
「生田先生んとこに行きたかったんだんべえ」
「あの馬鹿が‥つまんねえとこで死にやがって‥」
捕まったのはお辰、曲沢の竜吉、鹿の安次郎、磯の豊吉、上田(かみだ)の吉三郎、今井の牧太、新川(にっかわ)の秀吉、平塚の助八の八人だった。まさか、そんなにも捕まったとは、忠次には信じられなかった。殺された富五郎と又八、捕まった秀吉と助八は代貸だった。忠次が自由に動けない今、四人の代貸を失うのは非常な痛手だった。
捕まった八人は四人づつ伊勢崎と木崎に送られ、八州役人の取り調べを受けているという。
「誰がたれこみやがったんでえ?」
「探ってみたが、そいつがよく分からねえんだ。道案内の木崎の左三郎と馬太郎、太田の苫吉(とまきち)、伊勢崎の久兵衛、三室の勘助が八州様と一緒に捕り物に参加している。そん中の誰かに違えねえと調べてみたんだが、どうもはっきりと分からねえ」
「玉村の親分はいなかったんだな?」
「いねえ。木崎辺りが中心になってると睨んだんだが、どうも違うらしい。捕り物のあった日、左三郎は武蔵屋に上がり込んで、昼間っから騒いでたようだ。その夜に大捕物があるってえのを知ってたとは思えねえ」
「左三郎の奴ア名主さんに知らせてくれたんだ。奴が張本人じゃあるめえ。馬太郎の野郎じゃねえんか?」
「いや、馬太郎も違うようだ。奴も夜になってから慌てて人足を集めていやがった」
「すると、太田の苫吉か?」
「奴も違う。奴も慌てて人足をかき集めて駈けつけて来た口だ」
「それじゃア、一体、誰なんでえ‥もしかしたら、助次の奴じゃねえのか。俺から逃げ回ってる振りして、俺を捕まえて手柄をあげる気でいるんじゃねえのか?」
「助次はあの後、見かけねえ。国越えしてるようだぜ」
「伊勢崎の久兵衛じゃねえぜ。久兵衛は栗ケ浜の親分の身内だ。仕方なく、捕り物に参加しただけだ。久兵衛んとこに突撃した者たちは、道を開けてくれた久兵衛のお陰で助かってんだ」
「それは知ってる」
「そうなりゃ、残るは勘助だけじゃねえか。あの野郎がそんな大それた事をするとは思えねえ」
「あっしも最初はそう思って、勘助を除外してたんだが、勘助んとこに佐与松の野郎が出入りしてると聞いてな、どうも気になるんだ」
「佐与松だと?奴がまた舞い戻って来やがったんか?」
佐与松は忠次の代貸として田部井村を任されていたが、飢饉の最中にイカサマをやって堅気の衆から銭を巻き上げたため、忠次は縁を切って追放した。その佐与松が六年振りに戻って来たという。
「奴なら田部井村の旦那衆をよく知ってる。馴染みの旦那んとこに顔を出して、又八の賭場の事を知ったんかも知れねえ」
「佐与松と勘助が組んで、八州役人にたれこみやがったのか‥そういやア、あの晩、浅の野郎も顔を見せなかったぜ」
「まさか、浅は関係ねえだんべえ。浅が裏切るわけがねえ」
忠次はすぐに、見張りをしている板割の浅次郎を呼んだ。
「おい、おめえ、手入れのあった晩、何してたんでえ?」
「あん時はちょっと、やぼ用で」
「やぼ用たア何でえ?」
「へい、女房と大喧嘩しちまって、その仲裁に入ったんが、たまたま草鞋を脱いでた甲州津向の文吉親分の子分でして、奴を連れて又八兄貴んとこに行こうとしたんですが、野郎は博奕よりも女好きで、玉村に連れて行ってくれって言うもんで」
「玉村で遊んでたんか?」
「へい、常盤(ときわ)屋に上がって騒いでたんです。そしたら翌朝、旦那が捕まったてえ噂を聞いて、野郎の事も放ったらかしに飛んで来たってわけで」
「おめえ、勘助んとこに佐与松が出入りしてたのを知ってたか?」
「いえ、知りませんけど」
「そうか‥もう、いいぞ」
浅次郎は首を傾げながら、去って行った。
「嘘を付いちゃアいねえようだぜ」と忠次は円蔵に言った。
「もう少し、調べた方がよさそうだな」
「百々村の方は大丈夫なのかい?」
「今の所は大丈夫だ。捕まえた奴らを江戸に送るまでは、八州様も余計な事はするめえ」
「助ける事はできねえのか?」
「無理だ。百人以上の者たちが牢屋の回りを固めてる」
「唐丸籠(とうまるかご)を襲うしかねえのか?」
「一応、手は打ってみるが、それも難しいかもしれねえ。文蔵が捕まった頃と違って、八州の役人も大勢いる。当然、警固は厳しくなる。五、六人で襲っても助けられねえかもしれねえ」
「五、六人で駄目なら、二、三十人で襲えばいい」
「そんな大人数で動けば、すぐに見つかっちまう。徒党を組んでたと籠を破る前(めえ)に捕まっちまうぜ」
「しかしよお、奴らを見殺しにゃアできねえ。何としてでも助けなくちゃなんねえ」
円蔵は敵の様子を探るために山を下りて行った。その後、円蔵の使いとして喜助が毎晩やって来て、木崎と伊勢崎の様子を知らせてくれた。どちらも警固が厳重で、捕まった者たちが無事かどうか確かめる事もできないという。
忠次が赤城山に籠もって三日目の夜、喜助が若い娘を連れてやって来た。どう見ても、山の中にいる娘ではなかった。
「この娘が旦那に会いてえと山ん中をうろついてやしたぜ」
「一人でかい?」
「へい。たった一人だったんで、旦那の知り合いだんべえと連れて来やした」
「俺は知らねえ。一体、誰なんでえ?」
「あたし、伊与久村のお貞と申します」
娘は忠次を恐れる事なく、はっきりした声で言った。
伊与久村と聞いて、忠次は名主の娘に違いないとピンと来た。着ている着物も、どことなく上品な雰囲気も、丁寧な口の利き方も大事に育てられたお嬢さんに間違いなかった。
「俺に何か用なのかい?」
忠次はお貞の顔を眺めながら聞いた。
色白で目のくりっとした器量よしだった。
「あたしを親分さんのお妾にして下さい」
お貞は大きな目で忠次をじっと見つめながら、そう言った。
忠次だけでなく、回りにいた子分たちもお貞の言葉に驚き、空いた口がふさがらなかった。
「馬鹿な事を言うんじゃねえ」
忠次はしばらくしてから言った。
「おめえさんは伊与久の名主の娘だんべえ。そんな冗談(てんごう)を言ってねえで、早くうちに帰る事だ」
「あたしの事、知ってたんですか?」
お貞は嬉しそうに笑った。
「源太から聞いてな」
「源太さんは死んでしまいました」
「堅気の娘が渡世人なんかと付き合うんじゃねえ。おい、喜助、お嬢さんをちゃんと、うちまで送り届けろ」
「いやです。あたし、帰りません。もう、うちを出て来たんです。死んでもうちには帰りません」
忠次は家に帰そうとしたが、お貞は強情だった。無理やり連れて行こうとすると隠し持っていた匕首(あいくち)を抜いて、自分の首を刺そうとする。そのうち、気が変わるだろうと忠次はお貞をお紺に預けた。
九月になり、そろそろ、捕まった者たちが江戸に送られるだろうと円蔵から知らせが届き、忠次は子分たちを武州の中山道筋に送り込んだ。しかし、裏をかかれ、唐丸籠は中山道を通らず、船に乗せられ利根川を下って行った。
捕まった子分たちを取り戻す事に失敗した忠次は、何としても密告者を殺さなければ気が済まなかった。円蔵は勘助の近辺を探っていたが、確定的な証拠は何もつかめず、佐与松を捕まえて、口を割らせようとしたが、佐与松には逃げられてしまった。
「佐与松が消えた事が何よりの証拠だんべえ。勘助の仕業に違えねえ。あの裏切り者め‥絶対に許さねえ!おい、浅、おめえはどう思ってんでえ?」
「伯父貴がそんな事をするとは‥」
「勘助じゃねえってえのかい?富と又八と日新が殺され、お辰、秀(ひで)、竜(りゅう)、鹿安(しかやす)、吉三(きちざ)、豊(とよ)、牧(まき)が捕まっちまったんだぜ。捕まった奴らが助かる見込みなんかねえ。みんな、首をはねられて殺されちまうんだぜ」
「‥分かりやした‥俺が伯父貴の首を取って来ます」
「よく言った。おめえが勘助の甥だってえんで、おめえの事を疑ってる者がいるんだ。おめえ自身の手で濡れ衣をきっぱりと晴らして来い」
勘助は八州様と共に伊勢崎に詰めていた。帰って来たら、すぐに知らせろと忠次は子分を勘助の妾のいる小斉(おざい)村に送った。
その夜、遅くなって、傷だらけになった秀吉がやって来た。
「旦那、すまねえ」と秀吉は泣きながら頭を下げた。
「おめえ、逃げて来やがったんか?」
「そうじゃねえんで‥」
「そうじゃねえ?逃げて来ねえで、何でここにいるんでえ?」
「八州の役人どもが山狩りをするってえのを聞いちまって、何としても旦那に知らせなくちゃなんねえと思って‥」
「おめえ、まさか、目明(めあか)しになったんか?」
「へい、すいません」
「ここを知らせたんじゃアあるめえな?」
「いえ、そんな事はしません。旦那の居場所が分かったら知らせると約束して出て来たんです」
「誰かにつけられてんじゃねえのか?」
「いえ、大丈夫です。山ん中を走り回って、追い払ってから、ここに来ました」
「そうか‥おめえ、山狩りとか言ったな。いつやるんでえ?」
「二、三日のうちです。今、あちこちから猟師を駆り集めてます」
「畜生め。江戸送りが済んだんに、八州の野郎ども、いつまで経っても動かねえと思ったら、そんな事をたくらんでいやがったのか」
「旦那、早く逃げてくだせえ」
「おい、秀、おめえは誰がたれこんだのか知ってるか?」
「俺もその事を役人に聞いてみたんですけど教えてくれねえんです。ただ」
「ただ、何でえ?」
「小斉の勘助がやけに得意顔だったのを覚えてます」
「やはりな‥」
八州廻りが山狩りをする前に、勘助を殺して逃げるつもりだったが、勘助はなかなか家に帰って来なかった。忠次はイライラしながらも、お貞を相手に話をしながら気を紛らせていた。
お貞は結局、家に戻らなかった。お紺がお貞の味方になって、忠次を説得してしまった。頭のいい娘で色々な事を知っていて、日新を失ってしまった忠次にとって、丁度いい話相手になった。日新と共通した所があり、女だてらに、世の中を変えなければならないと真剣に考えていた。百々村にいる円蔵より伊与久村では名主の娘がかどわかされたと大騒ぎしていると知らせて来たが、お貞の決心は挫(くじ)けなかった。可愛い顔をしていながら、その芯の強さには忠次も呆れた。
勘助が帰って来たと知らせが届いたのは八日の晩だった。浅次郎は下植木村の平五郎、上植木村の万蔵、野州の角太郎、五目牛村の音次郎、茂呂村の茂八、桐生町の長五郎、波志江(はしえ)村の市松を連れて、小斉村に向かった。
八人は勘助の家を取り囲み、勘助らが寝静まった頃を見計らって、家に踏み込んだ。無警戒で眠り込んでいた勘助は簡単に浅次郎の槍で突き殺され、泣きわめいた四歳の太郎吉も殺された。一緒に寝ていた妾は傷を負いながらも逃げ去った。
浅次郎らは勘助の首を持って、近くにある八寸村の七兵衛の家に立ち寄った。そこで勘助の首を洗い、衣服を整え、山に戻って、忠次に首を披露した。
忠次は満足そうにうなづいてから、
「浅、伯父貴を殺させてすまなかったなア」と辛そうに言った。
勘助の首を見つめている、その目には涙が溜まっていた。
「なんで、こんな事になっちまったんでえ」
忠次は生首に向かってつぶやいた。
目頭をこすると顔を上げ、
「しかしな、裏切り者は絶対に許しちゃアおけねえんだ」とうつむいている浅次郎たちに言った。
そして、立ち上がると、子分たちの顔を見回した。
「これで、一応、殺された曲沢の富五郎‥田部井の又八‥太田の日新‥それと、捕まって江戸送りになっちまった吉祥天のお辰‥曲沢の竜吉‥鹿の安次郎‥上田の吉三郎‥磯の豊吉‥今井の牧太郎‥それに、平塚の助八の仇は討った。勘助一人を殺して、死んで行った者たちが成仏するたア思えねえが仕方がねえ。今の俺にゃア、これしかできねえ‥日新の野郎が言ってたように、今の世の中はどっか狂ってるんかもしれねえ。奴がいつも言ってたように、新しい世の中ってえのを作らなけりゃなんねえんかもしれねえ‥」
忠次は弓張り月を見上げ、しばらく眺めていたが、改めて、子分たちを見回すと話し続けた。
「これで、また、赤城山ともしばらくはおさらばだ。おめえたちも手配されるかもしれねえが、絶対に捕まるんじゃねえぞ。こんな事ぐれえで国定一家がぶっ潰されてたまるか。まだまだ、お上に一泡も二泡も吹かせなきゃ気が済まねえぜ、いいな?」
「おう!」と子分たちは鬨(とき)の声を上げた。
忠次は大久保一角の案内で、お貞を伴い、赤堀の相吉と市場の千吉の二人だけを連れ、野州大久保村へと向かった。
おめえは間違えなく男だぜ
勘助殺しの後、すぐに手配されたのは、国定村の忠次郎、日光の円蔵、八寸村の七兵衛、保泉村の久次郎、保泉村の卯之吉、下植木村の浅次郎、茂呂村の孫蔵、茂呂村の茂八、堀口村の定吉、下田中村の沢五郎の十人だった。
この中で実際に勘助殺しに加わっていたのは浅次郎と茂八の二人だけだった。この二人は勘助の妾に顔を見られたのかもしれない。忠次と円蔵は首謀者として手配され、七兵衛は勘助の家の近くに住んでいたので関係ありと見られたのかも知れないが、後の者たちは何の根拠があって手配されたのか分からなかった。しかし、手配されたからには逃げなければならない。捕まってから、言い訳を言っても通じる相手ではなかった。
手配された者たちが逃げ去った後、赤城山中の山狩りが行なわれた。関東取締出役の吉田左五郎は忠次らが潜んでいた岩屋を発見したが、当然、もぬけの空だった。
その後、富塚村の角次郎、上中村の清蔵、桐生町の長五郎、甲斐の新十郎、柴宿の啓蔵、蓮沼村の菊三郎、平塚村の為次、世良田村の伝次、新川(にっかわ)村の秀吉、神谷村の喜代松の十人が追加された。この十人は忠次の代貸たちだった。忠次の勢力を恐れたお上が、勘助殺しを機に国定一家を壊滅させようとたくらんでいるのは明白だった。
勘助殺しの半月後、上州と信州の国境、車坂峠で堀口村の定吉、茂呂村の孫蔵、保泉村の宇之吉の三人と三下奴が一人捕まった。
十月になると保泉村の久次郎、下植木村の浅次郎、茂呂村の茂八、富塚村の角次郎、桐生町の長五郎が捕まり、十一月には日光の円蔵までもが捕まってしまった。
円蔵は勘助殺しに疑問を持っていた。又八の家に手入れのあった前日の八州様の動きを追っていた円蔵は、田部井の佐与松が、木崎宿に隠れていた木島の助次郎と密かに会っていたという情報をつかんだ。勘助の家に出入りしていた佐与松が、又八の賭場に忠次が現れる事を田部井村の旦那衆から聞いて助次郎に知らせ、助次郎が玉村にいた関東取締出役の吉田左五郎にたれこんだに違いないと思った。その事を忠次に知らせたが、すでに、勘助を殺してしまった後だった。忠次としては山狩りの前に決着をつけなければならなかったのだろうが、早まった事をしてしまったと円蔵は悔やんでいた。
一旦、旅に出た円蔵だったが、事の真相を突き止めなければ気が済まないと山伏姿になって上州に舞い戻り、助次郎捜しを始めた。忠次を初めとして大勢の子分たちが国越えして安心した助次郎は木島村に帰っていた。円蔵は助次郎を捕まえて、真相を語らせようとしたが、それが罠(わな)だった。八州様は助次郎を餌(えさ)にして、忠次が現れるのを待ち構えていたのだった。
円蔵は大勢の捕り方に囲まれ御用となった。
助次郎は縄で縛られた円蔵を見下ろしながら、得意顔で大笑いした。
「忠次の野郎、勘助を殺して、いい気になっていやがるが、あん時の立て役者はこの俺様だったんだぜ」
「やはり、おめえだったのかい」と円蔵はふてぶてしく笑った。
「勘助の野郎にゃア、忠次を売るような度胸はねえ。小銭をせびって歩くんが精一杯(せえいっぺえ)だ」
「うちの旦那が怖くて、こそこそ隠れていやがって、おめえが勘助の事を笑えるか、くそったれが」
「うるせえ、黙りやがれ」
助次郎は円蔵を思い切り蹴飛ばした。
円蔵は伊勢崎に連れて行かれ、取り調べを受けてから江戸に送られた。
捕まった円蔵を一目見ようとやじ馬たちが黒山の人だかりとなった。人殺しをしていない円蔵を何とか助けようと福田屋栄次郎や玉村の佐重郎らが嘆願したが効き目はなかった。
吉田左五郎を初めとした八州様も真剣だった。役人たちを総動員して大手配したからには、何が何でも忠次を捕まえなくてはならない。しかし、忠次はどこに隠れたのかまったく分からず、このままでは面目丸つぶれだった。忠次の片腕だった円蔵を捕まえる事ができて、辛うじて面目が保たれたと一安心していた左五郎が円蔵を手放すはずはなかった。
円蔵を初めとして、江戸送りとなった者たちは誰一人として帰って来る事はなく、残酷な拷問(ごうもん)の果てに牢内で死ぬか、首をはねられた。
その頃、忠次は野州大久保村に隠れていた。
大久保村は日光例幣使街道の栃木宿から永野川をさかのぼった山中の村だった。この辺りにも八州様の捕り方は回って来たが、元山伏だった一角のお陰で山中に隠れ無事だった。
忠次はお貞と共に暮らし、お貞から高野長英の事を色々と聞き、お貞が写した『夢物語』を何度も読み、海の向こうには色々な国がある事を初めて知った。顔付きも髪の色も言葉もまったく違う、それらの国の人たちが何日も掛けて海を越えて日本にやって来ているという。お貞の話を聞いていると上州の国内で縄張りを広げていい気になっていた自分がやけに小さく感じられ、もっと大きな事がしたいと漠然と思い始めていた。
大久保村に隠れて二年が過ぎた。
お貞は忠次の長男を産んだ。子種がないと諦めていた忠次は長男の誕生を大喜びした。その子は絶対に博奕打ちにはしないで、偉い学者にするんだと張り切っていた。お貞は忠次が旅に出た時、名乗っている国次郎という名を付けたがったが、忠次は反対して寅次郎と名付けた。一角の家の床の間に飾ってある勇ましい虎の絵が気に入り、虎のように強く生きて欲しいと願ったのだった。
その頃、上州では手配を免(まぬが)れた千代松が中心になって縄張りを守っていた。何人もの代貸が捕まり、縄張りは小さくなってしまったが、境宿の賭場さえ無事なら他は取り戻す自信を持っていた。
弘化二年(一八四五)の五月、母親が倒れたとの知らせを受け、忠次は密かに国定村に帰った。しかし、間に合わなかった。弟の友蔵の話によると母親は最期まで、忠次の無事を祈っていたという。葬式に参列する事もできず、忠次は一人泣きながら、母親の冥福を祈り、弟の友蔵に両親の石塔を立てる事を頼んで、大久保村に帰った。
その年の九月、ついに千代松が捕まってしまった。逃げ回っていた佐与松を見つけ、子分に命じて殺させようとしたが失敗し、自らの手で殺そうとして、逆に捕まってしまったのだった。
八州様と木島の助次郎の仕組んだ罠だった。千代松は残酷な拷問責めにあっても忠次の居場所を吐かず、半年後に江戸の牢内で死んでしまった。
千代松の代わりに国定村の次郎と境川の安五郎が中心になって縄張りを守った。
忠次が帰って来たのは勘助殺しの四年後の事だった。
天保の改革の主催者、水野忠邦が失脚したため、忠次の追及も幾分弱まって来た。それでも、昼間、堂々と田部井村には帰る事ができず、五目牛村の千代松の後家、お徳の家に隠れ、夜になるとお町やお鶴のもとに通っていた。
お徳は面倒味のいい女で何かと気を使ってくれた。子分だった千代松の後家に手を出すつもりはなかった忠次だったが、昼間、一緒にいるうちに、つい魔がさして抱いてしまった。千代松も許してくれるに違いないとそのまま、お徳を妾にした。お鶴は呆れて何も言わなかったが、お町は猛烈に怒った。忠次はお町の怒りを恐れて、赤城山に逃げて行った。
赤城山に隠れながら、国定一家の再編成を考えている時、坊主頭の風変わりな男が忠次を訪ねて来た。江戸の牢を破って逃げて来たという。
「牢屋ん中でな、親分の噂を聞いて、一度、酒を飲みてえと思ってやって来たんだ。本当なら玉村辺りの女郎屋に繰り出して、可愛い女子(おなご)を抱きながら飲みたかったんだが、お互い、追われてる身じゃアしょうがねえ」
そう言うとぶら下げて来た二升どっくりを口飲みして、忠次に差し出した。相手の態度に圧倒され、忠次は言われるままに、その酒を飲んだ。
「大した飲みっぷりだ。おぬしは噂通りの男だぜ」
「一体(いってえ)、おめえさんは誰なんでえ?」と忠次はとっくりを返した。
「名前なんか名乗ったところで、おぬしが知ってるわけはねえ」
男は忠次の姿を眺めながら酒を飲むと、満足そうに独りうなづいた。
誰だか分からないが、面白そうな男だと忠次はその晩、月を眺めながら、その男と酒を飲み交わした。
男は酒が強かった。酔うにつれて、お上の批判を大っぴらに言い始め、時々、わけの分からない言葉を使った。
忠次はふと、お貞がいつも話していた高野長英の事を思い出した。長英が牢を破って、上州辺りに隠れているという噂も聞いていた。
長英に間違いないと確信を持ったが、言葉には出さず、だたの男同士として酒を飲んだ。お互いに酔っ払い、しまいには何を言っているのか分からない状況となり、そのまま、飲み潰れてしまった。
翌朝、目が覚めると、
「楽しい夜だったぜ」と笑って男は山を下りて行った。
たった一晩の付き合いだったが、何となく別れがたかった。向こうもそう思ったのか、また、戻って来ると、高野長英だと名乗り、わけの分からない言葉をしゃべりまくって去って行った。
忠次は長英に会った事をお貞に告げるため、そのまま、野州大久保村へと向かった。
一月程して戻って来ると、なぜか、お町とお徳は仲良く、留守を守っていた。
忠次の顔を見て、
「何しに帰って来たのよ」と二人してつれなかったが、すぐに機嫌は直り、昼は五目牛村、夜は田部井村という生活が続いた。
賭場に顔を出す事もなく、木崎の左三郎に奪われた世良田と平塚を取り戻そうともしなかった。木島の助次郎は忠次を恐れて、相変わらず隠れていたが、千代松が捕まった後、子分たちに命じて、木島村と伊与久村を取り戻していた。
百々村にいて国定一家を背負っている次郎は助次郎の子分たちを追い出して、木島村と伊与久村を取り戻そうと言うが、助次の奴はもう年だ。放っておいてもそのうち死ぬと言って取り合わなかった。そして、子分を浦賀に送って、外国からやって来た船の様子を探らせ、その話を聞きながら、独りうなづいたり、じっと考え込んだりしていた。
子分たちはお貞の影響で忠次はおかしくなってしまったと思い、お貞の存在を知らないお町やお徳は、また何か途方もない事を考えているに違いないと期待していた。
高野長英が赤城山に忠次を訪ねて来てからというもの、境宿の蘭方医、村上随憲(ずいけん)の私塾に通っている若者や伊与久村の五惇堂に通っている若者たちが赤城山にやって来るようになった。彼らは皆、今の世の中を否定し、新しい世の中を作らなければならないと演説をぶち、共に世直しをしようと忠次を誘った。しかし、具体的に何をやったらいいのか、彼らにも分からないようだった。
若者たちの意見を聞きながら、世の中は変わって来たと忠次は感じていた。
自分たちの若い頃、お上のする事をとやかく言う者などいなかった。そんな事を言ったら、気違い扱いされただろう。世の中を変えるなどという大それた事は絶対に不可能だと思い込み、その仕組みの中で、面白おかしく暮らそうと反骨心のある者は博奕打ちの世界に入って行った。博奕打ちの世界は実力がものをいう世界で、力さえあれば、のし上がる事ができた。現に、忠次は大勢の子分を抱える大親分になった。しかし、失う物も大きかった。自らは追われる身となり、何人もの子分を死なせてしまった。
日新が現れた時、とんでもない事を考える奴が現れたもんだと驚いた。ところが、今、若者たちは日新と同じ道を歩いている。新しい世の中を作らなければならないと真剣に考えていた。まだ、彼らには何をどうやったらいいのか分からないようだが、やがて、何かをしでかすだろう。その時は彼らに力を貸してもいいと思っていた。
忠次は長男、寅次郎の顔が見たくなると、突然、フラッと旅に出て、大久保村に行った。
ふと、お篠の顔が見たくなって、六年振りに野沢の湯に行ったら、なんと、忠次の娘がいた。
お国と名付けられたその娘は六歳になっていて、忠次が顔を見せると、
「お父(とう)」と言いながら近づいて来た。
お国は可愛かった。
忠次は博奕打ちの親分という身分を忘れ、宿屋の主人に成り切って、一年近くも親子三人で幸せに暮らした。
嘉永(かえい)二年(一八四九)、四十歳になった忠次は逃げ隠れする生活に疲れ、跡目を境川の安五郎に譲って隠居した。次郎に譲るつもりだったが、次郎から安五郎の方が親分には向いていると言われ、安五郎に決めた。文蔵のように、安五郎を助けて国定一家をもり立ててくれと忠次は次郎に頼んだ。
隠居した忠次は、お鶴、お町、お徳の三人を連れて、会津に行き、残りの人生を穏やかに暮らしながら、世の中の動きを眺めようと思っていた。会津には去年の旅で兄弟分になった左蔵親分がいて、忠次が行くのを楽しみに待っている。勿論、時には大久保村と野沢村に行って子供と遊ぼうとも思っていた。寅次郎は六歳、お国は八歳になり、二人共、可愛い盛りだった。
一年間、安五郎の後見として様子を見た忠次は、いよいよ、会津行きの準備を始めた。
七月二十一日、忠次は夜になってお町の家に出掛けた。
お町は留守で、兄、嘉藤太の家に行ったという。忠次も久し振りに嘉藤太に会いたくなり、嘉藤太の家に向かった。
嘉藤太も今は堅気になっていた。お互いに年を取ったなアと昔話に花が咲き、思い出話を肴に夜遅くまで三人で酒を酌み交わした。
お町と再会した思い出の奥座敷で、お町を抱いている時、忠次は突然、発作に襲われた。
身体を痙攣(けいれん)させ、息を荒げて涎(よだれ)を垂らした。お町は慌てて、嘉藤太を呼んだ。口の中に何かがつかえているようなので、お町が口の中に指を突っ込んで、食い物のカスを取り除くと、ようやく落ち着いて来たが、身体は言う事を聞かないようだった。
嘉藤太は国定村に飛んで行き、弟の友蔵と足を洗っていた清五郎を呼んで来た。百々村にも子分を走らせ、跡目を継いだ安五郎と次郎も呼び寄せた。主立った子分たちが集まり、相談した結果、五目牛村のお徳の家に隠した方がいいという事に決まった。
翌朝早く、戸板に乗せられた忠次は五目牛村に連れて行かれた。
お徳は驚き、忠次の心配はしたが、お町の所に行った事を知っているお徳は意地を張って忠次を引き取らなかった。
忠次は戸板に乗せられたまま国定村に連れて行かれ、清五郎の家に匿(かくま)われた。ようやく、戸板から降ろされ、一安心した忠次だったが、堅気の家に置いておくのはよくないと、すぐにまた、戸板に乗せられて山中の掘っ立て小屋に移された。しかし、病人の看護をするのに山中では不便だったため、田部井村の名主、宇右衛門が引き取る事となった。
八月半ば、噂を聞いた大前田の栄五郎が密かに見舞いにやって来た。
「どうしたい?中風(ちゅうふう)で倒れたって聞いたが、思ったより元気そうじゃねえかい」
「へ、い‥」
忠次はわざわざ来てくれたお礼を言いたかったが、口が動かなかった。
「おめえの事だ。中風なんかやっつけちまうだんべえ。おめえがみっともねえ姿をしてるようだったら、自害しろと言いに来たんだが、その心配(しんぺえ)はなさそうだな」
「自害ですか?」と一緒にいた清五郎が驚いた。
「そうさ。国定村の忠次は最期まで忠次じゃなきゃなんねえんだよ。中風になったみっともねえ忠次なんか、誰も見たかアねえぜ。忠次の生きざまはな、今の時代(じでえ)そのものなんだ。高え年貢を取られても、お上に逆らう事のできねえ百姓たちにとって、お上に堂々と刃向かって来たおめえは百姓たちの憧れなんだ。成田屋(市川団十郎)の助六みてえに最期まで粋じゃなきゃなんねえ。絶対に逃げ通すんだぜ」
「お、じ、ご‥」
忠次は栄五郎を見つめながら、感激して涙を流していた。
「おめえの生きざまをみんなが注目してるってえ事を忘れんなよ」
栄五郎は見舞い金をたっぷりと置いて帰って行った。
忠次は発作が起きた時、紋次親分のように、言葉もしゃべれず、半身不随になってしまうのかと嘆いた。しかし、様態は少しづつだがよくなって行った。一月経つと言葉もしゃべれるようになり、身体も動かせるようになって来た。後一月あれば、元の身体に戻れると自信を持った忠次は、三人の女たちに会津行きの準備を急がせた。
安五郎と次郎は病に倒れた忠次を見逃して貰うため、八州様の道案内たちに小判を配って回った。木島の助次郎が二年前に病死してしまったので、忠次に逆らう者はいないだろうと安心していた。ところが、木崎の左三郎が太田の苫吉(とまきち)に渡すはずの三両を着服してしまい、一両しか渡さなかった事から、苫吉が怒って、太田宿にいた関東取締出役、関畝四郎(うねしろう)に忠次の居場所を告げてしまった。
八月二十四日の夜明け前、宇右衛門の屋敷は関畝四郎の率いる捕り方に囲まれ、忠次は抵抗する事もなく捕まった。一緒に隠れていたお町、お徳、清五郎、次郎と忠次を匿った宇右衛門も捕まった。
この頃、やっと歩けるようになった忠次は縄を掛けられ、伊勢崎へ連れて行かれた。伊勢崎までの道程(みちのり)は長く苦しかったが、忠次は弱音を見せずに歩き通した。捕まった忠次を見送るため、道の脇には大勢の人が集まって、忠次に別れを告げた。
忠次の妻、お鶴は忠次が捕まった事を知るとうなだれ、自分も捕まるに違いないと覚悟を決めた。しかし、田部井村の円明院にいた山伏、右京に説得され、右京と共に野州へと逃げて行った。右京は大久保一角と共に田部井村に来て、密かにお鶴に惚れ、陰ながら、お鶴を見守っていたのだった。
弟の友蔵も妻と子を実家に帰して逃げて行った。
跡目を継いだ安五郎も逃げてしまい、国定一家は崩壊した。
忠次に対する助命嘆願や宇右衛門に対する慈悲願いなどもあり、伊勢崎での取り調べは一ケ月以上も掛かった。
九月二十八日、大雨の降る中、忠次らは玉村宿へと移された。まだ看病が必要な忠次はお町と一緒に御用宿、三河屋の一室に入れられた。さっそく、佐重郎が顔を出した。
「まさか、おめえが捕まるとはなア、夢にも思わなかったぜ」
佐重郎は手を縛られたまま、横になっている忠次と、そのそばに座っているお町を眺めながら腰を下ろした。
忠次は起き上がると、佐重郎に頭を下げた。
「親分、色々と世話になっちまって‥俺がこの渡世に入る時に世話になり、そしてまた、最後にこうして世話になるとは‥」
「そうだったなア、おめえが人を殺して、俺んとこに飛び込んで来た時ゃア、ほんとに驚いたぜ。これで、恩返しができると思ったんだが、結局、何もできなかった」
「何を言ってんです。充分過ぎる程、恩返しはさせてもれえやした。あの世に行ったら、親父によく言っときやすよ」
「そうか‥」
「親父は俺が十の時に死んじまって、俺は親父の事をよく知らなかった。親分のお陰で親父の事を色々と知る事ができてよかったと思ってやす」
「そう言ってくれるか‥」
「あの世で、親父と一緒に酒を飲みてえと思ってるんですよ」
「そうかい、そいつはいい考えだ」
「親分さんも随分とお達者で‥」
「ああ‥おめえも江戸に行ったら、厳しいお取り調べがあるだんべえが、最期までくじけるんじゃねえぞ。親父が見守ってると思って立派に死ねよ」
忠次はうなづいた。
佐重郎はうつむいているお町に笑い掛け、
「忠次の事を頼んだぜ」と言うと帰って行った。
翌日、梁田宿から上総屋源七が忠次に別れを告げに来てくれた。
「親分、とうとう捕まっちまった」
忠次は源七に笑い掛けた。
「おめえの最後にしちゃア、随分、あっけなかったじゃねえか」
「運命ってやつかもしれやせん。身体が言う事を聞かなくなっちまったからな」
「そうか‥おめえから運命なんて言葉を聞くたア思ってもいなかったぜ。覚悟は決めたようだな?」
「本音を言やア、まだ死にたかアねえが、今更、騒いだとこでどうにもなりゃしやせんからねえ」
「うむ。おめえの死にざまはみんなが見てる。最期まで、博奕打ち、国定村の忠次として死んでくれ」
忠次は源七の顔をじっと見つめてから、うなづいた。源七親分も随分と年を取ってしまったなアと思った。
そして、翌日には前橋から叔父御の福田屋栄次郎がやって来た。
「思ったより元気そうじゃねえか?」
「なぜか、腫れ物にでも触るように大事にしてくれやす」
「おめえは大物だからな。八州様としても、おめえの子分たちを刺激したくはねえんだ。子分だけじゃねえ、おめえを助け出して男を売ろうとしてる奴もいるに違えねえからな」
「男を売るか‥叔父御、本物の男ってえのはどんな男なんでえ?」
「そんな事を急に言われても分かるかい。男ってえのは、まあ、男なんだんべえ」
「俺はガキの頃から一丁前(いっちょめえ)の男になりてえと思ってた。いつの間にか四十になっちまって、子分どもを抱える身分となったが、果たして、俺は男になったんだんべえかと思うと、よく分かんねえ」
「そんな事は誰にも分かんねえよ。男かどうかってえのは世間様が決めるもんだ。まあ、おめえは間違えなく男だぜ。おめえの事はみんなが忘れやしねえよ」
「叔父御、叔父御にそう言って貰えりゃア、俺は心置きなく死ねるぜ」
「うむ‥死ねまで、達者に暮らせよ」
他にも忠次に別れを告げるため、各地から親分衆がやって来た。関畝四郎としても、やっと忠次を捕まえたのに、こんな所で騒ぎを起こされたら困るので、わさわざ来てくれた者には別れを告げさせた。
玉村に半月余り滞在した忠次たちが唐丸籠に乗せられて江戸に送られたのは十月十五日のよく晴れた日だった。
忠次の子分たちも黙って見ていたわけではなかった。浅次郎の子分だった万蔵らが、忠次を取り戻そうと計画した。しかし、失敗して玉村で捕まってしまった。他にも助け出そうとした子分はいたが、警戒が厳重過ぎて手を出す事ができなかった。
十九日に江戸に着き、小伝馬町の牢に入れられ、取り調べが始まった。
忠次が牢に入っていた十月の晦日(みそか)、高野長英が江戸の隠れ家を捕り方に囲まれ、自害して果てた。
忠次が勘定奉行から磔(はりつけ)刑を告げられたのは十二月十五日だった。そして、翌日、お仕置き場に向かって旅立った。
忠次を乗せた唐丸籠を護送する物々しい行列は中山道を北上し、板鼻宿で中山道と分かれて信州街道に入った。榛名山の裾野を流れる烏(からす)川に沿った街道を冷たい風に吹かれながら、厳重に警固された大戸宿に着いたのは五日後の二十日だった。その日、新井屋善治平の屋敷に入った忠次は加部安の酒を所望(しょもう)した。
忠次の望みはかなえられ、加部安自身が酒を持ってやって来た。
「体の具合が悪いと聞いてたが、何でもなさそうじゃねえか」
加部安は忠次を見るとニヤッと笑った。
「へい、お陰様で‥死ぬ前に旦那んとこの酒が飲めるとは嬉しいねえ」
「とんだ事になっちまったなア。まさか、おめえさんが大戸で磔になるとは思ってもいなかったぜ」
「最期まで、旦那にゃ迷惑かけちまったな」
「なあに、そんな事は気にするな。おめえさんと出会えて、俺はよかったと思ってんだ。まあ、今日は心行くまで飲んでくれ」
「すまねえ」
両手を縛られたままの忠次は加部安の注いでくれた酒をゆっくりと味わいながら飲み干した。
「うめえなア。旦那も一緒に飲んでくんねえ」
「おお、そうだな」
忠次は酒盃を加部安に渡すと、酒を注いでやった。
「おめえさんと初めて会ったんは玉村の玉斎楼だったっけなア。おめえさんの部屋に行くと言った白菊を無理に引き留めて、おめえさんが怒ってやって来るのを待っていた。もう二十年近くの前の事だ」
「あん時ア、まったく、たまげたぜ。旦那のやる事がでっけえって、みんな、あっけに取られちまった。あれから、もう二十年にもなるのか‥旦那にゃア、ほんとに世話になったなア」
「死ぬにはまだ早すぎるぜ」と加部安は言うと、酒盃を忠次に返した。
「早えかもしれねえ。でもなア、最近の若え者の考えにはついて行けなくなっちまった。なんか、こう、時代ってえのが変わって来たんかもしれねえ。恥をかかねえうちに、この世とおさらばするのもいいかもしれねえと思うようになったんだ。なに、強がりを言ってんじゃねえんだ。あきらめでもねえ。何て言ったらいいのか分かんねえが、人間の一生なんてこんなもんだんべえって思うようになって来た」
「おめえさんも何度も修羅場をくぐり抜けて、それなりに悟ったようだな」
「そんな大それた事じゃねえが、磔になって死ぬのも俺の最期にゃアふさわしいような気がするぜ」
忠次はほろ酔い気分になると加部安のお酌を断った。
「明日の舞台(ぶてえ)に差し支えるからな」と忠次は笑った。
「一世一代(いっせいちでえ)の芝居(しべえ)をしくじるわけにゃアいかねえ」
「一世一代の芝居たアよく言ったもんだ。まさしく、一世一代の桧舞台だ。明日はおめえさんの最期の芝居を見るために大勢の見物人が集まって来るぜ。立派にやり遂げてくれ」
「明日、芝居の前にもう一杯、お願えします」
「分かった」
加部安はうなづくと、忠次の顔をじっと見つめてから帰って行った。
次の日、嘉永三年十二月二十一日、大観衆の見守る中、忠次の一世一代は見事に演じられた。四十一歳の生涯だった。
田部井村の名主、宇右衛門は忠次を匿っただけでなく、博奕を黙認し、さらに博奕のテラ銭を使って沼浚(さら)いをしたのはお上を恐れぬ所存だと死罪を言い渡され、忠次の磔より五日後の二十六日、処刑された。
清五郎は忠次を匿って世話をし、道案内たちを買収したとして遠島(えんとう)。次郎は忠次の代貸として博奕を催したため追放。お町とお徳は押し込め(謹慎)。道案内の左三郎も捕まり、追放となった。その他、田部井、国定の村役人たちも罰金を課せられた。
忠次の磔から十八年後、江戸幕府は崩壊し、日新が望んでいた新しい世の中がやって来た。
 
