日本史概観1 神代から平安

神話から歴史石器時代歴史のはじまり謎の世紀統一王朝古代国家古代国家の成立奈良の都平安京王朝貴族
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年譜 / 原始弥生大和奈良平安
 

雑学の世界・補考   

神話から歴史へ

日本の神話
日本神話を語るのは6世紀に成立した古事記・日本書紀の2冊の本であるが、これらは異なる経緯から編纂されており、内容は基本的に異なっている。しかし一方で、帝紀・旧辞という2冊の本から双方の書が成立した点では共通している。帝紀は歴代天皇の系図、旧辞は天皇家にまつわる物語が記された本であるが、記紀の比較の結果としてこの帝紀が初代・神武から33代推古まで、旧辞が神代と初代・神武、10代崇神から23代顕宗までという 。
豊葦原瑞穂国
諸国の神話が天地創造によって始まるように、日本神話もそこに始まっている。だが、これにはいろいろな違いがある。古事記では天の中枢の神の存在を描くが、これは道教の影響を強く受けていると言える。それは、推古朝以降の話であり、そうである以上古事記の神話もそれ以降に成立したものであるだろう。またカオスより天地発生したという話も、道鏡にそっくりであるが、これは旧辞にもある話であって日本古来のものと言える。これは、東南アジアの影響を強く受けているという。大地発生の神話についても、陰陽五行の影響受けながらも、民間による話を元にしていると考えられる。この神話は南太平洋の神話の影響を元に、低湿地での農耕を行う日本で形成されたと言え、ポリネシアの神話区分では"進化型"に属す。また国生み神話は、国家の範囲を明確化したという点で、非常に政治的な物と言えるが、これも南太平洋方面の神話の影響は拭えず、こちらは"創造型"といえる。この二つの神話が存在する点は、ポリネシアのことを鑑みるに、決して偶然とは言えないのである。その次にくる黄泉国神話は、日本固有の生死観をよく表すものであるが、これもまた南太平洋の神話に近しいものがある。ここに出る黄泉国には厳しさが欠けるが、これは却って日本の思想をよく表しているといえるだろう。
日の司祭者
日本神話の主神ともいえる天照大神は、皇祖神と日の神という二つの側面を持つ。元来、天照大神はどうやら日を祀る巫女的側面が強く、そこから日の神に昇華したと考えられる。そして大和朝廷が太陽信仰を独占してゆく過程において、皇祖神という側面が習合されたのだろう。そしてもう一方の主神ともいえるスサノオは、大和朝廷の政治的対立者として描かれている。また彼の犯した罪を通して、律導入以前の日本の罪について考察することも可能だ。則ち、灌漑施設の破壊・土地所有・収益権の侵害・公共宗教行事妨害を天津罪とし、殺人・傷害・近親相姦・呪詛などを国津罪とした。この区分はそれぞれ公共への罪、個人の罪と区分することが可能である。古代人は罪を物質的な物と捉え、それゆえ制裁のみならず災いを祓うことが必要だと考えていたようだ。天岩戸神話について、これを日食神話と捉える傾向もあるが、鎮魂祭として捉える説もある。これは、冬至に天皇の魂を呼び返す儀式が行われていたことをその根拠にする。天皇の魂を呼び返すことで、日の神でもある祖霊神を奮い立たせ、天皇の権力を強大化するのである。
国づくりの英雄たち
スサノオ追放以降、"出雲神話"と呼ばれる神話が始まる。この神話は必ずしも出雲地方の神話ではないことが推測される点で"出雲神話"の名は正しくなかろうが、しかしこれまでの神話と異質な点を持つのも事実である。これまでの高天原神話が天上的であるのに対し、出雲神話は地上的・人間的であり、生活的側面が強い。それゆえ、より多く古代人の信仰が含まれていると考えられるだろう。ヤマタノオロチ神話は、西はヨーロッパから東アジアまで広がる、ペルセウス・アンドロメダ型神話であるが、その中でも中国南部の神話と近いということがわかっている。大国主の神話は、旧辞には含まれておらず、後に出雲人の神話を古事記へ取り入れたと考えられる。これは壬申の乱で出雲臣一族が天武天皇に味方したことも大きいようである。スサノオによって大国主が数々の試練を与えられ、それを乗り越えて娘と結婚する説話は、東南アジアに多い服役婚――則ち、結婚前に婿が一定期間働くという習俗を表すもの、また成年式の習俗を表している、とも言う。ともあれ、この逸話は成年や婿となる以上に、出雲の王となるための試練であることを表している。つまり、この試練を乗り越えて王となるという逸話は、出雲系独特の王者観を示している。
天孫降臨
この大国主とて、敗北者であることは間違いない。それゆえ、高天原に国を譲ることになる。この神話は出雲が大和に下ったことが政治的に重要であったということを示している。この後の天孫降臨の神話は、天孫が高い峰の頂きに降臨したとしている。この神話は朝鮮から内陸アジアに分布する神話と相関関係がある。だが一方で、降りてきた神が穀霊的であるといえる点で、南方的とも言える。これはおそらく、北方的な物と南方的な物が南朝鮮で合体し、日本に入った物であると推測できる。コノハナノサクヤヒメの伝説は、非常に南方の性質が強い。またそれに続いて海幸山幸の話がある。これも南方の説話であるが、この二つの説話は隼人の説話を、神代史に組み込んだものと考えられる。記紀神話はあくまで政治的意図を多分に含んだものである一方、必ずしもその全てが述者による創作とはいえず、土台はあくまで大和朝廷によって伝えられたものであるということができる。そしてその基礎は、東南アジア的農耕文化を基本とした上で、北方アジアの遊牧民的要素が加わり、さらに中国文化の影響も受けているのである。
 
石器時代

 

旧石器時代の発見
世界的には、旧石器時代は氷河の前進した時代として知られるが、日本に於いては赤土の堆積した時代と捉える事ができる。その赤土の下から石器が発掘されないため、戦前期には日本に旧石器時代は存在しないと考えられていた。しかし、岩宿遺跡の発見を境に旧石器時代の遺跡発見が相次ぎ、また人骨も発見されるようになった。同時にローム層の区分もなされるようになり、旧石器時代の文化類型も行われるようになっている。当時の日本は、大陸と陸続きであり、象等の大型動物も流入していた。
狩猟・漁撈の時代
縄文時代については、古く明治時代のエドワード=モースによって大森貝塚が発見されたことによって研究が始まった。それ以降、土器の編年などを通じて文化が次第に明らかになり、これまで縄文時代の始まりは5000年前ではないかと言われていたが、近頃C14による年代測定が発達し、それによって縄文時代が約9000年前に始まったという説が提示され、これが妥当ではないかという結果が次々と提出されている。 縄文時代は、海進が起こっていたが、中期ごろより次第に海は退き始め、それゆえ次第に貝塚も海沿いへ動いていくことになる。縄文人は狩猟採集によって生活し、土器による煮炊きを行っていた。また竪穴住居を築いて集落もつくり、これは時代が進むごとに次第の置きな物へと代わっているまた、縄文時代の間でも幾らかの農業がおこなわれていたと考えられる。
農業のはじまり
弥生時代になると農耕が始まる。これには中国や朝鮮よりの渡来人が強い影響を与えたと言われるが、担い手は縄文人の子孫と考えるべきであろう。つまり、中国・朝鮮からの渡来人たちが農耕の端緒を開いたとはいえ、殆どが縄文人の手によって行われた、ということである。遺跡から中国の銅鏡が発見されることで、絶対年代の特定が行いやすく、土器の編年においても絶対年代で行われつつある。農耕は北九州で始まるが弥生後期には青森県まで北上し、耕作の急速な普及を物語る。遺跡でもコメの栽培の証拠は大量に出る一方、木の実も大量に出土しており、これらも食事のレパートリーからは脱していなかった。また青銅器や鉄器の普及もこの時期であり、祭器や農耕具に利用された。それゆえ、中期以降は石器は発見されなくなっている。後期に入ると大規模集落がつぎつぎと出来上がることになるが、このことがやがて国家の形成に繋がってゆく。
 
歴史のはじまり

 

日本についての文字記録は、初め中国の史書によってなされた。この記録と考古学資料を合せることで、古代の日本というものが見えてくることになる。
北九州の国々
「後漢書」には奴国の王に印綬を授けたという記述が存在しており、後に志賀島からこの記述に符合する「漢委奴国王」印が発見された。この印は漢代の印制から外れるという点で、贋物説もあったが、現在では本物ではないかと言う説が主流となっている。これらの国々は現在の郡ほどの大きさであったが、とりわけ北九州ではこれらの国々は中国との交流によって文化的には先進地域であった。北九州の文化的特徴としては、銅鏡等青銅器の出土と共に、甕棺・箱式石棺・支石墓などが挙げられ、これらも後漢の記述にある国々の比定地に並んでいる。このころの墓に副葬される品には、銅剣・銅鏡・勾玉が挙げられる。これはどうやら祭祀に利用された品々のようであり三種の神器とも関係のあると考えられている。これらの物品の中には、朝鮮半島より持ち込まれた物も多く、また文化的に朝鮮半島南部と共通するものがある。それらのことから朝鮮半島と北九州とには大きなかかわりがあったことが推測される。また少しの治、帥升という王の後漢への朝貢も記録されるが、これも北九州の末廬国ではない。そしてこのころから各国の連合の機運が見られた。
女王卑弥呼の時代
「魏志倭人伝」には邪馬台国の卑弥呼という王が記載される。邪馬台国の卑弥呼は魏に朝貢し、「親魏倭王」という印をもらうが、これはれっきとした魏の臣であることを認められたしるしである。魏志倭人伝には当時の日本の習俗・文化が詳細に記され、後の記紀等の記録と符合する部分も非常に多い。一方で必ずしも日本でなく南方の文化と思われる部分も記載される。また邪馬台国は、諸国の自立を認めている点で決して中央集権的とは言えないながらも、国家連合と言う範疇を超え、一つの国といえる機構を整えていたことも推察される。魏志倭人伝にも当時の日本人が稲作を中心とした生活を送っていたことは記録される。牛馬などはまだ存在していない一方で、米より作った酒は既に存在していたと考えられている。また、麻や絹によって衣服を作っていたようである。男の髪形は所謂みずらで、女性は髪を垂らしその末を頭頂で束ねていたと言う。これらの記載は非常にに南方的で、筆者の先入観が入っている可能性もある。また大家族制であり、その家族がいくつか集まって集落を形成した。また、身分制も存在していたことがわかっている。
邪馬台国論争
邪馬台国の場所については諸説あり、主に東大派の九州説と京大派の畿内説にわかれる。これは魏志の本文が非常に曖昧だからであるが、狗奴国の場所の比定や発掘によってわかった当時の文化圏等を考えると九州説が有利であるといえよう。また「倭国大乱」とされた時代から1世紀ほどで九州から畿内にいたる広域国家が成立したと考えにくいこともこの傍証となる。
 
謎の世紀

 

神武天皇
「古事記」「日本書紀」によると、皇室の祖先は、高天原という天上の国から日無化の高千穂の峰に降臨し、南国の日向でしばらく時を過ごしたのちに、神武天皇が多くの氏族を従えて九州を発向し、やがて畿内ヤマトの地に至り都を営んだとある。神武天皇のころから、古事記・日本書紀ともに神の世界から人の世界へ叙述が移っていくことになる。このように神の物語から人の物語へと続いている構成は世界的に稀である。神武天皇の実在性については、神武東征は天孫降臨に続く日本神話の一部であり、実在はしなかったという考えが主流である。
崇神天皇
記紀によると、初めて国を統治した天皇は2人存在する。一人は神武天皇、もう一人は崇神天皇である。崇神天皇の実在性については未だ議論を残しているが、仮に実在したとしても日本全土を統一していた可能性は低い。せいぜい大和を中心に畿内を支配する程度の政権を樹立したにすぎないと考えられている。大和の三輪山の神を祭って大和国家の基礎を固め、同時に諸国の統一に乗り出したと考えるのが相当である。
騎馬民族説
1948年、江上波夫氏は、大和朝廷の起源について破天荒な説を発表した。朝鮮から南下した北方系騎馬民族が、日本の倭人を征服し、日本の支配者となったという説である。これに関して当時の学界やジャーナリズムを中心に議論が巻き起こり、さまざまな学説が飛び交った。騎馬民族など来ていない、騎馬民族は来たがそれはもっと昔で2世紀ごろだ、騎馬民族は来たがそれは狗奴国である、などである。
古墳の発生
古墳とは、日本の学者の言い習わしでは「大きな墳丘を持つ墳墓」(高塚式古墳)を指す言葉である。古墳を作るのには大変な労働力を要する。これにより、祭られた者が相当な権力者であることが推察できる。古墳は支配体制と直接関係のある問題なのである。
前期古墳の発掘
古墳には被葬者の名は一般に書かれない。しかし天皇陵であれば話は別である。こちらは陵墓の位置や大きさを示した資料が現存するからである。天皇陵の調査は現在宮内庁により厳しく制限されているので、この節では過去に発見された棺や副葬品、航空写真などから考察を行っている。
倭建命の物語
倭建命という物語が古事記と日本書紀に存在する。しかしそれらは、ところどころ食い違っており、後から挿入された物語であると指摘されている。旧辞が作られたのは6世紀以降である。遠い昔に大和朝廷の命令によって戦いに赴き命を落とした者たちの数々の物語が、この時英雄譚に形象化されたのだと考えられている。
神功皇后と朝鮮の記録
神宮皇后は「新羅征伐」という物語に登場する。この物語が伝説であり、史実ではないということには争いがない。新羅との関係が悪化した際に作られた物語という説も、純粋に宗教的祭儀から生まれた神話であるという説もある。いずれにせよ、朝鮮出兵とともに国土統一が起こったことは間違いなく、そこから応神天皇の歴史が開けてきたのである。
 
最初の統一王朝

 

応神天皇の出現
3世紀末から4世紀までは謎の世紀と呼ばれている。基本的に古代の日本の歴史は中国の資料を頼りにして考察を進めるのだが、この時期は中国が日本に勢力を及ぼせなくなっていたからである。この節では、応神天皇の実在性及び実在すると仮定した場合どのような政治的行為をなしたかを学説をいくつかあげて紹介している。
古墳は語る
応神天皇は巨大な古墳に埋葬されたと古事記に記されている。古墳を観察することにより、その時代の文化が見えてくる。たとえば応神陵からは馬具が出土しており、これはこの時代に乗馬技術が伝わった可能性が高いことを示唆している。また、古墳の規模から、当時の土木技術の程度も推測することができる。古墳は盗掘されることが珍しくないが、この応神陵だけは盗掘の形跡がほとんど見つからないという。この時期に日本の統一王朝は南朝鮮に領土と支配権を確立して拡大し、鉄資源が豊富にもたらされたということも武器などの出土品から判明している。鏡や玉類がこの時期多く、弥生時代に流行った腕輪はほとんどなくなってしまう。鉄により甲冑や武具が作られるようになり、さらには馬専用の鉄仮面も現れる。これは、戦争の形式が歩兵戦から騎馬戦にシフトしてきたことを示している。このほか家の形をした埴輪により当時の住居形態が窺えるなど、古墳は語る歴史は枚挙に暇がない。
大陸文明の摂取
大和朝廷は5世紀には漢文を作成していたことは確かであるので、漢字の伝来はそれ以前ということになる。古墳の出土品から漢字は応神朝以後に急速に普及したと著者は考えている。応神朝は帰化人を管理する役職があり、これによって言語だけでなく手工業技術も彼らから得ることができた。このころの日本は百済をほとんど属国扱いしており、410年ごろには王位の交代まで干渉して人質を取り、政治的優位にものを言わせて技術者を盛んに呼び寄せるなどを行っていた。これにより機織術や窯業が発展する。工業により富を蓄えた者が身分を高め、さらに技術が地方にも伝達して国レベルで生活水準が向上していく。
応神王朝の落日
応神朝の権力は次第に衰え、6世紀を迎えるころには朝廷での実力を失ってしまったとされている。この原因は、天皇家とその最有力の協力者であった葛城氏が皇位継承を巡って反目しだしたのが原因と考えられている。朝鮮の拠点であった任那も反乱を起こし、それに有効な対処をすることもできず、応神朝は没落の一途を辿っていった。
 
古代国家への歩み

 

磐井の叛乱
520年代には北九州の豪族磐井が乱をおこす。このあたりの記述を欠く「古事記」でも、よほど重大な事実だったので、日本書紀とともに記されている。結局磐井は朝廷に討たれる。北九州は平定され、その後朝鮮の支配力を取り戻すために、多くの族が朝鮮に送り込まれている。
蘇我氏の抬頭
大伴氏は朝鮮経営の失敗の責任を蘇我氏に追及され失脚。大伴・物部政権から物部・蘇我政権に移ることになる。この時代、朝鮮からの貢物が多くなったので、財産を管理する三蔵(大蔵省の期限)を設立し、貿易への課税、課税のための戸籍制度などが発達した。7世紀後半には、律令制により全ての農民に戸籍が割り当てられることとなる。
仏教伝来
百済に仏教が伝わったのもこのころである。初めは迫害されていたが、部族を超越した主権を設立するに当たり、仏教のような思想は便利であったので、次第に時の政権に組み込まれていくようになる。仏教は日本でも政治的に扱われた。最初は迫害され、蘇我氏が私的な礼拝を許される程度であったが、6世紀末、用明天皇が死に、蘇我氏と物部氏が皇位継承をめぐって対立。蘇我氏が物部氏を倒し、崇峻天皇を立てて蘇我氏が独裁政権を築くことになる。 仏教政策も行われ、588年(崇峻一)に法興寺(飛鳥寺のこと。「法興」は、新羅で仏教を初めて保護した王の名前)の設立が決定。その後崇峻天皇と蘇我氏は対立し、崇峻天皇が殺害される。そして推古天皇が即位することになる。このとき7世紀に入り、聖徳太子の政治がはじまり、604年の十七条憲法、645年の大化の改新、672年の壬申の乱に繋がっていく。
 
古代国家の成立

 

新王朝の出発
飛鳥時代は発展の時代、奈良時代は衰退の時代だった。この書籍では、大化の改心以前を飛鳥時代、大化の改心意向を白鳳時代と呼ぶことにする。明確な区分がないからである。6世紀には小古墳が急激に増加するが、これは民衆の死に対する意識が変化し、また生活にゆとりができたことの証左と考えられる。帰化人からの技術伝達が生活レベルの向上の原因と考えられている。集落単位ではなく、家族単位での墓も見受けられるので、これは生活の単位が集落から家族へと変遷している様子を示している。もっとも、豪族がこれらの家族をまとめ上げて地方で権力を振るったのは従来と変わりがない。日本が属国扱いしていた任那は、北の高句麗が新羅と百済を追い詰め南下させたことにより、その領域が侵され始め、莫大な軍事費をつぎ込んだにもかかわらず、支配を継続することができなくなった。中国への遣使も478年で中断されてしまい、外交が衰退する。6世紀には、朝廷は権力基盤を固めるため、屯倉(収穫物を修める倉がある朝廷または天皇の所有地)の設置、朝鮮出兵(前述の通り失敗する)、氏姓制(地方豪族による分権政治)から官司制(官吏による中央集権政治)への改革を行った。天皇と蘇我氏は表向きは地方豪族をまとめ上げるために協力していたが、朝廷内ではどちらが覇権を握るかの争いをしていた。
保守派物部氏の没落
物部氏は古代の神前裁判を掌理していた。警察権力・裁判権力を有していた物部氏は、次第に専制政治を目指す天皇に接近していく。5世紀最大の専制君主である雄略天皇のときは最もその繋がりは強かった。物部氏は排仏派・保守的氏姓主義、蘇我氏は親物派・進歩的官司主義であるので、その対立は次第に強まっていった。権謀術数の果てに、576年物部守屋が滅び、蘇我氏および崇仏派は自由に活動ができるようになった。物部氏はこれ以降、二流の氏族に甘んじることになる。この翌年、法興寺の建設が始まる。
推古女帝

 

その死により物部氏と蘇我氏の争いの原因となった敏達天皇には炊屋姫という皇后がいた。炊屋姫は敏達天皇死去後も政権内で大きな権力を持っていた。崇俊天皇即位の際にもこれを推薦した(実際の推進者は蘇我馬子である)。蘇我馬子(炊屋姫とは伯父と姪の間柄)は政治上重要なことを行う場合は、形式的に炊屋姫を表に立てて、政治的正当化を図ったのである。蘇我馬子、炊屋姫の権力強く、即位した崇俊天皇は影が薄かった。実質的に、天皇は政治から締め出され、蘇我氏の独裁政権となる。崇俊期の政策は三つ。(1)仏教興隆・(2)東国経略・(3)任那復興の三つである。(1)物部氏が衰退したことにより、蘇我氏は堂々と仏教政策が行えるようになった。百済からの仏教関係の技術者や僧侶を優遇し、さらに使者も出して、飛鳥時代の仏教の基盤とした。このとき法興寺(飛鳥寺)の建設も始まる。(2)東国には国造(ヤマト王権の地方分権的支配形態の長)が大勢おり、天皇家にとって経済的・軍事的に重要な基礎であった。経略(統治すること)が天皇主体か藤原氏主体かで、天皇の軍事基盤が強まったか弱まったかが異なる。天皇が行えば東国におけるその威厳は増し、天皇の勢力は強くなるが、蘇我氏が行えばその逆となる。時代背景から察するに、蘇我氏が主体だったのではと思われるがはっきりとはしていない。(2)蘇我氏の勢力で、継体天皇以降半世紀ぶりに任那進出が目指される。任那復興である。このころには随分と戦力も安定してきたものと思われる。九州に2万の兵を待機させたが、後述する崇俊天皇の殺害により、任那には渡らなかった。592年、崇俊天皇が蘇我馬子により殺害される。天皇に不穏な動きがあったとされている。この後、推古天皇が即位する。他の候補が病弱であったり、政治的に微妙な立場であったりしたからという理由での、異例の女性天皇即位であった。通説は厩戸皇子(聖徳太子)の摂政によるものであり、皇太子中心の政治の発端となったというものであるが、当時厩戸は18-19歳であるので、現実的ではないという意見もある。
女性天皇即位には、皇后の経済的安定も影響していると考えられている。敏達天皇の時代に私部(キサキベ)という部が中国から伝来してきた。この制度は、后妃と皇帝を切り離すというもので、論理的帰結として后妃の財産は国費ではなく后妃の私有財産となる。この制度が日本の后に及べば、女性皇族の経済的基盤が安定するという塩梅である(それまでは正妻と妾の区別が曖昧であった)。后が安定するのならば、上に立つ大后(おおきさき=皇后)は絶大な権力を持ったと思われる。このとき、みこ(皇子)とひつぎのみこ(皇太子)の区別も生じてくることになる。このような権力の安定化が、後の蘇我氏打倒のための地力となったのであろう。このころ近親婚が多かったが、天皇はその血筋が重要とされるので、他の氏族から人を求められなかったからだろう。逆に近親の度合いが大きいほど、天皇家の勢力が強く安定しているといえる。
聖徳太子の立場

 

聖徳太子は敏達3年(574年)に産まれた。父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女で両親とも皇族であり、蘇我氏と近い血縁にある。当時中の悪かった堅塩媛系と小姉君系の両方の血族であったため、政界での入り組んだ関係の結び目に属していると言える。太子自体の婚姻関係も、天皇および蘇我氏とのつながりが強かった。崇俊天皇暗殺時には、他にも有力な皇子がいたので、太子が推古天皇の即位と同時に太子に定められたかは疑わしい。厩の中で生まれたから厩戸皇子と言い、これは唐から伝来したキリスト教のイエス降誕の影響がある、10人の訴えを同時に聞いて判断を誤らないなどという逸話が残っているが、いずれも後世の創作と思われる。「日本書記」以降はどんどんそう言った、太子の天才ぶりを表す内容が増えていく。厩戸皇子は推古8年ごろまでには太子の地位につき、推古天皇の摂政となり、権力のすべてではないが、かなりの部分を握ることになる。蘇我馬子も天皇を補佐する役割にあった。馬子は当時50代、対して太子は26歳。経験の差が大きいのを悟り、太子は馬子との正面衝突は避けつつ適宜横暴を抑えるという政治的立場を取った。馬子としては、天皇の伝統的権威を祭り上げつつ、実際の政治は蘇我氏を中心とする豪族連合の強化・官司制の整備に務めた。天皇を不執政の立場に置き、実験を蘇我が握ろうという魂胆である。図らずも近代の象徴天皇に通ずるものがある。太子は朝廷の権力を強める官司制には同調し、天皇の専制的地位の回復に努めた。新羅征伐は崇俊朝からの継続事業である。591年に2万の兵を派遣し、598年には新羅を恭順させた。600年には新羅に再び攻め込むと共に、隋に使者を送った。これは、実力を以て新羅を討つことの承認を求める意図があったと言われている。新羅征伐は、任那が滅んで得られなくなった貢物を新羅に肩代わりさせる目的であった。貢物が具体的に何であるかはわからないが、金・銀・鉄、錦・綾などが伝説には書かれている。鉄は武器になり、貴重品は装飾により朝廷の権威を高めるのに役立つから、恐らくそのような目的だったのだろう。602年、朝廷は再度新羅に兵を送る。このときの兵力は25000人であり、皇族が指揮官となっている。皇族が外征軍の指揮官となるのは前例がない。これは太子の計画だったと思われる。太子は豪族をまとめ上げ、軍隊を編成し、朝廷の権威の復活をはかり始めた。
日出ずる国からの使者

 

607年、多利思比孤、これは聖徳太子の事と思われるが、彼によって日本から隋への使者が送られた。しかし「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という日本と隋を対等にみる内容の国書に隋の皇帝、煬帝が悦なかった。隋からしてみれば生意気な文章である。だがこの時、隋は高句麗と交戦しており、苦戦を強いられていた為に日本と手を結んだほうが良いと見て、翌年の遣隋使の帰りに裴世清らを返礼の使者を同伴させている。また、帰路に於いて小野妹子は百済人に隋の煬帝からの国書を奪われている。この事について豪族達から大きな失態であるとして小野妹子を流罪に処するようにとの判決が下った。しかし天皇は小野妹子を罰するよりも、国書を奪われた事が隋からの使者に知られることを恐れ、彼を赦した。ところで、この事件において小野妹子に厳罰を下すように判決が出たのは何故であろうか。隋と国交を結ぶと言うのは従来の朝鮮諸国との外交を出し抜く物であるから、蘇我氏を始めとした遣隋使に反感を持つ勢力があったと思われる。大和朝廷は小野妹子らに同伴してきた隋からの使者に対し、国力を示すためか盛大に出迎えをしようと試みる。だが、当時の日本の国力からは厳しいものがあったのか、準備期間が必要で、この間隋からの使者は難波で待たされていた。1ヶ月半後、ようやく彼らは都入りし、天皇の御前で儀式を行った。この時天皇は使者に姿を見せていない。小野妹子も隋の都洛陽では皇帝煬帝に直接あっていないと思われるが、日本は隋と同格である事をたてまえとするので、煬帝と同じように使者に顔を見せないことでこれを示したのでは無いだろうか。隋からの使者の帰りに小野妹子らが同伴し、使節とされた。この時煬帝にあてた国書もまた隋と日本が同等である事を表す内容であった。こうして宮廷内では天皇が隋の皇帝と対等である事が示され、天皇の権威は高まっていった事と思われる。又、「天皇」の称号は推古朝の時、「日本」の国名はその少し後、大化の改新の頃から用いられたと推測される。
いかるがの大寺

 

日本書紀によると、605年から聖徳太子が住んだという斑鳩宮跡が法隆寺の敷地内から発見されたが、この周辺には飛鳥時代創建と伝えられる寺院が多く、斑鳩に移った後の太子が仏教興隆に力を注いだことが推し量られる。この事から、現代に残る多くの書物が太子について誇張して語っているが、仏教に熱心だった事については全く根拠の無いことではないと思われる。また、法隆寺は太子の創建と伝えられているが、太子による創建当時の法隆寺は670年に雷火で焼けている。その為現在の法隆寺は再建されたものであり、このことは今でこそ誰もが認めるところであるが、この意見にまとまるまで、僧侶を中心とした「現在の法隆寺は再建されたものではなく太子による創建当時のものだ」という非再建派の反発があった。太子は日本書紀によると621年に没し、神聖とされる二上山の西麓に葬られ、後に推古・孝徳天皇もこの地に葬られている。
クーデター前夜

 

聖徳太子が亡くなった後、蘇我馬子が官僚のトップに立って揺るがぬ権力を持っていたが、太子の功績により天皇の権威が高まり、豪族達の気持ちも天皇家に向きつつあった。この事から晩年の馬子は焦りがあったようで、政治手腕にも以前のような鋭さが失われてきていた。特に、623年、調の催促のため蘇我馬子の計画によって大船団が送られたが、先に大和朝廷の名の下に送られた使者と新羅で鉢合わせしてしまい、新羅に日本の政治の不一致を暴露してしまう結果になった。また、権力が蘇我蝦夷・入鹿父子に移ってからは、温厚な父蝦夷を押しのけて、生まれながらのエリート、勝気で傲慢な息子入鹿が台頭してきた。彼は同じ血の流れる古人皇子を皇位につけるため、対立する皇子を打ち滅ぼすなど少々血気が盛んであったようだ。また、これまで蘇我一族を支えてきた豪族連合との協調を無視して独裁者の様な振る舞いをしたため、天皇家だけでなく、上・中流豪族を敵に回しつつあった。そんな中、中臣鎌足は打倒蘇我家を掲げ、軽・中大兄の両皇子や曽我家の有力者石川麻呂を味方につけ、迅速にクーデターの計画を進めていった。
改新断行

 

中臣鎌足と中大兄皇子は、高句麗・百済・新羅三国の調をすすめる儀式を騙り、蘇我入鹿を暗殺する計画を立てた。645年6月12日、クーデターは決行された。翌日、甘橿岡の邸宅にて蘇我蝦夷は自殺した。皇極天皇は中大兄皇子に位をゆずろうとしたが、中大兄は辞退し、軽皇子が皇位についた。これが孝徳天皇である。6月14日のことであった。即位の式から5日目の6月19日、大化という年号が定められた。新政府の基本方針は、官制を唐にならって整備し、天皇の権力を強化してゆく、という点にあったと思われる。孝徳即位の翌月、高句麗・百済・新羅三国の調をすすめる使者が来朝した。いままで新羅が担当していた任那の調を、百済がかわって納めた。新政府は代納を認めたが、調の物が不足であるとしてつきかえした。新政府の意気さかんなさまがうかがわれる。調をつきかえした翌日、天皇は左右大臣に詔して、大夫と伴造たちに施政方針についての意見を出させるよう命じた。大夫と伴造は、最下級をのぞいた中央官僚の大部分を含むことになる。かれらへの意見の提出の要求は、新政が天皇権力の強化をめざしながらも、朝廷が氏族連合によってなりたち、朝議が群臣の合議によってきまる、という伝統を無視できないでいることを示している。やがて形成される日本の律令制の中央政府は、この合議制と天皇専制のつりあいのうえに組織されていることを特色とする。左右大臣と大夫以上を成員とする合議制が、日本独特の政策決定機関である太政官制の母体となるのである。革新的意義を持つ政策は、次の五つである。第一に、全人民の戸籍の製作と、田の面積の調査を命じたことである。第二に、大和にある天皇の直轄地である6県に使者をつかわし、造籍・校田を命じたことである。第三に、朝廷に匱と鐘を置き、自分の属する伴造や族長の裁判に不服のあるものは、その匱に投書して直接朝廷に訴えることをゆるし、朝廷の裁定になお不満のあるものは、鐘をならしてさらに訴えることをみとめた(鐘匱の制)。第四に、男女の法を定めた。男女間に子どもが生まれたとき、子を父母のどちらの所属にするかをきめた法である。良民と賤民の区別をきびしくしようというものである。第五に、僧侶を統制するための十師と、寺院を統制するための寺司・寺主・法頭を任命した。以上は、公地・公民制を基軸として中央権力の強化をはかろうとする新政府の政治方針にのっとったものといってよい。この間、古人大兄皇子の謀反のくわだてが露顕し、中大兄は古人皇子を殺した。645年の末、都は飛鳥から難波にうつった。その難波宮で、新政の大綱が四つの項目にわけて発表された(大化改新の詔)。それは、第一条で公地・公民の原則を明らかにし、第二条で京および地方の行政組織と交通・軍事の制をととのえること、第三条では、戸籍・計帳・班田収授の法を立てること、第四条では、古い税制をやめて田の調以下の新しい税制をおこなうことを定めたものである。しかし、改新の詔に関する「日本書紀」の文は、その編者が「浄御原令」や「大宝令」の条文を参考にして文章を飾り、形式をととのえ、りっぱなものにしあげたのではないかと思われる。とはいえ、すべてが編者の造作ではなく、従来の制度から見れば大革新の制作発表であったことに異論はない。改新の詔を発した政府は、その実施に邁進した。地方豪族は公地・公民制をこころよくうけいれたとは思われないが、土地を要求する民衆の、下からの圧力におされていたこともあり、あまり抵抗の姿勢をもたなかったようである。政府は、大化2年8月にふたたび、天皇以下臣・連らの豪族にいたるまで私有の部民を収公するむねを明らかにし、最下級以外の朝廷の官吏全員に、あらたに百官と位階をもうけ、官と位をさずけることを約束した。また、同じ年に風俗矯正にかんする詔も出されている。大化3年には、冠位の制をあらためて13階にし、同5年には19階とした。これには、左右大臣を官僚制の一部分に組み入れるというねらいもあった。大化改新の成果は、第一に、天皇を中心とする政治体制の確立、第二に、中央集権体制の樹立、第三に、公地・公民制の成立、第四に、政府が依然として地方の有力豪族をもって構成されていること、である。ゆえに、大化改新は社会構造の変革をめざす改革ではなく、政治改革であると考えられる。とはいえ、社会変革的な性格がまったくなかったのではない。大化改新の原因は、多くの議論があるが、6世紀以来の政治と社会の発展によって導きだされた必然の結果であり、それを促進したものとしては、大陸の影響があった。
難波の都

 

左大臣倉梯麻呂が亡くなり、その後、右大臣である石川麻呂が謀反の疑いをかけられて処刑されることとなった。新しい左右大臣には、それぞれ改新当初の功労者である巨勢臣徳太と名門の長老である大伴連長徳が任命された。左右大臣は、このときから氏族の上に立ち天皇の政治を助けるという機能を失い、官僚になり下がった。天皇・皇太子の専制的地位の確立である。650年に年号が白雉と改められたが、この時に行われた仰々しい儀式のねらいの一つは、天皇の徳を強調することにあったのではないか。天皇絶対の方針を形の上に表したのが、この祝賀の儀式であった。白雉年間に入ると、内政を改革・充実させるための新政策はほとんど出されず、天皇と政府の権威を高めるため、宮廷を飾り荘厳を増すことに多くの力が注がれたようである。651年12月のみそかに、天皇は大郡宮から、難波長柄豊碕宮にうつった。その所在については豊崎村長柄説と上町台地説という二説があったが、大正2年に奈良時代の難波宮の所在地を支持する資料としての瓦が発見され、それを手がかりとして探索が進み、現在(昭和47年)では上町台地の法円坂町の地が長柄豊碕宮の所在地と考えてまず間違いないというところまで来ている。この時、朝鮮の勢力関係は、強大な唐の介入によって一変しようとしていた。
悲劇の皇子

 

653年に入り、孝徳天皇と中大兄皇子との不和が表面化した。中大兄皇子は大和への遷都を望み、天皇はそれを許さなかった。中大兄は母の皇極上皇や弟の大海人皇子、公卿・大夫・百官を引き連れて飛鳥川のほとりの川辺の行宮にうつった。孝徳天皇の皇后である間人皇女までが孝徳をすてて中大兄にしたがい、大和へうつったのは、中大兄と間人皇女が夫婦の契りを結んでいたからではないか。654年には孝徳天皇が亡くなり、天皇の位には皇極天皇がふたたびついて斉明天皇となった。中大兄は皇太子の地位にとどまった。いったん退位した天皇がもう一度皇位につくことは、日本史上はじめてのことである。中大兄皇子が天皇にならなかったのは、間人皇后との結婚が原因だったのではないか。斉明天皇が位についたのは、655年、飛鳥板蓋宮でのことである。天皇は、治世の最初から土木事業を好んだ。小墾田の瓦葺きの宮殿(中止)、岡本宮、両槻宮(未完成)である。度重なる土木工事に駆り出された民衆の不満は高まったと思われる。孝徳天皇の子供である有間皇子は、658年11月に蘇我臣赤兄に唆され、謀反を企てた。赤兄の謀略により有間皇子は捕まり、11月11日に藤白坂で絞首された。これは、中大兄皇子の、自らの地位を脅かす可能性を有する有間皇子を打ち倒そうとする策謀によるものではないかと考えられる。
蝦夷征討と百済救援

 

蝦夷討伐のことは、「日本書紀」には景行天皇の時からみえるが、研究により、これらの記事はあまり信用できないことがわかってきた。大和朝廷が計画的に蝦夷支配をおしすすめるようになるのは、中央集権の体勢がととのってきた6世紀中葉以降と考えたい。589年に、近江臣満を東山道に遣わして蝦夷の国境を観させたという「書紀」の記事がある。また、642年に服属した蝦夷の代表者が都へのぼってきたらしい。6世紀末以来の朝廷勢力伸長の成果を示すものである。中央権力の強化をめざす改新政府は、647年に渟足へ、648年に磐舟に基地を置き、蝦夷対策を積極的に進めた。ところで、蝦夷がアイヌであるという説と、これを否定する説とが存在するが、現在(昭和47年)では、蝦夷は辺境にいたために文化におくれた日本人の一種とする説が有力である。阿倍比羅夫の遠征については、その記事について重複や矛盾があるが、ここでは遠征が二回2年であったとする説にしたがって述べる。第一回目の遠征が658年、第2回目の遠征が660年だったと考えられる。この遠征に関しては、北海道へ渡ったという説と渡らなかったという説があるが、第一回は秋田付近まで、第2回は津軽半島までで、北海道へはついに渡らなかったと考える。日本が蝦夷征討に力をかたむけているとき、朝鮮では新羅が唐と組み、百済を攻撃した。百済はほろんだ。しかし、挙兵した百済の遺民のうち、もっとも有力であった鬼室福信の使者が、人質として日本にきている百済の王子豊璋を、王として百済を再興するために、送りかえすことを頼んだ。百済を助けるということは唐を敵に回すということだが、廟議の末、百済救援が決せられた。661年、斉明天皇みずから西征の途にのぼった。その途中で大伯皇女が、翌年に草壁皇子がそれぞれ生まれた。この年の7月、斉明天皇が急逝した。中大兄は即位せず、皇太子のままで政治をとった。662年の正月に、先発部隊が出発し、百済に豊璋及び軍需品をもたらした。663年に白村江の戦いが勃発し、戦いは日本軍・百済軍の惨敗に終わった。こうして、百済は完全に滅びたのだった。
額田女王と近江朝廷

 

当時、中大兄皇子の他、皇位継承可能な有力候補は少なく、唯一中大兄の同母弟・大海人のみが挙げられた。それゆえ中大兄は大海人へ娘を嫁がせて結束を固めている。この兄弟と非常に関係の深い女性に額田女王がいる。彼女は最初大海人の妻であり、大海人との間に子供を生んでいるが、その後中大兄の妃となっている。だが天智天皇の妃として正式に記録されていないことを鑑みるに、額田女王は神事等に参与する采女的女性であったと推測される。当時、神に仕える采女へのタブーが緩められ、額田女王も自由な行動を許されたのだろう。さて、白村江の大敗北は朝廷の危機に直面するものであり、中大兄は称制として即位せぬままこれの対応に追われた。冠位の制度を定め、また部民制を復活させ、庚午年籍を編纂し、また律令の制定(尤も、この近江令は完成しなかった)に着手することで中央集権を推し進める一方、九州から難波に至る各地に城等の防御施設を築いて対外戦争に備えた。
壬申の乱

 

皇位継承の問題によって、朝廷内で力を握っていた大海人と中大兄、則ち天智天皇との間は次第に冷え込んでいた。天智天皇と有力な氏族出身の女性との間には子がなく、天智天皇の子は孰れもそれほど身分の高くない女性との間の子供であり、確たる地位を築けなかったからである。それゆえ天智は大海人を排斥。大海人は吉野で出家することとなった。しかし天智が崩じると状況が変化する。天智の皇太子であった大友皇子は近江の朝廷の首班となった。彼は天智陵造営の為に人を集め、それが吉野の大海人の猜疑心を煽ることとなる。大人数に攻撃されては危険と感じた大海人は近江の朝廷に対して反旗を翻すと、吉野を脱出して東へと逃げた。これに対して近江側の対応は遅れ、結果として大海人を東へと逃してしまうことになる。大海人は東国の豪族を味方とし、一方で近江の大友皇子は西国の豪族を動員することに失敗した。大伴氏の反逆で大和国も失った近江側は大海人の敵ではなく、大津京は陥落して近江側は滅ぶこととなる。この乱は皇位継承戦争である一方、中央集権に不満を持つ地方豪族の蜂起と言う側面をも持っていた。また、皇族も多数が大海人に味方しており、これは大友皇子の慣例にない即位への反発によるものであったといえる。
「大君は神にしませば」
壬申の乱に勝利した大海人は天武天皇として即位し、近江にあった朝廷を天武は再び飛鳥の地へと戻した。壬申の乱によって有力豪族の大半が壊滅し、功臣のほとんどが中小豪族出身であったことから、天武はより中央集権的な専制君主として君臨することとなる。豪族に代わって朝廷では皇族が要職を占めるようになったが、その皇族も天武を頂点とするヒエラルキーの中に収められ、それゆえ皇族からの不満は高まった。しかし朝廷の官僚制度化には成功し、位階の制を新たに定めて君臣の別を強調し、皇族も臣に過ぎぬと示し、豪族に関しては八色の姓に基づいて順位付けすることで支配に置いた。また、天武は軍事の集権化も図り、地方豪族に分散する軍権を朝廷のもとに集約し、また五衛府制を採用して中央の軍事力強化に努めた。宗教政策も天武は積極的に行った。東国経営の点で重要な伊勢神宮へ手厚い保護を行いまた、多くの神社の修復を行う一方、寺院の創建にも力を入れ、仏教国家の骨格を確立せんとした。国史編纂もこの時代に始まった物と為り、後の記紀成立のきっかけが作られた時代であった。
二上山の歎き
天武もまた後継者に悩まされた。大津皇子・草壁皇子の二子は甲乙つけがたく、どちらを後継者とするにも決め手を欠いたのである。これは結局、皇后の子である草壁皇子が皇太子となることで決着がついた。だが、大津皇子も決して政治的な力を喪失したわけではなく草壁皇子同様政治に参画する。これは大津皇子が才に溢れた皇子であると認められていたからだろう。このことに皇后は大きな警戒感を覚えることになる。その結果、天武崩御の直後、大津皇子は謀反の疑いを掛けられて投獄され、処刑されることとなったのである。ところが皇太子である草壁皇子も急逝。草壁皇子の子である軽皇子はまだ幼かったため、皇后が持統天皇として即位することとなった。
藤原宮のさかえ
持統天皇即位の前年、以前より編纂されていた浄御原令が施行された。これは日本初の総合的法典であり、これによって日本は律令国家の一歩を歩み出す。また同時に編纂された庚寅年籍は個人を把握した初の戸籍であり、これを以て日本は古代専制国家となった。中央官制の整備が進んだのもこの時期である。豪族合議から官僚による中央集権へと体制が変化し、またこれにともなって政府の規模が大きくなったために新たな都も必要となった。その結果が藤原京の造営である。持統天皇はこれより先、薬師寺の造営も行っている。この薬師寺に関しては建立年代に論争があり、未だに決着がついていない。藤原京造営直前、持統天皇は東国視察のために伊勢へ行幸している。以前壬申の乱の主力となったのは東国であり、東国の不満が朝廷を崩壊させる力があることを知る持統天皇は、力役の免除などを東国に与えている。また、柿本人麻呂などの歌人が活躍するのもこの時代である。もっとも彼らは天皇の古代的神性に心惹かれる者たちであり、官僚化の進む朝廷では肩身の狭い思いをしただろう。この時期になると有力豪族が力を盛り返してくることになる。その結果として成立したのが太政官会議である。これは有力豪族と皇族によって構成され、これによって朝廷の政策が決定されたのである。 古代国家としての体制をひとまず整えた持統天皇は軽皇子へと譲位した。これによって日本の古代国家確立期は終わりを迎え、以後は安定期、そして衰退へと進んでいくのである。
古代天皇家の婚姻
倭・日本の古代王権は濃密な近親婚によって強い結束力を保とうとした。皇族男性は外部からキサキを迎えることはあっても、皇族女性が非皇族と結婚することはほぼ無く、皇族女性は皇族男性と婚姻関係を結ぶという婚姻規制が存在していた。その特徴は、一つに異母兄弟姉妹婚による同世代婚、もう一つがオジ―メイ婚・オバ―オイ婚による異世代婚である。
六〜八世紀を通じて、歴代天皇のキサキを整理するとその多くが異母姉妹か、畿内の諸豪族、一部のほぼ限定された畿内の外(「外国(ゲコク)」)の諸勢力から女性がキサキとなっていることが本書で明らかにされている。
例えば天智天皇の子女四人の皇子と十人の皇女のうち、不明の二人の皇女と夭折した皇子一人を除く十一人は――天智天皇の皇女のうち四人「大田皇女」「鵜野皇女(持統天皇)」「新田部皇女」「大江皇女」が天武天皇のキサキとなっているのを始め――全て天武天皇およびその子女との婚姻関係を結ぶ。天武天皇に限らず歴代天皇は一人の男性が姉妹を妻として娶る姉妹型一夫多妻婚が広く見られているという。
当時の国津罪として近親相姦が定められているが、それに当てはまるのは同母兄弟姉妹間の婚姻で異母兄弟姉妹婚は当てはまらなかったらしい。また、同母兄弟姉妹間の婚姻も中大兄皇子(後の天智天皇)と同母妹間人皇女との関係のように王族の間では必ずしもタブー視されなかった可能性もあるとされ、「ロイヤル・インセスト」と呼ばれる世界的に見られる『王ないし王族に特権的に許された近親婚』があったようだ。
特に天皇を中心として異母兄弟姉妹婚を行うことでそれぞれの皇女を母とする単位集団を連結する目的があったと見られている。例えば欽明天皇は宣化天皇の三人の娘(石姫、稚綾姫皇女、日影皇女)と蘇我氏出身の二人の姉妹(堅塩媛、小姉君)をキサキとして迎えたが、次代の天皇は堅塩媛を母とする用名、石姫を母とする敏達、小姉君を母とする崇峻の三人が順次継いだ。
同様の目的で、同母兄弟姉妹婚とともに、オジとメイ、オバとオイの婚姻が行われて、世代の違う集団を結合させていた。用名天皇は母堅塩媛の妹で父欽明天皇のキサキであった蘇我石寸名とオバ―オイ婚をしているし、敏達天皇の孫舒明天皇は祖父敏達と推古との間の田眼皇女をキサキとするオバ―オイ婚と同時に敏達天皇の孫茅渟王の娘である宝皇女(後の皇極天皇)をキサキとするオジ―メイ婚をしている。
このような近親婚は、特に王族女性に対する王族内での婚姻に限定する婚姻規制にもとづいていたから、「不婚の内親王」と呼ばれる未婚の王族女性も数多く輩出されることにもなった。
同時に、王権を超えた婚姻関係についても、五世紀ごろ、百済から王族の女性を迎え入れていた可能性があるものの、六世紀以降中国朝鮮の王権から王族女性をキサキとして迎え入れることはなく、王族女性が他の王権と婚姻関係を結んだ例もない。
これは当時の東アジア情勢からすると異例で、新羅・百済・高句麗などは相互に婚姻関係を結ぶことで政治的緊張の緩和や同盟関係の締結など外交の一手段として活用しているし、唐王朝もチベットや契丹など西方諸国へ王族を嫁がせたり(和藩公主)、周辺諸国から王族男子との婚姻相手となる王族女性を迎え入れたりしており、当時の東アジアでは国際結婚が一般的な外交手段として採用されていた。
このような古代天皇家の閉鎖性は日本列島内でも顕著で、畿内より外に属する国(外国(ゲコク))のうち古事記日本書紀にある天武までの歴代天皇のキサキを出したのは伊勢・尾張・越・丹波・吉備・筑紫・日向に限られ、第一に『倭王権の直接の基盤をなす大和・河内の「中心」に対し、西の辺境である筑紫や日向のキサキが記紀に記されている』一方で、『倭王権の軍事的基盤である東国からのキサキがみえないだけでなく、記紀が「蝦夷」と記した世界からのキサキがみえない』という特徴があり、『倭王権による婚姻の選択・選別を如実に示すもの』という。
基本的には畿内と周辺地域の諸豪族からキサキを迎えるに限られており、かつ、皇族女性が臣下のキサキとなることもない。ただ、ヲホド王=継体天皇を一地方豪族とみた場合に、手白髪(手白香)皇女との婚姻がその例外として捉えることが出来るとされる。
『六世紀以降、倭国・日本の王権の婚姻は海外の王権と通婚関係を結ぶ施策は取らず、列島内の蝦夷として「異人」視された集団を王権との婚姻関係から除外したうえで、日本列島内の女性に限定し、もっぱらその婚姻の相手を王族内の異母集団の女性化中央・地方氏族の女性に限定し、差別的に選択した婚姻を採用していくことになるのである。』
このような閉鎖性に変化が訪れるのが八世紀からの藤原氏の台頭と九世紀の臣籍降下の制度化である。持統天皇八年(694)、藤原不比等が天武天皇のキサキであった五百重姫(藤原鎌足の娘)を妻として迎え子をもうけていることに始まり、延暦十二年(793)、現任の大臣・良家の子・孫は三世・四世の女王を娶ることが許され、藤原氏は二世の王も娶ることが許された。以後、皇族女性との婚姻を藤原氏が独占していく。また、弘仁五年(814)の詔により賜姓源氏が登場すると、臣籍降下した源氏賜姓者との間での婚姻が行われるようになった。
ほかに、桓武天皇が滅亡後に日本に定住した百済王家から三人の女性を女御として入内させている点についても、『桓武天皇が百済王氏の女性をキサキとしたのは、六世紀以来の大王・天皇が行おうとしてできなかった婚姻の「国際化」を実行したことに他ならない』と評価がなされている点も興味深い。
一方で近代まで脈々と受け継がれて様々な悲喜劇を生み出していく天皇家の閉鎖性の淵源であり、他方で差別的な婚姻を巧みに行うことによって確立されていく王権の強かさでもあるといえるのだろう。
 
奈良の都

 

国家と百姓
701年正月、朝廷は31年ぶりの遣唐使を任命した。遣唐使が進発したのは702年6月末であり、2年後と4年後にそれぞれ帰国した。当代の正史である「続日本紀」は帰朝報告をのせている。しかし、残されているのは日本評判記といえる部分だけである。「続日本紀」は全40巻からなる正史だが、前半20巻が797年、後半20巻がその前年に完成献上された。続紀の前半と後半では叙述の詳しさや質が異なる。後半のほうが詳しい。8世紀の文書は概算1万2千点に達し、その99パーセントまではいわゆる正倉院文書である。それに比して、記録(一般に自分自身のために書かれる)は少ない。独立した個人というものが、まだ成熟しておらず、私的なものは公的なものにおおわれ、個人は肩書や身分でのみ判断されていたのである。8世紀にいたって史料が急増したのは、律令制のためではないか。行政上の命令も報告も、文書によることを強制したのである。様々な文献史料から考えると、奈良時代の人口は6百万ほどではないかと思われる。当時の政府も、時の全人口を把握していたものと考えられる。7世紀末の持統朝以来、全国の戸籍は6年ごとに作成されていたのだ。当時の国土の開発情況としては、先進地帯が筑紫・吉備・出雲・毛野、後進地帯が陸奥・出羽・飛騨・日向、そして大隅・薩摩であったようである。奈良時代は、人口6百万のうち、20万くらいが都に集中していたらしい。都の性格を規定するならば、政治的都市だといえる。役人の数は約一万人と推定される。一万余の官員、百数十の貴族、10数人の公卿たち。これが8世紀初頭の日本の中央である藤原京、さらに奈良京の役人たちである。
律令公布

 

701年の晩春3月、対馬で金山が発見されたとの内報があり、年号が大宝と改められた。また、新令によって官名・位号(位階)も改正された。しかし、対馬には金山などなく、三田五瀬の詐欺であったとされている。律令公布の式典は無事にすんだが、式典と同時に実施されたのは「官名・位号の改正」だけで、ほとんどの者は新しい律令に何が書かれているかを知らなかった。そこで翌4月から官人たちにたいする新令の講義が始まった。官人は諸親王、皇族・貴族一般、六位以下の下級役人という三つの組に分けられた。新令のうちの僧尼令は、政界と仏教界との関係に一つの波紋をひろげることになった。6月にいたり、今後一切の行政は大宝令の諸条文にもとづいておこなえ、国司・郡司は租税である米の管理を徹底せよ、という勅が発せられた。大宝令は、国司・郡司を上下関係の行政官とし、租税管理を両者の共同責任とするために、各地方の収支決算を大税帳に書きあげさせ、毎年中央に報告させることにしたのである。これは画期的な中央集権強化策であったが、新令が手元になかったため、国司・郡司たちを困惑させた。大宝令はその年の8月以降に各地方で講義されることになったが、現物が配布されるようになったのは翌年の10月以降であった。それに対し、律の公布は令よりもしかるべき順序をふんでいる。令と律の違いは、令が発表を急いだという事情があったからであるようだ。持統女帝が急がせたのではないか。律令の編集者を見渡すと、帰化人系統の諸氏が多いのが目立つ。律令の具体的な編集過程は不明だが、下級の編纂官たちは巻別に担当分を決めてはいただろう。大宝律令は、施行後50余年で養老律令と交代した。養老律令は大宝律令の改訂版である。編纂主任は藤原不比等であったが、彼の死後、自己の権力の正統性を内外に認識させようとする孫の仲麻呂によって日の目を見た。ただ、大がかりな修正はなく、またその原典は散逸している。大宝の律は6巻、令は11巻であったのにたいし、養老のそれはそれぞれ10巻だった。この巻数の違いは、中身が変わったからではなく、巻物の長さを変えて調整したからだと思われる。令が大宝以前からあり、まただいぶ日本ふうに改めているのに、律が唐の直輸入で済んだのは、律令の内容や性格にかかわる。令とは君主の臣・民にたいする命令であり、教令である。この令にそむいたときに、律が発動される。律令がどの程度、当時の社会に徹底したのか、それは答えにくい。概して8世紀、とくにその前半の日本人は、律令制度を本気になって実現しようとしていた、という程度に答えるよりしようがない。ただ、律のほうは、令に比べるとおこないやすかったといえる。
平城遷都

 

708年、秩父より銅が発見される。これに因んで元号を「和銅」と改め気分一新といった装いである。この「和銅」は野血の和同開珎とは関係は無いとされる。翌年、平城京の建設が決定される。現在の平城京の地が選ばれた理由だが、北に山があり南に開けており、陰陽思想に適う為とされる。遷都の理由であるが、遷都をする事により災いを祓うといった呪術的意図、交通の便などを挙げている。当時の詔も陰陽思想に適う地である事など中国の思想を引用しており、この頃の日本は中国の思想を好み、あるいは傾倒していたことが伺われる。都の形状はいわゆる碁盤の目、朱雀大路から北に4坊、東に7坊、南北に9条の路を敷き、12の門を構えている。きっと歴史の教科書などで目にした事があるかと思う。都の造営にあたり、大勢の農民が刈り出されたが、厳しい労働環境の為に逃げ出す人も多かった。逃げ出した農民がいると彼らを連れ戻したり、同じ郷から代わりの人が呼ばれた。また、逃亡を防ぐために土木工事には武官が用いられるのが常であった。平城京の凡その造営が終わると貴族官人、市民が一斉に引越しを始め、その様子は万葉集の中に歌として残されている。
女帝

 

奈良時代には多くの女帝があった。710年-784年、元明-桓武朝の間に女帝は元明、元正、孝謙=称徳天皇の4代、治世は約30年にわたった。女帝では政(まつりごと)に差し支えは無かったのかといえば、特には無かったようだ。祭祀面に於いては、祭りの場の中に巫女のような女性がいるのはなんら不思議ではないし、政治面に於いても、皇族や大臣達を信頼して政を行えば滞り無く進行した。だが、基本的に天皇は男性が継いでゆくものであり、凡そ彼女らは中継ぎ、「仲天皇(なかつすめらみこと)」であり、やむを得ず即位しているものである。例えば、元明天皇の場合は、先代文武天皇の嫡子首皇子が7歳だったために、仕方なしに即位したものである。ところで、このように跡継ぎに悩まされていたようだが、天皇家は先の大化改新や壬申の乱、また近親結婚による血の凝縮の為に天皇になりうる皇族そのものが減っていた。この危機をどちらが悟ったか、天皇家と当時優秀な人材を輩出していた藤原家とが結びついてゆき、皇族の減少という危機を逃れ、同時に野血の藤原家の繁栄の土台を築いてゆく事となった。また、この頃、地方の政治にも力を注いでいたようで、中央から地方観の心得を箇条書きにして要求する、また国司を監督する官、按察使を任命したり、郷里制を定めたが、これらは唐のものをまねたものが多い。更に蝦夷や隼人に軍を繰り出して朝廷の制圧下におき、土地や人民を増やしていった。彼らの同化政策には僧侶を送り、仏教を用いることもしている。また、現代に残る書物もこの頃から書かれ始め、712年には古事記が撰上され、よく年には風土記の進上を命じ、720年には日本書紀が奏上されている。
貴族の生活

 

位階による待遇や収入などが述べられているが、とかく従5位以上からは特別待遇、重要な役職も与えられるし、給与も桁が変わる。また、子や孫にも階位が与えられるし、裁判でも刑が軽くなったりする。彼ら貴族の生活だが、なかなか多忙だったようで、朝も日が上がりきらぬ頃から起床、朝食もそこそこに・・・天皇ですら干飯を湯漬にして、つまり粗末な茶漬けである。これをかき込んで出勤して行ったほどである。ちなみに食事は朝夕2回だ。午前中に職務を終えると午後は勉学に励む者、友人の家を訪ねる者、帰宅する者さまざまである。また、彼らの帰宅先、都の邸宅には家族だけでなく、奴婢や時には僧侶、また上流貴族に派遣される家司という役職の人達も住んでいた。6日に1日の休日には都の外の別邸に行ったり、友人と遊んだり、日帰り旅行などを楽しんだようだ。彼ら貴族の仕事は都だけでは無い、一生の内に何度かは国司として地方に派遣される。期間は平均して2-3年である。例えば中納言大伴旅人も大宰府に派遣されているが、彼が派遣されたときは齢も60を超え、不安も大きかったであろう。彼はもう都に戻れない覚悟をしたか、まだ幼い家持や妻など家族を連れて出発した。派遣先の府では度々宴会が開かれたが、筑前守山上憶良も旅人の宴会に度々列席していた。この大宰府に集った旅人や憶良らのグループ「筑紫歌壇」の歌は万葉集にも多く収録されている。また、まだ幼かった家持とって、山上憶良の印象が強かったらしく、後に自分の歌の師と仰いでいる。
郡司の館

 

多胡郡碑は奈良時代より残る石碑である。碑文の解釈には様々な説が存在しているが、郡司によって撰文されたであろうことが推測される。郡司という職は、位階が上がっても転任することがなく、また官位が自分より下の国司に対しては礼を払わねばならぬなど、律令制の中では異彩を放っていた。しかしこれは、地方豪族を郡司に任じねばならぬという朝廷の限界から来たものである。そしてこの郡司職は、国司の介入もありながらも、地方豪族の嫡流によって相続されていくことになる。また郡司の家柄の者は、都で官位についたとしてもやがて外位に回され、栄達の道はなかった。そしてその収入たる郡稲は次第に正税に吸収され、郡司の地方官化が進むことになる。しかし郡司は在地豪族であることを背景に地方で勢力を拡大、富豪として大きな財を蓄えることになる。
家族と村落

 

正倉院に残る文書には、幸い戸籍も残されている。その戸籍には戸主名・氏姓名をはじめとした構成員全員の個人情報が書かれている。この戸籍には二種類の戸がある。郷戸と房戸と名付けられ、郷戸主が戸主としての課役があった一方、課税は房戸で行われた。このどちらが生活の実情に近かったかについて、郷戸のような巨大家族が同居していたと考える説と、戸籍が作られて年月が経ち、子孫が増えて戸が実情とあわなくなった、とする説がある。
村人の日々
この時代の人々は依然竪穴住居に暮らしており、その家は房戸の平均人数・9人にちょうど良い大きさであった。土器は専門生産がおこなわれるようになり、また様々な神を祭って生活していた。耕地では条里制が布かれ、整然とした姿をしていたと考えられるが、この条里制がいつごろから行われるようになったかについては、確たる説はない。班田収受も、実際は規定通りの広さの田が与えられたとも限らず、また造籍の間隔や造籍から班田までの期間などもあって、与えられぬままの人間も多かった。そして与えられた田が遠いということもあった。また実際は朝廷や地方豪族によって大きな田が経営されており、農民たちはそこに出稼ぎに行って小作料を払い耕作を行っていた。しかし男は防人などとして徴用されることもあり、その際には代わって女性が働き、時には借金することもあった。また奴婢には奴婢としての躾が為され、売買も行われた。
和同開珎

 

奈良時代の代表的な貨幣、和同開珎が発行されはじめたのは708年である。銀・銅の二種で、銀銭は翌年発行を中止したが、銅銭のほうは760年万年通宝に交代するまで大量に鋳造された。和同開珎を「開珍」(かいちん)と呼ぶ説もあるが「開寶」(かいほう)と呼ぶ説もある。後者は江戸時代の学者が言いだしたことだが、前者の説が妥当であろう。銭貨の発行は、かねてからの政治的懸案だったが、武蔵国秩父郡からの自然銅の出現を瑞祥として鋳造を始めたのではないか。鋳造を担当する部署を鋳銭司ないし催鋳銭司という。各地の鋳銭司から送られてきた新銭の発行方法について、和同開珎発行当初の方法はよくわからないが、朝廷関係者に布や米で買いとらせるという形で発行しはじめたのではないかと推測される。711年には、朝廷は和同開珎を流通させるため、蓄銭叙位法を制定し、蓄えた銭を朝廷に献納する者には位階を与えることとした。712年には、役夫にたいする賃金も銭で支払うことにし、また調庸も銭で送るように命じた。いわゆる銭調である。銭調を送ってきた国は畿内周辺の8ヵ国であり、奈良時代に銭貨の流通した地域はこの程度だったと考えられる。また、銭貨の流通において、遠隔地商人の果たした役割も無視できない。銭貨の回収は限られていた半面、放出のほうは常時つづいていたため、慢性的なインフレーションが起きた。社会においては贋金づくり(私鋳銭)も育っていた。それほど技術が普及しつつある時代だったのである。
長屋王と藤原氏

 

720年に右大臣藤原不比等が没し、その1年4ヵ月後、元明前女帝も病没した。両者のあいつぐ死は政権に大きな動揺を与えることになる。不比等には4人の息子と何人かの娘がいた。長男武智麻呂、次男房前、三男宇合、4男麻呂である。不比等の娘たちの結婚の相手は宮子が文武天皇、光明子が聖武天皇、多比能が橘諸兄であり、長屋王の妻となった娘もいた。長屋王の父は高市皇子であり、母は正史でははっきりしないが、元明女帝の姉、御名部皇女だと思われる。長屋王には、不比等の娘のほかに、正妻として、元明女帝の娘であり元正女帝の妹である吉備内親王がいた。715年、長屋王と吉備内親王の間に生まれた子女は皇孫として待遇する、という勅が出た。721年に、王は従二位右大臣となり、武智麻呂が中納言となった。朝廷の政務を議決する公卿の構成は、長屋王のもとに大納言多治比池守、中納言巨勢邑治・大伴旅人および藤原兄弟となった。藤原右大臣および元明前女帝の死後、藤原兄弟の権力の増大に対する不満が浮かび上がってきた。しばらく、長屋王と藤原兄弟との妥協といった感じの政権はつづく。社会的にも難しい時代であり、朝廷貴族の厳格主義に対する百姓側からの反動も生まれた。戸籍の虚偽申告なども全国的に行われた。723年初夏、三世一身の法がでた。太政官奏である。いわば官営の百万町開墾計画を民間の開墾にきりかえた形である。長屋王が公卿の首席であった時代の歴史的意義は、民政上の政策よりもむしろ文学史上にあった。王の佐保の山荘には多くの官人や新羅の使者、聖武天皇や元正女帝などが招かれ、当代詩人のサロンとよばれるにふさわしかった。724年、皇太子首皇子は聖武天皇となり、長屋王は正二位左大臣になった。727年、聖武天皇と光明子との間の皇子が生まれ、基と名付けられたが、その皇太子は1年経たずして病死した。翌年に、漆部君足と中臣宮処東人の密告により、長屋王とその子らは自決させられた。同年8月に神亀6年は天平元年と改元され、光明子の立后宣下があった。藤原不比等とと元明天皇の死後開始された政権をめぐる暗闘は、長屋王の自経と光明子の立后により、藤原4兄弟の圧勝という形で終わった。
聖武天皇・光明皇后

 

聖武天皇の生まれは8世紀の最初の年で、兄弟はなかった。若いころは狩猟が好きで、筆跡については、敏感な、線の細い文化人という定評がある。帝王学の教科書としては律令や算術の書物のほか、主として中国の古典が使われたらしい。また、一般教養のほかに、為政者としての心掛けを記した書物を身につけねばならなかった。光明皇后は幼少より頭がよかったと「続日本紀」には記されている。仏教への関心もあった。光明立后が実現したときから2年ほどの間に、朝廷の公卿たちはだいぶ入れかわった。731年の勅が、官人による参議の推挙を求めたのは、政治的責任を推挙した官人たちにも分担させるためであろう。藤原一族が圧倒的になった政権では、政治的責任を諸氏に分散させることができないからである。社会においては、長屋王時代からの動揺はますます広がりつつあった。新政権の構成者を推挙させたのと同じ日、朝廷は当初好ましからざる目で見ていた僧行基に対する扱いを一変させた。745年には、行基は大僧正に任ぜられた。このような朝廷の態度の変化は、仏教にたいする態度一般の変化でもあった。光明皇后が皇室の内部において、ものの考えかたを儒教的なものから仏教的なものへと変える役割を果たしたのではないか。しかし、さしあたっての社会的動揺に対して、新政権は武力でたちむかった。735年、天然痘が新羅から北九州に侵入してきた。翌春出発した遣新羅使は、多くが病に倒れた。他方、奥羽連絡路が開通した。737年には都でも天然痘が発生しつつあり、藤原4兄弟も相次いで亡くなった。藤原広嗣は大宰府の次官に左遷され、時勢への不満を高めていた。その原因として彼が考えたのは、天皇側近の僧玄ムと中宮亮下道(吉備)真備とであった。唐帰りとはいえ氏素性のわるい2人が、かつて藤原兄弟が占めていた席にすわったのである。740年、広嗣による、玄ムと下道真備の処分を要請する上表文が朝廷にとどいた。そして同年9月に広嗣は叛し、聖武天皇は大野東人を大将軍として鎮圧のための兵を派遣した。板櫃河会戦により戦いの膠着状態は解決し、10月下旬には広嗣は捉えられ、翌月に広嗣・綱手兄弟は切られたのだった。こうして藤原広嗣の乱は鎮圧された。
大仏開眼

 

740年以来、聖武天皇は平城京を離れて、4年もの間に渡って恭仁京や難波京へと遷都令を繰り返し、これは膨大な出費になったことは容易に想定できる。745年、病に伏した聖武天皇はその後継者として光明子との娘・阿倍内親王を据えようとするも、貴族より大きな反発を受ける。これは中継ぎでない女帝に対する反発であった。741年、藤原冬嗣の乱に関連して、不比等の封戸が朝廷に返された。その封戸の財を利用して、737年より計画のあった国分寺・国分尼寺の整備が開始されることになる。その国分寺は東大寺の伽藍配置を模しており、ミニチュア東大寺であるといえた。またその瓦は民衆からの寄付・郡への配当によってまかなわれた。華厳経や梵網経をよく学んだ聖武天皇は、743年の冬に廬舎那仏の大仏像を発願する。これには多くの大工や鋳物師が駆り出されることとなる。塑像をまず作り、その上で鋳型を作って銅を流し込む、という方法で作られた大仏であるが、外に塗る金に困っていた。ところが折よく陸奥より黄金産出の知らせを受け、聖武天皇は喜んだ。彼は官位を多くの人へ振舞うと同時に、阿倍内親王へ譲位する。金産出の御蔭で鍍金を無事終えた大仏は、752年に開眼会を迎えた。導師をインド出身の菩提僊那が務め、天皇以下百官の揃う壮麗なものとなった。
大唐留学

 

遣唐使に選ばれるのは、教養があり、高位で、かつ若い者に限られるため、出世頭の者が選ばれることがおおかった。遣唐使も他の官同様に4等官からなり、これに学僧や水夫といった随員が加わる。これらの随員の中には、唐に生まれた者が含まれることもあった。当然翻訳者も乗るが、唐の言葉の通訳とそれ以外の言葉の通訳とでは扱いに差があった。遣唐使では様々な準備があるが、神に祈ることも重要であった。これは遣唐使が非常に危険な職務であったからである。遣唐使の中には、終ぞ帰れなかった阿倍仲麻呂や、マレーまで流された平群広成のような人間も居たのである。そしてそのような準備が終わると天皇に謁見する。そこで別れの宴を行い、そして出発するのである。当時の渡航ルートには北路・南路・南島路の三種があるが、北路は新羅の朝鮮統一以降は用いられず、また南島路は南路を目指した船が漂流してたどる道である。勝宝度の遣唐使の際は、朝賀における席次のことで副使・大伴古麻呂が抗議し、席次を変更してもらっているが、このことから少なくとも古麻呂は漢語に長けていたということが伺える。留学生たちは、長く唐に滞在する者もおり、彼らは唐朝から優遇されていたようである。また日本人と唐人とが結婚することもあったようだ。また、渤海との往来も盛んであった。渤海は当時北東アジアの強国として名を馳せており、衰退する唐に代わって日本も重要視するようになっていたのである。
正倉院宝庫

 

正倉とは、当時は大倉と呼ばれていたであろう官庁、寺院の主要な倉庫の事である。元々は日本中にあり、只の名詞であったが、時の流れと共に多くが朽ちて行き、今日には東大寺の物だけが残り、それを指す固有名詞となったのである。以下それぞれ宝物について。756年、聖武天皇が没した際、光明皇太后が天皇に関係のあった物を、目に触れると泣いてしまいそうであるから、といって収めさせた。このときの供物の詳細を記した国家珍宝帳以下5冊がある。また、聖武天皇葬送の際の供物は従来と変わって仏式の物になったが、これは天皇が仏に帰依した為、としている。以下に正倉院内に納められている(又は、られていた)の主な宝物を挙げる。○箜篌という古代アッシリアが起源の竪琴の残骸。明治初頭に修復された。中国以東では正倉院のみに残る。○中国やインドより伝わってきた薬や香木。○大書家王義之の真跡。但し、後に売却されてしまっている。○6万点に及ぶ玉○1万2千点の「正倉院文書」
恵美押勝

 

この章で取り上げられている橘奈良麻呂の乱(757年)は、藤原仲麻呂VS他の諸氏の権力闘争であった。結果は只管に忠実な中下流貴族・官人を味方につけた仲麻呂であった。奈良麻呂らは人民の辛苦を訴える為に・・・この時、国分二寺の建設費に国富の半分を費やしたと言われるが、その為に武力を用いた。しかし、このときには既に天皇御璽、駅制、太政官印などの通信連絡の手段が発達しており、壬申の乱のような反乱はもはや不可能であった。また、奈良麻呂の訴えが本当に人民のためであるとして人々に受け取ってもらえていたのか。こういった事によりこの乱は失敗に終わった。この乱により大伴、多治比一族といった古くからの名門武官や小野東人、皇族では塩焼王、黄文王、賀茂角足など反乱中心人物以下計443人が処刑、流罪に処された。この章の題名になっている「恵美押勝」は、自らを称える為出した勅によって淳仁天皇から賜った名である。また、天平年間ころから律令制の衰退が明らかになってくる。朝廷の収入は調・租・雑徭から各国・郡でお子なられる正税出挙が主となり、防人や兵士を復員、さらに墾田永世私有法が施行、班田収受も崩れ、国司も只の徴税人になってしまった。橘奈良麻呂の乱で反対派を一掃した仲麻呂だが、大師(=太政大臣、仲麻呂は官名を唐風に変更している)になった頃から孤立し始めた。また同時期から孝謙女帝が銅鏡と親しみ始めている。764年、女帝の逆鱗に触れた仲麻呂は父子で逆賊とされ、仲麻呂に反感を持った貴族・官人達らの力もあり、近江高島で討ち取られた。以後、銅鏡が政界に出てくる。
道鏡と女帝

 

仲麻呂の死後、淳仁天皇に代わり称徳天皇(=孝謙天皇)が復位。道鏡と共に政界に現れた。道鏡の出身は低かったが、呪や禅といった超自然的な力を持った僧として次第に力をつけてゆき、宮中に出入りする看病禅師として女帝に近づいていった。彼女に気にいられた道鏡は、765年に太政大臣にまで登りつめ、翌年法王の名を賜った。彼らが権力を握っていた頃、皇位後継者が定まっておらず、世は不安に覆われ、人々は互いに疑い合い、その為に罪を着せられ処刑される人が後を経たなかったと言う。また、元々山で修行していた彼は、権力を持っていても政治を行うほどの能力を持っていなかった。その為政治は停滞し、財政は窮乏。官民は意気消沈といった具合だった。さらに彼と女帝は乏しい国費をひたすら寺院、宮殿の造営に注いでしまった。西大寺などがそれである。官民を省みない行いをした彼らであったが、女帝が、宇佐八幡宮からの神託を無視して銅鏡を皇位につけようとして失敗、その半年後に女帝は病死し、同時に道鏡も没落した。
 
平安京

 

女帝没後の政局
称徳天皇の皇嗣には藤原百川らが支持する白壁王が立てられ、光仁天皇となった。彼は先ず、銅鏡とその一派、及び皇嗣となる際の対立候補を支持した吉備真備らを政界から一掃、また聖武天皇の娘でおのれの妻である井上皇后と子の他戸皇太子を幽閉し山部親王を皇太子に立てた。後の桓武天皇である。彼光仁天皇以下の政権は、「官人がやたらに多く、人民を食いつぶしている」と指摘、官人削減の方針を採り、人民を苦しめ、農業生産を痛めつける雑徭について、兵士数を減らし、徴兵も「殷富百姓」からのみ行うとした。「殷富百姓」とは、農村に於ける支配階級的存在であった。この時代、個々は独立していた農民を、大化以前からの土着勢力である「土豪」、およびその周辺の有力農民が束ねていた。この有力農民が「殷富百姓」である。かれら土豪や殷富百姓は、口分田を放棄した農民や浮浪人を組織し開墾をしたり、有力な寺社や貴族の土地開墾に絡んで勢力を伸ばした。北方、蝦夷の地では伊治公呰麻呂が胆沢を中心に反乱を起こし、多賀城を攻略した。彼は胆沢周辺の地域の長であったが、朝廷に下り外従五位下を叙せられていた。が、朝廷から派遣されてきた仕事場の同僚や、陸奥按察使紀広純らに夷浮として辱められていた事などから部族の元に帰る決意をした。
桓武天皇の登場
老いた光仁天皇は反乱の一報にひどくショックを受けた。それでも老体に鞭打って政を行っていたが、気力尽き果て山辺親王に譲位、桓武天皇となった。彼は前光仁天皇の政治路線を引き継ぎ、まず朝廷内の改革に取り掛かった。天下の民を食いつぶしている過多の官人を辞めさせる方針を出し、2省2司を廃した。この時、造営省を廃しているので、まだ遷都は考えていなかったのであろう。また、調、庸の収奪に力を注ぎ、税収システムを揺さぶる土豪、殷富百姓を牽制した。同時に彼は征夷の準備にも取りかかった。先の乱により、胆沢を中心に結束を固めていた蝦夷側に対し、乱後ふるわなかった征東軍を解体、新たに大伴家持を鎮守府将軍とし、次なる攻撃に備えた。征夷事業に刺激されるように、遷都問題が持ちあがった。これをバックアップしたのは百川の甥、種継で、造営使に任命された。遷都の主な理由としては、先の章で述べた井上皇后らの亡霊が揺曳し、千の無能の僧どもが跋扈する平城京から脱出するためである。彼は急ぎ長岡京造営に取りかかった。が、785年、造営使種継が暗殺された。捜査の結果、大伴、佐伯両家を始め多くの者が処罰され、桓武の弟、早良皇太子も罪に問われ、憤死した。結果、桓武の子が次の皇太子となったが、この事件は桓武の血筋を天皇とする為のでっち上げ立ったのでは無いか、と筆者は述べている。
征夷大将軍坂上田村麻呂

 

征夷大将軍坂上田村麻呂・・・4代前は壬申の乱で名を上げた老(おゆ)、父は先の藤原仲麻呂の乱などで活躍した苅田麻呂、武官の一族である。782年に鎮守府将軍に任命された大伴家持の後をついで、788年、多治比宇美が職に就いた。今度の徴兵は坂東の他、東日本全土から52000余りが徴発され紀古佐美がこれを率いることとなった。789年、胆沢を目指して北進を開始したが、大きな戦闘はなかった。都からの要請で漸く精鋭6000が進軍した。が、川を渡っていた最中に、阿弖流為率いる蝦夷軍が山の陰から急襲、征東軍1000名以上を川に沈めた。大敗を喫した征東軍は帰郷。紀古佐美も都へ帰った。こうして刃を交えた双方だが、蝦夷人と公民の間ではなごやかな交易が行われており、蝦夷人が鉄を入手する機会となっていた。また、蝦夷人も陸奥国府に下ると「田夷」と呼ばれ「山夷」と区別された。彼らの間に入植したのは、クーデターの失敗などで没官、平民にされた者が送られていた。「田夷」となった蝦夷人は支配者から貢物にもなる馬の飼育を勧められた。かれら蝦夷人はこの馬を用いて連絡を取り合い、それぞれが独立していた蝦夷の諸集団をまとめ、朝廷軍の攻撃に耐える生命線を築いていた。789年の第1回目の攻撃に失敗した朝廷は、794年に再度進撃するため、今度は2倍、10万を徴発するとし、財のある公民には甲を造る事を命じた。が、これは凶作と疫病にあえいでいた農民を苦しめる事となった。794年、第2回目の攻撃も遂に蝦夷側の本陣胆沢に届かなかった。この際、征東副使に田村麻呂が任命されていた。
平安京の建設

 

種継の暗殺、早良親王の死、相次ぐ皇族の死など、長岡京は汚されてしまった。また、造営の為に徴発された役民も、逃亡する者が多く、工事もなかなか進まなかった。更に疫病も流行り、多くの死者を出した。桓武はこれを死んだ者達の祟りと信じてやまなかった。天下の公民に更なる負担を強いるとしても、桓武は遂に2度目の遷都を決意した。これを和気清麻呂がバックアップし、造宮使に任命された。794年、第2回蝦夷攻伐の頃、急ピッチで新都造営がすすめられ、桓武はひとまず皇居が落成した平安京に移った。但し、それ以外の建物の工事は、未だ全く手がつけられていなかった。とかく、桓武は2度の造都と、蝦夷攻伐に力を注いだ。結果、国家財政は行き詰まり、地方官の精励に期待するほか無かったが、彼らは彼らで、特権を振りかざした土地開墾で私服を肥やすことに力を注いでいた。彼らは開墾した土地と共に土着化し、国司の交替を渋るようになった。これを督察する為、政府は勘解由使を設置。また、地方に問民苦使を派遣、地方民の苦情を受け付けたが、国司の乱脈ぶりに手を打つことが出来ず、軽度の営田などの問題は見逃すほか無かった。班田収受も行ったが、従来の6年1度を保てなくなっていた。前章にもあったが、雑徭の軽減も行った。というのも、雑徭や出挙の為に口分田を捨てて逃げ出すものが多かったからである。調・庸を確実に収奪するため、彼ら浮浪者を検挙したりしたが、根本的な解決には至らなかった。桓武朝の政治は軍事(蝦夷攻伐)と造作(造都)の強行と停止に尽きると思う。強行は上記のとおり、農民の疲弊にもかかわらず行った攻伐、造都である。病の床に伏した桓武は、宮中の論議の際、農民の負担軽減のため、軍事と造作の停止を提案し、806年に逝去した。
平城上皇の変

 

桓武の後を継いだ平城天皇はまず、即位5日にして六道観察使を各道に送った。これは、問民苦使と勘解由使を合わせたようなものであった。これにより私腹を肥やす国司・土豪・裕福な百姓をの不正を正したが、それ以外の面では殆ど成果がなかった。807年の終わりごろ、皇族の重鎮伊予親王が謀反の罪に問われ幽閉の憂き目にあい、自害した。これに連なり藤原南家の大官2人が没落した。事件の背景には種継の子、仲成・薬子がいた。薬子は藤原縄主の妻でありながら、平城天皇の寵愛を受けており、彼らはこの事件を契機に更に天皇に接近、薬子の為に仲成も大幅に昇進している。809年、平城は体調不良を理由に弟賀美能親王に譲位、嵯峨天皇として即位した。皇太子には高岳親王がたてられた。天皇側は、上皇になった平城の命に従い、旧平城京の地に宮を築いた。この平城の宮と平安京をさして「ニ所朝廷」と呼ばれたりした。が、平城の宮は少数の官人グループが居たのみで、政府機能は持って居なかった。翌年、平城上皇は平安京を廃し、平城京に遷都するように命令した。これに対し、天皇側は、信頼の篤い田村麻呂などを造営使の名において平城の地に送り、上皇をけん制した。また、旧三関などを固め、平城上皇と繋がりのあった仲成を捕らえ、射殺した。平城上皇は挙兵を決意して東国へ向かおうとしたが、朝廷軍に行く手を阻まれ、悪あがきの内に終わった。天皇は上皇を罪には問わなかったが、上皇の子、高岳皇太子を廃し、大伴親王を皇太子につけた。
内裏・院・神泉苑

 

嵯峨・淳和・仁明天皇の治世、承和の変に至るまでの割と平穏な33年間について述べる。まず、地方に於いて、農民たちは地方官(富を蓄えた彼らの勢いは、この章の最後3節に記されている)のサボタージュにつけこみ、戸籍調査にて老人の戸主と女、子供ばかりの家であると記載し、正丁にかかる諸税から逃れようと必死であった。対して政府も、農民の生産力を上げようと水車の普及などに努め、長い間の問題である治水、池溝の保全について法を定めた。また、私服を肥やしてばかりの地方官の間にも時々善政をしく者が居た。彼らは「良二千石」と持て囃された。京では治安対策として新たに検非違使をおき、警察権の一部を握らせたが、その権力が拡大、司獄・行刑にまで力が及ぶようになった。また、桓武朝で停止された「軍事」を引き継ぎ、征夷大将軍文室綿麻呂が北進、閉伊・爾薩手方面に進撃した。802年、嵯峨は弟に譲位、淳和天皇が即位した。彼は特に目ぼしい政策を打ち出すでもなく、10年の治世の後譲位、仁明天皇が即位した。彼らは執政よりも「山水に詣でて逍遙し、無事無為にして琴書を翫ぶ」事を欲していた。また、彼らの頃から臣籍に下った皇族、嵯峨源氏などが政治の舞台に現れ、藤原諸家の冬嗣、園人、緒嗣ら、小野岑守などと共に天皇に代わって政を司った。光仁・桓武朝から嵯峨・淳和・仁明天皇の3代を経てその後に掛けて、日本書紀など「六国史」が作られた。また官府的編述事業が成果を挙げ、これまでの政治のある総括となった。
最澄と空海

 

8世紀中期以降、政府がしばしば問題にしていた僧侶の堕落とは、主として次の二点であった。すなわち、仏法を脱税のための看板として利用していたことと、政治への介入である。光仁天皇は僧侶の政治介入を完全に排除し、山林修道をゆるした。そして、私度僧をとりしまった。桓武天皇の仏教対策は父天皇の方針をうけつぐものであり、また厳しく寺院の経済活動に圧迫を加えた。それらは、より根本的には、桓武とその政府の土豪・有力農民との対決の一局面であった。他方、そうした平城京の諸寺での生活に安んじることのない者は、山林にこもって仏道に精進した。最澄と空海もまた、そのような求道者のひとりであった。767年、最澄は生まれた。僧となり、比叡山に入った。鑑真のもたらした典籍の天台宗にかんするものに導かれ、関心を深めていった。空海の誕生は774年である。はじめは学問の道を志したが、仏門に入り、山林の徒となった。そして「大日経」を発見し、密教への関心をわきたたせた。2人は、桓武天皇の特旨により、804年の遣唐使の一行にくわえられた。最澄は8ヵ月、空海は足かけ3年、それぞれ唐で学び、典籍や仏像・仏画などを持ち帰った。最澄は805年に帰来し、天台法華宗の開立を勅許され、比叡山寺をその本拠とした。空海は806年に帰朝し、嵯峨天皇の愛顧を受けた。810年には高雄山寺での修法をゆるされている。最澄と空海は、当初は協力関係にあったが、その後に不和が生じた。最澄のなした東国巡化は、土豪・有力農民にも感化を及ぼし、本山と末寺の関係を形成する契機を築いた。また、最澄はその後、南都の仏徒と教義上の論争を繰り広げた。最澄が822年に亡くなった後、嵯峨天皇によって大乗戒壇の設立がゆるされた。823年に比叡山寺は寺号を延暦寺とあらためた。空海は高雄山寺をおもな拠点とし、真言への布教にしたがった。後に、嵯峨天皇から高野山を与えられ、そこを本拠となす。823年に、嵯峨天皇から東寺を与えられた空海は、そこを密教化した。826年に、教王護国寺と寺号をあらためた。空海は、密教芸術にも新風をもたらしている。天台、真言の開宗は、平安朝初期の天皇たちの積極的な庇護という世俗的外力によるところが多い。その宗義は鎮護国家をうたい、桓武以下の歴代天皇の仏教統制に対応・協力し、それぞれ独自のゆきかたで推進した。最澄は論争によって、空海は懐柔によって、伝統的な南都勢力に対応した。その影響で、旧大寺の学僧たちもみずからを教団に組織することとなった。また、新宗の創始者たちは、一切衆生成仏説や即身成仏というテーゼの力説において、仏教が民衆の生活・精神をよびさます可能性をはらませた。最澄の死後、円仁によって天台宗はいちだんと密教化され、教団の力は強大となった。空海の死後、真言宗は天台に比べふるわなかったが、東寺の存在は、ぬきがたい伝統と力を擁していた。真言・天台の二宗は、教団創設の直後から寺領の拡大に力をいれた。新興宗派の根本道場は、はやくから道・俗両界を圧する庄園形成者の相貌をおびていた。
王朝の詩人たち

 

嵯峨天皇は唐風文雅への傾向をみせていた。最初の勅撰漢詩集「凌雲集」は、嵯峨天皇が小野岑守に詔を下し、菅原清公、勇山文継らとともに編成された。桓武、嵯峨の時代に、唐風化を推進したパイオニアとしては、仏教界の最澄・空海、儒林の菅原清公、政界に藤原冬嗣・小野岑守らをあげうるであろう。819年の嵯峨天皇の詔書により、天下の儀式、男女の衣服、五位以上の位記は唐風となった。また諸宮殿・院堂・門閣には唐風の新額をかかげた。7世紀以来の唐風の模倣は、律令の諸制度・宗教と学問から、宮廷行事の形式にまでひろくおよんできた。宮廷の公けの場で詩賦が行事となり、筆蹟に美をもとめる傾向が強くなった。嵯峨にはじまる三代にいたって、書道の世界がひらかれた。空海・嵯峨・橘逸勢をくわえて三筆という。これも唐風受容の一側面とみなせる。また、8世紀の初頭に唐帝国の支配から脱して独立した渤海との交歓も行われた。
応天門の炎上

 

嵯峨上皇が842年に没し、その2日後、仁明の政府は伴健岑、橘逸勢らを逮捕した。仁明天皇には皇太子恒貞親王と、良房の擁する長子道康親王がいたが、伴健岑と橘逸勢を謀叛人と断じて、その責を恒貞親王にも問うことで、皇太子の地位をうばいさったのである。数日後に良房は大納言となり、源信は中納言に、源弘、滋野貞主は参議となった。翌8月に、仁明天皇は道康親王を皇太子にたてた。これが承和の政変である。承和の変は、政治疑獄くさい。良房は、阿保親王の密書を手がかりとして、皇室の大家父長制に入り込み、嵯峨源氏との結託をいちだんと深めた。また同族の高官で競争相手の2人を政界の外に追い出し、古い名門である伴・橘の両氏に一撃をくわえた。良房は冬嗣の二男である。かれは淳和朝で蔵人になり、東宮亮として皇太子時代の仁明と親密な関係をつくり、その即位に際して蔵人頭についた。まもなく31歳で参議に、その翌年に権中納言となった。承和の変において、良房は仁明天皇・皇太后嘉智子に働きかけ、藤原一門の政敵を政界から放逐した。官職の方面においても、大納言のほかにも要職を経ていた。良房は恒貞親王を皇太子の地位からおいはらい、妹の腹にうまれた道康親王をあとがまにすえ、自らの娘である明子を皇太子の宮にいれた。道康親王(文徳)と明子の子が惟仁親王(清和)であり、こうして良房は天子の外戚となった。仁明帝が41の壮齢をもってたおれ、道康親王が即位し文徳天皇となった。文徳朝の初政には、政策において新味はなく、仁明朝末期からの政治や治安の乱れは一層ひどくなっていた。班田については良房の全執政期を通じていちどもまともに問題にされていず、地方行政における中央政府の指導性は、意外なほどこの時代に後退している。こうした情勢の推移の中、良房は857年、左大臣をへないで太政大臣となった。その主な理由としては、かれが天皇の外舅にあたるためであった。858年に文徳天皇が死去し、惟仁親王が即位し清和天皇となった。かれはそのとき9歳であった。幼帝清和については、良房の専横によるものとして世上の不評がつきまつわっていた。清和の妻は良房の姪(養嗣子である基経の妹)の高子である。良房は、幼帝出現の日から摂政としての役割をになった。清和期の良房による政治指導は、文徳期の延長としてしか評価できない、事なかれの消極的なものであった。班田は放置され、戸籍計帳の制度もひどい状態であり、国司の不正は横行した。律令国家による公民の支配はくずれていった。貞観の初年は不作続きで疫病もはやった。都の人々はこれを御霊の祟りとして、御霊会をおこなっていた。ここにいう御霊とは、崇道天皇や橘逸勢など、いずれも宮廷における紛争の渦中に憤死した人である。863年、朝廷でも神泉苑において盛大な御霊会をもよおした。民間では、こうした御霊会はながくつづいたが、政府のがわは、いつもそれにたいして警戒的であった。866年、太政大臣の染殿第における天皇らの花見の盛儀から10日後の夜、応天門が炎上した。その直後、大納言伴善男は右大臣良相に対し、失火を左大臣源信の所為であると告げた。良房はこれを知り、天皇のもとに人をおくって左大臣の無実を主張させた。その5ヶ月後、大宅鷹取というものが伴善男とその息中庸らが共謀して応天門に放火したと密告した。伴大納言らは犯状を否認したが、9月の末に朝廷は、善男・中庸ら五名に応天門放火の罪をかぶせ、遠流の刑に処した。その累は古来の名門たる伴・紀の二氏におよんだ。貞観の政府は伴大納言家の私財を没収して国家の用に供したが、それは多様で豊富だったようだ。晩年の良房が強い関心を示したのは、法制と修史であった。「貞観格式」は、右大臣藤原良相が太政大臣良房と協議し、天皇に奏して、820年以後867年までのほぼ半世紀間の格・式を編集したものである。また、869年に完成した「続日本後紀」20巻は、良房のもとで編纂されたいわゆる「六国史」の一つで、仁明天皇の治世を対象としたものである。871年に応天門は再建された。翌年9月、良房は病死した。良房の執政の特質は仁明時代の政治の延長というほかはなく、新しい施策にとぼしく、法制・修史の事業を持って朝政をかざりたてた。それとともに、かれは平安朝における最初の太政大臣の地位につき、天子の政を摂行して人臣摂政の先例をひらき、藤原氏による摂関政治の前提をつくった。
関白藤原基経の執政

 

太政大臣良房に代わり政界の大立者になったのは、基経であった。かれは政治家として非凡の器であった。貞観の末葉は、世情には不穏のムードがただよっており、火災が多かった。876年には大極殿が焼け落ち、清和はこれらの火難でつよい打撃をうけた。大極殿焼失の7ヶ月後、清和天皇は皇位をすてた。ときに27歳で、高子の腹にうまれた皇太子貞明親王は9歳であった。この幼帝を陽成という。文徳の若死にによる幼帝の出現と、基経の摂政をあてにしての清和の退位は、事情がすこぶる異なっている。幼帝の即位と人臣の折衝が慣行化への一歩をふみだしているのである。陽成期において、京・機内の民心は安定を欠いていた。公卿は常平司を新設し、官米を売り出して米価抑制にのりだすとともに、河内・和泉の二国に特使を派して、貧民救護にあたらせた。878年、出羽国の蝦夷と俘囚が蜂起し、秋田城を急襲した。出羽国府がこの動乱に対してお手上げだったため、基経らの政府は藤原保則を出羽権守に任じ、討伐にあたらせた。保則は備中・備前の国守として善政をうたわれた人物であり、寛政によって夷を降した。保則が武力による大反撃をくわだてなかったところに、桓武の時代とは異なる国家権力の限界があらわれている。良房・基経の執政をあわせて前期摂関政治というが、基経は停滞した国政のマナリズムを打破しようという意欲をみせはじめていた。夷俘の反乱が、かれを国政へとたちむかわせる原動力となったのである。886年、出羽国守から中央政府へ、国府を新しい地に遷建することについての申請書がだされたが、そうした際に、高尚・春風そして保則といったすぐれた経験者の所見を聴取して政府の断案の資料にしたところに、基経の国政への意欲がうかがわれる。基経が征夷と同時にくわだてた大事業は、班田収受の実施である。50年ぶりのことであった。基経は、律令制の基礎をなす土地の関係の弛緩に対処しようとしたのである。この50年間に生まれた大部分の農民は国家から土地を分け与えられず、土豪・有力者から土地を借りるか、貴族・寺社の庄園につながれた。かれらは、田租とは比較にならぬ高率の地子稲を収奪されることになった。また、戸籍の制度がくずれ、中央政府は浮浪人対策がたやすくうちだせなくなっていた。878年に朝廷は五畿内の国府にたいして校田(土地調査)を明治、翌年には班田使の任命があった。土豪・有力農民は、班田中絶のあいだに口分田をうばいさり、自己の農業経営の要地に編入していた。班田を歓迎していなかったかれらへの対処が必要だったのである。50年めに、基経らの政府が班田収受を断行したことが、律令的支配の瓦解をくいとめるために何ほどかの寄与をしたと判断できる。それは中央政府の、新しい勢力との農民の生産を場とした抗争でもあった。清和上皇の死の直前、基経は太政大臣に任ぜられた。883年、陽成天皇と基経とのあいだが疎隔し、険悪になった。太政大臣は天皇に対し、ボイコットの戦術をとった。そして884年、陽成天皇は譲位の旨をしたためた書を太政大臣のもとにとどけさせた。基経は、後継者として、仁明天皇と藤原沢子を父母とする時康親王を選んだ。このとき親王は55歳で、一族の間ですこぶる評判がよかったらしい。こうして光孝天皇が即位した。老天皇は親政を行うことを避け、太政大臣のポストにおいて万機の統裁を基経にゆだねる旨の宣明をした。光孝天皇の治世はごく短かった。不況により強盗・殺傷の事件があいつぎ、妖怪談がはびこり、大地震や大風雨がおきた。こうした天変地異の恐怖のなかで天皇はしだいに気力をうしない、危篤の状態におちいった。光孝天皇の次に即位したのは第7皇子であった定省であり、これを宇多天皇という。このとき21歳であり、基経とのあいだに外戚の関係がまったくない。即位の後、宇多が参議橘広相に作らせた基経への勅答に、「阿衡」という文言があった。紀伝博士の藤原佐世の説によれば、阿衡とは位が高くとも職掌がないものということであり、これが天皇と太政大臣の確執となった。結局のところ、天皇は阿衡の言葉の失当を認め、基経の圧力に屈服した。この一連の事態を阿衡の紛議という。阿衡の紛議は若い天皇の心に大きなシコリを残し、それが宇多を仏道に深入りさせる要因になったようである。この時期に、かれの発願によって京の西山に仁和寺が新造されている。宇多は父帝の時代のように国政は基経にゆだねて、文雅の一事に心を傾けた。関白太政大臣藤原基経は、891年に56歳をもって死去した。
多恨の歌人在原業平

 

在原業平は専門の歌人ではなく、朝廷の高官であり、歌は私生活のなかの心のすさびにすぎなかった。かれは、詩人としての天賦をその歌作に示した平安貴族の一典型であろうが、そうした貴族のタイプは、平安朝の業平以前にすでに出現していると考えられる。万葉最後の歌人、大伴家持である。業平は恋の遍歴と歌において、宮廷人のあいだではスター的存在であったが、権栄の座からは疎外されていた。在原氏の五男のかれは、ついに右近衛権中将どまりであった。
受領と郡司・百姓の抗争

 

この時代、地方における土豪や有力農民の基盤は、在地にひろく根をはった農業経営そのものであり、かれらは豊富な労働力を支配していた。一般農民の困窮と礼楽が、かれらの農業経営をますます拡大させる。土豪・有力農民は中央省庁にツテをもとめその下僚となり、あるいは大官の家につかえて平安京に移住した。上京した土豪・有力農民はしばらく出仕して、やがて郷里にたちかえった。そして、脱税のために名ばかりの官職を悪用した。また、出家をめざす地方人もふえた。坊主どもも国家の見地からいえば脱税者である。これらが農民にシワヨセされていった。地方の豪族や農民は、国司への対処の仕方を脱税や権門勢家との結び付きにもとめたが、一般農民のばあいは浮浪と逃亡の行動によった。嵯峨以後の親政三代、さらに良房・基経の執政気になると、国司のなかで、現地に行かずその得分だけをふところに入れるものがふえた。これを遥任という。それに対し、任地に出向いて地方行政にあたる国司のことを受領とよぶようになった。かれらは徴税請負人にちかい官人であった。受領は、地方の豪族・有力農民の武装抵抗に対抗するために、それぞれの規模の私的な従者群を編成しはじめた。それを郎等(郎党)という。9世紀後半以降の受領たちは、こうした力をも行使しながら、もっぱら法外な徴税に狂奔した。郡司はだいたいその地方の名望家であり、国造の系譜をひく者が多かった。中央政府は地方行政を国司にゆだねたが、在地の土豪を郡司にすえて、その強大な勢力を利用した。郡司は受領の専横にたいして内心ではつよく反発していたが、通常は協力的であった。受領が天皇を頂点とした権力組織に身をおいているからである。9世紀後半になり、土豪・有力農民が農業経営を拡充し、受領の力をおそれないていどまでに成長してくると、受領と地方民との板挟みになっていた郡司は、地方民の側につくようになっている。地方の豪族・有力農民と受領との対立をいっそう深める要因になったものは、従来の人頭税を一種の土地税に変えたということであろう。戸籍の制度がくずれ、国府は精確に部内の公民の人口をつかめなくなっていたが、土地に税をかければ、そうした問題は回避できる。受領の攻勢にたいし、地方民は電池を権門に寄進して庇護を求めた。こうして寄進地系庄園といわれるものが、9世紀後半から諸国に出現した。諸院・諸宮・王臣家あるいは寺社は、この形成に乗じて庄園の獲得に熱を入れるようになった。受領と地方民との対立が、公然たる抗争の姿をとって政治の次元に浮かびあがってくるのは、9世紀後半の文徳・清和朝の一時期である。その構想には、地方民のある集団が国司の館を襲撃して受領らを殺傷するゆきかたと、土豪・有力農民が武力の行使を避け、中央政府にむかって受領の非法について陳情し、免職をねがう、いわゆる愁訴の方法という、二つの行動様式があった。前者の事例では、郡司が首謀者であり、国府の内部に分裂がふかまっていることがうかがわれる。後者の事例では、ほとんどのばあい、訴えられた受領のほうがまけている。この年代以降、愁訴事件はくりかえされ、道長・頼道のいわゆる摂関時代にそのピークに達する。かれらの愁訴によって、かなり多くの受領が罷免されている。このように、在地の土豪・有力農民らの階層は、経済的に伸びてきただけではなく、政治の力をいちだんと高めてきたのである。それが、親政三代ののちの良房・基経の執政期に生起した地方の新しい政治情勢である。
時平と道真

 

藤原基経死後、宇多天皇は親政を開始し、藤原時平の他、藤原保則や菅原道真を登用して北家・時平の対抗とした。保則・道真とも受領階級層ではあるが、実務に長ける保則に対し、保則の後に重用された道真は漢学に長けた吏僚であった。宇多天皇は行政粛正を行っているが、これは守旧的なものに終始した。これは下級官人達の要求によるものであり、それを基経や保則、道真が組み上げることで実現化した。この寛平の治の底にあったのは、「階級の分離への対策」「有力農民・郡司への接近と王臣家の牽制」「官制簡素化」が挙げられる。また対外策も変更が加えられた。長くなされなかった唐への遣使が企図されたのである。これは、新羅の牽制や文化移入、密教の要請によるものと考えられる。新羅寇の増加から、北九州の軍備増強も行われる。また宇多天皇は道真や時平に命じて歴史編纂も行わせた。これが「日本三代実録」である。これとは別に、道長に命じて「類聚国史」も編纂させている。だが藤原時平が執政となると、宇多天皇は息子・醍醐天皇へと譲位する。上皇となった宇多天皇は、まもなく出家して法皇となった。これによって道真は後ろ盾を失い、時平派より失脚させられることとなった。これで藤原時平は権力を確立し、朝廷を牛耳ることとなる。執政として力を得ると、時平は延喜と改元したうえで大きな改革に取りかかった。これは寛平の治をさらに推し進めた形といえた。地方で広がる荘園に対して掣肘を加え、律令国家の体制を維持しようとはかったのである。しかし、これも時平が若くして死ぬことで、挫折することとなった。
古今の時代

 

譲位して後、宇多法皇は風流の生活に明け暮れた。そしてこの空気は、朝廷にも蔓延することになる。三善清行「意見封事」は、唯一これに反抗する動きであったがこれも朝廷には取り入れられなかった。この時期、大和絵をはじめとする国風文化が発達してくるが、これは唐風に対するアンチテーゼとして取り入れられたものではなく、あくまで唐風を日本へアレンジしたものに過ぎない。依然として唐風が尊ばれるのは変わらなかった。また歌会が頻繁に開かれるため、宮廷人たちは歌の上手な者を集めるようになる。このようにして頭角を現したのが紀貫之で、彼は上級貴族の歌会に呼ばれて歌を披露することで名を馳せた。そしてこのタレント歌人の中から、「古今集」が編纂される。これに収録された歌は、「万葉集」と異なって優婉な歌が多いが、これは歌の芸能化を示していると言える。このように、所謂"遊び"の部分では下級貴族をも包摂して行われた。これが、醍醐朝の特徴的な風景である。貴族の歓楽が花開いた醍醐朝であるが、災害が頻発した時代でもあった。940年には雷が紫宸殿に落ちることになる。これからまもなく、醍醐天皇も譲位し、すぐに崩御してしまった。
東の将門と西の純友

 

醍醐天皇死後、天皇の座に付いたのは皇太子であった朱雀天皇である。摂政には時平の弟・忠平がついた。彼を掣肘する者はおらず、よって彼は朝廷を切りまわした。一方、地方では受領たちの土着が進んでいた。彼らは一族で地方に土着し、勢力を拡大する。その中の一人が将門であり、純友であった。彼らは中央に行き、権門に従うことでより支配基盤を強固にしていた。また彼らは武装し、群盗として働くこともあった。彼らは自衛のために武装して社会的勢力としての地位を確立していたのである。瀬戸内海では、武装した彼らが海賊として跋扈し、純友はその長として名を馳せた。一方の坂東では、土着した平氏内の内紛から将門が貞盛を追放するという事件が起きた。畿内でも天災が相次ぎ、人々はそれに恐れを隠せなかった。空也上人が念仏を唱えて行脚したのはこの時期であり、人々は次々と彼に従うことになる。
天慶年間の大乱
天慶に入ると、各地で国府を巡る乱が増える。尾張では国司が射殺された。また純友の勢力も拡大し、瀬戸内海一円に及ぶ。この状況は、忠平政権下のないがしろにされる国政や、地方土豪と中央貴族の荘園を介した繋がりなどを、如実に反映した結果である。武蔵で受領と郡司が対立したことに、将門は介入する。また源経基や平貞盛を追い、坂東での覇権を確立した。常陸での争乱にも介入して国府を襲撃した。このように強大な力を得た将門であるが、次第に独立性を高める。やがて将門は新皇を名乗って独立。国司を勝手に任命する等を行うようになる。このころ、純友も摂津まで接近。西と東に乱を抱えた朝廷は狂乱の体を為した。朝廷は神階を上げるとともに、追捕使を任じた。一方、将門は残敵掃討を行うも貞盛を討つことはできず、やがて藤原秀郷と結んだ貞盛の反撃を受けて、崩壊した。彼は国家への反逆者と記憶される一方、受領に対して反抗した人間としての親近感を以て坂東の人間に受け継がれた。一方秀郷は、貴族末裔の武人たちの目標となっていく。瀬戸内海の純友も、追捕使に任じられた小野好古によって本格的に討伐が行われる。博多湾での決戦に好古は勝利し、純友もその勢力を失うこととなった。
天暦の治
この大乱にも関わらず、朝廷は旧態依然とした体制を護持したままであった。将門討伐も受領層によるものに過ぎない以上、ふたたび反乱が起こる可能性があった。にも関わらず、である。まもなく村上天皇が即位し、天暦の治が始まる。前後して忠平も死に、朝廷の中心は変化してゆく。忠平死去後は関白が置かれず、村上天皇による親政となった。だがそれは風流に偏るものであって、さしたる国政は行われなかったと言ってよい。ただ、詩画書の類は非常にもてはやされることになる。また和歌も取り行われたが、これは古今集のマンネリズムに陥っていた。修史も目指されたが、これは政治の混乱から終ぞ行われることはなかった。
天皇親政の終焉
このような政治状況において、地方は酷い状況に曝される。承平・天慶の乱の底流となった、土豪や受領層の武装化が進み、有力な在地領主と化していた。また国府の押領使も暴虐を行うようになり、廃止されることとなる。火災や疫病も多く、藤原師輔は疫病で早くに亡くなり、また内裏は焼け落ちた。治安も悪化し、あちらこちらで闘争が絶えなくなっていた。この平安京の凄惨な状況から、人々は怪しげな宗教に熱狂したりするようになる。空也が出てきたのもこのころである。貴顕の救済しか行わぬ仏教勢力に対し、空也は庶民の救済を行うべく行脚したのである。 村上天皇は結局亡くなり、天皇親政は終わりを告げるが、この間の政治とは非常に頽廃した物であった。彼らは受領の支援を受けて始めて成り立つもので、その蠕動が次の時代へと動いて行く。
 
王朝貴族

 

源氏物語の世界
源氏物語は紫式部の作であり、書かれた時期は1001年から1008年ごろまでの約10年間のうちであろうといわれている。源氏物語が1千年間にわたって、国文学の最高地位を確保しているのは、構想の妙や文章が良いからというだけではない。第一に、源氏物語が平安時代中ごろの宮廷を写実的に描き出しているからであり、第二に、人間の運命というものにたいする詠嘆と、男女間の人情の機微とを、みごとに写し出しているからである。主人公である光源氏のモデルについての議論は古くから積み重ねられているが、その有力な候補者の一人としては、藤原道長が挙げられる。源氏物語の史料としての価値についてだが、これを読めば宮廷生活・貴族生活だけはじゅうぶんにわかるのかといえば、否である。源氏物語は女性である紫式部によって書かれたものであり、男には彼女たちと離れた、別の活動分野があったであろうからである。
安和の変

 

冷泉天皇、すなわち憲平親王が皇太子に定められた950年、村上天皇の元には、藤原実頼・師輔の兄弟が左右大臣として筆頭の地位にあった。ふたりは共に後宮へ娘を送り込んだが、憲平親王を生んだのは師輔の娘の安子であった。村上天皇の第一皇子として広平親王が生まれていたが、外祖父である中納言藤原元方は非力であったため、憲平親王が皇太子となったのである。この元方の怨みが怨霊となって、憲平親王を狂気となさしめたと言われている。師輔が960年に、964年には皇后安子が、そして967年には村上天皇が亡くなり、外祖父および父母の後援をうしなった狂気の冷泉天皇の即位ということになった。冷泉天皇即位のとき、朝廷の代表的な有力者は3人あり、それは左大臣藤原実頼・右大臣源高明・大納言藤原師尹であった。天皇が異常な人物であったため、外戚関係にない実頼が関白となり太政大臣に任ぜられ、高明・師尹がそれぞれ左右大臣に昇った。冷泉天皇には皇子が生まれていなかったため、つぎの立太子が問題となった。東宮の候補としては、天皇の同母弟、為平親王と守平親王の2人しかいず、順序からすれば東宮となるのは為平親王のはずであった。しかし、為平親王は源高明の娘との縁組があったため、藤原氏に警戒され、9歳の守平親王が新東宮となった。968年、伊尹が女御として進めた懐子に、天皇の第一皇子である師貞親王(のちの花山天皇)が誕生した。969年、左馬助源満仲・前武蔵介藤原義時の2人が、中務少輔橘繁延・左兵衛大尉源連の謀反を密告した。累は左大臣源高明に及び、これを大宰権帥に左遷することが決定した。高明の占めていた左大臣の職は奪われて右大臣藤原師尹がこれに代わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。以上が安和の変の概略の経過である。この事件が高明を失脚させるために仕組まれた藤原氏の策謀によるものだということはあきらかだが、事件の首謀者として有力なのは右大臣師尹であろう。また、師輔の子の伊尹・兼通・兼家といった連中も疑わしい。この事件を最後として、藤原氏の他氏排斥の運動は終わった。権勢争いは、もっぱら藤原氏の内部で激化することになる。この事件のきっかけを作った密告者源満仲は、清和源氏の嫡流である。満仲のすぐれた点は、たんに武力だけではなく、武士たちのなかで、もっとも巧みに中央貴族と縁を結ぶことに成功したその政治性にある。満仲が主人にしていたのは、師尹であった可能性もある。すくなくとも、結果として満仲は摂関家のために働き、東国の藤原氏の首領である千晴は失脚したことは明白である。清和源氏が、摂関家の忠実俊敏な番犬として抬頭する経過は、この安和の変において第一段をきざんだのであった。
道長の出現

 

安和の変の5ヵ月ののち、冷泉天皇が退位し、皇太弟守平親王が即位した。円融天皇がこれである。外戚関係に変化はなく、実頼が摂政太政大臣の地位にあり、新東宮には冷泉天皇の第一皇子師貞親王が立った。969年10月、左大臣師尹は病気になり、薨去した。その翌年5月、摂政太政大臣実頼が薨去する。そののちは伊尹が摂政となり、さらに2年後に伊尹がなくなるとその弟兼通が関白としてあとを継ぎ、藤原氏の態勢はくずれない。他氏との対決が終わると、藤原氏内部での勢力争いが目立ってくる。そのなかで第一に有名なのが、兼通・兼家兄弟の衝突である。兼家は兼通に裏をかかれ、977年に兼通が死ぬまで、ながらく昇進を止められていたが、後宮関係には恵まれていた。兼通も頼忠もその娘を後宮に送り込んではいたが、皇子を得たのは兼家だけだった。984年、円融天皇が譲位し、花山天皇が即位すると、新東宮には懐仁親王が定められ、兼家は次帝の外祖父としての地位が保証された。985年、天皇の寵愛深かった弘徽殿の女御、忯子が亡くなると、天皇は意気消沈した。この後期に乗じ、兼家の子道兼は蔵人として天皇の側近に使える立場を利用し、天皇に出家をすすめた。そして天皇の外戚である義懐などの裏をかいて、986年に天皇を出家させたのであった。夜が明けて、懐仁親王が帝位について、一条天皇となった。7歳であり、兼家は外祖父として摂政となり、いままでの関白頼忠は引退した。兼家は、一条天皇の、さらにまた東宮居貞親王の外祖父として安定した地位を占め、子供たちの位階官職を強引なまでんい引き上げていった。そのなかに、当時21歳の青年、藤原道長がいたのである。道長は兼家の4男であり、兼家の長かった不遇期の被害をほとんどこうむることなく、23歳で権中納言という記録的な好スタートを切ることができた。そして、それからわずか6年ののちには、父も兄もすべて死亡して、かれ自身が摂関家の筆頭格にのしあがった。道長の兄、道隆と道兼が995年に流行った病に倒れ、道長と、道隆の子である伊周とが相対することとなった。そして、道長の姉で、天皇の生母である東三条院詮子の推薦により、道長が右大臣に進み、完全に朝廷の首位を占めた。時に30歳である。内大臣伊周は失望・不満をいだいたが、996年の正月、伊周の誤解によって、その弟の隆家が従者に、花山法皇へ矢を射かけさせるという事件が起こった。その結果、伊周らは流罪となり、道長と伊周の争いには決着がついた。伊周・道隆の配流はごく短くてすみ、ふたりとも数年のうちに本位に復し、道隆はもとの中納言の位にもどったが、もとより政治的に活動することはできず、道長の独走態勢はこの事件で確立した。事件の発生から処分まで3ヵ月余をかけて、じゅうぶんに事件の固まるのを見とどけたあたりには、政治家としての道長の非凡な手腕がうかがわれるであろう。
家族と外戚

 

政界首脳部の政権交代の経過を見てくると、そこで問題となっているのは、だれが天皇の外戚に当たるか、天皇の外祖父はだれで、外叔父はだれであるかということであった。外戚とは母かたの親戚のことであるが、なぜ天皇の外戚であることが重要なのであろうか。その不思議を解く手がかりのひとつは、当時の結婚生活、家族生活の実態である。外戚が尊重されるのは天皇にかぎってのことではなく、当時の貴族全般においてのことだった。その理由は、当時の家族生活において、人間の生誕・生育が父の一族内ではなく、母の一族内で行われるからである。同母の兄弟姉妹は成長期はともに暮らすが、邸宅を継ぐのは女であって、兄妹はいずれ外へでてゆく。ただし、本邸を継ぐ女の婿取りについては、一族として父母とともに兄弟もまた一緒になって世話をする義務があるのである。他家へ出た男は、婚家先で婿として平均10年から20年の長きにわたって世話を受けて独立する。住居についてはたいてい妻の一族の世話になる。生まれた子供は外祖父母が第一の責任者として養育する。公的には官職・地位や、同氏同族の統制は父系をもって律せられているが、私的には、実生活に密着したものとして母系が強固な力を持っていた。この両面をそなえた姿が、当時の貴族社会の実態なのである。貴族が娘を後宮に入れるのは、いわば天皇を自家の婿に迎えるのである。ただ、天皇という公的な立場上、天皇を自邸に迎えるわけにいかないから、宮中の局を自邸の出張所として天皇を迎える形をとるわけである。そして娘が懐妊すれば自邸に下げて、そこで生まれた皇子は外祖父として自邸で一心に養育するのである。その皇子が他日皇位につき、摂政を必要とするとき、その任に当たるべき者は、当時の生活の通念として、天皇の外祖父ということになる。それに次いで、天皇の生母の兄弟が責任を分担することになる。外戚の立場がなぜ摂政関白の地位と直結するか、それは外祖父を主軸とする外戚の一族が、一家の女子に生まれた幼児の養育・後見に当たるべき義務と権利を持っていた当時の社会の在り方によるのである。
身分と昇進
年2回、定例の人事異動が発表される。これを除目(任官)の式という。これによっておのおの官位相当職が与えられる。また、高級貴族の推薦で位(特に五位)を授けられ、これを叙位という。この際、推薦を受けたものは推薦してもらった高級貴族に推薦料を払い、これが収入の一部にもなっていた。この2つの為に、どの貴族も挙って自己アピールをする。彼らの位階と職に対する執念は恐ろしいほどであった。また、先の叙位などで五位を受けたものは国司になることがあるが、これまで述べてきたとおり、国司になると言うのは経済的な大チャンスであった。だが、赴任先の国にもそれぞれ、大・上・中・下とランクがあり、上位の国の国司に任命されたもの、下位の国の国司に任命されたものの喜びよう、悲しみようも大変なものだった。上記のような位階、職とは別に、昇殿人という、御所で天皇の身の回りの世話をする事が許されている人達が居り、これはとても名誉なことであった。また、平安中ごろまでには貴族の格の値打ちも下落し、専ら五位以上のみが貴族として扱われるようになった。そして、そのトップに経つのが四位以上から任命される参議以上の最高幹部達で、おおよそ20名前後である。こういった高級の職になると本人の努力だけではほぼどうすることも出来ず、家柄がものをいう。
中宮彰子

 

「道長の出現」の章で藤原伊周を内大臣から失脚させた道長は、正二位左大臣に上る。ひとまず足場を固めた道長は、一条天皇の後宮に娘の彰子を送ろうと画策する。一条天皇には伊周の妹の中宮定子が居り、懐妊、後宮から退出していたが、その身に起きた不幸はやはり先述である。彼女は更に不幸に見舞われ、退出先の中宮御所二条邸が火災に見舞われ、叔父の邸に避難した。後に、更にその叔父の邸も焼け、粗末な先但馬守の家に移った。そんな彼女ではあったが、天皇の寵愛は変わらなかったのが唯一の救いだっただろう。998年、道長は病に倒れ死を覚悟したが、半年ほど掛けて回復、この頃には彰子も12歳で、裳着すにも丁度良い年齢となり、入内の準備が始まった。道長は準備に公卿から法皇まで協力を仰いだ。これ対抗したのが中納言藤原実資であった。彼は絶対的な権力を持つ道長に唯一正面から対抗したものである。彰子は12歳で入内、天皇の女御となった。道長は立場を更に確かなものとする為、彰子を皇后にしようと奔走。天皇の生母で彼の姉の東三条院詮子、天皇の側近である蔵人頭藤原行成と協力して中宮彰子とした。こうして皇后定子と中宮彰子の二后が並立。そして1年足らずの内に定子が崩御し、彰子は皇后となり、道長は天皇の外祖父となる資格を手に入れた。
一条天皇の宮廷

 

一条天皇は左大臣で外叔父である道長を関白としなかった。が、公卿のトップである彼は一条天皇と共に政事を取り仕切った。一条天皇は道長を信頼していた様で、998年、道長が病に倒れて職を辞したいと申し出たときもそれを却下し、再び共に政務を行っている。ところで、摂関政治と言うと天皇はあたかも摂政関白の操り人形のように思われがちであるが、摂政は天皇が子供であるので置かれるが、その際は天皇の生母の意見がものを言うようであるし、関白は天皇と一々打ち合わせをし、天皇の判断を仰ぐという形である。そして、この一条天皇の時代の宮廷は優れていたようで、天皇も進んで綱紀取締りを提案、実行させている。この優秀な天子の下には優秀な人材も多数生まれており、それは平安時代後期の学者大江匡房の著書「続本朝往生伝」に記されている。彼は「時の人を得たるや、ここに盛んなりと為す」と評して86名を挙げ、「皆これ天下の一物なり」と結んでいる。
清少納言と紫式部

 

女房というのは、部屋を持った侍女のような存在である。多くの役職が存在しているが詳しい制度はわかっていない。この女房のなかで双璧であったのが清少納言と紫式部である。清少納言は定子に仕えた女房であるがその経歴にはわからない部分が多い。枕草子についても様々な議論があるが、それが清少納言の卓越する才智を窺わせる。また彼女は人との応対が上手かったようである。また強気な女性でもあった。定子がいる間、彼女は存分に活躍するが、定子が亡くなると身を引くことになる。それに代わって登場するのが紫式部である。紫式部も、彰子に仕えた女房であると言うこと以外はよくわからない。だが「紫式部日記」から彼女の動向を知ることができる。それによると、源氏物語は当時の宮廷でも評判だったようであり、道長がそのスポンサーであったという説も存在する。東宮である敦成親王が病であったという「小右記」の記事の中に紫式部が登場するが、紫式部が男の日記に登場するのはこれだけである。そのことから、実資と関係が深かったとも考えられる。また紫式部は日記の中で、才智を明らかにする清少納言へ苦言を呈してもいる。このように輝かしい後宮であるが、必ずしも女房とすることが歓迎されたわけでもなかった。高貴な家では娘を女房とはしたがらなかった。だが、上流貴族が後宮に目を向けたのは事実である。天皇の外戚であることを背景にして政柄を握っている以上、皇子の誕生する後宮もその役割は大きかったのである。
儀式の世界
後一条天皇即位の時、固関の儀が行われた。これを主催したのが藤原顕光であるが、彼は無能として知られており、この儀式の際にも多数のミスを犯す。それゆえ、道長も苦り切った。儀式は非常に煩雑であるため、公卿たちは杓に式次を書いた紙を貼るものである。またこのような儀式は多数行われた。しかしそれは形式重視であり必ずしも実用を伴ってはいない。だが、失敗すれば朝廷での笑いものになり、また無能のレッテルが貼られることになるのである。この時代が丁度儀式の形式の成立の時期であった。それゆえ、幾つか流派に分かれることもあり、またちょっとした機転で儀式が変わることもあった。
日記を書く人々
当時の人々は、儀式の次第を書きとめて先例と為すために記録を行った。それゆえ、他の人間にも読まれることを意識した、半ば公的な文書である。また現代の我々からすれば、平安時代を知るための貴重な史料となっている。信憑性を期待できるからである。その点、歴史物語は史料という点ではすこし劣る。その例としてまず「御堂関白記」が挙げられる。これが道長自身の日記であり、具注暦の余白に記されたものである。日によって大きく分量も変動する、非常に気まぐれなものである。また漢文法も適当であり、読みにくいものとなっている。だが史料を解読することが歴史学者として重要なことであるというのも、また事実である。原典から出発し論を積み上げることが、最も大切なのである。この日記を書く以上、教養というものが必要となるが、上流貴族は必要な教養を家庭教師に教えてもらう程度で、あまり懸命に勉強する必要はなかった。。これに対し、中流以下の貴族たちは、漢籍を勉強して大学に入り、そこで紀伝道を学ぶ。その大学に入るために試験勉強が必要になる。また、子供は様々な「口遊」を通して基礎的な教養を付けていった。
栄華への道

 

1011年、一条天皇が亡くなり、三条天皇の治世となった。この三条天皇と道長はそりが合わなかった。三条天皇は道長に対抗しうる勢力として、大納言藤原実資に注目し、数々の相談をした。三条天皇の東宮時代には数人の配偶者があったが、その一人は道長の二女姸子であり、もう一人は故大納言藤原済時の娘の娍子であった。2人は三条天皇の即位ののち、同時に女御となったが、1012年、姸子が中宮に立ったのに対し、娍子はとり残された。しかし娍子にはすでに6人の皇子皇女があったため、姸子立后のすぐのち、娍子を皇后に立てた。娍子の立后に対し、道長は中宮姸子の参内の日取りをぶつけ、いやがらせをした。娍子立后と姸子参内が同じ日に行われれば、公卿以下はこぞって姸子の行事のほうへ集まってしまうことは明らかだったからである。このように、三条天皇と道長とのあいだは険悪になり、1013年の賀茂祭において華美禁止が無視されたように、道長はいわば陰でいやがらせをするという手段に出たのだった。東宮には道長の外孫である敦成親王があったため、道長は三条天皇の譲位を考え、天皇は退位の遠くないことを恐れた。ここで、天皇には、眼病という決定的に不利な現象が起こった。また、内裏の火災も相次いで起こり、道長の譲位要求などもあって、1016年の正月、天皇はついに譲位した。こうして、9歳の幼帝、後一条天皇が出現し、道長は外祖父として摂政の地位を得たのであった。
望月の歌
摂政となった道長は、1年余で摂政の地位を長男の内大臣頼通に譲った。こうして藤原家の栄達をはかるうえで、問題となったのは東宮敦明親王のことであった。敦明親王は三条天皇の皇子であり、道長の外孫ではないからだ。1017年の8月6日に、敦明親王は東宮辞退の決意を道長に打ち明け、3日後の9日には後一条天皇の弟であり、道長の外孫である敦良親王の立太子の式典が挙行された。これがのちの後朱雀天皇である。敦明親王は、東宮の地位を退いてのち、小一条院という称号を受け、太上大臣に准ずる待遇を受けることになった。1017年12月、道長は太政大臣に任ぜられた。そしてわずか2ヶ月間でこれを辞し、前太政大臣に変わっている。これは太政大臣という最高の官職が、たんに箔をつけるだけの形式的なものとして考えられていることを示すものといえよう。道長が一家繁栄の路を開く最後の布石としてねらったものが、後一条天皇の後宮に娘を送りこむ、すなわち威子の入内・立后という一件であったが、ここまで来てしまえばそれはたやすいものであった。1018年3月に、入内は達せられた。1018年10月、威子は中宮に立った。中宮職の職員任命が終わり、威子の自邸である土御門邸で祝宴が始められた。この宴の席において道長が詠んだ歌が、有名な望月の歌である。此の世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば道長をこれほどまでに喜ばせたものが、すなわち威子の立后による布石の完成である。布石とは、天皇も東宮も自分の外孫で占め、太上太后・皇太后・中宮と、歴代の后の地位を全部自分の娘で固めることにほかならない。こうして、道長一家の栄華はその絶頂に達した。道長は威子の立后をもってみずから満足し、そののちは急速に世事と離れて法成寺の建立に心を傾けはじめたのだった。
怨霊の恐怖

 

源氏物語に描かれたようなもののけの話は、実話とはいえないが、そこに現れているようなもののけの活動や、それにたいする祈禱・調伏の様子は、そのままの形で当時の記録に出て来る。政治上の陰謀・暗闘の際におだやかな処置と思われるものが多いのも、ひとつには怨霊の祟りを恐れたからではないか。邪気や悪霊を払い除く方法はいろいろあったが、密教の祈禱はそのひとつであった。当時の仏教界の主流といえば天台・真言の二宗であるが、これはともに密教をとり入れて加持祈禱をおこなった。もののけは人間の死霊・生霊であるが、平安時代の霊界に活動していたのは人間の霊ばかりではなく、動植物も、天体自然も、人間世界に禍福の影響を及ぼすものと考えられていた。これをもっぱら扱ったのは陰陽道である。異変があればすぐ占いをするのも陰陽道の役目だった。占いの結果をも含めて、一般につつしむべき非を物忌といった。これに似た謹慎には触穢があり、この触穢の考えは日本古来の潔斎の風習から来たものであった。平安時代の人間が、こんにちにくらべて、きわめて迷信深かったのには、多くの理由が考えられるが、やはり当時の社会全体の気風というものから考えてゆく必要がある。重大なのは、当時の社会が身分や家柄を主眼として組み立てられていて、自力で運命を切り開いていく余地の少ない、停滞的な社会であったということである。当時の人々が望んだのは権力と富力であり、それは朝廷での昇進によって得られるものであるから、かれらが朝廷の官職を望む心の強かったことは、はなはだしいものがあった。そして、その望みが実現するかどうかは、個人の技能よりも運命の力の作用によるところが大きかったのである。運命が、神仏の力を借り、陰陽五行の術を施すことによって好転するとなれば、人々の努力はもっぱらその方向に向けられ、祈禱や法術もそれに応じてますます複雑化して行くわけである。
公卿と政務

 

公卿というのは、摂関・大臣・大納言・中納言・参議の20人程度の人々を指し、すなわち彼らは太政官の最高幹部である。彼らは陣定と呼ばれる会議に出席し、また持ち回りで儀式の当番を行った。陣定は非常に重要な会議であるが、必ずしも公卿は出席したわけではないようだ。また、命令には官符と官宣旨があった。官宣旨は符よりも略式であったが、符と併用されて良く使われた。儀式等の当番のことを上卿と称したが、これは非常に大変な物で、滞りなく行うのは非常に難しいことであった。
刀伊の襲来

 

1019年、大宰府から急使が到着した。これは997年の南蛮の賊以来のものであった。これは刀伊という賊が九州を襲ったという事件であった。京都に於いてこの事件は、あくまでそれほど大きな事件として捉えられることはなかったが、実際には九州で大きな被害を齎した事件であった。刀伊は、小さな船を多数擁して対馬・壱岐・北部九州を荒らして回ったと言う。彼らは人を攫い、穀物を奪うなどの乱暴を働いた。この時、大宰権帥であったのが藤原隆家である。伊周の弟である彼は、豪傑として知られ、また人々に慕われていたようだ。その指揮は正確であったが、賞されることはなかった。刀伊は、対馬判官代の調査の結果、どうやら高麗を以前襲った女真族の一派とわかった。彼らは日本を撤退した後、高麗を襲って逆に撃破されたという。これによって刀伊に捉えられていた捕虜は解放され、後に高麗より返還された。
盗賊・乱闘・疫病

 

このころ、平安京には盗賊が跋扈していた。この盗賊は、武装集団として平安京を駆け回る暴力団的な存在であった。これらの中には、武士的な人間も多分に含まれていた。彼らは内裏にすら侵入し、様々な所で猛威をふるった。このような状況であるから、乱闘も非常に多いものであった。貴族の周辺の世界は非常に荒れたものであったと言える。また、放火も頻発した。公卿の家や内裏すら放火の憂き目にあうことになったのである。天災も多い。とりわけ、疫病は猛威を振るい、死骸が堀を埋めるほどの死者がでることもあった。とりわけはしかや天然痘が流行したようである。これに対して、非常に様々な祈祷が行われた。また医術も様々なことが行われたが、それは迷信めいたものも多く、治療効果に関しては非常に微々たるものであった。
平安貴族の衣食

 

<衣>男性:束帯 計7枚の衣、袴に加え、革帯、靴下、沓、笏を身につけ、武官や公卿の内で特に許されたものは飾太刀を佩用する。平常服はもう少しばかり服の数を減らすが、それでも動きづらく、どうも運動不足気味になったらしい。女性:女装束 十二単というのは女性の正装ではなく、袴、単の上に衣を12枚重ねた桂姿を表している。正装、古い文献にはよく女装束と呼ばれているようだが、これは十二単に数枚の唐衣や髪飾りを身に着けて髪を結ったりする。女性は現代と同じく化粧を施した。お歯黒などが有名なところ。彼女らは天然痘のためにできたあばたを隠したりする為に厚化粧を施したようだ。また、薫物、つまりお香も好んで用いられた。風呂に入る回数も少ない時代だったので、薫物で体臭を隠した。また、そういった用途だけでなく、純粋に香りも楽しみ、歌同様、薫物合なども行われた。衣の部分が贅沢だった反面、食に関してはあわれな程であった。当時の貴族達が食の事について余り文献を残さなかったのも、食の話題はタブーに近いものだったようであるからだ。
法成寺と道長の死

 

この世での栄華の極みに達した道長は、続いて来世の為に動き始めた。1018年、52歳の頃から体調を崩れがちになった事もあり、翌年には剃髪出家、自邸の東隣に法成寺の建設を決意した。また、剃髪した頃からか、現役だった頃は様々な肩書きも持っていて責任感も強かったようだが、それらの肩書きを脱ぎ捨てて責任感からも解き放たれたため、少しずつ我侭な振る舞いが見られるようになったようだ。1021年に法成寺が完成、道長は此処で生活するようになると共に仏教的な生活になり、前年からは御堂関白記も殆どが空白になるようになった。この法成寺建設にあたり、公卿、一般朝臣、そして特に受領たちから多くの寄付が寄せられた。勿論、道長に名前を覚えてもらうためだ。この時、最も点数を稼いだのが伊予守源頼光だが、彼は諸国の受領を歴任するあいだに農民達から吸い上げた財で富を築いたと思われる。この頃になると、農民から不正に取り立てて富を築こうとする郡司や国司を訴えるものが出てきた。特に尾張国などは訴えが多いが、反面、国司の善状、つまり善政を称え、重任を求める、という事もある。また、集団で上京し国司などを訴えることもある。特に除目、受領功過定、つまり国司の成績判定の前が多く、訴える農民達も様々な情報を得て作戦を作っていたようである。こういった陳情、訴え、いざこざなどは地方の農民だけでなく、京の中でも起こっていたようだ。対して国司などは、摂関家に取り入って心証を良くして難を逃れたようである。つまり、贈収賄である。摂関家も国司たちの賄を受け取って、莫大な財力を築いていったのである。話を戻して1025年、道長の近親者が立て続けに病に犯されたり、亡くなったりした。そして道長自身も翌々年の1027年12月3日の未明、62年の生涯を終えた。
浄土の教え

 

末法思想に於いて、西暦1052年は釈迦入滅から正法、像法の世を経て2001年目、其れの年にあたる。平安貴族の政治的大黒柱とも言える道長の死後僅か25年のことである。そんなことで、この前後には貴族を中心に厭離穢土、欣求浄土が広まった。極楽浄土の信仰は、比叡山延暦寺で発達し、その流布には空也、慶滋保胤、恵心僧都源信などの存在がある。空也は南無阿弥陀仏の名号を唱えながら土木工事を各地で行い、京都の街中で人々に念仏を勧め、鴨川のほとりで行った大々的な供養会には左大臣らも出席し、人々の関心を極楽浄土に向けさせた。慶滋保胤は陰陽道の賀茂氏の出であったが、加茂から姓を改めて詩文の道で名を馳せ、後に出家し寂心と号した。また、彼の弟子寂照は文学の大江家の出で、三河守も務めたが、発心して官を捨てて入道した。彼らは熱心な浄土信仰者で、人に与えた感化も大きかった。そして、源信は「往生要集」、要するに「どうすれば浄土に入れるか?」を分かりやすく示した、浄土についての名著である。文章を簡潔にまとめて読みやすい、しかも内容の充実しているものを書くには大変な学識を持っていなくてはならない。その点で彼は優れた学僧であったと思われる。また、極楽浄土を説くのに、いかに美しい極楽浄土を表現するか、という点から多くの来迎図が描かれた。そこには、当時の日本人が考えうる限りの「美」が映し出されている。
欠けゆく月影

 

1017年には道長の後をついで頼通が後一条の摂政、1019年には関白となっていた。彼を中心とする摂関家は揺ぎ無いように見えたが、道長を失うというのは、大黒柱が抜けてしまったようなものであるといえる、彼は一条、三条天皇の外叔父であり、後一条の外祖父として、そしてまた公卿の筆頭であり、太政大臣の地位を得、娘を後宮に入れて将来にわたって外戚の地位を確立した、理想的な摂関であった。頼通は、執政者として十分な人物であったと思われるが、帝王の如し、と称えられた父親に比べると、どうしても劣るように見られてしまう。その彼の上に、道長が背負っていた責任の全てが帰した。彼は父の築いた体制を維持するのが精一杯だし、その上、彼は父と違って政敵になり得る有力な弟たちが公卿として地位を占めていた。道長の時代に彼を支えた実資、行成、公任ら老公卿たちも次々と引退、或いは亡くなっており、必ずしも頼通に協調する公卿たちも減っていった。更に彼は、後宮に入れた娘達が皇子に恵まれず、外戚体制を維持できなくなった。かくて摂関家の衰運は明らかとなり、頼通の威令も弱まり、世間では暴徒、乱闘、殺戮が蔓延り、関白邸にも強訴の僧達が押し寄せ、放火される始末。この頃の騒然たる世間が、道長の姪が記した更級日記に残されている。1052年には末法に足を踏み入れ、王朝の貴族に代表される平安中期は幕を下ろし、院政期を経て、武士ら新興勢力が台頭してくる。
 
歴史雑説

 

 
「稲の日本史」1
評1
本書には今までの学説や、それをもとにした常識を真っ向から打ち砕くすごい仮説が、DNA考古学という最新のテクノロジーと地味で地道なフィールドワーク、それに著者の鋭い完成と観察・推理力によってごくさりげなくだが提示される。
その仮説とは「弥生人は来なかった」「縄文人が水田稲作を導入した」というものである。「たしかに弥生時代に大きな変革はあった。稲作もただ今目の前に広がるような広い水田ではなく、従来の縄文型熱帯ジャポニカの混じった幼稚なものであり、しかも当時の食の構成は縄文時代との断絶もコメ中心でもなかった。いろんな面から見て(消去法でいけば)変革者の担い手は縄文人だった」というのだ。
実は日本中大騒ぎになるような仮説だが、そのことを充分知った上で、綿密な調査の上に立ち、収集・選抜・消去という、まるで集団遺伝学のセオリーに似た手法を駆使して、この大胆な仮説を構築している。すなわち、前半ではDNA検査の仕組みを判り易く巧みに紹介しながら、加え豊富なフィールドでの検証・実証を元に、今の「水田稲作」仕組みは、支配者の巧妙で執拗な統治施策であって、その仕組みが完成して約五百年しか経過していないのだという。
本書は「日本人は縄文人と弥生人とのハイブリッド民族」だという塾長の説に、痛打を与える一方で、消費者だけでなく生産者まで「コメ離れ」した現状を打破するためには、縄文人が取り組んできた自然と調和した農法への回帰も提案する。
評2
縄文時代に農耕があったとする縄文農耕論は昔からあった。しかし、縄文時代の稲作については、考古学界では否定的な見解が大勢を占めていた。その主な理由は、米粒が発見されても水田跡や農具等の稲作遺構が出てこないことにあった。
1999年、岡山市の6400年ほど前の朝寝鼻貝塚からイネのプラントオパールが発見された。縄文遺跡からのプラントオパールの発見は他にもあった。皇學館大学の外山秀一さんによると縄文時代晩期後半のものを別にしても、縄文時代の遺跡におけるプラントオパールの検出例は30件に及び、日本列島の西半分を中心に広い範囲に及んでいるとしています。このことは縄文時代の前期以降、西日本各地で稲作が行われていたことを示すとしています。
しかし、一方では、この時代の水田跡や農具等の稲作遺構は出て来ません。そこで著者は、縄文稲作が焼畑のような環境で作られたのではないかと考えます。焼畑は、畑ですから水田跡は、残りません。
ところでイネの品種は大きくインディカとジャポニカに分かれています。イネの葉緑体や細胞の核のDNAの分析によって、ジャポニカ種はさらに熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカに分けることが出来るとされます。
日本には、野生のイネは存在しないのでイネはどこからか伝えられたことになります。著者は、イネの渡来経路として古くから以下に示す3本のルートが想定されてきたとします。
1は、朝鮮半島経由で主に考古学者らに支持されてきたルートで朝鮮半島と九州北部との文化要素の共通性を考えれば自然なルートとしています。
2は、長江の河口付近から直接九州など日本列島に達したとする、いわゆる直接渡来説です。これは両地点でのイネの遺伝的性質の類似から出てくる説のようです。
3は、かつて柳田国男が「海上の道」と呼んだルートです。南西諸島から水田跡などの遺構が出ないので考古学界は否定的でした。
1及び2の説はいずれも「水稲稲作と水稲」の渡来を問題にしたものであって、熱帯ジャポニカと焼畑を意識したものではなかったのです。
イネの古くからの品種である在来品種の遺伝子分布を調べると熱帯ジャポニカの形質を持つ品種はあちこちに散見され、その頻度は特に南西諸島で高かったとしています。このことと符合するかのように、熱帯ジャポニカに固有と思われるいくつかの遺伝子をもつ品種の頻度も、南西諸島で高かった。
こうしたことから熱帯ジャポニカが南西諸島を経由して、柳田の「海上の道」を通って日本に達したと考えたとしています。
弥生時代の遺跡から出土したイネの遺伝的性質を調べると、約4割程度が熱帯ジャポニカであることがわかったとしています。水田で熱帯ジャポニカが作られていたことになります。
縄文時代前期以降に、熱帯ジャポニカ種の稲が「海上の道」を通って九州に到達した。この稲は日本の西半分の地域で焼畑耕作により、栽培された。
九州で縄文時代晩期の水田跡が見つかっている。このことから、このころには揚子江下流域を源とする温帯ジャポニカ種が日本に入ってきたと考えられる。これは水田を伴う水稲稲作であった。
日本の稲は、縄文時代の熱帯ジャポニカと弥生時代の温帯ジャポニカという二重の構造を持っていたことになります。そして、熱帯ジャポニカは、すぐには無くならないで、弥生時代の水田でもずっと作り続けられたことになります。 
評3
日本のイネも稲作も多重な構造をもっている。幾重もの構造の中で主たる構造をなすものが、縄文時代に渡来したと思われる熱帯ジャポニカと焼畑の稲作(縄文の要素)と、弥生時代に渡来した温帯ジャポニカと水田稲作(弥生の要素)の二つである。縄文の要素は、弥生の要素にとって代わられ、姿を消したものと考えられてきた。だが弥生時代以降のイネと稲作の中に、縄文の要素はしぶとく生き残っていたようである。弥生時代のイネが、熱帯ジャポニカを多く含むこと、また稲作も休耕を伴うなど縄文以来の伝統を色濃く受け継いだスタイルをとっていた。つまりイネも稲作も、縄文時代と弥生時代間には、以前考えられていたほどの大きな断絶があるようにはみえない。むしろ弥生時代がイネや稲作に関しては縄文時代の延長線上にあるともみえる。
「稲の日本史」は歴史を大きく五つの時代に分類する。
第一の時代はイネのなかった時代で、生活の糧の主な部分は狩猟と採集によっていたが、部分的には原始的な農業も行われていた。青森県の三内丸山遺跡はこの文化期の典型的な遺跡のひとつで、栽培されていた植物には、ヒエ、クリ、ヒョウタン、アカザ、ゴボウなどが挙げられる。三内丸山遺跡に巨大集落が誕生したころ、西日本各地ではイネの栽培がほそぼそと始まっていた。(日本最古の稲作の痕跡 岡山市内にある6400年ほど前の朝寝鼻貝塚からイネのプラントオパールが発見された。1999年4月20日)
第二の時代は縄文の要素が拡大した時代である。この時代が始まるのは、西日本では6000年ほど前(縄文時代前期から中期ごろ)、東日本ではずっと遅れて3000年ほど前(縄文時代の後期ごろ)と、大きな開きが見られる。この時代、イネと稲作は列島南西部では相当の広がりを見せ、食料生産の柱のひとつになっていた可能性が高いが、米が主食というような状態ではなかった。そしてこの時代が終わるのは、北海道、南九州と南西諸島を除く列島全体を通して、2500年ないし、2700年前(縄文時代の晩期ころ)のことである。
第三の時代は大陸から水田稲作の技術が持ち込まれた時期(縄文時代晩期ころ)に始まった。この時代は列島のほぼ全体で中世の終わりころまで続く。この時代は縄文の要素と弥生の要素がせめぎあった時代で、弥生の要素は約1500年かかって北海道の大半を除く日本列島ほぼ全体にゆきわたる。弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもない。日本列島では農耕の開始や広まりは実にゆっくりしたものだった。中世に至っても荘園や寺領内に相当量の不耕田(休耕地)があり縄文の要素が残っている。
第四の時代が水田稲作が定着した時代で、近世から近代初期までがこの時代に含まれる。「見渡す限りの水田」という景観が登場したのは、おそらく太閤検地のあと、あるいは近世に入ってからではないかと思われる。常畑化した水田の稲作を広めようとしたのは人的な力、それも支配者の力であった。人口の増加などによって自由に使える土地に制約が出てくると、それまでのように従来の耕地を放り出して新たに開墾することができにくくなる。一箇所の土地を耕し続ける時間は長くなり、常畑化が進行する。土地を支配する側にとって、いかに狭い土地から高い生産性を上げるかはコストパフォーマンスの面からいってもっとも注目される。近世に入り、新田開発などの大型開発が行われるようになると、反収(一反[10アール]あたりの収穫高)への志向性は一層強いものとなった。
第五の時代が近代から現代に至る時代で、稲作もまた西洋近代化の洗礼をまともに受けた。この時代は、言葉を換えれば弥生の要素と西洋文明のハイブリッドの時代でもあった。イネの反収は、第三時代から第四時代までの2000年間の水準(160−190キロ)から、わずか100年余りの後に三倍弱の518キロに達した。反収が奇跡的なあがり方してきたのは、化学肥料の開発、品種の改良、栽培技術の改良、農薬の普及がある。 
 
「稲の日本史」2

 

縄文稲作はあったか    
縄文の前〜中期にヒプシサーマル(気候的最適期)と呼ばれる時代があった。6500年前から4000年前のことである。その当時の気温は現在より、東日本で2度、西日本で1.5度ほど高かった。その温度上昇は海水面を現在より2〜3mから4m押し上げていたといわれる。
当然のことながら、たとえば図のように関東平野などでは、海水が栃木県上都賀郡藤岡町のような内陸まで侵入した。これは「縄文海進」と呼ばれている。
その様子は貝塚遺跡が数多く内陸に分布していることから実証される。
この時代、縄文文化は最盛期を迎える。三内丸山の大規模集落があったのもこの時期であったし、八ヶ岳山麓に環状集落が繁栄したのもこの時期であった。
しかし、4000年前ごろから徐々に冷涼化が始まり、縄文文化の繁栄にも陰りが見えてくる。それはまた、次の時代・水田稲作を迎える序章の始まりとも言えるのである。第1部-10節、照葉樹文化圏とナラ林文化圏と一部ダブル面があるが、ここでは縄文稲作について少々詳しく調べたい。

