日本史概観 神代から江戸

神話から歴史石器時代歴史のはじまり謎の世紀統一王朝古代国家
古代国家の成立奈良の都平安京王朝貴族武士の登場鎌倉幕府蒙古襲来
南北朝の動乱下剋上戦国大名天下統一江戸開府鎖国大名と百姓
元禄時代町人幕藩制の苦悶・・・
日本史年譜 / 原始弥生大和奈良平安鎌倉室町安土桃山江戸明治大正昭和・・・
土地から見た日本史
 

雑学の世界・補考   

神話から歴史へ

日本の神話
日本神話を語るのは6世紀に成立した古事記・日本書紀の2冊の本であるが、これらは異なる経緯から編纂されており、内容は基本的に異なっている。しかし一方で、帝紀・旧辞という2冊の本から双方の書が成立した点では共通している。帝紀は歴代天皇の系図、旧辞は天皇家にまつわる物語が記された本であるが、記紀の比較の結果としてこの帝紀が初代・神武から33代推古まで、旧辞が神代と初代・神武、10代崇神から23代顕宗までという 。
豊葦原瑞穂国
諸国の神話が天地創造によって始まるように、日本神話もそこに始まっている。だが、これにはいろいろな違いがある。古事記では天の中枢の神の存在を描くが、これは道教の影響を強く受けていると言える。それは、推古朝以降の話であり、そうである以上古事記の神話もそれ以降に成立したものであるだろう。またカオスより天地発生したという話も、道鏡にそっくりであるが、これは旧辞にもある話であって日本古来のものと言える。これは、東南アジアの影響を強く受けているという。大地発生の神話についても、陰陽五行の影響受けながらも、民間による話を元にしていると考えられる。この神話は南太平洋の神話の影響を元に、低湿地での農耕を行う日本で形成されたと言え、ポリネシアの神話区分では"進化型"に属す。また国生み神話は、国家の範囲を明確化したという点で、非常に政治的な物と言えるが、これも南太平洋方面の神話の影響は拭えず、こちらは"創造型"といえる。この二つの神話が存在する点は、ポリネシアのことを鑑みるに、決して偶然とは言えないのである。その次にくる黄泉国神話は、日本固有の生死観をよく表すものであるが、これもまた南太平洋の神話に近しいものがある。ここに出る黄泉国には厳しさが欠けるが、これは却って日本の思想をよく表しているといえるだろう。
日の司祭者
日本神話の主神ともいえる天照大神は、皇祖神と日の神という二つの側面を持つ。元来、天照大神はどうやら日を祀る巫女的側面が強く、そこから日の神に昇華したと考えられる。そして大和朝廷が太陽信仰を独占してゆく過程において、皇祖神という側面が習合されたのだろう。そしてもう一方の主神ともいえるスサノオは、大和朝廷の政治的対立者として描かれている。また彼の犯した罪を通して、律導入以前の日本の罪について考察することも可能だ。則ち、灌漑施設の破壊・土地所有・収益権の侵害・公共宗教行事妨害を天津罪とし、殺人・傷害・近親相姦・呪詛などを国津罪とした。この区分はそれぞれ公共への罪、個人の罪と区分することが可能である。古代人は罪を物質的な物と捉え、それゆえ制裁のみならず災いを祓うことが必要だと考えていたようだ。天岩戸神話について、これを日食神話と捉える傾向もあるが、鎮魂祭として捉える説もある。これは、冬至に天皇の魂を呼び返す儀式が行われていたことをその根拠にする。天皇の魂を呼び返すことで、日の神でもある祖霊神を奮い立たせ、天皇の権力を強大化するのである。
国づくりの英雄たち
スサノオ追放以降、"出雲神話"と呼ばれる神話が始まる。この神話は必ずしも出雲地方の神話ではないことが推測される点で"出雲神話"の名は正しくなかろうが、しかしこれまでの神話と異質な点を持つのも事実である。これまでの高天原神話が天上的であるのに対し、出雲神話は地上的・人間的であり、生活的側面が強い。それゆえ、より多く古代人の信仰が含まれていると考えられるだろう。ヤマタノオロチ神話は、西はヨーロッパから東アジアまで広がる、ペルセウス・アンドロメダ型神話であるが、その中でも中国南部の神話と近いということがわかっている。大国主の神話は、旧辞には含まれておらず、後に出雲人の神話を古事記へ取り入れたと考えられる。これは壬申の乱で出雲臣一族が天武天皇に味方したことも大きいようである。スサノオによって大国主が数々の試練を与えられ、それを乗り越えて娘と結婚する説話は、東南アジアに多い服役婚――則ち、結婚前に婿が一定期間働くという習俗を表すもの、また成年式の習俗を表している、とも言う。ともあれ、この逸話は成年や婿となる以上に、出雲の王となるための試練であることを表している。つまり、この試練を乗り越えて王となるという逸話は、出雲系独特の王者観を示している。
天孫降臨
この大国主とて、敗北者であることは間違いない。それゆえ、高天原に国を譲ることになる。この神話は出雲が大和に下ったことが政治的に重要であったということを示している。この後の天孫降臨の神話は、天孫が高い峰の頂きに降臨したとしている。この神話は朝鮮から内陸アジアに分布する神話と相関関係がある。だが一方で、降りてきた神が穀霊的であるといえる点で、南方的とも言える。これはおそらく、北方的な物と南方的な物が南朝鮮で合体し、日本に入った物であると推測できる。コノハナノサクヤヒメの伝説は、非常に南方の性質が強い。またそれに続いて海幸山幸の話がある。これも南方の説話であるが、この二つの説話は隼人の説話を、神代史に組み込んだものと考えられる。記紀神話はあくまで政治的意図を多分に含んだものである一方、必ずしもその全てが述者による創作とはいえず、土台はあくまで大和朝廷によって伝えられたものであるということができる。そしてその基礎は、東南アジア的農耕文化を基本とした上で、北方アジアの遊牧民的要素が加わり、さらに中国文化の影響も受けているのである。
 
石器時代

 

旧石器時代の発見
世界的には、旧石器時代は氷河の前進した時代として知られるが、日本に於いては赤土の堆積した時代と捉える事ができる。その赤土の下から石器が発掘されないため、戦前期には日本に旧石器時代は存在しないと考えられていた。しかし、岩宿遺跡の発見を境に旧石器時代の遺跡発見が相次ぎ、また人骨も発見されるようになった。同時にローム層の区分もなされるようになり、旧石器時代の文化類型も行われるようになっている。当時の日本は、大陸と陸続きであり、象等の大型動物も流入していた。
狩猟・漁撈の時代
縄文時代については、古く明治時代のエドワード=モースによって大森貝塚が発見されたことによって研究が始まった。それ以降、土器の編年などを通じて文化が次第に明らかになり、これまで縄文時代の始まりは5000年前ではないかと言われていたが、近頃C14による年代測定が発達し、それによって縄文時代が約9000年前に始まったという説が提示され、これが妥当ではないかという結果が次々と提出されている。 縄文時代は、海進が起こっていたが、中期ごろより次第に海は退き始め、それゆえ次第に貝塚も海沿いへ動いていくことになる。縄文人は狩猟採集によって生活し、土器による煮炊きを行っていた。また竪穴住居を築いて集落もつくり、これは時代が進むごとに次第の置きな物へと代わっているまた、縄文時代の間でも幾らかの農業がおこなわれていたと考えられる。
農業のはじまり
弥生時代になると農耕が始まる。これには中国や朝鮮よりの渡来人が強い影響を与えたと言われるが、担い手は縄文人の子孫と考えるべきであろう。つまり、中国・朝鮮からの渡来人たちが農耕の端緒を開いたとはいえ、殆どが縄文人の手によって行われた、ということである。遺跡から中国の銅鏡が発見されることで、絶対年代の特定が行いやすく、土器の編年においても絶対年代で行われつつある。農耕は北九州で始まるが弥生後期には青森県まで北上し、耕作の急速な普及を物語る。遺跡でもコメの栽培の証拠は大量に出る一方、木の実も大量に出土しており、これらも食事のレパートリーからは脱していなかった。また青銅器や鉄器の普及もこの時期であり、祭器や農耕具に利用された。それゆえ、中期以降は石器は発見されなくなっている。後期に入ると大規模集落がつぎつぎと出来上がることになるが、このことがやがて国家の形成に繋がってゆく。
 
歴史のはじまり

 

日本についての文字記録は、初め中国の史書によってなされた。この記録と考古学資料を合せることで、古代の日本というものが見えてくることになる。
北九州の国々
「後漢書」には奴国の王に印綬を授けたという記述が存在しており、後に志賀島からこの記述に符合する「漢委奴国王」印が発見された。この印は漢代の印制から外れるという点で、贋物説もあったが、現在では本物ではないかと言う説が主流となっている。これらの国々は現在の郡ほどの大きさであったが、とりわけ北九州ではこれらの国々は中国との交流によって文化的には先進地域であった。北九州の文化的特徴としては、銅鏡等青銅器の出土と共に、甕棺・箱式石棺・支石墓などが挙げられ、これらも後漢の記述にある国々の比定地に並んでいる。このころの墓に副葬される品には、銅剣・銅鏡・勾玉が挙げられる。これはどうやら祭祀に利用された品々のようであり三種の神器とも関係のあると考えられている。これらの物品の中には、朝鮮半島より持ち込まれた物も多く、また文化的に朝鮮半島南部と共通するものがある。それらのことから朝鮮半島と北九州とには大きなかかわりがあったことが推測される。また少しの治、帥升という王の後漢への朝貢も記録されるが、これも北九州の末廬国ではない。そしてこのころから各国の連合の機運が見られた。
女王卑弥呼の時代
「魏志倭人伝」には邪馬台国の卑弥呼という王が記載される。邪馬台国の卑弥呼は魏に朝貢し、「親魏倭王」という印をもらうが、これはれっきとした魏の臣であることを認められたしるしである。魏志倭人伝には当時の日本の習俗・文化が詳細に記され、後の記紀等の記録と符合する部分も非常に多い。一方で必ずしも日本でなく南方の文化と思われる部分も記載される。また邪馬台国は、諸国の自立を認めている点で決して中央集権的とは言えないながらも、国家連合と言う範疇を超え、一つの国といえる機構を整えていたことも推察される。魏志倭人伝にも当時の日本人が稲作を中心とした生活を送っていたことは記録される。牛馬などはまだ存在していない一方で、米より作った酒は既に存在していたと考えられている。また、麻や絹によって衣服を作っていたようである。男の髪形は所謂みずらで、女性は髪を垂らしその末を頭頂で束ねていたと言う。これらの記載は非常にに南方的で、筆者の先入観が入っている可能性もある。また大家族制であり、その家族がいくつか集まって集落を形成した。また、身分制も存在していたことがわかっている。
邪馬台国論争
邪馬台国の場所については諸説あり、主に東大派の九州説と京大派の畿内説にわかれる。これは魏志の本文が非常に曖昧だからであるが、狗奴国の場所の比定や発掘によってわかった当時の文化圏等を考えると九州説が有利であるといえよう。また「倭国大乱」とされた時代から1世紀ほどで九州から畿内にいたる広域国家が成立したと考えにくいこともこの傍証となる。
 
謎の世紀

 

神武天皇
「古事記」「日本書紀」によると、皇室の祖先は、高天原という天上の国から日無化の高千穂の峰に降臨し、南国の日向でしばらく時を過ごしたのちに、神武天皇が多くの氏族を従えて九州を発向し、やがて畿内ヤマトの地に至り都を営んだとある。神武天皇のころから、古事記・日本書紀ともに神の世界から人の世界へ叙述が移っていくことになる。このように神の物語から人の物語へと続いている構成は世界的に稀である。神武天皇の実在性については、神武東征は天孫降臨に続く日本神話の一部であり、実在はしなかったという考えが主流である。
崇神天皇
記紀によると、初めて国を統治した天皇は2人存在する。一人は神武天皇、もう一人は崇神天皇である。崇神天皇の実在性については未だ議論を残しているが、仮に実在したとしても日本全土を統一していた可能性は低い。せいぜい大和を中心に畿内を支配する程度の政権を樹立したにすぎないと考えられている。大和の三輪山の神を祭って大和国家の基礎を固め、同時に諸国の統一に乗り出したと考えるのが相当である。
騎馬民族説
1948年、江上波夫氏は、大和朝廷の起源について破天荒な説を発表した。朝鮮から南下した北方系騎馬民族が、日本の倭人を征服し、日本の支配者となったという説である。これに関して当時の学界やジャーナリズムを中心に議論が巻き起こり、さまざまな学説が飛び交った。騎馬民族など来ていない、騎馬民族は来たがそれはもっと昔で2世紀ごろだ、騎馬民族は来たがそれは狗奴国である、などである。
古墳の発生
古墳とは、日本の学者の言い習わしでは「大きな墳丘を持つ墳墓」(高塚式古墳)を指す言葉である。古墳を作るのには大変な労働力を要する。これにより、祭られた者が相当な権力者であることが推察できる。古墳は支配体制と直接関係のある問題なのである。
前期古墳の発掘
古墳には被葬者の名は一般に書かれない。しかし天皇陵であれば話は別である。こちらは陵墓の位置や大きさを示した資料が現存するからである。天皇陵の調査は現在宮内庁により厳しく制限されているので、この節では過去に発見された棺や副葬品、航空写真などから考察を行っている。
倭建命の物語
倭建命という物語が古事記と日本書紀に存在する。しかしそれらは、ところどころ食い違っており、後から挿入された物語であると指摘されている。旧辞が作られたのは6世紀以降である。遠い昔に大和朝廷の命令によって戦いに赴き命を落とした者たちの数々の物語が、この時英雄譚に形象化されたのだと考えられている。
神功皇后と朝鮮の記録
神宮皇后は「新羅征伐」という物語に登場する。この物語が伝説であり、史実ではないということには争いがない。新羅との関係が悪化した際に作られた物語という説も、純粋に宗教的祭儀から生まれた神話であるという説もある。いずれにせよ、朝鮮出兵とともに国土統一が起こったことは間違いなく、そこから応神天皇の歴史が開けてきたのである。
 
最初の統一王朝

 

応神天皇の出現
3世紀末から4世紀までは謎の世紀と呼ばれている。基本的に古代の日本の歴史は中国の資料を頼りにして考察を進めるのだが、この時期は中国が日本に勢力を及ぼせなくなっていたからである。この節では、応神天皇の実在性及び実在すると仮定した場合どのような政治的行為をなしたかを学説をいくつかあげて紹介している。
古墳は語る
応神天皇は巨大な古墳に埋葬されたと古事記に記されている。古墳を観察することにより、その時代の文化が見えてくる。たとえば応神陵からは馬具が出土しており、これはこの時代に乗馬技術が伝わった可能性が高いことを示唆している。また、古墳の規模から、当時の土木技術の程度も推測することができる。古墳は盗掘されることが珍しくないが、この応神陵だけは盗掘の形跡がほとんど見つからないという。この時期に日本の統一王朝は南朝鮮に領土と支配権を確立して拡大し、鉄資源が豊富にもたらされたということも武器などの出土品から判明している。鏡や玉類がこの時期多く、弥生時代に流行った腕輪はほとんどなくなってしまう。鉄により甲冑や武具が作られるようになり、さらには馬専用の鉄仮面も現れる。これは、戦争の形式が歩兵戦から騎馬戦にシフトしてきたことを示している。このほか家の形をした埴輪により当時の住居形態が窺えるなど、古墳は語る歴史は枚挙に暇がない。
大陸文明の摂取
大和朝廷は5世紀には漢文を作成していたことは確かであるので、漢字の伝来はそれ以前ということになる。古墳の出土品から漢字は応神朝以後に急速に普及したと著者は考えている。応神朝は帰化人を管理する役職があり、これによって言語だけでなく手工業技術も彼らから得ることができた。このころの日本は百済をほとんど属国扱いしており、410年ごろには王位の交代まで干渉して人質を取り、政治的優位にものを言わせて技術者を盛んに呼び寄せるなどを行っていた。これにより機織術や窯業が発展する。工業により富を蓄えた者が身分を高め、さらに技術が地方にも伝達して国レベルで生活水準が向上していく。
応神王朝の落日
応神朝の権力は次第に衰え、6世紀を迎えるころには朝廷での実力を失ってしまったとされている。この原因は、天皇家とその最有力の協力者であった葛城氏が皇位継承を巡って反目しだしたのが原因と考えられている。朝鮮の拠点であった任那も反乱を起こし、それに有効な対処をすることもできず、応神朝は没落の一途を辿っていった。
 
古代国家への歩み

 

磐井の叛乱
520年代には北九州の豪族磐井が乱をおこす。このあたりの記述を欠く「古事記」でも、よほど重大な事実だったので、日本書紀とともに記されている。結局磐井は朝廷に討たれる。北九州は平定され、その後朝鮮の支配力を取り戻すために、多くの族が朝鮮に送り込まれている。
蘇我氏の抬頭
大伴氏は朝鮮経営の失敗の責任を蘇我氏に追及され失脚。大伴・物部政権から物部・蘇我政権に移ることになる。この時代、朝鮮からの貢物が多くなったので、財産を管理する三蔵(大蔵省の期限)を設立し、貿易への課税、課税のための戸籍制度などが発達した。7世紀後半には、律令制により全ての農民に戸籍が割り当てられることとなる。
仏教伝来
百済に仏教が伝わったのもこのころである。初めは迫害されていたが、部族を超越した主権を設立するに当たり、仏教のような思想は便利であったので、次第に時の政権に組み込まれていくようになる。仏教は日本でも政治的に扱われた。最初は迫害され、蘇我氏が私的な礼拝を許される程度であったが、6世紀末、用明天皇が死に、蘇我氏と物部氏が皇位継承をめぐって対立。蘇我氏が物部氏を倒し、崇峻天皇を立てて蘇我氏が独裁政権を築くことになる。 仏教政策も行われ、588年(崇峻一)に法興寺(飛鳥寺のこと。「法興」は、新羅で仏教を初めて保護した王の名前)の設立が決定。その後崇峻天皇と蘇我氏は対立し、崇峻天皇が殺害される。そして推古天皇が即位することになる。このとき7世紀に入り、聖徳太子の政治がはじまり、604年の十七条憲法、645年の大化の改新、672年の壬申の乱に繋がっていく。
 
古代国家の成立

 

新王朝の出発
飛鳥時代は発展の時代、奈良時代は衰退の時代だった。この書籍では、大化の改心以前を飛鳥時代、大化の改心意向を白鳳時代と呼ぶことにする。明確な区分がないからである。6世紀には小古墳が急激に増加するが、これは民衆の死に対する意識が変化し、また生活にゆとりができたことの証左と考えられる。帰化人からの技術伝達が生活レベルの向上の原因と考えられている。集落単位ではなく、家族単位での墓も見受けられるので、これは生活の単位が集落から家族へと変遷している様子を示している。もっとも、豪族がこれらの家族をまとめ上げて地方で権力を振るったのは従来と変わりがない。日本が属国扱いしていた任那は、北の高句麗が新羅と百済を追い詰め南下させたことにより、その領域が侵され始め、莫大な軍事費をつぎ込んだにもかかわらず、支配を継続することができなくなった。中国への遣使も478年で中断されてしまい、外交が衰退する。6世紀には、朝廷は権力基盤を固めるため、屯倉(収穫物を修める倉がある朝廷または天皇の所有地)の設置、朝鮮出兵(前述の通り失敗する)、氏姓制(地方豪族による分権政治)から官司制(官吏による中央集権政治)への改革を行った。天皇と蘇我氏は表向きは地方豪族をまとめ上げるために協力していたが、朝廷内ではどちらが覇権を握るかの争いをしていた。
保守派物部氏の没落
物部氏は古代の神前裁判を掌理していた。警察権力・裁判権力を有していた物部氏は、次第に専制政治を目指す天皇に接近していく。5世紀最大の専制君主である雄略天皇のときは最もその繋がりは強かった。物部氏は排仏派・保守的氏姓主義、蘇我氏は親物派・進歩的官司主義であるので、その対立は次第に強まっていった。権謀術数の果てに、576年物部守屋が滅び、蘇我氏および崇仏派は自由に活動ができるようになった。物部氏はこれ以降、二流の氏族に甘んじることになる。この翌年、法興寺の建設が始まる。
推古女帝

 

その死により物部氏と蘇我氏の争いの原因となった敏達天皇には炊屋姫という皇后がいた。炊屋姫は敏達天皇死去後も政権内で大きな権力を持っていた。崇俊天皇即位の際にもこれを推薦した(実際の推進者は蘇我馬子である)。蘇我馬子(炊屋姫とは伯父と姪の間柄)は政治上重要なことを行う場合は、形式的に炊屋姫を表に立てて、政治的正当化を図ったのである。蘇我馬子、炊屋姫の権力強く、即位した崇俊天皇は影が薄かった。実質的に、天皇は政治から締め出され、蘇我氏の独裁政権となる。崇俊期の政策は三つ。(1)仏教興隆・(2)東国経略・(3)任那復興の三つである。(1)物部氏が衰退したことにより、蘇我氏は堂々と仏教政策が行えるようになった。百済からの仏教関係の技術者や僧侶を優遇し、さらに使者も出して、飛鳥時代の仏教の基盤とした。このとき法興寺(飛鳥寺)の建設も始まる。(2)東国には国造(ヤマト王権の地方分権的支配形態の長)が大勢おり、天皇家にとって経済的・軍事的に重要な基礎であった。経略(統治すること)が天皇主体か藤原氏主体かで、天皇の軍事基盤が強まったか弱まったかが異なる。天皇が行えば東国におけるその威厳は増し、天皇の勢力は強くなるが、蘇我氏が行えばその逆となる。時代背景から察するに、蘇我氏が主体だったのではと思われるがはっきりとはしていない。(2)蘇我氏の勢力で、継体天皇以降半世紀ぶりに任那進出が目指される。任那復興である。このころには随分と戦力も安定してきたものと思われる。九州に2万の兵を待機させたが、後述する崇俊天皇の殺害により、任那には渡らなかった。592年、崇俊天皇が蘇我馬子により殺害される。天皇に不穏な動きがあったとされている。この後、推古天皇が即位する。他の候補が病弱であったり、政治的に微妙な立場であったりしたからという理由での、異例の女性天皇即位であった。通説は厩戸皇子(聖徳太子)の摂政によるものであり、皇太子中心の政治の発端となったというものであるが、当時厩戸は18-19歳であるので、現実的ではないという意見もある。
女性天皇即位には、皇后の経済的安定も影響していると考えられている。敏達天皇の時代に私部(キサキベ)という部が中国から伝来してきた。この制度は、后妃と皇帝を切り離すというもので、論理的帰結として后妃の財産は国費ではなく后妃の私有財産となる。この制度が日本の后に及べば、女性皇族の経済的基盤が安定するという塩梅である(それまでは正妻と妾の区別が曖昧であった)。后が安定するのならば、上に立つ大后(おおきさき=皇后)は絶大な権力を持ったと思われる。このとき、みこ(皇子)とひつぎのみこ(皇太子)の区別も生じてくることになる。このような権力の安定化が、後の蘇我氏打倒のための地力となったのであろう。このころ近親婚が多かったが、天皇はその血筋が重要とされるので、他の氏族から人を求められなかったからだろう。逆に近親の度合いが大きいほど、天皇家の勢力が強く安定しているといえる。
聖徳太子の立場

 

聖徳太子は敏達3年(574年)に産まれた。父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女で両親とも皇族であり、蘇我氏と近い血縁にある。当時中の悪かった堅塩媛系と小姉君系の両方の血族であったため、政界での入り組んだ関係の結び目に属していると言える。太子自体の婚姻関係も、天皇および蘇我氏とのつながりが強かった。崇俊天皇暗殺時には、他にも有力な皇子がいたので、太子が推古天皇の即位と同時に太子に定められたかは疑わしい。厩の中で生まれたから厩戸皇子と言い、これは唐から伝来したキリスト教のイエス降誕の影響がある、10人の訴えを同時に聞いて判断を誤らないなどという逸話が残っているが、いずれも後世の創作と思われる。「日本書記」以降はどんどんそう言った、太子の天才ぶりを表す内容が増えていく。厩戸皇子は推古8年ごろまでには太子の地位につき、推古天皇の摂政となり、権力のすべてではないが、かなりの部分を握ることになる。蘇我馬子も天皇を補佐する役割にあった。馬子は当時50代、対して太子は26歳。経験の差が大きいのを悟り、太子は馬子との正面衝突は避けつつ適宜横暴を抑えるという政治的立場を取った。馬子としては、天皇の伝統的権威を祭り上げつつ、実際の政治は蘇我氏を中心とする豪族連合の強化・官司制の整備に務めた。天皇を不執政の立場に置き、実験を蘇我が握ろうという魂胆である。図らずも近代の象徴天皇に通ずるものがある。太子は朝廷の権力を強める官司制には同調し、天皇の専制的地位の回復に努めた。新羅征伐は崇俊朝からの継続事業である。591年に2万の兵を派遣し、598年には新羅を恭順させた。600年には新羅に再び攻め込むと共に、隋に使者を送った。これは、実力を以て新羅を討つことの承認を求める意図があったと言われている。新羅征伐は、任那が滅んで得られなくなった貢物を新羅に肩代わりさせる目的であった。貢物が具体的に何であるかはわからないが、金・銀・鉄、錦・綾などが伝説には書かれている。鉄は武器になり、貴重品は装飾により朝廷の権威を高めるのに役立つから、恐らくそのような目的だったのだろう。602年、朝廷は再度新羅に兵を送る。このときの兵力は25000人であり、皇族が指揮官となっている。皇族が外征軍の指揮官となるのは前例がない。これは太子の計画だったと思われる。太子は豪族をまとめ上げ、軍隊を編成し、朝廷の権威の復活をはかり始めた。
日出ずる国からの使者

 

607年、多利思比孤、これは聖徳太子の事と思われるが、彼によって日本から隋への使者が送られた。しかし「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という日本と隋を対等にみる内容の国書に隋の皇帝、煬帝が悦なかった。隋からしてみれば生意気な文章である。だがこの時、隋は高句麗と交戦しており、苦戦を強いられていた為に日本と手を結んだほうが良いと見て、翌年の遣隋使の帰りに裴世清らを返礼の使者を同伴させている。また、帰路に於いて小野妹子は百済人に隋の煬帝からの国書を奪われている。この事について豪族達から大きな失態であるとして小野妹子を流罪に処するようにとの判決が下った。しかし天皇は小野妹子を罰するよりも、国書を奪われた事が隋からの使者に知られることを恐れ、彼を赦した。ところで、この事件において小野妹子に厳罰を下すように判決が出たのは何故であろうか。隋と国交を結ぶと言うのは従来の朝鮮諸国との外交を出し抜く物であるから、蘇我氏を始めとした遣隋使に反感を持つ勢力があったと思われる。大和朝廷は小野妹子らに同伴してきた隋からの使者に対し、国力を示すためか盛大に出迎えをしようと試みる。だが、当時の日本の国力からは厳しいものがあったのか、準備期間が必要で、この間隋からの使者は難波で待たされていた。1ヶ月半後、ようやく彼らは都入りし、天皇の御前で儀式を行った。この時天皇は使者に姿を見せていない。小野妹子も隋の都洛陽では皇帝煬帝に直接あっていないと思われるが、日本は隋と同格である事をたてまえとするので、煬帝と同じように使者に顔を見せないことでこれを示したのでは無いだろうか。隋からの使者の帰りに小野妹子らが同伴し、使節とされた。この時煬帝にあてた国書もまた隋と日本が同等である事を表す内容であった。こうして宮廷内では天皇が隋の皇帝と対等である事が示され、天皇の権威は高まっていった事と思われる。又、「天皇」の称号は推古朝の時、「日本」の国名はその少し後、大化の改新の頃から用いられたと推測される。
いかるがの大寺

 

日本書紀によると、605年から聖徳太子が住んだという斑鳩宮跡が法隆寺の敷地内から発見されたが、この周辺には飛鳥時代創建と伝えられる寺院が多く、斑鳩に移った後の太子が仏教興隆に力を注いだことが推し量られる。この事から、現代に残る多くの書物が太子について誇張して語っているが、仏教に熱心だった事については全く根拠の無いことではないと思われる。また、法隆寺は太子の創建と伝えられているが、太子による創建当時の法隆寺は670年に雷火で焼けている。その為現在の法隆寺は再建されたものであり、このことは今でこそ誰もが認めるところであるが、この意見にまとまるまで、僧侶を中心とした「現在の法隆寺は再建されたものではなく太子による創建当時のものだ」という非再建派の反発があった。太子は日本書紀によると621年に没し、神聖とされる二上山の西麓に葬られ、後に推古・孝徳天皇もこの地に葬られている。
クーデター前夜

 

聖徳太子が亡くなった後、蘇我馬子が官僚のトップに立って揺るがぬ権力を持っていたが、太子の功績により天皇の権威が高まり、豪族達の気持ちも天皇家に向きつつあった。この事から晩年の馬子は焦りがあったようで、政治手腕にも以前のような鋭さが失われてきていた。特に、623年、調の催促のため蘇我馬子の計画によって大船団が送られたが、先に大和朝廷の名の下に送られた使者と新羅で鉢合わせしてしまい、新羅に日本の政治の不一致を暴露してしまう結果になった。また、権力が蘇我蝦夷・入鹿父子に移ってからは、温厚な父蝦夷を押しのけて、生まれながらのエリート、勝気で傲慢な息子入鹿が台頭してきた。彼は同じ血の流れる古人皇子を皇位につけるため、対立する皇子を打ち滅ぼすなど少々血気が盛んであったようだ。また、これまで蘇我一族を支えてきた豪族連合との協調を無視して独裁者の様な振る舞いをしたため、天皇家だけでなく、上・中流豪族を敵に回しつつあった。そんな中、中臣鎌足は打倒蘇我家を掲げ、軽・中大兄の両皇子や曽我家の有力者石川麻呂を味方につけ、迅速にクーデターの計画を進めていった。
改新断行

 

中臣鎌足と中大兄皇子は、高句麗・百済・新羅三国の調をすすめる儀式を騙り、蘇我入鹿を暗殺する計画を立てた。645年6月12日、クーデターは決行された。翌日、甘橿岡の邸宅にて蘇我蝦夷は自殺した。皇極天皇は中大兄皇子に位をゆずろうとしたが、中大兄は辞退し、軽皇子が皇位についた。これが孝徳天皇である。6月14日のことであった。即位の式から5日目の6月19日、大化という年号が定められた。新政府の基本方針は、官制を唐にならって整備し、天皇の権力を強化してゆく、という点にあったと思われる。孝徳即位の翌月、高句麗・百済・新羅三国の調をすすめる使者が来朝した。いままで新羅が担当していた任那の調を、百済がかわって納めた。新政府は代納を認めたが、調の物が不足であるとしてつきかえした。新政府の意気さかんなさまがうかがわれる。調をつきかえした翌日、天皇は左右大臣に詔して、大夫と伴造たちに施政方針についての意見を出させるよう命じた。大夫と伴造は、最下級をのぞいた中央官僚の大部分を含むことになる。かれらへの意見の提出の要求は、新政が天皇権力の強化をめざしながらも、朝廷が氏族連合によってなりたち、朝議が群臣の合議によってきまる、という伝統を無視できないでいることを示している。やがて形成される日本の律令制の中央政府は、この合議制と天皇専制のつりあいのうえに組織されていることを特色とする。左右大臣と大夫以上を成員とする合議制が、日本独特の政策決定機関である太政官制の母体となるのである。革新的意義を持つ政策は、次の五つである。第一に、全人民の戸籍の製作と、田の面積の調査を命じたことである。第二に、大和にある天皇の直轄地である6県に使者をつかわし、造籍・校田を命じたことである。第三に、朝廷に匱と鐘を置き、自分の属する伴造や族長の裁判に不服のあるものは、その匱に投書して直接朝廷に訴えることをゆるし、朝廷の裁定になお不満のあるものは、鐘をならしてさらに訴えることをみとめた(鐘匱の制)。第四に、男女の法を定めた。男女間に子どもが生まれたとき、子を父母のどちらの所属にするかをきめた法である。良民と賤民の区別をきびしくしようというものである。第五に、僧侶を統制するための十師と、寺院を統制するための寺司・寺主・法頭を任命した。以上は、公地・公民制を基軸として中央権力の強化をはかろうとする新政府の政治方針にのっとったものといってよい。この間、古人大兄皇子の謀反のくわだてが露顕し、中大兄は古人皇子を殺した。645年の末、都は飛鳥から難波にうつった。その難波宮で、新政の大綱が四つの項目にわけて発表された(大化改新の詔)。それは、第一条で公地・公民の原則を明らかにし、第二条で京および地方の行政組織と交通・軍事の制をととのえること、第三条では、戸籍・計帳・班田収授の法を立てること、第四条では、古い税制をやめて田の調以下の新しい税制をおこなうことを定めたものである。しかし、改新の詔に関する「日本書紀」の文は、その編者が「浄御原令」や「大宝令」の条文を参考にして文章を飾り、形式をととのえ、りっぱなものにしあげたのではないかと思われる。とはいえ、すべてが編者の造作ではなく、従来の制度から見れば大革新の制作発表であったことに異論はない。改新の詔を発した政府は、その実施に邁進した。地方豪族は公地・公民制をこころよくうけいれたとは思われないが、土地を要求する民衆の、下からの圧力におされていたこともあり、あまり抵抗の姿勢をもたなかったようである。政府は、大化2年8月にふたたび、天皇以下臣・連らの豪族にいたるまで私有の部民を収公するむねを明らかにし、最下級以外の朝廷の官吏全員に、あらたに百官と位階をもうけ、官と位をさずけることを約束した。また、同じ年に風俗矯正にかんする詔も出されている。大化3年には、冠位の制をあらためて13階にし、同5年には19階とした。これには、左右大臣を官僚制の一部分に組み入れるというねらいもあった。大化改新の成果は、第一に、天皇を中心とする政治体制の確立、第二に、中央集権体制の樹立、第三に、公地・公民制の成立、第四に、政府が依然として地方の有力豪族をもって構成されていること、である。ゆえに、大化改新は社会構造の変革をめざす改革ではなく、政治改革であると考えられる。とはいえ、社会変革的な性格がまったくなかったのではない。大化改新の原因は、多くの議論があるが、6世紀以来の政治と社会の発展によって導きだされた必然の結果であり、それを促進したものとしては、大陸の影響があった。
難波の都

 

左大臣倉梯麻呂が亡くなり、その後、右大臣である石川麻呂が謀反の疑いをかけられて処刑されることとなった。新しい左右大臣には、それぞれ改新当初の功労者である巨勢臣徳太と名門の長老である大伴連長徳が任命された。左右大臣は、このときから氏族の上に立ち天皇の政治を助けるという機能を失い、官僚になり下がった。天皇・皇太子の専制的地位の確立である。650年に年号が白雉と改められたが、この時に行われた仰々しい儀式のねらいの一つは、天皇の徳を強調することにあったのではないか。天皇絶対の方針を形の上に表したのが、この祝賀の儀式であった。白雉年間に入ると、内政を改革・充実させるための新政策はほとんど出されず、天皇と政府の権威を高めるため、宮廷を飾り荘厳を増すことに多くの力が注がれたようである。651年12月のみそかに、天皇は大郡宮から、難波長柄豊碕宮にうつった。その所在については豊崎村長柄説と上町台地説という二説があったが、大正2年に奈良時代の難波宮の所在地を支持する資料としての瓦が発見され、それを手がかりとして探索が進み、現在(昭和47年)では上町台地の法円坂町の地が長柄豊碕宮の所在地と考えてまず間違いないというところまで来ている。この時、朝鮮の勢力関係は、強大な唐の介入によって一変しようとしていた。
悲劇の皇子

 

653年に入り、孝徳天皇と中大兄皇子との不和が表面化した。中大兄皇子は大和への遷都を望み、天皇はそれを許さなかった。中大兄は母の皇極上皇や弟の大海人皇子、公卿・大夫・百官を引き連れて飛鳥川のほとりの川辺の行宮にうつった。孝徳天皇の皇后である間人皇女までが孝徳をすてて中大兄にしたがい、大和へうつったのは、中大兄と間人皇女が夫婦の契りを結んでいたからではないか。654年には孝徳天皇が亡くなり、天皇の位には皇極天皇がふたたびついて斉明天皇となった。中大兄は皇太子の地位にとどまった。いったん退位した天皇がもう一度皇位につくことは、日本史上はじめてのことである。中大兄皇子が天皇にならなかったのは、間人皇后との結婚が原因だったのではないか。斉明天皇が位についたのは、655年、飛鳥板蓋宮でのことである。天皇は、治世の最初から土木事業を好んだ。小墾田の瓦葺きの宮殿(中止)、岡本宮、両槻宮(未完成)である。度重なる土木工事に駆り出された民衆の不満は高まったと思われる。孝徳天皇の子供である有間皇子は、658年11月に蘇我臣赤兄に唆され、謀反を企てた。赤兄の謀略により有間皇子は捕まり、11月11日に藤白坂で絞首された。これは、中大兄皇子の、自らの地位を脅かす可能性を有する有間皇子を打ち倒そうとする策謀によるものではないかと考えられる。
蝦夷征討と百済救援

 

蝦夷討伐のことは、「日本書紀」には景行天皇の時からみえるが、研究により、これらの記事はあまり信用できないことがわかってきた。大和朝廷が計画的に蝦夷支配をおしすすめるようになるのは、中央集権の体勢がととのってきた6世紀中葉以降と考えたい。589年に、近江臣満を東山道に遣わして蝦夷の国境を観させたという「書紀」の記事がある。また、642年に服属した蝦夷の代表者が都へのぼってきたらしい。6世紀末以来の朝廷勢力伸長の成果を示すものである。中央権力の強化をめざす改新政府は、647年に渟足へ、648年に磐舟に基地を置き、蝦夷対策を積極的に進めた。ところで、蝦夷がアイヌであるという説と、これを否定する説とが存在するが、現在(昭和47年)では、蝦夷は辺境にいたために文化におくれた日本人の一種とする説が有力である。阿倍比羅夫の遠征については、その記事について重複や矛盾があるが、ここでは遠征が二回2年であったとする説にしたがって述べる。第一回目の遠征が658年、第2回目の遠征が660年だったと考えられる。この遠征に関しては、北海道へ渡ったという説と渡らなかったという説があるが、第一回は秋田付近まで、第2回は津軽半島までで、北海道へはついに渡らなかったと考える。日本が蝦夷征討に力をかたむけているとき、朝鮮では新羅が唐と組み、百済を攻撃した。百済はほろんだ。しかし、挙兵した百済の遺民のうち、もっとも有力であった鬼室福信の使者が、人質として日本にきている百済の王子豊璋を、王として百済を再興するために、送りかえすことを頼んだ。百済を助けるということは唐を敵に回すということだが、廟議の末、百済救援が決せられた。661年、斉明天皇みずから西征の途にのぼった。その途中で大伯皇女が、翌年に草壁皇子がそれぞれ生まれた。この年の7月、斉明天皇が急逝した。中大兄は即位せず、皇太子のままで政治をとった。662年の正月に、先発部隊が出発し、百済に豊璋及び軍需品をもたらした。663年に白村江の戦いが勃発し、戦いは日本軍・百済軍の惨敗に終わった。こうして、百済は完全に滅びたのだった。
額田女王と近江朝廷

 

当時、中大兄皇子の他、皇位継承可能な有力候補は少なく、唯一中大兄の同母弟・大海人のみが挙げられた。それゆえ中大兄は大海人へ娘を嫁がせて結束を固めている。この兄弟と非常に関係の深い女性に額田女王がいる。彼女は最初大海人の妻であり、大海人との間に子供を生んでいるが、その後中大兄の妃となっている。だが天智天皇の妃として正式に記録されていないことを鑑みるに、額田女王は神事等に参与する采女的女性であったと推測される。当時、神に仕える采女へのタブーが緩められ、額田女王も自由な行動を許されたのだろう。さて、白村江の大敗北は朝廷の危機に直面するものであり、中大兄は称制として即位せぬままこれの対応に追われた。冠位の制度を定め、また部民制を復活させ、庚午年籍を編纂し、また律令の制定(尤も、この近江令は完成しなかった)に着手することで中央集権を推し進める一方、九州から難波に至る各地に城等の防御施設を築いて対外戦争に備えた。
壬申の乱

 

皇位継承の問題によって、朝廷内で力を握っていた大海人と中大兄、則ち天智天皇との間は次第に冷え込んでいた。天智天皇と有力な氏族出身の女性との間には子がなく、天智天皇の子は孰れもそれほど身分の高くない女性との間の子供であり、確たる地位を築けなかったからである。それゆえ天智は大海人を排斥。大海人は吉野で出家することとなった。しかし天智が崩じると状況が変化する。天智の皇太子であった大友皇子は近江の朝廷の首班となった。彼は天智陵造営の為に人を集め、それが吉野の大海人の猜疑心を煽ることとなる。大人数に攻撃されては危険と感じた大海人は近江の朝廷に対して反旗を翻すと、吉野を脱出して東へと逃げた。これに対して近江側の対応は遅れ、結果として大海人を東へと逃してしまうことになる。大海人は東国の豪族を味方とし、一方で近江の大友皇子は西国の豪族を動員することに失敗した。大伴氏の反逆で大和国も失った近江側は大海人の敵ではなく、大津京は陥落して近江側は滅ぶこととなる。この乱は皇位継承戦争である一方、中央集権に不満を持つ地方豪族の蜂起と言う側面をも持っていた。また、皇族も多数が大海人に味方しており、これは大友皇子の慣例にない即位への反発によるものであったといえる。
「大君は神にしませば」
壬申の乱に勝利した大海人は天武天皇として即位し、近江にあった朝廷を天武は再び飛鳥の地へと戻した。壬申の乱によって有力豪族の大半が壊滅し、功臣のほとんどが中小豪族出身であったことから、天武はより中央集権的な専制君主として君臨することとなる。豪族に代わって朝廷では皇族が要職を占めるようになったが、その皇族も天武を頂点とするヒエラルキーの中に収められ、それゆえ皇族からの不満は高まった。しかし朝廷の官僚制度化には成功し、位階の制を新たに定めて君臣の別を強調し、皇族も臣に過ぎぬと示し、豪族に関しては八色の姓に基づいて順位付けすることで支配に置いた。また、天武は軍事の集権化も図り、地方豪族に分散する軍権を朝廷のもとに集約し、また五衛府制を採用して中央の軍事力強化に努めた。宗教政策も天武は積極的に行った。東国経営の点で重要な伊勢神宮へ手厚い保護を行いまた、多くの神社の修復を行う一方、寺院の創建にも力を入れ、仏教国家の骨格を確立せんとした。国史編纂もこの時代に始まった物と為り、後の記紀成立のきっかけが作られた時代であった。
二上山の歎き
天武もまた後継者に悩まされた。大津皇子・草壁皇子の二子は甲乙つけがたく、どちらを後継者とするにも決め手を欠いたのである。これは結局、皇后の子である草壁皇子が皇太子となることで決着がついた。だが、大津皇子も決して政治的な力を喪失したわけではなく草壁皇子同様政治に参画する。これは大津皇子が才に溢れた皇子であると認められていたからだろう。このことに皇后は大きな警戒感を覚えることになる。その結果、天武崩御の直後、大津皇子は謀反の疑いを掛けられて投獄され、処刑されることとなったのである。ところが皇太子である草壁皇子も急逝。草壁皇子の子である軽皇子はまだ幼かったため、皇后が持統天皇として即位することとなった。
藤原宮のさかえ
持統天皇即位の前年、以前より編纂されていた浄御原令が施行された。これは日本初の総合的法典であり、これによって日本は律令国家の一歩を歩み出す。また同時に編纂された庚寅年籍は個人を把握した初の戸籍であり、これを以て日本は古代専制国家となった。中央官制の整備が進んだのもこの時期である。豪族合議から官僚による中央集権へと体制が変化し、またこれにともなって政府の規模が大きくなったために新たな都も必要となった。その結果が藤原京の造営である。持統天皇はこれより先、薬師寺の造営も行っている。この薬師寺に関しては建立年代に論争があり、未だに決着がついていない。藤原京造営直前、持統天皇は東国視察のために伊勢へ行幸している。以前壬申の乱の主力となったのは東国であり、東国の不満が朝廷を崩壊させる力があることを知る持統天皇は、力役の免除などを東国に与えている。また、柿本人麻呂などの歌人が活躍するのもこの時代である。もっとも彼らは天皇の古代的神性に心惹かれる者たちであり、官僚化の進む朝廷では肩身の狭い思いをしただろう。この時期になると有力豪族が力を盛り返してくることになる。その結果として成立したのが太政官会議である。これは有力豪族と皇族によって構成され、これによって朝廷の政策が決定されたのである。 古代国家としての体制をひとまず整えた持統天皇は軽皇子へと譲位した。これによって日本の古代国家確立期は終わりを迎え、以後は安定期、そして衰退へと進んでいくのである。
 
奈良の都

 

国家と百姓
701年正月、朝廷は31年ぶりの遣唐使を任命した。遣唐使が進発したのは702年6月末であり、2年後と4年後にそれぞれ帰国した。当代の正史である「続日本紀」は帰朝報告をのせている。しかし、残されているのは日本評判記といえる部分だけである。「続日本紀」は全40巻からなる正史だが、前半20巻が797年、後半20巻がその前年に完成献上された。続紀の前半と後半では叙述の詳しさや質が異なる。後半のほうが詳しい。8世紀の文書は概算1万2千点に達し、その99パーセントまではいわゆる正倉院文書である。それに比して、記録(一般に自分自身のために書かれる)は少ない。独立した個人というものが、まだ成熟しておらず、私的なものは公的なものにおおわれ、個人は肩書や身分でのみ判断されていたのである。8世紀にいたって史料が急増したのは、律令制のためではないか。行政上の命令も報告も、文書によることを強制したのである。様々な文献史料から考えると、奈良時代の人口は6百万ほどではないかと思われる。当時の政府も、時の全人口を把握していたものと考えられる。7世紀末の持統朝以来、全国の戸籍は6年ごとに作成されていたのだ。当時の国土の開発情況としては、先進地帯が筑紫・吉備・出雲・毛野、後進地帯が陸奥・出羽・飛騨・日向、そして大隅・薩摩であったようである。奈良時代は、人口6百万のうち、20万くらいが都に集中していたらしい。都の性格を規定するならば、政治的都市だといえる。役人の数は約一万人と推定される。一万余の官員、百数十の貴族、10数人の公卿たち。これが8世紀初頭の日本の中央である藤原京、さらに奈良京の役人たちである。
律令公布

 

701年の晩春3月、対馬で金山が発見されたとの内報があり、年号が大宝と改められた。また、新令によって官名・位号(位階)も改正された。しかし、対馬には金山などなく、三田五瀬の詐欺であったとされている。律令公布の式典は無事にすんだが、式典と同時に実施されたのは「官名・位号の改正」だけで、ほとんどの者は新しい律令に何が書かれているかを知らなかった。そこで翌4月から官人たちにたいする新令の講義が始まった。官人は諸親王、皇族・貴族一般、六位以下の下級役人という三つの組に分けられた。新令のうちの僧尼令は、政界と仏教界との関係に一つの波紋をひろげることになった。6月にいたり、今後一切の行政は大宝令の諸条文にもとづいておこなえ、国司・郡司は租税である米の管理を徹底せよ、という勅が発せられた。大宝令は、国司・郡司を上下関係の行政官とし、租税管理を両者の共同責任とするために、各地方の収支決算を大税帳に書きあげさせ、毎年中央に報告させることにしたのである。これは画期的な中央集権強化策であったが、新令が手元になかったため、国司・郡司たちを困惑させた。大宝令はその年の8月以降に各地方で講義されることになったが、現物が配布されるようになったのは翌年の10月以降であった。それに対し、律の公布は令よりもしかるべき順序をふんでいる。令と律の違いは、令が発表を急いだという事情があったからであるようだ。持統女帝が急がせたのではないか。律令の編集者を見渡すと、帰化人系統の諸氏が多いのが目立つ。律令の具体的な編集過程は不明だが、下級の編纂官たちは巻別に担当分を決めてはいただろう。大宝律令は、施行後50余年で養老律令と交代した。養老律令は大宝律令の改訂版である。編纂主任は藤原不比等であったが、彼の死後、自己の権力の正統性を内外に認識させようとする孫の仲麻呂によって日の目を見た。ただ、大がかりな修正はなく、またその原典は散逸している。大宝の律は6巻、令は11巻であったのにたいし、養老のそれはそれぞれ10巻だった。この巻数の違いは、中身が変わったからではなく、巻物の長さを変えて調整したからだと思われる。令が大宝以前からあり、まただいぶ日本ふうに改めているのに、律が唐の直輸入で済んだのは、律令の内容や性格にかかわる。令とは君主の臣・民にたいする命令であり、教令である。この令にそむいたときに、律が発動される。律令がどの程度、当時の社会に徹底したのか、それは答えにくい。概して8世紀、とくにその前半の日本人は、律令制度を本気になって実現しようとしていた、という程度に答えるよりしようがない。ただ、律のほうは、令に比べるとおこないやすかったといえる。
平城遷都

 

708年、秩父より銅が発見される。これに因んで元号を「和銅」と改め気分一新といった装いである。この「和銅」は野血の和同開珎とは関係は無いとされる。翌年、平城京の建設が決定される。現在の平城京の地が選ばれた理由だが、北に山があり南に開けており、陰陽思想に適う為とされる。遷都の理由であるが、遷都をする事により災いを祓うといった呪術的意図、交通の便などを挙げている。当時の詔も陰陽思想に適う地である事など中国の思想を引用しており、この頃の日本は中国の思想を好み、あるいは傾倒していたことが伺われる。都の形状はいわゆる碁盤の目、朱雀大路から北に4坊、東に7坊、南北に9条の路を敷き、12の門を構えている。きっと歴史の教科書などで目にした事があるかと思う。都の造営にあたり、大勢の農民が刈り出されたが、厳しい労働環境の為に逃げ出す人も多かった。逃げ出した農民がいると彼らを連れ戻したり、同じ郷から代わりの人が呼ばれた。また、逃亡を防ぐために土木工事には武官が用いられるのが常であった。平城京の凡その造営が終わると貴族官人、市民が一斉に引越しを始め、その様子は万葉集の中に歌として残されている。
女帝

 

奈良時代には多くの女帝があった。710年-784年、元明-桓武朝の間に女帝は元明、元正、孝謙=称徳天皇の4代、治世は約30年にわたった。女帝では政(まつりごと)に差し支えは無かったのかといえば、特には無かったようだ。祭祀面に於いては、祭りの場の中に巫女のような女性がいるのはなんら不思議ではないし、政治面に於いても、皇族や大臣達を信頼して政を行えば滞り無く進行した。だが、基本的に天皇は男性が継いでゆくものであり、凡そ彼女らは中継ぎ、「仲天皇(なかつすめらみこと)」であり、やむを得ず即位しているものである。例えば、元明天皇の場合は、先代文武天皇の嫡子首皇子が7歳だったために、仕方なしに即位したものである。ところで、このように跡継ぎに悩まされていたようだが、天皇家は先の大化改新や壬申の乱、また近親結婚による血の凝縮の為に天皇になりうる皇族そのものが減っていた。この危機をどちらが悟ったか、天皇家と当時優秀な人材を輩出していた藤原家とが結びついてゆき、皇族の減少という危機を逃れ、同時に野血の藤原家の繁栄の土台を築いてゆく事となった。また、この頃、地方の政治にも力を注いでいたようで、中央から地方観の心得を箇条書きにして要求する、また国司を監督する官、按察使を任命したり、郷里制を定めたが、これらは唐のものをまねたものが多い。更に蝦夷や隼人に軍を繰り出して朝廷の制圧下におき、土地や人民を増やしていった。彼らの同化政策には僧侶を送り、仏教を用いることもしている。また、現代に残る書物もこの頃から書かれ始め、712年には古事記が撰上され、よく年には風土記の進上を命じ、720年には日本書紀が奏上されている。
貴族の生活

 

位階による待遇や収入などが述べられているが、とかく従5位以上からは特別待遇、重要な役職も与えられるし、給与も桁が変わる。また、子や孫にも階位が与えられるし、裁判でも刑が軽くなったりする。彼ら貴族の生活だが、なかなか多忙だったようで、朝も日が上がりきらぬ頃から起床、朝食もそこそこに・・・天皇ですら干飯を湯漬にして、つまり粗末な茶漬けである。これをかき込んで出勤して行ったほどである。ちなみに食事は朝夕2回だ。午前中に職務を終えると午後は勉学に励む者、友人の家を訪ねる者、帰宅する者さまざまである。また、彼らの帰宅先、都の邸宅には家族だけでなく、奴婢や時には僧侶、また上流貴族に派遣される家司という役職の人達も住んでいた。6日に1日の休日には都の外の別邸に行ったり、友人と遊んだり、日帰り旅行などを楽しんだようだ。彼ら貴族の仕事は都だけでは無い、一生の内に何度かは国司として地方に派遣される。期間は平均して2-3年である。例えば中納言大伴旅人も大宰府に派遣されているが、彼が派遣されたときは齢も60を超え、不安も大きかったであろう。彼はもう都に戻れない覚悟をしたか、まだ幼い家持や妻など家族を連れて出発した。派遣先の府では度々宴会が開かれたが、筑前守山上憶良も旅人の宴会に度々列席していた。この大宰府に集った旅人や憶良らのグループ「筑紫歌壇」の歌は万葉集にも多く収録されている。また、まだ幼かった家持とって、山上憶良の印象が強かったらしく、後に自分の歌の師と仰いでいる。
郡司の館

 

多胡郡碑は奈良時代より残る石碑である。碑文の解釈には様々な説が存在しているが、郡司によって撰文されたであろうことが推測される。郡司という職は、位階が上がっても転任することがなく、また官位が自分より下の国司に対しては礼を払わねばならぬなど、律令制の中では異彩を放っていた。しかしこれは、地方豪族を郡司に任じねばならぬという朝廷の限界から来たものである。そしてこの郡司職は、国司の介入もありながらも、地方豪族の嫡流によって相続されていくことになる。また郡司の家柄の者は、都で官位についたとしてもやがて外位に回され、栄達の道はなかった。そしてその収入たる郡稲は次第に正税に吸収され、郡司の地方官化が進むことになる。しかし郡司は在地豪族であることを背景に地方で勢力を拡大、富豪として大きな財を蓄えることになる。
家族と村落

 

正倉院に残る文書には、幸い戸籍も残されている。その戸籍には戸主名・氏姓名をはじめとした構成員全員の個人情報が書かれている。この戸籍には二種類の戸がある。郷戸と房戸と名付けられ、郷戸主が戸主としての課役があった一方、課税は房戸で行われた。このどちらが生活の実情に近かったかについて、郷戸のような巨大家族が同居していたと考える説と、戸籍が作られて年月が経ち、子孫が増えて戸が実情とあわなくなった、とする説がある。
村人の日々
この時代の人々は依然竪穴住居に暮らしており、その家は房戸の平均人数・9人にちょうど良い大きさであった。土器は専門生産がおこなわれるようになり、また様々な神を祭って生活していた。耕地では条里制が布かれ、整然とした姿をしていたと考えられるが、この条里制がいつごろから行われるようになったかについては、確たる説はない。班田収受も、実際は規定通りの広さの田が与えられたとも限らず、また造籍の間隔や造籍から班田までの期間などもあって、与えられぬままの人間も多かった。そして与えられた田が遠いということもあった。また実際は朝廷や地方豪族によって大きな田が経営されており、農民たちはそこに出稼ぎに行って小作料を払い耕作を行っていた。しかし男は防人などとして徴用されることもあり、その際には代わって女性が働き、時には借金することもあった。また奴婢には奴婢としての躾が為され、売買も行われた。
和同開珎

 

奈良時代の代表的な貨幣、和同開珎が発行されはじめたのは708年である。銀・銅の二種で、銀銭は翌年発行を中止したが、銅銭のほうは760年万年通宝に交代するまで大量に鋳造された。和同開珎を「開珍」(かいちん)と呼ぶ説もあるが「開寶」(かいほう)と呼ぶ説もある。後者は江戸時代の学者が言いだしたことだが、前者の説が妥当であろう。銭貨の発行は、かねてからの政治的懸案だったが、武蔵国秩父郡からの自然銅の出現を瑞祥として鋳造を始めたのではないか。鋳造を担当する部署を鋳銭司ないし催鋳銭司という。各地の鋳銭司から送られてきた新銭の発行方法について、和同開珎発行当初の方法はよくわからないが、朝廷関係者に布や米で買いとらせるという形で発行しはじめたのではないかと推測される。711年には、朝廷は和同開珎を流通させるため、蓄銭叙位法を制定し、蓄えた銭を朝廷に献納する者には位階を与えることとした。712年には、役夫にたいする賃金も銭で支払うことにし、また調庸も銭で送るように命じた。いわゆる銭調である。銭調を送ってきた国は畿内周辺の8ヵ国であり、奈良時代に銭貨の流通した地域はこの程度だったと考えられる。また、銭貨の流通において、遠隔地商人の果たした役割も無視できない。銭貨の回収は限られていた半面、放出のほうは常時つづいていたため、慢性的なインフレーションが起きた。社会においては贋金づくり(私鋳銭)も育っていた。それほど技術が普及しつつある時代だったのである。
長屋王と藤原氏

 

720年に右大臣藤原不比等が没し、その1年4ヵ月後、元明前女帝も病没した。両者のあいつぐ死は政権に大きな動揺を与えることになる。不比等には4人の息子と何人かの娘がいた。長男武智麻呂、次男房前、三男宇合、4男麻呂である。不比等の娘たちの結婚の相手は宮子が文武天皇、光明子が聖武天皇、多比能が橘諸兄であり、長屋王の妻となった娘もいた。長屋王の父は高市皇子であり、母は正史でははっきりしないが、元明女帝の姉、御名部皇女だと思われる。長屋王には、不比等の娘のほかに、正妻として、元明女帝の娘であり元正女帝の妹である吉備内親王がいた。715年、長屋王と吉備内親王の間に生まれた子女は皇孫として待遇する、という勅が出た。721年に、王は従二位右大臣となり、武智麻呂が中納言となった。朝廷の政務を議決する公卿の構成は、長屋王のもとに大納言多治比池守、中納言巨勢邑治・大伴旅人および藤原兄弟となった。藤原右大臣および元明前女帝の死後、藤原兄弟の権力の増大に対する不満が浮かび上がってきた。しばらく、長屋王と藤原兄弟との妥協といった感じの政権はつづく。社会的にも難しい時代であり、朝廷貴族の厳格主義に対する百姓側からの反動も生まれた。戸籍の虚偽申告なども全国的に行われた。723年初夏、三世一身の法がでた。太政官奏である。いわば官営の百万町開墾計画を民間の開墾にきりかえた形である。長屋王が公卿の首席であった時代の歴史的意義は、民政上の政策よりもむしろ文学史上にあった。王の佐保の山荘には多くの官人や新羅の使者、聖武天皇や元正女帝などが招かれ、当代詩人のサロンとよばれるにふさわしかった。724年、皇太子首皇子は聖武天皇となり、長屋王は正二位左大臣になった。727年、聖武天皇と光明子との間の皇子が生まれ、基と名付けられたが、その皇太子は1年経たずして病死した。翌年に、漆部君足と中臣宮処東人の密告により、長屋王とその子らは自決させられた。同年8月に神亀6年は天平元年と改元され、光明子の立后宣下があった。藤原不比等とと元明天皇の死後開始された政権をめぐる暗闘は、長屋王の自経と光明子の立后により、藤原4兄弟の圧勝という形で終わった。
聖武天皇・光明皇后

 

聖武天皇の生まれは8世紀の最初の年で、兄弟はなかった。若いころは狩猟が好きで、筆跡については、敏感な、線の細い文化人という定評がある。帝王学の教科書としては律令や算術の書物のほか、主として中国の古典が使われたらしい。また、一般教養のほかに、為政者としての心掛けを記した書物を身につけねばならなかった。光明皇后は幼少より頭がよかったと「続日本紀」には記されている。仏教への関心もあった。光明立后が実現したときから2年ほどの間に、朝廷の公卿たちはだいぶ入れかわった。731年の勅が、官人による参議の推挙を求めたのは、政治的責任を推挙した官人たちにも分担させるためであろう。藤原一族が圧倒的になった政権では、政治的責任を諸氏に分散させることができないからである。社会においては、長屋王時代からの動揺はますます広がりつつあった。新政権の構成者を推挙させたのと同じ日、朝廷は当初好ましからざる目で見ていた僧行基に対する扱いを一変させた。745年には、行基は大僧正に任ぜられた。このような朝廷の態度の変化は、仏教にたいする態度一般の変化でもあった。光明皇后が皇室の内部において、ものの考えかたを儒教的なものから仏教的なものへと変える役割を果たしたのではないか。しかし、さしあたっての社会的動揺に対して、新政権は武力でたちむかった。735年、天然痘が新羅から北九州に侵入してきた。翌春出発した遣新羅使は、多くが病に倒れた。他方、奥羽連絡路が開通した。737年には都でも天然痘が発生しつつあり、藤原4兄弟も相次いで亡くなった。藤原広嗣は大宰府の次官に左遷され、時勢への不満を高めていた。その原因として彼が考えたのは、天皇側近の僧玄ムと中宮亮下道(吉備)真備とであった。唐帰りとはいえ氏素性のわるい2人が、かつて藤原兄弟が占めていた席にすわったのである。740年、広嗣による、玄ムと下道真備の処分を要請する上表文が朝廷にとどいた。そして同年9月に広嗣は叛し、聖武天皇は大野東人を大将軍として鎮圧のための兵を派遣した。板櫃河会戦により戦いの膠着状態は解決し、10月下旬には広嗣は捉えられ、翌月に広嗣・綱手兄弟は切られたのだった。こうして藤原広嗣の乱は鎮圧された。
大仏開眼

 

740年以来、聖武天皇は平城京を離れて、4年もの間に渡って恭仁京や難波京へと遷都令を繰り返し、これは膨大な出費になったことは容易に想定できる。745年、病に伏した聖武天皇はその後継者として光明子との娘・阿倍内親王を据えようとするも、貴族より大きな反発を受ける。これは中継ぎでない女帝に対する反発であった。741年、藤原冬嗣の乱に関連して、不比等の封戸が朝廷に返された。その封戸の財を利用して、737年より計画のあった国分寺・国分尼寺の整備が開始されることになる。その国分寺は東大寺の伽藍配置を模しており、ミニチュア東大寺であるといえた。またその瓦は民衆からの寄付・郡への配当によってまかなわれた。華厳経や梵網経をよく学んだ聖武天皇は、743年の冬に廬舎那仏の大仏像を発願する。これには多くの大工や鋳物師が駆り出されることとなる。塑像をまず作り、その上で鋳型を作って銅を流し込む、という方法で作られた大仏であるが、外に塗る金に困っていた。ところが折よく陸奥より黄金産出の知らせを受け、聖武天皇は喜んだ。彼は官位を多くの人へ振舞うと同時に、阿倍内親王へ譲位する。金産出の御蔭で鍍金を無事終えた大仏は、752年に開眼会を迎えた。導師をインド出身の菩提僊那が務め、天皇以下百官の揃う壮麗なものとなった。
大唐留学

 

遣唐使に選ばれるのは、教養があり、高位で、かつ若い者に限られるため、出世頭の者が選ばれることがおおかった。遣唐使も他の官同様に4等官からなり、これに学僧や水夫といった随員が加わる。これらの随員の中には、唐に生まれた者が含まれることもあった。当然翻訳者も乗るが、唐の言葉の通訳とそれ以外の言葉の通訳とでは扱いに差があった。遣唐使では様々な準備があるが、神に祈ることも重要であった。これは遣唐使が非常に危険な職務であったからである。遣唐使の中には、終ぞ帰れなかった阿倍仲麻呂や、マレーまで流された平群広成のような人間も居たのである。そしてそのような準備が終わると天皇に謁見する。そこで別れの宴を行い、そして出発するのである。当時の渡航ルートには北路・南路・南島路の三種があるが、北路は新羅の朝鮮統一以降は用いられず、また南島路は南路を目指した船が漂流してたどる道である。勝宝度の遣唐使の際は、朝賀における席次のことで副使・大伴古麻呂が抗議し、席次を変更してもらっているが、このことから少なくとも古麻呂は漢語に長けていたということが伺える。留学生たちは、長く唐に滞在する者もおり、彼らは唐朝から優遇されていたようである。また日本人と唐人とが結婚することもあったようだ。また、渤海との往来も盛んであった。渤海は当時北東アジアの強国として名を馳せており、衰退する唐に代わって日本も重要視するようになっていたのである。
正倉院宝庫

 

正倉とは、当時は大倉と呼ばれていたであろう官庁、寺院の主要な倉庫の事である。元々は日本中にあり、只の名詞であったが、時の流れと共に多くが朽ちて行き、今日には東大寺の物だけが残り、それを指す固有名詞となったのである。以下それぞれ宝物について。756年、聖武天皇が没した際、光明皇太后が天皇に関係のあった物を、目に触れると泣いてしまいそうであるから、といって収めさせた。このときの供物の詳細を記した国家珍宝帳以下5冊がある。また、聖武天皇葬送の際の供物は従来と変わって仏式の物になったが、これは天皇が仏に帰依した為、としている。以下に正倉院内に納められている(又は、られていた)の主な宝物を挙げる。○箜篌という古代アッシリアが起源の竪琴の残骸。明治初頭に修復された。中国以東では正倉院のみに残る。○中国やインドより伝わってきた薬や香木。○大書家王義之の真跡。但し、後に売却されてしまっている。○6万点に及ぶ玉○1万2千点の「正倉院文書」
恵美押勝

 

この章で取り上げられている橘奈良麻呂の乱(757年)は、藤原仲麻呂VS他の諸氏の権力闘争であった。結果は只管に忠実な中下流貴族・官人を味方につけた仲麻呂であった。奈良麻呂らは人民の辛苦を訴える為に・・・この時、国分二寺の建設費に国富の半分を費やしたと言われるが、その為に武力を用いた。しかし、このときには既に天皇御璽、駅制、太政官印などの通信連絡の手段が発達しており、壬申の乱のような反乱はもはや不可能であった。また、奈良麻呂の訴えが本当に人民のためであるとして人々に受け取ってもらえていたのか。こういった事によりこの乱は失敗に終わった。この乱により大伴、多治比一族といった古くからの名門武官や小野東人、皇族では塩焼王、黄文王、賀茂角足など反乱中心人物以下計443人が処刑、流罪に処された。この章の題名になっている「恵美押勝」は、自らを称える為出した勅によって淳仁天皇から賜った名である。また、天平年間ころから律令制の衰退が明らかになってくる。朝廷の収入は調・租・雑徭から各国・郡でお子なられる正税出挙が主となり、防人や兵士を復員、さらに墾田永世私有法が施行、班田収受も崩れ、国司も只の徴税人になってしまった。橘奈良麻呂の乱で反対派を一掃した仲麻呂だが、大師(=太政大臣、仲麻呂は官名を唐風に変更している)になった頃から孤立し始めた。また同時期から孝謙女帝が銅鏡と親しみ始めている。764年、女帝の逆鱗に触れた仲麻呂は父子で逆賊とされ、仲麻呂に反感を持った貴族・官人達らの力もあり、近江高島で討ち取られた。以後、銅鏡が政界に出てくる。
道鏡と女帝

 

仲麻呂の死後、淳仁天皇に代わり称徳天皇(=孝謙天皇)が復位。道鏡と共に政界に現れた。道鏡の出身は低かったが、呪や禅といった超自然的な力を持った僧として次第に力をつけてゆき、宮中に出入りする看病禅師として女帝に近づいていった。彼女に気にいられた道鏡は、765年に太政大臣にまで登りつめ、翌年法王の名を賜った。彼らが権力を握っていた頃、皇位後継者が定まっておらず、世は不安に覆われ、人々は互いに疑い合い、その為に罪を着せられ処刑される人が後を経たなかったと言う。また、元々山で修行していた彼は、権力を持っていても政治を行うほどの能力を持っていなかった。その為政治は停滞し、財政は窮乏。官民は意気消沈といった具合だった。さらに彼と女帝は乏しい国費をひたすら寺院、宮殿の造営に注いでしまった。西大寺などがそれである。官民を省みない行いをした彼らであったが、女帝が、宇佐八幡宮からの神託を無視して銅鏡を皇位につけようとして失敗、その半年後に女帝は病死し、同時に道鏡も没落した。
 
平安京

 

女帝没後の政局
称徳天皇の皇嗣には藤原百川らが支持する白壁王が立てられ、光仁天皇となった。彼は先ず、銅鏡とその一派、及び皇嗣となる際の対立候補を支持した吉備真備らを政界から一掃、また聖武天皇の娘でおのれの妻である井上皇后と子の他戸皇太子を幽閉し山部親王を皇太子に立てた。後の桓武天皇である。彼光仁天皇以下の政権は、「官人がやたらに多く、人民を食いつぶしている」と指摘、官人削減の方針を採り、人民を苦しめ、農業生産を痛めつける雑徭について、兵士数を減らし、徴兵も「殷富百姓」からのみ行うとした。「殷富百姓」とは、農村に於ける支配階級的存在であった。この時代、個々は独立していた農民を、大化以前からの土着勢力である「土豪」、およびその周辺の有力農民が束ねていた。この有力農民が「殷富百姓」である。かれら土豪や殷富百姓は、口分田を放棄した農民や浮浪人を組織し開墾をしたり、有力な寺社や貴族の土地開墾に絡んで勢力を伸ばした。北方、蝦夷の地では伊治公呰麻呂が胆沢を中心に反乱を起こし、多賀城を攻略した。彼は胆沢周辺の地域の長であったが、朝廷に下り外従五位下を叙せられていた。が、朝廷から派遣されてきた仕事場の同僚や、陸奥按察使紀広純らに夷浮として辱められていた事などから部族の元に帰る決意をした。
桓武天皇の登場
老いた光仁天皇は反乱の一報にひどくショックを受けた。それでも老体に鞭打って政を行っていたが、気力尽き果て山辺親王に譲位、桓武天皇となった。彼は前光仁天皇の政治路線を引き継ぎ、まず朝廷内の改革に取り掛かった。天下の民を食いつぶしている過多の官人を辞めさせる方針を出し、2省2司を廃した。この時、造営省を廃しているので、まだ遷都は考えていなかったのであろう。また、調、庸の収奪に力を注ぎ、税収システムを揺さぶる土豪、殷富百姓を牽制した。同時に彼は征夷の準備にも取りかかった。先の乱により、胆沢を中心に結束を固めていた蝦夷側に対し、乱後ふるわなかった征東軍を解体、新たに大伴家持を鎮守府将軍とし、次なる攻撃に備えた。征夷事業に刺激されるように、遷都問題が持ちあがった。これをバックアップしたのは百川の甥、種継で、造営使に任命された。遷都の主な理由としては、先の章で述べた井上皇后らの亡霊が揺曳し、千の無能の僧どもが跋扈する平城京から脱出するためである。彼は急ぎ長岡京造営に取りかかった。が、785年、造営使種継が暗殺された。捜査の結果、大伴、佐伯両家を始め多くの者が処罰され、桓武の弟、早良皇太子も罪に問われ、憤死した。結果、桓武の子が次の皇太子となったが、この事件は桓武の血筋を天皇とする為のでっち上げ立ったのでは無いか、と筆者は述べている。
征夷大将軍坂上田村麻呂

 

征夷大将軍坂上田村麻呂・・・4代前は壬申の乱で名を上げた老(おゆ)、父は先の藤原仲麻呂の乱などで活躍した苅田麻呂、武官の一族である。782年に鎮守府将軍に任命された大伴家持の後をついで、788年、多治比宇美が職に就いた。今度の徴兵は坂東の他、東日本全土から52000余りが徴発され紀古佐美がこれを率いることとなった。789年、胆沢を目指して北進を開始したが、大きな戦闘はなかった。都からの要請で漸く精鋭6000が進軍した。が、川を渡っていた最中に、阿弖流為率いる蝦夷軍が山の陰から急襲、征東軍1000名以上を川に沈めた。大敗を喫した征東軍は帰郷。紀古佐美も都へ帰った。こうして刃を交えた双方だが、蝦夷人と公民の間ではなごやかな交易が行われており、蝦夷人が鉄を入手する機会となっていた。また、蝦夷人も陸奥国府に下ると「田夷」と呼ばれ「山夷」と区別された。彼らの間に入植したのは、クーデターの失敗などで没官、平民にされた者が送られていた。「田夷」となった蝦夷人は支配者から貢物にもなる馬の飼育を勧められた。かれら蝦夷人はこの馬を用いて連絡を取り合い、それぞれが独立していた蝦夷の諸集団をまとめ、朝廷軍の攻撃に耐える生命線を築いていた。789年の第1回目の攻撃に失敗した朝廷は、794年に再度進撃するため、今度は2倍、10万を徴発するとし、財のある公民には甲を造る事を命じた。が、これは凶作と疫病にあえいでいた農民を苦しめる事となった。794年、第2回目の攻撃も遂に蝦夷側の本陣胆沢に届かなかった。この際、征東副使に田村麻呂が任命されていた。
平安京の建設

 

種継の暗殺、早良親王の死、相次ぐ皇族の死など、長岡京は汚されてしまった。また、造営の為に徴発された役民も、逃亡する者が多く、工事もなかなか進まなかった。更に疫病も流行り、多くの死者を出した。桓武はこれを死んだ者達の祟りと信じてやまなかった。天下の公民に更なる負担を強いるとしても、桓武は遂に2度目の遷都を決意した。これを和気清麻呂がバックアップし、造宮使に任命された。794年、第2回蝦夷攻伐の頃、急ピッチで新都造営がすすめられ、桓武はひとまず皇居が落成した平安京に移った。但し、それ以外の建物の工事は、未だ全く手がつけられていなかった。とかく、桓武は2度の造都と、蝦夷攻伐に力を注いだ。結果、国家財政は行き詰まり、地方官の精励に期待するほか無かったが、彼らは彼らで、特権を振りかざした土地開墾で私服を肥やすことに力を注いでいた。彼らは開墾した土地と共に土着化し、国司の交替を渋るようになった。これを督察する為、政府は勘解由使を設置。また、地方に問民苦使を派遣、地方民の苦情を受け付けたが、国司の乱脈ぶりに手を打つことが出来ず、軽度の営田などの問題は見逃すほか無かった。班田収受も行ったが、従来の6年1度を保てなくなっていた。前章にもあったが、雑徭の軽減も行った。というのも、雑徭や出挙の為に口分田を捨てて逃げ出すものが多かったからである。調・庸を確実に収奪するため、彼ら浮浪者を検挙したりしたが、根本的な解決には至らなかった。桓武朝の政治は軍事(蝦夷攻伐)と造作(造都)の強行と停止に尽きると思う。強行は上記のとおり、農民の疲弊にもかかわらず行った攻伐、造都である。病の床に伏した桓武は、宮中の論議の際、農民の負担軽減のため、軍事と造作の停止を提案し、806年に逝去した。
平城上皇の変

 

桓武の後を継いだ平城天皇はまず、即位5日にして六道観察使を各道に送った。これは、問民苦使と勘解由使を合わせたようなものであった。これにより私腹を肥やす国司・土豪・裕福な百姓をの不正を正したが、それ以外の面では殆ど成果がなかった。807年の終わりごろ、皇族の重鎮伊予親王が謀反の罪に問われ幽閉の憂き目にあい、自害した。これに連なり藤原南家の大官2人が没落した。事件の背景には種継の子、仲成・薬子がいた。薬子は藤原縄主の妻でありながら、平城天皇の寵愛を受けており、彼らはこの事件を契機に更に天皇に接近、薬子の為に仲成も大幅に昇進している。809年、平城は体調不良を理由に弟賀美能親王に譲位、嵯峨天皇として即位した。皇太子には高岳親王がたてられた。天皇側は、上皇になった平城の命に従い、旧平城京の地に宮を築いた。この平城の宮と平安京をさして「ニ所朝廷」と呼ばれたりした。が、平城の宮は少数の官人グループが居たのみで、政府機能は持って居なかった。翌年、平城上皇は平安京を廃し、平城京に遷都するように命令した。これに対し、天皇側は、信頼の篤い田村麻呂などを造営使の名において平城の地に送り、上皇をけん制した。また、旧三関などを固め、平城上皇と繋がりのあった仲成を捕らえ、射殺した。平城上皇は挙兵を決意して東国へ向かおうとしたが、朝廷軍に行く手を阻まれ、悪あがきの内に終わった。天皇は上皇を罪には問わなかったが、上皇の子、高岳皇太子を廃し、大伴親王を皇太子につけた。
内裏・院・神泉苑

 

嵯峨・淳和・仁明天皇の治世、承和の変に至るまでの割と平穏な33年間について述べる。まず、地方に於いて、農民たちは地方官(富を蓄えた彼らの勢いは、この章の最後3節に記されている)のサボタージュにつけこみ、戸籍調査にて老人の戸主と女、子供ばかりの家であると記載し、正丁にかかる諸税から逃れようと必死であった。対して政府も、農民の生産力を上げようと水車の普及などに努め、長い間の問題である治水、池溝の保全について法を定めた。また、私服を肥やしてばかりの地方官の間にも時々善政をしく者が居た。彼らは「良二千石」と持て囃された。京では治安対策として新たに検非違使をおき、警察権の一部を握らせたが、その権力が拡大、司獄・行刑にまで力が及ぶようになった。また、桓武朝で停止された「軍事」を引き継ぎ、征夷大将軍文室綿麻呂が北進、閉伊・爾薩手方面に進撃した。802年、嵯峨は弟に譲位、淳和天皇が即位した。彼は特に目ぼしい政策を打ち出すでもなく、10年の治世の後譲位、仁明天皇が即位した。彼らは執政よりも「山水に詣でて逍遙し、無事無為にして琴書を翫ぶ」事を欲していた。また、彼らの頃から臣籍に下った皇族、嵯峨源氏などが政治の舞台に現れ、藤原諸家の冬嗣、園人、緒嗣ら、小野岑守などと共に天皇に代わって政を司った。光仁・桓武朝から嵯峨・淳和・仁明天皇の3代を経てその後に掛けて、日本書紀など「六国史」が作られた。また官府的編述事業が成果を挙げ、これまでの政治のある総括となった。
最澄と空海

 

8世紀中期以降、政府がしばしば問題にしていた僧侶の堕落とは、主として次の二点であった。すなわち、仏法を脱税のための看板として利用していたことと、政治への介入である。光仁天皇は僧侶の政治介入を完全に排除し、山林修道をゆるした。そして、私度僧をとりしまった。桓武天皇の仏教対策は父天皇の方針をうけつぐものであり、また厳しく寺院の経済活動に圧迫を加えた。それらは、より根本的には、桓武とその政府の土豪・有力農民との対決の一局面であった。他方、そうした平城京の諸寺での生活に安んじることのない者は、山林にこもって仏道に精進した。最澄と空海もまた、そのような求道者のひとりであった。767年、最澄は生まれた。僧となり、比叡山に入った。鑑真のもたらした典籍の天台宗にかんするものに導かれ、関心を深めていった。空海の誕生は774年である。はじめは学問の道を志したが、仏門に入り、山林の徒となった。そして「大日経」を発見し、密教への関心をわきたたせた。2人は、桓武天皇の特旨により、804年の遣唐使の一行にくわえられた。最澄は8ヵ月、空海は足かけ3年、それぞれ唐で学び、典籍や仏像・仏画などを持ち帰った。最澄は805年に帰来し、天台法華宗の開立を勅許され、比叡山寺をその本拠とした。空海は806年に帰朝し、嵯峨天皇の愛顧を受けた。810年には高雄山寺での修法をゆるされている。最澄と空海は、当初は協力関係にあったが、その後に不和が生じた。最澄のなした東国巡化は、土豪・有力農民にも感化を及ぼし、本山と末寺の関係を形成する契機を築いた。また、最澄はその後、南都の仏徒と教義上の論争を繰り広げた。最澄が822年に亡くなった後、嵯峨天皇によって大乗戒壇の設立がゆるされた。823年に比叡山寺は寺号を延暦寺とあらためた。空海は高雄山寺をおもな拠点とし、真言への布教にしたがった。後に、嵯峨天皇から高野山を与えられ、そこを本拠となす。823年に、嵯峨天皇から東寺を与えられた空海は、そこを密教化した。826年に、教王護国寺と寺号をあらためた。空海は、密教芸術にも新風をもたらしている。天台、真言の開宗は、平安朝初期の天皇たちの積極的な庇護という世俗的外力によるところが多い。その宗義は鎮護国家をうたい、桓武以下の歴代天皇の仏教統制に対応・協力し、それぞれ独自のゆきかたで推進した。最澄は論争によって、空海は懐柔によって、伝統的な南都勢力に対応した。その影響で、旧大寺の学僧たちもみずからを教団に組織することとなった。また、新宗の創始者たちは、一切衆生成仏説や即身成仏というテーゼの力説において、仏教が民衆の生活・精神をよびさます可能性をはらませた。最澄の死後、円仁によって天台宗はいちだんと密教化され、教団の力は強大となった。空海の死後、真言宗は天台に比べふるわなかったが、東寺の存在は、ぬきがたい伝統と力を擁していた。真言・天台の二宗は、教団創設の直後から寺領の拡大に力をいれた。新興宗派の根本道場は、はやくから道・俗両界を圧する庄園形成者の相貌をおびていた。
王朝の詩人たち

 

嵯峨天皇は唐風文雅への傾向をみせていた。最初の勅撰漢詩集「凌雲集」は、嵯峨天皇が小野岑守に詔を下し、菅原清公、勇山文継らとともに編成された。桓武、嵯峨の時代に、唐風化を推進したパイオニアとしては、仏教界の最澄・空海、儒林の菅原清公、政界に藤原冬嗣・小野岑守らをあげうるであろう。819年の嵯峨天皇の詔書により、天下の儀式、男女の衣服、五位以上の位記は唐風となった。また諸宮殿・院堂・門閣には唐風の新額をかかげた。7世紀以来の唐風の模倣は、律令の諸制度・宗教と学問から、宮廷行事の形式にまでひろくおよんできた。宮廷の公けの場で詩賦が行事となり、筆蹟に美をもとめる傾向が強くなった。嵯峨にはじまる三代にいたって、書道の世界がひらかれた。空海・嵯峨・橘逸勢をくわえて三筆という。これも唐風受容の一側面とみなせる。また、8世紀の初頭に唐帝国の支配から脱して独立した渤海との交歓も行われた。
応天門の炎上

 

嵯峨上皇が842年に没し、その2日後、仁明の政府は伴健岑、橘逸勢らを逮捕した。仁明天皇には皇太子恒貞親王と、良房の擁する長子道康親王がいたが、伴健岑と橘逸勢を謀叛人と断じて、その責を恒貞親王にも問うことで、皇太子の地位をうばいさったのである。数日後に良房は大納言となり、源信は中納言に、源弘、滋野貞主は参議となった。翌8月に、仁明天皇は道康親王を皇太子にたてた。これが承和の政変である。承和の変は、政治疑獄くさい。良房は、阿保親王の密書を手がかりとして、皇室の大家父長制に入り込み、嵯峨源氏との結託をいちだんと深めた。また同族の高官で競争相手の2人を政界の外に追い出し、古い名門である伴・橘の両氏に一撃をくわえた。良房は冬嗣の二男である。かれは淳和朝で蔵人になり、東宮亮として皇太子時代の仁明と親密な関係をつくり、その即位に際して蔵人頭についた。まもなく31歳で参議に、その翌年に権中納言となった。承和の変において、良房は仁明天皇・皇太后嘉智子に働きかけ、藤原一門の政敵を政界から放逐した。官職の方面においても、大納言のほかにも要職を経ていた。良房は恒貞親王を皇太子の地位からおいはらい、妹の腹にうまれた道康親王をあとがまにすえ、自らの娘である明子を皇太子の宮にいれた。道康親王(文徳)と明子の子が惟仁親王(清和)であり、こうして良房は天子の外戚となった。仁明帝が41の壮齢をもってたおれ、道康親王が即位し文徳天皇となった。文徳朝の初政には、政策において新味はなく、仁明朝末期からの政治や治安の乱れは一層ひどくなっていた。班田については良房の全執政期を通じていちどもまともに問題にされていず、地方行政における中央政府の指導性は、意外なほどこの時代に後退している。こうした情勢の推移の中、良房は857年、左大臣をへないで太政大臣となった。その主な理由としては、かれが天皇の外舅にあたるためであった。858年に文徳天皇が死去し、惟仁親王が即位し清和天皇となった。かれはそのとき9歳であった。幼帝清和については、良房の専横によるものとして世上の不評がつきまつわっていた。清和の妻は良房の姪(養嗣子である基経の妹)の高子である。良房は、幼帝出現の日から摂政としての役割をになった。清和期の良房による政治指導は、文徳期の延長としてしか評価できない、事なかれの消極的なものであった。班田は放置され、戸籍計帳の制度もひどい状態であり、国司の不正は横行した。律令国家による公民の支配はくずれていった。貞観の初年は不作続きで疫病もはやった。都の人々はこれを御霊の祟りとして、御霊会をおこなっていた。ここにいう御霊とは、崇道天皇や橘逸勢など、いずれも宮廷における紛争の渦中に憤死した人である。863年、朝廷でも神泉苑において盛大な御霊会をもよおした。民間では、こうした御霊会はながくつづいたが、政府のがわは、いつもそれにたいして警戒的であった。866年、太政大臣の染殿第における天皇らの花見の盛儀から10日後の夜、応天門が炎上した。その直後、大納言伴善男は右大臣良相に対し、失火を左大臣源信の所為であると告げた。良房はこれを知り、天皇のもとに人をおくって左大臣の無実を主張させた。その5ヶ月後、大宅鷹取というものが伴善男とその息中庸らが共謀して応天門に放火したと密告した。伴大納言らは犯状を否認したが、9月の末に朝廷は、善男・中庸ら五名に応天門放火の罪をかぶせ、遠流の刑に処した。その累は古来の名門たる伴・紀の二氏におよんだ。貞観の政府は伴大納言家の私財を没収して国家の用に供したが、それは多様で豊富だったようだ。晩年の良房が強い関心を示したのは、法制と修史であった。「貞観格式」は、右大臣藤原良相が太政大臣良房と協議し、天皇に奏して、820年以後867年までのほぼ半世紀間の格・式を編集したものである。また、869年に完成した「続日本後紀」20巻は、良房のもとで編纂されたいわゆる「六国史」の一つで、仁明天皇の治世を対象としたものである。871年に応天門は再建された。翌年9月、良房は病死した。良房の執政の特質は仁明時代の政治の延長というほかはなく、新しい施策にとぼしく、法制・修史の事業を持って朝政をかざりたてた。それとともに、かれは平安朝における最初の太政大臣の地位につき、天子の政を摂行して人臣摂政の先例をひらき、藤原氏による摂関政治の前提をつくった。
関白藤原基経の執政

 

太政大臣良房に代わり政界の大立者になったのは、基経であった。かれは政治家として非凡の器であった。貞観の末葉は、世情には不穏のムードがただよっており、火災が多かった。876年には大極殿が焼け落ち、清和はこれらの火難でつよい打撃をうけた。大極殿焼失の7ヶ月後、清和天皇は皇位をすてた。ときに27歳で、高子の腹にうまれた皇太子貞明親王は9歳であった。この幼帝を陽成という。文徳の若死にによる幼帝の出現と、基経の摂政をあてにしての清和の退位は、事情がすこぶる異なっている。幼帝の即位と人臣の折衝が慣行化への一歩をふみだしているのである。陽成期において、京・機内の民心は安定を欠いていた。公卿は常平司を新設し、官米を売り出して米価抑制にのりだすとともに、河内・和泉の二国に特使を派して、貧民救護にあたらせた。878年、出羽国の蝦夷と俘囚が蜂起し、秋田城を急襲した。出羽国府がこの動乱に対してお手上げだったため、基経らの政府は藤原保則を出羽権守に任じ、討伐にあたらせた。保則は備中・備前の国守として善政をうたわれた人物であり、寛政によって夷を降した。保則が武力による大反撃をくわだてなかったところに、桓武の時代とは異なる国家権力の限界があらわれている。良房・基経の執政をあわせて前期摂関政治というが、基経は停滞した国政のマナリズムを打破しようという意欲をみせはじめていた。夷俘の反乱が、かれを国政へとたちむかわせる原動力となったのである。886年、出羽国守から中央政府へ、国府を新しい地に遷建することについての申請書がだされたが、そうした際に、高尚・春風そして保則といったすぐれた経験者の所見を聴取して政府の断案の資料にしたところに、基経の国政への意欲がうかがわれる。基経が征夷と同時にくわだてた大事業は、班田収受の実施である。50年ぶりのことであった。基経は、律令制の基礎をなす土地の関係の弛緩に対処しようとしたのである。この50年間に生まれた大部分の農民は国家から土地を分け与えられず、土豪・有力者から土地を借りるか、貴族・寺社の庄園につながれた。かれらは、田租とは比較にならぬ高率の地子稲を収奪されることになった。また、戸籍の制度がくずれ、中央政府は浮浪人対策がたやすくうちだせなくなっていた。878年に朝廷は五畿内の国府にたいして校田(土地調査)を明治、翌年には班田使の任命があった。土豪・有力農民は、班田中絶のあいだに口分田をうばいさり、自己の農業経営の要地に編入していた。班田を歓迎していなかったかれらへの対処が必要だったのである。50年めに、基経らの政府が班田収受を断行したことが、律令的支配の瓦解をくいとめるために何ほどかの寄与をしたと判断できる。それは中央政府の、新しい勢力との農民の生産を場とした抗争でもあった。清和上皇の死の直前、基経は太政大臣に任ぜられた。883年、陽成天皇と基経とのあいだが疎隔し、険悪になった。太政大臣は天皇に対し、ボイコットの戦術をとった。そして884年、陽成天皇は譲位の旨をしたためた書を太政大臣のもとにとどけさせた。基経は、後継者として、仁明天皇と藤原沢子を父母とする時康親王を選んだ。このとき親王は55歳で、一族の間ですこぶる評判がよかったらしい。こうして光孝天皇が即位した。老天皇は親政を行うことを避け、太政大臣のポストにおいて万機の統裁を基経にゆだねる旨の宣明をした。光孝天皇の治世はごく短かった。不況により強盗・殺傷の事件があいつぎ、妖怪談がはびこり、大地震や大風雨がおきた。こうした天変地異の恐怖のなかで天皇はしだいに気力をうしない、危篤の状態におちいった。光孝天皇の次に即位したのは第7皇子であった定省であり、これを宇多天皇という。このとき21歳であり、基経とのあいだに外戚の関係がまったくない。即位の後、宇多が参議橘広相に作らせた基経への勅答に、「阿衡」という文言があった。紀伝博士の藤原佐世の説によれば、阿衡とは位が高くとも職掌がないものということであり、これが天皇と太政大臣の確執となった。結局のところ、天皇は阿衡の言葉の失当を認め、基経の圧力に屈服した。この一連の事態を阿衡の紛議という。阿衡の紛議は若い天皇の心に大きなシコリを残し、それが宇多を仏道に深入りさせる要因になったようである。この時期に、かれの発願によって京の西山に仁和寺が新造されている。宇多は父帝の時代のように国政は基経にゆだねて、文雅の一事に心を傾けた。関白太政大臣藤原基経は、891年に56歳をもって死去した。
多恨の歌人在原業平

 

在原業平は専門の歌人ではなく、朝廷の高官であり、歌は私生活のなかの心のすさびにすぎなかった。かれは、詩人としての天賦をその歌作に示した平安貴族の一典型であろうが、そうした貴族のタイプは、平安朝の業平以前にすでに出現していると考えられる。万葉最後の歌人、大伴家持である。業平は恋の遍歴と歌において、宮廷人のあいだではスター的存在であったが、権栄の座からは疎外されていた。在原氏の五男のかれは、ついに右近衛権中将どまりであった。
受領と郡司・百姓の抗争

 

この時代、地方における土豪や有力農民の基盤は、在地にひろく根をはった農業経営そのものであり、かれらは豊富な労働力を支配していた。一般農民の困窮と礼楽が、かれらの農業経営をますます拡大させる。土豪・有力農民は中央省庁にツテをもとめその下僚となり、あるいは大官の家につかえて平安京に移住した。上京した土豪・有力農民はしばらく出仕して、やがて郷里にたちかえった。そして、脱税のために名ばかりの官職を悪用した。また、出家をめざす地方人もふえた。坊主どもも国家の見地からいえば脱税者である。これらが農民にシワヨセされていった。地方の豪族や農民は、国司への対処の仕方を脱税や権門勢家との結び付きにもとめたが、一般農民のばあいは浮浪と逃亡の行動によった。嵯峨以後の親政三代、さらに良房・基経の執政気になると、国司のなかで、現地に行かずその得分だけをふところに入れるものがふえた。これを遥任という。それに対し、任地に出向いて地方行政にあたる国司のことを受領とよぶようになった。かれらは徴税請負人にちかい官人であった。受領は、地方の豪族・有力農民の武装抵抗に対抗するために、それぞれの規模の私的な従者群を編成しはじめた。それを郎等(郎党)という。9世紀後半以降の受領たちは、こうした力をも行使しながら、もっぱら法外な徴税に狂奔した。郡司はだいたいその地方の名望家であり、国造の系譜をひく者が多かった。中央政府は地方行政を国司にゆだねたが、在地の土豪を郡司にすえて、その強大な勢力を利用した。郡司は受領の専横にたいして内心ではつよく反発していたが、通常は協力的であった。受領が天皇を頂点とした権力組織に身をおいているからである。9世紀後半になり、土豪・有力農民が農業経営を拡充し、受領の力をおそれないていどまでに成長してくると、受領と地方民との板挟みになっていた郡司は、地方民の側につくようになっている。地方の豪族・有力農民と受領との対立をいっそう深める要因になったものは、従来の人頭税を一種の土地税に変えたということであろう。戸籍の制度がくずれ、国府は精確に部内の公民の人口をつかめなくなっていたが、土地に税をかければ、そうした問題は回避できる。受領の攻勢にたいし、地方民は電池を権門に寄進して庇護を求めた。こうして寄進地系庄園といわれるものが、9世紀後半から諸国に出現した。諸院・諸宮・王臣家あるいは寺社は、この形成に乗じて庄園の獲得に熱を入れるようになった。受領と地方民との対立が、公然たる抗争の姿をとって政治の次元に浮かびあがってくるのは、9世紀後半の文徳・清和朝の一時期である。その構想には、地方民のある集団が国司の館を襲撃して受領らを殺傷するゆきかたと、土豪・有力農民が武力の行使を避け、中央政府にむかって受領の非法について陳情し、免職をねがう、いわゆる愁訴の方法という、二つの行動様式があった。前者の事例では、郡司が首謀者であり、国府の内部に分裂がふかまっていることがうかがわれる。後者の事例では、ほとんどのばあい、訴えられた受領のほうがまけている。この年代以降、愁訴事件はくりかえされ、道長・頼道のいわゆる摂関時代にそのピークに達する。かれらの愁訴によって、かなり多くの受領が罷免されている。このように、在地の土豪・有力農民らの階層は、経済的に伸びてきただけではなく、政治の力をいちだんと高めてきたのである。それが、親政三代ののちの良房・基経の執政期に生起した地方の新しい政治情勢である。
時平と道真

 

藤原基経死後、宇多天皇は親政を開始し、藤原時平の他、藤原保則や菅原道真を登用して北家・時平の対抗とした。保則・道真とも受領階級層ではあるが、実務に長ける保則に対し、保則の後に重用された道真は漢学に長けた吏僚であった。宇多天皇は行政粛正を行っているが、これは守旧的なものに終始した。これは下級官人達の要求によるものであり、それを基経や保則、道真が組み上げることで実現化した。この寛平の治の底にあったのは、「階級の分離への対策」「有力農民・郡司への接近と王臣家の牽制」「官制簡素化」が挙げられる。また対外策も変更が加えられた。長くなされなかった唐への遣使が企図されたのである。これは、新羅の牽制や文化移入、密教の要請によるものと考えられる。新羅寇の増加から、北九州の軍備増強も行われる。また宇多天皇は道真や時平に命じて歴史編纂も行わせた。これが「日本三代実録」である。これとは別に、道長に命じて「類聚国史」も編纂させている。だが藤原時平が執政となると、宇多天皇は息子・醍醐天皇へと譲位する。上皇となった宇多天皇は、まもなく出家して法皇となった。これによって道真は後ろ盾を失い、時平派より失脚させられることとなった。これで藤原時平は権力を確立し、朝廷を牛耳ることとなる。執政として力を得ると、時平は延喜と改元したうえで大きな改革に取りかかった。これは寛平の治をさらに推し進めた形といえた。地方で広がる荘園に対して掣肘を加え、律令国家の体制を維持しようとはかったのである。しかし、これも時平が若くして死ぬことで、挫折することとなった。
古今の時代

 

譲位して後、宇多法皇は風流の生活に明け暮れた。そしてこの空気は、朝廷にも蔓延することになる。三善清行「意見封事」は、唯一これに反抗する動きであったがこれも朝廷には取り入れられなかった。この時期、大和絵をはじめとする国風文化が発達してくるが、これは唐風に対するアンチテーゼとして取り入れられたものではなく、あくまで唐風を日本へアレンジしたものに過ぎない。依然として唐風が尊ばれるのは変わらなかった。また歌会が頻繁に開かれるため、宮廷人たちは歌の上手な者を集めるようになる。このようにして頭角を現したのが紀貫之で、彼は上級貴族の歌会に呼ばれて歌を披露することで名を馳せた。そしてこのタレント歌人の中から、「古今集」が編纂される。これに収録された歌は、「万葉集」と異なって優婉な歌が多いが、これは歌の芸能化を示していると言える。このように、所謂"遊び"の部分では下級貴族をも包摂して行われた。これが、醍醐朝の特徴的な風景である。貴族の歓楽が花開いた醍醐朝であるが、災害が頻発した時代でもあった。940年には雷が紫宸殿に落ちることになる。これからまもなく、醍醐天皇も譲位し、すぐに崩御してしまった。
東の将門と西の純友

 

醍醐天皇死後、天皇の座に付いたのは皇太子であった朱雀天皇である。摂政には時平の弟・忠平がついた。彼を掣肘する者はおらず、よって彼は朝廷を切りまわした。一方、地方では受領たちの土着が進んでいた。彼らは一族で地方に土着し、勢力を拡大する。その中の一人が将門であり、純友であった。彼らは中央に行き、権門に従うことでより支配基盤を強固にしていた。また彼らは武装し、群盗として働くこともあった。彼らは自衛のために武装して社会的勢力としての地位を確立していたのである。瀬戸内海では、武装した彼らが海賊として跋扈し、純友はその長として名を馳せた。一方の坂東では、土着した平氏内の内紛から将門が貞盛を追放するという事件が起きた。畿内でも天災が相次ぎ、人々はそれに恐れを隠せなかった。空也上人が念仏を唱えて行脚したのはこの時期であり、人々は次々と彼に従うことになる。
天慶年間の大乱
天慶に入ると、各地で国府を巡る乱が増える。尾張では国司が射殺された。また純友の勢力も拡大し、瀬戸内海一円に及ぶ。この状況は、忠平政権下のないがしろにされる国政や、地方土豪と中央貴族の荘園を介した繋がりなどを、如実に反映した結果である。武蔵で受領と郡司が対立したことに、将門は介入する。また源経基や平貞盛を追い、坂東での覇権を確立した。常陸での争乱にも介入して国府を襲撃した。このように強大な力を得た将門であるが、次第に独立性を高める。やがて将門は新皇を名乗って独立。国司を勝手に任命する等を行うようになる。このころ、純友も摂津まで接近。西と東に乱を抱えた朝廷は狂乱の体を為した。朝廷は神階を上げるとともに、追捕使を任じた。一方、将門は残敵掃討を行うも貞盛を討つことはできず、やがて藤原秀郷と結んだ貞盛の反撃を受けて、崩壊した。彼は国家への反逆者と記憶される一方、受領に対して反抗した人間としての親近感を以て坂東の人間に受け継がれた。一方秀郷は、貴族末裔の武人たちの目標となっていく。瀬戸内海の純友も、追捕使に任じられた小野好古によって本格的に討伐が行われる。博多湾での決戦に好古は勝利し、純友もその勢力を失うこととなった。
天暦の治
この大乱にも関わらず、朝廷は旧態依然とした体制を護持したままであった。将門討伐も受領層によるものに過ぎない以上、ふたたび反乱が起こる可能性があった。にも関わらず、である。まもなく村上天皇が即位し、天暦の治が始まる。前後して忠平も死に、朝廷の中心は変化してゆく。忠平死去後は関白が置かれず、村上天皇による親政となった。だがそれは風流に偏るものであって、さしたる国政は行われなかったと言ってよい。ただ、詩画書の類は非常にもてはやされることになる。また和歌も取り行われたが、これは古今集のマンネリズムに陥っていた。修史も目指されたが、これは政治の混乱から終ぞ行われることはなかった。
天皇親政の終焉
このような政治状況において、地方は酷い状況に曝される。承平・天慶の乱の底流となった、土豪や受領層の武装化が進み、有力な在地領主と化していた。また国府の押領使も暴虐を行うようになり、廃止されることとなる。火災や疫病も多く、藤原師輔は疫病で早くに亡くなり、また内裏は焼け落ちた。治安も悪化し、あちらこちらで闘争が絶えなくなっていた。この平安京の凄惨な状況から、人々は怪しげな宗教に熱狂したりするようになる。空也が出てきたのもこのころである。貴顕の救済しか行わぬ仏教勢力に対し、空也は庶民の救済を行うべく行脚したのである。 村上天皇は結局亡くなり、天皇親政は終わりを告げるが、この間の政治とは非常に頽廃した物であった。彼らは受領の支援を受けて始めて成り立つもので、その蠕動が次の時代へと動いて行く。
 
王朝貴族

 

源氏物語の世界
源氏物語は紫式部の作であり、書かれた時期は1001年から1008年ごろまでの約10年間のうちであろうといわれている。源氏物語が1千年間にわたって、国文学の最高地位を確保しているのは、構想の妙や文章が良いからというだけではない。第一に、源氏物語が平安時代中ごろの宮廷を写実的に描き出しているからであり、第二に、人間の運命というものにたいする詠嘆と、男女間の人情の機微とを、みごとに写し出しているからである。主人公である光源氏のモデルについての議論は古くから積み重ねられているが、その有力な候補者の一人としては、藤原道長が挙げられる。源氏物語の史料としての価値についてだが、これを読めば宮廷生活・貴族生活だけはじゅうぶんにわかるのかといえば、否である。源氏物語は女性である紫式部によって書かれたものであり、男には彼女たちと離れた、別の活動分野があったであろうからである。
安和の変

 

冷泉天皇、すなわち憲平親王が皇太子に定められた950年、村上天皇の元には、藤原実頼・師輔の兄弟が左右大臣として筆頭の地位にあった。ふたりは共に後宮へ娘を送り込んだが、憲平親王を生んだのは師輔の娘の安子であった。村上天皇の第一皇子として広平親王が生まれていたが、外祖父である中納言藤原元方は非力であったため、憲平親王が皇太子となったのである。この元方の怨みが怨霊となって、憲平親王を狂気となさしめたと言われている。師輔が960年に、964年には皇后安子が、そして967年には村上天皇が亡くなり、外祖父および父母の後援をうしなった狂気の冷泉天皇の即位ということになった。冷泉天皇即位のとき、朝廷の代表的な有力者は3人あり、それは左大臣藤原実頼・右大臣源高明・大納言藤原師尹であった。天皇が異常な人物であったため、外戚関係にない実頼が関白となり太政大臣に任ぜられ、高明・師尹がそれぞれ左右大臣に昇った。冷泉天皇には皇子が生まれていなかったため、つぎの立太子が問題となった。東宮の候補としては、天皇の同母弟、為平親王と守平親王の2人しかいず、順序からすれば東宮となるのは為平親王のはずであった。しかし、為平親王は源高明の娘との縁組があったため、藤原氏に警戒され、9歳の守平親王が新東宮となった。968年、伊尹が女御として進めた懐子に、天皇の第一皇子である師貞親王(のちの花山天皇)が誕生した。969年、左馬助源満仲・前武蔵介藤原義時の2人が、中務少輔橘繁延・左兵衛大尉源連の謀反を密告した。累は左大臣源高明に及び、これを大宰権帥に左遷することが決定した。高明の占めていた左大臣の職は奪われて右大臣藤原師尹がこれに代わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。以上が安和の変の概略の経過である。この事件が高明を失脚させるために仕組まれた藤原氏の策謀によるものだということはあきらかだが、事件の首謀者として有力なのは右大臣師尹であろう。また、師輔の子の伊尹・兼通・兼家といった連中も疑わしい。この事件を最後として、藤原氏の他氏排斥の運動は終わった。権勢争いは、もっぱら藤原氏の内部で激化することになる。この事件のきっかけを作った密告者源満仲は、清和源氏の嫡流である。満仲のすぐれた点は、たんに武力だけではなく、武士たちのなかで、もっとも巧みに中央貴族と縁を結ぶことに成功したその政治性にある。満仲が主人にしていたのは、師尹であった可能性もある。すくなくとも、結果として満仲は摂関家のために働き、東国の藤原氏の首領である千晴は失脚したことは明白である。清和源氏が、摂関家の忠実俊敏な番犬として抬頭する経過は、この安和の変において第一段をきざんだのであった。
道長の出現

 

安和の変の5ヵ月ののち、冷泉天皇が退位し、皇太弟守平親王が即位した。円融天皇がこれである。外戚関係に変化はなく、実頼が摂政太政大臣の地位にあり、新東宮には冷泉天皇の第一皇子師貞親王が立った。969年10月、左大臣師尹は病気になり、薨去した。その翌年5月、摂政太政大臣実頼が薨去する。そののちは伊尹が摂政となり、さらに2年後に伊尹がなくなるとその弟兼通が関白としてあとを継ぎ、藤原氏の態勢はくずれない。他氏との対決が終わると、藤原氏内部での勢力争いが目立ってくる。そのなかで第一に有名なのが、兼通・兼家兄弟の衝突である。兼家は兼通に裏をかかれ、977年に兼通が死ぬまで、ながらく昇進を止められていたが、後宮関係には恵まれていた。兼通も頼忠もその娘を後宮に送り込んではいたが、皇子を得たのは兼家だけだった。984年、円融天皇が譲位し、花山天皇が即位すると、新東宮には懐仁親王が定められ、兼家は次帝の外祖父としての地位が保証された。985年、天皇の寵愛深かった弘徽殿の女御、忯子が亡くなると、天皇は意気消沈した。この後期に乗じ、兼家の子道兼は蔵人として天皇の側近に使える立場を利用し、天皇に出家をすすめた。そして天皇の外戚である義懐などの裏をかいて、986年に天皇を出家させたのであった。夜が明けて、懐仁親王が帝位について、一条天皇となった。7歳であり、兼家は外祖父として摂政となり、いままでの関白頼忠は引退した。兼家は、一条天皇の、さらにまた東宮居貞親王の外祖父として安定した地位を占め、子供たちの位階官職を強引なまでんい引き上げていった。そのなかに、当時21歳の青年、藤原道長がいたのである。道長は兼家の4男であり、兼家の長かった不遇期の被害をほとんどこうむることなく、23歳で権中納言という記録的な好スタートを切ることができた。そして、それからわずか6年ののちには、父も兄もすべて死亡して、かれ自身が摂関家の筆頭格にのしあがった。道長の兄、道隆と道兼が995年に流行った病に倒れ、道長と、道隆の子である伊周とが相対することとなった。そして、道長の姉で、天皇の生母である東三条院詮子の推薦により、道長が右大臣に進み、完全に朝廷の首位を占めた。時に30歳である。内大臣伊周は失望・不満をいだいたが、996年の正月、伊周の誤解によって、その弟の隆家が従者に、花山法皇へ矢を射かけさせるという事件が起こった。その結果、伊周らは流罪となり、道長と伊周の争いには決着がついた。伊周・道隆の配流はごく短くてすみ、ふたりとも数年のうちに本位に復し、道隆はもとの中納言の位にもどったが、もとより政治的に活動することはできず、道長の独走態勢はこの事件で確立した。事件の発生から処分まで3ヵ月余をかけて、じゅうぶんに事件の固まるのを見とどけたあたりには、政治家としての道長の非凡な手腕がうかがわれるであろう。
家族と外戚

 

政界首脳部の政権交代の経過を見てくると、そこで問題となっているのは、だれが天皇の外戚に当たるか、天皇の外祖父はだれで、外叔父はだれであるかということであった。外戚とは母かたの親戚のことであるが、なぜ天皇の外戚であることが重要なのであろうか。その不思議を解く手がかりのひとつは、当時の結婚生活、家族生活の実態である。外戚が尊重されるのは天皇にかぎってのことではなく、当時の貴族全般においてのことだった。その理由は、当時の家族生活において、人間の生誕・生育が父の一族内ではなく、母の一族内で行われるからである。同母の兄弟姉妹は成長期はともに暮らすが、邸宅を継ぐのは女であって、兄妹はいずれ外へでてゆく。ただし、本邸を継ぐ女の婿取りについては、一族として父母とともに兄弟もまた一緒になって世話をする義務があるのである。他家へ出た男は、婚家先で婿として平均10年から20年の長きにわたって世話を受けて独立する。住居についてはたいてい妻の一族の世話になる。生まれた子供は外祖父母が第一の責任者として養育する。公的には官職・地位や、同氏同族の統制は父系をもって律せられているが、私的には、実生活に密着したものとして母系が強固な力を持っていた。この両面をそなえた姿が、当時の貴族社会の実態なのである。貴族が娘を後宮に入れるのは、いわば天皇を自家の婿に迎えるのである。ただ、天皇という公的な立場上、天皇を自邸に迎えるわけにいかないから、宮中の局を自邸の出張所として天皇を迎える形をとるわけである。そして娘が懐妊すれば自邸に下げて、そこで生まれた皇子は外祖父として自邸で一心に養育するのである。その皇子が他日皇位につき、摂政を必要とするとき、その任に当たるべき者は、当時の生活の通念として、天皇の外祖父ということになる。それに次いで、天皇の生母の兄弟が責任を分担することになる。外戚の立場がなぜ摂政関白の地位と直結するか、それは外祖父を主軸とする外戚の一族が、一家の女子に生まれた幼児の養育・後見に当たるべき義務と権利を持っていた当時の社会の在り方によるのである。
身分と昇進
年2回、定例の人事異動が発表される。これを除目(任官)の式という。これによっておのおの官位相当職が与えられる。また、高級貴族の推薦で位(特に五位)を授けられ、これを叙位という。この際、推薦を受けたものは推薦してもらった高級貴族に推薦料を払い、これが収入の一部にもなっていた。この2つの為に、どの貴族も挙って自己アピールをする。彼らの位階と職に対する執念は恐ろしいほどであった。また、先の叙位などで五位を受けたものは国司になることがあるが、これまで述べてきたとおり、国司になると言うのは経済的な大チャンスであった。だが、赴任先の国にもそれぞれ、大・上・中・下とランクがあり、上位の国の国司に任命されたもの、下位の国の国司に任命されたものの喜びよう、悲しみようも大変なものだった。上記のような位階、職とは別に、昇殿人という、御所で天皇の身の回りの世話をする事が許されている人達が居り、これはとても名誉なことであった。また、平安中ごろまでには貴族の格の値打ちも下落し、専ら五位以上のみが貴族として扱われるようになった。そして、そのトップに経つのが四位以上から任命される参議以上の最高幹部達で、おおよそ20名前後である。こういった高級の職になると本人の努力だけではほぼどうすることも出来ず、家柄がものをいう。
中宮彰子

 

「道長の出現」の章で藤原伊周を内大臣から失脚させた道長は、正二位左大臣に上る。ひとまず足場を固めた道長は、一条天皇の後宮に娘の彰子を送ろうと画策する。一条天皇には伊周の妹の中宮定子が居り、懐妊、後宮から退出していたが、その身に起きた不幸はやはり先述である。彼女は更に不幸に見舞われ、退出先の中宮御所二条邸が火災に見舞われ、叔父の邸に避難した。後に、更にその叔父の邸も焼け、粗末な先但馬守の家に移った。そんな彼女ではあったが、天皇の寵愛は変わらなかったのが唯一の救いだっただろう。998年、道長は病に倒れ死を覚悟したが、半年ほど掛けて回復、この頃には彰子も12歳で、裳着すにも丁度良い年齢となり、入内の準備が始まった。道長は準備に公卿から法皇まで協力を仰いだ。これ対抗したのが中納言藤原実資であった。彼は絶対的な権力を持つ道長に唯一正面から対抗したものである。彰子は12歳で入内、天皇の女御となった。道長は立場を更に確かなものとする為、彰子を皇后にしようと奔走。天皇の生母で彼の姉の東三条院詮子、天皇の側近である蔵人頭藤原行成と協力して中宮彰子とした。こうして皇后定子と中宮彰子の二后が並立。そして1年足らずの内に定子が崩御し、彰子は皇后となり、道長は天皇の外祖父となる資格を手に入れた。
一条天皇の宮廷

 

一条天皇は左大臣で外叔父である道長を関白としなかった。が、公卿のトップである彼は一条天皇と共に政事を取り仕切った。一条天皇は道長を信頼していた様で、998年、道長が病に倒れて職を辞したいと申し出たときもそれを却下し、再び共に政務を行っている。ところで、摂関政治と言うと天皇はあたかも摂政関白の操り人形のように思われがちであるが、摂政は天皇が子供であるので置かれるが、その際は天皇の生母の意見がものを言うようであるし、関白は天皇と一々打ち合わせをし、天皇の判断を仰ぐという形である。そして、この一条天皇の時代の宮廷は優れていたようで、天皇も進んで綱紀取締りを提案、実行させている。この優秀な天子の下には優秀な人材も多数生まれており、それは平安時代後期の学者大江匡房の著書「続本朝往生伝」に記されている。彼は「時の人を得たるや、ここに盛んなりと為す」と評して86名を挙げ、「皆これ天下の一物なり」と結んでいる。
清少納言と紫式部

 

女房というのは、部屋を持った侍女のような存在である。多くの役職が存在しているが詳しい制度はわかっていない。この女房のなかで双璧であったのが清少納言と紫式部である。清少納言は定子に仕えた女房であるがその経歴にはわからない部分が多い。枕草子についても様々な議論があるが、それが清少納言の卓越する才智を窺わせる。また彼女は人との応対が上手かったようである。また強気な女性でもあった。定子がいる間、彼女は存分に活躍するが、定子が亡くなると身を引くことになる。それに代わって登場するのが紫式部である。紫式部も、彰子に仕えた女房であると言うこと以外はよくわからない。だが「紫式部日記」から彼女の動向を知ることができる。それによると、源氏物語は当時の宮廷でも評判だったようであり、道長がそのスポンサーであったという説も存在する。東宮である敦成親王が病であったという「小右記」の記事の中に紫式部が登場するが、紫式部が男の日記に登場するのはこれだけである。そのことから、実資と関係が深かったとも考えられる。また紫式部は日記の中で、才智を明らかにする清少納言へ苦言を呈してもいる。このように輝かしい後宮であるが、必ずしも女房とすることが歓迎されたわけでもなかった。高貴な家では娘を女房とはしたがらなかった。だが、上流貴族が後宮に目を向けたのは事実である。天皇の外戚であることを背景にして政柄を握っている以上、皇子の誕生する後宮もその役割は大きかったのである。
儀式の世界
後一条天皇即位の時、固関の儀が行われた。これを主催したのが藤原顕光であるが、彼は無能として知られており、この儀式の際にも多数のミスを犯す。それゆえ、道長も苦り切った。儀式は非常に煩雑であるため、公卿たちは杓に式次を書いた紙を貼るものである。またこのような儀式は多数行われた。しかしそれは形式重視であり必ずしも実用を伴ってはいない。だが、失敗すれば朝廷での笑いものになり、また無能のレッテルが貼られることになるのである。この時代が丁度儀式の形式の成立の時期であった。それゆえ、幾つか流派に分かれることもあり、またちょっとした機転で儀式が変わることもあった。
日記を書く人々
当時の人々は、儀式の次第を書きとめて先例と為すために記録を行った。それゆえ、他の人間にも読まれることを意識した、半ば公的な文書である。また現代の我々からすれば、平安時代を知るための貴重な史料となっている。信憑性を期待できるからである。その点、歴史物語は史料という点ではすこし劣る。その例としてまず「御堂関白記」が挙げられる。これが道長自身の日記であり、具注暦の余白に記されたものである。日によって大きく分量も変動する、非常に気まぐれなものである。また漢文法も適当であり、読みにくいものとなっている。だが史料を解読することが歴史学者として重要なことであるというのも、また事実である。原典から出発し論を積み上げることが、最も大切なのである。この日記を書く以上、教養というものが必要となるが、上流貴族は必要な教養を家庭教師に教えてもらう程度で、あまり懸命に勉強する必要はなかった。。これに対し、中流以下の貴族たちは、漢籍を勉強して大学に入り、そこで紀伝道を学ぶ。その大学に入るために試験勉強が必要になる。また、子供は様々な「口遊」を通して基礎的な教養を付けていった。
栄華への道

 

1011年、一条天皇が亡くなり、三条天皇の治世となった。この三条天皇と道長はそりが合わなかった。三条天皇は道長に対抗しうる勢力として、大納言藤原実資に注目し、数々の相談をした。三条天皇の東宮時代には数人の配偶者があったが、その一人は道長の二女姸子であり、もう一人は故大納言藤原済時の娘の娍子であった。2人は三条天皇の即位ののち、同時に女御となったが、1012年、姸子が中宮に立ったのに対し、娍子はとり残された。しかし娍子にはすでに6人の皇子皇女があったため、姸子立后のすぐのち、娍子を皇后に立てた。娍子の立后に対し、道長は中宮姸子の参内の日取りをぶつけ、いやがらせをした。娍子立后と姸子参内が同じ日に行われれば、公卿以下はこぞって姸子の行事のほうへ集まってしまうことは明らかだったからである。このように、三条天皇と道長とのあいだは険悪になり、1013年の賀茂祭において華美禁止が無視されたように、道長はいわば陰でいやがらせをするという手段に出たのだった。東宮には道長の外孫である敦成親王があったため、道長は三条天皇の譲位を考え、天皇は退位の遠くないことを恐れた。ここで、天皇には、眼病という決定的に不利な現象が起こった。また、内裏の火災も相次いで起こり、道長の譲位要求などもあって、1016年の正月、天皇はついに譲位した。こうして、9歳の幼帝、後一条天皇が出現し、道長は外祖父として摂政の地位を得たのであった。
望月の歌
摂政となった道長は、1年余で摂政の地位を長男の内大臣頼通に譲った。こうして藤原家の栄達をはかるうえで、問題となったのは東宮敦明親王のことであった。敦明親王は三条天皇の皇子であり、道長の外孫ではないからだ。1017年の8月6日に、敦明親王は東宮辞退の決意を道長に打ち明け、3日後の9日には後一条天皇の弟であり、道長の外孫である敦良親王の立太子の式典が挙行された。これがのちの後朱雀天皇である。敦明親王は、東宮の地位を退いてのち、小一条院という称号を受け、太上大臣に准ずる待遇を受けることになった。1017年12月、道長は太政大臣に任ぜられた。そしてわずか2ヶ月間でこれを辞し、前太政大臣に変わっている。これは太政大臣という最高の官職が、たんに箔をつけるだけの形式的なものとして考えられていることを示すものといえよう。道長が一家繁栄の路を開く最後の布石としてねらったものが、後一条天皇の後宮に娘を送りこむ、すなわち威子の入内・立后という一件であったが、ここまで来てしまえばそれはたやすいものであった。1018年3月に、入内は達せられた。1018年10月、威子は中宮に立った。中宮職の職員任命が終わり、威子の自邸である土御門邸で祝宴が始められた。この宴の席において道長が詠んだ歌が、有名な望月の歌である。此の世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば道長をこれほどまでに喜ばせたものが、すなわち威子の立后による布石の完成である。布石とは、天皇も東宮も自分の外孫で占め、太上太后・皇太后・中宮と、歴代の后の地位を全部自分の娘で固めることにほかならない。こうして、道長一家の栄華はその絶頂に達した。道長は威子の立后をもってみずから満足し、そののちは急速に世事と離れて法成寺の建立に心を傾けはじめたのだった。
怨霊の恐怖

 

源氏物語に描かれたようなもののけの話は、実話とはいえないが、そこに現れているようなもののけの活動や、それにたいする祈禱・調伏の様子は、そのままの形で当時の記録に出て来る。政治上の陰謀・暗闘の際におだやかな処置と思われるものが多いのも、ひとつには怨霊の祟りを恐れたからではないか。邪気や悪霊を払い除く方法はいろいろあったが、密教の祈禱はそのひとつであった。当時の仏教界の主流といえば天台・真言の二宗であるが、これはともに密教をとり入れて加持祈禱をおこなった。もののけは人間の死霊・生霊であるが、平安時代の霊界に活動していたのは人間の霊ばかりではなく、動植物も、天体自然も、人間世界に禍福の影響を及ぼすものと考えられていた。これをもっぱら扱ったのは陰陽道である。異変があればすぐ占いをするのも陰陽道の役目だった。占いの結果をも含めて、一般につつしむべき非を物忌といった。これに似た謹慎には触穢があり、この触穢の考えは日本古来の潔斎の風習から来たものであった。平安時代の人間が、こんにちにくらべて、きわめて迷信深かったのには、多くの理由が考えられるが、やはり当時の社会全体の気風というものから考えてゆく必要がある。重大なのは、当時の社会が身分や家柄を主眼として組み立てられていて、自力で運命を切り開いていく余地の少ない、停滞的な社会であったということである。当時の人々が望んだのは権力と富力であり、それは朝廷での昇進によって得られるものであるから、かれらが朝廷の官職を望む心の強かったことは、はなはだしいものがあった。そして、その望みが実現するかどうかは、個人の技能よりも運命の力の作用によるところが大きかったのである。運命が、神仏の力を借り、陰陽五行の術を施すことによって好転するとなれば、人々の努力はもっぱらその方向に向けられ、祈禱や法術もそれに応じてますます複雑化して行くわけである。
公卿と政務

 

公卿というのは、摂関・大臣・大納言・中納言・参議の20人程度の人々を指し、すなわち彼らは太政官の最高幹部である。彼らは陣定と呼ばれる会議に出席し、また持ち回りで儀式の当番を行った。陣定は非常に重要な会議であるが、必ずしも公卿は出席したわけではないようだ。また、命令には官符と官宣旨があった。官宣旨は符よりも略式であったが、符と併用されて良く使われた。儀式等の当番のことを上卿と称したが、これは非常に大変な物で、滞りなく行うのは非常に難しいことであった。
刀伊の襲来

 

1019年、大宰府から急使が到着した。これは997年の南蛮の賊以来のものであった。これは刀伊という賊が九州を襲ったという事件であった。京都に於いてこの事件は、あくまでそれほど大きな事件として捉えられることはなかったが、実際には九州で大きな被害を齎した事件であった。刀伊は、小さな船を多数擁して対馬・壱岐・北部九州を荒らして回ったと言う。彼らは人を攫い、穀物を奪うなどの乱暴を働いた。この時、大宰権帥であったのが藤原隆家である。伊周の弟である彼は、豪傑として知られ、また人々に慕われていたようだ。その指揮は正確であったが、賞されることはなかった。刀伊は、対馬判官代の調査の結果、どうやら高麗を以前襲った女真族の一派とわかった。彼らは日本を撤退した後、高麗を襲って逆に撃破されたという。これによって刀伊に捉えられていた捕虜は解放され、後に高麗より返還された。
盗賊・乱闘・疫病

 

このころ、平安京には盗賊が跋扈していた。この盗賊は、武装集団として平安京を駆け回る暴力団的な存在であった。これらの中には、武士的な人間も多分に含まれていた。彼らは内裏にすら侵入し、様々な所で猛威をふるった。このような状況であるから、乱闘も非常に多いものであった。貴族の周辺の世界は非常に荒れたものであったと言える。また、放火も頻発した。公卿の家や内裏すら放火の憂き目にあうことになったのである。天災も多い。とりわけ、疫病は猛威を振るい、死骸が堀を埋めるほどの死者がでることもあった。とりわけはしかや天然痘が流行したようである。これに対して、非常に様々な祈祷が行われた。また医術も様々なことが行われたが、それは迷信めいたものも多く、治療効果に関しては非常に微々たるものであった。
平安貴族の衣食

 

<衣>男性:束帯 計7枚の衣、袴に加え、革帯、靴下、沓、笏を身につけ、武官や公卿の内で特に許されたものは飾太刀を佩用する。平常服はもう少しばかり服の数を減らすが、それでも動きづらく、どうも運動不足気味になったらしい。女性:女装束 十二単というのは女性の正装ではなく、袴、単の上に衣を12枚重ねた桂姿を表している。正装、古い文献にはよく女装束と呼ばれているようだが、これは十二単に数枚の唐衣や髪飾りを身に着けて髪を結ったりする。女性は現代と同じく化粧を施した。お歯黒などが有名なところ。彼女らは天然痘のためにできたあばたを隠したりする為に厚化粧を施したようだ。また、薫物、つまりお香も好んで用いられた。風呂に入る回数も少ない時代だったので、薫物で体臭を隠した。また、そういった用途だけでなく、純粋に香りも楽しみ、歌同様、薫物合なども行われた。衣の部分が贅沢だった反面、食に関してはあわれな程であった。当時の貴族達が食の事について余り文献を残さなかったのも、食の話題はタブーに近いものだったようであるからだ。
法成寺と道長の死

 

この世での栄華の極みに達した道長は、続いて来世の為に動き始めた。1018年、52歳の頃から体調を崩れがちになった事もあり、翌年には剃髪出家、自邸の東隣に法成寺の建設を決意した。また、剃髪した頃からか、現役だった頃は様々な肩書きも持っていて責任感も強かったようだが、それらの肩書きを脱ぎ捨てて責任感からも解き放たれたため、少しずつ我侭な振る舞いが見られるようになったようだ。1021年に法成寺が完成、道長は此処で生活するようになると共に仏教的な生活になり、前年からは御堂関白記も殆どが空白になるようになった。この法成寺建設にあたり、公卿、一般朝臣、そして特に受領たちから多くの寄付が寄せられた。勿論、道長に名前を覚えてもらうためだ。この時、最も点数を稼いだのが伊予守源頼光だが、彼は諸国の受領を歴任するあいだに農民達から吸い上げた財で富を築いたと思われる。この頃になると、農民から不正に取り立てて富を築こうとする郡司や国司を訴えるものが出てきた。特に尾張国などは訴えが多いが、反面、国司の善状、つまり善政を称え、重任を求める、という事もある。また、集団で上京し国司などを訴えることもある。特に除目、受領功過定、つまり国司の成績判定の前が多く、訴える農民達も様々な情報を得て作戦を作っていたようである。こういった陳情、訴え、いざこざなどは地方の農民だけでなく、京の中でも起こっていたようだ。対して国司などは、摂関家に取り入って心証を良くして難を逃れたようである。つまり、贈収賄である。摂関家も国司たちの賄を受け取って、莫大な財力を築いていったのである。話を戻して1025年、道長の近親者が立て続けに病に犯されたり、亡くなったりした。そして道長自身も翌々年の1027年12月3日の未明、62年の生涯を終えた。
浄土の教え

 

末法思想に於いて、西暦1052年は釈迦入滅から正法、像法の世を経て2001年目、其れの年にあたる。平安貴族の政治的大黒柱とも言える道長の死後僅か25年のことである。そんなことで、この前後には貴族を中心に厭離穢土、欣求浄土が広まった。極楽浄土の信仰は、比叡山延暦寺で発達し、その流布には空也、慶滋保胤、恵心僧都源信などの存在がある。空也は南無阿弥陀仏の名号を唱えながら土木工事を各地で行い、京都の街中で人々に念仏を勧め、鴨川のほとりで行った大々的な供養会には左大臣らも出席し、人々の関心を極楽浄土に向けさせた。慶滋保胤は陰陽道の賀茂氏の出であったが、加茂から姓を改めて詩文の道で名を馳せ、後に出家し寂心と号した。また、彼の弟子寂照は文学の大江家の出で、三河守も務めたが、発心して官を捨てて入道した。彼らは熱心な浄土信仰者で、人に与えた感化も大きかった。そして、源信は「往生要集」、要するに「どうすれば浄土に入れるか?」を分かりやすく示した、浄土についての名著である。文章を簡潔にまとめて読みやすい、しかも内容の充実しているものを書くには大変な学識を持っていなくてはならない。その点で彼は優れた学僧であったと思われる。また、極楽浄土を説くのに、いかに美しい極楽浄土を表現するか、という点から多くの来迎図が描かれた。そこには、当時の日本人が考えうる限りの「美」が映し出されている。
欠けゆく月影

 

1017年には道長の後をついで頼通が後一条の摂政、1019年には関白となっていた。彼を中心とする摂関家は揺ぎ無いように見えたが、道長を失うというのは、大黒柱が抜けてしまったようなものであるといえる、彼は一条、三条天皇の外叔父であり、後一条の外祖父として、そしてまた公卿の筆頭であり、太政大臣の地位を得、娘を後宮に入れて将来にわたって外戚の地位を確立した、理想的な摂関であった。頼通は、執政者として十分な人物であったと思われるが、帝王の如し、と称えられた父親に比べると、どうしても劣るように見られてしまう。その彼の上に、道長が背負っていた責任の全てが帰した。彼は父の築いた体制を維持するのが精一杯だし、その上、彼は父と違って政敵になり得る有力な弟たちが公卿として地位を占めていた。道長の時代に彼を支えた実資、行成、公任ら老公卿たちも次々と引退、或いは亡くなっており、必ずしも頼通に協調する公卿たちも減っていった。更に彼は、後宮に入れた娘達が皇子に恵まれず、外戚体制を維持できなくなった。かくて摂関家の衰運は明らかとなり、頼通の威令も弱まり、世間では暴徒、乱闘、殺戮が蔓延り、関白邸にも強訴の僧達が押し寄せ、放火される始末。この頃の騒然たる世間が、道長の姪が記した更級日記に残されている。1052年には末法に足を踏み入れ、王朝の貴族に代表される平安中期は幕を下ろし、院政期を経て、武士ら新興勢力が台頭してくる。
 
武士の登場

 

東国の叛乱
平忠常が叛乱が1028年(長元一)に京都に達する。この時はちょうど藤原氏全盛期を誇った藤原道長が死亡した翌年であり、平将門の乱からおよそ100年経過後のころであった。中央貴族は吉日を待つという理由で追討使の派遣を40余日遅らせることになる。これは彼らが地方叛乱の政治的意義を認識する能力を欠いていたことの証左であり、この点で藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変に即時即応の行動をとってこれを鎮圧した奈良の貴族たちと異なっている。1031年(長元4)忠常は出家して常安と名前を変え、甲斐に降伏する。その後、源頼信を伴った上洛の最中に、美濃国野上で忠常は死亡する。頼信は晩年に河内守となり、八幡神に傾倒し、石清水八幡宮に願文を納めて百年の寿と一家の男女の栄耀富貴を祈願した。多数存在する武神の中、八幡神と武士の特別な関係がここから始まることになる。
前九年の役・後三年の役
父祖三代の間に奥六都の支配を完成した安倍氏は、関門衣川関をこえて内部にまで進出するに至った。ついに国府に貢物を送らず、徭役(労役)をも務めなくなったので、大守藤原登任は平重成を先方としてこれを攻めた。後に大赦がなされ、頼良は頼時と改称し、源頼義に帰服する。頼義はこれを潔しとせず、頼時を何度も挑発し、ついには受けて立たざるを得ない状況に巻き込む。1062年(康平五)ついに安倍氏は滅んだ。頼義が安倍頼良を鎮圧するために陸奥守に任ぜられてから、安倍氏が滅ぶまでのこの乱を前九年の役と言う。前九年の役後、清衡と家衡は奥六郡の取り分が原因で対立するようになる。清衡は遺領を継承する正当な資格を持っていなかったが、それにもかかわらず取り分が家衡よりずっと多かったからである。1087年、家衡が討たれて事件は落着する。一方朝廷では、堀河天皇が8歳で即位し、白河上皇の院政が始まろうとする時であった。この戦いを後三年の役という。
武者の家

 

「さむらい」という言葉は「さぶらふ」という動詞の名詞化によって生まれた。当初は彼らは自由に世界を闊歩する勇者ではなく、高齢者に伺候する者として、福祉制度の一端を担っていた。この制度はやがて衰退し、平安時代のころには皇后宮や中宮に伺候する者を「侍」と呼ぶようになり、身分も遥かに高くなった。武士は誰でも侍というわけではなく、上級武士だけが侍を名乗ることが許されたのである。さらに鎌倉時代まで進むと、御家人クラスとなり、自らの領地を持ち、将軍に仕え、あるいは幕府の役職を担うほどに成長し、これは室町幕府まで続いた。江戸時代となると、士農工商の厳格な身分制度が影響して、武士一般を士=侍と呼ぶようになった。もともと武士は武芸に優れた士(もののふ)のことである。朝廷は唐の兵制に倣って軍団を作ったが、弱体化が目立ったので、780年(宝亀11)、全国から徴兵し国の大小に応じて員数を決めて専業者として武芸を行わせた。これを健児という。これがさらに、兵と呼ばれるようになっていく。兵の道は厳しく、自身はおろか妻子の命にすらとらわれてはならないという価値観があった。一方、敵方の妻子を凌辱したり殺害したりすることは道義に反するとされており、奇妙な思想の対照性を醸し出している。現代人が考える「武士の誇り」という価値観は、この時代の兵の価値観と近く、また源流となっているように思われる。兵は家系が重要であり、猛者といえども親が兵でなければ兵たりえなかった。個人的力量では軍事力に限界があると兵は感じ、組織化された軍団を作るようになる。これは軍(いくさ)と呼ばれた。武士団は指導者(諸説あり)の元徐々に肥大化し、前九年の役で飛躍的成長を遂げることになる。侍は当初から武士ではなかった。以上に述べた兵たちの、独立独歩の精神がいつの間にか貴族の侍に取り入れられ、そこから武士が生まれたのである。
農村の変貌

 

農村の変貌の原因は奈良時代にまで遡る。奈良時代、調・庸・徭役・出挙・兵役などの義務から生ずる負担に耐えかねた小規模家族が、余裕のある大規模家族に寄生して家族の規模が大きくなるという現象が起きた。こうして巨大化した家族の長は、強い家長権力を握り、私営田領主(広大な土地を有し、それを自ら直接経営する大土地所有者)として財をなした。その他、地方の有力者である郡司、国司や軍毅などの官人が私営田領主になる例もあった。彼らは743年の墾田永世私有法の施行とともに、即座に大土地経営に踏み出した。使われる農民はただ使われるだけではなく、徐々に交渉力をつけてきた。これらの農民を統率するには、統率者が猛者でなければならない。広大な私営田を有した藤原実遠は兵であった。実遠に限らず、当時の兵は武芸専業者であると共に私営田領主も兼ねていた。
荘園経営

 