虚構の義賊国定忠治伝

もちろん国定忠治とは、あの講談「赤城の山も今宵限り・・・」で知られた国定忠治のことです。 といっても、最近、そのお話そのものを知らない方が多そうですので、最初に国定忠治の物語について、一般に知られているストーリーを書いてみます。ここで私は「虚構」と断じているものの、実をあかせば熱狂的な講談の中の国定忠治ファンでして、悪の世界にいること自体が悪であるという考えに基づけば、たとえどんなに義賊ぶってみたところで、悪人であることには変わりないのではありますが、虚構の中の国定忠治は、実に爽快で義理人情に厚く、強いあこがれを感じてしまうのであります。
講談の中の国定忠治は、江戸末期の上州(群馬県)国定村に生まれ、やくざの世界に身を投じますが、領民を苦しめる代官を義憤に燃えて殺め、追っ手を逃れて赤城山の山中に子分達と身を隠します。ここも危うくなると、つてを頼って信州に逃れ、旅の途中に数々の美談を残し、上州に戻ったところを捕らえられ、処刑されます。
国定忠治の物語は、講談となって、現在に語り継がれております。最近100円ショップで、広沢虎三の語る講談話がCDになって売られているのを発見いたしました。また歌手の北島三郎さんが国定忠治の事を演歌で歌っているようで、そちらのファンの方からのお問い合わせも、ときどきいただきます。
国定忠治の墓は、JR両毛線国定駅の近く、天台宗金城山養寿寺の境内にあります。入り口の「国定忠治の墓」の案内を頼りに山門を入ると「国定忠治遺品館」という部屋が本堂脇にあります。残念ながら私は平日に行ったためか締まっていました。本堂の裏手の墓地を行くと、その奥に国定忠治の墓があります。赤錆びた鉄枠に保護された小さな墓石は、痛風に効くとかその道のプロが賭博にご利益があるなどとあやかって削り取るために、丸くなって表面の文字もほとんど判読不能です。その隣には巨大な石碑が立てられていて地元の人達が、いかに郷土の誇りとしているかがうかがえます。
国定忠治は、本名を長岡忠次郎と言いまして、このあたりは旧新田領で太平記で活躍した新田一門の長岡氏が出ていますから、たぶん私の予想が当たっていれば国定忠治は新田一族の子孫で、清和源氏という由緒正しい家系という事になります。国定忠治の墓の回りは、この長岡氏の墓石があちらにもこちらにも、いっぱいありました。良くみるとそのいくつかの石碑には、国定忠治との関係を示す系図やら、家系の話やらが彫られていて、ちょっと変わっていました。
さてこの国定忠治という人物、名は全国に知れ渡ってはおりますが、その実何をおこなった人物なのか、皆様ご存知でしょうか。本当に講談にあるような義賊だったのでしょうか。これからしばらく私見を交えてご紹介してみようかと思います。
文化7年(1810)上州国定村の貧農、長岡家に男児が生まれました。名を忠次郎と付けられたこの男こそ、後の世の民謡八木節に名を残した国定忠治でした。貧農とはいえ名字を認められる由緒のある家柄でした。各種の資料をめくっても、せいぜい「元は中世武家だったと伝えられている」という程度で、新田一門の長岡家とのつながりを予測した私のような説は、ついにお目にかかることはありませんでした。
長男の存在は私のまったくの想像です。忠次郎の名から見て兄がいたろうと想像しただけの事です。
不作続きと、幕府の失政による重税に上州地方の農民は飢えていました。その飢餓の中で忠次郎3歳の年に母親が死亡、やがて長岡家に後妻に来た新しい母親は、苦労を背負いに来たように、まもなく忠次郎の父親の痛風の看病に明け暮れる身となりました。病床の父、荒れる義母、一説には、こらえきれず幼年の忠次郎は、この義母を殺害したと言われています。事実とすれば、生涯直接他人を手にかけたことの無かった国定忠治の唯一の殺人事件と言えますが事実は不明です。
13歳の年、すでに一家の柱として働かねばならなかった忠治郎は、馬子の仕事に就きました。そこに客として現れた日光の円蔵という人物が戯れの同情で忠次郎に5両もの大金をくれなかったら、忠次郎は、貧しくもまっとうな人生を歩んだに違い有りませんでした。日光の円蔵は博徒でした。博打とは、なんと素晴らしいものか。 貧しい一家をただの戯れで地獄の底からいとも簡単にすくい上げる力がある。貧しさにあえいでいた忠次郎少年は博徒に強い憧れをもつようになりました。  
17歳の長岡忠次郎が殺人を犯したという話があります。しかし忠次郎が何らかの犯罪人として指名手配されたらしい痕跡はあるものの殺人罪で指名手配されるほど大それた犯罪をおこしたらしい記録はどこにも現存していません。いずれにしても、何らかのトラブルをおこし、国定村にいられなくなったのは事実のようです。このころ忠次郎は賭博にのめり込んでいたようで、たぶんそんな関係でよからぬ交友の末に問題をおこしたのでしょう。忠次郎は、前橋から大胡にかけて勢力を張っていた博徒の大前田栄五郎親分の元に身を寄せました。このころ、すでに忠次郎の親分肌の器量を読みとっていた日光の円蔵はこの年下の忠次郎の一の子分になっていました。忠次郎の天性を見抜いていたのは大前田栄五郎にしても同じで、自分の子分衆にくわえる事を止め、百々村の紋次(もものもんじ)という博徒の親分の元へ修行に出しました。百々村という所は、新田郡世良田の西にある村で、百々の紋次は、このあたり一体を仕切っていた親分でした。慎重派の親分として知られる紋次ではありましたが、忠次郎を見てまたたく間に気に入り、すぐさま親分子分の杯をかわしたのでした。
長岡忠次郎が本当に大前田栄五郎の元にかくまわれたかとうかは異論もあるようですが、百々の紋次の子分になった事は確かなようです。
さて、博徒の名が出た所で、賭博の本場、上州の当時の博徒を紹介しておきます。上州を本拠とする博徒には、国定忠治よりわずかに年上の大前田栄五郎、同世代の江戸屋虎五郎、それと利根川筋と呼ばれた一帯を拠点とする飯岡助五郎、笹川繁蔵などが比較的大勢力でした。国定忠治の世代の博徒には、ほかに知られた者は駿河の清水次郎長、江戸の新門辰五郎、甲州の黒駒勝蔵などという比較的馴染みのある名が出てきます。まあ、ここでヤクザ入門なんてやっても仕方がありませんが、江戸時代の社会の末端を考えようとすると、どうしても避けられない存在ですからね。
群馬人資質というのがありますが、まさにその典型が国定忠治と、群馬県民は一応に感じるようです。昔わたしが都内で働いていた頃、練馬区のある乾物屋さんに国定村から嫁に来たという若い女性がおりまして、みんなから「国定」と呼ばれていました。上州弁まるだしの大声で客をどなりつける豪傑女性でいつも明るく、だれからも好感をもたれるタイプの人でした。上州弁は、ヤクザ言葉の発生源になっていますので、女性が上州弁まるだしでしゃべると、女親分ではないかと疑いたくなるほどすごいものがあります。私が子供の頃、女性は全て自分の事を「オレ」、相手の事を「オメエ」と呼んでいました。悪気無く相手を「テメエ」と呼ぶ事もありました。東北地方の一般的な使われ方ではありましたが、とくに上州弁では極端に男言葉と女言葉の違いが少なかったように思います。女性が社会進出し、しかも男と対等に扱われていた事を意味するように感じます。
さて百々村の紋次親分に杯をもらった長岡忠次郎はただのチンピラから本物の渡世の世界に入っていく事になりました。とにかく上州は賭博の盛んな地域でした。これはカカア天下と言われたこの地域の特徴でもありました。上州は絹織物の盛んな地域で、どこの農家も養蚕が主体でした。養蚕にしろ機織りにしろ、それは通常女性が中心の仕事でしたが、時間単価の高いその仕事は過酷な男の人足仕事よりもはるかに率が良く、どの家でも最大の稼ぎ頭は主婦でした。つまりカカア天下とは、働き者の主婦を意味し「うちのカカアは天下逸品」という意味だったのです。相対的に男は働かなくなり賭博でもやって遊ぶ毎日になりました。これが上州に賭博が盛んになった主因と思われ、現在でも桐生競艇、伊勢崎オート、高崎競輪など町ごとにおおきな公営ギャンブル場があるという、極端なギャンブル県となっています。これは隣接する長野県には公営ギャンブル場は一ヵ所しかない事を考えると偶然とは考えにくいものがあります。またパチンコ機械の大手4社のうちの3社が桐生市にありパチンコはすっかり換金を目的にする大衆ギャンブルと化してしまったのも偶然の事ではありますまい。
百々村の紋次親分の舎弟分になった長岡忠次郎はその3年後の文政13年(1830)、病死した紋次の後を継いで21歳にして百々村一帯の親分となりました。これは全く異例の大出世でして同業仲間から注目を集めました。これは天保年間の始まりの年でもあり、長岡忠次郎は江戸時代のひとつの頂点でもあった文化文政時代に青春時代を送り、最悪の時代でもあった天保年間に名を馳せた事になります。これは後の忠次郎の運命決定に大きく作用しました。ゆとりのあった化政時代に栄えたギャンブルも、天保年間の低迷期には違法な私設ギャンブルの取締が活発になり、追いつめられた博打打ちの行き着く先は、ゆすりたかり強盗という最悪のコースしかありませんでした。やがて長岡忠次郎も、この大きなうずに呑み込まれていく事になります。  
私は子供の頃、ひょんな事からテキヤの親分と友達になった事があります。まあ友達と呼ぶにはかなりの年輩でしたが、この人がなかなかのインテリのテキヤでヤクザ史などという講義を露天でやきとりを焼きながら延々とやってくれました。楽しい話でしたので今でもそのいくらかを覚えています。たとえばヤクザの世界は、明確に4種類に別れていて現在迷惑組織を作って活動しているのは、そのうちの一種にしかすぎないという話やテキヤもヤクザの一種ではあるけれど暴力団と混同している人が多いのには困ったものだと真剣に話してくれました。テキヤ(露天商)は、バクト(賭博師)に次いで最下層のヤクザにあたるそうで、タンカを切る時の口上もかなり遠慮した物になるそうです。あの映画に出てくるような、堂々と家の中に入って行って、「おひかえなすって・・・」といきなり切り出すのはよほどの大親分の場合で、通常テキヤがタンカを切るときは、相手の家の中には入らず、軒下のあたりで「軒下三寸借り受けまして・・・」と切り出すのだそうです。露天商は明治新政府の元でも合法でしたので、好んで違法組織になる必要はありませんでしたから暴力団と呼ばれる組織に進む事はなかったのだそうです。しかし、私設賭博を厳しく禁じられたバクトの多くは迷惑組織に変身するか一部のバクトは権力と結んで公営賭博場の経営に当たりました。もちろん江戸時代といえども私設ギャンブルは違法行為でした。
1834年といえば天保の飢饉で各地にうちこわしが発生し江戸には大火が発生した年でした。いっぱしの百々村の親分きどりでいた忠次郎は、この飢餓を救うために私財をなげうって窮民を救いました。おかげで縄張り内ではひとりの餓死者も出さずに済んだという事です。これが後の世の義賊伝説の元になった話です。忠次郎の真意がどうであったかは知る由もありませんが、たとえ博徒と言えど、一家を構える若きリーダーとしては、ある種の縄張り保護の義務感を感じたとしても何等不思議な事ではありません。
当時の国定忠治を著書「赤城録」で克明に綴った羽倉簡堂という人物がおりました。羽倉簡堂は各地で代官を勤めた有能な役人で、直接会った事はありませんでしたが、国定忠治の時代を生きた人で、同僚には係わった知人を多く持ち、裁判記録を入手できる立場にありました。国定忠治とは全く立場を逆にする人物でしたが、なぜか国定忠治にほれこみ、その残した著書は現在でも国定忠治研究の一級資料となっています。忠治郎が救民活動を行ったとする話はこの「赤城録」に掲載されています。国定忠治はただのごろつきだったと主張する人達には全く都合の悪いこの記録について、後世の贋作であるという批判もありますが、羽倉簡堂でなければ書けなかったであろうと思われる記述も多々あり、部分的な創作はあっても全体としてかなり信用できる資料であろうというのが一般的な評価です。
そんな頃、忠次郎は殺人事件を起こし、指名手配になります。対立関係にあった島村あたりを縄張りにする島村の伊三郎を子分達と闇討ちにして殺したのです。直接の引き金は、忠次郎の子分、三ツ木の文蔵が伊三郎が遊ぶ賭場でいかさまをやった事でなぐられた事から、血気にはやる忠次郎が子分の仕返しをした事にありました。いわゆるヤクザ同士の低俗な喧嘩なわけで、普通なら身内同士で内密に処理されるこの事件が、関東取締役の耳に入ってしまい忠次郎は指名手配されてしまいました。やむなく忠次郎は、三ツ木の文蔵を連れて信州に逃避行する事になったのでした。国定忠治は生涯何度か殺人事件をおこしますが、いつの時でも直接実行は子分にやらせみずから手を出した事は無かったと言われています。短気なわりに意外と小心だったのかも知れませんね。  
栃木県足利市(つまり私の地元)には、田崎草雲という江戸時代に活躍した画家がおりました。 別の場所でご紹介した国内初の古墳の学術発掘が行われた足利公園の一角に、草雲美術館という建物があり、この名画家の作品が常設展示されています。足利公園近辺は、市の中心部からわずかに西に外れた場所にあり、周囲はひっそりと静まり返っています。この田崎草雲の作品の中に一風変わったものがあります。なんと国定忠治の肖像画が残されているのです。田崎草雲は、一度だけ国定忠治と偶然出会った事があり、その時の印象を元に描いたもので、これが現存する国定忠治の唯一の肖像画となっています。田崎草雲の描く国定忠治は大きな目をむいた無頼漢でなかなか雰囲気が出ています。
さてなぜ忠次郎が指名手配の手を逃れて信州へ逃走したかと申しますと理由は当時の警察組織にあります。当時の上州は譜代、旗本、天領、寺社領が細分して領有していました。これは古来よりこの地方が関東、信州、越後の勢力がぶつかる戦場として陣取り合戦の舞台になってきた事に関係があります。江戸の防波堤の上州は、信頼のおける家臣に細分して管理させるというのが徳川政権の方策でした。しかし、それにより細分化された領地は独自に治安維持を行う力がなく、ほとんど無法状態に置かれました。しかも小さいとはいえ、一国ですので、国境を越えれば自治権はおよびません。一歩村を出ればそこは他国という状態がやくざの台頭を許したといえると思います。この無法地帯を打開するための広域警察組織が関東取締出役(通称、八州回り)でした。テレビの時代劇ドラマで、よくやってますよね。ところが、この関八州に信州は含まれませんでしたので、当時上州の悪党達は犯罪を犯し指名手配されると、関所をくぐりぬけて信州へ逃走したのです。
もちろん信州にいれば安全という訳ではなく犯罪者の引き渡しを要請されれば信州でも彼ら犯罪者の取締は行われました。しかしそこは行政の堅い部分で、なかなか実効は上がらず、そこを見すかすように長岡忠次郎は信州でも賭場あらしといった暴走を繰り返しました。忠次郎が草鞋を脱いだのは松本の勝太の所でした。勝太も、この乱暴な客人には手を焼いたようで、ほどなく体よく追い出されてしまいます。
上州に戻った忠次郎は赤城山に潜伏します。当時赤城山は犯罪人の格好の隠れ場所でした。彼らは普段赤城の山中に潜み、ときどきふもとの村を襲っては食料や金品を奪い、近郷の農村からは恐れられていました。その中でも特に婦女子に対する暴行が目立ちその対策にはどの村でも最も苦慮していたようです。当時、赤城山中には、かなりの数の山賊が潜んでいたようです。忠次郎も、そんな山賊達の道をたどり赤城山に入りました。経済的な基盤を失った忠次郎が、ふもとの村々で、どの様な行為をしていたかは、容易に想像できます。
当時の国定忠治の伝承で、信ずるに足るものはありません。徒党を組んで村を襲い処女は犯され破談になり、人妻は節を失って泣いた。という乱暴狼藉の限りを尽くしたように語られているものもあれば、国定忠治の名声に恐れをなした旧来の山賊達が影を潜めたために、かえって安全になったふもとの村では、以後夜も安心して雨戸を明けたまま寝られるようになった。という義賊伝説もあります。村人にどのように扱われていたかは不明でも、その後の忠次郎の行動は、やはり相変わらずの切った張ったのやくざの典型でした。  
さて国定忠治の赤城ごもりですが、いったいどんな生活だったのでしょうか。赤城山中に潜んだと言うと、現代人の感覚からみたら、険しい山中に洞穴でも見つけて暮らしたのではないかという惨めな姿を想像してしまいます。実際にそのような発想から赤城の山腹には国定忠治の隠れ場所という伝説地がいくつもあります。しかし実は当時の赤城山周辺はまだ開拓が進んでなくすそ野が広大な森林となって広がっておりまして、私の考えでは国定忠治はふもとの村に近いその森林の中の平地に家を建てて隠れていたのではないかと思います。役人から急襲されても裏山に逃げ込めばそこから先はどこまでも続く原野ですから、ほとんど捕まらずにすみます。通常は縄張りの村で生活し、危なくなると森に潜むという繰り返しだったのでは無いかと私は想像しております。
赤城山の忠次郎の元には噂を聞きつけた子分達が続々と集まって来ました。日光の円蔵、八寸の才市、三ツ木の文蔵、下植木の浅次郎、山王の民五郎、神崎の友五郎、新川の秀吉、境川の安五郎などなど。赤城山に潜伏するようになってからというもの、忠次郎の大親分との評判は全国に響きわたりました。
さて相変わらず賭博場を開帳する忠次郎は、縄張り争いの喧嘩の毎日でした。そのなかも、玉村の京蔵との縄張り争いはし烈なもので、最終的に玉村の京蔵は縄張りを捨てて逃走し、忠次郎も山王の民五郎を後に仇討ちで失っています。
そんなすさんだ生活を繰り返す忠次郎にも色艶話はありました。忠次郎の正妻は、講談などで誤って伝えられている物もありますが、正しくは「お鶴」という女性です。俗説にすぎませんが、名門桐生氏の本家から嫁したという事ですから、本当なら忠次郎の家も当時かなり格式が高かった事だろうと想像できます。すでにヤクザの道に入っていた忠次郎の所へ嫁がせる事に親は大反対だったそうですが、押し切って嫁いだのでしょう。ただし平凡な夫婦としての生活は長く続かず、愛人を作ったあげく犯罪人として逃亡した忠次郎に、しゅうとを抱えての大変な生活だった事でしょう。その忠次郎の愛人には伝えられているだけでも「つま」「お町」「お徳」「貞」がおります。どちらも上州女特有の気性の荒い女性だったと伝わっています。「つま」は信州の女性でした。忠次郎の逃走時代の愛人ですので、きっと劇的な出会いと別れがあったことでしょう。なんと、この「つま」の子孫が今でもいらっしゃるという事です。「お町」は、百々村の親分をしていた当時の愛人で、相当な艶っぽい美女だったと伝わっております。「お徳」は晩年の愛人でした。「貞」が愛人であったとする話は、正確には伝わってはいませんが、晩年のわずかな期間生活していたようで、のちに野州(栃木県)に移り住んだと言われています。
あまり講談すぎる逸話は書きませんが、女性にすこぶる人気があった事は確かな事のようです。  
長岡忠次郎が、どうして現在国定忠治と呼ばれているかと申しますと、当時の記録では忠次郎を忠治郎または忠次、忠治と、必ずしも正確には記録されていませんでした。忠次郎自身の自署による文書は現存していませんので、一般に忠次郎は文盲だったのではないかと言われています。ただし、講談の中の国定忠治は高い教養を持って何度も名文の手紙を書いており、虚像と実像のギャップは埋められないほど開いています。もちろん忠次郎のとりまきに達筆な者がいたとは考えにくく、口伝書取による記録に、一般呼称だった「国定村の忠次親分」が本名のごとく記録され忠次も忠治と誤記されても少しもおかしな事ではありません。ここでは、史実を述べようとする際に長岡忠次郎、伝説の男として扱う時に国定忠治と表現しています。
さて1836年(天保7)、殺人罪で指名手配されてから一年、忠次郎は、はや27歳になっていました。逃走中信州にも拠点を持った忠次郎が信州で兄弟の契りを結んだ茅場の長兵衛が中野の原七に殺害されるという事件が発生しました。凶作で各地に一揆やうちこわしが発生し、犯罪も多発した不穏な年でした。国定一家をあげて信州へ仇討ちに向かった忠次郎は犯罪多発から取締の厳しくなった大戸関所(現在の群馬県吾妻郡吾妻町)を強引に通過します。関所の役人と言っても軍隊組織が常駐していたわけではなく、20人からのヤクザが鉄砲や刀や槍を持って通った場合、関所も無力でした。信州に到着してみると、中野の原七はすでに役人に捕らわれていて、忠次郎達はむなしく引き上げる結果になりました。なんと帰路でも忠次郎は堂々と関所破りをしたという記録が残っています。
やがて、この時の関所破りが忠次郎の運命に大きく影響をあたえます。  
1837年(天保8年)国定一家は大きな危機に見舞われました。相変わらず違法の私設賭場を開帳していた国定一家の賭場が関東取締役の手入れにあったのでした。この時賭場を開いていたのは、縄張りの中でも比較的大きな村の世良田(せらだ)村でした。ここは、南北朝の話題でしばしば登場する新田一族の世良田氏の本拠地で、後の徳川氏が先祖の地として手厚い保護を行っていた聖地でもあります。ここでの上がりは国定一家の最大の収入源でした。後の公式記録に、この頃、田部井(たべい)でも賭場を開いたとあり、その頃、田部井の磯沼の浚渫工事を領主から請け負った名主の西野目宇右衛門という人物が、工事用の小屋と偽って忠次郎と共謀し賭博小屋を作ったとして罰せられた記録があります。義賊伝説としては、この時、浚渫工事の資金を作るために賭場を開いた国定忠治があがった金で工事を行い、村を干ばつから救った、というのがありますが、国定忠治憎しの役人の記録と、庶民の口伝と、どちらが真実なのかは不明です。話が多少前後しましたが、世良田村での捕り物劇で、国定一家の主要メンバーが多数捕縛されました。とくに三ツ木の文蔵が捕まったのは忠次郎には痛手だったようで、何度か奪い返す機会をうかがった後にあきらめて逃走したようです。三ツ木の文蔵は、江戸へ護送後、小塚原で獄門になったという事です。
この時の捕り物でからくも脱出した長岡忠次郎は、その後数年間、全く音信が途絶えます。ほとぼりがさめるまで関西方面に脱出したとする説が、後にまことしやかにささやかれ、後の国定忠治ブームの大半の「縞の合羽に三度笠旅がらす国定忠治」の創作話は、すべてこの時期の忠次郎の逃避行中の出来事という設定になっています。ところで、歴史話なので多少正確にお話させていただくなら、時代劇によく登場する三度笠は大正時代に発明された物ですので、江戸時代の無宿人がかぶっているのは、はなはだ時代考証が間違っています。しかし、あれがないと国定忠治も清水の次郎長も木枯らし紋次郎も、ちっとも面白く無くなってしまいます。
丁度時を同じくして大阪では大塩平八郎の乱が発生した不穏な時勢でした。  
さて国定忠治こと長岡忠次郎は1837年(天保8年)に子分達が大量逮捕されて以来、1842年(天保13年)までの足どりが完全に途切れています。各地に放浪の旅に出たとする各種の講談話は、映画や舞台に黄門漫遊記のごとく広まりました。創作はともかく、この時期忠次郎が他国に逃避行していたとする考え方は定説になっていますが、私は否定的な見解を持っています。5年間も他国にいては縄張りの温存などは絶対に不可能です。勢力が極端に小さくなったとはいえ、相変わらず赤城山麓の広い地域を縄張りとしておとなしく生活を続けていたろうと思うのです。この間の国定一家の縄張りを別の人物が引き継いだとの記録は、やはり現存していませんので、たまたま赤城近辺が平穏で記録に残すほどの問題が発生していなかっただけなのではと考えました。このころの上州で比較的賭博の盛んだった桐生新町を中心とする無宿人や博徒の調査を行った記録が現存しています。見ると巨大な縄張りを誇示して一家を成している博徒は無く、ほとんどが親分子分の二人だけの一家が、各地区に整然とひと組づつ存在しており、国定一家のような巨大なしかも新興勢力が縄張りを維持するには相当な努力が必要だったはずです。
1842年(天保13年)、忠次郎が忽然と赤城山に戻ります。戻るという表現が正しいかどうかわかりませんが、久しぶりに記録に残る事件を起こしたという方が正しいかもしれません。つまりその年、忠次郎がふたたび窮地に追い込まれる事件が発生したのです。田部井村に「お辰婆(おたつばばあ)」と愛称されていた国定一家の豪傑女幹部がおりました。その日お辰の家での賭博開帳中に、ふたたび関東取締出役により賭場が急襲されたのです。役人が、その威信をかけての取締りでしたので、総勢なんと300名という大げさな人数でお辰婆の家は取り囲まれました。一説にはこの時、たまたま忠次郎は賭場にいなかったと言われています。いずれにしても捕縛の網をくぐって忠次郎と多くの子分達は辛くも赤城山中に逃れました。
その当時の関東取締出役というのは当初8名、多い時でさえ15名程度で関八州をすべて管轄しておりました。その下には寄場組合村という地域防犯組織がありました。寄場組合村の寄場惣代は関東取締出役の直属として領国の境を越えて活動する事を許されていました。関東取締出役の地方巡回は八州見回りと呼ばれ当地の組合村がその案内役を勤めました。道案内役は地元の目明かし的存在でしたが、なんとその役は通常地元のやくざ達が任命される事が多くありました。また密告は積極的に推奨しており、報奨金も支払われていました。毒を持って毒を制すという発想ではありましたが、結局はそれが元でこの日本初の広域警察組織は破綻してしまいます。やくざの側から見れば、この案内役のやくざは、仲間を裏切る最も嫌われた存在でした。一般には「二足の草鞋」と呼ばれていました。
話を戻して、忠次郎が極秘で開帳したお辰婆の賭場が急襲されたという事は、内部に密告者がいたことになります。赤城山に集まった国定一家は、その日賭場に顔を出さなかった子分の板割の浅太郎を疑いました。浅太郎の叔父は、八寸の勘助という、やはり忠次郎とは苦楽を共にした子分でしたが、この勘助も、当日賭場にはいませんでした。元二足の草鞋の経験を持つ勘助が密告の張本人だろうという事で結論は一致しました。共謀したと疑われた浅太郎は、呼び出されますが当然否定します。しかし一同は許さず、無実の証に裏切り者の勘助の首を取ってこいと強要します。このあたりは完全に講談になってしまい申し訳ありませんが、まあ史実ではないにしろ、あまりに有名な話なもので、ご紹介する事にしました。お許し下さい。
結局、浅太郎は、叔父の勘助を無実と知りながら泣く泣く討ち、自分の潔白を証明します。多くの義賊伝説では、忠次郎は止めたとなっていますが、たぶんそれまでの忠次郎の行動からして、この勘助殺害事件の時、先頭に立って実行したのは、忠次郎自身だったろうと容易に想像できます。それほどに忠次郎は裏切りを徹底して許さない性格でした。勘助には太郎吉という幼児がおりました。この子を背負い赤城に戻った浅太郎の話が、あの東海林太郎(しょうじたろう)の有名な「赤城の子守歌」です。しかし、現実は厳しい。勘助、太郎吉は1842年の同日に死亡したとする正しい記録が現存しています。つまり残酷にも国定一家は深夜に勘助宅を襲った際、隣で何も知らず寝入っていた太郎吉をも無惨に切り殺していたわけです。
余談ですが、何と戦後世代でテレビっ子と呼ばれた時代の私なのに、歌手の東海林太郎を良く覚えております。直立不動で丸いメガネをかけて歌う「赤城の子守歌」は、よくモノマネの対象になったものでした。  
八寸の勘助殺害には、さすがに関東取締出役も本気で大捜査網をしき、国定一家の壊滅作戦を展開しました。国定忠治が愛刀小松五郎義兼に語りかける名場面は、この時の話で、この時実質的に国定一家は解散となり子分達はちりぢりになって赤城山から去っていきました。大々的な捜査網の前に、国定一家の中心人物が次々と捕縛されました。最古参の子分の日光の円蔵もこの時期に捕まり拷問の果てに獄死しています。悪運の尽きない忠次郎はこの時もかろうじて逃げ切りました。
放浪の果てに、ふたたび上州に戻ってきたのは1846年(弘化3年)の事でしたから忠次郎は、またもや4年間の長い期間逃走生活を続けていた事になります。上州に戻った忠次郎には、もはや過去の栄光の面影はまったくありませんでした。縄張りも境川の安五郎の物となりました。一家を形成するほどの実力を失った忠次郎は、その後数年間をおとなしく過ごしたのちに、1850年(嘉永3年)痛風にかかり、愛人宅で養生をしている最中に逮捕されました。
国定忠治こと長岡忠次郎は、伊勢崎で簡単な取調を受けた後に江戸に送られ正式に勘定奉行所で「はりつけ」の刑を言い渡されました。忠次郎は、いくつかの凶悪犯罪の罪状で訴えられていましたが、そのうち最も重い関所破りの罪状で有罪になったのでした。当時は情状の余地のある殺人事件より、問答無用の大犯罪の関所破りのほうが結果的に罪が重かったのです。関所破りの場合、その管轄地で刑を執行される事になっておりましたので、忠次郎は上州と信州の境の大戸の関に護送されました。大の字にはりつけされ左右から交互に何度も突き刺すという残酷刑で忠次郎が処刑されたのは1850年(嘉永3年)12月21日、忠次郎41歳の事でした。
忠次郎の刑に連座して、何人もの人物が各種の刑にあったと記録には残っています。そのうち最も重い罪に問われたのが田部井村の名主でした。名主でありながら忠次郎と組んで悪行を行ったとして打ち首の刑になっています。
当時の刑罰で、最も重いのが「はりつけ」でした。このような極刑を受けるのは非常に悪質な犯罪を犯した者に限られていました。権力機構に挑戦した者などが、この刑をうけましたので、後の義賊伝説は案外、忠次郎が「はりつけ」の刑に処せられた事が最大の理由になっているような気がします。「はりつけ」に続く重い刑が「死罪」でした。死刑には違いありませんので、実際に軽重はありませんが、こちらは首を切り落とす死刑でした。悲惨なのは残された家族の財産も全て没収となる事で、それがない「斬罪」とは区別されていました。「遠島」は流罪の事で、罪の重さからいえば死刑とたいして変わりませんでした。「重追放」は、御構場所(おかまいばしょ)と呼ばれる地域への出入りを禁止される罪で、ほぼ当時の都市部の大半が御構場所に指定されていました。実際には旅姿であれば許されるという便法もありましたが、特別にそれも禁ずる付帯事項付きの追放という場合もありました。「中追放」「軽追放」という範囲を比較的ゆるめた追放もありました。「過料」と呼ばれるのは、その名の通り罰金刑です。現代でも過料という物がありますが、こちらはスピート違反などの軽い禁止事項に違反した人に科せられる物で刑罰のように前科者になる訳ではありませんが、当時の過料は、現代の罰金にあたる刑事罰で、当然前科者になってしまう重い罪です。「押し込め」とは武士の場合の蟄居にあたる物で、自宅に謹慎し外に出るのを禁じる罰です。通常は短い期間に限定された刑罰ですが、中には重罰の終身押し込めや、反対に形式的に謹慎していれば良いだけの期限も定めない軽い押し込めもあります。そのほか現代にないユニークな刑罰として、直接犯罪に加担しなかったけれど、近所に住んでいながら注意を怠ったなどといった道徳的罪で、特に償いは求められない、「急度(きっと)叱り」や、そのまた軽い物で「叱り」といった刑もありました。もちろん軽微とはいえ有罪刑ですから、「叱り」を受けた者は、いわば前科者です。したがって、現在の「不起訴処分」に似てはいますが根本的に正反対の物です。「不起訴処分」の場合は、「処分」といいながらも実状は、罪状の問えない場合や、起訴しても有罪にできる可能性の少ない被疑者の取扱いの場合に使う便法で、実質的には裁判により無実が確定し捜査の不備を問われるのを避ける時に用いる物で、被疑者は完全な無実です。これ以外にも「引き回し」「獄門」「たたき」「預け」などといった各種の刑罰があります。「切腹」「閉門」などという刑があるのは武士の場合です。  
長岡忠次郎が、はりつけの刑にあってから18年後に徳川政権は崩壊し、明治維新となりました。忠次郎が刑死した当時の反応は、極悪人の最後を語る江戸の河原版の話が記録に残る程度で詳しくは不明ですが、たぶん現在に伝わる義賊伝説は無かったろうと思われます。
長岡忠次郎が、国定忠治として脚光を浴びたのは、あの有名な、「講釈師見てきたような嘘をつき」の川柳で有名な宝井馬琴の孫弟子で、明治の講談師宝井琴凌という人物が「馬方忠治」という講談をヒットさせたのが始まりでした。ちなみに私も「講釈師」を自称してはおりますが、「嘘っぽいけど根拠のある話」に徹しようと心掛けていますので、口から出任せはやりません。もっとも結果的に間違っている場合というのはありますが。忠治物は、講談で次々と当たり「岩鼻代官殺し」「赤城の子守歌」などよく知られる話が創作されました。もちろん、それは大半が長岡忠次郎の実像を完全に離れた虚像でしかありませんでしたが、庶民はスーパーヒーロー国定忠治に酔いしれました。やがて講談を離れた国定忠治の虚像は小説となりベストセラーとなり、歌舞伎になり五代目尾上菊五郎により大ヒットしました。大正に入り大衆文学のヒーローとなり、地方回りの劇団の出し物になり、新国劇に登場し、松竹キネマの初トーキー「浅太郎赤城の唄」になり主題歌を歌った東海林太郎のデビュー曲となりレコーディングされた八木節の歌詞になり・・・最近では少々人気も失せましたが、未だに赤城山と言えば国定忠治と言われる人気は衰えていないようです。群馬県の誇る詩人萩原朔太郎も国定忠治に入れ込んでわざわざ自転車で忠治の墓まで出かけて行き読んだ詩があります。
さて、長岡忠次郎を多少の美化を交えて遠慮気味に表現した最初の人物は、以前ご紹介した羽倉簡堂という人物でした。彼は何と関東取締出役の大元締め関東代官から勘定吟味役まで勤めた忠次郎に取っては正反対の立場の人物でした。なぜその彼が、極悪人の忠次郎を美化するような「赤城録」「赤城逸事」などという物を書いたのでしょう。天保の飢饉のおり、縄張りの村人を救った忠治の話を聞き、代官職にありながら、多くの領民を死なせた経験を持つ羽倉簡堂が赤面してその伝記を書こうと思い立ったという話がありますが、本編の執筆中に群馬県在住の歴史好きな仲間が「簡堂は老中水野忠邦にめをかけられ大役に就いた。しかし水野が失政を問われて失脚すると、連鎖して職を辞したとある。その辺の個人的うらみを幕府に持っていた。」という個人的な私恨で、幕府の失政と義賊国定忠治を並べた物を書いたのではという興味深い説を寄せてくださいました。言われてみればたしかに、羽倉簡堂が「赤城録」を執筆し始めたのは失職後の事ですので、なかなか鋭い考察ではないかと思います。氏からは、この際貴重な資料を送っていただき、参考資料とさせていただきました。
ほかに江戸時代、忠次郎を書いた人物には深町北荘という人物が「博徒忠治伝記」「忠治引」という物を残しています。  
 
映画1 「国定忠次」

(1960年、東宝、新藤兼人脚本、谷口千吉監督作品)
天保7年
日照りや飢饉が続き、農民たちは苦しんでいたが、代官松井重兵衛は、圧政を持って権力を保とうとしたため、国定村の農民たちは、家を捨て田を捨て、村を捨てようとしていた。
そんな腹を空かせた子供が、ちょうど昼食の握り飯を食べていた股旅姿の三人に近づいて来たので、股旅の一人が握り飯を一つ与えると、大人たちまでが全員、その子供の握り飯に飛びかかって来たので、あんたたちは国定村の人ではないのかと股旅の一人が聞く。
農民たちはそうだと答え、自分たちも住み慣れた村を捨てたくはないが、このままでは生きて行けないのだと言う。
股旅たちは、自分たちが持っていた握り飯を全部農民に与え、それで粥にでもしろと諭すと、焚き火を消し、すぐに国定村に戻る。
その三人の股旅こそ、故郷国定村に戻って来た忠治(三船敏郎)、板割浅太郎(夏木陽介)、清水頑鉄(藤木悠)だった。
飲み屋「鮒吉」に入った目明しの三室の勘助(東野英治郎)は、先客で目明し仲間の時三郎(小杉義男)から酒を勧められるが、自分は渋茶で良いと断る。
店の女とく(新珠三千代)が、村中に米がなくて農民が苦しんでいるのに、米の水など飲めないんですよねと、時三郎への当てつけを込めて勘助に語りかける。
そんな「鮒吉」に現れたのが頑鉄。
気づいたとくは、表に出て、半年遅かったよ。忠治親分の家、大変なんだよと頑鉄に耳打ちする。
その頃、忠治は自宅に戻って母親に声をかけていたが、返事がないので不思議に思っていた。
すると、妹のきく(水野久美)が出て来たので、声をかけた忠治だったが、おかしな事にきくは忠治に興味を示さないどころか、嫌々、堪忍!重兵衛の鬼畜生!と怯える素振りをすると、急に、仏壇に大量の野草を供えているではないか。
きくは明らかに、正常ではなくなっていた。
どうやら、母親も亡くなったらしいと知り、呆然としていた忠治の元に、とくを連れてやって来たのが頑鉄だった。
一方、自宅に戻って来た三室の勘助は、玄関前で自分の名を呼ぶ声がしたので誰かと思うと、甥の板割浅太郎だと気づく。
浅太郎の方は再会をうれし気に話しかけて来るが、十手を持つ身となった勘助の方は、やくざに身を落とした甥を歓迎出来るはずもなく、忠治には関八州に凶状所が出回っているので、黙って国を出て行くように親分に伝えろと言う。
勘太郎を懐かしがる浅太郎には、会いたけりゃ、堅気になって来いと叱りつけ、勘太郎とお前と三人で静かに暮らそうじゃないかと諭すが、浅太郎は聞く耳を持たなかった。
その頃、母親の墓参りをした忠治は、名主の宇衛門やきくと夫婦になると言っていた与作はどうしたんだ?自分は、家族に累が及ばないように人別帳から名前を消したのに…ととくに聞いていた。
そこに、野草を持って来たきくは、松井重兵衛に手篭めにされた為、気が触れ、母親も心痛で亡くなったと、とくから教えられる。
その頃、国定村の農民たちの一部は集まって、代官所の蔵の中に百俵もあると云う米俵を奪う為に一揆を起こそうと話し合っていた。
そんな会合に顔を見せたのが忠治。
会合に出席していた与作(三島耕)を外に呼び出すと、何か俺に言う事はねえのか?きくを女房にしたいと言って来たんじゃねえのかと迫り、自分一人では何とも出来なかったと謝る与作を投げ飛ばすのだった。
その後、忠治を迎えた名主宇衛門(山田巳之助)は、蔵の中に案内すると、何とか御助け願えないかと頼む忠治に、気の毒だが諦めるんだ。今年は、この通り、空っぽだと蔵の中の様子を見せる。
しかし、忠治は、下の穴蔵も空っぽでしょうか?と口にしたので、宇衛門は、私を疑うのかい?と不快感を示す。
忠治の母親の墓の所にいたきくに会いに来た与作だったが、もはや、自分の事すら覚えてない様子のきくを観ると、泣けて来るのだった。
その夜、与作は一人で代官所に忍び込む。
忠治は、自宅に集まった浅太郎や頑鉄に、昔の国定一家を盛り上げるんだ。今さら代官を叩き斬ったところで、村が元に戻る訳でもあるめえと諭していた。
昔、親分に一方ならぬ恩義を受けている叔父貴の勘助の口から、親分の事が外に漏れる事はないと報告した浅太郎に、忠治は、叔父貴の元へ帰れと説得する。
忠治は、気が触れたきくの様子を見るに絶えかね、ヤクザな兄を持ったばかりに、妹はこのざまだ…と自嘲するが、その時、血まみれで転がり込んで来たのが与作だった。
仇を討ちに代官所へ…、忠治、仇を討ってくれ…と言ったきり、与作は事切れる。
その与作の遺体の側に近づいたきくは、一瞬、正気が戻ったようで、忠治が目を離していた隙に、与作が持っていた刀を手にすると、その場で自らの胸を突き刺し、与作と寄り添うように息絶える。
そこに入って来たのが、最前から中の様子を聞いていた日光円蔵(加東大介)で、民百姓の為に代官をやっつけましょうと忠治に訴えかける。
忠治は覚悟を決め、円蔵、頑鉄、浅太郎を引き連れ代官所に向かうと、屋敷の中に斬り込み、名乗りを上げ、松井重兵衛を呼ぶ。
すると、女と一緒にいた松井重兵衛は、卑怯にも女を盾にし床の間の方へ下がると、そこに柵が降りて来て松井の身体を防御する。
松井は、その柵の中から「今にさらし首にしてやる」と捨て台詞を残すと、壁のどんでん返しから逃げさってしまう。
忠治は、蔵の扉を壊すように円蔵に命じる。
忠治一味が代官所を襲ったと云う知らせを受けた時三郎はすぐに駆けつけるが、三室の勘助の方は、妙にのろのろと準備に手間取り、なかなか代官所に駆けつけようとはしなかった。
そんな中、忠治たちを援護しようと農民たちが代官所になだれ込んで来る。
そんな農民たちに、忠治は、扉をこじ開けた蔵の中に積まれていた米俵を、次々に投げ私、お前たちの米だ、持って行け!と声をかける。
農民たちは、米俵を手にして歓喜の声を上げる。
そうした様子を、庭の片隅から三室の勘助が、にこやかに見つめていた。
忠治は、これで、自分たちは関八州相手に挑戦状を突きつけたようなものだ。与作ときくの弔をしてやると言い、後日、その言葉通り、二人の棺を担ぎ、野辺の送りをしてやる。
その時、棺桶を担いでいた忠治の前に出て挨拶をし、忠治の代わりに棺桶の片方を担がせてもらったのが、三ツ木文蔵(丹波哲郎)だった。
その後、忠治一家は、賭場荒らしなどで得た金を、貧しい農民たちの家にばらまき始めるが、それを知った役人たちに、農民たちが次々と捕縛されてしまう。
無人の忠治の実家にも役人たちが乗り込んで来る。
役人と云うのは地方統率するのが役目で、博徒ごときにやられてたまるかと言う松井重兵衛の逆襲だった。
忠治たちが集まっていた小屋の中では、円蔵が、赤木の山に籠りましょうと進言していた。
その小屋も、役人たちに取り囲まれていた。
忠治は円蔵の言葉に従う事を決意、全員、小屋から飛び出すと、役人たちに斬り掛かってちりじりに別れる。
忠治は、「鮒吉」のおとくにしばらく赤城山に籠ると伝えに来るが、そこも役人に踏み込まれたので、大立ち回りの末、逃亡する。
赤木山に籠って1年
松井重兵衛の名で書かれた高札が村中に立ち、山の麓は蟻の這い出る隙もないほど固められていた。
山に籠った忠治一味の人数は、当初の半分近くに減ってしまっていた。
浅太郎と文蔵は、長らく風呂に入っていないので、互いの垢の多さを自慢しあっていた。
その時、侵入者を知らせる鳴子が鳴ったので全員緊張するが、近づいて来たのは、忠治たちに食べさせようと、米や野菜を担いで来た仁衛門(佐田豊)ら、村の農民数名だった。
おとくから預った着物も忠治に手渡す。
忠治は感謝し、村の衆に、忠治はこの通り、ぴんぴんしていると伝えてくれと農民たちを見送る。
しかし、山を下りる農民たちの動きは、山の中に潜んでいた役人たちが目撃していた。
頑鉄は、大根を洗いながら、女の肌を思い出していたが、その時、鳴子が鳴ったので緊張する。
先ほど、山の途中まで農民たちを送って行った浅太郎が戻って来て、三本杉の辺りで役人に仁衛門たちが捕まったと知らせに来る。
それを聞いた頑鉄ら、すぐに助けに行こうとするが、円蔵、それじゃあ、敵の思う壺じゃねえかと嗜め、忠治も「今日は久しぶりに、人間らしいものが喰えそうじゃねえか」と、作り笑いを浮かべ言い残すと、黙って小屋の中に入ってしまう。
しかし、その後、忠治は一人で山を降りて行く。
それを見抜いていた円蔵は、頑鉄に後を付いて行かせる。
頬冠りをした忠治は、役人たちが固めている赤城山の登り口まで降りて来ると、周囲をうかがう。
町に出た忠治は、「鮒吉」の様子をそれとなくうかがうが、目明しの時三郎たちが中に入る所を見かけたので、遠ざかろうとしたが、そこに役人たちが夜回りにやって来たので、ひとまず、近くにあった髪結い「碇床」に入り身を隠す。
碇床の又八(八波むと志)は、忠治に気づくと、捕まった仁右衛門は百叩きになったと教える。
取りあえず、命は助かったらしい事を知り、胸を撫で下ろした忠治だったが、又八は、おとくさんには役人は手を付けないとも教える。
その時、目明しの子分春吉(大村千吉)がふらりと店の中に入って来る。
忠治は鏡に向かっていたが、春吉は、最近鳥目になって行けねえなどとぼやき始める。
又八が、鳥目には猿の黒焼きが良いらしいぜなどと相手をしていると、春吉は、そのまま外を通った仲間の熊の名を呼び、店の外に飛び出してしまう。
助かったと又八が安堵していると、鳥目の男が熊などと仲間の顔を見分けるはずがない。あいつはすぐに戻って来るぜと忠治が言う通り、春吉はすぐに戻って来ていろりの側に居座り始める。
又八は、忠治の顔を剃るカミソリの手が震え始めるが、春吉も震えているようだった。
やがて、春吉が突然、忠治に飛びかかって来て、役人たちが店の中になだれ込んで来る。
忠治は、春吉を交すと表に飛び出し、役人たちと戦い始める。
役人たちは、次々とたがを投げつけて来る。
騒ぎに気づいたおとくも店の前に姿を表す。
役人たちは、取り囲んだ忠治に棒を投げつけて来る。
そんな忠治に見かねた又八が、二階に上がれと階段を示す。
忠治は、二階に駆け上ると、天井を崩し、屋根の上に上がる。
それを下から心配そうに見上げるおとく。
そこに駆けつけて来た三室の勘助は、梯子を使って屋根の上に上ると、「忠治御用だ!」と十手を差し出しながらも、下の捕手たちには「裏へ廻れ!裏は手薄だ!」と声をかけながら、目では、忠治に裏へ逃げろと教えていた。
それに気づいた忠治は、素直に裏に飛び降り、まんまと逃げ仰せるのだった。
そうした様子を、見物人に混じって下から観ていたのが頑鉄だった。
翌朝、心配した子分たちが待つ赤城山の隠れ家に、忠治が無事戻って来る。
先に戻っていた頑鉄は円蔵に、忠治を窮地に追い込んだのは三室の勘助だったと、観たままを報告していた。
浅太郎の姿が見えないので忠治が心配すると、見張りに立っていると言う。
皆を持ち場に付かせた忠治は、円蔵だけに、三室の勘助から助けてもらった事の次第を打ち明けていた。
そして、戻って来た浅太郎に、忠治は、たった今、盃を返す。訳は勘助の所に帰れば判ると言い出す。
円蔵も、大人しく帰れと言い添える。
屋根の上での詳しい事情を知らなかった頑鉄は、忠治と円蔵が奥に引っ込むと、おめえの伯父は酷い奴だ。勘助の父は、昔、忠治親分に恩を受けていたのに…と、浅太郎を責めるような口調で言う。
浅太郎は、そんな頑鉄に、何とか親分に詫びを入れて、親分の側に置かしてもらえるようにしてくれと頭を下げるが、その親分に煮え湯を飲ましたはなぜだ?悪いのは伯父の勘助だとさらに責める。
覚悟を決めた浅井太郎は山を降り、途中、見張っていた役人に気づくと、木の枝に身を隠しながら下山する。
その頃、忠治と円蔵は、先立った仲間たちの墓参りをしていた。
三室の勘助は、忠治の事をあれこれ知りたがる勘太郎(十八代目中村勘三郎)を寝かしつけていた。
一人、寝酒を飲もうととっくりに手を伸ばした所に帰って来たのが浅太郎。
勘助は、甥っ子の姿を見ると、忠治親分、無事に戻ったか?と笑顔で聞いて来るが、浅太郎は、そんな勘助に刀を突き刺す。
勘助は、苦しい息の下から「俺は博打打ちは嫌いだ。三尺高い所で死ぬんだ。親分には、精一杯は向かってくれと言ってくれ。裏が空いていると言ったのは、親分を逃がす為だった…」と言いながらも、自ら、浅太郎の刀に斬られるのだった。
その頃、食事をしながら、今子分は何人残っている?と忠治が聞くと、頑鉄は58人ですと答えていた。
その時、鳴子が鳴り、名主の宇衛門がやって来る。
宇衛門は、八州の役人たちも、親分には根負けだよと、忠治にお愛想を言い、自分は今日、農民の総代として来たのだが、一揆が起きます。農民たちはいきり立っている。役人たちは、待ってましたとばかりに、連中をさらし首にするだろう。ここらで、山を降りてくれねえかと言う。
それを聞いた忠治は、自分も、そろそろ山を下りる潮時だと感じていたが、一揆が起こると云うのは確かかね?と念を押す。
その後、三ツ木文蔵に途中まで送らせるが、文蔵は宇衛門に高笑いをして帰る。
忠治も、宇衛門は狸だと睨んでいたが、ここままでは、いずれ押し込み強盗でもやらなければいけなくなる事は見えており、一揆が起こるのを信じる事にしようと自分に言い聞かすのだった。
そこに、勘太郎を背負い、さらしに巻いた荷物を持って帰って来たのが浅太郎。
さらしの中は、勘助の首で、もう一度、盃をくれと迫る浅井太郎に、忠治はバカやろう!早まったぞ!と怒鳴りつける。
俺はおめえを堅気にしたかった。
屋根の上で勘助から助けてもらったのは百も承知だと忠治は言うので、浅太郎は驚愕し、なぜそれを教えてくれなかったと迫る。
訳を話せば、おめえは山を下りねえじゃないかと忠治も悔やむ。
今こそ、屋根の上の次第を知り、自分の勘違いを悟った頑鉄は、その場に両手を付き、浅井に伯父貴を斬らせたのはこの俺だと、頭を垂れていた。
しかし、一旦は刀に手をかけた浅太郎だったが、5年も同じ釜の飯を食った兄弟分を斬る事など出来るはずもなかった。
忠治は、一生の不覚だった。許してくれと謝ると、三室の慶明寺へ行って、ねんごろにともらってやれ。勘太郎はこの忠治が命を捨てても預ったぜと浅太郎に言い聞かす。
それをじっと聞いていた浅太郎と頑鉄が、いきなり自害しようとしたので、バカ!誰が勘助の念仏を唱えるんだ!と忠治は叱りつける。
その後、忠治は頑鉄に、みんなを呼び集めるよう命じる。
頑鉄はホラ貝を吹いて、山の中に散っている仲間を呼ぶ。
集まった仲間に向かい、別れの時が来たと挨拶する忠治。
仲間たちはそれを聞き、泣き出すが、忠治はそんな連中を叱りつけ山をめいめい降りるよう言って聞かせる。
麓の神社では、松井重兵衛の稽古に明け暮れていた。
浅太郎は、勘太郎を忠治に預けると、勘助の首を抱えて山を降りて行く。
頑鉄は、親分に付いて行くと言う。
その時、空を見上げた忠治は、「おお!雁が飛んで行かあ」と口にする。
山水を口に含み、刀に吹きかけた忠治は、「万年溜めに鍛えし技もの。忠治の命はおねえに預けたぜ!」と語りかけると、勘太郎を背負って山を下りる事にする。
いつの間にか目覚めていた勘太郎は「早く、お父ちゃんの所に帰りたい」と言うので、忠治はしんみりしてしまうが、「俺h、斬らなければいけんえ奴が一人いる」と言うと、円蔵が承知していると云う風に「おやんなさい。もう止めねえ」と後ろ押しする。
役人たちは、忠治のねぐらに迫って来ていた。
「鮒吉」には、「忠治が山から降りなさった」と知らせに来た男がいた。
山を下りる途中、背負われていた勘太郎は、捕手たちが持つ「御用提灯」の灯りの群れを見て、「おじちゃん、あの火、何?」と聞く。
忠治は「あれは狐の嫁入りだ。目をつぶって、しっかりおじちゃんの背中に捕まっているんだよ」と言い聞かすと、迫って来た捕手たちに斬り掛かる。
目をつぶってはいない勘太郎が、それを見て「一ちゅ」「二ちゅ」と、たどたどしい口調で数え上げて行く。
頑鉄と円蔵も山を降り、待ち受けていた役人たちと斬り合いになる。
山の登り口にたどり着いた忠治に、おとくが駆け寄って来たので、これ幸いとばかりに、勘太郎を預けると、憎っくき松井重兵衛との一騎打ちに向かう。
屋敷の中では松井重兵衛が槍を構えて待ち構えており、外は雷鳴が轟き始める。
両社の戦いは五分だったが、裏手の納屋の所に場所を移した時、松井重兵衛の槍が、納屋の中にかけてあったたがの束に引っかかって身動きができなくなる。
思わず、小刀に手を伸ばした松井重兵衛だったが、その腹を、忠治の剣が貫く。
そこに、勘太郎を抱いたおとくが駆けつけて来て、これで、与作さんもきくちゃんも冥土に行けるよと語りかけて来る。
そして又、勘太郎を忠治の背中に背負わせながら、お前さんと一緒に行ける勘太郎ちゃんがうらやましいよと、おとくは呟くのだった。
そんなおとくに、忠治は、俺の故郷は国定村だ。必ず帰って来るぜと約束して別れる。
後日、二股の道にやって来た忠治は、背中の勘太郎に、どっちに行こうかと聞く。
すると、慣れたように、又、傘で決めるんだろう?と返事をする勘太郎。
表が右、裏が左。
忠治は、いつものように、三度笠を放り投げると、さて、この道はどこへ行くんだろうと呟くのだった。

三船敏郎が国定忠治を演じている事は、この作品ではじめて知った。
「万年溜めの池の場面」など、部分的には子供の頃から何となく知識がある国定忠次の話だが、その前後の話となると、全く知らないと言って良かった。
この三船敏郎版が、どの程度、国定忠次の話を再現しているのかは知りようもないが、何となく、大まかな話は理解出来たように思う。
そう言う意味で、国定忠治初心者の入門書用としては、それなりに価値がある映画だと思う。
三船の忠治は、正直、最初から最後まで、まなじり決し、力みかえったパターン化された三船であり、あまり魅力的とは言いがたい。
頑鉄役の藤木悠にしても、浅太郎を演じる夏木陽介にしても、はたまた、三ツ木文蔵を演じている丹波哲郎にしても、皆、若いばかりで、いかにも頼りなさげで印象も弱い。
剣劇シーンは多いが、いかにも通俗活劇と言った大味な印象以上のものではなく、特に、魅力的なシーンがある訳でもない。
この作品で一番見所は、当時の中村勘九郎(現:18代目中村勘三郎)が5歳児くらいで三船に背負われて芝居をしている所だろう。
その顔は、今の勘太郎の赤ん坊時代にそっくりである。
以前、テレビの勘九郎一家のドキュメンタリー番組で、弟、七之助が、父親の赤ん坊時代の写真を見せられ、お兄ちゃんと答えていた事が思い出される。
忠治の妹きくを演じている水野久美も若く、ちょっと見、誰だか判らないくらい。
気が触れた役を演じているのが珍しいが、このせいもあってこの作品のソフト化やテレビ放映は難しいはず。
クライマックスの、藤田進の槍と戦う三船の姿は、黒澤の「隠し砦の三悪人」をつい連想してしまう。又、赤ん坊を背負って山を下りる途中、捕手たちと戦う三船の姿は、後年の「座頭市血笑旅」(1964)を思い出させる。まず間違いなく、「座頭市血笑旅」は、国定忠次のこのエピソードを下敷きにしていると思われる。
三室の勘助を演じる東野英治郎、碇床の又八を演じる八波むと志、目明しの子分春吉を演じている大村千吉などが印象に残る。
 
映画2 「国定忠次」

「国定忠次」は大正13年、新国劇の沢田正二郎主演で、牧野省三が撮ったのが最初の映画化だとされているが、なんといっても昭和2年に封切られた大河内伝次郎の「忠次旅日記」(日活 ・伊藤大輔監督)こそ時代劇映画の白眉として、いつまでも日本映画史に残るものであろう。
残念ながらこの名画を私は知らないが、「甲州殺陣編」「信州血笑編」「御用編」の3部に分かれ、ことに「御用編」において、落魄(らくはく)の身になってからの大河内伝次郎の演技は、「月明に乗じ、夜をこめて、一路国定村へ…」という名タイトルとともに、いつまでも当時のチャンバラ ・ファンの心に残っていたという。
この他に大河内伝次郎は何度も国定忠次を演じているが、私が最初に見たのは「旅姿上州訛」(昭6・日活・伊藤大輔監督)で、これは山形屋藤蔵をこらしめる場面のみを中心としてつくられたものであった。
二足の草鞋(わらじ)を履く山形屋に娘を身売りに出した貧農のじいさんが、当の山形屋の子分たちにその金を奪われ、首をくくって死のうとするところを忠次に助けられる。そして例の有名な山形屋への乗り込みとなり、結局はその金を取り戻した上に、わずか2分で証文を反古(ほご)にさせて、父娘を郷里に帰すというストーリーで、山形屋藤蔵には、後年の名バイプレーヤー山本礼三郎、その内儀には伏見直江、そして娘にその頃の名花、桜木京子が扮していた。
結局は村外れまで追いかけてきた藤蔵一味を残らず倒してしまうが、このストーリーは昭和10年の「国定忠次」でも踏襲されていた。ただこの時は、秋葉の祭りの済んだ後の、何となくうら淋しい1軒の宿屋を中心にした、詩情あふれた物語の中の、ひとつのエピソードとして映像化されていた。これは山中貞雄の監督で、人は「グランド ・ホテル」(昭7、米、エドマンド・グルーディング監督)の模倣だとしているが、これ程までに消化していれば、山中自身の作品としても差し支えないとする人も多い。
これより先、昭和8年には片岡千恵蔵も「国定忠治」(千恵プロ・稲垣浩監督)を撮っているが、あまり記憶していない。なお、この頃からのものを境として、忠次の「次」の字が「治」に移ってきているが、どちらが正しいか、今もって分からない。
昭和12年の阪妻が演じた「国定忠治」(日活・マキノ正博監督)は忠治と板割浅太郎、そして勘太郎坊やの話が中心となっていた。浅太郎には尾上菊太郎が、勘太郎坊やには、日活のバイプレイヤー香川良介の子どもで、当時子役の旗桃太郎が、そして御室(みむろ)の勘助―忠治に疑いを抱かせ、浅太郎に首をはねられた目明かし―には志村喬が扮していた。阪妻の忠治は威風堂々としていて、少しも追われる身を感じさせなかった。
亡くなった東海林太郎の唄う「赤城の子守唄」はナツメロ中の名曲として、今の青年たちもよく口ずさんでいるが、同じ東海林太郎のこの映画の主題歌だったか、後年の同じマキノ正博監督の「忠治子守唄」の主題歌だったか、切々たる忠治の心情を唄ったこの「忠治子守唄」は今は知る人は少ない。
台北の松山空港が今は桃園に移動したと聞いているが、かつて台北から南へ車で1時間ほどの距離にあるその桃園という街の食堂で、その曲を鳴らしていた。懐かしさのあまり、昼食を頼むのも忘れて、そのレコード番号を聞き、後日台北市を探したが、もう絶版になっていてがっかりした。
その後、東海林太郎が死去し、その追悼メロディ集が発売されたが、その中に入っていたのでホッとした。「ねんねんころりと寝顔をのぞきゃ夢で泣くかよ目に涙捨てた赤城が
恋しじゃないが男忠治もついほろり…」。この曲をカラオケで歌ったのは私の周辺では友人の谷野プラント社長ただひとりであった。昭和の生まれだから若いと威張っているが、彼も案外古い男であった。
戦後は忠治はただのゴロツキだったというバクロ調の映画が一時流行して、例えば阪妻の「国定忠治」(昭21・大映・松田定次監督)や大河内伝次郎の「赤城から来た男」(昭25・大映・木村恵吾監督)―もっともこれは忠治とは称していなかったが、彼をモデルにしたことは間違いない―などが流行した。これらはあまり格好のよい忠治ではなかった。
やがてチャンバラが解禁になって、忠治ももとの民百姓から慕われる親分に戻り、千恵蔵の「国定忠治」(昭33・東映・小沢茂弘監督)や三船敏郎の「国定忠治」(昭35・東宝・谷口千吉監督)などが再びさっそうとスクリーンをにぎわした。しかし、いくらチャンバラ全盛時代を迎えたとはいっても、「任侠中山道」(昭35・東映・松田定次監督)のように、千恵蔵次郎長と右太衛門忠治が斬り結ぶというような、荒唐無稽なお話はいただきかねた。
 
映画3 「忠次旅日記」

1927年(昭和2年)に日活大将軍撮影所で製作された日本のサイレント映画、時代劇である。第1部「甲州殺陣篇」、第2部「信州血笑篇」、第3部「御用篇」に分かれる。監督は伊藤大輔、主演は大河内傳次郎。「忠次三部作」または「忠次三部曲」と総称される。
「国定忠次は鬼より怖い。にっこり笑って人を斬る」と歌われた幕末の上州(現群馬県)の侠客国定忠次は、悪代官をこらしめ農民を救う英雄として講談、浪曲や大衆演劇で人気を集め、大正時代には澤田正二郎演じる新国劇の舞台や尾上松之助主演による映画化が行われていた。
1926年(大正15年)に日活に入社した伊藤大輔は、同年の時代劇映画「長恨」でコンビを組んだ第二新国劇出身の若手俳優、大河内傳次郎を使って従来の颯爽とした英雄忠次像を廃し、子分に裏切られて破滅していく人間くさい忠次像を映画化しようとした。
だが、経営陣は、松之助が演じた従来の忠次像にこだわり許可しなかったので、止む無く伊藤は第1部「甲州殺陣篇」でヒーローとしての忠次を描いた。幸い好評を得たので、その実績をもとに本来のテーマである第2部、第3部を製作した。伊藤本人の言を借りれば「無頼漢の忠次とは何事だと横槍が出て、仕方なしに「血笑篇」と「御用篇」のテーマは残して、最初に「甲州殺陣篇」と言う無意味な立ち回りを撮ったんです。その立ち回りが当たったんで、松之助さんも病没したことではあるし、まあ続けてあともやれということで……そんな時代の産物でしたよ、あの忠次は」というように、第1部は監督自身あまり愛着を持っておらず、本来のテーマを元にした第2部、第3部が重要なのであった。それでも三作とも、外国映画の影響を受けた斬新な演出、動きのあるカメラワーク、御用提灯の効果的な使用、大河内の迫真の演技、激しい立ち回り、瑞々しいリリシズム、字幕の巧妙な使用など、従来の時代劇と違う新しさが評価された。
1927年3月第1部封切、8月第2部封切、12月第3部封切。大好評でたちまちのうちに監督・伊藤大輔、主演・大河内伝次郎、撮影・唐沢弘光のゴールデントリオは人気が集まり、最新の映像表現で、続く「新版大岡政談」「興亡新撰組」「御誂次郎吉格子」などのサイレント時代劇の名作を世に送った。当時の評を見ると「鮮烈なタッチのカッテイングと悲壮感」(第1部)「胸を打つセンチメンタリズムのほとばしり」(第2部)「灰色のニヒリズムと悲愴美」(第3部)と書かれていて、後の日本映画を支える人材達はこの映画に少なからず影響を受けており、その後の日本映画の歴史を変えたエポックメーキングな「時代劇の古典」として重要な地位を占めている。
その後、伊藤監督自身が総集篇を作るときに第1部を廃棄、残った第2部と第3部のフィルムも散逸し、断片しか残されない「幻の名作」とされていたが、1991年(平成3年)12月第2部の一部と第3部の大部分のフィルムが広島県の民家で発見され、東京国立近代美術館フィルムセンターで復元ののち1992年(平成4年)10月10日、11日、同センターで公開された。
あらすじ
第1部「甲州殺陣篇」8巻
甲州の山中、捕り手に追われ谷川に飛びこんだ忠次は、水晶掘りのお玉と三吉の姉弟に救われる。二人は遺産の水晶鉱山を、叔父で顔役の文太と十手持ちの博徒八幡屋兵蔵に奪われ、不自由な暮らしを強いられていた。その後、文太と兵蔵がお玉を拉致し大金を奪った事に怒った忠次は、水晶商人に変装して八幡屋のもとを尋ね、正体を明かして姉弟の危機を救う。その帰り道に待ち伏せていた悪人を倒し、姉弟に別れを告げていずこともなく去っていく。
第2部「信州血笑篇」8巻
悪代官を斬って赤城山に立てこもった忠次は役人に襲われたが、そのときの誤解から友人御室の勘助を死なせてしまい、償いのため勘助の遺児・勘太郎を連れて放浪の旅に出る。仇である自分を親のように慕う勘太郎に、忠次は心からの愛情をそそぎながらも今後のことを思い、信州の顔役壁安こと壁安左衛門に勘太郎の身柄を預けようとするが、かつての子分が自分の名を騙って盗賊をすることを知る。怒りと失望に愕然とする忠次。子分は申し訳なさに自害、「身内には盗賊はいない」と思っていた忠次は恥じて勘太郎とともに壁安の家を出る。そのころ忠次の持病の中風が悪化し利き腕の右手が利かなくなる。頼りにしていた子分や友人にも次々と裏切られ、探索の手はきびしくなるばかり。次々と二人を襲う危機を何とかして切り抜けるが、最早、子連れの逃避行は出来なくなってきた。二人の身を案じる壁安の命をうけ追いついてきた子分・三つ木の文蔵の説得に、忠次は泣く泣く勘太郎と別れ、朝焼けの中を一人おちのびる。
第3部「御用篇」10巻
越後長岡の造り酒屋澤田屋に番頭として潜伏していた忠次は、束の間の平穏な時期を過ごしている。澤田屋の娘お粂に告白されるが、自分の境遇では受け入れられないと悩む。ある日澤田屋の息子の危機を救うために悪人の音蔵に正体を明かし、捕り手に追われる羽目になる。澤田屋とお粂との犠牲で窮地を脱した忠次は病苦に苦しみながらようやく上州に帰り、成長した勘太郎に合いに行くが、お尋ね者の身では声をかけることすら出来ない。忠次は病気と心痛のあまり山中で倒れ、役人に捕らえられる。一方、文蔵ら子分たちは護送途中の忠次を救い、戸板に乗せて妾のお品が待つ国定村に帰る。寝たきりの忠次を、村人や身内は献身的に看護する。だが、裏切り者が出て隠れ家は捕り手に包囲される。忠次を守るべく子分たちは奮戦するが一人また一人倒され、役人中山精一郎に諭された忠次はお品もろとも縄につく。