今年、平成19年の夏は猛暑であった。この原因の一つに地球の温暖化が問題となっている。これが長期的な自然現象によるものか、CO2など温室効果ガスの影響によるものか、いずれにしろ急速に地球の平均気温は上昇している。
そうした状況下で、縄文海進の事実は我々に大きな示唆を与えてくれる。少なくとも我々は人類の我が侭で“21世紀海進”を起こしてはならないと、銘記すべきであろう。
プラントオパール分析法
ある年配以上の方々は子供のころ、野原や川辺でススキの穂を採ろうとして、剥き出しの腕や足の脛などを鋭利な刃(葉)でスッパリ斬られた経験をお持ちだろう。これが所謂プラントオパールと呼ばれる物質の仕業なのである。
ススキをはじめ、イネ、ムギ、キビ、トウモロコシなどのイネ科植物は吸い上げた水分の中の珪酸という物質を、機動細胞という細胞に蓄積する性質がある。機動細胞に溜まった珪酸は細胞内で一つの固まり、珪酸体となる。
イネ科植物が枯れたとき、有機物は分解されて土に還るが珪酸体はガラス質であるため腐ることなく、そのまま1万年でも土の中に残留することになる。
その珪酸体というガラス成分が掘り出されたものがプラントオパールと呼ばれるのである。プラントオパールは植物の種類によってその形状が違う。事前にその形状を把握していれば遺跡などから出たプラントオパールがどういう植物に由来するものか分かるわけである。
土中から検出されるプラントオパールを定性的に或いは定量的に分析して、その植物の属や種を特定したり、野生か栽培かなどを判別する所謂「プラントオパール分析法」を確立したのは、農学者 藤原宏志である。
藤原の著書「稲作の起源を探る」から引用した次のイネのプラントオパールの顕微鏡写真をみると、イネのジャポニカとインディカの違いがよく判別出来る。
このプラントオパール分析法が開発されることによって、栽培や農耕の遺跡が発掘されなくとも、米粒や籾殻が検出されなくとも、イネのプラントオパールが認められれば稲作の可能性を考えることが出来るようになった。
しかも炭化米や籾殻、籾痕が認められても、他所から持ち込まれた疑いが拭えないが、プラントオパールは葉や茎がなければ発生しないものであるので多量のプラントオパールが検出できれば、少なくともそこにイネが生育していたと考えてよいのである。
遡る縄文稲作の年代
このプラントオパール分析法の開発によって日本列島に於ける古代イネの研究は急速に進むことになった。1999年時点でプラントオパールが出土した遺跡は、農学者佐藤洋一郎によれば次の31例に及んでいる。
さらにその後、2005年2月には、岡山県の灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかった。その量は土1gあたりプラントオパール2000〜3000個という大量のもので、表の縄文前期の遺跡・朝寝鼻貝塚の
数千倍の規模である。これはただ単にイネが何らか理由で持ち込まれたという規模ではなく、まさに栽培されていたというレベルである。左の写真から判別すると、イチョウの葉状の形からジャポニカ米の系統と見られる。さらに小麦・キビ・ヒエやアフリカ原産のシコクビエ、コウリャンなども少量ながら発見されている。
今後縄文稲作の年代はもっと遡る可能性があるが、現在最も古い朝寝鼻貝塚の6400年前という年代測定が正しければ世界最古級の稲作遺跡である河姆渡遺跡からわずか600年でこの列島に伝播したことになる。
稲作は弥生時代から、せいぜい譲っても縄文晩期後半からという定説に相変わらず固執する学者もいるが、以上のように各地でプラントオパールが検出され、かつ大量出土する遺跡が現れてくれば、縄文稲作の存在自体を否定することはもはや出来ないであろう。
みえてきた縄文稲作
プラントオパールの検出状況からみるとかなり活発な稲作が推測できるのに、不思議なことに考古学的な直接の証拠、たとえば耕作の跡やそれに使う道具類が出てこないというのも事実である。 これは何故であろうか。
まず上表の31例の遺跡がある地形を見てみよう。大きく分類すると次のようになる。
・沖積低地     9例 (29%)
・台地及びその縁辺 18例 (58%)
・山間・山麓    4例 (13%)
現代の日本列島に住む我々にとって稲作とは無意識のうちに水田稲作をさす。しかしこの分類でみると、水田に向きそうな沖積低地は30%に満たない。
つぎにイネのプラントオパールに随伴して検出された雑穀や雑草について調べてみよう。
藤原宏志の「稲作の起源を探る」から調べると、
・岡山県南溝手遺跡出土の土器の胎土からイネとともにキビ族植物のプラントオパールが検 出された。
・上表よりやや遅い縄文晩期の遺跡、都城市黒土遺跡でもイネにくわえてアワ、ヒエ(キビ
族植物)など雑穀類が検出された。
佐々木高明の「日本史誕生」によれば
・生物考古学の第1人者笠原安夫が岡山県の遺跡で、おびただしい炭化種子を調べた結果、 縄文晩期の層から焼畑によく生えてくる畑雑草を大量に検出した。
・福岡市の四箇(しか)遺跡からヒョウタン・マメ・ごく少量のハダカムギとアズキの炭 化粒、焼畑やその周辺に生育する雑草や樹木類の炭化種子が数多く検出された。
先述の彦崎貝塚の例や藤原、佐々木の叙述から見えてくるのは縄文のイネは主穀物ではなく雑穀の中のひとつとして位置づけられたのであり、且つ水田稲作ではなく、焼畑乃至畑作農耕が営まれていたと推定されることである。
佐藤洋一郎はこの辺りについて次のようにまとめている。
1.現在の東南アジアの焼畑(近世の日本の焼畑もそうだが)と縄文の焼畑との相 違点は、縄文時代の焼畑が平らな土地に開かれていたのではないかという点である。すなわち、人口密度の低かった縄文時代は土地も十分にあり、現在のように急な斜面などで焼畑をする必要はなかったのである。
(沖積低地であろうと台地およびその縁辺であろうと焼畑の可能性が大きいと佐藤は指摘しているのである。)  
2.1の地形と関連して縄文時代の焼畑には水が豊富にあったのではないかという点である。春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払い、夏の間は高くなった地下水位に支さえられて稲作を行う。渇水の年にはイネに代わってアワ、キビなどの乾燥に強い雑穀の収穫を見込む。反対に雨が多く湿った年にはイネが多く収穫出来たであろう。その意味では、縄文時代の稲作環境を「焼畑の稲作」と呼ぶことは誤解を生じるかもしれない。かって渡部忠世先生が言われた「水陸未分化」の稲作というのがより適切なようにも思われる。
(典型的な焼畑というイメージではなく、焼畑の土壌改良方法を取り入れた平地での畑作農耕があったと読める。)
縄文の稲作が低湿地での水田ではなく、やや高い台地のようなところでの焼畑のような稲作であったとすると、これからも畔のような遺構はもとより鍬などの道具も出土することは期待できないと言わねばならない。何故なら焼畑なら道具は棒杭1本でこと足りるからである。
縄文の稲作がプラントオパールなどの状況証拠ばかりが出て耕作跡などが出てこない原因がかなり明らかとなった今、縄文の稲作を否定する事由はなくなったと言ってよいだろう。 
縄文イネの品種と起源は    
縄文稲作が畑作系のそれも焼畑を活用する稲作だったとすると、そこではどんな品種のイネが栽培されていたのだろうか。
藤原宏志は「稲作の起源を探る」で「宮崎県えびの市の桑田遺跡で縄文晩期の層からイネのプラントオパールが検出され、その形状解析から熱帯型ジャポニカである可能性が高いことがわかったのである。・・・水田稲作の伝来以前にイネが存在していたとすれば、やはり、焼畑など畑作系譜の稲作を想定する以外にないとわたしは思う。水田稲作にともなう栽培イネが温帯型ジャポニカであるのに対し、畑作系のイネは熱帯型ジャポニカが多く、しかもこれが縄文時代のイネに多い。」と述べている。
また佐藤洋一郎も「DNAが語る稲作文明」のなかで「最近では、縄文土器の胎土から稲のプラントオパールが検出されているが、これも多くは熱帯ジャポニカの稲由来のものであると言われている。----ごく端的に表現するなら、温帯ジャポニカが水田稲作を代表とする集約的な稲作に支えられた稲。熱帯ジャポニカは焼畑を代表とする粗放な稲作に支えられた稲である。----熱帯ジャポニカは縄文時代に西日本に伝わり、粗放な稲作に支えられていたと考えられる。」と、藤原も佐藤も縄文のイネは熱帯ジャポニカであったと述べている。
縄文の稲作の品種が熱帯ジャポニカであったことはまず間違いないらしい。
稲作の起源説の変遷
もともとアジアのイネの起源地は東インドの低湿地地帯だと考えられてきた。しかし1977年、渡部忠世は緻密な実証的研究の結果、古代の稲の伝播路の原点がインド東北部のアッサムとそれに隣接する雲南高地に収斂することを発見した。こののち、イネの起源地はアッサム・雲南センターであるというのが世界的定説となった。これでイネの起源地の問題は解決した、と誰もが思っていた。
ところが丁度そのころ、1973年、長江下流の南、余姚(よよう)県河姆渡(かぼと)村から数十センチの厚さに堆積した籾をはじめ、おびただしい量の遺物が出土した。世界最古の稲作遺跡として世界にその名を知られることとなる河姆渡遺跡(7000年前)の発見である。
アッサム−雲南起源説の隆盛の中、文化大革命による考古学者受難の中、この河姆渡遺跡の発掘は細々とつづけられ、1986年北京農業大学の王在徳によって発掘成果が発表された。その論文に出てくる地図を見ると稲作は7000年前に長江下流・中流で発生し、その後長江を下流から中流へ遡るように広がり、3000年前くらいに今の中国の稲作地帯のほぼ全体に及ぶようになることがわかる。(アッサム-)雲南センターへはほぼ最終期に近い時期に広がった、と従来のアッサム−雲南起源説(雲南を起源として稲作は長江を下るように広がる)とは逆の仮説を王在徳が展開していることが分かる。
いまや稲作の起源は長江中・下流説が主流になっており、それはさらに発展して中国の文明は黄河文明に先立って「長江文明」があったのではないかという議論にまでなっている。
熱帯ジャポニカの起源
先に縄文イネは熱帯ジャポニカであったとした。それでは温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカはどう違うのか、稲作の起源とどう関係するのかが問題となる。図表から、熱帯ジャポニカが粗放な作業で収穫が得られる品種であることが大体想像できる。
おそらく、ごく少数の人々が何処に漂着するか分からないような遠洋航海に出るような場合、当然最低限の運搬物しか持って移動できないような場合、そして相手の農耕水準が粗放なレベルのとき、選ばれたのは熱帯ジャポニカであったろう。
ではイネの長江起源説とはどういう関係にあったのか。長江のイネがジャポニカであることははっきりしている。しかし温帯ジャポニカか熱帯ジャポニカかは今のところわからない。
考えられることは二つである。
一つは、ジャポニカ米が長江中・下流域で栽培され始めたときから、温帯型、熱帯型の両方が存在していたという考えである。
もう一つは、熱帯ジャポニカのいろいろな性質を見てみると多少の例外を別にして、それが温帯ジャポニカとインディカの中間的な位置にあることである。すなわち熱帯ジャポニカが温帯ジャポニカと何か未知の系統との自然交配によって生まれた可能性があるということである。
いまのところ明確な答えは出ていない。しかし私の考えは後者に傾いている。
稲作の発生や伝播の歴史が分ってくるにつけ、温帯ジャポニカ→熱帯ジャポニカ→インディカという開発過程が見えてくるからである。 
縄文稲作は何処から来たか
縄文イネやイネの起源についてかなり詳しく調べてきた。それは何処の、誰が縄文イネをこの日本列島に持ちこんだかを知りたかったからである。また、その人たちが日本人の形成にどの程度影響を及ぼしたかを知りたかったからである。
熱帯ジャポニカは何処から来たか
この点、佐藤洋一郎は日本および周辺のイネの在来品種(国の機関などが品種改良する前のイネ)を調べた。在来品種のほとんどが温帯ジャポニカに属するものであったが、なかに熱帯ジャポニカの形質を持つ品種があちこちに散見された。その頻度はとくに南西諸島で高かった。また遺伝子レベルで熱帯ジャポニカ固有の遺伝子をもつ品種の頻度も南西諸島で高かった。そうしたことから佐藤洋一郎は縄文の熱帯ジャポニカが南西諸島を通って、言い換えれば柳田国男が提唱した「海上の道」を通って、日本列島に達した可能性が十分あると考えている。
しかし沖縄本島はじめ南西諸島にそれだけ古い稲作の遺跡はもとよりプラントオパールも見つかってはいない。
佐藤はこの点について次のように説明している。
「イネが海上の道にある島を伝って北上したとは限らない。つまり島の人々がイネと稲作文化を十分享受したとは限らない。コメは受け入れても、稲作は受け入れなかったかもしれない。もともと海上の道は海人たちの道であった。舟を操り大海原を駆け巡ることの出来た人々が、熱帯ジャポニカをもたらしたと考えられるわけである。・・・・ただ、渡来元、つまり伝播経路を示す矢印の根元がどこにあるのかがはっきりしない」
と少々苦しい説明をしている。図は以上のことを説明した図である。赤丸が熱帯ジャポニカである。熱帯ジャポニカが島嶼部(台湾、フィリピン、インドネシア)からインドネシア半島に分布しているのがわかる。
佐藤は図中の矢印の根元がフィリピン方面にあるかインドネシア半島方面にあるか分からないといっているのである。
柳田国男は南方から流れくる椰子の実、沖縄の島々に産する宝貝の魅力、沖縄の島々の神話などを通じて「海上の道」というロマンあふれる仮説をたてた。確かに魅力的であるが、これまでも検討してきたように人の流れも、文化の流れも、海上の道を裏付ける痕跡が見出せないでいる。そこに唐突に熱帯ジャポニカがこの道を通って日本列島に渡来した、海人が運んだから痕跡は残らないと言う説明は、少々無理があるように思われる。
むしろ河姆渡遺跡の炭化米の中に熱帯ジャポニカの性質をもつものがみつかっているという佐藤の叙述のほうに惹かれる。
すでに第1部の10節で述べたように照葉樹林文化が安田喜憲の言う東亜稲作半月弧から日本列島に伝来し、まさにその地域最大の遺跡、河姆渡から熱帯ジャポニカが伝播したとなれば極めて自然な流れとなるからである。
照葉樹林文化圏の交流の拠点
しかも熱帯ジャポニカと思われるプラントオパールの出土例(前節)31例をみて不思議な一致に気付く。なんと31例中、9例が瀬戸内海それも岡山周辺で、13例が有明海沿岸ないし有明海に注ぐ大河の流域で出土しているのである。しかも、それぞれが一時的なものでなく縄文前期から晩期前半の3000年以上の長期に亘っての事例なのである。
こういうことは偶然では起こり得ない。次のように考えることが出来るのではないかと思われる。
照葉樹林文化の伝来と一口で簡単に言ってしまうが、大陸の照葉樹林センターないし東亜稲作半月弧から、偶発的に日本列島に漂着したとか、“やみくもに”日本列島に人が渡来したのではなく、当時すでに高い水準にあった渡海航法を駆使して瀬戸内海や有明海の一定拠点を目指して渡来していたのではないかと思われることである。端的に言えば、大陸の照葉樹林センターと日本列島の照葉樹林センターともいうべき瀬戸内海、有明海地域との間に「相互交流」が長期に亘って存在していたのではないか。
そして岡山辺りや有明沿岸のいずれかの地に縄文イネのセンター的なところが出来、瀬戸内海や有明海の沿岸各地に稲作の技術や情報が流れていたのではないか。
そういう仮説が考えられるのである。
それは河姆渡と有明海との距離が、実は現在で言えば九州と東京の距離に過ぎず、また当時でいうならば、九州と姫川(ヒスイの産地)の距離と同等で日本列島内の交易とさして差がないということが判れば、あながち無理な仮説とは言い切れないだろうと思う。
もちろん、列島内の移動は安全な沿岸航法によったものであろうし、河姆渡と有明海の間は島影航法やもっと高度な天体航法などもあったであろう。
こうした縄文前期以来の長い交流の歴史が、水田稲作という極めて高度な技術パッケージを無理なく受け入れる素地を北部九州や有明海沿岸、そして西日本各地に作っていたといえるのではないかと考えられる。
また、中国の史書などにたびたび現れる“倭とか倭人”が「黥面文身し好んで沈没して、魚蛤を補う」というように江南地方の習俗との深い繋がりが感じられること、「史記」の秦始皇本紀に出てくる徐福(伝説)の来航地・定住地の最有力地が有明海・筑後川下流であることなど、史実、伝説取り混ぜて交流の強い印象を残していることなど、先の仮説が真実を孕んでいる可能性を強く感じるのである。
長江中・下流域の民族集団
古代史・文化人類学の鳥越憲三郎は中国雲南省にある滇(テン)池や無仙湖の湖畔で、初めて原生種から水稲の人工栽培に成功した。それを生み出した人々はさらに高床式住居や倉庫を考案し、雲南から各河川を通じ東アジア、東南アジアに広く移動、分布した。それらの民族を総称して「倭族」という概念で捉えようという、その倭族が朝鮮を経て日本列島に住み着いた人々を「倭人」と呼ぼうという、大変大胆な学説を提唱している学者である。
その鳥越によると、『史記』に長江下流域以南に「百越」がいたことが記されている。百とはたくさんの意であるが、於越(浙江)、閩(ビン)越(福建)、揚越(江西)、南越(広東)、駱越(安南)などの「越」があり、「越人」がいたそうである。
またおなじく『史記』「呉太伯世家」には、周公の長子の太伯が長江下流域に建国した国が「呉」であり、そのとき太伯に帰服して共に国を築いたという千余家は土着の越人であったと記されているそうである。(鳥越は「越人」のところを「倭族」としているが筆者が書き換えた。)
すなわち長江下流域(江南、華中と呼ぶこともある)には漢民族ではなく、越民族、それも非常に多くの小民族集団がいた。漢民族は北方の黄河流域で、黍(キビ)などを中心に畑作農耕を営み、土間式住居で暮らしていた。
一方、越民族は長江流域で水稲農耕と高床式住居、履物を脱いで上がるという習俗を持ち、黥面文身していた、そういう人々が照葉樹林文化を持ち、長江文明を支えていたと考えられる。
ここまで検討を進めてくると論理的帰結として縄文の西日本人の姿が垣間見えてくる。
おそらく旧石器時代からの原西日本人は長江下流域の南方系の人々とかなりの程度混血が進み、言語も互いに通じ合い、語彙も補完しあっていたのではないか、文化的にも照葉樹林文化を受け入れ、しっかり定着させていたのではないか。
大胆に推測すると先の岡山周辺や有明海沿岸には、長江の越人のコロニー(居留地)が、長江中・下流域の方には西日本人のコロニーが幾箇所か出来ていたのではないか。そういう深い関係さえ考えられるのである。
そうだとすると縄文晩期後半から弥生前期に高度な水田稲作技術を持って、大集団が渡来人として上陸してきても、さして大きな混乱も起こらず受け入れられた意味が分かって来るのではなかろうか。 
本格的水田稲作の伝播    
気候の寒冷化と縄文社会の崩壊
環境考古学の安田喜憲によると、6000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は縄文後期に入る4000年前ごろ、縄文晩期に入る3000年前ごろ寒冷化・乾燥化に見舞われた。
縄文文化は周知の通り、春には山菜、夏には魚介類、秋には木の実、冬には狩猟という、森の恵みに基盤を置いた自然=人間循環系の文化であった。この日本列島の豊かで安定した森、特に東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)の生産力が気候の寒冷化により大きなダメージを被り、縄文人は生活の基盤を失うことになった
たとえば中部山岳の八ヶ岳文化とも言える縄文中期の繁栄は突然崩壊し、巨大な縄文都市・三内丸山もこの時期に突然放棄された。このように気候の寒冷化によって集落が廃絶した例は枚挙にいとまがない。
もう一度地域別の人口の推移を見てみよう。
縄文中期にピークに達した縄文の人口は後期から東日本で、東北地方を除いて、半減する。特に中部の山岳地方は3分の1以下に激減した。
一方注目に値するのは、東日本に較べて極めて人口密度の低かった西日本で低レベルながら人口が倍増したことである。これは西日本が寒冷化の影響を受けなかったからでも、照葉樹林の生産性が上がったからでもない。
考えられる理由は、豊かな森を失った東日本人が西日本地域に南下、流入した結果であろう。
上表を作成した小山修三はある本に寄稿して、広葉樹林に適応した縄文人(東日本人)は照葉樹林が中心の西日本には生きられないと著述している。アボリジニのフィールドワークや北西インディアンなどの実態に詳しい小山の見解は重いが、人間が飢餓に飢えた時どういう行動をとるかは別の話であろうと思う。
たとえば今まで全く人の棲まなかった四国地方が後期の一時期、中国地方を上回る人口を擁したことなど、東日本人の流入なくして起こりようがない。
また、これまでの考察から東日本の縄文人と西日本の縄文人は文化や言語、遺伝子に至るまでかなり独立した集団であったことが推察されるが、それが縄文後期、気候の寒冷化が引き金となって人の流動化を促し、たとえば四国地方に、たとえばアカホヤ火山灰から再生した南九州地方に東日本縄文人が移動した可能性は十分ありうると考える。
佐々木高明によると「この時期(縄文後期)には磨消し縄文が普及し、後期中ごろには、その文様が西日本にも普及し、東・西日本のあいだにみられた地域差が一時的に解消されたことがあった。」としている。これは移動の事実を証す重要な指摘と考えてよいだろう。
佐原真も「縄文時代後期の末近く----とくに九州では、火山灰台地に集落の出現が目立ってくる。東日本からアク抜き技術が伝播したことによって、それまで食べられなかった火山灰地帯の根茎類などの植物が食べられるようになった、という解釈もある。」と述べている。佐原真はさらに踏み込んで、東日本人の南下を指摘しているのである。
繰り返すと縄文後期から晩期にかけての気候の寒冷化が、言語を含む西と東の文化を融合させ、さらに西日本縄文人と東日本縄文人の遺伝子を融合させた、日本列島をかなりの程度一律化したと言っていいだろう。
その後、南九州の東日本縄文人はさらに南下して琉球地方や南西諸島に展開したとすれば、アイヌ人と琉球人が遺伝学上近い関係にあるという説にも整合性をもたらすだろう。
次の3000年前の寒冷化はこの日本列島人により厳しい環境を強いたようだ。東北地方と九州地方を除くこの列島はほとんど過疎地域のような無人状態になる。このとき、1万年を上回る長い縄文時代が、まさに安田がいう自然=人間循環系の文化が崩壊したといっていいだろう。
寒冷化・乾燥化と世界の文明
気候の寒冷化は 当然のことながら日本列島だけで起こったものではない。世界的な気候の寒冷化が各地を襲った。
縄文文化が森の季節の変化に歩調を合わせた自然=人間循環系の文化であったのと同様に、エジプト文明はナイル川の定期的洪水氾濫に歩調をあわせた、やはり自然循環系の文明であった。それゆえ気候の寒冷化がナイル地域の乾燥化を招き、ナイルの水位が下がって氾濫規模を縮小すると生産力が低下し、ツタンカーメンなどのエジプト新王国時代はこの時期に終焉した。
またヨーロッパ大陸ではゲルマン民族の南下によりケルト人をライン川東岸から追い出した。地中海沿岸では民族移動の嵐が起こりミケーネ文明やヒッタイト帝国が崩壊した。
インダス川流域ではアーリア民族が南下して先住民のドラヴィダ族をインド南方に追いやった。
まさに気候の寒冷化・乾燥化が世界各地で民族の南下や移動を誘発し、他の民族の逃避や文明の崩壊を引き起こしていたのである。
中国大陸での寒冷化がもたらしたもの同様に4000年前、中国大陸では寒冷化・乾燥化に見舞われた北方の畑作牧畜民(黄河中流域の漢民族)が長江流域の江漢平原に南下した。
その証拠は湖北省石家河遺跡から三足土器が出土しているが、これは長江流域のものではなくあきらかに中原(黄河中流域の平原地帯)のものである。
長江流域の人々が北方の民の侵入をただ眺めていただけだったとは思えないが、北方の民が馬に乗り青銅の武器を携えていたのに対し、石器しか持たなかった長江の民の抵抗は空しかったに違いない。
気候の寒冷化・乾燥化はその後も繰り返し起こった。そのたびに北方民の長江流域への侵攻があった。
特に3000年前の寒冷化・乾燥化は厳しく、北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。度重なる北方民の侵入により、長江流域を追われて雲南省や貴州省の山奥に逃れた民族も出てきた。(たとえば苗族がそれである。)
長江流域の民が向かったのは中国の奥地ばかりではない。東南アジアにも向かったし、台湾島にも向かった。
水田稲作の日本への伝播
その一つの地が同じ照葉樹の森を持つ日本列島であり、南部朝鮮であった。
前節で詳しく検討したように長江流域の民にとって西日本は、全く知らない土地というわけではなかった。すでに3000年以上に亘って交流をしてきた同じ文化(照葉樹林文化)を共有する地域であった。
安田喜憲は日本列島に渡来してきた人々は北方の民の侵略を逃れてボートピープルとなり、未知の島・日本列島に漂着した人々であったろうといっている。
しかしこれまでの検討から必然的に導かれる結論は、「彼らは北方の漢民族の侵略を受けたとき、昔から交流のあった日本列島をニューフロンティアとして計画的に目指した人々であった。」と言えると思う。
文字による記録がない時代、すなわち祖先の伝承や物知りの古老の物語などが「記録」であった時代、江南地方ではすでに日本列島が確かな伝説の島であったに違いない。そればかりでなく、日本列島と強い繋がりのある集団や推測を逞しくすれば日本列島に同じ集団のコロニーをもつような集団があった可能性もある。だから江南の港から大海に乗り出すときから、この日本列島や同じく照葉樹林地帯である南朝鮮を目的地に定めていたに違いない。
だからこそ彼等は取るものもとりあえず漂流したという形ではなく、水田稲作という技術を、高度に完成されたシステムとして、温帯ジャポニカという水田稲作に適した種籾と水田耕作用の道具類などを携えて日本列島に持ち込めたのであろう。
以上、気候の寒冷化がもたらした一連の動きを日本人の起源の問題としてとらえると、
照葉樹林文化の流入に見られるようにかなり南方化した西日本人集団に対し、寒冷化は東日本人集団の南下をまねき、それはとりもなおさず日本列島人の一律化、すなわち遺伝子や言語の融合を西日本地区にもたらした。しかし、一方で水田稲作を伴った新たな江南方面からの民族集団の渡来を生じさせた。こういうように纏められるであろう。
この段階で、埴原和郎の二重構造モデルでいうところの日本人の基層部分が完成したといってもいいだろう。しかしこれまでの検討から推察いただけると思うが、どう簡素化したモデルを考えても埴原のいう「南方起源説、縄文人日本列島一律説」に組することは出来ないのである。これはおそらく研究の最後の纏めとして提示することになると思う。 
日本人形成の基層に在った集団    
我々は第1部の旧石器時代から第2部の縄文時代の終わりまで、「日本人の起源」という視点から文化の盛衰や遺伝子にどう表現されたかなどを考察してきた。そして埴原和郎の言う日本人の形成過程のなかでも「基層人」という人々がどういう人々であったかを明らかにしてきた。その「基層人」についていままで辿ってきたところを表に纏めると次のようになる。
1)まず最初の日本人は、この日本列島に30000年前頃石刃石器の文化をもたらした人々であった。彼等は中国北部・華北方面の北方モンゴロイドであったようだ。彼等は朝鮮半島を経由して日本列島に到来し、本州北端まで(津軽海峡で北海道への渡海を阻まれた)分布した。約1万年に亘ってその状態が続いた。
2)もちろんその間、断続的に中国北部・華北方面やその他の地域と何らかの交流があったであろう。しかし大きな節目は20000年前ごろ、同じ中国北部・華北の方から石刃石器より格段に進歩したナイフ形石器文化を携えた集団がやってきたことであった。その渡来は何波かに亘って続いたと思われるが、日本列島の本島北端まで達した集団は東日本地区に杉久保・東山型ナイフ形石器の文化をもたらし、やや遅れてやってきたであろう集団は西日本地区に茂呂・国府型ナイフ形石器の文化を展開した。はるか昔の、この時代から既に日本列島には「東西文化の差」というものが見られるようになったが、まだこの時期人口分布に格差が認められる段階には達していない。
3)12000〜13000年前、バイカル湖方面からおそらく樺太を経由して北海道・東日本にドッと細石刃文化が流入してきた。これはクサビ形細石核持ち、荒屋型彫器を伴うという細石刃文化であった。この文化の影響は極めて強くそれまでのナイフ形石器文化を消滅させてしまうほどであった。この集団の渡来が何波に亘ったか分らないが、第1部-12で「推定 縄文人(東日本人)のGm遺伝子頻度」の表でも示したように、総勢では1万人以上であったことが推定できる。当時としては極めて大規模なものであったろう。
4)一方西日本には20000年以上に亘って交流のあった中国北部・華北方面から半円錐形細石器核を持つ細石刃文化が流入した。(西日本の旧来のナイフ形石器文化が、東日本の細石器文化に刺激を受けて半円錐形細石刃文化が発生したという説もある。)ここに日本列島の文化ははっきりとした東西差を生じることとなった。民族的にもバイカル湖周辺にいた集団が東日本に、旧来から日本列島にいた中国北部・華北系の集団が西日本に分布した。言語も習慣なども異なっていたに違いない。人口規模も当時、東日本には15000人規模、西日本は2000人規模と大幅な差がついたと思われる。
5)その後、九州地区は荒屋型彫器を伴わない(福井洞穴型)クサビ形細石核による細石刃が生まれる。これは従来どおり華北から伝来したと言う説がある一方、華南から伝わったとの説もある。もしそうだとすると、西日本にはじめて南方系の遺伝子が持ち込まれたことになる。縄文土器(隆起線文土器)はこの福井型細石器文化のなかから生まれた。ほぼ同時期、東日本では無文土器が生まれ縄文時代が始まった。
6)6000年前ごろピークに達したヒプシサーマル(気候最適期)は日本列島の森、特に落葉広葉樹林を拡大させ且つ単位当たりの生産力の増大を生み出し、人口は急激に増加した。最適期を過ぎても人口の増大は止まらず縄文中期には東日本の人口は250000人を上回るほどになった。三内丸山や、尖石をはじめとする八ヶ岳山麓が最盛期を迎えたのもこの時期である。一方、西日本の人口は伸びず縄文中期でも近畿、中四国九州を合せて1万人に達していない。縄文時代10000年を通じて人口は東日本が常に西日本を大幅に上回っていた。縄文文化が東日本中心の文化であったといわれる所以である。
7)縄文時代は狩猟・採集の極めて原始的な社会で、文化的にも低温焼成の縄文土器に終始した閉鎖的な文化であった、というイメージがなかなか拭えない。しかし既に明らかにしてきたように縄文文化は日本海や東シナ海を挟んで国際交流の活発な文化であった。列島内の交流も黒曜石やヒスイを交易品として極めて活発であり、非常に活力にあふれた文化であったといえる。そうした中で、西日本には中国江南地方から照葉樹林文化が、東日本には沿海州・アムール地方からナラ林文化がもたらされ、且つ交流も断続的にあったことと推察される。東日本でのその交流は遺伝子的に大きな変化をもたらすものではなかったろうし、言語なども同じ系統ではなかったかと推測される。
8)しかし西日本では、まず西日本の基礎人口が少なかっただけに小集団の渡来や交流であっても影響力が強かったであろう。また南方からの新しい文化(照葉樹林文化)は照葉樹・常緑広葉樹林に生活する西日本人にとって有益な知識を与えたことだろう。中国北部・華北系の北方型の形質を持っていた西日本人は照葉樹林文化を通じて、南方型の遺伝子や南方の言語・語彙、南方の漁労民の技術や生活習慣、ヒョウタンやエゴマ、熱帯ジャポニカのイネなどの栽培植物を取り入れたようである。たとえば次章以後触れる予定の言語としての日本語は、文法は北方型のアルタイ的形式であるのに対し、語彙は南方的な母音を強調する言葉であり、オーストロネシア語やビルマ語などとの関係も指摘されるという二面性を備えている。このような現代日本人にも大きく深い影響を残しているアジア南方の文化は、このころから(縄文前期・6000年前から)長い年月をかけて取り入れられて来たに違いない。
9)気候最適期を過ぎて寒冷化傾向にあった気候は、縄文後期、一層の寒冷化が進む。豊かなナラ類を中心とする暖温帯落葉広葉樹林に代わってブナやミズナラを中心とする冷温帯落葉広葉樹林が拡大すると縄文の森の生産力は急激に低下し、東日本人に壊滅的な影響を与えたと思われる。三内丸山大規模集落は完全に放棄され、八ヶ岳山麓の環状集落も消滅した。小山修三によれば中部地方の人口は、4300年前の71900人から1千年後の3300年前には22000人と3分の1以下に激減した。東日本全体でも251800人から140700人へとほぼ半減した。
10)西日本の植生はこの間それほど変化していない。気温変化が照葉樹林を変えるほどではなかったようである。しかしこの同じ間に西日本の人口は気候変化に逆行して倍増した。その必然性を招来する要因が西日本地区サイドにあったとはこれまで報告されていない。これは明らかに主要な生活の場を奪われた東日本人が、西日本地区に南下してきた結果であろう。従来からの西日本人が縄文中期から後期にかけて人口を維持していたとしても、東日本人の流入は10000人以上に達したことになる。東日本人は人口密度の低かった西日本の地で、西日本人の空白地帯(たとえば四国地方とか南九州地方)に移り住んだであろうし、あるいは現地の人々と共存を果たしたことであろう。西と東の縄文人はこの時はじめて本格的な遺伝子の混交や言語、文化の融合を果たしたと言えるだろう。
11)その後さらに寒冷化が進み、3300年前から2900年前のわずか400年間に、今度は西日本も東日本も同時に人口が更に半減した。日本列島全体(除く北海道)でピーク時には26万人を数えた人口はわずか76000人まで減少した。これは縄文前期以前の水準である。縄文文化の崩壊はまことに凄まじいと言わねばならない。かろうじて東北地方が人口を維持して爛熟した亀ヶ岡文化を生んだ。九州地方もかろうじて、また東日本人南下以前の状態、6000人水準に戻ったところにとどまった。まさに安田喜憲のいう自然=人間循環系の文化が気候の激変に耐え切れず崩壊したといって良いだろう。また埴原和郎のいう「基層人」がどういう人々であったか、いろいろな説や議論があったとしても、後世に影響を与える最終段階において西日本では僅か11000人、東日本でも65000人に過ぎなかった、ということが前提になることを認識しなくてはならないだろう。画家の岡本太郎が言うように、また哲学者の梅原猛が指摘するように日本文化の基層が縄文文化にあるとするなら、76000人の--文字を持たぬ人々が--それをどのようにして子孫に伝え得たのか、現代まで伝えられてきたのか。興味は尽きないものがある。
12)こういう異常な事態の中に水田稲作という新しい技術とそれを携えた人々がやって来たのである。それもこれまでの規模とは比較にならない規模で・・・。
基層人のGm遺伝子(試論)
縄文人のGm遺伝子を推定してみた。この手法で基層人を推定するとどうなるだろうか。
まず東日本の基層人は人数は大幅に減ってしまったが、縄文中期から晩期まで遺伝子頻度を変えるほどの外部からの攪乱要因はなかった。従って次表のようにGm遺伝子の頻度は変わらなかった。
西日本には縄文晩期1万人規模の東日本人の流入があった。この要因を加えると西日本の基層人のGm遺伝子頻度は次表のように推定される。
これは試論の試論みたいなものに過ぎないが、現代高知人のGm遺伝子頻度が順に0.440 0.200 0.255 0.150であるのに対して、それほど非現実的な数値でもないように思われる。
なお、上表では基層人の最終段階で加わったと思われる江南地方の人々を計算に加えなかった。その規模がどれ程であったか、朝鮮半島からの水田稲作の渡来とどちらが先であったか、検討が必要と思うからである。 
水田稲作の開始とその実年代    
縄文晩期後半の水田発見
福岡空港南端に程近く板付遺跡はある。福岡平野の真中、御笠川と那珂川に挟まれた水田にはまたとない適地にそれはある。
この遺跡は以前から発掘が行われていたが、1978年、縄文晩期の標準的な土器とされてきた突帯文土器の一種、夜臼(ゆうす)式土器だけが出土する層から立派な水田址が発掘された。その水田は1区画が400u(20m×20m)と推定される本格的なものであった。
この発見は「農耕」はすべて弥生時代(2300〜1800年前)になってからはじまると信じられていた学界から大変な驚きをもって迎えられた。
その驚きも覚めやらぬ1980年、さらに古いと思われる2600年前の「日本最古の水田跡」が玄界灘にのぞむ唐津市菜畑で発見された。最古の水田は1区画が4×7m程度と板付遺跡のそれに較べれば小ぶりなものであったが、その土木技術は決して見劣りのしない高度なものであった。
その後も縄文晩期後半の水田址発掘が各地でつづき、農耕は弥生時代からという常識は完全に否定された。いまや水田稲作の発生は縄文晩期後半からということが定説化し、縄文晩期後半を弥生時代に組み入れ、弥生前期の前に早期を設定しようという意見も強くなっている。(事実、これから検討する国立歴史民族博物館(歴博)などは弥生早期を使っている。)
弥生始期の実年代はいつか
考古学などの分野の宿命はどんなに精緻な論理を展開しても、ただ一片の小さな発見でそれまでの全ての理論体系が瓦解することがあるということであろう。
水田稲作は弥生前期からとあれほど固く信じられていた学説も、板付遺跡の弥生前期の層のわずか40cm下の層から縄文時代の水田が現れた時、一気に崩れ去った。
青森県埋蔵文化財調査センターの岡田康博によれば三内丸山遺跡は、江戸時代初期から知られていたし、これまで何度も発掘調査が為されていた。その遺跡から1992〜1994年の調査で思いもかけぬ巨大な都市と膨大な遺物が発掘されたのである。それまでの縄文観、すなわち縄文文化=狩猟・採集、移動の文化だけでは定義できない、豊かで安定した「文明」とも言える大規模で計画的な集落(都市)がそこには1500年の長期に亘って繁栄していたのである。この発見はそれまでの縄文観を完全に覆すものであった。
これからも、こうした予想もしない発掘や発見がそれまでの学説や理論を脅かすことであろう。
国立歴史民族博物館(歴博)が2003年7月25日の特別講演会で発表した「弥生時代の開始年代- AMS年代測定法の現状と可能性 -」はまた別の角度から学界に衝撃を与えた。
講演会の冒頭、その概略を説明した藤尾慎一郎は
---九州北部の弥生早・前期の土器である、夜臼PU式と板付T式の煮炊き用土器に付着していた煮焦げやふきこぼれなどの炭化物を、AMSによる炭素14年代測定法によって計測し、得られた炭素14年代を年輪年代法にもとづいた国際標準のデータベース(暦年較正曲線)を使って暦年代に転換したところ、11点の試料のうち10点が前900〜750年に集中する結果を得た。
このことは本格的な水田稲作の始まりが、これまでより500年近くさかのぼることを意味している。しかも私たちは、本格的な水田稲作が始まった時代を弥生時代と考える立場なので、弥生時代も500年近くさかのぼることになるのである。---
こう述べたのである。これは歴代の学者が積み上げた「土器の編年」も「中国や朝鮮との国際的関係」もすべてご破算にしてしまうほどの衝撃的発表であった。
朝鮮半島の年代観の見直しも含めて歴博は次の年代表を提示した。
この歴博の考えを支持する、過去の遺産にこだわらず、AMS法(加速器質量分析法)や年輪年代法など最新の技術や研究の成果を正面から受け止め、これまでに構築された学説を再構築し直すことが最善であると考えるからである。
以上、水田稲作のはじまりは板付、菜畑の発見で200〜300年遡り、弥生早期(縄文・弥生移行期と呼ぶ学者もいる)という時代観を生み出し、C14測定技術の革新や年輪年代法研究の進歩は古年代の較正を精密なものとして弥生早期を3000年前からという、さらに400〜500年遡る年代観に位置づけた。
これから、この新しい年代観を前提に「基層人」と「渡来人」との関わりを調べてゆこう。
(追記)当然のことながら古年代の較正は、弥生時代だけに適用されるものではなく縄文時代あるいはそれ以前にも適用される。したがって第1部、第2部で使った年代も今や修正を迫られているのが実情である。しかし、その修正を恣意的に行うことは、徒に皆さんの感覚を狂わせることになり、また、修正を加えることが「日本人の起源」を探究するのに寄与することは、少なくとも旧石器時代〜縄文時代まではほとんどない。したがって較正年代を使ってこなかった。しかし、弥生早期からの時代は話が全く違ってくる。そういうことから、縄文時代までは従来の年代観を使用し、弥生早期からは新年代観を使うことにしたのである。 
水田稲作技術を伝えたのは誰か    
菜畑遺跡で生活した人々
日本最古の縄文水田址・菜畑遺跡から「水田稲作」に必要な道具がセットで発見された。
これらはいわゆる大陸系磨製石器と呼ばれるものであるが、佐原真は朝鮮半島南部からもたらされたことは100%確実であるといっているし、またこの第3部のベーステキストとしている「日本の歴史 第02巻 王権誕生」の著者寺沢薫は“驚くほど朝鮮半島南部の無文土器文化前・中期の磨製石器群と似ている” としている。
菜畑の水田稲作技術が長江中・下流域から直接ではなく朝鮮半島南部を経由してもたらされたことは、まず間違いないものと思われる。
また佐々木高明によれば、菜畑遺跡の最古の水田期(突帯文土器・・山ノ寺式期)ではイネの花粉と共にアワ、アズキ、ヒョウタン、メロン、ゴボウ、シソなどの主に畑で栽培される植物とカタバミ、イヌホウズキ、ナズナ、ハコベなどの畑雑草の種子が数多く出土した。
ところがその上の層(突帯文土器・・夜臼式期)になると畑雑草が減少し、代わって水田雑草の花粉や種子が急に出てくる。
すなわち当初、水田稲作農耕は畑作や採集・漁労生活の中で小規模に導入され、夜臼式期(板付遺跡と同時期)になって本格的になったと言っていいだろう。
水田農耕技術を持ち帰った縄文人?
(安田喜憲によると)弥生時代の土器に詳しい立命館大学の家根祥多(やね よしまさ)は菜畑遺跡と同時期の曲り田遺跡について次のような指摘を行っている。
---弥生土器は朝鮮半島の無文土器の系譜をひb「ており、こうした無文土器を作る人々が稲作を持って渡来したことは確実である。その場合、福岡県曲り田遺跡では、朝鮮系の無文土器の甕が30%、縄文土器の深鉢が60%存在する。---
このデータから家根は、新たに渡来した人々は、縄文人と同じ集落に住み、村の住民の三人に一人は渡来人であったろうと推定している。
このことから安田は「縄文文明の環境」(吉川弘文館 p202)のなかで---このように争いをともなわず、新たに渡来bオた人々が、在地の縄文人と平和裏に融合して共に生活をした場合もあった。いなむしろその方が多かったのかもしれない。在地の縄文人が積極的に渡来した人々を受け入れ、ともに仲良く暮していたと解釈できる事例が多い。古くから朝鮮半島との交流があった北九州では、言語の面においても十分に意志の疎通が可能であったかもしれない。--- と述べている。
NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編 「日本人はるかな旅4-イネ、知られざる1万年の旅」は多数の学者や博物館の協力を得てもっとアグレッシブな発想をしている。少々長くなるが次に引用する。
---従来、日本列島の水田稲作は弥生時代(23000〜1800年前)頃に、朝鮮半島方面からやってきた渡来民によって始まるというのが定説であったが、莱畑遺跡の発見はその常識を覆すことになった。時代はさらに300年遡り、水田を作った主体も日本列島在来の縄文人であることがわかったのである。なぜ縄文人だと考えられるのか。それは発掘された生活道具が、すべて縄文文化に由来するものだったからである。皿や浅鉢、甕、壺といった土器の類は、みな典型的な「縄文土器」であった。土器文化の異なる渡来人が、わざわざ土着の縄文土器を作るとは考えにくい。こうして日本最初の水田が、縄文人によって開かれたことが判明したのである。発掘のデータによると、菜畑の集落は海岸沿いに立地し、人びとは半農半漁で暮らしていたこともわかっている。もともと朝鮮半島に交易に出かけていた縄文人とは、九州北部の沿岸地帯に暮らし、航海技術に長けた漁労民であった。彼らは唐津近隣の松浦あたりで産する黒曜石を、交易の品として持ち出していた。このことは韓国の東三洞貝塚で出土した黒曜石などの産地を同定した結果、確かめられている。こうして水田に関する技術を身につけて帰ってきた縄文人は、得意の漁労を営むかたわら、日本列島に水田稲作の第一歩を印したのである。---
先に挙げた曲り田遺跡では家根祥多によれば、出土土器の2/3が縄文土器であったが、菜畑遺跡では殆ど全部が縄文土器で占められていたとのことである。このことから水田稲作技術を菜畑にもたらしたのは縄文人自身であったとNHKは結論付けている。
検討し北部九州と朝鮮半島は縄文時代の長期に亘って交流があったことを指摘してきた。だから安田の“朝鮮半島との交流があった北九州では、言語の面においても十分に意志の疎通が可能であったかもしれない”という指摘は十分同意できる。また改めて検討するが、南朝鮮に縄文人や弥生人(あるいは倭人)のコロニーのような地域があったとしても不思議ではない。
事実、「日本人はるかな旅4」p93 から更に引用すると
---中国と周辺地域の稲作遺跡を丹念にたどっbトいくと、日本列島が寒冷化による食糧危機の真っただ中にあった3000年前頃、水田稲作は朝鮮半島の南端にまで到達していたことがわかる。・・・実は3000年前頃から縄文人たちは、九州あたりを出て朝鮮半島南部までの海を越えていたことがわかってきた。韓国南部の慶尚南道は、隣接する全羅南道と並んでいまも大水田地帯がひろがる韓国のコメどころである。対馬からほど近いこの慶尚南道や釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人びとが渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、そこで出土する縄文土器は、縄文人がやってきた確かな証拠品といえる。朝鮮半島では鈷や鏃といった漁労具や狩猟具に最適な黒曜石が産出されない。このため朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやってきたのではないかと考えられている。---
まさに菜畑ムラに最古の水田が作られたおそらくその直前の時期に(3000年前)、中国から山東半島を経由して南朝鮮に水田農耕技術が到達していた。しかもそれは高い生産性を生み出す高度な農耕技術のセットであった。
NHKのいうように丁度そのころ南朝鮮と交易が行われていたという偶然の出来事との見解をとらない。縄文前期から数千年に亘って続いてきた対馬海峡をはさむ交流のなかでの出来事としてとらえたい。
すでに南朝鮮に居住していた縄文人や長期に亘って交易に従事していた縄文人がその新来の水田農耕を直接目にしたであろうことは想像に難くない。縄文前期以来3000年間、水田稲作を受け入れず焼畑的稲作に止まっていた西北九州の縄文人も、自らの目で確認した新しい農耕技術は極めて魅力的に見えたに違いない。(おそらく南朝鮮で縄文人が目にした水田もこれに似たものであったろう。) 
菜畑・曲り田段階の水田農耕をもたらした人々は、
・NHKが纏めたように「技術を習得し持ち帰った縄文人」もいたであろうし、
・南朝鮮の縄文人コロニーと関係のあった南朝鮮人を農耕技術者として同行してもらったということもあったであろう。  
・もちろん新しい農耕技術を身につけた南朝鮮人が寒冷化した南朝鮮から、より温暖な新天地を西北九州に求めて縄文人に協力を求めたこともあったろう。しかしこのケースでもやみくもに西北九州沿岸に上陸して当地の縄文人と仲良く共同生活をしたという絵空事ではなく、実態は慎重に事前に受け入れ先の縄文村を選定し交渉してから渡来したものであろう。
こうした人々ではなかったかと思うのである。
支石墓に葬られていた人
以上のことを証明する人骨が発見されている。
曲り田遺跡から数km、糸島半島の西側に新町遺跡という支石墓を伴う遺跡がある。
その支石墓から被葬者の骨が発見された。
支石墓は中国の山東半島や東北部、朝鮮半島に広く分布しているが、朝鮮半島南西部に特に集中して分布している墓形式である。その支石墓が造られた時期も無文土器時代、まさに弥生早期から前期の時代である。日本では支石墓は西北九州に偏在しており、出現時期も弥生早期の夜臼式土器段階である。
したがって、この墓制は稲作や磨製石器農具などとセットで朝鮮半島南西部から九州西北部に伝播したと考えられている。
その墓に葬られている人だから「渡来者」に違いないと誰もが考えていた。
新町遺跡の支石墓から出土した14体の遺骨のうち弥生前期初頭の熟年男性2体から頭蓋形態が判明した。その特徴は予想に反し渡来形質の片鱗さえ認められず、ほぼ全員に施されている抜歯の様式も西日本縄文人の様式を踏襲していた。
まさに「縄文人」の頭骨そのものであった。
意外な結果に到達した人類学の中橋孝博は
1.新しい稲作文化(稲作技術や墓制など)を取り入れた縄文人(漁労民)。(考古学者は西北九州の支石墓が朝鮮半島と違って甕棺や石棺を使わない所謂土壙墓が一般的で、縄文的色彩の濃い副葬品を伴っていることからこの説を支持する人が多い)
2.弥生早期のこの時期、朝鮮半島には高顔・高身長と低顔・低身長のタイプが混在しており両方のタイプが渡来してきたが、新町人は後者のタイプであった。
という可能性を指摘している。   
いずれにしろ最初期の段階での水田農耕はどうも縄文人が主体的役割をつとめ、南朝鮮人は従的存在に止まったと思われる。しかも先の家根祥多の推計によれば、唐津湾周辺と糸島半島海岸部の狭い地域に来住した稲作農耕民はの数は微々たる物で、最大限見積もっても数百人のオーダーを超えるものではなかったとしている。その数百人の中に多数の在韓縄文人も含まれていたとすれば、この最初期の水田稲作の到来が西北九州の縄文人に大きな遺伝的影響を与えたことはなかったと考えて良いだろう。 
水田稲作時代の始まりと渡来人    
4000年前と3000年前に襲った寒冷化が世界の歴史、東アジアの歴史に大きな影響を与え、日本列島でも縄文文化の崩壊を招いたことを述べてきた。
そして弥生時代の萌芽は南朝鮮からの水田農耕稲作の導入という形で始まった。
ここで図「畑作牧畜民の南下と稲作漁労民の逃亡」を少し変更し、新しい年代観を交えながら検討しておきたい。
長江中・下流域で発生した稲作は4000年前には山東半島まで北上した。亜熱帯で発生した稲作が低温地域に適応を果たし北上するのに数千年を要したということであろう。
4000年前中国では殷(商)王朝が興り、さらに厳しい寒冷化が襲った3000年前には周王朝が殷王朝にとって代わった。このころ水田稲作技術は南朝鮮まで達し、ほどなく西北九州に伝播した。
中国ではこの後周王朝の力が衰え、いわゆる春秋戦国時代(BC770〜)の激動期を迎える。難民が各地に発生し、その一部は図の如く日本列島にも達したことだろう。
突帯文土器段階の水田稲作
こういう大陸の方の時代の動きを感じつつ日本列島の稲作を観てゆこう。
菜畑ムラや曲り田ムラで始まった水田稲作は弥生早期(突帯文土器段階)の200年間に、列島にどのように展開したのだろうか。
この図からわかるように水田址が認められる遺跡は殆どが西北九州に集中し、水田農耕文化の広がりが遅々としたものであったことが窺われる。
以前に検討した江南地方との繋がりのあった地区--有明海沿岸や瀬戸内海沿岸地方--ではわずかに岡山の津島江道遺跡が認められるだけである。
一方大阪付近では緑で示した遺跡と青で示した遺跡が集中している。その理由はよくわからないが推測では、雑穀栽培の一部として小規模の水田稲作や水陸未分化の稲作などが共存していたのではないかと思われる。
いずれにしろこの時期、縄文的な文化伝統の枠内で原初的な水田稲作が部分的に取り入れられたに過ぎず、弥生早期人(縄文末期人)の水稲農耕導入の意欲はそれほど強くなく、大陸では周王朝が最盛期にあり、朝鮮半島や中国大陸からの渡来圧力も強いものではなかったと言っていいだろう。
本格的水田稲作時代の始まり
菜畑・曲り田段階の次の画期はこの3部の最初に取り上げた板付遺跡段階であろう。ここに至って水田稲作農耕に生活基盤をおいた典型的な弥生文化が日本列島の西半分をおおうことになってくるのである。
そして次に整理した理由から渡来したのはやはり南朝鮮の技術や人々、それに新しい考え方であった。
1.まず水田は菜畑の30uばかりの小規模な“湿田”(水はけが悪く、一年中水の抜けない田)ではなく、板付は1区画が400uもある堂々とした“乾田”である。乾田とは水を注いだ時はまさに水田であり、水を抜いたときは乾いた田圃になるという現代と全く同じ高度な水田技術である。給排水等の利水技術など格段に向上した技術が伝播したのである。
2.つぎにムラの形成に環壕集落という新しい概念が持ち込まれた。板付遺跡ではまず弥生早期(夜臼式期)の段階で台地全体(370m×170m)を囲む外壕が造られた。つぎに弥生前期(板付T式期)に内壕(110m×81m)が掘られた。寺沢薫は環壕の目的を防御機能におくのではなく、ムラの団結力の維持・強化にあったのではないかとしている。すなわち外壕は居住区域と水田区域を分けるという意味だけでなく、“身内”を認識し「うち」と「そと」の世界を明確にしようという意図があったと考えている。また内壕は首長などの特定の人々と一般のヒト、あるいは聖なるものと俗なるものを分ける境界の意味があったといている。すなわち階層差が発生し始めたのである。(環壕が戦いのバリケードの役割をもつのはもう少し後の時期になる)1990年、慶尚南道蔚山(いざん)市で韓国無文土器時代中期の検丹里遺跡が発掘された。この遺跡で環壕集落が見つかり、板付遺跡のような環壕集落が水稲農耕とともに朝鮮半島南部から伝来したことが確実視されている。
3.生活用具にも大きな変化が現れた。縄文土器に代わって焼成温度が高く、文様の少ない素焼きの所謂“弥生土器”が誕生する。弥生土器は朝鮮南部の無文土器から形や製作技術を取り入れて造られた。
4.板付遺跡の北東約8kmのところに江辻遺跡(福岡県粕屋町江辻)という板付と同時期の環壕集落がある。この遺跡からは多くの縄文系遺物が出土しているが、住居の一角に11軒の「松菊里型住居」が集まっていたことが判明した。このことから環壕の中に朝鮮半島南部からの渡来人が独立した形で同居していたことが推察されるのである。
寺沢薫は述べている---これ以降、この松菊里型住居は中期前半まで西日本各地の弥生集落にその痕跡をとどめている。渡来人の数世代後の子孫が東へと移住しながらも、かたくなにその住居構造を守っていったのであろう。和歌山県御坊市の堅田遺跡は、渡来人たちが前期前半には早くも近畿地方にまで及んだことを示している。松菊里型住居だけでなく、三重の環壕もしっかりとめぐらされ、中期初めには青銅器生産も行っていた---
次図は松菊里型竪穴住居の分布図である。渡来人が北九州から西日本全域に分布していった状況が良く判る。
弥生初期の渡来人とは?
新しい年代観を踏まえつつ、初期の“渡来人”がどういう人々であったかを調べてきた。
前節でも触れたように彼等は3000年前、朝鮮半島南部にいた人々であった。
縄文時代から長く北部九州の漁労民と繋がりのあった南部朝鮮の漁労民が、渡海の手助けをしたり、自らも水稲の技術を身につけ渡来してきた。
また彼等は松菊里型竪穴住居で石器製作など行った専門的技術をもった人々もいたようだ。松菊里型竪穴住居では次の絵のような作業が行われていたらしい。
(松菊里型住居は「ものづくり工房ではなかったかと想像されている。また日本列島においては中央の炉や両端の柱穴が採暖や調理に適合した炉ではなかったかと考えられている。)
彼等は技術者として水稲農耕技術をも習得し、縄文人に請われたり、あるいは自ら北部九州に新天地を求めて“渡来”してきた人々であった。もちろんそういう特定集団ではなく、水稲技術をもって大陸の混乱から逃れ、山東半島から直接あるいは南朝鮮経由で北部九州に渡来した人々も多かったに違いない。そういう人々がおそらく何波にもわたって、何世代にもわたって、北部九州から西日本に渡来してきた。弥生初期の渡来人とはそういう人達ではなかったかと考えるのである。
遠賀川式土器の拡散
従来、北部九州に伝播した水田稲作は2〜3世代、ほぼ半世紀で西日本一帯に広がった、すなわち驚異的な速さで西日本一帯を縄文世界から弥生世界に変えたというのがこれまでの一般的考えであった。当然いわゆる渡来人も恐ろしいほどの勢いで列島の西半分を席巻した、という歴史観が支配していた。
しかし菜畑・曲り田段階の水田稲作が確認され、日本列島への伝播時期が2〜300年遡るとその歴史観は少々緩和された。そして今回の歴博の500年におよぶ年代見直しである。
いまや日本列島に伝播した水田稲作は徐々に、あるときは急速に、あるときは息をつきながら列島各地に広がっていったと言い直さなければならないだろう。
これまで検討してきた水田稲作伝来の年代を簡明に纏めると次のようになる。
この年代観の変更にもかかわらず遠賀川式土器の拡散はかなり早かったようである。
1931年、福岡県中央部を南から北に流れ響灘に注ぐ遠賀川の川底(水巻町立屋敷遺跡)から紋様豊かな弥生土器が発見されて注目された。それまで北部九州では紋様を持つ弥生土器はほとんど知られていなかったからである。
この立屋敷の土器と共通する土器が中国・四国から近畿地方にいたる各地の遺跡に存在することが注目され「遠賀川式」と命名された。そしてこの遠賀川式土器が弥生土器の中でも古い位置を占めることが明らかとなり、その時期を「前期」と呼び、遠賀川式土器は前期弥生土器の別称となった。しかも遠賀川式土器が出土するムラこそその地の最初の水田農耕のムラであって、米そのものだけでなく農具類なども出土する。そしてこの遠賀川式土器は図分布地域内で較べると驚くほど似ているのである。
土器は時間的・空間的に変化しやすい性格を持っている。にもかかわらず遠賀川式土器が変化せずに北部九州から愛知県西部まで分布していることは、すくなくとも2,3世代、約半世紀ほどの短期間に拡散したことを物語る。
またこのことは遠賀川式土器を作り使った人々と現地の縄文人が大きな文化的摩擦を惹き起こすことなく新しい農耕とその文化を受け入れたと考えられるのである。
遠賀川式土器を作り使った人々とは渡来系弥生人であり、あるいは新規に渡来してきた人々であったろう。すなわちこの時期、大陸では周王朝が衰え春秋(東周)の覇権争奪の時代に入っており、朝鮮半島や中国大陸からの渡来圧力がかなり強かったと思われる。したがってかなり多数の渡来人が日本列島にやってきたと考えられるであろう。
それが人口急増時代にあった北部九州からの東進集団との間に耕作地獲得競争を生み、急速に遠賀川式土器の拡散をもたらしたと考えられるのである。
一方新しい農耕文化を摩擦なく受け入れられた背景には、先に調べた突帯文土器段階の原初的水田稲作の知識がすでにこの地域に広がっていたことも大きかったに違いない。図を見れば明らかなように突帯文土器の分布圏と遠賀川式土器の分布圏がピッタリと一致することが何よりの証拠であろう。 
中国大陸からの渡来    
第1、2部で縄文時代における朝鮮半島との交流、江南地方・照葉樹林文化との繋がりなど詳しく検討してきた。3部でこれまで初期の水稲農耕技術が朝鮮半島南部からの渡来人によってもたらされたことを確認した。では長江中・下流域や江南地方からの渡来はなかったのか、3000年以上にわたる交流は途切れてしまったのか検証してゆきたい。時は新年代観で既に弥生前期の後半、2600〜2500年前ごろとしてよいであろう(板付U式期)。
春秋戦国時代の人々
中国では春秋時代にあたり、列強が覇を競っていた時代である。
民衆は戦争に駆り出され、膨大な戦死者が出、家は焼かれて生活の基盤を失った。そうした中で多くの人が故郷を捨て海の向こうに新天地を求めようという行動を起こしたに違いない。
そうした時、日本列島や台湾島、東南アジアの島嶼部などは格好の避難地になったと思われる。ボートピープルとなってそういう島々に漂着した人々も当然いたであろうが、古来から交流のあった地域に意図して渡海した人々も多かったのではあるまいか。
「日本人はるかな旅」5のなかでNHKの編集者はこの辺り事情を次のように締めている。
---福建省の博物館に春秋戦国時代の丸木舟がェ涛W示されている。全長1Oメートルあまり。目いっぱい乗って十四、五人がいいところという小さな船である。必要最低限の荷物を積んだあとは一家族か二家族が乗るのが精一杯だったろう。人びとのなかにはこうした粗末な船に命を託して大海原に漕ぎ出した人も少なくなかったと考えられる。そのなかで幸運にも日本列島にたどり着いた人びとこそ、弥生時代、新たな文化を担った渡来人の正体だったのだ。---
こういう見方に組しない。古代人を十把一からげに現代の難民と同じようにとらえたり、ベトナム戦争が生み出したボートピープルと同一視したりする学者(ベトナム戦争世代が多い)などが多すぎると思うのである。
そういう人々が新たな時代を切り開いたり、新たな文化を担ったり出来るはずがない。
この小論で何度か指摘してきたように、いつの時代でも渡海を敢行したような人たち、弥生渡来人と呼ばれるような人々は、よりニューフロンティア精神に富んだ、より計画的な青図面をもった人々であったと考える。
長江流域から伝来した稲作文化
最初期から初期の稲作が朝鮮半島南部から伝来したことは既に述べた。しかし弥生時代の稲作文化には朝鮮半島には存在しないものがある。たとえば高床の穀倉や鮨の元祖となるナレズシづくりの技法などである。これらはいずれも長江流域を中心とした照葉樹林帯に古くから分布した文化である。高床倉庫などは三内丸山遺跡などでも認められるので縄文時代に伝来した可能性も指摘されているが、稲作文化として再伝播した可能性が強い。なぜなら
初期の稲作文化の段階で北部九州では水はけの良い土を選んで口が狭く底の広い穴倉(袋状貯蔵穴)を使っていた。これは朝鮮半島を通じ華北系の貯蔵法が到来していたものである。
それが弥生前期後半から中期前半に高床倉庫に切り替わった。この段階で長江流域方面からの稲作文化がおそらく有明海沿岸地区に直接伝来したと思われる。
民俗学の大先達・岡正雄が唱えたように「紀元前4〜5世紀頃に起こった呉・越の動乱に伴い江南の非漢族の民族社会に大きな動揺が起こり、その影響をうけて江南の稲作文化が日本に渡来した」とする学説に一致する。
また留意しておかなければならないのは、長江河口域を中心に東シナ海沿岸に広く居住していた民族は「呉・越の民」とよばれ、水稲農耕を営むと共に、漁撈を盛んに営む人々であった。彼等は魏志倭人伝で倭人の習俗として述べられた「断髪・文身」など南方的文化を有していた。彼等が稲作の直接伝播に大きな役割を演じたと考えられることは、のちの倭人を検討するについて重要である。
寺沢薫は和佐野の次の研究を紹介している。
---和佐野喜久生(佐賀大学農学部)は、日中韓リbフ炭化米を調査した結果、同じ短粒米でも玄界灘沿岸地域のものが丸く小さいのに対して、有明海沿岸地域のそれはやや長めで大きいことをつきとめた。前者は同時代の朝鮮半島のものに近く、後者は中国の長江や淮河流域のものに近いという。この結果は期せずして、人骨の二つのタイプと一致している。---
やはり長江流域の人々は永い交流のあった有明海沿岸に渡来してきていたのである。
水ヘン(偏)の環濠集落
寺沢薫は「日本の歴史2 王権誕生」のなかで空壕の環壕と水をたたえた環濠とを峻別すべきだと主張している。そして環壕集落は内蒙古を起源とし、黄河中・下流域に広がって、山東半島から朝鮮半島南部を経由して北部九州に伝播した。
一方、環濠集落は長江中流域に起源するという。湖南省?(れい)県の城頭山遺跡や湖北省荊州市の陰湘遺跡などがそれであるという。
この環濠集落は北部九州では有明海沿岸の佐賀平野の町南遺跡や筑後平野の平塚川添遺跡などに伝来した。また近畿では大阪平野の池上・曽根遺跡などに伝わった。いずれも広い海岸平野に立地した集落で見られる。図に見られるように何重もの水濠を平行して作り、幅数十メートルの環濠帯でムラを囲むことがある。この水ヘンの環濠集落は時期的にやや土ヘンの環壕 集落に遅れて伝来したが、まさに水田稲作の本場、長江流域から直接有明海沿岸など日本列島に伝播した文化があったことを示していると考える。
現代に至る照葉樹林文化の伝統
寺沢薫は“弥生文化の二つの重なり”という項を設け次のように簡潔に纏めている。
---私は弥生時代の水稲農耕文化の構成を、落似葉樹林型と照葉樹林型の二つの重なりにあると思っている。前者は、環壕集落や雑穀畑作と共存した水田稲作をはぐくみ、朝鮮半島南部から玄界灘沿岸に伝わり、弥生文化の骨子となった。後者は照葉樹林帯を貫いて一歩遅れて伝播した水稲主体の文化で、親水性の強い環濠集落をともない、弥生文化の肉となったといってもよい。---
もともと西日本地区には照葉樹林文化が根付いており、縄文稲作ともいえる焼畑雑穀型の稲作が営まれていたことを考えれば、照葉樹林文化のベースともいえる長江の稲作文化が伝播してくれば、突帯文土器圏が遠賀川式土器文化を無理なく受け入れたと同様に、それほど抵抗なく受け入れられたのであろう。
この弥生文化複合は弥生中期後半には日本列島全体(除く北海道)に広がり、縄文時代にはマイナーな文化であった照葉樹林文化の伝統・・例えば正月のモチ、味噌や納豆などの大豆発酵食品、漆器の製作、マユから絹を作る技法、鵜飼の習俗、常緑樹を依代(よりしろ)とする神祭りの方式などなど・・を日本全体に行き渡らせることになったのであろう。
第3部「弥生文化と渡来人」の前半を終了しました。第2部からここまで“稲作”をキーにして考古学や民俗学の分野から日本人の基層となった人々、初期の渡来人について調べてきました。これからは少し角度を変えて人類学や遺伝学、言語学などの分野から「渡来人」に迫りたいと思います。 
渡来人の故郷はどこか    
九州の弥生人のタイプ
九州北部の弥生人でも背振山地から西の西北九州沿岸部と東の平野部の弥生人が、全く異質な集団であることを始めて明らかにしたのは内藤芳篤である。その後内藤は九州弥生人をさらに3群に分け、図のように提示した。
まず北部九州・山口タイプの弥生人骨は、平野部で農耕を主生業とし、死後は大形甕棺を主体とする大規模な墓域に豊富な副葬品を伴って葬られた人々の遺骨である。
この地域では縄文人たちが渡来系農耕民の新しい技術や血をうけいれて、文化的にも体質的(長身・高顔・・注-ヒトの頭蓋骨の計測)に も均質な集団が誕生した。
一方、西北九州タイプの弥生人骨は岩礁性の海岸部で漁撈に従事していた人々が、極めて貧弱な副葬品と共に小規模な土壙墓や石棺墓に残したものである。この地域は早い時期に水田稲作文化の洗礼をうけたが、水稲栽培に不向きな岩礁性の海岸部や離島に住んでいた縄文人は土器や石器などの弥生文化要素は受け入れたものの、伝統的な生業と風習をかたくなに守り、渡来系農耕民との通婚も拒否し続けたようだ。したがってこのタイプの人々は低身・低顔という縄文人の形質を色濃く残した。
なお、この西北九州タイプのヒトについて新町遺跡の支石墓から出土したことなどから、南朝鮮の低身タイプの渡来人ではないかとか、あるいは江南地方からの渡来人ではないかとする学説もあるが確かなことは分らない。
最後に南九州離島タイプである。沖縄の縄文人は九州の縄文人や西北九州の弥生人と形質的に同じグループに属している。ところがこの南九州離島タイプの人々は沖縄の縄文人とは一線を画しているのである。いちじるしく低身長で短頭(頭を上から見た形がまん丸い)なのである。したがってこのタイプの人々は沖縄や九州の縄文人から形質を引き継いだものではなさそうなのである。渡来人である可能性があるわけである。ただそれ以上のことはまだ分っていない。
また、下図はすでに前節で示した図から和佐野喜久生の研究の炭化米部分を除いた図である。吉野ヶ里の甕棺から300体以上の人骨が出土し研究が進んだ結果、福岡平野、佐賀平野の所謂吉野ヶ里タイプの弥生人と土井ヶ浜タイプの弥生人とは体型が少し違い、吉野ヶ里タイプの弥生人の方がややがっちりしている。したがって出身地も違うのではないかという意見が強くなっている。
望郷の土井ヶ浜人たち
土井ヶ浜遺跡は弥生前期後半から中期中葉の遺跡である。新年代観に従えば2600〜2200年前、中国大陸ではまさに春秋戦国時代である。ここの小高い砂丘から300体ちかい人骨が発掘されているが、1,2の例外を除いて全て響灘に顔を向けて眠っている。頭蓋だけが集骨されている区域でもこの原則は破られていない。
春秋戦国時代の動乱に故郷を棄てざるを得ず土井ヶ浜にたどり着いた彼等は、望郷の念がことのほか強く400年に亘ってこの約束事を守り続けたに違いない。
そして土井ヶ浜人の視線の向こうにはまさしく水田稲作伝播の最有力ルート、南朝鮮から山東半島がある。
山口県豊北町立土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムの館長、松下孝幸は中国での人骨調査の先駆者である。中国や朝鮮は日本と同様、酸性土壌で人骨はなかなか残らない。加えて中国や朝鮮の学者が興味を持つ人骨は北京原人とか旧人、旧石器時代人などで2000年前程度の骨ではない。なぜならあまりにもいろいろな集団や民族が混血していて、中国人のルーツ探しとか朝鮮人のルーツ探しなどの発想がないからという。
そういう困難な状況の中、松下に朗報が届く。中国で知り合った人類学者から山東省の臨淄(りんし)という街の研究所に日本の弥生時代に相当する年代の人骨が保管されているらしい、というのである。
その山東省文物考古研究所には300体以上の人骨が保管してあった。その人骨と人骨の計測結果を統計的に処理した結果が次図である。
左の写真で視覚的に見ても、右の統計グラフで見ても土井ヶ浜人が山東省の人骨によく似ていることが見て取れる。
その後、松下は河南省の黄河中流域やチベットに隣接する中国奥地でも土井ヶ浜にそっくりの人骨を確認している。
また中橋孝博を中心とするグループは、上海自然博物館との共同研究で江蘇省揚州市・胡場遺跡から出土した5体の頭骨を調べ、北部九州の弥生人と極めて似ていることが判明している。
その後、山口敏を団長とする江南人骨日中共同調査団が「長江下流域の古人骨と北部九州・山口の渡来系弥生人骨のミトコンドリアDNAが一致した」と発表している。
朝鮮半島南部でも北部九州弥生人と近似している人骨が確認されている。
要するに大陸や半島には探索の幅を広めれば、いろんなところに北部九州の弥生人に似た人たちが居るということが分ってきた。
しかし北部九州への渡来人は、その中でもあくまで沿岸部や大河の流域のヒトビトではなかったかと考える。
金属器文化を伴う渡来の波
以上、渡来人を地域別にとらえ、いわば平面的にとらえその故郷を探索してきた。つぎは金属器を軸にして時系列で渡来人を考えよう。
その前提として中国での金属器の歴史の概要を把握しておきたい。中国の青銅器は夏の時代(4000年前)に始まり、殷(商)代から周代(3500〜2800年前)には最盛期をむかえている。この時代は主に祭祀用としてつかわれ、春秋戦国期には観賞用として使われることが多かった。その後は実用的なものにも使われた。春秋戦国期(2800年前〜2200年前)には戦闘用の銅剣としても使われた。
一方鉄器については、まず人工的に鉄が作られるようになったのが周代(西周)の後期であり、およそ2800年前といわれる。武器や農耕具として使われるのは春秋の末乃至戦国時代の初め(2400年まえ前後)からである。
北部九州に大陸や半島から到来した文化要素は一度に来たものではなく何回にも分かれて伝わってきた。そのたびに渡来人の集団も出身地を異にした可能性がある。
福岡県福津市の今川遺跡では遼寧式銅剣の破片を再利用した銅鑿(どうのみ)や銅鏃(どうぞく)が、板付T式土器と共に出土した。すなわち菜畑・曲り田段階から始まった朝鮮南部からの渡来が、当初は稲作技術に加え磨製石器や支石墓を持つ文化として数百人規模のレベルで始まり、次第に大きな波となり板付段階では福岡平野一帯を埋め尽くすほどの規模となった。
しかも遼寧青銅器文化を組み入れた新しい文化クラスター(まとまり)として到来した。この集団は先に述べた長身・高顔の北部九州型の典型的渡来人であったと考えてよいであろう。
この渡来の波はおそらく何波にも及び、いわゆる遠賀川式土器圏一帯に急速に稲作文化を伝播することとなった。以上を渡来人の大きな第一波ととらえよう。
*注・・この第一波の中に、曲り田遺跡では不純物の少ない鍛鉄(鋼)を使った板状の鉄斧が、福岡県福津市の今川遺跡では鍛造の鉄鏃が発掘されている。これは新年代でいうと3000年前〜2800年前に鉄器が伝わったことを意味する。そうすると先に確認した中国での鉄器の出現より日本の方が早いという矛盾に突き当たる。そしてこのことは新年代に反対する人たちの論拠ともなっている。
渡来の第二波は弥生前期末から中期初頭という比較的短期間に衝撃的に起きた。春成秀爾によると、東胡民族の一部が朝鮮半島西北部に侵入したことを契機に、朝鮮半島で武力闘争が激化し故郷を捨てなければならない人が出てきた。戦禍を避けた彼等は北部から玉突き式に移動したのではなく、長躯朝鮮半島を縦断して南部に達し大部分の人たちはその地に落ち着き、一部の人たちは海峡を越えて北部九州まで達した。
この朝鮮北部の人たちは当初渡来人だけで集団を作り大陸から持ち込んださまざまな技術を周辺の在地人に伝えたという。その子孫は徐々に弥生社会と同化して行ったのは当然であるが、その過渡的段階(弥生前期末)で渡来人集落で青銅器生産が始まり、弥生中期後半には弥生集落のなかで行われるようになった。すなわち後発の渡来人もほぼ完全に弥生社会に取り込まれていったのである。
(余談になるが青銅器は中期以降次第に実用性を失い、大型化・装飾化の道をたどり祭器的な銅矛・銅剣や銅鐸として発展し地域共同体の祭りに使われるようになる。)
また第二波の渡来人の登場と同時期に北部九州平野部に出現し、中期中葉に最盛期を迎えた甕棺墓の被葬者はその80〜90%が渡来系弥生人である。この事実は新来の渡来人との混血によって縄文人の弥生人化が極点まで進むと同時に、渡来形質を一段と強化された弥生人集団が出来上がったことを示している。
この集団は人口が爆発的に急増する中期前半から遠賀川式土器拡散のあとをなぞる様に西日本各地へと拡散・移動し、本土日本人の主要な構成要素となる。(ただし甕棺墓の墓制は北部九州平野部だけの風習に止まっている)
3000年前、気候の一段の寒冷化のなかで縄文文化、自然循環型の文化が危機に瀕していたとき、北部九州の縄文人の一部が能動的に、また周辺地域の争乱などが追い風となって水田稲作を基盤とする弥生文化が到来し、弥生中期中葉には北部九州で渡来系弥生人が80%以上を占めるようになったことを述べてきた。
これを別の角度からとらえると縄文人という旧石器以来の基層人のうえを覆うように渡来人が卓越する時代が到来し現代日本人のベースを形成し始めた、ということができる。いわゆる日本人の二重構造の形成が始まったということになる。
また、縄文人という古モンゴロイド集団に新モンゴロイドの遺伝子がおそらく初めて本格的に混入したと言うことも出来る。すなわち寒冷適応した「胴長で手足が短く、扁平な顔、一重瞼の眼」などの形質をもった人々の遺伝子が大量に入ってきたのである。
(ナラ林文化の交流や日本海文化圏での交流などで縄文時代にも少しづつは新モンゴロイドの血が混じっていたかもしれない) 
タミル語とミッシングリンク    
縄文稲作や弥生初期の稲作農耕を通じて日本人の形成を丹念に調べてきた。この項では視点を変えて大野晋の日本語タミル語同系説に目を向けよう。
それにしても日本の各学問分野の排他的体質や閉鎖性はかなりなものだ。学際的研究の必要性や他分野との共同研究が声高に唱えられる割には実態は遅々として進んでいない。
たとえば第1部で取り上げた松本秀雄の「Gm遺伝子」の研究は、大変な労作で日本人の起源を論じる際決して無視してはならない秀逸の研究だと思われるが、松本が法医学の分野の権威ではあるが遺伝学や人類遺伝学の分野の学者ではないということで殆ど無視されている。
また、この後取り上げる安本美典の「計量言語学による日本語の起源」の研究も、大変すぐれた研究だと思われるが、安本が本来統計学が専門の学者(筆者の見方)ということで言語学界からは拒否され続けている。まことに残念なことであるが、それだけに学界とは何の関係もない筆者のような立場のものが、その研究内容の素晴らしさを声を大にして喧伝する必要性を感じるのである。
これから取り上げる大野晋も国語学者が言語学に口を出すなと言わんばかりに不評である。大辞泉や大辞林でその違いを調べてみると次のようである。
国語学・・ 言語学の一分野として日本語を研究対象とする学問。
言語学・・人類の言語の構造・変遷・系統・分布・相互関係などを研究する科学。
国語学者が日本語の起源を論じても良いような説明であり、学界の反応は異常である。
もちろん不評な理由には比較語彙の取り扱いとか、歴史解釈の乱暴さなど正当な理由も存在する。しかし研究の問題点の方を大きく取り上げ、それに加え日頃の本人の人柄を重ね合わせて、葬り去るという狭量さが罷り通っていては学問の進歩はありえない。
この項で大野晋のタミル語同系説の中の有用な部分を指摘して、そういう風潮に一矢報いたい。
農耕に関わる言葉の共通性
まず大野晋の説を概観しよう。テキストは大野の著書・岩波新書の「日本語の起源」による。
インドは10億人を超える人口を擁し、多様な人種、民族、言語、宗教によって構成されている。日常の社会生活で使われている言語は850にのぼるといわれる。
語族で纏めると、インド・ヨーロッパ語族が74%(ヒンディー語・サンスクリット語系)、ドラヴィダ語族が24%を占めるといわれる。ドラヴィダ語族の一つがタミル語であり、右図は現代の使用地域分布である。
大野は日本語とタミル語が同系の証拠として次の5点をあげている。
1.すべての音素(a/i/u/e/oなどの母音やk/s/t/n/h/m/y/r/wなどの子音などのこと)にわたって音韻の対応がある。
2.対応する単語が基礎語を中心に500語近くある。
3.文法上、ともに膠着語 に属し、構造的に共通である。
4.基本的な助詞・助動詞が音韻と用法の上で対応する。
5.歌の五七五七七の韻律が共通に見出される。
ここで日本語とタミル語が同系であるという証明の当否を論ずるつもりはない。注目するのは2.の対応する単語500語の中にある「農耕に関する言葉」である。昔から言語学に不満を抱いていた。それは日本語と同系の言語が近隣に民族に見出せない、言語学の分野の学者がそれを証明出来ていないからではない。それは現在ではなかなか難しい作業かもしれない。なぜなら同系と証明される言語はすでにこの地球上には存在していないかもしれないからである。
しかしいま、新しい文化や技術が日本に押し寄せた場合それは新しい単語や語彙を持ち込む。これは例えばコンピューターなどの分野でイヤというほど現代の我々は経験させられている。
これと同様なことが旧年代観でいえば2500、600年前、新年代観で言えば2800〜3000年前、本格的水田稲作農耕技術が渡来したとき、同様のことが北部九州で起こったに違いないのである。
農耕技術をこの日本列島に持ち込んだ人たちが在地の縄文人に技術や知識を教えたり、農作業への協力を求めるとき、彼等は彼らの農耕用語を現地語(縄文語)に織り交ぜながら使ったはずである。
不満は、これまで言語学の分野では、この日本列島に確かに外来語として持ち込まれたはずの水田稲作に関する語彙、これに対応する語彙をもつ言語を他地域に片鱗でも見出すことが出来ず、沈黙を決め込んできたことである。怠慢といわざるを得ない。現在まで残存する民族集団(たとえば苗族)の言語のなかに見いだせなくても、消え去った民族などの痕跡から何らかの形で探し出さなければならないのではないか。
大野晋が提示した日本語とタミル語に共通する「農耕に関する言葉」は次の通りである。
この表の語彙の対応が言語学的にどれほど正確なのか論評する能力はない。しかしこれほどの数の稲作農耕に関する言葉が提示されたのは初めてだと思う。このことだけでも高く評価してよいと考える。
南インドの文化と弥生文化の同質性
さらに大野は南インドの文化と弥生文化がパラレルに展開していたことを指摘している。
それは新年代観を反映させるとさらに明確となる。なんと南インドの巨石時代と日本の弥生時代は3000年前、同時期に始まり、下図の青枠で囲んだ5項目の文化を共有し、紀元300年ごろ同時に終焉するということになる。
なぜ日本と南インドにほぼ同時代、共通する文化が存在するのか。大野は自ら質問を用意しそれに答えている。
問1.7000キロも隔たった途中にこれらの文明的事象の平行の例があるのか。
インドのマイソール大学のラマンナ博士によれば南インドの巨石文化は東南アジアに広まりフィリピンや台湾まで達しているそうである。この研究時点で日本と朝鮮の考古データが手に入らず研究対象から外れているが、台湾から北九州、南朝鮮への流れは全く自然であると大野は言う。(この大野の見解には同意しかねる。台湾からの流れ、かの「海上の道」はこれまでの検討ではあまり機能してこなかった、といった方が良いだろう。)
問2.タミルから文明が来たというが、タミル人が来た証拠があるか。
大野はこの問に「来た」と答える。その証拠としてタミル語の“pul−am”(村・区域)は日本書紀に出てくる“フレ(fure)(村)”に対応する単語であるという。そして現在でもそのフレを使う地域が長崎県壱岐に存在するという。東触、西触、・・仲触、大久保触・・・など100例に及ぶという。(地図で調べると確かにたとえば壱岐市郷ノ浦町東触など実在する。しかしこれだけの証拠でタミル人が来たというのは無理がある、と言わねばならない)
問3.タミルと日本の間に両者の言語の仲介地となるような場所があるか。
タミル語や日本語に近い言語が話されている所はないと大野は言う。そういうところはないけれども、タミル語は確実に朝鮮語にも約400の対応語を残しているとしている。大野は多数の対応語を挙げているが右表はそのうち農耕にかかわる単語で且つタミル語、日本語、朝鮮語に共通するものである。南インドの文化が遥々日本に影響を与えたとすれば、同時に朝鮮半島に影響を与えて不思議ではない。問の言語の仲介地ではなく同時に同じ言語の影響を受けた地域という証明に過ぎない。要はタミルと日本の文化の平行について大野晋は、7000キロの距離を越えてタミルの文化が日本列島に到達したという、説得力のある説明が出来ないでいるのである。この点もタミル語日本語同系説の欠点の一つであろう。
タミル語と日本語のミッシングリンク
大野晋の稲作に関する同系の語彙の発見、この素晴らしい成果をタミル人が北部九州に渡来して稲作を伝播し語彙を残したという、荒唐無稽な文化伝播説に埋もれさせてはならないと思うのである。
では同系の語彙の存在は偶然の空似なのだろうか、それとも3000年前の東アジア情勢が作り出した民族集団の移動や逃避、分散の結果なのだろうか。
上表でとりわけ注目するのは甕棺墓が両方の文化で同時期に存在することである。甕棺墓は幼い子供を葬るときにしばしば使われる墓制である。日本でも縄文時代から存在するし、東アジアや東南アジア各地で見られる。しかし大人の墓制としての甕棺墓は必ずしも普遍的ではない。
日本列島でも北部九州のそれも福岡・佐賀両平野に一時的に存在しただけである。弥生前期末、突然北部九州平野部に出現し、弥生中期中葉に最盛期を迎え、その後弥生後期には衰微してしまう。一つの集団墓地には甕棺墓が数百〜数千の規模で埋まっている。その様子は既に前項の金隈遺跡で見た。これと同様の甕棺墓群が南インドでも見られるそうである。
この大型甕棺の製作は簡単な技術ではない。その製作技術を身につけた技術者がいなければ到底造ることが出来ない代物である。この甕棺墓は支石墓のように朝鮮から伝播した文化でもない。甕棺墓のルーツを探りかね弥生文化に独自なものではないかと言う学者も少なくないくらいである。
そこで別の一つの仮説を提示したい。それは南インドと日本列島の間にミッシングリンクが存在したのではないか、と言う仮説である。
「日本人はるかな旅4」のp193で小柳美樹は
---長江中・下流域の墓葬は、土坑墓が一般的Iであり、中流域では児童用の墓であった甕棺墓が石家河文化後期になって成人の墓にも適用されるようになる。---と叙述している。この叙述は注目すべき一節である。
石家河の住民は三苗民族(苗族のこと)とされ、4000年前堯・舜・禹に代表される黄河流域の勢力と死闘を繰り返したことが知られている。苗族は百苗ともいわれその部族が多いことも知られている。
「その苗族の一部に日本語に取り入れられた稲作単語を使う民族集団がいた。」この集団こそミッシングリンクではないか。
**彼等は戦いに敗れ東に西に逃れた。そして彼らの一派が北部九州にたどり着き、弥生前期後半に甕棺墓の風習や弥生文化の一部を広めることになった。一方西に逃れた一派は、雲南センターから更に西に進みドラヴィダ族のタミル集団に稲作とやはり甕棺墓などの弥生文化に並行する文化をもたらした。**
こういう風に考えれば大野晋の日本語タミル語同系論は無理なく説明できると考える。もちろん苗族を例に挙げて説明したが苗族に限るものではない。長江中・下流域で日本語に取り入れられた稲作単語を使い、成人の大型甕棺墓文化を持つ民族集団がミッシングリンクの候補となる。図示すると次のようになる。
渡部忠世や王在徳、佐々木高明、安田喜憲、佐藤洋一郎等から稲作を中心に東アジアの情勢を学んできた。それぞれ要約すると
渡部忠世・・稲作はアッサム雲南センターで発生し、四方に広がったことを明らかにした。
王在徳・・・河姆渡遺跡などの発掘を通じ稲作は長江中・下流域で発生し、次第に周辺に広がったとする説を提示した。今や主流である。
佐々木高明・アッサム雲南センターを含む東亜半月弧を設定し、そこから照葉樹林文化が日本列島に伝来したとした。
安田喜憲・・寒冷化という気候の変動が、黄河方面の畑作牧畜民の何波にも亘る南下を招き、長江の稲作漁撈民を侵略した。その結果、長江の民族集団は逃避し、四散することになったことを明らかにした。
佐藤洋一郎・稲作の長江中・下流域発生説をイネのDNA分析から証明した。
こういうことであった。多数の学者の考えをまとめて図示すると次のようになる。この図は上記ミッシングリンク仮説を支持しているように思われる。
弥生前期後半、南部朝鮮からの稲作文化の到来から遅れて江南方面から伝播した第二次の稲作文化が照葉樹林文化を包含しつつ、稲作単語や甕棺墓を日本列島に持ち込んだと言えないだろうか。
もちろんこの仮説の証明には各方面からの検証が必要であろう。たとえば北部九州の甕棺墓と南インドの甕棺墓、さらに石家河遺跡(勿論それ以外の遺跡を含む)などの甕棺墓が基本的な製作技術に於いて同一であるとか、の検証が必要であろう。 
国際舞台に現れた「倭」    
西日本各地に急速に伝播した水田稲作を基盤とした弥生文化は愛知県西部、いわゆる若狭湾・伊勢湾ラインで一息ついた後、縄文以来の亀ヶ岡文化・ナラ林文化圏の人々にも徐々に受け入れられ、弥生中期中盤には東海・関東・中部へ到達し中期中には本州全域に伝播した。
クニの形成と中国の歴史書への登場
そして弥生前期後半(紀元前500年)ごろから、個別の小共同体として独立していたムラがその力に応じ、中心的ムラと共存を図ろうとするムラとに分類されクニを形成し始める。
クニ形成の基本的要因はいわゆる水利権の共有化・統合化の必要性が生じたことにあったと思われる。それほどムラの数が増加したのである。当然、大リーダー(大首長)と小リーダー(小首長)というような上下関係も生まれてきた。
また、福岡平野や早良平野のように大河川がなく従って平野も狭い地域では、ムラがひしめき、争いが-すなわちこの列島において初めての戦争が-おこった。この戦争への共同戦線ということも北部九州ではクニの形成を促した。    
クニのリーダー達は列島で初めて自分の墓に青銅の鏡や武器(銅矛・銅剣・銅戈など)を競って副葬するようになる。とくに武器を朝鮮半島から積極的に入手する。こうした交易の過程で帰化して弥生人となる人々も多かったに違いない。
「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為し、歳時を以て来たり献見す、と云ふ」
これは『漢書』に記された一文の読み下し文であるが、正史に倭が登場した最初の記述である。時代は丁度紀元前後の時期である。現代文に直せば
「楽浪郡から海路を行った先に倭人と言う処がある(倭の人々がいるという読み方が一般的であるが、そういう漢文の用法は見出せない)。100以上の国に分かれており、毎年四季毎に訪れて貢物を献上する、と言う話である」
と、この話が伝聞であることを明らかにしている。 
要は当時の漢(前漢)を中心とする東アジアの国際社会の中で、北部九州を中核とした地域の存在が認められるレベルまで力をつけてきた、そう認識しておかなくてはならないという情報が届いていた、ということであろう。
寺沢はこの漢書に出てくる国とは上で検討した「クニ」であったろうと言っている。
100余国とは北部九州では収まりきれない。
おそらく倭とは西日本全体を指す地域を表現していたのであろう。      
倭の女王卑弥呼の登場 
その後も「倭」は中国王朝との交渉を絶やさず、後漢書東夷伝には紀元57年、「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。
倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。」  とある。
この一文は「漢委奴国王」印の出土 により証明された。
また紀元107年、後漢の安帝のとき「安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。」  とある。
更に時代は進み弥生時代末の238年(239年の記憶違い?)、中国は魏・呉・蜀の三国志の世界であった。
「倭の女王卑弥呼は魏の都・洛陽に在った明帝に使いを遣わして朝貢した。明帝はその忠孝を評価し、卑弥呼を親魏倭王に任じ、金印・紫綬を与えた」
と魏志倭人伝は記している。(残念ながら「親魏倭王」印は発見されていない)    
倭が国際社会に登場して200年余り、倭の国力はクニ(大首長)から国(王)へ、国からunited kingdom of great Yamataiともいうべき邪馬台連合王国(大王)へと拡大していたのである。
「国」と「クニ」とはどういう関係にあるのか。上記早良平野の例で説明すると三つのクニが統合されて早良国に発展するのである。(奴国の規模になると7つのクニが統合されている) そしてその中心地は吉武遺跡群にあった。そこでは明らかに王墓といえる墓が発掘されている。吉武高木遺跡である。ここの木棺墓から日本で最も古い‶鏡と銅剣と勾玉”いわゆる三種の神器の祖形が出土している。
魏志倭人伝の詳細に入るつもりはないが、次の二点を指摘しておきたい。
まず一つは帯方郡から沿岸航法で最初に至る狗邪韓国である。これは倭の連合王国のひとつ、加羅ではないかという説もあれば、いや、魏志韓伝に出てくる弁辰狗邪国と同じだ、だから三韓(馬韓・辰韓・弁韓)に属する国だ、という意見もある。
このことは良く分らないが、以前から指摘しているように南部朝鮮には西日本縄文人がコロニーをつくったり、常時漁撈民が交流していたり、黒曜石の交易があったりと倭連合王国のうちの一国があっても全く経緯に反しない。むしろ当然だと指摘しておきたい。
いまひとつは倭人の風俗に関する記述である。
「男子は、大人も、身分の高い人も、子供も、身分の低い人も、皆 面に黥(いれずみ)をし、身に文をしてからだの表面に絵模様を描いている。」
これを読むと倭人はすべて入墨をしていたように読めてしまう。しかし朝鮮系や中国系(江南系を含む)渡来人が80〜90%を占める倭国でそういう江南地方の越人の風習だけが流行したとは考えられない。
魏志倭人伝の記述の一部内容には、誰かの記録が、直接あるいは間接的に参照されている。その記録には現地を見た者にしか記述できないリアリティーも確かにある。しかしその記録者にとって自分と同じ風習を持つ大半の人々を描写しても何の面白味もなかったに違いない。
だから彼は沿岸漁撈民の風俗--これは縄文以来、江南地方から照葉樹林文化と共に伝播していた。また江南系水田稲作の伝播と共に越人の文化が再上陸していた可能性がある。--それが「呉」の越人の風習にそっくりなのに興味を持ち記述したのだろう。
それを魏志倭人伝の著者 陳寿が取り入れた、そう考えると納得出来るのではないかと思われる。
国際舞台に登場した「倭」は、中国王朝に朝貢し融和を図りつつ、倭王であることの国際社会での認知を図る。同時に国内においても王としての影響力を行使しようとする。そうした政治的動きは覇権争いを生み、各「国」各地に壮大な古墳を築くことになる。王権の確立に向けて新しい時代に突入していくことになる。 
弥生時代の渡来人の規模    
弥生渡来人の再整理
縄文時代晩期、逼塞状態にあったこの日本列島に朝鮮南部から水田稲作農耕技術が伝播した。その最初期の農耕技術をもたらしたのは実は縄文人自身だったという見方があるが、いずれにしろ朝鮮ないしは山東半島からの渡来人が技術指導に携わったことも確かである。
ただこの菜畑曲り田段階の渡来は数百人の規模であったとされる。微妙なのは糸島半島の新町遺跡の支石墓から出土した人骨が一般に言われているように縄文人そのものであったか、江南地方の低身長・低顔型の人であったかということであろう。もし後者であればこの段階で江南地方の人々が直接渡来してきて、西北九州から北部九州の一部まで達していた可能性が考えられる。
次の渡来の波は200年後、板付遺跡を初めとする福岡平野への渡来である。この渡来も朝鮮半島南部からということが確実であるが、規模はかなり大きく福岡平野から北部九州を埋め尽くし遠賀川式土器拡散の発端となった。
その後おそらく2、300年の間に、長江中・下流域ないし江南地方からの直接の渡来があったと考えられる。それを端的に現すものが高床倉庫すなわち高床の穀倉である。その渡来の影響がいかに大きかったかは伊勢神宮の神殿が高床穀倉の形をそのまま伝えていることからも推測できる。
さらに土ヘンの環壕集落が大勢を占める中、水ヘンの環濠集落が散在しているのも長江中・下流域からの文化の伝播を裏付けるものである。
また、朝鮮北部からの渡来と時期を同じくするとして扱った甕棺墓について、その後の検討から長江系ではないかと考えるようになった。大人用の甕棺墓の文化が東南アジアや南インドのタミル地方など南方に見られるからである。また図に見るように甕棺墓の隆盛は中期からであるが弥生前期から少しずつではあるが造られていたという調査結果が出ていることもある。    
次の渡来の大きな波は弥生前期末2400〜2500年前、朝鮮半島北部から中国東北部の青銅器文化の影響を受けた人々の渡来である。彼等は中国東北部の東胡(のちの鮮卑、烏丸)の侵入を受け朝鮮半島で武力闘争が激化する中、戦禍を逃れてきた人々でありその集団の規模はそれまでの渡来人の規模と比べ、かなり大きかったと言われている。
弥生時代の渡来人の規模
埴原和郎はかって「100万人渡来説」として有名になった渡来人数の試算を発表している。
これがその試算表である。ただしこの試算は当時の年代観のもと、弥生初めから奈良時代中葉までの1000年間の渡来人の試算である。埴原はこの間の人口急増は農耕社会に大転換したといっても、通常の農耕社会の人口増加率ではとても説明できない。 
その不足分を補うには130万人〜150万人、すなわち100万人以上の規模の渡来人を想定する必要があるとしたのである。人類学者は出土人骨の分析から総じてこの見方に賛成である。右図のように関東地方でも渡来人の割合が6割を示し、北部九州では8〜9割を占めることも事実である。
一方、考古学者はこれまでの発掘結果からみて、北部九州においても西日本全体でも在来の住民を圧倒するような規模の渡来を想起させる調査は全く報告されておらず、埴原を初めとする人類学者の見解を否定する。
この学界間のギャップを解消する説を提示したのは中橋孝博である。中橋は本来狩猟・採集民である縄文系弥生人と渡来系弥生人の人口増加率を分けて考えた。既に縄文文化の崩壊で見てきたように縄文系弥生人の人口増加率は縄文後・晩期、マイナスで推移してきた。
中橋は縄文系弥生人が一部稲作農耕を取り入れても人口増加率は大きく見積もって年間0.1%を超えることはないと推定した。
これは必ずしも無理な仮定とは言い切れない。右のグラフを参照いただきたい。瑞穂の国日本は弥生時代から始まった。しかし、現代のように水田が農地を埋め尽くすと言った景色はおそらく室町時代からである。すくなくとも弥生時代の貯蔵庫の中は縄文以来のドングリが米以上に主要な位置を占めている遺跡が多く、標準的農耕社会の人口増加率を適用するのは無理がある。 
一方、渡来系弥生人について中橋は上掲の隈・西小田遺跡の甕棺墓数の推移や永岡、金隈の同様なデータから人口増加率を算出し、ほぼ1%という高率を設定して良いとしている。
この中橋の集団ごとに人口増加率が違うはずだと言う考え方を踏襲しつつ、新年代観を取り入れるとどうなるか、算出を試みた。それが次表である。
試算は次のように行った。
1.弥生初期と終期の地域別人口は小山修三の人口推定(参照)によった。小山の年代観は新年代観に近く、縄文晩期を弥生早期と読み替えるだけで整合性を持ち得た。
2.それぞれの地域の縄文系と渡来系集団の割合はいろいろな研究成果を参考に表の数値のように定めた。
3.その結果、縄文系の集団の年平均人口増加率が自動的に算出された。ピンク色で示した数値である。東日本の縄文系の人口増加率は低く、西日本のそれは埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の範囲に入っている。いずれも首肯出来る数値である。ただし西日本の縄文系は中橋のいう0.1%を上回る数値となっている。
4.渡来系集団については人口増加率を埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の0.2と0.3においてシミュレーションを行った。弥生時代の期間が埴原の100万人渡来説を唱えた時代と異なり、新年代観によってほぼ2倍の期間になったこともあっていずれのケースも納得できる数値となった。むしろ1100年間で列島全体で50000人から120000人、年平均50人から100人という渡来人の推定数値は意外に少ないと感じられる。
古墳時代以後の渡来人の規模予測
先にも述べたように埴原の100万人渡来説は弥生時代から奈良時代までの間の話である。
したがって少々先走りだが古墳時代からの人口増加について、ここで検討して見通しを立てておくのも意味のないことではあるまい。
そういうことから同じく小山修三の人口推定を使い弥生末期から奈良中葉までの550年間の 人口増加率と渡来人数のシュミレーションを行った。それが次表である。
この検討は予想を上回る大変な数値を含んでいる。
1.まず埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の範囲内(0.1%〜0.3%)では渡来人数はまさに100万人から300万人と言う結果になったのである。
2.古墳時代、朝鮮半島では国の消長が激しかったので、一国が国を挙げて日本に亡命するということがあったかもしれないが、それでも渡来人数の想定として50万人以上は考えられないのではないか、あまり予断しない方が良いと思うがそういう風に感じる。
3.とすると人口増加率を0.35〜0.4と設定しなければならない。これが許されるかどうかが問題である。右表は中橋が提示した世界各地各時代の人口増加率の一覧表であるが、この表からすると1%程度と設定しても別段おかしくはなさそうである。
いずれにしろ古墳時代にこういう問題をはらんでいることを考慮しつつ検討を進めることにする。
弥生末の日本人のGm遺伝子頻度
第3部の最後に弥生末期の東西日本人のGm遺伝子頻度を推定しておこう。
西日本地区では渡来人の出身地域別割合は朝鮮南部と江南地方が渡来人総数のそれぞれ1/4づつ、朝鮮北部からが1/2と仮定した。
東日本地区では西日本地域の渡来人系の移住が1/2、朝鮮北部からの渡来人が1/2とし、朝鮮南部や江南からの直接の渡来はなかったと仮定した。
これら2地区の日本人のGm遺伝子頻度が古墳時代から奈良時代にかけての渡来により、現代日本人とほぼ同じの頻度になるか皆目見当がつかないし、自信もない。 
 
「稲の日本史」3

 

「日本人」とは単一でなく、実に多様な人々の集団である。先史時代の様々な遺物がこれを物語っている。
太古、極寒のシベリアからマンモスを追いかけつつ日本列島に到達した人々もいれば、南から黒潮に乗ってやってきた海の民もいた。そして、この東の果ての大地に足を踏み入れた人々は、例外なく新たな文化や技術を持って乗り込んできた。
北からやってきた集団は、「細石刃」という強力な狩の道具を作る石器技術を伝え、「丸ノミ型石斧」を持ち込んだ南の一団は、舟を造る技術を伝えた。
ドングリなど森の恵みを貴重な食料に変える「土器」を伝来させた人々もいた。縄文時代には主に中国大陸から高度な建築技術や漆工技術、そして?状耳飾りなどの装飾文化や漁労の文化が、人々の移動とともに伝わってきたと考えられている。
こうして日本列島には三万年前頃から凡そ二千年前まで、幾重にもわたって人々が渡来し、多彩な「原日本人」たちが日本列島にその文化の基礎を築いていくのである。
数ある日本への渡来民のなかで、忘れてはならない重要な存在が、稲作をもたらした人々、「イネの民」である。
イネもまたこの列島で自然発生したものではなく、太古のある日、この大地にやってきた。ただし、イネは栽培植物だけに、ひとりでに流れ着いたり、勝手に何世代も生きながらえたりはできない。そこには常に人々の営みが存在するのである。
このイネの民とは、何時何処からやってきた人々なのだろうか。
確実に解かっているのは二千年前頃、朝鮮半島や中国大陸から水田稲作の技術を持ってやってきた弥生渡来民の流れである。
しかしいま、日本の稲作はもっと古い時代にもたらされていたことが解かってきた。
イネ(コメ)は日本人にとってかけがえのない存在である。
弥生時代以降の日本の歴史的展開によるところが大きいと一般にいわれてきた。「古事記」「日本書紀」の神話に始まり、朝廷の稲作儀礼、律令制度、太閤検地、江戸の幕藩体制等など。千数百年にわたって続いてきた日本列島の歴史時代、日本人の生活の中心には常に稲作とコメがあった。こうしてこの大地に生きる人々の心にイネやコメが、自分たちのアイデンティティとして刷り込まれていくのである。そして西欧の価値観が押し寄せた明治時代、イネやコメは日本人のこだわりとして定着していく。
そんな明治時代、イネに魅せられた新たな学問を開いた人もいた。農政官僚であった柳田國男である。
「太古、イネは南から海を渡ってやってきた」という仮説から、柳田は日本民族を考察し、日本民俗学の基礎を築いた。
昭和初期に、東北の詩人、宮沢賢治が、イネを「マコトノ草」と歌い、イネはもはや祈りの対象であった。
最北の田圃(たんぼ)
北海道最北、真っ白に雪化粧した利尻富士が間近に見える天塩郡遠別町では、2001年の5月に101回目の田植えが始まっていた。
北緯44度3分。遠別は日本列島で最も北にある稲作地帯である。ここは世界で最も寒冷なコメどころのひとつでもある。
植物学的にいうとイネ科の一年生作物である「イネ」は熱帯性の植物であり、寒さにめっぽう弱い。そんなイネを日本人がこの北の果てまで持ち込んだのは、今から丁度100年前、1901年(明治34)のことであった。イネの品種や耕作法に数々の改良を加え、コメ作りに打ち込んできた日本人の姿を、今も北海道の大地に色濃く見ることができる。
そもそも北海道に稲作が持ち込まれたのは、江戸時代初期の元禄5年(1692)。北海道でも南部に位置する渡島半島、文月村(現大野町)で稲作が始まっている。本格的に水田が開かれたのは明治6年(1873)、旧仙台藩士の中山久蔵。中山久蔵は寒冷地稲作の父ともいわれる篤農家で、札幌市郊外、現在の恵庭市に最初の田圃を作った。苗代に流れ込む川の水があまりにも冷たく、久蔵は夜通し湯を沸かして苗代に注ぎ続けるなど、苦難の道を突き進みながら徐々に北海道で稲作を広めていく。
北海道に入植し農業開発を始めた日本人たちの多くが、作って売りさばく農産物はともかく、自分たちが毎日食べるためのコメを欲し、コメ作りにのりだしたのである。
遠別町の米生産組合の資料によると、明治初期に栽培された品種は「赤毛早生」とある。「赤毛」はまさに中山久蔵によって見出された耐寒性に優れた品種であった。
「赤毛」にはじまったイネの品種は、この100年間でずいぶん寒冷地向けに改良された。札幌農学校の頃には、なおざりにされていたイネだったが、大正時代になり北海道大学農学部に引き継がれてからは、北の大地に適した品種を作る研究活動が始まったからである。
三期作農家
最北田圃の遠別で田植えが終わる頃、日本の南にはもう稲刈りを終えようという農家がある。遠別から南に下ること3000キロ、緯度も20度下がった北緯24度の沖縄県石垣島。
石垣島には、なんとコメを一年間に三回も作る人がいるという。コメの三期作は東南アジアの一部で今も行われているが、一年中暑い熱帯地域でのことである。石垣島は三期作を営む地域としては「最北の地」といえる。
三期作農家の主、仲新城淳さんは、琉球王朝が石垣島を含む先島諸島一帯の支配を始めた300年ほど昔の初代がこの地で農業を始めて以来、代々米作りを続けているという。
「何故三回も?」「代々コメを作ってきたという自負があるし、沢山作らねばという責任感みたいなものが湧いてくるんです」  この言葉を聞いて、民俗学者、坪井洋文の日本人論が思い浮かんだ。「イネに対する信仰と祖先に対する信仰を重んじる民」。
はたして太古、この列島にイネを携えた人々は、どこからやってきたのであろうか。考古学的に見ると沖縄では古い稲作の痕跡はまだ見つかっていない。
国内最古六千年前に稲作
1999年4月新聞各紙に日本の稲作の歴史に関するニュース。「岡山・朝寝鼻貝塚、国内最古6000年前の稲作」。縄文時代前期に遡る稲作の痕跡が見つかったという大発見の記事。今日本列島の稲作の歴史は従来考えられていたより、はるかに古くまで遡ろうとしている。
岡山・6000年前の貝塚 縄文前期に本格稲作?
稲の化石大量出土
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60μ。
調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」としている。(2005年02月19日 読売新聞)
青森県の三内丸山遺跡をはじめ、ここ数年来次々と明らかになりつつある縄文人の文化の高さからみて、稲作などの農耕も縄文時代から絶対に行われていたはずであると、高橋氏は確信しているのである。
縄文人といえば森に分け入り木の実を拾って小動物を狩る、そんな原始的な狩猟採集民のイメージが強いが、その姿が書き換えられる日もそう遠くはなさそうである。
今まで長らく発見されてこなかった縄文の稲作の証拠が、今何故発見されるに至ったのだろうか。考古学的発見の多くは、工事などの緊急発掘の際に偶然見つかった遺跡や出土物という可視的な物証に基づくものが大半だが、高橋氏らの発見はこれとは違っていた。「プラントオパール分析法」という科学的分析法によって発見が成し遂げられたのである。
六千年前の稲作の痕跡を発見した高橋氏の研究チームは、現在も各地の縄文遺跡を訪ね歩き、プラントオパール分析のための土壌を採取し調査を続けている。
現在までに確認できた縄文稲作の痕跡は島根県や鹿児島県の遺跡など全国九ヶ所。しかも縄文前期(6000〜5000年前)以降、中期(5000〜4000年前)後期(4000〜3000年前)とプラントオパールによる稲作の痕跡がコンスタントに見つかっていることから、日本のコメ作りは太古6000年前から途切れることなく現在まで、連綿と続いていることも解かってきたという。
イネのプラントオパール分析によって、6000年前の縄文時代まで遡る可能性が浮かび上がってきた日本列島の稲作。果たして太古、この列島に生きた祖先たちは、どんな種類のコメをどのように作っていたのだろうか。
日本の稲作の「原風景」とはどんなものだったのだろうか。イネのDNAを扱う研究者の中で、佐藤洋一郎氏(静岡大学助教授)は、未来に向けた新たな品種誕生に努める学者集団とは異なり、逆に太古の世界を解明してみようと試みる数少ない植物遺伝学者である。
これまでにDNA分析という手法を通して、イネをはじめクリやウルシなど太古の様々な植物について考察を深めてきた。三内丸山遺跡で出土したクリを分析し、遺伝子配列のバラツキの少なさから、このクリがヒトに管理され栽培されていたものであることを突き止めた業績は記憶に新しい。
又イネについては、弥生時代など古い遺跡から炭化して出土するコメ粒、いわゆる「炭化米」のDNA分析に世界で初めて成功するという実績を持っている。人間の場合でも遺跡から出土する太古の人骨は、DNAの大半が損傷しており、それをうまく取り出して分析できるようになったのはつい最近のことである。
イネの分野でこれを成し遂げたのが佐藤洋一郎氏なのである。
垂柳遺跡
垂柳遺跡(たれやなぎいせき) 青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の水田遺跡。東北地方ではじめてみつかった弥生時代の水田跡として知られる。遺跡は、旧自然堤防上の遺物包含地と低地の水田跡にわかれる。
1956年(昭和31)に籾痕(もみこん)のある土器が発見され、その後、炭化米もみつかっていた。81年から国道バイパス工事のために本格的な発掘調査がおこなわれ、水田跡が発見された。水田跡は656面で、大きなものは11m2以上あり最大のもので22m2、中が9m2前後、小が4m2前後だが、平均では8m2ときわめて小規模である。
各水田をくぎる畦畔(けいはん)もあり、注水、配水のための水口もつくられていた。水路も12本みつかっている。112面の水田跡からは人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた。水田脇から発見された土器群は、田舎館式と命名されている。
東北地方では、垂柳遺跡の発見前から籾痕のある土器片や炭化米、焼けた米がみつかっていたことから、早い時期の水稲農耕説が一部の研究者から提唱されていたが、定説にはなっていなかった。この遺跡の発見で、弥生時代中期にすでに本州北端部で水稲農耕がはじまっていたことが判明し、水稲農耕文化の伝播(でんぱ)を考えるうえで大きな問題提起となった。       その後、1987年に弘前市の砂沢遺跡から弥生時代前期に属する水田跡が発掘され、東北地方の水稲農耕開始時期がさらにさかのぼった。現在、遺跡の一部はうめられて高架橋がかかり、遺物は田舎館村歴史民俗資料館で保管されている。2000年(平成12)4月に国の史跡に指定された。
砂沢遺跡(すなざわいせき) 青森県弘前市の市街地から北へ約20kmの砂沢池の底、約40haに広がる遺跡で、弥生時代の前期にさかのぼる水田址が検出された。この遺跡は、1984年(昭和59)から87年まで、4年間にわたって、発掘調査が行われ、発見された2枚の水田址が、弥生前期までさかのぼることが判明した。弥生前期の水田址が東日本で発見されたのは初めてであり、同県田舎館村の垂柳遺跡(弥生中期)とともに日本最北端の弥生時代水田址として注目される。日本の稲作は、弥生時代に北九州から東漸して東日本に達した、という従来の見方に修正を迫る新発見である。
田舎館村(いなかだてむら) 青森県中西部、南津軽郡の村。東は黒石市に、西は平川をはさんで弘前市に接する。津軽平野南部に位置し、中央を岩木川支流の浅瀬石川がながれる。東西に広がる村全域が平坦地で、山林はない。地名は大和言葉の「稲家」が由来ともされる。1889年(明治22)村制施行した田舎館村が、1955年(昭和30)、光田寺村(こうでんじむら)と合併して成立。面積は22.31km2。人口は9028人(2003年)。 古くから水田地帯として開けており、村の南東にある垂柳遺跡では、弥生時代中期の水田遺構が発見されている。米とリンゴを中心とする農業が基幹産業で、副産品の稲藁(いなわら)を利用した筵(むしろ)などの生産もおこなわれていた。近年はイチゴやブドウ、花卉(かき)などをとりいれた複合経営のほか、リンゴジュース、野菜入りうどんなど農産物加工品の開発もおこなわれている。  南北朝〜戦国期に一帯をおさめていた田舎館千徳氏(せんとくし)の居城だった田舎館城跡があり、胸肩神社(むなかたじんじゃ)には円空作の木造十一面観音像がのこる。垂柳遺跡の出土品は、村の歴史民俗資料館に展示されている。また、小正月に野菜に紙の服を着せた人形をもった子供たちが厄払い(やくばらい)してまわる「カパカパと福袋」、4頭の獅子が独特の頭振りでおどる垂柳獅子踊りなどめずらしい行事もつづけられている。
青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村にある弥生時代中期(紀元前後)の水田遺構である。この時代における東北北部での稲作農耕をうらづける発見だった。約4000m2に小規模な水田跡が656面あり、畦畔(けいはん)や水路がくっきりとのこる。水田面には足跡もあった。
菜畑遺跡
菜畑遺跡(なばたけいせき) 佐賀県唐津市の丘陵先端部にある縄文前期〜中期の貝塚と、縄文晩期〜弥生中期の集落遺跡。遺跡面積は約1000m2で、1980〜81年(昭和55〜56)におこなわれた調査により、縄文晩期後半の水田跡、炭化米、農耕具などが発見された。78年に福岡県の板付遺跡で縄文晩期末の水田跡が発見されていたが、菜畑遺跡の発見で日本に水稲農耕がつたわった時期が従来よりかなりはやくなることがわかった。
最古の水田は畦畔(けいはん)をともない、水路は幅1.35m、深さ45cmで、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものであった。石包丁、木製鍬や朝鮮半島系の磨製石器類(→ 石器)も多数みつかっている。米以外にも、アワ、オオムギ、アズキ、ゴボウなど栽培植物の種子も出土していることから、水稲農耕と並行して畑作もおこなわれていたと考えられる。ほかに、動物や魚介類の骨類が多種みつかっており、なかでも顎(あご)の部分に穴を開けられている豚の骨は、家畜飼育の開始をしめす発見として、注目されている。1983年に国の史跡に指定された。
菜畑遺跡の水田は畦(あぜ)がつくられ、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものである。水路は幅が約1.35mあり、深さは45cmほどである。木製農工具や炭化米もみつかり、これらの発見で、日本での稲作の始まりが縄文時代晩期後半の約2600年前にさかのぼることが明らかとなった。 
幻の熱帯ジャポニカ 
茨城県つくば市。学研都市として多くの研究機関が集まるこの街に、縄文のイネ熱帯ジャポニカがある。
ただし、残念ながら昔ながらに栽培されているわけではなく、種の保存や新種の開発を目的に農林水産省系の研究機関である農業生物資源研究所がその稲籾を厳重に保管しているのである。
熱帯ジャポニカというこの古い系統のイネは、日本列島のみならず、いま世界中から消え失せようとしている。そもそもつくばのジーンバンクが収める熱帯ジャポニカは、その殆どが東南アジアから集められたものなのだが、タイやベトナム、インドシナなど、近年各国とも戦後の日本と同様に、新品種への移行が急速に進んでいる。古い品種のイネが毎日のように地球上から消え去っているのである。
稲作の故郷―中国雲南省
ユンナン省(雲南省) ユンナンしょう 中華人民共和国の西南端にある省。南はベトナム、ラオス、西はミャンマーと接する。東にユンコイ高原(雲貴高原)、西にシャン高原があり、メコン川の上流であるランツァン(瀾滄:らんそう)江、長江が省内をながれる。北高南低で、平均標高は約2000m。亜熱帯、熱帯モンスーン気候で、寒暖差が10°Cと小さく、「四季春のごとし」といわれている。中国で少数民族数がもっとも多い省で、イ(彝)、ペー(白)、ハニ(哈尼)族などの少数民族が全省人口の3分の1を占める。面積は39万4000km2。人口は4333万人(2002年)。省都はクンミン(昆明)である。
日本のみならず、世界の片隅からも姿を消そうとしている縄文のイネ熱帯ジャポニカ。このイネはそもそも、どこからどのようにして、太古の日本列島にもたらされてのか。
熱帯ジャポニカ最後の楽園であるラオスや、東南アジア地域からもたらされたのだろうか。しかし、このラオスの歴史は比較的新しく、稲作の開始はメコン川流域で数多く見つかった青銅器の年代と同じく、3000年前ぐらいと考えられている。
ラオスだけでなく、その他の東南アジア各地にも、日本列島より古い稲作の痕跡は見当たらない。ラオスの言い伝えには、太古、稲作民は南からではなく、北の方角であるメコン川の上流から、川を下ってやってきたとある。ということは、メコン川を遡ったところにイネの起源地が存在するといえるのではないか。
メコン川を300キロほど上流に遡ると、中国の雲南省に行き着く。雲南といえば古くから稲作の起源地として注目されてきた地域である。
その根拠は、雲南地域に存在する一万種にも及ぶという他に例を見ない多様なイネの品種がある。
ラオスから国境を越え、メコン川を上流にたどって行くと、最初に通る人口80万の景洪市である。タイ族が多く住む景洪は、古くからタイ語音起源でシーサンバンナ(タイ語ではシプサン・ナンナー)とも呼ばれる。
シーサンパンナ(西双版納) 中華人民共和国ユンナン(雲南)省の南西部、ランツァン(瀾滄:らんそう)江流域にあるタイ族(◇族。◇は人偏に泰)自治州。南東部でラオス、ミャンマーと国境を接する。チンホン(景洪)市、モンハイ(◇海:もうかい。◇は偏が孟で旁(つくり)が力、以下同)県、モンラー(◇蝋:もうろう)県からなり、州政府は景洪市におかれている。州人口の3分の1を占めるタイ族をはじめ、ハニ(哈尼)族、ラフ(拉?)族、プーラン(布朗)族など13の民族が居住している。面積は1万9700km2。人口は86万人(2001年)。
国土面積の500分の1しかない州内には、中国の7分の1の高等植物、4分の1の哺乳動物、5分の1以上の鳥類が生息している。「動植物の王国」とよばれ、自治州全体が国の重点総合自然保護区に指定されている。密林には紫檀(したん)、クスノキなど経済価値の高い樹種が多い。温暖な気候にめぐまれているため、水稲の二期作、三期作が可能である。ゴム、コーヒー、バナナ、サトウキビなどの亜熱帯作物の栽培も盛んで、プーアル(普?)茶の産地として知られる。
州内には、タイ族やハニ族などの高床式住居に民族色豊かな生活用具を展示した民族風情園、タイ族仏教建築の特徴をしめす景真八角亭や曼飛竜塔など、観光名所が多い。またタイ族の正月(太陽暦の4月)には水かけ祭や、長崎のペーロンと同じような競漕がおこなわれ、観光客は毎年170万人に達する。
12世紀ころから1950年の解放まで、この地域にはタイ・ルーを自称するタイ族の王国的政体シプソーンパンナーがあった。現在の地名は、「12の千田」を意味するシプソーンパンナーの漢語訳で、千田は行政単位をさすといわれる。元代に徹里軍民総管府、明〜清代には車里宣慰司がおかれていた。共和国成立後の1953年に自治区となり、のちに自治州となった。近年は東南アジアに通じる門戸として注目され、景洪空港の拡張、景洪港の建設がすすめられているほか、タイ、ラオス、ミャンマーなどの周辺国家とむすぶ道路や鉄道の建設も計画されている。
太陽暦の4月中旬、タイ族は正月をむかえる。人々は寺院へおもむき、仏像に水をそそいだあと、老若男女たがいに水をかけあい、厄をはらって新たな福をむかえようとする。この正月行事を中国では撥水節(はっすいせつ)とよんでいる。
森林がなだらかに起伏する地形にかわって、やがて緑豊かな水田となる。中国南部のタイ族自治州シーサンパンナ (西双版納) はユンナン省(雲南省)の南西端に位置する。ミャンマー (ビルマ) とラオスの国境に近いこの亜熱帯地域は山が多く、深い森林におおわれている。
古代そのままのようなラオスを思うと、同じメコン川沿いで、しかもラオスよりも上流にありながら、その風景の違いに驚かされる。いまや中国で最も辺境といわれた景洪の町にも、空港が建設され、近代的なオフィスやホテルが立ち並び、かつての面影は消えようとしている。
それでも何かイネの源流をたどる手がかりは無いものかと、古くから栄えているという景洪農貿市場を訪ねた。さすがにコメ売り場の一角には熱帯ジャポニカ系統の黒コメをはじめ、様々な品種のコメがずらりと並べられ、世界一という品種の多さを物語る迫力に満ちている。
売り子は周辺の地域からやってきた農民たちである。みな自分の生産したコメを売っている。ただ古い品種のコメはたいてい自分の村で消費してしまうため、町で売りに出すのは収穫が多く消費者にも人気の高い新品種のコメなのだという。
生産性の高い新品種はここ数年、中国政府が積極的に農家に作付けを指導しているということで、それにつれ熱帯ジャポニカなどの古い品種のコメは、ここ雲南でも急速に消えつつあるのが現状である。
世界一の規模の棚田
景洪から東へ300キロほどの山岳地帯の元陽県。ここには世界一の規模といわれる棚田が広がっている。3000m級の山が連なるこの一帯では、標高800mから2400mまで、山の斜面のほぼ前面に棚田をつくり稲作をしていた。山の上から眺めると、その無数に刻まれた棚田の縞模様にめまいを覚えるほどである。高知県の梼原町(ゆすはらまち)など日本でも千枚田と呼ばれる立派な棚田が幾つも知れれているが、それからすると、このとてつもない棚田は億枚田、兆枚田とでもいった規模である。
どれだけの歳月をかけて築かれたのか想像もつかない。毎年四月、標高の低いところから田植えが始まる。ハニ族やイ族といった少数民族の女性たちが青や赤の派手な民族衣装を身にまとい、全て手作業で植えている。場所によっては棚田の段差が2mにも及ぶところがあり、一枚の水田の奥行きが1mしかないなど、とにかくどんな急斜面であろうとすべて「棚田」化し、コメを作っているのである。
ラオスの焼畑とは違い、どこか日本人には懐かしさを感じさせる風景である。この無限に広がる棚田がある限り、たとえイネが全て新品種になっても、太古から連綿と続いてきたイネを栽培するという営みの「重さ」は、とても変わりそうにない。
元陽県
元陽県の総面積は約2189.88平方km。耕地面積は約2万ha、その中で棚田面積は約1.1万ha。人口は、336971人(2000.6.6 『梯田文化報』より)(うち、ハニ族52.6パーセント、イ族23.7パーセント。他にタイ、漢、ミャオ、ヤオ族が住んでいる)
稲作の起源地
雲南省にある市場や世界一の棚田を見ていると、やはりここが稲作の起源地ではないかとも思えてくる。
しかし考古学者の見地からは意外な事実がわかってきた。雲南省で発見されてきた遺跡のデータを分析した結果、雲南の稲作の起源はどんなに遡っても4400年前だというのである。
これでは6000年前からという日本列島のほうが、稲作の歴史が古いということになる。つまり稲作の起源地は雲南省ではないことがわかってきた。
大河メコンが貫いて流れる中国雲南省には、もう一つ別の大河がある。
長江である。全長6300キロに及ぶ長江古来、中国大陸の人の移動や文化の伝播を担う動脈の役割を果たしてきた。
実は、近年中国で急速に進みつつある考古学調査の結果、稲作の起源地は長江の中流域あたりであることがわかってきた。
雲南省から長江を凡そ2000キロ下がると中流域の湖南省に辿り着く。1995年にこの湖南省と隣接する江西省で、相次いで一万年以上前に遡る稲作の痕跡が見つかったのである。
タンラー山脈のグラダンドン山に発し、中華人民共和国の中部を横断する全長約6300kmの長江は、同国最長の川である。ヤンツーチアン(揚子江)の名は、河口に近いヤンチョウ(揚州)付近の局所的名称だが、日本では全流域をさす名称としてもちいられていた。  長江 ちょうこう 中華人民共和国の中部を横断してながれる大河。中国語ではチャンチアン。全長は約6300kmで、中国では最長、世界でもナイル川、アマゾン川についで第3位。流路によってさまざまな名称をもち、日本では下流部の一名称であるヤンツー江(揚子江)の名で知られる。ターチアン(大江)とも、たんにチアン(江)ともよばれる。
やっと撮影の許可が下りて、遺跡の名は「玉蟾岩」(ぎょくせんがん)。湖南省の省都である長沙から南へ500キロあまり南部の道県という町に玉蟾岩遺跡がある。
稲作の起源地と考えられつつある湖南省は、今もきってのコメどころで、それを物語るように沿道には途切れることなく水田風景が続いている。
減反の日本とは逆に、ここ数年コメの生産量を増やし続け、現在は世界最大のコメ生産国になった。年間の生産量は一億三千万トンを超え、世界の三分の一以上を占めている。国外に頼ることなく中国十二億の民を養おうというのが政府の考えである。湖南省はその目的を達成するための最前線。
道県は位置的にいうと、奇岩の風景で有名な桂林に近く、そのため桂林のように奇妙な形の石灰岩の岩山が点在するカルスト地形が広がっている。
北緯25度35分。緯度では沖縄県本当よりやや南になる。目指す玉蟾岩遺跡は林立する奇岩の一つであった。その奇岩に近づくと、ぽっかりと洞窟が口を開けている。中には二十畳ほどの広さで、それほど奥行きはない。
湖南省文物考古研究所のチームはこの洞窟内部を発掘し、一万二千年前頃という古代人の遺物を発見した。
調査は、旧石器時代から新石器時代へと、人々がどのように移行していったのかを調べるために行われていた。人骨をはじめ土器や石器といった予想道理の遺物を発見して、ただ一つうれしい誤算が、同じ一万二千年前の地層からさらに二粒の稲籾が出てきた。この太古のイネははたして栽培種なのだろうか。
コイリン(桂林) 中華人民共和国コワンシーチワン族自治区の北東部にある区轄市(地区が管轄する市)。地名は市内にうえられているキンモクセイ(中国名、桂花)に由来する。中国屈指の景勝地として知られる。「山青し、水清し、石美しく、洞窟奇異なり」の山水画の世界がひろがる桂林には、年間400万人以上の内外の観光客がおとずれ、観光関連業は市の経済の重要な位置を占める。おもな工業はゴム、医薬品、エレクトロニクス、工作機械、紡績、食品で、鉄器、櫛、毛筆などの伝統工業も健在である。面積は2万7809km2(市区は565km2)。人口は485万人(市区は67万人。2001年)。
コワンシーチワン族自治区(広西チワン族自治区)の都市、桂林の近郊では、中国の絵画や文学に何度もえがかれてきた石灰岩の奇峰がみられる。
発見された稲籾はその後、中国農業大学に持ち込まれ鑑定されている。野生のイネの場合、稲籾の先端に「芒(のぎ)」と呼ばれる長いとげがついているのだが、玉蟾岩の籾は芒(のぎ)が退化し小さくなっていた。植物というものは栽培化されると、とかく人間には不必要な部分が失われていく傾向がある。このことから玉蟾岩遺跡では十八種もの水鳥の骨が見つかっていることから、太古の洞窟の周りには大きな湖が広がり、その湿地には野生のイネが繁殖していたと考えられている。
一万二千年前といえば日本列島では縄文時代が幕を開け、人々が薄いつくりの土器でドングリを煮て食べていた頃である。この辺りに暮らした人々は、野生のイネが食料になることを発見し、やがてそれを自らの手で育てるという段階に達したのである。
人類が稲作という営みを始めた瞬間である。 
縄文ライスロード・イネの里・河姆渡遺跡
世界最古のイネの絵を描いた土器
玉蟾岩遺跡など長江の中流域で興った「稲作」は、その後徐々に周囲へと拡散していく。
その一つの流れが、長江を上流へ遡って雲南に至り、さらにメコン川を下ってラオスに到達するルートだったと考えられる。ラオスで縄文稲作のよすがを探って、このルートを逆さに辿り玉蟾岩に行き着いたのである。しかし、山岳地帯へ分け入るこのルートは稲作拡散の本流ではなかった。
本流は、長江を下って東シナ海沿岸地帯に向かう流れであった。
稲作は上流の雲南に到達するよりも数千年早く下流に向かって広がり始め、7000年前頃には長江下流域まで達していた。
狩猟採集の傍らイネを作りはじめた太古の人々は、自らの生活をより豊かにするために、次第に稲作への比重を高めていく。
その様子を如実に伝える遺跡が、長江下流域の浙江省にあった。
杭州から東へ100キロ、余姚(よよう)県河姆渡村で見つかった河姆渡遺跡である。文化大革命が終焉に向かいつつあった1973年の夏、河姆渡村では水路の改修工事が行われていた。このとき現場の湿った土の中から見つかった小さな土器片が河姆渡遺跡発見のきっかけとなった。
河姆渡遺跡(かぼといせき) 国浙江省にある長江下流の新石器時代の遺跡。1973〜78年の2度の調査で黄河文明と同時期に長江文明があったことが明らかとなった。いまのところ中国最古級の新石器文化である。堆積した層位にもとづいて早期(4・3層)と晩期(2・1層)に大別でき、早期を河姆渡文化とよぶが、晩期をふくむこともある。前5000年以前にさかのぼる第4層から円柱・方柱など高床式建物の建築材が大量に発見され、復元すると長さ23m以上、奥行き7mもの大きさになる例もあった。これらの用材は刃部磨製石器で加工されている。
第4層から当時世界最古の籾(もみ)や稲穀、農具が出土し、インディカ亜種の水稲と判明、アジアの稲作文化研究にとって大きな発見となった。土器でも中国最古の彩陶が発掘されている。ブタが飼育されていたが、漁労・採集も盛んだった。
考古学者たちが掘り進めたところ、地下数mの土壌からおびただしい数の遺物が発見された。中でも、倉があったと思われる場所から出土した150トンにも及ぶイネがあった。
このイネを放射性炭素年代測定で計測した結果、7000年前のものと判明した。洞窟の住居で野生イネの生態を観察して、人類がやっとイネを作ることができるようになってから5000年経過した姿が河姆渡遺跡であった。
河姆渡遺跡ではイネの栽培を裏付ける生産道具や生活道具も多数出土している。土を耕す鍬やイネを刈る鎌、脱穀のための杵など、その総数は2838点にのぼる。
そしてもう一つ、ここが太古のイネの里であったことを強烈に印象付けるのが、「灰陶盆」(かいとうぼん)と名づけられた土器であった。
この土器の側面には細い線を刻んで、たわわに稔ったイネの絵が描かれている。 世界最古のイネの絵である。
シベリアのマンモスハンターたちが畏れ(おそれ)崇(あが)めていたマンモスを線刻画で書き残したように、太古の人々は自らが大切に思う対象を絵に刻み後世に残してきた。
灰陶盆は河姆渡の人々にとってイネがいかに貴重なものであったかを、明瞭に物語ってくれている。
河姆渡の「渡」とは、船の渡しを意味する。その名のとおりこの遺跡のすぐ脇には余姚江という川が流れ、今ものんびりと遺跡の村とその対岸を手漕ぎの渡し船が往復している。
この環境を見ても解かるとおり、この一帯は太古から水に恵まれた土地で、水分を多く含んだ土壌が7000年ものあいだ様々な遺物を腐らせず。奇跡的といわれるほど豊かな出土物が発見されるのである。
7000年前の河姆渡一帯は今よりもっと水分の多い土地柄、つまり湿地だったと考えられている。河姆渡の人々は湿地に幾本もの柱を打ち込み、高床式の住居を作って暮らしていた。
発掘では住居の支柱となった木の柱も地面に突き刺さったままの姿で多数見つかった。その様子は今も発掘現場にそのままの形で復元されており、その迫力を体感することができる。
驚いたことに、柱にはほぞ穴が開けられている。この頃既に人々はほぞ組工法で木造の家を建設していたのである。立ち並ぶ柱の間隔から見て、高床式住居が幾重にも連なっていたと思われる。一説によると、幅が7mで、長さがなんと100mにも達する長屋のような高床式住居だったとも言われている。
ここに150トンものイネを備蓄する太古の稲作民が数百人暮らしていた。この稲作民の集落にはまだ支配の観念が芽生えていないことである。後世では生産が余剰を生み、余剰は富となり支配と権力を生む。河姆渡は稲作農耕という装置がありながら、王権や争いもなく皆平等に暮らした中国大陸最後の集落だったのかもしれない。
穏やかな時間のなかで、コメ作りに励んだ河姆渡の稲作民。人々はどんなイネを作っていたのだろうか。6000年前に稲作が始まったという日本と、7000年前の河姆渡とは何か関連が無いのだろうか。
河姆渡で大量に見つかった炭化したコメ粒の一部が、植物遺伝学者の佐藤洋一郎氏のもとに持ち込まれ、DNA分析によってイネの種類が判定されることになった。
この分析の結果、河姆渡のイネはなんと日本列島の縄文のイネと一致する、熱帯ジャポニカであることがわかったのである。
「これは縄文のイネが河姆渡遺跡のある長江下流域からやってきた可能性が極めて高いことを物語っています」
DNA分析によって佐藤氏は、殆どが謎に包まれた縄文の稲作に、又新たな手がかりを示してくれた。 
河姆渡の漁労民・海で漁労をする半農半漁の民
中国大陸の沿岸地域と日本列島の地図を見てみると二つの陸地の間には東シナ海が横たわっている。
河姆渡のあたりから九州の沿岸までは直線距離で凡そ800キロもある。
簡単な舟しかなかった太古の昔、イネの民はこの大海原を越えて本当に日本列島までやってきたのだろうか。そもそも陸でイネを作っていた人々がどんなきっかけで海に乗り出したのだろうか。
河姆渡遺跡をさらに調べていくと、意外な事実が浮かび上がってきた。
実は7000年前頃、地球は温暖期で平均気温が現在より3〜4度も高かった。出土した動物の骨から河姆渡には熱帯性のワニがいたこともわかっている。温暖化による海水面の上昇によって、今はやや内陸に入り込んでいるが河姆渡も、当時は海岸線のすぐ近くに立地していたのである。
河姆渡の稲作民はこの海とも関わりながら暮らしていた。何万点にも及ぶ出土物を調べていくと、釣り針や銛といった漁労具が数百点も見つかっていたことがわかった。河姆渡というと灰陶盆をはじめ、稲作関連の遺物ばかりが目に付くが、漁労具は浙江省博物館の収蔵庫でひっそり眠っていたのである。
収蔵庫の撮影の許可を得て、釣り針や銛が現れた。全て動物の骨で作られている。太古の人々の漁労にかける迫力のようなものが伝わってくる。
出土した魚の骨を調べた結果、河姆渡の人々はこの漁労具で、鯛やボラなど海の魚を獲っていたことがわかった。さらに、長さ63cmの巨大なしゃもじが収蔵庫から運ばれてきた。実は木製の舟のオールだという。残念ながら舟までは見つかっていない。しかし、このオールは河姆渡の人々が漁労をし、海に漕ぎ出した人々であったことを強烈に印象付けてくれた。
つまり河姆渡の人々は陸でイネを作り、海で漁労をする半農半漁の民だったのである。
沿岸で漁労をしていた太古の人々は、その後、徐々に遠くの海まで乗り出して行ったことが分かっている。
浙江省の沖合いに舟山群島という島々が浮かんでいるのだが、ここで土器など河姆渡の遺物が見つかっている。遥か五万年前、南のスンダランドで人類が海を渡ることを覚えて以来、ヒトは遠くに島影が見えると、乗り出した。河姆渡の人々も海の彼方に浮かぶ舟山の小島に出かけていったのだろう。
チョウシャン群島(舟山群島) チョウシャンぐんとう 東海岸の中華人民共和国ほぼ中部、ハンチョウ(杭州)湾の出口に位置し、東シナ海(東海)に散在する群島。舟山、タイシャン(岱山)、プートゥオ(普陀)など、大小1000余の島々からなる中国最大の群島。行政的にはチョーチアン(浙江)省舟山市に属する。面積は1440km2(市区は1028km2)。人口は98万人(市区は69万人。2001年)。
中国ではよく知られた漁場のひとつで、養殖業も発達している。イシモチ(→ ニベ)、タチウオ、イカの漁獲高は国内第1位で、チェンチヤメン(沈家門:しんかもん)港は中国最大の漁港である。船舶修理・機械・水産加工などの工業のほか、「岱塩」の名で知られる塩の産地として名高い。面積523km2の舟山島は群島内最大の島で、中国では4番目に大きい。同島のティンハイ(定海)は舟山市の政治・経済・文化・交通の中心地で、シャンハイ(上海)、ニンポー(寧波)などとの間に定期航路がひらけている。
古くから海上交通の要衝だった。唐代以来の日中交流では中国の玄関口となり、倭寇の根拠地ともなった。近代になってからはイギリス軍にたびたび占領された。舟山島の東部にあるプートゥオ(普陀)山は「海天仏国」とたたえられ、スーチョワン(四川)省のオーメイ(峨眉)山、シャンシー(山西)省のウータイ(五台)山、アンホイ(安徽)省のチウホウ(九華)山とならぶ中国仏教の四大名山のひとつである。
東シナ海 ひがしシナかい East China Sea 中華人民共和国の東方にある太平洋の縁海。中国ではトン海(東海)とよぶ。中国本土と南西諸島の間にあり、北は長江河口とチェジュ島(済州島)をつなぐ線、南はフーチエン省(福建省)とコワントン省(広東省)との省境から台湾の南端をむすぶ線が範囲である。面積は77万km2で、平均深度は370m、最大深度は2719mに達する。大部分が深度200m以下の大陸棚からなり、イシモチ(→ ニベ)、イカ、タチウオ、カニなどの魚類資源が豊富である。中国最大の漁場チョウシャン群島(舟山群島)をはじめ、日本の五島列島沿岸など豊かな漁場が多い。
大陸沿岸部は出入りの多いリアス海岸をなし、優良な港湾にめぐまれている。中国沿岸部の中で島がもっとも多く、最大の台湾をはじめ島々の約60%がこの海域に分布する。また尖閣諸島(中国名・釣魚島)近辺の海底には豊富な石油・天然ガス資源が存在するといわれ、周辺国から関心をもたれている。
当時は多分筏(いかだ)やクリ舟といった簡素な舟だったはずである。航海中の食料はどうしたのだろうと、疑問に思うと、浙江省博物館の研究員が、面白いものを見せてくれた。不思議な楕円形をした移動式の「かまど」。河姆渡遺跡で出土した7000年前のものだという。土を固めて作られた器の内側の壁面に三方からコブが突き出ている。ここに土器を載せコメを炊く仕組みになっている。いわば、炊飯器である。これは持ち運べる大きさで、あるときは木造の高床住居の中で使い、必要に応じて舟に積み込み、移動中の調理器になったと考えられる。
出土時の状況を克明に調べた結果、太古の人々は精米したコメを携帯することをせず、コメは稲籾のまま持ち運んでいたことも分かっている。
食事の度に籾をついて精米し、食べていたのである。この稲籾を舟に積み込むという発想は、ごく最近まで東シナ海一帯に残っていた風習であった。サバニという小舟を操って海に出る沖縄の漁師が、遠くまで行くときには稲籾を袋に詰め舟に乗せて出航したという記録がある。
これについては、作家の司馬遼太郎が興味深い考察をしている。「ついたコメでなく籾であるというのは、ちょっと想像を大きくすれば、万一漂流して無人島に着いた場合、耕作して余命を長らえることを考えてのことだと言えまいか」(「街道をゆく6 沖縄・先島への道」)。
司馬遼太郎はこうした太古の情景から、日本列島のイネが島伝いに伝播してやってきたということまで、その想像の粋を広げている。
東シナ海を越えて
東シナ海(ひがしシナかい) East China Sea 中華人民共和国の東方にある太平洋の縁海。中国ではトン海(東海)とよぶ。中国本土と南西諸島の間にあり、北は長江河口とチェジュ島(済州島)をつなぐ線、南はフーチエン省(福建省)とコワントン省(広東省)との省境から台湾の南端をむすぶ線が範囲である。面積は77万km2で、平均深度は370m、最大深度は2719mに達する。大部分が深度200m以下の大陸棚からなり、イシモチ(→ ニベ)、イカ、タチウオ、カニなどの魚類資源が豊富である。中国最大の漁場チョウシャン群島(舟山群島)をはじめ、日本の五島列島沿岸など豊かな漁場が多い。大陸沿岸部は出入りの多いリアス海岸をなし、優良な港湾にめぐまれている。中国沿岸部の中で島がもっとも多く、最大の台湾をはじめ島々の約60%がこの海域に分布する。また尖閣諸島(中国名・釣魚島)近辺の海底には豊富な石油・天然ガス資源が存在するといわれ、周辺国から関心をもたれている。
浙江省の沿岸地帯は島も含めて非常に取材しにくい場所として知られている。ここは台湾海峡に近い位置にあっため、海峡の緊張が高まると、如何なる取材趣旨であろうとも海外のメディアは立ち入りを許されない。
かつて近くの島まで渡ったことが確認されている河姆渡の稲作民が、本当に遥か800キロも離れた日本列島まで到達できたのであろうか、沿岸の漁民から何か手がかりを見つけたいとおもった。
この沿岸にはいまどんな漁民が住んでいるのだろう。中国の古い文献(「漢書」「呂氏春秋」)によると、江南地方といわれ長江下流南部のこの地域には、古くから「越人」と呼ばれる人々が住んでいた。
イネの日本への伝播ルート
日本列島にも栽培イネが長江下流域の江南地方からつたわったが、そのルートには4つの説がある。
第1は陸路で朝鮮半島に入り、玄界灘をわたって北九州へ、第2は山東半島から黄海をわたって朝鮮半島に入り玄界灘をへて北九州へ、第3は江南から東シナ海をへて朝鮮半島に入り、さらに玄界灘をわたって北九州へ、第4は江南から島伝いに沖縄・奄美諸島をへて九州へという説である。このとき日本に入ったのはジャポニカ種だが、今後、朝鮮半島の考古学調査などで同種のイネが発見されれば、ルート問題は解決される可能性がある。
新石器時代
新石器時代は前8000年ごろにオリエントで、中米で前6000年ごろ、中国でも前6000年以前にはじまったと考えられている。このころ農耕や家畜飼育がはじまり、自給自足の食料生産経済へ移行した。また打製石器のほかに磨製石器がつかわれるようになる。メソポタミアでは前6000年には土器がつくられ、このころ、銅器が各地でつかわれはじめる。青銅は、銅とスズの合金だから、銅の冶金技術(やきんぎじゅつ)が青銅器時代へ移行するため必然的なものだったのである。
磨製石器使用や定住しての農耕の開始、土器の出現を新石器時代の特徴とする説が強いが、これらはかならずしも同時におこっているわけではない。なお、日本では1万3000年前ごろからの縄文時代に土器がつくられはじめるが、金属器の使用や明確な農耕などは弥生時代になるまでおこなわれておらず、新石器時代とすることは困難である。
越人の歴史は新石器時代末期の頃(7000〜6000年前)に始まるというから、丁度河姆渡の人々もその時期の一集団ということになる。越人の特徴として挙げられているのが、航海に優れた才能を持っていたということである。
「呉越同舟」という言葉があるが、彼らは春秋時代(紀元前770年〜紀元前403年)には、江南に呉や越という国を打ち立てている。 民俗学者の研究によると、この越人の末裔が漁民として今も浙江省の沿岸地帯に暮らしているという。
なかなか取材先が見つからないまま、海岸地帯を走りつける。浙江省の沿岸は地形が複雑に入り組んでいて良質な漁港が無数にある。
やがて洪漁村(浙江省奉北市)という集落に辿り着いた。ここは中華民国総統であった蒋介石のゆかりの地だという。到着してまず驚いた。夕方で丁度漁民たちが海から戻り水揚げが始まったのだが、彼らの舟がどれも竹の筏(いかだ)まのである。長さ約10m、幅2m。どの筏も太い竹を20本ほど組み合わせただけの簡単な造りである。申し訳程度の小さな船外機が付いている。
ここは波は小さいが潮の干満の差が激しく、漁民は引き潮とともに漁に出て、満ち潮とともに港に引き揚げてくる。これはまさに太古さながらの漁である。主な獲物は浅瀬で海底をさらって獲るアサリなど貝類、そして仕掛け網で獲るアジやカニなどの近海魚である。舟を持つ費用は殆どかからないこの筏漁は、豊かな魚貝に恵まれた内海という環境に相まって、古くからずっと続いてきたそうで、もしかしたら河姆渡の昔から続いているのかもしれない。
さらに「日本まで流されることがよくある」という。潮の流れや風の関係で、漂流すると二日ほどで日本の九州沿岸あたりに流れ着くらしい。 確認するために海上保安庁に問い合わせると「現在はさすがに減ったが、1960年代頃までは中国の浙江省や福建省から漂流してきた漁船を、頻繁に沿岸や海上で救助していた」というのである。
河姆渡のあたりから流れ始めると、まず大河長江から吐き出された流れによって沖合いに運ばれ、やがて対馬海流にのって九州あたりに到着する。風向きが良い春から夏だと、この流れはさらに加速し、まる一日ほどで着くこともあるのだという。
はるか6000年前の昔、稲籾を携えた漁労民たちも、こうして漂流の果てに日本列島に流れ着いたのだろうか、果てしない数の漂着物を見ていると、それも当然あったことのように思えてきた。 
天然の湿地栽培から水田誕生
6000年前の中国大陸。長江下流域の北側、つまり河姆渡遺跡のある浙江省の反対側には江蘇省がある。
1994年、江蘇省蘇州市にある草鞋山遺跡で古代の水田の跡が発掘された。
世界最古、約6000年前のものであった。この調査には中国側と共同研究の形でプラントオパール分析の専門家、藤原宏志氏・宮崎大学教授が参加していた。
草鞋山遺跡の発掘を主催した江蘇省農業科学院は、「水田は6000年前、中国長江下流で誕生した」ということを裏付けるための調査を続けており、貴重なデータを採取している。
これは南京郊外の高郵遺跡で発見した時代の異なる四種類の炭化米で、7000年前から凡そ500年刻みで、5500年前までのもので、全体に時代が下がるほど少しずつ大きくなっているのだが、5500年前の炭化米は、前の三つの時代のものに比べて、粒が飛躍的に大きくなっている。ほぼ現代の米粒ほどに大きくなっているといっても過言ではない。
「これはやはり6000年前から5500年前という時代に水田が誕生した証でしょう。人為的な技術革新なしにこのようなコメ粒の進化が起こるはずがありません」
中国大陸で稲作を始めた人々は、あるときイネは湿地でうまく育てると、その生産性が飛躍的に上がることを発見した。ただ天然の湿地は環境が変わりやすく、一時的にうまく栽培ができたとしても、次の瞬間には日照りで消滅したり、大水で水没したりと、何かと不都合なことも多い。人は自分たちでコントロールできる人工的な湿地、つまり「水田」を作るという発想に至ったのであろう、と考えられる。
水田というのは水を引く水利技術や、土地を平らにならす土木技術など、極めてレベルの高い技術が要求される農耕なのだが、水田を「発明」した中国大陸の古代人たちは5000年前頃までに可也の技術水準に達し、イネの生産量を大幅に増やしていた。
こう考えられる根拠は良渚文化の誕生にある。
良渚文化(りょうしょぶんか) 中国の長江下流域にさかえた新石器時代後期の文化で、稲作農業をおこなっていた。その始まりは炭素14法による年代測定(→ 年代測定法)では前3000年ころとされている。終末については議論がわかれているが、おそくとも前2000年ころまでにはおわっていたと考えられる。分布域は現在の江蘇省、上海市、浙江省などで、なかでも太湖周辺が分布の中心となっている。
良渚文化は1930年代に浙江省で発見された。とくに36年に施マ更(せきんこう)により杭州の良渚遺跡群が調査されたことで、その存在が広く知られるようになった。当初は出土した黒陶が注目され、同様に黒陶を出土する竜山文化の一部とみなされていた。しかし50年代以降、調査が進展し、竜山文化とはことなった内容をもった文化であることがわかり、良渚遺跡群にちなんで「良渚文化」と命名された。
良渚文化の遺物のうち、土器には黒陶のほかに灰色の土器(灰陶)がある。土器の製作にはろくろがつかわれ、その造形は装飾性にはとぼしいが機能的で均整がとれたものとなっている。とくに黒陶は表面をていねいにみがき、さらに焼成時にいぶし焼きをおこなうことで光沢にみちた黒色の土器となっており、技術水準の高さをあらわしている。生活の道具には石器や骨角器などがつかわれており、石斧や石鑿(いしのみ)のような木材伐採・加工具、石鋤(いしすき)のような土掘り具、石包丁や石鎌(いしがま)のような収穫具、石鏃や骨鏃のような狩猟具がある。
装飾品や祭器・儀器では、とくに玉器が高度に発達していた。器種としてはj(そう)、璧(へき)、垂飾(すいしょく)、環(かん)、斧(ふ)などがあり、その造形は多様である。また表面にはひじょうにこまかな彫刻がほどこされており、高い製作技術をもっていた。
良渚文化では、イネを主要な作物として、豚、犬、スイギュウなどを家畜とする農業が中心的な生業であった。ただし、石鏃や骨鏃も出土することから狩猟などもおこなっていたと考えられる。
集落遺跡では平地住居のほかに、貯蔵穴や井戸などがみつかっており、安定した定住生活がいとなまれていたことがわかる。また特殊な遺構としては、大型の建築基壇が良渚遺跡群で発見されたとの報告もある。
墓地にはこの文化に特徴的なものが発見されている。一般的な墓葬は人ひとりが入るくらいの土坑墓で、日常用具が少量副葬される程度であるが、これとはことなり、墳丘をきずいて墓地をつくり、特殊な遺物である玉器を副葬したものがある。なかには数十点にものぼる玉器を副葬した例も報告されている。
良渚文化では、大型の基壇の存在や墓地の状況からみて社会の階層化がすすんでいたことがわかる。また精美な玉器や土器の存在からは専門の工人の存在が想定され、社会の分業化がすすんでいたことも明らかである。このように良渚文化の社会はじゅうぶんに発達した段階に達しており、一定の政治権力が生まれていたと考えることができる。
半円形の飾り板と12個の玉管(ぎょっかん)で構成される玉飾(ぎょくしょく)。チョーチアン省(浙江省)の余杭県反山22号墳から出土した。飾り板の幅は6.3cmあり、細かな線刻と浮彫がほどこされている。この特徴的な目をもつ顔の文様は上下が反対になっているので、ぶらさげて使用されたものではないかもしれない。前3000〜前2000年。浙江省文物考古研究所所蔵。
良渚文化は、4500年前に長江下流域で誕生した文化で、その社会レベルの高さから、最近は「長江文明」とも呼ばれるようになっている。
中国文明は黄河流域で誕生した「黄河文明」にその源を発すると長らく考えられてきたが、これに並んで大河長江の流域でも文明の曙を迎えつつあったのである。
古くから人や文化を脈々と運び続けてきた長江は、「文明」の芳香に満ち溢れている。この良渚文化で生産的基盤となったのが水田稲作であった。すなわち、水田稲作という安定した食料供給源があったからこそ、文明が生まれたとも言える。
この頃になると、河姆渡の頃のように、皆平等で穏やかな暮らしというわけにはいかない。集落には城壁が巡らされ、コメの生産の余剰は富として蓄積され、貧富の差から支配の概念が生まれ、王権が誕生した。
争いごとや戦闘という行為も生まれてくる。きらびやかで猛々しい時代がやってきたことを象徴するように、良渚文化期の遺跡からは精巧な玉器が多数見つかっている。良渚は農具一つ見てもすごい。河姆渡遺跡で見つかっている動物の骨でできた申し訳程度の鍬に比べ、100倍以上の威力あると思われる「石梨」。一辺が50cm以上もある三角形をした巨大な石の農具である。周縁部が切れんばかりに研かれている。水牛に引かせて田お越し作業などに使われたものらしい。
6000年前頃、長江下流域に水田稲作が誕生し、その後、社会はにわかにざわめきだした。そして人間だけでなくイネ自体も、水田という新たな環境の中で変化を遂げていく。
熱帯ジャポニカから、いま私たちが食べている温帯ジャポニカへと生まれ変わっていったのである。 
熱帯ジャポニカの稲作が西日本に・縄文人の朝鮮半島へ
水田稲作の誕生で中国大陸がにぎやかになり始めた頃、日本列島の縄文はまだ、のんびりと平穏だった。王権が生まれ、社会システムが変革していくという流れとは無縁だった。
ある意味で幸せな時代が続いていたわけだが、この平穏も4000年前頃から急に怪しくなってくる。
自然環境の急速な変化にはどうしても弱くなる。栽培を主とした農耕社会のように、環境の変化に立て直しをするということができない。
三内丸山遺跡も4000年前に消滅している。寒冷化が原因だと考えられている。縄文時代の人口を推計している小山修三氏(国立民族学博物館教授)のデータによると、4000年前にピークだった26万人あまりの人口は、その後減少して、3000年前頃までに半減してしまうのである。
まさに縄文の危機到来といったところだが、この人口の減少を東日本と西日本に分けてみると、さらに面白いことがわかってくる。
減っているのは東日本だけで、西日本は全然減少しておらずほぼ横ばいなのです。もともと西日本の方が人口が少ないということもあるが、それにしても興味深い。熱帯ジャポニカの稲作が西日本にしか普及しなかったという推測と、妙に符合する。
水田の本場、中国ではその後、稲作が時代を追って徐々に陸伝いに拡散していく。中国と周辺地域の稲作遺跡を丹念に辿っていくと、日本列島が寒冷化による食糧危機の真っ只中にあった3000年前頃、水田稲作は朝鮮半島の南端にまで到達していたことがわかる。
豊かで安定した食料を供給してくれる水田が、対馬からわずか50キロのところまでやってきていたのである。水田稲作という縄文人たちにとっての未知の営みだった。実は3000年前頃から縄文人たちは、九州あたりから朝鮮半島南部までの海を越えていたことがわかってきた。
韓国南部の慶尚南道は、隣接する全羅南道と並んで今も大水田地帯が広がる韓国のコメどころである。
対馬からほど近いこの慶尚南道や釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。
東三洞貝塚(とむさむどん)では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、そこで出土する縄文土器は、縄文人がやってきた確かな証拠品といえる。
朝鮮半島では銛や鏃といった漁労具や狩猟具に最適な黒曜石が産出されない。このため朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやってきていたのではないかと考えられている。
最初から縄文人たちが水田技術を求めて朝鮮半島を訪れたとは考えにくいが、いずれにせよ、閉塞した社会状況のなかで、何か新たなものを求めて訪れた可能性は十分にある。海を渡ってやってきた縄文人たちはここで、見慣れぬコメ作りに偶然であった。規模が大きく、水が張られ整然と列をなすイネの群れ。実の付き方は故郷の熱帯ジャポニカより、ずいぶんとよいようである。自分たちの暮らす地域の窮状を考えれば、この新たな技術を縄文人たちが持ち帰らぬはずがない。
縄文土器の発見などから、今韓国の研究者の間では縄文人の研究が盛んになっている。東三洞貝塚を調査している考古学者の河仁秀氏は、「縄文時代の頃、朝鮮半島と日本列島は深い交流関係にあり、水田と出会った九州あたりの人がそれを習得して持ち帰ったということは当然あり得たことなのです」
国境というものがなかった縄文時代後期、日本列島と朝鮮半島とを自由に往来していた祖先たちの姿を思うだけで、とても愉快な気分になってくる。 
日本最古の水田と「支配」と「権力」
朝鮮半島の南部から対馬を挟んだその対岸に、佐賀県の唐津市がある。
この町で、縄文人たちが自らの手で水田を作り始めた痕跡を見つけることができた。
玄界灘に面した唐津は、「対馬国」などと並んで「魏志倭人伝」に登場している。
原の辻遺跡 はるのつじいせき 長崎県壱岐にある弥生前期〜後期の集落遺跡。玄界灘にうかぶ壱岐は、九州の東松浦半島から直線距離で約20kmしかはなれていない。「魏志倭人伝」にも「対馬国」(→ 対馬)とならんで「一支国(いきこく)」として登場、その王都だったと考えられている。遺跡は壱岐市南東部の標高10〜20mの、北に川をのぞむ舌状台地上にある。大正期から遺物が採取され、1948年(昭和23)、51年に本格的な合同調査がおこなわれた。
1970年代からは長崎県教育委員会を中心に発掘調査がはじまり、総面積約100haといわれる遺跡の調査が現在もつづいている。93年(平成5)、3重の環濠が発見されたが、環濠内部は南北約750m、東西約350mの広さがあり、濠の上部の幅は2〜4m、深さは1〜2mだった。環濠の内側と外側に10カ所ほどの墓地もみつかり、甕棺墓、石棺墓、土坑墓など多種多彩な墓があったことがわかった。墓内からはガラス玉や管玉(くだたま)、中国鏡(→ 銅鏡)などが出土している。
とくに環濠集落東側の石田大原地区の墓域からは、平成13年度(2001)の調査で、朝鮮半島でつくられた多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう。径約6cm)の破片、5本分以上の細形(ほそがた)銅剣の破片、先端に朱をつけた祭祀(さいし)用青銅製の鏃(やじり)など、弥生前期末〜中期(前3世紀末〜前1世紀ころ)の権威の象徴といわれる青銅製品や玉類が多数、集中してみつかった。後期前半(1世紀ころ)の中国鏡片も発見されており、ここには弥生前期末〜後期前半の歴代首長やその一族の墓があったと推定された。今後、遺跡内からは未発見の「一支国」時代の王墓も豪華な副葬品とともに発見されるのではないかと期待されている。
竪穴住居群は1カ所しか発見されていないが、他の遺跡にはない石敷遺構(いしじきいこう)や道路状遺構など環濠間をむすぶ特殊な遺構のほか、日本最古の船着き場跡や、竿ばかり(さおばかり:→ はかり)につかう中国製の青銅製錘(おもり)、青銅製車馬具などがみつかっている。また、一遺跡としては最多の100個以上の青銅製鏃が発見されており、朝鮮半島系の大量の土器や鉄斧(てっぷ)、中国の貨泉(新代の貨幣)や五銖銭なども出土した。これらのことから、朝鮮半島や中国大陸と盛んに交易をおこなっていたことがわかる。また、赤い朱の顔料をぬった木製の盾(たて)なども出ており、常に戦闘にそなえる緊張状態にあったようだ。2000年に国の特別史跡に指定されている。
玄界灘にうかぶ島、壱岐で発見された原の辻遺跡は、その規模や豊富な遺物から「魏志倭人伝」にしるされた「一支国」の首都と推定されている。弥生時代中〜後期のこの内濠は、幅が約3mあり、断面がV字形をしている。深さは約1mあった。
魏志倭人伝
[現代語訳]  倭人は帯方郡東南の大海の中の山島に国をつくっている。もともと100余国にわかれており、漢王朝に朝貢してきた。今は30カ国が使者をおくってくる。  帯方郡から倭国にいくには、朝鮮半島西岸沿いを船でいき、馬韓をへて、しばらく南にいき、しばらく東にいくと、倭国の北岸の狗邪韓国につく。その間、7000余里。はじめて海を横断し、1000余里で対馬国につく。そこの大官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。離れ小島で、面積は400余里四方ほど。うっそうとした森林におおわれ、しかも山はけわしい。南に海をわたって1000余里で一大国〔一支国(壱岐国)か〕につく。  また海をわたって1000余里で末盧国につく。陸路を東南に500里いくと伊都国につく。そこの大官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚という。1000余戸あって代々の王もいるが、女王国の属国である。帯方郡からの使者が往き来するときは、いつもここで駐留する。ここから東南100里で奴国、東に100里で不弥国につく。  船で南に20日いって投馬国につく。そこから南に船で10日、陸を1カ月ほどいくと邪馬壱〔台〕国につく。ここが女王が都をおいているところである。
菜畑遺跡(なばたけいせき) 佐賀県唐津市の丘陵先端部にある縄文前期〜中期の貝塚と、縄文晩期〜弥生中期の集落遺跡。遺跡面積は約1000m2で、1980〜81年(昭和55〜56)におこなわれた調査により、縄文晩期後半の水田跡、炭化米、農耕具などが発見された。78年に福岡県の板付遺跡で縄文晩期末の水田跡が発見されていたが、菜畑遺跡の発見で日本に水稲農耕がつたわった時期が従来よりかなりはやくなることがわかった。
最古の水田は畦畔(けいはん)をともない、水路は幅1.35m、深さ45cmで、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものであった。石包丁、木製鍬や朝鮮半島系の磨製石器類(→ 石器)も多数みつかっている。米以外にも、アワ、オオムギ、アズキ、ゴボウなど栽培植物の種子も出土していることから、水稲農耕と並行して畑作もおこなわれていたと考えられる。ほかに、動物や魚介類の骨類が多種みつかっており、なかでも顎(あご)の部分に穴を開けられている豚の骨は、家畜飼育の開始をしめす発見として、注目されている。1983年に国の史跡に指定された。
菜畑遺跡の水田は畦(あぜ)がつくられ、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものである。水路は幅が約1.35mあり、深さは45cmほどである。木製農工具や炭化米もみつかり、これらの発見で、日本での稲作の始まりが縄文時代晩期後半の約2600年前にさかのぼることが明らかとなった。
1980年、その当時の姿を垣間見ることのできる一つの遺跡が見つかった。発見された地区の名称をとって「菜畑遺跡」と名づけられた。
普通、遺跡の発見というものは、せいぜいその地区内のニュース止まりだが、菜畑遺跡は違っていた。一斉に全国、さらに世界にも配信される大ニュースとなった。
その理由は「日本最古の水田発見」にあった。
2600年前、縄文時代晩期にまで遡る。
従来、日本列島の水田稲作は弥生時代(2300〜1800年前)頃に、朝鮮半島方面からやってきた渡来民によって始まるというのが定説であったが、菜畑遺跡の発見はその常識を覆すことになった。時代はさらに300年遡り、水田を作った主体も日本列島在来の縄文人であることがわかったのである。
何故、縄文人だと考えられるか。それは発掘された生活道具が、全て縄文文化に由来するものだった。皿や浅鉢、甕、壺といった土器類は、みな典型的な「縄文土器」であった。
土器文化の異なる渡来人が、わざわざ土着の縄文土器を作るとは考え難い。こうして日本最初の水田が、縄文人によって開かれたことが判明したのである。発掘のデータによると、菜畑の集落は海岸沿いに立地し、人々は半農半漁で暮らしていたこともわかった。
朝鮮半島に交易に出かけていた縄文人とは、九州北部の沿岸地帯に暮らし、航海技術に長けた漁労民であった。唐津近隣の松浦あたりで産する黒曜石を、交易の品として持ち出していた。このことは韓国の東三洞貝塚で出土した黒曜石などの産地を同定した結果、確かめられている。水田に関する技術を身に付けて帰ってきた縄文人は、得意の漁労を営むかたわら、日本列島に水田稲作の第一歩を印したのである。
最古の水田は、一区画が4×7m程度と小ぶりで、土盛の畦畔と矢板でしっかり護岸された水路を伴っていた。
移設復元された水田を見ると、全体に規模は小さいものの、その土木技術は高く、現在の水田と比べてもそれほど見劣りするものではない。
縄文時代の遺跡で、殆ど見つかっていなかった農耕具も、ここでは大量に発見された。稲穂を刈り取るのに使う石包丁や石鎌、水田を耕す道具である諸手鍬、馬鍬、田面を平らにならすための柄振など。イネを脱穀するために使った竪杵などは、つい近年まで農家で使われていたものとそっくりである。
「米作り」が始まったという感じである。
狩猟採集のかたわら、細々とイネを作ってきた日本列島の祖先たちは2600年を境に、徐々にではあるが水田稲作に転換していった。
4000年前の縄文中期以降、減る一方だった日本列島の人口は、安定した食料を供給する水田稲作の開始とともに、上昇へと転じることになる。水田の登場によって、日本列島の食糧危機は収束へと向かったのであろう。
安定した生産手段を獲得した祖先たちは、「生き方」そのものも転換していくのである。即ち、長らく続いた狩猟採集生活を捨て、農耕社会での暮らしを選択したのである。森の「ドングリ」は「コメ」へと取って変わられた。
こうして日本列島は、にわかに騒々しくなっていく。
菜畑遺跡の時代の後、日本列島には中国大陸や朝鮮半島から新たな渡来人が押し寄せて来たと考えられている。水田稲作は日本列島に普及した。この急速な普及の背景には、寒冷化による海水面の低下によって、水田稲作に適した平野が多く出現したことも挙げられている。
6000年前の温暖期、いわゆる縄文海進によって水没していた沿岸部には養分の富んだ泥や粘土が堆積し、海退とともに豊かな沖積平野が生まれたのである。
この土地には多数の日本人が今も暮らしている。この新しい土地を利用することで、祖先たちは水田という貴重な「土地」と、そこから生み出される豊かな「富」を手にする。
このことは即ち、穏やかに暮らしてきた人々に「支配」や「権力」の観念を抱かせることにつながった。長江文明が誕生した中国大陸ほどではないが、やがて日本列島にも水田稲作を生産の基盤とした「クニ」の原型が誕生する。
その象徴の一つが佐賀県の吉野ヶ里遺跡である。
一万年間という長きにわたった縄文時代から弥生時代へ。その重要な契機となったのが、水田による稲作だった。 
世界で最北の水田
西暦元年・最北の稲作までわずか300年
九州北部から本州最北の津軽平野まで2000キロを北上するのに、わずか300年しか要さなかった。この事実は遺跡によって証明されている。
津軽平野の中央に位置する青森県田舎館村で、西暦元年頃の水田が発見されたのである。1981年11月。
実は、それまで東北より北に稲作が伝わるのは、可也後の時代であると考えられてきた。平安時代初期の延暦17年(798)、「太政官府」という行政文書には、蝦夷(奥羽地方から北海道にかけて住んでいた人々)について書かれている。「恒に旧俗を存していまだ野心を改めず、狩猟を業として養蚕をしらず。加うるに居住定まらず、浮遊すること雲の如し」。つまり平安時代に至っても、奥羽地方は農業養蚕を知らない土地だと解されていたのである。ゆえに文献史学者や多くの考古学者は、津軽で稲作が始まるのは、せいぜい1000年前ぐらいだろうと考えていた。
田舎館村で見つかった水田跡は2000年前のもの。1000年もの時間差を認識させる貴重な発見となった。
田舎館村の水田跡は、国道102号バイパス工事に際して見つかった。「垂柳」と「高樋」という二つの地区に分かれていたため、垂柳遺跡、高樋遺跡という二つの名が付けられている。
垂柳遺跡
垂柳遺跡(たれやなぎいせき) 青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の水田遺跡。東北地方ではじめてみつかった弥生時代の水田跡として知られる。遺跡は、旧自然堤防上の遺物包含地と低地の水田跡にわかれる。
1956年(昭和31)に籾痕(もみこん)のある土器が発見され、その後、炭化米もみつかっていた。81年から国道バイパス工事のために本格的な発掘調査がおこなわれ、水田跡が発見された。水田跡は656面で、大きなものは11m2以上あり最大のもので22m2、中が9m2前後、小が4m2前後だが、平均では8m2ときわめて小規模である。
各水田をくぎる畦畔(けいはん)もあり、注水、配水のための水口もつくられていた。水路も12本みつかっている。112面の水田跡からは人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた。水田脇から発見された土器群は、田舎館式と命名されている。
東北地方では、垂柳遺跡の発見前から籾痕のある土器片や炭化米、焼けた米がみつかっていたことから、早い時期の水稲農耕説が一部の研究者から提唱されていたが、定説にはなっていなかった。この遺跡の発見で、弥生時代中期にすでに本州北端部で水稲農耕がはじまっていたことが判明し、水稲農耕文化の伝播(でんぱ)を考えるうえで大きな問題提起となった。
その後、1987年に弘前市の砂沢遺跡から弥生時代前期に属する水田跡が発掘され、東北地方の水稲農耕開始時期がさらにさかのぼった。現在、遺跡の一部はうめられて高架橋がかかり、遺物は田舎館村歴史民俗資料館で保管されている。2000年(平成12)4月に国の史跡に指定された。
砂沢遺跡(すなざわいせき) 青森県弘前市の市街地から北へ約20kmの砂沢池の底、約40haに広がる遺跡で、弥生時代の前期にさかのぼる水田址が検出された。この遺跡は、1984年(昭和59)から87年まで、4年間にわたって、発掘調査が行われ、発見された2枚の水田址が、弥生前期までさかのぼることが判明した。弥生前期の水田址が東日本で発見されたのは初めてであり、同県田舎館村の垂柳遺跡(弥生中期)とともに日本最北端の弥生時代水田址として注目される。日本の稲作は、弥生時代に北九州から東漸して東日本に達した、という従来の見方に修正を迫る新発見である。
田舎館村(いなかだてむら) 青森県中西部、南津軽郡の村。東は黒石市に、西は平川をはさんで弘前市に接する。津軽平野南部に位置し、中央を岩木川支流の浅瀬石川がながれる。東西に広がる村全域が平坦地で、山林はない。地名は大和言葉の「稲家」が由来ともされる。1889年(明治22)村制施行した田舎館村が、1955年(昭和30)、光田寺村(こうでんじむら)と合併して成立。面積は22.31km2。人口は9028人(2003年)。
古くから水田地帯として開けており、村の南東にある垂柳遺跡では、弥生時代中期の水田遺構が発見されている。米とリンゴを中心とする農業が基幹産業で、副産品の稲藁(いなわら)を利用した筵(むしろ)などの生産もおこなわれていた。近年はイチゴやブドウ、花卉(かき)などをとりいれた複合経営のほか、リンゴジュース、野菜入りうどんなど農産物加工品の開発もおこなわれている。
南北朝〜戦国期に一帯をおさめていた田舎館千徳氏(せんとくし)の居城だった田舎館城跡があり、胸肩神社(むなかたじんじゃ)には円空作の木造十一面観音像がのこる。垂柳遺跡の出土品は、村の歴史民俗資料館に展示されている。また、小正月に野菜に紙の服を着せた人形をもった子供たちが厄払い(やくばらい)してまわる「カパカパと福袋」、4頭の獅子が独特の頭振りでおどる垂柳獅子踊りなどめずらしい行事もつづけられている。
青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村にある弥生時代中期(紀元前後)の水田遺構である。この時代における東北北部での稲作農耕をうらづける発見だった。約4000m2に小規模な水田跡が656面あり、畦畔(けいはん)や水路がくっきりとのこる。水田面には足跡もあった。Encarta Encyclopedia田舎館村歴史民俗資料館提供
高樋遺跡の方がそのままドームで覆われて保存され、今もその出土したときの姿を見学することができる。垂柳と高樋の両遺跡の発掘では、農作業していた弥生時代の人々の足跡も大量に見つかっていた。足跡の窪みは、このとき運ばれてきた白い土砂によって覆われ、偶然白い足形の模様となったために、2000年後に残ったという。足跡が残された時期は秋の収穫期。20代の男女に混じって、10歳に満たない子供の足跡も見つかっている。祖先たちは2000年前の秋、家族総出できびきびと稲刈りに励んでいたのだろう。
何故10月に冬を感じるこの津軽という寒冷地で、元来熱帯性の植物であるイネを栽培することができたのであろうか。調べてみさらに驚いたのは、ここが当時、世界で最北の水田だったことである。 
「雑種」のたくましさ!
DNA分析の専門家佐藤洋一郎氏は最近、「弥生最北水田の謎」に迫る興味深い発見をした。
弥生時代の水田跡で出土した「炭化米」をDNA分析したところ、縄文のイネである、「熱帯ジャポニカ」が混じっていることが解かったのである。
弥生時代は全て水田イネ、「温帯ジャポニカ」に取って代わられたと思われていたが、実はそうではなかった。
弥生時代の祖先たちは縄文のイネも大切に持ち続けていたのである。二つのイネが混在するという事実は九州から東北まで、全国各地12ヶ所の遺跡で確かめられた。
登呂遺跡(静岡県)、池上曽根遺跡(大阪府)、板付遺跡(福岡県)、妻木晩田遺跡(鳥取県)、唐古・鍵遺跡(奈良県)など、皆堂々たる弥生時代の遺跡である。最北の水田である高樋遺跡でも確認されている。
佐藤氏は炭化米の出土状況から、二つのイネは混ぜて植えられていたと推測し、実験を進めた。祖先たちが寒冷地にイネを根付かせることに成功したヒントは、この混植にあるかもしれない。
結果、雑種のイネは早々穂を出し始め、親のイネはまだ穂を出す気配もない。イネは熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも、もともと「晩生」(おくて)の品種だったと考えられている。晩生と晩生とが掛け合わさって、「早生」(わせ)が誕生したのである。
佐藤氏によると、晩生同士のDNAの掛け算で、早生のDNAに書き換わることは、遺伝学的にありうるという。
イネは出穂して開花する時期に気温が上がらないと、豊かな実をつけることができない植物である。夏の短い寒冷地では、早く成長して暑い盛りのうちに稔りはじめる必要がある。それには早生でないと対応できない。
弥生時代の祖先たちは、混植によって生まれた早生のイネを、北へ北へと伝えていったのであろう。
縄文のイネ「熱帯ジャポニカ」と水田のイネ「温帯ジャポニカ」の絶妙な組み合わせで生み出した「奇跡」。こうして2000年前、世界最北という津軽の水田でも、稲作をすることが可能になったのである。
偶然ではないという。日本列島の人々は、イネを北の地で育むために、そんな昔から改良に取り組んでいたという解釈も成り立つ。
又、違う種類を混ぜて植えていたというのはもう一つ深い意味があると、佐藤氏はいう。
イネは一種類で植えられているより、何種類か混ざっているほうが、病気などに対する抵抗力が強くなるという。化学肥料も農薬も無い時代、イネの増産を図る祖先たちの知恵だとは言えないだろうか。
又、水田の地力を適度に保つために、数年後とに休ませるという、いわゆる「休耕田システム」を採用していたというのである。毎年稲作はしていても、必ずどこかの区画を休ませ、その区画を計画的にローテーションしていくしシステムである。
この事実は福岡市の板付遺跡など、弥生時代の水田跡を調査した結果わかってきた。特定の水田区画から、耕作を休んでいたとしか思えない大量の雑草の種子が発見されている。
2000年前、本州の北の端まで行き渡った稲作。日本列島の祖先たちは、幾つもの知恵と工夫を積み重ねながらこれを成し遂げていったのである。
「イネの民日本人」の誕生。 弥生時代の人々が、イネの混植から「たくましき雑種」を作り出すことによってイネの民になったというのは、なんと感動的なことだろう。
イネの民・新世紀
稲作という営みが芽生えたのは、中国大陸に悠久の流れをたたえる大河長江の中流域。
今から一万二千年前。それから一万年に及ぶ「はるかなる旅」の果て、イネの民・日本人が生まれたのである。
二千年前の日本列島に生きた人々は、縄文時代から大切にされてきたイネも混ぜて植え、水田の所々を休ませながら、コメつくりに励んだ。
さらに祖先たちは、イネを北へ北へと根付かせながら、稲作の範囲を徐々に列島全体に広げていったのである。
この、イネを北の大地でも稔らせようとする魂は、その後も消えることがなかった。そしてついに、100年前の西暦1901年、日本列島の稲作は北緯44度43分の北海道遠別町にまで達するのである。
5月の田植えから四ヶ月後、早くも冬の気配を織り込んだ風が吹き始める9月中旬、遠別では101回目の稲刈りが始まっていた。
対馬の古代米神事が一段落する11月、日本列島中を駆け巡った収穫の波も、ほぼ終焉を迎える。最後に刈り取りを待つのは、沖縄県石垣島での三期作、12月上旬の収穫に向け、田圃一面にその年三回目のイネが豊かに稔りを付け始めている。
時代は移ろい、人々の暮らしぶりは変わっても、南北3000キロに延びる日本列島の隅々で、稲作は脈々と続いている。
年間生産量、現在は900万トンあまり、他の先進国に比べて食料の自給率が極端に低い日本にあって、コメだけは自給率が100%である。 
インディカとジャポニカ
稲作
イネ(稲)を栽培することで、西アフリカやアメリカ合衆国、イタリアなどでも栽培がおこなわれているが、日本をふくむアジアモンスーン地帯では主要な農業形態となっている。
栽培イネの起源地については東南アジア低湿地説にかわり、近年はアッサム?ヒマラヤ?雲南地方の高緯度地帯とみる説が有力になっていた。しかし最近、中国湖南省の彭頭山(ほうとうざん)遺跡から、野生種から栽培種への過程をしめす籾痕(もみこん)のある約9000年前の土器がみつかった。さらに、1997年に同省の長江(揚子江)中流域から栽培イネ1万2000粒が発掘されるなど、長江流域説が急浮上している。
苗代で育苗した成苗を1株ずつ手作業でうえる田植えの風景。日本でも昭和30年代までは、こうした風景がふつうにみられた。田植えは、人手が必要なだけでなく、長時間にわたる大変な重労働であった。
インディカとジャポニカ
栽培されるイネには、大きくわけて日本型(japonica:ジャポニカ種)とインド型(indica:インディカ種)の2種類があり、それぞれ栽培されている地域がちがう。また、イネは変異性にとみ、世界に広く分布しているので、栽培方法によって水稲と陸稲にわけられるほか、栽培時期によってもさまざまな分類がなされる。
もみ(籾)が丸みをおびていて、味が濃厚でご飯にすると粘りの強い日本型のイネは、日本人の好みにあい、なじみの深いイネであるが、世界的には、もみの形が細長く、粘りの少ないインド型のイネのほうが多く栽培されている。
日本型のイネは比較的高緯度の地域で栽培され、日本をはじめ、朝鮮半島、台湾、中国大陸の長江以北の平坦地、アメリカのカリフォルニア州などで栽培されている。これに対してインド型のイネは、中国の長江以南、東南・南アジア各国の平坦地、アフリカ諸国など熱帯の主要米産国で栽培され、栽培面積や生産量は日本型のイネにくらべてはるかに大きい。
東南アジア原産。米をとるために栽培される。ほとんどの品種が生育期の大半を通じてひじょうにしめった土壌を必要とする。現在では広くアジア、アフリカ、南アメリカで栽培され、コムギについで世界第2位の生産量がある。
日本の稲作
日本の農業は、はやくに機械化され、いまでは年寄りにでも田植えや稲刈りができるようになった。しかし、若者の農業離れがつづき、稲作も危機的な状況にある。
日本の稲作の起源
弥生(やよい)土器の中には表面に稲作農耕を裏づけるイネの籾痕のあるものがあり、研究者の多くは、日本での早期からの稲作文化の存在を予想していた。その後、各地で炭化米も発見され、低湿地などでみつかった農耕用木製品などとあわせて、戦前には日本での初期稲作農耕の規模や内容まで議論がすすんでいた。
日本列島にはイネの栽培種が中国、長江下流域の江南地方からつたわったことがわかっているが、そのルートについては4つの説がある。
第1は、陸路で朝鮮半島にはいり玄界灘をわたって北九州へ、第2は、陸路で山東半島から東シナ海をわたって朝鮮半島にはいり玄界灘をわたって北九州へ、第3は、江南から南シナ海をわたり朝鮮半島へ、さらに玄界灘をわたって北九州へ、第4は、江南から島伝いに沖縄・奄美諸島をへて九州へという説である。
このとき日本にはいったのはジャポニカ種だが、今後、朝鮮半島の考古学調査などで同種のイネが発見されればルート問題は解決されるだろう。
縄文晩期から弥生初期に日本につたわった水稲は、当然、稲作耕作者かその技術を知る人をともなったはずで、当時の大陸や半島の最新レベルにあわせて稲作の耕作地がきめられたようである。これまでみつかった初期水田耕作跡の立地は、谷奥地や後背低地、氾濫原などさまざまである。弥生時代の水田ははやい段階から畦畔(けいはん)により区画され、福岡市の板付遺跡では幅約80〜100cm、高さ30cmの畦(あぜ)でかこまれ、群馬県の日高遺跡では丸太や小枝をくんで芯にした畦がつくられていた。
菜畑遺跡の水田は畦(あぜ)がつくられ、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものである。水路は幅が約1.35mあり、深さは45cmほどである。木製農工具や炭化米もみつかり、これらの発見で、日本での稲作の始まりが縄文時代晩期後半の約2600年前にさかのぼることが明らかとなった。
北九州で出土した磨製石包丁。包丁とはいうが、切るというよりはつむ収穫具である。2つの穴(あな)に紐(ひも)をとおして指にかけ、イネなどの穀物の穂首の部分に石包丁をそえて穂をつみとった。弥生時代後期になると根刈用(ねがりよう)の鉄製の手鎌がつかわれるようになり、きえていった。
青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(紀元前後)の水田遺構である。この時代における東北北部での稲作農耕を裏づける発見だった。約4000m2に小規模な水田跡が656面あり、畦畔(けいはん)や水路がくっきりとのこる。水田面には足跡もあった。
当時の水稲耕作の収量レベルは、出土例は少ないが、弥生前期から中期を中心とする福岡県の横隈遺跡や、奈良県の多(おお)、唐古・鍵両遺跡などでみつかった稲穂から、1反当たり約60kg以下という見解もでており、これは今日の平均である1反当たり約500kgの8分の1以下で、生産性はかなり低かった可能性がある。くわえて気候や病虫害などのマイナス要素があり、実際の収量はさらに低かったかもしれない。
イネ(稲) Rice イネ科イネ属の一年草(→ 二年草)。コムギ、トウモロコシとならぶ世界の三大穀物のひとつで、その穀粒である米が世界でもっとも多くの人々の主食となっている。一般にイネとよばれるのはアジアイネで、野生種から品種改良された栽培イネである。
インディカとジャポニカ
イネ(アジアイネ)には日本型(japonica:ジャポニカ種)とインド型(indica:インディカ種)とがある。日本型のイネは籾(もみ)の長さと幅の比がインド型にくらべて小さく、丸みをおびていて、表面に毛が多い。玄米の質は軟らかで、アルカリ溶液にとけやすい。精白した米は飯にすると粘りが強く、味は比較的濃厚である。これに対してインド型は籾が細長く、毛も少なくて、玄米はアルカリ溶液にとけにくい。飯にしても粘りが少なく、味は淡泊である。
日本型のイネは温帯地方、あるいは熱帯でも標高の高い所で栽培されており、日本をはじめ、朝鮮半島、台湾、中国大陸の長江(揚子江)以北の平坦地、タイ、インドシナの北部山岳地帯などで栽培されている。これに対して、インド型のイネは中国の長江以南、東南・南アジア各国の平坦地、南アメリカなど熱帯の主要米産国で栽培されている。したがって、世界全体ではインド型のイネの栽培面積および生産量は、日本型のイネにくらべてはるかに大きい。
2002年4月、欧米と中国の研究グループがそれぞれ、日本型とインド型のイネの全遺伝情報(ゲノム)をほぼ解読することに成功し、アメリカの科学誌「サイエンス」に発表した。それによると、日本型のゲノムは約4億2000万の塩基対からなり、その中に遺伝子は3万2000〜5万個ふくまれると推定され、またインド型のゲノムは約4億6600万の塩基対からなり、遺伝子はその中に4万6022〜5万5615個ふくまれると推定されている。これらのくわしい解読データはインターネットなどを通じて世界じゅうの研究者に提供されるので、今後、ゲノムをもとにした遺伝子組み換え技術で優良品種が次々と誕生すると考えられている。
イネの起源地
イネ(アジアイネ)の起源地については東南アジア低湿地説にかわり、近年はアッサム・ヒマラヤ・雲南地方の高緯度地帯とみる説が有力になっていた。しかし最近、中国湖南省の彭頭山遺跡(ほうとうざんいせき)から、野生種から栽培種への過程をしめす籾痕(もみあと)のある約9000年前の土器がみつかった。さらに、1997年に同省の長江中流域からインディカ種でもジャポニカ種でもない栽培イネ1万2000粒が発掘されるなど、長江流域説が急浮上している。
イネの日本への伝播ルート
日本列島にも栽培イネが長江下流域の江南地方からつたわったが、そのルートには4つの説がある。
第1は陸路で朝鮮半島に入り、玄界灘をわたって北九州へ、第2は山東半島から黄海をわたって朝鮮半島に入り玄界灘をへて北九州へ、第3は江南から東シナ海をへて朝鮮半島に入り、さらに玄界灘をわたって北九州へ、第4は江南から島伝いに沖縄・奄美諸島をへて九州へという説である。このとき日本に入ったのはジャポニカ種だが、今後、朝鮮半島の考古学調査などで同種のイネが発見されれば、ルート問題は解決される可能性がある。
イネ(アジアイネ)の属するイネ属の植物は、世界に約20種知られている。イネ属は熱帯から温帯に分布し、河川沿いの水湿地や、雨季に水がたまる場所などに生える。イネ属で栽培される種は、アジアイネのほかにもう一種、アフリカイネがあるが、アフリカ西部でわずかに栽培されるだけである。オリザ・ルフィポゴンは、東南アジアから北オーストラリア、中央アメリカに分布し、イネの直接の祖先とされる野生種である。
「稔るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という言い回しがあるが、野生のイネ属の植物は、穎果が熟すと、穂から穎果を脱落させる性質があり、穂が重くならないので垂れることはない。頭を垂れるのは、人類に品種改良された栽培イネだけである。なお、ライスの名でよばれているが、ワイルドライスとか、インディアンライスとよばれている植物は、イネ科ではあるが、イネとは近縁ではなく、マコモ属の一年草である。 
稲作起源
7粒の米に世界が注目
中国・長江流域 玉蟾岩遺跡で発見 
稲作はいつ、どこで始まったか。  中国の長江(揚子江)流域の遺跡から見つかった炭化した米粒に世界から注目が集まっている。中国側の専門家は一万二千年以上前の栽培米と推定し、稲作の起源につながる可能性が高いと見ている。(白石寒村・中国湖南省)=塚本 和人
稲作起源は一万二千年前?
炭化米が見つかったのは、湖南省南部の道県白石寒村にある玉蟾岩遺跡。
長江支流の流域で、盆地内にあるカルスト地形(カルスト地形 カルストちけい Karst Landform 岩石が化学的な溶食作用をうけて、地表面に固有の起伏が生じたり、地下に洞窟などの特殊な地形群が穿(うが)たれたり、さらに溶解成分が水の流路にそって析出して固有の堆積(たいせき)地形をつくったりする。こうした現象がおきている地形群全体を総称してカルスト地形という。
カルスト地形を発達させる典型的な岩石は、炭酸カルシウムを主体とする石灰岩である。日本でカルスト地形の発達が顕著なのは、山口県の秋吉台、広島県の帝釈峡、岡山県の阿哲台、福岡県の平尾台などである。
日本の石灰岩は、たとえばヨーロッパの層状に発達した石灰岩にくらべて、一般に炭酸塩の純度が高く、塊状のものが多い。これは、日本の石灰岩のほとんどが、かつて海中にあったサンゴ礁などをつくっていた礁石灰岩が付加されてできたものに由来するからである。さらに日本のカルスト地形は地殻変動の影響を強くうけているため、カルスト地形の変形がみとめられる。).の岩山の洞窟内ある。洞窟は入り口部分が幅約12m、奥行きは約6m、高さは約3mに及ぶ。
同省文物考古研究所の袁 家栄所長によると、昨年11月、地表30〜100cmの土中から長さ7_程度の炭化米7粒を発見した。内2,3粒は形が崩れていないという。
この遺跡の年代は一万二千年以上前とされる。土器片の付着物などを北京大が、土中の炭片を米ハーバート大が、ともに加速器質量分析法(AMS)で測定した結果だ。氷河期が終わり地球が暖かくなる時期。日本では縄文時代の開始期に当たる。
93年と95年にも計4粒の籾殻が出土しているが、サンプルが少ないなどの理由で、年代測定はしていない。ただ、籾殻の形状は野生種と栽培種の特徴、ジャポニカ米とインディカ米の特徴をいずれも併せ持ち、栽培への過度期に当たると見られる。
遺跡周辺には湿原が広がり野生のイネ科の植物が自生する。北緯25度で、野生のイネの分布範囲の北限にあたる。袁所長は「野生種の分布の辺境で、温暖化が進む中、人口圧力と食料不足などが原因で野生種から選択してイネの栽培を始めたのではないか」と分析する。
同研究所は昨年、遺跡の調査チームを組織した。ハーバート大を中心に考古学や地質学、農学の専門家が外国からも参加。炭化米の年代を測定するほか、土中から見つかったイネのプラントオパール(イネ科の植物に含まれるガラス質細胞の微化石)分析を実施する計画だ。耕作地があった可能性もあり、土中の花粉を分析し、当時の植生の調査も続けている。
近年、長江の中・下流域では4千年前よりさかのぼる稲作関連の遺跡が計200ヶ所近くで見つかっている。現時点で稲作が確実視されるのは彭頭山遺跡(湖南省)で見つかった炭化米を測定した約8600年前。仙人洞遺跡(江西省)や吊桶環遺跡(江西省)からは一万五千年前のプラントオパールが見つかったが、野生種か栽培種かは不明。
一方、麦作の起源は欧州の研究者によると西アジア発祥で、約一万二千年前に遡るとする説が強い。
調査チームの中国側代表をつとめる厳 文明・北京大学教授は「農耕の起源は文明の起源につながり、中国や海外の考古学界は稲作の起源に注目している。玉蟾岩遺跡で見つかった炭化米からは、科学的な様々な調査分析を通じて多くの手がかりが見つかるはずだ」と期待している。
日本では縄文時代の可能性
稲作は中国の雲南省からインドのアッサムにかけての地域で五千年ほど前に始まったとの考えが、かつては有力だった。栽培に適した気候の特性に加え、この地域に多様な野生イネが存在することが根拠だった。
長江流域が脚光を浴びるようになったのは浙江省・杭州湾南岸の河姆渡遺跡の発見がきっかけだった。七千年前の遺跡とされ、多量の米粒や稲作の道具が発見された。調査が文化大革命の時期に当たる70年代だったため、80年代の半ばまでこの発見はあまりしられることはなかった。
河姆渡よりさらに古い稲作の痕跡は、長江中・下流域で80年代に相次ぎ発見され、畑作を中心にした「黄河文明」に対して、稲作に支えられた「長江文明」が存在したとの考えを生み出した。
90年代になると稲作の起源が一万年を超えることを示す遺跡が確認された。その中でも、玉蟾岩は最も早い段階の遺跡として注目されてきた。
日本での稲作の起源も見直しの過程にある。日本列島には野生のイネはなく、大陸から伝わり弥生文化として広まったと考えられてきた。しかし、縄文時代の遺跡からイネが存在した証拠が見つかり、縄文時代にも食料となっていた可能性が強まっている。一方で、栽培の方法や規模を巡っては様々な考えが示されている。 
 
稲作

 

I 古代の稲作
前400年頃 稲作が九州北部に定着
縄文時代晩期、九州北部に中国大陸から効率的な水田稲作技術がつたわり、まもなく本格的な稲作が行われるようになった。そして前3世紀ごろになると西日本一帯で水田開発が急速にすすむ。この新しい稲作文化は前2世紀後半までに東北地方まで広まったと考えられ、弘前市の砂沢遺跡では弥生時代前期とされる本州最北端の水田跡が発掘されている。
なお近年、全国各地の縄文時代の遺跡からイネの痕跡(こんせき)をしめす炭化米やプラントオパールが発見されており、陸稲などイネ科植物の渡来の時期はさらにはやまる可能性が指摘され、農耕の起源についても議論がつづいている。
稲作(いなさく) イネ(稲)を栽培することで、西アフリカやアメリカ合衆国、イタリアなどでも栽培がおこなわれているが、日本をふくむアジアモンスーン地帯では主要な農業形態となっている。
田植え 苗代で育苗した成苗を1株ずつ手作業でうえる田植えの風景。日本でも昭和30年代までは、こうした風景がふつうにみられた。田植えは、人手が必要なだけでなく、長時間にわたる大変な重労働であった。
栽培イネの起源地については東南アジア低湿地説にかわり、近年はアッサム?ヒマラヤ?雲南地方の高緯度地帯とみる説が有力になっていた。しかし最近、中国湖南省の彭頭山(ほうとうざん)遺跡から、野生種から栽培種への過程をしめす籾痕(もみこん)のある約9000年前の土器がみつかった。さらに、1997年に同省の長江(揚子江)中流域から栽培イネ1万2000粒が発掘されるなど、長江流域説が急浮上している。 
II 稲の種類と特徴
1 インディカとジャポニカ
イネ 東南アジア原産。米をとるために栽培される。ほとんどの品種が生育期の大半を通じてひじょうにしめった土壌を必要とする。現在では広くアジア、アフリカ、南アメリカで栽培され、コムギについで世界第2位の生産量がある。
栽培されるイネには、大きくわけて日本型(japonica:ジャポニカ種)とインド型(indica:インディカ種)の2種類があり、それぞれ栽培されている地域がちがう。また、イネは変異性にとみ、世界に広く分布しているので、栽培方法によって水稲と陸稲にわけられるほか、栽培時期によってもさまざまな分類がなされる。
もみ(籾)が丸みをおびていて、味が濃厚でご飯にすると粘りの強い日本型のイネは、日本人の好みにあい、なじみの深いイネであるが、世界的には、もみの形が細長く、粘りの少ないインド型のイネのほうが多く栽培されている。
日本型のイネは比較的高緯度の地域で栽培され、日本をはじめ、朝鮮半島、台湾、中国大陸の長江以北の平坦地、アメリカのカリフォルニア州などで栽培されている。これに対してインド型のイネは、中国の長江以南、東南・南アジア各国の平坦地、アフリカ諸国など熱帯の主要米産国で栽培され、栽培面積や生産量は日本型のイネにくらべてはるかに大きい。
2 水稲と陸稲
灌漑水をもちいたり、水をたたえた耕地に栽培するイネが水稲である。灌漑をおこなわないで畑地に栽培するイネが陸稲である。もともとイネは水生植物であり、世界的にも水稲が圧倒的に多いが、東南アジアの山岳地帯などのように、水利がととのわず陸稲が重要な畑作物となっている地域もある。また、水稲の中には、東南アジアのメコン・デルタ(→ メコン川)やインドのガンガー(ガンジス川)流域のような洪水地帯で、深さ3mもの水におおわれた水田で栽培される浮き稲とよばれるものもある。
栽培時期の違いによっても、その時期の気候などにあわせて、いくつかの種類があり、インドやミャンマーで雨季に栽培する晩生種はアマンaman(冬米)、早生種はアウスaus(秋米)、乾季に栽培するイネはボロboro(夏米)とよばれている。
3 三大穀物
米は、コムギ、トウモロコシとならぶ世界の三大穀物のひとつである。とくに米はその栄養価値や食味上の特性のために、長い人類の歴史の中で世界各地へと広く伝播(でんぱ)し、保存されてきた。三大穀物のうち、米は世界でもっとも多くの人々の主食となっており、米を生産するための作物であるイネは、熱帯から温帯にかけて世界じゅうで広く栽培されている。栽培面積と穀実の生産量では、いずれもコムギについで第2位となっている。 
III 緑の革命と米
コムギ、トウモロコシ、米という世界の主要三大穀物を品種改良することによって、在来種とくらべて2〜3倍もの高収量を可能にする品種が開発された。これは「緑の革命」とよばれ、第2次世界大戦後の世界の食糧増産にもっとも重要な貢献をした。この開発は、多くのラテンアメリカやアジア諸国で穀物の増産をもたらし、まさに画期的な技術革新となった。
1 高収量品種
1962年にはフィリピンで国際稲研究所(IRRI)が設立され、IR-8などのイネの高収量品種が次々と開発され、やがて多くのアジア稲作諸国に新品種が普及することとなった。
技術的には、これらの新品種は矮小(わいしょう:背丈の低いこと)であり、多く肥料をあたえてもよく吸収するという耐肥性にとむ。また季節による日照量の変化に影響されにくい非感光性であるために、1年に2〜3回は収穫可能であるという特徴をもつ。
しかし同時に、これらの高収量品種は、病害虫に対する抵抗力が弱く、しかも化学肥料をじゅうぶんに投入し、最適な水利条件を用意しなければ、高い潜在力を発揮できないという欠点をもっている。つまり、高収量という恩恵をえるためには、じゅうぶんな肥料と水、農薬による病害虫の化学的防除が不可欠の条件となるのである。
IRRIで開発されたIR-8などのイネの高収量品種は、1960年代中ごろから普及しはじめ、改良品種の出現とともに、70年代末までに熱帯アジアの水田面積の約3分の1、コムギについては全面積の半分以上にまで高収量品種が普及し、食糧不足になやむ多くの途上国の増産に大きく貢献した。その結果、インドと中国では、80年代末までに食糧輸入国から輸出国となった。インドネシアやフィリピンでも米の自給が、そしてパキスタンではコムギの自給が達成された。
2 その限界
しかし、1980年代にはいると、緑の革命は新しい段階をむかえる。70年代末ごろまで順調にのびてきた灌漑面積と高収量品種の普及の伸び率は、多くの国で大幅に鈍化しはじめた。1ha当たりの化学肥料投入量についても、一部のアジア諸国をのぞけば、ほとんどの途上国で近年では伸びが鈍化しはじめている。緑の革命は、社会的経済的な制約にくわえて、資源や環境面での新しい制約をどのように克服するのか、一つの大きな転機をむかえている。 
IV アジアモンスーン風土と米
1 自給のための栽培
米は生産量では三大穀物にはいるが、総生産量に対する貿易量の割合でみると格段に小さい。生産量に対する貿易量の割合を比較すると、コムギの場合は世界の生産量の約15〜20%、トウモロコシの場合は約10%であるのに、米ははるかに小さく、5%にみたない。コムギやトウモロコシが、おもに販売や輸出という商業目的で生産される傾向が強いのに対し、米はアジアを中心に自給目的の生産が中心となっているのである。
2 米の重み
タイの稲の刈り入れ 米はタイの主要農作物で、おもに東部のコラート高原やチャオプラヤ川流域が米作地帯となっている。しかし、河川の氾濫などで収穫量が不安定となるため、政府は洪水調整など科学的な水田開発計画を実施している。
イネが湿潤な気候をこのむ作物であるために、米はアジア、とくにアジアモンスーン地帯で多く生産、消費され、世界の米食民族も大部分が日本など東アジアや東南アジアに集中している。世界の米生産の90%以上がアジアに集中しており、同時に、アジアで生産される穀物の大部分は米となっている。
もちろん、欧米諸国においてもスペイン、イタリア、アメリカ合衆国などではわずかながら水田が存在し、稲作がおこなわれているが、日本やアジアの諸国では水田が圧倒的に多く、比較にならないほどの重要性をもっている。日本の歴史においては、これまで水田としてつかえる土地はすべて水田として開墾され、それが不可能な所だけが畑地としてつかわれてきたといえるほどである。
3 乾田と湿田
ところで、水田は、その状態や機能によって、次のように分類される。必要に応じてじゅうぶんに排水できる水田は乾田であり、これに対して、排水困難で常時水をたたえた湛水(たんすい)状態にある水田を湿田という。さらに、河川、池沼や地下水などを水源として、灌漑施設によって灌水される水田を灌水田という。また、灌水施設を欠き、もっぱら天水をあつめて水稲栽培に利用する水田を天水田という。  
イネ(水稲)は、湛水条件で栽培される唯一の穀物で、生産力が高く、しかも安定している。これはイネそのものの優秀性のほかに、水田土壌が肥沃(ひよく)であることに由来する。アジア稲作地帯の人口密度の高さは、イネの高い生産性と安定性にささえられて生じたものである。
水田は、土壌有機物が分解されにくい、土壌の酸化還元電位(pH)が中性近くにたもたれる、土壌中のリン酸がイネに利用されやすい形態となる、イネが吸収するかなりの量の無機養分が灌漑水から供給される、雑草の発生が抑制される、などの特徴をもつ。これらは、いずれも水田が水を湛(たた)えることからくる特性である。
さらに、湛水下では有害な微生物センチュウが死滅し、有害物質もあらいながしてくれる。そのため、イネは同一の場所で何年もつくりつづけること(連作)ができる。同じイネでも、陸稲を同じ畑で2〜3年もつくりつづけると、連作障害をおこし、収量はいちじるしく減少してくる。
一般に植物は、湛水条件では根が酸素不足となり生育できないが、水生植物であるイネは、酸素を地上部から根へ供給することのできる通気組織をもっているため、湛水条件でも生育が可能なのである。
4 表作と裏作
日本の水田においては、昭和40年代ごろまでは、夏季に水稲をつくった後、冬季には可能なかぎりムギ、ナタネ、野菜、牧草などが栽培されてきた。これらの水田の冬作物を裏作といい、夏作のイネは表作とよばれる。また、表作の水稲作の後につづいて裏作がつくられる水田は二毛作田であり、表作だけしか作付けされないものは一毛作田とよばれる。 
V 世界の米生産と貿易
世界全体で生産されている米の生産量は約5億2300万t(1994年、籾ベース)である。そのうち9割以上がアジア地域で自給的に生産され、その貿易比率は生産量のわずか4.8%にすぎない。このため、生産量のわずかな変化や需要の動向によって国際価格は大きく変動する。
たとえば、日本が1993年産米の不作から緊急輸入をきめた93年度についてみてみると、1t当たりの米価は、最低の220ドルから最高の420ドルまで上昇し、約200ドルもの変動がみられた。なお、同年の貿易量割合が18.2%だったコムギの場合には、最低の105ドルから最高の144ドルまで約40ドルの変動だった。このように、米の国際価格は相対的に乱高下しやすいという特徴がみられる。
米の輸入国は、アジアとアフリカを中心に全世界で130カ国にものぼるが、そのほとんどが開発途上国である。日本が1993年におこなった米の緊急輸入(259万t)は、こうした途上国の人々の生活にも大きな影響をあたえてしまったことになる。 
VI 日本の稲作
日本の近代的な稲刈り 日本の農業は、はやくに機械化され、いまでは年寄りにでも田植えや稲刈りができるようになった。しかし、若者の農業離れがつづき、稲作も危機的な状況にある。
1 日本の稲作の起源
弥生(やよい)土器の中には表面に稲作農耕を裏づけるイネの籾痕のあるものがあり、研究者の多くは、日本での早期からの稲作文化の存在を予想していた。その後、各地で炭化米も発見され、低湿地などでみつかった農耕用木製品などとあわせて、戦前には日本での初期稲作農耕の規模や内容まで議論がすすんでいた。
日本列島にはイネの栽培種が中国、長江下流域の江南地方からつたわったことがわかっているが、そのルートについては4つの説がある。
第1は、陸路で朝鮮半島にはいり玄界灘をわたって北九州へ、第2は、陸路で山東半島から東シナ海をわたって朝鮮半島にはいり玄界灘をわたって北九州へ、第3は、江南から南シナ海をわたり朝鮮半島へ、さらに玄界灘をわたって北九州へ、第4は、江南から島伝いに沖縄・奄美諸島をへて九州へという説である。
このとき日本にはいったのはジャポニカ種だが、今後、朝鮮半島の考古学調査などで同種のイネが発見されればルート問題は解決されるだろう。
1A 初期の稲作の実態
菜畑遺跡の復元水田 菜畑遺跡の水田は畦(あぜ)がつくられ、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものである。水路は幅が約1.35mあり、深さは45cmほどである。木製農工具や炭化米もみつかり、これらの発見で、日本での稲作の始まりが縄文時代晩期後半の約2600年前にさかのぼることが明らかとなった。佐賀県唐津市。唐津市教育委員会
石包丁 北九州で出土した磨製石包丁。包丁とはいうが、切るというよりはつむ収穫具である。2つの穴(あな)に紐(ひも)をとおして指にかけ、イネなどの穀物の穂首の部分に石包丁をそえて穂をつみとった。弥生時代後期になると根刈用(ねがりよう)の鉄製の手鎌がつかわれるようになり、きえていった。東京国立博物館所蔵
縄文晩期から弥生初期に日本につたわった水稲は、当然、稲作耕作者かその技術を知る人をともなったはずで、当時の大陸や半島の最新レベルにあわせて稲作の耕作地がきめられたようである。これまでみつかった初期水田耕作跡の立地は、谷奥地や後背低地、氾濫原などさまざまである。
弥生時代の水田ははやい段階から畦畔(けいはん)により区画され、福岡市の板付遺跡では幅約80〜100cm、高さ30cmの畦(あぜ)でかこまれ、群馬県の日高遺跡では丸太や小枝をくんで芯にした畦がつくられていた。
垂柳遺跡の水田跡 青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(紀元前後)の水田遺構である。この時代における東北北部での稲作農耕を裏づける発見だった。約4000m2に小規模な水田跡が656面あり、畦畔(けいはん)や水路がくっきりとのこる。水田面には足跡もあった。田舎館村歴史民俗資料館提供
当時の水稲耕作の収量レベルは、出土例は少ないが、弥生前期から中期を中心とする福岡県の横隈遺跡や、奈良県の多(おお)、唐古・鍵両遺跡などでみつかった稲穂から、1反当たり約60kg以下という見解もでており、これは今日の平均である1反当たり約500kgの8分の1以下で、生産性はかなり低かった可能性がある。
くわえて気候や病虫害などのマイナス要素があり、実際の収量はさらに低かったかもしれない。
2 新田開発と品種改良
日本の米の総生産量は、奈良時代が約100万t、江戸時代が約200〜300万t、明治時代が約600〜700万t、そして昭和20年代になると1000万tをこえるまでになった。これは、新田開発と土地改良、栽培技術の向上、そして品種改良によるものである。
2A 新田開発
日本で新田開発が盛んにおこなわれたのは、条里制施行時代、戦国期から近世初頭、明治30年代の3つの時期である。
水田は谷間の沢田や山の棚田からはじまり、4〜5世紀に古代国家が形成されるころは、盆地や沖積平野の周辺部に進出してくるようになって、奈良時代の水田面積はおよそ100万haに達していた。
しかし、その後は大河川の制御が困難だったため水田面積の拡大は停滞する。
2A1 戦国期、江戸時代
印旛沼干拓工事のようす 天保の改革で計画された第3回目の工事。これは鳥取藩がおこなった水抜きのための廻し堀工事で、右に水抜きする足踏み水車がみえる。「続保定記」より。東京大学史料編纂所所蔵
これをうちやぶったのが戦国大名たちである。彼らは築城や鉱山採掘技術を用水土木工事へ応用したのである。武田信玄は信玄堤を、加藤清正は乗り越え堤をきずいて治水をおこなった。
徳川幕府も利根川の付け替え工事をおこなった。利根川はかつて現在の江戸川、中川筋をながれて江戸湾( 東京湾)にそそいでおり、関東平野は荒川、利根川、渡良瀬川がながれる不毛の低湿地であった。これを銚子方面に東進させ、荒川を西によせ、江戸川を開削することによって治水をおこない、新田が開発された。
また、関西では大和川の付け替え工事がおこなわれた。大阪平野は北東からの淀川と南からの大和川の合流する湿地帯であった。1700年代初頭には、河内平野を北上していた大和川を、現在のように堺のほうへ西進させる工事がおこなわれ、大和川跡に多くの新田が開発された。
こうして、1000年以上手つかずでのこされてきた大河川沿岸の沖積平野が、一挙に水田として活用されるようになった。
さらに、児島湾などのような浅瀬の海や印旛沼などの湖沼を干拓した新田開発もおこなわれた。
その結果、江戸初期に120万haにすぎなかった水田面積が、江戸中期には160万ha、明治初期には250万haと大幅に拡大した。このような新田開発が可能になったのは、土木工事技術の飛躍的な進歩による。
2A2 明治以後
幕府の解体にあたっては、明治政府が士族授産のため大規模な開墾を実施した。また、第1次および第2次世界大戦前後も食糧の確保あるいは失業人口の吸収などのため、政府によって大規模な開拓がはかられた。
2B 品種改良
日本で組織的なイネの育種がはじまったのは、1893年(明治26)に国立農事試験場が設立されてからである。それまでの品種改良の主体は、もっぱらイネを栽培する農民自身で、お伊勢参り(→ 伊勢信仰)や善光寺参りを利用して種子の交換をしたり、在来品種の中で自然に生起した変異体の中から、優良個体をみつけて選抜する分離育種法がおこなわれていた。かつて、日本三大品種といわれた神力、愛国、亀の尾は分離育種法による民間育成品種である。
しかし、分離育種法では、ある程度選抜をつづけると、それ以上は改良の効果が期待できなくなる。そこで、1904年ころからは人工交配によって新品種をつくりだす交雑育種法が開始され、育種の効果が一段と高められた。その結果、水稲の単位面積当たりの収量(単収)は1ha当たり江戸時代に1〜2tであったのが、1930年代では3t、さらに1980年代になると5tに達するようになった。
2B1 耐肥性品種
その内容をみていくと、明治の初めから今日までの単収のいちじるしい増加は、窒素施用量の増加と、この条件に適した品種、すなわち短稈(たんかん)、強稈でたおれにくく、草型が直立で受光態勢がよいなどの性質をもった耐肥性品種の育成におうところが大きい。
2B2 耐病虫性品種
同時に、多窒素がもたらす各種の病害虫の発生を抑制するために、耐病性品種も重要な育種目標となった。とくにイネの病害虫の中で、いもち病がもっとも重視され、これに対する抵抗性を強化する育種がすすめられてきた。
2B3 耐冷性品種
北日本や山間高冷地では、耐冷性品種の育成が冷害の軽減と克服に大きく貢献している。耐冷性品種は栽培限界の北進をもたらした。北海道の稲作は、明治初年は道南の一部にかぎられていたが、赤毛、農林11号などの早生(わせ)耐冷性品種が育成されるたびに北進をつづけ、1930年代後半には北海道のほぼ全域で稲作が可能になった。
2B4 良食味米
一方、米の自給率の向上とともに良質化の要求も高まり、1960年代後半からは食味が良好であることが重視されるようになってきた。一般に、タンパク質とアミロース含量の高い米は、粘りが少なく、かたい米飯になり、それらの含量の少ない米は粘りのある、やわらかい米飯になる。コシヒカリやササニシキなどが代表的な良食味米品種である。
2B5 直播栽培用品種
直播(ちょくはん)栽培は、所用労働時間の短縮と低コスト生産に有効な手段である。低温発芽性、初期伸育性、耐倒伏性などの特性をそなえた直播栽培用品種の育成がすすんでいる。
2B6 超多収、ハイブリッドライス
米の低コスト生産および飼料など他用途利用を可能にする超多収品種の開発がすすめられている。この研究で開発された品種の単収は、従来の品種の1.5〜2倍ときわめて高い。交雑によってつくられた雑種初期世代、とくに雑種第1代(F1)の植物は、両親の平均あるいはそのいずれよりも生育が旺盛で収量も増大する場合が多い。この現象(雑種強勢:ヘテロシス)を利用した品種開発もおこなわれている(→ 雑種)。
2B7 これからのイネの育種
近年では、組織培養、細胞融合、遺伝子組み換えなどバイオテクノロジーの育種への応用がこころみられている。
今後、栽培地域のいっそうの拡大をめざした耐塩性や耐旱(たいかん)性など環境ストレス耐性にすぐれた品種の育成、あるいは農薬による残留毒性や汚染問題が深刻になってきた今日、農薬の使用量をできるだけ少なくすることのできる耐病虫性品種の育成などがさらに重要になってくるだろう。 
VII 水田の多面的な役割
水田は、米という基礎的食料を生産しているだけではなく、集中豪雨から洪水をふせぐダムとしての役割をはたすなど、水源涵養(かんよう)機能とよばれる重要な役割をはたしている。日本の水田の総貯水能力は東京都民の水使用量の37年分に相当し、この貯水機能を経済的に評価すると年間4兆7000億円にも達すると計算されている。
水田はこれ以外にも、水質を浄化させ、地域の生態系を保全するなど、国土や環境を保全するという重要な役割をはたしている。これらの目にみえない価値を経済的に評価すれば、年間12兆円の経済効果をもつとの試算がなされている。
土砂流出をふせぐ
水田でつかわれる灌漑用水の75%は地下水や河川水となり、下流で再利用されている。また、水田は土砂の流出もふせいでいる。水田、畑、森林をふくめた農林地全体が流出をふせいでいる土砂の量は約58億m3、霞が関ビルの1万1000杯分に相当するといわれる。
上流部の水田域をコンクリートでかためて市街化すると、集中豪雨により下流の都市部で浸水被害がおきやすくなるなど、下流の都市環境にもさまざまな悪影響がおよぶのである。
日本の水田面積は昭和50年代以降、年々減少しつづけており、しかも山間地域での棚田が次々と耕作放棄されている。そこで、これらの水田の多面的役割をみなおすとともに、水田を保全し維持管理するための新しい政策対応がもとめられている。 
ユンナン省(雲南省)
ユンナン省(雲南省) ユンナンしょう 中華人民共和国の西南端にある省。南はベトナム、ラオス、西はミャンマーと接する。東にユンコイ高原(雲貴高原)、西にシャン高原があり、メコン川の上流であるランツァン(瀾滄:らんそう)江、長江が省内をながれる。北高南低で、平均標高は約2000m。亜熱帯、熱帯モンスーン気候で、寒暖差が10°Cと小さく、「四季春のごとし」といわれている。中国で少数民族数がもっとも多い省で、イ(彝)、ペー(白)、ハニ(哈尼)族などの少数民族が全省人口の3分の1を占める。面積は39万4000km2。人口は4333万人(2002年)。省都はクンミン(昆明)である。
クンミン(昆明)の石林 ユンナン省(雲南省)昆明市内から南東120kmの所にある名勝「石林」は、高さ20〜30mの奇岩、怪石がたちならんでいる。
経済
非鉄金属、香料、漢方薬材など産物の種類はきわめて豊富である。山間盆地などでは米、トウモロコシ、小麦が、ラオス・ミャンマーとの国境に近いシーサンパンナではゴム、サトウキビなどの亜熱帯作物が栽培されている。雲南のタバコは「雲煙」とよばれ、とくに有名である。プーアル茶や「雲南白薬」などの漢方薬材は特産品として知られる。昆明の発電、鉄鋼、精密機械、工作機械、化学、巻タバコ、トンチョワン(東川)の銅、コーチウ(箇旧)のスズ、ターリー(大理)の大理石加工などの工業が発達する。
昆明からチョントゥー(成都)、コイヤン(貴陽)、ホーコウ(河口)へのびる3本の鉄道は交通の動脈で、昆明と省内各地をむすぶ道路網も整備されている。地元の雲南航空公司は国内線のほか、ヤンゴン、バンコクへの国際線も運営している。
観光と文化
タイ族の水かけ祭 太陽暦の4月中旬、シーサンパンナのタイ族は正月をむかえる。人々は寺院へおもむき、仏像に水をそそいだあと、老若男女たがいに水をかけあい、厄をはらって新たな福をむかえようとする。この正月行事を中国では撥水節(はっすいせつ)とよんでいる。鎌澤久也/(c) 芳賀ライブラリー
昆明の西山景勝区、円通寺、「天下第一の奇観」といわれる石林、大理の三塔、シーサンパンナの亜熱帯植物研究所など数多くの名勝史跡や名所がある。旧暦3月の大理のバザールやタイ暦の正月にあたる4月中旬のシーサンパンナの「水かけ祭」など少数民族の伝統的な祭礼には、内外から多くの観光客がおとずれる。
州内には雲南大学など26の大学、166の国公立研究機関、10以上の民族歌舞団、民族映画製作所などがある。航海家の鄭和、中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲者で、亡命先の藤沢市鵠沼海岸で謎の水死をとげた聶耳(じょうじ)などの出身地である。
歴史
雲南はもともと少数民族の地であり、昆明を中心とする地域には?(てん)国とよばれる少数民族の王朝があった。前109年漢の武帝は?国王に「?王之印」の金印をおくった。三国時代には諸葛孔明が南征し、この地の王孟獲を7度とらえ、7度ゆるしてついに蜀に帰属させたという。1274年元は雲南行中書省をもうけ、役所を昆明においた。ここから雲南が行政区域として使用されるようになった。1942年以降2年余にわたって日本は「ビルマ・ルート」をたつため占領下においた。49年、人民解放軍によって解放された。
近年、ベトナム、ラオス、ミャンマーとの国境貿易が活発にすすめられている。1994年末までに省内の外資直接投資額は6500万ドルに達し、三資(合弁、合作、全額外資)企業は1018社にのぼった。 
フーナン省(湖南省) 
フーナン省(湖南省) フーナンしょう 中華人民共和国の中南部、長江中流の南部、ナンリン山脈(南嶺山脈)の北部に位置する省。中国第2の淡水湖トンティン湖(洞庭湖)の南にあることから省名が生まれた。東、南、西の三方を山にかこまれ、北部には海抜50m以下の洞庭湖平野が広がる。漢民族のほか、人口が100万人をこえるミャオ(苗)、トゥチャ(土家)族をはじめとする40の少数民族が、おもに西部と南部の山地にすむ。面積は21万500km2。人口は6629万人(2002年)。省都はチャンシャー(長沙)。
トンティン湖〔洞庭湖〕 フーナン省(湖南省)北部、長江(揚子江)の南側にある中国第二の淡水湖である。これは北東端のユエヤン(岳陽)の近くの景色。湖南の瀟湘(しょうしょう)は古くから景勝の地として知られ、瀟湘夜雨や洞庭秋月などが「瀟湘八景」とよばれて詩や絵画の主題となった。
経済
古くから「湖南と湖北で実りが多ければ、天下はみちたりている」といわれるほどの穀倉地帯として知られてきた。とくに稲作が盛んで、1993年の生産量は2343万tに達し国内で1位をほこる。養豚業も盛んで、長沙から毎日数千頭分の豚肉が国内各地、とくにコワントン(広東)省、ホンコン(香港)などにむけて出荷されている。洞庭湖周辺では淡水魚の養殖がおこなわれ、「湘蓮」という蓮根は国内的によく知られている。
非鉄金属、機械、発電、採炭、鉄鋼、紡績などの工業が発達する。自動車の電装品製造は中国最大の規模をほこる。伝統的な工芸品としては長沙のししゅう、リーリン(醴陵:れいりょう)の磁器、シャオヤン(邵陽)の竹細工、リゥヤン(瀏陽)の花火などが有名である。
洞庭湖を中心に水運が発達する。ペキン(北京)〜コワンチョウ(広州)鉄道など5本の幹線鉄道が省内をはしり、自動車網は長沙、ホンヤン(衡陽)を中心にして省内各地にのびている。
観光と文化
岳陽楼 トンティン(洞庭)湖のほとりにたつ岳陽楼は、唐代の716年に建立された城楼である。やがて李白、杜甫、白居易らがおとずれて詩にうたい、宋代には范仲淹(はんちゅうえん)が「岳陽楼記」をしたため、その名声は不動のものとなった。現在の建物は、清代の末に再建されたもので、1984年に改修され、周囲は公園として整備されている。山口直樹撮影
中国5大名山(五岳)のひとつ衡山(1211m)、洞庭湖畔にたつ岳陽楼、自然の宝庫であるチャンチアチエ(張家界)国立森林公園、シャオシャン(韶山)にある毛沢東の生家など数多くの名勝史跡がある。
47の大学、200近くの国公立研究機関、シャオシアン(瀟湘:しょうしょう)映画製作所(1977年創立)などがある。南部のチェンチョウ(?州:ちんしゅう)には中国女子バレーボールの訓練所がある。紙の発明家蔡倫、中国現代史で活躍した毛沢東、劉少奇、胡耀邦などの政治家、画家斉白石などの出身地である。
歴史
古くは、ミャオ、ヤオ(瑶)族の居住地だったが、春秋戦国時代には楚国に属した。前漢時代に長沙国がたてられた。元代には湖広行省の管轄下にあり、1664年洞庭湖を境にして南に湖南省がもうけられた。1949年に解放された。
1992年以降、対外経済交流が活発にすすめられている。94年末までに外資直接投資額は3億3114万ドルに達し、三資(合弁、合作、全額外資)企業は2966社にのぼった。滋賀県、アメリカのコロラド州などと友好関係をむすんでいる。 
長江
長江(ちょうこう) 中華人民共和国の中部を横断してながれる大河。中国語ではチャンチアン。全長は約6300kmで、中国では最長、世界でもナイル川、アマゾン川についで第3位。流路によってさまざまな名称をもち、日本では下流部の一名称であるヤンツー江(揚子江)の名で知られる。ターチアン(大江)とも、たんにチアン(江)ともよばれる。
チャン江(長江)流域 タンラー山脈のグラダンドン山に発し、中華人民共和国の中部を横断する全長約6300kmの長江は、同国最長の川である。ヤンツーチアン(揚子江)の名は、河口に近いヤンチョウ(揚州)付近の局所的名称だが、日本では全流域をさす名称としてもちいられていた。
チャン江(長江) 李白の詩にもうたわれた白帝城をさらにくだると、長江はスーチョワン(四川)とフーペイ(湖北)両省の境界付近で300km以上にわたってうつくしい峡谷地帯(三峡)をながれる。四川省のこの辺りは、古来、景勝地として名高く、おとずれる人も多い。写真は、その近くをながれる長江。
源流と流路
チベット高原の北東部、タンラ山脈にある標高6621mのグラダンドン山に源を発する。はじめトト河の名で東流、ダムチュ(当曲)と合流してトンティエンホー(通天河)と名をかえ、チンハイ省(青海省)南部を南東にながれる。
ついでチンシャーチアン(金砂江)の名でスーチョワン省(四川省)とチベット自治区の境を南下、ユンナン省(雲南省)に流入する。その後屈曲しながらU字をえがくように四川省のイーピン(宜賓:ぎひん)にいたり、ミンチアン(岷江)と合流して長江となる。以後、蛇行、屈曲をくりかえしながら東方に流路をとり、フーペイ(湖北)・フーナン(湖南)・チアンシー(江西)・アンホイ(安徽)・チアンスー(江蘇)の各省をながれ、シャンハイ(上海)で東シナ海にそそぐ。
流域と交通
三峡 長江の中流域、イーチャン市(宜昌市)の近くにある三峡は、3つの大峡谷を総称したもので、中国の代表的な景勝地であり、観光地として人気が高い。今ここに三峡ダムが建設されている。ダムが完成すれば、巨大なダム湖ができ、上流の水位が上昇して多くの町や村が水没することになる。
長江は最大支流のチアリンチアン(嘉陵江)をはじめ、ウーチアン(烏江)・ハンショイ(漢水)など数多くの支流があり、それらをあわせた流域面積は広大で180万8500km2になる。途中、三峡、トンティン湖(洞庭湖)、ポーヤン湖(?陽湖)などの景勝地をつくる。中・下流域は、広大な沖積平原をつくり重要な穀倉地帯になっている。河岸には、上海、ナンキン(南京)、ウーハン(武漢)、チョンチン(重慶)など工業都市があり、中国の一大工業地帯ともなっている。
三峡ダムでしずむ歴史的建物 三峡ダムの建設による水没予定地で、張飛廟(ちょうひびょう)の解体にあたって儀式に参列している作業員たち。このあと、この廟は山中のもっと高いところに移築された。多くの重要な遺跡が水没してしまうため、史跡や人工遺物の救済活動がすすめられている。
中・下流域には無数の水路が発達、水運に利用される。航路としての役割も大きく、武漢までは1万t、重慶までは1000t級の船が航行できる。古くからの重要な水路として、中国の政治・経済を左右する大動脈となっている。第2次世界大戦後、重慶、武漢、南京などに長江大橋がかけられ、現在、世界最大規模の三峡ダムの建設がすすめられている。
ミャオ(Miao) 中国の貴州省、湖南省、四川省、雲南省、広西チワン族自治区、海南省海南島、およびベトナム、ラオス、タイ、ミャンマーのおもに山地にすむ人々。中国内におよそ740万人、そのほかの地域にも50万人以上いると推定される。言語はシナ・チベット語族ミャオ・ヤオ語派のミャオ語。
メオ、モン(Hmong)ともよばれる。自称としてモンをつかうグループが多い。女性の民族衣装の色などによって、青ミャオ、白ミャオ、黒ミャオ、花ミャオなどに細かくわかれる。中国の史書には古くから「苗」の記述があらわれるが、それとの関係もふくめてミャオ族の起源についてはいまだによくわかっていない。
生業は焼畑農法による陸稲、雑穀、イモ類などの栽培である。一部では棚田式の水稲耕作もおこなう。ケシ栽培も所によってはみられた。同姓者による父系出自集団にわかれ、婚姻はその単位で外婚制をとる。一夫一妻婚、夫方居住がふつうである。村は同姓者によって形成されることが多い。日本の歌垣に似た慣習がある。
歌垣(うたがき) 日本古代の習俗。「風土記」「万葉集」「古事記」「日本書紀」「続日本紀」によれば、老若男女を問わず歌を掛けあって配偶者や恋人をもとめたり、歌競べをたのしんだりしたもの。春や秋に、山の上や温泉、水辺、市などでおこなわれたらしい。もともとの意味は「歌掛き」だったと思われるが、8世紀には、「人垣」をつくって歌を掛けあうという意味での「歌垣」の表記が一般化していた。
東国では「かがひ(かがい)」ともよばれたが、その語源は「掛け(掛き)合い」と思われる。なお、宮中賛歌をともなう集団舞踊の踏歌(とうか:あられはしり)を歌垣と混同した資料があるが、宮中行事の踏歌と民間の歌垣とはまったく別なものと考えるべきである。 
ミャオの神話と歌垣
漢民族がやってくる以前から、貴州省の山地に住む少数民族、苗族(ミャオ族)は文字をもたず、豊かな口頭伝承の世界に生きている。神祭のとき巫師が語って聞かせる天地創造の神話では、万物の始祖「蝴蝶媽媽(フーティエマーマー)」が黄卵を生みおとし人間が誕生したという。また日本でいう歌垣(うたがき)の風習がのこっている。
爬坡節(パーポーチエ)、吃新節などの祭りや、日曜日に開かれる市のとき、若い男女は歌のやり取りをしながら気にいった相手をみつけ、したしくなる。ミャオ族では游方(ヨーファン)とよばれる。著者鈴木正崇(当時、東京工業大学助手)が、1983年(昭和58)フィールドワークをおこなった報告書。
辺境の少数民族の歌垣
歌垣は、日本では近年まで琉球諸島に類似のものがあったと思われるが、現在は民俗芸能としてのこされているだけである。古代日本の歌垣を考えるならば、むしろ雲南省など中国の西南地域、ネパール、ブータンなどの少数民族が現在もおこなっている、原型的な姿をのこした歌垣を参考にしたほうがいい。歌垣は稲作文化とともに伝播(でんぱ)した習俗だと思われ(→ 稲作)、また、歌垣をおこなっていた古代の日本列島の人々は、当時の先進国中国からみれば辺境の少数民族だったという点からも、現在、歌垣をおこなっている彼らと共通しているからである。
現存する少数民族の例では、歌垣は、わかい人が大勢あつまるなら、どんな目的の集まりででもおこなわれる。葬式でおこなわれる例さえある。歌の掛け合い自体は、たずねてきた客と主人、交渉事での当事者どうし、創世神話をうたうシャーマンと聞き手の代表、その他さまざまな機会にかわされる。
古代の日本でも、このように多様な場面で歌の掛け合いがおこなわれていたと思われるが、とくに、わかい未婚の男女が異性の相手をもとめる際の歌の掛け合いを「歌垣」とよぶことにしたのであろう。なお、古代日本の歌垣を、農耕の予祝や豊作感謝の行事に関連づける説が広まっているが、これは、後世(中世から近代にかけて)の農村の春秋の山入り行事にモデルをもとめすぎた論である。
模擬的恋愛をたのしむ文化
少数民族での実例からすると、歌垣の第一の目的は恋人や配偶者を獲得することであり、実際にかなりの男女がのちに結婚する。なかには、その日のうちにむすばれる男女もあるだろうが、基本的には、歌垣の場での情熱的な歌の掛け合いは、歌垣という祭式的な時間と空間における模擬的な恋愛表現ととらえたほうがいい。
古代日本の歌垣は性的解放の場であったとする説が多いが、このような少数民族の歌垣の例からいえば、やはり模擬的恋愛歌の応答をたのしむのが主目的の場であり、このような恋愛表現の蓄積が、「万葉集」での多数の恋愛歌群(→ 相聞)を生みだす母胎となったのであろう。
鈴木正崇「中国貴州省 苗族の村」
漢民族がやってくる以前から、貴州省の山地に住む少数民族、苗族(ミャオ族)は文字をもたず、豊かな口頭伝承の世界に生きている。神祭のとき巫師が語って聞かせる天地創造の神話では、万物の始祖「蝴蝶媽媽(フーティエマーマー)」が黄卵を生みおとし人間が誕生したという。また日本でいう歌垣(うたがき)の風習がのこっている。
爬坡節(パーポーチエ)、吃新節などの祭りや、日曜日に開かれる市のとき、若い男女は歌のやり取りをしながら気にいった相手をみつけ、したしくなる。ミャオ族では游方(ヨーファン)とよばれる。
中国の西南部、雲南省の東隣に位置する貴州省は、人口1800万人のうち、26パーセントが少数民族で、苗(ミャオ)、布依(プイ)、?(トン)、水(スイ)、i?(コーラオ)、彝(イ)族などが住んでいる。貴州に漢民族が本格的にはいりこんだのは、明代(1368〜1644年)以降のことであり、それ以前この地は嶮岨な山岳と急流という自然の要害に守られた少数民族(非漢民族)の別天地であった。 一説によると、貴州の貴(gui)は、鬼(gu?)に由来し、この地は漢民族からみると、鬼をあやつる鬼師や巫師の跋扈(ばっこ)する辺境地帯として、恐れられていたらしい。貴州の漢化は、雲南にくらべるとはるかに遅れてはじまったのである。
(略) 「苗(ミャオ)」という民族名は、かれらの自称、ムウ、モン、ミャオなどに由来しているが、漢民族からみて南方にいる、いわゆる蛮族の総称として文献上にあらわれることもおおかった。ふるくさかのぼれば、中国の古文献『書経』の「舜典」に載る「三苗」が、かれらの先祖にあたるとされるが、これらについての確証はない。苗族は文字をもたず、いっさいを口頭伝承で伝えてきたので、かれらの歴史をあきらかにすることは、なかなかに困難なのである。 地元の人びとの意見にしたがえば、苗族は、揚子江(長江)中流域に居住し、稲作をいとなんで生活をしていたが、漢民族の南下にともなう圧迫により、山間部へと追いやられ、現在では山また山の貴州を主体として、山の尾根筋や、山麓(さんろく)の平地などにへばりつくように住むようになったのだという。
その移動経路は、つねに東から西へであり、北タイの苗(メオ)族は、広西・雲南から、雲南の苗族は貴州から、貴州の苗族は湖南・湖北からといった移動の伝説が語られている。かれらの故郷は、つねに東方にあるとされ、死後、人びとの魂はその故地に帰っていくと信じられている。 (略)
卵から生まれでた人間
苗族は、天・水・井戸・木・山・川・橋などに霊的存在が宿り、ふるい木にもいると信じている。木はとくにカエデの一種の「楓香樹」が好まれる。この木は、家の大黒柱に使用されるし、山の尾根上にある村の上(かみ)や下(しも)などにかならずといってよいほど、植えられている。「楓香樹」には数かずの伝説があり、人類の先祖とされる「蝴蝶媽媽(フーティエマーマー)」もこの木から生まれたという。
この人類起源神話は、神祭のときに、巫師が語るもので、凱里で実際に、巫師の語りの録音をきかせてもらった。戸外で集録したらしく、途中に小鳥のさえずりや、ニワトリの鳴き声もはいっていた。その内容は、次のようなものである。 万物の始祖、万物の母親とされる「蝴蝶媽媽」が、半神半人の鳥博(ウーボ)と恋愛して結ばれ、12個の卵を生んだ。12個の卵には色や形によって、白卵・黄卵・花卵・赤卵・長卵・斑卵などがあり、黄卵のなかから生まれてきたのが人類の始祖で、姜央という人である。12個の卵は、1羽の神鳥が暖めて孵(かえ)したが、いくつかは孵り、いくつかは孵らなかった。
黄卵からは人類、白卵からは雷公、長卵からは龍、花卵からは虎、といったように生まれでてきたが、孵らなかった4つの卵のなかに、神や鬼が含まれていた。神は万能ではないが、ベーフと称し、山の裾に住んでいると信じられ、人類に幸福をもたらし、災いをなくして禍事(まがごと)を除去するのである。人びとにとって神は祭るが、鬼は除くのであり、概して鬼は悪いものとされる。ただし、神と鬼の区別の仕方が、苗族と漢民族とでは、ことなっている。 中◇寨(◇は土偏に貝)では神の祠は発見できなかったが、ある家の庭先で、祖先を祭る依代(よりしろ:神霊のよりつく物体。岩、樹木、御幣などの形態をとる)風のつくりものをみた。
これは、田植えのあとから収穫まで、イネの豊作祈願のために立てておくといい、葉の裏が白いスギの木に、白い垂(しで)の紙(神祭りの結界に使用する注連(しめなわ)にさげる紙)をつけ、途中に白い土器を吊るし、下方に白いニワトリの羽をさしてあった。3年間は、その家で祭り、次はべつの家へ移るとのことで、焼畑の耕作地をかえる周期を、連想させると同時に、日本の若狭(わかさ)などにみられる依代のオハケや頭屋祭祀を思いおこさせた。 
依代に関しては、雷山県の西江へいく途中で、田圃のなかに、御幣風の白い紙のついた棒がさしてある光景に出合った。これも祖先を祭るもので、「祭田」と称し、家ごとに田植えのあとに、アヒルを1羽供犠して供え、田にさした棒は、刈り取りまでおいておき豊作を祈る。この棒は、ティー・ハー・ヘェあるいは、ティエ・カー・ハイとよばれ、田圃のなかに白い切り紙をなびかせて、木の枝が立っているさまは、まるで日本の田の神祭りの依代のようであった。 凱里県の舟渓では、さらに形式が複雑で、家の玄関にあたるところの左右の軒先に供物台のような板を水平にわたして、その下にタケをとりつけ白紙や赤紙を巻いておく。稲穂をくくりつけてあるものもみうけられた。ここ舟渓では、ティー・ハー・ヘェをつくる目的はふたつあり、第一は全家族の平安無事を保護してもらう。第二は家族の子どもたちが健康で、家がゆたかに発展することを祈願するといい、イネをかけてあるときは、五穀豊穣を守ってくれるようにという意図がある。 ティー・ハー・ヘェの祭りは、巫師(鬼師)がおこない、今年の豊作を保護する目的で、ある家では1年に1回、べつの家では4、5年に1回執行する。ふつうは、祭りは2月におこなう。
巫師は、1羽のニワトリをささげて、唱え言をして、祈念する。この依代風の木の意味あいは、各地でことなっているようであり、祖先を祭るといっても、多義的である。祖先には、「われわれの祖先」と称して、村・家共通のいわゆる始祖的存在をいうことがあり、その場合にも、山の開拓者と水田・畑の開拓者の区別をつけたりする。また「家族の祖先」をあらわすときには、家譜に記載するような系譜意識があり、個々の家に関わりをもってくるといえる。
祭りを担当する巫師は、村ごとに1人ぐらいずつはいるらしいが、われわれ外来者がかれらとあって話をきくことは、いまのところは不可能にちかい。民俗、とくに民間信仰は、長期間にわたって迷信弊習としていやしめられ、近代化を疎外するものとされてきたからである。複雑な政治の変動を経てきた中国で、こうしたことの調査はむずかしい。 舟渓でのききとりでは、豊作祈願、家族の保護の祭りのほか、人が死んだとき、病気がすごく悪くなったときにも巫師は頼まれる。清明節(陽暦の4月5日ごろ)や葬式にきて、招魂つまりタマヨビもおこなう。病気のときには、家の入口の上に、藁でつくった輪を7つつなげた、ミーヒュウとよぶものをつくる。ヒュウとは招魂のことである。丸い輪は、魂を家につなぎとめ、外にでられないようにしておくためだとされる。
招魂のときは、巫師が1羽の雄アヒルまたは1匹の子ブタを殺して、唱え言を朗唱して、魂を招く。一般に病気になると、魂が離れると考えられているので、巫師は病人の魂を招き寄せる儀礼をおこなうのである。堂屋のなかで祝詞を朗唱し、供物などを飾り、巫師が離れた魂をみつけてくるという。 (略)
仙女伝説の山、香炉山
旧暦6月19日(7月28日)は、凱里の西方にある香炉山に登る「爬坡節(パーポーチエ)」の祭りの日である。この日の午後、山麓の苗族や漢民族の若い男女は、香炉山に登って親しくなり、おたがいに対歌をして、恋愛する。苗語でいうヨーファン(游方)がこれで、苗族は、爬坡節、吃新節(イネの初穂の新嘗)などの祭りの日に、広場や村境の小高いところ、木の下、橋のたもとなどの、游方坪とよばれるところで対歌をして、自分の気にいった相手をみつける。対歌をしながら相手の性格などを判断して気にいると、女性が腕輪や首の銀環などを男性に渡して、約束事をかわす。対歌のおこなわれる時刻は、夕暮れや夕食後などのことがおおいが、日曜ごとに開かれる市、すなわち?場(ガンチャン)などでは、昼間にその広場でおこなったりもする。
日本の『風土記』などに記載のある、いわゆる「歌垣」や「?歌(かがい)」にあたるものが、苗族の「游方」である。 香炉山の山名は、頂上近くに巨大な岩塊があり、それがまるで香炉のようにみえることに由来している。凱里にはじめてきた日は雨模様であったが、ちょうどこの大岩に雲がかかり、香炉から煙がたなびいているようにみえた。仙女が、この雲に乗って天上から降りてくるといういい伝えがあり、爬坡節のときには、毎年雨が降るといわれていることも、このことと関係があるらしい。香炉山の爬坡節の由来を語る伝説にこんな話がある。 
むかし、仙女が天上から地上をみおろすと、人間の若い男と女が歌をうたい踊りをおどっていた。これをみてうらやましく思った仙女は、おもわず地上に降りたった。そこは山の上で、このときある若い男が山に登ってきて、仙女と出会い、おたがいに対歌をして愛情を深めあって結ばれ、仙女は1人の子どもを生んだ。それは女の子で、半分は人間、半分は仙女であった。その後、天上の王様、天王爺(苗語ではカー・ワン・ウェー)が、天上に帰るようにと命令をくだした。仙女は命令に従わず、そのために石にかえられた。子どもは、いまだ幼くて乳を必要としていたが、その石から泉水が流れでて、これが?水(乳)であったので、女の子はこれを飲んで成長した。
のちにこの子どもは、仙女となり天上へいった。毎年旧暦6月19日に、仙女は下界の香炉山へ降りてきて、人間が彼女を出迎えにいくのが、爬坡節の祭りなのだという。 これに関しては、さらにべつのいい伝えもあり、地上が洪水になって、この山上に生き残った男性を仙女があわれんで、地上に降りてきて対歌をして夫婦になったことにちなむともいわれている。もともとこの山の岩峰中腹の洞窟には、観音様が祭られていて、病気なおし、人助け、貧乏をのがれることなどを人びとが祈願したとされ、そこには道教や仏教も習合していた形跡がある。6月19日は、道教によれば、観音菩薩成道の節日であり、香炉山の爬坡節には、苗族の山岳崇拝や女性と岩石を結びつける考え方のうえに、漢民族の民間信仰が習合していった様相がうかがえるのである。 
 