荘園は私営田領主の発生とともに生まれた。家族から発生するタイプと、皇室や大寺社、摂家などの権力者に寄進するタイプがあった。前者は全国に広く分布し、後者は中央に集中していた。前者は武力による小作人の支配という側面が強く、兵が老齢・病苦その他の理由により支配力を維持できずに没落するという例が多々見受けられた。これらの私営田領主は、中央の権力者の政治的保護により没落を食い止めようとしたため、中央の荘園領主はますますその領地と勢力を拡大した。11世紀になると、国土のほとんどが荘園となった国々が現れる。もともとの私営田領主は土地の権利を全部売却したわけではない。現在の地上権の売却のように、一部を売り渡す形を取った。そして支配者ではなく管理者としてその土地に残留するのである。一般にその土地をよく知った者に管理させた方がコストがかからないので、これは買主である中央荘園領主にとっても有益なものだったと考えられる。兵は没落した者ばかりではなく、むしろ成長して武士にまで辿り着き次の時代の担い手となった。兵は階級性を持たないが、武士は階級性を持つ。没落しかけた私営田領主が他の私営田領主に寄進する形で、この階級性が自然とできあがった。寄進した者が求めたものは武力や経済力というよりは、専ら政治力であった。すなわち、政治的に高い肩書を持っていることが田舎ではステータスであったので、彼らは寄進によりこの威を得ようとしたのである。この時代は国家から追捕を受けた身でも財宝で肩書を買うことができたので、経済的に繁栄した全国の荘園領主はさらに勢力を拡大していくことになった。こうして肩書により政治権力を得た兵が、家柄として親子相伝の武力を磨き、さらに領主としてふるまうことにより、武士となっていったのである。
後三条天皇の新政

 

後朱雀天皇が第一皇子・親仁親王(後冷泉天皇)に譲位すると、東宮に立てられたのは藤原氏と関係を持たない第二皇子・尊仁親王であった。後朱雀天皇には他に皇子がなかったのである。これは藤原氏にとって看過できぬ事態だった。関白藤原頼通とその弟教通は、道長についで外戚の地位を維持しようと苦心するが、入内させた女はしかしことごとく皇子を生まない。そうして1068年、後冷泉天皇が崩じると、ついに東宮尊仁親王が即位した。宇多天皇以来実に170年ぶりの、藤原氏を外戚としない天皇である。大学者大江匡房もその学識を高く評価したと言われる後三条天皇の改革には善政が多い。彼の政治のうち、特に後世に影響を与えたものは荘園整理である。当時横行していた、朝廷の許可なく公田を掠め取る所業に歯止めをかけるため、荘園領主から書類を取って一定の審査基準に照らし、及第しないものを廃止とした。この審査の役所を記録荘園券契所という。役人には藤原氏と関係の薄い法学者を起用し、たとえ権門勢の家領であっても審査に例外を認めぬ、過去に類を見ない公正に徹したものであった。そうしてこの強力な公領回復政策によって、受領たちはもはや摂政家が頼りにならぬことを悟り、しだいに新たな権力者のもとへと靡いていったのである。1072年、後三条天皇は在位僅か4年で位を貞仁親王(白河天皇)に譲る。理由は諸説あって定まらないが、藤原氏の廟堂独占を阻止すべく村上源氏を登用したこと、新たな東宮には源氏を母とする実仁親王を立て、次の親王には輔仁親王を立てるよう貞仁親王に申し入れたことなどから、上皇として政治の実権を握ることで、藤原氏を抑え摂関専制の復活を牽制しようとしたのではないかという説が有力である。
院政はじまる
後三条天皇は譲位の後、院政の間もなく半年で崩御した。翌年には藤原頼通、上東門院藤原彰子が相次いで没し、ここに来て藤原氏の退勢は一挙に顕在化する。一方天皇家では、白河天皇と中宮賢子に敦文親王が誕生するも4歳で夭死、次いで第二皇子・善仁親王が生まれると、親王6歳のとき今度は母中宮賢子が病没、相次ぐ不幸に天皇は悲嘆に暮れた。それゆえ寵愛した中宮との子である善仁親王に皇位を伝えたいという思いは強く、白河天皇は父上皇の意思に背いて13歳の善仁親王を東宮にたて、その日のうちに譲位した。掘河天皇である。1107年、掘河天皇が崩御すると、その皇子・鳥羽天皇が即位した。白河上皇の悲願は成った。しかしかつて後三条天皇によって東宮を予定されていた輔仁親王は日増しに聡明のきこえ高く、周辺にあつまる廷臣も少なくなかった。こうした事情を懸案して、幼帝の地位を守り支えるために、上皇は自ら政治を行う院政を始めたのである。さて後三条天皇が村上源氏を登用して以来、源氏の官界進出は著しく、公卿の主席は源氏によって占められ、藤原氏による高官独占の図は急激に崩れ去って行った。しかし村上源氏は他ならぬ輔仁親王の主たる支持者であり、白河法皇にしてみればいまだ心もとない勢力図である。この不穏な空気の中、法皇の権威を決定的なものにしたのは、1113年の冬に起こった永久の陰謀事件であった。輔仁親王と村上源氏が結託して、鳥羽天皇を亡き者にしようとしているという陰謀が密告されたのである。この事件を契機に首謀者の縁者である村上源氏一族は朝廷での地位を次々に失い、村上源氏の勢力は一時に頓挫してしまった。その後は法皇の思うままである。「今の世のことは、すべてまず上皇の御気色を仰ぐべきか」(大江匡房「江記」)という記述が、以後の法皇の権威がいかほどのものであったかを如実に表わしている。院の権力が専制的なものになるにつれ、台頭してくる勢力は院の近臣たちである。彼らは廟堂での席次も低く、貴族としては中下級でありながら、受領として蓄えた巨富や親族関係など各々のつてを通じて法皇の信任と寵愛を得た者たちだ。ここに政治力、財力が力を持ち、律令制が済し崩されていく、来たる時代の萌芽を見ることができる。
東の源氏 西の平氏

 

源頼義、義家によって東国にうえつけられた源氏の勢力は、しだいに関東一円に根を張っていった。この勢力拡大の要因は所領の開拓に加えて、前九年の役ならびに後三年の役を通じて関東平氏の郎等化に成功したことにある。特に頼義が平直方の女婿となったことは最大の契機であった。頼義は直方が鎌倉に持っていた別荘を譲り受け、前九年の役にあたって石清水八幡宮を勧請、由比郷に社殿を立てた。頼朝が鎌倉に幕府をひらく基礎はここで築かれたものである。こうして関東平氏への支配を確立した義家は、しかし源氏の棟梁としてあまりに威望を持ちすぎてしまった。白河上皇は義家を院政警護の武力的背景としてこそ用いたが、義家が荘園領主となり貴族の仲間入りを果たしたような体裁を取ることは認めがたいことであった。朝廷は、衆望の高い彼を完全には排除できず、昇殿許可をもって遇せざるを得なかったものの、決して好ましく思っていなかった。義家はしだいに貴族から疎外されていったのである。義家を嫌った上皇たちは、彼に代わる武者として弟の義綱を利用した。しかし1106年に義家が没すると、後継者争いが同族のうちに吹き荒れ、陰謀渦巻く主導権争いのうちに一家は全滅、あれよという間に源氏は瓦解してしまう。北面の武士なる親衛隊を組織し、悪僧の強訴に対応するため武力を必要としていた白河上皇が、ここで源氏の内訌を傍観し、あまつさえ壊滅を助長するような処置さえ取ったことには意味がある。上皇にとって源氏はもはや用無しであった。西に伊勢平氏という代わりの武士を見つけていたのである。

伊勢平氏の祖である維衡は、伊勢守に任じられる以前より伊勢に根拠を持ち、大武士団を抱えていることが知られていた。その後維衡の4世に至るころには一代勢力を確立し、そのうちの正盛が六条院へと所領寄進を行ったことが、朝廷内で伊勢平氏の勢力が拡大するきっかけとなった。平氏はこれ以降、院とのつながりを深めてゆき、その庇護のもとで勢力を伸張させてゆくのである。また、正盛は源義家の子・義親の反乱の征伐にも成功し、そのことで武名を挙げることにもなった。これにより平氏は完全に源氏へと伍すことが可能となり、源氏と並んで天下弓矢の者と称されることとなる。また従四位下にも任じられ、これは貴族らを驚かせる結果となった。その子、忠盛も平氏の拡大に大きな貢献をなした。院との関係深い忠盛はわずか20にして従五位を受け、瀬戸内での海賊討伐を通してその権力基盤を築いた。一方で貴族との関係も保つことにも尽力し、宮廷的素養も身に付けていた。正盛が死ぬと間もなく、忠盛は従四位下に任じられ、その後ついには昇殿を許されるまでに至った。この忠盛の躍進の裏には、貿易があった。彼は中国との貿易を握ることで大きな財力を得ていたのである。そうして忠盛は平氏躍進の土台を築きあげて、保元の乱の3年前に死去するのである。
完成する荘園体制

 

後三条天皇によって始められた荘園整理は白河院の代にも続け、院の寵臣でもある受領たちは権門家に媚びず荘園整理を遂行していった。だがこの荘園整理によって荘園は却って国衙領との差異を明確にする結果となり、また荘園整理令上で合法となった荘園については、その権利は盤石となってゆく。則ち、荘園整理令で合法となれば、荘園領主は国から国家的支配権の一部を委譲されたことに等しくなるのである。この荘園で働く農民たちを田堵と呼び、その田地を名田とした。田堵の中にも莫大な田地を持つ者がおり、これらを特別に大名田堵と読んだのである。これらの荘園は、不輸租権・公事夫役の免除を得ることで、完全な成立を見ることになる。この荘園整理には、在家支配の確立・万雑公事の賦課・名体制の編成、という三つの側面があった。在家支配の確立とは、領主による地域ごとの支配の確立である。万雑公事の賦課は、荘園に対する多様な物品・夫役の賦課であり、これを行うために名体制の再編成が行われる。田地を名として編成した上で、田堵を名主として名の私有を認めた上でその賦役を強化したのである。またこの名編成に際しては名主の負担均等化のために均等に名を割り振った場所も存在する。こうして、荘園整理の結果として荘園制は強固なものとなった。その結果、都の貴族たちも荘園無くしては生活できなくなっていたのである。この荘園から兵士が編成されるということも多かった。
法皇と僧兵

 

院が武士を重用した一つの背景に、興福寺や延暦寺の強訴が挙げられる。この両寺は、朝廷へ希望が聞き入れられぬ際に神輿や神木を持って朝廷へと押し寄せ、希望を通そうとした。この時に押し寄せたのは、当時大衆・学侶と呼ばれた僧侶たちである。本来、僧侶は国家の公認を得た者に限っていたが、だがやがてそのような規律は崩れ、この時代には僧の数は膨大な数に達していた。彼らは学問を行うよりも武事を好み、それによって寺に武力が蓄えられるようになっていた。その上荘園からの兵士が集められており、また堂衆と呼ばれる寺院内の雑務を担当する人間たちも多かった。強訴の際にはその力が結集されることとなり、強大な力を得ることになったのである。また神輿や神木も絶大な威力を発揮した。神とは、得てして怒って祟りを下すものと信仰されており、それゆえ傷つけることは憚られた故である。これらから寺院の要求を排除する術を朝廷は遂に持つことができず、興福寺(山階寺)の要求ならばどのような非道でも通ってしまうことから"山階道理"という言葉も生まれた。
保元の乱

 

白河天皇は子に譲位し堀河天皇が即位、自らは上皇となり院政をはじめた。即位した堀河天皇の方も熱心に政務に取り組んだが、父親の専制ぶりに嫌気がさし、次第に音楽にのめりこむようになり政務から疎くなったが、この為に天皇上皇間で争いが起きずに済んだ。堀河帝が崩御すると、まだ5歳であった上皇の孫を皇位につけ、鳥羽天皇とした。上皇は鳥羽帝の中宮として待賢門院を入宮させたが、この時に上皇は彼女と密通し、胤子を生んだ。上皇はこの胤子が鳥羽天皇即位と同じ5歳になると、皇位につけた。崇徳天皇である。白河上皇が倒れると、鳥羽上皇が院政をはじめた。白河上皇時代の反発で近臣の交代が起き、鳥羽帝の関白であった藤原忠実が重用された。また、待賢門院と不仲になり、代わって美福門院が入宮。まもなく彼女と上皇の子が生まれると、生後3ヶ月にして立太子、3歳の時に崇徳帝をだまして譲位させ、近衛天皇となった。また、摂関家の中では父の藤原忠実・弟の頼長の2人と兄の忠通が対立していた。頼長は博識で、日本一の大学生と称された。多くの書物を読み、集めた書物を自ら設計した、保管に適当な建物に収め、頼長文庫とした。だが、次第に厳格さが度を増し、殺人をも敢えて行うようになり、世の人は悪左府と呼んだ。兄の忠通は父に厭われていたが、彼も筆の名手などと立派な人物であったが、父と弟の勢力が増したので自衛上対立せざるを得なくなったものである。近衛天皇は皇子のないうちに17歳で崩御した。美福門院の養子守仁親王が皇位を継ぐまでの中継ぎの天皇として、守仁親王の父雅仁親王が後白河天皇として即位。これは美福門院と忠通の共謀らしい。頼長は守仁親王に対抗できる人とつながりが無かったし、また本人も妻の喪中など、忠通に対抗することが出来なかった。さらに忠通たちは、忠実と頼長が近衛天皇を呪い殺したと上皇に密告、頼長は失脚した。1156年7月2日、鳥羽上皇が崩御したという知らせを聞き、崇徳上皇が駆けつけるが、後白河天皇勢が門前払いし、上皇と天皇の対立が表面化した。双方は武士を集め始めた。天皇方は先手を打ち、上皇方の者を捕らえ、摂関家の本宅を占拠。この時の双方の勢力は、崇徳上皇方に藤原頼長(弟)に対し後白河天皇方に忠通(兄)、上皇方平忠正(叔父)に対し天皇方平清盛(甥)、上皇方源為義(父)と源頼朝(弟)に対し天皇方源義朝(兄)といった具合であった。上皇方の行動が足並みそろわなかったのもあり、天皇方優勢の内に乱は静まり、上皇は讃岐へ流罪、天皇の側近藤原信西の言により、清盛と為朝にそれぞれ自らの叔父や父親をはじめとして、上皇方についた同族を切らせ、源氏の勢力は衰えた。また、祟徳院や敗死した頼長の怨霊がこの後都を苦しめたのは、言うまでも無いだろう。東方的に。また、この乱の褒美として信西に取り入った清盛に正四位下、義朝に正五位下が授けられたが、義朝がこれを不服として、平治の乱の遠因となる。
平治の乱

 

保元の乱以後、後白河天皇は親政をしやすい状況にあったにもかかわらず、二条天皇に譲位、院政を始めたために、後白河上皇と藤原信西を中心にした院政派、二条天皇ら親政派、源氏、平氏の間で対立が起きた。保元の乱のフィクサーであった信西は、少納言藤原道憲が出家した法名である。大学頭の祖父、文章生の内になくなった父の元に生まれ、頼長にも勝る博学の人であった。頼長が経学を重んじたのに対し、彼は史学を重んじた。彼が出家したのは、いつの世とも同じように、学者に対して冷遇の世の中を嘆いて出家したのである。先の保元の乱は頼長と信西の才と学をかけた駆け引きでもあった。信西は保元の乱の処理で、摂関家とその武力であった源氏に対して大変厳しかった。摂関家領を没収し、源氏については先に述べたとおり、多くを斬首したのである。また、権門、寺社の荘園を取り締まる新政七ヶ条を下した。新政に際し、彼らを刺激しない為、寺社への配慮は大変細かかった。また、緻密な計算の元に、焼失した内裏の再建なども行った。以上信西がもっぱら政務を執り行ったのは、後白河天皇が今様(流行歌)に没頭していたためである。信西は後白河を愚昧な君主と称している。又、後白河が上皇になると、関白以下他の公卿の圧力もなくなり、勢いも更に強くなるが、自らに頼り、周りから孤立し始める。彼の運命を決めたのは、藤原信頼が役職を欲したのを阻止して恨みを買ったためである。1159年、信西の武力的後援者であった平清盛が熊野詣に行っている隙に信頼と源義朝が兵を挙げてクーデターを起こし、信西を討った。清盛が早馬からクーデターを聞いて都に戻ってくると、義朝に従うふりをして、天皇と上皇を内裏から脱出させ、信頼・義朝追討の宣旨を得てこれを討った。こうして衰勢だった源氏を殆ど壊滅させ、時の権力者信西も滅んで、平氏の天下になってゆく。この二つの乱を通して、平安貴族の権威の弱まりは明らかとなった。
平清盛と平氏政権

 

保元の乱・平治の乱により武士団内の対立勢力は失われ、唯一残った平氏の棟梁平清盛は公卿となる。これより先に武士が公卿となった前例はない。天皇親政派に対抗しようとする後白河上皇の図らいと、彼自身の巧みな政界遊泳術により、昇進に次ぐ昇進、1167年には従一位太政大臣となった。清盛の昇進に連れて彼の一家一族も相次いで昇進する。権中納言は平氏の参列により異例の10人となり、殿上人は30人を超えた。諸国の受領や諸司にも次々任じられ、廟堂の大半は平氏一族で占められる。平氏の勢力はいよいよ最盛期を迎えていた。「此一門にあらざらん人は、皆人非人なるべし。」やがて二条天皇が六条天皇に譲位後まもなく崩御すると、後白河上皇の意向により六条天皇は憲仁親王に譲位する。高倉天皇である。清盛は高倉天皇に自分の女徳子を入内させ、外戚の地位を得ようと画策する。果たして1178年には皇子が誕生、後の安徳天皇である。この皇子の誕生は清盛を大いに感激させた。感激の裏にあるものは、反平氏の風潮強まる中、平氏政権の武力的背景の脆弱さという平家発展の不安要素である。もともと伊勢平氏は源氏勢力を斥けるために白河法皇によって取り立てられた成り上がりものである。武士としての基盤を整える暇はなかった。平氏の進出は武士団としての成長・発展ではなく、白河・鳥羽・後白河三代の法皇の戦略的引き立てによるところが大きいのである。故に平家にとっては、公卿と受領を占め天下の国政を我が物とする往年の藤原氏の手口が望むところであった。そうして外戚の地位を得ることは、まさにそのための橋頭堡であった。地方行政を蔑ろにした全盛期の藤原氏に対し、平氏は知行国主や受領を一門で占めた。蓄財もさることながら、全国に平氏勢力のにらみを利かせることを目論んだものであった。また経済的な基盤を固めるために宗との外国貿易政策を重んじ、巨利を博すとともに、書物などの輸入を勧め学問の進歩にも貢献した。こうして平家はあらゆる面における地力を着実に蓄えていった。
奥州藤原氏

 

陸奥・出羽の2国に目を転じる。東北を支配していたのは奥六郡の主清原氏の遺産をついだ藤原氏である。当時の陸奥・出羽の生産力は畿内に匹敵するほど高く、数多くの特産品や金による経済力もあり、自立的に平和と繁栄を誇っていた。奥州藤原氏の繁栄は特に清衡・基衡・秀衡の三代に見ることができる。初代清衡は後三年の役で源義家を利用し、戦後は彼を奥州から遠ざけることで奥羽両国にまたがる主権者となった。安倍氏の血をひき清原家をつぐ彼が主権者となることに在地の反対はない。彼が苦心したのは自らの地位を中央に認めさせることであった。清原姓ではなく都に通りのよい実父の藤原姓を用いて関白家との連絡を図り、やがて国守の権力を無力化することに成功する。清衡の死後、跡目を相続したのは二代基衡である。彼は父清衡の摂関家に対する妥協を排した。たとえば悪左府藤原頼長の年貢増徴要求に対しても厳しく応じ、ついに初案の半額以下で押し切った。基衡の代にあって、奥羽の聖域化はいっそう固められることになる。基衡の死去直前、京都では保元の乱が起こり、時代は変転の機を迎えていた。これを受けて奥州は政治的にも文化的にも成熟し、中央と対等の地位に上り始める。こうした背景の中、三代秀衡が当主となる。あらゆる勢力と連携を図ろうという平清盛の取り計らいによって、1170年に鎮守府将軍に任ぜられ、翌年には陸奥守となったが、秀衡は奥州は奥州であるという独立的な立場を貫き、ついぞ平氏にも源氏にも靡かなかった。やがて平氏は滅び、源頼朝は天下統一に動き出す。頼朝は秀衡に対し、中央との連携を断つ申し入れを送り牽制するが、ここでも秀衡は奥州を独立勢力として守りぬく態度を貫徹した。1187年、兄弟間の相克を危惧し、一家一丸となって頼朝に対抗することを言い残して死去。しかし彼の一家結束の遺志も敢え無く、彼の死後まもなく奥州藤原氏は滅びることになる。
孤立する平家

 

平清盛の女、盛子の夫である摂政藤原基実が若くして死亡し、清盛はその家領を一手に握ることになった。これにより清盛は高い官位と日本最大の荘園領主の地位を併有することになる。しかしこれは当時の慣例に反した政治的な工作であったために、世間の反感を強く買う結果となる。事実盛子が死んだ際には、異姓の身で藤原氏の家を伝領したため、氏の明神(春日明神)から罰を受けたのだと噂された。二条天皇が崩御すると、もともと親皇派であった清盛は院と対立し始める。後白河法皇はさまざまな口実をつけて平家を弾圧する。1177年(治承元年)に加賀守藤原師高が白山領を焼き払う。法皇は大衆の意に反し座主明雲の職を解き、伊豆に流してしまう。これを聞いた大衆は大いに怒り、明雲を脱却する。法皇はこれを謀反とし、比叡山追討を清盛の弟経盛に命じる。経盛がこれを断ったので、清盛に命じてこれを承諾させた。永久の強訴により大衆の威力を認識していた清盛は延暦寺との連携を強めていた。法皇は平氏と延暦寺を衝突させようといった意図を持っていたのである。ところがその翌日、院の近臣集団が清盛追討の計画を立てているとの内通が届き、事態は急変する。院は平氏と対抗しうる軍事力を有していなかったので、事件の処理は平氏主導で進められ、あるものは殺され、あるものは流された。清盛はこの鹿々谷事件により、院が対立者であることを明確に認識するに至る。1179年盛子が没すると、法皇はその家領を没収してしまう。これによりついに清盛の堪忍袋の緒が切れ、数千騎の武士を率いてクーデターを起こす。法皇は仰天し陳弁したが清盛は聞き入れず、法皇を鳥羽殿に幽閉する。こうして清盛の軍事的独裁政治が始まった。しかしこれに対する反発の芽は既に崩じていた。1180年(治承4)に高倉上皇は社参(神社に参拝すること)を厳島神社に行うと発表した。これは清盛をなだめ、後白河法皇を幽閉から救い出す意図があったと考えられている。しかし慣例に反したこの社参に大衆は蜂起する。この蜂起により、今まで対立をしていた園城寺・延暦寺・興福寺が連合を強め、対して平氏は孤立していく。
内乱から源平合戦へ

 

平氏は旧貴族や大神社のみならず武士からさえも孤立してしまう。成り上がるスピードに即した統治体制を構築することができなかったからである。貴族、神社、大衆、武士その他多くの勢力の反感が集積した後に起こることは唯一つ。内乱である。1180年、東国伊豆で源頼朝が北条時政の支援を得て源氏再興の旗揚げをする。これが嚆矢となり、全国から次々と反逆者が現れ始める。延暦寺も源氏の軍門に下り、園城寺もこれに続いた。平氏もただやられるばかりではない。平知盛、平資盛、平清綱はそれぞれ別ルートから近江に向かい、たちまち源氏を逐電させる。そして近江の武士の三分の二を味方につけ、頼朝打倒を目指し始める。しかし寺院の結束は強かった。延暦寺と園城寺は結託して近江の平氏軍を討とうと計画を立てる。数日後さらに延暦寺も加わり、叛乱の勢いはさらに増していく。清盛はついに後白河法皇の幽閉を解き、政務を取るように懇願する。政権を法皇に返したのち、平氏は最後の力を振り絞り、反乱軍と戦う。この時東大寺・興福寺が全焼する。寺院が部分焼失でなく全焼するのは歴史上初のことである。これにより、寺院勢力および貴族を完全に敵に回し、ついに平氏は完全な四面楚歌となった。清盛を滅したのは刀ではなく、感冒(風邪)であった。感冒から肺炎を内発し、高熱と頭痛に悶絶しながら、清盛はその激動の生涯を終える。仏事を行う間もなく、平氏は平重衡を対象とし源氏との戦いを続けていく。院、源氏、平氏の三社が複雑に入り組んだ奮闘がしばし続き、壇ノ浦の戦いでついに平氏は滅ぶ。 源氏の平氏根絶への熱情は強く、決戦の後も追討の手は相次いだ。しかしながら、平氏の生き残りが存在するという言い伝えは多く存在する。それらのほとんどは孤島や山間など、外界と隔絶された環境が舞台となっている。現世から論理的に隔離された幻想的な表象と、華やかでありかつ哀れに過ぎ去った平氏の栄枯盛衰の光陰が、そのような物語の下地となっているのかもしれない。
 
鎌倉幕府

 

平治の乱で敗れた源義朝、その子供である頼朝は捕えられ、伊豆に流された。紆余曲折を経て、かれは北条時康の娘、政子と結婚する。1177年のころと考えられる。1180年4月、後白河法皇の皇子以仁王と源頼政は平氏打倒の兵をあげ、敗死する。6月半ば、京都にいる乳母の妹の子三善康信からの密使により、諸国の源氏追討計画の話を聞いて、頼朝はついに挙兵。謀反の話が京都まで達していることを知り、一か八かの先制攻撃をかける。それが、当面の敵である伊豆国の政庁の支配者、目代山木兼隆の館への夜襲であった。8月17日のことである。夜討ちは成功したものの、頼朝にとって四方はみな敵。わずかに箱根山をこえた関東平野には、相模の三浦氏一族という来援を期待できる武士団がある。頼朝はかれらと合流するため、東方へと血路をひらこうとした。頼朝は20日、かれのもとへ集まってきた三百騎ほどの武士たちをひきいて東へ山をこえ、23日午後おそく、ようやく相模国石橋山に到着した。そのときすでに、大庭景親以下平氏側の相模・武蔵の武士3000余騎は前方に、後方の山には追尾してきた伊豆の伊東祐親の軍300余騎が控えていた。大庭勢は多勢をたのんで強硬策に出、暗夜、雨の山中に血みどろの戦いがくりひろげられた。翌日、一帯の山々には頼朝軍残党の掃討戦が展開された。頼朝の一身も危険な状況にさらされたが、かれは奇跡的にも一命をたすかった。頼朝との関係が深かった箱根権現の別当は弟に山中を捜索させ、頼朝一行を発見し、箱根権現へと案内したのだった。
東の国々
頼朝たちの乗り出していこうとしていた関東平野の情勢はどんな具合であったのだろうか。この地方は新たに征服された植民地であり、さらに新たな征服運動をおこなうための軍事基地であったといえる。こうした歴史的経緯から、この地帯には数多くの武士団が並び立つようになっていた。武士団とは、館を中心とする開拓農場の別名であり、その政治的表現にほかならない。関東武士団は、うちは百姓たちを支配し、かれらから年貢をとりたて、また外部からの侵入に対しては武力をもって農場を守った。それぞれの国でもっとも強力な武士団がいずれも国府の在庁官人の有力者であり、また有力武士団は国府政庁におかれた軍事警察面の司令官でもあった。かれらはまた国府の政庁に関係をもつだけではなく、庄園を根拠とし、その現地管理人である庄司・下司などの地位にあった。館を中核におし進められた開拓事業こそが、武士団を成立・成長させた真の原因なのであった。開発された農場は、「別府の名」、略して「別名」とよばれる一つの特別区域として国府の田所に登録され、館の主人は「別名の名主」として、年貢の徴収をし、国府の税所に支払う役となった。国―郡―郷の三段階の地方行政組織からなっていた律令制度は、ながい平安時代のあいだにすっかり変化してしまい、国―郡・郷の二段階の組織が生まれた。新しい郡も、郷も、ふるい郡を分割して生まれた単位である条も、みな同格の地域的な徴税単位となり、それぞれに「郡司・郷司」などの役人が任命され、徴税と国司への上納をうけおうようになった。郡司・郷司にはだいたい地元の有力者が任命され、かれらは国府政庁の在庁官人を兼任することも多かった。一方では、中央の大貴族や社寺に属する私有地としての「庄園」や、また庄園に類似したものであり中央の役所などの所有する支配地域である「保」も生まれてきた。それにつれて郡・郷に保をふくめて、いちおう国府の政庁の支配下に属する地域を「公領」または「国衙領」とよび、庄園と区別する風がおこってきた。中央では、高位の皇族・貴族、大社寺が各国の国衙領からあがる年貢などの収入を個人的な収入とする「知行国」制度があらわれ、やがて一般化してきた。このような環境のもとで、別府の名主たちがまずねらったのは、郡司・郷司のポストであった。徴税と上納の責任があるが、免税地がみとめられ、年貢徴収の際のたし前をとりあげることも、担当地域内の農民たちの使役権限も公認されるからである。こうして支配圏を強化し、拡大していくことが館の主人である武士たちをつき動かす原動力であった。ただ、郡司や郷司は規定額の年貢を収めないなどの事由により免職される危険があり、また近隣の館の主人に取って代わられる危険も大きく、不安定であった。そこで新たに発案されたのが、「庄園としての寄進」という方法であった。何らかのつてを求め、知行国主や国司よりさらに有力な中央の高級貴族や大社寺、あるいは上皇に、一定範囲の地域を自らの支配領域であるとして庄園に寄進してしまうのである。土地を寄進した館の主人は、今度は庄司・下司、あるいは「地頭」などとよばれる現地の管理人に変じ、本所と呼ばれる庄園の名義上の所有者に年貢などを送るようになる。郡司・郷司として従来もっていた権益は保障され、相続も認められ、上納する年貢の高も減少する。しかし、寄進先の貴族や社寺の実力如何により庄園としての承認をとり消されるなどの不安定さがあった。場合によっては、郡司・郷司としてとどまるほうが有利な場合もあった。こうして武士たちは、その支配権の維持・拡充のために、つねに周囲の状況の変動に細心の注意を払い、中央政局の行くえにも敏感とならざるを得なかった。こうした不安定な状況をぬけ出すためにかれらが模索し、さぐりあてたのが、中央貴族の出身で、数々の武勲にかがやく「武家の棟梁」の源氏を主君とあおぎ、その下に結集して発言権を高めてゆくことであった。だが、この棟梁義朝は平治の乱にて敗れ、以後、平氏の全盛時代がやってくる。東国の武士たちはその下で不遇をかこち、いつかかれらのねがいにこたえてくれる理想の主君の出現を待ち望んでいたのである。頼朝軍の一隊がのり出してゆこうとしていた関東平野は、当時まさに以上のような情勢にあった。
鎌倉殿の誕生

 

石橋山の一戦に敗北した頼朝は三浦氏一族とともに海路を伝って安房へと逃れるが、当時房総半島に勢力を張っていた下総の千葉介常胤、上総の上総介広常の二大豪族を従えて一気に威を取り戻すと、その後も休むことなく次々と関東の豪族を従えながら南下して、1180年10月には大群を率いて鎌倉に入った。石橋山敗戦から僅か40日余という短い時間で、この奇跡の復活を可能ならしめた要因は何か。ひとつは頼朝が、武家の棟梁である源氏の先代義朝の遺児中もっとも年長で、正妻の出であるという権威を持っていたということ。いまひとつは既に東国では天皇に等しい至高の存在となっていた以仁王の令旨を掲げていたことである。さらに頼朝の政策の基本線である「目代への攻撃」「在庁官人ら武士たちの結集」は、当時の現状に不満であった東国武士たちを惹きつける最大の魅力であった。東国の武士たちが頼朝に希望を託して次々と与して来たのも不思議ではない。鎌倉入りした頼朝は鶴岡八幡宮を現在の山寄りの地に移し、その東側の大倉郷に新たな館を立てる。後の鎌倉幕府の基礎である。ところで同年9月には頼朝挙兵の知らせを受けて平維盛・忠度らを大将とする頼朝追討軍が派遣されていたが、甲斐源氏一族との富士川の合戦に大敗し潰走、火の手は鎌倉まで及びもしなかった。平家東征軍の指揮力不足と、鎌倉という拠点の位置、沿道諸国の武士の挙兵、延暦寺以下の僧兵の反乱、凶作・大飢饉の影響、一方の東日本の豊作という食糧事情など、頼朝にとっては有利な条件が揃いに揃っていたのである。いまや南関東一帯を中心にした東海道東半部諸国は頼朝の手になった。頼朝は鎌倉の主という意味で「鎌倉殿」と呼ばれるようになり、これを主君と仰ぐ新しい東国の政権が生まれようとしていた。鎌倉殿となった頼朝には果たすべき二つの責任がある。本領安堵と新恩給与である。関東武士団が期待し願っていたのはなにより彼らの所領の安全・確実な保護と、公正な裁判であった。この要望に応えることこそ、かれらの支持を獲得する道である。東国内の職や地位の任命・罷免を行うことによって、頼朝はこの仕事を地道に進めて行く。
政治家頼朝

 

平清盛必死の立て直し策も敢無く、蜂起と反乱は全国に拡大していった。鎮静の気配はいっこうにない。一方混乱する京都を横目に、頼朝は東国の地がためを着々と進めて行った。東国武士団の連携も今のところはまだ反平氏の同盟関係に過ぎず、頼朝を完全に主君と認めたわけではない。より多くの武士を御家人として確実な権威を築くべく、内政に集中したのである。1183年、平氏軍は北陸に勢力を張っていた木曽義仲討伐を目論むも、義仲はこれを返り討ちにし、7月には京都に迫った。平氏一族は幼帝安徳天皇と「三種の神器」を奉じて京都を去る。平家の都落ちである。ところが荒れに荒れ果てた廃墟のような京都の地である。統率もなく寄り集まっただけの急造軍に義仲は十分な権威を振るうこともできず、法皇以下貴族たちに翻弄されつつ孤立無援のまま京に居座るだけであった。空白となった皇位には、後鳥羽天皇が即位した。同年10月、後白河法皇からの上京を促す使者に応じて頼朝は、国衙領・荘園を国司・本所に返還することを命じる勅令発布を後白河法皇に要請する。この提案は窮境にある中央貴族の大歓迎を受けた。さっそく要請通り「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。もしこれに従わぬ者があれば、頼朝に連絡して命令を実行させよ」という勅令が宣旨として公布される。10月宣旨である。この功績により頼朝は朝敵の名を逃れて従五位下に復帰した。10月宣旨は一見頼朝にとって譲歩に見える。しかし宣旨の後半部分に注目すれば、命令の実施は頼朝に一任されており、武士たちにとって当時最大の問題である土地問題の解決に必要な権限が頼朝に与えられたことが確認出来る。つまりこの宣旨によって頼朝は、以仁王の令旨と違い、源氏の中でも彼一人だけが掲げることのできる錦の御旗を手に入れたのである。さて京の義仲はやがて自ら征夷大将軍となり独裁体制を敷いたが、所詮は内実無き孤独な独裁に過ぎず、かつてともに入京した武士たちも義仲を見放して行った。1184年1月には、義経率いる東国軍に滅ぼされることになる。義仲を破った義経軍はさらに平氏追討の宣旨を受け、西に勢力を張っていた平氏一族を一ノ谷に破る。屋島に逃れた平家は瀬戸内海一帯の制海権を握って抵抗するが、義経はこれを壇ノ浦に追いつめ、1185年3月、ついに平氏を全滅させる。こうして対抗勢力を弱体化させつつ、頼朝は、支配体制を整え、勢力圏の拡大を一歩一歩進め、新政権の中枢機構を着実に発展させていったのだった。
東西武士団の群像

 

富士川合戦の場面で描かれる斉藤実盛の東西武士比較は、源平合戦の本質の総体を突いたものであると言うことができよう。実盛が最初に示すのは弓と馬であり、これらは武士の象徴ともいえた。当時の合戦は馬上の一騎打ちであり、馬上での弓術が重んじられる。その点で馬術に長ける東国武士は有利である。当時の合戦の作法は、まず軍使を取り交わして合戦の日時を決めるところから始まる。両軍が対峙すると武士たちは名乗りを上げながら馬を走らせ、敵へと矢を放つ。矢が少なくなると、太刀を用いた乱戦となった。敵をうちとる際には組み打ちとなり、馬から敵を引き落として組み合いをした。そうして敵を弱らせ、首を取るのである。このように武士の戦いは、一騎打ちの空気が強い。だが一方で、源平合戦期とは集団合戦への移行期でもあった。武士たちの論功行賞は、首のぶんどりが最も大きな功とされた。また、討死や手負いも功とされる。先駆けも功の一つであり、これを争う話は数多い。東国が馬を主体とした軍であり、陸上でその威力を発揮したのに対し、西国では海上での戦が多く、船が大きな威力を持った。そのため源氏は平氏に度々苦杯をなめさせられている。また、未開の地であり大自然の猛威が荒れ狂う東国では、人も荒々しく命を惜しまない。そのことも東国武士の力強さを表していた。東国の武士団は血縁地縁による深い結びつきを持っており、それゆえ強固な軍団として機能した。これに対し西国武士は、あくまで令による結びつきであるために軍団として機能しにくかった。功を示すために、鎧の色や笠印なども重要視され、それゆえに様々な色形の鎧が現れることにもなるが、これも武士の功への意欲の現れである。またその所領を守ることには並々ならぬ意欲を持ち、中には所領争いに敗れると出家してしまった熊谷直実のようなものもいた。頼朝の挙兵では、大武士団の協力が不可欠であったことは事実だが、同時に小武士団より支持を得られたことが大きかった。彼らの独立へのエネルギーこそが幕府形成の原動力なのである。
天下の草創

 

壇ノ浦で平氏が滅亡したという報は、頼朝にとって義経との決定的なわだかまりのできる要因である。また三種の神器のうちの剣を失ったのも頼朝にとってマイナスであった。この義経の前半生については全く謎であるが、鎌倉武士から外れた辺境武士や僧兵などとの結びつきを強めた存在であり、そのことから、畿内での活動経験は想定される。義経は一の谷後の恩賞に与かることはできず、代わりに後白河法皇より官位を授かることになった。このため頼朝より大きな怒りを買うことになる。だが、代役の範頼は平氏討伐に失敗し、半年後に義経は召喚され、彼によって平氏は滅ぼされることになる。壇ノ浦後、義経と頼朝の対立は決定的となる。戦時から平時へと移行に際して、獲得した権益を守ろうと懸命な頼朝にとって、従わぬ者の存在は許されなかったのである。頼朝は権益保護の為に、朝廷との交渉にも必死であった。京都に帰った義経は、院より宣旨を戴いて挙兵するが、その支持者は少なく、あっという間に離散の憂き目にあう。一方その報を受けた頼朝は軍勢を上洛させ、其の兵力を背景に義経追討宣旨の発令と、守護地頭の設置を後白河院へ飲ませたのである。さて、この守護地頭であるが、吾妻鏡による記述には潤色がなされていることが、他の史料からわかっている。吾妻鏡の守護地頭の記述は玉葉の引き写しなのである。守護地頭の実態については今だ定説はないが、軍事警察権をはじめとした在地の統治権を頼朝が握った物として解される。ただし藤原氏の手にあった奥州は頼朝の完全勢力外であり、また西日本は地頭を全体に置くことはできていない。また守護という職種は存在せず、当時は総追捕使と呼ばれた。地頭の職掌は、年貢の徴収・納入であり、その結果として領主としての承認を得ることができた。また朝廷の体制変革も要求し、それを成し遂げることもできている。
鎌倉幕府の新政治

 

義経は頼朝の手を巧みに逃れ、全国を放浪していた。彼は孤独ではなく、比叡山延暦寺や奈良興福寺、京都鞍馬寺・仁和寺、法皇御所、前摂政藤原基通邸などを転々としながら機を待っていた。これまでのやり方が手ぬるいと悟った頼朝は各寺院に圧力をかけ、法皇を恫喝した。これによって反幕派貴族たちの行動も次第に規模が小さくなっていく。1187年(文治3)の秋、義経が陸奥の秀衡に庇護されているという知らせが鎌倉・京都に入る。頼朝は詰問の使者を遅らせたが、秀衡はこれを黙殺。頼朝へ反旗を翻す準備を進めていた。しかし、秀衡は10月の末病魔に侵されてしまう。秀衡は義経を主君とするように遺言を残して死ぬ。頼朝は喜んだ。義経が畿内近国などの一大勢力が存在する場所ではなく、辺境の地に身を寄せていたことがわかったからである。そして後援者の秀衡ももういない。義経逮捕を口実に陸奥平泉の地に駒を進める時期がようやく到来したのである。頼朝は秀衡の後を継いだ泰衡に、義経の身柄を差し出せば恩賞を与えると告げる。これを聞いた泰衡は、迷いつつも義経の館を急襲する。義経は自害した。享年31である。民衆の間で英雄義経の人気は高く、生存説をベースとした逸話が多く創られた。いわく北海道を征服した、いわくモンゴルにわたりジンギスカンとなった、などである。前者は江戸時代、後者は明治時代に世上をにぎわした。義経の根強い人気が窺える。頼朝の奥州征伐は徹底的であった。彼は泰衡との約束を破り、義経隠匿を重罪とし泰衡を征伐。清衡以降4代に渡った奥州藤原氏がここで終焉を遂げることとなる。これにより陸奥・出羽両国は幕府の直轄地となり、日本領土の一部として緊密に結びつけられることとなる。平氏討伐から泰衡謀殺までを経て、内乱の時代は終焉を迎えた。頼朝は内乱を治めたことで「鎌倉殿」としての自信をつけ、ついに上洛して法皇と会談する。法皇とは余人を交えず長時間政治談議をした。この10年間、相対立してきた2人の大政治家が、何を語らい、どんな取引をしたのか。今となっては知る由もない。確かなことは、頼朝が渇望していた征夷大将軍の地位は認められず、右近衛大将(武官の最高位)および権大納言の職に任命されただけということである。頼朝は3日でこれを辞退し、単なる王朝の侍大将にとどまらぬ意思を天下に明示した。頼朝は法皇御万歳(法皇の死)を待った。一度流罪にかけられた頼朝は「待つ」ということを知っていたのである。彼は摂政九条兼実と連携を図り、裏で静かに権力基盤を固めていく。この作戦が功を挙げ、1192年、後白河法皇は腹病をこじらせて死亡する。動乱の時代を豪運と覇気で生き抜いて来た大人物も、全ての人間が背負いし無情の宿命には敵わなかった。法皇の死により、兼実は関白として朝廷政治の主導権を握るようになる。そして頼朝はついに念願の征夷大将軍に任命される。苦境から学んだ男が最後に勝利を勝ち取ったのである。頼朝は自らが頂点に立ち、今までばらばらであった各地の武士団を御家人組織として幕府の中に組み入れた。彼は偉大な指導者であり、それを傍証する多くの逸話も残されている。頼朝は幼少において父母と別れ、敗軍の将として流罪を受け、数々の逆境を経験した。その前半生が彼を怜悧冷徹な指導者の器に育て上げたのだ。弟と協力して敵を撃ち、そしてその弟をも政治的脅威とあらば滅ぼし、さらにはそれを口実に東北の地まで制圧する。そこで功を焦らず、機を待ちつつ地盤を固め、最後には頂点に立ち国をまとめ上げる。男子の本懐とも言える功績をあげた政治家・頼朝の胸中はいかようであっただろうか。頼朝は畿内・九州と幕府の支配力を強化する政策を取り、このまま順風満帆にことが進むかのようにみえた。しかし泰平は早くも陰りをみせることになる。「満つれば欠くる世のならい」とはよく言ったものである。頼朝はこれまで対立してきた木曽義仲とついに和解し、その子清水義高を人質に取り、北条政子との初子である大姫の許嫁とした。ちなみに大姫は5-6歳、義高は11歳。いかに早婚の時代といえ、流石に正常の夫婦としてはふるまっていなかっただろう。遊び友達、もしくは仲睦まじい兄妹といったところだろうか。頼朝と義仲の関係はその後破局を迎え、翌1184年(元暦元)義仲は敗死する。頼朝はかつて父義朝を殺された恨みもあり、義高の殺害を決意するが、これを聞いた女房たちが哀れに思い義高をひそかに鎌倉から脱出させる。頼朝は激怒して武士を派遣し、義高を武蔵国入間川の川原で殺害する。信愛していた少年にもう会えない。6-7歳の少女にとってそれはどんな恐怖と絶望なのだろう……大姫は暗闇の中で泣いても無駄なのでただ憂愁に沈んでいるだけだった。頼朝もやはり人の子であり、悲しみに暮れている娘の笑顔を取り戻したいと考えたのであろう。追善供養・読経・祈願などあらゆる方法で大姫の心を癒さんと奔走した。しかし幼女が少女に成長するまでの10余年の間に、悲嘆の情はますます募っていく。幼心に抱いた自然で暖かな情愛は、少女に成長する頃には恋心までに昇華していたのだろうか。あるいは現在で言うところの鬱病の傾向を持っていたのだろうか。いずれにせよ、頼朝の手を焼かせたのは想像に難くない。頼朝はそれでも諦めなかった。1194年(建久5)の夏、大姫が小康状態にあった折、京都から一条高能という貴族がやってくる。歳は18。大姫との縁談にはうってつけである。しかし大姫はこれを一蹴し、再婚するぐらいなら投身自殺するとまで言ってのけた。ここまで行くと恋慕の情を通り越し、狂気の偏愛である。その後、頼朝は誰かから一策を授かる。後鳥羽天皇ではどうかというものだ。天皇は当時18歳、大姫は当時16歳。年齢も近いし、玉の輿であれば流石に大姫も拒絶しないだろう。頼朝にとっても、これで京都の朝廷にも勢力を及ぼすことができるようになる……男を狂わすのはいつも女である。覇者たる頼朝と言えど、それは例外ではなかった。特殊だったのは、それが肉体関係のある女性ではなく、血縁関係のある子供であったということだ。この極めて人間的な誤りが、彼を徐々に蝕んでいく。兼実の娘も後鳥羽天皇の中宮であった。頼朝はかつての盟友であった兼実を出し抜く作戦を採る。しかし我が子への愛に盲目となった頼朝は、逆に院側近の源通親から利用され、当時その所有権を否定した荘園を彼らに与えてしまった。この時期に頼朝は征夷大将軍の地位も辞している。かつ兼実から授かった地位である。兼実が頼朝の指示を失ったことが、天下に知らしめられた。通親は立て続けに兼実と頼朝を対立させるように計らった。兼実は関白職を罷免され、九条家一門は忽ち窮地に陥った。かつての輝きを失った男に対して、運命は冷酷であった。大姫は1197年、齢20歳にして死亡する。兼実以下の親幕府派は壊滅し、朝廷側には毟られるだけ毟られるという惨状だけが無情と共に残った。通親はさらに追い打ちをかけるように、自らの養女の生んだ土御門天皇を即位させる。頼朝は反対であったが、もはやそれを訴える代弁者はいない。通親は天皇の外祖父、上皇の院司となり、「源博陸」(源氏の関白)と呼ばれるほどの勢力となる。頼朝は中央貴族であった。彼もまた、名誉欲に目を曇らされてしまったのだろうか。全てを得てしまった男は、実にちっぽけな拘りで滅びてしまうのかもしれない。頼朝は翌1199年死亡する。享年53。全国を翻弄した彼もまた心弱き、一個の死ぬ人間であった。
貴族文化の革新

 

平重衡の焼討ちによって灰と化した東大寺の再建は、あらゆる階層、すべての地域にわたる人々の幅広い協力を得てはじめて可能なことだったのであり、それは鎌倉時代の新しい文化を創造するための大舞台となり得た。東大寺再建に尽力したのは俊乗房重源という老僧であった。かれは勧進職に任ぜられ、勧進聖として全国にその活動をくりひろげ、東大寺再建の資を集めた。また、かれは宋に渡ること三度、さまざまな実際的な技術を学んできた僧でもあった。ゆえに再建にかかる経済的・技術的困難を克服することが可能であったのだ。東大寺の伽藍は、天竺様とよばれる新しい様式で建てられた。それは重源が宋で学んできた手法であり、部分品の規格を統一して量産し、工法も単純にして組み立ててゆくという合理的な方法を基礎にするものである。南大門の仁王像の制作者は、運慶・備中法橋・快慶・越後法橋の4人の大仏師である。ただ、それは一段の仏師たちを率いて製作に当たった大仏師の名であり、その背後にはすぐれた技量をもつ多数の小仏師がいて各部を分担し、その下にはさらに多くの工人がいた。仁王像はわずか2ヵ月余で作りあげられたが、それは大仏師の統率力や木寄法という方法の発達によってはじめて可能なことだった。東大寺再建では、当時貴族たちの間ではなお大きな支持を得ていた京都仏師ではなく、奈良仏師のみが独占的に造仏をおこなった。重源が奈良仏師のもつ新しさを見出す眼を持っていたからでもあり、また再建の有力な支援者頼朝も奈良仏師と関係が深かったからであると考えられる。運慶が、その作風や活動の場からして武士的であるとするならば、快慶は庶民的ともいうべきで、鎌倉時代の文化の特色を示す二面をこの2人は分かち合っていたと考えることができる。東大寺再建の運動は西行をも動かしていた。西行はかつて弓馬の道にも通じた武士で、佐藤兵衛尉義清といった。ところがかれは浄土教の影響を受け、23歳の若さで出家遁世し、社会的な束縛から自由になり、旅に出たり、さまざまな人々と自由に交わったりして自分を深めていった。南都焼打ちの最高責任者重衡は、焼打ちから3年余ののち、一ノ谷の合戦で生捕りにされ、頼朝の意向で関東に送られることになった。その前に、かれは法然の教導を受けた。法然は、修行の末、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば救われるという称名念仏を選択する立場に到達した。それは、叡山でおこなわれていた貴族的な仏教を民衆に開放し、また知識として学ばれ、国家に奉仕するものでしかなかったそれまでの仏教を日本人自身の主体的な宗教に転換させたということで、日本の歴史上画期的なことであった。また、平安時代の末に、宋の文物が停滞した貴族の文化にとって新しい活力を与えるものとして注目されるようになったとき、宋で発達した禅宗も新しく脚光を浴びるようになった。禅宗の広がりに影響力を及ぼしたのは、栄西である。しかし、鎌倉武士たちは禅僧としてよりも、葉上流台密の効験あらたかな僧として栄西をうやまっていたのであり、禅宗が日本人の間に根をおろすには、まだかなりの年月がかかるのである。
悲劇の将軍たち

 

頼朝が亡くなり、長男である頼家があとをついだ。年はわずかに18歳である。頼朝が亡くなってすぐ、京都朝廷のリーダーである通親が幕府派への総攻撃をするなど、幕府の前途は早くも多難を予想させた。頼家の手腕に不安を感じた側近の老臣たちは、母の政子とはかって、頼家が直接訴訟を裁断することを停止し、元老や御家人代表たちが合議で裁判することにきめてしまった。頼家がだまってこの処置をうけいれるはずもなく、かれはお気に入りの近習たち五人を指名し、かれらでなければ頼家にお目通りできないと定め、またかれら五人の従者たちが鎌倉の中でどのような乱暴を働いたとしても、手向ってはならない、という無茶な命令まで下した。五人の若い近習たちとは、いずれも比企氏の一族や、それと縁のつながる人々であった。頼家にとって、能員以下の比企氏一族は、この上ないうしろだてだったのである。頼家は、五百町以上の恩賞地没収や、境界争いの裁判につき墨引きをするなど、諸了知支配権の保護と所領をめぐる争いの公正な裁決という、幕府をつくり上げる原動力となった東国武士たちの最大の要求を正面から踏みにじるような政治を行った。これでは、東国武士たちが何のために鎌倉殿を主君とあおいでいるのか、わからない。もともと鎌倉に幕府をうちたてる構想自体、東国武士のものであり、頼朝をおし立てて幕府の樹立に成功したのも、かれらの武力のたまものだったはずだが、成立した幕府体制は頼朝と側近による独裁政治であった。頼朝の死により、こうした初期幕府の専制体制は、東国武士の横の団結によって修正されねばならない、という武士たちの機運が高まってきた。その最初の表現が、梶原景時の粛清事件であった。景時は侍所として有能であり、独裁者頼朝の無二の忠臣であったが、その立場が頼朝の死後、微妙にゆらぎ始めたことは想像にかたくない。「吾妻鏡」によれば、将軍御所内の侍の詰所での結城朝光の発言を景時が訊きこんで、謀反心のある証拠だと将軍に告げ口したため、朝光は殺されることになっている、と阿波局が朝光にささやいたので、おどろいた朝光は同志をつのって景時を糾弾することにした。そして、景時は鎌倉追放を申し渡され、鎌倉の屋敷はとりこわされた。翌1200年の正月、大がかりな反乱をたくらんだ景時は、ひそかに一族従者をひきつれ、京都へと出発したが、その途中駿河国清見関近くで、付近の武士たちに発見され、一族もろともあえない最後をとげるに至ったという。しかし、この「吾妻鏡」の記述が事件の真相のすべてをつたえているとは、とうてい考えられない。筆者は、景時粛清事件の裏で糸を引いていたのが北条時政ではなかったか、と述べる。景時糾弾のいとぐちをつくった阿波局は時政の娘、政子の妹にあたるし、景時事件の当時、駿河国の守護として国内の治安警察権をにぎり、御家人を統率していたのも、時政だったからである。景時粛清事件は、独裁将軍を夢みる頼家にとって、もっとも有能な部下を見殺しにしたものであり、致命的失敗であったといえる。この事件は御家人グループの成長によるものでもあるが、時政自身がそのグループの代表的存在であったかといえば、そう簡単なものではなかった。北条氏は最初から他の東国武士を圧する、とびぬけて強力な豪族だったという見方には、いくつかの点で疑問がある。第一に北条氏が桓武平氏の子孫という点であるが、北条氏系図は、いずれも時政以前の世系が一致せず、疑問が多い。第二に、時政以前にわかれた同族がひとつもない。第三に、40を越えた時政が、なんの官位も持っていない。これらの点から考えて、北条氏は伊豆においても中流クラスの存在とみられるのである。だが、時政の正体はどうもはっきりしない。ともかくかれは相当なくせものであり、側近兼東国御家人という二重の立場を利用しながら、相ことなる二つのグループを操縦して頼家を倒し、実朝を立てようとする、その第一着手として、最大の強敵で一般御家人のうらみの的となっていた景時にねらいをつけたのであった。景時の滅亡後、3年の歳月はまずまず平穏であったが、1203年、7月なかばすぎから頼家は急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。このとき、頼家のあとは6歳の長男一幡がつぎ、日本国総守護と関東28ヵ国の総地頭となり、12歳の弟千幡(実朝)には関西38ヵ国の総地頭を譲ることになった、と発表された。これを聞いておさまらないのが、頼家側の黒幕比企能員である。かれは病床の頼家と面会し、北条氏征伐のはかりごとを相談したが、それを障子のかげで立ち聞きしていた政子の急報を受けた時政は、先手を打って比企一族を滅ぼした。頼家の近臣として威勢をふるっていた連中もみな処罰され、9月7日には頼家は鎌倉殿の地位を追われ、実朝がこれに代わった。かくて時政は幕府の中枢にすわり、新たにかれ一人の署名による「下知状」という文章を発行して、御家人たちの所領安堵などの政務をおこなうようになった――と「吾妻鏡」にはある。しかし、この記述もまた多くの真実が伏せられたままである、と筆者は述べる。比企氏の反乱そのものが、巧妙に仕組まれたでっちあげ事件だったのではないか、という可能性もある。頼家側近や比企氏のなかに、北条氏の手先やスパイが潜入していたのではなかろうか。頼家のお気に入り五人のなかの、中野五郎能成という信濃の武士がいたが、かれは時政から所領安堵を受けており、疑惑の対象になりうる。ところが、こうして幕府権力の表面におどり出た時政も、調子に乗り、実朝を殺して若い後妻の牧ノ方の寵愛深い娘の婿である平賀朝雅を鎌倉殿に立てようとして、政子・義時に幕府から追放された。父に代わった義時は、きわめて柔軟な態度を示し、政子と将軍実朝をつねに表面に立て、旧側近官僚グループとの連絡をさらに密接にしながら、御家人たちの信頼獲得につとめた。他方で、かれは北条氏の勢力を確立し、かれに対抗する有力武士団の力をけずるためには、あらゆる努力を惜しまず、どのような機会をものがさなかった。義時は幕府創立以来侍所の重職にすわっていた和田義盛にねらいをつけ、和田合戦において、義盛を一族親類共にほろぼした。和田合戦の結果、義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼任して、幕府のもっとも重要な政務機関長のポストを独占するようになった。北条氏の幕府指導者としての地位は、ここにほぼ定まったといってよい。鎌倉殿独裁政治に代わる、北条氏が幕府権力を握る執権政治はこうして始まったが、執権政治成立の時期については、かならずしも明白ではない。「執権」の職名自身が当初から存在したわけではないので、北条氏の権力が伸長したそれぞれの時期をもって、執権政治成立の時点と主張することが可能となる。本書では、時政の実権掌握をもって執権政治の成立とみなし、和田合戦後をもってその確立と考えることにする。1129年正月、実朝が公暁に暗殺される。この暗殺事件の背後関係であるが、義時がひそかに公暁をそそのかして実朝を暗殺させ、さらに一味の三浦義村に命じて公暁を葬ったというのがこれまでの通説的見解であった。しかし、公暁は義時のつもりで仲章を殺しているため、義時が黒幕だとすると少々おかしな話になる。そこで、三浦義村が公暁の背後にあった、という解釈にも筆者は魅力を感じるという。名もない東国の一地方武士の出にすぎない北条氏の覇権獲得は、東国武士たちによる権力獲得の第一歩であり、武士の政権としての幕府の純化と発展の過程を示しているといえよう。
承久の乱

 

実朝が頼家の子に殺害された報が京に届く。後鳥羽上皇はこれをいかにして受け止めただろうか。上皇の性格およびその統治体制を考察することによって推測してみよう。後鳥羽上皇は多芸多才、百科全書的な万能人間であった。「新古今集」を率先して編纂し、自身も時代を先導する歌人として君臨した。蹴鞠・管弦・囲碁・双六などの遊戯、相撲・水泳・競馬・流鏑馬・犬追物・笠懸などの武芸に精通し、京都の内外で狩猟もしばしば行った。刀剣に関心深く、時には自ら焼いて近臣や武士たちにこれを与えた。太刀は菊の紋で飾り、「菊作りの太刀」と称せられた。「菊花の御紋章」の起源は、これだと言われている。天皇家において、これほどまでに武芸への関心が強い者の存在は異例であり、周囲もこれに倣って武芸に励んだ。将軍実朝が武芸に無関心な現実逃避型の人間であったことと対比すると、まことに異様奇怪あべこべである。上皇は道楽好きな専制君主としての側面も持ち合わせていた。熊野三山に信仰のため参拝すること31回、同中での遊興費は多額に達し、その負担は民へ向かう。善悪功罪はさておいて、強烈な人間性を有していたことは間違いない。気分屋な側面はしばしば側近を辟易させた。このような人間も唯我独尊ではいられない。育ての親には頭があがらなかった。当時齢50を過ぎた藤原兼子がその人である。彼女は上皇の愛人、美少年の斡旋を行うなど、下の部分までの世話役として振る舞っていた。彼女は従二位にのぼり、卿二位と呼ばれ影の実力者として君臨する。といっても周囲にとっては影どころか後光が差すほど明らかに眩しかったようで、立身出世を望む数多の貴族が彼女の元へ金品と共に馳せ参じた。賄賂により財宝は山のように積まれた。上皇の勢力に出家をさせられた慈円は著書「愚管抄」にて、その売官ぶりを痛烈に非難している。しかしながら、それは当時において経済合理性がある行動であることの証左でもあった。上皇の財政を最もよく支えたのは膨大な荘園群であった。「荘園整理」を口実に、荘園を院の直轄とし、摂関家への寄進という流れを断ち切った。最高の権力者の元には、その威を借ろうと多くの者が集まってくる。院はさらに荘園の寄進を受け、その土地はますます広大となった。これらの土地は、寺院や上皇が寵愛する女性、皇女に分け与えられ、院周辺の者に相伝されることになる。後鳥羽上皇の浪費を支えた経済的基盤は、ここに存在したのである。しかしながら、寄進する側も馬鹿ではない。荘園現地の実権は上皇でなくあくまでも寄進した当事者が握り、他に好条件で権威と安全が得られる組織があれば、そちらに移れる体制を残しておいたのである。こと東国においては、農場主は幕府の御家人となり、鎌倉殿から地頭に任命されることによって権力と安全を確保していた。上皇にとってこれは面白くないことである。地頭になってしまえば、その荘園は完全に幕府の管轄に入ってしまい、年貢の滞納などの不法行為にも鎌倉殿のお伺いを立てて処分してもらう他ないからである。上皇はたびたび地頭の免職を訴えたが、実朝はこれを拒否。上皇の妥協に傾きがちであった彼に毅然とした態度で臨ませたのは、当時御家人の利益を代表していた執権北条義時の助言によるものであった。上皇の専制君主的な性格はここでますます発露するに到る。院政主導による京都鎌倉の融和策がうまくいかないとわかると、彼は次第に反幕・討幕的思想に染まっていく。歌の中にも憤懣・慷慨を露にするものが増えた。上皇はうっぷん晴らしのためか、討幕の予備のためか、ますます武芸に打ち込んだ。1207年(建永2)には最勝四天王院という寺院を設立した。ここで彼は関東の調伏・呪詛を行ったと後世に伝えられている。実朝暗殺の報が届いたのは、まさにこのときであった。かつて後鳥羽上皇は実朝の昇進の便宜を図ったことがある。その実朝の死自体に関して上皇が何を思ったのかを推測するのは難しいが、これを機に鎌倉幕府が自壊してくれれば、とほくそ笑みはしたのではないだろうか。いずれにせよ、後の承久の乱が示している通り、上皇はどこかで討幕の決意を固めている。実朝の死という事実がこの決意を下すにあたって大きな影響をもたらしたのは想像に難くない。なお、この死によって源氏の将軍の血筋は完全に絶えることとなる。暗殺前年の春に、尼将軍(北条政子)と卿二位の間で既に上皇の皇子を鎌倉殿に立てる合意がなされていた。実朝暗殺を予期しており、あえてこれを看過したというよりは、一向に実朝が子をなさないことを案じて万が一に備えておいたと考える方が現実的であろう。頼家も実朝も政子の子である。頼家は暴虐により北条の手によって暗殺されたが、実朝は温和な性格であり政子に従った。いかに尼将軍といえども従順な子を切り捨てる行為は母性が許さないであろう。上皇は鎌倉の申し出を「いずれ考えるから」と体よく拒絶する。院政組織の再編成と共に卿二位の神通力が絶対的ではなくなりかけていたのと、上皇の幕府自壊の狙いの二つがこの回答の主要な理由と考えられる。院はやがて鎌倉に使者を送り、摂津国長江・倉橋両荘の地頭の免職の要求を突きつけた。事実上の交換条件である。かねてより院はこの地頭に手を焼いており、今こそ好機と考えたのだろう。しかし鎌倉には鎌倉の理があった。「頼朝時代以来、御家人武士に与え、安堵した所領は、よほどの大罪を犯さぬかぎり免職にはしない」というのが執権政治以来の大原則であった。交渉は決裂し、地頭は存続、皇族将軍の話は流れた。九条道家の子である三寅(頼経)の母系が頼朝の血統であることを理由に、彼を鎌倉殿に迎える許可を上皇におろさせた。このとき三寅は弱冠2歳、後に言う藤原氏将軍第一代となった。これで落着したかにみえたが、双方の内心には大きな猜疑と憎悪が残っていた。それは不可視でありながら、時代を闘争へと誘う推進力としては十分すぎた。1219年(承久元)、頼政の孫で皇居の大内裏を守護していた源頼茂とその一族が後鳥羽上皇の軍勢によって攻め滅ぼされる。頼茂が将軍になろうという陰謀が発覚したというのが院の言い分であったが、これほどまでに緊張した関係において院が鎌倉を気遣うのはまことに不自然なことである。異様な出来事はこれにとどまらなかった。事件に連座して上皇の近臣藤原忠綱が失脚し、最勝四天王院が突如取り壊される。真相は不明だが、討幕計画とかかわりがあったのではないかと推察される。討幕計画は水面下で進められていた。慈円は「愚管抄」にて、この討幕計画は実現可能性がまるでなく、失敗は明らかであるとの予言を行った。彼は書物で批判を進めながら、神仏に祈願し国家の救済に誠を尽くした。知者の理性は権力者の衝動に敵わない。1221年(承久3)、計画はいよいよ進められ、各地の神社で大規模な祈祷が行われた。順徳天皇もこれに賛同し、自ら皇子に皇位を譲って上皇となり、自由な立場で討幕運動に専心するようになった。流石にここまでの規模になると鎌倉にも勘付かれ始める。躊躇している暇は最早ない。院は諸国の兵を集め、幕府側の勢力を逮捕・拘禁あるいは討伐した。北条義時討伐のため、上皇の元へ馳せ参じるようにという院宣が全国に発布された。院側は宣旨は絶対であるという認識のもとに、義時に従う者は千人に足らないという楽観論が支配しており、「万は下らない」などという慎重論は聞かれもしなかった。院の権威への信仰は過信であり妄信であったという事実にこの後彼らは直面することになる。院の楽観的な態度とは対照的に、幕府は実に慎重であった。敵の権威と影響力を良く理解し、慎重かつ迅速な判断をなすように努めたのである。急報を聞いて将軍御所に参じた多くの武士たちを前に、北条政子はその口を開いた。「心を一つにして私の最期の言葉を聞きなさい。亡き右大将(頼朝)殿は幕府を草創され、京都大番役を軽くし所領を安堵されました。そのご恩は山より高く、海より深きものです。御家人として名を惜しむ武士ならば今こそ一致団結するのが道理。……御恩を忘れて院に下ろうと言うのなら、まず私を殺し、鎌倉全土を焼き払った後に京都に向かいなさい」尼将軍・北条政子、一世一代の大演説であった。御家人たちは思い出していた。幕府無き頃に、どれだけ武士が惨めで退廃的な生活を繰り返していたか。幕府ありし今、どれほど安堵に満ちた生活が保障されていたか。恩に報いて命を差し出すのは今この時、この時しかない。朝廷の権威に逆らうことに疑問がなくはなかった。その迷いを涙と共に拭い去り、集まった御家人はみな幕府を守護することを誓った。夕刻に早速首脳部会議が開かれた。いったんは抗戦の策が多数派を占めたが、大江広元が京都出撃を提案し、次第にこちらの意見が優勢となった。大江広元は頼朝以来政治顧問として幕府の枢機に参与した、老政治家であった。この作戦が功を奏し、東国の武士たちは道中で次々と参戦の意を示し、幕府軍は万を遙かに超す大軍となった。武士たちにも迷いがあった。ある地方武士は土地に根ざした神にその判断を仰ぎ、その加護を背に立ち上がった。こうして立ち上がった武士の士気は高く、大将北条朝時の到着を待たずに次々と前進した。義時はこの功を賞し、「一人残らず殲滅せよ。山に入れば「山狩り」をしてでも召し捕れ。焦って京を目指すな」と指令した。上皇側は慢心していた。ひとたび院宣を下せば、諸国の武士がたちまちにこれに従い、義時の首を持って上洛するであろうと確信していた。この予想は半分は的中した。確かに武士は上洛した。しかしそれは義時側についた幕府軍であった。院側はこれに驚愕し、ただちに主力を美濃・尾張の堺、尾張側(木曽川)の沿岸に展開して防衛線を張ろうと試みた。幕府軍の勢いは止まることはなく、彼らが防衛陣地を築きあげぬうちに攻撃を開始する。寄せ集めかつ戦力分散という愚策が災いし、西軍は惨めな敗北を喫した。この敗報を聞き、京都はさらに動揺し、洛中の上下貴賎は東西南北に逃げ惑う有様となった。上皇は自ら武装して比叡山に登るが、以前の大社寺抑制策がたたって、その庇護を拒絶される。上皇はあえなく下山し、全兵力を宇治・勢多に投入し、最後の一線に備えた。時は6月、豪雨により宇治川はその水位がかなり増していた。しかし鎌倉軍は引くことなく、多数の犠牲者を出しながら渡河し、ついに勝利を掴んだ。東軍の優勢が明らかとなると、略奪を始めとした暴虐が始まった。戦争の常である。人は殺され、家は焼かれ、財は奪われた。武士に関しては義時の指令もあり、特に悲惨を極めた。上皇はこの時に至って、義時追討の宣旨を取り消し、その責任が「謀臣」たちにあるとし、彼らの逮捕を命ずる宣旨を発布した。専制君主を象徴する政治的無責任である。後鳥羽上皇は猛者ではあったが、武士とは決定的な違いがあった。矜持を持っていなかったことである。上皇に身捨てられた西軍の武士は散り散りとなり、ある者は自殺し、あるものは捕縛され、ある者は逃亡した。義時追討宣旨が発布されてわずか1か月のことだった。承久の乱はこうして終焉を迎えた。慈円の予言を超えて、この乱が生み出した弊害は苛烈であった。僧の祈りは悉く塵芥に帰し、神にも仏にもついに届かなかったのである。乱後の幕府側の処置は実に厳しいものであった。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に島流され、追討反対派であった土御門上皇も自ら進んで土佐に流された。九条天皇は廃位され、後鳥羽上皇の兄である行助法親王の子が新たに天皇の位を継いだ。後鳥羽上皇所轄の荘園はすべて没収され、後高倉院に寄進されるも、その真の支配権は幕府の手の内にあった。京方として討幕計画に参加した貴族は例外なく処罰された。流罪、免職、謹慎、そして死罪といずれも実質的な処罰であり、形式的なものは一つもなかった。武士の大半は斬首された。幕府は京都に北条泰時と北条時房を残し、朝廷の監視や乱後処理を行わせた。2人の館は平氏の根拠地である六波羅にあったので、この地位は後に六波羅探題と呼ばれるようになった。北条氏は京方の所領3000余か所に地頭を新たに任命し、西方を支配する。勝利の美酒に酔った武士たちは、生来の豪気も影響して、地頭に任命された各地域で慣例に反した不定期の租税や、既存勢力の追放を行い、領土を拡張していった。住民がこれに黙っているはずがなく、各地で訴訟が相次いだ。幕府は地頭を諌め、新補率法という先例のない場合の地頭の標準収益を定め、各国ごとに荘園・国衙領の面積・所有者などの情報を記録した大田文を作って新たな土地支配の秩序をうちたてようとした。「天皇御謀叛」という言葉が鎌倉時代末から南北朝時代にかけてしばしば用いられた。律令国家において、もともと「謀叛」は最高権力者=天皇への反逆を表すので、原義から考えるとこれは矛盾もはなはだしい。このような言葉が流行った事実は、天皇はもはや唯一絶対の支配者とはみなされなくなったということの傍証であり、その契機は承久の乱にこそある。神聖な権威ではなく、政治能力を以て支配の正当性を認識する傾向が国民に現れ始めていた。中国の徳治思想の表れとも考えられる。天皇は天皇であるから支配者たりうるのでなく、正しい政治を行うことによってはじめて支配者たりうる。そのような認識が承久の乱を通して人心に芽生えたのである。政治思想史上、承久の乱の意義は大きい。幕府はこうして朝廷を打倒し、その権威を明らかにした。長い間武士を脅かしてきた朝廷の権威を打倒したのである。天皇が完全に幻想に帰する1946年>(昭和21)の宣言と並んで、歴史に残る大事件といえよう。
親鸞と道元

 

法然の思想を最もよく受け継いでいた親鸞は、日野有範の子として生まれている。彼の家族には文章生がおり、知識のある人間が多かったようである。9歳の時、彼は慈円の元で出家し、それから20年間の間叡山での修行に励んでいる。法然の門下に入って以後も、修行にはげみ、その一方で彼は妻帯にも踏み切っている。だが法然の元ではその頭角を現している。その彼は、念仏を一度唱えれば救われる、とした一念義を主張し、それゆえ法然門下ではラディカル的な立ち位置であると言えた。だが親鸞が法然と過ごしたのは6年のみであり、ここで法然の流罪が決まり、親鸞も流されてしまうこととなった。一方の道元は、親鸞の叡山下山の1年前――源平合戦の完全に終わった後に源通親の子として生まれている。下級貴族の生まれであり源平合戦下での生まれである親鸞とは、その点で対照的とも言える。幼くして両親を失うこととなった道元は、13歳のときに良観のもとで出家し叡山に籠った。だが翌年、道元は叡山を下り、流浪の挙句に建仁寺へと入門している。栄西の弟子・明全の元で禅を学んだ道元は、24歳の時に入宋している。禅宗とは、インド僧・達磨を始祖とし、唐代には中国の仏教として確立していた。だが北宋代には、寺院は貴族とのつながりを深めて堕落の一途をたどることとなっていた。だがそれでも道元にとっては禅の本質を学ぶ良い機会となった。天童山にて学んだ道元は、26歳の時に悟りを開いて印可を貰うこととなり、それから2年間猶修行を続けた。道元が叡山を降りた頃、親鸞は流罪地・越後を離れて布教活動を始める。関東へと布教を行った親鸞であるが、一度浄土三部経の千回読経を試みてしまった。これは名号を唱えれば救われるという念仏に反するもので、これには大きな反省をすることとなる。だがそのような経験をもう一度体験しており、その二回の宗教体験を通して親鸞はその思索を深めている。親鸞は自己を見つめることによって仏法を解釈してゆき、道元は正しい仏法を求めて遍歴する。その点で2人は、決定的に異なっている。この親鸞が書いたノートが「教行信証」である。これは「選択集」の注釈とも言える、様々な古典の抜き書きであった。また、彼は次第に信者を増やしてゆき、その信者の中で小さな道場を設ける者もふえていた。だがこの道場の僧の中には、他の寺と信徒の奪い合いを行う者もおり、その結果として念仏禁止令が出ることとなってしまっていた。一方で、道元は帰国すると"正法"を広めるべく活動を始める。彼は坐禅こそが仏法の正しい道であると主張し、しかしそれゆえに叡山からの迫害を受けた。これに対して道元は波多野義重の庇護のもと永平寺を建立。禅林を得た彼は、思想を円熟させる一方で修行僧の規律を整えた。道元は再び厳しい修行生活へと入り、その生活の中53歳で示寂することになる。一方、親鸞の教団の中では内部対立が顕著となっていた。道場主の中での思想対立が噴き出したのである。その中、息子の善鸞が教団を破壊し、自らのものにしようとしていることを知り、親鸞は善鸞を破門している。そのような苦難の中、「自然法爾法語」で究極の信仰を著した親鸞は、90年の生涯を閉じている。鎌倉時代の文化は、院政期文化の完成といえる1198年ごろまでの第1期、動乱の中での自己形成・確立を行った人々による1220年ごろまでの第二期、貴族文化の退潮による思考錯誤の時期である1262年の第三期と、三分割することができるのである。
東への旅・西への旅

 

東西二大勢力の出現によって、東海道の重要性が高まってくることになる。この出発点は京の粟田口である。後鳥羽上皇の再建である法勝寺八角九重塔がまず目立つ。また鴨川の東には六波羅の探題がある。平安京としての京が衰退する一方で手工業者や商業者が発展していた。近畿の農村では、神社の祭礼などを共同で行う宮座が、すでに組織されていた。山野や水利を共同利用する村が、次第に成立してきていたと考えられる。10日に1回ずつ開かれる十日市は、鎌倉時代の貨幣経済発達に応じて全国に広がっていた。奴隷も含め、様々な物が売り買いされていたのである。だが旅をするということは危険を伴った。馬を利用するのは武士くらいで、殆どが徒歩。草鞋等を利用し、故に草鞋を売る店が街道には存在した。道路状況もよくなく、また川は大きな障害として立ちはだかった。盗賊もしばしば出没していたのである。このころ、東海道では宿場町が発展していた。これらの宿には遊女が少なからずおり、物語として語られることもある。遊女の他、傀儡女などの芸能民も東海道を中心として活動していたと言われている。乞食も多かった。この時代は飢饉も多く、農民の中には乞食に零落するものも少なくなかったのである。鎌倉とは、三方の山に囲まれた都市であり、入るには7つの切り通しを利用するしかない。またその入り口には木戸が設けられていた。鎌倉が過密都市であったことはまちがいないが、その人口は明らかではない。都市計画も行われたが、狭い鎌倉では京のように碁盤の目とはいかなかった。だが辻子と呼ばれる小さい道を通すと言うことは行われている。承久の乱ののち、幕府の権力は全国化し強大化した。また経済の中心の役割を担うことともなり、それゆえ鎌倉は飛躍的な拡大を遂げることになる。また和賀江島を港として築造し、そのために貿易港としての機能も持っていた。鎌倉では大路の中央に水が流れ、それを利用していたようだが、その上に張り出す違法建築もしばしばあったようである。鎌倉の大仏は、奈良の大仏が国家事業で作られたことに対して、阿弥陀信者の募金によって作られており、好対照をなしていると言えよう。1266年、親王将軍は京へと送還された。このことは、これまでの鎌倉幕府の歴史――地方社会のエネルギー噴出ということを、象徴する出来事である。一方、この時代東アジアを激動が巻き込みつつあり、鎌倉幕府の真価がためされようとしていた。
 
蒙古襲来

 

はるか昔、紀元前から西方の住人はまだ見ぬ東方の地に幻想を抱き続けていた。金島・銀島と呼ばれるかの地は、数多の金を産出し、日の出も金のごとく美しいという。12、13世紀の十字軍の遠征も、このような東方へのまことに無知蒙昧な盲信が強い動機として存在していた。キリスト教の聖地奪還というのは、大義名分の一つにすぎない。東方遠征により、金島・銀島の位置はだんだん東に移動した。いかに東に歩や帆を進めても、しっくりくる理想郷が見つからないからである。インド洋、ジャバ・スマトラ、東シナ海と徐々に東端の地に近付いていく。マルコ=ポーロはこのような歴史的背景のもとで「東方見聞録」を著したのである。マルコ=ポーロはジパングが豊富な金の産出国であり、宮殿は外装から床・窓まで余すことなく金でできていると述べた。そして真珠も豊富に生産されており、富は計り知れないとも付け加えた。実際に当時の日本は産金量が多かったが、マルコの叙述は当時の現実と遥かにかけ離れている。内容もヨーロッパやアラビアで言い伝えられていた伝説と似通っており、荒唐無稽な伝聞の寄せ集めに過ぎない。実際に発行当初は、碌に信用されなかったようである。ともかく、マルコによって東方の理想郷はジパング一つに絞られることになるのである。東方と西方はそれまで完全に隔たっていたわけではなく、シルクロードなどの交易路を通したやりとりは存在していた。しかし、たび重なる戦乱や自然の厳しさによって、異郷への旅へ赴ける人間は非常に限られていた。西方の人々は、まれに入ってくる断片的な情報によって、東方がどんな国であるかを理解していたのである。13世紀初頭、モンゴル族を統一したテムジンは、チンギス=ハーンと名乗り、不敗の騎兵軍団を持って僅か半世紀の間にアジアを次々に征服した。ヨーロッパの人々ははじめは彼を異教徒と戦うキリスト教国の王と信じていた。しかし、次第に脅威と認識するようになり、「地獄の民」と呼んで恐れた。チンギスは交易を優遇したので、それによって今まで断絶されていた東西の交易が盛んとなった。マルコ=ポーロの大旅行が可能となったのも、このような時代背景による。中国や朝鮮はどうだっただろうか。宋が北方の金に圧迫されて華北を奪われ、江南に南宋を建国する。そして13世紀にモンゴル軍が金を滅ぼす。朝鮮にもモンゴル軍は侵入し、高麗王朝は遷都をやむなくされた。このような状況の中、日本は不思議なくらい平穏であった。モンゴルは日本、ないし東アジア征服を真剣に考えていたのだろうか。チンギス=ハーンは征服民を定住させて、収穫物を搾取するという方法をしらなかった。略奪し、せいぜい土地を牧草地として使うという発想しかなかったのである。そして中国や朝鮮は他地域に比べ高度な文化を持っていたので、抵抗も激しい。牧草地帯でないこともあり、モンゴル軍はずいぶん攻めにくかったと思われる。こうした事情もあって、モンゴル軍は東アジアは徹底的に征服せずに、西アジアやロシア方面で積極的に大軍を動かしていた。宋は財政が逼迫しているという理由から、貿易を重視した。日本や高麗との貿易はもちろんだが、南海の貿易を特に重視した。モンゴルに妨げられないからである。日本も宋と積極的に貿易を行い、国が栄えていく。
禅か法華経か

 

1222年(承久4)春、安房国(千葉県安房郡)の小湊という漁村に一人の男子が生まれた。彼は12で仏法と世間に疑問を持ち、父の許しを経て天台宗の寺院である清澄山へ登り修業をした。しかしここの修業も彼の疑問を解いてくれなかった。彼の疑問はこうである。仏法は釈迦一人の教えであるのにどうして、これほどまでに数多の宗派が存在し、優劣を競いあっているのだろうか。仏法や神が鎮護する我が国の国王が、どうして臣たる武士によって悲運に遭うのだろうか。このような仏法と世の中による根本的疑問は、修業を積んでも答えを得られるものではなかった。彼は諸国を遊学し、やがて一つの結論に至った。いわく、真実の仏教は天台宗と真言宗の二つであり、その優劣は天台宗の典拠たる法華経と真言宗の典拠たる大日経の優劣と一致する。彼はやがて確信する。このような末代の時代には、上行菩薩が現れて「何妙法蓮華経」の七字の題目の中に法を集約して――法華経を広めると。伝説によれば、1253年4月28日の暁に、旭日に向かって大きな声で「南無妙法蓮華経」を十遍唱えたという。彼の確信は革新的すぎた。長い苦難の日々が始まる。このころ彼は、日蓮と名乗るようになった。鎌倉松葉ヶ谷の庵室には、次第に弟子が増えていった。彼は幕府の近くで、毎日のように道行く人に説法した。禅を否定するその弁舌は厳しく糾弾され、雨のように罵倒や投石を浴びた。禅は皇帝や将軍・執権などの権力を崇敬することを明確に誓っていたので、権力と強く結びついていたのである。彼は迫害を法華経に記されている試練として受け止めた。信念は人を最も強く動かす。彼は天災、人災、流行病、飢饉、疫病や日食月食などに応じて文献を巧みに引用し、これらの災害や自然現象は邪法がはびこっているからだという論理を展開した。このままだと予言の通り、内乱と外敵侵入の災を被ると付け加えて時頼の近臣宿屋光則に述べた。時頼はこれを黙殺し、相手にしなかった。それから1カ月後ほどに庵室が放火され、日蓮は鎌倉を去って下総にのがれた。1年ほど経ち鎌倉で再度説法を始めたが、告訴されて伊豆への流罪となる。彼は流罪にされても布教を続けた。恋愛のような気持ちだろうか、迫害が重なるほど彼はそれを試練と受け止めて信仰心を高める。10年後日蓮は故郷の小湊へ帰る。このとき襲撃に遭って2名の門弟が討ち死にし、日蓮も数か所負傷した。しかしこれも法難と受け止め、日蓮も門弟も怯まないどころか、自信を強めていった。このころ幕府首脳も政治的に不安定になる。そしてモンゴル軍の襲来が始まる。1266年(文永3)モンゴルは高麗に命じて日本へ詔書を届けさせようとする。高麗はこれを受けつつ、一度は悪天候を理由に執行をしなかった。フビライはこれにたいへん立腹し、高麗が単独の責任でモンゴルの国書を伝達すべきと再度命じた。表向きは好意的でも、実際には属国化を命じるその文章に対して、朝廷は返書を出さないという決断をくだした。この決断は当時の国際的外交ルールに反しており、高麗やモンゴルの外交官を困惑させた。日本とモンゴルはこの後、何度か使者を送りあった。朝廷は、日本は「神国」であるとして拒絶の意を述べる返書草案を作成したが、幕府によって破棄されてしまう。こうして外交関係には次第に暗雲が立ち込めていく。
文永の役

 

蒙古から日本へ三度の使者が渡ったに関わらず、日本は何らの返答もしなかったため、世祖フビライもいよいよ征討の軍を起こす決意を示し始めた。とはいえ、世祖は和戦両様の準備をした。世祖は趙良弼を日本国信使に任命し、かれは1271年の9月に博多の守護所へ乗り込んできた。大宰府は趙良弼の要求することを拒絶した。かれがねばって国書の写しが幕府から朝廷へ進奏されたが、結局これにもまた返書は与えないことになった。かれは翌年高麗へ帰還し、その後ふたたび日本へ渡り、約1年間滞在して帰った。2度目の日本渡航において、かれがどのようにしていたかは記録が残されていない。モンゴルは1271年に国号を建てて元と号した。鎌倉幕府は蒙古使がはじめて日本にあらわれた直後から、西国御家人に異敵への警固を指令し、幕府自体も北条時宗を先頭に陣容を強化するかまえをみせていた。すくなくとも1272年の2月までに、幕府は異国警固番役ということをはじめた。九州の御家人に、筑前・肥前など北九州沿岸の要害で、当番の日数を定めて警固に当たらせることである。ただ、これは元軍の襲来に備えるにしてはお粗末なものであり、またその警固番役に対しても御家人がどれほど積極的に参加したか疑わしいものであった。幕府の悠長な国際感覚と情勢判断のほどがうかがわれる。このころ幕府は、北条氏の内部で同族あい鬩ぐ合戦を経験しなければならなかった。北条時輔は執権時宗の異母兄で、南六波羅探題という要職にあったが、正妻の子でないとのゆえをもって家督を時宗にとられたのをうらみ、謀反をくわだてたのである。1272年2月、時宗は時輔の謀反計画にくみしたとみられた名越教時・仙波盛直らを鎌倉で殺害したが、このとき教時の兄の時章は謀反の与党ではないのに過って殺されたので、討手の者がその罪を問われてまた斬られた。その15日、六波羅北方の北条義宗が南方の時輔を襲撃し、猛火の中に合戦が行われて多数の人々とともに時輔は殺された(時輔はのがれて吉野へ走り、行方知らずになったという説もある)。これを2月騒動という。この2月騒動は、得宗権力の強化に伴う深刻な問題がからんでいた。時宗はつねにあらゆる叛逆を警戒し、先手を打たねばその強大な権力を維持することができなかったのである。このような条件のもとでは、元軍の襲来に備え関東の大軍を九州へ駐屯させることなどできなかった。他方、かねてから異敵の襲来を予言していた日蓮は気焔をあげていた。かれの目的は異敵に対する防備の強化そのものではなく、国難は邪宗がはびこるからだとして危機感を盛り上げることであった。そうして、日蓮は矛先を向けた念仏や戒律の側から大いに憎まれ、ついに諸宗を誹謗し武器を隠匿しているという罪状で告発された。日蓮は佐渡に流されたが、ここでも迫害に屈せず布教をし、島にも少しずつ帰依者が増えた。2ヵ年半ののち日蓮の流罪は放免された。それは1274年、蒙古が日本へ襲来する年の春のことであった。元では趙良弼が帰ってから出動準備はいよいよ本格的になった。造船は高麗の負担であり、その様式は高麗様式の簡略なものと指定された。兵数は高麗の助成軍約6000を合わせ、合計25000-26000人。船員及び船中の雑役夫・漕手は高麗の負担したもの6700人。他に元から供給されたものが多数あったと思われる。軍兵を統率する将軍は、都元帥(総司令官)に忻都、右副元帥に洪茶丘、左副元帥に劉復享、都督使に金方慶、というものであった。1274年の6月に高麗で国王元宗が薨じ、8月末、元宗の子が元から帰国して即位した。忠烈王である。高麗のこの凶事のため、元の日本遠征軍の出発は予定の7月から数ヵ月遅れ、10月3日に合浦を発船し、日本へ向かった。元軍は対馬、壱岐を制圧し、本土へ上陸した。10月19日、元の軍船900艘は博多湾にせまり、東は箱崎から西は今津にいたる沖合に舳先をつらねて侵入してきた。翌日、早朝から元軍は続々と上陸を開始した。戦闘は激戦になったのみならず、日本軍はたちまち苦戦に陥った。その理由の一つは、元軍の戦法が予期せざるものであったためである。日本の一騎打ち戦法に対し、元軍は集団戦術を用いてきた。それから兵器もまたかなりちがっており、蒙古軍の太鼓や銅鑼の音に日本の馬が驚いてはね廻ったり、毒を塗った飛距離の長い弓矢を放ってきたりした。また、「てつはう」という新兵器も蒙古軍は用いてきた。「蒙古襲来絵詞」によれば、元軍はおもだった指揮者のほかは騎兵でなくて軽装の歩兵である。日本の騎馬武者は長槍と弓矢の徒歩の集団にとりこめられて苦戦したのである。こうして戦闘のしかたの違いでさんざん苦戦をかさねたうえ、大軍におしまくられて、やがて日本軍は疲れ果てて敗退していった。元軍はまったく一方的に優勢に戦いをすすめていたが、夜に入ってそのまま追撃することをせず、軍船へ引き揚げた。その理由は不明だが、各方面の指揮官の作戦会議があったのではないかともいわれる。その夜半、大風雨がおこり、多くの軍船は難破するか、浅瀬に乗り上げた。この20日夜の大風雨は、古来「神風」と呼ばれて喧伝されたものである。疲弊した高麗人民に突貫工事でつくらせた粗悪な船であったため、嵐によってたちまち難破したのであろう。九州における元軍敗退が京都へ伝えられたのは、11月6日のことであった。

先ず、文永の役(1274年)についてはとかく日本側の対応が大変鈍かったと言える。前章に述べられていたように、フビライからの使者が来た後、鎌倉は異国警護番役を置き、西国一帯にモンゴルの襲撃に備えるように命じたが、その後防備のため為に努力した跡は見られない。実際に被害を受けたわけでも無いのに労力を支払うのは御家人も御免である。鎌倉も寺社神仏への祈祷に熱心であったが、軍事的な準備は特にしていない。またこの時の幕府は、北条氏内で権力争いが起っていた。京では2月騒動と呼ばれる合戦もあり、得宗からの自立心の強い北条氏一門の名越氏が討たれた。やはり前章で触れたが、執権時宗ら得宗が封建君主としての立場を守るため、危険分子を先手を打って取り除く必要があったからだ。また、日蓮は折伏の恨みを買い、逮捕、佐渡配流となった。2年半後に赦免となった後は身延山に隠棲した。このように日本国内の足並みが揃わない中、元は着々と準備を進めていた。元と日本の中間地点にあり、元に降伏していた高麗は造船を命じられたが、文永、弘安の役を通して、最大の被害者はこの高麗だったといえるだろう。合戦の詳しい様子は省略するが、文永、弘安の役は土地の御家人竹崎五郎季長が自らの手柄を証明するため描かせた「蒙古襲来絵詞」が当時の様子を今に伝えている。元は900艘25000の兵を以って日本に攻め寄せ、対馬、壱岐を焼き払い本土に上陸した。対して日本軍は1万の兵が集まったかどうかの程度ではないかと述べている。元軍は集団戦法に火薬、強力な弓に毒矢、銅鐸の音には馬が驚いて跳ね回ったと言うのは教科書のとおりである。元々騎兵の軍隊だったモンゴル軍も、東アジアに侵入するにつれて、地理に合わせた軍隊に変わっていったのである。
弘安の役

 

世祖フビライは敗北したとは考えず、忻都、洪茶丘らが元へ帰ってまだ1ヵ月しかたたぬ段階で、はやくもまた宣諭日本使が発遣されることになった。宣諭日本使とは日本に朝貢ないし服属すべきことを諭すのを任務とする使者である。杜世忠および何文著がこれに任命し、1275年3月、高麗に到着し、日本へ向かった。杜世忠らは4月15日、長門の室津へやってきて、一行はその後大宰府へ送られたらしいが、幕府はすぐさま厳重な構えをみせた。8月、大宰府は杜世忠らを関東へ護送したが、9月4日、執権時宗はかれら元使をことごとく竜ノ口で斬った。元としてはまだ外交折衝の余地ありとみたのだろうが、日本側としては一時戦闘の途絶えた戦時下であったわけである。引き続いて幕府は、前年の合戦における勲功の賞として、120人の行賞を発表した。士気を鼓舞する必要を感じたからであろう。また、幕府は12月の初めに九州の諸国および安芸国の御家人に「異国征伐」の準備を命じた。異国征伐とは、九州諸国の兵員・船員を主体にして、すすんでこちらからの遠征軍を編成しようという計画であって、博多を本拠とし、大宰少弐経資を総司令官とするものであった。ただ、この異国征伐は実際には軌道にのらなかったらしい。幕府はまた、異国征伐に参加できない者は博多へ参集して防備の石塁築造に当たれと命令した。これは実際に着手され、最終の記録は1332年、幕府が滅亡する前年にまでおよんでいる。この防塁の工事の負担を要害石築地役という。幕府がとった対策として、ほかに注意されるのは、おそらく文永の役以後、再度の襲来のときまでの期間に、九州方面および裏日本の諸国の守護を大量に交替させた事実である。新しい守護はほとんど北条氏の一門であり、そうでない者も北条氏に縁故のふかい者であった。蒙古襲来にそなえて、要国の守護に北条一門という強力な指揮官を配置するのが防衛上妥当であると考えたためであろう。また、同時に得宗権力の強化策が現れているともいえる。その頃、元は南宋の攻略に全力を傾注していた。1279年2月6日、宋室の擁された皇帝は元軍の猛攻を受け、遂に身を海に投じた。300年にわたる宋室はここに完全にほろび、中国大陸はすべて元の支配のもとに帰することとなった。その翌日、江南の四省に世祖フビライの、日本遠征のための戦船600艘を建造する命令が出された。その年の6月には、高麗に対しても900艘の造船命令を発した。世祖は宋の降将を日本遠征に利用することを考えていた。そこで世祖はかれらに日本遠征の可否について諮問していた。その降将のうちに范文虎という者があったが、かれは世祖の意をうけて自分から直接日本へ使者をおくり、元への服属を勧告したらしい。しかし、その使者たちは、今度は鎌倉へ送られるまでもなく博多で全員斬り捨てられた。弘安2年頃、杜世忠らが殺されたという情報が高麗から元に伝わり、諸将は日本討つべしといきまいた。それでも世祖はなお慎重な姿勢を見せていたが、それから1年近くたっても范文虎のつかわした使者の消息は知れず、世祖の決意はここで固まった。かくして1280年8月、世祖は征東行省を設置し、范文虎・忻都・洪茶丘らをその首脳にあてた。日本側は、こうした元側の情勢をいちはやくキャッチしていた。商船などの往来はこの戦時状況のもとでも絶えていなかったから、情報を入手する機会はあったわけである。1281年1月、世祖フビライは諸将に日本遠征進発の命をくだした。5月3日、東路軍4万の兵をのせた戦船900艘はあいついで合浦を出発した。また、元軍の主力をなすところの江南軍(兵力十万、兵船3500艘)は6月18日ごろ、やっと日本へ進発しはじめた。壱岐での戦いののち、東路軍は江南軍と平戸方面で会同し、それからなぜかその後20日以上ものあいだ江南・東路両軍は平戸島から五島方面に浮かんでいた。そして27日になってその主力は肥前の鷹島へ移ったのである。それから4日後の閏7月1日、海は荒れ、数万の軍兵は波間にのまれた。こうして2度目の元軍の侵攻も潰えたのだった。その後、元は征東行省を廃止したが、数年後、2度、三度と復活し、軍備を整えた。しかしそのつど高麗や大陸に叛乱や紛争があって日本遠征は実行できなかった。1294年、世祖が没して元の日本遠征の計画は事実上終止符をうたれたが、日本と元とのあいだにはついに平和な国交はなかった。元軍の侵攻が失敗したのは、結局のところ人間の問題といえよう。

流石に幕府、国内にも緊張が走り、相次ぐ元からの使者を斬って降伏しない旨を強調し、山陽方面にも警護番役を命じた。文永の役で消極的だったものを問責、今後は罰する旨を伝え、またモンゴル征伐の計画も立ち、九州及び安芸国に其の任を命じた。が、御家人達は乗り気でなく、上手くいかなかったらしい。九州北岸には石塁建造を命じ、工事は1332年、幕府滅亡の前年まで続いた。またこの機に乗じてか、強力な指揮官を西国に配置するという名目で、北条家一門が西国の守護に就いた。得宗権力強化を目指したものと思われる。ところで、元の使者は執権の命で斬られたが、同じく渡海してやってきた禅の師は斬られなかった。執権時宗は禅に傾倒しており、禅を以って蒙古襲来の国難を退けることを願っていたが、何のための禅だったのであろうか。文永の役に失敗した元国内では、再びの出兵を強く求める声が大きかったが、フビライは割りに慎重で、これを抑えていた。中国では300年もの戦乱の世が治まったのだから、少し時間を空けるべき、と言う契丹人の臣下の進言を受けたものである。が、使者が待っても帰ってこないので遂に再度征東を命じた。この際フビライは臣下に対し「卿らの不和を憂慮する」と注意していた。此方でも合戦の詳しい様子は省くが、元の兵数は14万に及んだ。当然日本軍は苦戦したわけだが、フビライが咎めていたにも関わらず元軍の動きが足並み揃わずに侵攻が遅れ、元軍日本到達の1ヶ月余りの1281年7月頭、またもいわゆる神風が吹き、元軍は撤退した。また、元が征服した高麗、宋の民を叱咤して作らせた船の粗悪さ、降兵を用いたための戦意の低さが遠征失敗の原因に挙げられる。
神国

 

この章では、元軍を撃退した暴風を神風と称する様になったのは何故であるのか、という点を中心に扱っている。元寇に際し、京や方々の寺社にて異敵降伏の祈祷が行われていたが、栂尾大明神の「先に西大寺で法を修した思円上人の為に、神明は大風を吹かせて異敵を撃退するだろう」という託宣があった。実際その大風は、2度も吹いた。当時の人々が神仏の威力と信じたのも無理からぬ話である。ところが、異敵を撃退した大風は、各人が自身の宗教的信念によってどうとも解釈していた。執権時宗も神風に関心を寄せたわけでもなく、つまり神風が当時の一致した概念ではなかったのである。また、思円上人を法敵とする日蓮は、自らが主張した「他国侵逼難」の予言がはずれ、法敵の祈祷が成功したため(尤も、日蓮は否定したが)、蒙古襲来については触れなくなった。その後、彼は病を患い1282年に没した。元寇の話は、当時の御家人竹崎季長が描かせた「蒙古襲来絵詞」によって現在に伝えられている。季長が合戦で先駆したこと、そして自らの武功を鎌倉に申し立てに行ったことが記されている。当時彼は所領についての問題などで苦しんでいたようだが、故に当時を懸命に生きた一人の武士の姿を見ることができる。その一人の武士、季長は元寇を「日本国の危機」だとか、「国難」というようには捕らえていない。ただ「君の御大事」、そしてその「君」というのも、天皇とか将軍とか北条氏とか云うのではなく、彼に命令する立場の者、凡そ幕府を漠然と指しているものである。彼としては「君の御大事」に命を賭して戦い、武功を認めてもらってご恩を賜ればそれでよいのであった。つまり、この合戦も彼ら御家人にとって見れば稼ぎ時でしかなかったのだ。また、異国警護の名目で西国の守護が年貢を私財にしてしまったり、異敵降伏の祈祷をした報酬を求めに強訴に来る僧兵が絶えなかった。幕府も鎮西探題、長門探題を以って力を伸ばした。古今を問わず、戦争とは特定の者が利益を得るものらしい。著者は蒙古襲来の日本軍から同時代の十字軍を連想しているが、十字軍も最初は聖地奪還に燃えていたが、回を重ねるにつれ物欲的になり、遂には豊かなコンスタンティノープルを攻撃しよう、などとなっている。日本の御家人も国難に準じるといった信念より、凡そ単純に勲功の賞を目当てに戦ったと思われる。ただ、元を「異国」と呼ぶなど、日本人の他国を見る目は地の果てからやってくる悪鬼を見るようなものだったのだろう。というのも、東アジアの交易路の一端に連なる日本には、大陸など海の向こうの話を耳にする機会もあったらしい。が、それらは遠い海の彼方の話であった。今度の敵は、その海の彼方からやってきたのだから。その敵を倒す為に幕府の命で出陣する武士達は、聖なる十字軍にも似た意味を持っていたと思われる。但し、その構成員たる武士の一人一人がそういった使命感を持っていたわけではなかったのである。それでは何故、祈祷した神官僧侶をはじめとした人たちは、日本を神国としたのか。詳しくは省くが、仏教の宇宙観を以ってこの世界は平等であり、日本もその世界の片隅にあるのだ、という考えがある。更にインド、中国が優れた国であるように、日本も八百万の神々の国であるという自覚があった。こちらは、日本書紀に既に現れている。更に、本地垂迹説により、平等な世界の片隅の、八百万神(=仏の垂迹)の国となった。元寇の後、「神風」の後は、ついぞ日本には神仏の加護があることを主張し、日本が世界の特別な地域であるという考え方が生まれてくる。だが、先に神風が当時の一致した概念ではなかったと述べたように、日本が神国であるという考えに誰もが同調したわけではない。
得宗専制政治

 

元寇前後の日本には、2つの大きな問題があった。1つは国内に悪党が跋扈していることであった。異国警固の命に、「守護人に相伴い、且は異国の防禦を致さしめ、且は領内の悪党を鎮むべし」とある。1250年頃から頻繁に悪党取締りの令が出ていた。場所を問わず悪党が横行するようになっていたのである、しかも取締りすべき立場の守護が悪党を匿うなど、取り締まりは遅々として進まなかった。そうこうする間に蒙古襲来が伝えられ、幕府は内外に賊を持ってしまった。御家人も悪党と手を組む、或いは寺社の寄人神人が悪党となるケースもあり、しかも其の悪党はこそ泥から荘園領主への叛逆あり、民から孤立するものもあれば、住民の味方になるものもあり、大変正体のつかみにくいものだった。もう1つが御家人の生活の安定である。この頃には自らの所領を売ったり、質流れになり困窮に喘ぐ御家人が出てきた。将軍と御家人との主従関係が幕府の骨格であり、御家人の零落は幕府の基盤を揺るがす。そこで幕府は1267年に法令を出し、約30年前からの売った所領の返還、特に御家人以外に売ったものは幕府が没収する旨、また、所領の譲渡、売買の禁止を命じた。所領をなくした御家人を無足御家人といったが、彼らは幕府の頭痛の種となっていた。弘安の役のヤマ場を越えた幕府は、論功行賞に着手した。1281年から5年かけて行ったが、先ずは実際に合戦に参加し、築地を築いて出費のかさんでいる九州に対して行われた。売却された神社領をタダで返却すること、九州の御家人の領地を安堵する下文を与え、これにより御家人以外に売却された御家人領を取り返してやることが出来た。幕府の一方的な決定にも見えるが、幕府としては前々から売買禁止してたではないか、売却された地を没収して御家人に返すのだ、ということある。また、幕府としても御家人を介して返却された地に干渉できるようになった。この令は永仁の徳政令の先駆けの令であり、無足御家人救済を急いでいることが伺える。また、次に述べる岩門合戦で幕府が没収した領地や、得宗家の所領を割いて恩賞地としたが、手柄のあったものを満足させるには程遠いものだった。1284年4月、執権北条時宗が死去、子の貞時が14歳で執権に就いた。貞時の外祖父として、そして御家人の有力者である安達泰盛が若年の貞時の裏で大きな力を持ったのは想像される。また、時宗の晩年から安達一族は幕府の要職を占め勢力伸張、一般御家人(外様)の信望を集め、得宗家勢力を揺るがすものとなっていた。対して、北条家の家宰である内管領に平頼綱がいた。彼は北条氏家臣団(御内人)の代表とも言える存在だった。彼らの冷たい対立は貞時執権就任という事態を迎え急速に進行。頼綱は足立一族打倒の機会を伺っていたようで、また泰盛も応戦の準備を整えていたらしく、一触即発の事態となった。1285年、頼綱は貞時に讒言をなした。泰盛の次男が「我が曽祖父景盛殿は、頼朝卿の御落胤なり。されば我は、藤氏にあらず、源姓なり。」と言ったとして「泰盛父子の逆心、すでにあらわれ候。藤氏を源姓に改めしこと、将軍にならんとのことなり。」と焚きつけて、安達氏追討の下知を勝ち取ったのである。11月17日、霜月合戦の発端である。頼綱は即日行動を起こした。泰盛が鎌倉市内の騒ぎに異常を感じて執権館に行ったところ、頼綱ら御内人が武装して待ち構えていた。泰盛父子は討ち取られた。これを助けようと安達一族についていた外様御家人が御内人軍を攻撃したが、日ごろ北条家の陪臣と軽視されてきた恨みが爆発して、反撃に転じた。この動乱は地方にも飛び火し、特に九州の岩門合戦が激しく、泰盛の子と、弘安の役で竹崎季長の指揮官だった少弐景資が打ち滅ぼされた。こうして安達家を退けた平頼綱は得宗家勢力巻き返しのため尽力したが、結果として7年半に及ぶ頼綱の恐怖政治となった。頼綱の権勢に不安を覚えた執権貞時は、大地震が起き混乱の只中にあった鎌倉で頼綱を急襲した。平禅門の乱と呼ばれる。実権を回復した貞時は収賄を禁じて幕府の綱紀を粛正、そして何より徳政をして御家人を安堵させることに力を費やした。所領を失っても先祖が御家人である証拠があれば、御家人と認める、という英断を下して彼らの地位、名誉を保護した。また、有名な永仁の徳政令を出し、内容は以下である。@越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。@御家人所領の売買及び質入れの禁止。@既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を続けよ。@非御家人・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)の買得地は年限に関係なく元の領主が領有せよ。@債権債務の争いに関する訴訟は受理しない。また、裁判の時間短縮のために最終決定を全て執権に任せるとした。どうやらこの幕府改革は割りと善政として受け止められたようだが、結果的に得宗専制が強まり、一つの頂点に達した時期でもあった。
遍歴の僧団

 

日本の中世を語るのに、宗教は欠かすことのできぬ部分である。硬い理論や教説ばかりであったようにも思われるが、実際の人々の精神世界はもっと粗野で純粋な物であった。御家人・河野氏の出身である一遍は、幼い時期に出家して修行を積んだ。後、一時期故郷で生活したようであるが、詳細は不明である。ただしこの時の経験から、彼は遁世を決意したようであり、旅を幾度か行った。その中で彼は全てを断ち切った漂泊を決意し、以後延々と旅の生涯を送る。高野山での経験から、彼は念仏札を配ることを思いついたようで、以後配って歩くようになる。その中で彼は完全な他力本願の思想を確立してゆくこととなった。それとほぼ同じくして、一遍は同行者とも別れている。以後、九州や四国を遍歴し、信者を増やしてゆくことになった。踊念仏という形が現れるのもこのころである。そうして確立した時衆は、さらに僧尼の道時衆と在家の俗時衆に分けられ、そのうち道時衆は厳しい戒律で以て一遍に従った。当時、正念のまま死に至ることが気高いこととされ、それを望んで死に急ぐものも多かった。それは時衆でも例外ではないが、そんななかで一遍はただ生を凝視していたといえる。中世と言う時代は死の近い時代であり、それを潜りぬけてこその生だったのである。一遍はその死の際、書籍や経文を全て焼き捨てている。そして其の死と同時に時衆も解体。その中で、他阿弥陀仏を中心として遍歴する者もあり、また聖戒を中心として遍歴する者もいた。この聖戒が、後に一遍上人絵詞をまとめることになる。人々の精神から宗教が離れてしまった時、素朴な信仰を訴える宗教運動がおこることは、時宗を見ても西欧の修道院を見ても明らかである。時宗というのは、非常に雑多な思想を取りこんでいた。これはひとえに民衆の思想の流れの中で成長してきたからであると言える。この鎌倉新仏教の流れは、西欧の改革運動に比すことができるだろう。共に封建化しつつあった宗教に対して、民衆を基盤にして起こったものだったからである。
漂泊の文芸

 

このころ、放下をはじめとして、世のすべてを捨てて旅をする人々がいた。彼らは体制から全く逸脱した存在であったと言え、露骨な叛逆はなくともある程度、社会の解体を目指す人々だったと言える。一遍死後、時宗教団は他阿を中心として布教し、また時衆道場を各地に築いて行った。そうして教団として基盤を築き、他阿は一遍に次ぐ時宗の二祖・遊行上人とされ、聖を絶対とする傾向が生まれた。時宗は、あくまで遊行することが本旨とされ、遊行上人も体は留まりこそすれ、心は遊行しているものとされた。他阿以外の、遊行の僧たちも独自の教団を持ち、時宗の一派として分裂してゆく。このことは一遍・他阿のような僧が多かったことを示している。一方浄土真宗は、親鸞の死後、様々な紛争を抱えた。その中で覚如は、自らの血脈・法脈の正当性から御影堂であった本願寺を正当と唱えた。そのため高田派などから反発され、本願寺は困窮に陥ることになる。こうして真宗には中核なく小教団乱立となり、時宗と間違えられるようなありさまでさえあった。時衆というのは、文芸にも大きな影響を与えている。彼らの和歌も非常に多かった。このころ発達してきた市場は、中世の様々な芸能の舞台としても機能している。その一方、芸能民たちは旅の中にあるのが普通であった。彼らの中は体制から疎外した者と、離脱した者とが区別されずに混在していた。例えば唱導などは、漂泊する民に語られ継ぐ中で次第に文学の様相を帯びてゆくことになる。これは論理としては駄目かもしれぬが、当時の人々の要求によく反映したものであった。日蓮宗は激しい弾圧の元にあったが、日像の活動の中で京都の商工民に信者を拡大し、次第に根づいてゆくこととなる。和歌・連歌もこのころから庶民に流行り始めていたようである。連歌師の中にも時宗僧がいるが、これはやはり遊行の中で文芸を生みだす伝統に基づくのだろう。「沙石集」を書いた無住もまた、遁世した一人である。彼は民衆に溶け込む形でその思想・仏法を説き、その過程で様々な当時の民衆の思想を表すことになった。民衆の思想にふれることで無住の思想も又構成されたのである。
一味同心する農民たち

 

文永(1264-1274)のころ、炎天が続き、全国的に飢饉が蔓延した。中世においては、水量豊かな大河川を灌漑に利用するに至っていなかった。そのため、干ばつによる飢饉が今回起った。農民たちは苦しみ、彼らの不満と鬱積が次の社会を作り出すエネルギーとなる。中世は農村の時代であった。農民を始め、武士・僧侶・商人、手工業者も主に農村に住む。京都・奈良・鎌倉などの中枢都市を別とすれば、国の中心は農業であった。彼らは公領として国司に年貢を納めるか、私領として荘園領主に年貢を納めるかをした。農民の生活は貧しかった。彼らは汚れた小屋に住み、家財道具はほとんどなかった。日の出とともに起きて働き、夜が来れば藁に潜って寝る生活を繰り返していた。鎌倉初期、農民は鉄・塩などの必需品を除き自給自足していた。ゆえに農民は市場にかかわることがなかった。ところが中期になると市場が発達し、農民は作物を市で売り、年貢を貨幣でおさめるようになった。市場での商売および市場の管理を専業とする元小作人も現れ始めた。しかしながら、ほとんどの農民の生活は豊かにならなかった。彼らは地頭からの厳しい年貢の取り立てや、非法な略奪にしばしば苦しんだ。農民間でもしばしば争いが起きた。境争論という、土地の境界を争うもめ事である。農業・漁業において土地の広さは重要である。農民たちは自らの利益を守るため、一致団結して行動し、しばしば訴訟や実力行使を行った。彼らが団結したのは境界の問題だけではない。領主の支配に苦しんでいたという共通の条件にも強く依存している。
地頭と領主の対立

 

荘園の支配権を巡る紛争が各地で頻発していた。そのうち最も多いのが、地頭と雑掌の境界紛争である。農民も市場に関与してくることになったので、支配権の存在はさらに重要になり、紛争がさらに増えた。幕府は紛争はなるべく和与(示談)で解決するように勧めた。しかし、後ほど不服を訴えて蒸し返す例も少なくなかった。彼らのうちどちらが善玉で、どちらが悪玉であったかと考えると、どちらも悪玉である。立場は違えど、彼らは自らの利益を最大化するために数多くの非法な取り立て、農民の搾取を行った。法に従わぬ彼らの暴虐は、幕府の最大の悩みの種となっていく。そのような情勢の中、農民は現実を見据えて生きるようになる。旧来の伝統的な恩情関係を破棄し、結束して交渉を行うといったスタンスにシフトしたのである。彼らはしばしば不作などの理由をつけて、なるべく年貢を支払わぬようにふるまった。貧農だけでなく、成り上がりを目指す有力な農民も彼らと強調し、共に戦った。彼らは時に農業的要所を押さえて、その活動はより政治的になっていく。この時期はすべての階級が泥臭く打算的なふるまいをした時期である。崇高さや高尚さはなく、人間のむき出しの欲望があらわとなった。伝統や権威が次第に泥にまみれていく。時代が変わっていく。

分裂する天皇家

 

1272年(文永9)後嵯峨法皇が崩御する。法皇亡きあと、誰が政務の実験を握るかが問題となった。第三子である後深草上皇の系列か、第7子である亀山天皇の系列になるかが主な焦点だった。後嵯峨法皇は皇統のことは何も遺さなかったので、揉める元となった。天皇が政治の実権をどれほど握ったか、一言で言い表すのは難しい。摂関家や幕府などの社会的勢力関係で相対的に変動するからである。天皇家は膨大な荘園を直接的・間接的に支配できた。天皇制は既に形式と化していたが、天皇家は最高級の権威を持った集団として存在していた。その惣領の地位が誰に移るかというのは、皇太子個人の問題ではなく、血統集団としての皇族派閥や彼らに与する貴族の趨勢に大きくかかわっていた。後深草と亀山の争いは前者に軍配が上がった。伏見天皇が即位し、後深草院の院生が始まる。亀山院希望を失い出家してしまう。天皇家はこの対立により、事実上二つに分裂してしまう。亀山院方では、後宇多上皇が京都嵯峨の大覚寺を再興し、以後もその子孫が大覚寺と関係が深かった。後にこの系統は「大覚寺統」と呼ばれた。同様に後深草院側は、持明院を仙洞御所(上皇が住む場所)とし、子孫も深くかかわったので「持明院統」と呼ばれた。この時代の天皇は、政治には関与せずにもっぱら儀礼のみを行った。院生が始まってからの平均即位年齢は8歳と10カ月、平均在位期間は約10年であることからも、たんある形式的な地位であったことがうかがえる。しかし、現在のような象徴的存在かというとそうでもなかった。膨大な荘園群という経済的基盤に裏打ちされた権威は残っていたので、「御心のままに」権力をふるうことがしばしばあった。豪奢にはふるまえるが、あくまでも政治の覇権は幕府に、といった二重構造が存在していた。
御家人制の崩壊

 

この時代になると御家人は、零細化してまた権力を失い、無力化していた。その要因の一つは、非御家人・凡下・山僧による高利貸しであった。このような御家人以外の人々は、鎌倉時代には多く存在しており、また反幕府的な傾向が強かった。これは、幕府が非常に強固な権力組織であり、彼らをもまた従えんとしていたことに他ならない。彼らは、主に寺社や朝廷につかえている者が多かった。寺社・朝廷は当時、莫大な荘園を抱え、非御家人らの人々はこの門閥的政治勢力と密接に関連していた。この寺社・朝廷らは孰れも京都・奈良に集中的に存在し、それゆえこれらの場は物資の移動・集積・交換を通して物流の要となったのである。この時代、京都には既に商人が発生して富裕の者もおり、また京都から各地の港、さらに東アジアへと至る大きな交易ネットワークも存在していた。そしてこの動きが、社会へも大きな影響を与えることになる。この時代の商人は、主に座の商人である。寺社朝廷などに課役を支払う一方で、特権的に特定生産物の流通を支配したのである。この商業の浸透は御家人にも影響を与えることになり、税なども銭貨による支払いも行われるようになってゆく。すると、御家人も所領へ送る代官として、銭勘定に詳しい山僧や借上(高利貸し)を利用するようになるが、やがて彼らに所領も奪われて没落してしまう者も出た。この傾向は泰時代には既に現れていたものだが、この中世となっていよいよ深刻化したのである。これに対抗して出されたのが永仁の徳政令である。これは越訴――上告の禁止、質流れ・売却地の返還・金の貸し借りに関する訴訟の禁止によって成り立っていた。しかし、これは却って経済に混乱を招き、却って非御家人らの所領押領を招くことさえあった。それゆえ、結局は徳政令を撤回することとなっている。この結果は、非御家人層の勢力を幕府が圧殺することに失敗したことに由来する。しかしこれは、決して幕府の横暴ではなく、東国から発布したが故であったといえる。当時、東国は未だ商業発展せざるところであった一方、西国はもはや切り離せぬものとなっていたのである。そしてこの西国での商業発展が、新たな政治動向への影響をあたえるのである。また、御家人の惣領制の動揺もあった。世代を重ねることに所領分割によって所領が狭小となり、また血縁関係も薄くなることによって、惣領を巡る一族内の争いが頻発しつつあったのである。そしてこれは惣領制を利用する幕府体制にも動揺を与えることになった。
悪党横行

 

武士の中には、本所の支配に抵抗する者――悪党がいる。本来、本所はそれを自らの手で討伐するものであるが、本所が幕府にの権力を借りて討伐を図ることも多かった。それは、本所にそれだけの権力が無い者も多かったからである。伊賀国黒田庄では、弘安ごろより悪党が跋扈し、本所・東大寺に対する反抗が非常に激しかった。東大寺は幕府の権力による鎮圧を図るも、地頭設置を迫られることとなり、なかなか鎮圧は進まなかった。彼らには、幾らかの与党も存在したものに、倫理的な面からすると住民の殺戮も辞さず、ために住民との敵対関係があったといえる。このような状況故、浪人や流浪の僧といった、体制の外にある人々は、幕府の警戒の対象となった。このころになると、異形の者と呼ばれる武装集団が、各地に出没するという事態にもなっている。そしてこのような動きは幕府を揺り動かすことになる。彼らの中には、開墾に踏み出す人々もいた。当時、叡山をはじめとする寺社では仏法と王法とは車の両輪であるように考えられていた。しかしその中で、人法興隆という言葉が叫ばれるようになる。人法とは世俗での生活を表し、仏法や王法では非難されるものもこれを通して行われることがあった。悪党や悪僧と呼ばれる人々は、銭をもっとも重要とした。彼らはまず交易とそれを通して得られる銭をその行動理由としていたのである。幕府はこれを討伐しようとしたが、討伐は必ずしも成功しなかった。悪党は御家人や守護とも結びついていたためである。そうして勢力を伸ばした悪党は、愈々時代を動かしていくことになる。
「主上御謀反」

 

後醍醐天皇が帝位へつくと、記録所が設置された。これは、天皇が親政するための裁決機関であり、後醍醐天皇が非常に政治へ意欲的であったということが言える。また、後醍醐は宋学の勉強会を数度開いていたが、これは討幕相談という側面があり、また無礼講の宴会も行って、それによって武士をもその計画に引きこもうとした。しかし、この計画は一度は失敗に終わる。正中の変と言うが、これはあっさり露見することとなる。結果、天皇の側近は流刑に処せられることになる。このころより、「主上御謀反」という言葉が使われるようになる。主上より幕府を上に見る風潮があった、ということは否定できないだろう。一方、奥州ではこの時代より内乱が勃発。北条氏はこの対処に苦労することになった。また同時に幕府内でも、権力闘争が起こっていた。立太子について、幕府の介入について後醍醐天皇は思うのままにすることができず、幕府への反感を募らせることになる。やがて後醍醐天皇は流通統制を行う一方で、討幕の計画をいよいよすすめた。しかしこれは吉田定房の密告によって再び露見。後醍醐天皇は笠置山で挙兵するも、陥落し、譲位させられてしまったのであった。
楠木合戦

 

日本歴史上、楠木正成ほど有名で、素性のわからぬ人物もない。本拠地も家系も謎であった。はっきりしていることは、かれが名もない河内の小土豪にすぎなかったこと、それだけにかれの周辺には「悪党」ムードが漂ってもいたであろうことだけである。1331年の赤坂城合戦では、幕府軍と楠木正成の軍が戦ったが、楠木の智略により赤坂城はなかなか落ちなかった。そのまま45日過ごしたが、急な籠城であったため城中に食料が尽きてしまったらしく、正成は風雨の夜に城に火をかけ、闇にまぎれて脱出して行方をくらました。こうして赤坂の楠木の城は落ち、備後の桜山も自刃したので、天下平穏に帰したかに見えた。関東の大軍は10月末から11月のはじめにかけて鎌倉へ帰還し、鎌倉からは後醍醐天皇の謀叛にくみした公卿や武士の処罰のため、2人の奉行人が京都へ派遣された。いよいよ戦後処理である。幕府の奉行人は持明院方に公卿・僧侶らの罪名のリストを示し、処分方法について「聖断」をあおいだが、これに対し幕府の判断に任せるという仰せがあった。そこで12月27日、関東の使者は後醍醐天皇を隠岐に、第一宮尊良を土佐に、妙法院宮宗良を讃岐に配流すると奏上した。こうして1332年3月7日、後醍醐天皇は隠岐へと流された。これを手始めに、この3月から6月にかけて諸皇子・公卿・僧侶・武士の配流・処刑がつぎつぎに行われた。1332年4月28日、京都では改元して正慶というめでたい年号がえらばれたが、この翌年、後醍醐天皇が隠岐から帰還したあと、光厳天皇も年号もみな否認してしまったから、元弘の年号は息を吹き返し、3年まで(正確には4年正月28日まで)あることになった。本書では便宜上元弘で通す。その年の春から夏のころ、後醍醐の皇子尊雲法親王すなわち護良親王は、吉野・十津川方面の土豪たちを味方に組織して廻っていた。親王のほかにも楠木正成がどこかで挙兵の準備をしていたし、またここ数十年のあいだ欲求不満をたえず暴発させていたかの悪党的な武士どもが無数にいた。そして隠岐の配所にある後醍醐「先帝」も強靭な意志をもって再起のときを待っていた。1332年も冬に入ったころ、楠木正成は河内・和泉から摂津にかけての一帯に出没し、12月には赤坂城を急襲していっきょに奪回してしまった。翌年の正月には正成は摂津の天王寺から渡辺まで兵を進めていたが、もちろん六波羅もてをこまねいていたわけではない。暮れの12月9日には畿内・近国の武士たちに、護良親王および楠木正成の征伐のために京都へ参集するように命令を発していた。正月には正成は河内の各所で戦い、幕府方の軍勢を追い落とした。その後六波羅の派遣した軍勢もまたこれをたくみに追い落とした。正成がこうした兵力を持ちえたのは、摂・河・泉一帯の小土豪をたくみに把握していたためと思われる。いわばひろい意味での悪党が、こうして軍事力の重要な要素になってきていた。このころになると、正成のほかにも護良親王の令旨をうけて挙兵する者が各地にあらわれてきた。機内・西国にまたもや兵乱おこって大動揺を来しているという報告に、幕府はふたたび東国の軍勢を召集して大軍を西上させた。軍勢は5万ともいい3十万ともいう。京都へ着いた東国の軍勢は諸国の軍勢と共に、大手(河内路をへて赤坂城へ向かう軍勢)、搦手(奈良路をへて金剛山へ向かう軍勢)、もう一手(紀伊路から吉野山へ向かう軍勢)の三手に分けられ、正月の末から2月はじめごろ三方同時に進軍を開始した。それぞれ激烈な戦いが行われたが、赤坂城は城中へ水を引く樋を発見され、水を絶たれて陥落した。正成がかまえた城はこの方面に多数あったらしいが、しだいしだいに陥落し、残るところは正成がこもる金剛山の千早城のみとなった。金剛山へ押し寄せていたのは搦手の軍勢であるが、いまやこれに赤坂・吉野の寄手もくわかり、三方の大軍を挙げて千早城を総攻撃することになった。2月も末ごろのことである。千早城合戦は百万あまりの幕府軍と1000人に足らぬ軍勢で城にたてこもる正成軍との争いであるが、城はなかなか落ちなかった。「太平記」によれば、正成は用水の便もしらべ水は確保していたし、大石を投げかけたり矢を射続けたりと智略を尽くして戦った。また、わら人形をおとりに、攻めてきた兵を返り討ちにしたりもした。これに対し幕府側は梯を作り深い堀に橋を渡して城へ斬りこむ計略を考え、実行するなどしたが、油と火矢によって橋は炎上、数千の兵が一人残らず焼け死んでしまったという。そうこうしているうちに、吉野・十津川・宇陀・宇智一帯の野伏ども7000人余りが大塔宮の命をうけて峰や谷にかくれ、千早の寄手の補給路をふさいだため、寄手の軍勢は引き揚げはじめた。野伏どもはこれを待ち受けて討ち取った。千早城の寄手ははじめ百万ともいわれたが、こうして減ってゆき、いまでは十万しかいなくなってしまった。これが「太平記」の語る千早城合戦の内容である。「太平記」が狙ったのは千早城合戦の正確な記録を伝えることではなく、功名や恩賞に目がくらんだ鎌倉武士の大群とそれを手玉にとる正成の智略や奇抜な戦術を対比することで、鎌倉武士を笑いとばすことであった。では、正成の戦術なるものがでたらめな作り話かというと、そんなことはなかったと考えられる。このような合戦が、このころ少なくとも機内・西国では一般化していたと筆者はみる。こうした戦術は、蒙古襲来から半世紀間、連年どこかで行われていた悪党の合戦により編み出されたのである。正成の戦術は、悪党や郷民のさまざまな合戦のなかで鍛えられた戦術にほかならない。1333年閏2月24日の暁、後醍醐天皇は隠岐を脱出した。天皇は船上山を行在所ときめて、さっそく諸国の武士へあてて綸旨を発し、味方について忠勤をはげむよう促した。西国各地の武士にはすでに動揺の色が濃く、かなりの者が船上山に馳せ参じた。3月には天皇方の軍勢はかなりの勢力になっており、京都への進発の方針がきめられたが、先陣として千種忠顕が山陰道を進撃することになった。
鎌倉の最期

 

千早城攻防戦が膠着状態に陥る以前、幕府軍を背後から牽制する合戦が西国の播磨、伊予、および肥後から起こっていた。播磨の赤松則村は京都の六波羅の軍勢と戦ったが、1332年に護良親王の令旨を受け、翌年正月に挙兵、近辺の武士たちを従えるとともに備中と播磨の境の船坂峠をおさえて西国軍の上洛を遮断した。また閏2月から3月にかけては摂津の西北部一帯で六波羅の軍勢と合戦をくりかえし、3月にはさらに東へ進み、京都の西南、山崎・八幡方面へ拠点を移した。赤松勢は、このときから5月までずっとこの辺りに拠点をおき、たえず京都をおびやかしつづけた。赤松勢が度重なる合戦にやや衰えたころ、山陰道からは千種忠顕の軍勢がせまり、やがて入京したが、この公卿の大将は六波羅軍との合戦に敗北し、丹波まで退却してしまった。とはいえ、忠顕はその後も丹波を根拠にして京都をうかがっていた。こうして六波羅の軍勢は、合戦に勝ち続けながらも次第に不利になっていった。伊予に蜂起した土居通増・得能通綱・怱那重清らの勢力も次第に大きくなり、瀬戸内海に幕府にとって由々しい敵対勢力をつくりあげた。九州では鎮西探題に反感をいだいていた少弐・大友両氏と、肥後の菊池武時が令旨が届いたのを契機として挙兵の密約をかわしたが、探題の北条英時が彼らの挙動を警戒し始めたため、少弐・大友は変心してしまった。武時は自分だけで挙兵したが、敗死。これが九州における北条氏にたいする叛逆の最初であった。鎌倉ではこうした各方面の情勢への対策として、足利尊氏・名越高家の2人にそれぞれの軍勢をひきいて上洛させた。3月末ごろのことである。尊氏はかねてより北条高時に不満をいだいていた上、今度の出陣命令もかれの病気中であったということもあり、いよいよ反感をいだいた。そこで三河の矢矧まで来たとき、かれはいよいよ北条氏に叛旗をひるがえす決心をした。そして、一度京都に入り、丹波へ越え、同国の篠村で挙兵した。そこまで行ったのは、一つには山陰道を進撃するとみせかけるためであり、もう一つには千種忠顕の軍勢と合流して京都を攻めるためであった。5月7日ごろには尊氏の軍勢は六波羅勢と対峙した。この合戦は激烈をきわめたが、六波羅勢はしだいに敗退し、ついに六波羅の城郭にたてこもった。探題の仲時と時益は光厳天皇と後伏見・花園の両上皇を伴い、夜半に六波羅をすてて東へはしった。しかし、山科四宮河原あたりにさしかかると、落人をねらう野伏がひしめき、また夜も明けて近江平野に入って、守山あたりからもまた野伏がひしめいていた。それらの襲撃に多く疵ついた一行は、翌9日、番場で峠がふさがれており、先行きにも希望が持てないことを思い、蓮華寺の前で自刃した。六波羅の軍兵はこうして全滅したのである。1331年、後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、正慶の年号を元弘に復し、光厳天皇の名による官爵をことごとく削り、すべてを光厳天皇の即位以前に戻すという詔を発した。後醍醐天皇は自分が天皇として続いていたというたてまえを押し通したのである。天皇は六波羅の攻略がすべて天皇一身から出たものであるかのように初めからそういう態度をとりつづけていた。これに対し、足利尊氏もまた、六波羅攻めにおいてあたかもかれが天皇からすべて委任された大将軍の地位にあるかのごとくに天下の武士に臨んだのである。そのため、六波羅を攻略したのは赤松則村や千種忠顕をはじめ多数の武士の協力であったにかかわらず、成果はあたかも尊氏一人の号令によるかのような印象を与えた。5月8日、その前夜に六波羅が陥落した日、新田義貞は北条氏を討つ挙兵の旗をかかげた。新田義貞は武家の名門であったが、北条氏の執権のもとでは足利氏よりもさらに冷遇され、世間ではあたかも足利の一支族であるかにさえ軽視されていた。新田義貞が北条氏に叛逆をくわだてるにいたった理由、および足利氏に終始対抗的であった理由はこの点に深くかかわっていた。新田義貞の場合、いわば動乱に乗じて北条氏から覇権を奪取しようというのが主たる目的であった。義貞は利根川をこえて武蔵国に入り、ひたすら鎌倉をめざして南下した。義貞に呼応して関東各地の武士団がぞくぞくと馳せくわわり、軍勢はみるみる大きくなっていった。あいつぐ合戦はいずれも激烈をきわめた。挙兵以来わずか10日で戦局はすでに鎌倉の攻防戦をむかえたのである。幕府は三方へ討手を差し向けた。一方は下道、つぎの一方は武蔵路、もう一方は中道である。諸方へ軍勢が配置され、18日朝からいまを最期の合戦が開始された。21日から22日にかけ、鎌倉の防禦はやぶれ、最期のときがきた。高時が自刃し、150年にわたる鎌倉幕府はこうして滅亡した。
 
南北朝の動乱

 

公武水火の世
後醍醐天皇は1288年(正応元)に生まれた。2度目の蒙古襲来から8年後である。この当時、皇室は持明院統、大覚寺統の二系に分かれて皇位を争っていた。鎌倉幕府の調停により、31歳でようやく皇位についた。後醍後は朝廷と幕府の利害調整のために即位させられた天皇であり、その地位は「一代限り」と通知されていた。そのため、彼の権力に対する執着心は尋常ではなく、最期まで徹底した専制政治・マキャベリズムを展開させることになる。後醍醐天皇は以前からあった貴族間の主張を発展させ、国家権力が天皇に集中するのが理想であると考えていたのである。後醍醐は二度倒幕運動を行うも、いずれも失敗している。後醍醐は隠岐に流されるも、その皇子護良親王は畿内の地でゲリラ戦を続ける。1333年(正慶二)に後醍醐は隠岐を脱出し、また幕将足利高氏の協力も得て、京都の六波羅を倒す。六波羅が倒れたと聞いて、近隣の武士は後醍醐側に次々と付いた。しかしここで後醍醐の予想外のことが起きる。「太平記」によると、高氏は六波羅を倒すと同時に、京都近隣の御家人を次々と吸収し、権力基盤を固めだしたという。護良は高氏の野望を知り、彼を滅ぼすために兵を起こそうとする。後醍後は護良を征夷大将軍に任命する。武家政治を否定したがっていた後醍後にとって、これは苦渋の決断であった。後醍後新政は芳しくなかった。それにはいくつかの原因がある。まずは司法制度の欠如である。万事を天皇の直接採決とする制度では、仕事が間に合うはずがない。また、武士の間での法的慣習の無視や、所領没収方針に対する旧幕府系武士の反発という政策も反発を招くものであった。彼らの不満を代弁できる人間は、六波羅探題の後継者足利高氏ただ一人である。こうして高氏勢力と護良勢力の対立は深まっていき、後醍後はその間で板挟みとなる。後醍後は高氏の動きに合わせて、旧領地回復令と朝敵所領没収令の修正を行う。その内容は適用範囲の縮小であり、すなわち新政の後退である。しかしながら、但し書きで天皇は拘束されないと付け加え、専制体制を維持することは忘れなかった。そのほか、地方分権から中央集権へ遷移させるため、国司制度の改革も後醍後は行った。国司の権限が縮小されたのである。同時期、高氏が武蔵守に任命される。彼は後醍後の名「尊治」の一字を与えられ「尊氏」と改名する。尊氏は武蔵の守護と国司を兼ねて、完全にこの国を握れるようになった。同時期に御家人制度も廃止されたと考えられており、公と武は水火の仲となっていく。護良は後に征夷大将軍を解任され、次第に勢力を失っていく一方、尊氏はますます隆盛を極めていった。
建武の新政

 

1334年(元弘4)、11歳になる恒良親王が皇太子となった。後醍後はその年に「建武」と改元する。幕府を倒して王朝を復興したという偉業を示す意図があったといわれている。後醍後はこの他にも大内裏の造営・造幣を行い。天皇の絶対的地位を天下に知らしめんとしたが、いずれも頓挫している。その原因は、先に述べた旧所領回復令による被害者の反発である。後醍後は適用除外規定を設け、幾分この令の適用範囲を縮小した。誤判再審の範囲も同様に縮小した。建武新政において、裁判の負担は異常なものであった。一つの裁判は提訴から判決まで数年を要し、10年20年かかることもあった。加えて訴訟進行も当事者がやらなければならなかった。これらの原因もあり、萎縮して訴訟を諦めたり、途中で打ち切らざるを得ない事例が多発した。後醍醐の権威は政治的失敗により徐々に失墜していった。事態を挽回しようとして出されたのが徳政令・官社解放令である。鎌倉幕府が1127年(永仁5)に発行した徳政令では将軍の下文(売買確認書)がある場合には徳政令の適用除外になると記載されていた。しかし、今回の徳政令においては、承久の乱以後の下文を持っていても適用除外とならないとされていた。後醍後は承久の乱以後、王朝の政権は北条氏に奪われたと考えていたため、この時期の下文を正当なものではない。徳政令はあくまで後醍醐天皇の権威に基づいて行われる、と強調したかったのである。質主、貸主はこれに対処するために、ありとあらゆる迂回措置を試みた。官社解放令は、諸国の一宮・二宮を荘園領主から解放し、天皇の直接支配下に置く趣旨のものである。後醍後の専制は次々と批判者・反対者を生んだ。彼らの鬱積を解消してくれるものは誰か。「今は」尊氏である。「今は」というのは、他に有力なものが現れたら彼らはそちらに与するであろうという意味だ。後醍後と尊氏の勢力が拮抗していた当時、後醍後はこのような尊氏勢力の弱みを見逃さなかった。後醍後は彼自身の布陣を強化する努力を怠らず、常に巻き返しの機会を狙っていた。護良もまた勢力の挽回を狙っていた。だが、征夷大将軍を解かれ、求心力を失った彼にもう復帰するだけの力は残っていなかった。尊氏暗殺の計画(捏造であるとも言われている)が尊氏側に発覚し、護良は逮捕される。そして尊氏の手で鎌倉へ護送されたのち、禁錮の身となった。翌年直義の手にかかり、非業の最期を遂げる。当時武士の間では、私闘の解決策として加害者の身柄を被害者に引き渡しその処分にゆだねるといった慣習があった。後醍後は尊氏の強い請求に屈して、これを私闘とみなし、慣習法による解決を認めたのである。護良は義経と似ている。すなわち、卓越した武略と忠誠によって肉親に尽くすが、その後は疎んじられて反逆者のレッテルを張られるといった面である。忠才併せ持つ人物はその才により疎んじられ、その忠により滅びるのである。義経と同じく護良を英雄視する見方が死後に生まれ、「太平記」にもそれが反映されている。歴史書はともかく後の世代によって誇張や改変されたりするので、それをもとに忠実に歴史を再現するのは難しい。
新政の挫折