国定忠治の生涯1

文化7年-嘉永3年(1810-1850)
1810年(文化7年)
上野国佐位郡国定村(現:群馬県伊勢崎市東町)屈指の富農、長岡与五左衛門の長男(忠次郎の名から次男という説もある)として生まれる。苗字を与えられていたことからしても、なかなかの家柄だったらしい。
「短身肥大、眉毛は長く、目つきに凄みがあり、虫も殺さないようでいて、人を寒からしむる凛然たる気のみなぎる真の侠漢なり・・・」足利の勤王画家・田崎草雲
1830年(文政13年)
百々村(伊勢崎市境百々)の紋次親分の死去により、その縄張りを大前田栄五郎より譲られる。
1834年(天保5年)
大博徒の島村(伊勢崎市境島村)の伊三郎を斬り、子分の三ツ木(伊勢崎市境三ツ木)の文蔵等と大戸の関所(吾妻郡東吾妻町)抜けをし、信州中野の貸元に身を寄せる。この事件で、忠治は関東一円にその名を馳せる。
1836年(天保7年)
信州中野の博徒原七に殺害された忠治の義弟、茅場ノ兆平の仇を討つために、鉄砲や槍を持った20人もの子分を従えて、白昼堂々、大戸の関所を破る。当時の太平の世では、関所破りは、50年か100年に一回あるかないかの大罪であった。
1842年(天保13年)
世良田(太田市世良田町:徳川氏先祖の地として手厚い保護を受けていた聖地)で内々の賭場を開帳していたところを関東取締役の手入れを受け、多くの子分衆を失うものの、忠治はかろうじてこの捕り物から逃れた。その賭場に子分の板割の浅太郎とその叔父の勘助がいなかったことから、ふたりを密告者と疑い、首実検として浅太郎に勘助の殺害を命じた。それ以降の数年間、忠治は消息を絶つ。
忠治が、遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵という親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰された龍蔵は激怒、追いかけて命を取ろうと忠治の前に立ちはだかったが、相手が堂山と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた堂山だが、ずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを褒め称えたという。
1849年(嘉永2年)
子分の境川安五郎に縄張りを譲る。
1850年(嘉永3年)
8月24日未明、上州田部井村(伊勢崎市田部井町)の庄屋、西野目宇右衛門邸の納屋で妾のお町の看病を受けているところ(脳溢血で足が不自由だった)を、八州役人、中山誠一郎の指揮する捕手たちにより捕縛、詮議のため江戸送りとなる。  
本妻はお鶴、妾は「田部井村のお町」と「五目牛村のお徳」。
忠治が売り出し中の天保4年から同7年にかけて凶作が続き、農民は窮地のどん底にいた。世に言う、天保の大飢饉である。このころは、幕府体制の弱体化による汚職や政治の乱れからか、上州の大前田栄五郎、駿河の清水次郎長、江戸の新門辰五郎・江戸屋虎五郎、甲斐の黒駒勝蔵等の日本を代表する任侠の祖が当時の関八州でしのぎを削っていた。
田部井村の磯沼の浚渫工事を領主から請け負った名主の西野目宇右衛門(後に病気の忠治を匿った罪で、打ち首になった)が、工事用の小屋と偽って忠治と共謀し賭場小屋を作ったとして罰せられた記録が残っている。賭場での儲けとはいえ、稼ぎを投げ打って灌漑用の溜池を普請したり、貧しい百姓達に金銭を施すなどして、飢饉で死者が続出する中も、百々の縄張りでの餓死者は一人も無かった。こういったことから忠治は地元の義賊的英雄となった。
忠治の手配書が各地に配られ、八州取締出役がやっきになる中、追っ手から何度となく逃げおおせたのも、生れついての勘や用心深さに加えて、民衆の絶対的人気があったからだろう。
忠治が磔になってから18年すると明治(1868)になり、地元の人気物は、講談という形で日本中に伝わった。「馬方忠治」「岩鼻代官殺し」「赤城の子守歌」など。大正に入ると国定忠治は大衆文学の対象となり、松竹キネマの初トーキー「浅太郎赤城の唄」、赤城の子守唄、東海林太郎の名月赤城山、新国劇「国定忠治」等で忠治の生涯はますます脚色された。新国劇の「赤城の山も今宵限り」で始まるセリフはあまりにも有名で、地方回りの劇団の出し物としては一番人気だった。
県内での「群馬を代表する人物は?」というアンケート調査では、今になっても福田、中曽根、小渕元首相に大きく溝を開けて国定忠治がダントツのトップとなっている。ただ、最近は群馬県人でもクニサダをコクテイと読んでしまう若者も出てきた。  
 
国定忠治の生涯2

文化7年(1810)
 忠次郎、佐位郡国定村の富農長岡与左衛門(27)の次男として生まれる。
 母は新田郡綿打村の百姓五右衛門の娘(20)。
文化10年(1813)
 この年弟、友蔵(1813-78)、生まれる。
文化13年(1816)
 1月忠次郎(7)、養寿寺の寺子屋に入る。
 7月1日忠次郎の祖父、権太夫(1759-,58)死す。
 この年日雇い人夫1日百文(百文で白米1升6合)
 忠次郎の兄、信太郎(9)病死する。
文化14年(1817)
 1月忠次郎(8)、清五郎と共に赤堀村の本間道場に通う。
 7月27日江戸の坂東大三郎一座、佐位郡戸谷塚村で歌舞伎・狂言・三番曳を興行する。
 大前田栄五郎、月田の栄次郎、武井の和太郎と共に久宮の丈八を斬り、栄五郎は美濃へ、栄次郎は甲州へ、和太郎は日光へ国越えする。
文政2年(1819)
 5月20日忠次郎(10)の父与五左衛門(1784-,36)死す。
 与五左衛門は本間道場の本間千太郎と同い年で兄弟弟子。
 父の死後、忠次郎は暴れ者になる。
 この年日雇人足一日100文(蒔入時132文)。白米百文で1升6合。
文政3年(1820)
 正月大雨が続き、利根川から小川に至るまで氾濫。
  4月 霜により桑が全滅。養蚕はできず、蚕はすべて川に流す。
  5月13日-6月5日まで 休む事なく、雨が降り続く。
  7月村々に飢民盗賊が横行し長脇差の徒が徘徊するため、木島、百々、境町、境村、女塚、高岡、世良田の7ケ村では自警団を作り、無宿狩りをする。
  8月初旬-10月1日まで 長雨。作物できず大飢饉となる。
文政4年(1821)
 3月百々村の羽鳥弥久(門次)、無宿となる。
 貞然(-1861)、長岡家の菩提寺養寿寺の住職となり寺子屋を営む。
 忠次郎(12)、貞然に感化される。
 この頃栄五郎、名古屋に住む。伊勢崎太織1疋3分又は1両で取引される。
 この年諸国旱魃、窮民の増加。
 忠次郎、田部井村のお町(12)に一目惚れ。
文政5年(1822)
 
大雨のため利根、広瀬川は大洪水を起こし、島村、平塚は大被害を被る。
文政6年(1823)
 4月伊香保で馬庭念流と北辰一刀流の額論あり。本間千太郎、参加する。
 この年諸国に一揆、打ち壊しが多発する。
文政7年(1824)
 大前田栄五郎、江戸で捕らえられて入牢。佐渡に送られる。
 忠次郎(15)、賭場に出入りするようになる。
文政8年(1825)
 3月お町(16)、伊与久村の深町某のもとに嫁ぐ。
 10月忠次郎(16)、お鶴(1808-76,18)を嫁に迎える。
 お鶴は佐位郡今井村の旧家、桐生家に生まれる。
 この年大前田栄五郎、佐渡を脱島。帰国して河越に潜む。
文政9年(1826)
 3月23日 ●木崎宿、火災。宿並をほぼ焼き尽くす。
 9月28日幕府、無宿者・農民・町人の長脇差携帯を禁止する。
 10月忠次郎(17)、浪人を殺し、河越にいる大前田栄五郎(34)を頼る。
 この年関東に地震多発、旱魃となる。
文政10年(1827)
 2月幕府、関東全域取締強化のため取締出役の下に改革組合村を設置する。
 3月忠次郎(18)、栄五郎の添書により百々村(境町)の紋次(28)一家へ入る。
 紋次は島村の伊三郎(38)の傘下の親分。子分に三ツ木の文蔵(19)がいる。
 4月忠次郎は紋次の紹介で大笹の寅五郎(35)の元に隠れる。
 10月6日関東取締出役、境町に廻村する。
 忠次郎、国定村に帰るが、お鶴は冷たい。
文政11年(1828)
 1月忠次郎(19)、田部井村で出戻りになったお町(19)と再会する。
 5月忠次郎、お町を妾とし、田部井村に家を持つ。
 10月4日館林藩士生田万(1801-37)、藩領外に追放されて浪人となる。
 11月7日関東取締出役、村々にて脇差など取締、質屋を調べる。
 この年武蔵国久下村出身の蘭医村上随憲(40)、境町で開業する。
 養蚕は並だったが、6月1日より大雨が振り出し、7月1日には川が氾濫田を埋め、半分以上が実らず。米相場も例年なら1両に1石2斗だったが7斗5升になる。
文政12年(1829)
 8月武州本庄宿御堂坂に佐渡送り囚人の唐丸破り事件起こる。
 忠次郎(20)、三ツ木の文蔵と組み、賭場荒らしを始める。
 忠次郎、玉村の飯売旅籠万屋で豪遊する加部安の若旦那(22)と会う。
天保元年(1830)
 3月おかげ参り大流行。
 9月忠次郎(21)、病気になった紋次から駒札を譲り受ける。紋次は隠居する。
 三ツ木の文蔵(22)、国定村の清五郎(21)、曲沢の富五郎(21)、保泉村の久次郎(20)、神崎の友五郎(20)、山王道の民五郎(19)、茂呂村の孫蔵(19)、田部井村の又八(19)、八寸村の才一(18)、国定村の次郎(18)、下中の清蔵(17)、新川の秀吉(16)、下植木村の浅次郎(15)、堀口村の定吉(15)、桐生町のお辰(15)ら、忠次郎の子分になる。
天保2年(1831)
 忠次郎(22)、島村の伊三郎の賭場を荒らし回る。
 10月高野長英(1804-50)、境町在住の蘭医村上隧憲(1789-1865)を訪れる。
 渡辺華山(1793-1841)、上野国を訪れ「毛武遊記」を著す。
 この年五目牛の千代松(22)、甲斐の新十郎(20)、子分となる。
天保3年(1832)
 8月19日鼠小僧次郎吉(1797-1832)、江戸小塚原で処刑される。
 この年天保の飢饉始まる。米価沸騰。
 田中の沢吉(15)子分となる。
天保4年(1833)
 5月忠次郎(24)、島村の伊三郎(44)の賭場へ単身で乗り込み、賭場荒らしをみて失敗し、簀巻きにされる。賭場にいた福田屋栄次郎(41)に助けられる。
 福田屋と一緒にいた日光の円蔵(32)、忠次郎の軍師となる。
 8月1日 関東、奥羽大風雨となる。
 栄五郎、福田屋栄次郎の仲介で久宮の丈八の跡目豊吉と手打ち成立。以後、郷里(大胡)に居住する事、多くなる。
 この年諸国、飢饉となり、各地に打ち壊しが起こる。
 八寸村の七兵衛(16)、赤堀村の相吉(16)子分になる。
 利根郡では6分作。
 この頃上総屋源七(46)は信州権堂村で飯売旅籠屋を営む。
天保5年(1834)
 2月関東取締出役、寄場組合村に富裕な者の貯穀や江戸積み出し穀物を調査。
 6月忠次郎(25)の一の子分、三ツ木の文蔵が世良田祇園の開帳賭博の賭銭取引の問題で、島村の伊三郎と喧嘩し、なぐられる。
 7月2日忠次郎、文蔵と共に境村字米岡前の林の中で島村の伊三郎(45)を殺す。
 傷口は肩先より背へ掛け1尺7、8寸程、腰の廻りに2、3寸程の傷5ケ所。
 7月13日関東取締出役の使いとして木崎宿の問屋軍蔵たちが境村にやって来る。
 伊三郎殺害の下手人として国定村の忠次郎と三ツ木の文蔵他8人の者が手配される。
 忠次郎は三ツ木の文蔵を伴って、信州の松本に避難し、地元の博徒勝太の家に身を寄せ、ほとぼりの冷めるのを待つ。
 忠次郎、中野まで賭場荒らしに出掛け、鼠小僧に扮し、銭を窮民にばら蒔く。
 忠次郎、野沢温泉で湯女のおつま(19)と出会う。
 この年諸国大飢饉となり、一揆・打ち壊しが多発する。利根郡では豊作。
 栄五郎、長脇差を捨て、木剣を差し始める。
 日真(20)子分となる。
 新川の秀吉(20)捕まる。放免となって戻る。
天保6年(1835)
 2月23日 中山道倉賀野宿で大火、本陣など200軒以上焼失。
 6月25日 関東、奥羽に大地震起こり、多数の被害が出る。
 7月忠次郎(26)、草津の長兵衛(24)の元に寄り、田部井村に帰る。
 草津で五町田の嘉四郎(22)と出会い兄弟分となる。
 8月山王道の民五郎が、玉村の京蔵、主馬兄弟に捕まり辱めを受ける。
 玉村一家は子分二百余名と言われていた。
 忠次郎、民五郎に八寸の才市と五目牛の秀吉を付けて、玉村に殴り込みを決行させる。兄の京蔵は留守、弟の主馬に重傷を負わせる。
 京蔵は甲州から帰るが忠次郎を恐れて逃げ去る。
 江戸屋虎五郎(22)、都鳥源八を斬り館林へ来る。
 下中の清蔵(22)、文蔵の妹やすと祝言を挙げる。
 この年利根郡は6分作。
天保7年(1836)
 2月忠次郎(27)の子分、茅場の長兵衛が信州中野村の忠兵衛の伜源七に殺される。
 忠次郎、長兵衛の仇を討つため、子分を引き連れて中野に行くが源七は捕まった後だった。野沢温泉でおつまと再会し、窮民を助けるため、賭場荒らしをする。
 3月10日 強い北風が吹き荒れる。
 4月末-6月一杯まで 雨が降り続く。冷夏となり、夏に袷を着る。
 8月29日 谷川岳、三国山に雪が降る。
 9月忠次郎、郷里に帰るが取締が厳しく、赤城山に籠もる。
 大久保村の中島栄作(16)、赤城山に来て、忠次郎の子分になる。
 10月20日生田万、国学・歌学を指導するため越後国柏崎に移る。
 11月 大間々を中心とした米騒動が起こる。
 この年長雨冷害で作物できず、忠次郎、貧民を救う。
 力士崩れの境川の安五郎(22)、子分になる。
天保8年(1837)
 2月19日大坂町奉行所元与力大塩平八郎、大坂で乱を起こす。
 3月 飢饉のため穀相場が高騰する。
 4月 諸国に疫病流行。将軍家斉、家茂に将軍職を譲る。
 6月1日生田万(37)、越後国柏崎陣屋を襲撃して自刃する。
 6月忠次郎(28)、田部井村向原の磯沼の浚渫(シュンセツ)を行う。
 田部井村名主西野目宇右衛門は磯沼浚渫の費用を工面するため、忠次郎の博奕を公許し、田部井村に出作地を持つ友蔵の出金に見せかけて、上がりの17両を受け取る。
 9月2日将軍が代わり、巡検使が見回るため村方や宿場の取締が厳重になる。
 この年虎五郎(24)、江戸屋に入婿する。
 冷害による凶作のため、利根・吾妻地方で多数の餓死者が出る。
 田崎草雲、鳥居峠で栄五郎を写生する。
 弟友蔵、嫁を貰う。
 この頃上総屋源七は義弟島田屋伊伝次に旅籠屋を譲り、上州に帰る。
天保9年(1838)
 3月26日三ツ木の文蔵、新田郡世良田村の賭場(朝日屋)で関東取締出役に逮捕され、木崎宿の牢に留置される。同時に佐位郡八寸村の才市も捕らえられる。
 忠次郎(29)は、文蔵たちを力で奪い返す計画を立て、子分多数を引き連れて木崎宿近辺の三ツ木山に集結して隙を窺ったが、関東取締出役が農民などを動員して厳戒体制を敷いていたため失敗する。その後、忠次郎らは旅に出る。
 4月17日御領所御巡検、伊勢崎に泊まり、国定で御弁当。
 6月幕府、農民・町人所持の金銀具を金銀座に差し出させる。
 この年関東取締出役、農村の諸営業調査を行う。
 神崎の友五郎、紀州藩の手で召し捕られ、忠次郎の名を騙る。
 兄弟分の清五郎、足を洗う。
天保10年(1839)
 5月14日幕政批判等により、渡辺華山・高野長英が捕らえられる。
 この年勢多郡花輪村出身の戯作者二世十返舎一九、江戸から赤城山に隠れる。
 忠次郎(30)、逃亡中。金毘羅宮に行く途中、岐阜(瑞浪市)で人助けをする。
 八寸村の才市(27)、さらし首にされる。
天保11年(1840)
 1月忠次郎(31)、逃亡中、四国の金毘羅宮を参拝。
 4月五目牛の千代松(31)、お徳(25)を妻にする。
 6月イギリスと清国間にアヘン戦争起こる。
 6月29日三ツ木の文蔵(32)、伝馬町で斬首され3日間晒される。
 9月浪人大久保一角(42)、忠次郎の居候となる。
 12月30日平田篤胤(1776-1843)、著書発禁・江戸追放を命じられる。
 神崎の友五郎(30)、さらし首にされる。
 この頃上総屋源七、木崎宿で飯売旅籠屋を始める。
天保12年(1841)
 1月30日11代将軍家斉(69)没。
 5月15日幕府、天保の改革を始める。
 5月関東取締出役に臨時取締出役26人が加えられる。
 10月11日渡辺華山(49)、三河国田原藩の蟄居先で自害する。
 暮れ留守を守っていた山王道の民五郎(30)、利根河原で玉村の主馬になぶり殺しにされる。 主馬は子分の藤七、徳太、和蔵と四人掛かりで民五郎を三つ斬りにして、利根川に投げ捨て、首だけを黄木綿に包んで、伊勢崎連取村の富豪多賀谷源兵衛方に行き、生首を片に30両をゆする。源兵衛は15両出して謝る。
天保13年(1842)
 1月帰って来た忠次郎(33)、玉村に押しかけ、主馬を殺す。
 子分の藤七、徳太も殺すが、和蔵に逃げられる。
 2月26日幕府、賭博を厳禁する。
 3月11日百々村の門次(弥久)死す。
 3月15日幕府、女師匠を禁止する。18日、隠売女を禁止する。矢場女禁止。
 6月4日幕府、絵双紙を禁止する。
 7月27日笹川繁蔵(1819-44)の花会。忠次郎、参加する。
 7月30日幕府、役者絵を禁止する。
 8月弟の友蔵、忠次郎に40両借り、借用証文を書く。
 友蔵は新田郡本町村糸繭商人仲間議定書に名を連ねる国定村6人の糸繭商人の一人。
 8月19日忠次郎は最大の拠点である田部井村の又八の家で、多数の人々を集めて博奕を盛大に行う。これを知った関東取締出役の吉田左五郎は、大勢の捕手を従えて又八の家を包囲し賭場を急襲する。この時、忠次郎と「兄弟の契り」をしていた無宿の浅次郎が姿を見せなかったので、子分と共に血路を開いて赤城山に逃げ帰った忠次郎は、彼の行動に深い疑いを持ち、身の潔白を証明させる事にした。浅次郎の伯父八寸村の勘助は博徒でありながら関東取締出役の道案内をしていた。
 大勢の子分が捕まる。
 9月8日下植木(板割)の浅次郎、八寸村の目明し中島勘助(43)・太郎吉(7)父子を殺す。槍で殺害、長脇差で首を掻き斬る。
 忠次郎、関東取締出役より二度目の大手配となる。
 関東取締出役の中山誠一郎と富田錠之助が伊勢崎を拠点として手配の指揮に当たる。
 忠次郎、大久保一角(45)に連れられて下野都賀郡大久保村に隠れる。
 忠次郎、一角の娘お貞(17)と会う。
 9月18日幕府、農民に倹約を命じ、余業従事を禁止する。
 9月25日車坂峠で堀口村の定吉(28)、室村の孫蔵、保泉村の宇之吉、他一名捕まる。
 11月初旬日光の円蔵(41)、召し捕られ伊勢崎の本陣で取り調べを受ける。
 子分、多数召し捕られる。浅次郎(27)、お辰(27)、茂八、鹿安、角、牧、吉、豊、桐長。
天保 14年(1843)
 2月9日 関東に大地震起こる。
 3月26日幕府、諸国の人別を改め、在府農民に帰村を命じる。
 4月12代将軍家慶の日光社参に際し、三国街道杢ケ橋関所では要害地域内の警戒が厳重となり、沼田街道八崎村では旅人の通行改めが行われる。
 9月忠次郎(34)、赤城山に帰るが、危険を感じ、五町田嘉四郎(30)のもとにより、野沢温泉に向かう。
 閏9月13日水野忠邦、老中を罷免される。
 この年関東取締出役、農村の諸営業調査を行う。
 大前田栄五郎(51)、五町田嘉四郎(30)と大久保栄作(23)との紛争を仲裁する。
 日光の円蔵、牢死す。
 新川の秀吉(29)捕まり、牢死す。
 上総屋源七、木崎宿の旅籠屋を閉め、梁田宿に移る。
弘化元年(1844)
 5月10日江戸城本丸焼失する。
 6月21日水野忠邦、再度老中筆頭となる。
 この年お貞、忠次郎(35)の長男を産む。
弘化2年(1845)
 1月幕府、浦賀に砲台を築く。
 2月14日伊勢崎藩主酒井忠恒、江戸城本丸普請に1千両の上納を願い出る。
 2月22日水野忠邦、病気を理由に老中を辞職。
 5月14日忠次郎(36)の母いよ(53)、死す。
 5月五目牛の千代松、捕まる。
 9月忠次郎、赤城山に帰る。
弘化3年(1846)
 2月19日五目牛の千代松(37)、牢死する。
 6月 諸国、長雨となる。
 6月半ば忠次郎(37)、五目牛村のお徳(1816-89.31)を妾にする。
 お徳は元玉村女郎で子分五目牛の千代松の妻。千代松の牢死後、妾にする。
 秋木崎宿の川橋屋左三郎、新築祝いを盛大に行う。
 木崎宿(新田町)の岡っ引川橋屋左三郎(吉十郎)は左五郎の息子を養子に迎えて勢力を広げる。
 忠次郎、子分を浦賀に派遣して世情を探る。
 大前田栄五郎、赤城山の忠次郎を訪ねる。
 白銀屋銀次郎、栄五郎を御用弁にする。
 京屋元蔵、銀次郎を斬り、栄五郎釈放となる。
弘化4年(1847)
 3月24日 善光寺大地震。善光寺から稲荷山まで死人が山のように出る。
 9月関東取締出役、豊年手踊りなどを禁止する。
 この年疱瘡、流行する。
嘉永元年(1848)
 2月お徳、家宅捜査の木島の大谷助右衛門を叱り付ける。
 6月助右衛門(58)、病死する。
 6月 諸国、旱魃となる。
嘉永2年(1849)
 11月忠次郎(40)、境川の安五郎に跡目を譲る。
 この年関東取締出役が増員され、3地域分担制が拡大される。
嘉永3年(1850)
 7月21日忠次郎(41)、お町の兄、庄八の家で倒れる(脳溢血)。
 栄五郎、忠次郎に自決を勧める手紙を与える。
 8月24日忠次郎、田部井村名主西野目宇右衛門方の土蔵の中にて召し捕られる。
 お縄となった忠次郎は近くの伊勢崎の寄場に留置される。
 この日、関東取締出役の中山誠一郎、廻村中、木崎宿に立ち寄る。角万佐重郎、誠一郎のもとへ挨拶に行く。
 9月26日忠次郎奪回を企む上植木村小屋番の伜万蔵(29)、玉村宿で捕まる。
 万蔵所持の長脇差は刃長2尺6寸6分、銘兼貞の業物、太刀拵え
 9月28日忠次郎、唐丸駕篭に乗せられて雨の中、木崎宿から玉村宿に向かう。
 9月29日忠次郎一行、玉村宿にて関東取締出役の取り調べを受ける。
 梁田宿の上総屋源七、山名村の大黒屋三右衛門、玉村宿に来る。
 10月1日前橋の福田屋栄次郎、玉村宿に来る。
 10月15日忠次郎一行、玉村宿を出立。
 10月19日忠次郎、江戸伝馬町の牢に入れられる。
 10月30日江戸青山に潜伏中の高野長英(47)、幕吏に囲まれ自害。
 12月15日忠次郎、勘定奉行池田播磨守より、死刑の判決。
 12月21日忠次郎、午前11時、大戸関所にて処刑される。関所付村の村民が警備人足などに動員される。
 忠次郎の助命嘆願のため、菩提寺養寿寺の貞然法印を初め、国定村の名主、15ケ村の人々130名の他に越後、常陸、下野の者も助命運動をし、嘆願が百を越えた。
 12月26日
木崎宿の岡っ引左三郎と馬太郎、勘定奉行より追放と判決される。
田部井村名主宇右衛門 / 忠次郎と博奕を相催し不当の利を稼ぎ忠次郎を匿った罪、不届きに付き死罪(牢の庭にて打首)
国定村の子分清五郎 / 不届きに付き遠島。
田部井村の子分庄八 / 不埒に付き罰金3貫文。
お徳とお町 / 不埒に付き押込み(家で謹慎)。
国定村の子分次郎右衛門と八寸村の子分七兵衛 / 不届きに付き追放。
世良田村の名主幸助 / 忠次郎より金を受け取り手助けせし罪、不埒に付き罰金5貫文。
国定村の名主又兵衛と村役 / 不埒に付き罰金5貫文と3貫文。
宇右衛門妻と伜 / 不埒に付きお叱り。
田部井村村役たち / 不埒に付きお叱り。
国定村の子分喜代松 / 牢死。
忠次郎の首が養寿寺の貞然のもとに届く。 貞然は忠次郎に「長岡院法誉花楽居士」の戒名を贈る。
嘉永 4年(1851)
 羽倉簡堂「赤城録」を著す。
 田崎草雲、忠次郎の画像を描く。  
 
国定忠治の生涯3

国定忠治(忠次とも) 文化7年-嘉永3年(1810-1851) 江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上州佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎。 後にも博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として脚色された。講談や映画、新国劇などの演劇の題材となる。

上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。長岡家の菩提寺である養寿寺の墓碑によれば父は、国定村の百姓与五左衛門、母は弘化2年(1845)5月14日に死去している。
父与五左衛門は文政2年(1819)5月20日に死去しており、忠治は青年期に無宿となり家督は弟の友蔵が継ぐ。弟の友蔵(-明治11年(1878))は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護している。忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。
忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継ぎ百々村の親分となり、英五郎と敵対し日光例幣使街道間宿境町を拠点とする博徒島村伊三郎と対峙する。天保5年(1834)、忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪うと、一時関東取締出役の管轄外であった信州へ退去し、上州へ戻ると一家を形成する(「赤城録」では、「水滸伝」に模して日光円蔵ら忠治股肱の子分を紹介している)。
その後は日光例幣使街道玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化し、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。また、忠治はこのころ発生していた天保飢饉に際して盗区の村々への賑救を行っていたが、天保9年(1838)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され子分の三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。
さらに天保12年(1841)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている)。関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の三室勘助 ・太良吉親子を殺害し(三室勘助(中嶋勘助、小斉勘助)は上州小保方村三室(佐波郡東村)の出身。中嶋家は東小保方村の名主を務め、忠治一家の浅次郎は勘助の甥にあたる。勘助は檀那寺である西小保方村の長安寺住職憲海や領主久永氏を相手とした訴訟に敗れると天保12年に隣村の八寸村八斉に移住し、関東取締出役の道案内に転身している。
勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行い、忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。
忠治は弘化3年(1846)に上州に帰還するがこのころには中風を患い、嘉永2年(1848)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。忠治は上州に滞在し盗区において匿われていたが、翌嘉永3年8月24日(1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕 ・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である関所破り(碓氷関所(群馬県安中市)を破る)により時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され当地で磔の刑に処せられる。享年41。
戒名:長岡院法誉花楽居士(養寿寺)・遊道花楽居士(善應寺)。
逸話
群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺に墓がある。ギャンブル産業の盛んな群馬県において、「ご利益がある」と墓石を削り取って持ち帰る人が多かった。現在まで残っている彼の肖像画は、足利の画家である田崎草雲の手になるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。
剣の腕前に自信があった忠治は当時日本一と評判の北辰一刀流へ道場破りとして乗り込み、真剣勝負で千葉周作と太刀合おうとするも忠治の構えから千葉は勝負の成り行きを見抜き早々にその場を立ち去る、荒立った忠治だったが門下生一同より諭された事で命拾いしたと悟り道場を後にする。
逸話の多い人物であるが、遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと龍蔵は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が龍蔵と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた龍蔵だがずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを「忠治というのは偉い奴だ、偉い奴だと聞いてはいたが本当に偉い奴だった」と褒め称えたという。この逸話は山雨楼主人こと村本喜代作の「遠州侠客伝」に拠る。
喧嘩にはめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。
なお忠治と島村の伊三郎、勘助の子孫らは「忠治だんべ会」の仲裁により平成19年(2007)6月2日の手打ち式で170年越しに和解した。
 
国定忠治の生涯4 / 磔の刑に処せられる

12月21日国定忠治が磔の刑に処せられる。
1850(嘉永3年)年12月21日、「赤城の山も今宵は限り〜」でおなじみの国定忠治(本名長岡忠次郎)が磔(はりつけ)の刑という悲惨な最期を迎えた。
国定忠治(忠次)は、1810(文化7)年上野国左位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の農家に生まれ、本名は長岡忠次郎。博徒となって赤城山中を縄張りに上州から信州一帯を舞台に活動した江戸時代後期の侠客。信州街道の大戸(吾妻町)の関所を破る。碓氷関所(群馬県松井田町-長野県軽井沢町)を破った事により1851(嘉永3)年12月21日(旧1月22日)磔(はりつけ)の刑という悲惨な最期を遂げた。享年41。群馬県伊勢崎市国定町の養寿寺に墓がある。
長岡忠次郎は、天保の飢饉で農民を救済した侠客国定忠治として脚色され、講談や、浪曲、新国劇、映画の題材とされ、新国劇や映画で、沢田正二郎、辰巳柳太郎、坂東妻三郎、三船敏郎といった大物俳優らが、義理人情に厚く、弱きを助け悪政を許さない“ヒーロー国定忠治”を演じ、大人気を博した。国定忠治の映画は、数多く製作され、明治・大正・昭和にかけての国民的ヒーローであった。しかし、理由は分らないが、17歳で人を殺して、ヤクザの世界に入り、組を構えてから、賭場荒らし、縄張り抗争など、悪の限りを尽くしている彼が何故に、ヒーローになったのだろう。こうした忠治の事績を後世に伝えた者がいる。それは、羽倉外記(羽倉簡堂羽)という国定村の代官もつとめた男である。外記は水野忠邦の天保の改革に重用された役人で、納戸頭から勘定吟味役にもとりたてられたいう、忠治とは対極にいた幕吏であった。その外記が「劇盗忠二伝」(「赤城録」)を著して、凡盗にあらずして劇盗と評しているという。以下、参考の高橋敏「国定忠治」(岩波新書)によると、”賭博,伊三郎・勘助殺し,関所破りなどで有罪となり,最も重い関所破りの罪により磔の刑に処されることになる。関所破りの場合、その管轄地で刑を執行される事になっていたようで、忠次郎は上州と信州の境の大戸の関に護送された。忠次は、その処刑前日、大戸加部氏醸造の銘酒を一椀所望して飲み,雷のようないびきをかいて寝た。翌朝、また一椀飲み,「本州の酒を飲み本州の土と為る、快なるかな」と言った。更に勧められると,「刑に望みて沈酔するは死を畏るる者之事也」と断った(羽倉外記「劇盗忠二小伝」)。そして、いよいよ槍で突かれるに際しては,「手前儀,悪党を致しまして国のみせしめになって御成敗と決まり有難うござんす。お陰で小伝馬町牢内でも身持大切にできやして,かように天下の御法に叶うことに相成り,天にものぼるような喜びにござんす」と言った。目を閉じ、一槍付いては引き抜くごとにかっと目を開き、1500人といわれる見物人を見回した。また目を閉じ・・・と12回まで繰り返し,13度目で死んだ。(楡木宿惣左衛門談)”・・・とある。
忠次の刑に連座して、何人もの人物が各種の刑にあい、そのうち最も重い罪に問われたのが田部井村の名主で、名主でありながら忠次郎と組んで悪行を行ったとして打ち首の刑になっているそうだ。当時の刑罰で、最も重い刑が「磔(はりつけ)」であった。「死罪」(斬首=打ち首、残された家族の財産も全て没収)以上のこのような極刑を受けるのは非常に悪質な犯罪を犯した者に限られており、権力機構に挑戦した者などが、この刑をうけたようだ。しかし、忠次は、この「磔(はりつけ)」に処せられており、このことが、後に、忠治は、庶民の為に、権力機構に挑戦した者=義賊という形で伝説化されたのではないかといわれている。長岡忠次郎が、「磔(はりつけ)」の刑にあってから18年後に徳川政権は崩壊し、明治維新となる。
長岡忠次郎が、国定忠治として脚光を浴びたのは、あの有名な、「講釈師見てきたような嘘をつき」の川柳もあるように、宝井馬琴の孫弟子で、明治の講談師宝井琴凌という人物が「馬方忠治」という講談をヒットさせたのが始まりと言われている。長岡忠次郎が生まれた上州はもともと穀物の稔りにはまったく不向きの土地で、そのため唯一桑畑と養蚕によって経済社会をつくっていた(後には、それで桐生や足利が栄えるのだが)。そして、忠次郎が育った時代の前半は「天保の飢饉」で関東が冷えきっていた時期にあたる。又、後半は、大塩平八郎の乱などが勃発し、日本がしだいに不穏な空気に包まれていた。やむなく水野忠邦が政治改革にとりくむが、倹約と奢侈の取り締りはかえって百姓を苦しめ、逆に下っ端役人の不正をふやしていくことになる。上州は関八州の管轄で、関東取締役出役が見回りをしていたが、彼らは私腹を肥やし収奪にあけくれる。また、神宮・神社・山陵に幣帛を捧げるための例幣使とよばれる公家たちが、年中行事として日光参内に名を借りて、さかんに関東一帯で賄賂を取り立て(入魂金)、強請をほしいままにしていたという。
忠次郎は貧農の生まれといっても長岡と言う姓をもつ元武家の子とも言われている。渡世人の間では悪の限りを尽くしていた一方で、窮民を助けたり、灌漑用の溜池などを農民のために作るという一面もあったようだ。この当時のような食べるものにも窮している貧しい人たちの多い時代、当時の人の悪人のとらえ方は今の時代とは随分違っていたのではないか?。恐らく、ヤクザ同士の争いがいくらあろうと、普通の庶民に迷惑さえかけなければ、それは、大して悪い人間とは見なかったとも考えられる。それが、今でも義理・人情のヤクザの世界として芝居や映画などで受け入れられているのだろう。
今の時代は、おとなしそうな顔をして、お上の顔色を伺いながら、お金のためには平気で、悪いことをする人がはびこっている。昔の、貧しい時代より、今は、性質の悪い、残虐な犯罪が増えたことが哀しくなる。地震大国の日本で、地震が来れば倒壊するような建物を平気で売って金を稼ごうとする輩(やから)が今、世間を騒がせている。法改正し、刑罰を見直し、最近世間を騒がせている極悪非道の悪人などは、見せしめの為に、磔の刑にでも処するようにしないと、もう、駄目な日本になってしまったのかも知れない。
 
国定忠治の生涯5

「赤城の山も今宵が限り〜」
「赤城の山も今宵は限り〜」でおなじみの国定忠治(くにさだちゅうじ)。東村国定の農家に生まれ、赤城山を舞台にやくざの大親分となった人物です。12月21日に、磔(はりつけ)の刑という悲惨な最期を迎えました。今年で、152回目の命日となります。
浪曲、新国劇、映画では、沢田正二郎、辰巳柳太郎、市川雷蔵、坂東妻三郎、三船敏郎といった大物俳優らが、義理人情に厚く、弱きを助け悪政を許さない“ヒーロー国定忠治”を演じ、大人気を博しました。国定忠治の映画は、なんと120本!!明治・大正・昭和にかけての国民的ヒーローでした。
さて、広辞苑によると「江戸末期の侠客。上州国定生まれ、本名長岡忠次郎。博打渡世で罪を重ね、磔の刑。上州脇差の典型的人物として、浪曲、新国劇、映画などに脚色される。」とあります。“脚色”とはいかなることでしょうか?
そこで、4回にわたり、国定忠治の素顔を探りたいと思います。乞うご互期待です。
善玉か悪玉か?ミステリアスな生涯
忠治の生きた時代は、江戸幕府の末期の混乱、天保の大飢饉という社会背景があり、大前田英五郎、清水次郎長などのやくざ者も横行した時代でした。
忠治もご多分に漏れず、賭場荒らし、縄張り抗争などなど、悪の限りを尽くしていました。ただし、その一方で、私財をなげうち窮民を助けたり、かんがい用の溜池などを農民のために作るという一面もあったのでした。
劇作や映画や小説では、凶悪なアウトローにも、権力に抗しても民のために命を張る義侠の徒にも描けてしまうわけです。そのあたりが、今なお忠治研究への興味をかきたてる要素となっているようです。
「かかあ天下」と「博打(ばくち)」
上州の地は、古来から農家の副業として養蚕が盛んで、江戸期に蚕糸業は飛躍的に発展しました。忠治の生まれた国定(現東村)の東には桐生、西には伊勢崎という全国的に名を知られた織物産地をひかえていたわけです。
養蚕や機織は通常女性の仕事で、時間単位の高いその仕事は米や畑作などと比べ、3-4倍になったといいますから、かかあは寝ずに働いたといいます。つまり、「かかあ天下」は働き者の主婦を意味し「うちのかかあは天下逸品」という意味だったのです。
どの家でも最大の稼ぎ頭は主婦だったので、男は働かなくなり賭博でもやって遊ぶようになりました。これが、上州に賭博が盛んになった主因です。
また、江戸幕府の衰退のもとで、村と村が争い、入り組んだ街道筋の多くの宿場が無宿者の溜まり場となり、ついには関東の吹き溜まりとなったようです。闘争的でせつな的な気質が育ったのでした。
とにかく、上州は賭博の盛んな地域で、多くのヤクザ親分がしのぎを削りました。  
金は生きているうちに!
忠治は幼いときから乱暴もので、13歳のときに“野天博打”に手を出して13両儲けたことをきっかけにのめりこみ、母の目を盗んではお金を持ち出すようになります。そして、ゆすりたかり強盗という博徒への道を突き進んでゆくことになります。
さて、現在でも群馬県には桐生競艇、伊勢崎オート、高崎競馬、前橋競輪と大きな公営ギャンブル場があり、両毛線はギャンブルラインと呼ばれるほど。また、パチンコ機械の大手4社のうちの3社が桐生市にあることから考えても、どうやら、上州の風土はギャンブルとなんらかの関係があるようです。
ちなみに、群馬県人の気質に“金は生きているうちに使うものという現実主義。言葉が荒く、粗野な印象を受けるが、メンツにこだわる義理人情型が多い。”とあるのをご存知でしょうか。まさに、長い間、描き続けられてきた国定忠治そのものなのです。
ヤクザの世界を駆け上がる
17歳で人を殺し、ヤクザの世界にデビューを果たし、21歳の若さで百々(現境町)の縄張りで国定一家を旗揚げします。縄張りの為には武闘も辞さず、子分を集めて私闘を繰り返しました。
25歳のときに、島村(現境町)のヤクザ伊三郎殺しで名をあげ、関東に名だたる大親分に駆け上がっていきます。この事件により、関東取締出役に追われる身となり、以降一貫して長脇差、鉄砲などで武装し、赤城山を根城として御上と戦うことになったのです。
その後の逃亡、潜伏を支えたのは一家の子分の力もありますが、忠治をかくまった地域民衆の支持もあったようです。
忠治人気を支えたものは、いったい何だったのでしょうか。それは、後述の百姓を飢えから救ったことによります。これを元に、大正・明治期に講談師によって尾ひれが付けられてゆくのです。義理人情に厚く、悪政を憎むヒーロー国定忠治の誕生とあいなりました。ペペンッ!
反権力のヒーローとして
忠治24歳のとき、天保の大飢饉(1833)が襲います。農民達は飢饉と重税にあえぎ、各地に打ちこわしが発生し危機的状態にありました。
忠治は私財をなげうって飢饉に立ち向かい、その甲斐あって百々(現境町)の縄張りからは餓死者を出さずにすみました。その後も、博打の利益を農業用の溜池(磯沼)工事のための資金にしたとも伝えられています。
また、国定一家の掟には、“村人には優しくする”、“夜回りをして山賊から村人を守る”など、があり、忠治の縄張りでは治安が良かったといいます。
忠治は、自立した“盗区”と呼ばれる自治区のようなものをつくっていたのです。お上の慈悲以外に地方の自力更生は許されざる時代に、窮状にあった農民の若きリーダーとして支配領主から自立し、閉塞する幕府体制を突き破り、近代に向かって躍動し始めた上州の申し子という忠治の一面を物語っています。
「人相書き」
忠治が指名手配されたときの「人相書き」には、“背は中くらいで、ことのほか太り、顔丸く鼻筋通る、色白き、髪は多く、眉毛こく、相撲取りのようである”とあり、その他の資料からも、体重23貫(約86キロ)、身の丈5尺5分(約165センチ)、目玉の大きい、ひげが濃い、胸毛も垂れるように伸びていた、無口・・・、現代の世の中では、とてもハンサムとはいいにくいようです。
ただし、当時の女性にはすこぶる人気があって、浴衣の似合ういい男だったともいいます。忠次郎の男気に惚れてしまったのでしょう。
ちなみに、“旅がらすの忠治”といえば、“縞の合羽に三度笠”を連想しますが、あの三度笠は大正時代のもので忠治の時代(江戸末期)には無く、舞台の創作だということになります。  
「赤城の子守唄」の真相に迫る
忠治33歳のとき、田部井(現東村)の賭場が踏み込まれ多くの子分が召し捕られました。忠治はかろうじて逃れましたが、勘助が密告したことが判明し、その甥にあたる子分の浅太郎を斬り殺そうします。身の潔白を主張する浅太郎に、疑いを晴らすには叔父の勘助の首をもってこいと命ずるのです。
お芝居では、“浅太郎は命令を実行し叔父の勘助の首を片手に抱え、親分忠治への義理と叔父への人情の板ばさみに泣きながら、勘助の子勘太郎を背負って赤城山に登っていく名場面。そして、あの東海林太郎の「赤城の子守唄」がバックに流れるのです。”
しかしながら、実際は伊勢崎市諏訪町の桂林寺のお墓が物語るように、2人の墓石の側面には同じ死亡年月日が刻まれており、勘助ともども勘太郎も殺されているのです。勘太郎を背負えるはずがないのです。  
悲惨な最期とお徳という女性
この哀れな事件をとって、忠治は恐怖心の塊で臆病者だったという説もあります。また、忠治は、人を殺すときも子分にやらせて、自分は手を出さなかったという話もあります。いまだ、忠治の真相はわかりません。おそらくどちらも本当のことなのでしょうが。
忠治41歳の夏、潜伏先の国定村(現東村)で中風(脳溢血)で倒れ、療養中に捕らえられます。その後、江戸に送られて勘定奉行の取り調べの上、罪状が多すぎる為に最も重い関所破りに適用され、磔(はりつけ)に決まったのです。14度まで槍を受けて衆目を驚かせ、悲惨な最期を遂げたのでした。ちなみに、磔となったヤクザは忠治しかいません。
さて、忠治を取り巻く女性たちには、正妻のお鶴、愛人のお町とお徳が知られています。忠治の晩年を支えたお徳は、男勝りで気が強く鉄火肌の姉御だったそうです。
お徳は、処刑された大戸の関所から忠治の遺体を盗み出させ、頭部は養寿寺へ収め、腕を自分の家へ持ち帰り墓を建てました(その後善應寺へ移動)。
ですから、忠治のお墓は、菩提寺の養寿寺、善應寺に2箇所あるわけです。  
国定忠治・現世をにらむ
権力や体制に押し込められた閉塞した大衆のストレスの発散先は、法を破ったり、既成のものを破壊するといったヤクザ映画や酒、ギャンブルに求められます。これを“代償満足”というそうですが、そのシンボルをヤクザ者の国定忠治や清水次郎長の物語に求めてきたわけです。
但し、1970年代の高度経済成長期以降、国定忠治は大衆から忘れ去られていきます。高橋敏氏は自著「国定忠治」のなかで次のように語っています。「お上に徹底抗戦した忠治は、豊かさを追い求め、ぬくぬくと一億層中流の幻想に酔った戦後50年、歓迎されざる(中略)人物となった。激動の幕末をやり過ごし、お上と調和に努めハッピーエンドの生涯を全うした博徒、清水次郎長(中略)が受け入れられたのとは対照的である。」
今日の閉塞した日本社会において、忠治の生き方は今なお考えさせられます。そう、忠治は赤城山から現世ににらみをきかせているのです。