イネの文明

 

人類はいつ稲を手にしたか
本書は著者の学説の集大成と言える、深い内容をもった1冊である。すなわち、いままで文明を担ったメジャーな穀物はコムギであり、いろんな当該学界の書籍にも、一切コメが文明を担うという視野も、また視座も欠けていたことに気付かされる。本書はそうしたコムギ史観に対する挑戦でもある。
著者は「環境考古学」の安田喜憲先生とともに、長江の遺跡発掘にたずさわり、そこで黄河流域のアワ・コムギ文明よりもはるかに古いコメ栽培の事実を知ることになる。また、それまでコメのルーツは(佐藤先生の恩師や先輩の説として)「雲南・アッサム」であり、インディカ・ジャポニカもこの付近で起きたという一元説が主流であった。ところが、こうした実地における研究とか最新のDNA検査などの結果から、次第に雲南・アッサム説から長江中下流域説に傾き、心ならずも恩師や先輩の意に背く結果になった苦悩も述べられている。
ただそうした中で、日本の農水省や食糧庁のホームページでは、いまだにコメ原産地雲南・アッサム説が大手を振ってまかり通っているのが現状で、まだまだ定説として長江中下流域説の認知がなされていないことを知らされる。
たしかにある学説を提示した学者に取って、異説は学者生命を揺るがす結果さえ生むから、簡単には自説を曲げないものだろう。そうなると案外、われわれ素人の方が素直に状況判断するというものかもしれない。
本書ではそうした恩師や先輩の一元説をただ無闇に否定するのではなく、その生まれた背景や理由から一つ一つていねいに実地解明していき、インディカ米が生粋の1年草であるのに、ジャポニカは本来多年草であったことも教えてくれる。
また本書には、たとえばインディカ米とジャポニカ米の違いは、長粒・単粒だという俗説の間違いなど、コメにまつわる常識から、DNA検査の簡明な解説、それに長江遺跡発掘にまつわるエピソードから中国での研究や学説の現状、長江のコメはやはりジャポニカであることなど、多岐にわたって展開されている。
特に佐藤先生が強調したかったことは、題名の通り、歴史の舞台から阻害され続けてきたコメに新しい光を当てようという強い願いだったはずだ。たとえばコムギはデンプン組成や必須アミノ酸不足から、どうしても遊牧民の肉類を必要とした牧畜・畑作文明であり、コメはほとんど完全食に近いアミノ酸構成などから、主食としての地位を確立してきたし、漁撈・水田稲作というすばらしい文明の中核として、いま破綻をきたしている牧畜・畑作文明に取って代わる新しい食文化になることを示唆している。
 
縄文農耕の世界

 

筆者は縄文塾五周年記念行事での「トーク&トーク」にそして講演にお世話になった。遺伝・DNAなど難しい内容を軽妙で素人にもわかりやすい話術で、聴衆を魅了した下さった植物遺伝学の権威者で、しかもその翌々日にはミャンマーの奥地にコメのフィールド調査に行かれるという行動派学者でもある。
実は最近「縄文学」という、一万年余りも続いた縄文時代を、学際的にというよりむしろ学術統合的な形で考えようという動きが生まれようとしているらしい。事実ならまことに歓迎すべきことである。
専門のコメを始めクリ・ヒエなどを沢山の植物が「どうも縄文時代には栽培されていた」ということを、専門のDNA鑑定を通じて明確に証明して行く。一方我々が「農耕」というとき、どうしても現在の整備された「水田稲作」や畑作を頭において考えていることの不自然さを浮き彫りしてくれる役割も果たしている。
また、DNA鑑定といった一見デスクワーク(机上論)のみに陥りやすい作業のバックボーンとして、常にフィールドそれも遺跡周辺だけでなく幅広い地域を自分の足で歩いていることがわかる。過激ともいえる新説が、どうやら暖かい目で受けとめられているのは、学際を超えた広い交流や著者のほのぼのとした人格・人徳のなせるワザではないだろうか。
最近は、縄文時代は「採取と狩猟」主体で、農耕はなされなかったという説から、ようやく未発達ながら農耕のはしり、いわば「プレ農耕」とでも呼ぶべきものが生まれつつあったという説への移行期であった。そこに三内丸山遺跡という巨大遺跡が発見され、その主食がクリであったという事実がわかり、俄然事態は大きく動きだしたのである。ここで活躍したのは花粉・プラントオパール・DNA鑑定という最新の植物学・遺伝学テクノロジーであった。なんでもないようなことだが、例えば塾長にとっても、ドングリから(灰汁抜き不要という)クリへの認識比重の転換は、まさに「コロンブスの卵」的なショックであった。しかも「栽培」という事実が植物学者から語られることで、俄然縄文人・縄文文化再評価と、我々の思想の再構築を余儀なくされるのである。
また本書は西日本に住む私たちが、「コメは日本(全体)の文化」だと思い込んできたことを、「東日本とヒエ」の関係から打ち破ってくれる。しかも本書は今まで渡来種と思われていた植物が日本在来種であることを示す同時に、すでにこの時代から多くの渡来種が存在することから、当時すでにユーラシア大陸と幅広い人の、植物の交流があっただろうことを指摘する。
私たちはまた本書で、特定の品種の話題にとどまらず、栽培種と野生種の違い、栽培という行為をめぐって人と植物との、一種「虚々実々の駆け引き」とも思えるしたたかさを教えられる。たとえば栽培することで「種子が飛び散らなくなる」=「飛び散らす必要がなくなる」こと、かつては「種の保全」のための行為が不要になるとともに、収穫に便利なるという効果も生んでいるのだそうだ。また桜の葉で餅をくるむのは、香りというよりその殺菌作用だからとか、草木染めは色だけでなく防虫効果もあったのだという。縄文人の知恵の深さ、なまなましい縄文人の「生の営み」を教えてくれるに止まらず、より深い植物の知識を授けてくれる、まさに必読の一冊と謂えるだろう。
 
縄文うるしの世界

 

飯塚俊男監督のドキュメンタリー映画「木と土の王国」「一万年王国」に次ぐ、第三作「縄文うるしの世界」完成を記念して「縄文人うるし技術」「木の文化・山の信仰」という2つのシンポジウムと、映画「縄文うるしの世界」を画面状況の写真収録と説明のナレーションで紹介するいう構成になっている。この映画3部作は青森・東京をはじめ日本の各地で上映されたが、青森での上映会でのシンポジウムが、縄文時代の漆工芸技術をテーマにした「縄文人うるし技術」であり、東京でのシンポジウムが考古学・歴史学・民俗学という立場で縄文とウルシの関係を語る「木の文化・山の信仰」である。
シンポジウム「縄文人うるし技術」では前回本欄で紹介した「DNA考古学」の佐藤洋一郎先生(静岡大学助教授)が、日本のウルシと中国のウルシとは、DNAの調査により違った種であることをいろんなエピソードを交えて紹介する。六千年前に遡る縄文時代にすでに独自で高度なウルシ技術があったことを差し示すこのシンポジウムは、今までの「日本古来の文化や技術はなくて、すべてチャイナ・コリア伝来である」という、一種の思いこみに近い考古学者の発想に対して痛打を浴びせる。また従来ともすれば縄文人のハンドテクノロジーを縄文土器を中心に考えてきたが、より高度な知識と技術を必要とするウルシの採取・精製加工・塗りに加え、石器を使っての木製の椀や櫛の加工など、現在のレヴェルから見ても驚嘆に値するその資質のすばらしさが、現在の漆の専門家の立場で次々に明らかにしていく。
シンポジウム「木の文化・山の信仰」では、ウルシにとどまらず山の幸に対する津軽の農民の素朴で敬虔な信仰に通じる思いに、縄文から継承された日本人の生活の知恵と「森の民」のメンタリティに感銘することで、かつてお互いに疎外感を抱いていた(文字という検証手段を持たない)考古学者と文献史学者との共通項を木・山に見い出していく。
この考古学界の常識を覆した三内丸山遺跡は、従来考古学者に独占されてきたわれわれの先祖の営みを、我々の視点まで引き下げた効用と同時に、民俗学・遺伝学環境考古学・植物学・土壌学など、幅広い分野との間の学境を取り払ったという面で画期的なことと評価されねばならない。
縄文映画三部作は三内丸山遺跡のすばらしさを映像で紹介するが、特に「縄文うるしの世界」は、三内丸山だけでなく「縄文ウルシ」の見つかったいくつも遺跡出土品の紹介とともに、現在のウルシ作家の仕事を並行して紹介していくのだ。あらためて我らが先祖のすばらしさに敬意を表したい。
 
クスノキと日本人

 

知られざる古代巨樹信仰
2002年の”縄文塾講演と忘年の集い”に講師としてお呼びした佐藤洋一郎先生が、その際に熱く語られた「クスノキ」に関する先生の思いが一杯に詰まった1冊である。やや価格が高めだが、全ページ上質紙でクスノキに関わるカラー写真も豊富にあって、保存版として最適である。
かつては非常に身近であったクスノキが、最近減ってきたようでさみしい限りである。広島にも宮島の大鳥居だけでなく、神社を守って巨木が沢山あったものだ。この薫り高い木は腐りにくいだけでなく、燃えにくいという特徴もある。たとえば残念にも今は枯死してしまったのだが、白神神社にあったクスノキの巨木は原爆にも耐えて来たものだった。
本書にも紹介されている中国浙江省の港町(ニンポウ)に残る明朝時代からの図書館天一閣の書箱は、クスノキで作られているという。なにしろクスノキは樟脳(しょうのう)の原料だから虫食いの心配は無用である。実はその年、佐藤先生を団長に長江流域のコメ遺跡やこの天一閣を視察する予定であったが、塾長の体調不良で断念したという経緯がある。
この講演会で佐藤先生から、かつて縄文の民(の一部)が寧波付近からクスノキの丸木舟を駆って日本の地にやってきたのではというお話と、日本における「クスノキの道」という壮大なロマンに満ちたお話をお聞きした。そこで早速先生の話を下敷きにして、地図の上に寧波から(九州を横切って)瀬戸内海の大三島→(静岡県の)三島→伊豆に線を引いてみた。するとほぼ一直線の中に収まるではないか。まさに「クスノキの道」はあったのだ。
先生の研究では(検体数が少ないのだが)、同じ箇所ではクローンが、また同じ構成の木が離れた場黍で見つかっている。これなどいかに人がこの木に関わってきたかということと、その伝播の様子がほの見えるではないか。
クスノキは決して深山幽谷に生えるものでなく、人の近くに生えた樹木である。おそらく船の旅のランドマークとしての存在であったことがうかがわれる。同時にまた神社のご神木として貴ばれてきた。ところがその尊ぶべき木が多く伐り倒されてきた。先生はその昔争いが続発し、当方の尊ぶべき対象が、敵側にとっては逆に憎むべき対象となったのではないかという仮説を提示されている。その濃い内容共々、座右において度々ひもとき、眺めたい一冊でもある。
 
「魏志倭人伝」 邪馬台国の風俗など

 

邪馬台国の位置
倭人は帯方郡東南の大海の中の山島に国をつくっている。もともと100余国にわかれており、漢王朝に朝貢してきた。今は30カ国が使者をおくってくる。  帯方郡から倭国にいくには、朝鮮半島西岸沿いを船でいき、馬韓をへて、しばらく南にいき、しばらく東にいくと、倭国の北岸の狗邪韓国につく。その間、7000余里。はじめて海を横断し、1000余里で対馬国につく。そこの大官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。離れ小島で、面積は400余里四方ほど。うっそうとした森林におおわれ、しかも山はけわしい。南に海をわたって1000余里で一大国〔一支国(壱岐国)か〕につく。  また海をわたって1000余里で末盧国につく。陸路を東南に500里いくと伊都国につく。そこの大官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚という。1000余戸あって代々の王もいるが、女王国の属国である。帯方郡からの使者が往き来するときは、いつもここで駐留する。ここから東南100里で奴国、東に100里で不弥国につく。  船で南に20日いって投馬国につく。そこから南に船で10日、陸を1カ月ほどいくと邪馬壱〔台〕国につく。ここが女王が都をおいているところである。
倭の習俗と社会
男はみな入れ墨する。もぐって魚・貝をとるときに大魚や海獣の害をさけるためだったが、のちに飾りになった。この国は、会稽郡東冶県の東にあたるらしい。  男子は中国のように冠をつけず、みずらを結い、布をかぶっている。体には横長の布をまきつけている。女子は髪をたばねて、単衣の布の中央に穴をあけ、そこから頭をだして着ている。稲・麻を植え、カイコをやしない、絹糸をつむいでいる。ここには牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギがいない。矛(ほこ)・楯・木弓を武器とし、竹の矢は鉄か骨の鏃(やじり)である。  気候は温暖で、年中生野菜を食べ、裸足(はだし)で生活している。まるでおしろいのように、朱を体にぬっている。飲食には高坏(たかつき)をつかい、手づかみで食べる。棺はつくるが外箱はなく、地面にうめて上に塚をきずく。人が死ぬと10余日は喪に服して肉を食べず、喪主は号泣し、ほかの人は歌舞・飲酒する。埋葬がおわると家族みんなで水浴びにいく。倭人が中国などにわたるときは、持衰という男が髪もとかさずシラミもとらず、衣服もあらわず、肉を食べず、女も近づけないで、ひたすら謹慎している。もし航海がうまくいけば褒美をあたえられるが、一行が病気や損害をうければ殺された。  物事の初めや往来には、焼いた骨にはいったひびをみて吉凶を占う。  人はみな酒好きで、100歳や80〜90歳くらいまで長生きする人が多い。支配層はみな4〜5人、一般人でも2〜3人の妻をもつが、女子はみだらでなく、嫉妬(しっと)しないし、盗みなどもしないので訴えごとが少ない。
支配の実態
法をおかすと、軽ければ妻子が奴隷にされ、重い場合はその家族・一門が滅亡させられた。上下の身分差は厳然としてあるが、お互いに信頼している。税物を収納する建物がある。国々には市場が開かれ、物資の交換がなされ、大倭が不正のないよう監督している。  女王国の北の伊都国に一大率がいて諸国の監察にあたっているので、各国は彼をこわがっている。  支配層の者にあうと一般人は道をゆずって草むらにはいり、命令をつたえるときは一般人はひざまずいて両手をつき、承知したら「あい」という。
卑弥呼像
倭国はもともと男子を王として70〜80年ほど経過したが、国内がみだれ、連年抗争をくりかえした。そこで卑弥呼という女性をたてて王とした。卑弥呼は鬼道(呪術)に通じていて、よく民衆をみちびいた。年をとっても夫をもたず、弟が国政を補佐している。人前にたたず、1000人の女奴隷をはべらせている。ひとりの男だけが食事の給仕と伝言にあたり、卑弥呼の部屋に出入りしている。その王宮は物見の楼閣や柵などの防衛施設がととのい、武装兵士にまもられている。
魏との関係
238年(景初2、実際は景初3)6月、卑弥呼は大夫の難升米を帯方郡に派遣し、魏の天子(明帝)に謁見と朝貢を申しでてきた。帯方郡太守の劉夏は使者に難升米らを魏の都の洛陽まで案内させた。  その12月に、天子は卑弥呼に「親魏倭王卑弥呼に詔する。おまえははるばる大夫の難升米と都市牛利をつかわし、男女の生口(技術奴隷)と班布を献上してきた。おまえの忠孝をいとおしく思い、親魏倭王として紫綬のついた金印をあたえる。郡太守に付してとどけるからうけとりなさい。国内を安定させ、礼儀をととのえなさい。使者の2名もその労をねぎらい、それぞれに官職と青綬のついた銀印をさずける。返礼として赤地蛟竜文様の錦、縮みの粟粒(あわつぶ)文様の毛氈(もうせん)、深紅の布・紺青の布をあたえる。また特別に紺地の句文錦、細班華文様の毛氈、白絹、黄金8両、5尺の刀、銅鏡100枚、真珠、鉛丹(仙薬)をあたえる。帰国したら国中の者たちにみせ、中国がおまえをいつくしんでいることをよく知らせなさい」と詔した。  240年(正始元)郡太守の弓遵は使者をつかわし、少帝の詔書と印綬を倭国にとどけ、黄金と絹帛、刀、銅鏡、采物などをさずけた。倭王は上表文して感謝の言葉をのべた。  243年、倭王は伊声耆や掖邪狗ら8人の使者をおくって、生口、倭錦、赤青の絹、綿衣や短弓などを献上した。  245年、少帝は倭の難升米に帯方郡経由で黄色の中国軍旗をさずけた。  247年、郡太守の王?が政府にきていう。卑弥呼はもともと南にある狗奴国の男王の卑弥弓呼と仲がわるい。倭国は載斯烏越を帯方郡に派遣してその戦況を報告してきた、と。そこで中国は塞曹掾史(地方官)の張政を派遣し、少帝の詔書と中国軍旗を難升米にさずけ、狗奴国や動揺する倭の諸国に檄文をおくり、卑弥呼にしたがうよう告諭した。
卑弥呼の後継者
卑弥呼は死んだので、大きな高塚をきずいた。その直径は100余歩分ほど。いっしょに奴婢100人あまりが葬られた。そのあとに男子の王がたったが諸国は服従せず、抗争がつづいて1000人あまりの死者がでた。そこでまた卑弥呼の一族の女で13歳の壱与〔「台与:とよ」の誤りか〕を擁立して王とした。これによって、国内はやっとおさまった。  
 
卑弥呼の墓と邪馬台国論争

 

180年ごろ、倭国では「大乱」と呼ばれる激しい内乱が起きていた。戦火に包まれた小国約30カ国は、国家連合を作ることで戦争を終わらせようと考え、連合体の中心国で7万余戸(推定30万人)を超える人口を持つ、邪馬台国の卑弥呼を共通の女王とすることにした。
彼女は呪術にたけ、絶大なカリスマがあり、連合体は見事にまとまった。宮殿は厳重に警護され、卑弥呼には千人の侍女がつき、決して民衆の前に姿を見せることはなかった。
卑弥呼は神の妻として終生結婚せず、神意は弟によって実行された。
一方、中国大陸の後漢では184年の民衆蜂起“黄巾の乱”で支配体制が崩れ、「三国志」の英雄たちが活躍していた。207年に曹操(そうそう)が北部を統一、さらに全土を支配すべく15万の大軍で南下するが、翌208年に天才軍師・諸葛孔明を得た劉備(りゅうび)&孫権の5万の連合軍に“赤壁の戦”で策にはまり大敗北を期した。220年に曹操が病没すると子の曹丕(そうひ)が後漢を滅ぼし「魏」を建国。翌年に劉備が「蜀」を、翌々年に孫権が「呉」を建国し、大陸は3国に大分裂した。
やがて劉備と諸葛孔明が病没。蜀が弱体化し西方から脅威が消えたことで、魏は東の朝鮮半島へ戦力を向け始めた。238年、魏軍は半島北部に侵攻しソウル一帯まで支配下に治める。翌年、卑弥呼は素早く政治判断を下し、魏に使節を送って貢ぎ物を献上(朝貢)した。魏王朝2代皇帝の明帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号を授け、魏の支配下に入れた。明帝は卑弥呼の使者に金印、刀、銅鏡100枚(三角縁神獣鏡?)を与えた。
卑弥呼は243年に再び使節を送って朝貢を続けたが、その背景には邪馬台国の南方に位置する強敵・狗奴国(くなこく)との戦争があり、彼女は魏の支援を期待していたのだ。その結果、245年に魏軍を象徴する軍旗を与えられたが、さらなる支持を求めて247年に戦況を報告する為の使節を派遣した。これを受けて魏は特使をおくり、倭国の各小国が卑弥呼に協力をするように檄文を出した。
卑弥呼は魏の軍旗や詔(みことのり)で邪馬台国の権威を高めようとしたが、苦戦が続くなか同年他界した。
※邪馬台国の兵士は魏の旗を振って戦っていた(曹操が掲げた旗を卑弥呼の軍も掲げていたとは)。
卑弥呼の没後、男性が後継者となったが連合国はこれを認めず内乱が再発。卑弥呼一族の13歳の台与(とよ)を新女王に選ぶことで平和を取り戻した。「魏」は卑弥呼の死の18年後(265年)、「晋」に滅ぼされた。281年、台与は晋にも朝貢したが、その後413年まで倭国は中国の文献に1世紀以上登場しない。
邪馬台国はどこにあったのか?
「魏志倭人伝」に記された邪馬台国に至る方位&距離をそのまま信じると、九州よりもっと南の海上になってしまう。これが原因で、江戸中期に新井白石が最初に苦悩し始め、本居宣長から現代まで、畿内説と九州説の議論がずっと続いている。1世紀前半の中国・新王朝の貨泉(かせん)と呼ばれる貨幣が畿内と北九州から多く発掘されており、双方に文化圏があったのは確実だ。近年も各地で遺跡の発掘が続いており、新たな学説も含めて推理していきたい。
畿内説
・656年に唐で書かれた「隋書」には「倭国の都は邪靡堆(やまと)にあり、これは魏書に記された邪馬台なり」とある。当時の外交官は遣隋使・遣唐使で大和朝廷を訪れており、“大和”=“邪馬台”というのが大陸側の基本認識。
・「銅鏡100枚」が魏から贈られたとする記述を裏付けるかのように、畿内から「三角縁神獣鏡」が大量に見つかっている。銅鏡が畿内から全国に分けられ、権力の中心が畿内にあったは確実。
・「南へ水上を10日、陸を1ヶ月」と記載されているが、「陸を1ヶ月」というのは古代の不便さを考慮しても九州だけでは長すぎる。
・卑弥呼の墓は大型古墳と記されており、初期の前方後円墳は畿内に集中している。
・畿内だと同じ場所に大和政権が成立したことを容易に説明可能。
・「三角縁神獣鏡は中国から1枚も出土例がなく魏から贈られたと思えない」という否定意見に対しては、(1)倭国の為に限定生産されたもの(2)ハイレベルな鋳造技術の銅鏡は国内で生産不可能(3)仮に否定派が指摘するように国内産とした場合、あれほど精巧な銅鏡を大量に生産できるだけ畿内の文明が発展していたことになり、やっぱり近畿が邪馬台国。いずれにせよ、畿内には鏡を製造or大量の鏡を集める財力を持つ力があり、倭国の中心が近畿にあったことの実証に他ならない。
・否定派は「中国の元号・景初は3年までしかないが、三角縁神獣鏡の中に景初4年という、存在しない元号があるから国産だ」とするが、これは改元を知らない職人が朝鮮で作ったか、来日して鋳造した為に改元を知らなかったものと思われる。
・奈良のホケノ山古墳の発掘調査で大和政権の発生が100年も早い可能性がでてきた。邪馬台国と同時代に大和政権が発生していたことになり時代があう。同古墳には大和地方以外からの土器が多数含まれており、各地域を結ぶ巨大勢力であったことが伺える。
・2世紀半ば、ニギハヤヒや神武といった北九州勢の東征で畿内の銅鐸文化が滅ぼされ、鏡・剣・玉を崇拝する文化が畿内に広まった。“倭国大乱”とは神武の後継勢力の争乱であり、そこから卑弥呼が登場したのではないか。
・1997年に大和政権誕生の地、奈良・黒塚古墳から33面の銅鏡が出土。同古墳は3世紀
後半〜4世紀前半のもので、初期大和政権と時代がピッタリ。同型の兄弟鏡が近畿を中心に九州から関東まで15府県に分布しており、大和政権が誕生時から絶大な権力を持っていたのは邪馬台国の延長だからだ。
・「ヤマタイコク」と「ヤマトコク」でふつうに名前がそっくり。
九州説
・「魏志倭人伝」の方角にあるのは福岡県山門郡。山門=ヤマトだ。距離が文献と異なるが、それは換算方法でどうにでもなる。大事なのは方角。命がけで外洋を越える海の男たちが方向を間違えるはずはない。
・上記の山門郡瀬高町南部(現・みやま市瀬高町)の大神(おおが)では、卑弥呼の時代より400年も前から弥生人が多く住み、稲作を始め、山間部には鉄を生産するタタラがあった。同地が発展して邪馬台国になった。地域の女山はかつて「女王山」と呼ばれていたという。また、付近には豪族・
物部一族の祖先を祀った神社がある。後年、大和朝廷の軍事部門につく“あの”物部氏だ。
・「日本書記」神功記には“山門県”の文字があり、古来からこの土地名は存在していたことが分かる。
・北九州で発掘されている3世紀の鉄器・青銅器は畿内よりはるかに多く、文化の中心地は九州だ。
・古文書には「女王国の東、海を渡りて千余里、また国あり、みな倭種」とある。九州なら東に海があり、しかも渡った場所に四国・本州があって文献通りだ。
・畿内派は近畿で多く出土する「三角縁神獣鏡」を卑弥呼が魏から授かったものとするが、この鏡は中国から一枚も出ておらず国産ではないか。「三角縁神獣鏡」の中には実在しない年号が刻まれているものがあり(改元が未反映)、このあたりも怪しい。卑弥呼の鏡は100枚の筈なのに「三角縁神獣鏡」は約500枚も見つかっている。見つかりすぎだ。
・卑弥呼が魏からもらった鏡は「三角縁神獣鏡」ではなく「後漢式鏡」ではないか。「後漢式鏡」なら北九州でも多く発見されている。
・佐賀県吉野ヶ里遺跡は長期間にわたって繁栄した集落であり、末期が邪馬台国の時代と重なる。遺跡からは矢じりの傷がある人骨や首のないものがあり、激しい戦乱の様子を伝えている。邪馬台国の都の特徴である「物見やぐら」や「城柵」の跡も発見されている。
・卑弥呼の他界と同時期の247年と248年に、2年連続で皆既日食が北九州で発生している。このことから、卑弥呼=アマテラスとする説もある。一度隠れて(死んで)、再び出てきたこと(新女王・台与の就任)が伝説化したという。
箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓!…と思う。そう思いたい。
奈良県桜井市にある日本最古の大型前方後円墳・箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われている。墳長約280m、後円部径約150m、高さ約30m、前方部幅約130m、高さ約15m。前方部4段、後円部5段からなる。古墳の多い奈良でもトップ3に入る大きさで、一帯は国内で最も古い古墳群だ。
・「魏志倭人伝」には「卑弥呼の墓は大きな塚で、直径が百余歩、奴婢(ぬひ、奴隷)100余人が殉葬された」とある。魏の時代の一尺は約24cmで、一歩が六尺。すると一歩は約1.45mとなり、百余歩は約150m前後。これは箸墓古墳の後円部径約150mとピッタリ一致している!
・卑弥呼の死は247年頃と伝えられている。箸墓古墳が造成されたのは墳頂から出土した土器の形式から260年頃と推定され、卑弥呼が亡くなってから工事期間10余年で完成したと考えると時期的にドンピシャ!
・宮内庁は被葬者を第10代・祟神天皇の時代に三輪山の神に仕えた巫女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)としている。箸墓古墳の体積は30万立方メートルで建設に動員されたのは述べ135万人。天皇ではなく一人の巫女の為にこれだけの人間が動くのは卑弥呼以外にありえない。「日本書紀」はこの墓について「昼は人が造り、夜は神が造った」と特記しており、「人々は近隣の山の石を手から手に渡して運び、山から墓に至るまで、人々は絶えることなく続いた」と築造の情景まで記している。墳丘の斜面から古墳の外装用に敷き詰められた葺石(ふきいし)が見つかっており、これを人々がリレー式で運んだ様子が伺える。また「壬申の乱」では、天武天皇が箸墓のそばで戦ったとされており、この墓が古くから特別視されていたのが分かる。
・「日本書紀」では祟神天皇が巫女である倭迹迹日百襲姫命の教えを聞いて政事を行なっている。邪馬台国でも卑弥呼の神意を聞いて弟が政事を行なっている点で共通している。
・付近から大量の「卑弥呼の鏡」が出土しており邪馬台国はここにあったか、もしくは、当初北九州にあった邪馬台国の本拠地が、卑弥呼の時代までにこの地へ移ってきたと見られる。また、3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いたことは、この地が初期大和政権の首都であったことに他ならない。卑弥呼がいたから、ここが首都になったのだ。
・初期古墳群の全長は平均約100m。しかし箸墓は300mに迫る規模でケタ違いの巨大さ。埴輪の原型となる吉備系土器が出土したり、古墳の周囲を堀で囲むなど、従来の墳墓とは完全に一線を画している。前方後円墳として様式が完成された第1号の古墳でもあり、以後の大規模前方後円墳のモデルとなっており、箸墓古墳の完成をもって古墳時代の幕開けと見る説が多い。この墓が卑弥呼でなくて誰の墓というのか。
古代の謎を解明する為、全ての天皇陵を公開して欲しい!
畿内説、九州説の決着は、「親魏倭王金印」が一方の地から見つかるか、もしくは「これが卑弥呼の墓」という決定的証拠が出てくるまでつかないだろう。ただし金印は「漢委奴国王金印」だと2cm強しかなく、簡単に持ち運べて場所の説得力に欠ける。となれば、やはり墓だ。
だがしかし!卑弥呼の墓の最有力候補の箸墓古墳は宮内庁が陵墓(天皇陵)に指定し、発掘調査ができない!仕方がないので、考古学者は箸墓近辺の民家が建て替え工事をする時に発掘調査させてもらっている。つまり、あくまでも外側の調査であり、内部構造や副葬品は一切不明なのだ。2001年には箸墓古墳の周囲から国内最古の馬具が見つかった。4世紀初頭の鐙(あぶみ、足入れ)で定説を一世紀もさかのぼる物だった。こんなケースは、本格調査が実現すれば幾らでも出てくるだろう。
戦後の考古学界で最大の発見となった高松塚古墳壁画のように、「発見、即国宝」といったような文化遺産が全国の古墳にある可能性は、考古学者の誰もが分かっている。しかし政治的な問題があるので、「いつの日か詳細な調査が実施される日を待つしかない」と諦めている。宮内庁よ、このまま人類が絶滅するまで未調査のままにするつもりなのか。
今は主権在民の世であり、僕らは小学校から人間は平等だと教わっている。それは死者についても同じだ。天皇&皇后の墓だけを特別に「陵」という言葉で区別する必要はない。現行法で規定された「陵」は全国に188ヶ所あり、皇子・皇女を葬った「墓(ぼ)」なると552ヶ所にも達し、陵墓の可能性がある「陵墓参考地」を合わせると、宮内庁の管轄下にある国有地は最低でも896墓にもなる。
宮内庁は「ご子孫が現におられて、ご先祖を祀られているから文化財ではない」と主張して天皇陵を文化財と認めないが、これは詭弁だ。なぜなら、戦国期の将軍や大名の墓は被葬者が分かり、子孫が墓参をしていても文化財に認定されているからだ。
明治政府は近代天皇制国家を目指して、学説が分かれる墓所をロクに調査せず、考古学の科学的な検証も殆ど行なわず、何でもかんでも「陵」に決めていった。この流れは昭和の軍国政府になってさらに加速し、天皇制強化の道具として、政府は名前しか分かってないような皇子・皇女たちのものまで次々と聖域に指定していった。しかも、戦争が終わっても「天皇陵」の再検討は行なわれず、戦前に指定されたものが丸々“国有財産”とされ、宮内庁書陵部陵墓課が今日まで管理している。だが、“国有財産”であれば、公開決定権は宮内庁ではなく国民各自にあるのではないか。
また、明治政府の場合は学者から「墓ではない」という明確な資料を出されると、すぐさま指定から外す英断を下していたが、今の宮内庁は超がつくほど保守的で、継体天皇陵のように学者がどんなに間違いを実証しても陵墓指定の誤りに耳を貸さないばかりか、逆に「指定が誤っていても、長年祀ってきたのでもう御霊は宿っている」と開き直る始末。
死者の尊厳や、祖先を大切にする気持は、もちろん大切に守るべきだ。しかし、別人の墓を間違ったまま信じ続けるのは、被葬者に対しても冒涜ではないのか。
※出雲のスサノオは出雲平野の斐伊(ひい)川上流に住むオロチ族(鉄文化を持っていた)を倒し、鉄を手に入れ(草薙の剣ゲット)次に九州を平定して卑弥呼と結婚した。神武天皇は孫。--こんな異説もある。
※中国では前王朝の歴史を、後に続く王朝が公文書にまとめる義務があり、曹操親子が建国した魏王朝については、後の晋王朝が史書「三国志」の中に「魏書」30巻として記録した。このうち日本に関する部分が「魏志倭人伝」と呼ばれる。成立が280年頃と卑弥呼の死から30年しか経っていないこともあり、この約2000字の文章が古代日本を知る貴重な手掛りとなっている。(日本最古の歴史書「古事記」は712年成立)
※中国の「後漢書」には、57年に倭の奴国の使者に金印を与えたという記録が残っている。この「漢委奴国王」と刻まれた金印は江戸中期に甚兵衛と農民が偶然用水路で発見し国宝になっている。卑弥呼が受け取った金印もこの国のどこかにあるはずだが、まだ発見されてない。  
 
磐船の神

 

植物よりも人間に身近な動物は、いつの時代も無数の変身、化身、神の試練の媒体となった。動物は、恐れられるにしても、愛されるにしても、ほとんどすべてが、様々な資格で聖化された。「動物は人間の本能と情念の生きたシンボルである。」どの人間にも、一匹の動物が眠っているとすれば、それは人が、どの動物にもなにか人間的なものと超人間的なものを認めているからである。
動物ANIMAL(ANIMUS「霊魂」)には、生命、本能、理性が付与されている。それは隠された真理の保持者であり、我々が考える世界を分け合う三界、つまり冥界、人間界、神界、の媒介者である。
動物は様々な度合において、我々の神=悪魔的宿命の表象である。この二元的宿命は、人間の条件の往復運動を雄弁に物語っている。「動物シンボル事典」クレベール著より
植物をはじめ様々生命は大地から育つので、大地を万物の母体とみなす考えは洋の東西を問わず一般化された概念である。そしてこの自然界と人との中間媒体とも言える位置に動物が存在している。南日(なんにち)義(ぎ)妙(みょう)によると、八幡宮の鳩、伊勢神宮の鶏、日吉神社の猿、気比神社の白鷺(しらさぎ)、春日神社・鹿島神社・厳島神社の鹿、熊野神社の霊(れい)烏(う)、熱田神社の鷺、二荒山神社のハチ、愛宕神社の猪、出雲大社・大神(おおみわ)神社の蛇、諏訪神社の烏と狐、気(け)多(た)神社のきじ、松尾神社の亀、三島神社の兎、天満宮の牛、祇園神社・住吉神社の烏、香椎神社のカササギなどがある。
酷似する世界神話*古事記のイザナミとイザナギはギリシャ神話オルフェウス物語とよく似ている日本へはギリシャ・ローマと接点の強かった朝鮮半島の新羅と言われている。
6〜7世紀頃の東アジアは高句麗・百済・新羅の他に西暦562年滅亡した伽耶国があった。朝鮮半島南部に位置し“倭人”が住んでいたとされている、つまり倭人の国“倭国“であり天皇家の先祖の可能性が高い。
また大陸から南下する騎馬民族に圧され、弓(ゆみ)月(づきの)君(きみ)に引きつられ秦氏が、新羅・伽耶から日本へ大量移民して来たのもこの頃である。
ちなみに“倭”の字の意義は、中国人が日本人を呼んだ卑字である。委は「萎」「矮」に通じ萎える、とか矮小の意味である。後生、日本人が「倭」から「和」とか「日本」とゆう自称に切り替えた理由も、ここにある。八世紀以降、中国や朝鮮でも「倭」を「日本」と呼び換えるようになったが、日本人を罵る場合に「倭寇」「倭兵」「倭奴」と言う蔑称を用いる。
秦氏は、巨丹(新疆ウイグル自地区ホータン)の生まれであると言われる弓月君が引き連れて三世紀に日本に渡来した氏族集団であり二一四年(応神十四)二一六年(応神十六)に渡来の記録が残されている。秦氏のルーツについては朝鮮の海を表す「ハタ・ハダ」が語源である。ただ此頃の日本列島は国としては未完成で秦氏の様な特殊技能を持った、人々は「帰化人」と言うより「渡来人」と呼ぶべきであると思われる。
後に渡来人達は、大和朝廷からしかるべき地位を与えられ、それぞれの技能に応じた職業集団を作った。たとえば秦の始皇帝の子孫を自称する渡来人の秦氏は、秦の国の種族であると言う説、大秦(たいしん)(ローマ)から伝来した景教徒(キリスト教のネストリウス派)に関係していると云う説をもちながらいろいろな技術を持ち秦(はた)氏(し)を名乗り、また漢の劉邦の子孫を自称する集団は漢(あや)氏(うじ)と名乗った。ハタとかアヤという訓(よ)みは、彼らが機織や綾錦の新技術を持ってきたことに由来する。ちなみに人名の服部をハットリとよむのは、古代のハタオリベ(機織部)の転訛が語源となっている。
少し朝鮮方面へ目を向けて見ると、五世紀末から六世紀末にかけて伽耶諸国は、新羅と百済の手によって分割される形で滅んでいくことになる。文化の入り口であった伽耶国が滅ぶことは往来さえも困難になり日本と朝鮮の文化が次第に異なるものになっていく。
百済が四七五年に熊津へ遷都したあと伽耶方面へ圧力を強めたため、日本の伽耶国への影響力は大きく後退した。五世紀末にも秦氏と東漢(やまとのあや)氏の二個の有力な移住者の集団が日本に渡来している。秦氏は金官伽耶国、東漢氏は伽耶諸国の一つ安羅(あら)国(こく)の有力者であったが彼らは百済の圧力を受け本拠地を捨てなければならなくなった。この両氏は日本文化に大いに寄与し、後に蘇我政権のささえてとなっていく。
話を元へ戻すと朝鮮半島の三国のうち、百済・高句麗は地理的にも中国の影響が濃厚であったが新羅は中国の影響が皆無に近かったので独特の文化が発達している。朝鮮半島の古墳からローマングラス他の豪華なローマ設計エジプト製作の調度品が出土するのは新羅のみであり、前述の秦氏の渡来経緯からしてもシルクロード経由で持ち込まれたローマ文化およびシルクロードの文化が日本へ持ち込まれても不思議ではない、広隆寺の絨毯もシルクロードのソグド人の製作であるし、神話的な物語が基本的にギリシャ神話と日本神話に共通性があるのも納得のいく話だ。
話は横道へそれるがシルクロードと言えば絹の道、交易を代表する命の道でもある。我が土佐においても命の道がある、それは塩の道とよばれる、いわゆる塩が運ばれた道だが一般の物資も運ばれた生活の道でもあった。
やがて地域の幹線道路となって地域の地形や社会の環境に強く係わっていくことになる。
日本においてそれら物資は川を遡り陸路をつたい運ばれることになる、わが国では地形環境の影響を受け太平洋側と日本海側の二つに分けることが出来る、また四国も太平洋側と瀬戸内側とに分けることになる。主として幹線路は海岸に沿う縦貫路に置かれるが、山脈を越え山を縫う横断路も重要な機能を持つことになる。
それは物資のみならず言語・習慣・文化に影響をあたえ融合しながら、それぞれの地域で独特の文化を形成する担い手となっていく、さて移送の方法は担夫(たんぷ)・牛・馬・川舟などで行われていた。製造の風景は塩浜村において早朝からトンカンという浜(塩田)道具を修理する鍛冶屋の音から始まる、威勢のよい槌の響き、夜なべに曲げ物の修理や、みがき輪(曲げ物の竹輪)つけをする桶屋、昼下がりには女子(おなご)衆(し)が、巻(まき)袖(そ)の袖口を巻き上げるように狭く仕立て、やっとお尻が隠れるぐらいの丈の短い絣(かすり)の上張(うわっぱり)を着て腰から膝までは腰巻で覆い、さらに前掛けを下げ手足には手甲と脚絆をつけたいでたちで折笠を小脇に抱えて浜へ急ぐ姿。上荷差(うわにさし)(上荷船の船頭)が塩の大俵を軽々と担ぎ上げ、舟渡しのあゆみ板の上を調子つけて運び入れている・そんな風景が浜の一日である。浜は幾筋もの溝で仕切られ数え切れない程の台(沼井)が整然と並び、浜の片隅には、次の仕事を待つ馬鍬(まぐわ)や柄振(えぶり)などのの小道具が整然と置かれている。浜男達は浜の地盤へ一三〇センチあまりある長柄の塩懸け杓で、手際よく海水を散布したり、先が幅広な寄せ柄振りで美しい縞模様を描きながら、かん砂(塩分の付着した砂)をかき集めたりする浜仕事、薄暗い釜屋の石釜でかん水が蒸気を充満させ恐ろしい程に泡を立てて煮えたぎらせている、そんな風景なのである。
天正から慶長の年代四〇〇年程前には、今の香我美町岸本から吉川村にかけての海岸は一大製塩地であって、その塩田数は一八〇から二〇〇とも云われている、赤岡には塩市開かれこの塩を大忍庄の奥、別府峡辺りまで運んでいたのである、其れが各地域の産業と結びつき相互往来の往還道となり、七浦還道や日浦還道の名を残している、また現在も地名として残っている「塩」「シオタキ」「塩が峰」等の地名も塩と関係していると言われている。
当時の最大運搬機関として馬が使用され安全を祈願する馬頭観音が塩の道に沿って祭られている(七ヶ所)また大栃より奥に、別府の四ツ足峠、久保の韮生越え、笹アリラン峠の祖谷越えと三つの往還が四国山脈を越え命を守ったことから馬頭観音がまだあると思われる。今も残る史跡は馬頭観音・店屋跡・源太物語の源太坂・丁石・大比の大釜・天水田跡・見渡し地蔵他・木橋・休場坂・庄谷相地蔵堂・吉野御大師様・お大師岩・等がある。
塩の製造は浜役夫達が行うが、その組織は頭・補佐役の下奉公・日雇(ひよう)(塩田労役夫)・釜焚(釜の築造や煎ごう役)目代り(夜釜焚)浜子(婦人老幼者)先引となり、それぞれの業務が明確に分かれていた。
この作業が入浜式であり、後に流下式に変わっていくことになる。さて販売方法だが海運で販売されるのを「沖売塩」陸上移送の販売を「岡売塩」という、特に内陸の移送は古い時代は山道や尾根道の高所を通ったため人牛・馬の背に頼らざるを得なかった。
馬は古い時代から軍事のほかに「伝馬(でんま)」「駅(えき)馬(ま)」として宿場間の「継(つぎ)馬(うま)」「附(つけ)馬(うま)」の短距離移送にもよく使われた。また塩にも品質面で「真塩(ましお)」「差塩(さしじお)」があり真塩は結晶塩を塩取籠に入れ苦汁分を滴下させた精製塩のこと、差塩は煎ゴウし結晶塩になる前の塩に苦汁分を加えてカンドを強くして漬物用や魚の塩蔵ようにする、この二つに品質が分かれていた。
さて土佐の塩の道はどうだったのだろう、四国は屏風の様に横に連なる山々が背梁をなして瀬戸内と太平洋を結ぶ嶺線越えの交通障害になっていた、しかし平家落人伝説や宇多天皇の女御を母とする津部経高ゆかりの梼原など山深き村落が点在する。
これら山里の人々は、焼畑の耕作や山仕事で生計を立てたが、自給の出来ない必需品は他藩領であろうと買いに行き、また在町の商人も荷物を担いで振り売りにきたのである。
この商人達は一(いっ)荷(か)商人と呼ばれ親しまれた、彼らこそ山道を開き瀬戸内と太平洋を結ぶ流通の立役者なのである。
土佐の場合製塩法が瀬戸内の大規模な入浜式と違い小規模な揚浜式塩田が点在したにすぎなかった、しかしそれでも多くの努力が払われ赤岡二十一浜・前之浜十四浜・岸本十二浜・安喜浜十浜・唐ノ浜十七浜・羽根十五浜などの塩浜村がある、塩の取引地は赤岡・前之浜・宇佐・久礼・土佐中村があり輸送手段は川舟が四万十川のみ、人の背が久礼から梼原へ後は馬の背輸送がほとんどである。
赤岡からは三ルートあり本山一ノ瀬・根曳土佐岩原・香我美大栃の各ルートがあった。
塩の道の話が長くなってしまったが、もう少し“道”に関して記述しておかなければならない。
『田結の道』の著者・村上誠氏によれば田結の道は、二脚の道・物の移動を最大の目的とした生活道としての古代道であり『延喜式』の駅制道とは異なる。駅制道は兵部省諸国駅伝馬条によると、大宝律令(702)を画期として本格的に全国設置の段階に入り、八世紀を通して体制が完成された情報の道である。
全国を五畿七道に分け重要性に応じて大路・中路・小路の三等級に分ける、大路は畿内と九州・大宰府の山陽道、中路は東海道と東山道、小路は南海道・西海道・山陰道・北陸道としている、そして駅家に置かれた駅馬は大路二十疋、中路十疋、小路五疋を原則に郡ごとに伝馬五疋が置かれた。駅馬は緊急を要する公用の報告・通達に使われ、伝馬は国司の赴任、公使の往来など定期的儀礼的な公用の旅に利用された。このことから、物の移動を目的とした古代道『田結の道』から平野部つまり稲の普及により開発された馬の道はまさに情報を運ぶ道へと一大転換したのだ。しかし、この情報の道は律令制を推進するがゆえに厳しい規則に制約されての旅人にとって極めて迷惑な道だったに違いない、『続日本紀』(712)には食料持参の担架義務が軽減され、軽装の旅が可能になった。同時に貨幣経済の効用を実践させ、その普及に努めた、とあり貨幣は日本の最初の貨幣・和同開珎(708)を通貨とした。貨幣経済の効用を新しい道に求めた先人達の知恵には敬嘆する。
だが旧来の道に比べ河川の多いこの道は渡船料や宿賃などの経済的負担、更には風水害による長期足止めなど、時間とむだ金の必要な道でもあった。
現代において橋の利用は自由に方向を選ぶことが出来る手段の一つだが、古代において一本の川によって対岸が阻隔されることは、しばしばあったことなのだ『田結の道』が平野や海岸線を避け内陸部に道を求めた理由はそこにある、幹線道を分水界付近に貫き河川の両界に支路を伸ばせば大河の渡河は回避される、土佐においても古代の道は尾根づたいに形成されることが多く急峻な河川の流れ、橋も舟も無かった時代、道行は川幅の狭い分水界を辿った。
古代の人々にとって、河口部の湿原は邪魔者で風水害の危険がある平野部は住みやすい場所ではなかった。稲作の普及により生業の手段として平野部に移住はするが、それでもなお湿原・平野は種々の制限があった。そのてん山は知恵と努力によって居住し易く出来たし旅舎としての岩屋も多く、高地では視界も広く天候や方位の把握にも都合がよかった。
このように日本全国に広がる田結の道は、塩の道とも附合しながら各地域を網羅していく、南海道田結の道は別に述べることとし、話は渡来人・秦氏を考察する。
秦氏の大移住については「日本書紀」の巻十で「弓月君が百済からやって来た。奏上して『私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています』といった。そこで葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、弓月の民を加羅国に呼ばれた。しかし三年たっても襲津彦は帰ってこなかった」一県を一千人として総計十二万人を三年かけて渡航し、はじめは九州北部に後は全国に広がって行った。
さきにも述べたように秦氏は様々な技術をもたらしている九州・近畿の銅山から新羅系統の青銅技術を養蚕と絹織物の生産技術、芸術、算術、建築などが知られている。
また秦氏が渡来した頃から日本の古墳が巨大化しており、十六代仁徳天皇陵は世界最大の墳墓である、ただしこの大山(だいせん)古墳は近年の研究から被葬者不明となった。これは埴輪や須恵器の形式から推定した年代と「古事記」「日本書紀」が伝える歴代天皇の順番が合わないからである。ともあれ秦氏の先祖がシルクロードを移動しながら万里の長城や巨大建造物の建設をしていたとするなら建築・土木技術は極めて高度なものであったはずだ。
全国に散らばった秦氏の集団の中で、京都の葛野(かどの)、今の嵯峨野に拠点を置いた秦氏は京都の荒地開墾による、今に残る京野菜つくりに成功したのみに留まらず信仰面でも多いにその功績を残す。全国の神社数十万社のうち、秦氏の神を祀る神社は八幡系四万社、稲荷系四万社、松尾、出石(いずし)等を加えて九万社つまり日本の神社とその信仰は大多数を秦氏が作ったのであり、特に京都の松尾大社は秦氏の氏神である。また彼らは多くの官人も輩出してはいるが、それよりも京都太秦を中心に農耕・機織での実力豪族であり商売人、専門家などのプロの集団であったのだ。
商売の面から彼らは先にあげた稲荷をブランドイメージとし発展させていくが、呪術的な性質をもつ東寺の真言密教が加わり一体化することで飛躍的に成長し稲荷と伴に庶民文化に浸透していった。時代は遡るが聖徳太子時代の秦河勝は秦氏のカリスマだが六〇三年聖徳太子が仏像を得、それを河勝が奉斎した。
これが今日の広隆寺である。この時期、秦氏は蘇我氏に従属しており外来系使節の翻訳仲介者や外国への使節として頻繁に働いている、稲荷山で荷田氏が信仰を握っていた時代は、農耕の神であったが秦氏が実権を握ってからは能動的な神に大変身するのである。
秦氏の関連の姓は秦・畠・畑・端・波多・波田・羽田・八田・半田・矢田・原・畠山・畠川・波多野・畑中・服部・林・田村・依智高橋など多数ある。
稲荷神社を考える上で三つ組の構造がある上社・中社・下社これは稲荷に限らず『古事記』にもある造化三神、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神、そのほか華道の室町時代に育った東山文化で立華という型で天地人にたとえる法則的な理念、仏教の三界、欲界・色界・無色界、三種の神器としての鏡・剣・玉、道教では天帝・地祇・水神の「三官」。
日本において「三度」は重大な行動原則を規定する想念である、三度目の正直・二度あることは三度ある・「三度」は強力なる呪力を発揮する。また中国の司馬遷も『数は一に始まり、十に終わり、三を乗除して成る』儒教、道教、仏教、神道、キリスト教、イスラム教の3は広大な広がりを見せる人間や生き物すべてを支配する根底的な原理なのだ。
数字3は創造の法則をあらわす能動(+)受動(−)中和(0)に分類でき、天地人に匹敵、「陰」「陽」「中和」とし、体では頭腰胸に相当する。よって天地人の組み合わせ=創造の三つ組みは単独で機能する訳でなく実際には等級的な連鎖構造を持っていることを考えると判りやすい。生産や創造というのは、能動・受動・結果という三つのプロセスで進行するロジックで考えるのが古来の思想の根底にある。この連鎖が稲荷の基本構造になっているが、不思議なことにユダヤの神秘思想カバラでは、この古来思想を「ヤコブの梯子」「ゴールデン・スレッド」と呼ぶ、秦氏と共にやって来た稲荷思想の根底にはシルクロードを通して世界の思想と共通する考え方を持っている。
豊穣なる神を祀る、またそうなって頂く為に穀物の育成も人間の生殖行為も同一と考えられていた、男女の結合のイメージが多用される。柳田国男の『巫女考』では稲荷に限らず神社の巫女は娼も兼ねていたとしている。
子供を生むという生殖行為は異なる意味での魔術的・呪術的・儀式的と言える性が活用されていた。その面で神社にはアイドル化された巫女が数多くおり、神社と芸能は結合していく。美形の巫女のことを「顔よき女体」と言うが稲荷山の人気巫女、阿小町(阿古町)は猿楽を舞う巫女で、その愛法があまりにも素晴らしく、それをまねた猿楽芝居もできた。
この阿小町は個人名でなく稲荷山の巫女の総称であり、神降ろしの遊女だったのだ。京都では古くから芸能が盛んで平安時代から室町時代にかけて、神社で猿楽が行われていた。
散楽(さんがく)・申楽とも書き物真似を中心とした滑稽芸から派生した猿の文字をあてたと言われるが世阿弥は伝書で猿楽は本来、神楽だから神の字の旁(つくり)を用いて申楽とするのが正しいとしている。内容はかなり露骨で性器を露出して叩いたり模造の男性器を挿入したりと激しかったようである。しかしそれは演じている巫女に狐が憑き神がかり状態になることを示す。
稲荷神社の始祖の秦氏は大和猿楽の始祖でもあり秦姓を名乗る散楽戸で、猿舞も秦氏のものだったと云われる。奈良時代に中国大陸から散楽が移入されてきた頃の散楽は軽業や手品、物真似、曲芸などの芸能の総称でもあった。朝廷は散楽師の養成機関「散楽戸」を設けたが七八二年桓武天皇の代に廃止、散楽師たちは自由に寺社や街角で芸を披露する様になり他の芸能と融合して独自な芸能へと発展していくことになる。
この秦氏が持ち込んだ散楽は、元を娼と巫女が一体化した古代バビロニアのイシュタルの巫女とかアポロンの巫女がいる、また古代ローマのビエスタの乙女、彼女達は純潔性を示すも天の力を受け取るためのものであり、阿小町と同様に儀式的性行為をし想像の中で神々と交わったと云われる、この共通性もシルクロードが大きな鍵を握る。
次に稲荷のシンボルでもある狐!何故に狐なのか仏教系の稲荷である愛知県の豊川稲荷や岡山県の最上稲荷は、その大規模拠点であるが豊川稲荷は妙厳寺で千手観音を守護する為に茶き尼真天が祀られている。このダキニはヒンズー教ではシバ神の妃カーリーの仲間の女鬼の一人で人の心臓を食うと言われている、後に仏陀に帰依することで、人間の煩悩を食い尽くす善神となり大黒天の眷属に収まった。ダキニはもともと狐と関係なかったが、密教にダキニ呪法というものがあり狐憑きの俗信とともに広がっていった。
狐は稲の豊作に関係する動物であり、大地母神との結びつきが深いが、そもそもヒンズーのダキニは人間くさい性愛や呪術などに関係していてインドの歴史の中でも大地母神から遊離してきた女神である。それゆえダキニと狐は仏教的に習合しながら一四世紀初期に結びつき稲荷=ダキニ天=狐の形を取って顕示し今の稲荷神社となった。
またダキニはインドにおいてジャッカルがモデルとされる、それはダキニの心臓喰いは宗教的・哲学的に説明されるべきものであるがここでは物理的な移動によって様変わりしていくエジプトのアヌビス・インドのダキニ・日本の狐を見てみたいと思う。
服部英二氏は日本とエジプト文明の多くの共通点を指摘、日本では穀霊は稲(いな)霊(だま)とし天皇は大嘗祭に稲霊の祖霊を受け継ぐことにより皇位を継承する。太陽神ホルスは母イシスの穀霊による懐胎が神々に認められたことにより王位を継承、日本神話では太陽神アマテラスは明らかに田を作る神、弟のスサノウは暴風の荒神とし、エジプト神話ではオリシス・セト・イシス・ネプチュスは兄弟姉妹にして二組の夫婦、オリシスが穀霊ならセトは暴風(ギリシャではチュポンtyphon=台風のこと)セトによる嵐のあとイシスの治癒力により緑が甦り母なるナイルと共にあるのがネプチュスの物語である。
服部はエジプトと日本の思想・文化の共通点として、神々の集合、太陽崇拝、共通の親王観、王しか入れない至聖所、水に対する神聖視、兄妹婚、創世神話に水が出てくること、隠り身の神、アニミズム、彼岸思想、三途の川の光景の類似、自然に逆らわない文明、神の両義性、循環型の文明、真善美の一体化などをあげている。まさに西アジアの端にあるエジプトの文明が東アジアの端にある日本にどうやって伝わって来たのだろう?シルクロードの起源は海の交易に関しては紀元前二〇〇〇年以上に遡る、また陸の交易はエジプトから北に延びる「ラピスラズリの道」絹製品の交易から前三〇〇~五〇〇年には中国への道があったことを示す。
シルクロードはユーラシア全域を東西に結んだ交易ネットワークであり文化の対話の道でもあったが十六世紀にヨーロッパの国々が進入することによりこの道が分断されることになり、これによりシルクロードはその機能を失うことになる、国家意識が強まった段階で国を越えた協力体制は破壊され表の文化から消えていった。十六世紀以前、ギリシャが東洋に結びつき東洋の工芸はヨーロッパ・アフリカに伝わり、ギリシャ神話の神々のいくつかは仏教の種々の仏になり、ヘラクレスは金剛神になった。中国の絹・紙・陶器は西伝しペルシャの工芸品・銀製品・ガラス器・インドの絵画・音楽・暦法・医学・音韻・仏教イランのゾロアスター教・マニ教などが東伝した道だった。日本の法隆寺にもソグド文字で焼印された香木が残されており日本列島もシルクロードに繋がっていたことが分かる。
シルクロードとホータンからやって来た、弓月君この全体像を摑むための考察にチャレンジしてみよう。先年NHKの「シルクロード」の番組で楼蘭王国を訪ねて、と言うのがあった。地理的な感覚を把握するため楼蘭を中心に説明する。
中国の西域にタリム盆地(タクラマカン砂漠)がある北に天山山脈、西にパミール高原、南西にヒンドウークシュ山脈、南に崑崙山脈、南東にアルティン山脈に囲まれた広大な地域で西に頭を向けた魚の形をしている。楼蘭はその魚の尻尾の付け根のあたりにある、楼蘭という国名が中国の歴史書に現れるのは『史記』の「匈奴列伝」が最初である。その列伝中に、匈奴の冒(ぼく)頓(とつ)単(ぜん)干(う)が前一七六年に漢の考文帝に宛てた手紙の中にでてくる。単干とは匈奴の最高君主のことで、その内容は月氏(引弓之民)を滅ぼし楼蘭・烏孫(うそん)・呼掲(こけつ)およびその近辺の二六国を平定した。とする内容である、冒頓は二代目の単干で匈奴を全盛期に導いた英雄でもある、実際の内容は少し違うようであるが、意とするところは自らの力を誇示しようとしたものである。
「引弓之民」は、弓矢を武器に遊牧狩猟の生活を営む民族で、匈奴とさほど変わらぬ民族とも思えるが考文帝から匈奴への手紙の中では「引弓之国」を長城以北にあって単干の管理下の国とし「冠帯之室」とし皇帝の支配下にあるとして呼び方が逆転している。実際に匈奴も月氏も烏孫も呼掲も中央アジアのスッテプ地帯を活動の場とした遊牧民であったことにちがいない。
匈奴の英雄冒頓単干は実父を殺害し、その頂点に達した、そして強大化してゆく同じ遊牧民である月氏は彼らによって従来いた地域を弾き出され(前一七七)大月氏として天山山脈の北側イリ川の辺りまで、また小月氏としてタリム盆地南東側の山間部のチベット族のところに移住することになる。この中央アジアにおける玉突き現象のありさまをまとめてみると次の様になる。
匈奴によってモンゴル高原をはじき出されたのは月氏、それが西へ移動し河西回廊の西部に至る。先にその地域を支配していたのは烏孫であったが、はじかれた烏孫は西に移動してイリ川あたりへ移動する。単干がさらに月氏を追いやり、この時に大月氏と小月氏に分かれる。大月氏はイリ川流域の烏孫のいる土地に移動する。烏孫はこの時匈奴に併合される、老上単干がさらに月氏を西南へと追いやる大月氏はシルダリヤの上流へと移動、烏孫はこの時もとの土地にもどる。
この移動によってシルダリヤの中流域にいたサカ族の一部はガンダーラ地方へと移動する、また一部のサカ族はギリシャ人のバクトリア王国を攻撃することになる。大月氏は彼らのあとを追うようにして移動している、要は楼蘭を基点としてタクラマカン砂漠を中心に時計廻りと逆に移動している感覚としては楼蘭を二時方向とすると最終的に六時方向にまで移動したことになる。
では小月氏はどうしたのであろうか?匈奴の追い込みによって分断された彼らは丁度万里の長城に隠れるように東へと逃れ漢に彼らの技術力で貢献しながら、また沢山の知識を吸収しながら更に東へと進み、今の朝鮮半島の果てまでやってくるのである。まさにこの間五百年の歳月をかけ遊牧民らしく色々な伝説を抱き込み伽耶国を建設し秦の始皇帝の子孫の秦(はた)氏(し)、漢の劉邦の子としての漢(あや)氏(うじ)を名乗ることになるのである。
当時の朝鮮半島はあくまでも中国の一部の国としての感覚が強く、やがて力をつけて来た新羅・百済によって伽耶国の秦氏らは、この国をも逃れ日本にやって来たのである。
しかし彼らの実力は前述したように、凄まじいものがあり、日本国と称していいかは分からない混沌とした時代に、あらゆる産業分野で日本の基礎を創った人々なのである。

くぐつ名義考/古代社会組織の研究 

 

一 緒言
自分は昨年一月の本誌神祇祭祀号において少彦名命の研究を発表した中に、説たまたま谷蟆(たにくぐ)の事から、引いてクグツ(傀儡)の名義にまで一寸及んだ事であった。それには、古事記に少彦名命の事を知っておるものが久延毘古(くえびこ)であり、その事を大国主神に申し上げたものが多邇具久(たにぐく)であったという、その谷蟆とは傀儡子(くぐつ)の事ではなかろうかというのであった。すなわちクグツは蟆人(くくびと)の義ではなかろうかというのである(五巻一号二二頁―二三頁)。それには延喜式内久久都比売(くくつひめ)神社、倭姫世記の久求都彦(くくつひこ)の名を引合いに出したのであったが、当時はそれが研究の目的でなかったから、説いて詳細に及ばなかったのみならず、考えの到らなかったところもあり、また後から思いえたところもあり、ことにその問題を引き起すに至った所謂谷蟆なるものについても、深く考慮を廻らすに至らなかったのであったから、今その説の不備を補い、いささかその名義の由って来るところを論述してみたいと思う。そもそも浮浪民の問題は、我が古代の社会状態を知る上において、既に本誌上において手をつけている俗法師や土師部とともに、(既に本誌三巻五号において述べた如く)我が古代特殊民構成の三大要素ともいうべきものである。これらの三大要素は、本来その起原を異にするもののみではなく、またその起原を異にしたものがあったとしても、多くは一度一つの大きな水溜りに流れ合って、それにいろいろの落伍者が流れ込んで、互いに錯綜してさらに種々の流れに分れ出でて、後世見る様な雑多の様子を異にした特殊民をなしたのである。そしてその浮浪民の最も著しい現われは、すなわち中古に所謂傀儡子すなわちクグツであった。今このくぐつ名義考は、自分が本誌において引き続き俗法師や土師部の研究を発表するとともに、残れる一大要素たる浮浪民の研究を、相並べて発表せんとする手始めをなすべきものである。 
二 クグツの名義に関する諸説(その一)
傀儡子をクグツということの名義について説をなせるもの、喜多村信節の画証録(天保十年)に、
久々都の名義を考ふるに、日本紀に木祖(きのそや)久久能智とある久々は茎にて、草木の幹をいふ。智(ち)は男を尊む称なり。智(ち)と都(つ)と通音なり。又大殿寮祝詞に、久久遅命(是木霊也)とあるなど思ふに、木もて作れる人形を舞はし動かす時は、神あるが如くなる故、さは名づけしにや。又海の物など入るる器物にくぐつといへる、万葉などに見ゆ。袖中抄に「裹」字をよみて、莎草(くゞ)を編みて袋にしたるをいふ也、万葉集抄には、細き縄を持物入るゝものにして、田舎の者の持つなりといへり。これらは物異なれば名義もおなじからぬにや。
草をもて作れる物故、さる名のあ※[小書き片仮名ン]なるにや。
とあるを管見に入るの初めとする。これより先文化二年の谷川士清の倭訓栞にも、くぐつについて種々の記事はあるが、その名義には及んでいない。ただ袖中抄を引いて莎草(くぐ)を編みて袋にしたるをくぐつというとのみあって、その語と傀儡子との関係には及んでいないのである。古く鎌倉時代、おそらく弘安頃の著と考えらるる塵袋にも、「傀儡トカキテククツトヨム二字心如何」との見出しで説明があるが、それも文字の解釈のみで、またクグツの語には及んでいないのである。
先年柳田國男君は、川村杳樹の名を以てその巫女考を郷土研究の誌上に連載せられ、その第十一「筬(おさ)を持てる女」(一巻十一号大正三年一月)の題下に、
古来の通説に従へばクグツは一種細い縄を以て編んだ袋の事で、傀儡の漢字とは直接の連絡はない。
古くは万葉集巻三の、
潮干(シほひ)の、みつの海女(あまめ)のくゞつ持ち、玉藻刈るらんいざ行きて見む。
といふ歌から、近くは明治三十五年に出版せられた若越方言集に、クヾツとは叺(かます)なり。物を入るる物なりとあるまで、多くの書物にそれが一種の袋であることを証拠立てゝ居る。多分は山沢湿地に自生する莎草(くゞ)といふ植物で其袋を製したのであらう。クグで作つた袋をクヾツと云ふとは一寸分らぬが、事によるともとは其草をも、クヾツ又はクヾチなどと謂つたのを、後に製品と区別する為にクヾにしたのかも知れぬ。……傀儡子と呼ばれた昔の漂泊部曲が、又クヾツを以て呼ばるるに至つたのは、多分は特殊の袋を携帯して居た為で、袋を持つたのは日用品を之に入れて、引越に便利な為であらう。……
と述べられて、袖中抄以来の袋のクグツと傀儡子のクグツとの間に、或る連絡を求めておられるのである。
喜多村氏の説は傀儡子を以て本来人形舞わしであるとして、それから説明を求めているので、折角ながらこの説は今日では従い難い。柳田君の御説はそれから見れば大いに進んだもので、本誌七巻三号の倉光君の報告せられた「蒲(かま)とクグ」(五九頁)によると、今でも山陰地方では、山子・木挽(こびき)・石屋等に限って、叺(かます)様の藁縄製の袋を携帯しているが、旧皮屋部落の青年が、それを蒲(かま)で作ったものを持っておったとあるのも思い合される。蒲または藁製の袋と莎草(くぐ)の袋とはその製作材料は違っているが、叺様に作る点においては同一であって、かつて莎草の供給の潤沢であった時には、もっぱらそれで作ったものであろう。その材料としては、蒲または藁よりも、莎草の方が確かに体裁もよく、また丈夫なものであるから、古くそれが用いられたに疑いはない。
なお漂泊民と莎草との関係を彷彿せしめるものに、自分は今物語の浄人(きよめ)の話を提供したい。今物語は藤原信実の著だとあって、鎌倉時代のものであるが、それにはこうある。
或蔵人の五位、月隈なかりける夜革堂(かうどう)へ参りけるに、いと美しげなる女房の、一人参りあひたりける。見捨て難く覚えけるまゝに、言ひ寄りて語らひければ、大方左様の道には協ひ難き身にてなんど、やう/\に言ひしろひけるを、なほ堪へ難く覚えて、帰りけるにつきて行きければ、一条河原になりにけり。女房見かへりて、
玉みくり、う((浮))きにしもなど((なれど))、ね((根))をとめて、ひきあげ所無き身なるらん
と独りごちて、浄人(きよめ)が家のありけるに入りにけり。男憂(う)れしもいと憐に、不思議と覚えけり。
浄人(きよめ)とは本来掃除夫の称で、一条河原に小屋住居した所謂河原者すなわち小屋者である。彼らは河原の如き空閑の地に佗住居して、市中の汚物掃除などを行い、それによって衣食の資を得るもので、文安の嚢抄にはこの河原者をエッタ(穢多)とある。やはり傀儡子すなわち漂泊民の徒だ。大江匡房の傀儡子記によると、男子は狩猟をなすかたわら各種の遊芸に従事していた趣きに見えているが、鎌倉時代にはその遊芸に従事する方は猿楽・田楽・呪師・放下等の類に変って、傀儡の名ではあまり呼ばれなくなったと見え、塵袋に、「傀儡と書いてククツと読む」云々の条に、
昔はさま/\の遊び術どもをして、人に愛せられけり。今の世に其の義なし。女は遊君を事とし、男は殺生を業とす。
とある。浄人がエッタと呼ばれたのも、彼らが殺生を業として、屠者すなわち餌取(えどり)の類と見做された為である。そしてその女が遊君を事とするというのは、右の河原者なる浄人の女房が美しく着飾って、一人あるきし、蔵人の五位の目を引くに至ったのによっても察せられる。すなわちこの浄人は、これ所謂儡すなわちくぐつであったのだ。そしてその女が、五位の官人に袖を引かれて、「大方左様の道には協ひ難き身」だと云ったのは、おそらく身分の懸隔に遠慮したのであろうが、その歌に、「玉みくり」と詠み込んだのは、すなわち莎草(くぐ)を以て己が身分を示したものと解せられるのである。実はこの歌の意味は自分によくはわからない。試みにしいて解するならば、「我が身はもと浮きにし身分のものなれど、玉みくり根をとめて、引き上げることの出来ぬものだ」との心であろう。ミクリは和名抄に三稜草とあって、クグすなわち莎草とは別に並べて出してあるが、本草和名には莎草の条に一名三稜草とあって、両者そう区別のないものである。そしてこの浄人の女が己が身分をあらわすに、わざわざ玉みくりとしも云ったのは、けだしくぐつの名を隠語に示したものではなかろうかと思われるのである。
ともかくも漂泊民たる傀儡子と持物の莎草(くぐ)製の袋とは離れ難いもので、その関係は自分が本誌六巻五号に、乞食を「お薦(こも)」ということの由来を論じて、薦蓆(こもむしろ)を携帯した僧を薦僧と言い、山陰道筋の鉢屋を苫(とま)とも、蒲(かま)とも云ったのは、薦を携帯しているが故に薦僧であり、またその薦を苫として小屋がけの屋根を葺(ふ)くが故に苫と云い、或いはその材料が蒲であるところから蒲(かま)と呼ばれたと考えたのと軌を一にするものである。莎草も蒲もその用途は似たもので、現に山陰道筋の旧皮屋の青年が、蒲で作った叺様の袋を持ち、山子や木挽石屋に限って、藁縄で作った同形のものを持っているというのによっても傍証せられるのである。すなわちクグツの名がその持物たる莎草(くぐ)製の袋から来たという説は、確かに拠あるものと云ってよい。
しからばこの説はもはや他の異説を容るるの余地なきまでに動かし難いものであろうか。
三 クグツの名義に関する諸説(その二)
今一つ安藤正次君によって、歴史地理三十三巻三号(大正八年三月)に発表せられた新説がある。それは傀儡の二字の朝鮮音から導かれたのであろうというのである。崔世珍の訓蒙字会によると、傀儡の朝鮮語はKoang-taiで、そのngを日本語に移すと、guになる例であるから、KoangがKuguとなり、ついにクグツになったのであろうと言われるのである。それには我が傀儡子によく似たものを高麗で「広大」と云ったが、その朝鮮音はやはりKoang-taiで、傀儡の音と殆ど同じであるとの事をも援引せられているのである。安藤君は傀儡子は本来支那より朝鮮を経て日本へ来たものであると考えられて、高麗の広大の徒なる揚水尺の一派の、歌舞伎芸を業とし、傀儡の戯を伝えたものが、我が国に流浪し来って、これとともに傀儡すなわち広大の名称をも輸入し来ったものではあるまいかと言われているのである。かくて氏は、我が袋の一種をクグツというのも、揚水尺が柳器を編んで販売するのを業とすることから考えると、朝鮮から来たこれらの徒の製作したものであるから、その製作者の名を取ってこれをクグツと呼び、後にはその様に作られたものを一般的にクグツと呼ぶに至ったのではあるまいか。莎草をクグというのも、かえってクグツから出たのであろうと言っておられるのである。
なお安藤君は、顔氏家訓などに傀儡子を俗に「郭禿」とあるから、その支那音の転訛からだとの仮定説も立ちうるが、それは取らないと言っておられる。
安藤君のこの説はまことに面白い着眼で、ことにその広大との比較は最も力あるものと思われるのである。もし我が傀儡子の起原が支那にあり、或いはそうまででなくとも、朝鮮の広大と同じ流れのものだということが果して信じえらるるならば、これはまことに動かぬ鉄案だと思われるのである。しかしながら傀儡子の起原が果してそう外に求められねばならぬものであろうか。 
四 久久都彦と久久都媛と
クグツの名がその持物たるクグ製の袋クグツから導かれたろうという柳田君の御説、傀儡または広大の朝鮮音から移ったのであろうという安藤君の御説、共に捨て難い感があって、自分は実際上その去就に苦しむ次第である。しかしながら、まず安藤君の御説を承認するには、彼らがもと内地発生のものではなくして、朝鮮から移って来たということをも同時に承認する必要がある様だ。この問題が幸いに証明せられさえすれば、もはや何らの疑いも遺らぬ訳であるが、実は西洋にもジプシーの群がある様に、この種のものは何処にでも発生しうるものであるから、類似の状態の下にいる社会の落伍者が、彼此(ひし)類似の経路を取って、類似の境遇に流れ込むという事は、何処にもあってしかるべきものと思われる。したがって自分は大体において、日本民族が朝鮮民族と同一系統に属すと認むる見地の下に、日本のクグツすなわち傀儡子も、朝鮮の揚水尺すなわち才人・禾尺(かしゃく)等の源をなすものも、やはり同一系統に属するものとは認めているけれども、それが為に必ずしも我が傀儡子の祖先が朝鮮から渡来した流民だと考える必要はないと信ずる。また我がクグツの名の起原は、支那の傀儡の語が朝鮮に入って、もしくは支那の傀儡子そのものが朝鮮に入って、ここに所謂広大となったのよりも、或いは古いものとも考えているのである。そしてこの意味からして、その名が持ち物のクグ製の袋から来たということを決定するには、かの薦僧或いは蒲(かま)・苫等の特殊民の名の起原が、持物或いは住居の模様から起ったと決定する様に、そう手軽には運び兼ねるの感なき能わぬのである。
しからば何に由ってその名の起原を古しというか。既に少彦名命の研究にも一寸述べておいた様に、我が国津神の中に久久都彦・久久都媛という二神の名の見ゆることによってである。倭姫命世記によるに、倭姫命天照大神を奉じてその鎮まりまさん地を求め、和比野(わびの)より幸行(いでま)す時に久求都彦(くくつひこ)に行きあい給い、汝の国の名は何と申すかとお問いになったところが、久求小野(くくのおの)と申すと答えたとある。この書は十分信用し難いものではあるが、平安朝を下る様なそんな新しいものではない。したがってそこに延喜式内久久都比売神社のあることと考え合せて、古く伊勢に久求都彦という土人の神の伝説のあった事は推測せらるるのである。久久都比売神社一(いつ)に久具神社と云い、大水上神の児久々都比古命・久々都比売命を祀ると延暦儀式帳にある。倭姫世記にも久求小野(くくのおの)に久求社(くくのやしろ)を定め賜うたとある場所で、今の度会郡内城田村上久具にその社はあるのである。その地は宮川の上流に瀕した山間の平地で、久求小野という名もふさわしく、大水上神の子の住地としても適当な場所である。大水上神の名儀式帳以外他に伝うるところあるを知らぬ。けだし里から離れて川上に住み、自然農民とは生活状態を異にして、クグツの祖神と仰がれたものではなかろうか。久求都彦・久求都媛の住地が久求小野であってみれば、なお阿蘇の土神を阿蘇都彦・阿蘇都媛と云い、伊勢の土神に伊勢津彦があった様に、久求という地の彦・媛ということに解せられるが、しかもその久求小野の名が莎草(くぐ)の繁茂した小野の義にも解せられ、ことにそれが大水上神の御子神だとあってみれば、もともと川上住居の土着神であった伝えは否定し難いであろう。儀式帳には大神宮摂社の中に大水上神の御子神を祭ったものが式内七社式外九社もあり、また別に大水上御祖神というのも出ている。その族類この地方において余程繁延しておったものと思われる。そしてその御子神の中に久久都彦・久久都媛の二柱のますことは、一畝の田を耕さず一枝の葉を取らなかった我がクグツ族との間に、何らかの因縁を求めえられぬものであろうか。
古事記にはまた伊奘諾・伊奘冊二尊の御子に、山の神・野の神などと並んで、木の神久久能智神(くくのちのかみ)というのがある。日本紀の一書には、やはり山の神・野の神・土の神などと並んで、木(き)の神(かみ)等(たち)を句句廼馳(くくのち)と号すともある。しかるに延喜式の祝詞(のりと)には、屋船久久遅命(是木霊也)とあって、ククチの神とも云っていたものらしい。飛騨の工(たくみ)として木材の扱いに慣れた山間の飛騨人は、弘仁の頃までなお「言語容貌既に他国に異なり」と言われておった。木の霊なるこのククチの名が、弓馬に便にして狩猟を事とした我がクグツの名との間に、また何らかの関係ありげに思われるが、これはまだ確かな説を得ておらぬ。したがって今はしばらくその名の類似をのみ述べて、他日の研究に保留しておきたい。 
五 多爾具久(たにぐく)とクグツ
我が古語に遍満行き渡らぬ所なきことを表わして、「天雲の向ふす極み、タニグクのさ渡る極み」、或いは「タニグクのさ渡る極み、潮沫(しほはね)の留る限り」、或いは「タニククのさ渡る極み、かへら(櫂歟)の通ふ極み」、或いは「山彦の答へん極み、タニグクのさ渡る極み」などいう成句がある。これは「天の壁立つ極み、国の退(そ)き立つ限り」とか「青雲のたなびく極み、白雲の向伏す限り」とか、「船艫(ふなのへ)の至り留る極み、馬の爪の至り留る限り」などあるのと同じく、「どこまでも」の義に用いたものであった。しかるにそのタニグクまたはタニククを、時に或いは「谷蟆」または「谷潜」などと書いたが為に、一般にこれは蟾蜍(ひきがえる)の事であると解している。自分もさきに少彦名命の研究を書いた時には、その解釈の下に説をなしてみたのであったが、さらによく思うに、蟾蜍を以て遍満行き渡らぬ所なきものの比喩に用うることは、いかがであろうかと思われてならなくなった。なるほど古代には蟾蜍が多かったのかもしれぬ。しかしそれが果して古く解する如く、水を潜(くぐ)りていかなる谷にも住むという意味(年山打聞等)の名であるならば、谷には到る処にこれを見るという形容には或いは当るかもしれざれども、これを潮沫の留る限りとか、天雲の向伏す極みとか、山彦の答えん極みとか、櫂(かえら)の通う限りとかいう様な、普遍的の語と相対比すべきものとは思われぬ。
また事実蟾蜍は谷にのみ住むものではなく、むしろ樹木の茂生して落葉の重なり腐った湿潤の地や、人家の床下などの暗いところに多く住んでいるので、したがってその名に特に「谷」の語を冠した意味も解し難いと言わねばならぬ。祝詞考には、「蝦蟆が一歩の一寸にも足らぬものを、ものゝ狭き極みのたとへとす」と説明してあるけれども、他の比喩の例に徴してこの説明は従い難い。或いはその名が古事記伝の説の如く、ククと鳴く声によって得たとしてみても、この挙動のいかにも緩慢なる、ことに冬の間は全く土中にのみ籠ってその姿をあらわす事なく、快晴なる昼間には多くは隠れて、陰雨の際或いは夜間にのみ出てあるく様な陰性の動物を以て、かかる場合の比喩形容に使用すべしとはいかにしても不適当と謂わねばならぬのである。けだし語部(かたりべ)がこれを語り伝うる際においては、他にもその例を見る如く、殆どその原意を忘れて、ただ古来語り来ったままにこれを後に伝えたのであったかもしれぬが、本来の意義は決して蟾蜍の事であったとは思われぬのである。
また同じ語部の語(かた)り言(ごと)の中に、久延毘古(くえびこ)が少彦名命の事を知っているとの事を、述べたという多邇具久(たにぐく)も、従来谷蟆すなわち蟾蜍と解せられているが、それも蟾蜍と解してはいかにも落ちつかぬ感がないでもない。久延毘古は山田の曾富騰(そほと)だとあって、それを案山子(かがし)の事だと解しているが、仮りにこの解を正しとして、童話的に動物や非情の物品が物言う筋の語り言として見ても、案山子(かがし)の友は雨蛙などならばこそあれ、そこへ蟾蜍を引き出す事も不自然と謂わねばならぬ。ここに久延毘古とはクエすなわち蝦夷(カイ)族の男子の称で、山田の曾富騰とは山田の番人であろうとの事は、既に論じておいた。(少彦名命の研究五巻一号一六頁以下)それをソホトというは赭人(そほびと)で、なお色黒き民族を、クロンボすなわち黒人(くろびと)と云うと同じ振合いのものであろう。彼らは一方に山田を守って猪鹿の害を防いだが故に案山子(かがし)をソホトと云い、一方に田に水を注ぐの事に役した故に、水車をソホズと云う事にもなったので、本来の曾富騰は案山子でも、水車でもなかったに相違ない。そしてそのソホトはもと実にクエ彦の党類であったのであろう、との事も既に論じておいた(同上二一頁以下)。古事記に、曾富騰なる久延毘古は足は行かねどもことごとく天が下の事を知るとあるのは、そのソホトが案山子の事だと解せられた後の註解で、本来はソホトすなわち久延毘古は、足よく各地に及んで、ことごとく天が下の事を知っておったのに相違ない。ここにおいて遍満行き渡らざる所なきタニグクとの関係が見出されるのである。
久延毘古のみがその素生を知っておったという少彦名命は一にクシの神とあって、クシすなわち蝦夷(カイ)の神にますことも既に論じた(同上七頁以下)。しからばすなわちソホトも、久延毘古も、またクシの神なる少彦名命も、皆同一の党類であったと申さねばならぬ。そしてそのことごとく天が下の事を知れる久延毘古を大国主神に紹介したタニグクが、また天が下に遍満して行き渡らざる所なき比喩に用いらるるものであってみれば、これまた自ずから、本来同一状態の下にいる漂泊性人民の仲間であったらしく推測せられるのである。
高野に谷の者なる一群の住民があった。もと山内の雑務に役する一種の賤民で、なお京都で河原者・坂の者など言われた輩と同じく、社会の落伍者が、谿谷の間に小屋懸けして住んでいたことから得た名であろう。しかし谷の者の称はひとり高野にのみではない。江戸にもかつてエタを谷の者と呼んだ事が森三谿君の報告に見えている(四巻四号二六頁)。土佐その他にもこの名称は少くないらしい。しかし河原者や坂の者がいつまでも賀茂川の河原や清水坂にのみ住んでいなかった様に、谷の者もいつまでも谷にのみ住んでいたものではない。幸いにその地に定住して職業を得たものは格別、本来は彼らは浮浪漂泊性のものであって、足跡所謂天下に周(あま)ねく、見聞の範囲の極めて狭かった当時の一般民衆の間にあっては、彼らはことごとく天が下の事を知るの物識りであったのに相違ない。なお言わば、京都の市街が出来て後にこそ、また附近の平地が大抵官衙(かんが)や富豪その他一般民衆によって占領せられて後にこそ、その地において生活の道を求むべく流れて来た浮浪民の徒は、賀茂河原や清水坂の如き空き地に小屋がけして、所謂河原者にも坂の者にもなったのであろうが、その以前の様子を考えてみたならば、大御田族(おおみたから)となって農耕の業に従事し、住所を平地に求めて公民権を獲得した民衆以外の浮浪民は、なお伊勢の宮川の上流に住んでいたという久久都彦・久久都媛の如く、普通は水がかりのよい、また農民の捨てて顧みない山間の谷あいにその住居の地を求めて、多くは谷の者であったのであろう。そして自分は、天下に遍満して行き渡らざる所なしと解せられ、またことごとく天が下の事を知れる久延毘古を大国主神に紹介したと言われたタニグクを以て、この意味における谷の者に擬定せんとするのである。すなわち彼らは谷グクであり、ククツであったと言わんとするのである。
傀儡子という漢字をあてられた我が本来のクグツは、平安朝大江匡房の頃には、一定の居なく水草を逐うて移徙(いし)し、男は狩猟を主として傍ら各種の遊芸に従事し、女は美粧して婬を鬻(ひさ)ぐを業としていたらしい。しかるに鎌倉時代塵袋の頃になっては、その遊芸の方は分業となって自ずから流れを異にし、クグツの女は遊君の如く、男は殺生を事とすとある。これらの時代になっては、彼らの仲間には既に各種の落伍者が流れ合って、もはや民族上一般民衆とそう区別のないものとなっていたであろうが、本来のクグツは或いは久延毘古などと同じく、取り残された蝦夷族の遺蘗(いげつ)[#「遺蘗(いげつ)」はママ]であったのかもしれぬ。或いは公民となるの機会をはずした、弥生式民族の落伍者であったのかもしれぬ。いずれにしてもその名称は、浮浪漂泊の生活をなしている人々に対して負わせたものであったに相違ない。そしてそれが谷の者であり、谷クグと呼ばれたものであってしかるべく思われる。
六 蟾蜍或いは蝦蟆とタニグク
以上論じたところを約言すると、我が国におけるクグツの名は、倭姫世記に見えた久求都彦(くくつひこ)、延喜式内社に見える久久都比売(くくつひめ)、或いは古語に遍満至らざる所なき比喩に引かるるタニグクなどと関係のあるもので、もともと浮浪漂泊性の部族に名づけた名称であろうということになるのである。しかしそれではククの語が何を意味するかが明らかでない。古く祝詞(のりと)に「谷蟆」の二字を以てタニグクに当ててあるが為に、タニグクはすなわち蝦蟆の古語であろうとは古来一般の解するところである。ことに九州の或る地方には蟾蜍(ひきがえる)をドンク或いはドックウ・トンクワウなどというので、これただちにタニグクの古語の遺れるものだと合点して、蟾蜍すなわちタニグクだと極めてしまうのである。しかしながら、もし果してタニグクがかの挙動緩慢なる、ことに陰性にして不愉快極まる蟾蜍であるならば、それを以て遍満至らざる所なき、めでたきためしの比喩としては、甚だしく不適当であること、既に述べた通りである。また「蟆」の一字をタニククと訓(よ)ませた例もなければ、「蟆」は畢竟ククの音に当てた仮名であって、それ自身タニグクではなく、上に「谷」字をつけて始めてタニグクとなるべきものと考えられるのである。或いは本居翁の言われた様に、蝦蟆がその鳴き声からククの名を得ていたかもしれぬが、古えの文筆者がタニグクの名を記述するに当って、必ずしもこれを蝦蟆の種類のものだと考えていなかった事は、万葉集や高橋氏文には常にこれを多邇具久などと仮名書きにし、祝詞の筆者も或いは「谷潜」の文字を用いているのによっても察せられよう。さらにこれを平安朝以来の一切の古い辞書類について調べてみても、蝦蟆の類にタニグクまたはククの名あることを知らぬ。
ことに蟾蜍には、和名抄・本草和名・新撰字鏡・伊呂波字類抄以下、すべて比支(或いは比支加閇留)と訓してあるのである。しからばいずれにしても、タニグクが蟾蜍であるということは、証拠甚だ不十分であると謂わねばならぬ。しかし古い辞書にククと呼ばれる蝦蟆の種類が見えぬからと云って、かつてその称呼がなかったとは断定し難い。言語には往々死生のあるもので、古い語が全く廃れて忘れられるということは、その例甚だ多いものなることをも考えなければならぬ。さればよしや古語のタニグクが蝦蟆の類でないとしても、既に祝詞の執筆者がタニグクに谷潜とも谷蟆とも用いてあることを考えてみれば、「潜」にクク(リ)の訓があると同じ様に、「蟆」にもククの古名があって、それをククの仮名に用いたのであったと考えても必ずしも不稽の説ではないのかもしれぬ。
ここにおいてか自分は考える。社会の落伍者たる浮浪漂泊性の部族がクグツの名を得たのは、彼らが谷間に粗末な小屋を作ってその中に住し、そこが都合が悪しくなれば随時他の適当な地に移る。所謂水草を逐うて移住するもので、あたかも蝦蟆すなわちククが水辺に棲んで出没自在なるが如きものだ、ククの様なものだとの事から、蟆人(くくひと)すなわちククトの名を得たのではあるまいか。或いは彼らが好んで谷間に住むから、それでタニククの名を得たのであるかもしれぬ。既に谷ククまたはククトの名が出来たならば、ククツはすなわちそのククトの一転訛であるに過ぎない。或いは吉野川の上流に住んだ先住民の遺(いげつ)たる国栖人が、好んで蝦蟆を喰って上味としたという様に、彼らが蝦蟆を常食としていたので、それで蟆人(くくひと)の名を得たのであったかもしれぬ。国栖また実に一種の谷の者であったのだ。或いはクグツの名の起原は別にあって、それを谷グクと云い、蟆また一方にククと呼ばれていたから、それで「蟆」字を仮りて谷グクの名を表わしたのであるかもしれぬ、いずれにしても彼らは、一種の谷の者であったに相違ない。そして邦人の最初に接した谷の者は、実に本邦原始住民たる蝦夷(カイ)の族であった。カイの名は今も千島アイヌの称として存し、一方にはクシの神(少彦名命)或いはコシ(越人)の名によって伝わるクシ或いはコシ、または今も樺太アイヌの称として、また同時に久延毘古の名によって伝わるクエと根原を一にする語で、カイはすなわち今のアイヌ族と同じ系統に属するものである。そしてそのカイの語を漢字を以て音訳するに当って、文字もあろうに「蝦夷」すなわちカエルの夷を以てしたことは、彼らが蟆人すなわちククトとして呼ばれていた為であったかもしれぬ。自分はさきに少彦名命の研究において、蝦夷の文字と蟆人との関係を以て、日本紀に隼人(はやと)を狗人と云った事に比較しておいたが(五巻一号二三頁)、今にして思うに、穿鑿やや足らなかった感がないでもない。隼人を狗人と呼んだのは、隼人の国が魏志に所謂狗奴(くな)国に当るとの推定からであると自分は考えている(この事は近ごろ流行の邪馬台国の研究に関連して、いずれ本誌上で詳説したい積りである)。そしてその狗奴(クナ)はすなわちクマで、もと「狗」の字に意義はなかったのである。しかるにそのクマを魏志に狗奴国と音訳したので、確かに魏志を参照した筈の日本紀の編者は、本来クマ人の同類である筈の隼人が、吠ゆる犬に代りて宮墻を守るという事から、これを狗人と書いたと考えるのである。しからば両者その関係は相似てはいるけれども、一つは狗奴の名から狗人の称を得、一つは蟆人(くくひと)の名から蝦夷の文字を当てられたというので、関係が正反対であった。これはさきの記述に一部訂正を加うべきところである。大体かの少彦名命研究の頃には、谷蟆を以て蟾蜍と解し、蟾蜍が到る処に行き渡る事より、遍満の比喩に引いたのだという旧説に囚われていたが為に、大体において蟆人の解釈には誤謬はないとしても、多少説明に行き届かぬところがあったのだ。それは本編の記事を以て訂補した事に御承知願いたい。
因に云う、谷蟆或いは傀儡子(くぐつ)の語原はククであったらしい。仮名書きには久久都・久求都、或いは多邇久々とある。それを久爾具久(タニグク)ともあるのは、下についた音の頭を濁る例によったので、クグツというのもやはり音の転訛であると考えられる。
七 莎草(くぐ)とクグツ
最後に、[#「最後に、」は底本では「最後に、」]莎草(くぐ)の名とクグツの名との関係を考えてみたい。既に袋の一種に古くからクグツというものがあり、莎草(くぐ)で袋を作り、しかもクグツなる浮浪民がその袋を持っておったとあってみれば、この三者の名の類似の間には、相通じたる何らかの関係のあることを否定する訳には行かぬ。この点において柳田君の御説は、どこまでも尊重せねばならぬものである。しかしながら、莎草(くぐ)の名がもとで袋のクグツが起り、袋のクグツから浮浪民にクグツの称が起ったのか、或いは浮浪民をクグツと呼んだのが本でクグツ袋の名が起り、クグツ袋からその材料に用いられる草にクグの名が出来たのか、或いは莎草(くぐ)とクグツ袋とは名の間に全然無関係で、偶然その袋の材料の或る物にクグの名があったのかは問題である。
クグは和名抄に莎草の文字を当ててある。そして別に三稜草を出して、それにはミクリと訓じてある。しかるに伊呂波字類抄には、ミクリに莎草・三稜草・草の三者をあて、別に莎草をククと訓じてあるのである。これは本草和名にも莎草一名三稜草とあって、両者もとその別なく、或いは細かく言えば多少の相違があるとしても、双方殆ど区別するところなく用いられていたものらしい。しかるにそれに両名の伝わっているのは、もとミクリが共通の名であって、それをクグツ袋に作るのでクグの名を得たのであるかもしれぬ。しかもそれが共通に用いられていたので、今鏡に見ゆる一条河原のキヨメの女が、自己のクグツなる身分をあらわさんが為に、玉みくり根をとめて、引きあぐる所なき身だと云ったものと解せられるのである。果してしからば莎草をクグというのはすなわち末であって、クグツの持物なる袋の材料という意味から得た名と解せられるのである。 
八 結論
以上論じ来ったところを約言すれば、傀儡子たる浮浪民をクグツと呼んだことの根原は、結局確かなことはわからないというに帰着する。しかしながらその名称の由来の古いことは、川上の谷間の平野に住んでおった筈の土着神に久求都彦・久求都媛の名があり、その住居の平野を久求の小野と呼んでいたことからも察せられる。そして一方には谷グクの名があって、遍満行き渡らざることなきの比喩に用いられていることは、クグツが一定の居所を有せず、天下到る処を家として、かの交通の開けざる、土着人見聞の範囲の極めて狭かった時代において、広く各地に往来し、案山子(かがし)だと言われた久延彦(くえびこ)すなわちアイヌの男子が、足は行かねどもことごとく天が下の事を知ると言われた事にも思い合されるのである。実際クグツは当時にあって、最も博識なるものであったに相違ない。(クエ彦また実に一つのクグツで、農民に雇われて山田を守り、猪鹿の害を防いだので、ついに山田のソホドとも呼ばれ、はては案山子の様に解せられるに至ったから、足は行かねどもという語部の語も出たのであるが、しかもなおことごとく天が下の事を知るとの語のあるのは、彼が一つの浮浪民であった為で、その事を谷クグが知っておったというのは、やはりクグツの縁を語ったものである。この事は本誌神祇祭祀号〔五巻一号二一頁以下〕に詳説しておいた。)その名義については、クグ草とクグツ袋と浮浪民たるクグツとの間に関係があるらしく、谷クグというのも畢竟彼らが農民と別社会をなすに至っては、所謂谷の者として多く谷間に住んでいたが為であって、谷グクすなわちクグツであると解するのである。
そのクグすなわち莎草との関係については、莎草(くぐ)で編んだが故に袋にクグツという名が出来たとは、既に柳田君も疑われた如くちと受取りにくい点がある。これはむしろ傀儡子たるクグツの名が本で、その持物たる木偶に中世クグツの名が出来、またそれを手に持つことから一にテクグツとも呼ばれ、はてはクグツすなわち人形を舞わすが故に、本来のクグツなる傀儡子をクグツマワシとまで云うに至ったが様に、傀儡子のクグツの持物たる袋にクグツの名が付き、そのクグツを作る材料なるが為にミクリなる莎草にクグの名が出来たと見るのが妥当であろう。そしてその傀儡子たる浮浪民をクグツと呼ぶに至った根原は、もと蝦蟆がその鳴声からククと呼ばれ、一方浮浪民が多く人目を避けて夜間などに徘徊すること、またその好んで谷間に棲息することなどから、これをククすなわち蝦蟆に比して、蟆人(くくひと)すなわちクグトと呼びそれがクグツとも訛(なま)り、谷クグとも呼ばれるに至ったものであろう。浮浪民たる傀儡子の一種に、アルキ横行(或いは単に横行)、アルキ神子、アルキ白拍子などの名称が中古に存し(大乗院寺社雑事記、本誌四巻一号六頁)、その土着したものに後世まで行筋(あるきすじ)なる名称が遺っているというのも、彼らがもといかに天下を横行したかを示すに足るべきもので、谷グクの遍満到らざる所なき比喩に用いられたことと思い合すべきものではなかろうか。  
 
古事記1

 

これから神道・仏教・儒教において最重要とされる書物について見ていきたい。宗教の書物には、教えを記した「経典」と、その中でも最高の経典とされる「啓典」がある。
啓典には絶対の教えが書かれており、ユダヤ・キリスト・イスラムの一神教三姉妹が啓典宗教とされる。おおざっぱにいえば、ユダヤ教は『旧約聖書』、キリスト教は『新約聖書』、イスラム教は『コーラン』を啓典とする。この三つの啓典の違いやその内容については、前作『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)に詳しく書いたので、興味のある方はそちらをお読みいただきたい。
しかし、神道・仏教・儒教には啓典と呼ばれるものは存在しない。仏教の中には経典はたくさんあっても啓典はない。経典の中の経典とされる『般若心経』でさえ啓典ではない。儒教の開祖である孔子の言行録である『論語』も啓典とは呼ばれない。ましてや、「言挙げ」せぬことを旨とし、教義すら見当たらない神道に啓典などあろうはずがない。
神道においては、『古事記』が最も重要な書物とされている。次いで重要とされるのは『日本書紀』である。ともに日本の神話が記されており、両書を総称して「記紀(きき)」といい、その神話を総称して記紀神話と呼ぶ。
『古事記』は日本最古の歴史書であり、『日本書紀』は官撰による最古の歴史書とされる。記紀においては、神話が歴史の中に含められ、神々が姿を現して日本の国を整え、やがて人の歴史へと続く流れを一連の出来事として記載されているのである。
『古事記』は、和銅五年(七一二年)に太安万侶(おおのやすまろ)という官人を撰録者(せんろくしゃ)として成立したとされる。その序文によれば、第四〇代の天武天皇が国家を治める大本にして民を教化する基本となるべき「帝皇日継(すめらみことのひつぎ)」と「先代旧辞(さきつよのふること)」の誤りを改め正して後代に伝えようとして、これを調べたうえで稗田阿礼(ひえだのあれ)という舎人(とねり)に誦み習わせた。天武天皇の死により中断したが、それを第四三代の元明天皇の命により安万侶が筆記したものという。「帝皇日継」とは皇統譜の記録であり、「先代旧辞」は神話伝承の類を指す。
構成は上中下の三巻で、上巻は天地開闢(かいびゃく)からウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)までの神話、中巻からは初代の神武天皇に始まり、下巻最後の第三三代の推古天皇までが記される。すなわち神話は全体の三分の一を占めている。
序文は漢文で書かれているが、本文は和漢混交体、歌謡は音仮名方式で書かれている。太安万侶は序文に、古代の言葉も内容も素朴ゆえに文字に写すことは困難だったと告白しており、そのため、漢字の音から読む音仮名方式と漢文とを混在させたと思われる。しかし、このことは漢文に慣れた知識人たちには評価されず、大きく取り上げられることはなかった。彼らは漢文によって記された『日本書紀』の方を『古事記』よりも高く評価したのである。
記紀の上下関係を逆転させた人物こそ、国学者の本居宣長である。彼は大著『古事記伝』によって、『古事記』そのものの再評価を図ったことで知られる。『古事記』が注目されるようになったのは、宣長以後といってよい。そして宣長は、漢文によって書かれたゆえに、さかしらな「漢意(からごころ)」に満ちた書として『日本書紀』を低く評価し、「やまと心」の書として絶賛した『古事記』の下に位置づけたのだ。
その『日本書紀』は舎人親王らによって編纂され、養老四年(七二〇年)に成立した。太安万侶も編纂に関与したといわれる。全三〇巻のうち第一・二巻に神話が収められ、天地開闢から神武天皇を経て、第四一代の持統天皇までが編年体で記述されている。『古事記』と比較して、全体に占める神話の比率が低く、歴史書としての性格が強い。対外的に中国を意識し、中国の歴史書や寺院の記録などの史料が幅広く用いられている。
『古事記』のみならず、他の書にも見られないスタイルとして、「一書(あるふみ)に曰く」といった書き出しで多くの異伝を併記していることが注目される。例えば、イザナギとイザナミに関する伝承には本文以外にも一一の異伝を掲載している。これは、同一テーマでもディテールが異なる場合の各民族の伝承を集めたものと思われる。
また神名の表記も、たとえば『古事記』では須佐之男(すさのお)命で、『日本書紀』では素戔嗚(すさのお)尊のように違っている。神名に附される尊称の「ミコト」は『古事記』では命で、『日本書紀』では尊と命の二種がある。この二種の違いについては、非常に尊い神には「尊」、その他の神には「命」を附すという註が添えられている。
このように、文体も表記法も異なる記紀だが、ともに朝廷が作成したものであり、天皇家や有力氏族の祖神たちの活動とその正当性を中心としている点では、記紀の内容は基本的に同じであるといえる。つまりは、ともに王権の由来について語られた書物なのである。
記紀には神話が語られている。神話とは何か。構造人類学者の北沢方邦氏によれば、神話は歴史ではなく、そのうえそれは、文学的価値を持っているとしても、文学でもない。神話とは、それぞれの種族が自己を取りまく宇宙や自然を、具体的な記号に置き換え、体系化した言語表現であるという。北沢氏は著書『古事記の宇宙論』で次のように述べる。
「なぜそのようなことが必要とされたのか。それは、狩猟・採集であれ遊牧であれ、あるいは農耕であれ、天体とりわけ太陽の運行や季節の循環は、生活や生業と不可分であり、それらを精密に観察し、その体系性を知ることが不可欠だったからである。こうした自然科学的知識の蓄積のうえに、人間はそれら相互の関連や意味づけをはかる。宇宙や自然の個々の法則を支配するなにものかは神々となり、名をあたえられ、あるいはそれを象徴する事物が、たとえばサクラやモミジといったように特定される」
神話はこうした具体的な記号と、それら相互の関係を、いわば「宇宙劇」として表現したものなのである。天と地、海と山、冬と夏などの記号の対立を北沢氏は「記号の対称(シンメトリー)」と名づけているが、その相互関係をとらえるのが神話の論理である。それによる宇宙の意味の解読が、記紀の深いコンテクスト(文脈)に他ならない。政治や階級社会、あるいはイデオロギーなどといった誤ったコンテクストによって神話を分析することは不可能なのである。
宇宙の意味の解読といえば、哲学が思い浮かぶ。哲学的思考とは、宇宙の中における人間の位置や、自然の秩序や人生の意味などについて深く考えをめぐらせることだと言える。
その意味で、神話とは、人間が最初に考え出した最古の哲学である。どんな領域のことであれ、人間ははじめにしか本当に偉大なものは創造しないとされている。
中沢新一氏が著書『人類最古の哲学』で述べているように、私たちが今日「哲学」という名前で知っているものは、神話がはじめて切りひらき、その後に展開されることになるいっさいのことを先取りしておいた領土で、自然児の大胆さを失った慎重な足取りで進められていった後追いの試みにすぎないのかもしれない。神話はそれほどに大胆なやり方で、宇宙と自然の中における人間の位置や人生の意味について、考え抜いてこようとした。人間の哲学的思考の最も偉大なものとは、まさに神話の中に隠されているのである。 
ところが今日の学校教育は、神話についてほとんど語ろうとしない。神話は幼稚で、非合理的で非科学的で、遅れた世界観を示しているものとされているから、それについて学んだところで、今日のように科学技術が発達した時代においては、まるで価値がないと考えられている。それに日本では戦後、教育のやり方が大きく変わり、『古事記』や『日本書紀』に語られている神話を教えたがらなくなった。リベラルな思想で知られる中沢氏でさえ、これは本当に惜しいことだと述べる。
記紀は政治的意図をもって編纂されたものではあるが、その中にはきわめて古い来歴を持つ普遍的な神話が、たくさん保存されている。これは世界の諸文明の中でも、あまり例のないことだ。記紀には、北米インディアンやアマゾン河流域の原住民が語り続けてきた神話とそっくりの内容を持った神話が語られているのである。人類最古の哲学的思考の破片が、そこでキラキラと光っているのが見えるのだ。そんなに魅力的なものを子どもたちに教えないというのは、なんともったいないことだろうか。
二〇世紀を代表する文化人類学者のレヴィ・ストロースは、世界各地に散在する神話の断片が『古事記』や『日本書紀』に網羅され集成されている点に注目している。構造人類学を提唱した彼は、他の地域ではバラバラの断片になった形でしか見られないさまざまな神話的要素が日本ほどしっかりと組み上げられ、完璧な総合を示している例はないというのである。
また、二〇世紀を代表する宗教哲学者のミルチア・エリアーデによれば、日本の神話は、日本以外でも認められるさまざまな神話の「結合変異体」のように見えるという。
ストロースとエリアーデという偉大な二人の学者がともに、世界の神話の集大成が日本神話であると述べているわけだ。ざっと、『古事記』のストーリーをながめてみよう。
天地が分かれたとき、高天原(たかまのはら)に最初に現れたのがアメノミナカヌシ(天之御中主)神、次にタカミムスヒ(高御産巣日)神、カミムスヒ(神産巣日)神の、いわゆる「造化三神(ぞうかさんしん)」である。その後、「誘う男」を意味するイザナギノミコト(伊邪那岐命)とその妹で「誘う女」を意味するイザナミノミコト(伊邪那美命)が生まれる。彼らは天の浮橋の上から、海水をかき混ぜて最初の島を創造する。その島に降り立つと鶺鴒(せきれい)を観察することで、性の区別とその使いみちを発見する。
彼らの交わりの際に、ある過ちが生じたために、ヒルコ(蛭子)が生まれる。蛭のように手足がない、または骨がない神とされ、同様に人類の祖である兄妹の間に最初に生まれた子がこのような障害児であるという伝承は、東南アジアに広く見られる神話素である。この蛭子が海に流し棄てられるという話には、海上他界に向けての水葬儀礼が反映されているという見方もある。
あらためて交わることで、彼らは日本の島々と神々を生むが、最後に生まれ出た火の神が母親の女陰を焼いたため、イザナミは死んでしまう。怒り狂ったイザナギがこの粗忽(そこつ)な神の頚(くび)を刎(は)ねると、その血からさらに大勢の神々が生まれた。
ここで、ギリシャ神話との共通性が強くなるが、イザナギはそれからオルフェウスと同様に、イザナミを連れ戻しに冥界、つまり黄泉の国へと旅立つ。イザナミは冥界の食物を口にしたために、そこに留まらざるをえなくなっている。これはペルセポネの神話と同じである。
それにもかかわらずイザナミは、イザナギが夜間は自分を探しにこないことを条件として、黄泉の国の神の協力を得ようと交渉する。ところがイザナギは約束を破って、にわか仕立ての松明(たいまつ)の明かりで照らし見てしまい、愛する妻がもはや蛆(うじ)のたかった腐った屍でしかないことに気づくのだ。
黄泉の国の八人の醜女たちがイザナミを追ってくるが、彼が蔓(かずら)を後ろに投げると、それは葡萄の木へと変わる。醜女たちは葡萄を貪り食っているあいだに遅れてしまう。こうしたエピソードが三度くり返されるのは世界中の神話や伝説と同じであり、葡萄の木に続く障害物として竹林が生え、さらに大河が出現する。
イザナギがようやく難を逃れると、イザナミは八柱の雷神と一五00の黄泉の国の軍勢をみずから率いて、イザナギを探しだすために出発する。しかしイザナミは黄泉の国とこの世との間の道を岩で塞ぎ、その岩の上からイザナミに非情な別れの言葉を伝える。イザナミは毎日一000人の生者を黄泉の国に引き入れることにするが、この世の人間が絶滅しないようにイザナギは毎日一五00人の生者を誕生させることにする。死者との接触による汚穢から身を浄める際に、イザナギは神道のパンテオンにおける最重要な神であるアマテラスとツクヨミ、スサノオを誕生させる。
最初の神々と人間との間には隔たりがあったが、それを何世代にもわたる神々が次第に埋めていく。中でも最も重要なのが出雲と九州の神々である。日本の最初期の天皇となったのは、大和の国に移り住んだ九州の人々であると考えられている。
記紀は私たちの祖先の残した貴重な文化的遺産である。特に『古事記』は、『日本書紀』よりもさらに神話の書としての色が濃い。北沢方邦氏によれば、世界的に見ても、これだけまとまった神話が、しかも統合的に残されている例は珍しいという。中国では、神話は非合理なものとして排除され、それはわずかに『山海経』に断片の集成として残されているにすぎない。ギリシャ・ローマ神話やゲルマン神話、あるいはインド神話としての『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』などは、古典文学として生き残ってきた。だが、とりわけ西欧では、キリスト教とその合理主義の支配によって、それらを生み出した神話的思考の体系そのものは解体され、排除されたのである。
ところが驚くべきことに日本では、『古事記』の根底にある神話的思考の体系は、今日まで生きているといっても過言ではない。『古事記の宇宙論』で北沢氏は述べる。
「たとえばオホトシ(大年)の神を迎える正月の行事は、明治以後グレゴリオ暦に変更されたにもかかわらず、つづいている。風神(気象の女神)にまつわる桜狩りや紅葉狩りの風習も、いまなお行われているし、貝の女神にかかわる桃の節句や、アマテラス(太陽の女神)の衣服を織るタナバタツメの祭りも、あるいは雑穀の女神の死と再生を執行した月の男神(おがみ)を祀る仲秋の名月も、たとえ中国の節句の日時と合わせられたといっても、なおも継続している」
神道の本質は「祭り」にあるが、その祭りの中にはまさに「神話」が今日に至るまで生き続けているのである。日本文化のなんと豊かなことだろうか。
さて、『古事記』は本居宣長によって輝きを得たと述べた。宣長は『古事記伝』において、『古事記』を「あるが中の最上たる史典(ふみ)」と絶賛し、それまで評価の高かった『日本書紀』を『古事記』の下に位置づけた。鎌田東二氏も指摘しているように、宣長のこの弁は、仏教でいう「教相判釈」に似ている。例えば、空海は金胎両部の経典すなわち『金剛頂経』と『大日経』を所依の経典とし、日蓮は『法華経』を宇宙第一の書と見て、「法乗一乗」を説いた。もちろん宣長はこのような教相判釈を「仏心」として「漢意」と同じく否定するに違いない。そもそも宣長は、『古事記』を仏家や儒家が解釈するような「法則の書」ではなく、すべての事実を説明しうる「原型の書」であるという見方を確立したのである。しかし『古事記』を「あるが中の最上の史典」とするところには宣長独自の教相判釈的古典観と神道神学があると、鎌田氏は断言する。 
氏は昔から、『古事記』を最上の神典とする宣長の根本認識がその根っこのところから幻想に取り込まれているのではないかと疑ってきたと、著書『霊的人間』で告白している。今でもその疑いが消えることはなく、日本古典史上における『古事記』の株価は鎌田氏の中で下がり続けている。変わりに『日本書紀』の特異さと面白みがいや増し、宣長が漢文で書いているからと低く見た『日本書紀』の方にこそ日本的な構造が秘められていると確信するようになったという。
『古事記』に対する幻想性といえば、『古事記』そのものが偽書であるという『古事記』偽書説を紹介しなければならない。かなり古くからある説で、江戸時代の国学者・沼田順義がすでに文政一二年(一八二九年)刊行の『級長戸風』で『古事記』の和銅五年成立説に疑問を投げかけている。その理由はいくつかあるが、最大の理由は序文に不審な点が多いことである。
『古事記』序文が、和銅五年に書かれたかどうか疑わしいことは、賀茂真淵が弟子の本居宣長に宛てた手紙の中でも述べられている。真淵は『古事記』の序は太安万侶とは違う人物が、和銅年間より後で書いたものと推測しているが、宣長はあくまで安万侶が書いたものとし、「後人のしわざなりといふ人もあれど、其は中々にくはしからぬひがこころえなり」と断じている。
『古事記』序文のどこが疑わしいのだろうか。古代史の第一人者である大和岩雄氏が著書『増補改訂版古事記成立考』において、先学の疑問点を「『古事記』序文を偽作とみる十の理由」として見事にまとめている。少し長くなるが、それをそのまま紹介したい。
一、『古事記』成立より後で完成した『日本書紀』が『古事記』を参考にしていないこと。また『続日本紀』の和銅年間の条に、『古事記』撰録のことが、まったく記されていないこと。
二、序では天武天皇が稗田阿礼の聡明を激賞したと書いているが、『日本書紀』の天武天皇の条にはそのことが記されていないし、稗田阿礼や稗田姓は天武紀以外にも『書記』には見あたらず、『続日本紀』にも記されていない。このように実在性の薄い人物である稗田阿礼に、重要な役割を果たさせていること自体が、『古事記』序文を疑わせる要因になること。
三、稗田阿礼はまったく文献に現れてこないが、太安万侶は『続日本紀』には記されている。しかし、安万侶が元明天皇の勅命で撰録したという重要な勅撰書編纂の事実が、安万侶のことを数カ所も記している『続日本紀』はまったく書き落としており、不可解であること。
四、他の多くの序文上奏文では、学識才能について謙辞を用いている。謙辞らしい書き方より、稗田阿礼の聡明ぶりを強調したり、自己の表現技術の苦心を吹聴したりする、宣伝臭の濃い異例な書き方は、もし『古事記』が正史に記載されない私本的性格のものとしたら、矛盾すること。
五、序えは天武天皇即位以来修史のことなしと書いているが、天武十年には川嶋皇子等に勅して帝紀を記させているのだから、『古事記』序文はおかしいこと。
六、序文の太安万侶の署名には「官」が落ちており、稗田阿礼の「姓」の書き方は「氏」と混同しており、このような不完全、不明瞭な記載は、安万侶が書いたものとは思えないこと。
七、勅撰書の性格からして、正五位下程度の位階の者の単独署名は異例であり、『古事記』のみが特異な任命、単独編纂というのみ、あまりに異例すぎておかしいこと。
八、序文が、上奏文の形式をとっているが、このような書き方は、主に平安朝以降からであるから、和銅年間成立は疑わしいこと。
九、和銅五年の日付の序文が和銅六年以降に書かれた文章を参考にしていることからみて、『古事記』の序は、和銅六年以降に書かれたと考えられること。
一〇、本文で厳密に使い分けている用語が、序文では精密さを欠くなど、本文と序文に統一性がないこと。
このように、あらゆる角度から見て『古事記』序文が和銅五年に書かれたというのは、どうにも疑わしいと言わざるをえない。大和氏は、『古事記』はこれまで定説えあった奈良時代ではなく、平安時代の初期にまとめられたと推測し、その真の編集者についても『増補改訂版古事記成立考』に次のように書いている。
「私は『古事記』の実際の編集者は弘仁年間に『日本書紀』について講義をし、その講義内容を記録した多人長と推測するが、多人長は今でいう国語学者であって歴史家ではなかったと書いた。したがって、上代特殊仮名遣のような古語は特に留意して残したが、奈良時代には使われていなかった神名は、歴史的事実についての欠如からうっかり記載してしまったので、以上書いたような新しい神名が、現存『古事記』には残っているのであろう」
樋口清之や梅原猛といった世の常識を覆し続けててきた知のトリックスターたちでさえ『古事記』偽書説を否定したが、序文を問題にする限り、『古事記』は偽書である可能性が高いだろう。大和氏の推測するように、その本文も平安初期にまとめられたと思われる。だからといって、『古事記』の持つ文化的遺産としての価値はいささかも損なわれない。
大和氏の説は学界から「妖説」として批判されたそうだが、批判者がアレルギーを起こす「偽書」という言葉は、『古事記』に序文がついているからである。序文がなければ、『万葉集』のように成立論となり、偽書説とは言わない。『古事記』に序文さえなければ、大和説も成立論の一つなのである。
その序文の中でも最も疑惑の集まるのが、和銅五年正月二十八日という『古事記』撰進の日付である。『続日本紀』が書く国史撰進の和銅七年二月十日の日付が、二年引き上げられた干支紀年法によれば和銅五年正月二十八日になる。これを「剽窃」したものであると思われる。なぜ剽窃したかは、これはもう王権の成立事情に関わる問題であるとしか言う他はない。
偽書論者が「偽書」という場合、その書物には古典として価値がないという意味がある。大和氏は、「偽書」がこのような意味を持つ言葉なら、現存『古事記』の最終成立時期が平安期初期であったとしても、「古事記を偽書であるなどと主張する気はさらさらない」と述べている。なぜなら、序文が誤りであっても、現存『古事記』の古典としての価値は、消えるものではないからである。大和氏は『増補改訂版古事記成立考』の「あとがき」に次のように記している。
「信じて疑わないのは古事記信仰だが、『古事記』に関しては、戦時中の聖書化の影響か、このような傾向の人が多い。だが、宗教ならともかく、すべての学問は、疑うことから出発する。私は、『古事記』研究のために、『古事記』序文をまず疑った。そして、『古事記成立考』を書いた」
大学に籍を置かず在野にあろうとも、あくなき探究心を持つ大和岩雄氏こそ真に「学者」と呼ぶに値する存在であり、心からの敬意を表したい。
それにしても、『古事記』のすべてを信じて疑わない古事記信仰というものがあるなら、その意味では『古事記』は経典であり、啓典となりうる。まさに本居宣長は『古事記』を啓典とする宗教の開祖かもしれない。しかし、それが閉鎖的な国粋的イデオロギーへとつながっていく危険性を秘めていることは言うまでもないだろう。 
 
古事記2

 

はじめに
推古紀二十八年(六二〇年)是歳条に、「皇太子(ひつぎのみこ)・嶋大臣(しまのおほおみ)[蘇我馬子]、共に議りて、天皇記(すめらみことのふみ)と国記(くにつふみ)、臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・百八十部(ももあまりやそとものを)、并せて公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録す」とあり、大化の改新の皇極紀四年(六四五年)六月条に、「蘇我臣蝦夷等、誅(ころ)されむとして、悉(ふつく)に天皇記・国記・珍宝(たからもの)を焼く。船史恵尺(ふねのふびとゑさか)、即ち疾(と)く焼かるる国記を取りて中大兄に奉献(たてまつ)る」とある。聖徳太子と蘇我馬子が作っていた天皇記と国記とは、焼失を免れて後世に引き継がれた。そして、天武十年(六八一年)三月条に、「天皇、大極殿(おほあんどの)に御しまして、……帝紀(すめらみことのふみ)と上古(いにしへ)の諸事(もろもろのこと)を記し定めしめたまふ」とあり、続日本紀の養老四年(七二〇年)五月条に、「是より先、一品舎人皇子、勅を奉けたまはりて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上ぐ」とあって、日本書紀は完成した。また、古事記の序には、和銅四年九月に、「稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦める勅語(みことのり)の旧辞(ふること)を撰ひ録して献上(たてまつ)れ」との仰せに従って、翌五年(七一二年)正月に、太安万侶が録して献上したとある。
記紀の種本は、そのおよそ百年前の聖徳太子が書いていた。聖徳太子の事績を見ると、(1)十七条の憲法の策定、(2)冠位十二階の制定、(3)遣隋使の派遣、(4)法華・唯摩・勝曼義疏の執筆、(5)法隆寺などの建立、など多岐にわたる才能が伝えられている。それが聖徳太子信仰になって、後の時代になって、たいへんな偉人像が虚構されて崇められるようになっていったという。とはいえ、はっきりした聖徳太子像が結びきれているとはいえない。耳が良くて一度に十人もの人の言うことを聞き分けたとか、夢殿に籠っていたら夢のお告げを受けたとか、聖たる逸話は伝えられても、聖たるゆえんが示されていないように感じられる。政治家や思想家は、その道に通じていたとしても、それ以上のものではない。聖とは日知りのこと、全世界を知り尽くすほど頭がいいはずである。推古紀元年四月条には、「壮(をとこさかり)に及びて、一(ひとたび)に十人(とたり)の訴(うたへ)を聞きたまひて、失(あやま)ちたまはずして能く弁へたまふ。兼ねて未然(ゆくさきのこと)を知ろしめす」とある。聴覚機能が優れているのではなく、一つの状況でも十人十色の受け止め方があり、それぞれの言い分を聞き分けたうえで、物事の本質を見失わずに弁別し、紛争を解決する道筋を示すことができたという意味であろう。落語にある三方一両得のような裁きである。
すると、聖徳太子が偉いのは、全世界の知識を自家薬籠中のものとして、人々が惑わぬように導いたことにあるのではないか。天皇記・国記・本記はその集大成で、技術革新の世紀とされる五世紀に起こったさまざまな変革について、人々にわかりやすく教え諭し、納得させ、不安を取り除いて、倭の国の精神的統一を図ることに成功したということではないか。当時は、ほとんどの人は無文字社会に生きており、その人々をなるほどと思わせる術を太子は心得ていたということだろう。いま、記紀を読んで神話だとか、昔の信仰だとかいって誤魔化しているのは、読んでいるこちらのほうが凡庸だからである。太子は機知に富んでいた。その無文字社会の知恵とは、なぞなぞである。古語に、「無端事(あとなしこと)」という。
国生み

 

国生みの話は、記の冒頭の初発の神々の列挙につづき、伊耶那岐命(いざなきのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)が力を合わせて国を生み、神を生んだ話である。
天地が初めて現れたときに、高天原(たかまのはら)に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)(天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと))、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)(高皇産霊尊(たかみむすひのみこと))、神産巣日神(かむむすひのかみ)(神皇産霊尊(かむみむすひのみこと))が成った。皆独り神で身を隠した。次に、国が若く浮いた脂のように、クラゲのように漂っているときに、葦が芽吹くようにすっくと伸びるものにつかまって、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)(可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと))、天之常立神(あめのとこたちのかみ)が成った。これも独り神で身を隠した。以上、五柱の神は特別な天神である。
次に、国之常立神(くにのとこたちのかみ)(国常立尊(くにのとこたちのみこと))、豊雲野神(とよくものかみ)(豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、豊組野尊(とよくむののみこと))がなった。これも独り神で身を隠した。次に、宇比地邇神(うひじにのかみ)(埿土煮尊(うひじにのみこと))、その彼女の須比智邇神(すひちにのかみ)(沙土煮尊(すひじにのみこと))、角杙神(つのぐいのかみ)(角樴尊(つのくいのみこと))、その彼女の活杙神(いくぐいのかみ)(活樴尊(いくくいのみこと))、さらに、意富斗能地神(おおとのじのかみ)(大戸之道尊(おおとのじのみこと))、その彼女の大斗乃弁神(おおとのべのかみ)(大苫辺尊(おおとまべのみこと))、於母陀流神(おもだるのかみ)(面足尊(おもだるのみこと))、その彼女の阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)(惶根尊(かしこねのみこと))、伊耶那岐神(いざなきのかみ)とその彼女の伊耶那美神(いざなみのかみ)が成った。これらを、神世七代(かみよななよ)というが、独り神は各一代、男女のペアの神は、二神で一代と勘定する。
さて、天の神さまたちは、伊耶那岐命(伊奘諾尊)と伊耶那美命(伊奘冉尊)とに天(あめ)の沼矛(ぬほこ)(天之瓊矛)を授けて、漂っている国を整えて固めるように命じた。そこで二神は天の浮橋に立って、天の沼矛をさしおろしてかき回した。海をからからとかき鳴らし、引き上げて矛の先から滴り落ちた潮は積って島となった。これを淤能碁呂島(おのごろしま)(磤馭慮嶋)という。
伊耶那岐命と伊耶那美命はその島に降り立ち、天(あめ)の御柱(みはしら)と八尋殿(やひろどの)とを見立てた。そして、伊耶那美命に身体はどうなっているかとわざわざ尋ねた。すると、できあがっているけれど、足りないところが一箇所あるとウィットに富んだ答えをした。そこで伊耶那岐命は、自分のほうは、できあがっているけれど余っているところが一箇所あると応じた。だから、この余りで足りないところを塞ぎ、国を生もうではないか。どうだろう、と言うので、まんざらでもない伊耶那美命はいいんじゃない、と答えた。そこで、伊耶那岐命は、俺とお前とで天の御柱を回ってめぐり合い、エッチしようといい、約束を交わしてやり方を決めた。お前は右から、僕は左から回って逢おう、と。そう決めて回ったとき、先に伊耶那美命が、ああ、いい男、といい、後から伊耶那岐命が、ああ、いい女、と言った。言い終わった後、女性が先に言うのは良くないんじゃないかと言ったが、事は始まっていたのでエッチし、生まれたのは水蛭子(ひるこ)で、葦船に入れて流し去った。次に生まれたのは淡島(あわしま)で、これも子の数には不算入とする。
二人は相談した。今生んだ子は良くないから、天神のところへ行って様子を話してみようと言って、すぐさま二人で参上して天神の指示を求めた。天神は太占の法で占い、女が先に言ったからいけないから、また降りていって言い直したらいい、と仰った。そこで返り降って再度天の御柱を回った。そして、伊耶那岐命が、ああ、いい女と言い、その後から伊耶那美命が、ああ、いい男と言った。そう言い終わってエッチして生んだのが淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)(淡路島)で、以下順に、伊予之二名島(いよのふたなのしま)(四国)、隠伎之三子島(おきのみつごのしま)(隠岐)、筑紫島(つくしのしま)(九州)、伊伎島(いきのしま)(壱岐)、津島(つしま)(対馬)、佐渡島(さどのしま)、大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)(本州)を生み、それらを総称して大八島国(おおやしまくに)という。その後、還って吉備児島(きびのこじま)、小豆島(あずきしま)、大島、女島(ひめしま)(姫島)、知訶島(ちかのしま)(値賀島)、両児島(ふたごのしま)を生んでいった。以上の島々については、神としての亦の名がついている。
国を生み終わって、さらに神を生んだ。伊耶那岐・伊耶那美によるものが十柱、速秋津日子(はやあきつひこ)(速秋津日命(はやあきつひのみこと))・速秋津比売によるものが八柱、風、木、山、野の神の四柱、大山津見神(おおやまつみのかみ)(大山祇神)・野椎神(のづちのかみ)によるものが八柱、さらに八柱を生んだ。(神の名は割愛する。)以上が、国生みの話のあらすじである。
淤能碁呂島とは、感嘆符のOh!のゴロ島、つまり、雷鳴を表すと考えられる。天の沼矛のヌとは、玉飾りのことである。そのような装飾が鞘などに施された、あるいは刀身の形容であるなら、きらきら光る矛を高いところから下ろしたとあるので、稲光をイメージしていることになる。
記に、「天之御柱(あめのみはしら)」(紀一書第一に「天柱(あめのみはしら)」)、紀本文に、「国中(くになか)の柱(みはしら)」とある。この柱については、中国雲南省の苗族の祭の習俗や、淮南子などに載る天を支える柱、ないし宇宙軸とする説がある。ただ、右から回るか左から回るかが問題になるのはどういうことか説明しきれない。回ること、唱えることの順番を誤って、水蛭子や淡嶋が生まれるという失敗が生じている。失敗の原因がわからず、天に上って神に太占(ふとまに)の占いをしてもらっている。太占は古代の占い方で、北方系の諸族に見られるという。魏志倭人伝に、「骨を灼(や)きて卜し、以て吉凶を占ひ、先づ卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼(くゎたく)を視て兆を占ふ」とある。別名を象灼(かたや)きといい、鹿の肩甲骨を抜き取り、小さな穴を開け、そこへカニワザクラの枝に火をつけたものをあてがい、水を振りかけてできたひび割れの状態から占うものである。
天岩戸神話で、天照大御神が岩屋に籠ってしまったとき、出てきてくれるように神々はさまざまな方策をとる。そのなかに、布刀玉命(ふとたまのみこと)(太玉命)が太占を行っている。太は直径が大きいことからしっかりしていること、立派なことをいう。太御幣(ふとみてぐら)、太祝詞、太領(し)り、太敷きなどと使う。そして、梵語で玉のことは摩尼(まに)という。玉を作ることと、象灼きをすることの共通項は、火鑽杵を舞鑽法*1で使うことである。杵と臼とは、男女合体の比喩にもよく用いられる。一方は、勾玉に玉緒の穴を開けるため*2、他方は、火を熾すためである。となると、この火鑽杵の杵の部分を「柱」と呼び、弓の部分が右に回ったり左に回ったりしているイメージを謂っているのではないか。
後段で、伊耶那美命は火之迦具土神を生んで、「みほとを炙かれて病み臥せり」とあって、黄泉の国へ旅立つという話へと続く。伊耶那岐命は妻を失ったことを嘆いて、「子の一つ木に易へつるかも」と言っている。子の迦具土神は、火種を移すべき薪に過ぎないはずであったのに、着火装置である伊耶那美命が燃えてしまって役立たずになり、単なる薪へと転落してしまった。炭化した火鑽臼を相手にしても、もはや火を熾すことはできない。
火鑽杵を使うには、弦の絡み具合から、ファーストストロークでうまく回さないとリズムよく擦ることはできない。そして、形はまるで竹とんぼのようである。トンボを捕まえるには、右にか左にか指をぐるぐると回す。目が回るのか容易に手で捕まえることができる。トンボ自身の交尾の仕方も体をくねらせた特徴的なものである。紀第四段一書第五には、「合交(まぐはひ)せむとして、其の術(すべ)を知らず。時に鶺鴒(にはくなぶり)有り、飛び来(きた)り其の首尾(かしらを)を揺(うごか)す。二神(ふたはしらのかみ)見(みそこなは)して学(まね)び、即ち交道(とつぎのみち)を得たまふ」とある。エッチの仕方を鶺鴒、セキレイに学んでいる。トンボも、飛びながらのアクロバティックな交尾をしており、達者ぶりが注目されたであろう。
つまり、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたとあるのは、火鑽杵をそれとしてたとえ、火鑽臼をそれとしてなぞらえたということである。紀には、「化立(みた)つ」、「化竪(みた)つ」とある。淤能碁呂島は雷のことであったが、火鑽はちょうど竜巻や落雷のように見立てることができる。伊耶那美命が黄泉国(よもつくに)へ行き、「うじたかれころろきて」という状態になったときも、八種(やくさ)の雷(いかづち)の神が成った。竈の火の状態を表しているものと推測される*3。八尋殿は広い御殿の意味であるが、当時の建築では一定の間隔で柱は建てられていた。火鑽臼は一定の間隔をあけて火鑽杵をあてがう穴が開いている。それを、柱を立てる穴だとして八尋殿と称している。
最初、水蛭子(ひるこ)と淡嶋が生まれたとある。蛭子命(ひるこのみこと)は、摂津の西宮戎神社の祭神、淡島は、紀伊の加太神社の祭神、少彦名神(すくなびこなのかみ)の異名とされる。それぞれに所縁があり、両者に関係するのは、海岸に近く立地するという点である。一般にヒルと言われるものは、環形動物ヒル綱のうちでもチスイビルを指し、血を吸うのが特徴である。和名抄に「水蛭 比流(ひる)」とある。腫れ物につけて悪血を吸わせて瀉血、治療する方法が知られている。正倉院文書には、休暇願いの理由として記されている。つまり、蛭とは吸血(すひち)(ヒは甲類)である。神世七代に、須比智邇神(すひちにのかみ)とあり、宇比地邇神(うひじにのかみ)と対とされる。紀では、沙土煮尊(すひじにのみこと)、埿土煮尊(うひじにのみこと)とある。記で、スヒチと清音にこだわっている。水蛭子は砂の泥の洒落であることを示唆したいのであろう。国生みは、海で行われている。蛭に塩分で萎れてしまう。すなわち、沙泥となる洲の面積は潮が満ちてきてどんどん小さくなっている。和名抄に、「洲 水中に居る可き者(ところ)を洲と曰ふ。……四方皆水有るなり」とある。葦船に入れて流し去ったとは、三角洲に葦が生えているからでもあり、足のないヒルを移動させたという洒落でもあろう*4。
他方、淡嶋である。「淡し」は、消えそうなほど淡白であるという意味で、淡水湖の琵琶湖を「淡海(あふみ)」と称する例がある。シマとは、周りを水で囲まれたところをいう*5。説文に、「海中に往々山の依止すべき有るを嶋と曰ふ」とあるから、周りは川ではなく海に囲まれ、消えそうだという表現である。そんな場所は、潟である。干潟になっていても満潮になると消えてしまう。したがって、加太神社にまつわる話である。
記の話はそういう譬えを主に展開してある。紀では、第四段本文には記載がなく、一書第一に、「蛭児(ひるこ)」、「淡洲(あはしま)」とある。ほかは、第六・第九に「淡洲」、第十に「蛭児」とあるものの、国生みの最初に失敗したという設定ではない。また、第五段本文と一書第二に、日神、月神に続いて蛭児を生んだとあり、蛭児は三歳になっても脚が立たなかったとある。本文で、日神のことを大日◆(おおひるめの)(霝の下に女と書く)貴(むち)、天照大日◆尊(あまてらすおおひるめのみこと)などと呼んでいる。天照大御神が昼の太陽を表して農耕神とするなら、蛭の児のほうは漁業神で蝦夷が祭っているという対応になるのであろうか。記で、葦船に入れて流しやったとある箇所は、紀本文では、天磐櫲樟船(あまのいはくすぶね)に載せて「風の順(まにま)」に放棄し、一書第二では、鳥磐櫲樟船(とりのいはくすぶね)に載せて「流(みづ)の順」に放棄したとある。蛭児のイメージとして天上と水上の二種類があることを指している。
蛭児と譬えられる天上のイメージとしては、蚕(蠶)が挙げられよう。古語のヒヒル(ヒはともに甲類)は蛾のこと、特にカイコガを指すこともある。ヒルは唇ということばにも使われるようにぶよぶよして腫れている感じのものを指す。蚕は、多くの蛾や蝶の幼虫のなかでも、肥っているからヒル的な要素が強く感じられる。また、カイコのことはコといった。蚕は繭をつくるとき、8の字に回りながら糸を吐いている。繭はだんだん厚みを増し、やがて内部は見えなくなる。まるで籠のようで、籠(こ)と蠶(こ)(コは甲類)とは同源の語とされる。蚕が繭をつくるときは、上のほうへ上っていく習性がある。それを利用して養蚕では、蚕がひとつひとつ繭を作るように、巣箱となる器具、蔟(まぶし)を用いた。蔟の素材には、粗朶、竹籤、稲藁などが使われた。葦が利用されたかはわからないが、漁師が狩猟の際、待ち伏せに身を隠しておく設備のことを射翳(まぶし)という。葦の生い茂る洲は射翳によく相応する。混ぜて均した名古屋名物はひつまぶしである。繭と素材とがまぶされている光景によく相応する。そして、生糸が高いところできらきら輝いていてまぶしい。天の沼矛を操ったから、浮いたところできらきらしている様は似つかわしい。そして、記、紀第四段一書第一、第五段一書第二に、天の御柱を巡った時、伊耶那岐命(陰神)のほうが伊耶那美命(陽神)よりも先に喜びの声をあげ、陰陽の道に反するから、蛭子が生まれたとある。養蚕は、女性が男性にまさっている仕事であろう。
淡嶋についても、水面よりも少し高いところの島もイメージできる。淡くてすぐに消えてしまう蜃気楼で、古語に「陽炎(かげろふ)」という。史記・天官書に、「海旁(かいばう)の蜃気(しんき)は、楼台に象(かたど)り、広野の気は、宮闕を成す」とある。蜃気楼は、巨大な蜃(はまぐり)(小型のものは蛤)が息を吐いて現れたものであるとの説である。それが中国から伝わったらしい。ハマグリは体から粘液物質を帯状に放出し、それを落潮時の潮流に流してかなりの距離を移動しているという。それを見て、ハマグリが気を吐いたと表現しているのであろうとされる*6。女子のお祭りである桃の節句には雛人形を飾り、貝合わせ遊びをする。ハマグリの貝殻はその一対のみにてぴったり合うが、他にはけっして合致するものがない。したがって良縁はひとつ、女の幸せはそれに尽きるという考え方に展開していく。
国生みの話では、記に、島の亦の名の神名を記すのに対して、紀では、「洲(しま)」の名を連ねるに止まる。紀本文に、「産(こう)む時に至るに及びて、先(ま)づ淡路洲(あはぢのしま)を以て胞(え)とす」とあり、すぐに大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)を生んだ。次に伊予二名洲(四国)、筑紫洲(九州)、億岐洲(隠岐)、佐度洲(佐渡)、越洲(北陸)、大洲(山口県屋代島)、吉備子洲(児島)の順で生み、以上で大八洲国の名前ができたことになると解説している。淡路洲は大八洲に入らない勘定である。また、対馬島、壱岐島とその他のもろもろの島々は、みな潮の泡が凝り固まってできたものであるとなっている。洲と島とが使い分けられ、厳密な表記が心掛けられている。一書第一では、胞の話はなく、大日本豊秋津州、淡路洲の順で、大島が除かれて大八洲国としている。第二から第五までは国々の記載はなく、第六は、淡路洲・淡洲を胞として大日本豊秋津洲を生み、以下本文に同じである。第七は、淡路洲、大日本豊秋津洲、伊予二名洲、億岐洲、佐度洲、筑紫洲、壱岐洲、対馬洲の順である。第八になると、磤馭慮嶋が胞にされ、淡路洲を生み、次に大日本豊秋津洲、伊予二名洲、筑紫洲、吉備子洲、億岐洲、佐度洲である。第九では、淡路洲を胞として大日本豊秋津洲、その後に淡洲が登場し、伊予二名洲、億岐三子洲、佐度洲、筑紫洲、吉備子洲、大洲、第十では、淡路洲、蛭児を生んで終わっている。異同が多い点が、かえって表記の厳密さを追求していることを伝える結果になっている。
大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)の秋津とはトンボのことで、蜻蛉と記される。和名抄に、「蜻蛉 本草に蜻蛉と云ふ [精霊二音] 一名胡■(勑の下に虫と書く) [音勑加介呂布(かげろふ)]」とある。「蜉蝣(かげろふ)」とは、今いうカゲロウ目やウスバカゲロウのようなアミメカゲロウ目の昆虫だけでなく、トンボ一般をも指したらしい。そして、「陽炎(かげろふ)」は、光がちらちらと揺れ動くように見える現象をいい、「かぎろひ(ギ・ロは甲類、ヒは乙類)」の転とされ、ヒは火である。万葉集では、炎・蜻火・蜻蜓火といった字を当てている。トンボの羽の繊細な輝きとして表現するのは、他に例を見ないような細やかな感覚とされる*7。それほど特別なことばとして扱われた理由は、この国生みの話と関係があるからであろう。
生まれる順として、淡路島を出発点に、本州から四国、九州、日本海側、瀬戸内海へと回るか、四国の次に隠岐、佐渡があって九州が後回しにされるか、記のように本州が大八島国の最後になるかいろいろである。いずれにせよ、トンボのようにぐるりと回っている。紀に見られる胞は、国が生まれるときの梃子として効いている。そして、淡路島がキーになっている。紀本文に「意(みこころ)に快(よろこ)びざる所(ところ)なり。名(なづ)けて淡路洲と曰(い)ふ」とある。何が気に入らなかったのか、また、アハヂという名がどうして悪口なのかについて、一説に、第一子は産みそこないであるという当時の伝承から、吾(あ)恥(はぢ)なのであり、地名譚の付会であろうという。胞はヤ行のエであり、兄と同音である。国生みの話は、記、紀本文、一書第一〜第十までであるが、一書の第二以降は大雑把で噺のレベルに達していない。何食わぬ顔で紀本文を書いた人だけが淡路島の悪口を伝えている。
おそらくこれは、諺の「虻蜂取らず」の訛った形の頓知であろう。Abufati→afadi。自ら張った巣の中央に蜘蛛がおり、巣の対角線上に虻と蜂とが同時にかかるとどうなるか。両者とも獲物として大物で魅力的だが、当然力も強い。蜘蛛は、どちらを捕ろうかと迷っているうち、どちらも捕れないまま逃げられてしまう。そこで、諺として、どっちつかずや中途半端なことの譬えに用いられている。近畿にある朝廷は、西方からの侵入者に対し、明石、鳴門の両海峡を防ごうとして、淡路島に城を構えて守ろうとしたが叶わなかった。それを虻蜂取らずの淡路島と洒落ている。むろん、淡路という地名は、まずはじめに阿波という地名があり、それに引きずられてできたであろう淡路という地名があって、それにかこつけた地名説話を創作したと考えるのが妥当である。
淡路島は、明石、鳴門とも海峡、すなわち、峡(かひ)に挟まれている。クモの巣は高いところできらきらしている。移動に際して糸を伸ばして風に乗り、海を越える種もあるという。それを糸遊(いとゆう)と呼ぶ。三〜七oの成体のクモが細い糸を吐き、風に乗って移動する現象である。ただし、一般に糸遊といえば陽炎のことを指す。現象としてはいずれもぼやぼやっとしてちらちらっと目に映る。漢語の遊糸は、南朝梁の時代の詩賦に見えている。わが国では、和漢朗詠集や菅家文章に、和訳された糸遊が見られる。また、空海が仏典に拠って「陽燄」の語を用いており、陽炎と遊糸がイメージのなかで混同しているとも考えられている。平安朝の仮名文学においても、「かげろふ」は、ほのかな光の揺らぎ、光ってはかげり、かげっては光る心もとない現象として想起され、人の世やわが身のはかなさの譬えとして表現された*8。
秋津島は淡路島を胞として出てきた。淡路島は、古代以来、一つの島で一つの国、淡路国を形作る。その胞を破って、蜘蛛の子を散らすような状態になった。ものすごい数のもじゃもじゃが現れた。一つの島(本州)にたくさんの国(近江、丹波、信濃、上総、出雲、伊勢、吉備、越、紀伊、伊豆、美濃、播磨、……)がある。明石のタコを特に蜘蛛蛸という。クモの小さいのに似た水中の昆虫といえば、トンボの幼虫ヤゴである。トンボの羽根は高いところできらきらしている。透き通った羽根がぼやぼやっとちらちらっと見えるのは、縁紋と呼ばれる筋の模様がついているからである。秋になって成熟すると、縁紋は左右の羽根でぴったり揃うようになる。交尾して産卵できるようになった証拠である*9。
証だから明石である。仁賢即位前紀に、「白髪天皇(しらかのすめらみこと)、尋(つ)ぎて小楯(をだて)を遣(つかは)して、節(しるし)を持ち、左右(もとこ)の舎人を将(ゐ)て、赤石(あかし)に至りて迎へ奉る」とある。勅使の証は「節(しるし)」である。竹の節を割ると、左右で合うものはほかにないから証明になる。貝合わせと同じことをいっている。そして、赤しでもあろう。赤とんぼは成熟の証として赤くなり、子どもがたくさん生まれる。継体紀七年十二月条には、「秋津(あきづしま)は赫赫(さかり)にして」と表現している。
秋津島とは、秋になると縁紋が合う、つまり、「辻褄が合う」ということである。aki+tudituma→akidusima。神武紀三十一年四月条にある形容にも、「蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)の如くにあるかな」とあり、秋津洲の名の起こりという。秋津ないし秋津島という地名が葛城にあって、その地名説話を作っていた。そのうち、秋津島ということばの示す地理的範囲が拡張していったと考えられる。ちょうど倭(やまと)が、三輪山や巻向山の山麓付近の一地名であったのが、今の奈良盆地を表す大和(やまと)、列島全体を表す日本(やまと)へと拡張していったようにである。あるいは、朝鮮半島南部の加羅(から)が、半島全体の韓(から)、中国の唐(から)までいうようになったようにである。
また、雄略記に、「阿岐豆野(あきづの)」で狩りの際、腕にとまった虻を食う蜻蛉を讃える歌がある。
……手こむらに 虻(あむ)かき着き 其の虻を 蜻蛉(あきづ)はや咋(く)ひ かくのごと 名に負はむと そらみつ 倭の国を あきづしまとふ(記九七)
紀七五番歌にも同じ趣旨の歌が載る。この話のおもしろい点は、虻蜂取らずどころか、トンボならば両方捕まえて食べてしまうであろうことである。明石海峡も鳴門海峡も、いずれの外敵もやっつけてしまうことができる速さである。そんなトンボとは、トンボの形をした火鑽杵によって熾された火を使った烽(とぶひ)のことを暗示しているのかもしれない。烽は狼煙(のろし)、また、それをあげる烽火台をいう。高いところでもやもやと目立っている。蜘蛛に代わる雲ということになろう*10。
トンボの名は飛ぶ棒の訛りかという。飛ぶ棒といえば、太鼓を叩く桴(ばち)(枹)が連想される。ヤゴの別名をタイコムシという。太鼓の原体験はでんでん太鼓である。話の最初にあった淤能碁呂島が雷さまをイメージしていた証左である。また、秋津(蜻蛉)なる赤とんぼが飛んでくるのが秋である。稲を刈り籾または稃(かひ)を市へ持ってゆき、売り買いする。秋だから商いという。分量をはかるのに必要なのが秤(はかり)で、天秤棒に吊るす。その大型のものは杠秤(ちぎり)(扛秤)といい、棒の中ほどを支点として多少細くなっている。左右が吊り合ったところが辻褄が合うところということであろう。秋には雁も渡ってくる。季節をはかる鳥である。肥えた獲物を探して狩りにもゆく。トンボのような、火鑽杵のような弓矢を使って射ると、手負いの獣は血痕を残しながら逃げていく。どこへ、いつごろ逃げて行ったかは、地面の血の跡を見れば推しはかれる。これを蹤血(はかり)という。山に残る跡だから、秋津島は山跡(やまと)ということになる。
万葉集でのヤマトの用字では、「山跡」が十八例(一、九一、三〇三、三一九、四八四題詞、五五一、五七〇、一二一九、一二二一、一三七六、一六七七、一九五六、二一二八、三二四八、三二四九、四二四五、四二五四、四二六四)、「倭」が二十二例(二九、同或云、三五、六四、七〇、七一、七三、一〇五、一一二題詞脚注、二五五、二八〇、八九四、八九四、九四四、九五四、九六六、一一二九題詞、三一二八、三二三六、三二五〇、三二五四、三三三三)、「日本」が十七例(四四、五二、六三、三五九、三六六、三六七、三八九、八一〇題詞、九五六、九六七、一〇四七、一七八七、一一七五、一三二八題詞、二八三四、三二九五、三三二六)、その他に十一例(二、二、三三六三、三四五七、三六八八、三六〇八左注、三六四八、四二七七左注…行政単位、四四六五、四四六六、四四八七)あり、これには一字一音の仮名書きが含まれる。
古代の地図、行基図は、独鈷図ともいう。まんなか辺がくびれているのを法具に見立てた。地理的には、列島は若狭湾から琵琶湖を通って伊勢湾へ抜けるところが細くなっている。独鈷に見立てたのは中世のこととされている*11。古代においては、地図上で東西に広がって延びている国々の様子は、トンボが羽を広げた姿に準えられて考えられたのではないか。そして、トンボが交尾して胴を丸くしたときの形が、畿内の大和国の外輪山に準えられたのであろう。
倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あをかき) 山ごもれる 倭しうるはし(記三〇)
とある。観念の地図からすると、大和国だけ他の国々とは別格ということになる。国生みで生んだのは島(洲)であり、周囲が水で囲まれていたのとは対照的である。
山が四方を取り巻いている。取り巻きといえば、女なら芸者、男なら太鼓持ちのことをいう。倭の字は女が身をくねらせて舞っている様を表す。舞は見ていてちらちらする。目がくるめきちらちらするのは眩暈(めまい)である。舞舞はかたつむりである。でんでん太鼓の桴のようだから、でんでん虫という。カタツムリの通った跡は粘液できらきらしている。張鼓(はりつづみ)は、二つの小鼓を柄で貫き、両側に糸の玉を垂れた楽器である。柄を振れば玉が鼓の皮に当たって鳴る仕掛けである。追儺の行事、いわゆる鬼やらいにも使われた。大掛かりで似ているものが雅楽に用いられる鼗(ふりつづみ)である。桴で叩く打楽器のなかでも、銅鑼となると反響が激しく近場に雷が落ちたほどになる。目上の人が大声で猛烈に怒るのを、雷が落ちるという。虎が吼えるほど恐い。銅鑼は船の出港のときに鳴らす。もやいを河岸から外すとふらふら揺れ始める。虎は猫のようであるが、身体に比べて頭が大きい。バランスが悪いから頭をふらふらさせている。首の揺れる張子の虎の起源である。
酔っ払って管を巻いている人のことを「とら」という。頭がふらふらしている。眠気がさしてまどろむようにとろとろの状態だからである。片栗粉のとろみ、まぐろの身の脂肪に富んだ部位のとろ、川の水深が深くて流れが緩やかな瀞、雷鳴の音のどろどろ、水が混じって粘性を増した土の泥、煮炊きに勢いの乏しいとろ火、皆同じ感覚から生まれたことばであろう。神武紀元年正月条に、「妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり」とある。列島にいなかったタイガーのことを渡来人から聞いて、その頭のとろとろの揺れと、どろどろの雷のような吼え声からトラと名づけた。蕩かすとは、人に本心をすっかり見失わせて完全に迷わせることをいう。確かに、虎を前にしたらまったく参ってしまうであろう。
「倭」は、前漢書地理誌に、「楽浪の海中に倭人有り。分れて百余国を為す」の場合、音はワである。説文にはヰの音で、「順ふ貌(かほ)」とある。佞と同義で、諂う、媚びる、阿るの意味である。相手の気に入られるように取り入って振舞い、迎合して空気を読み、追従口、おべっか、お世辞を言って回ることである。太鼓持ちの所作をいう。おもねるとは、面練る、すなわち、顔を左右に向けることが原義という。虎が首を左右させているのは、本来は獲物を探しているのであろうが、阿っていると捉えられたらしい。
記の上巻や神代紀の叙述については、天皇による支配の正統性を主張するために、その祖先の神話が語られているとする説が根強くある。しかし、当の紀の巻一初めの「神世七代」以外に、カミノヨと訓むべき箇所はない。伊奘諾尊、伊奘冉尊までが神世で、巻一・巻二を神代上・神代下とするのは、他の巻の漢風諡号同様、後の時代に加筆されたものと考証されている。
ここで見てきた国生みの話は、全体を俯瞰すれば、倭にかかる枕詞、秋津島ということばをめぐる壮大ななぞなぞ体系であることがわかる。初めに神があったとするのは伊奘諾尊、伊奘冉尊の出現までで、以降は初めにことばありきである。紀冒頭の淮南子を引きながら作為している箇所に、「清陽(すみあきらか)」とある。きらきら輝くものが天になったとする。倭の人がオリジナルに創作したと思われる国生みの話にも、上空できらきら輝くものが多数登場していた。その連想から漢籍を引き合いに出して飾られたか、漢籍をヒントに国生みのなぞなぞを展開していったか、いずれかであろう。
国生みによって生まれた島は、本州、四国、九州とその周辺の島であった。それらの地域をヤマト朝廷が版図におさめたのは、五世紀、倭の五王の時代である。つまり、五世紀以降に国生みの話は作られている。聖徳太子等が記紀の種本となる天皇記・国記・本記を録したのは、六二〇年のことである。つい二百年ほど前に過ぎない最近のできごとを説話化している。なぞなぞの意味合いがわかれば、民族の神話でも、天皇家の神話でもないのは理の当然と了解されるであろう。

*1 記の火鑽杵の記事としては、大国主神の国譲りのとき、「海布(め)の柄(から)を鎌(か)りて燧臼(ひきりうす)に作り、海蓴(こも)の柄を以て燧杵(ひきりきね)を作りて、火を欑(き)り出でて云はく」とあって、奏上のことばが述べられている。出雲国造家の寿詞との関係も指摘されている。ただ、出雲の熊野大社における国造の火嗣式は、棒だけの火鑽杵を手揉みする揉鑽法である。横木の弓のついたトンボ型をした火鑽杵で火熾しをする神事としては、伊勢神宮や熱田神宮などが知られる。
*2 土田孝雄『翠の古代史;ヒスイ文化の源流をさぐる』奴奈川郷土文化研究会、一九八二年。縄文遺跡から未完成の勾玉が発掘されると、緒の穴に必ず管のようなもので開けられたへそがあるという。そこで、十分に乾かした五、六年生の篠竹の稈(かん)の部分を柄に使い、火鑽杵の要領で錐揉みする。固い砂、例えば、ザクロ石の粉末を研磨剤として注いだのであろうとされている。
*3 拙稿「黄泉の国」参照。
*4 西宮戎神社の祭神は、蛭子命(ひるこのみこと)である。中世に、エビス神の操り人形が豊漁や繁盛の予祝として広まって、福の神と受け取られるようになったという。エビスの語は、エミシの訛りかともされる。すでに霊異記に、「蝦夷、衣比須(えびす)(エはア行のエ)」とある。東北地方の異民族と西宮の関係はわからない。エビで鯛を釣るというから、エビを入れた餌籠であるエビスは豊漁のもとであって、予祝の対象と考えられたのであろう。アイヌが狩猟、漁撈、採集の民であったこととも関連するのであろう。エビのような洲を頭のなかに描くと、湾曲し、色変化する洲が思い浮かぶ。洲は砂と同源の語であり、砂の水分の乾燥度合いによって色が変わる。「干(ひ)る」は上代には上二段活用であったといい、蛭と干るとは無関係であろうとされる。蛭は血を吸えば赤く大きくなり、塩につければ水分が抜けて萎み縮こまる。
*5 白川静『字訓』平凡社、一九八七年。嶋山という語があるように、谷川が多い我が国では、川がめぐり流れていて孤立した形になっているところが方々に見られる。それがシマということばのもともとであろうという。庭園の山斎をシマと呼ぶところまで展開している。
*6 末広恭雄『魚と伝説』(新潮社、昭和三十九年)に、内田恵太郎博士の研究として紹介されている。
*7 白川静、上掲書。
*8 錦三郎『飛行蜘蛛』笠間書院、二〇〇五年(初出は、丸ノ内出版、一九七二年)による。糸遊は山形県米沢地方で「雪迎え」と呼ばれている現象で、gossamerのことであるとされた。
*9 中世以前の日本地図を総称して行基図という。十四世紀初めの仁和寺本日本図や金沢文庫本日本図、十四世紀半ばの拾芥抄所収の大日本国図などがある。いずれも諸国が丸みを帯びた形で描かれている。地図の要件として境界を示すだけであれば、直線的か曲線的かの二様である。地図は古代からあったと考えるのが自然である。我が国の場合、諸国の編成に大きな変化はなく、また、宗教的なドグマに支配された暗黒時代も訪れていない。既存の地図を目にしながら、模写や修正を繰り返して新しい地図は作られ続けたのであろう。そして、やがて、現存する行基図へとつながったと考えられる。すなわち、古代の地図からして、その特徴を一言でいえば、縁紋的であった。
*10 制度としての烽は、白村江の敗戦後、天智三年に防人とともに置かれており、養老軍防令に規定がある。昼は烟、夜は火による通信である。海上からの敵襲に備えたもので、東北地方の蝦夷に対して設けられたことはない。また、実際に利用された例は、藤原広嗣の乱において、広嗣が兵を動員するために使った以外記録されていない。したがって、ここにあげた洒落が本当に考えられていたか、実際のところはわからない。
*11 黒田日出男『龍の棲む日本』岩波書店(岩波新書)、二〇〇三年。 
黄泉の国

 

黄泉国の話は、伊耶那美命(いざなみのみこと)の死、伊耶那岐命(いざなきのみこと)の黄泉国訪問、黄泉国からの脱出と訣別、禊祓の話から成る。
伊耶那岐命と伊耶那美命とは、国を生み、神を生んだ。最後に、火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)、別名を火之R毘古神(ひのかかびこのかみ)、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生み、陰部を焼かれて病み伏し、嘔吐し、脱糞し、失禁し、それぞれは神になったが、結局、伊耶那美命は亡くなってしまった。伊耶那岐命は、「愛しい妻よ、子ども一人に代わろうというのか」と嘆いて、枕元で腹這いになり、足元で腹這いになって泣き、涙に泣沢女神(なきさわめのかみ)が成った。そして、伊耶那美命は、出雲国と伯耆国の境の比婆之山(ひばのやま)に葬った。
伊耶那岐命は、腰に帯びていた十拳の剣を抜いて、迦具土神の頸を斬った。その剣の各部についた血からそれぞれ神が生まれた。都合八柱の神は、御刀に因って生んだ神である。また、殺された迦具土神の身体の各部からも、八柱の神が成った。それらは山の神である。
さて、伊耶那美命に会おうと思って、黄泉国へ追って行った時、御殿の戸を閉じて出迎えた。伊耶那岐命は、「愛しいわが妻よ、国作りは途中だから帰っておいでよ」。伊耶那美命は、「来るのが遅いから黄泉の国の竈で煮たものを食べてしまった。とはいえ、愛しいあなたが来てくださったとは恐れ多いこと、帰ろうと思う。黄泉神と相談するから私を見ないでほしい」と言って、御殿の内へ入った。いつまでたっても出てこないので、伊耶那岐命は待ちくたびれてしまった。そこで、左のみずらに挿していた神聖な爪櫛の端の太い歯を欠きとって、火を燈して入って見た。すると、伊耶那美命の身には、蛆がたかってころころと音を立て、身体の各部には八種の雷神が成っていた。
伊耶那岐命は見て畏れ、逃げ帰る時、伊耶那美命は「私に恥をかかせたな」と言って、黄泉国の醜女を遣わして追わせた。伊耶那岐命は、黒い鬘を取って投げ捨てると、すぐに葡萄になった。拾って食べている間に逃げて行ったがまた追って来た。右のみずらに挿していた神聖な爪櫛を引っ張り欠いて投げ捨てると、すぐに筍が生えた。抜いて食べている間に逃げて行った。さらに伊耶那美命は、八種(やくさ)の雷神(いかずちのかみ)に加えて千五百(ちいお)の黄泉軍(よもついくさ)を副えて追わせた。腰に帯びた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて後ろ手に払いながら逃げて来た。なお追って来て、黄泉比良坂(よもつひらさか)(泉津平坂)のふもとに着いた時、そこに生えていた桃の実を三個とって投げつけたところ、みな帰っていった。そこで、桃の実に、「私を助けたように葦原中国のすべての人々が苦しい目にあった時、助けるように」と言い、意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)と名づけた。
最後に、伊耶那美命が自ら追って来た。そこで、千人がかりでやっと動く岩を黄泉比良坂(よもつひらさか)に引っ張ってきて塞ぎ、その岩を間にして各自向い立って、最後通牒を言い渡した。伊耶那美命は、「愛しいわが夫よ、こうなったからには、あなたの国の人を一日に千人絞殺しよう」。伊耶那岐命は、「愛しいわが妻よ、こうなったからには、一日に千五百の産屋を建てよう」。こういうわけで、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれるのである。伊耶那美命を名づけて、黄泉津大神(よもつおおかみ)という。また、その追って来たことから、道敷大神(ちしきのおおかみ)と名づけた。黄泉坂(よもつさか)を塞いだ岩は、道反之大神(ちがえしのおおかみ)、また、塞いでいる黄泉戸大神(よもつとのおおかみ)という。黄泉比良坂は、現在の出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)という。
伊耶那岐命は、「なんとも醜くて穢い国に行っていたものだ。身体の穢れを祓うべく禊をしよう」と仰って、筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)に到着して禊祓(みそぎはらえ)をした。その時、身に着けていた物を投げ捨てることで十二柱の神が生まれた。ついで、「上の瀬は流れが速く、下の瀬は弱い」と言って、初めて中ほどの瀬に飛び込んで身をすすいだ。その時に成った神の名は、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、次に大禍津日神(おおまがつひのかみ)、この二柱は穢れの激しい国に行って汚れたのでできた神である。次に、まがごとを直そうとして成った神の名は、神直毘神(かむなおびのかみ)、次に大直毘神(おおなおびのかみ)、伊豆能売(いずのめ)の三柱である。水底にすすいだ時に成った神の名は、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、次に底筒之男命(そこつつのおのみこと)、中にすすいだ時に成った神の名は、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、次に中筒之男命(なかつつのおのみこと)、水上にすすいだ時に成った神の名は、上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)、次に上筒之男命(うわつつのおのみこと)である。三柱の綿津見神は、阿曇連(あずみのむらじ)等が祖神としてお祭する神である。底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江(すみのえ)の三前(みまえ)の大神である。
そして、左の眼を洗った時に成った神の名は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、次に、右の眼を洗った時に成った神の名は、月読命(つくよみのみこと)、次に、鼻を洗った時に成った神の名は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)である。以降、三貴子の分治の話につながっていく。以上が話のあらすじである。
記紀の神話にある伊耶那岐命、伊耶那美命を黄泉の国に訪ねる話は、五世紀に始まった横穴式石室をもった古墳の真っ暗な内部で、亡骸が腐敗していく有り様を象徴的に表している*1ものとも、また、洞窟を含めて地下から人類が出現して、死ぬと再び戻っていくという観念と関係する*2ともいう。他にも諸説あるものの、冥界のような他界の観念を、一義的に表そうとしたものとの考え方が一般的である*3。当初、伊耶那美命は、火の神である迦具土神に焼かれて死に、黄泉国へ来たことになっている。国生みの話のなかで、伊耶那岐命と伊耶那美命は、火鑽杵と火鑽臼とを表していた。すると、黄泉国ということばで表す場所は、火と関係するところでなければ了解できないことになろう。
「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)」に到って「禊祓(みそぎはらへ)」(紀第五段一書第六に「祓除(みそぎはらへ)」)をしようとしている。原っぱで禊をするとはどういうことか。あはき原は、紀に、「檍原(あはきはら)」とある。檍とは、和名抄に、橿の木の一名ではないかという。ならば、なぜ「橿原」としなかったかも疑問である。アハキに似たことばにツハキがあり、唾液をもともとツといって、それを吐くからツハキになったとされている*4。アハキのアは、熱(暑)い、暖(温)かいなど、熱気を表すアを口から噴き出している様子を示そうとしているのであろう。つまり、アハキは、後に訛ってアキハというのと同じことに違いない。秋葉原は、火伏せの神として崇められる秋葉神社の秋葉の原っぱ、すなわち、火除け地である。
秋葉信仰は、特に関東や中部地方によく見られ、静岡県西部の秋葉山を火伏せの神としてまつる信仰である。修験道の山として知られる秋葉山は、もとは神仏習合であったが、現在では秋葉神社、秋葉寺(しょうようじ)があり、ともに十二月十五、十六日に火祭りが行われる。秋葉神社の祭神は火之迦具土神で、弓・剣・火の舞が奉納される。秋葉寺では護摩がたかれて火渡りが行われる。また、秋葉山やその奥院とされる竜頭山が修験道場の中心で、修験者の三尺坊権現が一千日参籠して火生三昧の法を修して、神通不思議の験力を得て飛行昇天したとされる。合祀されて秋葉三尺坊といわれ、その存在は天狗と見なされて、秋葉信仰の火伏せの神としての性格と結びついている。山の頂に清水が湧いていることも、あらたかな霊験を表すものと考えられたであろう。
天狗は、仏教で夜叉、羅刹といった悪魔とされたものが、南北朝期の中国で、神仙世界の考えと融合して半鳥半人化して受容されたという。山海経(せんがいきょう)・西山経に、「[陰山に]獣(けだもの)有り、其の状は狸の如くにして白首。名けて天狗(てんこう)と曰ふ。其の音は榴榴の如し。以て凶を禦(ふせ)ぐ可し」とある。さらにわが国に入って、修験道と結びついて想像されたとされる。鬼子母神や毘沙門天といった産育神の周囲に配されることの多い鬼神とも関係するという。それは、山の神、ないし、山の妖怪の一種の性格も付与され、大きく分けて二つのイメージがある。一つは山伏姿をベースにしたもので、高下駄を履き、顔が赤くて鼻が高く、手足の爪が長く、金剛杖や太刀を持ち、羽団扇を使って自由自在に空中を飛翔する姿で描かれる。もう一つは、鵄に近い鳥の姿で背に翼を備え、嘴を持っているもので、烏天狗と呼ばれることもあるが、両者折衷の姿もしばしば見られる。秋葉三尺坊権現は、白狐に跨った烏天狗の姿である。烏相有翼の姿は、もともとはヒンズーの神であり、龍の天敵とされたガルーダの影響があるとされる。仏教に入って、雷神の性格を持った迦楼羅(かるら)天となり、修験者がそれを奉じたために天狗と称されたのではないかという*5。
火の気のあるところの前面に、物を置かずに延焼しないようにしていたとすると、それは竈である。縄文・弥生時代のコンロは炉である。竪穴住居に床面をくぼめ、四方がすべて前面である。古墳時代になると、朝鮮半島南部から新しいコンロ、すなわち、壁際に造り付けた造付竈がもたらされた。従来の炉は、一部地域を除いてほぼ一掃されてしまう。竈の場合、焚き口のほうだけ火が見えるから、その方だけ気をつければいい。その土間の空きスペースを、火除け地に見立てて秋葉原ならぬ阿波岐原(檍原)と記している。ただし、竪穴住居跡から出てくる竈の遺構をみると、古いものほど地面を少し掘りくぼめた形式のものが多く、炉の影響を残しているものかという*6。
アハキに似た音のことばに、「暴(あは)(発)く」がある。古く清音であったらしい。下二段の自動詞のときは剥げ落ちる、剥落する意、四段の他動詞のときは土中に埋もれて隠されている物を取り出すことである。竈の前の地面を掘り下げていることは、暴かれているということになろう。一方、暴かれて掘り下げられていれば、窪んでいるから原ではない。アハキハラということばには自己撞着がある。橿原と称さなかった理由の一端が窺える。黄泉比良坂(泉津平坂)とあって、坂が平らなはずがないのと同じである。今日の秋葉原という地名は、秋葉神社に由来しつつも、秋葉神社が山の頂にあることの矛盾を忘却することで成り立っている。
後に、天孫が降臨したのは、「竺紫の日向の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くじふるたけ)」である。筑紫の日向とは、日光が当たるところを意味するらしい。暗い黄泉国から「竺紫の日向の橘の小門」に到り、明るいところへ出たとなると、竈の焚き口のところへ来たということであろう。家屋敷の大門ではないから小門である。また、筑紫の日向のつながりは、焼畑の延焼防止を願う防火の神札として秋葉札が使われていたこととも関連するのであろう。三河、信濃、遠江国境山地の焼畑農民の民俗文化は、同じく焼畑の盛んな日向山地において、東臼杵郡北郷村宇納間(うなま)の全長村地蔵堂の地蔵尊のお札を使うのと似通っているという。紀一書第二に、「軻遇突智(かぐつち)、埴山姫(はにやまびめ)を娶(ま)きて、稚産霊(わくむすひ)を生む」とあって火と土の結合が語られるのも、焼畑農耕の起源を示していると説かれている*7。
「禊祓」を原っぱで行っていたが、禊は、河原や海辺で行うものとされている。身についた罪や穢れを水によって清める儀式を伴うからである。水の浄化力によって身を清め、神に近づくことができるようになるらしい。一般に、身濯ぎの意と解釈されているが、仮名書きの例がなく、ミ・ソの甲乙を定めがたい。阿波岐原が竈の前の火除けスペースであるなら、水のないところで禊をしている。すなわち、身削ぎの意で、木が燃えかかって炭化した部分を擦って削いでいること、祓とは、被った火の粉や灰を掃うことを指しているのではなかろうか。無論、洒落を言っているのであろう。
橘は、コウジミカンなど柑橘類の総称とも、ニホンタチバナ(ヤマトタチバナ)の別称ともされる。ニホンタチバナは、常緑の小高木で、高さが三〜五m、枝は緑色、葉は互生し、光沢がある。五〜六月に白い五弁の花をつけ、芳香を放つ。冬に黄色い果実を結び、果皮は薄く剥がれやすい。酸味が強いため、生食には向かない。万葉集では、橘の実を玉に貫いたり、鬘や髻華(うず)にして髪を飾ったりしたこと、市の立つ衢に橘の木を植えたことも歌われている。それぞれの枝先に実を結ぶため、天智紀にはそれをモチーフにした童謡(わざうた)が記載されている。亡命百済人に叙位した記事に続いている。
橘は 己(おの)が枝々 生(な)れれども 玉に貫(ぬ)く時 同じ緒に貫く(紀一二五)
また、橘の木は病害に強く、暖地の庭園樹として植えられている。平安時代に、紫宸殿から庭に降りる階の左側に桜、右側に橘が植えられ、それぞれ左近の桜、右近の橘といわれ、古来からあるタチバナであろうという。さらに、開花期の陰暦五月は、橘月ともいわれる。万葉歌では、霍公鳥と橘をともに詠むことも多い。花に鳥が近づく様子から、屋前(やど)に植えて恋する人が見に訪れてくれることを願う比喩として用いられている。伊耶那岐命、伊耶那美命のカップルの話を連想させるものがある。
上代には、多遅摩毛理(たぢまもり)(田道間守)の逸話として知られる「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)(非時香菓)」があり、橘か、古名をアヘタチバナとする橙かであるという。垂仁天皇は、多遅摩毛理という人を常世国(とこよのくに)に遣わし、ときじくのかくの木実を求めさせた。彼は、その木の実を採って、葉がついたままの枝と葉を取り去った実だけの枝をそれぞれ八枝持ち帰った。ところが、帰国してみると、すでに天皇は崩御した後で、半分の四枝ずつを皇太后に献上し、残りの四枝ずつを天皇の御陵の戸に捧げ置き、泣き叫んで殉死してしまったという。
この話は、記紀のほか、万葉集にも伝承を詠みこんだ歌が載っている。
……橘の 生れるその実は 直(ひた)照りに ……(万四一一一)
橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し(万四一一二)
橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の樹(万一〇〇九)
常世物 この橘の いや照りに わご大君は 今も見る如(ごと)(万四〇六三)
大君は 常磐(ときは)に在(ま)さむ 橘の 殿の橘 直照りにして(万四〇六四)
常世国は常住不変の国の意である。紀第八段一書第五に、「常世郷」とあり、他界思想に通じ、また、中国の神仙思想と結びついて、不死の国のことと考えられていた。雄略紀二十二年七月条の浦島子伝説に「蓬莱山(とこよのくに)」、丹後風土記逸文に「蓬山(とこよのくに)」とあって、海の向こうのことと想定するのは、晋の郭璞の注した山海経・海内北経に、「蓬莱山は海中に在り」とあるによる。体系的ではないにせよ、道教思想の流入を確かに物語っている。
強い香りが特徴的なのは、仏堂である。斎宮忌詞では、仏堂のことを香燃(こりたき)という。お香を年中焚いているからである。特にいい香りのするものは、伽羅(きゃら)であろう。伽羅(から)(伽耶(かや))は朝鮮半島南部の国名であったから、韓の国からやってきた仏教と関連すると感じられたであろう。香(こり)(コの甲乙は不明、ことば自体を漢語からの転とする説には従えないものの、字音を当てたとするなら拗音なので乙類かと推測される)は、皇極紀元年七月条に、「蘇我大臣(そがのおほおみ)、手に香鑪(かうろ)を執(と)りて、香を焼(た)きて願(ちかひ)を発(おこ)す」とある。伊耶那岐命が橘という、香りの良いはずの地名のところへ帰ってきて禊をしたというのも、同音の垢離*8(コの甲乙は上代の用例が見られず不明)、すなわち、水垢離のことを連想しての話なのであろう。また、樵り(コは乙類)とも同音である。木樵りをするのは、木材を得るためである。建築用や器材用などいろいろあるが、燃料用に薪を採ることも大きな役割であった。特に薪は消耗品のために大量に伐る必要があり、使い勝手のいい斧が求められたであろう。炉は周囲が開放されているから燃焼しやすいが、竈の場合は薪を割ることも必要である。鉄製利器を作るには、たたら製鉄の技術が必要であり、竈との間にも深いつながりがあるようである。
樹木のタチバナという名の由来は一概に定めがたいが、その音から得られる印象としては、花を立てること、すなわち、仏前に花を供えることが感じられよう。後代には、立花(たてばな)と呼んでいる。寺の大門のところではなく、仏像が安置された仏堂の観音開きの扉の側近くの左右に、花瓶を据えて供えられている。それを小門と表している。他方、神前に花を飾る習俗としては、小正月に飾られる削り掛けという工芸も生まれている*9。ふだんは神前には榊を供え、それに対して、仏前には樒(しきみ)(櫁)(キ・ミは甲類)を供える。梻(しきみ)という国字も作られている。シキミはモクレン科の常緑灌木で、春、葉のつけ根に黄白色の花を開く。全体に香気があり、葉と樹皮を乾かして粉にして抹香を作る。香燃にふさわしい木といえる。
紀一書第五には、「土俗(くにひと)、此[伊奘冉尊]の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)を用(も)て、歌ひ舞ひて祭る」とある。体裁は、有馬村の風俗のルポルタージュ記事であるが、花がないときは削り掛けを以て祭ることを示唆するのであろう。鼓吹幡旗からは飛天の図が思い起こされる。仏教音楽や灌頂幡などを表しているのであろう。
シキミには、閾(しきみ)(梱)(キ・ミは甲類)もある。門の内外を区切るために下に敷いてある横木のことで、現在では敷居*10という。障子の場合、溝がついてレールになっている。敷居が高いといった慣用表現や、敷居を踏んではならぬと教えられる。新撰字鏡にトジキとあり、トシキミ、トシミ、トシキ、シキなどとも呼ばれた。すると、「橘の小門」という表現は、紀一書第六にあるように、「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」と転倒しても構わないことがわかる。竈の焚き口の境界に閾になる横木があり、燃えさしの薪や灰が出てこないようになっている。閾に身をこすりつけて削ぐ禊をしたのであり、竈の前を掘り下げた痕跡もなかったのである。ただ、竈の閾の材に橘の「枝」が使われたかどうかは不明である。また、記の多遅摩毛理の話に、「縵(かげ)四縵(よかげ)・矛(ほこ)四矛(よほこ)を以て、天皇の御陵(みはか)の戸に献り置きて」とあるのも、それを八重の閾と捉えるべきなのかわからない。
晋の葛洪の抱朴子には、竈神が晦日の夜、家族の功罪を天帝に報告するとある。そのため、今日でも中国本土や台湾の道教では、旧暦の十二月二十三日か二十四日に、竈神を祭って天に行ったら好いことだけを言い、悪いことは少なく報告してくださいと拝むという*11。六世紀から八世紀当時の中国において、冥府についての考え方は、すでに俗説や伝統的な信仰、道教、仏教などが綯い交ぜになって混合していた。それをそのままわが国は受け入れ、さらに古来の信仰とも交わって複雑な様相を示した。八世紀前半の遺跡から、朱塗り土器の底部外面に「竈神」と墨書された坏が見つかっている。その発掘の状態から、竈を廃棄する際に、竈神を封じ込めるために坏を伏せたのであろうという。死や冥界から逃れようとする延命のための祭祀として、竈神の祭祀は行われた*12。
竈は、和名抄に、「和名、加万(かま)、炊爨処也」とあり、万葉集には、山上憶良の貧窮問答歌に、「可麻度(かまど)」(万八九二)とあって、上代にはカマ、カマドが混用されていたのではないかという。竈の意味には、また、ヘツヒ、クドということばもある。和名抄に、クドは「竈後穿也」、釜は、「和名賀奈閉(かなへ)、一云、末路賀奈倍(まろかなへ)」とあり、容器一般をヘと呼んで、瓮(へ)、戸(へ)の意味を表した。伊耶那美命が還れない理由として、すでに「黄泉戸喫(よもつへぐひ)しつ」からであると答えている。ヘ(乙類)は、鍋のヘで、食物(ナ)を入れる瓮のこと、それが戸籍を表す戸へと広がっている。列島において独自に炉から発達した類カマドは、弥生時代にはヘツヒやクドと呼ばれていたのではないかとされる。それに対して、古墳時代に朝鮮半島からの渡来人が伝えたカマド*13については、新しい技術に新しいことばを当てたとするのが自然である。その際、朝鮮語のkamaを外来語として入れる際、釜のある処だからカマドと呼んで釜と竈とを区別しようと考えたのであろう*14。
秋葉山の信仰の対象とされる秋葉三尺坊は、天狗と見なされていた。天狗は火伏せの神である。竈の焚き口から火があふれ出てこないように願うなら、火除け地の秋葉原の「小門」の部分に、橘ならぬ立鼻の天狗が仁王のごとく居座って、見張っていてくれるとありがたい。物質としての竈と観念としての天狗*15とが同時期に外来したとする仮説に基づいている。静岡県の秋葉山の頂に泉があるように、竈の内部にも泉があってそれを「黄泉」と記すと想定するなら、なぞなぞとして腑に落ちるイメージ展開となる。
今日いうところの天狗のことは、上代にマと呼んだのではないか。確かなところとしては、江戸時代に魔は、多く天狗を指していう。日葡辞書にも、「Ma テング 悪魔」とある。魔は、梵語のmāraの音訳、魔羅の略という。万葉仮名に「鬼」をマと訓ませる歌(万三二五〇)があり、魔(鬼)の語は通用していたらしい。聖徳太子の撰とされる勝鬘経義疏に、悪神の意味で、「夫れ魔に四種有り。一に天魔、二に煩悩魔、三に陰魔、四に死魔」、法華経義疏に、「少王は四魔に譬ゆ」とある。和名抄には、「魔鬼 内典云邪魔外道 魔音磨此間音麻」、名義抄に、「魔 俗云 マ、オニ、ココメ、タマシヒ」とある。平城宮東院庭園から出土の鬼面文の鬼瓦は、周りに波(水、雲、火の判別はつかない)の文様があり、顔つきとしては鼻が大きいのが特徴的である。
竈の小さな門のところ、門(かど)の間(ま)に魔(ま)がいるからカマドと洒落てみた。竈の焚き口を見ていると、穴のなかは火が燃え盛っている。一般的に穴というものは、この世とあの世の境界に位置していて、異界への連絡口と信じられていた。真っ赤に燃えているところが黄泉、あの世であり、仏教の影響があれば、奥に見えるのが閻羅王、閻魔さまで、焚き口のところへ出てくるのは使いの鬼(魔)ということになる。霊異記の中巻には、「閻羅王(えんらわう)の使の鬼、召さるる人の賂(まひなひ)を得て免(ゆる)しし縁(えに)」(第二十四)、「閻羅王の使の鬼、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報いし縁」(第二十五)といった説話が載っている。命を召し上げようとする閻羅庁の使いの鬼に対し、食べ物を施すことで許しを請おうとしている。供膳具としての坏形の土器にご馳走を盛ったことを指すのであろう。
カマドには、作り付けの竈のほかに、移動式の竈がある。正倉院文書には、「辛竈」、「韓竈」とある。渡来人の奥津城とされる横穴式石室の入口付近には、ミニチュア竈のセット、すなわち、竈、羽釜、甑が副葬されている。また、延喜式には、鎮魂祭などの宮廷祭式や各地の神社祭において、韓竈は、神饌の炊餐、神酒の醸造に用いられている。冠婚葬祭や特別な儀式の供物を作るために韓竈は用いられ、神聖視されていたのではないかとされる。形状としては、焚き口の上部に帽子の鍔のような庇がつけられているのが特徴である。陶質土器の整形において、庇の部分は、陶土を折り曲げる方法と、板状の粘土を貼り付ける方法が確認されている。朝鮮半島の熊川貝塚から出土した竈形土器にも、日本の古墳時代のものとよく似た鍔状の横帯があって、渡来人が持ち込んだ文化であることがわかる。同時に、性能面だけとはいえないデザインへのこだわりが読み取れる。彼らが何を思ってそうしていたかは不明である。しかし、それを見た倭の人たちが、魔、すなわち、天狗の翼と見て取ったのではないか。焚き口は天狗の赤い顔に当たり、ときどき伸びてきてしまう火炎は、天狗の鼻に当たるのであろう。
本ストーリーの初めに、火の神の迦具土神を生んだがために、伊耶那美命が葬られる場面が描かれている。記に、伊耶那美命は「出雲国と伯伎国(ははきのくに)の堺の比婆(ひば)の山」に、紀一書第五の宗教祭祀を思わせる記事には、「[伊奘冉尊ヲ]紀伊国の熊野の有馬村(ありまのむら)」に葬ったとある。埋葬する意の「葬(はぶ)る」は、水などが外にあふれ出たり雲や風波がわき起こることをいう「溢(はふ)る」、ばらばらに解きほぐし、切り離すことをいう「散(はふ)(放、屠)る」と同根の語である。出雲は、それを導く枕詞に、「八雲立つ」とあるように、雲(煙)がもくもくと立ち込めること、伯伎は、箒のように細い柴を指しているのであろう。その間に、比婆(ヒは甲類)の山があるとすると、檜(ヒは甲類)の葉が山と積まれている状態、すなわち、焚きつけの模様が表現されていることになる。檜の葉を乾燥させたものは着火材として用いられ、語源は火(ヒは乙類)の木であると勘違いされていたほどである。また、紀伊国は、木の国の意である。熊野は、道が隈状になるように入り組んでいる状態をいう。有馬村は、魔がいて群れていることを指すのであろう。いずれも竈への火の焚きつけの場面が表現されており、火鑽臼が火のついた炭になってしまったから、火種としてふたつにばらしてくべている様子である。伊耶那美命が死んで伊耶那岐命が嘆いたことばには、「愛(うつく)しき我(あ)がなに妹(も)の命(みこと)や、子の一つ木に易(かは)らむと謂ふや」とある。親は火鑽の器具であり、子は薪の木であるという整理であろう。
伊耶那美命に決して見るなと言われたが、なかなか姿を現さないので左のみずらに挿していた「湯津々間櫛(ゆつつまくし)(湯津爪櫛)」を取り、その端の太い「男柱(をばしら)(雄柱(ほとりは))」に火を点して見てみたところ、「蛆(うじ)たかりころろき」た醜い姿を目にしてしまった。爪櫛と爪にこだわっているのは、天狗のイメージにある長い爪とも関係があろう。蛆がたかってころころいっていたとは、火鑽臼に火がまわり、内部の水分が音を立てて噴出している様子を表している。紀には、「膿(うみ)沸(わ)き虫(うじ)流(たか)る」とあり、擬音化はない。記の伝本には、「宇士多加礼許呂呂岐弖」の許を斗とするものもある。コロロクは破裂していく音を、トロロクは融解していく熱を表現しようとしたものであろう。
火鑽杵や火鑽臼は、その形に似たトンボやカゲロウをイメージしていた。蛆はハエの幼虫である。蠅の字は竈の字に似ている。黽は縦横に捩れて伸びていることを示す。トンボの雄がハエの雌に興味を抱くのは、異種婚につながって危い考えである。仲哀記には、国の大祓をしなければならない罪として、人による獣姦が挙げられている。したがって、黄泉国から還ったとき、死の穢れに触れたからというだけでなく、国つ罪にも触れたので、「禊祓」をしたがったのであろう。
記や紀第五段一書第六、第九、第十に、いわゆる見るなのタブーの話が載っている。「莫視我」や「請勿視之」、「請勿視吾矣」、「勿看吾矣」の禁止の表現である。死体を見るのがタブーであった、あるいは、見るべきでないものを見たために夫婦の別離や死が起こったとする説がある。ただし、後に、豊玉毘売の出産の件でも、豊玉毘売が「願勿見妾」と言ったにもかかわらず、火遠理命が産屋を覗いたことになっている。ワニの姿を見られた豊玉毘売は、恥ずかしいと思ってお里へ帰ってしまった。黄泉国の話でも、伊耶那美命は「吾に辱(はぢ)を見しめつ」と言っており、見られた側には恥の意識が浮かんでいるとわかる。男性ではなく女性が見られて恥ずかしいと思う特殊条件といえば、ふだんからは想像のつかないお産の際の姿である。
黄泉国から逃げる伊耶那岐命を、伊耶那美命は予母都志許売(よもつしこめ)(泉津醜女)、八種の雷神、千五百の黄泉軍を派遣して追わせている。また、黄泉比良坂で言い合いをする場面では、伊耶那美命が「一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)絞(くび)り殺さむ」と言うのに対して、伊耶那岐命は「一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を立てむ」と返している。紀一書第六には、伊奘冉尊が「日(ひとひ)に千頭(ちかうべ)縊り殺さむ」と言うのに対して、伊奘諾尊は「日に千五百頭(ちかうべあまりいほかうべ)産ましめむ」と返している。千五百は、限りなく多い年月を表す千五百秋(ちいほあき)のように使われ、千五百の黄泉軍も無限にたくさんの軍勢の意味であろう。千人殺すのに対して千五百とあると、差が五百であるという意味になる。イホは廬、つまり、仮小屋のことを示唆したいための活用であろう。死と誕生の仮小屋とは、喪屋であり、産屋である。
出産は産屋で行われ、一度産屋に入ったら、お産が終るまで出て来られない決まりであった。産屋には、母屋の土間や納戸が当てられる場合もあるが、母屋とは別に産小屋を作り、産婦が別居する風習も広く行われていた。産小屋は、必要ごとに建てて、用が済めばすぐに壊されたであろうと考えられている。臨月、出産の時期は、母子ともに死亡率が極めて高く、死の穢れに近かった。ゆえに、禁忌が強くて男性は見てはならず、妊婦はその隔離された空間で出産に及んだ。なかでも、山仕事や漁業に従事する人たちは、厳しい禁忌を守らなければならなかったという*16。
産屋では、母屋とは別火を熾して食事の煮炊きをしたり、産湯を作ったりした。火を分けないと、穢れがもともとの家全体へ行き渡ってしまうと考えられた。別の火が熾されて別の竈(へつひ)が形成されているという認識、すなわち、戸(へ)を別にしたのである。民の家や戸籍を表すに到った戸の意味の真骨頂はそこにある。それぞれの家(ヘは甲類)にそれぞれの戸がある状態は、橘の木の枝それぞれに実がついていることと通底している。我が国で最初の戸籍の記事は、欽明紀元年条に、「秦人(はだひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(くにぐに)の投化(おのづからまう)ける者(ひと)を召し集へて、国郡(くにこほり)に安置(はべ)らしめ、戸籍(へのふみた)を編貫(つ)く」とある。渡来人という存在そのものにも、「戸」的なものを感じとっている様子が窺われる*17。
記に「黄泉戸喫」、紀に「飡泉之竈(よもつへぐひ)」とあった。産小屋は、期間限定の仮設住宅である。その戸の竈には、韓竈がもってこいとされたであろう。実際、初期の掘立柱住居には竈の痕跡が見られないという。移動式の韓竈が日常的に使われていた証左であろうとされている。その顕著な例が、産小屋ではなかったか。そして、産小屋というものは、死に近づいているという点で、黄泉国に限りなく近い空間*18と認識されたであろう。
伊耶那岐命を追って来たのは「予母都志許売」(泉津醜女)である。醜女は、ふつうの語感からすれば醜い女で、出産時の姿ほどふさわしいであろう。紀には、泉津醜女のことを、「泉津日狭女(よもつひさめ)」(ヒは甲類)とも云うとある。母屋から外れた細長い一間を庇(ひさし)(廂)(ヒは甲類)といい、韓竈の焚き口部分の外縁の庇状のデザインをも連想させ、産屋の女の意であることを示したいのであろう。和名抄に醜女は、「或る説に黄泉の鬼なり」とある。産屋を巣と呼んでいた地方もあり、その象徴たる韓竈の焚き口のなかは、人の力を超えた鬼の巣窟なのであった。
伊耶那岐命は逃げ帰る時、黒い鬘を取って投げ捨てると葡萄になり、右のみずらに挿していた爪櫛を投げると筍が生えたとある。古墳時代や飛鳥時代の櫛は縦櫛が主流で、遺跡の出土品に見られる。櫛は串と同根で、梳くものというよりも簪のように挿すものと考えられたであろう。筍の伸びていく先のほうは、形状が縦櫛に近い。鬘はウィッグで、髪飾りである。葡萄とは巻きひげの様子が特に似ている。これらは火のなかにあって燃えてしまうことを指しているのであろう。真っ直ぐの毛は熱によってちりぢりに巻き、葡萄の実が青緑色から紫褐色へと変化していく様子も、燃える過程に譬えられる。また、成長の早い竹では、器具になるものがもともとは火にかければ食べられるものであった不思議さを示し、仏教思想の輪廻転生をも反映させる内容になっている。当初、左のみずらにあった爪櫛の男柱に火を点して見ていた。着火の手立てについて触れられないまま火が点いているのは、簡単に火が点くからで、竈の燠のなかに竹串を差し込んだからであろう。
最後に、桃の実が投げられている。記には、「黄泉比良坂の坂本(さかもと)に到りし時に、其の坂本に在る桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて待ち撃ちしかば、悉(ことごと)く坂を返りき」とある。醜女に食べられることがなかったのは、核があることもあって、燃え尽きることがなかったことを表すのであろう。竈が作られる以前、炉のなかに支脚となる石を三個置いて三徳とし、その上に甕を載せて煮炊きをした。土製支脚や烏帽子形石という。沖縄では、三個の石でつくる原始的なカマドは、神殿や拝所のほか、祭りや年中行事で臨時のカマドを築くときに見られる。本土でも丹念に調べると、三個の石が荒神や竈神の依り代である痕跡は残るという*19。すなわち、伊耶那岐命は、竈に向って、炉の霊を投げ込んだ。革新された技術に、魂が込められたということになる。
記には、「伊耶那岐命、其の桃子に告(の)りたまはく、『汝(いまし)、吾(あ)を助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)にあらゆる現(うつ)しき青人草(あをひとくさ)の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ惚(なや)む時、助くべし』と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)と号(い)ひき」とある。意富加牟豆美は、大+神+ツ(連体助詞)+霊(み)の意であろう。神の実体は霊である。紀一書第九には、伊奘諾尊が殯斂(もがり)の場所から逃げ帰るとき、雷に追われて桃の樹の下に隠れ、実を採って投げて助かったとある。そして、「桃を用(も)て鬼を避(ふせ)く縁(ことのもと)なり」とまとめられている。桃が悪鬼を払う呪力を持つという観念は中国、ならびにわが国の追儺の儀式にも見られるとされている。しかし、どうやら、支脚石があれば甕は埋もれることなく火にかけられることをいっているらしい。すなわち、竈の焚き口のなかで釜を焚いている入れ籠構造の図である。鬼が追って来ないのは、獄卒鬼が地獄の釜を焚くことができて不満がなくなるからであろう。
黄泉比良坂が今の伊賦夜坂であるとするのは、竈の焚き口はバチバチと薪が爆ぜる囂(かま)の口という洒落で、言うや言わずやの境であるとするのであろう。それがちょうど死に際にことばや声が出なくなることや、生まれ際におぎゃーとうるさいことに対応しているという見立てである。
伊耶那岐命の禊祓は、最初、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原、ついで川の中瀬、さらに、いつの間にか海の底、中、表で行い、それぞれに神が成っている。海に入ったとされるのは、綿津見神が登場しているためである。同時に成った、「底筒之男命(そこつつのをのみこと)・中筒之男命(なかつつのをのみこと)・表筒之男命(うはつつのをのみこと)三柱(みはしら)の神は、墨江の三前(みまへ)の大神なり」、つまり、住吉大社の祭神である。筒が何を表すかについては、住吉大社が海沿いに立地しており、航海の安全を祈願する神と想定されている。「夕星(ゆふづつ)」などとあるように星の意、底筒を底つ津と解して〜の津の意で船の停泊する津の神であるとする説、紀一書に、「底土命」などとあるから〜の霊(ち)の意とする説などがある。いずれも確証がなく、定説を得ていない。住吉大社の最も重要な祭礼は、住吉祭である。今日、七月二十日から八月一日まで続くもので、神輿洗(みこしあらい)神事、例祭、夏越祓(なごしのはらい)神事、渡御祭(とぎょさい)までを含む一大イベントである。いずれも禊祓に関しての祭礼で、別名を、おはらい祭という。記の記事においての眼目は、禊祓が海へと展開していることに違いない。
この三柱の大神は、仲哀天皇が崩御した後、国の大祓えをしたとき、神のお告げとして知らされている。建内宿禰(たけうちのすくね)が神憑りした神功皇后に問うたところ、後継者はお腹にいる男子、後の応神天皇であって、そう告げているのは、「天照大神の御心ぞ。亦底筒男・中筒男・上筒男三柱の大神ぞ」と答えており、「此の時に其の三柱の大神の御名は顕はれき」と注されている。住吉大社の祭神の名は、新羅親征に先立つ大祓のときに名づけられており、それ以前と目される伊耶那岐命の禊祓において登場しているのは、一連の禊祓の話のなかで総括されているためであろう。それは、本来は別の仕儀とされる禊と祓とを一括して扱っているところにも表れている。
身の穢れを拭って身を清めるには、コリ、すなわち、香(こり)、ないし、垢離(こり)が必要であった。仏堂のなかで香を焚くのは、焼香供養とともに、自ら身を清浄にすることでもある。そのため、舶来の香木が珍重されることになる。推古紀三年四月条に、「沈水(ぢむ)、淡路島(あはぢのしま)に漂着(よ)れり。其の大きさ一囲(ひといだき)。嶋人、沈水といふことを知らずして、薪(たきぎ)に交(か)てて竈に焼(た)く。其の烟気(けぶり)、遠く薫(かを)る。則ち異(け)なりとして献る」とある。同様の記述は、聖徳太子伝暦にもある。「[推古天皇]三年、乙卯春、三月、土佐の南海に、夜(よるよる)、大なる光有り。亦声有りて雷の如し。三十箇月を経て、夏四月、淡路嶋の南の岸に着く。嶋の人、沈水と知らずして、薪に交へて竈に焼く。太子、使いを遣はして献ら令む。其の大(おほき)さ一囲(ひとたき)、長さ八尺なり。其の香(か)、異(こと)に薫(かを)れり*20」とあって、流れ着いた香木は四国沖の太平洋から来たものであるらしいと伝えている。当然、鼻で嗅ぐから立ち鼻になる。記事には竈も登場している。黄泉国のなぞなぞを考えるきっかけを示してくれているらしい。
沈水香(沈香)は、比重が重く、水に沈む。ジンチョウゲ科ジンコウジュ属の木の切り株や倒木の幹に、樹脂分が沈着してできる。インドのアッサム地方、ミャンマー北部ほか、東南アジア各地から産出される。もともとの材質は軟らかくて軽く、白色から灰色で、香気はない。ところが、木を樵り(コは乙類)取っておいたところ、樹脂分が木質内にしみ込んで凝集、すなわち、凝り(コは乙類)固まり、黒色に変化して、その部分だけを焚くと非常にいい匂いを発する。とても腐朽しにくいが、周囲の材はもとの軽軟なままだから朽ちやすい。樹脂分の沈着凝集の度合いは部分によって異なり、比重が比較的に軽くて水に浮かぶものでも、いい匂いのするものがあって桟香と呼ばれる。正倉院に残る沈水香には、黄熟香と全桟香がある。いずれも朽ちて空ろになった巨材のいたるところに、樹脂分の凝集している部分が多数見つかる。前者の、雅名、蘭奢待(らんじゃたい)は、足利義政、織田信長、明治天皇が截り取り、その部分に付箋が付けられていることで名高い。
沈水香は、巨材の状態では水に浮かぶから、浮き沈みしながら淡路島へ達したということになる。むろん、ベトナムなどからそのまま流れてきたわけではなく、貴重な品として船で運ばれてきたのであろう。それが土佐の南で雷雨をともなった暴風雨にあって難破し、船荷の沈水香が海に放り出されたということに違いない。高価な沈水香を荷造りしたとすると、木箱ではカビが心配であり、「行李(かうり)」にしまっていたと思われる。
行李は、(1)漢語で使者、また、その役のことで、行理とも書く。欽明紀二十一年九月条では、「行李」にツカヒと訓が付けられている。(2)漢語で、旅、旅立ち、また、旅支度のこと。(3)旅に携える荷物のこと。(4)竹・柳・藤蔓などで編んで作った物入れのこと。同じ形のものを二つ作って被せ、蓋とする。大は衣装ケースから、小は弁当箱までいろいろあり、破損を防ぐために角に革をあてがってあることも多い。コリ(コの甲乙は不明ながら、母音交替では乙類と推測される)ともいい、本邦では梱というシキミとも訓む字を当てた。部屋に戸を鎖すことで閉ざされるとは、荷物が行李に梱包されることと相似である。要するに、香を梱に入れて運んだ。紀一書第十に登場する「菊理媛神(くくりひめのかみ)」は、括ること、つまり、荷造りの神であろうか。
梱とは葛籠(つづら)の一種である。葛籠は、もともとツヅラフジなどの蔓で編んで作った櫃のような形の籠のことで、角の傷みやすいところは革で補強した。やがて、竹や檜から取った薄板を網代に編み、上に紙を張って渋や漆を塗り、隅の部分は木枠によって補強されたものへと発展した。住吉神社の祭神の筒之男が複数あるのは、筒(つつ)等(ら)という意味の駄洒落であろう。禊祓において、海の底から中、上へと浮沈する様は、沈水香が流れてくる様子にだぶらせているものと考えられる。紀一書第三に登場する「天吉葛(あまのよさつら)」は、葛籠の材料のことを指しているのであろう。また、経筒には香木で作られたものがあり、法隆寺や正倉院に伝わっている。香木と筒とは縁が深い。
沈水香は材の香の部分だけ黒くなっており、墨で染まったように黒ずんでいる。黒ずむのスムは、浸・染・滲などと書くシム・ソムと関係がある語であろうし、凍りつくように硬化する意の凍(し)む、すなわち、凝ることをも連想させる。伝染病のことは疫(え)(ヤ行のエ)といい、江と、また、枝、柄、兄、姉、胞とも同音である。木の伝染病のような状態が、末子相続の時代、フロンティアスピリットで開拓する兄的な存在と通じるものがあると感じられたのであろう。そして、害毒を与えかねない疫に対しては、祓が必要とされる。淡路島を臨むところに墨江(住吉)は位置する。万葉集の歌に、「住吉の 岸に向へる 淡路島 あはれと君を 言はぬ日は無し」(三一九七)とある*21。地名の語源は水の色の澄んだ江のことかもしれないが、記紀の用字は「墨江」とある。奇抜であると思われたとしたら、その意にまつわる連想が働いても不思議ではない。黒ずんだ枝の部分が沈水香である。
底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命を、墨江の三前の大神と呼んでいる。「三前(みまへ)」(ミは甲類)については、三座の意であるとされる。大物主神(おおものぬしのかみ)を「我(あ)が前を治(をさ)め」とあって、神の御座を憚って直接指さない言い回しという。前という言い方は、二座以上を祭る神社で、主だった神以外を指すときにも使われる。延喜式神名式上には、天神・地祇、社、前の順に記されている。底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の筒が、香木の入った葛籠や経筒になった香木をイメージするのなら、倭の自然や伝統に由来する神ではない。外来のものとなると、主だった神であると主張するのは口幅ったいものがある。そこで、御前(みまへ)(ミは甲類)の意でもそう言ったのであろう。
黄泉の国の話は、生活を一変させた竈の登場をテーマにし、仏教、常世、天狗、香木などの外来の文物や観念、また、渡来人という人たちのことをどう捉えたら良いかを語ったものであった。目新しい技術と思想を肌感覚で自らのものにしようして、包括的、体系的に物語としてまとめ上げていったのであった。無文字社会の人にとっての「理解」とは、文字社会で記号操作に慣れ親しんだ人にとっての「理解」と位相が異なる。すべてをなぞなぞのなかに入れ込め、塗り込めていった工夫、苦労を知ると、確かに現代とは別筋の豊かな文明が築かれていたことが知れ、大いなる畏敬の念を抱かずにはいられない。