 

後醍醐帝の専制体制、そしてその目標について述べる。建武新政下においては、後醍醐帝によって正当性が独占されていた。しかしそれは必ずしも公家らに受け入れられたわけではなく、北畠親房さえも批判対象としている。また彼の重用した千草忠顕・楠木正成・結城親光・名和長年の孰れもが、鎌倉幕府統治下では決して出世できる人間ではなかった。しかしこれは門閥性を打破するという点で、後醍醐帝の専制政治には欠かせない物であったと言える。八省を独自に掌握するため、官位相当制を打破して上級貴族たちを省の長たる卿に任じ、これらを個人的に把握せんと図っている。当時、官職の多くは一定の貴族によって世襲されるものとなっていた。しかし、後醍醐帝はこの先例をも崩している。だが、このことは官職世襲を行っていた下級貴族の大きな反感を蒙る結果ともなった。しかし、決断所における綸旨の混乱は一向に収まらず、様々な確認手段等が取られることとなる。しかしこれは却って綸旨の効力の減退を誘引することになる。このような状況にあって、地方各地で反乱が勃発している。これは北条氏の旧領で発生していることが多く、北条氏の家人が参加している場合がほとんどであった。一方で地元の豪族もそれに参加している場合が多く、中央の状況を上手く利用している場合もあった。また、足利尊氏に与えられた所領での反乱も発生している。この状況において、北畠顕家は諫奏文を後醍醐帝へと提示している。これは天皇政治の前提として、天皇が貴族の支配者であり、門閥の保護者であることを示しており、彼の貴族的立場をよく示している。しかしこれは後醍醐帝の貴族制解体の政策とは大きく異なっていた。このような後醍醐帝の政策は、宋学のみならず宋朝の制度の影響も大きく受けていたと考えることができる。しかし、官僚層が欠如していること、そして兵農分離がなされていないことから、この政策は非常に難しいものであった。
足利尊氏

 

北条氏の残党である北条時行が信濃で挙兵するとその軍はたちまち鎌倉を攻め落とした。これを中先代の乱と言う。鎌倉を守る足利直義は三河に逃れ、その元に監禁されていた護良親王は殺害された。この三河は足利従来の所領であると同時に、東国と西国の分かれ目である。直義はここで、自らは留まる一方で従っていた成良親王を京都へと返している。これは足利政権の樹立を意味していたとも考えられるだろう。この事件に際し、尊氏は征夷大将軍と総追捕使の称号を後醍醐に要求している。これは尊氏が武家政権を作ろうとしていることの意思表示であるということができるだろう。尊氏は出発までにこの公認を得ることはできなかったが、尊氏東上の知らせを聞くと後醍醐帝はこれを追認している。尊氏は時行を瞬く間に壊滅させると、そのまま直義の勧めに応じて鎌倉に留まっている。ここに尊氏は武家政権の樹立を明示し、後醍醐帝との対決姿勢を明示した。その結果として各地での争乱は一気に拡大してゆく。この争乱で、後醍醐帝は新田義貞を利用している。これは義貞もまた源氏の棟梁、そして武家の棟梁を狙う存在であって、尊氏の対抗馬たりえたからである。また、この時期の尊氏の行動には複雑性が見られる。これは凡そ尊氏に躁の気質があり、また足利家当主の側面と尊氏個人の側面に挟まれたからと解釈することができるだろう。一方で政治的には鎌倉幕府の状況へ戻すという反新政的なスローガンを掲げている。これは基本的に、執権専制以前の守護体制への回帰であるが、一方で執権専制を踏襲せざるを得ない部分もあった。これに対し後醍醐帝側でも、新政に対する不満が噴出している。公家衆の申し入れを受けて建武を改元したことや楠木正成が足利尊氏との講和を提言したことが挙げられる。その結果、遂に京都を陥落せしめられた後醍醐帝は、延暦寺に籠って猶半年の籠城を行う。延暦寺は京の流通を握っており、抵抗は頑強であったが陥落は時間の問題であった。一方、尊氏は新帝を持明院統より擁立し、政権の合法化を図っている。
南北朝の分裂と相克

 

1336年中ごろ、100日に及ぶ後醍醐軍と尊氏軍の攻防の末、凡その勝敗が決し、尊氏は比叡に居る後醍醐の下に講和の使者を送った。後醍醐はこれを受け入れ10月に下山、帰京した。尤も、この講和交渉は後醍醐の独断であり、義貞の家来が、自分の奉じる帝が一人帰京したら我々は逆賊になってしまう、と猛烈な抗議を申し入れている。また、この際の講和の条件が何であったか史料は残されて居ないが、後醍醐・光厳の和睦を建前として後醍醐の面目を保つと共に、大覚寺・持明院両統の迭立の案が出されただろう事は想像でき、実際後醍醐が上皇とされ、尊氏側の光明天皇に神器授受が行われ、後醍醐の皇子成良の立太子があり、尊氏側が両統迭立の約束履行の意思を示している。後醍醐が下山したのち、後醍醐側の者はそれぞれ後醍醐に与する勢力のある伊勢、吉野、紀伊、河内などへ下り、敗走していた義貞も越前で勢力の立て直しを図っていた。各地に勢力を配した後醍醐は下山から僅か2ヶ月ほどで京都を脱出、吉野へ赴いた。一方京都では、軍事を担当する尊氏に対し、弟の直義が政務を担当していたが、彼は後醍醐を「先帝」から「廃帝」と呼び変えた。ちなみに、直義は後醍醐脱出の事を知って直後、これを捜すように指令したが、尊氏の態度は大らかであった。これは前章で述べられた後醍醐と尊氏の性格によるものと思われる。とかく、此処に南朝と北朝が出現した。筆者は、この二つの王朝がどの程度、どの時期まで権力を持ちえたのか、という点を扱うのが本巻の課題であると述べている。北朝は先ず、光明天皇に神器授受が行われた5日後に2項17条からなる建武式目を制定した。この式目では鎌倉幕府全盛期を模範にすべしとしている。また、この式目は普通の法令ではなく、施政者の心構えと当面緊急の施策とを扱った答申書の形式を取っていた。式目に依って京都市中の混乱を治めて京都市民の支持を得んとし、後醍醐のスローガン「延喜・天暦の徳化」を「義時・泰時父子の行状」と共に模範とすることとして、反対派の存在理由を失わせた。また、先程述べたように軍事を尊氏が、弟の直義が政務を担当する二頭制としていたが、前幕府の将軍が武家の棟梁として、北条氏執権が幕府の権力を握っていたことに倣っている。さて、陸奥の北畠軍が本拠地奥州での反乱で足止めをくい、京に進出してこない為、北陸の義貞が足利軍の標的となった。尊氏は若狭の守護に斯波家兼を任じ、義貞の軍勢を攻撃させた。この時の義貞軍の実態は国の土豪である、或いはやはり土地の小土豪が足利軍に与しており、地方の土豪たちが国々の情勢を動かしていた。結局、義貞は1337年金ヶ崎城で敗退、後醍醐から託された彼の皇子は自殺、或いは捕らえられ、義貞も翌年7月戦死した。翌月、この戦勝に合わせ、光明天皇より、かねてから望んでいた征夷大将軍に任命された。また、金ヶ崎城の陥落から5ヵ月後、8月11日にようやく北畠顕家軍が上洛に向け進軍を開始した。下野小山氏との攻防で手間取ったが、小山城攻略から40日余りで美濃に迫った。さらに此処で足利軍を破ったが、北畠軍も痛手を負ったらしく、更に顕家の父親房が武家を嫌うために義貞との合流を諦めて伊勢路をとり、ここで幕府軍に敗北、1338年5月に和泉で戦死した。主力の北畠・新田軍が相次いで敗北した南朝は勢力再建が緊急の課題となった。後醍醐は吉野から方々に指令を下したが、中央集権では情報の伝達がうまく行かなかった。その為、死の直前に顕家が記した諫奏等より、各地方に然るべき人を派遣し、これに軍事民政の両権を与えることとし、顕家の弟顕信に陸奥・関東に於ける将軍の地位を与えた。足利に対抗するために、足利と同じ体制をとらざるを得なくなっていたのである。1338年9月には然るべき人達がそれぞれの地方へ赴いた。そして、後醍醐は翌年8月に後村上天皇に帝位を譲り、翌日吉野で没した。贈名は生前の希望どおり後醍醐となった。
動乱期の社会

 

南朝の武将の多くが死んで、北朝の有利なるかに見えたが、北朝内でも尊氏党、直義党の内訌が発生し、三者鼎立する。この根幹には寝返り・離散集合の激しさがある。当時の武士達の忠誠の義務はその主人一代限り、子の代になれば話は別というものであった。鎌倉の御家人達も鎌倉将軍が廃された以上主従関係はなくなり、誰につくかも自由であったし、1335年の新田足利両軍の激突必死の頃の武士達は、尊氏・義貞の優劣はいかんと見守り、その結果によって去就を決めようとしていた。また、鎌倉の頃から降参人の所領は半分、或いは3分の1没収して許すという慣習があり、後に法制化された。そのため、所領を半分棒に振る覚悟であれば投降できた。これを降参半分の法という。また、これまで一族の分裂というものも頻繁にあったが、これは己が仕える支配階級が分裂した場合、一族が二つに分かれて分裂した支配階級のそれぞれに味方する。したらば、どちらが勝っても家名は存続する。更に13世紀初めからは、敗者の没収地を同族の者に再給付する慣習が成立しており、財産も維持されていた。だが、鎌倉末期-南北朝期にかけて、庶子が惣領を圧倒、自分が惣領になろうとして袂を分かつというケースが増えてきた。鎌倉幕府も惣領が一族を治める体制を利用し、惣領を支配することにより、全国を支配していた。が、惣領に一族の庶子が従わなくなっており、その為に幕府の支配が行き渡らなくなっていた。これらは、財産の分割相続が原因で、嫡子が庶子をに対してなんらかの権力を持つことに対する庶子の反感、そして相続の際、分割された所領を庶子も受け取れるので、独立の足がかりとなっていた。このため発生したのが単独相続で、こうなると庶子は嫡子の家臣という地位に転落していった。また、古来の戦闘ルールを破り、楠木正成が悪党と共に歩兵を用い、ゲリラ的戦法をとっていたが、騎兵の一騎打ちから歩兵が大幅に用いられるようになった。同様にその他の戦闘ルールも変わり始め、戦功確認も首を持って軍忠状(戦果を記し、指揮者の認めをもらう書類。行賞の際の証拠となる)をつかったものから、戦闘中に近くに居るものに取った首を示して戦功を確認してもらうものに変わった。騎馬から歩兵に変わり、失った機動力を補うためである。戦闘の方法も、騎兵の馬を狙って射るようになるし、歩兵の持つ槍が現れる。鎧も軽くなり、斬撃戦中心となる。こうした変化は、武士以外の者が武士になる道を開いた。
直義と師直

 

南北朝の対立は北朝の勝利に終わった。しかし北朝においても新たな内紛と分裂が起こる。この章においては、幕府を代表する足利直義と、尊氏の執事高師直を中心に論じていく。直義は尊氏が政務を譲った時、いったんは辞退しようとしたが、尊氏に強請されて職についてからは仕事に専念した。熱心で論理を好み、自制心があってけれんみのない誠実な人であったらしい。わかる人には信頼されるが、大衆受けはしないタイプである。直義が管轄した政治機関の中で規模が最も大きいものは引付方という裁判所である。官僚には足利一族以外の武士も多く登用した。北条一族の轍を踏まないためであろう。政治は直義と尊氏の二頭制であった。軍事的な危機にあるときは尊氏、政局が安定しているときには直義の意向で人事が決まったので、党派が形成され党派同士の対立が強まった。荘園管理に関しても直義と尊氏はその立場の違いから対立を深めていく。そこに高師直という人物が登場する。師直はかつては尊氏の親衛隊長に過ぎなかったが、尊氏の出世に伴い、一族と共に勢力を強めていく。師直・師泰兄弟は直義とは対照的なタイプの人間であった。彼らは既存の権威を徹底的に蔑視し、古い秩序に一片の価値も認めず、力こそ正義と考えた。北条氏という昔の権威に軽んじられていた彼らは、伝統的権威というものをまるで信頼していなかった。朝廷や幕府の瓦解によりそれは確信となり、伝統的価値観のもとでは反倫理的な言動を彼らは次々と行った。後醍醐然り、尊氏然り、直義然り、外部の環境が彼らの人間性を決定づけたのである。師直・師泰は幕府の首都である京都への外敵を駆除する任務を与えられていた。既存の価値観にとらわれない彼らは、神社・仏閣でさえも必要とあらば次々と焼き討ちにした。仏罰も神罰も天皇も恐れず、ただ目的を達成するためだけの純粋な戦闘行為を彼らは行った。時代が変わればルールも変わる。彼らはいち早く新しいルールを見抜き、実行し、慣習にまで昇華させた。北朝で尊氏と直義の対立が進む中、南朝でも対立の兆しが現れ始めていた。南朝の豪族は、強者の圧力に対していかに自立を保つかということを強く意識していた。ゆえに南朝に勢力が集中することがなく、有力者を中心とした小国がいくつも分立する形に近かった。公卿の北畠親房は王民論、すなわち天皇を尊重してこそ民の繁栄がある、尊重せねば民は滅びるという考えを持って各所の武士を説得しようとする。親房著神皇正統記も武士の説得を目的とした著書といわれている。しかし武士はそれを主従関係の基本と考えない。権威ある王は欲しいが、王に実際に支配されるのは好まないのである。王民論的な古来の風儀は、鎌倉時代のもので、時代が変わった今となっては古びて魅力のないものでもあった。武士の不満は高まっていく。1341年(暦応4)、藤氏一揆が起る。前関白、近衛常忠が藤原氏の子孫と称する関東の豪族小山氏・小田氏らを呼び掛けて一揆を結んだのである。親房の王族支配的考えに反対であった勢力が、有力武士の支配を目指して反親房運動を起こした結果がこの一揆といわれている。藤氏勢力は北朝との講和を望んだ。力を失った親房は幕府軍によって滅ぼされた。
天下三分の形勢

 

幕府への軍事的脅威が遠のくにつれて、文を重んじる直義の声望が上昇した。これに呼応して、師直の声望は失墜する。戦いこそが彼の武名をあげるものである。彼ら一族が南軍討伐の将として派遣された理由の一つとしてそのような背景がある。1348年(貞和4)、河内で激戦が行われた。結果は何軍の惨敗であった。師直と師泰はこの戦いで活躍し、声望を取り戻した。これにより、直義派、師直・尊氏派、南朝という三者で覇権を争うという構図が次第に形成されていく。師直がクーデターを起こし、直義は敗れる。尊氏は両者調停というスタンスで巧みに振る舞い、弟を守ると共に息子を後任に据えるという最大の収益を得た。尊氏の政治手腕が光る。その後、直義は共同執政の約束を破られ、出家させられてしまった。しかし直義は京都をのがれ、態勢を立て直し、諸国に蜂起を呼び掛けて師直を破った。直義は尊氏・師直の両者を出家させる旨の和議を結んだが、帰京途中で上杉能憲によって師直をはじめとした高一族は皆殺しにされる。争ったのは師直と直義であり、尊氏自身には敗軍の将という認識はなかった。尊氏と直義は共同執政という形式をとったが、実際には権力のほとんどは直義が握っていた。その後再び尊氏が反乱を起こし、防衛のために京都を離れて北国に向かった。北陸一体の守護職は直義が固めていたので、北へ向かったのである。このほかにも、直義は九州とのつながりもあった。これに対して尊氏は、東海・四国および山陽の勢力を頼って畿内で勢力を固めた。南朝もまた畿内から京都進出を狙った。直義が北へ向かうと、尊氏は即座に南朝と直義に和平の使者を送った。交渉は共に失敗する。尊氏派その後鎌倉に入り、直義を滅ぼす。しかし直義を中心とした直義党の勢力はこれによってますます強まり、天下三分の情勢はますます激化していく。
京都争奪戦

 

直義と比べ、尊氏は状況主義者であった。思想を曲げない直義に対し、尊氏は直義を討つために南朝と手を組もうと使者を出した。南朝はこれにかこつけて強硬な要請を出した。それに従って、北朝の崇光天皇・皇太子直仁親王は廃され、年号(国家権力のシンボルの意味を持つ)は南朝の正平に統一された。観応2年(1351年)は正平6年と呼び代えられた。南朝は北朝の神器は偽物であるとして、接収すると宣言するとともに、北朝の正当性を否定した。このほかにも、尊氏の元弘没収知回復令を無効として、以前の状態に差し戻そうとするなど混乱を招く政策を打ち出した。義詮はこれを南朝の自専として抗議した。そうこうしているうちに、南朝軍は武力行動を開始する。南朝は京都を軍事支配することを目的とし、北畠親房を中心とした武力行動が各地で始まった。軍事力に乏しかった義詮は、多少不利な条件でも和議をしようという方針であったが、見通しはなかなか明るくならない。南朝が義詮の和議提案を承諾し、さてこれからかというところで今回の京都進軍が起った。義詮は南朝が和議を破ったとして、正平の年号を廃して観応と呼号して諸国の武士に動員令を発した。幕府は観応、南朝は正平、直冬は貞和と、三種の年号が並立する形となった。南朝は八幡に退き、義詮は1カ月足らずで京都を奪回する。八幡に立てこもった南軍は飢餓に苦しんだ。もともと京都は飢饉状態で、農民も兵糧の徴収に激しく抵抗したからである。このような事情もあり、形勢はしだいに幕府軍に傾いた。後の鎌倉攻撃も失敗し、南朝軍は駆逐された。
南朝と九州

 

三度の京都の奪回が失敗に終わり、指導者親房も死亡し、南朝は大きな打撃を受けた。親房の政治思想は旧体制と新体制の中間に存する、折衷的なものであった。幕府の存在は否定せずとも、幕府が朝廷から政権を「奪い取る」ことは否定していた。後醍醐の後に彼が長期に南朝を統一できたのは、この思想、経歴、そして政治能力によるものが大きい。天皇といえども、儒教的な善政を行わなければ衰退する。神器を伝える者は、神器の表す三徳(正直・慈悲・智恵)を備えていなければならない。そして南朝の後村上天皇は神器を持っている。これは逆にいえば、三徳を持った者に神器が収まったといえ、南朝は正統であるということになる。正統なものが人臣を納めるのは当然である、といった論理が南朝のイデオロギーであった。親房の死んだ歳の重月、御村上は河内天野(大阪府)の金剛寺に移る。この地は大覚寺統の経済的基礎をなす八条院領に属し南朝の武力としても最有力視されていた。尊氏の宥和政策も影響し、1355年(文和4)から3年余りは南朝に平和が訪れた。しかし、1358年(延文3)、尊氏が病死してからは自体は一変する。義詮は関東から大軍を西上させて、南朝を攻めんとする。しかしここで義詮は伊勢の守護で幕府の最有力者の一人であった仁木にとらえられ、状況は一変し南朝に有利となる。南朝は上京し、一時的に南朝年号が復活するが、20日後には義詮が京都を奪回する。1336年(延元元)、後醍醐は尊氏の和平申し入れに応じて叡山を下るに先立ち、王子懐良親王を九州に下した。その時懐良は征西大将軍の称号を与えられたが、僅か8歳であったため、従者の筆頭の五条頼元が筆頭として動いた。懐良一行は肥後の菊池氏・阿蘇氏を頼ろうとした。余談であるが、菊池家の置き文(家の掟)には血判が押されており、これが史料で最古の血判であるという。血判には呪詛的効果があると考えられていた。呪詛にまで頼らないといけないほど人が信用できなくなった時代となったことの傍証であろう。南朝は東方勢力を失うにつれて、地方経営に重点を置いて生き残ろうとする。点加算分の形勢となって、直冬が九州・中国に勢力をふるうようになると、瀬戸内海上権の争いはますます激しさを増した。九州には鎌倉幕府創業以来の有力な守護が三人存在し、いずれも中央で敗れた尊氏を迎え入れて再起させたという大功がある。尊氏に対する発言力は並大抵ではない。彼らは国土の加増と独立軍事権を尊氏に要求した。尊氏はこれを一部受け入れ、幕府の九州に対する支配力は弱まってしまう。九州は大宰府という機関が官庁があり、平安時代には九州全体を統轄し、外交・貿易・対外防衛を行ってきた。鎌倉になると頼朝が武士を派遣して大宰府の上に付け、大宰府の権限は縮小する。南北朝時代になると、幕府の権威も不安定であったので、それに伴って九州の権力図も目まぐるしく入れ替わった。
苦闘する幕府政治

 

1355年、幕府は京都奪回に成功した。三度目のことである。三分の形勢は継続しつつも、趨勢は幕府へと向かっていた。元々三勢力は諸国の利害関係を代表していた。幕府が勝利したと言っても、イコール社会の安定とはならない。幕府の苦闘が始まる。南軍および直冬党の京都侵入を三度も許したとあり、義詮の権威は失墜していた。そのため各地の守護は将軍の権威を無視して従わぬことがたびたびあった。これとならんで、荘園領主の権利回復要求も幕府を苦慮させた。幕府が混迷していると見るや、彼らは強訴を用いて強硬に要求を突き付けた。荘園領主は守護としばしば利害を対立させ、幕府は彼らの間で板挟みとなった。このころ九州では、懐良親王が1355年(文和4)に博多に入る。南九州では依然として南軍が幅を利かせていたので、僅かな足利軍はしきりに京都へ使者を送って将軍の助けを請うた。北陸においては、孫子を敵視する越中の桃井、直義が股肱と頼った越後の上杉が健在であった。関東では新田一族の反幕活動が絶えず、これらの勢力は幕府の頭痛の種となった。幕府において、統治は義詮が担当し、重要な部分は背後で尊氏が指示を与えた。これにより幕府の構造的問題である二元制は一応の解決がされた。幕府は所領裁判機関である引付の規模を縮小して、義詮の親戚をそこに参与させ、義詮の裁判権を形式的なものから実質的なものに変えた。これにより裁判は簡単になり、迅速に処理されるようになった。複雑な裁判は当事者双方を利さない。この簡易裁判は、将軍権力の確立とともに、荘園領主を保護する実効性もあった。また半済立法という法令も発布し、半済を限定的に認めた。半済は元々戦乱期に生まれたものであったが、決定的な勢力を持てない幕府はこれを認めるという苦渋の決断をした。幕府はまた、降伏すれば本領は返付するとの条件を提示し、南朝党と直冬党に降伏を促した。翌1356年(延文元)、直冬党の最有力者である越前の斯波が帰参し、この政策の最大の効果となった。尊氏は南朝党・直冬党に対して、従前通りの宥和策で臨んだ。1358年(延文3)、尊氏は島津の請援に答えるべく九州進出を決意するも、果たせぬまま4月30日に54年の生を終えた。尊氏の後は予定通り義詮が将軍職を継いだ。ブレーンの賢俊、ライバルの文観も同時期に死に、そして義詮の子である義満が生まれる。老人は死に、新しい世代に歴史が受け継がれていく。尊氏の死後、各地の有力守護が再び台頭し始める。義詮はこれに対して、武力で鎮圧するという強硬策を採る。尊氏の宥和政策とは対照的である。1362年(貞治元)になると、ようやく幕府に安定が見えてきた。斯波氏を執事に任命して将軍の家来とするとともに、その地位を拡大させた。地位・権限が高まった執事の職は、管領という職称で呼ばれるようになる。斯波氏に権力を与えつつ、民衆には譜代の家来と化したことを示すというこの政策は、幕府の安定に大きく寄与した。この翌1363年(貞治2)、山陽の大内・山陰の山名を帰服させることに成功する。実際にはこれは降伏というより対等な条件での和睦という側面が強かったが、ともかく統一への一歩となったことは間違いない。義詮と斯波の関係は1365年(貞治5)終わりを告げる。義詮がひそかに呼んだ近江の守護佐々木氏が挙兵して入京したのである。斯波誅伐のふれが直ぐに在京の諸将に向かって出され、斯波には京都からの退去命令が同時に発せられた。去らねば討つということである。斯波高経は家来を連れて一族家来を率いて将軍邸に近い三条高倉の邸宅に火を放ち越前に下った。義詮はこの事実を報じて、近国の守護を討手として越前に差し向けた。斯波の突然の没落は、幕府財政回復のための所領没収による恨みが根源的な原因と言われている。斯波が失脚すると、斯波の政策により被害を受けてきた者が次々と幕府の要職に登用された。
守護の領国

 

鎌倉幕府における守護は、軍事指揮者のほかに地方官吏としての性格を要求されており、室町幕府もこの方針を継承した。守護が領国体制を確立するには、任国内の地頭・御家人層を自分の組織に繰り込む必要があった。また彼らの抵抗も強かった。守護・地頭・御家人はいずれも幕臣という立場であったから、いずれか一つに他の二つが従うという理には納得ができないのである。諸国に散在する所領を保障できるのはあくまで幕府であったため、地頭・御家人は守護でなく幕府に付こうとした。この他にも、一揆を形成して幕府からの独立性を保つといった方策も盛んに採られた。ここで言う一揆は武士間の同盟である。分家に次ぐ分家を重ね、勢力が弱まった武士が再び力を取り戻すために結成された共同体である。惣領からの独立といった観点もあった。彼らは契約書を交わして同盟の掟とした。いずれも平等に一致団結するという観点から、傘連判状なる署名方式が採られた。このような中、守護に付く者も現れ始める。しかしながら、この結びつきは排他的なものではなく、守護に付きながら幕府にも付くと言ったことが多かった。守護は主従関係を解消されないように、常に警戒をしておく必要があった。地頭・御家人を臣下にするのが難しいならば、と守護たちは荘官・名主層獲得を目指し始めた。彼らは荘園領主からの支配を抜けだそうと、活発な活動を行っていた。この場合も、荘官・名主は荘園領主と守護の両方に主従関係を結ぶことが多かった。守護は軍事的必要性に応じて、荘官・名主を動員して軍事力として使用した。守護の権威は家来である武士の動向に強く依存していた。命令を遂行してもらうためには暴力が必要で、その暴力を実行するのは武士だからである。政情が安定しないこの時代において、武士たちの機嫌を損ねないことは必要不可欠であった。そのうち、武士は守護の相続問題、政治的意思決定にまで影響力を持つようになった。守護は既存の体制を否定するほどの力を持てなかった。既存の体制に寄生して、徐々にその権威を奪取して力を強めていく、という方法で国の支配体制を作り上げていった。非力な中下級貴族や小社寺は、守護や近隣武士の相次ぐ侵略に苦しまされた。
名主と庄民
守護は、はじめは軍事・警察に関する権限を中央からもらって派遣されたのだが、次第に被官層を形成し、任国を領国化するに至った。荘園もこれに応じて支配されたのだが、では荘園内部での権力関係はどう変わっていったのだろうか。鎌倉時代以降、荘園は基本となるいくつかの名を中心として成立していた。名は支配の単位である。ある名に割り当てられた田畑は、その保有者および権利者の名が付けられている。保有者および権利者は名主(みょうしゅ)と呼ばれ、年貢その他の負担は名主の責任で行われた。荘園領主が掌握する必要があったのはこの名主である。領主が名主を自身の都合に応じて代えることはたびたび行われた。名主職は領主の御恩で供与されるものであった。この時期は訴訟が頻発し、訴訟進行も証明が偽造文書で行われるなど不法な面が多く、名主の地位は安定しなかった。こうした状況が、南北朝内乱の社会的基礎をなしていた。南北朝の後期になると、名主は相続による安定職になっていく。荘民たちが荘園領主からある程度独立的地位を獲得したことが深く関係している。鎌倉後期に名が分裂し、その勢力を復興するために一揆が形成されていった過程で、荘民たちは荘園領主より荘民同士で自立する道を選んだ。そうなると各荘民に自立心が芽生え、そのトップである名主の地位も安定するという塩梅である。彼らは団結して請願し、年貢の軽減や代官改替を訴えた。この試みは恒常化され、領主もついに一揆という自治単位を承認するを得ない状況となった。この動きはさらに発展して、年貢の損免要求にまでなった。荘園を超えて、各地の農民たちが相互協力して幕府を含めた国家権力への反乱にまで成長した。領主の選択肢は二つ。荘民たちの要求を聞き入れるか、それとも武力で制圧するか。領主自体の武力は乏しい。そうであれば、軍事力・警察権力を持った者に頼らねばならない。そのような存在で、身近にいるものは誰か。守護である。
室町殿

 

義満の輔佐として政権を握った管領・細川頼之は、就任すると早速半済令を出している。しかしこれはむしろ寺社本所保護の側面の強いものであった。これは、頼之が旧仏教を保護し、一方でこれと対立する禅宗には統制を加えていたからである。また南朝との講和にも取り組んでいる。これは南朝側で強硬派・長慶天皇が即位したことによって挫折を余儀なくされ、楠木正儀の北朝転向のきっかけとなった。九州探題も、渋川義行から今川了俊へと代わった。それは義行が九州に入ることすらできなかったからという理由からである。しかし同時に、これは斯波派である渋川氏の排斥という側面も持っている。頼之は、前管領である斯波義将に対抗する反斯波派の長として行動していたのである。しかしその一方で、斯波派の反幕への転向を防ぐため、南朝への攻撃を行わせてその動きを潰している。しかし、所詮は管領も守護勢力と荘園領主勢力との均衡に立つものであり、それが変化すれば容易に失脚する。頼之もまた、守護の勢力均衡が崩れたことによって失脚を余儀なくされた。義満は、この守護の二大勢力――細川と斯波――の調停役として君臨するようになる。だがその性格は「弱きをくじき強きを助く」というものであったということができるだろう。また直轄軍の強化を行っており、そのための管領からの権限剥奪や、直轄領の増加などの政策を行っている。義満は諸機関を分割・統制し、そのことで絶対権限を確立したのである。守護の圧迫、勢力漸減にも義満は力を入れている。各地へ直々に訪れる一方、一族対立を利用し、土岐氏・山名氏といった大守護を壊滅へ追いやっている。
王朝の没落
幕府は北朝を擁立し傀儡としてはいたが、北朝はまだ大きな権限を握っていた。彼らは荘園領主の長として独自の政治を行うことが可能だったのである。しかし半済令や武士の押領によって、北朝の権限は次第に失われることになる。荘園からの収入が激減したため、北朝は京都の営業税のみを財源とすることになる。当時の京都は、物資の集積地として大きな役割を果たしていた。貨幣経済は地方にも浸透しており、生産する地方と消費する京都が、座を組む商人たちによって接続され、その媒介として銭貨が利用されたのである。この財政諸策を行うのが、検非違使庁であった。これは元来警察裁判権を握る庁であったが、その座を次第に幕府が担うようになると、行政権を行う庁へと変貌することになる。また、叡山も京都の中で非常に大きな権力を持っており、座の多くを握っていた。その叡山と使庁からも幕府は次第に権限を奪うことになる。義満時代になると行政裁判権をも奪っている。また南朝との和睦にも踏み切っている。これは一つに、守護が反乱する際の大義名分を消す目的があり、また北朝の権威を絶対化するという目的があった。そうすることで、義満自身の権威をも高めることができるのだ。この合一は、南朝をも敬するという建前であったが現実では、南朝の権威は殆ど消し去られたものであり、以後もささやかな抵抗を南朝残党は続けてゆくことになる。
日本国王

 

義満は1394年、征夷大将軍を辞すと同時に太政大臣となった。まもなく太政大臣を辞し、出家するとほぼ同時に、今川了俊を九州探題から解任している。これらは王権を接収する義満の事業が完成に近付いていることを示している。太政大臣になることによって、義満は王朝権力をも左右しうる地位を得たということになる。また出家することで、世俗の身分を超越する立場へ登り、そのことで家格の壁を取り払った。また、九州探題を解任し、明との通交権も握った。九州は最後まで南朝が抵抗を行った地域である。了俊はこの中で、豪族の切り崩しを図って南朝勢力の弱体化に成功している。しかし少弐冬資を刺殺したことは、三守護(大友・少弐・島津)の反探題意識を爆発させ、島津と南朝との二面作戦を取ることになってしまっていた。彼は将軍が絶対権限であり、その代官である自らもまた国人を指揮する権限がある、という論理から国人を説得にかかっているが、それは自らの手で国人を掌握するためであると言える。そのような状況ではありながら、了俊は南朝勢力をほとんど壊滅させることに成功している。しかしそれと同時に今川了俊は解任されることとなった。これは、上記の論理を通じて了俊が私的国人支配を強めていたこと、了俊が島津ら守護の抵抗を排除し九州を統一するのが困難だったこと、了俊が明との通行を握りつつあったことに由来するだろう。当時、明や朝鮮では倭寇が跋扈していたが、これは九州の南朝側諸勢力によって行われるものもあった。了俊はこれを取り締まり、対外的な立場を向上させていた。しかし明に関して言えば、日本の明服従を明らかにしなければ通交は叶わず、その権限があるのは義満一人といえた。そして明服従を飲むことで、九州統一も叶うといえる。そのための一つの障害である了俊を排除した義満だが、排除すべき相手はもう一人存在していた。それが大内氏である。大内義弘は大きな権力を九州に持つ一方、山名敗亡後唯一の、有力外様守護であった。そのため、義満はこれを徴発して反乱させた上でこれを討伐した。こうして障害を排除すると、義満は永楽帝へ使者を派遣して日本国王の称号を得ている。そのことで義満は外権力たる明から日本の主権者たることの権威を得、また明との交易を握ることで経済をも完全に掌握した。1408年、義満は危篤に陥り、俄にその生涯を終えた。これに対して、朝廷から"太上法皇"の地位を奉られたが、嫡子の将軍・義持はこれを拒否している。この際、義満は後継を決定しておらず、周囲の人々の推薦によって義満と正式に決定されている。この時代、守護や国人の後継を選ぶのは、家内の有力者であった。有力者に支持されるかどうかが最も大きな後継決定要因であったのである。これは惣領制解体によって血縁者による結合が期待できず、家内有力者の協力が必須となっていたからである。幕府もまたこのような状況にあると言う点で、義満の将軍絶対化もまた限界があったといえるだろう。つまり、国家権力の被支配者集団内部への浸透は、非支配集団の政治参加と相関関係にあったといえる。このありかたこそが室町幕府の特質であるといえる。前者は後醍醐帝の新政より始まっており、これは被支配者の抵抗によって解体された。前者と後者がともに成し遂げられるには、丁度70年ほどがかかったといえる。この動きは処々の武士たちの自衛行動によって起因するものであるといえ、この体制構築の為に長い争乱があったといえる。このような観点に立つと、義満による体制完成は既に次代への出発であると言えよう。この体制をもまた、新たな勢力によって打ち崩されてゆくのである。
 
下剋上の時代

 

農民が守護方を攻撃するという、史上類を見ない支配体制の揺らぎを見せた室町という時代の終期を以下に述べる。この時代は国家的英雄は不在であり、無名の民衆的な英雄が数多く奮起した。民衆が切り開いた新たな歴史を知るためには、彼らの行動の意義と軌跡を子細に追うことが肝要である。
鎌倉の緊張
1415年(応永22)、公方持氏は常陸小田氏の一族、越幡六郎の所領を没収した。六郎の罪は大したことがなかったので、管領上杉氏憲(のちに出家して禅秀)はこれを止めようとしたが、18であった持氏は言い出したら聞かなかった。禅秀はこれに憤慨して職を辞し、持氏は禅秀のライバルであった上杉憲基をその代わりに任命した。この2人は元は同族だが、分家が原因の勢力争いをしていた。この事件により両派の対立は決定的となり、金国の武士たちが禅秀と憲基の邸宅に集まり鎌倉は震撼する。持氏の宥和策によって事態は一応の収束を見た。義嗣は京都にて禅秀の辞任を聞いて喜んだ。もともと義満の寵愛を受けていた義嗣は、自分を差し置いて将軍となった義持に反旗を翻そうとしていたからである。彼はさっそく禅秀を誘うと、禅秀はこれを快諾し、さらに足利満隆も誘った。満隆は謀叛の噂を以前立てられており、常々から疎外され続けてきた。禅秀の唆しもあり、満隆はこの誘いを受け入れた。東国は謀叛の空気で溢れていた。さまざまな勢力が幕府に不満を感じ、虎視眈々とその時を待っていた。禅秀は病気と称して準備を整え、1年後公方持氏を強襲する。持氏は仰天するも、何とか憲基邸に逃れた。持氏・憲基方は奮闘するも、結局敗れて小田原に逃れた。禅秀はまず鎌倉の実権を掌中に握り、次いで持氏与党の討伐兵を出した。一方京都の義嗣は、もともと幕府から見放されていたために何らの賛同者も得ることができず、みずから髻を切って遁世(仏門に逃れること)を装った。幕府はここにいたりことの重大性を認識し、義嗣を幽閉するとともに東国の武将たちを禅秀討伐のために出兵させた。禅秀は敗れ、一族共に鎌倉で自害した。禅秀が蜂起してからわずか3カ月のことであった。いったん失われた公方の権威は、すぐには回復しない。南北朝内乱期ごろから次々と形成された一揆も権威を脅かしていた。彼らは地域的な集団を形成し、既存の惣領制が崩れていった。このころの農村武士=国人は、反権力的な農民に悩まされていた。農民と荘園領主・豪族の間に位置する中間層である国人にとって、彼らがどう動くかは重要である。反権力の矛先を荘園領主や豪族に向けるために、国人たちは血縁にとらわれずに平等な立場として互いに団結した。この一揆は生き延びるために、無節操なまでに柔軟にふるまった。持氏は第二、第三の禅秀の乱を起こさぬために、残党を徹底的に追討した。しかしこれが逆効果で、追討に励めば励むほど叛乱者は増加した。京都の将軍と鎌倉の公方は長らく対立していたこともあり、京都と鎌倉は一触即発の状況に陥った。蓋を開けてみれば持氏の惨敗であった。敵を打倒することしか知らなかった者が、ここに来て初めて屈辱を味わった。持氏は京都に忠誠の誓書をささげた。これで落着とはいかなかった。この騒動から1年たたずのうちに、義持の子義量が19の若さで早世した。義量は将軍職を引き継いではいたが、実権は義持が握っており、また遺言を残さなかったので、後継者の問題が発生した。義持自身もこれから2年足らず、1428年(正長元)に43で死に、後継者問題は幕府の首脳陣の衆議によって定められることとなった。義持自身も皆で話し合って決めてほしい、と遺言していた。これといった後継者候補がおらず、また誰を推しても後々不満により混乱が起きることが予期されていたので、籤にて将軍が決められることとなった。最初で最後の「籤将軍」足利義教の誕生である。籤は物事が決まらぬときに、神頼みで決める方法として当時流行っていた。持氏はこれに怒り、ただちに出兵を試みた。上杉憲実(憲基の子)に諌止されたので、伊勢の北畠満雅をけしかけて出兵させるも、すぐに幕府に鎮圧され満雅は殺された。幕府はこの事件により警戒態勢を強め、持氏も中央から自立の意思を表明し、両社は決定的に対立した。1435年(永享7)に入ると情勢が動き出した。穏健派であった憲実の意見は聞き入れられず、持氏は足利満貞、佐竹義憲、那須氏資などを次々と討たせた。憲実は持氏と対立を深め、ついに幕府側に寝返った。幕府は幕府で、慎重派であった三宝院満済、山名時熙が死亡し、義教を制止するものがいなくなってしまった。義教は天皇に持氏追討の綸旨を出させて名分を整え、25000の兵を出陣させた。もともと十分な直属軍隊を持っておらず、対立する勢力を煽って武威を振るってきた持氏はもはや袋のねずみ当然であった。頼りの憲実も今は敵として攻めてくる。追いつめられた持氏は行動を共にした30余人とともに自害した。1439年(永享11)、持氏42歳の時だった。持氏が死した後も、彼に与した勢力が各地に残存していた。これは禅秀の時と似た構図である。1440年(永享12)、下総の結城氏朝は持氏の遺子安王丸・春王丸を奉じて挙兵する。彼らはまだ12、3歳の少年であった。当時多くの家で惣領制が崩れ始め、惣領が庶子を統制できなくなり、相続争いや所領争いが頻発した。庶子たちがそれぞれ独立を図り、その下の武士たちが己の立場を有利にするために争いに油を注いだ。今回の争いにおいて、彼らの一方が幕府方につけば、もう一方は結城方につくという、南北朝内乱の宮方と武家方に似た様相を呈していた。中央の分裂は地方の分裂を呼び、もはや収拾のつかない混沌を形成していた。結城方は籠城するが、ついに食料が途絶え、1441年(嘉吉元)城は落ちて春王・安王は殺害される。この乱を治めた憲実は、関東の実権を完全に握るに至る。憲実は当初持氏を支持したが、のちに寝返りその遺子にまで手をかけ、関東を掌握した。持氏の死後、責任を感じて切腹をしようとした逸話や、晩年僧体となって諸国をめぐった事実から、当時から彼に対しては時代に翻弄された被害者という同情論が多かった。しかしながら、あらゆる武士が自己の利害のために奔放に振る舞ったこの動乱期に、憲実だけが主従道徳にとらわれていた道場に足る人物と断定してよいものだろうか。
将軍殺害

 

幕府発足時から、足利の一族または密接に結びついた者は中央の京都に集中しており、九州や東国の支配は二次的なものに過ぎなかった。ゆえに、東国の一連の動乱に対して、守護大名たちはおおむね消極的な態度をとったし、関東の公方も独走したのである。永享の乱から結城合戦の流れにより、辺境の問題が中央にとって深刻な影響をもたらすということが証明された。そして東国動乱が収まったその矢先に、将軍その人が殺害されるという嘉吉の乱が起こる。1441年(嘉吉元)、京都の赤松美津介邸において、将軍義教が結城合戦の勝利を祝う宴を楽しんでいた。この宴には、将軍に供奉した大名である細川・畠山・山名・大内・京極らの諸大名も参加していた。宴もたけなわであったその時、後方の障子が手荒く引き開けられ、武士数人が将軍に斬りかかった。将軍義教のあっけない最期であった。細川はからくも脱出したが、それ以外の大名は重軽傷を負った。首謀者である赤松満祐は、すぐに諸大名の軍勢が邸宅に押し寄せ己を捕えると予期していた。ところが意外にも討手が来ないまま夜になった。赤松は考えを変え、徹底抗戦することにして、邸宅に火をつけて自分の領国播磨へと下った。幕府は混乱していた。事件の翌々日にようやく会議が開かれ、義教の遺子でわずか8歳の千也茶丸(義勝)を後継に立て、赤松討伐の軍略を練った。しかしながら、将軍の死亡により政局がどのように展開するのか不明であったので、なかなか行動を起こすことができなかった。満祐は本国播磨に帰ると、足利直冬の孫義尊を迎えてこれを奉じ、京都への反旗を示した。叛逆者が旧主の縁故者を奉じて謀叛の大義名分とすることは、南北朝内乱以降しばしばみられるやり方だった。赤松追討軍がようやく山名持豊(のちに出家して宗全、西軍の諸将からは赤入道と呼ばれる)の軍勢を中心に編成されることとなった。山名は明徳の乱で赤松に所領を奪われていたので、絶好の報復の機会として進んでこの役を受けた。地方の国人も恩賞の好機として次々に追討軍に参与し、逆に満祐は国人の支持を失った。満祐は弟義雅とともに自殺し、脱出した嫡子教康も伊勢で捕えられ殺された。戦局の鍵を握る国人たちが、いち早く満祐を見限ったことにより、乱はあっけなく収束した。義教が殺害された原因は、彼の恐怖政治にあった。大名家の相続問題に対する干渉、出仕の停止、所領召上げ、理由のはっきりしない誅伐など、守護大名にありとあらゆる圧迫を加えた。公家衆・女房・僧侶・庶民にも激しい圧政を展開し、「万人恐怖」とささやかれた。義教は籤で決まった将軍とはいえ、決して傀儡ではなく、相当な権力をもっていた。確かに室町幕府は守護大名の連合政権的な側面もあるが、将軍には守護大名と全く違った独自の権能と、それを支える軍事力・経済力が依然として存在していたのである。守護大名は自身の力だけでは領国を収めることができなかったので、幕府の権威を当てにするために京都に積極的に身を置いた。この激動期に、国人や農民も勢力を伸ばし始めていたので、守護の権威だけではいかんともしがたくなっていた。これは将軍と守護の関係に似ている。将軍は守護に見放されればやっていけないし、守護は国人に見放されればやっていけないのである。地方政治の中心は彼ら国人にあった。この時代の主従関係は江戸時代のそれと異なり非常に緩いものであり、いつ謀叛が起こるかわからない不安定さを伴っていた。主従関係は法的制度ではなく、人的信頼関係に依拠する面が多かった。それは義教のような専制政治も可能にするが、そのツケが即座に跳ね返ってくることも意味していた。義教暗殺はこのような社会的事情の元に起こったのである。
土一揆の蜂起

 

永享・嘉吉の乱と並行して幕府の屋台骨を揺るがしたものに土一揆があった。その中で特に社会的に影響力が強く、幕府にも恐れられたのが1428年(正長元)の土一揆であった。この年は義教が将軍に就き、持氏の謀叛が露呈、そして飢饉と悪疫が流行し、社会不安・政治不信が頂点に達していた。土一揆はこのような社会情勢の中蜂起された。農民たちは年利6-7割2分という高利に苦しんでおり、徳政を認めろと言ってほうぼうの借金先を襲って証文を奪い取り焼き捨てた。一揆は幕府・寺院の一体的行動によってたちまち弾圧を加えられるが、それに屈せずして各地に波及していく。酒屋・土倉は次々と襲われた。京都では幕府が徳政を禁ずる法令までわざわざ発布された。奈良では独自に徳政令が出された。この正長の大一揆ときわめて密接な関係を持ったのが播磨の大一揆である。これは正長の大一揆の翌年、1429年(永享元)に起こった。この一揆は徳政要求というよりも、国人・農民の連携により守護赤松満祐の軍隊の国外退去を求めるというものであった。守護側の侍は惨憺たる敗北を喫した。土一揆は政争を左右するまでのものとなっていた。さらに正長の土一揆から10年後、1441年(嘉吉元)、将軍義教の死に伴い一揆が起こった。この一揆は規模・組織・成果という点で圧倒的な大きさをもった。正長の一揆のように地域的広がりは見せず、全勢力が京都に集中した。一揆は京都のあらゆる出口を固めて、京都をあまねく包囲した。一揆は土倉・酒屋を襲い、幕府軍と戦った。この一揆は村々の地侍たちが指揮をとり、組織的な戦術がとられていた。計画性もあり、土民だけでなく公家・武家にも適用される「一国平均」の徳政令発布を求めて譲らなかった。幕府側は腐敗しきっており、足並みがそろわなかったので、自体は泥沼の混乱を極めた。蜂起から半年、幕府はついに「一国平均」の徳政令を発布した。土倉・酒屋・寺院など高利貸を営んでいた人々は大きな打撃を受けた。また彼らからの納銭を財源としていた幕府も打撃を受けた。重税に苦しむ農民は、そのまま朽ちるか逃走するかのどちらかであった。このように闘争によって免税を勝ち取ろうとした運動が全国的に起こった時代は、鎌倉以前も江戸以降も存在しない。高利貸がはびこり、農民運動が多発した中世だからこそ起こりえたのである。
自検断の村々

 

この時代の荘園は、まとまった土地を一人の領主が管理するという形態とは限らなかった。空間的に分散した土地の管理区分として、何某荘という名称がつけられた。このような荘園は、後世の土地整理によって名称が喪失してしまう。逆にまとまった区画につけられた名称は、そのまま何某村などという形で現在も残っている。分散した土地というのは農民にとって耕作効率が悪い。荘園の土地区画というのはあくまで年貢徴収の区分を示すものでしかなく、実際の耕作は近隣の村人が現状に応じて行っていた。このため一人の農民がたくさんの荘園の耕地を耕すことがしばしば行われ、「諸方兼作の百姓」と呼んだ。その他、「惣」という、領主から独立の動きを示した荘園も存在する。すべての百姓が団結して「惣百姓」となる。守護を受け入れず、自ら検断を行った。検断とは裁判権や警察権のことである。ここでは守護は年貢を納める対象でしかない。ヨーロッパの封建主義と大きく異なる点である。自検断の状態に至るまでには、血塗られた戦いの歴史があった。荘民が実力交渉のために領主を殺害することもあり、「下剋上の至り、常篇を絶つ」と常識外れの行動とまで言われた。当初は軽犯罪など、処分が簡単にするものだけであったが、徐々に権限が拡大した。不在領主が多かった事実も、この流れを促進した。惣や自検断は、特定の条件の元で領主支配の空きを埋めるものとして急速に発生した。室町時代という、中央が地方を十分に治められず、また地方も住民を十分に支配できていなかった混乱の時代が、荘園を超えたこれら地域的自治組織の発生の温床となった。惣においては、領主支配と関係のない独自の掟が作られた。寄合が重要視され、二度通知されても出席しないものには罰金を科した。これ以外にも、個人の森林財産を侵害する罰など、自主的な規則が定された。村民たちが自治をする際に、灌漑の問題があった。用水の権利をめぐって、村々は対立し、しばしば血みどろの抗争が行われた。その上、守護や幕府に干渉されることもあった。これらの試練が村人たちを鍛え、その結束力を強める結果となった。その他、山野利用をめぐった争いも生じた。生の木の芽や草、また焼いた木草を肥料として使うことが盛んになったからである。この闘争の中、稲作りも農民自身の手で次第に向上された。二毛作・三毛作の発展、灌漑・排水技術、肥培技術が進歩し、この時代の農業の質的発展を支えた。農地経営の集約化と安定化により農業が効率化し、平安・鎌倉時代より農業は着実な進歩を見せた。支配が領主から離れ、現場の農民自身の手によって山と水が管理された結果である。従来は荘園領主や地頭などの夫役や重い年貢により、小規模な労働力では生活を維持できなかったので、弱者は強者に隷従して保護を受ける必要があった。だが、室町時代になると、これまで説明した通りの流れによってようやく小農経営が可能となる。このような農場では、名主が大経営主であることはほとんどなかった。この他、「侍分」「侍名字」などという、村の領主になりあがろうとした小農経営者身分も登場した。彼らは下人を抱え、荘園領主に対するしばしば実力を伴った年貢減免交渉を代表し、また自身は年貢を滞納した。彼らは名主同様に姓を名乗った。上級領主に対抗するためには農民と一揆を形成する必要があったので、侍名字と農民の利害は一致し、惣や一揆を形成した。では守護はどうだったであろうか。守護が幕府で力を張るためには、京都の地元の国人・有力百姓を自己に取り入れることが必須である。細川や畠山のような大名は、争って村々の国人・有力百姓に手を差し伸べ、自己の被官にしようとした。彼らは彼らで、自身が村の領主になりあがることが目的だから、「二君に仕えず」式の武家道徳など存在しない。ある時は土一揆に与し、別のときは忠実な荘官として振る舞い、時には細川に仕え、時には畠山に仕えるといった縦横無尽自由奔放の有様であった。既存の秩序や価値にとらわれない国人領主の振る舞いは南北朝動乱の時代にすでにあらわれていたが、この時代になるとそれが村の侍名字にまで広がっていった。
有徳人の活躍

 

農業の発展は、商業や手工業の世界にもかつてないほどの活気をもたらした。1463年(寛正4)、将軍義政が奈良に出かけたときに、その費用を賄うための「有徳銭」を徴収した。有徳銭とは有徳人にかけられる臨時税であり、有徳人とは富裕な金持ちのことである。有徳銭が徴収されることは鎌倉末期からしばしば行われており、室町においては土倉や酒屋など金貸しを行っていた富裕層に巨額の有徳銭をかけていた。有徳人は有徳銭を差し引いても余りある富を所有しており、土一揆の対象としてしばしばやり玉にあがった。有徳人は室町時代、幕府や守護大名を支える経済的基盤となった。平安時代から鎌倉初期までは、富豪は米・味噌・酒、糸・綿・織物、鍛冶・鋳物など全てを下人や奴婢を使って自給自足しており、またそれが理想とされた。しかし室町時代の富豪は、単に貨幣規模の大小によってランク付けされており、だからこそ土倉や酒屋などの金融業者が有徳人の代表格になるのである。幕府は土倉・酒屋業者を、政所の下の納銭方という組織に組み入れた。そして財政事務を全面的に任せ、土倉・酒屋業界から税金を徴収させて幕府の経常収入に加えた。納銭方は幕府の財布を握っていた。このほか、酒税も幕府の大きな財源となった。鎌倉時代の酒の売買禁止方針から百八十度転換し、酒屋を保護して沽酒(酒を売ること)を奨励した。もともと荘園領主が集まる土地であるから、酒米の確保にもこと足らなかった。酒の元になる酒麹の製造・販売の特権は北野神社が握った。三条・七条(京都の地名)の二つの米場の権利を持っていた4府駕輿丁座は、上京を中心に散在し、薬・唐物・白布・綿・酒・味噌・素麺・麩・材木・炭・紙折敷・銅・馬・茜・紺など多数の商品を扱った。祇園の八坂神社にも多くの座が所属した。これは下京を中心とする商人群であり、綿・小袖・絹・袴腰・材木・今宮魚・柑があった。神供米を定期的に奉納し、代わりにその土地での営業権を独占するという形態である。商品は板で作った棚の上に展示された。「塵が付きにくく、見やすい」と朝鮮から来た通信使が感心したそうだ。彼らは地面に物品を置いていたのである。商品を「みせる」が「見世」となり、室町時代に「店」という表記に変わった。今日の店の構造は、この室町時代に基盤が成立したといってよい。白布棚・魚棚・数珠棚などの店舗ができ(それらの商品を棚の上に置いた店舗のことである)、蝋燭屋・灯心屋・薬屋も存在し、さらに銭湯があらわれ、売春婦まで登場した。女性は春を売るだけではなく、郊外から魚や米、白布や椀、土器や扇などを売る行商人として生業を立てる者もあった。主人が商品の仕入れ・生産をし、妻が売りに出ていたのであろう。京都の町は驚くほどにぎわった。平城京や平安京は、都といえども単なる天皇・皇族の居住地であり、大神社の所在地に過ぎない。商工業が発展しておらず、市民が不在なのである。室町の京都は古代都市を完全に抜け出し、中世都市として繁栄を極めた。それを支えたのは商人・手工業者などの市民であり。有徳の人々である。彼らはやがて町衆と呼ばれ、自治的な市政の担い手となった。奈良も同様に、酒屋と土倉を中心として経済発展をとげていた。一般の民衆に作れないものを専門技術者が生産するということは、古代からずっと行われてきた。室町時代が特殊なのは、一般の民衆が自給できるものを商品として生産し、それによって経済が成り立ったという事実である。座という場所で農民の生産物が販売できるようになり、農村手工業が発展した。これに伴い農民の生活が変わり、また有徳人が台頭し、物資の動きが盛んになり、馬借が営業の場を広げた。農民の意識は向上し、土一揆・徳政一揆を起こすイデオロギーの発展を支えた。日本の歴史は古代・中世においては畿内中心であり、幕府が京都におかれたこの時代は特に高度に発展した。中央と地方の格差も、それに応じて広がった。室町は今日まで続いている土着産業の芽生えの時代である。
海賊衆と勘合貿易

 

南北朝の内乱のさなかである1368年、大陸では新たな王朝が打ち立てられていた。明である。初代皇帝・朱元璋は、金陵(南京)にて即位したのち太祖と称し、すぐさま近隣諸国に使者を送って入貢を促した。対外的に消極的であった宋朝とは相反し、これらの政策は、かつての唐帝国に近い。明はまた、建国以来一種の鎖国政策を取っており、入港は朝貢船のみを受け入れ、さらに自国貿易商人の出国についても制限を加えていった。このことによりアジア諸国間の交易はしだいに密貿易・仲継貿易のかたちをとらざるを得なくなり、それまで交易のなかった遠方へ、商人達は進出していくこととなる。南蛮諸国が日本・朝鮮・琉球をおとずれ、あるいは琉球商人が南蛮の国々へ赴いたのは、こうした時代背景に因る。さて、これら諸国間の交流に際し、解決を要する難問があった。倭寇がそれである。倭寇は高麗の沿岸各地にくりかえし侵略し、主に米と人間の掠奪を行うなどして、日鮮・日明交流にたびたび緊張や危機をもたらした。倭寇といえば「海賊」との認識が強いが、実際のところそれはひとつの側面に過ぎない。そもそも当時の海賊という言葉は、「水軍兵力をもつ海上豪族」を指すものだった。つまり海賊衆は、要するに船持ちの豪族であり、商人でもあった。彼らの国内活動がしばしば海賊行為とみられるのは、水上航路をおさえて関銭をとりたてていたからである。「海賊」と「海商」とが実に紛らわしい関係にある状況で、その区分けとして用いられたのが「図書」である。「図書」とは朝鮮国王が発行した銅印で、通交貿易上の特権が認められていた日本人に与えられた。受図書人(図書を与えられたもの)は意外に多く、これは言い換えれば朝鮮貿易にそれだけ魅力があったからに他ならない。当時の人々が朝鮮に求めていたもの。そのひとつとして「高麗版大蔵経」があげられる。当時朝鮮では儒教が国教化され、仏教は圧迫されていたため、「大蔵経」の入手はそれほど困難なものではなかった。朝鮮に求めたもうひとつのものとして、木綿があげられる。李朝時代に入って、半島の木綿栽培は急速に発展を遂げ(原因不明)、日本へも大量に輸入された。綿布の大量流入は、これまで麻と絹しか知らなかった日本人の衣生活にとって大きな出来事だった。木綿は肌触りがよく暖かく、また容易に染めることが出来たため、絹階級のみの特権であると思われていた着飾りが可能となった。ところで、当時の日本の貿易商人についてだが、以下のような条件を有しているものが豪商となった。 1.海外知識と中国的教養を持つ(主に僧侶) 2.幕府などの権力ラインに密着している 3.海賊衆と緊密な関係にある この三つを有することは、豪商になるためには必須だと言っても過言ではない。日鮮貿易の次に、日明貿易はどうだったろうか。応永8年(1401年)に義満が明に朝貢の使いを送り、その3年後に明側から勘合符を支給されて以来、両国間には勘合貿易体制がひらかれていた。しかし義満の死後、義持の代になると、幕府側は明を拒絶。対明入貢は断絶した。この理由について義持は「神がゆるし給わぬ故」と記しているが、本心は、不仲であった父・義満の政策に反したい為であったようだ。また、明の要求するであろう「倭寇取締り」を満たしたくとも、支配力の弱い幕府では海賊衆を統制できずに満たせなかった、というのが実際の事情のようである。義持の代では断絶されていた対明貿易は、義持の死後に義教の代になると、守護大名や社寺らの要求の高まりもあって、再開された。明との貿易は、たいそう金と手間と暇のかかるものだった。まず当時の航海技術も相まって、出発から帰国までに膨大な時間がかかる(本書の例では約3年とある)。さらに多額の費用がかかる(貿易船は、船持ちから借り入れるのが常だったようだ)。しかしそれでも、日明での「商品の価格差」によって得られる富は多く、5倍返しの確約で借り入れて貿易に乗り出す商人の例などは、枚挙にいとまがなかったようだ。このように美味しい日明貿易だが、「明史」による日本の入貢回数は、たいそう少ない。わずか19回である(琉球:171、安南:89、爪哇:37、朝鮮:30)。しかしこれは、日本が地理的に密貿易に適していたこと、また琉球との仲継貿易が盛んだったこと、が原因のようだ。最後に、貿易政策を通して、幕府の本質について触れてみよう。外国貿易の主体は幕府にはよらず、幕府はその統制権を持ってして、商人から利益の上前をはねているに過ぎなかった。このことにより、幕府と貿易商人とは結びつきを強めていったようだが、これがかえって、土地支配そのものに有効な政策を示しえなかったようだ。封建支配とは、土地支配を土台として成り立つものである。商人支配に頼っていた室町幕府は、いったん飢饉などの自然災害に襲われた場合、たちまち無力さを暴露することとなる。
京中の餓死者八万人

 

将軍義政の時代になると、京都周辺では毎年のように小規模な土一揆が引き起こされるなど、政治的・社会的不安が高まっていった。また、水害や日照り、冷害といった天候不安も生じ、大飢饉が起きた。1461年の正月から2月の終わりまでの2ヶ月間で、京都の餓死者は82000人に達したという。このとき、幕府が何らかの対策を取ったのか。現存する史料からは発見できない。天候恢復の祈願や亡者の冥福を祈らせたくらいで、京都の食料確保、地方農民の逃亡阻止などについての現実的な対策はすこしもなかったようである。幕府の首脳であった畠山家で、相続問題から義就・政長が争いを起こしたように、あるいは将軍義政が寺参りや土木工事に熱を上げていたように、大飢饉のなかで将軍・大名・大寺院などの支配者層は、かえって封建権力者としての無反省と無能ぶりを露骨にあらわしていた。こうした幕府の無策の中で死んでいかねばならなかったのは、貧しい農民や漁民であった。人身売買が辺境地帯でひろく行われ、また零落農民が本人あるいは一家をあげてみずから他人に身売りする「身曳き」も行われた。さらにひろく行われたのは、下層民衆の逃亡であった。飢饉によって、中世的賤民身分の中で卑賤民とされた者たちが真っ先に犠牲となった。このように中世的な社会秩序や身分観念は、自然の災害をより深刻なものとしていったが、こうした災害をきっかけとして大きな社会変動も起こり始めた。備中国新見荘では、現地勢力と守護勢力との対立が公然化し、東寺への年貢は滞った。現地の状況は著しく独立的・反権威的であり、直務代官として派遣された祐清は着任1年ほどで暗殺された。大飢饉が年貢減免をもとめる農民闘争の口火となり、支配者の無策の中で伝統的権威へのおそれが捨て去られ、農民の領主にたいする抵抗が公然たる形をとっていくのである。
悪政と党争
幕府の無策に、ほとんど毎年秋には土一揆が起こっていた。幕府は1457年12月5日に「分一徳政禁制」という法令を発布、土倉保護の立場に立って徳政を禁制し、分一銭をとることにした。そこには政治の理念は見出せず、むきだしの収奪策というほかはない。一揆鎮圧の意欲も能力も失いかけていた幕府に対し、土倉側では自衛や、私徳政を認め焼打ちなどをのがれる方向をとっていった。また、幕府の財政策のうち、もうひとつの悪政は、国々の関所を将軍義政が撤廃させ、京都七口の関所だけをおくこととしたことである。京都七口の関所は本来幕府のものではなく、朝廷のものであった。幕府は朝廷の権限を吸収し、一方で一般の関所停止をおしすすめながら、みずからは逆にそれを強化しようとしたのである。だから、これらの関所は人々の怨みの的となった。土一揆は荒々しいものであるが、世の矛盾にたいして戦いを挑もうとするものであり、社会の正義と進歩とを象徴する現象であるといえる。また、暴徒的な要素を示す「京中悪党」といわれる遊民的下層分子もあり、かれらはときに応じて掠奪・暴行をはたらき、また足軽的な傭兵ともなった。義政がこのような混乱をも顧みず、あらゆる機会に収奪策を強行した理由は、かれの濫費に基づく財政難であったと筆者はみる。義政の行った様々な行事に公家や武家の支配者たちが参観するにあたって、その経費は直接民衆の負担とされた。天下大乱の前提は、そうした動きの中で醸成されていった。このころ、幕府の支柱であった守護大名の家々では深刻な分裂が進行しはじめていた。信濃の守護小笠原家、加賀の守護富樫家に続き、三管領家の一つ斯波家でも内部分裂が生じた。この斯波家の相続問題は応仁の乱の一つの契機であった。こうした守護大名家の内部分裂は、単なる一族間の相続争いというだけのものではなく、争いはすぐ領国内部の国人たちの対立にむすびつき、また細川・畠山など中央政界の権力争いにもつらなっていった。その理由は、守護大名家の惣領職を将軍が任命し、またその惣領職の決定につき守護の被官たちの意向がつよくはたらくこと、という当時の相続制度そのものに原因があったといえる。将軍が御家人の家の惣領を決定するという慣習がこの時代に行われるようになったのは、大名たちの惣領職が、単にその家の私的な問題ではなく、国を治める公的な意味をもつと考えられるようになってきたからだ。つまり、能力ある者が将軍から任命される必要があるという考えが強まってきたのである。惣領職の任命制度は、じっさいには政治的混乱の原因であるほうが大きいが、ここにはたしかに公的意識の芽生えがあった。このような視点からすれば、下剋上というもっとも実力的・無法的な現象すら、「公的」思想の発展と無縁ではなかったのである。こうしたなかで、守護家の分裂は管領畠山家にもあらわれた。これは応仁の乱の直接の導火線ともなった。この分裂で畠山家は力をうしない、中央の指導権は細川勝元・山名持豊ににぎられるようになった。そして内紛はついに足利将軍家にも現れてきた。応仁の乱は目前に迫ることとなる。
応仁・文明の大乱

 

応仁元年(1467)正月、山名持豊・畠山義就派のクーデタがおこり、管領畠山政長が罷免され、かねて持豊の後援をうけていた斯波義廉が新管領に任命された。失脚した政長派の兵士たちは京都市街に火をかけ、酒屋・土倉の掠奪をはじめた。持豊・義就は将軍義政に圧力をかけ、政長を支援する細川勝元の問責を要求、つづいて義視が政長に擁せられることをおそれてこれを幕府に軟禁した。義政は急遽、持豊・勝元以下の諸将にたいし、義就・政長の戦いに介入しないようにという布達を発した。義就は政長の御霊社の陣を襲い、この間、持豊は兵を動かしはじめたが、勝元は義政の命を守って動こうとしなかった。孤立した政長は敗北し、義就は勝利した。政長はひそかに勝元邸にのがれた。5月、中央で一歩おくれをとった細川方の反攻が、地方からいっせいに開始された。細川党は室町幕府を本拠とし、相国寺および北小路町の勝元邸を陣とした。山名党は五辻通大宮東の持豊邸を中心に陣を張った。このときの陣の位置からして、細川党は東軍、山名党は西軍とよばれた。そして両軍ともに大兵力がぞくぞくと入京した。東軍の兵力161500余騎、西軍の兵力116000余騎というのは、この段階について「応仁記」があげる数字である。5月26日から、京都市中における両軍の正面衝突がはじまった。緒戦では東軍が優勢となり、西軍の陣地は多く焼きはらわれた。6月になると義政は立場を明らかにし、義視・勝元に命じて持豊を討たせようとした。こうして、畠山義就と政長の私闘というかたちで始まった戦いは、将軍派とその反対派という名分上の根拠を背景とする戦いにかわっていった。かくして条件は東軍に有利となったが、8月下旬に入ると大内勢が入京し、西軍が優位に立った。緊迫した情勢の中で天皇は上皇とともに東軍のよる室町幕府に移った。ここで東軍は将軍とともに天皇をも擁することとなり、官軍としての形式をも確保した。大内の参戦によって西軍側が攻勢にまわったが、西軍は補給線が長く、東軍に比して戦略的にははるかに不利な立場にあった。そのため戦局は西軍の有利とみえながら、東軍もまた容易に屈服しなかった。室町幕府の中央政治は人々の諸大名の寄合いで運営されたため、その二つの心棒であった勝元・宗全(持豊)が争えば、他の大名もおのずからその争いにまきこまれざるをえなかった。他面からすれば、戦いにさしたる必然性がなく、戦意なき合戦という特徴を生み出した。京中の戦禍をいっそう大きくしたのは足軽の乱暴掠奪であった。足軽が合戦のおりに注目すべき新兵力として無視できなくなったのは、この大乱からである。足軽の特徴は、敵との正面衝突をさけて相手の虚をついて目標につっこみ、放火・掠奪というふうな活動を容赦なくくりかえすところにあった。しかも、足軽は敵にうしろを見せることをなんとも思わぬてあいであった。このような新型の兵力は、京都の陣に随時参加してきた一種の傭兵隊で、その出身は京都周辺の没落農民や浮浪民たちであった。この大乱では、両軍ともに積極的に農民兵の動員をすすめたため、それに乗じて都の近辺の一部の貧農・浮浪人たちや京中悪党も足軽と称して自由勝手の掠奪をはたらくものが多かったとみられる。応仁2年、戦局にひとつの転換がおこった。足利義視が西軍にくみしたのである。自分自身の力の基盤をもたない義政・義視は、争いに巻き込まれ、翻弄されているといってよい。だから、勝元にとっても持豊にとっても、頭にいだくシンボルはどちらでもよいということであった。1469年正月、5歳の義尚が将軍家の家督相続者と決定され、諸将に披露された。一方、東軍に擁せられている義政は権大納言義視の官爵をけずり、公然と義視を敵とすることとなった。西軍は義視につづき南朝=大覚寺統の皇胤小倉宮王子を奉戴した。こうして東軍が天皇と義政を奉ずるのにたいし、西軍は小倉宮王子と義視を戴き、双方ともに名分をととのえる形となった。
下剋上の怒涛

 

応仁の乱は、たちまち地方にも波及していった。地方では大名同士の争いよりも、地侍・農民の変革的・反権力的なたたかいが動乱の基調となっていた。たとえば新見荘では、荘民たちが領主権そのものをさえ否認しようとしていた。この時代の上級領主は勧農策らしいものはほとんどやっておらず、農民たちにとってみれば単なる収奪者にほかならないという性質がつよかった。つまり、庇護の代償としての年貢という相互扶助的な秩序は成立しない。土一揆をおこす農民たちが年貢を納めようとしなくなった背景には、そのような事情が根底にあるからだと考えられる。新見荘民、とりわけ金子衡氏のたたかいとならんで下剋上のもうひとつの典型を示したのは、越前の国人朝倉孝景であった。孝景は1471年、はやくも主家斯波氏にかわって越前守護となった人物である。孝景ののこした「朝倉孝景十七箇条」には、革新的・合理的な物の考え方が大胆に示されており、そこに古代以来の形式主義的・権威主義的考え方がみごとに打破されていく過程を発見することができる。大乱に伴う諸国のうごきをみると、どの地方でも、だれが東軍であり、だれが西軍であらねばならないかがけっして確定的なことではなかった。対立はひとつの地域のなかの国人同士の争いであり、あるいは一族内部の分裂であった。だから、戦局がどちらに優勢といってもそれはたいした意味をもっておらず、戦況はたちまち流動していった。その戦いは中央における山名・細川の争いとほとんど無関係に、国々の内部で国人たちが互いに力をきそい、主家の分裂を利用しつつ自分の力をのばしていく戦いだといってよかった。関東のばあい、情勢の進み方は中央地帯にくらべるといくぶん緩やかであった。太田道灌は新興実力者のひとつのタイプを代表するものであり、そこに東国がそれなりに生みだしつつあった下剋上の方向をみることができる。東北地方は応仁・文明の大乱中もなお一種の孤立のなかにおきさられ、豪族が新興層にとってかわられることもなく、そのまま生きのこって戦国時代にうつっていく。この時代、現地に根を張って成長してきた国人や地侍たちが戦局と政情とを左右する力を発揮しつつあった。国人たちは血縁以外の農民・地侍らを積極的に若党などのかたちでその武力に編成し、同族を横から縦の関係にくみかえて家臣化することによって、全体として一元的なまとまりのある武力を強化しはじめた。そこに国人領主の成長があり、かれらが守護大名にとってかわる条件があった。1473年3月、山名持豊が亡くなり、つづく5月には細川勝元も死んでしまった。こうして東西両軍の主将が相前後して世を去ってしまうと、この戦いは、のこされた諸将たちにとってまったく意味のないものとなった。翌年の4月初め。持豊の子政豊と勝元の子政元は和平のためにあい会し、講和をした。その後もだらだらと戦争状態はつづいたが、1477年10月になると、ついに最大の武力をもつ大内政弘が幕府=東軍に帰順するかたちをとり、畠山義就も領国河内にくだった。こうして乱のはじまりからほとんど11年に近い歳月を浪費して、大乱は終幕に達した。応仁・文明の大乱の意義としては、各地の国人たちの成長と荘園領主・将軍・守護大名の後退と没落とがあげられる。そして、その背後には民衆の力のおそるべき伸長があった。
東山山荘とその周辺

 

11年に亘る大乱の中、自らの意志を貫き得なくなった義政は次第に政治世界から遠ざかり、風流の世界に生きがいを見出すようになっていった。そうして1473年、義政の妻・富子の計らいで義尚が将軍職に就くと、いよいよ失意と孤立のうちに隠遁生活を余儀なくされる。無理押しな利益追求で金まわりを牛耳る富子との折り合いも悪く、孤独を深めるばかりの義政は1482年、東山山荘の造営に着手した。義満の北山山荘造営にならったものであったが、財政状況は当時より遥かに悪く、経済的には極めて困窮している中での造営である。大名から経費・人夫を徴収することも叶わず、もっぱら社寺・公家から取り立てるという惨めな有様であった。1482年6月に常御所が完成すると、義政はそこへ移り自ら築庭の指揮を取った。彼が精魂を打ち込んだこの山荘は、東山文化の粋を尽くしたものである。全体の構成や雰囲気はふかい幽寂さを持っており、「わび」の世界がつよく現れている。このような東山の山荘、特に作庭の精神が、禅宗の思想に支えられたものであり、禅的手法の目立つことは強調されてきた。しかし浄土思想に通じる部分も数多くあり、一概にすべてを禅的なものに帰することはできない。東山山荘の精神には、言わば禅的なものと浄土的なものの融合が見られるのである。義政を中心とする東山文化には、かなり様々の要素が溶け合っている。禅宗的な脱世間性と浄土思想の融合した東山山荘、宗教性を強く示しながら農村的・民衆的な生活に密着している能・花・茶などの芸能文化。義政は多種多様な文化要素を容認・庇護することで、言わば寛容なパトロンとして調和ある文化体系を作り上げたのである。狂言やお伽草子の中には日常の口語が盛り込まれ、文学の中に民衆の話し言葉が進出した。広い文化圏での交通・コミュニケーションの促進は大地域にわたる方言を生んだ。食べるもの着るものなど、衣食住の習慣も変わっていった。「床の間」という新たな生活習慣が発生・発達したのもこの時期である。この時代は生活のさまざまの分野で新しいもの、しかも今日のわれわれにかなり接近したものが発生してきた時期なのであった。
流亡の貴族と僧侶

 

東山文化の周辺に、もうひとつのやや性格をことにする文化の花がひらいていた。応仁の乱後、公家・武家を問わず古典を学ぶことがひとつの流行となっていた。古きものがことごとく焼きつくされ、伝統をになった公家貴族の没落が決定的となると、かえって復古的な思想や好みがわきおこってきたのであろうか。和学流行は応仁の乱で貴族や僧侶たちが邸宅・寺院を焼き払われてしまった結果、各地に流亡離散したことと深い関係がある。貴族・僧侶の、京都から各地への離散は、その多くの所領が武士たちに横領されてしまい、年貢がいっこうにあがってこなくなったためである。だから所領の確保は人任せというわけにはいかず、かれらは地方へくだったのであった。旧支配階層の危機と没落は、かれらのなかに、みずからの祖先たちがのこしてきた文化遺産を保存し、あるいは顕彰しようという気運を強くひきおこすようになった。その代表的人物が一条兼良である。かれの学問は、有職故実の研究から発し、やがて古典文学の研究に進み、さらに神道・儒教・仏教などにもおよんでいった。しかし、かれの学問は有職故実についての厖大な知識と古典の解釈などにとどまっており、とくに注目すべき思想や主張があるのではなかった。これは公家貴族の死滅をも象徴するものであろう。だから、和学の流行も、じっさいには公家社会で発展してゆくというよりは、大名たちの文化的関心のなかに吸収されていく方向をたどった。兼良・三条西実隆らも、大名たちの求めに応じる代わりに財政的援助を受けていたのである。公家がその知識や学問を形ばかり切売りするようになったのと似た現象に古今伝授があった。古今伝授とは、「古今集」のなかの難解な語句を解説する切紙の秘伝と、全部にわたる講義の口授からなっていたものらしい。このころの貴族文学の主軸としての和歌は精彩を失い、ただ「古今集」が偶像視されるばかりであったが、そうした状態がかえって秘伝やその個人的授受を流行させたのである。故実尊重は公家社会のみならず、没落に向かいつつあった将軍家・守護大名など武家上層にも強くあらわれだした。その前提は南北朝期以来つくられていたが、義満の時代に将軍家と公家社会との融合が進められる中でこの傾向はますます強められ、武芸に関わる作法のみならず、それぞれの「分」に応ずる儀礼作法が強調された。現行の秩序に対する下剋上などの危機が進むほど、道に儀礼・格式などが強調されるのだ。応仁の乱で公家貴族とともに大きな打撃を受けたものには五山叢林の禅僧たちがあった。かれらは当代一流の学僧であり、その学問・知識は地方の大名・国人たちから喜んで求められ、地方にくだっていった。同じ禅僧といっても、一休宗純の生き方はこれらの儒僧たちとはまったく違っていた。かれはさまざまな逸話の持主であり、いわゆる風狂の生き方に徹した人物だった。一休は、あらゆる欺瞞的・権威的なものにたいして反抗したといえる。貴族や僧侶の地方への疎開や没落にともなう知識・文化の武士への切売りは、古代以来中央に集中していた文化を地方に伝えることになった。しかし、文化が地域的にもまた社会層の面でも京都の上流社会の独占をやぶってひろまっていったことは、その受容者側の主体的要求が原動力なのであって、その原因を公家や僧侶の地方疎開という現象だけに求めることは正しくない。地方大名・武士たちが新しい支配者に成り上がっていく過程で、なによりもまず治者の心がけともいうべきものを学び、身につけようとしたのである。ところで、このころ地侍・農民上層など地方民衆のなかに、どのていどの文字の理解や読み書きの能力がひろまっていたのだろか。そうした疑問についての正確な解答を求めることは不可能だが、参考になる史料はある。この時代にもっとも普及したのは往来物の中でも「庭訓往来」(消息=手紙の文例や当時の生活でよく使われた単語などを集録した文典)である。このころ、地侍クラスの人々までは、おそらく女子といえども一定の教養をもつものが多くなっていただろう。また、この時代からそれ以後の時期の民衆教育に大きな役割をもつようになったものに「節用集」がある。これは文安―文明年間に京都の建仁寺の僧侶の手によって編まれた一種の字引であり(編者未詳)、いろは順に音引き分類して、各音のなかを天地・草木以下十数種類の部門にわけて語彙をあつめ、簡単な解説をつけたものである。
町衆と郷民の哀歓

 

応仁の乱前後の不安定な世間の中、民衆はいつ災難に見舞われるかという不安と同時に、勝ち取った自らの実力に自身や幸福を見出そうとしていた。そういった民衆の不安と開放感との交錯は、様々の形で表現された。踊りもその一つで、異様な風体の者が数千も集まり鐘や鼓を打ち、念仏を唱え、踊り狂う。芸能の中でも踊りは自らも参加し主演者になる、そこに彼らの感情が率直に表れている。また、踊りなど大勢の民衆が集まることは土一揆などにも繋がり、権力者にとってそれは恐怖であった。幕府や興福寺などの権力者は集団での飲酒や集会を禁止したが、民衆はこれらの禁制をおしかえしても踊りを強行した。民衆の踊念仏などの集会は支配者側と常に対立の中で行われるものであり、弾圧が加えられるものであった。その為、集会には反抗的・政治的な雰囲気が漂っており、そこに興奮、エクスタシーを感じていたものだろう。また、都の祇園祭・葵祭や村々の祭りも、それぞれ規模は違うにしろ、娯楽的要素を持ってきらびやかになり、或いは後者ならば村人同士・外部の人との交流の場となり、市が開かれる、また発展して門前町とも成り得、経済活動を活性化する一環ともなっていた。農村などから発生した土着的な要素を持つ狂言は、支配者層の為に上演するにつれ貴族化されていった。しかし、同時に支配者達を風刺する反権力的な面も持っており、貴族を嘲笑する狂言を貴族の前で上演する者も居た。狂言の種類の一つ「小名物」に分類される物に「成上り」という作品がある。狂言に広く登場する太郎冠者なるものが主人から預かった太刀を盗まれた事について、主人を煙に巻くために成上りの話をするものだが、成上りそのものに民衆の願望を反映している、そして機知に富み、それでいながら素直で悪意ない太郎冠者に、下克上の時代の民衆は人間愛を見出したのだと思われる。この時代は民衆達も成上ることが可能で、ただ隷属する身分から脱出し、自ら人間愛を表現できるようになった。その事から、民衆はこの作品に共感を覚えたのだろう。御伽草子にもこの「成上り」の風が現れている。文学性は高くないが、当時の民衆の気持ちがよく反映されている。金に纏わる話も多く、草子の背景に町衆が居たことが伺われる。中でも出世譚は上昇期にあった町衆の夢と感情を表現するものであり、田舎から出てきて都で大臣になるといった話に仮託され、出世の夢を抱くことが出来るようになった事が表されている。また、字の読めない地方の農民達なども「語り」によってこれらの成上り・出世譚の世界を楽しんだ。鎌倉末期の平曲から始まって、この時代も太平記等が語られていたが、語りの文学の集成の一例として室町期に完成された義経記がある。この貴種流離譚、高貴の者の没落流亡の悲劇は貴族社会にも受け入れられた。踊り、祭、狂言、草子に語りと、この時代の人々は様々な表現形態を得た。これらは下克上の願望と喜び、幾分人間的な生活を送るようになって得た人間愛の世界である。しかし、これらの喜びだけでなく、民衆には絶えず不安と恐怖が付きまとっていた。この恐怖というのも、時代を生き抜くために犯す年貢の不納、時として横領、強奪、殺人、詐欺などの、乱世の罪という他無いものからくるものであった。その為、この頃は俗信化した地獄極楽思想が強く人々の心を捉えた。地蔵菩薩も地獄思想に密接に関ったものであり、庶民から武士まで幅広く浸透した。観音信仰の霊場巡りや伊勢参りもこの頃から貴族、庶民に至るまで広まった。これら観音・熊野・伊勢の信仰や、高野詣、霊場巡りはブーム的なもので、何か教義に基づいたものではなかったが、一生を村落に留まるところから一歩踏み出した積極性に価値を見出せると思われる。また、俗信的なものより宗教として積極的な役割をもったのは仏教諸派であった。上流階級や武士に関係する土蔵衆は禅宗に帰依するものが少なくなく、また日親の功績で京の町衆には法華宗が広まった。
蓮如

 

浄土真宗中興の傑僧といわれる蓮如が本願寺8代目の法主となったのは、長禄元年(1457年)のことである。悪政と天災とが横行する世相のなかで、伝統的な天台などの教派は加持祈祷など密教的な行事で人々から金品を奪い、同じ真宗とはいえ専修寺派や仏光寺派は、始祖の教えとは縁のない異端の説をとなえている。蓮如にはこれらの教えは悉く誤っているものに思われた。本願寺派は門徒の数は微々たるもので、法主の一族の生活も貧苦のどん底であったが、彼は自己への確信を携えて民衆のなかに入っていった。蓮如の最初の布教は近江の、堅田衆と呼ばれる人々から始められた。しかし彼の活動は平穏無事にとは行かず、伝統的な貴族仏教の牙城延暦寺(山門)の怒りに触れて、何度も様々な理由を持って、堅田の本願寺は山門に襲撃されている。これは蓮如の説く所が過激であり、排他的な側面を有していたためでもあるが、単純に財力を目当てにした襲撃でもあったらしい。これに対して蓮如は低姿勢でことを収めている。この理由として、本願寺派ではない真宗の諸派が、山門に接近して、本願寺派の足元をおびやかしていたことがあげられる。その後の文明3年(1471年)5月、蓮如は越前吉崎にくだり、やがてその地を新たな布教の拠点とした。ここで蓮如がとった布教の作戦は、活発な「御文」の作成・付与と講の組織であった。「御文」とは蓮如の教えを記したものであり、これは瞬く間に普及していった。もうひとつの作戦は、講(寄合)の組織であった。蓮如は人々が月々寄り集まり、そこで互いに信心を語り合うことを推奨した。僧侶と民衆、ではなく、民衆相互の接触を推奨したのだ。講を開く場所は道場と呼ばれ、主に信徒のなかの有力者の住宅で開かれた。道場の上部機関としては末寺があり、その更に上に本願寺が据えられた。本願寺(本山)→末寺→道場=講(寄合)真宗の布教方式はみごとに組織だっており、また、末端の寄合を通じて、門徒自身の手で門徒はネズミ算式に数を増やしていった。蓮如の布教活動は、実に戦術的・打算的なものであり、彼はまず坊主・年老・長といった支配層に教えを施した。下々のものは彼らに従うだろうという考えだった。また門徒からの「志」(納入金)も、門徒の喜びの表現であり、自然のこととして肯定している。「志」は師匠・坊主の手によって本山に集中した。吉崎での活動は目に見えて成果をあげ、門徒は膨大な数に増加した。それは見様によってはみごとに組織された一大武力であった。この一大武力に眼を付けたのが朝倉である。時は応仁・文明の乱のただなか、東軍・朝倉は蓮如に助力を請うたが、蓮如は拒否の態度を示した。しかし西軍・富樫幸千代が高田派門徒を誘いいれ、同門徒も本願寺派門徒に対して武力攻撃をしかけたことで、本願寺派門徒は蓮如の制止をきかず奮い立った。文明6年(1474年)7月、決戦の幕が切って落とされたが、それは加賀の守護方と本願寺派門徒の正面衝突という性質のものであった。門徒の圧勝で終結している。しかし翌年に状況は一変し、門徒は東軍・富樫政親との対立を明らかにし始める。蓮如はこれに対し、「編目」を発行して「現世の支配者と対立してはならない」と説いているが、惣型村落であり強い結合性や排他・封鎖性を有する吉崎の性質に、講によって結びついた集団性と平等性が合わさった門徒の勢いは止められなかった。恐れを持たなくなった門徒は守護に対する年貢を坊主らへの「志」に転換させていった。「編目」発行のわずか1ヵ月後、蓮如は吉崎を退去した。その後、蓮如は河内国の出口に根拠をおいたのち、さらに山城国山科郷に移っている。その間、山門の衆徒に圧力を加えられもしたが、すでに吉崎布教以前とは打って変わり、本願寺は簡単に山門の圧力に屈するものではなくなっていた。北陸はもちろん近内畿国でも門徒の数は飛躍的に増え、法主蓮如はやがていやおうなしに聖界領主としての性質を示し始めた。蓮如と門徒とが、領主と領民との関係に近づき、両者の立場や性質は乖離していった。延徳元年(1489年)、加賀の一向一揆により富樫政親が殺害された翌年、蓮如は75歳をもって山科本願寺の南殿に隠居する。もはや歴史は蓮如の時代というよりも一向一揆の時代に移りつつあったと筆者は言う。
山城の国一揆

 

蓮如が乱世に乗じて巧みに組織を作り上げていく一方、京都周辺でも激しい農民闘争が繰り広げられていた。嘉吉の大一揆以降、悪政と飢饉に悩まされていた農民のフラストレーションが爆発したのである。その中でも1480年(文明12)に山城・大和・丹波で起こった一揆の規模は一線を画していた。土民・京中悪党などの下層市民、守護型の兵士なども一揆に参加し、関所の撤去や徳政を求めた。その後も次々と一揆が起こった。これら一連の一揆はこれまでとは違っていた。それは徳政を要求するものではなく、自ら地域の権力を永続的に掌握しようという動きであった。しかしながら、誰が地方の次なる統治者になるかは決定的ではなかった。備後の国櫃田村の百姓たちは、旧来の支配者である領主を防波堤にしながら、新興勢力の国人・地侍の侵入を阻止した。農民たちも、みすみす新興勢力に支配されてなるものかという強い意気込みがあり、それが地方での決定的な権力が発生することの妨げとなっていた。大和では他国と違い、興福寺が国の守護の地位をもらっていた。その半面ではまた政長か義就の被官となっていた。この二者は争い、戦いは数年間続いた。国一揆は、このような両軍対立の中ではっきりとその姿を現した。京都と奈良を拠点として二者が争うのであるから、この二地域では一揆が頻発した。ついには一揆が政長・義就両軍に要求をつきたてる。国人・地侍・土民が軍を退去させたのである。前代未聞、下剋上の極みであった。地方住民の集団である惣は、自検断の性質をもつようになり、ついには一国的規模にまで達した。惣は半済によって年貢徴収権を守護から略奪し、検断(≒裁判)も自己で行った。
乱世の国家像
応仁の乱から山城の国一揆へと歴史の激戦が続いていく中、足利義政は1483年(文明15)、東山山荘に移り、全ての世俗から抜け出してひそかに風雅の世界に生きようとした。妻の富子、子の義尚ともうまくいっていなかったようである。義政と義尚の不和の原因は、女性関係であったといわれている。義政はこのころにはすっかり政治的意欲を失い、世に諦観を抱いていた。相次いだ大一揆にも全く政治的無責任な態度で臨んでいた。一方義尚は勝気な性格であった。生まれてきたことが応仁の乱の原因となったのだから無理もない。彼は父と争い、母も捨てた。幕命に従わない地方の国々の領主を討伐するために征伐に出向こうとしたが、1489年(延徳元)ににわかに陣中で死亡した。過度の酒色が祟ったのだろう。義尚には跡継ぎがいなかったので、美濃に下っていた義視はすぐに子の義材をつれて上洛し、義政の跡継ぎにした。義政は義尚の死の1年とたたないうちに、後を追うように死んだ。 将軍はもはや聖女の中枢に立つことはできなかった。地方は独自の権力体制を形成し、独自の道を歩み始めていた。為政者の無能が世の混乱を招く中、地方住民は独力で生きる道を模索し始めていたのである。
 
戦国大名

 

流浪する将軍
公家の収入は荘園からの年貢によるものであった。崩壊に直面していた荘園を立て直すために、幕府は将軍の権威を立て直す必要があった。将軍義尚は近江の守護六角高頼を討伐することによって幕勢を回復しようと試みた。将軍のお膝元である近江に従わない守護がいるとなると、幕府の権威にかかわる。義尚の出陣によって寺社公家の領地は回復されたが、完全ではなかった。彼は押領した領地を自分の近臣に与えてしまう。その結果近臣らの専横を許し、義尚自身の生活も乱れていった。出陣から2年足らず、義尚は25歳の人生を終えた。次代将軍は義尚の養子の義材に決まった。義材の父の義視はこれを機に新政を始める。富子はこれを不満に思い、細川政元に接近した。その噂を聞いて義視は富子を攻めるが、細川政元と対立するのは賢くないと考え、優遇した。義視は翌年死亡した。義材は義尚の遺志を継いで、再び近江出陣を試みた。これは成功だった。勢いに乗じて、次は河内を攻める。畠山政長と畠山義就が東西に別れてまだ争っていたのである。これは政元のクーデターによって失敗し、第11第将軍義高が就任する。義材は義尹と名を改め、流浪の日々を送ることになる。
守護大名の没落
細川政元は細川家の官僚の嫡男だったにも関わらず、40になっても女性を近づけようとしなかった。「常は魔法を行って近国や他国を動揺させていた」といわれている。この魔法というのは山伏集験の道である。細川政元は奇行と専横が目立った。子を作らず、天狗の業の修行に励み、養子を2人とって細川家分裂の危機を招いた。このような態度が家臣の謀反心を招き、魔法の練習を行っている最中に政元は殺された。跡継ぎは養子の細川澄元となった。義尹は細川政元の死を聞き、大内義興に助けられて上洛を画策した。細川側は義興と和平してこれを阻止しようとするが、和平交渉の中心人物であった高国が澄元に反して義興と手を組んだので失敗する。守護大名出身で、澄元より5歳年上だった彼は、自分も細川宗家を継ぐ資格があると考えたのである。義尹は14年ぶりに上洛し、一条室町の吉良屋敷に落ち着く。義尹は従三位、権大納言、征夷大将軍の地位を得て、細川高国を右京大夫におき、大内義興を左京大夫においた。義尹は実験を持たず、高国と義興の傀儡であった。大内氏と細川氏は、このご中央権力を巡って対立する。彼らはともに傀儡将軍を奉じた。これは勘合貿易を行うためである。両者が争ったのも、その利権が原因であった。貿易を行うためには、将軍=日本国王の権威が必要なのである。後に義尹は義稙と改名し、57歳で流浪の人生を終えた。
北条早雲

 

関東では、1439年、幕府に反抗した関東公方の足利持氏が、関東管領の上杉氏にほろぼされてしまうと、しばらくは上杉氏の下で平和が保たれていた。しかし、その十年後、持氏の子の成氏が京都から迎えられて関東公方になると、成氏が父持氏の旧臣だった豪族たちと手を結んで、上杉氏と反目するようになった。1454年、成氏が上杉憲実の嗣子憲忠を誘殺すると戦火はまたもや燃え上がった。山内上杉氏の家宰だった長尾景仲らは憲忠の弟房顕を擁して成氏に対抗し、幕府も駿河守護今川範忠に命じて成氏を討たせようとした。範忠は鎌倉を攻めてこれを焼き払い、成氏は下総古河にのがれ、ふたたび鎌倉に帰ることがなかった。これ以後古河公方と呼ばれる。そのころ管領上杉氏は山内家と扇谷家の二流に分かれていた。勢力の点では山内家のほうが断然優勢であったが、両上杉氏とも、実権は家宰が握っていた。山内家では長尾氏が、扇谷家では太田氏が家宰である。豪族の支配から離れた小領主・国人たちが長尾氏・太田氏と結びつくことにより安全を確保し、また長尾氏・太田氏はそれにより勢力を増大させたのである。劣勢だった扇谷家は太田道灌とその父(資清)の努力によって、山内家と肩をならべるまでにのしあがった。山内上杉氏がこれをこころよく思うはずもなく、両上杉氏の対立は表面化することとなる。1476年に、主君の山内顕定にそむいた長尾景春は古河公方成氏に通じ、鉢形城に立てこもった後に反乱を起こしたが、道灌により掃討された。道灌の名声は高まり、扇谷家の勢力はさらに大きくなった。こうして成氏は景春とともに幕府に和睦を申し入れ、山内上杉顕定の父房定を仲介者として、室町将軍と古河公方の間にいわゆる「都鄙(とひ)の合体」が成立した。これで平和が回復したかのように思われるが、扇谷上杉方の定正や道灌らは山内上杉方の推進したこの合体策に賛成ではなく、江戸・河越両城をいよいよ固めて、古河公方や景春にそなえていた。1486年、道灌は、かれの存在を上杉氏への敵対とみた主君定正により暗殺された。道灌の死により、道灌に従っていた多数の国人衆などはただちに定正を離れ、顕定の側に集まってきた。孤立した定正は古河公方成氏とその子政氏や長尾景春と連合したが、定正の死後、顕定と古河公方政氏が和睦し、このため扇谷上杉家の立場はますます苦しくなっていった。堀越公方政知が両上杉家の抗争のさなかの1491年4月3日に死んでしまうと、そのあとは嫡子の茶々丸が継承することになったが、政知の旧臣らは、この茶々丸に心服せず、伊豆国は混乱状態におちいった。伊豆一国をのっとろうと待ち構えていた隣国駿河国の興国寺城主北条早雲は、すかさずこの混乱に乗じ、伊豆に攻め入った。伊豆の北条はたちまち早雲によって占領されてしまった。早雲は、ただ伊豆北条という重要拠点を領しただけでなく、そこに住む百姓や職人の掌握にも心をくだいた。では、この北条早雲とはどこの生まれのどういう人物なのか。伊豆侵攻以前の早雲については、史料不足ゆえ行動も実名もはっきりしない。入道してからは早雲庵宗瑞と号したが、いつ入道したかもわからない。生国についてはいろいろな説があり、定まった説がない。有力な説は伊勢説と京都説であり、新たに備中説がでてきている。早雲は56歳、1487年ごろには駿河国に下向していたと考えられ、妹の北川殿の縁で今川氏に従い、興国寺城主となった。早雲は伊豆に侵入してからの3年間、もっぱらその領国支配に専念していたが、1494年に扇谷方の三将(扇谷定正・大森氏頼・三浦時高)が亡くなると、それは早雲に関東進出の道をひらくこととなった。早雲は小田原城を守る大森藤頼に近付いて親しみを深め、1495年、夜討ちによって小田原城をのっとり、関東進出の第一歩を踏んだ。以後早雲は、小田原周辺の領有・安定のために十年の歳月をかけたのである。1504年、73歳になった早雲は扇谷朝良を助けて、山内顕定を討とうとした。しかし、それは上杉氏を討つための早雲の計略であった。翌年には、両上杉氏は漁夫の利を占めるのは早雲だと気付いたのであろう、手を握って早雲にあたろうとしたが、時すでに遅かった。1507年と1509年、早雲は今川氏親を助けて三河に出撃した。それは自領伊豆の背後の駿河の安全をはかろうとして、尾張の織田氏と連絡するためであった。早雲は顕定が関東を留守にしてしまったあいだに、相模の土豪らに蜂起をよびかけるとともに、長尾為景や景春らと連絡して出陣した。早雲の率いる伊豆・相模の兵は相模高麗寺に陣し、扇谷朝良の家臣上田政盛をして権現山城に反旗をひるがえさせた。しかし、1511年、権現山城は両上杉氏の軍勢によって落ち、このたびは早雲の完全な失敗に終わった。早雲は相模国を平定するには、その最大の豪族である三浦氏を倒さねばならぬと考えた。1512年、81歳の早雲は三浦義同の岡崎城を攻め、鎌倉に入った。義同は翌々年に鎌倉へ攻めてきたが早雲に撃退され、新井城に逃げ込んだままとなる。そして1516年、江戸城の扇谷朝興が義同救援のために玉縄城へ攻めかかったが、早雲はこれを撃退すると共に新井城に攻めかかり、三浦氏は滅亡した。こうして早雲は、小田原占領以来、三浦氏討滅まで実に20ヵ年をついやしたのである。1518年、87歳の早雲は、32歳の嫡子氏綱に家督をゆずって隠居した。翌年8月15日、早雲は伊豆韮山城で生涯をとじた。早雲は、戦国の群雄のうち、最初にその名をあげただけあって、慎重さとすぐれた時代感覚を持ち合わせていた。早雲以後の後北条4代、氏綱・氏康・氏政・氏直については、氏綱は父の後をよく守り、氏康は名将であった。氏政・氏直の20年間は後北条氏の守勢期であったが、ともかくもその支配を維持できた。
信虎と信玄

 

武田氏の戦国大名としての歴史は、信玄の父信虎の代にはじまるといえる。1507年、14歳で信虎は父の死にあって武田の家督をつぎ、この国のあるじとなった。武田氏は一族を甲府盆地の縁辺部いっぱいまで分散配置してこの国を支配してきた。宗家から分かれた一族は、武田とは名乗らず、みなそれぞれの在所名を姓として、その土地に根を生やした領主となっていった。甲斐の戦国は、宗家を中心とした一族の相克という形で展開していったのだった。信虎が家をついだころは、そのような情勢のもっとも激した時代であり、かれは油川氏や、大井・栗原などの古い一族の連合を打ち破った。その後かれは、もっぱら室町将軍家と連絡を保つと同時に、駿河の今川氏と積極な連合をはかった。一応の国内統一を完成させ、甲駿同盟などによって四囲の強敵との交戦の必要もなくなると、信虎は戦国大名として家臣らを統御していくためにも、外征を必要とした。そこで信虎は信濃に攻め入り、1541年にはその一応の攻略を成し遂げた。しかし、帰国した信虎は、10日後に嫡子晴信(信玄)のために突然駿河に追放されることとなった。信玄は1521年11月3日に生まれた。信玄の母は甲斐の国人大井信遠の娘であり、信虎にとっては旧敵の娘ということになる。だから、その出生はそれほど祝福されたものではなかったであろう。1436年、かれは元服し、将軍義晴より晴の字をとって晴信と名乗った。やがてかれは京都の公家から正妻を迎えた。この結婚の年月は不明であるが、おそらく元服の年かその翌年であろう。この結婚は、武田氏が京都を指向していたことを如実に物語るものである。1541年、佐久平の出陣から帰国した信虎は、その10日後に駿河の今川義元のもとに出かけた。信玄は、甲斐と駿河の国境をとざし、父を駿河に追放してしまった。この追放事件の真相として取り沙汰されてきたのは、大別すると次の三つに要約できる。(一)父子の性格の相違・対立説(二)今川義元を討つための父子共謀説(三)信虎の不行跡および領国経営の失敗説第一説は「甲陽軍鑑」によるものであり、第二説は「松平記」の見かたであるが、どちらにも疑問がある。そこで、第三説が真実に近いものと思われる。その後の信虎は、25年も今川義元の世話になり、信玄の存命中はもちろん、死後も甲府に入ることは許されず、81歳の生涯を高遠で閉じた。信虎の追放により、戦国大名武田氏はその内部的な危機を回避した。信玄が直面した領国支配の矛盾とは、武田氏のかける軍役の過重さによる経済的な危機だったと考えられる。信虎追放の6年後に信玄の定めた「甲州法度之次第」という法令には、武田の家臣たちの知行地売買・質入れや、借財に関する取り決めが多く見られる。地頭と呼ばれる家臣たちが、過剰な軍事負担にも抵抗しなかったのは、大名権力によって地頭層の領主支配権が保証されていたからである。しかし、大名の側にも家臣の経済的危機を救うための抜本的な対策がなければ、みちは領土拡大、つまり対外侵略ひとつに限られてくる。そこで信玄も信虎のいのちとりとなった信濃出兵を引き継いでゆかざるを得ないのだった。信玄の第一目標は、南信濃の諏訪・伊那両郡に勢力のあった諏訪一族の制圧であった。1545年、信玄は三たび伊那郡に兵を進め、この年、諏訪・伊那地方は信玄の制圧下に入った。信玄の第二、第三の攻撃目標は、信濃守護家の小笠原長時と北信の雄村上義清であった。信玄は上田原、戸石城攻めなどで敗戦を喫しもしたが、1551年に小笠原長時を、翌年に越後の上杉謙信のもとに追い出してしまった。こうして信玄の12年間にわたる信濃制圧は一段落となった。信濃を侵略し、領国とするためには、信玄はつねに南の今川氏と結んでいなければならなかった。今川義元にとっても、甲駿同盟は三河に出兵し、織田信長の勢力と対するのに重要であった。ところが、義元の三河出兵の留守を狙って相模の北条氏康が駿河東部の下方荘に侵入してきた。義元は氏康と戦ったが、戦況ははかばかしくなかった。そこで駿河の善徳寺において、信玄・義元・氏康が集まり、甲・駿・相の三国同盟が成立した。この三人は、いずれもここ2、3年のあいだ合戦が討ち続き、それぞれ背後に強敵を持っていたからである。こうして信玄は、三国同盟を十分に利用して、1570年、西上野を武田領としてしまったのである。1560年、今川義元の桶狭間の戦いでの戦死は、三国同盟の破綻を招く第一歩となった。1567年、信玄は今川氏との親和論を唱える長男の義信を自殺させ、駿河侵略を断行した。かくして1570年、信玄はついに駿河府中を占領し、今川義元の遺児氏真を伊豆に追って、駿河一国を制圧した。信玄のうえには天下の反信長勢力の期待が集まることになり、1572年の秋、信玄の京都をめざした西上の大遠征が開始された。そして翌年、信玄は病によってその生涯を閉じたのであった。
上杉謙信

 

上杉謙信は、越後守護代長尾為景の子として春日山城に生まれた。為景は、1507年に守護上杉房能を倒し、越後の主導権は守護代が握るものと示した。守護には房能の従兄弟定実をつけ、3年後には房能の兄で関東管領の顕定を下し、傀儡の守護定実の元に集まった前守護家一族、その重臣ら反為景戦線を壊滅させた。為景は越後の中郡地域を制圧したが、敵は依然国内の中郡、奥郡地域に立ちふさがっていた。彼らの正体は定実の一族、さらに彼らに味方した奥郡の豪族層(揚北衆)であった。為景は対外侵略を行って、彼ら国内の敵との対決は避け続けた。さて、為景は守護房能を倒した後、房能の従兄弟定実を守護の位に就け、彼の傀儡とした。反為景戦線を壊滅させた後も為景は定実を幽閉しつつも生かしておいた。というのも、為景は守護家の、一国から反銭を取り立てる権限に目をつけ、これを利用する為であった。政治的・軍事的に為景に敵対する揚北衆も、この取立てには応じた。というのも、この取立ては守護職権に基づくもので、豪族層も守護職そのものを否定できなかったからである。この取り立ての権限を持つのは守護家の「御公銭方」と呼ばれる財務機関で、為景はこれを手中に収めることで収入を得ていた。このように、この越後では、権力と軍事力をもつ為景によって、強烈な上克下が行われていた。1536年に謙信の兄晴景が家督を相続し、43年に父為景が亡くなると、上田長尾氏や揚北衆などが攻め寄せ、国内は荒れた。また、晴景と謙信は以前より仲が良くなかったが、これが表面化し、定実の仲介の元、謙信が晴景の養子となり、家督を相続した。謙信は国内平定の為、己が府内長尾氏を中心に、上田、古志、三条に散らばる長尾氏を連携させようと策謀をめぐらせていた。家督相続以前、栃尾城主だったときに古志・三条両長尾氏は掌握していたので、残る上田氏を服従させ、国内は一応の統一を完成した。謙信は息つく間もなく、北条氏に攻め立てられた関東管領上杉憲政に頼られ、三国峠を越えて関東へ出陣、更に武田軍に追われた村上義清、小笠原長時を匿って善光寺平に武田軍と刃を交えた。こうして北条、武田を敵に回し、更に敵は甲・駿・相三国同盟を結び、謙信を取り巻く情勢は不利になった。謙信と三国同盟側は一進一退の様相だったが、1558年、再び関東管領上杉憲政が逃れてきた際、また将軍義輝に関東管領を進められた際に、律儀な謙信はこれを感謝しつつも辞退している。1560年、今川義元が没し、三国同盟が揺らいだ隙を狙って謙信は11万の兵を以って小田原城を攻め立てた。しかし中々落ちず、長陣を不利と見て退却したが、この際正式に憲政より関東管領を譲られ、上杉を名乗るようになった。謙信はこれ以降、関東鎮定は自分の責任と考えたのか、得るものも殆ど無いのにほぼ毎年出兵した。信玄との川中島合戦(1553-1564)は、歴史的意義はさして高くないものの、近世以来の歴史家によって名はよく売れている。互いに大義名分があるので引くに引けず、知られているように5度善光寺平にて対峙した。謙信は1572年に信玄が西上した頃越中方面に進撃しており、その勢力は加賀、能登に達し織田信長の勢力とぶつかり始めていた。1578年謙信は脳卒中に没し、越後一国は家督争いの為混乱し、今後織田信長の勢力に取り込まれてゆくこととなった。
奥羽大名 伊達氏五代

 

1563年の幕府の御家人名簿を見ると、幕府の重職者400余名連なる後に、当時の戦国群雄が外様衆、関東衆として登場する。ここに見える奥羽の者の名を見ると、7名が挙がっているが、著しく南奥州に偏っている。東北は元々馬養を基盤に成り立っていたが、中世より、東国に近く開拓農場主としての武士を多く迎え入れた南奥の農業生産性が高くなり、北奥との格差が生まれた。先ず北奥だが、南部・津軽氏や、2氏に追われて蝦夷地に逃げ、やがて出羽へ復帰した安東氏の他、幾つかの勢力がそれぞれ2、3郡ずつを占拠するといった状況で、後の豊臣政権下において初めて統一を見る。対して南奥では、強大な支配者達が割拠していた。多くの有力者が一郡規模で支配圏を形成していたが、先述の御家人名簿にそれぞれ特産品を有する伊達、蘆名氏、奥羽探題の斯波氏が土着化した最上氏、大崎氏、の他、馬の産地を抱える相馬氏、南部氏らが大名として挙げられており、彼らによって奥羽の戦国は争われた。1483年、伊達成宗が多くの貢物を持って上洛した。彼はすぐさま政界の要人に挨拶周りをしている。伊達家では成宗の父の代から当主が必ず参勤し、将軍から諱を頂戴する慣わしとなっていた。伊達家の努力は稙宗の時に実を結んだ。当時奥州探題によって統治され、陸奥国には守護が無かったが、稙宗はその陸奥国守護に任じられた。こうして伊達家は頼るべき公権を得た。さらに稙宗は戦国大名制の樹立の為に奔走する。1536年には塵芥集という分国法を制定し、当時直面していた問題に対処した。刑事犯罪、民事の規定を始め様々の項目171カ条に渡るが、「地頭と百姓の間のこと」について書かれた項目では、年貢を納めないことは盗人と同じように処す旨、そして他領への移動を繰り返し禁止している。これは伊達氏の領内の基礎が不安定だったことを物語っており、先の武田氏に似た問題を抱えていたようである。また、当時の百姓は一家が大農業経営体をなしており、地頭も彼らの支配に苦労していたようで、領主とともに支配を進めることとなった。また、伊達氏の収入は他の大名と同じく守護職の課徴権を受け継いだものが基盤であり、一反210文の反銭を柱としていた。家督は天文の乱で稙宗から長子晴宗に移った。稙宗が次男実元を上杉家に婿入りさせるに当たって植宗が晴宗に幽閉されたためである。この父子の間の不仲は周辺大名にも拡大し、7年に渡って争われた。この争いに勝利した晴宗は米沢に本拠地を移して、400名に及ぶ知行の再編成を行った。結果晴宗は家臣団の編成を領国内に承認させることが出来た。また伊達氏は対外的にも婚姻関係を強制させてきたので、周辺の大名にも伊達化を進めることが出来た。1565年には輝宗が家督を継ぎ、南奥羽統一への戦乱に巻き込まれていく。次代の独眼流政宗にはどのように領国を発展させるかという近世大名としての使命が課された。
家臣団と軍事力

 

戦乱の時代にあっては、同族・家臣といえどもすべてが主君に対して絶対の忠誠心を持っていたわけではない。それゆえ、戦力の土台となる家臣の編成や武力の強化は、どの大名にとっても困難な過程だった。この時期に特有のものとして現れてくる、自分の名の一字を文書にあらわして与える「一字書き出し」の文書も、同族・主従の契りを強調することがいかに大切であったかを示している。大名の家によって様々な差異こそあれ、戦国大名の家臣には、おおよそ次のような四つの類型があったと見てよい。第一の上級家臣は、一門衆・一族衆などと呼ばれる大名と血縁関係のある人々である。家の所領が分散しないよう分割相続制がやめられて、嫡子が全所領を単独相続するようになるという14、15世紀における相続形態の変化によって生まれた家臣である。彼らは一族ではあるが、もはや主君と同列の地位にはない。第二の家臣は譜代と呼ばれるグループで、血縁関係が遠く一門衆に数えられなくなった庶流や、早くから直臣化した非血縁の人々が含まれる。大名から本来の所領を安堵されたり新たに給地を与えられたりで、相当の所領を持っている安定した家臣である。第三は外様である。大名の領土拡大過程で服属こそしたが、依然同盟関係に近い状態にあり、軍事関係以外ではほとんど大名からの制約を受けず、寝返りも当然という観念を持ったグループである。第四は直臣と呼ばれる、大名の直轄地から所領を与えられたり禄米を与えられたりしているグループである。家臣団ではいちばん格下に位するが、主家の親衛隊の役目を持っている、旗本直参的な存在である。これらの家臣が、即座に戦時の編成となるよう組織されていたのが、合戦を本分とする戦国大名の家臣組織の特徴と言える。戦国大名の民政が、軍政と切り離して考えることのできないひとつの理由である。では家臣たちが、戦国大名に従っていた理由は何だろうか。端的に言って、武士が主君をいただくのはその保護を受けるためであり、主君が従者を持つのはその援助を求めるためである。すなわち御恩と奉公の封建的主従関係である。戦国大名とその家臣の場合も、御恩の内容が本領安堵や新恩所領の宛行いであることは他の時代と変わらない。しかし知行の形態は、土地を管理する職務に一定の経済的収益権が付帯していた鎌倉・室町時代とは異なり、所領はその土地面積によって表現されるようになっている。戦国大名の家臣たちは、彼ら自身が明確な土地の領有者となっているのである。一方の奉公は、軍役の義務を負うことである。戦国大名の家臣にあっては、軍役は知行高の規模に応じて賦課される。貫高基準と呼ばれ、基本的には軍役の多寡は所領からとれる年貢を銭で表した数値、つまり土地面積に比例していた。これは戦国時代になってはじめてはっきりする形式である。このような方式で定められる軍役の実際を示す資料は少ないが、動員兵数や武装状況の具体的なあらましは、上杉謙信の軍役帳簿「軍役帳」に詳しい。
軍略と軍規
戦国時代に入ると合戦は大人数を動員する総力戦的様相を帯びるようになり、軍略や兵法・軍規はいよいよ重要となった。戦いの場において大量の軍勢を動かす役を持つ者は軍配者と呼ばれ、その手際の優劣は戦の勝敗に大きく影響した。そのため戦国大名たちは有能な軍配者を諸所から求め、重用したという。初期の軍配者はまだ吉凶の占いや儀式の主宰が主要な任務であり、その学問的背景は易学・占筮術など、どちらかといえば非合理的なものであったが、文献上の知識と実践上の経験を織り交ぜたような雑多な知識は、やがて集成して兵法となり、後の軍師の誕生へとつながっていった。しかし戦いの規模が際限なく大きくなるにつれ、やがて古典的な易と兵学だけでは戦を勝ち抜けなくなり、戦国大名たちは新たな戦力・兵器を求めはじめた。そうした要請に沿ってこの時期に出現するもののうち、もっとも注目に値するのが忍びの者と鉄炮である。忍びの者は伊賀と甲賀とが発祥地と言われる兵科で、敵の場内へ忍び込み、敵情を窺い、密事を見聞きし味方に知らせるなど、戦の裏側で暗躍する者たちである。動員数に対して効果は目覚しく、争乱が激しくなるにつれて、忍びの者は全国的に跳梁した。またこの時代に登場し、後の戦術を大きく変化させた新兵器として、鉄炮の存在は見逃せない。種子島銃がポルトガル人によって伝来されるとまもなく全国へ普及し、実戦に使用されはじめた。鉄砲隊はやがて不可欠の部隊として組織され、農兵はいままで以上に徴発されるようになる。侍も百姓も、百姓仕事を離れて軍事に邁進しなければならなくなり、兵農分離が急速に進んで行く契機となった。
大名と農民

 

戦国大名は家臣に所領を封じることで家臣に軍役を賦課した。それゆえ、家臣の所領から年貢を取り立てることはできなかった。しかし領国体制の強化のため、家臣から所領の詳細を指し出させ、領土全体へ一定の税を賦課した。これは指出検地といい、これによって戦国大名は土地と農民の直接支配を行った。検地では軍役を賦課される者、年貢を賦課される者を分けて数え、そのことによって兵農分離が推進されることになった。その土地単位は貫文によって表され、その数値に従って百姓たちは貨幣で年貢を払うことになった。またその年貢以外にも様々な形で税が賦課された。これは守護大名の一国平均役に由来するもので、一国の公的支配権を表すものであった。このような画一税制を組み立てるのは非常に難しいことであった。中世の税制とは複雑を極めるもので徴収される物も多岐にわたり、これを大きく改革する必要があったからだ。これらの税は主に銭によって収められた。しかし銭は悪銭も多く価値が一定しない。そこで、次第に税は穀物で収めさせるように変化していった。また労役も課せられていた。大きく陣夫・普請役・農兵と三種あるが、孰れも大きな負担であった。戦国大名は、勧農政策を行って農民を愛護する一方、その軍役などで農民を縛りつけた。そのことによって自由闊達だった農民の動きは制限されてゆくのである。
領国の経営
戦国大名は領国を安定化させるために領国経営へ力を入れた。治水事業や鉱山事業がまず上げられ、これらは領国からの収入増加を齎した。また、この時代の製鉄技術も著しく進歩し、戦国末には画期を迎えていた。そしてこれらの鉄を用いて作られた鉄砲は新兵器として重要度を持ち、故に各地でこれを巡る駆け引きが行われていた。その中でも信長は、堺の商人を取り込むことで鉄砲の威力を見せつけることになる。また敵への物資流入を止める荷留も行われた。謙信による塩送りの逸話は、東海関東方面から塩の荷留を行われた武田氏に、越後の商人が塩を大量に売りつけたことから由来すると考えられる。また戦国大名に付属する御用商人も活躍していたが、彼らには武士的な側面も非常に強かった。交通政策については宿駅制が行われていたが、これは東国に限られたといっていいだろう。職人把握も行っており、武器の製造などを行わせていた。彼らの生活は貧しいもので、地位は決して高くはなかった。
混迷する畿内

 

畿内の政治情勢に目を向ける。中央の政争で敗死した細川高国に代わり、その追討にもっとも力をふるった細川晴元の被官三好元長は、国内経済の中心地である堺を中心にその勢力を固めていた。しかし高国敗死の翌年(1532)には、元長の主君晴元が木沢長政や三好政長らの讒言を入れて、さらに本願寺証如光教を引き入れ元長を討った。光教率いる門徒勢力は物質的にも経済的にも巨大な力を誇っており、以後信長・秀吉の時代に至るまで畿内の政局を大きく左右する、安定勢力が不在の16世紀中期の空位時代にあって、ただひとり抜きがたい実力を持っていた存在であった。元長打倒に端を発した堺への攻撃は、しかし元長が斃れても収まることはなかった。急進化した農民たちの一揆勢は証如の思惑を超えて、やがて各地で晴元・木沢長政派と対立を始めたのである。細川晴元・木沢長政は危急を案じ、一向宗と対立していた法華宗徒の力を利用してこれを鎮圧した。この戦いで山科本願寺は灰となり、証如はその本拠地を大阪の石山に移した。一方、晴元側と一向一揆の対立で漁夫の利を得た法華宗は、にわかに京都で力を伸ばし町政を握るようになっていったが、やがて領主から独立しようとする動きを強めるにつれて圧迫は強くなり、ついに天文法華の乱となった。領主側には叡山の衆徒が加わり、法華宗は町衆勢力を動員してこれに対抗したが、まもなく京都の法華宗は完全に敗北し、宗徒の多数は堺の末寺に敗走した。こうして農民・町衆らの動きは強引に弾圧され、以後中央地帯の実力者として君臨したのが、三好元長の子長慶であった。長慶は将軍義輝・旧主晴元らの旧勢力と対立・和解を繰り返しながら、本国阿波をはじめ讃岐・摂津・山城・河内・和泉を次々と制圧し、ついに将軍義輝を傀儡化して京都を押さえることに成功する。また1559年には入京してきたヴィレラ神父らに布教の許可を与え、飯盛・三箇城下でキリシタンを篤く保護した。またこの時期に威力を奮った戦国群雄として、松永久秀が居る。彼は長年相談役として長慶を助けてきた家臣であるが、晩年には堺を握り、主君長慶と肩を並べるほどにのし上がった。やがては主家の打倒を企て、1563年には長慶の子義興を毒殺、ついで長慶の弟安宅冬康を讒してこれを殺させた。また長慶が死ぬと、将軍義輝をも殺している。こうした久秀の急進に対して、三好三人衆と呼ばれる三好長縁・同正康・岩成友通らが制圧に乗り出したが、久秀は反撃に三人衆陣する東大寺大仏殿に火を放ち焼き払うという暴挙に出た。世に言う久秀の三悪事とは、これら三好家への反抗・大仏の焼却・将軍の謀殺である。しかしこうした勢力者たちもその発想は古く、戦国大名らしい領国経営も示さないまま傀儡将軍を頂く形の政治掌握に終始し、少しも畿内の事態を解決することはできなかった。中央の政局混迷の解決は、信長の進出を待たなければならなかったのである。
村の姿
畿内が混迷している主な理由は、古い公家や社寺勢力、従来の支配体系を守ろうとする守護大名やその被官といった勢力が入り乱れており、有力者がこれらの勢力と妥協せざるを得ないところにあった。そうした中で新たな歴史の方向を示したのは、一向一揆とその頂点にたつ本願寺であった。すなわち、農民的勢力の伸長である。ところで、当時の農民あるいは畿内農村の姿はどのようなものであったか。その村落生活の実情を知る上で、九条政基がその所領である和泉国日根野荘へ下向し、荘務を司った4年間(1501-1504)に綴った記録「政基公旅引付」が貴重な手がかりとなる。本章ではこの日記記録を元に、日根野荘の農民生活を概観していく。日根野荘は日根野村と入山田村の二村からなり、あわせて三十町程度の反数(免田を除く)を持つ九条家の荘園である。村人は1000人から1500人程度であり、男子は400人程度と推定される。農民構成は、番頭・職事という有力百姓、公事屋と呼ばれる中堅百姓、脇百姓・小百姓・下男下女の下層百姓という三階層から成り立っていた。番頭は、荘園領主が集落の有力者を任命するもので、領主命令の衆知や神事・祭礼の主宰を主な職務とする、惣村自治の中心的存在である。その補佐役が職事である。成人男子への出役の命令は個人別ではなく家別に出され、その出役する家のことを公事屋と呼んだ。公事屋の維持は村にとって死活問題であり、非常な関心事であった。裁判は原則として領主が行う決まりであったが、実際には個々の農民による場当たり的な処置が横行する村裁判であり、領主はその慣習的な規制に対して事後承認の形で肯定するという、言わば領主権力の完全には及ばないところであった。また重要な生活設備である用水は、その施設を守っていくための必要上、領主支配を超えて近郷・近村と連合する必要を生み、地域的なつながりを強化した。
西の雄将 毛利元就

 

毛利元就は、元々安芸の山間・吉田荘の国人であった。大江広元を祖とする名族であったが、室町時代の終わりごろには宗家吉田の他、麻原や坂といった分家も力を付け、互いに衝突を繰り返した。しかし応仁の乱を経ると麻原氏を滅亡させ、坂氏を臣従させて宗家の権限は確立された。この毛利氏の二男として生まれた元就は、有力家臣の井上氏の庇護という屈辱的な生活を送ることになる。この中で元就は隣国・吉川氏の娘を嫁とした。しかしこのころ、当主で会った甥の幸松丸が俄に亡くなり、毛利家の中で後継争いが起こった。元就は井上一族の力を借りると、対抗勢力であった弟の相合元綱を倒して毛利家の当主となる。さて、南北朝の終わりごろより安芸では国人衆の連合が成立していた。これは共同防衛や租税保障を目的としている。中世国家の公権は国単位で分割されており、国人の支配も安芸という国を単位として成立していたのである。また1532年、毛利家の重臣たちは用水管理・負債者の追及・逃亡下人の捕縛について、領内へ毛利家の権力の立ち入りを許可する証文を提出した。この三カ条は大名権力の基礎といえ、このことは毛利氏の戦国大名化への道を築くことになる。そのころ、中国地方では山陽の大内氏と山陰の尼子氏が鋭く対立していた。この中で元就は巧みな外交手腕で勢力を拡大する。両氏の衰退に乗じて元就は安芸を南北に貫くように勢力を得、またこれを統制するために吉川氏・小早川氏に二男・三男を送りこんで傘下に収めた。吉川氏は山間部に勢力を握っており、また小早川氏は瀬戸内に勢力を握る国人である。このように宗家の権限を確立した元就は、ここで専横を極めた井上一族を誅殺。この機に乗じて家臣から主な権限を奪い、毛利家の集権を確立した。1551年、大内氏は陶晴賢の謀反によって崩壊する。1555年、元就はこの晴賢との戦いを決意して厳島で決戦を行い、これに大勝した。この勢いにのって元就は周防・長門へと侵攻、1557年には大内義長を自刃させることに成功した。しかし、周防・長門の山間部の土豪たちが一揆を起こし、元就はこれに苦しめられる。結局、分裂工作によって鎮圧することになるが、農民たちを弾圧せねばならなかった所に戦国大名の矛盾がある。このころ家督にあったのは、嫡男の毛利隆元だが彼は家臣の突きあげに苦しんでいた。軍事緊張の中で勢力を拡大した毛利氏の家臣は、軍事拡大による利益享受を欲し、故に侵略は止められない状況だったのだ。これに対し元就は家臣と唐傘連判状を作成するなど家臣統制に努めたが、この事は却って毛利氏の体制の弱体ぶりを表すものとなった。毛利氏は防長攻略のころから、家臣に知行を与える前にそこを検地するようになっている。このことで家臣の領主化を阻止するものであり、軍事緊張の中で毛利氏による一貫軍事動員体制構築が要請されたことに起因する。その上で毛利氏は反銭帳を作成し、家臣の所領をこの反銭の貫高によって一括表示するようにしたのである。しかしこのことは毛利氏が現地掌握を行わぬことを前提としており、この大きな矛盾を抱えたまま統一政権と毛利氏は相対することになった。防長掌握後、毛利氏が重要視したのは石見の銀や出雲の鉄といった資源である。毛利氏は長い時間をかけながらも尼子氏を滅亡させてこれを掌握した。この際には隆元を亡くすといった痛手も蒙っている。
九州四国の大名

 

応仁の乱以降、九州の権威であった少弐氏も九州探題も力を失い、此処での権威は消滅していた。しかし大内氏の侵入によって九州は在地勢力の拡大を妨げられることとなる。大宰府をおわれていた少弐氏であるが、九州の在地勢力に担がれ、応仁の乱の隙をついて大宰府を奪回している。しかしこれも一時のことで、大内氏の攻撃に耐えられずに当主政資は自刃を余儀なくされた。しかし三男・資元は大内氏の支援を得て再起し、肥前に拠った。このころ大内義興は上洛を計っており、それゆえここでは一時講和が結ばれることになる。これは大内氏の存在を許したと言う点で在地勢力のもくろみは達成されなかった。肥前では、南北朝に活躍した菊池氏が断絶している。菊池氏は同じ肥後の阿蘇氏や相良氏、豊後の大友氏によって度々介入を受けた。これは菊池氏内部の一族内紛が激化したからであるが、最終的には大友当主・義鑑の弟・義武が養子として菊池氏を継ぎ、直系はここに滅亡した。大内義興が死ぬと、少弐資元は拡大を開始。大内氏は一時衰退することになる。だが、大内氏の工作によって少弐重臣・龍造寺家兼が大内氏に降ると少弐氏も下ることになった。しかし大内氏は少弐を越える大弐の地位を手に入れると、資元を攻め滅ぼした。子・冬尚は仇討ちとして龍造寺家兼を攻撃したが破れている。また大友氏も博多を巡って大内氏との対立を先鋭化させていた。ところが、大内氏は陶氏の反乱によって崩壊。大内氏による九州支配は幕を閉じることとなる。一方、南九州では島津氏が一族の内紛に苦しんでいた。島津氏は海外貿易による利益を得ていたが、これは室町幕府から特権を得ていたからである。この混乱の中、島津氏を統一したのは貴久である。さらに島津氏は薩摩大隅日向の統一をもくろむが、これを達成したのは子・義久の代であった。肥前では龍造寺氏の勢力が拡大していた。家兼の死後、大友氏の介入を跳ねのけた龍造寺隆信は一気に勢力を拡大、少弐冬尚を滅ぼして戦国大名へと成長した。大友家では、二階崩れの変によって義鑑が殺害され、義鎮が当主となった。かれはキリシタンとして有名であるが、二面性のある屈折した人間だったようである。彼は反対派を粛清すると肥後へも侵攻、叔父・菊池義武を殺害して肥後守護となっている。陶氏の反乱によって大内氏が崩壊すると、弟・義長を大内家の当主として送り込んだ。また大内氏の崩壊によって空白となった北九州へ勢力を広げ博多も支配している。毛利氏によって大内氏は滅ぼされることになるが、この際に援を求めた弟・義長を拒否しているが、これも大友氏が北九州を掌握するためだったと言える。この結果、大内氏は九州の九国のうち六国を掌握することとなった。しかしこれは一時的なことであり、毛利氏による九州侵攻に義鎮は苦しめられることとなる。九州ではキリシタンの活動も活発であった。九州ではポルトガルとの貿易も活発であり、特に鉄砲や火薬が珍重された。また1549年、ザビエルの鹿児島来航に始まるキリスト教布教も南蛮貿易と斬っても切り離せない関係にあったと言える。ザビエルは島津氏には受け入れられなかったが、平戸の松浦隆信には歓迎されている。また大友義鎮(宗麟)については、最も偉大な友として彼を呼んだ。だが、宗麟が洗礼を受けたのはかなり後のことであり、貿易を行いたかったという下心は否定できないだろう。一方、四国に目を移す。四国でも応仁の乱を境として細川氏の守護領国体制が崩壊。その中で土佐の長宗我部氏が勢力を拡大した。長宗我部氏は名主層を一領具足として組織化。養子縁組や武力制圧などを用い、天正年間には土佐の統一に成功している。しかしこれらを見ると、西国の大名が戦国大名へと脱皮するのはかなり遅いと言えるだろう。
城下町の形成

 

城下町の形成は、戦国時代の建設的な方向を象徴すると共に、諸大名たちの戦力の根源として、あるいは領国経営の拠点として、歴史の舞台にクローズアップされてくる。中世の城と町は、いくつかの段階を経て変わっていった。各段階の城と町のありかたは、それぞれの時期の政治や社会経済のありかたと微妙に対応し合う関係にあった。その第一段階は、鎌倉時代の地頭・御家人の館(たち)と定期市の結びつきまでさかのぼる。武士の館のすぐ近くには定期市が開設されており、年貢米を売り払って武器や骨董品、日常必需品を購入するという結びつきがあった。こうした両者の関係の中に、後世の城と城下町の原型を見いだすことができる。城と町の関係が第二段階へと移り変わっていったのは、室町から戦国にかけて、下剋上や弱肉強食が日常茶飯事になった時である。いくさという目的のために城は山の上にうつり、その構えも複雑で厳重なものとなった。こうした山城の築城は、それまで農村に広く散在していた家臣たちの、領主館周辺への集中をともなった。家臣団の城下集中がすすむと、かれらの膨大な軍需・民需物資への需要供給をめぐって、ほうぼうから商人や職人が山城の下へ集まってきた。こうして自然発生的にできた町が、根小屋・山下町である。戦国もなかばを過ぎ、天下の形勢が定まると、一国ないし数ヵ国にわたる広大な領地を支配し、経営しなければならなくなってきた諸大名たちにとって、辺鄙な場所につくられた山城と館は、なにかにつけて不便であった。領国全体の民政、経済的発展を考慮すると、城は領内の政治・経済・交通上の要地に構えられるべきであった。さりとて、軍事をおろそかにすることもできない。このような戦国後半期の諸大名のジレンマにいちおうの解決を与えてくれたのが、いわゆる平山城であった。そしてその下に楽市・楽座令などによって形成されたのが、城下町である。平山城の構築、家臣団の城下集中、城下町など都市の建設は、戦国大名の領地支配の、絶対的な条件になってきたといってよい。支配の拡大と安定にとって、これら三つの要素は、つねに一定のバランスを保つことが必要であった。16世紀なかば行こう、諸大名の商工業者に対する各種課税の免除、保護措置にかんする史料が急激にふえてくるが、これは商工業者の城下集中政策に関連していた。楽市・楽座令は、諸大名の城下町など都市建設、そのための商工業者確保の政策を、もっともあからさまに示したものといわれている。同令は、城下町の建設や経営のために、市座の独占や、ギルド的な座商人の否定を目的にして発布されたものであるとする点では、ほとんどの研究者の意見は一致している。しかし多くの楽市・楽座令がかかげていたいろいろの条文のうちのどこに重点を見いだすかにより、いろいろな見解が分かれる。それを大まかに整理してみると、三つくらいに大別できるが、本書では次の説がもっとも同令の本質に迫ったものではないかとされている。すなわち、同令は、戦国大名が推し進めていた商農・兵農分離政策の一環として、都市や商工業者に対しておこなった、再編成ないし統一政策として理解すべきであるとする説である。いずれにしても、楽市・楽座令によって城下町には領国はもちろん、他国からも商工業者が集まってきたのは事実であった。しかし、城下町の一見自由な空気にあこがれて、百姓までが田畠をすてて移り住むようになると、戦国大名たちはそれを許さなかった。本書では、城下町の具体例として、東の小田原、西の山口、そして越後春日山が挙げられている。城下町の生活様式については、あまりに平凡な身近な問題であるせいか、適切な史料が意外と少ない。しかし、地方城下町に断片的に残された手がかりを再構成してみると、それは想像以上に貧しい姿であったと考えられる。屋根も草ぶき、藁ぶきがほとんどであり、たてつけも悪く、床には莚(むしろ)を敷いただけであった。戦国のころは、城・武士と城下町とは、それぞれが孤立してまったく別の世界をなしていたといえる。これは、城壁の中に領主・商人・職人・農民たちがともに住まっていた西欧の城下町との相違点であるといえよう。日本では、まず城と武士たちの屋敷があって、城下町は城の外に武士たちの必要からつくりだされるという経過をたどったのに対し、西欧の城は、領主だけでなく。商工業者や農民たちの安全のためにつくられた例が多い。日本と西欧の城や町の構造上に見られた違いは、風土的・地理的なものではなく、成立事情の差にもとづくところが大きいのかも知れない。両者のちがいは、都市自治、住民の意識といった点になると、いっそうきわだってくる。日本では、都市の自治や自由というのは例外的なものであった。15世紀から16世紀になると、城下町はさらに大きな転換を迫られた。城は軍事的な観点ばかりではなく、政治的・経済的観点が強く考慮され、領民に対する威圧感が重視された。戦国の山城や平山城はこうした要求をみたすことがむずかしくなっていた。戦国の戦闘中心の、いわゆる「城堅固の城」は、領内統治のための城、すなわち「国堅固の城」へと変わっていったのである。

戦国の家法

 