諸説1・「群馬県遊民史」

農業を嫌い、農村に不満を持ち、商、工業の二次産業に走り、金銭の獲得を狙って、若者たちは村を飛び出し、風与出者(風斗出者)となった。一定の場所に定住し、一定の職業に定職を持つ事を嫌い、遊民となって村を出て行き、無宿者となって都会の厳しい現実に負け、多くは無頼、犯罪人となり、反社会集団の一員となって、転落して行く。
4月8日の赤城山大洞の山開きの時に鈴ケ岳で行う関八州の親分の博奕。
天保の前の文化・文政時代は奢侈に流れた江戸時代切っての爛熟時代。
中山道‥新町─倉賀野─高崎─板鼻─安中─松井田─坂本─碓氷峠─軽井沢
例弊使街道‥倉賀野─玉村─五料─境─太田─足利─日光
三国街道‥高崎─金古─渋川─金井─南牧─横堀─中山─塚原─布施─須川─相俣─猿ケ京─永井─三国峠─浅貝
信州街道‥高崎の豊岡─里見─室田─三ノ倉─大戸─長野原─草津─渋峠─善光寺
沼田街道‥前橋─田口─米野─溝呂木─津久田─森下─沼須─沼田
日光裏街道‥玉村─駒形─大胡─大前田─神梅─足尾銅山─日光
横川の三之助、松井田町新井の山田城之助。
東海道の清水の次郎長。甲州街道の黒駒の勝蔵。中山道の安中草五郎、沓掛時次郎、伊奈の勘太郎。千葉街道筋の笹川繁蔵、千葉の飯岡助五郎。
あずま街道が国定村を通る。西国定村に県下でも珍しい六本辻がある。織物で知られる伊勢崎に近い。
上州の関所‥戸倉、猿ケ京、杢ケ橋、大笹、大戸、狩宿、碓氷(横川)、西牧、砥沢、白井、大渡、実正、福島、五料、川俣。
国定村は天保9年まで代官領。天保9年より12年まで、旗本林肥後守領となり、12年より嘉永元年まで、再び、代官領となり、嘉永元年より前橋藩の松平大和守領となる。
田部井村は代官領。
代官所‥代官の下に元締(30両5人扶持)2人、手代(20両5人扶持)8人、書役(5両1人扶持)2人、侍(3両2分1人扶持)3人、勝手賄(5両1人扶持)1人、足軽(3両1人扶持)1人、中間(2両1人扶持)13人が標準だった。手附は手代と同格で役目の上には差別はなく、元締は手附、手代の中から優れた者が選ばれた。
代官の属吏には手附と手代の二種類あり、手附は小普請役の系統からの出身者。勘定奉行の銓衡で採用され、代官の下につく。手代は代官が採用して勘定奉行の許可を得て任命した。したがって、手代は百姓でも町人でもなれた。
天領、大名領、旗本領、寺社領は警察権もおのおの独立していた。
関八州取締出役は禁制であった博奕行為、暴力、帯刀、盗み、歌舞伎や手踊りの娯楽、奢侈行為を取り締った。2人で2ケ国、3人で2ケ国というように巡回した。実際には2人だけで巡回しても効果はあがるはずはなく、「目明し」「岡っ引」がかなり使われた。
羽倉外記(1790-1862)‥岩鼻代官。
中山誠一郎‥八州取締。
賭場の掛け金の宰領をした事から親分の事を貸元と呼んだ。
縄張り‥掛場を開く権利区域。
掛場‥旅籠屋、民家、寺院、神社など。川原のナカッチマ(中洲)、桑畑の中、国定村の六道の辻、古墳の石室内など。
忠治の岩屋‥鈴ケ岳説、湯の沢温泉上の忠治の岩屋説、梨木温泉近くの山腹の岩穴説あり。
世良田の祇園の祭礼の博奕、三夜沢赤城神社の祭礼の博奕、子持神社の祭礼の博奕など。
サイコロの材質は鹿の角、象牙といった物が多く、安物は土製の物も使われる。
テラ銭は2分から6分。時には1割に及ぶ。テラ銭を入れる箱をテラ銭箱という。
草履は脱いで懐に入れて座敷に上った。  
大前田栄五郎(1793-1874)
勢多郡宮城村大前田の名主格の家に生まれた。本姓は田島。祖父の新之丞は間違いなく名主だった。父を久五郎といい名主を務めたと伝えられる。草相撲が強く、地方の横綱格であった。大前田には日光裏街道が通っていた。滝登(たきのぼり)という名で暴れた父の久五郎がやくざになり、大前田村を中心に苗ケ島、女渕、月田、大胡を結ぶ範囲をその縄張りにした。その子は3人あり、総領が要吉といって盲目であったという。次が栄五郎、その妹になをというのがあった。兄要吉も親父の跡目を継いでやくざであった。母はきよといった。
栄五郎は小さい時から性質が強気で負けん気、気性が激しく「火の玉小僧」と呼ばれた。少年時代から剣術を好み、村の角田常房という浅山一伝流の使い手に教わった。
25歳の時、栄五郎は久宮(くぐう)の丈八という親分を殺し、兇状持ちとされお尋ね者として手配される。捕まり、佐渡島へ流刑となる。後、島破りをする。
栄五郎は名古屋を中心として特別の勢力があったらしく、伊豆から東海地方にかけてが縄張りだった。上州1国の親分というよりも関東、東海、甲州といった県外において知られた博徒であった。
栄五郎は島破りをしてから41歳まで旅の草鞋をはき、やくざ仲間の仲裁をしていた。
栄五郎一家には指し立て貸元が全国に五百人もいて、ただの貸元と称する者は三千人はいたという。
栄五郎の子分‥小林虎五郎(江戸屋)館林。栄五郎と互角の大親分。
森久八静岡県下足柄。通称大場(だいば)の久八。栄五郎の舎弟。
浅部貞造山田郡浅部村。
福田倉造新堀村。
羽鳥周造石井村(富士見村)
高橋米八駒形駅
内田和一鳥取村(前橋市)
相川佐重郎静岡県田方郡三島町
渡辺清次郎同字芝
角田専兵衛羽毛村
北爪清造室沢村(宮城村)
根岸源次郎埼玉県比企郡菅谷村
田島要吉大胡。栄五郎の実兄。  
国定忠治(1810-50)
長岡家は国定村では、国定氏に次ぐ素封家であった。
天保5年(1834)7月2日、忠治は島村の町田伊三郎(45)を殺す。
忠治は身長5尺5分、体重23貫、髭が濃く、胸毛も伸び、眉は太く濃く、目玉はギョロッとして大きく、色の白い無口な男だった。
忠治の信州行きのコースは室田→三ノ倉→権田→萩生峠→大戸→須賀尾→狩宿→六里ケ原→車坂→小諸。
鹿沢温泉の角間峠を越え、角間山の中腹を通り北信地方に抜けた。角間山の古道に「三望ケ池」という所があり、その近くに自然の岩窟があり、忠治が一夜を明かしたと言われている。
須坂寿泉院の忠治地蔵はもと野沢温泉にあった。
勢多郡新里村新川の善昌寺の裏続きの二百メートルほどダラダラ坂を登った小丘陵の七、八合目辺りにある岩が突き出していて、その下がひさしのようになっている場所がある。
勘助殺しで手配された者は下植木村の浅次郎、八寸村の七兵衛、堀口村の定吉(27)、保泉村の宇之吉、保泉村の久次郎、国定村の忠次郎、日光の円蔵、室村の茂八、室村の孫蔵、下田中村の沢五郎。この中の3人が9月25日、信州小諸に出る車峠で逮捕される。
天保13年11月19日以前に日光の円蔵は捕まる。
大戸の寄場‥岩島村、坂上村、長野原村、六合村、草津町、嬬恋村が一つの組合だった。
忠治の助命嘆願のため、菩提寺養寿寺の貞然法印を初め、国定村のため名主、15ケ村の人々130余名のほかに、越後、常陸、下野の者も助命運動をし、願書が百を越えた。
忠治の処刑の役は穢多頭、浅草の矢野弾左衛門と非人頭、車善七。
処刑場所は大戸宿が萩生に戻る字広瀬という所の刑場。刑場跡に忠治の胴体は埋められ、首はその傍らに三日間さらし首にされた。お徳が手を回して、その首を盗み出し、ひそかに伊勢崎在に隠し、さらに国定村養寿寺の住職貞然に託して隠した。
当時、多野郡吉井町の馬庭念流の樋口家、月夜野町後閑の櫛渕道場、佐波郡赤堀村の本間道場らがあった。
当時、前橋から江戸までを三日路とよんで、二泊三日かけた。
忠治の本妻、お鶴(1808-76)は佐波郡今井村(赤堀村)の旧家桐生家に生まれる。桐生家と長岡家は昔から血縁関係であった。忠治の死後、栃木県烏山の山伏である右京と夫婦になり、磐城の平で明治9年11月21日に死す。
忠治の妾、お町(1810-70.7.20)は田部井村尾内市太夫の娘だったが、6歳の時、母と死別し、同族尾内小弥太の養女となり、16歳の時に伊与久村の深町某のもとに嫁いだが、二年くらいで別れ、忠治に見初められて妾となる。1836年、忠治の実家に入籍する、忠治の死後、新田郡田中村の田中秀之進の妾になる。お町の兄は庄八(1807-63.10.15)。
忠治の妾、お徳(1816-)は勢多郡朝倉村(前橋市)の旧家に生まれ、武芸などもできたが、一家が落ちぶれ玉村宿の女郎屋に身を売った。二年後、五目牛村(赤堀村)の農民千代松に請け出されて後妻になったが、5、6年で夫が死亡し、忠治の妾となる。忠治はやもめ暮らしのお徳の家に通い詰めた。お徳の家の裏は広い梨畑があり、抜け穴があった。気性の烈しい凄みのきく女。
茅場の長兵衛(-1836)忠治の弟分。草津在住。信州中野の博徒原七に殺される。
神崎の友五郎(-1837)下総国出身。道案内の茂七を殺した時、懐中の物に手を付け杯を返される。
八寸村の才市(-1839)鉄砲の名人。天保10年さらし首。
三ツ木の文蔵(1809-40.6.29処刑)世良田村大字三ツ木出身。俗称大見山文蔵。手裏剣の名人。妹の名はやす。天保8年3月28日、世良田の朝日屋(世良田の祇園で有名な八坂神社の参道入り口の西角にあった)の賭場で襲われ、逃げるが捕まる。
山王道の民五郎(-1841)酒癖が悪く、時々、忠治の意に背いたが信頼され、留守を取り仕切っていた。玉村の主馬になぶり殺しにされる。
板割の浅次郎(-1842)下植木村。足が速く、槍術を得意とした。天保13年さらし首。
日光の円蔵(1802-43)下野板橋生まれ、軍師と呼ばれる。天保13年牢死。
新川の秀吉(-1843)赤城大手配の初期に捕まり放免となり、一家に戻る。天保14年再逮捕の末、牢死。
境川の安五郎勢多郡水沼村(黒保根村)出身の力士くずれ。一時、江戸角力に加わり二段目位まで行ったが地方巡業の時は大関格ではばを利かしていた。忠治の跡目を継ぐ。
下中の清蔵忠治逮捕後、安五郎と共に行方不明になる。文蔵の妹やすの夫。
国定村清五郎忠治の弟分。忠治が倒れた時は足を洗っていたが、忠治を助け遠島になる。
甲斐の新十郎謎の人物。
五目牛の千代松(-1846)お徳の夫。五目牛に大きな屋敷を持つ。
日真孫子を講じる書生。
桐生町屋のお辰
島村の伊三郎(1790-1834.7.2)本姓は町田氏。武蔵国牧西の兵助と兄弟分になり、伊三郎が弟分。縄張りは島村一円から世良田村、木崎宿におよぶ区域。一人娘の名はいち、一族から幸吉を婿に迎える。
玉村宿の京蔵、主馬(-1842)兄弟
三室の勘助(1800-42.9.8)本姓中島。浅次郎の伯父。  
江戸屋虎五郎(1814-1896)
三河国生まれの相撲取り、シコ名は獅子ケ嶽。三河で相撲の相手を投げ殺し、館林荒宿(下町)の香具屋弥七に匿われる。館林町連雀町の親分江戸屋の岡安兵右衛門(1795-1856)に見込まれ、娘ちかの婿となり、江戸屋の跡を継ぐ。大前田栄五郎の筆頭幹部。
観音丹次(1774-)
高瀬仙右衛門(1788-1860)邑楽郡大高島村。
須田門吉(-1863.8.3)赤城村樽。栄五郎の子分。
新井利右衛門(1833-1917)赤城村溝呂木。門吉と兄弟分。25歳で堅気になる。
関口文之助(1790-1863)前橋。白銀屋。
黒岩寅五郎(1793-1873)嬬恋村大笹。田代一家。
村上嘉四郎(1814-1900)吾妻郡東村五町田。大前田栄五郎の幹部。伊香保から五町田を経て沢渡、草津への街道を基盤とした親分。吾妻東部から北群馬郡にかけて300人からの子分を持っていた。二足の草鞋。
中島栄作(1821-81.3.18)北群馬郡吉岡村大久保。大久保一家。大前田栄五郎、国定忠治と兄弟分。妻ははる(1819-1900.1.1)  
大前田四天王‥新井梅吉(異名梅の神、前橋市東善、1839-)、須田門吉(赤城村樽、-1863)、村上嘉四郎(五町田、1814-1900)、大前田10人衆‥関口頼之、鈴木辰五郎、大前田一家の伍長‥吉田藤太郎、村山玉五郎、月田の栄次郎(1793-)‥大前田久五郎の子分。栄五郎の兄弟分。
吉田藤太郎(1849-)‥異名は乱国、興行師。大前田10人衆の一人関口頼之の子分で大前田一家の伍長。前橋市岩神。
広田久米吉(1864-)‥異名は八百栄、乱国の子分、古物商。前橋市向町生、後榎町住。神梅丹次と肝胆照らす仲。
横室桂太郎(1864-)‥異名は馬鹿桂、乱国の子分。勢多郡上川渕村生、後前橋市立川町住。
梅沢幸五郎(1858-)‥乱国の子分。勢多郡上川渕村後閑。
定方茂平太(1853-)‥乱国の子分。前橋市立川町住。
石原儀兵衛(1843-)‥栄五郎の子分。大胡町住。
茗荷松源蔵(-1842)‥川田一家の親分。力士崩れ。国定忠治も源蔵の家に泊まった事がある。
村上嘉四郎(1814-1900)‥五町田一家の親分。伊香保─五町田─中之条─沢渡─草津の温泉道に発達した。三百人の子分を持つ。
松村定吉(-)‥嘉四郎の四天王、祖母島村。
町田権次郎(1858-)‥嘉四郎の子分、尻高村。
西山昇(1860-)‥嘉四郎の子分、岩下村。
高平喜作(1855-)‥嘉四郎の子分、中之条町。
内田長三郎(1855-)‥嘉四郎の子分、草津町草津。
小林鎌足(1865-)‥嘉四郎の子分、横尾村。
角田徳太郎(1877-)‥嘉四郎の子分、植栗村。
篠原秋蔵(1875-)‥嘉四郎の子分、西中之条。
田中代八(-1784)‥大久保一家の初代親分。駒寄村大久保。
中島栄作(1820-81)‥大久保一家の親分。吉岡村から渋川市一帯に縄張りを持つ。大前田栄五郎の弟分。国定忠治とも交渉あり、忠治が赤城山に籠もった時、炊き出しをした。
外山和五郎()‥栄作の跡目を継ぐ。
善養寺重次郎(1823-)‥和五郎の弟分。榛東村長岡。
江戸屋虎五郎(1814-96)‥館林市。大前田一家の四天王。香具師の親分。
堀越喜三郎(1844-)‥江戸屋虎五郎の跡目を継ぐ。表向きは旅人宿兼飲食店をやる。
堤勘助(1847-)‥小林一家を継ぐ。佐波郡赤堀村。
高瀬仙右衛門(1788-1860)‥邑楽郡大高島村の船問屋に生まれる。足を洗い、1821年、関東取締出役の相談役を引き受ける。
神梅丹次(1864-1929)‥本名は神沢丹次郎。法神流の中沢貞Tより剣術を習う。
新井利右衛門(1833-1917)‥門吉の兄弟分。24,5歳で足を洗う。
白銀屋文之助(1790-1863)‥前橋市白銀町。
黒岩虎五郎(1793-1873)‥嬬恋村大笹。田代一家。

7代目加部安左衛門光重(1699-1787)‥酒造、麻の仲買、麻手、繭手の融通により財をなす。
8代目加部安左衛門(1743-1814)
9代目加部安左衛門(-)
10代目加部安左衛門兼重(-1846)‥江戸に住んだ事もあり。
11代目加部安左衛門(-1862)‥忠治の処刑の時、酒を飲ませる。

畔上つま‥忠治の処刑の3日後、野沢温泉に忠治地蔵を建てる。
玉村の京蔵、主馬兄弟‥子分が二百名といわれた一家。忠治は山王の民五郎、八寸の才一、五目牛の秀吉の3人に殴り込みをさせる。

飯塚臥龍斎興義(1780-1840)‥気楽流。緑野郡下大塚村(藤岡市)に生まれる。通称、徳三郎。
児島善兵衛信将(1772-1836)‥気楽流。那波郡宮子村(伊勢崎市)に生まれる。金左衛門と称し、領主旗本跡部氏の宮子村陣屋代官職を務める。臥龍斎の新町道場に入門し気楽流の免許皆伝を得る。
五十嵐金弥信好(1775-1850)‥気楽流。佐位郡茂呂村に生まれる。初め金弥と称し、のち弥右衛門と改める。児島善兵衛の門に学び、免許皆伝、道場を開き、門弟一千人という。晩年は伊勢崎藩主酒井伊賀守より領内取締役を命じられ、帯刀を許され、若干であるが禄を賜る。風流酒を愛し、五山と号して俳諧をよくした。
斎藤武八郎在寛(1794-1881)‥気楽流。佐位郡伊与久村に生まれる。初め直心影流を村内の畑野見龍斎安之に学び、のち五十嵐金弥より気楽流を学ぶ。1830年、免許皆伝。邸内に道場を開き、多くの門弟が集まる。領主酒井下野守に認められ伊勢崎藩校の柔術指南役となる。
加藤勝馬勇清(1810-)‥気楽流。佐位郡下淵名村(境町)に生まれる。初め勝之進と称し、のち勝馬と改める。五十嵐金弥に学ぶ。師の没後、斎藤武八郎に学び免許皆伝を得る。  
 
諸説2・上野の諸藩 「群馬県史」

前橋藩結城松平家(親藩)15万石。1842年、4代斉典の時、17万石になり明治維新となる。
丑・卯・巳・未・酉・亥年の4月に参勤し、翌年4月に帰国。
高崎藩1717年、大河内松平家(譜代)7万余石。1771年、3代輝高の時、8万余石になり明治維新。
初代松平輝貞は老中格、3代輝高と5代輝延が老中、4代輝和が大坂城代、6代輝承が奏者番、9代輝聴が寺社奉行、10代輝声が陸軍奉行を務めた。
8万石の高崎藩の軍役は1727人、馬375頭。老中、寺社奉行は定府。
館林藩1712年、越智松平家(親藩)5万余石。1769年、6万余石となる。
1836年、井上家(譜代)が6万石で入部し、1845年、秋元家(譜代)が6万石で入部、明治維新となる。
3代松平武元が老中、4代武寛が奏者番、5代斉厚が奏者番兼寺社奉行を務め、初代井上正春が老中、2代秋元礼朝が奏者番となる。
松平家は毎年8月に参勤し、翌年2月に帰国。
沼田藩1742年、土岐家(譜代)3万余石。そのまま明治維新となる。
初代土岐頼稔が老中、3代定経が大坂城代、2代頼熈・8代頼潤・9代頼功・10代頼寧が奏者番、11代頼之が若年寄を務めた。
土岐家は毎年12月に参勤し、翌年8月に帰国。
安中藩1749年、板倉家(譜代)2万石。1767年、3万石となり、明治維新となる。
初代板倉重形が寺社奉行、3代勝清が老中、4代勝暁・6代勝尚・7代勝明が奏者番を務めた。
板倉家は毎年8月に参勤し、翌年2月に帰国。
伊勢崎藩1681年、酒井家(譜代)2万石。そのまま明治維新となる。
2代酒井忠告が奏者番、3代忠温・4代忠哲・7代忠恒・8代忠強が老中指揮下の大坂城番を務めた。
酒井家は毎年12月に参勤し、翌年8月に帰国。
小幡藩1767年、松平家(譜代)2万石。そのまま明治維新となる。
初代松平忠恒・2代忠福・3代忠恵が若年寄、4代忠怒が奏者番兼寺社奉行となる。
松平家は子・寅・辰・午・申・戌年の6月に参勤し、翌年6月に帰国。
吉井藩1709年、鷹司松平家(親藩)1万石。そのまま明治維新となる。
松平家は定府。
七日市藩1616年、前田家(外様)1万石。そのまま明治維新となる。
11代の藩主ほとんどが、老中指揮下の駿府城番や大坂城番を務めた。
丑・卯・巳・未・酉・亥年の6月に参勤し、翌年6月に帰国。
 
諸説3・「上州路」

羽倉外記用九‥簡堂。21歳の時、越後国の天領5万石支配を振り出しに、上野、下野、遠江、三河、駿河、信濃等の代官を歴任、また、伊豆諸島をも支配した。後に天保改革を行った老中水野忠邦の推挙によって、勘定吟味役及び御納戸頭を兼任して、鴻の池、加島等の京阪の富豪から、百五十三万六千両という巨額の金を幕府に献金されたという人物で、当時学者として名高く、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)、川路左衛門尉聖言莫(敬斎)と共に、幕吏の3兄弟と仰がれたという漢学者で「南汎録」「駿府志略」「赤城録」等々数十巻の著書あり。当時の高名な学者や名家の人々とも親交があり、頼山陽、藤田東湖、渡辺華山、佐久間象山、山内容堂、市川米庵等の四十数人からの書簡あり。蛮社の獄にも関係したが忠邦のお陰で免れる。水野忠邦の失脚に座して、勘定吟味役及び御納戸頭の職を退いた。中山誠一郎は天領代官当時の下僚。
天保の物価‥3年、1両=米9斗8升。7年、1両=2斗8升。8年、1両=玄米1斗8升。
田崎草雲(1815-98)‥足利の画家。忠治の肖像画を描く。
新井小一郎雀里(1813-)‥古賀侗庵に学び、伊勢崎藩校学習堂の教授であり、後に函館奉行所から招かれて、長万部の移民事業などを計画実行した。忠治の墓の墓誌銘を書く。
上州一円のてきやの縄張りは代々、不流三左衛門が牛耳っていた。
上州は天領、大名領、旗本領、寺社領と入り組み、行政支配が異なり、無宿者の取り締まりが非常に不都合だった。
島村の伊三郎‥利根川島村河岸の船問屋の主人だったが、自分から遊侠を好み無宿となった。生涯、人を殺めた事はなく、旅に出る事もなかった。そのため、八州役人の道案内も務めた。道案内は始め、村役人が務めたのであるが、大変迷惑な仕事であったので、だんだんと博徒どもが鑑札を貰って道案内を務めるようになって行った。御用聞きとか目明かしとか呼ばれた、二足の草鞋の事である。兇状のない伊三郎は道案内を務めながら、縄張りを広げ東上州を一手にした。
天保5年(1834)7月2日の晩、新田郡世良田村の賭場帰りに、米岡(境町)の熊野神社裏手で、島村の伊三郎(44)は忠治らに闇討ちに遭い惨殺される。
伊三郎が殺された後、上州は大前田一家と国定一家に二分される。
大前田一家は八州の道案内を務めたので逃げ回る事はなかった。
国定忠治は人を殺めて旅に出て、文政末年、上州に戻り、百々村の紋次の身内になる。紋次の元にいたのが、三ツ木の文蔵、境村の安五郎で、特に文蔵は手に負えない悪漢だった。天保5年の春、文蔵が境村の桐屋という呑屋で無銭飲食をした揚げ句に散々暴れた。文蔵は伊三郎にやられ、百々村に帰ると忠治に話し、伊三郎の闇討ちを図る。忠治一党は関八州取締出役に手配される。
三ツ木の文蔵は天保9年春、世良田村の村役人以下大勢の村人の捕方に追われてハシゴ捕りにされた。そして、木崎宿にいた八州役人に引き渡され、江戸に送られて伝馬町の牢の裏にある土壇場において斬首された。獄門という附加刑のため首だけ小塚原に送られて三日間晒し首にされた。
伊与久村の学者深町北荘の「忠治引」という手記によれば、「忠治一党は昼は山に隠れて捕吏を避け、夜は徒卒を率いて町を侵す。処女は暴に遭うて婚儀にそむき、娶婦は節を失って泣く」とある。
三室の勘助‥博徒の親分で二足の草鞋。
下植木村の浅次郎‥勘助の甥。元板屋根を葺く板割職人。槍の名人。
博奕で召し捕られた無宿者は大体、佐渡送りと相場が決まっていた。
高瀬仙右衛門‥館林の博徒。東海道や越後地方を歩き回り、地元よりも旅先で上州無宿を看板にして来た。
江戸屋虎五郎‥館林のテキヤ。
忠治の死後、国定一家の縄張りは代貸の田中の沢吉が継いだので田中一家と呼ぶようになる。沢吉は新田郡上田中村無宿で本姓は新井。安政6年(1859)に召し捕られて死刑になる。二代目は沢吉の子敬次郎で、敬次郎も八州の無宿狩りによって召し捕られたが、牢破りして逃げ、清水の次郎長の客分となる。
天保13年(1842)9月8日、板割の浅次郎(27)は伯父三室の中島勘助(43)とその子太郎吉を八寸村小斉の勘助の家で殺害する。太郎吉の姉ふさ(14)は無事だった。
忠治の母(-1844.5.14)は権右衛門村の権右衛門の子。
大谷刑部国次千乗(1844-67)‥父は国定忠治、母はおてい。祖父は下野国都賀郡大久保村の人にて大久保一角と称し、剣術を以て業と為ししが、その娘お貞という者、忠治の妾となり一子を生み寅次と称す。即ち国次なり。忠治処刑後、寅次を携え、父の故郷に帰り、寅次を出流山千手院に託し、所化として千乗と名乗る。忠治自身は国次の存在を知らなかった。
赤城山の湯の沢温泉は栄五郎の縄張り。
忠治は「親分」と呼ばれるのを好まず、「旦那」で通した。

碓氷関所‥中山道。関所の警固は安中藩主が務めた。番頭2名、平番3名、同心5名、中間4名、箱番4名、女改め1名。箱根の関所と並ぶ重要な関所。
大戸関所‥信州街道。沼田藩改易後は幕府代官の管理となる。一場、加部、堀口、田中の4名が世襲して役人を務めた。関所の雑務処理のため、大戸村、本宿村、萩生村の3村が交代で、通常一日2名の下番役が徴用された。
狩宿関所‥信州街道。沼田藩改易後は幕府代官の管理となる。警備の中心は草津温泉の湯治客の取締り。
大笹関所‥信州街道。沼田藩改易後は幕府代官の管理となる。
杢ケ橋関所‥三国街道。吾妻川の川関。橋の架かっていた頃もあるが、出水で度々、流失した。大抵は舟橋か渡舟。
猿ケ京関所‥三国街道。
五料関所‥日光例弊使街道。利根川と烏川の合流する東西交通の要衝。  
上州の剣術
東上州は佐波郡赤堀村の本間道場と新田郡平塚村の田部井道場、西上州は多野郡馬庭村の樋口道場。
沼田藩主土岐氏が直心影流の長沼正兵衛綱郷を剣術指南役として迎える。藤川近義、櫛淵虚冲軒、生方県斎らが出る。
高崎藩主大河内輝高は1763年、遊芸館を創立し、小野派一刀流を採用する。寺田宗有がでる。
安中藩からは造士館を建て、根岸宣延が出る。
楳本法神(1719-1830.8.15)
須田房吉(1790-1831.3.11)法神流。
本間仙五郎(1744-1815.8.6)‥父、権八郎(1721-56)は農業と蚕種業を営み、大男で剛力無双、地相撲の大関を務め、自然流剣術の遣い手でもあった。勢多郡荒砥村の荒木流、大山志磨之助に入門する。
1765年9月、赤城不動に参籠し修行を重ね、師の大山より免許を受ける。その後、念流の樋口に入門、1813年、馬庭念流の永代免許を授けられる。
本間千五郎応吉(1784-1874)‥仙五郎の長男。赤堀村に道場を持ち、門下は数百人。1822年4月の伊香保奉額事件に拘わる。俳人としても有名で丹頂と号し、金井烏洲と懇意。
櫛渕虚冲軒宣根(1747-1819.4.23)‥神道一心流。
寺田五郎右衛門宗有(1745-1825.8.1)‥高崎藩士。天真一刀流。
飯塚臥竜斎興義(1780-1840.2.3)‥藤岡出身。気楽流。
海保帆平芳郷(1822-63.10)‥安中藩士。北辰一刀流。
根岸松齢宣教(1833-97)‥荒木流。
清水赤城(1764-1848.5.10)‥神道一心流。虚冲軒の高弟。

生田万(1801-37)‥館林藩士生田信勝の長男として館林城内、大名小路の武家屋敷に生まれる。諱は国秀、字は救卿、号は華山、大中道人。1823年、友人荒井静野の紹介により江戸に平田篤胤を訪ね、その門に入る。文政11年10月初、藩政改革意見書が藩主の怒りに触れ、藩籍を除かれる。館林藩と別れた万は江戸に向かった。篤胤の養子となり四年間、江戸で暮らす。その後、郷里館林に近い太田に隠れ住む。
1831年10月11日、江戸から桐生に向かっていた渡辺華山と郷里に急ぐ万が途中で出会う。
太田での仮住まいは1831年から1836年10月まで。金山の下、大光院前の長屋→太田郊外の上浜田村。
1836年夏、碓氷峠を越え、その5月14日、柏崎の樋口家に着く。滞在3旬の後、太田に帰り、柏崎に移る決心をする。妻鍋(30)と貴吉(5)、豊治(3)を伴う。柏崎下町山田小路に住む山田義八郎の持ち家を借り、「桜園塾」と名付け私塾を開く。1837年6月1日、代官陣屋を襲撃するが失敗して自害。妻と子は捕まり、獄中3日目に、二人の子を絞殺し自害する。
荒井静野(1793-1868.4.18)‥館林に生まれる。静右衛門、号は良任、真清、清野、静野、草陰屋、丹生乃屋。祖父の死後、木綿問屋と酒造業を継ぐ。
上州の文人、画家
井上浮山(1794-1842)‥玉村在の樋越村の絵描き。名を祐永、字を胤宗、敬斎と号す。大百姓の主人だったが、若い時から絵が好きで百姓を捨てて、木崎宿の柿沼山岳という画家の門に入る。たちまち破産した。西上州に多くの友があり、板鼻の島方松蔭と特に親しかった。1835年、島方松蔭と共に仙台に師の菅井梅関を訪ね、半年、奥州を遊歴する。安中の首藤家に客死す。
千輝玉斎(1790-1872)‥幸兵衛、玉村の飯売旅籠万屋の主人。中之条の町田という家に生まれるが生家が没落、玉村の酒屋に後家入りする。女房はえい。生来はなはだ頓知に富み話し好き、多芸で玉斎と称し、持ち前の愛嬌からたちまち金儲けをして、飯売旅籠屋を始める。商売は当たり、飯売女は36人とも4、50人いたともいわれる。万屋であるが、人は玉斎楼と呼んだ。北斎を手本とした画名は高く、色々な芸に手を出し、点茶、活花、彫刻、陶芸、踊り、俳歌など、今に作品を伝えている。
金井万戸(1770-1832)‥島村の養蚕長者、俳人。名は長徳、通称彦兵衛、華竹庵と号す。酒井抱一、十返舎一九、古賀精里、宮沢雲山らと交わる。画家烏洲の父。
金井烏洲(1796-1857)‥名は時敏、通称彦兵衛、号は朽木翁、呑山人、白沙頓翁など。春木南湖に絵画を、菊地五山に詩を、古賀イ同庵に文を学ぶ。1832年、関西を旅して、「月カ瀬梅渓図巻」を製し、その後、日光に旅して「晃山紀勝」を成す。生涯、絵を描き続け、伊勢崎藩に莫大な融通金をして返却されず、有り余る資産を失ったが、その作品はいずれも神韻の気に満ちたもの。
長尾景範(1786-1866)‥伊勢崎藩大目付役。浮山と親しい。1813年、関西に半年旅して、播州明石の荻野六兵衛より荻野流砲術を修め、後、藩の師範となり学習堂に兵学と火法を教授する。天保初年に剛直ゆえに藩の出仕を止められ、下植木の家に謫居7年におよぶ。白井長尾氏嫡流。
鈴木楓二(1756-1836.10.28)‥赤堀村の俳人。名は伊之丞、赤堀村市場の旅籠屋竹屋の主人。春秋庵長翠門下、長翠没後は小蓑庵碓嶺に師事して俳諧に長じ、東毛地方きっての名人と全国に名を謳われた。村の本間仙五郎こと丹頂を初め多くの有力な弟子を育てた。
高野長英(1804-50)‥和漢洋の百般に通じた学者。佐波郡境町の村上随憲、渋川の木暮足翁、中之条の柳田鼎蔵(ていぞう)、沢渡温泉の医者福田宗禎(浩斎)、中之条町横尾の高橋景作、六合村赤岩の医者湯本俊斎など数多い交友があった。1844年、牢を出て、逃げ回る。
村上随憲(1789-1865)‥武蔵国久下村(熊谷市)生まれ。江戸、長崎で蘭方医学を学び、1828年、境町で開業する。居宅を「征病薬室」と称して診療に努めた。オランダ語に堪能で、蘭方医学書を収集し、翻訳書写事業も行う。高野長英との親交も深く、尚歯会の一員。また、私塾「征病余暇簧楼」を設立して郷土の子弟を教育する。
福田宗禎(1790-)‥沢渡温泉の医者兼旅館を営む福田家に生まれる。脱獄後の長英を庇護する。
高橋景作(1799-1876)‥吾妻郡横尾村の名主高橋家に生まれる。脱獄後の長英を庇護する。
黒岩鷺白(1744-1824)‥忠右衛門。草津の宿屋の主人で俳人。京都の芭蕉堂蘭更の門下で雲嶺庵と号す。白井鳥酔、加舎白雄、烏明、暁台、小林一茶、道彦、単兆、十返舎一九、鈴木牧之ら一流の俳人、文人が鷺白の元に集まった。
坂上竹烟(1785-1862)‥名は治左衛門、一夏庵。前半生を諸国遊歴し、1840年、草津に定住し開庵する。
宮崎酔山(?)‥草津の画家。林豊山の門下。  

伊勢崎(1・6の六斎市)の初市(寄市)は正月6日、境町(2・7の六斎市)の初市は正月7日。
伊勢崎の暮市は12月21日、境は22日。
1789年‥不作のため酒造りが3分の1になる。1791年‥長雨のため凶作。
1799年‥長雨のため麦作が皆無。1802年‥米不作によって酒造り減石される。
1805年‥大旱魃で諸作物は立ち枯れ。1806年‥長雨による凶作、種籾も無くなる。
1808年、1809年‥不作。1810年、1812年‥大洪水。
1816年夏‥大嵐、利根川洪水。1817年‥大旱魃で田植えができず。
1832年‥大霜害、桑が全滅し日照りが続く。
1833年‥長雨になり飢饉。春にあちこちで打ち壊しが始まり、11月には食料を全く失ってしまった赤城山下の180ケ村の百姓の暴動が起こり、伊勢崎、境に押し寄せる。各村の豪家は飢民に施米をする。
1836年‥大凶作。春先から冷害。田植えに綿入れを着る。その後、雨続きとなり、夏中、雨が降り通す。四方の河川は氾濫し田畑は冠水、稲作は青立、水腐れになる。伊勢崎藩は各村に天気祭りを命じるが効果はなし。世間が物騒になり、八州方役人は廻村して、米屋に米の売り惜しみを禁じ、酒屋は居呑みさせず、綿売りを制限させた。伊勢崎藩は毎夜、30人づつが廻村して治安に当たった。どこの名主の門前にも飢民が寄り集まって動かず、道にも多くの飢民が倒れ伏す有り様。当然、暴動、打ち壊しの発生が心配され、各村の豪家は蔵を開いて施米をした。
白根、万座の硫黄稼ぎ
堀子(原鉱の採掘)→釜場(原鉱を砕き水釜に入れて熱する)→絞り(釜から出し麻袋に入れて絞り、さらに砕いて箱詰めし、釜に入れて固める)→箱の取り外し(凝固した硫黄の箱を取り崩し、低部に膠着した黒砂を斧で切り落とし製品とする)。1846年、山頂での稼ぎ人足は延べ1386人、5月から11月までの7ケ月間作業に従事するとして一日10人余りの人足が稼働していた。
十代加部安左衛門兼重
1833年、持高出作ともに四百石所持、苗字帯刀御免、足尾銅山吹所世話役、農業の間酒造並びに麻繭商い、召使下男下女38人、居屋敷は表間口20間余、奥行50間ほど、家作は本宅物置とも5、6軒、酒造蔵3ケ所、その他土蔵4ケ所。
中山道の宿場
新町宿‥862石、407軒、1437人、問屋場2、本陣2、脇本陣1、旅籠屋大16、中10、小17。
倉賀野宿‥1946石、297軒、2032人、問屋場3、本陣1、脇本陣2、旅籠屋大4、中4、小24。
高崎宿‥837軒、3235人、問屋場3、本陣0、脇本陣0、旅籠屋大4、中5、小6。
板鼻宿‥1298石、312軒、1422人、問屋場2、本陣1、脇本陣1、旅籠屋大14、中18、小22。
安中宿‥64軒、348人、問屋場1、本陣1、脇本陣2、旅籠屋大3、中8、小6。
松井田宿‥363石、252軒、1009人、問屋場2、本陣2、脇本陣2、旅籠屋大3、中4、小7。
坂本宿‥268石、162軒、732人、問屋場1、本陣2、脇本陣2、旅籠屋大20、中10、小10。
日光例弊使道の宿場
玉村宿‥1629石、270軒、1030人、問屋場2、問屋8人、本陣1、脇本陣0、旅籠屋大9、中12、小15。
五料宿‥484石、161軒、541人、問屋場6、問屋6人、本陣0、脇本陣0、旅籠屋大0、中0、小2。
柴宿‥803石、219軒、805人、問屋場3、問屋6人、本陣1、脇本陣0、旅籠屋大0、中7、小10。
境町間宿(あいのしゅく)‥‥206軒、844人、
木崎宿‥309石、147軒、917人、問屋場2、問屋2人、本陣1、脇本陣0、旅籠屋大7、中10、小17。
太田宿‥548石、406軒、1496人、問屋場2、問屋2人、本陣1、脇本陣1、旅籠屋大3、中3、小4。
例弊使一行‥4月10日、坂本宿泊。
4月11日、坂本宿→安中宿昼食→倉賀野→玉村宿泊。
4月12日、玉村宿→五料宿→柴宿小休止→木崎宿→太田宿→下野天明宿泊。
例祭の場合、およそ50-60人。家康の百回忌とか百五十回忌といった大法会には人数も倍増された。
例弊使一行の通る前後、公家衆の御通行が続いた。宿場は供揃いの連中に入魂禁を差し出さなくてはならなかった。
例弊使道の問屋場にはいつも馬25疋、人足25人の用意があった。
玉村宿の旅籠屋で働く女の多くは越後から来ていた。玉村の飯売旅籠屋には5人から10人の飯売女がいた。
飯売女がいたのは、玉村、柴、木崎。伊勢崎、境にはなかった。
1852年、玉村の飯売旅籠屋は41軒、平旅籠屋2軒、茶屋7軒。木崎は飯売旅籠屋36軒。
利根川の渡し場舟渡り
日光脇往環の武蔵新郷村─川俣村
足尾銅山街道から中山道へ通じる新田郡平塚村─武蔵中瀬村
日光例弊使道の五料宿─柴宿
日光例弊使道の玉村宿から北上して前橋町に通じる福島村─上福島村
上新田村─市之坪村間の実正渡舟、
岩神村─総社町の大渡渡舟
吾妻川と利根川の合流点に近い白井村─八崎村の戸屋渡舟
上白井村─猫村を結ぶ有瀬渡舟
月夜野村─後閑村の竹之下渡舟
利根川の河岸‥倉賀野、五料、平塚、
1842年の物価
上酒‥1合24文上醤油‥1升188文上酢‥1升68文
上白砂糖‥1斥2匁4分上素麺‥17把100文上味噌‥540匁100文
盛り蕎麦‥1ツ12文豆腐‥1丁48文半紙‥1帖36文
蝋燭‥32匁100文上炭‥1俵500文刻煙草‥100匁400文
1842年8月、金1両=銭6貫500文を公定相場と決める。
1858年の物価宿泊‥250-300文酒‥1合30文渡し舟‥15-50文
草鞋‥25文髪結‥32文あんま‥50文
飯盛女‥500-600文夜鷹‥24文
1809年の両替‥1両=銭6貫720文。
 
諸説4・「東村誌(群馬県佐波郡)」

国定村の領有関係
1789-1813‥岩鼻代官、吉川栄左衛門
1813-1821‥岩鼻代官、川崎平右衛門
1821-1824‥岩鼻代官、伊奈友之助
1824-1827‥岩鼻代官、佐藤忠右衛門
1827-1829‥岩鼻代官、林金五郎
1829-1833‥岩鼻代官、山本大膳
1833-1836‥岩鼻代官、矢島藤蔵
1836-1840‥岩鼻代官、羽倉外記
1840-1843‥大名、林肥後守
1843-1844‥岩鼻代官、山本大膳
1844-1845‥岩鼻代官、関安右衛門
1845-1849‥岩鼻代官、林部善太左衛門
1849-‥松平大和守
田部井村(領主、400石が平岩七之助、7石4升が天領)
1799年、1832年の名主は尾内弥平次。
東小保方村、木島村(領主は旗本久永氏)
久永陣屋(大東神社)詰の役人1826年-萩原周助
1829年-萩原要右衛門(-1868)
西小保方村(領主、1822年松平筑前守、1857年松平河内守)
六道の辻‥通称あづま道と足尾銅山、世良田の平塚河岸を結ぶ「かしけえど(河岸街道、初期の銅街道の一つ)」の二本と、さらにここを基点とした武蔵国秩父、中瀬へ通じる熊谷道と観音坂を越えて足利、古河方面へ通じる二本が新たに発する交通の要衝。
 
諸説5・上州に博徒がはびこった理由 「大前田栄五郎の生涯」

気候風土が明快で強烈。夏の酷暑と雷鳴、冬の空っ風。
上州人の性格は、粗野で向っ気が強いが粘りがない。率直で裏表がなく、感激性が強い。強者におもねる事が嫌いで、弱者には同情と侠気を示す。こつこつ貯蓄するよりも一獲千金を夢見る。
徳川幕府が上州に大藩を置かなかった。藩領よりも旗本領や天領が広く、一国が一つの藩風に染められる事なく自由であり放埒であった。封建制度の中にあっても他国人ほど権威主義の掣中を受けなかった。むしろ反骨を呼ぶ気風があった。
経済的に見ると上州に早くから貨幣経済が発達した事が博徒の発生を促した。養蚕が盛んとなって、繭、生糸、絹織物の現金収入が増大した。この産業は女性の労働力に依存する所が多く、亭主が怠け者になり、博奕に手を出す結果となった。
交通上、防衛上の要地であった事も貨幣経済の発達を助けた。上州には中山道、例弊使街道、三国街道が通過しており、関所の数が全国一多い。宿場には旅籠、茶店、飲食店が設けられ、日銭が落ちた。
宿駅に置かれた伝馬宿が博徒の発生源だった。幕命によって馬何頭、人足何人と常備して置かなければならないが、宿場人足に対する法定の賃金が極めて安いために、浮浪者やならず者しか雇えなかった。そういう連中が人足宿に起居し、仕事のない時は博奕を打っていた。その賭場に一般人も出入りするようになり、賭博が蔓延して行った。
賭博が街道周辺の農村に流れ込むと、まず手を出したのは小銭を持った百姓たちで、次第に中農以上の旦那たちに広がった。初めは手慰みだったが、だんだんと勝負が荒くなり、常習的にやる者が出た。それが博徒である。だから、賭博は農村の生活苦によって流行したのではなく、ある程度ゆとりのある階層でなければ賭ける銭がない。
幕府は勿論、賭博を厳禁した。遊民が増えれば生産が減り、年貢収入に影響するからだった。賭博のために田畑や家屋敷を失い、村から逃散する者が出た。これは農村の崩壊につながり、武士の生活危機につながる。常習者は遠島に処した。遠島は本来無期刑で、特別な恩赦でもない限り帰れなかった。それ故、賭場を開くには厳重な警戒が必要だった。立番という見張りを要所に出して置き、その警報によって逃げ散った。音が外部に漏れず、逃げやすい構造を持った建物が賭場に利用された。
博徒たちが仲間同士で取ったり取られたりしていたのではつまらない。堅気の旦那衆に加わってもらって、その金を巻き上げるのでなければならない。むしろ、勝負は旦那衆だけに争わせ、自分らは警戒や運営の方に回り、カスリを取るのがよい。こうして博徒が職業化するようになった。賭場の収入を多くするには、客に安全な事を信用させ、たとえ手入れを受けても客には絶対、縄をかけさせない事が必要である。
博徒たちは自衛のために徒党を組み、親分、兄弟分、子分の血縁的な関係で結束した。親分たちはそれぞれ賭場を開く権利を持つ地域を持ち、これを縄張りと称した。縄張りは一種の領国のようなもので、これを犯せば首を切られても文句が言えない事になっていた。文化、文政の頃には全国的に境界線が引かれていたようである。親分が死ねば縄張りは跡目に相続されるが、大名と違って跡目は子分のうちに実力者が継ぐ事が多い。
縄張りは広いばかりがよいのではなく、有力な寺社、つまり将軍家や大名家の尊崇する寺社を含んでいる事に価値がある。その祭日や縁日には賭博が黙認された。そのアガリが寄進されて修繕費の助けとなった。テラ銭の呼称はここから出た。
上州が天領、旗本領、藩領とモザイクのように細分されていた事も博徒に好都合だった。他領に逃げ込んだ犯人は逮捕できない法則なので潜伏逃亡に便利だった。そこで八州回り(関東取締出役)という、どこへでも踏み込める権限を持った巡察官を設けたが、行き先は前以て通知し、現地で道案内を立てるというやり方だから、あまり効果はなかった。道案内にはその土地の博徒が無報酬で使われた。これを「二足の草鞋」という。道案内を何年か務めると目明かしに採用する。これがまた無給だった。目明かしには犯罪容疑者を逮捕する権限がある。それを利用して役得を貪った。受持区域を巡回すれば袖の下が貰える。料理屋、旅館、分限者などは何か騒ぎが起きた時に来てもらうために包み金を握らせた。また、目明かしは領主から巡業の芝居、相撲、見世物などの興行権を与えられていた。これは大きな特権で、一興行当てれば一年間生活できる位の収入になった。
旗本は各地に散在する知行地から年貢を徴収するのに、家来を派遣するのでは費用が掛かるから、その地の名主を代官にして委任するのが実情だった。その代官に博徒を任命する事が多かった。徴税の実績が上がるからである。領主としてはきちんと上納してくれる代官がいい訳で、その過程でどんな搾取が行われているかは問わなかった。
金を使って苗字帯刀を許される者が増え、武家の二、三男を婿に取る家が増えた。学問や遊芸なども武士の専有物ではなくなった。上州には馬庭念流、法神流などの田舎道場が多く、武士以上の腕を持つ者が増え、何かというと刀を振り回す気風となった。
江戸時代は一般庶民でも道中をする時には脇差を持つ事が認められていた。脇差は1尺8寸以内の小刀を言うのだが、博徒はそれ以上長い太刀に等しいものを柄や鞘を派手に飾って差した。上州長脇差はその代表である。
栄五郎の父、久五郎(1752-1801)は草相撲で滝登と名乗り大関で、剣術も馬庭念流を学び相当な腕だった。次男の身軽さと腕自慢でやくざの世界に入り、田中代八(-1784)の身内となって賭場口を3ケ所もらい、貸元になった。代八は上州博徒の始祖というべき男で、群馬郡の旧駒寄村大久保に住んでいた。その系統は後に大久保一家として強大な勢力を張った。代八の傘下に入った久五郎の縄張りは大前田を中心に苗ケ島、月田、女淵、大胡、鼻毛石を結ぶ範囲だった。三夜沢の赤城神社も含まれ、社務所内に四方を壁で囲んだ密室があり、常賭場となっていた。神社かせさらに登った湯の沢はかなりの湯治客があり、客相手の博奕が催された。苗ケ島の金剛寺は田島家の菩提寺で、ここも賭場に利用された。月田の近戸神社(月田明神)の大祭はこの界隈では有名な賭場だった。この盆割り(場所の割り当て)の権利を得れば大親分である。久五郎はまだそこまではいってなかった。後に栄五郎が久宮の丈八を斬ったのは、その権利を争っての事と思われる。
久五郎の妻きよ(1764-1821)は大胡の高橋家から嫁入りした。大胡は当時《町》と称されていた。大間々街道と日光裏街道の分岐点に位置し、赤城神社と三夜沢鉱泉の登り口でもあり、かなり繁盛していた。高橋家は荒砥川の大橋の西の袂に伊勢屋という居酒屋(芸者置屋)を営んでおり、酌婦を置いていた。田舎町だが、大胡には明治初年まで置屋が3軒、女郎屋が3、4軒あったという。
久五郎が死んだ時、母きよ(-1821)は38歳、要吉(1786-1867)は16歳、栄五郎(1793-1874)は9歳、なを(1797-1859)は5歳だった。要吉は幼時の疱瘡のため盲目だったが父の跡を継ぎ、貸元を続けた。盲目であっても要吉は体力気力に勝れ、勘が鋭く、計算に明るく、賭場の仕切りに遺漏がなかった。また、旅人の面倒をよく見るので「大前田の盲親分」として遠国まで評判だった。要吉の勢力範囲は勢多郡南部、佐波郡西部、前橋市東部にまたがる広大な地域であり、白井、津久田、川越などの飛び地もある。
三夜沢の赤城神社は江戸時代東宮と西宮に分かれていた。
要吉も栄五郎も農家としての田島家を継ぐ意志がないので、妹なをに婿を取って継がせた。婿は苗ケ島の長岡喜兵衛の伜万蔵(1799-1833)である。信太郎となかの二人の子を儲ける。なかは初め大前田の阿久沢家へ嫁いだ後、大胡の祖父きよの実家伊勢屋高橋松次郎に再婚する。栄五郎が晩年、大胡に定住するようになると、その世話をしてやり、死を看取る。
大前田の1里程東の中村に角田常八豊房(1782-1851)という浅山一伝流の使い手がいた。栄五郎はそこへ通って修行を積んだ。浅山一伝流は実戦的な総合武術で、剣術の他、体術、柔術、槍、鎖鎌、棒術もあった。角田家は代々名主を務め、常八は後に関八州取締出役になる。栄五郎は逃亡生活中、時々、常八の家に匿ってもらっていた。
栄五郎の背丈は6尺以上あった。
栄五郎の子分、月田の栄次郎(1793-)は丈八を斬った後、甲州に逃げる。後に玉村の角万佐重郎に自首し、目明かしとなって犯罪捜索に協力する事を条件に罪を許してもらった。前橋の福田屋という旅館の養子となり、関東一の大目明かしとなった。
栄五郎の子分、武井の和太郎(1793-)は丈八を斬った後、日光へ逃げ、寿司屋の亭主となり身をくらませていたが、土地のやくざと喧嘩し、本名を名乗ったため捕まり牢死する。
博徒が橋を自分の持ち場として毎朝掃除したのは、日頃、橋の下で博奕を開いたから。
観音寺久左衛門は本名松宮久左衛門といい、文化文政の頃、越後第一の大親分だった。久左衛門から盃を貰った者が全国に一万人はあったという。十手捕縄を預かっており、仲間から嫌われるはずだが、久左衛門は人情に厚く、罪人でも匿うので評判がよかった。国定忠次や大前田栄五郎も兇状旅で久左衛門や新潟の池上徳右衛門の処に身を隠していたという。出雲崎尼瀬伊勢町海側に居を構え、大勢の子分を擁して威を張ったが、文政年間、捕らえられて獄死した。跡目を継いだのは子の勇次郎(-1873)。勇次郎は佐渡を脱島した栄五郎を助け、50両の金を貸し与えた。
玉村宿の宿屋角万の主人佐重郎(1794-1857)は関東取締出役中山誠一郎の目明かしとなり、若き日の栄五郎の兄弟分であった。
久宮の丈八(1782-1817)は新田郡笠懸野の久宮村の貸夜具蒲団の店を出していた。村では分限者であり、東上州で最も勢力のある親分だった。関東取締出役の道案内。
丈八を斬った栄五郎は美濃に行き、上州無宿駆け出しの勝五郎と名乗り、五六(五六輪中、穂積町)の敬次郎のもとに世話になる。敬次郎は二百人からの子分を持っていた。
無宿というのは単なる住所不定の意味ではなく、出身地の宗門人別帳から外されている無籍者の事である。不行跡のため勘当を受けた者が多い。江戸時代の刑法は連座制であるから、犯罪人ばかりでなく、親兄弟、五人組まで処罰された。その危険を避けるため親族の縁を切っておく。代官や領主に願い出てその手続きを取り、人別帳に赤紙を貼ってもらう。そうすれば法的に無関係となった。これを札付きという。
美濃3人衆と呼ばれた合渡(こうど、岐阜市)の政右衛門(政五郎)、関の遠藤小左衛門、大垣の水野弥太郎(1805-66)は大親分だった。
1820年頃、合渡の政五郎と揚羽の蝶六の喧嘩があり、栄五郎は助っ人のため美濃に行く。蝶六が政五郎の縄張りに食い込んで来たのが原因だったが、美濃の神田の豊吉、尾張犬山の犬屋金十郎、尾張の久六の仲裁で手打ちとなる。
1824年、栄五郎は江戸で捕縛され入牢、牢内で観音寺久左衛門と再会し、その死を看取った後、佐渡へ送られる。1825年8月、島を抜ける。
無宿狩りは将軍の日光社参などの前には大々的に行われ、その時には伝馬町の牢は満員になった。
武士階級の中からも浪人者という遊民が生じていた。浪人は農村に行って用心棒になったり、道場を開いて農家の若者たちに無用の剣術を教えたりした。
保下田の久六はもと八尾ケ嶽という角力崩れで、名古屋の南部知多半島辺りを縄張りとした大親分。藩から十手を預かっていた。
博徒の喧嘩は多くは相手の油断を衝いての奇襲攻撃で絶対有利の人数を揃えて殴り込む。一家同士が果たし状を突き付けて堂々と正面切って闘争する場合は極めて少ない。そういう場合でも相手と顔があったら、すぐに斬り合いが始まるわけではない。百メートルも離れて睨み合い、違いに罵って気勢を上げ、そういう状態が2時間も3時間も続く。喚声を上げたり鉄砲を放ったりして威嚇する事もある。威勢に圧倒された方が逃げてしまう。また役人が来れば双方とも逃げた。双方の闘志が高揚して突撃乱闘となる場合も、とことん殺し合う事はない。抜刀して双方がぶつかるが、向こう側に駆け抜けるだけ。両軍の位置が入れ替わるだけで戦闘は終わりとなる。互いに二度三度と斬り合う事はない。あっという間に済んでしまう。駆け抜ける間に幾人か負傷者が出る。その数によって勝敗が判定される。或いは互いに勝ったと思って引き上げた。一宿一飯の恩義で助っ人に出た者は先頭を切って突撃しなければならない。先頭を切るのは怖いが、必ずしも相手の先頭と斬り結ぶ必要はない。駆け違ってまっしぐらに向こう側の安全地帯に達すればよかった。
喧嘩の助っ人は親分から5両から10両の草鞋銭を渡された。役目が済めばそのままずらかってよかった。
手打ちの座敷は上座に立会人が並び、下座に仲裁人が並ぶ。喧嘩の両者は左右に分かれて並び、中央を屏風で仕切って顔が見えないようにしておく。式が始まると屏風を取り、盃を回す。盃は右から左へ、左から右へ、二回立会人を通して回し、最後に仲裁人が納める。そこで仲裁人が和解状を読み、シャンシャンと手を打って和解が成立する。肴と箸は水に流して一切を忘れた事にする。この費用は仲裁人が立て替え、後で両者が払う。
文政10年2月、関東全域に「御取締筋御改革」45ケ条が交付された。従来、農村での犯人検挙は極めて少なかった。犯人の留置や江戸への護送の費用が村の負担になるので、犯人がいても捕らえず、隣村へ追い出すだけで済ませていた。隣村は他領というように支配関係が細分されていたので、犯人の潜伏逃走には好都合だった。そこで幕府は支配とは無関係に組合村を組織させ、大組合は40-50ケ村、小組合は3-6ケ村とし、中心の村に寄場を設け、その村の名主を寄場役人とし、各村名主の中から大惣代を選んで、関八州取締出役に直結させた。要するに犯罪処理の責任と費用を組合村の大きな組織で行わせた。
文政12年には全国的に若者組、若衆組、娘仲間など青年男女の団体の解散を命じる。
佐渡金山の大工の給料は一日152文(1819)で他の仕事よりずっと高い、米一升が45文。
佐渡金山の労働は一昼夜交代、労働日には一日1升2合4勺、休養日には5合8勺の米と味噌35匁が支給された。一年に一日の休日があった。水替人足は3年で死ぬと言われていた。
秋山要蔵(1772-)‥武蔵国箱田に生まれ、江戸へ出て神道無念流を修めた剣客。川越、高崎、伊勢崎などに道場を設け、門弟二千人と言われた。侠客仲間に親しまれ、赤尾の林蔵や大前田栄五郎は弟子だったという。
文政9年(1826)、人を殺して逃げて来た国定村の忠次郎が河越にいた栄五郎を頼って来た。河越には兄要吉の子分、木村七蔵がいた。河越は寺社が多く門前町が発達しており、博徒の巣のような町であった。栄五郎は一年程、忠次郎をそばに置いたらしいが、子分にはせず、百々村の親分紋次のもとへ添え状を付けて預ける。
百々村の紋次(1800-)は本名を宮崎紋次郎といい、利根郡大沼村の名主藤八の総領に生まれる。後閑村の櫛淵虚冲軒(1747-1819)の道場で神道一心流の剣術を学び、16歳の時、佐波郡伊与久村の縁戚宮崎有成の家に入って儒学を学ぶ。ところが繁華な境町に近い事から、やくざ仲間に加わり、島村の伊三郎(1790-)の子分になった。また、大前田栄五郎とも接触があった。
忠次郎は1830年、紋次より駒札を譲られる。忠次郎が三ツ木の文蔵と共謀して、よそ者である紋次郎を締め出した形らしい。紋次郎は郷里へ帰って一家を構え、大前田の傘下に入る。
栄五郎は文政から天保にかけて数年は名古屋にいた。
栄五郎は関東、東海、甲州一帯に224ケ所の渡世場を持っていた。そのテラ銭を集めるために子分3人が年中回り歩いていた。
旅人は3日間は黙って泊まれるが、続けて置いてもらう時は改めて挨拶をする。2日間は何もしなくていいが、3日目からは掃除などを手伝う。貫録によって客分扱いになれば、そういう事はしない。飯は丼に山盛り2杯が作法で、出された物は食い残してはならない。魚を出されれば骨は紙に包んで懐に入れ、皿を綺麗にして返す。寝る時は蒲団一枚を借り、柏葉にくるまって寝る。壁の方を背にして甲掛は着けたまま、片手はいつでも使えるようにして寝る。手拭1本を土産にして(後で上紙を取り替えて返してくれる)、2分位の草鞋銭が貰える。駕籠に乗って来ても、その家の前まで乗り付けてはならない。夕方燈火を点ける頃になって一宿一飯を頼んでも受け付けて貰えないので、その場合は旅籠に泊まる。翌朝、挨拶に行き、無断で旅籠に泊まった事を詫びなければならない。先方で自宅はむさ苦しいからと、旅籠へ案内して泊まってもらう事があるが、その場合、食事の前後と寝る前に挨拶に行く事になっている。
栄五郎は42歳の時から、脇差をやめて木刀を差し始めた。浅草の土産物屋で買った1尺3寸の物で柄の部分に蓮華の金象眼、鞘の部分に「古池や蛙飛び込む水の音」と書いた短冊の絵、その下に青蛙の象眼が飾りとなっている。そして、水色の下げ緒がついている。
久宮一家は丈八の死後、甥豊吉が跡目を継ぎ、福田屋栄次郎の仲介により、1834年、石山観音(赤堀村下触)の境内で栄五郎と和解の手打ち式が行われる。
江戸屋虎五郎(1814-1895.10.22)‥栄五郎の一の子分。幼名七五郎、武蔵国新座郡岡村(朝霞市)に生まれる。幼時に両親と別れ、藤久保の叔父真兵衛に養われる。体格が勝れ、目玉の大きいのが特徴。18歳の時、藤久保の獅子ケ嶽重五郎(-1864.10)の子分になる。重五郎は河越藩松平候の抱え力士だった。1834年、栄五郎と遠州浜松の半兵衛の家で出会う。当時、伊勢崎の栗ケ浜半兵衛が国越えして浜松にいた。都鳥源八を殺し、館林の香具師栗原弥七の厄介になり、見込まれて代貸になる。25歳の11月、館林連雀町の江戸屋岡安兵右衛門に見込まれ、娘ちかの婿となって跡を継ぐ。館林藩主秋元但馬守の家老小林庄之助に認められ、十手捕縄を預かる。全盛時代は関東はもとより、東海、甲州、信州にまで侠名を馳せた。伊豆の大場の久八、甲州の武居の吃安、尾張の保下田の久六らと交遊があった。