*1 たとえば、白石太一郎「墓と他界観」上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦編『列島の古代史 ひと・もの・こと7;信仰と世界観』岩波書店、二〇〇六年。松村武雄『日本神話の研究 第二巻 個分的研究篇 上』(培風館、昭和三十年)に、他界の観念や信仰は、いずれの民族においても墳墓の出現に先行するとの指摘がある。
*2 たとえば、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀 上』岩波書店、一九六七年。
*3 神野志隆光『古事記の世界観』(吉川弘文館、昭和六十一年)は、黄泉国は地下にある世界ではなく、黄泉比良坂の向こうに水平的につながる世界であるという。古事記の神話的要素を、古の人の世界観の表明と捉えて疑わない姿勢に基づいている。
*4 白川静『字訓』平凡社、一九八七年。
*5 武井正弘「秋葉山の信仰」鈴木昭英編『富士・御嶽と中部霊山』(五来重監修『山岳宗教史研究叢書9』)、名著出版、昭和五十三年。また、若尾五雄『鬼伝説の研究;金工史の視点から』(大和書房、一九八一年)によると、修験者は護摩をたき、火防の行事を行い、花祭同様、釜も焚いた。それは、彼らが古代鉱業の先駆者で、火の取り扱いに熟達していたからであるという。秋葉山付近でも、古くから沢峰銅山が稼動していたという。紀一書第四には、「伊奘冉尊、火神(ひのかみ)軻遇突智(かぐつち)を生まむとする時に、悶熱(あつか)ひ懊悩(なや)み、因りて吐(たぐり)す。此神に化為(な)る。名けて金山彦(かなやまびこ)と曰す。次に小便(ゆまり)す。神に化為る。名けて罔象女(みつはのめ)と曰す。次に大便(くそ)まる。神に化為る。名けて埴山媛(はにやまびめ)と曰す」とあることも証左かもしれない。金山彦とは鉱山神である。
*6 狩野敏次『かまど;ものと人間の文化史117』法政大学出版局、二〇〇四年。
*7 野本寛一「火と水の信仰」田村貞雄監修『秋葉信仰』雄山閣、平成十年。紀の記事には、先んじて、「時に伊奘冉尊(いざなみのみこと)、軻遇突智が為に焦(や)かれて終(かむさ)ります。其の終りまさむとする間(あひだ)に、臥しながら土神(つちのかみ)埴山姫(はにやまびめ)と水神(みづのかみ)罔象女(みつはのめ)とを生む」とあり、続いて、「此の神の頭(かしら)の上に蚕(かひこ)と桑(くは)と生り、臍(ほそ)の中に五穀(いつくさのたなつもの)生れり」とある。
*8 白川静『字通』(平凡社、一九九六年)では、垢離にクリとルビを付けている。垢は呉音ク、漢音コウで、「離垢(りく)」の語は無量寿経等にあるから、もとは呉音のはずとされたのであろう。本居宣長説に、川降りの転の当て字とするが、いかがなものであろうか。仏教で香を焚きこめることは、古代のインド人が香油を塗って穢れを去っていたのと同様、身を清浄にする方法であった。わが国において、禊をして身を清めることに似ている。言霊信仰によっていれば、意味が同じなら同じことば、同じ音であることになる。香の意味のほうは、呉音のカウと訓のカヲリからコリ(コは乙類)ということばを導き出し、垢離の意味の呉音のクリと漢音のコウリとを交ぜてコリ(コは乙類)ということばに合わせたのであろう。垢の音符とされる后は、呉音グ、漢音コウ、慣用音ゴ・ゴウとなっているから、あながち不可能な転でもなさそうである。
*9 丹後半島の浦嶋神社(宇良神社)では、三月十七日の延年祭に、削掛神事が行われる。コブシの皮を剥いだ白い小枝で、俵や繭玉のような形に削り掛けを作る。これを「立花(たちばな)」と呼んでいる。
*10 上代語のシキヰは、茣蓙や莚のように、座るために敷く物のことをいう。武烈紀八年三月条、斉明紀五年是歳条に「席(しきゐ)」、敏達紀十二年是歳条に「座(しきゐ)」、天智紀三年十二月是月条に「床席(しきゐ)」、欽明紀六年十一月条に「班(しきゐ)」とある。シキミのほうは、仁徳記に「閾」、正倉院文書に「敷見」、「敷弥」などとあり、単位は枝、枚である。両者の区別ははっきりしていた。だからこその駄洒落は魅力を持つ。あるいは、神仏のいますところが「座」で、その手下が門番をするところが閾であろうか。
*11 窪徳忠『道教の神々』講談社(講談社学術文庫)、一九九六年。抱朴子・内篇・微旨篇には、「又言ふ、身中に三尸(さんし)有り。三尸の物為(た)る、形無しと雖も、実は魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。此の尸は当に鬼と作(な)ることを得。自づからに放縦遊行して、人の祭酹(まつり)を享(う)くべし。是を以て庚申の日に到る毎に、輒(すなは)ち天に上りて司命に白し、人の為す所の過失を道(い)ふ。又、月晦(つごもり)の夜には、竈神も亦天に上りて人の罪状を白す。大なれば紀を奪ふ、紀とは三百日なり。小なれば算を奪ふ、算とは三日なり。吾未だ能く此の事の有無を審らかにせず。然れども天道は邈遠(はるか)にして、鬼神は明らかにし難し」とある。
*12 平川南『墨書土器の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年。
*13 宮本長二郎「炉からカマドへ」(『季刊考古学』三二号、雄山閣出版、一九九〇年)によると、古墳時代中期から後期にかけて、全国のカマドの保有率は一気に上がっているという。
*14 狩野敏次、前掲書に負うところが大きい。ただし、山上憶良は、その沈痾自哀の文に抱朴子を引用している。また、推古紀二十一年十二月条には、聖徳太子が片岡に遊行した折の路傍の飢者とのやりとりが記されている。太子は食べ物と自分の衣裳とを与え、次の日に使者を遣わして様子を見に行かせたところ亡くなっていたので埋葬させた。数日後、太子は、先日の飢者は「凡人(ただひと)に非ず。必ず真人(ひじり)ならむ」と言って再度確認させたところ、遺骨はなくなり衣裳だけが棺の上に畳まれていた。そこで、その衣裳をまた身に着けた。人々は、「聖(ひじり)の聖を知ること、それ実(まこと)なるかな」と言ってますます畏れかしこまったとある。神仙となって肉体が消え去る尸解仙(しかいせん)は、抱朴子・内篇・論仙篇に、「仙経に云く、上士は形を挙げて虚に昇る、之を天仙と謂ひ、中士は名山に遊ぶ、之を地仙と謂ひ、下士は先づ死して後に蛻(もぬ)く、之を尸解仙と謂ふ」とあるによる。中国で早くから尸解仙になるためには儒教的な徳行が求められ、仏教でも僧侶の徳仙を列挙する例があり、儒仏道の習合があって推古紀に見られる伝承が生じたとされる(増尾伸一郎「道教・神仙思想と仏教」古橋信孝編『万葉集を読む』吉川弘文館、二〇〇八年)。カマドという語が外来語のカマを転訛させた造語とするなら、憶良はその思想的背景を読み取って積極的に使っていたということになるのかもしれない。
*15 石川三佐男『楚辞新研究』(汲古書院、二〇〇二年)によれば、楚辞九章に、橘と天狗の観念との間にはつながりがあるという。橘頌篇で橘の美しさを称えた結果、非回風篇の最後に主人公は崑崙山と岷山に達して飛翔能力を獲得したのであり、橘は異次元世界の世界樹に相当するという。楚辞の詩的世界について、上代の倭でどのように受け止められていたか、浅学にしてわからない。「天狗」の語の初出は、舒明紀九年二月条である。「大きなる星、東(ひむがし)より西に流る。便ち音有りて雷(いかづち)に似たり。時の人曰はく、『流星(ながれぼし)の音なり』といふ。亦は曰はく、『地雷(つちのいかづち)なり』といふ。是に、僧旻僧(そうみんほふし)が曰はく、『流星に非ず。是天狗(あまつきつね)なり。其の吠ゆる声雷に似たらくのみ』といふ」。ここでいう天狗は、天空を飛び、天と山とをつなぎ、大声を発し、異変をもたらす妖怪的な動物とされている。中国で史記・天官書に、「天狗は、状(かたち)、大奔星(だいほんせい)の如くにして、声有り。其の下(くだ)りて地に止(とど)まるときは、狗に類(に)たり」と、流星として記されているものに由来する。隕石の落下現象を指すのであろう。一見、僧旻が舶来思想を披瀝した記事のようであるが、紀の編纂者が、なぞなぞを解く鍵として残したものかもしれない。
*16 大藤ゆき『児やらい』岩崎美術社、一九六八年。狩猟者(山仕事)、漁業従事者は、産の忌が厳しかった。狩、漁のほか、村の行事、神事への参加も禁じられた。タタラ師の場合は、それ以上にやかましくいったといい、金山彦との関連も窺われる。
*17 継体紀三年条に、「任那の日本(やまと)の県邑(あがたのむら)に在(はべ)る百済の百姓(たみ)の、浮逃(にげ)て貫(へ)絶え三四世(みつぎよつぎ)なる者を括(ぬ)き出して、並に百済に遷して、貫に附かしむ」とある。竈(へ、かまど)の盛んなる朝鮮半島情勢である。貫の字が使われているのは、世代を貫いて住む故郷の地の意味からである。列島の渡来人の場合には、戸の字を使いたくなるであろう。
*18 飯島吉晴『竈神と厠神;異界と此の世の境』講談社(講談社学術文庫、二〇〇七年)に、「魔除けの魔というのは、いわばマ(間)であって、この[産屋で産婦が籠って出産に臨む]空虚な時空という人間の認識にとってこの上もなく恐ろしい不安な状態を無事に通過し、日常的な社会秩序の中に一定の状態を確保するために火が焚かれるのである」との指摘がある。しかし、産小屋の竈の火は、母屋の火とは別にする火である。記紀の文脈からいっても、その火は魔、ないし、間そのものの象徴で、あの世にもこの世にも通じる両義的で、非日常的で、おそろしいものと認識されていたであろう。
*19 狩野敏次、前掲書。
*20 つづいて、「太子観たまひて太(おほい)に悦び、奏して曰く、『是を沈水香と為る者なり。此の木は栴檀(せんだん)と名づく。香木なり。南天竺国の南海の岸に生いたり。夏の月は諸蛇此の木を相繞(まと)へり。冷(すず)しきが故になり。人、矢を以て射る。冬の月に蛇蟄(かく)れて、即ち斫りて之を採る。其の実は鶏舌、其の花は丁子、其の脂(やに)は薫陸。水に沈みて久しきをば沈水香とし、久しからざるをば浅香とす。而るに今陛下、釈教を興隆し、肇めて仏像を造りたまふ。故に釈梵徳に感じて、此の木を漂(ただよ)はし送れり。』即ち勅有りて、百済の工に命じて、檀像を刻め造りて、観音菩薩を作(な)す。高さ数尺なり。吉野の比蘇寺に安ず。時々(よりより)光を放ちたまふ。」とある。伝暦の成立年代については十世紀とされるものの、以前からの聖徳太子の伝承を含んでいることには違いあるまい。沈水香のどんぶらこ状態については、推古紀にある五九五年の出来事であったと推察する。記事の雷の件は、舒明紀の六三七年、僧旻のいうところの天狗の話を髣髴とさせる。舶来思想が僧旻ひとりの知識でなく、それ以前の太子等にも知られていた事柄ならば、それはつまり、沈水香は天狗、魔の変化したもので、竈と縁が深いものと考えられていたということになる。水垢離が天狗、修験者の一所作で、金属溶鉱炉と関係があることと対をなしている。なお、神楽歌に、竈殿遊歌(かまどのあそびのうた)として、「豊竈(とよへつひ) 御遊(みあそ)びすらしも ひさかたの 天(あま)の河原(かはら)に 比左(ひさ)の声する 比左の声する」とある。比左(ヒは甲類)は瓠(ひさご)(ヒ・ゴの甲乙は不明)のことで、神楽で拍子を打つカスタネットではないかという。泉津日狭女(ヒは甲類)とは、天狗(あまつきつね)が天空で大きな音を出すのが瓠の音のようであるところから付けられた別称なのかもしれない。
*21 万葉集の一七四〇・一七四一番に、「水江(みづのえ)の浦嶋の子を詠める一首并せて短謌」という長歌と短歌がある。「墨吉」という地名について、浦島伝説の丹後地方に求める説もある。しかし、「常世辺(とこよへ)」という語も出てくるから、多遅摩毛理の伝説や黄泉国の話が断片的に一体化したものを歌ったもので、住吉大社のことが念頭にあるものとするのが適切であろう。 
天の岩戸

 

須佐之男命(すさのおのみこと)(素戔嗚尊)が天に上ってきて天照大御神(あまてらすおおみかみ)(天照大神)とやりあう物語は、誓約(うけい)神話(紀では第六段)と須佐之男命の乱行(以下、紀では第七段)、天石屋(あめのいわや)籠り、天安河(あめのやすのかわ)の河原の神集いから構成される。
須佐之男命は、伊耶那岐命(いざなきのみこと)(伊奘諾尊)に「神やらひにやらひ」、すなわち、この国から出て行けといわれた。そこで、天照大御神に挨拶してから行こうと言って、天に上ってきた。山川国土は鳴り轟き揺れ動いた。天照大御神は驚き、高天原を乗っ取ろうとやってきたのであろうと言って、髪を解いて男装の髷(みずら)をつけて武装し、大地を踏みしめて雄叫びをあげて待ち受けた。須佐之男命は、反逆心などなく、母の国へ行くことになった顛末を話しに参上したのだと言った。清く赤い心は何によってわかるかが話題になり、それぞれ誓約をして子を生めばいいと言った。
そこで、天の安の河を中にして誓約をすることになる。まず、天照大御神が須佐之男命の帯刀している十拳剣(とつかのつるぎ)をもらって三つに打ち折って、「ぬなとももゆらに天(あめ)の真名井(まなゐ)に振りすすぎ、さがみに噛みて吹き棄(う)つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)に」三柱の神が生まれた。須佐之男命は天照大御神の珠をもらい受けて、同じやり方で左の髷に巻いた八尺の勾玉の五百(いお)つの御統(みすまる)の珠の分から一柱、右の髷の分から一柱、髪飾りの分から一柱、左手の分から一柱、右手の分から一柱、都合五柱の神が生まれた。そこで天照大御神は須佐之男命に、後で生まれた五柱の男神はもともと自分の珠から生まれたから自分の子で、先に生まれた三柱の女神は、もともと須佐之男命の剣から生まれたから須佐之男命の子であると言って判断した。
すると須佐之男命は天照大御神に、自分の心が清く明るいから自分は女の子を得た。したがって自分が誓約に勝ったと言って、調子に乗って高天原でいろいろな悪さをする。田の畔を壊し、溝を埋め、新嘗祭を行う御殿に糞をし散らかした。それでも天照大御神は、彼に悪意があるわけではないと温情をもって解釈していく。しかし、最後に忌服屋(いみはたや)の事件が起こる。天照大御神は服織女(はたおりめ)に神の衣を織らせていたところ、屋根の棟に穴をあけて天斑馬(あめのふちこま)を逆剥ぎに剥いで落とし入れた。そのため、服織女は見驚いて、梭に陰部を突いて死んでしまった。天照大御神はそれを見て恐れおののいて、天の石屋(いわや)の戸を開けて籠ってしまった。おかげで高天原(たかまのはら)も葦原中国(あしはらのなかつくに)も真っ暗になって、毎日毎日夜ばかりになった。たくさんの神々の声がうるさく響き、たくさんの災いごとがどんどん起こった。
八百万神(やおよろずのかみ)(八十万神(やそよろずのかみ))は、天安河原(あめのやすのかわら)(天安河辺)に参集した。そこで、役割分担して天照大御神に戻ってきてもらおうとする。作戦は、(1)思金神(おもいかねのかみ)(思兼神)に思わせる、(2)常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を鳴かせる、(3)天津麻羅(あまつまら)(天糠戸(あまのあらと)、天抜戸(あまのぬかと))と伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)(石凝姥、石凝戸辺)に鏡を作らせる、(4)玉祖命(たまのやのみこと)(豊玉(とよたま)、天明玉(あまのあかるたま))に五百個(いおつ)の御統(みすまる)の玉を作らせる、(5)天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)(太玉命)に太占(ふとまに)の占いをさせる、(6)榊に供え物をして布刀玉命が捧げ持つ、(7)天児屋命が祝詞を寿ぐ、(8)天手力男神(あめのたちからおのかみ)(手力雄神)が戸の脇に隠れ立つ、(9)天宇受売命(あめのうずめのみこと)(天鈿女命)が神憑りして裸踊りをする、というものであった。そうしたものだから、高天原はぐらぐら揺れ、八百万の神たちは笑いあった。
天照大御神はいぶかしがって天の石屋の戸を細く開けて独り言をする。絶大な自分が籠れば天の原、ひいては葦原中国も真っ暗だと思うのに、どうして天宇受売命は歌舞し、八百万の神は皆笑っているのだろうか、と。天宇受売命は、あなたよりも貴い神さまがいらっしゃるからですよと言いつつ、天児屋命と布刀玉命が鏡を差し出して姿を映させたので、天照大御神はいよいよ不思議に思って身を乗り出した。そこで、天手力男神がその手を取って引き出し、布刀玉命が尻くめ縄を後ろに引き渡し、これよりうちには還り入ってはなりません、と言い放った。こうして、天照大御神はお出ましになって、高天原も葦原中国も自動的に照り明るくなった。そして、八百万の神々は協議して、速須佐之男命にたくさんの賠償金を課し、髯と手足の爪を切り、お祓いをして追い払った。以上が話のあらすじである。
誓約とは、事の成否や吉兆、真偽などを判断する古代の占いである。まだ起こっていなかったり、証明することが不可能な事柄について、どうなのか調べてみたかったら、何かほかのところにも兆候として顕れるはずだから、条件を決めて先に口に出して言ってしまう。そうしておいてその兆候を見れば、知りたい事柄についても判断がつくというものである。それは、言(こと)は事(こと)であるという言霊信仰を前提としている。いま妊娠しているけれど、これがあなたの子でなかったら、今から産屋に火をつけてみた時この子は焼け死ぬだろうし、あなたの子だったら火傷することもないだろう、と大きな声で言っておき、結果、火の中でも無事に生まれてきたので、子の父親はあなたであると知れたというものである。あるいは、今度戦をするけれど、勝てるのであれば今から行う狩りで大きな獣を獲ることになる、と予め宣言して狩りをしたが、逆に猪に襲われる事故があったとしたら、その後の戦でも敗北することになっていたという流れである。
天照大御神と須佐之男命の誓約神話の場合、調べたいのは須佐之男命が清明な心を持っているかどうか、高天原を奪おうとする野心がないのかどうかである。しかし、記では前提となるべき言立(ことた)てが行われていない。生んだ神の性別がどちらであったら勝ちとするかを予め宣言しておかないで、「各(おのもおのも)うけひて子を生まむ」と言ったきり誓約をしており、条件が無条件なままである。紀の諸伝では言立てが行われ、第七段の一書第三で再度上ってきたときも含めて、生んだ子が男なら清い心であるとしている。相手の持ち物を借り受けて子を生むかどうかについては、記、紀第六段本文、一書第二は互いに交換しているが、一書第一、第三、第七段一書第三では交換していない。交換した場合、生まれた子はどちらが生んだことになるかについて、記、紀第六段本文では物実(ものざね)(物根)にしたがうとするが、第二では「爾云(しかしかいふ)」とあって結論まで書かれていない。紀本文、一書第二では、須佐之男命の心は清いと思ってくれというだけであるが、第三では、須佐之男命の生んだ子を天照大御神が引き取って天原(あまのはら)を治めさせることに展開している。非常に多岐にわたっていろいろと煩雑な手間を設けた末、共通しているのは須佐之男命の言い分が通る点である。これでは、誓約という占いを行った意味がなく、むしろ、後付けのご都合主義的解釈が、初めから罷り通る設定にしてあったと考えたほうがよいであろう。誓約に事寄せたでっち上げの証明である。なぜこのような話を仮構したのであろうか。
須佐之男命は、根の国へ遣らされた神である。根っこの生える土のなかのモグラ的な性格を具えている。したがって、記や紀本文、一書第二、第三に、畔を壊したり溝を埋めたりするいたずらがあげられている。紀の一書第三には、「廃渠槽(ひはがち)」、すなわち、樋(ひ)という導水管の破壊も追加されている。農作業妨害としてはほかに、「重播種子(しきまき)」、すなわち、頻蒔(しきま)きといって、一度蒔いたらそのままにしておかなければならないのにたびたび種を蒔くこと(紀本文、一書第三)、秋の収穫時期に田に絡縄(あぜなわ)を引き渡したり(一書第二)、串をさしたり(一書第三)して領有権を侵すこと、馬を田に腹這わせて稲穂を倒すこと(本文、一書第三)もあげられている。この、その他の農作業妨害は、一書第三に天照大神と素戔嗚尊の田の状態の比較があるなど、話が広がって本筋からは外れているように思われる。
次に、大嘗祭を行う御殿に糞をし散らかしたとある。紀本文、第二では新嘗祭とし、他には記載がない。神聖な場所が穢されている。須佐之男命は新嘗屋を便所だと勘違いしたのであろう。「誰(たれ)そこの 屋の戸押(お)そぶる新嘗(にふなみ)に わが背を遣りて 斎(いは)ふこの戸を」(万三四六〇)とあるように、新嘗祭では戸を閉めて暗いところで忌み籠っている。その最中は、誰が来ようと戸を開けることはできない。まさに、便所で大便中の様子と同じである。一書第二には、「新宮(にひなへのみや)の御席(みまし)の下に、陰(ひそか)に自(みづか)ら送糞(くそま)る」とあって、便器の所在まで示そうとしている。
用明紀二年の新嘗祭の記事に、「磐余(いはれ)の河上(かはかみ)に御新嘗(にひなへきこしめ)す」とある。天皇即位後初の新嘗祭だから大嘗祭である。川原で行われたのは、禊をして身を清めて忌み籠りをしているからである。このとき天皇は風邪をひき、こじらせ、亡くなって、後継者争いが大豪族間の抗争になり、物部氏が蘇我氏に滅ぼされている。大嘗祭がどこで行われるかは、大掛かりな大嘗宮が設営される奈良時代や平安時代になっても固定していない。
川原で忌み籠っている姿は、まるでコウモリが翼で身を包み隠してとまっているようである。籠るからコウモリであろうが、「蝙蝠(かはぼり)」は川守の転という。洪水を心配しているのではなく、稲作に欠かせない水が枯れないかと気にかけている。蝙蝠が飛んでいる限り、川の水は守られていると考えられたのであろう。田を墾いてわかるように、水がなくならないのは川の底が抜けないからである。川の地下の伏流水のことは知らなかったであろう。田んぼに水が張れるのは、荒木田土のような粘土、つまり、埴土(はに)があるからである。神武即位前紀戊午年九月条に、天香具山の埴土を取ってきて、天平瓮(あまのひらか)や厳瓮(いつへ)を造って天神地祇を祭り、呪詛している。崇神紀十年九月条の武埴安彦(たけはにやすびこ)の謀反においても、香具山の埴土を取ってきて倭国の物実(ものしろ)と呪詛している。埴土は重要視され、コウモリは、薄くて黒い翼で、埴土のような赤褐色の胴体を守っている。
紀一書第四に、「次に大便(くそ)まる。神と化為(な)る。名を埴山媛(はにやまひめ)と曰(まを)す」とある。小便のほうは罔象女(みつはのめ)になっている。うんこは埴土に見える。また、便所のことを憚りという。人目を憚って用を足す。コウモリを捕まえてみると、羽ばかり大きくて身は小さい。また、厠というのは、川の上に屋根を架した水洗便所のことを言っている。川守がコウモリで、厠の神は埴山姫(はにやまひめ)と水罔女(みずはのめ)という。
記に「忌服屋」、紀本文、一書第一に「斎服殿(いみはたどの)」、第二に「織殿(はたどの)」とある。機は織物を織る機械である。基本は、経糸と緯糸とを、互いに直角に一定の間隔で排列し、一定の法則で互いに絡み合わせるようにして織るものである。手織り機の起源としては、織物の幅に応じて経糸を並行に並べ、これに緯糸を絡ませるために一本ごとに上下に縫うようにしてくぐらせ、くしで押し寄せるものであった。歌の序詞にも、「未通女(をとめ)が 織る機の上(へ)を 真櫛(まくし)もち 掻(か)かげ栲島(たくしま) 波の間ゆ見ゆ」(万一二三三)とある。その作業をいかに効率よく進めるかが機の進歩の歩みである。
機織りは、その動作にしたがって、機の部品となる器具を使う。まず、経巻具(千切(ちきり))により、最初に整経した経糸を巻いて準備し、適宜送り出せるようにしておく。そして、開口具(綜絖(そうこう)など)により、整経した経糸を決まりにしたがって上下に分割する。ついで、緯入具(梭(ひ)など)により、緯糸を開口された状態のところへ通す。さらに、緯打具(筬(おさ))により、緯糸が通ったところを打ち込む。また、布巻具(千巻(ちまき))により、織りあがった布を巻き取っていく。機の種類によらず、基本的に以上の動作を行う。機を大別すると、原始機(弥生機)、地機、高機の三種類がある。
記で、服織女の使っていたのは、高機と呼ばれる織機であろう。紀一書第一に、「機より堕(お)ち」とある。記に「梭に陰上(ほと)を衝(つ)きて」死んだとあるのも繊細な表現で、陰上に梭を衝いたのではない。陰部がもとは中空にあって、自身のほうから梭に向かっていった。地べたに座っていたり、腰に千巻を保持していてはすぐに動くことはできない。高機では、職工が機台から離れて身体が自由になっている。そして、単純な操作をひとつひとつこなしていけば、やがて立派な織物が織りあがる。この複雑な仕掛けを不思議に感じ、すばらしさに魅了されていたに違いない。つまり、服織女は、びっくりして動作手順を誤ったのである。高機は踏木を踏んで綜絖を開口させ、梭を横から手で投げて緯糸を入れ、筬を使って緯糸を打ち整えていく。ところが、踏木を踏まずに梭を踏もうとして踏みそこない、陰部を突いたのであった。
とはいえ、彼女はただ馬が上から降ってきてびっくりしたのではあるまい。また、ただ皮を剥がされた馬の異様な姿に驚いたのでもあるまい。「天斑馬(あまのぶちこま)(天斑駒)」とわざわざ断ってある。高いところからぶち込んだからでもあろうが、服織女はその裸の馬に衣を作ることを考えて、そのような斑紋のある織物を織るのが難しいと思ったのであろう。「神御衣(かむみそ)」は神さまに捧げる衣服である。ふつう、神主や巫女が着用しているのは、白一色、または、朱色か水色の単色を継いでいるにすぎない。写真プリントのように高精細に再現する織機は、近年になってコンピュータ織機として実用化された。豹柄ほどの特注品の依頼があり、天の服織女は相当に苦労している。
動物が毛皮を剥がされて裸になり、衣を復活させようとした話の類例に、有名な稲羽(いなば)の素菟(しろうさぎ)の説話がある。海の和邇(わに)に皮を剥がされた兎は、八十神(やそがみ)たちの言うように海水に浸して乾かしてみたら猛烈に痛かった。そこで大国主神(おおくにぬしのかみ)に教えられたとおり、清い水で洗って蒲黄(かまのはな)、すなわち、ガマの花の花粉を全身につけておいたところ、赤く爛れた膚は以前の姿の衣を甦らせることができた。裸菟(はだあかのうさぎ)が素(しろぎぬ)を身にまとって素(もと)の菟に戻ったという意味である。
天斑馬は、「逆剥(さかはぎ)に剥(は)」がされている。祝詞には天津罪(あまつつみ)のひとつに数えられている。仲哀記に載る国の大祓いの対象となる罪の類は、「生剥(いきはぎ)、逆剥、阿離(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚(うまたはけ)、牛婚(うしたはけ)、鶏婚(とりたはけ)、犬婚(いぬたはけ)」とある。生剥ぎが生きながら剥がしたものとすると、稲羽の素菟はそれであろう。逆剥ぎとはどのように皮を剥いだのか定め難く、諸説ある。逆馬は尻を前にした乗り方だから尻のほうから剥ぐことだとする説、生剥ぎと同じことで屠殺してから剥ぐべきところを順序が逆だからという説、全剥(うつはぎ)ぎが丸剥ぎのことでその皮はふいごに使われているから逆に裏返しになって役に立たなくなったものとする説などである。服織女は高機で踏木を踏んでいた。踏むは古語で「蹴(け)る」(下一段)ともいう。足蹴(あしげ)にしていたから葦毛(あしげ)模様は作れるだろうというのが須佐之男の言い分に違いない。したがって、稲羽の素菟のようには復活しない剥ぎ方、すなわち、たとえ皮膚が再生しても毛が生えてこず、斑の葦毛模様のすばらしさが損なわれてしまうことを言い含めているのであろう。
機織女のニックネームで呼ばれる虫は、今日のキリギリスという。和名抄に、「促織(はたおりめ)」は「鳴く声の急ぎて機を織るの如し。故に名づく」とある。直翅目キリギリス科の虫である。体長約三・五センチ、畳んだ羽の背面は褐色、側面は褐色斑の多い緑色をしている。触角は糸状で体長より長い。ぎす、ぎっちょ、などともいい、ちょんぎいすと鳴く。バッタは、ばったんばったんと機を織るようだから名づけられたのであろう。古くこおろぎと呼んでいたものは今のキリギリスといい、今のコオロギは古くきりぎりすといっていたという。ただし、万葉集に見える蟋蟀(こおろぎ)は、秋に鳴く虫の総称であろうという*1。
夕月夜(ゆうづくよ) 心もしのに 白露の 置くこの庭に 蟋蟀鳴くも(一五五二)
秋風の 寒く吹くなへ 吾が屋前(やど)の 浅茅(あさじ)がもとに 蟋蟀鳴くも(二一五八)
影草(かげくさ)の 生(お)ひたる屋前の 夕影に 鳴く蟋蟀は 聞けど飽かぬかも(二一五九)
庭草に 村雨(むらさめ)ふりて 蟋蟀の 鳴く声聞けば 秋づきにけり(二一六〇)
蟋蟀の 待ち歓(よろこ)ぶる 秋の夜を 寝(ぬ)るしるしなし 枕と吾は(二二六四)
草深み 蟋蟀多(さは)に 鳴く屋前の 萩見に君は 何時(いつ)か来らさむ(二二七一)
蟋蟀の 吾が床の辺に 鳴きつつもとな 起き居つつ 君に恋ふるに 寝ねかてなくに(二三一〇)
キリギリスに体形が似ていて、色はコオロギのようで、しかし鳴かない虫にカマドウマがいる。直翅目カマドウマ科の虫である。体長は約二センチ、茶褐色で、体はエビのように湾曲して頭は小さく、触角は細長い。後肢が発達して力強く跳躍する。床下、洞穴など、暗くて湿ったところに棲み、夜間に活動する。翅は退化しており、飛ぶことも鳴くこともできない。通称、便所こおろぎという。なかに、体長二・五センチほどの、斑紋のあるマダラカマドウマがいる。
棟を穿ちて投げ入れたとあるのは、虫籠の上の部分を壊してマダラカマドウマを放り込んだということを含意しているのかもしれない。養蚕害虫として古くから記録されているという*2。忌服屋で最も忌むべき存在であった。カマドウマの後足は発達しており、前へ進むウマというより上へ跳ねるウサギに似た跳び方をする。カマのハナは衣を復活させるが、カマのウマは無理なようである。そして、興奮するとひたすら跳ね回る。皮をむしられて跳ね回るしかない状態で闖入したので、鳴き声を競っていた機織女(きりぎりす)がパニックを起こした。虫籠の編み方は、機織りの原理の模式になっている。
はねるには、首を刎ねるの意味もある。機が磔の道具とされていたのは、原始機や地機では人が織物に拘束されているからでもあろうし、招木(まねき)(機躡)がはねるからでもあろう。斑竃馬は、海老の皮を剥くように剥がれた痕を修繕してくれと懇願しているようである。海老の皮は頭をとってから剥いていって尻尾を残す。これでは死んでしまうから、尻尾のほうから「逆剥ぎ」にしたというのであろう。須佐之男命は暗いところにいる斑竃馬を自在に操っており、根の国的な性格がよく表れている。
さて、須佐之男命のいたずらに対して、天照大御神は「とがめずて」「詔(の)り直し」ている。新嘗屋に屎のように見えるのは、自分と同じように新穀やお神酒を頂いていて酔っぱらって吐き散らしたに過ぎないし、畔を壊したり溝を埋めたりしたのは、土地がもったいないから全部田んぼにしようとしてくれたんだ、というように、良いように解釈しなおしている。言霊信仰が根強く、言い直しをすればそのように事態は変わるとされた。ただ、紀には詔り直しの記述はなく、天照大神の心境について、「恩親之意(むつましきみこころ)ありて、慍(いか)りたまはず恨(うら)みたまはず、皆平心(たひらかなるみこころ)を以て容(ゆる)したまふ」(一書第二)、「慍りたまはず、恒(つね)に平恕(たひらかなるみめぐみ)を以て相容(ゆる)したまふ」(第三)とあるに過ぎない。いずれにせよ、「我がなせの命(みこと)」の須佐之男命を信じようと一生懸命である。天照大御神の側からすればそういうことになり、須佐之男命の側からすれば、コウモリ、モグラ、カマドウマのような見方になる。田畑の開墾や、厨房、台所の独立を表している。
須佐之男命が高天原に上っていって天照大御神と滅茶苦茶な誓約をしたことも、相容れない世界観のぶつかり合いであったと知れる。最終的に天岩屋戸に籠ってしまったのは、天照大御神のほうも、須佐之男命の世界、地の底の、暗くて、夜に活動するような世界のコモンロー、コモンセンスを知りたかったということか、弁証法的な解決を目指したということになるのであろう。技術革新に付いていくということである。
須佐之男命のいたずらに対して、天照大御神は記では「見畏(みかしこ)み」、紀本文では「発慍(いか)り」、一書第一では「『汝(いまし)猶(なほ)黒(きたな)き心有り。汝と相見じ』と曰(のたま)ひ」、第二では「恚恨(いか)り」まして、すぐさま天石屋(天石窟)に籠っている。一書第一に「相見じ」とある表現は、第五段一書第十一に、月夜見尊(つくよみのみこと)が保食神(うけもちのかみ)を殺したことに天照大神が怒って言ったことばでもある。記の、見て畏れ慎んでいるとは、自分の力を超えたものを見てしまって恐れおののいている点に着眼した表現である。いたずらは天つ罪、穢れであるけれど、天照大御神はお祓いを行わない。対応できずに責任を回避し、見なくて済むところへ逃げ隠れてしまったのか、今以上にパワーアップした力を身につけて、逆にやり返そうとしているのか、宗教的、祭祀的な混乱が生じているのは確かであろう。
その結果すぐに、高天原も葦原中国も暗闇になり、神々たちは阿鼻叫喚、災禍がどんどん起こってしまった。記に、「是に万(よろづ)の神の声(こゑ)、さ蝿なす満ち、万の妖(わざはひ)、悉(ことごと)く発(おこ)りき」とある。似た表現は、須佐之男命が伊耶那岐命から海原を治めるように命じられたのに、泣いてばかりでいたときにある。「是を以て悪しき神の音(こゑ)、さ蝿如(な)す皆満ち、万の物の妖、悉く発りき」。いろいろな神の蝿のようにぶんぶんいう音で充満し、多様な災いごとが生じている。いずれも、政治祭祀の職務を放棄していたときである。
記紀の諸伝には細部に異同があり、天照大御神の名さえ、紀一書第二、第三では日神(ひのかみ)と表記されて即物的なものになっている。共通しているのは、石屋に籠ったことである。ここで、その戸は、いかに力のある天手力男神でも外からは開けられない。構造は門の扉、つまり、門(かど)のようで、中で閂(かんぬき)をかけてしまえばどうにもならない。閂をかける、戸を鎖すから、「刺(さ)しこもり坐しき」と表現している。万葉歌に、「門(かど)たてて 戸は闔(さ)したれど 盗人(ぬすびと)の 穿(ほ)れる穴より 入りて見えけむ」(万三一一八)とある。両開きの門扉を少し開けたとして、外の様子を窺うぐらいはできたとしても全体を見渡すことはできない。しかも、天手力男神が門扉の「掖(わき)に隠(かく)り立」っていれば、天照大御神の視界から容易に隠れることができる。そして、ドアの把手に手をかけて外へ押し開いたので、その手を取って引きずり出すことができた。
「天之石屋(天石窟)」とある。天孫降臨の条には、「天之石位(あまのいはくら)(天磐座)」とあって堅くて確かな神の御座所のことを指す。イハは譬えで、堅牢な様を表す。そして、そこを離れて天の八重棚雲を押し分け、天の浮橋を経由して、筑紫の日向の高千穂に降り立ってきている。したがって、イハクラのイメージは、山の尾根、馬の背に当たるところであろう。同様に、石屋とは堅固な家屋のことである。ただし、屋は家と異なり、新嘗屋や喪屋に見られるような仮小屋的な意味合いが強い。堅固な仮小屋という自己撞着表現は、屋根ばかりに堅固さがあることを示唆するものかもしれない。屋根が石材系なのは、瓦葺きである。甍が馬の背に当たる。瓦葺きの家屋は珍しく、天皇の宮殿でさえ、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)と称されるほどで、寺院建築に先行していた。斎宮忌詞に、寺院を瓦舎(かはらや)という。つまり、天照大御神が瓦の特徴的な仏堂に籠ってしまったので、アニミズムの神々たちは安の河原で談合を始めた。記に、「天照大御神、見畏み、天の岩屋の戸を開き」とある。外から掛かっていた鍵をはずして開けてなかへ入った。紀本文の、天照大神が石窟に籠っているところからの発言に、「云何(いかに)ぞ天鈿女命は如此(かく)㖸楽(ゑら)くや」とあって、「云何」は「如何」と同じ意味の仏典に多い用法という。最終的に瓦対河原の対決は、河原の勝利に終わった。
籠って何とかしようとした有名人は、聖徳太子である。法隆寺東院にある八角円堂を、今も夢殿*3と呼ぶのはその名残である。彼はお堂に籠り、救世観音像と対峙してよい智恵が浮かぶのを待っていた*4。瓦をのせたこじんまりとしたお堂は、金堂や五重塔などの大建築とは異なり、岩屋的な印象がある。八角円堂の屋根は、切妻造や入母屋造のように大きくはなく、馬の背にしてはごつごつして座りにくそうである。彼の名は、イハヤトに似た厩戸皇子(うまやとのみこ)である。馬の背でなく馬の屋ということらしい。名の由来は、推古紀元年条に、「皇后(きさき)、懐姙開胎(みこあれま)さむとする日に、禁中(みやのうち)を巡行(めぐ)りまして、諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ。馬官(うまのつかさ)に至りたまひて、乃(すなは)ち厩(うまや)の戸に当りて、労(なや)みたまはずして忽(たちまち)に産みませり」と記されている。また、倭の神さまを奉じるべき天皇家にあって、カラの神さまの仏教を篤く念じている。「且(また)、内教(ほとけのみのり)を高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)に習い、外典(とつふみ)を博士(はかせ)覚(かくか)に学びたまふ」とある。内教は仏教、外典は儒教のことである。高麗から馬はやってきたから駒と言っており、駒と仏教とは関連する事柄と捉えられた。三国志高句麗伝に、「其[高句麗]の馬は皆小さく、登山に便」とある。夢殿という小さな建物の甍は、馬の背としてはごつごつした感じをしていた。
堂内に安置された観音像は、厨子に収められていたであろう。もとは両開きの食器戸棚のことをいい、玉虫厨子や橘夫人念持仏厨子のように仏像を安置する仏龕(ぶつがん)のこともそう呼ばれるようになった。開き方は岩戸と同じである。厨子のヅは慣用音で、また竪櫃(たてひつ)とも呼ばれる。「家にありし 櫃(ひつ)に鏁(かぎ)刺し 蔵(をさ)めてし 恋の奴(やつこ)の つかみかかりて」(万三八一六)。そして、両開きの扉は観音開きと言い慣わしている。仏龕の龕の字は、岸壁や仏塔の下に彫りこんだ室のことをいった。法隆寺五重塔の仏龕には釈迦の生涯が彫られており、巌のようである。家具としての厨子も、正倉院の赤漆文欟木厨子(せきしつぶんかんぼくのずし)はケヤキの木目模様が巌のような印象を受ける*5。
「刺しこもり坐しき」とあるのは、そういうところへ観音さまと一体になって籠ることの表現であろう。コンパクトなお堂は、厨子と呼ぶにもふさわしく、堂内に厨子に入れられて安置された仏像は、二重の入れ籠構造になっている。長谷寺や石山寺など、お籠りの霊場となる観音は、岩場に示現したとする縁起を持つものが多く、また、観音は天照大御神と同じく女性と思われており、それは場所の持つ母胎的なイメージに似通っているという。そして、お籠りをして夢のお告げを求めたのも、夜と大地からの贈り物を手に入れようとしたのであろうと指摘されている*6。
なお、紀一書には、「八十万の神を天高市(あまのたけち)に会(かむつどへつど)へて問はしむ」とあって、文の主語は創造神たる高皇産霊(たかみむすひ)であろうが、記と紀本文の参集の場所、「天安之河原(あめのやすのかはら)(天安河辺(あまのやすのかはら))」とは異なっている。安は八洲であり、川や湖にたくさんの洲が出ている。つまり、八百万の神はそれぞれの洲にいて前は水が邪魔し、喧嘩せずに済む好都合な場所である。高市は、高いところに物品を持ち寄って集まり市が開かれたところをいう。長谷寺参詣の道すがらにある椿市(つばいち)(海柘榴市)が想定され、また、籠り堂となる観音堂が高台上にある点にも目が行っている。そもそも堂とは、基壇の上に建てられた建物をいう。
海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜(を)しも」(万二九五一)
紫は 灰指すものそ 海石榴市の 八十の衢に あへる児(こ)や誰(たれ)(万三一〇一)
言霊(ことだま)の 八十の衢に 夕占(ゆふけ)問ふ 占(うら)正(まさ)にのる 妹(いも)はあひ寄らむ(万二五〇六)
…… 百足(ももた)らず 八十の衢に 夕占にも 卜(うら)にもそ問ふ 死ぬべき吾が故(ゆゑ)(万三八一二)
交差点になったところに市は開かれ、そういう四つ角に立ち、往来する人のことばを聞いて物事を占う「夕占」、「辻占(つじうら)」が行われた。すなわち、籠り堂対高市とは、「厨子(づし)」対「辻(つじ)」ということである。
「隠国(こもりく)(隠口)の」は、枕詞として「泊瀬(はつせ)(始瀬)」にかかる。用字は万葉集によっており、記の地名、人名表記に「長谷」がある。「隠国の」のクは、何処(いずく)という場合のクである。一般に、初瀬は地形が籠ったところで国のようになっているからという。万葉歌に、「泊瀬小国(はつせをくに)」とあることによっている。ただし、「隠口」とも表記されるから、ク音に当てたに過ぎない可能性も少なくない。しかも、そのような小盆地地形は列島にいくらでもある。他の地名ではなく、必ず泊瀬を限定する理由があったはずである。
隠国の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走(わし)り出の よろしき山 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗(ぐは)し あやにうら麗し(紀七七)
多少とも似た歌が万葉集三三三一番歌にある。この歌の「走り出の よろしき山」の解釈として、走り出したように勢い良くせり出した山というものと、家から走り出したらすぐ向こうに見える山というものがある。おそらく、ハツセの音のハツは、感動詞のハッと同根で、最初にちらっと姿を覗かせる意味から、天石屋戸をイメージさせることと関係があるものと考えられる。天石屋は、長谷寺の縁起以前からあった籠り堂のイメージ、ないしはそのものを指しているのではないか。
雄略記に見える「長谷」を、どうやったらハツセ、ハセと訓むか。瀬は、狭(狹)(せ)しと関係がある語といい、夾の字は左右にものがあることを示す。峡(峽)は、両腋に人を挟(挾)み抱く形で、「間(はさま)」、「交(かひ)」のことである。谷は、山裾と山裾が交わるところでカヒであり、ほかに、替や買も交わっていてカヒである。斜めの筋交いのことは、挟む交だからハスカヒである。側で寄り添って支えるのはアテガヒであり、支倉はハセクラと訓む。家畜の命を支える餌の入れ物は飼葉桶である。馬が常駐するのは駅(うまや)(驛、駅舎)である。厩牧令*7に「凡(およ)そ駅(やく)及び伝馬(でんめ)に乗りて、前所(せんしょ)に至りて替(か)へ換(か)ふべくは、並に騰(は)せ過(すぐ)すこと得じ」とある。いわゆる駅令制で、駅伝のはじめである。早馬の約、ハユマはまた駅馬とも書く。はせるということばは、馬を速く走らせることから出発した語で、勢いとして人が走るの比ではない。ポップコーンを弾かせることはその勢いから爆(は)ぜるという。泊瀬朝倉宮に都した雄略紀には、「騁(は)せ射む」、「馬を驟(は)せ」、「馳せ猟(かり)す」、「轡(うまのくち)を並べて馳騁(は)せたまふ」、「驟(は)せて厩に入り」、「甲斐の黒駒に乗りて馳(は)せ」などとある。雄略天皇は、宋書倭国伝の「武」に当てられ、五世紀後半に在位していることになっている。そして、長はヲサ、訳(譯)もヲサ、中継して伝える役目をになう重要なポストにいる。したがって、ハセというところは、駅があって早馬(はゆま)が馳せっていた。よって、「走り出の」といい、「長谷」と書く。天宇受女命が、記に「うけ伏せ」、紀に「覆槽置(うけふ)せ」た上で神憑りのダンスパフォーマンスをしていたのは、飼葉桶をひっくり返していたということになる。名前にあるウズは、雲珠と記される馬具のことを言っている*8。雲珠とは、唐鞍(からくら)の鞦(しりがい)(尻懸)の交わるところにつける飾りである。最終的に須佐之男が追放されたのも、伝棄、つまり、所払いで、罪科の者を遠国へ流すのに、駅伝のような方法がとられたのであろうという*9。
この説話の真相を、天武天皇はわかっていたらしい。天武紀八年八月条に、故地に赴いて感慨にひたっている。「己未(つちのとのひつじのひ)(十一日)に、泊瀬(はつせ)に幸(いでま)して、迹驚淵(とどろきのふち)の上(ほとり)に宴(とよのあかり)きこしめす。是より先に、王卿(おほきみまへつきみ)に詔して曰(のたま)はく、『乗馬(のりうま)の外(ほか)に、更(また)細馬(よきうま)を設(ま)け、召さむ随(まにま)に出せ』とのたまふ。即ち泊瀬より宮に還りたまふ日に、群卿(まへつきみたち)の儲(ま)けたる細馬を迹見駅家(とみのはゆまや)の道の頭(ほとり)に看(みそこなは)して、皆馳走(は)せしめたまふ」とある。初瀬川をはさんで、迹見駅家(とみのはゆまや)と海柘榴市は相対していたという。敏達紀十四年三月条に「海石榴市(つばきち)の亭(うまやたち)」とあり、迹見駅はそれに替わって設置されたのではないかとされている*10。
「己未(つちのとのひつじのひ)(十一日)に、泊瀬(はつせ)に幸(いでま)して、迹驚淵(とどろきのふち)の上(ほとり)に宴(とよのあかり)きこしめす。是より先に、王卿(おほきみまへつきみ)に詔して曰(のたま)はく、「乗馬(のりうま)の外(ほか)に、更(また)細馬(よきうま)を設(ま)け、召さむ随(まにま)に出せ」とのたまふ。即ち泊瀬より宮に還りたまふ日に、群卿(まへつきみたち)の儲(ま)けたる細馬を迹見駅家(とみのはゆまや)の道の頭(ほとり)に看(みそこなは)して、皆馳走(は)せしめたまふ」。
迹驚淵は神々が騒いだ天の安の河原のようであり、迹見(とみ)(トは乙類、ミは甲類)は跡見、すなわち、狩りのときに獣の通った跡を見る人を思い起こさせる。「…… 野の上(へ)には 跡見すゑ置きて み山には 射目(いめ)立て渡し ……」(万九二六)とあって、「射目(いめ)」(メは乙類)は弓を射る人が隠れる柴垣などをいう。同音の「夢(いめ)」をみることこそ、お籠りの目的であった。狩りの方法にも、追いかけるのと待ち伏せるのとの二つの方法があった。
河原に集った神々は、神道の内紛から仏教へ走った中枢の神に対し、総力を挙げて復帰してもらうように努力した。鹿の骨を使った占いは、太占(ふとまに)の法といわれ、象灼(かたや)きとも呼ばれる。鹿の肩甲骨の骨に、ハハカというカニワザクラの枝に火をつけたものを当て、その亀裂のでき方から吉凶を占う。つまり、骨に割け目を入れる占いである。したがって、saku+ura→sakuraである。咲く花の代表として、その花をサクラというという語源説はともかく、穀物の霊を示すサが神座たるクラに乗っているとする説*11は、その神話的な典拠を記紀万葉などから示さなければ納得しにくいのではないか。桜は皐月には咲かない。
榊の枝の上中下に勾玉、鏡、和幣(にきて)をつけて御幣(みてぐら)として持ち、祝詞を寿ぐのは神祭りの定法である。榊にいろいろつけたものは玉串の豪華版である。相手を神として敬いますという姿勢の表明である。地方の首長が天皇を神として崇めるという表明にもなり、服属を誓う儀式と化する*12。景行紀十二年九月条に、「磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を抜(こじと)にして、上枝(かみつえ)には八握剣(やつかのつるぎ)を挂(とりか)け、中枝(なかつえ)には八咫鏡(やたのかがみ)を挂け、下枝(しづえ)には八尺瓊(やさかのに)を挂け」、仲哀紀八年正月条に、「五百枝(いほえ)の賢木を抜(こ)じ取りて、九尋(ここのひろ)の船の舳(へ)に立てて、上枝には白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、中枝には十握剣を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて」、また同条に、「五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳艫(ともへ)に立て、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて」とある。派手に見えて何だろうと神さまが寄ってくる。
最終的に、天照大御神は出てきた。外が騒がしくて寝れず、夢のお告げを聞くどころではなくなってしまった。貴い神がいるから笑い遊んでいるというのは、お籠りに濃い色彩の仏教、なかでも観音さまに対して、それよりも倭の神祇、後のことばにいう神道、なかでも天照さまに貴いものがあるという主張かもしれない。鏡は、イソップ寓話の犬が水面に向かっているような役割を果たす。舶来のものは目新しくて魅力的に思うけれど、どうしてどうして自分たちの伝統も優れていると知ったのである。
八百万の神は協議して、須佐之男命にお祓いをさせて追放している。あるいは、神道において、祓えの作法は禊などより比較的に新しいものかもしれない。「千位(ちくら)の置戸(おきど)を負(おほ)せ、亦鬚(ひげ)と手足の爪とを切りて祓(はら)へしめ」たとある。千位置戸の戸は両開きであろう。罪を贖うための代償の代物を棚にいっぱいになるまで置かせつつ、同じ罪を犯させないように体を傷つけ不具にした。金で払わせ、体で払わせており、民事罰と刑事罰の原初であろう。そして最後に、所で払わせる「神やらひにやらひ」にして話は完結したのであった。贖罪が祓えの原点で、穢れや災いを除き払う儀式としての祓えは、概念が拡大していったものであろう。
雄略天皇の時代を中心として、大陸から馬とともに仏教が早くも伝来していた*13。文明の利器の侵入は、倭に古来から住んでいるつもりの人にとって、精神世界の平穏を乱すものであった。祭祀や儀礼、マツリゴトの話である。どれほどの大乱があったかについて、「歴史」として素直に語ることはないが、言い伝えとしては第一級のお話を構築しており、当時の人たちの知恵の豊かさ、鋭さを感じさせてくれる。

*1 小林祥次郎『日本古典博物事典 動物篇』勉誠出版、二〇〇九年。
*2 梅谷献二『虫の民俗誌』築地書館、一九八六年。
*3 三宝絵詞に、「太子斑鳩(いかるが)の宮の寝殿の側(かたはら)に屋を造れり。夢殿と名づく」とあって、夢殿が「屋」と認識されていたことがわかる。
*4 上宮聖徳法王帝説に、「太子(ひつぎのみこ)の問ふ義(ことわり)に、師(のりのし)[高麗の慧慈法師]通(とほ)らぬ所有り。太子、夜、夢(いめ)に、金人来(くがねのひと)来(きた)りて、解(さと)らぬ義を教(をし)ふと見ゆ。太子窹(さ)めて後(のち)に、即ち悟る。乃(いま)し以(もち)て師に伝ふ。師も亦、是(かく)の如き事を領(をさ)め解(さと)る事一二(ひとつふたつ)に非ずあらくのみ」とある。魏志に載る仏教に関係する霊異譚の金人に由来するらしいとされる。先生である高句麗の慧慈が「通らぬ」とき、聖徳太子もその場では意味がわからなかったものの、夢のお告げで理解できたということである。なお、慧慈の役目は、(1)仏教を、(2)やまとことばで、教えることであったろうから、「通らぬ」には、文化的な相違による誤解を含めた通訳上の問題も含まれていたであろう。
*5 龕の広がりにおいて、棺を入れて墓まで運ぶ輿も生まれている。これと万葉挽歌、例えば四二〇番歌との関係について未詳である。
*6 西郷信綱『古代人と夢』平凡社(平凡社ライブラリー)、一九九三年。
*7 松井章「家畜と牧;馬の生産」(石野博信・岩崎卓也・河上邦彦・白石太一郎編『古墳時代の研究 第4巻 生産と流通T』雄山閣出版、一九九一年)によれば、五世紀頃の古墳において、その外側に接するかたちで馬の犠牲土壙が作られているという。特に、信濃、上野、日向など、延喜式に多くの牧がみられる地域に頻出するという。そのような点からも、厩牧令の始原は、五世紀に遡るものであろうと推測されている。
*8 拙稿「天孫降臨と猿田毘古・猿女君」参照。
*9 白川静『字訓』(平凡社、一九八七年)の「伝」字の解説によっており、須佐之男命について敷衍した。
*10 坂本太郎『坂本太郎著作集 第8巻;古代の駅と道』吉川弘文館、平成元年。
*11 桜井満『桜井満著作集 第七巻;万葉の花』おうふう、平成十二年。
*12 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本古典文学大系 日本書紀 上』岩波書店、一九六七年。
*13 仏教の公伝は、欽明紀十三年十月条に、百済の聖明王が「釈迦仏(しゃかほとけ)の金銅像(かねのみかた)一躯(ひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干(そこら)・経論(きゃうろん)若干巻(そこらのまき)を献る」とあるのにより、五五二年のこととしたり、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の戊午年の記述から宣化三年(五三八)とする説がある。これは、国家レベル、外交レベルでの話である。一般に、東アジアに仏教が伝来した時期については、中国が紀元前一世紀末、前秦から高句麗、百済へが四世紀後半、五世紀半ばには南朝の晋から百済、六世紀初めになってようやく新羅と日本へ伝わったとされている。鎖国や禁教をしていたわけでもないのに、隣国で百年以上も足止めをされていたらしい。新羅と日本には、それぞれ独自の基層文化が根強くあって、公式に仏教を受け入れるのを遅らせる事情となっていたのであろう。
扶桑略記に、「大唐の漢人鞍部村主司馬達止、此の春二月入朝す。即ち、草堂を大和国高市郡坂田原に結び、本尊を安置し、帰依礼拝す。世を挙げて皆云はく、『是大唐の神なり』といふ。縁起に出づ。隠者此の文を見るに、欽明天皇以前、唐人、仏像を持ち来たるなり。然れども流布するに非ざるなり」とある。この記事の年代は考証せねばならないが、いずれにせよ、公伝以前、渡来人によって私伝されていても倭人には広がらなかったことは確からしい。信濃、上総、備中などの古墳から四仏四獣鏡が出土し、また、関東地方では額に白毫をつけた女性らしき人物埴輪や行者僧ふうの埴輪も発掘されているものの、意匠を真似たに過ぎないとも指摘されている。
なぞなぞからは雄略天皇の時代に仏教の要素が見られたことがわかるが、渡来人に限られるような特殊なものであり、かえって好奇の目で見られるほど目立ったのであろう。欽明紀や元興寺伽藍縁起に、「蕃神(あたしくにのかみ))」、「他国神(あたしくにのかみ)」とある。言い換えれば、倭人にとって渡来人一世は、「蕃人」、「他国人」と認識されていたのであろう。するとこの天の石屋戸の話は、時代が少し下ったころに、仏教に近しい人物が当時の事情を上手にまとめ上げたものと推察され、天皇記(すめらみことのふみ)、国記(くにつふみ)、本記(もとつふみ)を録した聖徳太子をおいて他にあるまい。 
八俣遠呂知と出雲八重垣

 

須佐之男命(すさのおのみこと)(素戔嗚尊)の八俣遠呂知(やまたのおろち)(八岐大蛇)退治の言い伝えは、前半の大蛇退治の話と後半の須賀(すが)の宮での「八雲立つ 出雲八重垣」の歌の話の二部構成である。なお、その前に五穀の起源の話が載っている。
高天原から追放された須佐之男命は、出雲国の肥(ひ)(簸)の河上の鳥髪(とりかみ)(鳥上)というところに降り立つ。箸が流れてきたので人がいると確信し遡ってみると、娘を間においた足名椎(あしなづち)(脚摩乳)、手名椎(てなづち)(手摩乳)の老夫婦に出会う。泣いているので理由を尋ねると、高志(こし)の八俣遠呂知が毎年やってきて、娘を一人ずつ食べていき、今またその時がきた。大蛇の形を聞くと、目はホウズキのようで胴体は一つ、頭と尾は八つ、身には苔や常緑の針葉樹が生えていて、とても長くて、腹はいつも血で爛れているという。その娘、櫛名田比売(くしなだひめ)(奇稲田姫(くしいなだひめ))と結婚する約束をとりつけた須佐之男命は、あっという間に娘を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変えて髪に挿し、大蛇を迎え撃つための準備を老父母に命じる。それは、強い果実酒を醸し、垣をめぐらせて八つの入り口を設け、棚を作り、器を置き、酒を注いでおいて待つという作戦であった。言っていたとおりに大蛇は現れ、八つの頭を八つの垣の穴のなかに入れ、器の酒を飲んで酔っ払って寝てしまった。須佐之男命は長い十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて斬り散らしたところ、肥の河は血に染まった。そして、尾を斬ったところ、刀の刃がカチッといって毀れた。変だなと思って割いてみると、都牟羽(つむは)(都牟刈(つむがり))の大刀(たち)があった。不思議がって天照大御神に申し上げて献上した。これは草那芸(くさなぎ)の大刀(たち)(草薙剣(くさなぎのつるぎ))であるという。
つづいて、須佐之男命は、宮をつくる場所を出雲国に求めた。須賀(清地)というところにたどり着き、「我(あ)が御心清清(すがすが)し」と言って、そこに宮を造って住もうとする。初め宮をつくっていた時に、そこから雲が立ち上っていた。そして、記紀ともに一番歌として知られる歌を詠んだ。
八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻ごめに 八重垣作る その八重垣ゑ(紀一)
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を(記一)
そして、足名鉄神(あしなづちのかみ)を呼び、お前は私の宮の長に任じようと仰った。名前を与えて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)と名付けた。そののち、いろいろな女神とセックスして、神々を生んでいく。以上が話のあらすじである。
須佐之男命は「出雲国の肥の河上(かはかみ)」に降り立っている。言い伝えのなかで、「出雲」、ないし、「出雲国」のイメージはどのようなものであろうか。出雲は、記紀神話のなかでははじめのほうに多く登場する。記の上巻、および神代紀に「出雲」と明記された事項を拾うとおおよそ次のようになる。
(1)「出雲国と伯伎国(ははきのくに)との堺の比婆之山(ひばのやま)」に、亡くなった伊耶那美神は葬られる(記)
(2)「出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)」と今謂われているところが、いわゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)である(記)
(3)「出雲国の簸の川上」に到って、素戔嗚尊は八岐大蛇を退治する(紀第八段本文・一書第一、一書第二は奇稲田姫の養育の場所、一書第三に「〜の山」、一書第四に「〜に所在(あ)る、鳥上の峯(たけ)」、記に「出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地(ところ)」)
(4)「出雲の清地(すが)」の宮で「八雲立つ 出雲八重垣」の歌を歌い、大己貴神(おおあなむちのかみ)が生まれる(紀第八段本文、記に「出雲国……須賀の地(ところ)」)
(5)「出雲国の五十狭狭(いささ)の小汀(をはま)」で大己貴神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と出会い、ともに国づくりをする(紀第八段一書第六、記に「出雲の御大之御前(みほのみさき)」)
(6)「出雲国」で大己貴神は困っていると、幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)がやってきたので三輪山に祭る(紀第八段一書第六)
(7)「出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀」に降りた経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)に、大己貴神は天神に国を奉るか迫られる(紀第九段本文・一書第二、一書第一に「出雲(いづものくに)」、記に「出雲国の伊耶佐(いざさ)の小浜(をばま)」)
(8)「出雲国の多芸志(たぎし)の小浜」に、大国主神(おおくにぬしのかみ)は御殿を造る(記)
また、「出雲」に関連して、「いつも」ということばがある。多分に意識された形跡があり、万葉集の歌などには興味深い一群となっている。
河(かは)の上(へ)の いつ藻の花の いつもいつも 来ませわが背子(せこ) 時じけめやも(万四九一・一九三一)
河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢(こせ)の春野は(万五六)
…… 河の上の 生(お)ひ立(だ)てる 烏草樹(さしぶ)を 烏草樹の木 其(し)が下に 生ひ立てる ……(記五七)
河上(かはかみ)の 根白高萱(ねじろたかがや) あやにあやに さ寝さ寝てこそ 言(こと)に出(で)にしか(万三四九七)
「河の上」とは、ほんらい河のほとりのことである。ほとりは両岸ある。両岸に椿が連なっていれば「つらつら椿」である。面(つら)も顔の両側にある。したがって、「つらつら椿」は「つらつらに」を導いている。この傾向は、河の水中や河の上流のことにも拡張しているようである。同様に、イツモは、何時も、常に、という意味と、厳(い)つ藻、斎(い)つ藻の意味、すなわち、河の水の中で神威を受けてとても盛んな藻のことを掛けている。藻が川床に繁茂していれば、「藻床(もとこ)」である。床(とこ)は常(とこ)の意味を強く持つ。安康元年二月条に、「荇菜(をみなめ)」とある。水草のアサザの名を、詩経・周南・関雎の「参差(しんし)たる荇菜(かうさい)は、左右(さいう)之を流(もと)む。窈窕(えうてう)たる淑女(しゅくぢょ)は、寤寐(ごび)之を求(もと)む」を引いて、宮廷に働く女性の表現としている。そして、左右をモトコと訓む。
「左右(もとこ)」(ト・コは乙類)とは、垂仁紀で特徴的に用いられることばである。本(もと)+処(こ)、許(もと)+処(こ)の意で、もと、かたわら、側近くのことをいい、また、モトコヒトとも訓じている。つまり、左右両側にあるから、「いつ藻」は「いつもいつも」とふたつ重なることばを導くことになっている。
モトコは喪床、つまり、亡くなった後、亡骸を収める寝床である棺(柩)とも考えられる。永遠の眠りについているのであるから、棺ほど常床(とことこ)なものはない。古代にはヒツキ(ヒは甲類、キは乙類)と清音である。これは、日月(ひつき)と同音である。伊耶那岐命は黄泉国から還ってきて禊をする。左の目から天照大御神(あまてらすおおみかみ)(天照大神、日神(ひのかみ))、右の目から月読命(つくよみのみこと)(月夜見尊、月神(つきのかみ))が生まれている。左右(もとこ)の目は日月(ひつき)である。仏教の関係を見ると、日光菩薩、月光菩薩を脇侍とする三尊像の中心は薬師如来である。薬師はクスシで、大己貴神の相棒、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)(少彦名命)が薬の神と崇められている。その後の幸魂奇魂の「奇し」は、クスシとも訓まれる。垂迹的な発想の根源は、はやくも示されているようである。
したがって、出雲という地名の音は、喪の風景、および一対のペアの事柄をイメージさせる。病気、医薬、葬送のこと、そして、日月、陰陽、男女、閨房のための宮殿が話題になる。国生みの話において、伊耶那岐命と伊耶那美命の交合の場面では、どちらが先に相手を素敵だと告白するかが問題であるが、紀第四段一書第一では、左右のどちらから国の柱を回るかも重要な要素になっている。陰神が左から、陽神が右から回ったら蛭児(ひるこ)や淡洲(あわのしま)が生まれて失敗したため、天上に占いの教えを請い、反対に陽神が左から、陰神が右から回ることで国生みは成功している。
八俣遠呂知の場面で、箸がつらつらな上流から流れてきたと確かに言えるのは、二本揃って現れたからである*1。万葉集に、「父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命(みこと)は 朝露の 消(け)やすき命(いのち) ……」(万一八〇四)とあり、兄弟で一対の子であったという表現に用いている。上流には老夫と老女が二人いた。足名椎、手名椎という名は、いかにも二本ずつあることを強調している。また、櫛名田比売を神聖な爪櫛に見立てて、みずらに刺したとある。角髪(あげまき)(角子)は、左右二つに分けて両耳の辺りにわがねたものをいう。一対のペアが意識されている。
なお、紀一書第二には、素戔嗚尊は「安芸国(あぎのくに)の可愛(え)の川上(かはかみ)」に降り立ち、脚摩手摩(あしなずてなず)と稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)の間に真髪触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)が生まれて、「出雲国の簸の川上」に引っ越すことになっている。奇稲田姫と出雲国の簸の川上とが、地理的というよりもなぞなぞとして結びついていることを表す作為であろうし、とはいえ中国山地に所縁があることを示唆するものでもあろう。
八俣遠呂知は、「彼(そ)の目は、赤かがちの如くして、身一つに八(や)つの頭(かしら)・八つの尾(を)有り。亦、其の身に蘿(ひかげ)と檜(ひ)・椙(すぎ)と生(お)ひ、其の長さは谿(たに)八谷(やたに)・峡(を)八尾(やを)に度(わた)りて、其の腹を見れば、悉(ことごと)く常に血に爛れたり」とある。形容に八(や)が多く出ている。これが何を表しているかは諸説あるが、ヘビであることには変わりはない。ヘビの舌の先は左右に二つに分かれ、モトコな状態になっている。そんな形の大工道具は釘抜である。嘘をついていると、死んだときに閻魔さまに大きな釘抜で舌を抜かれると聞く。霊異記に「閻羅王(えんらわう)」とあり、閻魔羅闍の約で、中国でも早くから地蔵菩薩との習合が見られる。舌がないと、地獄に行って苦しくても何も言うことができない。この世では、舌そのものが釘抜になっている八俣遠呂智が、喪床と関連する出雲で神として登場している。これほど元も子もない話はない。
櫛名田比売とは不思議な名前である。ナダとあれば、なだらかなのであろう。紀に、両親は、「中間(なか)に一(ひとり)の少女(をとめ)を置(す)ゑて、撫(かきな)でつつ哭(な)く」とある。撫でられるほどなだらかなはずである。しかし、名前の先頭は櫛である。櫛は串と同根で、先が尖っている。湯津爪櫛にしたと断っているのは、爪の尖った性質を強調したいためであろう。紀の奇稲田姫*2も不思議である。奇しとは霊妙なの意味である。稲田のなかでも特に上田(じょうでん)ということであろう。しかし、肥(斐)の上流の鳥髪(鳥上)山という水源地が舞台である。箸が流れてこなかったら人がいるとは思えない。そんな山奥は気温・水温が低くて上田にはならない。そもそも、鳥髪というが、鳥に髪の毛はない。頭頂部が黒くてあたかも髪の毛があるように見えるのは鷽(うそ)である。鷽は郷土玩具になっており、削り掛けの一種である。天満宮では毎年一月の初天神に、鷽替神事が行われている。前年の不幸が嘘となって吉事と替えられるという信仰から生まれたという。そして、イナダとはブリの子である。寒鰤は脂が乗っていて美味であるが、イナダにそのおもかげは乏しい。本当にあのおいしいブリの子なのか、そのふりをしているぶりっ子なのではないか。泣いているというのも本当に悲しいのか、嘘っぽい。話を聞けば、既に八人の少女が年毎に八俣遠呂知に食べられてしまったといい、今は櫛名田比売の番であると言っている。八つの頭の大蛇なら八人で済んでいるはずで、九人目はいらないのではないか。この話にはほかにも嘘があるような気がする。でたらめというのではなく、騙っているのではないか、その嘘を何かに変えると言いたいのではないかということである。
千斤とも書く釘抜には、いくつかタイプがある。現在一般的に用いられるのは、バール状の「かぢや」(かじや)と呼ばれるものである。また、「やとこ」(鋏(やっとこ))のように挟んで引き抜くものもある。さらに、釘抜紋にデザイン化されたように、座金と鉄梃とを組み合わせてこじて使うものがあった。獲物に噛みついたヘビは、首を翻して持ち上げていく。どんなに足を踏ん張って抵抗しても、引き抜かれてしまう。また、蛇ににらまれた時点で座金に囚われているとも解釈できる。カヂヤは舌の動き、ヤトコは噛みつく顎の動き、鉄梃でこじる動きも鎌首をひねっている様子に沿っている。多様な形状をそのままに、釘抜という上位概念で括っていたのであろう。それを八俣遠呂知とすると、櫛名田比売は串、それも鉄の串のような釘に相当するらしい。足名椎、手名椎と言っていた椎も金槌を含意している。斎宮忌詞*3に「打(うつ)を撫(なづ)と称(い)ひ」とある。忌むべき死に関係した「打」としては、亡骸を棺に納めて蓋を釘で打つことが考えられる*4。五世紀代の古墳からは、釘や鎹が出土する例が多く、木棺が納められていたことを示している。つまり、撫でるとは金槌で釘を打つことであった。考えてみれば、忌詞ほどことばとして嘘っぽいものはない。
また、クギヌキには釘貫がある。先の尖った低い角柱を立て並べて、そこへ横に三本ほどの貫を通した柵のことである。墓地でよく見かけるほか、門や鳥居の両側に設けられており、稲垣と呼ぶ場合もある。須佐之男命が足名椎・手名椎に命じた作戦は、「汝(いまし)等(ら)、八塩折(やしほをり)の酒を醸(か)み、亦、垣を作り廻(めぐら)し、其の垣に八つの門(かど)を作り、門毎(ごと)に八つの佐受岐(さずき)を結(ゆ)ひ、其の佐受岐毎に酒船(さかぶね)を置きて、船毎に其の八塩折の酒を盛りて待て」というものであった。すると、「其の八俣遠呂智、信(まこと)に言(こと)の如く来て、乃(すなは)ち船毎に己(おの)が頭(かしら)を垂れ入れ、其の酒を飲みき。是(ここ)に、飲み酔(ゑ)ひ留り伏して寝(い)ねき」となった。八つの頭を釘貫の柵の門をくぐらせ、酒を飲ませて酔わそうとした。目には目を、釘抜には釘貫を、である。「佐受岐」とは桟敷のことで、物見や納涼のために一段高くなった床(とこ)(ト・コは乙類)である。今日でも、神社の鳥居脇の釘貫のところには、台を設けた上に酒樽が奉納されている。すると、八俣(八岐)という形容の八(や)は、ヤトコを導くための語であると知れる。ヤトコのト・コの甲乙は不明ながら、モトコ同様、ともに乙類と推測される。記にのみ、「高志(こし)(コは甲類)」の八俣遠呂知が出雲へ来たことになっていたのは、越す義が大股に踏み越えることを表すから序詞のように用いられるとともに、出雲であれば何かしらトコ的にならねばならず、ヤトコに取って代わられることを含意したかったのであろう。
十拳剣で大蛇を斬り散らしていったとき、尾にいたって刃が毀れた。体内からは都牟羽(つむは)の大刀が出てきた。記には伝本によって「都牟羽之大刀」、「都牟刈之大刀(つむがりのたち)」と二種類ある。須佐之男命は「異(け)しき物」と思って天照大御神に差し上げている。「草那芸(くさなぎ)の大刀」と呼ばれるものになっている。また、紀本文・一書第二・第三・第四に「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とあり、本文の「一書(あるふみ)に云(い)はく、本(もと)の名は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。蓋(けだ)し大蛇(をろち)居(を)る上(うへ)に、常に雲気(くも)有り。故(かれ)以て名(なづ)くるか」と注されている。ツムハ、ツムガリのツムは、糸巻きの錘(つむ)のことで、くるくる回るものの意である。景行記に載るように、倭建命が火攻めにあって周囲の草を薙ぎ倒すように刈ったとすれば、彼と彼の持つ剣はくるくると回ったであろう。
十握剣が刃毀れを起こしている。鉄の品質に優劣があったと知れる。五世紀のものとされる鍛冶遺構が、近畿地方で多数発掘されている。布留、陵南、大県といった鉄器製作の工房は、最初から専業化された集団によって運営され、長期にわたって継続した模様である。この時期に、鉄器生産に一大画期があったとする見解が有力である*5。原料鉄のうち、鋼素材が、形状と重量に規格性をそなえた鉄鋌となり、流通し、古墳にも埋納されている。同じ形状のものは、朝鮮半島南部の古墳からも出土している*6。また、長い刀剣や甲冑も多数作られ、象嵌をほどこす技術も現れている。農耕具においては、U字形鋤・鍬先の出現によって、土掘りが省力化されて、大規模な開墾が可能になったであろうとされている*7。この古墳時代の技術革新については、内発的なものではなく、渡来人に与る新技術の招来によるとされる。まず、福岡県博多遺跡から、弥生時代には見られなかった鞴の羽口が出土し、送風技術が朝鮮半島から伝わったとされる。しかし、これは中期以降に見られず、時期と地域の限られた現象であったらしい。より一般的で顕著な相違は、鍛冶具の鉄鉗(かなはし)の出現である。鉄鉗は、加工するために加熱し、赤熱した鉄を挟むのに用いる道具である。古墳の副葬品にもなっており、五世紀初頭頃が出現時期と考えられている。なかでも、北部九州、吉備地域、奈良盆地周辺に集中して多く見られる。それ以前にそれに代わる道具が確認されないため、鍛冶生産の画期に重要な品であることは間違えない。
鉄鉗は、別名、鋏(やっとこ)である。釘抜という概念に含まれていたヤトコである。また、カヂヤとあったのは、鍛冶屋を示唆しているのであろう。鉄鉗は、和名抄の「鍛冶具」に、「䥫鉗 加奈波之」とある。結合軸によって串状の二本をX字状に咬ませている。鳥髪から流れてきていたというハシは二本に分かれている。間(はし)や嘴(はし)と同根ともいわれるが、アクセントの相違があって決めかねるものがある。ピンセット状で一体化しているものはハサミと称していた。また、和名抄の「鍛冶具」には、「ホ刀 波佐美 取り以て銅䥫を切る也」とある。今の鋏に近く、左右鏡像のものが接合部を軸にして合わさっている。筴同様、一つのものであるからハサミと呼んで不思議でない。しかし、同様の造りをしている鉄鉗は、一つになっていてもハシと称している。ことばの扱い方として、忌詞に似た嘘があって、確かに鉄器生産の新技術を説話化したものであるとわかる。あるいは、鍛冶道具としての前身に、二本分かれた金属棒を用いていたことの流れから、ハシの名を留めたのではなかろうか*8。
  記と紀第八段本文にある「十握剣(とつかのつるぎ)」のほうは、一書第二に、「蛇(をろち)の麁正(あらまさ)」と名づけたとあり、第三には、「蛇(をろち)の韓鋤(からさひ)の剣(つるぎ)」とある。アラマサは韓真鋤(からまさひ)と同じとされ、朝鮮半島由来であることを示している。鋤(さひ)は推古紀に「呉(くれ)の真刀(まさひ)」(紀一〇三)とあって剣のこと、記の山幸彦の話に「佐比持神(さひもちのかみ)」とあって匕首ぐらいの小刀のこと、また、農具の耜のこともいい、大きいものにも小さいものにも、武器にも農具にも当てられることばらしい。一書第四には「天蠅斫之剣(あまのははきりのつるぎ)」とあり、古語拾遺にも「天十握剣(あめのとつかつるぎ)」とあり、「其の名は、天羽々斬(あめのははきり)といふ。今、石上神宮(いそのかみのかみのみや)に在り。古語に、大蛇(をろち)を羽々(はは)と謂ふ。言ふこころは蛇を斬るなり」と注されている。これらは蛇を斬ったことによる命名であろう。
一書第二には、草薙剣は熱田神宮に、十握剣は石上神宮に所在するとある。大和の石上神宮に今日伝わるものは七支刀である*9。長い剣の両側に、互い違いに枝が出ており、都合七つの先端を持つ刀である。これほど装飾性が強いとまったく実用に供さない。全体は大きいが小さな小刀がついているといえる。鉄器ではあるが武器にはならず、かといって農具でもない。神功紀五十二年条に、「久氐(くてい)等(ら)、千熊長彦(ちくまながひこ)に従ひて詣(まうけ)り。則ち七枝刀(ななつさやのたち)一口(ひとつ)・七子鏡(ななこのかがみ)一面(ひとつ)と種種(くさぐさ)の重宝(たから)を献(たてまつ)る」とある記事の七枝刀であると比定されている。確かに、八俣遠呂知を斬っていって最後に欠け、一本だけ枝の数が足りず七本の枝とあれば、なぞなぞ話としておもしろい。
一書第三には、「今吉備(きび)の神部(かむとものを)の許(ところ)に在り。出雲の簸の川上の山、是なり」とある。前後関係が不分明なため、衍文ではないかともいわれている。出雲の簸の川上の山は鳥髪山で、鷽、すなわち、嘘であると言っている。でたらめを示すのではなく、冗談まかせに謂れを語っているということであろう。令制で、神部は、祭祀にあずかる下級の神官とされる*10。推古紀十年二月条に、「来目皇子(くめのみこ)をもて新羅(しらき)を撃つ将軍(いくさのきみ)とし、諸(もろもろ)の神部(かむとものを)及び国造(くにのみやつこ)・伴造(とものみやつこ)等(ら)、并(あはせ)て軍衆(いくさ)二万五千人(ふたよろづあまりいつちたりのひと)を授(さづ)く」とある。来目皇子は、聖徳太子の同母弟である。新羅遠征だから、伝承上の神功皇后の事績が思い出されたであろう。ここの神部は、戦勝や行軍の安全を祈願するための神職である。筑紫まで進軍するものの、六月に来目皇子は病に臥して遠征は叶わず、十一月に亡くなっている。翌年四月に、異母兄の当麻皇子(たぎまのみこ)(麻呂子皇子(まろこのみこ))を征新羅将軍に再任命しているものの、七月に随伴すべき将軍の妻が播磨の赤石(明石)で亡くなり、計画は頓挫してしまった。
延喜式の神名式に、備前国赤坂郡に石上布都之魂神社(いそのかみふつのみたまじんじゃ)が見え、現在、岡山県赤磐市の石上布都魂神社に当たり、吉備の神部はこれではないかという。紀の編者がわざわざ持ち出した理由は、石上神宮との関連と、山陰道の出雲の山陽道側が備後、つまり、吉備であり、播磨の西隣が備前、つまり、吉備であるからであろう。当たらずといえども遠からずであり、嘘ということばのニュアンスをうまく言い表している。推古朝の新羅遠征において、神部はことごとくその職責を全うしていない。したがって、新羅遠征で得られるはずの韓鋤が吉備にあるとは架空の話の仮構であるが、嘘から出た真、吉備には製鉄関連の屯倉(みやけ)が作られている。
屯倉とは、大化改新以前における天皇、朝廷の直轄領をいう。畿内周辺や近国の屯倉は、水田の経営や稲穀の貢進を目的としているが、中・遠国の屯倉は場合、水田耕作に加えて、山林、採鉄地、鉱山、塩浜、塩山、港湾、軍事基地、漁場、牧場、猟場などの占有のために設けられたものが多い。欽明紀十六年七月条に、「蘇我大臣稲目宿禰(そがのおほおみいなめすくね)・穂積磐弓臣(ほづみのいはゆみのおみ)等(ら)を遣(つかは)して、吉備の五つの郡(こほり)に、白猪屯倉(しらゐのみやけ)を置かしむ」とあるのは、採鉄、鉱山経営のためのものであるとされる。考古遺跡としては、千引かなろく谷遺跡など、六世紀のものと比定されている*11。
ミヤケは、御宅の意で、直轄領にある倉庫のことを指した。紀に、「官家(みやけ)」とあるのは、百済、任那などの朝鮮半島南部の諸国を指す。朝廷に貢納する点が、元来の屯倉の性格と同じであるから語義が広まったという。推古朝に新羅征討軍の派遣に至ったのも、新羅が任那を侵略し、倭国への朝貢関係が揺らいだからであった。すなわち、ミヤケという概念の拡大は、朝廷の対外的な支配権の拡大を表しており、反対に、ミヤケということばそのものに、支配権の拡大の意を内含するようになったということである。その実力とは軍事力であり、その象徴は鉄器であり、その結果もたらされるのは外国人の半奴隷化であって、名簿を作って人身支配したらしい。
紀第八段の八岐大蛇退治の話には、斬りつけた剣以外にも韓(から)や新羅の記事がある。一書第四では、素戔嗚尊はいったん新羅国の曾尸茂梨(そしもり)に天降りしてから出雲国の簸の川上に来ている。新羅も曾尸茂梨も、語源的には金のある部落の意という*12。新羅を強調したいらしい。言い伝えで新羅は、神功皇后が親征したことになっており、七支刀の記事は神功紀五十二年条に付けている。そして、「埴土(はに)を以て舟に作りて、乗りて東(ひむがしのかた)に渡りて」やってきている。実際に泥の舟で日本海を渡れるはずはない。船形埴輪のことを含意しながら彼我の交流を表しているのか、以下に示すように、船材が実は日本列島から運ばれたものであったことを示唆するものであろう。
第八段の一書には、樹木に関する話も目立つ。一書第四に、「初め五十猛神(いたけるのかみ)、天降(あまくだ)ります時に、多(さは)に樹種(こだね)を将(も)ちて下(くだ)る。然(しか)れども韓地(からくに)に殖(う)ゑずして、尽(ことごとく)に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡(すべ)て大八洲国(おほやしまのくに)の内に、播殖(まきおほ)して青山(あをやま)に成さずといふこと莫(な)し。所以(このゆゑ)に、五十猛命を称(なづ)けて、有功(いさをし)の神とす。即ち紀伊国(きのくに)に所坐(ましま)す大神是なり」、第五に、「『韓郷(からくに)の嶋には、是金銀(こがねしろかね)有り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国に、浮宝(うくたから)有らずは、未だ佳(よ)からじ』とのたまひて、乃(すなは)ち鬚髯(ひげ)を抜きて散(あか)つ。即ち杉(すぎのき)に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是(まき)に成る。眉の毛は是櫲樟(くす)に成る。……『杉乃(およ)び櫲樟、此の両(ふたつ)の樹(き)は、以て浮宝にすべし。檜は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし。艪ヘ以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おくつすたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆能く播(ほどこ)し生(う)う』とのたまふ」とある。六世紀の百済の武寧王陵にも、日本の高野槙を使った木棺が用いられており、紀の記述に適っている*13。
記の構成では、天岩屋の話で須佐之男命は祓えを科され神やらいの追放にあった後、五穀の起源の話を差し挟んで八俣遠呂知を退治する話になっている。五穀は、大宜都比売神(おおげつひめのかみ)が須佐之男命に殺されたとき、身に生ったものとして説明される。「頭(かしら)に蚕(かひこ)生(な)り、二つの目に稲種(いなだね)生り、二つの耳に粟(あは)生り、鼻に小豆(あづき)生り、陰(ほと)に麦生り、尻(しり)に大豆(まめ)生りき」とある。なぜ五穀の起源の話が挿入されているか、疑問とされている。紀には第五段一書第十一に、三貴子分治の話に付加される形で、保持神(うけもちのかみ)が月夜見尊に殺されてその身から生ったものと説明される。「其の神の頂(いただき)に牛馬(うしうま)化為(な)り、顱(ひたひ)の上に粟生り、眉(まゆ)の上に繭(かひこ)生り、眼の中に稗(ひえ)生り、腹の中に稲生り、陰に麦と大小豆(まめあづき)生れり」とある。ここで、朝鮮語による対応が指摘されている*14。頭と馬、顱と粟、眼と稗、腹と稲、女陰と小豆である。わざわざ眉と繭というやまとことばによる対応も残してわかりやすくしてある。これが正しい形であるとすると、記の記述は間違えだらけということになる。
朝鮮語がわかる人が聞けばおもしろい駄洒落であろう。しかし、やまとことばを話している倭人に朝鮮語はわからない。とはいえ、五穀の起源は朝鮮語の駄洒落で表すものだということさえ知っていれば、たとえ対応関係は間違っていてもあの話かと察しがつき、嘘の話として脈絡がついて十分であったらしい。五穀は朝鮮半島に由来すると思われていたに違いない。結果、五穀の起源の話は、朝鮮半島をイメージさせる導火線の役割を果たしている。八俣遠呂知退治の一連の話に、記には五穀の起源、紀には樹木の起源や新羅の曾尸茂梨という駄洒落が続くことで、全体のなぞなぞ話に朝鮮半島との交流が関係していると理解できるようになっている。
天照大御神(天照大神)、月読命(月読尊)、須佐之男命(素戔嗚尊)の三貴子分治の話では、須佐之男命は、記に海原、紀第五段本文と一書第一に根国、第六に天下、第十一に滄海原を治めるようにとなっており、混乱が見られる。ただし、須佐之男命自身が泣いて行きたがったり、神やらいにやらわれたところは、記に、「妣(はは)[伊耶那美命]の国根之堅州国(ねのかたすくに)に罷(まか)らむと欲(おも)ふ」、第五段本文に、「根の国に適(い)ね」、一書第一に、「下(くだ)して根国を治(しら)らしめたまふ」、第二に、「極(きは)めて遠き根国を馭(しら)すべし」、第六に、「母(いろはのみこと)に根国に従はむと欲ひ」、第六段本文に、「教(みことのり)を奉(うけたまは)りて根国に就(まか)りなむとす」、「永(ひたぶる)に根国に就(まか)りなむとす」、第七段一書第三に、「急(すみやか)に底根之国(そこつねのくに)に適(い)ね」、「我(やつかれ)を根国に処(お)く」、「永(ひたすら)に根国に帰(まか)りなむ」とある。死んだ母のいる根の国の根は木の根と関係し、穴を掘ることと関係する神さまなのであろう。U字形鋤・鍬先が鉄器の技術革新の象徴であったし、それによって大規模な古墳の造営も可能になったと推測される。朝鮮半島南部からは、倭様の前方後円墳が発見され、技術ばかりか造営物までも、海の向こうの朝鮮半島、特に加耶や新羅と結びつきがあると言いたいのではないか。
紀第八段一書第五には、樹木の起源話の後に、「素戔嗚尊、熊成峰(くまなりのたけ)に居(ま)しまして、遂に根国に入りたまふ」とある。熊成は朝鮮半島のクマナリで、古代朝鮮語のナリは津や川の意である。慶尚南道昌原郡に熊川はあり、継体紀二十三年四月条に「熊川(くまなれ)」と見える。鉄素材を輸入していた加羅(伽耶、任那)の地である。横穴式石室の墳墓も残っているという。
さて、須佐之男命は、須賀(清地)というところにたどり着き、宮をつくり、歌を歌った。「八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき)」の歌は、盛んに雲が湧き立つ出雲国の八重垣、妻を籠らせるために、ないしは妻といっしょに八重垣を作る、その八重垣よ、といった意味である。新室寿ぎの歌であるというのが定説である。しかし、歌っている内容は垣根讃歌である。新築の家屋を褒めるならともかく、垣根についてお上手を言うのはどういうことであろうか。須賀という地名と清々しいという気分の表明もわざとらしい。この記事には巧みななぞなぞが隠されているのであろう。
「八雲立つ」は出雲を導く枕詞である。あるいは「八雲さす」ともいう*15。ヤクモソウという草がある。益母草と当て、妊婦用の薬草にする。またの名をメハジキという。目弾きの意で、子どもがこの草の茎を切ってまぶたに当ててつっかえとし、目を剥く遊びをしたことに由来する。危険だから良い子は真似しないようにと注意喚起されている。この遊びは、見塞(ませ)、間塞(ませ)、籬(ませ・まがき)である。
八重垣とあるのは、実際に八重に、あるいは、たくさんの垣根がめぐらされたというよりも、それほど威力があって外敵が近づけないほどの垣根という意味であろう。上代における八重○○という表現としては、八重雲、八重棚雲、八重畳、八重波(八隔浪)のほか、固有の名称として植物の八重葎(むぐら)があげられる。ヤエムグラは現在のカナムグラかとされる。棘があって、なにかにつかまりながら高く伸びていき、拉拉藤とも書く。
ムグラとは、モグラ、ウグラ、モグラモチ、ウグロモチとも呼ばれる鼹鼠(もぐら)、鼴(もぐら)、土竜(もぐら)である。土を掻いて穴を掘り、土中の昆虫などを食べて生活し、目は退化して見えない。農作物自体を食するわけではないが、根を傷めたり灌漑設備に害をなして嫌がられる。天石屋に天照大御神が籠るきっかけとなった須佐之男命のいたずらに、「田の畔(あ)を離(はな)ち、溝(みぞ)を埋(う)む」所業があった。仲哀記に載る、大祓えの対象となる国つ罪にも、この二つの仕業はあげられている。さらに、須佐之男命が八百万の神から村八分にされるときも、鬚と手足の爪とを切られている。お祓いのひとつであるが、モグラならではの無力化といえよう。土竜打ち、土竜脅しなどの行事が一月十四〜十五日や節分に行われる地方がある。また、須佐之男命は、伊耶那岐命の禊において生まれ、当初は「海原(うなはら)を知ら」すように命じられていたものの、「妣の国の根の堅州国」に行きたがったため、追放の旨を宣告されている。紀第五段一書第十一にも「滄海之原(あをうなはら)」となっている。すると、海が朝鮮半島との間に横たわる対馬海峡をイメージするだけでなく、海人の潜りからモグラへと転向したと言いたいらしい。潜らずに渡ってきたものは、比重の重い鉄鋌であるとも示唆している。
垣(牆)は、懸ける意味の奈良時代までの語、懸くに由来するという。あるいはまた、土を掻くから垣というのかもしれない。機能としては、囲む点と隠す点があげられる。縄張り、結界、障屏、占有、防護、防衛、また、隠匿、遮蔽、垣間見るといったはたらきがある。礼記・祭義に、「古(いにしへ)は天子諸侯必ず公桑蚕室(こうさうさんしつ)有り、川に近づきて之を為(つく)り、宮(きゅう)を築くこと仞有三尺(じんいうさんじゃく)、棘牆(きょくしゃう)して之を外閉(ぐゎいへい)す」とあり、芸文類聚にも記載がある。昔、天子諸侯の宮廷には必ず桑畑と蚕室が併設され、その周囲には高さが一仞と三尺(約二m二十五p)の高さの垣がめぐらされ、垣の上にはいばらが植えられて鉄条網の役割を果たし、門は外から鍵をかけて閉ざしてあったという。中国では土塁を築いた上に障壁を設けている。ムグラが地面付近に穴を掘ると、あたかも土塁、お土居のようになる。ウグロモツ、ウゴモツ、ウゴモルには墳という字が当てられる。根の国と関係する古墳に重なってくる。
万葉集の巻十六は「由縁ある」歌が収められている。なかに、
枳(からたち)の 棘原(うばら)刈り除(そ)け 倉立てむ 屎(くそ)遠くまれ 櫛造る刀自(とじ)(万三八三二)
とある。これは、着想的には、カラタチ→クラタチのことば遊びから展開された歌である。この歌の「由縁」は、記紀ともに一番歌として知られる出雲八重垣の歌のことであろう。枳は枳殻、枸橘、臭橘のこと。記紀一番歌にある「その八重垣」が、アクセントの違いをとぼけて園(その)(苑)八重垣を匂わすものなら、果樹園のための垣にするには枳が使われたに違いない。イノシシ避けに効果的であったという。紀第八段一書第二に、八岐大蛇に飲ませるべく「衆菓(あまたのこのみ)を以て酒(さけ)八甕(やはら)を醸(か)」んだとある。木の実を使った果実酒の伝統は、列島に伝わらない。わざわざ「菓」とあるのは、八重垣が果樹園を囲むものとして利用されていたことを示すものであろう。
枳は、葉が落ちても幹や棘が緑のまま生きながらえる。枯れても立っている橘である。棘が皮膚を剥くほどひどい茨になる。七支刀の姿を連想させる。唐太刀(からたち)とは韓鋤(からさひ)である。須佐之男命が大蛇に斬りつけたものである。「障(さ)ひ」の意味する垣に通じる。鋤(さひ)はまた、農具の耜のことでもあり、スコップは穴を掘るだけでなく、垣を土塁から作る際の必須アイテムであった。鉄器が武具にも農具にもなる二面性を表している。逆に、「さひづらふ」、「さひづるや」は、唐(から)にかかる枕詞で、意味のわからないことを鳥が囀るようだからとされている。また、三八三二番歌では、クラ、クソ、クシとク音が連続している。倉には鍵(鑰)が、屎には掻木(かきぎ)(籌木(ちゆうぎ))が、櫛は掻入(かき)るものである。さらに、爾雅・釈虫に、「枳首蛇は歧(ふたつあたま)の蛇なり」とあり、八俣遠呂知との関連も考えられたかもしれない。
出雲八重垣の歌は、須賀という地の地名譚的な性格も担っている。スガの意味は、元来は、透け+処(か)、過ぎ+処の意味ではないかと考えられる。出雲ということばからは、何時も,厳つ藻といった音が連想されていた。そして、何時もには道すがらのように、今も使うスガラが連想される。過ぐと同源の語である。また、厳つ藻を収穫するには、スガリ、別名を溜(たまり)、おだ袋、さざえ袋という海人の使う魚籠が使われる。つまり、出雲のなかの出雲、真の出雲的なるところこそ、須賀なのである。
さかんに目の話が出ていた。わざわざ須賀に限定しているのは、眇目(すがめ)、すなわち、瞟眼(ひがらめ・ひんがらめ)(僻眼)のことをいっているのであろう。斜視、藪睨みである。ヤエムグラは藪になる。須佐之男命は僻みっぽい性格で悪さばかり働いて、結局高天原から永久追放処分になっている。眇目のことはカヌチとも称する。カヌチは金打、鍛冶職人を表すという*16。鍛冶職人はヤトコを操る。閻魔が地獄の釜のところで罪人の舌を抜くイメージに通じる。瞟眼のことは単に瞟(ひがら)という。眼の見えないムグラが倉をたて、眼つきの悪いヒガラが枳の垣をたてる。韓からやってきた人を囲い込んで使役した屯倉を連想させる。
建物に八重垣をめぐらしたとなる、城、砦、櫓(矢倉)や宝倉(ほくら)、また、外国人の賓客を接待する館(たち)ではないかと考えられる。城は古語でキ(乙類)、木も乙類である。古代朝鮮語ではサシ、刺しと同音である。砦は取り手の意味である。取り手は「相撲(すまひ)」取りのことも指す。同音の「住まひ」とは、須賀の宮のことであろう。宮を造ったというけれど、ミヤはほんらい霊屋(みや)、すなわち神の坐すところをいう。屯倉とは、朝廷の直轄領にあった倉庫から命名された。あるいは、矢倉の倉は暗(くら)、盲(めくら)のことを導き出したいのであろう。館からはタチバナが連想される。唐の橘が枳である。
こうして見てくると、須佐之男命の八俣遠呂知退治の話とは、盲蛇に怖じずという諺を集大成したようななぞなぞ話である。平板に言えば、朝鮮半島からの鉄器製作の技術流入について、包括的に物語に仕立て上げたものであった。それが、五世紀当初ばかりでなく、記紀の種本の天皇記・国記・本記の書かれた七世紀初頭の「今」へと継続的に受け継がれ、なおホットな技術革新であったところに、「歴史」の説話化という道行きが知れて興味深いものがある。

*1 向井由紀子・橋本慶子『箸(はし)(ものと人間の文化史102)』(法政大学出版局、二〇〇一年)によると、二本組の箸の出土例は、七世紀の飛鳥板葺宮遺跡にある檜製のものが古いとされるが、祭器ではないかともされる。正倉院には銀製鍍金の箸が残り、新羅からの舶来品である。魏志倭人伝には、「食飲には籩豆(へんとう)を用ひ、手もて食(くら)ふ」とあり、まだ箸は使われていなかった模様である。また、鉗(かなばさみ)というピンセット状の道具が、大嘗祭などの神饌用に用いられ、正倉院に鉄挟子が残る。八十本中一本が銀製で、残りは鉄製である。中国春秋時代の曾侯乙墓の出土品に竹筴があり、やはり、ピンセット状の挟み道具である。日本の遺跡からも木製で湾曲部を薄く削ったものが出土している。ほかに、ブリキ製の火挟みが炭火を挟むのに使われていた。注意すべきなのは、ハシとハサミという二語が用いられている点である。
*2 同一の母音が連接する場合、縮約現象を起こすことがよくある。それは、櫛名田比売と奇稲田媛の関係のように、名前においても起こりうる。そのため、当時においては、クシナダという音韻連鎖を、奇(クシ)+稲(イナ)+田(ダ)のように分節したり、解釈したりすることができたという(佐佐木隆『上代語の構文と表記』ひつじ書房、一九九六年)。上代においてばかりでなく現代においても、そうやって駄洒落を言う人は少なからずいる。
*3 延喜式の斎宮忌詞は、内の七言、外の七言、別の三種に分かれる。内の七言は仏、経、塔、寺、僧、尼、斎、別の忌詞は堂、優婆塞、外の七言は、死、病、哭、血、打、宍、墓を言い換えている。内外に分けた理由には、忌むべきことの甚だしいものを外、それほど甚だしくないものを内とする説(梅田義彦『伊勢神宮の史的研究』雄山閣出版、昭和四十八年)、神宮部内だけで忌詞とする類を内、大嘗祭や斎院でも忌詞とする類を外とする説(安藤正次『日本文化史論考』雄山閣出版、昭和四十九年)、内典、すなわち仏教に関するものを内、外典、すなわち儒教などによるものを外とする説(西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成二年)などがある。いずれにせよ、斎宮忌詞は、すべて死を忌む点から出発しており、仏教用語が忌まれた理由は、僧侶が葬式に携わるからであろう(橘正一『方言学概論』育英書院、昭和十一年)。今日でも、いささかの含意をもって葬式仏教と呼ばれることがある。
仏を神と同一のレベルで捉える表現は、文献にしばしば見られる。仏教公伝のときの欽明紀十三年条に、「蕃神(あたしくにのかみ)を拝(をが)み」、敏達紀十四年条に、「仏神(ほとけ)の心(みこころ)に祟(たた)れり」、用明紀二年条に、「他神(あたしかみ)を敬(ゐや)びむ」、扶桑略記に、「大唐の神なり」、霊異記上七に、「諸(もろもろの)神祇(かみたち)の為に伽藍(がらん)を造り立(た)てまつらむ」、元興寺伽藍縁起に、「他国神(あだしくにのかみ)を礼(ゐやま)ふ」、「他国神の宮」などとある。仏は在来の神とさほど異質なものとは受け取られておらず、逆に言うと、倭人はそれ以外に認識の枠組みは持ち合わせていなかったということである。神仏習合はいつでも起こりうるものであったし、本論の八俣遠呂知神話も作られ得たのである。
*4 斎宮忌詞を論ずる諸氏の考えでは、「打」を、人体に対して殴ったり(梅田、前掲書)、笞打ったり(安藤、前掲書)することとされている。外の七言のうちの他の、死、病、哭、血、宍、墓は、実体としての死に直結していて生々しい。孝徳紀大化二年三月条には、家の前の路頭で死んだり、川で溺死したところを見させられたと言って、死者の兄弟や仲間に祓除を強要するといった風を禁止する詔が載っている。死を穢れとする習俗を悪用したものである。
なお、斎宮忌詞が制度化、明文化された年代については、時代が下るであろうと議論されている。とはいえ、ことばづかいの癖としては、記紀にも同様の例が見られている。
*5 鉄器は、いくつかの過程を経て生産される。まず、製錬では、鉄鋼石や砂鉄と木炭(石炭)を製錬炉で燃やして人工鉄(原料鉄)を作る。炭素含有量によって、錬鉄(鍛鉄)(炭素量0.02〜0.2%)、鋼鉄(同0.3〜2.1%)、銑鉄(同2.1%以上)に分けられ、錬鉄と鋼鉄が鋼、銑鉄が鋳鉄である。錬鉄は柔らかいので焼き入れても硬くならない。鍛造して針金や釘などができる。鋼鉄はしなやかでありながら硬度もあり、鍛造して刀剣や斧、鋤・鍬先などができる。銑鉄は硬いが脆い性質があり、溶解炉で鋳造して鉄鍋、梵鐘、仏具、容器などができる。ただし、銑鉄は鍛冶炉を設けて脱炭処理すれば、鋼鉄同様に鍛造可能な錬鉄になる。これが精錬である。
日本列島で鉄製錬がいつごろ始まったかについては議論が絶えない。ただし、鉄を社会変革の主たる動因にすべき考古学的な証拠は見られないという。無条件ではないものの、鍛冶によってリサイクルが可能であるため、鉄素材が物量的に稀少であったり、不足していたというわけではなさそうである。村上恭通『倭人と鉄の考古学(シリーズ 日本史のなかの考古学)』(青木書店、一九九九年)によると、釜山市莱城遺跡の鍛冶遺構からは北部九州の弥生中期前半の土器が出土し、倭人が生活していたことがわかり、弁辰地域からの鉄素材入手に関わっていたのではないかとされている。弁辰は、他民族同様倭人にも、鉄山への入山や製鉄・精錬への関与も認めつつ、鋳造や鍛造の高度な技術はオープンにしなかったであろうと論証されている。すなわち、材料はあっても鍛冶技術がなくて、良いものが作れなかったということである。
*6 佐々木稔・赤沼英男「鉄器と原料鉄の生産技術の進歩」佐々木稔編著『鉄と銅の生産の歴史 増補改訂版;金・銀・鉛も含めて』(雄山閣、二〇〇九年)によると、鉄鋌の組成から、中国の山東半島から揚子江下流域の鉱山で採掘された鉱石が原料であるという。
*7 上原真人「農具の画期としての5世紀」『王者の武装;5世紀の金工技術(京都大学総合博物館春季企画展展示図録)』京都大学総合博物館、一九九七年。都出比呂志『日本農耕社会の成立過程』岩波書店、一九八九年。
*8 松井和幸『日本古代の鉄文化』(雄山閣、二〇〇一年)に、鉄鉗が図示、整理されている。二本の鉄棒をそろえて一箇所を鋲で止め、はさみ部よりも握り部を長くして、てこの原理で握力を倍加させて使う様子を検証している。全長が短く、造りが全体に華奢なものや、はさみ部が環状をしたものがあって、鍛冶加工に用いられたのか疑問とするものがあり、他の金属細工、また、大工道具の釘抜ものかもしれないとされている。
*9 七支刀の銘は、「泰□四年□月十六日丙午正陽造百練□七支刀□辟百兵=供供□□□□□□」(表)、「先世以来未有此刀百□王世□奇生聖音為□王旨造傳示□世」(裏)と記されているとされる。冒頭は泰和四年とされ、東晋の太和年間の三六九年のことという。疑問なしとしないが、朝鮮半島との関係は確かである。
*10 古語拾遺に、「神部は、もとは中臣・斎部(いむべ)・猨女(さるめ)・鏡作(かがみつくり)・玉作(たまつくり)・盾作(たてぬひ)・神服(かむはとり)・倭文(しとり)・麻績(をみ)等(ら)の氏有るべし。而るに、今唯中臣・斎部等の二三氏(ふたうぢみうぢ)のみ有りて、自余(これよりほか)の諸氏は、考選(かうせん)に預らず」とある。神職は、四等官と伴部以下とに分かれ、伴部が神部と呼ばれるようになったという。一般の神社でいえば、禰宜や祝に相当するという。
*11 亀田修一「鉄と渡来人;古墳時代の吉備を対象として」『福岡大学総合研究所報』240(福岡大学総合研究所、二〇〇〇年)によれば、白猪屯倉(しらいのみやけ)では、そのもとでの渡来系の技術者が関わって、鉄器生産が盛んになっていたという。これら吉備の屯倉は、蘇我氏と関係が深い。欽明十六年、蘇我稲目らが派遣されて、吉備五郡に白猪屯倉が設置され、翌十七年、稲目は再び派遣されて、児島屯倉が設置されている。敏達三年には、蘇我馬子が白猪屯倉に派遣され、翌四年に京師に帰り、屯倉のことを復命している。
平城京木簡に、鉄・鍬を貢納している国は、美作・備前・備中・備後の吉備四国に限られるという。この吉備における鉄生産は、六世紀以降のことである。五世紀における鉄生産革命を引き継いで、朝鮮半島からの技術を渡来人が具現化していることを表しているのであろう。白猪屯倉については、紀に、「丁籍(よほろのふみた)」、「名籍(なのふみた)」を正しくすることが記されており、個別人身支配が行われている。欽明紀元年八月条に、「秦人(はだひと)・漢人(あやひと)等(ら)、諸蕃(となりのくに)の投化(おのづからまう)ける者(ひと)を召し集(つど)へて、国郡(くにこほり)に安置(はべらし)め、戸籍(へのふみた)に編貫(つ)く」とある。拙稿「黄泉の国」にあるとおり、戸籍とは、外国人登録のことである。白猪屯倉は、渡来人を囲い込んで使役していたのであろう。
また、推古紀二十八年是歳条に、「皇太子(ひつぎのみこ)[聖徳太子]・嶋大臣(しまのおほおみ)[蘇我馬子]、共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣(おみのこ)連(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものを)并(あはせ)て公民(おほみたから)等(ども)の本記(もとつふみ)を録(しる)す」とあって、古事記の種本の作成に、蘇我馬子も関わっている。紀に補足説明されているなぞなぞの考案に、蘇我馬子は傾倒したのであろう。
*12 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系 日本書紀 上』岩波書店、昭和四十二年、一二六〜一二七頁の頭注。
*13 吉井秀夫「墓制からみた百済と倭」辻秀人編『百済と倭国』(高志書院、二〇〇八年)によると、五世紀、漢城期百済の横穴式石室から見つかった木棺は、側板と小口板の固定に鎹と釘が用いられており、また、大型土壙墓や竪穴式石槨墓からも、釘や鎹の組み合わせが確認されているという。
*14 前掲の『日本古典文学大系 日本書紀 上』一〇二頁の頭注に、金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究として挙げられている。佐佐木隆『伝承と言語;上代の説話から』(ひつじ書房、一九九五年)では、朝鮮語どうしの対応に限らず、朝鮮語と日本語との間にも対応があって、二重の対応関係になっているという。当時、朝鮮語スクールを開いていた人が、最初に教えていた教材なのであろう。
*15 「やつ芽(め)刺(さ)す 出雲建(いづもたける)が 佩(は)ける大刀 黒葛(つづら)多(さは)纏(ま)き さ身(み)無(な)しにあはれ」(記二三)とある。「やつ芽刺す」は、弥(や)+ツ(連体助詞)+芽(め)+生(さ)スから「厳つ藻」にかかって「出雲」を導く枕詞であるとされている。また、「八雲刺す 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ」(万四三〇)とある。「八雲刺す」は、「やつめ刺す」と「八雲立つ」の混同、折衷の枕詞であるという。
*16 柳田国男「一目小僧その他」(『柳田国男全集7』筑摩書房、一九九八年所収)によれば、鍛冶職の者は、目一個を神に捧げる信仰があったとされる。蹈鞴製鉄の実働としては、火の温度管理に送風器の蹈鞴を使うため、火の色をどちらかの目で見るために、目が悪くなってやがて光を失うことが多いという。 
葦原中国の平定

 

葦原中国の平定の物語は、荒ぶる神々によって混乱していた場所を、天照大御神(あまてらすおおみかみ)側がいろいろな神を天降(あまくだ)りさせて言向(ことむ)けさせる話である。
最初に、天照大御神(天照大神)は、自分の子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)(天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと))に葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めさせようと委任して、天降らせた。天忍穂耳命は天の浮橋まで行って、下界はひどく騒がしいようだと言って帰ってきてしまった。高御産巣日神(たかみむすひのかみ)(高皇産霊尊(たかみむすひのみこと))と天照大御神は、天(あめ)の安(やす)の河の河原に八百万の神を参集させ、思金神(おもいかねのかみ)(思兼神)に方策を考えさせた。すなわち、葦原中国は、自分の子が統治するはずが、勢い激しく荒っぽい国つ神がたくさんいる、誰を遣わして服属させるために懐柔しようか、と相談した。その結果、天菩比神(あめのほひのかみ)(天穂日命(あまのほひのみこと))を遣わすのが良いと申し上げ、そのようにしたが、大国主神(おおくにぬしのかみ)(大己貴神(おおあなむちのかみ))に媚び諂って三年経っても復命しなかった。
そこで、高御産巣日神と天照大御神はこの問題について諮り、新たな神を派遣しようと尋ねたとき、思金神は天若日子(あめわかひこ)(天稚彦(あめわかひこ))を遣わすのが良いでしょうと言ったので、天若日子に天(あめ)のまかこ弓(天鹿児弓(あまのかごゆみ))と天(あめ)のはは矢(天羽羽矢(あまのははや))を授けて葦原中国へ行かせた。しかし、大国主神の娘の下照比売(したでるひめ)(下照姫)を娶り、その国を自分のものにしようと目論んで、八年経っても復命しなかった。再度、事情を問うために使者を派遣する審議をし、諸々の神たちも思金神も、鳴女(なきめ)という名の雉を遣わせるといいと言うのでそのようにした。
鳴女は天から降りて、天若日子の家の門の前の神聖とされる湯津楓(ゆつかつら)(湯津杜木(ゆつかつら))の樹の上に止まり、天の神のことばを委細洩らさず伝えた。居合わせた天佐具売(あめのさぐめ)(天探女(あまのさぐめ))が、鳴き声が悪いから射殺してしまおうと進言したので、天若日子は賜っていた弓矢を使って射殺した。雉の胸を貫通して上がっていった矢は、天の安の河の河原にいる天照大御神と高木神(たかぎのかみ)、これは高御産巣日神のまたの名であるが、のすぐそばに落ちた。矢には血がついていたので、高木神は諸々の神たちに示して誓約(うけい)をする。天若日子が命令に背かず、悪い神を射ようとした矢がここに至ったならば天若日子には当たるな。邪心があるなら、天若日子はこの矢に当たって災禍を受けよ、と言い、矢の穴からつき返した。天若日子は朝寝坊の床のなかで胸に矢が当たって死んでしまった。これは、「還矢(かへしや)」、ないし、「返矢(かへしや)畏(おそ)るべし」ということばの起こりであり、「雉(きぎし)の頓使(ひたつか)ひ」という諺の始めでもある。
妻の下照比売の泣く声は、風に乗って天まで届いたので、天若日子の父の天津国玉神(あまつくにたまのかみ)(天国玉(あまつくにたま))や妻子たちは降って来て、泣き悲しんでそこに喪屋を作り、河鴈(かわかり)はきさり持ち、鷺は箒持ち、翡翠(かわせみ)は使者のための料理人、雀は米を臼でつく女、雉は泣き女と分担を決め、殯(もがり)の儀礼を八日八晩行った。
そこへ、阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)(味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ))が弔問に訪れた。ところが、天から降ってきていた遺族は、容姿がよく似ていたため、天若日子は生きているものと勘違いして、手足にまとわりついて大泣きした。阿遅志貴高日子根神は、親しい友人がなくなったから弔いに来ているのに、穢れた死人と間違われたと激怒し、身に着けていた長刀を抜いて喪屋を切り伏せ、足で蹴飛ばした。これは、今、美濃国の藍見河(あいみのかわ)の河上にある喪山(もやま)である。刀の名は、大量(おおはかり)、別名を神度剣(かむどのつるぎ)という。そして、阿遅志貴高日子根神が怒って飛び去ってしまうとき、妹の高比売命(たかひめのみこと)が兄の名を顕彰しようと歌を歌い、その歌の形式は夷振(ひなぶり)であるとしている。以上が話のあらすじで、神代紀第九段でいえば前半部分に当たる。
葦原中国の平定は困難を極めている。この国を「言趣(ことむ)け」る点については、自然との戦いと他部族との戦いの二通りが考えられる。葦原中国は、記に当初、「豊葦原千秋長五百秋水穂国(とよあしはらのちあきのながいほあきのみづほのくに)」と記されている。ミヅホはここでは瑞穂ではなく水穂となっている。水田稲作と関係する。すると、天忍穂耳命(天忍穂耳尊)、天菩比神(天穂日命)は、稲穂や稲種を表しているように思われる。たくさんの湿地性植物が生い茂っており、雑草が多くてなかなか稲の生育条件に適さない。次の天若日子(天稚彦)は、若(わか)(稚)の語源が明らかでないものの、湧(わ)くとつながりがあるとすれば、水に関係しているように思われる。彼の家の門のところには、水気をとても好むカツラの木が生えている。海幸・山幸の話にもカツラの木は登場する。地面付近にいることの多いキジが、その高いカツラの木の「上に居」る。洪水になるほど水嵩を増せば雑草は枯れるかと思っていた。ところが、今度は、天若日子が水の国にしようと考え出して、藻類や睡蓮など水生植物がかえって繁茂したということであろう。船を浮かべるほどに深い田を作る灌漑技術である。出発に際して授けられた天(あめ)のまかこ弓(天鹿児弓(あまのかごゆみ))と天(あめ)のはは矢(天羽羽矢(あまのははや))も、「鹿児」は水主(かこ)、つまり、弓なりになるような櫂を、「羽羽」は、古語拾遺に「古語に大蛇は、之を羽羽と謂ふ」とあるのによれば蛇のことで、ぬるぬると上手に針路を取る楫のことを表しているものと考えられる。
使いとして、「雉名鳴女(きぎしななきめ)」が派遣されている。紀には「無名雉(ななしきぎし)」とある。名鳴女(ななきめ)(キは甲類)を名無女(ななきめ)(キは甲類)と捉えてしまったのであろう。後の殯の記事に、雉は哭女(なきめ)として登場している。キギシということばは、その鳴き声からとられたかという。大化改新の詔に「轜車(きくるま)」、律令の喪葬令に「轜車(にしゃ)」とある。位の高い人だけが利用した霊柩車で、わざと車を軋ませてキーキーギシギシ鳴くようにからくられていた。その連想もあってナキメとされたのであろう。現在でも韓国のお葬式にはプロの泣き女がいて、一生懸命に泣いてくれる。
この雉は、天神のことばをそのまま口にしている。鸚鵡返ししたのであろう。それを天佐具売(天探女)が聞き、鳴き声が悪いと言う。天探女は、いわゆる天邪鬼(あまのじゃく)で、ひねくれたものの考え方をする人を指す。アマノザコともいい、日葡辞書に「物を言うと言われるある獣の名、比喩、差し出がましいもの」とある。これは天雑魚(あまのざこ)の意であろう。水の湧く神、天若日子の側に雑魚が群がるのは理に適っている。還矢が飛んできたとき、天若日子が「朝床(あさとこ)」に寝ていたとある箇所は、伝本により「胡床(あぐら)」ともある。紀本文には、「新嘗(にひなへ)して休臥(ねふ)せる時」とある。雑魚寝の諸相を示している。
雑魚寝状態の、他には当たらず、天若日子に矢は命中して即死している。記に、「高胸坂(たかむなさか)に中(あた)りて死にき」、紀本文に、「胸上(たかむなさか)に中(た)ちぬ。……矢に中(あた)りて立(たちどころ)に死(かく)れぬ」とある。坂のように高くなっている胸を表すが、筍の古語、タカムナを意識した表現であろう。筍に竹製の矢が当たっている。同様のことは、伊耶那岐命が黄泉国から逃げ帰るときに起こっている。記に、「湯津々間櫛(ゆつつまくし)を引き闕(か)きて投げ棄(う)つれば、乃(すなは)ち笋(たかみな)生(な)る」とある。筍はなかに襞があり、その様子がちょうど胸の肋骨に似ている。その境目、鳩尾(みぞおち)に矢は命中した。鳩尾は水落ちの意である。水の神、天若日子は亡くなって止水栓が外れ、水が引いて繁茂していた藻が刈り取れるようになった*1。そこで殯(もがり)の話に続いている。
殯とは古代の葬制で、人の死後、本式に埋葬するまでの間、遺体を棺に収めた状態で喪屋のうちに安置し、招魂儀礼をする習俗をいう。喪上がりが訛って殯である。壮大なお通夜と考えられる。儀礼・士喪礼や礼記・喪大記などにあるように、中国では復と呼ぶ。魏志倭人伝に、「其の死するや、棺(かん)有りて槨(かく)無く、土を封じて冢(つか)を作る。始め死するや、喪を停むること十余日、時に当りて肉を食はず、喪主(そうしゅ)は哭泣(こくきゅう)し、他人は就きて歌舞飲食す。已に葬(はふむ)れば、家を挙げて水中に詣(いた)りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如くす」とある。考古学では、殯の儀礼が完成したころに横穴式石室が採用された*2といい、両墓制につながるという。のち、火葬の習慣が広がったこともあり、殯の本来の様相ははっきりしない。とはいえ、現在でも地方の葬制におもかげを残すところがある*3。
記には、「……乃(すなは)ち其処(そこ)に喪屋を作りて、河雁(かはかり)を岐佐理持(きさりもち)とし、鷺(さぎ)を掃持(ははきもち)とし、翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)とし、雀(すずめ)を碓女(うすめ)とし、雉(きぎし)を哭女(なきめ)とし、如此(かく)行ひ定めて、日八日夜八夜(ひやかよやよ)を遊びき」とある。また、紀第九段本文には、「……天稚彦(あめわかひこ)の已に死(かく)れたることを知りて、乃ち疾風(はやち)を遣(つかは)して、尸(かばね)を挙げて天(あめ)に致さしむ。便(すなは)ち喪屋(もや)を造りて殯(もがり)す。即ち川鴈(かはかり)を以て、持傾頭者(きさりもち)及び持帚者(ははきもち)とし、一(ある)に云(い)はく、鶏(かけ)を以て持傾頭者とし、川鴈を以て持帚者とすといふ。又雀(すずみ)を以て舂女(つきめ)とす。一に云はく、乃ち川鴈を以て持傾頭者とし、亦(また)持帚者とす。鴗(そび)を以て尸者(ものまさ)とす。雀を以て舂者(つきめ)とす。鷦鷯(さざき)を以て哭者(なきめ)とす。鵄(とび)を以て造綿者(わたつくり)とす。烏(からす)を以て宍人者(ししひと)とす。凡(すべ)て衆(もろもろ)の鳥を以て任事(ことよさ)す。而(しかう)して八日八夜(やかやよ)、啼(おら)び哭(な)き悲び歌(しの)ぶ」とある。
儀式をいろいろな鳥が執り行っている。河雁(川鴈)とあるのは、カモメのことを海雁(海鴈)と認識していたことによるためであろう。水面に浮かび、三趾間にある蹼を使って進み、広い嘴で魚を捕まえる。青森県の陸奥湾の西側、外ヶ浜には雁風呂と呼ばれる風習が伝わる。雁は秋に飛来するとき、そこまでは海を渡ってくるため、途中で海上でも休めるように木をくわえてくる。そこからあとは陸地続きだから、その木ぎれは外ヶ浜に置いていく。翌春、北へ帰るときに外ヶ浜に立ち寄って、ふたたび木をくわえて旅立つという。残った木は、越冬できずに死んだ雁の忘れ形見である。付近の人は、浜辺の木を集めて風呂を焚き、雁の供養にするという*4。
また、奈良時代の僧侶の名を冠する行基図という古地図がある。通称、金沢文庫蔵日本図は、南を上にした地図である。十四世紀頃のものと推測され、遠江、越後より東は欠いている。そして、日本の周囲の海には鱗状の帯があり、これは日本が龍に囲まれた様子だとされている。対馬、隠岐もその外側になっている。さらに図からはみ出すように異域がある。「龍及(琉球)」、「雨見(奄美)」、「唐土」、「高麗ヨリ蒙古」、「新羅」のほか、「羅刹国」、「雁道」なる不明の地名が載っている。「羅刹国」は地図上方の南に位置し、「女人萃(あつ)まり、来る人還らず(女人萃来人不還)」とある。他方、「雁道」は「新羅国」の隣にあって、「城有りと雖も人には非ず(雖有城非人)」とある*5。これがどこなのかは議論が残る。いずれにせよ、雁の渡ってくる方向である。雁と殯との間には、音の似通い以上にどのような関係があるのだろうか。
記の「掃持(ははきもち)」、紀の「持帚者」は、帚を持っていく役と考えられる。今日も、葬列に露払い的な形で竹箒をかざす地方がある。記の「岐佐理持」、紀の「持傾頭者」は、キサリモチ(キは甲類、モは乙類)である。「持……者」は……モチだから、「傾頭」がキサリである。その意味するところは知られていない。クサリは知られている。鎖はつなぐもので、切れることはない。したがって、腐れ縁とは鎖縁である。傾いた頭だから頭が斜めになっているのであろう。そして鎖と関係がある。するとこれは、頭が七目になっているトウガシラ(虍)のこと、つまり虎を意味するのではないか*6。虎はライオンと違ってハーレムなどつくらない。単独行動である。繁殖期だけ番い、母虎が子育てする。
しかし、虎をキサリと訓む理由は見当たらない。当然、倭の国に虎はいない。大陸の話を聞いたのであろう。姿としては、法隆寺に伝わった玉虫厨子の捨身飼虎図に見られる。見たことのない大きな動物には象がいる。姿としては、正倉院に伝わった臈纈屏風の象木に見られる。象の古語はキサ(キは甲類)である。象の字は象形文字で、上部が頭、下部が胴体と足である。首がとってつけたようである。木目のこともキサという。赤貝のこともキサと呼ぶ。おそらく、象牙や赤貝の貝殻にある模様が木目状であったからそう名づけられたのであろう。木目はキメともモクメともいい、肌の場合はキメ(肌理)とする。キメとは決め、決まり事、筋目、条理、文(あや)のことであり、したがってモクメを木理とも書く。すると、象理でキサリと訓んだのであろう。このような誤読は上代にはしばしば誤りとされずに通行した。紀第七段一書第一の、天照大神が天石窟(あまのいわや)に籠ってしまったところに、「……[思兼神(おもひかねのかみ)]『彼(そ)[天照大神]の神の象(みかた)を図(あらは)し造りて、招祷(を)き奉らむ』とまをす」とある。復活を願う祈りの場面である。
ゾウを表す字には、為(爲)がある。冠の爪の部分が人の手、下部がelefantである。人がゾウを手懐けているさまという。偽の字は像の字同様、その手懐けていることを強調する形である。型取りのつもりで象理とあったとしても、きわめて精巧に模倣された偽者、贋物の意味合いが強い。贋作というのは、雁が担っている事柄である。雁の字は、格好よく∧の形に角めをつけて編隊を成して飛んでいく鳥のことをいう。それに貝の字を加えて、形よく整えた財物の意味から表面だけを似せたもののことになった。似の字は、以が木の耜の形である。道具を使って物の形を整えるところから、にせるの意味になった。
モガリには殯以外に、虎落(もがり)もある。竹を筋違いに組み合わせて縄で結い固めた柵のことで、竹矢来の一種である。砦の防護柵のことをいう。取手は相撲取りを指す。殯にも荒い柵状の屋舎をしつらえているから、やまとことばでは、にわか作りの立て屋をモガリと称したということらしい。漢語で虎落と書いた理由は定かではない。やまとことばでは、落ちることを落(あ)ゆといって消の意味である。肖(あ)ゆ、肖(あやか)るとは、肖似の像を肖像というように、似せて小型につくることをいう。小さな月(にくづき)である。つまり、虎落とは、機能的に、外敵を寄せつけない虎に似たものと納得できる。肖の字形の入っているものに削るがあり、古語では削(きさ)ぐという。その名詞形は鐫(きさげ)で、鑿(のみ)や箆(へら)に似ているスクレーパーを指す。肖(あやか)るに似た音に操るがあり、複雑な機械を操作することをいい、今日のロボットが代表であろう。
ほかに、虎杖と書いてイタドリと訓んでいる。イタドリReynoutria japonicaは、別名タヂヒ、タデ科の多年草で山野に自生する。反正即位前紀に「多遅(たぢ)の花は、今の虎杖(いたどり)の花なり」とある。高さは二m近くに達し、穂状の花をつける。若い茎はウドやタケノコに似ていて淡い紫色の斑点がある。それをそのまま、または塩漬けにしたものを刺身や膾の薬味とした。酸っぱいというか辛いというか刺激が強いものらしい。長く這う根は漢方の虎杖根とされ、生理不順や利尿、緩下剤とされた。痛取りの意であろう。安産のためのおまじないに、産湯に虎の頭の形の模型を入れる風習もある。蓼の仲間としてはミズヒキやイヌタデがよく知られる。高さはせいぜい三〇pほど、後者はアカマンマの愛称がある。稲穂のようになっているから飯(まんま)と呼ぶのであろう。漢語で虎杖としるした理由を考えると、虎は猫と比べて身長に対する頭部の割合が大きい。当然、頭は傾くであろう。杖を使わないと立たない。つまり、ネコ型ロボットである。
では、虎の杖とは何だろうか。二説考えられる。ひとつは虎の歯のような刃のついた杖、すなわち、板取りになる鋸、古語でノホキリである。鋸の発明によって、人は板を得ることができるようになった。もうひとつは、頭の大きい虎が歩くとき、尻尾でバランスをとっていると考える。掃除道具の「掃(ははき)(帚)」との関連で考えると、その形から叩(はた)きが思い浮かぶ。仏教では、特に禅宗で、煩悩や障碍を払うものとして払子(ほっす)がある。もとはインドで蚊や蝿を追い払うために用いられた。虎の親が虎の子を踏まないよう、尻尾で払いのけているとも見える。払子を授く、払子を嗣ぐという言い方で免許皆伝を表す。似たものとして、麈尾(しゅび)*7が正倉院に残っている。
イタドリの異名、タヂヒとはマムシでもある。虎も蝮もまだらの模様である。曼陀羅をマダラともいう。マムジというと卍である。また、斑(ぶち)ならぬふちは、縁(旁は彖)、古語ではエニシである。彖の字は頭の大きな豚のことで、同じく頭が不安定なのを表す字に寄がある。縁(へり)と寄(より)である。因縁は頼り、因習はしきり、しきたり、相撲取りは頭を傾けて仕切る。頻(しきり)は頻繁の意で、古語の及(し)く(如く)、つまり、後から後から続くという意味の動詞の名詞形である。陣痛のことを陣(しきり)といい、後から後から痛みが襲ってくる。戦陣の場合は虎落を作って野営した。他方、軋(きし)りは、スムーズに回らない擬音語に由来していた。
象や虎は朝鮮半島や中国にいないこともなかったが、本場はインドである。仏教も本家はインドである。イタドリのような刺激的な味も、キムチや麻婆豆腐があってもカレーにはかなわない。トラガシラ(虍)からトウガラシ(唐辛子)の話になった。つまり、蓼食う虫も好き好きである。捨身飼虎図は仏教説話によるが、象の場合はおそらく、袖振りあうも多生の縁の話であろう。男女が袖を振りあって恋の合図をかわすのは、輪廻転生するたくさんの生において常なことである。前世で互いに象で、大きな耳を振りあっていたに違いない。すなわち、板のこちら側の木目関係と反対側のそれは、ちょっと形は異なるけれど筋目の順序は変わらない。何度生まれ変わっても、同じ相手に恋をしているのである。
群盲象を撫でるともいう。百聞は一見に如かずに似た意味である。思案ばかりで「傾頭」である。大事業や大人物の全体像を見渡すことは難しい。インドは熱帯にあり、比較的眼病も多かったのではないか。古来いわれる盲(めくら)は目暗の意味だけでなく、遺伝的形質もあいまって、巡、廻、運、還、転、般、嬰などと書くめぐるものと関係して考えられていたのかもしれない。
キサリの音に似たものに、旧暦二月の如月(きさらぎ)がある。生(キ)+更(サラ)+着(ギ)の意で、植生が更新して生えてくる月のことである。満ち欠けする月の如く甦る。キサリはこうした甦りの観念に基づいていよう。来ては去り、去っては来る。仏教の如来は如去(にょこ)ともいう。人格の完成者、真理の体現者を表す。如とは真理のことである。このように(tathā)来た(agatā)、ないし、去った(gata)の約。そもそも仏(佛)をホトケ(ト・ケは共に乙類)というのは、中国上古音を日本語風にホトケと写したものとされる。彷彿(髣髴)を彷仏とも書き、ぼんやりと見えること、はっきりしないがそれらしいことをいう。ケは接尾語ゲの古形で、なにげなくなどと今日も用いる。そのように見える、……らしい、……そう、の意、つまり、如きものである。したがってホトケは、形はあるが命はないものが原義で、遺体や仏像を指す。伊勢の斎宮において、神に仕えるために仏教用語は他のことばに言い換えられた。いわゆる斎宮忌詞(さいぐういみことば)*8である。仏像のことは中子(なかこ)、立ち竦(すく)みという。動かないから立ち竦みである。中子は胎内仏のある仏像が多いせいもあるかもしれないが、倭の昔話に神功皇后と応神天皇の逸話がある。
神功皇后は新羅へ親征しようとしていたとき、すでに身籠っていた。生まれそうになったため、スカートの腰のところに石を当てて生まれないようにした。そして、筑紫国へ凱旋してから石を外し、その子は生まれた。後の応神天皇である。石は鎮懐石と呼ばれる。その後スカートの糸を引き抜き、ご飯粒を餌にして川で釣りをした。「年魚(あゆ)」が釣れた。鮎が登場するのは肖ゆとの関連であろう。応神天皇の和風諡号は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)という。誕生時、上腕に肉腫があった。紀には、「其(そ)の形、鞆(ほむた)の如し。是、皇太后(おほきさき)(神功皇后)の雄(をを)しき装(よそひ)したまひて鞆を負(は)きたまへるに肖(あ)えたまへり。故(かれ)、其の名(みな)を称(たた)へて、誉田天皇と謂(まを)す」とあり、人名説話になっている。鞆とは、弓を射る際に左ひじに当てる皮製の防具で、発射した後に弓弦が反動で当ると痛いから装着した。鞆(とも)の古語とされる。それに描いた絵を巴(ともえ)といい、ともえのマークはここに始まる。
わざわざ肉腫の説明があるのは、お産の途中で頭だけが露出した形を印象づけようとしたのであろう。難産であった。女性生殖器のことは古語で陰(ほと)(トは乙類)という。仏と音の似る缶(ほとき)(瓮、瓫)(トの甲乙は不明、キは甲類)は、湯水を入れるのに用いた胴が太く口の小さな瓦器を指し、いまのペットボトルに相当する。辺(ほとり)(畔、瀕、頭)は、端(はた)の母音交替形でトは乙類と考えられている。こう見てくると、ホトケということばで表したかったニュアンスは、縁(へり・ふち・きわ)にあって行くか行かないかの中途状態のこと、魂が肉体から抜けていく幽体離脱の途中、くっついているか離れているか不分明で不安定なおさまりの悪い形状といえるであろう。
このような状態をキサリと呼ぶとすれば、乾漆の仏像のように中が空洞で、また、首が胴体から出かかっているものが想像されよう。張子の虎は、首が振れるように作られた郷土玩具で、信貴山朝護孫子寺にゆかりがある。信貴山は山腹に毘沙門天を安置する本堂があり、一般に福虎と呼ばれる張子の虎のお守りが配られる。今では電気仕掛けの巨大な「大福虎」が首を振り振り迎えてくれる。縁起は、聖徳太子の軍勢が物部守屋を滅ぼす戦にさかのぼる。太子は馬に乗り、横笛を吹きつつ戦勝祈願に訪れた。すると、虎を連れた毘沙門天が現れて、必勝の法を授けた。寅年の寅の日の寅の刻のことである。たしかに戦いに勝ち、お礼参りに毘沙門天像を奉り、信ずべき山、貴ぶべき山と讃えたことから信貴山と呼ばれるようになったという。
似た記述は崇峻即位前紀にもみえる。ただし、信貴山のこととはされず、また、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす話になっている。蘇我方は多くの皇族や群臣を味方にして攻めるが、戦場では物部方が強くて三度後退した。厩戸皇子(うまやとのみこ)(聖徳太子)は「束髪於額(ひさごはな)」にし、ヌルデの木の枝を切り取って四天王の像に作り、髻に飾った。そして、戦いに勝たせてくれたら寺院を建立するという誓いをたてている。結果、いまの四天王寺となった。蘇我馬子も同じように、法興寺、いまの飛鳥寺を建てている。ここで四天王とは、仏法の守護神とされる持国天、増長天、広目天、多聞天である。特に多聞天は、仏の教えを細大漏らさず聞くものとされ、一度にたくさんの人の言うことを聞いたと伝えられる聖徳太子伝説と似つかわしい。その多聞天は、七福神のなかの毘沙門天と同一とされている。
毘沙門天は、戦の神として崇められている。また、ヌルデは霊木とされているという。紀には、「白膠木」と書いてヌリテと訓まれている。新撰字鏡に、「檡(ぬるで)」とある*9。ウルシ科の落葉樹、高さは五mほどに達する。葉は六対ほどの複葉、葉の間に比翼をつける。夏に小さな白い花を咲かせ、小さな実を結んで鹹味があり、秋には紅葉する。樹皮を傷つけると白い樹脂が得られ、漆のように塗る材料になるからヌルデというともいわれている。これには特に葉の虫害が知られる。付子(ふし)(附子、五倍子)という虫癭(ちゅうえい)(虫瘤(むしこぶ))で、ためにフシノキともいう。ヌルデシロアブラムシが葉軸の比翼について瘤状に変形し、内部は空洞化する。付子にはタンニンが含まれる。タンニンを使うことで、獣皮を腐敗しない皮になめすことができる。また、付子の粉を鉄汁に浸したものは付子鉄漿(ふしかね)という黒色染料となり、袍(ほう)という正装の際のオーバーコートを染めた。現在も草木染めの材料として輸入販売されている。古代の人はファッションの色彩感覚に敏感で、おそらく、ヌルデはその病変をこそ尊んだであろう。和漢三才図絵に、付子とザクロの皮とで黒茶色に染めることが記されている。また、お歯黒にも用いられた。聖徳太子は、この付子の部分をとって仏像を彫ったのであろう。
付子の出現する木は◆(白の下に木と書く)とも書く。フシキは、摩訶不思議なものであった。摩訶とは大きいという意味の梵語maha。古語でいえば、あな奇(く)し、といったところであろう。外来した大きな瓜をマクワウリといい、梵天瓜ともいう。囲い塞ぐ木を柴(しば・ふし)といい、垣網、拵罘という。また、ヌリテやヌテとは鐸(タク)のことである。銅鐸に見られるように、頭に取っ手のある大きな鈴をいう。紀第七段本文の、天照大神が天石窟に籠ってしまったところに、「……天鈿女命(あめのうずめのみこと)、則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天石窟戸の前(まへ)に立ち、巧(たくみ)に俳優(わざをき)を作(な)す」とある。古語拾遺の「鐸を着けし矛」に当たる。一説に男性生殖器を表すとするが、鈴はネコの首につけるものである。ネコが大喜びするのはマタタビで、マタタビミタマバエによって作られるマタタビミフクレフシという付子によって巨大な実と化す。マタタビに触れると、また旅に出るほど元気になる。ならば、虫癭になったマタタビを虎に与えたくなる。中が空っぽの大仏は、虎の首につけた鐸なのだと納得できる。だるま、お面、首振り虎、獅子頭、鯛車、犬張子、福助など張子の人形は、平安時代、祓に用いる何らかの具であったのではないかとされている*10。
キサリに似た音がキシリ、キシリに似通った音に力士がある。リキシは漢語で、リキジとも訓まれた。リキの音は呉音であり、奈良時代にはキは甲類の音に近いとされていたようである。仁王が金剛力士である。力の字は、象形文字で手の筋肉を筋立てて頑張るさまを描いている。理、陵、条とも近いことばである。「傾頭」からもカムカフ→カンガフ→コンガウと連想される。紀第七段本文の、天照大神が天石窟に籠ってしまったところに、「思兼神(おもひかねのかみ)、深く謀(はか)り遠く慮(たばか)りて」とある。ひたすら考えている。また、力士のような力持ち、手力雄神(たちからおのかみ)が、天照大神を天石窟から引きずり出している。室町期、日明貿易に使われた割符は「勘合(かんがふ)」である。勘の字は、匹が男女の性交を表し、色事に深入りするほどよく考えるという意味である。男女が契りを結ぶというが、契の字は丯で表される骨片や木片に刀で三本の刻み目を入れた形で、割符のことを指す。説文に、「力は筋なり。人の筋の形に象る」とあるところは、倭にあっては入墨の筋を入れることと考えられたかもしれない。唐代の割符に虎符(こふ)があり、銅製で虎の形をしており、中に空洞部分がある。節度使に徴兵や指揮の役目を授けた証拠にした。
割ることは、弁と略される瓣である。刀を意味する字の辛で瓜を割っている。弁は冠、辧は分かつこと、辯は理屈、ことわり、瓣は瓜の核、辮はおさげの髪、「束髪於額(ひさごはな)」す髪型である。桃のような果実の核はわかりやすい。瓜やメロン、カボチャの場合、核の部分が空洞になっている。瓜の核のことは中子ともいう。斎宮忌詞で仏像を中子といった。中(ナカ)+籠(カゴ)でナカゴである。当時、仏像は鋳造、乾漆、磚造の技法によることが多かった。平安時代、瓜実顔が好まれたのには、仏教伝来とその受容の経過が関係しているのかもしれない。
この瓜実的なまがい、もどきのものに瓢箪がある。寺社の祭礼では唐辛子を入れて売られている。瓢、瓠、匏、蠡と書いて、ヒサコ、後にヒサゴ、フクベという。半分にしたものが杓、ヒサクと訓み、いまは柄杓というスプーンである。瓠は、激流、荒波のなかで飄々と翻るイメージを持つ。仁徳紀十一年十月条には、堤防を作るときの人柱の代わりに、匏が漂流する逸話が載っている。仏塔の法輪のいちばん高いところに形造られた火焔つきの宝珠は、柄杓形(ひさくがた)と呼ばれる。瓜は売り、瓠は販(ひさ)きが連想され、市で売られていたものとわかる。瓢箪を壺盧(ころ)ともいうのは、ころころ転がるからであろう。相撲の行司が持つ軍配は瓢箪形をしている。
また、殯の中心は喪屋である。寝殿造りの中心も母屋(もや)(身屋)である。障子、几帳、御簾で区切られ、その外側にも床板は張り出している。そこは庇(ひさし)(廂)(ヒは甲類)と呼ばれる。日差しの意である。「久し」のヒも甲類である。「ひさかたの」という枕詞が、天(あめ)、雨(あめ)、空、月などにかかるように、庇には天井がなく、自由に他界と交流できるところを意味する。また、濡れ縁、縁側ともいい、縁は仏教にエニシという。
船をつなぐ場合は「舫(もや)ふ」という。疑問の助詞と係助詞の連結したモヤという形は、……も……であろうかの意である。景行紀四年二月条、天武紀元年六月条に「不便(もやもやもあらず)」とある。夫婦の相性が問答無用なほどよくないとか、遠いために問いただすこともできないという箇所に用いられている。モヤのモはいずれも乙類である。そして、場所はいずれも美濃の話である。美濃(ミ、ノはともに甲類)は、御野(みの)と意識されたのであろう。野は、「東(ひむかし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて ……」(万四八)ともあるように、靄(もや)のかかりやすいところと思われていたらしい。視界を遮るものは何もないはずなのに、大気中の水蒸気がいたずらしてもやってしまう。曖昧模糊、ないし、如去にして、見えにくい。数々の困難を乗り越えることのできたスーパースター、倭建命(やまとたけるのみこと)も、美濃の伊吹山で油断して遭難し、体力を消耗して亡くなることになった。
モヤに当るところは、果実や人間でいえば核(さね)(実、身)である。母屋のように実体があって確かなようでも、死ぬと亡骸にもなってしまう。船を舫うところは、水底に差し込んだ杙(かし)である。魚河岸というのはそこからきている。キサリを傾頭と、カシグ+カシラと重ねていた理由はこのへんにもあろう。杙の弋は射ぐるみのことで、矢に糸や網をつけ、鳥などが当たると絡みついて捕縛するようにしたものである。着ぐるみは張りぼてのような、特に動物や相撲取りに似せるために着る太った衣類である。身ぐるみ剥がされたとは、精神的に立ち直れないほど一切合財取られること、おくるみは、赤ん坊を抱くときに用いた薄い綿入れの布団であった。つまり、くるみとは、胡桃がそうであるように、中身と殻との間に空間ができるほどの厚さをもってくるむことであった。
首は頭と胴体とをつなぐくびれたところである。そのようなくびれた形を特徴とする生き物にジガバチがいる。腹が果物のように丸く、腰がくびれている蜂である。蝶の幼虫を捕ってきて我に似よ(似我)というように鳴き、七日で自分の子にしてしまうといわれていた。似我蜂を古語で蜾嬴(すがる)という。縋(すが)るは、頼りにすがること、鎖(つが)る、連(つが)るは、巾着袋の紐のようにつながっているものを引いて絞ることをいう。古代の刑具に首枷(くびかせ)があり、木や金属の板を首に嵌めて身動きをとりにくくした。首切りほどではなく、舫う程度の動きは可能である。瓢箪は首枷を嵌められてできた瓜のようにも感じられる。
首枷、手枷の形から、漢字の幸という字は作られた。幸のもともとの意味は、もっけの幸いというように、災厄を免れて得られた僥倖のことをいう。したがって、報や執の字に部首として含まれている。また、睪は説文に、「伺ひ視るなり。令使、目をもって罪人を捕ふるなり」とある。面通しのことである。訳(譯)は、あることばを他のことばに通訳を介して通じること、釈(釋)は、ある事象を他の事象に置き換えてわかりやすくすること、駅(驛)は、街道を行くときにある馬から他の馬に乗り換えるところ、沢(澤)は、川の流れに山が迫って細く速い流れになっているところ、択(擇)とは、たくさんのなかから必要なものだけを選ぶことである。鐸の場合、中国の鐸が、一定の間隔をあけて鳴らすものであったからという。
訳(わけ)(ケは乙類)は、ヨシ、ユヱ、エニシの義である。物事に分別をつける原因をいう。髷(わげ)(ゲは乙類と推定される)はいまマゲといい、髪を綰(わが)ねて結ったものをいう。綰ぬとはたわめ曲げて輪の形にすることである。聖徳太子や力士の髪型は、傾いた頭の由縁である。また、檡(ぬるで)をヌリテといっていたのは、鐸(ぬりて)と混同したか、あるいは同じ意味であると解釈したか、または瓢箪や張子人形の仕上げの塗り手、つまり、あな奇しの穴串(あなくし)状態にして漆を塗ることを指し示したかったからであろう。
煙管のことをキセルという。ほかにキセリ、キセロと表記された例もある。刻み煙草を吸うための道具である。明治維新のころの外交官、アーネスト・サトーによるカンボジア語源説(khsier)があげられている。しかし、やまとことばはそれほど貧弱ではない。形が雁の首に似ているから雁首ともいう。古語ではカリクヒであったろう。雁は秋に来て春に帰る。来て去るからキサリである。一見、自由に飛び回っているようだが、実は同じところを行き来している。記の、倭健命の葬送の様子に、「爾(ここ)に其の后(きさき)と御子等(みこら)、其の小竹(しの)の苅杙(かりくひ)に足䠊(き)り破るれども、其の痛きを忘れて、哭(な)きて追ふ」とある。痛いのを忘れたのは虎杖(いたどり)のおかげであろう。小竹の空洞のあるパイプは、瓢製のものと構造的に同じである。つまり、苅杙はキサリであり、いい供養になった。
殯をカリモガリとも訓むのは、仮、雁、苅と関係するからであった。虎落はサカモガリ、または逆茂木ともいう。棘のある木の枝を立て並べて結い合わせた柵である。逆、倒は、サカシマと訓み、サカサマ、サカサの意である。神武紀元年正月朔日条に、「……密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲(ここ)に起れり」とある。音を転倒させたことばを作って相手を煙に巻くようなことが、建国当初から行われていた。逆柱は、木の根のほうを上にした柱のことで、そうすると建築として安定性に欠けてしまい、傾頭に表現されたように、建物の頭たる屋根が傾く。賢(さか)しらといえば、自分は賢いと自惚れてしまった言動をいい、逆+頭の意味もあろう。釈迦も訛ってサカと言っている。また、鶏冠(とさか)は、臀部の肉の状態が頭部に出現している点を指している。月代(さかやき)は、前頭部を剃髪して臀部の肌の状態を露出している。
張子のことを張りぼてともいう。ボテはホテ、つまり肥った腹のことからきた。竿の先に藁や幣帛などを結びつけたものもホテという。別名を梵天竹といい、劇場の櫓の左右に立てたり、測量の目印にしたりした。形状は払子と似ている。ホテは帚のことかもしれない。仏教の梵天はホデといわれ、仏画では孔雀の上に乗る姿で描かれる。もともとの梵天の意味はブラフマンのことで、万有の原理を神格化したものである。梵土天竺はインドのことを指し、単に天竺といった。寺院では梵天像は帝釈天像と対になって安置されている。帝釈天は象の上に跨っている。また、相撲節会(すまいのせちえ)のときの一番強い番付、大関のことを最手(ほて)といった。今の横綱に当たる。
平安時代に盛んになった相撲の節は、毎年七月に天皇が紫宸殿で観覧する御前試合である。そのために、二月に左右近衛府から部領使(ことりのつかい)(コ、トは乙類)を諸国に遣わし、各地から屈強な相撲人を召しだした。コトリは事執(ことと)りの約で、当初、部属長、軍団長を指していた。平安京に遷都した桓武天皇が皇太子時代、春宮坊に帯刀(たちはき)の舎人を置き、射騎の達者な者が選ばれた。その副長官を部領(ことり)というようになり、木鳥、籠取とも書いた。また、防人を諸国から引率して筑紫に赴任させる役の人のことも、部領使と呼んだ。殯に登場する鳥(トは乙類)たちとの関係は不明である。
力持ちとしては知られていたのは、蝦夷(えみし)である。景行紀に、「為人(ひととなり)勇み悍(こは)し」(二十七年二月)、「識性(たましひ)暴(あら)び強(こは)し」、「是(これ)尤(はなは)だ強(こは)し」(同四十年七月)、「是本(もと)より獣(あや)しき心有り」(同五十一年八月)とあり、力士的な要素を示している。神武即位前紀戊午年十月条には、「夷(えみし)を 一人(ひだり) 百(もも)な人 人は云へども 抵抗(たむかひ)もせず」(紀一一)という歌がある。敵兵をだまし討ちにした後に歌っている。一人で百人力だと言われているが、抵抗、すなわち、「拒(すま)ひ」をすることもなかったという頓知歌である。相撲(すまひ)と同根のことばである。神奈川県の旧国名、相模の字は、相撲によく似ている。相模を導く枕詞に「さねさし」がある。瓢箪の仕上げで漆を塗るときの核刺し、穴串状態をいっているのであろう。中が空洞の張子を相(あい)模(ま)ねたのである。
相撲の起こりは、垂仁紀七年七月条に載る。いま、当麻寺のある当麻邑に、当麻蹴速(たぎまのけはや)という強力の者がいた。そして、自分よりも強いものはいないだろうと自惚れていた。それを天皇が側近から聞きつけ、ほかに強い者がいないか探させた。すると、出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇者がいるとわかった。使者を遣わせて呼び寄せ、二人は相撲を取ることになった。はじめは相対して立ち、それぞれ足を上げて互いを踏みつけた。野見宿禰は当麻蹴速の肋骨と腰骨を砕いて殺してしまった。相撲取りは張りぼてだと思われていたらしい。その後、野見宿禰は天皇に仕えたという。
さて、阿遅志貴高日子根神が喪屋を切り伏せた刀は、記に「大量(おおはかり)」、またの名を「神度剣(かむどのつるぎ)」とあり、紀本文に「大葉刈」、またの名を「神戸剣」というとある。大量(大葉刈)のカリは、鉞(まさかり)などというように、大きな刃の刀を指し、神度(戸)剣のド(甲類)は、「鋭(と)し」の意であろうとする。ただし、度はハカリとも訓めると指摘されている。伊耶那岐命が黄泉国から逃げ帰ってきて、伊耶那美命と訣別する際、「事戸(ことど)を度(わた)す」とあり、紀に「絶妻之誓(ことど)を建(わた)」すとある。コトは異なるの意、ドは呪的なことばにつける接尾語で、祝詞などという。生者と死者とを分け立てる「千引(ちびき)の石(いは)」は戸であるというイメージが含まれている。すると、神戸剣は、神と神以外とを分ける戸のような剣といえる。一方は、阿遅志貴高日子根神、他方は、天若日子である。後者には、神や命(みこと)などの敬称がない。また、味耜高彦根神が農耕技術を持っているなら、大葉刈は大きな鎌かとも考えられるが、大きな棹秤の杠(ちきり)のことをいっているのかもしれない。刃が大きいのではなく、柄が長くて、喧嘩のときにも使う乳切木(ちぎりき)である。先端に刃をつけて農具とする。先を彼の所作は、壊した喪屋を「足以て蹶(く)ゑ離(はな)ち遣(や)」っている。相撲取りさながらである。仁王像が手に握っている金剛杖に似たものを想定すればよいのではないか。門の戸を守り、神仏の座す境内と人の世界とを分けている。
阿遅志貴高日子根神(味耜高彦根神)の名を顕そうとした歌は、記六番歌ならびに、ほぼ同じ形の紀二番歌、そして紀三番歌である。
天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の 項(うな)がせる 玉の御統(みすまる) 御統に 穴玉(あなだま)はや み谷 二(ふた)渡(わた)らす 阿遅志貴高日子根(あぢしきたかひこね)の 神そ(記六)
天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷 二渡らす 味耜高彦根(あぢすきたかひこね)(紀二)
天離(あまさか)る 夷(ひな)つ女(め)の い渡らす迫門(せと) 石川片淵(いしかはかたふち) 片淵に 網張り渡し 目ろ寄(よ)しに 寄し寄り来(こ)ね 石川片淵(紀三)
大意は、最初が、天にいる機織娘が首にかけている連珠の玉は素敵だな。そのように谷二つに渡ってきらきら光る味耜高彦根神よ。後が、天にいない田舎娘が渡って来てくれる瀬戸の石川の片淵。その片淵に網を張り渡し網目を寄せるように、寄せて寄っておいで。石川の片淵よ、というものである。
ここで、阿遅志貴高日子根神と味耜高彦根神とは、名義が異なる。志貴のキは甲類、耜のキは乙類であり、志貴は磯城、すなわち、石造りの城のことである。紀一書第一に、味耜高彦根神は容姿端麗で、「二丘(ふたを)二谷(ふたたに)の間(あひだ)に映(てりわた)る」とか、「丘谷(をたに)に映(てりかかや)く」と言っている。牛に牽かせる犂(からすき)の、二連式のものであれば、丘、谷、丘、谷、丘ができあがる。そのすばらしさや金属の輝きを、玉の輝きに準えたのが、記六番歌や紀二番歌ではなかろうか。棚機が出てくるのは、織機のなかでも棚を渡した幅の広いものを示したいからである。「味」な、つまり、精巧な二連犂を可能にしたのは棚の存在であると言っている。また、紀三番歌に「石川片淵」とあるのは、石で造った環濠の城の堀のことを指しているのではないか。「網張り渡し」を城の柵のこと、すなわち、堀の内側に竹で編んだ垣、ないし虎落、逆茂木をめぐらしていると考えると、その網目の隙間を開けて地元女性に通って来て欲しいと呼びかけているようにも受け取れる。
いずれの歌にも渡るということばが出てくる。歌の意味としては上の通りながら、渡るは海(わた)に由来して、海を渡るのが原義であるから、渡来した文物、技術のことを暗示しているに違いない。そして、阿遅志貴高日子根神、ないし、味耜高彦根神が、天若日子と友だちだったから弔いに来たと述べているからには、犂と環濠と深田の灌漑技術とは、大陸からほぼ同時に伝来したものであると考えられる。そして、殯の情景描写に、仏教の用語を使っているところから見て、説話の構成時期は六世紀に下るものと推測される。その仏教は、伝来当初から葬式仏教であったらしい。仏教をもっぱら仏像として受け容れたのは、土着の霊魂観に近しく感じられてわかりやすかったからであろう。そういった観念をすべてキサリの一言に統合してなぞなぞに塗り込めていった高等テクニックは、現代の我々の分析的な思考回路とは大きく異なっている。記紀の読みのスタンスに、スタートラインからして錯誤があることを示している。

*1 伊勢神宮では、毎年、五月二十一日、興玉神石に生えた無垢塩草を刈り取る藻刈り神事が行われる。
*2 和田萃『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 上』塙書房、一九九五年。
*3 五来重『葬と供養』東方出版、一九九二年(『五来重著作集』第十一巻・第十二巻、法蔵館、二〇〇九年に所収)に詳しい。両墓制とは、埋め墓と詣り墓と二つもつことをいう。
*4 平成十九年九月十七日に行われた平川南氏の講演会によって知った。
*5 黒田日出男『龍の棲む日本』岩波書店(岩波新書)、2003年。「雖有城非人」を、渡来人に知った横穴式石室の奥津城と解すると、なぞなぞ的には納得できるが、どうなのであろうか。
*6 酒を呑んで酔っぱらうことをトラという。声が自然と大きくなり、ふつうに話しているつもりでも喧嘩しているように受け取られる。また、感覚が弛緩してまっすぐ立っていられなくなり、頭が右に左に揺れてふらふらする。古語の蕩(とら)くとは、かたまっていたものがばらばらになったり、溶解したり、緩みなごむことをいう。中国で虎(コ)と呼ばれている実物は見たことのない動物は、形は猫のようでいて頭の割合が大きいと聞く。そのためか、顔を阿りながら歩いていき、猫と違って大声で吼えるのが特徴という。すなわち、酔っ払いをトラと呼んでいたのが先で、タイガーには後からトラと名づけたことが知れる。
*7 今昔物語巻第十一、聖徳太子於此朝始弘佛法語第一に、「太子、天皇ノ御前ニシテ、袈裟ヲ着、主尾(しゅび)ヲ取テ高座ニ登テ勝鬘経ヲ講ジ給フ」とある。
*8 仏教関係の斎宮忌詞は、延喜式(九二七年)の斎宮式、皇大神宮儀式帳(八〇四年)に所載である。延喜式には、仏…中子(なかご)、経…染紙(そめがみ)、塔…阿良良伎(あららぎ)、寺…瓦葺(かはらぶき)、僧…髪長(かみなが)、尼…女髪長、斎…片膳(かたしき)、堂…香燃(こりたき)、優婆塞…角筈(つのはず)とあり、皇大神宮儀式帳もほとんど同じである。西宮一民『上代祭祀と言語』(桜楓社、平成二年)によると、皇大神宮儀式帳は上代仮名遣いや「問ふ」の文法が時代的に古いままであるといい、上代流の言語空間が残っていたからであろうとされている。あるいは、皇大神宮儀式帳の原本の成立自体が古いものである可能性もあるのであろう。斎宮忌詞については、「[垂仁朝ノ倭姫内親王ガ]種々(くさぐさ)乃(の)事(こと)忌(いみ)定(さだめ)給(たまひ)支(き)」として仏教関係以外を含めて十四例載せている。書き方としては、祝詞や宣命風ではある。
*9 檡の字は、儀礼・士喪礼に見える。また、漢書・叙伝上に、「虎を於檡と謂ふ」とある。記紀の述作者や太子に知識があったかどうか、今後の考証を俟たざるを得ない。
*10 山田徳兵衛『日本人形史』講談社(講談社学術文庫)、昭和五十九年。 
天孫降臨と猿田毘古・猿女君

 