戦国時代の主従の法、つまり主従関係のありかたは、当時の主従道徳のありかたと深く関係し、法律書として規定されていたのではなく、主として慣習法という形で存在していた。下剋上の世相は応仁・文明の乱後ことにはなはだしくなり、従者の仕官がえや、主家をとりしきったり、あるいは反逆して主家をのっとったりすることさえ頻々とみられるようになるが、こうした新しいタイプの行為が当時の武士たちのあいだで容認されていたのであろうか。下剋上や反逆行為をささえ、それらを容認する倫理とはいかなるものだったのだろうか。「甲陽軍鑑」などの史料によれば、讒言などにより、主君が家臣を誅殺するのは、当時かなりありふれた事件であった。また、オルガンチーノという宣教師の書簡によれば、召使いは誅伐の前に反逆するという場面が語られている。反逆があいついで成功するうちに、反逆そのものが公民権を得、いわば大っぴらになってきたのである。それでは、誅伐に対する反逆権、またそれをささえる倫理とは何か。それは「男道」とよばれる男子(武士)のまもるべき道、男のあるべき姿の根幹をなす要素であった。与えられた恥辱をきよめるのが男道であり、無実の罪や不当な過刑などといった主君側の与える恥辱に対しては、従者といえども、その恥をきよめるのが男道にかなうことだったのである。すべての反逆が男道にかなったものであるというわけではなかったが、そうした名分をもつ反逆がつみ重なるうちに、反逆一般が「名誉を失わなく」なるということである。主君側としては、反逆予防の政策として、不忠者の処分規定を設ける反面、忠信者の特典事項をきめ、喧伝している。利をもって忠を誘ったわけである。外には戦争、中には下剋上の風潮という混乱と不合理のなかで、戦国大名は、まず秩序と合理性を象徴する成文法を制定施行して領国支配にあたらざるをえなかった。当時のことばで、この成文法は「法度」「国法」「分国諸法度」あるいは「国の法度」などといわれた。戦国の家法には個別法規と基本法典とがある。個別法規は必要に応じて随時制定発布されたもので、守護大名も発布していた。これに対し戦国時代の特色は、大名たちの家に基本法典が作られたことにある。基本法典は、今日では八家の法典が残っている。鎌倉幕府の制定した「御成敗式目」がなお法の命脈を保ち、かつ必要に応じて個別法典をもって対処できたにも関わらず、このような法典制定が必要とされたのは、下剋上の風潮に対応して、主君の側から家臣を規制し匡風するためであった。こうした法典制定は一時的な効力しかもたない個別法規でおこなうよりも、恒久的効力をもつ基本法典の形にまとめるほうが、より効果的であったのである。法度の制定は、制定者がそれ相当の権力と権威をもつ者でなければできなかった。戦国の家法の主なものが、分国法と一般に呼ばれるのは、その制定者が分国の主であったからなのである。法典の制定は主君の側から家臣を統制する意味あいが深いが、法が一方的な家臣統制の意味しかないならば、一般的に従者の抵抗の強かった戦国時代に法典の制定は不可能だったはずだ。それでは、家臣にとって成文法はどのような利点があったのか。それは、法は従者のみならず、主人をも規制する効果があったからだった。すなわち、成文法は主君の恣意による処罰を規制する役目を果たしたのである。法が主君を規制した積極的な例としては、家臣による法遵守の誓約により効力を有した毛利元就の記請文や、法制定の主導権が家臣にあった近江の「六角氏式目」がある。戦国の家法は、「御成敗式目」から承継された条目も多かった。それというのは、一つには式目が鎌倉以来武士の法典として尊重されてきたことによるものであり、もう一つには鎌倉時代から戦国時代までは、武士たちの生活のしかた、社会体制に共通する面が多かったことによるものである。式目と戦国の家法の違いの一つは文体である。式目はいちおう漢文で書かれていたが、より多くの人々に知らせるためには仮名文のほうがいっそう適切であったといえる。戦国の家法の中には仮名まじり文のものが見られる。戦国の家法の内容について、本書では甲州法度を具体例として説明している。地頭の恣意を抑制する条文(一条)や、家臣たちの無断での同盟の禁止(十条)などが見受けられる。甲州法度の十二条は喧嘩両成敗を規定したものである。喧嘩両成敗法の意義としては、過剰な威嚇により喧嘩を予防する意図と、喧嘩当事者の理非究明の労をはぶく効能とが指摘されている。また同法14、23、24条には寄親・寄子制の規定がある。この制度は、戦国大名の軍事組織の根幹で、一族を惣領が統率する従来の方式にかわって、主君が有力家臣を寄親とし、これに小武士を寄子として配属したものであった。これは崩壊しつつあった族制的結合にかわるものとして、また農村の百姓や、牢人とよばれる他国から流浪してくる武士などを広範に軍事組織に組みこむためにも、たいそう便利な制度であった。甲州法度が目指すものは、きびしい秩序の確立と家臣の統制であったが、26最終条項で家臣に対する規律の要求に対する晴信の譲歩も示されている。戦国家法の根幹は主君と家臣の問題を規定する「主人の法」であったといえる。それに対し、民政に関する規定を「領主の法」と呼ぶとすれば、それが独立し、強力に全域的に施行されるのは安土桃山時代以後のことであった。
戦国女性

 

戦国時代、女性は男性の所有物であり、その地位は室町に比べて低下したといわれている。娘は隷属度が高く、男性より高価な財産であった。借金の形に女性を金貸しに持っていかれる話もこのころには存在した。結婚も厳しく制限されていた。他国と通づる結婚は不可であった。戦国大名にとって、女性は政治のための道具であり、商品であった。信長・秀吉・家康の時代になると、特に政略結婚が目立つようになった。嫁いだ女性は実家のスパイとして暗躍することもあったという。夫婦になっても気が抜けない。「女に心を許すな」という諺も生まれた。女性が嫁ぐと、周囲の監視は厳しくなったという。この時代の女性は不遇なことも多かった。結婚すれば居館の奥に閉じ込められ、政争に巻き込まれて若くして生を終える女性もしばしば存在した。恋愛結婚がないわけではなかった。「牛窪記」では、悲劇であるが情熱的な戀愛譚が語られている。彼女たちにとって、キリスト教は魅力的であった。一夫一妻制、結婚に際して女性の意志を尊重するなどと言った相対的な優遇があったからである。百姓・商人・職人・下人など、妻を2人以上持つ経済的余裕が無い者たちにも、キリスト教は受け入れやすいものだった。彼ら一般労働者たちは、男女問わず性に開放的であった。働きながらざっくばらんに歌い、男性に語りかけ、晴れの日(祝日)には祭りや踊りで集団で性欲をもてあました。下層社会には、このような健康で自由な女性の姿があった。
東国の大名 織田・松平

 

尾張・三河・遠江・駿河といった東海道の諸国は、京都―鎌倉間を結んでいたので、両国の文化や経済に接する機会が多かった。尾張は中国の四川省にある州名から由来した蓬州という異名がある。報酬は、蓬が茂っているからとも、不老不死である蓬來山―蓬が島になぞらえていった名称ともいわれている。いずれにせよ尾張が肥沃な大地をもつことが示されている。この地方は農村を支配する地侍・土豪が畿内に比べ強い力を持っていた。大名・有力領主は、地侍・土豪層を組織することにより、強力な軍事力を引き出すことができた。天文3年、織田吉法師(信長)が生まれる。信長は信秀が卒するやいなや、尾張守護代の織田広信に先手を打って快勝を収めた。信長の輝かしい戦歴はここから始まった。今川義元は、三国同盟によって甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と和を結び、尾張を攻め打って上洛を目指していた。今川軍は25000、あるいは4万と言われている。これに対して信長の軍は貧弱であった。ある家臣は今川氏の軍門に降るべきと言い、別の家臣は決戦すべしと言った。信長はこれらの意見を参考にせず、人を使って集めさせた情報により自信で作戦を計画した。そして夜に田楽狭間に奇襲をかけて、今川義元を破った。これがかの有名な桶狭間の戦いである。信長は足利義昭を後援し、征夷大将軍に就任させる。義昭はこの計らいに痛く感動し、彼を管領に任命しようとしたが、信長は辞退した。それが当時の世では役に立つものではないということを理解していたからである。信長35歳。天下統一への道のりはまだ遠い。
 
天下統一

 

日本は近代以降は典型的な農業国であった。そのため季節が正常に循環することを是としていた。だが実際には、台風や地震などの天災によってそれは脅かされた。そのため、「歴史は繰り返す」という言葉が生まれた。歴史は段階的に進歩していくものでなく、しばしば下降するものであると近代以前は考えられていた。いくつかの日本独自の条件も、この考えを促進した。その条件とはなにか。まず一つは、地理的条件である。日本は島国であり、土地が限られている。人間の所有欲が限定されるのであり、他国の領土侵略的な発展を遂げることが難しかった。第二は宗教的条件である。日本の仏教はインド―中央アジア―中国―朝鮮というルートで日本に伝来した大乗仏教である。小乗仏教との違いは、在家の仏教を認めるということである。大乗仏教はすべての国民を救済の対象とするので、あまねく広まり、政治・経済・思想に大きく影響した。末法思想も、下降的歴史観に宗教的な解釈を与えるのに適したものだと考えられる。第三は政治的条件である。日本は天皇による統治が古くからなされてきた。専制的な国家権力・身分制の確立は、前近代における民衆の自由な活動を阻んだ。民衆は権力に支配され、未来に期待を抱くことができなかった。変革の理念は未来に対して指向を持たず、常に過去に向けられていた。古代では大化の改新を規範にし、中世では院生時代、延喜・天暦時代を追念した。明治時代はさらに古くなり、神武創業の時点まで後退した。日本において、革新は復古と不可分であった。「天下」は大化の改新において多用された。天皇中心の支配体制の目標は天下公民であった。中央集権的な国家体制が志向されるときは、「天下」は想起されること易い。安土・桃山という時代は、新しい意味での「天下」を作り出し、その思想の最も強烈な時代であった。「天下」の持つ地理的・宗教的・政治的条件を克服し、その概念を拡充させた。過去から完全に決別することはできなかったが、すべての階層の国民が未来に目を向けた変革を目指し始めていた。夢を持ち、志を抱いた人間のうち、天に選ばれた者が台頭する。安土桃山はそんな時代であった。豊臣の滅亡、家康の鎖国によって日本は再び閉鎖され、「天下」は終わる。しかしながら、その間に培われたものは、日本を農民生活の根底から立て直した。それはまさに第二の「天下の草創」であった。
鉄炮とキリシタン

 

1543年(天文12)薩南の種子島に一石のポルトガル船が漂流した。当時西村の主宰であった織部丞が会話を試みた。織部丞は自分では手に終えぬと考え、シマノ領主種子島時堯と恵時に報告した。この時に商人から伝わったのが鉄炮である。日本人は鉄炮を、蒙古襲来の当時から知っていた。元軍が用いていた「てつはう」が「てっぽう」の呼び名の起源であると言われる。この他、明にも鉄炮は伝わっていたが、種子島銃より遥かに旧式で、命中率の低いものであり、流行らなかった。そのため種子島の鉄炮は日本人にとって新鮮であった。1544年(天文13)将軍足利義晴は種子島銃の製造を命じた。義晴は積極的利用までには至らなかったが、このとき国友村で種まきされた鉄炮製造は、次第にその芽を成長させることになった。後に信長は鉄炮を知り、鉄炮隊を組織する。種子島伝来から6年目のことであった。彼らは偶然日本に流れ着いたのではなかった。マルコ・ポーロの「東方見聞録」から東国の理想郷を目指した西洋人の旅は始まった。次第に目的は中国との貿易という現実的利益に変更されていく。ポルトガル人による日本の発見は、日本によるヨーロッパの発見でもあった。長らく日本で信じられていた本朝・天竺・震旦の三国的世界観が打ち破られ、真に世界的な視野が開かれたのである。日本人は西洋の思想とも邂逅した。1549年(天文18)キリスト教イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に迎えられる。イエズス会は反動宗教改革の運動に属するものであった。領主島津貴久は貿易のためにキリスト教を利用しようとし、ザビエルは布教のために貿易を利用した。この行き違いが、鎖国にわたるまで日本人とキリスト教徒の禍根となった。ザビエルは人間味があり、支配者より一般大衆を大切にし、外国人には慈悲深く接した。ザビエルも日本人を「友誼に富み、概して善良で、悪気はなく、名誉を尊ぶ」と絶賛した。やがて僧侶からの圧力により、布教禁止と違背者の死罪が命じられた。ザビエルは鹿児島を出て、山口に向かい、次に京都を目指した。

京の町 堺の町

 

応仁の乱によって潰滅した京都ではあるが、商人・手工業者・土倉衆よりなる町衆が力を握り、祇園会の復興なども行われた。またここには地方より戻ってきた公家衆も交わりを深めている。町衆は土倉衆の莫大な富と公家の文化蓄積を元として市民としての道を歩むのである。その彼らが独立を明らかにしたのは、法華一揆である。一向一揆と同様に語られる物だが法華一揆は一向とは大きく離れたものであり、一向一揆が農民主体であったのに対して法華一揆はと市民が中心であった。当時、各地には商業市場が形成され、農村と異なる都市が形成されており、そこには矛盾が抱えられていたのである。一向一揆は講組織を中心とした農村の結合を基盤としている。その中核として本願寺があったが、国人衆がこれに加わると政治性を帯び、ついには加賀を占拠する。既に一向一揆を抑えきれなかった本願寺だが、細川政元の計らいによって彼らを門徒に組み込み基盤と為すことに成功している。同時に細川氏との緊密な関係も形成された。天文元年、細川晴元の臣・木沢長政は畠山氏の攻撃を受けた。独力での排除が不可能と見た晴元は、本願寺に救援を頼んでいる。本願寺の檄を受けて大蜂起した一向衆は忽ち畠山氏を滅ぼし、晴元と不和であった三好元長も攻め殺し、さらに大和興福寺などの焼き討ちを行った。この力を恐れた細川晴元は、転じて一向一揆を攻撃すると同時に法華一揆の発生を促したのである。法華一揆はこのように政治的要請を以て起ったものであるが、洛中地子銭の不払いを宣言するなど、反封建権力闘争へと進んでゆく。この法華一揆は天文5年、六角氏と延暦寺の攻撃を受けて潰滅を余儀なくされた。この一揆の結果、都市の中の封建体制は確立され、階層分化が進んでゆく。その点で国一揆的であった。この法華衆の中には本阿弥・後藤・茶屋といった後々の文化をになってゆく人物もいた。また、画家・狩野派も法華の宗徒でありその影響を大きく受けている。一方、堺も天文元年を境として大きく変化している。この年、大火によって大きく損傷した堺は、この後本格的都市として発展してゆく。会合衆と呼ばれる有力商人の自治が行われ、その姿はフロイスに"東洋のヴェニスと言わしめている。その一方で、三好氏と深い関係を持っていた。三好氏は細川氏と争ってこれに勝ち、天文21年以降は京都の権威として君臨していた。しかし当主・長慶死後は松永久秀と三好三人衆に分立し争い、堺の会合衆はこの中で調停の役割も果たしたりした。
天下人

 

京の朝廷は当時、非常に窮乏していた。即位・大葬すら出来ぬ有様であったのである。天文11年、御所の築地が壊れ、禁裏はその資金を諸国へ求めた。これに対し、織田信秀は修理料を献上し、その名を知らしめている。他にも信秀は伊勢神宮などへの献金を書かさず、伝統的慣習を尊重する態度を示しており、このことが京の町衆に親近感を与えることになる。この織田氏は元来、越前・織田剣神社の神官の子孫であったと推測されている。その後朝倉氏同様、斯波氏の守護代として終わりに土着したようである。その後、大和守家と伊勢守家に分裂した織田家だが、三河松平氏や美濃斉藤氏の拡大によって兵威を必要とした中で、大和守の家臣であった信秀が力を伸ばした。信秀は殆ど尾張を統一すると、天文20年に亡くなっている。信秀の子として生まれた信長であるが、その素行は非常に悪く、異装のかぶき者であった。しかし同山には評価を受けている。このころ、松平家より今川家に送られた人質・竹千代を織田家は強奪している。当主・広忠が若くして死すと、松平家は今川家によって乗っ取られ、やがて信長の兄・信広と交換されて竹千代は今川家に向かう。またほぼ同時期に同朋衆・竹阿弥の元を小猿という少年が永楽銭一貫文を持って脱走している。こお永楽銭は明の銭であるが、日明貿易の結果この貨幣は非常に多く流通していた。彼はそれを更に針に変え、行商を行いながら東へと向かい、今川家家臣・松下之綱の元を経て信長の草履取りとなる。秀吉の生誕については、様々な説がある。とりわけ、猿を神獣とする日吉山王と関係させるものが多い。この伝説を眺めてみるに、どうやら貴種流離譚となっているようだ。信長が家督を継ぐと、尾張国内で反対する同族を討ち、尾張を固めている。そのなか、永禄2年には上洛し、京を見物し将軍にも謁見している。
信長入京
1560年、信長は桶狭間の一戦に今川義元を斬り、天下一統の戦列に加わった。この戦いに勝利したことで当面東の憂いは無くなり、信長はいよいよ西のかた京都を臨む。その手始めに攻略すべきは、隣国美濃であった。1561年5月、信長は清州の斯波義近の背反を理由に美濃へ出兵するが、斎藤氏に阻まれ功を奏せず一度撤退する。以来、信長は美濃攻略にあたって極めて慎重な計画を練った。まず三河岡崎の松平元康と結び、西上のための背後を固めることにした。元康は依然今川氏の属将であったが、水野信元の仲介で義元の暗愚な後嗣氏真と絶ち、清洲で信長と会盟する。このとき元康の名を家康と改めている。清洲の会盟は織田氏の西面への発展の足がかりであると同時に、徳川氏の東国支配の第一歩ともいえる盟約であり、今後の東方の展開に意義深いものとなった。また信長は、懸案の美濃経営のためには要地・墨俣の占領が不可欠と判断し、1566年9月、墨俣築城を計画する。妨害する敵の攻撃を防御しながら築造の資材を渡河運搬し、木曽川の対岸にある敵地に、短時間で城塁を築こうという難事業である。これを進言し見事成功させたのが、今は信長に仕える木下藤吉郎秀吉であった。墨俣築城も成り準備が整うと、信長は美濃経略に先立って近江の浅井長政に通じ、妹を妻とすることを申し入れた。ついで、美濃平定の暁には隣国として堺を接することになる甲斐の武田信玄ともあらかじめ和平を結ぶ。通婚政略によって浅井・武田氏と平和的関係を築き、美濃攻略の布石としたのである。そうして1567年8月、美濃の斎藤氏で当主竜興と三人衆との軋轢が生じたことを契機に信長はふたたび美濃を襲い、ついに竜興を伊勢長島に退けた。また居城を小牧山から稲葉山に移し、井ノ口を改めて岐阜と称した。信長が墨俣築城を計画していたころ、京都の情勢は大きく変化していた。1565年には将軍義輝が松永秀久によって謀殺されるという事件が起こっている。この弑逆行為は、諸国の群雄たちに京都に馳せ上り三好政権を打倒する名目を与えた。同時に危険の迫った義輝の弟義昭はただちに京を逃げ出し、各地の諸将に協力を求めながら遍歴する。そうして1568年、岐阜城を中心に威勢を張る信長のもとに御内書が届いた。信長はこれを機会に義昭を迎える決意を固める。このとき義昭の擁立に一躍買い、連絡の推進役となったのが明智光秀であった。義昭を迎えて入京の大義名分を勝ち得た信長は、1568年9月7日、美濃・尾張・伊勢・三河・遠江五カ国の兵を率いて岐阜を発した。この大軍の前に、京都への道はたちまち開かれた。三好三人衆は軍容に恐れて退き、9月26日、信長はついに京の地を踏む。10月には摂津の池田勝正を下し、ついで高槻・茨木の諸城も下してしまった。このように迅速な畿内平定が成ったのは、もっとも敵対するはずであった三好党の内部が三好三人衆らと松永秀久らとに分裂して抗争し、秀久が早く信長に降伏していたことが大きい。当初の大義名分論に立脚すれば、義輝暗殺の犯人秀久と和を結ぶことは許されないはずであるが、信長は反対する義昭を抑えてついにこの罪を許している。この一事は、信長の義昭擁立がまったく入京のための手段に過ぎなかったことを示していると言える。
天下布武
1568年10月18日、足利義昭は征夷大将軍に任じ、いよいよ幕府を再興することになった。一方信長は畿内を平定すると、軍費調達のため摂津・和泉には矢銭を、奈良には札銭・家銭などを課した。信長はここでも財源として都市商業に注目したのである。しかしこのとき堺だけは信長の課銭に応じなかった。ただちに信長から堺を攻撃する旨が通達されると、堺はこれに強く反発し、合戦の準備を始める。信長はこの反抗に柔軟かつ慎重に対応し、代官を置くことを義明に求めただけで、いったん岐阜に引き上げた。1569年1月、松永秀久が岐阜の信長を訪ねて大和を留守にしたことを契機に、三好三人衆は京都を襲い、義昭を本圀寺に囲んだ。信長は飛報を得て出陣し、松永秀久を伴って入洛、三人衆は破れて阿波に逃れた。このとき信長は、三人衆の活動の本拠地となり、彼らを援助した堺を三人衆と同罪の逆徒として責め、威嚇した。こうして堺は信長の要求を容れざるを得なくなり、前年よりも遥かに強力な形で、信長の支配下に置かれることになった。信長が次に鉾を交えるべきは、越前の朝倉氏である。1570年4月、信長は朝倉義景を討伐すべく京都を発し、軍勢3万余を従えて若狭に下向した。当初、信長の侵攻は順調であったが、近江の浅井長政と六角承禎が兵を起こし朝倉に与力したことで戦局は一変した。朝倉・浅井両家の歴史的な同盟関係と、織田・浅井両家の現実的な婚姻関係の天秤が、浅井家内部での対立を越えて前者に傾いた結果であった。信長は謀反の知らせを受け取ると、挟み撃ちを恐れて直ちに軍を引き上げ、かろうじて無事帰洛したのである。京都に帰って平静を取り戻すと、信長は岐阜に帰って陣容を立て直した。そうして浅井氏との合戦に備え、朝倉氏の後援も想定の範囲内で戦備を整えた。果たして次の合戦では、先陣を臨んだ徳川家康が、越前衆と浅井衆の軍2万余を姉川で返り討ちにし、信長軍はからくも勝利を得た。しかし浅井・朝倉討伐に重点を置いていたため、信長は再び虚をつかれることになる。石山本願寺である。入京以来たびたび信長に押し付けられてきた難題を恨んで、顕如は三好三人衆らと謀を通じて挙兵、浅井氏とも連絡しつつ諸国の門徒に兵を起こさせ、天満森の陣所を破った。信長はただちに摂津から明智光秀・村井貞勝・柴田勝家らを上洛させ、京都の守備にあてた。家康・秀吉も来援し、石山本願寺・三好三人衆との対立は一進一退の膠着状態となった。そうして1571年8月、信長は意を決して山門の焼き討ちを決行、延暦寺の堂塔はことごとく放火し焼き尽くしてしまった。当時、叡山の山内が腐敗しきっていたことを考慮し、古典的勢力の掃討、宗教的束縛からの解放という天下一統に向けた必然的過程としての意義を認めるとしても、この焼き討ちは現実的には必ずしも信長にとって有益ではなかった。
安土の天主

 

この章では信長の元亀年間の近江平定から1576年の安土城入城までを取り扱う。信長が天下統一をするに、大きな障壁となったのは京都の東の入口にして、北陸、東国に通ずる交通の要所、近江の平定であった。北には浅井氏、甲賀には六角氏が潜み、琵琶湖は大部隊の行軍には障害となったし、何より中世における先進地域として惣による農民の結合が強く、更にそれらの惣は商品流通に併せて緊密に連絡されていた。信長も自立する彼らを掌握するに大変手間取ったものと思われる。その近江平定も含め、彼の功績を、時間を追って見てみよう。信長は八方に敵を抱えていた。石山本願寺の顕如と繋がり浅井、朝倉が北に、武田が東に、南には伊勢の一向一揆、西にかけては三好衆や顕如率いる石山本願寺以下が控えており、信長に味方していた松永久秀なども蓮如の影響で武田や三好衆と結ぶなどし、信長を取り囲む包囲網となっていた。1572年12月、信玄が西上を始め、三方ヶ原で家康を破った。信玄が西上を決意したのは、東方で甲・相で和睦がなされ、後顧の憂いが無くなった為である。と言うのも元々互いに争っていた甲・相両者だが、其のつど相州北条氏は上杉謙信に来援を求めていた。だがいっこうに返事を遣さない謙信に不信感を抱き、逆に信玄と和睦を結んでしまった、という具合であった。さて、この様に信玄は西へ向かい、信長包囲網が狭められるかと思われたが、近江北方で朝倉が突如兵を引き返してしまい、続いて翌1573年4月には信玄病没と、俄かに包囲網が崩れた。しかし此処で、信玄勝利の吉報だけを耳にした将軍義昭が反攻の好機と見て信長に対して兵を挙げた。其の為逆に信長に追放され、73年7月、ここに室町幕府は滅亡した。信長は休むまもなく同8月に浅井、朝倉氏を討伐、9月には六角父子を敗走させ、此処に近江に一応の安定をみた。信長は次いで畿内安定と一向一揆の討伐に向かった。11月に三好氏を討ち、松永久秀・久通父子も信長に下り、翌1574年8月には伊勢の一向一揆を平定した。また、浅井朝倉氏征伐後に浅井氏の居城であった小谷城の城主となり、名も羽柴秀吉と改めていた彼は、商業の発展を図り山上の小谷城から、長浜に城を建てて移っている。1575年5月には長篠の合戦で信長・家康軍は武田勝頼率いる甲斐軍を破った。これは1573年の長篠城を巡る家康・勝頼の攻防が元であった。とかく、東の憂いを取り除いて信長は、同8月に北陸方面の一向一揆を平定した。加賀に於いては謙信と衝突の兆しも有ったが、一先ず岐阜に帰り、京都へ上って大納言兼右大将に任じられ、直前に勝頼の来襲を退けていた信忠に家督を譲った。年が空け、天正4年正月に安土築城を開始し、2月には本丸が完成し、信長はこれに入城した。後の秀吉大阪城に比べると東に有るが、この時はまだ謙信の南下を想定し、西にも石山本願寺、そして毛利氏が控えていた為に安土の地を選んだと思われる。
政権と民衆

 

信長が征討先での経営に於いて、人民の不満を抑えることに専念した。先の章でも述べたが、信長の手中にある国々は、何れも先進的な地帯であり、惣、宮座といったもので農民同士が強く結合していた。故に彼らの反乱を事前に防がねばならなかったのである。例えば、本年貢以外の課役がなされないように、或いは在地領主よりも郷村に根付く地侍を重視し、彼らを介して支配の基盤とした点などが其れである。地侍が郷村を知行した場合、給人と呼ばれたが、彼らが之までの荘園代官に代わって郷村を支配するようになった。経済面に於いては、諸国いたるところに多数の関があり、商品流通の障害となっていたが、これらの関所を廃止した。また、有名なところでは安土城下町の楽市・楽座があるが、元々南近江の六角氏が行っていたものに目をつけたのである。尤も、六角氏も信長も座を完全に否定しているわけではなく、必要に応じて座の保護をしている。信長は最初法華宗に心を寄せていたようだが、フロイスら宣教師等と関わってからはキリスト教にも興味を示した。側近の法華宗の使僧の反対を無視してキリスト教を公認し、安土城下に教会を設けるといった具合である。しかし、信長は結局どの宗派に心を寄せたというものではないようだ。例えば、天正7年に法華宗僧侶と浄土宗僧侶に宗論させて、法華宗僧侶を敗北に追い込んでいるが、これは宗徒たちの活動を教義の上から抑える為であると思われる。さて、信長は日本の中央部を制して安土城を構え、最早彼に対抗できるのは東の北条と西の毛利くらいになっていた。しかしもう一つ、これまでも散々信長を苦しめてきた石山本願寺が天下統一の行く手に阻んでいた。信長はこれを討たんと天正4年4月に軍を遣わした。が、逆に攻め立てられてしまい、信長自ら出陣となった。また、前将軍義昭が毛利の領国備後に飛び込み信長追討を依頼、次いで武田・上杉に挙兵するように飛札を出している。また、紀伊では畠山貞政と根来、雑賀衆が結んで挙兵し、信長は西と南に敵を持つことになり、再び一揆勢に備えねばならなくなった。
京都御馬揃

 

織田信長の政権は、中国の雄毛利氏との対決に持ち込まれた。将軍足利義昭が毛利氏をたより、尼子氏が信長と結ぶ、対照的な成行きであった。1571年6月、毛利元就が病没した。そのさきより尼子氏を攻撃中だった輝元・隆景は看病のために吉田へ帰ったが、吉川元春ひとり出雲高瀬に陣し、山中幸盛、尼子勝久をやぶった。幸盛と勝久は京都に難を避け、再挙の機をうかがっていた。1573年の末、勝久・幸盛はふたたび出雲に入るため但馬にくだり、因幡の山名豊国にたよった。豊国は旧主勝久の依頼に応じ、勝久は因幡の諸城を攻めて、ついに鳥取城をおさめるにいたったが、その後豊国は毛利氏からの後難をおそれ、ふたたび翻って毛利氏に属し、勝久を撃ってこれをやぶった。勝久はなおも機会をうかがっていたので、1576年9月、輝元は小早川隆景を遣わし、元春とともに鳥取城の山名豊国に加勢して勝久らを包囲した。この間の尼子氏の勢力の背後には信長の援助があったと思われるが、毛利氏から強く質されても信長はこれを否定していた。山陰にも山陽にも、信長と毛利氏とのあいだがしだいに険悪となってきたが、1573年7月、義昭追放のころより直接の交渉がはじまっていた。毛利氏側からの主張は前将軍義昭の復職であった。その間に毛利氏側の使僧として奔走したのは、安芸安国寺の住持恵瓊であった。恵瓊は安芸国守護であった武田氏の末裔で信重の遺児である。かれは弁才と奇智にめぐまれて毛利氏に重用されるようになった。朝山日乗と秀吉との三人で毛利・織田両氏の調停をはじめたが、日乗が凋落し去ったので、毛利と織田は恵瓊と秀吉に代表されることになった。恵瓊の第一次の交渉は義昭の上洛を実現することはできなかったが、その西下だけは食い止め、織田・毛利両氏の表面的な和平関係を樹立した。しかし、信長の側での尼子氏援助や三村氏援助が裏で行われ、義昭が下向して毛利氏に身を寄せたので、平和的情勢はたちまち後退してしまった。さらにこうした一触即発の情勢に点火したのは、信長の石山本願寺攻撃であった。毛利氏が義昭を奉じて石山救援にたった背後には、いわゆる安芸門徒とよばれた安芸・備後にかけての一向宗門徒の勢力が後押しをしていることも考えねばならない。1577年4月、毛利の軍は石山後援のため安芸を出発し、備前の宇喜多直家とともに播磨の室津に着陣した。このとき播磨御著城主小寺政職は信長に心をよせ、5月に同国英賀において毛利軍と戦ってこれをやぶり、一時を食い止めた。しかし閏7月には上杉謙信の出馬が伝えられた。8月、信長は柴田勝家と羽柴秀吉を加賀につかわして謙信を禦がねばならなかった。8月、松永久秀・久通父子が突然信長にそむき、摂津天王寺の砦を去って大和信貴山城に拠った。しかし久秀父子の謀叛は時期も未熟であり、準備も不足であったため、10月、織田信忠・惟任(明智)光秀・長岡(細川)藤孝に攻められて信貴山城に自殺した。この間に、北国の謙信は9月、能登七尾城を攻めてこれをおとしいれた。1577年、謙信はあらためて諸将をあつめ、明春の雪解けをまって大挙して出陣することを定め、その準備にとりかかった。毛利氏の出征がしだいに日程にのぼる段階になって、信長を挟撃する一大勢力である。しかし、翌年の3月、突然に謙信は脳溢血のために倒れ、49歳をもって卒した。謙信の目標がどこにあったかという点につき、一般の通説は上洛説である。畿内の反信長党の期待にこたえて、前年9月の能登一国・加賀北半の平定の基礎のうえに、さらに一大上洛作戦を企画したとみるのである。ただ、これは信長の側からの観方がきわめて強い。そこで注目されるのが、3月の出陣を関東に向かって北条氏政を攻伐するためであったとみる見解である。したがって、この場合、当面の謙信の猛襲をまぬがれたものは、実に氏政であったことになるし、その意味で謙信の「天下」はあくまでも関東であったことが知られるのである。1577年10月、秀吉は中国平定の任務をおびて京都を出発した。秀吉は姫路城に入り、但馬国にも手をのばして山口岩淵城を攻略し、竹田城をも攻めて退散させた。秀吉は近江の役以来、軍の参謀格であった竹中半兵衛重治にくわえて、この播磨攻めで黒田官兵衛孝高をえたことは第一の収穫であった。11月、この両人をして備前宇喜多直家の居城であった播磨福原城を攻略させ、みずからは同国七条城(上月城)をかこんだ。翌年2月、秀吉はふたたび播磨に入り、書写山に陣した。三木城主別所長治が毛利氏に通じて挙兵したためである。秀吉は3月、三木城をかこんだ。毛利方の作戦は、播磨に入り、尼子勝久・山中幸盛のこもる上月城のほうをかこむことにあった。秀吉は摂津の荒木村重とともに陣を播磨高倉山に移し、毛利氏と相対した。毛利氏の結束ははなはだ固く、6月、さすがの秀吉も毛利氏の軍と上月城下に戦ってやぶれ、上月城の救援を放棄して三木城に向かった。上月城は秀吉の来援という頼みの綱をうしない、毛利氏の軍門にくだらざるを得なかった。秀吉の三木城攻囲は尼子氏の上月城を犠牲に供したのだが、その陥落は容易ではなく、実に満2年におよぶ持久戦となったのである。秀吉が播磨の三木城を包囲しているあいだに、荒木村重が信長にそむいた。1578年10月のことである。石山攻囲中に村重の配下の者が大阪城中へひそかに糧食を送っていた。この行動が織田氏の兵の発見するところとなり、部下の利敵行為の責を追って、敵に内通するものとして安土に伝えられた。村重は当初母を人質として二心なきをちかい、みずからは安土におもむいて陳謝せんとしたが、中川清秀らの勧説により謀反の意を決したといわれている。信長は11月に入京して村重としたしい細川藤孝・秀吉をして慰論せしめたが、村重が聞き入れなかったため、摂津に出陣し、諸将をして村重を討伐せしめた。このときの謀叛に、当時畿内においてキリシタン大名として知られた高山友祥らが相応じたことも、信長としてはキリスト教保護を考慮していたときだけに大きな衝撃であったようである。高山友祥は、すなわち通称右近のことである。高山父子は高槻城主であった和田惟政にしたがっていたが、惟政の没後、子息の惟長が高山父子の声望をねたんで謀殺しようとはかったので、右近も敵方の荒木村重と通じて1573年に高槻城を乗っ取り、やがて同年8月、右近は正式に高槻城主となったのである。そのような関係で、右近は村重に属し、高槻城も荒木方の有力な属城となった。信長は高槻城の軍事的魅力と、キリシタン大名としての高山右近の名声を考えて、戦を交えることの不利を知っていた。そこでキリシタン宣教師オルガンチノを呼び出して右近と交渉させたが、右近は村重の信長にたいする謀叛を批判していたため、いま村重から離反することは心苦しかった。そこで右近は、信長と村重との和平工作もこころみてみたが、失敗に終わった。城内の大勢は父ダリヨ飛騨守をはじめ主戦派によって動かされ、信長の使者を追い返してしまう。村重のほうからは右近と信長との交渉につよく抗議して、人質を殺害すると脅迫してくる。かくして右近は、キリシタン宗徒として意を決し、信長のもとにいたって、高槻城と教会の保証をとりつけ、みずから出家することを申し出ようとしたが、その決意が右近の側近を動かし、かれらは高槻城内の主戦派に対し、クーデターを行った。ダリヨ飛騨守らは城をのがれて村重方につき、高槻城派開城することになった。11月、織田氏の諸将によって村重の有岡城攻撃がすすめられた。12月11日に信長は陣を摂津古池田に移した。信長も村重の伊丹の守りが意外にかたく、持久戦となることを覚悟して将士に諸塁を守らせ、羽柴秀吉は播磨の陣に、光秀を丹波につかわして自分もいったん安土に帰城した。村重の叛は、毛利方にははなはだ吉報であって、義昭も吉川元春に書状をおくって、村重の帰属に乗じて輝元の出兵をすすめさせたから、輝元からも援兵がつかわされた。播磨の戦線と丹波の帰趨はきわめて深い関係にあった。地理的な接触、姻戚による結び付き、しかもこんどは摂津の荒木村重とも気脈を通じていたのだから、丹波経略が必須の課題となった。信長は、丹波の方面は明智光秀に担当させていた。1576年正月、丹波の波多野秀治が光秀にそむいてその営を襲撃し、これをやぶって以来、丹波の土豪たち、国衆の去就は安定していなかった。ここにおいて1578年12月、荒木村重の叛とも関連して丹波平定が焦眉の急となったのである。光秀は八上城を包囲し、兵糧攻めを行った。そして波多野氏が弱ったところを見計らって伯母を質として秀治ら三兄弟を誘い出し、これを安土に送って信長に和睦を申し入れたが、信長はこれを磔にかけてしまった。そこで八上城に残留の将らは光秀の詐謀となし、人質の伯母を楼上で殺し、一同死を決して籠城した。光秀は急迫して八上城をおとしいれ、城中余すところなく殺戮したのであった。1579年7月、光秀は藤孝とともに波多野氏の余党を蜂山城に攻めてこれをおとしいれ、同時にまた一色義有を丹後弓木城に攻めてこれと講和した。かくして10月、光秀は丹波・丹後の平定を復命した。翌年8月、その功によって丹波を光秀に、丹後を藤孝に宛がわれた。秀吉の三木城包囲は、その間に荒木村重の叛をはさんでいっそう長期戦となっていた。別所長治や毛利氏が三木城に食料を輸送しようとするなど、三木城の攻防はしだいに両軍の焦点となってきていた。しかし秀吉はこれらの三木城との連繋をことごとく絶ち、これを孤立させることによって、「三木の干殺」といわれる兵糧攻めを敢行していたのである。その間に1579年3月、宇喜多直家が秀吉に応じて毛利輝元の属城美作三星城を攻めるにいたった。直家は、その地理的位置から自然毛利氏側にたっていたが、信服していたわけではないので、信長の勢力が播磨以西におよぶ形勢をみて、ついに投降の意を決したのである。荒木村重も、有岡城をかたく守っていたが、城中は飢渇にせまられ、1579年9月、数騎をもって城をのがれて、尼ヶ崎城に入った。村重の謀叛は、しだいに戦局における重要性をうしなってしまっていた。秀吉の干殺戦術は1580年の正月に攻城戦に転じ、17日、長治・友之らは自殺して城はおちいった。ここにおいて属城もまたつぎつぎに落ち、播磨の平定はなったのである。信長の中国征伐の過程で、毛利氏との対決が急迫してくるにつれて、なお未解決にのこされた石山本願寺との対抗関係が、大きな課題として立ち現れてくる。一向一揆の実力についてはかなりふかい知識を持っており、討伐の必要と至難を痛感していたであろう信長が、討伐にあたってもっとも動揺したのは荒木村重謀叛の報をえたときであった。1578年10月である。他方、本願寺としても信長に敵対することは大きな冒険であった。そこで、立入宗継らがあいだにたって和平が試みられたが、毛利氏と同盟関係にある本願寺側が輝元とも同時に和談あるべしという条件を出し、その調整を行っているときに村重の有力な属将であり謀叛の端緒ともなった中川清秀が信長方に帰参のことが定まり、村重の謀叛も大きな波紋をつくらぬ見通しがたってしまった。そこで信長は勅使の下向をとどめ、自然に和談も破れてしまった。このように本願寺はしだいに不利に追いこまれたが、信長もまた石山を攻めなやんでいた。石山本願寺は難攻不落の地であり、城兵は信仰に生きるかたい団結の人々であったからである。信長としてはふたたび和談を思うようになっていた。そこでもう一度晴豊らによる和睦交渉がすすめられた。閏3月5日、本願寺にたいし、勅旨によって信長と講和せしめられることになった。顕如は大阪退城を約して和議がなった。顕如としては前途の見通しをもってこの終戦の機会をつかんだのであったが、長男(教如)は、徹底的な打撃をうけたわけでもないのにみすみす開城することにたえられなかったのと、諸方の門徒からもつよく要請かつ支持されて、顕如が退居したのち、大阪にとどまって兵を諸方に徴して再挙をはかった。この報に足利義昭などは大いに力をえて毛利氏に信長討伐の出兵をすすめたりしたが、紀伊の顕如は驚いて息子をいさめた。しかし教如の決意もかたく、ついに父子の義絶ということになってしまった。顕如は光寿の弟光昭(准如)をたて、嗣と定めたが、それはのちの東・西本願寺分立の端緒となるのである。教如のほうは門徒らがかたい決意をもって団結していたから、信長もただちに兵をくわえようとはかった。しかし、和平の機運が高まってきて、教如は7月17日、ついに信長に赦免を請い、和議をととのえた。こうして8月2日、教如も大阪を退出した。石山の力を遠くからささえた加賀門徒も、本願寺の和睦を大きな不満としたが、信長の側としては一揆鎮圧には絶好の機会であり、1580年閏3月、信長の将として北国に鎮する柴田勝家は一向一揆を討伐して加賀に入り、諸所を攻略したうえ、金沢城を攻めた。1581年の正月は、畿内の完全な平定、北国・中国・山陰におよぶ戦果を祝うよろこびのうちに明けた。石山の会場によりもっとも有力な反抗勢力である一向一揆が実際上解体したのであり、大きな意義を持つ新年であった。ここ数年のあいだで特筆すべきことは、北条氏政との新しい友好関係がむすばれたことである。徳川氏を仲介として北条氏とむすばれたことは、信長にとって、いっそう東側に懸念なく、西に向かうことを可能とした。信長は光秀に仰せて京都で「御馬揃」を計画し、朱印をもって分国に触れた。時日は2月28日。こうして、京都御馬揃は、統一の一段階に到達した信長政権の全力をあげた行事となったのであった。
本能寺の変

 

御馬揃のため信長方の大名たちが在京中であった虚をついて、上杉景勝の部将河田長親は越中松倉城にたてこもり、これに応じてたった一向一揆とともに反撃に転じてきた。この軍事行動はもちろん上杉景勝の計画だった。北国は風雲急を告げたものの、景勝も兵をかえし、河田長親が病死したので、越後勢は急速に意気喪失してしまった。それとほぼ時を同じくして、東国では徳川家康が遠江高天神城を落とし、遠江一国が完全に家康の手に帰した。この攻城戦は、家康にとっては両国平定の完了を、武田勝頼にとっては領国支配の不安と将士の不信感を招くものだった。御馬揃のころ、秀吉は姫路城の修築にかかっていた。かれは播磨三木城の陥落のあと、美作・備前に転戦し、4月には備中高山に小早川隆景を包囲しようとしていた。秀吉は1581年6月に、毛利方の吉川経家のまもる鳥取城をかこみ、三木同様に干殺をはかった。10月25日、鳥取城は落城した。「鳥取の渇泣かし」といわれる悲惨な落城であった。その後、秀吉はいったん姫路に戻り、11月に淡路へ兵を進め、岩屋城と由良城を攻略した。信長方は瀬戸内海の制御と、四国経営の根拠地をあわせうることとなった。このころの信長の統一過程は東西両面作戦であった。東国では、1542年2月、武田方の木曽義昌の謀叛を契機として、織田・武田の戦端が開かれることとなった。しかし、武田方の士気はいっこうにあがらず、各地で敗走した。勝頼は夫人北条氏と子信勝とともに自尽し、武田氏は1ヵ月ほどで滅亡することとなった。こうして甲・信は平定され、上野もまた信長の治下に入った。信玄の没後わずか十年で、武田氏領国の甲・信の一門や将兵が精神的に離反していたのにはいろいろな理由があるが、一つは富国強兵策の反動であり、もう一つは信玄の存在が大きく勝頼の立場が軽小に見做されたことが挙げられる。勝頼が最期をとげ、上杉景勝は信長軍の北上の気配を感じ、警戒を高めた。信長が武田氏征討に向かっているあいだ、秀吉は備前を中心として毛利氏征討準備をすすめていた。秀吉はじゅうぶんに機会をうかがい、東の問題の解決をまって、1582年3月15日、播磨・但馬・因幡三国の兵をひきいて姫路を発し、備中に向かった。備中守備の中心は高松城主清水宗治である。秀吉は外部からの援助の道を絶ったうえで、5月7日、高松城をかこんだ。秀吉は水責を行い、ついに安国寺恵瓊をもって毛利氏と秀吉とのあいだで和を議せしめるにいたった。しかし、秀吉側の条件は現在の係争地のみならず、備後・出雲という山陰の毛利軍の基地をもくわえた領国の割譲と、城主清水宗治の切腹という過酷なものであった。毛利方は、人情として宗治は救わねばならず、講和は暗礁に乗り上げた。この時期の四国は、土豪長宗我部元親の統一過程にあった。四国の平定をめぐり、信長は土佐の長宗我部氏を支援するか、阿波の三好氏を支援するか二つの道があり、前者は光秀がとりつぎ、後者は秀吉と連繋していた。信長は長宗我部氏討伐にふみきり、光秀の面目はつぶされることとなった。甲斐の征旅から安土に凱旋した信長は、心せわしい日々を送った。信長は四国征討をおしすすめ、西征の意図を明らかにした。ところが5月14日には信忠が信濃より凱旋し、翌15日には家康と穴山信君が来賀した。信長としては家康の功績を考えると、かれをもてなすことが必要であり、光秀に御馳走役を命じた。その饗応の最中に秀吉からの備中高松城の包囲と毛利氏の全力での赴援の報が届き、信長は出陣を決意した。饗応が終わらぬうちに、光秀に先鋒として備中への出陣を命じた。21日、信長は家康らに京都・大坂・奈良および堺などの遊覧におもむかせ、家康は信忠とともに上京した。29日、信長も近臣2、30人とともに入京して本能寺に宿をとった。備中出陣の準備のために安土をたった光秀は、26日に居城である丹波亀山城に入った。光秀が信長を怨む理由としては、家康の御馳走役をつとめる光秀にたいして信長があたえた屈辱や、丹波八上城において波多野秀治兄弟をかこんだとき、信長が光秀の言を無視して人質の秀治兄弟を殺したために、光秀が人質として城中に送った伯母を殺されたという経緯などが考えられるが、光秀の場合、信長とのあいだに完全な相互理解がなかったことが問題であった。 光秀は秀吉のような子飼いではなく、1568年に足利義昭を信長にむすびつけて、信長の家臣にくわわった新参である。義昭との縁故関係という就職条件は、義昭と信長との関係が切断されるとき、はなはだ微妙なものとならざるを得ない。加えて、光秀が四国で長宗我部氏側に取次ぎをしていた失点や、追い打ちをかけるような備中の秀吉への援軍という命令が持ちこまれたこともある。こうして、光秀の中では、信長打倒、謀反の気持が急速に大きくなっていったと考えられる。そして6月1日、光秀は13000におよぶ軍兵を率い、本能寺を目指した。信長は刺さった矢を抜いて薙刀でしばらく戦ったが、腕に弾創をうけ、室に入って切腹した。信長が切腹するころまでには、森蘭丸以下の近習も7、80人ばかり、ことごとく討死にした。信忠はいったんは本能寺赴援を志したものの不可能をさとり、村井貞勝とともに二条御所へ移った。その後、光秀の二条御所攻撃がはじまり、信忠も自殺した。光秀はその後に近江へ向かい、5日には安土城に入った。2日の変後、光秀は安芸の小早川隆景のもとに一通の書札を飛ばしていた。それは、将軍義昭に代わって逆臣信長を討ったという内容のものであったが、この書状をもった使者は高松城で秀吉の軍に捕らえられ、首を刎ねられた。本能寺の事変は、各地にある諸将のもとに伝わった。家康は、家臣に弔い合戦をすすめられ、4日には三河に帰り、5日にはただちに出陣の行動をおこした。北陸道で上杉景勝の軍と戦っていた柴田勝家らは、4日に変報がとどき、ただちに軍を返すことにしたが、領国内の手当てや景勝軍の追撃への対処などにより、時期を失してしまった。かくして残るところは中国にある羽柴秀吉であるが、かれは光秀の使者を捕らえたことにより事情を知り、4日には高松城主清水宗治の切腹をもって毛利氏との講和を締結し、姫路城へ取って返したのであった。
七本槍の時代

 

1582年6月6日、羽柴秀吉は姫路城に帰り軍備を整えると、9日には明石へ出発した。同じ9日、光秀は軍を率いて上洛し情報収集と配備にあたっていた。10日には筒井順慶の参戦を待って洞ヶ峠に陣したが、順慶は光秀に同心しないことを告げて秀吉に応じた。既に山崎付近には秀吉軍が出没しており、ようやく光秀は秀吉の迅速な東上を知ったが、天王山を占領するには時既に遅く、いったん勝竜寺城に退いた。明けて13日昼、援軍の到着した秀吉軍はいっせいに明智攻略を開始した。攻める秀吉軍4万、対する明智軍16000、三分の一の劣勢である。秀吉軍の総攻撃に、明智軍はたちまち崩れ立った。光秀自身も勝竜寺城に逃れ、近江へ帰るべく夜陰に乗じて脱出したが、途上に土民の襲撃を受けて殺されてしまう。光秀亡きあとの明智軍は四分五裂の総崩れであった。光秀の首級もやがて秀吉軍に発見され、本能寺に梟された。こうして明智謀反は一応の終末を告げた。信長亡き後の天下は皆の関心であるが、まずは遺領処分のため、柴田勝家、羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興らが清洲城に会した。織田家の宿老が顔を揃えた形である。戦後の収拾策を会議によって決定する方式が打ち出されたことは、これまでの日本には例がなく、まったく新しいことであった。秀吉はこの会議において、織田信忠の嫡男三法師(秀信)を後嗣として主張することを除き、領土分配などすべて諸将に譲り争わなかったが、それでも明智討伐の実績は秀吉に諸将を凌ぐ大きなウエイトを持たせていた。秀吉が織田氏の大業を継いでいくことは、もはや誰の目にも明らかであった。この秀吉と早晩対立する運命にあるのは勝家である。清洲会議は彼らのあいだに暫定的な安定をもたらしたが、その安定も長くは続かなかった。1582年10月には、秀吉は本願寺及び惟住長秀、池田恒興らと結び、勝家に対する抗争意思をはっきりと示している。一方、勝家側でもっとも秀吉排除の意志を見せているのは信孝であり、柴田勝家、滝川一益は言わば信孝の意向に引き込まれた形で秀吉と対していた。しばらく警戒をつづけていた両者だが、ついに12月7日、秀吉の軍5万が行動を開始し、9日には近江に入った。勝家が雪に阻まれているあいだにその徒党を討つのが目的である。長浜城主・柴田勝豊は秀吉に降り、ついで岐阜城に信孝を包囲すると、信孝は人質を出して降伏した。つづいて滝川一益の将佐治新介の守る亀山城が落ちるに至り、勝家はいよいよ近江に兵を出した。勝家の南下を知った秀吉は、転じて12日に近江佐和山に入り、長浜より柳瀬に向かってこれと対陣した。開戦まもなくの大岩山では、佐久間盛政をして中川清秀を破られ秀吉側の敗戦となったが、その報を受けた秀吉はただちに軍を近江木之本へ返し、その間13里をわずか2時間半で馳せつけた。盛政軍は想定外に早い秀吉の着陣に狼狽し、本陣へ向けて退却をはじめた。秀吉軍はこれを追尾し、盛政軍の退却を援護する柴田勝政を賤ヶ嶽の惟住長秀と挟撃した。盛政軍は総崩れとなり、その報を聞いた勝家軍もまた狼狽のもとに大半が逃散する始末となった。この決定的な勝家軍総退却の原因をつくった福島正則らの人々が、「賤ヶ嶽の七本槍」としてその名を伝えられる人々である。(ただし七という字は過去の軍功にならったもので、実際には7人でなく9人であったという。)賤ヶ嶽の戦後収拾を通じて、秀吉の地位は磐石たるものとなっていく。この点、賤ヶ嶽の戦いはこれより秀吉時代がはじまるという画期的な戦であり、家康における関ヶ原の戦いにも比せられる重要なものであった。
大阪築城

 

1583年5月25日、池田恒興は大阪城を秀吉に渡した。秀吉は既にその根拠を要衝山崎に求めて築城していたが、この地は軍事上の要点でこそあれ、視野が狭隘で支配の拠点には相応しくない。大阪の要害と地理には比較にならぬ。大阪の優秀さは石山本願寺で証明済みである。9月1日には、いよいよ大阪築城がはじまった。さて、本能寺の変後の1年に飛躍的な進歩を遂げた秀吉にも、依然として如何ともしがたい実力者は東の徳川家康である。家康は秀吉飛躍のあいだ、武田氏滅亡後の甲州経営にあたっていた。地道な経営により、主君を失った甲斐武士団を自身の軍団に編入していくことは、家康にとって実に大きな力となっていた。このころにはまだ少なくとも儀礼的には交友関係を保っていた家康と秀吉だが、ここにひとつの事件が波紋を呼び起こした。信雄が秀吉と絶って家康と結んだのである。秀吉と信雄の疎通が絶えていたところへ、家康が介入した形であった。1584年3月10日、秀吉はただちに出陣し、大阪より入京して翌日坂本に向かった。対する家康は兵を率いて尾張に出ると、13日には信雄と会し、いよいよ行動を開始した。戦闘は主として伊勢と尾張が中心となった。緒戦はまったく秀吉有利に展開していたが、信雄・家康はただちに清洲より小牧に出陣し、小牧山を占領することに成功する。小牧山は尾張平野の中央に孤立した山で、尾張を一望に見晴らすこの上ない軍事上の要衝である。この占拠は緒戦の失敗を補って余りあるものであった。秀吉軍は小牧山に対し楽田を本営として対峙した。池田恒興は膠着状態を打開すべく、三河に攻め行って家康の本拠を撹乱する作戦を提案、自ら遂行したが、家康の追撃により長久手の戦に破れ戦死してしまった。楽田と小牧山はふたたび膠着状態となったが、長久手の敗戦は大きく、精神的には秀吉軍が劣勢となってしまった。秀吉はこれ以上家康と対峙することの不利を悟り、11月15日、信雄・家康と和を講じた。秀吉も一応の面目を保ったが、ここにおいて家康の立場は秀吉と対等以上のものになったのである。小牧の役から戻り紀伊を征討した秀吉が、征討すべきは四国の長宗我部元親である。秀吉来攻の風聞に、四国はにわかに動揺した。秀吉は弟秀長をして諸軍を率いて渡海させ、阿波・讃岐屋島・伊予の三方から攻略を開始した。元親は阿波白地城に本拠を置いて指揮にあたったが、三方攻撃は極めて迅速で、やがて合して本拠に迫った。1585年8月6日、元親は不利を悟って和を請い、秀長はこれを許して人質を取り凱旋した。次の標的は越中、飛騨である。8月8日、秀吉は大軍を率いて京都を発し、18日には金沢に到着した。佐々成政は居城富山城に構えて対抗しようとしたが、秀吉軍の攻撃前夜、自ら剃髪して降った。秀吉はいったん成政に切腹を命じたものの、信雄からの助命の懇願もあって、ついにこれを許した。こうして小牧の役に付随した謀反者は残らず平定されてしまったのである。
関白と五奉行

 

氏姓を持ち合わせない秀吉は、山崎の合戦以来、信長の家臣として平氏をとなえ内大臣に至ったが、ここに信長以上の権威を求めるとすれば、いつまでも信長の用いた姓に甘んじているわけにはいかない。秀吉はここで菊亭晴季の案を採用し、藤原氏の独占物であった関白に就任することにした。右大臣晴季の奏請により、ただちに関白の更迭が行われた。姓も藤原と改められた。この任関白はさすがに朝野驚愕の出来事であった。こうして秀吉は、1585年7月11日をもって名実ともに政権の座についたが、藤原姓を冒したことへの批判や負い目はなお大きく、妥協案として源・平・藤・橘の四姓の他に新たな姓を賜ることにした。9月9日、新しい佳姓として豊臣姓を選び、これを朝廷に奏聞して勅許を得た。この賜姓は、関白就任に関する批判や不信に広く答えたものであり、政権の座を強化するのに役だったと考えられる。さて、しかしその政治形態として摂関政治を踏襲するのは現実味がない。そこで秀吉は近臣を諸太夫に任命する一方、新しく関白に直結する政治機関として、幕府体制からの系譜をひく奉行制度を樹立した。頭は貴族政治的な関白で、手足は武家幕府的な奉行であるという、豊臣政権に極めて特徴的な、公武総合的な体制である。奉行に任命されたのは、浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家の5人であった。この5人という形式は、五大老に見合う形として後に五奉行制度として制度化されることになる。また、秀吉が政権の経済的基盤として重要視したのは、京都・堺であった。「京の町・堺の町」で活躍する茶人たちは、茶の世界を通じて秀吉らと密接に結ばれていたのである。政権はこれらの都市の豪商と密着し、相互に協力しあった。このように秀吉が豪商たちと膝をつきあわせる茶の世界に、信長以来の茶堂として権威を持ったのは千宗易である。秀吉としては、その権力の飾りのためにも、堺の豪商たちとの関係からも、この宗易を離すわけにはいかなかった。1585年10月8日、秀吉は関白拝任祝いを兼ねて禁中小御所に茶会をひらき、正親町天皇をはじめとする貴顕に茶を献じることとした。茶堂をつとめる宗易は、禁中の茶会に無位の俗人であっては列することはできないので、このとき1日限りの仮名として「利休」の居士号を賜ったのである。これは宗易の権威を一段と高めることであり、自らも名誉なこととして利休の名を長く用いるようになった。豊臣政権の確立するにつれて、改めて動向の注目されるのは徳川家康である。家康は甲斐・信濃に自家勢力を拡大し、対立関係にある北条氏直と和議を結ぶなど、もっぱらその関心は東国であった。秀吉、家康間は依然として冷戦状態であった。しかし1585年11月13日、ここに思いがけない事件が勃発した。家康の老将石川数正が三河岡崎より京都に出奔したのである。秀吉は数正を大いに歓迎し、これに乗じて家康の上京を促したが、家康は諸将を浜松に会して協議のうえ拒絶した。秀吉東征の説も囁かれたが、秀吉としても家康と闘うことは本意ではない。織田信雄をして調停を図らせ、破局を回避しようとした。果たして信雄は1586年1月27日、家康と三河岡崎に会して秀吉との和議を議し、ついにこれを実現した。秀吉は異父妹旭姫を家康に嫁がせ、両家の親密を図ることとした。この結婚によって、豊臣、徳川両氏は一応の同盟関係に入ったのである。
鎮西の波瀾

 

本州で戦いが繰り広げられながらも、戦火は九州へと移りつつあった。本州で勢力を伸ばした大名にとって九州は、全国統一のために避けられない場所だからだ。当然、そこを制圧しようとする大名たちが台頭してくることとなった。たとえば、織田信長。彼は1575年ごろに、家臣の明智光秀、丹羽長秀を改姓させた。おそらくこれは、彼らにその地を知行させようとしたものだと思われる。つぎに九州に兵を進めたのは、羽柴秀吉だった。信長が九州に手を伸ばした10年後のことだ。もっとも、秀吉はすぐに九州を支配することができずにいた。なぜならちょうどこのころ、九州では大勢力同士の対立が繰り広げられていたのだ。それは、大友氏と島津氏だった。彼らにまとめて命令を与えようとして、秀吉は島津氏に大友氏との和平を迫った。しかし、島津氏はこれを拒否。ところが、ここで予想外のことが起きた。大友氏がわざわざ秀吉のもとまでやってきて、島津氏の侵略を訴えたのだ。この態度に気分をよくした秀吉は、島津氏の征伐を約束した。まず秀吉は、九州に国境を定めた。ここで、すこし時間を戻す必要がある。ちょうど、九州に大友、島津、龍造寺(竜造寺)の大勢力が存在していたころの話だ。なお、このころは信長がまだ生きている。このころ、龍造寺氏は中国地方の毛利氏と手を組み、大友氏と対立していた。大友氏のほうが優勢だったのだが、大友氏も油断はできない。龍造寺・毛利の連合が恐ろしいだけでなく、傍観しているだけの島津氏の動きが読めないからだ。大友氏は身動きがとれないままだった。一方龍造寺氏はというと、つぎつぎと九州を平定しつつあった。大友氏は段々と不利になってきた。動かないほうが賢明だったのかもしれないが、大友氏はそうもいられなくなった。日向の大名である伊東義祐が政治的理由で亡命した(――1)。亡命した義祐は大友氏(宗麟)に支援を請う。宗麟は承諾し、島津攻めを決意する。しかし、島津氏の軍勢はそう簡単に押し退けられるものではない。戦線は後退していき、耳川の戦いで宗麟は、大きな被害を受けてしまう。宗麟は戦意を喪失(――2)、その態度に失望した家臣たちは、つぎつぎと宗麟のもとを離れていった。こうして宗麟は、四面楚歌ともいえる状態になってしまう。それでも宗麟は諦めるわけにはいかない。この壊滅状態の中でありながら、彼は龍造寺・毛利連合と対立を続けていた。この緊張状態の中、1つの事件が起こった。肥後の城親賢が大友氏を裏切ったのだ。危機的状態にあることを認識した宗麟は、すぐに信長の支援を得ようとした。信長は和解するように、と命じた。しかし、状況は変わらない。ついに信長は、島津氏に対して警告を突きつけた。もし和解しなければ、武力を持って制圧する。同時に信長は、毛利氏の制圧も考えていた。宗麟を支援し、毛利氏を成敗させようとした。なお、毛利氏と連合を組む島津氏は、徐々にだが大友氏と和解しつつあった。このせっかくの和解を台無しにしたのが、本能寺の変だった。圧力から解放された島津氏は、すぐに大友氏の征討をはじめる――かのようにみえて、そうではなかった。以外にも最初に島津氏が滅ぼしたのは、島津氏と同盟関係にあった龍造寺隆信だった。有馬晴信(――3)という大名がいるのだが、彼は隆信の侵略を受けていたのだ。困った晴信は、島津氏に助けを求めた。島津氏はこれを受諾、隆信に攻撃を仕掛けたのだった。龍造寺の家系は続くものの、この戦い以降龍造寺氏は没落していくこととなった。のちに、家臣の鍋島氏が実権を奪ってしまった。さて、島津氏はその絶大な軍事力でつぎつぎと大名たちを吸収していった。九州勢力はほとんど島津氏に仕え、いまだに降伏しない大友氏が目立つようになっていた。ここで秀吉が待てと島津氏に命じた。島津氏は命令を無視し、秀吉はついに九州の戦乱に介入をはじめた。秀吉はその軍事力にものを言わせ、西日本の大名たちに島津攻略を命じた。そのなかには、毛利氏もいた。これで大友氏は安泰に見えたものの、そうではなかった。大友氏に属する鶴ヶ城という城が、島津氏に侵略されていた。これを助けようとした秀吉側の武将たちは島津氏に攻撃を仕掛けるが、惨敗する。結果として大友氏は島津氏に包囲され、豊後のほとんどを支配してしまう。これを見た秀吉は、1598年に九州に向けて出発した。島津氏は動揺するが、反撃の機会を狙う。しかし秀吉には勝てず、島津氏は敗北する。ついに島津氏は降伏した。こうして九州は平定され、そのすぐあとに大友宗麟は死去した。最後まで戦っていた島津義久は秀吉に許され、本領を安堵(――4)された。また、秀吉の勝利に貢献した大名たちには、あたらしく土地が与えられていった。ここで秀吉は、1つの土地に目をつけていた。戦乱ですっかり荒れてしまった港町、博多だ。明国との貿易を必要だと考えた秀吉は、五奉行(――5)を結成し、復興を目指した。しかしこの貿易、断れば直ちに出兵するという脅迫でもあった。それほどまでに大陸との貿易を重視していたのだ。ここで、考えようによっては天下の拠点は大坂から博多に移ったのではないかとも考えられる。ところで、秀吉はキリスト教をどうみなしたか。当初秀吉はキリスト教を禁止しなかったが、キリシタンたちの活動(――6)を看過できず、やがて禁止に踏み切った。ところが、キリスト教に対抗するために仏教を大切にする一方で、キリスト教国との貿易は認めていた。このことから、禁教令も中途半端な結果になってしまったのではないだろうか。
補足
1、このとき、ともに亡命した人物のなかに、義祐の孫である伊東マンショがいたといわれている。2、熱心なキリシタンだったため、兵士たちが大勢死んだ罪悪感にさいなまれたのではないかと言われている。戦死だけでなく、はげしい耳川の流れにのまれたからという点でも、罪悪感に苦しめられたらしい。ちなみに死者は3000人以上だとされており、多くの重臣が含まれていたため、大友氏の軍はほぼ壊滅した。3、隠していたが、キリシタン大名。岡本大八にだまされて贈賄し、1612年その罪によって処刑される。このとき有馬晴信がキリシタンだということが発覚し、結果として領国のキリシタン弾圧がはげしくなる。これが、島原の乱の原因と見る学者もいる。4、本領安堵とは、幕府(当時の権力者)がある土地をその武士のものであると保障すること。この土地は武士の命ともいえる土地で、武士はその土地を代々守っていくことになる。鎌倉時代にうまれたシステム。5、浅野長政(司法担当)、石田三成(行政担当)、増田長盛(土木担当)、長束正家(財政担当)、前田玄以(宗教担当)の5人。6、寺社の破壊、僧侶の迫害、入信強制。および、日本人を奴隷にしようとしていたのではないか、ともささやかれている。どうやらキリスト教内でも対立が起こっていたらしく、以上のようなことを考えたのは過激派キリシタンらしい。もっとも、そんなこと秀吉には関係ないが。キリシタンはキリシタンなのだ。
北野大茶湯

 

秀吉が九州から帰ったころには、聚楽第はほとんど完成していた。これは秀吉の家、あるいは家康婦人の旭姫の居所ではないだろうか。聚(あつめる)楽(楽しみ)第(家)、つまり楽しみを集める家だ。ここには千利休(――1)の茶室があるのだが、それも楽しみの1つなのだろう。利休をこのように優遇する一方で、秀吉と利休の茶には決定的な対立があったとも考えられる。まず、利休の茶は庶民的生活を強調したものだった。ところが秀吉は逆。権力や富を誇示するものだった。黄金の茶の湯がいい例だ。つまり、本来利休が考えていたものとは決定的に違うのだ。そんな秀吉に利休は、妥協せざるを得なかった。北野の拝殿の中には、秀吉の意図を組み入れた「金之御座敷」を用意していた。ほかにも数奇を凝らしていて、壮観なのだが。残念なことに、この茶会は1日で中止となった。このとき、突然肥後で一揆が起きたのだ。佐々成政という大名の支配が、秀吉の命令にそむいており、動揺が起きた。当然反対が起きるが、成政はそれを武力で制圧しようとした。ところがあまりにも一揆に参加した人数が多かった。一揆は九州全体に広がってしまう。制圧してもつぎの一揆が起き、もう1度制圧してもさらにまたつぎの一揆が起きる。この繰り返しに苛立った秀吉は、小早川氏に命じて一揆を鎮圧させた。成政は秀吉に謝罪するために大坂へと向かったが、摂津の尼ヶ崎にて自害させられた。のちに秀吉は、成政が治めていた地である肥後を、加藤清正、小西行長の2人に任せた。それぞれ、隈本、宇土を任された。北野大茶湯の話に戻ろう。中止になった理由は肥後一揆という外的要因だけでなく、内的要因もあるのではないか。内的要因にはこの2つがあげられる。1つ目。利休が秀吉のためだと思い、あまりにも堺衆を排斥しすぎたということ。本来堺衆の指導下にあったにもかかわらず、彼らは排斥された。それが秀吉としては気に食わなかったのではないか。2つ目。秀吉が博多衆に関心を持っていたということ。「鎮西の波瀾」でも述べたように、天下の拠点は大坂から博多に移りつつあった。このことから秀吉は、堺よりも博多に関心を持っていたのではないか。博多に関心をもつのはなぜか、もちろん明・朝鮮の支配を視野に入れているからだ。このとき秀吉は、日本国内(関東)よりも明・朝鮮の支配を望んでいた。秀吉はこのころ、後陽成天皇に行幸(――2)を願った。行幸は受諾され、秀吉はその状況下の中で諸大名に絶対服従を誓わせた。結束が固められる一方で、いまだ服従に至っていない北条氏の問題が浮かび上がってくるのだった。ところで、後陽成天皇によって訪れられた聚楽第はどうなったか。これは、秀吉の甥、秀次が切腹した(――3)ときに取り壊された。そのため、どのようなものかよくわからないようだ。この破壊は引っ越しのためだろうか。ちょうどこのころ、伏見城(――4)を造っていたのだ。そちらに移した、とも考えられる。しかし、結局のところはわかっていない。ところで。安土城は権威を主張し、大坂城は豪富を主張している。ならば、この伏見城はいったいなにを主張しているのか。もし聚楽第がこちらに移されたとしたら、遊楽を主張しているのではないだろうか。これら3つを合わせてはじめて、黄金となるのだろう。黄金といっても、ただの比ゆではない。この時代、金銀の産出量は一気に跳ね上がったのだ。灰吹き法(――5)の成功がその陰にある。この貴金属を使い、秀吉は硬貨を作った。こうして、貨幣統一を行った。その目的の中には、中国からの独立、そして日本の統一があったに違いない。
補足
1、結局、この人がなぜ切腹させられたのかはよくわかっていない。それらしい理由が多すぎるのだ。5つほど理由がある(というかわたしが知っている理由の数です)。1つ目、利休が自分の木像を大徳寺の門の上に飾り、それを秀吉が罪だとみなした説。罪といっても違反というわけではなく、秀吉がただ単に腹を立てたのではないかといわれる。大徳寺の門をくぐるたびに、自分の家臣の下を通らなくてはならないからだ。2つ目、利休が天皇陵の石を勝手に持ち出して、それを庭を飾るのに使ったという説。説明するまでもないが、これは大変な冒涜だ。当時なら切腹になってもふしぎではないが……。3つ目、秀吉が利休の娘を妾として選んだにもかかわらず、断ったという説。娘のおかげで出世した、と思われたくなかったらしい。女好きとして知られる秀吉なら、確かに怒りそうだ。4つ目、利休と茶の湯路線での対立説。5つ目、利休が賄賂を貰った説。これは結構語られている。利休は茶の湯の第一人者とも言える。彼がすごい湯のみだといえばそれはすごい湯飲みになり、たいした壺ではないといえばそれはたいした壺ではなくなる。これを利休が悪用したのではないかといわれている。利休を坊主だと思っている人が多いらしいが、じつは彼、商人だ。そのことから――たとえば、こういうことが考えられる。商人仲間がこの壺を高く評価してくれ、と利休に言う。商人の手にはお金が。利休は頷き、それを貴重な壺と言う。そうすれば、その商人の壺は高く売れる。商人は満足し、お金を利休に渡した。今度は別の商人が来て――。これが秀吉にばれたのではないか、という説だ。すこし話がそれるが、かつて利休のものだと思われる甲冑が発見された。その大きさから彼の身長を想定すると、なんと170センチメートルを超えている。当時としては大男だ。一方秀吉は、150センチメートルもなかったのではないかと言われている。秀吉はひそかに劣等感を抱いていたのではないか、という話もある。それが切腹に繋がるのもいきすぎな気もするが。なお、切腹後の利休だが。先ほど、大徳寺の門の上に利休像があると述べた。利休は切腹後、一条戻り橋に首を晒されることになった。利休像に踏まれる形で。じつは秀吉は、利休を許そうと考えていた。しかし利休がそれを拒否したため、秀吉はついに怒りの極限にまで達したのではないか。その結果がこの打ち首獄門かもしれない。2、行幸(みゆき/ぎょうこう)。天皇のお出かけ。3、酒池肉林の生活をしていたから、と言われている。しかし実際は、秀吉が自分の子である秀頼に異常なまでの愛情を注ぎ、可愛いわが子を秀次が殺すかもしれないと恐れたからだと言われている。その証拠に、秀吉に可愛がられてきた重臣たちの雲行きは、秀頼誕生後にあやしくなっていった。ちなみに秀次、30人近い妻がいたと言われている。酒池肉林というのは、あながち間違いではないかもしれない。秀次が切腹する際、秀次の妻子はほとんど殺されてしまった。しかしいくつもの戦で敵を許し続けた秀吉にしては、あまりにも厳しい罰だと言える。やはり親ばかだったのだろうか。4、このお城、3度も築かれている。1度目の名前は指月山伏見城、2、3度目は木幡山伏見城という名前だ。ちなみに3度目の伏見城は、天井で有名。血がくっきりと残っているのだ。関ヶ原の戦いのとき、ここは家康の城だった。家康が上杉景勝を成敗しようと出掛けている間に、この城は石田三成に攻撃を受けた。その際、家康の家臣たちが切腹した。たくさんの血が床に流れ、やがて供養してもらおうとお寺に回された。その後、血の床は再利用され、血天井として今もあのお城に残っている。5、金銀に空気を送りながら熱して、鉛を酸化鉛にする(金銀を鉛に溶け込ませる)。そこに灰などを吹き込んで鉛を吸収させて、金銀を残す精錬法。旧約聖書に記述があるらしいが、日本に伝達したのは戦国時代。
関東の風雲

 

毛利、北条は典型的な戦国大名といえる。なぜなら彼らは、まず荘園制(――1)にとらわれていない。しかも郷村制を基盤とし、知行国制による支配を行ってきた。その中でも北条氏(――2)は支配を大成功させ、群雄の模範とされている。群雄の模範とされる理由は、やはりその勢力の大きさだろう。独立し、京都と対立する関東管領の支配地域を継承しているのだ。また、北条家の祖である北条早雲から戦国のおわりまで没落することがなかったことも考えられる。北条氏はその勢力を保ち続け、決して滅びることはなかった。妨害を避けながらも着々と支配を進め、関東の最大勢力にまで上りつめた。だからこそ当時日本でもっとも勢力を持っていた秀吉が、目をつけないはずがない。北条市の領土小田原は、秀吉に狙われていた。秀吉はまず北条氏の姻戚である家康を通して、さまざまな要求を突き付けた。北条氏の当主氏直ははじめ要求に従わなかったものの、やがて要求どおり上洛した。ここで氏直は、ある事件を起こした。真田昌幸に与えられるはずだった名胡桃城を奪い取ってしまったのだ。これはれっきとした違反で、秀吉は激怒する。小田原攻めのはじまりだった。小田原攻めは、北条氏にとっては危機的な出来事だった。2つの予想外が存在したのだ。1つは、信頼していた家康が味方にならなかったこと。もう1つは、伝統的な篭城が通用しないことだ。北条氏は困り、伊達政宗に援軍を要請する。しかし政宗は動かない。それだけでなく、裏切られてしまった。戦争は止まることなく、北条氏はやがて追い詰められていく。絶体絶命の危機の中、さらに悪いことが起きた。秀吉が自ら指揮をとったのだ。これが、石垣山の陣と呼ばれる戦いだ。秀吉は小田原を長期にわたる戦いの末に平定しようとしていた。長期戦のほうが数に勝る秀吉にとっては有利に見えるが、じつは問題点もある。たとえば食料。実際秀吉は、石垣山の陣がもうすこし長ければ、撤退せざるをえないほど食料に困っていたようだ。つぎにあげられるのが、士気だ。長期にわたる大仕事を成し遂げるには、かなりの精神力がいる。武士たちも例外ではなく、段々と士気は下がるものなのだ。これを防ぐために秀吉は、京からたくさんの娯楽を用意していた。余裕のある陣を目指し、見事成功したといえる。一方篭城する北条氏は、悲惨なものだった。結論の出ない評定の繰り返し、それによって和議へと傾いていった。極度の緊張状態による精神的崩壊だと思われる。北条氏はなんとか織田信雄に和議調停の依頼を申し出て、北条氏は降伏した。北条氏直は高野山に追放され、父である氏政は自害。氏政の弟(氏直の叔父)氏照もまた、自害した。こうして北条氏は、事実上滅亡した。小田原を平定した秀吉は、すぐに小田原城に入った。そこで論功行賞として、小田原攻めに参加した武士たちに土地を与えた。ここで注目したいのが、徳川家康だ。彼は関東の地の多くを与えられた。これが、のちの江戸幕府への基盤になったと考えられる。さて、ここで小田原からいったん離れよう。少し時間を巻き戻し、奥州について語らなくてはならない。ここは、伊達政宗が支配していた。彼は父を失い(――3)、何度も大名たちの抵抗を受けながらも勢力を拡大してきた武将だ。秀吉は、奥州もまた全国統一のために必要だと踏んでいた。だからこそ、政宗との関係が険悪になったのは必然といえる。秀吉が小田原に着陣したのは、まさにこの状況下でのことだった。戦の最中、政宗は秀吉のもとへと向かった。その態度に秀吉は機嫌をよくし、政宗が攻略していた会津の没収だけで済まされた。仙道(陸奥の中仙道)を中心とした70余万石は、安堵されたのだ(――4)。この際、秀吉は政宗を高く評価していたようだ。1590年、秀吉は奥州に向けて出発した。伊達氏が奥州の最大勢力だったから、ずいぶん楽に進んだようだ。早くから秀吉の味方をしたものは優遇し、遅れたものには相応の処分、そして来なかったものは罪とした。ちなみに、ちょうどこのころ奥州の津軽氏、南部氏の間で敵対関係がはじまっていた。秀吉が来ても解決せず、この対立は江戸時代になっても続いていた。奥州を平定してからまもなく、葛西、大崎にて一揆が起きた。原因は領主であった木村氏のひどい政治によるものだ。これに対して秀吉は蒲生氏郷、伊達政宗に命じて鎮圧させようとした。ところが氏郷が政宗の態度に不安を感じ、政宗は裏切ろうとしているのではないかと疑う。結局氏郷は、単独で一揆を鎮圧し、木村氏を助け出した。この騒動のためにしばらく政宗の風当たりは強くなるが、のちに解決する。1591年、平定したその土地は政宗に与えられた。これが、つぎの騒動への伏線となるのだった。この土地をめぐって、九戸政実の乱が起きた。しかし石田三成、大谷吉継、上杉景勝などの、のちに関ヶ原とかかわりの深い大名たちがそれを見逃さなかった。彼らは迅速に兵を出し、この反乱を鎮圧したのだった。
補足
1、荘園とは、私的な土地のこと。貴族や大寺院がたくさん持っていた。武士が台頭し、彼らに侵略されるようになると衰え、太閤検地で完全に消滅した。2、鎌倉時代の北条氏と区別をつけるため、後北条氏とも。ちなみに鎌倉時代の北条氏と血縁関係はない。北条家の祖、北条早雲は伊勢宗瑞とも言い、どこから来た人なのかはわからない。3、畠山義継という武将が、政宗の父伊達輝宗を誘拐した。政宗はすぐに追いかけ、彼らに追いついたのだが、輝宗を人質に取られて身動きが取れない。ここで輝宗は、自分もろとも射殺するように命令した。あるいは、これは政宗の下剋上だという説もある。どちらにしろ輝宗は死に、義継もまた射殺されたということだけは確かのようだ。4、秀吉はこのとき、到着した政宗に対して、「もうすこし到着が遅ければその首を切り落としていた」とまで言われている。しかし、許してもらえてなによりだ。
検地と刀狩

 

秀吉が大仏を建立しようとしたのは聚楽第完成のころである。この理由は様々なものが渾然としていると考えられる。これについて一つ挙げるならば聚楽第と対となって秀吉の人生の愉楽を、物質精神両面から体現していると言えるだろう。これが建てられたのは六波羅の辺りであり、頼朝や清盛を理想とする秀吉にとってもぴったりの場であった。この大仏殿造営の基礎が固まるころ、秀吉は刀狩令を発布する。これは土一揆を弾圧するものであり、また百姓と武士を峻別して兵農分離を図るものであった。中世の荘園制においても徴税の為に田地の台帳が作られていた。しかしこれは大まかに百姓からの税を把握する程度のものでしかない。それゆえ、より強固な戦国大名体制が確立すると、検地が行われた。しかしこれは領主へ自主的にその地の状況を指し出させる指出検地であった。これに対して秀吉は役人を送って調査する検地を始め、統一的な規格に全ての田地を置いた。これは社寺・土豪の強い反発を受けたものの、秀吉はその権力を背景として検地を推し進めた。この時に土地はその収量である米の石高によって計算されている。この検地によって登録された百姓は、土地持ちとして認められるものであり、後の本百姓成立に益することになる。逆に土地を持たぬ者は、この時期にかけて一所に集住させられることになる。これが所謂部落の形成であり、これは現代まで連なる問題となる。このころ人望のあった豊臣秀長が亡くなっている。そしてそれから間もなく千利休が追放され、まもなく切腹させられている。これについては様々な説があるが、一つに利休の茶器鑑定に対する不信、また大徳寺山門に利休の木造が置かれたことを理由とする、という。また、集権派・分権派の豊臣政権内二派の、東国政策における対立に起因するものとする説もある。この際、京の町衆は落書によって痛烈な皮肉を加えている。秀吉は聚楽第を中心とし、堤を築くなど京都の城下町化を推進したものの下京の激しい抵抗に遭い失敗。後に聚楽第を放棄して伏見へと移っている。
無法な「天下」

 

朝鮮とは1567年以来通行が途絶えていたが、秀吉はこの国交回復の処理を任されていた。しかしこれについて秀吉は唐・南蛮をも支配下にいれるという思考を持っており、貿易もこの中で処理されることになる。秀吉のこの思考は、土地を媒介とした国内に適用される大名制度の拡張にすぎず、つまり無法な「天下」の拡張であった。外交方針もこれに則り、朝鮮に対して独立を侵すような強硬的態度とそれを飲ませるための妥協的態度によって外交は行われた。これはゴアなどに対しても行われている。このような情勢下で朝鮮出兵は現実味を帯びることになる。名護屋城建設の運びとなっても朝鮮側は和平に応じず、結局秀吉は朝鮮出兵の命を下すことになるのである。秀吉は関白を辞して以て太閤となって朝鮮出兵に専念することになる。諸大名はそれぞれ地域に応じて軍役を課され、それは重い負担であったと想定される。文禄元年3月、第一陣は出陣して釜山を襲ってこれを落とし、これを以て朝鮮出兵は開始された。5月には首都漢城を落城させて軍事的優位を見せつける。さらに6月には平壌をも陥落せしめ、秀吉もまた渡海の準備を行った。しかしこれは結果的に中止となる。これは制海権を朝鮮水軍によって握られていたからであり、また後陽成天皇の宸翰もあったからである。このころ、明が朝鮮へ援軍を繰り出している。この結果平壌を守る小西行長は敗北。明軍は漢城に迫るも、小早川隆景・立花宗茂らによって碧蹄館にて敗れ、撤退している。この結果、明側の李如松、日本側の小西行長によって講和の会談が持たれることとなる。この際秀吉が提示した条件は非常に厳しいものであったが、行長と明側の沈惟敬によって条件を弄ることによってまとめられた。しかし、秀吉にこれが暴露するに至って秀吉の激怒を買い、再び朝鮮出兵は取り行われることになる。日本軍は、朝鮮の苛政からの解放軍とて最初こそ歓迎されたが、検地や国割が行われるに至って一揆の激発を呼んだ。日本軍の軍規は厳しかったが、鼻を削ぐといった残虐行為もまた行われたのである。また、一向宗の布教による順化なども積極的に行われている。しかし朝鮮の一揆は激化し、これに加える飢饉・疫病もあって日本軍の戦力は漸減した。再征では朝鮮・明軍によって苦戦を余儀なくされており、秀吉は慶長3年、既に終わりを予測して撤退令を下している。
花と夢

 

1592(文禄元)伏見の地に築城が始まった。大政所(秀吉の母)が亡くなり、秀吉の心は空虚に満ちていた。築城の動機は、隠居所を求めることであった。工事は戦争と並行して行われていた。伏見城には学問所が取り入れられた。その中心には茶が据えられて、そこに参ずる人は秀吉に仕えた。織田有楽をはじめとし、彼らは千利休を失った秀吉の心を慰めた。やがてその中に古田織部も加わった。この他、秀吉は能にも興味を持っていた。秀吉は素人らしい、無邪気な園芸趣味の持ち主であった。秀吉は情報局も抱え、自らの業績や言動を書きまとめた記録を出し、自己宣伝に務めていた。「天正記」「太閤様軍記のうち」がそれである。その他謡曲も作らせた。秀吉は北政所との間に子がなく、長子鶴丸も夭折していたので、実子をあきらめ、養子として甥秀次を後嗣と定めていた。しかし、1593年(文禄2)淀君に再び実子が生まれた。拾丸、のちの秀頼である。秀吉はいたく歓喜したが、秀次との関係はこれによって微妙となる。秀次は好学であった。秀吉の影響から逃れるためだったかもしれない。彼は石田三成らとはうまくいっていなかった。豊臣政権における五奉行は、現実には関白でなく太閤と結びついているので、関白秀次はなんら執行権限を持っていなかったのだ。秀次は毛利氏と内通し、謀叛を行おうとした疑いをかけられ、自殺させられた。秀吉もずいぶん老いた。同世代の人間が減っていく時期だ。足利義昭、小早川隆景、吉川元春が死んだ。秀吉はこれらの訃報に強い衝撃を受けたであろう。秀次を殺して秀頼の地位が安定したかというと、そうではなかった。秀吉は秀頼のために、前田利家を傅とし、越中新川郡を加増し、秀次の邸第を与えた。自身が信長の遺族をどう扱ってきたかを考えると、秀吉は心休まることがなかった。末期に及んで、権力者であれば誰もが抱く猜疑心に囚われ、誰も信じることができなくなったのである。秀吉は不安を取り除くため、醍醐に豪華な花見を試みた。しかしながらその花見は、かつての北野大茶湯と対比すれば、解放性も社会性もないものであった。一族だけが寂しく集まり、厳重な警備で一般参加は遮断されていた。秀吉はもはや民衆を信じることができなかった。やがて秀吉は死期が目前に迫るのを感じ、五大老を召して秀頼を委託した。1598年(慶長3)8月18日、太政大臣豊臣秀吉は63歳をもって世を去った。
伏見城
文禄元年に伏見城の築城が始まる。これは秀吉の隠居所としての造営であった。ここに置かれた学問所は、秀吉の側近集団たる茶人たちの集まる場となっている。また秀吉は能も楽しんでいる。しかしここで行われた能は演劇性の強いもので、幽玄を旨とする能の世界の否定とも言えるものであった。またこの時期、秀吉には後継の秀頼が生まれており、それによって甥の秀次の誅殺を行っている。この事件はただ後継争いのみあらず、関白の印がなければたとえ太閤秀吉の印があろうとも政策を施行できぬ秀吉政権の性格に由来するのではないか、とされる。この状況では関白と太閤の権力闘争を引き起こすことになり、結果的に秀次の敗亡となったと言うことである。このころ、足利義昭や小早川隆景が次々と亡くなっている。秀吉は醍醐の花見を行っているが、これは非常に厳しい監視のもとに行われたものであり、ここには北野の大茶会で見たような開放性はない。ここに、秀吉の人間不信がよく表れている。そしてこの醍醐の花見を境に病を得た秀吉は、62歳を一期として死去するのである。
豊国のまつり
秀吉の喪は直ちに発表されなかった。朝鮮にまだ兵が留まっていたからである。1598年(慶長3)徳川家康と前田利家は、徳川寿昌・宮木豊盛を使者として朝鮮に遣わし、和睦して軍を帰させるよう命じた。そして毛利秀元・浅野長政・石田三成の三人をして筑前博多に赴かせ、在鮮諸軍の徴収にあたらせた。太閤の訃を知った朝鮮軍に阻まれながらも、なんとか軍を撤収させる事に成功した。1599年(慶長4)、豊臣秀頼は秀吉の遺言によって大阪城に移った。利家は秀頼の傅として仕え、三成は利家に近づいて伏見の家康に対抗せんとした。家康は権威を強めるとともに不遜になり、明らかに太閤の法度を犯すようになった。利家・三成は誓約背違を理由にし、五大老の班列より家康を除こうとした。利家・三成派と家康派に五大老は分裂することになる。1599年(慶長4)利家は細川忠興の周旋により、伏見で家康と会見した。その後家康は病気の利家を訪れる。三成はこのとき家康を襲撃しようとしたが果たさなかった。前田利家は同年死亡し、それにより政治的均衡が崩れた。三成は自らを除かんとする加藤清正・黒田長政・細川忠興・脇坂安治・加藤嘉明・福島正則・浅野幸長の七将に襲われ、家康の元に逃れた。家康は七将に対して調停を行った。これにより家康は三成に恩義を売り、三成側に勢力を伸ばすことができた。1599年(慶長4)9月、家康は大阪に下って石田三成の亭に宿り、秀頼と会見した。家康は秀康をもって伏見城を守備させ、西ノ丸にも天守を築いて権威を示した。家康は大阪での執政が始まる。まず治長を流罪とし、家康暗殺の陰謀を伝えられていた浅野長政・土方雄久を処分した。陰謀の主と言われていた前田利長に対して北伐の意を示した。利長は他意なきを陳じ、生母を人質として江戸に送り、徳川秀忠の第二女を弟利常に嫁がしめることを約束した。1600年(慶長5)には、諸侯が家康に対し臣礼をとるまでになっていた。関ヶ原の役の動機は、家康の会津征伐にかかっている。景勝の逆心の風説を耳にした家康が、上洛せねば討伐すると告げたのである。景勝は誓書を差し出すも認められず、いわれなき討伐に屈するつもりもなかった。家康は諸大名に出征の命を下す。途中から毛利氏が加わり、西軍を組織したが、実際の組織者である三成・安国寺恵瓊に対する反感が極めて大きく、団結力を十分に発揮できなかった。これが西軍の敗北の原因の一つとなった。1605年(慶長10)家康は将軍職を秀忠に譲る。これは徳川氏の政権が秀頼幼少児の期間限定ではなく、永久に世襲されるものであると示す意味があった。江戸と大阪の溝は徐々に深まっていく。大阪夏・冬の陣はしだいに近づいていた。
秀吉の死去
秀吉の死去はすぐには発表されず、まず朝鮮に出兵した日本軍の撤兵が行われた。この撤退は困難を極めたが、島津義弘を殿として何とか成功している。この間、撤退指揮のため石田三成と毛利輝元が博多に居り、これがのちの時代を動かすことになる。このころ、徳川家康が太閤の法度を犯して勝手な婚約を結んでおり、三成はこれを理由に家康の排除を計っている。これに対して家康側の態度を取るものもおり、この時点ですでに関ヶ原の如き対立が鮮明となってきている。このときは両者の間に和睦が成立しているが、すでに矛盾は払いきれぬ状況だったと言えるだろう。この時期、前田利家が亡くなることで大きく政局は変化することになる。これと同時に武断派による三成暗殺の策謀が起こり、三成は家康邸へとのがれている。この結果、三成は蟄居することとなって家康の勢力はますます拡大することとなったのである。またこれは武断派の背後の北政所、三成ら吏僚派の背後の淀殿という対立も内包していた。この状況下で家康は大坂城西の丸に入って政治を司ることになる。関ヶ原合戦は、この時に決定された会津征伐をその発端としている。家康が東下すると、この隙を計って三成は実権を握って軍勢を集め、蜂起したのである。しかしこの軍はむしろ毛利一族主導というべきであって、その点でこの対立は毛利と家康の対立であったと言える。しかし内応者がその毛利一族から出たということからその矛盾点が導きだせる。この関ヶ原合戦後、慶長3年に至って家康は征夷大将軍となって秀頼との主従関係消滅を宣言している。家康は娘・千姫を秀頼に嫁がせるなど歓心を買ってもいるが、その一方で子・秀忠に征夷大将軍を譲るなど独立傾向を示し、豊臣家との対立を深めていった。
 
江戸開府

 

六十年の忍耐
徳川家康の生涯は「忍」の字がこれを表しているという。彼の人生は松平氏と織田氏が争っている時に始まりを告げた。竹千代(家康)は1541年(天文10)三河刈谷の城主水野忠政の娘お大と、松平広忠の間に生まれる。翌11年、水野忠政が死ぬと、お大の兄信元は小田川についてしまった。お大の機転によりなんとか危機を乗り越えるが、このような事情があって家康は家族との縁が薄かった。母とは竹千代3歳の時に別れ、父はのちに人質に取られている最中に失った。しかし母であるお大は長生きし、家康の天下一統を見届けて75で死んだ。水野氏と縁を切った松平氏は、織田氏に勢力を奪われ、今川氏への従属を進めていく。その際竹千代は今川氏に人質に出されることとなった。1547(天文16)のことである。が、駿府へ向かう途中に欺かれ、尾張の織田氏のもとへ送られてしまう。そしてその間広忠が24歳の短い生を終える。側近に殺されたという。松平氏は当主が二代続いて不慮の死を遂げている。竹千代は8歳で孤児となった。同年、今川義元が織田軍を攻め圧倒する。織田軍は竹千代と交換で織田信広(信長の兄)を引渡してもらい、安祥の城を放棄した。竹千代は2年半ぶりに岡崎に戻ることができたが、それもわずか半月ほどのことだった。今度は駿府へ今川氏の人質として行かなければならなかった。竹千代は実の祖母源応尼に養育され、禅僧太原雪斎から学問を教授された。太原雪斎は儒学・軍学・指揮官として非常に優れていた。家康の知識・見識の基礎はこのころ養われたと言われている。竹千代は弘治元年、14歳で元服し、今川義元の名を一文字もらって松平元信と名乗った。同3年、今川義元の甥関口義広の娘・瀬名を娶った。後に築山殿と呼ばれる人である。すぐに元信は名を改めて元康とした。祖父清康を慕ってのことだろう。松平氏は悲惨な生活をしていた。領地からあがる年貢はことごとく今川氏に奪われてしまうので、家臣たちは百姓同然に鎌や鍬を取り、田畑を自作した。今川の将兵には期限をとって、主君竹千代にもしものことがないようにはからった。その上年に何度かある織田軍との戦いには、松平の家臣はいつも最前線に立たされた。親や子は一人、また一人傷つき倒れていった。東西二大勢力に挟まれて、自立しえない国の悲劇がそこにあった。その中でも家臣は志を失わず、主君の帰国と独立の夢を抱き続けた。1556年(弘治2)15歳となった家康ははじめて義元に許されて、墓参りのために岡崎に帰ってきた。家臣である伊賀守忠吉は密かに家康を蔵に案内し、今川氏に隠れて蓄えた金銭や糧米を見せた。彼らは主従手を取り合って泣いたという。1560年(永禄3)今川義元が尾張に攻める際、家康はその先鋒となった。このとき敵方であるお大の方を家康はわざわざ訪問している。よほど肉親の情に飢えていたのだろう。家康は19歳であった。この戦い――桶狭間の戦いで今川義元は倒され、家康はようやく今川氏の束縛から逃れ岡崎に戻ることができた。その後しばらくして、織田氏との間に和平の機運が起こってきた。松平氏はここで今川氏に見切りを付ける。1561年(永禄4)春頃から松平氏は東三河の今川氏の部将を攻撃するようになった。翌年、松平元康は名を家康と改めた。今川義元から譲り受けた名を削り、その縁故をすっかり断ち切ったのである。ようやく発展の途を歩み始めたと思ったその時、一向一揆が台頭し始めた。1563年(永禄6)一揆が勃発する。家康が軍事力強化のため、農民や社寺に多大な負担をかけたのが一大原因である。反松平勢力も背後についていて、容易ならざる敵となった。家康は奮闘し、一揆側に和解を持ちかけた。寺僧はもとのまま、敵対者は赦免、本領安堵、張本人の助命といった内容である。一揆は収まった。ところが家康は一向宗の改宗をその後命じた。僧徒は契約違反を訴えたが、家康は聞き入れず、激しい弾圧を加えた。反抗のエネルギーが高いときには宥和策でそれを鎮め、その後急に態度を変えて敵を叩き潰す。このやり方は50年後、難攻不落の大阪城を攻め豊臣氏を滅ぼしたときの方法とそっくりである。家康が「狸親父」と呼ばれる由来となった狡猾さは、このころから遺憾なく発揮されていた。一向一揆も鎮め、松平氏の三河統一の基盤が固まった。やがて1566年(永禄9)には松平氏を改めて徳川氏を称するとともに、朝廷から従五位下三河守の官位を与えられた。公家は前例を重んじるので、はじめは先祖に国守に命じられた者がいない家康に官位を与えることを渋った。しかし貧乏を極めていた公家は金の力に弱かった。胡散臭い系図を持ち出して、徳川ははじめ源氏で、途中から藤原氏に変わったという証拠とした。神祇官吉田兼右が鼻紙に写したというそれを、鳥の子紙に清書させて天皇に上奏し、勅許を得た。こうして松平家康は源氏―藤原氏を経て、徳川氏を名乗ることとなり、官位を賜った。当時は偽系図作りが流行っていた。成り上がり者が権威を欲したというのと、支配の正統性を求めたのがその原因である。家康はその後、源氏と藤原氏を適当に使い分けた。戦国大名にとって系図や氏姓などは、それらの持つ伝統的権威を利用するための便宜でしかなかった。
江戸の内大臣

 

家康は東海および甲信五ヵ国を領し、日本有数の大名に成長した。そして明智光秀を破り、信長継承者の優位にもたった。全国制覇に邁進するもう一人の雄、豊臣秀吉とは一度は対決せねばならぬ運命にあった。1584年(天正12)の小牧長久手の戦いは、家康がこれまで体験してきた戦争とは別次元のものであった。この戦いは軍事・外交を含めた広義の政治力の戦いであった。家康は信長の次男・信雄を取り込み、秀吉と戦う大義名分を作る。小牧で戦闘が行われることはなかった。小牧に軍を置いて牽制し、長久手に秀吉軍を誘い出して奇襲をかけたのである。長久手の戦闘は家康の快勝であった。この他にも各地で戦闘は行われた。対決はこれで終わらず、その後も臣下の裏切りや財政問題に家康は悩まされた。戦闘での死傷者の多くは馬も甲冑もない百姓であるので、戦闘が続けば続くほど農村は荒れてしまう。長久手では勝利したが、戦争は家康の敗北であった。家康は敗北を敗北とせず、有利な講和をする必要があった。秀吉は家康と戦い、無駄な損害を発生させることは避けたかった。両者の利害は一致し、両者の対決は終わった。家康がその後、領国統治の体制を固めているときに、1590年(天正18)秀吉の小田原征伐が始まった。このとき北条氏が滅ぶ。秀吉は家康に対し、北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の六カ国に移るよう命じた。家康はこれを受け、江戸に入った。これを関東入国という。入国後の家康の最初の仕事は、北条氏と武田氏の遺臣を懐柔することであった。家康は無理な圧迫を避け、徐々に支配力を浸透させていった。秀吉の下についた家康は、領国内で徐々に大きな力をつけていく一方、中央では秀吉の従順な家臣を演じた。家康はわざと愚かしく振る舞い、そのためあらぬ疑いをかけられることはなかった。家康は各大名と秀吉の仲介役をして、大名たちの信頼も得ていった。それは親切心からではなく、豊臣政権の中央集権化を防ぎ、徳川の影響力を相対的に高めておく利己心からであった。秀吉の死後、豊臣政権は大名五人の合議制となった。しかし、家康の実力が時とともに群を抜いて大きくなり、徳川家康対前田利家・石田三成という対立関係が形成された。のちに利家は死に、三成は殺されそうになり家康に助けを求めたので、家康に対抗できる力はなくなった。家康は着々と領国経営をして力をつけてきた。それが秀吉の死後に実り、強大な勢力となることができたのである。
関ヶ原の戦い

 

1599年3月13日、徳川家康は伏見の自邸を出て伏見城に入り、いよいよ中央政権を意のままにするべく本格的な権力強化を図りはじめた。有力な諸大名を帰国させてしまったのもそのための政略である。諸大名が国に帰れば、家康にとって攻撃の口実は作りやすい。検地などの実施は土豪層の反乱を招きやすく、その鎮圧のために軍隊を出動させれば、謀叛の口実を設けられる。多くの大名から信望を得ている家康にとって、そこに何らかの口実さえあれば、中央政権の名を借りて特定の大名討伐のため諸大名の軍隊を動員することは可能だったのである。1600年5月3日、度重なる上京の催促を上杉景勝が強く拒否したことを受けて、家康は会津出兵を決定した。伊達政宗をはじめ諸大名に中央政府軍の統率者として会津出兵を指令、自らも6月16日には大阪城を発して遠征の途についた。7月2日、家康の命に応じて会津遠征に参加した大谷吉継は、美濃垂井で旧友石田三成の招きを受け、家康打倒の陰謀を打ち明けられた。協力を求められた吉継は覚悟を決めてこれに従い、兵を近江に返して佐和山城に入った。三成の同志増田長盛は、三成と吉継の計画をいちはやく家康の側近に報じるなど、ひそかに家康側にも通じる一方、同日には毛利輝元と通じ、その他の諸大名にも家康弾劾文を送っている。家康は三成挙兵の報を得て、7月21日、江戸を出発して下野小山に到着、諸武将を集めて会議を行い、西軍と戦うべく西上を決定した。一方、大阪には近畿・中国・四国・九州の諸大名が集まった。その兵力は93000余という。7月19日、西軍の諸将は伏見城に至り、守将鳥居元忠を攻撃して8月1日、ついにこれを陥落させた。石田三成らは自分たちこそ中央政権の正統派と主張し、故太閤と秀頼への忠節を旗印に自陣への参加を呼びかけた。そうして家康を、故太閤の遺言に背き秀頼を見捨てた異端者であるとして攻撃した。しかし東軍に与した秀吉恩顧の諸大名は、これまでの家康の行動を、豊臣政権の樹立した中央集権における責任者としての正当なものとして認め、むしろ三成の行動を反逆と認めたのである。またやむを得ず西軍に加わったものの、戦意のない大名も少なくなかった。こうした内外の事情に、三成の最大の誤算があった。9月15日、東西軍の戦端は関ヶ原に開かれた。西軍ははじめ大垣城にこもって戦い、後に大阪から毛利輝元を総大将とする援軍を呼び寄せ、東西から家康を挟み撃ちにする作戦をとった。しかし家康の急遽大阪城を攻めるかという巧みな陽動作戦により、三成らは大垣城を誘き出され、関ヶ原盆地に押し込められた。西軍はこれを見下ろす桃配山に本陣を構えた。このとき、ちょうど家康の背後にある南宮山に毛利らの部隊が陣していたが、最前線の吉川広家はあらかじめ家康に内通しており、出撃すべきときになっても動かなかった。このため毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部元親の諸隊もとうとう戦闘に参加することができなかった。また昼ごろ、突如として盆地の西南松尾山に陣していた小早川秀秋の軍が、同じ西軍である大谷吉継の陣を攻撃した。かねて家康側に通じていたものの様子を見ていたところが、家康軍の催促によって裏切りを決意したものであった。これを機に西軍は総崩れとなり、諸将敗走の完敗となった。6時間の激闘の末、家康は完全勝利を収めたのである。関ヶ原の戦いの勝利した家康は、9月27日、大阪城に入った。中央政府軍統帥者としての家康の立場はここに確立したといってよい。つづいて家康は、諸大名の所領処分を徹底的に行った。没収地の合計は600万石を越しており、かなり思い切った大名の配置換えが可能である。その土地再配分は、主に豊臣系の大名を加増しながらもその地を中国・四国・九州へ移し、近江から関東までを一門・譜代で固めるというものであった。江戸から京都・大阪への道をしっかりと押さえたのである。このように家康が、まだ征夷大将軍に任じられる以前から、多くの大名の所領を没収し、再配分し、大幅な配置換えを行ったことは、彼が単に中央政権の軍事統帥権のみを握っているのではなく、既に中央政権の主権者の地位に登ったことを意味するものであった。また1602年に、備前岡山に封じられていた小早川秀秋が死去したとき、家康は秀秋に後嗣のいないことを理由にこれを没収した。江戸時代において、大名が戦争以外の理由で取り潰されたのはこれが初めてである。明らかに日本全国の土地が中央政権の所有であることを主張する権力行使であり、注目すべき出来事である。
覇府の建設

 

1603年、前年末迄に島津氏に至るまで悉く他大名を主従関係の内においた家康は、征夷大将軍に任じられた。之によって源頼朝以来の全国の武士の棟梁、全国支配者としての地位の裏づけ、また朝廷の権威と切り離された全国支配の権力を確立するための肩書きとした。というのも、秀吉は天皇の代理施政者である関白に留まったが、家康は政治権力者ではない、元来は軍事統率者である征夷大将軍となった。征夷大将軍は頼朝以来の武家の伝統として政治的にも権力を持つようになったものである。また、1590年に入城した東国江戸を政権の所在地としたのも、朝廷と政権を切り離そうとしたのではないかと思われる。さて、この江戸城だが、1590年に家康が入城した当時は、知ってのとおり荒れ放題であった。そこで本多正信が玄関周りだけでも綺麗にしては、と進言したが、先に領国支配を固めるため相手にしなかったというあたり、実質的な家康の精神が見受けられる。とまれ、1592年に入って西の丸を建設したのだが、そこから10年以上空いて征夷大将軍任命後の1604年になって大拡張工事を開始した。3000艘の船を28家の外様大名に用意させて伊豆から石を運んで石垣をなすなど、大きな負担を課しつつ1607年までに大天守閣を含む大部分の工事を終えたが、1657年の大火により焼失、以後天守閣は築かれなかった。また家康は城下町形成のために、当時低湿地が多く、海岸線も現在よりはるか西まで入り込んでいた江戸の埋め立てを始め、運河造営、上水道、船着場などを建設し、江戸-上方を結ぶ東海道を始めとして幹線道路たる街道を整備した。街道には伝馬・宿場が整備され、年々需要が高まるので、近隣農民から人馬を徴発して不足を補った。これらの道路については日本を訪れた西欧人が良くほめている。家康はこうして造営した江戸の地に家臣の邸宅を配置、町人を呼び集めて城下町を形成していった。城の西部の平野には城の防備も兼ねて家臣団の邸宅をおいた。また武家諸法度で明文化されるより前に諸大名は江戸に証人として妻子などを住まわせ、江戸に参勤していたので、これに対し家康は邸地を諸大名に与えた。こうして諸大名は江戸に邸宅を持ったが、何れも豪華絢爛に造ってあった。対して江戸初期の武士の食事は質素なものであって、そういう逸話が多く残っている。町人は関東・小田原や徳川氏の旧領東海諸国等から呼び集めた。町人には年貢が免除される代わりにその技術や労力の提供が課された。近世の大名は城下町に住まわせた家臣団から発生する需要を補うために、町人の技術や労力の提供が必須だったのである。また江戸城築城、城下町形成と同時に彦根・駿府・名古屋城の造営を各大名に命じ、これまた大きな負担となっていた。そこで名古屋城築城の際、福島正則が不平を言ったところ、加藤清正が「せっせと仕事をして早く休むことにしようや」と答え、福島を始め諸大名も之にならったという。加藤・福島などの猛将ですら既に反抗する気を失っていたのである。
大御所と将軍

 

1605年、家康は三男秀忠に将軍職を譲り、自身は大御所と称されるようになった。京都で行われた秀忠将軍宣下の儀式は、家康将軍宣下の儀式が関が原合戦後のあわただしい中に行われたものと違い、外様大名に至るまで多数の大名が参列した。彼らは秀忠に忠誠をあらわし、大阪に豊臣秀頼がいたが、此方に出向くものは一人もいなかった。これまでの将軍と諸大名の関係は、家康への畏服という面が大きかったが、それが今後は個人を超えて徳川将軍家に臣従する関係に進めようとしていた。故に家康は2年にして秀忠に将軍職を譲ったのであった。さて、此処で政治上の実力者大御所家康と、中央政権の法的な権力者将軍秀忠の間に、二元政治が行われる心配は無かったのか。家康は、秀吉が関白職を甥の秀次に継がせ、秀吉自身は前関白として権力を持ち二元政治を行い、結果として秀次が秀吉にそむこうとしたとの疑いで秀次と縁者30余名が斬られるという事件を目の当たりにしていた筈である。だが家康は二元政治と成りうる大御所と将軍の体制を築いた。これについて、先ず秀忠が過度なほどに律儀であることが家康に安心感を与えていたこと、そして家康が自らの側近を通じて将軍をリモートコントロールすることで、大御所と将軍の二元政治を円滑に進めることを目論んでいたのである。1606年こんな事件があった。家康は鷹狩りが好きであったので、江戸近郊に鷹場を設けていた。ところがこの鷹場に野鳥が多く、麦の芽を食べてしまって困っているとの百姓からの訴えがあり、町奉行・関東総奉行を兼ねていた青山忠成・内藤清成が命じて鷹場に野鳥を獲る為の罠をはった。これを聞いた家康は、自らの猟場で勝手なことをする、と大いに怒り、秀忠はさっそく忠成・清成に切腹させようと命じた。それを本多正信が止めて、家康に2人の罪を免じてやって欲しいと述べた。家康はこれを聞き入れ、2人にしばらくの謹慎を命じたのである。こう見ると、家康は大分わがままを言ったように見られるが、実はそうではない。家康にも、2人は百姓が困っているからそれを助けようとしたという道理は分かっていた。彼が2人について許さなかったのは、2人が道理によって家康の権威を犯したことであった。もし道理によって大御所の権威を犯すことを認めるとどうなるか、おそらく今後家康の命に対して、江戸の老中や奉行が、各々考える道理によってこれを拒否したり修正したりすることが発生したであろう。将軍や老中、奉行達は大御所家康にとって、家康のリモートコントロールで忠実に動く機械でなくてはならなかった。今度の事件で将軍以下が自身の権威に忠実に動くことをチェックした家康は、駿府に隠居し、主にここから江戸へ指令を送っていた。家康が江戸をリモートコントロールするに活躍したのは彼の側近達である。彼が最も信頼する、手腕家の本多正信を二代将軍秀忠の幕閣に送り込んだのを始め、隠居先の駿府に正信の子正純を置き、その下に成瀬正成・安藤直次・竹腰正信らをおいて手元で政治家として養育し、後々徳川御三家の家の家老として送り込んだ。家康のリモートコントロールが江戸のみならず、子供たちの藩の政治にも行き届かせるようにしたのである。他にも僧侶の金地院崇伝や儒学者林羅山、財務官僚としての大久保長安、貿易関係者やウィリアム=アダムスらが家康の側近グループとして活躍した。本多正信は三河の貧しい鷹匠の出身であった。1563年の三河一向一揆の際には一気に加わり家康と戦った。一揆が鎮圧されてからは各地を転々とし、後に大久保忠世のとりなしで家康に帰参した。そして伊賀越えの難で功を立てて家康から絶大の信任を得、1590年家康の関東入国後は関東総奉行として領国経営、江戸市街の建設に活躍し、家康からの信任はいよいよ厚くなった。こうして武勲ではなく内政で功をあげた正信は、命を懸けて家康に尽くしてきた譜代の大名から厭われる存在であった。この様に頭で活躍した正信は色々と陰謀を巡らしたと言われているが、それは個人的な欲から発したものではないようである。家康からの絶大の割には22000石の領主でしかなかったという点からも、彼は自身の能力を私欲に使っていた訳ではないように思われる。仮に、先の青山忠成・内藤清成の事件が正信の謀略だったとしても、それは同僚を失脚させようとした訳ではなく、大御所によるリモートコントロールが機能するか、家康の引いた路線に沿って将軍秀忠以下が忠実に働くかをテストしたのではないか、と筆者は述べている。大久保長安は甲州で武田氏に取り立てられ、甲州が家康領になると大久保忠隣に使える事となり、ここで忠隣に気に入られて大久保姓を与えられたものである。長安は民政・財政・治水・土木等内政面で大いに活躍したが、特に鉱山経営に於いて彼の活躍は目覚しいものだった。武田氏の下で甲州金の採掘の経験を積んでいた長安は、1601年家康の直轄領石見銀山の奉行となった。長安が石見銀山に赴任すると採鉱の成績は飛躍的に上昇し、ついで佐渡の鉱山の奉行も兼ねる事となった。此処でも採掘量を飛躍的に伸ばし、更に伊豆諸鉱山の経営も任された。彼がこの様に採鉱量を飛躍的に伸ばしえたのは、従来坑道を地上から掘り下げていく竪穴掘ではなく横穴掘の技術を用いたからであった。ヨーロッパの技師からもたらされたであろうこの技術は、竪穴掘では直ぐに湧き水によって坑道が使い物にならなくなっていたところを、横から掘る事で湧き水の排水を容易にした。ところがこの技術も程なく限界に達した。1607年、家康の命で金銀の産出量が落ちてきたことに対する調査をしてみると、坑道が海面より低い位置に達したため湧き水の排水が行えず、採掘できなくなり始めていた。こうして近世初頭の鉱山の盛況は短くして終ってしまったのである。他にも近世初頭には、六本槍の政商と呼ばれた御用商人、職人頭らが将軍の下で活躍した。ところが彼らは身分制度が整ってくると将軍に近づくことは出来なくなり、その特権性を失っていき、代わって京・大阪・江戸三都の問屋層などの豪商に経済界における立場を奪われていった。とまれ、家康は鉱山、また御用商人を介した貿易により多大の富を築き上げた。慶長12年、伏見城に蓄えてあった金銀資材を駿府城に運び出しているが、筆者の計算によるとこれが凡そ78万両、米の金額に換算して約265億円、そしてこれは当時100万人以上の軍隊を動員できる金額であり、さらに1616年時の家康の遺産を、江戸・駿府両方の蓄えを合わせて600万両と見積もっているが、その富が如何に莫大なものであったかをうかがい知ることが出来よう。
「強き御政務」

 

1605年、秀忠が征夷大将軍となったころから家康は強硬に幕府内外へ服従を求めていった。秀頼に対しても新将軍への参賀を求めて一時戦争寸前までいっている。またこのころより諸大名の改易も行われるようになっている。このころ、女官と公家との不祥事があった。このことに激怒した後陽成天皇は極刑を望んだが、幕府の意向から下手人は流罪となっている。このことが気に入らぬ後陽成天皇は譲位の意を幕府に告げた。しかし丁度家康の娘が亡くなった時期と重なったために幕府が譲位の時期を延期しようとし、ますます機嫌を損ねたようである。結果、後陽成天皇は後水尾天皇に譲位することとなった。そしてこの譲位の儀の翌日、家康と豊臣秀頼は二条城で会見する。以前上京を拒否しえた豊臣氏もこの時点では拒否すること能わず、そのことから徳川と豊臣の主従関係を強めた物ということができよう。このころから武家や公家、寺社に禁令の発布も始めている。このような強権発動のなかで幕府内部に対しても統制を強めている。大久保忠隣の失脚はこの中でも最たるものである。これはキリシタンや幕吏の不正絡まる複雑な事件であるが、背景には秀忠の幕閣内での本多正信・大久保忠隣の対立が広がっていたことを背景とするのだろう。忠隣失脚の少し前、有馬晴信の旧領復帰運動に伴う岡本大八の問題が明らかとなっている。これは本多正純の家臣・大八が賄賂を得て偽の朱印状を晴信に渡していた問題である。結果は大八が火炙り、晴信も改易であったが、この2人がキリシタンであったことからキリシタン禁制へとつながる。また、対立する忠隣の臣・大久保長安がこの事件を処理したことは正純にとって大きな失点だったと考えられる。忠隣失脚事件は、このまき返しだったと言える。長安が死ぬと、突如として生前の不正が明らかとされ子は切腹。一族も罰せられた。そしてそれからまもなく忠隣も失脚する。忠隣は幕臣に人気があったというが、これはもしかすると幕臣の援助を彼が行っていたからかもしれず、とすれば幕府財政に権限を持つ長安とのつながりが資金源となっていたのかもしれない。とまれ忠隣の失脚によって本多正信・正純父子が力を持つ。この結果、家康は幕府をより動かしやすくなったといえる。またこのような幕府の態度こそが、豊臣氏が滅ぼされることとなった理由であったと言えるだろう。
大坂落城
家康の上京要求を拒否した当の豊臣氏は、しかし行く末に不安を覚えていたようで神仏に幾度も頼っている。そしてそれから6年後、後陽成天皇の譲位の儀にあわせて二条城にて家康と面会している。この結果は平穏であり、平和な雰囲気が広がったようである。しかしこれからまもなく、豊臣氏が建立していた方広寺大仏殿の落慶間際になって、幕府は様々な難題を掛けてこれを妨害しようとしている。なかでもここにある鐘の銘に難題を付け、混乱を大きくしている。しかし鐘銘を家康が前から知らぬはずはなく、この時点では既に戦争の準備をしていた点からも、家康は混乱を大きくすることを目的としているようである。この鐘銘問題については五山僧の阿諛追従がよく見られる問題でもあった。また、このころより豊臣恩顧の大名が次々と亡くなっている。そのことも豊臣家の立場を悪化させている。この時点で豊臣氏がとるべき方法と言えば、史実の如く抵抗するか、大坂を出るかしか存在しなかった。しかしこの意見はついぞ取り上げられていない。片桐且元は専ら豊臣氏と家康との間の取り持ちを行っていたが、却って且元は裏切り者として扱われてしまい、結果として且元は失脚してしまう。結果、大坂城内では強硬派が実権を握ったのである。この結果大坂城では幕府と戦することがほぼ決まるが、諸大名は全く豊臣に味方することはなかった。すでに大名たちが御恩を受けているのは江戸幕府であり、故に奉公すべきも江戸幕府であったのだ。家康が豊臣征伐を決めると、諸大名は悉く家康に従って大坂へと近づいた。恩顧の大名は特別に免除されていはいたが、その息子は従軍しておりまた島津・佐竹・上杉といった関ヶ原西軍の大名も従軍させられている。大坂城包囲陣が完成すると、じわじわと攻撃を行いつつ講和交渉を行っている。これを飲ませるため、家康は大坂城中心部への砲撃や地下道作戦、堀からの水抜き等を行っている。朝廷からの講和斡旋については、朝廷からの政治介入の否定、幕府内問題としての豊臣氏の処理といった事情から、これを拒否している。それからまもなく講和は成り、二の丸・三の丸を破壊し堀を埋めることで合意している。これが、大坂夏の陣である。しかし、まず豊臣氏が10万の浪人を抱えることが不可能であり、それゆえ浪人たちはむしろ抵抗を主張していたということ。そして内堀までも埋められてしまったことから、大坂城での不満は増大していた。それに目を付けた家康は浪人の追放か大坂退去を要求、結果として豊臣氏は再び抵抗することとなる。この抵抗派多勢に無勢であり、一時は善戦しながらもとうとう全滅することとなった。秀頼・淀殿も結局切腹することとなり、そうして大坂の役は終わった。大坂の残党については厳しく追及されており、これは関ヶ原の際と大きく異なる。これは徳川氏の権力が浸透しており、厳しい追及を行っても解決可能であるという状況をよく示している。
貿易と禁教

 

朝鮮と日本との交渉の中で、苦肉の策として対馬藩は国書を偽造している。これは日本と朝鮮との間で条件が食い違っていたからであり、これを埋めるために偽造をくりかえしていた。また日本側の将軍の称号を巡り、朝鮮は"国王"署名を要求するに対して日本側は"大君""国主"を名乗り変更することがなかった。ここも対馬藩が偽造を行って双方のつじつまを合わせた。しかしこの国書偽造は、対馬藩の内紛である"柳川一件"によって幕府に暴露されてしまう。しかし対馬藩はこの罪を許され、以後も国交を司ることとなる。家康がこのように朝鮮との国交回復を回復した理由としては、明との貿易を回復したかったからである。そのため、琉球との交渉を島津氏を通じて行おうとした。しかし琉球は使者派遣を行わず、それゆえ家康は島津氏に琉球攻撃を命じた。島津氏はあっという間に琉球を攻略し、琉球王は徳川家康・秀忠に謁見。琉球は薩摩藩の支配下に置かれた。しかし明は日本との国交樹立を行わなかった。さて関ヶ原の起こった1600年、イギリス船のリーフデ号が漂着する。その船員の内、イギリス人のヤン=ヨーステンとウィリアム=アダムズは日本に残ることとしている。彼らはそのまま家康の外交顧問となって日本で暮らした。彼らの努力もあり、このころイギリスとの間で通商が始まる。これには様々な特権が付与されていたが、家康死後にその特権は消滅し、イギリスは日本との通商から撤退することになる。またこのころスペインの前ルソン総督も日本に漂着し、家康と謁見している。スペインとは積極的に交易推進や技術提供を得ようと家康は考えていたが、ルソンやノヴィスパニアとの交渉も上手く行かなかった。一方、伊達政宗は家臣・支倉常長をヨーロッパに派遣している。彼は法王に謁見もし、また交易交渉も行ったが布教保護の要請がなされただけであった。このころになって、岡本大八事件に関連して禁教令が発布され、貿易も禁教の為に制限するようになっていった。このような背景には、オランダの攻撃によってポルトガルやスペインとの貿易額が下がっており、またカトリック教国の危険性を認識していったからである。そして貿易による利益を独占しようとしたことも挙げられる。子の為に、生糸輸入に関しては一括に生糸を購入する団体・糸割符仲間を作らせ、これによって生糸の交易を統制した。家康はキリスト教に対してかなり警戒をおこなっていた。キリスト教を布教した後に植民地化を行う、というカトリック教国の手を聞いたこともあり、また一向一揆に悩まされたことから信仰の危険を知るからである。同時に、新教国・オランダの進出もキリスト教への弾圧を強めるりゆうとなった。この状況でとうとうキリシタンの激しい弾圧がおこなわれるようになり、また伴天連の追放が行われたのである。
黒衣の宰相

 

外交の際には国書作成などで五山の禅僧がよく用いられた。秀吉時代に用いられたのが西笑承兌である。家康の時も彼が用いられ、彼が死ぬとそれに代わって以心崇伝が用いられるようになった。南禅寺の僧であった彼は、次第に大きな権限を握るようになり、外交と内政と双方の面で力を持っていた。このころ、幕府は寺院に対して寺院法度を発布し、寺の統制を強めていた。其の一として、寺での学問を推進して俗への介入を防いだ。また、本寺による末寺統制を強化させ、宗派の統制を行いやすくしている。さらに朝廷からの介入拒否にも動いているといえる。これらの法度作成にあたっては寺院の内部事情を知らねばならぬ故、承兌や崇伝がそれに協力している。また崇伝はそれ以外にも様々な法度を起草している。朝廷に干渉する公家諸法度、また武家諸法度も崇伝の筆になるものである。僧の位に関わる紫衣法度やキリシタン禁制他、仏教の諸宗に対して発布された諸々の法度も崇伝の手による。崇伝は法度に逆らう人間を一切排除という態度で会った。それゆえ恨みを買い、世の中での評判は悪かった。しかし彼は、幕府のために働いているのであり、私欲のためとはいえないだろう。もう一人、家康の下で働いた人間に、南光坊天海という人物がいる。天台宗の僧侶である彼は非常に長寿だったといわれ、100歳近くだったといわれる。崇伝については、実質的には教義信仰よりも政治に介入しており、その点で黒衣の宰相――法衣を纏う宰相だったといえる。しかし展開はむしろ宗教面で活躍したと言えるだろう。彼はまた、よく家康に赦免を請うているが、このような存在は激しい刑を最初に容赦なく下すことができる点で家康にとっても有難い存在だったのだろう。家康の死後、家康を神として祭ることとなったがここでどのような神号で祀るか、ということが問題となっている。ここで天海は神仏習合的な称号"権現"を主張し、崇伝は唯一神道的な"明神"を主張した。これは天海が、神仏習合の一であり、天台を基礎とする山王神道を信仰していたからである。結果、天海の主張する権現が通った。これは天海の「明神は、豊国大明神の先例がある」という言葉から、明神が豊臣氏の滅亡を思い起こさせてしまう事となったからである。そしてこの家康――東照大権現を祀るため、日光山に東照宮が造営された。日光はかねてより山岳信仰の拠点として知られていたが、このことによって一気に日光は力を持つようになるのである。現存する東照宮は、家光がその後に豪華に造営し直した物であった。これは大名の力を削るためというが、既に安定期にはいったこの時代にそれを行う必要性が低いことを鑑みると信憑性が薄く、事実この造営の際には大名の寄進を避けている。天海はまた、天台宗の中心を関東に移している。つまり、寛永寺を造営して延暦寺と対置し、天台宗を江戸のおひざ元に置いて統制をはかったのである。さらに延暦寺に対抗するため、宮門跡を置くことを考えた。これは天海の死後になってようやく実現し、輪王寺宮門跡と呼ばれることとなった。日蓮宗不受不施派と呼ばれる一派がある。これは、他の宗派からの功徳を受けずまた施しもしない、という立場の人々である。かれらは江戸時代を通じて非常に強く弾圧されることになった。
大名統制

 

豊臣氏の滅亡によって、太平の世がはじまったという見解があるが、これは考えものだ。大坂の役ののち、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗寺院法度といった基本的法度が発布されるが、これは大坂の役とひとくくりにすべきなのだ。なぜなら家康は、大坂の役と並行してこれら――法典設定の準備を進めていたからだ。彼は、大名、僧、公家らが幕府のもとでどうあるべきかを締めくくるつもりだった。だがそのためには、実権を握る必要がある。豊臣氏が掌握する実権を、なんとしても奪わなくてはならないのだ。つまり、奪えればそれでよかったのだ。ところが豊臣氏は家康の条件には従わず、自ら滅びる道を選んだのだった。元和の武家諸法度は、今まで発されてきた法令と異なる点があった。形式だ。本来なら、主権者が条文を掲げ、大名が誓約する。しかし、元和の法令は、一方的に幕府が大名たちに通告をするだけだった。これはつまり、幕府の支配力の強さが安定期に入ったことを証明しているのではないだろうか。ちなみに、この法令ではまだ、所領、軍役、参勤交代についての規定はほとんどない。それらが決められるのは、三代将軍家光の時代のことなのだ。一応所領に関する条文はあるものの、それは幕府にとって都合のよいように解釈できるものだった。元和の武家諸法度の決まりのうち、ほぼ半分は秩序破壊に対する警告だった。これは、幕府の転覆を恐れたからではないだろうか。あるいは、徳川氏の権力を大名たちに確認させるためとも考えられる。米沢藩士上杉景勝は、1603年10月に訓令を発する。そこには、給与をもらう代わりに軍役(――1)を負担する必要があるということが書かれている。軍役は、藩士たちにとってかなりの負担だった。破綻してもおかしくないほどだったようだ。こうして破綻することを、「すりきれる」といった。景勝は、「すりきれる」ことがないように娯楽を止め、まじめに働くことを伝えた。しかし、それでも「すりきれる」藩士はたくさんいたようだ。米沢藩に限ったことではないのだが。なお、軍役についての誤解が2つある。1つは、幕府は直轄地からしか年貢や運上(――2)をとらず、それを財源としていたという説だ。行政についてはその可能性もあるが、軍役についてはあり得ない。もう1つは、大名の経済力を削ぐことを目的として軍役を課したという説。そのような不満が漏れる状況で、幕府が300年近く続いたとは考えにくい。さて、石高の話へ移そう。石高が多い大名たちは、名誉だと考えられている。しかし、高ければ高いほど、大名の負担は重くなる。軍役についても同様だ。負担に耐え切れず潰れる大名が次々と現れ、やがて幕府は法令を緩めることになる。おかげで、大名たちは少しずつだが回復していくことになった。家康の晩年から秀忠の時代にかけて、大名の配置はかなりの変化を見せる。負担に耐えられない外様大名が潰れ、そこを譜代大名が治めたのだ。こうして譜代大名は、全国に広がっていく。また、大名が潰れるにつれて、幕府の直轄地もまた、増えていくことになった。譜代大名がずいぶんと有利に見えるが、実は彼らも支配原則をうけなくてはならない。潰れる家もあったが、大体の家は小藩だったために石高が低く、まだマシなほうだった。幕府は関ヶ原以降に、譜代の家臣を独立させ、全国支配を進めようとしたからだろう。ところで、なぜこんなに大名が潰れるのか。理由は3つある。1つは戦に負けることだ。2つ目は――これが大きいのだが――後継ぎがいないことだ。末期養子(――3)の禁という制度があり、必要とするときに養子をとることができない。養子がいなければ、大名は潰れるしかないのだ。3つ目としてあげられるのが、幕府による処分だ。お家騒動と呼ばれる争いが起こると、幕府が介入する。そのとき、どうやら幕府はどちらがよい、悪いと決めるのではなかったらしい。勝たせたいほうを勝たせるという形だったようだ。幕府が処分を決める理由は、政治的な意図があったと言わざるを得ない。たとえば、福島氏、加藤氏(――4)の改易。彼らは豊臣家の重臣で、警戒されたからだと考えられる。また、徳川家の親族といえども容赦なく罰を受けたという例もある。
補足
1、軍役とは、戦争や土木工事に参加したり、江戸へ主君とともに参勤しなくてはならない負担。城を造る仕事もここに含まれる。2、運上とは、農業以外の産業に従事する人(漁師など)に課された税。小物成という税に含まれる。3、末期養子とは、死ぬ間際に大名が定めた養子。生きている間に決めるべきなのだが、仮に本当の子どもが生まれた場合、あとでお家騒動が起こる可能性がある。だから、死ぬ間際に決定することが多かった。由井正雪らが幕府の転覆を謀って失敗した慶安の変があるが、それはこの末期養子の禁によって家を潰された藩士たちによるものらしい。この変を恐れた幕府は、のちに末期養子を許可する。ただし、17歳から50歳までの大名が死んだときに限る。4、福島氏、加藤氏はともに福島正則、加藤清正の家。彼ら2人は子どもができなかった秀吉に育てられ、豊臣家に厚い忠誠心を持っている。
消えゆく人々

 

家康の時代、幕政はもっぱら家康と個人的な結びつきを持ち、諸方面に優れた才能を示した人々が集まることによって動かされていた。しかし秀忠の時代になると、そのような個人的な結びつきは重きを失い、組織の中に政治の中枢が形成されはじめた。政治への発言力は將軍との関係ではなく、職務にあることによって得られるようになったのである。家康亡き後の秀忠時代は、個から組織へ、その変革の時期であった。本章では、この大局的な変化に適応できず消えていった旧臣たちを見ていく。第一は、宇都宮城主本多正純である。家康七回忌にあたる1622年4月19日、正純は将軍秀忠の日光下山を待ち受け、これを居城に迎えるべく周到に準備を凝らしていた。しかし皮肉にもこの準備に將軍謀殺の嫌疑をかけられ、宇都宮15万5千石を没収され失脚してしまう。俗に宇都宮の釣天井と呼ばれる事件である。この処罰には、長く家康についていたため秀忠幕閣の中で孤立していた正純を排斥するという、幕府上層部の思惑も働いていたと筆者は推察している。また、この本多正純を過信していたために、取り潰しの憂き目にあったのは福島正則である。福島正則は豊臣秀吉にもっとも縁故ある大名のひとりとして幕府から疑いの目を向けられるのを警戒していたが、1619年4月、居城広島城を無許可で修理したことを幕府に咎められ、いったんはこれを謝罪したものの、そこで約した新築箇所の取り壊しを実行しなかったため、領地備後・安芸両国の49万石を奪われ川中島に移された。この広島城新築を巡る一件は、正則は新築の許可を正純に頼んで安心しきっていたものの、前述の通り既に幕府における正純の発言力は失われていたため、正則と幕府の間に齟齬の生じたことが真相らしい。同じく豊臣秀吉と関係の深い加藤清正の子、加藤忠広も不可解な陰謀事件により熊本52万石を奪われ、滅亡している。一説にこれは家光の威光を諸大名に示すため、外様大名の中でも豊臣氏と縁故の深い加藤氏を血祭りにあげたものだと言われている。この他、幕府に対する素行悪しく、主従の関係を受け入れないものは、松平忠輝、松平忠直など徳川一門と言えども領地を没収され流された。すべての人間が主従・上下の関係で固められ、これに適応できない者はことごとく淘汰されていったのである。
公家諸法度

 

1613年公布の「公家衆法度」に続き、1615年「武家諸法度」を発布した10日後に「禁中並公家諸法度」17条を公表した。「公家衆法度」では幕府権力が公家に及ぶことを法制化したが、「禁中並公家諸法度」に於いて幕府権力が天皇、また公家衆の生活の細々とした事にまで影響することを示した。公卿諸家の家格が固定されているように、以前から公家の社会は発展が見られなくなっていたが、ここに来てそれら生活の固定化は極みに達した。また、彼らの生活は著しく窮屈で、また経済的にも苦しいものであった。一方で家康は朝廷への圧力を増す為に、天皇への入内を考え、秀忠に娘和子が生まれると、これを後水尾天皇に入れようとするが、大坂の陣や天皇に皇子皇女が生まれるなど、入内を延期せざるを得なくなった。これに気を悪くした幕府を見て、天皇は自分が気に入られないようであれば譲位する、とささやかな抵抗をみせるも、幕府は他の公卿に罪を被せて処罰し、天皇へ圧力をかけたが、藤堂高虎らの説得により朝幕間で折り合いがつき、入内と相成った。70万石もの入内費用を費やして和子は後水尾天皇に嫁いだが、その後幕府が天皇の権力が及んでいた諸宗への権限を強く犯し、さらに家光の乳母春日の局が、武家の一召使に過ぎないにも関わらず天皇から杯を受け、これらに天皇が憤り、1629年後水尾天皇譲位、明正天皇即位となった。しかしながらこの譲位を幕府は全く意に介さなかった。もはや勝手にしろ、という雰囲気であったようだ。この後の朝廷―幕府間は、緊張がほぐれていった。後水尾天皇の個人的な恨み等はあるかもしれない。だが家康、秀忠が各法令を発布し、社会秩序をこの型の中にはめ込むことに力を注いでいたのが家光の時代になって法制の整備に方向転換した。家康・秀忠時代に社会の基本的秩序が整い、幕府の支配体制が確立したからである。よって、幕府は朝廷に過度な政治的配慮をする必要がなくなった。そこから生まれた後水尾天皇即位を「勝手にしろ」という雰囲気なのであった。
将軍家光とその周辺

 

家光という将軍は出歩くことが好きで、よくお忍びで江戸近郊に出かけた。四代目以降は将軍の外遊に際しては厳重な警備がついたので、このようなことはなくなってしまった。家光のころまでは将軍の行動は比較的自由であったが、それもだんだん制限されていったらしい。将軍を頂点とする身分社会制度が固定化し、機構・制度が整備されてくると、世の中の人々は身分や家柄の枠に閉じ込められることとなる。将軍もその例外でなく、長く続いた江戸幕府では後期に至るほど将軍は窮屈な立場となった。家光は家康に強い影響を受けていた。以前後継者が駿河大納言忠長になるのではないかと噂されたとき、家康ははっきりと家光こそが後嗣だと明示した。家光にはこのことが終生頭から離れなかったのではないだろうか。この他、幼き頃の大病が家康が用意した薬によりたちまちに快癒したなどとも言われている。1629年(寛永6)家康26歳のとき、家光は重い天然痘を患った。このとき乳母の春日局は生涯薬を飲まないことを神に誓い、その代わり家光を救って欲しいと祈った。それ以来彼女はこの誓いを守り続け、自らの病気が重くなり、家光に薬を飲むように嘆願されたときもこれを拒否し死亡した。春日局は家光の将軍就任も支援し、単なる乳母として以上に家光に優遇された。春日局が家光にとって慈母的存在であったとすれば、厳父的存在はお守役の酒井忠世・土井利勝・青山忠俊の三人である。この三人は家康の内意によって秀忠が任命した者であり、適切な人選であった。酒井忠世は三河譜代最高の家柄の生まれで、性格は謹厳実直、口数が少ない人だった。土井勝利は才物で、よく家光に呼ばれ、しばしば酒の相手をつとめた。青山忠俊は剛直な人で、家光の我侭を強く諌めた。家光の小姓からは有能な政治家が何人か出現した。松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・阿部重次・太田資宗がそれである。彼らは「六人集」と呼ばれ、酒井忠勝・土井利勝のに元老の元で、幕政の中核をなした。家光は家康の制覇の事業の総仕上げを行い、家康に次ぐ高評価を受けているが、家康や秀忠に比べては個性の小さい人間であった。彼の時代の幕府は政治機構が大いに整い、個人活躍の場が少なくなっていたのである。そのため、家光を見る場合には、側近の有能な政治家群の存在を無視することができない。
徳川三百年の基
江戸幕府が私闘を法で明示的に禁止したのは、1635年(寛永12)、武家諸法度を改訂したときである。これに続き、法定や訴訟制度も同年に明文化された。江戸幕府の役人は一つの食に複数の人数がおかれ、月番で事務をとり、重要事項は合議で決定するのが原則であるが、これが明文化されたのもこのときである。評定所は各役所では扱いきれない重大事件や難事件、管轄外の諸領主の事件を担当した。1633年(寛永10)主人・家僕、親・子、本寺・末寺、代官・百姓などの訴訟取扱い方その他の規則が出た。ついで評定所執務細則というべきものも発布され、その後長く執務の基準となった。この年には家光の側近であった有能政治家、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛が老中に昇進した年である。幕府首脳部が充実したのと、武家諸法度の改訂・法定制度の整備が行われたのは深い関係があるのだろう。この全国土地所有権と裁判権が、徳川幕府の国家権力成立をよく示すものである。中世においては、武士は所領の土地・人民と強い結び付きを持っていた。彼らは農村に土着し、主君に対しては独立性を維持していた。しかし近世の知行地は中世の所領とはかなりことなり、支配は形式的・名目的なもので、土地・人民に対する結びつき弱く、中世の武士のように主君に対する独立性は保持できるものではなかった。彼らの収入はもっぱら主人から支給される俸禄に頼ることとなった。さらに武家諸法度で他の主君への再仕官が禁じられたので、武士は現在使えている藩に絶対服従をしなければならなくなった。「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」と武士に対して一方的な没我の忠誠を求めた。政治的支配体制が確立していくのと並行して、社会秩序も固定していった。この時代の身分制度は、俗に士農工商と言われるが、これは儒者の観点から設けられた区別であり、実際は武士と百姓と商人の三身分に大別される。秀吉が行った太閤検地や刀狩りなどの兵農分離政策で、百姓と武士の身分の区別はすでに行われていた。商人に関してはどうだろうか。織田信長や豊臣秀吉のころの楽市・楽座の令により、商売は自由に行うことができた。しかし、ここでいう楽=自由は、中性的特権からの自由であり、近世の商人には身分制度による新たな束縛がなされていた。一定期間都市に住んだ者は町人の身分とされ、農村とは完全に遮断された。彼らは武士のために物資の調達を行い、あるいは物資製造の技術を提供させられる存在となった。このような武士・百姓・町人の三大身分は、それぞれの中でさらに細かい上下の階層構造が成立して完成となった。身分を象徴付けるものの一つに刀がある。百姓には秀吉の刀狩り以降は特に帯刀禁止令は出ていなかったが、町人は法で厳しく制限されていた。衣服もまた身分をよく表す。禁中並公家諸法度には、天皇以下細かい規則で公家の衣服を規定している。上級武士もだいたい公家に準じた規則がなされ、身分の上下に応じて着てよい衣服が制限された。1642年(寛永19)、大飢饉が起こる。幕府はこれにより、農業政策を行って支配基盤を固める必要に迫られた。まず検地の条例により、正確な検地を行わせた。この検地は高度の熟練技術を伴なう公正な検地であった。同時に「慶安の触書」が発布された。農民向けに易しい言葉遣いで書かれており、日常生活の細かいところまで指示し、彼らに勤勉・節約・節制・技術改良を説いた。ここにおいてはじめて、小家族を基本とした農政が出され、土豪などの大家族的な経営を幕府は否定した。 家康が関ヶ原において石田川を壊滅させてから、家康が死去するまでの50年で徳川政権の支配体制は固まった。今後はたとえ幼少・病弱の将軍をいだいても、不安・動揺をきたさぬほど強固な支配体制を築きあげた。
 