上州江戸屋兵右衛門(-1856)‥邑楽郡全域と野州足利まで縄張りを持つ大親分。
上州伊勢崎の栗ケ浜半兵衛‥栄五郎の兄弟分。1834年頃、人を斬って浜松に移る。
遠州都田の源八(-1839)‥遠江引佐郡都田村の博徒の親分で、縄張りは藤枝の長楽寺清兵衛と遠江を二分していた。秋葉山の高市を縄張りに持つ。都鳥と言う名は後から付けられたもの。伜の吉兵衛(1828-60)が跡目を継ぐ。源八の弟に常吉(-1863)と梅吉(-1862)がいる。
由井ケ浜の大熊五郎‥栄次郎の兄弟分。
野州佐野の京屋元蔵‥江戸屋に婿入り前の虎五郎を助けた剛腹な親分。栄五郎の兄弟分で関東取締出役の道案内。
豆州大場の久六(1814-92)‥栄五郎の弟分。田方郡間宮村、本名は森久治郎。品川台場築造の人足取締として功績があった。
尾州保下田の久六(-1855.6.1)‥亀崎近くの乙川畷で清水の次郎長に斬られる。栄五郎、虎五郎は仇討ちを掛けるが、安東文吉(1808-71)の調停により、石塔料150両で和解が成立。
甲州武居の吃安(1812-62.9.6)‥1850年八丈島に流され、1851年新島に移され、1858年新島を脱島し、1860年逮捕される。
津向の文吉(1810-83)‥1849年八丈島に流され、明治の大赦まで在島。
武州高萩の万次郎(1806-64)‥虎五郎の兄弟分。鶴屋、本名清水万八郎。
信州三日町の又太郎‥千曲川の馬市を采配する親分。
大前田には兄要吉がいたため、栄五郎は一年の大半を旅の空で過ごした。
春3月の甲州大野山、秋7月の上総加納山と共に冬12月の千曲川馬市が諸国から多数の親分衆を集めた。
田島草雲(1815-)‥足利藩の足軽の子。通称恒太郎、梅渓。金井烏洲について絵を学び、二十歳の時、脱藩して出府し、加藤梅翁に入門、後に谷文晁に師事る。江戸で画家として生活していたが、うだつは上がらず、喧嘩梅渓とあだ名されていた。梁川星厳と交わり勤王思想を吹き込まれた。46歳、号を草雲と改め、翌年、足利藩の家老川上広樹に請われて藩に復帰し、政務に参与する。
天保13年(1842)7月27、8日、笹川繁蔵(1810-44)が催す上総須賀山村諏訪神社の花会に大前田栄五郎、国定忠次(1810-50)、仙台から鈴木忠吉、伸夫の常吉、江戸の新門辰五郎(1800-75)、清水の次郎長(1820-92)も集まった。
飯岡助五郎(1792-)‥相撲上がりの親分。1840年、相撲会所から「近国近在相撲世話人」を委嘱される。二足の草鞋。
白金屋銀次郎(-1846.1.8)‥伊勢崎平田天王前に住む八州付きの目明かし。郡奉行(伊勢崎藩)山岡甚太夫の後援を得て、栄五郎の勢力を潰し、自分を売り出そうとして、栄五郎を捕らえるが、京屋元蔵に殺される。伊勢崎に平田天王社はなく、白金屋銀次郎という目明かしがいた事実も不明。
上州白銀屋文之助(1790-1863)‥本名関口文之助。前橋の大親分。
栄五郎は旅に出る時、旅人姿ではなく、白地の着物に紋付羽織、白足袋草鞋という俳諧師のような装束で一人か二人の子分を連れて歩いた。
上州五町田の嘉四郎(1814-1900)‥吾妻郡東村五町田、本名村上嘉四郎。沢渡、草津街道を縄張りとし、栄五郎の四天王の一人とも言われる。二足の草鞋を履く。
毎年12月に総社町に松市が立つが、ここの神主八太夫が博徒の交際をしないで賭場を開き、カスリを取っていた。大久保村の忠五郎(田代代八の子分か)がこれを怒って子分13人で切り込んだ。八太夫は抜け穴から逃げてしまい、そこに来ていた伊勢崎の重兵衛の左腕を子分が誤って切り落とした。重兵衛は栄五郎の子分なので、忠五郎は嘉四郎に調停を頼んだ。嘉四郎は承諾して妹の亭主から15両借り、行こうとしている所へ、大胡の団兵衛と村山玉五郎(共に栄五郎の子分)が来て、草津に遊びに行こうと誘った。それに応じて草津で二日間芸者遊びをしてから大前田へ出掛けると道で栄五郎と行き会い、この件は任せてくれと了解を得た。総社町の駿河屋の二階で八太夫を戒め、重兵衛と大久保身内と和解させる。
1852年、栄五郎は大胡に腰を落ち着ける。大橋の東二百メートルの三本辻の西の角。大間々街道から日光裏街道が分かれる所。向屋敷という。その家から大橋にかけての道に沿って子分たちの長屋が並んでいた。向う隣に田島屋という菓子屋があり名物「おりめ団子」を売っている女が住んでいて、栄五郎の妾になった。
羽織は貸元になるまで着られず、差立貸元になって初めて白足袋が許された。羽織は許されても襦袢を重ねる事は江戸屋虎五郎以外は認められなかった。
大胡の団兵衛(1810-61)‥栄五郎の子分。1861年、三宅島に流されるが上陸後、すぐ死ぬ。
渋川の庄太郎(1825-64)‥栄五郎の子分。1856年、新島に流罪。島で病死。
伊勢崎の玉五郎(1826-)‥栄五郎の子分。1856年、新島に流罪、67年赦免。
大間々の宇吉(1821-)‥大間々の八十郎の子分。1856年、三宅島に流罪。島にて仲間を裏切り殺される。
大前田の幸松(1821-66)‥栄五郎の子分。1865年、新島に流罪。1866年島抜けに失敗し死す。
三原の金五郎(1825-66)‥幸松の弟分。1865年、新島に流罪。1866年島抜けに失敗し死す。
大前田の鶴亀(つるき)屋八百蔵(1793-1874)‥栄五郎の勘定方。米穀商。
栄五郎は酒が飲めない体質だった。清水の次郎長も飲めなかった。
駒札の駒は1208枚が一組。
1867年、兄要吉の死後、栄五郎は大前田一家の組織を強化する。
後見役‥伊豆の大場の清八、江戸屋虎五郎、田島陽吉。
四天王‥相模の久六、乱国こと吉田藤吉、

縄張りの分譲は次の通り。
 1.勢多郡荒砥村木瀬村及び佐波郡の一部を駒形町の高橋米八。
 2.大胡町を中心として宮城村の大崎末蔵。
 3.利根郡沼田町を中心として川場の与五郎。
 4.仁手村及び芝根を中心として下田文次郎。
 5.上陽村及び宮郷村を田島幸作。
 6.木瀬村下川淵上川淵の大半及び上陽村の東部を駒形町の新井梅吉。
 7.北橘横野敷島村及び富士見村の半部を生方長八。
 8.南橘北部と富士見村半部を鈴木辰五郎。
 9.前橋東南部及び上川淵の一部を□□□□□。
10.芳賀南橘の一部、前橋の東北部を五代の玉五郎。
11.桂萱の半部、前橋の東部を吉田藤吉。
12.桂萱の東部、大胡町堀越の一部を町田忠造。
13.前橋の西部を関口清吉。
14.伊勢崎町を山田万蔵。
15.利根郡川田村、勢多郡敷島村、群馬郡白郷井村及び長尾村を白井の後藤善吉。
16.利根郡久呂保村糸之瀬村赤城根村を糸之瀬の加藤多助。
17.邑楽郡館林町板倉町多々良村中野村長柄村高島村を館林の江戸屋虎五郎。
 
お鶴

1808年佐位郡今井村の旧家桐生家に生まれる。1歳
1825年10月佐位郡国定村の長岡忠次郎(16)のもとに嫁ぐ。忠次郎の母は34歳。18歳
1826年10月忠次郎(17)、無宿者を殺し、武蔵国へ逃げる。19歳
1827年3月忠次郎(18)、百々村の門次の子分になったと言って、こっそり現れる。20歳
1829年忠次郎の弟、友蔵(16)、綿打村から嫁(16)を貰う。22歳
1830年9月忠次郎(21)、百々村の門次の跡目を継ぐ。23歳
1831年1月忠次郎(22)、田部井村で国定一家を張り、お町(22)を妾にする。24歳
忠次郎は忘れた頃、時々、顔を見せる。お鶴は母親と一緒に養蚕、機織りと稼ぐ。
1832年友蔵(19)の長女りん、生まれる。25歳
1834年6月忠次郎(25)、無宿者となる。27歳
7月2日忠次郎、島村の伊三郎を殺し、旅に出る。
1835年7月忠次郎(26)、旅から帰り、顔を見せる。28歳
1837年6月忠次郎(28)、田部井村で沼浚いをする。30歳
友蔵の妻(24)、病死する。りんの面倒を見る。
1838年3月三ツ木の文蔵が捕まり、忠次郎(29)、旅に出る。31歳
忠次郎の弟、友蔵(25)、後妻(22)を貰う。
1839年友蔵の長男権太、生まれる。32歳
1841年10月大久保一角(46)、山伏右京(34)と共に、長男角太郎を捜しに来る。34歳
1842年1月忠次郎(33)、旅から帰り、玉村に殴り込み。35歳
友蔵の次男波太郎、生まれる。
9月忠次郎、三室の勘助を殺し、大久保一角と共に旅に出るが右京は残る。
右京、お鶴にひそかに惚れ、円明院泰玄(57)宅に居候する。
1843年12月忠次郎の母の具合が悪くなり、右京に祈祷を頼む。36歳
その後、時々、世間話をしに円明院の右京を訪れるようになる。
1845年5月14日忠次郎の母(54)死す。38歳
夏忠次郎(36)、旅から帰り顔を出し、赤城山に隠れる。
1846年友蔵の3男利喜松、生まれる。39歳
6月忠次郎(37)、五目牛のお徳(31)を妾にする。
1849年11月忠次郎(40)、境川の安五郎(35)に跡目を譲る。42歳
1850年7月21日忠次郎(41)、お町の兄嘉藤太の家で倒れる。43歳
忠次郎の病気が治るように円明院にいる右京(43)に頼む。
8月24日忠次郎、西野目宇右衛門宅で捕まる。山伏右京に連れられ、行方をくらます。
12月21日忠次郎、大戸で処刑される。
山伏右京の妻となり、磐城の平(福島県いわき市平)で暮らす。
1869年比丘尼姿で忠次郎の墓参りに国定村に来る。62歳
1876年11月21日死す。69歳  
 
百々村の紋次

1793年弥久、羽鳥門庫(50)の次男に生まれる。1歳
1794年人別帳に父門庫(51)母と兄門三郎(14)、姉(9)、弥久(2)の5人家族。2歳
この年、門庫、百々村の組頭となる。
1802年門庫(59)、組頭となる。10歳
1804年姉、嫁に行く。12歳
1805年弥久、茂呂村の五十嵐金弥(31)の道場に通い、気楽流剣術を学ぶ。13歳
1809年弥久、家を飛び出す。17歳
1810年大前田栄五郎(18)、月田の栄次郎(18)と兄弟分になる。18歳
1812年出雲崎の観音寺久左衛門(-1824)、新潟の池上徳右衛門の世話になる。20歳
1813年美濃の合渡の政五郎の世話になる。21歳
島村の伊三郎、一家を張る。
1815年銚子の五郎蔵の子分、飯岡の助五郎(24)と兄弟分になる。23歳
1816年門庫(73)、組頭となる。24歳
1818年越後長岡で合の川政五郎(30)の弟分になる。25歳
1819年4月20日父羽鳥門庫(1744-1819,76)死す。27歳
5月弥久、旅から帰る。
11月嫁(19)を貰う。
1820年合渡の政五郎の喧嘩の助っ人のため、美濃に行く。美濃で栄五郎と再会。28歳
美濃から帰って来て、紋次を名乗り、百々一家を張る。縄張りは境宿、武士村の渡し。
木島村の助次郎(29)紋次の子分となる。
境宿の新五郎(27)紋次の子分になる。
武士村の惣次郎(25)紋次の子分になる。
1821年3月紋次、無宿になる。29歳
1822年長女、生まれる。30歳
馬見塚村の左太郎(25)紋次の子分になる。
1823年三室村の勘助(24)の兄貴分になる。31歳
柴宿の啓蔵(27)紋次の子分になる。
1824年大前田栄五郎、江戸で捕まり入牢。佐渡へ送られる。32歳
1825年大前田栄五郎、佐渡を脱島し藤久保の獅子ケ嶽(28)のもとに潜む。33歳
三ツ木の文蔵(17)、紋次の子分となる。
1826年保泉の久五郎(16)、紋次の子分となる。34歳
長男、生まれる。
1827年10月国定村の忠次郎(18)、紋次の子分になる。35歳
山王道の民五郎(16)、紋次の子分になる。
12月木島の助次郎の父親、助右衛門(61)、関東取締出役の道案内になる。
1830年9月病に倒れ、忠次郎(21)に跡目を譲り隠居する。38歳
1832年忠次郎(23)、木崎宿で賭場荒らしをする。40歳
1833年5月忠次郎(24)、島村の伊三郎の賭場を荒らし、簀巻きにされるが、福田屋栄次郎に助けられる。栄次郎、紋次の見舞いに来る。41歳
福田屋栄五郎の仲介で大前田栄五郎と久宮の豊吉が手打ちをする。
1834年7月忠次郎(25)、島村の伊三郎を殺し、旅に出る。42歳
1835年7月忠次郎(26)、旅から帰る。43歳
8月忠次郎、玉村の京蔵と主馬に殴り込みを掛ける。
長男(10)を伊与久村の斎藤武八郎の道場に通わせる。
忠次郎、紋次の妻のために小料理屋を開かせる。
1836年2月忠次郎(27)、茅場の長兵衛の仇を討つため信州に行く。44歳
1837年6月忠次郎(28)、西野目宇右衛門と共に磯沼の浚渫を行う。45歳
1838年3月26日三ツ木の文蔵、世良田村で捕まる。忠次郎、奪い返そうとするができず大戸の関所を破り旅に出る。46歳
1839年長女(18)を嫁に出す。47歳
1840年三室の勘助、八寸村小斉に移り、関東取締出役の道案内になる。48歳
1841年12月山王道の民五郎、玉村の主馬に殺される。49歳
1842年1月忠次郎(33)、旅から帰り、玉村に押しかけ、主馬を殺す。50歳
2月忠次郎、木崎宿に上総屋源七がいる事を知り挨拶に出掛ける。
3月11日紋次死す。忠次郎、石塔を建てる。「花輪昶光居士」
 
大前田栄五郎

1786年兄、田島要吉、生まれる。幼にして失明。
1787年大前田村、小笠原六五郎の知行所となる。
1793年栄五郎、大前田村に田島久五郎の次男として生まれる。1歳
1797年妹なを、生まれる。5歳
1801年父久五郎(50)死す。要吉(16)が跡を継ぐ。9歳
1805年中村の角田常八(23)に浅山一伝流剣術を習う。13歳
1807年春月田の栄次郎と共に縄張り荒らしをした仁手の清五郎の三下を斬る。15歳
越後に国越え、1、2年で帰国。
1816年栄五郎、無宿者となる。24歳
1817年7月12日月田栄次郎、武井和太郎とに東上州の大親分、久宮丈八(36)を斬り、栄五郎は美濃、栄次郎は甲州、和太郎は日光へ国越え。上州無宿の勝五郎と名乗る。25歳
1818年美濃の五六の敬次郎、のち合渡の政五郎に寄食。26歳
12月地代官三原幸作とその妻を斬り、雪の木曽路を越後へ遁走、凍傷で足の指を失う。
1819年出雲崎の観音寺久左衛門の世話になる。27歳
1820年合渡の政五郎の喧嘩の助っ人のため再び、美濃へ行く。尾張の保下田の久六に寄食。28歳
1821年名古屋に住み城の防火、藩金の盗難などに手柄を立て、家老の信任を得る。29歳
母きよ(58)死す。葬式に帰郷したが一晩で旅へ出る。
妹なを(25)に婿、苗ケ島村の長岡万蔵(23)を取り、田島家を継がせる。
1824年江戸で捕らえられて入牢、牢内で観音寺久左衛門と再会。久左衛門は間もなく牢死。32歳
佐渡へ水替え人足に送られる。
1825年姪なか、生まれる。33歳
8月佐渡を脱島、帰国して河越に潜む。
1826年国定忠次郎、人を斬って栄五郎を頼る。34歳
《無宿有宿を問わず長脇差を持つ者は死罪に処すの達し》
1827年国定忠次郎、栄五郎の添書に寄り百々村の門次の子分になる。35歳
1833年福田屋栄次郎の仲介で久宮丈八の跡目豊吉と手打ち成立。41歳
以後、郷里に居住する事多くなる。
妹なをの婿、万蔵(35)死亡。
1834年長脇差を捨て、木刀を差し始める。42歳
浜松で江戸屋虎五郎(21)と会う。
国定忠次郎(25)、島村の伊三郎を殺し、国越えする。
1835年江戸屋虎五郎、都鳥源八を斬り館林に来る。43歳
国定忠次郎、信州より帰り、玉村の京蔵、主馬に殴り込みを掛ける。
1838年虎五郎(25)、江戸屋に婿入りする。46歳
1840年子分、高崎の小久源太郎(43)、新島へ流罪。48歳
1841年4月吉日栄五郎、赤城神社に灯籠を寄進する。49歳
7月吉日田島要吉、村山玉五郎、岡田武平、石原熊吉、渡辺栄次郎、鹿沼房五郎、倉橋藤作ら、赤城神社に灯籠を寄進する。
1842年笹川繁蔵の花会に出席。50歳
国定忠次郎、板割の浅次郎に三室の勘助を斬らせる。
1843年五町田嘉四郎と大久保一家との紛争を仲裁する。51歳
1844年飯岡一家、笹川繁蔵へ斬り込む。平手造酒死亡。52歳
1846年赤城山に忠次郎を訪ねる。54歳
白銀屋銀次郎、栄五郎を御用弁にする。京屋元蔵、銀次郎を斬り、栄五郎釈放となる。
1848年笹川繁蔵、飯岡一家の者に暗殺される。56歳
1850年国定忠次郎に中風発病に自決を勧める手紙を与える。58歳
12月21日忠次郎、捕縛され、大戸で磔になる。
1852年大胡の向屋敷に定住する。妾おりめに菓子屋を営ませる。60歳
1855年保下田の久六、次郎長に斬殺される。63歳
1859年妹なを(63)死す。67歳
1861年大胡の団兵衛、三宅島に流罪となる。69歳
1864年天狗党の軍師と会い、進路を変更させて縄張りを守る。72歳
高萩の万次郎(57)死す。
1867年兄要吉(82)死す。75歳
1874年2月27日大胡の自宅で病死する。82歳
「博奕打ちは普段の行いをよくしていなけりゃ大きくなれねえ。旦那方にはこっちから頭を下げろ。堅気衆に可愛がられなけりゃ出世はできねえ。女房は早く持っちゃならねえ。子が出来ると切った張ったの切っ先が鈍るもんだ。女が欲しけりゃ一遍こっきりの女郎を買え。むやみに喧嘩しちゃならねえ。割に合わねえ喧嘩なら我慢するんだ。下の者には出来るだけ目を掛けてやれ。上の者とは五分に付き合え。こうしていれば自然と世間から重く見られるようになる」
 
日光の円蔵

1802年下野都賀郡落合村板橋に父無し子として生まれる。母は15歳。1歳
1806年母親は嫁ぐ。祖母に育てられる。5歳
1811年寺に入れられ晃円と名乗る。10歳
寺で学問と武芸を習う。
1818年祖母(51)、死す。17歳
寺を逃亡し、野州無宿日光の円蔵と名乗り、旅に出る。
旅で知り合った親分たち
尾張の大前田栄五郎(1793-1874)
信州権堂村の上総屋源七(1788-1860)
信州松本の勝太郎(1801-)‥兄弟分。
下総飯岡の助五郎(1792-1859)
甲州三井の卯吉(1783-1856)
甲州吉田の仏の仏の長兵衛(1785-1862)
武州藤久保の獅子ケ嶽重五郎(1798-1864)
江戸の新門辰五郎(1792-1875)
上州館林の江戸屋兵右衛門(1795-1856)
会津大芦の左蔵(1799-)‥兄弟分。
1829年甲州三井の卯吉(47)のもとで桑名の女無宿、弁天のおりん(28)と出会い意気投合。28歳
おりんと共に信州松本に行き、勝太郎の世話で所帯を持つ。
1830年5月前橋の福田屋栄次郎(40)の客分となる。29歳
6月栄次郎と共に簀巻きにされた国定村の忠次(21)を助ける。
8月忠次、百々一家の跡目を継ぐ。円蔵は忠次の客分になる。
9月松本に行き、弁天のおりんを百々一家に連れて来る。
10月弁天のおりん、情報を探るために島村一家に草鞋を脱ぐ。
1831年10月弁天のおりん、百々一家に戻る。30歳
1834年7月忠次(25)、島村の伊三郎を殺す。33歳
旅に出た忠次の留守を守る。
1835年7月忠次と文蔵、旅から帰る。34歳
1842年9月忠次(33)、浅次郎に小斉の勘助を殺させる。41歳
11月関東取締出役に捕まる。
1843年牢屋にて死す。42歳
 
八寸村の七兵衛

八寸村の権現山の北裏に住む。
七兵衛の身内に馬見塚村の只八、堀口村の定吉がいる。
1805年家を飛び出し、久宮の丈八(1782-,24)の子分になる。15歳
1815年三室の勘助(16)、丈八の三下になる。25歳
1817年7月12日久宮の丈八(36)、大前田栄五郎(25)らに殺される。27歳
久宮一家を離れ、八寸村に帰り、一家を張る。
1818年伊勢崎の半兵衛(26)と兄弟分になる。28歳
1820年百々村の紋次(28)、一家を張る。五分の兄弟分となる。30歳
1830年9月国定村の忠次(21)、門次の跡目を継ぐ。忠次の叔父御になる。40歳
1834年7月国定村の忠次(25)、島村の伊三郎を殺す。44歳
1842年9月8日国定村の忠次(33)、小斉の勘助(43)を殺す。52歳
1859年4月17日死す。69歳
 
島村の伊三郎

1790年島村の前島に船問屋佐七の長男に生まれる。本姓は町田。1歳
1806年武州牧西村の兵馬親分の弟分になる。17歳
1810年木崎宿の孝兵衛親分(28)の兄弟分になる。21歳
1813年無宿者となり、島村一家を張る。縄張りは島村、平塚河岸。24歳
平塚河岸の助八(1790-1833.24)を子分にする。
島村の定吉(1790-.24)を子分にする。
島村の林蔵(1792-.22)を子分にする。
小島の彦六(1797-.17)を子分にする。
1814年平塚の留五郎(1799-.16)を子分にする。25歳
1815年田島喜右衛門の娘(1797-.19)を嫁に貰い、立作に住む。26歳
1816年中島河岸の甚助(1792-1833,25)を子分にし、中島河岸を縄張り内に入れる。
1817年7月12日大前田栄五郎(25)、久宮の丈八親分を殺し大前田一家勢力を広げる。 尾島の貞次(16)を子分にする。28歳
1818年木島村の孝兵衛親分の勧めで関東取締出役の道案内になる。29歳
1819年武州牧西村の平野梅(1801-.19)を妾にする。30歳
世良田村の弥七(1793-1834,27)を子分にし、世良田村を張り内に組み込む。
1820年百々村の紋次(1793-,28)、境宿を縄張りに一家を張る。31歳
中瀬の信三(1805-.16)を子分にする。
1822年一人娘のいち、生まれる。33歳
1823年武州中瀬河岸の藤十(1795-,29)を子分にし、中瀬河岸を縄張り内に入れる。 浪人永井兵庫(1791-.33)、用心棒になる。34歳
1824年前島河岸の秀次(1796-,29)を子分にし、中瀬河岸を縄張り内に入れる。35歳
1825年八斗島河岸を縄張り内に入れる。36歳
いち(4)を引き取り、妻(29)を離縁する。
1826年国定村の忠次、無宿者を殺す。玉村の佐重郎より見逃すように頼まれる。37歳
境宿を縄張り内に入れようと企み、紋次に誘いを掛けるが紋次は断る。
1827年10月国定村の忠次、百々村の紋次の子分になる。38歳
1829年10月柴宿の啓蔵(1797-.33)、百々村の紋次を裏切り、子分となる。40歳
1830年5月木島の助次郎(1791-1842.40)、百々村の紋次を裏切り、子分となる。41歳
武士の惣次郎(1796-.35)、百々村の紋次を裏切り、子分となる。
6月忠次、中瀬の賭場を荒らし、簀巻きにされる所を福田屋栄次郎に助けられる。
8月百々村の紋次が病に倒れ、忠次が跡目を継ぐ。
1833年3月三ツ木の文蔵、境宿の桐屋で伊三郎に殴られる。43歳
平塚の助八が中島の甚助に殺される。甚助も助八の子分に殺される。
1834年6月世良田の祇園祭りの賭場で三ツ木の文蔵、伊三郎と争い殴られる。44歳
7月2日世良田の長楽寺境内で日待ちの博奕が行われていた。その夜、境宿横町の島屋で酒を飲んだ後、世良田に行く途中、米岡村原山で忠次らに殺される。
原山は道の南に民家が2戸あり、道の北の窪地に水田あり、溝に清流流れ、小溝に添い山林あり、少しく高見なり。忠次郎らは伊三郎を挟み打ちにした。
その夜、伊三郎は弁慶縞の帷子を着ていた。
1843年娘いち(22)に幸吉(佐十郎)を婿に迎える。
1845年11月15日孫、丑松(佐十郎)生まれる。
 
三ツ木の文蔵

1809年三ツ木村の貧しい農家に生まれる。1歳
1816年妹、やす生まれる。8歳
1819年同村の気楽流を学ぶ者から剣術と手裏剣を習う。11歳
1822年手裏剣を自力で工夫してものにする。14歳
1823年百々村の紋次親分の三下奴になる。15歳
1825年紋次親分の子分になる。無宿者になる。17歳
暇さえあれば喧嘩をしていて兄貴分の持て余し者となる。
1827年10月国定村の忠次(18)、紋次の子分になる。19歳
10月忠次と共に旅に出る。賭博荒らしをして旅の資金を作る。
1828年3月百々村に帰る。20歳
忠次と共に島村一家の賭場を荒らし回る。
木崎宿の女郎に惚れて通い詰める。
1830年8月忠次(21)、紋次の跡目を継ぎ、文蔵は子分になる。22歳
日光の円蔵、忠次の軍師になる。
1834年6月世良田祇園の開帳賭博の時、伊三郎の代貸と喧嘩して殴られる。26歳
7月2日忠次と共に島村の伊三郎を殺す。
忠次と共に信州に逃げる。中野で賭場荒らしをする。
1835年7月忠次と共に百々村に帰る。27歳
8月山王道の民五郎(26)、玉村の兄弟に殴られる。八寸の才一(25)と新川の秀吉(21)を民五郎に付けて玉村を襲撃、弟の主馬に重傷を負わせる。
9月妹のやす(20)、下中の清蔵と祝言を挙げる。
1836年1月忠次の弟分、茅場の長兵衛、中野村の原七に殺される。28歳
長兵衛の仇を打つため、信州に行くが原七は上総屋源七に捕まった後。
4月忠次、田部井村に移り、国定一家を名乗る。
百々村は文蔵が預かる。
1837年3月忠次、田部井村の沼の浚渫を行う。29歳
1838年3月26日世良田村の朝日屋の賭場に出掛けて、関東取締出役に捕まる。30歳
6月29日文蔵、江戸伝馬町で斬首され、3日間さらされる。
 
木崎宿の左三郎

1800年吉十郎、山田郡武井村に生まれる。1歳
1815年木崎宿に出て来て、孝兵衛親分(38、道案内)の三下奴になる。16歳
1817年孝兵衛親分の子分になる。18歳
1825年嫁(もよ、1807-.19)を貰い、木崎宿に団子屋を開き、川橋屋を称す。26歳
1826年孝兵衛の代貸となる。27歳
1827年1月幕府、関東取締出役10人の担当地域を決める。28歳
上州担当は吉田左五郎、河野啓助、太田平助、脇谷武左衛門(すぐに小池三助と交替)。
関東取締出役吉田左五郎の道案内となる。
1828年4月幕府、関東諸村に若者組などの取締りを命じる。29歳
1829年12月三国街道金古宿で飯盛女の不正事件が発覚し、木崎宿も取り締まると称し賄賂を取る。30歳
1830年9月忠次郎、百々村の紋次の跡目を継ぐ。31歳
1831年4月18日幕府、百姓町人の身分不相応の葬式及び戒名、石碑を禁止する。32歳
1832年天保の飢饉始まる。33歳
1834年1月27日幕府、関東諸国に囲米を禁じ、江戸への廻米を命じる。35歳
2月関東取締出役、寄場組合村に富裕な者の貯穀や江戸積み出し穀物を調査させる。
7月2日忠次郎、伊三郎を殺す。問屋場の軍蔵と共に現場に行く。
伊三郎がいなくなったので、縄張りを拡張する。
1835年吉田左五郎の息子、亀吉(1834-.2)を養子に迎え、名を左三郎と改める。36歳
馬太郎(1806-.30)、関東取締出役河野啓助の道案内になる。
1836年11月大間々を中心に米騒動が起こる。37歳
1837年3月忠次郎、田部井村の浚渫を行う。38歳
9月将軍が代わり、巡検使が見回るため、村方や宿場の取締が厳重になる。
1838年2月19日幕府、巡検使を派遣する。39歳
3月26日世良田村の道案内茂吉(45)の差し金で三ツ木の文蔵、八寸の才市が世良田で捕まる。
忠次郎の子分、神崎の友五郎、茂吉を殺して国越えするが紀州で捕まる。
この年、関東取締出役、農村の諸営業調査を行う。
1841年孝兵衛親分(59)、死す。左三郎が跡目を継ぐ。42歳
5月関東取締出役に臨時取締出役26人が加えられる。
1842年1月忠次郎、玉村の主馬を殺す。43歳
3月幕府、問屋の名称使用禁止を再令し、産地での商品の買溜め、囲置きを禁止する。
8月19日関東取締出役吉田左五郎と共に田部井村の又八の家を包囲するが忠次郎に逃げられる。
9月8日9月8日
忠次郎、子分浅次郎に三室の勘助父子を殺させる。
9月20日関東取締出役石井多七郎、桧山近平、忠次郎一味を大手配する。
11月11日関東取締出役中山誠一郎、富田錠之助、忠次郎一味を大手配する。
11月19日日光の円蔵を捕らえれ、伊勢崎に来る。
忠次郎の子分、大勢捕らえられる。
1843年2月9日関東に大地震起こる。44歳
4月12代将軍、家慶、日光社参する。
1845年5月木島村の助右衛門、千代松を捕まえる。46歳
1846年秋豪邸が完成、各地に招待状と進物を配布し、新築祝いを盛大に行う。47歳
しめて370両の祝い金を受け取る。
1847年9月関東取締出役、豊年手踊りなどを禁止する。48歳
1849年関東取締出役が増員され、3地域分担制が拡大される。50歳
上州担当は中山誠一郎、関畝四郎、安原トウ作、松田健蔵。
1850年7月21日忠次郎、お町の家で倒れる。51歳
半ば忠次郎の子分、次郎右衛門、世良田村の名主幸助に10両を渡す。
世良田村の幸助、左三郎と馬太郎に3両づつ渡し、太田宿の苫吉に3両渡すように頼む。
左三郎、苫吉の3両のうち2両を使い込み、苫吉に1両だけ渡す。
苫吉、腹を立て、忠次郎の居場所を関東取締出役松田健蔵に訴える。
8月24日関東取締出役中山誠一郎、廻村中、木崎宿に立ち寄る。角万屋佐重郎、挨拶に訪れる。
忠次郎、田部井村名主宇右衛門宅で捕まる。
忠次郎の一件で馬太郎(只右衛門店子)と共に捕まる。
12月21日忠次郎、大戸で処刑される。
12月26日上州から追放される(軽追放田畑欠所)。
185?年左三郎、妻子に会うため木崎宿に帰り、捕まる。江戸の人足寄場に送られる。
 
木島の助次郎

1791年木島村の大谷助右衛門の長男に生まれる。1歳
1820年百々村の紋次の子分になる。30歳
1827年12月26日父親の助右衛門(60)、伊勢崎藩の御領内取締役になる。37歳
1829年10月紋次を裏切り、島村の伊三郎の代貸になる。39歳
1832年9月伊勢崎の半兵衛、武士村の惣次郎を殺し国越えする。半兵衛の縄張りを狙う。42歳
1833年6月代貸の矢島の周吉が、半兵衛の代貸の二之宮の重太郎に殺される。43歳
重太郎が国越えしたため、半兵衛の縄張りを手に入れる。
1834年7月2日忠次郎、伊三郎を殺す。44歳
伊三郎の死後、島村一家に内部抗争が始まり、後ろ盾を失った助右衛門は半兵衛の子分に伊勢崎から追い出され木島村に帰る。
1835年8月柴の啓蔵、忠次郎の子分になる。45歳
9月父親(68)死す。助次郎、跡を継いで助右衛門を名乗る。
1836年2月平塚の助八、世良田の茂吉、忠次郎の子分になる。46歳
8月16日忠次郎、玉村八幡宮に各地の親分衆を招待し男を上げる。
10月忠次郎、貧しい者たちを救い、民衆の人気を得る。
1837年2月忠次郎、田部井村の沼を浚い、民衆の人気を得る。47歳
1838年3月三ツ木の文蔵、捕まる。取り返す事に失敗し、忠次郎、国越えする。48歳
7月忠次郎、関所破りで大手配となる。
1842年2月伊与久村の名主、大谷益左衛門より、娘に近づく源太郎を追い払ってくれと頼まれる。52歳
3月11日百々村の紋次親分、死す。忠次郎、経蔵寺にて盛大な葬式を行う。
5月8日雷電宮の淵名通りにおいて、忠次郎の子分伊与久村の源太郎を殺害し押し込めとなる。押し込めの後、忠次郎を恐れて逃げる。
8月18日木崎宿にいた関東取締出役の吉田左五郎に忠次郎の居場所を知らせ、隠れる。
8月19日田部井村の又八の賭場が襲撃され、忠次郎ら赤城山に逃げる。
8月23日伊与久村の名主の娘、お貞、家出する。
9月9日忠次郎、三室の勘助を殺し、旅に出る。
9月11日忠次郎がいなくなったので木崎村に帰る。
伊与久村の名主より娘を捜してくれと頼まれる。
1845年6月忠次郎、帰って来るとの噂に、隠れる。55歳
1848年2月お徳の家に家宅捜査に入り、お徳に怒られる。58歳
6月境町角屋吉兵衛方にて煩い出し、二夜ばかり煩い死去する。
 
三室の勘助

1800年三室村の名主であり、領主旗本久永代官所の手付役人中島勘蔵(25)の長男に生まれる。1歳
1803年勘助の祖父、代官であった勘右衛門(士分格)死す。4歳
1804年弟、生まれる。5歳
1812年市場村の本間道場に通う。13歳
1815年家を飛び出し、久宮の丈八(1782-1817,34)の三下になる。16歳
1817年7月12日久宮の丈八(36)、大前田栄五郎(25)らに殺される。18歳
久宮一家は甥の豊吉(17)が跡目を継ぐが落ち目となる。
勘助は久宮一家を去り、大前田要吉(37)一家の三下になる。
1819年勘助、大前田一家の子分となる。20歳
1821年要吉、栄五郎の母きよ(58)死す。栄五郎、帰郷するがすぐに旅立つ。22歳
1823年百々村の紋次(31)の弟分になる。24歳
1824年栄五郎が江戸で捕まり、江戸まで見舞いに行く。25歳
1825年栄五郎、佐渡を抜島し、大前田に帰るが要吉に怒られ、川越に行く。26歳
1826年勘助、三室村に帰り、一家を張ろうとするが親に反対される。27歳
1827年勘助、嫁(1809-,19)を貰い、堅気になり、代官所に務める。28歳
1828年勘助の長男、生まれる。29歳
1829年弟、嫁を貰い分家する。30歳
1830年勘助の次男、生まれる。31歳
9月国定村の忠次郎(21)、百々村の紋次の跡目を継ぐ。
1831年12月6日勘助の母(1781-,51)死す。32歳
1832年勘助の次女、生まれる。33歳
1834年7月国定村の忠次郎(25)、島村の伊三郎を殺し、手配される。35歳
1835年勘助の妻(27)、三男を産んだ後、死す。36歳
1836年2月国定村の忠次郎、大戸の関所を破り、手配される。37歳
上尾在足立郡内野本郷村の名主神山家の娘、玉(1808-63,29)、ふさ(1828-85,9)を連れて、勘助のもとに嫁ぐ。
1837年1月11日勘助の三男(3)、病死す。「法恵童子」38歳
2月2日勘助の次女(6)、病死す。「影月童女」
勘助の長男小三郎(10)、病死す。
6月国定村の忠次郎、田部井村の磯沼を浚う。
8月20日勘助の次男(8)、病死す。「宗園童子」
4人の子供を失い、世の中を恨み、荒れる。
1838年勘助、お清(26)を八寸村小斉(おざい)村に囲う。39歳
3月26日三ツ木の文蔵、捕まる。
1839年3月6日父勘蔵(1776-,64)死す。40歳
お清、太郎吉を産む。勘助、家に寄り付かなくなる。
1840年無宿者となり三室村を追放され隣村渡辺領の八寸村小斉のお清の家に移る。41歳
渡辺領代官木村磯治郎の推挙で関東取締出役の道案内になり、一家を張る。
磯治郎は勘助と同郷の幼なじみで木村家に養子に入った。
玉(33)とふさ(13)は木村磯治郎の世話で別に暮らす。
1841年勘助、十手をちらつかせて、下植木村の浅次郎(26)、八寸村の七兵衛(51)を揺する。42歳
1842年1月国定村の忠次郎、玉村の主馬を殺す。43歳
勘助、十手を持って、忠次郎のもとに挨拶に行き、金を揺する。
8月19日勘助、関東取締出役に知らせ、忠次郎のいる田部井村の賭場を囲む。
9月8日勘助と太郎吉(4)、浅次郎(27)らに殺される。清(30)は一緒にいたが傷を負いながらも逃げる。
1852年ふさ(25)、代官木村牧太(1817-66,36)の後妻となる。
 
やくざの生活

寺社の縁日、祭日のある日を高市(たかまち)と言う。
三下は賭場の表番(見張り)、下足番、使番などをする。
添書のない旅人に出す草鞋銭は二分、添書のある旅人には5両または10両の草鞋銭、場合によっては盆の上の取り持ちとなる。
戸を開けて中に入り、「旅の者ですが、お頼み申します」と入って三歩半進み、一足戻る。
生絲と織物のため、上州の農村は早くから貨幣経済が発達した。
宿場の問屋場の雲助や馬子も博奕を打つ‥取締出役の先触れを知らせてくれる。
一家には親分、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居の身分階級がある。
子分には手作り若者、譲り若者、世話内の三つがある。手作り若者は親分が作った子分、譲り子分は先代の親分から盃を貰って子分になった者が、新親分になって改めて盃を貰った者、世話内は他家から来て子分になった者で、絶対に親分の跡目相続はできない。子分のまた子分は孫分という。
三下奴は子分の盃を貰っていない者で、子分の盃を貰うには半年から二、三年はかかる。テラ銭の配分は受けられない。独立して生活する事ができず、親分の所に食客となり雑役をする。
兄弟分には@五分の兄弟分、A四分六の兄弟分、B七三の兄弟分、C二分八の兄弟分の四種がある。@は親分と対等の兄弟分で、彼らはお互いに「兄弟」と呼ぶ。Aは兄分が六分、弟分が四分で、兄は弟に対して「兄弟」と呼び、弟は兄分を「兄貴」と呼ぶ。Bは兄分が七分、弟分が三分で、兄は弟を「お前」と呼び、弟は兄分を「兄さん」とさん付けして呼ぶ。Cは兄分が八分、弟は二分で、兄は弟を「お前」と呼び、弟は兄を「兄さま」とさま付けにして呼ぶ。何分の階級が変われば、盃を改めるが、これを「盃を直す」という。
叔父分にも@叔父貴、A叔父御、B叔父様の三種ある。@は先代親分の弟分、Aは先代親分の五分五分の兄弟分をいう。Bは先々代親分の兄弟分をいい、親分の次に尊敬される。
貸元は一定の地域に縄張りを持った親分、代貸はその下にいて賭博場の管理などをする。中盆は勝負の進行をはかり、一家では兄貴分に当たる。出方は子分で賭場でお茶を出したり使い走りをする。三下奴はハシゴ番、履物番、見張り番などをする。
出役が泊まる旅籠屋を御用宿といい、飯売女郎屋が多い宿場では順番に御用宿を負担した。出役の宿泊は宿場の困りものだった。
八州廻りの巡回の状態は、道案内が木刀を差し、法被(はっぴ)を着て先に行く。次に出役は御馳走の人馬といって、宿村負担の無賃カゴに乗り、目明しは後から歩いて行く。
斬首刑の者でも三十両位出せば、出役から貰い受ける事ができた。
箱田の兵五郎は大前田栄五郎、大場の久八と兄弟分の親分だった。
テキ屋の隠語
アイツキ‥挨拶、仁義を切る
アゲイタ‥賭博開帳の現場
イカサマサイ‥詐欺采
イカサマシ‥詐欺賭博常習犯
イチバハジメ‥市場で初めて賭場開帳をいう
イロ‥情婦
オケラ‥博奕に負けた者
オトシマエ‥解決
カタギ‥素人
グシロク‥五四六、大目博奕
コマ‥金銭代用の木札
コマス‥口説く
コム‥続く
ゴロ‥喧嘩
ズラカル‥逃げる
タカモノ‥見世物、興業物
ダンビラ‥刀
テメバクチ‥詐欺博奕
テナグサミ‥博奕の総称
トッポイ‥大、太い、広い
ドヤ‥宿屋
ナグリコミ‥闖入
フケル‥逃げる
ヤサ‥自宅
ヤバイ‥危険
ヨロク‥利潤、儲け
ワタリヲツケル‥喧嘩を吹っかける

花札の符牒‥1はチンケ、2はニゾウ、3はサンズン、4はヨツヤ、5はゴケ或いはナカミチ、6はロッポウ、7はシチケン、8はオイチョ、9はカブ。
忠治の頃、国定村の戸数は164戸、石高は640石。田部井村は戸数139戸、石高は407石。
忠治は田部井村の辰の家、又八の家を賭場とした。境村、神谷村にも賭場があった。
無宿の佐与松が手目博奕をして百姓を欺き、忠治に懲らしめられる。
世良田村道案内幸助、木崎宿道案内左三郎、木崎宿道案内馬太郎、太田宿道案内苫吉。
日光の円蔵は下野国都賀郡落合村板橋生まれ。
日光の円蔵の妻(1802-)‥1824年、桑名を脱走し、円蔵の妻となる。
忠治は大前田栄五郎を叔父御と呼んでいた。
 
侠客100選

大前田栄五郎 (1793-1874)
勢多郡宮城村大前田の名主田島久五郎の次男。1818年、新田郡武井(新里村)の和太郎、月田村の栄次郎と久宮の丈八を殺す。尾張に逃げ、勝五郎と変名する。
国定忠次 (1810-1850)
佐位郡国定村の長岡与五左衛門の長男。母は綿打村(新田町)の旧家から17歳の時、嫁入りした。
日光の円蔵 (1802-43)
野州都賀郡落合村板橋生まれの山伏。忠次の軍師。
下植木村の浅次郎 (1816-1842)
忠次の子分。三室の勘助の甥。
三室の勘助 (1800-1842)
三室村は旗本の私領で、勘助は村の収納役を務める名主格だった。屋敷跡は一反からある広いもので、屋敷もねり塀に囲まれた立派なものだった。収納役という立場から、十手捕り縄を預かる身分だった。
合の川政五郎 (1788-1860)
高瀬仙右衛門。1828年、関東取締出役の相談役となる。
飯岡の助五郎 (1792-1859)
相模三浦郡田戸村の百姓石綿助右衛門の長男。力士を志すが親方が亡くなり、飯岡に流れて漁師になる。度胸を買われ、銚子の五郎蔵の子分になる。30歳前後で飯岡の縄張りを貰い一家を張る。関東取締出役の道案内。
成田の甚蔵
飯岡一家の四天王。
笹川の繁蔵 (1810-1847)
1842年7月27日、笹川諏訪明神の野見宿禰命の碑を建設するという名目で、関八州の博徒を集めて花会を催す。奥州鈴木忠吉、伸夫の常吉、大前田栄五郎(50)、国定忠次(33)、清水次郎長(23)らが集まる。1844年8月3日未明、飯岡の助五郎一家と決闘し勝利したが、笹川にいられなくなって旅に出る。2年後に戻るが、1847年7月4日、助五郎の子分、成田の甚蔵、三浦屋孫治郎らに殺害される。
勢力富五郎 (1813-1849)
繁蔵の一の子分。
三井の卯吉 (1783-1856)
甲州一円に睨みを利かせた甲府柳町の大親分。柳町は甲州街道の宿場町で、卯吉も旅籠屋の主人だった。関東取締出役の道案内と甲府境町牢の牢屋取締役も兼ねる。
祐天吉松 (1819-1863)
山伏として祐天を名乗り、吉松は本名。後、新徴組に入り山本仙之助を称す。卯吉の代貸の筆頭。岡っ引も兼ねる。1846年、文吉と共に吃安の食客、桑原雷助という浪人を殺す。
菱山の佐太郎 (1826-1906)
祐天の弟分。
津向の文吉 (1810-1883)
卯吉の子分。津向村(西八代郡六郷町鴨狩津向)の名主宮沢家の次男。1849年、博奕で捕まり八丈島に送られる。明治の大赦で甲州に帰る。
吉田の仏の長兵衛 (1785-1862)
下吉田村中村(富士吉田市)の名主右近之助の息子。温厚な親分で、生涯人を斬った事もなければ喧嘩もした事もなく、どんな博徒も一目おいていた。
竹居の吃安 (1811-1862)
本名中村安五郎。竹居村の名主、中村甚兵衛の三男として生まれる。竹居村を中心に八代郡一帯を縄張りとした。1862年、江戸屋虎五郎と高萩の万次郎らに捕らえられる。
黒駒の勝蔵 (1831-1871)
小池勝蔵。黒駒村若宮(御坂町)の名主吉右衛門の次男。
塩田村の玉五郎 (1825-)
小田原藩の浪人。勝蔵の軍師役。
八代村の綱五郎
女無宿おりは (1830-)
大柄の美人。
鬼神喜之助 (1822-)
豪商松坂屋の四男。
大場の久八 (1814-1892)
森久治郎。
獅子ケ嶽重五郎 (-1864)
武州藤久保の親分。川越藩お気に入りの力士だった。1823年、将軍上覧相撲に参加し勝ち星を上げる。木賃宿を表看板とし、岡っ引も務めた。博徒の方は三角一家と言った。万次郎とは反対の江戸寄りを縄張りとした。大前田栄五郎が類五郎という名で隠れていた。
江戸屋虎五郎 (1814-1895)
身の丈6尺の大男で目玉が大きくギョロッとしているので目玉の親分と言われた。関東取締出役の道案内。
高萩の万次郎 (1808-1864)
藤久保の重五郎と兄弟分。飯能の旅籠屋鶴屋の主人で本名清水万八郎。関東取締出役の道案内。
小金井の小次郎 (1818-1881)
万次郎の弟分。津向の文吉と兄弟分。武州小金井鴨下村名主、関平右衛門の次男。1856年、博奕で捕まり三宅島に流される。三宅島に新門辰五郎が流されていて、兄弟分になる。明治の大赦で方面になる。川崎大師が縄張り。墓碑名を山岡鉄舟が書く。
美濃の吉之助 ( - )
幕末の大親分。小次郎の子分。
府中の田中屋万吉 ( - )
万次郎の弟分
小川の幸蔵 ( - )
万次郎の弟分
新門辰五郎 (1792-1875)
下谷山崎町の飾り職人、中村金八郎の長男。幼い時、上野輪王寺の家来町田仁右衛門の養子となる。
岐阜の弥太郎 (1805-1868)
渥美郡矢島町の医者の家に生まれる。本名水野弥太郎。新選組と行動を共にする。博徒の長老と言われた。
相模屋政五郎 (1811-1886)
日本橋箔屋町に一家を構え日本橋の相政で通る。
安東の文吉 (1808-1871)
駿州安東村の長百姓、西谷甲左衛門の息子。駿河代官道案内の筆頭となり、凶悪犯でも当人の更生を考えて、そっと逃がしてやったので、首つなぎの親分と呼ばれた。
清水の次郎長 (1820-1893)
清水町の美濃輪の船持船頭の雲不見三右衛門の末っ子で、近くの「甲田屋」という米屋で叔父の山本次郎八の養子となる。本名長五郎。次郎八の伜の長五郎が詰まって次郎長と呼ばれる。1839年、いかさま博奕がばれ命がない所を安東の文吉に助けられる。1842年、人を斬って清水を飛び出す。1844年、高萩の万次郎を訪ねる。1845年、三河で博奕で捕まり入れ墨、敲き払いのお仕置きを受ける。1859年、相撲上がりの道案内、保下田の久六を讃岐の金毘羅参りの帰りに、尾張亀崎から1里ばかり離れた乙川の畷で、賭場からの帰りを捕まえて惨殺する。1861年、都田吉兵衛(1828-1861)を殺す。1884年、博奕狩りに引っ掛かって静岡の刑務所に入る。
吉良の仁吉 (1839-1866)
三河上横須賀村栄の百姓太田善兵衛の長男。
法印大五郎 (1840-1919)
甲州二宮村の百姓久作の次男。1869年、足を洗い角田甚左衛門と名乗る。
小政 (1842-1874)
浜松新町の魚屋吉川由蔵の伜。
黒田屋勇蔵
下総生まれで桑名に出て一家を張り平新王の勇蔵と言われた。荒神山の縄張りを長吉に奪われる。荒神山の祭日は4月6日、鈴鹿野登り山の祭り。7日、荒神山の御開張。8日、加佐登社と石薬師如来の御命日。9日、四日市、六呂見の海山道神社。宵祭、後祭を加えると6日間に及び、テラ銭の上がりは一日一千両にも及んだ。観音寺裏山から加佐登神社の白鳥塚にかけて十町程の山道の両側にはよしず張りの賭場がびっしりと並び、又、下久保に通じる道の分も合わせると二百に近かったという。東海道は勿論、甲州、信州の博徒が乗り込んだ。
丹波屋伝兵衛 ( - )
伊勢古市の大親分だが謎が多い。穴太の徳太郎の親分。
穴太の徳太郎 (1823-1874)
桑名の黒田屋勇蔵の跡目を継ぐ。
神戸の長吉 (1814-1880)
下総無宿、伊勢神戸に流れて親分となる。
日柳燕石 (1817-1868)
讃岐仲多度郡榎井村の質屋兼地主の加賀屋惣兵衛の一人息子。名は長兵衛。子供の頃から学を仕込まれ博徒には珍しい学者。
箱原のおさん (1820頃-1886頃)
甲州鰍沢の村名主の娘。亭主に死に別れ、若後家でいたところ、密通の嫌疑をかけられ女牢に入れられる。そこで女無宿と知り合い、渡世の道に入る。前身に大蛇の入れ墨を彫り、博奕打ちとして流れ歩く。小柄の美人。
追分のお侠 (1820頃-)
男装の女侠客。ドスのきいた男声で言葉に東北訛りがあり、剣術の腕は相当だった。武蔵妻沼の祭礼博奕で、縄張り争いの喧嘩に巻き込まれ重傷を負って死ぬ。
雑説
文化文政の頃、黒のかけ襟をつけるのが博奕打ちに流行する。
寛政の中頃までは辻博奕が公然と行われていた。
「たこま」‥六角の回しコマに役者の紋を書き、別にコマと同じ紋を六つに仕切った紙に描いて、賭け銭は一人4文だった。コマを回して紋合わせをし、合った者の手に4倍の16文が入り、残りの4文が胴元のものになるというもので、全国的に流行した。
岡っ引は犯人逮捕の際の特別手当として200疋が相場。金にしてたったの1分。
一宿一飯の旅人はよれよれの着物でゴザ一枚をくるくると巻いたのを担いで乞食同然だった。
一宿一飯や草鞋銭にありつくと言っても、相手から言葉を掛けてもらうまでは、何時間でも軒下に立ち尽くすか、土下座を続けたものであって、仁義を切ったからといって、おいそれと一宿一飯の恩義や草鞋銭にあずかれるというものではなかった。
博徒の掟
一、親分の言い付けは絶対である。たとえ白を黒と言われても服従しなければならぬ。
一、脇差は差すな。
一、他人の女に手を出すな。
一、博奕は金を儲ける事を目的とするな。
一、喧嘩を売ってはならぬ。
一、酒を飲んで賭場に入るな。
一、道を歩く時は、肩で風を切るな。
 