いわゆる天孫降臨の話は、天神の命令で平定された葦原中国(あしはらのなかつくに)に天津日子番能邇々芸命(あまつひこほのににぎのみこと)(天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと))がお伴とともに行くこと、天(あめ)の八衢(やちまた)に立っていた猿田毘古神(さるたびこのかみ)(猨田彦大神(さるたひこのおおかみ))が先導して降り立つこと、ならびに、天宇受売命(あめのうずめのみこと)(天鈿女命(あまのうずめのみこと))の子孫が名をもらって猿女君(さるめのきみ)と称したこと、海鼠(なまこ)の口が裂かれることなどが一連の話になっている。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)(天照大神)と高木神(たかぎのかみ)(高皇産霊尊(たかみむすひのみこと))は、太子(おほみこ)の正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)(正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと))に対して、「今や葦原中国は平定し終わったから、委任に従って天降(あまくだ)りして統治するように」と詔した。すると、彼は、「自分が降りようと準備していたら子どもが生まれた。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命(あめにきしくににきしあまつひたかひこほのににぎのみこと)という。この子を降ろすのが良いでしょう」と言った。この御子は、高木神の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)(栲幡千千姫(たくはたちぢひめ))と結婚して生んだ子で、長男が天火明命(あめのほあかりのみこと)の、次男に当たる。奏上したとおりに、天照大御神と高木神は日子番能邇々芸命に命じて、「豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに)は、お前が統治する国であると委任する。命令どおりに天降りしなさい」と詔が下った。
日子番能邇々芸命が天降りしようとした時、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいた。天照大御神と高木神は天宇受売神に、「お前はか弱い女だが、眼力の強い神と面と向かってもにらみ勝つ神である。ちょっと出かけていって、『我が御子が天降りしようとする道で、通せん坊をしているのは誰か』と問いなさい」と仰った。そのとおりすると、「自分は国つ神で、名は猿田毘古神だ。天つ神の御子が天降られると聞いたので、先導しようと出迎えたのだ」と答えた。
そこで、天児屋命(あめのこやのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)(太玉命)・天宇受売命・伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)(石凝姥命)・玉祖命(たまのおやのみこと)(玉屋命(たまのやのみこと))、并せて五人の部族長を分け添えて天降りした。そして、例の天の石屋戸の話で招き出した八尺の勾玉・鏡・草薙剣と、また、常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)・手力男神(たぢからおのかみ)・天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を副えた。「この鏡は私の御魂として、私を祭るように祭り仕えるように」と言い聞かせ、また、「思金神は、今言ったことを弁えて祭事をしなさい」と仰った。(以下、神の鎮座所と祖先伝承が続く。)
日子番能邇々芸命は仰せを受け、天の堅固な神座を離れて、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、威風堂々と道を選んで、天の浮橋に「宇岐士麻理蘇理多多斯弖(うきじまり、そりたたして)」、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)(槵触之峯(くじふるのたけ))に天降りした。天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)(天槵津大来目(あめくしつのおおくめ))の二人が、天の堅固な靫(ゆき)を背負い、柄頭が握り拳のように膨らんだ太刀を腰につけ、天の黄櫨(はじ)の木で作った弓を手に持ち、天の光り輝く矢を挟んで、天孫の御前に立ってお仕えした。
日子番能邇々芸命は、「ここは韓(から)の国に相対し、笠沙(かささ)の岬と一直線で、しかも朝日のまっすぐにさしこむ国、夕日のよく照らす国である。だからとてもいいところだ」と仰って、岩盤の上に宮柱を揺るぎなく太く立て、高天原に届くほど千木を高くそびえさせ、お入りになった。
天宇受売命に、「先導した猿田毘古神は、お前が正体を明らかにしたからお前が送っていけ。そして、その神の名はお前が自分の名に受けて仕えるように」と仰った。それで、猿女君たちは、その猿田毘古之男神の名を負い、女性でも猿女君と呼ぶのである。
ところで、猿田毘古神が阿耶訶(あざか)にいたとき、漁をして、ひらぶ貝に手を食い挟まれてしまい、海水に沈んで溺れた。そのときの名を底度久御魂(そこどくみたま)といい、海水が粒立っているときの名を都夫多都御魂(つぶたつみたま)といい、海面でその泡がはじけるときの名を阿和佐久御魂(あわさくみたま)という。
猿田毘古神を送ってから帰ってきてすぐ、大小の魚を追い集めて、「お前たちは天つ神の御子にお仕えするか」と尋ねたとき、魚たちはみな、「お仕えします」と答えるなか、海鼠(なまこ)だけが答えなかった。そこで天宇受売神は海鼠に向かって、「この口は答えぬ口だ」と言って、紐つきの小刀でその口を切り裂いた。だから、今でも海鼠の口は裂けている。そういったことから、代々志摩から初物の海産物が献上されるとき、それを猿女君たちに下賜されることになっている。以上が話のあらすじである。
先に、猿田毘古神と天宇受売命、猿女君について検討する。猿田毘古神の名義の猿と言って気づくのは、猿轡(さるぐつわ)である。猿轡は、声を出させないように手拭いなどを口に噛ませ、後頭部に括りつけるものである。また、天宇受売命のウズということばには、髪や冠にさす飾りである髻華(うず)のほかに、雲珠(うず)がある。唐鞍の尻繋(しりがい)(鞦)の交わるところにつける飾りである。雲珠桜とは鞍馬桜のことをいい、猿木とは、厩で馬をつなぐ木をいう。猿を厩の神とする信仰はここに発する*1。このように、馬に関することばが並んでいるからには、猿田毘古神は、馬の轡のことを指しているのであろう。
轡は馬具で、馬の口の中に含ませて、端に手綱を結びつけ、馬を御して進む方向を定める。馬具のなかでも鞍橋(くらぼね)や鐙(あぶみ)よりもはやく発明されたものという。日本には四世紀の末頃、大陸から馬やその技術とともに伝来した。馬の口に喰ませる連結した金属棒の部分を啣(はみ)(噛)、啣の両側につけられる板状の部分を鏡板(かがみいた)、ないし、鏡、鏡板から手綱につながる部分を承鞚(みずつき)(水付)、ないし、引手(ひって)、鏡板上部の面懸(おもがい)(面繋)を取り付ける部分を立聞(たちぎき)と呼ぶ。昆虫のクツワムシは、轡の音のようにガチャガチャと鳴く虫である。別名をクダマキといい、糸車を繰る音に似ているからという。
伊勢神宮の内宮があるのは、五十鈴川(いすずがわ)のほとりである。猿田彦神社も同じ伊勢市で五十鈴川に程近い。馬の鳴き声は、今日でこそ日本ではヒヒーンと記すが、上代音のハ行はファに近かったとされることもあり、イと記した*2。万葉集の戯書と呼ばれる表記法に、「馬鳴」(万二九九一)でイと訓んでいる。つまり、イスズという地名からは、五十個もの鈴というだけでなく、馬の鈴をイメージすることができる。馬の鈴には馬鈴があるが、ふだんづかいの音とすると、クツワムシもするガチャガチャという音である*3。
「五十鈴の川上」とあって、カハカミと訓んでいる。紀第九段一書第一に、「吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上に到るべし」とある。「川上」には、カハカミ(川の上流)、カハノヘ(ヘは乙類、川岸、川の上(うへ))、カハヘ(ヘは甲類・乙類、川岸、川岸の辺り)、カハノホトリ(川のそば)、カハラ(川原)の訓がある。天孫を送った槵触之峰に対応し、狭長田という狭くて細長い田があるのは、川の上流であろうから、カハカミがふさわしいという*4。カハノヘというのは川の岸だから、必ず両岸ある。古来、猿田毘古神は椿と関係が深い*5。
河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢(こせ)の春野は(万五六)
川の両岸に椿が連なって生えている姿は「つらつら椿」である。馬の面(つら)を含めて面は顔の両側にある。したがって、「つらつら椿」は「つらつらに」を導いている。椿の木の利用法としては、椿油、椿灰のほか、材質が硬いので棍棒に用いた。景行紀十二年条に、「海石榴樹(つばきのき)を採りて椎(つち)に作り、兵(つはもの)にしたまふ」とある。邪気をはらうとして、正月の上の卯の日の行事に使われた卯杖にも、ヒイラギなどとならんで椿も用いられた。正倉院に、天平宝字二年正月に献上された椿製の杖が残る。殴りかかる武器には剣がある。後の日本刀のように切れ味鋭いものではなく、打撃によって打ち倒す性質が強い。手で握るところは鍔の下である。棍棒に用いた椿の場合、木の上にもツバ、下にもツバがあることになり、どちらを握っても使うことができ、つらつらな状態になっている。
轡は、馬の口の近くの面に左右それぞれ鏡板(鏡)をつけ、そこにつないだ啣をかみあわせて真ん中でつながっている。どちらから見ても轡があり、鏡に反射して写っているから、つらつらな状態であり、和名抄には、轡の訓に、「くつわつら、俗にくつわと云ふ」とある。すると、「五十鈴の川上」は、イスズノカハノヘと訓むのがふさわしいかもしれない。狭長田は、最上流部の川岸に拓かれた田という可能性よりも、それほど遡らずに蛇行していない両岸に作られている田としたほうがイメージに合致するであろう。光景として、馬の面のように長く延びた田である。では、猿田毘古神にある「田」とは何か。
日本古来の轡は、鏡と啣と承鞚の接続の仕方によって、輪轡式、外鏡式、中鏡式の三種に大別される。古墳時代後期から奈良時代に使われたとされる外鏡式に、鏡板の輪の中に十文字が設けられて、中心のクロス部分に鐶(わ)が懸けられ、それに啣と承鞚がついているものがある。ちょうど漢字の田の字のようであり、それをデザインした家紋は角轡(かどくつわ)と呼ばれている。猿田毘古神の田は、轡の形に従う。
紀一書第一に、猨田彦大神の形容に、「其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背(そびら)の長さ七尺(ななさか)余り。当(まさ)に七尋(ななひろ)と言ふべし」とある。盛んに七が出てきたのは、金工技法の七子(ななこ)(魚子・斜子)を指し示そうとしたのであろうか*6。そして、「口尻(くちわき)明り耀(て)れり。眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、赩然(てりかかやけること)赤酸醤(あかかがち)に似(の)れり」と表現されている。鍍金が施されていて光り輝いているらしい。立って待っていたのは「天八達之衢(あまのやちまた)」、記に、「天(あめ)の八衢(やちまた)」とあるところである。猨田彦大神は「衢神(ちまたのかみ)」であるとされる。八は大きな数の意で、十字路の交叉点になっていると表現している。轡の鏡板は、啣、承鞚、立聞というように、それぞれの方向へ向く金具が束になって交叉している。
猿田毘古神がいたとき、天宇受売神に様子を探らせに行っている。記に、「汝(なむち)は、手弱女人(たわやめ)に有れども、いむかふ神に面勝つ神ぞ」、紀一書第一には、「汝(いまし)は是、目人に勝ちたる者なり」と激励されている。これは、天石屋に天照大御神が籠ってしまったときのことを受けているとされる。そのときは、記には、「胸乳(むなち)を掛(か)き出だし、裳(も)の緒(を)をほとに忍(お)し垂れ」た状態になったので、八百万の神が笑い、天照大御神の気を引いて引き出すことに成功したとある。今回は、紀一書第一に、「其の胸乳を露(あらは)にかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ)の下(しも)に抑(おした)れて、笑噱(あざわら)ひて向きて立つ」とある。尻繋の交わるところにつける雲珠が装飾性に優れて注目され、相手を面食らわせるに十分なことを言っている。
紀一書第一では、天鈿女は猨田彦大神に対して、「汝(いまし)や将(はた)我に先だちて行かむ。抑(はた)我や汝に先だちて行かむ」と問い、「吾先だちて啓(みちひら)き行かむ」との答えを得ている。轡と雲珠とがあったら、馬は轡の方向に進む。知っている人にとっては当たり前である。ところが、倭の人にとっては、馬も馬具も、馬の御し方もはじめてであった。なんとかうまく言い表そうとして、なんとも滑稽な問答になってしまった。馬具の一部が馬具の一部との話し合いで決めてしまうのは、電車ごっこと同じである。上位の論理階型からの鳥瞰図を入れ込んでしまっている。わざわざ自己言及的なやりとりをさせているのは、馬の到来の驚きを表したかったからであろう*7。
「将(はた)……、抑(はた)……」とあるのは、前後はどちらかと問うているのだが、祝詞にもある表現の、「鰭(はた)の広物・鰭の狭物(さもの)」という魚の胸びれのことを引き合いに出している。人はたいてい胴の腹側に進み、ときおり背側にバックすることもある。ところが、人が乗るにもかかわらず、馬は魚のように、胴が横を向いて一方向に進む。腹と背との関係で進む方向を示そうとすると、馬の左右どちら側に立つかで左右どちらへ進むかが違ってしまう。旗がたなびいたときのように、こちら側とあちら側で見え方が反対になる。やはり、「五十鈴の川上」は、イスズノカハノヘと訓むほうが良さそうである。
猿田毘古神は、阿耶訶でひらぶ貝に咬みつかれている。アザカとは、交合、交叉するところを意味するアザのある処(カ)の意味であろう。建物に、校倉造がある。猿田毘古神こと、轡が咬みつかれるとは、馬の口に装着されたことを意味するのであろう。馬は臼歯と犬歯との間に歯槽間縁という広い隙間があり、鉄でできていても苦痛は感じないそうである。
ひらぶ貝は、タイラガイのことではないかという。平の字はもともとヒラと訓まれ、接頭辞のタがついてタヒラとなった。タイラガイはタイラギともいい、玉珧などと書く。江戸時代の訓蒙図彙に、別名を海月(かいげつ)、馬頬(ばきょう)、江跳(こうよう)とある。馬頬とは、馬の横顔のように、鋭角の三角形に近い形をしている点に由来するのであろう。そして、馬に食わせるほどという比喩があるほど馬は大食いで、平らぐという言い方は、大量の食べ物を馬のように完食してしまうことをいう。つまり、ひらぶ貝に咬まれるとは、轡が馬の口に装着されたことを指す。轡の啣は、馬の口のなかにあって、唾液の底に沈んだり、唾液が粒立ってみたり、泡を吹いたりと、いろいろな目に遇わされる。
天宇受売神が天降りした番能邇々芸命のところへ帰ってきて、「鰭の広物・鰭の狭物」を追い集め、天孫に仕えるかどうかを問い、皆仕えると答えている。番能邇々芸命とは、後につづく木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)とのやりとりで、稲麹として登場している*8。つまり、お酒の神さまである。したがって、酒の肴のことが語られているのであろう。米飯の副食物一般であるナ(菜、魚)に対し、酒の当てのことをサカナという。ここで「諸の魚(な)」は、みな肴(さかな)になると答えるなか、「海鼠(こ)」だけが答えずに口を割かれている。話しことばならでは、一音ずつのナとコとの対比が美しい*9。以降、海鼠の口は裂けているというが、実際には裂けておらず、そのつど人間が割いている。料理人は海鼠の口を割いて腸を取り出し、塩漬けにして一週間ほど寝かす。この塩辛がこのわたで、酒の肴として絶妙な珍味である*10。冬場が旬とされている。
この話に続いて、「島の速贄(はやにへ)」の記事がある。初物の海産物が献上されたとき、猿女君に与えられるという。実際にそういうことがあったとは確認されていない。猿女君は、令制では鎮魂祭において踊りを奉納する。鎮魂祭は仲冬十一月の上卯の次の寅の日に行われる。翌日が卯日に当たり、大嘗祭(後の新嘗祭)が行われ、さらに翌辰日に豊明節会(とよのあかりせちえ)で宴会が行われる。酒が振舞われ、おいしい時期のこのわたも食されたであろう。速贄とあって知られるのは百舌(もず)の速贄である。モズは秋に虫を捕って木の枝に刺しておき、翌春、他の鳥に食べられてしまうのでその名がある。虫は春にはからからに乾いている。すると、猿女君に下賜されたというのは、このわたを取った残りの身のほうを乾燥させたもの、すなわち、煎海鼠(いりこ)(海参)のことを指しているらしい。
鎮魂祭は、天皇の霊魂が身体から離れないように強化するお祭りである。神祇令にオホムタマフリと訓があり、ミタマシヅメとは衰える霊魂を奮い起こすことだからという*11。貞観儀式等によると、神座に大臣以下が列になって入り、いっせいに八回手を拍つ。そして、御巫(みかんなぎ)が一人舞を舞い、さらに、宇気槽(うけふね)を伏せてその上に立ち、桙で槽を十回撞く。そのたびごとに神祇伯が木綿(ゆう)を結んで葛箱におさめる。このとき、女蔵人(にょくらうど)が御衣を振動させる。つづいて御巫、猿女が倭舞を舞い、中臣、忌部、侍従等も榊を手に庭で舞う。終了後、もとの座に戻って酒肴を賜って終了となる。古語拾遺に、「鎮魂(たましづめ)の儀(わざ)は、天鈿女命の遺跡(あと)なり」とある。
猿女に関しては、延喜式・大嘗祭式に、「大臣、若しくは大・中納言一人、中臣、忌部、中臣は左に立ち、忌部は右に立つ、御巫、猨女(さる)を率(ゐ)て、左右に前行せよ、大臣は中央に立ち、中臣・忌部は門外の路の左右に列す」とあり、鎮魂祭式に、「縫殿寮(ぬひとののつかさ)は猨女をして参入(まい)らせ……御巫、及び猨女等(ら)、例に依りて舞へ」と指示されている。猿女は、縫殿寮に所属しており、鎮魂祭のときだけ舞を舞いに派遣されている。天武紀十四年十一月条に、「天皇の為(おほみため)に、招魂(みたまふり)しき」とあり、そのころには行われていたと知れる。あるいはこの日、法師が「白朮(をけら)」を献上してきたともあるから、天皇は、精力増強を思い立ったのかもしれない。いずれにせよ、この場で猿女君は、天の石屋を前にした天宇受売命さながらに、舞を舞う。
記に、「猿田毘古大神(さるたびこのおほかみ)は、専(もは)ら顕(あらは)し申(まを)せる汝(なむち)、送り奉れ。亦、其の神の御名(みな)は、汝、負ひて仕へ奉れ」とあって、「猿女君(さるめのきみ)等(ら)、其の猿田毘古之男神の名を負ひて、女(をみな)を猿女君と呼ぶ」とある。紀一書第一には、「汝(いまし)、顕しつる神の名を以て、姓氏(うぢ)とせむ」とあって、「因りて、猨女君(さるめのきみ)の号(な)を賜ふ。故(かれ)、猨女君等の男女(をとこをみな)、皆呼びて君と為(い)ふ、此其の縁(ことのもと)なり」とある。これらの記事は、天宇受売命とその子孫が、猿田毘古神の名から猿の一字をもらって猿女君というようになったという話と解釈されている。しかし、記には女と限定し、紀には男女ともという。君とは臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)のような称号の一つであるが、「姓氏」とあるから今の苗字に当たり、蘇我氏や秦氏のようなことをいうらしい。すると、中臣氏のような猿女君氏ということになり、傍訓にあるサルメキミと訓ずるのが良いのであろうか。何ともおさまりが悪い。どうやら、カテゴリー錯誤を表明しているようである*12。名に負うことの意味合いをよくよく考えねばならない。
猿女を管轄するのは、縫殿寮である。養老職員令に、「頭(かみ)一人。掌(つかさど)らむこと、女王(にょわう)、及び内外(ないぐゑ)の命婦(みゃうぶ)、宮人(くうにん)の名帳(みゃうちゃう)、考課(かうくゎ)のこと、及び衣服(えぶく)裁ち縫はむこと、纂組(さんそ)の事。助(すけ)一人。允(いん)一人。大属(だいぞく)一人。少属(せうぞく)一人。使部(しぶ)二十人。直丁(ぢきちゃう)二人」とある*13。実際の仕事は人事考課だけではないかと平安時代から疑問視されている。ところが、延喜式では、鎮魂祭のとき、「猿女」を出すようにと指示がある。いないはずの人がいるのはどういうことか。それは、猿だからである。
猿の語源については不確かながら、「戯(ざ)る」と関係するのではないかとされる。ふざけ、たわむれる意味のザレルの変化した形である。子どもや動物がなれてまとわりつき、はしゃいでたわむれることである。サル山を観察すると、まさにそうした光景を繰り広げている。親愛の情の深さゆえか、なかでもメスザルは、群れの順位の上位者に対してもよく毛繕い(グルーミング)をする。繕いものをするから、縫殿寮である。
また、猿は、「然(さ)る」、すなわち、そのようにあることを想起させる。したがって、猿女とは、それらしく振舞うこと、演じること、俳優を意味する名を負っていたと解釈される。「俳優(わざをき)」は、隠されている神意を「招(を)き」求める存在である。ふつうの人なら王から死を賜るであろう諫言をさえ、その演劇的なわざのおかげで生き長らえ、王の側近くで裕福な生活もできた。他の家臣からすれば、それは人に似ているが、人としての誇りを持たない一段劣る存在である。
江戸時代には岡っ引の異称として、猿ということばは使われた。奉行所の役人、今の警察官の手先として探索、捕縛にあたった。庶民の顔をしてなれなれしく振舞っておきながら、いざ事件となると情報はお上に筒抜けになっていた。ふだんからの素行や仕事上の人事考課のための監察官は、人のようで人でない、小賢しい存在である。万葉集に一首だけ猿の歌が載る。
あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかも似る(三四四)
記に、「手弱女人に有れども、いむかふ神に面勝つ」とあるのは、王に対しては俳優であり、家来に対しては通信簿をつける係だからである。
大伴(おほとも)の 名に負ふ靱(ゆき)帯(お)ひて 万代(よろづよ)に 憑(たの)みし心 何所(いづく)か寄せむ(万四八〇)
隼人(はやひと)の 名に負ふ夜声(よごゑ) いちしろく 吾が名は告(の)りつ 妻と恃(たの)ませ(万二四九七)
大伴氏は、靫負部(ゆげいべ)・舎人部など軍事集団を統率する氏族として、朝廷の王権確立のために戦ってきた。それは、名前のオホトモにも表れていて、トモとは鞆である。鞆は、弓を引く力が強すぎて弦が弾けて左手の肘に当たって怪我をしないように着ける防具のことである。したがって、オホトモは弓の名人なのである。また、隼人は、城門の外で夜警に当たるときに犬の吠え声を発することになっているが、名前のハヤヒトのハヤは、お囃子のハヤで、大声でなければ盛り上がるものも盛り上がらない。猿女君の場合、名に負うとは、猿は人ではないから名前などはないのが本来で、女性を猿女君と呼ぶのも、男性を猿女君とするのも、偽の偽は真でいっこう差支えがないということになる。そして、猿女君某を名乗った人は記録されていない。
むろん、猿女君は名前であり、建前上は名負氏*14である。名に負う職掌を司っているとは、天皇に仕え奉る関係があることを示す。本居宣長によると、政は祭事(まつりごと)ではあるが、本来は奉仕事(まつりごと)であって、天下の臣・連・伴緒(とものお)は、天皇の大命を拝してそれぞれの職を全うすることで仕え奉る、だから天下の政というのであるという*15。では、それを可能にした心性のベクトルは何であろうか。絶対主義国家の王権神授説になぞらえていうなら、それは、王権なぞなぞ説とでも呼ぶべきものであったろう。すなわち、天皇家の人に名がないのは、天孫が稲、つまり、ご飯ないしお酒を表し、おかず、つまり、菜(な)(魚)ではないからである。茶碗の飯(めし)を手に持ち、反対の手に箸を持って菜を取って食べる。飯が主、菜が副の関係である。これをパラレルに展開したのが古代の氏姓制であり、名のある人々は天皇の命(みこと)に召されたわけである。なぞなぞの素っ頓狂な知恵によって煙に巻いて、古代の朝廷は支配の正当性を確かにしていたといえる。
海鼠のことをコと呼んでいた。蚕のことをコと呼び、形や感触がそれに似ているところからくるという。蚕との違いは、蚕は繭を作り、やがてカイコガ、古語にいうヒヒルとなって飛んでいく。つまり、蚕は子どもだからコである。名前はまだない。しかし、海鼠はすでに成虫に当たり、親である。卵巣の干したものは海鼠子(このこ)である。親なのに名がなければ菜になれず、「仕へ奉る」ことができない。そこで海鼠は答えなかったことになっていた。天孫降臨の説話に、猿女君や海鼠の話が絡んでいる所以である。
次に、天孫降臨の様子を検討する。筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りしたことになっている。紀一書第一の表記は、「槵触之峯」で、槵の字は国字である。新撰字鏡に、「槵、無槵」とあり、無患子と書かれるムクロジをいう。硬い実を羽根突きの羽根の玉にする。ムクロジをクジ、また、無患だからクシ(奇)と言ったという。記には、その地について、「此地(ここ)は、韓国(からくに)に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)に真来(まき)通りて、朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚(いと)吉(よ)き地(ところ)」と解説されている。
韓国に向って海峡をはさんで別れを惜しんだ例に、松浦佐用比売(まつらさよひめ)の逸話が名高い。彼女は、大伴佐提比古(おおとものさでひこ)が朝命により朝鮮半島へ出帆するとき、領布を振った。
遠つ人 松浦佐用比売 夫(つま)恋に 領布(ひれ)振りしより 負へる山の名(万八七一)
山の名と 言ひ継げとかも 佐用比売が この山の上(へ)に 領布を振りけむ(万八七二)
万代(よろづよ)に 語り継げとし この岳(たけ)に 領布振りけらし 松浦佐用比売(万八七三)
領布はひらひらする細長く薄い布で、女子が首から肩にかけた。八七一番歌の題詞に、「これに因りてこの山を号(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺と曰ふ」とある。今の唐津市の鏡山に比定されている。欽明紀二十三年七月条には、
韓国の 城(き)の上(へ)に立ちて 大葉子(おほばこ)は 領布振らすも 日本(やまと)へ向きて(紀一〇〇)
韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領布振らす見ゆ 難波(なには)へ向きて(紀一〇一)
とあり、新羅が任那を滅ぼしたので倭は参戦したが、戦いに敗れて捕虜になったときに歌った歌とされる。ほかに、「蜻蛉領布(あきづひれ)」(万三三一四)、「あきづ羽の袖」(万三七六)といった表現もある。蜻蛉の羽のような薄い領布を振ることで、蜻蛉が海峡を渡るように、自分も海峡を渡りたいという願いを叶えてほしいと祈ったのであろう。
天孫降臨の話では、領布振る峯ではなく、槵触之峯となっている。槵はムクロジだから羽根突きの羽根の材料である。羽子板のことは胡鬼板(こぎいた)とも呼ばれ、船を漕ぐ櫂のような形をしている。また、羽根のついた玉のほうは、蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているという。正月に羽根突きをするのは、夏に蚊に食われないためのおまじないであるとの説もある。確かに、お酒を呑むと特に蚊が寄ってくる。酒のことをクシとも言うのは奇しから来ている。百薬の長である。
櫛(串)を振るとは、串二本の箸をイメージしているのであろう。羽子板が胡鬼板であったのは漕ぐだけでなく、扱ぐこととも関係し、稲穂から穀粒をむしり取ること、しごくことを表しているらしい。千羽扱ぎが登場するまで、二本の箸のようなもので挟んだ。それを扱箸(こきばし)、稲扱箸(いねこばし)といい、管状のものの場合は扱管(こきくだ)といった。米を精(しら)ぐ過程の最初である。
韓の地の、特に、加羅(加耶)と呼ばれた地を領有したのは新羅である。新羅は、伝承の世界において、金銀財宝の国とされている。仲哀記の神功皇后による新羅親征の話は、神のお告げによって始まる。そこには、「金(くがね)・銀(しろがね)を本(もと)と為(し)て、目の炎耀(かかや)く、種々(くさぐさ)の珍しき宝、多(あま)た其の国に在り」とある。鍍金が施してあってキラキラしている轡の鏡板や雲珠は、新羅から来たと伝えているようである*16。全部が金でできているのではなく、表面だけがきれいであるというのが鍍金のからくりである。
新羅を導く枕詞に、「栲衾(たくふすま)」、「栲綱(たくづの)の」など、栲が関係することばがある。栲は楮の古名で、樹皮から繊維を取った。とても丈夫なため、綱や領布、衾の材料に用いられた*17。色が白いので、同音の新羅にかかるといわれている。そればかりでなく、海の向こう側の陸地をまたぐ話にまつわって作られた枕詞なのであろう。領布が松浦佐用比売の説話にあるように、綱は出雲風土記の国引きの説話として有名である。八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が国引きをして、最初狭かった出雲国は広くなった。「栲衾志羅紀(しらき)の三埼(みさき)」、「北門(きたど)の佐伎(さき)の国」、「北門の農波(ぬなみ)の国」、「高志(こし)の都都(つつ)の三埼」にそれぞれ国が余っているといって、「三身(みつみ)の綱うち挂(か)けて……国来々々(くにこくにこ)と引き来縫(きぬ)」ったという。
紀第九段本文に、「高皇産霊尊、真床追衾(まとこおふふすま)を以て、皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降(あまくだ)りまさしむ」とある。第十段一書第四に二箇所、「真床覆衾(まとこおふふすま)」とある。真床追(覆)衾は、一段高くなった床を覆う衾のことという。衾は、伏す裳(ま)を表すとされ、袖や襟のない、つまり、かい巻きではない大きなダブルサイズの掛布団をいう。襖(ふすま)は襖障子のことで、なかに木の骨を設けて両側に紙を張ったものである。別名を唐紙という。麸(ふすま)は、小麦などを挽いて粉にしたときにできる皮の屑をいい、家畜の飼料や洗粉にし、また、食べるものがないときに混ぜ物にし、容量を多く見せることもある。別名を、もみじ、からこという。以上から、フスマということばには、なかに何か入っていて、表面的にはきれいなものを指すとわかる。したがって、衾とはわた入れの夜着である。ちょうど鍍金と同じようなからくりである。
衾の表面地が絹の場合、なか綿には真綿が使われた。真綿は、蚕の繭を切って蛹の虫を取り出したものである。表面地が栲や麻の場合には、蒲の花が開いたときにあらわれる毛や苧(からむし)屑を入れた。稲羽の素兎の伝承にほのめかされていたとおりである*18。大嘗祭のとき、天皇が伏す際にかける衾は、この真床覆衾の具現化したものとされている*19。衾があたたかい訳は、なか綿にこそ隠されており、それが衾のからくりである。加羅(加耶)は、物語が作られた「今」の時点で、新羅領になっていたということであろう。西暦五六二年、加耶連合国は新羅に滅ぼされている。
栲衾 白山風(しらやまかぜ)の 寝(ね)なへども 子ろが襲着(おそき)の 有(あ)ろこそ良(え)しも(万三五〇九)
栲衾 新羅(しらき)へいます 君が目を 今日(けふ)か明日かと 斎(いは)ひて待たむ(万三五八七)
「栲衾」ということばは、ただ後の「白山」、「新羅」という語を引き出すだけでなく、相手が旅立って一人残されて共寝できないでいる寂しさを表している。火瓊瓊杵尊は後に木花開耶姫と結婚しているから、それが共寝に良い相手であろう。黄麹かび菌のついた稲麴がつき、それを蒸米につけ、麹を作ったことの謂いと考えられる。この方法は、三十五度程度の一定温度で管理する必要から、布団でくるむと言っている*20。穂の状態で表面に黄麹かび菌がついているとは、籾殻、すなわち、麸についているということである。麸を衾にくるんでいる。
新羅に似た音の「白(しら)く」は白くなることで、「髪も白斑(しらけ)ぬ」(万一七四〇)とある。「精ぐ」は玄米を臼で搗いて精白することで、和名抄に、「粺米(しらげよね)」とある。杖で打ち叩くことも「しらぐ」といい、精ぐ際には杵で打ち叩いている。残骸のほうは麩である。衾を作るときもわたを打つ。これは、竿を使ってわたを叩いている。やまとことばのタタクは、手を上下に動かす動作で、「手(た)」を活用した語かという。腕を働かして事をする意味の「綰(た)く」とも関係が強いのであろう。髪を掻き上げること、櫓を使って舟を漕ぐこと、馬の手綱を操ることに使われる。二の腕の力瘤が膨らんだり伸びたりを繰り返す動作である。手杵を持って臼で搗くのも綰く動作である。
猿と関連する語に「戯(さ)る」があった。周辺の音を見てみると、「戯(じゃ)る」は「戯(ざ)れる」の変化形で、方言に、「じらける」といえば、「戯(じゃ)れる」ことを意味する。また、「曝(しゃ)る(晒る)」とは、「曝(さ)れる(晒れる)」の変化形で、長い間風雨にさらされて色褪せること、特に白っぽくなることをいう。つまり、白くことで、白髪混じりになることも含まれる。ニホンザルの毛は、背側は暗褐色であるものの、腹側、特に顔の周りには灰褐色で白っぽいものが多い。子どものことを砂利といい、米粒のことを舎利という。精米のために臼で搗いていると、米粒は杵にまとわりつきながらじゃれ回っている。天孫降臨の説話に、猿田毘古神や猿女君の話が絡んでいた第二の所以である。
天孫降臨の経路は一つの詞章になっており、暗記して語られたものと思われる。行程の順序が記紀で異なるところがある。紀本文では、「(1)天磐座(あまのいはくら)を離(おしはな)ち、(2)且(また)天(あまの)八重雲を排分(おしわ)け、(3)稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別(ちわ)きて、(4)日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります」とあり、さらに、「(5)槵日(くしひ)の二上(ふたかみ)の天浮橋(あまのうきはし)より、(6)浮渚在(うきじまり)平処(たひら)に立たして、(7)膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたを)より覓国(くにま)ぎ行去(とほ)り、(8)吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)の碕(みさき)に到ります」となっている。そして、「(9)其の地(くに)に一人(ひと)有り。自ら事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)を号(なの)る」とあって、国があるかどうか尋ね、最後にその娘の木花開耶姫(このはなのさくやひめ)に出会っている。
細部の違いを捨象して順序だけを考えると、紀一書第一では、(1)(2)(3)に続いて(4)の峰が「槵触之峯」と指定され、その後のことについては触れられていない。第二では、(4)(7)(6)(9)とばらばらになって割愛が多い。第三には記事はなく、第四では、(3)が抜けることと、(4)と(5)が合体して、「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰(ふたかみのたけ)の天浮橋」に着くことになっている。また、記では、(1)(2)(3)のあと「天浮橋に(6)(宇岐士麻理蘇理多多斯弖(うきじまり、そりたたして))」とあり、続く(4)は紀第一同様で、その場所の説明に、「笠沙の御前」が登場している。人の記憶とはかくも曖昧なものかと思わせるバイアスがそのまま載っている。
番能邇々芸命は、稲穂と関係すると考えられている。すると、「高千穂峯」や「槵日の二上の天浮橋」とあるのは、稲架(はざ)を想定しているように思われる。稲架は、ハサ、ハセ、ハデ、ホギ、ハッテ、イナグヒ、イナキ、イネカ、イネカケ、ウシとも呼ばれている。刈り取った稲を天日干しにして乾燥させるために、斜めに組んだ竹竿の足場を間隔をあけて建て、上にもう一本の竹竿を横架させて結びつけ、そこに稲束を渡し掛ける装置である。掘っ立て柱に何段も竿を渡した高いものや、脚をいくつも建てて横に長いものなどバリエーションがある*21。まるで猿のように高いところを行き来し、稲束を掛けていく。天孫降臨と猿との第三の関係である。
「槵日の二上の」と形容されていた。「二上」とあるのは、二つの竹の脚を二上山に見立てたのであろう。「槵日」とは、今でもおいしいと評判の天日干しであるから、「奇(く)しぶ」の連用形に「日」の字を使った固有名詞にしているらしい。「稜威の道別に道別きて」というのも、稲束を半分に分けるようにして跨らせることの謂いと推察される。記に、「此地は、……朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚吉き地」とあるのも、天日干しに良い場所ということであろう。収穫された稲は乾燥させた後、稲穂から脱粒させる。それも、「槵触之峯」の譬えであったらしい。
そして、記には、「天忍日命・天津久米命の二人、天(あめ)の石靫(いはゆき)を取り負ひ、頭椎(かぶつち)の大刀(たち)を取り佩(は)き、天のはじ弓を取り持ち、天の真鹿児矢(まかこや)を手挟(たばさ)み、御前に立ちて仕へ奉りき」とある。稲架の上に立って稲束をあちらこちらへ干し掛けている様子を譬えているように感じられる。武具の靫には、猿の皮が用いられることがあった。
農家の自給用には、穂の状態でそのまま保存した。稲刈りの後の田に、稲穂が円錐状に積み上げられている。この稲積みのことを、民俗用語でニオ、ニュウ、ニョウ、ノウなどといい、沖縄ではイナマズン、シラと呼ぶところもある。柳田国男によれば、稲積みのシラは稲の霊が籠り、再生する場であるという*22。いずれの場合も、刈り取って乾燥させた稲束を、籾を扱き落とすまでの間、台を設けて穂のほうを内側、株もとのほうを外側にして塚のように積み上げる。そして、一番上には藁で雨避けの笠を作って被せている。このニオは、古語ではニホである。
「鳰(にほ)」は、水鳥のカイツブリの古名である。「掻(か)きつ潜(もぐ)りつ」の約であるとの説があるほど巧みに潜水して小魚を捕食する。趾の間が膜状になって蹼を形成し、淡水の湖沼、河川にごくふつうに生息する。飛ぶのが苦手で、地上の歩行もうまくない。木の枝や葦類、水草などで水上に巣を作ってその上で卵を温めている。それを鳰の浮巣と呼ぶ。つまり、記に「宇岐士麻理(うきじまり)」、紀に「浮渚在り」とあるのは、鳰の浮巣を思い浮かべている。冬の枯れ田に雪が降り、まるで湖沼のようななかに稲積みのニホが浮かんでいる風に見える。その後の、記の「蘇理多多斯(そりたたし)」は、隆起している、すっくと高くなること、紀の「平地(たひら)に立たし」は、田の平のなかに立っていることをいうのであろう。
鳥の鳰と稲積みのニホとの関係は、枕詞の「鳰鳥(にほどり)の」に表れている。鳰鳥の水によく潜る性質から、「潜(かづ)く」や同音の「葛飾(かづしか)」にかかることがある。
鳰鳥の 潜く池水 情(こころ)有らば 君に吾が恋ふる 情示さね(万七二五)
鳰鳥の 葛飾早稲(わせ)を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも(万三三八六)
三三八六番歌は、新嘗祭を示す歌として有名である。ニホドリの表記に、「丹穂鳥」(万二四九二)とあり、稲穂との関係を想起させている。また、カヅクは水に潜くだけでなく、頭に被り物をすることも「被(かづ)(蒙)く」と言った。稲積みには必ず笠を被せ、雨避けにしていた。
応神記に、「また、秦造(はだのみやつこ)が祖(おや)・漢直(あやのあたひ)が祖と、酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦の名は須々許理等(すすこりら)と、参ゐ渡り来たり。故、是の須々許理、大御酒(おほみき)を醸みて献りき。是に、天皇、是の献れる大御酒をうらげて、御歌に曰はく、『須々許理が 醸みし御酒に 我酔(ゑ)ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(ゑぐし)に 我酔ひにけり』(記四九)」とある。「仁番(にほ)」という名は稲積みを思わせ、新醸造は、稲の品種、栽培、保存法においても新しかったということであろう。また、記のこの記事は、その前に、百済の国王が文物と人を「貢上(たてまつ)りき」とあり、さらに前に、「新羅の人、参(ま)ゐ渡り来たり」となっている。仁番は「参ゐ渡り来たり」となっているから、(1)新羅から、(2)自発的に、渡来したということを言っているのであろう*23。
また、紀本文に、「膂宍の空国を頓丘より覓国ぎ行去り」とある。膂宍は背中の肉のことで、背中の肉は少ないから「空(むな)」にかかる枕詞のような役割を果たしているとされる。しかし、膂宍が食すべき獣肉であると考えると、実は美味な部分である。人間の背中の肉と考えると、腹が減っておなかと背中がくっつくぞ状態にあるということになる。紀一書第二には、「膂宍の胸副国(むなそふくに)」とあって、背中の肉が胸に副うほどなのであろう。欠食の人が食べたいものはご飯である。稲積みのニホから稲穂を取って家へ持ち帰り、脱穀して精米して炊いた。
仲哀紀八年九月条に、「[熊襲ハ]是膂宍の空国なり。……宝有る国、譬へば処女(をとめ)の◆(まよびき)(目偏に彔)如す向つ国有り。……目炎(まかかや)く金(くがね)・銀(しろかね)・彩色(うるはしきいろ)、多に其の国に在り。是を栲衾新羅国(たくぶすましらきのくに)と謂ふ」とある。天孫降臨の一連の話は、その時代の記紀に記載されているような「歴史」を、なぞなぞ風にアレンジしたものと言えるかもしれない。
装飾を凝らした馬具とともに天孫はやってきた。馬自体は駒と呼ばれるように、高麗、すなわち、高句麗のものとの認識が強かった。朝鮮半島での戦いで、高句麗の騎馬戦術に苦戦させられた経験なのであろう。馬具については、新羅の遺跡から、三燕系の金銅製馬具が出土しており、高句麗を経由した二次的伝播であるにせよ、倭への到来は新羅経由と考えられたのであろう。四世紀半ばから六世紀の東アジア情勢のなかでは、外交交渉レベルでは、中国北朝・高句麗・新羅、対、中国南朝・百済・倭の構図が出来上がっていた。天孫の天降りにしたがった眷属は、天石屋の伝説に天照大御神を呼び戻すために尽力していた神々である。太陽神が農耕神であるなら、米作の究極に酒造りがあり、新羅経由でもたらされた麹による酒造法が貴ばれたであろうことは想像に難くない。
五世紀、大陸から新技術がまとまってやってきた。それぞれの要素は相互に絡み合いながら、倭の人、すなわち、やまとことばを母語とする人たちに受け入れられていった。ただし、それは、読み書きすることなく話し聞く能力に長けた人たちでほぼ満たされていた。若干、リテラシーのある人がいて、それも文字という記号に絡め捕られずになぞなぞを十分に駆使できるメタ言語的な頭脳を持っており、記紀の基となる話を構想、構成していったらしい。それが朝廷のほぼ中心にいた聖徳太子や蘇我馬子であったから、天皇制の正統性を主張する結果になったということであろう。

*1 十二世紀の梁塵秘抄に、「御厩(みまや)の隅なる飼ひ猿は、絆(きづな)離れてさぞ遊ぶ、……」(三五三)とあり、十三世紀末の一遍聖絵や十四世紀前半の石山寺縁起絵巻に、厩につながれた猿の姿が見られる。一説に、インド・中国から、猿は厩の守り神であるという思想が伝わったからであるという。民俗については、広瀬鎮『猿と日本人;心に生きる猿たち』(第一書房、平成元年)に詳しい。
*2 橋本進吉『国語音韻の研究』岩波書店、昭和二十五年。
*3 管見では、山口県上ノ山古墳や、愛知県志段味大塚古墳出土の轡の鏡板は、それぞれ七、ないし五個の鈴をつけた青銅製で、珠文、珠点で飾られている。張允禎『古代馬具からみた韓半島と日本;ものが語る歴史(15)』(同成社、二〇〇八年)によると、鹿角かと思われる有機質製の棒状鏡板(鑣(はみえだ))に鈴がつくものが見られるという。
*4 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成二年。しかし、神が降臨する場所としては、紀第九段本文に、「二(ふたはしら)の神[経津主神・武甕槌神]、是に出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(をはま)に降到(あまくだ)り」などとあって、川の上流が望ましいわけではなさそうである。
*5 古賀登『猿田彦と椿』雄山閣、平成十八年。戸井田道三『歴史と風土の旅;みかんと猿田彦』毎日新聞社、昭和四十八年。
*6 鈴木勉『ものづくりと日本文化』(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館、二〇〇四年)によれば、魚々子とは魚の卵のことで、円文をぎっしりと詰めて使うものゆえ、古墳時代のそれは魚々子とは呼ばないのではないかとされている。なぞなぞ的には、猿田毘古の話に海鼠(こ)の話が続いているから、魚々子と呼んでいたとしたほうがおさまりがいい。
*7 グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳、新思索社、二〇〇〇年。以下、天孫降臨のなぞなぞ話が一段とユーモアに富むのは、メッセージとコンテクストとのレベルの差を自覚的に遊んでいることによる。
*8 拙稿「木花之佐久夜毘売」参照。
*9 水族全体を表す「鰭の広物・鰭の狭物」が全体集合で、「諸魚」はその部分集合、「海鼠」はそれに対する補集合となる。仮に海老や蛤や雲丹があれば「諸魚」の集合に入る。食用に適さない毒のある水族もいるものの、それはそもそも最初から除外されている。「鰭の広物・鰭の狭物」と祝詞を唱えて神さまに捧げるのに毒があってはいけない。ウヲ(イヲ)は、和名抄に、「水中を連行する虫の惣名なり」とあって、泳ぐ特徴を持った魚類を指すようで、毒があっても含まれる。国譲りの条に、「天(あめ)の真魚咋(まなぐひ)」とある。
また、仲哀記の、太子(ひつぎのみこ)(後の応神天皇)と気比大神(けひのおおかみ)との名易えの話にも、名(な)と魚(な)との交換であったとする話が載る。天皇家に苗字がないということと、天皇になると名がなくて薨去後に諡で呼ばれるというのは、厳密に言えば意味が異なる。記に、太子は禊のために敦賀を訪れており、天皇に即位するための大嘗祭の禊を思わせる。天皇になると名がなくなり、魚(菜)を受けるようになるということであろう。気比大神のもとの名は、伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみこと)(去来紗別神(いざさわけのかみ))、イザ(感動詞)+サ(方向)+ワケ(分)、さあ、方向性を分けようよ、の大神の意であろう。後の名が、「御食津(みけつ)大神」、「気比大神」とあるのは、食(け)+霊(ひ)の意とされて、遠く新羅とも交渉のある北陸地方の玄関口が門下に下り、貢物を献上する側になったとさえ解されている。言い換えると、ナということばは、名と菜(魚)の交換と、それによって起こる貢物を献上する関係性までも内包するようになっていっているといえる。
*10 三大珍味として、三河のこのわた、長崎のからすみ、越前のうにが挙げられている。延喜式の内膳司条には、「供御月料」として「熬海鼠(いりこ)」や「海鼠腸(このわた)」が見える。同「諸国貢進御贄」には、旬料として「志摩国御厨鮮鰒、螺、……味漬、腸漬、蒸鰒、玉貫、御取、夏鰒……、雑魚……」、年料として「深海松(ふかみる)」が見える。宮内省式の「諸国例貢御贄」にも、志摩からは「深海松」を出すことになっている。
*11 シヅムは、水に沈むこと、沈静することから鎮定する意になる。漢字の鎮は犠牲をもって神意を安んずることをいう。斎い鎮められた神霊が、その地の守護神となって鎮定されて沈静化する。荒御魂(あらみたま)が和御魂(にきみたま)となるということらしい。一方、「ふる」は、小さく振り動かすことによって生命力がめざめさせることをいう。気絶した人を介抱する際、身体を揺すって声をかけるものである。鎮魂祭は、遊離しようとした魂を本体に復帰させることがミタマシヅメ、沈滞している魂を振り動かすことがミタマフリに当たり、両者を統一した儀式なのだという。同じく魂に関する儀式であり、結果的に目指すところは同じであるが、相反する作用ではないかと思われる。それを一語に包み込んでしまったところは、なま物としてのことばの感覚からは俄かには納得しづらいように感じられる。後考を俟ちたい。
*12 ギルバート・ライル『心の概念』(坂本百大・宮下治子・服部裕幸訳)、みすず書房、一九八七年。
*13 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』(岩波書店、一九七六年)の補注は、振るったものになっている。「本[縫殿]寮の職掌のうちの『裁縫衣服、纂組』は、義解のように『此擬御服并為賞賜』と恰も実際に裁縫を担当するかの如く解すると、直ちに『裁縫衣服人、文不見也』(朱説)という疑問が出る。掌の『裁縫衣服纂組』は後宮の縫司の掌と同文であり、穴記も『勘掌女之縫司所一レ縫也。非当司別縫作也』としている。……なお、官司名と職掌との関係を考えると、本寮は宮内省の主殿寮、後宮の殿司、東宮坊の主殿寮のような殿舎関係の職掌が無い。或いはかつて中務省の前身が存在しなかった当時は本寮も無く、後宮の縫司の前身、もしくはその製品を納めて置く建物が、『縫殿』とでもよばれていたのであろうか」。同様の疑問は、虎尾俊哉編『延喜式 中』(集英社、二〇〇七年)の補注にも引き継がれている。存在をカモフラージュせずに覆面調査はできない。
*14 松木俊曉『言説空間としての大和政権;日本古代の伝承と権力』(山川出版社、二〇〇六年)によれば、「名に負ふ」という表現は、音韻の親近性、つまり、語呂合わせに、単なる名称の一致以上の意味を見出そうとする姿勢があり、名称・呼称としての狭義の名が、その由来・評判等をコトとして背負っていることを意味するという。上代のことばに対する感覚から整理すると、基調には言霊信仰がある。言=事であるから、名がコトを負うのは必然である。そして、無文字社会であるから、音の親近性、語呂合わせや駄洒落はことさら重要である。また、人間の自己は、自分自身との相互作用を含めた社会的相互作用のなかで、状況の定義と再定義を通じながら形成されていく。G.H.ミード『精神・自我・社会』(稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳、青木書店、一九七三年)や、ハーバート・ブルーマー『シンボリック相互作用論』(後藤将之訳、勁草書房、一九九一年)を参照のこと。
*15 本居宣長『本居宣長全集 第十巻;古事記伝 二』大野晋編、筑摩書房、昭和四十三年。吉村武彦『日本古代の社会と国家』(岩波書店、一九九六年)は、大化二年八月詔に、「祖子(みこ)より始めて、奉仕(つかへまつ)る卿大夫(まへつきみたち)・臣・連・伴造(とものみやつこ)・氏氏(うぢうぢ)の人等(ひとども)、或本(あるふみ)に云はく、名名(なな)の王民(おほみたから)」や、白雉元年二月賀(よごと)に、「公卿(まへつきみ)・百官(ももつかさ)と諸の百姓(おほみたから)等(ども)、冀(ねが)はくは、忠誠(まめこころ)を磬(つく)して勤(いそ)ひて事へまつらむ」とあることから、臣・連・伴造ばかりでなく、氏をもった人々は天皇に仕え奉る関係があることになっており、百姓も氏を持っていたであろうとしている。
*16 『古墳時代の馬との出会い;馬と馬具の考古学(橿原考古学研究所特別展図録第59冊)』(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館、二〇〇三年)、千賀久「日本出土の『新羅系』馬装具の系譜」後藤直・茂木雅博編『東アジアと日本の考古学V;交流と交易』(同成社、二〇〇三年)によれば、五世紀後半以降、装飾要素の少ない馬具から、f字形鏡板と剣菱形杏葉をセットとする金銅板張り馬具が目立つようになった。それは、同時期の朝鮮半島南部での、前期加耶の金官加耶地域から、後期加耶の大加耶地域への中心地の移動に対応する。これらの金具は、鉄板の表面に薄い金銅板を被せて鋲留めするのが一般的な構造である。倭においては、飾り馬用の金銅板張り馬具がまず模倣されているので、権威の象徴としての飾り馬の役割が支配者層に認識され、馬匹生産が本格化したと考えられる、という。
発掘された遺物としては、天宇受売命を象徴とするような雲珠は、大谷古墳のものがあげられよう。猿田毘古神を象徴とするような「田」の字に見えるX字形の金具が付く轡としては、剣崎長瀞西遺跡の環板轡があげられるが、金官加耶と百済につながるものという。楕円形・心葉形鏡板付轡に「田」の字に見える十字文のものがあり、透彫り文様も美しい藤ノ木古墳のものなど名高いが、六世紀になって新たに加わるものという。この十字文の楕円形鏡板と三葉文の心葉形杏葉の組み合わせは新羅に多い特徴的な馬具であるものの、列島では「非新羅系」の鉤金具の付くものであるという。後考を俟ちたい。
*17 コウゾ(楮、B.Kazinoki×papyrifera)とカジノキ(穀、構、Broussonetia papyrifera Vent.)との間に混乱があるという。後漢の蔡倫が紙を作るのに使ったのはカジノキで、朝鮮半島ではコウゾをよく使ったため、和紙の原料にはコウゾが用いられた。朝鮮語でコウゾをタクと言ったらしく、紙以前から繊維材料に多用されてその扱いに熟知していた。いずれの木も刈り取った枝を蒸気で蒸し、熱いうちに皮を裂くように剥ぐ。剥ぎ取った皮を竿にかけて天日で乾燥させ、表皮の黒い部分をナイフで削ぎとって白いところだけにする。これを水に浸けてから沸騰した湯で煮る。灰汁を混ぜて更に煮たあと水洗いし、丹念に細かいごみを取ってから棒で叩いて利用可能な繊維が得られる。それを木綿という。万葉集に、「泊瀬女(はつせめ)の 造る木綿花(ゆふはな) み吉野の 滝(たぎ)の水沫(みなわ)に 咲きにけらずや」(万九一二)とあり、木綿花とは白い木綿を束ねたさまを美しい花と見立てた表現である。この木綿の繊維で白妙(しろたえ)(白栲)を織っていた。木綿はそれ自体が完成品で、幣(ぬさ)、白木綿(しらゆう)、木綿襷(ゆうだすき)、木綿畳(ゆうたたみ)など、多く祭祀用に用いられた。鎮魂祭に、御巫が覆せた宇気槽の上で桙をつく仕儀がある。そのたびごとに、神祇伯は木綿を結んで葛箱におさめる。木綿を結うわけである。栲は製造工程で綰(た)くわけであった。結果、栲領布(たくひれ)、栲綱、栲衾ができあがる。コウゾの語源を紙麻(かみそ)に求める意見も強い。紙を作る前から樹種としてのコウゾは利用されていたので、のちに名づけられた可能性もある。古くは、繊維の名、およびそれを取る木の名としては、楮も穀もタク(栲)と呼ばれていたのであろう。以上、久米康生『和紙つくりの歴史と技法』(岩田書院、二〇〇八年)ならびに、西宮一民、前掲書による。
*18 拙稿「大国主の国作り」参照。
*19 延喜式に、「衾・単(ひとへ)を大嘗宮の愈紀殿に置き奉り」とある。また、紀第十段一書第四に、「内床(うちつゆか)に真床覆衾の上に寛(あぐみに)坐(ゐ)たまふ」、「真床覆衾と草(かや)とを以て、其の児(みこ)を裹(つつ)みて浪瀲(なぎさ)に置き、即ち海に入りて去(い)ぬ」とある。前者は、天孫が海神の宮、すなわち、豊玉姫の家に入ってのしぐさ、後者は、豊玉姫が皇孫との子を産むときのことである。座布団やおくるみになっている理由について、象徴的な意味合い以上に解釈し直さなければ、当時の人が納得していた次元に到達できたとはいえない。
*20 小泉武夫「日本の酒・高志の酒」森浩一編『味噌・醤油・酒の来た道;日本海沿岸諸民族の食生活と日本』(小学館、一九八七年)によれば、稲麴は、黄麹かび菌(アスペルギルス・オリゼエ)(Aspergillus oryzae)とイネ麹病菌(ウスチラジノデア・ビレンス)((Ustilaginoidea virens)が一対十の割合で菌叢を作っているという。そして、三十五度の高温下で蒸米につけると、麹菌のほうがよく生育するという。また、小泉武夫「米麴の発生と日本の酒造り;稲麴の周辺からの一考察」石毛直道編『論集 酒と飲酒の文化』(平凡社、一九九八年)によれば、湿度と気温の高い六月に、煮米、焼米、蒸米(強飯)を放置したところ、麹かびの発生がひどかったという。播磨風土記に「庭音村(にはとのむら) 本(もと)の名は庭酒(にはき)なり。大神の御粮(みかれひ)、沾(か)れて䊈(かび)生えき。即ち、酒を醸さしめて、庭酒に献りて、宴(うたげ)しき。故、庭酒の村といひき。今の人は庭音村といふ」とあり、実験の状況は古代にも確かにあった。小泉氏は、稲麹が米散麹(こめばらこうじ)(米蒔麹)の原点であると推定され、大陸の餅麹法、すなわち、原料を紛体にして無蒸煮のままで麹を作る方法と異なり、しかもそのかびがクモノスカビ(リゾウプス)(Rhizopus)であるという違いから、我が国で発明されたものとの仮説を提示されている。
我が国での五世紀の技術革新は、大陸からの技術流入であった。本稿でも、鍍金された轡と関連づけながら優れたなぞなぞで語られているところから、半島由来の酒造法が導入されたと想定しないとおさまりが悪い。亡命加羅人の伝えたのが黄麹かび菌の米散麹による酒造法で、半島では失われたとの仮説を立てておく。
*21 稲野藤一郎『ハサとニホ』ハサとニホの会、昭和五十六年、浅野明『稲干しのすがた』文芸社、二〇〇五年。
*22 柳田国男「稲の産屋」『定本 柳田国男集 第一巻』筑摩書房、昭和三十八年。
*23 記に、神功皇后の新羅親征の結果、新羅国王は、「天皇の命(みこと)の随(まにま)に、御馬甘(みまかひ)と為て、……仕へ奉らむ」と奏上している。つづいて、「故、是を以て、新羅国は、御馬甘と定め、百済国は、渡(わたり)の屯家(みやけ)と定めき」となっている。新羅は、自らへりくだって馬飼いになって奉仕することを申し出ており、百済が唐突に登場しているのは立場の整理を示すもので、海外の貢納者であることと定義されている。新羅から自発的に渡来したとは、もとは加羅(加耶)であったが滅ぼされて新羅の地となった地域から、亡命してきた人たちが多数いたということの表れであろう。応神記の仁番、亦の名を須々許理という人も、そのような人たちの一員ではなかったろうか。 
木花之佐久夜毘売

 

木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の話は、前半の番能邇邇芸命(ほのににぎのみこと)との婚姻の話、後半の火のなかでの出産の話からなる。
筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)(槵触峯)に天降った番能邇邇芸命(ほのににぎのみこと)は、笠沙(かささ)の岬で、麗しい女性に出会った。誰の息女かと尋ねると、大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘で、名は神阿多都比売(かむあたつひめ)、亦の名は木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)(木花之開耶姫)と答えた。兄弟は、姉に石長比売(いわながひめ)(磐長姫)がいるという。結婚したいというと、自分では返事ができないからというので、父の大山津見神に使いを遣って承諾を求めると、とても喜び、姉の石長比売を添えてたくさんの結納品を持たせて奉った。ところが、姉のほうは醜かったので親元に返し、妹の木花之佐久夜毘売だけを留めて一夜を共にした。大山津見神は姉娘を返されたことをひどく恥じ、申し送ってきた。「娘を二人とも奉ったのは、石長比売をお召しになったら天つ神の御子、邇邇芸命の御寿命は石のようにときわに堅くいらっしゃるだろうし、木花之佐久夜毘売をお召しになったら、木の花が枝にぎっしり咲くようにお栄えになるだろうと誓約をして奉りました。ところが、姉のほうをお返しになって妹のほうだけをお留めになったので、天つ神の御子の御寿命は、木の花の<あまひのみ>でいらっしゃいましょう。」 したがって、代々の天皇の御寿命は長くないことになっている。
その後、佐久夜毘売は身重になって邇邇芸命に奏上した。「妊娠し、出産の時を迎えました。天つ神の御子なので、私生児というわけにはまいりません。どうしたらよいでしょうか」。邇邇芸命は、「一夜で孕んだなんておかしい。その子は我が子ではあるまい。国つ神の子であろう」と言った。「国つ神の子であれば無事には産まれますまい。天つ神の御子なら無事に産まれるでしょう」と申し上げて、隙間のない産屋に入って出入口を塗りふさぎ、火をつけてそのなかで出産した。火が盛んに燃えているときに生まれたのが火照命(ほでりのみこと)、次に火須勢理命(ほすせりのみこと)(火闌降命(ほのすそりのみこと)、火酢芹命(ほのすせりのみこと))、次に火遠理命(ほおりのみこと)(火折尊(ほのおりのみこと))、別名を天津日高日子穂穂手見命(あまつひたかひこほほでみのみこと)(彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))という。以上が話のあらすじである。
主人公の役割を果たす木花之佐久夜毘売は、「大山津見神の女(むすめ)、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売」と名乗っている。神話学にいう死の起源神話が、神婚神話に変形することで、後半の服属神話と結びついたとされている。死の起源を語る神話は世界各地に見られ、セレベス島のボソ族の神話では、神が人間に食物としてバナナと石を与えられたところ、バナナだけしか食べなかったので石のような永遠の生命は得られず、バナナのように限られた命になったのだという。バナナが木花之佐久夜毘売、石が石長比売に相当するという解釈のようである。ただ、天皇の寿命の話であって、他の人のことには触れられていない。
木花之佐久夜毘売の名義の謎にせまる示唆的な神名に、木花知流比売(このはなちるひめ)がある。須佐之男命(すさのおのみこと)の系譜に、「大山津見神(おほやまつみのかみ)の女」として名前だけ出てくる。一方は咲くほうで、他方は散るほうとされ、「木花」は桜の花を含意していると一般に考えられている。しかし、コノハナチルの対が、コノハナノサクヤとあるのは不自然である。コノハナサクヒメとせずにもったいぶった理由があるのであろう。「木花+の+咲く+や+姫」のノは格助詞、ヤは状態化の接尾語とされている。わざわざノを投入しているところをみると、ヤは助詞ではなかろうか。動詞サクの終止形に付いて、一度完結した事柄に対して、ほんまかいなと相手に問いただす役割を果たしている*1。つまり、木の花が咲いているだって、ウッソー、姫である。
最終的に、「木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さむ」とある。「阿摩比能微」には「此五字は音を以ふ」と訓注がついている。このことばは語義未詳である。五字全部わからないと思うが、ノミは助詞であるとされる。そして、アマヒはわからないながら、甘しと関係があるといわれる。作りがあまい、鈍(なまくら)、堅固でなく鈍いという意味に使う。鈍(おそ)は、浅(あさ)、薄(うす)の母音交替形とされる。同時に、似非(えせ)とも関係するのであろう。似非は、まったく形ばかりで、ひどくまやかしであること、似て非なるもので質がひどく劣ることをいう。木の花のようであるけれど、まったくの贋物でがっかりさせられるものであると遠まわしに言っている。
彼女は、「我が姉、石長比売(いわながひめ)在り」と言っている。結局、番能邇邇芸命に「甚(いと)凶醜(みにく)きに因りて、見(み)畏(かしこ)みて返し送」られてしまう。美人の女性であれば、髪長姫とでも呼ばれたであろうから、イハナガが不細工なのであろう。顔のつくりで言えば、出っ歯が連想される。あるいは、その土手の部分が剥き出しになっているのかもしれない。歯茎のことは齗(はじし)といい、歯の肉(しし)(宍)の意である。土師はハジ、ハニシであり、何か土器と関係するなぞなぞかもしれず、骨も土器もカハラである。歯はどちらかといえば須恵器に近い焼き物に似ている。しかも、歯は齢に通用してヨハイと訓み、年齢のことをいう。石長比売が長命の象徴にされた理由が納得できる。
石長比売が姉に当たるのは、イハの音が、況やの音に通じるからであろう。況の字は、イハムヤ、マスマスと訓む。兄は兄弟のうち大きい者のことを指す。サンズイがついて、水が前に比べてますます増えることをいう。地名はカササであった。水嵩の増す岬らしい。また、イハムヤと訓む字に、矧がある。矢を引くようにたたみかける意という。また、歯茎をも表し、「笑ひて矧(しん)に至らず」(礼記・曲礼上)と使う。古訓にミヅハ、すなわち、瑞歯(稚歯)ともある。瑞歯は生命力ある歯である。反正天皇の諡は瑞歯別天皇(みずはわけのすめらみこと)といい、生まれたときに一つの骨のように歯が生えており、歯の長さは一寸、広さは二分、上下揃って整い、白い珠を貫き並べたようであったと記されている。ミツハは罔象(魍魎)、水の神とされる。また、矧の字は、本邦特有の用法として、ハクと訓んで鏃や羽をはめて矢をつくることもいった。
番能邇邇芸命は、長い名前だと「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにきしくににきしあまつひたかひこほのににぎのみこと)」といい、天にも国にも親しくて、天の日を高く仰ぎ見るように尊くてある、稲穂が賑やかに稔るところの神さまという意味である。紀には、「天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)」とある。ニニギ(ギは甲類)はニギニギの意で、賑賑とされるが、握握の意でもあろう。握ることと関係し、稲穂を握って降りてきた神さまという意味である。それが歯のあるのを嫌い、花のように見えるけれどそうではないものを好んで一緒になった。すなわち、これは炊飯器具の話であろう。台所にまつわる物だから、国つ神の娘なのである。
歯(羽)の出っ張った器具は、羽釜である。器の腰の部分につばが付いており、別名、鍔釜とも呼ばれる。鍔の出っ張りがあるから、竈の穴にすっぽりと入りながらも落ちず、火力を逃さず、煙や煤の漏れも少ない。そのうえ、釜の噴きこぼれが竈のなかに入らず、火が消えたり灰神楽になることも防げる。ちなみに、東日本では鍋と囲炉裏が一般的だったが、西日本では釜と竈が重用されていた。記紀の説話は西日本のもののようで、お釜はとても便利だと思っていた。しかし、稲穂の神さまはこれを断った。
花のように見えるけれどそうではないものとは、木の枝に張られた蜘蛛の巣(網)のことであろう。錯覚で木の花かと思うが、まさか花ではない、ご冗談でしょうといったものである。蜘蛛の巣は放射線と同心円のような渦巻きからできている。オニグモ類やコガネグモ類は、巣を張った最後に中心部分の糸をかみ切り、穴を開ける。張ったばかりの円網の糸の張力を補正しているのではないかという。できあがった姿は、ちょうど車輪のようで、その真ん中の糸の円は車輪のハブ、轂(こしき)のようである。そこで、このような蜘蛛の巣のことはコシキ形と呼んでいる。特に軒端にいるオニグモは、夕方に網を張り、翌朝には旧糸を食べて網をたたむ。こどもたちはこの巣を竹棒につけた輪にとって、小さな昆虫を捕まえるのに使った。
車輪のつくりとしては、轂にシャーシ、輻(や)が集って車輪を支え、真ん中を車軸が貫いてそれと轂とを轄(たが)でとめて回転することになる。轂に輻を嵌めていくことは、矧(は)くことに類似している。轂こそ、車体と車輪とを接合させる基幹である。その轂という語は、甑(こしき)に形が似ているからという。甑は土器製の米などを蒸す道具である。左右に把手の付いた円い鉢形の土器で、底に穴が開いており、そこから蒸気が上がってくるようになっている。藁などを使った簀を敷き、その上に布を敷いて食物をくるむなどして蒸した。稲穂の神さまはこの甑と一夜を共にした。
蒸気の発生源には、竈に甕を据えてその上に甑を重ねたと考えられている*2。特に、木製のコシキは橧と書かれ、水を入れた釜や甕の上に載せられた。蒸籠の原型といえる。播磨風土記に、「国占めましし神、此処(ここ)に炊(いひかし)きたまひき。故(かれ)飯戸阜(いひべをか)と曰ふ。阜の形も橧・箕(み)・竈(かまど)等(ども)に似たり」とある。法隆寺伽藍縁起并流記資材帳には、「橧参口 一口径三尺五寸・高三尺五寸、二口各径一尺三寸・高二尺一寸」とあり、大型のものは醸造用に大量に蒸したものではなかったかと指摘されている。コシキの語源は、あるいは、「炊(かし)く」によるという。紀に「神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)」とあるのは、熱く炊ぐことを暗示しているのであろう。また、塔などの一つ一つの層のことをコシといい、最下層の差掛は特に裳層(もこし)という。フェイク・フラワーならぬフェイク・ルーフを形成している。すなわち、層状に重なっているものをコシと呼んでいる。何層にも重ねた蒸籠は、コシキと呼ぶにふさわしく、土器製の甑は穴が開いていて水が溜まらない点で、似非甕である。
考古学によると、五世紀前半、須恵器とともに移動式の竈が朝鮮半島南部の人々によって将来された可能性が高いという。それと同時に、大型の蒸し器である甑が入ってきたと推測されている。北九州での出土が多い。ただ、須恵器で登場したかに見える甑は、すぐに土師器で作られることが多くなっていった。須恵器は火にかけると割れやすいためともいわれている。また、出土する蒸し器(甑)の数と、直接火にかけて煮る器(鍋・釜)の数では、圧倒的に後者が多いという。そのうえ、弥生土器からは、ご飯の焦げついた痕がたくさん報告されている。どうやら、この列島では米食のはじめは煮て食べた、すなわち、姫飯(ひめいい)であったらしく、その後も煮て食べるのが主流であったらしい。そんななか、番能邇邇芸命が甑を好んだ。現在でも正月には餅を食べるように、祭事や儀式においては、糯米を蒸して食べた、すなわち、強飯(こわいい)であったであろうと指摘されている*3。天孫降臨の話は、稲作農耕の伝来の話ではなく、甑が到来して蒸す調理が行われるようになったことが、何かの画期であったと伝えているのであろう。
番能邇邇芸命は依怙贔屓した。そこで、大山津見神は呪詛のことばを投げかけている。石長比売を「使はば」、天つ神の御子の命は「石の如く」不動であろうし、木花之佐久夜比売を「使はば」、木の花のように栄えるだろうと誓約(うけい)をして差し上げたのに、「此(か)く石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留むるが故に、天神(あまつかみ)の御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみ坐さむ」。だから、今日まで、天皇たちの命は長くはないのだ、と言っている。ここから、「誓(うけ)ひ」は「詛(とご)ひ」へと、容易に変化するものであると指摘されている。また、このことばは、記に、「白(まを)し送りて言ひしく」として、該当する神代紀第九段一書第三に、磐長姫の「詛ひて曰く」として語られている。呪詛のことばとしては、記では、海幸・山幸の物語や秋山之下氷壮夫・春山之霞壮夫の物語に記されている。いずれも兄弟間の争いに関わっている。呪詛のことばは大げさで、曰くありげで、意味深長である。言霊信仰によって、言が事となると考えられた。したがって、どのように現実化するかはどのように解釈するかに係っている。
「あまひ」に似て非なることばに「笑(ゑ)まひ」がある。木花が咲くとあったから、笑むことと関係があるのであろう。花が咲くことは、中国では開の字を使うのがもっぱらで、古く笑の字も見られる。一方、日本では開、咲の字を用いる。万葉集では、開が九十三例、咲が六十六例ある。「道の辺(へ)の 草深百合(くさふかゆり)の 花咲(ゑ)みに 咲(ゑ)まひしからに 妻と云ふべしや」(万一二五七)とあるのは、咲の字を開花と笑顔の両用に使ったものである。中国で咲の字はわらうことにのみ用いる。本来、咲は笑の異文で、巫女が手をあげて腰をくねらせて舞う形を表している。
「笑まひ」は笑みに反復・継続の接尾語が付いた形である。雄略紀二年十月条に、「朕(われ)、豈(あに)汝(いまし)が妍咲(よきゑまひ)を覩(み)まく欲(ほり)せじや」とある。「豈……や」は反語の形で、文末のヤの用法の一例である。万葉集には、「咲比(ゑまひ)」(四七八)、「咲儛(ゑまひ)」(七一八)、「恵麻比(ゑまひ)」(八〇四、四〇一一)、「咲(ゑまひ)」(三一三七)、「恵末比(ゑまひ)」(四一一四)とある。「笑(ゑ)み」は、顔が花やかににこやかにほころぶことである。「笑(わら)ひ」は口を開け、声を出して哄笑することである。紀には、雄略天皇や蘇我入鹿の豪快な笑い声が記されている。つまり、「笑まひ」は歯が見えず、音を立てることもない。他方、羽釜にハがあり、ごとごとぐつぐつと音を立てていた。噛むから釜、囂(かま)しから釜というなぞなぞもあり得る。その対が甑である。轂のような蜘蛛の網を編むことは、歯も音もない。それを「あまひ」と造語した模様である。甘いものを口に入れると力が抜け、ゆるんでいく感じがする。
歯も音もあるような編み方は、機織りであろう。バタバタと音が出、筬(おさ)には櫛歯がある。万葉集では、「真櫛」(一二三三)といっている。機台のある高機(棚機)は、腰掛に座って機を操った。腰掛とは椅子、上代語では倚子(いし)という外来語であった。倚子の音は石に通じ、常磐(ときわ)のような存在であろう。海人(あま)が魚を掬い上げる網は、持網(もちあみ)という。四手網(よつであみ)*4もそのひとつで、罾と書く。甑の字にも見られた曾(曽)の形があらわれている。
「あまひ」は尼とも関係があろう。尼は女の僧である。斎宮忌詞に尼のことを女髪長(おみなかみなが)という。尼+舞となれば、髪長の舞である。巫女のことはカムナギ、男の巫は覡(おのこかむなぎ)といった。尼は、カミナギに似て非なるものである。実際の髪はおかっぱ風で、途中で切れている。「あまひ」に当たる箇所は、神代紀第九段一書第二に、「如」、「有如」とある。古訓にアマヒニとあるものの、語義未詳のため、記を見て訓をつけた可能性が高いとされている。ただ、如の字は、巫女の舞う姿をあらわす。神と一体になって神が憑りつく意である。
「あまひ」に似て非なることばには「すまひ」もある。ここでは拒む、相撲ではなく、住居の意味であろう。礼記・礼運に、昔の住居として、「冬則ち営窟に居り、夏則ち橧巣に居る」とある。この橧は、木の枝や粗朶(そだ)を積み重ねてその上で住むようにした住居のことである。鳥の巣のようだから橧巣という。石長比売が「営窟」、木花佐久耶毘売は「橧巣」に当たるのであろう。そんな橧巣の状態のところに蒸気が上がれば、蒸籠、甑と同じことだとして、本邦では橧を木製の甑の意に当てた。よほど夏が暑かったらしい。そして、蜘蛛の巣は、槍や矢のように刃物で殺傷するでもなく、圧機(おし)のように音を立てるでもなく、ベタベタとくっつき絡まって逃れられなくなり死んでしまう。昆虫採集の網に使った仕組みは、鳥黐のそれと同じである。そして、橧巣に当たるような仮宮は、遷都の多かった古代宮都の様に似通っている。
「天神の御子の御寿」、「天皇命(すめらみこと)等(たち)の御命(みいのち)」について語られている。イノチということばは、イ(息)+ノ(助詞)+チ(霊)の意という。生命のことは、ヲ(緒、絃)ともいう。「己(おの)が命(を)を」(記二二・万三五三五)とある。撚り合わせた繊維が一筋に続いていくからである。緒の丈夫なものは、縄である。楮(栲)の繊維を縒って丈夫な縄にする。栲縄(たくなわ)は長いことの譬えとされ、記に「栲縄(たくなは)の千尋縄(ちひろなは)打ち延(は)へ」、紀に「千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐(ももむすびあまりやそむすび)に」などとある。枕詞に、「栲縄の」があり、「栲縄の 長き命を」(万二一七・七〇四)、また、「水沫(みなわ)なす 微(いや)しき命も 栲縄の 千尋にもがと 願ひ暮らしつ」(万九〇二)とある。
また、酣(たけなわ)といえば、酒宴の席で盛り上がった最高潮時、ないし、それを少し過ぎた頃をいう。酒をのんで甘美にして楽しいときを指している。一方、夭折することは「夭(なかなは)」といい、縄が途中で切れることで表している。すなわち、夭の字の中腰の様子を強調しており、腰折れ状態を言っている。夭は笑や咲の字にも入っており、中途半端さを示唆している。
天神の御子であれば天寿を全うするはずであるのに、夭折するとはどういうことか。それが、この説話の出発点であったのであろう。夭の字は天の字に似ている。しかし、天と違って少し首を傾いでいる。釜ならば鍔がついているから傾くことはないが、甑だと斜めになることがある。傾ぎながら炊いでいる。どうだろうかと首を傾けたのは、木の花が咲いたものなのかどうなのか怪しかったことに始まった。怪しい女は妖しい。科を作って斜めになっている。シナは坂や階段をいい、層もシナと訓むのは、甑や塔の小屋根やスカートが斜めになっていることと関係するのであろう。パンチラは昔から気を引く所作であったらしい。
お産のときのお呪いに、甑を落とす、甑をまろばかす、といわれる習俗がある。宮中では、産後のひだちがよいように、御殿の棟から甑を転がり落とした。皇子の場合は南へ、皇女の場合は北へ落としたという。コシキの音が腰気に通じるからとも、甑は蒸すもので産(む)すことに通じるからともいう。おそらく、蒸気で蒸してシューシューいっている様が、お産の際の激しい息づかい、息の吐き方に似ているからであろう。吐いて吸うのが息で、吐くから命は生まれ、死ぬときは息を引き取る。そして、前近代において人が命を最も落としやすいのは、出産の時であった。
助詞のノミ(ノ・ミはともに乙類)は、万葉集ではしばしば借訓で鑿の字を用いる。工具の鑿は、弥生時代から鉄製で、古墳時代には鍛造でいろいろな形のものが現れている。漢字の鑿は、名詞ばかりでなく動詞にも使われるが、やまとことばでは動詞形はわからないものの、呑むと関係がある語であろうという*5。そして、ただノムといえば、ふつう酒を飲むことを指す。酒を呑むと、酔っぱらって頭が斜めになる。首を斜めに傾がないと呑むことはできないから、呑の字は天+口ではなく、夭+口なのであると納得できる。
鑿によって物が加工される最たるものは、仏像のような彫刻である。木の塊を彫ることで、神や仏の像に化けるのである。轂に輻を嵌めることは、矧(は)くといった。人や神を紛らわすために姿が変わるのは、化(ば)くである。米が酒になるのも、劇的な変化でそう言って構わないであろう。また、酒を適量呑めばほろ酔いになり、神憑りしたかのような化けた状態にひたることができる。しかし、呑みすぎた場合は化くどころか一転、吐くことになる。神代紀第十段一書第四に、海幸・山幸の話の呪詛の場面が紹介されている。釣針を返すときに呪いのことばを言い、その後で「三(みたび)下唾(つは)き」、つまり、三度唾を吐いてから返している。また、相手がそれを使って釣りを再開したら、「風招(かざをき)」のための「嘯(うそぶき)」、つまり、口をすぼめて息を強く吐いている。この呪術の結果、兄は溺れて死にそうになる。そこで、「善き術(ばけ)」を使って助けて欲しいと懇願している。術の古訓にバケとあるのは、吐くことと対だからである。そして、話は命ごいである。命のイは息のことで、呼吸というように吐くから吸えて生き長らえる。息を呑むというと、死にそうになるほどびっくりすることである。人は死ぬと神や仏になるとされていた。鑿という道具の真髄はそこにある。
魏志倭人伝に、喪中の期間、「他人は歌舞・飲酒す」とある。また、集りは無礼講で、「人性酒を嗜む」とある。そして、跪いて拝する相手というのは、長生きの人で、百年近くも生きるといっている。これがどんな酒であったか、正確なところはわからない。大隅風土記逸文に、酒の醸造法についての記述がある。「一家に水と米とを設(まう)けて、村に告げて回(めぐ)らせば、男女一所(ひとところ)に集りて、米を嚼みて、酒槽(さかぶね)に吐き入れて、散々(ちりぢり)に帰りぬ。酒の香(か)の出でくるとき、又集りて、嚼みて吐き入れし人等(ひとども)、これを飲む。名づけて口嚼(くちかみ)の酒と云ふと、云々」とある。噛んでは吐いてできたのが酒であった。これは、粢(しとぎ)を材料にした神酒ではないかとされている。粢とは、水に浸した米を臼で潰してできた粉を丸め固めたものである。今日も各地で神饌にされており、神酒を作ったと口伝されている神社も残っている。これがもともとの一夜酒であったらしい*6。
穀物酒は、澱粉を糖に変え、さらにアルコール発酵させてできる。唾液にはアミラーゼが含まれるから糖化し、酵母があればアルコールになる。糖化剤としては、古くから米を発芽させた糵(ゲツ)(芽米)が利用された。糵は和名抄に「よねのもやし」とある。これを使って醴酒(レイシユ)を作った。応神紀十九年十月条には、吉野の国樔人(くずひと)が来朝したときの様子が記されている。「時に国樔人来朝(まうけ)り。因りて醴酒(こさけ)を以て、天皇に献りて、歌(うたよみ)して曰(まを)さく、
橿(かし)の生(ふ)に 横臼(よくす)を作り 横臼に 醸(か)める大御酒(おほみき) うまらに 聞(きこ)し持ち食(を)せ まろが父(ち)(紀三九)
歌既に訖(をは)りて、則ち口を打ちて仰ぎて笑ふ*7。今国樔(くずひと)、土毛(くにつもの)献る日に、歌訖りて即ち口を撃ち仰ぎ笑ふは、蓋し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり」とある。そのあとは、未開の人々の暮らしぶりが紹介されている。記には、「国主等(くずども)」とあり、延喜式には「国栖(くず)」とあって、大嘗祭で古風を奏することになっている。
醴酒(コは甲類、ケは乙類)は、和名抄には「一日一宿の酒なり」と記される。令集解には、周礼の注に甘酒のことであるとし、古記という大宝令の伝を引き、「麹を多くし米を少なくして作る。一夜にして熟(う)むなり」としている。どろどろを呑む、濃酒(こさけ)の意であるが、正倉院文書に「粉酒」とある。延喜式に、「醴酒は米四升、糵(よねのもやし)二升、酒三升を和合醸造し、醴九升を得」とある。ただし、その頃には糵をつくるときに黄麹菌が繁殖しており、米散麹(こめばらこうじ)(米蒔麹)になっていたと推測されている*8。蒸米に米麹を混ぜ、すでに出来上がっている酒を加えて作ったカクテルであり、白酒のような甘い飲み物のようである。あるいは、濁り酒に似ている酒の子(コは甲類)ども、利子のような酒の意を含んでいるのかもしれない。そして、糵と麹とを混同している、ないしは、黴が生えることも、芽が出ることも、ともに「かび(ビは乙類)」と言っており、概念的に同じことであったと言ったほうがよく、それを「もやし」と呼んだらしい。
礼(禮)を尽くす酒が、醴である。豊(レイ)は醴の初文で、古代中国では、臣下に醴を賜う礼があった。わが国の民俗でも、甘酒祭りとは、供物とする甘酒を作って神に捧げ、後でそれを下げてきて飲むことを重視した祭りの呼び名であろう。いずれにせよ、礼酒とは賜酒のことである。「賜(たま)ひ」は手(た)+幣(まひ)のこと、「あまひ」に似て非である。吉野の国樔人が天皇に献上したのとは立場が逆だからである。饗宴があれば、主人側が酒を用意しもてなすのがふつうである。紀にも、蝦夷などに「饗(あへたまふ)」という記事は、時代が下るとしばしば見られる。王化思想である。周礼・天官・酒正に、「酒の賜頒(しはん)を掌(つかさど)る」とある。漢書・楚元王伝には、「醴酒を設けず」の故事が載っており、客として待遇する礼が衰えたことを表している*9。また、礼記・喪大記にも記述があり、喪礼にも使われている。早死にしそうな雰囲気も漂ってくる。禮は「うやまひ」で、やはり「あまひ」に似て非である。醴は甘酒だから、「あまひ」酒であると洒落たらしい。
大山津見神は、二人の娘を奉じるとき、「百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物」を持たせていた。贈り物の品を示しているとされる。紀には、「百机飲食(ももとりのつくえもの)を持たしめて奉進(たてまつ)る」とある。類例に、第五段では、「百机(ももとりのつくえ)に貯(あさ)へて饗(みあへ)たてまつる」、第十段に、「饌百机(ももとりのつくえもの)を設けて、主人(あるじ)の礼(ゐや)を尽す」とある。また、「……小螺(しただみ)を……高杯(たかつき)に盛り 机に立てて 母に奉りつや 愛(め)づ児(こ)の刀自(とじ)……」(万三八八〇)とも見える。机の上に食べ物が載っている様は、神饌をお供えするときのようである。机とは、御食机、御贄机、御饌奉机などと見えるものである。食物を載せているから、折敷(おしき)のような風情であろう。折敷は、片木(へぎ)を四方に折りまわして作った角盆である。材質としては、一般的に杉が用いられる。酒造りに当たって、蒸しあがった米を杉の台に広げる光景を髣髴させる。
麹糵(キクゲツ)はこうじとされている。糵はこうじ、また、もやしである。糵に似た蘖(ゲツ)はひこばえである。孫のことも「ひこ」といい、番能邇邇芸命は天孫であった。また、蘖に似た孽(ゲツ)はわざわいである。わざわいは、天に災といい、地に災い祅という。祅は妖に通じる。笑や咲に見える夭の字が出ている。少しだけ芽生えさせて実らせることがないから、種にとっては中途半端で祅である。また、麹(麴)は和名抄に「かむたち」とある。黴(かび)立ちの意、醗酵をいっている。カムチ、カムシがコウジになった。そして、麹は説文に正字を▼(竹冠に左が幸、右が匊)に作る。似た字の䕮は菊の初文で、「日精なり。秋を以て華さく」とある。天照大御神が日神なら、菊を御紋にするのは当然となる。そのうえ、天孫の邇邇芸命が米を握(掬)って降臨したとされている。麹に関係する氏族であるのもまた然なりである。こうじには糀という国字も作られている。いかにも木花佐久夜比売と関係しそうである。蒸した米に種麹、すなわち、黄麹かび菌の胞子を植えつけて繁殖させ、花が咲くように膨らんだら麹(糀)のできあがりである。木の花ではなく、米の花であるところが、サク姫の名義の真骨頂である。
現在、日本酒に使うのは粳米である。醸造技術が進歩したせいか、日本の米がおいしいことにもよるであろう。というのも、中国では紹興酒などの醸造用には糯米を用いている。醗酵には、小麦や米を粉砕したあと固めて一旦水に浸け、かびを生やした餅麹と呼ばれる保存が利くものを使っている。糯米は収量が粳米よりも約一割方少なく、高価であったとされるから、ハレの日に餅を食べるようにしか作付けされていなかったという。応神記には、大陸から新酒造法を伝えた須須許理(すすこり)*10の名が見える。どのような手法であったか、記載がない。稲麹のついた稲穂が糯系の稲に見られ、それを用いて麹糵を作ったと想定するのが、ことばのなぞなぞからは整合性が高まる。稲穂にはまれに、濃緑色の大豆のように見える病原菌の菌叢ができることがあり、そのなかに黄麹かび菌が混ざって生息している。それを稲麹という。
番能邇邇芸命の名義は、賑やかなことと関係する。麹かびに侵されるほど賑やかそうな稲穂はあるまい。彼の父は忍穂耳命(おしほみみのみこと)である。「此の御子は、高木神(たかぎのかみ)の女、万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)に御合(みあ)ひまして生(あ)れし子、天火明命(あめのほあかりのみこと)、次に日子番能邇邇芸命、二柱(ふたはしら)なり」とある。万幡豊秋津師比売命は、一説に秋津、つまり、蜻蛉の羽のように精細な布を織る機織の神と考えられている。逆に、機織の技を以て大量生産したようなたくさんの蜻蛉が飛び交う秋の神ともいえる。秋津師のシは風のことかという。天火明命は、穂が火の燃えるように実るさまを表すとされ、その弟に当たる神だから黄麹かびの繁殖した稲穂と考えられる。
天が斜めになると夭になるという洒落は、おそらく、天にある月が斜めになっているということであろう。月の字は、満月ではなく上弦の月を表している。斜めに段梯子、つまり、階が懸かっているような形である。月(キは乙類)は尽きるからそう言い、望(もち)とは尽き始めである。命もどうしても尽きる。「幣(まひ)」は神への捧げ物である。幣帛というように、絹を神に捧げた。偉い人に捧げて便益をはかってもらうことは、「賄(まひなひ)」である。月の字がなかに斜めになって含まれている。つまり、「あまひ」が天+幣とするなら、天神からの幣ではなくて、天神への幣だから、斜めになった夭の字が導かれることになる。高いところで斜めに網をかけているのは、木の花の咲いたように見えてそうではない、妖しげに化けた蜘蛛の巣であった*11。
さて、後段では、「故(かれ)、後(のち)に」で始まり、妊娠、出産の話が展開されている。紀一書第二でも、「是の後に」とあって、明確な区切りが設けられている。また、紀本文では前段が欠けており、「皇孫(すめみま)因りて幸(め)す。即ち一夜(ひとよ)にして有娠(はら)みぬ」と一息に続いている。記には、前段では「一宿為婚」、後段で「一宿哉姙」と記されており、扱いが違うことがわかる。一夜にして妊娠した木花之佐久夜毘売の話にちなみ、江戸時代には甘酒の銘柄に「三国一」なるものが生まれた。富士浅間神社の祭神であることも重なって、その名がついたとされる。
佐久夜毘売は「一宿(ひとよ)」で妊娠している。番之邇邇芸命は、自分の子ではなく、国つ神の子ではないかと疑った。すなわち、天つ神の御子ではないと思ったのである。一晩で妊娠したために、自分の子ではないのではないかと疑った話としては、雄略紀元年三月是月条に、雄略天皇が、采女であった童女君との間に生まれた女子を、自分の子ではないのではないかと疑ったという話が載っている。物部目(もののべのめ)が諫めようとして昔語りを持ち出している。「娜毗騰耶皤麼珥」、つまり、汝人(なひと)や母似(はばに)? と言い、「女子(をみなご)の行歩(あり)くを観るに、容儀(すがた)、能く天皇に似(たうば)れり」と述べている。そして、天皇に、一晩に何回エッチしたかと問い、七回だというので、清い心と身をもって仕えているのに、みだりにお疑いになりますなと諭している。
そして、「是の天つ神の御子、私(わたくし)に産むべからず、故(かれ)請(まを)す」と言っている。私は公(おおやけ)の対義語である。公は、大宅、すなわち、天皇家のことをいう。彼女は、スキャンダルをマスコミにばらすと言っているわけでも、シングルマザーで産むのは良くないと言っているのでもない。神のものは神に、天皇家のものは天皇家に、である。そして、子どもが番能邇邇芸命と似かよっており、天皇家ならではの属性を受け継いでいることを示しているのであろう。「似(たうば)る」は「賜(たまは)る」が語源で、本質的なものをいただくの意であった。
紀第九段一書第三に、「時に神吾田鹿葦津姫、卜定田(うらへた)を以て、号(なづ)けて狭名田(さなだ)と曰ふ。其の田の稲を以て、天甜酒(あめのたむさけ)を醸(か)みて嘗(にひなへ)す。又渟浪田(ぬなた)の稲を用(もち)て、飯(いひ)に為(かし)きて嘗す」とある。天甜酒は、甘酒、すなわち、醴酒のことであろうという。この記事は、大嘗祭の先駆けとして捉えられることが多い。民間でも行われる新嘗の性格は有するものの、代替わり儀式とされて天皇家でしか行われない祭祀である。木花之佐久夜毘売の説話は、大嘗祭と関連する記述なのであろう。
大嘗祭は、天皇が即位した後、初めて行われる天皇主催の新嘗の祭である。宮中の新嘗祭は、天皇自らが新穀を天神地祇に供え、また、同時に共食する儀式である。特に即位した時には一度だけ、大規模で長期間にわたるお祭りとして執り行われた。それを践祚大嘗祭ともいう。まず、四月に悠紀国・主基国を卜定し、九月に両国の神田から稲穂を抜く儀式を行い、十一月に大嘗宮を設営し、同月二回目の卯の日に天皇が神に捧げつつ自らも喫する。翌日以降は三日ほど節会が行われ、諸臣と饗宴に明け暮れる。辰の日の悠紀節会、巳の日の主基節会、午の日の豊明節会である。厳粛な神事のあとの節会に注目するのは、酣(たけなわ)の対語として夭(なかなわ)が想起されたからである。
大嘗祭の辰日行事に、悠紀・主基からの供御および多明物(ためつもの)(多米都物)の色目を奏する儀式がある。供御にあたる献物には、黒木御酒(くろきみき)、白木御酒(しろきみき)、飾缻(かざりさらけ)、倉代(くらしろ)、缶物、多米都物には、雑菓子、飯、酒、物とある。つまり、供御は神や天皇にお供えするもの、多明物とは神や天皇からの賜り物の意である*12。特に食べるものに限っては、タメは美味であることを表すようになった。紀にいう天甜酒は、大嘗祭の節会で振る舞われる甘い酒であろう。和名抄に、「酒醰……甜酒、多无佐介(たむさけ)、……酒味長なり」とある。菓子のなかには餅も含まれ、直会(なおらい)の席で酒とともに提供されたようである。直会は、神祭りのあと、神にお供えした御酒や神饌をおろしてきて、一同で頂戴する神事である。
また、紀にいう狭名田と渟浪田とは、悠紀・主基の両田に当たるものと考えられる。天皇ではない神吾田鹿葦津姫の「嘗」では、民俗行事の甘酒祭りのように、甘酒や飯、ないし餅で、神と共食の儀式をしているようである。祭事の後でおくる贈り物にも、熨斗をつけた酒や餅が多く用いられていた。直会同様、人々が相饗して霊力を分けあったり、同じ火で作ったものを共に食べることで互いの団結を確かめあった。贈の字にある曽(曾)も、送の字にある夭も、すでに考察の対象とした。
延喜式の大嘗祭式には、酒造りに奉仕するものとして、造酒児(さかつこ)を筆頭に、御酒波(みさかなみ)、篩粉(こふるい)、共作(あいづくり)、多明酒波(ためつさかなみ)、稲実公(いなのみのきみ)、焼灰(はいやき)、採薪(きこり)なる呼称の職掌が記されている。いずれも悠紀国・主基国で選ばれた人たちである。造酒児は、貞観儀式に、造酒童女(さかつこ)とあるように、未婚女性が選ばれた。悠紀、主基に卜定された田のある地方の豪族の子女で、抜穂、酒造、調理まで、神饌に関する重要な役割を果たす。最終的に神前での供進のみは采女(うねめ)が行うことになっている。どちらも地方から選ばれて奉仕するものである。公的性格から天皇の前では常雇いの采女を用いたのか、采女には容姿端麗な者が選ばれていたからなのか、不明である。焼灰とあるのは、灰を混ぜてアルカリ性にしておくと、イネ麴病菌が抑えられて黄麴かび菌が優先的に増えるからであろう。
列挙の職掌のうち、稲実公以下は男性である。悠紀・主基の両田における抜穂のために、中央から派遣されて主宰するのは稲実卜部(いなのみのうらべ)、禰宜卜部(ねぎのうらべ)であり、現地で選ばれて中央へ持って行くのは稲実公ということになる。子細に分かれているのは、儀式を仰々しくするためであろうが、神へのお供えにせよ、臣下への振るまいにせよ、「嘗」が祭の眼目であるから、飲食物の製造は大事である。すなわち、本来なら一人でできることも大勢でやるように決められている。木花之佐久夜毘売の「私に産むべからず」とは、この点と関係するのではないか。
木花之佐久夜毘売にしてみれば、甑は羽釜と異なり歯がないから、口噛み酒であるはずがないのに何を戯けたことを、となぞなぞ流に考えて、喧嘩腰の答えをした。そして、天つ神の子なら、火に焼かれても大丈夫だろうと、産屋に火を放った。記に、「戸無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以て塗り塞(ふさ)ぎて、……火を以て其の殿に著けて産みき」、紀に、「無戸室(うつむろ)を作りて、其の内(なか)に入居(こも)りて誓(うけ)ひて曰はく、『妾(わ)が妊(はら)める、若し天神(あまつかみ)の胤(みこ)に非ずは、必ず亡(やけう)せよ。是若し天神の胤ならば、害(そこな)はるること無けむ』といふ。則ち火を放(つ)けて室を焚(や)く」とある。稲穂の賑やかなイメージからの連想で、糵(よねのもやし)の萌やしと炎の燃やしとを洒落てみたらしい。
戸無き八尋殿や無戸室とは、五世紀に始まり、やがて登り窯へと発展していく窖窯(あながま)による須恵器の焼成を指しているのであろう。大阪南部の泉北丘陵、陶邑(すえむら)古窯跡群で五世紀に突如として出現しており、大陸からの技術の伝播であって、当初は特に伽耶地域の影響下にあるという。その技術は、形を作るときの轆轤技術、長さが十mを越す半地下式のトンネルの窯を構築する技術、隙間をなくした窖窯において千百度以上の高温を保ちながら還元焔焼成を行う技術の複合体である。陶土の三酸化二鉄(Fe2O3)が一酸化炭素によって還元されて、酸化鉄(FeO)や水蒸気の影響でさらに黒色の四酸化三鉄(Fe3O4)に変化し、須恵器独特の暗灰色がもたらされる。ただし、同じ窯で酸化焔焼成の土師器や埴輪も焼いたところが確認されている*13。
段階的に子どもたちが出てきたというのも、階段的に陶器が置かれていたことを表していると考えられる。弥生式土器は野に穴を掘り下げて焼いていた。須恵器は、丘の裾のところの緩い傾斜を溝のように掘り込み、天井部を粘土で覆った窖窯で焼いた。後の連房式の窯とは異なり、いまだ焚き口、燃焼室、焼成室、煙道部が一体の単房式であった。焼成室にはわずかな傾斜しかないものの、器を平らに置くための台も発掘されている。三人の御子が生まれたとするなら、窯のなかが三段構えになっていたと言いたいのかもしれない。ただ、燃焼させて千二百度を越えるように加熱しても、焼成室の先では温度は低くなってしまい、煙道部に近いところには不十分な製品が発掘されることがある。一つの窯から出土した資料に、暗灰色のものと赤色のものとが混在していることもある。
紀一書第三には、「母(いろは)亦少しも損ふ所無し」とある。母親の木花開耶姫は甑であったが、それは須恵器であったようである。それに続いて、「時に竹刀(あをひえ)を以て、其の児(みこ)の臍(ほそのを)を截(き)る。其の棄(す)てし竹刀、終(つひ)に竹林(たかはら)に成る。故、彼(そ)の地(ところ)を号けて竹屋(たかや)と曰ふ」とある。これは、陶土をこねて成形するのに轆轤を用い、最後に台座から離す際、竹の箆を使ったことを表すのではないか。
土師器の場合、地面に小さな穴を掘り、土器を並べて密閉しないまま焼く。温度は八百〜九百度で、酸化焔焼成のため焼き肌は赤味がかっている。須恵器に比べて肌質は粗く、多孔質で水気を吸収してしまうが、直接火にかける場合は須恵器のようには割れないのでこちらを利用した。羽釜は土師器である。三人の御子、火照命、火須勢理命、火遠理命(天津日高日子穂穂手見命)とは、甑でも釜でもないということになり、きっと甕や壺、埴輪に相当するのであろう。須恵器の初期の窯では、甕が圧倒的に多く焼かれており、堅牢で漏水しにくい点が買われて、水を蓄えたいという集落の需要に応えたものであろうという。そして、麹を使った酒の醸造にも須恵器の甕が有用であった。さらに色も稲麹の色に似て、青緑がかった灰色に焼きあがっている。須恵器の甕で置酒して酒宴をすれば、菊の御紋のなぞなぞ伝承は、臣下にも具体化して行き渡っていると思われたに違いない。
先の話は、甑を竈に据えた酒米炊きと糵の萌やしによる醸造の話であった。「後に」で始まった出産騒動は、窖窯において高温の燃やしの結果できあがった焼き物の話である。竈も窯も、煙の漏れる隙間は少ないほうがうまくいく。麹のもとの稲麴こそ、番能邇邇芸命そのものであり、属性の似かよった子とは、須恵器のような焼き物である。須恵器の大きな甕は、酒の醸造用にも用いられる。「一宿にや妊みぬる」酒は、「一日一宿」でできあがる醴酒に相当する。国つ神の子ではないかとは、口噛み酒ではないのかと疑ったようである。その違いは麹の有無とそれを入れ込める甕にあった。奈良時代に天皇家が近親婚を繰り返した理由は、大嘗祭が律令に則って行われるようになり、かえってこの神話に絡め取られてしまったことも一因するのではなかろうか。
つづく海幸・山幸の説話に、火照命と火遠理命は登場しているから、これら焼物の話がベースになっているものと考えられる。なお、出生する御子(児)の名、数については諸本のあいだに異同がある。何段に焼くかについては、陶工の経験と勘によっていたのであろう。それぞれのテキストについて、(1)第一子、(2)第二子、(3)第三子、(4)第四子、を示すと次のようになる。
記=(1)火照命、(2)火須勢理命、(3)火遠理命(天津日高日子穂穂手見命)
紀本文=(1)火闌降命、(2)彦火火出見尊、(3)火明命(ほのあかりのみこと)
紀一書第二=(1)火酢芹命、(2)火明命、(3)彦火火出見尊(火折尊)
紀一書第三=(1)火明命、(2)火進命(ほのすすみのみこと)(火酢芹命)、(3)火折彦火火出見尊(ほのおりひこほほでみのみこと)
紀一書第五=(1)火明命、(2)火進命、(3)火折尊、(4)彦火火出見尊
紀一書第六=(1)火酢芹命、(2)火折尊(彦火火出見尊)
紀一書第七=(1)火明命、(2)火夜織命(ほのよりのみこと)、(3)彦火火出見尊
紀一書第八=(1)火酢芹命、(2)彦火火出見尊
記紀の話には、他にも酒に関する記事は多い。製法の革命とまでいえる画期は、口で噛むことから、麹という何か魔法にかける物質を加えることへの転換であった。それが、ちょうど甑の伝来と軌を一にしたということのようである。したがって、天つ神、国つ神という区別は、外来と土着という区分ではなく、明るいところと暗いところ、ここでは田と台所の別を表している。その両方の神が表すものが、古墳時代の五世紀、はやくても四世紀末にともに大陸からの伝来に由来するとなると、古事記の神々の世界観、宇宙観なるものは、再考を余儀なくされるであろう。そして、<あまひのみ>という語によって、大陸伝来の新技術をメッキ的なるものと捉えるたくましさが知れるとともに、自己言及的なことばの用い方を難なくこなしていた言語能力の比肩のなさからは、どこか勝ち誇ったような雰囲気を感じ取ることができる。記紀やそのもとになった天皇記、国記、本記を書き上げることとは、知恵レベル、なぞなぞレベルにおいて、大陸の文明をはるかに凌ぐ東亜の大帝国を築き上げることであると思われていたのかもしれない。

*1 大野晋『係り結びの研究』岩波書店、一九九三年。ヤは、もともと掛け声であった点から、ヤとカの疑問を呈する仕方の違いについて詳述されている。管見にすぎないが、……カ、と、……ヤ、の違いは、「……カ」、と、「……」ヤ、の違い、すなわち、ヤはメタメッセージレベルでの疑問の提示、言い換えると、ヤに先立つ命題、言説、単語の呈示に対して、自己言及的な疑問を投げかける助詞かと思われる。
*2 延喜式に、「贄土師……竈二口、高一尺五寸。竈子十口、受一斗。甑十口、受六升」とある。竈子(かまこ)とは、蒸気発生源となる水を入れて湯を沸かす釜のことである。カマド、カマコ、コシキの三つが一体となって、蒸す調理が可能となる。古墳からは、これらのミニチュア埴輪が出土している。
*3 佐原真『食の考古学』東京大学出版会、一九九六年。渡辺昌宏「煮炊きの道具が語る調理の変化」金関恕監修、大阪府立弥生文化博物館編『卑弥呼の食卓』吉川弘文館、平成十一年。
*4 万葉集に見える「小網(さで)」のことも、和名抄に、「纚 佐天(さで)、網は箕の形の如し、後ろに狭く、前を広げる者なり」とあって、四手網のひとつのようである。
*5 白川静『字訓』平凡社、一九八七年。漢字のことは言うまでもなく、やまとことばにおいても、その慧眼に感服させられる。
*6 上田誠之助『日本酒の起源;カビ・麹・酒の系譜』八坂書房、一九九九年。酒の醸造法の歴史について、実験で検証しながらの考察である。裏返すと、それだけ不明な点が多いということである。
*7 上田誠之助、前掲書によれば、糵はもともと芽米であったが、実際に芽米を作る際、麹菌に汚染されると室のなかに麹菌の胞子が充満し、九世紀の延喜式の頃には麹菌汚染蒸米、つまり、米散麴づくりになってしまっていたのではないかという。
*8 三浦佑之『神話と歴史叙述』(若草書房、一九九八年)に、「笑」にヱラクと訓ずべきとの指摘がある。続紀の宣命(三十八詔・四十六詔)にヱラキがあり、[称徳]天皇から下賜された酒に酔って心が高揚した状態をいう語であり、顔面を赤らめ声をあげて喜び歌うという陽気に酔っぱらったさまをいうという。ヱラクは、人を魅惑し、満ち足りた気分にさせるという点でヱムと接近し、大きく口を開けて声をともなうという点でワラフに接しているという。しかし、ここの酒は醴酒、すなわち甘酒で、酔いは回らない。そのうえ、天皇から賜ったのではなく、自分で作ったものである。「夫(そ)れ国樔(くずひと)は、其の為人(ひととなり)、甚だ淳朴(すなほ)なり」とあるから、相手が天皇であれ、馬鹿にしてあざ笑ったものと思われる。ただ、ヱラキとある二例の宣命は、大嘗祭、新嘗祭の後の直会の豊明(とよのあかり)である点は、後段の出生の話に関連していて興味深い。
*9 楚王は、食客として申公や穆生を招いていた。「初め元王、申公等を敬礼す。穆生酒を耆(たしな)まず。元王、置酒する毎に常に穆生が為に醴を設く。王戊が位に即くに及びて常に設く。後に設くを忘る。穆生退きて曰く、以て逝くべし。醴酒設けず。王の意怠らめり。去らずんば、楚の人将に我をして市に鉗せん」。醴の切れ目が禮の切れ目という話である。なお、天武紀二年正月条には、「置酒(おほみきをめ)して群臣(まへつきみたち)に宴(とよのあかり)す」とある。
*10 須須許理(すすこり)という名は、コリがマッコリのコリで漉す、濾過するの意で、朝鮮語で酒造りのことをいうのであろうとされている。番能邇邇芸命については、拙稿「天孫降臨と猿田毘古・猿女君」を参照。木花之佐久夜毘売の説話では、醴酒が主役で扱われており、澄んだ酒や度数の高い酒は当面のテーマではないようである。
*11 クモノスカビという名のカビ菌がいる。アルコール醗酵に役立ち、実に容易に得られ、大陸での酒造に用いられる餅麹のカビ菌はこれである。命名の時期や経緯が明らかでなく、記の説話のなぞなぞに関係があるかないか、わからない。
*12 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、平成二年。
*13 清水芳裕『古代窯業技術の研究』柳原出版、二〇一〇年。 
海佐知・山佐知

 

海佐知(海幸)と山佐知(山幸)の話は、全体が三つの要素からなる。最初が海幸と山幸による釣針をめぐる兄弟げんか、次に山幸が海神の宮を訪問する話で、この二つが絡み合って一つの流れを作っている。最後が豊玉毘売(とよたまびめ)の出産の話で、これは鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の誕生話としてその後に続いているので別に扱う。
兄の火照命(ほでりのみこと)(火酸芹命(ほすせりのみこと)、海幸彦(うみさちびこ))は海の漁師として、鰭(はた)の広物・鰭の狭物(さもの)を取り、弟の火遠理命(ほおりのみこと)(彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、火折尊(ほのおりのみこと)、山幸彦(やまさちびこ))は山の猟師として、毛の麁物(あらもの)・毛の柔物(にこもの)を取っていた。あるとき、火遠理命が兄の火照命に、各自のさちを交換して使ってみたいと言った。しかし、三度言ったが聞き入れられなかった。それでも、最後にはやっと交換してくれた。ところが、火遠理命が海さちで魚釣りをしても、まったく一匹も獲れないどころか、鉤(ち)(釣針)を海に失くしてしまった。兄の火照命は、鉤を返して欲しくなって、各のさちを返そうと言ったが、弟の火遠理命は一匹も釣れないで海に失くしたと答えた。しかし、兄は返せ返せと責めたてたので、弟は腰に帯びた十拳剣(とつかのつるぎ)を鋳つぶし、リサイクルしてできた五百個、千個の鉤を作って償おうとした。けれども、兄のほうは、もとの鉤でなければ駄目だと責めたてた。
弟は泣いて嘆き、海辺に佇んでいたところ、塩椎神(しおつちのかみ)(塩土老翁(しおつちのおじ))が現れて、善後策を教えてくれる。それによると、籠製の小船に乗ってしばらく行くと、素敵な道があるからその道なりに進めば、鱗のように作ってある海神(わたつみ)の宮に到るから、その門の傍の井戸のところにある神聖な香木(かつら)の木の上に座っていれば、海神の娘が発見して万事取り計らってくれるというのであった。
教えのとおり行くと言われたとおりで、香木に登って座っていると、海神の娘、豊玉毘売(豊玉姫)の従婢が玉器に水を汲みに来た。井に映る光に仰ぎ見たら壮麗な男がいて不思議がった。火遠理命は水を請い、頸の璵をほどいて口に含んでその玉器のなかに唾を吐き入れた。すると璵が器にくっついてしまったが、そのまま豊玉毘売に差し上げた。豊玉毘売は不思議に思って外へ出て、高貴な人を見て一目惚れしてしまった。父親の海神にそのことを申し上げ、海神も出て見て、これは天津日高(あまつひだか)の御子の虚空津日高(そらつひだか)だと言って、家のうちに入れた。アシカの皮を幾重にも敷き、絹の敷物も幾重にも重ね、その上に座らせてテーブルにいっぱいのご馳走を載せて、娘の豊玉毘売との結婚披露宴を開いた。そうして、三年になるまでその国に留まった。
火遠理命は当初のことを思い出して、大きな溜息をついたので、豊玉毘売はその理由を父親に聞いてもらう。すると、兄が鉤を失くしたといって責められていたことを明かした。海神は海の生き物たちを全員召集し、鉤を取った魚がいるか聞いてみたところ、鯛がこの頃喉に骨が刺さって物が食べられないと愁いていたからそれだろう、というので赤い鯛の喉を探ってみると、鉤が発見された。そこで、取り出してきれいに洗って火遠理命に奉り、海神は呪詛の方法を教え、また、塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおふるたま)の二つを授けた。そして、和邇(わに)を全員集合させて、天津日高の御子の虚空津日高が上の国においでになるのに、誰が幾日でお送りして復命するかを問うた。それぞれ身長に応じて日数を言うなかに、一尋和邇(ひとひろわに)は一日で送って帰ってくると言った。そこで、一尋和邇に送ってくるように申し付け、海中を渡るときには恐い思いをさせないようにと注意し、和邇の頸に載せて送り出した。約束どおり一日で送り、帰り際に紐つきの小刀を頸につけてやった。今の佐比持神(さひもちのかみ)である。
海神の教えどおり鉤を返したところ、だんだん貧しくなっていって荒々しい心を起こして攻めてきた。そこで塩盈珠を出して溺れさせ、許しを請うたら塩乾珠を出して救った。困り苦しんだため、今後は昼夜守る者として仕えると額づいて言った。今に至るまで、その溺れた時のいろいろな仕種を絶えることなく伝え、お仕え申し上げている。以上が話のあらすじである。
記に、「山さちも、己(おの)がさちさち、海さちも、己がさちさち。今は各(おのもおのも)さち返さむと謂」うとある。これを、山の幸、つまり山の獲物も、海幸、つまり海の獲物も、自分の道具でなければうまく得られない、の意と解釈する向きがある。「己(各)がAB(A=B)」という言い方は、慣用表現である。
己がじし 人死にすらし 妹(いも)に恋ひ 日に異(け)に痩せぬ 人に知らえず(万二九二八)
……はふ蔦(つた)の 各(おの)が向き向き 天雲(あまぐも)の 別れし行けば……(万一八〇四)
二九二八番歌の「己がじし」は「己が為為」で、人はそれぞれに死ぬものらしい。彼女に恋をして、日々とてつもなく痩せてしまった。この思いは人に知られずに、の意味である。一八〇四番歌は、這っていく蔦のように、それぞれの向きにすすむ雨雲のように別れて行ったので、の意味である。ほかに、続紀には「己が引き引き」の例があり、各自銘々の贔屓によって、の意である。古今集には「己が衣衣(きぬぎぬ)」の例があり、共寝をした男女が翌朝起きて、別々に別れることを言っている。
以上から、「己が幸幸」とは、幸Aと幸Bとは合体することもあるがそれぞれ別々のものである、の意である。すなわち、山幸であれば、矢(幸A)と獣(幸B)とは、射たときには一体化しているけれど、実は別々のものである。海幸であれば、釣針(幸A)と魚(幸B)とは、釣ったときには一体化しているけれど、実は別々のものである。ことばとしては同じことばでも、実は離れてしまうものだから、それを一つにつなぎとめるにはそれなりの技術が伴わなければならない。海幸と山幸の技術の違いとは、山幸が糸(蔓(つる))をつけずに矢を射て飛ばすのに対して、海幸は糸(蔓)をつけて釣針を水に投ずることである。山幸彦が間違えたのは、鉤に蔓をつけずに水に放った点である。失くすのは当然であろう。
矢(箭)のことをサともいう。「投ぐる矢(さ)の 遠離(とほさか)り居(ゐ)て」(万三三三〇)とあるように、「さ」は柄の短い投げ矢のことで、丈夫で鋭い鏃(やじり)、すなわち、石鏃ではなく金属製の鏃のついたものをいったという。つまり、サチカへとは、箭(さ)と鉤(ち)との交換でもある。責(はた)るほどに返せ返せといったのは、返しがついていなかったから「正本(もと)(故)の鉤(ち)」を求めたということである。釣針は一般に、魚が餌のついた釣針をいったん飲み込んだら引っ掛かって抜けないよう、針先の本の部分に逆向きにつけたとがったかぎがある。これは返し(返り)とも鐖(あぐ)ともいう。顎の古語、アギトと関連のあることばである。また、ハリスを結びつけて抜けないようにするために、針全体の頭の部分にも引っ掛かりとなる折れ曲がり部分がある。この部分も返しという。人と魚の綱引きだから、釣針を中心にしてみれば、いずれにも返しがあるのは当然である。
考古学的には、古代の鉄製釣針では、釣糸との接点部分の頭の返しがついていないものが多数確認されている。同様の形状の針は、民俗資料のブリバリにあるという。大型のブリなどを獲るとき、頭部の返しがあると力が一点に集中してハリスが切れる恐れがある。そこで、素人にはとても難しそうに見える結び方で、針の軸部へハリスをつなぎ、結び目も見えずに別の糸を使ってきつく結びつけているとされる。また、餌を縛りつける糸もあったという*1。海幸彦が剣から作った鉤では駄目で、「もとの鉤」でなくてはいけないと言い張るのは自然である。すなわち、五百個、千個作った鉤は、「すゑの鉤」ないし、「うらの鉤」だと言いたいのであろう。返しという名称が二つあるわけである。そして、剣(つるぎ)からは釣(つ)る鉤(ち)はできないと洒落ている。刀剣を水中でいくら振り回しても、傷つく魚はおるまい。鉄製の釣針ではなく、鹿の角のような骨角器のそれを期待していたということでもあろう。
陸上で、獲物を捕らえるために使う飛び道具は弓矢である。弓が弓の機能を示すためには、弦(つる)が張っていなければならない。下を本弭(もとはず)、上を末弭(うらはず)という。弭は筈であり、あるのが当たり前だからある筈で、ないとなると当てが外れるという。弦は、蔓、釣る、吊るなどと同系のことばである。釣りは、蔓を垂らして水中の獲物を吊った状態にして捕らえる。線分をいっていて、こちらとあちら、本末、上下、天地の両方に端がある。連(つれ)(列)も、男女や前後の組である。面(つら)は横顔のことで、左右二つある。つるむというと、雌雄の交わりである。釣りの場合、蔓の一方に手、他方に鉤がついている。
釣りの話は、それに続く塩椎神の教えや、海神の宮のセッティングに再現、展開される。第一に、山幸彦が海に乗っていく船である。それぞれのテキストについて、(1)乗り物、(2)経緯の説明、で整理すると次のようになる。
記=(1)無間勝間(まなしかつま)の小船(をぶね)、(2)〜を造りて其の船に載せて……「我(あれ)[塩椎神]其の船を押し流さば、……」といひき。
紀本文=(1)無目籠(まなしかたま)、(2)〜を作りて、彦火火出見尊を籠(かたま)の中(なか)に内(い)れて、海に沈む。
紀一書第一=(1)大目麁籠(おほまあらこ)、(2)老翁(をじ)、即ち嚢(ふくろ)の中の玄櫛(くろくし)を取りて地(つち)に投げしかば、五百箇竹林(いほつたかはら)に化成(な)りぬ。因りて其の竹を取りて、〜を作りて、火火出見尊(ほほでみのみこと)を籠(こ)の中に内れまつりて、海に投(い)る。
同一云=(1)無目堅間(まなしかたま)、(2)〜を以て浮木(うけき)に為(つく)りて、細縄(ほそなは)を以て火火出見尊を繋(ゆ)ひ著けまつりて沈む。所謂(いはゆる)堅間は、是今の竹の籠なりといふ。
紀一書第三=(1)無目堅間の小船、(2)〜を作りて、火火出見尊を載せまつりて、海(わた)の中に推(お)し放つ。
紀一書第四=(1)一尋鰐魚(ひとひろわに)、(2)唯し我が王(きみ)の駿馬(すぐれたるうま)は、〜なり。……因りて乗りて海(わたなか)に入る。
紀一書第二はいきなり海神の宮の話になっている。第四を除くと籠に乗っていくことになっている。一書第一だけ目のあらい籠である。浮かすのか沈ますのか不明であるが、目がないほどに堅く編んだ籠でないと船にならず、乗り物とならない。「大目麁籠(おほまあらこ)」とあるのは、「無目籠(まなしかたま)」であることを際立たせる方便なのであろう。
話として、籠(コは甲類)が重要である。駕籠は、人を乗せた籠を上の棒に吊るして前後の人が担いだ。鹿児(かこ)(コは甲類)は、鹿の子どもである。体の斑点模様に特徴がある。鹿の子絞りは、絞り染めで白い星を隆起させて染めたものである。糸でぐるぐると縛っておく。大きな斑紋を作る場合には、縛って吊るしておいたものであろう。「無目籠」とあるのも、愛(まな)+鹿(しか)+玉(たま)を導きたいための洒落かもしれない。紀に、「真名鹿(まなか)の皮(かは)」、記に、「真雄鹿(まをしか)の肩(かた)」とある。ホ具(かこ)(コは甲類)とは、腰帯や甲冑、鞍、鐙などの革のベルトをかけてとめる金具、すなわち、バックルのことである。和名抄には、「今案ずるに唐令に所謂玉釣是なり。……銅をもちて革に属くるなり」と納得している。吊るための止め具である。玉鉤(ギョクコウ)もかこと訓み、1玉で作ったかぎのこと、2弓張り月のことをいう。
また、水手(かこ)(水夫)(コは甲類)は櫂を取る人、船を漕ぐ人のことである。船の乗組員のことを、「かこかんどり」という。カンドリは舵取りの意味である。かいやかじに楫、檝、櫂、梶といった字があり、板の形状も似ており、和船になると機能が一体化してきて混乱が生じたと推測される。いずれにせよ、駆動と操縦の両者があってはじめて船は動く。香取神宮のこともカンドリといい、祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)である。武甕椎神(たけみかづちのかみ)を祭神とする鹿島神宮とセットで語られることが多い。これは、鍵(鉤、鎰)と錠の両者が一体になってはじめてロックが効くのと同じである。総称しても「かぎ」といい、引っ掛ける形状を言っている。釣針のことを鉤(鈎)とするのは、曲がれるものだからである。鍵の字は、説文に、「鉉なり」、すなわち、鼎を吊るすために両耳に通す棒のこととある。籠を吊るして駕籠として機能するためには、横木を通して前後に担ぐ。畚(もつこ)(ふご・あじか)も同様である。古語に、簣畚(あしかかがり)ともいう。海神の宮で迎えるとき、記に「みちの皮」、紀一書第三に「海驢(みち)の皮」を敷いたとあるが、アシカの獣皮のことである。
釣りの話の第二の展開は、山幸彦こと火遠理命(彦火火出見尊)が、塩椎神(塩土老翁)の教えにしたがって、海神の宮の門の前の井戸のそばの神聖なカツラの木の上に行くところである。記には、「其[綿津見(わたつみ)]の神の御門(みかど)に到らば、傍(かたへ)の井(ゐ)の上(へ)に湯津香木有らむ」とあり、「香木を訓みて加都良(かつら)と云ふ」と注されている。紀第十段本文には、「[海神の宮の]門(かど)の前に一(ひとつ)の井有り。井の上(ほとり)に一の湯津杜樹(ゆつかつらのき)有り。枝葉(えだは)扶疏(しきも)し」とある。「湯津」とは斎(ゆ)つ、すなわち、神聖なという意味である。カツラの木は水気を好み、川岸や池のほとりなどで株立ち状の大木になり、たくさんの枝を伸ばす。訓注に、「杜木、此には可豆邏(かつら)と云ふ」とある。ほかに「杜樹」ともあり、いずれもカツラと訓む。「一の」と重ねられて強調されている。ここは井とカツラが必須のようである。説文に、「甘棠(やまなし)なり。牡を棠と曰ひ、牝を杜と曰ふ」とある。雌雄異株である。
記や神代紀第九段では、高天原(たかまのはら)から地上世界を征服しに行く先駆け役の天若日子(あめわかひこ)(天稚彦)が、国神(くにつかみ)の娘と懇ろになって反旗を翻す話がある。高天原側は雉を偵察に行かせる。紀には、雉は天から降りきて、「天稚彦が門(かど)の前(まへ)に植(た)てる……。湯津杜木(ゆつかつら)の杪(すゑ)に止(を)り。……奇(めづら)しき鳥来て杜(かつら)の杪に居(を)り」とある。カツラの木を植え据えたらその梢にキジが坐りにきた、という洒落を表している。腰を据えるのは居敷で、引戸の場合は敷居のレール、閾(しきみ)である。敷居は踏んではならないと躾けられる。そして、古語のスヱには、末(季節なら季、子孫なら裔)、陶(須恵器)、下二段の動詞据うの活用形がある。据うの自動詞形は坐るで、坐の異体字には左右非対称の字がある。左側の人が口になっており、日本書紀では好んで使われる。陶は説文に「再成の丘なり」とあり、登り窯の形象とする。語源的にスヱは、おしまいの、坐りのいい、動かないといった意味である。拮据(きっきょ)という漢語があり、詩経・豳風(ひんぷう)・鴟鴞(しきょう)、すなわちフクロウという題の詩に、「予(わ)が手は拮据し」とあって、鳥が趾で獲物をがっちり攫むことを表している。
カヅラというと鬘と書く髪飾りやウィッグ、いわゆるヅラ、また、蔓、葛と書くつる状になるものの総称を指す。記紀神話では、伊耶那岐命(いざなきのみこと)(伊奘諾尊)が黄泉の国から逃げ帰る途中、伊耶那美命(いざなみのみこと)(伊奘冉尊)側の追手、予母都志許売(よもつしこめ)(泉津醜女)の気を逸らすために鬘を投げている。記に、「伊耶那岐命、黒御鬘(くろみかづら)を取りて投げ棄(う)てたまへば、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)る。是を[予母都志許売ガ]摭(ひり)ひ食む間(あひだ)に逃げ行きき。猶追ふ」、紀に、「剣を抜きて背(しりへで)に揮(ふ)きつつ逃ぐ。因りて、黒鬘(くろきみかづら)を投げたまふ。此即ち蒲陶(えびかづら)に化成(な)る。醜女(しこめ)、見て採りて噉(は)む。噉み了(をは)りて則ち更(また)追ふ」とあり、他に櫛や桃を投げて追手から逃れることになる。
髪飾りの黒い鬘や葡萄に変わったという話で、エビカヅラと呼ぶのは蔓の巻き具合がエビのひげのようだからという。おそらく、葡萄の実が熟すときの色の変化と、エビを茹でたり焼いたりしたときの色の変化とを近似的に捉えたものであろう。中身よりも皮や甲羅のほうが変化が大きい。黒い鬘を投げたというのも、残った中身は禿だったことを言い表すのではないか。わざわざ「黒鬘」と断る理由はほかにあるまい。カヅラと音が濁るのも少し貶めた言い方である。たとえば、「小(ちひ)さし」からチビというようにである。
すると、カツラないしカヅラという語感からは、なんとなく贋物っぽく、また、あれよあれよという間に表面に変化が現れていくカメレオン的なものという印象が受け取れる。大根に桂剥きというのがある。円周を薄く削ぐように包丁を入れる。桂剥きにしておいたものを重ね、細く切れば刺身のつまができる。すなわち、桂剥きとは、大根の全部を皮だと思って永遠に剥き続けることである。とんだ徒労である。がんばった挙句に脇役のつましかできない。
似た例は数多い。鳥を見つけて得たいのは卵なのに、それが得られないのがコウモリ、トカゲなのに鱗がなくて皮が得られないのがヤモリ、魚なら身があるはずなのにそれが得られないのがイモリ、巻貝なのに蓋がなく螺鈿細工の材料に使えないほど薄いのがカタツムリである。それぞれ不思議な生態をしており、色合いも常と異なる。コウモリは羽を閉じていれば黒く見えるが広げると透けているし、カタツムリの通った跡のぬめりの部分も輝いている。
中国の伝説に、月のなかに桂樹があるとするのがあり、万葉集にも例が見られる。また、月が欠けるのをヒキガエルが食べていると考える説もある。字の形から言っても、月の桂を蛙が食べて圭(かど)の字が移動した。記紀とも、カツラの木は門(かど)のところに生えていた。カエルは、月の見えにくい薄暮の夕方や朝方によく鳴くといわれている。「かへる」の名称は、卵が孵るからであろうし、さらに、オタマジャクシからナマズではなく、手足が生えてきて変態するところに印象づけられていると思われる。別名の「かはず」は、川の水が滴り落ちて生まれた生き物のことという。後ろ足を撥ねる瞬間は、ちょうど矢筈が弾かれるようである。カツラの木も雌雄異株であり、また、古い字書を整理すると、「桂」をメカツラ、「楓」をヲカツラ、「槭」をカヘデとしていた。かえでの木の名はかえるの手のようだからである。そして、秋にはみごとに紅(黄)葉する。
やまとことばでも、カツラの木の名に混乱が生じている。ヲカツラを楓樹とすると、マンサク科の落葉高木、イガカエデのことで、別名を賀茂かつらという。葵祭(賀茂祭)では、葵と賀茂かつらの小枝を使って車の御簾の飾りにした。メカツラを桂とすると、カツラ科の落葉高木である。ハート型の葉をしている雌雄異株のそれである。月桂樹のこととすると、クスノキ科の常緑高木である。葉が対生のオリーブとは異なり、互生のローレル、ロリエを指す。カヘデはカエデ科の落葉高木で、いまのイロハモミジ、イタヤカエデと呼ばれるものの総称である。材質が硬く、和琴の琴柱にはその二股の小枝を使う。すると、ヲカツラを別にして、杜(カツラ科)、柱(カエデ科)、桂(クスノキ科)となる。旁の部分の土の形が特徴的である。文字の意味と形状とが、植物のそれと合理的に結びつくように思われる。和名抄に「柱、コトヂ」とある。
月の甦りの考え方は、伊耶那岐命・伊耶那美命の黄泉がえりの話に通じている。記紀神話の月読尊(つくよみのみこと)にみられる神格化ばかりでなく、万葉集では月人(つきひと)、月読男(つくよみおとこ)などの擬人化もみられる。晦(つごもり)とは月籠りの約で、月末ないし晦日のことである。晦で月が消失しないのは、月が尽(盡)きるといっても、字の下部に皿がついていて受け止めるからである。また、復活の聖水に当たる変若水(おちみず)伝説もユーラシア大陸の北方に広く伝わっている。一度隠れこもって変身し、パワーアップして再生するというストーリーである。
目には見て 手には取らえぬ 月の内(うち)の 楓(かつら)の如き 妹(いも)をいかにせむ(万六三二)
黄葉(もみち)する 時になるらし 月人(つきひと)の 楓の枝の 色づく見れば(万二二〇二)
天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読(つくよみ)の 持てる変若水(をちみづ) い取り来て 君に奉(まつ)りて 変若(をち)得てしかも(万三二四五)
蚕の繭籠りは、具体的な驚きとして見つめていたことであろう。芋虫が突然糸を吐き出して繭を作り、しばらく籠った後に蛾に変身して飛び立つ。上代の思想としては、聖徳太子が法隆寺の夢殿に籠り、百済観音と一夜を明かすことでいい知恵が生まれたとか、更級日記の作者、菅原孝標の女が初瀬に三日間参籠して物忌に服したという話が名高い。いわゆるお籠りである。籠ることは、元は神の仕儀であったから、こもれる、こもります、といった敬語の形をとることが多いという*2。籠は説文に、「土を挙ぐるの器なり」とあり、畚(もつこ)のこととする。竹を編んだ籠のことで、隙間がないように編んだものが無目堅間であった。棒に吊るし掛け、土砂や岩石をまとい込めて運んだ。コモルと発音する際のくぐもった感じに意味がよく表れている。
イモリ(蠑螈)は井守である。やまとことばのヰは、井戸、井堰の意で、湧き水や水の流れから水を汲み取るところである。井の字は井桁の形である。ほかに巻貝の形に掘り下げたところの最深部に水が沸いていて、そこまで階段を下っていく形の井戸も残っている。まいまいず井戸という。猪は「ゐの肉(しし)(宍)」のこと。きれい好きで水(泥)浴びをする習性から、山でイノシシに会えば水の在り処が近いと知れたであろう。そのヰモリはやはり雌雄で形が少し異なる。赤い腹を見せて求愛行動をする。むかし、井守の黒焼きという惚れ薬があった。雌雄のイモリを竹筒に入れて蒸し焼きにし、粉末にしたものを相手に降りかけたり、酒に入れて飲ませたりした。また、イモリの血を女性の身体に塗るとイモリの印となり、不義密通があるとその印が消えるといわれた。
コウモリ(蝙蝠)は川守の転という。哺乳類、翼手目、ヒナコウモリ科やキクガシラコウモリ科に多数の種を有する。そのうち、川辺でよく観察されるのは、腿白蝙蝠(ももじろこうもり)、小菊頭蝙蝠(こぎくがしらこうもり)である。コロニーを作って窟に棲み、夜行性である。また、発達した翼手が鋭角的で、ちょっと気障なファッションスタイルをしている。薬師如来を守る十二神将に伐折羅大将がある。忿怒の形相をして右手に剣、左手に金剛杵を持つ。金剛杵は、もとはインドの武器で、密教に入って煩悩を粉砕し、菩提心を表す法具になった。手に握れるほどの大きさで、独鈷、三鈷、五鈷がある。また、金剛杵の片側が鈴になっている金剛鈴もある。指の分かれているのをみると、コウモリの趾に似ている。それらを置く金剛盤は、三角の雲形をしていてちょうどバットマンの形である。派手で伊達ないでたちを婆娑羅という。外国渡来のファッションは、ちょい悪で婆娑羅なことであった。十二支、十二ヵ月、十二時間を一回りとして甦る。十二単は唐ブランドで、人回りに着せていて、新しい生命の誕生を期待するものであったろう。聖徳太子の冠位十二階の制は、大化改新以降改められるが、天武紀十三年条に、「圭冠(はしはかうぶり)」、すなわち、烏帽子を被れとあるから、十二人で人回りの一種であったようである。世襲されないのが原則であった。
農耕文明で川を守るとは、治山・治水というように政治の要であった。それほど水害と旱魃を恐れた。コウモリが飛んでいる限り川の水はあったであろう。水がなくならない理由は、川の底が抜けないからである。水田も同様である。ひとつひとつの田の面積が、今日とは比べものにならないほど狭かった棚田を墾く際、荒木田土(あらきだつち)とも呼ばれる粘土、すなわち、埴土(はに)は欠かせないと思われたであろう。その埴土で作った土器は瓦けで、浅いものは皿である。正倉院文書や平城宮出土の墨書土器に、「佐良」とある。川を浚(渫)うのは、杷(さらい)(扠)という熊手に似た道具であり、川底を更新、すなわち、新(さら)(更)にする。春の小川はさらさら行くよ、とは言い得て妙である。おさらいをすると記憶が残る。たしかに、コウモリの飛び方は清水寺や屋島山頂からの皿投げのように、ふつうの鳥とは異なって変則的である。そして、水面で蛾などを掠めさらう。色は埴土、土師器(はじき)のようである。メスばかりで集団を作ることもあり、ばさばさの髪の感じの媼ばかりに見える。羽でぶら下がっているのに、バネのようにぶらぶらしている。
布や紙を晒す、髑髏が曝されるというのは、川の流れや雨風によって更新され、着色された色彩が失われ、白けた色に戻ることを指す。皿の字は益に似ている。益(u)の字は、皿に水が表面張力でいっぱいになっている形。「ますます」には、倍、優、数加、愈の字が当てられる。愈はイヨ・イヨイヨ・イヨヨで、彌や最の字であらわすイヤ・イヤイヤの母音交替形である。いよいよですね。いやさか。いよー、待ってました、などと使われる。イヨヨカとは樹木が高くそびえるさまをいい、森の字が当てられた。また、お蕎麦更科の長野県には、景勝地として田毎の月が名を残す。釈迦入滅時に沙羅双樹の枝がのびてからまり、白く枯れたという伝説もある。関西弁の「何さらすねん?」は「何すんねん?」の増長形である。
森は樹木の深く茂ったところをいい、鎮守の森のように神域とされることが多い。神はそういうところに降臨すると考えられた。わが国の古い祭礼形式では、小さな土盛りに木を植えたり竹笹の類を刺すなどし、それをモリと呼んだ。神の宿るところの意味で、今日でも地鎮祭にみられる。拝殿だけで本殿を持たない神社に、御神体を背後の森とするところも知られる。杜の字をモリとするのは和訓であるが、杜絶のように塞ぐ意味があって、結界のなかに籠ることを表している。紀に、「湯津杜樹」とあるのは、そのような意味合いを伝えたかったからであろう。万葉集で「杜」とあるのは「神社(もり)」と同じく神の坐すところである。社とは土を盛って地主(じしゅ)、すなわち、地の神さまとして祀ることと関連がある。史記・封禪書には、「地主(ちしゅ)、泰山・梁父を祀る」とある。ふつうの土と区別するために社の字を用いた。地の字は平らにのびた土地を表す。池は平らにのびた水のこと、馳せるは平らにのびるほど疾走する馬のことである。すると、地主神社というダブった言い方は、土+土=圭のことになる。鎮守の森は守の森、森の守である。守という字は廟屋をまもることを表す。禁足地である。
カツラは水気の多い土壌を好む。水田稲作農耕にふさわしい土地である。京都の、むかし葛野(かどの)とも呼ばれた桂の地は、飛鳥時代には渡来系の秦(はた)氏の拠点であった。そこは、太秦(うずまさ)、蚕ノ社、帷子(かたびら)ノ辻など、難読文字の多いところである。秦氏は、秦始皇帝の末裔と称した人たちである。秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から賜った仏像を、蜂岡寺(はちのおかでら)、今の広隆寺に祀った。今伝わる半跏思惟像で、左右非対称の像である。頸を傾げて微笑むところは、はにかんでいる風情である。天孫の降り立ったところに「杜木」、「杜樹」とあるのは、渡来系の人や文化と関係することを表そうとしているのかもしれない。今日、清水寺の鎮守の地主神社は、縁結び、恋愛成就の神として若い女性に人気がある。地の神との関連は不明ながら、イモリの求愛行動やカツラの雌雄異株の話と通じる。
ヤモリ(守宮)は家守、舎守の意であろう。守宮の字が当てられるのは、人家よりも社を守ることを表している。社のシロは代、城である。成という字は戊+丁(打の原字)からなって、万里の長城のように、築き固めることを意味する。万葉集には、「冬木成」と当てられた例が六例みえる。「冬隠」と同じである。この成の字は、草木が生成して茂り、こんもりと盛り上がった様子を言っている。万葉仮名は、樹木が落葉してもなお力をためて復活しようとしているのを表そうとしたものらしい。盛の字は、食器に食べ物をてんこもりにすることで、特に、神への捧げ物を盛った。
ハジカミイヲとはサンショウウオ*3のことで、やはり雌雄で形が大きく異なる。サンショウウオの名は、割くと山椒のような臭いがする点に由来するらしい。倭のハジカミが山椒で、中国のそれを薑(くれのはじかみ)といって生姜を指した。はじかみとは埴土(はに)を噛むことで、埴土を食べると気持ちが悪く、歯を剥いてニッと変な笑顔になる。齵・齱・眥、また、齒偏に此と書いてハニカムと訓む。独特の辛さから顔がシンメトリーにならない。ちょうどカタツムリが片方の目をつぶるような状態になる。左右が揃っていないところが、雌雄の性差を暗示している。特に、オオサンショウウオは再生力が強く、別名を半裂きという。門(かど)が圭(かど)とは、閨(ねや)、すなわち寝室のことであった。夜行性の動物ばかりでてきて、宮廷の門から御門(帝)となり、魚偏に帝と書いてハジカミイヲを指した。帝という字は示という字が単純な折敷(おしき)であるのに対し、台脚を交叉させて締め結ぶ祭卓のことをいう。雌雄や前後、左右が揃ってすわりのいい安定、つまり、釣り合いが取れるおめでたい話であった。
紀には、杜、井、門がセットで出ていた。杜は棠梨、山梨のことで、山の形を成す(如す)といえば、地主神のことが思い起こされる。無(なし)・勿(なし)・毋(なし)・莫(なし)がキーワードであろう。すると、井戸に水がないのは空井戸である。カラヰは唐居敷(からいしき)、門柱の下に敷きつつ門扉の軸受とする石のことをいう。今日、門の開閉は蝶番で行われることが多いが、唐門では扉は枢戸(くるるど)である。門柱とは別立てで門扉を作る構造になっている。下の蹴放(けはなし)の石と、上の梁や楣(まぐさ)に穴を穿って戸臍(とぼそ)とし、そこへ門扉の軸元框(かまち)の上下の端に突起となる戸まらをつけて据えている。紀第十段本文には、「一(ひとり)の美人(をとめ)有りて、闥(とびら)を排(おしひら)きて出づ」とある。闥は、ものをならべてなかが見えないようにした屏という。ハの字のようになって角立つ扉なのであろう。
井戸で并ぶものといえば、車井戸の釣瓶(つるべ)である。これが釣りの話の第三の展開である。つるを滑車に懸けて両側に垂らし、それぞれの先に焼き物の壺をくくりつけ、一方を上げれば他方が下がる仕組みになっている。井戸の水を汲む容器は、甕(もたひ)(瓮)(ヒは甲類)である。ツルヘとモタヒとは混用されているが、つるがついている点から釣瓶、容器の様相から甕という語が生まれたことは疑いない。信貴山縁起絵巻にも見えており、考古学的にも、素焼きの甕状のものにつるをつけたと思しきものが発掘されている。方法として、容器全体を被って絡ませる被籠式、頸の部分を巻いた頸部巻き付け式が確認されており*4、被籠式のものこそ、甕に縄を巻いて「無間勝間」と呼んでいたものであろう。すなわち、火遠理命とは、井戸にあっては甕である。
記では、「従婢(まかたち)」が「玉器(たまもひ)」(ヒは甲類)を持って水を汲んでおり、火遠理命の存在に気づく。貴人風の男に水が欲しいといわれて器を渡したところ、水を飲まずに、首に巻いていた「璵(たま)」を解いて口に含んで唾を吐くように入れた。璵が器(もひ)について離れなかったとあるから、タマモヒというのだというジャブ的なギャグを交えている。そのままにして豊玉毘売に渡したら、璵のついているのを見て門の外に誰か来ているのではないかとあやしんだとある。璵は美しい玉のことであるが、旁の與を意味符と解せば、数珠つながりに巻かれた玉を意味することになる。すなわち、すぐれたチェーンが水を汲む器にくっついたと考えられ、釣瓶の技巧を示唆しているのであろう。音としても、タマモヒが絡まってモタヒである。
水を汲もうとした箇所の記紀の記述を、それぞれのテキストで、逸話を整理すると次のようになる。
記=爾に海神(わたのかみ)の女(むすめ)豊玉毘売の従婢、玉器(たまもひ)を持ちて水酌まむとする時に、井に光あり。仰ぎ見れば、麗しき壮夫(をとこ)有り。……爾に火遠理命(ほをりのみこと)其の婢(まかたち)を見て、水を得むと乞ふ。婢乃ち水を酌みて、玉器に入れて貢進(たてまつ)る。爾に水を飲まず、御頸(みくび)の璵を解きて口に含(ふふ)みて、其の玉器に唾(つは)き入れつ。於是(ここに)其の璵器(たまもひ)に著きて、婢璵を得離たず。……
紀本文=遂に玉鋺(たまのまり)を以て、来りて当に水を汲まむとす。因りて挙目(あふ)ぎて視(みそなは)す。乃ち驚きて還り入りて、……
紀一書第一=侍者(まかたち)群れ従ひて、内よりして出づ。将に玉壺(たまのつぼ)を以て水を汲む。仰ぎて火火出見尊を見つ。便ち驚き還りて、……
同一云=豊玉姫の侍者、玉瓶(たまのつるべ)を以て水を汲む。終(つひ)に満つること能はず。俯(ふ)して井の中を視れば、倒(さかしま)に人の咲(ゑ)める顔映(て)れり。因りて仰ぎ観れば、……
紀一書第二=時に、海神(わたつみ)の女豊玉姫、手に玉鋺(たまのまり)を持ちて、来りて将に水を汲まむとす。正(まさ)に人影(ひとのかげ)の、井の中に在るを見て、乃ち仰ぎて視る。驚きて鋺(まり)を墜(おと)しつ。鋺既に破砕(われくだ)けぬるに、……
紀一書第四=時に豊玉姫の侍者有りて、玉鋺を持ちて当に井の水を汲まむとするに、人影の水底(みなそこ)に在るを見て、酌み取ること得ず。因りて仰ぎて天孫(あめみま)を見つ。
もたひの語から、も+鯛(たひ)(ヒは甲類)と洒落ている。播磨風土記・揖保郡条に、「墫もたひ(の水溢れて井と成りき。故、韓の清水と号く」とある。酒や水を入れる甕で、須恵器である。幅広くふくれた形は鯛のようだが、色は灰青色で鯛の色ではない。それでも、これモ(助詞)+タヒ(鯛)である。つるを外れないようにそれにつけて井戸のなかへ落とし、水を汲み上げる。まるで釣りをしていて鯛がかかった状態に似ている。今日、勿体と漢字を当て、もったいぶる、もったいをつける、もったいないという慣用句がある。甕(もたい)ぶる、甕をつけるは、つるの先にたくさん水が入る幅広の甕をつけて、まるでおいしい鯛が懸かっているかのように大仰な前触れをすることである。重みに耐えて壊れないから、持ち堪えるところからの命名ともいわれる。しかし、中に入っているのは水に過ぎない。もったいないは、おそらく、甕(もたい)如(な)しからきたことばで、甕がついていることとは魚でなら王様の鯛のようなものであって、車井戸形式になっていないからといって不満を洩らしてはならないの意味から、過分のことで恐れ多い、尊い対象に対して不行き届きである、無駄になるのが惜しいの意味になる。絶対的な重要性の問題ではなく、比較的に、うな重の上はもったいないから並でいいと言っている。釣瓶井戸にはほかに、長い竹竿に結わいつけて小屋根の隙間を通して持ち上げる竿釣瓶、井戸の脇に支柱を立ててその上端に竿を渡し、釣瓶を結びつけたのの反対側に重い石をつけた撥釣瓶がある。
話としては、最終的に鯛の口から釣針が見つかる。それぞれのテキストで、釣針の発見の模様を整理すると次のようになる。
記=諸(もろもろ)の魚ども白(まを)さく、「頃者(このごろ)赤海魚鯽魚(たひ)喉(のみど)に鯁(のぎ)ありて、物得(え)食はずと愁へ言へり。故(かれ)、必ず是取りつらむ」とまをす。於是(ここに)赤海鯽魚(たひ)の喉を探れば鉤(ち)有り。
紀本文=僉(みな)曰さく、「識らず。唯赤女(あかめ)赤女は、鯛魚(たひ)の名なり。比(このごろ)口の疾(やまひ)有りて来(まうこ)ず」とまをす。固召(し)ひて其の口を探れば、果して失せたる鉤を得。
紀一書第一=一(ひとつ)の魚(いを)有りて、対へて曰さく、「赤女久しく口の疾(うれへ)有り。或いは云はく、赤鯛(あかたい)といふ。疑(けだ)し是が呑めるか」とまをす。故、即ち赤女を召して、其の口を見れば、鉤、猶口に在り。
紀一書第二=皆曰さく、「知らず。但(ただ)赤女のみ口の疾有りて来ず」とまをす。亦云はく、口女(くちめ)、口の疾有りといふ。即ち急(すみやか)に召し至して、其の口を探れば、失へる針鉤(ち)立(たちどころ)に得つ。
紀一書第三=海神、乃ち鯛女(たいめ)を召して、其の口を探りしかば、即ち鉤を得き。
紀一書第四=海神、赤女・口女を召して問ふ。時に口女、口より鉤を出して奉る。赤女は即ち赤鯛なり。口女は即ち鯔魚(なよし)なり。
紀一書第四の鯔(なよし)はボラのことで、出世魚だから名吉しだとされている。膨らんでいて甕に見立てられる鯛と違い、鯔は黒っぽい灰色がかった色の魚で寸胴である。鯔釣りをするときは引っ掛け釣りで、鉤は胴体のどこかにあって口にはない。珍重されるのは、卵巣を塩辛にした鱲(からすみ)である。近縁のメナダも同じく鱲を作る。メナダは別名、赤目魚(あかめ)という。からすみと呼ぶのは、唐墨に姿が似ているからである。黒い色がきれいに出て、書道用に珍重された舶来品である。倭の墨は品質が劣り、鼠色にしか出なかった。鼠戸とは木戸門の扉に設けた小さなくぐり戸のことをいう。紀本文にあった「闥(とびら)」はそれであろう。からすみが入っていたのは鯔である。鼠が巣くっているのは洞(ほら)である。ほらごらん、と言いたいのであろう。法螺貝は梭尾螺とも書いて陣貝のことで、「正本(もと)の鉤」同様、鹿の角で作った角笛も使われた。法螺を吹くとは、大げさなことを言うこと、すなわち、もったいをつけることである。捉え方によっては嘘をついていることにもなる。鯔の胃袋は臼といい、こりこりしていて珍味である。鼠の字にも臼が入っており、異体字に鼡がある。
鯔の字の旁の甾は、酒をしぼるためのかめ、腹の肥ったほときを表す。上部の巛に横棒が入る場合と混用されているが、それは災の字にもある。すなわち、田に入れる水を堰きとめたかたちで、作物が生長を止めた荒れた田を表す。冬場に休んでいる田で狩りをしたため、狩りのことを田獵(畋獵)という。食糧の調達は、農耕でも狩猟でも同じようなことと観念されていたためという。鱲の旁の巤には同じく巛があるが、これは毛むくじゃらの獣の象である。狩りの意味の字に、猟、獵、獦があって、旁に葛の字が入る字を日本書紀では好んで使う。葛はくず、かづらである。葛籠(つづら)とは、葛の蔓を編んで作った籠のことで、荷物ケースにしていた。角が傷つかないよう、皮を縫い付けることも多かった。葛籠馬は、これを馬の背の両側に車井戸のようにバランスよく乗せ、その上に蒲団を敷いた乗掛馬のことをいう。綴りとは、繊維を突き通して縫い合わせることをいう。
硯とは、唐墨を擦るものである。隅は角(かど)のこと、門もかどである。桷(ずみ)(酸実)は棠梨、つまり、杜樹の本来の意味である。炭は火を熾すのに用いられ、叺(かます)に入れて運ばれる。須弥(すみ)は須弥山、須弥檀のことで、仏殿内にある。記に、「魚鱗(いろこ)の如(ごと)造れる宮室(みや)、其れ綿津見神(わたつみのかみ)の宮ぞ」とあり、屋根には瓦が葺いてあるようで、当初、瓦葺は寺院建築に特有であった。また、「即ち内に率(ゐ)て入りて、みちの皮の畳八重(やへ)を敷き、亦絁(きぬ)畳八重を其の上に敷きて、其の上に坐(ま)せて、百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物を具へて御饗(みあへ)為(し)て」とある。まるで、仏殿にご本尊を安置して、法要を行っているようである。海神の宮殿は、海の向こうからやってきた仏教寺院の様子が意識されているようである。瓦を載せた竜宮造りの門の様子は、天平期の絵因果経に描かれている。そして、井戸は、仏教寺院の建立に伴い、飲料水や風呂など、生活用水の必要から数多く掘られるようになったという*6。多数の僧侶が伽藍のなかで集団生活を送ることは、いわば都市生活の先駆的形態といえる。
水を汲もうとした従婢などは、井戸の底に光や姿が映っているのを見て、人のいることに気づく。紀一書第一一云に、「玉瓶を以て水を汲む。終に満つること能はず」、一書第二に、「驚きて鋺を墜しつ。鋺既に破砕けぬ」、一書第四に、「人影の水底に在るを見て、酌み取ること得ず」とあって、水を汲むのに難渋している様子が描かれている。そして、火遠理命を「麗しき人」、「一(ひとり)の希客者(めづらしきひと)」、「一の貴客(よきまらうと)」、「一(ひとはしら)の麗(かほよ)き神」、「一人(ひとりのひと)の、……顔色(かほ)甚だ美(よ)く、容貌(かたち)且(また)閑(みや)びたり。殆(ほとほど)に常之人(ただひと)に非ず」、「一の客(まらうと)有り。弥復遠(おほく)勝(まさ)りまつれり」という存在として発見する。さらに、海神の宮で、火遠理命はもてなしを受けていた。記に「美智(みち)の皮の畳八重を敷き、亦絁畳(きぬたたみ)八重を其の上に敷きて」、紀本文に「八重席薦(やへたたみ)」、一書第二に「八重席(やへだたみ)」、第三に「海驢(みち)の皮八重」、第四に「真床覆衾(まとこおふふすま)」とあり、その上に座らせてもらっている。また、記に、「百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物」、一書第三に、「饌百机(ももとりのつくえもの)」を準備して饗宴をしている。第一級の賓客として、実に丁重な接待を受けている。当時の人々にとって、大陸伝来の割れにくい甕、すなわち、須恵器*6*は重宝であり、また、井戸から汲み上げやすい新技術の車井戸は、それほどまでに高度な文明であった。
山幸彦が帰るとき、「一尋和邇(ひとひろわに)」に乗って帰っている。紀一書第四では、来たときも「一尋鰐魚(ひとひろわに)」であった。井戸で水を汲む話には、紀一書第二に「玉鋺」とある。鋺はかなまり、呉音ヲン、漢音ヱンである。甕(もたい)の意味なら石偏の碗であり、マリ、モヒと訓み、呉音、漢音ともにワンである。このワンを、ワニと訓み慣わそうとしたらしい。隠(オン)から鬼(おに)への例が知られる。また、海神の神から授かった呪詛においては、高田(あげた)に対して下田(くぼた)(洿田)、下田なら高田という対応、呪物においては、塩盈珠(しおみつたま)(潮満瓊(しおみちのたま))で水を出し、塩乾珠(しおふるたま)(潮涸瓊(しおひのたま))で水を引かせる仕掛けになっている。これは、車井戸の片方の甕が上がれば反対が下りていくイメージを膨らませたものと考えられ、実用新案特許である。
鰐が登場しているのは、鰐口からの連想であろう。鰐口は、中空の金属製の鉦のことで、仏閣のお堂の前に懸けられる。扁平な金属板が二枚合わさった形で、下側に両横へ大きく口を開けているのでその名がある。綱を振ってぶつけるようにして鳴らす。金鼓(ごんく)ともいい、小さなもの、一枚のものは手で持ったり、僧が布教のときに首にかけたりする。六波羅蜜寺の空也上人像に知られる。叩くのに撞木を用いるので、鰐のことは撞木鮫ではないかとする説も首肯がいく。敲鉦は、軍中の合図にも使われており、法螺貝や角笛の活躍する場面と同じである。寺院の鐘楼の大きな鐘も、吊るされた撞木でつく。どちらも吊るされていなければ鳴らないから、釣りの話の第四の展開であろう。吊るす部分を鉤(かぎ)といい、表面にいくつもつけられた突起を乳(ち)という。鰐口の綱のあたる部分を撞座といい、やはり乳のような突起がついている。山幸彦が剣を用いて作った鉤とは、この乳のことを暗示していたのかもしれない。
話では、約束どおり一日で送ったことから、腰に帯びていた紐付きの小刀をつけてやり、記に、「其の一尋和邇は、今に佐比持神(さひもちのかみ)と謂ふ」となる。鰐口に撞木をぶつけるために、紐がぶら下がっている。佐比持神は神武紀に、「鋤持神(さひもちのかみ)」と記される。おそらく、甕を鯛持神(たひもちのかみ)というのに準えているのであろう。古語で、ワニルとは、はにかむことをいう。埴土という赤い陶土を噛んでできる左右非対称のゆがんだ顔こそ、車井戸の動きをよく表している。滑車が懸かっている光景と、鰐口が堂前の桁に懸かっているのとは、高いところに円いものがぶら下がっていてよく似ている。
記に、火遠理命は、塩椎神や海神から「虚空津日高」と呼ばれている。紀一書第一には、「骨法(かたち)常(ただひと)に非ず。若し天(あめ)より降(くだ)れらば、天垢(あまのかほ)有るべし。地(つち)より来(のぼ)れらば、地垢(つちのかほ)有るべし。実(まこと)に是妙美(まぐは)し。虚空彦(そらつひこ)といふ者か」とある。車井戸の滑車の部分、轆轤は、天と地の中間にある。轆轤とは、回転運動をする機械の総称である。重い物に縄をかけ、それを引き寄せたり引っ張りあげたりする場合に、人力を有効に伝えて土木工事は進められる。運河開鑿の際などの石組みや、大型建築の際に巨木を立てたり持ち上げたりするとき活躍した。また、陶芸の轆轤は、盤上に陶土をのせて回転させながら成形する陶車をいい、木地師は木材を回転させながら轆轤で削り抉って椀や盆の形を作る。正倉院文書や延喜式には、幡(はたほこ)を上げ下げするための轆轤や轆轤挽きした柄杓が見える。クレーン用の別名を、万力(まんりき)、神楽桟(かぐらさん)、車地(しやち)という。車井戸でもそう呼ばれたかもしれない。
車地のシャチは、幸に通じる。鯱*7は、マイルカ科の海獣で、体長は約九mにもなって力が強く、性質はきわめて獰猛にして貪食である。上下の顎に頑丈で、鋭い歯を持ち、体の背面は黒く、腹側は白く、目の後上方には白斑がある。白黒は轆轤に音がよく似ている。胸びれは大きく丸く張っており、雄の背びれは長く直立している。その背びれを水面から出して泳ぐところから、さかまたとも呼ばれる。魚やクジラ、アザラシ、サメまでも襲って食べる。シャチの襲撃にパニックになったクジラやマグロなどが浜に乗り上げることもある。これは、漁師にとってもっけの幸い、僥倖であったに違いない。それこそ、幸のもともとの意味であり、鯱は幸である。狩猟の幸運をもたらす霊力もシャチといい、猟師の間ではシャチ神を祀る信仰のあった地域もある。以上から、虚空津日高、虚空彦とは、轆轤の別名、車地に通じる白黒の鯱からイメージ展開された名なのであろう。
舞台は海神の宮である。門があって側に井戸があり、大木のカツラが生えている。相当なお屋敷で、古墳時代から飛鳥時代の当時としては、大神神社や飛鳥寺などの寺院、天皇家か蘇我氏程度の屋敷でしかありえない光景である。そして、魚鱗のようにとあるから瓦屋根であり、また、まるで海外の国のような想定がなされている。そんなところは、倭の国にあって聖徳太子のいた斑鳩宮のほかにあるまい。斑鳩宮は現在の法隆寺東院の地に営まれていたとされ、海外の賓客を受け入れ、大陸の最先端の文化を取り入れていた。斑鳩寺(法隆寺)のほうは、焼失前には若草伽藍と呼ばれる場所にあって、隣接していた。それを念頭に置きながら、海神の宮は構想されたのであろう。
寺院では、東大寺二月堂の閼伽井、唐招提寺の醍醐井、園城寺(三井寺)の御井など、湧泉から聖なる水を汲んでいた。特別な行事に当たって身を清めたり、毎日のお勤めとして本尊に供える香水(こうずい)のためである。記には、「湯津香木」とあって、天若日子条の「湯津桂」とは異なる表記になっている。香木は、沈香など、外来のにおいのよい木である。また、仏寺では便所の後に手洗い代わりで不浄を取り除くため、手をこする香りのよい木の棒をも香木と言っていた。ほかに香の字は、香火、香花、香台、香炉など、仏教関係のことばに多く見られる。
ただし、海神の宮の「井」は、湧き水ではなく掘り井戸である。記に、火遠理命が「海辺」で泣きうれいていたのは、井戸端の意味であろう。塩椎神が押し流してからしばらく行くと、「味(うま)し御路(みち)」があってその道に従って行くと、魚鱗のように造った宮室があるという。これは、掘り井戸が周りから崩れてこないように支える井戸枠のことを指しているのであろう。井戸に入っていったら井戸のある別世界へ出たというのだから、話が入れ籠構造になっている。磚(せん)(甎)によって枠が組まれた井戸は、斑鳩町の法輪寺旧境内に現存するものと、奈良市の大安寺旧境内から発掘された二基確認されている*8。磚は瓦とともに焼かれた敷き瓦である。須弥壇の横面に嵌め込まれたものも残る。寺の境内に存する所以である。本説話の前半にあった甕との繋がりは、当時の登り窯と瓦窯、陶工と瓦博士の技術連携を窺わせるものがある。
法輪寺のものは、聖徳太子の開鑿と伝わる三井である。聖徳太子伝に、「聖徳太子、此処に三井を掘り給ひ、山背大兄・由義王子・三島王女御誕生の時、産湯を汲み給ひ、東井・前栽・赤染三井、此の地に写し給ふ」とある。これは、聖徳太子が元いた上宮の隣の橘寺にあった、春井・千歳(載)井・赤染井のセットを、斑鳩宮の隣の斑鳩寺に引き写したものであろうと考えられている。そして、赤染井の呼称は、閼伽井との関係とともに、茜を使う染色にふさわしい水を供給したのではないかと推測されている。すなわち、寺院の掘り井戸利用の理由として、さまざまな荘厳具や写経用紙の染色に必要とされたのではないか。染色の技術は、冠位十二階の冠の彩、天寿国繍帳にも表れているように、飛鳥時代に急速に発展し、芸術的なレベルに達した工芸であった*9。
染物には、藍甕に見られるように、大きくて浸透しない容器が必要とされる。土師器まではどうしても水が滲みていってしまう欠点があり、須恵器の登場は染色技術にとって画期となったのであろう。数百リットルが入る大甕は到底運ぶことはできず、「据ゑ」て使われたから、和名抄に、陶は「すゑうつわもの」とある。その須恵器を作る際の成形は、ただ向きを換えるための回転台としての利用の要素も多かったとはいえ、必ず轆轤を用いた。須恵器は土師器のように赤くはなく、白黒なものである。つまり、井戸であれ、甕であれ、轆轤があるから美しい染色が可能になった。白黒から多彩な色、とりわけきれいな赤色が染め上がるのは、種も仕掛けも轆轤というシャチのおかげということになる。
木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)(木花開耶姫)の出産譚では、子の数に異同があって煩雑になっている。兄が埴輪、弟が須恵器、ほかに土師器などがいるということかもしれない。いずれにせよ、海幸・山幸の話では、二人の兄弟間の争いになっている。弟に屈服する兄は、記では、火照命であり、「隼人(はやと)の阿多君(あたのきみ)が祖(おや)ぞ」と注されている。紀では、火闌降命(火酢芹命)であり、第九段本文に、「隼人(はやひと)等(ら)が始祖(はじめのおや)なり」、第十段本文に、「吾田君小橋(あたのきみをばし)等が本祖(とほつおや)なり」、同一書第二に、「火酢芹命の苗裔(のち)、諸の隼人(はやひと)等(たち)、今に至るまでに天皇の宮墻(みかき)の傍(もと)を離れずして、代(よよ)に吠ゆる狗(いぬ)して奉事(つかへまつ)る者なり」と記されている。
延喜式によると、宮廷に仕える隼人は、元日即位の儀や践祚大嘗祭、外国使節の入城など、応天門のところに異様ないでたちで立ち、赤い装飾模様の独特な楯*10と槍を持ち、吠声を発することになっている。天皇の行幸に当たっても、同行して国の境界や曲がり角などで吠声を発する。もともと九州南部の海洋民であった隼人の発声は異国風で、倭の人々には独特なものに感じられており、邪霊の威嚇に効果があるとされていたためといわれている。欠員が生じたときには、畿内、あるいはそれに近江、丹波、紀伊を含めた地域から隼人を補充したとされる。
隼人という名義については、敏捷な人の意、地名に由来する名、囃し人のこと、吠えることを表す、中国の四神思想にまつわる命名などが挙げられている。このうち、四神思想の説は、周礼の鄭玄注に、朱雀を鳥隼(ちょうしゅん)に当てはめることに依拠しており*11、文字が音に先立つという点で奇異である。無文字社会からの脱皮過程で、ハヤヒト、ハヤトという音を「隼人」と記した。はじめにことばありきである。
隼人の 名に負(お)ふ夜声(よこゑ) いちしろく 吾が名は告(の)りつ 妻と恃(たの)ませ(万二四九七)
原文に「早人」とある。この歌からは、ハヤトという名にし負うのが大きな夜声であって、役にし負うのでないらしいとわかる。囃す人のこととする説は有力といえる。令集解・職員令に、隼人の名は吠声によるとある。
助詞のハヤは、感動したり、嘆いたり、愛惜したりするときに、歌謡などの口に出したことばの場合に用いられる。雄略紀十二年十月条に、冤罪の大工が処刑されそうになったとき、職人を統括する秦酒公(はだのさけのきみ)が琴を弾いてその命を惜しむことばに、「……いひし工匠(たくみ)はや あたら工匠はや」とある。景行記には、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征からの帰路、足柄の坂を登ったところで三度溜め息をつき、「阿豆麻波夜(あづまはや)」と仰ったとある。それでその国をアヅマということになっている。感極まっているとことばにならず、何を言っているのかよくわからないことも生じる。崇神紀十年九月条に、少女(童女)が歌を歌って、「御間城入彦(みまきいりびこ)はや」と言っている。何を言っているか問いただすと、言っているのではない、ただ歌っているだけだと応えて姿が見えなくなった。允恭紀四十二年十一月条に、朝貢した新羅人が畝傍山と耳成山を賛嘆したのが訛って、「宇泥灯b椰(うねめはや)、弥弥巴椰(みみはや)」と発音している。朝廷側は、采女(うねめ)と姦通したのではないかとあらぬ疑いをかけている。外国語とは、意味のわからないことばの最たるものである。つまり、九州南部出身者の方言は、ほとんど外国語ほどにわからなかった。
隼人については、履中即位前紀に、「近習(ちかくつかへまつる)隼人(はやひと)」とある。また、清寧紀元年十月条に、先の雄略天皇を陵墓に葬る記事がある。「時に隼人(はやひと)、昼に夜に陵(みさざき)の側(ほとり)に哀号(おら)ぶ。食(くらひもの)を与(たま)へども喫(くら)はず、七日にして死ぬ。有司(つかさ)、墓を陵の北(きたのかた)に造りて、礼(ことわり)を以て葬(かく)す」とある。すなわち、九州南部出身者が、絶対服従の使用人として主君の側近くに仕え、身辺の雑用というルーチンワークをこなし、主君が死ぬと殉死した。主人の側にいて言うことを聞くのは犬である*12。犬は人に向かって盛んに大きな声を発しているが、言っていることばはわからない。中国では犬を犠牲に捧げる風習があり、殷代には墓に犬を葬るのは諸神にその場所を修祓するため、門の傍にするのは門を守護する意味で行われていた*13。
殉死の風習を嫌って埴輪を置くようになったとの言い伝えは、垂仁紀にある。二十八年十一月条に、「倭彦命(やまとひこのみこと)を身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬(はぶ)りまつる。是に、近習者(ちかくつかへまつりしひと)を集(つど)へて、悉(ことごとく)に生(い)けながらにして陵の域(めぐり)に埋(うづ)み立つ。日を数(へ)て死なずして、昼に夜に泣(いさ)ち吟(のどよ)ふ。遂に死(まか)りて爛(く)ち臰(くさ)りぬ。犬・烏聚(あつま)り噉(は)む」とあり、天皇は泣きうめく声を聞いて心を痛め、生前に寵愛を受けたからといって死後に殉死させる風習を改めるよう議論させた。解決策は、三十二年に皇后が亡くなったのを受けて、野見宿禰(のみのすくね)が進言する形で提示される。すなわち、「土部(はじべ)」を出雲から呼び寄せ、埴土で人や馬やその他いろいろの物の形に作って埴輪を焼き、陵墓に立てて殉死の代わりとしたという。ただし、実際に古墳から殉死者が発掘されることはほとんどないため、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰を称える話ではないかとされている。主君への後追い自殺の例は、垂仁紀九十九年明年三月条に、常世国より帰還した田道間守(たぢまもり)がいる。帰ってきたら天皇は薨去した後だったため、「天皇の陵に向(まゐ)りて、叫(おら)び哭きて自ら死(まか)れり」とある。阿鼻叫喚して訳がわからなくなってしまったようである。
木花之佐久夜毘売の出産に際して、記に、「戸無き八尋殿(やひろどの)」、紀に、「無戸室(うつむろ)」なる窖窯で焼かれて生まれた子として最後に出てきたのは、火遠理命、すなわち、須恵器の甕であった。その兄の海幸に当たる火照命(火闌降命・火酢芹命)は、殉死していた犬のような近習の隼人の始祖であるから、埴輪を表しているものといえる。垂仁紀三十二年条には、「是の土物(はに)を号けて埴輪(はにわ)と謂ふ。亦は立物(たてもの)と名(い)ふ」とある。わざわざタテモノと断っているのは、隼人の持ち物の楯とのつながりからであろう。令制では都城や天皇の警護役を担当することになっている*15。そして、犬のような吠声を立てる。呪詛のことばや霊力のある塩盈珠・塩乾珠の力によって、兄が溺れさせられたとあるのも、埴輪は古墳に擬制の犠牲として埋められていることの謂いであろう。紀一書第四に、「是に、兄(このかみ)、著犢鼻(たふさき)して、赭(そほに)を以て掌(たなうら)に塗り、面(おもて)に塗りて……」とあり、埴輪の顔にベンガラを塗っていた様子が偲ばれる。人物や動物をかたどった埴輪は、五世紀半ばに出現し、古墳の内堤に埋められている*16。作り方は粘土紐や板状にした粘土を積み上げて、割り板や箆など木の道具で成形した。これは縄文土器、弥生土器以来の伝統を引き継いだ土師器と同様で、轆轤を用いることはなかった。
ここで「犢鼻(たふさき)」とは、犢鼻褌(たふさぎ)のことで、相撲のまわしになる。天武紀十一年七月条に、「大隅(おほすみ)の隼人(はやひと)と阿多(あた)の隼人と、朝廷(みかど)に相撲(すまひと)る。大隅隼人勝つ」、持統九年五月条に、「隼人の相撲(すまひ)を西の槻(つき)の下(もと)に観(みそこなは)す」とある。野見宿禰に関係するからでもあり、護衛、警護の役割を担う「拒(すま)ひ」だから相撲をさせているのであろう。熊襲の人たちは身長が比較的に低かったらしく、今日の大相撲はもとより、当麻蹶速(たぎまのくえはや)と野見宿禰の力比べのような様相はなかったと推測される。当時の犬の体高は四、五十p程度とされている*17。
海幸・山幸の話は、ストーリーとして見れば、兄に責められた弟が、海神の助けを借りてやがて兄を屈服させたという話である。導き手としては、塩土翁という知恵者の老人が活躍する。同じ展開の話は、応神天皇とその異母兄弟、香坂王(かごさかのみこ)(麛坂王)・忍熊王(おしくまのみこ)の争いにも見られる。新羅を討った神功皇后の助けを借りて天下を平定する場面では、長い期間にわたり朝廷を輔佐したとされる長老、武内宿禰(たけうちのすくね)が将軍となって輔佐する。また、応神記には、兄の秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)と、弟の春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)とが伊豆志袁登売(いずしおとめ)をめぐって競い合う物語があり、母の入れ知恵にしたがって弟が勝利し、兄に言うことを聞かせて収拾がついた。これらの話は、同じような事柄をいろいろに表現したものではないだろうか。それほどに五世紀の技術革新は革命的であり、人心はアノミー的であったのであろう。記紀の逸話は、大陸伝来の圧倒的な文化を受け入れるにあたっての精神的なストレスを、知恵によって納得いく結末へと導く物語を構成しつつ、なぞなぞというメタレベルでも物語って納得するという入れ籠構造の作品に仕上がっている。現代から見返してみるならば、記紀の説話とは、五世紀の技術革新という複雑で多岐に及ぶ事柄を、当時の知恵の粋を尽くして巧みに編み込みながら立体的に織り上げたテクスチャーであり、第一級の世界記憶遺産といってよいであろう。

*1 内田律雄『古代日本海の漁撈民(ものが語る歴史シリーズP)』同成社、二〇〇九年。
*2 白川静『字訓』平凡社、一九八七年。
*3 北大路魯山人『魯山人著作集』(平野雅章編、五月書房、昭和五十五年)に、山椒魚の料理法を紹介している。はらわたを取り除き、肉を一p片に切り、薬味を加えて時間をかけて煮る。ゼラチン質が多く、翌日になって冷めるとかえって肉が柔らかいという。
*4 鐘方正樹『井戸の考古学(ものが語る歴史シリーズ8)』同成社、二〇〇三年。
*5 秋田裕毅著・大橋信弥編『井戸;ものと人間の文化史150』法政大学出版局、二〇一〇年。カミマツリに必要な聖なる水を得るために作られていた井戸も、都市的な集住がはじまると生活用水の実需から掘られるようになったと考えられている。特に、僧侶はきれい好きである。天平十九年の法隆寺伽藍縁起并流記資材帳に、「温室壱口 長七丈八尺 広三丈三尺」とあるなど、何か風呂らしきものがある。また、大宝令の注釈のこととして、令集解の職員令主水司に、「宮内礼仏の時、僧等手を洗ふ湯は、当司設く。若し僧の数多く、湯を造るに堪えざるは、仍ち主殿寮に請ふ」とある。
*6 拙稿「木花之佐久夜毘売」参照。神名の名義は練られたものであるから、説話全体を検討した最後に考察されるべきであろう。
*7 頭部が虎のような想像上の海獣、鯱鉾(しやちほこ)が城郭などの大棟の両端に飾り瓦として据えられるのは中世以降のことである。古代から行われる鴟尾の変形で、中国で鴟吻が起こった影響かとされている。
*8 日色四郎『日本上代井の研究』日色四郎先生遺稿出版会、一九六七年。
*9 山本博『井戸の研究』綜芸舎、昭和四十五年。同じ染料を使いながらも濃淡を多様に染め上げ、しかも、それを再現する技術が求められていたら、染め汁を煮る際の温度管理、媒染剤のpHの塩梅などとともに、水質の安定も求められて優先的に井戸水が用いられていた可能性は高いといえる。吉岡幸雄「天然染料と染色」(国宝修理装潢師連盟編『日本美術品の保存修復と装潢技術 その参』クバプロ、平成十八年)によると、京都の西洞院通りや堀川通り付近に染屋が集中するのは、鉄分の少ない地下水が得られて、染め色が褐色がかることがなかったからであろうという。むろん、寺院に井戸のあることと、井戸水で染物が行われたかとすることによって、直ちに寺院井戸で染物が始められたことにはつながらないが、正倉院文書には、造東大寺司の写経所のものとして、経巻関係品の製作にまつわる染色作業として臈纈染めが行われていたことが見える。斎宮忌詞でも、仏典は黄や紺に染めた紙に書写されていたところから「染紙(そめかみ)」と呼んでいた。当麻曼荼羅縁起の上巻第三段に、「はじめて井をほるに、みづ湛々として、なみ溶々たり。いとをひたしてそむるに、そのいろ五色をそめいだせり」とあり、繊維の染色に当たってわざわざ井戸を掘っていたらしい様子が描かれている。
*10 隼人の楯は、平城宮跡の南西隅近くの井戸から出土している。延喜式に、「枚別長さ五尺、広さ一尺八寸、厚さ一寸、頭に馬髪を編著し、赤白土墨を以て鈎形を画く」とあるとおり、中央に逆S字文、上下に鋸歯文のデザインであった。井戸の側板(井戸枠)に海幸・山幸ゆかりの鈎(鉤)をかたどった隼人の楯が用いられており、奈良時代になっても言い伝えの影響力は強かったらしい。
*11 中村明蔵『隼人の古代史』平凡社(平凡社新書)、二〇〇一年。
*12 コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』小原秀雄訳、早川書房、二〇〇九年(初出は至誠堂、一九六六年)、イーフー・トゥアン『愛と支配の博物誌』片岡しのぶ・金利光訳、工作舎、一九八八年。人が動物を愛玩物(ペット)にしていく性(さが)を理解しなければ、古代の隼人について理解することはできない。
*13 白川静『白川静著作集4;甲骨文と殷史』平凡社、二〇〇〇年。中国では近習の奴隷、犬とともに異民族を俘虜伐殺して供犠し、殉葬されていた。
*14 殉葬はあったとする説もあり、魏志倭人伝に、「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」とある。また、馬を殉葬した土壙が発掘され、その近くから空の土壙があるのは、人骨が腐敗してしまったからではないかとも指摘されている(松井章『環境考古学への招待』岩波書店(岩波新書)、二〇〇五年)。また、殉死か殉殺かという違いもある。説話として重要なのは、殉葬にあたって、当該の人のことばがわけがわからなくなるかどうかであろう。
*15 敏達天皇の殯宮(もがりのみや)の警護に当たっているところに、敏達紀では「隼人」、用明紀では「兵衛(つはものとねり)」とある。殉死するような側用人の様相はなく、職員令・隼人司に定められているような官人的性格が示されている。大同三年、改組されていったん衛門府に統合され、すぐに復置して兵部省のもとに移管されている。
*16 人物・動物埴輪群像については、何を表すものか議論されてきた。首長権継承儀礼説、殯説、生前顕彰説、神祭り説、供養・墓前祭説、他界王宮説、神仙世界説、来世の近習説、葬列説、それらの複合説である。海幸・山幸の説話が、埴輪と須恵器をめぐる物語とするなら、五世紀半ばに家形や水鳥形が廃れて人物形や動物形に転換したことと密接に関係すると見られる。須恵器が貯蔵ないし祭器の目的で、古墳の石室に副葬されていたことや、染めと塗りの対比も考え合わさなければならないであろう。
*17 西本豊弘「イヌと日本人」同編『人と動物の日本史1;動物の考古学』吉川弘文館、二〇〇八年。 
 
倭人伝

 

志賀島金印「委奴」の読み方
志賀島から出土した「漢委奴国王」の金印の読み方は「委」を「倭」の略字だとして「漢のワのナの国王」と読むか、あるいは「漢のイト(伊都)国王」とするのが大勢のようです。
「委奴」は小国の名ではありません。倭人伝に奴国とか伊都国という国名があるので、それとの結びつきを連想してしまうが、奴や伊都というのは一地方、それも小さな地方の国の名です。
中国が朝貢国に対して「国王」の称号を与えるのは一つの民族の統率者、あるいはこれに近いものと認めた場合です。奴や伊都という一地方の統率者に「国王」の印を与えることはありません。
したがって「漢委奴国王」の「委奴」(あるいは「倭奴」)はあるひとつの民族を指す語だということになります。この「委奴」について推理してみます。
国名は中国が決めた
「委奴」というのは倭人が名乗った名ではなく、「匈奴」と同じように中国が周辺民族を呼ぶときの名だと考えています。
中国は印に刻む都合もあったのか、朝貢国の名をそのまま漢字にするのではなく、その国名・民族名の一部を音訳した中国名を用います。アメリカ→亜米利加→米 と同じです。
したがって金印に刻まれたのはあくまで中国が「委奴」と略して呼んだ民族の名です。この時代に倭人たちが自分たちを「倭族」としての統一的な名称を名乗ることもなかったでしょう。
「委奴」と「匈奴」
「委奴」の「委」という文字は稲の穂が垂れ下がる柔らかな姿を象ったとされ、おとなしいとか従順を示す語で、日本人にふさわしいとする論があります。「委」は「匈」の反対語で、西の「匈奴」に対して東の「委奴」とされたという見方です。
「委面」
「委」についてはもうひとつの見方ができます。『漢書』地理誌燕地条に【楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来たり献見すという】という有名な記事がありますが、この記事には三条の注があります。
1【如淳曰く、墨の如く委面す。帯方の東南万里に在りと】(如淳は魏の人)
2【臣贊曰く、倭は是れ国名、墨を用いてするを謂わず、故(もと)これを委と謂うなりと】(贊は西晋の人)
3【師古曰く、如淳云う、墨の如く委面すと、蓋し委字に音するのみ 以下略】(顔師古は五八一〜六四五年の人)
「委」は「威」だった
『漢書』の注は、「倭」は古くは「委」で、さらにその「委」は「委面」からきたといいます。加えて【委字に音するのみ】といいますから、「委」が字本来の「すなお」という意味でなく、単に音を借りただけというのです。では「委」とされる前の字はどのような字で、どのような意味なのでしょうか。
わたしは「委」の元の字は「威」だと推定しています。「委」と「威」の音は〔wei〕で共通します。
「威」はいかめしい、おどすといった、「委」とは逆の意を持つ語です。諸橋漢和辞典によると【意符は女で、戌(転音イ)は、おどす意を表す。(威の)原義は、一家の権力を握っている女、しゅうとめを表し、畏(イ)と通じて、おどす意に用いる】とあります。
この義にしたがえば【墨の如く委面す】というのは顔面に施された濃い入れ墨が人をおどかすことで、「委面」は「威面」のことだと推定されるのです。
倭人伝に【男子は大小となく、皆黥面文身す】とありますから、倭人は身体だけでなく顔にも入れ墨をしてことが知られます。倭人伝では【後やや以て飾りとなす】としますが、永初のころにはまだ大魚(鮫だろう)などの害を避ける実用で、もっとどぎついものだったのかもしれません。
この顔の入れ墨から倭人は「威面」あるいは「威面奴」と呼ばれていたのです。
金印を下賜した光武帝のころには、まだ「威奴」「威面奴」と呼ばれていたと推定されます。帝が金印を作らせるとき、「威面」では東夷の名としては立派すぎてふさわしくないということで、卑字を用いるのと同じ考え方から、音は同じで意味としては反対になる「委」を用いて「委面」としたのではないでしょうか。
このように倭人は従順だから「委」とされたのでなく「委面」=「威面」、顔にこわい入れ墨をしている民ということから付けられた名なのです。
のち「委」が「倭」とされるようになったことから「委面」が「倭面」「倭面土国」(『翰苑』『通典』、土は奴に通じる)などと書かれるようになったのです。したがって「倭面土」を「ヤマト」と読むことはあり得ないのです。
「漢のイドの国王」
したがって金印は「漢の委奴(イド)の国王」と読むのが正しいのです。
伊都は「委奴」から付けられた
「伊都」という国名ですが、この名を金印の時代から名乗っていたか疑問に思っています。
倭人伝に記された国の名は、ヌ(野)、シマ(島)、ヤマト(山門)、オカ(岡)といった縄文以来と思われる地形語が多い中でイトは例外です。
元々は「シマ」に対して「ヤマ(山)」とでもいっていたのが「漢委奴国王」の印綬をもらったので、その「ヤマ」を「イト」に改称したのではないかと考えています。定説とは逆の考え方です。
「狗奴」は「クド」
「狗奴」も匈奴(キョウド)・委奴(イド)と同じように考えるとわかりやすいと思います。
「狗奴」は「クマ」を音写したとされますが、中国の名前の作り方からすると「クマ」の一字「ク」をとって「狗」とし、それに匈奴・委奴と同じように「奴」を付けて「狗奴」、日本式に読むなら「クド」としたと考えています。 
倭人伝の距離は「ピタゴラスの定理」でつくられた
倭人伝の距離は実距離ではない
距離に関する説は二つに大別できる
1 郡使の出張報告に基づく実際の距離だとする説
2 陰陽五行説などに基づいてつくられた観念上の距離だとする説
わたしは「つくられたもの」と考えています。
「つくられた距離」だとする理由
国の地形が方形とされ、実際の地形は考慮されていない。
1 対馬国=方400里、壱岐国=方300里とありますが、対馬島は南北70キロ。巾16キロ、4:1の細長い地形です。
2 対馬島と壱岐島の大きさの比率も実際は4:1です。
「里」の長さが統一されていない。
1 末盧国は唐津市、伊都国は前原市、奴国は春日市に比定されます。
2 唐津市〜前原市は25キロ、と前原市〜春日市は30キロです。
3 末盧国〜伊都国500里一里=50b、、伊都国〜奴国100里、一里=300bの説明ができません。
4 伊都国は郡使が滞在したところです。その両隣の距離測定に6倍もの大きな差が出るはずはありません。
韓国は南北400キロで方4千里だから一里=100b。
1 壱岐国は一辺16キロの方形を方300里だから一里=53b。
2 壱岐国〜末盧国の千里は50〜60キロなので一里=50〜60b。
「短里」という尺度が存在したのであれば呼称を変えるはず。
同じ「里」という呼称を用いて異なる長さを表すことはあり得ません。
「短里」が東夷あるいは倭で用いられた尺度単位だとする説もあります。
自国文化に誇りを持つ中国官人が公式記録の中で東夷の単位を用いることもあり得ません。
「1万2千余里」は実際の距離とは考えられません。「遠い距離」を表現する虚数だと考えます。
1 『魏志』東夷伝の「鮮卑伝」の記事につぎのようにあります。
・【檀石槐は、元の凶奴の土地をまるまる我がものとし、東西1万2千里、南北は7千里にわたって、手中に収めた】
2 『漢書』西域伝の記事です。
・大宛国。長安を去ること1万2千5百50里
・烏弋山離国。長安を去ること1万2千200里
・安息国。長安を去ること1万1千600里
・大月氏国。長安を去ること1万1千600里
・康居国。長安を去ること1万2千300里
距離の組み合わせが3:4:5となること。このような数字はつくられていることが多い(詳細後述)。
「距離」はどのようにつくられたのか
陰陽五行説による創作ではない
松本清張氏は、「1万2千余里」は単に朝貢する外国との「遠い距離」を表現する虚数だとしています。
そのほかの倭人伝にある距離も陳寿が陰陽五行説によって机上で創作した虚妄の数字だとしています。
1 そのような距離ならば、なぜつくってまで記載したのかという説明が必要です。
2 陰陽五行説は数字をつくる手段に過ぎず、つくった目的ではありません。
3 東夷伝全体に距離が記載され、倭国だけ距離がわからないので陰陽五行説によってつくったというのなら話の筋が通ります。しかし、 距離の書かれているのは倭人伝だけなのです。
倭人伝の距離問題は、なぜ倭人伝にだけ距離か書かれたのかも重要なのです。
新説:「ピタゴラスの定理」による創作説
陰陽五行説では3、5、7などの数字を使いますが、各数字を関連づけることはありません。
倭人伝の数字は3:4:5とセットでつくられています。下図をご覧ください。この3:4:5は陰陽五行説から出たものではありません。「ピタゴラスの定理」の3:4:5なのです。
下記の倭人伝行程図は、倭人伝の記載を基にわたしがつくりました。
陳寿もこのような地図をつくっていたと考えました。
1 【自郡至女王国万二千余里】の1万2千が3+4+5です。
2 1万2千里は狗邪韓国までの7千里と倭の5千里となります。
3 7千里は3千里+4千里で、倭の周旋5千里につながり、3:4:5になります。
4 韓国の方4千里、倭地の周旋5千里、大海の3千里の組み合わせは3:4:5です。韓伝には方4千里以外距離は記載されません。郡から倭に行く道が韓国を通るので、方4千里を作ったのです。
5 壱岐国の方300里、対馬国の方400里とありますが、方500里が見当たりません。方500里は末盧国・伊都国・奴国・不弥国の4ヵ国をまとめて一つの範囲として陳寿がつくりました。
6 2で述べたように狗邪韓国までの七千里は3+4ですが、韓の方4千里はこの7千里からつくられました。
7 千里を3:4に分け3千里は直線の道、4千里は碁盤目のジグザグ道とし、それぞれを対角線とする方形をつくります。
ピタゴラスの定理で計算すれば、前者が方2千100里、後者が方2千里となります。この二つを合わせた4千100里を韓の方四千里としたのです(詳細後述)。
陳寿とピタゴラスの定理
「ピタゴラスの定理」は中国最古の数学書『九章算術』に載っています。陳寿は三世紀後半の人ですから「定理」を習得していてもおかしくありません。
『九章算術』は周から前漢時代に解かれた数学問題を紀元前二世紀から後一世紀ころに集成した書です。
その第九章に勾股術として「ピタゴラスの定理」に関する問答が20ほど載っています。
・今有勾三尺、股四尺、問為弦幾何。答曰五尺】(問:短辺3メートル、長辺4メートルなら、斜辺は?答:5メートル)
・【勾股各自乗、并、而開方除之、即弦】(短辺と長辺の自乗の和は斜辺の自乗に等しい) (勾=鉤は直角三角形の短辺、股は長辺、弦は斜辺)
倭人伝の距離にピタゴラスの定理を知らなければつくり出せない数字を用いていることなどから、『九章算術』にある鉤股術をマスターしていたことは疑いありません。
3:4:5の詳細説明
倭の周旋5千里
『後漢書』は邪馬台国までの距離を1万2千里と記しますが、女王国が最遠とはしていません。倭人伝は邪馬台国を女王国の南界として周旋5千里としています。5千里という数字がほしかったのです。
また倭の5千里を海路3千里と陸路2千里としたのも韓の地と倭の地の間に大海3千里をつくりたかったのです。
そして倭の周旋5千里と大海3千里に韓の方4千里を組み合わせて3:4:5をつくりました。
韓の方4千里は狗邪韓国までの7千里から
韓伝には方4千里以外距離は記載されません。郡から倭に行く道が韓国を通るので、方4千里を作ったのです。
倭人伝は帯方郡から狗邪韓国までの道のりを7千里とします。これは韓国の西と南の海岸を航行する距離だというのが定説になっていますが、韓国は方4千里です。4千里の二辺を行けば8千里になります。
陳寿は郡からみた倭国の位置は「東南大海中」としていますから、韓国方4千里の対角線を進むコースを考えたのです。
郡から狗邪韓国までは7千里は、方4千里の対角線を歩く距離だとすることを考えました。
方4千里の対角線は5千700里です。すべて階段状なら8千里になってしまいます。
そこで、階段状の道と直線の道を組み合わせて、方4千里の対角線が7千里になるようにしました。
7千里のうち4千里は碁盤目を行くジグザグ道としました。一辺2千里の方形です。
残り3千里は直線的な道としました。方形は一辺2千100里の方形です。
この二つを足した4千100里を方4千里としたのです。7千里が「陸行」になることに注目して下さい。
陳寿は狗邪韓国への行程を【歴韓国乍南乍東】と書いています。通常「乍〜乍〜」という表現は、上下・左右・東西・緩急・晴雨など反対の語を組み合わせて使います。南と東を組み合わせることはありません。
陳寿が普通では使わない東と南を組み合わせたのは、東南に向かってジグザグに進む有様を表現するためです。
末盧国〜不弥国の7百里も「定理」から
末盧国〜伊都国が500里、伊都国〜奴国は100里、奴国〜不弥国が100里、合計700里ですが、この700里は東南に延びていますから、南北を向く正方形の対角線になります。対角線が700里になる正方形は一辺が500里です。このように方500里は隠されているのです。(付図参照)
この4ヵ国、方500里と壱岐国の方300里、対馬国の方400里と合わせて3:4:5になります。
末盧国(唐津市)〜伊都国(前原市)は25キロ、伊都国から奴国(春日市)は30キロです。
なぜ末盧国〜伊都国を500里としているのに、距離の長い伊都国から奴国を100里とするのか、すべて方500里をつくり出すためにつくりだすためのことで、実際の距離とは関係ありません。
700里の計算でわかるように、距離は累積されています。榎一雄氏のいう放射状ではありません。
また、末盧国から伊都国への方向「東南」について論議がありますが、末盧国から伊都国へはこの対角線を行くのだから「東南」になるのです。この方角は観念上のことで、末盧の海岸で日の出を見て決めた方角ではないのです。
末盧国から伊都国へ「陸行」するとなっていますが、これも前掲のような地図の上でのことだと思います。実際は伊都国まで「水行」していたのでしょう。
不弥国〜邪馬台国は√2千里
不弥国まで1万700里になるから、残りは1千300余里というこになりますが、それでは面白くありません。
陳寿は全体の「1万2千余里」の「余里」を生かして、√2=1414里をイメージしていたのではないでしょうか。
投馬国について
「水行二十日」とあるので投馬国は邪馬台国から遠く離れているとされますが、倭人伝の行程は道順に記されています。
この順によれば、不弥国の次が投馬国で、その次が邪馬台国です。
地名を頼りにすると、妻郡とか三潴付近が有力ということになります。
その推理を推し進めていけば、邪馬台国は山門郡ということになりますが、どうでしょうか。
この問題は「水行十日」でとりあげます。
倭人伝にだけ距離が書かれた理由
陳寿が3:4:5にこだわるのは、かれが『九章算術』を読んで【今有勾三尺、股四尺、問為弦幾何?答五尺】の面白さによほど惹かれていたからでしょう。
かれは倭人伝の編纂に際して【其大倭王居邪馬台国、楽浪郡徼、去其国、万二千里、去其西北界狗邪韓国、七千余里】(『後漢書』)という、原史料に書かれた数字「万二千里」が3:4:5という『九章算術』にある数字を含んでいるのに気づき、これから執筆する倭人伝の中で鉤股術(ピタゴラスの定理)を使ってみようと思い立ったのです。
元々「1万2千里(距離不明)」とされ、知る人も少ない倭であれば、いくら数字を作っても問題は起きないと考えたのかもしれません。完成した倭人伝を見る限り、陳寿は数字つくりを存分に楽しんだようです。
『三国志』東夷伝に採り上げた数多い国の中で、なぜ倭人伝だけ細かい距離か書かれているか、どうやらその理由は陳寿の「鉤股術好き」にあるといえそうです。陳寿は歴史家であるだけでなく、算術も大好きな知識人だったのです。 
「水行十日、陸行一月」/ 倭人伝最大の謎
《自郡至女王国万二千余里》のうち、不弥国まで一万七百里進み、残り一千三百里あまりの所まできているのに、《南至投馬国水行二十日》《南至邪馬台国、女王之所都、水行十日陸行一月》という日程記事の矛盾が倭人伝最大の問題であることは異論のないところでしょう。
緻密な論考で知られる橋本増吉氏も、《水行十日、陸行一月》についてその著『邪馬台国論考』の中で《邪馬台国問題の難点は実にここに存する》として、サジを投げています。
この矛盾は「錯簡」によるというのがわたしの出した答えです。
* 錯簡とは広辞苑に《書籍の文字・文章・紙の順序が狂って誤りのあること》とあります。大昔の文書は紙でなく竹に書きましたから、その順番が狂うことは日常的に起きたのです。
* 現在遺されている『三国志』は木版ですが、木版本は同一版木に補修を加えながら何百年にもわたり使用する場合が多いので、やはり錯簡の起きることがあるといわれます。
*『山海経』現行本の海内諸経には錯簡が多く、倭の初見記事《倭は燕に属す》は、『海内北経』に書かれていますが、この記事は本来『海内東経』にあったものと推定されるという指摘があります。(『古代を考える 邪馬台国』平野邦雄編 27、28頁 吉川弘文館 1998年)
陳寿の文章は悪文か
橋本増吉氏はその著『邪馬台国論考』のなかで《(倭人伝の)記す所は少なくとも二種以上、恐らく数種の史料によって選録せしもので、而も、是等の史料をばただ無批判に雑然と並列せしに過ぎない為に、前後矛盾し、文意の一貫を欠いているという事実が確認せらるるのである》と、まるで倭人伝の著者陳寿の人格を無視するようなことを書いています。
橋本氏ばかりではありません。
水野祐氏もシンポジウム「謎の四世紀とその前後」における講演のなかで《中国の史料が非常に貴重なものとされているが、それがあまりに中途半端なのでかえって混乱が起きる。書くのならもっときちんと書いておいてくれれば問題がないわけです》といっています(『謎の四世紀』水野祐・北村文治編 毎日新聞社 昭和49年)。
また、上田正昭氏はカルチャーセンターの講義で《だいたい邪馬台国の場所でこんなに論争が起きる最大の責任は陳寿にあります。陳寿がもっと正確に書いておけば、おそらくこんな論争は起きなかったでしょう》といっています(『講学アジアのなかの日本古代史』朝日新聞社 1999年)。
大御所といわれる諸氏が同じような見解を示すのだから、邪馬台国論争の責任は陳寿にあるというのが学会の一致した見方なのでしょう。
しかし陳寿はそんなにでたらめでいい加減な人だったのでしょうか。
陳寿は『三国志』を完成させた当時、西晋朝の著作郎(歴史編纂官)という地位にありました。文章にうるさい中国の中でも文才を認められ中央官界に推挙された人物なのです。
夏侯湛というひとが『魏書』を書いてみたものの陳寿の書の出来映えを一見して、自分の書を焼き捨ててしまったというエピソードが伝えられるように、陳寿の『三国志』は文章、内容ともに優れたものだったのです。
少なくとも《史料をただ無批判に雑然と並列》したり、《前後矛盾し、文意が一貫しない》文章であれば「正史」として採用されることはなかったといえます。
そうはいっても現在伝わっている倭人伝の文章が矛盾に満ちているのは疑いない事実です。
陳寿が書いた当時のものが正史とされるにふさわしい出来映えであったとして、現在伝わるものが《前後矛盾し、文意が一貫しない》というのであれば、伝えられるうちに何らかの齟齬が発生し、変形したと考えざるを得ません。
わたしは、現在伝わる倭人伝の文章は陳寿が書いた当初のものでなく、後世におこなわれた印刷製版工程で起きた錯簡によると考え、元の姿に復元することを試みました。
行程(日程)に関する記事
倭人伝の日程、あるいは所在地に関係する記事で「矛盾」に関係する部分を抜粋しておきます。(行数は紹熙本による)
1 《南至投馬国水行二十日》       十七〜十八行目
2 《南至邪馬台国、水行十日陸行一月》  十八〜十九行目
3 《自女王国以北其戸数道里可得略載》  二十一行目
4 《其余傍国〜女王境界所尽》      二十二〜二十八行目
5 《其南有狗奴国》           二十八行目
6 《自郡至女王国万二千余里》      二十九〜三十行目
7 《計其道里当然在会稽東冶之東》    三十四〜三十五行目
8 《女王国東渡海千余里復有国皆倭種(中略)周旋五千余里》  七十〜七十四行目
誤りとみられる箇所と理由
文章の乱れ
文章6と7は前後の脈絡のないところに書かれており、文章の専門家が書いたものとは思えません。とくに文章7《計其道里当然在会稽東冶之東》は前後の脈絡がなく、文章としての体をなしていません。これはあきらかに錯簡が起きていることを示すものです。文章6、7とも内容は邪馬台国に関する事項ですから、本来文章2とまとめて記述されるべきものです。
このように行、あるいは文節の単位で乱れた状態になるのは筆写で起きる可能性は少ないでしょう。
主文の文章2が十九行目、文章6は二十九行目でちょうど十行の違いです。文章7は三十四行目で五行の違いですから、文章2、6、7は元々一箇所にまとまっていたものが後世の印刷製版(木版組み立て)など作業上のミス(錯簡)でこのように乱れたと推定されます。
文章上の疑問
文章2《南至邪馬台国、女王之所都、水行十日陸行一月》には三つの疑問があります。
〔疑問1〕 「里数」でなく「日数」であること。
行程の表記が「里数」でなく「日数」になっていますが、郡使が実際には行かなかったので、「里」を知らない倭人から聞いた日数を記したとする説があります。「ピタゴラス」で述べたように倭人伝の距離は実距離でなく、虚数「一万二千里」を3:4:5になるように「ピタゴラスの定理」を用いて陳寿がつくったものですから、不弥国から邪馬台国までの「里数」がわからないはずはありません。したがって《水行十日陸行一月》は「里数」の代わりに「日数」を書いたのではない、つまり不弥国から邪馬台国までの距離あるいは所要日数を示すものではないと推定されます。
《水行十日陸行一月》という所要日数は、それが不弥国から邪馬台国までのものでなければ、どこからどこまでの日数なのでしょうか。
〔疑問2〕 構文が他と異なること。
構文に関しても疑問があります。陳寿は《東南陸行五百里到伊都国、郡使往来常所駐》のように国名と旅程は続けて記載し、その後に「官」や「戸数」など情報を記しています。
・到其北岸狗邪韓国七千余里  三〜四行目
・(始度一海)千余里至対海国、〔官〕、〔土地の様子〕  四行目
・(又度一海)千余里名瀚海至一大国、〔官〕、〔土地の様子〕  七〜八行目
・(度一海)千余里至末盧国、〔土地の様子〕  十〜十一行目
・東南陸行五百里到伊都国、〔官〕、〔皆統属女王国〕、〔郡使往来常所駐〕 十二〜十三行目
・東南至奴国百里、〔官〕、〔戸数〕  十五行目
・東行至不弥国百里、〔官〕、〔戸数〕  十六行目
・南至投馬国水行二十日、〔官〕、〔戸数〕 十七〜十八行目
このように投馬国まではすべて同じ構文なのですが、最後の邪馬台国の記事だけ
・《南至邪馬台国、〔女王之所都〕、水行十日陸行一月、〔官〕、〔戸数〕》 十八〜十九行目
というように〔国名〕と旅程の間に〔情報〕が挟まり、他と異なる構文になっています。他の記事と同じ構文とするなら
・南至邪馬台国、水行十日陸行一月、〔女王之所都〕、〔官〕、〔戸数〕
となるはずですが、前述のように《水行十日陸行一月》は「里数」の代わりに書かれたのではないとすれば、
・南至邪馬台国、〔里数〕、〔女王之所都〕、水行十日陸行一月、〔女王之所都〕、〔官〕、〔戸数〕
となるはずで、そこから〔里数〕が省略されていることが構文の上から読み取れます。
ここで〔里数〕を省略するのは、行程の最後でもあり、簡単な計算でわかることであるから、文章としては重出を避けて形がよくなります。
〔疑問3〕《水行十日陸行一月》もかかる長期旅行中の説明がない。
三つ目は、文節の目的です。もし邪馬台国まで《水行十日陸行一月》かかるという旅程説明ならば、伊都国に到着するまでと同じくらい長い旅ですから、ここまでと同じように旅行中通過する国々の名や風景描写などが記されて当然なのに、何もありません。こうした記述がないのは、邪馬台国への旅は《水行十日陸行一月》もかかるものではなく、《水行十日陸行一月》は他の記事を説明する文節だと考えられるのです。
以上のことから《南至邪馬台国、女王之所都、水行十日陸行一月》の文章がわからないのは、《水行十日陸行一月》という文節が余分なものとして挿入されているか、あるいはこの文節が説明する相手の記事が抜けているか、つまり
・南至邪馬台国、〔女王之所都〕、〔官〕、〔戸数〕
あるいは
・南至邪馬台国、女王之所都、[???]、水行十日陸行一月、〔女王之所都〕、〔官〕、〔戸数〕
のいずれかだと推定されるのです。
投馬国に関する矛盾
文章1《南至投馬国水行二十日》とあることから投馬国は女王国から遠く離れて立地すると考えられています。しかし、下記の諸点からみて、飛び離れた立地とすることには疑問があります。
1 《女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠くへだたり、詳しく知ることができない》と倭人伝は記しています。投馬国には「官」「戸数」を記載していますから、邪馬台国の北にあって、「それ以外の辺傍の国」ではないことになります。
2 狗邪韓国に始まり、対馬国、壱岐国、そして上陸してから末盧国、伊都国、奴国、不弥国と、邪馬台国へ行く経路に当たる各国が順に記載されています。記載の順からみれば不弥国と邪馬台国の間に投馬国があることになります。陳寿が投馬国に関して「どこから」という出発地を書いてないのは、書く必要がないからと考えられるのです。
3 《其余傍国〜女王境界所尽(紹熙本22〜28行目)》という倭人伝の記載も「次有〜」「次有〜」となっていて、ひとつの地域にまとまって女王国の境界を形成していることを想定させまう。もし投馬国が女王国の境界の外にあるのならば、不弥国と邪馬台国の間に記載するのは文章構成上からみても誤りです。「女王境界所尽」の後に記載すべきですし、投馬国への出発地を記すのも当然です。そうなっていないのは、投馬国が境界内にあることを示していると推定されます。
4 もし投馬国が女王国の境界の外にあるのなら、邪馬台国まで「ピタゴラスの定理」を使って距離をつくっている陳寿が、万二千里に含まれない国を間に挟むことはないでしょう。
5 「水行二十日」も離れている投馬国が一国だけ女王国の同盟に加盟していることも疑わしいことです。
これらのことからみると、「水行二十日」の文節がこの箇所にあることが疑わしくなってきます。邪馬台国の記事に誤りがあることは前述しましたが、投馬国記事はその直前にあります。投馬国の《水行二十日》も邪馬台国記事と同様、錯簡によって本来とは異なるこの箇所に記載されたのではないでしょうか。
不弥国〜投馬国の道里が記載されていませんが、陳寿は「ピタゴラスの定理」による道里づくりにこだわり、不弥国〜邪馬台国の距離を√2千里とイメージして、距離は記載していません。
不弥国と邪馬台国の間にある投馬国までの距離を記載すれば、投馬国から邪馬台国にはその距離を差し引いた道里を記載しなければならないことになります。それでは√2のイメージが毀れてしまうので陳寿としては記載したくなかったのでしょう。間に投馬国が入ったとしてもあくまで不弥国〜邪馬台国の距離を√2千里としたかったのです。
編纂当時の文を「復元」する
上記の推理に基づいて編纂当時の文を「復元」してみますが「錯簡」による誤りの修正ですから文節の削除や新しい文節の付加はしません。おこなうのは文節の移動のみです。
【復元1】「邪馬台国」記事の修正1
まず文章上の疑問で述べた
・ 南至邪馬台国、女王之所都、[???]、水行十日陸行一月、〔女王之所都〕
の[???]として考えられるのが文章6《自郡至女王国万二千余里》です。この文節は邪馬台国の位置に関する情報ですから邪馬台国を紹介する箇所に書かれるべきものであり、「水行十日陸行一月」が修飾する相手としてはこれが最も適切だと思います。この文を二十九行目から抜き出し十九行目「水行十日陸行一月」の前に移動して、
・「南至邪馬台国、女王之所都、自郡至女王国万二千余里、水行十日陸行一月」
とします。
「郡から女王国までの一万二千余里を行くのに、水行十日陸行一月かかる」ということになり、旅程の案内としてごく普通の形になる。
「万二千余里」を行くのに「水行十日陸行一月」が妥当かという点ですが、ソウル付近から北九州まで約一千キロを四十日、一日二十五キロならば全体的にはおかしな数字ではないでしょう。
【復元2】「邪馬台国」記事の修正2
《計其道里当然在会稽東冶之東(三十四行目)》の《其道里》とあるのは「邪馬台国までの道里」ですから、原本では文章2に続いて記載されていたものと考え、《水行十日陸行一月》の後に移動してアの修正と合わせ、
・「南至邪馬台国、女王之所都、自郡至女王国万二千余里、水行十日陸行一月、計其道里当然在会稽東冶之東」
とすれば、文章の不自然さ、矛盾がなくなります。
【復元3】「投馬国」記事の修正
投馬国は不弥国と邪馬台国の間に記載されていることや戸数、官名などもあることからみて、その所在地は邪馬台国の北、不弥国との間だと推定されます。そうなると「水行二十日」が誤って挿入された可能性を考えなければなりません。
「水行二十日」が本来どこに記載されるべきかですが、その箇所は文章5《其南有狗奴国(二十八行目)》だと推定しています。「其南水行二十日有狗奴国」あるいは「其南有狗奴国水行二十日」とするのです。十八行目になるべき邪馬台国の《自郡至女王国万二千余里》が二十九行目に挿入され、逆に二十八行目に挿入すべき「水行二十日」が十八行目に挿入されるというミスが起きたと推定した修正です。
蛇足
復元はしてみたものの、修正箇所が日程記事に集中していることから疑問が出てきました。
こうした日程記事は元々陳寿が記したものだろうかという疑問です。つまり陳寿が書いた元の文章が乱されたのではなくて、後世の人がこれらの文節を追加しようとしたときに場所を誤ったのではないかと考えたのです。
・《南至投馬国水行二十日》         十七〜十八行目
・《南至邪馬台国水行十日陸行一月》 十八〜十九行目
・《自郡至女王国万二千余里》       二十九〜三十行目
・《計其道里当然在会稽東冶之東》     三十四〜三十五行目
「ピタゴラスの定理」で距離を作った陳寿にしてみれば、こうした文節はなくてもよい、というよりむしろない方が全体としてすっきりした文章になります。
《南至投馬国水行二十日》ですが不弥国から邪馬台国まで√2千里としたい陳寿が、不弥国から投馬国までの距離はわざわざ書かないでおいたのに、ここにだけ距離がなかったので後世の人が《水行二十日》としてしまったように思えます。
その《水行二十日》ですが、陳寿は《女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり》《また侏儒国あり、女王国を去る四千里》というように「里」を書くのが普通です。これは東夷伝を通じて同じです。《水行二十日》は「倭人からの聞き書きだから日数になった」のではなく、陳寿以外の人が書いたと考える方が納得できます。
《自郡至女王国万二千余里》なども書くとすれば『後漢書』のように冒頭に書くべきものですし、郡から狗邪韓国まで七千里、狗邪韓国から始まる倭の地が五千里とあるのですから、記事としては重複しています。
陳寿としては三:四:五を書きたいので、冒頭にはわざと書かなかったとも考えられます。まして万二千余里に「水行十日陸行一月」かかることなど、どうでもよいことですし、《計其道里当然在会稽東冶之東》にしてもとってつけたような説明文です。
これらの文節は倭人伝に道里があることから日数を付け加えようと後世の人が企てたもので、その際に錯簡が起きたのではないかと推定しています。
おわりに
倭人伝の距離に触れた以上、邪馬台国の位置について何らかの見解を述べなければと思いますが、これまで述べてきたようにこの距離は実際とは全く関係がなく、距離不明を意味する一万二千里、七千里を三:四:五になるようにつくったものですから、この距離から邪馬台国の位置を推定することは無意味だと考えています。
ただ、前述したように邪馬台国の北にある投馬国を妻郡、現在の筑後市、八女市あたりとして、邪馬台国を山門郡に比定するのは推理の流れだといえます。
伊都や奴という古地名が残っているのだからヤマト(山門郡)やツマ(妻郡、三潴)が残ったとしても不思議ではないでしょう。
でも、邪馬台国の具体的な場所に言及するのはわたしの領域を超えています。場所を特定する際に《水行二十日》《水行十日陸行一月》は無視すべきであることを明らかにするのがわたしの目的です。 
韓国内「水行」の非常識を正す
倭人伝の「道里」は「ピタゴラスの定理」によってつくられたという仮説をたててみました。
倭人伝に出てくるのは国の名だけで具体的地名を欠いていますからコースが特定できません。
「道里」がつくられたものだとしても、郡と倭国の間に往き来があったのは事実です。
だとすればそのコースはどうだったのか、やはり気になります。
ここではコース前半の郡から狗邪韓国まで、実際のコースを探求してみることにします。後半の狗邪韓国から末盧国については「邪馬台国」をご覧ください。
常識的なコースを考える
常識では考えられない「水行」
《倭人は帯方の東南大海の中に住む。郡から倭にゆくには、海岸にしたがって水行し、韓国をへて、あるいは南へあるいは東へ、その北岸の狗邪韓国にゆくのに七千余里。はじめて一海をわたること千余里で対馬国に着く》
『魏志』倭人伝の書き出しです。倭の位置と、帯方郡治から倭に至る道筋が簡潔に記述されています。
郡治の位置はソウル付近(開城)と黄海道鳳山郡付近の二説ありますが、いずれも韓国の西北ですからコースを考える上では問題にしないでよいでしょう。
郡を出た船は韓国の西海岸に沿って南下し、南西端を回り込んで東南端、つまり郡治から見て四角形の対角に当たる狗邪韓国(現在の釜山西方金海のあたりとされる)に至って、そこから倭の地に向けて大海を渡るというのが定説です。
邪馬台国論には非常識と思える説がいくつもありますが、その中でも韓国「水行」説は最悪のものと考えています。以下に述べるように「水行」しなければならない理由は何ひとつ見出せません。
1 陸上に道がないわけではありません。韓国は陸路が発達しやすい地形です。すでに一世紀のころ、弁韓の小国が楽浪郡に季節毎に詣っていたと弁辰伝にあるし、弁韓の鉄を郡に供給していたとされますから、郡と韓諸国との間には頻繁な往来があったのです。
2 また、半島のすみずみまで日用品を背負って歩く行商人褓負商(ボブサン)は三国時代には既に存在したといわれますから、細いながらも村から村をつなぐ道はつづいていただけでなく、宿泊などのインフラも当時からある程度整備されていたと考えられます。
3 陸路なら五百キロで済むところを海路は八百キロ以上とかなりの遠回りになります。陸路があるのに遠回りしてまで危険な「海行」を撰ぶのは理に反します。
4 まして郡の役人は「南船北馬」でいう「北馬」の人です。騎馬を好む人が、遠回りしてまで船をつかうでしょうか。それも川下りではなく、海です。
5 他国への使者は贈り物を損傷なく届けることが最大の責務です。陸より数倍危険の多い海はできるだけ避けるのが常識です。
6 韓国は郡が統治する国です。訪倭の旅であっても道すがら諸国との情報交換など仕事ができます。ただ海岸を通過するだけでは無駄になります。
合理的なルートを考える
大勢の人が繰り返しおこなう「交通」は合理的なものです。いうならばごく常識的なものです。そこで倭人伝から一旦離れ、魏王の代理として詔書と印綬を届けるという重要な使命を帯びた使者梯儁の立場になって、最も合理的と思われる路を考えてみます。
倭人伝当時の韓国内交通路の史料はありませんが、人の足でつくられた道は最短路を通り、労力も少なく、危険も少ないところを選ぶなど、非常に合理的にできています。現在の道もほとんどが古代の道と同じ所を通っています。
韓国の地形や現代の交通路、都市や港の所在地などから古代交通路を推定しても大きな誤りはないと思います。
ルート選びの基本的な考え
郡から倭国まで詔書と印綬という重要な品を届ける旅程を計画するに当たっての基本的な考え方を想定してみました。
1 魏王から託された詔書と印綬が女王卑弥呼以外の手に渡ることは絶対にあってはならないことです。失ったり盗賊に奪われるようなことがあれば、郡太守のクビが飛びます。安全の確保が第一条件です。
2 難破すれば全滅のおそれがある「水行」は極力避けることにします。陸路で行ける狗邪韓国までは韓国を「陸行」します。海路に比べ距離もはるかに短く、日数もかかりません。日数が短いことは安全に通じます。
3 陸路は漢江・南漢江に沿って上流に向かい、小白山脈の鳥嶺を越えて洛東江上流に出て、これを南下するか、あるいは、現在の京釜鉄道と同じ路を行く二つのルートがありますが、警備の点からみて平野部が続く京釜鉄道ルートの方が優れています。鳥嶺越えルートは山間部を通るので、警備に不安があります。
4 盗賊対策として、狗邪韓国までの警備は郡の兵を増強して対応することにします。陸行であれば人数に制約はありませんが、大部隊になれば各国に警戒心を抱かせることになるので、通過する各国に、国内通行中の警備兵を提供するよう要請します。
5 狗邪韓国から倭に行くには「水行」は不可避です。倭へ渡航する船と警備兵は倭に要請します。地理はいうに及ばず、天候判断、航海技術、どれをとっても倭人の方が優れているでしょう。
具体的な交通路
陸行のルートは郡治の所在地によって若干異なりますが、郡治の候補地はいずれもソウルの西北になり、韓国内の通行には条件が同じになるので、帯方郡の郡治はソウル付近(開城)と想定しておきます。
1 韓国内を陸行するには、郡治開城から船で礼成江を下り京畿湾を仁川付近まで「水行」し、その後は前述の京釜鉄道ルートをとるのが一般的とみられます。
2 開城から陸路で仁川方面に行くには、臨津江、漢江と続けざまに大河を渡らなければならないので、「水行」してこれを避ける意味がありますが、京畿湾は内海とはいっても海です。また、漢江河口付近は堆積土砂が浅瀬を成しており、加えてこの海域は潮の干満差が非常に大きいそうです。仁川付近で大潮の時は九bに達するといわれますが、このことは潮の流れが速いことを意味します。潮流がもっとも強いときには三ノット以上、場所によっては八ノットもある(海上保安庁水路誌)ので小型船の航行はかなり危険だとされます。
3 通常の使者なら、「水行」を採るのでしょうが、梯儁は魏王の詔書と倭国王印綬というかけがえのない品を預かるのですから「海」と途中で一泊する危険は無視できません。警備の兵が多くなれば、船の調達や小島での宿泊にも問題が出てきます。したがって梯儁の場合は海上「水行」しないで、臨津江、漢江を渡り、京釜鉄道ルートを採ったと推定しています。
以上見てきたように合理的あるいは常識的といえるのは「陸行」であることが明らかになりました。郡使も合理的な路を採っているはずです。
倭人伝を読み直す
定説が「水行」としているその理由はいうまでもなく「倭人伝にそう書いてある」からでしょう。しかし、本当にそう書いてあるのでしょうか。
倭人伝の書き出しは粗略
《従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里》
この記事は短いのですが多くの問題を提供しています。《循海岸水行》はどこまでか、《歴韓国乍南乍東》するのは海上か陸上か、そして《到る其北岸》とはどこの「北」岸か、さらには《狗邪韓国》は倭国なのか韓の一国なのか、などなど、わずか二十八字しかないのに問題の羅列です。
《乍南乍東》すれば《循海岸水行》できない
問題は《従郡至倭循海岸水行》の解釈です。
郡治が開城であればまず船に乗ると考えられますから《循海岸水行》という記述に適合します。しかしこの《循海岸水行》を狗邪韓国まで続けるという解釈が問題です。次の《歴韓国乍南乍東》で矛盾を来してしまいます。
「乍〜乍〜」という言葉は、「たちまち〜、たちまち〜」という、ある動作や状態を小刻みに繰り返す意味の熟語です。漢和辞典の用例でも「乍雨乍晴」「乍寒乍熱」など反対の語を組み合わせてつかうのが普通で、倭人伝のように「南と東」とを組み合わせることはありません。
朝鮮西海岸は正しく南北を向いていますから、この海岸に沿って南下する船が海岸に立ち寄ったり、進む方向があちこちに曲がるのなら「乍東乍西」とか「乍左乍右」とするはずで、南下するとき《乍南乍東》すれば陸に上がってしまいます。
また西海岸を南下するのであれば、南は本来進む方向ですから「乍南」という表現はあり得ません。「乍南乍北」したら前に進まなくなってしまいます。従来の「水行」説は《乍南乍東》を正しく読んでいないのです。
陳寿は七千里のうち四千里は階段状の道をジグザグに進んだと考え、方四千里をつくりだしたと「ピタゴラス」で述べましたが、これを文章で表現したのが《歴韓国乍南乍東》で、陳寿が通常は使わない「南」と「東」の組み合わせを用いた理由です。
《北岸》は「北(西北)界」の誤り
つぎの問題は《到其北岸》ですが、南東に進んで北岸に到達することはあり得ません。《到其北岸狗邪韓国》を「倭の北の対岸の狗邪韓国に到着した」などと無理に読もうとするのは混乱を招くだけです。
わたしは、倭人伝の《其北岸》は《其北界》の誤りだと考えています。それは『後漢書』倭伝に《大倭王は邪馬台国に居る。楽浪郡の境は、その国を去ること一万二千里、その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里》とあるからです。ここにははっきりと狗邪韓国が「倭国の西北界」だと記してあります。
また陳寿は国の場所を記述する場合「北岸」というような地形を示す言葉は他では使っていません。対馬国といっても北端なのか、中央部なのか南端なのかによって距離は大きく異なるにも拘わらず、ただ《対馬国に至る》とだけして北端とか南端といった場所は記しません。狗邪韓国だけ「北岸」という地形を示す言葉となっていますが、「西北界」という位置関係を示す言葉の方が適切であり、他の記述ともレベルが合うと思います。
韓国内の交通路について
「水行」は距離が長い
韓国は平行四辺形なので、北西角の江華島から南西角の珍島先端までが四百キロ、江華島から釜山までの対角線が同じ四百キロです。したがって江華島から釜山までの距離を「水行」と「陸行」で比較すると、珍島から釜山まで南海岸を行く三百キロまるまる「水行」が長くなります。
陸行のルート
ソウルと釜山を結ぶ陸路の一つは漢江(南漢江)に沿って遡り、忠州から鳥嶺あるいは梨花嶺を越えて洛東江上流の聞慶あたりに出て、後は洛東江に沿って金海平野に向かいます。
もう一つは現在京釜鉄道の走るルートで、ソウルから南下して錦江上流に出て、東の秋風嶺を越えて洛東江中流の亀尾付近で前記のルートと合流し、そこから南下して釜山方面に達するもので、一九〇五年に開通した全長四百四十二キロのこの鉄路は百年経た現在でも韓国第一と第二の都市を結ぶ大動脈であり、高速道路や高速鉄道もこのルートを通っています。
昔からの鉄道は古い町々をつないでいます。古い町は古代からの街道に沿って形成されたので、鉄道の通る路は古代の道と重なります。
韓国は四角い地形で、この対角線の両端にソウルと釜山という大都市があります。この両市が最短距離の陸路で結ばれていることは、これを大動脈として他の地域とも陸路で結ばれていることが容易に想定できます。
現在の大都市を見ても海岸に立地するのは釜山を中心とした半島の南東部に集中し、その他の地域では北西角の仁川市、南西角の木浦市、西岸中央部錦江河口の群山市などわずかです。
ソウルはじめ光州市、大田市、大邱市など現在特別市あるいは広域市とされる大都市のほとんどが内陸に立地し、日本でいうなら、奈良、京都を中心とした姿を思い浮かべるとよいでしょう。
西海岸の海路は発達していない
海路ですが、現代の産業資料によれば西海岸には塩田が非常に沢山あります。漢江河口付近から南西端の珍島を回り、南岸の高興半島まで、いたるところに塩田があります。現地を実見していないので推定になりますが、塩田が多いことは砂浜であることと、汐の干満が大きいことを示しており、これは船着き場としてはありがたくない条件です。
もしそうであれば西海岸は沿岸航行に不可欠な港が少ないことになり、航路としては成り立ちにくいことになります。さらに潮の干満が大きいことは潮流(潮の満ち干にともなう流れで、六時間ごとに逆方向に流れる)が速くなることを示しています。遠沢氏によれば半島西南端の珍島の鳴羊水道では大潮時には八〜十ノット、小潮でも四〜六ノットといいますから、夜間の航行はおろか昼間でも潮の流れの速いときは航行不能となる速さです。
交通環境
旅の安全について
韓国は山の標高が低く、日本のように峻険な山地を辿る道は少ないので、交通の安全を考えれば、陸路が絶対に有利なことは論じるまでもないので割愛します。
インフラ
「交通」には、宿泊や食料補給、牛馬の提供など旅人を支えるインフラの存在が欠かせません。
陸路は一般の旅人があるし、一日の行程も大きくはバラつかないので宿泊地も自ずと絞られ、比較的整備が進みやすいものです。
他方の海路ですが、当時の船は山を目当てに航行するので、景色の見えない夜間は上陸して過ごしたといわれます。景色が見えないだけでなく船上での炊事や宿泊はできないのも理由のひとつとされます。
上陸した時には水や食料の補給も欠かせませんが、海岸ならどこでも船を寄せて水や食料の補給を受けたり泊まれるというものではありません。
また悪天候が続けば数日間の停泊を余儀なくされることもあります。突然の寄港でも、あるいは数日の停泊でも食料や水、宿舎の提供ができる基地(港)があってはじめて航路といえるのです。
当時の船は急いでも一日に五〜六十キロしか進めないので、このような港が最低でも十数箇所、船は天候などで毎日一定の距離を進めるとは限らないので、おそらく倍以上の港が必要となるのですが、港は利用頻度が高くなければ維持していくことができません。海上交通とはいっても手漕ぎ船では近在との往来が主で、補給を必要とするような長旅をする船はほとんどなかったと考えられますが、いつ来るかわからない郡との往来使だけをあてにしていたのでは維持できないのは明らかです。