鎖国

 

13世紀末、元の世祖フビライに仕えたイタリア人マルコ・ポーロは、その著「東方見聞録」の中で「黄金の国」ジパングを紹介した。それまで名前も知られていなかった日本国の存在が、ヨーロッパ人のあいだにはじめて伝えられたものである。それから16世紀まで、西欧諸国は活発な探検航海と植民貿易により近世世界への道を急速に進んで行った。1498年にはバスコ・ダ・ガマの船団がインドのカリカットに到着し、東方新航路が開拓された。1492年には、大西洋を横断したコロンブスによってアメリカ大陸も発見された。1521年にはマゼランがフィリピン群島に到着。そうして天文年間、いよいよ日本島はポルトガル人によって発見されるのである。日本の発見は、ただちに鉄砲の伝来と結びついている。後年「種子島」と呼ばれたこの新兵器は、瞬く間に戦国争覇の世へ流通し製作されるようになった。そうして織田信長が武田軍の騎馬隊を打ち破った長篠の合戦に象徴されるような、戦術上の一大革命を引き起こしたのである。軍事技術上の改革も多々施された。信長による鉄艦の建造もそのひとつである。鉄砲防御のため船に鉄板を採用し、大砲を搭載したことは、当時としては画期的な改善であった。鉄砲の伝来に遅れること6年、もうひとつポルトガル人によってもたらされた日本史上極めて意義の深いものがある。キリスト教である。1549年8月15日、聖母マリア被昇天の大祝日、イエズス会設立者の一人フランシスコ・ザビエルが、東方布教の熱意に燃えて鹿児島湾に到着した。彼はさっそく九州を中心に伝道をはじめたが、その成果は一進一退であった。また彼の希望は日本の主権者に会い、その許可を得て公然と全国に布教することであったが、折しも京都は応仁の乱で荒れ果てて、天皇は既にまったく無力であった。大々的な布教の目処は立たず、ザビエルは日本滞在2年3ヶ月にしてインドに立つ。その後は残ったトルレスらが布教に尽力し、領内反対派と仏教徒による弾圧の中、キリシタン宗はじわじわと拡大・発展していった。日本におけるキリシタン宗の伝道は、基本的にポルトガル船の貿易に追随して、貿易港を中心に移動・発展した。ときには宣教師が商人と連絡して、布教に好意を向けない地方には貿易船の渡航をしないよう働きかけている。そのため一般諸侯はキリシタン宗を受け入れ伝道を許可することによって、広く貴重な海外物産を搭載するポルトガル船との貿易を図ったのである。貿易統制の本拠ゴアのインド副王や、イエズス会の司教などに使節を派遣したり、進物を贈ったりするものも少なくなかった。新宗教の保護と貿易の発展はいまだ不可分の関係にあったのである。
長崎開港
幕末開港以来、昭和年代のはじめまで、生糸や絹織物は日本の主要輸出品であったが、江戸時代の中頃までは、生糸はむしろ日本の主要な輸入品であった。輸入先の産地は中国である。しかし日・明両国のあいだは倭寇の活躍によって、長らく通行貿易関係が途絶えていた。その間隙に目をつけて商権を拡大したのがポルトガル人である。彼らはゴアから積んできたヨーロッパの銀貨やオリーブ油、葡萄酒、香辛料などを、マカオで生糸に積み換えて日本の港にやってきた。船が碇泊すると、たちまち待ち構えていた地元の有力商人や遠く近畿から潜り込んだ商人たちが取引を始める。対価は銀で支払われた。その額は極めて膨大で、ポルトガル人による日本貿易の中心は、いまやまったく中国の生糸と日本の銀の交易となったのである。それでも全ての交易が順風満帆とはいかない。貿易はつねにイエズス会の布教と繋がりを持っていたため、特にキリシタン宗へ好意を持たない大名の領地では度々問題にぶつかった。そんな中、交易のための安住地を求めて宣教師ベルシオール・デ・フィゲレイドが発見した港こそ、以後日本の対外交通交易の窓口として繁栄を辿る良港、長崎である。長崎湾内はどこも水深が深く、湾岸三方は高峻な岳に囲まれている。湾口の外には島が点在し、風波は完全に遮られていた。マカオ・長崎ルートは、アジア貿易で最短にして確実かつ利益のあがる貿易路線となった。交易を求めて、あるいはキリシタン迫害から逃れて、近隣各地から移り住んでくる人々によって街は繁昌した。カブラルらの宣教師は、このような長崎を中心根拠地として布教活動を進めた。その成績は大変良好で、布教半年のあいだに信仰に加わった者は2万人にも上ったと言われている。やがて領主大村純忠は、この繁栄する長崎が龍造寺や島津らの攻略にさらされるのを恐れて、急ぎこの地をイエズス会に寄進した。長崎は教会領となり、イエズス会の本部サンタ・マリア天主堂などが建立され、いよいよ西日本における布教と貿易の中心となったのである。キリシタン宗が最初から各地で仏教徒ら激しい抵抗を受けたにも関わらず、伝来後わずか30年で広く多数の信者を獲得したことには、社会事情や布教方法などひとくちには言い難い様々な要因が関係している。しかしなによりもまず対立宗教である仏教が、当時諸宗分裂して互いに抗争をつづけていた点は大きい。仏僧は教義を忘れて腐敗・堕落し、戦国大名と変わらず現世的勢力の獲得に狂奔していた。キリシタン宗は巧みにこの弱点をついたのである。くわえて次々と来朝した宣教師の人格や学識、熱意にも特筆すべきものがあった。信長もまた自身が手を焼いてきた仏教徒への反感から、絶えず宣教師を厚遇していた。言わば反対勢力を抑えるための牽制手段として、キリシタン保護を用いたのである。信長はキリシタン宗を積極的に利用しつつ、彼らのために便宜を図ってやった。このような政治的な互恵関係が築かれていたことも、キリシタン宗の拡大に充分寄与している。多くの好条件に恵まれて、キリシタン宗の勢力は大いに発展した。1582年、その興隆の象徴として、九州三大名のローマ遣使が決行された。その正使は2人の少年貴族である。教皇グレゴリオ13世はこの使節を非常に歓迎し、イエズス会はその多年の努力を認められて正式に日本布教の特権を与えられた。遣使は大成功であった。しかし使節一行が出発してからわずか半年のあいだに、日本国内では恐るべき変化が起こっていたのである。本能寺の変により信長というもっとも有力な保護者が没し、使節を派遣した大村純忠も死去した。そして1587年6月、秀吉が唐突に伴天連追放令を出したのである。
伴天連追放令

 

キリスト教布教活動も、信長に変わって秀吉が政権の座につくと変転を余儀なくされる。秀吉の九州征伐の直後、突如として伴天連追放令が発布され、弾圧が始まったのである。この問題は当時の二本の倫理観念とキリスト教での倫理観念の矛盾もはらみ、また九州征伐終了によってキリシタン大名の協力が不必要になったことも理由に挙げられるだろう。また畿内に向けられたその文章には南蛮人の来航・通商の禁止はなく、あくまでバテレンを追放することが明記されていた。キリスト教については、他宗派への不寛容を譴責している。九州に向けて発布された別の文章によれば、キリスト教が、一向宗同様に封建体制を否定することに対する反発もあった。仏教的には禁止される食用家畜の屠殺や、当時広く行われた日本人奴隷の売買も禁止されていた。しかし伴天連追放令はこれに留まらぬ理由を持っていたといえる。九州征伐時、イエズス会は長崎に直轄領を持っていたが、これを秀吉は没収している。ちょうどこのころ、土佐に来航したフェリペ号の船員が、キリスト教布教をスペインの植民地拡大の方法だ、と暴露する事件もあった。それゆえ、秀吉はキリスト教布教をスペインポルトガルの侵略活動の一環とみなし、バテレン追放を行ったともいう。フェリペ号の船員の暴露によって、キリスト教への態度が強固になった秀吉は、宣教師や日本人の信者を捉えると長崎にて処刑し、見せしめとした。この26聖人殉教の知らせに、マニラ総督は秀吉に使者を送って寛恕を求めるも、秀吉はこれを拒絶している。
強硬外交のうらおもて
関東の北条氏が降るや、秀吉は本格的に威嚇外交を推し進める。これまで大名ごとに行っていた外交を秀吉政権のもとに集約してゆく。琉球に対しては、朝貢や明と日本の国交回復斡旋を求め、スペインのマニラ総督に対しても貿易推進とキリシタン禁令を強く申し渡している。このころ、マニラは中国と日本の貿易中継地として重要度を増していた。それゆえ、日本側ではマニラ遠征の計画も立てられるほどであり、同じように台湾出兵計画も存在していた。このような意を伝えながら、南方に対して日本へ服従するように強く求めているのである。これに対し、台湾を治める明は軍勢を派遣しており、マニラのスペイン総督も警戒を非常に強めている。一方で秀吉は、南蛮交易は相変わらず推進しており、長崎を直轄として貿易の統制を行っていた。また海賊停止令を発布して横行する海賊を次々と捉え、海上の治安の安定を図っている。このころ、秀吉は需要の大きかった金・生糸などの買占めを行い、莫大な収益を握っている。フィリピンの民芸品であり、茶室に重宝されたルソン壺や朝鮮出兵で需要の見込まれた銃弾用の鉛についても、交易へと積極的に干渉した。
家康の経済外交
秀吉が諸外国に強硬的な姿勢を見せたのに対し、家康は親善関係を結ぼうと努めた。フィリピン政庁からの使節で、ひそかに布教を行っていたジェロニモ・デ・ジェススが捕えられた際も、これを殺すことなくフィリピンとの外交の足がかりにした。さらにフィリピンからの渡航を薩摩の海賊が妨害していることの連絡を受けて、これを罰することさえした。それでもなお、布教については拒絶の意をはっきり示した。キリシタン禁圧の政策が廃止されたわけではなかった。家康の目的はあくまで貿易の奨励であった。家康は朱印状を発行することで貿易の保護をおこなった。慶長5年(1600)、リーフデ号という黒船が九州の東北に漂着した。この船はオランダが東洋貿易に派遣したうちの一隻であった。そのころ大阪に来ていた家康は、これを聞くと即座に代表者を招いた。家康はポルトガル語通訳を介して、諸外国の情勢を熱心に尋ねた。ポルトガル商人、イエズス会などの在日カトリック勢力はプロテスタント勢力であるリーフデ号の漂着を恐れ、家康に彼らを即刻死刑にすべきであると提言した。しかし、家康にとっては宗派の違いより貿易によって利益をあげることの方が重要であったので、この提言を聞き入れることはなかった。家康はリーフデ号の船員のうち、特にイギリス人アダムズを厚遇した。アダムズは相州三浦郡の逸見(横須賀市)に250石を与えられた。これはいまだかつて外国人には与えられたことのないほどの優遇であるとアダムスは自負していた。慶長14年(1609)、オランダに朱印状が与えられた。オランダとは自由に貿易をおこなっていいという内容である。ポルトガル商人やイエズス会の恐れた自体がまさに起こった。彼らは貿易が盛り上がりを見せぬうちに、オランダの海賊行為を幕府に訴えた。オランダはイスパニアから独立を宣言し、イスパニアから貿易路を断ち切られたので、新たな貿易先としてアジアを目指すようになった。先にアジアでの貿易を行っていたポルトガル勢力とたびたび衝突したというのも、オランダとポルトガルの対立の一因となっている。家康の外交のおかげで、長崎や平戸の港はヨーロッパの商船でにぎわうようになった。だが家康が切望したのは明との貿易であった。家康は政権を得るとともに、即座に日明関係の修復に乗り出した。そのためにまず隣国である朝鮮との外交を回復する必要がある。慶長の役の後、日本軍の撤退が始まると、すぐに家康は対馬の宗氏を通じて朝鮮との交渉を始めた。当初に交わした文書では日明貿易に関する記述は伏せ、慎重な交渉が行われた。同時に琉球を通じて明に近づく手も打っていたが、琉球は朝鮮にまさる堅物であり、話を聞き入れようともしない。島津家久が幕府の許可を得て琉球に遠征し、勘合貿易の復活を琉球から明に要求させたが、明にいぶかしがられ成功しなかった。家康はこの他に、直接明国との交渉にも努め、捕虜の送還、使者の派遣などを行ったが、これも明に疑われ逆効果となった。結局正式な日明貿易は復活しなかったが、明からの貿易船自体はぽつぽつと現れ始めていた。家康はこれを歓迎し、朱印状を与え、争いの時も明側に有利な判断をさせるようにした。そのおかげもあり、寛永20年(1624)には90隻もの明の貿易船が来航した。
生糸を取引きする将軍
家康は将軍宣下を受けると共に奉行の入れ替えを行った。人的関係から貿易港長崎の管理を強化したのだ。貿易重視のこの政策は、秀吉が行ったそれの踏襲である。そのころマカオから生糸を積んだ貿易船が長崎に入港した。このころはまだ貿易の手続きも整っておらず、また飢饉に悩まされていたので、輸入品の生糸はなかなか買い手がつかなかった。その後、ポルトガル船はまた多量の生糸を積んで来航し、廉価でこれを売り出した。幕府はこれを受け、正式に生糸に関する取引法を作成することにした。糸割符法の起源である。取引の方法はこうである。まず幕府が京・堺・長崎など三都市の商人に命じて結成させた貿易商人グループを組む。グループはそのときどきの適正価格で生糸を全部一括で買い取る。その後一般商品の取引を公開し、ついで生糸を国内各地に配分・販売するのである。この方式では、しばしば買主のグループ側に買い叩かれるので、売主であるポルトガル側との悶着の種となることがしばしばあった。幕府はこのグループとは別に、その権威を利用して大量の生糸を売値の5割ないし7割で買い占めていた。幕府による生糸の買占めは何度も行われ、市場価格や販売許可も幕命で定められていたので、ときには一般商人の取引の一切が差しとめられ、幕府の専売となることもあった。秀吉は黒船の貿易保護を積極的に図り、金・銀・生糸などの重要商品の買占めを図った。徳川の世ではさらにこの傾向が促進され、金山・銀山からの上納、大名や社寺からの寄進、そして貿易によって家康は莫大な金銀を蓄財した。家康の遺産は昭和41年時点で2億ドル(現在の貨幣価値で720億円)ともいわれた。まさに慶長の怪物である。
キリシタン禁令

 

マカオで有馬晴信の朱印船が襲撃されるという事件が起こった。経緯はこうである。まずマカオで晴信の朱印船の船員が暴力を働いた。これに対してマカオ当局が動き、60人余りが銃殺されて鎮圧する。その後マカオ総督アンドレ・ペッソアは使者を駿府に送り、日本人のマカオ渡航を禁ずることを家康に願い出る。日本人に直接支那人の生糸を買われてはポルトガル人の商売の邪魔になるというのが実際の理由であろう。家康はこれを受け、朱印状を発行する。晴信は怒り収まらず、家康の許可を得てペッソアを召喚し、事実を確認しようとした。ペッソアはこれに応ぜず、マードレ・デ・デウス号という船で逃走を試みるが、晴信らは兵船を繰り出してこれを砲撃。もはやこれまでと考えたペッソアは火薬庫に火を点じてデウス号ごと自爆する。この商船には生糸が積まれており、これにより京阪で糸値が2倍に跳ね上がったと言われている。この事件の影響はその後も残った。老中本田上野介正純の与力岡本大八が、家康が晴信に対して恩賞として旧領肥前の三都を元通り領地替えしてやるつもりがあると告げたのである。晴信はたいそう喜び、大八に多額の金銭を送って斡旋を頼んだ。しかしその後詐欺がバレてしまい、大八は牢にぶち込まれる。大八はこれを恨み、晴信がデウス号の焼き討ちの際に、奉行長谷川左兵衛から攻撃が手ぬるいといわれたのに憤り、彼を毒殺しようとしたことを牢中で訴えた。こうして大八は火あぶり、晴信は流刑の末死を命じられた。晴信も大八もキリスト教徒であった。家康の側近にも信者が数多く露見し、信仰をかたくなに守ったので、いずれも改易・島流しとなった。その中には人望厚いものもあった。家康がもともと持っていたキリスト教は危険ではないかという疑念が、ここで確信に変わった。家康は大八処刑の機会を利用して、キリシタンに対する激しい迫害を行った。秀吉の死以降、家康は貿易の利を得るために宗教に大しては宥和政策を採ってきた。そのためキリシタンは小康状態にあったのだが、このときそれが打ち破られたのである。これと併せて、オランダ・イギリス両国民は、貿易の利益を独占するために競争者カトリックを排撃しようとあらゆる讒言を行った。ポルトガル商船もこれに対抗して讒言を行った。国内が安定し、ようやく対外政策を行える余裕ができた家康は、さっそくキリシタン弾圧の政策をとりはじめた。利のために宗教と貿易を分離を声明していたが、宣教師は潜入してくるのでこれだけではなまぬるい。まず江戸・大阪・京・長崎に置いて会堂を墓石、布教を禁止し、宣教師を追放した。この政策に関しては、家康の外交顧問格のイギリス人ウィリアム・アダムスが裏で糸をひいていたとも言われている。
朱印船の貿易

 

江戸時代初期、朱印状によって海外交易を認められた船を朱印船という。この制度は、秀吉が海賊や私貿易船との区別を行うためのものであった。家康の代となると、朱印状を持たぬ貿易の禁止が各国に通告され、朱印状は珍重されることとなった。この朱印状の交付は幕府の重臣の紹介状を元に禅僧によって書かれたものであった。そしてこの朱印状を拝領して朱印船を運行するのは、有力大名や有力商人、女性や在日の外国人であった。彼らが資本家となり、船頭を雇って実際に渡航させた。またこの際航海士として外国人を雇うこともあった。このような貿易に目をつけた人物に亀井茲矩がいる。茲矩は官途として琉球守・台州守を名乗るなど海外へと目を向け、朱印船の派遣も行っている。ヨーロッパ式の造船技術も取り入れ、当時の日本は造船技術も誇るものをもっており、フィリピン総督より発注を受けるようにもなっている。この朱印船は各地で交易を行ったが、これはヨーロッパ側にとっては商売敵であるといえた。それゆえ、朱印船の記録はヨーロッパ側に多く残っており、結果としてどのような活動をしているかと言うことが詳しくわかる。また中国船の貿易もこのころ活発となっており、その結果としてヨーロッパ勢力の価値は既に低下しつつあったのである。この当時、日本では非常に多くの銀が産出していた。この時代には世界に出回る銀の3割ほどが日本の銀であった。つまり日本は銀供給国として大きなウエイトを占めており、それゆえ日本との交易を開拓・推進しようと各国がしのぎを削ったのである。
日本町の人々
この当時、東南アジア各地に日本人町が散在していた。ベトナムのフェフォも例外ではなく、日本の貿易船の拠点として日本人町が形成され、そこには追放されたキリシタンや貿易商の関係者などが住んでいた。自治が許されており、基本的には日本の慣習に従って高い生活していたようである。このような在住日本人は、最初のうちこそ日本人同士で婚姻を行ったが、次第に土地の有力者と通婚するようになってゆく。これは、日本から新たな渡航者が来なくなったからであり、その結果として次第にその地域の文化と同化していくことになる。カンボジアにあるアンコールワットには日本人の落書があり、それは当時に日本人がそこまで進出していたことを示している。シャムの山田長政もまた知られた人間である。彼は日本人町の人々を率い、シャムの王家の争いに参戦した人物であるが、この当時シャムには日本人傭兵もまた多かったと言うことが伺えるだろう。マニラの日本人町も非常な発展を遂げていた。最も古い日本人町でもあるこの町は、朱印船貿易の開始から飛躍的に拡大。元から住むイスパニア人との対立も引き起こしながら、キリシタンの追放先としての役割も会って大きな力を持ったのである。このような日本人町は、全く政府の保護をもっていない。だが日本の貿易のウエイトは、この地域の貿易の中でも高いものであり、それゆえ交易に携わる日本人は各地に移住してその地域の貿易をも握った。また日本での戦乱終了に伴って、武士も相当数渡航している。しかし、日本人はすぐに帰りたがる傾向があり、また男ばかりであることからすぐに地元の人間と雑婚し、地元へと同化していくようになる。日本人町の近くには中国人町が形作られ、次第に日本人町に代わって力を持つようになる。この結果として、日本人町は次第に力を失うようになっていくのである。
鹿皮と生糸
当時、台湾は北端をイスパニアが、南端をオランダが占拠していた。ここはベトナムの東京やフィリピンのマニラと並び、日本の商人の活躍する舞台だったようだ。さて、日本の輸入品において額が大きかったのは生糸や絹織物、綿織物、鹿皮、鮫皮、錫、鉛などである。一方、輸出で大きかった物は銀・銅・銅銭・硫黄・樟脳であった。これらの輸出品のうち、とりわけ重き物は生糸や絹織物であった。日本国内で非常に喜ばれたこの品を買い付けるために、朱印船が各地へ渡航したとさえ言える。秀吉の時代はこれをポルトガルが締めていたが、やがて中国船やオランダ船もそこに介入するようになり、また朱印船が生糸貿易の多くを担うことになってポルトガルはその存在感を失うことになる。さて、この時代の台湾は日本と明との貿易を仲介する良い市場であった。日本はもちろん、オランダもここを重要視している。台湾での生糸貿易を巡って、衝突が起こるのは必然であったといえる。まずオランダは台湾での貿易に課税を行おうとし、日本側は拒否。ついで、長崎奉行が用意した朱印船からの借船要求を拒否した。これに機嫌を損ねた幕府はオランダ商館長と将軍の会見を拒否、一方で台湾に居る朱印船の要求に応じて船を新たに派遣した。台湾についた応援の船をオランダは強く警戒してこれの貿易を強く妨害した。これに怒った彼らは朱印船の乗組員は、オランダ商館へと乱入して脅迫。ここにオランダ側も折れ、朱印船の貿易を認めた。これでも強硬な立場を折らぬ幕府へオランダは最大限譲歩をして、ようやく対日貿易を認可させたのである。朱印船による輸入のうち大なるものに、鹿皮があった。これは羽織などで頻繁に使われるものであり、それゆえ需要あるものであった。朱印船はこれを大量に買い占めるため、オランダらの諸国はやはりこれに圧迫された。同様に、刀の柄に用いる鮫皮も輸入品として重要視されている。この時代になると砂糖の輸入量も増えた。日本では黒砂糖が白砂糖よりも高値で売れ、ポルトガルはより高い利益をあげた。また日本では白粉の需要もあり、ヨーロッパ側を驚かせるほどの量を輸入している。
大殉教

 

1616年のキリシタン禁令以後も、伴天連は朱印船に身を潜めて入国することが絶えなかった。そこで1620年英蘭両国は、当時互いに余り仲が良くなかったが、この時ばかりは共同で幕府に上申書を提出した。上申書に於いて英蘭は、カトリック教国家の侵略的殖民政策とキリスト布教とが切り離せない事を強調し、イスパニアやポルトガルに牽制した。これを裏付けるかのように同年、台湾海峡でイスパニア、ポルトガル人宣教師を乗せた日本人キリシタン平山常陳の朱印船が拿捕され、拷問の後、1622年2人の宣教師は常陳や日本人船員と共に処刑された。これに先立つ事1617年、家康が死去の翌年だが、先ず大村で宣教師の斬首があり、この殉教に沸き立った宣教師は白昼堂々教会を興した。これを領主側も黙って見過ごすわけにはいかず、各地で信者の逮捕がうち続いた。しかしいよいよ殉教の熱意に燃えた宣教師が、死を決して次々密入国してきた。当然捜索・逮捕の手も厳しくなったが、1622年、常陳の一件に続いて、長崎で大殉教がおこった。1622年9月10日、各地で逮捕された各宗派の宣教師をはじめ、これを匿ったもの、信者など合わせて55名で、イスパニア人、イタリア人、日本人、朝鮮人の3歳から80歳までの男女が長崎の刑場へ引かれていった。彼らのうち宣教師ら25名は火刑に、大半の女性や子供は斬首された。彼らの処刑後、遺体を2日間焼き、刑場の土もろとも袋に詰めて海中に投棄し、さらに水夫らは体を洗い、船体まで洗ったといわれている。こうして幕府はキリシタン禁圧に厳しい態度を表し、背教を肯んぜぬ者を大いに弾圧した。一方、之を知った各宗派は決死の布教団を組織し、マニラから日本に送り込もうと画策したが、イスパニア政府は日本との国交を考慮して渡航を極力抑えさせた。それでも潜入は絶えず、1615年-鎖国直後までの伴天連入国数は75名に達し、大半はマニラからの渡航であった。幕府はこれに打開策を求めたが、そのきっかけとなる事件がシャムで起きた。1627年にポルトガル・イスパニアとオランダ間のいざこざに長崎町年寄高木作右衛門の朱印船が巻き込まれ、イスパニア船団に拿捕された。オランダはこれを利用し、幕府に事件の報を知らせ、幕府の反イスパニア・ポルトガル感情を高めた。いちおうこの問題は事なきを得たが、幕府は伴天連密入国の本拠であるマニラ征討を画策した。幕府の了解のもと、征討の主導者島原領主松倉重政らはマニラの軍備を視察するために渡航した。が、出帆後まもなく松倉は病没し、その主導者を失いマニラへの遠征は一時中止された。が、依然として伴天連による布教が続き、日本人の対イスパニア人への反感は薄まらなかったようで、遂には幕府もマニラ遠征に乗り出してきて、オランダとの軍事協力もかなり取り付けたようだ。尤も、たまたま島原の乱が勃発して幕府も手一杯になり、マニラ遠征は流れることとなった。1623年、イスパニアは日本との貿易促進の為、600tの大船で大使を送った。彼らは面倒ごとの多い長崎への寄港を忌避して薩摩南端の山川港に入った。彼らは多額の金品を用意して将軍へ貿易促進を願い出たいと申し出、先ず長崎奉行の元へ赴いた。長崎奉行長谷川権六は彼らの強い要請に押され、江戸へ使者を走らせた。翌1624年、江戸城内で老中土井大炊守を始めとして、金地院崇伝らが、イスパニアの要望である上京及び将軍への挨拶についてなど協議したが、将軍に謁見させる事は無いと拒絶し、その旨を文章にしたためて長崎奉行へ送った。この間にイスパニア大使らは海路を兵庫へ向かっていたが、備後の室まで来たときにこの幕府の命令に接し、やむなくマニラへ引き返した。こうして鎖国を待たずして日本‐イスパニア間の国交は断絶した。また、これより先に平戸のイギリス商館も業績不振の為に日本から撤退し、残るはポルトガル、オランダのみとなった。

鎖国への道

 

家康の時代より、大名や商人など様々な人が幕府から朱印状を賜って、各国へ出かけていって貿易をしていた。しかし1609年、幕府は軍事的目的として大船召上げ令を出して大名から500石以上の船を少しの例外を残して悉く引き取り、よって島津、松浦ら西国大名は朱印船貿易から手を引かざるを得なくなった。次いで1612年、初めてのキリシタン禁令が出ると、大名は貿易から全く手を引くこととなった。キリシタンの禁止は1616年家康が死去して、大御所秀忠の政治となると、その弾圧が厳しくなってきた。同年、以前からの禁令に重ねてきつくキリシタンを禁止し、またヨーロッパ船の貿易は長崎・平戸に限定する旨が伝えられた。この貿易地の制限は、大名がその領地内で貿易をしない為の配慮であり、キリスト教=ヨーロッパ人と日本人の接触を制限する為であった。ここで驚いたのはイギリス人であった。家康の時代は大きな特権を得て貿易をしていたが、ここにいたって他のキリスト教国家と同じように扱われることとなった。イギリス商館長や三浦按針は幕府に掛け合って緩和・撤廃に奔走したが、一度出た令を取り下げることは叶わなかった。また、この裏では幕府に縁故のある商人が外国商人よりも有利に商売をして利益を上げる為、策動していた。このイギリスは1623年に平戸の商館を閉じて対日本貿易から撤退した。1620年、英蘭の上申書の提出、そして平山常陳の事件があり(大殉教の章参考)、キリスト教弾圧のいよいよ厳しくなってきたのにつづいて、1623年、ポルトガル人航海士の雇用の禁止、日本人のマニラ渡航を禁じるなど、その制限の幅は広まってきた。こうして朱印船貿易の制限が厳しくなってくると、例えば鎖国直前の頃は三浦按針や貿易銀を握る銀座の年寄らのみが貿易を許可されることとなり、さらに朱印状だけでは飽き足らず、三老中連署の渡海許可証が必要となった。これは1631年に設けられた奉書船の制度である。これには、当時限られた特権階級のみが貿易の利益を得られるようになっていたために発生していた朱印状の偽装などの脱法行為を取り締まるためでもあった。1632年、家光の独裁となると、いよいよ鎖国の第一段階に踏み切った。この後5回に渡って似通った文章の鎖国令が出されるが、いずれも日本人の渡航禁止、キリシタンの禁止、外国船貿易の規定からなっている。また、3回目の1635年の鎖国令では日本人の渡海を完全に禁止し、また海外からの帰朝も禁じた。これらの禁令は限られた特権階級の貿易家に多大な影響を及ぼした。ところで、この禁令によって東南アジア方面の貿易拠点から日本人が除かれた訳だが、そのために今まで各拠点で膨大な資本の元に幅を利かせていた日本人商人がいなくなり、オランダ商人らは大いに喜んだ。鎖国令には伴天連以下キリシタンの取り締まりについても規定されているが、その懸賞金も徐々に大きくなった。またヨーロッパ人の子孫が日本に残留することを禁じるなど、他の条例と合わせれば全くヨーロッパ人と日本人の接触は断たれた。4回目1636年の鎖国令に於いては唐船にも糸割符を適用し、また貿易も平戸・長崎に限定することになった。このほかポルトガル船の入港出帆期日の規定、また積荷は全て売りさばくか、持ち帰る事として、日本人に積荷を預けて親睦を深めたり、密取引などの余地をなくした。そして1637年島原の乱が勃発すると、これにキリスト教徒の関わること濃厚とみて、一層外人の取締りを厳しくし、1639年、老中7人の連署のもとカレウタ船(ポルトガルの小型商船)渡航禁止令を出し、約1世紀続いた日葡貿易は完全に禁止された。また、対日貿易によって成り立っていたマカオは特使を日本に派遣し、通商再開を求めたが、1640年13人のシナ人船員を除いた特使以下船員61名を禁止令の通り斬首に処し、禁令を厳しく実行する事を表した。外国人の取り締まりは、これまで上手く立ち回ってきたオランダにも降りかかってきた。マカオ特使の斬首から3ヶ月、平戸のオランダ商館の取り壊しを命じられた。商館長カロンは下手に反抗せず素直に了解し、直ちに商館を取り壊して長崎の出島に移転した。又、これからオランダにも糸割符制が適応されることになった。この後も荷物のやり取りなどに大きく制限が加えられてゆき、各方面から禁令の緩和を求められたが結局揺るぐことはなかった。但し、当初のあいだ幕府は貿易量に制限はしなかったので、オランダ、シナの対日貿易額は一時期大きく上昇もした。また、この間に幕府は諸藩に命じて禁教を厳重にさせる共に、宗門改役、踏み絵や起請文などの制度を設け、またキリシタンでない旨は全て寺僧の証明が必要となった。
ジャガタラ追放

 

「アンボイナの悲劇」という史劇があるが、それはイギリス人、ポルトガル人、そして日本人が経験した悲劇をもとにしている。悲劇の舞台であるアンボイナ島は、香辛料の産地であり、中継地である。イギリスとオランダが支配権をめぐっていたのだが、イギリスは国内の経済恐慌により力を失い、オランダの圧迫を受けるようになった。また、この年にイギリスは平戸にあった商館を閉鎖してしまう。さて、アンボイナ島には日本人がおよそ60人住んでいた。彼らは勤勉で勇敢、さらには低賃金で雇えると評判で、現地の人々に歓迎を受けたという記録がある。彼らはかつて日本に住んでいたが、バタヴィア(現在のジャカルタ、ジャガタラとも)を経由してアンボイナにたどり着いたものが多数だった。バタヴィアにたどり着いた日本人は、労働力として使いやすい青年男子が多く、そのなかでも未婚の人々が多かった。この日本人たちに関しては、バタヴィアにある中央文章館内の資料に詳しく書かれている。資料によると、バタヴィアに渡った日本人の多くが九州出身であったらしい。とくに、平戸と長崎の出身者数が圧倒的である。日本人たちはさまざまな仕事で活躍した。彼らは器用で勤勉なため、すぐに職を得ることができたようだ。しかし、彼らの多くは追放された身分である。よって、日本を恋しく思う人々は多かった。その話は、今日まで語り継がれてきた。有名なものとして残る資料が、「ジャガタラ文」である。ここには、少女が日本を恋しく思う気持ちが切実に表わされている。しかし、バタヴィアの人々の嘆きが、この資料にだけ残されているわけではない。ジャガタラの悲劇は、今でもなおたくさんの文章に残されている。これらの文献の中には追放の嘆き、そして鎖国の痛ましさが、鮮明に書き表されているのだ。
出島の蘭館

 

1641年、平戸にあったオランダ商館は長崎の出島へと移ることになる。この出島での貿易は、非常に厳重な管理がされたもので、出島にオランダ船が入港すると幕府によって厳重な臨検が行われた。とりわけキリスト教に関係する物品の持ち込みは厳しく制限されている。持ち込まれた物は交易品の他私物まで幕府によって調査され、処々の規制が行われてそれに基づいた貿易の身が許されている。また出島への日本人立ち入りも、ごく一部の人々を除いて禁じられていた。このように制限の厳しい出島での生活は、穏やかであったが無聊と束縛感にさいなまれる物であり、オランダ人たちはそれにたいそう悩まされていた。この出島商館は、オランダ東インド会社の出先機関であり、各地の行政の他軍隊までも保持していた。それゆえこの幹部には行政的・軍事的手腕を持つ商人が任命されており、この出島商館長も例外ではない。そのほか、医師なども出島におり、日本の学者との交流を通じてヨーロッパ文化吸収に大きな役割を果たした。一方に日本側は長崎奉行がこの長崎交易を管轄した。また出島オランダ商館に関する事務は出島の乙名がこれを行っている。そのほか特筆すべきはオランダ通詞であり、彼らは通訳としてオランダ人との接触を頻繁に行い、西欧文化摂取に大きな役割を果たした。ここでの貿易も幕府によって厳しく制限されたものであり、まず生糸の値段が商人との交渉によって決定され、それからそのほかの品の貿易が行われた。しかしその交易の利益は東アジア最大のものであり、故にオランダは日本から撤退することはなかった。ところで、日本の実情がわかってくると、日本が金銀島ではないことが明らかとなる。と同時に、金銀島捜索が行われた。1643年、南部藩内にオランダ船が漂着したのもこの探索船で会った。この際も厳しい取り調べが行われ、オランダ船であり宣教師でないとわかるに至って漸く解放されることになっている。この時の取り調べから、諸藩もキリシタン取り締まりの役人が配されていて、キリシタン禁制が徹底されていたことがうかがえる。此の事件の後、オランダ商館長は解放を謝すために江戸へ参府している。商館長の江戸参府は義務であり、大名による参勤交代と同様に捉えられていた。この際は将軍に謁見も行うことになっていた。またこの際には江戸在住の学者の訪問をひっきりなしにうけ、多忙を極めていた。しかしこれを通した洋学の知識は、江戸の学問充実に大きく貢献している。
国政爺の使者

 

家光が将軍となり、鎖国体制が固まってくるころ、中国では大変動が怒っていた。1646年、先に清の攻撃によって北京を失陥した明が、日本へと援軍を要請してきたのである。これを送ったのは、福王を擁立して明復興を目指す鄭芝竜であり、彼は一時期平戸にも住して日本とも関係が深かった。彼が日本人妻と作った子は、後に鄭成功と名乗り、国姓爺としても知られる。この援軍要請に対し、日本側は正式な要請なれば出兵も考えていたようであるが、福州城の陥落によって出兵は中止されている。後、1648年・58年にも鄭成功は援軍を求める死者を送っているが、これを幕府は受け入れなかった。さて、芝竜は日本との交易も積極的に行っている。日本に入る唐船の大半が彼の支配下にあり、利益を上げたのである。彼の子・成功も盛んに長崎貿易を行い、長崎貿易を牛耳った。オランダを追い落とし、台湾で清への抵抗を続けた鄭成功だが、やがて清の封鎖を喰らって次第に衰退することになっている。しかし台湾での中継貿易は続行され、鄭氏政権が清に降伏するまで続いた。鄭氏政権崩壊後、清は方向を転換して日本との貿易を行うようになる。とりわけ日本の銅は、清にとって重要な貨幣材料であり欠かせなかったのである。また銀の輸入も積極的に行っている。一方清は生糸や絹織物などを積極的に日本で売りさばいている。この唐船貿易は、長崎の唐人屋敷において行われていた。ここでは遊女などによるもてなしが頻繁にされており、唐商人は多額の金を遊興費として使った。一方、こうして唐人貿易を囲い込むことで、日本側は銀輸出を出来るだけ抑えようとしたのである。また清では解禁されていたキリスト教が流入することを強く警戒していたことも理由に挙げられる。
オランダ人のアジア貿易制覇

 

1639年、日本へと出航していたオランダ船が、バタヴィアに帰ってきた。その船が持ち帰った情報に、オランダは狂喜する。オランダの策が成功し、日本はイスパニアとポルトガルとの貿易を中止したというのだ。オランダの策は日本人の、イスパニア、ポルトガルの両国に対する反感を挑発したものだった。これはのちに、ルソン遠征を引き起こす要因となる。オランダは、建国以来イスパニアとポルトガルを敵視しており、貿易において様々な妨害を行ってきた。それだけでは飽き足らず、オランダはイギリスまでもを敵視するようになった。ついには、平戸の商館からイギリスを撤退させるまでに至った。こうしてオランダは海上貿易を支配した。元から持っていた支配力を、さらに強める結果になるのだった。1635年、日本船の海外渡航が徳川家光によって禁止された。これにより朱印船は姿を消し、オランダは貿易がしやすくなる。さらにオランダはシャムにも使節を派遣し、アユタヤに商館を置くことに成功する。これは、日本と中国が貿易をする際、中継地点として役立つことになった。こういったオランダ商館から積み出した商品によって、オランダは莫大な経済力を得ることになるのだった。1642年、オランダ商館の総督アントニオ・ファン・ディーメンは、幕府に意見書を提出した。まず、オランダ人を優遇してほしいということが書かれていた。さらに読むと、南蛮が日本の侵攻をたくらんでいる、と書かれている。2つ目の文章は、キリスト教の勢力をオランダが警戒してのことだと思われる。だから、日本には入れないようにと先手を打ったのだろう。ところがちょうどそのころ、イギリス船が日本に来航したのだった。イギリスは、再び日本との貿易を求めてやってきたのだった。しかしながら、成功することはなかった。オランダの策謀によって、イギリスは日本に嫌われる結果となってしまったのだった。このころ、フランスもまた東インド会社を設立していた。イギリスと同じように日本との交易を望んだが、やはりオランダに妨害される。オランダの策により、日本は徐々に、国際社会から隔離されていくのだった。続けてオランダは、シナ船(中国船)をも排斥しようとした。様々な策略を凝らして排除しようとしたものの、受け入れられることはなかった。シナの排斥は、あまりにも大胆すぎることだったからだ。オランダ商館長カロンは続けてシナの排斥を推奨するが、日本とシナとの貿易は発展を見せつつあった。シナの排斥をひとまず諦めたオランダだが、まだ対日貿易の独占を諦めたわけではなかった。シャム(現在のタイ)に日本人が住む日本町があるのだが、1630年ごろに焼き打ちを受けた。その際にシャムとの交易は中止されたのだが、シャムは再び交易を求めるようになった。オランダは、これを許そうとはしない。シャムはオランダの暗躍により日本に上陸することができず、交易は諦めざるを得なくなった。また、カンボジャも同じく妨害を受けていた。こうしてオランダは、対日貿易の独占にほぼ成功する。しかし、18世紀にはいると、状況は変化を見せる。ロシア、イギリス、アメリカなどが台頭を見せ、オランダは衰退することになるのだ。日本の鎖国もまた、続けることがむずかしくなってきた。
世界とのつながり

 

バタヴィアに行くと、今日でも日本の通貨を見ることができる。それらは鎖国前に、交易の際海外に持ち出されたものだ。国によっては質の悪い貨幣しか造れないところもあったらしく、日本の貨幣は大切にされたらしい。つまり、需要が高いのだ。それに応じて、長崎では輸出用の貨幣が造られていたらしい。日本の銅銭は、世界各地に輸出されていたらしい。当時銅は最も需要が高かったためだ。日本銅の輸出に力を入れたのはオランダで、莫大な利益を得た。逆に日本から銅の輸出がむずかしくなったときには、北欧の銅を供給する役目も負っていた。オランダに続いて輸出に力を入れたのは、シナだった。シナもまた、世界各地に日本銅を輸出して利益を上げていた。ところがやがて、日本の銅も少なくなってくる。国内需要を満たすことがむずかしくなると、貿易は制限されるようになった。日本の金・銀・銅の行方を追うと、おそろしく流出していることがわかる。日本はことの重大さに気づかず、次々と金属を売りさばいてしまっていたのだ。商人だけでなく幕府の高官までもが国際貿易に疎く、個人の利益を追求することにしか考えていなかった。幕府が事態に気づいて対外貿易は規制されたものの、すでにかなりの金属は流出していた。また、ちょうどこのころ、海外では日本品が流行していた。特に流行していたのは醤油や酒、そして樟脳(薬、香料、衣料品、防虫剤などに使われる)だった。日本の製品は、世界的に通用する良品が多かったようだ。日本の商品として有名なのは金属や樟脳だけではない。磁器もまた、立派な商品である。もともと朝鮮侵略の際に連れ帰った技術者に作らせていたものだったが、やがて国内でも生産されるようになった。が、当時国内の磁器は数が足りなかった。よって、ほとんどはシナから輸出されていた。やはり輸出したのは、オランダとシナだった。ところが台湾が鄭成功に平定されると、そこから経由して輸出することがむずかしくなった。オランダはシナを見捨てて、日本の磁器を売るようになった。長崎のほうでは、磁器の大量生産・大量輸出による経済的な変化が激しかったようだ。以上のように日本の磁器は、欧州において大ブームとなった。美術的価値が認められた結果であり、模倣を行う職人まで現れた。この約1世紀後、再び欧州に影響を与える日本美術がある。浮世絵だ。それに比べると磁器のブームは日陰だが、ぜひとも注目されるべきである。鎖国といえば、ついつい国が完全に閉鎖したというイメージに結びつく。しかし、じつはそうではなかった。閉じられているようで、経済的には繋がっていたのだ。さらには、技術もまたしっかり輸入されていた。鎖国によってキリシタンは排斥されてしまうと、彼らが持ち込んだ学問や思想は弾圧されていくことになる。だが、風俗や習慣までが排斥されたわけではない。それらの文化は、今もまだ日本に生き続けている。幕府はキリスト教を廃止する建前から、洋書・薬を取り寄せることを禁じていた。が、やがて許可するようになる。医学への関心が高まるにつれて、オランダの医学を学ぼうという傾向が国内では強くなった。そこで招かれたのが、ウイルレム・テン・ライネである。彼は日本人医師に医術を教えるだけでなく、患者の治療にまであたっていた。また、彼の弟子はのちにオランダ書の翻訳をおこなうなど、偉業を成し遂げている。その書は、今日でも日本に保管されている。ライネの来訪は、日本に大きな影響を与えたと言えるだろう。
鎖国をめぐって
これまでの流れからわかるように、鎖国というのは必然的に起きた事件であると言える。ドイツ人医師ケンペルは、後に「日本誌」を著し、鎖国を是認している。この内の1章は後に全訳され、「鎖国論」として世の中に誕生した。この作品は幕末まで大切に読み継がれたが、1850年になると「異人恐怖伝」と改題され、絶版にされてしまった。ところでヨーロッパが日本に現れる以前、日本にとって世界とは、日本(本朝)、中国(震旦)、そしてインド(天竺)、場合によってはこれにタイ(暹羅)を加えたものを指した。ヨーロッパが日本にやってきて地図や地球儀を紹介したからである。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康などの偉人はこれらを活用し、のちに影響を与えた。徳川家光においては、日本の狭さを知ってキリシタンの脅威を知ったと言われている。その結果が、鎖国である。この鎖国が原因で、日本人の世界知識は狭くなっていった。それだけではない。キリシタンを排斥した結果として、欧州からの知識も失うことになったのだった。わかるように、鎖国は日本人の知識を狭める原因である。江戸時代において鎖国の批判は不可能だったが、討幕後、幕政批判の1つとして鎖国が挙げられたのは言うまでもない。しかし、鎖国を擁護する説が存在することも事実である。欧州文化の輸入が停止したため、国内が発達せざるを得なくなったから、という内田銀蔵氏の説だ。賛成、反対の論が対立を繰り返す中、折衷論までもが誕生した。
 
大名と百姓

 

1684年、駿河国駿東郡にて人別帳提出が行われた。それに先立ち、名主の与惣左衛門は村の農家の戸主を書きあげた。そこには名主の譜代下人も数多く記されている。譜代下人とは、主人に農地・農具を借りて使役される人々のことで、売り買いされるものであった。彼らは名主の屋敷に澄んでおり、代々名主の下人として働いている物であった。名主から田を分けてもらって実質的に自分のものとして耕作する他、徭役として、名主の田畑の耕作を行ったのである。従来より名主は年貢の納入に困った農民から土地を買い、そこをその農民に代わって名主が耕作するということが行われていた。しかしこのころから状況が変わる。名主が土地を抵当として農民に金を貸し、農民はその土地から取れた生産物を返済として名主に払う、という質地小作体制が始まったのである。この結果、名主は下人を集めて耕作経営する必要が無くなっていった。さて、この時代の耕作形態を、加賀藩内、加賀国能美郡と越中国砺波郡の比較から見てゆく。明暦年間から延宝年間の間に、砺波郡では1人当たりの耕作可能面積が1反ほど増大してるのに対して、能美郡ではむしろ1反ほど減少している。元来より砺波郡よりも能美郡の方が生産力は高いが、これはそもそも能美郡が砺波郡より単位面積当たりの生産が多いということ、能美郡がより集約的な生産を行っていたこと、用水維持費などの諸経費が能美郡では諸経費に繰り入れられ、砺波郡では給飯米に入っていることが挙げられる。この様相から、砺波郡では自立性の弱い農民が労働力であり、能美郡は自立性の高い農民が労働力であったことがわかる。前者の農民とは、下人や傍系家族を多数抱えて経営されるもので、家父長的地主である。一方で能美郡では小農による生産が中心となっている。家父長的地主のうちから下人らが独立してゆき、解体した結果と言える。これは明らかに一つの夫婦を中心とし、直系親族のみを構成員とする農民と言える。家父長的地主に隷属する小百姓は様々な形で独立を目指していた。彼らは主に庄屋の権限削減――小百姓への課役転嫁阻止と、給人の搾取軽減、農民逃散による年貢転嫁阻止があり、小農の要求とは大きく異なる。このような状況から小百姓が自立し、独立性を高めた能美郡的小となるには、生産力の発展を要し、それゆえ長い期間を要した。畿内では早くよりその動きが見られるが、地方ではこれが遅れている。太閤検地は小農の支配を前提としているが、その実は家父長的地主制との妥協の中で行われざるをえなかった。
太閤検地
慶長年間に行われた検地では多くの最下層農民が記録されているが、寛文年間となるとその多くが名主のものとなってしまっている。これは、慶長の検地が小百姓の持つ地を、その百姓の名請地として記したからだ。しかしその生産体制は未熟であり、それゆえ再び名主のものとなった、といえる。さて、中世の畿内では領主―名主―作人という重層的な土地所有関係があり、それを職の体系と呼んだ。中世は主にこのような土地体制であったが、末になると名主が領主職を買い取るようになってゆく。ここに作人から生産物を受け取る権利、得分権のある職が統一され、職体系が否定されるようになるからである。これを一職支配とよび、これは太閤検地の基礎となってゆく。戦国時代末というのは、この土地所有の方向性を掴み封建制の基礎を築くのが誰か、という時代であったと言える。そしてそれを成し得たのは畿内直轄化を成し得た秀吉である。秀吉は太閤検地によって、一職支配を全国に広め、耕作地とその耕作者を確実に捕えたうえで年貢を耕作者から直接取るようにしたのである。これを"作合の否定"といい、家父長的地主が中間搾取を行うことを否定した。また、田畑はそこより取れる年貢によって記されるようになり、これによって石高制が成立したのである。また農民を耕作地に縛り付ける――農民身分へと固定するという側面もあり、地主は農村から独立して武士化するか、農民に押し込まれるかの二者択一となった。この検地に対抗すべく、地主は被官百姓に対して、支配権存在を誓約させるなどの抵抗を示す。また後進地域ではこの家父長的地主制の結合から国人勢力が形成されていた。それゆえ検地への不満は国人連合の反感を買うことになる。検地はまた、自立不能の小百姓にもぶつかることになる。この場合、検地では分付百姓とされ、耕地主を分付主、耕作人を分付百姓とした。その表記故、検地帳の上から百姓の階層を見出すことができる。具体的に関東地方の検地帳を見てみると1.分付主とのみ記され、主作地を持つ2.分付百姓とも分付主とも記され、主作地を持つ3.分付百姓と記され、主作地を持つ4.主作地を持つとのみ記される5.分付百姓と記され、主作地を持たない6.検地帳に記されぬ下人の5種が存在し、これからは二つの百姓階層が見出せる。則ち、6から5、3、4と進む小百姓であり、もう一つは2から1へと進む地主の領主化の流れである。この状況に対し、小百姓もまた逃散などの形で抵抗を繰り返しており、それは不作地を生んだ。この激しい対立の中から、年貢徴収体制を築き上げるのが江戸幕府の方策であるが、これは2点の重要な原則があった。則ち、一つは領主化の停止であり、一つは小百姓の自立化である。これは中間搾取層の排除が目的である。そしてこの検地による記録は事実、小百姓の自立は進んでいる。また名主の領主化は完全に否定され、以後農業経営に専心してゆく。畿内の検地では、小百姓の自立が次第に進んでいき、その結果として家父長的地主の没落が進んでいる。検地はこれをさらに促してゆく。その一方で土地を集積してゆく地主もあり、必ずしも小百姓の自立は順調とはいえない。また畿内では農村の荒廃が進んでいるが、これは年貢の取り立ての厳しさがあり、また綿作の発達があった。綿作の発展は小百姓の自立を阻害し、綿商人とのつながりのある家父長的地主の経営維持に寄与していた。この時代において家父長的地主は、譜代下人に対して土地を与え、そこから収奪を行おうと試みたのである。また、夫役負担強化は、家父長的地主がその負担を小百姓に対抗するという形で行われており、その為に小百姓の自立は阻害される側面があった。地主は下人に土地を与えることで夫役を下人に転嫁し、その点で小百姓の自立は妨げられた。しかし与えられたこの土地は小百姓自立にとって重要な橋頭保であり、17世紀初めに居たって小農自立を成し遂げるのである。
地方知行

 

小百姓が自立すると、領主になるのが本来当然だった。しかしながら、ここで語られる百姓たちは、領主になれなかった。それは、兵農分離の政策が強化されたからである。本来武士とは、武装農民集団であった。しかしこの政策によって、農民は農民以上の何物でもなくなってしまう。本来領主になるはずだった家父長制的地主は、成長を規制される。こうしたゆがんだ成長をしてしまった地主を、名田地主(みょうでんじぬし)と呼ぶことにする。大名領において彼らは役家と呼ばれ、知行の基礎になっていたらしい。17世紀前半において、多くの豪商(=大商人)は大名から証文をもらっていた。証文には税の免除や、領内での自由商売の許可などが記されている。じつは当時、大名の市場はただ1つではなかった。小市場がいくつもあり、それぞれが全国的な商業と結びついていたのだ。すると、証文を与えられた商人がひろく商売をする場合、小市場が彼らに干渉すると困ったことになる。だから大名たちは、商人が商売できるように保証する。商人にとっては、まさしくこれが特権だった。大名領の市場がこうだった理由は、地方知行(じかたちぎょう)が大きく関係している。これは、大名の家臣(以下、給人とする)が知行をその地方で給与される方式である。つまり、米を農民から受け取る方式。これには2つの内容があり、1つ、知行地がどの村にあるどの土地と指定される。2つ、それだけでなく、百姓まで指定される。やがて知行制が俸禄制――大名から米を受け取る制度になっても、前者は変更されなかった。このことから、問題になるのは後者だとわかる。給人は、不法をしてはいけないという決まりしか課されていないのだ。つまり、農民支配はほとんど給人に任されている。なぜこの形態がとられているのかというと、農民を大名課役に利用するためである。それは戦争だけでなく、城の新築・修理、そして治水工事まで含まれる。つまり、労働力として農民を利用するためだったのだ。しかし、労働力を提供しなくてはならないわけだから、農民にとってそれは大きな負担だった。農民たちはありとあらゆる手段でこれを逃れようとした。一方大名も、労働力がなければ大名課役を消化できない。だから、こちらも必死である。大名たちは農民の調査を行い、徹底的に人数を調べるのだった。この調査結果から、役家についての説明がある。役家を掌握するための制度が太閤検地であるということだ。役家は夫役を負担する存在であるが、彼らに付いて負担を免れている人を無足人と呼ぶ。役家は無足人を支配している。農村においてこれは太閤検地以前から一般的な体制であったが、太閤検地はこれを改めて作り出したに過ぎない。だから、太閤検地による日本社会の変化は、それほど大きくなかったのではないだろうか。なお、これによって1つの説が浮かぶ。名寄帳は、ナヨセではなく、土地を名(みょう)ごとに管理したミョウヨセではないかという説である。これを、役家体制論という。ただ、どちらの場合も無足人が支配されているという事実に変わりはないのではなかろうか。名寄帳には名請人を基準として土地がまとめて記載されている。これは、年貢計算の簡略を図ったものだ。これによると年貢が村単位にかけられることになる。こうして村役人たちが農民から年貢を集める制度を、村請制という。名寄帳箱のための帳簿である。以上より、名寄帳は農村の実態をよく表しているといえる。が、役家体制論には賛成しきれない部分があると筆者は言う。以下が理由だ。1つ、これでは労働地代がそれほど重要に考えられない点。主な地代は米であるから、ここから社会関係を見るのはむずかしい。2つ、農政の基本台帳は検地帳である。これに対して、村請のためだけの名寄帳では権力者の性格を見ることは不可能であるという点。ここまで見ると、役家という農民は家父長的存在であったと言える。そして無足人は小農民、あるいは「小農」である。彼らを支配したり、地方知行によって家父長制を強めることは、彼らの自立を妨害することになった。しかし、自立農民の数が多ければ多いほど、年貢の量は多くなる。よって、無足人の自立妨害は大名たちの首を絞める。この矛盾は社会的混乱を招き、17世紀半ばまで続くことになった。矛盾をはらんでいながらも、地方知行制は多くの大名がとっていた政策だった。給人たちはこの機会に、なるべくたくさんの年貢を農民から取ろうとした。再生産に必要な部分以外を取るという、激しいものだった。これを、全余剰労働の搾取という。結果として農民たちは没落、あるいは逃亡する。どちらにしても幕府や大名の年貢集めは難航することになった。これについての詳細は、「「不法」の支配者」にて。給人は搾取した年貢から、必要経費を得ていた。年貢を売る場所が、小市場である。見てわかるが、俸禄制と違って給人と大名の経済生活が完全に分離している。この時代、大名の財政と給人の財政は、完全に独立したものだったのだ。
御家騒動

 

栗田元次氏の研究によると、慶長年間から貞享年間の間に、内訌(内乱)によって改易された大名は9人らしい。改易とは大名などの武士が受ける刑罰のことだが、内乱、つまりお家騒動を起こした場合この罰を受けなくてはならない。先ほど、9人の大名が改易されたと述べた。そのうち8人が外様大名(関ヶ原の戦い以降に徳川の家臣となった大名)である。この時代のお家騒動を調べてみると、外様大名が起こしたものが非常に多い。それはなぜなのかを、この章では見ていくことにしよう。そこで、数々のお家騒動の共通点を上げると、以下のようになった。その1、大名が色欲におぼれたり、幼すぎるなどの理由で政治能力が欠如していた点。その2、特異な才能によって登用された人物(=出頭人)が、昔から仕えていた家臣たち(=譜代直臣)と対立した点。その3、お家騒動の判決が、すべて幕府に任されていた点。つまり、大名にはお家騒動を鎮める権利がなかったという点でもある。その4、上層部が家臣たちの経済状況を理解しておらず、ことの重大さに気づいていなかった点。生駒騒動の観点から整理してみると、以下のようになると予想される。生駒藩は、俸禄制(=年貢を領主がすべて集め、そこから武士に給料として渡す制度)を自分の領土で施行しようとした。そのために、出頭人を登用した。結果として譜代直臣たちの反発を受け、生駒騒動へとつながった。これが、地方知行制から、俸禄制に切り替えようとした結果だと言える。今度は、伊達騒動を見てみよう。この事件の原因もまた、先ほどあげた「その1」に当てはまることがわかる。伊達騒動をもう少し掘り上げると、財政窮乏であることがわかる。では、この財政窮乏の理由はなんだったのか。まず、大名の石高には2種類ある。表高と内高である。表高は負担の際基準になる石高で、内高は実際の所有高である。この内高の収入中から家臣に払う必要があるのは、およそ8割。さらに、幕府への負担も圧し掛かる。このような事情から、伊達家はつねに赤字だった。財政危機の対策として行ったことは、新田開発だった。これが結果として自立農民の数を増やしたことは、評価されるべきだ。さらに男女の売買が禁止され、10年以内の奉公人として扱われるようになった。これと同じ年、津留令が出された。これは、藩内の人や物が藩外に出ることを規制するものだ。津留令は必要な物資が流出することを恐れたためなのだが、同時に農民たちを規制する効果をもたらした。このころから、農民たちの抵抗が目立つようになってきた。新田開発と農民統制によって、伊達藩は封鎖的、かつ強固な存在となった。その過程で起きた、内部対立は避けられなかったのだが。もっとも、様々な政策を成功させたことから、結果的に努力が実ったことになるだろう。伊達騒動を見ると、お家騒動における1つの特徴が見えてくる。それは、大名領がなんらかの理由で危険に陥る。それを解消するための行動の過程における対立だということだ。しかし、伊達藩では騒動が起きた際、階級が確立していなかった。お家騒動とは、階級が確立したところで起きる騒動である。だから、伊達騒動はお家騒動の中でも、特殊な騒動だったと言えるだろう。つぎに上げるのは、越前騒動という事件だ。これは、親藩大名である越前松平氏の家臣である久世但馬が成敗されるという事件である。但馬の農民と町奉行の農民が私闘をしたのがことの発端だったのだが、領主であった松平忠直は罪に問われなかった。しかし忠直は、後に改易された。この事件とは関係のない、大坂の陣に出陣しなかったという理由でだ。つまり幕府は、親藩・譜代大名に対しては、軍事的結びつきを重視していたことが分かる。軍事的役割を果たさなかったので、忠直は改易されたのである。しかし、このようなお家騒動は珍しいと言えるだろう。親藩や譜代大名は、そもそもお家騒動が起きるような状況下にないのだ。ここまで見るとわかるように、やはりお家騒動は外様大名が起こしやすいのだ。将軍に屈するしかない状況下だからこそ、それに耐えるため出頭人を登用するようになり、譜代直臣との対立を呼ぶようになるからだ。このような不安定な外様大名が抱えている矛盾を強引に解決させる方法が、「御一門払い」と呼ばれている。具体的にいえば領地没収、追放などである。この方法ならばお家騒動は起きないのだが、多くの大名ではこの手段が用いられることはなかった。
財政窮乏

 

幕府が親藩・譜代大名を基礎にして、外様大名の力を弱めていくことで、外様大名たちは自立性を失いつつあった。この時点で参勤交代や、江戸での住み込みを定められていたのだが、外様大名たちはさらなる追い討ちを受ける。数度にわたる武家諸法度の制定が原因である。元和偃武から寛永にかけて、大名政策は著しい進展を見せた。寛永10年には、あたらしい軍約規定が作られた。そこには、農民夫役を基礎におくこと、地方知行を前提とするということが書かれている。それは今までと同じ。違うのは、この法令に従うべき大名の幅が広げられたことだ。これと武家諸法度によって、大名支配はほぼ完成した。なお、この寛永10年前後は家光政権の成立や鎖国といった、江戸を象徴する制度が急激に整った時期である。この時期におきたことを大きく4つに分けると、以下のようになる。1、譜代、旗本、御家人の強化、および大名の統制。2、大坂を中心とした商業の発展。3、幕府を支える諸制度の完成。4、鎖国(海禁政策)の断行。歴史的にみると、鎖国への道は決して避けられなかったということがわかる。その結果、日本国内を超えることができなくなった武力は、日本国内で発散するしかない。そのピークが、島原の乱である。しかし農民を置いてきぼりにして変化しようとしたあまり、幕府の、武力のはけ口がないという危機は避けることができなくなってしまった。幕府がこのような危機を迎えている中、大名たちは財政的な危機を迎えていた。たくさんの収入があるにもかかわらず、「お手伝い」として幕府への大量の支出があるのだ。大名たちは負担の軽減や免除を願っていたが、その申請をすると知行が没収されることもあった。だから大名たちは、なるべく節約を図ろうとするのだった。普請助役という負担があるが、これは軍事動員と同じ意味を持つ。大きな負担に見えるが、大名たちが窮乏したのは、これが原因ではない。大名財政の支出を見てみると、三都(京都・大坂・江戸)と密接に結びついていることがわかる。なぜこうなったのだろうか、理由は以下である。1、参勤交代と在府制により、江戸での消費を否応なくされていたから。しかもそこでの生活は贅沢を強制され、大量に出費せざるを得なかったから。2、非自給物資を、領国へ運ぶ必要があるから。その2の非自給物資であるが、じつはさらに細かくわけられている。したがって、以下の数字はその2に内包するものだと考えていただきたい。1、農民や町人の必要とする農具、食糧、鉄、貨幣。2、甲冑、馬具、鉄砲などの軍需物資。軍需物資においては、三都――あるはその周辺都市に依存せざるを得なかった。このため、大名財政は商業に巻き込まれることになる。これに対して大名はある方法をとった。年貢米の販売である。しかしながら、売るべき市場はやはり三都。彼らの経済は、こうして形が定められてしまう。石高制である以上、避けられない事態と言える。もう少し掘り下げると、以下の疑問が浮かんでくる。大名たちが物々交換を行わないのはなぜか。畿内が消費の中心である理由はなにか。大坂が発展するのはなぜか。これを知るためには、「毛吹草」という本に頼らなくてはならない。この本には、以下の3つが書かれている。1、畿内では手工業が発展しているということ。2、室町時代の発展を受け継いでいるということ。3、江戸時代に入ってからも、新たな生産物が作られたこと。これらは、江戸に入ってからも発展を続けていた。これが、先ほどの疑問に対する理由の1つである。2つ目の理由は、幕府がなるべく手工業技術の流出を抑えたことである。商人が発展できるのは幕府の力なくしてあり得ない。商人たちはこれに従ったため、安泰だったのだ。以上2つが、先ほどの疑問の理由である。三都と結び付けられた大名の話に戻るが、彼らは非常に苦しい経済状況下にあった。大名の中には「借銀」と言って、商人から銀(貨幣として使われていた)を借りるものまで現れた。大名は蔵米を売ってお金を返そうとするが、困難が伴った。理由は以下参照。1、米を売れる期間が限られているから。2、年貢量が年によって変化するから。3、大名が消費する文も必要であるから。当然、返済が不可能になるものまで現れてきた。しかし、借銀自体が大名の家を潰すということはない。だが、増えれば増えるほど大名たちの軍役に支障が出るので、ないに越したことはない。したがって大名たちは、借銀の対策を取るようになった。年貢を増やしたり、地元でしか取れない価値のあるものを売り出すことだ。また、税の徴収を増やしたり、農民たちの負担を緩めて人数を増やすことを考える大名たちもいた。知行地を減らして蔵入地を増やす少し変わった「検地」も行われた。この寛永期、財政窮乏に陥るのは西国大名に多かった。また彼らは、商業との結びつきが非常に強い大名たちでもあった。商人たちの利益追求の犠牲になり、次々と経済力を弱められてしまうのだった。しかもこの上に参勤交代の負担が重なり、彼らはつねに火の車だった。この状況下から脱却するために大名たちが取った政策は、給人の財政から搾りとることだった。すでに「地方知行」で述べたように、大名と給人の財政は独立していた。だからこそ、可能だったと言える。ただ、給人もまた借銀に苦しんでいるのは当然だった。きっと、思いつき同然に搾取をしていたものだから、しっかりとしたデータが残っていないのだろう。では、旗本はどうだったのか。彼らのデータを調査したところ、早くから商業に巻き込まれていたことがわかった。したがって、彼らもまた窮乏していった。彼らを救出するために、幕府はいくつか手を打っていた。負担軽減や、倹約令などがそれである。このような状況を見ていると、あることがわかる。幕府自らが、先頭に立って大名たちを財政危機に陥れたということである。なぜなら、そして限られた搾取量において、あまりにも重い負担を課していたからだ。こうして幕府は、大名たちの体制を破滅させようとしていたのだ。そのためには、幕府が全国の商業を把握していなくてはならない。だからこそ鎖国を行って、長崎貿易を自らの支配下に置いたのだ。つまり鎖国とは、幕府の商業支配にとって必要な政策だった。こうして幕府は、ひとまずこの政策に成功したのである。
「不法」の支配

 

領主財政の貧窮は過酷な搾取を伴い、その苛烈さに応じて階級的反発は激しさを増す。しかし大名や旗本が過度の搾取を強行して、農民が生活出来ないほど追い込まれることは、幕府にとっては容認出来ないことであった。出羽村山の旗本酒井忠重は悪領主の典型であったが、訴状を受けて幕府は百姓惣代38人を越訴の罪で死罪打首とする一方、撹乱・越訴の張本人である忠重を改易している。彼の治政が、農民のみならず幕府にとっても捨て置けない悪政であったことを示している。忠重に代表されるような農民を再生産不能な状態に陥れる「不法」の支配を、幕府は早くから禁じていた。1602年に定めた農政の法令「郷村掟」には、そのことがはっきりと書かれている。しかし当時にあってこのような「不法」は特殊なものではなく、他の大名や旗本でも事情に大差はなかったものと考えられる。代官が年貢米の売払の責任を負わされている仕組の中では、年貢米の一部を私して不測に備え、幕府の禁止する手作や高利貸活動を行うことは必要悪であった。代官の「不法」を無くすためには代官の機能を変える必要があり、代官の機能を変えるには、農政の新たな展開と商業の新たな発展とが必要だったのである。
佐倉宗吾伝説
あるいは徒党を組んで兆散し、あるいは越訴・直訴を試み、あるいは蜂起して領主を攻めるというこのころの農民闘争の主体は、下からは小百姓の自立運動に突き上げられ、上からは領主的搾取の強化にさらされ、これら二つの動向のあいだでいよいよ自らの行方の決定を迫られた名田地主たちであった。領主からの年貢諸役搾取が強化される一方、下人身分の上昇などにより小百姓の自立は着実に進み、板挟みの名田地主は大きく動揺しはじめていた。彼らは次第に反領主闘争を行うための有効な手立てを失いつつあった。1670年には下瓦林村で、庄屋九左衛門の譜代下人二郎右衛門とその倅が、九左衛門を訴えるという事件が起きている。譜代下人が自ら譜代下人であると名乗って、主人である庄屋を訴えるという珍しいケースであり、名田地主と小百姓が真正面から対立したものの一例である。譜代下人がなんとかして自立し自分の土地保有を確定しようとする動きに対し、名田地主はこれを拒否して譜代下人を縛り付けておこうとする。寛永年間の末ごろに広く見られたこのような状況を通じて、少しずつ小百姓の力は強くなっていった。そうして小百姓の年貢諸役負担の事実が作られ、地主が小百姓から小作料を取る関係が生まれ、その小作料を負担出来る程度に「小農」の農業生産が発展してきたのである。 このように17世紀中頃の農民闘争は、すべて小百姓の自立のための動きに基本的な原因を持っていた。したがって小百姓の自立の程度・進度によって農民闘争の形も変わってくる。著者はこの時期での農民闘争の進み方を、兆散――越訴・強訴――譜代下人の訴訟としている。有名な佐倉宗吾の伝説も、この越訴・強訴の最後に位置する闘争がもっとも美化して語り継がれた「国民的伝説」と言うことができる。
 
元禄時代

 

由比正雪の乱
1651年に家光が死去すると、その後を継いだのは長子家綱だったが、幼すぎるため会津藩主保科正之が補佐官として登場する。そんな中、江戸の軍学者由比正雪が、大乱をおこす計画を立てた。火事を起こし、慌てる将軍の家臣たちを打ち取る計画であった。ところが、いまだに理由はわからないが、この計画は漏えいする。江戸で待機していた彼の同心は捕えられ、駿府に潜伏していた正雪は自害した。理由は正雪の遺書からは、政治の乱れを憂い、怒る人民を代表して蜂起したとされている。だが、牢人の救済という理由があるかもしれないので、結局のところはわからない。国家の転覆を狙ったクーデターは日本で何件か起きた(大塩平八郎の乱、五・一五事件、二・二六事件)が、成功したものは数少ない。この由比正雪の乱もまたそうであるが、この乱が与えた影響は小さくなかった。幕府はこれを牢人の扱いのひどさに起因する蜂起とみた。牢人というのは失業した武士であり、彼らを放置すれば危険であることはだれでもわかる。しかし、幕府は彼らを放置していた。幕府は会議を開き、末子養子の禁を緩めるに至った。由比正雪の乱が起きてまもなく、次々と乱が続いた。幕府はこれらの事件を牢人によるものとして、牢人たちの名前をいちいち記録することにした。彼らの活動は君主への尊敬を薄めるキリスト教の思想によるものかという説があるが、結局のところはわかっていない。
明暦の大火
江戸の町において火事は、つねに人々の脅威だった。庶民だけでなく幕府でさえも必死になる事態だ。だからこそ乱を起こすときは放火、と定番化されていたのだろう。それゆえ、江戸の人々は火事が起こらぬよう、つねに注意を払っていた。1654年には玉川上水が完成し、水路の通る町ができるようになった。また1655年には細かい防火令が出された。しかし、こうして対策を取っているにもかかわらず、火事がなくなることはなかった。明暦3年――1657年、「明暦の大火」と名付けられる大火事が起こる。日蓮宗の本妙寺において、供養のために焼いていた振袖が舞い上がり、寺の屋根を焼いた。その炎は風に乗り、瞬く間に江戸中に広がった。数日雨が降っておらず、乾燥していたためなす術がなかったのだ。人々は逃げるが、焼死したり、川に逃げ込んだため溺死・凍死するものが多く、火事がはじまって間もなく9600人近くが亡くなった。翌日になると火は弱まったように見えたが、まだ消えていなかった。火は火薬に燃え移り、再び猛火を巻き起こした。火が消えたあと、江戸の町を見た人々は驚いた。ほとんど廃墟になっており、火事によって異様な形になった無数の死体が転がっていたらしい。こんな状況下で火事場泥棒が蔓延し、このおかげで巨大な財産を築いたものも少なくなかった。明暦の大火での死者は不明である。しかし、少なくとも3万人、多くとも10万人ではないかと言われている。先ほど、この火事は寺から起きたものだと述べた。しかし、同時に放火したものがいたのだということも判明した。彼らは普通に捕まったものだけでなく、密告によって逮捕されたものもいた。警察制度が固まっていなかった当時、密告制によって犯人を捕らえることが多かったのだ。しかし、たとえ犯人でも仲間がいたことを密告をすれば、密告したものは褒美を与えられた。そのせいで、本来犯人だったものが許されるケースがあったのだから、考えものである。このころ江戸では、供待所(主人を待つところ)での喫煙を禁止するなどの対策が取られた。一方で、「柴垣」というものが流行し、そこでは「人々の欲望が火事を大きくした」と述べられている。火事の後、大雪が降った。火事の前は雨が降らなかったのに、だ。食べものがなく餓死するものや、寒さで凍死するものが後を絶たない。幕府は寺にお金を与えて、死者たちを供養させた。また、大火による米価の高騰を抑え、飢民のために安く払い下げた。また、一般物価も払い下げていたことが記録されている。人々の救済だけでなく、幕府は思い切った改革を行った。町においては道路の幅を広げたり溜池を作る、屋根に土を塗るなど、火の足が遅くなる工夫を凝らした。火消役も改められ、火事への迅速な対応ができるようにした。新しく生まれた火消役は定火消役と呼ばれ、それに続いて町火消が作られた。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の祖父である浅野長直は、火消であることを誇りに思っていた。彼は家臣にも徹底的に火消の作法を教え込み、家臣もそれに従っていた。この主君と家臣の強い絆こそが、後に忠臣蔵を引き起こしたのかもしれない。
補足
○振袖現在では未婚女性が着用する、もっとも格式高い着物。袖が長い。しかしかつては、男性も着用していたらしい。○明暦の大火別名「振袖大火」「振袖火事」とも言われる。その理由について。振袖を着た寺小姓(僧侶の補佐、僧侶の夜の相手として寺にいる美少年)に恋をした女性が、同じ振袖を作ってもらった。ところが寺小姓はやがて女性の目の前から姿を消し、女性はやがて心を病んで死去。彼女が着ていた振袖は、質屋に出された。質屋から振袖を買い取った女性が振袖を身に付けると、その振袖の持ち主と同じ年で亡くなった。つぎに買い取った女性もまた、同じ年で死亡。不気味なこの振袖を供養してもらうことになり、本妙寺に手渡された。その供養中、火のついた振袖が舞い上がった。その煙から、最初に死んだ女性の顔が浮かび上がったという話がある。こうして、明暦の大火がはじまった。
旗本奴と町奴

 

正雪のように直接的な反抗ができない人々は、他の人間とは異なるいでたちをしてみせ、それによって体制への反抗を見せた。この人々をかぶき者と言う。そのような人々はあちこちで乱行を行い、故に幕府の取り締まる所のものとなり、縁者も含め多くの者が処罰の対象となった。そもそも、島原の乱にて戦乱が収束すると、武を以て鳴らす武士は瞬く間に居場所がなくなっていった。その結果、彼らは悪所通いや乱行に出、また小姓との男色に走り、かぶき者へとなったのである。最初は旗本出身の者が多く、やがてそれを真似する町人も現れるようになった。彼らの中には、信義・侠気を重んじるという独特の価値観を有するようになる人々がいる。彼らを奴(やつこ)といい、言葉も奴詞という独自のものを使った。彼らは狼藉も度々行い、故に騒擾の原因ともなっている。そしてこのような文化は地方にも広まっており、各藩も禁制を打ち出している。綱吉代となると取り締まりは厳しくなり、次々に罰せられることなる。彼らは体制への反抗者として、庶民の間にもてはやされることとなるが、それは庶民の代弁者として形作られた偶像であり、その本質は弱者を虐する存在でしかなかった。
江戸八百八町
この時期の江戸の町は一気に発展する。江戸の町へ来た外国人たちが驚いているように、当時江戸は世界有数の都市であり、人口は百万に近いものであったと考えられ、そのうち半分が武士であった。その土地の6割は武家地であり、2割が町人地である。彼らはその職能に応じて集住し、故に紺屋町・鍛冶屋町などの町名も生まれている。明暦の大火以後の江戸町整理の後、漸次江戸の町は拡張され、その町の数は900を数えた。その広い町を統括するのが町奉行であり、おおよそ北と南の二つが置かれた。奉行の下には与力25騎・同心100人が従っており、それぞれ与力は裁判の補助を、同心は警察の補助を行った。同心は前科人を金で雇って捜査を行わせており、彼らは目明しと呼ばれている。町奉行の指令を受けて具体的に事務を行うのが町年寄であり、その元で町名主が実際に町人たちへ命を伝えた。町名主は1つの町に1人とも限らず、数人いる町もあれば、月行事町と呼ばれる、輪番制の町もあった。町人という言葉は、広義には町全体に住む者を指すが、実際はもっと意味はせまい。そもそも江戸の町に住む人々には、土地を持つ"地主・地主の命を受けて家賃徴収等を差配する"家守"・土地を借りて家を建てた"地借"・家も借りる"店借"と分けられる。狭義の町人はそのうち前者ふたつを指す。家の貸し借りの際には5人組や地主の裁可を必要とし、そのために身元は充分調べられた。それゆえに不審なものは入り込みにくく、治安の安定化を齎した。他、治安維持のためには辻ごとに辻番が置かれたが、これは次第に名目化して役に立たなかった。また火災防止のために自身番というのもおかれ、これは家主の輪番制からやがて雇用するように変化する。町に於いては、間口の長さに応じて税が賦課され、それは地主・家守が対象となった。彼らは税を払う代わりに公民権を認められ、税を払わぬ地借や店借は権利も認められなかった。この町人たちの元で働くのが、奉公人である。この主従関係はかなり重いものであり、その間での争いは常に主が優先された。江戸の町は常に水が不足しており、それゆえ水道が通されていた。中でも玉川上水は重要な役割を果たしているが、その開削の由来は数説あって一定しない。また、この水道の為に地脈が止められ、火災が呼び起こされるという風聞から上水が廃された所もある。町人として一人前になるには、時間が非常に掛かるものであり、それまでは妻帯すら許されず、家を構えることも許されなかった。
夜の世界、新吉原
徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸八百八町、全国一の城下町が形成されていき、その中には旗本や町人が遊ぶ傾城屋、つまり遊女と遊ばせる店も方々に開業していた。傾城屋を営んでいた庄司甚右衛門は、彼の店が江戸城普請の為に召し上げられるに際し、江戸中の傾城屋を1箇所に集めるように請願して、これを許された。こうして江戸南東部の芦の生い茂る湿地を開いて出来たのが葭原、字を改めて「吉原」と呼ばれる遊郭である。またこの甚右衛門は吉原で「おやじ」と呼ばれ、庄司の家は代々吉原の町名主を勤めた。寛永19年、ここで働いていた遊女達の記録がある。容姿良く、歌の上手く、扇を持って一節舞う最上の遊女、太夫が75名、それに次ぐ格子が31人で、これは京都では天神と呼ばれた。その下は端、端女郎、局女郎などと呼ばれるのが881人に上ったという。その他にも手伝い役の「かぶろ」や遊女の指南役である「鑓手」など多数の者が働いていたようだ。さて1656年、吉原を御用地として召し上げられる事が通達され、吉原の傾城屋・また遊女を揚げて遊ぶ揚屋は、浅草田んぼの一角、日本堤のあたりに移転することになった。これに際し幕府は、1万5千両を与え、夜間営業を許可、町役の免除、また江戸中にあった、吉原の商敵であった風呂屋を悉く取り潰すなどの特典を与えた。こうして明暦の大火後1657年に吉原の店々は移転し、新吉原として再出発した。しかし、余りに町はずれに位置する新吉原は交通の不便の為、江戸町内の手近な茶屋等に町人の客を取られ、加えて武家財政の困窮が影響して衰微し始めた。そこで新吉原は町奉行に訴え出て、江戸中の茶屋を新吉原に移転させた。これら官許の遊郭以外からやってきた遊女は張りが無いので、他の遊女と差別して散茶女郎などと呼ばれた。このころからは、この散茶女郎などの安い遊女が増え始めた。さて、この遊郭で遊ぶには多額の金銭に加え、男の器量、そして暇が必要であった。最初に吉原に入ったときは最低10両の祝儀を持っていかねばならなかったし、2回目以降も太夫であれば2,30両の心付け、その他の店員にもそれぞれチップを必要とし、年末には4,50両に及ぶ贈り物をしなくては相手をしてもらえなかった。これだけ金銭を費やしても、遊女達を楽しませるだけの器量が無ければ見向きもしてもらえず、また吉原へ行く前には前もって茶屋に通いつめて、女の扱い方を学ばねばならなかったのである。多額の金銭が流れ、華々しく見える吉原や京都の傾城屋街島原であったが、そこで働く遊女達の大半は貧苦の為に身売りをしてきた者たちであった。彼女らは家族に金銭の渡る代わりに働いているのである。遊女達が自由になれるのは、なじみの客に身請するときだけであった。しかし大抵はそんな幸運に巡り合えるでもなく、太夫になっても次第に客も離れてゆき、格子、局と身を落とし、暗い生活を送るのであった。
殉死の禁

 

4代将軍家綱は、病弱であったが穏和な性格であり、また自制のできる将軍であった。その元、松平信綱・保科正之ら老中たちは集団合議で政治を行っており、これが機能した15年は日本史上珍しい時代であったと言える。またこの家綱治下では災害が続発し、その対応に幕府は追われる。また旗本・御家人の窮乏は次第に酷くなっている。家綱が出した施策としては、殉死の禁止がまず挙げられる。この当時、主君に殉じて切腹する殉死が流行を見せており、家綱はこれを抑えようとしたのである。既に一部の大名は殉死禁止令を出していたが、それが幕府の法として正式に定められ、堀田正信が家綱に殉死したことを以て江戸時代の殉死は断絶する。また人質として重臣の子弟を江戸に置く制度も緩められた。既にこれらのことで忠誠を確かめる必要はなかったのである。一方旗本の困窮は酷く、その身分を売るものまで現れていた。幕府はこれを禁止し、代わって役料を給付している。これは職務に付随して与えられる米のことであり、遂行に多額の支出を要する職務に多く支給された。家綱治世後半は、有力者の死去に伴って酒井忠清が大きな力を握るようになる。その権勢故に彼は"下馬将軍"とさえ呼ばれた。家綱には子供がいなかった。それゆえ、彼が危篤となると次代の将軍が問題となった。ここで忠清は有栖川宮幸仁親王を立てようとしたが、老中に反対され、弟・綱吉が選ばれた。この忠清の意見は、既に将軍が徳川一族でなくともよくなったという事実を示しており、つまり幕府とは将軍よりも機構そのものに重点が置かれていたのである。
東廻りと西廻り
この時代、町人に対して倹約令が度々発布されている。これは則ち、町人が華美に走りがちであったということを示しており、つまりは都市での消費が増加していたということを表している。このころあった寛文の大火では、人々は家財を地面に埋めるという形で防火を図り、故に被害はそれほど大きくならなかった。またこれに伴って、将軍の親衛隊に当たる番士に休暇が与えられるなどされる。これは、幕府の官僚機構が整ってきたことを良く表している。また、このような大火は江戸の町における最大の消費であり、幕府らは大きな出費を迫られることとなる。江戸の繁栄に伴って、江戸は多額の物資を要することとなる。これに伴い、上方から船で物資を運ぶことが行われるようになった。これは、菱垣廻船・樽廻船と呼ばれ、大坂を中心として大きく栄えた。幕府はこの海運に対しても不正を禁じる法を出しており、これは商人の協力もあって徹底、結果として海運は安定した運送として確立される。このような海運の拡大に大きな役割を持ったのが川村瑞賢である。彼は伊勢の百姓に生まれたが、その才幹によって次第になりあがり、明暦の大火の際に木曽の材木を大量に買い付け、江戸へ売りさばいたことで大きな利益を得て大商人となった。その彼に目を付けたのが、財政が窮乏しつつあった幕府である。幕府は遠隔地の天領からの年貢米運送に困っており、その改革を行わせたのである。瑞賢はこれに応えて、東東北から銚子・三崎を経由する東廻り航路、西東北から日本海・下関・大坂を経由する西廻り航路を開拓した。これによって、大消費地である江戸・上方と生産地である地方とが直結されることと為り、その結果として日本全国が一つの経済領域として成立した。都市での莫大な消費は、生産の発達を呼び起こした。それに伴う運送の発展は、元禄時代を支える一つの大きなファクターだったといえる。
天下の台所 大阪

 

大坂、とくに中之島・北浜は、日本経済の心臓だった。ドイツ人医師ケンペルによると、大坂は娯楽の町であったことも述べられている。この地が幕府の直轄地になると、幕府はただちに大坂城の修復をはじめた。10年を費やす大事業だった。ここに赴任し、城中の警護、および西国大名の監視を行うのが、大坂城代である。後に大塩平八郎がこの城を占拠しようと挙兵したが、失敗。大坂城の警備の強さが証明されることになった。この地大坂の民政を仕切っていたのは、大坂町奉行と呼ばれる人だった。ただし、事実上支配していたのは惣年寄と呼ばれる人々だった。彼らは糸割符なども務めたが、これは慶長年間に糸割符の役を務めた町人が引き継いだかららしい。この町人から選挙によって町年寄が選ばれ、彼らを補佐する役として町代が作られた。町代は公事場の手伝いをしたものの、その仕事が増えると専任の惣代が作られるようになる。1634年、大坂に住む人々が払う税(地子銀)が免除された。同じころ、大坂は浮き沈みの激しい地として知られていた。貧しい人がいる一方で、商人として栄える人々もいた。ではこのような人々が携わる商業は、どのように発展してきたのか。まず、蔵屋敷。ここは各藩の物資を保管する場所である。ときに町人にはここの管理を任されることもあった。そして、それを藩の了承を得たうえで販売するのである。また、町人の中には大名に対して金貸しを行っているものがいた。そしてなにより大きいのは、蔵米の販売を任されていたことだろう。こうして大坂は天下の台所として認知されてきたのだが、これに対する反論がある。大坂が市場経済の中心だったという証拠は、わずかな期間に限定されたものしかない。そこからは江戸もまた大市場になっているので、江戸と大坂の2つともが中心的市場だという意見である。だがそれでも、日本中の生産物が大坂に集められていたことには変わりない。結局のところ大坂を天下の台所と呼ぶのは、この形態こそがゆえんではないだろうか。
犬公方
徳川綱吉は、戌年生まれの将軍である。綱吉は就任してからまもなく、越後騒動と呼ばれるお家騒動についての決断を改めた。綱吉は民の苦痛を減らし、幕府自身も倹約を掲げるなど、家綱とは対称的な政治を行った。庶民だけでなく大名に対しての取り締まりも厳しくなり、緊張した状態が続くようになった。そうなると、大名たちも安息を得ることができなかった。いつ、だれの身になにがおこるかわからないからだ。1683年には厳しい制限令が出され、服だけでなく輸入品にも制限が加えられた。江戸市民には評判が悪かったが、もし彼らが贅沢をすると、以下のような弊害が予測できる。江戸市民が裕福になる。⇒武士がたくさんお金を使うから。⇒武士が農民に対して厳しい搾取をするようになる。だからこそ、倹約はよいことだという意見もあった。江戸市民の不満が、すぐに悪政に繋がるとは限らないのだ。また、ちょうどこのころ、大老の堀田正俊が刺殺される事件が起きた。理由は複数あるものの、正俊の方針が受け入れられなかったからと言われている。将軍の綱吉自身も彼を疎んじていたらしく、この事件後、大老を置かなくなった。自分の方針を貫くためだ。大老の代わりに台頭するのが、側用人と呼ばれる人々だった。側用人の中で有名な人物としてあげられるのが、柳沢吉保である。彼は本来親藩の土地か、幕領として定められていた土地を受け取るなど、ずいぶんと寵愛されていた。これだけでも綱吉の個性がずいぶんと発揮されているが、他にも特徴的なことがある。外様大名や旗本を幕府の役職に就任させたことだ。じつはほかにも、小唄・踊り・音曲などの芸能を、家臣にさせたり自ら演ずることもあったらしい。ドイツ人医師ケンペルも、その犠牲になっている。これだけでは済まない。ストッパーになる存在がいないのをいいことに、自由気ままに改易・減封を行った。家綱の時代で減っていた改易・減封は、家綱の時代に大増加を迎えたのだった。そして極めつけは生類憐みの令である。家綱の考えがそのまま反映されたこれは、彼が死ぬまで続いた。これを続けるために必要な費用は、江戸をはじめとする関東の町人が負担させられることになった。
湯島の聖堂と貞享歴

 

徳川綱吉は非常に学問好きな将軍だった。林信篤ら儒学者に命じて学問(主に儒学)が広く普及するようにしたのも彼だった。家綱が朝廷の崇拝や、親孝行に力を入れたのも、儒学の影響と切り離すことができない。家綱が朝廷に対して忠誠を誓ったためか、家光時代までの緊張した朝幕関係は回復しつつあった。6代将軍家宣のときには、さらに回復する方針が固められた。このように書いてみると、まるで家綱の時代から学問がはじまったようだが、そうではない。すでに家康が藤原惺窩を招いて、彼の門人である林羅山を儒官にしているように、家康からすでに学問ははじまっていた。この羅山は家光にも仕えていた。1630年には尾張の徳川義直が、彼のために孔子堂を建てている。釈奠(孔子をまつる儀式:せきてん)が翌年に行われてから、儒学者の地位は高まるようになった。1633年には光地院崇伝に任されていた「武家諸法度」や外交文書のことが、林家に任されるようになった。1688年、孔子堂(改造され、聖堂となる)が上野から昌平坂に移された。上野にあった寛永寺から遠ざかったため、仏教と朱子学の関係はここで切れた。理由は、聖人を祀るのに仏の近くではまずいからだという。これももちろん綱吉の指示によるものだ。綱吉が学問好きであったことがわかるエピソードである。また、学問好きの綱吉の指示により、たくさんの出版物が世に出回った。それに触発され、各地の大名も学問を志すようになった。結果、たくさんの出版物が完成した。徳川光圀の、「大日本史」が有名である。彼が藩主を務める水戸藩では、これ以外のものとしては天皇を支持する書物がいくつも書かれた。これが幕末になって、尊王思想を高める原因であったと言われている。また、学問が広まったことにより、学者が多く産出される結果となった。武功によって出世できないので、学問によって出世を狙ったのだ。まとめると、以下のようになる。朱子学者:山崎闇斎(垂加神道を開く)陽明学者:熊沢蕃山古学者:荻生徂徠古義学者:伊藤仁斎またこの元禄時代、非常に出版が盛んだったため、学問もまた盛んになったと考えられる。江戸以前から印刷については変化してきており、慶安ごろからは木版印刷がほとんどである。日本語には漢字が多いことや、挿絵の流行により、活字印刷が厳しくなりつつあったのだ。ところでこの元禄時代、貞享暦という暦法が採用されることになった。安井算哲が提唱したもので、当時のものとしては非常に正確だった。時差などの、地理的な状況が計算されていたためだと思われる。
忠臣蔵
元禄14年3月14日、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城殿中にて高家旗本の吉良上野介義央を切りつけた。石高は低くとも、名門たる高家の吉良の驕った態度が怒りを買ったようであるという。浅野長矩は殿中抜刀の罪で切腹となり赤穂藩は改易となったが、一方の吉良家には何の咎めもなかった。これに憤る急進派の遺臣達は、すぐさまの仇討を唱えた。しかし赤穂で藩政を見ていた筆頭家老大石内蔵助は御家再興のチャンスを伺うべきだ、と抑え、方々に御家再興を嘆願しつつ時機を待った。彼は赤穂城の引き渡しが済むと京都山科へ移住している。江戸にいる急進派堀部安兵衛らは幾度となく内蔵助に敵討ちの催促をする手紙を送っていたが、穏便派の内蔵助も、浅野長矩の養子だった浅野大学長広が広島藩に永預かりとなったことで御家再興の望みが断たれると、もはや討ち入りのみ、と思い急進派との対立も解消された。これまでに討ち入りのメンバーから脱落した者も多く、300余名の家臣中、130名あまりが討ち入りに名乗りを上げていたが、最終的に47名となった。彼らは翌15年12月14日に吉良屋敷に討ち入り、手向かいする者16名を切り捨て、23名を傷つけて吉良上野介を首級を挙げ、そのまま主君浅野長矩の眠る泉岳寺へ詣でた。そこから彼らは細川・松平・水野・毛利の4家に留め置かれた。そして、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中で抜刀し罰された事について、吉良氏を仇として公儀の許し無く騒動を起こした、という荻生徂徠の進言をとった幕府評定所の判決により切腹を申しつけられた。彼らの行為は江戸期よりその善悪を論ずるもの多々あったが、綱吉犬公方の治下、吠えたてる犬にも逆らえぬ、抑圧された気分の民衆は、法を破ったという非難以上に忠義の武士達を慕った。
窮乏する財政

 

まず、以下の表を見ていただきたい。財政に関するものである。
○=財政よし△=財政が傾きはじめる▽=財政が危機
家康○:貿易、金銀の発掘が盛ん。
秀忠○:非常に多くの財産あり。
家光○:日光東照宮を造り、11回もお参りするが、破たんはしていない。
家綱△:明暦の大火により、貨幣が溶ける。その後処理のため、莫大な資産を投じる。
綱吉▽:諸大名への御なり・下賜品の増大、寺院への莫大な援助。
この表を見ると、5代将軍綱吉が財政窮乏の原因であるかのように書かれている。綱吉時代、幕府の財政が窮乏する原因は、以下のような4つが理由が大きい。
1、諸大名への御なり、下賜品の増大。
 近親者を支援して救助することや、下賜品の増大を頻繁に行った。
2、役料制の復活。
 役料制とは、主君から知行をもらい、それに応じて軍役を負う制度。これにより、基準となる家禄以下のものにも、定額の給与が与えられた。
3、寺院への援助。
 綱吉はあらゆる宗派に敬意を示し、寺社の救済などに当て、たくさんの資金を投じた。
4、悪貨の鋳造
 金銀の量が減っているため、貨幣を造りなおして量を増やした。勘定吟味役の荻原重秀が将軍に勧めたことによる。これによりインフレが起こり、金融上の動揺が起きる。しかも、この状況において災害が連続で起こった。1707年のことだ。東海道から四国・中国に及ぶ地震、富士山の噴火である。
勘定吟味役荻原重秀はこれに対して資金を投じたと言われているが、実際には横領したのではないかといわれている。彼の存在もまた、財政窮乏の原因の1つかもしれない。幕府が財政の破たんを目前にした1708年、綱吉はこの世を去った。
元禄模様

 

元禄時代、倹約の傾向であるにもかかわらず、女性が身を飾る文化が生まれつつあった。たとえば帯。本来帯は前で結ぶものだが、このころからは後ろで結ぶことが流行した。このように、元禄時代には女性がある意味最も栄えた時代だと考えられる。絵画史上で、女性が最も多く題材にされたのもこの時代である。また、男性の中にも飾りを行った人もいる。たとえば、若衆という少年。彼は男色の性行為において受け手になる人物である。この時代、芸能者の多くは芸能よりも、売色の仕事をすることが多かった。相手を誘うので、飾りは一生懸命やらなくてはいけないのだ。槍や刀の時代はおわり、お金が力を持つ世の中になった。建築も入札制になり、奉行に渡す礼物がなければ、ほぼ落札できない。このシステムこそが、幕府の財政を窮乏させていると新井白石は述べる。通常は安くできる工事も、このような原因から、過剰な資金が必要になったからだ。幕府はたくさんの資金を散布しなくてはならず、金座・銀座は貨幣をたくさん鋳造した。結果、インフレーションが起きた。幕府の財政危機は、目前に迫っていた。幕府と結びついていた大商人たちは次々と没落した。また、この時代、大きな商人が没落していることが明らかになっている。大名にお金を貸し、踏み倒されるからだ。大名たちも余裕がなくなり、返済ができないのだ。損をした町人の中には、別の大名に貸して元をとろうとするものもいる。そういった人々は、またもや踏み倒されて破産する。大名ならたくさんお金を持っているだろうという考えこそが、彼らを破滅に至らせるのだ。金座や銀座が貨幣鋳造によって安泰するに対して、呉服屋は悲惨な状況下にあった。今まではオーダーメイドで服を作っていたのに、倹約の流れのせいで注文が減り、店をたたむものが多かった。ところが、のちに財閥となる三井は違った。堅実な方法で和歌山の徳川家に大名貸しを行い、両替や、新田開発を行った。こうした用心深い政策のおかげで、三井は潰れることなく、今日まで残っていると言える。ところで、このころ、農民の税が重かったのはご存じだと思う。だが、一方で、商人たちの税は実質0だったことはご存じだろうか。この体制に異を唱えた人物はいたが、真摯に受け止めたものは幕府にはいなかった。これにより、商人たちは力を持つようになる。彼らに大して税をかけたのは田沼意次であり、株仲間の結成を許した。特権を与える代わりに、税をとったのだ。この体制こそが、農業の発達妨害・消費の異常発達を促進し、元禄の華美な文化を作り出したと考えられる。
絵の世界と侘の境地
桃山時代に全盛を極めた狩野派も、狩野探幽以降は下り坂となる。一方で、土佐派や琳派が勃興していくことになる。また布に自由な柄を染めつけられる友禅がこの時期に現れ、大きな流行を見た。また浮世絵もこの時代に出現する。肉筆で描かれ高価だった絵は、こうして版画となることで数が出回るようになり、庶民の手にもわたるようになる。藝術がこうして庶民の間に広がるのはまさにこの時代であり、藝術の面ではこれまでとは異なった時代が来たと言うことができるだろう。またこのような動きは歌の世界でも見られた。これまで古今伝授の伝統が否定され、自由に解釈され、また歌われるようになったのである。こうした動きの原因の一つには、印刷技術の向上に伴う書籍出版の広がりが挙げられる。このような状況の中で誕生したのが芭蕉である。彼は日本の古典や唐詩に親しみ、また参禅もしている。そうして俳諧の中から人生の究極を掴みだそうとしたのである。彼は幾度も旅に出ており、その中で人生を旅そのものと捉え、そこに自己を捕えんとしていく。芭蕉の書く旅行記は芭蕉自身の創作の手が入っており、全てが事実ではない。またその態度は、現実の生活の中に風雅の世界を見出すにすぎぬもので、その点では現実逃避的である。時代の圧迫に対して、芭蕉は現実も変化する物々の一つと断じ、その中で普遍の真理を求めようとしたのである。
一代男と曽根崎心中
この当時、三十三間堂では端から端に矢を放つ通し矢が盛んであり、1日で何本通すかが競われた。これと同じくして1日で俳諧を何句詠むるかということ競われ、これは井原西鶴が1日で2万句詠んで決着となった。この西鶴が才を尤も顕著に示したのが、小説である。彼が最初に書き始めたのは好色物と呼ばれる、男女の情を描いたものであった。この中で西鶴は、人の世が思いがけぬ転回をすることを、見事に描きだしている。また西鶴は、武家物・町人物も書いているが、特に町人物の「胸算用」では才智では如何ともしがたき社会を描いており、西鶴の文学性を示す。この時期、浄瑠璃も流行を見せる。とりわけ、近松門左衛門が脚本を書き、竹本義太夫が人形操作をした際には大きな評判となった。彼らは最初竹本義太夫を座元としたが、後に竹田出雲が代わっている。近松の描くものは人情と義理の相克が表に出ており、中でも世話物と呼ばれる、人間の心情に主題を置いた作品群は評価が高い。近松はまた歌舞伎の作品も書いている。戦国末の女歌舞伎に淵源を持つ歌舞伎は、風俗取り締まりの影響でこの時期には大人の男が演じる野郎歌舞伎となっていた。歌舞伎では坂田藤十郎や市川団十郎が名を馳せている。この浄瑠璃・歌舞伎のような、一般庶民が広く楽しむことのできる藝術の誕生が、まさに元禄時代の特色だったということができるだろう。
 
町人の実力

 

御蔭参り
「おかげでさするりとさ抜けたとさ」単調なリズムに合わせて、同じように菅笠をかぶり、小脇に茣蓙を、腰に柄杓を差した一団が通り過ぎる。子供たちも草履を引きずりながら、それに続いて声を張り上げて「おかげでさ」と唱和する。野良着姿の百姓や、着飾った娘方、仕事場から抜け出してきた職人、老人を乗せた駕籠や女子供を乗せた馬も通り過ぎる。彼らは日常から解放された空気の中で互いに親しげに言葉を交わし、道中では報謝といって、食事や日常品、寝床を提供して無銭旅行の支えとなった。1705年、京都の丁稚長八が貯めた給金を握りしめ、主家の子守の赤子を背にして伊勢へお参りした事は、霊験あらたかな話に脚色されて洛中洛外、諸国に伝え広がって多くの人の心をとらえた。閏4月には京の人々が伊勢へ流れ始めて日に10万人、これが収まると今度は、大阪から日に23万人が伊勢へ押しかけた。こうして5月29日まで続いた伊勢参宮の群衆は、わずか50日あまりで362万人に上ったという。この後にもほぼ60年周期で1705年、1771年、1830年に大規模な御蔭参りがあった。当時の町人百姓は、他所で一泊でも過ごすならば5人組、名主、組頭に届け出ねばならなかったし、その他日々の細かな行動にも制限がかけられていた。しかしその一方で、施行についての法令や、刑罰の規定が存在せず、役人の心情その時次第であった。だから民衆は、その曖昧な政治の元で安全に暮らすため、ひたすら自戒して自らの生活の幅を縮めながら、肩身の狭い思いをして生きていた。ところが、江戸時代も中期に入りると、民衆の生活程度も向上し文化的な欲求も高まってきて、自戒ばかりの生活も耐えがたいものになってくる。欲求が高まる一方で、「生類憐みの令」など、封建君主の気まぐれによる抑圧があり、民衆のエネルギーが発散される機会は中々なかった。ここに来ての御蔭参りなのである。「おかげでさするりとさぬけたとさ」と大群衆の一員となって唱和し、宗教的なエクスタシーに身をあずける。1705年の前にも大規模な御蔭参りが1615年、1650年にあったが、1705年以降において一段と大規模になったのは、この民衆の生活程度の向上があったと思われる。「翁草」筆者神沢杜口は1771年の御蔭参りで費やされた旅費の総額を銀3万3500貫と計算している。米換算で68万石、これだけの大金が民衆の中に蓄えられていたのである。また、道中では先に書いた「報謝」として大町人達が金品の施行をしていた。京室町三井が銭1000貫と米500石、大阪の鴻池は1人100文ずつ配る、といったように、京・大阪をはじめとして大津・堺・松坂などで相当額の施しがされた。彼ら町人商人が出てくるようになったのは、廻船問屋など、海の力が大きかった。日本中を1枚に結んで、商品流通の海路が四通八達するにつれ、それらを司る商人たちの金の力は大きくなっていった。17世紀半ばには幕政も厳しくなり、諸藩借銀している一方で、大商人らを筆頭に町人の金の力は、幕藩が制御できないほどに実力を伸ばしてきていたのである。
六代将軍家宣

 

前に好学の犬公方綱吉、後に米将軍吉宗が控えた6代将軍家宣は、何かぱっとしない印象を受けるかもしれない。が、彼ほど失政の少なく、民政に注意を払っていた将軍はまれである。君主というのは平凡で、気まぐれの少ないほうが民衆も苦しまずに済むものである。家宣は、綱吉の兄甲府徳川家の綱重を父とし、自らも甲府藩主として藩政を執っていた。彼は年齢からして綱吉の次の将軍になるはずであったが、綱吉が自信の執政に自信を持ち、儒教の年功序列に反して、家宣ではなく自らの息子徳松を西の丸に入れるなど、将軍への道を阻害されている。しかし徳松が夭折し、その後も綱吉自らの子ができなかった。結局20年の遠回りをして家宣が将軍世継ぎとして確定した。この間、別段心を乱すことなくじっと耐え、甲府の儒臣新井白石を師として授業を聞き、勉学に怠ることもなかった。この白石の授業は将軍になってからも日々休むことなく聞いていたという。その年月は19年にも及ぶ。将軍になった家宣は猿楽師の弟子から取りたてられて側近になった間部詮房や、新井白石を両腕に政治を執った。綱吉の治世に苦しんでいた民衆も家宣には期待をかけていたようであり、これに応えるようにして、先ず家宣は、先代綱吉が何よりも気にかけて大事にしていた「生類憐みの令」を撤廃した。家宣の断固たる態度に先代の側近柳沢吉保もその堂々たる態度に返す言葉もなかったという。柳沢は先代の命を守るのは不可能と判断し、鮮やかに政治の舞台から身を引いたという。また新井白石と共に力を注いだのは幕府財政の立て直しであった。財政については勘定奉行荻原重秀一人に任されており、これまで幕府財政が苦しくなると彼が改鋳を行い貨幣の質を落とし、出た利益で生きながらえる、という体制を正すことであった。白石は改鋳をせずに「入るを計って、出るを制する」事で財政も立て直せる、と幾度も家宣に進言したが、江戸の火災・関東の地震の復興費用、家宣の邸宅建築等、多額の臨時出費に対応できないので、結局貨幣改鋳に踏み切らねばならなかった。ただし、これまで多額の賄賂などで勘定奉行に居座り続けていた荻原は、白石の度々の進言によって、職を追われた。白石と共によく働いたのは間部詮房だった。彼は家にも帰らず事務を見るなど、非常に仕事熱心であって、学の足らないところは白石に求めるなど、補完し合う関係であった。前将軍綱吉が好んだ学問と能楽、そこから身を立てた儒臣新井白石と猿楽師の弟子間部詮房の2人が、綱吉の政治の修正を行ったというのも、歴史の皮肉と言えよう。
新井白石

 

家宣の頭脳として働いたのがこの新井白石である。上総久留里城の土屋利直に仕えた豪胆の武人新井正斉を父に、また素姓は知れぬものの、教養ある女性だった母を持つ白石は、幼い頃から父に耐える事を学び、母の影響に書物に関心を持ち、また城主利直からの覚えもよく、その母正覚院にも気に入られて中々に幸福な環境に身を置いていた。8歳から字を習い、只管に耐えて毎日4000字の稽古をして、また撃剣にも汗を流していた白石17歳の時、中江藤樹の「翁問答」に影響されて本格的に学問を始めた。学ぶべき師も周りにはいなかったが、四書五経を読んでいたが、父がお家騒動に巻き込まれ牢人になって一家は暗い日を迎える。それでも屈せずに学問にはげみ、大老堀田正俊に仕えるを経て、35歳で木下順庵の門下となった。当時官学の総本山として林羅山の林家が君臨していた。中には白石の才能を惜しんで順庵の門下から去るよう勧めたものもあったが、報いるべき父も主君もなくした以上、師に報いずして立派な人間とはいえようか、と答えてあくまでも順庵の門下として学び、また官学に実力で競争しようという気迫に満ちていた。37歳の時、甲府藩主徳川綱豊、のちの家宣に儒臣として仕官する道が開けた。甲府は先に林家に儒臣として人を出すよう依頼していたが、林家としては将軍綱吉に冷遇されている甲府家に関わって、難しい問題に絡みたくなかったのが本音のようである。甲府は私学で学ぶ白石に格安の給与を提示してきた。順庵も之が今後の門弟の就職に影響するといけない、と反対していたが、甲府の僅かばかりの譲歩があって白石も之に応じて仕官する運びとなった。この頃、これまでの、武功の譜代の世襲制による臣下ではなく、一代限りの儒臣が広く用いられるようになった。これまで戦国期-江戸前期の頃は、道徳と法が一致した関係であった。例えば、「文武弓馬の事、専らたしなむべきこと」という規範そのものが法令として存在している事である。しかし、「商業=悪」と道徳の面では言いながらも、実際には商売が国家に欠かせないものとなってくると、道徳と法(現実)が乖離してくるのである。法が支配者の意思を超えて、動かざるものとして存在すべき事が望まれるようになったのである。現実の秩序を維持する事を最高善として目的に掲げ、現実の習慣に基づいた、常識的な判断について、新しい法の立場からする説明が、施政者に必要とされ、それが儒臣に求められたのである。政治が儒学的立場、あるいは学問によって権威付けられる必要に応じて登場してきたのである。さて、綱豊(家宣)が将軍継嗣に決まって西の丸に入るというとき、白石は駆けつけて自分の考えを家宣に述べ伝えている。この20日後、白石も将軍世継の侍講に任命された。家宣が将軍になると、白石の活躍が始まる。家宣と共に先代の政治を修正しようという意志があった。そこで衝突する事になったのが綱吉の意のままに意見していた林大学頭信篤である。白石は綱吉の棺を納める石槨の銘文についてや、武家諸法度の新令公布の時に信篤を言い負かし、大きくは朝鮮来聘使から商人の妻の夫を殺した父を訴えた、という事件にまで信篤との争いは及んでいる。しかし、ひとたび家宣が亡くなると、白石の礼式・故実に基づく煩わしいやり方に幾分の反感をもった老中にそっぽを向かれ、以降は信篤の意見が採用されるようになる。この後も徐々に幕臣の信頼を失ってゆき、吉宗の代に至って政治上の地位を失った。とはいえ白石は林家の権威主義的な学問に、正面切って戦った。このことによって、朱子学以外の学問分野の研究が活発になり、新しい学問の発達に大きな貢献をしたといえる。
白石の外交
将軍の代替わりごとに朝鮮より来る来聘使の待遇についても白石は改革を行う。朝鮮よりの使者を日本は文化的先進者として珍重していた。一方でこれをどのように受け入れるかについて、白石は改革を行って形式に則ることとしたのである。白石は公家の邸宅にて有職故実を学ぶなどし、その結果、朝鮮からの使者の待遇は簡素化されることになる。また天皇家に宮家を新たに創設し、分家を多く持つ徳川家同様、血筋の断絶を防いでいる。政治についても理想に則った公平さを徹底した。しかし、荻原重秀を追って行った貨幣改革についてはその不案内から失敗している。長崎貿易についても彼は手を入れ、長崎新令を発布して海外への金銀流出を防いでいる。このころ、イタリア人宣教師・シドッチが日本に来航して逮捕されている。白石はキリスト教について学んだ上でこれを尋問し、西洋の学問に触れることとなった。そうして、西洋の学問の先進性に着目したことは、やがて吉宗による洋書禁制を緩めることにつながっていく。
絵島疑獄
大奥は幕政に大きな力を握っており、これの縁故によって力を持った者は多数数えられる。また、商人たちは大奥の女性へ盛んに賄賂を贈り、大奥付きの商人になろうと懸命になった。大奥は男子禁制であって、女性ばかりが多くの階級に分かれて暮らしていた。彼女たちは、将軍に伴って外出する他、寺社への代参や宿下り(帰省)を除いて大奥から出ることはならない。そして殆どが30代までの妙齢の女性であった。7代将軍家継は、将軍就任時まだ4歳であり、母親の月光院の下で養育されることになる。間部詮房ら側近たちは、しばしば月光院の下へ訪れて政治を行うが、それは有らぬ噂の原因ともなった。また、6代将軍家宣の正妻であった天英院側の反発も買うようになる。そのような状況の中で、月光院付きの女中である絵島・宮路が芝居見物の挙句に遅れ、門限ギリギリに大奥へ帰りついた。これは忽ち問題として取り上げられると、みるみる間に騒動は拡大した。結果、絵島の流刑を初めとして、縁者の切腹や芝居役者の入牢など、多くの人間が処罰される大事件と発展する。これについて白石は何も残していないが、これは白石は間部――月光院側に属する人間であったことを間接的に示している。この問題は次代の将軍に絡む問題だったと言える。幼い将軍夭折した場合の継嗣として、月光院や間部は尾張の継友を考えていたのに対し、天英院や間部に不満のある譜代諸侯は紀州の吉宗を考えていたのである。この対立関係の中で、天英院側によってこの疑獄が起こされたということもできるだろう。この後、絵島は高遠へと流罪になり、後に釈放されるも高遠でその生涯を閉じることとなる。
文昭院殿の御遺命
吉宗が生まれたのは綱吉による生類憐みの令発布の前年であった。母の身分は決して高くなく、また4男であるということもあって、身分はそれほど高くなかった。元来より体格は丈夫であり、また質素な生活を好んだ。彼は幸いにして綱吉の目にとまり、越前丹生3万石に封じられ、大名となる。しかしこれから間もなく、兄が次々と亡くなり、吉宗は紀州藩主を襲う。彼は紀州へ入国すると、経済の健全化や風俗の改良をしきりに行い窮乏した藩の立て直しを図った。家継が亡くなると、文昭院殿――家宣の御遺命を称して吉宗が将軍に推薦され、就任することになる。しかし、実際には家宣はむしろ尾張を頼ろうと考えていたようである。しかし、尾張藩では当主・吉通が変死し、続いて息子の五郎太も夭折し、その過程で藩内での抗争が巻きおこる。この結果、将軍継嗣は紀州吉宗がよいとされるようになっていたのである。吉宗の将軍就任を家宣の遺言と称したのは、天英院である。そしてこれに対立する白石は、家宣が元来尾張を推していたこともあって、吉宗に対して大きな反感を持っていた。しかし、絵島疑獄による月光院派の衰退や、譜代諸侯の烈しい反発の中で、間部や白石は次第に力を落としていた。その結果が、吉宗の就任だったといえるだろう。吉宗は将軍に就任するや、先代の否定から政策実行を行っていく。つまり、白石の政策は大きく否定されることになった。また倹約を奨励して自ら率先して行い、華美に走る諸侯を注意している。武事の奨励も行っており、自らもしきりに鷹狩を行うほか、撃剣の見物や剣豪の取り立ても行っている。風俗の取り締まりも行っており、大きく引締めが行われた。書籍や絵曹子の検閲が行われる他、博打の取り締まり、遊女街の打ち壊しなどが行われている。
享保の改革

 

吉宗の改革は、白石による改革の否定によって始まる。結果、朝鮮外交の変化や武家諸法度の改定は全て覆された。しかし完全に否定されたわけでもなく、清・オランダとの貿易統制である長崎新令については継続された。結局、吉宗の改革は吉宗が先頭に立った点で目立ったとはいえ、大きい変化があったわけではない。時代の流れは顕然として存在しており、その上にのって行われる政治もまた結局似たような形態を取らざるを得なかった。その一方で、吉宗の政治は新鮮さを感じさせるものであったことは違いはない。目安箱の設置や上米の制などはその代表と言える。そんな吉宗の最大の改革が、定免制である。これによって年貢率を一定とし収入の安定化を図ったのである。また永代売買禁止令を発布して自立農の独立を促進し、新田の開発を積極的に行わせた。吉宗がもっとも重要視してたのは、米価である。この時期米価は下落の傾向をしめし、その結果人々は困窮していくことになる。これに対して吉宗は買い上げなどで米価のつり上げを図った。ところが、翌年には飢饉に伴って米価は騰貴した。今度は蔵米の開放などによって米価下落を図らねばならなかったのである。その翌年以降、再び豊作が続くと米価は再び下落。吉宗は米価公定を図るが、これも失敗した。結局、米の相場を操りえなかったのである。朱子学の考え方の上では、商業とは賤しい物であった。農業こそが天に従う労働であり商業は不道徳であるとかんがえたのだ。それゆえ、商業は常に抑えられるものであったが、商業発展に及んで商業の統制が必要となると、徂徠学のような新しい学問が取り入れられ、その中で体系化されてゆく。また、この時代から実学が勃興していく。漢訳の洋書の輸入が解禁され、事実に即した研究が促進されたのである。その一方で吉宗はやはり朱子学を重んじており、その点では徂徠よりも室鳩巣を重用している。このようなことから吉宗は後にも理想の将軍として描かれるのである。家臣にも分け隔てせず接し、実学を奨励した吉宗は名君であるといえる。
吉宗の反対派
将軍継嗣争いの結果、吉宗に敗れた尾張藩も彼に膝を屈することになる。しかし時の当主・継友は吉宗に対抗するだけの力はなく、尾張藩は上米を課せられながら倹約令を厳しくすることで乗り切ってゆく。しかし継友が死ぬと、様相が変わってきた。後を継いだのは異母弟の宗春であった。彼は表を切って幕政を批判している。しかしそれを述べた著作「温知政要」は立派なものであり、これだけのものを記せる点で既に彼の逸材ぶりを示していた。彼は家を継ぐや、倹約令を解いて祭礼などの制限も除いていった。結果、元々生産力の大きい尾張藩は忽ちにぎやかに発展し、名古屋は大都市として躍り出ることになる。これに吉宗は反感を示すも、尾張藩はその介入をもはねのけている。しかし吉宗の改革への反動政策をとっていた宗春は、突如として失脚させられることとなる。吉宗は改革を邪魔する者には容赦することがなかった。これは質地制限令の例を見てもわかる。これは百姓の騒擾を招く結果となったが、これを幕府は完全に弾圧し、法令を撤回した。
大岡越前守忠相
この吉宗の時代はまさに、幕府の統治体制の整備が完了した時代といえ、同時に欠け初めの時代であるとも言える。吉宗の人事は、役職についている間のみ加増される足高の制によって積極的に有能な人材が登用された。例えば、天領石見銀山領の代官に登用された井戸平左衛門は、さつま芋の栽培を積極的に奨励し、飢饉に備えた。彼自身は飢饉において無断で代官所から米を放出し、その責任を引き受けることになる。また大岡忠相は、中級の旗本に生まれながら、間部詮房に認められて徐々に出世を遂げる。彼は吉宗就任直後には若いながらも町奉行として任用される。彼については様々な逸話はあるものの、史実として確認される物は少ない。しかし名裁判官として著名であったことは違いないだろう。彼は連座制の廃止や拷問の抑制を積極的に行い、また民政への深い知識を持っていたのである。この時代、火事は相変わらず続発していた。それゆえ、対策として火除地とよばれる空き地をあちこちに置いた。また火事の拡大防止のため、庶民の逃亡が防止されたが、これは被害の拡大を齎してしまった。また火事の多発による不満を、被差別民たる非人を犯人として処刑することで解消している。また火消がこのころ江戸の町で火事のたびに活躍していた。しかしこれは旗本の定火消と大名の大名火消からなり、広大な江戸の町を守るには足りなかった。ゆえに、大岡忠相は町人による町火消を設立し、防火体制の充実を図った。
天災と飢饉

 

吉宗の享保の改革によって、表向き幕府財政は幾分立て直したかのように見えた。しかしこの頃から、全国的に大幅な人口減が目立つようになる。殊に農村では向上する生活水準に対して収支は常に赤字であり、食べていくことができないのである。諸藩は公務の為に赤字財政である。多額の借銀をし、領内の特産物を過剰に搾取する。一時しのぎの為に行った搾取は、特産物を生産する土地、あるいは人民を痛めつけて立ち直れなくし、恒久の利益を失うことになるのである。当然年貢率も上げ、7公3民にまで引き上げられている。厳しい年貢の取り立てによって傷ついた百姓は、もはやこの国の多々ある天災に抵抗することが出来ない。台風水害、蝗害、地震、冷害などの天候不順。特に東北は天候不順が多かった。今でも「やませ」などが猛威をふるう年もある。当時も稲の品種改良等盛んに行われていたものの、激しい寒気を克服できなかった。一度稲がやられてしまうと、その年に数万人と餓死して、さらに翌年以降の労働力が失われていく。対して荒れ地になった田畑は多くの手入れを必要とする。残っている人間も既に農業を十分にこなせるほどに体力が残っていない。この封建制度は「貴穀賤金」、農業生産を第一として考えている。しかしその担い手たる農村が崩壊を始めていたのである。筆者は幼少期の一時期に瀬戸内海の島にて過ごしていたとの事だが、一緒に遊んでもらっていた農家の子供達に教えられて、様々な野草や木の実の類を口にしたそうだ。飢饉に喘いでいた島のご先祖の知恵が、子供らの遊びの中に隠されていたように思う、と述べている。天災の後の飢饉とは、この筆者の経験通り、木の葉草の根で命を繋がねばならぬ深刻なものであったのである。幕藩の供出する食物を御救小屋に求め、或いは筆者が幼少期に口にした様な雑草の類を山野に求め、一族を養う為に娘を売ったのである。
諸藩の経済と商業資本

 

江戸幕府には暴君もおらず、権力を傘に勝手振る舞いをする臣下もいない。お上の指導のもと倹約にも努めている。だというのに諸藩は数百、数千貫という単位で、収入の3分の1、或いは半分以上にも及ぶ赤字が、毎年発生するのである。やはり参勤交代の時、江戸、或いは道中で費やされる莫大な費用の影響が大きい。しかし封建支配体制の要である参勤交代は、幕府としても、諸藩大名としても、制度の廃止を求める訳にはいかないのである。諸藩は財政の不足を補う為に様々手を打った。先ず、土地の特産品を専売にする。しかし、借銀返済の穴埋めとばかり考え、一時期に強力な支配を行うので特産品を製造する人民は逃散してしまう。こうして育成せねばならなかった産業を衰えさせ、有力な財源を涸らしてしまう。百姓から搾取するにも、前章で述べたような7公3民などが既に行われており、もはやこれ以上の搾取は望めない。すると、支出を抑えるしかない。武士の俸禄を差し引くのである。例えば長州藩65万石では、これを借り上げと称して行っていた。尤も借り上げとは言っても返済の義務などない。最初は二分減と言って2割を借り上げていたが、後々半知といい、半分を借り上げるようになった。俸禄を削られると、武士が自らの石高にあった体面を維持するのは難しく、城下町から自らの領地へ引っ込んで、百姓仕事をするようになる者も少なくない最後は商人から借銀するしかない。しかし、借銀つもりつもって、もはや収入を上回る程の借銀となる。返済できない利息は元本に繰り入れられ、複利計算で増えていく。すると諸藩は踏み倒しにかかる。例えば借銀している商人に俸禄を与える。商人は喜んでこれを受ける。すると藩は、おまえは家来なのだから、家来の物は主君の物であるといって踏み倒す。こうして大名貸しをした故に破産した大商人は多い。それでも藩という大きな客が生む利益は大きなうまみであった。年代が下ってくると、諸藩は江戸・上方の大商人だけでなく、地方の城下町に出現し始めた豪商から借銀するようにもなる。そして地方の豪商は、藩に貢献したとて徐々にその地位を上げていき、藩から俸禄を受ける、或いは武士や上方の商人と同じ待遇を与えられるようになった。諸藩は大都市の商業資本や、新たに現れた藩内の豪商から力を借りて生きながらえていたのである。また他方で支配者は、国産の奨励を始めた。特産品をして金銭を工面し、また農村にも商品作物が広まっていった。国家の礎たる米穀生産から、商品経済へと移行せざるを得ない状況になっていたのである。また地方に商品作物の生産という産業が発展するにつれ、マニュファクチュアが現れてくる。服部之総氏は、日本の江戸期において、マニュファクチュアの発生を経験したからこそ、明治期に入って他のアジア諸国のように欧米列強の植民地となることなく、欧米列強が歩んだように、マニュファクチュアから資本主義、機械制大工業へと発展することができたのではないか、と述べている。
揺れる天下

 

1744年、徳川吉宗は60歳になったが、いまだ政界から引退することはなかった。彼はこの年に至るまで米の相場と戦っていた。しかし、次第にまわりから飽きられるようになり、62歳のとき、長男の家重に将軍職を譲った。もっとも吉宗は完全に政治から離れたわけではなく、大御所となって家重を支援した。家重は将軍となってから早い段階で、功臣の松平乗邑を罷免した。彼は、政治を一新するという意味で、吉宗時代の責任をすべて背負わされたのだ。封建制度のもとでは、責任がこのように個人に集中することが多いからだと考えられる。家重は、吉宗が死ぬまで彼に後見されていた。しかし、吉宗が死亡すると、力を伸ばすのは大岡出雲守忠光という人物だった。彼は、言語障害を持つ家重のことばを聞きわけることができたのだ。その功績で、彼は側用人にまで出世した。彼は常に政治を謝らないように努めていたが、彼が側用人として活躍したため、後の幕政は側用人が権力を握ることになる。吉宗から家重の時代にかけて、百姓たちの一揆はすさまじいものだった。諸藩の財政はほぼ破綻し、参勤交代もままならない状況だったのだ。大名たちは年貢を高めたが、百姓たちは命を守るためこれに対抗した。たとえば、久留米藩においては8万人近くの百姓が抵抗を起こした。8歳以上の男女は、1人につき銀札6匆を納めなくてはならないという命令を藩が出したからだ。この命令は人別出銀というが、この令はやがて廃止される。なお、一揆を起こした百姓の中には紅花や藍玉の専売禁止を願うものもいた。専売が、百姓たちの経済を圧迫しているからだ。だからこそ、百姓たちが専売機関である庄屋に攻撃を仕掛けたのは、うなずけることだろう。このような専売が問題になる世の中で、そもそも支配階級や宗教、学問の否定を行った思想家がいた。働く農民たちしかいない平等な世界を理想とした、安藤昌益だ。幕府はもちろん、仏教や儒教でさえ批判する彼の思想は、江戸時代中に世の中に出ることはなかった。しかし、思想家の中ではかなり異端であったことが、後の世で判明した。ちょうどこのころ、宝暦事件と明和事件が勃発した。前者は竹内式部が朝廷で、後者は山県大弐と藤井右門が幕府で尊王攘夷論を唱えたのだ。竹内式部は島流し、山県大弐と藤井右門は処刑された。武家体制の根本を揺する彼らの思想に対して、幕府はいよいよ本気で対策をとらなくなってきたのだろう。
田沼登場
封建社会においては、米穀を重んじ、金銭を賤しめるという「貴穀賤金」の思想が基本とされていた。しかしそれでは幕府は安定せず、やがて「貴金賤穀」という考えに移り変わっていた。それでも幕府は前者の考えかたを変えようとせず、将軍の教育もそうだった。すなわち学べば学ぶほど、現実とかけ離れていくのだ。当然古い考えを持つ武士たちの性格も通用せず、今の世をうまく渡るのは商人になりつつあった。つまり、時代は商人のような官僚を要求していたのだ。その官僚こそが、田沼意次だった。彼は常に謙遜の態度を忘れず、大奥でも人気だった。そのためか、すぐに出世し、老中になる。彼は早い段階で倹約の限度を見切り、貨幣の新鋳を試みた。新しい貨幣には、銀が多く使われた。当時ヨーロッパでは銀の値段が下落しており、それを用いたのだ。また、新鋳と同時に行われた政策として、産銅の独占がある。田沼は平賀源内などの新しい知識に目をつけていたのだが、それはこのような開発技術に役立つと考えていたからだろう。田沼はほかにも、専売政策をとり、株仲間に運上というものを課した。これは、江戸の十組問屋、大坂の24組の問屋から冥加金を出させるものだ。あらゆる生産・商業にこの専売と運上が組み込まれるようになると、携わるものの特権を認めなくてはならなくなる。このため、田沼時代の幕府と町人(工業者や商人が多い)は、緊密な関係になりつつあった。士農工商の最下位である町人たちが、実力を持ちはじめる。町人たちの手には、利益が次々と舞い込んでくる。町人の実力が、田沼のもとで発揮された時代だった。
町人道徳と文化

 

商人たちは、特権を用いて富を築いていた。例として俸禄である米切手米やお金に交換する者である、札差がいる。彼らは生活ぶりも気質も、まるで大名のようだったらしい。彼ら札差は当然江戸だけにいるわけではない。彼らや商工業者が集まったからこそ、三都の繁栄、地方都市の発展は可能だったと言える。時代の中心は、商工業者になりつつあった。悲惨なのは武士で、彼らも商工業者のように生きなければ生活はできない状況下にあった。この時期にはすでに、武士と町人の生きかたが逆転していた。安定しているのは武士ではなく、町人の生活だった。町人層が進出するにつれて、彼らは独自の道徳を持つに至った。まずは、自分たちは役に立たず、むしろ害であるという儒教の教えを払拭することからはじまった。こうして、謙虚、勇気、礼儀、勤勉、正直、学問などが、あたらしい町人の道徳になる。しかしまだ、精神的な支えとなる教えがない。その役割を果たすのが、石田梅岩の心学だった。男女平等をも説くこの教えは、手島堵庵や、中沢道二によってさらに広められた。この学問は、四民という枠を超え、町人を中堅的な階層に育て上げることが目的だったと考えられる。心学が発展する中、1人の思想家が国学という学問を誕生させた。これは「もののあはれ」を知る人間を理想とする本居宣長である。彼は、感情を表に出すことを肯定した。それまでの理想では、感情を表に出すことに関しては否定的だったから、まったく逆だと言える。つまり本居宣長は、儒教に対して否定的だった。感情を表に出すことにより、相手の心を理解することを、この学問は目指していた。「人の真心」において考え、「実の情」によって理解する、と彼は主張する。儒教からの解放により、主情的な人間を作り出すという風潮の中で、このような学問が作りだされたのだと考えられる。儒教からの解放により、国学が生まれたことは述べた。浮世絵もまた、そうであったと考えられる。菱川師宣によって創始された浮世絵には、優姿の男女がよく描かれる。人々が手に取って楽しむために、人間の美しさを強調し、このような描きかたになったのではないだろうか。
世界に開く眼
モスクワ帝国がシベリアの存在を認識したのは、足利義満のころである。以来、原住民の抵抗を排除しながらモスクワ帝国は東進を重ね、1700年初頭に至って漸くカムチャツカ半島まで到達することになった。一方、蝦夷を管轄する松前藩は、既に財政の悪化から商業資本への依存度を強めており、原住民のアイヌの反抗をしばしば受けながらも蝦夷の統治を維持していた。彼らは漠然と、カムチャツカ半島からすぐ海峡を隔てたシムシュ島までを蝦夷の領域であると捉えていた。ところが、カムチャツカ半島から南下を開始したモスクワ帝国――ロシアは、次々と千島列島の島々へと進出し、一方で北海道に来航して日本との通商を求めるようになった。この状況を政柄の保持者である田沼意次は、工藤平助の「赤蝦夷風説考」によって知る。この本では、ロシアとの官営貿易を推奨しており、意次もまたそれに近い考えを持っていたようである。意次はまた、長崎貿易の輸出品である俵物を頻りに増産させ、そうして貿易を活性化することで大きな利益を挙げてもいる。このような重商主義的状況の中で、本多利明のような思想家も登場する。彼は日本の学者としては珍しく重商主義的な考え方を持ち、田沼時代の可能性と言うものを良く表していた。このころ、平賀源内の活動も特筆される。彼は国益を増強するということを念頭に置きながら学問を行っており、その点で時代に適合していると言えた。彼は意次にも重用され、長崎で書籍の購入に従事している。平賀源内自身は浪人であった。早くから鋭い才能と柔軟な思考力を持っていたが、身分制度の枠にははまらなかったのである。彼は西洋の科学をもとにして次々と新奇のものをつくった。中でもエレキテルは、当時ヨーロッパでも最新のものであり、大きな興行効果を齎した。一方でかれは鉱脈調査などにも従事し、一方で西洋画にも手を染め、浄瑠璃などの創作活動も行っている。しかし結局彼は、その癇癪故に不遇の最後を遂げる。エレキテルとほぼ同時のころに、杉田玄白は「解体新書」を刊行した。これは「ターヘル・アナトミア」の翻訳である。江戸時代初期までの医学では解剖などがタブーであり、故に人体の中については非常に不確かな知識しかもたなかった。玄白は罪人の解剖を通して「ターヘル・アナトミア」の正確さを知り、故にこれをオランダ語から翻訳したのである。このように田沼時代は、多様な才能が開花した時代であると言えた。
近代精神の萌芽
この時代の思想家として、三浦梅園を除くことはできない。彼は何事にも懐疑の態度で臨み、物事それ自身の動きから様々な法則を見出そうとした。彼は国東半島両子山麓で殆どの時間を過ごし、それゆえに情報の面で限界はあるにせよ、その思索の態度には特筆すべきものがあった。一方、衰退してしまった土佐派・狩野派に代わってこの時代に評価される画壇として、文人画・写生画が挙げられる。写生画では円山応挙・伊藤若冲が挙げられ、中でも応挙は当時の画壇を席巻している。一方文人画では池大雅が挙げられる。池大雅は万能な人間であり、様々なことに才能を輝かせたが、中でも文人画には優れた物があり、それは本国・中国にも見られぬような世界を描き出した。 この時代は、必ずしも動きのある時代ではない。が、却ってこの穏やかな時代ははるかに様々な可能性を持っている。平穏な時代であり、人々は穏やかな一生を過ごしたが、その中には決して衰えぬ底力があり、だからこそこの後の激動の時代を完遂することができた。その点でこの時代は、興味深いのである。
 
幕藩制の苦悶

 