やくざと日本人

日本はこういう本を2、30冊ほど、せめて10冊をもっているべきである。しかし実際には、この1冊しかない。
ここに日本の現代文化の決定的な貧しさがある。スーザン・ソンタグが教えてくれたことなのだが、アメリカにはマフィアや暗殺団やアウトロー集団の研究書は、それぞれ50冊をくだらないという。それもたいていは分厚い本格的な研究書で、文学的にも社会学的にもすぐれたものが多い。
われわれはヤクザを知らなすぎる。それはよくない。もっと知るべきである。それには歴史から繙きたい。できれば中国のヤクザの歴史、すなわち遊侠や任侠の「侠」の動態や思想から順に見るべきだが、中国語の文献は知らないが、これについても日本語ではロクな本がない。ごく最近、かつてはマルクス主義者で、いまは翻訳家の平井吉夫が中国の「侠」をつないだ一冊の「任侠史伝」(河出書房新社)をまとめたのが、著者の経歴からいっても珍しかった程度だった。
まして日本の「侠」の歴史と動向と思想が描かれた通史というものは、ない。尾形鶴吉の「本邦侠客の研究」という先駆的な研究、田村栄太郎の「やくざ考」「やくざの生活」があるものの、これらは宮武外骨の「賭博史」や添田知道の「香具師の生活」などがそうであるように、取り扱っている範囲がそうとうに狭い。
本書はそうしたなかで、日本のヤクザ研究の第一人者が日本人論として描き出したヤクザ論である。
「侠」の全般史までは扱ってはいないが、慶長期のカブキ者・遊侠の徒・無頼者を起点に江戸社会に出現しては入れ替わっていったアウトローたちの動向を丹念に追い、続いて吉田磯吉に代表される近代ヤクザの生態、さらには社会主義とヤクザの関係から暴力団と呼ばれるにいたった戦後のヤクザの変転までを山口組にいたるまで、かなり通史的に、かつ言葉のもつ過剰な感情を抑えて、力動的に叙述した。
最初に書いておいたように、こういう本は一冊もない。したがって、著者の苦労と工夫はたいへんなものだったはずだが、猪野健治はその後もヤクザ研究を重ねて、日本アウトロー選集ともいうべきを一人で書きあげた。いわゆる「仁義なき戦い」前後の暴力団抗争についてもかなりの著作を積み上げた。これはいっとき出回った飯干晃一らのヤクザ・ドキュメントにくらべると、歴史観がある。しかし、著者の本懐はやはり任侠や侠客や博徒を生んだ歴史的構造がどのように変容していったのか、そこを今日に正確に伝えようとするところにある。
近世ヤクザのはしりは室町期に「男立」とか「悪徒」と呼ばれた連中である。「室町殿物語」には茜染の下帯をぐるぐるまわし、黒皮の脚絆をつけ、荒縄を鉢巻きにして、柄が1尺8寸もあり刀身が3尺8寸にわたる朱鞘の太刀をふりまわした派手な男たちの姿が描写されていた。つまりはバサラ者。
これは慶長期に往来を跋扈したカブキ者とまったく同じ扮装で、ヤクザというよりカブキ者の源流にあたる。カブキ者についてはかなりわかっていて、ぼくもときとぎ読むが、三浦浄心の「慶長見聞集」にも大鳥一兵衛の派手な意匠上の叛逆ぶりが描かれている。この時期は辻が花、三味線、ややこ踊り、織部焼などの、日本バロックの台頭期にあたる。
カブキ者はいまならパンクな連中といったところにすぎず、まだまだヤクザというほどではない。徳川社会も確立していないので、アウトローというわけでもない。大阪夏冬の陣までは、つまりは元和偃武(げんなえんぶ)までは、浪人は社会の当然だったのである。ヤクザの源流はこのあとの旗本奴と町奴の登場あたりからはじまっていく。
ひとつの象徴は由井正雪である。山本周五郎の「正雪記」に描かれたように、正雪は楠流の軍学の指南者で、幕政に刃向かって倒れていった。
これを契機に街には旗本奴や町奴が跋扈する。大額・大月代を競い、朱鞘・黄漆・大鍔の長刀を帯びた。このスタイルがいつごろからか「男伊達」(おとこだて)とよばれるようになると、ますます増長し、商家から「お断り」と称して金品を巻き上げる徒党になっていく。加賀爪甲斐守、坂部三十郎、水野十郎左衛門、柴山弥惣左衛門らがその悪名高い旗本奴である。六法組・神祇組などの徒党を組んだ。
たとえば水野十郎左衛門は白柄組の頭領で、金時金兵衛らの四天王の下に百人の子分を抱え、身なりは白縮緬一枚で通すという独得の痩我慢である。世での振舞で人後に落ちることは死ぬ以上の恥辱とみなしていたふしがあり、持ち合わせがなくとも料理屋で美酒美食をとって、店の者が不足がましい態度をちょっとでも示せば難題をふっかけて暴れまわるのだが、丁重に扱われると、後刻「さきごろは過分であった」などとして、請求を上回る金を機嫌よく届けたりもした。おまけにどうも“衆道”をモットーとしていたらしい。“衆道”はいささかホモセクシャルな趣向のことをいう。
ここには、のちのヤクザの「恥辱を嫌う自負」というものがあきらかに萌芽している。また、かれらは紹介者がなければ仲間に引き入れなかったのだが、ここにはのちの関八州の博徒・無宿のネットワーカーぶりがあらわれていた。ちなみに水野十郎左衛門は幡随院長兵衛を殺して勇名を馳せ、その顛末は歌舞伎にまでなった。
幡随院長兵衛は町奴のスターである。浅草組を率いていた。ほかに唐犬権兵衛の唐犬組などがある。
町奴は口入れ業で糊口をしのいだ。なかで力をもっていったものは割元とか元締ともよばれ、その親分は客親と慕われ、また恐れられた。得意先は大名・旗本で、労働力はまだまだ町にあぶれていた浪人・無職人でまかなった。これを寄子という。荒っぽい浪人を扱うには町奴は武術を学んで自衛力をもち、口取り・沓持ち・挟箱持ちなどを従えて威勢を誇った。
この町奴が元禄期へむかって隆盛をきわめるところへ、さらに火消し人足が台頭する。旗本・御家人の次男三男による武家火消しと町奴と鳶職人がまざったような町火消しとがある。この連中がまた虚勢を張った。「宵越しの金はもたない」「太く短く」という江戸ッ子の刹那主義はこの連中が広めた気っ風である。とくに八代将軍吉宗が紙と木でできている江戸の消防対策に力を入れてからは、この連中の組織がふくれあがり、そこに親分子分の絆が強くなってきた。
そこへ臥煙(がえん)が登場する。これは、素っ裸に法被一枚をトレードマークとして煙に伏せながら消化にあたる第一線の男たちのことで、正式には「中間」(ちゅうげん)というのだが、大名や旗本に丸がかえされた身分をいかして傍若無人を発揮した。この臥煙が全身刺青を流行らせた。くりからもんもんである。
江戸後期になるといよいよ渡世人・博徒・無宿者・無頼・侠客などの、いわゆる任侠ヤクザが登場してくる。鉄火場を開いて博奕で稼ぐ。
これに手を焼いた幕府が八州廻りを設置する。関八州である。武蔵・安房・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・常陸・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・相模をさす。この八地域の無頼・無宿は片っ端から引っ捕らえようというのである。なぜ関八州にアウトローがふえたかというと、ここには日光街道・東海道・甲州街道・中山道・奥州街道が集中交差して紛れやすく、出入りも激しかったこと、天領が多くて身を隠れやすかったからである。
ここに八州警察と博徒・無宿とのはてしないどろ沼の対抗が続き、いわゆる上州長脇差(ながどす)のヤクザ風俗と悪代官の風俗が跋扈する。無宿は住所不定者のことではなく、人別帳(戸籍)から除外された「帳外の者」のことをいう。ここからは差別問題が派生する。
ここに幕末になって加わるのが、勤皇博徒と佐幕博徒の対立である。高杉晋作なども勤皇博徒・日柳燕石(くさなぎえんせき)の盟友だった。高杉は「燕石には子分が千人が下らない関西一の侠客だ」と書いた。博徒が勤皇(日柳燕石・黒駒勝蔵)と佐幕(新門辰五郎・三河屋幸三郎・会津の小鉄・岐阜の弥太郎)に分かれるとともに、そこへ武装化した百姓一揆がなだれこむ。これが赤城山の国定忠次の抗争などになっていく。
明治維新は、見方を変えると、薩長土肥のリーダーたちがこうした勤皇博徒と佐幕博徒とを巧みにコントロールし、そこに民権博徒をつくっていったプロセスでもあって、また秩父困民党に代表されるような農民運動をどのようにまきこみ、どのように弾圧するかという時代でもあった。ここがわからないと明治維新はわからない。
近代ヤクザは吉田磯吉からはじまる。著者には「侠客の条件・吉田磯吉伝」という本もある。磯吉は、北九州の石炭を輸送する遠賀川の船頭運輸から叩き上げ、筑豊炭田を牛耳った大親分である。のちに17年にわたって代議士ともなった。
賭博もせず、テラ銭もとらずに勢力を広げていった吉田磯吉には「磯吉さんのためならいつでも死ぬ」という者が数知れなかったらしい。葬儀には全国から駆けつける参列者のために鹿児島本線・筑豊線が増発され、1450通の弔電が集まった。
磯吉の門下には大阪の南福(通称、難波の福と呼ばれた)、京都のいろは、勇山、横浜の綱島小太郎、四国の高木和市・三森坂吉・白石務、神戸の富永亀吉などがいて、その富永が筑豊から神戸へ流れて、神戸ヤクザの“開祖”になり、その子分の大島秀吉の大島組が神戸市議会を操る。
その大島組に山口春吉と本多仁介がいて、本多が本多会を、山口が山口組をおこす。山口組の二代目が山口登、三代目が田岡一雄である。
本書はここまでが半分で、このあと近代ヤクザが現代ヤクザに代わり、警察・マスコミによって暴力団とよばれる経過を克明に追う。その流れは日本人は誰もが知っておくべきものである。
そこにはヤクザが明治政府にも戦後の保守政治にも深く絡んでいたことが観察されてるだけでなく、日本の多くの民衆生活にも食いこんでいたことがあかされる。
あまりこんなことばかりを書くと、ぼくがヤクザの応援をしているように見えるかもしれないが、実はどこかで応援しているのかもしれない。なぜならそこにひそむ「侠」や「組」の発想は、ぼくがアジアに感じている本質のひとつであるからである。
 
走れ国定忠治

水滸伝なら梁山泊、酒呑童子は大江山、ロビンフッドにゃシャーウッド、ステンカラージンはヴォルガ河、毛沢東なら井崗山、カストロ・ゲバラはシェラマエストラ、国定忠治は赤城山。
むっふっふ。なんだか語呂合わせのように国定忠治にお出ましねがったが、こういう調子は河内音頭を無類に愛する朝倉喬司の得意な仕業であって、それに倣ったまでのこと、しかも「平地の秩序」と対峙する者たちの物語はつねに異例者が主人公で、かつ、このような「籠りのトポス」をもっていたことが、この語呂合わせでよくわかるにちがいない。
古来、「平地の秩序」には「籠りのトポス」なのだ。わかってますね。そしてたいていは前者が国家、後者が伝説になってきた。本書の「走れ国定忠治」は、この「籠もりのトポス」から流れ出てきた漂泊の歌のような感覚に呼びかけて、走れ!と叫んでいる。
走った忠治がどうなるかというと、あとで説明するけれど、義経や蝉丸や大蔵貢の親父になっていく。このあたりのまぜこぜが朝倉喬司のやりかたなのだ。
国定忠治は博徒の賭魁(親分)である。本名は長岡忠次郎。生年もちゃんとわかっていて、文化7年(1810)に上州国定村に生まれた。新田義貞揺籃の土地柄だ。ただし忠治は、国定村からは除籍され無宿になっていた。だから本貫はない。また、島村伊三郎殺しでお尋ね者になっていた。
無宿の博徒で人を殺めたお尋ね者という程度では、忠治に人気は出ない。とても革命家の毛沢東やカストロとは同日に議論できないし、ステンカラージンや水滸伝の宋江が組み立てた反乱のスケールに比べれば、追っ手に囲まれて赤城山に立て籠もったというのもたいしたことじゃない。ロビンフッドがリトルジョンらとシャーウッドの森に立て籠もったのがどのくらいの年月だったか知らないが、忠治の戦闘は短かった。いや、戦闘で忠治は有名になったわけではなかったのだ。
それなのに国定忠治はやがて抜群の人気を誇る。侠客としてもアウトローとしても、物語の主人公としても。いや剣や洋式短銃の使い手としても。
では、講談や浪曲や映画が忠治を有名にしたのかというと、とてもとても、それだけではない。忠治は人気が出るだけの然るべき経緯をもっていた。忠治を甘く見積もってはいけない。まず時代背景が重要だ。
忠治が生まれ育った時代は天保から嘉永にまたがっている。前半は天保の飢饉、後半は黒船だ。とくに飢饉で関東が冷えきっていた時期にあたっている。
上州はもともと穀物の稔りにはまったく不向きの土地で、とくに利根川流域に広がる広大な川欠地(かわけつち)は蔬菜さえもうまく育たない。そのため唯一桑畑と養蚕によって経済社会をつくっていたのだが(それで桐生や足利が栄えるのだが)、それでも飢饉の余波は村々を荒らしていった。
そこへもってきて大塩平八郎の乱などが勃発し、日本がしだいに不穏な空気に包まれていた。やむなく水野忠邦が政治改革にとりくむが、倹約と奢侈の取り締りはかえって百姓を苦しめ、逆に木っ端役人の不正をふやしていく。
上州は関八州の管轄で、関東取締役出役が見回りをした。しかしかれらは私腹を肥やし収奪にあけくれる。また、神宮・神社・山陵に幣帛を捧げるための例幣使とよばれる公家たちが、年中行事として日光参内に名を借りて、さかんに関東一帯で賄賂を取り立て(入魂金)、強請をほしいままにした。赤城山の近くの木崎宿の宿政も乱れ、宿役人はお上に唯々諾々とするばかりになっている。
こうして百姓は役人に頼らず、村落を安定させるリーダーに期待するようになっていく。博徒や侠客でも堅気に手を出さないかぎりは、そのリーダーシップに人望が集まった。
国定忠治とは、このような時代に登場したアウトロー・ヒーローなのである。こうしたヒーローを求めて、当時は「平地の秩序」に厭いた連中が「不斗出者」(ふとでもの)として、博徒となり無宿となって、周囲に群がったのだ。「ふと出てしまう者」、ようするにドロップアウト組である。
忠治は17歳のときに人を殺めて下野の博徒田島栄五郎に匿われ、そこで侠客としての身を立てた。知っているだろうね、田島栄五郎とは大前田の栄五郎のことである。終生、忠治の兄貴分になっている。
親分に可愛がられた忠治は、鉄砲玉として島村伊三郎殺しを受け持ち、やがて追われる身に向かう。しかしいったんは信州に逃げたものの、ほとぼりがさめたころに上州に戻って、栄五郎に譲り受けた百々(どうどう)村などの土地に縄張りを設け、一家を構えることになる。しばらくすると日光の円蔵、八寸(はちす)の才市、三木文蔵、板割の浅太郎(武川浅二)、山王民五郎、神崎友五郎らを股肱の幹部とし、ざっと五百人あまりの乾児(子分)が揃っていった。新国劇を見ている者なら、ここで歓声があがるくらいの子分の顔触れである。待ってました!
忠治の縄張りは赤城四周に及び、「盗区」と称された。そう名付けたのは幕府の役人で、忠治が仕切る土地が支配領主からの自立圏であることを意味していた。
こうした忠治の事績がなぜ後世に伝わったかというと、ここに羽倉外記という国定村の代官もつとめた男が浮上する。この男が貴重な記録を残したのである。
外記は水野忠邦の天保の改革に重用された役人で、納戸頭(なんどがしら)から勘定吟味役にとりたてられ、川路聖謨・江川英龍とともに“幕府三人兄弟”といわれたほどのブレーン役人である。
渡辺崋山の蛮社にもかかわって伊豆七島の巡視をしたり、上知令の起案に深くかかわった。儒学者の素養もあって、日田の広瀬淡窓を世に出したのは外記だったといわれる(第759夜参照)。
この羽倉外記が「劇盗忠二小伝」あるいは「赤城録」を書いた。むろん幕府の役人だから忠治を取り締まる側の記録だが、それが英雄扱いというか、義勇扱いというか、絶賛しているのである。忠治の縄張りに「盗区」という名称を冠したのも外記だった。
外記が何に驚いたかというと、忠治がいるところコソ泥も空き巣もいない。無宿の博徒の仕切る土地がどうみても最も安全で、治安がゆきとどいていた。それに驚き、感服してしまった。この「劇盗忠二小伝」あるいは「赤城録」こそが、のちのち膨らみ、尾鰭がついて名月赤城山の物語にまでなっていく。
ここに忠治伝説の核がある。いわば敵こそがあっぱれと褒め称えた侠客であり、リーダーだったのだ。
とはいえ、お上としては忠治一味の殺害容疑や関所破りは取り締まらねばならず、ここに金ほしさの博徒やチンピラが絡んで、忠治は密告され邪魔されていく。とりわけ忠治逮捕の切り札として起用された二足の草鞋の十手持ち“三室の勘助”を、板割の浅太郎が殺したあとは(ここは名場面)、ついに忠治も追いつめられていく。天保10年(1839)には関東取締出役のメンツをかけた大捕り物が挙行された。
それでも忠治はなかなか捕まらなかった。故郷の赤城山に戻ってくるまでに、実に4年を逃げ延びている。
これが巷のヒーロー伝説には欠かせないところで、源義経からウサマ・ビンラディンまで、逃避を続ける反逆者や蜂起者は民衆に匿われ、民衆に溶けこんで、容易には捕まらない。忠治のばあいも会津に行ったり日光に赴いたりしながらも、なかなかその姿が見えなかったのだ。
国定忠治の最後は大掛かりな磔刑である。それも上州から江戸に唐丸籠で送られる道中は派手な衣裳のまま民衆に投げ銭・撒き銭をして話題になり、小伝馬町の牢屋に入っても警護がかりが大袈裟になり、ともかく江戸市中は国定忠治の話題でもちきりになったうえでの磔刑だった。
ぼくはそんなことは舞台や映画だけのことだろうと思っていたのだが、囚人忠治の出で立ちは、浅黄無垢に白無垢を重ね、丸桁帯を締め、白の手甲脚絆に首から大数珠をかけて、座布団は唐更紗二枚に紅色の一枚を重ねるというような、なんとも堂々華麗なもの、その姿で刑場に揺られていったと、例の羽倉外記が書いていた。
以上、朝倉喬司が書かなかったぶんまで勝手に補って、国定忠治のお粗末を紹介してみたが、むろんもっともっと面白いことがギューギュー詰めにある。
それについては、以前「国定忠治の時代」(平凡社)で背景の社会ばかりを書いた高橋敏が、ついに「国定忠治」(岩波新書)で忠治本人の生々しい生涯を浮き彫りにしてくれたので、それを読まれるとよい。
また、山中貞雄の名作を筆頭に、阪妻をつかった松田定次の「国定忠治」、小沢茂弘の片岡千恵蔵による「国定忠治」をはじめ、島田・辰巳の新国劇にいたるまで、数々の“忠治もの”もけっこう参考になる。参考になるのは日本人が何をもってアウトローを英雄に仕立てていくかがよくわかるということだ。
一方、本書はといえば、この国定忠治の話を枕に、そこからがどんどこどんの「走れ忠治」になっていく。
著者は赤城山をあとにして、「籠もりのトポス」を訪ねるたびに出てしまうのだ。
最初は台湾タイヤル族の庶衆から絶大な信頼を寄せられ、「霧社事件」の頭目とされたモーナ・ルダオである。著者は蘆山(マヘボ村)に入って、そこに日本の皇民政策の跡を見る。次が京都は愛宕山に入り、そこに清和天皇の気配を感じ、山中他界とはどういうものであったかを偲ぶ。
つづいて信州木曾谷の漆畑へ赴いて、そこでは新東宝を立て直し大蔵映画を創設した大蔵貢のルーツを訪ね、そこが木地師の原郷であり、ほとんどの姓が小椋であったことを見る。なぜ大蔵貢の故郷に関心をもったかというと、大蔵が倒産寸前の新東宝に入って最初にヒットさせたのが「怨霊佐倉大騒動」と「軍神山本元帥と連合艦隊」で、畢生の大作「明治天皇と日露大戦争」ではついに嵐寛十郎扮する天皇を主役に据えるという大博打に賭けたからである。
天皇の主役の映画など、前代未聞、いまもってこんな変わった映画はない。それで調べてみたところ、そこには中世さながらの木地師と天皇とがワープしあっていた姿が見えたということなのだ。
つづいて蝉丸伝説を追って、大津市の逢坂山の蝉丸神社へ。これについては第415夜に「逆髪伝説」とともにぼくも紹介しておいたので省略することとして、こうして著者はアウトロー伝説をあれこれ手繰り寄せ、最後は義経伝説の平泉に辿り着く。ここはアテルイ伝説・安倍貞任伝説に始まるエミシ反乱の究極の土地。そこへ前九年後三年の役が加わり、奥州藤原伝説が、清原伝説が、義経伝説が、黒百合姫伝説が絡まっていく。黒百合姫とは戦国末期の地方武士団「由利十二党」の動向を背景にした物語である。
これで話が終わるかというと、本書はまったくもって変な構成の本で、第3章からは「ずっと河内音頭が好きだった」というふうになっていく。まあ、これは朝倉喬司は全関東河内音頭振興隊隊長だからしかたがない。
もっとも朝倉のためにちゃんと評価しておくと、朝倉の関心は、河内音頭のような「語り芸能」や「歌い芸能」の中にこそ、庶民のヒーローや巷のアウトローがどのように読みこまれていったかの遺伝子が生きていることにあるわけなのだ。
それが証拠に(どこが証拠かと言われそうでもあるけれど)、話はついで“魔界の浪曲師”の京山幸枝若の応援に移り、さらには香具師の実態と口上に横滑りしていって、最後はなんと辰吉丈一郎こそ「走れ、国定忠治」だったということになってしまうのだ。
いかにもいま読んだばかりというふうにわざとらしく書いてきたけれど、実は朝倉喬司はぼくの大学時代の仲間の一人である。朝倉がこのような書き方でしか文章を書かない男であることは、よっく知っている。
しかし、朝倉を紹介するには、この「知らないふりして、入っていく」という手が一番なのである。
そもそも朝倉喬司の生き方がアウトローに近く、異界をばかり覗きこんできた。朝倉は根っからアナーキーであって、また放浪漂泊的であって、それでいてその真情は「籠もりトポス」そのものなのである。むろんそのような男たちは、少なくない。けれども、そういう男が文章を書くと、ヤクザの回顧録がよくそういうふうになっているのだが、妙にまじめくさくなっていく。また、アウトローを好んで書く多くの文筆家たちも少なくないけれど(たとえば笹沢左保には「天保国定忠治無頼録」がある)、かれらは案外、淡々と抑制の効いた文章を書きたがる(朝倉もながらく「週刊現代」の記者だった)。
ところが、朝倉はそのような自分の感覚を文体にまで及ぼさないではいられない。朝倉はそれをこそモットーとしたフリーライターなのである。すなわち香具師を描けばその口上となり、河内音頭を綴れば音頭口調が文体になり、国定忠治をものすれば、いつしか赤城山に立て籠もっての覚悟をする文章になっていく。
実は、早稲田を出てから一度も朝倉には会っていないけれど、数年前に「遊歌遊侠」(現代書館)を読んでいてむしょうに懐かしくなっていた。それで、「千夜千冊」に平岡正明・五木寛之につづいてこの二人のポン友でもある朝倉を採り上げるにあたっては、けれどもかえって「走れ国定忠治」のほうが朝倉を紹介するのにはふさわしかろうと、今宵、こうしてみたわけだ。
 
花札

日本の伝統的カードゲームの一種であり「花かるた」とも呼ばれた。今では一般に花札といえば八八花のことで、一組48枚に、12か月折々の花が4枚ずつに書き込まれている。
48枚の由来は、一組48枚だったころのポルトガルのトランプが伝来した名残である。二人で遊ぶこいこい、二人以上で遊ぶ花合わせ、という遊び方が一般的だが、愛好家の中では八八という遊び方に人気がある。そのほかにも、日本各地に独特な遊び方がある。
歴史
日本にカードゲームが初めて上陸したのは安土桃山時代。宣教師が鉄砲やキリスト教、カステラ等と共に伝えたとされる。ちなみに日本の「かるた(歌留多、骨牌)」の語源は、ポルトガル語でカードゲームを示す「carta」である。天正時代(1573-91)にはすでに国産のかるたが作られており、当時の札が一枚だけ現存する。時の為政者がカードゲーム禁止令を出すと、その禁止令を逃れるためにデザインを変えるといういたちごっこもあいまって、様々なデザインの札がつくられた。そして「花札」もその流れの中から誕生する。
賭博という閉鎖性と当時の物品流通の実態から、日本全国に普及したカードゲームは、各地で様々なローカルルールを生み出し、そのローカルルールにふさわしいように札のデザインも変えていった。それらの札を「地方札」という。
もともと歌かるたは上流階級の遊びであったため、幕府は下流階級の商人や町人が使用することを禁じた。そのため人々は幕府の目を盗んで賭博行為をするため、店の奥に賭博場を用意した。店に入った最初に「鼻(ハナ=花札)をこする合図」をすると店主が「奥へどうぞ」と賭博場へ案内してくれたという。賭博行為で使用するという後ろめたさから、隠語的表現で花札の販売店には花=ハナ=鼻として「天狗」の面が掛けられていたことからパッケージにもイラストが描かれることになった。現在、花札を製造している企業は、「任天堂」「田村将軍堂」「大石天狗堂」の3社である。2009年夏まで、「松井天狗堂」が日本唯一の手摺り花札を製造していたが、職人の高齢化や後継者不在などの理由で現在では製造を辞めている。
「花札」が誕生したのは田沼意次の禁止令のためであるといわれている。それまで12枚×4スーツであったものを、数字及びスーツの記号を隠すために4枚×12か月とし、図案には主に教育用に用いられていた和歌カルタをモチーフとした。
明治期に入ると、花札を解禁する代わりに「骨牌税」が課税され地方札を生産していた日本各地のかるた屋は倒産し、地方札は廃れていき、各地に伝わる遊び方も滅びていった。なお、任天堂は多くの地方札の原版を保有しており、発注も可能である(もちろん、相応の発注単位である必要がある)。同社サイトで、地方札原版がファイルに収められている様子が確認できる。
「花札」の原意は、花鳥がデザインされているからというのみならず本カルタ(南蛮系・天正系を源流にするもの)に対する代用品という意味もこめられている。花電車・花相撲などに使われている「花」の意味である。  
種類
花札系
札のスーツ、番号をそれぞれの植物、動物、短冊等の絵によって表す。
八八花(はちはちはな) / 日本全国で使われている花札。明治期に完成した。全国の地方札の図案を統一したものと言われている。特徴として柳のカス札が「太鼓に鬼の手」になっている。現在花札といえばこの八八花を指す。日本古来の組み合わせ(松に鶴、梅にうぐいすなど)や、他のカルタからの図案転用も見られる。6月・7月の4枚を減らし、40枚構成(厚さは48枚構成に合致させた)「虫札」といわれるものも存在する。
北海花(ほっかいはな) / 北海道で使われていたという花札。
越後花(えちごはな) / 新潟県、及びその付近で使われていたという花札。「大役」「小役」(共に詳細不明)という競技に使われたほか、八八花の代用にも使われた。現在でも製造されている。
越後小花(えちごこはな) / 新潟県の上越方面で使われていた花札。一回り小さく、鬼札が3枚あるのが特徴。技法はとある事情で不明のまま現在にいたる。
越前花(えちぜんはな) / 福井県で使われていた花札。謎が多い。
金時花(きんときはな、阿波花・あわはなとも) / 四国地方で使われていたという花札。金太郎の鬼札(ジョーカー)があることからこう呼ばれるようである。短冊札と素札(カス札)に月数が書いてある。
大連花(だいれんはな) / 中国大連在住の邦人が使っていたという花札。短札の背景に模様がついており、「赤短」「くさ」「青短」ごとに背景の柄が異なる。
奥州花(おうしゅうはな、山形花・やまがたはなとも) / 山形県を中心として東北地方で使われたという花札。二枚あるカス札のうち1枚に黒点が打ってある。
花巻花(はなまきはな) / 岩手県を中心として東北地方で使われたという花札。
備前花(びぜんはな) / 岡山県を中心として使われたという花札。
花闘(花鬪、화투、ファトゥ、Hwatu) / 李氏朝鮮末期に朝鮮半島に伝えられた花札。現在はプラスチック製で、商標が桐ではなく、薄の光札(二十点札)の満月内に書かれている。藤の札が逆向きになっていたり、短冊の文字がハングルになっていたりする。光札には中に「光」と書かれた赤い丸印が入っている。また桐が11月、柳(雨)が12月と月が入れ替わっている。花札は韓国では「3人集まれば必ず花札をする」と言われるほど日本をしのぐ人気がある。こいこいを少し変容させた「ゴーストップ」(고스톱、Go-Stop)というルールがある。韓国を発祥とするインターネット上のゲームコミュニティであるハンゲームの花札では日本語版でもゴーストップが採用されている。
四スーツ系
(南蛮系・「花札」とよぶには疑問であり、「天正系」とよぶべきものか) 西洋のトランプの形に最も近いタイプのかるた。宣教師カルタの流れを色濃く受け継いでいる。棒、剣、杯、貨がそれぞれアレンジされ、抽象化されている。4スーツ各12枚計48枚+鬼札、白札等。
伊勢 / 愛知・岐阜を中心にした広範囲の地域で遊ばれた。司法資料第121号に詳しく記載されている。「東海のシーラカンス」の異名を持つ。「読み」系・「めくり」系等技法も多彩である。
小松 / 福井県・和歌山県で広範囲で遊ばれていたが、現在は福井県の2地区で別々の技法で遊ばれているに過ぎない。福井県越前市の矢船町カルタ保存会によって保存、伝承されており、京都の松井天狗堂(三代目当主松井重夫)の協力の元、平成8年、9年、11年の三度カルタの復刻に成功されている。「最後の読みカルタ」として、デザイン的にも歴史的にも周知され、技法に読み系「カックリ」、めくり系「ジュウダン」、合わせ系「シリンマ」が公開されている。
赤八 / 近畿地方で使われる。
黒札 / 北海道、青森で使われる。
桜川 / 北陸地方で使われる。
三つ扇 / 中部、北陸地方で使われる。
一スーツ系
元は四スーツ系だったものが、それぞれのルールに適するように一スーツになったもの。ポルトガルのカードのスーツ、貨幣と棍棒に相当するものに分けられる。
大二(だいじ)
小丸(こまる) / おもに西日本で使われる。
入の吉(いりのきち) / 近畿地方
金青山(きんせいざん) / 近畿地方
目札(めふだ) / 四国地方などで使われる。2-4の札には「金銭不用」と書かれている。
株札(かぶふだ) / おもに西日本で使われる。現在確認されているだけで大石天狗堂、任天堂、田村将軍堂で製造されている。  
絵柄
1月松 / 松に鶴 / 松に赤短 / 松のカス
 実際には鶴は足の指のしくみや体重などで、松に乗るのは不可能である。
 松に乗っていたのは実はコウノトリとされ、昔の画家がコウノトリを鶴と勘違いしたと考えられる。
2月梅 / 梅に鴬 / 梅に赤短(あかよろし) / 梅のカス
 梅に描かれている鳥は実はメジロである。ウグイスの体は茶褐色と白であり、昔から勘違いされている。
3月桜 / 桜に幕 / 桜に赤短(みよしの) / 桜のカス
 「みよしの」は漢字で「美吉野」と表記する。古くから桜の名所とされた、奈良県吉野地方の美称である。
4月藤 / 藤に不如帰 / 藤に短冊 / 藤のカス
5月菖蒲 / 菖蒲に八橋 / 菖蒲に短冊 / 菖蒲のカス
 八橋とは愛知県知立市にある地名である。
 構図は杜若の名所で知られる無量寿寺の庭園に因み、在原業平の歌でも有名である。
 花札では菖蒲と呼んでいるため、杜若と菖蒲を勘違いするおそれがある。
6月牡丹 / 牡丹に蝶 / 牡丹に青短 / 牡丹のカス
7月萩 / 萩に猪 / 萩に短冊 / 萩のカス
8月芒(坊主) / 芒に月 / 芒に雁 / 芒のカス
9月菊 / 菊に盃 / 菊に青短 / 菊のカス
10月紅葉 / 紅葉に鹿 / 紅葉に青短 / 紅葉のカス
 無視する隠語「しかと」の語源と言われる。鹿が横を向いているので「鹿十」(しかとお)が訛ったとされる。
11月柳(雨) / 柳に小野道風 / 柳に燕 / 柳に短冊 / 柳のカス
 古くは「柳に番傘」「柳に番傘を差して走る斧定九郎」であった。明治時代にデザインが変わり「柳に小野道風」となる。
12月桐 / 桐に鳳凰 / 桐のカス(3枚)
 (韓国花札では11月と12月が逆で、桐が11月、柳が12月となる。)  

五光(ごこう) / 20点札5枚をすべて獲得する。
四光(しこう) / 20点札のうち「柳に小野道風」を除く4枚をすべて獲得する。
雨四光(あめしこう) / 20点札5枚のうち「柳に小野道風」を含む4枚を獲得する。
三光(さんこう) / 「柳に小野道風」を除く20点札4枚のうち3枚を獲得する。特に「松に鶴」「芒に月」「桐に鳳凰」の組み合わせを松桐坊主という。
表菅原(おもてすがわら) / 「松に鶴」「梅に鶯」「桜に幕」の3枚を獲得する。梅松桜、大三(おおざん)とも言われる。
花見で一杯(はなみでいっぱい) / 「桜に幕」と「菊に盃」を獲得する。「柳に小野道風」を獲得しているとこの役が消滅するルール(雨流れ)、桐を獲得しているとこの役が消滅するルール(霧流れ)を採用する場合もある。花見酒(はなみざけ)とも言われる。
月見で一杯(つきみでいっぱい) / 「芒に月」と「菊に盃」を獲得する。雨流れ、霧流れルールもある点は「花見で一杯」と同じ。月見酒(つきみざけ)とも言われる。
飲み(てっぽう) / 「桜に幕」「芒に月」「菊に盃」を獲得する。「花見で一杯」「月見で一杯」とは複合せず。月花酒とも言う。
猪鹿蝶(いのしかちょう) / 「萩に猪」「紅葉に鹿」「牡丹に蝶」を獲得する。
ごとり / 「梅に鶯」「藤にホトトギス」「芒に雁」を獲得する。韓国花札で採用される事が多い。
赤短 / 「松に赤短(あかよろし)」「梅に赤短(あかよろし)」「桜に赤短(みよしの)」を獲得する。裏菅原、小三(こざん)(このとき、「くさ」を赤短と称する場合もある)とも言われる。
青短 / 「牡丹に青短」「菊に青短」「紅葉に青短」を獲得する。
七短 / 「柳に短冊」以外の短冊札を7枚獲得する。
六短 / 「柳に短冊」以外の短冊札を6枚獲得する。
ぶっく / 赤短および青短を構成する6枚全部を集めること。
くさ / 「藤に短冊」「菖蒲に短冊」「萩に短冊」を獲得する。草短とも。
たね / 10点札を5枚獲得する。6枚以上獲得した場合は、1枚増えるごとに点数が増える。
たん / 5点札を5枚獲得する。6枚以上獲得した場合は、1枚増えるごとに点数が増える。
かす / 1点札を10枚獲得する。11枚以上獲得した場合は、1枚増えるごとに点数が増える。
〜島 / 同月の札を4枚集めること。雨島(柳島)で吹き消し(雨流れ)のルールを採用しているものが多い。
手四 / 手札(始めに配られた時)に同月の札を四枚獲得した場合。韓国花札では「大統領」と呼ばれる。
ダブル手四 / 手札(始めに配られた時)に同月の札四枚が二組入っている(手四が2つ)場合。確率は極めて低い。
契約 / 手札(始めに配られた時)に同月の札を三枚獲得した場合。韓国花札の場合は、場札に三枚まとめて合わせることで「爆弾」という役になる。
くっつき / 手札(始めに配られたとき)に同月の札のペアが四組あった場合。  
 
「花づくし」 (神輿甚句 )
せぇ〜 さてはこの場の 皆様方よ
年の初めの新玉の 松を楽しむ正月や
二月に咲いたる梅の花
三月盛りの八重桜
四月上から下がり藤
五月の梅雨に咲く花は
菖蒲名代に杜若(かきつばた)
六月牡丹に蝶が舞う
七月野原に咲く萩に
照らす八月たもと脱ぎ
心地よく見る九月菊
十月紅葉に鳴く鹿の
十一月の垂れ柳
小野道風じゃないけれど 蛙見つめりゃ切りがない  

こいこい
2人で遊ぶ花札の遊技の一つである。
手札の花と場札の花を合わせてそれを自分の札とし、獲得した札で役(花札の項を参照)を成立させて得られる得点を競う。
最終的な勝敗の決め方は、あらかじめ決められた得点以上を挙げた者を勝者とする方法と、競技を1月から12月までの12回行い、得点の多い者を勝者とする方法がある。
競技の流れ
1.競技を始める前に、最初の親と子を決定する。2人で札を引き、札種の月が早い札を引いた者が親、もう一方が子となる。
2.場に8枚、手札が親子それぞれ8枚となるように札を配り、残りは山札として伏せておく。
3.競技者は親から交互に次の行動を繰り返す。
1.手札から1枚取り出して場に出す。このとき、同じ札種(植物、月)の札が場札にあれば、2枚は自分が獲得した札となり、自分の脇に置く。なければ場札に加えられる。
2.山札をめくって場に出す。同様に、めくった山札と同じ札種の札が場札にあれば、2枚は自分が獲得した札となり、自分の脇に置く。なければ場札に加えられる。
4.自分の番が終了した時点で獲得した札によって役が成立していれば、競技を継続するかしないかを決めなければならない。競技を継続する場合の呼称が「こい」であり、この競技の名称にもなっている。
5.競技を止めた場合、止めた者に成立した役によって得点が入る。もう一方の者は自分に役が成立しているかいないかに関わらず0点となる。
6.一つの競技が終わったら札を混ぜて札を配り直し、次の競技を始める。最終的な勝敗が決まるまでこれを繰り返す。親と子については、前の競技で得点を挙げた者を親とする方法と、前の競技の結果に関係なく親と子を交互に繰り返す方法がある。
特徴
「こい」をした場合、得点の上積みが期待される反面、新たに得点が増えない限り競技を止めることができないため、先に相手に役が成立し、相手に点数を与えてしまう場合もある。「こい」をするかしないかの駆け引きが、この遊技の醍醐味である。
役や得点についてはローカルルールがあるため、競技の前に競技者同士でルールを確認する必要がある。
役や点数計算のわかりやすさから、コンピュータの花札ゲームとしてよく用いられている。アーケードゲームでの花札は、ほとんどがこいこいのルールである。  
おいちょかぶ
花札もしくは株札と呼ばれる独特のカードを用いて行われるゲームの一つである。単に「かぶ」「株」と呼ばれることもある。基本的にはトランプゲームのバカラやブラックジャックに似ている。
使用する道具
株札
花札と同じサイズで作られた、おいちょかぶ専用の札。1から10までの札がそれぞれ4枚ずつ、計40枚で構成される。
1の札は独自の意匠が施される(うち色違いの1枚は、トランプの関税エースと同様にメーカーの署名やシンボルが入る)。2-9はそれぞれの数の棒を図案化したような図柄で、10はトランプのキングを模した図柄である。現在は任天堂などが製造しており、関西ではコンビニエンスストアなどで、関東でもゲーム専門店などで入手可能。任天堂製の場合、同ブランドの花札も存在するため、箱に「株札」の表記が入っている。
株札を使用せず、トランプや花札でおいちょかぶを行う場合もある。このとき、11以上のカード(トランプではJ・Q・K・ジョーカー、花札では柳・桐の札が該当する)を省く場合と省かない場合とがある。
チップ
碁石や点棒、マッチ棒に、それぞれ何点と点数を決めて使用する。
座布団
株札や花札を競技に用いるときは、座布団を使用する。親と子が座布団をはさんで向かい合って勝負する。
数字と呼称
おいちょかぶでは、0-9の数字をそれぞれ下記のように呼称する。尚、呼称にはローカルルールによってかなりの差異が存在する。
0-ブタ(またはニゲ、ドボン)
1-インケツ(またはピン、チンケ、イッカチ)
2-ニタコ(またはニゾウ)
3-サンタ(またはサンタコ)
4-シケ(またはシスケ、シホウ、ヨンタ、ヨツヤ、シス、シスン、シニ)
5-ゴケ
6-ロッポウ(またはロッポ)
7-ナキ(またはシチケン)
8-オイチョ(またはハッポウ、チョウベ)
9-カブ
おいちょかぶという名称の語源はここから来ており、8と9(オイチョ+カブ)を組み合わせたものである。
また、数字の呼称の語源は大抵は日本語に由来するが、8のオイチョはポルトガル語の8(pt:Oito)に由来する。9のカブの語源は不明である。
競技
ブラックジャックのように、親(胴元)と子(張子)で争う博戯。配られた2枚ないし3枚の札の合計値の一の位が、よりカブ(9)に近ければ勝ちとして、賭けていた点数を、勝った方が負けた方からもらえる。点数のやり取りは親対子で行われ、親は何人もの子を相手に戦わなくてはならない。子のみが張り点を決める事が出来る。
実際の競技に入る前に、「胴前」を協議して決める。胴前とは子が張る(賭ける)点数の最高限度の事で、例えば胴前が50点と決まれば、一回の勝負で子が賭ける点数は50点以下でなければならない。ここで注意が必要なのは、「胴前」とは「子全員の賭け点の合計」の最高限度であり、「子一人一人の賭け点」の最高限度ではないということである。例えば胴前が50点のとき、Aが25点、Bが15点、Cが10点、それぞれ賭けてしまえば、Dは賭けに参加する事が出来なくなる。
競技の流れ
1.(親決め)山札をめくり、一番若い数が出たものを親とする。親と子は向かい合うようにして場に座る。
2.子の一人が代表して札を切り、親が配る。
3.(場札の配布)親は場に右から左に数を見せた札を4枚配り、自分用に伏せた札を一枚置いておく。
4.(賭け)子は場の札から、任意の札を好きな枚数だけ選択し、胴前にしたがって点数を張る。
5.(決め札の配布)親は「場札」に、右から左に「決め札」を配る。
子が点数を賭けている場札には、一旦子に決め札を見せてから裏にして配る。
子は決め札と場札の合計数を見て、もう1枚決め札を引くかどうか決めることができる。
ただし、決め札と場札の合計の一の位が
3以下の場合には、もう1枚引かなくてはならない(「サンタに止めなし」)
7以上の場合には、もう1枚を引いてはならない(「シチケン引きなし」「ナキ(泣き)ナキ(泣き)勝負」)
2枚目の決め札は数を見せて(表にして)配られる。
場札+2枚の決め札の合計に不満がある場合でも、4枚目を引くことはできない。
子が点数を賭けていない場札は全て表にして、そこにも1枚は決め札を配る。このとき、2枚目を配るかどうかの選択は、次に決め札を配られる場札に点数を賭けている子が行う。
6.(親の決め札)決め札の配布を場の札4枚すべてに行ったあと、親は最初に配られた親用の場札を表にし、決め札を1枚加える。子と同様、さらにもう1枚加える事もできる。
7.場札と決め札の合計結果によって勝敗を決める。
特殊役
数の組み合わせによって特殊な役が発生する。親と子の双方が特殊役になった場合の判定方法にはさまざまな解釈があるが、得点倍率の高いほうが勝ちとなり、同じ倍率の場合は引き分けとするのが分かりやすい。倍率の差で精算するケースもある。
クッピン(親のみ) / 親が9と1の2枚の組み合わせとなった場合。順序は問わないが、3枚目を引いた場合は無効。倍率2倍。
シッピン(子のみ) / 子が4と1の2枚の組み合わせとなった場合。順序は問わないが、3枚目を引いた場合は無効。倍率2倍。
トイチ(親、子とも) / 2枚の札が10と1の場合。順序は問わないが、3枚目を引いた場合は無効。倍率2倍。特殊役の中でも比較的成立しやすく、得点の動きが派手になるため、採用しないことが多い。
ツル(親、子とも) / 2が2枚の場合。3枚目を引いた場合は無効。倍率3倍。あえてもういっちょ引き、2の3枚(アラシ)を狙うのも粋。
ノボリ(親、子とも) / 3枚の札が連続的な昇順の数である場合。倍率3倍。ただし、9、10、1のように10を跨いだものは無効。親・子ともにノボリとなった場合は札の合計数の一の位の数が大きい方の勝ちとなる。つまり2、3、4が最強で、ノボリカブと呼ばれる。この場合は倍率5倍。
クダリ(親、子とも) / 3枚の札が連続的な降順の数である場合。倍率3倍。ただし、1、10、9のように10を跨いだものは無効。親・子ともにクダリとなった場合は札の合計数の一の位の数が大きい方の勝ちとなる。つまり4、3、2が最強で、クダリカブと呼ばれる。この場合は倍率5倍。
アラシ(親、子とも) / 3枚の数字がすべて同じ場合、無条件で勝ちとなる。子の場合は親のクッピンにも勝つ。倍率5倍。
親・子ともにアラシとなった場合は札の合計数の一の位の数が大きい方の勝ちとなる。つまり3が3枚そろった場合が最強の組み合わせとなり、アラシカブと呼ばれる。この場合は倍率10倍。親のアラシは子全てに3倍返し(親の無条件負け)、子のアラシは3倍付け(子の無条件勝ち)というルールもある。
ドシッピン(親、子とも) / 3枚の札が10が2枚、1が1枚で構成されている場合。順序は問わない。特殊役の中でも最強である。倍率20倍。合計数が21になるため、ブラックジャック発祥であると思われる。名前の由来は不明。上記のシッピンとは特に関係ないようだ。
 