郡から倭国まで船で行くとしたら、船や乗組員はどのように調達したのでしょうか。「北馬」の民ですから、魏京と帯方郡との交通は陸路が主だったと思います。黄海を横断するとしても内海です。
倭国に行くには外洋航海に耐える船と外洋航海術を持つ船員が必要ですが、郡としてはいつ使うか分からないものを常備することはないでしょう。しかし、必要になったからといって、簡単に調達できるものでもありません。
簡単で確実なのは現地調達です。
対馬や壱岐の島民は生活のため南北に市糴していたのですから、狗邪韓国まで陸路で行けば倭国への渡航に適した船と船員をチャーターすることは容易だったでしょう。チャーターした船なら、倭国に着いたら帰りまで待たせておく必要はありません。帰りの日を指定して迎えに来てもらえばよいのです。
陸行・水行の速度と所要日数
唐の公式令は「行程は、歩及び驢は五十里(一里=五百六十b、二十八キロ)」としていますが、これは軍の装備と食料を持っての移動です。食料の携行は旅程に大きな影響を与えます。
帯方郡の郡使が、朝貢国である韓国内を旅行するのですから食料や宿舎の心配は要りません。したがってさほどの重装備とは考えられないので、一日に三十キロ程度は進めたとみています(東海道を歩く旅人も一日八里―三十二キロが無理のない距離としている)。
勿論、実際に歩行するだけなら一日三十キロくらいですが、長旅ですし、途中、通過する国の情報収集や交流などを含めると、その七割の平均二十キロくらいと推定しています。
海流や潮流、あるいは風や波によって大きな影響を受ける「水行」の速度はむずかしい。丸木船の速度は3ノット/時、一日12時間として約70キロとする説(遠沢葆氏)もありますが、短時日ならともかく、連日これを続けるのは体力的にむずかしそうです。
ことに朝鮮半島沿岸は潮流が速いので、小舟の航行は汐の動きの少ない満潮と干潮の前後だけと時間帯が限られ、さらに夜間は危険が伴うので、航行できないという制約が大きいので、平均的には一日二十〜三十キロ程度になってしまいそうです。
一日二十キロで韓国西海岸をまわれば、狗邪韓国まで天候待ちの日を除いても四十日以上かかることになります。陸路を行けば同じ一日二十キロとしても二十五日くらいで歩けますから、これだけをとっても「水行」は非現実的であることがわかります。
郡治と狗邪韓国を結ぶ陸行コースを以下のように想定して、所要日数を計算してみました。
1 コース
 郡治・開城―[水行]―安山―[以後陸行]―天安―大田―秋風嶺―金泉―大邱―金海 
2 距離・所要日数
 開城から安山まで水行九十キロ、安山から南東に陸路をとって分水嶺の秋風嶺まで二百二十キロ、そこから亀尾まで四十キロ、残りの百六十五キロは洛東江の水運も使えます。下るときなら歩行の二〜三倍の速さになります。
3 水行九十キロを二日、陸行四百九十キロを一日二十キロとして二十五日、郡から狗邪韓国まで二十七日の旅になります。このコースは山地もわずかで、峠も低いので輸送も牛馬や車に頼れます。「北馬」出身の郡使は騎乗だったでしょう。
おわりに
繰り返しますが、韓国海岸の二辺を水行するというのは不合理きわまりないのです。なぜこのような論が罷り通っているのでしょうか。水行論者から水行する合理的な理由を聞かせて貰いたいものです。
機械力を持たない古代人の行動は合理的です。かれらは今の人より体力はすぐれていたかもしれませんが、それを無駄遣いするようなことはしません。いつ襲ってくるかわからない危険から身を守るために、常に体力は温存するのが、自然の中で生きていくうえでの鉄則です。
自然の理に合わせて行動する、それが合理なのです。そして合理的であることが彼らの身を守る唯一の道だと、体験を通じて知っていたのです。
倭人伝をめぐる他の論はさておき、韓国水行論だけは早く消えてほしいものです。 
狗邪韓国から末盧国へ大海を渡る
ここでは狗邪韓国から末盧国までのコースを探求してみます。海だからどこでもよさそうに思えますが、手漕ぎ船では一日の行動距離が限られるうえ、安全の面から陸よりも制約が多いのです。
機械力のない古代ではもっとも労力が少く、しかも安全なコースを選んだと思います。こうした観点からコースを推理しました。
手漕ぎ船で一日に航行できる距離については時速約三ノット(五.六キロ)、一日十二時間で七十キロというデータがあります(遠沢葆氏)。この速さなら海峡の横断はできます。
船の航行速度と共に問題になるのが海流です。対馬を挟んで北に流れる対馬海流は流れが速いことで知られます。対馬海峡西水道では冬期で1.1ノット/時、夏は3ノットにも達すると云いますから時速3ノットの船では逆航行(南下)はできません。
東水道は夏冬とも1ノットで、大きな障害にはならないというし、島の東海岸に沿って北から南に流れる反流があるので、鰐浦から厳原方面に向かう船はこの流れを利用するということです。
対馬の玄関は浅茅湾
狗邪韓国から壱岐国への航路ですが、金海海岸から対馬北端の鰐浦に至り、島の東海岸を南下し、厳原から壱岐国に向かうとするという説が一般です。
ところが、対馬の弥生遺跡・遺物は浅茅湾西部と少し北の三根湾辺りに集中しています。このことは当時の航路は東海岸回りでなく、西海岸中央部を拠点にしていたことを示しています。
釜山から浅茅湾を直接目指すのは海流に逆行するうえ距離も長すぎて手こぎ船には無理です。鰐浦から西海岸を南下するのも海流に逆らうのでやはり無理だといわれますから、浅茅湾に向かって海流に逆らわず航行するのには巨済島辺りから出港しなければならないことになります。
仮に金海湾から出港するとしても、巨済島東端まで南下し、そこから対馬に向かうことになります。ただ、半島の東海岸から南海岸には緩やなリマン海流が時計回りに流れているので、釜山方面から巨済島方面に向かうのは比較的容易だったとみられます。
東海岸へは船越で
対馬の西海岸から壱岐に向かうには島の東に出なければなりません。その東海岸へのコースですが、西海岸に沿って南下して、島の南端を回り込むのは海流に逆行することになります。ではどうやって東に抜けたのでしょうか。その答えが「船越」です。
対馬の西海岸中央部、西から東に大きく食い込む浅茅湾は地図で見ると東海岸に抜けられそうです。
現在は湾の最東端にある万関瀬戸と大船越瀬戸という二つの瀬戸で島の東西の海がつながっていますが、万関瀬戸は明治時代に軍事目的で開鑿されたものだし、大船越瀬戸も江戸時代に開鑿、明治に拡幅されたものです。つまり弥生時代から近世までの対馬は南北が陸続きの一つの島でした。
船は島の北端か南端を迂回しなければならないので、朝鮮半島と日本の間を航海する者にとって、対馬は絶好の拠点であると同時に大きな障害物でもあったといえます。
しかし大船越という地名から、もしやと思って地元役場の観光課に問い合わせたところ、その方はこともなげに「昔は船が陸を越えていたということで、少し北の小船越もそうです。船越という地名は全国各地にありますよ」というのです。
「小船越は九州と朝鮮を往復する船や、遣唐使の船も越えていたということです。近くにある梅林寺は日本で最初に建てられた寺で、朝鮮から来た仏像をお祀りしたしたところと伝えられています」と教えてくださった。
対馬では近世まで、船を陸に引き揚げて反対側の海に下ろす「船越」がおこなわれていたのです。船が大きいときは反対側に別の船を用意して、船荷を積み替えることもあったといいます。こうした「船越」が日常的におこなわれていたからこそ瀬戸の開削という大事業につながっていったのです。
狗邪韓国
話が戻りますが、郡から出発した郡使が最初に到着する倭の国が狗邪韓国です。
狗邪韓国については倭の一国であるとする説もあれば、韓伝にある弁辰狗邪(金官伽耶)と同じ国だとする説もあります。しかし「倭人伝」に韓諸国の名は出てくるはずがありません。
狗邪韓国が朝鮮半島にあった倭人の国だとすれば、対馬への船出もそこになる筈です。これまでみてきたように、半島から対馬に向けての最終出港地が巨済島東端だとすると、狗邪韓国が金海付近だとすることに疑問が出てきます。
朝鮮半島にあった倭人の国として狗邪韓国の位置を推定してみます。
狗邪韓国は倭人の国
『魏志』韓伝に《韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と接して、その広さは縦横四千里ばかりである。(中略)弁辰のうち涜盧国は倭と境界を接している》とあって、韓国南海岸のどこかに倭の国があったことを伝えています。
倭人伝は女王国に属している三十国のなかに狗邪韓国を数えています。また、倭の地を周旋五千里とするのも邪馬台国までの一万二千里から狗邪韓国までの七千里を差し引いた数字ですから、ここでも狗邪韓国から倭国が始まるとしています。
狗邪韓国を現在の金海付近金官伽耶とする論が多いのですが、金官伽耶は韓伝のいう弁辰狗邪に比定される弁辰諸国のひとつであり、またその位置は金海平野の中心部です。韓伝のいう《弁辰のうち涜盧国(だけ)は倭と境界を接している》という条件に適合しませんし、韓諸国の中に一国だけ存在する倭の国が金海平野の真ん中に位置することは不可能なことです。
また、韓伝で弁辰狗邪国としながら、狗邪韓国という別の名にする必要性は認められません。わたしは弁辰狗邪と狗邪韓国は別の国だと推断しています。
狗邪韓国は固城半島・巨済島
結論からいうと、狗邪韓国は固城半島のごく一部と巨済島であって、固城湾は韓と倭が共用する倭への渡航基地だったと推定しています。
1 半島と結ばれた対馬側の基地は島の中央部に位置する浅茅湾でした。巨済島はその浅茅湾と向かいあう最短距離(六十キロ)に位置しています。
2 韓伝は《弁辰のうち涜盧国は倭と境界を接している》と伝えます。この「倭」を狗邪韓国とすると、弁辰諸国の中で涜盧国だけが狗邪韓国と境を接しているのです。一国とだけ接する境界が作れるのは狗邪韓国が半島にあることを示しています。このような地形を持つのは、金海周辺では固城半島だけです。
3 固城半島は固城市の辺りで大きくくびれていて境を接する国を一つだけにできる地形になっていますから、このあたりが境界ではなかったかと推定しています。また、固城湾が入り込み、海上交通に適した地形ですし、考古学的にも、東外洞遺跡から対馬特有の広鋒銅矛や、日本の弥生式に似た土器が出土するなど、日本との関係が深いことを想定させる地域です。
海岸地帯に住み着いていた倭種
対馬は日本領ですが、地理的に見れば韓国領であって当然といえる位置にあります。
それが日本領になっている理由を考えてみると、もともと国という観念の希薄なころ、朝鮮半島の南岸から対馬・壱岐・九州と繋がる島嶼に倭種の人が住み着いていたのが、国家観念が育つにつれて半島南岸はだんだん韓の国・人となり、最終的に対馬以東が残ったのでしょう。巨済島あたりには元々倭種が居住していたのです。
倭人伝に書かれた倭人は黥面文身し、潜水を得意としているなど、中国の江南方面の人に似ていたとされます。韓国済州島の住民は《その人は、やや短小で、言語は韓と同じではない(韓伝)》とされ、潜水を得意にしていたといいますから、あるいは倭人と同じ種の人たちだったのかも知れません。同様な人種が対馬海流によって運ばれ、現在の日本列島だけでなく朝鮮半島南部海岸にも分布・居住していたのでしょう。
済州島から朝鮮半島の南海岸、対馬、壱岐、松浦、五島列島の逆U字帯は、こうした海人、とくに潜水という特殊技能を持つ漁人の分布地帯だったのです。
壱岐国・末盧国
壱岐国へ
対馬の小船越から壱岐の内海までは七十キロほどで、ここもまる一日です。場合によっては、北端の勝本で一夜を明かし、翌日は休みを兼ねて内海まで陸上を歩き、船だけ回航させたのかも知れません。
末盧国は唐津
壱岐国の内海から末盧国の比定地唐津まで五十キロほどです。壱岐から来れば最寄りの港になる呼子を比定する説もありますが、倭人伝によれば末盧国は《草木が盛んに茂り、歩いて行くと前の人が見えない》というようなところです。長旅で疲れた客人たちにこのような道を歩かせる筈がありません。
末盧国で下船するのならば唐津湾最奥まで入り、松浦川を渡らないで済む場所にするはずで、松浦川の河口は潟のできる地形ですから、古代は潟港だったとみられます。背後にある山が鏡山(領巾振山)と呼ばれることも、ここが港であったことを物語っています(ただし、呼子は壱岐国に向かう船が天候の様子見をする港として利用されていたと考えています)。
伊都国へは「水行」
末盧国から伊都国へは「陸行五百里」とありますが、この記事は少々「要注意」です。
古代の道路事情を考えると、ここから先も「水行」したとする方が常識的です。湾の最奥部であるうえ、海岸沿いに行くのですから危険は少ないし、このようなところをわざわざ荷物を担いで歩くことは考えられません。
「ピタゴラス」で掲出した図を思い出して下さい。陳寿が「陸行」としたのはこの図の上でのことで、方角を「東南」としたのもこの図の上でのことだと考えられます。「東南」についていろいろな説がありますが、古代人が方角を間違えることはあり得ません。この「東南」は観念上のことで、実際の方角ではないのです。
それなら船は末盧国に立ち寄らず伊都国に直行する方が近いことになりますが、郡や朝鮮各国との交易を検査する必要から、倭国本土で最初に着く港を末盧国として、そこで《津に臨みて捜露》する体制を取っていたと考えています。この検査については「卑弥呼」を参照してください。
郡から倭国への行程図 旅程
郡治と伊都国を結ぶコースを左掲のように想定して、所要日数を計算してみました。
1 コース
郡治・開城―[水行]―{安山―[以後陸行]―天安―大田―秋風嶺―金泉―大邱―固城}―[水行]―巨済島東端―{対馬・浅茅湾―小船越―三浦湾}―{壱岐・勝本ー内浦}―唐津―前原
2 距離と所要日数
@ 開城から安山まで水行九十キロ、安山から南東に陸路をとって分水嶺の秋風嶺まで二百二十キロ、そこから亀尾まで四十キロ、残りの百六十五キロは洛東江の水運も使えます。下るときなら歩行の二〜三倍の速さになります。
A 水行九十キロを二日、陸行四百九十キロを一日二十キロとして二十五日、郡から狗邪韓国まで二十七日の旅になります。
B 狗邪韓国から伊都国までの旅程は、巨済島東端と対馬浅茅湾、対馬小船越、壱岐内海、そして唐津と航海だけでも五日、場合によっては壱岐でもう一泊する旅だったかと推定されます。
C 郡から伊都国までを通算すると、「水行」九日、途中の休みを入れると十日から十二日、「陸行」二十七日になります。 
卑弥呼は邪馬台国の女王ではない
「邪馬台国女王卑弥呼」という呼び名はなんの疑いもなく、広くつかわれているようです。
その論に立ち向かうのは非常におこがましいというより恐ろしさを覚えますが、「推理」を旗印に掲げる以上、推理の結論から逃げるわけにはいきません。
暴論といわれるかもしれないが、理屈のうえで卑弥呼は邪馬台国女王ではない。その理屈を一度聞いてください。
* なお、倭人伝の読み下しと現代語訳は石原道博編訳『中国正史日本伝』(岩波文庫)をつかわせていただきました。
言葉の定義
言葉が混乱しそうなので二、三言葉の定義をしておきます。
倭人伝の伝える三十国は同盟体を作っていたようですから、これら三十国をまとめて呼ぶときは「倭国」ということにします。そして倭国を束ねる王は「大王」とします。
「邪馬台国」は伊都国・奴国などと同様、あくまで三十国の中の一国を指します。
その三十国が、なにかをきっかけに《相攻伐すること歴年》という状況になったというのですから、政治的にはそれぞれが独立しており、当然各国にはそれぞれ王がいたとみられます。その王は「小王」と呼ぶことにします。
問題の提起
卑弥呼は《相攻伐すること歴年》という戦乱を収めるため「共に立てて」女王とされたのですから、倭国の「大王」であったことは疑いありません。
一方「邪馬台国女王卑弥呼」というのは邪馬台国の「小王」としての呼称です。通常の場合、卑弥呼は倭国女王として呼ぶのですから、この点だけからいっても「邪馬台国女王」という肩書きは誤りです。
わたしが問題にしているのは、卑弥呼が「大王」であると同時に邪馬台国の「小王」も兼任していたかということです。そのことは邪馬台国が倭国同盟の盟主だったかという問題に通じています。
倭人伝では卑弥呼を倭王と呼び、邪馬台国女王とはいいません。卑弥呼は魏王が倭王と認めたのですから当然です。
倭人伝は邪馬台国を《女王の都する処》というし、『後漢書』も《大倭王は邪馬台国に居る》としています。邪馬台国を女王が統治するなら、そこに都があるのは当然のことなのに、わざわざ《女王の都する処》というのはどのような意味があるのでしょうか。
倭国「大王」
倭人伝には《その国、本また男子を以て王となし、とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という》とあります。ここにある《その国》は邪馬台国などでなく、同盟体としての「倭国」です。
また《男子を以て王となし》という「王」が伊都国王や奴国王といった「小王」でなく倭国の「大王」を指すこともあきらかです。
この「大王」ですが、経団連や経済同友会といった現代の経済団体のトップが、構成メンバー各社の会長や社長などから選ばれるように、いずれかの国の「小王」あるいはその経験者が推されて「大王」を務めていたと推定されますが、これが団体運営では普通の形です。わたしは伊都国王だったと推定していますが、これついては後で触れます。
その後任として卑弥呼が選ばれました。経済団体の長が、会社のトップ経験者であるように、倭王となった卑弥呼は邪馬台国の「小王」を経験していたかということになりますが、卑弥呼が「大王」に推挙された事情からみると、卑弥呼は「小王」経験者ではないし、邪馬台国は卑弥呼の出身母体ではないようです。
邪馬台国「小王」は卑弥呼とは別の人物
「小王」は例外なく世襲です。したがって卑弥呼が「大王」になってから邪馬台国の「小王」を兼務したとすれば、彼女は「小王」の王女であり、王位継承資格者だったことになります。
しかし、卑弥呼は《鬼道につかえ、妖を以て衆を惑わし》ていたというのですから、女王になる前はどこの国かわからないが市井にあって人気と信頼をあつめていた巫女だったのです。
王位継承資格者である王女が《年長大》になるまで、市井で巫女をしていたとは思えません。卑弥呼は王女ではなかったと判断されます。
また卑弥呼は《夫婿なし》と伝えられますが、世襲の王なら必ず子孫を残そうとします。どこの馬の骨ともわからない少女を養女にして、王位継承者とすることなど思いもよらないことです。この点からも卑弥呼は「小王」失格です。
卑弥呼は戦乱収拾のため推されて「大王」となったのですが、三十国が《相攻伐》するという戦乱当時、卑弥呼は市井で巫女をしていたのですから、邪馬台国の「小王」は卑弥呼以外の人物だったのはいうまでもないことです。
戦乱が収拾して卑弥呼が邪馬台国の「小王」になるには、それまで国を率いてきた「小王」を退位させなければならないことになりますが、自分の身内でもないよそ者に突然譲位しろというのですから、「小王」は当然拒否します。
三十国のうち邪馬台国の「小王」だけがその地位を追われるような停戦協議が成立するはずもありません。
卑弥呼が三十国の「大王」になることは戦乱を収拾する方策として決められたことですが、邪馬台国の「小王」になる理由はないし、三十国のなかでなぜ邪馬台国が選ばれたのかもわかりません。
倭国の「大王」卑弥呼は「小王」たちの合議によって選ばれたのですが、邪馬台国の「小王」を他国の王たちの合議で決めるなどということはあり得ません。「小王」は世襲で、その廃立は他国が口出しできることではないのです。
このように、卑弥呼が倭国の「大王」になってからも、邪馬台国の「小王」は卑弥呼でない別人物だったと判断せざるを得ません。
卑弥呼は倭国の「大王」であっても邪馬台国の「小王」ではなかったのです。したがってどのような場合であれ、卑弥呼を「邪馬台国女王」と呼ぶことは誤りといえます。
卑弥呼と邪馬台国の関係は、現代の天皇が東京に皇居を構えているように、政略的な観点から宮処を邪馬台国に置いていただけで、邪馬台国には倭王卑弥呼と邪馬台国王二つの宮殿が建てられていたのです。
卑弥呼の役割
魏の王が「親魏倭王」と厚遇し、倭人伝なども「女王国」として特別視するのをみると、女性の国王というのはよほど珍しいことだったのです。
卑弥呼は「小王」としての経験がないどころか、政治には全く無縁の巫女です。このような経歴の「大王」卑弥呼は一体なにをするための王だったのでしょうか。社長経験はおろか出身会社も持たない女性がいきなり経済団体の長になるようなものですから、そのような人になにができるのか心配になるのはわたしだけではないでしょう。
卑弥呼については巫女であること、女王になったら戦いが止んだこと、魏王から「親魏倭王」の金印をもらったこと、径百歩の大きな冢に葬られたことなどかなり詳しく伝えられていますが、女王としての卑弥呼の姿は《王となりしより以来、見る有る者少なく》ということで、国家経営には素人の彼女がなにをするために女王とされたのか、なにをしていたのかまったくわかりません。それでいながら、亡くなった途端に戦いがはじまるのです。倭国女王としての卑弥呼の実像を推理してみましょう。
戦乱は仲間喧嘩
もともと倭国「大王」は男子で、それが七、八十年続いたとされます。年数からみて三代くらいは男子の「大王」の下で三十国が平和に暮らしていたのです。
三代目の老害からか、あるいは四代目のできが悪かったのか(多分後者でしょう。後述)、大王のいうことに各国が承服しなくなり《相攻伐》する状況になってしまったのです。
そこで担ぎ出されたのが市井で《鬼道につかえ、妖を以て衆を惑わして》いた卑弥呼です。倭人は占いを好んでいたようですから、卑弥呼は「当たる」と人気の高い占い師だったのでしょう。
しかし、担ぎ出された理由が《妖を以て衆を惑わす》能力にあったとは思われません。
その登場で《歴年続いた》戦乱がピタリと収まったのです。卑弥呼ばかりではありません。臺與のときも同じことが起きていますから卑弥呼の個人的能力によるのではなく、「巫女」であることが選ばれた理由であることはあきらかです。
卑弥呼や臺與といった巫女を「大王」に立てる理由は戦乱の原因と関係しているのでしょうが、戦乱そのものが「鬼道」に関係するとも思えません。そんなことで三十もの国が《歴年相攻伐》することは、いくら古代でもないでしょう。
戦乱の原因ですが、卑弥呼が大王になると収まったことや戦乱によって同盟から離脱する国がないこと、何十年も経っているのに卑弥呼が死んだら同じようなことが起きていることなどから、社会構造的なことに起因するものではなく、たとえば何らかの「パイ」の配分をめぐってというように、もっと世俗的・現実的な仲間うちの喧嘩だったのではないかと推測しています。
倭国は鉄輸入のカルテル
もめごとの原因となる「パイ」は一体何だったのでしょうか。魏や郡、朝鮮各国からの贈り物も「パイ」のひとつです。朝貢に必要な費用の負担や朝貢貿易による利益など、朝貢ひとつとっても「パイ」はいろいろありますから、その配分をめぐって小さな争いが起きることは避けられないことです。しかしその程度のことで何年にもわたって戦を続けることも考えられません。
わたしは鉄の輸入をめぐってのことではないかと考えています。戦略物資であり、農業生産にも大きな影響を与える鉄は全て半島からの輸入に頼っていましたが、弥生時代の墳墓などから出土した鉄器の量は九州地区が飛び抜けて多いのです。下表を見てください。遠くになるに従ってだんだん少なくなるのではありません。あきらかに九州から外に出す量をコントロールしていたとしか思えない分布状況です。
倭国は半島から列島に至る唯一のルートである狗邪韓国〜対馬国〜壱岐国〜末盧国を押さえる地の利を生かして、鉄素材を独占するために結成された経済同盟だと推定しています。
鉄そのものの配分や、輸入を独占することによって得られた利益の配分がうまくいっているうちは平和が続いたのですが、なにかをきっかけに不平が爆発したのが《歴年相攻伐》ではないかと考えています。
倭国は力による統合というより、鉄の独占輸入と、その購入対価とするための倭国特産品調達の集中管理を目的とする経済的結合体という色合いが強かったので、利益に反することがあれば「相攻伐」するようになる素地は元々あったと思われます。
したがって鉄輸入の独占による利益を三十国に公平に行き渡るように切り分けるのが大王の最も重要な仕事だったのです。七、八十年平和がつづいたときの大王はこの切り分けが上手だったのですが、次の大王は自国や取り巻きの国に有利になるよう計らうなど、不公平な切り分けをし、それへの不満が《倭国乱》につながったのでしょう。
巫女は神の意志の取り次ぎ役
戦乱終結のためには「小王」による和平会議が開かれたことでしょう。その会議で不公平な切り分けをした「大王」が罷免され(注)、諸国の合意によって市井の人気巫女卑弥呼が新しい「大王」として選ばれたのです。
なぜ巫女だったのでしょうか。
巫女は神と交信できる能力を持ちます。巫女である卑弥呼が語る言葉は神の言葉であり、卑弥呼の決めた配分は神の意志であるからそれには誰も反対できないとされたのです。それが卑弥呼(臺與も)という巫女を「大王」とした最大の理由です。人間のおこなう配分は信用されなかったのです。
しかし卑弥呼がいくら巫女だといっても人間(各国)側からの働きかけに全く無縁ではいられません。地獄の沙汰もカネ次第、神もお賽銭次第なのは古代もおなじです。卑弥呼は大王になった途端、外部との接触を一切断ちます。
《王となりしより以来、見るある者少なく》ただひとりの男子のみが近づけるようにしているのは、いろいろな働きかけを遮断すると同時に、影響されていないことを形として示すためです。
また、「大王」の宮処が、倭国の中心の伊都国や奴国でなく、当時としては片田舎の邪馬台国とされたのも、それまで「大王」を出していた伊都国や奴国といった大国の影響が及びにくいよう和平会議で決められたことです。
邪馬台国は人口も多く力はあっても、あまり武力をひけらかさない、どちらかというと中立的な農業国で、ことによると和平会議も邪馬台国「小王」の提唱で開かれたのかも知れません。
そうしたことから「大王」となった卑弥呼を庇護するだけでなく、疑わしい接触がないよう監視する役目も任されたのでしょう。
このように邪馬台国は卑弥呼の現住所・寄留地であって本籍・本拠地ではありません。したがって、卑弥呼の住む邪馬台国を倭国連盟の盟主とする根拠もありません。
卑弥呼の役割は限定的
卑弥呼は倭国に君臨する女王というイメージで語られますが、外交の顔としての機能は別にして、市井にあった巫女に突然経営のトップが務まるものではありません。
倭国同盟の象徴として、配分をめぐる戦いが再び起きないように、公平な分配を神の言葉として伝えるという限られた職務をこなす存在だったとする方が実像に近いと思います。
このように限られた機能であれば、巫女である卑弥呼が突然「大王」とされても何ら不思議でもなく、また《見る有る者少なく》ても支障なく運営できたでしょう。勿論臺與が十三歳で「大王」とされたときも同様です。
なお、魏から贈られた鏡の配分先について多くの論がみられますが、鏡を配るのはお土産の分配で、「小王」との結びつきを深めたりする政治的配慮に基づくものではありません。配分はあくまで「神」の意志によるのです。女王が手元に置いて、倭国以外の地域の王との外交に用いるなどということは、あったとしてもごくわずかだったと思います。
注 二度罷免された「大王」 /
想像を一つ。出来が悪いと罷免された「大王」は年若かったのでしょう。卑弥呼が死んだ後に立った王というのは、一度罷免されたこのときの王だったと想像しています。復位はしたものの「やっぱりダメ」ということで臺與に替えられたのです。
卑弥呼の前任倭王は伊都王   
《世有王皆統属女王国》 従来の読み方は誤り
わたしは七、八十年つづいた「大王」というのは伊都の「小王」だと推定しています。
伊都国の紹介に《世有王皆統属女王国》とあって、大方は《世々王あるも、皆女王国に統属す》と読み下していますが、わたしは「世々王あり。皆女王国を統属す」と読むべきだと考えています。理由は三つあります。
〔理由1〕
定説の読み方では《世有王》は伊都国の「小王」ということになりますが、倭人伝が「王」とするのは魏王が認めた「国王」、このページでいう「大王」に限られます。例をあげておきます。なお「行」は南宋紹熙本の行数です。
1《世有王皆統属女王国》       十四行目
2《王遣使詣京都帯方郡諸韓国》   六十一行目
3《其国本亦男子為王住七八十年》  六十五行目
4《共立一女子為王名曰卑弥呼》   六十六行目
5《倭王因使上表答謝詔恩》      九十三行目
6《其四年倭王復遣使》         九十三行目
7《倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和》  九十七行目
8《卑弥呼以死(中略)更立男王国中不服》      百一行目
9《復立卑弥呼宗女臺與年十三為王国中遂定》   百三行目
倭人伝が「王」と記すのはこの九例ですが、2〜9が「大王」を示すのはあきらかえすから、1だけ「小王」を指すとは考えられません。
《世有王皆統属女王国》の「王」を「大王」だとすれば《世々王あるも、皆女王国に統属す》と読むのは、統治する「大王」が統治される一員になるという矛盾が生じてしまいます。
〔理由2〕
倭人伝が三十国のなかで伊都国だけ王のことを記しますが、「小王」がいて女王国に属しているのは各国すべて同じで、伊都国だけが特別にそうだったわけではありません。伊都国の紹介に《世有王》と特記されたのは、伊都国王が「大王」だったからです。
〔理由3〕
三つ目は「統属」という言葉です。
《世々王あるも、皆女王国に統属す》と読むのであれば「統属」と「属」は同じ意味の言葉だということになりますが、わたしには「統属」と「属」が同じ意味とは思えないのです。
「統」は統一、統治などのように物事を一つにまとめるという使役的な意味が強い言葉です。「属」には「集める」という意味もありますから「人・国などを統べ集める」というように「統属」は「統べる」に力点がある言葉(他動詞)であって単なる「属す」(自動詞)とは意味が異なると考えています。
《世有王皆統属女王国》を「世々王はあったが、皆女王国(倭国)に従属した」と読むのと「世々の王は皆女王国を統属した(代々の王は皆倭国のまとめ役だった)」と読むのでは全く逆の意味になってしまいます。
三十の国は同盟を結んだとはいえ独立した国ですからこれらの国々をまとめるのは統治とは異なります。「統属」はこうした女王国の実情を的確に表現する言葉といえ、このように解釈すれば《その国、本また男子を以て王(大王)となし、とどまること七、八十年》とある「大王」は伊都国出身だったことがあきらかになります。
倭国官人の役割
《女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺吏王遣使詣京都(中略)皆臨津捜露伝送文書賜遺物詣女王不得差錯》
ここに出てくる一大率や大倭といった役人は一体なにをするのでしょうか。一大率はなぜ《女王国の北の国》だけを検察するのでしょうか。各国はこの検察を《畏憚する》といいますが、なにを畏れているのでしょうか。
いつも思うのですが、こういった問題になると先生方は「だんまり」を決め込んでしまいます。
しかし、卑弥呼の役割や、役人がなにをしていたのか、仮説を立てて解明していかなければ、当時の社会構造をあきらかにすることはできません。「大倭」の名について「ヤマト」が派遣したなどというらちもない論議をするより、なぜ市の監視をするのかを論議すべきと思います。
公平を守るためのシステム
前述したように卑弥呼に求められたのは鬼神を祀ることでなく、「利益配分」という世俗のことを神の言葉として伝えることです。
一方、「利益配分」をもめないようにおこなうためには「利益」を生むためのシステムの外で「利益」が横取りされないようにすることが重要です。
鉄やその対価とするための特産品の流通経路を一本化して管理しても、抜け駆け外交や密貿易あるいは横流しなど、不公平につながる種はいろいろあります。それらの監視をおこなうのもモメゴト防止役としての「大王」に課せられた仕事です。
一大率や刺吏のごとき役人、市を見張る大倭などはこうした監視をおこなうため女王の指揮下に置かれた「倭国の役人」だったと考えることで倭国女王の行政機能がはっきりします。
一大率
一大率がとくに女王国から北の国だけを検察対象としたのはそこが海に面した東西の交易ルートにあたるからであり、《諸国これを畏憚》したのはヤミ取引の摘発を恐れたからでしょう。
各国は政治的には独立していましたから、各国内のことに倭国から口出しすることは許されないし、倭国の側にもそうした力はなかったでしょう。女王が監視するのは女王に課せられた職務「(鉄の独占的流通による)利益の公平な分配」を維持するためであり、そのための権限として各国から認められていたのです。
刺吏
《国中に於いて刺吏のごときあり》とある「刺吏のごとき役人」の役目ですが、「刺吏」とは「郡国を刺挙し、その政績を奏報する官」と注にありますから、日本流にいうなら目付です。大名(「小王」)の権限に属することには口出しできませんが、全体の利益にかかわるとなれば放置しません。こうした役人が三十国全体に監視の目を光らせていたのです。
津での臨検役
つづく《王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、みな津に臨みて捜露し、文書・賜遺のものを伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず》という仕事を担当するのは「刺吏」とは別の役人で、この役人は単に「大王」に関係するものだけでなく、「小王」が抜け駆け的に個別の贈り物をすることなどにも目を光らせていたのでしょう。
そのほか、鉄をはじめとする輸入品、あるいは郡などへの贈り物や鉄購入の交換物資とする特産品の密輸出も見張る税関のような権限も持っていたと推測されます。
この仕事を一大率のものとする論を散見しますが、「女王国より北の国」を担当する一大率と、「国中」を担当する刺吏のごとき役人と「津で捜露する」役人とは仕事の場所や内容がまったく異なっています。
「津で捜露する」のなら、郡使や女王の遣使など公式の船だけを臨検しても効果はありません。常時見張っていなければなりません。末盧の港を出入りする船は多かったとみられますが、それらの船が出入りするたびに伊都から駆けつけるのでは仕事になりません。末盧国に常駐するのが当然です。
三者は別々の役人と考えるのが妥当と考えます。
大倭
国々の市を見張る「大倭」ですが、交易税を徴収する役人で、派遣したのは各国の「小王」とする説(橋本増吉)もありますが、租税は「戸」や「人数」「土地面積」など課税基準がつかみやすい制度とするのがふつうです。物々交換では売り上げに応じてということもできません。
また、「小王」が独自に派遣する役人の名が「大倭」として統一されていることになりますが、大官の名が各国でいろいろ異なっているにも拘わらず、市の管理をする小役人の名が統一されているとするのは不自然です。
「大倭」は、「一大率」や「刺吏のごとき役人」が国々を監視しているのと連携して、鉄製品や特産品の市での流通を監視するために女王が各国に派遣した倭国の役人だと推定しています。
「倭国大乱」はなかった
卑弥呼が女王とされるきっかけになった「倭国大乱」とはどのようなものだったか検討しておきます。これは卑弥呼の役割につらなることです。
倭人伝は《その国、本また男子を以て王となし、とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年》とするが、『後漢書』は《倭国大乱》、『隋書』も《桓・霊之間其国大乱》としており、このことから倭では列島規模の戦乱が起きていたとする説が一般的です。
しかし、「倭国乱れ」を「大乱」とするのは疑問があります。その時期についても『後漢書』が桓・霊の間(147〜186年)とし、『梁書』『北史』が霊帝光和中(178〜183年)としていますが、卑弥呼の年齢からみて《倭国乱》は半世紀以上後の三世紀前半中頃のことと推定されます。
九州で発掘された戦闘によるとみられる死者の墓は100例ほどあっても、時期的には北九州に鉄の普及が進んだとみられる紀元前二世紀から前一世紀、遅くても紀元後一世紀で、倭国の乱の時代といわれる二世紀後半になるとこうした戦乱を示す考古史料は少なくなってしまう(佐原真)といわれます。、考古資料の面からは二世紀後半を動乱の時代とするのは疑問です。
もし倭国大乱の原因が朝鮮半島動乱の影響だったり、農業生産の増大による社会構造の変化によるようなものであれば、卑弥呼を立てたからといってピタリと収まることはないでしょう。『魏志』の伝える《倭国乱》は社会的変動の影響を受けたものでなく、あくまで仲間うちでの喧嘩に過ぎないとみられます。
喧嘩をしたからといって 倭国が分裂するわけではなし、喧嘩が終わればまた元の鞘に納まっています。卑弥呼が就任してから何十年も経っているのに卑弥呼が死んだら、また同じことを繰り返しているのも仲間うちの喧嘩であることの明証です。
この「倭国乱」を、列島を揺るがす大規模な戦乱と捉えることは戦いの本質を見誤るだけでなく、卑弥呼の果たした役割を正しく理解できないことになります。
卑弥呼の役目はジャンヌダルクよろしく戦いの先頭に立つことではないし、戦乱の調停役でもありません。仲間うちで起きるもめごとのタネをなくし、戦乱を未然に防ぐのが役目です。倭国が乱れたのは鉄カルテルの利益配分をめぐる内輪もめに過ぎず、戦乱を嫌って倭国同盟から出て行くことはそれ以上の損失をもたらしたからこそ、仲間割れを起こすこともなかったのです。
想像ですが、伊都国と奴国は仲が悪かったと思います。隣り合った両雄がならび立つのはなかなかむずかしいものです。
伊都国に大王職を奪われ、大陸への道を扼されている奴国ですが、那の津からのルートを使って壱岐国と対馬国を抱き込めれば自分の天下になるのでしょうが、そうなっては末盧国と伊都国は生きていけなくなります。
末盧国が半島との交易基地とされたのは、伊都国に良港がなかったのではなく、末盧国への利益配分の意味が大きかったのではないでしょうか。末盧国は対馬海峡の制海権を握っており、その力を使って交易をめぐる権益構造の一角に食い込んだのです。
伊都と奴、隣り合った両国のせめぎ合いは熾烈なものだったでしょう。伊都国出身の「大王」が若干でも奴国に有利な配分を心掛けているうちは良いのですが、ちょっとでも伊都国側に有利な配分をおこなえば、奴国の鬱積が爆発します。その両国にそれぞれシンパの国がくっつき、《相攻伐》することになったのが《倭国乱》です。
卑弥呼の女王就任時期
《倭国乱》と卑弥呼の女王就任とは連続しています。女王就任の時期から「倭国大乱」の時期を推理してみます。
1 卑弥呼の死亡は二四七年としておきます。
2 就任したとき、《年既に長大》とありますが、年長大とはいったい幾つくらいなのでしょうか。『蜀志』『呉志』には、二十五歳、あるいは三十四歳の人物に「長大」という言葉を使っている例があるそうですから一応三十歳として推理を進めます。臺與が就任したとき十三歳だったので、卑弥呼のときも十歳台の若い女性だったとも考えられますが、臺與は卑弥呼という前例があり、それがうまく機能したので年若くても受け入れられたのだと思います。卑弥呼の場合は前任が男王であり、女王は前例がなく、また卑弥呼はどの国の「小王」でもありません。巫女としてよほどの実績があり、分別のある女性とみなされていなければ、女王には推挙されなかっただろうと思います。
3 倭国が乱れたのは《男王が七、八十年続いた後》とあるだけで時期は不明です。卑弥呼就任の直前の数年としかわかりません。
4 239年に卑弥呼の名で魏に遣使しているのですから、就任はそれ以前です。
5 巫女としての跡継ぎを考え卑弥呼が臺與を宗女としたのはひどく老齢になってからではないでしょう。また臺與も赤子ではなかったでしょう。卑弥呼五十歳、臺與八歳としておきます。臺與が女王に推されたのは十三歳のときですから、卑弥呼が亡くなったのは五十五歳となります(卑弥呼が死んだあとの乱は一年以内に収まったとして)。
6 上記の前提にしたがえば卑弥呼は193年生まれ、女王になったのは222年となります。したがって倭国の内乱は220年前後のことで、「桓・霊の間」や「霊帝光和中」というのは半世紀以上時期がずれています。
7 「倭国大乱」は「桓・霊の間」に楽浪郡周辺で起きた動乱と「倭国乱」を結びつけた『後漢書』や『隋書』編者の作文ではないでしょうか。その時期倭国は男王の下で平和に過ごしていたのです。
8 通説のように180年ころ卑弥呼が就任したとすると、少なくとも70年ほど「大王」を務めたことになります。臺與と同じ十三歳で就任したとしても八十歳を越えます。そして臺與を宗女としたとき、卑弥呼は七十歳なかばを超えていたことになりますから、後継者を迎える年齢としては高齢に過ぎます。
おわりに
上に述べたような卑弥呼女王と倭国の関係は、邪馬台国大和論からすれば、受け入れられるものではないでしょう。しかし、九州から畿内大和に及ぶ広域国家連合を考えた場合、卑弥呼の役割をどのように捉えるのでしょうか。また、同じ同盟だったとすれば、瀬戸内海地方には鉄がほとんど供給されていない事実をどのように説明するのでしょうか。
卑弥呼が邪馬台国の「小王」でないとし、邪馬台国が倭国同盟の盟主でないとするわたしの論は、邪馬台国東遷論にも影響するでしょう。邪馬台国は倭国の盟主ではありませんし、「大王」臺與を連れて行くことはできません。臺與は九州に居てこそ「大王」なのです。
卑弥呼と邪馬台国との関係をみると、卑弥呼の墓所ははたして邪馬台国なのだろうかと考えてしまいます。どこかわからないが故郷の地だったのかもしれないし、あるいは市井で活躍した町だったのかもしれません。
しかし、庶民の中で生きようとしていながら、心ならずも隔離された世界に閉じこもり、「神の御名の下」に「分け前の調整」というもっとも世俗的なことを生涯続けざるを得なかった卑弥呼にしてみれば、その世俗にまみれた地、邪馬台国がもっともふさわしい墓所だったのかもしれない、と思ったりします。。
その冢は径百余歩、徇葬された奴婢百余人と伝えられますが、百余歩、百余人というのは陳寿の潤色で、もっとささやかなものだった方が卑弥呼にふさわしい気がします。
「親魏倭王」の印綬は魏国が滅びたとき、臺與の手によって密かに卑弥呼の冢に埋納されたのでしょう。 
 
日本書紀 

 

日本書紀外観
『書紀』の性格 
天武十年の詔勅は国史編纂のためではない。集められた12名の高官は諸家の持つ帝紀・本辞の【削偽定実】をおこなうプロジェクトチームであって、天武十三(684)年に施行された「八色の姓」はかれらの成果である。
定説では、天武十年の詔が『日本書紀』編纂のスタートとされている。
当時は社会的身分秩序が天皇家との関係の濃淡により決められる社会であり、諸家は自家を有利になるように帝紀・本辞(系譜)を改ざんした。天武が指摘した「乱れ」はこのことである。
帝紀・本辞の【削偽定実】はプロジェクトメンバーと諸家の間で話し合っておこなわれた。『書紀』系譜上の辻褄合わせは、『書紀』編者あるいは諸家による一方的な造作でなく、プロジェクトメンバーと諸家双方合意の基におこなわれた。
天皇の地位を確立するために国史を編纂したのではない。「書き物」で社会改革を目論むのは思想家のすることであって、政治家は政治的手法によりおこなう。政治家であり、最高の権力を持つ為政者である天武は【削偽定実】した系譜に基づき、現実の改革をおこなった。それが「八色の姓制度」である。
『書紀』は、【削偽定実】され、国が承認した系譜を記録しておくための、いわば公認の系譜集であるから、天皇家に関わる系譜記事は、史実とは限らないが正しいものである。
世紀の大発見 『書紀』の紀年延長と延長前の紀年
国史は律令の制定に合わせ700年ころには一旦完成していた(第一次『書紀』)。
『古事記』に崩年干支註記として遺された崇神没戊寅(318年)以降、続く垂仁・景行を欠きながらも、成務以降允恭まで欠けることなく記された没年の記録は、紀年に関する唯一の古記録である。編者は編年体の史書とするため、古記録にない神武即位〜崇神および垂仁・景行・成務三代の紀年をつくった。
第一次『書紀』用として編者がつくった紀年は神武〜崇神220年、神武即位西暦99年とされたが、建国の歴史が短いとして、撰上が認められなかった。現在の『書紀』は神武〜允恭の紀年を延長し、書き直したものである(第二次『書紀』)。
第一次『書紀』の短い紀年は残されている。編者がつくった神武即位〜崇神没220年と垂仁〜成務三代37年は『書紀』に [延長前紀年=没紀年−立太子紀年] として隠してある。つまり『書紀』神武紀〜成務紀の立太子紀年は延長した年数を示している。
定説では、崇神以前の紀年に関する記録は何もないとされる。
崇神に始まる崩年干支古記録は『古事記』崩年干支註記として遺された。『古事記』は古記録を遺すために『書紀』の副本として編纂された。
定説では、『書紀』と『古事記』はお互いに関係なく編纂されたとされる。
遺された紀年によれば、神武〜懿徳と孝昭〜孝元は別の王朝であり、崇神で統合されたことが分かる。崇神の「ハツクニシラス」という称号はこの統合に由来する。
『古事記』
『古事記』は古記録の崩年干支を残すために編纂された『書紀』の副本である。崇神〜推古の紀年に関しては、『古事記』が正しい。
定説では、『古事記』は『書紀』より早く、独自に編纂されたとする。
第一次『書紀』を否認したのは舎人親王である。そのため紀年延長をおこなう第二次編纂は親王が総裁となった。
朝廷の実力者舎人親王が『書紀』編纂の総裁を務めたことからみて、『古事記』は元明の命じたものではない。親王の指示で『書紀』と一体のものとして、企画・編纂されたものである。
『古事記』の序文は紀年延長という編纂の事情を書けない『書紀』に代わって書かれた。
「先帝殺害、皇位簒奪」事件と『書紀』の造作 
紀年延長以外の『書紀』造作は「先帝殺害、皇位簒奪」事件隠蔽を中心におこなわれた。
壬申の乱で大友皇子(天皇)を殺害し、皇位を奪った天武の行為は「先帝殺害、皇位簒奪」の大逆にあたる。天武の指示により、この事件だけでなく同様の事件が隠蔽された。
綏靖に殺害された手研耳、神功皇后と仲哀、雄略に謀殺された押磐皇子、継体の後継をめぐる辛亥の変(安閑が大郎皇子を殺害)などが「先帝殺害、皇位簒奪」事件である。大友皇子を加えた5帝は天皇でなく皇子であったとされた上(大逆でなくなる)、治世も消された。
『書紀』が元年以外に太歳を記す手研耳と神功皇后の没年、天武二年はすべてこの隠蔽に絡むもので、事件を完全に消さないための注意書きである。
この抹殺で4代(大友を含めると5代)が減少したが、『古事記』はこの皇代に一致している。『古事記』は『書紀』より後で編纂されたことがこのことにより立証される。
『書紀』雄略紀の造作
雄略の治世は466〜489年の24年であり、崩年干支は『古事記』が正しい。雄略の没年齢124歳は在位24年を伝えるための造作である。
466年を雄略元年とすれば宋遣使の雄略十二年は477年となり、『宋書』昇明元年(477)記事と一致する。
定説では、雄略の紀年は『書紀』の457〜479年とされる。
雄略の「先帝殺害、皇位簒奪」を消すため雄略の治世を繰り上げ、前代の押磐皇子の治世(458〜465の8年間)にかぶせたのである。この抹殺をするとき、没を2年多い10年繰り上げ、その調整のため、治世24年を23年に短縮、更に允恭の没を1年繰り上げる造作をおこなった。允恭の没年が『記紀』で1年違うのはこのためであって、『記紀』の編者は1年たりとゆるがせにはしていない。雄略の没年10年繰り上げの穴は仁賢の治世1年を11年として埋めた。
押磐が殺害されたのは安康殺害の直後でなく、465年である。顕宗は没年齢38歳とあるが、推定生年460年であり、安康没の458年には生まれていない。押磐殺害が465年であれば、顕宗も6歳になり、兄と一緒に逃げた話と整合する。『古事記』の記事は正確である。
従って『宋書』の世子興は押磐皇子である。
定説では、安康とされる。
允恭454年没、雄略489年没124歳、顕宗在位8年、武烈在位8年という『古事記』の記事から允恭〜武烈の紀年は復元できる。
『書紀』継体紀の造作
531年の「辛亥の変」は、継体が関係する事件ではない。継体は『古事記』の記す527年に没し、その後を継いだ大郎皇子が4年後、安閑に殺害された「先帝殺害、皇位簒奪」事件である。
継体が没した時はまだ若年であった欽明が事件の時には成人に達しており、皇位争いに加わったのであって、安閑・宣化・欽明の宮がすべて大和にあることからみても内乱ではない。
継体は大和に遷都していない。継体が遷ったという磐余玉穂宮は大郎皇子の宮である。
定説では、継体の就位には抵抗勢力があって大和に宮を置くことができず、20年になってようやく大和に遷都できたとする。
天皇の長寿
『書紀』の長寿は紀年延長に伴うものである。立太子記事にある皇太子の年齢から計算された。ただし、編者はこの年齢を重視せず、いろいろにつくって数字遊びをしている。
『古事記』の長寿は古記録に基づいている。すくなくとも崇神以降、没年齢と崩年干支は一緒に遺されていたと考えられる。
定説では、『古事記』の方が先に編纂され、そこに長寿が多いので、紀年延長と長寿は関係ないとされる。また、天皇をたっとぶ心から、伝えられるうちにだんだん長寿になったとされる。
開化以前は干支1運60年を加えているが、この年齢を基に『書紀』紀年を作り出しているので、『書紀』編纂以前に造作されていたと見られる。
崇神以降は、崩年干支と一緒に残されていた年齢を『書紀』の紀年延長(長寿化)に合わせて、太安万侶が造作した。崇神〜応神は100加算、仁徳は年齢50+在位33、履中と反正は2倍、允恭は『書紀』紀年と同じ42などである。雄略の124歳は年齢でなく、造作により変更された治世24年を残すための太安万侶の工夫である。
垂仁〜仁徳の6代はすべて親子で継承した形になっているが、景行・成務・仲哀3代は兄弟であり、オオタラシヒコ(景行)、タラシナカツヒコ(仲哀)、ワカタラシヒコ(成務)のオオ、ナカ、ワカは兄弟の順を示している。そのなかでも成務と仲哀は双子である。このことから崇神没戊寅は258年でなく318年であることが統計的にも立証できる。
応神は仲哀の子ではない。神功は摂政でなく天皇であった。応神王朝でなく神功王朝と呼ぶべきである。摂政とされたのは仲哀の死亡が「先帝殺害、皇位簒奪」とみなされたためである。
定説では、仲哀の存在は疑問とされ、また、神功は架空とされる。
『書紀』紀年の構成
『書紀』の1260年は3:4:5というブロックで構成されており、延長の計算もこのブロックごとにおこなわれている。また各ブロックの先頭になる天皇には「神号」が付けられていることから、ブロック構成は公知のことだったと見られる。
第1ブロック 神武元年(前660)〜孝元五十七年(前158) 503
サブブロック 開化元年(前157)〜開化六十年(前98) 60
第2ブロック 崇神元年(前97)〜仲哀九年(200) 297
第3ブロック 神功摂政元年(201)〜推古八年(600) 400
合  計 1260
『古事記』が推古までしか収録しないのは、この1260年に合わせたものである。
このブロック分けは、建国初期王朝、崇神による大和王朝、神功皇后による河内王朝という歴史の区切りを示すと考えられる。後世の漢風諡号の神号はこれを踏まえて付けられた。
神武に征服された大和の先住豪族は孝昭〜孝元系として天皇家との擬制的同祖関係に組み込まれた。他地方の豪族は、地方への進出がおこなわれた時代に合わせ、景行を祖として擬制的同祖関係に組み込まれた。景行は本来皇位に就いていなかったが、このために列せられた。
神功皇后の没は389年。この干支を2運繰り上げて、『書紀』の紀年は作られた。百済記の記事が2運繰り上げられたのは、皇后の没年が2運繰り上げられたことにともなうものである。
皇后の紀年の作り方は、皇后を先頭とするブロックが400年であること、治世にヒミコの遣使景初三(239)年、正始四(243)年を含むこと(擬制のため)、皇后の没が己丑であること、元年から401年目が辛酉であること、などの条件から201年元年、269年没がつくられた。    詳細は皇后の間
皇后元年が201年、そこから401年後の辛酉は推古九年になる。この年を基準に1260年遡った年が神武即位の年とされた。
倭の五王は七王
遣使年 王の名 比定天皇 定説
 413  讃    仁徳    仁徳
 421  讃    仁徳    仁徳 
 425  讃    仁徳    仁徳 
 430  讃?      履中    仁徳
 438  珍    反正    反正 
 443  済    允恭    允恭
 451  済    允恭    允恭 
 460  済?    押磐皇子 安康
 462  世子興 押磐皇子 安康 
 477  武    雄略    雄略
 478  武    雄略    雄略
 479  武    雄略    雄略
 502  武    武烈    未定  
天皇の長寿
『記紀』に記された天皇の長寿は、古代史の大きな謎のひとつとでです。神功皇后を含めた初代神武から応神まで16代の平均年齢は、『書紀』が105歳、『古事記』は97歳ですから、世界一になった現在の日本の女性より10歳以上も長寿だったことになります。とくに最高齢となる崇神の168歳などは、人間とは思えません。
【没年齢は天皇という偉大な人格を表現しようとする聖寿的なもので、伝えるうちにだんだん長寿になった】(那珂通世、三品彰英)といわれたり、古代には一年に春秋で二回、歳を数えたのではないかという【 一年二歳論】を唱える先生もいます。
なぜこのような長寿とされたのか、本当の年齢はいくつなのか。その答えは、コロンブスの卵のように単純明快です。しかも、紀年の謎を解く上で年齢が重要な手掛かりになることもわかりました。紀年の館を見ていただく上で参考になることが多いので、最初にご覧いただこうと思います。
蛇足ですがひとこと、『古事記』は『日本書紀』より後で編纂されたと考えています。
天皇の長寿
『書紀』天皇の長寿を「紀年を延長した結果、計算上でなったもの」というのは、那珂通世氏ですが、三品彰英氏は「(『書紀』より先に編纂された)『古事記』も高齢なので、紀年延長の結果とは言えない」としています。
しかし、わたしは『古事記』が後で編纂されたと考えているので、紀年延長で長寿になった『書紀』に合わせて『古事記』も長寿につくったという見方をしています。
また、『記紀』とも紀年が延長された神武〜允恭に長寿の天皇が集中していることや、『古事記』が年齢を記すのが紀年延長された神武〜允恭であるのも、紀年延長と長寿が関係していることが感じられます。
天 皇 書紀 古事記
神 武 127 137
綏 靖 84 45
安 寧 − 49
懿 徳 − 45
孝 昭 − 93
孝 安 − 123
孝 霊 − 106
孝 元 − 57
開 化 115 63
崇 神 120 168
垂 仁 140 153
景 行 106 137
成 務 107 95
仲 哀 52 52
神功皇后 100 −
応 神 110 130
仁 徳 − 83
履 中 − 64
反 正 − 60
允 恭 78という 78
安 康 − −
雄 略 − 124
清 寧 明確でない −
顕 宗 − 38
仁 賢 − −
武 烈 − −
継 体 73 43
第一部 『書紀』の長寿は計算上のもの
編者は年齢を重要視していない
『書紀』の没年齢は紀年延長の結果長寿になったことは明らかです。『書紀』には立太子の紀年と皇太子の年齢が記されており、没年齢はその年齢から計算されています。ただ、紀年を延長した上での没年齢なので編者もあまり意味のない数字と考えたのか、必ずしも計算通りではない天皇が多いのですが、計算した年齢を下敷きにした年齢であることは、神武・綏靖・仲哀・応神が計算通りとなっているだけでなく、景行の106歳は計算値143歳から、紀年を延長した年数37年を引いた数であることなどから明らかです。
計算の基礎になった立太子の年齢ですが、立太子という制度自体が存在しない時代のことですから、編者が適当につくった年齢だとみられます。
1 計算通りなのは神武、綏靖、仲哀、応神の4帝だけ。
2 懿徳から孝元まで記載がありませんが、計算値では意味がないと考え、記載しなかったのでしょう。
3 開化・崇神・垂仁三代の、115、120、140歳という数字のつくり方は、孝昭・孝安・孝霊の「延長前の紀年」(詳細は「紀年の間」)が15、20、40年とされているのと同じ手法です。
4 景行は計算値143歳との差が37になっています。景行は立太子が垂仁37年、『古事記』の没年齢が137歳と「37」が並びます。『古事記』崩年干支から計算した垂仁・景行・成務三代の在位合計も37年です。景行の年齢が古記録でなく、編者の造作だと推定されます。
5 仲哀は『古事記』も同じ52歳です。応神「胎中」天皇の父親ですから、あまり高齢とするわけにいかなかったので、古記録にあった52歳のままにしたとみられます。
6 神功皇后の100歳ですが、『書紀』編者が皇后の治世を201年〜269年の69年間と決めたとき(「皇后の間」に展示)、皇后の即位年齢が32歳であったため、100歳とされたと考えています。
第二部 『古事記』の没年齢は古記録を基につくられた
『古事記』の没年齢は何らかの古記録を基に造作したものとみられます。その造作ですが、神武から開化までは『書紀』編纂より早い時期におこなわれ、崇神以降は『書紀』の長寿に合わせるため、『古事記』の編者太安万侶がおこなったと推定しています(詳細は後述)。
日本に文字が入ってきたのは4世紀後半応神のころというのが定説です。文字のなかった頃の年齢記録は残りにくいとされていますが、『古事記』の没年齢は造作の根拠になる古史料があったとみられます。文字は応神の時代よりもっと早くから使われていたと考える方が、いろいろな点で矛盾が少なくなります。
神武〜開化は干支60で「加工」
太祖神武は137歳と長寿ですが、つづく綏靖・安寧・懿徳の三代は45、49、45歳と普通の年齢です。諡号に「孝」のつく孝昭・孝安・孝霊3代は93、123、106歳と長寿が続きますが、孝元は57歳と普通に戻ります。
長寿の四天皇から干支一運60歳を減らしてみると、神武〜開化9代は77、45、49、45、33、63、46、57、63歳となって、全体として自然な年齢になります。
干支は応神朝の頃に百済から伝えられたとされますが、崇神から崩年干支が伝えられていることから、崇神の頃には記録方法として既に用いられていたと考えるほうが自然です。
『書紀』神武〜孝元の紀年は『古事記』没年齢からつくられた
神武〜開化の年齢が造作されたのが『書紀』編纂以前といったのは、『書紀』の神武〜孝元の紀年は『古事記』に記された没年齢を下敷きにして作られているからです。このことは『書紀』と『古事記』が共通の史料を用いていることを意味しますから、『古事記』の没年齢は太安万侶のつくったものでなく、もっと古い時代の記録だとしてよいでしょう。さらにそのことは欠史八代といわれる天皇の記録が古くから残っていたことの証左にもなることです(詳細は「隠蓑の間」)。
崇神〜応神は100で「造作」
『古事記』の崇神以降に天皇の没年が干支で記してありますが、これは編者の太安万侶が古記録によって書いたものというのが定説です。この崩年干支古記録と一緒に年齢も遺されていたとわたしは考えています。崇神にはじまるこの一群は100という数字を使って造作されたとすることで謎が解けます。
1 崇神・垂仁・景行・応神の四天皇は100加算、成務は50加算、仲哀の52歳は『書紀』とも一致するので古記録のままでしょう。
2 成務が100でなく50加算とされているのは、仲哀を52歳としなければならなかったからです。100加えて145歳にすると、甥の仲哀より100歳も年上になってしまうので、50加算の95歳としたのです。
3 崇神〜仲哀五代の推定年齢と『古事記』崩年干支を組み合わせ、生年を推定してみました。
4 驚いたことに成務と仲哀は同い年なのです。このことは景行の子オオウス、ヲウス(ヤマトタケル)が双子兄弟だという景行紀の物語を想い起させます。
5 さらに「延長前の紀年」(「隠蓑の間」)によれば垂仁・景行・成務の37年は12:13:12と分けられているので、これを挿入してみると、景行と成務は4歳違いとなって、親子でなく兄弟ということになります。景行・成務・仲哀は祖父・父・甥の三世代となっていますが、実は三人兄弟なのです。また、崇神から仲哀まで各代の年齢が矛盾なくつながることから、崇神没戊寅は一説にいわれる258年でなく、318年であることが確認できます。
6 神功皇后の没年齢100歳は『記紀』で一致していますが、『書紀』の記述に『古事記』が合わせたものです。皇后の即位は32歳ですから生まれは332年、311年生まれの仲哀とは21歳違いで、おかしな年齢ではありません。皇后の没年己丑を389年としてみると58歳で、これも普通の年齢です。皇后の「己丑没」は古記録だったのですが、皇后が摂政とされたために『古事記』に註記できなくなり、『書紀』に記載したと考えています。
7 応神は仲哀の子ですが、仲哀の没後に生まれたので「胎中天皇」といわれます。応神を30歳没とすると、仲哀の没後2年以上の空白が生じるので大きな問題ですが、『書紀』の紀年引き延ばしの際、7年から9年へと2年だけしか延長されていないこと、『書紀』で神功皇后三年に3歳で皇太子とされていることなど、「2年」が絡む記事が多いので、応神30歳は確かな伝えだと考えています。
8 また、応神は父の仲哀が没した後に生まれたというのですから、生年が推定できます。仲哀没の翌年生まれたとしても363年生まれですから、394年没とすれば32歳にしかなりません。このことからも没年齢130歳は100加算されているとするのが的外れでないことがわかります。
仁徳〜允恭はいろいろ
仁徳から造作方法が変ってきます。『古事記』は応神までは神と人の中間といわれる「中巻」ですが、仁徳からは人の世とされる「下巻」になることと関係があるのかも知れません。巻によって年齢の造作方法が変わるのは、造作が安万侶によっておこなわれたと考える一つの根拠です。
1 仁徳の83歳は在位年数33年に50を加えたとみられますが、この50は100の半分ではなく、仁徳の没年齢だと推定しています。父応神が30歳没とすると、仁徳はどんなに早く生まれても父応神が14、5歳、没時には仁徳が16、7歳にしかなりませんから、在位33年とすれば没は50歳くらいです。
2 履中は在位5年で没年齢は64歳ですが、父仁徳が50歳没とすると親子が逆転してしまいます。弟の反正も在位は5年、60歳没ですから父親と同年齢になってしまいます。
3 また、末弟允恭の没年齢は78歳、在位が17年ですから即位は62歳になり、兄の反正は60歳没なので、ここでは兄弟の年齢が逆転しているだけでなく、父仁徳より年上になってしまいます。
4 兄弟が仁徳の即位後に生まれたとすると履中、反正の没年齢は半分の32歳と30歳と推定されます。二人とも在位は5年ですから、即位は28歳と26歳になります。
5 允恭天皇の没は78歳でなく、『書紀』で紀年とされている42年が没年齢だと推定しています。『古事記』の没年齢を『書紀』の紀年とするのは孝元57、崇神68に例があります。允恭の没年齢を42歳とすれば、在位17年ですから即位は26歳になって三兄弟の年齢がつながります。允恭がなぜ78歳とされたのかは解明できていませんが、あえてこじつけるなら120(干支二運)−42=78 としてつくられたとしておきます。
『古事記』長寿は『書紀』の紀年延長に合わせたもの
『書紀』は天武が壬申の乱でおこなった「先帝殺害、皇位簒奪」と同様事件を抹殺しました(「虐殺の間」に展示)。これによって数代の天皇が抹殺されたのですが、『古事記』の天皇は『書紀』と完全に一致しています。このことは『古事記』が『書紀』より後で編纂されたことの明証といえます。『古事記』の編纂に着手したのは『書紀』の紀年延長が決まってからで、崇神以降の没年齢は『書紀』の紀年延長に合わせるため、編者太安万侶が造作したと推定しています。
崇神から応神という一群の天皇の年齢が100(あるいは50)を引くと通常年齢になるということは、三品彰英氏のいうように天皇を敬う気持ちからだんだん長寿になったというようなものでなく、明らかに同一人による造作で、100という中国好みの数字を使う手法からみても、造作は太安万侶によると断定しています。
第三部 没年齢は語る
景行・成務・仲哀の三代は兄弟
前出のように景行・成務・仲哀の三代は兄弟です。当時は末子相続でしたから成務が天皇になり、仲哀は早世した兄景行に続いて征討のため九州に在住していたのが、成務が没したのでヤマトの王に推されたと考えるほうが、九州に宮を置いたことや神功皇后の東征を理解しやすくなります。
また、景行・成務・仲哀の三代が兄弟なのは、オオタラシヒコオシロワケ(景行)、タラシナカツヒコ(仲哀)、ワカタラシヒコ(成務)という名からも推定できます。オオは長男を意味し、ワカは一番末、ナカは三人兄弟の中を指し、末子のワカ(成務)が皇位を継ぎ、没後継嗣がいなかったので次兄のナカ(仲哀)が後を継いだと考えれば、当時は末子継承であったこととも整合します。
オオタラシヒコを偉大な天皇、ワカタラシヒコを若い天皇、タラシナカツヒコを中継ぎの天皇とする説もありますが兄弟の名と考えるほうが自然だと思います。
『古事記』には垂仁とヒバスヒメの間に生まれたのが、イニシキノイリヒコ、オオタラシヒコオシロワケ(景行)、オオナカツヒコ、ヤマトヒメ、ワカキノイリヒコの5人とありす。オオナカツヒコがタラシナカツヒコ(仲哀)に、そしてワカキノイリヒコがワカタラシヒコ(成務)につくられたとも考えられます。
景行は天皇ではなかったのが挿入された
景行・仲哀・成務三兄弟のなかでも景行は疑問の多い天皇です。末子継承の順で成務、仲哀は皇位に就き、長兄の景行は皇位に就かなかったのですが、地方豪族を擬制的に天皇家に結びつけるために皇位に列せられたと考えています。天武の定めた八色の姓で「別」とされるのは、地方の景行天皇系豪族です。
崇神に始まる崩年干支の記録が、続く垂仁・景行に記されていませんが、没年齢も崩年干支も伝わらなかった景行を挿入したため、垂仁の崩年干支を消して、ぼかしてしまったとも考えられます。
景行が挿入される前の37年ですが、2代で37年を3代に分けるとき、景行と成務が兄弟であることから考えて、景行の挿入前の紀年は垂仁が12年、成務が25年だったと推測しました。これで計算すると、垂仁の生まれは278年、父崇神28歳の子で、330年没、年齢53歳ということになります。成務は垂仁33歳のときに生まれたことになります。
そうすると、垂仁は278年生まれ(崇神28歳のとき)330年没、成務は311年生まれ、景行は成務より2、3歳上と見ればよいでしょう。仲哀が父ヤマトタケルを早くに亡くしたと物語は伝えていますが、仮に景行が308年生まれ、25歳没として332年、仲哀22歳の時ですから、ヤマトタケルの物語とよく合致します。このように景行は皇位に就かなかったため没年齢や崩年干支が伝わらなかったので、37歳はつくりものだと判断されます。
仲哀と応神は実の父子ではない
応神の没は崩年干支に従えば394年です。没年齢30歳とすれば、生まれは365年ですから父仲哀の没362年との間に丸2年の空白があることになり、二人は親子ではないことになります。
神功皇后は仲哀の没後、応神の摂政でなく天皇の位に就いたと考える方がいろいろなことが理解しやすくなります。いくら皇后の力が強大だったとしても、胎児を皇位に就けることはできないでしょう。まして大和にはカゴサカ皇子、オシクマ皇子という仲哀の遺児がいたのですから。
皇后が大和に入るときカゴサカ、オシクマとの戦いが小規模で済んだのも、皇位に就いているという大義名分があったからと考えれば理解できます。成務の腹心だった武内宿禰が皇后側に参じたのも、皇位というものの存在があってのことか、あるいは皇位の重さを知る宿禰の入れ知恵でしょう。
皇位に就いていた神功皇后が摂政とされたのは、皇后即位の事情が「先帝殺害、皇位簒奪」(詳細は「殺戮の間」)に当たると天武が疑って、皇后が皇位に就いたことを認めなかったからです。
雄略の124歳は没年齢でなく、治世24年を伝えている
上述したように、『書紀』の紀年延長に合わせて『古事記』の没年齢が長寿に造作されたのですが、雄略の124歳は紀年延長とは関係ありません。この124歳という数字は没年齢ではなく、『書紀』が雄略の紀年を繰り上げる造作をおこない、紀年24年を23年に1年短縮したので、雄略の治世が24年であることを伝えるために『古事記』の編者太安万侶がつくり出したものとわたしは考えています(詳細は「殺戮の間」)。
むすび
これまでの古代史学では、年齢に関して冷淡だったと思っています。年齢のように、訳の分からないものを手がけても、成果を得られないだけでなく、馬鹿にされるという雰囲気も感じられます。年齢に対してまともに取り組んだ学者はなかったといえます。「一年二歳論」という際物的な論も出されましたが、ピタリとはまることはありませんでした。
『古事記』が崇神168歳、垂仁153歳、景行137歳、成務95歳と並ぶ中で仲哀のみ52歳とされ、しかもこの52歳は『書紀』とも一致しているにもかかわらず、何ら考究の対象として採り上げようとしていないのです。『古事記』宝算のように、一瞥すれば、ある程度の造作方法が浮かんでくるような簡単なものですら「天皇をたっとぶ心からだんだんに長寿になった」などとして、研究する対象ではないと最初から放棄しています。
しかし、『古事記』は神武から允恭まで、つまり『書紀』が紀年延長をおこなった天皇の宝算はすべて記載しています。この一事を見ても、紀年研究に宝算を組み合わせなければならないことが分かります。
『古事記』の長寿は三品彰英氏のいう聖寿的なものでなく、『古事記』編纂時の造作によるものです。年齢の解読によって景行・成務・仲哀三帝が兄弟であることがわかり、雄略の124歳のように年齢を示すだけではない場合のあることも判明しました。「殺戮の間」に展示してあるように、顕宗の没年齢38歳や継体の43歳なども、紀年を解読する上では重要な鍵になります。したがって没年齢を紀年と関連づけて研究する意義は十分にあるのです。
一言で「造作」といいますが、数字を造作するのは容易ではありません。とくに紀年のように生年、没年だけでなく立太子、即位、後継者との年齢差などいろいろに関連する数字を矛盾なくつくることは不可能といえます。いくら注意してつくっても必ず矛盾が出てきます。紀年の矛盾から没年齢を解明し、没年齢の矛盾から紀年を解明するよい手掛かりになります。 
延長前の紀年 
『書紀』の紀年は延長されているというのは定説なのですが、では、延長される前はどうだったのかというと、答えはありません。以下は、その「延長される前の紀年」なのです。この紀年は『書紀』の編者がつくったものと見られます。史実ではありませんが、『書紀』編纂当時の人の歴史認識を知ることができます。
第一部 紀年の考え方
『記紀』の紀年
建国の歴史は自然に出来るものではありません。国がつくるものです。ですから建国当時の歴史が二つあることはありません。『書紀』『古事記』という同じ時代を扱った二つの歴史書が同時に、それも両方とも勅撰でつくられたことは異常ですが、その二書に書かれた「時」がまったく食い違うことが、「紀年論」という奇妙な学問を生み出しました。
『日本書紀』と『古事記』の紀年対比(神武から崇峻まで)
代 天 皇 古事記
崩年干支 古事記
在位年数 書紀治世 書紀
在位年数
1 神 武 − − 前660〜前585 76
空 位 − − 前584〜前582 3
2 綏 靖 − − 前581〜前549 33
3 安 寧 − − 前548〜前509 38
4 懿 徳 − − 前508〜前477 34
空 位 − − 前476 1
5 孝 昭 − − 前475〜前393 83
6 孝 安 − − 前392〜前291 102
7 孝 霊 − − 前290〜前215 76
8 孝 元 − − 前214〜前158 57
9 開 化 − − 前157〜前 98 60
10 崇 神 戊寅(318) − 前 97〜前 30 68
11 垂 仁 − − 前 29〜70 99
12 景 行 − −  71〜130 60
13 成 務 乙卯(355) 37 131〜190 60
空 位 − − 191 1
14 仲 哀 壬戌(362)  7 192〜200 9
神 功 己丑(389) 27 201〜269 69
15 応 神 甲午(394)  5 270〜310 41
空 位 − − 311〜312 2
16 仁 徳 丁卯(427) 33 313〜399 87
17 履 中 壬申(432)  5 400〜405 6
18 反 正 丁丑(437)  5 406〜410 5
空 位 − − 411 1
19 允 恭 甲午(454) 17 412〜453 42
20 安 康 − − 454〜456 3
21 雄 略 己巳(489) 35 457〜479 23
22 清 寧 − − 480〜484 5
23 顕 宗 − − 485〜487 3
24 仁 賢 − − 488〜498 11
25 武 烈 − − 499〜506 8
26 継 体 丁未(527) 38 507〜531 25
空 位 − − 532〜533 2
27 安 閑 乙卯(535) 8 534〜535 2
28 宣 化 − − 536〜539 4
29 欽 明 − − 540〜571 32
30 敏 達 甲辰(584) 49 572〜585 14
31 用 明 丁未(587)  3 586〜587 2
32 崇 峻 壬子(592)  5 588〜592 5
33 推 古 戊子(628) 36 593〜628 36
   表註
   1 推古以降『古事記』には記載がないので省略する。
   2 『書紀』の最後は持統天皇 治世は687〜697年の11年間
   3 神功皇后の崩年干支「己丑」は『書紀』からとった。
『書紀』は歴代天皇の元年の干支と元年から没までの紀年が記されているので、容易に西暦に換算できます。ところが『古事記』は収録する33天皇のうち15代に崩年の干支が記されているだけで紀年がありませんから、『書紀』と一致することが確認できる推古あたりから、干支1運(60年)以内に前代の没年を求めるというやり方で遡って西暦に換算します。
この方法で成務までは天皇ごとの紀年が求められますが、崩年干支がないところは計算できません。開化の崩年干支がないので崇神の紀年はわからないし、続く垂仁、景行もないので垂仁〜成務3代は合計37年は分かっても、個々の紀年は分かりません。
『書紀』の紀年は神武まで整然と書かれているのですが、ちょっと見ただけで作り物だと判断できます。一方の『古事記』崩年干支は一体史実なのか、つくられたものなのか、むずかしいところです。記録が連続する成務没から允恭没までの100年間の7代を見ても1代の平均が15年ほどですから、つくりものとは思えない数字です。
しかし、日本に文字が伝えられたのは応神朝のころだから、それ以前の記録は信頼できない、という人もあります。崇神以前の崩年干支を記していないのは、このあたりから記録が始まったからで、かえってその方が真実みがある、ともいわれます。しかし允恭以降になって記録のない天皇の多いことも気になります。
一見本当らしく見える『古事記』の崩年干支は崇神以前の天皇にはありません。そうかといって『書紀』の数字はまったく信頼できないので、神武がいつころの天皇だったのか、誰でも気になりますが分からないのです。
黒板勝美という博士が【神武天皇から開化天皇までは何等年紀を考察するに足るべき史料が遺されていないのであるから、神武天皇の御即位紀元は、学術的にいへば、之を不明とすべきものであって、必ずしも御代数と平均年齢とによって之を推算し、神武天皇の御即位が何年前であるかを定むべき必要を認めない】といっているくらいです。
『記紀』紀年の食い違い
紀年が『書紀』と『古事記』でこんなに違うのは基になった史料が異なるからだ、という説もありますが、この二書は天皇の命令で同時期につくられたのですから、当時入手できる最高の史料を用いた筈で、こうした史料が何種類もあるわけはありません。史料が異なったにしても、違うのは部分的で、このように全面的に違うことはないでしょう。また、『記紀』二書の天皇が代数・名前とも完全に一致しているのは、史料が同じだということの証拠です。同じ史料を基にしたのですが、何らかの事情でこのように異なる年表が出来上がったと考えるのが合理的です。
第10代崇神の没は『書紀』が前30年、『古事記』は318年ですから同じ天皇でありながら350年の違いがありますが、第19代允恭では『古事記』が454年没、『書紀』は453年没で、わずか1年の違いしかありません。安康以降も違いはありますが、允恭以前のようにどんどん差が大きくなっていくことはありません。延長されているのは『書紀』の全体ではなく、允恭より前で、允恭を境にして紀年の食い違う理由が違うとみられます。
允恭以前が延長されている、というのは半ば常識になっていますが、何をどのように延長したのか、最初からこのように長い在位年数が考え出されたのか、まったく判らないといわれてきました。しかし、『古事記』崩年干支がある天皇には二つの数字があるわけで、その二つともデタラメだということは考えられません。それでは数字を二つ書いておく意味がありません。二つあるのならどちらかが正しいと考えるべきでしょう。もしどちらを採るかといえば、もちろん『古事記』の数字です。『書紀』は「国撰」です。「国撰」は国家の威信のために造作される可能性があります。「私撰」の『古事記』にはその必要がありません。那珂博士は【允恭までは『古事記』が正しいと考えるが、安康以後は『書紀』が正しい】としていますが、史料をそのように使い分けるのは非常に危険です。とにかくここでは『古事記』に崩年干支がある天皇は、崩年干支が基になった記録で、『書紀』の紀年はこれを引き延ばしたものだと単純に考えておくことにして、問題が出たら改めることにします。
『古事記』の崩年干支は崇神までしか書いてありませんが、古い時代の記録はなかったと考えるのも自然です。必要があって崇神以前の天皇の記録をつくるときには、『古事記』と似たような年数でつくるのが普通で、最初から『書紀』にあるような長い紀年をつくることは考えられません。
こうした仮説を立証するには、何を措いてもそれらしい数字を見つけ出さなければなりません。『古事記』の記事には数字がありませんから。数字を探すのなら『書紀』です。同じ書の中に二つの数字があるのか心配でしたが、とにかく探すことにしました。それが「世紀の大発見」に結びついたのです。
1 神武紀から成務紀にわたって書かれた立太子記事は、延長前の紀年を隠すためのものである。
2 立太子紀年は延長した年数である。 [没紀年]−[立太子紀年]=[延長前の紀年]
3 立太子記事による紀年隠しは成務までである。つぎの仲哀以降允恭までは『古事記』崩年干支によって紀年が算定できる。つまり立太子紀年と崩年干支は同じ機能を持つものである。
4 [延長前の紀年]による神武即位は西暦16年であるが、補正すると西暦99年となる。
5 紀年をさらに分析すると、孝昭〜孝元と開化は大和周辺の土着豪族だが、擬制的同祖関係とするために皇統に組み込まれたと見られ、神武の直系は綏靖・安寧・懿徳のあと崇神に続くと推測される。この推測によれば、神武天皇即位は215年になる。ただし、これは史実ではなく、『書紀』編者が建国の歴史をその程度と考えていたことを示している。
第二部 「世紀の大発見」 隠された紀年
立太子の紀年は[延長した年数]
『書紀』の帝紀記事には即位、没のほか都を定めた年、先帝を陵に葬った年、皇后を立てた年、皇太子を立てた年などいろいろな「時」の記録がありますが、紀年に絡む可能性のある記事として「皇太子を立てた年」に目を付けました。皇太子の年齢から計算すると、生まれたときの父帝の年齢は50歳以上が多いのですが、ほかの記事をみるとほとんどの天皇は即位前に妃を娶り、子もいるのですから、この数字はつくられたものと推測しました。
『書紀』の紀年は延長されていると考えれば、 [書紀・紀年]=[延長前の紀年]+[延長した年数] ですから、立太子の紀年は[延長前の紀年]か[延長した年数]のいずれかだと推定されます。
表1の[立太子紀年]の合計は302年、207年など端数なので、こちらは作られた数字ではないと推定されます。[没−立太子]は神武から孝元までの合計が200年、開化〜成務140年というラウンドになっていますから、こちらが作った数字だと判断されます。
崇神には崩年干支があるのですが、垂仁・景行二代の崩年干支が欠けているので紀年をつくるとすれば成務まで必要です。垂仁・景行・成務三代が88年ですから、成務没を355年として計算すると神武の即位は西暦16年になります。
表1  「立太子」と「没」のセット
天 皇 没紀年 立太子紀年 没−立太子
神 武 76 42 34
手研耳  3 −  3
綏 靖 33 25  8
安 寧 38 11 27
懿 徳 34 22 12
孝 昭 83 68 15
孝 安 102 76 26
孝 霊 76 36 40
孝 元 57 22 35
計 − 302 200
開 化 60 28 32
崇 神 68 48 20
垂 仁 99 37 62
景 行 60 46 14
成 務 60 48 12
計 − 207 140
表1からはつぎのようなことが読み取れます。
1 『記紀』では皇列に入らない手研耳の在位3年が200年の中に含まれています。この数字が作られた時点では手研耳は天皇とされていたと推定されます.。手研耳が抹殺されたことについては「殺戮の間」をご覧ください。
2 垂仁の62年ですが、50年引いた12年と考えられます。垂仁の治世は99年と長く、12年にするのには立太子が87年になってしまい、21歳の皇太子(68歳の子)ではあまりにおかしいため、50年引いた37年立太子にしたのです。垂仁〜成務三代は38年になり、神武即位は西暦66年になります。
3 垂仁〜成務の合計が38年となれば『古事記』崩年干支による三代の合計は37年なので、この数字が紀年であることはまず間違いないと考えられます。この1年の違いは開化を挿入するとき垂仁〜成務に1年加えられたためと考えられます(詳細は後述)。
孝昭〜孝元四代は神武とは別系統
表1に戻って数字のつくり方を分析してみます。便宜上、手研耳を含めた神武〜懿徳五代と諡号に「孝」のつく孝昭、孝安、孝霊、孝元四代を分けてみました。仮に神武グループと孝昭グループと呼ぶことにします。開化は200年から仲間外れです。
1 二つのグループで200年を分けると、神武グループが84年、孝昭グループは116年ですが、神武グループに開化の32年を加えると孝昭グループと同じ116年になります。200年という数字だけでもつくられたことは疑いないのですが、さらにこのように二つのグループの数字を一致させてあるのは、つくられた数字であることが明らかなだけでなく、紀年をつくった編者がこのグループの存在を意識していたことを示しています。つまり二つのグループは並立した別勢力だったものを、系譜作りの際、直列につないだのです。『書紀』紀年でも懿徳と孝昭の間には1年の空位が置かれていますが、何らかの意味があることを示しています。
2 開化は神武グループに属しているようにみえますが、神武〜孝元200年と崇神20年は対としてつくられた数字で、最初からその間に開化32年を挟み込んで数字をつくることは考えられません。開化は紀年つくりの最初の段階では皇統譜に入っておらず、後で崇神の前に挿入された疑いが濃厚です。
3 垂仁〜成務が37年でなく38年とされたのはなぜか、数字のつくり方を考えてみました。
崇神の20年、神武〜孝元の200年が決まった後に開化を挿入する必要が生じたとき、きれいな数字にこだわる編者は開化〜成務の合計を90年というきりのよい数字につくろうとしたのです。それには開化を33年につくらなければならないのですが、33年では神武〜開化が233年という奇数になってしまい、神武グループと孝昭グループに等分できません。偶数にするために開化を32年とし、1年を景行に加えたので垂仁〜成務37年が38年になったと推定されます。
神武〜崇神220年、神武即位西暦99年
以上のように、『書紀』に隠されている紀年は神武即位〜成務没までが290年で、神武即位は66年になっていますが、最初につくられた時(開化が挿入される前)は神武即位〜成務没が257年、神武即位は西暦99年だったのです。(表2)
表2 『書紀』に隠された紀年
天 皇 在位年数 治  世
神 武 34  99〜132
手研耳  3 133〜135
綏 靖  8 136〜143
安 寧 27 144〜170
懿 徳 12 171〜182
孝 昭 15 183〜197
孝 安 26 198〜223
孝 霊 40 224〜263
孝 元 35 264〜298
崇 神 20 299〜318
垂 仁 12 319〜330
景 行 13 331〜343
成 務 12 344〜355
仲 哀  7 356〜362
神 功 27 363〜389
応 神  5 390〜394
仁 徳 33 395〜427
履 中  5 428〜432
反 正  5 433〜437
允 恭 17 438〜454
神武即位は一応99年となりますが、孝昭〜孝元四代は神武とは別の王系とみられますから、この116年を抜くと、神武即位は215年ということになります。
なぜ短い紀年をつくったのか
『書紀』編者がこのような紀年をつくったのは国史編纂の史料を集めたとき、紀年に関する古記録としては崇神までの崩年干支しかなかったので、編年体の史書とするためには、古記録にない部分は編者がつくらざるを得なかったのです。詳しいことは「親王の間」に譲りますが、『書紀』は700年頃短い紀年で完成したものの、紀年が短いとして撰上が認められず、延長作業の上完成したのが現在の『書紀』だと考えています。
第三部 造作を伝える立太子記事の形
『書紀』を編年体の史書とするため、編者は古記録にない部分の紀年は自分でつくったのですが、それは[延長前の紀年]= [没紀年]−[立太子紀年]という形で『書紀』に隠されていると説明しました。しかし編者は紀年を隠したことがはっきりわかるように、神武から成務の立太子記事をほかの代とは区別して書き分けています。立太子記事についてもう少し詳しくみておきましょう。
「紀年の隠し場所」を知らせている立太子記事の型
立太子記事から、まず気づくのは神武から成務まで「立○○○尊為皇太子」という全く同じ形で書かれていることです。仲哀以降は記事がなかったり、『尊』が『皇子』と書かれ、『皇太子』が嗣・儲君などほかの言葉になっていたり、形が一定でなくなります。
『書紀』には初代神武から欠かさず「立太子」記事が記されています。皇位継承者をあらかじめきめておく「立太子」の制度が確立されたのは七世紀になってからで、武烈以前の記事は『書紀』編者による「造作」だとする直木氏の説があります。
では何のために造作したのでしょうか。とくに神武の場合は、天皇の没後帝位についた手研耳を倒した渟名川耳(綏靖)に兄の八井耳が皇位を譲った物語が記されており、物語では神武在世中には後継者をきめていないか、少なくとも渟名川耳を後継者に指名していないことは明らかなのですが、神武紀には【四十二年春一月三日、皇子神渟名川耳尊を立てて、皇太子とされた】と記しています。「立太子」は帝紀の必須項目ではありません。まして「ウソ」とすぐにわかることを、編者がわざわざ記しているのは、何かほかに大切な目的があってのことと考えました。
とくに神武から成務までは全く同じ形の記事です。そして同じ型の記事が成務で終わっていることに注目しました。成務は崩年干支から「紀年を算定できる/できない」という、紀年を研究する上で重要な分かれ目になっている天皇です。その紀年算定ができない範囲と立太子記事の型の範囲が一致していることから、立太子記事は崩年干支の代わりに紀年を伝えるものだとわたしは断定しました。
立太子紀年は延長した年数を示している
もし立太子記事が崩年干支に代わるものだとすれば、どのような形で使われているのかがつぎの疑問になりますが、これについては『書紀』に記された「皇太子を立てた年」は没紀年と組み合わせ、その差が「延長前の紀年」であり、 [書紀・紀年]=[延長前の紀年]+[延長した年数]で、立太子紀年は[延長した年数]を示していることは先ほど述べました。
仲哀天皇からは『古事記』にバトンタッチされた
このように「立太子」と「没」の紀年をセットにして記す形は第14代成務まで続きます。第10代崇神からは二つの記事が連続して書かれることはなくなりますが、「立太子」「没」がセットで記されていることには変わりありません。そして、成務のつぎの仲哀になると「立太子」記事はなくなってしまいます。次が応神「胎中」天皇ですから当然ともいえますが、応神紀では「嗣となす」とあり、仁徳は「太子輔」です。このように『古事記』の崩年干支がきちんと記され、それによって紀年が計算できるようになった途端に「立太子」と「没」のセット記事は形が崩れてしまうことがわかります。
まるで『古事記』に崩年干支として書いてあるから、そちらを見てください、とでもいうようなやり方ではありませんか。そこでわたしは考えたのです。ひょっとしたら編者は本当に「『古事記』をみてください」と云っているのではないだろうか。もっと進めて考えるなら、そうするために『古事記』がつくられたのではないのだろうか、と。
話を整理しておきましょう。わたしは、崇神没を318年とする『古事記』崩年干支は古記録であり、『書紀』を編年体とするため神武〜崇神220年、神武即位99年とした紀年が『書紀』編者が最初につくりだしたヤマト建国の歴史であり、西暦前660年建国としてわたしたちの前に姿を見せている『書紀・紀年』の元の姿だ、という結論に至ったのです。そして、神武〜成務の「延長前の紀年」は [延長された没の紀年]−[皇太子を立てた紀年]=[最初につくられた紀年] という形で『書紀』に遺されましたが、古記録である崩年干支は『書紀』から切り離され、『古事記』の註記とされたのだと結論づけています。
『書紀』編者がつくった紀年で垂仁・景行・成務三代の紀年を37年としていることからみて、『古事記』に書かれた崩年干支は編纂以前から存在した古記録であることは明白で、編者は古記録として遺されていたものと、自分たちがつくったものとを厳密に区別して扱っているのです。
「延長前の紀年」は国内説明用に遺された
紀年を延長した後に「延長前の紀年」をこのような形で遺したのはなぜでしょうか。『古事記』に註記したのは古記録ですから、延長したからといって消してしまうことができないのは史書編纂に携わる人にとっては常識でしょう。しかし成務天皇以前の「延長前の紀年」は史実とは関係なしに編者がつくったものですから、後世に伝える価値のあるものとはいえません。また『古事記』の崩年干支とは別にしてあることからも、遺した目的が異なるとみられます。
『書紀』は完成翌年には早くも宮廷で講書がおこなわれています。講書は当時の支配層・知識層を対象にしたのですから延長した建国の歴史がそのまますんなりと受け入れられたとは思えません。受講者から質問や異議が出て当然です。長い紀年が古くから伝えられていて、それを収録したのなら問題にならないのでしょうが、『古事記』に記されたような史料が伝わっていたのですから、講書に参加するくらいの人たちは、ヤマトの歴史がそう長くないことは認識していたでしょう。そこに同世代の『書紀』の編者がつくった異常に長い紀年を出して、「この紀年を正しいとせよ」といっても受け入れられないのは当然です。そのようなことをすれば、紀年だけでなく、生まれたばかりの『書紀』への信頼が得られなくなってしまいます。「国史」として、威厳を持たせ、広めていくには納得させることが必要で、講書はそのためのものだったはずです。
講書の記録が残されていますが、そこには紀年や『古事記』に関する質問があったとは記されていません。このことは質問が出される前、講書のはじめに紀年と『古事記』に関する説明がおこなわれたとみてよいと思います。紀年を延長した経緯と同時に、『神武の紀年は76年と本文には書いてあるが、実は綏靖を皇太子とした42年は延長した年数で、これを引いた34年が正しい紀年なのだ』という説明がおこなわれ、延長された紀年は無視するように言われれたのでしょう。神武〜成務の立太子記事が同じ形にされているのも、わかり易くするためだったのです。
むすび
時間軸のない歴史は「昔話」になってしまいます。日本の古代史には時間軸がないので文献学と考古学はいつも責任のなすり合いをしています。日本の陵墓には墓誌がありませんから、時間軸を決めるのはやはり文献になるのでしょう。しかし文献学のエライ先生方は各人各様の時間軸を作って、お山の大将を気取っています。
「世紀の大発見」はこうした状況の解消に役立つことでしょう。『古事記』の崩年干支を『書紀』の編者がが古記録として使っていたことがはっきりしたことだけでも大きな前進です。また、崇神以前の紀年は『書紀』の編者がつくったもので、史実ではありませんが、少なくとも現代の先生方が作ったものよりは、信頼が置けると思います。
作られた紀年であってもそれを通して知り得ることはいくつもあります。架空の標本のように言われていた八代の実在性が感じられようになりました。また神武〜孝元八代が神武系と孝昭系の二つに分かれ、その接点に崇神が位置することが分かり、崇神が「初国知らしし天皇」とされた理由もはっきりしました。
『書紀』の記述が信憑性の高いものであることが分かったのは、重要なことです。古代に限らず家系によって社会的序列がきめられる社会では、家系に対する関心が強いのは当然のことです。古代ヤマト国では天皇家を中心としてヒエラルキーが構成されていましたから、天皇家の系図は最も重要なものだったのです。天武が【我が朝廷の縦糸と横糸をなす大切な教えであり、人々を正しく導いてゆくための揺るぎない基盤】としたのも、こうした社会事情を踏まえてのことです。
したがって天皇家の系譜を造作するということは安易におこなえることではなかったのです。『書紀』には系図一巻が添えられていました。国として系図を認定したのです。そして『書紀』はその系図を文章化したものです。そのような系図を、簡単に「つくられた」とするのは、心すべきことだと考えています。 
辛亥の変 
大海人と大友、叔父甥で争われた壬申の乱、従兄弟の押磐皇子を狩り場に誘い出し、弓で射殺した雄略など、皇位継承をめぐる皇子どうしの争いは激しく、かつ陰惨です。こうした争いの記録を、一つ一つの事件としてみるのでなく、「先帝殺害、皇位簒奪」事件とその隠蔽工作としてみることで、『書紀』の謎解きが容易になります。
また、事件の隠蔽という共通項を鍵にすることで、先の二つの事件だけでなく、継体の没に関して伝えられる異様な事件「辛亥の変」を解き明かすことにつながりました。
事件隠蔽にどのような方法がとられたのか。『書紀』編纂の謎がまた一つ解けました。
はじめに/明治の「弘文天皇」復位は天武の遺志に叛くもの
『書紀』の紀年は允恭を境に前半は大幅に延長されていますが、後半も『古事記』との食い違いがあります。大きくは違わないだけに、大昔のことだからこれくらいは違ってもしょうがない、という見方がされています。
しかし、かりにも天皇の命令で、しかも同じ時に編纂されているのですから、違うのにはそれなりの理由があるはずです。会社でも、社長の命令でつくるモノをいい加減にすることは許されません。古代でも、宮仕えの人なら同じ心境だろうと思い、とことん考えてみることにしました。そうしたら出てきました。『記紀』の違いは1年たりといえどもいい加減なものではありません。允恭の没年が1年違うのも、ちゃんとした理由があるのです。やはり天皇の命でつくられただけのことはあります。
紀年の延長は別にして、『書紀』の編者がそのほかにも紀年を造作しなければならなかったのは、すさまじいばかりの皇位継承の争いがおこなわれたからです。
ヤマト王朝が始められたころ、天皇の位を継ぐのは末っ子だったようです。末っ子が継ぐと、年齢的にも次の後継者は兄弟でなく、子の世代になります。『書紀』を読むと、仁徳の時から、継承の仕方が長男が継ぐように改められたようです。ところが、現代のように継承順位が法律で決められているのではありませんから、長子からその長子に継ぐのでなく、長子が亡くなると弟が後を継ぐ、兄弟継承になってしまいました。こうなると、兄を除けば皇位が転がり込んでくることになります。こうして骨肉の争いが激しくなったのです。
今上天皇は125代ですが、この代数が最終的に決まったのは大正十五年ですから、つい最近のことです。明治三年に弘文、淳仁、仲恭が追加され、明治二十四年には南朝が正統とされ、北朝の5代は皇統から外されました。そして大正十五年、南朝の長慶が追加され、皇統が確定したのです。
この中で、『書紀』に関係するのは、明治三年に天皇に追加された弘文です。弘文は『書紀』には大友皇子として登場しますが、天皇とはされていません。天智の後、天武の前の682年に即位した明証があるからということで復位されましたが、『書紀』は682年は天武元年としています。天智が没したのは671年12月3日です。『書紀』は越年称元法といって、天皇が没した翌年を次の天皇の元年としています。例外はありません。ですから、天智の没した翌年672年が天武元年になっているのは正しいのですが、もし、ここに弘文が入るとすれば、天武元年はもう1年後の673年ということになります。事実『書紀』は天武の即位を673年2月27日と記しています。
「先帝殺害、皇位簒奪」というのは文字通り時の天皇を殺害して、殺害者が天皇になることです。古代史上有名な壬申の乱は天智の同母弟大海人皇子(のちの天武)と天智の子大友皇子という叔父・甥による皇位争いです。結果は大海人の勝利に終わったのですが、天武が編纂を命じた『書紀』に天皇としての大友の名はありません。明治になってから大友皇子が皇位についていた明証があるとして復位が決まり、弘文天皇とされました。
しかし、大友皇子が皇位に就いていたのならば天武は叔父・甥とはいえ大逆の罪を犯したことになります。天智没は671年12月3日ですから大友天皇が在位したとすれば672年は大友の元年になるのですが、『書紀』は天武の元年としています。壬申の乱は672年の6月に勃発し、7月23日大友皇子の自害で終結したのですから、本来であれば天武元年は673年になります。『書紀』は大友天皇の治世を抹殺するために天武元年を繰り上げたのです。この忌まわしい事件を正当化するために考え出されたのが、大友皇子がまだ天皇になっていなかったとすることです。当然その治世も消してしまいます。天皇でありながら、大友皇子とされ、その治世は天武元年を繰り上げて消してしまったのです。
自らが「先帝殺害、皇位簒奪」をおこなった天武は国史編纂に当たって同様事件をすべて国史から抹殺するよう命じたのです。しかし「天網恢々疎にして洩らさず」、明治の人が余計なお節介をしたために、結果的に天武は「先帝殺害、皇位簒奪」をおこなった、ただ一人の天皇になってしまいました。なんとも皮肉なことです。
『書紀』を探してみると、同じ手法を使って隠蔽されたと見られる事件がほかにも見つかりました。わたしはこの種の事件を「先帝殺害、皇位簒奪」と呼ぶことにしました。安康以降で『記紀』の崩年干支が食い違う雄略と継体も「先帝殺害、皇位簒奪」に関係があるのです。まず雄略から見てください。
序の部
この雄略の紀年問題を解くことで、いくつもの謎が解決します。『書紀』の造作は非常に複雑なので、結論を先に述べておくことにします。
1 『書紀』と『古事記』で雄略の没年が10年食い違うこと(紀479年没、記489年没)
2 『書紀』と『古事記』で允恭の没年が1年違うこと(紀453年没、記454年没)
3 呉(宋)と交渉のあった年が、『書紀』と中国側の記録『宋書』と食い違うこと(例:雄略十二年遣使、『書紀』は468年、『宋書』は477年)
4 462年、宋に遣使した倭王は「世子興」と『宋書』にあるが、当時は倭王武とされる雄略の治世だと『書紀』はしていること
5 雄略の没年齢が124歳と『古事記』にあること
6 造作の概要
安康が治世3年で眉輪王に殺害された後、履中の長子押磐皇子が皇位に就きました。『宋書』に世子興として出てくる天皇で、在位は8年間でした。『書紀』の編者は押磐皇子の治世8年を抹殺するために雄略の治世を繰り上げました。没年を489年から479年に10年と2年多く繰り上げたので、調整のため治世24年を23年に短縮、更に安康の治世は3年間はそのままにして、允恭の没年を1年繰り上げたのです。雄略の没年を繰り上げた10年の穴は、仁賢の治世1年を11年にして辻褄を合わせてあります。
造作前 『書紀』
允恭の没 454年 453年
安康の治世 455〜457年の3年 454〜456年の3年
押磐皇子の治世 458〜465年の8年 抹 殺
雄略の治世 466〜489年の24年 467〜479年の23年
仁賢の治世 498年の1年 488〜498年の11年
第一部 雄略による押磐皇子謀殺は市辺天皇殺害
雄略は天皇になる前に従兄弟の押磐皇子を狩りに誘い出し、「イノシシ」と間違えたふりをして皇子を射殺してしまいました。雄略が押磐皇子を殺害した事件は、この事件だけをとらえるのでなく、いくつかの事件と共通した「先帝殺害、皇位簒奪」事件として考えると、事件の性質も理解しやすくなるだけでなく、『書紀』編纂の上でおこなわれた「造作」も見えてきます。
市辺天皇という名は『記紀』の歴代としては出てきません。顕宗紀に【市辺宮に天下治しし天万国万押磐尊】とある(註1)市辺押磐皇子(履中の長子)を仮に市辺天皇としておきます。市辺は安康と雄略の間に在位したのですが、雄略に「先帝殺害、皇位簒奪」され、『書紀』では治世も抹殺されてしまいました。この事件は、允恭の後継をめぐって皇太子軽皇子の廃嫡、眉輪王による安康殺害、雄略による押磐皇子殺害と続く一連の事件とみられるので、事件の初めからお話しします。
註1 / 【市辺宮に天下治しし押磐尊】という顕宗紀の記事は、消し忘れたのではなく、押磐皇子が抹殺されたことを伝えるために、編者が書き入れたと考えられます。造作した場合何らかの手がかりを残そうとしているのです。
軽皇子廃嫡事件は安康と押磐皇子の謀略だ
仁徳が皇位継承制度をそれまでの末子継承から長子継承に変えてから、兄弟間の皇位争いが激しくなりました。その最初の犠牲者が木梨軽皇子です。軽皇子は允恭の長子で皇太子でしたが、「軽皇子と同母妹の軽大娘皇女が通じている」と讒訴するものがあり、皇太子を廃されただけでなく、弟の穴穂皇子(のちの安康)によって殺されてしまいました。
この事件は穴穂皇子が仕組んだ皇位簒奪劇とみられます。穴穂皇子は皇太子軽皇子を追い落として皇位を奪うことを計画し、従兄弟の押磐皇子に「成功したら皇太子にする」という密約を持ちかけ、二人でタブーとされる同母兄妹相姦をでっち上げたのです。後に軽皇子、穴穂皇子の末弟の雄略が押磐皇子を殺害する事件が起きますが、殺害の理由に【安康が押磐皇子に位を譲ろうとした】からと言っています。これは安康が押磐皇子を皇太子にしたということです。
安康を殺害したのは妃か
安康の皇后となった中蒂姫は天皇の叔父に当たる大草香皇子の妃だったのですが、ある事件が発端で安康が大草香皇子を攻め殺した挙句、妃を自分のものにしたという経緯があります。中蒂姫には眉輪王という連れ子がありました。即位して三年ほど経ったある日、安康は后と山の別荘でくつろぎ、后の膝枕で転寝をしているところを、近くで遊んでいた眉輪王によって刺し殺されてしまいました。父の敵を討ったのです。しかし母親の側で遊んでいるような幼い子供が一人でできることではないし、現場にいたのが三人だけとすれば、すくなくとも中蒂姫は殺害を止めることはできたはずです。殺害を手伝ったのか、あるいは后が亡夫大草香皇子の敵を討ったのでしょうか。
雄略に謀殺された押磐皇子は天皇だった
物語では、安康が殺害されたことに怒った安康の末弟大泊瀬幼武皇子(のちの雄略)は葛城の円大臣の家に逃げ込んだ眉輪王を追って、とうとう大臣もろとも焼き殺してしまったと伝えます。このとき兄皇子二人も殺害しているのです。事件はさらに続いて雄略が押磐皇子を狩場に誘い出して殺害し、安康の後は自分が皇位に就いたとあります。
しかし末弟の雄略(『古事記』はこの事件が起きた当時雄略はまだ童男だったとしています)がほかの兄二人を差し置いて安康の敵をとるというのもおかしいし、雄略がその同母兄二人を殺害しなければならない理由が『書紀』の話ではよくわからないのです。
『書紀』は押磐皇子謀殺事件が安康の事件に続いて起きたとしていますが、疑問があります。有名な倭の五王を伝える『宋書』には460〜462年、世子興の遣使を記しています。『宋書』に登場する倭王讃・珍・済・世子興・武五王のうち、雄略は武に比定されています。『宋書』の記事を正しいとすると、462年当時雄略はまだ天皇になっていなかったことになります。とすれば安康が462年まで皇位にあったことになりますが、安康の没については『書紀』が456年としているし、『古事記』の記述からも462年まで在位していたとするのは無理があります。
また、長期間空位が続くのは許されないことですから、安康と雄略の間に「世子興と名乗って宋に遣使した天皇」が在位したと考えるのが妥当でしょう。したがって雄略は安康事件から6年以上経ってから即位したことになります。そして、雄略は皇位に就く直前に押磐皇子を殺害したのですから、押磐皇子は皇位にあったとしてよいでしょう。
雄略が押磐皇子を殺害した理由に【安康が押磐皇子に位を譲ろうとした】と言っていることや、顕宗紀に【市辺宮に天下治しし押磐尊】とあることも裏付けとなります。世子興は市辺天皇(押磐皇子)だったのです。この事件の真相は、安康の没後、皇太子であった押磐皇子が皇位を継ぎ、数年を経た後、成人した雄略が、本来なら自分たち允恭系兄弟に回ってくるはずだった皇位を履中系から奪いかえそうと「先帝殺害、皇位簒奪」の挙に出たということです。
そうであれば、眉輪王が逃げ込んだ円大臣の屋敷を攻め、眉輪王と円大臣を殺害したのは雄略でなく押磐皇子だと考えるほうがよさそうです。雄略の兄二人を殺害したのも押磐皇子でしょう。どさくさにまぎれ皇位争いの対抗馬を亡き者にしたのです。雄略は後に円大臣の遺児、韓媛を妃にして清寧をもうけていますから、眉輪王と円大臣を殺害したのが雄略でないのは明らかです。雄略はもっとも残虐な帝王とされていますが、それは濡れ衣だったのです。
天武の祖先は継体です。継体の皇后手白香は仁賢の皇女ですから押磐皇子の孫になります。こうしたことから雄略が悪者にされたのでしょうか
『書紀』は市辺天皇の治世を消した
雄略の崩年干支は『古事記』が正しい
上記のように安康と雄略の間に「市辺天皇」が在位したとすると、市辺・雄略の治世はどのようになるのでしょうか。
『書紀』は雄略の没を479年としていますが、『古事記』は10年あとの489年としています。『宋書』記事からみて『書紀』の紀年は疑いがあるので、『古事記』の489年没として考えてみます。雄略の在位を23年とするなら、467〜489年が雄略の治世となり、458年から466年まで9年間世子興が在位したとすれば、『宋書』との整合がとれます。(表1)
表1 『古事記』崩年干支による雄略治世の推定
天 皇 書紀在位 古事記 推定在位 在位年数
允 恭 〜453 〜454 〜454 −
安 康 454〜456 − 455〜457 3
市 辺 − − 458〜466 9
雄 略 457〜479 〜489 467〜489 23
『宋書』と雄略紀の比較
1 雄略紀には呉(宋は三国時代の呉の故地なので、『書紀』では宋と呼ばず「呉」としています)との交渉記事を3回載せています。『宋書』と『書紀』を突き合わせて、雄略の治世を調べてみましょう。
『書紀』雄略紀の呉国関係記事
雄略天皇六年(462)夏四月、呉国が使いを遣わして貢物を奉った。
同   八年(464)春二月、身狭村主青と桧隈民使博徳を呉国に遣わされた。
同   十年(466)秋九月四日、身狭村主青等が、呉国の献上した鵝鳥を云々(帰国)
同   十二年(468)夏四月四日、身狭村主青と桧隈民使博徳とを呉国に遣わされた。
同   十四年(470)春一月十三日、身狭村主青らは、呉国の使いと共に云々(帰国)
『宋書』の倭国関係記事(460年以降) 大明四年(460)十二月、倭国遣使、方物を献ず
大明六年(462)三月、倭国王世子興を安東将軍と為す
昇明元年(477)冬十一月、倭国遣使、方物を献ず
同 二年(478)五月、倭国王武遣使、安東大将軍と為す
建元元年(479)五月以後、安東大将軍倭王武を鎮東大将軍と為す(『南斉書』)
六年遣使は世子興の事績
雄略紀六年(462)の記事は呉の使者が貢物を持ってきたというのですが、倭王が呉から「安東大将軍」などという称号を与えられるのは倭が呉の冊封体制の下に入っていることを示すことですから、呉の側から倭に「貢物を奉る」ことはあり得ないことです。『書紀』が雄略六年とする462年ですが、『宋書』には倭王世子興を安東将軍に除したと記されています。使節は460年に渡航し、462年に帰国したとみられ、『書紀』にある記事はこの帰国のことだと推定されます。
雄略八年の遣使はねつ造記事
雄略八年(464)から十年(466)の遣使記事に対応する『宋書』記事はありません。この期間は表1からも雄略の治世ではありません。記事に書かれた出発の時期が航海には不向きな2月だったり(通常は4月出発)、帰国も台風シーズンの9月としていること(通常の帰国は初冬)、使者の身狭村主青ら二人は帰国して2年後にまた使者に選ばれるのですが、命がけの旅をするこの時代に、このような使者選びは考えられないことや、かれらが呉国からの贈り物として持ち帰ったという鵝鳥は従順を示すといわれ、呉国から倭国に贈られるには相応しくなく、むしろ呉に持っていくために準備した鵞鳥が食われたのではないかなど、全体が編者によりねつ造された記事とみられるのです。なぜ「ねつ造記事」を載せたのかは後で説明します。
雄略十二年は宋の昇明元年(477)
雄略十二年(468)〜十四年(470)の遣使に対応する『宋書』の記録はありませんが、雄略の遣使は1回だけとみられますからこの遣使は『宋書』にある
・昇明元年(477)倭国遣使、方物を献ず。
・同 二年(478)倭国王武遣使、安東大将軍と為す。
・建元元年(479)安東大将軍倭王武を鎮東大将軍と為す。(『南斉書』)
という一連の記事に該当するとして誤りはないと思います。
表1にあるように雄略元年を467年として計算すると雄略十二年は478年になり、『宋書』の477年と1年の違いになります。逆に477年が雄略十二年にあたるとしてみると、雄略元年は467年ではなく466年になり、『古事記』の没年489年は雄略二十四年になります。したがって、『宋書』の記事と『古事記』の崩年干支を正しいとすれば、雄略の治世は466〜489年の24年間だということができます。(表3)
表3『古事記』崩年干支による雄略治世の推定(修正)
天 皇 書紀在位 古事記 推定在位 在位年数
允 恭 〜453 〜454 〜454 −
安 康 454〜456 − 455〜457 3
市 辺 − − 458〜465 8
雄 略 457〜479 〜489 466〜489 24
雄略没124歳は在位24年を伝えるための太安万侶の工夫だ
そこで雄略の在位が24年であることを示す手掛かりがないか探して見ました。『古事記』には雄略の在位年数は記されていませんが、没年齢を124歳としています。『古事記』で没年齢が百歳を超える天皇は「中ッ巻」の崇神から応神に集中していて、「下ッ巻」では雄略だけになります。「中ッ巻」では元の年齢に百歳加算されたと考えても不自然ではない例が多いのですが、雄略の場合100歳減らすと24歳になりますから年齢ではないようです。『古事記』がこのような長寿としているのに、『書紀』が年齢についてまったく触れていないのも不思議です。どうやら没年齢124歳は年齢でなく、在位24年を伝えるとみなしてもよさそうです。
つまり雄略の治世は、元は466年〜489年の24年間だったものを、『書紀』編纂のときに457〜479年に繰り上げると同時に在位も23年間に短縮したと考えられるのです。このことは『古事記』崩年干支が正しいことを立証するだけでなく、『書紀』の雄略十二年は『宋書』など外国の史料からの引用でなく倭国独自の史料によると見られることから、『宋書』と『書紀』という二国の史書の記事が一致する初めての例といえ、同時に讃以降続いた遣使がヤマト王権によっておこなわれたことの明証といえます。
雄略治世の繰上げは「先帝殺害、皇位簒奪事件」抹殺のためだ
1 雄略の治世を466〜489年とすると、安康(455〜457年)の後を継いだ市辺の治世は458年から465年までの8年間になります。(表3)
2『書紀』の編者は市辺の治世を抹殺するため雄略の治世を繰り上げたのですが、8年でよいところを10年繰り上げたのです。これは間違えたのでなく、編者の遊びです。その余分に繰り上げた2年を調整するために治世24年を23年に短縮し(元年は9年繰り上げ)、さらに允恭の治世に1年食い込ませたために允恭の没年が『書紀』と『古事記』で一年食い違うことになったのです。
3 したがって允恭の崩年干支が『記紀』で1年食い違うことについて、江戸時代の学者本居宣長が【甲午の年は、書紀では、安康天皇の元年である。これは允恭天皇の没した年を安康天皇の元年とすれば、合っている】としているのは誤りといえます。
雄略の紀年を繰り上げる造作をおこなったのは、いうまでもなく雄略がおこなった「先帝殺害、皇位簒奪」を消すことにあったのです。大友皇子と同じように殺害された市辺は「天皇」ではなく押磐「皇子」だったことにされてしまいました。
『古事記』は『書紀』の後で編纂された
また、この造作は天武がおこなった「先帝殺害・皇位簒奪」が絡んでのことですから『書紀』編纂のときにおこなわれたことは明らかです。そのときに市辺が抹殺された、つまり歴代が一代減らされたのです。したがって『書紀』と『古事記』の天皇が一致しているのは『書紀』の歴代が決まった後で『古事記』が編纂されたことの明証となります。
遣使記事の造作はヤマト国を偉く見せかけるためだ
つぎに対呉国遣使記事がねつ造された目的について述べます。
『書紀』編者の持っていた古史料には「世子興」の庚子(460)遣使と雄略の十二年丁巳(477)の遣使記録が遺されていたと考えられます。『書紀』の編者はヤマトをより偉大な国に見せかけるために、雄略の477年呉国遣使をヤマトから求めたことでなく、呉国が貢献して来たことへの答礼として訪問したようにつくろうと、いろいろ画策しているのです。従順を示すといわれる鵝鳥を呉国からの贈り物として持ち帰ったなどという話を作ったのはその表れの最たるものです。
雄略による呉国への遣使は十二年の1回だけなのですが、編者は雄略元年を466年から457年に繰り上げる際、壬寅(462年)に世子興の使者が呉国から土産を持ち帰った古記録を、繰り上げ後の雄略六年の事績として取り込み、これを呉国からの献上に話をつくり替えたのです。
そして元年を九年繰り上げたのですから丁巳(十二年)遣使は二十一年に変わってしまいますが、元の記録にあったとみられる「紀年十二年」で記載しています。この十二年遣使を雄略の治世繰上げに合わせて変更しなかったのは、二十一年としたのでは六年の「呉使来朝」から間が空き過ぎるからで、答礼の訪問とするために間を空けないよう十二年のままとして、更に間に八年の遣使をねつ造して一連の外交記事に仕立て上げたのです。このことから、雄略の時には干支だけでなく「紀年」が使われていたことが推察されるのです。
允恭〜武烈の紀年は復元できる
雄略の崩年干支が己巳(489)として、清寧以降の紀年を推理してみます。
武烈の崩年干支はありませんが『古事記』は在位8年としており、『書紀』と一致していますから、武烈の治世は『書紀』と同じ499〜506年としておきます。したがって清寧・顕宗・仁賢の3代は490年から498年の9年間ということになります。『古事記』は顕宗を8年としていますから、清寧と仁賢は合わせて1年ということになります。『書紀』は雄略の崩年干支を10年繰り上げた際、仁賢の在位を11年としていますから、仁賢が1年在位したとみられ、清寧は即位したものの元年を迎えないままに没したのでしょう。允恭から武烈までの復元した紀年は表4のようになります。
なお仁賢の11年ですが、雄略の紀年を造作した際に、元年・没年とも繰り上げていますが、元年だけ繰り上げ没年はそのままにして紀年を延長する方法もあったはずです。そうしないで没年を10年繰り上げ、仁賢の治世を1年から11年にしたのは前述した天武ー継体ー手白香皇女とつながる仁賢の在位が1年なのを延ばしたいと考えたのでしょうか。
表4
天 皇 治 世 在位年数
允 恭 438〜454 17
安 康 455〜457 3
押磐皇子 458〜465 8
雄 略 466〜489 24
清 寧 489 0
顕 宗 490〜497 8
仁 賢 498 1
武 烈 499〜506 8
『古事記』は『書紀』と連係プレーをしている
以上のように雄略の治世を466〜489年の24年間とすることによって、天皇の崩年干支だけでなく、『宋書』との違い、世子興の問題、允恭の崩年干支のことなど、雄略紀をめぐる紀年の問題のほとんどが矛盾なく説明できるようになります。
また、『古事記』が安康以降の崩年干支を記したり記さなかったりするのは、崇神〜反正は『書紀』の紀年と大きく離れていたため、『書紀』を考慮しないで註記できたのですが、允恭以降は差が少なくなったことから、全ての天皇について註記すると、たとえば、允恭で1年違うのに続いて、安康でも1年違いを記すことになるので『書紀』記述と重複し、矛盾が目立つのでそれを避けたのです。しかも、『古事記』の書き方は雄略の在位24年を124歳という年齢で示したり、顕宗・武烈は崩年干支でなく在位年数を本文に記すなど、復元可能なように配慮していることが窺えるのです。
武烈は皇女春日大娘の子ではない
雄略の没が『古事記』の489年とすると、武烈の生まれについて疑問が出てきます。
465年、顕宗・仁賢兄弟は父の押磐皇子が雄略に殺害されたとき市井に隠れ、発見されたのが雄略没の翌年とされますから490年のことになります。押磐皇子が殺害されたときに10歳前後としてもこの時には34、5歳にはなっています。『古事記』は弟の顕宗の没年齢を38歳としていますが、治世8年ですから即位のときは31歳(註2)で、『古事記』の没年齢は正しいとみられます。
仁賢が都に帰ってから、雄略の皇女春日大娘を娶り、その6番目に生まれたのが武烈だと『書紀』にありますが、490年に結婚して6番目の子となれば10年近く後の生まれでしょう。ところが武烈は499年に即位しています。武烈は春日皇女の産んだ子でなく、仁賢が市井に隠れていた時に、名もない女性に生ませた子ではないかと推測されます。発見されたときの年齢からいっても、当時仁賢に10歳以上の子があってもおかしくありません。仮に発見された490年当時武烈が10歳だったとすると、没の506年には27歳です。
武烈が暴虐な天皇とされたのは、ここで皇統が絶え、新しい継体王朝に代わったことを中国流に描いたという説が主流ですが、武烈の生まれに対する世評が根にあったのではないかと想像しています。8年もの治世実績があるのです。凡庸な人材ではなかったのでしょうが。
註2 顕宗の年齢 / 顕宗の没を497年38歳とすると、生まれは460年です。『書紀』の伝えるように安康の事件(457年)と同じ年に押磐皇子が雄略によって殺害されているとすれば、顕宗はまだ生まれていなかったことになります。押磐皇子が465年に殺害されたのなら、6歳になっていますから、兄と一緒に逃亡したとしてもおかしくありません。このことからも押磐皇子が安康事件直後に殺害されたのではないことがわかります。この辺りの『古事記』の記事は、かなり確かなようです。
第二部 辛亥の変/辛亥の変と継体は無関係
『書紀』の継体二十五年注にある辛亥の変と呼ばれる事件は、「不思議な事件」とされながら本格的な解明に取り組んだ論にお目にかかることがありません。継体に続く安閑の崩年干支は『記紀』で一致していますが、継体の没は『書紀』が531年、『古事記』が527年と食い違います。そればかりでなく、継体と安閑の間には2年の空位があり、安閑元年は534年です。『書紀』にはある説として534年に継体が亡くなったとも書いているのと、安閑が即位したその日に継体が亡くなったとあることから、534年死亡説も有力です。継体の子の欽明のあたりは記録がかなり整備されたと言われるのですが、なぜか継体にまつわる記録は曖昧です。このようなケースでは、雄略紀でみたように造作が行われた可能性があります。
欽明の元年は二つある
「ほっとけほっとけごみやさん」というフレーズをご存知ですか。日本史は暗記物でしたから、試験を前にでき事の起きた年を覚えるのに使ったのがこうしたフレーズで、「ほっとけ」は「仏」、「ごみやさん」は538さん、つまり538年仏教伝来を覚えるためのものです。わたしはこのフレーズどおり仏教が日本に伝えられたのは538年、欽明のときと覚えていたのですが、『書紀』を読んでみると「仏教公伝」は欽明の時には違いないのですが、西暦552年(欽明十三)のことだと書いてあるのです。欽明の治世は540〜571年の32年間ですから、私の覚えていた538年は欽明の時ではないことになります。私は間違ったことを一生懸命覚えていたのでしょうか。
調べてみると、仏教公伝には二つの説があることがわかりました。『書紀』には、欽明十三年百済の聖明王から釈迦の金銅像が贈られた、とあるのですが、『上宮聖徳法王帝説(以下帝説)』と『元興寺縁起』という史料には欽明七年戊午の年に仏教が伝えられたと書かれているというのです。『元興寺縁起』は『書紀』完成から25年ほど経った747年、元興寺が僧を取り締まる役所である「僧綱所」に提出した資料に書かれているものですから、信憑性の高いものです。戊午は538年にあたりますから、後者でしたらわたしの覚えていることに合致しますが、538年が欽明七年ということになれば、元年は532年となって、『書紀』のいう540年と元年が二つあることになってしまいます。
欽明元年が二つあることについて学者の間でもいくつかの説があって、そのひとつに継体の後継争いという見方があります。
継体のあとは、安閑、宣化、欽明と続くのですが、継体は531年に殺害されたと『書紀』にあります。『書紀』の継体二十五年条の註に【天皇・皇后・皇太子・皇子皆死んだ、と百済本記にある】という記事があり、継体の没年を継体二十五年(531)としたのはこの記事によったというのです。531年は干支で辛亥に当たることからこの事件は「辛亥の変」と呼ばれています。記事には「死んだ」とありますが、これは「殺された」と読むべきでしょう。
継体の嫡子は皇后の手白香皇女が生んだ欽明ですが、継体が亡くなったとき欽明はまだ若かったので、安閑・宣化という異母兄二人が先に位を継いだと『書紀』にあります。そうではなく、継体が殺害された後、すぐに欽明が位を継いだのですが、兄の安閑も名乗りを挙げ、二人の天皇が並び立って、この争いのため、安閑の即位が2年遅れて、534年になった、というのが「後継争い説」です。
しかし疑問があります。最大の疑問は、仮にも天皇・皇后をはじめ一家が皆殺しにされた大事件ですから、詳しい記事があってしかるべきなのに『書紀』の本文では一言も触れず、註に【百済本記にそう書いてある】というだけで、まるで自国の天皇に起きたことではないような書き方をしていることです。
『百済本記』がどのような史料なのか岩波大系本の註につぎのようにあります。
【『百済本記』は百済人が百済で書いた記録というような単純なものではないことである。『百済本記』では日本のことを貴国と呼び、天皇とか天朝とかの語も使う。これは明らかに日本の歓心を得ようとする目的で日本に提出した記録である。筆者は百済滅亡後日本に亡命した百済人がその持参した記録を適宜編集して、百済が過去に日本に協力した跡を示そうと、史局に提出したものではないかと推測する。】
このような性格の史料ですから、そこに相手国の天皇のことで間違えたことを書くはずはありませんし、もし間違えていれば史局から訂正を命じられていたでしょうから、「天皇・皇后・皇太子・皇子皆死んだ(殺された)」という記事は信憑性が高いといえます。そのように重大なことを【後勘校者、知之也】「後世の人が明らかにしてくれるだろう」と余所事のような口ぶりで書いているのは、何か重大なことを隠していると推測されます。
辛亥の変について『書紀』が無視ともいえる態度をとり、加害者について触れないのは、加害者は名を出したくない人、つまり皇位を継いだ人だと推測されます。したがってもし継体が殺害されたのであれば、加害者は皇子たちの誰かということになります。
しかし、皇位継承をめぐって兄弟間の争いは頻発しますが、父帝を殺害して皇位を乗っ取るという事件はありません。父帝を殺害しても汚名を被るだけで、実益はないから当然です。また、『古事記』は継体が亡くなった年を527年だと註記しています。『古事記』に従えば、辛亥の変で殺害されたのは継体ではないことになります。継体が我が子の誰かに殺害されたと考えるより、天皇は527年に没して、531年の辛亥の変は兄弟の争いと考えるほうが話の筋が通ります。辛亥の変の被害者は誰なのでしょうか。そして加害者は?
辛亥の変の被害者は大郎皇子一家、加害者は安閑だ
『書紀』は【継体の嫡子は皇后手白香皇女の生んだ欽明なのですが、まだ幼かったので皇女以外の出身である妃二人のうち目子媛の生んだ二人の異母兄、安閑・宣化が皇位を継いだ】というのです。
しかし、欽明の異母兄はもう一人、それも最年長とみられる大郎皇子がいます。大郎皇子を生んだのは三尾出身の稚子媛です。三尾は琵琶湖西岸の現在の高島市、継体天皇の生地です。父彦主人王は早くに亡くなったので母振媛は自分の故郷三国で継体を育てたということですから、三尾の稚子媛は継体が皇位に就く前、父の故地から娶った妃で、大郎皇子が継体の最初の子なのは大郎子という名からも明らかです(大郎子という名は継体天皇の曽祖父の名です)。
目子媛の生んだ安閑・宣化が皇位を継いだのなら、稚子媛は目子媛より先に妃になっている上、目子媛と同じ身分の出自ですから、大郎皇子も皇位継承の機会があったはずで、年齢からいえば安閑・宣化兄弟より先に就位するのが順当です。したがって、継体の後を継いだのは安閑でなく大郎皇子だったという推測が成り立ちます。
このように考えると、辛亥の変は継体の没後皇位を継いだ大郎皇子を異母弟の安閑が殺害して皇位を奪った事件だと推断されるのです。編者はこの「先帝殺害、皇位簒奪」事件を抹殺するため、継体の没を527年から事件の起きた531年まで繰り下げ、『百済本記』の記事を引用して継体が「誰かに」殺害されたかに見せかけようと謀ったのです。
辛亥の変の後、安閑と欽明は並立した
大郎皇子を殺害したのが欽明だった可能性もあります。『帝説』や『元興寺縁起』の伝える欽明元年(532)は辛亥の変の翌年です。事件の翌年に即位したとなれば、欽明がクーデターを起こしたと考えてもおかしくありません。しかし、たとえクーデターであれ嫡子である欽明が皇位を継いだのであれば、安閑・宣化兄弟の出る幕はありません。欽明が安閑に皇位を渡したのは、安閑にそれだけの実績がある、つまり大郎皇子を除いたのが安閑であったと考えるほうが理に適います。
辛亥の変は安閑・宣化兄弟が起こし、安閑が天皇を名乗ったのですが、母が皇女で正当な皇位継承者である欽明も名乗りを挙げ二帝が並立、2年間その状態が続いたのです。その結果クーデターの首謀者であり、年齢も上の安閑・宣化兄弟が期間を限って皇位に就くという妥協策が成立したのです。したがって安閑・宣化兄弟、とくに宣化は生前に譲位したと思われるのです。宣化と欽明に『古事記』崩年干支がないのはそのためだと推測しています。
『書紀』が仏教公伝の年とする欽明十三年は、安閑・宣化帝の六年と『元興寺縁起』のいう欽明七年を加えた数字であり、編者の造作を窺わせます。どうやら「ほっとけほっとけごみやさん」はそのままでよさそうです。
手白香皇后は幼妻だった
継体をめぐる動きを年齢の面から検証してみます。
まず継体の年齢ですが、『書紀』には在位25年82歳没とありますから即位は58歳です。この年齢では、応神5代の孫になる前帝武烈より1世代前の人になってしまいます。『古事記』は没年齢43歳、在位21年、即位は23歳ですから武烈と同世代になり、応神五世の孫の伝承があながち作り事でないことを思わせます。
最初の妃稚子媛の子大郎皇子は継体の即位当時4、5歳とみて、辛亥の変当時には30歳弱くらいだと推定されます。
継体の后、手白香皇女の年齢ですが、仁賢が490年から498年の間に生ませた一男六女の3番目とすれば、継体が即位した507年にはまだ10歳すこしの童女だったことになります。応神五世の裔という継体としては、后にはどうしても「皇女」が必要だったのでしょう。
童女だった手白香皇女が子供を産むのは14、5歳として、欽明は誕生が継体四年か五年(註)、継体没時には17歳くらいだったという推定ができます。治世21年の継体が没した時に欽明が幼かったということは、手白香皇女は皇后となった当時まだ子供を産める年齢に達していなかったという推測を裏づけます。
註 欽明の没年齢 / 『書紀』は年齢不詳としていますが、皇代記等に年63、一代要記に62、神皇正統記に81とあります。571年62歳没とすると510年(継体四年)生まれ、辛亥の変のあった531年には22歳ということになり、わたしの推定が裏づけされます。天皇没時、大郎皇子は25歳くらい、皇位を継ぐのは当然といえる状況だったのでしょう。しかし四年後、辛亥の変の起きたときには欽明も20歳前後になっていますから、皇位をめぐる争いに加わったのです。この争いは安閑・宣化兄弟が皇位に就く年数に期限を設けるかわりに、まだ幼い宣化の皇女石姫を欽明が后にするという妥協策で終結したのでしょうか。
継体は大和に入っていない
大郎皇子が在位したとすると、宮をどこに置いたかという疑問が出てきます。同じ「先帝殺害、皇位簒奪」事件で抹殺された押磐皇子の宮は市辺と記されていますから、大郎皇子の宮についても記されている可能性があります。
継体の皇子たちはみな大和に宮を置いています。安閑は勾の金橋(橿原市曲川)、宣化は桧隈(高市郡明日香村の辺り)、欽明は磯城嶋(桜井市金屋付近)という具合ですから、大郎皇子も大和に宮を置いたと考えられます。私はそれを【継体二十年秋、都を大和の磐余の玉穂(桜井市池之内辺り)に置いた】とする磐余玉穂宮ではないかと考えています。
越前三国から出た継体はなかなか大和に入れず樟葉・筒城・弟国と宮を遷し、即位から20年経って、ようやく大和に遷ったとされますが、墓所は摂津です。天皇が20年の執念をかけて大和に入ったのであれば、墓所も大和に置きそうなものです。
たとえ大和入りを拒む勢力があったにせよ敵地に乗り込むのが勝者のなすべき第一のことだし、20年もの間放置することはあり得ないことです。入りたければ大王のメンツにかけても排除したでしょう。
また、継体の擁立に反対するということは、反対陣営側に代わりの候補がいたと云うことですが、そうした候補を抱えたまま、両陣営が20年もの間、にらみ合っていることは考えられません。力に訴えるか、あるいは条件を付けて妥協するでしょう。元々仁賢の皇女手白香を皇后にしたのはそのためのはずです。継体は大和に入れなかったのではなく、最後まで入ろうとしなかったのです。
『書紀』は継体の治世を延長して大郎皇子の治世を抹殺したのですが、皇子の磐余玉穂宮は伝承地であって消せないので、継体のものであったようにつくろうと、継体が都を移したという記事を造作したと考えています。
琵琶湖畔高島市の鴨稲荷山古墳は大郎皇子の墳墓だ
琵琶湖西岸の高島市は三尾の地です。そこの鴨稲荷山古墳は建造時期が六世紀前半といわれます。被葬者は大郎皇子である可能性は考えられないでしょうか。母稚子媛は故郷三尾に留まっていて、「辛亥の変」の難を逃れたのではないかと思います。鴨稲荷山古墳は皇位にありながら殺害されたわが子を悼んで年老いた稚子媛が作らせた陵墓ではないかと想像をめぐらせています。副葬品の豪華さや、前方後円墳に周湟を持つことなどから、単なる地方の首長ではないように思われるのです。また須恵器はTK10型(実年代525〜550年)ということですから、年代的にはぴったりです。 
紀年の延長 
第一次編纂でつくられた短い紀年が延長されて現在に見られるような長い紀年になったのですが、では、どのような考え方で延長されたのでしょうか。この問題に触れた史論は非常に少なく、知るかぎりでは橋本増吉氏と太田亮氏の二人だけで、それももう100年も前のことです。紀元前660年の紀年ができるまでの考え方と数字のつくりかたを展示します。
第一部 『書紀』紀年と1260年
神武元年、建国の年を決める
『書紀』は700年に一旦完成したのですが、建国の歴史が短過ぎるとして撰上が許されませんでした。「短い」とされた歴史は延長しなければなりません。最初は二倍の1200年前くらいに延長することから検討を始めたのでしょう。第一次『書紀』の神武天皇即位99年は大宝元年(701)から600年前です。
延長するといっても、何の根拠もなし延長するより、何か理屈がついているほうがもっともらしくなりますから、二倍延長を理論づけ、権威づけるために持ち出されたのが「讖緯(しんい)説」です。
神武の即位したのは紀元前660年ですが、なぜこの年が選ばれたのかについていくつかの説があります。現在定説とされているのは即位の年が干支で辛酉にあたることから説かれた辛酉説です。古代の中国で流行し、日本にもたらされた讖緯説では辛酉は革命が起こる年だとされます。とくに干支60年が21回めぐった1260年ごとに大革命が起こるとしています。
神武が王朝を打ち立てた年から逆算すると推古九年(601)が辛酉なので、ここを起点にして、神武元年が決められたのではないか、というのが定説になっています。しかし、神武即位が大革命に当たるのはよいとして、推古九年は辛酉ではあっても「革命の年」というほどの事件起きていないことから、この説を疑う説もあります。
革命とは関係なしに辛酉でありさえあればよいのなら、『書紀』が編纂された時に一番近いのが661年斉明七年辛酉です。この年は斉明が新羅親征の途中、九州で死去(おそらくは戦いで受けた傷による)するという異常な事件が起きているので、むしろこちらの方が起点にふさわしいという意見もあります。
『書紀』の編者が延長した紀年をつくるとき、1260年という年数を念頭に置いたことはまちがいないことです。しかし、起点とされる辛酉の年を推古九年としたのは、革命云々よりも神功の治世を201〜269年として、邪馬台国卑弥呼と同じ時代にするためだったのです。以下説明します。
紀年の構成1/神号のついた天皇は日本の歴史の転換点だ
次の問題は、延長した年数をどのように分けるかです。歴史を延ばせば歴代天皇の数を増やさなければなりません。しかし、天皇を増やすのは『書紀』編纂の目的である【諸家に伝わる帝紀の削偽定実】に逆行することになります。そこで天皇の数はそのままに、紀年を延長する方法で対処することになりました。そもそも建国の歴史を延長するのは海外の目を気にしてのことですから、歴史さえ長ければ、1代あたりの年数が不自然であっても問題にはならないと考えたのです。このヨミが正しかったことは1100年の後、明治以降の歴史が示しています。
紀年を延長するのはよいのですが、あまりに嘘っぽくなるのも困ります。そこで考え出されたのが、中国の史書『魏志』に載っている邪馬台国卑弥呼が239年に遣使したという記録の利用です。幸いヤマトには神功という女性の天皇がいます。「先帝殺害、皇位簒奪」の疑いで摂政にされていますが、この女王は363年から389年まで在位した天皇です。この女王の治世を卑弥呼の時代に合わせ、二人が同一人物であるかのようにすることによって、延長された紀年が本物らしく見えることを狙ったのです。
つぎに考えたのは、1260年のブロック分けです。1260年を神武から斉明までの32代(神功皇后を含め)に直接分けるのは難事です。作業の分担も考えて分割することにしました。とりあえず400年ずつ3ブロックに分け、60年の端数は、神功の扱いが変わり、それにともなって挿入されることになった開化に当てることにしました。この3ブロックに天皇を割り振るのですが、神武を始祖とする初期王朝、崇神を始祖とするヤマト王朝、そして神功を始祖とする河内王朝という、当時の人々の歴史認識に基づいた分け方をしました。
このブロックは、適当に分けたのでなく、第1ブロックが神武・孝昭二王朝並立時代、第2ブロックは崇神天皇による統一王朝、第3ブロックは神功による新王朝という歴史の大きな流れを意識して分けたと考えられます。後年、淡海三船によって漢風諡号がつけられたとき、各ブロックの最初の天皇の諡号には神武、崇神、神功とすべて『神』がつけられたことからみても、当時の知識人にとってはこのような時代区分は半ば常識であったとみられます。
 ・初期王朝  神武〜孝元  400年
 ・      開化      60年
 ・ヤマト王朝 崇神〜仲哀  400年
 ・河内王朝  神功〜斉明  400年
しかし、このままでは斉明七年(661)から400年を神功元年とすることになるので、卑弥呼への擬定ができなくなります。そこで、1260年の起点を更に60年繰り上げ、推古9年(601)とすることになりました。こうすれば、神功の元年が201年になり、卑弥呼の239年と時代を合わせることができます。
次の問題は延長の対象とする天皇です。紀年延長する天皇は古記録(崩年干支)のない崇神天皇以前なら、もともとつくった紀年ですから問題ないのですが、神功を卑弥呼に擬定するためには、神功の紀年を延長しなければなりません。それも元年を201年にするには古記録の363年即位から162年も引き上げることになり、そのままでは治世が201年から389年までの189年にもなってしまいます。そこで神功の没年を120年引き上げて269年とすることがきめられました。
そうなると応神以下の天皇の紀年も延長することが必要になりますが、雄略の紀年は第一次編纂の時に「先帝殺害、皇位簒奪」事件を隠蔽するために造作されています。造作を二度おこなうことは、造作の痕がまったく判らなくなってしまうので避けることになり、紀年延長の対象とするのは允恭までときめられ、これで書き直しの範囲が巻三から巻十三までの11巻ときまりました。
(* 顕宗紀に「市辺宮に天下治しし天万国万押磐尊」として押磐皇子が皇位にあったのを伝えているように、編者は造作したとき、なんらかの痕跡を残そうとしています。)
紀年の構成2/1260年は3:4:5のブロックになっている
400年のブロックを三つつくったのですが、崇神の所は天皇の数が少ない上、仲哀は応神「胎中天皇」の父親なので紀年を延長することはできないので、このブロックは100年減らして300年として、その100年は神武のブロックに加えました。これによって神武から孝元までが500年、崇神から仲哀まで300年、神功から推古八年までが400年、3:4:5という美しい形になりました。
表17 第二次『書紀』 千二百六十年のブロックと年数
第1ブロック 神武元年(前660)〜孝元五十七年(前158) 503
サブブロック 開化元年(前157)〜開化六十年(前98) 60
第2ブロック 崇神元年(前97)〜仲哀九年(200) 297
第3ブロック 神功摂政元年(201)〜推古八年(600) 400
合  計 1260
第二部 紀年を延長する
神武〜孝元の延長/『古事記』没年齢からつくられた
安本美典氏が『古事記』の没年齢と『書紀』紀年の間には統計的に見て強い関連があると述べています。長生きすれば在位が長くなるのは当たり前のことですが、『書紀』の紀年は延長されているのに対して、『古事記』は紀年の記載がないのですから、この両者の間に強い関連が見られるのには何か理由がなければなりません。じつはこのブロックは『古事記』に記された没年齢を基にして紀年をつくったのです。
神武と綏靖〜懿徳、孝昭〜孝元の三つに分けて作業がおこなわれています。
表3 神武から孝元の『書紀』「紀年」と『古事記』没年齢
天 皇 古事記
没年齢 書紀
紀年 差し引き
神 武 137 76 61
手研耳 − 3 ▲3
綏 靖 45 33 12
安 寧 49 38 11
懿 徳 45 34 11
空 位 − 1 ▲1
孝 昭 93 83 10
孝 安 123 102 21
孝 霊 106 76 30
孝 元 57 57 0
計 655 503 152
表3にみるように、655年を503年に縮める作業です。
神武の76年は讖緯説から
1 (目標年数)503年−(古事記没年齢計)655歳=▲152年
2 没年齢を算定基礎にすると全体で152年減らせばよい計算になりますが、太祖神武は最初から別扱いです。橋本増吉氏の説(『東洋史上より見たる日本上古史研究』)によれば神武の76年は讖緯説の一元に当たるとされます。氏は神武に関係する年の多くが讖緯説によって定められたとしています。
3 【神武天皇元年辛酉より7年前に当たる甲寅の年を、太歳運行の元始である、天皇東征の元始と定めたことは一点の疑いを挟む余地のないことと思うのであるこれによって、『古事記』では16、7年となっている神武天皇東征の物語が、『書紀』では7年に短縮され、しかも出征後のでき事についても、戊午の年の条に五瀬命の戦死をはじめ、長髄彦を撃破して中州を平定し、国の基礎を定めたことなど、最も重大な多くの事件が集められていることも、『詩緯』に『戊午革運、辛酉革命、甲子革政』とある戊午革運に囚われてのことでないかと疑われるのである。】
4 このように神武は元年が革命の年辛酉とされただけでなくほかのことでも讖緯説の影響が強いのですから、76年の紀年は讖緯説によったとするのが妥当と思います。
5 神武を除いた、残りの7代天皇の計算は
427−518=▲91年 ですから、神武を除く7代で91年減らせばよいことになります。
グループ分けする
1 ここで、グループ分けが登場します。この▲91年を神武グループ(綏靖・安寧・懿徳)に▲31年、孝昭グループ(孝昭・孝安・孝霊・孝元)に▲60年と1:2で分けています。孝昭グループに長寿が多いことを考慮してのことです。
神武グループの神武グループ▲31年は各天皇は没年から10年マイナス
1 三代各帝の没年齢綏靖45歳・安寧49歳・懿徳45歳からそれぞれ一〇年を引きます。
2 1年の端数はグループ長老の綏靖から減らします。
3 さらに綏靖・安寧・懿徳から各1年引いて空位(手研耳命)の3年を捻出しました。
4 これで手研耳3年、綏靖33年、安寧38年、懿徳34年という紀年が出来上がりました。
孝昭グループの▲60年は各天皇から二〇年をマイナス
1 孝元の没年齢57歳はグループの中では短命なので、年齢をそのまま『書紀・紀年』57年としました。
2 ▲60年は後の三天皇からそれぞれ▲20年とすればよいのですが、少しひねって、孝昭▲10年、孝安▲20年、孝霊▲30年 としました。紀年は孝昭83年・孝安103年・孝霊76年となります。
二つのグループを空位で区切る
神武グループと孝昭グループの間に空位一年を置き、グループが別であることをはっきりさせてあります。この1年は最高齢の孝安から差し引き、これで孝安は102年になりました。
崇神〜仲哀の延長/297年を直接分ける
延長されなかった仲哀の紀年
このブロックは64年の紀年を297年へ約5倍に延長しなければなりません。神武〜孝元のように没年齢を基礎にして半分にすればよさそうに思いますが、そうはしていません。仲哀だけは別扱いになっています。前にも述べましたが『記紀』で没年齢が一致する唯一人の天皇である仲哀には応神『胎中天皇』の父という、紀年延長できない特別の事情があるのです。
このブロックの担当者はすこしズボラだったのか、数字遊びが好きだったのか、いろいろ数字をいじっています。崇神・垂仁の没年齢を計算上は119、139となるのを120、140としたり、景行・成務の没年齢は計算上では143、98となるのを106、107としたりしています。
崇神と仲哀は別扱い
1 崇神は『古事記』の没年齢 168−100=68 を書紀の紀年にしました。というより、元の記録が68歳だったのを孝元と同じように、そのまま紀年にしたとみられます。没年齢に100加えたのは『古事記』の編者太安万侶の仕業とにらんでいます(「長寿の間」)。
2 つぎに仲哀の紀年を九年としました。九年としたのは『古事記』崩年干支で計算すると仲哀の没年と応神の生年の間に2年の空白が生じてしまうので、この2年を意識してつくったと推察しています。仲哀だけが在位年数も2年しか増やされず、没年齢もそのままとされたのは、応神誕生が仲哀没の翌年とされており、あまりに高齢での「子づくり」はおかしいと考えたのでしょう。崇神の68年とあわせて77年となり、残りが220年とラウンドの数字になります。こうした端数の処理の仕方は編者の常套手段です。
景行・成務兄弟はそれぞれ干支一運の六十年として120年をつくりだしました。このあたりのやり方が「ズボラ」なのです。
残りは100年ですからそのまま垂仁の紀年にしてもよさそうなのですが、九十九年として、1年は成務・仲哀の間の空位に充てています。
紀年延長 神功〜允恭/『古事記・紀年』に延長分を加算
「紀年つくり」の作業としては、神功即位201年から允恭没453年までの253年を6代の天皇に振り分けることになりますが、このブロックの各帝は崩年干支がわかっていますから、ほかとは違い、やり方は二通り考えられます。
ひとつは崇神ブロックでおこなったように253年を直接6代に割り振る方法です。もうひとつは、崩年干支から各代の在位年数を算出し、それに増やす年数161年を割り振って加算する方法です。結論からいうと、編者は後者の方法を採っています。このことが第二次『書紀』と『古事記』が同じ崩年干支を用いていることと、崩年干支の絶対年への変換もわれわれと同じであることの証左となっているのです。
『古事記』崩年干支から得た神功即位(仲哀没の翌年)・西暦363年を201年に引き上げるには162年必要になるのですが、允恭没が第一次『書紀』では『古事記』の454年より1年早い453年となっていますから、加算するのに必要な年数は161年になります。『書紀』の編者はこの1年の違いについても正しく処理をしています。
表 引き延ばされた在位年数
天 皇 第一次紀年 加算年数 第二次紀年
神 功 0 69 69
応 神 32 9 41
空 位 − 2 2
小 計 32 80 112
仁 徳 33 54 87
履 中 5 1 6
反 正 5 0 5
空 位 − 1 1
允 恭 17 25 42
小 計 60 81 141
合 計 92 161 253
延長計算の実際
1 加算される年数161年を《神功+応神》80年と《仁徳+履中+允恭》81年と半分ずつに分けて、
・ 神功69年、応神11年(9+空位2)で80年。 
・ 仁徳54年、履中1年、允恭25年で計80年
・ 残り一年は反正と允恭の間の空位
という、きれいな数字づくりをしています。
2 《神功+応神》=80年のうち皇后の69年はすでに決まっています。残り11年のうち2年は仁徳天皇即位までの空位としてありますが、オオヤマモリノミコトやウジノワキノイラツコの皇位争いの物語に合わせてあるのでしょうか。
3 また、聖帝とされる仁徳と允恭はおよそ2対1で割り振りしたように見受けられますが、允恭の在位は17年、没年齢は42歳と推定(長寿の間参照)されるので、孝元・崇神同様没年齢を在位にしたとみられます。
4 允恭の「紀年延長」では、この四十二年と17年の差25年とすることが先に決まり、残り55年のうち54年を仁徳に、1年を履中に加算したと推考されます。履中、反正と2代続けて在位5年というのを避けたかったのでしょう。
5 『第一次紀年』とは関連づけないで254年を直接配布する方法もありますが、処理する数字を半分ずつにする手法を多用する編者の癖から判断すると、上記の手法が用いられたと考えられるのです。
もし、神功即位から允恭没までの254年を直接6代に割り振ったのならば、折半の好きな編者は《神功+応神》と《仁徳+允恭》は125年ずつ、あるいは120:130にするだろうと思います。実際は110:140になっていますから直接配布ではなく、増加した年数161年を割り振り、崩年干支から算定される在位年数にそれぞれ加算したと推考されます。
第三部 紀年延長方法「橋本説」
橋本増吉説の要約
『書紀』の紀年は「つくられた」とするのが定説ですが、どのようにつくられたかという点になると論が少なく、橋本増吉氏による論(『東洋史上より見たる日本上古史研究』 東洋書林)が唯一といってよいものです。氏は紀年を讖緯説により再構成する手法を用いて、神武〜允恭の紀年のつくられ方を分析しています。後年、三品彰英氏はその著『増補上世年紀考』(1948)の中で【細かい点での異論はあるが、大筋においては橋本氏の論を認める】としているのですが、どうでしょうか。
以下に橋本氏の説を要約しておきます。
1 1260年を、神功を中心として神武〜仲哀十四代を860年、神功〜推古八年を400年と配分した。
2『書紀』の編者は魏の明帝景初三年己未の年(239)および晋の武帝泰始二年(266)を皇后の摂政時代に入るべきものと認めたので1260年の中、神功摂政元年を推古八年より400年目のところ、即ち皇紀八六一年(201)に置き、それより前の860年を神武より仲哀に至る14代に配分するよう定めた。
3 仲哀・神功・応神三帝の合計紀年を120年として、仲哀九年、神功六十九年、応神四十二年をきめた。
ア  合計紀年は所謂四六240年では長過ぎるので、二六の数120年と定めた。
イ  神功の六十九年は一紀76年から陽数7年を減じたものである。
ウ 神功の功績を偉大なものとするには、仲哀の治世をできるだけ短くする必要があるため、天の終数、陽の極数9年を割り当てた。
エ  120−(9+69)=42 が応神の在位年数(空位1年を含む)とされた。
4 神武〜開化は563年である。
ア  神武は一紀76年である。
イ 8代を「三皇五帝」に分ける。
ウ 前3代の中央に位する安寧の三十八年は一紀76年の半分で、所謂一元の数38である。
エ  前後の綏靖・懿徳両天皇の在位がいずれも30年台で、安寧の38年と調和を保っている。33:38:34(計105年)
オ 後五代の中央に位する孝霊七十六年は一紀の数に当たる。(5代計378年)
カ 神武76+空位3(手研耳)+三皇105+空位1+五帝378=563
5 860−563−10(仲哀9年+空位1年)=287年を崇神から成務までの4代に配分した。
ア 崇神68年は一紀76年から陰数8年を減じたものである。
イ 垂仁は陽の99年である。仁徳の陰88年と対応する。
ウ 景行、成務は六甲60年とした。
6 仁徳は空位1年を含め、88年とした。仁徳は皇后の嫉妬に苦しめられるなど陰である。
橋本説への批判/「材料」だけで料理はつくれない
橋本説は分析としては面白いし、納得できるところもありますが、紀年を再構成するという立場からは問題があります。一口でいうと、氏の方法では、有るものを分析することはできても、無から有をつくり出すことはできません。料理にたとえれば、できている料理の材料が何と何かの分析はできても、その材料をどのように調理して料理をつくり出すのか、料理方法はわからないのです。氏の論は細部にわたっているので、主な問題点に絞って挙げて見ましょう。
神功元年が推古八年から400年であることはわかるのですが、なぜ400年としたのかについての(讖緯説を用いた)説明がありません。西暦239年と266年を神功の治世に含ませたうえで讖緯説を用いるのなら、181年辛酉を元年にして、治世89年とするか、あるいは「甲寅の年を神武東征の元始と定めた」のと同様に神功元年を241年辛酉より7年前の235年としてもよかったはずです。
このように全体枠が1260年と決まり、天皇の代数もきめられているのを割り振る場合は、数字を大枠から中枠へ、そして個別枠へと順次分割していくのが一般的なやり方です。枠の中での主な数字は何か理由づけした数字にするとしても、残った数は適当に割り振るのです。
たとえば、全体の1260年を神功〜推古八年を400年、神武〜仲哀を860年とするにしても、400年あるいは860年からすぐに各代に振り分けるのは無理ですからもう一度ブロックを分けて、直接割り振ることができる大きさにまでブロック分割を続けてから、最後に各代に割り振りします。この分割の各段階で讖緯説がどのように使われるか、あるいは讖緯説によらないときはどのような考えかたで決められたかが問題なのです。
氏の説明には
1 推古八年〜神功元年は400年となっている
2 神武〜開化は563年となっている
3 綏靖・安寧・懿徳3代は105年となっている
4 孝昭〜開化5代は378年となっている
というように「〜となっている」が多くみられるのですが、こうした数字は讖緯説からは説明できないものばかりです。「なっている」のは少し注意して見ればわかることですから、なぜそのような数字にしたのかが問題なので、「〜となっている」のでなく「〜に基づいて〜とした(つくった)」としなければ解明したことになりません。
氏は各帝の紀年について讖緯説によりきめられたというのですが、一口に讖緯説といっても「一章・一紀・大終の法(神武・安寧)」「三皇五帝(綏靖〜開化)」「四六二六相乗(仲哀・神功・応神)」「七歳八歳を陰陽の数(成務、神功)」「陰数八年(崇神)、陽数7年(神功皇后)」「陽の極数99(垂仁)、陰の極数88(仁徳)」など、いろいろな「法」を挙げています。
紀年を分析するだけでしたら「これは何の法、こちらは何の法」といえますが、数字をつくる立場からみるとそれぞれの法をどのように使い分けているのか、「法」を使う上での規則性が見出せないのが致命的です。なぜその「法」をそこで使ったのかがわからないと単なる材料の分析に終わり、つくり方を解明したことになりません。
もともと讖緯説は数字に意味をこじつけるものですから、極論すればどのような数字でも讖緯説で説明できるといえます。
神武の即位の年が讖緯説によってきめられたことから、『書紀』の編者は讖緯説にどっぷり浸かっていたかのようにみられていますが、編者は神武〜崇神の「延長前の紀年」を220年としたように、讖緯説にはあまり興味を持っていなかったと思われます。したがって橋本氏のように、紀年つくりを讖緯説だけで解明しようとするのは無理なことだといえます。 
『記紀』編纂の謎 
『書紀』編纂の過程について、大系本の解説には次のようにあります。
【『書紀』のでき上がった時は、『続日本紀』養老四年(720)五月癸酉の条に、「先是一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻系図一巻」とあって、明瞭である。ただ、ここに至るまでにどのような編纂の過程があったか、これより8年前の和銅五年(712)にでき上がった『古事記』の撰録と、どういう関係にあったかという点になると、資料が乏しいため的確なことがわからない。古来多くの学説が入り乱れて定説を得ない状態である。】
また『記紀』二書の相互関係について梅沢伊勢三氏は、
1 どうして同時代にこのように似て非なる二つの書物が同じ朝廷の下で、相次いでつくられたのか。
2 なぜ『記紀』の記述は違うのだろうか。その違う理由は何なのだろうか。
3 なぜ両書はお互いに相手の存在を無視するような形になっているのだろうか。
という、誰でもが気づく初歩的な疑問にすら未だに答えられていない、としています。
これまでの展示で、『書紀』は一旦神武即位西暦99年として完成したものを、建国の歴史を長くするためそれを書き直すという二段階で編纂されたと見られること(「隠蓑の間」)や、雄略紀と継体紀で天皇の抹殺がおこなわれているのに『記紀』の歴代が一致しているのは、古事記が『書紀』より後で編纂されたと考えられること(「殺戮の間」)など、『記紀』編纂に関わるいくつかのことを明らかにしてきました。
これらのことを踏まえ、『記紀』編纂の過程と二書の相互関係について推理してみました。
第一部 天武十年三月の詔と『書紀』編纂
詔の目的
天武は十年(681)二月に【律令を定めること】を詔勅したのに続いて三月には川嶋皇子ら12名に【帝紀および上古の諸事記定】を命じています。
『書紀』には【天武天皇十年三月十七日、天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・上毛野君三千・忌部連首・阿曇連稲敷・難波連大形・中臣連大嶋・平群臣子首ら十二人に詔して、帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。大嶋・子首が自ら筆をとって記した】とあります。
一般にこの詔勅は国史編纂を命じたものとされています。詔を受けて川嶋皇子らは【帝紀および上古の諸事を記し校定した】のですが、【当初は『書紀』のような史書の形式が構想されていなかったので、作業は帝紀と旧辞の記定という資料の整備に留まって、天武の代では完成しなかったが、代々事業を進めていくうちに構想も固まって『書紀』となって結実した】と岩波大系本はいいます。しかし、こうした見方に対して、サラリーマンの感覚から疑問を持ちました。
疑問の第一は、天皇が12名もの高官を呼び集め、詔勅を下したことです。国史編纂のような仕事なら、最高責任者だけ指名し、あとの人選は責任者がすれば足りることです。大勢のメンバーに直接命じたら、事業が混乱してしまいます。わざわざ12名もの高官を呼んで直接任命の詔を下したのは、かれらは特命のプロジェクトチームであって、その任務は機密事項を扱うなど、一般の官人には任せられない性質のものだったと推定されます。作業の遂行にあたって【高官自ら筆を執って記した】とあることも、この見方を裏付けてくれます。
つぎは、高官を12名も集めて詔が下された事業が【資料の整備に留まった】などということは、勅命の事業としては許されないということです。サラリーマンならクビが飛びます。
もうひとつは、【当初は『書紀』のような史書の形式が構想されていなかった】といいますが、もし国史編纂のプロジェクトが立ち上げられたのであれば、最初におこなうのが史書の全体構成を検討することのはずで、【代々事業を進めていくうちに構想も固まって】来るものではありません。全体構想が描かれないままに、作業を進めるなどということは、たとえ古代であっても国家事業の進め方として考えられません。
以上のことから、12名に下された詔は国史編纂とは別なものだと考えました。
プロジェクトチームの役割は「八色の姓」制定
天武が川嶋皇子らに命じた【帝紀と旧辞を記定する】作業は、通説のいうように国史編纂を目指したものではなく、3年後の天武十三年(684)に制定された「八色の姓」のためだというのがわたしの結論です。かれらは3年で命じられたことへの結果を出したのです。そのことは、『古事記』の序にある天武の言葉が示しています。この言葉は『古事記』の序にあるのですが、天武十年三月の詔【帝紀および上古の諸事記定】の目的を詳しく述べたものと考えてよいと思います。
【朕が聞いていることには、諸々の家に持ち伝えている帝紀と本辞とは、すでに真実の内容とは違い、多くの虚偽を加えているという。今、この時にその誤りを改めないかぎり、何年も経たないうちに、その本来の意図は滅び去ってしまうであろう。これらの伝えは、すなわち我が朝廷の縦糸と横糸をなす大切な教えであり、人々を正しく導いてゆくための揺るぎない基盤となるものである。そこで、よくよく思いめぐらして、帝紀を撰び録し、旧辞を探し求めて、偽りを削り真実を定めて後の世に伝えようと思う。】
津田左右吉氏は【天武は、諸家の伝えている帝紀・本辞が区々になっていて誤謬も多いから、それを討覈して正説を定めようと考えた】としています。
帝紀・本辞は歴史です。その歴史が区々になっているから正説に統一しよう、というのはわかりますが、天武は、現状のままにしておけば【その本来の意図は滅び去ってしまう】といっています。【本来の意図】を持つ歴史とはどのようなものなのでしょうか。
また帝紀・本辞は【我が朝廷の縦糸と横糸をなす大切な教え】であり、【人々を正しく導いてゆくための基盤となるもの】ともいっています。ふつう、歴史は「参考」にされることはあっても、国家経営の基盤とされるほど重要な役割を持つものではありません。
そこで見方を変えて、当時の朝廷の「縦糸と横糸」となり、「人々を正しく導いてゆくための基盤」とするものは何だったのかを考えてみることにします。
当時は天皇家を中心とし、天皇家との関係の濃淡によって序列が決められる社会であったとされます。天皇家との関係はいい換えれば、天皇家と諸家の間の歴史です。諸家の社会的地位を決定する要因として、歴史が大きな役割を持っていたのです。つまり歴史の【本来の意図】は諸家の社会的序列を決定することにあったのです。
このような歴史は過去のある時(欽明朝の頃だろうか)成文化され、諸家が持つようになったのでしょうが、系譜が諸家の社会的地位を左右するのですから、諸家も自らが有利になるように【虚偽を加える】例が多々あったのです。それが年月を経るうちに【本来の役割を果たせなくなるおそれがある】ほどになってしまっていたのです。津田氏は「誤謬」としていますが、天武は「虚偽」といっています。
このようなことから推して、天武がいうのは『我がヤマト国において、家系は朝廷に於ける諸家の地位を決め、国家の秩序を保つための重要な基準であるにもかかわらず、諸家において改ざんが加えられており、このまま放置すれば本来の目的に使えなくなってしまう。諸家の記録を調査して正しいものに改め、今後虚偽を加えることのできないように国が管理する体制にせよ』ということです。
このように、川嶋皇子ら12名の任務は、虚偽が多くなってしまった【諸々の家に持ち伝えている系譜】の【偽りを削り真実を定める】ことだったのです。
さらに【削偽定実】をおこなっただけでは何の役にも立ちません。その結果をふまえて諸家の位置づけを再編成する、という「実体の変革」をおこなわなければなりません。社会的地位が家系(天皇家との関係)によって決まる当時にあって、家系の見直しは当然に社会的地位の変更に直結するし、させなければならないのです。その一連の政治改革をおこなうのが川嶋皇子らに課せられた任務であって、単に帝紀と旧辞を書き留めることが目的ではなかったのです。
川嶋皇子らが記定したとされる帝紀と旧辞が『書紀』の核心となる重要なものであるのは異論のないところですが、かれらの作業は国史編纂につながる一つのステップではあっても、国史編纂をかれらの主業務とみるのは皮相的に過ぎると思います。
『書紀』は改革された実体を伝えるためのもの
『書紀』編纂の目的について大系本解説に【記紀の編纂が、律令機構確立期における天皇制国家の支配者たちの政治的要求を根本動機としていることは、『古事記』序文からも窺われる】とあるように、国史によって律令機構確立に影響を及ぼそうとして『書紀』編纂が目論まれたとするのが通説です。
しかし、『書紀』はあくまで書き物です。たとえ帝紀と本辞を文章の上で【偽りを削り真実を定め】、国史を編纂したとしても、それだけでは、まさに絵に画いた餅で、実体を変えることはできません。
書き物で政治的要求を満たすことを企図するのは思想家・啓蒙家のすることで、政治家のすることではありません。政治家は政治的権力によって問題解決を図ります。政治家であり最高の権力者である天武が国史にそのような力を期待することは、まずあり得ないことです。国史に書くより先に【削偽定実】した結果を基に系図を正しいものにつくり変え、その系図に即して実体を改めておかねばなりません。
【削偽定実】は帝紀・本辞の変造という不正手段によって地位を得た者は、本来の地位に戻すということです。天武の施政方針は「実体の改革」が中心で、国史編纂が実体改革に先行することはありません。684年に施行された「八色の姓制度」はその「実体の改革」なのです。720年に完成した「紀卅巻系図一巻」に記された系譜はこのときの資料を基にしていることは当然で、いわば『書紀』はヤマト国家が公認した系譜集なのです。国史に系図が添えられたことの意味は軽視できません。
無論【削偽定実】の段階で諸家の持つ帝紀と本辞が偽りであることが発覚しても、実体を優先させなければならないケースもあったとは思いますが、それはそれとして国家が認めた系図なのです。12名の高官たちは諸家と個別に折衝をおこない、諸家の言い分を聞き取り、系譜上の不備を糺し、場合によっては辻褄合わせの手助けをしたり、それが出来ない場合は家格を変更したり、という作業をおこなったのです。現代の『書紀』研究で明らかにされている系譜上の造作は、諸家が独断でおこなったのでなく、プロジェクトチームと綿密な打ち合わせをおこない、双方が納得してつくりあげたもので、いわば公認された造作というべきものだと考えています。
古代氏族のデータベースを作成した高橋啓二氏によれば、【氏族の祖先の系統で分類するとき、『書紀』では「臣」「連」「君」「公」「直」「別」という姓の呼称に、厳格なルールの適用されていることがわかる。「臣」は開化天皇以前の皇別氏族(崇神で統一される以前の、神武系とは異なる大和地方の王族と見られる。いわば外様大名である。あるじ註)の姓であり、「連」は神別氏族(いわば譜代の大名だろう。あるじ註)の、「君」は崇神天皇以降応神天皇以前の皇別氏族の、「公」は応神天皇以降の皇別氏族の、「別」は地方の景行天皇系豪族(擬制的同祖関係で取り込んだ、地方の氏族と見られる。あるじ註)の姓である】ということです。『書紀』でこのように厳格なルールが適用されているのは、川嶋皇子らの作業により、それまでの乱れていた系譜を整理した結果と推察されます。
『書紀』は単なる歴史を記述した書ではなく、編纂時現在のヤマト政権・朝廷に関わる人たちの出自を明らかにする役割をもっているのです。したがって天皇の系譜は代々が時系列的に記述されていますが、その他の氏族は一足飛びに始祖にいってしまいます。途中の系譜はなくてもかまわないのです。さらに姓をみればその祖系統が一目瞭然となるようにしたのが「八色の姓」なのです。
しかし、「厳格なルール」によって身分を落とされた氏族は、その後旧来の身分を復活しようといろいろ画策したと見られます。九世紀後半頃にできた『新撰姓氏録』では復活するだけでなく祖系を変えているケースもみられるということで、こうした復活のためには『書紀』の「系図一巻」は非常に邪魔になったでしょう。系図一巻がなくなったのは、こうした理由からではないかと考えています。
国史編纂は後で決まった
681年の時点で天武が国史の編纂を意識していたか疑問があります。天武が目指していたのは律令国家の建設です。律令は器ですから、その中に盛る諸官人の選任が天武にとって喫緊の課題だったのでしょう。それまで諸豪族により運営されてきた国家システムを律令という新しいシステムに改革するに当たって、従来の諸豪族以外の家系の人々を受け入れるためには、選考の基準となる諸家の序列を現実に即したものに改めると同時に、諸家の系譜を正しいものにしておくことが欠くべからざることで、そのことが『古事記』序にある詔となったのです。
天武の関心はあくまで官人登用の基準となる諸家の系譜を整備し、それを記録として残すことにより、国家として管理する体制、いわば人事管理システムをつくることにあったのです。天武は律令国家建設に向けて制度を整えることに最大の努力を傾注する実務家だったといえます。このことは、十一年八月二十二日条の【およそ諸の選考をおこなうには、よくその氏姓や成績を考えてきめよ。たとえ成績が著しく良くても、族姓のはっきりしない者は選ぶべきでない】という詔と、十三年におこなわれた「八色の姓制度」によって確かめられます。
このように、天武が最初の段階から国史編纂を目指したと言うより、むしろ【削偽定実】した諸家の系譜を後世に伝えるための作業が歴史編纂と共通することから、国史を編纂しようという機運が高まり、『書紀』編纂に昇華していったと考えています。
『書紀』に登場する人物は実在した
津田氏が先鞭を付けて以来、『書紀』の歴代が編者により「つくられた」と論じられることが多いのですが、諸家が【持ち伝えている帝紀と本辞に多くの虚偽を加え】たのは、天皇家の系譜に何とか結びつけようとするためです。その大元になる天皇家の系譜に『書紀』編纂の段階で新たな天皇を造作して加えることなど、許されることではありません。新たな天皇を加えれば、その係累が出てきて、せっかく「八色の姓」として整理した系譜が再び虚偽に満ちたものに逆戻りしてしまいます。
『書紀』は「川嶋プロジェクトチームと諸家が合意に達した系譜」をそのまま記し、国家記録として後世に伝えるのがまず第一の役割なのです。プロジェクトチームと諸家の話し合いにより、諸家の始祖が天皇家から出自したとする擬制的同祖関係とする場合に、(孝元・開化・景行など)天皇ではなかった皇族や王を天皇だったとするケースはあったとみられますが、そのための人物を新たにつくり出すことはなかったと考えています。
また古代には、歴代の墓所には管理者を置き、祭祀を欠かさなかったようですから、天皇を作ったとすれば、墓所の問題をどうするかも、造作が簡単でない一つの理由です。
『書紀』は公式の系譜集
『書紀』が成立後果たした役割について【特にそのような思想的意義(律令機構確立期における天皇制国家の支配者たちの政治的要求)において、支配者たちから政治的に利用せられた形跡は乏しい。氏姓をめぐる紛争について書紀を援引することが、平安初期における書紀の主たる「用」であり、天皇制自体安定した状態に入った平安期においては(中略)編纂に至るまでの動機から言えばむしろ第二次的な機能を期待されるにとどまった】(大系本解説)と、あたかも『書紀』は本来の用を為さなかったかのような見方もあります。
実体の改革がおこなわれた結果を伝えるのが本来の役割だという考えに立てば、【氏姓をめぐる紛争について書紀を援引すること】こそが『書紀』の第一次的な機能であって、そのように用いられたことは当時の人々が『書紀』に記載された系譜を信用していたことの証でもあります。
第二部 『書紀』の紀年延長と『古事記』
『書紀』は紀年延長のため書き直された
『書紀』が完成したのは天武の詔勅から40年後の720年ですが、初めての国史編纂事業とはいえ、長すぎる年月です。まして、同じ681年に命じられた律令制度が701年に施行されているのです。国史編纂という机上の作業がこのように長引いたのに『続日本紀』などの国家記録がそのことにほとんど触れていないのは、「紀年の延長」という記録に残したくない事情から舎人親王が記録の抹消を命じたためだと考えています。
『書紀』三十巻のうち、雄略紀〜天智紀が700年前後までに完成している明証が挙げられています。
森博達氏は次のように述べています。
1 『書紀』は中国語で書かれているが、巻三(神武紀)から巻十三(允恭・安康紀)には倭習(和製中国語)が多いことから倭人が翻訳したと見られる。巻十四(雄略紀)から巻二十七(天智紀)までは当時の中国で使われていた北方唐音が正確に使われているので、唐人が翻訳したと推定される。この翻訳者と見られる唐人二人が700年までに隠退もしくは死去しているので、雄略紀から天智紀は700年までに翻訳が完成していたと判断される。
2 巻三から巻十三は700年以降になって編纂され、唐人がいなかったので倭人が翻訳した。
もう一つは小川清彦氏がいう暦の問題です。
1 『書紀』は編年体を採り、全ての天皇の記事に年月日を記していますが、相次ぐ戦乱で天智以前の公式記録が失われてしまっていたので、天武紀と持統紀以外の年月日は『書紀』編纂の時につくられたものだといわれます。従って使われている暦は、編纂時期を示す重要な手がかりになります。
2 古代の暦は精度が低いので、時々とり替える必要があり、701年の律令制定に向けて、直前の698年にそれまでの元嘉暦に代えて儀鳳暦が使われることになりました。ところが、時代の古い神武紀から允恭・安康紀(第三巻〜第十三巻)は新しく施行された儀鳳暦で記述され、近い時代の雄略紀以降(第十四巻〜第二十七巻)が古い元嘉暦で記述されるという具合に、暦が逆転しているているというのです。このことは、少なくとも巻三〜巻十三は暦が新しくなってから書かれたことは確実です。
このように時代が逆転していることについて森氏は、最初雄略紀以降が編纂され、允恭紀より前の巻は700年以後に編纂されたとしていますが、「隠蓑の間」に展示してある「延長前の紀年」の存在は、巻三〜巻十三の紀年は最初から長かったのでなく、短い紀年から延長されたことを示していることや、国史の編纂目的が天皇家と諸家の関わりを歴史的に捉え、国家運営に役立てようということですから、国家草創からの歴史を欠いては無意味になってしまいます。700年までに雄略紀以降が完成していたのであれば、神武紀〜允恭紀もそのときまでに完成しているのが当然です。巻十三以前が700年以後になってから書かれたのであれば、一旦完成したものを書き直したと考える方が合理的です。
律令国家を目指していたヤマト国も、天武の詔勅からちょうど20年目となる701年を一つの画期とみなして、国史の編纂担当者も律令制度と国史を同時に発表することを狙っていたのでしょう。それが組織として当然のことで、国史編纂がひとまず完成していたとすれば、700年とするのが自然だと思います。編者は律令との同時撰上を目論み、700年、朝議に諮ったのですが、その朝議で「建国の歴史が短すぎる」として撰上が認められず、書き直しを命じられたのです。書き直しの理由ですが、紀年が延長されているのですから、「短かった」ためとするのが妥当と思います。
当時ヤマトは国の基礎も固まり、中国の冊封から脱けだし、国名を日本とするなど興隆期を迎えており、しかも長年の懸案であった律令公布を翌年に控えて意気の高揚した朝議の人にとって、半島諸国の建国(新羅 前57年、高句麗 前37年、百済 前18年)、とくに当時最も対抗意識の強かった新羅より150年以上短い99年建国という歴史は、とうてい我慢できるものではなかったのでしょう。
『書紀』の歴史延長は舎人親王の発議だ
『書紀』は舎人親王が総裁となって完成されたのですが、『続紀』は【先是一品舎人親王奉勅】とするだけで、いつ親王が総裁になったのか記していません。朝廷の史官が調べればすぐにわかるはずですが、それをしないで【先是】としているのは、親王が総裁に就いた経緯、総裁にならねばならなかった事情をはっきりさせたくないのではないかと思わせる書き方です。しかし、親王が総裁になった事情と時期は、『書紀』と『古事記』との関係を考える上でも重要な事柄なので、推理して見ることにします。
国史編纂スタート時トップだった川嶋皇子は691年(持統五)に没していますが、当時舎人親王は16歳(676年生まれ)ですからまだ総裁に任じられることはなかったでしょう。第一次『書紀』が一応の完成をみた700年ころ、親王は25歳、兄の草壁皇子、大津皇子がすでに没し、天武の皇子の筆頭として大きな影響力を持っていたと見られます。
第一次『書紀』に書いてある建国の歴史が短いといってダメが出されたとすれば、出したのは舎人親王でしょう。国の歴史を延長するという大それた考えは、天武の「真実を定め」という方針に反することで、親王以外の人が云い出せることではありません。また、そのダメに対して反対する人も、相手が舎人親王では云い出せなかったでしょう。
そして、このような編纂方針の変更をおこなうのであれば、再編纂の総裁は舎人親王しかいないことになります。ほかの人がダメを出して、やり直しの総裁に親王を指名するようなことはあり得ないことですから、ダメは親王が出し、自分で総裁を引き受けたのです。親王は、ヤマトを中国ほどではないにせよ、少なくとも半島諸国より長い建国の歴史を持つ国にしたかったのです。国史を国威発揚に役立たせようという発想です。しかし、国史には国の正しい歴史を伝えるという重要な役割があります。この二つを同時に満足させるのは容易な仕事ではありません。20年の歳月を費やしてその難事を完遂させたからこそ人臣の最高位に昇り、崇道尽敬皇帝とされたのです。
『書紀・紀年』は海外向けダブルスタンダード
史書に対する見方は【古代の伝えを失わずあやまたず、後の世に伝えるためのもの】という本居宣長の言葉に代表されるでしょう。しかし国史の役割はそればかりではありません。時によっては国の威信を示すことが優先されることがあります。歴史における作為の多くはそのためにおこなわれるといっても過言ではありません。
『書紀』の紀年は「誤り」とされることが多いのですが、編者が「誤った」のではありません。『書紀』編纂は多くの人手と長年月を費やした国家事業です。そのような事業において、ましてや史書の生命ともいえる紀年に「誤り」が許されるはずはありません。『記紀』双方の紀年が大きく異なることから、両書は別の史料によったとする意見もありますが、ほぼ同時期に、同じ勅撰でつくられる史書を、異なる史料で書くということは、まず考えられないことです。仮に史料が異なるとしても同じ国の歴史記録が、このように大きく異なることはないと断言できます。
ヤマト国は長い歴史を必要としたのです。舎人親王は神武即位前660年という「見せかけの建国の歴史」をつくり出すだけでなく、延長した歴史に信憑性を与えるために神功皇后のヒミコ擬定をすることでそれに応えたのです。しかも「紀年の延長」という奇策によって歴代の系譜を損じることもなく、さらに「古事記・崩年干支」として紀年の古記録を遺すことによって、【古代の伝えを失わずあやまたず、後の世に伝える】という難事業を成し遂げたのです。
朝議の要請にこたえて長い歴史をつくりだすだけでしたら天皇の代数を増やせばよいのですが、ことはそれほど簡単ではありません。天皇の代を増やせば当然係累が出てきます。それが現実に存在する皇族とどのように関わるのか、あるいは豪族の家系にどのように影響するのか、すべてをつくることは大変な難事になります。
また、天武は諸家の歴史にある偽りを正し、この正された系譜を【後の世に伝え】ようと国史編纂を企図したのですから、天皇の代数を増やすことはその方針に逆行することになってしまいます。そればかりでなく、代数を増やすことは「正史編纂」という目的から逸脱することになるし、「万世一系」も怪しくなってしまいます。そこで、天皇の数は増やさず、紀年だけを延長することとし、「延長された紀年」は国外向けのものとして位置づけ、国内向けには「延長前の紀年」を別に記すダブルスタンダード方式をとることになったのです。
通常『書紀』のような「延長された」歴史は受け入れられないと考えてしまいます。しかし歴史においては建国の歴史が古い事の方が重要であって、個々の在位年数が「人間の生理上からもあり得ない」などという合理性は無視され得ることは、明治以後の日本の歴史が示しています。舎人親王のヨミは正しかったのです。
しかし国外向けと国内向けだからといって、「延長後」「延長前」二つの紀年を並べて書いておくわけにはいきません。しかし、分からないように隠してしまったのでは「正史」にならないので、あくまで見えるようにしておかなければなりません。
とくに「国史」を公表したとき、延長した紀年を国の指導層の人々に納得させることが重要ですが、そのためには「正しい」紀年をどこかにわかりやすく書いておく必要があります。その解決策として考え出されたのが
1 「延長前の紀年」のうち、編者がつくった紀年は立太子記事を用いて『書紀』に記す。
2 古記録にあった崩年干支は、『書紀』とは別に「副本」を編纂し、そこに記す。
という『延長前の紀年』を二つに分けて記す方法だったのです。
そして、『書紀』は「○○天皇の××年に××があった」という編年体で書かれていますが、副本には「時」を記さず、崩年干支を註記するだけにすれば目立たなくなるし、間を飛ばせば即位の年もぼかすことができます。そうすれば「本史」の紀年は必要な長さに延長することが可能になる、という策です。この副本としてつくられたのが『古事記』であることはいうまでもありません。
古記録にある紀年が副本『古事記』に書かれるのであれば、『書紀・紀年』は「つくり物の紀年」として「造作」や長い歴史をつくりだすことに専念できるわけで、『記』と『紀』の機能分けは、まさに起死回生の妙策といえます。このことによって『書紀』は長い建国の歴史を持つことが出来ましたが、『古事記』と一緒にならないと史書としての機能を果たせないという宿命を背負わされたのです。
第二次『書紀』の編者が「紀年」を『古事記』に任せ、『書紀』は「系譜」と「長い歴史」に専念しようという方針を考え出したのは、再編纂方針を検討するなかで最も苦心したところでしょう。第一次『書紀』メンバーが編纂を終えながら「国家体面上の要請」という壁にぶつかり挫折した経験から、「延長の前と後、二つの紀年を同時に扱うという問題を抱えたままでは第二次『書紀』編纂も達成が覚束ない」という危機感を抱き、そのことが第二次『書紀』とは別に『古事記』をつくり、「系譜」と「紀年」とに機能分けするというドラスティックなアイディアを生み出したのです。かれらは、機能分けの方針が固まってはじめて第二次『書紀』編纂事業を完遂できる見通しが立ち、安堵に胸を撫で下ろしたことでしょう。
そして「副本」の編纂を検討する中で、そこには紀年だけでなく『書紀』を正史とするためやむを得ず造作をおこなった部分や、「八色の姓」制定で【削偽】された系譜記録などの古い伝えを遺そうというように計画が膨らんでいったのでしょう。『古事記』という書名がそのあたりの事情を物語っています。
『古事記』
『古事記』編纂の事情について、もう少し検討してみます。『書紀』と並ぶ史書といわれる『古事記』は、『書紀』書き直しの真っ最中といえる711年に元明の命が下り、翌712年春、わずか4ヶ月で撰上されたとあります。しかし、『続紀』は『古事記』に関して詔勅も撰上も記していません。『古事記』の序に書いてあるだけなのです。このことも異常といえますが、そればかりではありません。舎人親王が総裁に就いたのが700年からそう離れていない時期、すくなくとも『古事記』編纂開始の711年以前から総裁の任にあったとしたら、『古事記』は元明の命でつくられたといえなくなります。前述したように親王の宮廷内での存在は大きく、もし親王が国史編纂の総裁をしていたとすれば、天皇といえども親王の頭越しに『古事記』編纂を命じることなど、できないのは当然です。
『古事記』編纂の目的については諸説ありますが、なぜこの時期に編纂されなければならなかったのか納得のいく論はないようです。『書紀』と全く異なる時代に編纂されたのであれば「異なる史料を使った」とか「読み物としてつくった」などいろいろ考えられますが、国を挙げて最初の国史を編纂している最中に、若干とはいえ内容の違うものをつくり、その上、国史より先に撰上することが許されるはずはありません。国史編纂の総裁はなんといっても舎人親王なのです。
また、たびたび述べるように、押磐皇子や大郎皇子は「先帝殺害、皇位簒奪」事件として『書紀』編纂の時に抹殺されたのですから、歴代が確定したのは『書紀』編纂の時であることは確かです。それなのに『書紀』より先に編纂されたはずの『古事記』の歴代は『書紀』と完全に一致しています。『書紀』編纂でおこなわれた押磐皇子や大郎皇子の抹殺が『古事記』に反映されているのは、『書紀』より後になって『古事記』が編纂されたことの明証といえるだけでなく、『書紀』と『古事記』は統一された意図を持って編纂された、つまり『古事記』編纂は元明の勅というより、『書紀』編纂の一環として舎人親王が命じたと考えるほうが理に適います。『古事記』はわずか四ヶ月で編纂・撰上されたとありますが、それは修辞で、もっと早い段階から準備を進めていたと考えられます。
もっと踏み込んだ想像をするなら、『古事記』本文が完成したのは『書紀』完成に近いある時期だったのですが、少なくとも序文は『書紀』完成の直前になって書かれたことは考えられます。舎人親王の指示で『書紀』書き直し作業のちょうど中間にあたる711年に完成したように「序」の日付をつくり、当時の天皇元明の名を使ったのです。
崩年干支註記にしても、『古事記』も勅撰である以上『書紀』と全く違う紀年を書くことは安万侶個人の判断でできることではありません。『書紀』編纂の総裁である舎人親王の指示だと考えれば納得できます。したがって、『古事記』は編纂の詔勅も撰上もなかったわけで、『続紀』に記録が無いのは当然なのです。しかし、完成した『古事記』は、私版のままでは権威がなく、消滅してしまうおそれがあるので、元明天皇の勅命でつくられたという形にして、後に完成する第二次『書紀』と並ぶ地位を与え、古記録を伝える役目を果たさせることにしたのです。『古事記』の序文はこのあたりをカムフラージュするために修辞と矛盾が多くなり、偽書説の生まれるひとつの原因となっています。また、『古事記』と『書紀』が同時期に編纂されながらお互いを無視しているのは、こうした編纂の事情によると考えられます。
『古事記』崩年干支
『古事記』には神武から推古まで33代の天皇が収録されています。『古事記』は物語風に書かれているので『書紀』と違って年月日のような「時」を記していません。「時」については「昔々」なのです。「時」のない歴史は歴史でなく、昔物語です。『古事記』はそのような書なのですが、部分的に天皇の亡くなった年を干支で記してあり、『古事記』崩年干支註記と呼ばれています。この崩年干支が古記録であり、『書紀』の紀年延長に伴い失われてしまうので副本『古事記』を作り、そこに記されたことは前述しました。
しかし不思議なことに、成務から允恭まで7代連続して註記されているものが安康で突然記されなくなり、その後は飛び飛びになってしまいます。時代が下がるほど記録制度はしっかりしてくるはずなのにどうしたことでしょうか。先学の説では【記録がなくなった】というのですが、このように歯抜け状態で国家記録がなくなるのはあり得ないことですし、顕宗・武烈のように崩年干支はなくても在位年数は書いてあるのですから、記録がなくなったのではなく、編者太安万侶が書かなかったと考える方がよさそうです。
允恭以前については『書紀』紀年が大幅に延長されているので、古記録である崩年干支をそのまま記しておかないとわからなくなってしまいます。したがって允恭以前では各代に註記されたのです。安康以後になるとほとんど註記されなくなるのは、古記録になかったのではありません。安康〜安閑は帝位をめぐる混乱が多く、第一次『書紀』編纂時に帝紀の大幅な改ざんがおこなわれたので、それをぼかすためと、『書紀』と『古事記』の崩年干支が数年の差になり、煩わしくなることから、編者の安万侶としてはすべての天皇の崩年干支を採録しなかったのです。しかし、前述した雄略の124歳や顕宗・武烈両天皇の在位年数を本文に記すなど、きれぎれな記録ですが綴り合わせれば古記録が浮かび上がってくるように仕組んであることから、かれが正しい記録を伝えるため腐心したことがわかります。
また、敏達以降推古まで崩年干支が敏達の一年違いを除いて『記紀』で一致していることや、『古事記』が顕宗以降、帝紀だけになるのは、それまで『記紀』両書で別々に進めてきた歴史を推古で一本化するため、軟着陸を図ったものです。
『古事記』が推古までなのは
最後に第二次『書紀』は第四十代持統までを対象としているのに、『古事記』が推古までで切らなければならない理由について触れておきます。
編纂当時の人の歴史認識として推古以前を「古」としていた、という説があります。推古という漢風諡号もそれを意味し、『古事記』の名も同様とするのです。しかし、編纂の目的から考えると違う理由ではないかと考えています。
『書紀』が神武即位まで1260年の起点としたのが推古九年です。『古事記』が推古までしか収録していないのは、「正しい紀年」を伝える役割を『古事記』に任せた舎人親王が「つくられた歴史1260年」と『古事記』の収録範囲を一致させたからだというのがわたしの考えです。推古九年(あるいは推古没)までの紀年は『古事記』に任せていましたが、それ以降は『書紀』で責任を持ちます、といっているのです。このように考えれば、『書紀』が「持統紀」までを収録するのに、後から編纂を開始した『古事記』が「推古紀」までしか収録していない理由が説明できると同時に、『古事記』が紀年を任され、『書紀』と一体のものとして誕生したことの説明ともなります。 
倭の五王は「七王」 
紀年論は倭の五王の比定問題に始まるとされ、江戸時代から論議されてきました。未だに統一した答えには至っていないようですが、この論争が長引いているのは、王の名前の音などによって天皇が比定され、治世はそれに合わせてきめられるという本末転倒がおこなわれてきたたことにあると考えています。『古事記』崩年干支を前提として比定を試みましたが、倭の五王でなく倭の七王になってしまいました。これでようやく一件落着を迎えられるのでは、と勝手に思っています。
復元した紀年
仁徳以降の紀年と、私の復元した允恭〜武烈の紀年を表として掲出しておきます。
天 皇 治  世 在位年数
仁 徳 395〜427 33
履 中 428〜432 5
反 正 433〜437 5
允 恭 438〜454 17
安 康 455〜457 3
押磐皇子 458〜465 8
雄 略 466〜489 24
清 寧 489 0
顕 宗 490〜497 8
仁 賢 498 1
武 烈 499〜506 8
王の比定/倭の五王は「七王」
復元した紀年によって倭の五王比定をおこなったのが次表です。「五王」は「七王」になりました。
「倭の五王」比定(復元した紀年による)
遣使年 倭王名 比定天皇 定説 掲載書
413 讃 仁 徳 仁 徳 『南史』列伝、『晋書』本紀
421 讃 仁 徳 仁 徳 『宋書』列伝
425 讃 仁 徳 仁 徳 『宋書』列伝
430 なし 履 中 仁 徳 『宋書』本紀
438 珍 反 正 反 正 『宋書』列伝、『宋書』本紀
443 済 允 恭 允 恭 『宋書』列伝、『宋書』本紀
451 済 允 恭 允 恭 『宋書』列伝、『宋書』本紀
460 なし 押磐皇子 安 康 『宋書』本紀
462 世子興 押磐皇子 安 康 『宋書』列伝、『宋書』本紀
477 武 雄 略 雄 略 『宋書』本紀
478 武 雄 略 雄 略 『宋書』列伝
479 武 雄 略 雄 略 『南斉書』列伝
502 武 武 烈 ?? 『南斉書』列伝、『南史』列伝
讃は仁徳
413、421、425年に遣使した倭王「讃」は、応神とする説も一部にありますが、仁徳とすることはほぼ定説とされます。治世395年〜427年とする『古事記』紀年の上からも完全に適合します。
『書紀』仁徳紀五十八年冬十月条に【呉国・高麗国が朝貢した】という短い記事があります。『書紀』の仁徳紀は紀年が二倍されているとみられ(註)、五十八年を半分の二十九年とすると西暦423年に当たり、『宋書』列伝の高祖永初二年(421)の【倭讃万里貢を修む】とある遣使の帰国にほぼ合致します。何らかの記録が残されていた可能性があります。呉国が倭国に朝貢することはあり得ませんが、倭国を大国に見せるため、呉国からもらってきたお土産を呉国からの朝貢に見せかける例は雄略六年にあります。「殺戮の間」をご覧ください。
430年遣使は履中
430年遣使は王名が記されていないのですが、つぎの438年遣使に「讃死す。弟珍立つ」とあるので、仁徳だとするのが定説です。また、438年の倭王「珍」については反正に比定されながら、「讃死す。弟珍立つ」つまり反正は仁徳の弟だとされていることから異論があります。これについては履中の在位中には遣使がないとして、「讃死す。弟珍立つ」は【「前回(430年)遣使した讃(仁徳)が死んで子供の履中が継ぎ、履中が死んだので履中の弟の反正(珍)が立った」というのをこのように(誤って)記した】という橋本増吉氏の解釈(『東洋史上より見たる日本上古史』)が定説とされています。
しかし、橋本氏は430年の遣使に名前がないのは前回と同じ讃だからだとして、仁徳の没を430年まで引き延ばし、履中の遣使はなかったとしていますが、「名前がないのは前回と同じ」だとか、仁徳没の年を『記紀』とも誤りとする氏の説は無理があります。また、履中が遣使したことがないのであれば、反正が遣使したとき、わざわざ「兄の履中が死んだので弟の反正(珍)が立った」など履中の名を持ち出す必要はなく、「讃死す。珍立つ」だけでよい筈ですから、橋本氏の解釈は考え過ぎと思います。
わたしは、430年に履中が倭王Xを名乗って遣使したにもかかわらず、中国側で「讃死す。X立つ」という記録を逸し、つぎの「X死す。弟珍立つ」と書くべきところを過去の記録をみて「讃死す。弟珍立つ」と書いたと考えています。したがって、430年遣使は履中とする方が、崩年干支の上からも無理がないし、王が替わったときは中国にその旨を届け出、皇帝の承認を得るというのが冊封体制の原則ですから、履中は遣使していると推定されます。仁徳に始まる宋への遣使は、安康を除き各代がおこなっていることからも、冊封の原則がしっかり守られていることが分かります。
珍=反正
また、438年の「珍」遣使は反正没の翌年に当たり、すでに允恭の治世となっています。「珍」と「済」が同じ天皇ではありませんから、「珍」は定説のように反正であるとし、遣使の到着が遅れたとみる説(那珂通世、菅政友、橋本増吉)に従いたいと思います。
『書紀』の雄略紀十二年条から使節の旅程をみると、四月、海が穏やかになる季節を見計らって出発(新羅本紀でも、倭人が新羅海岸地方を襲うのは夏四月です)、その年の十一月に謁見を受け、贈り物を献じています。ですから反正が使節を見送った後に亡くなった(『古事記』は七月没と記す)とすれば、使節が謁見を許されたのは翌年の允恭元年になったとしても、遅れたというより通常の旅程だと考えられます。
438年遣使について『宋書』の『列伝』には年月の記載がなく、『帝紀』に【元嘉十五年(438)夏四月、倭国王珍を以って安東将軍となす】とありますから、このときは除正のための謁見で、到着した437年中に最初の謁見がおこなわれたとも考えられます。
済=允恭
443、451年の「済」が允恭であることは定説であり、438〜454年を治世とする紀年の上からもなんら問題ありません。
世子興=押磐皇子
世子興は安康とするのが定説とされていますが、世子興が遣使した460年〜462年当時は押磐皇子の治世だったことは「殺戮の間」で明らかにしておきました。
『書紀』は安康殺害事件の直後に雄略による押磐皇子謀殺事件が起きたとしていますが、『宋書』の記事を正しいとすると、462年当時雄略はまだ天皇ではなかったことになります。とすれば安康が462年まで皇位にあったことになり、通説ではそのように解釈することが多いのですが、安康は『書紀』が456年没としており、允恭と安康で第十三巻の一巻にしていることからも治世は短かったと推定され、462年まで在位していたとするのは無理があります。安康と雄略の間に「世子興」と名乗って遣使した天皇が在位したと考えるのが妥当でしょう。したがって雄略が即位したのは安康天皇が殺害されてから6年以上経ってからということになります。
武=雄略
雄略の没年について『古事記』の己巳(489年)は『書紀』の己未(479年)を写し誤ったのだろうとしたのは那珂氏ですが、これは那珂氏の誤りであることは「殺戮の間」で明らかにしました。
また、『書紀』には遣使が雄略十二〜十四年(468〜470)とあって『宋書』と食い違いますが、治世を466年〜489年の二十四年間とすれば雄略十二年は477年になって『宋書』の昇明元年(477)と合致します。
雄略紀以外、宋への遣使に関して『書紀』はほとんど記事を載せていないことからも、『書紀』編者は『宋書』を見ていなかったと推定されますから、雄略十二年の遣使記事は倭国の記録として遺されていた独自の史料によるもので、『宋書』からの引用ではないと見られます。
*雄略治世を466年〜489年の二十四年間とした詳細は「殺戮の間」をご覧ください。
502年、武烈は雄略の名で遣使した
『宋書』に記された倭王「武」が雄略であることは確実視されていますが、同じ「倭王武」の502年遣使は学会で無視されています。「武」が雄略なのは定説であり、雄略は479年没(あるいは489年没)とされることから、502年に遣使した倭王「武」が誰なのか、那珂通世氏が武烈とする他は、言及するのを慎重に避けています。
では、502年に遣使した倭王武は『梁書』の書き誤りなのか、誤記でなければいったい誰なのか。結論から言えば、『梁書』が「倭王武」としているのは誤記ではありません。479年の倭王武は雄略、502年の倭王武は武烈と、同じ「倭王武」を名乗る別人なのですが、中国側は同一人だと認識していたとするのがわたしの出した答えです。
中国側が同一人と認識していたことは、『南斉書』列伝にある【建元元年(479)新除の安東大将軍を進め、倭王武の号を鎮東大将軍となす】と『梁書』の【天監元年(502)鎮東大将軍倭王武、号を征東将軍に進め】という記事が立証してくれます。
号は国に与えられるのでなく、王に対してのものですから、代が替わったときには新王に対して新たに号が与えられます(新除)。462年倭王興は前王済と同じ【安東将軍倭国王】とされましたが、「武」は477年の遣使で興より一階級上の「安東大将軍」にして欲しいと上表し、これが認められ(新除)、さらに遣使の滞在中に宋から南斉に王朝の交代があって、新王朝の元年にあたってのお祝いの大盤振る舞いでさらに二階級上の「鎮東大将軍」に「進号」されたのが、【建元元年、新除の安東大将軍を進め、倭王武の号を鎮東大将軍と為す】という記事です。
502年「武」の場合は代が替わったとする記事もなく、【鎮東大将軍倭王武の号を進め征東将軍と為す】とあるのですから、479年に鎮東大将軍となった「武」の号が征東将軍に進められたことで、鎮東大将軍の位は502年に新除されたものではありません。もし502年に代が替わったのに、同じ「武」を名乗るとしていたのなら【倭王武を鎮東大将軍に除す】と【新除の鎮東大将軍倭王武の号を進め、征東将軍と為す】という二つの除正となったはずです。このように中国側が479年の倭王「武」と502年の「武」を同一人物とみなしていたことは明らかです。502年の倭王の名を間違えたのでもありません。
他方日本側からの見方ですが、「武」とされる雄略は、『書紀』は479年没、『古事記』でも489年没と記されていますから、479年と502年の「武」は明らかに別人で、502年は誰かが雄略の名を騙って遣使したと考えざるを得ません。武烈の治世が499年〜506年の8年であることはほぼ確かですから、名を騙ったのは武烈です。
武烈は502年に遣使したのですが、この502年は梁建国の年に当たります。建国を知って、すぐにお祝いの使いを出したとすれば、その情報網の確かさと行動の機敏さには驚かされます。この時武烈は、梁王の名が「武帝」であることを知って、前回遣使した雄略の使っていた「武」の名前で遣使したとも考えられるのです。
「武」は前代の「興」が安東将軍だったのですから安東大将軍、鎮東大将軍、征東将軍と一代?で四階級も進号したことになりますが、前回遣使から20年も経っていることや、遠国であるにもかかわらず建国の年にすぐさま来朝したことを愛でて、格別の扱いとなったのでしょう。武烈の狙いは的中したのです。
武烈が雄略の名「武」をそのまま使ったのは、同名のほうがよいと考えたこともあるでしょうし、雄略以来清寧・顕宗・仁賢・武烈と前回遣使後20年の間に5代もの交代があったことを言いたくなかったのかもしれません(王が代わるたびに中国に行って承認を得るのがしきたりです)。武烈がこのように梁建国の機会を捉え、機敏に遣使をおこなうばかりか、王位交代を告げずに進号を獲得するなど抜け目ない行動をとったとすれば、『書紀』の伝える暴虐なイメージとは異なる顔が見えてきます。
むすび
倭の五王に関しては、比定以前の問題として倭王はヤマトの王ではなく、北九州の王ではないかとしたり、ヤマトの王だが、ヤマト政府は関知し、承認はしていただけで、実際の遣使は百済に駐在する官人が百済に誘導されて行っていたという津田左右吉氏の論(日本古典の研究)がありますが、『日本書紀』編纂当時『宋書』はまだ伝来していなかったと見られる中で、仁徳紀五十八年条と雄略紀六年条に呉(宋)からの朝貢記事があり、それが倭からの使者帰国の時期と一致すると考えられることや、特に雄略紀十二年条に記された呉への遣使は宋の順帝昇明元年(477)と年次が合致することなどから、この記事はヤマト独自の記録によるものとみられ、倭の五王をヤマトの王とすることは問題ないと考えています。
また百済云々に関しては、武烈が雄略と同じ「倭王武」を名乗っていることや、使者が四月に出発し、翌年あるいは翌々年末に帰国するいう旅程から、百済でなく大和から出発しているとみられることなどから、津田氏のいうような出先機関が判断し、事後承認するといったことでなく、あくまでヤマトの指令に基づいて遣使が行われたとするのが妥当と思います。
註 仁徳紀紀年は2倍 / 『古事記』による仁徳の治世は33年です。『書紀』仁徳紀の記事を見ると、『古事記』の三十三年の2倍に当たる六十七年までは十五・二十・二十五・三十・四十・五十・六十年と、きりのよい年に記事が書かれているのに、後は【政令はよくおこなわれ、天下は平らかになり、20余年無事であった】とされています。紀年延長の際、2倍して後の20年は切り捨ててしまったと考えられるのです。『書紀』の紀年のつくり方を示す一つの例と言えると同時に、若干の史料が遺されていた可能性が窺えます。 
神功皇后 
戦後の古代史はヤマト征服のヒーローとして応神を大きくとりあげ、他方で神功皇后を抹殺してしまいました。しかし、実際の応神の治世は短く、存在は小さかったようです。一方の神功皇后は初めて百済との国交をおこない、さらにヤマトの海外拠点をつくるなど、4世紀後半において重要な役割を果たした天皇なのです。このように重要な人物を架空としたことで、4世紀は謎に包まれてしまったのです。応神は虚像にすぎず、実像は神功皇后です。
いまどき神功皇后が実在したなどと言おうものなら歴史を語る資格がないとされかねないようです。しかし、正史『日本書紀(以下書紀)』が摂政である神功皇后に独立した「紀」を設けるという破格の扱いをしているうえ、神功が産んだ応神は実在性が高いとされているのですから、その人物を架空とすることに素朴な疑問を抱いています。
天武が【諸家に伝わる帝紀と本辞の削偽定実】を命じたのは、朝廷人事の基幹となる天皇家と諸家の関係を記す【帝紀と本辞】を諸家が勝手に改ざんしている事態を糺そうとしてのことですから、その大元となる天皇家の系譜に作られた人物を加えるとは思えません。
まして『書紀』編纂を命じた天武は継体、応神そしてその母神功につながる血筋です。天武は『古事記』の序にあるよように、国家運営の観点から系譜の造作を問題視しています。「八色の姓制度」は、そうした天武の意向により成立したものです。その天武王朝の始祖に、それもわずか300年ほどしか経っていないのに、架空の人物を配するとは考えられないのです。
この館の展示を通じて、従来説が「造作」「誤り」としてきた『書紀』の系譜記事が、非常に正確であることを明らかにしてきました。そして『書紀』紀年延長や「先帝殺害、皇位簒奪」をめぐる雄略紀・継体紀にみられるように、「時」の造作はおこなっても「系譜」の造作はしていません。神功皇后の物語も、そうしたものの一つだと考えています。
第一部 神功皇后架空説
神功皇后新羅征伐の物語
蛇足になりますが、「神功皇后新羅征伐」と呼ばれる物語を抜粋しておきます。
仲哀が紀伊を巡幸中に熊襲が叛いたので急きょ紀伊の徳勒津から穴門(山口県)に向けて出発し、ヤマトに留め置いていた神功皇后に「穴門で会おう」と伝えたので、皇后は敦賀から出航し、二人は豊浦で落ち合い、そこに宮を建てました。
天皇が熊襲征討を群臣に諮ったとき、皇后が神懸かりして「熊襲の地は痩せていて、戦って獲る価値がない。海の向こうにみえる新羅には金・銀が沢山ある。私(神)を信じれば、刀に血塗らないでその国を服従させることができる。そうなれば熊襲も従うだろう。」と告げたのですが、天皇は神を信じないで「海の向こうには何もみえない。また、わが皇祖はことごとく神をお祀してきており、ほかに神がいるはずがない。」といったところ神が怒って「お前では国を保てない。皇后が身ごもっている子が国を得るだろう」と告げ、天皇は急死してしまいました。
皇后は神(住吉三神)のお告げに従って新羅に遠征、皇后の乗った船を魚が運んで瞬く間に海を乗り切り、大波が船を新羅の王城まで運び、お告げのとおり戦わずして新羅に朝貢の約束をさせ、筑紫に凱旋しました。臨月の皇后は石を抱いて出産を遅らせ、筑紫に帰り着いてから産まれたのが応神です。応神は皇后のお腹にいたときから神によって天皇の位を与えられたので「胎中天皇」といわれます。
津田氏らの説
この神功伝説を学問的に解明し、「架空説」の流れを決定づけた津田左右吉氏は、神功皇后の物語を【五世紀末期以来新羅が強大になり、日本の半島支配が動揺してきたため、日本の半島における支配権、とくに新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける必要を感じた】継体朝か欽明朝の頃作られたとして、新羅親征を中心とする物語であるとしています。
氏は新羅親征の史実性を検討し、皇后による親征はなかったと結論づけ、さらに進んで、仲哀の九州行幸もなく、応神の「胎中天皇」の物語もつくられたものとしています。そして【何故に応神の生誕にこういう異様の説話がつくられたかは問題】としながらも、物語を作った目的は、あくまで【韓地経略の起源を説くため】といいます。
直木孝次郎氏は津田氏の説をさらに進め、神功伝説は後代に起きた事件の反映だとして、以下の事例を挙げています。
1 仲哀の急死と斉明が新羅親征伐の途中、筑前の朝倉宮で急死した事件とが似ている。
2 斉明が中皇命(ナカツスメラミコト)と呼ばれたらしいが、仲哀もタラシナカツヒコの諡号を持つ。これを漢字に翻訳してみると、いずれも「中天皇」となる。その両者がともに北九州出征中に、神の怒りに触れて急死し、死後朝鮮出兵が決行されたなど類似の重複は、単なる偶然の一致とはみなせない。仲哀急死の一条の成立には、斉明朝の史実が影響していると考えるのが穏当である。
3 この説話の骨子は、新羅征討に出陣した皇后が、将来天皇となるべき皇子を筑紫で産み、大和へ伴い帰った、と言うことであろう。そうしたことが事実として古代史上に、ただ一回だけある。大海人皇子の后ウノノササラ皇女(後の天武の皇后、持統)が、皇子とともに斉明の西征にしたがい、斉明の死後、筑紫大津の行宮で草壁皇子を出産し、やがて大和に帰還したのである。この部分も従って、推古朝以降の成立とすれば理解しやすい。
4 皇后が大和入りに際して戦ったカゴサカ・オシクマ両王は、神功の産んだ応神にとっては腹違いの兄に当たり、皇后にとっては、カゴサカ・オシクマ両王を滅ぼすことは、我が子応神の地位を安泰ならしめることを意味する。それはちょうど、大津皇子を滅ぼすことによって、我が子草壁の皇太子としての地位を固めようとした持統の立場に、よく似かよっている。
津田、直木説に対する疑問
神功皇后伝説がつくられたとされますが、つくられた目的がはっきりしません。津田氏は、【新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける】ためとするのですが、もし、そうであれば、船を魚に運んでもらったり、波の助けで船のまま内陸部にある王城に乗り込んだなどという荒唐無稽な話を載せるはずがありません。もっと具体的に支配に至った経緯や支配した実績を述べるのが普通です。
神功皇后の物語は『書紀』編纂以前から広く知られていたと見られますが、【新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける】ような情報は国内に広く知らさなければならないことではありません。広く知られるには別の理由があったと考えます。
物語を作った目的とされる【新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける】ことと仲哀の急死はどのような関係があるのかも分からないことの一つです。津田氏は皇后の新羅親征がなかったのだから仲哀の九州行幸はなかったとしますが、『書紀』完成から半世紀も経たない762年、朝廷が新羅との戦いに臨んで香椎廟に捧幣していることから見て、仲哀が北九州香椎で死去したことは広く知られたことだったと考えざるを得ません。香椎が宮でなく廟と呼ばれていたことも仲哀の死との関係が窺えます。
直木氏の反映法について
1 直木氏は反映法を持論としており、神功伝説についても斉明・持統両女帝の事績の反映としています。反映法の弱点は、可逆性のないことです。神功皇后の物語から斉明天皇の事績との共通点を見つけ出すことはできても、斉明天皇の事績から神功皇后の物語を作り出すことはきわめて難しいでしょう。神功皇后の物語を分解して、似たような事績を他の天皇の事績から見つけ出すことは容易ですが、反対に数多ある事績の中から適当な材料を見つけ出し、神功皇后の物語を作り出すことは容易ではありません。
2 物語を作り出すには筋書きが重要です。筋書きが存在したのなら、それに沿って適当な材料を選ぶことは比較的容易です。神功皇后伝説にしても、神功皇后が新羅を征伐したという程度の伝承を基に、これだけの物語を生み出すことは不可能でしょう。『書紀』の編者がそのような才能に恵まれていたとは思えません。神功皇后伝説には、相当程度の筋書きが伝承されていたと考える方が妥当ではないでしょうか。
3 また、『書紀』編纂からわずか50年足らず前の斉明や、編纂の当事者でもある持統に関する出来事を架空の物語の題材に採り上げるのは、時間的にも早過ぎると思います。
第二部 神功皇后の実在性
まず、皇后の実在性が高いと考えている理由を説明しておきます。
1 皇后が息長を名乗ること。
ア 息長氏は天武が定めた「八色の姓」で最高位の真人とされています。これは息長氏と継体のつながりが非常に強いことを示しており、その継体の血を引く天武が、架空の摂政に「息長」を名乗ることは許さないでしょう。皇后がオキナガタラシヒメの名を持つことは、継体が応神五世の孫とされる事と無関係ではないと考えています。勿論「オキナガタラシヒメ」という名が後世に付けられたかも知れませんが、そうであればなおさら上記のことが言えます。
2 漢風諡号に神の一字が付けられていること。
ア わたしは淡海三船がつけたという漢風諡号を重視しています。淡海三船は壬申の乱で天武と戦い敗死した大友皇子の曾孫です。三船が現代には伝わらない情報をもとに諡号をつけたと考えるからです。神武・崇神・神功・応神と四帝にだけ「神」をつけたのも、何らかの意味を持つと考えています。
イ 神武は言うまでもなく始祖です。神武と同じくハツクニシラスという称号を持つ崇神は神武系と「孝」系を統合した大和統一王朝の初代だと考えています。このことから神功皇后も一つの王朝の始祖だと推測しています。後代の継体は天武につながる王朝の始祖といわれますが、神号は付けられていません。継体が応神の末裔を名乗ることから考えると、神功皇后は継体につながる王朝の始祖だと考えられます。応神は神功皇后が摂政とされているために、神号がつけられたもので、応神に始まるとされる河内王朝は神功皇后が始祖であり、継体王朝につながると考えると全体が見えてきます。
3 皇后の没年に太歳を記すこと。
ア 『書紀』は歴代の元年に太歳を記しますが、元年以外に太歳を記す例外が4箇所あります。手研耳の没年、神功皇后三十九年と皇后の没年、天武二年です。中でも没年に太歳を記すのは手研耳命と皇后だけで、二人とも天皇でありながら「先帝殺害、皇位簒奪」で抹殺された疑いが濃いのです。また、天武二年は大友皇子抹殺のため、天武元年が繰り上げられたので、元は二年が元年でしたから、元年以外で太歳を記してある4箇所のうち3箇所は「先帝殺害、皇位簒奪」に絡んでいるということになり、神功皇后は天皇だった可能性が高いといえます。
イ 『書紀』神功皇后紀摂政三年の条に【春正月、誉田別皇子を立てて、皇太子としたまう】とありますが、神功は誉田別皇子(応神)の摂政ですから、皇太子にするというこの記事は間違いだと考えることも出来ますが、勅撰の史書でこのようなミスが見逃されるはずはありません。これは神功が皇位にあったことを後世に伝えるため、編者がこのように書き残したのであって、神功が摂政でなく天皇であれば、まったく矛盾のない文章になります。
4 神功の没年について少し詳しく検討しておきます。
ア 『書紀』の記す神功没「己丑」は269年です。神功紀の朝鮮関係記事は干支2運繰り下げると史実に一致するものが多いとされますが、これは話が逆で、もともと神功の没年が389年であったのを2運繰り上げたことにともない関連記事も2運繰り上げられたと考える方が合理的です。そのまま繰り上げれば、神功の治世は242年〜269年となるのですが、元年を201年として、ヒミコの時代に合わせたのです。
イ 朝鮮関係記事の繰り上げについて補足しておきます。『書紀』の編者は朝鮮関係記事のうち神功皇后と応神の記事を。干支2運繰り上げただけではありません。神功皇后の没を389年とすると応神元年は390年です。『古事記』によれば没が395年ですから繰り上げの対象もそこまでのように考えますが、『書紀』の編者は応神の在位を延長された年数41年として、390年から41年後の430年までの朝鮮関係記事を干支2運引き上げました。そのため本来なら仁徳の事績となるべきことが『書紀』では応神の事績として記されています。
ウ また、神功は即位した363年には32歳とされます(在位69年で百歳没)が、389年没とすると在位27年、年齢は59歳で、ごく自然です。「己丑」という干支も讖緯説とは何の関係もありません。このような数字や干支をわざわざつくって、2運繰り上げて記すような手の込んだことはしないと思います。
エ 『書紀』応神紀三年に【この年百済の辰斯王が位に就き】と言う記事があります。この年は壬辰(392)で『三国史』と一致しますが、神功が己丑389年没としてその翌年を応神元年とすると、壬辰(392年)は応神三年です。応神の治世は390年から394年までの5年間だったのです。神功が没したとき応神はまだ25歳ですから、即位する年齢としては普通です。応神の子沢山からみると、天皇は子づくりに専念し、政務はもっぱら神功が担当していたのではないかと考えてしまいます。武神とされる応神ですが、スーパーウーマン神功が母です。意外とマザコンだったのかもしれません。4世紀後半は応神の時代と言うより、神功の時代だったのです。
5 仲哀の没年齢が『記紀』で一致すること
ア 神功皇后の実在を裏づけるもっとも確実なものが、応神「胎中天皇」の存在です。応神「胎中天皇」の存在は父親とされる仲哀の52歳という没年齢からも推察されます。仲哀は『書紀』の紀年が延長され、各天皇が長寿とされた中で、没年齢が『古事記』と一致するただ一人の天皇です。このことは、古記録が52歳であったことだけでなく、加齢できなかったことを示しています。在位も『古事記』の7年に対して『書紀』九年とほとんど延長されていません。このようにほかの天皇とまったく違う扱いがされている理由は、応神の誕生は仲哀の没後であるという伝承があり、これを変えることはできなかったためと推察されるのです。紀年を延長して仲哀を長寿にすれば「子づくり」はおかしくなります。死後に生まれた応神の親であるためには、これ以上加齢できなかったのです。
6 神功皇后を邪馬台国の卑弥呼に擬定していること
ア 神功皇后を邪馬台国の女王卑弥呼に擬定していることは定説ですが、『書紀』編者が神功と卑弥呼を同一人物だと考えていたかといえば、そうではないと断言できます。編者は延長した紀年をそれらしく見せるために、中国の史書に出てくる卑弥呼と神功皇后の時代を一致させたに過ぎないのです。
イ 前述した元年以外に太歳を記した4件のうち、1件は神功皇后三十九年ですが、この年は卑弥呼が魏に初めて遣使した239年に当たります。編者が紀年を延長する際、まず決めたのは、神功の治世を卑弥呼の時代に合致させるためだったと推測されます。『書紀』の編者は神功を卑弥呼に比定するというより、卑弥呼と同時代の人にして、「中国の史書にこのように載っていますよ」という形で神功の時代を裏付けして見せただけです。そのため神功皇后三十九年には元年にしか書かない太歳を、それも大書しているのです。このように重要な役割を架空の人物に負わせることは考えられないことです。
7 『書紀』が独立した「紀」を設けていること
ア『書紀』は勅撰であり、我が国で最初に編纂された国史です。その国史に天皇にのみ許される「紀」が設けられているのは天皇以外では神功皇后ただ一人ですが、国史でこのように扱っても編纂当時の人にとっては特別奇異なことではなかったのです。『書紀』編纂は天皇の地位を固めるために編纂されたと言われますが、その国史にはっきり架空とわかる人物を天皇として扱うようなことをすれば、かえって天皇の権威を貶めることになってしまいます。
イ 当時の貴族たちの社会的序列は天皇家とのつながりを基準に決められたとされますから、各氏族はその祖先に関しては非常に神経質になるのは当然です。まして、基準となる天皇家の祖先に関することです。架空の人物の入り込むことは容易に許されることではありません。初めて編纂された国史に、天皇でない人物を天皇と同格に扱っているのですから、各氏族からもそれにふさわしい人物として認められていたと同時に、物語の内容も伝承として認められていたに違いありません。
第三部 神功伝承の性格
この物語は、まず「胎中天皇」つまり天皇の死後に後継者が誕生したという皇統の継続性を疑われかねない事実が存在し、その継承を正当化するために作られたのであって、「新羅親征」は単なる口実に過ぎないのです。したがって、「新羅親征」の史実性を云々するのは無意味なことです。神功皇后物語の周辺を推理してみます。
仲哀天皇
景行と仲哀、成務は三人兄弟で、末弟の成務が皇位を継いだのですが嗣子がなく、没後次兄の仲哀が継承しました。仲哀について『古事記』は【穴戸の豊浦の宮と筑紫の訶志比の宮に坐して、天の下を治めた】とだけ記し、仲哀記に大和は出てきません。仲哀は兄の景行と同じように若いころから九州方面へ遠征の旅に出ていた、というより九州に常駐していたからこそ、このような事態になったと考えられます。景行は仲哀が若いころに亡くなったといいますから、成務が亡くなるまでかなり長い年数、仲哀は九州に居を構えていたのでしょう。穴門や香椎の宮は、皇位とは関係なしに成務が亡くなる以前から構えていたとしても不思議ではありません。
仲哀は熊襲との争いが取り沙汰されますが、熊襲はヤマトタケル(景行)によって一旦制圧された民ですから、そのために常駐する必要は少なく、むしろ当時のヤマトはその発展段階から見て、海外との交易を進める段階にあり、穴門や香椎はヤマトの前進基地としての役割ばかりでなく、交易の権益をめぐって古くからの松浦・壱岐・対馬の交易ルートを握る伊都など北九州西部の既存王国に対抗するための拠点としての役割を帯びていたと考えられます。これら既存王国とは一応の朝貢関係は築かれているものの、文化的先進地域であり、独立王国的色彩の強いこれら諸国への押さえとして、そして出雲地方への押さえともなる要として穴門は重要な位置を占めていたのです。
末弟の成務については『記紀』とも記事は少なく、国境を定めたり、国造や県主を定める国の体制固めに力を尽くしたとされるので、仲哀との間で、内政と外交とを分担して国政に当たったのでしょう。
成務が亡くなったとき、仲哀は大和に戻ることを拒んだのでしょうか、そのまま九州に宮を置いたと『古事記』は記します。もしそのとおりだとすれば、7年間も北九州が都だったことになりますが、ヤマト王権がまだ全国制覇の途上だった時期に、天皇が長い間大和を留守にすることは大和の豪族たちが認めることではありません。帰らなければ別の天皇を擁立したでしょう。
無理のない考え方をすれば、仲哀は穴門に居を構えていたのですが、天皇就任に伴って九州で娶った神功皇后を連れて大和に戻り、7年後に何らかの事情があって自ら出馬したのではないでしょうか。皇后を九州に連れて行ったのはいわば里帰りです。このように考えれば、神功皇后もヤマト内に顔を知られていたので、天皇が急死した後、皇后が継いだとしてもヤマトが驚かなかったことが納得できます。
仲哀は熊襲征討についての神託を信用しなかったので神罰を受けて死んだというのですが、この話は神と仲哀というより、仲哀と神功皇后あるいはその支援豪族との間に起きた政策路線をめぐる諍いと見られます。
物語では熊襲征伐となっていますが、熊襲のために天皇がわざわざ九州まで出かけることはないでしょう。仲哀が皇位に就くためヤマトに移った後の穴門の宮には、しかるべき人物が配されていたはずです。わたしは武内宿禰ではないかと推測しているのですが、熊襲程度のことなら、そこで始末できることです。この諍いには、高句麗・百済・新羅・加羅諸国など半島諸国との交易関係のあり方や、壱岐ルートと沖ノ島ルートの海上権争いなど、もっと大きな対外政策について意見の対立があり、仲哀はその路線争いに敗れて殺害されたと考えています。
仲哀の急死と「胎中天皇」
仲哀が死去した後に応神が出生したことは史実なのでしょう。このことは仲哀の没年齢が『記紀』で一致することが立証していることは前述しました。仲哀、神功皇后と応神をめぐる物語は仲哀が突然死去(殺害されたか)し、応神は天皇の死後、それも二年後に出生するという皇位継承に関しての異常事態が発生したため、これをもっともらしく説明し、生まれた応神が仲哀の正統な後継者であることを主張するためにつくられたのが「胎中天皇」物語なのです。
この物語は九州で応神を産んだ神功皇后が大和へ帰還する日を遅らせ、時間稼ぎするために神功のブレーンが作り、流布させたのであり、後世につくられたものではありません。津田氏が指摘しているように、内容が荒唐無稽に近く、不合理かつ、お伽話的な要素が多いのは、生まれてくる応神が神によって天皇の位を授けられたのと同様に、神功の新羅遠征も神によって助けられたとして、この一件はあくまで神、それも大和に馴染みのない住吉神の意向であるとするためなのです。
応神の生誕地は北九州ですが、このような異常事態を説得できたのは、大和から遠く離れた地で起きた出来事だったからで、大和で起きたのでしたら認められることではありません。このことからも応神が北九州で誕生したことは史実だと判断されるのです。
このように神功伝説は応神生誕の秘密を誤魔化すため生誕の当時つくられたものですが、ヤマト朝廷が応神誕生を疑ったとしても、受け容れざるを得ない事情があり、そして一旦受け容れると決めた以上はその口実として、積極的に物語を広めるよう努力したのでしょう。神功の生存中にこのような物語が流布されたからこそ、神功皇后は広く人口に膾炙する伝説上の人物になったのです。津田氏が言うように物語が欽明の頃につくられたのであれば、物語を世に広めなければならない理由もなく、『書紀』に採録されてから世に知られたのでは、このように早くから有名な存在にはならなかったでしょう。
神功は天皇だった
神功皇后は応神の摂政とされていますが、仲哀が没した直後に皇位を継いだと考えられます。いくら神のお告げだとしても、これから生まれる予定の胎児を天皇の位につけ、母皇后が摂政に就くなどということは絶対にあり得ないことですから、仲哀の死後は皇后が位を継いだと考えるのが常識的です。もし空位が生じたら、大和のオシクマ、カゴサカ兄弟のいずれかが即位するのは当然で、ヤマトへは仲哀の死の報せと共に神功皇后が即位した報せを届けなくてはならないのです。
神功は応神を産んだ後、武内宿禰の助けを得て仲哀の遺児カゴサカ、オシクマ皇子兄弟の抵抗を退けて大和に入るのですが、この神功の大和入りを東征としたり、攻め上ったという言い方がされます。それにしては戦いはあっけなく終わっています。この時代のヤマトは勢力拡張期にあったとみられますから、外部からの侵攻があれば、強力な反撃に出る力を持っていたでしょう。それが、小さな諍い程度で終わったのは、ヤマトと外部勢力との戦いというより、王権内部の争いとして、多くの豪族は戦いの帰趨を見定めようとしていたのではないでしょうか。神功には成務の側近であった実力者武内宿禰がついているだけでなく、天皇であるという大義名分を持っていたことが大きな力となったのです。
神功はお産を名目に、大和入りの時期を遅らせていたのですが、大和に上るまで2〜3年、ヤマトは空位になっていたはずで、カゴサカ、オシクマ皇子兄弟による皇位就任がなかったのは不思議としかいいようがありません。両皇子の母親オオナカツヒメは景行の孫とされますが、年代が合わない(景行と仲哀は兄弟)ことや景行に絡んでいることから、わたしは神功皇后とオオナカツヒメは同一人物ではないかと疑っています。
神功皇后が応神を産んだのが33歳ですが、初めての子としては遅すぎます。仲哀とオオナカツヒメ(=神功皇后)の間にカゴサカ、オシクマ皇子兄弟があり、その後末子として生まれた応神が皇位継承者とされたのですが、応神の出生を疑う勢力がカゴサカ、オシクマ兄弟を擁して反旗を翻したのではないかと想像しています。しかし神功の年齢から見て(仲哀没時31歳)、カゴサカ、オシクマ皇子兄弟も10歳前後でしかないと推定されるので、神功が遠隔地にあったまま皇位を継ぐことができたことと照らし合わせてみると、ヤマトには有力な後継者が見当たらなかったのでしょう。
応神は仲哀の子ではない
応神が30歳で394年没ということは生まれが365年、仲哀の死から2年の後になるので大きな問題ですが、『書紀』の紀年引き延ばしの際、七年から九年へと2年だけ延長されていること、さらには『書紀』で神功皇后三年に3歳で皇太子とされていることなど、「2年」が絡む記事が多いことから、2年の空白は確度の高い伝えであって、応神は神功の子ではあっても仲哀の子ではないことはほぼ間違いないといえます。『古事記』が応神の没年齢を30歳(130歳)としているのは、この間の事情を充分承知した上でのことでしょう。
仲哀が亡くなったあと神功が女帝として君臨したことは確実といえますが、仲哀の子を身ごもっていたと言う名目が必要だったのは当然です。皇位を継いですぐに大和に向かわないで九州に留まっていられたのも、出産してからと言う理由をつけて、ヤマト側に認めさせたからでしょう。何の理由もなしに九州に居るのは許されないことです。女性の出産は最大の理由になります。しかし、仲哀の没と応神の誕生の間に二年という時間があるのは、仲哀の子を身ごもっていたと言うのはつくり事で、後になって身ごもって、話の辻褄を合わせたと言うことになります。
沙庭での神の審判の様子に始まって、「胎中」の応神に神が天皇となることを認めたこと、そして遠征のため出産を遅らせたことなど、すべて仲哀を殺害し皇位を簒奪した行為を正当化し、応神の生まれ月が合わないことを糊塗するための演出で、筋書きを書いたのはもちろん武内宿禰でしょう。この筋書きにあるような新羅の財宝を大和へ持ち帰り、人々に見せて納得させるために、実際に北九州勢力を使って出兵したのが『新羅本紀』に【新羅第十七代奈勿尼師今九年(364)夏四月、倭兵大いに至る】とある侵略ではないかとも想像されるのです。
神功皇后は景行の子?
しかし、いかに武内宿禰が側についていたとはいえ、神功の身分が相応のものでなければ皇位につくことが認められないのは当然です。『書紀』は神功皇后を開化の末裔としていますが、むしろ神功の系譜を整えるために開化が皇統に列せられたのではないかと疑っています。想像を膨らませるなら、神功皇后は景行と岡(遠賀)あるいは伊都の媛との間に生まれ、そこで育てられたのではないでしょうか。このように考えると神功が皇位を継いだことと話が合います。たとえ言い訳するにせよ、応神を仲哀の子としてヤマトの人を騙し通せるものではありません。応神が仲哀の子でないことを疑いながらも受け容れるには、神功が皇統の血をひいていることが決定的に重要です。
神功が景行につながる傍証と私が考えているのが神功と日向のつながりです。応神は二度も日向から媛を迎えていますが、このことは神功と日向との間にかなり強い絆が存在することを示しています。神武東征前の都としては年が経ち過ぎているし、それまでの天皇にはなかったことですから急に古い付き合いが復活するのもおかしなことです。わたしは景行が日向の高屋に長年滞在し、現地の女性との間に子をなしていることと、神功が景行の子という関係からではないかと考えています。日向は神功にとって父の故郷なのでしょう。もし神功が神武と全く関係のない系統の出身でヤマトを乗っ取ったとすれば、日向とは無関係のはずです。景行が日向に居を構えたのは始祖神武の故地だったからかもしれませんが、神功の場合は景行を介して日向とつながっていたのです。
ではなぜ神功はそのまま景行の皇女とされなかったのでしょうか。おそらく北九州の県主の媛と言う母の身分が問題だったのでしょう。それに北九州ではほかの豪族に結びつけて系譜をつくることもできないので、神功の生地を大和に移し、開化をつくりだして、その後裔としてしかるべき身分の母親を持つようにしたのではないかと考えています。想像ですが、皇后が初めて大和入りした時、身元引き受け的な役割をしたのが和珥(春日)氏で、それと引き換えに和珥氏の祖先開化王を皇列に加える取引がおこなわれたのではないでしょうか。和珥氏は応神・反正・雄略・仁賢・武烈・継体・欽明・敏達の后妃を輩出しており、このような豪族は葛城氏、蘇我氏以外にはなく、天皇家と特殊な関係にあります。継体を擁立した物部氏、大伴氏らさえ継体と姻戚関係は結ぶに到っていないのに、和珥氏だけは姻戚となっているという特別な地位が生まれた背景に、河内王朝の始祖に関わる秘密が隠されているのではないでしょうか。
武内宿禰は成務と同い年ですから、景行とは2、3歳違いくらいでしょう。戦いに明け暮れる景行に同情し、九州遠征も何かと援助していて、ひょっとすると宿禰は神功が生れ落ちたときから見守っていたのかもしれません。九州に長期滞在する仲哀に神功を娶わせたのは宿禰の仕業とも考えられます。宿禰は何とかして景行の血筋を皇位に就けたかったのだろうと想像しています。景行の生まれを309年、神功の生まれを331年とすると、景行が23歳、おそらく景行の没年くらい、それだけに武内宿禰には思い入れがあったのでしょう。
皇后が大陸文化をヤマトに広めた
神功が大和に入った4世紀後半の中頃から古墳の副葬品が馬具など大陸系になり、韓史にも倭国との交渉記事が多くなるなど、朝鮮半島との国交が本格化したことが窺えます。当時の北九州は半島との接触も多く、大和より文化先進の地です。神功が大和入りするにあたっては、警備も兼ねて相当数の九州人が同行したでしょうから、これにより九州の先進文化が急速に大和に拡がったと考えられます。また彼らは海人ですから、内陸の大和を好まず、交易のことも考えて海に面した河内に進出したのでしょう。
神功・応神朝になってからヤマトの文化が大きく変化しただけでなく、半島との国交に積極的になった裏には、九州の先進文化を身につけ、国外を重視する素養を備えていた神功の存在があったのです。天皇となった神功の主導でヤマト政権と半島諸国との国交が始められたのには、神功の里である北九州の王家の助けが大きく貢献したことは間違いないでしょう。
むすび
最近女性天皇を巡る論議が盛んです。女性天皇第一号は推古天皇とされますが、神功皇后こそ最初の女性天皇なのです。推古天皇は聖徳太子に国政を任せていましたが、九州に生まれ育った神功は異国とも言える大和の地で乳飲み子の応神をかかえて孤軍奮闘し、しかもヤマト国と朝鮮半島各国との国交を開くという画期的な業績を挙げたのですが、「先帝殺害、皇位簒奪」の疑いから『書紀』では天皇の名を奪われ摂政とされてしまいました。
そればかりでなく、戦後は「学問」の名の下、架空の人とされ、歴史から抹殺されようとしています。このような女帝に復権の光を当ててあげたい。『書紀』では抹殺されながら、明治になって天皇に列せられた弘文天皇(大友皇子)の例もあります。大友皇子と同じ理由で皇統から外された手研耳命、神功皇后、押磐皇子皇子、大郎皇子に歴史上の正しい位置に戻っていただきたいというのが館主の願いです。