天明の大飢饉
田沼時代には幾度か飢饉に見舞われ、不作が続いたが、天明の大飢饉は大きな物であった。天明3年に浅間山が大噴火し、江戸や仙台でも降灰が確認され麓では多数の死傷者が出た。この年は異常気象に見舞われ、その結果特に東北地方で人まで喰らうような地獄絵図が現出することになる。このような大飢饉では幕府諸藩も様々な対策を講じるが、同時にこの米高騰状況で臨時収入を得ようと米価釣り上げなども行おうとした。故に餓死者増大を招き、また一揆を引き起こす原因ともなる。しかし、大量の餓死者を出したのはあくまで東北地方や山間部に限られる。その他の地方では貨幣経済の発達から農民が商品作物を通じて現金収入を得ることが可能であったからと考えられる。それでも農村が疲弊することには間違いなく、特に中流の農民の没落を招いた。その中で農村内での矛盾が高まっていく。そしてこれは一揆・打ち壊しの激増という形で現れる。関東地方では豪商や地主の襲撃が頻発し、関西では国全体の蜂起である国訴もおこった。このような政治不信の高まりのなか、田沼意次の嫡子・意知が暗殺される事件があると、その犯人である佐野政言は世直し大明神として祭り上げられることにもなる。田沼は政治的に苦しい立場に追いやられ、ついには老中から追われて失脚の憂き目を見ることとなった。田沼はこの時期、自らの政権の延命を図るためにあくどい手を様々使ったと言われ、この時期に亡くなった将軍・家治や将軍世子・家基は田沼によって毒殺されたとも言われる。しかし田沼失脚後、暫く次期政権担当者が定まらず、政治は混乱を見せる。これに伴って社会混乱が広がると、全国各地で打ち壊しが勃発した。この流れの中で江戸大打ち壊しも行われ、政情はますます不安定となる。しかしこれは、この時奉行に任命された伊奈忠尊が、米を買い集めて江戸に送るなどの諸政策を施し、割合早く安定を迎えることができた。そしてこの打ち壊しの直後、田沼派を排斥する形で松平定信が就任するのである。
松平定信の登場
松平定信は吉宗の次男・田安宗武の7男に生まれた。定信の兄弟は治察を除いて皆夭折しており、定信も体は強くなかったという。しかしその明晰さは著名で、将軍家治にも可愛がられた。だからこそ田沼意次には目をつけられ、定信はやがて白河松平家に養子として送りだされることになる。兄・治察も体が弱く、故に治察の養子として定信を置く予定だった田安家は反対したも押し通され、その後治察の死によって一橋家から養子を貰うことになる。白河藩では天明の大飢饉の直後に藩主を襲職し、最初から難題へと取りかかることになる。しかし定信はそれを上手くこなし、東北諸藩が十万単位の餓死者を出す中白河藩からは餓死者を出す事がなかったという。これに始まる藩政の刷新は白河藩をよみがえらせ、定信の名を挙げることになる。また定信は田沼政権下において、他に不満を持つ有能な譜代大名たちと頻繁に語りあった。また意次の政治壟断に憤慨するあまり彼の刺殺を決意したり、或いは幕閣となるために賄賂を盛んに送ったりと活動を活発にした。その結果、田沼意次の罷免の後、晴れて定信は老中に就任した。これもかなりの抵抗を受けた物であったが、御三家・御三卿の支援の元で成し遂げたことであった。定信が老中首座となると、将軍補佐の地位を得て地位を確立し、その上で田沼派の粛清に乗り出している。結果として役人の殆どから田沼派は一掃され、幕府体制は一新された。また大奥へも手を伸ばし、田沼に近い女中は追放の処分をした。彼の政治は、御三家・御三卿とも協議しながら老中が合議で決裁する形で行われ、経済政策に関しては在野の知識人からの建策も受け入れた。また幼い家斉の薫陶にも力を注いだが、これは家斉が定信を煙たがるのみであった。
足の裏までかきさがす
松平定信は1787年に将軍補佐に就任して以来、6年にわたり、所謂「寛政の改革」として様々の幕政刷新に努めた。しかし、改革も後半になると「孫(吉宗の孫、定信)の手がかゆい所に届きかね足の裏までかきさがすなり」「白河の清き流れに魚住まず濁れる田沼いまは恋しき」という落首に表わされるように、最初は定信の清新を喜んだ都市民も、重箱の隅をつつくような奢侈の禁止に失望するようになった。定信も政治は最初清新だと民衆に歓迎されても、やがて飽きられるものだ、と述べているが、まったくその通りとなってしまったのである。定信は重箱の隅を、と揶揄されながらも、田沼時代に政権と結びついていた株仲間を解散させ、貨幣相場の調整、米価の安定、幕府が直接物価調整に乗り出す足がかりとなる金融市場を設け、また地方の取引にまで目を光らせて、諸物価の人為的な価格調整を続けた。またなんといっても、民衆の目に映るのは過度な奢侈の禁止だろう。儒教的な考えを持つ定信は、自ら率先した禁欲生活をしていた。同様の事を幕臣、また国中に強制し、遊女の取り締まりをはじめ、日常生活と風俗を厳しく取り締まった。こうして日常生活を圧迫する定信から、民衆の心は徐々に離れていった。
農村復興

 

1790年11月、定信の行列に駆け寄る者があった。代官の不正を直訴する為に単身河内からやってきた、又右衛門である。彼の言うには、代官が賄賂によって各村の税率を上下させるので、適正な税率を定めてほしい、という事であった。定信はこれを聞き入れ、不正を働く代官を淘汰したが、その一方で、公平な税率にすることを口実に年貢増徴を行った。幕府も年貢搾取に血眼であり、それに又右衛門の訴願は利用されてしまったのである。こうした幕府の執拗な年貢の収奪は農村を疲弊させ、日本の人口は減りつつあった。しかし、三都には農村で食べて行けなくなった農民が流入し、逆に人口は増えていった。幕府も旧里帰農令(人返し令)を出して、都市に流入した農民を農村に返し、農業生産向上を図ったが、中々結果は上がらなかった。一方で、倫理的、且つ土地の実情に即した政策を実行し、名代官と呼ばれる働きをした代官達や、藩政改革に努めて、一時は版籍奉還寸前にまで追い詰められた米沢藩を復活させた上杉鷹山と藩士莅戸大華(のぞきたいか)など、定信の政治に対する熱心な姿勢に応ずるべく、各地で結果を出した者もいる。
米価調節と御用金
1793年、老中松平定信が突然辞職した。もっとも、光格天皇が父に太上天皇の位を与えることを定信が反対した、尊号一軒の責任を取らされたのではないかとも言われている。しかし、結局のところ理由は不明である。ちょうどこのころ、米価低下の真っただ中であり、逆にそれを引き上げる政策がとられていた。幕府は江戸に金融機関を設置し、利貸もついでにさせることにした。しかし、根本的な解決策にはならなかった。第2の解決策として、衰退しつつあった菱垣廻船を復活させることを狙った。しかし、海難の多発や速度が遅いこともあって、菱垣廻船はやはり衰退する。代わりに台頭するのが樽廻船だった。幕府は菱垣廻船を利用する者の仲間を作るなど、さまざまな抵抗を試みたが、結果的に米価が下がることはなかった。幕府はこの原因は、仲間を統括していた人物にあるとして、彼を追放した。その後、米を原料とした食品の物価を下げる方針に乗り出した。
諸国国産品

 

藩主たちは、国産品の生産に力を入れていた。国産品こそが、藩の経済を支えるものだからだ。これは儒教における貴穀賤金の思想と対立するものだ。なぜなら、このように国産品に力を入れることこそ、藩の商人化だと考えられるからだ。藩はこうしてそれぞれの経済的自立を目指すが、どうやら幕府の経済を助けようという、国益の思想はまだ浸透していないようだ。このころ、京都の西陣では、機業者が株仲間を作るなどのさまざまな手を使って独占的地位を守ろうとしたが、糸の高騰により、深刻な打撃を受ける。追い討ちをかけるのが天保の改革での、株仲間の解散であった。これにより、徹底的に崩壊してしまうのだった。また、糸といえば1849年になると、分業にもとづく工業――すなわち、マニュファクチュアの基礎が完成しつつあったらしい。ところで、この時代発展しつつあったのは、関東地方であった。とくに江戸の周辺は大量の商品流入により、市場が激変するほどだったようだ。なお、国産品を大まかに分類すると、以下のようになる。縮緬:丹後、長浜 藍玉:阿波 蝋:肥後 紅花:最上 瀬戸物:尾張、美濃
海防と探検

 

近世に入って蝦夷地の支配を幕府に公認されたのは松前藩であり、内地商人とアイヌとの取引は、すべて松前藩の許可を必要とするようになった。蝦夷地は米ができないので、藩ではおもだった藩士に全島沿岸の漁場を知行として与えた。この漁場が「商い場所」略して場所といわれたのである。近世の蝦夷地はさまざまの資源に恵まれており、場所をもつ松前藩士は酒・煙草・衣料品・米などをアイヌに渡し、返礼として鯡・鮭・鱒・昆布などを得た。しかしアイヌを弱小種族として軽蔑する松前藩は、交易にあたってひどい不等価交換を強要した。ただ、松前藩士のアイヌとの直接の交易は長続きせず、経営不振で商人からの借金がかさんだ結果、代償として自分の場所の経営を商人に請け負わせる者がふえ(場所請負制度)、明治初年までには全場所が商人の請負いにかわった。場所請負制度にかわっても、アイヌの不遇な地位はいっそう低下した。このような場所請負制度の弊害や松前藩のアイヌ虐待は、様々な識者などが指摘しており、アイヌの過半はロシアに心を通じているとさえ極限する者もあった。したがって幕府としては、ロシア人の南下に対する警備とからめて、なんらかの対策をたてる必要に迫られてきた。そんなとき、ロシア使節ラクスマンの渡来に直面したのである。寛政4年(1792)9月3日、根室にラクスマンの乗ったロシア船が入港し、松前藩に、漂流日本人を江戸に送致するために来航したむねを告げた。ロシアは安永7年(1778)に、日本との交易の開始を松前藩に拒否されたことがあったので、今度はラクスマンを公式の使節に任じ、漂流民大黒屋光大夫、北浜磯吉を送らせ、江戸で幕府に引き渡し、あわせて通商のきっかけをつかもうとしたのである。ロシアが日本との通商に執着したのは、北太平洋開発の促進が、ベーリング海をさしはさむ広大な海域における毛皮獣猟業の巨大な利益とからむからであった。松前藩からの連絡を受けた定信は、国書・献上物は受け取らず、江戸への来航も許さず、漂流民を受け取り、礼を厚くしてその労をねぎらい、通商の願意があるなら長崎に廻航させることなどを決し、長崎入港を認めた信牌(信任のしるし)を宣諭使からラクスマンへ渡させた。しかし、無理押しを避けたのか、ラクスマンはそのまま帰国の途へついた。幕府は寛政3年・4年と、重ねて海岸に領地をもつ諸藩にたいし、警衛に万全を期するよう令達し、その防備の実情について幕府に報告させた。定信は寛政4年10月、江戸湾の防備体制を強化することを建議した。これまで長崎だけを防備地域として九州諸藩に警護させていたのを、ここに江戸湾と蝦夷地が新しく防衛の重点地区として選ばれたのである。江戸湾防衛計画は定信の退職により中絶されたが、この計画はやがて天保改革の上知令にもっと進んだ形でうけつがれることとなる。蝦夷地の防備については、定信の計画を継いだ老中本多忠籌のもとで、東蝦夷地の収公や文化4年(1807)の東蝦夷地の直轄化という形で実現する。そのきっかけとしては、千島における日露の勢力がきわめて近接するにいたるなどの情勢であった。これらが、幕府をふたたび北方問題の対策にかりたてることになったのである。幕府は寛政10年4月、大調査団を派遣して蝦夷地全体にわたる実地踏査をおこなわせた。翌11年1月、東蝦夷地の一部をむこう7ヵ年試験的に幕府の直轄の直轄に移した。同年7月、高田屋嘉兵衛がエトロフ航路の開拓に成功、翌年には近藤重蔵がエトロフに渡り、そこを統治した。幕府は東蝦夷地の仮直轄にともなって、同地方の場所を請負制度を廃止し、これまでの運上屋を会所と改称して幕吏の監督下に直捌制(直接交易)を実施した。この直捌制は、「御救交易」と幕府みずから称したように、交易の方法を正して幕府にたいするアイヌの信用をたかめ、かれらを北辺防衛のとりでにするのが主眼であった。その結果、これまでアイヌを苦しめていた場所請負人の誅求もいちおうなくなり、現地の風俗も改善されたが、それにともなう出費が多く、赤字となった。他方、場所請負人の復活を狙う裏面工作や、松前藩の復領運動が老中に対して繰り返され、文化9年に直捌制は廃止となり、東蝦夷地の各場所はすべてもとの請負制度に復帰した。しかし幕府は、とにかく東蝦夷地の開拓が進んだことに自信を得て、享和元年(1801)に大規模な蝦夷地調査を実施した後、3年7月には東蝦夷地を永久に直轄することに決めた。文化元年(1804)9月6日、ロシアの遣日全権大使レザノフが、12年前に定信の幕閣がラクスマンに与えた約束の履行を要求することを目的として、漂流民を携えて長崎に入港し、通商を求めた。レザノフは軟禁同様の体で幕府からの通商許可の報を待ったが、翌2年3月、通商拒否の幕命を申し渡され、傷心のうちに長崎を去った。幕府は、翌3年3月、露艦が今後また海岸に近付いたら穏便に帰るよう諭し、もし食物・薪水を要求したら与えるようにせよと令達している。これが文化の撫恤令といわれるものである。しかしレザノフは、武力をもちいて日本との通商の道をひらく以外にないと決意し、部下に命じてクシュンコタンやエトロフ島を襲撃させた。これらの事件により、幕府は文化4年(1807)3月、東西蝦夷地直轄の令を発し、奉行所を箱館から松前に移して松前奉行と改称した。その翌々月にまたもや露船が事件を起こし、結果、翌5年には蝦夷地の防備体制はさらに強化された。このように寛政から文化期にかけては、ロシアの南下に刺激されて幕府関係者の対外危機感が深刻化した結果、一般の士気が昂揚し、積極的に世界の事情をさぐろいうという冒険的な探検精神が横溢するにいたった。間宮林蔵のカラフト島・韃靼(シベリア)大陸間の海峡発見も、そうした気運の所産であった。間宮海峡の発見が、19世紀前後に高まる日本人の進取的な探検精神の現われであるとすれば、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の完成も、その気運に支えられた日本の経験科学の業績の一つである。幕府が北方問題に気を取られているあいだに、今度は南の長崎に突発事件が起き、防衛体制の欠陥が暴露してしまった。文化5年(1808)8月15日のフェートン号事件がそれである。これはイギリス艦フェートン号が、オランダの植民地占領に従事していたイギリス艦隊の行動の一環として、オランダ国旗を挙げてオランダ船だと見せかけて、オランダ船を拿捕しようとした事件である。艦長のペリー大佐は、人質のオランダ人との交換条件に食糧・薪水を強要したうえ、港内をくまなく探してオランダ船の碇泊していないことを確かめ、17日の朝退去した。この事件を契機として、長崎の警備はにわかに厳しくなった。北方ではさらに、文化8年(1811)にゴロヴニン幽囚事件がおきて幕府を緊張させた。ロシアの海軍少佐ゴロヴニンは、南千島および韃靼海峡(間宮海峡)沿岸の測量を命ぜられていたが、その年6月にクナシリ島で幕吏に捕えられ、箱館から松前に送られ、幽囚満2ヵ年ののち釈放された。ゴロヴニン事件が解決し、再び北海に小康状態がおとずれた。幕府は文政4年12月、直轄12年におよぶ東西蝦夷地を松前藩に還付した。これには、ナポレオン戦争を契機としてロシアの極東戦略が後退し、北地警備の意義がうすれたこと、幕府の防衛体制と密接な関連のあった直捌制が、場所請負人の強烈な抵抗をうけて動揺し、また幕府財政にとっても蝦夷地直轄への依存度が低下したことなどが理由としてあった。蝦夷全島の還封は、北方におけるロシアの進出を対象として、寛政期このかた繰り返されてきた幕府の海防政策の前段階が、いりおう終結したことを語るものであった。海防政策の後段は、南方からの外圧、イギリス船との交渉によって新しく展開し、再び文政8年(1825)2月の外国船打払令の発布を経て、天保の対外政策につらなってゆくのである。鎖国日本は国内資本を遮り、発展していた商品の生産と流通を阻んだ。その結果、密貿易が盛んとなり、竹島密貿易の悲劇などが生じた。幕府が、密貿易をおさえるためには、むしろ外国貿易を開始すべきだと主張する識者の意見に関心を払いながらも、なかなか開国に踏み切れなかったのは、それによって幕藩体制が瓦解してしまうのではないかという恐れをいだいていたからであった。
もとの田沼に

 

1818年、水野忠成が老中になった。彼は田沼意次に忠実だった水野忠友の養子である。そのためか、田沼政治に倣った政治を行った。忠成は家老である土方縫殿介の努力もあり、老中にまで上り詰めることができた。人々はこれを、田沼政治の復活と見たようだ。水の出てもとの田沼となりにけるそろそろと柳に移る水の影当時詠まれた附け句である。田沼の政治と聞いて思い出すのは、わいろだ。そのわいろもまた、この時代になると息を吹き返していた。先ほど取り上げた家老縫殿介もまた、忠成を老中にするためにたくさんのわいろを贈ったと言われている。その勢いは、田沼に匹敵する。どうやらお金だけではなく、水野家の秘宝まで贈ってしまったようだ。ところで、忠成の政治を松平定信と比べてみると、大きな違いがある。定信は老中・若年寄の面会日に、猟官運動(官職を得ようとして競うこと)のための大名・旗本が群参することを制限した。しかし、忠成はこれを奨励する。当然こうなればお金の力が輝くようになる。これにより、お金によって動かされる幕政が誕生しつつあった。一方、財政はどうだったのか。こちらもまた、あまりよろしい状況ではなかった。しかも、限界に達しているためこれ以上年貢を取れない。すると、国益増大か、貨幣増発かの二つの道が示される。忠成が選んだのは後者だった。まずは、とさっそく仲間の廃止に踏み出した。すべての仲間を廃止したわけではないものの、大幅に仲間の数が減ることになった。ちょうど同時期、金座の後藤三右衛門は改鋳を行っていた。元文金銀は文政金銀になったが、これはあまり評判のよいものではなかった。質がよくない悪貨だったらしく、大坂商人や両替商の中には大損をしたものもいた。三右左衛門は経済回復に貢献したとして、文政10年に帯刀を許可されるが、問題を天保期に先送りしたに過ぎなかった。文政期と言うと、わりと安定した時代だと考えられやすい。しかし、それは嵐の前の静けさのようなものであり、実は非常に不安定なものだった。その証拠となるのが、一揆である。いままでと比べると、圧倒的に定住していない人々が指導者となるケースが増えたのだ。あるいは、零細農民のケース。いままで弱い存在とされていた人々が立ちあがりはじめる時代なのだ。大和吉野郡で勃発した龍門騒動もまた、指導者は小勢力である小百姓だったことがわかっている。この原因は、年貢増加による抵抗だったらしい。龍門騒動をはじめとした村方騒動が、この時代には傾向の変化を見せる。いままで役人層であった人々を排斥し、中心的存在になったのは、弱者とみなされてきた小百姓たちだった。排斥の理由は年貢、祭典における座席の独占、行事の優先的実行に対する反発が多い。小百姓たちはついに、自分たちが生産者であるという意識を持ちはじめていたのだろう。領主たちを無力化しようという彼らの戦いが、この時代には盛んだった。
博徒と八州廻り

明和・安永期から盛んだった関東地方の経済活動は、化政期に入るといっそう多彩になった。商品流通が発達し、上方への依存から抜け出すなど、盛んな動きがみられた。この結果農民たちの作業率は低下し、放置された土地が増えるようになった。しかし一揆や村方騒動は依然盛んであった。この時期、市場を縄張りにした在郷商人が質地地主に成長するという事例がみられたものの、一方で土地を失った百姓が増加し、無宿人・博徒といった「遊民」が社会問題化する事態となりつつあった。幕府は関東取締出役――通称八州廻りを設置し、彼らの対策に当たった。警察機構の強化が見られるものの、遊民の抵抗が治まることはなかった。刑罰を厳しくしても、遊民たちはくじけない。幕府は1827年に「御取締筋御改革」という触書を公布し、村々を統合した。統括を楽にするためである。捕えた遊民たちを養うのは村を統合してできた組合であり、その負担は軽くなかった。さらに幕府は、村々の青年団体が反社会的行動をとることに注目し、その解体に当たった。しかし、村の伝統であるこの団体を解体するのは、そう簡単な話ではなかった。この時期に村を指導した人物たちの中で、無視することのできない有名人が2人いる。大原幽学と、二宮尊徳である。幽学は農民たちが共同の力で生活できることを教え、世界で最初の産業協同組合である先祖株組合を作り上げた。この組合には土地を失った百姓たちをも組み入れていたらしい。幽学は「性学」という学問を作り上げ、武士をあがめ、親に孝行することの重要性を説いた。これは当時の社会に反するものではないため、制限を受けることがなく、徐々に浸透していった。さらに幽学は、経営にも目を向けた。そして、農民たちの生産力を高めつつ、小作料を増加させて意欲を高め、地主の経営を確立することに成功した。幽学は社会の法に従いつつ、疑いのない成果を残していた。それを邪魔したのは、関東取締出役だった。彼らは幽学の指導に疑心を抱き、幽学を逮捕した。そして、彼が作り上げた先祖株組合を解散し、指導所も破壊した。失意にのまれた幽学は、釈放後まもなく、自刃する。村の指導を行ったもう1人の人物である二宮尊徳は、荒廃した土地を耕すことで、農村の復興を目指した。さらに「分度を定める」と述べた。これは、あらかじめ定めた以上の収穫があった場合、あまりを他者に施すという方針である。このモットーにより農村は発展を見せつつあった。彼の理論は重農主義とは異なるものの、儒教社会の農業論よりも進歩したものだったといえる。
三都の町人

 

三都とは、江戸、大坂、京都のことである。当然のことかもしれないが、それぞれ、住む人の性格は同じではない。たとえば江戸。ここに住む人々は武士が多かったものの、年が経つにつれ彼らよりも町人の数が勝るようになった。しかし、武士がいないわけではなく、彼らの考えが他の2つの都よりも根強いことは当然である。武士の考えである貯蓄を賤しむ考えは、江戸の町人の中に刷り込まれていたのだ。また、彼らは「将軍のおひざもと」に住んでいるという事実を誇りに思ってもいた。京都や大阪の人々の生活を理解しようとせず、「上方贅六」と呼んで軽蔑していた。しかも、彼らは武士を恐れつつも、自分たちが彼らの生活を支えているということを知っているから、次第に武士を恐れることも減っていった。彼らが真に恐れるのは、実質的に自分たちを支配する町奉行だったようだ。なおこの時代、上方の「粋」に対して、江戸人にもてはやされた「通」に取って代わった、「いき」が小市民化した江戸人の理念になりつつあった。人情本や滑稽本が親しまれるようになったのも、「いき」の広まりによるものだろう。この少し前までは、「札差(江戸時代に幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介を業としたもの)」が江戸の町を我が物顔で歩いていたが、寛政の改革により没落した。特権的な町人はこのころから姿を消し、代わって台頭したのが町人だった。時代は、彼らによる、彼らのための時代になりつつあった。江戸をはじめとした大都市には、流行が欠かせない。これは、歌舞伎役者が作るといわれていた。彼らだけが先駆者だったわけではないものの、導火線の役割を担ったことは間違いない。服装や髪形をはじめとして、刺青もまた流行することになった。またこの時代には、食事、菓子、そして年中行事までもが、徐々に移り変わりつつあった。
大御所の生活

 

家斉は頑健な体の持ち主であり、規則正しい生活を70歳まで続けていた。政務は正午より目安箱の投書を読むことから始まり、2・3時間程度で終わる。家斉期の大奥は大規模であり、出費は幕府の年間支出の一割に近い。家斉が大奥に泊まると、侍妾として奉仕する中揩フ他に、添寝の中揩ェ夜を共にする。この添寝の中揩ヘ将軍から少し離れたところにやすみ、後に奉仕した中揩フ言動を報告するきまりとなっていた。これは中揩ェ寝所で政治に介入しようとするのを防ぐためであったようだ。家斉の生活は、最初こそ松平定信によって束縛されていたが、彼が退任すると次第に放蕩となり、側妾は40人を数えた。また藩政期もの間将軍であった家斉の周りには侍従する人々によって側近集団が形成されており、彼らは往々にして政治を動かし得た。また家基に関して後ろめたさのある家斉は、次第に呪術に傾倒し、日啓という男に深く帰依することになる。そうして家斉は莫大な資材を投じ、日啓のために感応寺という巨大な寺を建立することとなる。日啓は奥女中密通の噂なども流れるほどに、大奥や将軍の寵愛を受けた。これに対し幕政改革を図る水野忠邦は、日啓について内偵を行い、その裏にある政治的な不正に気付くことになる。しかし大奥や大御所の権威を揺るがすこの事件を面に出すことはできず、感応寺の破却や日啓の処断という形での決着をつけることになる。すでに家斉は死去していたが、この感応寺の破却は世間に大御所政治の性質というものを良く表していると言えるだろう。
大江戸の文化

 

当時の江戸は人口100万を越え、町人も50万に達していた。またこれに伴って江戸の寺子屋も増えており、町人の知的向上もあって文化の下地は形成されていた。江戸で発展した最初の文学は、処世訓的な談義物であったが、やがて遊里や風俗を描写した洒落本がとって変わる。この背景には田沼時代の開放的経済が関係している。また子供の絵本から発展した黄表紙がある。これは恋川春町によって代表にのし上がった。山東京伝はこの中でも洒落本を大成したと言える。原稿料をもらう作家は京伝が最初であったと言われている。かれは洒落本で名を売ると、長編伝奇である合巻も発表し、また挿絵も自分で描いて多才ぶりを示した。京伝の描くのは殆どが遊里であったが、やがて黄表紙にて政治風刺を描くようになる。政治風刺は彼に留まらず様々な作家が描いた。それは定信の目に止まり、弾圧されることになる。京伝も弾圧を蒙り、以後は読本へと転向していった。しかし読本では滝沢馬琴に敵わず、やがて近世風俗の研究の方へと移っていく。京伝を失った洒落本はやがて没落し、変わって読本・滑稽本・人情本が分断を支配する。この京伝に弟子入りを志願し、親しい関係を持ったのが滝沢馬琴である。彼は武家出身であるが放浪の身となり、やがて文筆生活へとはいる。彼は読本で名を馳せ、とりわけ史伝を扱った者は全国の都市に流通した。馬琴はこの原稿料にて生活していた。この原稿料を払っていたのが出版業者であるが、彼らは作家のパトロンという役割が大きかった。寛政の改革による出版禁止の中で読本とは別に、談義物に源流を持つ滑稽本が遊里以外を描いて1世を風靡した。十返舎一九や式亭三馬はこの滑稽本で名を売った。寛政改革の後、黄表紙が発展して合巻という伝奇長編小説が成立した。これは最初教訓物や仇討物であったが、後に男女の情話を主にする。この上で登場したのが柳亭種彦であり、彼は「偐紫田舎源氏」によって一躍名を馳せた。また人情本も寛政改革を期として成立した。これは男女間の人情を移すことに重点が置かれ、官能的な描写に走った。結果幕府の手による弾圧を受けることになった。江戸後期、狂歌が爆発的に流行する。それに大きな役割を負ったのが大田蜀山人である。彼は狂歌をはじめとする文芸に腕を振るったが、天明7年を期として学問と幕吏としての勤務に励み、能吏として名を馳せた。また地方でも小林一茶や良寛らが活躍しており、これは地方の地主・商人層に文化の一環が形成されつつあったことを示す。美術界では浮世絵が全盛を極めていた。鈴木春信に始まる浮世絵は喜多川歌麿や東洲斎写楽を迎えて発展した。歌麿の後は類型化されたが、葛飾北斎と安藤広重の登場によって一次催行される。遠近法や陰影などを巧みに使った北斎や、写実的で静的な描写を得意とした広重の風景画は、フランスの印象派にも大きな影響を及ぼした。歌舞伎もまた大きな人気を得た。興行は中村・市村・森田の三座に限定され、大きな発展を見る。とりわけ大御所時代には名優があつまり、また鶴屋南北のような名作家の存在もあって大評判を受けた。しかし天保の改革では7代目中村屋の追放などの弾圧が幾らか加えられ、結果的に次第に衰退を余儀なくされる。講談や落語も大きな評判をとった。この二つは下層町人の生活を取り込み、彼らの中で生きた娯楽として受け入れられたのである。これ以外にも多くの芸能が上演されていたのがこの江戸時代であった。この時代の文化は、完全に江戸の町民を主体とする物であった。これは江戸文化の最終的な完成であり、この後に西洋文化の導入を迎えて行くことになる。
国学と洋学

 

国学
国学とは、日本独自の文化や思想を研究する学問である。その学問が生まれるきっかけは、賀茂真淵と本居宣長の出会いだといえる。彼ら2人は1度しか会ったことがないにもかかわらず、宣長は師匠である真淵から国学の継承者として認められていた。真淵は宣長に、自分の説と異なっても構わないことを述べていた。そのおかげか宣長は、真淵とは異なった形で国学を大成する。真淵は人間の真情が「万葉集」にあり、男性的な「ますらおぶり」であると述べた。一方宣長は、人間の真情が「源氏物語」にあり、女性的な「たをやめぶり」であると述べた。結果的に国学の中核をなすのは宣長学だった。それは、宣長が支配される民衆の立場に立ち、世の安定を求める主張をしたからだろう。彼の門下はたくさんいるが、それ以上に影響を受けた人物が存在する。その人物は、平田篤胤という。彼は宣長の書物から思想を吸収し、復古神道を開いた。さらには、国学の主流を占めるに至った。彼の死後に対する思想を簡単にまとめると、以下のようになる。「人が死ぬと、魂は冥府に行く。そこは地球上の至るところにある世界である。そこに入る前に大国主神の審判を受け、その結果によって安定が得られるかどうかが決まる」一方宣長の思想は、「人が死ぬと、黄泉の国へ行く。そこは汚く悲しい世界であり、死後の安定は一切ない」宗教的安心を強調した篤胤の思想は、地主・役人層の人間に広まり、大都市を基盤とする思想となった。
洋学
1774年、杉田玄白らによって「解体新書」が世に出された。これによって日本の理系学問の関心が強まり、欧州の学問である洋学が広まった。洋学は実用的なものが多く、医学・本草学・天文学・地理学などが中心だったが、当然それだけではない。たとえば、蘭日辞書である「ハルマ和解」などがある。このような結果に陥ったのは、幕府が輸入を制限していたからである。しかし実際のところ、前野良沢やその弟子である司馬江漢、山片蟠桃などの知識人層は欧州の学問について詳しかった。そこから生まれる理想的な欧州の社会制度にあこがれ、日本を批判したものも多かった。また、本多利明は重商主義をとり、幕府の危機が高まるにつれて彼の思想を受け継ぐものも増えていった。彼らはみな、欧州を理想としていた。広がる社会不安を沈めるため、幕府は寛政改革を行った。幕府は洋書が一般人の手に入らないようにしつつ、独占しようとしたのだ。この時代に盛り上がった洋学の関心は一気に静まることになった。しかし、1830年前後になると、またこの空気が生まれてくる。
シーボルトと蛮社の獄
シーボルトは1823年に日本にやってきたドイツ人医師である。彼は日本で医学の教師として過ごし、やがて幕府天文方(遍歴を行う人、陰陽師と少しだけ似ている)の高橋景保と知り合った。彼らはお互いに欲しがっていた情報や地図を交換していた。しかし、シーボルトが帰国する際、このとき交換した地図が幕府の役人に見つかってしまう。シーボルトはスパイ容疑で投獄され、翌年追放された。彼を密告したのは間宮林蔵だと言われている。幕府の忠臣である彼には、シーボルトの行為が許せなかったのかもしれない。またこのころ、尚歯会(蛮社)と呼ばれる会合があった。渡辺崋山(三河田原藩(愛知県)家老)や高野長英(町医師)らが所属するグループである。崋山は地元では貧困対策などで高く評価されていた人物だった。しかし、幕府は彼を好かなかった。その理由は、1837年のモリソン号事件である。これは日本人漂流者を届けようとしてやってきたアメリカのモリソン号が、幕府に攻撃された事件である。崋山と長英は激怒し、それぞれ「慎機論」・「夢物語」を執筆した。2つとも幕府を批判したものであり、尚歯会を処罰する動きがはじまった。これが、蛮社の獄である。彼らが処罰されたのは、洋学を嫌った役人の鳥居耀蔵の存在が大きかったと言われる。崋山と長英はそれぞれ国元での蟄居、投獄に処せられた。しかし崋山は領主に迷惑をかけることを恐れて自刃。長英は、洋学をこのまま終わらせてはいけないと考えて脱獄。脱獄するものの、のちに幕府の役人に発見され死亡した。彼ら2人は悲惨な結末を遂げたが、無駄だったわけではない。結果、洋学は徐々にだが、人々に広まりつつあった。
草奔の文化

 

近世後期の都市文化は、江戸を中心として武家や上層の町民から、中・下層の民衆へと移っていった。さらに、18世紀後半からは地方都市にも多彩な文化が生まれるようになっていた。これらの文化が伝搬する役割を果たしたのは、交通が整ったことによる商品の流通だった。また、上層民衆の交遊、参勤交代も無視することができない。民衆が文化を作り上げることができたのは、彼らの知的向上が大きな原因である。では、彼らはなぜ教養を得たのか。それは、生産力の増大と従順な年貢負担者にすることを狙った幕府が、民衆の教育を行ったからである。幕府の狙いとは逆に、教育された民衆は合理的思考・不正を見分ける能力を身につけた。結果として村方騒動は激化し、幕府の動揺は続いた。しかし封建制が崩れたわけではなく、草莽(民間)の文化の担い手は、お金と暇に恵まれた人々の文化として位置づけられていた。この時期の文化としてあげられるものは複数ある。たとえば、「北越雪譜」。これは鈴木牧之に書かれたもので、滝沢馬琴や山東京山にも賞賛されている。ほかにも、農業の発達もまた、文化の1つである。これは、国益という発想を生み出した文化でもある。機業(織物を作る仕事)や塩田の発展もまた、文化の1つとして見られた。この文化の中盤、佐竹義和が治める秋田藩にて、村誌・民俗誌の先駆となる書物が作られていた。菅江真澄の「雪の出羽路」「月の出羽路」「花の出羽路」である。完成はしなかったものの、これに影響され、全国的に地誌が作られることになった。これら草莽の文化は学問的な要素が多い。しかし18世紀末になると、芸能面でも発展がみられるようになる。こうして培われてきた文化は、のちに誕生する近代文化の温床となりつつあったのだった。
天保改革の前夜

 

江戸時代の御蔭参り(抜け参り)は慶安3年(1650)を最初とし、その後、幕末まで何回か起きている。この御蔭参りへの民衆の期待を深めた要因の第一は、政情の不安や民生の窮迫であった。文政の御蔭参りも、化政期の腐敗した大御所政治のもたらす様々な矛盾が背景となっていた。文政13年3月、集団参宮の波が阿波徳島におこり、またたく間に淡路・紀伊から畿内・東海・中部・北陸地方へひろがった。下層の民衆は、神宮の宗教的権威をかりて自己の抵抗を神聖化することにより、社会規範からの解放感を味わったのであろう。このような神威を借りての解放感は、各地で地主・富商への抵抗をふくんだ動きとなって展開している。御蔭参りは、長くつづけば耕作放棄による年貢未納にまで発展する危機をふくんでいたが、幕府・諸藩はこの大衆行動が民衆の一時的な宗教的興奮であり、そのうちに沈静するとみて、静観し、ときには部分的に譲歩したり、参宮の便宜をはかったりしている。また、これだけの大集団の狂熱的行動は抑えきれないと悟っていたためともいえる。文政の御蔭参りはその年の秋には静まったが、その巨大なエネルギーは、形を変えて天保期の反封建闘争のなかに受け継がれてゆく。天保4年(1833)から始まった慢性的な大飢饉は、しだいに深刻な影響を全国におよぼしていった。死者の数こそ天明の大飢饉よりは少なかったが、それは飢饉の本質に変化があったことを意味するものではない。生産力発展の地域差が依然として解消せず、幕藩領主の権力基盤である本百姓経営の分解のしかたにも、それが強い規制力を発揮していた。商品経済の跛行的発展による農民層の分解の地域差は、天保期に入り、大飢饉などの影響をうけていっそう顕著になるとともに、農民・都市民の反権力闘争を量的・質的に発展させてゆくことになった。百姓一揆は、逃散→越訴→強訴→暴動・打ちこわしと段階的に発展している。暴動・打ちこわしが闘争形態の首位を占めるようになったことは、一揆の質的変化を暗示するものであり、天保期に入ってそれが全件数の三分の一近くを占めるようになったことは、農民闘争に、農業経営の防衛という面に加えて、土地改革を志向する変革的な「世直し」騒動の要素が発生してきたことを推測させるものである。天保7年(1836)に頂点に達した大飢饉の被害は、三河の大一揆を生ぜしめた。一揆は総数一万を超え、処罰者は1万1457人にものぼった。しかし、この大一揆の前月におきた郡内騒動は、これに輪をかけた苛烈な闘争であった。郡内騒動は甲州一国にわたる大騒動に発展し、参加人員も5万人に達したという風説さえあった。この大一揆の規模・エネルギーともに驚くべきものがあり、被罰者の多数と処罰の厳格であったことも、また近世一揆史上めずらしい例であった。幕府は天保期に入って格段に悪化した社会情勢にたいし、打つべき手は打ったが、それをささえる財政事情は悪化するばかりであった。その結果、天保銭の発行がなされた。品位は文政金銀に比べて劣り、鋳造高も一分銀のように多かったのをみれば、この改鋳が幕府の財政補強をねらっていたことは明らかである。天保期に入っての農村事情の悪化は都市にもすぐはねかえってきた。天保期の都市打ちこわしの特徴は、全国的に連鎖反応的な関連性を、かなり明確にもちはじめたことである。都市の中でも、とくに幕府の直轄都市である三都の事態は深刻であった。関東は幕府の対応により、大規模な打ちこわしにまでは発展しなかったが、大坂はそうはゆかなかった。大坂は天保4年(1833)に米価が従来の倍近くも騰貴し、市民の動揺が目立ってきた。大阪東町奉行の戸塚忠栄と西町奉行の矢部定謙の努力により、一時米価は下落に転じたが、7年を迎えると事態は最悪の段階に突入した。米価は再び騰貴を始め、青物類も大不作となった。餓死者が続出して、盗賊・追剥も横行し、市中の治安もひどくみだれた。ついに9月24日夜、雑貨屋が打ちこわしをかけられ、市中は騒然たる情勢となった。そんなとき、矢部定謙が大坂を去り、市政はしばらくのあいだ、その年4月末に赴任した東町奉行跡部良弼ひとりにゆだねられた。かれは老中水野忠邦の実弟であり、幕府の方針に忠実に江戸廻米に力を入れたので、市民の評判は芳しくなかった。大塩平八郎の挙兵も、一つには大坂町奉行でありながら、大坂の飢饉対策に本腰を入れない跡部のこうした施政にたいする強い不満が原因となっていたのである。大塩平八郎は大坂東町奉行の元与力であり、陽明学者としても知られていた。平八郎の封建的仁政観にたてば、大飢饉は天災ではなくて政災であった。市政の最高責任者である町奉行が、適切な救済手段をとらないだけでなく、江戸ばかり向いているとはなにごとかというわけである。平八郎は現職の与力である養子格之助を通じて、跡部に再三窮民の救済を要請したが容れられず、救済費として三井・鴻池らの豪商に6万両の借金を申し入れたが、これも断られた。かれは天保8年2月6、7、8の3日間にわたり、自己の蔵書5万巻を売った代金千余両をもって窮民一万戸に一朱ずつ施与し、同年2月19日に挙兵する手はずだったが、一党に加わった東組同心の一人が寝返りを打って跡部に密告したため、8時間ほど早く行動をおこさなくてはならなくなった。挙兵参加者は約300人で、反乱は半日で鎮定されたが、この乱は幕府に大きな影響を及ぼした。平八郎は乱の40日後に大坂市内の隠れ家をつきとめられ、自殺して果てたが、幕府の審理はすっかり長引き、1年半後の天保9年9月に、やっと平八郎ら17人の死骸にたいして反逆罪の宣告をくだし、死骸を磔の極刑に処するという具合であった。大塩騒動のことは短時日のあいだに全国に広がり、全国各地にこれと同じような反乱や一揆がおきた。斉昭は9年、「戊戌封事」と呼ばれる建白書を将軍家慶にさしだし、幕政全般にわたる改革の必要を力説しているが、そのなかで、「内憂外患」がきわめて深刻な段階にあることを指摘している。斉昭のいう「外患」もまた、天保期に入ると新しい段階に入っていた。モリソン号が渡来してから、幕閣の対外関心は俄然深まってきている。忠邦は文政の打払令をゆるめるとともに、寛政改革のさいに着手された江戸湾防備体制をいっそう強化する必要をみとめ、天保9年12月、目付鳥居耀蔵および大館江川英龍にたいして同湾の備場(防備箇所)の巡見を命じた。忠邦の対外危機意識は、アヘン戦争の情報を入手することによっていっそう駆り立てられてゆくのであり、天保改革を必然化した基本的条件の一つは、この天保期の「外圧」にたいする領主層の深刻な恐怖感であったことを忘れてはならない。
士農工商おののくばかり

 

水野忠邦は名門の水野氏に生まれた。唐津藩主である彼は藩政改革を行いながらも幕閣を狙って活動を進め、唐津から浜松へと敢えて不利な転封を率先して行うなどした。結果、彼は京都所司代に任じられ、そこで京文化にも触れて功績を積んだ。幾許無く彼は家慶側近から老中にのし上がった。その背景には多くの運動費を用いている一方で、一度老中となってしまうと今度はかなりの金銭を収受したようだ。その手腕もあってまもなく幕閣の全権を手中に収め、また倹約令などの政策を次々と打ち出して改革の下地を作った。家斉が亡くなると家斉側近を放逐し、その改革に反対する者を幕府内から逐うと、代わって改革に賛成する人間で幕閣を固めて行った。そして天保の改革は、そうした前座を整えたうえで、家慶の命が下されることによって正式に始まったのである。まず改革は幕臣や諸役人の刷新に始まるが、やはり農村改革に重点が置かれた。幕府は農村での統制を強めた他、農村工業の発展による農村からの人口流出を防ぐため副業も禁止している。また人返しの法によって江戸から農民たちを農村に返そうとした。しかしこれは実質的に江戸の人口調査の段階で終わってしまっている。この一方で年貢増徴のための検地も図られたが、これに関しては検地反対の大一揆が近江で起きるなどあまりはかどらなかった。町方に対しては、生活の統制を発布した。これは華美を戒めるために奢侈品を禁止するもので、時を経るごとにその範囲は拡大された。これは実際に代官によって取り締まりがおこなわれている。中でも、鳥居燿蔵はこの水野の諸政策を徹底させ、江戸の人間に恐れられた。これは町人の不満を買ったが、水野は生活水準の切り下げによって物価の低下安定を図ったのである。また賃金や利子の低減も図った。さらに銭相場の公定引上げもはかり、相対的に物価を下げたのである。しかし忠邦が失脚するとまもなく物価が上昇することに鑑みれば、結局この物価低下も人為的なものでしかなかった。株仲間の解散もこの流れにあった。そうすることで特権を無くし物価を逓減しようとしたのである。しかしこれは全藩に受け入れられたわけではなく、藩ごとの市場の独立がむしろ促進されていたといえる。この株仲間の解散は、農政学者の佐藤信淵の影響を受けているといえる。彼は身分制を全廃し、一人の君主の下に人民も生産も商業も統一した国家を理想し、つまりは絶対主義官僚国家を唱えたのである。彼の論は幕府にとって最も理想的な国家体系であった。
上知令と軍事改革

 

このような改革には次第に不満が鬱積し、各地で反抗が見られてくるようになる。それは町人ばかりでなく、改革を実行すべき幕臣や、諸大名にも見られた。これに対しても忠邦は強行な手を用いている。また幕府の威光を示すために日光社参も行われ、これは大成功に終わった。さらに忠邦は、印旛沼の開拓にも着手した。これは農地拡大の他、流通や江戸防備という点でも効用のあるものだと考えられた。これに動員されたのは孰れも水野と対立した大名で、水野の四位を感じさせる。しかし、この印旛沼工事は9割方完成したところで忠邦の失脚となり、結果的に失敗におわった。この開拓工事のさなかに出されたのが上知令である。これは江戸・大阪近郊の土地を取り上げ、代わって地方の天領を与えるという政策であった。しかしこれは対象となった旗本御家人の他、転封による収入の激減を恐れた農民たちも多いに反発した。とりわけ国訴も盛んであった大阪では、自体は深刻になった。結局、この上知令反対運動は、幕閣内の対立も絡んで水野忠邦の排斥にもつながっていった。水野はこの結果として完全に孤立し、ついには失脚して老中を辞任した。この後、一度は幕閣に返り咲く物の短い期間で辞職することとなる。それと共に親改革派は殆どが幕閣から追放された。ところでこのころ、アヘン戦争による清の敗北は、幕府の対外危機感を煽っていた。忠邦は江戸湾の防衛体制を整えようとするが、これは保守的な空気に阻まれてあまりうまくいっていない。そのほか砲術の訓練なども行ったが、イギリスが艦隊を派遣するという情報に接すると、外国船打払令を取り下げるなど、忠邦も対外情勢には敏感であった。これと時を同じくして忠邦は急速に江戸湾防衛体制をはじめとして、大砲の鋳造など軍制改革に力を入れた。なお、この軍制改革は忠邦退職によって止まったが、ただ浜松藩にて行われていた改革はそのまま続けられ完了している。この改革は、続く幕末での軍事改革に繋がるものとして高く評価することができるだろう。このように、天保改革とその後の改革とには、連続の側面もあり、むしろ系統的に捉えるべきである。改革が反動的改革であったという一方的判断を下すのは、早急な判断であるといえる。
雄藩の抬頭

 

天保期、全国諸藩の財政は圧迫し、藩債はいっそう累増していた。それは長州や薩摩、肥前藩でも同様であった。その中にあってこれらの藩が天保改革をもって抬頭し、雄藩となりえた所以は、次のとおりである。
長州藩
大農民一揆のつきあげを契機として天保改革に着手した唯一の雄藩。窮迫した財政状況をつつみ隠さず藩士および領民に公開し、その建て直しについて自由な意見を求めるという改良主義的ポーズを取った。下関という交通の要所を抱くこの藩は、下関に他国船舶への高利貸し所(越荷方)を設置。財政政策で成功を収める。また、実施された各種政策は、「債権者への債権放棄」「売買の許可制度」など、封建的統制を強化する意味合いのものが多い。改革の過程を通じて「人材登用」「言路洞開」の呼びかけのもとに中堅的藩士層が藩政にぞくぞく進出し、下層民衆の反封建的エネルギーも綺麗に体制へ組み込まれ、また、政商的豪商とのつながりも生まれた。長州藩の改革は、もっとも典型的な形で雄藩絶対主義への方向に向かっていたと言える。アヘン戦争の敗報がもたらした対外危機感の切迫により、軍備の改善と増強にも励んだ。
薩摩藩
文永末年には500万両もの巨額に達した藩債を整理するために薩摩藩が実施した政策は、実に強引な手法であった。まずこの500万両、「無利子250年払いとする」、として実質「踏み倒し」を行っている。※35年間は返したよ更に、藩内の多くの生産物を専売し、生産者の利益を吸い上げることによって(特に砂糖専売で)莫大な利益をあげた。※農民の不満は全人口の39.6%も居た武士が封じましたこうして琉球との密貿易の成功とも相俟って、領民の批判や三都町人の反感を一身に受けながら、薩摩の財政改革は成功した。また、時を同じくして軍事改革にも着手しており、洋式の砲術・調練の導入、鉄砲・火薬の製造に力を注いだ。
肥前藩
財政破綻が深刻であるにも関わらず、肥前藩には米と陶器しかない。他に特産品など見当たらず、それというのも農民の手元にゆとりを残さない過酷な徴租がおこなわれた結果であった。よって本百姓体制の再建こそが、何にもまして藩政改革の重点とされた。小作料の完全免除、地主の領地を没収して小作人に再配布する均田政策。これら徹底した農商の抑制政策は、藩主鍋島直正ら改革派によって行われた。肥前藩の軍備は「国を上げて」ではなく家中のみが独占しており、それというのも藩内の他派を警戒してのことである。時代を先駆けた大隈重信・江藤新平・副島種臣ら先進分子たちも、藩から孤立して政治活動を続けるほかなかった。
水戸藩
尊王攘夷論の震源地となった水戸藩の事情も見てみよう。御三家の一として屈指の名門であった水戸藩は、貧乏藩としても屈指であった。藩制の危機を克服すべく、文武奨励・富国強兵・農民支配政策、と各方面へわたって改革にのりだした。しかし改革の進行に伴い、家中内部の政権争いへと陥ったため、どの方面でも体制はついに確立されないで終わった。幕末政局から落伍してしまう水戸藩であるが、「御三家であったから」という要因のみならず、藩権力の集中・強化の方向が維持されずに矮小化してしまったことも、その要因とされる。

天保改革は数多の藩でなされたが、たどった運命は西南雄藩型と水戸藩型のどちらかに分けることができる。結局のところ諸藩の直面した危機の原因は、封建的小農民の量的・質的な変動であり、藩債はその帰結であった。本百姓というほぼ単一の身分であった農民が、水呑・小作人・日雇などの雑多な階層に別れ、また生産物も米に留まらなくなる。農村工業が発展した結果である。領主は米本位の年貢では取りたて難くなり、生産と流通の主導権を握った民衆に富が蓄積されてゆく。領主への要求も階層の立ち位置によって異なるわけで、きわめて治めにくい存在となっていた。これが支配体制の立て直しに本腰を入れなければならなくなった理由である。この時期の特徴として、中間的な知識人の屈折した活動が際立っていることもあげられる。彼らは情勢不満を政治的に表明するでなく、文筆に託して鬱憤を晴らす方法を採択した。また、洋学者の置かれた状況は大変なもので、投獄されたり自決を余儀なくされた人々は少なくない。明治維新があと僅か30年に迫っていた時代の話である。
 
日本史年譜

 

 原始時代
1 日本の誕生
人類の出現
地質学の地質年代では、地球の誕生から今日に至るまでを、始生代・原生代・古生代・中生代・新生代という五つの期間に大別している。恐竜などの爬虫類が抬頭していた中生代は6500万年前に終焉し、哺乳類が全盛を迎える新生代を迎えた。200万年前を境に新生代は第三紀と第四紀に、1万年前を境に第四紀は洪積世(更新世・最新世)と沖積世(完新世) に分けられるが、このうち洪積世は氷河時代であり、極寒の氷期とやや寒さが緩む間氷期が交互に繰り返されていた。人類は間氷期に出現した。氷河時代には極地方に氷として地表の水が集中するために海面は現在よりも低く、現在の日本列島に相当する地域は大陸と陸続きであり、華南原産のステゴドン象の一種である東洋象をはじめ、北方系のマンモスや大角鹿(オオツノジカ)や蝦夷鹿(エゾシカ)や箆鹿(ヘラジカ)、南方系のナウマン象などが存在していた。なおパレオロクソドン象の亜種であるナウマン象の臼歯化石を長野県北部の野尻湖にて発見したのは、御雇外国人(おやといがいこくじん)の独人地質学者ナウマンである。
人類の進化
人類は、直立歩行して火・道具・言葉を用いる特異な霊長類である。アウストラロピテクス(南方の猿)などの猿人はまだ類人猿に近いが、北京原人(シナントロプス=ペキネンシス)やジャワ原人(直立猿人・ピテカントロプス=エレクトゥス)などの原人はほぼ人類と定義することができる。ネアンデルタール人などの旧人は衣服を着用するまでに進化したが、猿人・原人・旧人と現生人類との間に血縁は無い。我々の祖先はクロマニヨン人などに代表される新人(ホモ=サピエンス)である。 
2 先土器時代(先縄文時代)
洪積世人類
先土器時代人・旧石器時代人などと称される日本の洪積世人類は、打製石器・骨角器などを用いて狩猟・漁撈・採集などを行う、先土器文化を営んだ。先土器時代人の骨は化石人骨として発掘されるが、その端緒は考古学者直良信夫(なおらのぶお)による明石人骨の発見である。明石人骨は後に人類学者長谷部言人(はせべことんど)が原人と断定し、明石原人(ニポナントロプス=アカシエンシス)と命名したが、化石人骨が通常石灰岩層から出土するにも拘らずこれは粘土層からの出土だったため、旧人説や真否を疑問視する説の提起を許している。なお聖岳人骨は聖岳洞穴から出土したが、先土器時代人には定住概念が無く、普段は洞窟や岩陰で生活していたものと見られている。
各地の化石人骨
原人 明石人骨(兵庫県)
旧人 牛川人骨(愛知県)・葛生人骨(栃木県)
新人 三ケ日人骨(静岡県)・浜北人骨(静岡県)・港川人骨(沖縄県)・聖岳人骨(大分県)
利器による時代区分
先土器時代人が営んだような自然物採集経済に基づく社会を、旧石器時代と言う。やがて細石器(さいせっき)や弓矢の使用や犬の家畜化が為される中石器時代を経て海進期(かいしんき)に入り、海面が上昇して現在とほぼ同様の地形が完成した。こうして迎えた沖積世では、まず初めに磨製石器や土器を用いて農耕・牧畜を営む新石器時代が訪れ、やがて青銅器時代、鉄器時代と続いていった。なお縄文文化は新石器時代に相当するが農耕は行われておらず、また青銅器と鉄器は弥生時代に同時に伝来したために明確な青銅器時代は無い。
先縄文時代と縄文時代
関東ローム層は、下層から順に多摩・下末吉・武蔵野・立川という各ローム層からなる風成堆積層である。独学の考古学者相沢忠洋(あいざわただひろ)は、関東ローム層の中でも人工遺物は存在しないと考えられていた洪積世時代の地層から石鏃片を発見し、先縄文時代の存在を立証した。この群馬県新田郡笠懸村岩宿の岩宿遺跡の発見を端緒として、宮城県の座散乱木遺跡(ざざらぎいせき)や大分県の早水台遺跡(そうずだいいせき)、長野県の上ノ平遺跡や東京都の茂呂遺跡などが発見され、20万年前頃からの岩宿時代(先縄文時代)の存在が確認されている。
様々な打製石器
打製石器は、ナイフ型石器たる石刃(せきじん)(刃器・ブレイド)、打製石斧(だせいせきふ)に代表される楕円形の敲打器たる握槌(にぎりつち)(握斧・ハンドアクス)、石槍(せきそう)などに代表される槍先形の尖頭器(ポイント)、といった三種類に大別することができる。打製石器はやがて礫器から剥片石器、石核石器と進歩していき、洪積世の終り頃に至って細石器(マイクロリス)が登場した。細石器は小型であり、細石刃(さいせきじん)や幾何学形細石器などの種類がある。 
3 縄文時代
縄文土器
巻上げ法・手づくね法・輪積み法などにより製作された縄文土器は、低温で焼かれたため黒褐色で厚手で脆いという特徴を有している。実際に羽状縄文などが施されたのは前期・中期・後期といった全盛期に至ってからのことであり、それ以前には爪形文・押形文・沈線文・貝殻文などが施されていた。縄文文化は水産資源が豊富だった東日本を中心に発達したが、それを裏付けるように晩期になると亀ヶ岡式土器のように繊細で華麗なものが東日本に現れた。一方、福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)や佐賀県の菜畑遺跡からは弥生土器の原型とも言える夜臼式土器(ゆうすしきどき)が出土しているが、板付遺跡は日本最古の水稲農耕集落遺跡である。土器により食糧保存が可能となったため、縄文時代人は南西諸島から南千島までの範囲内で定住を開始したが、縄文時代最大の遺跡であり日本最古の火を起こす器械が発見された青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)では、大陸より進んだ漆を採取する林業のための定住が行われていたことが判明している。
時期別・縄文土器種類一覧表
草創期    豆粒文土器(長崎県・泉福寺洞穴)
早期     隆起線文土器(長崎県・福井洞穴)、尖頭土器(神奈川県・大丸遺跡)
前期〜後期 深鉢形土器(丸底土器・尖底土器・片口付土器・火炎付土器)、甕形土器、注口形土器、土瓶形土器、香炉形土器、弦付土器など
晩期     亀ヶ岡式土器(青森県・亀ヶ岡遺跡)、夜臼式土器(板付遺跡・菜畑遺跡)
土器以外の用具
縄文時代に入って出現した磨製石器には、狩猟に使用する磨製石斧や石鏃、動物の皮を剥ぐための石匙(せきひ)、土錘と共に漁撈の網の重りに使用する石錘(せきすい)、穀物類の粉化に使用する石皿・磨石(すりいし)・たたき石の他、武器または生殖器崇拝用の物と言われる石棒・石剣(青龍刀形石器)・独鈷石(どっこいし)などの種類がある。火で丸木を焼き抉って製作する丸木舟を用いて行われた当時の漁撈では、動物の骨や角や牙で製作した釣針・銛(もり)(燕形銛(えんけいもり))・やす・骨鏃(こつぞく)などの骨角器が多用されたが、これらの骨角器は東北地方太平洋岸の貝塚に多く分布しているため、東日本がこうした骨角器を必要とする水産資源に恵まれていたことを証明する重要な手掛かりとなっている。
鉱物に見る交易状況
石鏃の原料たる黒曜石は黒色透明の火成岩であり、長野県和田峠や大分県姫島、神奈川県箱根畑宿や熊本県阿蘇山、それに北海道の十勝岳や白滝で産出されていた。また玻璃質安山岩のサヌカイト(讃岐石・カンカン石) は香川県白峰山原産であるが、その石器は大阪府と奈良県の境の金剛山地の最北端たる二上山(にじょうさん)から多く発掘されている。一方、勾玉の原料である硬玉(こうぎょく)(ヒスイ) は新潟県姫川流域で産出されていた。これらの鉱物の分布から、当時の交易は200qの範囲内で行われていたと考えられている。
貝塚
貝塚は縄文時代人のゴミ捨て場であり、本州の太平洋岸や九州の有明海沿岸に数多く存在している。米人動物学者のモースは、後に全国の貝塚発掘の端緒となる大森貝塚を1877年に発見した。
時期別・縄文土器種類一覧表
早期    平坂貝塚 神奈川県 人骨に飢餓線が見られる。
前期    南堀貝塚 神奈川県 規律ある共同体。
中期    加曽利貝塚 千葉県 国内最大級の貝塚。
姥山貝塚 千葉県 環状大貝塚、人骨も出土。
後期    大森貝塚 東京都 日本考古学発祥の地。
津雲貝塚 岡山県 160柱以上の人骨出土。
晩期    吉胡貝塚 愛知県 東西縄文文化の接点。
なお縄文時代の遺跡としては神奈川県の港北ニュータウン遺跡や三殿台遺跡、東京都の砧遺跡、千葉県の検見川遺跡などが挙げられる。
縄文時代の社会
縄文時代にも八ヶ岳山麓では焼畑農法で稗や粟や芋を作る原始農耕が行われ、また晩期には西日本で水稲農耕が始まった。長野県の尖石遺跡や与助尾根遺跡に見られるように当時の住居は竪穴住居であり、貯蔵穴・炉・祭壇も設けられていた。やがて平地式や敷石式などの亜流が生まれた竪穴住居は、長野県の平出遺跡(ひらいでいせき)が示すように平安初期に至るまで日本の庶民の住居として定着していった。一方、主に中期から後期に製作された土偶は当時の母系制社会を示すものであり、また生殖や収穫の呪術に用いられたようである。顔面が刻まれた土偶を土面、文様が刻まれた土偶を土版(岩版)と言うが、土偶には女性形土偶・遮光器土偶・ハート形土偶・山形土偶などの種類があった。超自然的且つ神秘的な力による現象の発生を信じる当時の呪術は、霊媒者としての巫女が存在する巫俗(ふぞく)(シャーマニズム)と、英人人類学者タイラーが世界の宗教の端緒として指摘した精霊崇拝(アニミズム)の二つの原始信仰に大別できる。一方、縄文時代人は死霊の活動を防止するため死者を屈葬や抱石葬(ほうせきそう)にして甕棺(合口甕棺(あわせぐちかめかん)と単口甕棺(たんこうかめかん)) に入れて楕円形の土壙墓(どこうぼ)・廃屋墓(はいおくぼ)などの共同墓地に埋葬したが、貝輪の腕飾り以外の副葬品は発見されないため、階級社会ではなかったようである。なお当時は、成年式として犬歯と門歯を左右対称に抜く抜歯や、呪術者などが三叉状(さんさじょう)に歯を研ぐ研歯などが行われていた。 
4 考古学に関する研究
大和民族の起源
現在我々が使用している日本語の文法的構造及び音韻は、ウラル語系(ハンガリー語・フィンランド語・エストニア語など)とアルタイ語系(モンゴル語・ツングース語・トルコ語など)に近く、助詞や助動詞を持つ膠着語(こうちゃくご)であり、縄文時代に南インドから伝来したタミール語と弥生時代に朝鮮半島から伝来した朝鮮語を基本としている。縄文時代人は顔の扁平や歯の鉗子咬合などの点に於いて現代人と異なった特徴を有するため、大和民族の人種的起源について様々な学説が提示されてきている。森鴎外の妹婿である小金井良精(こがねいよしきよ)は縄文時代人とアイヌ人を同一視するアイヌ説を主張したが、日本考古学の開拓者と目される坪井正五郎はこれに反発し、アイヌの伝説の中にある「蕗の葉で葺かれた屋根の竪穴住居に住む小人(コロポックル)」を縄文時代人と見なすコロポックル説を示し、アイヌ説との間に所謂コロポックル論争を展開した。一方、岡山県出身の清野謙次は地元の津雲貝塚から出土した縄文時代人の人骨を調査・研究し、結果的に日本人は元来日本列島に住んでいた原日本人に大陸や南島(ポリネシアなど)からの人々が混血して発生した、とする原日本人説を提起した。
年代の測定方法
先史時代を探求する考古学では、発見された物の年代の確定が重要である。現在一般的に用いられている年代測定方法としては、放射性炭素14C測定法と木材年輪幅測定法、それにフィッショントラック法などが挙げられる。放射性炭素14C測定法は、物質の内部に含まれる放射性炭素14Cの半減期が5700年であることを利用して大まかな年代を推測する方法である。木材年輪幅測定法は一年に一本ずつ増加する木の年輪の数から年代を判断する方法であるが、木材は腐敗するのであまり古い年代は測定できない。フィッショントラック法はウランの核分裂の際に物質に残る傷跡の数を計測する方法であり、ある程度正確に年代を確定することができる。 
 
 弥生時代

 

1 弥生文化
弥生時代の名は1884年に初めて弥生土器が発見された東京の弥生町に由来している。弥生文化は薩南諸島から東北地方までの範囲に於いて紀元前4世紀から紀元後3世紀に掛けて栄えた文化である。大陸から水稲農耕が伝来し、それにより生じた貧富の差は階級社会を創造し、やがて「むら」や「くに」といった小国家が建設されていった。なお当時の北海道は縄文文化と同様に鮭や鱒などの水産資源に依存する続縄文文化、沖縄などは貝類などの食料採集に依存する南島文化だった。
弥生土器
弥生土器は高温で焼かれているため薄手であるが硬質であり、無文か簡素な幾何学文様が施されていた。色は一般的には赤褐色が知られているが、黄白色の物もある。種類は主に四種類に大別することができる。最も多いのが物を貯蔵するための壺であり、食物を盛り付けるための高坏(たかつき)、食物などを煮沸するための甕、米を蒸すための甑(こしき)などがある。甑は底に穴が開いており、甕の上に乗せて使用する。一方、前期・中期・後期と大別できる弥生時代の前期の西日本には、櫛のような施文具によって櫛目文(くしめもん)を施された櫛目文土器が存在していた。
青銅器
青銅器や鉄器といった金属器は弥生時代に伝来したが、石器も併用したため考古学的には弥生時代を金石併用時代と言い、また弥生文化を金石併用文化と言う。青銅器は銅と錫の合金であったが、錫は産出量の低下からその含有率が低下し、鋭利さも無くなって、実用的な鉄器の普及や部族間の示威活動の必要性から次第に宝器(祭具)としての様相を呈していった。青銅器には銅剣・銅戈(どうか)(刃に直角に柄を付けた武器) ・銅鉾(どうほこ)・銅鐸(どうたく)・銅鏡などの種類があるが、銅剣と銅戈に関しては九州北部に分布する輸入品が実用的であり、瀬戸内海に分布する国産品が非実用的だった。また流水文様や袈裟襷文様(けさだすきもんよう)などが施されている銅鐸の本質は謎であるが、狩猟や家屋などの原始絵画が鋳造されているため、当初は楽器であった物が次第に権威の象徴になっていったようである。銅鏡は除魔や権威の象徴として用いられた。一般に、西日本中心の銅剣・銅戈・銅鉾文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏に大別されるが、福岡県の岡本遺跡や佐賀県の安永田遺跡から銅鐸が出土したり、出雲族の文化圏を連想させる島根県の荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)が発掘されたため、疑問視されている。なお大陸から流入した貨泉(かせん)と言う貨幣も僅かに用いられた。
青銅器の具体例
銅剣    輸入品の細形銅剣と、国産品の平形銅剣。
銅戈    輸入品の狭鋒銅戈と、国産品の広鋒銅戈。
銅鉾    鋭利な狭鋒銅鉾と、幅広の広鋒銅鉾。
銅鐸    日本独自の青銅器、鐘のようなもの。
銅鏡    輸入品の円鏡・舶載鏡と、国産品の仿製鏡。
鉄器
鉄製工具としては、木の表面を削る鉇(やりがんな)をはじめ、鍬形の手斧(ちょうな)や刀子(とうす)などが挙げられる。これらを用いて木製農具を製作した。次に曲刃鎌(まがりばがま)などの鉄鎌や鉄鍬や鉄鋤などの鉄製農具であるが、これは全てが鉄製なのではなく、先端にU字型の鉄をはめた木製のものがほとんどだった。最後に鉄製武器としては鉄鏃や鉄戈がある。当然の事ながら、鉄製武器は青銅製武器よりも攻撃力は高く、実用的であった。
石器
金石併用時代であるから当然石器も存在する。とは言っても石器の大部分は縄文時代と同じ物であった。弥生時代に入ってから新たに登場した石器としては、中国の影響を受けた磨製石器である太型蛤刃石斧(のみ形石斧・磨製片刃石斧) がある。この石斧を、玄武岩を材料にして専業的に製作する集団も北九州に出現したらしい。太型蛤刃石斧は扁平片刃石斧や柱状片刃石斧と共に西日本に広まった。
機織技術の伝来
世界的には新石器時代に始まる機織技術は、日本にはこの弥生時代に伝来した。機織は苧(からむし)や麻などといった草皮や樹皮を原料として、石製の紡錘車(ぼうすいしゃ)によって布などを製造するものである。当時の人々は機織によって製作された着物を纏っていたと思われる。即ち男はインドのサリーのような袈裟衣(けさい)を、女は所謂ワンピースのような貫頭衣(かんとうい)を着ていたのである。これら弥生後期の人々の生活様式は『魏志』倭人伝の中に記されているが、それによると当時の人々は裸足であり、食物は手掴みで食べ、顔に入れ墨をしたり身体に朱を塗ったりしていた。これは正にアイヌ人の風俗であり、小金井良精が大和民族の起源として提唱するアイヌ説の根拠の一つとなっている。
弥生時代の墓制
弥生時代に入ると、それまでの屈葬や抱石葬に代わって死者の両脚を伸ばして葬る埋葬形式である伸展葬が広まった。伸展葬には仰臥(ぎょうが)・側臥(そくが)・俯臥(ふが)の三種類がある。墓は、共同墓地としての甕棺墓が多かったが、副葬品が存在することから貧富の差に基づく階級社会が存在していたものと思われる。墓としては、他に西日本に多く見られる扁平な板石を箱状に組んで数体の遺体を合葬した箱式石棺墓をはじめ、木棺墓や壺棺墓、土壙墓や木槨墓などが挙げられる。福岡県の須玖遺跡(すぐいせき)からは多数の合口甕棺と副葬品としての腕輪の一種である銅釧(どうくしろ)を含む支石墓が発掘されたが、これは自然石の支柱の上に巨大な平石を乗せた一種のドルメンであり、満州や朝鮮半島の影響が見受けられる。一方、全国的な大型の墓としては東京都の宇津木遺跡から初めて発見された方形周溝墓が挙げられるが、これは共同墓地ではなく個人専用の墓であるため、後の古墳との関連性が指摘されている。また岡山県の楯築墓(たてつきぼ)に代表される西日本中心の墳丘墓(ふんきゅうぼ)(方形台状墓)も存在していた。
弥生時代の社会
人々の信仰は縄文時代と変わらず、アニミズムとシャーマニズムが中心であった。やがてこれらに基づいて、後の祈年祭や新嘗祭の原型となる農耕儀礼が行われるようになった。一方、弥生時代の中期から後期に掛けては、高地性集落や環濠集落などの防衛的性格が強い集落が盛んに造られたが、これは中国(支那)の『後漢書』東夷伝に見られる2世紀半ばの倭国大乱の影響であると思われる。国内最大規模の環濠集落としては、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が知られている。弥生時代には朝鮮半島などの大陸から多数の帰化人(渡来人)が来日して日本に技術をもたらし、縄文時代人と混血し、食糧事情の変化とも相俟って弥生時代人を形成したが、民族自体の交代にまで至る程ではなかった。 
2 水稲農業
伝来の軌跡
華南の長江流域に発生した稲作は、やがて華北から山東半島を経由して朝鮮半島北部に伝来し、朝鮮半島南部を経て九州北部にまで到達した。稲作は、食料事情が厳しかった西日本には即座に広まったが、元来魚介類などの食料資源が豊富な上に気候が寒冷で稲作に適さない東日本にはなかなか広まらなかった。しかし青森県の田舎館遺跡(いなかだていせき)や稲作の北限として知られる垂柳遺跡(たれやなぎいせき)が証明しているように、2世紀にもなると東北地方を含め全国的に稲作が行われたようである。初期には湿田に於いて稲作が行われたが、後期の西日本では灌漑施設を必要とするものの生産性が高い、所謂乾田で耕作された。また同じ後期には、広大な沖積平野に於いても稲作が行われるようになった。なお稲作の遺跡としては、静岡県の登呂遺跡や山木遺跡、奈良県の唐古遺跡、それに縄文時代から続く板付遺跡や菜畑遺跡などが挙げられる。日本の米は、今も昔も世界一の高品質を誇るジャポニカ米である。
稲作の様子
鉄製工具によって製作された木製農具は、イチイガシや栗などの堅い木材をその主原料としている。耕作具としては木鍬・木鋤・平鍬・又鍬などの一般的な物の他、田を均すための杁(えぶり)や、肥料を田に踏み込むための大足などがあり、精穀具としては木臼・竪杵などが挙げられる。水田の上は櫂で漕ぐ田舟や、田下駄(たげた)などを用いて移動した。初期の稲作は籾を直接蒔く直播(じかまき)であり、実った稲穂は石庖丁や石鎌を用いる穂首刈(ほくびがり)によって収穫され、梯子や鼠返しが付いた高床倉庫に蓄積された。 
3 古代の大陸情勢
中国大陸には夏という王朝があったらしいが、証拠は無い。その後、殷や周の時代を経て春秋・戦国時代という戦乱の時代に突入し、やがて所謂秦漢帝国(秦と漢)が興った。後の帰化人である秦氏一族は、この秦の始皇帝の末裔である。前漢の首都は長安であり、王莽によって興された短命政権の新によって分断されたものの復興され、洛陽に都して後漢が興った。後漢の武帝は、紀元前108年に朝鮮半島の衛氏朝鮮を滅ぼして、現在の平壌付近に楽浪郡を、他に真番郡(しんばんぐん)・玄菟郡(げんとぐん)・臨屯郡(りんとんぐん)を設置し、これら四郡を植民地として倭とも国交を持った。しかし2世紀に入ると濊族(わいぞく)や韓族が独立の動きを見せ始めた。やがて楽浪郡南部(現在の京城付近)には遼東の公孫氏によって帯方郡が設置されたが、楽浪郡・帯方郡共に高句麗によって313年に滅ぼされた。中国本土では後漢の滅亡後、魏・呉・蜀の三国が鼎立する三国時代を迎えたが、晋によって統一された。しかし晋は匈奴など北方民族の侵略によって滅亡し、五胡十六国時代、次いで南北朝時代と続き、最終的に589年に隋によって統一がなされた。なお南朝の宋・斉・梁・陳に呉と東晋を加えた六国を六朝と言うが、この六朝の六朝文化は飛鳥文化に多大な影響を与えた。 
4 大陸の史料に見る弥生時代の日本の状況
『漢書』地理志
「夫れ楽浪海中に倭人有り… 」で始まる『漢書』地理志は後漢の班固(はんこ)が紀伝体で著した前漢を中心とする正史であり、紀元前1世紀の日本を知る上で重要な史料である。倭国は当時百余りの小国に分かれていたようであるが、朝鮮半島の楽浪郡を経由して毎年定期的に朝貢を行っていたらしい。この朝貢に対して漢側は返礼を行っていた。こうした、中国が世界の中心であり東夷・西戎・南蛮・北狄を支配すると考える中華思想に基づく朝貢と返礼の国際関係のことを、冊封体制と言う。
『後漢書』東夷伝
「建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。…」で始まる『後漢書』東夷伝は、五胡十六国時代から南北朝時代を生きた范曄(はんよう)が著した後漢の歴史書であり、1世紀から2世紀の日本の様子が記されている。まず57年に奴国(なこく)(福岡県付近に存在)の使者が洛陽の光武帝を訪問して朝貢し、返礼として「漢委奴國王」と刻まれた金印朱綬を光武帝が下した、との記述があるが、この際の金印は1784年、黒田藩内の志賀島(しかのしま)に於いて百姓の甚兵衛により発見された。印綬は中国皇帝が臣下に与えるものであり、太子や諸王には金印朱綬、三公には金印紫綬、九卿には銀印青綬、その他の者には銅印黒綬が下賜された。一方、107年には倭国王(一説では倭回土国王(わのいとこくおう))の帥升(すいしょう)が生口(せいこう)という奴隷160人を安帝に朝貢しているが、これは稲作に基づく階級社会の発生を物語っている。また桓帝から霊帝にかけての時期、即ち146年から189年の間、倭国大乱があったとの記述がある。
邪馬台国論争
要旨部分が「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。…」で始まる『魏志』倭人伝(正式名『魏書東夷伝倭人之条』) は晋の陳寿(ちんじゅ)が著した三国時代の正史である『三国志』に収録されており、3世紀の日本、就中邪馬台国関連の事柄が記述されている。帯方郡⇒狗邪韓国(朝鮮半島)⇒対馬国(対馬)⇒一支国(壱岐)⇒末盧国(松浦地方)⇒伊都国(佐賀北部)⇒奴国(福岡市)⇒不弥国⇒投馬国⇒邪馬台国、という邪馬台国への渡航法も記述されているが、記述通りに計算すると邪馬台国が太平洋上に存在することになってしまうため、記述の誤り及び邪馬台国の本当の位置を巡る邪馬台国論争が発生した。小林行雄・内藤湖南・和歌森太郎・山田孝雄らが提唱する畿内説は方向の記述を訂正して畿内を導いたものである。久米邦武・井上光貞・白鳥庫吉らが提唱する九州説は各地の伝承や地名などを根拠とするものが多いが、榎一雄は伊都国以下の記述が変わるため、以下の国が全て伊都国を根拠としていると見なし、邪馬台国の場所を北九州としている。畿内説の場合邪馬台国は後の大和朝廷の前身ということになり、全国統一は3世紀中頃となる。一方、九州説の場合邪馬台国は全国に数多く点在する地域統合国家の一つに過ぎず、必然的に大和朝廷の全国統一は1世紀遅い4世紀中頃ということになる。
邪馬台国
邪馬台国は28国から構成される連立国家の宗主国(統合国)であり、呪術的司祭王にして巫女、そして女王たる地位に在った卑弥呼による鬼道政治が執行されていた。卑弥呼は仲哀天皇の皇后である神功皇后や、崇神天皇の叔母である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、それに景行天皇の妹である倭姫命(やまとひめのみこと)に比定されるが、いずれにせよ239年に使者として難升米(なしめ)を魏に派遣し、「親魏倭王」の称号と印綬、それに銅鏡を返礼として収めたことにより、邪馬台国を統一国家として完成させたらしい。卑弥呼は諸国監視のため伊都国に一大率(いちだいそつ)を設置したり、軍事的防禦施設として各地に城柵を築いたりしたが、政務は専ら弟に委任していた。また邪馬台国の南には卑弥弓呼(ひみここ)と言う男王が率いる狗奴国(くなこく)が存在し、邪馬台国に対抗していたが、魏はこれを征伐するべく張政と言う武将を派遣している。一方、『魏志』倭人伝には卑弥呼の死後男王が即位したが国が乱れ、卑弥呼の一族の女性(宗女)である壹与(いよ)が即位して国が治まったと記されているが、これはまだ男性による王権の世襲が確立されていなかったことを示している。また邪馬台国に於ける王・大夫(たいふ)・大人(だいじん)・下戸(げこ)・生口といった身分制度をはじめ、物々交換の市や吉凶を占う灼骨卜占(しゃっこつぼくせん)の存在、さらに租税や刑罰、それに一夫多妻制の存在、人々の衣服(男は袈裟衣、女は貫頭衣)など、当時の邪馬台国の社会の様子も数多く記されている。なお日本に関する史料は、房玄齢(ぼうげんれい)が著した『晋書』倭国伝に記載されている266年の壱与の遣使以降約1世紀に亘って皆無になるため、この1世紀を俗に「謎の四世紀」と呼ぶこともある。 
 
 大和時代

 

1 大和朝廷
大和朝廷の成立
大和朝廷は大和政権・大和王権とも称される。邪馬台国の延長かどうかは論争中であるが、日向国より東征し橿原宮にて初代天皇(大王(おおきみ)) に践祚した神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)=神武天皇) より続き大和国三輪山付近に在ったとされる皇室を中心とした、氏姓制度に基づく諸豪族の連合政権であると考えるのが一般的である。その大和朝廷によって日本が統一されて以後、律令国家が成立するまでを大和国家と言う。皇室はこの後、綏靖天皇(すいぜいてんのう)、安寧天皇、懿徳天皇(いとくてんのう)、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇(すじんてんのう)、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇と続くものとされている。
朝鮮半島の情勢
4世紀の初め頃には、北の高句麗と南の韓族の国家である三韓(馬韓・弁韓・辰韓)に分かれていた。やがて三韓は、馬韓が伯済(はくせい)により百済に、辰韓が斯盧(しろ)により新羅に統一され、弁韓には任那(みまな)(加羅諸国) が成立した。日本人が多かった任那には屯倉(みやけ)を財源とする任那日本府が設置され、大和朝廷の朝鮮半島に於ける足場となった。
好太王碑文(広開土王碑文)
好太王碑文(こうたいおうひぶん)は高句麗の全盛期を創造した好太王の功績を称えるため、息子の長寿王が現在の中華人民共和国吉林省集安県通溝にあたる鴨緑江(ヤールー川)の側の丸都城(がんとじょう)に建立したものであり、金石文の一種である。約1800字から構成される好太王碑文の中には369年と391年(この時は百済・新羅を破る)の大和朝廷による朝鮮出兵の記述もあり、所謂「謎の四世紀」を解明する貴重な史料となっている。大和朝廷が朝鮮半島を含む大陸に出兵した理由については諸説あるが、大陸の優れた先進技術と鉄挺(てってい)(鉄の延棒)などの鉄資源を求めるため、という説が有力である。なお、この好太王碑文を研究している李進煕(イジンヒ)は、大東亜戦争中に帝国陸軍参謀本部所属将校の酒匂景信(さこうかげのぶ)によって碑文が改竄されたと発表して物議を醸した。また江上波夫はこの碑文にある404年の倭国敗北の記述を拡大解釈し、古墳の馬具などにスキタイ文化の影響が見られるなどという理由をつけて、大和朝廷は朝鮮系の征服王である応神天皇が倭国を滅ぼして建設した国だ、という騎馬民族説を、終戦後の反動的左傾化傾向が強かった1948年に発表し、やはり物議を醸した。
倭の五王
『宋書』倭国伝(正式名『宋書夷蛮伝倭国之条』)は中国の南北朝時代の沈約(しんやく)により編纂されたものであり、簫子顕(しょうしけん)が著した『南斉書』や姚思廉(ようしれん)が著した『梁書』などと共に5世紀の日本を知る上で重要な史料である。これらの史書には、男子による王権の世襲が漸く確立されて登場した倭の五王、即ち讃・珍(彌(み)) ・済(せい)・興・武が記されている。皇室に当てはめると、讃は応神天皇か仁徳天皇か履中天皇、珍は仁徳天皇か反正天皇となり明確には分からないが、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇(大泊瀬幼武(おおはっせわかたけ))であると解明されている。中でも斯鬼宮に都した雄略天皇は、熊本県の江田船山古墳出土大刀(75字) や埼玉県埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の稲荷山古墳出土鉄剣(115字)などに「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と記された天皇であり、478年には建業(けんこう)に都していた南朝の宋の順帝に対して倭王武の上表文を提出している。この中にて雄略天皇は、父祖の毛人(蝦夷(えみし))や衆夷(熊襲(くまそ))や海北(朝鮮)に対する戦功を記し、より有利な朝鮮経営を行うため対高句麗戦への宋の支援及び任那領有と百済進出の許可を要求しているが、結局北朝側の高句麗への進出は公認されたものの南朝側の百済への進出は認められず、また六国諸軍事安東大将軍(りっこくしょぐんじあんとんだいしょうぐん)という爵号を受け、結果的に冊封体制に組み込まれてしまうこととなった。 
2 大和朝廷の社会制度
氏姓制度
氏姓制度とは各地の豪族を皇室中心の支配体制に組み入れるための政治的身分秩序のことであり、この氏姓制度に基づく政治を特に氏姓政治と言う。氏は血縁的な同族集団をもとにした組織であり、主人たる氏上(うじのかみ)と一般人の氏人(うじびと)、奴隷としての奴婢(ぬひ)によって構成され、共通の氏神を信奉した。一方、姓は家柄や職能による身分序列を示す称号であり、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・公(きみ)・直(あたえ)・史(ふひと)・村主(すぐり)・使主(おみ)・吉士(きし)・薬師(くすし)・造(みやっこ)・首(おびと)などが表のように氏上に与えられた。中央政府たる朝廷を牛耳ったのは、大王を支える豪族のうち、臣の最有力者たる大臣(おおおみ)と、連の最有力者たる大連(おおむらじ)であり、地方では県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)・国造(くにのみやっこ)が政務を執行した。なお豪族は都会生活を送るうちに洗練され、貴族となった。
氏姓制度・氏姓対応表
臣    皇別氏族(蘇我・葛城・平群・巨勢・吉備・春日・和邇・出雲など)
連    神別氏族(大伴・物部・中臣・越智・忌部・尾張など)
君    地方有力豪族(筑紫・毛野・犬上など)、後に「公」
直    小豪族(地方首長には造・首)
史    諸蕃氏族(帰化人の子孫)(他に村主・使主・吉士・薬師)
部民制度
この時代、朝廷や豪族はそれぞれ私地私民を持っていた。朝廷の直轄領を屯倉、そこを耕作した農民を田部(たべ)と言い、また皇室の直轄領を屯田(みた)と言う。皇室の生活の資を貢納する民を子代(こしろ)(御子代)・名代(なしろ)(御名代)と言うが、この代表的なものとしては、反正天皇の蝮部(たじひべ)、雄略天皇の長谷部(はせべ)、清寧天皇の白髪部(しらかべ)などが挙げられる。また豪族の私領を田荘(たどころ)と言い、田荘を耕作した農民を部曲(かきべ)と言う。朝廷には品部(ともべ)と言う世襲的に特殊な職能をもって仕える部があったが、この例としては埴輪を作った土師部(はじべ)の他、韓鍛冶部(からかぬちべ)・錦織部(にしごりべ)・陶部・玉造部・鞍作部・弓削部(ゆげべ)・舎人部(とねりべ)・馬飼部・蔵部・膳夫部・鷹飼部・海部・鏡作部・服部(はとりべ)・壬生部(みぶべ)などが挙げられる。これら品部を仕切ったのは伴(とも)と言う世襲的職能で朝廷に奉仕する官人集団の首長たる伴造(とものみやっこ)である。このように、朝廷や豪族に服属する労働者たちを部(べ)、その集団を部民(べのたみ)と言うが、こうした部民制度は百済に於ける同様の制度を改良したものであるらしい。 
3 古墳文化
古墳の変遷古墳は亡き権力者の権力を誇示するための墓である。古墳時代は前期・中期・後期に分けられるが、全盛期は中期であり、中央の他にも日向国・毛野国(けぬのくに)・吉備国(きびのくに)・出雲国・筑紫国など有力な豪族が存在した場所で政治的且つ軍事的な示威の意味も含んで大規模な古墳が造られた。棺は木棺を粘土で覆った粘土槨や小石で覆った礫槨が主流であり、それを収納する玄室は当初個人専用の竪穴式が多かったが、有力農民が家族墓として追葬を可能とするべく羨道(せんどう)を設けたため、入口を閉塞石で塞いだ横穴式が流行した。なお、古墳の巨大な石は修羅(しゅら)を用いて多数の人間により運ばれた。
古墳の副葬品
主な副葬品としては、勾玉・管玉(くがたま)・碧玉製腕飾り・金環耳飾・玉杖・金属製の冠などの装身具や、車輪石・石釧(いしくしろ)・鍬形石などの石製品、挂甲などの甲胄・銅鏃・馬鐸・鞍・壺鐙・眉庇付冑・短甲・環頭大刀などの武具などが納められた。一方、素焼の焼物である埴輪の製作動機に関しては土留めや殉死の代用など諸説があるが、埴輪の発展したものが福岡県の岩戸山古墳に見られる石造彫刻の石人や石馬である。また神獣鏡・画像鏡・鈴鏡など様々な呼称で呼ばれるこの時代の鏡としては、同じ鋳型で鋳造した複製の鏡(所謂同笵鏡(どうはんきょう))を持つ三角縁神獣鏡(魏鏡) や京都府の大田南五号墳から出土した日本最古の鏡である方格規矩四神鏡などが挙げられる。なお当時は、円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳など形状に拘らず表面には葺石(ふきいし)が敷き詰められていた。
古墳の具体例
前期古墳としては、最古の前方後円墳であり末盧国との関連が指摘されている佐賀県の久里双水古墳と、奈良県の箸墓古墳が知られている。中期古墳としては、大阪府の百舌鳥古墳群中にあり墓としては世界最大の面積を誇り陪塚(ばいちょう)(付属小古墳)を有する大山古墳(だいせんこふん)(仁徳陵古墳)や、やはり大阪府の古市古墳群中の誉田山古墳(こんだやまこふん)(応神陵古墳)と陵山古墳(履中陵古墳)などが挙げられる。後期古墳には玄室に装飾を施した装飾古墳(福岡県の竹原古墳など)が見られる他、群集墓が造られた。後期古墳としては、和歌山県の岩橋千塚(いわせせんづか)、埼玉県の吉見百穴(よしみひゃくけつ)、奈良県の新沢千塚(しんざわせんづか)、宮崎県の西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)などの群集墓や、岡山県の造山古墳、磐井の墓である福岡県の岩戸山古墳、蘇我馬子の墓と言われる奈良県の石舞台古墳(いしぶたいこふん)、藤原鎌足の墓である大阪府の阿武山古墳、そして奈良県の天武陵古墳や高松塚古墳などが挙げられる。やがて古墳は、大化の薄葬令による葬法の簡略化や仏教伝来に伴う氏寺の建立、さらに埋葬者層の広がりによる雑多化や火葬の広まりなどにより、次第に衰退していった。
社会風習
古墳時代の社会風習としては、吉凶を占うため鹿の肩甲骨を用いる太占や亀の甲羅を用いる亀卜(きぼく)、氏姓を正すため熱湯の中の小石を拾わせる盟神探湯(くかたち)(允恭天皇が創始)、それに禊(みそぎ)(水を用いて汚れを落とす)や祓(はらえ)(朝廷では6月と12月の晦日に大祓)などが知られている。また庶民たちは生誕地神たる産土神(うぶすながみ)や在住地神たる鎮守神を信仰し、男女が春や秋に山などで宴会を行って求愛する歌垣(うたがき)(東国では歌(かがい))なども行われた。農耕儀礼は自然崇拝であり、福岡県の宗像神社の沖津宮である沖ノ島などには自然を祀った祭祀遺跡(さいしいせき)が存在している。主として五穀豊穰と皇室安泰を祈る祈年祭(きねんさい)や収穫を感謝する新嘗祭(しんじょうさい)などはこの頃から行われたが、朝廷は祈年祭を毎年2月4日、新嘗祭を毎年11月23日に挙行し、天皇即位年の新嘗祭は特に大嘗宮を設けて大嘗祭(だいじょうさい)を行った。当時の人々は、男は髪を美豆良(みずら)に結い袴を履き、女は髷(まげ)を結ってスカートのような裳(も)を履いていた。なお海藻を使用して塩を製造する藻塩も行われ始めた。
大陸からの伝来
応神天皇の御世に養蚕技術を伝えた弓月君(ゆづきのきみ)(秦氏の祖先)や、文筆で仕えた阿知使主(あちのおみ)(東漢氏(やまとのあやうじ)の祖)、仁徳天皇の養育係たる阿直岐(あちき)の招きで来日して『論語』『千字文』などの儒教の経典と漢字を伝えた王仁(わに)(西文氏(かわちのふみうじ)の祖)、新しい酒の醸造法を伝来したススコリなど、大和時代には多くの帰化人(渡来人)が来日した。日本に於ける最初の漢字記述は、奈良県の物部氏の氏神である石上神宮(いそのかみじんぐう)(布留神宮)の七支刀であり、これは369年に百済から貢がれた物であるらしい。また443年に製造されたと思われる和歌山県の隅田八幡神社(すだはちまんじんしゃ)人物画像鏡の「意柴沙加宮(おしさかのみや)」の文字や稲荷山古墳出土鉄剣・江田船山古墳出土大刀の「獲加多支鹵」の記述なども著名である。宗教的には継体朝に百済の武寧王(ぶねいおう)の命を受け来日した段揚爾(だんように)・高安茂(こうあんも)ら五経博士(ごきょうはかせ)が易経・詩経・書経・礼記・春秋といった五経を講じて儒教が伝えられた他、神仙思想と老荘哲学に基づく道教が伝来した。また皇円(こうえん)の『扶桑略記(ふそうりゃくき)』によるとこの頃に仏教の私伝が為され、司馬達等(しばたつと)(子の司馬多須奈が鞍作部を賜姓、その子が鞍作鳥)が飛鳥の坂田原にて密かに仏像を礼拝したらしい。さらに欽明朝には易・暦・医博士が来日した。
古墳時代の土器
朝鮮半島伝来の技術により、ろくろを用いてのぼり窯で1000℃以上の高温で焼いて作られる灰色で硬質の須恵器(すえき)((はそう/瓦+泉)など、主に祭祀に使用)が陶部などにより生産された他、弥生土器の製法を受け継いだ土師器(はじき)(日用品として使用)が土師部により生産された。一方、北海道では赤褐色で櫛目文を持つ擦文土器(さつもんどき)が製作され用いられていた。
皇神たちの伝説
皇神(すべがみ)の神宝、即ち三種の神器と言えば、八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)である。一方、三重県の伊勢神宮や島根県の出雲大社、奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)や大阪府の住吉大社などの社(やしろ)がこの頃建てられたが、特に伊勢神宮は神明造(しんめいづくり)であり、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る内宮(ないくう)と、穀物神たる豊受大神(とようけのおおかみ)を祀る外宮(げくう)に分かれていることで有名である。また出雲大社は国譲り神話によると、天孫降臨以前に日本を支配していた大国主神(おおくにぬしのかみ)が国土を献上した際に朝廷が代償として贈った社であるらしい。一方、大神神社は三輪山を神体とする社であるが、その祭神であり酒の神と目される大物主神(おおものぬしのかみ)は、卑弥呼にも比定される倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の夫と言われており、その娘の墓が箸墓古墳であるとされている。また住吉大社には三海神と神功皇后が祀られているが、神功皇后は仲哀天皇の皇后であり、新羅を征服せよとの神託に背いたため神の怒りに触れ崩御した仲哀天皇に代わり、武内宿禰らと共に新羅に遠征し、帰国後応神天皇を出産したと伝えられている。一方、神話についてであるが、これは大彦命(おおひこのみこと)などの皇族を北陸・東海・西道・丹波に四道将軍として派遣した崇神天皇の話や、天照大神の孫にあたり神武天皇の曾祖父にあたる瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかまがはら)から日向国の高千穂峡に降ったとする天孫降臨神話などが知られているが、景行天皇の皇子の小碓尊(おうすのみこと)に纏わる神話は有名であり、熊襲の長の川上梟帥(かわかみのたける)(取石鹿文(とろしかや))を宴会場で女装して征伐して日本武尊(やまとたけるのみこと)の名を貰った話や、焼津で賊に襲撃され火で囲まれた際に叔母の倭姫命から貰った天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を用いて周りの草を刈って難を逃れた話(草薙剣の語源)、それに三浦半島から房総半島へ渡る際に海神の怒りに触れて嵐に遭い船が難破したものの后である弟橘媛(おとたちばなひめ)の自己犠牲により助かったという話や、伊勢国の能煩野(のぼの)で最期を迎えて白鳥となって大和国へ戻ったという白鳥伝説などが知られている。ちなみに『古事記』に収録されている「倭(やまと)は国のまほろばたたなづく青垣山籠れる倭しうるはし」という歌は、日本武尊の辞世と伝えられている。 
4 大和朝廷の動揺
動乱の六世紀
葛城氏の一族である円大使主(つぶらのおおおみ)は履中天皇・反正天皇・允恭天皇を擁立し、まず実権を掌握した。次に円大使主の配下だった平群木菟(へぐりのつく)の子の平群真鳥が雄略天皇・清寧天皇を擁立して台頭した。雄略天皇の御世の463年には任那国司吉備田狭(きびのたさ)が吉備氏の乱を勃発させたが、平群真鳥の配下の大伴室屋に滅ぼされた。平群真鳥の子の平群鮪(へぐりのしび)は、武烈天皇に勝るとも劣らない強大な権力を掌握するに至ったが、それが仇となって武烈天皇の命令を受けた軍事担当の大伴金村によって追討された。この事件により力を得た大伴金村は、武烈天皇の崩御に伴う仁徳天皇系断絶に際して越前国から男大迹王(おほどのおう)を迎えて継体天皇とし、自身の権威と権力を確固たるものとした。しかし大伴金村は512年、加羅四県を百済に割譲する際に収賄していたことが物部尾輿(もののべのおこし)によって暴露され、さらに割譲による任那の臣民らの反発の影響もあって失脚した。
任那日本府の崩壊
高句麗に圧迫されていた新羅は執拗に日本に対して策略を仕掛けてきた。大和朝廷は新羅を誅伐するべく527年に近江臣毛野(おうみのおみけぬ)率いる六万の軍勢を派遣したが、新羅の策略に乗った筑紫国造磐井が磐井の反乱を起こして軍勢を阻止した。磐井は物部麁鹿火(もののべのあらかび)により誅されたが、新羅は着々と任那を侵略し、大伴金村の失政による任那臣民の反発も利用して532年には金官加羅を併呑、562年には任那日本府を滅ぼした。なお任那日本府は、532年から滅亡までの間は安羅(あら)に置かれた。新羅は百済に対しても侵略を続け、554年には大和朝廷の援軍の佐伯連(さえきのむらじ)をも破り、聖明王を戦死させた。
仏教伝来と物部氏の衰退
仏教は百済の聖明王によって伝来されたが、公伝の年は不定である。『日本書紀』の中には552年とあり、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資材帳(がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』の中には538年とあり、どちらも欽明天皇の御世としている。この年代の相違は、物部氏側の安閑天皇と宣化天皇の朝廷と、蘇我氏側の欽明天皇の朝廷が対立していたためである、とする説もある。この異説の場合、後に朝廷は欽明天皇側に統一されたのであるからこれを蘇我氏が台頭する理由の一つと考えられなくもない。もう一つの理由としては、仏教の三時思想(正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法(まっぽう))の影響が考えられる。いずれにせよ、仏教の受け入れを巡り、慎重派の物部尾輿と推進派の蘇我稲目の間に崇仏論争が発生、それに政争が絡んで対立していたことは事実である。物部氏は軍事担当であり朝廷の近衛警察的な仕事をしており、神別氏族であったため皇室の縁戚になることは不可能だった。これに対し屯倉と三蔵(みつのくら)(神宝管理の斎蔵(いみくら)、皇財管理の内蔵(うちつくら)、官財管理の大蔵(おおくら))の管理を担当していた財務担当の蘇我氏は皇別氏族であったため皇室の縁戚になることが可能であった。なお中臣氏も慎重派である。世代が変わって物部守屋と蘇我馬子の対立になったものの、用明天皇の後継者問題ではこの対立に火が着き、587年には厩戸豊聰耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)(後の聖徳太子・上宮王)を味方につけた蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした。なお後の石上氏は、この際に生き残った物部一族の末裔である。
蘇我馬子の台頭
物部守屋との抗争の際に蘇我馬子が半ば傀儡君主として擁立した、欽明天皇の皇子であり彼の娘婿である泊瀬部皇子(はつせべのおうじ)は、践祚して崇俊天皇となった。崇俊天皇の下で、蘇我馬子は自分の大臣に対抗できる位である大連を廃止した。また蘇我馬子は、擁立した崇俊天皇が独自の天皇親政を志し始めたため、腹心の東漢直駒(やまとのあやのあたいのこま)をもってこれを弑逆した。崇俊天皇の後継者としては厩戸皇子ら数人が候補として名を連ねたが、誰が継いでも騒乱の元となると判断されたため、暫定的に日本史上初の女帝である推古天皇が592年に践祚した。 
5 推古朝の善政
飛鳥時代
推古朝の都は初めが豊浦宮であり、後に小墾田宮(おわりだのみや)への遷都が為された。豊浦宮と小墾田宮はいずれも現在の奈良県高市郡明日香村に相当する場所であり、それが故にこの時代を特に飛鳥時代と言う。女帝であった推古天皇は強い政治のブレーンとして甥にあたる聖徳太子を用い、593年に彼を摂政に就任させた。この時代の摂政は所謂藤原摂関体制時の摂政とは異なり、寧ろその時代で言う関白に近く、天皇に代わって政務を執る者という意味だった。摂政が設置されたもう一つの理由としては、仮に推古天皇が親政を行うと、次第に専横化傾向を強めていた蘇我一族と衝突して大乱を誘発する危険性があったため、とも考えられる。ともかく、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三人により、中央集権国家の建設を目標とした善政が行われた。
新羅征討計画
推古天皇は新羅によって蹂躙された任那の回復のため、600年に境部臣雄摩呂を新羅征伐に派遣した。続いて602年には本格的に来目皇子(くめおうじ)を向かわせる予定であったが、派遣直前に来目皇子が病により急逝したため、この新羅征討計画は頓挫した。
冠位十二階の制
(603年 / 日本史上初の制度化された位階制)
氏姓制度に基づく門閥世襲を打破し広く人材登用の道を開き、豪族を皇室中心の中央集権体制の中に組み込んでいくための第一歩として、冠位十二階の制は制定された。上から順に挙げるならば、位は徳・仁・礼・信・義・智、色は紫・青・赤・黄・白・黒であり、それぞれ大小、濃淡があった。人材登用の例としては、遣隋大使小野妹子が、隋へ渡る前は大礼であったものが帰国後に大徳に昇進したことなどが挙げられる。だがこの冠位十二階の制により門閥世襲が無くなったわけではなく、施行地域も畿内に限られており、何と言っても絶対に位階制に組み入れて横暴を防ぐべきである蘇我馬子本人が官位を与える立場であったため階級が無かったこと、など様々な問題点はあったが、ともかく冠位十二階の制は後の律令体制に於ける位階制の原型となった。
十七条憲法
(604年 / 官吏としての心構えを示す)
『日本書紀』の中に記録が残っている十七条憲法は、現在のような憲法ではなく、官僚としての政治的且つ道徳的な訓戒を説諭したものであった。和、三宝(仏法僧)、詔、礼を重んじることを諭しているこの十七条憲法の根底には、皇室中心主義・儒仏尊崇・豪族間の対立抑制などの基本理念の他、民衆を正しく導くには一定の法律が必要である(信賞必罰)とする中国の法家思想が流れている。十七という数字は中国の陰陽道に於ける陰の最大値の八と陽の最大値の九との和であり、後世の主要な法令の条数も十七絡みとなっている。
遣隋使の派遣
(607年 / 最初の遣隋使は600年)
魏徴(ぎちょう)が編纂した『隋書』倭国伝には、推古天皇か聖徳太子と思われる阿毎多利思比孤(あめたりしひこ)なる人物が遣隋大使小野妹子に国書を持たせて隋の煬帝(ようだい)のもとへ派遣した、と記されている。この国書はそれまでの相手の中華思想を満足させるような屈辱的土下座外交の文書ではなく、対等外交を要求したものだった。父と兄を不幸にさせてまで皇帝の座に就いたような人物である煬帝は、翌年、帰国する小野妹子に隋の答礼使として裴世清(はいせいせい)を同行させた。なお裴世清は文林郎(ぶんりんろう)という書物を管理する官吏であり、隋の位階制では三十階中二十九階であった。小野妹子は同608年には学問僧の南淵請安と旻(みん)、それに留学生の高向玄理(たかむこのくろまろ)を伴って再び隋へ渡っている。彼らの学んだ新知識、中でも中大兄皇子と中臣鎌足に教育を施した南淵請安の新知識は、後の大化の改新の論理的な支柱となった。なお高向玄理と旻は後の大化の改新の際に国博士となり、八省百官の立案を行った。また高向玄理は後に第3回遣唐使として再び唐へ渡り、彼地で客死している。隋は大運河の造成や高句麗への度重なる外征により国力が衰え、やがて唐の初代皇帝となる李淵(りえん)に滅ぼされたため、614年に派遣された犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が最後の遣隋使となった。
輝ける国家意識の黎明
皇室中心の中央集権国家を建設するため聖徳太子は蘇我馬子と共に日本初の歴史書たる『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を620年に完成させた。またこの推古朝の頃から国の呼称が「日本」となり、唯一絶対の国の長が「天皇(すめらみこと)」と称されるようになった。602年に来日した観勒(かんろく)は後に元興寺に在留して日本初の僧正となったことで知られているが、十干十二支の干支の法を用いる元嘉暦を伝えて暦法を伝えたり、遁甲方術・天文・地理などをもたらしたりしたことでも有名である。なお中国には、甲子革命や辛酉革命など甲子・辛酉の年には革命が起こり、60年を1元、21元を1蔀(ほう)として1蔀即ち1260年に一度は大革命が起こる、とする讖緯説(しんいせつ)が存在しており、那珂通世(なかみちよ)などの学者は神武紀元をこの讖緯説に則るものだとしている。また暦は、692年からは李淳風が伝えた偽鳳暦、763年からは吉備真備が伝えた大衍暦が用いられ、857年からは大春日真野麻呂が開発した五紀暦が併用された。 
6 飛鳥文化
仏教
欽明天皇の御世の仏教伝来を受けて成立した飛鳥文化は飛鳥と斑鳩を中心として花開いた日本史上初の仏教文化であり、朝鮮半島や中国南北朝、さらにギリシアやペルシアの文化やインドのガンダーラ芸術の影響なども受けた、異国情緒溢れる文化である。敏達天皇はあまり仏教に関して熱心ではなかったが、次代の用明天皇は熱狂的仏教徒であり、その皇子である聖徳太子も三経(法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう))を解説した日本初の仏教経典注釈書である『三経義疏』を著した。三宝興隆の詔(仏法興隆の詔)が594年に下されたことにより盛んになった飛鳥時代の仏教は、戦争勝利・先祖崇拝・病気平癒という目的のためにあった。なお聖徳太子に仏教を教えたのは、高句麗僧の恵慈(えじ)と百済僧の恵聡(えそう)であり、儒教を教えたのは高句麗僧の覚(かくか)である。就中恵慈は、聖徳太子が622年に逝去したことを受けて丁度一年後に入寂したことで知られている。
建築
雲形肘木・卍崩しの勾欄・人字形割束など中国の六朝様式が盛んだったこの時代の代表的な建築物としては、古墳造成に代わる示威活動として諸豪族が趣向を凝らして建立した氏寺が挙げられる。蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(飛鳥寺・元興寺)や秦河勝が太秦(うずまさ)に建立した広隆寺などが氏寺として有名である。飛鳥時代の他の著名な寺としては、聖徳太子が建立した三つの寺、即ちエンタシスで知られる世界最古の木造建築である斑鳩の法隆寺や、母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)を祀るための中宮寺、物部守屋討伐後に戦勝を感謝するため建立された四天王寺、などが挙げられる。回廊にギリシア・パルテノン神殿の影響も見られる法隆寺については、『日本書紀』に法隆寺炎上の記述があるため再建論者の喜田貞吉と非再建論者の関野貞らとの間で法隆寺再建論争が起こったが、後に四天王寺式伽藍配置の若草伽藍跡が発掘され、再建説が優勢となっている。伽藍配置は飛鳥寺式・四天王寺式・法隆寺式・薬師寺式・東大寺式・大安寺式、と変遷していったが、この過程で塔の重要性は次第に低下していった。なお四天王寺式伽藍配置は高句麗の清岩里廃寺(せいがんりはいじ)と同じ伽藍配置として知られているが、ここで言う四天王とは、持国天・増長天・広目天・多聞天のことである。
彫刻
飛鳥文化と白鳳文化の彫刻には、銅像に鍍金(ときん)を施した金銅像が多い。主な彫刻様式としては、中国の雲崗(うんこう)や竜門の石窟仏に似た威厳有る北魏様式(北朝様式)と、アルカイック=スマイルで知られる柔和な梁様式(南朝様式)が挙げられる。
『飛鳥寺釈迦如来像』 / 『飛鳥大仏』とも言う。鞍作鳥が製作した、現存する日本最古の仏像。何度も火災に遭ったため補修部分が多い。
『中宮寺半跏思惟像』 / 『広隆寺半跏思惟像(泣き弥勒)』と同様『弥勒菩薩像』とも言う。新羅様式。頬杖をついたような仏像。
『法隆寺金堂釈迦三尊像』 / 鞍作鳥作、杏仁形の眼・仰月形の唇で知られる北魏様式。対称的な仏像が梁様式の『法隆寺百済観音像(百済観音)』。
『法隆寺夢殿救世観音像』 / 上宮王(聖徳太子)の等身像らしい。秘宝だったが米国人美術史学者フェノロサ(→明治時代)が暴露。
その他
高句麗僧の曇徴(どんちょう)は610年、油絵具の一種である密陀僧と、新式の紙墨法を伝来した。密陀僧で描かれた密陀絵としては『玉虫厨子須弥座絵(たまむしのずししゅみざえ)』が知られている。一方、工芸面ではペルシア文化の影響から諸建築物に忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう)や獅子狩文様(ししかりもんよう)が施された他、『龍首水瓶』には天馬(ペガサス)が彫られた。ちなみに聖徳太子の后である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が制作した『天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)』には聖徳太子の「世間虚仮唯仏是真」という言葉が残っている。 
7 遣唐使の顛末
岡本宮で政務を執っていた舒明天皇は630年、薬師恵日(くすしのえにち)の進言を容れて犬上御田鍬を遣唐大使とする第1回遣唐使を派遣した。犬上御田鍬は632年に唐使の高表仁を伴って帰朝し、日本と唐の国交が正式に結ばれた。遣唐使は船を漕ぐ水夫(かこ)を中心に500人程度で構成され、船数は当初2隻だったが後に4隻が通例となった。「よつのふね」の別称の所以である。遣唐船には天文学に明るい陰陽師(おんみょうじ)が乗り、昼は太陽、夜は北極星を基準に航海を指揮した。経路は当初朝鮮半島西部沿岸を北上する北路であったが、白村江の戦い以後は新羅との国交が悪化したため、南西諸島を経由する南島路や日本海を横断する渤海路、南支那海を横断して揚州を目指す南路などが採用された。838年の第17回遣唐使(実質的に15回目)では円仁らが入唐したが、遣唐大使藤原常嗣と良船を争い渡唐を拒否した小野篁(おののたかむら)のような人物もいた。やがて894年、中(ちゅうかん)の報告を受けた菅原道真は、航海の危険性・莫大な経費・唐の衰退などを理由に遣唐使を廃止した。遣唐使に纏わるエピソードとしては、李白と親交を持ち開元の治で知られる玄宗に仕え「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」という短歌を残しつつ客死した阿部仲麻呂(唐名は朝衡)の話や、楊貴妃に狂った後の玄宗の前で新羅の使者と席順を巡り争いさらに鑑真を日本へ連れて帰った藤原清河の話などが良く知られている。 
8 大化の改新と改新政治
政変の火種
622年に聖徳太子は逝去した。蘇我氏の横暴はいよいよ激しさを増し、息子を王子(みこ)と称したり、自宅を上宮門(うえのみかど)と呼んだり、大和国の皇室領葛城県(かつらぎのあがた)の占領を企てたりした。蘇我馬子は626年に没し、息子の蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣の位を継いだ。628年には推古天皇が崩御したが、皇位の継承を巡って紛争が勃発することを恐れたため皇太子を定めていなかった。この際、上宮王家の山背大兄王(やましろのおおえのおう)と敏達天皇の孫の田村皇子が後継候補となったが、上宮王家を嫌う蘇我蝦夷は田村皇子を践祚させ舒明天皇とした。しかし舒明天皇も641年に崩御してしまい、後継者として舒明天皇の皇子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、蘇我馬子の孫の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、そして山背大兄王が鼎立した。ひとまず暫定的な天皇として舒明天皇の皇后である宝皇女(たからのみこ)が践祚して皇極天皇となり、事態の収拾が図られた。
山背大兄王の変
(643年 / 上宮王家の滅亡)
蘇我氏の家督は多少理知的でやや温厚な蘇我蝦夷から、その息子であり感情的且つ過激な蘇我入鹿(そがのいるか)に譲られた。古人大兄皇子を推していた蘇我入鹿は上宮王家に反発し、山背大兄王の私有民を無断で酷使するなどの嫌がらせを行い、ついには斑鳩宮に襲撃してこれを滅ぼした。この暴挙は後継候補の一人である中大兄皇子を刺激する結果となると共に、一般庶民の間に反蘇我氏の気風をより一層芽生えさせる原因となった。
大化の改新
(645年 / 古代最大のクーデター)
中大兄皇子は、法興寺の蹴鞠会で意気投合して以来側近として用いていた中臣鎌足(なかとみのかまたり)や、皇后の伊賀采女(いがのうねめ)の兄であり蘇我の傍流で不遇だった蘇我石川麻呂(倉山田石川麻呂)らと共に645年6月12日、三韓来貢の儀式が行われている飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿(だいごくでん)にて蘇我入鹿を誅殺し、翌日には甘橿岡の蘇我邸を包囲して蘇我蝦夷を自殺させ、蘇我氏本宗家を滅ぼした。政変後、皇極天皇は退位し、その弟の軽皇子(かるのみこ)が践祚して孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子、中臣鎌足が内臣(うちつおみ)、豪族の長老的存在であった阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)が左大臣、蘇我石川麻呂が右大臣、旻と高向玄理が国博士にそれぞれ就任した。やがて「大化」という元号が制定され、9月には「大化元年の詔」が下された。そして12月には摂津国の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)への遷都がなされた。大化の改新では旧来の慣習の打破、即ち男女良踐の法による身分区別の確立、大化の薄葬令による殉死の禁止や身分により制限を設けることによる葬法の簡略化などが推進された。なお高向玄理はこの後外交に重用され新羅や唐へ渡り、最終的に唐で没している。
改新の詔
(646年 / 『日本書紀』中に記述)
唐の均田制・租庸調制などを参考として元日に出された改新の詔は、公地公民の制・地方制度・班田収授・税制の四箇条で構成されている。公地公民の制では私地私民が全廃され、豪族はこの代わりとして上級役人ならば食封(じきふ)、下級役人ならば布帛(ふはく)を得た。食封は、封戸(ふこ)という一定数の戸を指定してその租税の大部分を得る権利のことを指し、布帛は物々交換社会に於いて現在の通貨同様の役割を果たしていた布のことを指す。次に、地方制度は行政区画を定めて中央集権的政治体制を構築するために定められたが、後の大宝律令下の国・郡・里とは違い、国・評(こおり)・里だったらしい。これは木簡から明らかになったことであり、所謂郡評論争(ぐんぴょうろんそう)の結果である。一方、班田収授の法は、全国の土地を国有とし6歳以上の男女に6年に一度の割合で口分田(くぶんでん)と呼ばれる土地を分け与える制度であり、租は6年に一度作成される戸籍、庸と調は毎年作成される計帳を基に課税が為された。
改新の歴史的意義
蘇我氏の粛正、氏姓制度の矛盾の是正、豪族間の対立緩和を目指して断行された大化の改新は、結果的に律令体制の基礎を形成した。だが従来の私地私民の制から公地公民の制への転換を主眼としていたため、それにより不利益を被る豪族への懐柔政策、即ち旧国造の郡司任命などに重点が置かれ、臣民が望む奴婢の解放などの社会変革は為されなかった。結局、大化の改新は政治改革であって社会改革ではない、と言える。
改新後の政界
粛正の嵐である。蘇我入鹿に推されていた古人大兄皇子は叛心有りとして誅され、右大臣蘇我石川麻呂は異母弟の蘇我日向(ひがのひむか)の讒言で自殺させられ、左大臣阿倍内麻呂は病死した。また新たな冠位の制を制定するなど活発な活動を行っていた孝徳天皇が実子の有間皇子に皇位を譲ることを懸念した中大兄皇子は、孝徳天皇を難波宮に残して皇極上皇と共に飛鳥河辺行宮(あすかかわらのかりみや)へ移った。心を痛めたのか孝徳天皇は翌654年に崩御し、同時に難波宮も終焉を迎え、後継には皇極上皇が重祚して斉明天皇となり後岡本宮へ遷都した。孝徳天皇の崩御後は狂気を演じていた有間皇子であったが、蘇我赤兄(そがのあかえ)の謀略により紀伊国藤白坂に於いて絞首刑に処せられたため、孝徳天皇の血統は途絶えた。
北方の鎮圧
東北の蝦夷対策として大化の改新直後の647年には渟足柵(ぬたりのさく)が、また648年には磐舟柵(いわふねのき)が、それぞれ現在の新潟県北部にあたる所に築かれた。斉明天皇の御世である658年には阿倍比羅夫(あべのひらふ)が船団を率いて齶田(あぎた)、渟代(ぬしろ)、津軽、と日本海沿岸を北上し、蝦夷とさらに北に存在していた粛慎(みしはせ)を征伐した。この北方征伐の目的は、急激に改革が推進されていた改新政治に対する豪族たちの不満を逸らす他、阿倍比羅夫の事実上の左遷である、とも考えられる。なお阿倍比羅夫は白村江の戦いにも従軍している。
白村江の戦い
(663年 / 朝鮮半島での足場を失う)
朝鮮半島では一時期は百済と高句麗が同盟して新羅を圧迫したが、新羅が唐と組んでからは形勢が逆転していた。蘇我氏が百済一辺倒の政策を執っていたということも、大化の改新の要因の一つである。百済は首都の扶余(ふよ)(泗沘城(しびじょう))を唐・新羅連合軍により陥落されたため、その朝臣鬼室福信(きしつふくしん)が大和朝廷の救援と亡命中の百済の王子豊璋(ほうしょう)の返還を求めて来朝した。後岡本宮の次に川原宮を都としていた斉明天皇は百済救援を決意し、まず662年に阿曇比羅夫(あずみのひらふ)を百済へ派遣し、翌年には自ら親征して筑紫朝倉宮まで出向いたが、そこで病を発して崩御した。中大兄皇子は称制(即位式を挙げずに実質的に天皇の政務を執行)して軍を率いたが、錦江河口の白村江の戦いにて唐の水軍に完敗を喫した。この戦いの後、日本では国防のために防人(さきもり)(全課役免除だが食糧と武具は自弁) の配置や烽(とぶひ)(通信施設)の設置を行い、大宰府を防禦するための水城(みずき)や、筑紫国大野城・大和国高安城・長門国長門城・讃岐国屋島城のような朝鮮式山城を築いたりした。なお水城は全長1qの堤であり、御笠川を堰き止めて水を湛えたものである。また鬼室福信の一族である鬼室集斯(きしつしゅうし)は白村江の戦いの後、日本に帰化している。新羅はこの後高句麗を滅亡させ、同盟を結んでいた唐ともその同盟を反古にしてその勢力を駆逐し、朝鮮半島を完全に統一した。 
9 律令国家への道
近江朝の改革
白村江の戦いの前後、唐の強大さに危機感を強めた中大兄皇子は改革の必要性を痛感した。そこで豪族の一層の協力を得るため氏上の民部(たみべ)・家部(やかべ)の所有を認めて部民制度を一部復活させ、664年には冠位二十六階の制を制定して冠位増加を含む官僚機構の整備を行い、667年には国防計画と人身一新のため近江国大津宮への遷都を断行した。翌年、中大兄皇子は天智天皇として即位し、同668年には唐の法律を参考として日本史上初の体系的法典たる近江令(おうみりょう)を中臣鎌足と共に作成し671年に施行した。また国家が全国の臣民を直接把握すると共に氏姓制度の氏・姓を正すための台帳として670年に作成された庚午年籍(こうごねんじゃく)は日本史上初の全国的(東は常陸国・上野国まで)な戸籍であり、永久保存が命じられ、以降の戸籍は五比留め(30年間保存)が命じられた。なお中臣鎌足が危篤に陥った際、天智天皇は最高位「大織冠(たいしょくかん)」と「藤原朝臣」という姓を彼に授けた。藤原鎌足はその翌日に逝去し、後に談山神社に祀られたが、藤原氏の氏神は春日神社であり、氏寺は藤原鎌足の私寺たる山階寺の後身、興福寺である。
乱の前震
天智天皇の後継は、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)か皇子の大友皇子か。この問題により、大友皇子を太政大臣に任じていた天智天皇と大海人皇子は対立していた。それに加えて大海人皇子の恋人であった額田王(ぬかたのおおきみ)を天智天皇が奪取した、という愛憎劇も含まれていた。額田王の姉の鏡王女(かがみのおおきみ)を妻に持つ中臣鎌足の仲裁により一歩退いた大海人皇子は、吉野へ出家した。「虎に翼を付けて放つようなものだ」とは天智天皇の側近の言である。事態はこれで収拾するかと思われたが、同年12月に天智天皇が崩御してしまった。
壬申の乱
(672年 / 古代宮廷内部に於ける皇位継承を巡る最大の事変)
大友皇子は践祚して弘文天皇となったと言われるが定かでは無い。近江朝側と吉野側との対立は深まり、ついに弘文天皇は吉野への糧道を断とうとした。危険を察知した大海人皇子は吉野宮で挙兵し、鈴鹿関を越え、白村江の戦い以後の天智天皇の専制政治に対し不満を抱いていた伊賀国・伊勢国・尾張国・美濃国など東国の豪族を糾合し、関ヶ原の戦いで近江側に快勝し、不破関を破り大津宮を攻略した。弘文天皇は山崎にて自害した。多臣品治(おおのおみのほむじ)らの活躍によって乱は一ヶ月で吉野側の圧勝に終わっが、蘇我赤兄ら近江朝側の諸豪族は年少のため無罪となった藤原不比等(ふじわらのふひと)らを除き容赦なく断罪された。ちなみに鈴鹿関・不破関はそれぞれ東海道・東山道の要衝であり、北陸道の愛発関(あらちのせき)と共に三関と呼ばれた。
皇親政治の背景
673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に於いて践祚し、天武天皇となった。天武天皇と続く持統天皇の御世は、強大な旧豪族たちの多くが壬申の乱に於いて没落した上に、皇室御一家を明神(あきつかみ)(生き神)として崇め奉る現人神思想(あらひとがみしそう)が広まったため、大臣などを一切設置せずに天皇と皇后と皇子のみで政治を執行する皇親政治を推進することが可能であった。大伴旅人の伯父の大伴御行(おおとものみゆき)は「大君は神にしませば赤駒の腹ばふ田井を都となしつ」という歌を、また柿本人麻呂は「大君は神にしませば天雲の雷(いかずち)の上にいほらせるかも」という歌を『万葉集』に残しているが、これは皇親政治を絶賛したものであると共に、現人神思想を端的に表したものである。天武天皇はこの皇親政治の下、豪族の持つ食封の全面的な廃止や部民制度の例外無き撤廃などを実行し、皇室を中心とした中央集権的古代律令国家の完成を目指した善政を執行した。「天皇(てんのう)」という称号が用いられ始めたのは現人神思想が広まったこの時代からであるが、「天皇」という名は元は中国の道教の高貴なる神の名であり、また「天皇大帝」と言えば通常は天空の中心となり光輝く星、即ち北極星を指す。
皇親政治の推進
まず、残存豪族たちを新しい身分秩序に再編成するため684年には八色の姓(やくさのかばね)が定められた。これは上から順に真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)となっている位階制である。真人は天武天皇から数えて五親等以内の皇族に、朝臣はそれ以外の皇族や皇別氏族に与えられた。また宿禰は神別氏族に、忌寸は諸蕃氏族に与えられた。臣や連は旧来通りであるが、これを含めて道師以下の階級が与えられたという記録は無い。結局、この八色の姓では皇室の近親子孫が優遇された。一方、天武天皇の治世下に粟田真人(あわたのまひと)が中心となって編纂が続けられていた飛鳥浄御原律令は、次代持統天皇の御世である689年に令22巻のみの飛鳥浄御原令として施行された。天武天皇の皇子である高市皇子(たけちのおうじ)を太政大臣として用いた持統天皇は、この飛鳥浄御原令に基づいて農民支配の根本台帳である庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成し、6年に一度の班田をこれ以降確実に実行させた。戸籍は6年に一回ずつ作成されたが、現存する最古の物は正倉院宝物の中の702年の筑前国嶋郡川辺里の卜部乃母曽(うらべのもそ)の戸籍である。一方、皇親政治が推進された天武朝では、皇族を絶対化するために皇室関係の系譜を記した『帝紀』や、神話や伝承などを纏めた『旧辞』などの国史が編纂されたが、これは『日本書紀』や『古事記』の原典となった。なお立礼の礼法を整えたのも、天武天皇である。
皇位継承問題
天武天皇には、高市皇子・草壁皇子(くさかべのおうじ)・大津皇子(おおつのおうじ)・舎人親王(とねりしんのう)・刑部親王(おさかべしんのう)という五人の優秀な皇子がいた。このうち舎人親王は『日本書紀』の編纂、刑部親王は『帝紀』や後の大宝律令の編纂の中心人物としてそれぞれ活躍したが、皇位継承とは無縁だった。これは母の血統が低い高市皇子も同様であり、結局皇位は草壁皇子と大津皇子との間で争われた。天武天皇は皇太子に草壁皇子を任命して686年に崩御したが、草壁皇子はすぐに践祚せず彼の母である鸕野皇女(うのおうじょ)を称制させ、自らは即座に大津皇子に謀叛の嫌疑を掛けて自害させた。この事件を大津皇子の変と言う。後に草壁皇子が夭折し、子の軽皇子も幼少であったため、鸕野皇女が暫定的に践祚して持統天皇となった。
藤原京遷都
(694年 / 日本史上初の本格的都城)
持統天皇は「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天香具山」という短歌を残したが、これは畝傍山(うねびやま)・耳成山と共に大和三山と称される天香具山を題材とした歌である。天香具山を東、畝傍山を西、耳成山を北に臨む地に唐の長安を参考として造成された藤原京は、日本史上初の都城制(皇居が中心)に基づく都である。南北は横大路や山田道、東西は中ツ道(平城京の東京極に繋がる)や下ツ道(朱雀大路に繋がる)などの古道で区画された。都はその規模と輸送手段としての川が重要であるが、藤原京は規模は並であるが川としては細い飛鳥川一本のみであり、交通の便は良くはなかった。藤原京の南には天武・持統陵古墳、文武陵古墳、高松塚古墳などが点在していた。 
10 白鳳文化
「白鳳」が天武朝の私年号であることからも分かる通り、白鳳文化は律令国家の完成を目指して挙国一致体制で驀進している非常に建設的で清新且つ明朗健全な天武天皇と持統天皇の御世にて、遣唐使がもたらした中国の初唐様式やインドのグプタ芸術の粋を結集して栄え、最終的に藤原京に開花した文化である。
建築
680年に制定された官大寺の制に基づき、皇室御一家の発願により建立された寺院は官寺として保護された。著名な官寺としては、大官大寺(百済大寺・後の大安寺)・薬師寺・法興寺・川原寺(弘福寺(ぐふくじ))といった飛鳥四大寺の他、豊後国の法鏡寺や常陸国の新治廃寺(にいはりはいじ)などが挙げられる。なお薬師寺は天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して建立した寺であり、フェノロサが薬師寺東塔の水煙を「凍れる音楽」と形容したことで有名である。また藤原鎌足の妻の鏡王女は氏寺の山階寺(興福寺)を建立した。
彫刻
『薬師寺金堂薬師三尊像』 / 唐草文様に遠く西亜細亜の影響が見られる、白鳳文化を代表する作品。
『薬師寺東院堂聖観音像』 / 飛鳥文化の外面性から白鳳文化の内面性への推移が見られる。
『宝慶寺十一面観音像』 / 中国の宝慶寺から伝わった像。『薬師寺東院堂聖観音像』のモデルと言われている。
『興福寺仏頭』 / 『山田寺仏像』とも言い、童顔で有名。山田寺から興福寺悪僧団が強盗。左耳が欠けている。
『野中寺弥勒菩薩像』 / 蘇我馬子が建立したと言われる野中寺の半跏小像。台座に刻まれた「丙寅年」は666年か。
『法隆寺阿弥陀三尊像』 / 光明皇后の母の橘三千代の念持仏。白鳳文化から弘仁貞観文化への推移が見られる。
『法隆寺夢違三尊像』 / 悪い夢を見た時、祈れば良い夢に変じるという伝説に基づく、初唐様式の可憐な小像。
絵画
『高松塚古墳壁画』 / 石室の天井に星宿(人物・日月と、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神)が描かれ、高句麗の『双楹塚壁画』や中国陝西省の『永泰公主墓壁画女性像』などと構図が似ていることで注目されている。
『法隆寺金堂壁画』 / 特に阿弥陀浄土図が著名。インドのアジャンタ壁画や中国の敦煌石窟壁画に酷似。
『聖徳太子像』 / 百済の阿佐太子の作品。中央が聖徳太子、左前が山背大兄王、右後が殖栗王。
歌道
代表的な歌人としては、天智天皇と天武天皇の両方からの寵愛を受け、それが両天皇の対立、ひいては壬申の乱の遠因となった額田王や、皇親政治・現人神思想を絶賛する歌を詠んだ柿本人麻呂や大伴御世らが挙げられる。額田王は『万葉集』の中に12首の歌が収録されており、特に初期万葉と言われている。また柿本人麻呂は日本における漢詩の開拓者として知られている。
宗教
白鳳文化の宗教や思想は、最近長野県から出土した『三寅剣』が証明しているように、仏教と道教の混交である。『三寅剣』には仏教的な四天王像と梵字、それに道教的な星座が金銀の象嵌(模様を刻んで金銀を嵌める細工)で施されている。一方、白鳳時代には鑑真が律宗、道昭が法相宗をそれぞれ伝えた。就中道昭は行基の師匠であり、また著書『大唐西域記』で知られる唐僧の玄奘(三蔵法師) の弟子であるが、700年に日本初の火葬で葬られた。庶民は土葬であるため火葬は主に貴族層に広まったが、持統天皇は日本史上初めて火葬で葬られた天皇となり、天武陵古墳に追葬された。 
 
 奈良時代

 