カルタの歴史1

いわゆる「花札」というのは元々「花かるた」または「花合わせ」と言われるかるたの一種である。かるたは紙を使った遊びだが、その源流は2つあると言われている。
その1つが、12世紀頃(平安王朝時代)に、貴族の間(宮中の姫など)でもてはやされた優雅な遊び「貝覆い」と、その発展形「歌貝」である。
「貝覆い」は、両片(雄貝・雌貝)に分けた蛤(はまぐり)の貝殻を二手に分け、貝の地模様から一対のものを探し当てる遊び。誰でも出来る。
「貝覆い」の発展形。貝の一片に歌の上の句を書き、それに合うもう一片に下の句を書いたもので、「歌貝」と呼ばれる。「歌かるた」の原型。
「かるた」のもう一つの流れが、16世紀半ば頃(安土・桃山時代)にポルトガルから九州へ南蛮渡来品(鉄砲・生糸・皮革など)と共にもたらされた「南欧文化のカード遊び」である。(九州にキリスト教宣教師が滞在し活版印刷が行われていた等、条件も整っていた。)
「かるた」とはポルトガル語の「Carta」・・・いわゆる「カード」の事で、その音が日本にそのまま伝えられたようだ。(後に「歌留多」や「骨牌」など日本語の当て字が生まれた)。
国産のかるたの第一号は、天正年間(1573-1591)に九州は筑後・三池(城下町兼宿場町)で南蛮かるたを元に作られた「天正かるた」と言われている。やがて生産は公卿文化と紙漉きの中心地、京都に移る。(当時「かるた」はまだ高級品であった)
ポルトガル、或いはスペインから輸入された「カード」。48枚一組。日本でいう「南蛮かるた」。16世紀半ばに南欧から輸入された。
西洋のカードを元に天正年間に作られた国産「かるた」。後に「天正かるた」と呼ばれる。48枚一組。絵柄は西洋風で、豪華なつくり。
カルタは手軽に持ち歩ける上、場所も取らないため、戦国時代・戦陣の武士たちの骨休めに用いられた。が、やがて賭事に使われ始め熱中度が高まったため、1597年(慶長2年)、四国・土佐の長曽我部元親は「博打歌留多諸勝負令停止」なる掟書を出し、賭博を禁止している。
1600年に入り、戦国の世も治まり江戸時代安定期に入ると、当初貴族や武士の社交として用いられたカルタは裕福な町民の元へ、やがて一般庶民の間へと広まっていく。そして徐々に安いかるたが出回り始め、大衆娯楽となるにつれ、賭博性も高まっていく。
すると徐々に民衆の勤労意欲・生産力の低下、犯罪の増加など問題が生じ始める。1648年(慶安元年)に、かるたの大流行を見た幕府は、かるた禁止令を発布。
この禁令により、天正かるたは地下に潜り(密かに賭博に使われ)、18世紀初頭に西洋と日本とが混じり合った絢爛豪華な「うんすんカルタ」(75枚一組)に変身する。
南欧のタロットカード。トランプの原型。22枚の大アルカナ(悪魔・太陽・審判・死など)と56枚の小アルカナ(階級・元素など)の78枚構成。
うんすんカルタ。高級なつくり。5種×15=75枚で一組、ゲーム内容は非常に高度で複雑。粋で面白いが、遊べる人は現在100人ほど。
18世紀中期-後期にかけて賭博用かるたは最盛の流行を見せる。また幕府は、こうしたカルタの変化に対応して、幾度にもわたって禁令を出すこととなる。1702年には、江戸で賭博禁止を徹底するために「博徒考察」の役を設けて取り締まった。
表面上禁止された賭博系カルタに代わって、詩歌を書いた「歌かるた」(後の小倉百人一首)や、動植物・歴史・社会知識等を書いた「絵合わせかるた」、また、ことわざやたとえを書いた「いろはかるた」などが生まれた。
これらは全て、賭博用のカルタと区別するため、名称や形などに違いを出した。
「貝歌」と「カルタ」が融合、江戸初期に生まれた「歌かるた」。後の「小倉百人一首」など歌集や物語中の詩歌を用いた教育的な遊び。
ことわざは地方によって違う。例えば「い」では江戸は「犬も歩けば棒に当たる」、京都は「一寸先は闇」、尾張は「一を聞いて十を知る」など。
こうしてカルタは幕府による禁令の目から逃れるため、姿形を西洋風から日本風へと趣を変えながら、名を変え、遊び方を変えて、生き続けていく。
カルタの賭博性が高まり社会問題が生じると、度々幕府の禁令にあう。そんな中で新しいカルタが次々と考案されていき、やがて「花かるた(花札)」が生まれる。
花札の誕生
18世紀中後期、田沼意次が幕政の実権を握った時代、賭博かるたは空前の大ブームとなる。禁令をかいくぐって、貴族から武士、庶民までがこれに打ち興じるようになった。(田沼による商業資本と癒着した賄賂政治は大変な不評を買い、やがて失脚。)
1787年、老中松平定信の「寛政の改革」が始まると、カルタの流行に終止符が打たれる。この改革(商業資本抑圧、社会福祉・農村政策推進)の中で教育系のかるた(歌カルタ・いろはカルタ等)以外の賭博用かるたが全面禁止されたため。
これにより、天正カルタ、うんすんカルタを始め賭博に使用されたカルタは製造・販売を禁じられ、表面上姿を消すことになる。(地下で密かに生き続けていくが。)
そんな状況の中19世紀初頭、それら全面禁止された賭博カルタに代わって、幕府の弾圧を避けるために巧みに転換し生み出されたのが、「花かるた(後の花札)」である。
賭博かるたに付きものであった数標を表に出さず、それを花鳥風月と12ヶ月に託した。
「花札」の原型と言われる「花鳥合わせカルタ」。四季の花鳥を取り合わせた、児童用の教育遊具。賭博カルタが全面禁止された時、歌かるた等と一緒に生まれた。
「花かるた」「花合わせ」「武蔵野」と呼ばれた「花札」。既成の賭博カルタの「12種×4枚=48枚」を転換させ「4種×12枚=48枚」とした。日本の花鳥風月をモチーフにしたデザイン。
「花札」について
明治に発行された「日本遊技法大全」には「花かるた」の章始めにこう書かれている。
「花かるたは、その趣向の詩的なること、その組立の科学的なること、その遊び方の精緻なることに於いては世界の室内遊戯界に於いて、恐らくはその比を見ぎる所のものであって、或いは、我が国の国戯として大いに誇示すべきものと思うに、惜しい哉、かの卑しむべき賭博の用に共するので、心あるものは、これを見て眉をひそむるようになった。此の可憐な名花を、早く汚泥の中から救いあげたく思う者は、決して己一人ではないであろう。」(少し現代語訳。)
「花札は、あらゆる点で世界に誇れる、美しくも精緻な室内遊技の傑作である。」との事だが、確かに、デザインは今になっても古びずむしろ前衛的ですらある。闇の凄みを感じさせる不気味さ・艶やかさは、花札の宿命を象徴しているのかもしれない。遊び方の要素も深い。

1841年、江戸藩政末期、水野忠邦による「天保の改革」が始まる。早くも賭博に使われていた「花札」は役人の目に止まり、「江戸花札骨牌禁止令」発令。
1853年、黒船来航。上陸したペリーは開国を要求。これを幕府は翌年受諾。
1868年、江戸幕府崩壊、明治維新(富国強兵・殖産興業・開国など近代化へ)起こる。明治初年、新政府は幕府に続いて、賭博用カルタ(花札も含む)販売を禁止した。
文明開化により西洋文化の流入。この時期「西洋かるた(トランプ)」が輸入され人気に。西洋では、トランプは賭博に使用した場合は罰せられるが、遊戯用としてなら問題ない。
明治新政府はこれに倣い、花札も売買まで禁じることは不自然との考えから、1885年(明治18年)末で「花札」の禁令を解除し、発売が公に許されることになる。
この解禁を機に、「花札」は庶民の間に急速に広まり、爆発的な流行を見せ始める。
また、1889年には、他の禁止されていたカルタの禁令も解除、販売が再開された。
この時期に、京都の歌留多職人、山内房治郎が「任天堂骨牌」を創業する。
骨牌税法による危機
明治政府は道徳教育を推し進めた。そのため享楽(快楽に耽ること)を罪悪視する環境が形成されていく。そして「愛国いろはカルタ」等国粋教育的なものが生み出される。
また、「富国強兵策」が始まると、1902年(明治35年・日露戦争直後)、日本政府は戦費調達のため、(同時に大流行した花札の製造販売を抑制する意図もあり)「骨牌税法」を施行し、花札などに税金を課すことになる。
これにより花札の小売価格は2倍に跳ね上がる(価格が20銭・税額も20銭)ことになる。これはカルタ業者にとって販売禁止令に等しいものだった。
京都を中心とした全国のかるた製造業者は課税に猛反対したが、政府の方針の前に聞き入れられず、結局、京都だけで5千人ものかるた職人が失職した。
この「骨牌税法」施行以降、全国のかるた業者は次々と店を閉めていき、東北など地方の業者は激減、大正、昭和に入るとほぼ全滅する。更に1940年(昭和15年)、太平洋戦争中に出された「奢侈品製造販売制限規則」で国民の戦意高揚に効果のない遊興具(花札も含まれる)は厳しく販売制限されることになる。
これによってかるた製造の本場であった関西地方の業者も致命的大打撃を受け、結局存続できたのはごくわずか、京都に数件残っただけだった。
その中で生き残ったのが「任天堂骨牌」だった。
かるた屋の商い
江戸時代、カルタが流行し始めると、それに合わせてカルタ職人も増えていった。また、カルタが社会に蔓延し様々な害が生じ始めると、徳川幕府は幾度も禁令を出した。
カルタは賭博品として禁止される。が、職人たちは生き延びるために商いを続けていかねばならない。そこでどうしたか?禁令が出ると、別の図柄の「新しいカルタ」を作り、指定された禁制品とは違うものと主張して販売したのだ。それを禁令の度に繰り返した。
江戸時代には幕藩体制が敷かれてていた。江戸幕府を中心に、全国の藩(諸大名の領地)がその地域の監督・取り締まりを行っていた。かるた職人達はこれも利用している。
例えばある藩で「このカルタは賭博品である、以後販売・使用を禁ず」との禁令が出る。すると用意しておいた他の地方用の絵柄の木版を刷って、別のカルタとして販売した。
この繰り返しの果てに「花札」が創出される。
数標付きのウンスンカルタ/数標を自然に転化した花札。「花札」は、賭博系カルタが全面禁止された時、それらの象徴であった数標を消し、それを日本の四季・花鳥風月に託したもの。カルタ職人と博徒達が厳しい取り締まりの目をごまかすために創意工夫して作り出した(賭博カルタの)巧みな偽装品でもある。  
花札・任天堂デザイナー第一号、山田孝久さんのお話
今日はいよいよ花札の登場ですね。
花札は、種子島に流れ着いたポルトガル人から伝わった「かるた」に日本の花鳥風月を織りまぜて作られたものがはじまりです。時代は安土桃山。「うんすんかるた」「天正かるた」などとして、時代とともに親しまれ、そのスタイルは変わっていきました。そして、江戸時代中期に現在の花札の原形ができたといわれています。
あのしゃれたデザインにはやはり古い歴史があるんですね。鉄砲伝来のときですから、いまから450年以上前。
─現在の花札が完成したのはいつですか?山田さんが入社したときには?
わたしの入社したころにはもうありましたよ(笑)。花札のデザインが現在の型におさまったのはかなり前のことです。現在の花札はもうデザインするところはありません。これはいじりようがない、完成型です。でも、長い歴史のなかで、この型に行き着くまではいろんな変遷があって、種類もいくつかあるんですよ。このポスターをご覧ください。
明治34年のポスター/英雄のモデルは西郷さん ナポレオンは大統領?
─これはかっこいい!明治34年と書いてありますよ。「任天堂製かるた主要商標」?当時の商品ということですか?
そうです。商品のラインナップというか、パッケージや内容の見本をポスターにしたものです。こんなものが明治時代にもあったんですよね。
─「英雄」というパッケージのモデルは、西郷隆盛ですね。
右上にあるのはいまでもよく見る「大統領」のおおもとのパッケージですね。でも、このモデルはナポレオンでしょうか…?
ナポレオンはほんとは大統領ではなく皇帝ですよね(笑)。ちょっといいかげんだ。
─下のほうに、特約大販売所と書いてあります。これは特約店に配ったポスターなのですね。おもちゃ屋さんのようなところの店頭に貼ってもらうために作ったものですよね。
そうです。契約している売店もありましたが、当時は任天堂で直販もしていたらしいですね。お客さんが直接買いに来られたんです。
─このポスター、印刷に金と銀を使ってますね。6色印刷ですよ!特色やな。凝ってるな(笑)。
札の鮮やかな色が普通の4色印刷では表現できなかったんですよ、きっと。こんな派手なポスターは、いまではあんまりないよね。
─百人一首も載っていますね。
明治34年の百人一首 / 古いものだから、いまの百人一首と絵柄が違いますよね。このポスターをね、新入社員の説明会のときにみんなに見せるんですよ。昔は、この会社はこんなことをやっていたんだという(笑)。
─これを見ればぱっと歴史を感じることができますものね。
このポスターには「各国向かるた種類見本」と書いてあります。これは、日本の各地方に向けた、という意味。各地方の札がまわりに載っているでしょう。これを地方札、というんですよ。
─ああ、こんなの見たことない。札の下に地名が書いてありますね。
越後は越後用、伊勢は伊勢用。それぞれの地方によって遊ぶ札もルールも違っていたんですよ。例えばこの「虫花」などは京都や大阪で使われていた。
─思わず自分の出身地を探してしまいます(笑)。あ、駿河、あった。
「黒馬」だね。地方札。これは「黒馬」
─ふむふむ、どれも地方の色が出ているような、それぞれに濃いデザインですね。筑前筑後って、九州ですか。おしゃれだなあ。現在の花札に近いものもあれば、数字が描かれているような札もありますね。トランプみたいな札も。
ああ、これは株札です。花札に似ているけど、遊びかたが違う。数字で遊ぶんですよ。オイチョカブと呼ばれる遊び方がありまして、それ用の札なんですよ。まあ、1から10までを設定すれば花札を使っても遊べますけどね。地方札や古い株札を時代ものの映画で使わせてくれ、と頼まれたことあります。
株札。トランプみたいだ
─はー、かっこいい…。これTシャツにしたらいいのに。ものすごくしゃれている。
株札はいまでも市販してますよ。関西ではよく売れているんです。
─デパートで買えますか?
買えますよ。コンビニでも売っているところがあります。花札と並べてね。
─東京ではあまりないかもしれない。探してみよう。ぜひとも欲しいです。きれいだもの。遊びかたが全然わかんないですけど(笑)。
オイチョカブですから9がいちばん強いっていうルールなんですけどね。
─昔の地方札でも株札ぽいものと花札ぽいものがありますね。
現在の花札のもとになったものもありますが雰囲気がちょっと違いますね。和歌が書いてあったり。描いてある鶴や鹿も姿形が洗練されていないというか格好悪いというか(笑)。任天堂がこれまで作ってきた札のアルバムがあるんですよ。
現在の花札のもとになった 「八々花」 和歌が書いてある「越後花」 「目札」黒と赤のコントラスト 「福徳」圧倒されるデザイン
─これもまた古いものですね。実物が直接貼ってあるんですか。これはすごい。
いいでしょ(笑)。
─こんなもの、図書館に行っても古道具屋さんに行ってもないですよね。
まあ、ないでしょうね。これは全部、実物を貼ったものですからね。
─「目札」。これも地方札の一種ですね。きれいだなあ。色はほとんど黒と赤だけですね。
あとは、金か銀かわからないけど、ちょっと入ってますよね。上にのっけたようなかんじでね。ほんとに粋な色の入れかたです。
─うわ。これは「福徳」という札ですね。きれい、きれい!
「福徳」にはね、鬼の札があるんですよ。かっこいいでしょう。
─かっこいい。全体すべてがまるごと、かっこいいです。デザインが、もう完璧ですね。札1枚1枚に意味があるんですか。
結局、数や記号をデザインしているわけですからね。そりゃもう、全部に意味があります。
─1枚を引き伸ばして額に入れたいくらい、かっこいい。
このあたりの札は、完成度が非常に高いデザインだと思っています。
─誰が考えたんでしょう?
作者不明やろなあ(笑)。
─デザインを勉強しているひとがこれを見たら喜ぶでしょうね。
なんじゃこらぁ、と思うかもね。ちょっと巷にはないですからね、こういうものは。
─デザイナーの方に見せてもすごく感動すると思います。デザインの要素として、すごく刺激的ですよ。これは本当にもうここでしか見られないものなんですか?
おそらくそうでしょう。もう、これひとつしかないですからね。旧社屋から運び出されたときにどこに行ったかわからなくたって揉めとったんやけど(笑)。まあ結局、応接室に入れてあった。
─眠ってたんですね、ずっと。
眠ってた。
─こんなすばらしいものが…。なんかもったいないな。すごいものがあるぜ、見てみな、と噂を流して、ですね(笑)。
あやしいですね(笑)。この札は「伊勢」。これなんか、ほんとにいいデザインです。これは九州の札。濃いねえ(笑)。なんか、絵が脳みそを直撃してくるね。
「伊勢」 九州の「大二」 「小松」 昔は木版で印刷していた
─迫力ありますね。いやぁ、すごいもん見せてもらっています。
そして、「小松」。「小松」っていうのは、遊びかたの本が出版されているくらい有名な札ですよ。
─かっこいいー。(この後、山田さんがアルバムのページをめくるたびにかっこいい!と身悶える、が連続します。)こうやって見ると、現在の花札は、完成型なんでしょうけれども頼りないかんじもしますね。
いまのは垢抜けてるよ(笑)。スマートに洗練されている。そのせいでいろんなことが浮き彫りになっていてそれはそれでおもしろみがあるんですけれども。昔のはね、やっぱり
すごいものを感じます。近代ですらない、江戸をひきずっているデザインがたくさんある。そのひとつひとつに現代のわたしたちがこんなにびっくりできるわけですからね。すごいもんですよ。
─このアルバムに収められているものはいちばん古くて明治時代ですよね。
そうです。創業が明治ですから。最初の頃はトランプと同じように木版で、1枚ずつ手刷りだったんです。
─株札はいまも印刷なさっているんですよね。まさか、いまだに木版とか。
まさか(笑)。フィルムを残していて、それを起こし直したんです。
─カードゲームの歴史は予想以上に深い。
こういう古い札を見て興味を持たれる方も多いですよ。デザイン的にも相当おもしろいでしょうし。
─だって、これはかなりすごいもん。九州。九州すごい(笑)。
どす黒い感じでね。エネルギッシュやね。ほんとに額装して飾るだけでも充分いけるでしょう。ちっちゃい1枚に底のないパワーがあるね。
花札はその名のとおり、日本の花鳥風月が暦にそって取り入れられた美しい遊び札です。1月は松に鶴2月は梅にうぐいす…。
─花札って、すごくきれいですよね。小さいころになんとなく遊んでいて、きれいなものだなと思っていましたよ。僕は家庭用のテレビゲームが世に出る前に幼少期をすごした最後の世代ですが学校で花札が流行ったことがありましたよ。誰かが「これ、おもしろいぜ」なんて言って、学校に持ってきて。本を読んで、組み合わせを一生懸命勉強した覚えがあります。
流行りましたか、学校でねえ。子どものころに、親と一度や二度は遊んだ方が多いんじゃないでしょうか。お客さんが来たときなんかにね。
─あの、座布団の上でやる。
座布団の上で。きゅっとやる(笑)。ぱちーっていう、いい音がするんだよね。
─札に厚みがあって。
そうそう、花札は札が厚いから、ひとセット分積み上げるとかさ高くなっちゃいますね。札を片手で持てなくなるでしょう。よほど手の大きい方でないとうまくシャッフルできません。
─高さがあるわりには札が小さくてつるつるしていますしね。
ええ。だから切れないんですよ。この前、花札をシャッフルするいい方法はありませんかという質問が来たんです(笑)。2回に分けて切る方法もありますが、札を裏向きにして机に全部出して、がーっと混ぜるのがいちばんいい。昔の麻雀みたいなかんじでね。そんな話を20分ぐらい電話でしたんです(笑)。
─そういう質問が電話で来るんですね。
ものすごく多いんですよ、正月あけぐらいが(笑)。
─やっぱり、お正月に遊ぶんだ。「そういえばあったぞ、花札」なんて言ってね。
そうなんでしょうね、きっと。正月だからいっちょやってみるか、てなもんでね。でも、いまは核家族になってきていますから、子どもたちがおじいちゃんやおばあちゃんから教わるなんていうことはあまりないでしょうけど。
─家族で遊ぶと盛りあがるのに。どうしてゲーム、テレビ、本、などと遊びが人で分断されるようになったんだろう。古い地方札。復活しないかな
そうですね。みんなでよってたかってひとつのゲームに集まるっていうことはなくなってきたかもしれない。あんまり宣伝もしないしね。あらためて、いま「花札どう?」っていうのもね。何かきっかけがあると、わからないけど。ドラマで使われて、話題になることもあるかもしれない。
─もしキムタクか誰かがドラマで遊んでたら、みんなの目にとまるかも。「株札のデザイン、イケテルぜ」なんてセリフで(笑)。古い地方札はほんとにかっこよかったですね。
驚きました。ドラマでも何でも使ってもらって、ぜひ再発してほしいですよ。
古い地方札は、任天堂の社員でも見たことのない人が多いと思うよ。
─いまの花札も美しいですけれども。
きれいだよ。だけど、花札はひと組2,000円だから、高く感じるよね。トランプなんかとくらべたら。
─そのぶん、作りが違うでしょう。
裏貼りしていますからね。別の紙で札を裏からくるんでいる。
─そうとう手のこんだものですよね。
この「別製張貫」という札で特別な製法だ、ということをアピールしているんです(笑)。
─必ず入ってる一枚ですね。
地方札からの連綿とした流れを知っていただければまあわかると思いますが花札の表に描かれている絵もそれぞれ深い歴史を乗り越えてきたものばかりでね。謎があったり意味があったりですごく奥深いんですよ。だから、それなりにたくさん質問が来ます(笑)。
─僕も聞きたいことがあります(笑)。眺めているとね、あれ、なんでかなあ、と思うことがたくさんありますよ。
まずはねえこの蝶々の札ね。「どちらを上にして見るのが正しいのか」。この赤いかたまりは、雲なんですよ。だから、蝶々が上になる。
─あ!逆だと思っていましたよ。赤いのは川なのかなあ、と。花に蝶々が群がっている、というかんじでね。正しく見ると、たしかに蝶々が優雅に見えますね。
「この赤い短冊にはなんて書いてあるの」という質問もよくいただきます。
─「あのよろし」じゃないんですか。
「の」に見えるのは「か」の変体仮名なんです。正解は「あかよろし」です。意味はちょっとわからないんですけどね。
─なるほど、「か」は「可能」の「可」だ。桜の札は「みなしの」?
「みよしの」です。これは地名ですよ。桜の名所、吉野の里のことなんです。あとは「これはなんの鳥だ?」という質問もよくあります(笑)。藤のバックに飛んでいるのはほととぎすです。ほととぎすはカッコーとも言われる鳥ですよ。梅にうぐいす、ススキに雁。そして、桐に鳳凰です。それからね、「柳の下にいる人物は誰?」という質問も来た。
──かえるといっしょにいる、傘をさした人ですね。
それは小野道風という、書家なんですよ。小野道風は、かえるが柳にジャンプしているのを見てスランプを脱したというエピソードがあるとか…。花札は、絵がなんとなくミステリアスに見えるんでしょうね。どうしてかな、と思わせる何かが随所にあるんです。それはきっとこの絵柄に至るまでの長い歴史のせいなんでしょうね。
─なにしろ、はじまりは安土桃山ですからね。
長い年月です。そのなかで、越後花、奥州花、八々花などさまざまな札を生んだわけです。そして、いまの花札がある。
─古い札には、小野道風もなにも。
わからへん。なんだか、おらへん(笑)。こうやって古い札と新しい札を並べてみるとデザインの移り変わりが見えてきます。花や動物の位置もすごくデザインされてきていますね。
─あらためてみるとかっこいいなあ、蝶々。黒澤って感じですよねぇ(笑)。象形文字から現在の文字に発達したように株札にしろ花札にしろ、だんだんと形のピントがはっきりしてきたというかんじがします。
見ているとおもしろいね。線が太くなったり細くなったり。昔のデザインには、なにかすさまじいものがあるけれどね(笑)。現在の花札は完成型、とは言いましたがカードゲームというのは手でさわって、相手の表情を見て直接の五感で楽しむものだからこれからもなくなることはないと思います。このデザインが100年後はどうとらえられるのか。「すごいぜ、この鶴怒ってるぜ」なんて言われたりしてね(笑)。
 
カルタの話2

カルタというと「小倉百人一首」や「いろはカルタ」がまず頭に浮かぶが、そのルーツは呼び名も同じポルトガルのCartaで、16世紀後半のいわゆる南蛮貿易華やかなりしころ、わが国にもたらされた。
天文12年(1543)ポルトガル船の種子島漂着を機に航路が開かれ、ポルトガル人が九州の各港に来航、キリスト教や鉄砲など多くの文物を伝えたことはよく知られている。カルタもその一つなのである。
しかし、はるばる海を渡ってきた当時のCartaの実物は、ポルトガルでもわが国でも未発見で、世界に現存していない。それを摸してわが国で作られたカルタがたった1枚、兵庫県芦屋市の滴翠美術館に現存しているのみである。
これが国産カルタ第1号で、天正年間(1573-1591)に作られたことから、俗に「天正カルタ」と呼ばれている。大きさ縦6.3センチ、横3.4センチ。今は褪色しているが、木版刷りに油の絵具様の顔料で手彩色してある。
その裏面に「三池住貞次」の銘が印されている。こうしたことや、当時のさまざまの条件などから考えて、このカルタは筑後国三池(現在の福岡県大牟田市三池)に住む貞次という人が製作したと推測されており、大牟田市は”国産カルタ発祥の地”を宣言、平成3年4月、市立三池カルタ記念館を開館した。
公立ではわが国唯一のカルタ専門博物館で、古今東西の珍しいカルタや関連の文物などを幅広く収蔵、常展しているが、その中に1セット48枚を完全復元した「天正カルタ」がある。同記念館の西田哲治館長によると、開館に際して満翠美術館に現存している1枚の実物と、神戸市立美術館が所蔵している当時のカルタ版木製重箱(カルタ印刷に用いた版木を張り合わせて重箱に仕立て、上に赤漆をほどこしたもの)などを参考に、京都で今も手作リカルタを手掛けている職人さんに復元製作を依頼、貌代に蘇らせたものである。
それを見ると、極彩色で描かれている人物や文様は異国風で、カルタというよトランプ(カード)に近い。ポルトガル語のCartaも英語のCardもラテン語を語源とする同意語で、それを摸したのだから当然といってしまえばそれまでだが、一見して今日のトランプと異なっているのはスーツ(紋標)と呼ばれているマーク。トランプの(スペード)(ハート)(ダイヤ)(クラブ)はおなじみだが、「天正カルタ」のそれは、刀剣・聖杯・貨幣・棍棒なのである。
カルタの起源には中国、インド、ペルシャ、アラビアの諸説があり、はっきりしたことはわからないが、現存するカルタでは最古といわれている14世紀に現在のエジプトで作られたカルタ(トルコのトプピカ宮殿蔵)のマークもやは刀剣-根棒である。スペード-クラブのマークはそれを基に15世紀ころフランスで考案されたもので、デザインがしゃれている上に一目で種類がわかり、しかも印刷に手間がかからないことなどから、やがて世界で広く用いられるようになったという。
刀剣=スペードは貴族ないし騎士、聖杯=ハートは僧侶、貨幣=ダイヤは商人、棍棒=クラブは農民を表しているとの説があり、カルタ=トランプの札の強弱はこの順位になっている。つまりは中世の身分階級を示しているわけで、をクラブと呼んでいるのは根棒の名残である。
また、先記のエジプトのカルタや今日のトランプは4種類×13杖(うち、絵札4×3、数札4×1-10)、計52杖(ただしジョーカーを除く)だが、天正カルタ=ポルトガルのCartaは絵札4×3(女性従者、乗馬騎士、椅子に腰掛けた王様)、数札4×1-9の計48杖で、エース(A)にドラゴン(竜)が描かれているのが大きな特徴である。
大航海時代、ポルトガル船がひんばんに来航したり、ポルトガルが支配した国々には現在もAの札に竜が入ったカルタがあり、それらは「ドラゴンカード」と呼ばれている。もう一つ天正カルタで目につくのは、聖杯のマークが巾着であること。製作者が聖杯の意味が理解できなかったからだとか、もともとポルトガルに口を紐で結んだ酒杯があったからだといわれている。
賭博に使われ再三禁止
新しいもの好きは今も昔も変わらない。和製カルタ第1号の天正カルタはたちまち人気を呼び、慶長2年(1597)3月、土佐の長曽我部元親は「カルタ禁止令」を出している。天下を取った豊臣秀吉が文禄の役(1587)後ぶたたび朝鮮に出兵すべく、肥前(現・佐賀県)名護屋の本営に全国諸大名の軍勢が集結していた折で、将兵たちの間に天正カルタを用いた賭博が流行し、士気に影響するため厳禁したのである。
禁止令を出さなければならないほど、人びとがカルタ遊びに熱中していたことがうかがえるが、名護屋と三池は距離的にそう遠くない。手近でカルタを求めることができたことも、流行した理由の一つであろう。
それ以前の文禄の役のころにすでに流行していたとも考えられる。そして秀吉の死によって朝鮮との戦いが終結後、国元に帰った諸国の将兵たちは名護屋で覚えたカルタ遊びに興じ、急速に全国に広まったという。
それにつれて三池以外の土地でもカルタが作られるようになり、江戸時代に主産地は京都に移るが、初期のころは腕の優れた三池の職人が京に上って製造したようで、製作者に筑後屋友貞などの名が見える。
しかし、天正カルタは元禄年間(1688-1703)ころに姿を消す。それ以前の慶安元年(1648)以来、幕府や諸藩は盛んになる一方のカルタ賭博に手を焼き、再三にわたって「禁止令」を出していたが、いっこうに効果がないため製造販売を禁じたのである。それに幕府の領国政策で"南蛮風"は好ましくないとされた面もあった。
代わって登場するのが「うんすんカルタ」である。天正カルタの4種類のマークに巴紋を加え、さらに数を15まで増やして5種×15枚、計75枚としたもので、絵札(10-15)の中に鎧兜の武者や七福神の恵比寿・大黒・福禄寿などが含まれており、天正カルタと違って一目で和製とわかる。
玩具類を集めた図録集「うなゐの友」(明治44年刊)に、このカルタが色刷りで紹介されている。その説明文に「三池貞次これを作り、徳川幕府に献上せしものなり」とあり、裏面に葵の紋と三池貞次の名が印されている。しかし出典が記されていないので、いつだれが献上したのか、また三池員次と三池住員次との関係などは、残念ながらわからない。
うんすんカルタはいわば幕府公認のカルタで、遊戯性の強いものであったが"悪貨は良貨を駆逐する"で、そのうちに天正カルタ同様、賭博の道具にする"無法者"が続出し、寛政の改革(1787-1793)で全面禁止されて、約100年で消滅する。が、熊本県人吉市に現在も「うんすんカルタ」を使った遊びが残っている。人吉では昔から賭け事に用いなかったので、今日まで続いているのだという。
「うんすん」という奇妙な名称は、ポルトガル語でウンはエースの1、スンは最高を意味し、遊戯中、切り札のエースと最強の絵札を出すとき「ウン」とか「スン」と声を掛けたからで、「うんともすんとも言わない」という言葉は、うんすんカルタがすたれて巻からその掛け声が聞かれなくなったのが語源との説がある。ついでに記せば「ピンからキリまで」という言葉も、カルタ遊びで1をピン(タ)、最後の数の絵札をキリ(ル)と呼ぶことから生まれた。このようにカルタ用語が一般語化したのは、カルタ遊びが庶民生活と密着していたことを物語っている。
わが国独特のカルタ
天正カルタ、うんすんカルタがCartaを模して作られたのに対して、まったく日本的発想で創案されたのが「百人一首」でおなじみの「和歌カルタ」である。
ご承知のように「百人一首」は上の句を記した読み札と下の句を記した取り札が対になっていて、それを合わせて遊ぶ。このように2校1組形式の"合わせカルタ"は世界に類例がなく、わが国独特のものである。
生まれたのは江戸時代だが、その祖型はCartaが伝来する以前からあった。平安時代からやんごとなき宮人たちが遊んでいた「貝覆」である。蛤の貝殻を左右に切り離して、場に並べた半片とそれぞれが手にした半片が合致するものを探し出す遊戯で、のちに対であることがわかりやすいように、貝の内側に同じ趣向の絵や、和歌の上の句と下の句を分けて書いたりした。Cartaが入ったことによって、貝を紙に代えてカード式にしたのが「和歌カルタ」の起こりなのである。
三池カルタ記念館に「貝形源氏歌カルタ」100枚がある。貝の形に切り抜いた和紙製のカルタで、源氏物語から採られた和歌が上品な筆体で書かれている。江戸時代初期のもので、貝覆からカルタへと変化する過程を示す極めて珍しいカルタといわれている。遊び方も貝覆と同じだったようである。
今日の和歌カルタは「百人一首(正しくは小倉百人一首)」が全盛だが、この貝形源氏歌カルタに見られるように、かつては古今集、新古今集、伊勢物語など古典の歌集、さらには自賛歌などが広く用いられた。和歌ばかりでなく、狂歌や俳句のカルタもあった。枚数も採り上げられている歌によってまちまちで、同記念館所蔵の「古今和歌カルタ」はなんと2,360枚、世界一枚数の多いカルタといわれている。
それらが消えて「小倉百人一首」一辺倒になったのは明治に入ってからで、ジャーナリストで翻訳家の黒岩涙香(1862-1920)によるところが大きい。
小倉百人一首は鎌倉時代の歌人藤原定家が、京の小倉山の山荘で百人の歌人の中から秀歌各一首を選んだものだが、これがカルタに採り入れられたのは、現存するものでは元和年間(1615-1623)ころに作られたものが最古である。
したがって、そのころには歌カルタが創作されていたわけだが、先に触れたように貝覆が変化して生まれたものなので、貝覆同様、大名家の嫁入り道具に欠かせないものになった。その中には幕府や諸藩お抱えの狩野派や土佐派の絵師、琳沢の画家などに絵を描かせ、一流書家が文字を記した金銀地の豪華なものがある。
そして、時代が下るにつれて一般に広まっていったが、「萬朝報」という新聞の創刊者でもあった涙香は、歌カルタに最も多く用いられていた百人一首の変体仮名を平仮名に、印刷もまた木版から活版に改めて出版、同時にそれまでの貝覆式の優雅な遊び方を脱した、現代のスピーディーの競技法を編み出した。これによって「百人一首」の人気は爆発的に高まり、今日まで生き残っているのである。
絵札(取り札)の絵柄も時代によって変化している。たとえば天皇。百人一首には天智天皇など天皇が詠まれたお歌が8首含まれ、そのお姿が描かれているが、よく見ると天皇が座られている畳にのみ、色鮮やかな錦識で彩られた繧繝縁と呼ばれる縁が付いている。平安期から神仏と天皇のみに許された畳だが、昭和初期から太平洋戦争が終わるまでに作られたものは、天皇は御簾の中に隠れてお姿は描かれていない。天皇が"現人神"とされた暗い時代であったからにほかならない。
初めのころはもっぱら上流階級を対象に作られた和歌カルタに対して、一般社会、とくに子供を対象に作られたのが「いろはカルタ」である。その原形は元禄末から享保ころ(17世紀末-18世紀初め)に生まれた「ことわざカルタ」といわれている。「石の上にも三年」といった俗諺を題材にしたカルタで、「い」が数枚あったり「へ」や「る」が1枚もなかったりしたが、これを"いろは48文字"に改良したのである。
江戸中期以降に京都で考案されて東上したといわれ、採り上げられた"教訓"は上方・中京・江戸の3系統に分かれている。「い」を例にとれば、上方は「一寸先は闇」、中京は「一を聞いて十を知る」、江戸は「犬も歩けば棒に当たる」といった具合である。
子供の教育に役立つので、明治・大正ころまでは孫が4歳になると、祖父母が「いろはカルタ」を与える風習があった。さらに子供の成長に合わせて国語・算数・歴史・地理などの「学習いろはカルタ」が生まれた。現在でも世相を表したもの、郷土色を出したもの、企業のPR用のものなど、数えきれないほど各種各様の「いろはカルタ」が作られているのはご承知の通りである。
また、わが国独特のカルタに「花札」があるが、その発生以前に花鳥風月を合わせる「花カルタ」があった。カルタ記念館にそれを屏風に仕立てたものが現存している。絹地に描かれた絵の空間に美しい筆体で和歌が書き込まれている華麗なものである。
寛政の改革でカルタ賭博がご法度になって以後、この花カルタを基に新たに登場したのが花札で、賭け事はいくら取り締まっても止むことがないことを想起させるが、それはともかく花札の枚数は4種類×12枚、計48枚で、Cartaをアレンジしたことは明らかだ。
しかし、その種類を春夏秋冬の四季、数を12カ月とし、季節に合った草花、動物、風月などを配したのは日本人の感性で、絵柄も単に季節だけではなく、猪・鹿・蝶は神に仕えるものを表し、五穀豊饒を意味しているという。さらに11月(柳)の"20点札"に描かれている絵は、初め歌舞伎 「仮名手本忠臣蔵」に登場する盗賊斧定九郎が雷雨の中、傘をすぼめて走る姿であったが、明治に入ってから「品がない」ということで現在の"小野道風に蛙"に変わった。その他の札のデザインも時代によって若干変化しているが、その趣向やデザインは世界のカルタ研究者から高く評価されている。日本人が生んだカルタの傑作といえよう。
現在も盛んな百人一首
三池カルタ記念館に多数展示されている海外のカルタ(カード)の中にメンコのような円形のものがある。カルタ発祥国の一つに挙げられているインドのカルタで、ラマ神・ブッタ神・魚の神・亀の神など、インドの神々が漆で手描きされている。所変われば品変わるで、アメりカ・インデイアンのカルタは羊皮製だ。マークも刀剣(スペード)を楯や木の葉、聖杯(ハート)を薔薇の花、貨幣(ダイヤ)を鈴、根棒(クラブ)を木の葉のどんぐりにしたものがあり、万国共通でないことがわかる。
なお、トランプという語は本来"うん・すん"同様、英語(Trump)で"切り札"を意味する。明治時代、あるカルタ屋が輸入した「Playingcard」を「トランプ」と名付けて売り出し、それが評判を呼んだことから、わが国だけで称されるようになった語である。
また、もっぱら占いに使われているカルタに「タロット」がある。22枚の"大アルカナ"と呼ばれる絵札と56枚の"小アルカナ"の計78枚セットで、大アルカナには神秘的な寓意画が描かれており、小アルカナにはカルタと同じく刀剣-棍棒の4種のマークが付いている。それぞれ1枚1枚に意味があり、それによって人生や恋愛などの吉凶を占うわけだ。
タロットの起源もカルタ同様諸説ふんぷんで、中にはカルタの先祖説もあるが、いずれの説も裏付けはなく、神秘のベールに包まれている。現在わかっているところでは、14世紀末にヨーロッパに現れ、北イタリアなどでゲームに使用、それが15世紀までにフランスに渡って現在の形式に修正され、「マルセーユ・タロット」と呼ばれて各地に広まった。しかし、今日ゲームに用いられることはなく、占いの部分だけが継承されているのは、ご承知のとおりである。
これら海外のカルタを見て思うのは、わが国のカルタが伝統的な紙工芸や木版印刷技術を巧みに応用して、世界最高レベルのものを作り上げていることだ。
裏紙を折り返して札の縁を整えるアイデアはポルトガル人から教わったが、その縁の幅を1-2ミリに抑えて真っ直ぐに仕立て、札が扱いやすいように微妙な反りを入れたり、糊に微粒の砂を加えて重さと硬さのバランスをとるなど、繊細な技は外国品には見られない。ルーツは外国であっても、わが国で創意工夫を擬らして作り上げた文化遺産なのである。
それに「いろはカルタ」や「小倉百人一首」は文字や教訓、和歌などを遊びながら知ることができる知的ゲーム。秋田県のある老人保健施設では、レクリエーションに手作りの「いろはカルタ」で遊び、痴呆症のお年寄りが昔を思い出して何枚も取るなど、リハビリに効果が見られるという。
遊びの多様化で「いろはカルタ」で遊ぶ子供は少なくなったが、「百人一首」は全国組織があって、毎新春全日本大会が開催されており、毎週どこかの支部などで競扱が行われているという。文化遺産としていつまでも残り続けてほしいものである。
 