補 神功皇后に関する後世の伝え(森浩一『記紀の考古学』より)
1 承和十年(843)三月、盾列山陵で二度の山鳴りがした。翌月、朝廷では奇異のこととして図録を調べてみると、二つの盾列山陵の北が神功皇后陵、南が成務天皇陵だとわかった。今までの混乱の原因は、ひとえに口伝に頼っていたからだと述べている。
2 十世紀には、神功皇后陵と信じられている古墳があって、その古墳は山鳴りなど「神功皇后の祟りがあるたび」に朝廷は使者をだして謝っていた。「先年、神功皇后の祟りがあった折、弓と剣を誤って成務天皇陵に収めたので、今回改めて神功皇后陵に奉った」と述べている。皇后は十世紀に特別に意識された人物であった。
3 源頼朝の妻北条政子は夫の死後は尼将軍と称されたように、代々の将軍の後見をしたが、嘉禄元年(1225)七月に死んだ時、『吾妻鏡』は神功皇后の再来としている。
4 応永二十六年(1419)、対馬に朝鮮の兵船二百隻あまりの大群が来冦したとき、女の武将が活躍して撃退し、それが神功皇后だったという噂が都でひろまったことを、貞成親王は『看聞日記』に記録している。 
『書紀』研究の歩み 
第一部 『書紀』成立
1 『日本書紀』のでき上がった時は、『続日本紀』養老四年(720)五月癸酉の条に、「先是一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻系図一巻」とあって、明瞭である。ただ、ここに至るまでにどのような編纂の過程があったか。これより八年前の和銅五年(712)にでき上がった『古事記』の撰録と、どういう関係にあったかという点になると、資料が乏しいため的確なことがわからない。古来多くの学説が入り乱れて定説を得ない状態である。
2 『日本書紀』天武天皇十年(681)三月丙戌の条があげられる。その文には、【天武天皇十年三月十七日、天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上野毛君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大島・大山下平群臣子首ら十二人に詔して、帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。大嶋・子首が自ら筆をとって記した】とあって、このとき天皇の命によって、帝紀と上古諸事の記定が始まったことを示している。これに関連したことは『古事記』の序文にもみえる。
3 天皇は、初めは稗田阿礼を助手として帝紀旧辞の削偽定実を行ったが、そのことが困難であったので、想を改めて川嶋皇子ら集めた大規模な帝紀旧辞記定事業を始めたのである。
4 これが天皇の時には功を了えなかったが、後の代々にうけつがれて、養老四年(720)に『日本書紀』となって結実したのである。したがって書紀編修の初めは天武天皇十年におくべきであるとするのである。
5 そうはいっても、天武十年に、のちの『日本書紀』のような史書の形式内容が構想せられていたと考えるのではない。十年のは、あくまでも帝紀と旧辞を正しく記定しようとした事業である。その事業を代々進めていくうちに、おのずから『書紀』のような史書が構想せられたのである。だから、十年の事業は正確にいうと『書紀』の資料の整備である。ただ帝紀と旧辞は『書紀』の資料の核心となったものである。その意味で帝紀旧辞の整備は、『書紀』編修作業の第一の重要な階梯であると思うのである。
6 『書紀』は持統天皇の五年八月に、大三輪氏ら十八氏に、その先祖の墓記を上進させたことを記す。墓記とは祖先の墓誌銘のようなものであろうから、古来の名族たちにその先祖の功業について上申させたことになり、政府で行う帝紀旧辞の記定に対し、新しい資料を追加蒐集しようとする試みであると解するのが自然であろう。
7 これによって、持統朝は天武朝の意志を継いで国史編修の事業を推し進めていたと考えてよいと思う。文武朝には際だった動きはみえない。これは大宝律令制定の仕事に忙しく、国史には手が回りかねたのであろう。
8 元明天皇は天武天皇の皇太子草壁皇子の后であったため、天武天皇の遺業の紹述に関心を持ったのであろうか、太安万侶に稗田阿礼の誦んだところを選録させた。和銅五年(712)にできあがった『古事記』がそれである。
9 つづいて和銅六年(713)五月には、諸国に風土記撰述の命を下した。『風土記』が『書紀』の記事の材料となったという証拠は、現存の資料では『筑紫風土記』ぐらいしかあげられぬけれども、何らかのつながりが『風土記』と『書紀』の間にあったろうと想像することは許されるであろう。
10 つぎには和銅七年(714)二月戊戌、従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂に詔して国史を撰ばしむという記事が、『続日本紀』にみえている。この記事は多くの人によって『書紀』の編修に関係づけて解釈されるが、これを『書紀』編修の真の始めと解するにしては二人の官位の低いのが気にかかる。
11 筆者は、『書紀』編修の事業を天武天皇十年から断続はありながらも精神的には継承しているものと思うから、この記事はその事業への編修員の追加任命を指すものであろうと解する。
12 和銅七年(714)から六年たった養老四年(720)に『書紀』は完成した。その記事に、舎人親王がこれより先に勅を奉じたとあるので、その先とはいつであるかについても諸説はまちまちであるが、元明天皇の時であるとするのが穏当であろう。
13 このように天武天皇の皇子が編修総裁の任に当たったのは、天武天皇の遺業の継承であることが強く意識せられていたからであろうと思う。
14 舎人親王の下で、編集の実務に従った人は、上記の紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂の名が知られているほかは明らかではない。『弘仁私記』序には太安万侶の名があるが、どこまでその記事に信憑性があるか疑わしい。太安万侶は『古事記』を撰録した人であるから、かれが『書紀』の編修にも関与したとすれば、もっと『古事記』を主張するような形が『書紀』にあらわれるべきではなかろうか。ところが周知の通り、『書紀』の内容をみると、『古事記』に概して無関心であり、変に無視したような所もみえる。『古事記』に精魂を込めた太安万侶が、こうした『書紀』の編修態度を是認したであろうか。それははなはだ疑わしい。
15 ともかく『書紀』の編修は、天武十年(681)に始まり、養老四年(720)に及んだ39年もの長い事業である。初めは帝紀・旧辞の校訂整理であったが、次第に事業を拡大し、正史としての体例を定めたりするのに、多くの時間を費やしたのであろう。
第二部 研究・受容の沿革
古代における訓古的研究
きわめて近似した性格を持つ典籍として相前後して著作されながら、『記紀』両書の成立後の運命には、大きな違いがあった。というのは、『古事記』が久しい間ほとんど後人の注目をひかず、十八世紀に入り、本居宣長がその価値を力説するに至るまで、古典として重視されなかったのに対し、『書紀』は成立直後から講書が開始され、その後も常に古典として重んぜられてきて、古写本にも八世紀にさかのぼるものをはじめとし、『古事記』のそれに比べて遙かにその数が多いのである。
『書紀』完成の翌年に当たる養老五年(721)、早くも宮廷においてその講義がおこなわれ、その講義の内容を記したものとして『養老私記』の名が伝えられている。その後、弘仁三年(812)・承和十年(843)・元慶二年(876)・延喜四年(904)・承平六年(936)・康保二年(965)と、平安朝において六回の講書が行われた。
講書に当たった博士たちは、漢唐訓詁学の影響を受けた訓詁学者であって、『書紀』の全体的な性格をとらえる姿勢には欠けていたが、訓読・語義等についての実証的説明にその仕事をほぼ限定していた。それらの成果は、「私記」の形で記録され、現代の研究者のために貴重な資料を提供している。
このような古代講書の成果を集大成したものが、文永十一年(1274)卜部兼文の行った講義をその子兼方が編輯した『釈日本紀』である。その内容には創見とすべきものが乏しいけれど、「私記」をよく集成し、分類整理し、後の世に伝えた功績は大きなものがある。
そして、書紀に対する古代的な訓詁の学は、この集成事業を以て一応終わりを告げ、『書紀』の「研究」は、従来とは性質を異にする神道家の神学的論議に変じていったのである。
中世における神道家の利用
鎌倉・室町時代以後の『書紀』は、もっぱら神道家により、神道の源泉としての神典として尊重されることとなった。関心は神代巻のみに集中されて、歴史的記録の部分はほとんど顧みられなくなってくる。もともと日本の民俗信仰は、理論的教義をもたない祭祀の儀礼を主内容とするものであって、「神道」と呼ばれるような思想体系は存在しなかったのであるが、中世に入って、大陸思想を付会した伊勢神道・吉田神道・山王一実神道・唯一神道等の神道教義がはじめて成立し、神道五部書等の「神典」が新しく偽作されると同時に、『書紀』もまた神典として尊重されるようになるのであった。とくに神代紀がほかの諸巻とは格別の取り扱いを受け、注釈書が数多く出現したが、すべて空理空論で埋められており、『書紀』の学問的研究のために、今日読むに値するものはないと云っても過言ではない。
近世における学問的研究
近世における儒学を中心とする学問の興隆は、日本の古典に対する学問的研究の発達をも促した。ことに、国学の成立により日本古典を対象とする文献学的研究が学問の一つの重要な領域を形成するに至ったことや、儒学においても、荻生徂来の古文辞学の創唱、清朝の学会の影響下に発生した考証学派の出現、洋学をもふくむ自然科学や経世論の発展に伴う実証的精神の育成などの事情が相まって、『書紀』に対しても、中世にはみられなかった客観的・実証的な研究を発展させるにいたるのである。しかも、それは古代の講書の場合よりはるかに体系的な形を整えてきたのであって、江戸時代に入って、はじめて『書紀』研究が学問化したということが許されるかもしれない。
この時代の古典研究の中心作業をなした観のある注釈書の著作のうち、今日まで学問的にもっとも高い位置を占めてきたのが『日本書紀通証』と『書紀集解(しっかい)』である。
前者は思想的には神道家に属する和学者谷川士清(たにがわことすが)が延享四年(1747)に刊行したもので、字句の訓と義とを典拠にしたがって明らかにしようとした、最初の学問的注釈書である。後者は、漢学畑の学者河村秀根、益根父子二代の努力になるもので、天明五年(1785)の成立である。
『書紀』は古典の文辞を修めて成したものであるとの前提に立ち、中国の内典外典から典拠とおぼしいものを求めることに、最大の努力が傾注されている。大陸舶載の典籍から字句を多く借用しているのが『書紀』の重要な特色であるから、その典籍の解明に大きな力を注いだ『集解』は、後の『書紀』研究のために計り知れぬ大きな利益を与える成果を遺したのである。
『通証』と『集解』は近世書紀研究史上の二大高峰であるのみならず、今日に至るまで『書紀』全体にわたる注釈書として双璧の地位を失っていないのである。
しかし、本居宣長が寛政十年(1798)に完成した『古事記伝』に比べれば、古典研究として著しい遜色があることは、否定しがたい。何故ならば、『記伝』が訓義や字義の注解においてきわめて実証的な成果を上げるにとどまらず、古代人の風俗・習慣・思想等についてもすぐれた理解を示したのに対し、『通証』と『集解』からは、そのような歴史的感覚をほとんど看取できないからである。成立以来長年月にわたり忘れられていた『古事記』が宣長一代の努力で、今日なお容易に凌駕しがたい卓越した注釈書を持つに至ったのに反し、多年継続して研究されてきた『書紀』が、かえって『記伝』に匹敵する注釈書を持つことができなかったのは、皮肉な運命というべきだろう。
近世における学問的研究
近世の学問の実証主義的思考は合理主義の傾向を示し、神典として仰ぎみられてきた『記紀』に対して、批評的眼光を注ぐことにもなった。当時天皇は主権者としての地位を失っており、皇室の起源を説いているが故に『記紀』の神聖不可侵のものとする政治的必要の存在しなかった歴史的条件が幸いして、はじめて『記紀』を合理的な認識の対象として見ようとする態度が形成されたのである。
新井白石が享保元年(1716)に著した『古史通』、山片蟠桃の『夢の代(しろ)』享和二年(1802)、上田秋声の『胆大小心録』文化五年(1808)などがあり、神代説話を後世の作為としたり、神代ばかりでなく神武天皇以降仲哀天皇の部分までをも客観的史実の記録とは認めがたいとするなど、後年の津田左右吉の研究とほぼ一致する結論を示すなど、その先駆的意義は高く評価されねばならない。
合理主義の精神は、『書紀』の紀年の客観的な不合理性をも看破させるに至った。神武天皇元年辛酉から600年を減じなければ外国との年紀が合わないことをはじめて唱えた藤貞幹の『衝口発』天明元年(1781)に対して、本居宣長は『疳狂人』の一撃を与えてこれを葬り去ろうとしたが、宣長の門人である伴信友さえも、「日本年紀考」(『比古婆衣(ひこばえ)』所収)を著して、『書紀』の紀年が辛酉革命の説によって作為されたものであることの論証を行うに至り、やがて明治の学会でその説はいっそう推進されることとなるのである。
天皇主権体制の成立と記紀神話の政治的役割
近世封建社会において、比較的自由な学問的批判の対象となり得た『記紀』は、王政復古に始まり、明治憲法の制定によって確立された天皇主権体制の下で、主権者としての天皇の神聖な地位の起源を権威づけるための文献的典拠として絶大な政治的役割を発揮するにいたった。而も憲法と教育勅語とに集約された「国体観念」が、公教育における授業の中で児童・生徒に説示されるようになった結果、「国体観念」の歴史的源泉とされる『記紀』の初伝が、学校教育の普及を媒介として広範な国民層に注入せられるにいたった。
古代・封建社会においては、わずかに支配階級や少数知識人の知的教養の一部として知られているに過ぎなかった『記紀』の初伝が、国家権力の強制によってほとんど全国民に浸透せしめられるに至ったのは、有史以来未曾有の現象と云わねばならぬが、とくに神代説話や神武天皇以下の天皇系譜が日本歴史の教科書に歴史的事実として記載せられ、しかもそれが「国体観念」の「淵源」として権威づけられたのであるから、その出典としての『記紀』もまた「神聖な古典」として特殊な権威を付与され、江戸時代のように比較的自由な姿勢を以てこれに対することは困難となったのであった。
明治憲法下では、学問の自由は保障されず、「国体観念」の神聖を脅かすおそれのあるような学問研究はきびしく抑制せられていたので、明治以後の記紀研究には、ある点で江戸時代よりもかえって後退した面さえ生じているのである。
明治以降敗戦以前における学問的研究
明治以降における西洋近代科学の移植による学術研究の急速な進展にも拘わらず、前項に述べたような歴史的条件に制約せられ、『書紀』に対する科学的研究は順調な展開を遂げることはできなかったけれど、そのような情勢の下でも、江戸時代にその萌芽を示しつつあった『記紀』に対する研究は、一部の学者の間で長足の進歩を遂げ、今日に至るまで学会の共同遺産として研究者の共通の基盤となっている優れた業績を生み出したのである。
明治二十年代から三十年代にかけて、『書紀』の紀年に対する批判的研究が学会でにわかに活発となり、星野恆・菅政友・吉田東伍・那珂通世らが競って論文を発表した。それは前代に伴信友が企てた試みをいっそう精密に進展させたものであって、『書紀』の所謂神武天皇紀元が辛酉革命説により机上で作為された観念の産物であり、客観的な歴史上の年代に比べて大きな引き延ばしの行われていることが、ほぼ学界の定説化するに至った。それは、もっぱら神武天皇以後のもっとも古い部分に関して論ぜられたところであるが、欽明天皇紀前後の比較的新しい部分の紀年にも問題があり、歴史的事実のためには『書紀』紀年の修正を必要とすることが、久米邦武・平子鐸嶺・喜田貞吉らによって論証せられた。これら一連の研究により、『書紀』の紀年に対する学問的批判が高度に推進されたのは、不朽の功績であったと云ってよいであろう。
『書紀』の紀年ばかりでなく、『記紀』の伝える神代物語に始まる皇室起源説話、神武以下歴代天皇の系譜、とくにその初頭の部分等に対する批判的研究の形成も、不可避となってきた。明治憲法体制確立以後、『記紀』の科学的研究は困難となり、せっかく江戸時代に山片蟠桃等が示した鋭い問題提起も、久しく忘れ去られる状態が続いたのである。
そのような停滞を打ち破り、『記紀』の所伝に対する徹底した科学的批判を推考して、前人未発の巨大な業績を築き上げたのが、津田左右吉であった。『記紀』の伝える神代および神武以下歴代初頭の皇室起源説話の体系が、素材として民間説話を含み、また歴史的事実を反映する部分もあるにせよ、全体的な構想としては、六世紀前後の大和朝廷の官人により、皇室の日本統治を正当化する政治的目的を持って作為されたものであり、神武天皇以下仲哀天皇にいたる歴代天皇の系譜と共に、客観的史実の記録ではないこと、応神以後の所伝についても、天皇の系譜を除けば、正確な史実の記録からでていない作為された説話・記事のきわめて多いこと、とくに『書紀』については、漢籍・仏典の文章を借りた潤色が多く、天武・持統紀三巻を除くと、陳述史料としてはそのまま信憑しがたい記事の少なくないこと等、今日ではほとんど古代史研究者の常識となっている学会の最大公約数的命題が、津田の一連の著作により、はじめて公然と提示されたのである。
津田の研究が、記紀の所伝をそのまま客観的史実となし、これを「国体観念」の「淵源」として権威づけてきた国家権力の基本政策と到底両立しがたいものであったことは明白である。満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争に突入する昭和十年代の極端な言論弾圧時代に入ると、津田の研究もついに迫害を免れることができず、昭和十五年(1940)『神代史の研究』等の著作が発禁処分に付せられ、次いで津田は、これらの著作により皇室の尊厳を冒涜したとの理由で有罪の判決を受けるに至った。
紀年論の沿革
[瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)]
紀年研究は、紀年そのものを対象とするより前に、中国の史書『宋書』『南書』などにみえる倭の五王がどの天皇に当たるかということから始まりました。京都相国寺の住持瑞渓周鳳(1391〜1473)が文政元年(1466)に著した外交史『善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)』の中で始めて『南書』の五王関係記事を引用し、履中・反正・允恭天皇等との比定をこころみたのが初出です。
[松下見林]
徳川時代に入り、京都の儒医松下見林(けんりん)(1637〜1703)が元禄六年に出版した『異称日本伝』は古代から明代にかけて出版された中国・朝鮮の書籍の中から日本関係記事を抜粋し、重要な課題については国内史料を駆使して、自己の見解を書き留めたもので、とくに倭の五王については、王名比定にまで進め、以後の研究の定点を樹立したといえます。
[新井白石]
見林の『異称日本伝』から約20年後の正徳六年(1716)、儒学者新井白石(1657〜1725)が『古史通或問』を完成させ、五王比定法を大きく進展させただけでなく、『書紀』紀年への疑惑と『古事記』紀年への信憑性を述べている。笠井倭人はその著『研究史倭の五王』で【『書紀』紀年に対する不信は、今日においては、もはや国民的常識となっているが、その構造性に透徹した史眼を向けた最初の学者こそ、実はこの白石だったのである。】と称賛の言葉を述べています。
[本居宣長]
国学者本居宣長にとって、漢文で書かれ、中国風の編年体をとる『書紀』は許せないものであったようです。それに対して『古事記』は古伝承をそのまま記したものであり、上代の真実を伝えたものとして重視したのです。宣長は【『書紀』の年紀は左右に疑わし】としながら、一方では『古事記』の崩年干支は「漢意のさかしら」とみなし、もともと稗田阿礼が誦習した帝紀・旧辞にはなかったものであり、太安万侶が「一書」によって自ら書き加えたものとして、自説には採用しませんでした。
[伴信友]
本居宣長を師としながら、師とは異なる角度から合理的な紀年研究を進めました。『日本紀年暦考』(1847)において、『書紀』の紀年が讖緯説に基づくこと、神武天皇即位が辛酉年とされたのは『書紀』編纂の時であること、『書紀』の太歳干支が『百済本記』によったものであることなどを指摘し、紀年論に大きな足跡を残しています。
江戸時代の紀年論は、『書紀』の紀年への疑念に始まり、それが『古事記』とその崩年干支を尊重するという傾向を生み出したのですが、紀年論に関する大方の方法と視点は既にこの時代に出てしまったといえます。
[修史局派と那珂通世]
明治二年(1869)四月、史料編集国史校正局が設置され、明治八年に修史局と改名されました。重野安鐸(しげのやすつぐ)、菅(かん)政友、久米邦武、星野恆(わたる)といった錚々たる学者を抱えて、水戸学派の皇国史観を退け、重野が「学問は遂に考証に帰す」と称えたように、厳密な史料批判に立った学風をつくっていました。
この修史局派と半ば連携しながら明治の紀年論をリードしていったのが那珂通世です。明治11年(1878)に「上古年代考」を発表しましたが、これは「我ガ紀年、信ズルニ足ラザル者、皆安康以前ニ在り」として安康以前の『書紀』の紀年を疑い、朝鮮史料との比較によって神功・応神紀の紀年が干支二運だけ繰り上げられているとしました。これはさらに考説を加えられて明治二十一年(1888)『日本上古年代考』となり、明治三十年(1897)、不朽の名著とされる『上世年紀考』に結実しました。
明治二十一年に那珂が雑誌『文』に発表した『日本上古年代考』に対して、修史局の重野は『文』編集部の呼びかけに答えるかたちで自説を発表しました。これは、『古事記』の最も古い写本である真福寺本にみえる分註崩年干支を重視して、紀年訂正を試みたものです。これに触発されて、那珂も『古事記』尊重に傾き、崩年干支の実年代比定を試みています。そして、見林以来の倭王讃=履中説を捨てて、新たに讃=仁徳説を打ち出したのです。また菅政友も『古事記年紀考』(1891)において、崇神天皇以下の崩年干支は「古伝ヲソガママニ伝ヘタル」とし、それに拠って紀年の再構成を試みています。これは、現在では定説化している感じのある崩年干支の西暦比定と同じものですが、成務崩年(乙卯)から崇神崩年(戊寅)までを、干支一運内の37年とするか、2運の97年にするか、『キメ難シ』としながらも、後者を採っています。前者を採れば、崇神崩年は西暦三一八年となります。
[上世年紀考]
江戸時代からの紀年論の成果や紀年再構成に統計学的手法を用いる明治の英国大使館外交官アストンの方法も踏まえて総合的に紀年論に挑んだのが那珂の『上世年紀考』です。これに対して、三品彰英は『増補上世年紀考』(1948)の「解題」でつぎのように絶賛しています。
【そこに使用された資料と、採択された研究法と、又到達された結論とに於て、それが当時までの学会の成し遂げた成果の綜合的最高峰であったばかりでなく、将来の学会に対しても亦動かすべからざる定石を据えられたものと云って過言ではない。】
那珂の『上世年紀考』は江戸時代以来の紀年論の到達点といえます。これは六章にわたり、「古代年紀の延長」「暦法の始まり」「辛酉革命のこと」「神功・崇神の二御代の考」「国史と韓史と紀年の比較」「古事記の崩年干支」について、多大な史料を引いて考証しています。那珂は『書紀』の紀年を疑い、それが著しく延長されているのは讖緯説に拠って神武即位紀元を定めたためであり、そのため神功紀は韓史と比較して干支2運繰り上げられているとしました。歴代天皇の没年齢が延長されたのも讖緯説によるとします。その一方、菅政友の説を継承して『古事記』の崩年干支を重視し、それが残されている崇神から推古に至る時代については、外国史料の分析を通じて得られた知見をもとに崩年干支の実年代比定をおこなっています。それは三品彰英が予言したとおり、現在においても歴史学会の「動かすべからざる定石」として君臨しているのです。「倭の五王」の初めとなる「讃」を仁徳天皇に比定したのも那珂に始まり、これも今日では定説化しています。
戦後の歴史学から那珂の説に異論があるとすれば、崇神崩年を二五八年としたこと、および、仲哀崩年の壬戌年(362)にみえている「夏四月、倭兵大いに至たる」の記事と関係づけて、神功皇后の新羅征討を肯定していることでしょう。
那珂は、『続日本紀』から延暦九年(790)の「津連真道等の上表文」を引いて、神功・応神の治世が百済の近肖古・近仇首王の時代(346〜384)に当たることを主張する星野恆の説を、「誠ニ不易ノ格言ナリ」と支持しています。『古事記』が伝える雄略天皇の崩年干支「己巳」を「己未」の誤写とし、『日本書紀』のそれと一致させようとしたのも那珂に始まります。これらは、先ず初めに「神功は架空の人物である」として歴史から排除してしまう戦後の歴史学とは違い、那珂が率直に史料に向かい合った上での結論といえます。
明治に紀年論が噴出したのは、「万世一系の天皇」を国家の根本においた維新政府が明治五年十一月九日の太政官達によって太陽暦を採用し(明治五年十二月三日をもって明治六年一月一日と改定)、その六日後には神武天皇紀元を制定して、即位を西暦紀元前六六〇年としたことも少なからずあずかっているとみられます。翌年には神武天皇が即位した正月元日を太陽暦に換算して二月十一日とし、紀元節と呼ぶことが定められました。『日本書紀』の紀年に疑念があるにも拘わらず、あえて紀元節なるものを制定したのですから、当然、異論が噴き出して来ます。明治の紀年論の盛行は紀元節制定の賜であったともいえますが、それを学問的な紀年論へと導き、その時代の成果を総括したのは、やはり那珂通世の功績と云わねばなりません。
[近代 大正〜第二次大戦終戦まで]
明治期に大きく花開いた紀年論ですが、言論弾圧が強まるにつれて花は急速にしぼんでしまいました。冬の時代です。その中で津田左右吉、橋本増吉二人の功績が大きく光っています。津田については紀年論というより、『記紀』全体にわたる論ですから、紀年論としてはわずか橋本一人ということになります。
橋本は紀年を讖緯説によって再構成する手法を用いて、神武〜允恭のつくられ方を分析しています。後年三品彰英はその著『増補上世年紀考』(1948)において【細かい点での異論はあるが、大筋においては橋本氏の論を認める】としています。
[現代(私論) ]
戦後「国体」のくびきから解き放たれたはずですが、紀年論の停滞は解消していないように見受けられ、いまだに明治の域を超えないとされています。
三品彰英氏は、治世年数を否定あるいは訂正しようとする者がその一方で皇代数を信じていることを問題にして、代数と治世年数の取り扱いを三つの立場に分類しています。
(1)代数と治世年数とを共に信用して書紀の伝えをそのままに肯定しようとする立場
(2)二者何れか一を信用し、それによってほかを否定乃至訂正しようとする立場
(3)二者共に信用し難いとして、ほかに資料を探求する立場
紀年論が本格化する以前は(1)の立場、それ以降は(2)の立場だとして、氏は(3)の立場を将来に置いて展開されるべき一つの方向ではあるまいかと示唆しています。
現代の研究は氏が予見したように【二者共に信用し難いとして、ほかに資料を探求する立場】が主流となっていますが、【二者共に信用し難い】まではよかったのですが、『記紀』二書を捨てて【ほかに資料を探求する立場】をあまりに強くしたため、紀年論研究は迷路にはまり込んでしまいました。つぎの言葉にあるように、紀年論はもう一度『記紀』に戻って、その中に答えを見いださなければならないのです。
【『記紀』の成立に関する従来の論議は、多く外在資料の評議に終始する傾きにあって、記紀そのものの実態に即した分析研究がおろそかにされがちであったが、客観的に外在的な資料の乏しい事実を確認すれば、文献学的な方法を基礎とする内在的批判の方法とも称すべきものが要求されてくる。そして、この方法をもって、時代的にも内容的にも成立的にも無関係であり得ぬ二書(『記紀』)を研究するとき、『古事記』が『日本書紀』研究の外在資料として利用され、逆に『日本書紀』が『古事記』研究のそれとして利用されるので、その本質の解明に益するところが多い。】(梅沢伊勢三『記紀批判』 1937年)
【考古学や年輪年代学や数理文献学と云ったものは、紀年論の成果を検証し傍証するものであるが、紀年論そのものではない。紀年論がまず成さねばならないのは、崩年干支と紀年が表現しているものは何であるか、紀年的世界とは何であるかを、『古事記』『日本書紀』という史料そのものと向かい合うことによって明らかにし、その原史料を復元することでなければならない。】(高城修三 『紀年を解読する』ミネルヴァ書房 2000年) 
言葉 
八色の姓  ヤクサノカバネ 
天武天皇十三年(六八四)十月に定められた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、導師、臣、連、稲置の八種の姓のこと。即日、第一位の真人姓の賜与がおこなわれ、以後翌十四年六月にかけて畿内のウジに第四位の忌寸まで順次賜与されていくが、導師以下の賜姓は実施されなかった。八色の姓の賜与の対象にならなかった人々は、この後も旧来の姓を称したので、「天下の方姓を混(まろか)す」(天武十三年十月一日条)という当初の目標は実現せず、雑多な姓が残ることになった。一方、導師・稲置は計画のみに終わったので、実際にこういう姓は存在しない。しかし実施された忌寸以上の四姓と八色の姓の直前の大量の連姓賜与があいまって、朝廷の官人層の母体となる畿内のウジの範囲とその族姓の大小がほぼ確定された。
真人(一三氏)はすべて旧公(きみ)姓で、継体天皇以降の皇別を主体とし、それに応神裔を称し、継体天皇の近親である息長氏系を加えている。
朝臣(五二氏)は旧臣姓四〇氏、君姓10氏、連姓氏で、遠い皇別である旧臣系が中心。
宿禰(五〇氏)は臣姓一氏を除く四九氏が旧連姓で、その多くは天神・天孫の神別。
忌寸(一一氏)は一一氏のうち直姓一氏を除いて残りは連姓であるが、その大部分は本来直姓で、天武朝に連姓を賜与されたウジである。
八色の姓は諸氏の出自を基準にすると、天皇家との系譜関係の親疎によって諸氏を序列化したとみることもでき、これによって天皇を中心としたヒエラルヒーを樹立して、皇親の社会的地位を確立したという評価がされている。
しかし、七世紀後半の氏族政策の流れの中でこれをみると、八色の姓は全体として公・臣・連・直・造といった旧来のカバネの秩序を踏まえつつも、大化の改新以後の諸氏の現実の地位に基づいて大氏・小氏・伴造などの氏上(ウジガミ)を定めて、新たに畿内の諸氏を区分しなおした天智天皇三年(六六四)の甲子の宣の施策を引き継ぎ、それを族姓の一元的な序列化として一層徹底させようとしたものとみられる。
また一方で八色の姓は天武朝の官僚制度化の一環とも位置づけられ、族姓の確定を考選の前提条件にすることにした天武天皇十一年八月の考選基準詔、さらには同年十二月のウジの範囲の確定を目的とした氏上の選定などの政策と一連のもので、「氏姓の大小」を考選の基準とした『浄御原令』考仕令実施の前提となる族姓を確定するという意味を持っていた。
八色の姓の忌寸以上が、ほぼ令制の五位以上の官人を出すウジに対応しており、これによって畿内のウジと地方豪族の区別に加えて、上級官人層と下級官人層の出身氏族の差異も明確となり、令制下の支配層の階層構成の基礎が形つくられた。
太歳  タイサイ
太歳とは木星のこと。木星は天を西から東へ十二年の周期で巡行することから、十二支と結びつけ、太歳干支として年度を表すことがおこなわれました。古代中国の暦法から生まれ、百済本記に用いられていました。
暦 
当時の暦「元嘉暦」と「儀鳳暦」はつぎのような関係にあります。
「元嘉暦」は宋の何承天(カショウテン)がつくり、元嘉二十二年(445)から施行され、65年間使用されている。この暦はまもなく百済に伝わった。わが国への伝来は、『書紀』によれば、欽明十五年(554)百済から暦博士が来朝、また、推古十年(602)には百済僧観勒(かんろく)が暦本・暦法を伝えたとあるが、宋への遣使や百済との交流を通じて「元嘉暦」が部分的に使われていた可能性も否定できない。一方、「儀鳳暦」は麟徳(リントク)二年(665)に唐の李淳風(リジュンプウ)がつくり、64年間使用されている。わが国では持統六年(692)から六年間「元嘉暦」と「儀鳳暦」が併用され、文武二年(698)以後は「儀鳳暦」が単独で使用された。(小川清彦『日本書紀の暦に就いて』1946年より)
舎人親王  トネリシンノウ
【天武の第三皇子(註)で天武五年(676)生まれ、天平七年(735)、60歳没と伝えられる。母は天智天皇の皇女新田部、子の大炊王は後の淳仁天皇である。奈良時代初期には皇室の長老として尊敬された。日本書紀編纂の責任者として著名。日本書紀完成から3ヵ月後、右大臣藤原不比等が没すると、知太政官となり、太政大臣を統括する立場に任命され、薨去までその位にあった。元正・聖武2代の天皇に皇親として仕え、奈良時代前半の皇親政治の中心的存在であった。神亀五年(728)に詔を出したとき、右大臣長屋王より上の位置に署名して、稀有なこととされているが、天武天皇の皇子として政治的権威を持っていた。没後太政大臣を贈られた。758年、子の大炊王が淳仁天皇として即位したのに伴い、翌年、「崇道尽敬皇帝(スドウジンケイコウテイ)」の称号を追贈された。】
701年当時、兄二人はすでに他界(686年大津皇子。689年草壁皇子)しており、発言力は強くなっていたと考えられます。当時は二品。『書紀』完成を目前に控えた養老二年(718)、一品となりました。(朝日新聞社刊『歴史人物辞典』より)
讖緯説  シンイセツ
「讖」は未来の予言、「緯」は儒教の経書の経(タテイト)に対して、それを補うものとしての緯(ヨコイト)の意味で、七経と『論語』について、それぞれ緯書がつくられた。中国において前漢の末より盛んになり、六朝にかけて多くの緯書がつくられたが、隋の煬帝が緯書を焼却したため、現存するものは少ない。唐以後は次第に排除されるに至った。この思想はいろいろな要素を含み、王の徳に応じて天皇より命が与えられ、暦数・暦運によって帝王の政治が変化するという時令説、政治と自然現象の間に天の遺志が存在するとして、帝王の徳が高く、善政を敷けば瑞祥が現れるが、悪政をおこなえば天災地変が起こるという、天人感応説、そのほかわが国で強調されたのは災異瑞祥説で、暦数による甲子革令、辛酉革命、すなわち十干十二支の組み合わせによって、甲子の年は政令を改める、辛酉の年は天命が改まるとされた。(吉川弘文館『歴史辞典』より)
帝紀  テイキ
『古事記』序文では帝紀は帝皇日継・先紀などと書き換えられています。帝皇日継という言葉は、帝紀が歴代天皇の皇位継承の次第を記した記録であったという性格をよく示しています。また『書紀』の欽明二年三月、皇子女を列挙した条の分注には、『帝王本紀』というものを引用して、【その書はしばしば伝写される間に誤りを多く生じ、本によって兄弟の順序が乱れている】ということを述べています。この帝王本紀は帝紀と同類のものであるとみてよいでしょう。帝王本紀に異本が多くあったというのは、『古事記』序文に帝紀や旧辞には異本が多くあったというのに全く合致するからです。
帝紀の具体的な内容は、『古事記』の文から推測して、天皇の名、皇居の所在、治世中の重要事項、后妃・皇子女の名、それに関する重要事項、天皇の享年、治世の年数、山陵の所在などであったろうとみられます。(岩波大系本より)
旧辞  キュウジ、クジ
『古事記』序文では本辞・先代旧辞などともいわれます。旧辞の内容は帝紀と同じように、『古事記』の文から推測するほかありませんが、まず神代の諸伝説、歴代天皇の巻巻の諸説話、歌物語の類だろうと考えられます。これを伝承の性質から分類すると、第一に祭祀に関連して伝えられたもので、祭祀の思想を内容とするもの、天の岩戸、天孫降臨の物語の類、第二に、氏族によって伝えられたもので、氏族の歴史を内容とするもの、中臣氏の伝えた建御雷神の物語、猿女氏の伝えた天宇受売(アメノウズメ)、仁徳紀の雁の卵、枯野の船などに分けられるというのが、武田祐吉氏の説です。(岩波大系本より)
姓  カバネ 
臣 =皇別と称する諸氏が持ち、姓の中でもっとも尊重されたが、天武天皇のとき、臣の一部は朝臣(第二位)に昇格、元の臣は第六位の姓となる。
連 =大和朝廷時代の主として神別の諸氏が称した。臣と並ぶ有力豪族が多く、大伴連・物部連からは大連が任ぜられて朝政を担当。天武天皇が八色の姓を制定するにおよび、大伴・石上(物部)ら有力な連は第三位の宿禰に昇格し、ほかは第七位となる。
君・公 =主として継体天皇以後の諸天皇を祖とする公姓十三氏は、天武天皇の時に真人と賜姓され、八色の姓の第一等となった。君姓の者は多く朝臣と賜姓。
朝臣 =八色の姓の第二位。主として皇別の氏に与えられ、平安時代以後、皇子皇孫に与えられた。
直 =国造に多く大化の改新後、郡司とその一族に多い。
別 =主として古来の地方豪族が称した。
神別 =『新選姓氏録』にみられる分類で、古代、神々の子孫と称した氏、たとえば天児屋命アメノコヤネノミコトを祖先とした藤原氏の類。
干支  カンシ、エト
十干十二支のこと。[カンシ]と読み、幹枝の意で[エト]は俗称。中国の原子説五行『木火土金水』を陽の兄(え)と陰の弟(と)に分けた十干 甲(コウ・カッ・きのえ)乙(オツ・イツ・きのと)丙(ヘイ・ひのえ)丁(テイ・ひのと)戊(ボ・つちのえ)己(キ・つちのと)庚(コウ・かのえ)辛(シン・かのと)壬(ジン・みずのえ)癸(キ・みずのと)と十二支 子(シ・ね)丑(チュウ・うし)寅(イン・とら)卯(ボウ・う)辰(シン・たつ)巳(シ・み)午(ゴ・うま)未(ビ・ひつじ)申(シン・さる)酉(ユウ・とり)戌(ジュツ・いぬ)亥(ガイ・ゐ)を組み合わせた紀年法です。
年の表示は甲子の次が乙丑、丙寅、丁卯と進み、10年目は癸酉で、十二支は二つ余りますから、次は甲戌、乙亥となっていきます。十干が一順するごとに十二支は二つずつずれて、六十年で一巡(61年目で元の甲子に戻ることから、還暦という言葉が生まれた)するので、これを一運といい、二十一運(1260年)を一蔀ホウといいます。『書紀』は例えば「雄略天皇元年春三月庚戌朔壬子(三月一日が庚戌で壬子の日という意味で、庚戌、辛亥、壬子と続きますから、三日ということになります。月は干支と関係ありません)」というように年の表示は元号紀年により、日付は干支によっています。
読み方ですが、「え(兄)」の時、たとえば甲寅はキノエトラと続けて読みますが、「と(弟)」のとき、たとえば乙卯はキノトのウと「の」を入れて読みます。
漢風諡号  カンフウシゴウ
天皇の名は現在でも漢字2字でつけられますが、このようになったのは『書紀』完成後の八世紀後半、淡海御船(三船)がそれまでの天皇につけてからのことで、それまでは大泊瀬幼武天皇(オオハツセノワカタケスメラミコト 雄略天皇のこと)というように和風の諡号でした。また天皇という称号も七世紀頃からで、それまでは大王(オオキミ)と呼ばれていたようです。ちなみに淡海真人御船は壬申の乱で天武天皇に殺害された大友皇子の曾孫です。
紀年  キネン
「紀年」とは「元年からの年数」のことです。『書紀』はすべての天皇に「紀年」を記していますが、このように元年から数えるようになったのは、かなり後になってからのことと見られます。 
 
「日本史」考

 

『日本』という国号はいつ生まれたか
王政復古を掲げ大政奉還を成し遂げた明治維新によって、西欧列強に並ばんとする近代国家としての日本は誕生した。1872年9月4日(明治5年8月2日)に太政官から『学制(学校教育制度)』が発せられたが、近代日本の歴史教育の基盤には『天皇制の権威・皇国史観』があったため、『日本の国号の始まり・日本人の自意識の形成』については史実ではなく『古事記・日本書紀』の神話に基づく教育が行われていた。
例えば、イザナギ・イザナミの国産みやニニギノミコト(天皇家の祖先神)の高千穂峰への天孫降臨、日本武尊(ヤマトタケル)の東征など記紀の神話に基づくエピソードが『日本誕生の原点(物語的な事実)』に近いものとして扱われたため、史実としての『日本の国号・国制・日本人アイデンティティの始まり』について殆どの国民がはっきり分からないという状態になっている。記紀の神話の影響で、縄文時代より遥か昔の太古の時代から『日本(国号)・日本人』が存在していたという認識が生まれたり、『邪馬台国・奴国』があった弥生時代にも日本の国制の中に邪馬台国があって日本人(倭人は日本人と同じである)がいたというような見方がでてきてしまう。
初期の天皇の実在可能性については、『欠史八代(2代目〜9代目を不在とする説)』をはじめとして、何代目の天皇から確かに実在していたと言えるのかには様々な議論がある。だが、“イザナギ―天照大神―アメノオシホミミ―ニニギ―ホオリ――ウガヤフキアエズノミコト”の神々の系譜に連なるとされる初代・神武天皇(じんむてんのう、生没年不詳)は、その名前自体が奈良時代後期の文人・淡海三船(おうみのみふね)によって1000年以上も後に『漢風諡号(かんぷうしごう)』を一括撰進されたもので、紀元前の時代に神武天皇が『諡号を持つ天皇』として実在していた可能性はない。
神武天皇が即位したと推測される2月11日は、現在でも『建国記念日』として祝日になっているが、この建国の日は『神話上(皇室の権威確証)の建国』であって『史実の上での建国』ではない。だが、『史実としての日本の国制』の始まりについて知っている人は少なく、古墳時代が終わってヤマト王権(大和朝廷)の成立と前後する辺りという大まかな認識しかないことが多く、7世紀末における『日本の国号・国制の誕生』については曖昧な知識しか与えない歴史教育の影響も大きい。『日本』という国号は、聖徳太子(厩戸皇子)が隋の煬帝に送ったとされる親書『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや』でよく知られるように、『隋・唐の中国王朝に対する独立意識・対抗意識』から生まれたが、その時期は673年〜701年頃だとされている。
『日本』は地名ではなく政治的に制定された国名・国制であり、『日本人』とはヤマト王権や朝廷・天皇の政権と無関係に自然発生した民族ではないから、『日本・日本人の歴史的な起源』は『壬申の乱(672年)』に勝利した天武天皇の治世が行われていた7世紀末と考えられるのである。
天武天皇(生年不詳-686)は681年から『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』の編纂を始めていたがその途上で死去し、女帝の持統天皇(645-703)が689年に飛鳥浄御原令を施行した。法令の上で『日本という国号』、『天皇という地位・称号』が公式に設定されたのはこの689年の飛鳥浄御原令であり、『実証主義的な歴史』としては日本の国号、天皇の正式な呼称の始まりは“689年”という風に暫時的に定義することができるだろう。
689年は実証主義的な『日本』という国号を公式に持つようになった国の日本史の出発年、公式の天皇制の出発点と見なせる重要な年である。だが、この年号は大化の改新の645年よりも遥かに知名度が劣っている。『日本』という独立的な国号を東アジア世界において初めて名乗った年もはっきりとしており、“唐”を“周”という国号に改めていた則天武后(そくてんぶこう、623頃-705)に面謁した日本の使者が“702年”に、自分たちの国が唐(周)の中国側が呼ぶ『倭』ではなく『日本』であると名乗っているのである。則天武后は武則天とも呼ばれる中国王朝史上で唯一の女帝だが、残酷な刑罰や密告制度を用いた恐怖政治・粛清を行ったため、漢の呂后(高祖・劉邦の妻)、清の西太后と並んで『中国三大悪女』の一人とされている。 
“倭人”は“日本人”
7世紀末の天武天皇あるいは持統天皇の治世に『日本』という国号が成立するまでは、日本は『倭(わ)』と呼ばれており日本人も『倭人(わじん)』と呼ばれていたとされる。だが、厳密には統一的な政権・律令(法律)を持たず、日本人としての統合的アイデンティティもなかった『倭・倭人』は『日本・日本人』と同一の存在や概念として考えることはできないだろう。
倭人が中国王朝の正史の文献に初めて出現するのは、高祖・劉邦が起こした漢の時代の『漢書地理誌(かんじょちりし)』である。紀元前1世紀頃の倭(主に西日本・北九州)の状態を指して、『楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす』と記されている。また『倭・倭人』は元々、中国の王朝が非文明的で野蛮・劣等な日本列島やその周辺に住む異民族を貶めて表現するため(中国こそが文明の中心とする中華思想を強調するため)に『悪字(意味の良くない漢字)』を当てたものであり、当時の日本列島に居住していた人々が倭や倭人を自称したわけではない。
『日本』は中国王朝や冊封体制に対する独立意識(対抗心)に根ざして自称された国号であり、『倭』は中国王朝の中華思想の優越感を表すために他称された地域名であるという違いを指摘することができる。倭の漢字は、『稲魂(いなだま)をまとって舞う巫女の形でその姿の低くしなやかな様子、五穀豊穣の儀礼的な舞い』というその語源を考えると必ずしも『悪字』ではないとする説もある。倭を悪字とする立場からは、倭には『小さい・劣っている』といった意味があると言われている。 現在の韓国・北朝鮮も『倭寇・壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵)』を、韓国併合(日帝支配36年)に次ぐ過去の日本の外交的・侵略的な悪事として扱っており、日本の暴力性・野蛮性・侵略主義などを指弾する時には『日本』よりも『倭』という概念が用いられやすい。
しかし、『後期倭寇』についてだけは日本人の海賊が朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を襲って略奪したという歴史解釈は明らかに間違っており、元寇の被害を受けて農業ができなくなり窮乏化した壱岐・対馬・松浦・五島列島などの住民が海賊になって略奪・暴行を繰り返した14世紀の『前期倭寇(特に三島倭寇)』とは区別するべきものである。倭寇が生み出された直接の原因は、元・高麗の軍が日本に侵略を仕掛けてきて農業生活に窮乏する人民を大量に生み出した『元寇』にあるが、前期倭寇でさえも朝鮮半島の高麗で『禾尺(かしゃく)・才人(さいじん)』と呼ばれた賤民が加わっていたとされる。
倭寇が朝鮮半島・中国大陸・日本の沿岸部に大量出没した背景には、1368年の朱元璋(しゅげんしょう)による明の建設(元の滅亡)、1392年の李成桂(りせいけい)による李氏朝鮮の建設(高麗の滅亡)という『王朝交代期の混乱』も影響していたと考えられる。日本でも1333年に鎌倉幕府が倒れて、足利尊氏の室町幕府が1338年に成立しているが、日本もまた『南北朝時代の王朝分裂の混乱期』に差し掛かっていた。南朝・後醍醐天皇の皇子である征西将軍宮の懐良親王(かねよししんのう)は、明から冊封を受けて『日本国王』を称したが、その後の1392年に南北朝合一を果たした3代将軍・足利義満も明の要請を受けて倭寇鎮圧に動き、『日本国王』として冊封され勘合貿易の実利を得ている。
16世紀の『後期倭寇』の中心は、日本人ではなく私貿易・密貿易を行っていた中国人(明の海禁政策に反対する中国人)であり、後期倭寇を『日本人による東アジア(中国・朝鮮)に対する暴虐・略奪』とする見方は間違っていると言える。倭寇は国家が主体となったり援助したりして行われた海賊行為ではなく、国家・国境を超えて独自の利益や目的のために活動していた『海で生きる人々』の貿易・海賊のネットワークであった。浙江省の双嶼や福建省南部の月港、日本の五島列島を拠点とした中国人主体の後期倭寇は、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などをリーダーにしていたが、明によって王直が処刑されると後期倭寇の影響力は次第に弱まっていった。日本でも1588年に、豊臣秀吉が『倭寇取締令』を発令して厳しく弾圧したことで、日本人による倭寇の海賊被害も次第に減少していった。
『魏志倭人伝』には3世紀の邪馬台国の女王・卑弥呼(=親魏倭王)についての記述もあるが、この時代の政治権力の中心や有力な豪族が率いる集団勢力は『近畿・九州』にあり、それ以外の遠い地域の人たち(東海地方よりも東の関東・東北、南九州など)が『日本という国号・日本人という民族意識』を持っていた可能性は極めて低いだろう。5世紀の有力な豪族(王)であった倭王武(ワカタケル)も、宋の皇帝に対して『東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国』などと書いて送っており、5世紀に至ってもなお日本(倭)の内部は無数の小国が乱立する混乱した状態であったことが伝わっている。
日本という国号、日本人という民族アイデンティティが成立する以前の時代には、『倭・倭人』はあっても『日本・日本人』はなかったとするのは論理的な歴史解釈だが、聖徳太子や推古天皇、天智天皇(中大兄皇子)、藤原鎌足、蘇我蝦夷といった人たちも、7世紀末の日本の国号が成立する以前の人物であるから、厳密には『倭人』という他称的な概念に当てはまる人たちである。これらの日本史における有名過ぎる超重要人物が『日本人』という自称的な民族概念を未だ持っていなかった、『日本』という国号・国名を用いていなかったというのは不思議な感じがするが、聖徳太子の冠位十二階・十七条憲法などは『中国王朝を模範とする律令国家』を模倣する途上の段階(中国王朝に対する独立意識の形成段階)にあったと見なすべきなのだろう。
日本という国名の意味は『日の本=東側の太陽が昇ってくる場所』であるが、この国名にしても『中国大陸の東側(中国王朝よりも先に日が出てくる場所)』といった相当に当時の随・唐の王朝の大きさを意識した命名になっている。承平6年(936年)に、この日本の国号の意味(日出づる処の意味)が、日本国内ではなく中国大陸から見た意味になっているのではないかという質問をした人物に、参議・紀淑光(きのよしみつ)がいる。この問答は、『日本書紀』の『日本書紀私記(講義録)』に残されている。
日本に住んでいる人間の視点では、『日出づる処(日本)』は日本よりももっと東方にある地域になり、当たり前だが日本列島の内部から太陽が昇ってくるわけではなく、日本とは語義的には『太陽の昇る東方・東側』といった方角だけを意味している。どこから見た東側なのかといったら、中国大陸にある王朝から見た東側なのであって、日本という自称・独立の国号は、『中国大陸からの視点・中国王朝への対抗意識(冊封体制からの離脱意識)』がなければ生まれなかった可能性もあるのである。  
大和朝廷(ヤマト王権)の誕生と神話時代の大王たち
『古事記』や『日本書紀』によると日本の初代天皇は神武天皇(B.C.711-B.C.585)ですが、神武天皇を含めて初期の天皇は『神代』とつながる神話的な存在であり実在はしなかったと考えられています。特に、第2代の綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第9代の開化天皇までは歴史上に実在しなかったということで『欠史八代』と呼ばれていますが、実在が確実な天皇が誰からかということについては歴史学者でも意見が分かれています。
最も古い時代に遡る天皇実在説は、第10代の崇神天皇から実在したというものですが、現在では、かつては実在が有力視されていた第15代の応神天皇も実在しないという見方が強まっており、実在が確実と言えるのは第26代の継体天皇(450頃‐531)からだと考えられています。大和地域だけでなく越前地方や近江地方の豪族の権力を取りまとめて王権を強化したのが継体天皇であり、継体天皇はそれ以前の天皇(武烈天皇)とは直接の血縁関係がなかったので、継体天皇の即位は事実上の新王権の成立を意味していました。天皇家の血統を『万世一系』と呼ぶとき、歴史的には継体天皇以降の血の流れを通して王統が保たれていることを示しています。
また、『神武・仁徳・武烈・継体』などという漢風諡号(中国風の諡)は奈良時代(8世紀)に入って淡海三船(おうみのみふね・722-785)が一括撰進したものなので、それ以前は大和王朝に参加する諸豪族(群臣)が推挙する天皇は『大王(おおきみ)』と呼ばれていました。5世紀の古代日本は冊封体制に参加しており、『倭の五王』と呼ばれていた権力者たちは、中国の南朝(東晋・宋・梁)に朝貢していました。しかし、倭の五王と呼ばれる『讃・珍・済・興・武』が、古事記や日本書紀に記される大和王朝(ヤマト王権)の天皇の系譜に連なる権力者だったのか否かは確定されていません。一説によると、讃は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇ではないかとされますが、実証的な証拠(史跡・文献)が積み重ねられているわけではありません。
継体天皇以前の旧王統は『応神天皇(第15代)‐仁徳天皇(第16代)のライン』で血統がつながっていましたが、民衆を搾取して淫行に耽るような悪政を行ったとされる武烈天皇(第25代)によって王統が断絶します。応神天皇‐仁徳天皇より昔の仲哀天皇は実在しなかったと見なされていますので、継体以前の歴史的な天皇の系譜を扱う場合には仁徳天皇から考えるのが合理的だと言えます。仲哀天皇は父が日本武尊(やまとたけるのみこと)で母が神功皇后(じんぐうこうごう)とされており、父母が両方とも神話的な人物なのでその子とされる仲哀天皇もまず実在しないと思われます。記紀(古事記・日本書紀)の系譜には実在しない天皇が多く含まれているので、記紀だけを参考にして日本の政治権力の歴史的系譜を解明することは出来ません。古代日本の政権(倭と呼ばれた時代の政権)がどのようなプロセスを経て統一されたかの詳細は分かっていませんが、弥生時代(B.C.10世紀-3世紀頃)に成立した卑弥呼が治める邪馬台国のような有力国が周辺の小国を次々に支配していったのではないかと考えられています。
古墳時代(4〜6世紀)以降の古代日本の政権について『ヤマト王権』と呼ぶことが多くなっていますが、『大和朝廷・大和政権』といった言い方もあり古墳時代のことを大和時代と呼ぶこともあります。古墳時代には、倭(古代日本)を統一する強大な政治権力(王権)が段階的に形成されていきますが、それは各地の豪族を従えるほどの権力(軍事力・カリスマ性)を持った『大王(後の天皇)』が登場したことを意味します。古墳時代はその名前が示す通り、王や豪族の権力を象徴する巨大墳墓である『古墳』が多く作られた時代であり、特に5世紀には大仙古墳(仁徳天皇陵古墳・大阪府堺市)に代表される巨大な前方後円墳が多く築造されました。古代の大王や奈良時代以前の天皇は『刀剣を自ら振るって指揮する武人の権力者』であり、古墳時代の前方後円墳には『鉄製の刀・甲冑・馬具』などの武器が副葬品として埋葬されています。また、大化の改進(645)以前の天皇(大王)は唯一絶対の権力者としての立場を固めておらず、古墳時代に成立したヤマト王権は地方の有力豪族が寄り集まった『連合政権』としての性格を色濃く持っていました。
現在の奈良県周辺に当たる大和地方を本拠にして、有力豪族をとりまとめ北部九州と近畿全域にまで勢力を拡大したのがヤマト王権(大和朝廷)ですが、その中央集権的な政権の確立過程の詳細は分かっていません。仁徳天皇系の血統は武烈天皇(在位498−506)によって断絶しますが、継体天皇(在位507‐531)の時代頃からヤマト王権は徐々に倭(日本)を統治する初期国家としての形態を整えていきます。ヤマト王権(大和朝廷)における豪族(後の貴族)の政治的地位は『氏姓制度(氏姓の制)』によって規定されていたので、ヤマト王権は原始共同体的な血縁集団・氏族集団としての特徴を持っています。有力な豪族としては物部氏・大伴氏・蘇我氏などが有名ですが、これらの有力豪族には『臣(おみ)・連(むらじ)・国造(くにのみやっこ)・伴造(とものみやっこ)』などの姓(かばね)が与えられました。
大和地方の地名を氏(うじ)としている『蘇我氏(そが)・葛城氏(かつらぎ)・平群氏(へぐり)・巨勢氏(こせ)・春日氏(かすが)』などの最高位の豪族には『臣(おみ)』の姓が与えられました。ヤマト王権での職務を氏としている『大伴氏・物部氏・中臣氏・忌部氏(いんべ)・土師氏(はじ)』などの高位の臣に当たる豪族には『連(むらじ)』の姓が与えられました。『伴造(とものみやっこ)』の姓は、特殊な職能集団である秦氏(はた)・東漢氏(やまとのあや)・西文氏(かわちのあや)など朝鮮からの帰化氏族に与えられました。『国造(くにのみやっこ)』は地方の有力豪族に与えられた姓ですが、初期のヤマト王権は各地を実力で支配する豪族たちを国造として承認することで、中央集権的な国家つくりを進めました。 
仁徳系から継体天皇への政権交代
継体天皇(在位507‐531)は形式的に『応神天皇の五世孫』とされていますが、父の彦主人(ひこうし)王と母の振媛(ふるひめ)の間に近江の三尾(みお)で生まれた皇子です。母親の振媛は越前の三国(福井県坂井郡三国町)の出身であり、夫の彦主人王が死去すると幼少の継体天皇を連れて越前へと帰りました。武烈帝は、民衆を搾取して苦しめ淫蕩な行為に耽る暴君として『日本書紀』の記述に残っていますが、これは仁徳系の武烈帝から皇位を受け継いだ継体帝の正当性を強調するためのレトリックで、本当に武烈帝が暴君であったわけではないと考えられます。文章そのものが中国の古典である『史記』などを参照しており、武烈帝を暗君とするエピソードも『(暴君の代名詞である)桀紂の故事』に倣ったものでしょう。古代中国の夏(か)の桀王と商(殷)の紂王は、寵愛した美女との関係に溺れて暴虐な政治を行った暴君とされていますが、この桀紂の故事はその後に続く商の湯王や周の武王の政権の正当性を強調するために創作されたものだという説もあります。
武烈天皇には血縁のつながった後継者(継嗣)が生まれなかったので、仁徳系ではない継体天皇に皇位が回ってくるわけですが、この王朝交代によって仁徳系の血統は断絶したと考えられます。記紀による伝承では『継体天皇は応神天皇の五世孫』といった表記によって、とりあえず万世一系の血統がつながっているとされますが、武烈と継体の間には直接的な血縁関係がありません。そもそもこの時代には、現天皇の皇位を血縁上の子孫(皇子)に継承させるという慣習がつくられておらず、大王(天皇)といえども自分の一存で後継者を指名することは出来ませんでした。臣や連の姓を持つ有力な群臣(豪族)の推挙・承認を得て『次の大王(天皇)』を選抜するという慣習があり、ヤマト王権は大王の専制主義政権(君主政治)ではなく未だ氏族連合政権としての性格を残していたわけです。ですから、古代のヤマト王権(大和朝廷)では、血縁上の皇子(皇太子)以外の人物が大王(天皇)になるようなケースも幾つか見られたわけです。
後継の決まっていない武烈帝が没すると、残った群臣は政治秩序の安定のために次の大王(天皇)を早く決めようとしますが、即位を懇願した仲哀天皇の五世孫とされる倭彦王(やまとひこおう)からは断られてしまいます。そこで大連の大伴金村(おおとものかなむら)は、越前の三国に使者を派遣して応神天皇の五世孫とされる男大迹(おおど:後の継体)に大王への即位を要請するわけです。大伴金村は、男大迹(継体)に正統な王位の象徴である宝器(神器)を献上して、遂に男大迹は507年にヤマト王権の大王(天皇)として即位することになります。しかし、507年に河内の樟葉宮(くずはのみや)で即位した継体天皇は、ヤマト王権の本拠地である大和地方(奈良盆地周辺)に遷都するまで約20年の歳月を要しています。なぜ、大王(天皇)になった継体が、河内の樟葉宮で20年間も足止めを食ったのかには諸説ありますが、継体天皇の時代の政治権力の基盤は一枚岩ではなく、継体の天皇即位に反対していた勢力がいたのではないかと見られています。継体は、武烈天皇の姉あるいは妹である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后として、朝鮮半島に百済を支援する対新羅の軍隊を送ろうとしました(526年)。
526年に何とか『大和入り』を実現させた継体天皇は、神武天皇以来ヤマト王権との所縁が深い『磐余(いわれ)』の地に都を置き、『磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)』と呼ばれるようになります。この磐余(いわれ)という土地には、伝説上の天皇である履中天皇(第17代)や清寧天皇(第22代)が都を置いたとされています。継体天皇の時代は、朝鮮半島(新羅・百済)との軍事外交が活発化した時代であり、日本(倭)は継体の治世に朝鮮半島の拠点であった任那(みまな, 加羅)を失うことになります。任那(加羅)が新羅の侵攻を受けた政治的責任を取って、継体の即位を懇請した大伴金村は失脚することになりますが、任那が完全に地図から消滅したのは欽明天皇の時代だとされています。当時のヤマト王権は、朝鮮半島南部の任那(みまな)あるいは加羅(から)と呼ばれる地域に軍事拠点を置いていたとされますが、それが後世になって『任那日本府』と呼ばれることになりました。古墳時代から飛鳥・奈良時代を通して、日本と朝鮮各国との間の人的交流(渡来人の移住)・文化交流は活発でしたので、日本から朝鮮に移住する人も相当数居たのではないかと推測されています。
継体天皇の時代には、まだまだヤマト王権は中央集権体制と呼べるほどの強大な権力を持っておらず、大和地方以外の九州北部や関東地方では地方分権的な独立勢力が多く残っていました。つまり、大和政権は日本各地を隅々まで直接的に統治できるような政治体制ではなかったわけで、九州には筑紫君磐井(つくしのきみいわい)や火君(ひのきみ)、関東には上毛野君(かみつけのきみ)や下毛野君(しもつけのきみ)という強大な豪族勢力が存在していました。これらの地方の大豪族は形式的にはヤマト王権に臣従していましたが、それほど大きな力の差があるわけではなく、ヤマト王権と対等な立場に立つという気概を完全に捨て去ったわけではありませんでした。
『継体天皇の朝鮮出兵(対新羅)』における九州の人民の徴兵によってヤマト王権への不満が高まったことが原因とも言われますが、遂に、527年に筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がヤマト王権に反乱を起こします。これが『磐井の乱(527)』と呼ばれる大規模な大和朝廷に対する反乱になるわけですが、筑紫君磐井が反乱を起こした背景には『朝鮮外交の利害対立・九州と新羅の結びつき』が深く関与していたのではないかと見られています。
『日本書紀』によると、大和朝廷は527年に新羅に侵略された任那の南加羅を奪い返すために、近江臣毛野(おうみのおみけの)を将軍とする約6万人の軍勢を朝鮮に派兵しようとしたといいます。中央政府である大和朝廷は百済との同盟を結んでいて、『南加羅の復興と百済の救援』という大義名分を持って出兵しようとしたのですが、地方豪族である筑紫君磐井は新羅との同盟を結んでいて、近江臣毛野率いる軍勢が朝鮮に渡ろうとするのを妨害しました。また、大和朝廷と磐井との対立には、『同盟関係・朝鮮外交の利害』だけでなく『政治的な主従関係への反発・朝鮮出兵にかかる重い負担』もあったと言われ、筑紫君磐井は朝廷から一方的に朝鮮出兵の命令を受けるのを快く思っていなかったようです。
中央政府の統制強化に反旗を翻した豪族の筑紫君磐井ですが、結局、『磐井の乱』は翌年の528年に物部麁鹿火(もののべのあらかい)率いる軍勢によって鎮圧されることになります。九州地方の大豪族として勢威を振るっていた筑紫君磐井が、継体天皇の大和朝廷に討伐されたことにより大和朝廷の政治的な支配統制能力はより一層の拡大を見せることとなりました。
継体天皇は、匂大兄皇子(まがりのおおえのおうじ・安閑天皇)に譲位してその後にすぐ崩御したとされますが、継体の死去の時期と安閑の即位の時期に2年間のずれがあることから、順調に譲位が行われたとは言えないという説もあります。6世紀前半に、継体帝は『大兄(おおえ)の制度』を導入して長子が皇位を継承するようにしましたが、この時期には未だ兄弟間相続が残っており、皇后と妾妃の区別も無かったので『複数の長子』が存在することも珍しくありませんでした。その為、天皇の弟と長子の間で後継者争いが起きたり、複数の異母兄弟(皇子)の間で王位継承権を巡る争いが生まれやすかったのです。特に、大化の改進(乙巳の変)以前の大和朝廷では、王位継承に『群臣推挙(有力豪族たちの支持・承認)』が必要だったので事態はより複雑になりがちでした。
継体天皇の後は、長子の安閑天皇(531-535)が継いでその後には、安閑の弟の宣化天皇(535-539)が継ぐことになります。安閑と宣化は、継体天皇と尾張目子姫(おわりのめのこひめ)の間に産まれた同母兄弟ですが、宣化の後には異母弟の欽明天皇(539-571)が続きます。欽明天皇の母親は、仁賢天皇の皇女であり武烈天皇の姉(妹)である手白香皇女(たしらかのひめみこ)ですが、欽明天皇の時代に仏教の伝来(538)と任那の滅亡(562)という歴史上の重大事件が起こりました。大和朝廷の家臣の中では、仏教信仰を支持した蘇我氏が権力闘争に勝ち抜いて次第に力を蓄えてきますが、蘇我氏の専横を阻止する大化の改進によって再び天皇の専制権力が強化されることになります。 
4〜6世紀にかけての日本・朝鮮・中国の東アジア史
『古墳時代の歴史』の項目では、武烈天皇から継体天皇への政権交代とヤマト王権の拡大過程について解説しましたが、ヤマト王権には大伴氏・物部氏・蘇我氏といった有力氏族がいて政治権力を分有していました。527年の『磐井の乱』を物部麁鹿火(もののべのあらかい)が鎮圧し、大伴金村(おおとものかなむら)が任那(朝鮮にあったヤマト王権の軍事拠点)での外交を担当したように、物部氏と大伴氏は大和朝廷の軍事分野で非常に大きな力を持っていたと考えられています。414年に高句麗の広開土王(好太王)が建設した広開土王碑文には、日本が4世紀以降に朝鮮半島に進出し新羅・百済を従属させて朝貢させていたという記録が残されており、古墳時代の日本は朝鮮半島に拠点を築くための積極外交を行っていました。広開土王という諡号には『国土を広く開いた王』という意味があり、広開土王は高句麗の領土拡大に大きな貢献をした王とされています。
5世紀には朝鮮北部に領土を持つ高句麗(こうくり)が優勢となり、475年に高句麗軍が百済の漢山城に侵攻して百済王を殺害しましたが、その後、百済には武寧王(ぶねいおう)と聖明王(せいめいおう)という英雄的な君主が現れて国力を取り戻しました。中国の大帝国である漢(後漢, 25-220)が滅亡すると、中国大陸を三分割する魏・呉・蜀の三国時代(220-280)が始まりますが、三国時代を最後に征したのは魏の後継の晋(西晋, 265-316)でした。曹操‐曹丕の親子が創建した魏の後を継いだのは家臣の司馬一族が起こした晋(西晋)であり、蜀の軍師・諸葛亮孔明のライバルであった司馬懿仲達の時代から司馬氏は着々と魏内部での権力基盤を固めていました。
司馬懿仲達‐司馬師‐司馬昭と系譜は続き、司馬昭の子の司馬炎の時に魏の元帝から禅譲を受けます。皇帝となった司馬炎は『晋(西晋)』という王朝を265年に建設して華北を支配するようになります。そして、280年には最後に残っていた南部の『呉』を制覇して、晋が中国の統一王朝となるわけです。しかし、司馬炎の皇位を継いだ司馬衷(恵帝)は暗愚で怠惰な君主であり、八王の乱(301-306)や北方の遊牧民族の侵略を受けて晋の政権は短命に終わります。遊牧民族の匈奴(きょうど)の首領だった劉淵(りゅうえん)は、晋から独立して漢(前趙)という国家を作り劉淵の子の劉聡は311年に永嘉の乱を起こします。匈奴が起こした永嘉の乱によって、晋の懐帝(かいてい)と愍帝(びんてい)は殺害され西晋は滅びますが、琅邪王・司馬睿(元帝)は九死に一生を得て建康に首都を置く東晋(317-420)を建設しました。
西晋が衰退してからの4〜5世紀の中国は諸国が群雄割拠して絶えず戦い合う五胡十六国時代(304-439)に突入し、中国の政治情勢は不安定化しました。複数の王朝(政府)が政治権力の統一を巡って争い合う時代は、五胡十六国時代を経て南北朝時代まで続きます。しかし、華北は439年に北魏の太武帝によって統一され、華南・江南にも宋・斉・梁・陳といった有力国家が現れて三国時代の呉や東晋と合わせて『六朝時代』と呼ばれました。華南の六朝では、貴族的な文化・美術・宗教が華やかな発展を見せて稲作を中心とする農業生産力も大きく向上しましたが、最終的には南朝の『陳』が楊堅(文帝)率いる北朝の『隋(589-618)』に滅ぼされて、中国の南北朝時代は終わりを迎えました。
古代朝鮮の百済の歴史に戻ると、武寧王と聖明王(在位523-554)によって何とか国力を持ち直した百済(くだら, 346-660)は、6世紀に対高句麗の防衛体制を固めるために中国の南朝と同盟を結び新羅との関係を改善しました。しかし、高句麗の軍事侵攻(南下政策)を防ぎきれなかった聖明王は、538年に首都を熊津(忠清南道公州市)から泗ヒ(忠清南道扶余郡)に移し、国号も百済から『南扶余(みなみふよ)』と改称しました。古墳時代(大和時代)の倭は、当時の同盟国であった百済を介在して中国南朝の最新技術や貴族文化を導入しましたが、熱心な仏教徒だった百済の聖明王によって538年に仏教の三宝(仏像・経典・僧侶)が日本に伝えられました。古代日本(倭)と朝鮮の密接な関係を象徴する地域として朝鮮半島南端の『任那(加羅・伽耶)』があり、『日本書紀』には任那日本府という言葉も出てきます。
『魏書 韓伝』には、『高句麗・新羅・百済の三国時代』以前の3世紀頃まで朝鮮半島にあった『馬韓・弁韓・辰韓の三国時代』についての記録が残っていますが、馬韓が『百済』に、辰韓は『新羅』に、弁韓が小国の分立地帯である『任那(加羅)』になりました。馬韓と辰韓は地域を唯一の王朝が統治する統一国家(百済・新羅)になったのですが、弁韓だけは複数の小国が並び立つ任那として残ったのです。その為、任那は百済・新羅よりも軍事的な劣位に立たされ、絶えず両国の侵略の危機を感じていたので、倭(日本)と同盟関係を結び倭の権力の一部が任那に及ぶようになったと推測されています。4〜5世紀の古代日本にとって任那(加羅)は軍事外交上の重要拠点でした。しかし、任那に具体的にどのような施設や機関が設立されていたのかは謎に包まれており、どれくらい日本(倭)の統治権力が任那に及んでいたのかも分かっていません。541年に日本(倭)は、百済と協調して新羅に奪われた任那を奪還しようとしており(任那復興策)、その後も任那を支配する野心を捨て切れなかったことから、任那は日本にとって特別な意味(こだわり)を持つ土地であったことは明らかです。しかし、倭と任那はある程度の主従関係はあっても基本的には緩やかな同盟関係にあり、明治時代に大日本帝国が設置した朝鮮総督府のような強固な権力機構は無かったのではないかと思います。
任那の支配権を巡って『倭・百済・新羅』の三国で争うわけですが、倭国代表の穂積臣押山(ほずみのおみおしやま)と大伴金村は、百済と任那との間にあった『任那四県(上多利・下多利・娑陀・牟ロ)』を百済に割譲してしまいました。この時に、大連であった大伴金村には百済から賄賂を受け取ったのではないかという疑惑がかけられたのですが、541年の任那復興策の時に、物部尾輿(もののべのおこし)から四県割譲を糾弾された大伴金村は失脚しました。任那復興を企てたのは、宣化帝の後を継いだ欽明天皇の時代ですが、562年には任那・加羅諸国は新羅によって滅亡させられ古代日本(倭)は朝鮮半島での拠点を喪失しました。
538年に百済の聖明王によって日本に仏教がもたらされましたが、日本では、新興宗教である仏教を崇拝しようとする『蘇我氏(崇仏派)』と伝統的なアニミズム信仰を重視して仏教を排斥しようとする『物部氏・中臣氏(排仏派)』とが対立して論争しました。蘇我氏の代表者として蘇我稲目、物部氏には物部尾輿、中臣氏には中臣鎌子がいます。仏教崇拝を巡る崇仏派と排仏派の論争は、蘇我氏と物部氏との政治対立とも深く関係していましたが、初めは伝統宗教を重視する物部氏の排仏論が優勢でした。しかし、仏教を弾圧した時に天変地異や疫病が起こり敏達天皇や物部守屋が痘瘡(天然痘)に罹患したことから、蘇我氏の崇仏論が優勢となり日本の皇室文化に仏教が受容されていくことになります。蘇我氏は欽明天皇の時代に蘇我稲目が大臣(おおおみ)に取り立てられたことで、朝廷で大きな権力を得ていきます。蘇我馬子と蘇我蝦夷の時代には権勢の絶頂に達して天皇の特権である『八イツの舞』を踊らせたりもしますが、大化の改新によって蘇我氏の宗家は断絶することになります。 
大和朝廷の有力氏族、蘇我氏・大伴氏・物部氏の系譜と対立
天皇を中心とするヤマト王権(大和朝廷)には、天皇の側近として国政を分掌する大臣や大連がいましたが、その中でも特に有力な氏族として『蘇我氏・大伴氏・物部氏』がありました。天皇の中央集権体制が十分に整っていなかった4〜6世紀の古墳時代には、これらの有力な氏族(豪族)は軍事・祭祀・行政など各分野で非常に大きな力を持っていたと考えられます。ここでは、蘇我氏・大伴氏・物部氏の系譜とそれらの氏族が果たした政治的な事績を簡単にまとめていきます。蘇我氏は、『古事記』の孝元天皇の項目の記述によると、孝元天皇の曾孫である武内宿禰(たけうちのすくね)の子孫であり、有力な豪族であった葛城・紀・巨勢・平群と同じ血統に遡ることができるとされます。蘇我氏の一族には、韓子(からこ)や高麗(こま)といった韓国風の名前があるので、蘇我氏は朝鮮半島からの渡来人だったのではないかという説もありますが、蘇我氏は韓国の女性との国際結婚が多く、朝鮮半島(渡来人)との関係が強かったのでそういった名前をつけたという説もあります。
蘇我氏の拠点は、大和国高市郡蘇我(橿原市蘇我町)であり、欽明天皇(在位539-571)の時代に蘇我稲目(506頃-570)が大臣になってから朝廷で勢威を誇るようになってきます。蘇我稲目は平安時代に摂関政治を行った藤原氏のように、蘇我氏の娘を天皇の妃にする『外戚政治(姻戚政治)』によって天皇に接近しました。蘇我稲目の娘の堅塩媛(かたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)は欽明天皇の妃となっており、特に、堅塩媛は大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)を産んでいます。小姉君も第32代の崇峻天皇(在位587-592)を産みましたが、崇峻天皇は蘇我馬子(そがのうまこ)の命令を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって暗殺され、日本史上で唯一家臣に殺された天皇となっています。蘇我氏は天皇と姻戚関係を結んで絶大な政治権力を獲得しましたが、同時に、家臣の中で唯一天皇を弑逆した氏族として歴史にその名を残すことになりました。
蘇我氏宗家の系譜を蘇我稲目以前に遡ってみると、『蘇我満智(まち)‐韓子(からこ)‐高麗(こま)‐稲目‐馬子‐蝦夷‐入鹿』という系譜になっています。大化の改新(645)によって宗家(本家)が断絶してからも、傍流の石川朝臣(いしかわのあそん)の系統が残って桓武天皇以前の天皇(持統天皇)に血筋を残していました。蘇我氏の外戚政治によって、蘇我氏の女性から第31代・用明天皇、第32代・崇峻天皇、第33代・推古天皇が生まれましたが、推古に続く第34代・舒明天皇の時代から蘇我氏が天皇の姻戚になることはありませんでした。蘇我氏は欽明天皇以降に強大な影響力を持ち始めますが、非蘇我系の天皇である敏達天皇の時代までは、物部氏と蘇我氏の勢力はほぼ同等で拮抗していたと考えられています。
6世紀のヤマト王権(大和朝廷)の大連(おおむらじ)の地位は大伴氏と物部氏に与えられてきましたが、欽明天皇の時の540年に大伴金村が上述した『任那四県の割譲問題』で失脚すると、『物部麁鹿火(あらかい)‐物部尾輿(おこし)‐物部守屋(もりや)』が大連を担いました。物部氏は欽明と敏達に続く用明天皇の時代まで物部守屋が大連を務めますが、物部氏は基本的に軍事・警察部門において大きな役割を果たした氏族です。物部(もののべ)という音韻は、後の武力階級である『武士(もののふ)』につながったという説もありますが、物部氏の祖先は神々の1人である饒速日命(にぎはやひのみこと)とされていました。饒速日命は天皇家の祖先である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)よりも先に天孫降臨したとされる人物であり、古墳時代の物部氏が日本有数の名門氏族であったことが窺われます。
物部氏の略系譜では『饒速日命‐大連目‐荒山‐尾輿‐守屋』というように血統が続いていましたが、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立した物部守屋は蘇我氏の軍勢(聖徳太子も参加していた)によって滅亡させられました。物部氏の略系譜には、途中で巨勢氏の系譜が紛れ込んでいるという不思議な面もあります。敏達天皇(在位572-585)は任那(加羅)の復興を懸命に目指した天皇ですが、蘇我氏(崇仏派)と物部氏・中臣氏(排仏派)の仏教論争でははじめ排仏派の立場に立っていました。敏達天皇から仏教排除の認可を得た物部氏と中臣氏は、仏塔を破壊して仏像を焼き捨てましたが、その後に天然痘(疫病)が流行して敏達天皇がその疫病で死去します。その為、疫病の流行は、崇高な教えである仏教を不当に迫害した罰であるという世論が高まりました。敏達天皇の後を聖徳太子の父である用明天皇(在位585-587)が継ぎますが、高齢で病弱だった用明天皇は政治的指導力を発揮できず蘇我氏と物部氏の政治対立はいっそう深まりました。
欽明天皇と小姉君(蘇我稲目の娘)の間に生まれた穴穂部皇子(あなほべのみこ)は『天皇として即位したい』という野心を持ち、用明天皇の時代に敏達の皇后であった額田部皇女(ぬかたべのこうじょ, 推古天皇)と強引に結婚しようとしましたが、三輪君逆(みわのきみさかう)の反対によってできませんでした。その三輪君逆を物部守屋が殺害したことで穴穂部皇子と物部守屋との協力関係ができあがり、蘇我馬子は額田部皇女(推古天皇)と結びつきました。587年に、蘇我馬子は物部氏が担いだ穴穂部皇子と宅部皇子(やかべのみこ)を殺害して、蘇我氏と物部氏は直接対決することになり最終的に蘇我氏の連合軍が勝利しました。この戦いによって物部守屋を当主とする物部一族(宗家)は滅亡し、蘇我氏に味方した額田部皇女・聖徳太子・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)・竹田皇子(敏達天皇と額田部皇女の子)などが次期天皇の有力候補となりました。用明天皇の後を継いだのは用明の異母弟(蘇我氏の女系)である泊瀬部皇子で崇峻天皇(在位587-592)として即位しましたが、上記したように蘇我馬子と対立して暗殺されることになります。崇峻天皇の後に即位したのは、4世紀以降の大和朝廷において初の女帝となる第33代の推古天皇(在位592-628)でした。 
飛鳥時代の都と日本初の女帝・推古天皇
『ヤマト王権の歴史』の項目では、第32代・崇峻天皇(在位587-592)が蘇我馬子の陰謀で暗殺されて、日本初の女帝となる第33代・推古天皇(在位592-628)が即位しますが、第31代・用明天皇は同母兄であり崇峻天皇は異母弟でした。推古天皇は日本史上で初めて『大王(おおきみ)』ではなく『天皇』という称号を名乗った人物とも言われますが、男性天皇である第40代・天武天皇(在位673‐686)が初めて天皇を呼称したという説もあります。用明と推古の母は蘇我稲目の娘である堅塩媛(かたしひめ)であり、崇峻の母も蘇我稲目の娘の小姉君(おあねのきみ)でしたから、古墳時代の天皇家と蘇我氏の血縁的な結びつきは非常に深いものでした。
日本の歴史時代の区分は、縄文時代(1万年以上前‐B.C.10世紀頃)‐弥生時代(B.C.10世紀頃‐A.D.3世紀頃)‐古墳時代(4‐6世紀)から飛鳥時代(6世紀末‐8世紀初頭)へと続きますが、飛鳥時代にはそれまで中華文明圏から『倭(わ)』と呼ばれていた日本列島が『日本』という国号を用いるようになります。以前は、奈良の平城京が築かれる前の不安定なヤマト王権の時代をまとめて大和時代(古墳時代・飛鳥時代)と呼んでいましたが、ここ最近は飛鳥地方に都(皇居)が置かれた推古天皇の御世からを飛鳥時代と呼んで区別しています。飛鳥時代には多くの都が造営されましたが、飛鳥地方は現在の奈良県高市郡明日香村周辺の地域にあたり、天香久山の南から橘寺以北の地を指すと言われています。
物部守屋との政争に勝利した蘇我馬子は588年に飛鳥寺(法興寺)を建立し、仏教信仰の祖と言われる聖徳太子は593年に摂津難波の荒陵(あらはか)に四天王寺を建立しましたが、崇仏派・蘇我氏が排仏派・物部氏に勝利したことによって飛鳥時代の幕が開けたとも言えます。厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも言われる聖徳太子(574‐622)は物部氏との戦争の勝利を仏に祈願して、『この戦いに勝利すれば、必ず四天王を崇拝する仏塔(寺社)を作る』という誓いを立てました。その結果、四天王寺を建立することになりましたが、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の子である聖徳太子(厩戸皇子)はもともと蘇我氏と深い血縁関係にありました。
蘇我氏の権力拡大と推古天皇(額田部皇女)の登場に伴って飛鳥時代が始まりますが、推古天皇が592年に即位した豊浦宮(とゆらのみや)や603年以降に執政を行った小墾田宮(おわりだのみや)は正確には飛鳥ではありません。飛鳥地方そのものが蘇我氏の権力基盤であったとも言われていますが、飛鳥時代に造営された都(宮・皇居)には以下のようなものがあります。天皇の御所としての宮(都)が建設されることで、中国(隋)や朝鮮(百済)の外交使節を公式に接受できる場所が準備され、日本は中央集権的な独立国としての性格を国内的にだけではなく対外的にも強めていきました。
飛鳥時代に造営された都(宮)
都の名称 / 天皇と時代区分
豊浦宮(とゆらのみや) 第33代・推古天皇が592年に即位するまでの宮
耳梨行宮(みみなしのかりみや) 推古天皇の暫時的な滞在地
小墾田宮(おわりだのみや) 603年以降、推古天皇と聖徳太子の時代の宮。冠位十二階や十七条憲法の制定。
飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや) 630年以降、第34代・舒明天皇の時代の宮。火災で焼失して一時的に田中宮を設営。
後飛鳥岡本宮(ごあすかおかもとのみや) 板蓋宮が消失した656年以降、第37代・斉明天皇(皇極天皇が重祚)の時代の宮。
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや) 643年以降、第35代・皇極天皇の時代の宮。蘇我蝦夷(そがのえみし)が建設。645年に大化の改新(乙巳の変)が起きて、第36代・孝徳天皇(軽皇子)が即位。655年に火災で焼失。
難波宮(なにわのみや, 645-655)・難波長柄豊埼宮(なにわながらのとよさきのみや) 652年以降に、中大兄皇子らと孝徳天皇が設営した飛鳥ではなく大阪にある宮。
飛鳥川原宮(あすかかわはらのみや) 655年以降、斉明天皇が一時的に御所とした宮。斉明天皇は飛鳥川原宮から後飛鳥岡本宮へと移る。
近江宮(おうみのみや, 667-672)・近江大津宮(おうみのおおつのみや) 663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた第38代・天智天皇が、667年に後飛鳥岡本宮から遷都したのが滋賀県にある近江大津宮である。天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も近江大津宮で即位。
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや, 672-694) 第40代・天武天皇と第41代・持統天皇の時代の宮。壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に勝利した大海人皇子(天武天皇)が、天智天皇・弘文天皇の拠点である近江宮(滋賀県)を離れて再び飛鳥(奈良県明日香村)の地に飛鳥浄御原宮を置いた。
藤原京(ふじわらきょう, 694-710) 奈良県橿原市周辺に造営された日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)の本格的な中国風都城(とじょう)である。第41代・持統天皇、第42代・文武天皇、第43代・元明天皇の時代の都で、大和三山(北に耳成山・西に畝傍山・東に天香具山)を抱える壮大な規模の古代日本の首府だった。貴族文化である白鳳文化が隆盛を迎えるが、710年に平城京に遷都し711年に藤原京は焼失する。
592年に崇峻天皇が馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺され、593年に厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政となりますが、推古朝の時代には蘇我馬子と厩戸皇子が国政の主導権を握っていました。593年には、物部守屋との戦いで仏教に戦勝を祈願して寺社の建立を誓っていた蘇我馬子が、日本初の本格的な仏教寺院となる飛鳥寺(法興寺)を建設しました。飛鳥寺の建設には朝鮮半島の百済(くだら)からやってきた渡来人の技術者や仏僧が活躍したといいますが、当時の中国(隋・唐)や朝鮮(高句麗・百済・新羅)は仏教や学問などが盛んな文明の先進地でした。日本仏教に仏舎利(釈迦の骨)をもたらしたのは司馬達止(しばたつと)であり、日本最古の仏像である飛鳥大仏を制作したのは司馬達止の孫の造仏工・鞍作鳥(くらつくりのとり)でした。鞍作鳥(止利仏師)は古代日本で最も著名な仏像制作者(仏師)であり、文化・芸術・学問が隆盛していた中国の北魏の影響を強く受けていたといわれ、法隆寺金堂の釈迦三尊像を作ったことでも知られています。 
聖徳太子(厩戸皇子)の中央集権的な政治改革と外交姿勢
推古天皇の時代の歴史的事件については『日本書紀』『隋書 倭国伝』などに記されていますが、聖徳太子(厩戸皇子)の歴史的な功績と法隆寺関連の伝承については『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』に詳しく記録されています。なぜ、天皇に即位していない聖徳太子に『帝』という呼称がついているのかの理由は不明ですが、現在残っている五部編成の『上宮聖徳法王帝説』は平安時代初期に編纂されたものと考えられています。聖徳太子(しょうとくたいし)という呼び方は後世に付けられた尊称(号)なので、最近では本名である厩戸皇子(厩戸王)と呼ばれることが多くなっています。聖徳太子は、天皇を中心(主権者)とする中央集権国家の整備に尽力した政治家であり、当時の新興宗教である仏教を保護して隆盛させた信仰者として知られています。聖徳太子の中央集権的な政治改革で最もよく知られているものに『冠位十二階(603)』と『十七条憲法(604)』の制定があります。聖徳太子が中国や朝鮮に対峙するための政治改革に関心を寄せるきっかけになったのは、595年に来日して政治・仏教の師となった高句麗の僧・彗慈(えじ)との出会いでした。
摂政の厩戸皇子(聖徳太子)は、603年(推古11年)に儒教の徳治主義と仏教国・百済の官位制を参考にした『冠位十二階(かんいじゅうにかい)』という位階制を制定しました。冠位十二階は儒教の『徳・仁・義・礼・智・信』の徳目を参考にした位によって臣下(豪族)を序列化するもので、天皇が直接豪族を冠位に任命したので天皇の専制権力と権威を強化する目的を持っていました。厩戸皇子は、蘇我氏・大伴氏・物部氏など出身氏族によって身分(職務)が決まる古墳時代の『氏姓制度』を、個人の能力や適性によって冠位(身分)を与える実力主義の要素を持った『冠位十二階』に変革しようと考えました。7世紀初頭の段階では、まだまだ蘇我氏・大伴氏などの有力豪族や血縁集団(氏族集団)の権力が強く冠位十二階の目指す天皇中心体制は十分に実現しませんでしたが、701年の大宝律令の制定に向けて次第に天皇の権力・権威が強化されていきました。実力・功績重視の冠位の任命の事例としては、607年に遣隋使として隋に派遣された小野妹子(おののいもこ)の大礼から大徳への昇進があります。冠位十二階によって始まる古代日本の官位制は、平城京・平安京(奈良・平安時代)で確立した律令国家(りつりょうこっか)の律令官位制として完成度を高めていくことになります。
冠位十二階には、冠の色と髻華(うず)の種類という『外見的な意匠の特徴』で簡単に身分の上下が判断できるという特長があります。髻華(うず)というのは冠につける飾りのことで、『金・豹の尾・鳥の尾』の3つの種類があり、最も冠位(身分)が高い大徳・小徳は金の髻華をつけていました。冠位十二階の具体的な内容(冠位・色・髻華)は以下のようになっています。大徳・小徳のような大と小の冠位の色の違いは、大が『濃い色』、小が『薄い色』というように決まっていました。
大徳・小徳……紫色で金の髻華
大仁・小仁……青色で豹尾の髻華
大礼・小礼……赤色で鳥尾の髻華
大信・小信……黄色で鳥尾の髻華
大義・小義……白色で鳥尾の髻華
大智・小智……黒色で鳥尾の髻華
604年(推古12年)に、厩戸皇子は天皇が統治する日本国の豪族・役人(官吏)の心構え・服務規定を説いた『十七条憲法』を定めますが、十七条憲法は後世の潤色(加筆変更)を受けていると考えられています。加筆や変更が加えられたのではないかという根拠には、当時使われていなかった『国司』という言葉が十七条憲法の中に見られることなどがあります。飛鳥時代の十七条憲法は、現在のような国家の最高法規としての性格を持っておらず、儒教・仏教の思想が混合した道徳規範として作成されたもので『君臣の身分秩序・和の思想・仏法の保護・公私の区別』などが謳われています。『和を以て貴しとなせ』『篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり』『詔を承りては必ず謹め』という冒頭の三つの教えは有名であり人口に膾炙しています。仏法の熱心な信仰者であった厩戸皇子(厩戸王)は、6世紀末に四天王寺を建立し、607年に斑鳩寺(法隆寺)を建てたことでも知られますが、斑鳩寺(いかるがでら・若草伽藍)の設立年については史跡・遺構による根拠があるわけではありません。『日本書紀』では、601年から厩戸皇子が斑鳩の地域に宮室(斑鳩宮)を造営し始めたとあり、交通・軍事の要衝の地にあった斑鳩宮に605年に移り住みました。仏法関連の聖徳太子の著述としては、法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう)の注釈書である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』があります。
政治家としての厩戸皇子(聖徳太子)は、中国(隋)と朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)に対して積極外交を展開し、日本が中華思想に基づく冊封体制(中国との主従関係)に帰属していない独立国であることを強く主張しました。古代〜近世に至るまで東アジアの国々の多くは、大帝国である中国(隋・唐・明・清など)を宗主(君主)とする封建的な冊封体制(さくほうたいせい)に組み込まれており、中国からその国の支配権の正当性を認めてもらい『国王』という称号を与えられていました。中国の皇帝から自国の統治権を認めてもらって『王』として任命されれば『中華思想的な冊封体制』に組み込まれることになり、中国に対して貢ぎ物を持っていく朝貢(ちょうこう)を行わなければなりません。しかし、聖徳太子(厩戸皇子)は日本が隋(中国)に服属しない対等な独立国であることを明確に示すために、遣隋使に持たせた国書(上表文)に『日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや(つつがなきや)。云々。』という文言を書きました。日本の天皇と中国の皇帝を同列の地位に置いたかのような国書を読んで、野心的な暴君として知られる隋の煬帝(ようだい)は激怒し、これ以降は日本国の使節を自分に取り次がないようにと伝えたといいます。
607年に小野妹子をはじめとする遣隋使(けんずいし)を派遣して、隋(中国)の先進的な政治制度や文化様式、学問・仏教などを輸入した厩戸皇子ですが、天皇中心の中央集権的な国家整備を進める中で中華文明圏に呑み込まれない独立国の建設に力を尽くしました。厩戸皇子(聖徳太子)はまた朝鮮半島に対する積極的な軍事外交も展開しており、600年に新羅(しらぎ)に出兵して日本に『調(年貢の一種)』を朝貢するという約束を取り付けました。602年にも、同母弟である来目皇子(くるめのおうじ)を将軍とする軍勢2万5千を九州の筑紫に集めて、新羅への大遠征を計画しましたが来目皇子が急死したために遠征計画は中止されました。摂政の聖徳太子は最大の豪族である蘇我馬子と協調路線を取って、国内的には中央集権体制の確立を進め、対外的には主権を持つ独立国の体裁を整えていったのです。
聖徳太子は622年に没し蘇我馬子は626年で死去しますが、古墳時代末期から権勢を拡大し続けた蘇我氏は、蘇我馬子‐蘇我蝦夷の親子の代で絶頂期に到達します。天皇の外祖父・伯父となることで天皇の権威に及ばんとするほどの絶大な権力を振るった蘇我馬子は、624年に蘇我氏の本拠地と称する葛城県(かずらきのあがた)の割譲を推古天皇に強引に要求します。葛城県は天皇の直轄領的な性格を持つ大和六県の一つだったので、推古天皇は『蘇我氏の出自』を強調しながらも葛城県の割譲を拒否しました。天皇の直轄領の割譲を要求するところに蘇我氏の専横と増長の兆候が現れていますが、645年には、政治の主導権を天皇に取り戻そうとする中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)による『大化の改新(乙巳の変)』が起こります。
推古天皇は628年に病没しますが、推古天皇の死後には蘇我蝦夷の妹婿である田村皇子(舒明天皇)と聖徳太子の子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が皇位争いで対立します。この時点の皇位の継承は『父子の直系継承』ではなく『群臣推挙による継嗣決定』だったので、推古天皇は自分の後継者を明確に決定することができず、田村皇子と山背大兄皇子の内紛を招きました。蘇我蝦夷が田村皇子を推挙し、山背大兄皇子を蝦夷の叔父の境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)が推挙しましたが、最終的に境部臣摩理勢は蝦夷の刺客に暗殺され、田村皇子が舒明天皇(即位629−641)として即位することになります。『古を推す(いにしえをおす)』という意味を持つ推古天皇が没したことで、日本の古代大和朝廷の時代に区切りがついたと考えることができ、『古事記』の天皇の系譜は推古天皇で終わっています。舒明天皇は天智天皇と天武天皇の兄弟の父であり、井沢元彦氏のような『天智と天武の非兄弟説』もありますが、舒明天皇の即位によって古代日本は一つの歴史的・心理的な区切りを迎えたと言えるでしょう。
第35代の女帝・皇極天皇(在位642-645)の時代に、宮中クーデターである大化の改新(乙巳の変)が勃発します。この大化の改新によって、国政を支配していた蘇我入鹿(そがのいるか)は宮中で突然殺害され、父の蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺することになりました。蘇我稲目‐馬子‐蝦夷‐入鹿と続いてきた蘇我氏の宗家が滅亡すると、皇極天皇は第36代の孝徳天皇(在位645‐654)に譲位しますが、孝徳天皇(軽皇子)の後に再び第37代・斉明天皇として即位します。そのため、皇極天皇と斉明天皇は同一人物の女帝ということになります。蘇我馬子が葬られた桃原墓は奈良県明日香村島之庄にある石舞台古墳ではないかと言われていますが、石舞台古墳は横穴式石室を持つ巨大な古墳で膨大な労働力を使役して作られたと見られる古墳です。 
『天智系』の光仁天皇と桓武天皇の即位
『飛鳥時代の歴史』の項目では、推古天皇の時代の豊浦宮(とゆらのみや)から藤原京・平城京までの都を紹介しましたが、奈良時代末期になると第49代・光仁天皇(在位770‐781)の長子である第50代・桓武天皇(在位781‐806)が長岡京への遷都を断行することになります。桓武天皇は平城京から長岡京への遷都(784)だけではなく、長岡京から平安京への遷都(794)を決断した人物として日本の古代史(貴族政治)の中で最も重要な人物の一人となっています。『鳴くよ(794)ウグイス平安京』は日本史の年号の語呂合わせで最も有名ですが、長岡京への首都移転を具体的に見ていく前に桓武天皇に至るまでの『天皇の血統(系譜)』を振り返ってみます。
桓武天皇の父は光仁天皇(こうにんてんのう)であり、母は高野新笠(たかののにいがさ)ですが、幼名を白壁王(しらかべおう)と言った光仁天皇は『天武系から天智系の血統へと皇位を取り戻した人物』であり、高野新笠は『百済の王族系氏族(渡来人)の末裔』として知られる女性です。高野新笠の父は和乙継(やまとのおとつぐ)と言い、6世紀初頭の伝説的な武烈天皇の時代に和氏(やまとし)は日本人として帰化したといいます。母は土師真妹(はじのまいも)は葬送儀礼に専従した豪族・土師氏の末裔ですが、広大な勢力圏を持っていた土師氏の中では立場の弱い氏族に位置づけられていたといいます。
高野新笠の身分は皇族の妃としては高くなく光仁天皇の寵愛を受けていたものの、皇后である井上内親王(いのえないしんのう)よりも明らかに低い地位にありました。その為、光仁帝と高野新笠の間に産まれた長子である山部親王(やまべのみこ,桓武天皇)には皇位継承権はなく、光仁帝と井上内親王の間に産まれた第四子の他戸親王(おさべのみこ)が次期天皇になる予定でした。高野新笠は元々父親の姓である和(やまと)を名乗って和新笠と言っていましたが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると宝亀の年に高野朝臣を賜姓されたといいます。『高野』という姓には、死後に奈良県の高野山陵に葬られて、高野天皇と呼ばれた称徳天皇(天武系)との血縁関係をイメージさせるという政治的意味合いもあったようです。
皇后の井上内親王は聖武天皇の娘であり、子の他戸親王は立太子されていましたが、772年に井上内親王が光仁天皇を呪詛して禍いをもたらそうとしたとして、井上内親王は廃后され退けられました(光仁天皇呪詛事件)。当然、母親が天皇を呪詛して廃后されたのですから、子の他戸親王も廃太子されることとなり、山部親王(桓武天皇)に皇位が回ってくることになりました。なぜ、既に身分が保障されていて我が子の皇位継承が決まっていた井上内親王が光仁天皇を呪詛したのかには諸説あります。最も有力な仮説としては、藤原百川を首謀者とする陰謀説があります。井上内親王・他戸親王を支持していた藤原北家の藤原永手(ふじわらのながて)が771年に死去しますが、その後、山部親王(桓武天皇)を立太子しようとする藤原式家の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)・藤原百川(ふじわらのももかわ)が勢力を拡大し井上内親王と他戸親王を陰謀に陥れたという説です。
中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が主導した645年の大化の改新(乙巳の変)によって、専横を極めた蘇我入鹿が暗殺され天皇親政の政治体制(天皇自らが政治の指揮を執る体制)が一時的に復活します。一時的に天皇親政が復活するというのは、東大寺の大仏建立で有名な第45代・聖武天皇(在位724‐749)を懐柔した藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)が登場する奈良時代末期から、臣下である藤原氏の影響力が急速に強大化していくからです。奈良時代が終わって平安時代になってくると、天皇を傀儡化して外祖父である藤原氏が政権を掌握する『藤原摂関政治』によって朝廷の政治が動かされるようになっていきます。藤原摂関政治というのは、まず藤原氏の娘が天皇の皇后になり皇太子を出産して、皇太子(次期天皇)の祖父に当たる藤原氏の男性が『摂政・関白』という最高位の官職に就いて政治の実権を握るというものです。
平安時代末期には、保元の乱(1156)と平治の乱(1159)で源氏に勝利した武家の一族である『平氏(平清盛)』が政治の実権を握りますが、武家である平氏も公家の藤原氏を真似て自分の娘を天皇に嫁がせる『摂関政治』を行いました。その為、藤原氏のようになろうとした平氏は『質実剛健な武士の気風』を弱めていき急速に貴族化の度合いを強めていくのですが、平氏が源氏に敗れた背景には『生活様式の貴族化』と『(地方武士に恩恵を与えない)貴族化による地方武士の支持率低下』があったとも言えます。白村江の戦い(663)など朝鮮半島政策において強硬に『百済の復興(防衛)』を目指した第38代・天智天皇(626-672)が没すると、天皇家の内乱である壬申の乱(672)が勃発して、天武天皇(大海人皇子)が大友皇子に勝利し皇統に乱れが生じます。中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)は中大兄皇子を兄とする兄弟であり大友皇子は天智天皇の子ですが、天武天皇が大友皇子(第39代・弘文天皇)を打倒したことで皇位継承権が天智系から天武系へと移行しました。
第40代・天武天皇(在位673‐686)は『天皇』という呼称を初めて公式に使用した天皇と言われ、事実上の初代天皇は推古天皇か天武天皇ではないかと推測されています。飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、天皇・皇族が政権を掌握する中央集権的な律令国家体制(皇親政治体制)を整備し、『八色の姓(やくさのかばね)』という身分制度を制定して実力主義的な論功行賞を行いました。天武帝以降は、持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇(称徳天皇)・淳仁天皇と『天武系(女帝を4人含む)』で皇位が継承されてきましたが、道鏡の愛人としての俗説でも知られる第48代・称徳天皇(孝謙天皇)の後に久々に『天智系』の光仁天皇に皇位が巡ってきました。
光仁天皇(白壁王)は、称徳天皇に反旗を翻した『恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764)』の鎮圧に貢献したことで称徳天皇からの評価は高かったのですが、天武系から隔たった血統から考えると皇位に就くことは難しいと見られていました。しかし、称徳天皇の死後に『有力な天武系の皇太子がいなかったこと』と『白壁王の皇后が聖武天皇の娘である井上内親王』であったことから、62歳という高齢で光仁天皇が即位する運びになりました。左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備(きびのまきび)、参議・藤原宿奈麻呂(ふじわらのすくなまろ・藤原良継)らの支持を受けての即位でした。光仁天皇は天智天皇の孫に当たり、桓武天皇は曾孫に当たりますが、藤原百川・藤原良継らの謀略によって天武系の井上内親王と他戸親王が排除され、天智系の桓武天皇(山部親王)も皇位に就くことになります。 
桓武天皇による長岡京・平安京の建都
第50代・桓武天皇(山部親王)は、773年に立太子して781年に即位しますが、天武系の血統でないというハンディキャップは大きく、782年には天武系の塩焼王を父に持つ氷上川継(ひかみのかわつぐ)が反乱を起こしています(氷上川継の変)。782年には三方王(みかたおう)という天武系の皇子も反乱を起こしており(三方王の魘魅事件・えんみじけん)、天智系の天皇である桓武天皇の正統性を周囲に認めさせるにはある程度の時間がかかりました。そして、旧世代の天武系とつながった政治機構(貴族勢力)や政治に容喙(ようかい=口出し)する寺社勢力を一掃するために桓武天皇とその側近が考えたアイデアが『長岡京への遷都(新都建設)』でした。100年近く続いてきた平城京での政治運営に終止符を打つために、桓武天皇は平城京の造宮や修繕を役務とした『造宮省(ぞうぐうしょう)』の廃止を宣言し、784年には藤原種継の補佐を受けて長岡京への遷都を決断します。藤原式家(藤原宇合が始祖)に属する藤原種継(ふじわらのたねつぐ,737-785)は、桓武天皇からの信任が非常に厚く長岡京遷都に重要な役割を果たした人物です。
他戸親王(天武系)を排して桓武天皇(天智系)の即位に貢献したとも言われる藤原百川(732-779)ですが、藤原百川に連なる親族はその後桓武天皇に厚遇されており、百川の子・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と百川の甥・藤原種継は二人とも年少で参議(さんぎ)という高官に抜擢されています。長岡京建設の任務を負う造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)に任命された藤原種継は、藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)らと共に784年5月に山背(京都)の長岡の地を視察し、784年11月には桓武天皇が遷都を宣言することになります。
ほとんど新都建設の下準備をする時間がない中での慌しい遷都となりましたが、ここに、桓武天皇の新政権を構築せんとする意志の強さと旧都を廃棄しなければならない切実な状況が現れているようでもあります。なぜ、京都(山城・山背)の長岡京の地に都(宮)が置かれたのかの理由について桓武帝自身は『水陸の交通の便の良さ』を上げていますが、それ以外にも怨霊信仰をベースとする『都(首府)のケガレ』によって平城京を棄てざるを得なかったという説や東大寺の大仏建設による公害問題が深刻化したというような意見もあるようです。
約半年という極めて短い工期(建設期間)で長岡京は造都されたわけですが、長岡京を構成する建築資材は旧都の平城京や難波宮(なにわのみや,天智帝が建設)を解体して集められ、朝廷の中心にある大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)は難波宮の建築物をそのまま再現したとも言われます。長岡京の建設に伴って難波宮の解体作業が進められたといいますが、その任務には摂津職の和気清麻呂(わけのきよまろ)が当たりました。和気清麻呂(733-799)は怪僧・弓削道鏡を天皇にしようとした孝謙天皇(称徳天皇)に逆らって、宇佐八幡宮神託事件を起こしました。その結果、孝謙天皇から別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国(鹿児島県)へと流された人物ですが、桓武天皇の時代には名誉回復が為されて高位の官職に就いていました。
長岡京遷都を先頭に立って指揮した藤原種継は桓武帝の強い信任を受けながら造都計画を進めましたが、遷都反対派の大伴継人・大伴竹良や佐伯氏、丹治比氏の陰謀によって暗殺されました(785)。藤原種継暗殺の前に死去していた大伴氏の頭領である大伴家持も官位を剥奪され、暗殺を阻止できなかった皇太弟(天皇の弟である皇太子)の早良親王も乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されて廃嫡されました。早良親王は最終的には淡路島に流刑されており、長岡京を棄都して平安京という新たな都(宮)を建設した理由として、早良親王の怨霊やケガレを恐れたという仮説もあります。早良親王は無実の罪で淡路島に流された可能性が高く、藤原種継暗殺事件そのものが、早良親王ではなく我が子である安殿親王(あでしんのう,第51代・平城天皇)に皇位を譲りたかった桓武天皇が仕組んだ陰謀であるという説もあります。
早良親王は桓武帝と同じく光仁帝と高野新笠との間に出来た子ですが、11歳時に東大寺で出家しており、初代の東大寺別当・良弁(ろうべん)の後継者に指名されるほどの高潔で禁欲的な人物であったと言われます。早良親王を淡路島に配流した後に、東北(蝦夷)遠征の失敗や母・高野新笠や皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の死など不幸を経験した桓武天皇は、早良親王の怨霊を恐れて800年に『崇道天皇(すどうてんのう)』という諡号を早良親王に送っています。
東大寺建立や大仏建設などに関わり造長岡宮使としても活躍した佐伯今毛人(さえきのいまえみし)も中央の官職を解任されて太宰帥(だざいのそち)として九州に左遷されています。長岡京建設に当たって藤原種継の母方(秦朝元,はたのちょうげん)の親族である秦氏が大きな経済支援をしていたといいますが、藤原種継暗殺によって秦氏の支援の割合は小さくなりました。長岡京の造都事業に優れた手腕を発揮していた藤原種継と佐伯今毛人という二人の人物を失うことで長岡京の建都は頓挫して失敗しますが、その背景には自分の子である安殿親王を天皇にしようとした桓武天皇の個人的願望が潜んでいたのかもしれません。
桓武天皇は和気清麻呂の勧めもあり792年頃に長岡京を棄てて新都建設を決断し、平安京の地の地相調査を実施させていますが、平安京遷都の原因には上述した早良天皇の怨霊説や天災(水害)による長岡京の疲弊説などがあります。平安京の造都は、和気清麻呂と菅野真道(すがののまみち)らによって推進されましたが、現在の京都の地を『山背(やましろ)=大和・奈良から見た山の向こう』ではなく『山城』と呼び始めたのは平安京遷都後に出した桓武天皇の詔(みことのり)に起源があります。大規模な平安京の羅城門・大極殿・朝堂院などの造宮には無数の技術者と労働者が参加していたと考えられますが、この時代に建築の技術者を多く輩出していたのは飛騨国(岐阜県)であり、飛騨の工匠たちは『飛騨匠(ひだのたくみ)』と呼ばれていました。
平安京の造営や官衙(かんが)の修繕は基本的に律令制(公地公民制)に基づく『公民(百姓)の徴発・労役(強制労働)』によって行われましたが、造都の労働力として徴発された人民を『造宮役夫(ぞうぐうやくぶ)』といいます。飛騨匠のような木工技術者は造宮役夫の中で『諸国匠丁(しょこくしょうてい)・年貢匠丁(ねんこうしょうてい)』と呼ばれ、一般労働者は労働対価として一定の食糧が配給されたので『雇民(雇夫)』と呼ばれました。
桓武天皇の業績の中で最も重要なのは、『平安京の新都建設』と坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍に任命して行った『東北地方(陸奥地方)の征討』ですが、これら二つの国家の大事業は大人数の公民(百姓)たちの徴兵や労役を必要としたので非常に大きな負担となりました。しかし、805年に桓武天皇の御前で徳政(仁徳のある良い政治)について藤原緒嗣(参議・右衛士督)と菅野真道(参議・左大弁)が議論する『徳政相論』があり、『人民・百姓の大きな負担・不満になる軍事(蝦夷征服)と造都(平安京建築)を停止すべきである』とした藤原緒嗣の意見が桓武天皇に採用されました。
この徳政相論によって、平安京建設の任務に当たる『造宮職(ぞうぐうしき)』と徴兵(兵役)による国家の正規軍が大部分廃止されましたが、桓武天皇は兵役の軍隊に代わって平安京や重要拠点を守るための精鋭部隊である『健児(こんでい)』を置きました(奈良時代からある健児の制の拡大)。また桓武天皇は、地方政治の公正と中央集権的な指導体制を守るために国司(地方長官)の行政を監査・監督する『勘解由使(かげゆし)』という令外官(りょうげのかん=律令に規定のない官職)を置きました。文化的で貴族的というよりも東北征討(蝦夷攻略)に見る武断的なところの多かった桓武天皇は、平安京の建都を始めとして『平安時代の礎石』を固めた天皇と言えるでしょう。
桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏の間には、安殿親王(平城天皇)とその弟・神野親王(嵯峨天皇)がいましたが、桓武帝の死後に情緒的に不安定で病弱だった安殿親王(あどしんのう)が第51代・平城天皇(へいぜいてんのう,在位806−809)として即位します。依存的で未熟なところのあった平城天皇は、藤原種継の娘で母親といってもおかしくないくらいに年齢の離れた藤原薬子(ふじわらのくすこ)を寵愛して、後に第52代・嵯峨天皇(在位809-823)と対立して『薬子の変・平城太上天皇の変(810)』へとつながっていきます。
桓武天皇が存命中から安殿親王は、既に藤原縄主(ふじわらのただぬし)と結婚していた藤原薬子を愛していたが、桓武は不倫を許さずに激昂して薬子を後宮から追放しました。しかし、桓武天皇の死後(806)に再び平城天皇の寵愛を受けるようになった藤原薬子は、朝廷の尚侍(ないしのかみ)に任命されて兄の藤原仲成(ふじわらのなかなり)と共に専横を極めます。平城天皇は体調悪化を理由にして809年に神野親王(嵯峨天皇)に譲位しますが、平安京から旧都の平城京に拠点を移して影響力を維持しようとしました。
嵯峨天皇と平城上皇の対立によって、平安京と平城京の二つの都から政令が出される『二所朝廷』という異常事態が生まれましたが、平城上皇の背後には絶えず藤原薬子と藤原仲成の兄妹の姿がありました。二所朝廷という異常事態を収拾するために、嵯峨天皇は尚侍・藤原薬子の権限を奪うために『蔵人頭(くろうどのとう)』という官職を設け、平城上皇はそれに対して藤原仲成を参議に任命して対抗しました。遂には、平城上皇が首府(都)を平安京から平城京に戻すという『平城還都令』を出して、平安京の貴族官僚たちに再び平城京に戻ってくるように呼びかけました。
しかし、それに激昂した嵯峨天皇は、速やかに坂上田村麻呂や藤原冬嗣が率いる軍を差し向けて藤原仲成と藤原薬子を捕縛しました。藤原仲成は捕縛された次の日に処刑されますが、平安時代には仲成の死刑以後は死刑が廃止されることになり、保元の乱(1156)が起こるまで死刑が執行されることはありませんでした。平城上皇が深く寵愛した藤原薬子は服毒自殺を遂げることとなり、平城上皇は出家してその後も生まれ故郷である平城京に静かに住み続けました。『平城(へいぜい)』という漢風諡号(かんぷうしごう)は、旧都・平城京への還都を目指すほどに平城京を強く愛した安殿親王の意志を反映して送られた号なのです。 
坂上田村麻呂による蝦夷征討と東北経略
『平安時代の歴史』の項目では、桓武天皇による長岡京・平安京の建都と平城天皇・嵯峨天皇による『二所朝廷』などを取り扱いましたが、ここでは桓武天皇の勅命を受けて陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)征伐を行った坂上田村麻呂を中心にして解説していきます。奈良時代末期から平安時代初期の武官・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ,758-811)は、東北地方の征討・経略(統治)に非常に大きな貢献をした人物であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が信奉した第二代の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)としても有名です。794年頃に征夷大将軍に任命された大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を初代の征夷大将軍と解釈する見方が有力ですが、当時は東国支配の長を征東大使や征夷使とも呼んでいました。坂上田村麻呂は、797年に桓武天皇によって征夷大将軍に任命されています。
征夷大将軍という臨時の官職名(律令に規定のない令外官)の前提には中国の中華思想と律令政治があり、天命を拝受した天子(皇帝・天皇)が夷狄(いてき=野蛮な異民族)を征伐するという意味合いがあります。実際には、奈良時代から平安時代にかけての関東以北(坂東以北)の陸奥・出羽地方(奥羽地方)の原住民(蝦夷)が、必ずしも野蛮・凶暴だったわけではありませんが、大和朝廷(天皇)中心の日本国の内地拡大の正統性を示すために『蝦夷征討(未開の異民族の征伐)』という言い方が為されています。中華思想の華夷秩序によって、天皇の在所(朝廷)がある大和・山背(山城)など近畿地方周辺を『文明圏』と考え、その文明圏から遠く離れれば離れるほど『未開の異民族(蝦夷)』が支配する領土に入っていくという地理感覚が当時の貴族(公家)にはありました。大和朝廷の軍事力による『奥羽地方の蝦夷攻略』というのは、飛鳥時代や奈良時代から続く『東国支配の延長上』にありました。律令制を整備しようとした聖徳太子の登場以降、中央集権的な日本国の領土を関東以北(奥羽地方)に広げようという政策が続いていました。壺の石碑(いしぶみ)によると、724年に東北支配の拠点となる多賀城(たがじょう)が大野東人(おおののあずまんど)によって建設され、762年には藤原朝葛(ふじわらのあさかり,葛の字は正確には「けものへん」が必要)によって多賀城の補強工事が為されました。
朝廷は奥羽地方を統治する官職として按察使(あぜち,地方行政の監督官・令外官)を719年に制定し、780年には紀広純(きのひろずみ)が按察使を務めていましたが、夷俘(俘囚=朝廷に帰属した蝦夷)出身の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こしました。多賀城を襲撃した伊治呰麻呂は食糧・財物を収奪して放火しましたが、この反乱に対して平城京の朝廷は、征東大使・藤原継縄(ふじわらのつぐただ)、征東副使・大伴益立(おおとものますたち)・紀古佐美(きのこさみ)を陸奥の多賀城に派遣しました。しかし、藤原継縄率いる蝦夷征伐のための官軍は伊治呰麻呂らの俘囚軍に圧倒されて敗戦し、光仁天皇は征東大使を藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)に置き換えて再度戦いを挑みますが反乱の鎮圧に失敗します。光仁天皇は781年に桓武天皇に譲位して、桓武天皇は長岡京遷都を間近に控えた784年(延暦3年)から本格的に陸奥地方(東北地方)の反乱の制圧に取り掛かり始めます。桓武天皇の二大業績は『長岡京・平安京の造都(中枢の強化)』と『陸奥地方の征討・経略(周縁の拡大)』ですが、この二つは長岡京遷都のある784年以降同時並行的に進められていくことになります。古代の昔から明治時代に至るまで、日本は京都・江戸(東京)に中央政府を置いて南北に領土を拡大していきましたが、平安時代には南方にいた異民族の隼人(はやと)は大部分が既に朝廷の権威に服属していました。
784年に、持節征東将軍・大伴家持(おおとものやかもち)、副将軍・文室与企(ふんやのよぎ)と大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らの兵力が陸奥の多賀城に向かいました。老齢の大伴家持が征東将軍に任命された背景には、前回の陸奥遠征で讒謗(ざんぼう)によって処分された大伴益立の汚名を雪ぐ(すすぐ)という本人(家持)の意志がありましたが、家持は目立った戦果を上げることができず785年8月に陸奥の地で客死(かくし)しました。大伴家持(718-785)というと『万葉集』の編纂に関与した歌人としての顔が有名ですが、大伴氏は元々軍事貴族であり大伴家持自身も朝廷の武門としての自負を持っていたようです。桓武天皇の御世には合計して5回の蝦夷征討(東北征討)が実施されますが、1回目(大伴家持)と5回目(坂上田村麻呂)の蝦夷征討では実際の戦闘は行われず、5回目の征討(804年)の二年後(806年)に桓武天皇は崩御しました。桓武帝の蝦夷征討や蝦夷の指導者・アテルイ(阿弖流爲)については、『日本紀略』や『続日本紀』などの史書に記述が残されています。第一次征討(788)では紀古佐美(きのこさみ)が征東大使、多治比浜成(たじひのはまなり)が副使となり5万2800余名の兵士を率いますが、胆沢(いさわ)に本拠を置く蝦夷の賊帥・アテルイ(阿弖流爲)に巣伏村の戦いで大敗を喫して撤退しました。
第二次征討(791-794)では、征東大使・大伴弟麻呂を副使の坂上田村麻呂が補佐して、初めて蝦夷軍に大勝利を収めることに成功します。また、793年にはそれまで『征東大使』と呼ばれていた東北討伐軍の長の官職が『征夷大使』と改められており、桓武天皇の蝦夷経略に対する意気込みの強さが表れています。794年には大伴弟麻呂が史上初の征夷大将軍となっていますが、蝦夷との実際の戦いを指揮して卓越した武勇を見せ付けたのは坂上田村麻呂でした。第三次征討(797-801)では、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されており、朝廷の陸奥地方における勢力圏を多賀城の北部へと拡大しました。蝦夷との戦いに勝利した坂上田村麻呂は多賀城の北に陸奥統治の拠点となる胆沢城(いさわじょう)を造営し、その後、胆沢城は官衙(かんが=行政機関)としての役割を果たすようになっていきます。第三次征討の翌年に当たる802年には、蝦夷軍の指揮官であったアテルイ(阿弖流爲)とモレ(母礼)が胆沢城に投降してきますが、平安京に移送されたアテルイとモレは坂上田村麻呂の助命も虚しく処刑されました。胆沢城の更に北には軍事的な前線基地としての役割を果たす志波城(しわじょう)が803年から造営され始めますが、天災被害を受けることの多かった志波城の機能はすぐに徳丹城(とくたんじょう)へと移されました。
蝦夷を平定した坂上田村麻呂の奥羽経略の拠点は多賀城・胆沢城・徳丹城(志波城)となりましたが、桓武天皇の深い信任を受けた田村麻呂は『征夷大将軍・近衛権中将・陸奥出羽按察使・従四位下・陸奥守鎮守将軍』という陸奥・出羽地方の全権大使としての肩書きを得るまでに昇進しました。蝦夷反乱を鎮圧して東北地方(奥州地方)を日本の領土に組み込んだ坂上田村麻呂は、その後、『武人の鑑』として神格化されていき胆沢の鎮守府八幡宮には田村麻呂の剣や弓矢が奉納されて武家の崇拝の対象となりました。東北地方各地にはさまざまなエピソードと共に田村麻呂伝説が残っていますが、京都・清水寺(きよみずでら)の開基にも坂上田村麻呂とその妻が関わっています。京都・清水寺の縁起によると、805年に桓武天皇から田村麻呂が清水寺の寺地を賜り、807年に田村麻呂の妻が寝殿造りの建物を壊して、仏像を安置する仏堂を造営したのが清水寺の創建となっています。
第50代・桓武天皇と坂上田村麻呂による東北征討の後には、第51代・平城天皇が808年に藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)を陸奥按察使に任命し、810年には第52代・嵯峨天皇が文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を陸奥按察使・征夷大将軍(811)にしています。文室綿麻呂の蝦夷軍に対する決定的な勝利と対立的な蝦夷の日本各地への強制移住によって、蝦夷は次第に日本国へと同化していくことになります。907年に編纂された『延喜式(えんぎしき)』によると日本各地に『俘囚料』という行政支出が見られるので、『服属した俘囚の同化政策』の推進のために俘囚の人たちの強制移住が行われたことがわかります。桓武天皇の陸奥地方経略以前の時代には、東北地方の先住民を『蝦夷(えぞ・えみし)』と呼んでいたのですが、坂上田村麻呂や文室綿麻呂の征伐によって朝廷に服属する蝦夷が増え、蝦夷は『俘囚(ふしゅう)』や『夷俘(いふ)』と呼ばれることが多くなりました。『俘囚』には朝廷に完全に服属した異民族という意味合いがあり、『夷俘』という場合には中央政府への服属や同化の程度が弱い蝦夷という意味があります。しかし、蝦夷の人たちは朝廷の軍事力によって強制的に服属させられたわけですから、比較的安定した9世紀以降にも何度か俘囚による反乱蜂起が起こることになります。
『三代実録(さんだいじつろく)』という史書によると、出羽地方(秋田県)で878年に『元慶の乱(がんぎょうのらん)』という俘囚の反乱蜂起が勃発したといいますが、この反乱の原因は秋田城司・良岑近(よしみねのちかし)の俘囚に対する重税と抑圧・差別にありました。元慶の乱の平定には、備中国司の藤原保則(ふじわらのやすのり)と蝦夷の言語に精通していた鎮守将軍・小野春風(おののはるかぜ)が当たりました。官吏側の苛烈な悪政に反乱の原因があると理解していた藤原保則は、俘囚(夷俘)の反乱に対して武力鎮圧を用いずに小野春風を起用した対話外交の懐柔策で臨み、俘囚たちを自発的に投降させることに成功しました。元慶の乱の後には暫く俘囚の大規模な反乱は影を潜めますが、11世紀には、俘囚長・安倍頼良が源頼義に反旗を翻す『前九年の役(1051-1062)』と俘囚の清原氏が滅亡する『後三年の役(1083-1087)』が起こっています。 
徳一の東国下向と陸奥の宗教文化
奥州・出羽の東北地方には、『軍神・毘沙門天の化身』ともされる征夷大将軍の田村麻呂伝説が数多く残っていますが、奈良(南都仏教)の興福寺の僧侶であった徳一(とくいつ,780頃-842頃)に関する伝承・寺社縁起も多く伝わっています。徳一は徳逸・徳溢とも表記しますが、『南都高僧伝』にその名前が載っているように元々は陸奥(奥州)地方の人間ではなく、奈良の興福寺(こうふくじ)で修円(しゅうえん)に付いて学んだ法相宗の僧侶でした。修円の師は、唐招提寺の鑑真(がんじん)から直接授戒を受けた賢憬(けんけい)であり、藤原氏の氏寺である興福寺は戒律(具足戒)を重要視する法相宗の総本山です。そのため、興福寺の修円に学んだ徳一は、初め仏教界の中ではエリートに属する僧侶だったと考えられます。
血縁的には徳一(徳逸)は、称徳天皇(孝謙天皇)に厚遇された後に反乱を起こして失脚した藤原仲麻呂(恵美押勝,706-764)の子であるとされていますが、年齢的に若干の矛盾があり正確な出自には謎が残っています。奈良時代の平城京では、法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・華厳宗・律宗の南都六宗(奈良仏教)が隆盛していましたが、これらの仏教は皇室・貴族鎮護の学問仏教としての性格を濃厚に持っていました。法相宗の開祖は道昭(どうしょう)、中心寺院は興福寺・薬師寺、三論宗の開祖は恵灌(えかん)、寺院は東大寺南院、倶舎宗の開祖は道昭、寺院は東大寺・興福寺、成実宗の開祖は道蔵(どうぞう)、寺院は元興寺・大安寺、華厳宗の開祖は良弁(ろうべん)、寺院は東大寺、律宗の開祖は鑑真、寺院は唐招提寺でした。藤原鎌足や藤原不比等との所縁が深い興福寺は藤原氏の氏寺であり、南都七大寺(東大寺・法隆寺・薬師寺・大安寺・元興寺・西大寺・興福寺)の一つとして数えられます。
興福寺の学僧であった徳一は20歳前後で平城京から東国へと下向しますが、なぜ文化・宗教の中心地である平城京を離れて、奥州会津の恵日寺(えにちでら)や常陸筑波山の中善寺に行ったのかの理由は定かではありません。一説には、平城京の仏教界の中の勢力争いに巻き込まれて東国に流刑されたという説もありますが、自分自身の決断で中央政府の喧騒を離れて奥州(福島県)や常陸(茨城県)に赴いた可能性も否定できません。徳一が活動の拠点にしたのは、奥州会津で磐梯山(ばんだいさん)を背景に望む恵日寺と常陸筑波山の中善寺でしたが、晩年には『筑波山徳一』と呼ばれていたように筑波山の中善寺の方に本拠を置いていたようです。徳一大師の事績と徳行を重視する『恵日寺縁起』では、筑波山で死去した徳一の首を弟子の金耀が掻き切って恵日寺に持ち帰ったという伝説が残されています。
現在では、奥州会津の恵日寺と筑波山の中善寺のどちらをより重要な拠点としたのかは推測するしかありませんが、徳一が何処かの時点で会津から筑波山へと拠点を移したのは確かなようです。徳一は天台宗の開祖である最澄(767-822)と激しい論争を交わしたことでも知られていますが、『仏性抄(ぶっしょうしょう)』という書物を書いて天台教学を苛烈に非難しました。最澄と徳一の論争を『三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん)』といいますが、これは、仏教の解脱・成仏の条件として『生まれながらの貴族的身分』が必要か否かといった問題を巡る論争で、修行によって万人が解脱(悔悟)できるとする最澄に徳一は強く反対しました。真言宗(真言密教)の開祖・空海(774-835)から『徳一菩薩』と呼ばれて敬われていた徳一(徳逸)ですが、徳一は空海の密教的な呪法・儀式にも批判的であり、奈良仏教(南都北嶺)の貴族主義的な伝統を重視していました。
奈良時代の南都六宗に代わって平安時代には最澄の天台宗と空海の真言宗が隆盛します。奈良仏教と平安仏教の違いは、平安仏教が万人の救済を説く大乗仏教の要素を取り入れたことにあり、教義研究よりも加持祈祷・呪術秘儀(密教)を重視し始めたところにあります。徳一はどちらかといえば平城京の貴族アイデンティティが強くエリート学僧としての側面を持っていましたが、東北地方の寺社の縁起にその名前が多く見られるように、奥羽の仏教文化の発展に大きな貢献をしました。東北地方には『田村麻呂伝説』と『徳一の縁起』が数多く残されていますが、それは、征討した奥羽地方に多くの内地人が早くから移住したことの証左であり、段階的に蝦夷(俘囚)の人たちが平安京の文化・宗教に順応していったことを示しています。 
 
古事記・風土記に見る日本海文化 

 

1 古事記と神話
古事記を読んでいく時、大和を中心にした世界を見ていただけではなかなか理解できないものが多い。ところが、オホクニヌシやヌナカハヒメといった神々の神話を、歴史学や考古学の助けを借りながら読んでみると、日本海文化がはっきり見えてくるのであり、それは古事記の神話を考えている私にはとても興味深い。ここでは、そんなことをお話ししてみたい。
古事記は上巻・中巻・下巻の三つに分かれており、そのうち上巻は神話となっている。
大まかな内容は次に述べるとおりである。まずイザナキとイザナミがたくさんの島と神々を生む。そしてイザナミが火の神を生んだ後に死んで黄泉の国へ行き、イザナキが迎えに行くのだが逃げ帰ってきてしまう。その後イザナキは一人で禊をして、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲという三貴子を生む。その後アマテラスとスサノヲが中心となり、神々の天空世界、すなわち高天原での物語が続いていく。この二人は姉と弟に当たるのだが対立し、スサノヲが乱暴をはたらくことによってアマテラスは天の岩屋にこもってしまう。その後、アマテラスを引き出すためにさまざまな祭りが行われる。そして、スサノヲは高天原から追放されてしまい出雲に降りる。その出雲でスサノヲはヲロチ退治をし、クシナダヒメと結婚して神々が誕生する。物語は、その六代目であるオホナムヂ(別名ヤチホコ、オホクニヌシ)を中心に続いていく。そして、ヤチホコがヌナカハヒメと結婚するという物語が出てくる。ヤチホコの周りにはさまざまな女が絡み、子孫が大繁栄したと語られている。
ところが、そこへ高天原からアマテラスの使者たちが現れる。彼らは地上を自分たちの世界だといって譲渡を迫るという「国譲り神話」が描かれる。アマテラスの使いから国譲りを迫られたヤチホコは、「立派な御殿を造ってもらえるのであれば、大人しくしている」と誓いを立てて服属するという。その後アマテラスの孫に当たるニニギという神が高天原から降りてきて、地上世界は天空の神々によって統一され、ウガヤフキアエズという神が誕生し、その子カムヤマトイハレビコが初代の天皇になる。その後は天皇たちの物語となっている。
2 日本書紀には書かれていない神話
この中で最も興味深いのは、出雲神話といわれている部分である。特徴的なのは、日本書紀ではこの神話の部分が全くといっていいほど記載されていないのに、古事記の中では出雲神話が25%を占めているということだ。これはやはり、古事記においては出雲がそれだけ重要だったということだろう。この神話を見ていくと、出雲と高志とのつながりが非常に強く表れていることに気付く。出雲と高志という地域が日本海を通してつながっていること、そしてそれは日本書紀などではどうも隠しておきたい、消してしまいたい出来事だったのではないかとも見えてしまうのだ。そもそも古事記はどのような目的で作られたのかがはっきりしていない。序文にはいろいろ書かれているが、私は序文どおりではないと考えている。日本書紀とは違って、古事記の成り立ちについては、恐らく大和を中心とした律令国家の論理とは違う別の論理が働いているのではないだろうか。
一般的にとらえられている考え方は、大和を中心として東に伊勢、西に出雲が置かれているというものである。大和の東西に二つの地域が振り分けられているのだ。つまり神話の論理としては、西側である出雲は陽の沈む暗黒世界として考えられているのである。確かに古事記にはそういう考え方がある。ただ、出雲神話や現実の出雲を見ても、またここ10 年の研究の成果を見ても、出雲にはヤマトとは別の文化圏があったのではないかと考えられるのである。
そして出雲世界は高志の他に、諏訪とも強く結び付いている。それもやはり日本海を通してつながっているからだろう。姫川を遡って諏訪へつながるというルートが縄文時代から存在したのである。
3 出雲と諏訪との関係
古事記は、出雲の神々についての詳細な系譜を持っており、その詳しさは天皇家の系譜をはるかにしのぐものである。その系譜に記されているのが、オホクニヌシと高志の女神ヌナカハヒメだ。オホクニヌシはさまざまな名前で登場し、いろいろな女神と結婚するのだが、ヌナカハヒメはそのうちの一人として記されている。二人の間にできた子供に関しては古事記に出てこないが、先代旧事本紀や出雲国風土記にはタケミナカタとミホススミを生んだと記されている。タケミナカタの話は古事記だけに伝えられており、それを見ていくと、出雲を重んじていることが大変よく伝わってくる。
国譲り神話では、タケミナカタの父であり葦原中国(出雲)を支配していたオホクニヌシが、高天原から降りてきたタケミカヅチに国譲りを迫られるくだりが描かれている。オホクニヌシは、息子たちさえよければタケミカヅチの言うとおりに服属するという。そこで長男コトシロヌシが同調して服属した後、次男のタケミナカタがやってきて、タケミカヅチに向かっていく。しかし、いざ手の握り比べをしたら、その力におじけづいて恐れをなし、諏訪へ逃げてしまう。その後タケミカヅチに追いかけられて殺されそうになったとき、タケミナカタはとうとう観念して父と兄の言うとおりにすると伝えて服属する。そのようにして、強大な地上世界の中心であった出雲はタケミカヅチによって征服されたのである。
そしてオホクニヌシが、「大きな建物を造ってくれれば、そこに住んで外へは出ない」と約束したため、出雲大社という大きな社が作られたとされている。出雲は天皇の治める国となり、これが天皇によって出雲大社が建立される起源になったといわれている。しかし、本当にそうなのかというと疑問が残る。天皇が関与する前に、出雲大社には、もう一つの別の歴史や文化があったのではないかと考えられるのだ。
また、タケミナカタは力を発揮できないまま諏訪に追い詰められたというが、出雲から出ていく何らかの理由がもっと他にあったのではないだろうか。これまで古事記研究では、タケミナカタがどのようなルートを通って出雲から諏訪へ行ったのかがあまり真剣に考察されてこなかった。一般的には、「すべての道はローマへ通じる」というように、どこへ行くにも大和を経由するのだという発想をしてしまいがちなのだが、タケミナカタは日本海を通って諏訪へ行ったのではないだろうか。大和を通る陸路を取るよりも、日本海を真っ直ぐに船で突っ切っていった方が合理的なのである。
諏訪湖の北側には、諏訪大社の下社春宮と下社秋宮という二つの神社がある。南側には諏訪大社の上社本宮と上社前宮が位置している。つまり諏訪大社は諏訪湖を挟んで北と南にあるわけだが、ここの主祭神がタケミナカタなのである。このことから、出雲、高志、諏訪が日本海を通してつながっていると考えることはできないだろうか。やはり日本海文化という問題を古代文学においてきちんと考えないと、出雲神話を読み解くことはできないと思うのである。
4 日本海文化の特徴
日本海文化の特徴は大きく分けて四つある。
一つ目は、四方の隅が飛び出しているような四角い形の古墳、すなわち四隅突出型方墳が造られていたことだ。これは日本海側、特に出雲、富山地域などを中心に分布しているもので、島根県安芸市の仲仙寺9号墳が代表的な例である。二つ目は、取っ手の部分に特徴のある素環頭鉄刀が多く見られることだ。島根県雲南市の神原神社古墳から出土されたものは、現在島根県立古代出雲歴史博物館に展示されているので見ることができる。三つ目は巨木を建てるという文化で、特に青森県の三内丸山遺跡の六本柱や島根県の出雲大社が有名だ。新潟県糸魚川市の旧青海町における寺地遺跡もそうである。出雲大社の現在の高さは千木(ちぎ)まで24 メートルだが、中世には48 メートルもあって当時最大の建造物であったといわれている。そして、それを証明するように、2000 年には拝殿下から巨大な三本柱が発掘されている。そして四つ目は翡翠をめぐる玉造文化である。翡翠の産地である糸魚川周辺が、古事記を読んでいく上で大変重要なポイントになる。このような問題を考えていくことによって、日本海というものが非常に大きく浮かび上がってくるのではないだろうか。
諏訪大社では7年に1度、四隅に柱を建てて御柱祭が行われる。また、神は山を目印にして降りて来るという考え方もある。つまり、神は人間の世界にいつも存在しているというわけではなく、ときどき柱や山を目印にして天から降り立ち、そこで人々の祈りを聞いて帰っていくものだという考えが強いのだろう。柱が神を迎えるという点においては、出雲大社も同じである。先ほど古事記で読んだオホクニヌシがタケミカヅチに要求した大きな社の話とも通じるのだが、巨木を建てて神を天空から迎えるという儀式が行われていたのではないかと考えられる。そして三内丸山遺跡の柱も神の祭りとつながっているのだと思う。
日本海文化の特徴である巨木にかかわる文化と諏訪大社の御柱が密接につながっていると考えると、諏訪信仰の主祭神であるタケミナカタは日本海から姫川(沼名川)を上がってやってきて諏訪に入ったと考えるのが分かりやすい。タケミナカタの「タケ」は、たけだけしい、勇猛なという意味の褒め言葉であり、「ミナカタ」は「水潟」と書き表すことができるため諏訪湖そのものを指しているのではないかと考えられる。諏訪大社の上社と下社が諏訪湖を挟んで北と南にあることから考えても、タケミナカタは諏訪湖を神格化した神ではないかと考えられる。
5 高志と日本海文化
タケミナカタと同じようなルートを通って高志へやってきた神様がいる。それはタケミナカタの父とされるオホクニヌシ、別名ヤチホコである。ヤチホコという名前の由来としては、たくさんの立派な矛を持っているという意味である。そのヤチホコはヌナカハヒメという女神と結婚する。
二人が結ばれるいきさつはこうである。ヤチホコは、出雲には良い結婚相手がいないというので、あちこち奥方を探し求める。そして高志の国にヌナカハヒメという賢くてかわいらしい女性がいるという噂を聞きつけて、はるばる出かけていき、ヌナカハヒメが寝ている部屋の戸をがたがたと押しながら求婚した。しかし一向に戸を開けてもらえず、キジや鶏が鳴いて明け方になってしまった。怒ったヤチホコは、こんな鳥などたたきのめして殺してしまえと付き人に命じたのだ。そういったいきさつを歌にして、部屋の戸越しにヌナカハヒメに向けて歌ったという。
そんなヤチホコに対して、ヌナカハヒメが歌を返している。「自分はしなやかな草のような女なので、心が落ち着かず悩んでいる。将来あなたの思う鳥になりますから、どうか鳥は殺さないでください、待ってください」と呼びかけたのである。つまりこの話は、ヤチホコが家来を連れて求婚するも拒まれてしまい、ヌナカハヒメと戸を挟んでやり取りをするというものである。その後、世が明けてまた次の夜になったとき、ヤチホコは再びヌナカハヒメを訪ね、とうとう二人は結ばれることとなる。
ヌナカハヒメという名前の意味は「ヌ」が玉、すなわち翡翠であり、「ナ」が「〜の」という意味、そして「カハ」は川、「ヒメ」は姫となる。つまり翡翠の川を守る姫という意味があるのだが、その翡翠が実は糸魚川という土地と深いつながりがあるということが昭和の時代になってわかってきた。古代で翡翠が採れたのは、東アジアでは姫川(沼名川)の上流の小滝川と、隣の青海川の上流域だけである。それが海へ流れ込み波に砕かれて打ち上げられ富山の方の海岸にまで広がっている。加工された翡翠の分布は北海道から長崎まで幅広く、高志を中心にして交易圏があった。そのようにして翡翠は、日本列島はおろか朝鮮半島にまで渡っていくことになったのだ。
ヤチホコがヌナカハヒメを手に入れ、生まれた子が美保神社の祭神であるミホススミ(現在の祭神はコトシロヌシ)ということになっている。また、諏訪湖に追い払われたタケミナカタは、古事記では逃げたということしか書かれていないが、先代旧事本紀ではヌナカハヒメの子ということになっており、諏訪地方の伝承においてもそう伝えられている。
6 日本海文化を考察する
美保神社では、国譲り神話を基にした青柴垣神事という祭りが4月7日に行われており、12 月3日には諸手船神事という祭りがあり、船こぎ競争が行われている。丸太から作った刳り舟をこぐのだが、これは、沖縄のハーリーや長崎のベーロンとつながり、対馬海流に乗って西から出雲へ入り込んでいる日本海文化における一つの特徴ではないだろうか。西の方からの日本海文化圏というものが確かに存在していることは、南の海でしか見られないゴホウラ貝で作った腕輪が北海道の伊達で発掘されている例からも明らかになる。恐らく、古くは縄文時代から日本海を通路とした交易が行われていたのは間違いがない。
そういった日本海文化圏の中でも特に重要なのは、九州の博多湾に浮かぶ志賀海島を本拠とする海の民、阿曇(アヅミ)氏である。この一族は日本海を東に移動し、姫川を遡って現在の長野信州に入って定住したといわれている。諏訪湖近くの安曇野と呼ばれる地は、まさに阿曇氏に由来していると考えられるのだ。
同じく、九州沖ノ島の有名な海の民宗像(ムナカタ)氏一族も重要だと思われる。この宗像という名前は、タケミナカタの「ミナカタ」と同じ語源ではないかとも考えられているのだ。このようなことから、九州から内陸の諏訪へ行くルートを考える上でも、日本海文化という概念なしには語れない。そして、これらの海洋民一族が交易に大きな役割を果たしていたと考えることができる。
巨木を建てる文化、翡翠、素環頭鉄刀、四隅突出型方墳の分布などからも推測できるように、阿曇や宗像などの海洋民が日本海文化圏を形成して東西をつないでいたとすれば、南は沖縄から、そして朝鮮半島やシベリアなども含めて日本海をめぐる文化を考えていかなければならない。こういったルートは縄文期から存在していたのである。
糸魚川からずっと南へつながっていく縦の内陸ルートは、現代のわれわれの認識にはないもので、普段はあまり意識もしないのである。しかし、古い時代には周知のものとして認知されていた一つの大きなルートだった。高志を起点として信濃へつながっている道筋が確かにあり、出雲、高志、諏訪の関係を意識するという考え方は、考古学においてはもはや目新しい考えではない。それどころか、いまや通説となっている感がある。
世間一般的にはまだまだ日本海文化という概念が認識されていないようだが、間違いなく出雲、高志、諏訪を結ぶルートがあったということであり、それを神話研究に結び付けていくことは大変重要であると思う。タケミナカタが国譲り神話の中でタケミカヅチを恐れて逃げていった道筋を考えても、やはり姫川を通っていることがはっきりしてきて、出雲と諏訪とのつながりが浮き彫りになってくるのである。
このように考古学や歴史学の助けを借りながらさまざまなことを考えていくと、今まではとても思いつかなかったような古代の世界が、新しくありありと見えてくる。今日お話ししたことは新説ではなく、考古学や歴史学におけるさまざまな発掘や研究の成果を通して、私なりに古代文学の中で整理をし直すことによって見えてきたものである。  
 