1 中央集権国家の誕生
大宝律令
(701年 / 律令国家の黎明)
既に中央集権体制を確立していた唐では、土地は均田制、税は租庸調制、兵は府兵制、法律は律令制によって統制されていた。文武天皇の御世に、刑部親王と藤原不比等が唐の永徽律令(えいきりつりょう)を参考として編纂した大宝律令は、律と令が揃った日本史上初の法典である。なお「律」は悪を懲罰するための刑法、即ち懲粛(ちょうしゅく)であり、「令」は善を推進させるための民法・行政法・訴訟法、即ち勧誡(かんかい)である。大宝律令は律6巻と令11巻からなるが現存せず、『続日本紀』や養老令の注釈書『令集解(りょうのしゅうげ)』に一部が記載されている。
養老律令
(718年 / 大宝律令と大差は無いが、施行は約二百年間)
養老律令は、藤原不比等が元正天皇の御世に功名心から編纂したと思われる。養老律令は律・令共に10巻ずつであり、律は一部が伝存し、令は『令義解(りょうのぎげ)』の中に大部分が記載されている。『令義解』は法令の解釈が区々にならないように政府が編纂した養老令の注釈書であり、舎人親王の曾孫の清原夏野(きよはらのなつの)らが編集に当たった。また『令集解』は諸家の私説の散逸を恐れた惟宗直本(これむねのなおもと)が私的に編纂した民撰の養老令の注釈書である。
律令体制
1 中央行政=二官八省一台五衛府
太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・少納言・左弁官・右弁官からなる太政官は政務を執り、神祇官(じんぎかん)は祭祀を司った。神祇官は古代の祭祀の重要性を示すため太政官と同列に扱われたが、実質的には太政官が上位とされた。また太政大臣は適任者がいなければ任命されない則闕官(そっけつのかん)であり、摂政・関白などを兼任しない限り実質的な権限は小さかった。八省としては、左弁官の下に、詔勅起草・天皇側近事務を司る中務省、官僚人事・教育管理を司る式部省、民間人事・冠婚葬祭・外交を司る治部省、戸籍管理・民政一般・税務を司る民部省が、また右弁官の下には、武官人事・軍事一般を司る兵部省、刑罰決定・身分決定を司る刑部省、経済一般を司る大蔵省、宮中庶務を司る宮内省が設置された。また弾正台は官吏監察・風紀粛正、五衛府(衛門府(えもんふ)・左右衛士府(えじふ)・左右兵衛府(ひょうえふ))は京都の警護を司った。少納言の下には外記(げき)がある。なお参議・中納言・按察使(あぜち)・鋳銭司・征夷大将軍など、律令制に無い官職を令外官(りょうげのかん)と言う。中央の官吏は司召除目(つかさめしじもく)と言う儀式により任命された。
2 地方行政=五畿七道
東海道・東山道・南海道・西海道・北陸道・山陽道・山陰道を合わせて七道と言い、五畿(山城国・大和国・摂津国・河内国・和泉国)を除く全ての国はこの七道に含まれた。行政区画は国・郡・里であり、国司は中央から6年(後に4年)の任期で派遣されたが、郡司は元の国造が任命され終身であった。里は715年に郷に変更された。また外交上重要な摂津国と京は特別地域であり、摂津職(せっつしき)と左・右京職が設置され、さらに京職の下には市司(いちのつかさ)と坊令が置かれた。一方「遠の朝廷(とおのみかど)」とも称された大宰府の下には、西海道の9国3島に加えて防人司が置かれた。なお大宰府政庁を都府楼(とふろう)と言う。地方の官吏は県召除目(あがためしじもく)と言う儀式により任命された。
3 貴族の特権
清涼殿へ昇れる者を殿上人と言い、「雲の上人」とも称された。生母の身分で一品から四品まで分かれる親王を含む皇族と、五位以上の官吏を総称して貴族と言い、このうち三位以上の官吏を特に公卿(上達部)と言うが、公卿は三公(太政大臣・左大臣・右大臣)の「公」と内大臣・大納言・中納言・参議の「卿」に大別される。左大臣は右大臣より上位とされ、一上(いちのかみ)と称された。五位以上の官吏には輸租田の位田(いでん)、公卿・大宰府官吏・国司・郡司には不輸租田の職田(しきでん)(郡司職田は輸祖田)が与えられ、さらに公卿には位封(いふう)、郡司には職封(しきふう)としてそれぞれ封戸が支給された。また四位と五位の官吏には位禄、その他の官吏には季禄として、絁(あしぎぬ)・綿・布などが支給された。貴族は、五位以上の貴族の子孫ならば無条件で官位が受けられる蔭位の制や、庸・調・兵役の免除、八虐以外の罪ならば金銭で解決できる財産刑の贖銅(しょくどう)、位階相応の官職に就ける官位相当の制など、様々な特権を有していた。位階制の最下位は三十位少初位下である。なお、当時の刑罰は笞・杖・徒・流・死の五刑であり、皇室殺害等の謀反、皇居損壊等の謀大逆、亡命降伏等の謀叛、尊属殺傷等の悪逆、配偶者殺害・大量殺人等の不道、神社損壊等の大不敬、不孝、不義といった所謂八虐に対しては減刑なく科せられた。
4 四等官制
四等官とは、令制官司幹部職員たる長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の総称である。長官は業務の統轄、次官はその補佐、判官は一般事務の処理、主典は文書の作成を主な業務としていた。八省の卿・輔・丞・録、国司の守・介・掾・目、郡司の大領・少領・主政・主張など、任地任官によって読みは同じであるが使用する字が違う。
5 土地種別
口分田、位田、賜田、功田及び郡司職田は租税が賦課される輸租田であり、逆に宗教性の強い寺田や神田、公共性の高い官田及び普通の職田は、租税が免除される不輸租田だった。また乗田(公田)は国有の剰余地であり1年限りで賃租させ地子を徴収する輸地子田だった。これらの他には、園地や宅地などの私有地、山川藪沢などの共有地、そして荘園などが存在した。
6 税制
当時の身分制度は、皇族・官人・公民(課役の民・調庸の民)・雑色(品部・雑戸)といった良民と、陵戸・官戸・公奴婢・家人・私奴婢といった五色の賤などの賤民に大別される。良民の中でも雑色は実質的に賤民であり、反面、賤民の中でも陵戸・官戸・公奴婢は税制上良民扱いだった。なお、親王への奉仕者を帳内、官吏への奉仕者を資人、天皇への奉仕者を舎人と言う。また公奴婢は66歳で官戸に、官戸は77歳で良民になるという放賤従良という仕組みも存在した。この身分制度に基づいて、口分田は千鳥式か平行式の条里制により良男に2段、良女に1段120歩、賤男に240歩、賤女に160歩、それぞれ班給された。最古の口分田班給の例としては、735年の讃岐国弘福寺領計測図が知られている。1反は360歩、10反で1町であり、1町は現在の土地単位では117aに相当する。租は戸籍、庸・調は計帳に基づき課税されたが、最古の計帳は724年の近江国志何郡のものである。なお戸主が取り仕切り課税の単位となる集団を郷戸(ごうこ)と言い、実際の家族を房戸(ぼうこ)と言う。
良民のうち、21歳〜60歳は正丁、61歳〜65歳は次丁(老丁)、17歳〜20歳は中男(少丁)であり、これらは課口・課丁と称され、口分田の収穫から1段につき稲2束2把(収穫高の3%、706年より1束5把)が国衙の財源となる租(そ)として課せられた。また、都での10日間の労役である歳役の代わりに麻布2丈6尺(次丁は半分・中男は免除・京と畿内も免除)を運脚自己負担で納めさせる庸(よう)や、同様に運脚自己負担で絹や糸や綿を所定量(次丁は半分・中男は1/4・京と畿内は半分)納めさせる調(ちょう)、染料・胡麻油・麻などを所定量(次丁・中男・京・畿内は免除)納めさせる調副物(ちょうのそわりつもの)なども課せられた。さらに労働税として、年間60日以下の労役である雑徭(ぞうよう)(次丁は30日以下、中男は15日以下)の他、正丁には軍団兵士(10番交代毎番10日)・衛士(皇居警備1年間)・防人(九州防備3年間)などの兵役、中央官庁の労役のために50戸ごとに2人を3年間徴発する仕丁が課せられ、その他の雑税として、当初は貧民救済目的だったがやがて税となった、稲を貸し付けて利子稲を強制徴収する出挙(すいこ)や、凶作に備え貧富の等級に応じて粟などを義倉(ぎそう)に納めさせるなどのものが存在した。
7 律令体制破綻への道
衛士や防人の食糧や武具は自弁であったため、「一人点ぜらるれば一戸随って亡ぶ」とも称された。こうした律令制による重い負担は結果的に農民が本籍(本貫)を離れる浮浪(土断の法に従い庸・調のみ納める者)や逃亡の増加を招き、造籍が困難になり、税収は減少して口分田も荒廃した。また戸籍に虚偽の内容を記載して税負担を免れる偽籍や、税金逃れのため出家する私度僧の横行は、それに伴う過剰な不輸租田の増加と相俟って律令体制の破綻を招いていった。
貨幣流通の試み
武蔵国から銅が出て献上されたことを契機として、皇朝十二銭の端緒となる和同開珎(わどうかいちん)が708年に鋳銭司(ちゅうせんし)という令外官の役所で鋳造された。唐の開元通宝を参考としたために銀銭と銅銭からなる和同開珎の鋳造は、日本内外に対する朝廷の示威行為でもあり、711年にはこの和同開珎の流通を促し物々交換経済を是正するために蓄銭叙位令が施行された。蓄銭叙位令は蓄銭量によって最高で従六位までの官位を授ける法令だったが、実質的な効果は無く、やがて800年に廃止された。皇朝十二銭は村上天皇の御世の乾元大宝(けんげんたいほう)まで続いたが、結局、稲と布帛が中心の物々交換社会は改まらなかった。760年には万年通宝と共に、初の金銭である開基通宝と銀銭の太平元宝が鋳造された。なお、当時の特産品としては、陸奥国の金、周防国の銅、古志国の燃水などが挙げられる。
平城京遷都
(710年(和銅三年) / 現在の奈良県奈良市及び大和郡山市)
前述の通り藤原京は交通の便が悪く、また人口も増加してきていた。そこで、文武天皇の夭折を受けて母の阿閇皇女が践祚した元明天皇は、木津川と淀川を経由して大坂湾に出ることができる平城京への遷都を実行した。後に小野老(おののおゆ)により「青丹(あおに)良し寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の匂ふが如く今盛りなり」と賞賛されるに至った平城京は藤原京と同じく唐の長安に倣った都城制の都であるが、左京には春日山麓の興福寺と元興寺がある外京(げきょう)、右京には北部の北辺(きたべ)と言う突出部があった。区画は条坊によって整然と定められており、大内裏と羅城門(らじょうもん)を結ぶ朱雀大路を中心として左京と右京に分けられ、市司が管理する官営の東市が左京に、西市が右京に設置された。政務が執られる朝堂院や総合式場たる大極殿から構成される大内裏は、別名平城宮とも呼ばれた。また飛鳥地方の交通の中心地には民営の軽市(かるのいち)や高市、海石榴市(つばのいち)などが設置された。平城京の朱雀大路は下ツ道、東京極は中ツ道であり、藤原京に通じている。外京の東端が上ツ道である。なお平城京遷都の理由としては、前述した理由の他に、幼くして父の文武天皇を亡くし、母である藤原宮子(藤原不比等の娘)が病弱なため藤原不比等の妻の橘三千代に養育されていた首親王(おびとしんのう)のため、とも考えられる。この頃地方では出羽国・丹後国・美作国・大隅国が設置され、また都と全国の国府を結ぶ道には駅家(うまや)が16qごとに配置され、交通や通信などの駅制が整えられた。駅家の馬や馬便を利用するためには、証印としての駅鈴(えきれい)が必要であった。なお駅家の財源は不輸租田たる駅田であり、駅子がこれを耕作した。
斜陽の公地公民の制
首親王までの中継的要素から元明天皇に次いで践祚していた元正天皇は、早くも口分田不足が露呈された722年、東北地方(陸奥国と出羽国)を対象として良田百万町歩開墾計画を始動させたが効果は薄く、翌723年に至って長屋王に三世一身法(養老七年の格)の施行を命じた。三世一身法は、自ら新たに灌漑施設を設けて開墾した新開田は三代、既成の施設を利用して開墾した再開田は一代のみの私有を認めるものだった。しかし三世一身法では返還期限が迫った田が再び荒れてしまうようになったため、有力者の大仏鋳造への協力を仰ぐ意味も含めて、聖武天皇は743年に山背国恭仁京に於いて墾田永年私財法(天平十五年の格)を制定し、墾田の永久私有を公認した。事実上、ここに公地公民の制は崩壊した。開墾には当初、位階により制限があり且つ国司の許可が必要だったにも拘らず次第に曖昧になり、また輸租田だった筈の墾田も不輸租田化した。やがて富豪之輩(ふごうのともがら)(殷富之輩(いんぷのともがら))と言う私有地拡大に奔走する農民が百姓治田(ひゃくしょうはりた)を形成し、百姓治田を集めた既墾地系荘園が成立した。既墾地系荘園と、貴族や寺社が浮浪人などを用いて開墾させた自墾地系荘園を総称して墾田地系荘園と言うが、これは8世紀から9世紀に掛けて多く見られた。 
2 奈良時代の権力変遷
長屋王の変
(729年 / 藤原四子による政変)
氏姓政治と皇親政治の中道で繁栄した藤原不比等が世を去ると、権力の座は高市皇子の子の長屋王に移行した。藤原不比等の子である藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂はそれぞれ南家・北家・式家・京家の始祖である。藤原四子は724年に践祚した聖武天皇の皇后に自分たちの妹の光明子(安宿媛(あすかべひめ))を推したが、皇后は天皇崩御の後に称制や践祚することがあるため皇族から選ばれることが原則である、と長屋王は主張し、反発した。長屋王は藤原四子を除くべく謀叛を企てたが、漆部君足(ぬりべのきみたり)らの密告により露顕し、自害に追い込まれた。これを長屋王の変と言う。光明子はこの半年後に、人臣としては初めて皇后になった。
藤原広嗣の乱
(740年 / 権力移行に反発)
藤原四子が権力を掌握して暫くは政治的安定が続き、734年には聖武天皇が朱雀大路で盛大に歌垣を挙行したりしていた。しかし同年、北九州に端を発して全国的に流行した赤疱瘡(せきほうそう)(天然痘)は藤原四子を落命させ、代わって中国地方の豪族・吉備氏の末裔の吉備真備と、法相宗僧であり皇太后(藤原宮子)の病を治癒した玄ム(げんぼう)に支えられた橘諸兄が実権を掌握した。橘諸兄は光明皇后の異父兄であり、且つ元は葛城王という賜姓皇族である。吉備真備と玄ムは阿倍仲麻呂らと共に、多治比県守(たじひのあがたもり)が遣唐大使を務める第8回遣唐使で渡唐した経歴を持っており、中でも玄ムは唐の玄宗から最高位の僧を意味する紫衣を拝受したことで知られている。式家・藤原宇合の子である大宰少弐藤原広嗣は、吉備真備と玄ムを除くべく挙兵した。この藤原広嗣の乱は鎮圧されたものの、驚いた聖武天皇は一時的に平城京から恭仁京、紫香楽宮(しがらきのみや)、難波宮と次々に遷都し、やがて平城京に還都した。なおこの順番は実際に遷都が為された順番であり、遷都宣言は難波宮の方が紫香楽宮よりも先に下されている。
橘奈良麻呂の変
(757年 / 権力移行に反発)
叔母の光明皇后と皇女の高野姫尊(後の孝謙天皇)の覚えめでたい南家・藤原仲麻呂は、聖武天皇の鎮護国家仏教政策に対する臣民の不満を慰撫することにより抬頭し、まず玄ムを筑紫観世音寺別当に左遷した。吉備真備を自らの配下に取り込んだ藤原仲麻呂は聖武天皇崩御後も抬頭を続け、やがて紫微中台(しびちゅうだい)(皇后宮職(こうごうぐうしき))の長官たる紫微令(しびれい)に就任した。紫微中台とは皇后が生活する場所のことである。実権を失った橘諸兄は失意の内に没し、息子の橘奈良麻呂は757年に佐伯氏・大伴氏・多治比氏ら旧豪族と結託して謀叛を企てたが、小野東人の自白により露顕し、拷問の末に死亡した。この橘奈良麻呂の変により、形式上橘諸兄まで続いていた皇親政治の終焉が確定した。
儒教政治の展開
政権を掌握した藤原仲麻呂は祖先の功績を誇示するため、曾祖父藤原鎌足の伝記である『大織冠伝』を編纂したり、大宝律令の使用を停止して祖父藤原不比等が編纂した養老律令を757年に施行したりした。また新羅征伐も計画した。淳仁天皇を擁立した藤原仲麻呂は、淳仁天皇から儒教的な名である恵美押勝(えみのおしかつ)を拝受してこれを名乗り、やがて太政大臣(太師)に就任して権勢を誇った。恵美押勝はこの他、儒教的徳治主義に基づく民の救済を目的として問民苦使(もみくし)と言う令外官の設置したり、淳仁天皇のために保良宮(ほらのみや)と言う離宮を造成したりして活躍した。
恵美押勝の乱
(764年 / 弓削道鏡の台頭)
やがて孝謙上皇の病を治癒した河内国出身の法相宗護持僧の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が、孝謙上皇の寵愛を利用して抬頭を開始すると恵美押勝は窮地に立たされた。焦燥に駆られた恵美押勝は、君側の奸たる弓削道鏡を除くべく、美濃国・越前国を中心に恵美押勝の乱を起こした。しかし恵美押勝は吉備真備にも裏切られ逆に攻撃され、更に坂上田村麻呂の父である坂上苅田麻呂が率いる上皇軍により蹂躙され、近江国で敗死した。この恵美押勝の乱の影響を受け、恵美押勝が擁立した淳仁天皇は何の罪も無く廃位させられ淡路国へ流されてしまったため、淳仁天皇を「淡路廃帝」と呼ぶこともある。
宇佐八幡宮神託事件
(769年 / 天皇になろうとした男)
恵美押勝の乱の後、重祚した称徳天皇のために由義宮(ゆげのみや)を造成したりして太政大臣禅師となった弓削道鏡はさらに出世し、やがて法王(宗教界最高位と思われる)に就いた。政教両権の最高位を極め、寺院以外の墾田禁止を規定した加墾禁止令を765年に施行するなどして専制的に仏教政治(僧侶政治)を展開した弓削道鏡は、天武天皇の血統が称徳天皇で断絶しそうになっていることに付け込み、皇位を要求した。弓削道鏡は、弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)の配下の中臣習宜阿曽麿(なかとみのすげのあそまろ)による、「国家安泰のために弓削道鏡を天皇にせよ」との神託が鎮護国家の神として崇敬を受けていた豊後国の宇佐八幡宮に下ったという捏造された報告を利用し、和気清麻呂に命じて確認させた。清廉潔白の士である和気清麻呂は正直に偽託であることを証明し、逆に国家安泰のためには弓削道鏡を退けるよう進言した。このため和気清麻呂は大隅国、また和気清麻呂の姉の和気広虫(法均)は備後国へ配流されたが、称徳天皇崩御と共に弓削道鏡の権勢は失墜し、新たに実権を掌握した式家・藤原百川と北家・藤原永手が天智天皇の孫である光仁天皇(62歳)を擁立して弓削道鏡を下野薬師寺に配流、和気清麻呂を召還した。なお和気氏の氏寺は神護寺である。弓削道鏡左遷に関連して再び功があった坂上苅田麻呂は、この後に初代陸奥鎮守府将軍となり、子の坂上田村麻呂の活躍の基礎を固めた。 
3 辺境討伐
蝦夷の反乱
阿倍比羅夫による北方征伐の後は暫時静寂を守っていた蝦夷であるが、8世紀に入ると再び活発な活動を見せ始めるようになった。朝廷は709年、巨勢麻呂(こせのまろ)と佐伯石湯(さえきのいわゆ)に命じて蝦夷討伐を行い、712年には陸奥国と越後国の一部を分割して出羽国を新設した。また720年には多治比県守が蝦夷の反乱を鎮圧し、724年には式家・藤原宇合が蝦夷を討伐し、同時に大野東人(おおののあずまひと)により朝廷の東北経営の拠点となる多賀城が築かれた。やがて733年には出羽柵が新築の秋田城へ移され、蝦夷を監視するべく活動した。
蝦夷の誅伐
朝廷は令外官として蝦夷の監視や誅伐を行う陸奥按察使を設置していたが、780年にはこの陸奥按察使の紀広純(きのひろずみ)が蝦夷の首長である伊治呰麻呂(いじのあざまろ)により殺害される、という伊治呰麻呂の乱が勃発した。この伊治呰麻呂の乱は藤原小黒麻呂によって鎮圧されたものの、事態を重く見た朝廷は789年、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍として5万の軍勢と共に派遣、本格的な蝦夷征伐に踏み切った。しかしこの時は胆沢(いさわ)の酋長である阿弖流為(あてるい)に敗北を喫して撤退した。791年には初代征夷大将軍として大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が向かうが敗れて撤退した。次いで797年に向かった者が東漢氏血統の坂上田村麻呂であり、801年に胆沢を攻略して阿弖流為を降伏させることに成功した。坂上田村麻呂は翌802年に胆沢城を築いて鎮守府をここへ移転し、803年にはさらに北方に志波城(しわじょう)を築いた。なお「清水の舞台」で有名な清水寺(きよみずでら)は、坂上田村麻呂の発願と伝えられている。
その後の蝦夷
合計三回の大規模な蝦夷討伐により蝦夷は米代川以北まで後退し、後の嵯峨天皇の御世には征夷大将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が完全に鎮圧し、徳丹城が築かれた。しかし878年には出羽に於いて蝦夷が元慶の乱を起こして秋田城を占拠し、藤原保則や小野春風らによって討伐されている。
隼人の服属
狗奴国との関連は不明であるが、九州南部には昔から熊襲や隼人が存在しており、朝廷に対して稀に反乱を起こしていた。しかし720年に発生した隼人の乱が、万葉歌人でもある大伴旅人により征伐されてより後、隼人の活動は著しく沈静化した。この隼人の乱の直前の719年には、多禰島(種子島)・掖久島(屋久島)・信覚島(しがきじま)(石垣島)・度感島(とからじま)(宝島) ・球美島(くみじま)(久米島)などの西南諸島が朝貢して朝廷に服属した。 
4 天平文化
聖武天皇の御世に平城京を中心として栄えた天平文化は、律令国家最盛期を反映した豪壮雄大且つ貴族的・仏教的色彩の濃い円熟した文化である。また遣唐使がもたらした異国の文物、即ち中国の盛唐様式や、ササン朝ペルシア・サラセン帝国・ビザンツ帝国などの諸国の文化の影響も多大に受けており、世界的性格の強い文化でもある。なおこの時代の根本的な思想は、鎮護国家仏教と儒教的徳治主義である。また天平文化の芸術作品には、写実性・人間性に富む物が多い。
建築
東大寺正倉院 / 正倉院宝物の世界的性格から「シルクロードの車庫」と称される。校倉造。勅命によってのみ開閉される勅封蔵である。
唐招提寺 / 鑑真の発願で建立された律宗の総本山。特に講堂は、平城京の朝集殿を移築したものとして有名。
法隆寺伝法堂 / 光明皇后の母であり、聖武天皇を養育したことで知られる橘三千代(橘夫人)の屋敷を移築したもの。
薬師寺 / 大安寺は藤原京から移築だが、平城京の薬師寺は白鳳様式で新築。藤原京の薬師寺(本薬師寺)は平安時代まで残存。
彫刻
『東大寺法華堂不空羂索観音像』 / 鎮護国家仏教の象徴的仏像。乾漆像(漆で固めて作る仏像)の典型的なもの。
『東大寺法華堂日光・月光菩薩像』 / 『東大寺法華堂不空羂索観音像』の隣に立つ、塑像(粘土で作る仏像)の典型。
『東大寺法華堂執金剛神像』 / 塑像。秘仏であり12月16日以外は見られない。
『東大寺戒壇院四天王像』 / 塑像。東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天。
『唐招提寺鑑真和尚像』 / 『興福寺八部衆像』の一つ『興福寺阿修羅像』などと同様、乾漆像。
仏教の興隆
聖武天皇は741年に恭仁京にて国分寺建立の詔を下し、金光明最勝王経を奉納させた国分寺(金光明四天王護国之寺)と法華経を奉納させた国分尼寺(法華滅罪之寺)を全国に建立させ、自身が帰依していた良弁(ろうべん)が開いた金鐘寺(こんしゅじ)を東大寺と改め総国分寺と定め、法華寺を総国分尼寺とした。また、東大寺の他、薬師寺・大安寺・元興寺・西大寺・興福寺・法隆寺を南都七大寺とし、王法と仏法が相依相即関係を保てば国家が安泰になるという鎮護国家仏教の思想の下、国が管理した。710年に平城京遷都が元明天皇により為された後も続く疫病流行や、藤原広嗣の乱などによる社会不安を打開するため、聖武天皇は金光明最勝王経・法華経・仁王経などの護国の経典を信奉し、やがて紫香楽宮に於いて大仏建立の詔を下した。国中公麻呂(くになかのきみまろ)らが突貫工事を指揮した結果、孝謙天皇践祚後の752年(天平勝宝四年)に『東大寺大仏殿盧舎那大仏』は完成し、佛哲が奏でる仏教音楽の中、婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼供養を挙行した。これは『続日本紀』に記されている。なお、当時は鎮護国家仏教という観念から勝手な出家が僧尼令(そうにりょう)で禁じられ、戒壇にて戒律を授けられていない私度僧は僧綱(そうごう)により取り締まられたが、法相宗の私度僧行基はやがて信望を集め、大仏造営の際には大僧正として活躍した。なお、東大寺戒壇院・下野薬師寺・筑紫観世音寺を天下三戒壇院と言う。大輪田泊(おおわだのとまり)を造成した行基に限らず、貧窮者救済施設の悲田院や病人救護施設の施薬院を設置した光明皇后や孤児を養育した和気広虫など、当時は仏教の福田思想(ふくでんしそう)に基づき社会福祉事業を盛んに展開する者が多かった。
教育
教育を司る式部省の下、律令国家の役人を教育するため中央には大学が設置され、地方には郡司の子弟を対象とした国学が設置され、明経道(儒学)・明法道(法律学)・文章道(紀伝道;中国史学)・算道・書道・音道といった六道(りくどう)が学ばれた。しかし大学は蔭位の制、国学は教員不足のため不振であり、盛んになったのは平安時代に入ってから政府が紀伝道を人材登用の際に重視するようになってからのことだった。なお、当時は仏教が学問と見做されており、三論宗・成実宗・華厳宗(道(どうせん)が伝来)・律宗・法相宗・倶舎宗の六宗兼学が重んじられた。また石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)は、芸亭(うんてい)と言う日本初の図書館を設立した。
絵画・工芸・史書・文学
『薬師寺吉祥天画像』 / 天平絵画に於ける、仏画の代表的作品。称徳天皇の発願で始まった吉祥悔過会の本尊画像。
『正倉院鳥毛立女屏風』 / 天平絵画に於ける、美人画の代表的作品。西域のアスターナに源流を持つ樹下美人像の一つ。
『過去現在絵因果経』 / 天平絵画に於ける、絵巻物の代表的作品。釈迦の本生譚の経文に絵を加えたもの。
『百万塔陀羅尼経』 / 恵美押勝の乱の戦没者の供養のため称徳天皇が発案。内蔵の陀羅尼経は世界最古の印刷物。
『螺鈿紫壇五絃琵琶』 / 正倉院宝物の一つ。インド産の紫壇で作成し螺鈿の装飾を施したもの。
『古事記』 / 天武天皇の命令で稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた『帝紀』『旧辞』を多臣品治の子の太安万呂が712年に編纂。
『風土記』 / 各国の事象を整理。713年に勅撰命令。出雲国が完全、常陸国・播磨国・豊後国・肥前国が不完全に残存。
『日本書紀』 / 舎人親王らが720年に編纂した日本史上初の官撰正史。〜持統天皇。漢文編年体を特徴とする六国史の端緒。
『続日本紀』 / 六国史の二番目として菅野真道・藤原継縄・秋篠安人らが797年に編纂。文武天皇〜桓武天皇。
『日本後紀』 / 六国史の三番目として藤原緒嗣らが840年に編纂。桓武天皇〜淳和天皇。
『続日本後紀』 / 六国史の四番目として藤原良房・藤原良相・伴善男らが869年に編纂。仁明天皇一代。
『日本文徳天皇実録』 / 六国史の五番目として藤原基経・菅原是善・都良香らが879年に編纂。文徳天皇一代。
『日本三代実録』 / 最後の六国史として、藤原時平・菅原道真・大蔵善行らが901年に編纂。清和天皇〜光孝天皇。
『唐大和上東征伝』 / 鑑真の伝記。漢文学者淡海三船(おうみのみふね)の著。
『懐風藻』 / 日本史上最古の漢詩集、751年成立。四六駢儷体・五言絶句・七言律詩など、中国の六朝歌風・初唐詩の影響が甚大。仏教・儒教・道教の要素も含まれている。詩人は大津皇子ら64名、120編。
『万葉集』 / 日本史上最古の和歌集、770年成立。大伴家持らが編纂。歌人は額田王・柿本人麻呂・山上憶良・山部赤人・大伴旅人・茅上娘子ら。他に、素朴な東歌や家族別離を歌った防人の歌なども収録。歌風は素朴な万葉調、文字は万葉仮名(真仮名)。一般の雑歌、恋愛を詠む相聞歌、死者を悼む挽歌に分かれる。
『貧窮問答歌』 / 山上憶良(やまのうえのおくら)が筑前守在任中、最下層民の貧窮を歌ったもの。
社会
貴族層では林邑楽(りんゆうがく)・唐楽・渤海楽・高麗楽(こまがく)・伎楽(ぎがく)などの楽舞(がくぶ)が流行し、庶民は田舞を楽しんだ。また笙(しょう)で演奏する雅楽も始まった。当時の衣服は、履物は男が袴(はかま)、女が裳(ほう)であり、着物は男女共に袍だった。当時の結婚形態は夫が妻の家に通う妻問婚(つまどいこん)である。貴族層ではこの頃から年中行事が行われるようになり、また碁・双六・弾碁(たぎ)・投壺(とうこ)・弾弓(だんぐう)などの遊びも生まれた。アッシリア起源の箜篌(くご)と言うハープ系楽器も使用された。これらは『散楽図』に描かれており、正倉院宝物にも実際に収納されている。 
 
 平安時代

 

1 平安京遷都
光仁天皇の治世
藤原百川により擁立された天智天皇系の光仁天皇は、権門勢家の荘園獲得の動きを止めることができなかった上、政教分離の確立を目指す必要があったため、弓削道鏡が施行した加墾禁止令を撤廃した。これにより全国各地に数多くの荘園が成立することとなった。光仁天皇の施政方針たる律令政治復興・政教分離・蝦夷誅伐・水害対策・造作(ぞうさ)(新都造成)は、次代の桓武天皇に継承されていった。なお奈良時代には遷都が度々行われたが、これは中国伝来の防衛的な複都主義や、天皇践祚毎に遷都する慣習、為政者の示威活動、人心一新、落雷・放火による皇居火災、などによるものである。
長岡京遷都
(784年 / 不運な偶然により失敗)
光仁天皇の後継者たる桓武天皇(柏原天皇)は、皇別氏族氷上川継と京家・藤原浜成が謀叛の嫌疑で伊豆国へ配流された782年の氷上川継の変を契機として遷都計画を実行に移した。造長岡京使に任命された式家・藤原種継は、桓武天皇と同様母が帰化人血統だったためか、帰化人が多い山背国乙訓郡(おとくにぐん)を新都と定め、早々に長岡京遷都を断行した。しかし藤原種継は翌年、皇太弟早良親王の世話役の春宮大夫(とうぐうだいぶ)大伴継人により暗殺された。事件は旧豪族の大量断罪に発展し、さらに波及して暗殺教唆の嫌疑で早良親王の淡路国配流が決定したが、早良親王が憤死して終焉した。やがて長岡京では、皇太后井上内親王の急逝、式部省南門倒壊、大洪水など原因不明の災難が相次いで発生した。桓武天皇は早良親王の祟りを恐れ、早良親王を崇道天皇(すどうてんのう)と追号した。
平安京遷都
(794年(延暦十三年) / 平安時代の始まり)
桓武天皇は和気清麻呂の進言を用い、藤原緒嗣の反対を押し切って、太秦の秦島麻呂の資金援助も利用して呪われた長岡京から山城国葛野郡(かどのぐん)の平安京への遷都を実行した。平安京は陰陽道の一種の風水で定められた「四神相応の地」と言う縁起の良い場所、即ち東・北・西を丘陵(北に船岡山)に囲まれ、東に賀茂川、西に山陽道があり、南は鳥羽地区で開けていて巨椋池(おぐらいけ)が存在する場所だった。また北東方向は「鬼門」として忌まれていたが、平安京は鬼門封じとして比叡山延暦寺を控えていた。なお平安京では当初寺を建立することは禁止されていたが、やはり風水の思想に基づいて東寺・西寺のみ建立された。また大内裏の大極殿の位置は、風水の見地では龍穴という最良の位置だった。平安京は労働者たる造宮役夫により造成され、飛騨匠(ひだのたくみ)などの大工により建物が建築され、次第に人が集まって諸司厨町(しょしくりやまち)が形成された。平安京の構造は平城京や藤原京と同様都城制であるが、右京は長安を参考としたため長安城、左京は洛陽を参考としたため洛陽城と呼ばれた。なお慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』には、桂川湿地帯であったため右京はすぐに衰退していった、との記述が見られる。
桓武朝の善政
桓武天皇は農民の負担緩和を念頭に政務を執った。まず長岡京時代には良賤間の婚姻を容認して子を良民とすることにより税収入の増加を図った。次に軍団の制を廃止して健児の制を施行し、郡司の子弟の有志を募って少数精鋭主義の軍隊を目指したが、陸奥国・出羽国・佐渡国・大宰府管内といった辺境では派兵までに時間が掛かるため、軍団の制が続けられた。また平安京遷都後には勘解由使(かげゆし)を設置し、国司の暴政を防ぐため前任国司が新任国司に渡す解由状を調査させる一方、雑徭日数半減、公出挙利率の緩和などを断行した。一方、桓武天皇は徳政相論(天下徳政論)を藤原緒嗣と菅野真道の間で闘わせ、藤原緒嗣の為政論を採用し、主要な政治課題のうち造作と蝦夷誅伐を中止した。これは『日本後紀』に記述されている。なお寺院対策としては、寺院勢力の根幹を成していた寺田の制限などが行われた。
薬子の変
(810年 / 北家・藤原冬嗣の台頭)
桓武天皇を継いだ平城天皇は六道観察使を設置したりしたが、病弱のため嵯峨天皇に譲位した。やがて全快した平城上皇は藤原種継の子の藤原仲成・藤原薬子らに唆され、平城京へ移った。嵯峨天皇は乱を予測し、天皇命令を迅速且つ隠密に伝達するための蔵人所を設置し、長官の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足(こせののたり)、構成員たる蔵人に清原夏野と朝野鹿取を任命した。やがて予想通り平城京還都と平城上皇重祚を求める薬子の変が勃発したが、蔵人所が良く機能した上に坂上田村麻呂の陣頭指揮も幸いして嵯峨天皇の勝利に終り、藤原薬子は服毒自殺し、藤原仲成は捕らえられ処刑された。この結果、式家は没落した。また藤原冬嗣は後に娘の藤原順子を正良親王(後の仁明天皇)に嫁がせて道康親王(後の文徳天皇)を産ませ、北家を興隆に導いた。
嵯峨天皇の善政
薬子の変に勝利した嵯峨天皇は北家・藤原冬嗣らを重用した。嵯峨天皇は令外官として検非違使を設置し、京の警備を行わせた。検非違使はやがて弾正台・五衛府・刑部省・京職などの職務を吸収し、京の警察裁判権を掌握した。また地方には国検非違使、神社には宮検非違使、寺院には寄検非違使が設置された。嵯峨朝以降、多くの令外官が設置されたが、公地公民の制の崩壊の阻止も為されない状況での令外官増加に伴う政治機構の簡略化は律令政治を次第に変質させ、後の摂関政治を生む母体となった。なお古代近畿の諸豪族の系譜を纏めた『新撰姓氏録』が、桓武天皇の皇子の万多親王により編纂されたのも嵯峨天皇の御世である。
三代格式
所謂「格」というものは律令の補足や改定のために詔勅や太政官符として出された法令のことであり、「式」は律令を施行する際に必要な細則のことである。格式は膨大な量が発令されていたため、嵯峨天皇は藤原冬嗣に命じて820年に『弘仁格式』を、また清和天皇は藤原氏宗に命じて869年に『貞観格式』を、醍醐天皇は藤原時平と藤原忠平に命じて927年(「格」は907年)に『延喜格式』を、それぞれ編纂させた。これら三代格式の「格」を纏めたものが10世紀に成立した『類聚三代格』である。 
2 弘仁貞観文化
密教
政教分離の確立により発生した貴族仏教・山岳仏教・宗派仏教と称される密教は顕教の対義語であり、仏の中心の大日如来が真実を伝えると考え加持祈による現世利益を期待するものである。密教は後に清和天皇から伝教大師の諡号を賜った最澄が創始した台密こと天台宗と、弘法大師たる空海が創始した東密こと真言宗に分けられる。最澄と空海は当初友好的だったが、最澄の弟子の泰範が空海のもとに出奔したことを機に決裂した。
還学生(げんがくしょう)として入唐した最澄は、道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)に密教を学んで帰国し、比叡山一乗止観院(後の延暦寺)を中心に法華経を基本法典とする天台宗を開いた。最澄の著作としては、南都六宗を小乗戒、天台宗を大乗戒と規定して自らの正統性を主張した『顕戒論』と『守護国界章』、それに『山家学生式(さんけがくしょうしき)』等が挙げられる。天台宗の主旨は「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」である。天台宗は後に教義解釈を巡って、838年に最後の遣唐使として入唐して『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』を著した慈覚大師こと円仁の延暦寺を中心とした山門派と、智証大師こと円珍の園城寺(三井寺(みいでら))を中心とした寺門派に分かれ、二人の死後に完全に分裂した。
留学生(るがくしょう)として入唐した空海は恵果に密教を学んで帰国し、高野山金剛峰寺(金剛峯寺)を中心として大日経と金剛頂経を基本法典とする真言宗を開いた。空海の著作としては、自身の思想の遍歴を綴った出家宣言書たる『三教指帰(さんごうしいき)』や、大日経に基づいて即身成仏について述べた『即身成仏集』などが挙げられる。真言宗の中心寺としては金剛峰寺の他に教王護国寺(東寺)があるが、これは薬子の変に際して空海が行った加持祈に対し嵯峨天皇が賜与したものである。空海は讃岐国の満濃池造成でも知られているが、女人高野室生寺の建立でも有名である。室生寺には、当時は檜皮葺(ひわだぶき)だったが現在は柿葺である金堂や、弘法大師一夜造りの塔と伝えられている五重塔がある。
山岳仏教とも言われた密教は、神道や陰陽道、それに日本古来の原始的な山岳信仰と融合し、修験道が発生した。修験道の開祖は大和国葛城山に在った役小角(えんのおづぬ)である。修験道の信奉者は修験者と呼ばれたが、野山に伏して苦行を行う彼らは山伏と称された。
彫刻・絵画・書道・文学・教育
『薬師如来像』 / 神護寺・元興寺・新薬師寺など各寺に有る。何だかわからんが、堂々としているらしい。
『室生寺弥勒堂釈迦如来像』 / ヒダヒダの間にさらにヒダを彫り込んで波を表現する、翻波式の代表的仏像。
『観心寺如意輪観音像』 / 神秘的で強烈な精神力を秘めた密教芸術彫刻の代表的仏像。華麗な彩色と豊満な肢体。
『教王護国寺講堂不動明王像』 / 不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五大明王像の中尊。一本の木を丸彫りする一木造。
『薬師寺僧形八幡神像』 / 奈良時代以来の神仏習合。神功皇后・仲津姫命の女神像と共に『薬師寺八幡三神坐像』と言う。
『教王護国寺両界曼荼羅』 / 煩悩打破の金剛界と衆生救済の胎蔵界の両界曼荼羅。『神護寺両界曼荼羅』も同様、仏の宇宙図。
『園城寺不動明王像』 / 『黄不動』とも言う。円珍が夢中で見た黄不動尊を絵師に描かせたもの。『高野山明王院不動明王像(赤不動)』『青蓮院不動明王像(青不動)』と共に、『日本三大不動』として総括される。
『西大寺十二天像』 / 日本最古の十二天像。十二天は、世界を護る十天に日・月の二天を加えたもの。
『風信帖』 / 三筆(嵯峨天皇・空海・橘逸勢)の一人、空海が最澄に出した大師流の書簡三通を纏めたもの。
『久隔帖』 / 唐様の名手である最澄が泰範に宛てた書簡。他の名手としては都良香・菅原道真・小野篁が有名。
『凌雲集』 / 日本初の勅撰漢詩文集。814年成立。小野岑守・菅原清公(菅原道真の祖父)らが編纂。
『文華秀麗集』 / 『凌雲集』に漏れた漢詩文を収録。818年成立。藤原冬嗣・菅原清公らが編纂。
『経国集』 / 『文華秀麗集』にさえ漏れた漢詩文を収録。827年成立。良岑安世らが編纂。
『都氏文集』 / 羅城門の鬼を歌でおとなしくさせたという都良香が私的に編纂した漢詩文集。
『性霊集』 / 空海の漢詩集。正式名『遍照発揮性霊集』。空海の弟子の真済の編纂。
『文鏡秘府論』 / 空海の詩論書。空海の著作としては他に『漢頂暦名』が著名。
『日本霊異記』 / 日本史上初の仏教説話集。正式名『日本国現報善悪霊異記』。
『倭名類聚抄』 / 百科漢和辞典。930年代、源順の編纂。現存最古の漢和辞典は昌住が編纂した『新撰字鏡』。
綜芸種智院 / 空海が828年、京都に設置。庶民に儒教のみならず仏教をも教育する機関。
大学別曹 / 貴族が、当時貴族社会で必須教養となっていた文学・史学・作文を子弟に教えるために設置。藤原冬嗣の勧学院、橘氏公・橘嘉智子の学館院、在原行平の奨学院、和気広世の弘文院などが有名。 
3 藤原北家の台頭と摂関政治
承和の変
(842年 / 藤原良房の台頭)
仁明天皇の皇太子は恒貞親王だったが、藤原冬嗣の子の藤原良房は自らの甥に当たる道康親王の擁立を企てたため、恒貞親王を推す春宮坊の代表者たる伴健岑や橘逸勢と対立した。やがて彼らは謀叛の嫌疑を受け、伴健岑は隠岐国、橘逸勢は伊豆国へ流された。後に道康親王は践祚して文徳天皇となり、藤原良房は857年に人臣として初めて太政大臣に就任した。この際、藤原良房の政敵である嵯峨源氏源信(みなもとのまこと)は左大臣に就任したが、藤原良房は弟の藤原良相を右大臣に就け対抗させた。文徳天皇が崩御し、幼年の惟仁親王が清和天皇として践祚すると、藤原良房はその外戚(外祖父)として、858年に人臣としては初めて実質的な摂政に就任した。なお伴氏は元来大伴氏だったが、淳和天皇の名が大伴親王であったため改名していた。また橘逸勢は、空海や最澄と同じ第16回遣唐使で入唐したという経歴を持っている。
応天門の変
(866年 / 藤原良房の政敵排除)
藤原良房に反発した大納言伴善男は、息子の伴中庸(とものなかつね)に命じて朝堂院の正門たる応天門への放火を実行、この放火が左大臣源信により為されたものであるとして処罰を要求したが、藤原良房が源信を弁護したため政界は緊迫した。だが大宅鷹取が事件の真相を告発したために伴善男は失脚し、伊豆国へ流された。また事件に連座した者のうち、主犯の伴中庸は隠岐国、紀豊城(きのとよき)は安房国、紀夏井は土佐国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国へ流された。この事件により伴氏・紀氏など主要な政敵を排除し、さらに恩を売って源信を傘下とした藤原良房はこの後も出世を続け、 871年には皇后・皇太后・太皇太后という三后に準ずる准三后(じゅさんごう)の宣下を受けた。
阿衡の紛議
(887年 / 藤原氏の示威事件)
藤原良房は、兄の藤原長良(ふじわらのながら)の子であり養子としていた藤原基経に実権を譲った。藤原基経は素行の悪かった陽成天皇を廃して光孝天皇を擁立し、老年を理由として884年、天皇が成人していても政務を代行して執ることができる事実上の関白に初めて就任した。光孝天皇の崩御後践祚した宇多天皇は藤原氏との外戚関係が無かった。藤原基経は宇多天皇の関白も務めることになったが、その関白任命の詔には「阿衡」に任ずるとあり、藤原基経がこれを職掌を伴わぬ空名だとして出仕を拒否したため政界は混乱した。結局文章を起草した橘広相(たちばなのひろみ)が罰せられ、宇多天皇が非を認めて事態は収拾した。
昌泰の変
(901年 / 藤原氏の政敵排除)
宇多天皇は藤原基経の死後は摂関を任命せず、かつての吉備真備に並ぶ学者政治家として有名な菅原道真を側近の蔵人頭に任じ、寛平の治と称される天皇親政を断行した。蔵人所の管轄下に滝口の武士を設けるなどの業績を残した宇多天皇は、皇子敦仁親王(醍醐天皇)に帝王学書『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』を授けて譲位し、後に日本初の法皇となった。やがて政界では藤原基経の子の藤原時平が抬頭し、菅原道真は娘婿斉世親王(ときよしんのう)擁立企図の疑いで大宰権帥に左遷され、没した。朝廷では讒訴した藤原時平の急逝を皮切りに不幸が続き、清涼殿への落雷により藤原清貫・平希世ら多数の公卿が死傷するという事件が発生した。朝廷は菅原道真の怨霊を鎮めるため北野神社(北野天満宮)を建て、冥福を祈った。菅原道真の編纂した漢詩文集としては『菅家文草』や『菅家後集』、私撰詩歌集としては『新撰和歌集』、歴史書としては『類聚国史』が知られている。
延喜・天暦の治
醍醐天皇と次々代の村上天皇は、後世「聖代」と仰がれる天皇親政を執行した。だがそれは、醍醐朝に於いて辛酉革命説に基づき延喜改元を進言した式部大輔三善清行が編纂した『三善清行意見封事十二箇条』の中に見られるように、公地公民制の崩壊や藤原氏への権力集中、それに朱雀天皇の御世の承平・天慶の乱など、多くの社会不安を背景としたものだった。醍醐天皇は三善清行の進言に基づき902年(延喜二年)に日本史上初の荘園整理令たる延喜の荘園整理令を施行し、増加傾向にあった勅旨田や親王賜田を廃止したが、藤原氏を対象外としていたため効果は微弱であり、結局同年が最後の班田給付となった。醍醐天皇は『日本三代実録』『延喜格式』『古今和歌集』などを編纂させ、律令政治復興を志した。一方、朱雀朝では藤原忠平が不堪佃田(ふかんでんでん)を実施して荒田開発を奨励したが、効果は稀薄だった。村上朝では最後の皇朝十二銭たる乾元大宝が鋳造されたがこれは経済の混乱を招いた。村上天皇の忠臣である菅原文時は『菅原文時封事三箇条』を提出したが、この頃には皇室の財政も逼迫し始めたため、清和源氏源経基、桓武平氏平高望、村上源氏源師房など、臣籍降下による賜姓皇族が発生した。なお後の坂東八平氏(千葉氏・上総氏・三浦氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏・秩父氏・土肥氏)や執権北条氏は、桓武平氏の支族である。
安和の変
(969年 / 藤原氏の最後の政敵排除)
多田源氏源満仲と藤原善時は、醍醐源氏源高明と橘繋延が冷泉天皇の皇太子守平親王の廃立と為平親王の擁立を画策している、と讒訴した。関白藤原実頼はこれを利用して政敵である源高明を大宰権帥に左遷し、円融天皇を擁立、自らは摂政に就任した。結局、藤原摂関体制はこの事件で確立され、以後摂関は暫時常設されることになった。延喜・天暦の治の前を前期摂関政治と言うのに対し、この事件後を特に後期摂関政治と言う。また源満仲はこの後、摂関家の腰巾着として中央政界への進出を果たした。
摂関政治
藤原氏の首領を氏長者と言い、氏長者が継承する所領を殿下渡領と言う。この氏長者の座と殿下渡領、それに摂関位を巡り、藤原兼通と藤原兼家、藤原道兼と藤原道隆、藤原伊周と藤原道長が抗争したが、藤原兼家は一条天皇を擁立するために花山天皇を出家させており、また藤原伊周の弟の藤原隆家も大宰権帥に左遷された。権力闘争は、最終的に一条天皇の皇太后藤原詮子の弟である藤原道長が天皇宛て文書を閲覧できる内覧に就き終焉した。なお藤原道長は『御堂関白記』を著しているが、関白には就いていない。藤原道長の後を継いだ藤原頼通は関白に就いている。藤原邸内には天皇の仮御所たる里内裏が造られ、摂関政治の実務は家司(けいし)と言う職員で構成される政所(三位以上の貴族が設置できる機関)で主に夜に行われた、と橘成季の『古今著聞集』には記されている。摂関政治で権威を持った文書は政所が下す政所下文と御教書である。摂関政治は徹底した政敵排除と寄進地系荘園からの莫大な収入、それに官位任免権の掌握による強い権力と、皇室との外戚政策と朝廷での高官独占による強い権威により支えられていた。娘に恵まれなかったため不遇だった藤原実頼の孫の小野宮実資は、『小右記』に「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば」という藤原道長の歌を載せたり、摂関家への過度の荘園集中を嘆いたり、藤原道長が1018年に成功した一家三立后(一条天皇に藤原彰子、三条天皇に藤原妍子、後一条天皇に藤原威子)を記したりして、摂関政治を批判している。 
4 国風文化(藤原文化)
浄土教の興隆
仏法の衰退する乱世が訪れる、という末法思想によると1052年が入末法の年であったため、人々の間では形骸化していた密教に代わる新たな宗教が求められていた。そんな折、南無阿弥陀仏と唱え阿弥陀念仏を行うことによって極楽往生ができる、とする浄土教が、民間浄土教の祖とされる空也(市聖)によって説かれ、信仰された。浄土教の総本山は六波羅蜜寺(西光寺)であり、また空也の像としては鎌倉時代の康勝が作成した『六波羅蜜寺空也上人像』が知られている。985年には源信(げんしん)(恵心僧都(えしんそうず))により浄土教を体系的に深めた『往生要集』が著され、また良忍が道俗の者に自他融通の念仏を唱えることを勧めたため、浄土教はさらに広まった。
神仏習合
浄土教の興隆に圧迫された真言宗は、密教の両界曼荼羅により神道の神々を説明する両部神道を提唱した。これによると、天照大神は大日如来、八幡神は阿弥陀如来であるらしい。これに対抗して天台宗も山王一実神道(日吉神道・山王神道)を提唱したため、神は仏の権現であるとする本地垂迹説が全体的に蔓延した。これを神仏習合と言い、鹿島神宮などには神宮寺が建立され、また神前読経などが行われた。神仏習合は明治時代の神仏分離令により廃仏毀釈運動が発生するまで続いた。
平安時代の神道
神社や皇室に食料を奉納する所領を御厨と言い、その住人を供御人と言う。封戸(官幣・国幣)を保有する神社を式内社と言い、『延喜式神名帳』には2861社が記載されているが、中でも伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮・賀茂神社など二十二社は朝廷が特に尊崇した。また各国では、一国に一社の一ノ宮が整えられ、国司は赴任の際何処よりも先に参拝する義務を課せられた他、国司の国内神祇巡礼簡略化のため有力神社の祭神を一箇所に集約した総社も設けられた。
平安時代の社会
平安時代の貴族は怨霊による祟りを恐れ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀った祇園社(現在の八坂神社)や菅原道真を祀った北野神社などを建て、怨霊を慰める御霊会(ごりょうえ)を頻繁に行った。また長谷寺参詣も盛んだった。一方、陰陽五行説に基づく陰陽道は安倍晴明ら陰陽師により招福除災が説かれたため流行し、吉凶で謹慎する物忌(ものいみ)や不吉な言葉を避ける言忌(こといみ)、それに方角に拘る方違(かたたがえ)などが行われたが、これらは欠勤の弁解にも用いられた。陰陽師は安倍氏と賀茂氏が世襲的に継承した。成人儀式たる元服(げんぷく)・裳着(もぎ)が創始された平安時代の服装は、都人の男は正装が衣冠(いかん)・束帯(そくたい)で平服が狩衣(かりぎぬ)・直衣(のうし)、女は正装が十二単(女房装束)で平服が小袿(こうちぎ)・袴だった。また武士は直垂(ひたたれ)、庶民は水干(すいかん)という実用服を着用していた。一方、861年からは大春日真野麻呂が開発した宣明暦が用いられた。宣明暦は太陽太陰暦(所謂旧暦)であり、この後約800年に亘って使用された。なお夫が妻の実家に通う平安時代の結婚形態たる婿入婚は、摂関政治の背景となった。
建築・彫刻・工芸・絵画・文学
法成寺無量寿院阿弥陀堂 / 藤原道長(=御堂関白)の阿弥陀堂。
宇治平等院鳳凰堂 / 藤原頼通(=宇治殿)の阿弥陀堂。
日野法界寺阿弥陀堂 / 日野資業の阿弥陀堂(阿弥陀仏を祀る)。
寝殿造 / 正殿や対屋が白木柱で建築された池泉庭園を持つ屋敷。人間は円座や畳などの敷物に座る。
左近の桜・右近の橘 / 左・右近衛府が管理した、内裏の木のこと。
『平等院鳳凰堂阿弥陀如来像』 / 寄木造。京都仏師の定朝の作品。
『広隆寺十二神将像』 / 定朝の弟子の長勢の作品。
蒔絵 / 漆で模様を描いて金銀の粉を蒔いた工芸品。
螺鈿 / 貝殻の真珠光部分を磨き器に嵌める工芸品。
世俗画 / 百済河成が有名。平安以前は唐絵が盛ん。
大和絵 / 巨勢金岡が有名。日本の花鳥風月が題材。
『高野山聖衆来迎図』 / 阿弥陀如来が臨終人を迎える来迎図の一。
仮名文字 / それまでの面倒な漢字(真名文字)に代わり登場。讃岐国司藤原有年の文章が有名。歌道発展へ。
『古今和歌集』 / 醍醐朝の905年、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の撰。古今調の勅撰和歌集たる八代集(『新古今和歌集』まで)の端緒。
『高野切』 / 『古今和歌集』の最古の写本。紀貫之の著。
六歌仙 / 大友黒主・喜撰法師・小野小町・僧正遍正・文屋康秀・在原業平(平城天皇の皇孫)。
『伊勢物語』 / 在原業平の恋愛談中心。初の歌物語。
『竹取物語』 / かぐや姫の話。貴族社会の内面を示す。
『宇津保物語』 / 貴宮(あてみや)を巡る結婚談。
『源氏物語』 / 中宮彰子に仕えた紫式部の著。藤原時代の貴族社会を示す。
『枕草子』 / 中宮定子に仕えた清少納言の著。鋭い感覚・機知に富む随筆。
『蜻蛉日記』 / 藤原道綱母の著、夫・藤原兼家との生活を記す。
『更級日記』 / 菅原孝標女の著、一生の回想録。
『土佐日記(土左日記)』 / 日本史上初の仮名書き日記。紀貫之の著。
『日本往生極楽伝』 / 慶滋保胤が著した往生伝。
『続本朝往生伝』 / 大江匡房が著した往生伝。
『拾遺往生集』 / 三善為康が著した往生伝。
『朝野群載』 / 三善為康の著。漢詩文・宣旨・官符の分類。
『和漢朗詠集』 / 藤原公任の著。日本史上初の和歌漢詩文集。
『法華験記』 / 天台坊主の鎮源が著した仏教説話集。
『西宮記』 / 左遷後の源高明が著した有職故実書。
『秋萩帖』『屏風土代』 / 三蹟の一人、小野道風の作品。
『離洛帖』『詩懐紙』 / 三蹟の一人、藤原佐理の作品。
『白氏詩巻』『蓬莱切』 / 三蹟の一人、藤原行成(世尊寺流)の作品。 
5 平安時代の外交
靺鞨(まっかつ)出身の大祚栄により満州に建国された渤海(震国)は727年以来日本と友好を保ち、遣唐使廃止以後は唯一無二の交易国として日本に薬用人参や獣皮などを輸出していた。渤海使は京に設置された鴻臚館(こうろかん)や能登国・若狭国の客館(客院)に迎えられた。渤海はやがて耶律阿保機(やりつあぼき)に滅ぼされたが、彼が建国した契丹(遼;藤原伊房が密貿易で処罰)も女真族に滅ぼされ、金が興った。女真族は1019年に北九州へ襲来(刀伊の入寇)したが、これは大宰権帥に左遷されていた藤原隆家により撃退された。一方、870年に大宰少弐藤原元利万侶に反乱を教唆(佐伯真継の報告で回避)したりしていた新羅はやがて912年に王建により滅ぼされ、新たに高麗が興った。 
6 律令体制の崩壊
寄進地系荘園の成立
国司の命令で国衙領の名田を請作する農民を田堵(たと)と言い、田堵の中で名田の私的占有権を認められた者を名主と言う。彼らは租庸調に相当する官物の納入や臨時雑役などが義務だったが、やがて藤原明衡が著した『新猿楽記』に記されている田中豊益(たなかのとよます)のように、作人や浮浪人に開墾させ本格的且つ大規模な在地領主となる大名田堵も出現した。大名田堵は富豪之輩などと共に開発領主(かいほつりょうしゅ)(根本領主)として力を蓄え、検田使などの国家権力介入を拒む不入の権や租税免税権たる不輸の権を有する権門勢家に墾田の名義を寄進、自らは管理者たる荘官(荘司・下司(げす)・預所・公文・田所・案主(あんず)など)となって利益を得た。また開発領主から寄進された者を領家(りょうけ)と言うが、彼らもさらに強大な権力を誇る本家(ほんけ)に寄進した。なお実質的な荘園の支配権を持っている者を本所(ほんじょ)と言う。肥後国鹿子木荘(かのこぎのしょう)などに代表されるこうした寄進地系荘園は、9世紀以前の墾田地系荘園に代わり10世紀頃から多くなった。また国家が封戸の代わりに寺社に与えた雑役免系荘園などもあった。荘園からは年貢・公事・夫役などが徴収された。
荘園制度下の土地
国家から荘園の不輸の権を公認される手続きを立券荘号と言う。立券荘号による荘園には、中央官庁により許可された官省符荘と、国により許可された国免荘があった。当時から荘園の土地領有とその境界を巡って紛争が発生したが、そうした場合には紀伊国桛田荘(かせだのしょう)(神護寺領)のように、荘園の東西南北を区切るための目印を設置する、四至牓示(ししぼうじ)を行った。なお当時は、皇室や諸官衙の財源確保のために勅旨田・公営田・官田・諸司田などの開発田が設けられたが、公営田は823年に小野岑守の上表により大宰府管内に設置されたものが端緒である。荘園制度の下では、田以外の土地からは地子と言う税が徴収された。また公的な土地の管理や徴税は郷司(ごうし)や保司が行った。
地方政治の腐敗と堕落
当時、地方では知行国制が導入されたが、地方の官職は売位売官の風潮で利権視され、朝廷儀式や寺院建立に私財を投資する見返りとして国司などの官職に就く成功(じょうごう)や、同様に国司に再任できるようにする重任(ちょうにん)などが横行した。蓄財目的の国司の中には任国に赴かない遙任(ようにん)を行う遙任国司もおり、こうした場合には国司の一族たる目代(もくだい)が国衙に派遣され、実際の政務は土着の在庁官人が留守所で執行した。村上朝の藤原師輔は950年に期限を過ぎても任国に赴かぬ者を罰する法令を施行してこの解消を図ったが、効果は稀薄であった。一方、中下流貴族は国司に任命されると事実上の徴税請負人として『因幡堂縁起絵巻』に見られるように任国へ赴任する場合が多く受領(ずりょう)と呼ばれた。大半の受領は国司の半私有的な土地と化していた国衙領からの収益を目的としており、『今昔物語集』の中に「受領ハ倒ルゝ所ニ土ヲツカメ」という発言が記載されている信濃守藤原陳忠(ふじわらののぶただ)や、苛政のため31条の「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくせいらげぶみ)」を988年に出されリコールされた尾張守藤原元命(ふじわらのもとなが)など、貪欲な輩が多かった。なお尾張国では1008年に国司の藤原中清が愁訴を受けている。受領たちは重任により次第に土着化していった。またこの時代は、表の繁栄とは裏腹に実際は殺伐としていたらしく、985年には藤原斉明・藤原保輔兄弟が大江匡衡と藤原季孝に対して刃傷事件を起こしている。 
7 院政の始まり
藤原摂関体制の終焉
藤原頼通の娘で後冷泉天皇の中宮となっていた藤原寛子が皇子を出産しなかったため、後朱雀天皇と禎子内親王の間の皇子であり藤原氏との外戚関係を持たない尊仁親王(たかひとしんのう)が践祚し、後三条天皇となった。後三条天皇は有職故実書『江家次第』などの著作で知られる大江匡房(おおえのまさふさ)や高階為章(たかしなためあき)などの学者を登用して天皇親政を執行した。藤原摂関家の繁栄の陰で寒門之家と称された受領は、寄進地系荘園の増加による国衙領減少に反発したため、藤原摂関体制崩壊を期待して後三条天皇の親政を支持した。その期待を受けて後三条天皇は1069年、藤原頼通の猛反発を一蹴して延久の荘園整理令を断行して太政官に記録荘園券契所(記録所)を設置し、その構成員たる源経長ら寄人(よりゅうど)に命じて国務妨害の荘園や券契(公験(くげん);合法荘園証明書)が不明な荘園と、1045年以降造営の荘園を取締った。実施が国司に委任されたりしていて不完全だった従来の延喜・長久・寛徳・天喜の各荘園整理令とは一線を画すこの延久の荘園整理令により、藤原頼通の子の藤原師実などの大貴族や、石清水八幡宮(34カ所→21カ所)などの寺社の荘園が没収された。また後三条天皇は量衡の制による延久の宣旨枡の採用などを行った。なお、大江匡房は藤原伊房・藤原為房と共に「前の三房」と称されるが、これに対する「後の三房」は、北畠親房・吉田定房・万里小路宣房である。
院政の開始
(1086年 / 皇室の権力強化のため)
後三条天皇の次代・白河天皇は藤原茂子の腹だったため、後三条上皇は輔仁親王を皇太子と定めていたが、白河天皇は実権を握り続けるため皇子善仁親王(たるひとしんのう)を堀河天皇として践祚させ、その幼少を理由に実務を執行した。こうして始まった院政では、主に受領出身者が多い院司(いんし)により構成される院庁から下される公文書の院庁下文や牒(ちょう)、それに上皇命令であり私文書の院宣が絶対であり、院近臣は上皇の乳母(めのと)の一族や受領出身者により固められていた。しかし院政では、知行国制に基づき国衙領を国司に支給したため、土地持ち有力貴族の連合政権という観点からすれば摂関政治と大差は無い。院の財源は院分国と寄進地系荘園であるが、白河・鳥羽・後白河各院の院政期に寄進された三代起請の地は、中世の皇室の財政的基盤となったことで知られている。なお堀河天皇は、藤原師実(京極の大殿)・藤原師通(後二条殿)・藤原忠通らを用いて、白河法皇の院政下に於いて後に「末代の賢王」と称されるような善政執行に尽力した。院政は、19世紀の光格上皇まで合計27人の上皇または法皇が行った。
天下三大不如意
雑役を行う大衆(だいしゅ)・堂衆で構成される僧兵やその傘下の諸神社の神人(じにん)は皇室御一家の社寺参詣熱に乗じ強訴を行った。『源平盛衰記』には、白河法皇が天下三大不如意として「賀茂川の水、双六のさい、山法師」、即ち賀茂川洪水による疫病蔓延・博打流行・強訴を挙げて嘆いたことが記されている。白河法皇は院北面(北面の武士)を設置して対処したものの、興福寺の奈良法師は藤原氏が抵抗できぬ春日大社の神木(しんぼく)を奉じ(神木動座)、また延暦寺の僧兵は皇室すら抵抗できぬ日吉神社(ひえじんじゃ)の神輿(しんよ)を奉じて(神輿動座)都に乱入し、無理難題を吹っ掛けた。なお院政期には、京都東山の岡崎付近に皇室の御願寺として名に「勝」の字が付いている六勝寺が建立されたが、その内訳は、白河法皇による法勝寺、堀河天皇による尊勝寺、鳥羽上皇による最勝寺、待賢門院による円勝寺、崇徳天皇による成勝寺、近衛天皇による延勝寺である。 
8 院政期文化
概要・建築
院政期文化は国風文化と同様に浄土教が基礎であり、阿弥陀堂が多く建立されたが、文化の舞台は地方が中心であった。中でも藤原清衡が阿弥陀堂兼葬堂の中尊寺金色堂、藤原基衡が毛越寺(もうつじ)、藤原秀衡が無量光院をそれぞれ建立した奥州平泉は、金売り吉次らが陸奥国の金を売却して得た財産で潤い、京都に劣らぬ独自文化を形成していた。他の地方文化の例としては、現在のいわき市に藤原秀衡の妹の徳姫が亡夫岩城則道(いわきのりみち)の冥福を祈願して建立した白水阿弥陀堂や、伯耆国三仏寺投入堂、豊後国富貴寺大堂などが知られている。なお庶民の間では、田植えの時の豊作祈願から発展した神事芸能たる田楽や、軽業曲芸に歌舞音曲が加味された散楽(猿楽)、神々の招魂と鎮魂を目的とした神楽などが流行した。
院政期文化の作品
『源氏物語絵巻』 / 四大絵巻物の一。大和絵の先駆けであり、吹抜屋台・引目鉤鼻の手法が用いられている。藤原隆能の作品。
『信貴山縁起絵巻』 / 四大絵巻物の一。大和国生駒山の朝護孫子寺にあり、その本尊たる毘沙門天の縁起を扱っている。
『伴大納言絵詞』 / 四大絵巻物の一。応天門の変の際の大納言・伴善男が題材。絵は常盤光長、詞書は藤原教長によるものらしい。
『鳥獣戯画』 / 四大絵巻物の一。鳥羽僧正覚猷の作。なお絵巻物は詞書と絵が交互に描かれて展開していく巻物。
『年中行事絵巻』 / 宮廷行事や庶民生活の史料。原本は無いが、江戸時代の住吉如慶の模写本がある。
『平家納経』 / 平清盛が厳島神社に奉納した装飾経。なお装飾経は写経の一種であり、華麗な装飾と見返り絵で知られている。
『扇面古写経』 / 『扇面法華経冊子』とも言う。現在、四天王寺と国立博物館に分蔵。
『一字蓮台法華経』 / 装飾経の一種。
『栄華物語』 / 『栄花物語』とも書く。赤染衛門の作と言われる歴史物語。藤原道長を礼賛。
『大鏡』 / 『世継物語』とも言う。作者不明。藤原道長に対し批判的。『今鏡』『水鏡』『増鏡』と共に四鏡と称される。
『将門記』 / 平将門の乱を扱った、日本初の軍記物語。前九年の役を扱った『陸奥話記』も軍記物語として知られている。
『扶桑略記』 / 天台坊主の皇円が著した歴史書。司馬達等の仏教私伝を記載。
『今昔物語集』 / 源隆国の著。民間説話と仏教説話を和漢混淆文で編纂した説話文学作品。
『梁塵秘抄』 / 後白河法皇の編纂。今様や催馬楽(=恋愛歌)などの歌謡を集めたもの。 
9 武士の台頭
武士の発生
荘官は不入の権に基づく専守防衛のため武装した。また地方政治の混乱は在庁官人らの地方豪族の武装化を促進し、健児の制の形骸化はこれらの動きに拍車を掛けた。そして足柄や碓氷などの峠には、荒々しい武装的な運送集団である僦馬(しゅうば)の党がいた。こうして発生した武士は、やがて桓武平氏や清和源氏といった武士の棟梁の下に結集し、大武士団を形成した。武士団は棟梁たる惣領の下、その一族である家子や、田堵や名主から発展した郎党、下級農民だった下人・所従によって構成されていた。武士は当時かなりの力を持っていたらしいが、中でも敦賀国の豪族の藤原利仁が、貧乏貴族に莫大な量の芋粥を与えた話は、芥川龍之介の小説の題材としても有名である。
承平・天慶の乱
(935年〜941年 / 朱雀天皇の御世の国家反逆の大乱)
1 平将門の乱
時の摂政である藤原忠平に仕えていた経歴を持つ平将門は、父の平良将の死によって発生した小貝川流域の土地を巡る一族の内紛に於いて、叔父の平国香を殺した。やがて彼は下総国猿島郡(さしまぐん)石井(いわい)(現;茨城県)に内裏を造営し、新皇を称して関八州を統治する独立国家を建設を企図した。中央政権は征東大将軍として藤原忠文を派遣したが、彼が到着する以前に押領使の俵藤太こと藤原秀郷と平国香の子の平貞盛により乱は鎮圧された。なお藤原秀郷は940年、下野国に唐沢山城を築城している。
2 藤原純友の乱
伊予国と豊後国の間の豊後水道にある日振島を根拠地とする元伊予掾の藤原純友は、939年以降海賊を率いて瀬戸内海を荒らし、藤原国風や坂上敏基らを駆逐して四国を制圧し、やがて大宰府を攻略するに至った。朝廷は征西大将軍として藤原忠文を再び派遣したが、やはり追捕使の小野好古(おののよしふる)と源経基が彼の到着を待たずにこの乱を鎮圧し、藤原純友は橘遠保がこれを誅した。藤原忠文は自分を陥れて恩賞を阻止した藤原実頼を恨み呪いつつ、この後に世を去った。その後、藤原実頼の家系には不幸が相次いだため、人々は藤原忠文を「悪霊民部卿」と呼んで恐れたという。結局、承平・天慶の乱は律令体制の崩壊と地方武士の実力を朝廷が認識する契機となった。
平忠常の乱
(1028年 / 源平の勢力の東西逆転)
平維良が1003年に下総国で反乱するなど平氏一族は不穏な動きを見せていた。やがて1028年には藤原道長の死に触発された平忠常が反乱を起こし、房総半島を制圧した。この平忠常の乱は、安和の変にて藤原実頼と結んで勢力を延ばした源満仲の子にして所謂「源氏三代」の初代の、甲斐守源頼信とその子の源頼義により鎮圧された。乱の後、源平勢力の東西逆転が起こり、平維衡は伊勢国へ遁走し、東国では源氏勢力が優勢となった。
奥州情勢
1 前九年の役
(1051年 / 安倍氏滅亡)
陸奥国の俘囚(ふしゅう)(朝廷に服属した元蝦夷)の長である安倍頼良は、陸奥守藤原登任(ふじわらのなりとう)が税を倍増させたことに抗議し、子の安倍貞任(あべのさだとう)や安倍宗任、それに娘婿たる藤原経清(亘理経清(わたりつねきよ))らと共に反乱を起こした。鬼切部の戦いなどでの朝廷軍の敗北の責任をとり藤原登任は陸奥守を辞任したが、後任には源氏の棟梁にして鎮守府将軍でもある源頼義が赴任した。源頼義は、嫡男の源義家(八幡太郎;石清水八幡宮で元服)と共にこの鎮圧に乗り出したが安倍貞任の采配の前に大敗を喫した。特赦によって戦いは中断され、安倍頼良は源頼義に恭順し、読みが同じである自分の名を改めて安倍頼時としたが、奥州の覇権を望む源頼義は謀略を用いて戦を再発させ、出羽国の俘囚の長である清原武則の力を借りて1062年に厨川館を陥落させ、役の途中で没した安倍頼時の後を継いだ安倍貞任と藤原経清を処刑し、乱を終結させた。前九年の役の模様は軍記物『陸奥話記』や絵巻物『前九年合戦絵巻』に収録されている。
2 後三年の役
(1083年 / 源氏の影響強まる)
安倍氏の滅亡以後、奥州では清原氏の勢力が不動のものとなった。しかし清原武則の子の清原武貞死後、家督を巡り清原真衡・清原清衡・清原家衡の三者が鼎立した。このうち清原清衡は藤原経清の子であるが、赴任して来た陸奥守源義家はこれを支持し、策略をもって清原真衡を暗殺し、さらに金沢柵の清原武衡らの支持を受けていた清原家衡を攻撃して1087年に滅ぼした。清原清衡は役の後改姓して奥州藤原氏の初代・藤原清衡となった。また源義家はこの事件の後、東北に対する強い影響力を確保することができた。なおこの戦いで活躍した源義光は源義家の弟であるが、彼は後の甲斐源氏武田氏の祖である。
3 奥州藤原氏の繁栄と滅亡
藤原清衡によって築かれた奥州藤原氏の繁栄は、子の藤原基衡、孫の藤原秀衡に受け継がれていった。しかし藤原秀衡の子の藤原泰衡の時代、若き日を平泉で過ごした源義経が、兄の源頼朝の追討の手から逃れて来た。藤原泰衡は源頼朝の要請を受け、源義経を衣川館に攻め自害させた(生き延びたとする説もある)。しかし源頼朝は源義経を匿った罪を理由に奥州征伐を断行し、1189年にこれを滅ぼした。
源氏の台頭
源頼義は前九年の役の功によって伊予守に叙任されたが、東北の後始末が必要だったため任地には赴けず、年貢を要求する中央政府に対して私財から年貢を払った。また関東の武士に対して中央政府は恩賞を与えなかったが、源頼義はこれも私財から払った。こうして源氏は武士たちの信頼を集めるようになり、次代の源義家は剛憶の座を設けるなどして士気の向上に努め、藤原宗忠の『中右記』の中で「天下第一武勇之士」と称えられるまでになった。源義家の過度の隆盛に警戒した白河法皇は源義家への荘園の寄進を禁止するなどして圧力を掛けたが、結局は時流に逆らえず、源義家に武家として初めての院への昇殿を許している。
伊勢平氏の勃興
源義家の子の源義親は出雲国で反乱を起こした。これを1108年に討伐したのは平正盛である。藤原摂関家の息の掛かった源氏の台頭を快く思っていなかった白河法皇はこの活躍を賞賛し、以後院は平氏を重用するようになった。なお平正盛は伊賀国黒田荘の領有を巡って東大寺と抗争したり、別の伊賀国内の私領を六条院領に寄進したりしている。平正盛の子の平忠盛は瀬戸内海の海賊を制圧してこれを配下に加え、さらに日宋貿易の利益を盛んに献上したため、白河法皇・鳥羽上皇の両君から厚い信任を得た。白河法皇は祇園女御との間の私生児を平忠盛の長男として彼に託したようであるが、この長男が後の平清盛であるらしい。この説は定説ではないが、かなり有力であるらしい。平忠盛は1131年、得長寿院を造進した功により鳥羽上皇から昇殿を許された。
保元の乱
(1156年 / 貴族抗争に武士が使われる)
鳥羽上皇は皇子の崇徳天皇を白河法皇の落胤と思い、「叔父天皇」と称する程険悪な仲だった。そして近衛天皇の崩御後に崇徳上皇を重祚させず後白河天皇を践祚させたため、訣別状態に陥った。摂関家では藤原忠実とその次男で「日本第一大学生(にほんだいいちだいがくしょう)」と称された左大臣藤原頼長が藤原忠実の長男の関白藤原忠通と氏長者と殿下渡領を巡って対立し、近衛天皇の立后問題や呪詛問題でさらに険悪になった。1156年に鳥羽上皇が崩御すると、後白河天皇・藤原忠通・平清盛・源義朝ら朝廷正規軍に対し崇徳上皇・藤原頼長・平忠正・源為義・源為朝(鎮西八郎) らが反乱して、保元の乱が勃発した。なお源為義と源為朝は藤原忠通に対する怨恨、平忠正は甥の平清盛に対する嫉妬から、反乱に荷担した。結果的に乱は後白河天皇側の勝利に終わり、源為義と平忠正は薬子の変以来久々の死刑に処せられ、奮戦した源為朝は罪が減刑され伊豆大島への、また崇徳上皇は讃岐国への流罪に処せられ、藤原頼長は大和国へ逃亡中に惨殺された。武士が初めてその武力をもって中央政権を左右したこの乱の模様は、藤原忠通の日記の『法性寺関白記』などに描かれている。なお藤原頼長の日記は『台記』である。
平治の乱
(1159年 / 武士抗争に貴族が使われる)
後白河上皇が与えた保元の乱の恩賞は、実際の活躍とは逆に源義朝よりも平清盛の方が多かった。平清盛の側では鳥羽上皇の命令で六国史に継ぐ筈の歴史書『本朝世紀』を著した南家・藤原通憲(信西(しんぜい))が抬頭していたが、彼を敵視する藤原信頼は源義朝と語らって父の後白河上皇が再開した院政に批判的だった二条天皇を担ぎ、対立した。平清盛の熊野詣の際に挙兵した源義朝は三条殿を襲撃して後白河上皇を追放、また大和国への逃亡を図った信西を惨殺した。平清盛軍は即座に京へ戻り、源義朝軍と交戦した。この際、源義朝の長男源義平と平清盛の長男平重盛は「右近の橘、左近の桜」の下で激闘を演じた。やがて藤原信頼は殺され、源義朝は東国へ逃れる途中に尾張国野間の旧臣長田忠宗により謀殺された。平清盛は源氏の根絶を図ったが、池ノ禅尼の忠告もあり、源義朝の子の源頼朝は伊豆国蛭ヶ小島に、また源義経(牛若丸)は山城国鞍馬寺に追放してこれを許した。なお平治の乱を描いた『平治物語絵巻』は現在、東京国立博物館・ボストン美術館・静嘉堂文庫に分蔵されている。 
10 平氏政権の成立
貴族的特徴
1167年、平清盛は従一位太政大臣に就任した。平清盛が太政大臣の位に就くことができたのは、太政大臣が則闕官であり摂政や関白を兼任しない限り実際の職権は稀薄だったためである。平氏政権は後白河法皇所縁の蓮華王院(三十三間戸)や六波羅蜜寺や新熊野神社(いまくまのじんじゃ)などがある京都の六波羅に設置されたため、その別名を六波羅政権とも言う。平時信の娘の平時子を妻としていた平清盛は、妻の妹の平滋子を後白河上皇の中宮として入内させ、その皇子の高倉天皇には自らの娘である平徳子(建礼門院)を嫁がせ、次の安徳天皇の御世には外戚となった。また平清盛は長男の平重盛を従二位内大臣に叙位させるなどして一族による朝廷の高官の寡占を行った。この他全国500カ所に上る荘園や知行国への依存など貴族的性格の強かった上に、平時子の弟の平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という傲慢な発言も影響して、平氏政権はやがて反平氏勢力の結集を招くこととなった。
非貴族的特徴
まず、平清盛は父の平忠盛から始められていた日宋貿易をより活性化するべく、安芸国広島湾東口の音戸(おんど)の瀬戸を開き、貿易の管理を司る大宰府に一族を派遣し、さらに行基により築かれた摂津国福原の外港の大輪田泊の規模を大きくして貿易拠点とした。当時は建築事業を行う時は人柱として生きた人間を土中に埋める風習があったが平清盛はそれを許さず、人の代わりに経典を埋めさせた。こうしてできたものが兵庫経島である。一方、地頭(じとう)(荘官の名称の一種)を家人(けにん)(従者)として組織したが、これは脆弱ではあるものの後の鎌倉幕府に継承される武家政権の先駆けと言っても過言では無いものである。なお日宋貿易では、日本からは蒔絵や螺鈿の他、砂金や硫黄、扇、日本刀、屏風などが輸出され、宋からは宋銭の他、唐錦や唐綾と言う高級織物、百科全書『太平御覧』などの漢籍、陶磁器、薬品、香料などが輸入されていた。
平氏政権崩壊の序曲
院近臣である藤原成親は平治の乱に於いて藤原信頼に味方しており、敗北後舅にあたる平重盛によって助けられたという経歴を持っている。しかし彼は、源雅俊の孫であり法勝寺の執行(しゅぎょう)である俊寛僧都や、藤原師光(西光法師)・平康頼・藤原成経らと共に1171年以降、俊寛僧都(一説には後白河法皇)の鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘にて平氏政権打倒の密談を交わした。この鹿ヶ谷の陰謀という事件は1177年に密談の一員である多田行綱の密告により平清盛の知るところとなり、西光法師は半ば見せしめとして処刑され、他は逮捕された。藤原成親は備前国に流され、吉備中山にて衰弱しているにも拘らず酒を飲まされて急性アルコール中毒で死亡した。俊寛僧都・藤原成経・平康頼は薩摩国にある鬼界ヶ島へ流された。だが平清盛はそれまで過激な方針を諫めていた長男の平重盛が1179年に没すると一層焦燥感に駆られ、ついに松殿基房を筆頭とする43人の官職を解任して平氏側の立場である近衛基通を関白に就任させ、さらには強圧的手段によって後白河法皇らを鳥羽殿に幽閉した。この事件を治承三年の政変と言う。結果的に平清盛は全国の半ば近い知行国を確保したものの、寺社や諸国の源氏などの反平氏勢力のさらなる結集を招いたため、平氏政権崩壊の端緒となった。
中世以降の公家の家柄
混沌とした世の中にあってもなお摂関位を維持しようとした藤原忠通は、藤原摂関家を分割してそれぞれ違った権力者に接近させた。即ち、長男の藤原基実に近衛家、次男の藤原基房に松殿家、三男の藤原兼実に九条家を創始させ、それぞれ平清盛・後白河法皇・源頼朝に接近させたのである。なお近衛家・九条家と、近衛家から派生した鷹司家、それに九条家から派生した一条家・二条家を総称して五摂家と言うが、五摂家の下には三条家・今出川家(菊亭家)・西園寺家・久我家(こがけ)・徳大寺家・大炊御門家・花山院家・醍醐家・広幡家という九清華からなる清華家があり、さらにその下には三条西家・正親町三条家・中院家といった大臣家があった。日野家・吉田家・四条家・山科家・葉室家・難波家・岩倉家などは、中流貴族の家柄である。
史論書(歴史哲学書)
近衛基実・松殿基房・九条兼実らの弟であり比叡山に勧学講を開いたことで知られる天台座主(てんだいざす)の慈円(慈鎮)は承久の乱直前の倒幕の理想に燃える血気盛んな後鳥羽上皇を諫止するため、道理の精神と末法思想に則って日本史上初の史論書である『愚管抄』を著した。この後、北畠親房が百王説に基づき歴史の不変性と皇室の神聖を証明した『神皇正統記』や、新井白石が九変五変説に基づき公家政権から武家政権への変遷と徳川幕府の正当性を強引に主張した『読史余論(とくしよろん)』、陸奥宗光の父の伊達千広が著した『大勢三転考』など、様々な史論書が著された。 
11 源平の争乱
以仁王の変
(1180年 / 打倒平氏の起爆作用)
後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)は、源三位入道源頼政に唆され、最勝王と称して挙兵、打倒平氏を訴える以仁王の令旨(りょうじ)(天皇以外の近親の命令)を源為義の末子の源行家に託して諸国に触れさせた。やがて源頼政と以仁王は平清盛の攻撃を受け園城寺に逃亡、大和国に逃れて挽回を試みたが、宇治平等院にて敗死した。しかしこの以仁王の変は、源氏を初めとする反平氏勢力が平氏に対して武力蜂起する契機となった。なお以仁王を匿った園城寺は、報復として平重衡と平忠度(たいらのただのり)によって堂舎を焼かれた。
治承・寿永の乱、勃発
(1180年(治承四年) / 源平合戦)
平清盛は勢いを増した山門の勢力から避けるため、安徳天皇を奉じて摂津国福原京へ遷都したが、貴族らの不満が噴出したためすぐに還都した。この間、諸国では源氏の挙兵が相次いでいた。源頼朝は伊豆国で挙兵して山木兼隆(和泉兼隆)を討ったが、やがて大庭景親(おおばかげちか)が率いる平氏軍との石橋山の戦いに於いて惨敗した。この際源頼朝は殺されかけたが、敵将である梶原景時に助けられた。真鶴から房総半島へ逃れた源頼朝は、房総にて千葉常胤・上総広常ら有力な豪族を結集し、やがて鶴岡八幡宮のある鎌倉へ入り、征伐のため襲来した平維盛と平忠度を富士川の戦いにて打ち負かした。またこの頃、源義仲率いる木曾源氏を初め甲斐源氏武田氏や上州源氏新田氏などの地方の源氏も挙兵した。中央では山門の抵抗に業を煮やした平清盛の子の平重衡が興福寺や東大寺を焼き討ちし、堕地獄に怯えていた。この南都焼き討ちの報いか1181年は全国的な大飢饉であり、これにより争乱は膠着状態に陥った。また1181年には平清盛が熱病で死去し、高倉上皇も崩御した。
平氏政権の崩壊
(1183年 / 源義仲入京)
信濃国の横田河原の戦いにて城長茂(じょうのながもち)の大軍に快勝した源義仲は、不仲であった源頼朝の下に子の源義重を派遣して敵対の意思の無いことを表明した。そして倶利加羅峠に於ける礪波山の戦いで平教盛を破り、京に乱入した。平氏政権の長たる平宗盛は安徳天皇と神璽・宝剣を奉じて西海に逃亡し、平維盛などの他の平氏一門もその翌日には都落ちした。鞍馬寺、続いて比叡山に移っていた後白河法皇の還幸を護衛した源義仲は後白河法皇から征夷大将軍(朝日将軍)に任命されたが、軍が暴力行為を行ったため、後白河法皇は寿永の宣旨(寿永二年十月宣旨)を源頼朝に授け、代わりに源義仲を討つよう命令した。寿永の宣旨は院の荘園と公領の年貢を保障する代償として源頼朝に東海道・東山道諸国の荘園と国衙領の沙汰権を認めたものであり、後の鎌倉幕府の基礎となるものである。なお源義仲には北陸道の沙汰権が与えられている。
宇治川の戦い
(1184年 / 源義仲の敗北)
備中国の水島の戦いに於いて平氏軍に敗北して焦燥感に駆られた源義仲は、都に戻ると直ちに政変を起こして法住寺を襲撃して後白河法皇を幽閉、院近臣を強引に解任した。しかし源義仲は源義経や源範頼らの軍との宇治川の戦い(宇治・瀬田の合戦)に於いて敗れ、近江国の粟津にて討たれた。なお宇治川の戦いでは、梶原景季と佐々木高綱が先陣争いを行っている。
一ノ谷の戦い
(1184年 / 源義経・源範頼の活躍)
摂津国の六甲山地西部に於けるこの戦いでは当初源氏軍が不利であったが、源義経の采配による「鵯越(ひよどりごえ)のさか落とし」という奇襲作戦により源氏軍が勝利した。この戦いでは南都焼討ちの主犯である平重衡が逮捕された。平忠度は、藤原俊成に頼み込んで『千載和歌集』に「小波(さざなみ)や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」という歌を残して死んでいったが、院や鎌倉幕府から見れば彼は罪人だったため、この「故郷の花」という歌の作者は詠み人知らずとして扱われた。また16歳の少年である平敦盛を殺害した熊谷直実は、戦に無常を感じて出家した。この後、平氏一門は屋島へ逃れたが、平維盛はそこを脱出して高野山で出家した後に熊野へ参詣し、那智にて入水した。
屋島の戦い
(1185年 / 源義経・源範頼の活躍)
讃岐国屋島に於けるこの戦いでは、源義経らの嵐中行軍などにより源氏軍が勝利を収めた。この嵐中行軍に際し源義経は梶原景時と争ったが、これは後に梶原景時が源義経を讒訴する一因となった。なお下野国の武将である那須宗高(那須与一)が活躍したり、源義経が奥州の藤原秀衡の下から兄の源頼朝挙兵に同行するべく旅立った時に従った佐藤忠信が源義経の身代わりとなって討死したのもこの戦いである。平氏一門は讃岐国志度浦に撤退した後、さらに西国へと落ちていった。
壇ノ浦の戦い
(1185年 / 平氏一族の滅亡)
3月、逃亡を重ねた平氏一族は、ついに本州最西端である長門国壇ノ浦にまで到達した。河野通信らを加えた源氏軍の追撃はさらに続き、平氏一門と安徳天皇は入水し、海の藻屑と消えた。しかし安徳天皇の母にして平清盛の娘である建礼門院のみは救出された。建礼門院はこの後、京都の大原寂光院にて一族の冥福を祈りつつ、余生を過ごしたという。また平宗盛や平時忠は、源義経によって捕縛された。 
 
 鎌倉時代

 

1 鎌倉幕府の成立
源頼朝・源義経の兄弟対決
平氏一門は源義経らによって滅ぼされたが、源頼朝は源義経が平時忠の娘を娶っている事実や梶原景時らの讒訴により不信感を抱いていた。自らが武力を持たないために武家政権の成立に危機感を持つ後白河法皇が新たな抗争を煽動することを恐れた源頼朝は、自分に無断で官位を受けることを御家人たちに厳禁していたが、源義経は後白河法皇から検非違使尉などの官位を受けていた。源頼朝は御家人統率への悪影響を考慮し、凱旋した源義経を鎌倉には入れず手前の腰越に止めさせた。大江広元に腰越状を提出しても認められなかった源義経は、連行中の平宗盛と平時忠を近江国篠原で殺害し、京へ戻って後白河法皇から源頼朝追討の院宣を賜り、公然と反乱した。しかし源義経や源行家らの配下には武士が集まらなかったため後白河法皇は襲来した源頼朝に源義経・源行家追討の院宣を与えた。源行家は逃亡中に和泉国で殺されたが、摂津国大物浦(だいもつのうら)から逃亡した源義経は北国街道を逃亡、加賀国安宅関(あたかのせき)(武蔵坊弁慶と関守の富樫左衛門の駆引が『勧進帳』に脚色されており有名)を経て奥州平泉まで逃亡したが、藤原泰衡により衣川館で殺害された。源頼朝は奥州征伐を1189年に断行した。
文治の勅許
(1185年 / 鎌倉幕府の成立)
叔父の志田義広を討伐して関東での覇権を確立した源頼朝は、正妻の北条政子の父の北条時政に交渉させ、後白河法皇や公卿たちに譲歩させてこの文治の勅許を下させた。内容は、守護・地頭の設置、在庁官人の源頼朝の支配、一反あたり五升の兵粮米を徴収することの許可、などである。鎌倉幕府が軍事政権である以上、その兵力が守護・地頭として全国に分散されたこの時が、非公式ではあるものの実質的な鎌倉幕府の成立である。なおこの文治の勅許を京側の見地から述べたものが議奏公卿の九条兼実の日記の『玉葉(ぎょくよう)』であり、鎌倉側の見地から述べたものが歴史書の『吾妻鏡』である。この『吾妻鏡』は後に徳川家康の宗教政策に影響を及ぼしたことでも知られている。
守護・地頭とは何ぞや
1 守護
守護・地頭は下級官吏(法曹吏僚)出身の大江広元の進言により平氏滅亡後の諸国の治安維持と源義経追討を名目として、元来の惣追捕使・国地頭を整備する形で設置された。守護は一国一人であり有力な東国の御家人から世襲的に任命されたが、大和国は寺社勢力を抑えるため例外的に興福寺が守護に任命された。守護の任務は警察権行使と治安維持であり、平常時は大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)、即ち謀叛人逮捕・殺害人逮捕・大番催促であった。大番催促とは、京都を警備する大番役として御家人を招集し統率することである。この他に守護は大社寺の修築や道路・駅制の整備などを任務としていた。守護は当然武家的なものであり、必然的に公家的な国司とは対立した。
2 地頭
地頭は国衙領や荘園に配置された武士であり、御家人が柚判下文と政所下文に大別される地頭職補任状(じとうしきぶにんじょう)により任命された。しかし下野国寒河郡・阿志士郷の地頭に袖判下文の「皆川文書」で任命された小山朝光の母のように、この時代には女性が地頭に任ぜられることもあった。下地管理権・年貢徴収権・検断権・勧農権などの諸権利が与えられた地頭は、当初は平家没官領(へいけもっかんりょう)や謀叛人所領にのみ配置されており、承久の乱後に全国に存在するようになった。地頭の給与は慣例に則ったが、土地一反あたり「反別五升の兵粮米」を得る者もいた。御家人は地頭に任命されることによりその領主権が源頼朝を通じて朝廷に認められたが、それ故に任免権は鎌倉殿たる源頼朝に掌握された。守護と同様、地頭も公家的な荘官とは対立した。なお御家人には、細々とした関東御公事(かんとうみくうじ)などの雑役負担が課せられることもあった。
鎌倉幕府の官僚機構
1 中央(鎌倉)
御家人を重視していた源頼朝は1180年の佐竹征伐の直後、有力御家人の和田義盛を長官たる別当、梶原景時を次官たる所司に任命し、御家人統率を管轄する侍所を設置した。一方、1184年には財政や書類作成などの一般政務を管轄する公文所(政所)を設置し、別当には大江広元、構成員たる寄人(よりゅうど)には大江広元の義兄の中原親能を任命した。最後に、民事訴訟の裁判事務を司る問注所は、法曹吏僚出身の三善康信が長官たる執事に就任して発足した。侍所以外の役職には法曹吏僚出身者が就任した。
2 地方
奥州征伐の後、奥州の御家人の統轄のために奥州総奉行が設置された。御家人の統率は葛西清重が、訴訟は伊沢家景が扱い、これらの職務は両氏が世襲していった。伊沢氏が世襲した訴訟事務を陸奥留守職と言う。九州の御家人の統轄は鎮西奉行が遂行した。また京には、幕府と朝廷の連絡事務と京の警備を任務とする京都守護が設置された。九条兼実のように朝幕間の連絡事務を遂行した公卿を議奏公卿と言う。
鎌倉幕府の基盤
当初は名簿奉程(みょうぶほうてい)、後に見参により御家人は将軍と封建的主従関係を結んだが、鎌倉幕府の政治的基盤はこの御家人制度による御恩と奉公である。具体的に言えば、御恩は本領安堵と新恩給与であり、奉公は軍役・京都大番役・鎌倉番役・関東御公事・異国警固番役・京都篝屋役(きょうとかがりややく)である。現在も残る鎌倉街道は、所謂「いざ鎌倉」という非常時に御家人が鎌倉に向かうための道である。鎌倉幕府の経済的基盤は関東御領(荘園)と関東御分国(知行国)からなる関東御成敗地であり、他には源頼朝が諸所職を任命する権利を持つ国衙領や荘園としての関東進止所領(関東進止之地)や、源頼朝が荘園や国衙領と交渉して管理者に御家人を推薦できる関東御口入地(かんとうごくにゅうち)などが挙げられる。これらは古代荘園制に基づくものであるため、鎌倉幕府は完璧な封建体制ではない。 
2 北条氏の台頭と執権政治の発生
専制君主源頼朝の死
(1199年 / 源家将軍の独裁体制崩壊)
征夷大将軍を所望していた源頼朝は、1190年に権大納言・右近衛大将と言う在京の官職を受けた際もすぐに辞職し、やがて後白河法皇が1192年に崩御したことにより漸く念願の征夷大将軍に就任し、名実共に鎌倉幕府を創始した。源頼朝は鎌倉殿としての御家人からの信望を背景として、所謂「所の政治」により幕府の朝廷政策を嘲笑した上総広常の粛正などの独裁的政治を推進したが、1199年に落馬して死去した。後継者の源頼家は、御家人である工藤行光が誇る屈強な家来を自分の直属にしようとして断られる程度の人物であったため、有力御家人の北条時政・北条義時・和田義盛・梶原景時・比企能員(ひきよしかず)・三浦義澄、官僚の大江広元・三善康信・中原親能、それに安達盛長・足立遠元・八田知家・藤原行政(二階堂行政)らは将軍独裁体制を廃止し、自分たち十三人の合議制で幕政を執ることを決定した。なおこの中に入り損ねた有力御家人としては、千葉常胤や畠山重忠らが挙げられる。
執権政治の開始
(1203年 / 源頼家暗殺と傀儡君主源実朝)
1200年に、まず源頼朝の重臣であった梶原景時が三浦義澄ら他の御家人からの排斥により鎌倉を追い出された。やがて梶原景時は駿河国にて梶原景時の乱を起こしたが、鎮圧され殺された。そして三浦義澄と千葉常胤も病死し、政敵の少なくなった北条氏一族はいよいよ抬頭を強めた。この状況に対し、自分の娘の若狭局を源頼家に嫁がせていた比企能員は、北条氏追討を謀って1203年に比企能員の乱を起こした。しかしこの乱も鎮圧され、比企能員と、源頼家の長男の一幡丸は共に殺された。源頼家はこの乱の際、和田義盛と新田忠常に北条時政の追討を命じたが、和田義盛の裏切りにより露顕、逮捕され伊豆国の修善寺に幽閉後、母の北条政子の指図により暗殺された。源頼家の「病死」を公表した北条時政は、傀儡君主として源頼朝の次男源実朝(千幡丸)を将軍に就け、大江広元と共に政所別当に就任して執権政治を開始した。
源実朝暗殺計画失敗
(1205年 / 北条義時の実権掌握)
北条時政は自分の妻である牧ノ方の娘婿で、源氏一門であり京都守護である平賀朝雅を担ぎ、源実朝を滅ぼして彼を将軍に就けようと謀った。止めようとした畠山重保は北条時政によって謀殺され、父の畠山重忠も北条義時の大軍の前によく戦ったが、結局は衆寡敵せず武蔵国二俣川の戦いにて敗れ滅んだ。しかし結局この無謀な計画は頓挫し、平賀朝雅は殺され、北条時政は失脚して出家した。源実朝が貴族的生活を送り、政務を北条時政らに委任し過ぎたことも、この紛争の原因の一つであろう。北条義時はこの時に政所別当に就任して北条家の家督を相続し、実権を掌握した。
和田合戦
(1213年 / 北条氏最後の政敵排除)
侍所別当にして北条義時に対抗しうる最後の有力御家人となった和田義盛は、源頼家の遺児の千寿丸を擁して打倒北条義時の兵を挙げた。こうして勃発した和田合戦は幕府開設以降初めての鎌倉に於ける戦乱であったが、結局北条義時側の勝利に終り和田義盛は非業の死を遂げた。北条義時はこの合戦の後、それまで和田義盛が務めていた侍所別当も政所別当と共に兼任し、執権という地位を確立した。執権にはこの後、北条氏の嫡流の得宗家(北条義時の法号「徳宗」に由来)であるから就くことができると考えられ、中継以外は実際に得宗家から輩出されていった。
源家将軍の断絶
(1219年 / 摂家将軍の端緒)
北条義時の策謀で源実朝を父の敵と信じる源頼家の次男の公暁は1219年、鶴岡八幡宮にて源実朝を暗殺したが、自身もすぐに逮捕され処刑された。これにより源氏の嫡流は断絶してしまった。形式上にせよ将軍が必要と判断した北条義時は、後鳥羽上皇に皇室からの将軍を要請したが断られたため、承久の乱の後、源義朝の曾孫の九条道家の子の三寅丸(九条頼経)を第四代将軍として迎えた。これが摂家将軍(摂籙将軍(せつろくしょうぐん))の端緒であり、九条頼経とその子である九条頼嗣のみが就任した。なお九条頼経が将軍の職務を執行し始めたのは1226年よりであり、それ以前は源頼朝の妻であり悪妻の定評が高い北条政子が所謂尼将軍として弟の北条義時と共に実権を掌握していた。また鎌倉幕府の後援を受けた九条道家は1228年、関白に成り上がった。 
3 承久の乱
朝幕間の冷戦
抬頭著しい鎌倉幕府に対し、後白河法皇の皇孫に当たり祖父譲りの智謀家として知られ、また諸芸に通じる「万能の人」としても高名な後鳥羽天皇は慢性的な不満を抱き、朝廷に対する不敬への報復として議奏公卿の九条兼実を罷免し、平氏側の公家として鎌倉幕府の圧力により不遇な立場に置かれていた近衛基通を復帰させ重用した。後鳥羽天皇は譲位した後も土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇の御世に院政を執った。なお在位中の天皇を「在位の君」と言うのに対し、院政を執行している上皇を「治天の君」と言う。1219年に源氏の嫡流が断絶した際、好機と察した後鳥羽上皇は、寵愛していた伊賀局(白拍子亀菊)の所領である摂津国長江・倉橋荘の地頭の免職を北条義時に命じたが、北条義時はこれをきっぱりと拒否した。
承久の乱
(1221年 / 朝敵の勝利)
地頭の免職要求が棄却されたことを根拠とした後鳥羽上皇は5 月15日、北条義時追討の院宣と宣旨を下し、鳥羽離宮にある城南寺(せいなんじ)に北面の武士や西面の武士(新設)を集結させた後、朝臣の藤原秀康・藤原秀能兄弟に命じて手初めに京都守護の伊賀光季(いがみつすえ)に誅伐を加えた。後鳥羽上皇の予想では、幕府の御家人たちは朝敵になることを恐れて崩壊する筈だったが、御家人は識字者が藤田三郎らごく僅かしかいない無知蒙昧な輩だった上、北条政子や大江広元らの煽動で結束したため、19万と言われる大軍が北条泰時(北条義時の子)と北条時房(北条義時の弟)に率いられ京を目指した。逆賊軍は越後国の国府合戦や遠江国の橋本合戦、美濃国の大井戸合戦や墨俣合戦にて朝廷軍を蹂躙し、やがて院は停戦を発表した。結局、承久の乱により武家政権の優位が確定し、それまでは平和だった荘園にも武士勢力が本格的な進出を開始するようになった。承久の乱は鎌倉幕府が直面した最初の公武の対立であったが、それまでの朝廷優位の公武二元体制から幕府優位の公武二元体制への明確な転機となった。
戦後処理
朝廷軍に加わった後藤基清・佐々木経高・三浦胤義・河野通信・大江親広らは厳罰に処せられた。また後鳥羽上皇は隠岐国、皇子順徳上皇は佐渡国、土御門上皇は土佐国(後に阿波国)に流され、仲恭天皇は廃位させられて後堀河天皇が践祚し、その父である守貞親王が後高倉院として院政を執行した。幕府はそれまでの京都守護に代わって六波羅探題を設置し、六波羅北方に北条泰時を、六波羅南方に北条時房を任命し、朝廷監視や京都警備、それに尾張国(後に三河国)以西の御家人の統轄を委任した。
地頭の急増
幕府が承久の乱で没収した承久没官領たる貴族や武士の所領は3000ヶ所余りだったが、ここには従来の本補地頭との両様兼帯が禁止された全く新しい新補地頭(しんぽじとう)が任命された。新補地頭の搾取率は主に旧来の慣例に従ったが、慣例が無い場合または慣例に不服な者は、1223年に定められた新補率法(貞応二年御沙汰)に則った。新補率法は11町毎に1町の免田(給田;領主への課役納入が免除、年貢は地頭の収入)の支給や「反別五升の加徴米」の徴収権を認め、加えて山川からの収入は半分が地頭のものとなる、という内容だった。なおこの時代の土地台帳を大田文(おおたぶみ)(惣図田帳・図田帳・田数帳)と言う。承久の乱の後、幕府は畿内以西の国衙領や荘園に支配力を浸透させていった。 
4 執権政治の興隆
北条泰時の将軍就任
(1224年 / 執権政治の確立)
1224年の北条義時死去の後、政界では北条義時の後妻の伊賀ノ方が政所執事である兄の伊賀光宗と謀り、娘婿の一条実雅を将軍、自身の子の北条政村を執権にそれぞれ就け、実権を掌握しようとする伊賀氏の陰謀事件が発生した。こうした政情不安を打開するべく、北条政子と大江広元は都から北条泰時と北条時房を召喚し、北条泰時を執権に就任させた。北条泰時はすぐに執権の補佐役たる連署を設置し、北条時房を就任させた。なお六波羅北方には北条泰時の子の北条時氏、六波羅南方には北条時房の子の北条時盛が就任した。翌1225年には大江広元や北条政子が相次いで没し世代交代が進み、北条泰時はそれまでの大倉御所に代わって若宮大路の宇都宮辻子(うつのみやずし)(若宮御所)に幕府を移転させ、率先して政務を執った。北条泰時は訴訟・政務の最高合議機関として有力御家人11人(後に15人程度)からなる評定衆を設置し、独裁を廃して合議制による公平裁定を目指した。連署と評定衆の設置による合議制と、貞永式目制定による法治主義が完成された北条泰時の時代に、執権政治は確立された。なお北条泰時は、鎌倉に和賀江津を開港したり、市政を担当する保奉行人を設置したりしている。
貞永式目の制定
(1232年 / 日本史上初の武家成文法)
関東御成敗式目五十一箇条とも言う。これを制定したのも北条泰時であり、作成したのは評定衆三善康連(みよしやすつら)である。この式目は源頼朝以来の慣習法たる先例(右大将家之例)と、武家社会の道徳規範たる道理に基づいて定められた。貞永式目は訴訟を公平に裁定するための基準を文章化したものであって、荘園の本所法や公家社会の公家法(律令や格式)を改変するものではない。また対象がオツムの弱い武家であるために平易に示された。貞永式目は日本史上初の武家成文法であり、戦国時代の様々な分国法にも影響を与えた。貞永式目の対象は幕府の支配の及ぶ範囲、即ち凡下之輩(ぼんげのともがら)と称される一般庶民と関東の御家人たちであり、当時の世相を反映して所領関係の法の記載が最多であった。北条泰時の時代に確立された執権政治の主な精神や目的は、北条泰時が弟の北条重時に宛てた『泰時消息文』という書状の中に記されているが、この書状は斎藤唯浄(さいとうゆいじょう)が著した『式目抄裏書』に記載されている。なお北条重時が編纂したと言われる『重時家訓』は、日本史上初の武家家訓である。この後にも、鎌倉時代には式目追加やそれらを整理した新編追加、室町時代には建武以来追加などが出されたが、これらは全て貞永式目が基本であった。
鎌倉騒動
(1246年 / 名越光時の乱)
摂家将軍である九条頼経は北条氏に対して不満を抱き、配下に反北条分子を集めていた。そのため1244年に彼は将軍から降ろされ、子の九条頼嗣にその座を譲らされた。しかし九条頼経は京都へ帰らず大殿として鎌倉に居すわり、倒幕の策謀を練っていた。時の執権は北条泰時の孫にあたる北条経時であったが、彼は生来病弱であり1246年には没してしまった。後を継いだのは弟の北条時頼である。執権に就任した北条時頼は、北条泰時の甥であり九条頼経と共に倒幕計画を練っていた名越光時(なごえみつとき)を成敗し、九条頼経を京へ追い返した。これが鎌倉騒動である。北条時頼は朝廷内の西園寺実氏を議奏公卿九条道家よりも権力を持つ関東申次に就任させ、九条道家を事実上無力化した。
宝治合戦
(1247年 / 有力御家人潰し)
名越光時と親密な関係にあった評定衆の三浦泰村と北条時頼との仲は、北条時頼の外戚に相当する安達景盛の陰謀により険悪なものとなり、ついに宝治合戦が勃発した。この際、常々垣生庄(かきおのしょう)を巡り対立していた三浦秀胤(三浦泰村の娘婿)とその弟である三浦時常は、一丸となって戦って死んでいった。これは鎌倉時代に於ける一族の団結の強さを表すエピソードである。また北条時頼は後に出家して最明寺入道と名乗って諸国を貧僧姿で巡回したが、上野国の貧乏御家人である佐野常世が北条時頼と知らずに大切な盆栽を折ってまで彼に尽くし、感動した北条時頼が後に彼を鎌倉に呼んでこの善行を褒め、盆栽に因んで加賀国の梅田と越中国の桜井、それに上野国の松枝などの所領を彼に与えた、という所謂「鉢の木物語」は有名である。
引付の設置と北条時頼の独裁体制確立
当時の裁判は、刑事事件の検断沙汰、民事事件の雑務沙汰、土地紛争の所務沙汰に分かれていた。民事から土地問題が独立していることからも明白なように、この時代は土地紛争が絶えず、裁判の公正化と迅速化、それに評定衆の補佐をする機関が要求されていた。北条時頼は1249年にこれに応えて引付衆で構成される引付という役職を設置した。引付衆は評定衆の中の引付頭人の下に組織された。鎌倉騒動と宝治合戦による政敵の粛正、そして引付衆の任命により、北条時頼は独裁体制を確立した。引付は1266年に北条政村が廃止したが、1269年には元寇に備えるため、金沢実時・安達泰盛・大仏時氏・北条義政・名越時章ら五方引付衆が任命され、復活した。
皇族将軍と歴代執権
北条時頼は1252年、摂家将軍九条頼嗣を廃して後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を迎えた。これが皇族将軍(親王将軍・宮将軍)の端緒である。なおこの時、後の上杉氏の祖となる上杉重房も宗尊親王と共に鎌倉に下向している。連署の北条時宗は宗尊親王が成人すると所謂「深秘の沙汰」により将軍職を子の惟康親王に譲位させ、以後も同様に後深草天皇の子の久明親王や、その子の守邦親王を将軍として迎えていった。後深草天皇は持明院統であるため、鎌倉幕府は持明院統に近かった。北条氏の嫡流による得宗政治が行われていたこの頃であったが、弘長の新制を発令して政治改革を断行した北条長時や、その次代の北条政村は嫡流ではない。これは後を継ぐべき得宗家の北条時宗がまだ幼少であった故に、中継として例外的に就いたためである。これは北条貞時の子の北条高時が執権に就任するまでに執権に就いた北条師時・北条宗宣・北条煕時・北条基時らにも言える。なお北条高時が執権を辞めた後も、北条義時の孫の金沢実時の孫である金沢貞顕や、北条守時が執権が就いたが、幕政の実権は内管領の長崎高資やその父である長崎円喜が掌握していた。 
5 鎌倉時代の社会
相続制度の変遷
寝殿造を簡素化した武家造の館は堀や土塁で囲まれており、櫓(矢倉)を構えていた。館は堀之内・城之内・土居とも称される山や丘陵を背景とした城砦的生活空間であり、その周囲には年貢や公事が掛からない佃・門田・正作・用作などの直営地があった。武士は館を構えた土地の名を苗字として用い、一所懸命の地とした。当初の武士の相続形態は分割相続であったが、この分割相続では女性にも一期分(いちごぶん)という相続によって一期領という本人在世中のみ所有が認められる土地が与えられた。鎌倉時代は戦乱が多く男子の死亡を常に前提としていたため、嫁入婚で家の一員となる女性の地位は必然的に高く、女地頭も珍しくなかった。しかし分割相続による所領の細分化で武士が窮乏し始めた鎌倉末期以降は、一族の惣領(嫡子)が土地を全て相続して他の庶子を養う嫡子単独相続が始まり、惣領制が形成された。家の軍事・経済的な責任者である惣領は悔返権を行使して女性の所領を没収する権限を有したため、相続制度の変化は女性の地位の低下を招いた。惣領制で血縁的結合を強めた武士は本宗家を中心に家門(一門一家)として団結し、氏神の祀りなどを共同で行った。
武士の生活
武士は田舎に住んでいたため、暇があれば狩倉に出て軍事訓練たる鷹狩や巻狩をしたり、鶴岡八幡宮の神事としても有名な騎射三物(きしゃみつもの)(笠懸・流鏑馬・犬追物) を行ったりしていた。これは『古事類苑』や吉見二郎と男衾三郎の兄弟を描いた『男衾三郎絵巻』などに記載されている。一方、兵(つわもの)の道・弓馬の道・武家の習・弓矢の道・もののふの道などと呼ばれる信義を重んじ礼節・倹約・武勇を尊ぶ思想は、当時の武士が守るべき道徳であり、後の武士道に繋がるものである。当時の武士の質素さを示す逸話としては、連署の大仏宣時(おさらぎのぶとき)(北条時房の孫、執権の北条宗宣の父)が北条時頼に招かれた際に味噌を肴に酒を飲んだ話や、源頼朝が家来の筑後権守俊兼の華美な衣裳の袖を切った話などが知られている。
武士の土地支配
地頭は荘園を侵略し、荘園領主に対して年貢や公事を納めなくなり、労働課役の夫役も務めなくなった。荘園領主は大幅に譲歩して、毎年一定の年貢を領家側(本所)に納入することを条件に土地(地頭請所)の支配を地頭に委任する地頭請や、紛争地を一定の割合に二分してそれぞれ領家と地頭が支配する下地中分(したじちゅうぶん)を行うようになり、幕府も御家人保護の観点からこれらを奨励した。地頭請所の例としては、和田義盛の子孫の中条茂連・中条茂長兄弟が地頭請した近衛家領の越後国奥山荘などが挙げられる。また下地中分は、松尾神社を本所とする伯耆国東郷荘のように当事者による示談による和与中分と、幕府による強制的な強制中分に分けられる。なお年貢・公事に関しては、これを銅銭で納める代銭納(銭納)が為されたが、これは荘園領主に対してのみ行われ、農民には現物納が強制されたため、困窮の度合を強めた村の農民は平安時代の百姓解状(住人解状)に代わる百姓申状を荘園領主に提出して抵抗した。また関東や九州などの辺境では、農民・屋敷・土地を一体化させた中世の領主の収取単位である在家に則って課税が為された。
農業の発展
鎌倉時代には畿内と西日本に於いて、一年の内でまず米を作り、さらに裏作として麦を作る二毛作が行われるようになった。二毛作は土地を痩せさせるため、失われた土の力を回復させるために刈敷(かりしき)・草木灰(そうもくかい)・厩肥(きゅうひ)・下肥(しもごえ)などの肥料が考案され用いられた。また『松崎天神縁起絵巻』に見られるような、耕作用として牛(犂(すき)を引かせる)、運搬用として馬を用いる牛馬耕も行われ、農具なども全国的に普及した。農民は、名田を経営する名主、それを借りて耕作する作人、農奴的な下人・所従・名子、などに分けられる。また農業の副業として、和紙の原料である楮(こうぞ)や染料の原料である藍(あい)、灯油の原料となる荏胡麻(えごま)などが栽培され、他にも絹布や真綿、生糸や麻布などが生産された。また鍛冶や鋳物師(いもじ)や紺屋(こうや)など、集団で移動する手工業者もいた。
商業の発展
農業やその副業の発達に伴い、余剰生産物が発生するようになった。余剰生産物は、荘園や公領の中心や交通の要所、それに寺社の門前などにたてられた市で取り引きされた。市は淀市や大津市のように月三回開かれる三斎市などの定期市が多く、他には備前国福岡市や信濃国伴野市などの普通の市も存在していた。なお『一遍上人絵伝』に描かれている福岡市は黒田高政・黒田重隆所縁の土地として知られており、後の黒田藩福岡の地名はこの福岡市に由来している。市の出現により、日宋貿易での輸入や西園寺公経の持参(1億枚)で流入した宋銭が流通し、行商人が現れ、荘園領主が多く交通の要でもあった京都・奈良・鎌倉などにはそれまでの立売に代わって常設店舗である見世棚(店棚・店)ができた。一方、平安後期からは、商工業者・運輸業者・芸能人たちが朝廷や貴族や寺社や荘園領主などの保護の下で特権的な同業者組合である座を結成するようになり、次第に製造や流通や販売を独占していった。
流通の発展
荘園から徴収した年貢などの流通や保管、委託販売などにあたったのが問丸であり、淀・大津・敦賀・木津・鳥羽・坂本などの交通の要所に発生した。また当時の治安の悪さを反映して、割符屋が発行する割符(さいふ)という手形を用いて遠隔地間の金銭授受を決済する為替(かわせ)という制度が13世紀中頃から行われ始めた。為替には、銭を用いて取引する替銭(かえぜに)と、米を用いて取引する替米(かえまい)があった。金融機関としては、御家人らのための高利貸業者としての借上(かしあげ)や一般庶民のための無尽(むじん)・頼母子講(たのもしこう)(頼母子)などがあった。なお北条泰時は鎌倉の由比ヶ浜に和賀江津を開港し、流通の発展に貢献した。
農民の抵抗
農業の発達に伴って凡下(甲乙人(こうおつにん))たちは経済的に余裕を持ち、従来の下人や所従は作人に、作人は名主になるなどして次第に自立していった。そして農村では、従来の下人や所従を使用する直営方式から農民を自立させ生産物を収集する方式に支配形態が変化していった。こうして力を得た農民たちは集団逃亡などの抵抗を行い始めた。1275年には紀伊国阿河荘上村の百姓が地頭である湯浅宗親の横暴を13箇条からなる「阿河荘上村百姓等言上状」により荘園領主の寂楽寺に訴え出たが、これはその一例である。また西国御家人・非御家人・有力名主などの反幕府的な勢力は武力で社会秩序を乱す悪党となって畿内を中心に活躍し、幕府を悩ませたが、守護の中には悪党と結託する者もいた。悪党は『融通念仏縁起』や『峯相記』などに記載されている。 
6 鎌倉時代の文化(宗教関連)
貴族の没落と武士の抬頭による律令体制の崩壊、戦乱や天変地異などにより社会不安が広まり、貧困・疫病・戦争の三要素が揃った平安末期から鎌倉中期に掛けて、信仰による救いの重視と世俗権力からの独立、日本独自の内容を確立した鎌倉新仏教が創始された。密教が教義研究や呪術化した加持祈にのみ専念し、「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」が目的の浄土教も阿弥陀堂の乱立など公家化の様相を呈していた上、厳しい修行や戒律、莫大な布施を必要としており、庶民には手が出せぬものだったことを踏襲した鎌倉新仏教は、専修・選択・易行という三本柱に支えられた真の庶民仏教として興った。なお、鎌倉新仏教各宗派の開祖は、時宗の一遍が浄土宗出身である以外は全て天台宗出身である。また鎌倉新仏教の興隆に対し旧仏教側も抵抗を示した。
浄土宗
(1175年成立)
美作国の押領使である父の漆間時国を明石定明に殺害された漆間勢至は出家して法然(源空)と名乗り、やがて比叡山に上った。唐の浄土教僧である善導の『往生礼讃』や『観無量寿経疏』などの著作に刺激された法然は1175年、京都東山の吉水に於いて専修念仏(称名念仏)の教えを提唱し、浄土宗を開いた。専修念仏は源信ら旧仏教の者たちが提唱していた歓想念仏などの口で唱和する念仏を否定したものであったため、旧仏教側の猛反発を受け、1207年には讃岐国に配流された(承元の法難)。浄土宗は一般に他力本願であると言われるが、念仏を多く行う多念義を必要としたために完璧な他力本願とは言えない。だが易行である浄土宗は平敦盛を殺して出家した熊谷直実(法号;蓮生房(れんじょうぼう))などの武士や庶民、貴族に至るまで幅広い層に広まった。法然の著作としては、九条兼実の求めに応じて念仏の心得を説いた『選択本願念仏集』や、称名念仏の教義を弟子に残すべく一枚の紙に纏めた『一枚起請文』が知られている。浄土宗の本山は、法然が往生した土地、即ち京都東山に建立された知恩院である。浄土宗は後に、聖光の鎮西派と証空の西山派に分裂した。
浄土真宗(一向宗)
(1224年成立)
日野有範の子にして法然の弟子である親鸞は、現世に於いて既に魂は救われているので阿弥陀仏の救いを信じる心を起こすだけで極楽往生ができる、また唱える念仏は、救われたと感じた時に自然に口に出る報恩感謝の念仏である、とする絶対他力を提唱し、それまでの仏教では悪人とされていた武士や漁師などの殺生を生業とする者たちこそ、信じさえすれば救われるという悪人正機説を唱えた。1207年の承元の法難では、親鸞は越後国に流されたが後に許され、越後国や帰途に逗留した常陸国などで信者を増やした。結果的に浄土宗を深化したと言える親鸞の著作としては、絶対他力を説いた『教行信証』(正式名『顕浄土真実教行信証文類』)が知られている。また親鸞の弟子の唯円は『歎異抄(たんにしょう)』を著し、悪人正機説を説いてその正当性を主張した。浄土真宗の本山は京都大谷の本願寺であるが、これは親鸞の娘の覚信尼が1272年に建立したものである。一向宗は「王法依本」の論理により当初は現世の支配者に従っていたが、後に豹変し、信心に基づく悪行を恐れないという「本願ぼこり」に基づき、一向一揆を展開していった。
時宗(遊行宗)
(1276年成立)
承久の乱で活躍した河野通信の次男河野通広の子の一遍(智真・捨聖・遊行上人)は浄土宗の出身であり、「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」と書かれた札を賦算し、幸運にもその札を貰った人は往生が約束されたと喜んで極楽往生の法悦を体現化する踊念仏を行った。熊野信仰や伊勢信仰も利用して増えた時宗の信徒(時衆)の名は漢字一字に「阿弥」をつけた阿弥号が多かった。時宗は底辺の人々に受け入れられた。一遍は著作を死の直前に全て焼いたが、一遍の法語などを編纂した『一遍上人語録』が残っている。時宗の総本山は呑海によって藤沢に建立された清浄光院だが、ここは後に足利尊氏の寄進を受けた際に清浄光寺と改称された。
法華宗(日蓮宗)
(1253年成立)
安房小湊の旃陀羅(せんだら)の子を自称する日蓮は「南無妙法蓮華経」という題目を唱える唱題(題目唱和)を行えば人も国家も救われると主張、鎌倉にて辻説法や折伏などで布教し信徒を殖やした。日蓮は法華経に則って『立正安国論』を編纂、時の執権北条時頼に提出したが、外寇を予言していたためその怒りに触れ、伊豆へ流された。許されて鎌倉に戻った日蓮は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という四箇格言を用いて他宗排撃を行ったため、北条長時により佐渡へ流された。この際、平頼綱は死罪を主張したが、安達泰盛が流罪とした。佐渡から帰ってきた日蓮は、甲斐の豪族で信者の波木井実長(はぎいさねなが)に招かれて身延山に移り、そこに日蓮宗の総本山たる久遠寺(くおんじ)を建立した。日蓮の著作としては前述の『立正安国論』の他、『開目抄』などが知られている。
臨済宗
(1191年成立)
開祖の栄西は二度入宋して質実剛健で有名な禅宗の教えを学び、帰国してから建仁寺を本山として布教活動を行った。禅宗であるから坐禅を第一とし、また旧仏教のように言葉や文字に囚われないよう主張(不立文字(ふりゅうもんじ))した。当然旧仏教側はこれに反発して禅宗批判を展開したが、栄西は幕府に対して『興禅護国論』を提出して禅の本質を説き、旧仏教側に反論した。臨済宗では普遍的な真理を悟らせるため公案と言う課題を課して禅問答したが、これを看話禅(かんなぜん)と言う。臨済宗は、開祖栄西が北条政子に接近して寿福寺を、また源頼家に接近して建仁寺を開き、さらに源実朝に薬用としての茶の効用を説いた『喫茶養生記』を提出したように、時の有力者に接近した。この他の例としては、足利義兼に接近して浄妙寺を開いた退耕行勇、九条道家に接近して東福寺を開いた円爾弁円、北条時頼に接近して建長寺を開いた蘭渓道隆、北条時宗に接近して円覚寺を開いた無学祖元、北条宗政夫人に接近して浄智寺を開いた兀庵普寧などが知られている。
曹洞宗
(1227年成立)
開祖の承陽大師こと道元(希玄)は、懐奘(えじょう)が編纂した『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』に記述されているように、煩悩や執着が無い身心脱落(しんしんとつらく)の境地を目指すための只管打坐(しかんたざ)を提唱した。道元は九清華の久我通親の子であったために栄西の臨済宗とは逆に権力を嫌い、本山も信者の波多野義重の援助により越前国の山中に建立された大仏寺(後の永平寺)に定めた。道元の著作としては『正法眼蔵』があるが、禅の本質や規範を述べたこれは難解であるらしい。曹洞宗の総本山としては1321年に螢山紹瑾(けいざんじょうきん)が能登国の天台宗寺院を曹洞宗寺院に改めた総持寺も挙げられるが、総持寺は1911年に横浜市鶴見に移った。
旧仏教の革新
華厳宗 / 明恵上人こと高弁が洛外の外栂尾に高山寺を興し、戒律復興と禅の推奨を行い再興。高弁は『摧邪輪』『荘厳記』を著し法然に激しく反論。
法相宗 / 興福寺の解脱上人こと貞慶は弥勒信仰・釈迦信仰の中心として山城国笠置寺を開き戒律復興に尽力する一方、法然を『興福寺奏状』で攻撃。
律宗 / 叡尊(思円)が戒律復興・貧民救済を行い再興。叡尊は元寇時に加持祈して興正菩薩と称されたことの他、西大寺中興の祖としても有名。また弟子の忍性(良観)は鎌倉に極楽寺を開く一方、奈良の般若寺付近に癩病患者の救済施設たる北山十八間戸を設置して社会に貢献した賢僧。
真言宗 / 頼瑜が出て復興に尽力。
その他 / 南都六宗と天台宗・真言宗を完全に極めた八宗兼学の俊(我禅)が諸宗兼学の場として泉涌寺(御寺)を建立。四条天皇以降の皇室菩提寺。
神道
平安時代の本地垂迹説に代わり、鎌倉時代には神国思想の広まりから神主仏従の神本仏迹説(反本地垂迹説)が発生した。伊勢外宮神官度会行忠(わたらいいえただ)は『神道五部書』を著し、子の度会家行はこれを根本法典として儒教思想や道教思想をも取り込んだ日本初の神道理論である伊勢神道(度会神道)を大成した。度会家行は著作『類聚神祇本源』でも知られている。一方、本地垂迹説はそれまでは真言宗が提唱する両部神道が盛んであったが、鎌倉時代以降は天台宗が提唱する山王一実神道が盛んになった。 
7 鎌倉時代の文化(非宗教関連)
建築
治承・寿永の乱の南都焼討で大打撃を被った奈良は、幕府の御家人により復興された。東大寺再建には造東大寺大勧進職たる大仏上人こと俊乗坊重源が、後に源実朝の大船建造で失敗した宋の工人陳和卿(ちんなけい)らを使用して活躍し、天竺様(てんじくよう)(大仏様)を創始させて東大寺南大門などを建築した。なお、他の建築様式としては、円覚寺舎利殿や紀伊国善福院釈迦堂に見られる禅宗様(唐様)、観心寺金堂に見られる折衷様(新和様)などの新様式の他、蓮華王院本堂に見られる和様などが挙げられる。
彫刻・絵画・書道・工芸・学問
『興福寺無著像・世親像』 / 運慶の作。肖像彫刻の代表作。運慶は『東大寺僧形八幡像』で知られる快慶と共に他に『東大寺金剛力士像』を作ったことでも知られている。
『蓮華王院千手観音像』 / 運慶の長男湛慶の作。ちなみに運慶の次男定慶は『興福寺金剛力士像』を、また三男康弁は『興福寺天灯鬼像・龍灯鬼像』を作ったことでも知られている。
『六波羅蜜寺空也上人像』 / 運慶の四男康勝の作。鎌倉時代の彫刻で最も有名なものの一つとして知られている。鎌倉時代の慶派仏師の彫刻としては他にも『上杉重房像』『重源上人像』なども有名。
『高徳院阿弥陀像』 / 通称『鎌倉大仏』『露坐の大仏』。浄光が集めた寄付で完成。国宝。
似絵 / 大和絵の肖像画。藤原隆信の『源頼朝像』『平重盛像』、その子である藤原信実の『後鳥羽上皇像』『随身庭騎図』、その子である専阿弥陀仏の『親鸞上人像』、それに恵日房成忍の『明恵上人樹上坐禅図』などが有名。
絵巻物 / 藤原信実の『北野天神縁起絵巻』、土佐吉光の『法然上人絵伝』、円伊の『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』、高階隆兼の『春日権現験記(春日験記)』『石山寺縁起絵巻』、その他『病草紙』などが知られている。なお禅宗僧の礼拝用の高僧の肖像画を頂相(ちんぞう)と言う。
『鷹巣帖』 / 伏見天皇の皇子で世尊寺流に宋・元の要素を加味して青蓮院流を興した尊円入道親王が、後光厳天皇のため書いた習字の手本として知られている。
鎧兜 / 家祖の紀宗介が近衛天皇から賜った号を家名とした明珍家が甲冑を製作。畠山重忠は武蔵御嶽神社に大鎧の赤糸縅鎧を奉納した。
刀剣 / この時代の刀鍛治としては、鎌倉の岡崎正宗、備前国の長船長光、越前国の郷長弘、京都の粟田口吉光(国宝の吉光骨喰の作者)らが知られている。
陶器 / 宋で製陶法を学んで帰国した加藤景正が、尾張国の瀬戸で瀬戸焼を創始。子孫は代々「藤四郎」を名乗った。
有職故実 / 朝廷社会の儀礼・年中行事などを研究する学問。順徳天皇の『禁秘抄』、後鳥羽上皇の『世俗浅深秘抄』が有名。
金沢文庫 / 北条義時の孫である評定衆金沢実時が蔵書を公開するため武蔵国称名寺境内設置した私設図書館。
註釈学 / 卜部兼方が著した『日本書紀』の註釈書『釈日本紀』や、仙覚の『万葉集』註釈書『万葉集註釈(仙覚抄)』など。
宋学 / 朱子学。南宋の朱熹が創始した大義名分論を重んじる学問。後に後醍醐天皇の倒幕の原動力となった。
その他
『新古今和歌集』 / 藤原俊成の子にして歌集『拾遺愚草』や歌論書『近代秀歌』、それに日記『明月記』などで知られる藤原定家が、藤原家隆らと共に編纂。隠者として詩集『山家集』を著した西行(俗名;佐藤義清)の他、慈円・寂蓮法師・式子内親王らが代表的歌人として収録されている。
『金槐和歌集』 / 鎌倉右大臣源実朝の和歌集。「箱根路を我が越え来れば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」など、万葉調で力強い歌が収録されている。
『平家物語』 / 『将門記』『陸奥話記』『保元物語』『平治物語』『承久記』と同様、和漢混淆文を特徴とする軍記物語。著者は信濃前司行長・葉室時長・吉田資経ら諸説あり不明。主として盲目の琵琶法師が平曲として語り継いだ。関連として『源平盛衰記』『源平闘諍録』などの諸本を持つ。
『元亨釈書』 / 虎関師錬が著した日本初の仏教説話集。他の仏教説話集としては円爾弁円の弟子の無住一円による『沙石集』など。
『古今著聞集』 / 橘成季による説話集。他の代表的説話集としては鴨長明の『発心集』や作者不詳の『宇治拾遺物語』『十訓抄』など。
『十六夜日記』 / 冷泉為相の母の阿仏尼が著した紀行文。なお藤原家は藤原定家の子にして『続古今和歌集』で知られる藤原為家の子の代に二条家・京極家・冷泉家に分裂。他の紀行文としては源親行の『東関紀行』や著者不明の『海道記』が有名。
『方丈記』 / 鴨長明が無常を主題として著した随筆。他の随筆としては吉田兼好の『徒然草』などもあまりにも有名。 
8 ユーラシア大陸の激動と元寇
モンゴル帝国の興隆
モンゴル族長エスゲイと妻ホエルンとの間に生まれたテムジンは、トオリオルカンのケレイト族やダヤンカンのナイマン族、それにジャムカのジャダラン族などを征伐して蒙古高原を統一し、1206年のクリルタイ(部族会議)で汗(ハン)に即位し、モンゴル帝国の太祖・成吉思汗(チンギス=ハーン)となった。成吉思汗は金・西夏を攻撃する一方、ダヤンカンの息子クチュルクが乗っ取った西遼も攻撃、1220年には西征してムハンマドのホラズム朝を攻撃したが、これらの国々は耶律楚材やチンハイを顧問として首都カラコルムを建設した太宗・窩闊台汗(オゴタイ=ハーン)の頃に全て潰され、また成吉思汗の長男とされているジュチの子のバトゥは1236年から大西征し、1241年のワールシュタットの戦いで独軍などに壊滅的打撃を与え、モンゴル帝国は世界史上最大の版図を誇る帝国として君臨した。
元朝の成立
(1271年 / 蒙古人第一主義の帝国)
成吉思汗の末子トゥルイの子の忽必烈汗(フビライ=ハーン)が第五代皇帝として即位すると、1266年にハイドゥの乱が勃発、結果的にモンゴル帝国からは、オゴタイ汗国、チャガタイ汗国、キプチャク汗国、イル汗国といった四汗国が独立した。世祖・忽必烈汗は大理国や吐蕃を征服した後、1264年には大都(現;北京)に遷都し、遊牧国家から農耕国家への転換を図った。やがて1271年には国号を元と改め、高麗の属国化を初めとする版図拡大運動を続け、日本に対しても元寇という形で遠征した。
文永の役
(1274年 / 第一回元寇)
高麗を服属させた忽必烈汗は使者として趙良弼(ちょうりょうひつ)を日本に派遣し、降伏・服属を迫った。時の執権北条時宗はこれを拒否したため、文永の役を招いた。洪茶丘(こうちゃきゅう)が率いる元正規軍18000人と金方慶が率いる高麗軍8000人、合計26000人の連合軍は、高麗が建造した900隻の軍船に分乗して朝鮮半島の合浦(がっぽ)から出港し、やがて九州の筑前国付近に襲来した。てつはう(震天雷(しんてんらい))・投石機・毒矢などの新兵器を用いて集団戦法で襲いかかる元軍に対し、日本軍は古来の一騎打ち戦法などで対処したために苦戦を余儀無くされたが、元軍は博多湾に於いて休息中に暴風雨に見舞われて軍船の大半を失ったため、撤退した。幕府は大友頼泰・少弐資能(武藤資能)らが当初務めていた異国警固番役を1276年に制度化したり、同1276年に長門探題を設置したり、石塁(せきるい)(石築地(いしついじ))を建造するなどして、元軍の再度の襲来に備えた。
弘安の役
(1281年 / 第二回元寇)
総人口の六割以上を惨殺して1279年に南宋を壊滅させた忽必烈汗は、降伏勧告の使者として杜世忠(とせいちゅう)・周福(しゅうふく)・欒忠(らんちゅう)らを日本に派遣した。北条時宗は杜世忠を鎌倉の竜ノ口にて処刑し、周福と欒忠を博多にて血祭りに上げて日本の態度を明確に示した。忽必烈汗は朝鮮半島と華南から同時に日本へ侵攻する作戦を立て、元正規軍と高麗軍からなる東路軍40000人を洪茶丘に託し900隻の軍船に乗せて合浦から、また主に南宋軍で構成される江南軍100000人を笵文虎(はんぶんこ)に託し3500隻の軍船に乗せて寧波(にんぽう)から、それぞれ出港させた。東路軍と江南軍は肥前国鷹島付近で合流し、140000人・4400隻からなる大軍団が結成され、鎮西奉行北条実政や、少弐資能・大友頼泰・島津久経・菊池武房ら九州の諸大名との間で死闘が展開されたものの、やはり休息中に台風が襲来して元軍に壊滅的な打撃を与え、ついにこれを撤退に追い込んだ。
元寇の結果
元寇は挙国一致体制で戦われたため、自分の奮戦を絵師に『蒙古襲来絵詞』として描かせて安達泰盛に提出して良い恩賞を要求した竹崎季長や、伊予国の河野通有など、西国御家人や非御家人も幕府の傘下として動員され、鎌倉幕府の支配が西国にも及ぶ結果となった。1293年には西国防備と九州統治の強化徹底のため、鎮西奉行に代わる鎮西探題が名越時家を初代として博多に設置された。鎮西探題は鎮西評定衆や鎮西引付衆を有する小幕府的な機関だった。一方、古来より信奉されていた神国思想は、「神風」の元軍駆逐や伊勢神道の発展などにより主に貴族層に爆発的に広まった。また土地に経済的基盤を置いて自給自足的な生活をしていた御家人は貨幣経済の発達により窮乏していたが、元寇の出費に対する恩賞は皆無に近く、諸番役の経済的負担と相俟って壊滅的打撃を被った。これは惣領制の崩壊、即ち庶子の独立を招く結果となったが、独立した庶子は地縁的結合を持つ悪党となった。悪党の抬頭は、鎌倉幕府転覆の一因となった。 
9 鎌倉幕府崩壊の序曲
二月騒動
(1272年 / 幕府内部の内紛)
北条時宗は、幕府の執政に於ける重要な事項を自分の屋敷での寄合という会議にて決定した。寄合は北条派の評定衆や外戚、それに御内人と呼ばれる北条氏に仕える人間(得宗被官)によって構成されていたため、御家人たちを蔑ろにした専制的政治を執行することができた。こうした得宗専制体制への移行を快く思わない御家人たちは反発を強めたが、この反発に対する反発として御内人たちが勃発させた内乱が、二月騒動である。鎌倉にて謎の戦闘が突如発生し、瞬く間に御家人の代表格たる名越時章・名越教時兄弟が血祭りに挙げられ、京都でも六波羅南方の北条時輔が六波羅北方の北条義宗により暗殺された。御家人らから信望が厚かった安達泰盛は、佐原頼連ら信頼できる御家人を優遇する形で事態を収拾し、結果的に勢力を拡張した。
霜月騒動
(1285年 / 御家人と御内人の対立)
御内人の最高実力者で侍所所司を兼任する内管領の平頼綱(長崎頼綱)は、勢力を拡大する御家人筆頭の安達泰盛を打倒するべく、34歳で夭折した北条時宗の後継者である北条貞時に取り入り、安達泰盛を讒訴した。平頼綱を信用した北条貞時は安達泰盛とその嫡子安達宗景の他、二階堂行景・少弐景泰・足利満氏・佐原頼連らを滅ぼし、さらに評定衆の金沢顕時・宇都宮景綱・長井時秀らも失脚に追い込んだ。霜月騒動は秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱とも呼ばれるが、秋田城介とは安達泰盛が受けていた一種の名誉職の名称である。霜月騒動により主要な政敵の抹殺を完了した君側の奸たる平頼綱は、北条貞時を半ば傀儡化して以後8年間に亘り暴政を展開した。また少弐景泰の討死に伴い九州では少弐景資と少弐経資が家督を巡って岩戸合戦を展開した。
平禅門の乱
(1293年 / 得宗専制体制の確立)
実権を掌握して暴政を執行した平禅門(入道した平頼綱)は自分の息子の飯沼助宗を将軍に就けて執権北条貞時をも上回る権力を手に入れようと企てたが、この計画を察知した北条貞時は彼を除くべく挙兵し、これを屠り去った。これを平禅門の乱と言う。霜月騒動で有力御家人たちが一掃され、この平禅門の乱で御内人の権力をも抑圧した北条貞時は、全国守護の三割程度の北条家一門独占と相俟って必然的に絶対君主たる地位を確立し、得宗であるが故に幕政を専制的に執行できる、とする得宗専制体制を実現した。しかし得宗専制体制は諸国の悪党蜂起などの問題を抱えた不安定なものであり、後の内管領長崎高資らの抬頭と相俟って鎌倉幕府は次第に腐敗していった。
永仁の徳政令
(1297年(永仁五年) / 『東寺百合文書』などに記載)
窮乏する御家人たちは、土地を売却したり質に入れたりして金を得ることが多かった。そこで幕府は永仁の徳政令を発布し、地頭などの御家人に売却した土地は20年以内のものを、また非御家人や庶民などに売却した土地は全てのものを、それぞれ無償返却させた。また裁判の増加により事務が混乱していたため、限度を越えた再審請求である越訴(おっそ)を禁止し、利銭出挙(りぜにすいこ)(利息をとること)など金銭に関する裁判を拒否した。この徳政令により一旦は御家人の窮乏は止んだが、借上(かしあげ)たちは御家人に対して融資を行わなくなったために結局は余計に御家人の困窮の度合を増大させた。このために翌年にはこの法令は撤回された。なお、御家人同士の所領売買に関する紛争については、当知行年紀法と言う法令が用いられた。 
10 鎌倉幕府の滅亡
両統迭立
後深草天皇に譲位して院政を執っていた後嵯峨上皇は第二皇子の恒仁親王を偏愛するあまり、後深草天皇に譲位させて恒仁親王を亀山天皇として践祚させた。後深草上皇は後嵯峨上皇が亀山天皇を偏愛していたがために院政も開けず、不遇な立場に置かれていた。やがて亀山天皇が皇子を後宇多天皇として践祚させ院政を開始するに至って決裂し、後深草上皇を祖とする持明院統と、亀山上皇を祖とする大覚寺統に分かれ、皇位を巡って対立した。両統の対立に伴い皇室の所領も分裂し、持明院統は後白河法皇所縁の長講堂領、大覚寺統は白河法皇所縁の八条女院領を経済的基盤としたが、規模の面では長講堂領の方が大きく、持明院統が経済的には有利であった。皇族将軍を持明院統から迎えていた鎌倉幕府の北条貞時は1287年、承久の乱以降の皇位に対する発言権を行使し、天皇を持明院統・大覚寺統の双方から交互に践祚させる両統迭立を提案、後深草上皇の第二皇子である煕仁親王(ひろひとしんのう)を伏見天皇として践祚させた。
正中の変
(1324年 / 後醍醐天皇の討幕計画)
後宇多上皇の皇子である尊治親王は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、倒幕と宋のような専制国家の樹立を志した。1317年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚した尊治親王は、平安時代の聖代(延喜・天暦の治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇に肖って自ら後醍醐天皇と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を1321年に停止させた。だが後伏見上皇が幕府の後援を受けて皇子量仁親王(かずひとしんのう)の立太子を企てたため、後醍醐天皇は側近の日野資朝や日野俊基らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告したことによりこれが露顕してしまい、美濃国に在った勤皇の士の多治見国長や土岐頼兼らは自刃した。日野資朝が一身に罪を被って佐渡国に流されたため事無きを得た後醍醐天皇は、皇子の護良親王(もりながしんのう)を天台座主に就任させることにより、寺院勢力を反幕府勢力として結集させた。
元弘の変
(1331年 / 後醍醐天皇の討幕実現)
再び討幕を企てた後醍醐天皇であったが、密告によって露顕してしまい、日野資朝は佐渡国、日野俊基は鎌倉にてそれぞれ殺された。後醍醐天皇が笠置山に逃亡したため、北条高時は持明院統の量仁親王を光厳天皇として践祚させた。やがて後醍醐天皇が逮捕されて隠岐国に流されたため討幕勢力は弱体化したかに見えたが、河内国の赤坂城や千早城(ちはやじょう)に於いて智謀を用いて幕府軍を翻弄した楠木正成(くすのきまさしげ)や、播磨国苔縄城にて挙兵した赤松則村のように諸国の悪党が続々蜂起して幕府を苦しめ、1332年には天台座主尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮として臣民の支持を一身に集めた。新田氏と足利氏は源義家の子の源義国の子、即ち源義家の孫に当たる源義重と源義康をそれぞれ祖とする源氏の名流であり鎌倉幕府では有力御家人であったが、赤松則村が幕府軍の名越高家に快勝したことを契機として新田義貞と足利高氏は幕府から離反した。1333年に足利高氏は六波羅探題を攻略して北条仲時を自害させた。そして身分が低いため足利高氏の嫡子足利義詮を大将として擁した新田義貞は鎌倉を攻略、田楽と闘犬に耽っていた無能な執権北条高時や内管領長崎高資らを自害させ、鎌倉幕府を滅ぼした。後醍醐天皇は伯耆国の豪族である名和長年(又太郎)によって船上山に迎えられ、ここで朝臣千種忠顕(ちぐさただあき)を挙兵させた。後醍醐天皇はやがて上洛して皇位に復帰した。なお肥後国の菊池武時は後醍醐天皇の隠岐脱出に際して鎮西探題の北条英時を攻撃して敗死したが、これは後に菊池氏が吉野朝に参加する契機となった。 
 
 室町時代

 