花札12ケ月

1月
花札は他の力一ドと違ってすべての札に図柄があります。そこが花札の大きな魅力でありますが、数字が入ってないため初心者には親しみにくいようです。また、スーツが12種類あるので図柄も豊富になります。(トランプは4種類のスーツ)今回からあまリ馴染みのない人を対象に簡単な歴史などを交えて花札の紹介をしていきたいと思います。
まずは月別に、その図柄に対する説明と、それにまつわる歌などについてお話ししていきます。
1月-この月の20点札(1番高得点の札)の図柄は松に丹頂鶴に旭です。この3者の取り合わせはかなり古くから見られ、江戸時代の工芸品、例えば手文庫のまき絵などに見られます。また、掛け軸等にもあるようです。門松は正月につきものですが、なぜ鶴なのかというのが少々疑問です。花札の前身と考えられている「花鳥合わせかるた」には「松に鶴」があり、そこからきたものだというのが分かります。またそのかるたには「竹と亀」があり、「松に鶴」と考え合わせると季節というより縁起物の組み合わせのようです。(松・竹・梅と鶴は千年、亀は万年)門松を構成する松と竹のうち季節感に相応しい松が1月になったようです。
地方札(ローカルな特殊札-花札と構成はほぼ同じたが図柄が違ったりする)や古い札などのカス札(点数の低い札)2枚には和歌が上の句と下の句に分れて記されています。1月は、
とき葉なる松のみどりも春くれば今ひとしほの色まさリけり
と、古今集の春歌上にある源宗干の和歌です。和歌はゲームには関係がありませんが、「古今集絵入リかるた」に同じ歌の札があり、そこから来たようです。「古今集絵入リかるた」は花札の前身というより、カムフラージュと考えたほうがいいかも知れません。賭博を目的とした「かるた」は古くは慶長2年(1597)から禁止令の記録があり。「かるた」の歴史は権力の弾圧との戦いの歴史でもあるわけですが、その弾圧を避けるために和歌などを配し、高尚なものに見せかける必要があったようです。
また、短冊(5点札)に文字が入ったのは3月を除いて昭和に入ってからのようです。古い札や地方札には見られません。そのかわりに月数が記されていたようです。金太郎の礼が鬼札(ジョー力一に近いもの)としてはいっていることで有名な「金時花」という地方礼の1月のカス札には「ときはぎはみどリ」という訳のわからぬ事が書いてあります。先の古今集の省略?のようです。
2月
種々の「遊び」のすべてがそうであるように、花札の起源も明らかではありません。嘉永6年(1853)刊の「守貞漫稿」にはすでに花合せ流行の記述があります。著者の喜多川守貞が文化7年(1810)の生まれで、天保8年(1837)から記録を始めたといわれているので文政から天保の間と見ていいようです。また、宮武外骨著の奇書「賭博史」(大正12年刊)には次の記述が見られます。「めくりカルタ」ができ「うんすんカルタ」がすたり、「めくりカルタ」の変態として「キンゴ札」すなわち「カブ札」ができ、寛政以後賭博用カルタの取締が厳重になったので、遊戯用のものとして何人かが案出したのが「花カルタ」である。文化以後天保を盛りとして明治に及ぶ」よって「花札の起源は」1800年代と見ていいようです。
2月-この月の最高点札は1O点の「梅に鴬」です。これは、鴬が青柳の糸で梅の花を縫って笠を作る、という擬人的な言い伝えが図柄になっています。関連和歌として、源常(ときわ)の
鴬の笠に縫ふてふ梅の花折りてかざさむ老いかくるやと(古今)
があります。
この「梅に鴬」の札は少々変わっています。例えば、関西系の<むし>というゲームの「三光」という役は「松に鶴」「梅に鴬」「桜に慢幕」で梅の札だけ10点札ですし、「六百間」というゲームの「大三」(おおざん)という役も同じ構成になっています。また、「ひよこ」や「ぽか」などの「めくり札」系のゲームでもオールマイティに近い使われ方をしています。その理由は私にはチョット分からないのですが、前回に取り上げた「花鳥合わせかるた」では「松に鶴」と「梅に鴬」の札が同じ500点なのがひとつのヒントかも知れません。例によって地方札などに見られる和歌は以下のものです。
鴬の鳴音はしるき梅の花色まがへとや雪のふるらん
しかし、この歌が誰のものでどこに収録されているかが、なかなか分からなかったのですが、続後拾遺和歌集巻第一春歌上に貫之の歌で、
鴬のなくはしるきに梅花色まがへとや雪のふるらむ
とあり、これがもっとも近いようです。ここでいう「まがふ」は、紛れて見分けがつかなくなるという意味なので、白梅のことをさしていると思うのですが、花札の梅は紅梅なんですね 。
鶯(うぐいす)の 鳴音はしろき 梅の花 いろのまかへとや 雪のふるらん
鴬の なくはしるきに 梅の花 色まがへとや 雪のふるらむ
鶯の鳴き声はきわだっていて、聞けば鶯とすぐ聞き分けられるけれども、その声の聞こえてくる梅のこずえを見やれば、まっ白な花がいちめんに咲きこぼれていて、あれは見まちがえをさせようと、昨夜のうちに降りつもった雪なのでしょうか、見分けがつきません。
鶯の 鳴音(なくね)はしるき 梅の花 いろのまかへとや 雪のふるらん
そこから聞こえる鶯の鳴き声は聞きまちがえようもない梅のこずえ。でも、花のほうは人が見まちがえをするほどまでに、降りつもった雪なのでしょうか、それほどみごとな白梅です。
おそらく伝承のうちに形が変わったのでしょうね。
「まがふ」についてもすでにご説明がありますが、古語では四段活用の場合と、下二段活用の場合とがあり、「まちがえる」「わからなくなる」といった自動詞の意味や「まぎれてわからなくさせる」といった他動詞の意味があります。ここではともに、「まちがえる」「わからなくなる」の意味だと思います。「色まがへとや」は、「『色を見まちがえなさいな』と(いたずらっけを起こして雪が降ったのだろう)か?」ということで、雪を擬人化しているのでしょう。「いろのまがへとや」(古文では濁点は省略されている)は、「まがへ」が下二段連用形からの名詞化。「色の見まちがえとなるまでに、(雪が降りつもった結果でしょう)か?」ということではないかと思います。「と」はここでは、「〜となって」という「変化した結果、帰着するところを表(わ)す」用法ではないかと思います。cf.「浅茅が原とぞ荒れにける」(雑草の生い茂る原っぱとなってすっかり荒れ果ててしまっていた。「平家物語」)。
梅の花を雪にたとえたり、雪を花にたとえたりするのは万葉の時代からすでにある表現スタイルのようです。
春たてば 花とや見らむ 白雪の かかれる枝に うぐひすの鳴く 素性法師(古今集)
我が岡に 盛りに咲ける梅の花 残れる雪をまがへつるかも    大宰帥大伴卿(万葉集) 
3月
花札に詠まれている歌を見ていてなぜ2枚の札に上の句と下の句が分れているか不思議に思った方もいると思います。普通百人一首に代表される歌カルタは、詠み札と取り札に分れ、詠み札には上下両句、取り札には下の句が記されています。しかし、その形に定まったのはかなり後期で、元々は2つの札に上の句と下の句が分れていたのです。どうやって遊ぶかというと上の句と下の句を合わせるのであって、要するに「貝覆い」のルールなのです。
所詮、「貝覆い」「歌合わせ」は高貴な遊戯で、賭博とは無縁のものです。よって禁止令を逃れるためにカス札に和歌を配し高貴な遊戯に見せかけたのは理解できるところです。ところが、無理に和歌をこじつけようとしたので、前回で紹介した貫之の歌のように元歌と違って伝わったりしてしまうこともあったようです。
3月-この月の花は現在の季節感でも違和感のない「桜」です。この月の20点札は「桜に慢幕」(花見幕)で、個人的に私の好きな図柄のひとつでもあります。高貴な人が野に慢幕を張り、従者を侍らせて花見を楽しんでいる様子をいくつかの桜の花弁と慢幕の一部で悟らせる表現力はすばらしいの一言につきます。
慢幕は、平安時代から野外で何か行なわれる場合にしきりに使われ、特に雅楽の時に使われたといいます。5点札の短冊には「みよしの」と書かれていますが、これは
み吉野の高峰の桜散りにけりあらしもしろき春のあけぼの(新古今)
の後鳥羽上皇の歌にもある奈良の吉野地方の美称です。
確かに桜の枝に「みよしの」の短冊は似合うのですが、この札とほとんど同じ札が「道才カルタ」に見られるのです。「いろはかるた」と「いろはかるた」の原形である「たとえ五十句カルタ」(諺かるた)の間に位置する「道才カルタ」の26番の取り札が同様の札なのです。
詠み札が「花はみよしの」で取り札が桜に「みよしの」の短冊の絵札なのです。「いろはかるた」は前回でも参照した「守貞漫稿」に記載がなくかなり新しいもののようですが、「たとえ五十句カルタ」はその図柄の時代考証から宝暦(1751)から明和(1771)と考えられています。よって1800年代に生まれたとされている花札より古いので、花札がそれを模倣したと考える方が自然でしょう。
少々話が堅すぎたようですので戯れ言をひとつ。高級花札のブランドで「紫宸殿」というのがあるのですが、これは源氏物語の第8帖の巻の名です。源氏26才の春「紫宸殿」で行なわれた花の宴の夜、おぼろ月の君と契るのが物語の中心ですが、なんとも花札心をそそるビューティフルなブランド名です。四光ができ、おぼろ月と契ると五光ができる、というわけです(しかも光は光源氏の光なんですね、これが…)。  
4月
わかみよにふるながめせしまに、といった感じで秋の長雨が続きました。かるたの収集で著名な村井省三氏が、その集蔵品のいくつかを一般公開してくれます。文献でしかお目にかかれないものばかりですので、興味のある方はぜひ足を運んでみてください。
4月-この月の花は藤です。最近の札は藤の葉を墨で、花弁を紫紺で描いてあります。かなり明るく映えるであろう藤の花を紫紺で表現する感覚には、なかなか「粋」を感じます。藤の花を暗い色で描いている理由は、この月の10点札にあります。この月の10点札は「藤に時鳥(ほととぎす)」です。時鳥は夏の訪れを鳴き声で告げる鳥ですが、夜に鳴くのです。つまり、札は夜の情景なのです。また、歌に親しむ人々はその声を聞きに出かけたようです。小倉百人一首にも収められている有名な藤原実定(後徳大寺左大臣)の歌に、
ほととぎす鳴きつるかたをながむればただありあけの月ぞ残れる
がありますが、なんと10点札を見ると時鳥の背後に「ありあけの月」があるのです。この歌は、出会いの一瞬の喜びとその後の喪失感を歌い、、恋の惜別を表すしみじみとしたものです。本当に花札は素晴らしいと思う瞬間でもあります。
歌は実定のそれではなく古今和歌集の歌なのです。巻第三夏の歌の冒頭に読み人知らずとある
わが宿の池の藤波さきにけり山ほととぎすいつかきかなむ
なのです。また、「この歌ある人のいはく、柿本の人麿がなり」とあります。先の実定の歌と比較すると歌意に不満があるのですが、人麿の歌には韓語読みに別の意味があると言いますので、ここでは多くを語りません。ただ、花札に対する古今、新古今の呪縛を感じるのです。あるいは、日本の文化への両歌集の影響力の大きさを実感します。
世の中にはいつの時代でも皮肉屋という者はいるらしく、実定のセンチメンタルな歌に対して、四方赤良が次のような歌を残しています。
ほととぎす鳴きつる後にあきれたる後徳大寺のありあけの顔
5月
花札に配置されている短冊は、カス札との区別を表示するためですが、図案として見てもなかなか趣のあるものです。赤と青(紫)があり、風になびく方向も月によって右と左に分かれています。また、そこに記されている文字も色色あるようです。初期のものには文字がみられませんが、江戸時代の末になると一月、二月と月数がはいっていました。現在知られているものには一月と二月が「あかよろし」(あきらかに優れているの意味-あかは接頭語)3月が「みよしの」です。(桜の短冊の「みよしの」だけはかなり古くから見られますし、地方札にも記されているようです)
「バカッ花」の役に「菅原」というのがあります。「表菅原」が1月、2月、3月の上位札で「裏菅原」(普通「うらす」と略す)がそれぞれの短冊札です。
「菅原」の名の由来は菅原伝授手習鑑からです。
5月-この月の花はチョットやっかいです。「菖蒲」が一般的ですが「あやめ」という人も多く、詠まれている和歌でいくと「かきつばた」なのです。また、特徴的なのは十点札とカス札の関連です。カス札に詠まれている和歌は古今集巻第九にある在原業平の
唐衣きつつなれにし妻しあればはるばるきぬる旅をしぞ思う
「かきつばた」を五七五七七の頭に折込んだ有名な歌です。伊勢物語の中で旅の途中の三河(現在の愛知県)の八橋という所で、かきつばたの咲く様をまのあたりにし、旅の心を詠んだのですが、そこで河にかかる「八橋」のことも記しています。十点札にある図柄はその三河の「八橋」です。
菖蒲は「草」といわれて、藤・萩・桐のカスと並んで危険の少い札です。よって「八八」などでは三本(同月札が3枚集まる手役)ができると「立三本」といって普通の三本より高得点です。それらの短冊に「たてさん」と文字のはいっている札もあります。菖蒲はそれ自身で1本だけで咲く花です。バラなどの西洋花の群生を騒々しく感じさせるほど、りりしい花です。静寂と確固たる存在感を表現しているようです。また、色も多種あり、花弁の形も多様です。是非咲く季節に堀切菖蒲園へ行ってみてください。
6月
昔、本所で新内をやっていた曽祖父に「粋」の何たるかを教えられ、男らしさは「粋」にある、と仕込まれたのですが気が付くと「花札よもやま話」とやらで冬に夏の話をするハメになってしまって、突然激しく赤面したりしている次第です。
6月-この月の花は牡丹です。今年、上野東照宮で緑色の花を咲かせた事で話題にもなった花です。ところが、中国原産であるためか、派手なためか、和歌にとりあげられる事が少く、万葉集にも花札の拠り所である古今・新古今にも見られません。楊貴妃も好み、花の王とも称されたのですが、ある特定の階層の人々に親しまれただけだったようです。それは家紋に見られる事からも分ります。少々時代が下って俳句には登場しますが、芭蕉の頃にはまだ一般化していなかったようで、元禄俳句には無く、蕪村の作にみられます。また、江戸の庶民には「ぼたん」は猪鍋としてのほうがとおりがよかったようです。この月の10点札には一対の蝶が描かれています。日本で最初の絵入り百科事典といわれている「訓蒙図集」(1666)には2番目に蝶が載っているのでこれは古くから親しまれていたようです。(ちなみに最初に掲載されているのは蛾です)また、揚げ羽蝶は平家の家紋でもあります。
この月の5点札が「青短」です。赤短(裏菅原)と並んで得点の高い役ですが、赤短の総てに文字が入っているのと違って、青短には月数以外の文学は基本的には見られません。ただ、一部の札に「請合」の文字が入っています。これに関しては江戸時代に入ったという事以外は意味も分りません。現在一般で使われている物には文字は入っていません。
私はラーメン屋の壁にかかっている牡丹の「掛け軸」を見ながら老酒を呑む方が性に合っているので、「牡丹」より「猪鍋」が好きです。
虹を吐いて開かんとする牡丹哉 蕪村  
7月
今回の原稿を書くにあたって気付いた事がありました。前回の牡丹の所で猪としての「ぼたん」について触れたのですが、7月に登錫する「猪」は江戸人特有のユーモアではないか?という事なのです。つまり6月に「牡丹」をもってきたので、7月に「ゐのしし(ぼたん)」をもってきたのではないか、という推測です。
というのは猪の登場があまりに唐突で季節にそぐわないからです。旧暦の7月は「初秋」にあたり、配されている花も秋の七革のひとつの「萩」ですが、猪に季を与えるとするなら「冬」なのです。ただ、冬に餌を求めて里におりて来る猪を防ぐための「猪垣(ししがき)」は仲秋の風物かもしれません。しかし、猪そのものはどうしても冬のものです。「うんすんかるた」をはじめ、あらゆる日本のカルタの前身となった「天正かるた」の12(スーツの最後の札。カードでいうキング)をキリ(多分ポルトガル語)という所から、花札の最後の12月に「桐」を持って来たような「言葉遊び」がそこにあったのでは、という推測なのです。牡丹の花に猪を配するのはいくらなんでも滑稽なので7月から3か月にわたって配される秋の花の一つにもってきた。しかし、薄には仲秋の名月、紅葉には古今、新古今ファンを満足させる鹿、よって残った萩に猪を描いた・…とは考えられないでしょうか。
萩は尾花(薄)・葛・撫子・攻女郎花・藤袴・朝顔(桔梗の事)と並んで秋の七章のひとつで、西行法師が「山家集」(鎌倉初期)の中で奥州宮城野の萩を賞したように非常に親しまれた花で、文様にもよく使われています。その文様をたどっても萩と対で出てくる動物はほとんど「鹿」で猪は見あたりません。何かの拍子に「萩と猪」の文様・図柄に出遭う事がありますが、それは花札からきたものである事が分ります。また、猪は古くから「ぼたん」「山くじら」と言われ食物としては親しまれていますが歴史的には桓武天皇に歴仕した和気清麻呂(わけのきよまろ)を守護した動物として日本後記(840年に編纂完成)の中に見えるだけです。体形からでしょうか鹿の和歌や文様が多いのに猪のは見当たりません。花札の中で最も不遇な存在と言えるでしょう。では、何故猪が花札に描かれたのかというと、不遇の存在に脚光を浴びさせてやろうという同情ではなく、諺かるたである「道才かるた」の47番に描かれているので、その借用でしょう。図柄もほとんど同じです。その猪の札に与えられた道才かるたの諺は「向ふシシに矢立たず」です。その目的は諺かるたへの偽装か、あるいは「道才かるた」が後に諺かるたという教養の物から賭け事に使われだしたので、役作りのための単なる流用でしょうか。
あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風並ちぬ宮城野の原西行(山家集・新古今)
「萩に猪」の札は大切に同情を持って使ってやってください。
8月
前回、前々回と食い物の話題で妙に熱が入ってきたと皮肉られている本稿です。さらに江戸時代の肉食やそれらを実際に食べに行った話などしたいのですが、今回は従来の気品と幽玄?を取り戻したいと思い、食い物の話は後の機会に譲ります。
8月---この月の主題は「去りゆく時への惜別」です。古人にとっては太陽より月の方が観察しやすく、またその満ち欠けによって時の移ろいが確認できるため、「時間」は月によって表現されました。太陰暦を用いたのをはじめとし、月を観じるという行為が大々的に行われたのもそのせいでしょう。陰暦8月15日の中秋、9月13日の十三夜をはじめとし、6月16日の公家の成人祝儀、7月の「二十六夜待」などで月を観るという事をしました。6月16日の「月見」は16歳に達すした男女の成人式で、16日夜にまんじゅうを月に供えそのひとつに指で孔をあけ、その孔から月をのぞき観るという作法がありました。「二十六夜待」はその日の月の昇りかけに放つ光が阿弥陀三尊の形をなすといわれ三尊礼拝する人々で高輪・品川が混雑したとあります。映画「緑の光線」では、沈む直前の太陽が放つ緑色の光を見ると幸福になれるという南ヨーロッパの言い伝えがテーマでした。国は違っても類似の話があるという事ですが、日本が「月」であるのがおもしろい所です。
その中でも秋の月が人の心を捕えて離さなかったのは、月が代弁する「時の移ろい」と春の芽生えと夏の盛りを経て総てが逼塞してしまう冬を予感させる秋という季節が、「無常」と「ものの哀れ」を感じさせるからでしょう。また、この月の10点札に描かれている「雁」が飛来してくるのもこの頃で、この渡り鳥に「漂泊」を感じたのでしょう。
この月の花は薄(すすき)です。20点札が「満月に薄」でひじょうに哀愁のある図柄で、あたかも秋風が吹いているように感じさせます。古人もそれらの秋の騒材を「逢い難い恋の嘆き」として歌にしています。
彼の子ろと寝ずやなりなむはた簿裏野の山に月片寄るも
万葉---相聞
君特つとこひつつふれば我がやどの薄うごきて秋風ぞ吹く 貫之
また、江戸中頃の廓では8月14日-16日に「月見杯」と称して馴染に杯を贈るという風習があり、月に恋の手管の片棒を担がせたようです。花札でも「のみ」あるいは「月見酒」といって「薄に満月」の札と「菊に杯」の札に役を与えています。また、この月を「ぼうず」と異称するのは、秋の秀歌が多い西行にちなんだため、というのは思いすごしでしょうか?現に明治期に作られた高級花札の「薄に満月」には西行らしき人物が行脚の途中でしょうか背中を見せ薄の原に座っています。薄の群れの形状から「ぼうず」の語源となった、と考えるのが自然でしょうけれど。「薄に満月」の図柄は以前にも触れた事のある「花鳥合せかるた」にあります。素札(カス)に詠まれている歌は新古今からですが、残念ながら西行の歌ではないし、恋の歌でもない良経の品のいい歌です。行く末は空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ藤原良経
花札そのものの古い異名に「むさしの」がありますが、この歌からきたような気がします。よって花札を代表する月なのかもしれません。
9月
3月に入り春めいてきました。春は、おひなさま、卒業、入学と子供達にとって「忙しい」季節でもあります。昔ほどに「ひな祭り」が盛んではなくなったと思うのは、単に私が歳をとったせいでしょうか。私が小さい頃のひな祭りは、女の子の家へおよばれし、母に甘い物の手土産など持たされ、その家で白酒を飲んだりしたものです。女の子の中には日本舞踊を習っている子がいたりして、訳のわからない踊りを見せられたりしたのを覚えています。子供心にも胸ときめくものがあったのでしょう。強い印象として残っています。
今回はひな祭りにちなんでお節句の話をしてみたいと思います。(節句は古くは節供と書いたので、以後はその例に従います。)
9月---この月の花は菊です。菊は皇室ゆ宮家の紋章でもあり、葬祭にもひんぱんに用いられるので(主に弔意の場合が多いようですが)とてもなじみの深い花ですが、本来は中国(唐土)から平安初期に渡来した植物です。よって万葉集には見られません。菊の紋章についても今年は皇紀2649年ですが、それが定められてから1000年と経ってはいないと思います。この月の10点札には杯が描かれていますが、これは重陽の節供にちなんだものです。古来中国では全ての物を「陰」「陽」に分けました。それはヨーロッパ言語の名詞の性別化と同様の物と思われます。その中で数字も陰陽に分け、奇数(サイの目の半)を陽、偶数(サイの目の丁)を陰としました。日本では陽を縁喜と結び付け、また割りきれない(別れない)事から祝儀などを奇数金額でする習慣ができました。最近では経済重視の「立場」から偶数金額で祝儀をする人も多くなりましたし、元々中国では偶数金額を祝儀にしているようです。重陽の節供というのは五節供の内の九月九日で陽数の九が重なる事からそう云われ、また重九とも言います。また別名を菊の節供といい、観菊をし杯に菊の花弁を浮かべて酒を飲む風習がありました。それは中国の故事によっています。昔、中国の南陽の甘谷の上流に大菊があり、その花の水から泌液が落ち、下流の者はこれを飲んで長寿を得た、という「菊水」の故事です。また、栗飯を炊く事もしていたようです。観菊の風習は根強く残っているものの、「重陽」そのものの意義はどこかに忘れて来てしまったようです。
五節供とは、他に人日(1月7日:じんじつ)、上巳(3月3日:じょうし、あるいは桃の節供)端午(5月5日:たんご、あるいは菖蒲の節供)七夕(7月7日:たなばた、あるいは棚機)とあり、名称こそ変化したものの特別な暦の分節点としての作用は残っています。長寿を祈願する重陽の節供だけがすたれてしまったのはなぜでしょう。酒を飲ませたくない人と、歳をとる事の話をしたくない人の陰謀でしょうか…
縁日が九のつく日だったり、農民祝事をみくにち(三九日)といったりしたのは重陽の影響だといわれ、供日を九日と感じるようになったからだと云う人もいます。また、九州では秋の祭礼を「くんち」という所が多いのですが、それもそこからきたと推測する事ができます。
九重にうつろひぬともしら菊の元のまがきを思ひわするな
花園左大臣室:新古今
という歌もあるので、音から移ろいやすいのが「九」なのでしょうか。そう云えば「こいこい」での「鞠に盃」の札は10点札にも素札にもなる化け札でしたっけ・・・  
10月
7月で猪の話をした後に両国の「ももんじや」へ猪を食べにいきました。その時、今まで当然と思われていたことに疑問を感じたのです。「ももんじや」の語源は色いろな獣肉を扱うことから「ももんじゅう」(百獣)から来たと小さい頃から聞かされていたのですが、ひょっとしたら「もみじ」あるいは「もみじ屋」の転訛したものではないか、と思ったのです。「ももんじや」と喰う事には全く関係が無いので、店主に尋ねる事もせず帰ってきましたが、鹿肉を「もみじ」と言ったのは獣店(けものだな:江戸時代の肉屋の呼び名)が先か、花札が先かという事が気になったのです。日本には古くから肉食の風習がありましたが、仏教が伝来してきてからややっこしくなってきます。
肉食が仏教の触穢思想の犠牲となり、公のものでなくなるからです。古くは天武天皇の3年(675)に殺生肉食の禁止令が出ましたが、その後も何度か禁令が発布されているので、肉食の風習はなくならなかったようです。ただ、現代と違う所は牛馬や鶏などの家畜は禁忌の対象であった事です。またおもしろいところでは、神に参詣する時に仏教徒でないことの証としてわざと魚肉をたべたり、諏訪明神の神札をいただくとか、同社の白箸を用いれば「穢れ」が消えるとされ半ば公に肉食をしていたようです。
落語の「鹿政談」という話は、正直な豆腐屋が誤って鹿を殺してしまい、打ち首になるところを名奉行が「鹿に良く似た犬」とする話で、春日や伊勢の大社では鹿は神使と考えられていましたが、肉そのものをあらわす「シシ」という読みを「猪」と並んで「鹿」にも与えているので古くから獣肉の代表でもあったようです。(江戸川区の「鹿骨」はシシボネと発音しますし、また、マタギの使う山言葉では「カモシカ」の事をアオジシといいます。)
江戸時代では平河町の「山奥屋」という獣店が有名で、単に「麹町」だけで通ったほどでした。江戸川柳にも「五段目を蛇の目で包む麹町」とあります。五段目とは歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の五段目、山崎街道で猪の出て来る所で猪肉をさす言葉です。蛇の目とは傘紙の事で、それで肉を包んだのです。江戸っ子の好きな「忠臣蔵」と並ぶほどの物だったのでしょう。(「仮名手本忠臣蔵」の五段目は11月の所でも出てきますので覚えておいて下さい。)その「山奥屋」の記録が明和8年(1771)の物に残っているのです。花札の発生が寛政頃(1789-)で、流行が文化文政頃(1804-)ですので、「麹町」の方が古いようです。
10月---10月の花が「紅葉」で、その10点札に鹿が描かれているために前文が長くなってしまいました。鹿は雌雄の結び付が強く、独りの鹿に「別離」や「悲恋」の心を託しました。けして食い物の話で興奮する次元ではないのです。
奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しきと古今集に詠人しらず(猿丸大夫の歌との説もあります。)の花札にちょうどいい歌がありますが、実際に花札に詠まれているのはこの歌ではないのです。
下紅葉かつ散る山の夕時雨濡れてやひとり鹿の鳴くらむ
新古今和歌集秋歌下に収められている藤原家隆の華美幽玄な叙景歌です。
「山奥屋」が先か、花札が先かなどという論議より、鹿は古今・新古今の中に棲んでいるようです。
11月
私の祖母は仕事師を夫にもったからというのではないでしょうが、花札の非常に好きな人でした。そのせいで私は物心ついた頃にはすでに花札を玩具にしていましたが、花札への興味は競技ではなく、札にありました。それもただ一枚の札に非常に魅せられたのです。
その札とは、今でもそう思うのですが、雨の20点札です。雨の中に傘をさした人物がいて傍らで蛙が跳び跳ねている、という構図はかなり特異だと思います。また、必ず例の柳に跳びついた蛙を見て努力をする、という小野道風の故事が添えられるので、神秘的ですらありました。「こいこい」をしている祖母から「努力」の教訓を授かるのですから、滑稽な話しです。
11月---この月は花札における最大の難関です。なぜなら11月は冬です、陰暦なら完全に冬です。ところがこの月の「花」は柳なのです。柳は晩春に芽吹き初秋に散り始めます。まして蛙は冬には跳びません。また10点札に描かれている鳥は「柳に燕は貴方にわたし……」と歌にもあるように「つばめ」です。誰でも知っている事ですが燕は春を告げる渡り鳥です。
素札は「雷に鬼の手」でこれは夏の風物かもしれません。一体どうなっているのでしょう。はっきり言って何も分かりません。あまりに季節と違い過ぎるので「花」がないための代用とは考えにくく、特殊な役割があったものと思われます。それは、「鬼札」と関連があるのではないでしょうか。素札は図柄が鬼ですが、遊びによっては「鬼札」(カードでいうジョーカー)に使われますし、八八などでは雨の総ての札が素札に見立てる事ができます。花札は元々10月までしかなく、その他に特殊な機能を持つ札があって、いつしかそれが10月の後の月に組み込まれていった、というのは乱暴なわたしの想像です。わたしが祖母から教訓を得ていた小野道風は明治にはいってから花札に登場したようです。それ以前は雨の中を傘をすぼめて走り抜ける男であったり、浪人姿で尻端折した傘をさした後ろ姿の男であったりしました。その男は仮名手本忠臣蔵の五段目に登場する定九郎であると言われています。定九郎は山賊に身を持ち崩した浪人で、雨の夜の山崎街道で旅人を殺し金を盗んだまではいいのですが、猪に間違われて勘平に撃たれて果ててしまいます。
野蹟と後世の人にいわしめた能書家の道風とはおお違いです。モノの本には明治に入り教育思想に影響され道風にかわったとありますが、わたしは別の見方をしています。
仮名手本忠臣蔵における定九郎は元々端役だったそうですが、初代中村仲蔵が新解釈をし重要な挿話の主人公に仕立て上げたようです。講談の「中村仲蔵」では、才能のある仲蔵が人間関係の不器用さから端役の定九郎をやらされる事になりますが、それにくさらずに新しいアイデアを求め、町へ出て人を観察しようとします。突然降り出した雨に蕎麦屋で雨宿りをしていると、雨に降られた浪人がそこに飛びこんできます。その浪人に装束のヒントを得、夜具縞の広袖に頭巾という山賊風から黒羽二重に博多帯という浪人風に変え法官ひいきとアウトロー好きな江戸っ子の支持を得て無くてはならない白塗りの役に仕立て上げました。現在でも定九郎は若手のやりたがる役どころです。
道風と定九郎の仲蔵との共通点は「努力」に他なりません。ですから無関係ではないのです。だから花札をするにも努力を怠るな、という事でしょうか?少々冗談も度がすぎたようです。また、一説には斧定九郎と小野道風と名字が同じ所からすりかわったともいわれていますが、ユーモア過多の花札製作関係者においては否定できない説でしょう。仮名手本忠臣蔵の五段目、雨の山崎街道の場は6月29日であった、という事になっています。やはり冬ではなく蛙の跳ぶ時期なのです。
12月
本稿の連載をはじめて12回目となり、1年がたってしまいました。改めて時の移ろいそのものに驚かせられますが、花札がそのシステムの中に「時」の概念を持っているので致し方ないかもしれません。色々な伝統的ゲームの中で1年12ケ月を凝縮したゲームはそれほど多くはないはずですし、札の全てに図柄がありそれが春夏秋冬の意味を持つカードも非常に稀有であろうと思われます。
花札は構造的な花鳥風月の優雅さと違って、ゲームは非常に賭博性の強い物です。その2面性が花札の持つもうひとつの特徴であると同時に魅力であると思われます。よって娯楽を富国強兵の害悪と考える時の権力者から何度も禁止令が出され、弾圧を幾度となく受けました。花札の持つ優雅さは、弾圧に対する擬装から生まれたと言われる由縁がそこにあります。
12月---この月の「花」は桐です。先月11月の柳が花札最大の難関なら、12月の桐は花札最大の「ヤケクソ」かもしれません。桐は春の末に白あるいは紫の花をつけ、実は秋につけます。桐の花は季語でいえば初夏ですし、しかも落葉樹なのです。「ヤケクソ」の理由は11月に続いて連続で季節外しの「花」が設定されているからです。確かに陰暦の12月に咲く花はほとんどありません。ではなぜ12月に花が必要だったか?それは花札の誕生にもまつわる話となります。
花札の前身は「天正カルタ」です。天正カルタは16世紀末にポルトガルから伝わった「南蛮カルタ」(南蛮カルタとは固有名詞ではなく舶来カルタの総称)を摸して日本で作られたものですが、それが12枚4スーツ計48枚1組のセットだったわけです。その天正カルタの禁令の歴史の中でその代替として、あるいはバリエーションとして花札が登場するので、12枚4スーツの構造となり(実際の花札では4枚12スーツ)12月をあてはめたのでしょう。ひよっとしたら10枚4スーツの原始花札があり、それが12枚に拡張されたのかもしれません。そして、天正カルタの12を「キリ」(王=キングのカード)といったところから「桐」をもってきた、というのが通説になっています。しかも桐は菊と共に皇室の紋章で、また神紋でもありましたので、小判の刻印にも使われ、ある意味では「縁起」のいいマークだったのでしょう。ところが役札の目印である動物には困惑したようで、雌一の伝説上の動物「鳳凰」を登場させています。それは鳳凰が梧桐(ごとう=あおぎり)に宿ると伝えられているからです。
柳は素札が例外的に1枚でしたが、桐は例外的に3枚なのです。(地方札には桐に短冊札のある物もあるようです)一生に一度できるかできぬかという八八の手役の「空巣四三」(からすしそう)は柳と桐の札だけでしかできません。よってどちらにも特殊性を感じます。季節外しの事もあり11月と12月が花札とそれに関わる歴史の謎を解く鍵になるのかもしれません。
鳳凰はお祭りで担ぐ御神輿にものっています。雄を鳳、雌を凰というのだそうですが、御神輿のそれも花札の12月の20点札のそれも1羽しかいません。どちらなのでしょうか?そちらのほうが大問題であったりするわけです。
 
虹は龍の「化身」であるという

カルタは幾多の禁令をくぐりぬけてきたが、その度に変態をした。つまり、それが賭博に使われるのではなく、「公認」された遊びに用いられるかのような擬装をしたのである。使用だけではなく、製造も禁じられたので一目では賭博用具と見えない工夫は、製造業者の命運に関わる重要事だったのである。最後に残った花札にはカルタが生んできた種々の擬装の痕跡があり、それは花札の運命とそれに関わる時代を反映しているといえよう。
前稿でも述べたが「めくりカルタ」のシステムは「貝覆い」のそれを導入したものである。「貝覆い」は平安末期から貴族を中心として行われた遊びであり、鎌倉時代以降は武士の間でも行われるようになった。蛤の貝殻の二葉が決して他の貝殻と合わないことを利用したもので、貝殻をばらばらにしてそれに合う物を探す遊びである。実際に一葉の貝殻を2枚手にとって合わせてみて、それが合うようだったら得点になるのだが、後期になって合致の判定を容易にするために貝殻の内側に絵図や和歌を記すようになる。絵図ならば関連のあるふたつの絵だし、和歌なら上の句と下の句が記された。また、貝殻の一対が決して他の貝とは合わない所から貴人の嫁入り道具とされ、結果漆塗りや金装など華美なものになってゆく。江戸時代の高貴の身分にある人の花嫁道具の特徴に遊技具があり、三面といわれる「囲碁」、「将棋」、「本双六」(今でいうバックギャモン)が使われ、その他に「貝覆い」の道具である貝桶、香道具(お香を焚く道具ではあるが当て物などのゲームに使われた)が含まれた。「貝覆い」は360個の蛤が必要であったし、高価なものなので貝の内側に描かれた意匠そのものが独り歩きするようになる。それらを紙や木板に記すことによって容易に作られ、そこから「合わせ物」が始まり遊びや賭博の主流となっていくのである。
和歌の上の句と下の句を合わせる遊びは和歌の学習にもなったため色々な物がつくられ「歌カルタ」と呼ばれた。初期の百人一首も現在の読み札・取り札の構成ではなく、上の句札と下の句札の2枚構成で合った2枚を合わせるものだった。花札の古い物、あるいは地方に特有の地方札と呼ばれる物には素札(カス札)の2枚に和歌が上の旬と下の句に別れて人っていて「歌カルタ」の擬装であることがあきらかである。しかし、決して「歌カルタ」に用いられなかった証拠にすべての札に歌が入っている訳ではなく、季節あるいは風物に相応しい和歌が無い月には歌が人っていないのである。ではどのような歌が入っているかを見てみよう。
1月は「とき葉なる松のみどりも春くれば今ひとしほの色まさりけり」と古今集の春歌上の源宗干の歌が入っている。古今集で松を詠んだ歌は他にないため無条件にこの歌に落ち着いたものと思われる。地方札の金時花(鬼札のかわりに金太郎の札があるのでそう呼ばれている)の松の素札には2枚とも「ときハきハみどり」と人っていて古今集の和歌が形骸化した様子がうかがえる。
2月は「鴬の鳴音はしるき梅の花色まがえとや雪の降るらん」という歌で、まったく同じ歌は古今集や新古今集には見当たらず、続後拾遺和歌集の巻第一春歌上に紀貫之の「鴬のなくはしるきに梅花色まがへとや雪のふるらむ」という歌があり、それが出典と思われる。歌意は、紛れて見分けがつかなくなるというものだから白梅詠うったものだと思うのだが、花札には紅梅しか描かれていない。
3月は最も多く歌材に用いられている桜だが、なんと歌が記されていないのである。もっと古い札が残っていれば桜を詠んだ歌が見られたかもしれないが、現在残存しているものにはない。少々不自然ではある。
4月は「わがやどの池の藤波さきにけり山時鳥いつかきなかむ」で、古今集巻第三夏歌の冒頭にある歌である。読み人知らずといわれているが、一説には柿本人麿ともいわれている。時鳥は良く歌材になっているが、この歌は藤と合わせて詠まれているため格好の歌であったはずである。
5月はあやめという人もあるが、本来は菖蒲である。しかし、詠まれている歌は「かきつばた」なのである。有名な在原業平の「唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」で、古今集巻第九にある。
6月の牡丹には歌がない。もともと牡丹を詠った和歌は稀で、万葉集にも古今集にも新古今集にも見られない。中国原産であるためか姿形が派手なためか不明だが、元禄俳句にも見当たらない。牡丹の意匠そのものは家紋などに使われているので日本に渡来したのが最近であるとは思われないが。
7月の萩は秋の七草のひとつでとても親しまれ、多くの歌にも詠まれているにもかかわらす、花札に歌は記されていない。これも不自然である。
8月は「行くすゑは空もひとつのむさし野に草の原より出づる月かげ」と、新古今集巻第四秋歌上にあるこの歌集の代表的選者でもある藤原良経の歌である。花札の古い異名に「むさしの」があるが、この名はこの歌からきたのかもしれない。百人一首カルタを賭博用に改造したものに「むべ山」(1700年代中頃以降に登場)というカルタがある。読み札と取り札があり、取り札には下の句が記されていた。「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ」の文屋康秀の札が高得点のため「むべ山」と呼ばれるようになったが、花札より古いのでその呼び名が「むさしの」の伏線になったかもしれない(「むべ山」は配られた自分の札を読み札によって伏せてゆき、速く伏せ終わった者が勝つという遊びで、札の並べ方で得点が異なった。)よって素札に読まれた歌は案外親しまれていたと思われる。
9月の菊も歌がない。もともと菊が中国から渡来したのが平安時代初期で、万葉集にも菊を詠んだ歌はないが、古今集・新古今集にはいくつかあるので説明がつかない。
10月は「下紅葉かつ散る山の夕時雨濡れてやひとり鹿の鳴くらむ」と、新古今集巻第五秋歌下の冒頭にあり選者である藤原家隆の歌である。
11月と12月には歌は無い。11月は例の定九郎であるから相応しい歌などあるはずもないが、12月の桐の歌はいくつかあるが秋の歌で詠まれているので季節に合わないため採用されなかったのかもしれない。
以上花札に描かれた和歌について見たが、この擬装で始まった行為が花札に美しさを与えているのである。花札を収集するに足る美術品に高めたのは、その存在を秘匿するための擬装であったという、他に例を見ない歴史がここにはあるのである。
花札の変態の特徴に12スーツ各4枚合計48枚という構成がある。南蛮カルタからの模倣の歴史のなかで、本来の4スーツに手を加えたのは「うんすんカルタ」の5スーツぐらいのもので(「うんすんカルタ」の後期バリエーションに「すんくんカルタ」というのがあり、「うんすんカルタ」より1スーツ多く6スーツ97枚の物があったが、どれほど流通したかは不明)、それを12スーツにする発想は数多くの物を花札にもたらした。前述の和歌の配置も12スーツであったから容易であったと思われる。つまりバリエーションはスーツ単位にされることがゲームシステムに悪影響を及ぼさないため、12スーツという構造はその可能性を増大させていると言える。また、その他の色々な遊技具からの影響を受け入れやすくした。その結果、本来花札が持つ機能美がより昇華するのである。
1月の光札の「松に丹頂鶴に旭」の意匠は、江戸時代の蒔絵などの工芸品によく見られるが、1700年代後期に作られた「花鳥合わせカルタ」に同じものがあり、花札より先にできたと思われるので影響があっただろうことは想像がつく。武家や公家の平安の教育用に薬物の名や形などを覚えるために種々のカルタがつくられ、前述した「歌カルタ」以外に職業や野菜や調度品などの「合わせカルタ」もあった。「花鳥合わせカルタ」が教育用に作られたとするなら、「松に鶴」の意匠はそれへの擬装であったかもしれないが1スーツ4枚編成であるため賭博に使われたのではないかという研究家の村井省三氏の意見もあり断言することはできない。また、南蛮カルタのスーツのイス(剣)の1をピンと言い、ものごとの初めなどを表す言葉にもなったので、1月の象徴に剣の形を留めている松をもってきたのかもしれない。
鶴だけに限っていえば「道才カルタ」(「むへ山」とほぼ同時期に登場したもの)にも同様の意匠が見られる。「道才カルタ」は「たとえ五十句カルタ」の後を受け継いてできたもので、いろはカルタの原形となる物である。おもに町人の間で文字を覚えたり、ことわざや教訓を覚えるのに使用されたのが「たとえカルタ」の類であり、ことわざを2つに分け読み札と取り札とした。文字が読めない人のために、あるいは文字を覚えるためにそのことわざに相応しい絵を描いたが、「道才カルタ」はそれを進化?させ取り札を絵だけにしたものである。鶴の読み札は「鶴のひとこえ」となっている。「たとえカルタ」も、その進化形の「道才カルタ」も本来識字教育と教養育成が目的であったので(実は「道才カルタ」は少々怪しい)禁制品にはなりにくく、擬装の対象としたのかもしれない。しかし、後に「道才カルタ」は賭博に使われるようになり禁令の中に含まれるようになったので断言はできない(「道才カルタ」は先に述べた「むべ山」と共通点がある。「是に懲りよ道才坊」という格言の札が高得点のためそう坪ばれた。ちなみにこの格言の意味は不明であって、語呂合わせではないかと言われている)。
2月の種札の「梅に鴬」の意匠は、鴬が青柳の糸で梅の花を縫って笠をつくる、という擬人的な言い伝えが元になっている。1月2月3月でできる役を菅原といが、これは歌舞伎の「菅原伝授手習鏡」からきている。1月の光札、2月の種札、3月の光札でできる役を「表菅原」、それらの短冊札でできる役を「裏菅原」という。「裏菅原」は現在の赤短という役だが、名称を省略して「うらす」と今でも言われている。「めくりカルタ」でいう「下も三」という役がそれである。現在多く遊ばれている「ばかっ花」や「八八」に「表菅原」の役はなく、関西で多く遊ばれている「むし」でいうところの「三光」「八百間」(あるいは三百間」もしくは「チャンガ」)の「大三」(おおざん)、「八」や「松桐坊主」の「一二三」などの出来役が「表菅原」と同じである。このことは「梅に鴬」の札に特殊な役割があったことを想像させるが、それは「めくりカルタ」のスーツのひとつのオウルが本来「スベタ」といって無点でありながら、その2が「太鼓の2」(オウルの形が太鼓に見えるための呼び名)といって特例的に最高点が与えられていることに関係があるかも知れない。また、先に説明した「よみカルタ」系の地方札の2の多くが金銀で装飾されていたり、ちょっと異なった意匠になっていたりすることも関係しているのかもしれない。それに花札でする「よみカルタ」系の「いすり」「ポカ」「ひよこ」などのゲームではこの札が鬼札になっていてそのこととも関係があるのだろう。
3月の桜の短冊に書かれている「みよしの」は、もちろん奈良の吉野地方の美称だが、1月と2月の短冊に書かれている「あかよろし」よりかなり古い時代から入っている。これは、前述の「道才カルタ」に見られる意匠である。その中に読み札の「花はみよしの」に対応する取り札が花札の桜の短冊札とほぼ同じ図柄となっている。
4月の藤と5月の菖蒲はまさに「和歌カルタ」であり、教養を育むものに見える。藤の種札には時鳥が描かれている。時鳥は夏の訪れを鳴き声で告げる鳥といわれていて、夜に鳴くのだが和歌などをよくする人たちはそれを聞きに出かけたという。藤原実定の歌に「時鳥鳴きつるかたをながむればただありあけの月ぞ残れる」とあるが、種札を見ると時鳥の背後に確かに暁が描かれているものがある。5月の種札を見ると杜若(菖蒲)と八ツ橋が描かれているが、これは伊勢物語の一節を出典としている。主人公が旅の途中の三河の八橋という所で、杜若の見事に咲く様を目の当たりにし旅の心を歌にしたのだが、川にかかる八ヅ橋のことも記している。和歌は前述したので繰返さないが音の頭をとると「かきつばた」となるように作られている。5月の種札はまさしくその光景である。歌を読み札にして絵札を取り札にすれば雅びな「和歌カルタ」になるのだが、そうは簡単に推理を成り立たせない所が花札の化身たる由縁であって、素札に読まれている4月の時鳥の歌は実定の歌ではなく別の歌なのである。
7月の種札の猪も「道才カルタ」にある。読み札は「向かうシシに矢立たず」となっている。猪を和歌の中に探すのは歌材になりにくいのであろうか非常に困難である。よって萩の歌が多くあるにもかかわらず素札に読まれていないのは猪のせいかもしれない。役札を作らんがために楮を「道才カルタ」から借用し、配置しやすい萩に描いたと想像するのはたくましすぎるであろうか。文様で萩と対になるのはほとんどが鹿で猪は冷遇されていると言えるが、庶民にとっては食肉の方で「ぼたん」「山くじら」と称して親しみはあったはずである。江戸川柳に「五段目を蛇の目で包む麹町」とある。麹町とは江戸の平河町にあった「山奥屋」という獣肉店のことで単に麹町というだけで通ったほど有名であった。蛇の目とは油紙のことでこれで肉を包んだ。五段目というのは前述した仮名手本忠臣蔵の、山崎街道の場のことである。おかるの父から金を盗んだ定九郎は猪に間違われて勘平に撃たれ果ててしまうが、そこから猪のことを五段目といったのである。それはおおっびらに肉食ができなかったことからできた隠語でもある。
「山奥屋」の記録は明昭8年(1771)のものにみられるので、中村仲蔵が定九郎で大当たりをとった時期と同じであることが分かり、「めくりカルタ」にも影響を与えたと考えられなくもないが、「道才カルタ」からの借用と考えた方が自然かもしれない。8月の満月に薄の意匠は「花鳥合わせカルタ」にある。「ばかっ花」の出来役にこの札と「菊に盃」(10月の種札)の札でできる、「のみ」あるいは「月見酒」と呼ばれる役があり、これは江戸中頃の廓の風習からきている。8月14日から16日に「月見盃」と称して馴染みに盃を贈った。
9月の菊と盃の意匠は重陽の節供といわれるのは1月7日の人日(じんじつ)、3月3日上巳(じょうし)、5月5日の端午、7月7日の七夕、それに9月9日の重陽である。奇数の陽数が重なることから重陽、重九といい、菊の節供ともいわれている。菊の節供には観菊をし、盃に菊の花弁を浮かべて酒を飲み長命を願う風習があった。これは中国の故事に因っている。皆、中国の南陽の甘谷の上流に大菊があり、その花から滋液が落ちそれを飲んでいた下流の者が長生きした、という「菊水」の故事である。これは花札に教養的側面を持たせたのであろうか、風習が1枚の札に見事に描かれている。そして、札にはちゃんと川が描かれている場合が多い。
10月の種札の鹿は格好の和歌の対象で、数々の歌に詠み込まれている。鹿は雌雄の結び付きが強く、独りの鹿に別離や悲恋の心を託したのだ。よって、この月の札はまさに新古今カルタといいたい所だが、ほとんど同じ意匠が「花鳥合わせカルタ」にある。
11月の光札の定九郎については先の述べたが、明治以降にそれに代わったのが現在では、一般的となっている小野道風である。何故、定九郎が小野道風に代わったかはひとつの謎であるが、明治に入り教育思想に影響され道風に代わったとも言われている。しかし、花札が解禁になったのは明治19年のことなので擬装の必要性はなかったように思う。単にイメージの良化のためかもしれない。小野道風は野蹟と後世の人にいわしめた能書家で、蛙が何度も柳に跳びつこうとしているのを見て、勉学に発奮したという逸話はあまりにも有名である。確かに柳に相応しい人物、逸話である。定九郎を札に登場させるために雨を降らし、その雨に似合いの柳を配し、後に最も柳に相応しい人物に入れ代わったという図式が思い浮かぶが、身を持ち崩して山賊になり下がり猪と間違われて撃たれ果ててしまう人物と歴史上の偉大な能書家を入れ替えてしまうのだから、ものすごいエネルギーである。
また、素札は雷神と稲妻の意匠であるが、それが「よみカルタ」の鬼札から来たものとするなら「鬼」=「雨」の概念がスーツを代表することとなって、実は雨が先で定九郎は雨に配された「風物」だったと考えることができる。現に「八八」などのゲームでは雨札をすべて素札にみなすことができ、「よみカルタ」でいう所の鬼札あるいは化け札としての性格が強いのである。
また、定九郎の姓が斧(おの)なので音が同じ所から小野道風に入れ替わったという説もありなかなかおもしろい。しかし、11月の札であるにもかかわらず蛙が跳んでいるのである。蛙を見る小野道風よりは、仮名手本忠臣蔵の山崎街道の場の方が季節としては合っている。この月は鬼が棲む如く興味の尽きない月である。
12月には中国の想像上の動物「鳳風」が登場する。鳳風は前が麒麟、後ろが鹿、首は蛇、顎は燕、口ばしは鶏、背は亀、雄は魚で羽に5色の模様がある鳥となっている。そして、梧桐(ごとう=あおぎりのこと)に宿る所から桐に配されたと思われる。鳳鳳には天下に正しい道が行われていると現われるという故事がある。正しく賭博をしろという意味では多分なく、金を賭けるなという意味かもしれないが、皮肉の効いたユーモアではある。地方札には「金銭無用」と書かれた物がありそれと同じ発想がもしれない。つまり、製造業者の保身で賭博用に作っているのではなく、賭博に使う方が悪いと主張しているのである。実際にはそれほどの意味はないと思われる。
花札は以上見てきたように札の1枚1枚に意味やいわれがあり、出典や擬装の意図がたどれる興味尽きない遊技具である。意外と「道才カルタ」の影響が強いことに気がつくし、単純に花鳥風月を配した優雅なものではないことにも気がつく。一般民衆の因習や願望さえ窺い知ることができる歴史の鏡であるかもしれない。花札はそれらの化身であり、今後も変態を続けるのであろうか?

日本語の虫(むし)の概念は時代や個人による差もあるが、今日では主に水中以外の節足動物を指し、広義には獣・鳥・魚類以外の小動物全般を指す。
「むし」の範疇
節足動物としては、昆虫、クモ(クモ綱)、ムカデ(多足類)、ダンゴムシ(甲殻類)などが「むし」である。また昆虫の幼虫であるイモムシやウジムシも含む。これらは殆どの人が「むし」と考える。エビ・カニは節足動物だが区別され、「むし」とは普通呼ばない。
ミミズなどのいわゆる蠕虫も含む事がある。カタツムリも別名「デンデンムシ」と呼ばれるなど、陸貝は虫の範疇に入ることもある。ヘビも現在ではやや稀だが「長虫」と呼ばれる事がある。分類学において、小さな動物で「ムシ」の名を与えられているものは多い。たとえば
 扁形動物門のウズムシ
 紐形動物門のヒモムシ
 星口動物門のホシムシ
 軟体動物のフナクイムシ
単細胞生物の運動性のあるもの、つまり原生動物でもゾウリムシ・ラッパムシなどがある。
いずれにしても、節足動物の陸生を主体とする分類群(多足亜門、六脚亜門、鋏角亜門の蛛形綱、甲殻類のワラジムシ亜目)が中心となる。
漢字
虫という漢字の由来は、ヘビをかたどった象形文字で、本来はヘビ、特にマムシに代表される毒を持ったヘビを指した。読みは「キ」であって、「蟲」とは明確に異なる文字であった。
蟲という漢字は、元は「生物全般」を示す文字であり、こちらが本来「チュウ」と読む文字である。古文書においては「羽蟲」(鳥)・「毛蟲」(獣)・「鱗蟲」(魚および爬虫類)・「介蟲」(カメ、甲殻類および貝類)・「裸蟲」(ヒト)などという表現が見られる。しかし、かなり早い時期から画数の多い「蟲」の略字として「虫」が使われるようになり、本来別字源の「虫」と混用される過程で「蟲」本来の生物全般を指す意味合いは失われていき、発音ももっぱら「チュウ」とされるようになり、意味合いも本来の「虫」と混化してヘビ類ないしそれよりも小さい小動物に対して用いる文字へと変化していった。貝の種類を表す漢字には虫偏のものが多い(「蛤」など)。
架空の神獣である「竜(龍)」に関しても虫偏を用いる漢字が散見される。「蛟」(ミズチ、水中に住まうとされる竜、蛟竜(こうりゅう)、水霊(みずち)とも呼ばれる)、蜃(シン)(同じく水中に住まうとされる竜、「蜃気楼」は「蜃」の吐く息が昇華してできる現象だと考えられていた)、虹(コウ、にじ、「虹」は天に舞う竜の化身だと考えられていた、虹蛇(こうだ、にじへび)という表現も用いられる)などといった標記が代表的なものである。ただ、竜(龍)に関する文字については、架空の「生物」として「蟲」の意を付与した虫偏を用いているのか、「ヘビの神獣化」として「虫」の意を付与した虫偏を用いているのかには賛否が分かれる。
学術用語の爬虫類は、種の多い代表的な爬虫類であるトカゲ類をイメージして、「爬蟲類」(這い回る生き物)として命名されたものであるという説と、「爬虫類」(足があり地をつかんで這うヘビ)として命名されたという説がある。前者は「蟲」の本来の意味を用いた説であり、後者は「虫」の本来の意味を用いた説である。
近年では主にサブカルチャー分野を中心に、「蟲」という漢字を、現代では使用頻度が少なくなっていることや、その文字の持つ画数の多い複雑なイメージから、かえって新鮮なものとして受け止められ、本来の漢字「蟲」の持つ生物全般の意味合いではなく、一部限定的な生物ないし特殊な存在として、漫画『風の谷のナウシカ』や『蟲師』の作品内に代表されるように、「異形な存在」を表現することに使われることも散見される。  
 
影とは闇であり「謎」の部分である

かって花札は非常に流行したものだった。花札の前身である種々のカルタ類も含めて何回も禁令が出されたし、それでいて流行が下火になるというようなことは無かった。時の為政者は労働者や軍人の娯楽を生産力や戦闘力の低下を理由に好まず、数々の禁令の対象とした。
歴史上でも、古くは1195年に源頼朝が賭博全般の禁令を出しているし、禁令の中にカルタという文字が初めて登場するのは1597年のことである。また、江戸時代には享保や寛政などの改革案が出される度に禁令を伴った。花札および花合わせが禁令の中に字句として登場するのは1831年(天保2年)である。禁令が何度も出されたことは、それらがあらゆる階層で親しまれていたという証明であろう。言い換えれば花札の流行は権力者への一般民衆のエネルギーの発露であったと言っても過言ではない。
また、特に花札による「花合わせ」の遊び方が一般受けし、家庭の中に入り込み明治新政府の禁令解除によって爆発的に全国で流行した。そのことは新政府が花札に理解があったり、国民に対する温情があった訳ではなく、鹿鳴館時代の外国力ブレの風潮の中でトランプ(カード)が認められたことに対応していたにすぎない。その証拠に骨牌(カルタ)税なる悪法を作り販売価格とほぼ同額の税金を科するのである。これによって花札が高価になり零細製造業者は激減し、もともと本場であった京都以外には見られなくなってしまったという。しかし、零細製造業者が壊滅しただけで民衆の悪癖を駆逐しようとした新政府の目論見は効果がなかったらしい。あるいは単に税収入を意図したものだとしたら、それなりの効果はあったのだろう。
江戸時代の厳しい禁令の中でも滅びることを知らなかった花札が、何故これほどに衰退してしまったのか?これは大いなる謎として残っている。現在トランプのある家庭と花札のある家庭を比較すると、トランプのある家庭の方が多い。また、子供を交えて 「ばばぬき」をするように、子供を交えて花札をしている家庭は稀有である。
それには、花札の持つ良からぬイメージが影響しているようだ。現在でもある程度の年齢に達している人々は「花札=悪のイメージ」を持ち、それは麻雀・パチンコを凌駕している。また、新聞の賭博法違反で検挙の報道は必ず「花札賭博」である。「手本引き」(1から6までの数を当てる遊び、花札は使用しない)をやっていても、コイコイの「あとさき」(花札を用いる「おいちょかぶ」系統の遊び、ある数に近ければ良い)をやっていても、「バッタマキ」(花札を使いやはり「おいちょかぶ」系統の遊びだが、丁半ばくちの変形)をやっていても、すべて「花札賭博」なのである。これらの偏見から堅気の家から花札が消えていったようだ。
その理由は明治政府の富国強兵政策に求められるかもしれない。江戸時代の禁令は上部からの圧力であったが、新政府は修身を中心とした精神主義的教育によって家庭内の享楽を罪悪視する環境を作っていった。それは大正、昭和という時代に連続し「愛国いろはカルタ」のような「教育的」かるたを見出すに致る。致命的な出来事は1940年(昭和15年)に出された「奢侈品製造販売制限規則」であり、戦意高揚に効果のない遊興道具は事実上消滅することになる。後に残ったのは好戦的な一部のスポーツと洗脳にすり変えられた「教育的遊技具」だった。ファシズムと遊興は相容れない間柄にあるのだ。
花札はまだ歴史の厳しい洗礼から回復できずにいるのだろうか?
花札は1月から12月までの季節に花をあしらった海外には例を見ない美しく、優雅なカードである。また、礼の高低を示す鳥・獣・月の配置も見事で、まさに花鳥風月を具現しているといえる。
1月は松、2月は梅、3月は桜、4月は藤、5月は菖蒲、6月は牡丹、7月は萩、8月は薄、9月は菊、10月は紅葉、と続くが11月が柳で12月が桐であるところが不思議だ。なぜなら柳も桐も春のものなのである。
柳が芽吹くのは春であるし、種札(10点札)に描かれている燕は紛れもなく春を告げる鳥である。素札(カス札)に描かれている雷は初夏の風物であるし、光札(20点札)に小野道風と共に描かれている蛙も初夏のものである。桐は晩春に白や紫の花をつける植物で、花札の桐はすべて花が咲いているのである。これらのことから11月と12月は花札の中で異彩を放っている。また、柳は素札が1枚で桐は素札が3枚と、他の月に共通な素札を2枚の構成とは異なっている。その謎を解く鍵は花札の出生の秘密にあるかもしれない。
花札の前身はもちろんカルタであるが、そのカルタ自体はポルトガルから伝わったものである。それは日本では南蛮カルタと呼ばれた物であるが、南蛮船が渡航した16世紀後半に渡来したと考えられている。南蛮カルタの原形は14世紀にタロットカードを母体としてヨーロッパに登場したプレイングカードである。南蛮カルタが現存していないので札の確かな構成は分からないが、それを国産化したものがありそれから推測することはできる。日本で模倣した物の初期は「うんすんカルタ」と「天正カルタ」であろう。
「うんすんカルタ」は5スーツ各15枚合計75枚の規模の大きなものだが、この構成は南蛮カルタにスーツを加え、また数枚も増加させたものと思われる。ほとんど南蛮カルタと同様であろうと思われるのが「天正カルタ」あるいは「初期型うんすんカルタ」で4スーツ各12枚合計48枚の構成である。スーツはイス(剣)、ハウ(こん棒)、コップ(酒杯)、オウル(貨幣)であり、これは現今のカードのスペード、クラブ、ハート、ダイヤモンドに対応している。「うんすんカルタ」ではグル(巴紋)のスーツが加わることとなる。1702年に博徒の大掛かりな一斉検挙があって「大正カルタ」が消え「うんすんカルタ」が登場する。寛政の改革(1789)まで「うんすんカルタ」は禁令の対象とならない公認の存在であった。
「よみ」という遊び方に代わり「めくり」という遊び方が主流になって「めくりカルタ」が爆発的人気を獲得した。「めくりカルタ」は「天正カルタ」と同じ物と考えられている。その「めくりカルタ」の流行で「うんすんカルタ」が衰退した。「よみ」という遊びは3人で行い、1枚の場札を合札にしてそれに関係のある(例えば続き数の)手札を捨てていき手札をなくすことが目的である。現在の花札にもその遊びの痕跡が「いすり」「ポカ」「ひよこ」などに見られる(現代に残っているこれらの「よみ」系のゲームは古来のものと違って2人用で、オールマイティである化け札も多様で、手役などもあり複雑なゲームになっている。先に決められた点をあげたほうが勝者となる)。しかし、この遊びは単純である上にすべての札を用いない(36枚にオールマイティの役目をする鬼札を加え37枚)、スーツの概念が無い、などの理由から「めくりカルタ」にとって代われてしまう。「めくりカルタ」の遊び方はまさしく現在の花札と同じシステムである。このシステムの発案者は定かではないが、「貝覆い」を下敷きにしているとはいえ大発明と言えるものであった。
「天正カルタ」および「めくりカルタ」が御禁制品となり地下に潜行した後に花札がその代用品として登場したと思って誤りはないであろう。それは寛政の改革の後であろうから1800年代の初頭から中頃にかけてのことと思われる。「天正カルタ」1スーツ12枚を数字を使わずに表現したのが花札である。数字のかわりに12ヵ月を表す風物に置き換えたのだが、冬である11月と12月がむずかしい。冬であり花が少ないからである。
「天正カルタ」には絵札が4種あり、1が「あざ」、10が「釈迦十」、11が「馬」、12が「きり」と呼ばれている。「あざ」は元来龍の絵でそれが誇張され龍の横腹だけが残り、それがあざのように見えたためそう呼ばれた。「釈迦十」は南蛮カルタでいうところの宣教師で、それが日本風になり後光がさし釈迦になぞらえられた。「馬」は騎馬兵士で現代のカードのジャックに対応する。「きり」はキングであったと考えられるが、最後の札なので「きり」と呼ばれたと伝えられている(これっきり、うちきり、などの「きり」である)。花札の12月の桐は「天正カルタ」の「きり」と同音ということからもってきたものであろう。また、桐は菊と並んで皇室の紋章であり神紋であるのでキングの札に相応しいのだが、これは偶然かもしれない。
「天正カルタ」の花札への影響はスーツにも見られ、ハウは青、イスは赤で彩色されているが、これは花札の短冊として残ったと思われる。出来役にもそれは言えて、花札の赤短に相当する役の「赤蔵」という役があり、赤札(イス)の7・8・9を揃えるのである。赤札(イス)の2が海老のヒゲに似ていることから「海老二」と呼ばれ、その札でできる役を「海老蔵」といった。その上役あるいは類似役に相当するものに「団十郎」がある。もちろん、歌舞伎役者初代団十郎の息子が海老蔵と名乗ったからだが、「海老蔵」の赤2が青2に代わったものが「団十郎」である。そのバリエーションに「仲蔵」という出来役があり、それが花札の11月の柳に関係あるというのが筆者の推理である(参考までに説明しておくと、現在でも行われている「八」という花札ゲームの出来役に「仲蔵」というのがある。7月8月9月の上札でできる役で、まったく同じである)。
「仲蔵」という出来役は花札の青短に相当するもので、青札の7・8・9を揃えるものである。先の「赤蔵」の例にならうなら「青蔵」になる訳だが、海老蔵・団十郎のように歌舞伎役者の名前となっている。初代市川団十郎は荒事形式の完成で人気をとり、1704年に没するが確かに「天正カルタ」の登場の変遷の時期に合致している。その当時の仲蔵といえば、初代中村仲蔵をおいて他に無い。仲蔵は1736年生まれで1790年に没してるので「めくりカルタ」の流行時期である明和年間(1764-1772)に合う。仲蔵は明和3年に仮名手本忠臣蔵の定九郎の役で大当たりをとった役者であるが、定九郎の解釈を変え現在に続く定九郎の人物像を形成した人でもある。
定九郎は現在でも若手歌舞伎役者なら演じたい役柄の筆頭であり、また演じるにはそれなりの名跡が必要となる。
定九郎は仮名手本忠臣蔵の五段日の雨の夜の山崎街道の場に登場する。出初は、おかるの父から金を奪う山賊にすぎなかったのを、仲蔵が新解釈を加え、重要な挿話の主人公に仕立てあげたといわれている。それにもエピソードがある。若く才能のある仲歳は人間関係の不器用さから端役の定九郎をやらされることになるが、それに腐らずアイデアを求め町へ出て人を観察しようとする。突然降りだした雨に蕎麦屋で雨宿りをしていると、雨に降られた浪人がそこに飛込んで来る。その浪人の風体に装束のヒントを得て、従来夜具縞の広袖に頭巾という山賊風から黒羽二重に博多帯という浪人風に定九郎の衣装を変えた。それは仲蔵の力量にもよるが、判官びいきとアウトロー好きの江戸っ子の支持を得て、仮名手本忠臣蔵に無くてはならない白塗りの役の登場となったのである。この役作りのエピソードが講談や落語になって語り継がれるほど人気があった。
花札の11月は小野道風であるが、それは明治以降に登場した。その前は雨の中の浪人で、定九郎であると言われている。つまり、「めくりカルタ」の出来役名が札の意匠に残ったと考えられるのである。仮名手本忠臣蔵の山崎街道の場は6月29日ということになっているのであきらかな季節ハズシに他ならないが、「めくりカルタ」の痕跡を留めることに愉快さを求めたのではないだろうか。
話を元に戻して「よみカルタ」はその後どうなったのであろうか?スーツの概念が不必要であるため、もっと簡略化され「キンコ札」を経て「カブ札」になってゆく。1から10までが各4枚合計40枚で、おいちょかぶ系の遊びに用いられた。また、各地方で作られ使われた特有の地方にも残っていて「九度山」(山陰地方)、「人の吉」(紀州地方)「目札」(四国地方)「大二」(九州地方)「黒札」(津軽地方)「黒馬」(静岡地方)「小松」(北陸地方)などがあって、いずれも「よみカルタ」の姿を留めているカルタである。また、「よみカルタ」に使われていただろうことは実像の鬼が描かれている鬼札が1枚含まれているものが多いことからも分かる。それらの遊びは今ではほとんど廃れかろうじてカブ系統のゲームだけが残るが、カブ札などは「手本引き」などの本格的賭博で生き残っている(実際に「手本引き」でカブ札が用いられることはなく1から6までの専用張札が用いられる)。
 

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