天武天王の音楽政策

 

はじめに
天武天皇(?〜686)は中央集権国家の樹立を目指し、組織的な国家体制の実現を推進した人物であり、その行政の一環としての音楽政策にも大きな力を注ぎ、成果をあげたのであった。その人物像について山本幸司は「人一倍、人間的感情が豊かであって、普通の人間以上に嘆き、悲しみ、時には恐れることも甚だしく、そういった露わな感情表現と、意志力、決断力、武勇といった反面の資質とが際立った対照を見せ、いわば人間的な振幅の広さを形造っている」(1)。つまり繊細な感情と英雄的な強い意志力をもっていたからこそ、歌舞集中の実践を強力に推し進めることができたと推測し得るのである。
林屋辰三郎は「わたくしに言わせると、遠古代に対して近古代とよびたい古代国家の新しい段階は天武天皇によって本格的に発足した。この古代の象徴は、すなわち伽藍であるが、それを荘厳するものは雅楽であった。しかし東洋的楽舞のめずらしさに眼をうばわれてはならない。この天皇のもとで国内における民衆的歌舞に一大編成も行われたのである。農村における農耕儀礼としての田舞は、国家に統制されて五節の舞として再編され、地方の郷土ぶりを伝える芸能は、これまたその名を冠して国家的に教習されることになった。東遊から筑紫舞に至るまでが、ことごとく集中され、さらに国栖から隼人に至るまで大嘗会への奉仕が規定せられることになった」(2)と指摘している。つまり天武天皇によって地方の歌舞が集められ、その一大編成と教習が図られたこと、そして結果として後世の日本の音楽文化発展の礎となったことを評価したものである。そしてなによりも歌舞集中の実践が、雅楽寮創設にも繋がり、ここにおいても天武天皇の音楽業績が、我が国の音楽教育史上、大きな功績となったのである。
1 歌舞集中の実践について
1) 歌舞の集中
天武天皇4年(675)2月、天皇は
大倭、河内、摂津、山背、播磨、淡冶、丹波、但島、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張等の国に勅して曰く、所部の百姓の能く歌ふ男女、及び伎人を選びて貢上れ。(3)
との詔敕を換発し、全国から上述の芸能の達者な男女を集めた。これについて小島美子は「これは歌い手として能力のある者を集めよというだけでなく、民謡の収集もしたと思われる。それも実際に歌う人びとを集めたのだから、それらのメロディーや歌い方も宮廷の側がとり入れた可能性は大きいと思われる」(4)とし、単なる集中ばかりでなく、その収集や教習もあったことを示唆している。
このように全国の有能な芸能者を集めたことは、天武天皇だけではないが、詔敕を換発してまでも強力に推進したのは、『日本書紀』に見る限り、天武天皇ただ一人であった。もちろんそれ以前の国内統一の中で、「地方族長の服属とともに、その誓いのような意味をにないながら、さまざまの芸能の集中を見た」(5)ことは、例えば隼人舞や国栖舞の例がそれを示している(6)。
天武天皇14年(685)9月の詔敕で、
凡そ諸の歌男、歌女、笛吹者は、即ち己が子孫に伝へて、歌笛を習はしめよ。(7)
を換発した。小島はこれに対し「この天皇の指示は、先の例が民謡または民謡の歌い手を集めることを目的としているのに対して、伝承すること、つまり保存することをはっきりと指示しているのが注目される。(中略)このように天武天皇がわざわざ伝承することを指示したということは、当時の伝統的な歌や笛が変わる気配をみせていたということではないだろうか」(8)と。つまり外来楽の流入により、その伝統の変化を感じとったものであることの指摘である。また荻美津夫によると「諸々の歌男・歌女・笛吹にその歌笛を子孫に伝承させることによって地方の国風の歌舞を保存するとともに、彼らを雅楽寮の歌男・歌女・笛吹に採用する目的をもって命ぜられたものであった」(9)と指摘している。これは天武天皇4年2月の詔敕と同種のものであるが、国風歌舞の保存を図ったものであり、小島も指摘した外来楽からの影響を考慮してのものと思われるが、ここでは問題を避けたい。
さてこのようにして集められた歌舞は隼人舞、久米舞、吉志舞、楯伏舞、国栖舞、倭舞、筑紫舞、諸県舞、東舞、田舞(五節舞)等であり、いずれも日本古来の民俗歌舞であった。
だが天武天皇12年正月
是の日、小墾田の舞、及び高麗、百斉、新羅、三国の楽を庭中に奏る。(10)
と記されており、日本歌舞とともに、外来の楽舞も演じられていたことが明記されている。ところで三国の楽(三韓楽)は「すべて舞踊を伴った音楽で、後に渡来した唐楽とは楽器編成が違い、規模が小さかった」(11)のであり、そこで用いられる楽器は横笛・箜篌・莫目・新羅琴・臥箜篌等であったが、そのほとんどが楽制改革のさい、割愛されてしまった。だが笛・琴の類はともかく、箜篌のようなハープ属の楽器はめずらしいものであったと思う。これは憶測であるが、日本古来の歌舞と、これらの楽器の組み合わせも、いろいろと試みられたのではなかろうか。後に取り上げる歌舞の荘厳化も、けっきょく楽器との融合によってつくりだされたように思えるのだが。
ところで外来の楽舞が日本に入ってきたのはいつ頃であろうか。欽明天皇15年(554)2月、百斉から易博士、暦博士、医博士、採薬士の4人と交代に、楽人4人が来朝したと記されている(12)。これが最初かどうか明確ではないが、『日本書紀』を見る限り、これが正式に外国から派遣された音楽家であった。そして外来楽舞を採り入れたことに対し、吉川英史は「対外的には文化的大国であることを誇示するためのアクセサリー、対内的には天皇を中心とする大和朝廷の優越感と権威を地方豪族らに見せるためのアクセサリーであった」(13)と指摘する。この国威のアクセサリー的思考は一段と強まり、やがて雅楽寮の創設にまで導いたのであった。そしてその実現化に努力したのが天武天皇であった。萩は「天武朝には雅楽寮の制度が整備されつつあったのであり、天武天皇のときに制定された飛鳥浄御原令においても当然に雅楽寮の規定が存在していたと考えられる」(14)とし、すでに天皇の胸中には雅楽寮の構想があったことを想定している。
そこで次に、これまで行われてきた歌舞の集中を、現実にどこで統轄していたかが問題になる。集中の実践の場として、なくてはならない重要な存在であるからである。
2) 歌舞統轄の役所
歌舞の集中が天武天皇以前、すでに行われていたことは前述したが、それらを統轄する役所の存在が問題である。『日本書紀』の神武天皇の項に、
今楽府に此の歌を奏ふときには、猶手量の大小及び歌声の巨細有り、此れ古の遺式なり。(15)
と記されているが、この楽府は、もとを正せば古代中国から渡来したものである。増田清秀によると「楽府とは何か。元来、前漢の世の音楽を司る官署、いわば宮中の御歌所の稱呼であった」(16)と述べられているように、音楽を司る官署であり、日本においても同種のものと想定されよう。したがって楽府は歌舞を集中し統轄する役所と考えて差し支えないのではないか。林屋は「天武天皇の殯宮の儀にも『楽官奏楽』のことがみえる。この楽府も楽官も雅楽寮の前身といえるかどうかは疑問だが、しかし雅楽寮にも前身があった筈で、こうした前身が、いつ現れたかということも興味ある問題である」(17)とし、楽府、楽官を雅楽寮に連続するものとして捉えている。したがって楽府、楽官は音楽歌舞の編成や教習を行った役所と考えられるのである。
また供田武嘉津によると、大和政権下の音楽の伝習に関し「それが一体どこで行われたかの確かな史実は全く遺されていない。けれども、政権樹立の当初から各種の祭儀をきわめて重視した大和政権が、そのための奏楽の伝習を行ったのは紛れもない事実であり、この面で煎じつめると結局はそれが歌舞所の漸進的な存在と目される風俗所(ふぞくどころ)ではなかったろうかと頻りと考えられてくる。(中略)この風俗所というのは、大和政権における国家的な祭儀の一切を司った機関」(18)であって、民族芸能もすべてこの風俗所によって取り仕切られていると指摘している。
いずれにせよ歌舞を司る役所として楽府・楽官・風俗所が考えられているのであるが、もう一つ重要な役所である楽戸についても触れておく必要がある。
推古天皇20年(612)に
百済の味摩之帰化せり。曰く呉に学びて伎楽舞を得たり。即ち桜井に安置らしめて、少年を集めて伎楽舞を習はしむ。(19)
との記事に関し、後藤淑は「朝廷は味摩之を大和の桜井において、そこに楽戸という教習所を設け、少年たちに伎楽を習わせた」(20)とし、楽戸をもって伎楽の教習所と推定したのである。この点について林屋は「楽戸の内容を見ると、楽戸は倭国臨時召で雑徭を免ずるのであるが、『伎楽49戸、木登8戸、奈良笛吹9戸』がそれである。これをみると、この楽戸は明らかにさきの伎楽の伝来に当たって設けられたものという推定が可能である」(21)と指摘している。これはその後の雅楽寮の創設において、とくに伎楽生に限り、
伎楽生。其生楽戸以為之。(22)
となっており、伎楽生は楽戸から選ばれた記事が記されていることからも、楽戸と伎楽の関連は明らかである。なお林屋は「楽戸全体が決して唐楽や三国楽の教習のためのものではなく、主として伎楽のためのもの」(23)であり、他の外来楽の教習所ではなかったことを強調している。
いずれにせよ歌舞統轄の役所は神武天皇以来存在していたのであったということは、非常に古くから音楽の統轄が行われていたことが分かる。そして特に天武天皇において、それが活発に推進され、やがては雅楽寮の創設に繋がっていったのである。そこでこのように遂行されていく歌舞の集中統轄は、いかなる理由によるものか、歌舞集中の実践の意義を問うことは、最重要な課題である。
2 歌舞集中の意義
1) 国威誇示としての歌舞
歌舞集中の意義の第1は国威誇示にある。まず後藤によると、大和朝廷は大化の改新を頂点とした強大な勢力を築き、中国より政治、文化を吸収し、中央集権国家をつくりあげた。つまり全国の土地と人民を天皇の支配下に収め、天皇を中心とした強力な国家を目指したのであった。その方針に沿って各氏族の有する原始芸能を中央に集中する政策をとった。これは各氏族の精神的感情的表現である原始芸能を中央に集めることで、各氏族の服従と奉仕を求めたものであり、また同時に天皇の権威を誇示することにもあったのである。天武天皇が全国から歌舞を集めたのも同じ理由によるものと推定している(24)。
林屋も「古い氏族制社会のなかにわずかにのこされていた芸能を国家的に集中して、地方の国風を採用するためであり、これはやがては支配のための国家的儀礼のなかにとり入れられることにもなる」(25)と指摘している。すなわちこれらは国家の政治方針に沿った中央集権的方策であり、歌舞をもって人心を統一し、服従せしめ、また集められた歌舞の編成と教習によって、儀礼や行事を荘厳化し、国家の権威を誇示することにあったのである。そして特に天武天皇はここに着目し、実践したのであった。因に網野善彦は「天武天皇はここで祭祀と宗教(仏教)を国家の制度として整えることによって、大王の権威を一段と荘厳なものにしようとしたのであり、これは神と仰がれた天武にしてはじめて可能であったということができよう」(26)と述べている。いうなれば祭祀も宗教も儀式の中心は歌舞であり、歌舞の昂揚こそこれらの儀式を荘厳化し、ひいては天皇の権威を誇示することに結びつくのであった。
歌舞をもって儀式を荘厳化することは、つまり歌舞そのものの荘厳化であり、それはまた礼楽と結びついた歌舞でもあったのだ。
2) 礼楽としての歌舞
2)-(1) 礼楽について
天武天皇が意図した国家は中央集権統一国家、すなわち調和と秩序をもった国造りであり、その目標となったのは古代中国の律令制であった。この律令制とは「国家人民の徳をもって治めるべきであるが、その拠り所となるのは礼楽である。礼楽で及ばないところは法がカバーする。礼と法とは相互補完の関係にあるが、無論、主たるものは礼ということである」(27)。つまり律令制は礼楽を中心とした政治体制である。となればその中心である礼楽について明らかにされねばならない。
『楽記』によれば、
楽は同じくすることを為し、礼は異にすることを為す。大楽は天地と和を同じくし、大礼は天地と節を同じくす。
楽は天地の和なり、礼は天地の序なり。和するが故に百物皆な化し、序するが故に群物皆な別あり。(楽論篇)
と記されている。つまり楽は天地の和であって、礼は天地の秩序であることを示している。天地大自然の原理は調和と秩序であり、礼と楽はこれらを担ったものとして思考されているのである。天地大自然の調和と秩序、浅野裕一によれば、「古代の中国人にとって、宇宙が無秩序な混沌であるのか、それとも一定の理法に従って秩序正しく運行する存在なのかは、最も重大な関心事であった。なぜならば、人間社会は宇宙の一部として、その内部に包摂されているからである」(28)と述べ、彼等にとって宇宙のもつ秩序こそ、人間社会運営の規範であり、政治を行うための一大前提であることを明らかにしたのである。したがって現実の政治において、
礼以て其の志を道びき、楽以て其の声を和え、政以て其の行を一(すべ)、刑以て其の姦を防ぐ。礼楽刑政、其の極は一なり。民心を同じくして治道に出ずる所以なり。(楽本篇)
をもって行ったのであり、礼楽を中心にした政治とは、以上の内容を有するものであった。
だが礼楽の伝統をもたない日本においての律令制は「中国流の統治技術を継受し、集成したところにあって、その政治思想の如何とは直接のかかわりもなかった」(29)との説が一般である。だが『続日本紀』の中には、二つの礼楽に関する記事が記されており、その限りにおいて、礼楽に関する思考は、すでに日本に根付いていたように思われる。ただ礼楽をもって政治の中心におくことはなかったが、礼楽に対する関心はあったように思われる。その二つの記事とは、
上下を斉へ和げて動无く静かに有らしむるには、礼と楽と二つ並べて平けく長く有べし。(30)
上を安し民を治むるは、礼より善きは莫なし。風を移し俗を易ふるは、楽より善きは莫し。(31)
であり、この中、後者の方は『孝経』「広要道章」第15からの引用である。これら二つの礼楽に関する記事が見出せる事実から考え、礼楽がかなり浸透していたことを示しており、しかもこれらの記事は、いずれも政治に関連した内容を示している。それのみならず、両者は天武天皇に関係したものであり、特に前者は天皇が礼楽を教え悟すためにつくったとされる五節舞を述べたものであった。
2)-(2) 礼楽としての五節舞
天平15年(743)5月5日、
群臣を内裏に宴す。皇太子、親ら五節を舞ひたまふ。右大臣橘宿禰諸兄、詔を奉けたまはりて、太上天皇に奏して曰はく、「天皇が大命に坐せ奏し賜はく、掛けまくも畏き飛鳥浄御原宮に大八洲知らしめしし聖の天皇命、天下を治め賜ひ平げ賜ひし思ほし、上下を斉へ和げて動无く静かに有らしむるには、礼と楽と二つ並べて平けく長く有べしと神ながらも思ひ坐して、此の舞を始め賜ひ造り賜ひき聞き食へて、天地と共に絶ゆる事無く、いや継に受け賜はり行かむ物として、皇太子、斯の王に学はし頂き荷しめて、我皇天皇の大前に貢る事を奏す」といふ。(32)
つまり5月5日に皇太子が自ら五節舞(33)を舞った。その時、橘諸兄(684〜757)は詔を受け、次のように奏上した。この五節舞は天武天皇がおつくりになったものであり、それは礼と楽を並べてこそ平穏が永く続くことの願いが、この舞に籠められているのであるとの奏上に対し、太上(元正)天皇は、
現神と御大八洲我子天皇の掛けまくも畏き天皇が朝廷の始め賜ひ造り賜へる国宝として此王を供へ奉らしめ賜へば、天下に立て賜ひ行ひ賜へる法は絶ゆべき事はなく有りけりと見聞き喜び待り、と奏し賜へと詔りたまふ大命を奏す。また今日行ひ賜う態を見そなはせば、直に遊とのみには在らずして、天下の人に君臣祖の理を教へ賜ひ趣け賜ふとに有るらしとなも思しめす。是を以て教へ賜ひ趣け賜ひながら受け賜はり持ちて、忘れず失はずあるべき表として、一二人を治め賜はなとなも思いしめす、と奏し賜へと詔りたまふ大命を奏し賜はくと奏す。(34)
と述べている。すなわち五節舞は君臣・親子の関係を教え悟すことを内容としたものであり、そこには上下関係の倫理的秩序が述べられているのである。林屋は「ここにおいて、五節舞は、明白に遊びではなく、君臣祖子の理という儒教的教訓を与えるものとしてうち出されたのであり、当時の政治的情勢の中で、それはきわめて大きな意義を持たされているのである」(35)と指摘している。これはあくまでも天皇専制の国家護持のための上下の身分制度を守る秩序の意識を昂揚させるためのものであり、国家の永続と安泰とを願ってのものであった。
ところで前述した後者の礼楽の記事、
上を安し民を治むるは、礼より善きは莫し。風を移し俗を易ふるは、楽より善きは莫し。
は、天平宝字元年(757)に考謙天皇(718〜770)の発した言葉である。考謙天皇は天平15年、この時は皇太子であったが、前述した五節舞を舞った当人であった。つまり二つの礼楽の記事は、いずれも考謙天皇に関連したものであり、また同時に天武天皇から影響を受けた礼楽であった。
いずれにせよ、天武天皇の礼楽は『続日本紀』に記され、歴史上に残ったのである。この礼楽とは古代中国礼楽思想のような宇宙に根差した形而上学的な思想ではないが、君臣・親子といった人倫の理、すなわち現実上の人間社会の調和と秩序を重んじた日本的礼楽思想を目指したものであった。
おわりに
日本の音楽(教育)史上、歴史に残る音楽統轄の役所は天平元年(701)の雅楽寮と明治12年(1879)の音楽取調掛であった。両者とも国家の運営によるものであり、また音楽教育の実践を主体としたものであった。そしてなによりもこれらの基盤には、新しい体制(天皇制)の強化が目論まれているところも共通していたようである。それにもかかわらず、イデオロギーとは無関係に、両者とも新しい音楽文化の創造に向け、多くの成果をあげたことは、歴史が示すところである。
天武天皇は中央集権国家を基盤にした雅楽寮の創設を推し進めたのであったが、その過程において歌舞の集中、保存、教習を実践し、その上礼楽を現実化(五節舞)したのであった、これらの実績は、その後の日本の音楽文化発展の礎になったのであり、音楽教育史上まことに画期的な実践であったといえよう。
顧みるに、儒教を根幹とした礼楽としての音楽は、政治的倫理的色彩の濃いものであり、それは社会秩序の教化の道具として図られたものであった。つまり音楽は純粋に芸術としての価値意識にはなく、政治的倫理的価値意識の中で考えられていたのであり、この思考は日本の音楽思想の主流となって、今日に至るまで及んでいるのである。だがその内容の功罪は別として、音楽によって人間を教化することを図った実績は大きく、その先駆けとなった天武天皇は音楽教育史上、注目すべき存在であったことをここに確認する。

1 山本幸司 『天武の時代』朝日新聞社 1955 48−49頁
2 林屋辰三郎 『日本芸能の世界』日本放送出版協会1973 60頁
3 『日本書紀』下巻 岩波文庫 1932 265頁
4 小島美子 「日本の古層の時代の音楽」藤井知昭編『日本音楽と芸能の源流』日本放送出版協会1985 63頁
5 林屋辰三郎 『中世芸能史研究』岩波書店 1960 99頁
6 同上 第2章参照
7 注3に同じ 290頁
8 注4に同じ 63−64頁
9 荻美津夫『日本古代音楽史論』吉川弘文館 1976 208頁
10 注3に同じ 290頁
11 吉川英史 『日本音楽の歴史』創元社 1965 33頁
12 注3に同じ41頁
13 注11に同じ 22頁
14 注9に同じ 208頁
15 注3に同じ 中巻 14頁
16 増田清秀 『楽府の歴史的研究』創文社 1975 5頁
17 注5に同じ 196頁
18 供田武嘉津 『日本音楽教育史』音楽之友社 1996 70頁
19 注3に同じ 106頁
20 後藤淑 『日本芸能史入門』社会思想社 1964 49頁
21 注5に同じ 194頁
22 「令集解」『新訂増補国史大系』23巻 吉川弘文館 1965 90頁
23 注5に同じ 195頁
24 注20に同じ 41−42頁
25 注5に同じ 100頁
26 網野善彦 『日本社会の歴史』上巻 岩波新書 1997 105頁
27 『日本思想史の基礎知識』有斐閣 1974 37頁
28 浅野裕一 『墨子』講談社学術文庫 1998 175頁
29 注27に同じ 175頁
30 「続日本紀」第2巻 『新日本古典文学大系』 岩波書店 1990 419頁
31 同上 第3巻 227頁
32 同上 第2巻 419−421頁
33 1月1日、1月7日、1月16日、5月5日と新嘗祭の翌日に行われる舞。「令義解」『新訂増補国史大系』22巻 吉川弘文館 1966 341頁参照
34 注30に同じ 421頁
35 注5に同じ 158頁 
 

 

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 原始時代

 

1 日本の誕生
人類の出現
地質学の地質年代では、地球の誕生から今日に至るまでを、始生代・原生代・古生代・中生代・新生代という五つの期間に大別している。恐竜などの爬虫類が抬頭していた中生代は6500万年前に終焉し、哺乳類が全盛を迎える新生代を迎えた。200万年前を境に新生代は第三紀と第四紀に、1万年前を境に第四紀は洪積世(更新世・最新世)と沖積世(完新世) に分けられるが、このうち洪積世は氷河時代であり、極寒の氷期とやや寒さが緩む間氷期が交互に繰り返されていた。人類は間氷期に出現した。氷河時代には極地方に氷として地表の水が集中するために海面は現在よりも低く、現在の日本列島に相当する地域は大陸と陸続きであり、華南原産のステゴドン象の一種である東洋象をはじめ、北方系のマンモスや大角鹿(オオツノジカ)や蝦夷鹿(エゾシカ)や箆鹿(ヘラジカ)、南方系のナウマン象などが存在していた。なおパレオロクソドン象の亜種であるナウマン象の臼歯化石を長野県北部の野尻湖にて発見したのは、御雇外国人(おやといがいこくじん)の独人地質学者ナウマンである。
人類の進化
人類は、直立歩行して火・道具・言葉を用いる特異な霊長類である。アウストラロピテクス(南方の猿)などの猿人はまだ類人猿に近いが、北京原人(シナントロプス=ペキネンシス)やジャワ原人(直立猿人・ピテカントロプス=エレクトゥス)などの原人はほぼ人類と定義することができる。ネアンデルタール人などの旧人は衣服を着用するまでに進化したが、猿人・原人・旧人と現生人類との間に血縁は無い。我々の祖先はクロマニヨン人などに代表される新人(ホモ=サピエンス)である。 
2 先土器時代(先縄文時代)
洪積世人類
先土器時代人・旧石器時代人などと称される日本の洪積世人類は、打製石器・骨角器などを用いて狩猟・漁撈・採集などを行う、先土器文化を営んだ。先土器時代人の骨は化石人骨として発掘されるが、その端緒は考古学者直良信夫(なおらのぶお)による明石人骨の発見である。明石人骨は後に人類学者長谷部言人(はせべことんど)が原人と断定し、明石原人(ニポナントロプス=アカシエンシス)と命名したが、化石人骨が通常石灰岩層から出土するにも拘らずこれは粘土層からの出土だったため、旧人説や真否を疑問視する説の提起を許している。なお聖岳人骨は聖岳洞穴から出土したが、先土器時代人には定住概念が無く、普段は洞窟や岩陰で生活していたものと見られている。
各地の化石人骨
原人 明石人骨(兵庫県)
旧人 牛川人骨(愛知県)・葛生人骨(栃木県)
新人 三ケ日人骨(静岡県)・浜北人骨(静岡県)・港川人骨(沖縄県)・聖岳人骨(大分県)
利器による時代区分
先土器時代人が営んだような自然物採集経済に基づく社会を、旧石器時代と言う。やがて細石器(さいせっき)や弓矢の使用や犬の家畜化が為される中石器時代を経て海進期(かいしんき)に入り、海面が上昇して現在とほぼ同様の地形が完成した。こうして迎えた沖積世では、まず初めに磨製石器や土器を用いて農耕・牧畜を営む新石器時代が訪れ、やがて青銅器時代、鉄器時代と続いていった。なお縄文文化は新石器時代に相当するが農耕は行われておらず、また青銅器と鉄器は弥生時代に同時に伝来したために明確な青銅器時代は無い。
先縄文時代と縄文時代
関東ローム層は、下層から順に多摩・下末吉・武蔵野・立川という各ローム層からなる風成堆積層である。独学の考古学者相沢忠洋(あいざわただひろ)は、関東ローム層の中でも人工遺物は存在しないと考えられていた洪積世時代の地層から石鏃片を発見し、先縄文時代の存在を立証した。この群馬県新田郡笠懸村岩宿の岩宿遺跡の発見を端緒として、宮城県の座散乱木遺跡(ざざらぎいせき)や大分県の早水台遺跡(そうずだいいせき)、長野県の上ノ平遺跡や東京都の茂呂遺跡などが発見され、20万年前頃からの岩宿時代(先縄文時代)の存在が確認されている。
様々な打製石器
打製石器は、ナイフ型石器たる石刃(せきじん)(刃器・ブレイド)、打製石斧(だせいせきふ)に代表される楕円形の敲打器たる握槌(にぎりつち)(握斧・ハンドアクス)、石槍(せきそう)などに代表される槍先形の尖頭器(ポイント)、といった三種類に大別することができる。打製石器はやがて礫器から剥片石器、石核石器と進歩していき、洪積世の終り頃に至って細石器(マイクロリス)が登場した。細石器は小型であり、細石刃(さいせきじん)や幾何学形細石器などの種類がある。 
3 縄文時代
縄文土器
巻上げ法・手づくね法・輪積み法などにより製作された縄文土器は、低温で焼かれたため黒褐色で厚手で脆いという特徴を有している。実際に羽状縄文などが施されたのは前期・中期・後期といった全盛期に至ってからのことであり、それ以前には爪形文・押形文・沈線文・貝殻文などが施されていた。縄文文化は水産資源が豊富だった東日本を中心に発達したが、それを裏付けるように晩期になると亀ヶ岡式土器のように繊細で華麗なものが東日本に現れた。一方、福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)や佐賀県の菜畑遺跡からは弥生土器の原型とも言える夜臼式土器(ゆうすしきどき)が出土しているが、板付遺跡は日本最古の水稲農耕集落遺跡である。土器により食糧保存が可能となったため、縄文時代人は南西諸島から南千島までの範囲内で定住を開始したが、縄文時代最大の遺跡であり日本最古の火を起こす器械が発見された青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)では、大陸より進んだ漆を採取する林業のための定住が行われていたことが判明している。
時期別・縄文土器種類一覧表
草創期    豆粒文土器(長崎県・泉福寺洞穴)
早期     隆起線文土器(長崎県・福井洞穴)、尖頭土器(神奈川県・大丸遺跡)
前期〜後期 深鉢形土器(丸底土器・尖底土器・片口付土器・火炎付土器)、甕形土器、注口形土器、土瓶形土器、香炉形土器、弦付土器など
晩期     亀ヶ岡式土器(青森県・亀ヶ岡遺跡)、夜臼式土器(板付遺跡・菜畑遺跡)
土器以外の用具
縄文時代に入って出現した磨製石器には、狩猟に使用する磨製石斧や石鏃、動物の皮を剥ぐための石匙(せきひ)、土錘と共に漁撈の網の重りに使用する石錘(せきすい)、穀物類の粉化に使用する石皿・磨石(すりいし)・たたき石の他、武器または生殖器崇拝用の物と言われる石棒・石剣(青龍刀形石器)・独鈷石(どっこいし)などの種類がある。火で丸木を焼き抉って製作する丸木舟を用いて行われた当時の漁撈では、動物の骨や角や牙で製作した釣針・銛(もり)(燕形銛(えんけいもり))・やす・骨鏃(こつぞく)などの骨角器が多用されたが、これらの骨角器は東北地方太平洋岸の貝塚に多く分布しているため、東日本がこうした骨角器を必要とする水産資源に恵まれていたことを証明する重要な手掛かりとなっている。
鉱物に見る交易状況
石鏃の原料たる黒曜石は黒色透明の火成岩であり、長野県和田峠や大分県姫島、神奈川県箱根畑宿や熊本県阿蘇山、それに北海道の十勝岳や白滝で産出されていた。また玻璃質安山岩のサヌカイト(讃岐石・カンカン石) は香川県白峰山原産であるが、その石器は大阪府と奈良県の境の金剛山地の最北端たる二上山(にじょうさん)から多く発掘されている。一方、勾玉の原料である硬玉(こうぎょく)(ヒスイ) は新潟県姫川流域で産出されていた。これらの鉱物の分布から、当時の交易は200qの範囲内で行われていたと考えられている。
貝塚
貝塚は縄文時代人のゴミ捨て場であり、本州の太平洋岸や九州の有明海沿岸に数多く存在している。米人動物学者のモースは、後に全国の貝塚発掘の端緒となる大森貝塚を1877年に発見した。
時期別・縄文土器種類一覧表
早期    平坂貝塚 神奈川県 人骨に飢餓線が見られる。
前期    南堀貝塚 神奈川県 規律ある共同体。
中期    加曽利貝塚 千葉県 国内最大級の貝塚。
姥山貝塚 千葉県 環状大貝塚、人骨も出土。
後期    大森貝塚 東京都 日本考古学発祥の地。
津雲貝塚 岡山県 160柱以上の人骨出土。
晩期    吉胡貝塚 愛知県 東西縄文文化の接点。
なお縄文時代の遺跡としては神奈川県の港北ニュータウン遺跡や三殿台遺跡、東京都の砧遺跡、千葉県の検見川遺跡などが挙げられる。
縄文時代の社会
縄文時代にも八ヶ岳山麓では焼畑農法で稗や粟や芋を作る原始農耕が行われ、また晩期には西日本で水稲農耕が始まった。長野県の尖石遺跡や与助尾根遺跡に見られるように当時の住居は竪穴住居であり、貯蔵穴・炉・祭壇も設けられていた。やがて平地式や敷石式などの亜流が生まれた竪穴住居は、長野県の平出遺跡(ひらいでいせき)が示すように平安初期に至るまで日本の庶民の住居として定着していった。一方、主に中期から後期に製作された土偶は当時の母系制社会を示すものであり、また生殖や収穫の呪術に用いられたようである。顔面が刻まれた土偶を土面、文様が刻まれた土偶を土版(岩版)と言うが、土偶には女性形土偶・遮光器土偶・ハート形土偶・山形土偶などの種類があった。超自然的且つ神秘的な力による現象の発生を信じる当時の呪術は、霊媒者としての巫女が存在する巫俗(ふぞく)(シャーマニズム)と、英人人類学者タイラーが世界の宗教の端緒として指摘した精霊崇拝(アニミズム)の二つの原始信仰に大別できる。一方、縄文時代人は死霊の活動を防止するため死者を屈葬や抱石葬(ほうせきそう)にして甕棺(合口甕棺(あわせぐちかめかん)と単口甕棺(たんこうかめかん)) に入れて楕円形の土壙墓(どこうぼ)・廃屋墓(はいおくぼ)などの共同墓地に埋葬したが、貝輪の腕飾り以外の副葬品は発見されないため、階級社会ではなかったようである。なお当時は、成年式として犬歯と門歯を左右対称に抜く抜歯や、呪術者などが三叉状(さんさじょう)に歯を研ぐ研歯などが行われていた。 
4 考古学に関する研究
大和民族の起源
現在我々が使用している日本語の文法的構造及び音韻は、ウラル語系(ハンガリー語・フィンランド語・エストニア語など)とアルタイ語系(モンゴル語・ツングース語・トルコ語など)に近く、助詞や助動詞を持つ膠着語(こうちゃくご)であり、縄文時代に南インドから伝来したタミール語と弥生時代に朝鮮半島から伝来した朝鮮語を基本としている。縄文時代人は顔の扁平や歯の鉗子咬合などの点に於いて現代人と異なった特徴を有するため、大和民族の人種的起源について様々な学説が提示されてきている。森鴎外の妹婿である小金井良精(こがねいよしきよ)は縄文時代人とアイヌ人を同一視するアイヌ説を主張したが、日本考古学の開拓者と目される坪井正五郎はこれに反発し、アイヌの伝説の中にある「蕗の葉で葺かれた屋根の竪穴住居に住む小人(コロポックル)」を縄文時代人と見なすコロポックル説を示し、アイヌ説との間に所謂コロポックル論争を展開した。一方、岡山県出身の清野謙次は地元の津雲貝塚から出土した縄文時代人の人骨を調査・研究し、結果的に日本人は元来日本列島に住んでいた原日本人に大陸や南島(ポリネシアなど)からの人々が混血して発生した、とする原日本人説を提起した。
年代の測定方法
先史時代を探求する考古学では、発見された物の年代の確定が重要である。現在一般的に用いられている年代測定方法としては、放射性炭素14C測定法と木材年輪幅測定法、それにフィッショントラック法などが挙げられる。放射性炭素14C測定法は、物質の内部に含まれる放射性炭素14Cの半減期が5700年であることを利用して大まかな年代を推測する方法である。木材年輪幅測定法は一年に一本ずつ増加する木の年輪の数から年代を判断する方法であるが、木材は腐敗するのであまり古い年代は測定できない。フィッショントラック法はウランの核分裂の際に物質に残る傷跡の数を計測する方法であり、ある程度正確に年代を確定することができる。 
 
 弥生時代

 

1 弥生文化
弥生時代の名は1884年に初めて弥生土器が発見された東京の弥生町に由来している。弥生文化は薩南諸島から東北地方までの範囲に於いて紀元前4世紀から紀元後3世紀に掛けて栄えた文化である。大陸から水稲農耕が伝来し、それにより生じた貧富の差は階級社会を創造し、やがて「むら」や「くに」といった小国家が建設されていった。なお当時の北海道は縄文文化と同様に鮭や鱒などの水産資源に依存する続縄文文化、沖縄などは貝類などの食料採集に依存する南島文化だった。
弥生土器
弥生土器は高温で焼かれているため薄手であるが硬質であり、無文か簡素な幾何学文様が施されていた。色は一般的には赤褐色が知られているが、黄白色の物もある。種類は主に四種類に大別することができる。最も多いのが物を貯蔵するための壺であり、食物を盛り付けるための高坏(たかつき)、食物などを煮沸するための甕、米を蒸すための甑(こしき)などがある。甑は底に穴が開いており、甕の上に乗せて使用する。一方、前期・中期・後期と大別できる弥生時代の前期の西日本には、櫛のような施文具によって櫛目文(くしめもん)を施された櫛目文土器が存在していた。
青銅器
青銅器や鉄器といった金属器は弥生時代に伝来したが、石器も併用したため考古学的には弥生時代を金石併用時代と言い、また弥生文化を金石併用文化と言う。青銅器は銅と錫の合金であったが、錫は産出量の低下からその含有率が低下し、鋭利さも無くなって、実用的な鉄器の普及や部族間の示威活動の必要性から次第に宝器(祭具)としての様相を呈していった。青銅器には銅剣・銅戈(どうか)(刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾(どうほこ)・銅鐸(どうたく)・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や袈裟襷文様(けさだすきもんよう)などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴になっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本遺跡や佐賀県の安永田遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県の荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)が発掘されたため、疑問視されている。なお大陸から流入した貨泉(かせん)と言う貨幣も僅かに用いられた。
青銅器の具体例
銅剣    輸入品の細形銅剣と、国産品の平形銅剣。
銅戈    輸入品の狭鋒銅戈と、国産品の広鋒銅戈。
銅鉾    鋭利な狭鋒銅鉾と、幅広の広鋒銅鉾。
銅鐸    日本独自の青銅器、鐘のようなもの。
銅鏡    輸入品の円鏡・舶載鏡と、国産品の仿製鏡。
鉄器
鉄製工具としては、木の表面を削る鉇(やりがんな)をはじめ、鍬形の手斧(ちょうな)や刀子(とうす)などが挙げられる。これらを用いて木製農具を製作した。次に曲刃鎌(まがりばがま)などの鉄鎌や鉄鍬や鉄鋤などの鉄製農具であるが、これは全てが鉄製なのではなく、先端にU字型の鉄をはめた木製のものがほとんどだった。最後に鉄製武器としては鉄鏃や鉄戈がある。当然の事ながら、鉄製武器は青銅製武器よりも攻撃力は高く、実用的であった。
石器
金石併用時代であるから当然石器も存在する。とは言っても石器の大部分は縄文時代と同じ物であった。弥生時代に入ってから新たに登場した石器としては、中国の影響を受けた磨製石器である太型蛤刃石斧(のみ形石斧・磨製片刃石斧) がある。この石斧を、玄武岩を材料にして専業的に製作する集団も北九州に出現したらしい。太型蛤刃石斧は扁平片刃石斧や柱状片刃石斧と共に西日本に広まった。
機織技術の伝来
世界的には新石器時代に始まる機織技術は、日本にはこの弥生時代に伝来した。機織は苧(からむし)や麻などといった草皮や樹皮を原料として、石製の紡錘車(ぼうすいしゃ)によって布などを製造するものである。当時の人々は機織によって製作された着物を纏っていたと思われる。即ち男はインドのサリーのような袈裟衣(けさい)を、女は所謂ワンピースのような貫頭衣(かんとうい)を着ていたのである。これら弥生後期の人々の生活様式は『魏志』倭人伝の中に記されているが、それによると当時の人々は裸足であり、食物は手掴みで食べ、顔に入れ墨をしたり身体に朱を塗ったりしていた。これは正にアイヌ人の風俗であり、小金井良精が大和民族の起源として提唱するアイヌ説の根拠の一つとなっている。
弥生時代の墓制
弥生時代に入ると、それまでの屈葬や抱石葬に代わって死者の両脚を伸ばして葬る埋葬形式である伸展葬が広まった。伸展葬には仰臥(ぎょうが)・側臥(そくが)・俯臥(ふが)の三種類がある。墓は、共同墓地としての甕棺墓が多かったが、副葬品が存在することから貧富の差に基づく階級社会が存在していたものと思われる。墓としては、他に西日本に多く見られる扁平な板石を箱状に組んで数体の遺体を合葬した箱式石棺墓をはじめ、木棺墓や壺棺墓、土壙墓や木槨墓などが挙げられる。福岡県の須玖遺跡(すぐいせき)からは多数の合口甕棺と副葬品としての腕輪の一種である銅釧(どうくしろ)を含む支石墓が発掘されたが、これは自然石の支柱の上に巨大な平石を乗せた一種のドルメンであり、満州や朝鮮半島の影響が見受けられる。一方、全国的な大型の墓としては東京都の宇津木遺跡から初めて発見された方形周溝墓が挙げられるが、これは共同墓地ではなく個人専用の墓であるため、後の古墳との関連性が指摘されている。また岡山県の楯築墓(たてつきぼ)に代表される西日本中心の墳丘墓(ふんきゅうぼ)(方形台状墓)も存在していた。
弥生時代の社会
人々の信仰は縄文時代と変わらず、アニミズムとシャーマニズムが中心であった。やがてこれらに基づいて、後の祈年祭や新嘗祭の原型となる農耕儀礼が行われるようになった。一方、弥生時代の中期から後期に掛けては、高地性集落や環濠集落などの防衛的性格が強い集落が盛んに造られたが、これは中国(支那)の『後漢書』東夷伝に見られる2世紀半ばの倭国大乱の影響であると思われる。国内最大規模の環濠集落としては、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が知られている。弥生時代には朝鮮半島などの大陸から多数の帰化人(渡来人)が来日して日本に技術をもたらし、縄文時代人と混血し、食糧事情の変化とも相俟って弥生時代人を形成したが、民族自体の交代にまで至る程ではなかった。 
2 水稲農業
伝来の軌跡
華南の長江流域に発生した稲作は、やがて華北から山東半島を経由して朝鮮半島北部に伝来し、朝鮮半島南部を経て九州北部にまで到達した。稲作は、食料事情が厳しかった西日本には即座に広まったが、元来魚介類などの食料資源が豊富な上に気候が寒冷で稲作に適さない東日本にはなかなか広まらなかった。しかし青森県の田舎館遺跡(いなかだていせき)や稲作の北限として知られる垂柳遺跡(たれやなぎいせき)が証明しているように、2世紀にもなると東北地方を含め全国的に稲作が行われたようである。初期には湿田に於いて稲作が行われたが、後期の西日本では灌漑施設を必要とするものの生産性が高い、所謂乾田で耕作された。また同じ後期には、広大な沖積平野に於いても稲作が行われるようになった。なお稲作の遺跡としては、静岡県の登呂遺跡や山木遺跡、奈良県の唐古遺跡、それに縄文時代から続く板付遺跡や菜畑遺跡などが挙げられる。日本の米は、今も昔も世界一の高品質を誇るジャポニカ米である。
稲作の様子
鉄製工具によって製作された木製農具は、イチイガシや栗などの堅い木材をその主原料としている。耕作具としては木鍬・木鋤・平鍬・又鍬などの一般的な物の他、田を均すための杁(えぶり)や、肥料を田に踏み込むための大足などがあり、精穀具としては木臼・竪杵などが挙げられる。水田の上は櫂で漕ぐ田舟や、田下駄(たげた)などを用いて移動した。初期の稲作は籾を直接蒔く直播(じかまき)であり、実った稲穂は石庖丁や石鎌を用いる穂首刈(ほくびがり)によって収穫され、梯子や鼠返しが付いた高床倉庫に蓄積された。 
3 古代の大陸情勢
中国大陸には夏という王朝があったらしいが、証拠は無い。その後、殷や周の時代を経て春秋・戦国時代という戦乱の時代に突入し、やがて所謂秦漢帝国(秦と漢)が興った。後の帰化人である秦氏一族は、この秦の始皇帝の末裔である。前漢の首都は長安であり、王莽によって興された短命政権の新によって分断されたものの復興され、洛陽に都して後漢が興った。後漢の武帝は、紀元前108年に朝鮮半島の衛氏朝鮮を滅ぼして、現在の平壌付近に楽浪郡を、他に真番郡(しんばんぐん)・玄菟郡(げんとぐん)・臨屯郡(りんとんぐん)を設置し、これら四郡を植民地として倭とも国交を持った。しかし2世紀に入ると濊族(わいぞく)や韓族が独立の動きを見せ始めた。やがて楽浪郡南部(現在の京城付近)には遼東の公孫氏によって帯方郡が設置されたが、楽浪郡・帯方郡共に高句麗によって313年に滅ぼされた。中国本土では後漢の滅亡後、魏・呉・蜀の三国が鼎立する三国時代を迎えたが、晋によって統一された。しかし晋は匈奴など北方民族の侵略によって滅亡し、五胡十六国時代、次いで南北朝時代と続き、最終的に589年に隋によって統一がなされた。なお南朝の宋・斉・梁・陳に呉と東晋を加えた六国を六朝と言うが、この六朝の六朝文化は飛鳥文化に多大な影響を与えた。 
4 大陸の史料に見る弥生時代の日本の状況
『漢書』地理志
「夫れ楽浪海中に倭人有り… 」で始まる『漢書』地理志は後漢の班固(はんこ)が紀伝体で著した前漢を中心とする正史であり、紀元前1世紀の日本を知る上で重要な史料である。倭国は当時百余りの小国に分かれていたようであるが、朝鮮半島の楽浪郡を経由して毎年定期的に朝貢を行っていたらしい。この朝貢に対して漢側は返礼を行っていた。こうした、中国が世界の中心であり東夷・西戎・南蛮・北狄を支配すると考える中華思想に基づく朝貢と返礼の国際関係のことを、冊封体制と言う。
『後漢書』東夷伝
「建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。…」で始まる『後漢書』東夷伝は、五胡十六国時代から南北朝時代を生きた范曄(はんよう)が著した後漢の歴史書であり、1世紀から2世紀の日本の様子が記されている。まず57年に奴国(なこく)(福岡県付近に存在)の使者が洛陽の光武帝を訪問して朝貢し、返礼として「漢委奴國王」と刻まれた金印朱綬を光武帝が下した、との記述があるが、この際の金印は1784年、黒田藩内の志賀島(しかのしま)に於いて百姓の甚兵衛により発見された。印綬は中国皇帝が臣下に与えるものであり、太子や諸王には金印朱綬、三公には金印紫綬、九卿には銀印青綬、その他の者には銅印黒綬が下賜された。一方、107年には倭国王(一説では倭回土国王(わのいとこくおう))の帥升(すいしょう)が生口(せいこう)という奴隷160人を安帝に朝貢しているが、これは稲作に基づく階級社会の発生を物語っている。また桓帝から霊帝にかけての時期、即ち146年から189年の間、倭国大乱があったとの記述がある。
邪馬台国論争
要旨部分が「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。…」で始まる『魏志』倭人伝(正式名『魏書東夷伝倭人之条』) は晋の陳寿(ちんじゅ)が著した三国時代の正史である『三国志』に収録されており、3世紀の日本、就中邪馬台国関連の事柄が記述されている。帯方郡⇒狗邪韓国(朝鮮半島)⇒対馬国(対馬)⇒一支国(壱岐)⇒末盧国(松浦地方)⇒伊都国(佐賀北部)⇒奴国(福岡市)⇒不弥国⇒投馬国⇒邪馬台国、という邪馬台国への渡航法も記述されているが、記述通りに計算すると邪馬台国が太平洋上に存在することになってしまうため、記述の誤り及び邪馬台国の本当の位置を巡る邪馬台国論争が発生した。小林行雄・内藤湖南・和歌森太郎・山田孝雄らが提唱する畿内説は方向の記述を訂正して畿内を導いたものである。久米邦武・井上光貞・白鳥庫吉らが提唱する九州説は各地の伝承や地名などを根拠とするものが多いが、榎一雄は伊都国以下の記述が変わるため、以下の国が全て伊都国を根拠としていると見なし、邪馬台国の場所を北九州としている。畿内説の場合邪馬台国は後の大和朝廷の前身ということになり、全国統一は3世紀中頃となる。一方、九州説の場合邪馬台国は全国に数多く点在する地域統合国家の一つに過ぎず、必然的に大和朝廷の全国統一は1世紀遅い4世紀中頃ということになる。
邪馬台国
邪馬台国は28国から構成される連立国家の宗主国(統合国)であり、呪術的司祭王にして巫女、そして女王たる地位に在った卑弥呼による鬼道政治が執行されていた。卑弥呼は仲哀天皇の皇后である神功皇后や、崇神天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、それに景行天皇の妹である倭姫命(やまとひめのみこと)に比定されるが、いずれにせよ239年に使者として難升米(なしめ)を魏に派遣し、「親魏倭王」の称号と印綬、それに銅鏡を返礼として収めたことにより、邪馬台国を統一国家として完成させたらしい。卑弥呼は諸国監視のため伊都国に一大率(いちだいそつ)を設置したり、軍事的防禦施設として各地に城柵を築いたりしたが、政務は専ら弟に委任していた。また邪馬台国の南には卑弥弓呼(ひみここ)と言う男王が率いる狗奴国(くなこく)が存在し、邪馬台国に対抗していたが、魏はこれを征伐するべく張政と言う武将を派遣している。一方、『魏志』倭人伝には卑弥呼の死後男王が即位したが国が乱れ、卑弥呼の一族の女性(宗女)である壹与(いよ)が即位して国が治まったと記されているが、これはまだ男性による王権の世襲が確立されていなかったことを示している。また邪馬台国に於ける王・大夫(たいふ)・大人(だいじん)・下戸(げこ)・生口といった身分制度をはじめ、物々交換の市や吉凶を占う灼骨卜占(しゃっこつぼくせん)の存在、さらに租税や刑罰、それに一夫多妻制の存在、人々の衣服(男は袈裟衣、女は貫頭衣)など、当時の邪馬台国の社会の様子も数多く記されている。なお日本に関する史料は、房玄齢(ぼうげんれい)が著した『晋書』倭国伝に記載されている266年の壱与の遣使以降約1世紀に亘って皆無になるため、この1世紀を俗に「謎の四世紀」と呼ぶこともある。 
 
 大和時代

 

1 大和朝廷
大和朝廷の成立
大和朝廷は大和政権・大和王権とも称される。邪馬台国の延長かどうかは論争中であるが、日向国より東征し橿原宮にて初代天皇(大王(おおきみ)) に践祚した神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)=神武天皇) より続き大和国三輪山付近に在ったとされる皇室を中心とした、氏姓制度に基づく諸豪族の連合政権であると考えるのが一般的である。その大和朝廷によって日本が統一されて以後、律令国家が成立するまでを大和国家と言う。皇室はこの後、綏靖天皇(すいぜいてんのう)、安寧天皇、懿徳天皇(いとくてんのう)、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇(すじんてんのう)、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇と続くものとされている。
朝鮮半島の情勢
4世紀の初め頃には、北の高句麗と南の韓族の国家である三韓(馬韓・弁韓・辰韓)に分かれていた。やがて三韓は、馬韓が伯済(はくせい)により百済に、辰韓が斯盧(しろ)により新羅に統一され、弁韓には任那(みまな)(加羅諸国) が成立した。日本人が多かった任那には屯倉(みやけ)を財源とする任那日本府が設置され、大和朝廷の朝鮮半島に於ける足場となった。
好太王碑文(広開土王碑文)
好太王碑文(こうたいおうひぶん)は高句麗の全盛期を創造した好太王の功績を称えるため、息子の長寿王が現在の中華人民共和国吉林省集安県通溝にあたる鴨緑江(ヤールー川)の側の丸都城(がんとじょう)に建立したものであり、金石文の一種である。約1800字から構成される好太王碑文の中には369年と391年(この時は百済・新羅を破る)の大和朝廷による朝鮮出兵の記述もあり、所謂「謎の四世紀」を解明する貴重な史料となっている。大和朝廷が朝鮮半島を含む大陸に出兵した理由については諸説あるが、大陸の優れた先進技術と鉄挺(てってい)(鉄の延棒)などの鉄資源を求めるため、という説が有力である。なお、この好太王碑文を研究している李進煕(イジンヒ)は、大東亜戦争中に帝国陸軍参謀本部所属将校の酒匂景信(さこうかげのぶ)によって碑文が改竄されたと発表して物議を醸した。また江上波夫はこの碑文にある404年の倭国敗北の記述を拡大解釈し、古墳の馬具などにスキタイ文化の影響が見られるなどという理由をつけて、大和朝廷は朝鮮系の征服王である応神天皇が倭国を滅ぼして建設した国だ、という騎馬民族説を、終戦後の反動的左傾化傾向が強かった1948年に発表し、やはり物議を醸した。
倭の五王
『宋書』倭国伝(正式名『宋書夷蛮伝倭国之条』)は中国の南北朝時代の沈約(しんやく)により編纂されたものであり、簫子顕(しょうしけん)が著した『南斉書』や姚思廉(ようしれん)が著した『梁書』などと共に5世紀の日本を知る上で重要な史料である。これらの史書には、男子による王権の世襲が漸く確立されて登場した倭の五王、即ち讃・珍(彌(み)) ・済(せい)・興・武が記されている。皇室に当てはめると、讃は応神天皇か仁徳天皇か履中天皇、珍は仁徳天皇か反正天皇となり明確には分からないが、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇(大泊瀬幼武(おおはっせわかたけ))であると解明されている。中でも斯鬼宮に都した雄略天皇は、熊本県の江田船山古墳出土大刀(75字) や埼玉県埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の稲荷山古墳出土鉄剣(115字)などに「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と記された天皇であり、478年には建業(けんこう)に都していた南朝の宋の順帝に対して倭王武の上表文を提出している。この中にて雄略天皇は、父祖の毛人(蝦夷(えみし))や衆夷(熊襲(くまそ))や海北(朝鮮)に対する戦功を記し、より有利な朝鮮経営を行うため対高句麗戦への宋の支援及び任那領有と百済進出の許可を要求しているが、結局北朝側の高句麗への進出は公認されたものの南朝側の百済への進出は認められず、また六国諸軍事安東大将軍(りっこくしょぐんじあんとんだいしょうぐん)という爵号を受け、結果的に冊封体制に組み込まれてしまうこととなった。 
2 大和朝廷の社会制度
氏姓制度
氏姓制度とは各地の豪族を皇室中心の支配体制に組み入れるための政治的身分秩序のことであり、この氏姓制度に基づく政治を特に氏姓政治と言う。氏は血縁的な同族集団をもとにした組織であり、主人たる氏上(うじのかみ)と一般人の氏人(うじびと)、奴隷としての奴婢(ぬひ)によって構成され、共通の氏神を信奉した。一方、姓は家柄や職能による身分序列を示す称号であり、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・公(きみ)・直(あたえ)・史(ふひと)・村主(すぐり)・使主(おみ)・吉士(きし)・薬師(くすし)・造(みやっこ)・首(おびと)などが表のように氏上に与えられた。中央政府たる朝廷を牛耳ったのは、大王を支える豪族のうち、臣の最有力者たる大臣(おおおみ)と、連の最有力者たる大連(おおむらじ)であり、地方では県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)・国造(くにのみやっこ)が政務を執行した。なお豪族は都会生活を送るうちに洗練され、貴族となった。
氏姓制度・氏姓対応表
臣    皇別氏族(蘇我・葛城・平群・巨勢・吉備・春日・和邇・出雲など)
連    神別氏族(大伴・物部・中臣・越智・忌部・尾張など)
君    地方有力豪族(筑紫・毛野・犬上など)、後に「公」
直    小豪族(地方首長には造・首)
史    諸蕃氏族(帰化人の子孫)(他に村主・使主・吉士・薬師)
部民制度
この時代、朝廷や豪族はそれぞれ私地私民を持っていた。朝廷の直轄領を屯倉、そこを耕作した農民を田部(たべ)と言い、また皇室の直轄領を屯田(みた)と言う。皇室の生活の資を貢納する民を子代(こしろ)(御子代)・名代(なしろ)(御名代)と言うが、この代表的なものとしては、反正天皇の蝮部(たじひべ)、雄略天皇の長谷部(はせべ)、清寧天皇の白髪部(しらかべ)などが挙げられる。また豪族の私領を田荘(たどころ)と言い、田荘を耕作した農民を部曲(かきべ)と言う。朝廷には品部(ともべ)と言う世襲的に特殊な職能をもって仕える部があったが、この例としては埴輪を作った土師部(はじべ)の他、韓鍛冶部(からかぬちべ)・錦織部(にしごりべ)・陶部・玉造部・鞍作部・弓削部(ゆげべ)・舎人部(とねりべ)・馬飼部・蔵部・膳夫部・鷹飼部・海部・鏡作部・服部(はとりべ)・壬生部(みぶべ)などが挙げられる。これら品部を仕切ったのは伴(とも)と言う世襲的職能で朝廷に奉仕する官人集団の首長たる伴造(とものみやっこ)である。このように、朝廷や豪族に服属する労働者たちを部(べ)、その集団を部民(べのたみ)と言うが、こうした部民制度は百済に於ける同様の制度を改良したものであるらしい。 
3 古墳文化
古墳の変遷古墳は亡き権力者の権力を誇示するための墓である。古墳時代は前期・中期・後期に分けられるが、全盛期は中期であり、中央の他にも日向国・毛野国(けぬのくに)・吉備国(きびのくに)・出雲国・筑紫国など有力な豪族が存在した場所で政治的且つ軍事的な示威の意味も含んで大規模な古墳が造られた。棺は木棺を粘土で覆った粘土槨や小石で覆った礫槨が主流であり、それを収納する玄室は当初個人専用の竪穴式が多かったが、有力農民が家族墓として追葬を可能とするべく羨道(せんどう)を設けたため、入口を閉塞石で塞いだ横穴式が流行した。なお、古墳の巨大な石は修羅(しゅら)を用いて多数の人間により運ばれた。
古墳の副葬品
主な副葬品としては、勾玉・管玉(くがたま)・碧玉製腕飾り・金環耳飾・玉杖・金属製の冠などの装身具や、車輪石・石釧(いしくしろ)・鍬形石などの石製品、挂甲などの甲胄・銅鏃・馬鐸・鞍・壺鐙・眉庇付冑・短甲・環頭大刀などの武具などが納められた。一方、素焼の焼物である埴輪の製作動機に関しては土留めや殉死の代用など諸説があるが、埴輪の発展したものが福岡県の岩戸山古墳に見られる石造彫刻の石人や石馬である。また神獣鏡・画像鏡・鈴鏡など様々な呼称で呼ばれるこの時代の鏡としては、同じ鋳型で鋳造した複製の鏡(所謂同笵鏡(どうはんきょう))を持つ三角縁神獣鏡(魏鏡) や京都府の大田南五号墳から出土した日本最古の鏡である方格規矩四神鏡などが挙げられる。なお当時は、円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳など形状に拘らず表面には葺石(ふきいし)が敷き詰められていた。
古墳の具体例
前期古墳としては、最古の前方後円墳であり末盧国との関連が指摘されている佐賀県の久里双水古墳と、奈良県の箸墓古墳が知られている。中期古墳としては、大阪府の百舌鳥古墳群中にあり墓としては世界最大の面積を誇り陪塚(ばいちょう)(付属小古墳)を有する大山古墳(だいせんこふん)(仁徳陵古墳)や、やはり大阪府の古市古墳群中の誉田山古墳(こんだやまこふん)(応神陵古墳)と陵山古墳(履中陵古墳)などが挙げられる。後期古墳には玄室に装飾を施した装飾古墳(福岡県の竹原古墳など)が見られる他、群集墓が造られた。後期古墳としては、和歌山県の岩橋千塚(いわせせんづか)、埼玉県の吉見百穴(よしみひゃくけつ)、奈良県の新沢千塚(しんざわせんづか)、宮崎県の西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)などの群集墓や、岡山県の造山古墳、磐井の墓である福岡県の岩戸山古墳、蘇我馬子の墓と言われる奈良県の石舞台古墳(いしぶたいこふん)、藤原鎌足の墓である大阪府の阿武山古墳、そして奈良県の天武陵古墳や高松塚古墳などが挙げられる。やがて古墳は、大化の薄葬令による葬法の簡略化や仏教伝来に伴う氏寺の建立、さらに埋葬者層の広がりによる雑多化や火葬の広まりなどにより、次第に衰退していった。
社会風習
古墳時代の社会風習としては、吉凶を占うため鹿の肩甲骨を用いる太占や亀の甲羅を用いる亀卜(きぼく)、氏姓を正すため熱湯の中の小石を拾わせる盟神探湯(くかたち)(允恭天皇が創始)、それに禊(みそぎ)(水を用いて汚れを落とす)や祓(はらえ)(朝廷では6月と12月の晦日に大祓)などが知られている。また庶民たちは生誕地神たる産土神(うぶすながみ)や在住地神たる鎮守神を信仰し、男女が春や秋に山などで宴会を行って求愛する歌垣(うたがき)(東国では歌(かがい))なども行われた。農耕儀礼は自然崇拝であり、福岡県の宗像神社の沖津宮である沖ノ島などには自然を祀った祭祀遺跡(さいしいせき)が存在している。主として五穀豊穰と皇室安泰を祈る祈年祭(きねんさい)や収穫を感謝する新嘗祭(しんじょうさい)などはこの頃から行われたが、朝廷は祈年祭を毎年2月4日、新嘗祭を毎年11月23日に挙行し、天皇即位年の新嘗祭は特に大嘗宮を設けて大嘗祭(だいじょうさい)を行った。当時の人々は、男は髪を美豆良(みずら)に結い袴を履き、女は髷(まげ)を結ってスカートのような裳(も)を履いていた。なお海藻を使用して塩を製造する藻塩も行われ始めた。
大陸からの伝来
応神天皇の御世に養蚕技術を伝えた弓月君(ゆづきのきみ)(秦氏の祖先)や、文筆で仕えた阿知使主(あちのおみ)(東漢氏(やまとのあやうじ)の祖)、仁徳天皇の養育係たる阿直岐(あちき)の招きで来日して『論語』『千字文』などの儒教の経典と漢字を伝えた王仁(わに)(西文氏(かわちのふみうじ)の祖)、新しい酒の醸造法を伝来したススコリなど、大和時代には多くの帰化人(渡来人)が来日した。日本に於ける最初の漢字記述は、奈良県の物部氏の氏神である石上神宮(いそのかみじんぐう)(布留神宮)の七支刀であり、これは369年に百済から貢がれた物であるらしい。また443年に製造されたと思われる和歌山県の隅田八幡神社(すだはちまんじんしゃ)人物画像鏡の「意柴沙加宮(おしさかのみや)」の文字や稲荷山古墳出土鉄剣・江田船山古墳出土大刀の「獲加多支鹵」の記述なども著名である。宗教的には継体朝に百済の武寧王(ぶねいおう)の命を受け来日した段揚爾(だんように)・高安茂(こうあんも)ら五経博士(ごきょうはかせ)が易経・詩経・書経・礼記・春秋といった五経を講じて儒教が伝えられた他、神仙思想と老荘哲学に基づく道教が伝来した。また皇円(こうえん)の『扶桑略記(ふそうりゃくき)』によるとこの頃に仏教の私伝が為され、司馬達等(しばたつと)(子の司馬多須奈が鞍作部を賜姓、その子が鞍作鳥)が飛鳥の坂田原にて密かに仏像を礼拝したらしい。さらに欽明朝には易・暦・医博士が来日した。
古墳時代の土器
朝鮮半島伝来の技術により、ろくろを用いてのぼり窯で1000℃以上の高温で焼いて作られる灰色で硬質の須恵器(すえき)((はそう/瓦+泉)など、主に祭祀に使用)が陶部などにより生産された他、弥生土器の製法を受け継いだ土師器(はじき)(日用品として使用)が土師部により生産された。一方、北海道では赤褐色で櫛目文を持つ擦文土器(さつもんどき)が製作され用いられていた。
皇神たちの伝説
皇神(すべがみ)の神宝、即ち三種の神器と言えば、八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)である。一方、三重県の伊勢神宮や島根県の出雲大社、奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)や大阪府の住吉大社などの社(やしろ)がこの頃建てられたが、特に伊勢神宮は神明造(しんめいづくり)であり、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る内宮(ないくう)と、穀物神たる豊受大神(とようけのおおかみ)を祀る外宮(げくう)に分かれていることで有名である。また出雲大社は国譲り神話によると、天孫降臨以前に日本を支配していた大国主神(おおくにぬしのかみ)が国土を献上した際に朝廷が代償として贈った社であるらしい。一方、大神神社は三輪山を神体とする社であるが、その祭神であり酒の神と目される大物主神(おおものぬしのかみ)は、卑弥呼にも比定される倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の夫と言われており、その娘の墓が箸墓古墳であるとされている。また住吉大社には三海神と神功皇后が祀られているが、神功皇后は仲哀天皇の皇后であり、新羅を征服せよとの神託に背いたため神の怒りに触れ崩御した仲哀天皇に代わり、武内宿禰らと共に新羅に遠征し、帰国後応神天皇を出産したと伝えられている。一方、神話についてであるが、これは大彦命(おおひこのみこと)などの皇族を北陸・東海・西道・丹波に四道将軍として派遣した崇神天皇の話や、天照大神の孫にあたり神武天皇の曾祖父にあたる瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかまがはら)から日向国の高千穂峡に降ったとする天孫降臨神話などが知られているが、景行天皇の皇子の小碓尊(おうすのみこと)に纏わる神話は有名であり、熊襲の長の川上梟帥(かわかみのたける)(取石鹿文(とろしかや))を宴会場で女装して征伐して日本武尊(やまとたけるのみこと)の名を貰った話や、焼津で賊に襲撃され火で囲まれた際に叔母の倭姫命から貰った天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を用いて周りの草を刈って難を逃れた話(草薙剣の語源)、それに三浦半島から房総半島へ渡る際に海神の怒りに触れて嵐に遭い船が難破したものの后である弟橘媛(おとたちばなひめ)の自己犠牲により助かったという話や、伊勢国の能煩野(のぼの)で最期を迎えて白鳥となって大和国へ戻ったという白鳥伝説などが知られている。ちなみに『古事記』に収録されている「倭(やまと)は国のまほろばたたなづく青垣山籠れる倭しうるはし」という歌は、日本武尊の辞世と伝えられている。 
4 大和朝廷の動揺
動乱の六世紀
葛城氏の一族である円大使主(つぶらのおおおみ)は履中天皇・反正天皇・允恭天皇を擁立し、まず実権を掌握した。次に円大使主の配下だった平群木菟(へぐりのつく)の子の平群真鳥が雄略天皇・清寧天皇を擁立して台頭した。雄略天皇の御世の463年には任那国司吉備田狭(きびのたさ)が吉備氏の乱を勃発させたが、平群真鳥の配下の大伴室屋に滅ぼされた。平群真鳥の子の平群鮪(へぐりのしび)は、武烈天皇に勝るとも劣らない強大な権力を掌握するに至ったが、それが仇となって武烈天皇の命令を受けた軍事担当の大伴金村によって追討された。この事件により力を得た大伴金村は、武烈天皇の崩御に伴う仁徳天皇系断絶に際して越前国から男大迹王(おほどのおう)を迎えて継体天皇とし、自身の権威と権力を確固たるものとした。しかし大伴金村は512年、加羅四県を百済に割譲する際に収賄していたことが物部尾輿(もののべのおこし)によって暴露され、さらに割譲による任那の臣民らの反発の影響もあって失脚した。
任那日本府の崩壊
高句麗に圧迫されていた新羅は執拗に日本に対して策略を仕掛けてきた。大和朝廷は新羅を誅伐するべく527年に近江臣毛野(おうみのおみけぬ)率いる六万の軍勢を派遣したが、新羅の策略に乗った筑紫国造磐井が磐井の反乱を起こして軍勢を阻止した。磐井は物部麁鹿火(もののべのあらかび)により誅されたが、新羅は着々と任那を侵略し、大伴金村の失政による任那臣民の反発も利用して532年には金官加羅を併呑、562年には任那日本府を滅ぼした。なお任那日本府は、532年から滅亡までの間は安羅(あら)に置かれた。新羅は百済に対しても侵略を続け、554年には大和朝廷の援軍の佐伯連(さえきのむらじ)をも破り、聖明王を戦死させた。
仏教伝来と物部氏の衰退
仏教は百済の聖明王によって伝来されたが、公伝の年は不定である。『日本書紀』の中には552年とあり、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資材帳(がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』の中には538年とあり、どちらも欽明天皇の御世としている。この年代の相違は、物部氏側の安閑天皇と宣化天皇の朝廷と、蘇我氏側の欽明天皇の朝廷が対立していたためである、とする説もある。この異説の場合、後に朝廷は欽明天皇側に統一されたのであるからこれを蘇我氏が台頭する理由の一つと考えられなくもない。もう一つの理由としては、仏教の三時思想(正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法(まっぽう))の影響が考えられる。いずれにせよ、仏教の受け入れを巡り、慎重派の物部尾輿と推進派の蘇我稲目の間に崇仏論争が発生、それに政争が絡んで対立していたことは事実である。物部氏は軍事担当であり朝廷の近衛警察的な仕事をしており、神別氏族であったため皇室の縁戚になることは不可能だった。これに対し屯倉と三蔵(みつのくら)(神宝管理の斎蔵(いみくら)、皇財管理の内蔵(うちつくら)、官財管理の大蔵(おおくら))の管理を担当していた財務担当の蘇我氏は皇別氏族であったため皇室の縁戚になることが可能であった。なお中臣氏も慎重派である。世代が変わって物部守屋と蘇我馬子の対立になったものの、用明天皇の後継者問題ではこの対立に火が着き、587年には厩戸豊聰耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)(後の聖徳太子・上宮王)を味方につけた蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした。なお後の石上氏は、この際に生き残った物部一族の末裔である。
蘇我馬子の台頭
物部守屋との抗争の際に蘇我馬子が半ば傀儡君主として擁立した、欽明天皇の皇子であり彼の娘婿である泊瀬部皇子(はつせべのおうじ)は、践祚して崇俊天皇となった。崇俊天皇の下で、蘇我馬子は自分の大臣に対抗できる位である大連を廃止した。また蘇我馬子は、擁立した崇俊天皇が独自の天皇親政を志し始めたため、腹心の東漢直駒(やまとのあやのあたいのこま)をもってこれを弑逆した。崇俊天皇の後継者としては厩戸皇子ら数人が候補として名を連ねたが、誰が継いでも騒乱の元となると判断されたため、暫定的に日本史上初の女帝である推古天皇が592年に践祚した。 
5 推古朝の善政
飛鳥時代
推古朝の都は初めが豊浦宮であり、後に小墾田宮(おわりだのみや)への遷都が為された。豊浦宮と小墾田宮はいずれも現在の奈良県高市郡明日香村に相当する場所であり、それが故にこの時代を特に飛鳥時代と言う。女帝であった推古天皇は強い政治のブレーンとして甥にあたる聖徳太子を用い、593年に彼を摂政に就任させた。この時代の摂政は所謂藤原摂関体制時の摂政とは異なり、寧ろその時代で言う関白に近く、天皇に代わって政務を執る者という意味だった。摂政が設置されたもう一つの理由としては、仮に推古天皇が親政を行うと、次第に専横化傾向を強めていた蘇我一族と衝突して大乱を誘発する危険性があったため、とも考えられる。ともかく、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三人により、中央集権国家の建設を目標とした善政が行われた。
新羅征討計画
推古天皇は新羅によって蹂躙された任那の回復のため、600年に境部臣雄摩呂を新羅征伐に派遣した。続いて602年には本格的に来目皇子(くめおうじ)を向かわせる予定であったが、派遣直前に来目皇子が病により急逝したため、この新羅征討計画は頓挫した。
冠位十二階の制
(603年 / 日本史上初の制度化された位階制)
氏姓制度に基づく門閥世襲を打破し広く人材登用の道を開き、豪族を皇室中心の中央集権体制の中に組み込んでいくための第一歩として、冠位十二階の制は制定された。上から順に挙げるならば、位は徳・仁・礼・信・義・智、色は紫・青・赤・黄・白・黒であり、それぞれ大小、濃淡があった。人材登用の例としては、遣隋大使小野妹子が、隋へ渡る前は大礼であったものが帰国後に大徳に昇進したことなどが挙げられる。だがこの冠位十二階の制により門閥世襲が無くなったわけではなく、施行地域も畿内に限られており、何と言っても絶対に位階制に組み入れて横暴を防ぐべきである蘇我馬子本人が官位を与える立場であったため階級が無かったこと、など様々な問題点はあったが、ともかく冠位十二階の制は後の律令体制に於ける位階制の原型となった。
十七条憲法
(604年 / 官吏としての心構えを示す)
『日本書紀』の中に記録が残っている十七条憲法は、現在のような憲法ではなく、官僚としての政治的且つ道徳的な訓戒を説諭したものであった。和、三宝(仏法僧)、詔、礼を重んじることを諭しているこの十七条憲法の根底には、皇室中心主義・儒仏尊崇・豪族間の対立抑制などの基本理念の他、民衆を正しく導くには一定の法律が必要である(信賞必罰)とする中国の法家思想が流れている。十七という数字は中国の陰陽道に於ける陰の最大値の八と陽の最大値の九との和であり、後世の主要な法令の条数も十七絡みとなっている。
遣隋使の派遣
(607年 / 最初の遣隋使は600年)
魏徴(ぎちょう)が編纂した『隋書』倭国伝には、推古天皇か聖徳太子と思われる阿毎多利思比孤(あめたりしひこ)なる人物が遣隋大使小野妹子に国書を持たせて隋の煬帝(ようだい)のもとへ派遣した、と記されている。この国書はそれまでの相手の中華思想を満足させるような屈辱的土下座外交の文書ではなく、対等外交を要求したものだった。父と兄を不幸にさせてまで皇帝の座に就いたような人物である煬帝は、翌年、帰国する小野妹子に隋の答礼使として裴世清(はいせいせい)を同行させた。なお裴世清は文林郎(ぶんりんろう)という書物を管理する官吏であり、隋の位階制では三十階中二十九階であった。小野妹子は同608年には学問僧の南淵請安と旻(みん)、それに留学生の高向玄理(たかむこのくろまろ)を伴って再び隋へ渡っている。彼らの学んだ新知識、中でも中大兄皇子と中臣鎌足に教育を施した南淵請安の新知識は、後の大化の改新の論理的な支柱となった。なお高向玄理と旻は後の大化の改新の際に国博士となり、八省百官の立案を行った。また高向玄理は後に第3回遣唐使として再び唐へ渡り、彼地で客死している。隋は大運河の造成や高句麗への度重なる外征により国力が衰え、やがて唐の初代皇帝となる李淵(りえん)に滅ぼされたため、614年に派遣された犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が最後の遣隋使となった。
輝ける国家意識の黎明
皇室中心の中央集権国家を建設するため聖徳太子は蘇我馬子と共に日本初の歴史書たる『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を620年に完成させた。またこの推古朝の頃から国の呼称が「日本」となり、唯一絶対の国の長が「天皇(すめらみこと)」と称されるようになった。602年に来日した観勒(かんろく)は後に元興寺に在留して日本初の僧正となったことで知られているが、十干十二支の干支の法を用いる元嘉暦を伝えて暦法を伝えたり、遁甲方術・天文・地理などをもたらしたりしたことでも有名である。なお中国には、甲子革命や辛酉革命など甲子・辛酉の年には革命が起こり、60年を1元、21元を1蔀(ほう)として1蔀即ち1260年に一度は大革命が起こる、とする讖緯説(しんいせつ)が存在しており、那珂通世(なかみちよ)などの学者は神武紀元をこの讖緯説に則るものだとしている。また暦は、692年からは李淳風が伝えた偽鳳暦、763年からは吉備真備が伝えた大衍暦が用いられ、857年からは大春日真野麻呂が開発した五紀暦が併用された。 
6 飛鳥文化
仏教
欽明天皇の御世の仏教伝来を受けて成立した飛鳥文化は飛鳥と斑鳩を中心として花開いた日本史上初の仏教文化であり、朝鮮半島や中国南北朝、さらにギリシアやペルシアの文化やインドのガンダーラ芸術の影響なども受けた、異国情緒溢れる文化である。敏達天皇はあまり仏教に関して熱心ではなかったが、次代の用明天皇は熱狂的仏教徒であり、その皇子である聖徳太子も三経(法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう))を解説した日本初の仏教経典注釈書である『三経義疏』を著した。三宝興隆の詔(仏法興隆の詔)が594年に下されたことにより盛んになった飛鳥時代の仏教は、戦争勝利・先祖崇拝・病気平癒という目的のためにあった。なお聖徳太子に仏教を教えたのは、高句麗僧の恵慈(えじ)と百済僧の恵聡(えそう)であり、儒教を教えたのは高句麗僧の覚(かくか)である。就中恵慈は、聖徳太子が622年に逝去したことを受けて丁度一年後に入寂したことで知られている。
建築
雲形肘木・卍崩しの勾欄・人字形割束など中国の六朝様式が盛んだったこの時代の代表的な建築物としては、古墳造成に代わる示威活動として諸豪族が趣向を凝らして建立した氏寺が挙げられる。蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(飛鳥寺・元興寺)や秦河勝が太秦(うずまさ)に建立した広隆寺などが氏寺として有名である。飛鳥時代の他の著名な寺としては、聖徳太子が建立した三つの寺、即ちエンタシスで知られる世界最古の木造建築である斑鳩の法隆寺や、母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)を祀るための中宮寺、物部守屋討伐後に戦勝を感謝するため建立された四天王寺、などが挙げられる。回廊にギリシア・パルテノン神殿の影響も見られる法隆寺については、『日本書紀』に法隆寺炎上の記述があるため再建論者の喜田貞吉と非再建論者の関野貞らとの間で法隆寺再建論争が起こったが、後に四天王寺式伽藍配置の若草伽藍跡が発掘され、再建説が優勢となっている。伽藍配置は飛鳥寺式・四天王寺式・法隆寺式・薬師寺式・東大寺式・大安寺式、と変遷していったが、この過程で塔の重要性は次第に低下していった。なお四天王寺式伽藍配置は高句麗の清岩里廃寺(せいがんりはいじ)と同じ伽藍配置として知られているが、ここで言う四天王とは、持国天・増長天・広目天・多聞天のことである。
彫刻
飛鳥文化と白鳳文化の彫刻には、銅像に鍍金(ときん)を施した金銅像が多い。主な彫刻様式としては、中国の雲崗(うんこう)や竜門の石窟仏に似た威厳有る北魏様式(北朝様式)と、アルカイック=スマイルで知られる柔和な梁様式(南朝様式)が挙げられる。
『飛鳥寺釈迦如来像』 / 『飛鳥大仏』とも言う。鞍作鳥が製作した、現存する日本最古の仏像。何度も火災に遭ったため補修部分が多い。
『中宮寺半跏思惟像』 / 『広隆寺半跏思惟像(泣き弥勒)』と同様『弥勒菩薩像』とも言う。新羅様式。頬杖をついたような仏像。
『法隆寺金堂釈迦三尊像』 / 鞍作鳥作、杏仁形の眼・仰月形の唇で知られる北魏様式。対称的な仏像が梁様式の『法隆寺百済観音像(百済観音)』。
『法隆寺夢殿救世観音像』 / 上宮王(聖徳太子)の等身像らしい。秘宝だったが米国人美術史学者フェノロサ(→明治時代)が暴露。
その他
高句麗僧の曇徴(どんちょう)は610年、油絵具の一種である密陀僧と、新式の紙墨法を伝来した。密陀僧で描かれた密陀絵としては『玉虫厨子須弥座絵(たまむしのずししゅみざえ)』が知られている。一方、工芸面ではペルシア文化の影響から諸建築物に忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう)や獅子狩文様(ししかりもんよう)が施された他、『龍首水瓶』には天馬(ペガサス)が彫られた。ちなみに聖徳太子の后である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が制作した『天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)』には聖徳太子の「世間虚仮唯仏是真」という言葉が残っている。 
7 遣唐使の顛末
岡本宮で政務を執っていた舒明天皇は630年、薬師恵日(くすしのえにち)の進言を容れて犬上御田鍬を遣唐大使とする第1回遣唐使を派遣した。犬上御田鍬は632年に唐使の高表仁を伴って帰朝し、日本と唐の国交が正式に結ばれた。遣唐使は船を漕ぐ水夫(かこ)を中心に500人程度で構成され、船数は当初2隻だったが後に4隻が通例となった。「よつのふね」の別称の所以である。遣唐船には天文学に明るい陰陽師(おんみょうじ)が乗り、昼は太陽、夜は北極星を基準に航海を指揮した。経路は当初朝鮮半島西部沿岸を北上する北路であったが、白村江の戦い以後は新羅との国交が悪化したため、南西諸島を経由する南島路や日本海を横断する渤海路、南支那海を横断して揚州を目指す南路などが採用された。838年の第17回遣唐使(実質的に15回目)では円仁らが入唐したが、遣唐大使藤原常嗣と良船を争い渡唐を拒否した小野篁(おののたかむら)のような人物もいた。やがて894年、中(ちゅうかん)の報告を受けた菅原道真は、航海の危険性・莫大な経費・唐の衰退などを理由に遣唐使を廃止した。遣唐使に纏わるエピソードとしては、李白と親交を持ち開元の治で知られる玄宗に仕え「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」という短歌を残しつつ客死した阿部仲麻呂(唐名は朝衡)の話や、楊貴妃に狂った後の玄宗の前で新羅の使者と席順を巡り争いさらに鑑真を日本へ連れて帰った藤原清河の話などが良く知られている。 
8 大化の改新と改新政治
政変の火種
622年に聖徳太子は逝去した。蘇我氏の横暴はいよいよ激しさを増し、息子を王子(みこ)と称したり、自宅を上宮門(うえのみかど)と呼んだり、大和国の皇室領葛城県(かつらぎのあがた)の占領を企てたりした。蘇我馬子は626年に没し、息子の蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣の位を継いだ。628年には推古天皇が崩御したが、皇位の継承を巡って紛争が勃発することを恐れたため皇太子を定めていなかった。この際、上宮王家の山背大兄王(やましろのおおえのおう)と敏達天皇の孫の田村皇子が後継候補となったが、上宮王家を嫌う蘇我蝦夷は田村皇子を践祚させ舒明天皇とした。しかし舒明天皇も641年に崩御してしまい、後継者として舒明天皇の皇子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、蘇我馬子の孫の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、そして山背大兄王が鼎立した。ひとまず暫定的な天皇として舒明天皇の皇后である宝皇女(たからのみこ)が践祚して皇極天皇となり、事態の収拾が図られた。
山背大兄王の変
(643年 / 上宮王家の滅亡)
蘇我氏の家督は多少理知的でやや温厚な蘇我蝦夷から、その息子であり感情的且つ過激な蘇我入鹿(そがのいるか)に譲られた。古人大兄皇子を推していた蘇我入鹿は上宮王家に反発し、山背大兄王の私有民を無断で酷使するなどの嫌がらせを行い、ついには斑鳩宮に襲撃してこれを滅ぼした。この暴挙は後継候補の一人である中大兄皇子を刺激する結果となると共に、一般庶民の間に反蘇我氏の気風をより一層芽生えさせる原因となった。
大化の改新
(645年 / 古代最大のクーデター)
中大兄皇子は、法興寺の蹴鞠会で意気投合して以来側近として用いていた中臣鎌足(なかとみのかまたり)や、皇后の伊賀采女(いがのうねめ)の兄であり蘇我の傍流で不遇だった蘇我石川麻呂(倉山田石川麻呂)らと共に645年6月12日、三韓来貢の儀式が行われている飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿(だいごくでん)にて蘇我入鹿を誅殺し、翌日には甘橿岡の蘇我邸を包囲して蘇我蝦夷を自殺させ、蘇我氏本宗家を滅ぼした。政変後、皇極天皇は退位し、その弟の軽皇子(かるのみこ)が践祚して孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子、中臣鎌足が内臣(うちつおみ)、豪族の長老的存在であった阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)が左大臣、蘇我石川麻呂が右大臣、旻と高向玄理が国博士にそれぞれ就任した。やがて「大化」という元号が制定され、9月には「大化元年の詔」が下された。そして12月には摂津国の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)への遷都がなされた。大化の改新では旧来の慣習の打破、即ち男女良踐の法による身分区別の確立、大化の薄葬令による殉死の禁止や身分により制限を設けることによる葬法の簡略化などが推進された。なお高向玄理はこの後外交に重用され新羅や唐へ渡り、最終的に唐で没している。
改新の詔
(646年 / 『日本書紀』中に記述)
唐の均田制・租庸調制などを参考として元日に出された改新の詔は、公地公民の制・地方制度・班田収授・税制の四箇条で構成されている。公地公民の制では私地私民が全廃され、豪族はこの代わりとして上級役人ならば食封(じきふ)、下級役人ならば布帛(ふはく)を得た。食封は、封戸(ふこ)という一定数の戸を指定してその租税の大部分を得る権利のことを指し、布帛は物々交換社会に於いて現在の通貨同様の役割を果たしていた布のことを指す。次に、地方制度は行政区画を定めて中央集権的政治体制を構築するために定められたが、後の大宝律令下の国・郡・里とは違い、国・評(こおり)・里だったらしい。これは木簡から明らかになったことであり、所謂郡評論争(ぐんぴょうろんそう)の結果である。一方、班田収授の法は、全国の土地を国有とし6歳以上の男女に6年に一度の割合で口分田(くぶんでん)と呼ばれる土地を分け与える制度であり、租は6年に一度作成される戸籍、庸と調は毎年作成される計帳を基に課税が為された。
改新の歴史的意義
蘇我氏の粛正、氏姓制度の矛盾の是正、豪族間の対立緩和を目指して断行された大化の改新は、結果的に律令体制の基礎を形成した。だが従来の私地私民の制から公地公民の制への転換を主眼としていたため、それにより不利益を被る豪族への懐柔政策、即ち旧国造の郡司任命などに重点が置かれ、臣民が望む奴婢の解放などの社会変革は為されなかった。結局、大化の改新は政治改革であって社会改革ではない、と言える。
改新後の政界
粛正の嵐である。蘇我入鹿に推されていた古人大兄皇子は叛心有りとして誅され、右大臣蘇我石川麻呂は異母弟の蘇我日向(ひがのひむか)の讒言で自殺させられ、左大臣阿倍内麻呂は病死した。また新たな冠位の制を制定するなど活発な活動を行っていた孝徳天皇が実子の有間皇子に皇位を譲ることを懸念した中大兄皇子は、孝徳天皇を難波宮に残して皇極上皇と共に飛鳥河辺行宮(あすかかわらのかりみや)へ移った。心を痛めたのか孝徳天皇は翌654年に崩御し、同時に難波宮も終焉を迎え、後継には皇極上皇が重祚して斉明天皇となり後岡本宮へ遷都した。孝徳天皇の崩御後は狂気を演じていた有間皇子であったが、蘇我赤兄(そがのあかえ)の謀略により紀伊国藤白坂に於いて絞首刑に処せられたため、孝徳天皇の血統は途絶えた。
北方の鎮圧
東北の蝦夷対策として大化の改新直後の647年には渟足柵(ぬたりのさく)が、また648年には磐舟柵(いわふねのき)が、それぞれ現在の新潟県北部にあたる所に築かれた。斉明天皇の御世である658年には阿倍比羅夫(あべのひらふ)が船団を率いて齶田(あぎた)、渟代(ぬしろ)、津軽、と日本海沿岸を北上し、蝦夷とさらに北に存在していた粛慎(みしはせ)を征伐した。この北方征伐の目的は、急激に改革が推進されていた改新政治に対する豪族たちの不満を逸らす他、阿倍比羅夫の事実上の左遷である、とも考えられる。なお阿倍比羅夫は白村江の戦いにも従軍している。
白村江の戦い
(663年 / 朝鮮半島での足場を失う)
朝鮮半島では一時期は百済と高句麗が同盟して新羅を圧迫したが、新羅が唐と組んでからは形勢が逆転していた。蘇我氏が百済一辺倒の政策を執っていたということも、大化の改新の要因の一つである。百済は首都の扶余(ふよ)(泗沘城(しびじょう))を唐・新羅連合軍により陥落されたため、その朝臣鬼室福信(きしつふくしん)が大和朝廷の救援と亡命中の百済の王子豊璋(ほうしょう)の返還を求めて来朝した。後岡本宮の次に川原宮を都としていた斉明天皇は百済救援を決意し、まず662年に阿曇比羅夫(あずみのひらふ)を百済へ派遣し、翌年には自ら親征して筑紫朝倉宮まで出向いたが、そこで病を発して崩御した。中大兄皇子は称制(即位式を挙げずに実質的に天皇の政務を執行)して軍を率いたが、錦江河口の白村江の戦いにて唐の水軍に完敗を喫した。この戦いの後、日本では国防のために防人(さきもり)(全課役免除だが食糧と武具は自弁) の配置や烽(とぶひ)(通信施設)の設置を行い、大宰府を防禦するための水城(みずき)や、筑紫国大野城・大和国高安城・長門国長門城・讃岐国屋島城のような朝鮮式山城を築いたりした。なお水城は全長1qの堤であり、御笠川を堰き止めて水を湛えたものである。また鬼室福信の一族である鬼室集斯(きしつしゅうし)は白村江の戦いの後、日本に帰化している。新羅はこの後高句麗を滅亡させ、同盟を結んでいた唐ともその同盟を反古にしてその勢力を駆逐し、朝鮮半島を完全に統一した。 
9 律令国家への道
近江朝の改革
白村江の戦いの前後、唐の強大さに危機感を強めた中大兄皇子は改革の必要性を痛感した。そこで豪族の一層の協力を得るため氏上の民部(たみべ)・家部(やかべ)の所有を認めて部民制度を一部復活させ、664年には冠位二十六階の制を制定して冠位増加を含む官僚機構の整備を行い、667年には国防計画と人身一新のため近江国大津宮への遷都を断行した。翌年、中大兄皇子は天智天皇として即位し、同668年には唐の法律を参考として日本史上初の体系的法典たる近江令(おうみりょう)を中臣鎌足と共に作成し671年に施行した。また国家が全国の臣民を直接把握すると共に氏姓制度の氏・姓を正すための台帳として670年に作成された庚午年籍(こうごねんじゃく)は日本史上初の全国的(東は常陸国・上野国まで)な戸籍であり、永久保存が命じられ、以降の戸籍は五比留め(30年間保存)が命じられた。なお中臣鎌足が危篤に陥った際、天智天皇は最高位「大織冠(たいしょくかん)」と「藤原朝臣」という姓を彼に授けた。藤原鎌足はその翌日に逝去し、後に談山神社に祀られたが、藤原氏の氏神は春日神社であり、氏寺は藤原鎌足の私寺たる山階寺の後身、興福寺である。
乱の前震
天智天皇の後継は、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)か皇子の大友皇子か。この問題により、大友皇子を太政大臣に任じていた天智天皇と大海人皇子は対立していた。それに加えて大海人皇子の恋人であった額田王(ぬかたのおおきみ)を天智天皇が奪取した、という愛憎劇も含まれていた。額田王の姉の鏡王女(かがみのおおきみ)を妻に持つ中臣鎌足の仲裁により一歩退いた大海人皇子は、吉野へ出家した。「虎に翼を付けて放つようなものだ」とは天智天皇の側近の言である。事態はこれで収拾するかと思われたが、同年12月に天智天皇が崩御してしまった。
壬申の乱
(672年 / 古代宮廷内部に於ける皇位継承を巡る最大の事変)
大友皇子は践祚して弘文天皇となったと言われるが定かでは無い。近江朝側と吉野側との対立は深まり、ついに弘文天皇は吉野への糧道を断とうとした。危険を察知した大海人皇子は吉野宮で挙兵し、鈴鹿関を越え、白村江の戦い以後の天智天皇の専制政治に対し不満を抱いていた伊賀国・伊勢国・尾張国・美濃国など東国の豪族を糾合し、関ヶ原の戦いで近江側に快勝し、不破関を破り大津宮を攻略した。弘文天皇は山崎にて自害した。多臣品治(おおのおみのほむじ)らの活躍によって乱は一ヶ月で吉野側の圧勝に終わっが、蘇我赤兄ら近江朝側の諸豪族は年少のため無罪となった藤原不比等(ふじわらのふひと)らを除き容赦なく断罪された。ちなみに鈴鹿関・不破関はそれぞれ東海道・東山道の要衝であり、北陸道の愛発関(あらちのせき)と共に三関と呼ばれた。
皇親政治の背景
673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に於いて践祚し、天武天皇となった。天武天皇と続く持統天皇の御世は、強大な旧豪族たちの多くが壬申の乱に於いて没落した上に、皇室御一家を明神(あきつかみ)(生き神)として崇め奉る現人神思想(あらひとがみしそう)が広まったため、大臣などを一切設置せずに天皇と皇后と皇子のみで政治を執行する皇親政治を推進することが可能であった。大伴旅人の伯父の大伴御行(おおとものみゆき)は「大君は神にしませば赤駒の腹ばふ田井を都となしつ」という歌を、また柿本人麻呂は「大君は神にしませば天雲の雷(いかずち)の上にいほらせるかも」という歌を『万葉集』に残しているが、これは皇親政治を絶賛したものであると共に、現人神思想を端的に表したものである。天武天皇はこの皇親政治の下、豪族の持つ食封の全面的な廃止や部民制度の例外無き撤廃などを実行し、皇室を中心とした中央集権的古代律令国家の完成を目指した善政を執行した。「天皇(てんのう)」という称号が用いられ始めたのは現人神思想が広まったこの時代からであるが、「天皇」という名は元は中国の道教の高貴なる神の名であり、また「天皇大帝」と言えば通常は天空の中心となり光輝く星、即ち北極星を指す。
皇親政治の推進
まず、残存豪族たちを新しい身分秩序に再編成するため684年には八色の姓(やくさのかばね)が定められた。これは上から順に真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)となっている位階制である。真人は天武天皇から数えて五親等以内の皇族に、朝臣はそれ以外の皇族や皇別氏族に与えられた。また宿禰は神別氏族に、忌寸は諸蕃氏族に与えられた。臣や連は旧来通りであるが、これを含めて道師以下の階級が与えられたという記録は無い。結局、この八色の姓では皇室の近親子孫が優遇された。一方、天武天皇の治世下に粟田真人(あわたのまひと)が中心となって編纂が続けられていた飛鳥浄御原律令は、次代持統天皇の御世である689年に令22巻のみの飛鳥浄御原令として施行された。天武天皇の皇子である高市皇子(たけちのおうじ)を太政大臣として用いた持統天皇は、この飛鳥浄御原令に基づいて農民支配の根本台帳である庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成し、6年に一度の班田をこれ以降確実に実行させた。戸籍は6年に一回ずつ作成されたが、現存する最古の物は正倉院宝物の中の702年の筑前国嶋郡川辺里の卜部乃母曽(うらべのもそ)の戸籍である。一方、皇親政治が推進された天武朝では、皇族を絶対化するために皇室関係の系譜を記した『帝紀』や、神話や伝承などを纏めた『旧辞』などの国史が編纂されたが、これは『日本書紀』や『古事記』の原典となった。なお立礼の礼法を整えたのも、天武天皇である。
皇位継承問題
天武天皇には、高市皇子・草壁皇子(くさかべのおうじ)・大津皇子(おおつのおうじ)・舎人親王(とねりしんのう)・刑部親王(おさかべしんのう)という五人の優秀な皇子がいた。このうち舎人親王は『日本書紀』の編纂、刑部親王は『帝紀』や後の大宝律令の編纂の中心人物としてそれぞれ活躍したが、皇位継承とは無縁だった。これは母の血統が低い高市皇子も同様であり、結局皇位は草壁皇子と大津皇子との間で争われた。天武天皇は皇太子に草壁皇子を任命して686年に崩御したが、草壁皇子はすぐに践祚せず彼の母である鸕野皇女(うのおうじょ)を称制させ、自らは即座に大津皇子に謀叛の嫌疑を掛けて自害させた。この事件を大津皇子の変と言う。後に草壁皇子が夭折し、子の軽皇子も幼少であったため、鸕野皇女が暫定的に践祚して持統天皇となった。
藤原京遷都
(694年 / 日本史上初の本格的都城)
持統天皇は「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天香具山」という短歌を残したが、これは畝傍山(うねびやま)・耳成山と共に大和三山と称される天香具山を題材とした歌である。天香具山を東、畝傍山を西、耳成山を北に臨む地に唐の長安を参考として造成された藤原京は、日本史上初の都城制(皇居が中心)に基づく都である。南北は横大路や山田道、東西は中ツ道(平城京の東京極に繋がる)や下ツ道(朱雀大路に繋がる)などの古道で区画された。都はその規模と輸送手段としての川が重要であるが、藤原京は規模は並であるが川としては細い飛鳥川一本のみであり、交通の便は良くはなかった。藤原京の南には天武・持統陵古墳、文武陵古墳、高松塚古墳などが点在していた。 
10 白鳳文化
「白鳳」が天武朝の私年号であることからも分かる通り、白鳳文化は律令国家の完成を目指して挙国一致体制で驀進している非常に建設的で清新且つ明朗健全な天武天皇と持統天皇の御世にて、遣唐使がもたらした中国の初唐様式やインドのグプタ芸術の粋を結集して栄え、最終的に藤原京に開花した文化である。
建築
680年に制定された官大寺の制に基づき、皇室御一家の発願により建立された寺院は官寺として保護された。著名な官寺としては、大官大寺(百済大寺・後の大安寺)・薬師寺・法興寺・川原寺(弘福寺(ぐふくじ))といった飛鳥四大寺の他、豊後国の法鏡寺や常陸国の新治廃寺(にいはりはいじ)などが挙げられる。なお薬師寺は天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して建立した寺であり、フェノロサが薬師寺東塔の水煙を「凍れる音楽」と形容したことで有名である。また藤原鎌足の妻の鏡王女は氏寺の山階寺(興福寺)を建立した。
彫刻
『薬師寺金堂薬師三尊像』 / 唐草文様に遠く西亜細亜の影響が見られる、白鳳文化を代表する作品。
『薬師寺東院堂聖観音像』 / 飛鳥文化の外面性から白鳳文化の内面性への推移が見られる。
『宝慶寺十一面観音像』 / 中国の宝慶寺から伝わった像。『薬師寺東院堂聖観音像』のモデルと言われている。
『興福寺仏頭』 / 『山田寺仏像』とも言い、童顔で有名。山田寺から興福寺悪僧団が強盗。左耳が欠けている。
『野中寺弥勒菩薩像』 / 蘇我馬子が建立したと言われる野中寺の半跏小像。台座に刻まれた「丙寅年」は666年か。
『法隆寺阿弥陀三尊像』 / 光明皇后の母の橘三千代の念持仏。白鳳文化から弘仁貞観文化への推移が見られる。
『法隆寺夢違三尊像』 / 悪い夢を見た時、祈れば良い夢に変じるという伝説に基づく、初唐様式の可憐な小像。
絵画
『高松塚古墳壁画』 / 石室の天井に星宿(人物・日月と、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神)が描かれ、高句麗の『双楹塚壁画』や中国陝西省の『永泰公主墓壁画女性像』などと構図が似ていることで注目されている。
『法隆寺金堂壁画』 / 特に阿弥陀浄土図が著名。インドのアジャンタ壁画や中国の敦煌石窟壁画に酷似。
『聖徳太子像』 / 百済の阿佐太子の作品。中央が聖徳太子、左前が山背大兄王、右後が殖栗王。
歌道
代表的な歌人としては、天智天皇と天武天皇の両方からの寵愛を受け、それが両天皇の対立、ひいては壬申の乱の遠因となった額田王や、皇親政治・現人神思想を絶賛する歌を詠んだ柿本人麻呂や大伴御世らが挙げられる。額田王は『万葉集』の中に12首の歌が収録されており、特に初期万葉と言われている。また柿本人麻呂は日本における漢詩の開拓者として知られている。
宗教
白鳳文化の宗教や思想は、最近長野県から出土した『三寅剣』が証明しているように、仏教と道教の混交である。『三寅剣』には仏教的な四天王像と梵字、それに道教的な星座が金銀の象嵌(模様を刻んで金銀を嵌める細工)で施されている。一方、白鳳時代には鑑真が律宗、道昭が法相宗をそれぞれ伝えた。就中道昭は行基の師匠であり、また著書『大唐西域記』で知られる唐僧の玄奘(三蔵法師) の弟子であるが、700年に日本初の火葬で葬られた。庶民は土葬であるため火葬は主に貴族層に広まったが、持統天皇は日本史上初めて火葬で葬られた天皇となり、天武陵古墳に追葬された。 
 
 奈良時代

 

1 中央集権国家の誕生
大宝律令
(701年 / 律令国家の黎明)
既に中央集権体制を確立していた唐では、土地は均田制、税は租庸調制、兵は府兵制、法律は律令制によって統制されていた。文武天皇の御世に、刑部親王と藤原不比等が唐の永徽律令(えいきりつりょう)を参考として編纂した大宝律令は、律と令が揃った日本史上初の法典である。なお「律」は悪を懲罰するための刑法、即ち懲粛(ちょうしゅく)であり、「令」は善を推進させるための民法・行政法・訴訟法、即ち勧誡(かんかい)である。大宝律令は律6巻と令11巻からなるが現存せず、『続日本紀』や養老令の注釈書『令集解(りょうのしゅうげ)』に一部が記載されている。
養老律令
(718年 / 大宝律令と大差は無いが、施行は約二百年間)
養老律令は、藤原不比等が元正天皇の御世に功名心から編纂したと思われる。養老律令は律・令共に10巻ずつであり、律は一部が伝存し、令は『令義解(りょうのぎげ)』の中に大部分が記載されている。『令義解』は法令の解釈が区々にならないように政府が編纂した養老令の注釈書であり、舎人親王の曾孫の清原夏野(きよはらのなつの)らが編集に当たった。また『令集解』は諸家の私説の散逸を恐れた惟宗直本(これむねのなおもと)が私的に編纂した民撰の養老令の注釈書である。
律令体制
1 中央行政=二官八省一台五衛府
太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・少納言・左弁官・右弁官からなる太政官は政務を執り、神祇官(じんぎかん)は祭祀を司った。神祇官は古代の祭祀の重要性を示すため太政官と同列に扱われたが、実質的には太政官が上位とされた。また太政大臣は適任者がいなければ任命されない則闕官(そっけつのかん)であり、摂政・関白などを兼任しない限り実質的な権限は小さかった。八省としては、左弁官の下に、詔勅起草・天皇側近事務を司る中務省、官僚人事・教育管理を司る式部省、民間人事・冠婚葬祭・外交を司る治部省、戸籍管理・民政一般・税務を司る民部省が、また右弁官の下には、武官人事・軍事一般を司る兵部省、刑罰決定・身分決定を司る刑部省、経済一般を司る大蔵省、宮中庶務を司る宮内省が設置された。また弾正台は官吏監察・風紀粛正、五衛府(衛門府(えもんふ)・左右衛士府(えじふ)・左右兵衛府(ひょうえふ))は京都の警護を司った。少納言の下には外記(げき)がある。なお参議・中納言・按察使(あぜち)・鋳銭司・征夷大将軍など、律令制に無い官職を令外官(りょうげのかん)と言う。中央の官吏は司召除目(つかさめしじもく)と言う儀式により任命された。
2 地方行政=五畿七道
東海道・東山道・南海道・西海道・北陸道・山陽道・山陰道を合わせて七道と言い、五畿(山城国・大和国・摂津国・河内国・和泉国)を除く全ての国はこの七道に含まれた。行政区画は国・郡・里であり、国司は中央から6年(後に4年)の任期で派遣されたが、郡司は元の国造が任命され終身であった。里は715年に郷に変更された。また外交上重要な摂津国と京は特別地域であり、摂津職(せっつしき)と左・右京職が設置され、さらに京職の下には市司(いちのつかさ)と坊令が置かれた。一方「遠の朝廷(とおのみかど)」とも称された大宰府の下には、西海道の9国3島に加えて防人司が置かれた。なお大宰府政庁を都府楼(とふろう)と言う。地方の官吏は県召除目(あがためしじもく)と言う儀式により任命された。
3 貴族の特権
清涼殿へ昇れる者を殿上人と言い、「雲の上人」とも称された。生母の身分で一品から四品まで分かれる親王を含む皇族と、五位以上の官吏を総称して貴族と言い、このうち三位以上の官吏を特に公卿(上達部)と言うが、公卿は三公(太政大臣・左大臣・右大臣)の「公」と内大臣・大納言・中納言・参議の「卿」に大別される。左大臣は右大臣より上位とされ、一上(いちのかみ)と称された。五位以上の官吏には輸租田の位田(いでん)、公卿・大宰府官吏・国司・郡司には不輸租田の職田(しきでん)(郡司職田は輸祖田)が与えられ、さらに公卿には位封(いふう)、郡司には職封(しきふう)としてそれぞれ封戸が支給された。また四位と五位の官吏には位禄、その他の官吏には季禄として、絁(あしぎぬ)・綿・布などが支給された。貴族は、五位以上の貴族の子孫ならば無条件で官位が受けられる蔭位の制や、庸・調・兵役の免除、八虐以外の罪ならば金銭で解決できる財産刑の贖銅(しょくどう)、位階相応の官職に就ける官位相当の制など、様々な特権を有していた。位階制の最下位は三十位少初位下である。なお、当時の刑罰は笞・杖・徒・流・死の五刑であり、皇室殺害等の謀反、皇居損壊等の謀大逆、亡命降伏等の謀叛、尊属殺傷等の悪逆、配偶者殺害・大量殺人等の不道、神社損壊等の大不敬、不孝、不義といった所謂八虐に対しては減刑なく科せられた。
4 四等官制
四等官とは、令制官司幹部職員たる長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の総称である。長官は業務の統轄、次官はその補佐、判官は一般事務の処理、主典は文書の作成を主な業務としていた。八省の卿・輔・丞・録、国司の守・介・掾・目、郡司の大領・少領・主政・主張など、任地任官によって読みは同じであるが使用する字が違う。
5 土地種別
口分田、位田、賜田、功田及び郡司職田は租税が賦課される輸租田であり、逆に宗教性の強い寺田や神田、公共性の高い官田及び普通の職田は、租税が免除される不輸租田だった。また乗田(公田)は国有の剰余地であり1年限りで賃租させ地子を徴収する輸地子田だった。これらの他には、園地や宅地などの私有地、山川藪沢などの共有地、そして荘園などが存在した。
6 税制
当時の身分制度は、皇族・官人・公民(課役の民・調庸の民)・雑色(品部・雑戸)といった良民と、陵戸・官戸・公奴婢・家人・私奴婢といった五色の賤などの賤民に大別される。良民の中でも雑色は実質的に賤民であり、反面、賤民の中でも陵戸・官戸・公奴婢は税制上良民扱いだった。なお、親王への奉仕者を帳内、官吏への奉仕者を資人、天皇への奉仕者を舎人と言う。また公奴婢は66歳で官戸に、官戸は77歳で良民になるという放賤従良という仕組みも存在した。この身分制度に基づいて、口分田は千鳥式か平行式の条里制により良男に2段、良女に1段120歩、賤男に240歩、賤女に160歩、それぞれ班給された。最古の口分田班給の例としては、735年の讃岐国弘福寺領計測図が知られている。1反は360歩、10反で1町であり、1町は現在の土地単位では117aに相当する。租は戸籍、庸・調は計帳に基づき課税されたが、最古の計帳は724年の近江国志何郡のものである。なお戸主が取り仕切り課税の単位となる集団を郷戸(ごうこ)と言い、実際の家族を房戸(ぼうこ)と言う。
良民のうち、21歳〜60歳は正丁、61歳〜65歳は次丁(老丁)、17歳〜20歳は中男(少丁)であり、これらは課口・課丁と称され、口分田の収穫から1段につき稲2束2把(収穫高の3%、706年より1束5把)が国衙の財源となる租(そ)として課せられた。また、都での10日間の労役である歳役の代わりに麻布2丈6尺(次丁は半分・中男は免除・京と畿内も免除)を運脚自己負担で納めさせる庸(よう)や、同様に運脚自己負担で絹や糸や綿を所定量(次丁は半分・中男は1/4・京と畿内は半分)納めさせる調(ちょう)、染料・胡麻油・麻などを所定量(次丁・中男・京・畿内は免除)納めさせる調副物(ちょうのそわりつもの)なども課せられた。さらに労働税として、年間60日以下の労役である雑徭(ぞうよう)(次丁は30日以下、中男は15日以下)の他、正丁には軍団兵士(10番交代毎番10日)・衛士(皇居警備1年間)・防人(九州防備3年間)などの兵役、中央官庁の労役のために50戸ごとに2人を3年間徴発する仕丁が課せられ、その他の雑税として、当初は貧民救済目的だったがやがて税となった、稲を貸し付けて利子稲を強制徴収する出挙(すいこ)や、凶作に備え貧富の等級に応じて粟などを義倉(ぎそう)に納めさせるなどのものが存在した。
7 律令体制破綻への道
衛士や防人の食糧や武具は自弁であったため、「一人点ぜらるれば一戸随って亡ぶ」とも称された。こうした律令制による重い負担は結果的に農民が本籍(本貫)を離れる浮浪(土断の法に従い庸・調のみ納める者)や逃亡の増加を招き、造籍が困難になり、税収は減少して口分田も荒廃した。また戸籍に虚偽の内容を記載して税負担を免れる偽籍や、税金逃れのため出家する私度僧の横行は、それに伴う過剰な不輸租田の増加と相俟って律令体制の破綻を招いていった。
貨幣流通の試み
武蔵国から銅が出て献上されたことを契機として、皇朝十二銭の端緒となる和同開珎(わどうかいちん)が708年に鋳銭司(ちゅうせんし)という令外官の役所で鋳造された。唐の開元通宝を参考としたために銀銭と銅銭からなる和同開珎の鋳造は、日本内外に対する朝廷の示威行為でもあり、711年にはこの和同開珎の流通を促し物々交換経済を是正するために蓄銭叙位令が施行された。蓄銭叙位令は蓄銭量によって最高で従六位までの官位を授ける法令だったが、実質的な効果は無く、やがて800年に廃止された。皇朝十二銭は村上天皇の御世の乾元大宝(けんげんたいほう)まで続いたが、結局、稲と布帛が中心の物々交換社会は改まらなかった。760年には万年通宝と共に、初の金銭である開基通宝と銀銭の太平元宝が鋳造された。なお、当時の特産品としては、陸奥国の金、周防国の銅、古志国の燃水などが挙げられる。
平城京遷都
(710年(和銅三年) / 現在の奈良県奈良市及び大和郡山市)
前述の通り藤原京は交通の便が悪く、また人口も増加してきていた。そこで、文武天皇の夭折を受けて母の阿閇皇女が践祚した元明天皇は、木津川と淀川を経由して大坂湾に出ることができる平城京への遷都を実行した。後に小野老(おののおゆ)により「青丹(あおに)良し寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の匂ふが如く今盛りなり」と賞賛されるに至った平城京は藤原京と同じく唐の長安に倣った都城制の都であるが、左京には春日山麓の興福寺と元興寺がある外京(げきょう)、右京には北部の北辺(きたべ)と言う突出部があった。区画は条坊によって整然と定められており、大内裏と羅城門(らじょうもん)を結ぶ朱雀大路を中心として左京と右京に分けられ、市司が管理する官営の東市が左京に、西市が右京に設置された。政務が執られる朝堂院や総合式場たる大極殿から構成される大内裏は、別名平城宮とも呼ばれた。また飛鳥地方の交通の中心地には民営の軽市(かるのいち)や高市、海石榴市(つばのいち)などが設置された。平城京の朱雀大路は下ツ道、東京極は中ツ道であり、藤原京に通じている。外京の東端が上ツ道である。なお平城京遷都の理由としては、前述した理由の他に、幼くして父の文武天皇を亡くし、母である藤原宮子(藤原不比等の娘)が病弱なため藤原不比等の妻の橘三千代に養育されていた首親王(おびとしんのう)のため、とも考えられる。この頃地方では出羽国・丹後国・美作国・大隅国が設置され、また都と全国の国府を結ぶ道には駅家(うまや)が16qごとに配置され、交通や通信などの駅制が整えられた。駅家の馬や馬便を利用するためには、証印としての駅鈴(えきれい)が必要であった。なお駅家の財源は不輸租田たる駅田であり、駅子がこれを耕作した。
斜陽の公地公民の制
首親王までの中継的要素から元明天皇に次いで践祚していた元正天皇は、早くも口分田不足が露呈された722年、東北地方(陸奥国と出羽国)を対象として良田百万町歩開墾計画を始動させたが効果は薄く、翌723年に至って長屋王に三世一身法(養老七年の格)の施行を命じた。三世一身法は、自ら新たに灌漑施設を設けて開墾した新開田は三代、既成の施設を利用して開墾した再開田は一代のみの私有を認めるものだった。しかし三世一身法では返還期限が迫った田が再び荒れてしまうようになったため、有力者の大仏鋳造への協力を仰ぐ意味も含めて、聖武天皇は743年に山背国恭仁京に於いて墾田永年私財法(天平十五年の格)を制定し、墾田の永久私有を公認した。事実上、ここに公地公民の制は崩壊した。開墾には当初、位階により制限があり且つ国司の許可が必要だったにも拘らず次第に曖昧になり、また輸租田だった筈の墾田も不輸租田化した。やがて富豪之輩(ふごうのともがら)(殷富之輩(いんぷのともがら))と言う私有地拡大に奔走する農民が百姓治田(ひゃくしょうはりた)を形成し、百姓治田を集めた既墾地系荘園が成立した。既墾地系荘園と、貴族や寺社が浮浪人などを用いて開墾させた自墾地系荘園を総称して墾田地系荘園と言うが、これは8世紀から9世紀に掛けて多く見られた。 
2 奈良時代の権力変遷
長屋王の変
(729年 / 藤原四子による政変)
氏姓政治と皇親政治の中道で繁栄した藤原不比等が世を去ると、権力の座は高市皇子の子の長屋王に移行した。藤原不比等の子である藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂はそれぞれ南家・北家・式家・京家の始祖である。藤原四子は724年に践祚した聖武天皇の皇后に自分たちの妹の光明子(安宿媛(あすかべひめ))を推したが、皇后は天皇崩御の後に称制や践祚することがあるため皇族から選ばれることが原則である、と長屋王は主張し、反発した。長屋王は藤原四子を除くべく謀叛を企てたが、漆部君足(ぬりべのきみたり)らの密告により露顕し、自害に追い込まれた。これを長屋王の変と言う。光明子はこの半年後に、人臣としては初めて皇后になった。
藤原広嗣の乱
(740年 / 権力移行に反発)
藤原四子が権力を掌握して暫くは政治的安定が続き、734年には聖武天皇が朱雀大路で盛大に歌垣を挙行したりしていた。しかし同年、北九州に端を発して全国的に流行した赤疱瘡(せきほうそう)(天然痘)は藤原四子を落命させ、代わって中国地方の豪族・吉備氏の末裔の吉備真備と、法相宗僧であり皇太后(藤原宮子)の病を治癒した玄ム(げんぼう)に支えられた橘諸兄が実権を掌握した。橘諸兄は光明皇后の異父兄であり、且つ元は葛城王という賜姓皇族である。吉備真備と玄ムは阿倍仲麻呂らと共に、多治比県守(たじひのあがたもり)が遣唐大使を務める第8回遣唐使で渡唐した経歴を持っており、中でも玄ムは唐の玄宗から最高位の僧を意味する紫衣を拝受したことで知られている。式家・藤原宇合の子である大宰少弐藤原広嗣は、吉備真備と玄ムを除くべく挙兵した。この藤原広嗣の乱は鎮圧されたものの、驚いた聖武天皇は一時的に平城京から恭仁京、紫香楽宮(しがらきのみや)、難波宮と次々に遷都し、やがて平城京に還都した。なおこの順番は実際に遷都が為された順番であり、遷都宣言は難波宮の方が紫香楽宮よりも先に下されている。
橘奈良麻呂の変
(757年 / 権力移行に反発)
叔母の光明皇后と皇女の高野姫尊(後の孝謙天皇)の覚えめでたい南家・藤原仲麻呂は、聖武天皇の鎮護国家仏教政策に対する臣民の不満を慰撫することにより抬頭し、まず玄ムを筑紫観世音寺別当に左遷した。吉備真備を自らの配下に取り込んだ藤原仲麻呂は聖武天皇崩御後も抬頭を続け、やがて紫微中台(しびちゅうだい)(皇后宮職(こうごうぐうしき))の長官たる紫微令(しびれい)に就任した。紫微中台とは皇后が生活する場所のことである。実権を失った橘諸兄は失意の内に没し、息子の橘奈良麻呂は757年に佐伯氏・大伴氏・多治比氏ら旧豪族と結託して謀叛を企てたが、小野東人の自白により露顕し、拷問の末に死亡した。この橘奈良麻呂の変により、形式上橘諸兄まで続いていた皇親政治の終焉が確定した。
儒教政治の展開
政権を掌握した藤原仲麻呂は祖先の功績を誇示するため、曾祖父藤原鎌足の伝記である『大織冠伝』を編纂したり、大宝律令の使用を停止して祖父藤原不比等が編纂した養老律令を757年に施行したりした。また新羅征伐も計画した。淳仁天皇を擁立した藤原仲麻呂は、淳仁天皇から儒教的な名である恵美押勝(えみのおしかつ)を拝受してこれを名乗り、やがて太政大臣(太師)に就任して権勢を誇った。恵美押勝はこの他、儒教的徳治主義に基づく民の救済を目的として問民苦使(もみくし)と言う令外官の設置したり、淳仁天皇のために保良宮(ほらのみや)と言う離宮を造成したりして活躍した。
恵美押勝の乱
(764年 / 弓削道鏡の台頭)
やがて孝謙上皇の病を治癒した河内国出身の法相宗護持僧の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が、孝謙上皇の寵愛を利用して抬頭を開始すると恵美押勝は窮地に立たされた。焦燥に駆られた恵美押勝は、君側の奸たる弓削道鏡を除くべく、美濃国・越前国を中心に恵美押勝の乱を起こした。しかし恵美押勝は吉備真備にも裏切られ逆に攻撃され、更に坂上田村麻呂の父である坂上苅田麻呂が率いる上皇軍により蹂躙され、近江国で敗死した。この恵美押勝の乱の影響を受け、恵美押勝が擁立した淳仁天皇は何の罪も無く廃位させられ淡路国へ流されてしまったため、淳仁天皇を「淡路廃帝」と呼ぶこともある。
宇佐八幡宮神託事件
(769年 / 天皇になろうとした男)
恵美押勝の乱の後、重祚した称徳天皇のために由義宮(ゆげのみや)を造成したりして太政大臣禅師となった弓削道鏡はさらに出世し、やがて法王(宗教界最高位と思われる)に就いた。政教両権の最高位を極め、寺院以外の墾田禁止を規定した加墾禁止令を765年に施行するなどして専制的に仏教政治(僧侶政治)を展開した弓削道鏡は、天武天皇の血統が称徳天皇で断絶しそうになっていることに付け込み、皇位を要求した。弓削道鏡は、弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)の配下の中臣習宜阿曽麿(なかとみのすげのあそまろ)による、「国家安泰のために弓削道鏡を天皇にせよ」との神託が鎮護国家の神として崇敬を受けていた豊後国の宇佐八幡宮に下ったという捏造された報告を利用し、和気清麻呂に命じて確認させた。清廉潔白の士である和気清麻呂は正直に偽託であることを証明し、逆に国家安泰のためには弓削道鏡を退けるよう進言した。このため和気清麻呂は大隅国、また和気清麻呂の姉の和気広虫(法均)は備後国へ配流されたが、称徳天皇崩御と共に弓削道鏡の権勢は失墜し、新たに実権を掌握した式家・藤原百川と北家・藤原永手が天智天皇の孫である光仁天皇(62歳)を擁立して弓削道鏡を下野薬師寺に配流、和気清麻呂を召還した。なお和気氏の氏寺は神護寺である。弓削道鏡左遷に関連して再び功があった坂上苅田麻呂は、この後に初代陸奥鎮守府将軍となり、子の坂上田村麻呂の活躍の基礎を固めた。 
3 辺境討伐
蝦夷の反乱
阿倍比羅夫による北方征伐の後は暫時静寂を守っていた蝦夷であるが、8世紀に入ると再び活発な活動を見せ始めるようになった。朝廷は709年、巨勢麻呂(こせのまろ)と佐伯石湯(さえきのいわゆ)に命じて蝦夷討伐を行い、712年には陸奥国と越後国の一部を分割して出羽国を新設した。また720年には多治比県守が蝦夷の反乱を鎮圧し、724年には式家・藤原宇合が蝦夷を討伐し、同時に大野東人(おおののあずまひと)により朝廷の東北経営の拠点となる多賀城が築かれた。やがて733年には出羽柵が新築の秋田城へ移され、蝦夷を監視するべく活動した。
蝦夷の誅伐
朝廷は令外官として蝦夷の監視や誅伐を行う陸奥按察使を設置していたが、780年にはこの陸奥按察使の紀広純(きのひろずみ)が蝦夷の首長である伊治呰麻呂(いじのあざまろ)により殺害される、という伊治呰麻呂の乱が勃発した。この伊治呰麻呂の乱は藤原小黒麻呂によって鎮圧されたものの、事態を重く見た朝廷は789年、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍として5万の軍勢と共に派遣、本格的な蝦夷征伐に踏み切った。しかしこの時は胆沢(いさわ)の酋長である阿弖流為(あてるい)に敗北を喫して撤退した。791年には初代征夷大将軍として大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が向かうが敗れて撤退した。次いで797年に向かった者が東漢氏血統の坂上田村麻呂であり、801年に胆沢を攻略して阿弖流為を降伏させることに成功した。坂上田村麻呂は翌802年に胆沢城を築いて鎮守府をここへ移転し、803年にはさらに北方に志波城(しわじょう)を築いた。なお「清水の舞台」で有名な清水寺(きよみずでら)は、坂上田村麻呂の発願と伝えられている。
その後の蝦夷
合計三回の大規模な蝦夷討伐により蝦夷は米代川以北まで後退し、後の嵯峨天皇の御世には征夷大将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が完全に鎮圧し、徳丹城が築かれた。しかし878年には出羽に於いて蝦夷が元慶の乱を起こして秋田城を占拠し、藤原保則や小野春風らによって討伐されている。
隼人の服属
狗奴国との関連は不明であるが、九州南部には昔から熊襲や隼人が存在しており、朝廷に対して稀に反乱を起こしていた。しかし720年に発生した隼人の乱が、万葉歌人でもある大伴旅人により征伐されてより後、隼人の活動は著しく沈静化した。この隼人の乱の直前の719年には、多禰島(種子島)・掖久島(屋久島)・信覚島(しがきじま)(石垣島)・度感島(とからじま)(宝島) ・球美島(くみじま)(久米島)などの西南諸島が朝貢して朝廷に服属した。 
4 天平文化
聖武天皇の御世に平城京を中心として栄えた天平文化は、律令国家最盛期を反映した豪壮雄大且つ貴族的・仏教的色彩の濃い円熟した文化である。また遣唐使がもたらした異国の文物、即ち中国の盛唐様式や、ササン朝ペルシア・サラセン帝国・ビザンツ帝国などの諸国の文化の影響も多大に受けており、世界的性格の強い文化でもある。なおこの時代の根本的な思想は、鎮護国家仏教と儒教的徳治主義である。また天平文化の芸術作品には、写実性・人間性に富む物が多い。
建築
東大寺正倉院 / 正倉院宝物の世界的性格から「シルクロードの車庫」と称される。校倉造。勅命によってのみ開閉される勅封蔵である。
唐招提寺 / 鑑真の発願で建立された律宗の総本山。特に講堂は、平城京の朝集殿を移築したものとして有名。
法隆寺伝法堂 / 光明皇后の母であり、聖武天皇を養育したことで知られる橘三千代(橘夫人)の屋敷を移築したもの。
薬師寺 / 大安寺は藤原京から移築だが、平城京の薬師寺は白鳳様式で新築。藤原京の薬師寺(本薬師寺)は平安時代まで残存。
彫刻
『東大寺法華堂不空羂索観音像』 / 鎮護国家仏教の象徴的仏像。乾漆像(漆で固めて作る仏像)の典型的なもの。
『東大寺法華堂日光・月光菩薩像』 / 『東大寺法華堂不空羂索観音像』の隣に立つ、塑像(粘土で作る仏像)の典型。
『東大寺法華堂執金剛神像』 / 塑像。秘仏であり12月16日以外は見られない。
『東大寺戒壇院四天王像』 / 塑像。東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天。
『唐招提寺鑑真和尚像』 / 『興福寺八部衆像』の一つ『興福寺阿修羅像』などと同様、乾漆像。
仏教の興隆
聖武天皇は741年に恭仁京にて国分寺建立の詔を下し、金光明最勝王経を奉納させた国分寺(金光明四天王護国之寺)と法華経を奉納させた国分尼寺(法華滅罪之寺)を全国に建立させ、自身が帰依していた良弁(ろうべん)が開いた金鐘寺(こんしゅじ)を東大寺と改め総国分寺と定め、法華寺を総国分尼寺とした。また、東大寺の他、薬師寺・大安寺・元興寺・西大寺・興福寺・法隆寺を南都七大寺とし、王法と仏法が相依相即関係を保てば国家が安泰になるという鎮護国家仏教の思想の下、国が管理した。710年に平城京遷都が元明天皇により為された後も続く疫病流行や、藤原広嗣の乱などによる社会不安を打開するため、聖武天皇は金光明最勝王経・法華経・仁王経などの護国の経典を信奉し、やがて紫香楽宮に於いて大仏建立の詔を下した。国中公麻呂(くになかのきみまろ)らが突貫工事を指揮した結果、孝謙天皇践祚後の752年(天平勝宝四年)に『東大寺大仏殿盧舎那大仏』は完成し、佛哲が奏でる仏教音楽の中、婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼供養を挙行した。これは『続日本紀』に記されている。なお、当時は鎮護国家仏教という観念から勝手な出家が僧尼令(そうにりょう)で禁じられ、戒壇にて戒律を授けられていない私度僧は僧綱(そうごう)により取り締まられたが、法相宗の私度僧行基はやがて信望を集め、大仏造営の際には大僧正として活躍した。なお、東大寺戒壇院・下野薬師寺・筑紫観世音寺を天下三戒壇院と言う。大輪田泊(おおわだのとまり)を造成した行基に限らず、貧窮者救済施設の悲田院や病人救護施設の施薬院を設置した光明皇后や孤児を養育した和気広虫など、当時は仏教の福田思想(ふくでんしそう)に基づき社会福祉事業を盛んに展開する者が多かった。
教育
教育を司る式部省の下、律令国家の役人を教育するため中央には大学が設置され、地方には郡司の子弟を対象とした国学が設置され、明経道(儒学)・明法道(法律学)・文章道(紀伝道;中国史学)・算道・書道・音道といった六道(りくどう)が学ばれた。しかし大学は蔭位の制、国学は教員不足のため不振であり、盛んになったのは平安時代に入ってから政府が紀伝道を人材登用の際に重視するようになってからのことだった。なお、当時は仏教が学問と見做されており、三論宗・成実宗・華厳宗(道(どうせん)が伝来)・律宗・法相宗・倶舎宗の六宗兼学が重んじられた。また石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)は、芸亭(うんてい)と言う日本初の図書館を設立した。
絵画・工芸・史書・文学
『薬師寺吉祥天画像』 / 天平絵画に於ける、仏画の代表的作品。称徳天皇の発願で始まった吉祥悔過会の本尊画像。
『正倉院鳥毛立女屏風』 / 天平絵画に於ける、美人画の代表的作品。西域のアスターナに源流を持つ樹下美人像の一つ。
『過去現在絵因果経』 / 天平絵画に於ける、絵巻物の代表的作品。釈迦の本生譚の経文に絵を加えたもの。
『百万塔陀羅尼経』 / 恵美押勝の乱の戦没者の供養のため称徳天皇が発案。内蔵の陀羅尼経は世界最古の印刷物。
『螺鈿紫壇五絃琵琶』 / 正倉院宝物の一つ。インド産の紫壇で作成し螺鈿の装飾を施したもの。
『古事記』 / 天武天皇の命令で稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた『帝紀』『旧辞』を多臣品治の子の太安万呂が712年に編纂。
『風土記』 / 各国の事象を整理。713年に勅撰命令。出雲国が完全、常陸国・播磨国・豊後国・肥前国が不完全に残存。
『日本書紀』 / 舎人親王らが720年に編纂した日本史上初の官撰正史。〜持統天皇。漢文編年体を特徴とする六国史の端緒。
『続日本紀』 / 六国史の二番目として菅野真道・藤原継縄・秋篠安人らが797年に編纂。文武天皇〜桓武天皇。
『日本後紀』 / 六国史の三番目として藤原緒嗣らが840年に編纂。桓武天皇〜淳和天皇。
『続日本後紀』 / 六国史の四番目として藤原良房・藤原良相・伴善男らが869年に編纂。仁明天皇一代。
『日本文徳天皇実録』 / 六国史の五番目として藤原基経・菅原是善・都良香らが879年に編纂。文徳天皇一代。
『日本三代実録』 / 最後の六国史として、藤原時平・菅原道真・大蔵善行らが901年に編纂。清和天皇〜光孝天皇。
『唐大和上東征伝』 / 鑑真の伝記。漢文学者淡海三船(おうみのみふね)の著。
『懐風藻』 / 日本史上最古の漢詩集、751年成立。四六駢儷体・五言絶句・七言律詩など、中国の六朝歌風・初唐詩の影響が甚大。仏教・儒教・道教の要素も含まれている。詩人は大津皇子ら64名、120編。
『万葉集』 / 日本史上最古の和歌集、770年成立。大伴家持らが編纂。歌人は額田王・柿本人麻呂・山上憶良・山部赤人・大伴旅人・茅上娘子ら。他に、素朴な東歌や家族別離を歌った防人の歌なども収録。歌風は素朴な万葉調、文字は万葉仮名(真仮名)。一般の雑歌、恋愛を詠む相聞歌、死者を悼む挽歌に分かれる。
『貧窮問答歌』 / 山上憶良(やまのうえのおくら)が筑前守在任中、最下層民の貧窮を歌ったもの。
社会
貴族層では林邑楽(りんゆうがく)・唐楽・渤海楽・高麗楽(こまがく)・伎楽(ぎがく)などの楽舞(がくぶ)が流行し、庶民は田舞を楽しんだ。また笙(しょう)で演奏する雅楽も始まった。当時の衣服は、履物は男が袴(はかま)、女が裳(ほう)であり、着物は男女共に袍だった。当時の結婚形態は夫が妻の家に通う妻問婚(つまどいこん)である。貴族層ではこの頃から年中行事が行われるようになり、また碁・双六・弾碁(たぎ)・投壺(とうこ)・弾弓(だんぐう)などの遊びも生まれた。アッシリア起源の箜篌(くご)と言うハープ系楽器も使用された。これらは『散楽図』に描かれており、正倉院宝物にも実際に収納されている。 
 
 平安時代

 

1 平安京遷都
光仁天皇の治世
藤原百川により擁立された天智天皇系の光仁天皇は、権門勢家の荘園獲得の動きを止めることができなかった上、政教分離の確立を目指す必要があったため、弓削道鏡が施行した加墾禁止令を撤廃した。これにより全国各地に数多くの荘園が成立することとなった。光仁天皇の施政方針たる律令政治復興・政教分離・蝦夷誅伐・水害対策・造作(ぞうさ)(新都造成)は、次代の桓武天皇に継承されていった。なお奈良時代には遷都が度々行われたが、これは中国伝来の防衛的な複都主義や、天皇践祚毎に遷都する慣習、為政者の示威活動、人心一新、落雷・放火による皇居火災、などによるものである。
長岡京遷都
(784年 / 不運な偶然により失敗)
光仁天皇の後継者たる桓武天皇(柏原天皇)は、皇別氏族氷上川継と京家・藤原浜成が謀叛の嫌疑で伊豆国へ配流された782年の氷上川継の変を契機として遷都計画を実行に移した。造長岡京使に任命された式家・藤原種継は、桓武天皇と同様母が帰化人血統だったためか、帰化人が多い山背国乙訓郡(おとくにぐん)を新都と定め、早々に長岡京遷都を断行した。しかし藤原種継は翌年、皇太弟早良親王の世話役の春宮大夫(とうぐうだいぶ)大伴継人により暗殺された。事件は旧豪族の大量断罪に発展し、さらに波及して暗殺教唆の嫌疑で早良親王の淡路国配流が決定したが、早良親王が憤死して終焉した。やがて長岡京では、皇太后井上内親王の急逝、式部省南門倒壊、大洪水など原因不明の災難が相次いで発生した。桓武天皇は早良親王の祟りを恐れ、早良親王を崇道天皇(すどうてんのう)と追号した。
平安京遷都
(794年(延暦十三年) / 平安時代の始まり)
桓武天皇は和気清麻呂の進言を用い、藤原緒嗣の反対を押し切って、太秦の秦島麻呂の資金援助も利用して呪われた長岡京から山城国葛野郡(かどのぐん)の平安京への遷都を実行した。平安京は陰陽道の一種の風水で定められた「四神相応の地」と言う縁起の良い場所、即ち東・北・西を丘陵(北に船岡山)に囲まれ、東に賀茂川、西に山陽道があり、南は鳥羽地区で開けていて巨椋池(おぐらいけ)が存在する場所だった。また北東方向は「鬼門」として忌まれていたが、平安京は鬼門封じとして比叡山延暦寺を控えていた。なお平安京では当初寺を建立することは禁止されていたが、やはり風水の思想に基づいて東寺・西寺のみ建立された。また大内裏の大極殿の位置は、風水の見地では龍穴という最良の位置だった。平安京は労働者たる造宮役夫により造成され、飛騨匠(ひだのたくみ)などの大工により建物が建築され、次第に人が集まって諸司厨町(しょしくりやまち)が形成された。平安京の構造は平城京や藤原京と同様都城制であるが、右京は長安を参考としたため長安城、左京は洛陽を参考としたため洛陽城と呼ばれた。なお慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』には、桂川湿地帯であったため右京はすぐに衰退していった、との記述が見られる。
桓武朝の善政
桓武天皇は農民の負担緩和を念頭に政務を執った。まず長岡京時代には良賤間の婚姻を容認して子を良民とすることにより税収入の増加を図った。次に軍団の制を廃止して健児の制を施行し、郡司の子弟の有志を募って少数精鋭主義の軍隊を目指したが、陸奥国・出羽国・佐渡国・大宰府管内といった辺境では派兵までに時間が掛かるため、軍団の制が続けられた。また平安京遷都後には勘解由使(かげゆし)を設置し、国司の暴政を防ぐため前任国司が新任国司に渡す解由状を調査させる一方、雑徭日数半減、公出挙利率の緩和などを断行した。一方、桓武天皇は徳政相論(天下徳政論)を藤原緒嗣と菅野真道の間で闘わせ、藤原緒嗣の為政論を採用し、主要な政治課題のうち造作と蝦夷誅伐を中止した。これは『日本後紀』に記述されている。なお寺院対策としては、寺院勢力の根幹を成していた寺田の制限などが行われた。
薬子の変
(810年 / 北家・藤原冬嗣の台頭)
桓武天皇を継いだ平城天皇は六道観察使を設置したりしたが、病弱のため嵯峨天皇に譲位した。やがて全快した平城上皇は藤原種継の子の藤原仲成・藤原薬子らに唆され、平城京へ移った。嵯峨天皇は乱を予測し、天皇命令を迅速且つ隠密に伝達するための蔵人所を設置し、長官の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足(こせののたり)、構成員たる蔵人に清原夏野と朝野鹿取を任命した。やがて予想通り平城京還都と平城上皇重祚を求める薬子の変が勃発したが、蔵人所が良く機能した上に坂上田村麻呂の陣頭指揮も幸いして嵯峨天皇の勝利に終り、藤原薬子は服毒自殺し、藤原仲成は捕らえられ処刑された。この結果、式家は没落した。また藤原冬嗣は後に娘の藤原順子を正良親王(後の仁明天皇)に嫁がせて道康親王(後の文徳天皇)を産ませ、北家を興隆に導いた。
嵯峨天皇の善政
薬子の変に勝利した嵯峨天皇は北家・藤原冬嗣らを重用した。嵯峨天皇は令外官として検非違使を設置し、京の警備を行わせた。検非違使はやがて弾正台・五衛府・刑部省・京職などの職務を吸収し、京の警察裁判権を掌握した。また地方には国検非違使、神社には宮検非違使、寺院には寄検非違使が設置された。嵯峨朝以降、多くの令外官が設置されたが、公地公民の制の崩壊の阻止も為されない状況での令外官増加に伴う政治機構の簡略化は律令政治を次第に変質させ、後の摂関政治を生む母体となった。なお古代近畿の諸豪族の系譜を纏めた『新撰姓氏録』が、桓武天皇の皇子の万多親王により編纂されたのも嵯峨天皇の御世である。
三代格式
所謂「格」というものは律令の補足や改定のために詔勅や太政官符として出された法令のことであり、「式」は律令を施行する際に必要な細則のことである。格式は膨大な量が発令されていたため、嵯峨天皇は藤原冬嗣に命じて820年に『弘仁格式』を、また清和天皇は藤原氏宗に命じて869年に『貞観格式』を、醍醐天皇は藤原時平と藤原忠平に命じて927年(「格」は907年)に『延喜格式』を、それぞれ編纂させた。これら三代格式の「格」を纏めたものが10世紀に成立した『類聚三代格』である。 
2 弘仁貞観文化
密教
政教分離の確立により発生した貴族仏教・山岳仏教・宗派仏教と称される密教は顕教の対義語であり、仏の中心の大日如来が真実を伝えると考え加持祈による現世利益を期待するものである。密教は後に清和天皇から伝教大師の諡号を賜った最澄が創始した台密こと天台宗と、弘法大師たる空海が創始した東密こと真言宗に分けられる。最澄と空海は当初友好的だったが、最澄の弟子の泰範が空海のもとに出奔したことを機に決裂した。
還学生(げんがくしょう)として入唐した最澄は、道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)に密教を学んで帰国し、比叡山一乗止観院(後の延暦寺)を中心に法華経を基本法典とする天台宗を開いた。最澄の著作としては、南都六宗を小乗戒、天台宗を大乗戒と規定して自らの正統性を主張した『顕戒論』と『守護国界章』、それに『山家学生式(さんけがくしょうしき)』等が挙げられる。天台宗の主旨は「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」である。天台宗は後に教義解釈を巡って、838年に最後の遣唐使として入唐して『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』を著した慈覚大師こと円仁の延暦寺を中心とした山門派と、智証大師こと円珍の園城寺(三井寺(みいでら))を中心とした寺門派に分かれ、二人の死後に完全に分裂した。
留学生(るがくしょう)として入唐した空海は恵果に密教を学んで帰国し、高野山金剛峰寺(金剛峯寺)を中心として大日経と金剛頂経を基本法典とする真言宗を開いた。空海の著作としては、自身の思想の遍歴を綴った出家宣言書たる『三教指帰(さんごうしいき)』や、大日経に基づいて即身成仏について述べた『即身成仏集』などが挙げられる。真言宗の中心寺としては金剛峰寺の他に教王護国寺(東寺)があるが、これは薬子の変に際して空海が行った加持祈に対し嵯峨天皇が賜与したものである。空海は讃岐国の満濃池造成でも知られているが、女人高野室生寺の建立でも有名である。室生寺には、当時は檜皮葺(ひわだぶき)だったが現在は柿葺である金堂や、弘法大師一夜造りの塔と伝えられている五重塔がある。
山岳仏教とも言われた密教は、神道や陰陽道、それに日本古来の原始的な山岳信仰と融合し、修験道が発生した。修験道の開祖は大和国葛城山に在った役小角(えんのおづぬ)である。修験道の信奉者は修験者と呼ばれたが、野山に伏して苦行を行う彼らは山伏と称された。
彫刻・絵画・書道・文学・教育
『薬師如来像』 / 神護寺・元興寺・新薬師寺など各寺に有る。何だかわからんが、堂々としているらしい。
『室生寺弥勒堂釈迦如来像』 / ヒダヒダの間にさらにヒダを彫り込んで波を表現する、翻波式の代表的仏像。
『観心寺如意輪観音像』 / 神秘的で強烈な精神力を秘めた密教芸術彫刻の代表的仏像。華麗な彩色と豊満な肢体。
『教王護国寺講堂不動明王像』 / 不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五大明王像の中尊。一本の木を丸彫りする一木造。
『薬師寺僧形八幡神像』 / 奈良時代以来の神仏習合。神功皇后・仲津姫命の女神像と共に『薬師寺八幡三神坐像』と言う。
『教王護国寺両界曼荼羅』 / 煩悩打破の金剛界と衆生救済の胎蔵界の両界曼荼羅。『神護寺両界曼荼羅』も同様、仏の宇宙図。
『園城寺不動明王像』 / 『黄不動』とも言う。円珍が夢中で見た黄不動尊を絵師に描かせたもの。『高野山明王院不動明王像(赤不動)』『青蓮院不動明王像(青不動)』と共に、『日本三大不動』として総括される。
『西大寺十二天像』 / 日本最古の十二天像。十二天は、世界を護る十天に日・月の二天を加えたもの。
『風信帖』 / 三筆(嵯峨天皇・空海・橘逸勢)の一人、空海が最澄に出した大師流の書簡三通を纏めたもの。
『久隔帖』 / 唐様の名手である最澄が泰範に宛てた書簡。他の名手としては都良香・菅原道真・小野篁が有名。
『凌雲集』 / 日本初の勅撰漢詩文集。814年成立。小野岑守・菅原清公(菅原道真の祖父)らが編纂。
『文華秀麗集』 / 『凌雲集』に漏れた漢詩文を収録。818年成立。藤原冬嗣・菅原清公らが編纂。
『経国集』 / 『文華秀麗集』にさえ漏れた漢詩文を収録。827年成立。良岑安世らが編纂。
『都氏文集』 / 羅城門の鬼を歌でおとなしくさせたという都良香が私的に編纂した漢詩文集。
『性霊集』 / 空海の漢詩集。正式名『遍照発揮性霊集』。空海の弟子の真済の編纂。
『文鏡秘府論』 / 空海の詩論書。空海の著作としては他に『漢頂暦名』が著名。
『日本霊異記』 / 日本史上初の仏教説話集。正式名『日本国現報善悪霊異記』。
『倭名類聚抄』 / 百科漢和辞典。930年代、源順の編纂。現存最古の漢和辞典は昌住が編纂した『新撰字鏡』。
綜芸種智院 / 空海が828年、京都に設置。庶民に儒教のみならず仏教をも教育する機関。
大学別曹 / 貴族が、当時貴族社会で必須教養となっていた文学・史学・作文を子弟に教えるために設置。藤原冬嗣の勧学院、橘氏公・橘嘉智子の学館院、在原行平の奨学院、和気広世の弘文院などが有名。 
3 藤原北家の台頭と摂関政治
承和の変
(842年 / 藤原良房の台頭)
仁明天皇の皇太子は恒貞親王だったが、藤原冬嗣の子の藤原良房は自らの甥に当たる道康親王の擁立を企てたため、恒貞親王を推す春宮坊の代表者たる伴健岑や橘逸勢と対立した。やがて彼らは謀叛の嫌疑を受け、伴健岑は隠岐国、橘逸勢は伊豆国へ流された。後に道康親王は践祚して文徳天皇となり、藤原良房は857年に人臣として初めて太政大臣に就任した。この際、藤原良房の政敵である嵯峨源氏源信(みなもとのまこと)は左大臣に就任したが、藤原良房は弟の藤原良相を右大臣に就け対抗させた。文徳天皇が崩御し、幼年の惟仁親王が清和天皇として践祚すると、藤原良房はその外戚(外祖父)として、858年に人臣としては初めて実質的な摂政に就任した。なお伴氏は元来大伴氏だったが、淳和天皇の名が大伴親王であったため改名していた。また橘逸勢は、空海や最澄と同じ第16回遣唐使で入唐したという経歴を持っている。
応天門の変
(866年 / 藤原良房の政敵排除)
藤原良房に反発した大納言伴善男は、息子の伴中庸(とものなかつね)に命じて朝堂院の正門たる応天門への放火を実行、この放火が左大臣源信により為されたものであるとして処罰を要求したが、藤原良房が源信を弁護したため政界は緊迫した。だが大宅鷹取が事件の真相を告発したために伴善男は失脚し、伊豆国へ流された。また事件に連座した者のうち、主犯の伴中庸は隠岐国、紀豊城(きのとよき)は安房国、紀夏井は土佐国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国へ流された。この事件により伴氏・紀氏など主要な政敵を排除し、さらに恩を売って源信を傘下とした藤原良房はこの後も出世を続け、 871年には皇后・皇太后・太皇太后という三后に準ずる准三后(じゅさんごう)の宣下を受けた。
阿衡の紛議
(887年 / 藤原氏の示威事件)
藤原良房は、兄の藤原長良(ふじわらのながら)の子であり養子としていた藤原基経に実権を譲った。藤原基経は素行の悪かった陽成天皇を廃して光孝天皇を擁立し、老年を理由として884年、天皇が成人していても政務を代行して執ることができる事実上の関白に初めて就任した。光孝天皇の崩御後践祚した宇多天皇は藤原氏との外戚関係が無かった。藤原基経は宇多天皇の関白も務めることになったが、その関白任命の詔には「阿衡」に任ずるとあり、藤原基経がこれを職掌を伴わぬ空名だとして出仕を拒否したため政界は混乱した。結局文章を起草した橘広相(たちばなのひろみ)が罰せられ、宇多天皇が非を認めて事態は収拾した。
昌泰の変
(901年 / 藤原氏の政敵排除)
宇多天皇は藤原基経の死後は摂関を任命せず、かつての吉備真備に並ぶ学者政治家として有名な菅原道真を側近の蔵人頭に任じ、寛平の治と称される天皇親政を断行した。蔵人所の管轄下に滝口の武士を設けるなどの業績を残した宇多天皇は、皇子敦仁親王(醍醐天皇)に帝王学書『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』を授けて譲位し、後に日本初の法皇となった。やがて政界では藤原基経の子の藤原時平が抬頭し、菅原道真は娘婿斉世親王(ときよしんのう)擁立企図の疑いで大宰権帥に左遷され、没した。朝廷では讒訴した藤原時平の急逝を皮切りに不幸が続き、清涼殿への落雷により藤原清貫・平希世ら多数の公卿が死傷するという事件が発生した。朝廷は菅原道真の怨霊を鎮めるため北野神社(北野天満宮)を建て、冥福を祈った。菅原道真の編纂した漢詩文集としては『菅家文草』や『菅家後集』、私撰詩歌集としては『新撰和歌集』、歴史書としては『類聚国史』が知られている。
延喜・天暦の治
醍醐天皇と次々代の村上天皇は、後世「聖代」と仰がれる天皇親政を執行した。だがそれは、醍醐朝に於いて辛酉革命説に基づき延喜改元を進言した式部大輔三善清行が編纂した『三善清行意見封事十二箇条』の中に見られるように、公地公民制の崩壊や藤原氏への権力集中、それに朱雀天皇の御世の承平・天慶の乱など、多くの社会不安を背景としたものだった。醍醐天皇は三善清行の進言に基づき902年(延喜二年)に日本史上初の荘園整理令たる延喜の荘園整理令を施行し、増加傾向にあった勅旨田や親王賜田を廃止したが、藤原氏を対象外としていたため効果は微弱であり、結局同年が最後の班田給付となった。醍醐天皇は『日本三代実録』『延喜格式』『古今和歌集』などを編纂させ、律令政治復興を志した。一方、朱雀朝では藤原忠平が不堪佃田(ふかんでんでん)を実施して荒田開発を奨励したが、効果は稀薄だった。村上朝では最後の皇朝十二銭たる乾元大宝が鋳造されたがこれは経済の混乱を招いた。村上天皇の忠臣である菅原文時は『菅原文時封事三箇条』を提出したが、この頃には皇室の財政も逼迫し始めたため、清和源氏源経基、桓武平氏平高望、村上源氏源師房など、臣籍降下による賜姓皇族が発生した。なお後の坂東八平氏(千葉氏・上総氏・三浦氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏・秩父氏・土肥氏)や執権北条氏は、桓武平氏の支族である。
安和の変
(969年 / 藤原氏の最後の政敵排除)
多田源氏源満仲と藤原善時は、醍醐源氏源高明と橘繋延が冷泉天皇の皇太子守平親王の廃立と為平親王の擁立を画策している、と讒訴した。関白藤原実頼はこれを利用して政敵である源高明を大宰権帥に左遷し、円融天皇を擁立、自らは摂政に就任した。結局、藤原摂関体制はこの事件で確立され、以後摂関は暫時常設されることになった。延喜・天暦の治の前を前期摂関政治と言うのに対し、この事件後を特に後期摂関政治と言う。また源満仲はこの後、摂関家の腰巾着として中央政界への進出を果たした。
摂関政治
藤原氏の首領を氏長者と言い、氏長者が継承する所領を殿下渡領と言う。この氏長者の座と殿下渡領、それに摂関位を巡り、藤原兼通と藤原兼家、藤原道兼と藤原道隆、藤原伊周と藤原道長が抗争したが、藤原兼家は一条天皇を擁立するために花山天皇を出家させており、また藤原伊周の弟の藤原隆家も大宰権帥に左遷された。権力闘争は、最終的に一条天皇の皇太后藤原詮子の弟である藤原道長が天皇宛て文書を閲覧できる内覧に就き終焉した。なお藤原道長は『御堂関白記』を著しているが、関白には就いていない。藤原道長の後を継いだ藤原頼通は関白に就いている。藤原邸内には天皇の仮御所たる里内裏が造られ、摂関政治の実務は家司(けいし)と言う職員で構成される政所(三位以上の貴族が設置できる機関)で主に夜に行われた、と橘成季の『古今著聞集』には記されている。摂関政治で権威を持った文書は政所が下す政所下文と御教書である。摂関政治は徹底した政敵排除と寄進地系荘園からの莫大な収入、それに官位任免権の掌握による強い権力と、皇室との外戚政策と朝廷での高官独占による強い権威により支えられていた。娘に恵まれなかったため不遇だった藤原実頼の孫の小野宮実資は、『小右記』に「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば」という藤原道長の歌を載せたり、摂関家への過度の荘園集中を嘆いたり、藤原道長が1018年に成功した一家三立后(一条天皇に藤原彰子、三条天皇に藤原妍子、後一条天皇に藤原威子)を記したりして、摂関政治を批判している。 
4 国風文化(藤原文化)
浄土教の興隆
仏法の衰退する乱世が訪れる、という末法思想によると1052年が入末法の年であったため、人々の間では形骸化していた密教に代わる新たな宗教が求められていた。そんな折、南無阿弥陀仏と唱え阿弥陀念仏を行うことによって極楽往生ができる、とする浄土教が、民間浄土教の祖とされる空也(市聖)によって説かれ、信仰された。浄土教の総本山は六波羅蜜寺(西光寺)であり、また空也の像としては鎌倉時代の康勝が作成した『六波羅蜜寺空也上人像』が知られている。985年には源信(げんしん)(恵心僧都(えしんそうず))により浄土教を体系的に深めた『往生要集』が著され、また良忍が道俗の者に自他融通の念仏を唱えることを勧めたため、浄土教はさらに広まった。
神仏習合
浄土教の興隆に圧迫された真言宗は、密教の両界曼荼羅により神道の神々を説明する両部神道を提唱した。これによると、天照大神は大日如来、八幡神は阿弥陀如来であるらしい。これに対抗して天台宗も山王一実神道(日吉神道・山王神道)を提唱したため、神は仏の権現であるとする本地垂迹説が全体的に蔓延した。これを神仏習合と言い、鹿島神宮などには神宮寺が建立され、また神前読経などが行われた。神仏習合は明治時代の神仏分離令により廃仏毀釈運動が発生するまで続いた。
平安時代の神道
神社や皇室に食料を奉納する所領を御厨と言い、その住人を供御人と言う。封戸(官幣・国幣)を保有する神社を式内社と言い、『延喜式神名帳』には2861社が記載されているが、中でも伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮・賀茂神社など二十二社は朝廷が特に尊崇した。また各国では、一国に一社の一ノ宮が整えられ、国司は赴任の際何処よりも先に参拝する義務を課せられた他、国司の国内神祇巡礼簡略化のため有力神社の祭神を一箇所に集約した総社も設けられた。
平安時代の社会
平安時代の貴族は怨霊による祟りを恐れ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀った祇園社(現在の八坂神社)や菅原道真を祀った北野神社などを建て、怨霊を慰める御霊会(ごりょうえ)を頻繁に行った。また長谷寺参詣も盛んだった。一方、陰陽五行説に基づく陰陽道は安倍晴明ら陰陽師により招福除災が説かれたため流行し、吉凶で謹慎する物忌(ものいみ)や不吉な言葉を避ける言忌(こといみ)、それに方角に拘る方違(かたたがえ)などが行われたが、これらは欠勤の弁解にも用いられた。陰陽師は安倍氏と賀茂氏が世襲的に継承した。成人儀式たる元服(げんぷく)・裳着(もぎ)が創始された平安時代の服装は、都人の男は正装が衣冠(いかん)・束帯(そくたい)で平服が狩衣(かりぎぬ)・直衣(のうし)、女は正装が十二単(女房装束)で平服が小袿(こうちぎ)・袴だった。また武士は直垂(ひたたれ)、庶民は水干(すいかん)という実用服を着用していた。一方、861年からは大春日真野麻呂が開発した宣明暦が用いられた。宣明暦は太陽太陰暦(所謂旧暦)であり、この後約800年に亘って使用された。なお夫が妻の実家に通う平安時代の結婚形態たる婿入婚は、摂関政治の背景となった。
建築・彫刻・工芸・絵画・文学
法成寺無量寿院阿弥陀堂 / 藤原道長(=御堂関白)の阿弥陀堂。
宇治平等院鳳凰堂 / 藤原頼通(=宇治殿)の阿弥陀堂。
日野法界寺阿弥陀堂 / 日野資業の阿弥陀堂(阿弥陀仏を祀る)。
寝殿造 / 正殿や対屋が白木柱で建築された池泉庭園を持つ屋敷。人間は円座や畳などの敷物に座る。
左近の桜・右近の橘 / 左・右近衛府が管理した、内裏の木のこと。
『平等院鳳凰堂阿弥陀如来像』 / 寄木造。京都仏師の定朝の作品。
『広隆寺十二神将像』 / 定朝の弟子の長勢の作品。
蒔絵 / 漆で模様を描いて金銀の粉を蒔いた工芸品。
螺鈿 / 貝殻の真珠光部分を磨き器に嵌める工芸品。
世俗画 / 百済河成が有名。平安以前は唐絵が盛ん。
大和絵 / 巨勢金岡が有名。日本の花鳥風月が題材。
『高野山聖衆来迎図』 / 阿弥陀如来が臨終人を迎える来迎図の一。
仮名文字 / それまでの面倒な漢字(真名文字)に代わり登場。讃岐国司藤原有年の文章が有名。歌道発展へ。
『古今和歌集』 / 醍醐朝の905年、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の撰。古今調の勅撰和歌集たる八代集(『新古今和歌集』まで)の端緒。
『高野切』 / 『古今和歌集』の最古の写本。紀貫之の著。
六歌仙 / 大友黒主・喜撰法師・小野小町・僧正遍正・文屋康秀・在原業平(平城天皇の皇孫)。
『伊勢物語』 / 在原業平の恋愛談中心。初の歌物語。
『竹取物語』 / かぐや姫の話。貴族社会の内面を示す。
『宇津保物語』 / 貴宮(あてみや)を巡る結婚談。
『源氏物語』 / 中宮彰子に仕えた紫式部の著。藤原時代の貴族社会を示す。
『枕草子』 / 中宮定子に仕えた清少納言の著。鋭い感覚・機知に富む随筆。
『蜻蛉日記』 / 藤原道綱母の著、夫・藤原兼家との生活を記す。
『更級日記』 / 菅原孝標女の著、一生の回想録。
『土佐日記(土左日記)』 / 日本史上初の仮名書き日記。紀貫之の著。
『日本往生極楽伝』 / 慶滋保胤が著した往生伝。
『続本朝往生伝』 / 大江匡房が著した往生伝。
『拾遺往生集』 / 三善為康が著した往生伝。
『朝野群載』 / 三善為康の著。漢詩文・宣旨・官符の分類。
『和漢朗詠集』 / 藤原公任の著。日本史上初の和歌漢詩文集。
『法華験記』 / 天台坊主の鎮源が著した仏教説話集。
『西宮記』 / 左遷後の源高明が著した有職故実書。
『秋萩帖』『屏風土代』 / 三蹟の一人、小野道風の作品。
『離洛帖』『詩懐紙』 / 三蹟の一人、藤原佐理の作品。
『白氏詩巻』『蓬莱切』 / 三蹟の一人、藤原行成(世尊寺流)の作品。 
5 平安時代の外交
靺鞨(まっかつ)出身の大祚栄により満州に建国された渤海(震国)は727年以来日本と友好を保ち、遣唐使廃止以後は唯一無二の交易国として日本に薬用人参や獣皮などを輸出していた。渤海使は京に設置された鴻臚館(こうろかん)や能登国・若狭国の客館(客院)に迎えられた。渤海はやがて耶律阿保機(やりつあぼき)に滅ぼされたが、彼が建国した契丹(遼;藤原伊房が密貿易で処罰)も女真族に滅ぼされ、金が興った。女真族は1019年に北九州へ襲来(刀伊の入寇)したが、これは大宰権帥に左遷されていた藤原隆家により撃退された。一方、870年に大宰少弐藤原元利万侶に反乱を教唆(佐伯真継の報告で回避)したりしていた新羅はやがて912年に王建により滅ぼされ、新たに高麗が興った。 
6 律令体制の崩壊
寄進地系荘園の成立
国司の命令で国衙領の名田を請作する農民を田堵(たと)と言い、田堵の中で名田の私的占有権を認められた者を名主と言う。彼らは租庸調に相当する官物の納入や臨時雑役などが義務だったが、やがて藤原明衡が著した『新猿楽記』に記されている田中豊益(たなかのとよます)のように、作人や浮浪人に開墾させ本格的且つ大規模な在地領主となる大名田堵も出現した。大名田堵は富豪之輩などと共に開発領主(かいほつりょうしゅ)(根本領主)として力を蓄え、検田使などの国家権力介入を拒む不入の権や租税免税権たる不輸の権を有する権門勢家に墾田の名義を寄進、自らは管理者たる荘官(荘司・下司(げす)・預所・公文・田所・案主(あんず)など)となって利益を得た。また開発領主から寄進された者を領家(りょうけ)と言うが、彼らもさらに強大な権力を誇る本家(ほんけ)に寄進した。なお実質的な荘園の支配権を持っている者を本所(ほんじょ)と言う。肥後国鹿子木荘(かのこぎのしょう)などに代表されるこうした寄進地系荘園は、9世紀以前の墾田地系荘園に代わり10世紀頃から多くなった。また国家が封戸の代わりに寺社に与えた雑役免系荘園などもあった。荘園からは年貢・公事・夫役などが徴収された。
荘園制度下の土地
国家から荘園の不輸の権を公認される手続きを立券荘号と言う。立券荘号による荘園には、中央官庁により許可された官省符荘と、国により許可された国免荘があった。当時から荘園の土地領有とその境界を巡って紛争が発生したが、そうした場合には紀伊国桛田荘(かせだのしょう)(神護寺領)のように、荘園の東西南北を区切るための目印を設置する、四至牓示(ししぼうじ)を行った。なお当時は、皇室や諸官衙の財源確保のために勅旨田・公営田・官田・諸司田などの開発田が設けられたが、公営田は823年に小野岑守の上表により大宰府管内に設置されたものが端緒である。荘園制度の下では、田以外の土地からは地子と言う税が徴収された。また公的な土地の管理や徴税は郷司(ごうし)や保司が行った。
地方政治の腐敗と堕落
当時、地方では知行国制が導入されたが、地方の官職は売位売官の風潮で利権視され、朝廷儀式や寺院建立に私財を投資する見返りとして国司などの官職に就く成功(じょうごう)や、同様に国司に再任できるようにする重任(ちょうにん)などが横行した。蓄財目的の国司の中には任国に赴かない遙任(ようにん)を行う遙任国司もおり、こうした場合には国司の一族たる目代(もくだい)が国衙に派遣され、実際の政務は土着の在庁官人が留守所で執行した。村上朝の藤原師輔は950年に期限を過ぎても任国に赴かぬ者を罰する法令を施行してこの解消を図ったが、効果は稀薄であった。一方、中下流貴族は国司に任命されると事実上の徴税請負人として『因幡堂縁起絵巻』に見られるように任国へ赴任する場合が多く受領(ずりょう)と呼ばれた。大半の受領は国司の半私有的な土地と化していた国衙領からの収益を目的としており、『今昔物語集』の中に「受領ハ倒ルゝ所ニ土ヲツカメ」という発言が記載されている信濃守藤原陳忠(ふじわらののぶただ)や、苛政のため31条の「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくせいらげぶみ)」を988年に出されリコールされた尾張守藤原元命(ふじわらのもとなが)など、貪欲な輩が多かった。なお尾張国では1008年に国司の藤原中清が愁訴を受けている。受領たちは重任により次第に土着化していった。またこの時代は、表の繁栄とは裏腹に実際は殺伐としていたらしく、985年には藤原斉明・藤原保輔兄弟が大江匡衡と藤原季孝に対して刃傷事件を起こしている。 
7 院政の始まり
藤原摂関体制の終焉
藤原頼通の娘で後冷泉天皇の中宮となっていた藤原寛子が皇子を出産しなかったため、後朱雀天皇と禎子内親王の間の皇子であり藤原氏との外戚関係を持たない尊仁親王(たかひとしんのう)が践祚し、後三条天皇となった。後三条天皇は有職故実書『江家次第』などの著作で知られる大江匡房(おおえのまさふさ)や高階為章(たかしなためあき)などの学者を登用して天皇親政を執行した。藤原摂関家の繁栄の陰で寒門之家と称された受領は、寄進地系荘園の増加による国衙領減少に反発したため、藤原摂関体制崩壊を期待して後三条天皇の親政を支持した。その期待を受けて後三条天皇は1069年、藤原頼通の猛反発を一蹴して延久の荘園整理令を断行して太政官に記録荘園券契所(記録所)を設置し、その構成員たる源経長ら寄人(よりゅうど)に命じて国務妨害の荘園や券契(公験(くげん);合法荘園証明書)が不明な荘園と、1045年以降造営の荘園を取締った。実施が国司に委任されたりしていて不完全だった従来の延喜・長久・寛徳・天喜の各荘園整理令とは一線を画すこの延久の荘園整理令により、藤原頼通の子の藤原師実などの大貴族や、石清水八幡宮(34カ所→21カ所)などの寺社の荘園が没収された。また後三条天皇は量衡の制による延久の宣旨枡の採用などを行った。なお、大江匡房は藤原伊房・藤原為房と共に「前の三房」と称されるが、これに対する「後の三房」は、北畠親房・吉田定房・万里小路宣房である。
院政の開始
(1086年 / 皇室の権力強化のため)
後三条天皇の次代・白河天皇は藤原茂子の腹だったため、後三条上皇は輔仁親王を皇太子と定めていたが、白河天皇は実権を握り続けるため皇子善仁親王(たるひとしんのう)を堀河天皇として践祚させ、その幼少を理由に実務を執行した。こうして始まった院政では、主に受領出身者が多い院司(いんし)により構成される院庁から下される公文書の院庁下文や牒(ちょう)、それに上皇命令であり私文書の院宣が絶対であり、院近臣は上皇の乳母(めのと)の一族や受領出身者により固められていた。しかし院政では、知行国制に基づき国衙領を国司に支給したため、土地持ち有力貴族の連合政権という観点からすれば摂関政治と大差は無い。院の財源は院分国と寄進地系荘園であるが、白河・鳥羽・後白河各院の院政期に寄進された三代起請の地は、中世の皇室の財政的基盤となったことで知られている。なお堀河天皇は、藤原師実(京極の大殿)・藤原師通(後二条殿)・藤原忠通らを用いて、白河法皇の院政下に於いて後に「末代の賢王」と称されるような善政執行に尽力した。院政は、19世紀の光格上皇まで合計27人の上皇または法皇が行った。
天下三大不如意
雑役を行う大衆(だいしゅ)・堂衆で構成される僧兵やその傘下の諸神社の神人(じにん)は皇室御一家の社寺参詣熱に乗じ強訴を行った。『源平盛衰記』には、白河法皇が天下三大不如意として「賀茂川の水、双六のさい、山法師」、即ち賀茂川洪水による疫病蔓延・博打流行・強訴を挙げて嘆いたことが記されている。白河法皇は院北面(北面の武士)を設置して対処したものの、興福寺の奈良法師は藤原氏が抵抗できぬ春日大社の神木(しんぼく)を奉じ(神木動座)、また延暦寺の僧兵は皇室すら抵抗できぬ日吉神社(ひえじんじゃ)の神輿(しんよ)を奉じて(神輿動座)都に乱入し、無理難題を吹っ掛けた。なお院政期には、京都東山の岡崎付近に皇室の御願寺として名に「勝」の字が付いている六勝寺が建立されたが、その内訳は、白河法皇による法勝寺、堀河天皇による尊勝寺、鳥羽上皇による最勝寺、待賢門院による円勝寺、崇徳天皇による成勝寺、近衛天皇による延勝寺である。 
8 院政期文化
概要・建築
院政期文化は国風文化と同様に浄土教が基礎であり、阿弥陀堂が多く建立されたが、文化の舞台は地方が中心であった。中でも藤原清衡が阿弥陀堂兼葬堂の中尊寺金色堂、藤原基衡が毛越寺(もうつじ)、藤原秀衡が無量光院をそれぞれ建立した奥州平泉は、金売り吉次らが陸奥国の金を売却して得た財産で潤い、京都に劣らぬ独自文化を形成していた。他の地方文化の例としては、現在のいわき市に藤原秀衡の妹の徳姫が亡夫岩城則道(いわきのりみち)の冥福を祈願して建立した白水阿弥陀堂や、伯耆国三仏寺投入堂、豊後国富貴寺大堂などが知られている。なお庶民の間では、田植えの時の豊作祈願から発展した神事芸能たる田楽や、軽業曲芸に歌舞音曲が加味された散楽(猿楽)、神々の招魂と鎮魂を目的とした神楽などが流行した。
院政期文化の作品
『源氏物語絵巻』 / 四大絵巻物の一。大和絵の先駆けであり、吹抜屋台・引目鉤鼻の手法が用いられている。藤原隆能の作品。
『信貴山縁起絵巻』 / 四大絵巻物の一。大和国生駒山の朝護孫子寺にあり、その本尊たる毘沙門天の縁起を扱っている。
『伴大納言絵詞』 / 四大絵巻物の一。応天門の変の際の大納言・伴善男が題材。絵は常盤光長、詞書は藤原教長によるものらしい。
『鳥獣戯画』 / 四大絵巻物の一。鳥羽僧正覚猷の作。なお絵巻物は詞書と絵が交互に描かれて展開していく巻物。
『年中行事絵巻』 / 宮廷行事や庶民生活の史料。原本は無いが、江戸時代の住吉如慶の模写本がある。
『平家納経』 / 平清盛が厳島神社に奉納した装飾経。なお装飾経は写経の一種であり、華麗な装飾と見返り絵で知られている。
『扇面古写経』 / 『扇面法華経冊子』とも言う。現在、四天王寺と国立博物館に分蔵。
『一字蓮台法華経』 / 装飾経の一種。
『栄華物語』 / 『栄花物語』とも書く。赤染衛門の作と言われる歴史物語。藤原道長を礼賛。
『大鏡』 / 『世継物語』とも言う。作者不明。藤原道長に対し批判的。『今鏡』『水鏡』『増鏡』と共に四鏡と称される。
『将門記』 / 平将門の乱を扱った、日本初の軍記物語。前九年の役を扱った『陸奥話記』も軍記物語として知られている。
『扶桑略記』 / 天台坊主の皇円が著した歴史書。司馬達等の仏教私伝を記載。
『今昔物語集』 / 源隆国の著。民間説話と仏教説話を和漢混淆文で編纂した説話文学作品。
『梁塵秘抄』 / 後白河法皇の編纂。今様や催馬楽(=恋愛歌)などの歌謡を集めたもの。 
9 武士の台頭
武士の発生
荘官は不入の権に基づく専守防衛のため武装した。また地方政治の混乱は在庁官人らの地方豪族の武装化を促進し、健児の制の形骸化はこれらの動きに拍車を掛けた。そして足柄や碓氷などの峠には、荒々しい武装的な運送集団である僦馬(しゅうば)の党がいた。こうして発生した武士は、やがて桓武平氏や清和源氏といった武士の棟梁の下に結集し、大武士団を形成した。武士団は棟梁たる惣領の下、その一族である家子や、田堵や名主から発展した郎党、下級農民だった下人・所従によって構成されていた。武士は当時かなりの力を持っていたらしいが、中でも敦賀国の豪族の藤原利仁が、貧乏貴族に莫大な量の芋粥を与えた話は、芥川龍之介の小説の題材としても有名である。
承平・天慶の乱
(935年〜941年 / 朱雀天皇の御世の国家反逆の大乱)
1 平将門の乱
時の摂政である藤原忠平に仕えていた経歴を持つ平将門は、父の平良将の死によって発生した小貝川流域の土地を巡る一族の内紛に於いて、叔父の平国香を殺した。やがて彼は下総国猿島郡(さしまぐん)石井(いわい)(現;茨城県)に内裏を造営し、新皇を称して関八州を統治する独立国家を建設を企図した。中央政権は征東大将軍として藤原忠文を派遣したが、彼が到着する以前に押領使の俵藤太こと藤原秀郷と平国香の子の平貞盛により乱は鎮圧された。なお藤原秀郷は940年、下野国に唐沢山城を築城している。
2 藤原純友の乱
伊予国と豊後国の間の豊後水道にある日振島を根拠地とする元伊予掾の藤原純友は、939年以降海賊を率いて瀬戸内海を荒らし、藤原国風や坂上敏基らを駆逐して四国を制圧し、やがて大宰府を攻略するに至った。朝廷は征西大将軍として藤原忠文を再び派遣したが、やはり追捕使の小野好古(おののよしふる)と源経基が彼の到着を待たずにこの乱を鎮圧し、藤原純友は橘遠保がこれを誅した。藤原忠文は自分を陥れて恩賞を阻止した藤原実頼を恨み呪いつつ、この後に世を去った。その後、藤原実頼の家系には不幸が相次いだため、人々は藤原忠文を「悪霊民部卿」と呼んで恐れたという。結局、承平・天慶の乱は律令体制の崩壊と地方武士の実力を朝廷が認識する契機となった。
平忠常の乱
(1028年 / 源平の勢力の東西逆転)
平維良が1003年に下総国で反乱するなど平氏一族は不穏な動きを見せていた。やがて1028年には藤原道長の死に触発された平忠常が反乱を起こし、房総半島を制圧した。この平忠常の乱は、安和の変にて藤原実頼と結んで勢力を延ばした源満仲の子にして所謂「源氏三代」の初代の、甲斐守源頼信とその子の源頼義により鎮圧された。乱の後、源平勢力の東西逆転が起こり、平維衡は伊勢国へ遁走し、東国では源氏勢力が優勢となった。
奥州情勢
1 前九年の役
(1051年 / 安倍氏滅亡)
陸奥国の俘囚(ふしゅう)(朝廷に服属した元蝦夷)の長である安倍頼良は、陸奥守藤原登任(ふじわらのなりとう)が税を倍増させたことに抗議し、子の安倍貞任(あべのさだとう)や安倍宗任、それに娘婿たる藤原経清(亘理経清(わたりつねきよ))らと共に反乱を起こした。鬼切部の戦いなどでの朝廷軍の敗北の責任をとり藤原登任は陸奥守を辞任したが、後任には源氏の棟梁にして鎮守府将軍でもある源頼義が赴任した。源頼義は、嫡男の源義家(八幡太郎;石清水八幡宮で元服)と共にこの鎮圧に乗り出したが安倍貞任の采配の前に大敗を喫した。特赦によって戦いは中断され、安倍頼良は源頼義に恭順し、読みが同じである自分の名を改めて安倍頼時としたが、奥州の覇権を望む源頼義は謀略を用いて戦を再発させ、出羽国の俘囚の長である清原武則の力を借りて1062年に厨川館を陥落させ、役の途中で没した安倍頼時の後を継いだ安倍貞任と藤原経清を処刑し、乱を終結させた。前九年の役の模様は軍記物『陸奥話記』や絵巻物『前九年合戦絵巻』に収録されている。
2 後三年の役
(1083年 / 源氏の影響強まる)
安倍氏の滅亡以後、奥州では清原氏の勢力が不動のものとなった。しかし清原武則の子の清原武貞死後、家督を巡り清原真衡・清原清衡・清原家衡の三者が鼎立した。このうち清原清衡は藤原経清の子であるが、赴任して来た陸奥守源義家はこれを支持し、策略をもって清原真衡を暗殺し、さらに金沢柵の清原武衡らの支持を受けていた清原家衡を攻撃して1087年に滅ぼした。清原清衡は役の後改姓して奥州藤原氏の初代・藤原清衡となった。また源義家はこの事件の後、東北に対する強い影響力を確保することができた。なおこの戦いで活躍した源義光は源義家の弟であるが、彼は後の甲斐源氏武田氏の祖である。
3 奥州藤原氏の繁栄と滅亡
藤原清衡によって築かれた奥州藤原氏の繁栄は、子の藤原基衡、孫の藤原秀衡に受け継がれていった。しかし藤原秀衡の子の藤原泰衡の時代、若き日を平泉で過ごした源義経が、兄の源頼朝の追討の手から逃れて来た。藤原泰衡は源頼朝の要請を受け、源義経を衣川館に攻め自害させた(生き延びたとする説もある)。しかし源頼朝は源義経を匿った罪を理由に奥州征伐を断行し、1189年にこれを滅ぼした。
源氏の台頭
源頼義は前九年の役の功によって伊予守に叙任されたが、東北の後始末が必要だったため任地には赴けず、年貢を要求する中央政府に対して私財から年貢を払った。また関東の武士に対して中央政府は恩賞を与えなかったが、源頼義はこれも私財から払った。こうして源氏は武士たちの信頼を集めるようになり、次代の源義家は剛憶の座を設けるなどして士気の向上に努め、藤原宗忠の『中右記』の中で「天下第一武勇之士」と称えられるまでになった。源義家の過度の隆盛に警戒した白河法皇は源義家への荘園の寄進を禁止するなどして圧力を掛けたが、結局は時流に逆らえず、源義家に武家として初めての院への昇殿を許している。
伊勢平氏の勃興
源義家の子の源義親は出雲国で反乱を起こした。これを1108年に討伐したのは平正盛である。藤原摂関家の息の掛かった源氏の台頭を快く思っていなかった白河法皇はこの活躍を賞賛し、以後院は平氏を重用するようになった。なお平正盛は伊賀国黒田荘の領有を巡って東大寺と抗争したり、別の伊賀国内の私領を六条院領に寄進したりしている。平正盛の子の平忠盛は瀬戸内海の海賊を制圧してこれを配下に加え、さらに日宋貿易の利益を盛んに献上したため、白河法皇・鳥羽上皇の両君から厚い信任を得た。白河法皇は祇園女御との間の私生児を平忠盛の長男として彼に託したようであるが、この長男が後の平清盛であるらしい。この説は定説ではないが、かなり有力であるらしい。平忠盛は1131年、得長寿院を造進した功により鳥羽上皇から昇殿を許された。
保元の乱
(1156年 / 貴族抗争に武士が使われる)
鳥羽上皇は皇子の崇徳天皇を白河法皇の落胤と思い、「叔父天皇」と称する程険悪な仲だった。そして近衛天皇の崩御後に崇徳上皇を重祚させず後白河天皇を践祚させたため、訣別状態に陥った。摂関家では藤原忠実とその次男で「日本第一大学生(にほんだいいちだいがくしょう)」と称された左大臣藤原頼長が藤原忠実の長男の関白藤原忠通と氏長者と殿下渡領を巡って対立し、近衛天皇の立后問題や呪詛問題でさらに険悪になった。1156年に鳥羽上皇が崩御すると、後白河天皇・藤原忠通・平清盛・源義朝ら朝廷正規軍に対し崇徳上皇・藤原頼長・平忠正・源為義・源為朝(鎮西八郎) らが反乱して、保元の乱が勃発した。なお源為義と源為朝は藤原忠通に対する怨恨、平忠正は甥の平清盛に対する嫉妬から、反乱に荷担した。結果的に乱は後白河天皇側の勝利に終わり、源為義と平忠正は薬子の変以来久々の死刑に処せられ、奮戦した源為朝は罪が減刑され伊豆大島への、また崇徳上皇は讃岐国への流罪に処せられ、藤原頼長は大和国へ逃亡中に惨殺された。武士が初めてその武力をもって中央政権を左右したこの乱の模様は、藤原忠通の日記の『法性寺関白記』などに描かれている。なお藤原頼長の日記は『台記』である。
平治の乱
(1159年 / 武士抗争に貴族が使われる)
後白河上皇が与えた保元の乱の恩賞は、実際の活躍とは逆に源義朝よりも平清盛の方が多かった。平清盛の側では鳥羽上皇の命令で六国史に継ぐ筈の歴史書『本朝世紀』を著した南家・藤原通憲(信西(しんぜい))が抬頭していたが、彼を敵視する藤原信頼は源義朝と語らって父の後白河上皇が再開した院政に批判的だった二条天皇を担ぎ、対立した。平清盛の熊野詣の際に挙兵した源義朝は三条殿を襲撃して後白河上皇を追放、また大和国への逃亡を図った信西を惨殺した。平清盛軍は即座に京へ戻り、源義朝軍と交戦した。この際、源義朝の長男源義平と平清盛の長男平重盛は「右近の橘、左近の桜」の下で激闘を演じた。やがて藤原信頼は殺され、源義朝は東国へ逃れる途中に尾張国野間の旧臣長田忠宗により謀殺された。平清盛は源氏の根絶を図ったが、池ノ禅尼の忠告もあり、源義朝の子の源頼朝は伊豆国蛭ヶ小島に、また源義経(牛若丸)は山城国鞍馬寺に追放してこれを許した。なお平治の乱を描いた『平治物語絵巻』は現在、東京国立博物館・ボストン美術館・静嘉堂文庫に分蔵されている。 
10 平氏政権の成立
貴族的特徴
1167年、平清盛は従一位太政大臣に就任した。平清盛が太政大臣の位に就くことができたのは、太政大臣が則闕官であり摂政や関白を兼任しない限り実際の職権は稀薄だったためである。平氏政権は後白河法皇所縁の蓮華王院(三十三間戸)や六波羅蜜寺や新熊野神社(いまくまのじんじゃ)などがある京都の六波羅に設置されたため、その別名を六波羅政権とも言う。平時信の娘の平時子を妻としていた平清盛は、妻の妹の平滋子を後白河上皇の中宮として入内させ、その皇子の高倉天皇には自らの娘である平徳子(建礼門院)を嫁がせ、次の安徳天皇の御世には外戚となった。また平清盛は長男の平重盛を従二位内大臣に叙位させるなどして一族による朝廷の高官の寡占を行った。この他全国500カ所に上る荘園や知行国への依存など貴族的性格の強かった上に、平時子の弟の平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という傲慢な発言も影響して、平氏政権はやがて反平氏勢力の結集を招くこととなった。
非貴族的特徴
まず、平清盛は父の平忠盛から始められていた日宋貿易をより活性化するべく、安芸国広島湾東口の音戸(おんど)の瀬戸を開き、貿易の管理を司る大宰府に一族を派遣し、さらに行基により築かれた摂津国福原の外港の大輪田泊の規模を大きくして貿易拠点とした。当時は建築事業を行う時は人柱として生きた人間を土中に埋める風習があったが平清盛はそれを許さず、人の代わりに経典を埋めさせた。こうしてできたものが兵庫経島である。一方、地頭(じとう)(荘官の名称の一種)を家人(けにん)(従者)として組織したが、これは脆弱ではあるものの後の鎌倉幕府に継承される武家政権の先駆けと言っても過言では無いものである。なお日宋貿易では、日本からは蒔絵や螺鈿の他、砂金や硫黄、扇、日本刀、屏風などが輸出され、宋からは宋銭の他、唐錦や唐綾と言う高級織物、百科全書『太平御覧』などの漢籍、陶磁器、薬品、香料などが輸入されていた。
平氏政権崩壊の序曲
院近臣である藤原成親は平治の乱に於いて藤原信頼に味方しており、敗北後舅にあたる平重盛によって助けられたという経歴を持っている。しかし彼は、源雅俊の孫であり法勝寺の執行(しゅぎょう)である俊寛僧都や、藤原師光(西光法師)・平康頼・藤原成経らと共に1171年以降、俊寛僧都(一説には後白河法皇)の鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘にて平氏政権打倒の密談を交わした。この鹿ヶ谷の陰謀という事件は1177年に密談の一員である多田行綱の密告により平清盛の知るところとなり、西光法師は半ば見せしめとして処刑され、他は逮捕された。藤原成親は備前国に流され、吉備中山にて衰弱しているにも拘らず酒を飲まされて急性アルコール中毒で死亡した。俊寛僧都・藤原成経・平康頼は薩摩国にある鬼界ヶ島へ流された。だが平清盛はそれまで過激な方針を諫めていた長男の平重盛が1179年に没すると一層焦燥感に駆られ、ついに松殿基房を筆頭とする43人の官職を解任して平氏側の立場である近衛基通を関白に就任させ、さらには強圧的手段によって後白河法皇らを鳥羽殿に幽閉した。この事件を治承三年の政変と言う。結果的に平清盛は全国の半ば近い知行国を確保したものの、寺社や諸国の源氏などの反平氏勢力のさらなる結集を招いたため、平氏政権崩壊の端緒となった。
中世以降の公家の家柄
混沌とした世の中にあってもなお摂関位を維持しようとした藤原忠通は、藤原摂関家を分割してそれぞれ違った権力者に接近させた。即ち、長男の藤原基実に近衛家、次男の藤原基房に松殿家、三男の藤原兼実に九条家を創始させ、それぞれ平清盛・後白河法皇・源頼朝に接近させたのである。なお近衛家・九条家と、近衛家から派生した鷹司家、それに九条家から派生した一条家・二条家を総称して五摂家と言うが、五摂家の下には三条家・今出川家(菊亭家)・西園寺家・久我家(こがけ)・徳大寺家・大炊御門家・花山院家・醍醐家・広幡家という九清華からなる清華家があり、さらにその下には三条西家・正親町三条家・中院家といった大臣家があった。日野家・吉田家・四条家・山科家・葉室家・難波家・岩倉家などは、中流貴族の家柄である。
史論書(歴史哲学書)
近衛基実・松殿基房・九条兼実らの弟であり比叡山に勧学講を開いたことで知られる天台座主(てんだいざす)の慈円(慈鎮)は承久の乱直前の倒幕の理想に燃える血気盛んな後鳥羽上皇を諫止するため、道理の精神と末法思想に則って日本史上初の史論書である『愚管抄』を著した。この後、北畠親房が百王説に基づき歴史の不変性と皇室の神聖を証明した『神皇正統記』や、新井白石が九変五変説に基づき公家政権から武家政権への変遷と徳川幕府の正当性を強引に主張した『読史余論(とくしよろん)』、陸奥宗光の父の伊達千広が著した『大勢三転考』など、様々な史論書が著された。 
11 源平の争乱
以仁王の変
(1180年 / 打倒平氏の起爆作用)
後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)は、源三位入道源頼政に唆され、最勝王と称して挙兵、打倒平氏を訴える以仁王の令旨(りょうじ)(天皇以外の近親の命令)を源為義の末子の源行家に託して諸国に触れさせた。やがて源頼政と以仁王は平清盛の攻撃を受け園城寺に逃亡、大和国に逃れて挽回を試みたが、宇治平等院にて敗死した。しかしこの以仁王の変は、源氏を初めとする反平氏勢力が平氏に対して武力蜂起する契機となった。なお以仁王を匿った園城寺は、報復として平重衡と平忠度(たいらのただのり)によって堂舎を焼かれた。
治承・寿永の乱、勃発
(1180年(治承四年) / 源平合戦)
平清盛は勢いを増した山門の勢力から避けるため、安徳天皇を奉じて摂津国福原京へ遷都したが、貴族らの不満が噴出したためすぐに還都した。この間、諸国では源氏の挙兵が相次いでいた。源頼朝は伊豆国で挙兵して山木兼隆(和泉兼隆)を討ったが、やがて大庭景親(おおばかげちか)が率いる平氏軍との石橋山の戦いに於いて惨敗した。この際源頼朝は殺されかけたが、敵将である梶原景時に助けられた。真鶴から房総半島へ逃れた源頼朝は、房総にて千葉常胤・上総広常ら有力な豪族を結集し、やがて鶴岡八幡宮のある鎌倉へ入り、征伐のため襲来した平維盛と平忠度を富士川の戦いにて打ち負かした。またこの頃、源義仲率いる木曾源氏を初め甲斐源氏武田氏や上州源氏新田氏などの地方の源氏も挙兵した。中央では山門の抵抗に業を煮やした平清盛の子の平重衡が興福寺や東大寺を焼き討ちし、堕地獄に怯えていた。この南都焼き討ちの報いか1181年は全国的な大飢饉であり、これにより争乱は膠着状態に陥った。また1181年には平清盛が熱病で死去し、高倉上皇も崩御した。
平氏政権の崩壊
(1183年 / 源義仲入京)
信濃国の横田河原の戦いにて城長茂(じょうのながもち)の大軍に快勝した源義仲は、不仲であった源頼朝の下に子の源義重を派遣して敵対の意思の無いことを表明した。そして倶利加羅峠に於ける礪波山の戦いで平教盛を破り、京に乱入した。平氏政権の長たる平宗盛は安徳天皇と神璽・宝剣を奉じて西海に逃亡し、平維盛などの他の平氏一門もその翌日には都落ちした。鞍馬寺、続いて比叡山に移っていた後白河法皇の還幸を護衛した源義仲は後白河法皇から征夷大将軍(朝日将軍)に任命されたが、軍が暴力行為を行ったため、後白河法皇は寿永の宣旨(寿永二年十月宣旨)を源頼朝に授け、代わりに源義仲を討つよう命令した。寿永の宣旨は院の荘園と公領の年貢を保障する代償として源頼朝に東海道・東山道諸国の荘園と国衙領の沙汰権を認めたものであり、後の鎌倉幕府の基礎となるものである。なお源義仲には北陸道の沙汰権が与えられている。
宇治川の戦い
(1184年 / 源義仲の敗北)
備中国の水島の戦いに於いて平氏軍に敗北して焦燥感に駆られた源義仲は、都に戻ると直ちに政変を起こして法住寺を襲撃して後白河法皇を幽閉、院近臣を強引に解任した。しかし源義仲は源義経や源範頼らの軍との宇治川の戦い(宇治・瀬田の合戦)に於いて敗れ、近江国の粟津にて討たれた。なお宇治川の戦いでは、梶原景季と佐々木高綱が先陣争いを行っている。
一ノ谷の戦い
(1184年 / 源義経・源範頼の活躍)
摂津国の六甲山地西部に於けるこの戦いでは当初源氏軍が不利であったが、源義経の采配による「鵯越(ひよどりごえ)のさか落とし」という奇襲作戦により源氏軍が勝利した。この戦いでは南都焼討ちの主犯である平重衡が逮捕された。平忠度は、藤原俊成に頼み込んで『千載和歌集』に「小波(さざなみ)や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」という歌を残して死んでいったが、院や鎌倉幕府から見れば彼は罪人だったため、この「故郷の花」という歌の作者は詠み人知らずとして扱われた。また16歳の少年である平敦盛を殺害した熊谷直実は、戦に無常を感じて出家した。この後、平氏一門は屋島へ逃れたが、平維盛はそこを脱出して高野山で出家した後に熊野へ参詣し、那智にて入水した。
屋島の戦い
(1185年 / 源義経・源範頼の活躍)
讃岐国屋島に於けるこの戦いでは、源義経らの嵐中行軍などにより源氏軍が勝利を収めた。この嵐中行軍に際し源義経は梶原景時と争ったが、これは後に梶原景時が源義経を讒訴する一因となった。なお下野国の武将である那須宗高(那須与一)が活躍したり、源義経が奥州の藤原秀衡の下から兄の源頼朝挙兵に同行するべく旅立った時に従った佐藤忠信が源義経の身代わりとなって討死したのもこの戦いである。平氏一門は讃岐国志度浦に撤退した後、さらに西国へと落ちていった。
壇ノ浦の戦い
(1185年 / 平氏一族の滅亡)
3月、逃亡を重ねた平氏一族は、ついに本州最西端である長門国壇ノ浦にまで到達した。河野通信らを加えた源氏軍の追撃はさらに続き、平氏一門と安徳天皇は入水し、海の藻屑と消えた。しかし安徳天皇の母にして平清盛の娘である建礼門院のみは救出された。建礼門院はこの後、京都の大原寂光院にて一族の冥福を祈りつつ、余生を過ごしたという。また平宗盛や平時忠は、源義経によって捕縛された。