1 建武の中興(建武の新政)
中央の職制
復古的天皇親政を目指す中興政府の絶対万能な文書は、後醍醐天皇の意志を直接伝達する綸旨(りんじ)である。後醍醐天皇は後三条天皇の御世の記録荘園券契所を最高政務機関たる記録所として再興する一方、所領問題担当の鎌倉幕府の引付に相当する雑訴決断所、元弘の変以後の恩賞事務を司る恩賞方(筆頭;藤原藤房)、京都の軍事・警察機関たる武者所(頭人;新田義貞)などを設置した。なお護良親王は征夷大将軍に就任したが、これと対立する足利尊氏は後醍醐天皇(尊治親王)から一字拝領したのみであり、中興政府の役職には就任していない。後醍醐天皇はこうした情勢の下、乾坤通宝(けんこんつうほう)と言う新貨幣の鋳造を計画したり、関所停止令を下したりして優れた政治手腕を発揮した。
地方の職制
護良親王と足利尊氏の対立から、護良親王派の北畠顕家は義良親王(のりながしんのう)を奉じて奥羽を統治する陸奥将軍府を多賀城址に設置し、足利尊氏の弟の足利直義は成良親王(なりながしんのう)を奉じて関東10国を統治する鎌倉将軍府を設置した。また西国統轄のため博多には征西将軍府が設置され、征西大将軍懐良親王(かねながしんのう)が赴任した。各将軍府の設置は中央集権体制とは逆行するものであった。一方、実質的には公武折衷の方針だった中興政府の下では、諸国に公家的な国司と武家的な守護が併設されたが、実際には同一人物が任命されることが多かった。また守護が行政権を獲得したことは後の守護領国制の基盤となった。
中興政治の頓挫
後醍醐天皇は里内裏(仮の内裏)の二条富小路内裏(にじょうとみのこうじだいり)に代わる大内裏造営計画の費用として地頭から得分の五分を徴収したが、これは論功行賞の結果が厚公薄武だった上に綸旨による個別安堵の方針だったため事務が停滞したことや、中興政府に対する禅宗や律宗の坊主の介入と相俟って武士の反発を招いた。『建武年間記(建武記)』に収録されている『二条河原落書』は今様というリズムで中興政治の混乱を風刺している。また中興政治に対する期待の空転を示す例としては、中興に伴い鎌倉幕府の地頭支配から荘園領主の東寺の直接支配となり負担が軽減されると喜んだものの結局は負担の倍増に終始し、東寺に対して訴状を提出した若狭国太良荘(たらのしょう)の例などが挙げられる。やがて1335年には朝廷内でも西園寺公宗・日野氏光・三善文衡(みよしあやひら)らの後伏見法皇重祚計画が露顕するなど、次第に中興政治の行き詰まりが明らかになっていった。
中先代の乱
(1335年 / 北条時行の乱)
北条高時の子であり信濃国の諏訪頼重に匿われていた北条時行は、鎌倉幕府の再興を目標として中先代の乱を起こした。北条高時以前を先代、足利尊氏以降を後代と言うため、北条時行を中先代と言う。北条時行は鎌倉将軍府を一時陥落させたが、やがて派遣されてきた足利尊氏により鎮圧された。しかし足利尊氏は、足利尊氏排斥に失敗して鎌倉に幽閉されていた護良親王を弟の足利直義が弑逆したことを契機に中興政府に対して反旗を翻した。朝敵たる足利尊氏を誅伐するべく中央から参陣した新田義貞は箱根の竹ノ下の戦いにて返り討ちに遭い撤退、逆に足利尊氏の西上を許した。朝臣の千種忠顕を西坂本の戦いにて足利直義に屠らせた足利尊氏は1336年に入京したが、急を聞いて陸奥将軍府から参陣した北畠顕家と新田義貞の連合軍の前に惨敗した。 
2 弘仁貞観文化
南北朝の分立
九州に逃亡した逆賊足利尊氏は多々良浜合戦(たたらはまかっせん)にて朝臣の菊池武敏を破り、東上した。楠木正成と新田義貞は足利尊氏の迎撃を図ったが、楠木正成は摂津国の湊川合戦で敗れ弟の楠木正季と共に自害し、兵庫に陣した新田義貞も敗走した。上洛した足利尊氏は名和長年を討って京を完全に制圧し、光厳上皇の弟である光明天皇を擁立して光厳上皇に院政を開始させ後醍醐天皇に譲位を強要した。だが後醍醐天皇は吉野実城院に行宮(あんぐう)を設置してここに遷幸し、吉野朝の正統を主張した。ここに建武の中興は終焉し、足利尊氏が擁立した北朝と、後醍醐天皇の吉野朝(南朝)が分立し、対立した。
吉野朝の聖戦
吉野朝は逆賊に誅伐を下すべく奮戦したが、1337年には越前国金ヶ崎城にて尊良親王と新田義顕が自害し、翌1338年には和泉国の石津合戦にて北畠顕家が高師直に敗死し、越前国の藤島合戦にて新田義貞が斯波高経に惜敗、討死した。1339年には後醍醐天皇が崩御し、義良親王が後村上天皇として践祚した。後村上天皇の政務の参考とするため、次男の北畠顕信と共に逆賊と交戦していた北畠親房は「大日本は神国なり」という清々しい書き出しで有名な史論書『神皇正統記』を常陸国小田城で執筆し、百王説に基づき吉野朝の正統と皇室の神聖を説いた。1343年には北畠親房が吉野朝勢力の決起を各地に促したものの当時は逆賊の勢力が強く、後村上天皇は新たな行宮を賀名生(あのう)に構えた。1348年の四条畷合戦では高師直の前に楠木正成の子の楠木正行(くすのきまさつら)・楠木正時兄弟が敗れ自害し、北畠親房も1354年に賀名生で逝去した。しかし足利尊氏死没後の1361年には吉野朝側の楠木正儀(くすのきまさのり)が京都を占拠し、足利義詮と後光厳天皇を近江国へ逃走させる程の活躍を見せた。
地方の義戦
関東では、新田義貞の子の新田義興・新田義宗兄弟が1352年に上野国で挙兵して鎌倉を奪取したが、1358年に武蔵国多摩川の矢口渡にて新田義興が足利基氏に謀殺されるに至って劣勢に陥った。九州では征西大将軍懐良親王が活躍し、配下の武将菊池武光(菊池武時の子)は1359年に筑後川合戦にて逆賊一派の少弐頼尚を討伐して次第に吉野朝側を優勢に導き、ついには九州全土を制圧するに至った。所謂南北朝動乱は、惣村などの新たな農村共同体の形成や惣領制崩壊に伴う武士の地縁的結合の強化などの社会的変動の他、無節操な武士が状況に応じて味方する勢力を変えたりしたために、全国化・長期化の一途を辿った。
建武式目の制定
(1336年 / 足利幕府の成立)
祖父足利家時の源氏幕府再興の遺言を遵守するべく、足利尊氏は1336年に建武式目を制定した。これは十七条憲法を模倣した政治綱領であり、雑訴決断所の二階堂是円が足利尊氏の諮問に答える形式を採用している。建武式目の編纂には二階堂是円の他、弟の二階堂真恵、婆娑羅大名佐々木道誉(ささきどうよ)らが尽力した。建武式目の制定をもって足利幕府の成立と見なす説が一般的だが、実際に用いられていた法律は貞永式目とその補足の建武以来追加である。1338年に光明天皇から征夷大将軍に任命された足利尊氏は、吉野朝勢力からの逃避と幕府の経済的基盤たる商業のため、正式に京都に開幕した。
足利尊氏の贖罪
足利尊氏は、元から国交回復のため来日した一山一寧の弟子の臨済宗僧夢窓疎石(むそうそせき)の進言を採用し、1339年に崩御した後醍醐天皇の冥福を弔うための天龍寺を建立するべく、博多商人至本に命じて1341年に天龍寺船と言う貿易船を元に派遣し、明銭5000貫文を納入させた。天龍寺船は1325年に鎌倉幕府が建長寺の修築費用を得るために派遣した建長寺船を模倣したものである。なお日元間の正式な国交は樹立されなかったが、鎌倉後期から南北朝時代に掛けて民間レベルでは小規模な日元貿易が散発的に行われた。
観応の擾乱
(1350年 / 幕府・二頭政治体制の崩壊)
足利幕府は当初、革新的な足利尊氏が軍事指揮権、保守的な足利直義が司法行政権をそれぞれ掌握する二頭政治体制により順調な滑り出しを見せたが、やがて足利尊氏と足利直義は対立し、足利直義の養子である長門探題足利直冬(足利尊氏の庶子)の挙兵により、逆賊間に内乱が勃発した。この観応の擾乱では、勃発直後に足利尊氏派の初代執事(後の管領)高師直が足利直義派の上杉能憲(うえすぎよしのり)により弟の高師泰共々殺害されている。御都合主義者足利尊氏は一時吉野朝と和睦して足利直義と戦ったが、翌年にはこれと和睦した。しかし1352年にはこれを毒殺し、観応の擾乱を一応終結させた。しかし足利直冬は義父の毒殺後も抵抗を続け、1355年には一時京都を攻略、足利尊氏と後光厳天皇を一時的に逃走させている。
南北朝合一
(1392年 / 後亀山天皇の英断)
足利義詮の夭折に伴って征夷大将軍となった足利義満は僅か10歳の少年であったため、時の管領である細川頼之がこれを補佐し、事実上幕政の執行者として君臨していた。細川頼之は鎌倉幕府が九州の守護たちを統制するために設置した鎮西探題に倣って、九州の守護大名統制と吉野朝勢力削減を目的として九州探題を設置した。九州探題は当初征西将軍府に圧迫されていたが、1371年に駿河守護今川範国の子である今川貞世(今川了俊)が就任すると次第に勢力を拡大し、懐良親王の重臣菊池武光・菊池武朝らを駆逐した。また自身の傀儡化を嫌った足利義満は1379年、康暦の政変を起こして細川頼之を阿波国へ追放し、新管領に斯波義将(しばよしまさ)を登用して将軍権威向上と全国統一を目標とした政治を開始した。この間、北朝は光明天皇・崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇、吉野朝は後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇がそれぞれ践祚していたが、吉野朝の勢力の減退に付け込んだ足利義満は吉野朝の後亀山天皇に南北朝合一を呼び掛けた。これを受諾した後亀山天皇は1392年、京都の大覚寺に於いて後小松天皇に譲位し、三種の神器を引き渡し、南北朝の合一を実現した。しかし後亀山上皇は1410年に吉野へ出奔、新たに後南朝を樹立して抵抗運動を続けた。 
3 足利幕府
足利幕府の軍事的基盤
足利幕府の軍事的基盤は、足利氏譜代の家臣や二十一屋形に住む守護たちの一族、それに地方の有力武士たちを集めて編成した2000騎ないし3000騎の軍隊である。評定衆及び政所に所属する事務集団を奉行衆と呼ぶため、この軍隊は対義的に奉公衆と呼ばれたり、他に御馬廻(おうままわり)と呼ばれたりする。奉公衆は将軍の護衛と、鎌倉幕府から没収した所領や南北朝動乱にて得た土地などからなる諸国の将軍直轄領であり足利家の相伝所領である御料所の管理を行い、御料所に在って守護の動向を牽制した。
足利幕府の経済的基盤
御料所からの年貢・公事・夫役が乏しい足利幕府の財政的基盤は、有力守護から徴収する分担金や御家人から徴収する賦課金、高利貸業者たる土倉(延暦寺僧経営者多し)・酒屋・味噌屋から徴収する倉役(土倉役)・酒屋役・味噌屋役、関所の通行料たる関銭、入港料たる津料、日明貿易の10%関税たる抽分銭、市街内住宅地から徴収する地子銭(間別銭)、などである。また京都五山が祠堂修築を目的として集めた祠堂銭を用いて行う金融活動にも五山献上銭(五山官銭)として課税した。足利幕府は経済的基盤を臨時収入に依存しており、不安定だった。後に公家化に伴う奢侈のため財政が逼迫した幕府は、分一銭(ぶいちせん)を目的とした分一徳政令を乱発したり、それまでは国家的行事に際してのみ徴収された段銭や棟別銭を定期的に徴収するようになり、民衆の反感を買った。なお荘園領主・地頭・守護などが私的に課税する私段銭もあった。
中央の政治機構
中央の政治を統括する管領は三管領(細川家・斯波家・畠山家)から、また京都の警備や刑事裁判を担当する侍所の長官で山城国守護を兼任する侍所所司は四職(ししき)(京極家・山名家・赤松家・一色家)から交替で任命された。これは強大な一族の発生を防止するためだったが、このため足利幕府は事実上有力守護大名らとの連合政権と化すこととなった。また、財務管理を担当する政所の長官たる政所執事は二階堂家(後に伊勢家)が、文書保管を担当する問注所の長官たる問注所執事は三善家がそれぞれ世襲した。この他、幕政の諮問機関で引付衆を配下に持つ評定衆、政所の配下で課税を担当する納銭方(納銭方一衆)、宗教関係の雑務を担当する禅律方(ぜんりつがた)、御料所の年貢徴収を担当する倉奉行などが設置された。
地方の政治機構
鎌倉幕府のあった鎌倉を重視した足利尊氏は、関東10国を管轄とする鎌倉府を設置し、足利義詮を派遣していたが、後に四男の足利基氏を鎌倉御所として派遣し、補佐役の関東管領に上杉憲顕(うえすぎのりあき)を任命した。上杉憲顕は1368年の武州平一揆を足利氏満と共に鎮圧し、宇都宮氏綱らを討伐した。やがて小幕府的な鎌倉府は中央政府と対立し、鎌倉御所は将軍の別称の公方(くぼう)を用いて鎌倉公方と称した。永享の乱以降は関東管領を世襲する上杉家が実権を掌握したが、その上杉家もやがて扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)・山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)・詫間上杉家(たくまうえすぎけ)・犬懸上杉家(いぬかけうえすぎけ)の四勢力に分裂、抗争を展開した。詫間上杉家と犬懸上杉家は早期に滅び、1546年には河越夜戦にて上杉朝定が敗死して扇谷上杉家も滅亡し、残った山内上杉家の上杉憲政も北条氏康の圧迫により長尾景虎(長尾輝虎・長尾政虎)を頼り彼に上杉の姓と関東管領職を譲り、事実上山内上杉家も崩壊した。なお上杉憲顕の子の上杉憲英を祖とする庁鼻上杉家(深谷上杉家)には関東管領職継承権は無かったが、小田原征伐にて上杉氏憲が敗死するまで続いた。この他の地方では、今川了俊の引退後は渋川家が世襲した九州探題や、斯波家(後に伊達家)が世襲した奥州探題、奥州探題から独立し最上家が世襲した羽州探題などが設置された。
守護大名の台頭
幕府は近畿とその周辺の諸国の守護は足利家一門(斯波家・今川家・一色家・畠山家・細川家など)で固め、外様の守護はその外側に配置した。南北朝動乱の中で地方の武士を組織させる必要があったため、幕府は守護に対して鎌倉時代の大犯三箇条(謀叛人逮捕・殺害人逮捕・大番催促)の他に、田地紛争の実力行使の青田刈りを取り締まる刈田狼藉検断権(かりたろうぜきけんだんけん)や幕府裁定を執行する使節遵行執行権が与えられた。観応の擾乱の最中の1352年には足利尊氏が近江国・美濃国・尾張国に観応半済令を施行し、守護が荘園や公領からの年貢の半分を兵粮米として徴収するための兵粮料所とすることを定めた。この直後に半済令は伊勢国・志摩国・伊賀国・和泉国・河内国にも拡大され、1368年の応安半済令より後は永続的なものとなり、土地も守護所有となった。半済令は公領の多い国に於いて効果が大きかった。また1402年に備後国太田荘(高野山領)を守護の山名時煕(やまなときひろ)が守護請(荘園の年貢の徴収を守護に委任すること)して以降、各地の荘園は続々と守護請され、荘園制度は根底から覆された。守護は国衙の機能をも守護所に吸収し、任国をまるで自分の領国の如く支配した。これを守護領国制と言い、こうした強い支配を行う守護を特に守護大名と言う。多くの領国を有する守護大名は自身がいない領国に守護代を派遣して執政させたため、守護代勢力の伸長を招いた。 
4 足利幕府の興隆と衰退
足利義満の治世
南北朝動乱による公家の没落に付け込んだ足利義満は朝廷から京の市政権(警察権・民事裁判権・商業課税権)や諸国での段銭徴収権を奪い幕府の管理下に置いた。そして京都の室町に花の御所(室町殿)と言う邸宅を建て1378年からここで政務を執った。将軍在職中の1383年に准三后の宣下を受けた足利義満は、有力守護大名の勢力を削減すべく、1390年には美濃国の土岐康行を挑発して土岐氏の乱を起こさせてこれを討伐し、1391年には11国を領有し「六分ノ一殿」と称された山名氏清を挑発して明徳の乱を起こさせてやはり討伐した。この動きは1394年に足利義持に将軍職を譲った後も続き、1399年には鎌倉公方足利満兼に呼応して堺で挙兵した大内義弘・斯波義将・河野通之らを討伐した(応永の乱)。この一方で足利義満は太政大臣として貴族的な生活を送り、妻の日野業子を後小松天皇の准母として死後に鹿苑院太上法皇の位牌を残す程に増長した。なお日野業子は公家の日野資康の妹であるが、日野家はこれ以後代々将軍御台所を輩出し、それによる幕府との繋がりを利用して朝廷内で出世していった。
足利義持の治世
足利義満の没後、三宝院満済(藤原師冬の子・准三后)を政治顧問として迎えた足利義持は、日明貿易の中止や父足利義満の尊号辞退などの独自の政治を執行した。中央政府と対立状態にある鎌倉公方足利持氏(足利満兼の子)が1416年の上杉禅秀の乱で関東管領上杉氏憲を討伐すると足利義持は激怒、既に足利義量に将軍職を譲っていたものの今川範政に命じて足利持氏を攻撃させた。これは足利持氏の謝罪で解決したが、鎌倉府はこの後も不穏な動きを続けた。やがて足利義量と足利義持が相次いで没したため青蓮院義円・大覚寺義昭・相国寺永隆・梶井義承らが将軍家の家督を巡り対立した。このため三宝院満済は石清水八幡宮門前にて籤引を行い、青蓮院義円を次期将軍とした。青蓮院義円は還俗して足利義教と名乗り、1429年に征夷大将軍に就任した。
永享の乱
(1438年 / 鎌倉公方の没落)
将軍職を望んでいた鎌倉公方足利持氏は、三宝院満済による次期将軍足利義教決定に反発し、1438年に中央政府に対して反乱を起こした。この永享の乱は空前の大乱となったが、幕府は河野教通ら全国の守護大名の軍勢を関東管領上杉憲実に持たせて反乱を鎮圧させ、足利持氏を永安寺(ようあんじ)で自害させた。この永享の乱の後、関東の実権は従来の鎌倉公方から関東管領に移行した。1440年には足利持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じた結城氏朝が下総国結城城(築城は治承年間、結城朝光)に拠って結城合戦を勃発させたが、幕府と関東管領の連合軍の前に壊滅した。また鎌倉公方の事実上の実権剥奪に反発した足利成氏(あしかがしげうじ)(足利持氏の子)は1454年、上杉憲実の子の上杉憲忠を殺害したが、翌1455年には上杉顕房の反撃に敗れた。この享徳の乱の後、足利成氏は下総国の古河へ逃亡して古河公方となった。後に足利義政は弟の足利政知を関東に派遣したが関東の武士の反対で鎌倉に入れず、伊豆国の堀越公方として古河公方に対抗させた。なお古河公方は、1583年に足利義氏が無嗣のまま絶命するまで存続した。
嘉吉の乱
(1441年 / 下克上の端緒)
足利義教の治世には日明貿易の再開や1437年の大内持世による九州統一などが為されたが、足利義教は「万人恐怖」と称される暴政、具体的には比叡山焼討や家臣の粛正などを遂行した。粛正の一環として所領を削減された播磨守護赤松満祐は、足利義教の覚えめでたい庶子家の赤松貞村に実権を奪われることを恐れ、結城合戦の戦勝祝いとして足利義教を自宅に招いて側近の京極高教・山名熈貴共々息子の赤松教康に暗殺させた。こうして嘉吉の乱を起こした赤松満祐はやがて山名持豊に討伐されたため、赤松家は没落し、山名家が興隆した。
応仁の乱
(1467年〜1477年 / 公家や将軍の権威失墜と京都の焦土化)
足利義教の暗殺後、嫡男の足利義勝が将軍の座に就いたが、夭折した。これを受けて管領細川勝元は足利義勝の弟の足利義政を擁立し、実権を掌握した。足利義政の妻は、「押し大臣」の通称通り最終的に左大臣まで昇り詰めた日野勝光の妹の日野富子である。日野富子は幕府の財政立て直しのために新関設置や高利貸などの事業を展開したが、結局的に賄賂政治や米相場急騰を招き、政治経済を大混乱に陥らせた。やがて政界では細川勝元と山名宗全(山名持豊)が抗争を開始し、これに足利義政・畠山持国・斯波義健それぞれの後継者を巡る争いが絡み、応仁・文明の乱が勃発した。
東軍 西軍 概要
細川勝元 山名宗全 幕府中枢に於ける主導権争い。
足利義視 足利義尚 足利義視(浄土寺義尋)と日野富子の子の足利義尚の争い。
畠山政長 畠山義就 嫡男の畠山義就を押し退け、細川勝元が畠山政長を支持。
斯波義敏 斯波義廉 斯波義敏に反発した家臣団が渋川義廉(斯波義廉)を支持。
朝倉孝景 大内政弘 朝倉孝景は所領問題。大内政弘は日明貿易での細川勝元への怨恨。
管領馘首に抗議した畠山政長が畠山義就を攻撃した上御霊社の戦い以降、東軍と西軍が京都を主戦場として戦争を展開した結果、『応仁記』の著者の飯尾彦六左衛門尉に「汝ヤ知ル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ル涙ハ」と言わしめるまでに上京などを廃墟とした。また途中から東軍が西軍守護大名の領国を攪乱する戦法を採用したために戦争は全国に伝播し、1473年に細川勝元と山名宗全が没した後も戦いが続けられ、応仁・文明の乱が終焉した後も各地では群雄割拠の様相を呈した。この情勢下で幕府体制や荘園制などは根底から覆され、守護代や国人たちが抬頭し、一層の下剋上が展開された。また『真如堂縁起絵巻』に描かれているように応仁の乱では南北朝時代から存在していた足軽たちが自由狼藉行為や放火・略奪などで活躍したが、この足軽を用いた足軽戦法を考案したのは、1457年に武蔵国江戸城を築城した太田道灌である。 
5 室町時代の外交
倭寇
1 倭寇の発生理由
元寇という大陸からの大規模な侵略は、民族意識の高揚を招くと共に国際的な視野の拡大をもたらした。こうして発生した海賊集団の倭寇は『倭寇図巻』に見られるようなばはん船を用いて活躍した。倭寇は南北朝時代から日明貿易開始までの前期倭寇と、1551年の大内家の正統断絶から豊臣秀吉の倭寇取締令(海賊取締令)発令までの後期倭寇に大別される。
2 前期倭寇
前期倭寇は三島地方(対馬国・壱岐国・肥前国松浦)を根拠地とする日本人中心の海賊とされており、遼東半島や朝鮮半島の沿岸に進出した。倭寇が米穀強奪や現地人誘拐を行ったため高麗は衰退し、やがて倭寇退治の武将李成桂が李氏朝鮮を建国した。また北虜南倭に苦しんでいた明は海禁令を施行し、同時に倭寇の禁圧を要求してきたが、征西将軍府に着いた使者に対し時の征西大将軍懐良親王は要求を拒否した。
3 後期倭寇
日明貿易の元締めの大内義隆が陶晴賢に殺害された1551年以降、後期倭寇が活躍し始めたが、後期倭寇は倭寇王として知られる明の商人王直のように中国人が中心だった。明が傲慢なる朝貢貿易に固執して海禁令を施行し民間貿易を取り締まったために発生した後期倭寇は、上海・寧波・台湾・澳門(まかお)・東京(とんきん)などの華南地方東南部に進出し、1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。
日明貿易
1 日明貿易の開始
1368年に朱元璋(太祖・洪武帝)が建国した明に対し、義堂周信・絶海中津らを外交顧問とする足利義満は1401年、僧祖阿(そあ)を正使、博多商人肥富(こいずみ)を副使として建文帝(恵帝)への国書を持たせ、『戊子入明記』『真如堂縁起絵巻』に見られる遣明船に乗せて派遣した。建文帝は翌1402年、足利義満に「日本国王源道義」宛ての返書と明の大統暦を与えた。これは日本が中華思想に基づく冊封体制に組み込まれたことを意味するが、瑞渓周鳳は著書『善隣国宝記』の中で国家の恥辱を無視した足利義満を批判している。足利義満は1403年に「日本国王臣源」と認めた国書を建文帝に提出して勘合符を得、将軍足利義持の時代の1404年に日明貿易(勘合貿易)を開始した。貿易船と倭寇の区別のための勘合は明側の日字勘合と日本側の本字勘合の二種類があり、底簿と照合することにより確認した。
2 日明貿易の興隆
刀剣・屏風・銅・硫黄・金・扇・漆器・硯などを輸出し、銅銭・生糸・絹織物・陶磁器・書籍・大唐米などを輸入する日明貿易は、形式的には朝貢貿易だったため、永楽条約の規定通り無関税であり明滞在費や商品運搬費は明の負担であり、取引上は有利だった。永楽条約では他に貿易品を寧波で査証して交易は北京で行うことなどが定められた。足利義満の没後足利義持は1411年に貿易を中断したが、足利義教は1432年に幕府の逼迫財政補填のため貿易を再開し、1434年には貿易細則(10年1回・3隻・300人)を定めた宣徳条約を批准した。再開後の日明貿易は幕府ではなく大名・有力寺社が中心となって行われ、例えば唐物を求め入明した商人楠葉西忍(くすばさいにん)は興福寺大乗院の貿易船を利用した。
3 日明貿易の終焉
応仁の乱の頃、貿易の実権は大内政弘を背景とする博多商人と、細川勝元を背景とする堺商人に二分されていたが、やがて1523年に勃発した寧波の乱で大内義興の応援を得た博多商人が堺商人を駆逐し、貿易を独占した。しかし大内義興の嫡子大内義隆が1551年に謀殺されると、日明貿易は終焉した。日明貿易で流入した洪武通宝・永楽通宝・宣徳通宝などの明銭は広く流通し、遠隔地の年貢の代銭納(銭納)も広まったが、やがて精銭ではない鐚銭(びたせん)(私鋳銭・焼銭・欠銭など)が流通した。商人たちが精銭を優先する撰銭(えりぜに)を行ったため経済は混乱したが、幕府や大名は撰銭令を出してこれに対処した。なお、日本初の撰銭令は1500年に大内義興が施行した。
日朝貿易
足利義満は1392年に李氏朝鮮側の要望に応じて倭寇の取り締まりを約束したため、日本と李氏朝鮮の間に国交が開かれた。こうして発生した日朝貿易は、当初より幕府だけではなく守護大名や豪族や商人が参加していたために活発に行われるようになった。日本から李氏朝鮮へは南方貿易により得た蘇木(蘇枋(すおう)の木;赤い染料の原料)や香木(香料の原料)を始め日明貿易とほぼ同様のものを輸出し、李氏朝鮮からは木綿や、仏教研究に多大なる貢献をすることになる大蔵経(一切経)の経典版木、朝鮮人参などが輸入された。なお木綿は、庶民が平常服として着ただけではなく戦国大名も戦闘服として採用したため、その原料たる綿花の栽培が河内国や三河国などで行われるようになった。日朝貿易では幕府発行の通信符が用いられたので通信符貿易と呼ばれるが、対馬国の宗氏一族も日朝貿易に介在するため李氏朝鮮への渡航許可証として文引(ぶんいん)を発行した。宗貞茂は倭寇の取り締まりなどを積極的に行い日朝間の友好に努めたが、彼が死ぬと倭寇の再来を恐れた李氏朝鮮は、倭寇本拠地の対馬国を奇襲し、一方的な大虐殺を行った。1419年に発生したこの応永の外寇(己亥東征(きがいとうせい))により日朝貿易は当然中断されたが、1423年に再開され、宗貞茂の子の宗貞盛により1443年に嘉吉条約(癸亥約条)が締結されてより後は再び活発となった。朝鮮使節の宗稀が著した紀行文『老松堂日本行録』は摂津国尼崎付近の高い農業技術を賛美している。日朝貿易によって朝鮮半島に在住する日本人(恒居倭)も増えたが、李氏朝鮮は彼らに対して富山浦(ふざんほ)(現;釜山)・乃而浦(ないじほ)(現;薺浦)・塩浦(えんぽ)(現;蔚山)といった三浦(さんぽ)に倭館を設置して様々な特権を与えていた。しかしやがて李氏朝鮮がこの特権を縮小していったため1510年にはこれに反発した恒居倭が三浦の乱を勃発させた。この三浦の乱以降、日朝貿易は衰退していった。
琉球王国
沖縄島は三山(北山・中山・南山)に分かれ、それぞれぐすくに住む按司により支配されていたが、中山の尚巴志(しょうはし)は1429年にこれを統一し、琉球王国を建てた。琉球王国の財源は日明両国に対する朝貢貿易を利用した中継貿易(仲継貿易)であり、琉球船は日明両国の他、ジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島でも活躍し、16世紀前半の尚清王の時には守礼門(首里城)を建設する程の勢いを見せたが、やがて欧州人が貿易の独占を開始すると衰退し、1609年には尚寧王が薩摩藩主島津家久に捕縛され、日本の属国・属領となった。後の明治時代の廃藩置県の際、沖縄県の設置に伴い尚家は華族となった。16世紀から17世紀に掛けては琉球文化が開化した時期であり、琉球の古代歌謡である「おもろ」を編集した『おもろそうし』などが完成された。 
6 室町時代の社会
産業の発達
日明貿易によって災害に強く収穫が多い大唐米(占城米(ぱんちゃまい))・赤米・めくろの米などが輸入され、西日本を中心として栽培が始まった。室町時代には二毛作が全国に広まり、一部では米・麦・蕎麦の三毛作も行われ始めた。また米の品種改良も進み、収穫時期が違う早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)が開発され、水車の発明、龍骨車の輸入により灌漑技術も進展し、厩肥・下肥の本格的な使用、備中鍬などの開発と相俟って農業生産力は大きくなっていった。また『七十一番職人歌合』に見られるように、鍋や釜や鍬などの日用品を製造して販売する鋳物師や、刀を製造販売する鍛冶、それに塗師(ぬりし)・研師(とぎし)・鎧師(よろいし)・経師(きょうじ)・番匠(ばんしょう)などが存在していた。生活に余裕を持った農民は苧・桑・楮・漆・藍・茶などの栽培を副業として営むようになり、各地で新たな特産品が作られ始めた。主な特産品としては、山城国京都の西陣織をはじめ加賀国・丹後国・常陸国などの絹織物の他、美濃国の美濃紙や播磨国の杉原紙(すいばらがみ)や越前国の鳥子紙(とりのこがみ)など楮・三椏・雁皮を原料とする和紙、備前国長船・美濃国関・越中国則重・伊勢国村正などの刀剣、主に伊勢国などにおいて揚浜法や入浜法により塩田で製造された塩、美濃国・尾張国の陶器、能登国・筑前国の釜、出雲国の鍬、河内国の鍋などが知られている。この他、戦国時代には佐渡国の相川金山や甲斐国の黒川金山、伊豆国の伊豆金山、石見国の大森銀山や丹波国の生野銀山などが戦国大名の財源確保のため開発された。
座の概要
平安末期に始まった座は、公家や寺社などの本所に保護される代償として隷属関係を結んでいた点で西洋のギルドと異なる。主な座としては、近衛・兵衛府の保護下の四府駕輿丁座・織手座・白粉座・青苧座、興福寺の保護下の絹座・綿座・魚座・塩座、祇園社の保護下の綿座・錦座・材木座、石清水八幡宮の末社の離宮八幡宮に直属していた大山崎油座(荏胡麻油座)、北野神社の保護下の西京酒麹座、東大寺の保護下の木工座などが挙げられる。やがて本所の没落に伴い、座は本所に営業税たる座役を支払う代わりに仕入・販売・営業の独占や関銭免除などの特権を獲得するようになった。座頭と座衆で構成される座は室町時代には全国的に結成され、特産品の製造販売や注文生産を行った。商人たちは市でも販売を独占するべく、営業税たる市座銭(市場税)を納めて販売座席たる市座を確保し、市人(いちびと)と言う特定商人として市の主体をなした。やがて楽市楽座令の発布や座に属さない新儀商人の出現などにより、座は衰退していった。
商業取引の発展
それまでの路上販売たる立売に代わり、鎌倉時代には店頭に商品を陳列する見世棚が設けられるようになり、室町時代に入ってからは店内に商品を置く店ができた。また平安末期には呼び売りして歩く振売が多かったが、室町時代に入ると木製の運搬道具である連雀(れんじゃく)を背負って行商する連雀商人が出現、城下町などの中に連雀町を形成した。また京都では鵜飼集団の桂女(かつらめ)が鮎や朝鮮飴を、女性行商人の大原女(おはらめ)が炭や薪を、それぞれ販売した。商品の流通量の増加に伴い、定期市は以前の三斎市に代わって月6回の六斎市が開かれるようになった。また京都には米場、淀には魚市が設けられ、それぞれが米穀と魚の唯一無二の卸売市場となった。この頃の代表的な運送業者としては、馬借や車借、さらに千石船などを用いる廻船などが挙げられる。
惣村の形成
南北朝時代に小百姓の名主化に伴う農民層の画一的平均化が為されたため、近江国の菅浦(すがのうら)・今堀日吉(いまぼりひえ)・得珍保(とくちんほ)・大浦など畿内を中心として惣村(惣・惣荘)が発生した。乙名(おとな)・長・年寄(おとな)・月行事・番頭・沙汰人などの国人層を頭目とする地縁的且つ自治的な結合を持つ惣村は、神社祭礼を司る氏子組織の宮座により取り仕切られた寄合にて入会権(入会地の使用権)や結(もやい)(共同作業)や灌漑用水の番水制を合議的に裁定し、有事には宮座を中心として起請文(きしょうもん)を認め「一味神水」の集団として惣百姓が結束した。加持子(かじし)(地代)を小作人から徴収したため加持子名主と呼ばれる国人層は、守護大名と主従関係を結ぶこともあった。惣村は惣掟(惣規約・村掟・村法・地下掟(じげおきて)・郷置目(ごうのおきめ))に基づき自検断(地下検断)として警察権や裁判権を行使し、守護不入として守護使の干渉を拒絶した。守護大名に対抗する必要上、惣村は他の惣村と連合して郷・庄を作り、それぞれ惣郷・惣庄として共同行動したが、この郷村制は兵農分離の実施により次第に封建支配の末端機関と化した。農民たちは、年貢の徴収などを領主に対して共同で請け負う地下請(百姓請)を行った。
民衆の団結と蜂起
守護大名らの圧政に対し、年貢減免や地頭・代官罷免を求める農民は集団で蜂起した。農民たちは要求事項を百姓申状に認めて領主に嘆願する合法的な愁訴や、違法行為の強訴(ごうそ)・逃散(ちょうさん)を行い、最終的に目的完遂のための「一味同心」の集団として一揆を結成し、武力をもって圧政に対峙していくようになった。
正長の徳政一揆
(1428年 / 日本初の土民蜂起)
南北朝時代に国人一揆の白旗一揆があったものの、一条兼良の子の興福寺僧尋尊(じんそん)が著した『大乗院日記目録』に「日本開闢(かいびゃく)以来土民蜂起是れ初め也」と記載されているようにこの正長の徳政一揆は土一揆の先駆けである。足利義教の将軍就任が確定したため社会観念に基づく代始めの徳政(天下一同の徳政)を要求する凡下の間には不穏な動きが起こり、近江国坂本の馬借の蜂起を端緒として畿内各国で土一揆が勃発した。幕府は徳政令を発令しなかったが土民は土倉・酒屋を襲撃し、実力で借金を踏み倒す私徳政を断行した。将軍空位だったため正長の徳政一揆は管領畠山満家が鎮圧したが、この一揆に於ける農民たちの徳政宣言は大和国柳生郷の徳政碑文に記載されている。翌1429年に勃発した播磨の土一揆は『薩戒記』に記されているように「侍ヲシテ国中ニ在ラシムベカラズ」、即ち播磨守護赤松満祐らの国外退去を要求したが、赤松満祐本人により捻り潰された。
嘉吉の徳政一揆
(1441年 / 幕府、徳政令を発令)
足利義勝の将軍就任が決定した1441年にはやはり代始めの徳政を要求する嘉吉の徳政一揆が勃発し、一揆軍が京都市街を占領した。幕府は一揆終焉のため徳政令を発布した。これ以降幕府は済し崩し的に徳政令を乱発し、1454年の享徳の土一揆では徳政令を発布する代わり債務額の1 割を分一銭として徴収する分一徳政令を一国平均徳政令として発布した。また1457年の長禄の土一揆では、土倉などが債権額の数割を幕府に納入することでその土倉などを徳政の対象から外す、徳政禁制令を発令した。
山城の国人一揆
(1485年 / 戦国時代の下克上)
応仁の乱の終結後も畠山義就と畠山政長は山城国で抗争を続けていたため、尋尊の著作『大乗院寺社雑事記』に記載されている山城の国人一揆が勃発した。畠山軍を追放した国人たちは宇治平等院にて国中掟法を定め、荘園復活・新関停止を断行した。やがて傀儡守護伊勢貞陸を擁立した国人たちは、月行司(三十六人衆)の下で南山城国を8年間に亘って自治した。こうして、凡下たちの間にも下剋上の風潮が広まっていった。
加賀の一向一揆
(1487年 / 一向一揆の端緒)
『墓帰絵詞』に見られる三世法主本願寺宗昭(覚如)により開かれた一向宗最小派閥の本願寺派を率いる八世法主本願寺兼寿(蓮如)は、「あなかしこ」で終わる御文(おふみ)や信仰者集会の講(こう)を活用し、専修寺派など他の派閥を押し退けて本願寺派を最大派閥たらしめた。天台坊主に本願寺を焼かれた本願寺兼寿は越前国吉崎道場(吉崎坊)へ移っていたが、加賀守護富樫政親が門徒(一向宗信者)の弾圧を開始したため、現世の政治には従い援助せよ、とする「王法為本」を説く本願寺兼寿は山科本願寺に移った。『蔭涼軒日録』に記載されている通り1487年には加賀の一向一揆が勃発し、翌1488年には一向宗門徒が高尾城を攻めて富樫政親を自害させ、傀儡守護富樫泰高を擁立した。『実悟記拾遺』に「百姓ノ持タル国」と記された加賀国は、以後小一世紀に亘って独立自治を保ったが、石山本願寺から派遣されて来た奉行の下間頼照と門徒衆の間にて内ゲバが勃発したところに上杉謙信軍と織田信長軍の挟撃を受けて壊滅的打撃を被り、やがて織田家北陸遠征軍率いる柴田勝家によって1579年、叩き潰された。 
7 室町文化
南北朝動乱による武士・民衆の抬頭は南北朝文化を現出させたが、足利義満の時代の北山文化と足利義政の時代の東山文化は公家文化と禅宗文化が融合された武家文化だった。やがて応仁の乱で都を焼け出された公家などの都の文化人が地方の有力大名の下に身を寄せたため戦国時代には各地で中央の文化を受け継いだ天文文化が開花した。
宗教
足利尊氏の側近であり著作『夢中問答』で知られる夢窓疎石は、南北朝動乱による死者の冥福を祈るため、利生塔(りしょうとう)と言う供養塔の他に一国一寺の割合で安国寺を建立した。また足利義満は相国寺を建立した側近の春屋妙葩の建言を入れ、宋の官寺制を模倣して臨済宗の五山十刹(ござんじっさつ)の制を定めた。この制度では南禅寺が別格上位、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺が京都五山、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺が鎌倉五山とされ、僧録司に所属する僧録に統轄された。これに対し大徳寺の一休宗純ら林下の僧も活躍した。日蓮宗では『立正治国論』を足利義教に提出して罰せられた鍋冠り上人こと日親や法華一揆を結成した京都の町衆らが活躍したが、1536年の天文法華の乱の後、管領細川晴元の抑圧もあって衰退した。なお神道では、京都吉田神社の神官吉田兼倶(よしだかねとも)が『唯一神道名法要集』を著して、神本仏迹説に基づく吉田神道こと唯一神道を確立した。庶民の間では七福神信仰や地蔵信仰、さらに札所巡礼と観音聖場巡礼による観音信仰が流行し、伊勢詣・熊野詣・善光寺詣などが盛んに為された。
文学及びそれに類するもの
『神皇正統記』 / 北畠親房が百王説に基づき吉野朝の正統性を証明すると共に後村上天皇の為政のため常陸国小田城にて執筆した史論書。
『太平記』 / 吉野朝側の小島法師が著した軍記物語。講釈師の太平記読みにより全国に広まる。
『梅松論』 / 作者不詳。今川了俊が自分の活躍を誇示するため著した『難太平記』と同様、足利幕府側の見地から記されたもの。
『応仁記』 / 飯尾彦六左衛門尉の著。前述の名文句で有名。『承久記』『明徳記』と共に軍記物の『三代記』とされる。
『建武年中行事』 / 後醍醐天皇が著した有職故実書。有職故実書としては北畠親房の『職原抄』や一条兼良の『公事根源』も有名。
『新葉和歌集』 / 後醍醐天皇の皇子宗良親王(尊澄入道親王)が編纂。ちなみに宗良親王自身の和歌集は『李花集』。
『新続古今和歌集』 / 飛鳥井雅世の和歌集。
『三韻一覧』 / 周防国山口で刊行された大内版という出版物。この頃、京都五山からは五山版が刊行された。
『中生子』 / 中巖円月が著した日本初の朱子学研究書。この他、五山文学としては義堂周信の『空華集』や絶海中津の『蕉堅藁』など。
『菟久波集』 / 日本初の連歌集。『増鏡』の著者と目される二条良基が編纂。後に準勅撰となる。
『応安新式』 / 二条良基が連歌の規則を明示したもの。これによって、連歌は次第に和歌と対等の地位を確立していった。
『新撰菟久波集』 / 東常縁から古今伝授(『古今和歌集』の秘事・口伝)を受け、一条兼良に古典を師事し、連歌を心敬に学んだ飯尾宗祇の著作。正風連歌を確立。なお飯尾宗祇は紀行文『筑紫道記』や弟子の宗長・肖柏と詠んだ『水無瀬三吟百韻』でも有名。
『新撰犬筑波集』 / 山崎宗鑑の著作。山崎宗鑑は荒木田守武と共に俳諧連歌を確立。
『閑吟集』 / 宗長による編纂。「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの……」などといった、小歌を大成。
『実隆公記』 / 三条西実隆の日記。三条西実隆は飯尾宗祇から古今伝授を受け、飛鳥井雅親に和歌を学び、『雪玉集』などを残す。
『河海抄』 / 四辻善成が著した『源氏物語』の注釈書。後に一条兼良はこれを訂正、『花鳥余情』を著す。
『樵談治要』 / 「五百年以来の才人」と称された碩学・一条兼良が『文明一統記』と共に足利義尚に提出。足軽の登場を記す。
『小夜の寝覚』 / 一条兼良が日野富子に提出。一条兼良の著作としては他に有職故実書『江家次第抄』などがある。
『一寸法師』 / 『文正草子』『物臭太郎』『浦島太郎』『酒呑童子』と同様、立身出世と神仏霊験譚を中心とした御伽草子の一つ。
『医学大全』 / 堺の阿佐井野宗瑞が著した日本初の医学書。なお堺では道祐が「正平版論語」として『論語集解』を版行した。
『甲陽軍鑑』 / 武田四名臣の一人高坂昌信が著した原本を春日惣次郎が書き継ぎ、小幡景憲が江戸初期に編纂。武家教育の教科書。
建築・絵画
鹿苑寺金閣 / 増長を続ける足利義満が北山山荘に建立。下から順に寝殿造・武家造風寝殿造・禅宗様の三層構造。将軍家の貴族化を示す。
慈照寺銀閣 / 東山山荘に避難した足利義政が建立。上が禅宗様、下が書院造の二層構造。東求堂同仁斎は付書院を有する書院造の源流。
龍安寺石庭 / 「虎の子渡し」で知られる。慈照寺庭園・大徳寺大仙院庭園・西芳寺庭園と同様、善阿弥ら山水河原者による枯山水で有名。
『布袋図』 / 黙庵が描いた水墨画(宋元画)。南北朝時代の水墨画としては、他に可翁の『寒山図』が挙げられる。
『瓢鮎図』 / 如拙が禅の公案を題材として描いた禅機画。北山文化では如拙の他に明兆(兆殿司)や周文も活躍。
『四季山水図巻』 / 主に山口の雲谷庵で活躍して日本的な水墨画様式を完成した雪舟(等楊)の作品。他に『秋冬山水図』『天橋立図』も有名。
『周茂叔愛蓮図』 / 狩野派の始祖狩野正信の作品。子の狩野元信は『大仙院花鳥図』を描く。土佐派では土佐光信が出て宮廷絵所預として活躍。
茶道その他
南北朝時代には茶の異同を飲み分けて懸けをする闘茶や茶寄合が盛んに行われたが、これは能阿弥によって茶の湯と言う芸能に昇華された。やがて足利義政の茶道師範であり一休宗純に師事したことで有名な村田珠光は禅の精神を盛り込んで茶禅一味の境地を開拓し、所謂「一期一会」の精神で知られる佗び茶を興した。書院の茶ではなく草庵の茶として発展した佗び茶は、武野紹鴎を経てその娘婿の千利休により大成された。なお堺出身の千利休・今井宗及・津田宗及の三人を、三宗匠と言う。一方、池坊専慶が創始した花道は後に池坊専応・池坊専好らによって発展された。
芸能
興福寺を本所とする大和猿楽四座(観世座・金春座・金剛座・宝生座)のうち観世座から輩出された観阿弥清次とその子の世阿弥元清は足利義満の同朋衆であり、民間の田楽能と寺社の猿楽能を融合して能を大成したことで知られている。世阿弥元清は、謡・舞・技の最高境地たる幽玄と、稽古・工夫公案を重視した『風姿花伝』『花鏡』を著し、娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)に能を継承した。ちなみに能の台本を謡曲、能を行う者が顔面に着ける面を能面、能の合間に演じられる科白劇を狂言と言う。この他、桃井直詮が創始した幸若舞や、古浄瑠璃・風流踊り・念仏踊り・盆踊りなどが流行した。なお、幸若舞では、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を受け、滅せぬ者の有るべきか……」という『敦盛』の一節があまりにも有名である。
学問
朱熹の『大学』を注釈した『大学章句』を刊行して薩摩国の島津忠昌の下で薩南学派を開いた桂庵玄樹や、土佐国の吉良宣経の下で海南学派を開いた南村梅軒、武蔵国の太田道灌に仕えた万里集九など戦国時代には多数の朱子学者が活躍した。また鎌倉時代に足利義兼が設置した足利学校は上杉憲実と快元により復興され、「坂東の大学」と称される程発展し、多数の逸材を世に輩出した。なお当時の庶民教育に用いられた教科書は『貞永式目』や玄恵の『庭訓往来(ていきんおうらい)』であり、辞書は饅頭屋宗二(林宗二)が刊行した『節用集』などである。 
8 戦国時代
戦国時代
家臣の知行地の面積や収穫量の明細書を大名に提出させることを指出検地と言う。土地の広さは貫高制(永楽通宝の場合は永高制)、即ち収穫量を明銭に換算した金額で表され、戦国大名はそれを保障する代わりに貫高相応の軍役などを賦課した。軍役を負担する家臣(給人)の下に戦国大名は国人らを組織し、やがて家臣を一族衆(一門)・国衆(譜代)・新参衆(外様)に分け、兵卒も足軽・あらし子・仲間(ちゅうげん)・小者・郎党・同心などに分けて軍奉行に統轄させた。こうした非常時体制のことを寄親・寄子制と言う。また大名領国制下で戦国大名は領国にのみ通用する分国法(壁書・家法)を制定したが、分国法は連坐法・縁坐法や喧嘩両成敗法など、厳罰主義のものが多かった。主な分国法としては、伊達稙宗の『塵芥集』、結城政勝の『結城家法度』、伊勢長氏の『早雲寺殿二十一箇条』、武田信玄・武田信繁の『甲州法度之次第』、今川氏親・今川義元の『今川仮名目録』、朝倉孝景(朝倉敏景)の『朝倉孝景条々』、六角義治の『六角氏式目』、三好長治の『新加制式』、大内義興の『大内氏掟書』、長宗我部元親・長宗我部盛親の『長宗我部氏掟書』、相良為続・相良長毎・相良晴広の『相良氏法度』などが挙げられる。一方、戦国大名は一極集中による商工業の発展と家臣の謀叛防止のため城下町を造成した他、宿駅制・伝馬制の整備や関所の消極的な撤廃などを行った。主な城下町としては、北条家の相模国小田原、今川家の駿河国府中、斎藤家の美濃国井ノ口、朝倉家の越前国一乗谷、長尾家の越後国春日山、大内家の周防国山口、一条家の土佐国中村、大友家の豊後国府内、島津家の薩摩国鹿児島などが挙げられる。これら城下町の他、摂津国石山・越前国吉崎・和泉国富田林・大和国今井・美濃国円徳寺など一向宗の寺院の敷地内には寺内町が、また宗派に関係無く寺社の門前には、延暦寺の近江国坂本、伊勢神宮の伊勢国宇治山田、善光寺の信濃国長野などの門前町が形成され、さらに『耶蘇会士日本通信』の中でガスパル= ヴィレラをしてヴェニスに形容せしめた堺をはじめとする港町、それに宿場町などが形成された。港町としては和泉国堺の他、筑前国博多、備後国草戸千軒町、摂津国兵庫、薩摩国坊津、越前国敦賀、備後国尾道、若狭国小浜、近江国大津、伊勢国桑名、伊勢国大湊などが知られているが、このうち堺は36人の納屋衆(会合衆(えごうしゅう))が、博多は12人の月行司がそれぞれ自治した。
東北地方の情勢
奥州探題として君臨していた伊達稙宗は1542年に次男の伊達実元を上杉定実に入嗣させようとしたが、嫡男の伊達晴宗がこれに反発し天文の大乱が勃発した。天文の大乱は伊達稙宗の隠居により終焉したが結果として伊達家の支配力の弱体化を招き、伊達晴宗の嫡男である伊達輝宗は政略結婚を多用して版図を維持することとなった。伊達輝宗は義兄の最上義光の策謀による内紛発生を懸念して嫡男・伊達政宗に家督を継がせたが、自身は二本松義継に暗殺され落命した。この事件を契機として1585年に勃発した人取橋合戦にて寡兵の伊達政宗は蘆名義広・佐竹義重らと戦い、1589年の摺上原合戦では蘆名義広を駆逐して黒川城(会津若松城)を占拠し、東北の覇権を確立した。一方、東北地方北部では南部晴政・南部信直親子が「三日月の丸くなるまで南部領」という広大な版図を誇っていたが、1571年に津軽為信が独立したためやや弱体化した。
関東甲信越地方の情勢
今川義忠の妹婿伊勢長氏は、1491年に堀越公方足利政知の遺児足利茶々丸を謀殺して韮山城を占拠し、初の本格的な戦国大名となり、1495年には大森藤頼から小田原城を奪取し、1516年には三浦時高を討った。伊勢長氏(北条早雲)の嫡男である北条氏綱は扇谷上杉朝定から河越城を奪う一方、1538年に勃発した第一次国府台合戦では古河公方足利晴氏を擁して小弓御所足利義明・里見義堯連合軍を粉砕し、1546年には嫡男の北条氏康が足利晴氏と山内上杉憲政、扇谷上杉朝定らを河越夜戦で破り、後北条家の覇権を確立した。一方、武田晴信は父の武田信虎を駿河国へ追放して家督を奪ったものの、1548年の上田原合戦では村上義清に惨敗した。だが村上義清の居城戸石城は真田幸隆の謀略により陥落したため村上義清は越後国の長尾景虎を頼った。こうして1553年には武田信玄(武田晴信)と長尾景虎の間で第一次川中島合戦が勃発し、以降第三次川中島合戦まで睨み合いが続いた。この間、足利義輝の偏諱を受けて改名した長尾輝虎は1557年に北条氏康から逃れて来た山内上杉憲政より上杉姓と関東管領職を継承して上杉政虎(上杉謙信)となった。上杉謙信は1559年に佐野昌綱が籠る下野国唐沢山城を包囲する北条氏政の大軍を44騎で駆逐し、さらに小田原城を攻撃したが、武田信玄が北進し始めたため転進した。こうして1561年に勃発した第四次川中島合戦(八幡原合戦)では武田信玄が当初山本勘介発案の啄木鳥戦法を用いたものの失敗し、武田信繁・山本勘介・諸角虎定らが討死するなどの苦戦を強いられたが、高坂昌信らの活躍により優勢に転じ結果的に川中島を版図とした。武田信玄が在原業平の末裔長野業盛が守る箕輪城を陥落させた後の1565年にも第五次川中島合戦が勃発したが、これは睨み合いに終始した。一方、第二次国府台合戦で里見義弘を破った北条氏康は1568年に子の北条氏秀を上杉謙信の養子として越相同盟を締結、翌年にはこれに反発して来襲した武田信玄を小田原城に籠城して撃退、やがて甲相同盟を締結した。北条氏康は1571年、武田信玄は1573年、上杉謙信は1578年に逝去した。
近畿・中国地方の情勢
1493年の明応の政変にて管領細川政元は将軍足利義尹を追放して足利義澄を擁立したが、1508年の永正の政変にて大内義興に支持された足利義尹は足利義稙として将軍職に復位した。一方、管領細川晴元は1532年に一向一揆を煽動して三好元長を討ったが、1549年には三好元長の子の三好長慶に駆逐された。やがて幕府の実権を掌握した三好長慶は1553年、芥川城にて畿内周辺を版図とする三好政権を樹立したが、次第に松永久秀に実権を奪われ、1564年に三好長慶が死去すると松永久秀の傀儡である三好義継が後継した。松永久秀と三好長逸・三好政康・岩成友通ら三好三人衆は1565年に将軍足利義輝を惨殺して京都から宣教師を追放したが、やがて対立して奈良で戦い東大寺大仏殿を焼失させた。一方、大内義興の子で後奈良天皇の即位式に資金を供出するなど栄華を極めていた大内義隆は1551年、重臣の陶晴賢に謀殺され滅亡した。陶晴賢は傀儡君主として大内義長(大友晴英)を立てたものの1555年の厳島合戦にて大江広元の末裔毛利元就に討伐された。大内家の旧領を継承した毛利元就は正親町天皇の即位式の資金を出す一方、月山富田城を攻略して尼子義久を滅ぼし、主家・浦上宗景を滅ぼしていた宇喜多直家と同盟するなどして地盤を固めた。やがて1571年に毛利元就は逝去したが、嫡孫毛利輝元、次男吉川元春、三男小早川隆景に残した「三矢の訓戒」は、尼子家再興を志したものの河合渡で惨殺された山中幸盛(山中鹿之介)の話と共にこの地方の逸話として有名である。
四国・九州地方の情勢
一条房家の助力で御家再興を果たした秦氏血統の長宗我部国親は土佐国統一を目指し、1560年の長浜合戦では初陣の嫡男長宗我部元親の活躍もあって宿敵本山茂辰を下した。長宗我部元親は1575年に土佐国を統一し、1585年には四国統一を果たした。なお伊予国の河野通直は同年、豊臣秀吉から命じられた転封を拒否したため改易され、河野家の正系は断絶した。一方、1543年に鉄砲、1549年に基督教が伝来した九州では、1554年に島津貴久が肝付兼続との加治木城の戦いにて日本史上初の鉄砲実戦使用を敢行した他、宗義調が倭寇取締・貿易船年30隻を定めた弘治条約(丁巳約条)を締結して日朝貿易による利益で潤い、また龍造寺隆信が少弐冬尚を討って戦国大名となるなど群雄割拠の情勢が続いていたが、二階崩れの変を経て大友義鑑から家督を継承した大友宗麟(大友義鎮)は1570年の今山合戦にて龍造寺隆信の重臣鍋島直茂の前に惨敗し、日向国の基督教国化を謀り島津義久と戦った1578年の耳川合戦でも島津義弘らの猛攻を受けて破れ、弱体化した。大友宗麟は、有馬晴信や初のキリシタン大名大村純忠らと共に1582年、伊東マンショ(伊東祐益)・千々石ミゲル(千々石清左衛門)・原マルチノ・中浦ジュリアンらを天正遣欧使節としてローマへ派遣したが、沖田畷合戦(島原合戦)で龍造寺隆信を破った島津軍の猛攻の前に弱体化を続けた。
東海地方の情勢
曳間城の斯波義逵を攻略して守護大名から戦国大名に転身した今川氏親の急死により、今川家は太原雪斎が推す今川義元(梅岳承芳)と福島正成が推す今川良真(玄広恵探)の二派に分裂したが、1536年の花倉の乱に勝利した今川義元が家督を継承した。今川義元は守山崩れにて落命した松平清康の子の松平広忠を軍門に下す一方、二度にわたる小豆坂合戦を織田信秀との間で戦い勢力を伸張し、1554年には太原雪斎の助力により北条氏康・武田信玄との間で政略結婚による相互監視を基本とした相互不可侵条約たる善徳寺会盟を締結し、西進の準備を推進した。一方、美濃国では守護の土岐頼芸を1542年に追放した家臣の斎藤利政(斎藤道三)が実権を掌握した。そうした情勢の下の1534年、尾張国守護代織田信友の奉行である織田信秀とその正室土田御前との間に、織田信長が誕生した。 
 
 安土桃山時代

 

1 覇王天翔 − 織田信長の年譜
桶狭間合戦
(1560年 / 覇王・織田信長の興隆)
1551年に家督を継いだ織田信長は翌1552年の正徳寺会見で舅の斎藤道三を後盾につけ、守護斯波義統を奉じていたもののこれを殺害した織田信友を討伐して肥沃な尾張国を統一した。しかし長良川合戦にて斎藤道三が斎藤義龍に討たれると反発が高まり、やがて1557年には林通勝(林秀貞)・林光春・柴田勝家らが織田信長の廃嫡と弟の織田信行の擁立を企てた。こうして発生した稲生合戦は織田信長の勝利に終り、許された織田信行は再度謀叛したため殺害された。やがて松平広忠の嫡男で太原雪斎の教育を受けた松平元康を先鋒として今川義元が来襲したが、織田信長はこれを田楽狭間に急襲して討ち取り、その名を全国に知らしめた。
上洛への道程
前田利家が足立六兵衛を討つなどして活躍した森部合戦を端緒として本格的な美濃国の攻略を開始した織田信長は、桶狭間合戦を契機として独立したものの本多正信らが参加している一向一揆に苦しんでいた徳川家康(松平元康)と清洲同盟を締結した。美濃国では斎藤義龍の子の斎藤龍興が居城稲葉山城を家臣竹中重治に一時乗っ取られるなどの混乱が続いていたが、織田信長の家臣木下秀吉の根回しにより美濃国の重臣美濃三人衆(安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全)が織田家に内通したため、1567年には織田信長が美濃国を完全に制圧した。稲葉山城を岐阜城と改めた織田信長は、1549年に六角定頼が石寺新市に初めて下した楽市令に倣い城下町加納に楽市楽座令を施行する一方、妹の市姫(小谷ノ方)を浅井長政に嫁がせた他、この頃から「天下布武」の印章を使用し始めた。やがて正親町天皇の上洛要請を受諾した織田信長は1568年、足利義輝の弟の足利義秋(後に足利義昭と改名)を奉じて上洛し、これを将軍職に就けて三好政権を駆逐した。なお、松永久秀は織田信長に帰順した。
信長包囲網の結成と崩壊
織田信長による傀儡化を嫌った足利義昭は、武田信玄・本願寺光佐・毛利元就・浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・雑賀衆などに御内書(ごないしょ)を下し、信長包囲網を形成した。織田信長は1570年の対朝倉義景戦である金ヶ崎城の戦いにて背後から縁戚の浅井長政に攻められたものの木下秀吉と松永久秀の活躍により窮地を脱し、同年の姉川合戦では徳川家康と共に浅井長政・朝倉義景に壊滅的打撃を与えた。この後、浅井長政とその父の浅井久政は小谷城で、また朝倉義景は刀禰坂合戦で敗北した後に朝倉義鏡に裏切られ、それぞれ自害した。織田信長は翌1571年には浅井・朝倉軍の一部を隠匿した比叡山延暦寺の焼討を敢行した。一方、1572年の三方ヶ原合戦では盟友の徳川家康が武田信玄に惨敗したが、武田信玄は三河国野田城を攻撃中に病を発し、帰途、信濃国駒場にて落命した。これを知らずに挙兵した足利義昭は1573年に潰され備後国鞆ノ津へ追放となり、ここに室町幕府は名実共に滅亡した。足利義昭は後に准三后・足利昌山と号し、やがて没したが、豊臣政権の京都所司代前田玄以は棺職人一人しか派遣せず、葬儀を執り行った鹿苑寺の西笑承兌を嘆かせたという。足利義昭の追放後、近衛前久ら朝廷公卿を介して正親町天皇に奏上して天正改元を実施した織田信長は、まず名物狩りを行って名物茶器を収集してこれを土地に代わる御恩とする所謂茶道政道を開始する一方、経済的基盤を確固たるものにすべく木下秀吉に命じて独立的気風の強い堺を服従させ、堺政所に茶人として有名な松井友閑を起用し、これを直轄支配した。
織田政権の施策
戦国大名たちは治水事業などにより従来の谷戸よりも大規模な田を多数開墾していたため、織田信長は田畑の面積・耕作人・標準収穫量を申告させる指出検地を実施した。また織田信長は、流通の促進を図る関所撤廃令や、美濃国加納と近江国安土山下町などでの楽市楽座令の施行、さらに座に属さない新儀商人の保護などの抜本的な政策を断行した。この結果、荘園領主や国人などの中世的勢力や、座商人などが完全に没落した。また織田信長は撰銭令を出して貨幣の流通の促進を図る一方、堺・大津・京都・草津などの直轄都市からは矢銭を徴収した。なお宗教政策としては基督教を優遇し、朝山日乗らが著名な詭弁家として挙げられる日蓮宗などの仏教を弾圧した。
織田信長の天下統一作業
信長包囲網に荷担して日本初の天守閣付城郭たる多聞山城に籠城していた松永久秀は1573年に降伏したものの、1577年には信貴山城にて再び謀叛し、織田信長の嫡男織田信忠に攻められて名物『平蜘蛛茶釜』と共に爆死した。一方、武田信玄の遺言を無視した武田勝頼が徳川家康の家臣奥平忠昌が拠る三河国長篠城を攻撃したことに端を発する1575年の長篠合戦では、『信長公記(しんちょうこうき)』の記述の信憑性などの観点から数は不明であるものの多くの鉄砲を用いた織田信長と徳川家康が勝利した。織田信長は翌1576年には安土城を築いたが、第一次木津川口海戦では毛利輝元の家臣児島就英率いる毛利水軍に完敗を喫し、さらに1578年には荒木村重が謀叛した。しかし1578年の第二次木津川口海戦では南蛮渡来の技術を駆使した鉄甲船を駆る九鬼嘉隆の織田水軍が毛利水軍に勝利し、これによって補給線が絶たれた本願寺光佐は1580年に石山本願寺を退去し、ここに石山戦争は終結した。織田信長は1581年、次男北畠信雄の独断を契機とする天正伊賀の乱を制圧する一方、山内一豊の妻の千代の内助の功の逸話で知られる天覧馬揃えを敢行し、さらに翌1582年には徳川家康と共に天目山の戦いにて武田勝頼・武田信勝らを自害させ、これを平定した。織田信長の天下統一は正しく目前と言えたが、石山戦争に絡む佐久間信盛・佐久間信勝の追放、1580年の筆頭家老林通勝の馘首、快川紹喜の「心頭滅却すれば火もまた涼し」の名言で知られる甲斐国恵林寺の焼討などにより、家臣団の内部にはある種の緊張感が流れていたようである。
本能寺の変
(1582年 / 日本史上最大の政変)
備中国高松城水攻め中の羽柴秀吉から応援要請を受けた織田信長は西国へ向かう途中、京都の本能寺に泊った。当時、柴田勝家は北陸、滝川一益は関東、丹羽長秀は四国、そして羽柴秀吉は中国地方を攻略中であり、有力諸将の大半が京都から離れていた。明智光秀はこれを好機として娘婿明智秀満に本能寺を襲撃させ織田信長を自決に追い込み、自身は二条城を攻めて織田信忠を殺害した。この謀叛の動機としては、一般的には怨恨説が採用されているが、他にも足利義昭教唆説・近衛前久教唆説・織田信忠反乱失敗説・堺会合衆陰謀説、などが提唱されており、真相は不明である。 
2 南蛮人の活躍
大航海時代
羅針盤の改良による遠洋航海技術の進歩、マルコ= ポーロの『世界の記述』の影響、イベリア半島失地回復運動の余勢、オスマン= トルコによるシルクロードの遮断、十字軍による東洋世界との接触、香辛料の獲得、旧教の勢力拡大運動、などの様々な理由により15世紀から16世紀に至るまでの欧州には大航海時代と呼ばれる時代が訪れた。大航海時代には、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見、1498年のヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓、1522年のマゼラン一向による世界周航の達成などの地理上の発見が盛んになされた。欧州諸国は東南アジアに植民地を多く建設したが、ポルトガルの植民地の中心はインドのゴアや華南東海岸のマカオであり、やはり旧教国であるイスパニアの植民地の中心はルソン島のマニラである。
鉄砲伝来
(1543年 / 於・大隅国種子島)
寧波へ向かう予定であったメンデス= ピントー率いる船は、嵐によって種子島に漂着した。南浦文之(なんぽぶんし)が著した『鉄炮記』によると、船員のゼイモトの放った火縄銃の威力に驚いた当主種子島時堯は、莫大な財を彼らに与えてこれを2丁購入したようである。鉄砲は元来刀鍛治の技術があった日本では爆発的に広まり、堺・根来・国友などには専門的に鉄砲を製造する鉄砲鍛冶が出現した。鉄砲の普及に伴い築城法は従来の山城から平山城、平城へと変化していき、戦闘法も鉄砲足軽隊中心の集団戦法に変化した。
キリスト教の伝来
(1549年 / 於・薩摩国鹿児島)
反宗教改革の最中、イグナティウス=ロヨラと共に「死体のように」活動することを規定した耶蘇会(イエズス会)を結成したフランシスコ=ザヴィエルは、薩摩国出身でマラッカにいた国際逃亡殺人犯アンジローの案内により薩摩国鹿児島へ1549年に到着し、島津貴久の許可の下、基督教(天主教・耶蘇教・吉利思丹宗・切支丹宗)の布教を始めた。この後、ザヴィエルは松浦隆信の平戸、大内義隆の山口、大友義鎮の豊後国府内などで布教し、中国への渡航後広東で熱病のため死去したが、大内義隆の治める山口にはコスモ=デ=トルレスが日本初の教会堂を建て、大友義鎮は大村純忠・有馬晴信・小西行長・松浦隆信・黒田孝高・黒田長政・高山重友・一条兼定・蒲生氏郷・織田秀信らキリシタン大名の端緒となるなど、その影響は大きかった。この他の宣教師としては、堺の自治体制とその繁栄をヴェニスに比定した『耶蘇会士日本通信』の著者であるガスパル=ヴィレラや、九州・近畿を中心に布教活動を行い、織田信長にも謁見し『日本史』を執筆したルイス=フロイス、織田信長の厚遇を受け、安土に神学校(セミナリオ)、京都に南蛮寺(コレジオ)を建てたネッキーソルド=オルガンティーノ、そして彌助なる黒人奴隷を織田信長に譲渡し後に正親町天皇も欲した狩野永徳筆『安土城屏風』を拝受したり、教皇グレゴリオ13世に謁見する天正遣欧使節を企画したり、銅版活版印刷術を導入して基督教教義書『どちりな・きりしたん』や『天草版平家物語』『伊曾保物語』などのキリシタン版(天草版・長崎版)を発行したアレクサンドロ=ヴァリニャーニなどが知られている。なお、日本人初の伴天連(宣教師)は肥前国出身のロレンゾ(了西)であり、日本語が不自由なルイス=フロイスに代わり朝山日乗を論破したことで知られている。
南蛮貿易
南蛮貿易は島津家の鹿児島・山川(やまがわ)・坊津(ぼうのつ)、松浦家の平戸、大村家の長崎・横瀬、大友家の豊後国府内、織田家の堺などの港町を中心として、主にポルトガル人やイスパニア人などといったナウと言う貿易船を用いる南蛮人(後の蘭・英国人は紅毛人)との間に行われた貿易である。日本は銀・刀剣・漆器・屏風などを輸出し、白糸・絹織物・鉄砲・火薬・硝石・香料・皮革などを輸入していた。キリシタン大名の中には南蛮貿易の利潤が目的で基督教信徒となっている者もおり、最後まで信仰を貫いたキリシタン大名は大村純忠・大友宗麟・高山重友(高山右近)・小西行長らごく少数だった。 
3 太閤飛翔 − 豊臣秀吉の年譜
豊臣秀吉の覇権継承
本能寺の変を受けた羽柴秀吉は敵将清水宗治の切腹をもって毛利輝元と和議を締結し、中国大返しの後、山崎合戦にて明智光秀を破り、「明智の三日天下」を終結させた。明智光秀は小栗栖にて落命した。清洲会議にて羽柴秀吉は北畠信雄・丹羽長秀らと共に織田三法師(織田秀信)を推してこれが後継者となったが、結果的に清洲会議は織田信長の三男神戸信孝を推した柴田勝家との対立を深める結果となり、翌1583年には織田信雄が岐阜城の神戸信孝を滅ぼしたことを受けて賤ヶ岳合戦が勃発した。賤ヶ岳合戦は後に「七本槍」と賞賛される加藤清正・福島正則・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治・糟屋武則・平野長泰らの活躍もあって羽柴秀吉の勝利に終り、柴田勝家は小谷ノ方と共に越前国北ノ庄城にて自害した。この際、茶々姫(淀君)・初姫・小督姫は救出された。一方、羽柴秀吉の傀儡となることを嫌った北畠信雄が徳川家康の元に走った結果勃発した1584年の小牧・長久手の戦いでは、甥の三好秀次の拙劣な采配により池田恒興・森長可らが討たれるなど羽柴秀吉は劣勢に立たされたが、北畠信雄が唐突に和睦を成立させたため徳川家康は名分を失い、徳川家康が羽柴秀吉の妹の旭姫を正妻に迎えて和議が成立した。羽柴秀吉はこれにより、事実上後継作業を完了した。
小田原征伐
(1590年 / 後北条家の滅亡と伊達政宗の帰順)
後北条家四代目の北条氏政は、嫡男北条氏直に家督を譲った後も実権を握り、対外的には反豊臣の立場を維持していた。北条氏直の配下武将猪股邦憲が真田昌幸の所領である信濃国名胡桃城を攻撃したことを口実とした豊臣秀吉は、約220000人の兵から構成される大軍を自ら率いて関東へ下向した。北条氏政は町を内包している小田原城に籠城したものの、重臣松田憲秀らの寝返りもあって四ヶ月余りで落城した。主戦派である北条氏政・北条氏照らは死罪、北条氏直は高野山への流罪に処せられ、ここに後北条家は滅亡した。伊達政宗もこの小田原征伐に際して豊臣秀吉に屈服したため、結果的にこの小田原征伐に於いて事実上の全国統一が達成された、と言える。
豊臣政権
天正の石直しの断行や諸法令の施行、それに大名統制のため大きな権威を必要とした羽柴秀吉は四国平定の直後の1585年、近衛前久の養子として正親町天皇から関白宣下を受けた。自称平氏の羽柴秀吉は源平交代思想により征夷大将軍に就任できなかったため、1586年には後陽成天皇から太政大臣の位と豊臣姓・桐の紋を賜り、有力諸将に従来の羽柴姓を与え、関白太政大臣豊臣秀吉を氏長者とする羽柴家が日本を統治するという古代の公家政権を模倣したような豊臣政権を樹立し、後陽成天皇の聚楽第行幸の際に諸将に忠誠を誓わせた。豊臣政権は、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景(死後に上杉景勝)ら五大老と、石田三成・増田長盛・浅野長政・前田玄以・長束正家ら五奉行(年寄衆)により運営され、その財政的基盤は、蔵入地と呼ばれる220万石程度の直轄地からの収入、京都・大坂・堺・伏見・長崎・博多などの直轄都市からの矢銭、相川金山・大森銀山・生野銀山などの直轄鉱山からの金銀などだった。豊臣秀吉は後藤徳乗に高純度の贈答用金貨として天正大判を鋳造させたが、天正大判は、皇朝十二銭最後の乾元大宝以来の国産の公的貨幣である。
太閤検地(天正の石直し)
1582年の山城国検地を端緒として羽柴秀吉が断行した太閤検地では、従来の貫高制に代わる石高制や、全国共通の京枡、それに加持子名主らの中間搾取を否定する一地一作人制が採用された。石高は、上田1石5斗・中田1石3斗・下田1石1斗・下々田0石9斗のような石・斗・升・合単位の反別標準収穫量に町反畝歩制の面積を乗じて算出されたが、町反畝歩制では1町=10反=100畝(せ)=3000歩で、1歩は1間(6尺3寸)だった。年貢は検地奉行が村毎の石高を記した検地帳(水帳)に基づき二公一民で村毎に課された。結局、太閤検地は大名知行制の基礎を確立させ、中世的土地領有関係を否定したため小農民の自立を招いたが、農民は耕作権を保障される代わりに土地に束縛され、年貢負担が義務付けられる結果となった。
兵農分離
太閤検地反対一揆たる葛西・大崎の乱や肥後一揆(佐々成政が引責自害)を鎮圧した豊臣秀吉は、1588年に方広寺大仏建立のための釘・鎹の収集を口実として一揆予防と兵農分離を目的とした刀狩令(日本初の刀狩令は柴田勝家)を行い、また1591年には武士・商人・農民を分離する身分統制令を発令した。結果的に太閤検地と刀狩令と身分統制令により兵農分離が確立され、一領具足などの半農半武は消滅した。
豊臣秀吉の外交
豊臣政権は大坂・京都・長崎の商人に朱印船貿易を行わせるため海賊取締令を発令したりしていたが、1587年の九州平定時に、大村純忠が長崎を基督教会に寄進したり、日本人奴隷の売買や基督教徒による寺社破壊が行われていることを知ると、急遽博多で伴天連追放令を発令し、翌日には大名禁教令も施行、棄教を拒否した高山重友らの所領を没収した。豊臣秀吉はゴアポルトガル政庁やマニライスパニア政庁に入貢を、また高砂族(たかさごぞく)が住む高山国(たかさんぐに)(台湾)に原田孫七郎を派遣して服属をそれぞれ要求するなど次第に強圧的な態度をとっていった。1596年にイスパニア国籍船が突如土佐国に漂着したサン=フェリペ号事件は、乗員の不穏当な発言が増田長盛を通して豊臣秀吉の耳に入ったため、長崎浦上のフランシスコ会士26聖人殉教事件にまで発展した。 
4 朝鮮出兵
朝鮮出兵への道
一連の兵農分離の動きに対する民衆の不満を逸らすため、また軍需景気や対外貿易の利益拡大を要求する商人たちのため、加えて肥大化した自らの自己顕示欲のために、「大明長袖国」を軽蔑する豊臣秀吉は大明征伐(唐入り)を決意した。手初めに明への通過点に存在する李氏朝鮮に対して降伏を勧告しようとした。しかし宗義調(そうよししげ)と小西行長はこの勧告が無視されることを予期し、それに伴う兵禍を恐れ、全国統一の祝賀使として使者を派遣することを李氏朝鮮に対して要求した。しかし李氏朝鮮はこれを拒否した。困窮した小西行長と宗義智(そうよしとし)(父の宗義調は心労により病死)は先例に倣って密かに使節を派遣し、その返礼使を派遣することを要請した。かくして黄充吉が派遣されて来たものの、豊臣秀吉はこれを祝賀使と思い、傍若無人に振る舞った。黄充吉は忠実に兵禍の危険性を報告したが、政治腐敗・事勿れ主義・平和惚けに浸っていた朝鮮政府はこの報告に耳を貸さなかった。通信使に同行した柳川調信(やながわしげのぶ)や僧玄蘇らも同様の訴えを朝鮮政府に対して行ったが、却下された。
文禄の役
(1592年 / 第一次朝鮮出兵・壬申倭乱)
人掃令により人口調査を行った豊臣秀吉は肥前国名護屋城を築き、ここを拠点として158000人程の兵卒を朝鮮半島に進出させた。この朝鮮出兵にて兵站線を担当したのは神屋宗湛(かみやそうたん)(神谷宗湛)・島井宗室ら博多商人である。政治腐敗による暴政に苦しんでいた朝鮮人は進出して来た宇喜多秀家率いる日本軍を解放軍のように迎え、半島西部を進撃する加藤清正は一気に首都漢城を陥落させ、東部を突き進む小西行長も豆満江の畔の会寧(かいねい)まで進軍した。しかしやがて郭再佑(かくさいゆう)らが率いる義民軍や、亀甲船を配備した海軍を率いる李舜臣(りしゅんしん)などの活躍によって苦境に立たされ、李如松が明の援軍を率いて参戦して戦況が一層悪化したため、日本軍は碧蹄館(へきていかん)の戦いで圧勝したことを機に、1596年に講和した。なお小西行長は文治派にも拘らず先鋒を努めたが、これは朝鮮出兵による財力の浪費に伴い豊臣政権が揺らぐことを憂えた石田三成ら五奉行の要請に応じ、各地で戦線拡大の抑制を目指して活動するためだった。
慶長の役
(1597年 / 第二次朝鮮出兵・丁酉倭乱)
豊臣秀吉は文禄の役の講和条件として対明七箇条の要求を示したが、沈惟敬・楊方亨らが持参した万暦帝の国書には「汝ヲ封ジテ日本国王ト為ス」、即ち豊臣秀吉を明に服属する冊封体制の下の国の王として明皇帝が認めると記されていた。豊臣秀吉は激怒し、再び朝鮮半島に小早川秀秋を総大将とする140000人程の軍勢を進出させた。だがこの慶長の役では、作戦が良い講和条件を引き出すべく半島南部を占領するという曖昧なものだったことに加え、文禄の役で敵国へ寝返った岡本越後守(沙也可(さやか))が伝えた鉄砲を敵軍が装備していたため、日本は加藤清正が蔚山城に籠城するなどの苦戦を強いられた。また巨済島海戦で政敵元均が敗死したため李舜臣が復活し、彼に対馬海峡の制海権を奪われ物資の補給が困難になったこと、また文治派と武断派の対立が露顕したこと、などの理由により日本は混乱を強いられ、1598年の豊臣秀吉死去を受けて撤退した。なお李舜臣は後世「東洋のネルソン」と称されたが、結局は露梁海戦にて敗死している。
朝鮮出兵の結果
連行され、或いは自発的に渡海した朝鮮人により、多くの技術が伝来された。まず活版印刷術が導入され、盛んに用いられるようになった。後陽成天皇は勅令を活字に起こした所謂『慶長勅版』を刊行したことで知られている。なおこの朝鮮出兵時にもたらされた活版印刷術は木版を使用するものであり、これ以前に南蛮人がもたらした銅版を使用する活版印刷術よりも効率が良く、普及していった。次に陶磁器の製作技術が伝来した。これは江戸時代のお国焼きと言われる陶磁器、即ち有田焼・高取焼・松浦焼・薩摩焼・萩焼などに用いられた。また朱子学も本格的に伝来した。政治的な結果としては、五奉行の危惧した通り朝鮮出兵に伴って豊臣政権は弱体化し、さらに武断派(武将派)の誤解によりこれと文治派(文吏派)が激しい抗争を開始する結果となった。 
5 桃山文化
日本史上初の仏教とは無関係の文化である。新興の武家と豪商の財力を基盤とした現実的且つ人間的な文化であり、城郭などに代表されるその豪華さ、及び佗び茶による精神性などは未だかつて類を見ない程である。また南蛮貿易による南蛮文化の影響も見られる。故に桃山文化は「日本のルネサンス」とも呼ばれている。
建築
多聞山城 / 松永久秀が佐保山に築いた、日本初の天守閣を持つ城。近世城郭の模範。なお城は、政治的見地から山城→平山城→平城と変遷した。
犬山城 / 1537年に織田信康が築いた、現存する最古の天守閣を持つ城。現存している他の城郭としては彦根城・松江城・松本城などが有名。
安土城 / 1576年に織田信長が築城。外に琵琶湖に映えるよう金箔が施され、内に狩野永徳の障壁画を有した「天主閣」は5層7重。本能寺の変後、焼失。
姫路城 / 1609年に池田輝政が築城。白鷺城。5層7重の天守閣に3つの小天守閣が渡櫓で結ばれた連立式天守閣。二条城と共に、世界文化遺産。
伏見城 / 豊臣秀吉の没した城。都久夫須麻神社本殿・唐門と西本願寺唐門・書院(鴻の間)が遺構。なお、この頃の建築には欄間・破風などがある。
聚楽第 / 豊臣秀吉が築いた京都の邸宅(城郭?)。西本願寺飛雲閣と大徳寺唐門が遺構。この他、京都には徳川家康が二条城を築城。
妙喜庵待庵 / 千利休による茶室建築。茶室建築としては、この他にも織田長益(織田有楽斎;有楽町の語源)の如庵が有名。
絵画
『洛中洛外図屏風』 / 障壁画にて水墨画と好対照な金碧濃彩画たる濃絵の大成者狩野永徳の作品。他に『唐獅子図屏風』『檜図屏風』も有名。
『松鷹図』 / 狩野山楽の作品。他に『鷙鳥図屏風』も有名。狩野派の作品としては、他に狩野長信の『花下遊楽図屏風』、狩野吉信の『職人尽図屏風』、狩野内膳の『豊国祭礼図屏風』、狩野秀頼の『高雄観楓図屏風』などが有名。
『山水図屏風』 / 浅井家臣海北綱親の五男海北友松の作品。他に『牡丹図・梅花図屏風』『雲龍図』『琴棋書画図』なども有名。
『松林図屏風』 / 雲谷等顔と同様雪風の流れを汲むとする長谷川等伯の作品。子の長谷川久蔵との合作『智積院襖絵楓図・桜図』も有名。
『世界地図屏風』 / 南蛮屏風の一。この他、蒲生氏郷が所有した『泰西王侯騎馬図屏風』も南蛮屏風。
その他の文化
まず歌道では、豊臣秀吉の甥で下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)の師となった木下勝俊(長嘯子)が近世和歌の創始者として君臨した。また三条西実隆の孫の三条西実枝の弟子である細川藤孝(細川幽斎)も『衆妙集』を著すなどして活躍し、関ヶ原合戦での危機を後陽成天皇に救われた後は二条派の正統として八条宮智仁親王・松永貞徳らの師となった。茶道は千利休らによってこの頃広く浸透し、織田長益・細川忠興・古田重然(古田織部)・蒲生氏郷・高山重友・荒木村重は特に利休七哲(七高弟)と称された。一方、碁では本因坊算砂、将棋では大橋宗桂といった名手が出た他、琉球渡来の蛇皮線を日本で改良した三味線が人形操りに取り入れられ高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が隆達節(隆達小歌)を発案したことにより浄瑠璃節が大成された。また出雲大社の巫女と言われている出雲の阿国によりかぶき踊りの一種としての阿国歌舞伎が創始された。なお、この頃はカボチャ・ジャガイモなどを用いた南蛮料理が盛んに食された他、タバコ・カステラ・パン・コンペイトウなどの嗜好品や、カッパ・ジュバン・ラシャ・ビロードなどの日用品、それに天文学・医学・地理学などの新知識も渡来し、南蛮文化が開花した。 
 
 江戸時代

 

1 江戸幕府の成立
関ヶ原合戦
(1600年 / 豊臣秀頼、摂河泉三州65万石の大名に没落)
武断派が北政所、文治派が淀君を担いで抗争を続ける中、徳川家康は石田三成らを掃討するべく石田三成の親友直江兼続を家老とする会津の上杉景勝に上洛を命じ、上杉景勝が直江兼続に所謂「直江状」を書かせて徹底抗戦の構えを見せたことを口実としてこれを討伐するべく下向した。やがて予想通り石田三成が毛利輝元を総大将として挙兵したため、徳川家康は小山軍議で福島正則・加藤清正・山内一豊ら諸将の協力を得て西上し、美濃国関ヶ原で西軍と激突した。東軍は徳川秀忠が真田昌幸に足留めされていたため兵数では不利だったが、吉川広家が西軍総大将毛利輝元を大坂城に止めさせていた上、小早川秀秋らの変心もあって勝利した。石田三成・小西行長・安国寺恵瓊ら西軍首脳は京都六条河原にて斬首されたが、島津義弘は本領安堵を勝ち得た。
江戸幕府の成立
(1603年 / 徳川家康、征夷大将軍に)
伏見城にて後陽成天皇から将軍職を賜り江戸幕府を開いた徳川家康は、1605年には徳川秀忠に将軍職を譲って徳川家が世襲することを示し、淀君ら大坂方に圧力を加える一方、豊臣秀頼に孫娘の千姫を嫁がせて太閤贔屓の世論を懐柔した。藤堂高虎の普請による江戸城改築工事は1606年に竣工したが、徳川家康は駿府城へ移り駿府政権を樹立、大御所政治を始めた。徳川家康の側近本多正信・本多正純親子の讒言で徳川秀忠の側近大久保忠隣(おおくぼただちか)が処罰されるなど、大御所政治では徳川家康の力が絶対だった。
大坂の陣
(1614年〜1615年 / 豊家滅亡)
徳川家康の側近としては、本多正信・本多正純・後藤庄三郎・西笑承兌・閑室元佶・以心崇伝・林羅山・南光坊天海の他、京都所司代板倉重昌、勘定頭松平正綱、幕府政商茶屋四郎次郎(中島清延)、長崎奉行長谷川左兵衛らが挙げられる。一色秀勝の子の南禅寺住持以心崇伝(金地院崇伝)と林家の祖たる林羅山、それに明智光秀同一人物説があり上野寛永寺や川越喜多院を開いたことで知られる南光坊天海らは1614年、豊臣秀頼が方広寺に奉納した鐘の銘のうち「国家安康」「君臣豊楽子孫殷昌」という文句を曲解して方広寺鐘銘事件を起こし、豊家家老片桐且元を詰問した後、大坂冬の陣を勃発させた。後に和議が締結されたが大坂城は堀を埋められて無力化し、集合していた浪人たちも大野治長ら君側の奸の愚行のため次第に自暴自棄になり、翌年の大坂夏の陣では木村重成・真田幸村・長宗我部盛親・後藤基次・毛利勝永・三好政康・薄田兼相(すすきだかねすけ)・塙直之・明石全登(あかしてるずみ)らの奮戦も空しく大坂方の敗北に終わり、豊臣秀頼と淀君は自害した。なお方広寺鐘銘の作者清韓文英の友人で子の古田重広が大坂方に参加した古田重然は、切腹させられた。大坂の陣で真の士が皆無となり表面上の平和が到来したことを、元和偃武(げんなえんぶ)と言う。
徳川家康の死没
(1616年 / 派閥抗争勃発)
徳川家康の葬儀方法を巡り、以心崇伝(円照院本光国師)は「明神」として祀るべきだと主張したが、南光坊天海(慈眼大師)はそれが豊臣秀吉の「豊国大明神」に通じるとして反発、「東照大権現」とするべきであると主張した。この抗争は諸大名からの信望が厚かった南光坊天海の勝利に終り、徳川家康は「東照大権現」として久能山から日光へ改葬された。なお父の本多正信が徳川家康の没後50日目にさながら後を追うように病死したため本多家の家督を継いだ本多正純は、所謂「宇都宮釣天井事件」という馬鹿げた嫌疑を受け、失脚している。 
2 幕藩体制
軍事的基盤
将軍の直臣のうち1万石以上の者を大名、1万石未満の者を直参(じきさん)と言う。直参は、将軍への御目見得(謁見)が可能であり知行地(旗本知行地)を支給され知行取と呼ばれる旗本と、将軍への御目見得が不可能であり100俵以下の蔵米を支給され蔵米取と呼ばれる御家人に大別される。諸士法度により統制された直参は、旗本約5000人、御家人約17000人、合計約22000人から構成された。下級旗本と御家人に支給された米のことを扶持米と言い、また旗本の家来と御家人を合わせて俗に旗本八万騎と言う。旗本たちの中には白柄組や神祇組などの旗本奴と呼ばれるチンピラがおり、町人のチンピラである町奴としばしば抗争した。特に1657年に発生した旗本奴水野成之と町奴幡随院長兵衛との抗争は有名である。幕府の軍事力としてはこの直参の他に、非常時に各大名が200石につき5人を供出して編成される非常設の軍隊や、大坂奉行と京都所司代の下に設置された鉄砲奉行、若年寄の下に武官として編成された番方の一種である鉄砲百人組などがある。鉄砲百人組・大番・書院番・小姓組番などの番方の対義語が、奉行・群代・代官などを指す役方である。
経済的基盤
幕府直轄領たる天領(御料・御領)は400万石であり、それに旗本知行地の300万石を加算した700万石(全体の25%)が幕府の根本的な基盤である。他に、大久保長安らが収入拡大に尽力した相川金山・青野銀山・縄地銀山・大森銀山・生野銀山・足尾銅山などの直轄鉱山からの収入、江戸・京都・大坂・駿府・奈良・長崎・堺などの直轄都市からの御用金、天領からの本途物成・小物成、大名からの御手伝金・献上金、直参からの小普請役金(こぶしんえききん)、商工業者からの運上金・冥加金・地子銭、三貨の貨幣鋳造権の独占、その他朱印船貿易独占に伴う利益などにより幕府初期の財政は安定していた。
幕府の職制
徳川家康の三河時代以来の職制は、月番交代制や合議制などで特定個人への権力集中を防止するため将軍の権限が強く、また戦時体制を兼ねる「庄屋仕立て」である。原則として役職に就任できるのは譜代大名と旗本のみだった。幕府の政務執行機関は老中・大目付・若年寄・三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)で構成される評定所である。当初は年寄と称されていた老中は譜代大名から選任される一般政務統轄者であり、常に5人程が就き、大名を監察する大目付の他、大番頭などを従えていた。非常時には12万石以上の譜代大名から大老が選任(初代大老は島原の乱の時の土井利勝)されたが、のべ13人の大老のうち、6名を井伊家が占めた。若年寄は老中補佐と江戸城中の事務を職掌とし、無城の譜代大名が就き、直参を監察する目付の他、鉄砲百人組・書院番頭・小姓組番頭などを従えた。寺社奉行は関八州以外の私領の訴訟や全国の寺社・寺社領の管理を職掌とし、三奉行中唯一譜代大名から選任された。町奉行は江戸町奉行とも称され、月番交代制の南北両奉行所が与力・同心を用いて江戸を統治した。大岡忠相は南町奉行、遠山景元は北町奉行として知られている。勘定奉行は当初は勘定頭と称され、幕府財政・天領民政・天領と関八州旗本領の訴訟を職掌とし、代官を従えた。代官は民政担当の地方と訴訟担当の公事方に分かれるが、いずれも陣屋に居住した。代官の大規模なものが、関東郡代(初代は伊奈忠次)・美濃郡代・飛騨郡代・西国筋郡代などの郡代である。この他、幕府重要直轄地には遠国奉行として京都町奉行・大坂町奉行・駿府町奉行の他、長崎・奈良・堺・山田・日光・佐渡に奉行が配置され、また戦略上の拠点には大坂城代・二条城代(警備を司る二条定番も設置)・伏見城代・駿府城代などの城代が置かれた。また京都には、京都護衛、朝廷の監察及び連絡、西国諸大名の監察を職掌とする京都所司代が設置された。
大名統制
1 知行制
大名知行制とは大名が公儀から知行地を預かって管理運営を行う体制のことである。大名は藩主として藩を経営し、将軍の陪臣に相当する藩士を扶養した。また藩では、家老が藩独自の勘定奉行や町奉行を支配し、郡奉行が代官や手代を行使して民政を司った。藩士には地方知行制に基づいて知行地が支給されたり、俸禄制度に基づいて俸禄米・切米・扶持米・給銀などが支給されたりした。なお対馬藩・松前藩はそれぞれ朝鮮人・アイヌ人との交易権を知行とする商場知行制であった。
2 藩・大名の種類
大名は将軍家の親類たる親藩、三河時代以来の家臣たる譜代大名(当初は譜代衆)、その他の外様大名、という三種類に大別される。親藩は尾張家(始祖徳川義直)・紀州家(徳川頼宣)・水戸家(徳川頼房)からなる御三家や、田安家(徳川宗武)・一橋家(徳川宗尹(とくがわむねただ))・清水家(徳川重好)からなる御三卿、その他松平家などで構成され小藩が多かったが、御三家と御三卿からは将軍が輩出された。譜代大名は最大が彦根藩井伊家35万石であるように領地は少なかったが要職に就くことができ、外様大名はその逆で、さらに辺境の地に配置された。
3 武家諸法度
徳川家康・徳川家継・徳川慶喜以外の全将軍が発令(徳川吉宗以降は前代踏襲)した武家諸法度は、明治政府司法省編纂の『徳川禁令考』に記載されている。1615年に徳川秀忠が発令した以心崇伝起草の武家諸法度元和令では、一部例外を除き一大名に一城のみを残した元和一国一城令の徹底、即ち築城禁止・修築許可制なとが定められた他、大名間の私婚が禁止された。また将軍と大名の君臣関係確立のため大幅に遅れて徳川家光が1635年に発令した林羅山起草の武家諸法度寛永令では500石積以上の大型船建造禁止(黒船来航まで継続)や無許可の関所の新設禁止、それに参觀交替(参勤交代)等が制度化された。参觀交替は前田利長が生母芳春院を徳川家康に送って以来慣例として行われていたが、ここで毎年夏の四月に国元・江戸間を大名行列で往来するように制度化されたことにより、軍役や御手伝普請など他の奉公と相俟って大名に財政的打撃を与える結果となった。なお当初は家臣の子弟を証人屋敷に配置する人質制が行われていたが、1665年に撤廃された。武家諸法度に違反した場合、大名は改易や減封、国替(転封)等の罰に処せられた。改易された大名としては広島藩主福島正則・福井藩主松平忠直・高田藩主松平忠輝らが知られている。また最上騒動・伊達騒動・黒田騒動・前田騒動などの御家騒動も続発した。
朝廷統制
禁裏御料は当初1万石だったが、徳川家光と徳川綱吉がそれぞれ1万石ずつ加増して3万石となった。江戸幕府は1600年に板倉勝重(徳川家光の乳母に斉藤利三の娘お福(後の春日局)を推挙した人物)を初代の京都所司代として朝廷の監察にあたらせた。また朝幕間の事務連絡を司る武家伝奏(2名)も設置された。朝幕関係は後陽成天皇が豊家贔屓であったため元来悪く、1611年には後陽成天皇が幕府の朝廷人事への干渉に抗議して政仁親王に譲位したが、天皇に学問を勧め改元権を容認するものの武家への官位任免権と紫衣・上人号の勅許権は幕府が掌握する、という禁中並公家諸法度が以心崇伝の起草により1615年に施行されると更に緊迫した。徳川秀忠は1620年に末娘徳川和子を後水尾天皇の中宮として入内させて権威の向上を図る一方、1626年には後水尾天皇や近衛信尋らを招待して示威のための二条城行幸を行ったが、翌1627年には禁中並公家諸法度施行以降の紫衣勅許を無効とした幕府に対し後水尾天皇が激怒し、抗議のため徳川和子との間の皇女興子内親王(明正天皇)に譲位した(紫衣事件)。「天魔外道」以心崇伝は幕府を批判した大徳寺僧沢庵宗彭(たくあんそうほう)を出羽国上山、玉室宗柏を陸奥国棚倉に配流したが、沢庵宗彭は赦免後に江戸へ戻り、品川の東海寺を開いた。
寺社統制
まず全国の寺院は以心崇伝起草の宗派別の諸宗諸本山法度(寺院法度)と言う法令と、各宗共通の諸宗寺院法度により統制され、所有地も将軍家から寄進される御朱印地に限られ、さらに本山・末寺制度により総本山・本山・末寺・末々寺という序列的な階級付けが為された。大目付の配下の宗門改役は宗門改帳を作成して全庶民を何処かの檀那寺の檀家(檀那・檀徒)とし、婚姻・結婚・奉公・転居の際には村役人が発行する追手形と共に檀那寺が出す寺請証文(宗旨手形)の携行を義務付けて、基督教禁止の徹底を図った(寺請制度)。なお宗門改役は、筑前国大島で逮捕されて棄教の後に岡本三右衛門を名乗った伊人耶蘇会士キアラなど、外国人が任命されることもあった。また宗門改帳は後に人別改帳と融合して宗門人別帳となり、実質的な戸籍となった。一方、神社は諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)により統制された。
農村の様子と農民の負担
封建支配の末端機関たる郷村制に基づき、郡代・代官の指示で村政を執った村役人の中の最有力者は、名主・組頭・百姓代の村方三役(地方三役)である。名主は西国では庄屋、東北では肝煎とも称され、草分百姓(芝切百姓)が世襲したり入れ札や輪番で選出され、大庄屋(割元庄屋・惣庄屋)の配下についた。組頭は年寄とも称され、名主の業務である年貢割付・年貢収納・村費収支を補佐した。百姓代は村方騒動の多発を受けて設置されたものであり、名主と組頭の業務を監視し、不正を抑制した。農村の主役は検地帳に登録され年貢を負担する本百姓(高持百姓)であり、無高・無役の小作人たる水呑百姓(帳外れ)や隷属的な名子(被官・家抱・門・譜代・下人)らを使用し、本田畑(高請地)や質地・隠田を耕作した。幕府は律令体制下の五保の制に倣い相互監視・相互扶助・連帯責任のための五人組を本百姓5戸1組で設置し、「五人組帳前書」に記載された村掟(村議定)の違反者は葬式と火事消火以外の交流を断たれた(村八分)。なお、結(もやい)と言う田植や屋根葺などの共同作業や、牛馬用飼料確保のための秣場や薪確保のための入会地の管理など重要事項を決定した機関は寄合である。農民の負担としては、本年貢としの本途物成の他、山野河海からの産物に掛かる小物成、蔵前入用(浅草米蔵人夫費)・伝馬宿入用(宿場経費)・六尺給米(江戸城台所人夫費)からなる高掛三役などの高掛物、河川土木工事・日光法会・朝鮮使節接待のための国役、街道沿いの助郷に村高相応の人馬供出を課した助郷役などの夫役(夫米・夫銭で代納も可)などが存在したが、本多正信の『本佐録』に本多正信の言葉として「百姓は財の余らぬ様…」、大道寺友山の『落穂集』に徳川家康の言葉として「百姓共をば死なぬ様生きぬ様…」、本多利明の『西域物語』に神尾春央の言葉として「胡麻の油と百姓は…」とあるように、総じて負担の重いものだった。
農民統制
1641年に発生した寛永の大飢饉を受けた幕府は、本百姓の零細化と富農への土地集中を防ぐため1643年に田畑永代売買の禁令を施行したが、これは頼納(質入れ)による事実上の売買は認められていたため効果は低かった。また商品作物増加に伴う貨幣経済の発展と米不足を防ぐため1643年には作付制限令(田畑勝手作の禁令)が施行され、本田畑での五穀以外の商品作物(木綿・煙草など)の栽培が禁止された。1649年には総合的な農民統制と勧農精神・順法心得の啓発のため慶安の御触書が下され、1673年には農民が零細化することを防止するため、名主は20石、一般は10石以下への分割を禁止する分地制限令が発令された。
四民制度
四民制度は農本思想と儒教思想に基づくものである。武士は半農半武の郷士を含めても全体の10%程度であるが、切捨御免(無礼打ち)や苗字・帯刀などの権利を有する一方、武士階級内でも厳格な上下の別があった。農民は全体の80%程度を占めた。町人は全体の7%程度を占める都市部商工業者であり、町奉行の配下の町年寄(大坂では惣年寄)・町名主が統率した。職人は師匠(親方)と徒弟(弟子)、商人は主人と奉公人(番頭>手代>丁稚)に分けられ、年季奉公を終えた奉公人は暖簾分けで主人から独立した。大商人は地主・家持で市民権を有する本町人だが、普通の商人は家主から店・土地を借りる店借(店子)・地借であり、棒手振や日雇労働者は大家(家守)が管理する棟割長屋に居住した。室町時代にも犬神人や声聞師が存在していた踐民については、皮革処理や囚獄雑役(牢番)を司るかわた・きよめなどの穢多(えた)は終身であり、鍼・按摩などを生業とする盲目の座頭など遊芸・物乞などを行う非人(ひにん)は足洗いで農工商に復帰できた。備前国の渋染一揆など、踐民は稀に抵抗を起こしたことで知られている。武士は武家町、農民は農村、職人は紺屋町・鍛冶町・大工町・鉄砲町などの職人町、商人は呉服町・肴町・米屋町などの商人町、賤民は被差別部落に居住した。
家族制度
家父長制に於いて、家長は当然父親である。跡目相続に関してはこの時代には長子単独相続が一般化し、不肖の子に関してはこれを勘当した。当時は男尊女卑という結構な思想が一般化しており、女は三従の教え(家では父、嫁いだら夫、老いたら子)を遵守することを義務とされ、夫は七去(舅に従わぬ・無子・多言・窃盗・淫乱・嫉妬・悪疾) のいずれかを犯した妻に関してはこれに三行半(みくだりはん)という離縁状を与えて離縁することができた。七去は、貝原益軒が著した『女大学』により一般化した。また家庭では、よこざ・かかざ・客座・木尻というように座る場所も決定されていた。ちなみに鎌倉時代に北条時宗の妻の覚山尼が開創した鎌倉の松岡山東慶寺のみは、横暴な夫に対する妻たちの駆け込み寺としてこれを受け入れていた。 
3 江戸時代初期の外交
南蛮人と紅毛人
イスパニアの前ルソン総督ドン=ロドリゴが1609年に上総国に漂着したことを機に、徳川家康は京都商人田中勝助を翌1610年にノビスパン(新(ノヴァ)イスパニア;現メキシコ)へ派遣した。徳川家康は貿易を企図していたが、来日した答礼使のビスカイノが貪欲だったため失敗に終わった。また伊達政宗は1613年、慶長遣欧使節として支倉常長を宣教師ルイス=ソテロと共にローマへ派遣して教皇パウロ5世に謁見させたが、通商要求は通らなかった。一方、東インド会社を駆使して植民地拡大を続ける紅毛人が来日したのは1600年にリーフデ号が豊後国の臼杵に漂着したのが端緒であるが、この乗組員である英人ウィリアム=アダムズ(三浦按針)と蘭人ヤン=ヨーステン(耶揚子)は徳川家康からそれぞれ日本橋と八重洲に江戸屋敷を与えられ、側近として働いた。また三浦按針と耶揚子は、それぞれの国の平戸商館を創設した。後に英国は1623年のアンボイナ事件に敗れたため植民地争奪戦から撤退し、商館もそれに伴い閉鎖された。また平戸オランダ商館も鎖国の最終段階として1641年には長崎の出島へ移された。
朱印船貿易
海禁政策を執る明との貿易は、台湾・呂宋(ルソン)・交趾(コーチ)・東京(トンキン)・暹羅(シャム)・太泥(バタニ)・安南(アンナン)・東埔寨(カンボジア)・緬甸(ビルマ)・バタビア(ジャカトラ)などに於いて出会貿易の形式で為された。貿易用の朱印船は幕府の渡航許可状たる朱印状を有する船であるが、1631年以降は老中奉書を有する奉書船であることも条件となった。なお、朱印船の船主は亀井茲矩(かめいこれのり)・有馬晴信・鍋島勝茂・加藤清正・島津家久・松浦鎮信などの大名であることが多かった。白糸・織物・砂糖・象牙などを輸入し銀・銅・鉄・刀剣・硫黄などを輸出する朱印船貿易では、角倉了以(すみのくらりょうい)・角倉素庵・茶屋四郎次郎清次ら京都商人、末吉孫左衛門ら摂津商人、納屋助左衛門(呂宋助左衛門)・今井宗薫ら堺商人、村山等庵・末次平蔵・荒木宗太郎ら長崎商人、角屋七郎兵衛ら伊勢松阪商人などが活躍したが、このうち角倉了以は朱印船を描いた絵馬を清水寺に奉納したことで、また末吉孫左衛門は江戸銀座の創設で知られている。なお当初ポルトガル商人が独占していた白糸取引は、後に幕府により京都・長崎・堺の三ヵ所商人(後に江戸・大坂を加え五ヵ所商人)から構成される糸割符仲間に限定された(糸割符制度・パンカド商法)。また有馬晴信は1609年に長崎でマードレ=デ=デウス号を撃沈したが、これは船長アンドレ=ペッソアが前年に有馬晴信の朱印船の乗組員数十名を惨殺したことに対する報復である。糸割符制度とマードレ=デ=デウス号事件により、ポルトガルの経済的侵略は一時的に沈静化した。一方、朱印船貿易に伴い暹羅のアユタヤ、交趾のツーランやフェフォ、東埔寨のプノンペンやピニャルー、緬甸のアラカンなどには日本人が多く住む日本町が成立した。暹羅で活躍して後に六昆(リゴール)太守(たいしゅ)という地位にまで出世したが、やがて現地の政争に巻き込まれて暗殺された山田長政は有名である。
琉球と朝鮮
徳川家康の許可を得た薩摩藩主島津家久は1609年、琉球出兵を断行して尚寧王を降伏させた。琉球を属国とした薩摩藩は中継貿易の利益を搾取する権利と与論島以北の領有権を獲得した。琉球からは将軍交代毎に慶賀使、琉球国王即位毎に謝恩使が派遣されたが、琉球には明からも冊封使が派遣された。琉球には1605年、野国総管により福州から甘蔗(砂糖黍)がもたらされていたが、1609年に儀間真常は甘蔗を原料とした黒砂糖の精製法を開発した。黒砂糖などは進貢船で薩摩藩へ運ばれ財政を潤した。一方、女真族(1616年にヌルハチが後金を建国)の圧迫を受けた李氏朝鮮は1605年に日本と和議を結び、宗義智らの国書偽造工作もあって1607年に国交回復が為された。朝鮮通信使(慶賀使・来聘使(らいへいし))は1617年の大坂鎮圧祝から大御所時代まで前後12回、来日した。日朝間の交易を規定する1609年の慶長条約(己酉約条)では、日本からの使者が将軍と宗氏に限定され、歳遣船も年20隻に制限された。
蝦夷地の諸問題
蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の配下武将武田信広は、1457年のコシャマインの乱鎮圧の功により蠣崎季繁の養子となった。やがて蠣崎義広の子の蠣崎季広は蝦夷地の中に和人地を確立し、子の蠣崎慶広(かきざきよしひろ)は朝鮮出兵の際に名護屋城に参じたことを豊臣秀吉に賞賛され、蝦夷朱印を受けて蝦夷島主に任ぜられ、やがて1599年には徳川家康に服属して松前藩を興し、松前慶広を名乗った。染退(しぶちゃり)の首長(コタンコロクル)シャクシャインは1669年、和人(シャモ)のアイヌ青年殺害を機に中部・日高・後志(しりべし)を中心にシャクシャインの乱を起こしたが鎮圧され、松前藩はこれを機に商場知行制を場所請負制に変更した。アイヌは1789年のクナシリ・メナシの戦いを最後に、服従した。アイヌの口承文学がユーカラである。
禁教
幕府はマードレ=デ=デウス号事件に関連した岡本大八事件で幕内の基督教信者を弾圧したりしていたが、南光坊天海・以心崇伝・林羅山・三浦按針らは、基督教の神前平等思想と封建道徳との相違、旧教国の領土的野心への警戒、宗教一揆に対する危惧、商教分離の確立などを建て前に、本格的な禁教を断行した。1612年、全天領に禁教令(基督教禁止令)を発令した徳川秀忠は翌1613年にそれを全国に拡大、1614年からは基督教徒迫害を断行して高山重友ら基督教信者をマニラやマカオへ追放した。1622年には長崎にて宣教師や信者ら55名が処刑される元和大殉教が発生した。幕府は禁教を確立するため、絵踏(踏絵;1629年に長崎奉行が考案)や寺請制度の徹底を図ったが、隠れキリシタン(潜伏キリシタン)はロザリオやマリア観音像を用いて信仰を続けた。また幕府は禁教徹底のために洋書や漢訳洋書の輸入を禁止した。
島原の乱
(1637年〜1638年 / キリシタン・農民の反乱)
元来、肥前国島原は有馬晴信、肥後国天草は小西行長の所領だったため基督教徒が多かったが、島原藩主松倉重政や天草藩主寺沢広高らは基督教信者を弾圧すると共に、幕府に認められるため年貢水増しなどの苛政を執行した。子の松倉勝家・寺沢堅高らもそれを継続したため、島原の民衆約 38000人は益田時貞(天草四郎)を大将として原城址で決起した(実質的総大将は益田好次)。島原の民衆蜂起はやがて天草にも飛び火して拡大したが、長崎奉行榊原職直や立花宗茂・細川忠利・大村純信・有馬豊氏ら諸大名は武家諸法度抵触を恐れて傍観したため、幕府は京都所司代板倉重昌を島原へ派遣した。苦戦を強いられた板倉重昌は老中松平信綱(知恵伊豆)の江戸出発を知り焦燥感に駆られたため元旦に総攻撃を掛け、敢え無く玉砕した。到着した松平信綱は当初蘭船による艦砲射撃を実施したが、反対が多く中止した。約120000人の幕府軍は敵の兵糧切れにより漸く勝利を収めた。事後処理として、苛政により反乱を招いた松倉勝家は切腹、寺沢堅高は改易(後に不服として自害)に処せられた。なお、松平信綱は阿部忠秋・阿部重次・堀田正盛・三浦正次・太田資宗と共に徳川家光六人衆に数えられているが、徳川家光は実弟の松平忠長に切腹を申し付けたことでも知られている。
鎖国
所謂「鎖国」という言葉は、後世の志筑忠雄(しづきただお)がケンペルの『日本誌』を翻訳する際、一節を『鎖国論』と訳したことに由来する。故に5回発令された鎖国令は、厳密に言えば鎖国令という表題のものではない。1633年に発令された第一次鎖国令たる寛永十年令では奉書船以外の海外渡航及び帰国が厳禁された。翌年の寛永十一年令は前年とほぼ同一の内容である。1635年の第三次鎖国令たる寛永十二年令では日本人の海外渡航及び帰国が禁止され、結果的に朱印船貿易は途絶した。翌年の寛永十三年令では貿易に無関係な葡人が国外追放となり、ついに1639年の第五次鎖国令たる寛永十六年令にてかれうたと称される葡船の来航が禁止され、鎖国が完成した。
長崎貿易
長崎貿易では金・銀・銅・俵物などを輸出し、朱印船貿易に準じる物を輸入していた。糸割符制度の撤廃後は相対貿易が行われたため貿易量は増大したが、比例して金銀の国外流出量も増大したため、徳川家綱は市法売買仕法、徳川綱吉は定高仕法を施行した。オランダは東インド会社日本支店長たるオランダ商館長(甲比丹(カピタン);任期1年)が仕切る出島オランダ商館にてオランダ通詞(志筑家・吉雄家・本木家・西家が世襲)との交渉により貿易を行い、また甲比丹は世界情勢を記したオランダ風説書を幕府側に提出した。オランダ風説書はオランダ通詞により翻訳され長崎奉行の手を経て将軍に提出される非公開の書物である。一方、清は徳川綱吉の頃から長崎郊外の唐人屋敷で交易したが、オランダ共々輸入品は1698年から長崎会所で一括購入され、入札で国内の商人に販売されるようになった。これは長崎運上金を徴収するための措置である。 
4 文治政治
慶安事件
(1651年 / 由比正雪の乱)
1651年に徳川家光が逝去したことに乗じた駿河国の兵学者(軍学者)である由比正雪は、牢人丸橋忠弥らと共に倒幕を企てた。計画は、まず放火を行って江戸を混乱させ、それに乗じて江戸城を制圧し、同時に江戸・大坂・京都などに於いて同志たる牢人が蜂起し、幕府を転覆させようとするものだった。だがこの計画は江戸町奉行石谷貞清(いしがいさだきよ)や老中松平信綱に密告する者が多数あったために露顕してしまい、由比正雪は駿河国で自害し、丸橋忠弥らは江戸で逮捕され処刑された。なお同志を募る由比正雪らに名を利用された紀州藩主徳川頼宣は、自らの機転により危機を脱している。
承応事件
(1652年 / 戸次庄左衛門の乱)
牢人兵学者の戸次庄左衛門と土岐与左衛門は、松平信綱ら老中が江与ノ方(小督姫)の菩提を弔うために増上寺に参拝する際にこれを襲撃しよう、という計画を立案した。この計画は事前に幕府側に察知され、戸次庄左衛門は江戸町奉行神尾春勝・石谷貞清らに逮捕され、やがて処刑された。慶安事件と承応事件により、幕府は牢人(浪人)の発生を防止する方向、即ち従来の武断政治から文治政治(儒教的徳治主義)への転換を推進する方向で政治を行うようになった。
寛文の治
徳川家光の遺言で補佐役として付けられた会津藩主の大老保科正之や、武蔵忍城主の阿部忠秋、それに老中松平信綱らに支えられた徳川家綱は、文治政治の先駆けと言える寛文の治を推進した。徳川家綱は後に寛文の二大美事と称される人質制撤廃と殉死の厳禁を行い、戦国的な遺風の排除に努める一方、『御触書寛保集成』に記載されているように末期養子の禁を緩和して牢人の発生を抑制した。末期養子とは無嗣絶家を回避するために大名が死ぬ直前に急養子を迎えることである。一方、1657年には所謂明暦の大火(振袖火事)が江戸に於いて発生した。本郷にある日蓮宗の本妙寺から出た火は瞬く間に江戸全体に広がり、最終的に市街地の55%を焼失して江戸城も延焼、死者は全体で約10万人(この供養のために回向院(えこういん)を建立) を数える大惨事となった。蔵書を殆ど焼失した林羅山は、失意のためか数日後に急逝した。この明暦の大火の後、江戸は計画都市として再建され、また消防機関たる定火消も設置された。寛文の治の末期には前橋藩主の大老酒井忠清が「下馬将軍(げばしょうぐん)」と称される程抬頭し、賄賂政治を行って政治を混乱させた。なお酒井忠清は、雅楽頭系酒井家の出身である。
天和の治
徳川家綱の後継者としては、甲府藩主徳川綱重、館林藩主徳川綱吉、そして酒井忠清が推す有栖川宮幸仁親王の三者が鼎立したが、堀田正俊の根回し工作で徳川家綱自身が徳川綱吉に譲位することを決めたため、徳川家綱の逝去後に徳川綱吉が将軍に就いた。徳川綱吉は将軍に就くと直ぐに酒井忠清を罷免し、新たな大老として堀田正俊を迎え、武家諸法度天和令に見られるように忠孝と礼儀を重視した天和の治と呼ばれる善政を推進した。越後騒動と呼ばれる醜い争いが内部で続けられていた越後藩の藩主松平光長を改易したのも、その表れであろう。やがて堀田正俊は若年寄稲葉正休に刺殺された。稲葉正休本人も同席していた阿部正武・戸田忠昌・大久保忠朝らに誅殺されたが、この事件を契機として将軍の居間と老中の御用部屋は遠ざけられ、牧野成貞を初代として伝令役の側用人が設置された。一方、徳川綱吉は好学で知られており、元の授時暦を参考として霊元天皇の御世に貞享暦を開発した渋川春海(安井算哲)を天文方、貞門派の北村季吟を歌学方に任命した。徳川綱吉はこの他、蔵米取の旗本を知行取にする元禄の地方直しを1697年に行っている。
元禄の悪政
徳川綱吉の寵を受けた勘定頭柳沢安忠の子の側用人柳沢保明は、1695年には別邸地を賜って六義園を造営し、さらに1701年には松平姓と「吉」の字を徳川綱吉から拝領して松平吉保(子の柳沢安貞も松平吉里に改名)と名乗り、最終的に甲府15万石を得て大老格となった。一方、無嗣だった徳川綱吉は母の桂昌院が帰依する僧隆光の進言を採用して1685年に生類憐みの令を施行し、猫・魚・鳥・蚊、就中犬を異常に優遇した。犬公方徳川綱吉は1695年、中野・大久保・四谷に犬小屋を設置して徘徊する野犬を養育したが、その莫大な経営費は、亮賢に開かせた護国寺と隆光に開かせた護持院の建築費、それに寛永寺や増上寺の改築費と共にただでさえ鉱山収入の減少により逼迫していた幕府財政を悪化させた。徳川綱吉はこの財政の逼迫を受けて勘定所(勘定方)を設置し、長官たる勘定奉行の補佐役の勘定吟味役に荻原重秀を任命した。荻原重秀は1695年、それまで使用されていた慶長金銀の質を30%落とした元禄金銀を発行し、結果的に生じた出目(でめ)で逼迫した財政を補填した。しかしこの悪貨の発行はインフレを招来し、貨幣経済を混乱させた。また荻原重秀は十文の大銭(宝永通宝)を鋳造したが、これは不便だったためあまり流通しなかった。
赤穂事件
(1701年(元禄十四年) / 所謂「忠臣蔵」)
勅使接待役の赤穂藩主浅野長矩(あさのながのり)(浅野内匠頭)は、江戸城の松之廊下に於いて日頃の私怨から高家筆頭で典礼指南の吉良義央(きらよしなか)(吉良上野介)に斬り付けた。この刃傷事件を受けた幕府は即日浅野長矩の切腹及び赤穂藩の改易を発表した。本来ならば喧嘩両成敗であるにも拘らず吉良義央には何ら罰が課せられなかったため、家老大石良雄ら旧赤穂藩士(赤穂浪士)47人は翌1702年12月14日吉良義央邸を襲撃し、翌日未明にまで亘る死闘の末、吉良義央を討ち取った。この仇討ちを当時の庶民たちは賞賛したが、林信篤・室鳩巣ら肯定派儒学者と荻生徂徠・太宰春台ら否定派儒学者との間では激しい論戦が展開された。結局徳川綱吉は赤穂浪士たちに対し武士の礼をもって切腹を申し渡した。赤穂浪士たちの墓は品川の泉岳寺にある。なお吉良義央の子の吉良義周はこの事件の後、改易された。また米沢藩主上杉綱憲は実父吉良義央を救うべく米沢藩江戸屋敷から救援部隊を派遣しようとしたが、家老に諫止されて中止した。
正徳の治
木下順庵の弟子の「火の子」新井白石は、自らが侍講を務めていた甲府藩主徳川綱豊が徳川家宣と改名して将軍となり、側用人間部詮房(まなべあきふさ)(後に若年寄)の支持も得たため、幕政の実権を掌握し、徳川家宣・徳川家継の二代に亘って理想主義的な政治改革に努めた。新井白石は勘定奉行荻原重秀を即時罷免し宝永通宝を廃止する一方、1710年には慶長小判の量を半分にした宝永小判(乾字金(けんじきん))を、また1714年には慶長小判と同規格の正徳小判を発行し、貨幣経済の混乱の沈静化を図ったが、江戸時代には元文小判・文政小判・天保小判・安政小判・万延小判などの悪貨が発行され、貨幣経済を混乱させた。他方、新井白石は皇室が財政難のため皇子や皇女を出家させて門跡寺院に入れなければならない状況に陥っていることに着目、1710年に東山天皇の皇子直仁親王に閑院宮家(かんいんのみやけ)を創設させ、徳川綱吉が行った禁裏御料の加増と合わせて朝幕関係の改善を図った。なお伏見宮家・有栖川宮家・閑院宮家・京極宮家(桂宮家)を四親王家と言う。一方、新井白石は1711年に朝鮮使節待遇簡素化を宗義方に伝えると共に、国威発揚のために将軍宛ての国書には対馬藩国書偽造事件以来の朝鮮王子を指す「大君」ではなく「日本国王」を用いるよう朝鮮に要請した。しかしこれは天皇陛下の尊号を冒すものだとして同門の雨森芳洲や林家などの猛反発を受けた。また新井白石は長崎貿易に関して著書『折焚く柴の記』『本朝宝貨通用事略』等で危機感を訴えていたが、1715年には金銀の海外流出を防ぐべく海舶互市新令(長崎新令・正徳新令)を下し、清は年間で船30隻・銀6000貫匁、オランダは船2隻・銀3000貫匁に貿易量を制限した。
諸藩に於ける文治政治の推進
会津藩主保科正之は朱子学者山崎闇斎を招いて領内の民衆教化を図り、稽古堂(後の日新館)を設置した。また兼六園造営を推進した加賀藩主前田綱紀(まえだつなのり)は、木下順庵と本草学者稲生若水(いのうじゃくすい)を招き古書収集と殖産興業に努めた。一方、岡山藩主池田光政は陽明学者熊澤蕃山(くまざわばんざん)を招き、藩学の花畠道場と郷学の閑谷学校(しずたにがっこう)を開いた。水戸藩主徳川光圀は、明から亡命して来た朱舜水に教えを受け、江戸藩邸に彰考館を設置し、安積澹泊(あさかたんぱく)らを用いて大義名分論に基づく『大日本史』の編纂を開始した。 
5 社会・経済の発達
新田開発
新田は鍬下年季(検地までの3年間位)のうちは大幅に年貢が減免されたため、著書『民間政要』で知られる田中丘隅(たなかきゅうぐ)が治水工事を推進して下総東金新田・武蔵見沼新田・武蔵野新田などを開発した享保年間をピークとして数多く開発された。深良村名主大庭源之丞(おおばげんのじょう)と江戸の豪商友野与右衛門による箱根用水、玉川庄右衛門・玉川清右衛門兄弟の玉川上水、勘定吟味役井沢為永による見沼代用水(見沼通船堀)、野中兼山の兼山堀、伊奈忠次の備前堀など、灌漑用水路も整備された。新田は、見立代官十分の一法に基づき開発した代官が年貢米の10%を獲得することが出来る代官見立新田と、越後国紫雲寺潟新田・摂津国川口新田・河内国鴻池新田など町人が開発した町人請負新田、それに村請新田(村立新田)や百姓切添新田などに大別できる。
農業の発展と農書・地方書
会津藩主保科正之、岡山藩主池田光政、米沢藩主上杉治憲、紀州藩主徳川吉宗らは農業を振興させたことで知られている。風呂鍬に代わり登場した備中鍬を初め、唐箕(とうみ)・唐臼や千歯扱(せんばこき)(扨箸(こきばし)に代わり登場;通称「後家倒し」)、竜骨車に代わる踏車の他、千石(せんごくどおし)や犂などの新しい農具の開発、さらに菜種・綿実などの油糟、干鰯問屋が独占販売した干鰯、石灰、糠(ぬか)などの金肥も使用された。商品作物としては五穀の他に幕府や諸藩が栽培を奨励した四木三草(楮・茶・漆・桑、麻・紅花・藍)や蝋燭の原料となる櫨(はぜ)、それに油菜・綿花・甘蔗・藺草(いぐさ)・煙草・野菜・海苔(浅草海苔など)・果樹(甲州葡萄・紀州蜜柑・予州蜜柑など)も生産された。なお紅花は出羽国、藍は阿波国、茶は山城国と駿河国、藺草は備中国、漆は会津が主な生産地である。
『清良記』 / 『親民鑑月集』とも言う日本初の農書。宇和郡の武将土居清良の軍記、家臣松浦宗案による農業への提言が記載されている。
『農業全書』 / 徐光啓の『農政全書』に影響された宮崎安貞の著書。これ以前、岩崎佐久治の『田法記』や佐瀬与次右衛門の『会津農書』など。
『老農夜話』 / 須田政芳が著した農書。様々な農具を記す。この他、若林宗民の『若林農書』、土屋又三郎の『耕嫁春秋』などが有名。
『農具便利論』 / 諸藩の農政にも首を突っ込んだ大蔵永常の著書。この後に『広益国産考』を著し、商品作物加工による利益を主張。
『報徳記』 / 報徳社を結成して報徳仕法(尊徳仕法)を創始した二宮尊徳の著書。過剰なまでの節約を説く。
『農政本論』 / 水野忠邦に影響を与えた篤農家の佐藤信淵の著書。下総国に土着した大原幽学や『地方凡例録』の著者の大石久敬らが有名。
その他の生産業の発達
林業では、山林は山主が管理して杣人(そまびと)などの山子が労働した。木曾の檜、吉野・熊野・飛騨・秋田の杉などが有名である。幕府直轄の御林(おはやし)は材木奉行がこれを管轄した。一方、瀬戸内や熊野などでは地引網や船引網や定置網(大敷網など)といった漁網を使用する網漁法が開発され、上方漁法として発達した。水産業には主に関西の商業資本が進出し漁場の開拓などに努めた。こうして鰯(いわし)(九十九里浜の地引網漁・肥前国や房総の八手網漁(やつであみりょう)・伊予国の船引網漁)や鰹(かつお)(土佐国の一本釣り)や鰊(にしん)(鮭と共に蝦夷)の漁が行われ、伊勢国や紀伊国では勢子船を用いる捕鯨が行われた。鰊は肥料となり、やはり蝦夷地原産の昆布は俵物(いりこ(なまこ加工品)・ほしあわび・ふかのひれ)と共に清へ輸出された。当時の漁業は掟に基づく共同作業が中心の入会漁業であり、網元(網主)・網子(船子)という階級制度が存在していた。また漁民には税として浦役(水主役(かこやく))が賦課された。また製塩業では、この頃から赤穂などで入浜式塩田を用いた製塩が始められた。塩田の所有者を浜主と言い、労働者を浜子と言う。一方、鉱業は貨幣の材料や貿易品として需要が大きかったために発達した。鉱山では前述のものの他、泉屋(住友家)が管理運営した伊予国の別子銅山や、出羽国の阿仁鉱山・院内銀山・尾去沢銅山などが有名である。また鉄は中国山地や釜石鉄山の鉄鉱石と共に出雲国の砂鉄が有名であり、たたら製鉄と呼ばれる技法で精錬が為された。鉱山では坑夫たる掘子(元囚人や人身売買被害者が多い)が労働した。経営者が山師であり、掘大工が採鉱して床大工が精錬した。彼らは金児神(かなこがみ)を崇拝した。
手工業の発達
江戸後期には農村家内工業が進化した問屋制家内工業、即ち問屋(商業資本家)が家内工業者(直接生産者)に原料や労働手段を前貸しして生産を行わせる形態が、庶民の生活水準の向上に伴う需要の増大に刺激されて全国的に広まった。諸藩は藩の専売品とするためにこれを奨励したため、各地で特産品が生産されるようになった。主な特産品としては、京都西陣織や田舎端物(丹後縮緬・上田縞・結城縞など)のほか足利・桐生・伊勢崎・博多などで生産された絹織物や、久留米絣・小倉織・有松絞・琉球絣などの綿織物、小千谷縮・奈良晒・近江蚊帳・薩摩上布などの麻製品、京染(京都の友禅染)や鹿子絞などの染物、輪島塗・会津塗・南部塗・春慶塗(能代・高山・堺)などの漆器、越前国・播磨国・讃岐国・土佐国・三河国・駿河国・周防国・伊予国などの和紙、各地のお国焼きや京焼(野々村仁清が大成・清水焼と粟田焼に分裂)が知られる陶磁器、灘・伊丹・池田・伏見などで杜氏(出稼労働者)による工場制手工業で造られた酒、薩摩国の黒砂糖、讃岐国の白砂糖(三盆白)、阿波国・和泉国・紀伊国・伊予国などの甘蔗、銚子・野田・京都・播州竜野・紀州湯浅などの醤油、代金後払い方式と薬の補充方式で知られる越中富山の売薬などの医薬品、その他、伊吹もぐさ、備後国の畳表、箱根細工、小田原外郎(ういろう)などがあり、これらの特産品は木村兼葦が著した『日本山海名産図会』や、各地の観光案内書たる『名所図絵』、それに俳諧手引書『毛吹草』などに記されている。なお織機は、室町末期以来の地機・いざり機などに代わり高機が出現した。
交通・通信の発達
東海道 / 京都 53宿(品川〜大津) 100人・100疋を配置。
中仙道(中山道) / 草津 67宿(板橋〜守山) 50人・50疋を配置。以下の各街道は25人・25疋。
日光道中 / 日光 21宿(千住〜鉢石) 千住から宇都宮までの17宿は奥州道中と重複。
奥州道中 / 白河 27宿(千住〜白河) 厳密には白沢から白河まで10宿。青森までとする説もあり。
甲州道中 / 下諏訪 44宿(内藤新宿〜上諏訪) 一説では甲府まで38宿と考えられる。
生産地から都市への物資の輸送の必要性から、また参觀交替の影響から、江戸時代には道中奉行の管轄下に街道が整備された。江戸日本橋を起点とする上記の五街道の他、大坂から赤間関までの山陽道(中国街道)、京都から赤間関までの山陰道、信濃追分から直江津までの北国街道、四日市・石薬師間から伊勢神宮までの伊勢街道、門司から長崎までの長崎街道、宮から桑名までの陸路たる佐屋路、宮から垂井までの美濃路、江戸日本橋から水戸までの水戸路など、支線としての脇往環(脇街道)も整備された。街道の宿には、大名が宿泊する本陣や家臣が宿泊する脇本陣の他、一般旅行者のため木賃宿に飯盛女が配置されて発展した旅籠(はたご)、飛脚を司る飛脚問屋、年寄・帳付・馬指などの職員を問屋が管理して公用に伝馬を貸し出す問屋場などが存在していた。街道には目印として榎を植樹した一里塚が置かれた他、東海道の箱根関や新居関、中山道の碓氷関や木曾福島関、日光道中・奥州道中の栗橋関、甲州道中の小仏関など、要所には治安維持と江戸防衛のために関所が設置され、関所手形(通行手形)を持たぬ者、就中「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まった。また大井川・安倍川・天龍川などには、やはり軍事防衛上の理由から架橋が禁止され、川越人足(天龍川は渡船)が人を対岸まで渡した。関所や川などの障害のために陸路は物資輸送には適さず、主な物品は専ら海路で運ばれた。なお飛脚には公儀の継飛脚や諸大名の大名飛脚(尾張藩・紀伊藩のものを特に七里飛脚と言う)の他、三都飛脚・三度飛脚・定六(じょうろく)・定飛脚と称される町人たちの書状・金銀・小荷物を運ぶための町飛脚などがあった。
運送業の発達
明暦の大火で財を成した河村瑞賢(河村瑞軒)は、1671年に日本海側から津軽経由で江戸へ向かう東廻り航路を開発し、翌1672年には金沢藩が開設していた日本海側から下関経由で大坂へ向かう西廻り航路を改良した。西廻り航路には北前船が就航した。この他の航路としては江戸を発して大坂の木津川口に入る南海路や大坂と長崎を結ぶ西海路などが挙げられる。南海路には当初菱垣廻船が就航していたが、やがてそれよりも小型で迅速な樽廻船が就航し、菱垣廻船を駆逐していった。様々な航路の発展に伴い積荷の収集・運搬を行う廻船問屋(船問屋)も出現した。また河村瑞賢は安治川、角倉了以は富士川・天龍川・高瀬川・保津川(大堰川・桂川)を開いた。高瀬川には罪人護送で知られる高瀬舟、伏見と大坂を結ぶ淀川には過書船や三十石船が就航した。
都市の発達
農村と都市の分離に伴う商品交換の場たる市場の発達や、城下町への武士の集中などにより、封建都市は成長した。100万人もの人口を誇り当時の世界最大都市であった江戸、「天下の台所」「八百八橋」と称された45万人の大坂、そして40万人の京都からなる三都と、町割による四民の在住地の区別や城郭中心の計画都市として知られる城下町の金沢・名古屋・鹿児島・広島・浜松や、港町の堺・長崎・博多・尾道・敦賀・兵庫・新潟・箱館、それに門前町の日光・宇治山田・長野・成田・奈良・琴平などが有名な都市である。また大井川渡しの川留の時に繁盛した島田や金谷を初め、品川・三島・沼津・掛川など主に東海道を中心に宿場町も繁盛した。また当時は農商分離政策から都市部たる町方と農村部たる在方に分かれていたが、問屋制家内工業の影響から在方にも商工業群落が発生した。摂津国平野・河内国富田林・近江国八幡・下野国足利・下野国桐生などのこうした商工業群落を、在郷町と言う。
貨幣制度
金貨は両、銀貨は匁、銅貨(銭貨)は文を基本単位としており、1両=50匁=4000文(4貫文)であった。金貨には10両の大判、1両の小判、1/4両の1分金、1/16両の1朱金などの種類が有り、贈答用の大判は大判座、その他の金貨は後藤光次の子孫たる後藤家が仕切る金座で鋳造された。丁銀や豆板銀(小粒・小銀玉)などの秤量貨幣(1匁=3,75g)が主流であり、切って使われたり、便宜上43匁を1枚として丁銀や豆板銀などを43匁分集めて紙で包んだ包み銀が流通していた銀貨は、湯浅常是(大黒常是)の子孫である大黒家が仕切る銀座で鋳造されたが、後に明和五匁銀・南鐐二朱銀・安政一分銀などの量目貨幣(計数貨幣)と呼ばれる定位銀貨が流通し始めると切ることを禁じられた。総じて江戸は金遣い、大坂は銀遣いであった。慶長通宝・寛永通宝・天保通宝などの一文銭を中心とした銭貨は地方の民間業者が受注して製造していた。一方、三貨以外にも諸藩や諸旗本領内でのみ通用する藩札が流通した。藩札は1661年に越前国福井藩が発行したものが端緒であり、乱発されたため次第に不換紙幣と化し、貨幣経済を混乱させた。藩札は、最終的に244藩・14代官所・9旗本領に於いて計約1700種が出回った。
町人の活躍
同業者や利害を同じくする者たちが結成した団体を仲間と言い、幕府や諸藩に公認された封建的な仲間のことを特に株仲間(月行事・寄合)と言う。幕府は冥加金や運上金といった旨味に釣られ、当初は結成が禁止されていたが享保の改革にて徳川吉宗が公認し、続く田沼時代には奨励され、天保の改革で禁止されたものの間も無く復活し、最終的に明治維新まで続いた。株仲間の代表的なものとしては、南海路を取り仕切った大坂の荷積問屋たる二十四組問屋と江戸の荷受問屋たる十組問屋が挙げられる。一方、貨幣経済の発達に伴って両替商も活躍した。両替商は、三貨の両替を専門に行う脇両替(銭両替)と、預金・貸付・為替・手形発行などを行う本両替に分けられる。本両替仲間は十人両替により取り仕切られた。本両替の中には、大坂の蔵屋敷の管理を行う蔵元や、やはり蔵屋敷の出納係たる掛屋、江戸の札差などを兼任し、これらで得た資金を元手として大名貸しと言う賭博に近いことなどを盛んに行って巨富を得た豪商もいた。豪商は、幕府と結託した中島家(茶屋)や後藤家のような後藤型豪商と、鴻池家や三井家のように慎重に財を築いた三井型豪商、紀伊国屋文左衛門(紀文大尽)・奈良屋茂左衛門・淀屋辰五郎のような成金的な紀文型豪商、の三種類に大別できる。ちなみに鴻池家は三和銀行、「現銀安売掛け値無し」の切売商法で知られる三井高利が創始した越後屋呉服店は三越百貨店の前身であり、三井高房は著書『町人考見録』の中で賭博的な大名貸しの危険性を説いたことで知られている。江戸では彼らの他に「近江泥棒と伊勢乞食」、即ち近江商人と伊勢商人が活躍した。
流通の発達
蔵物と呼ばれる諸藩の年貢米は大坂の中之島に集中している蔵屋敷に納められた。年貢米はやがて蔵元により二十四組問屋に納められた。手工業者や農民の生産した特産品などは仲買と問屋を経て、やはり二十四組問屋に納入された。二十四組問屋は南海路を用いて江戸の十組問屋に商品を輸送した。蔵米取の旗本や御家人たちは札差に蔵米を売却したが、札差が得た米は十組問屋に納められた。二十四組問屋と十組問屋に集中した商品は、仲買により一旦購入され、仲買はそれを市場に於いて小売に売却した。そして小売が、一般庶民や武士たちに品物を販売したのである。こうした流通の進歩に伴い市場も発達したが、代表的な市場としては、大坂では大阪三大市場と称される雑喉場魚市(ざこばうおいち)・堂島米市場・天満青物市(てんまあおものいち)や天王寺牛市、江戸では日本橋魚市や神田青物市、その他各地で開かれた馬市などが挙げられる。またこの頃、米相場などでは信用取引たる延取引が行われ、未決済でも商品を取引する空物取引が発生した。 
6 学問・思想の発達
儒学
1 儒学の概要
格物致知・理気二元論を説き、尊卑上下の別・忠孝・礼儀などを重んじる朱子学は、封建的な支配に最適な学問であったため、朝鮮出兵以来の「東方の小朱子」と称される朝鮮儒学者李退渓らの思想の流入と相俟って特に江戸時代に入って発達した。しかし朱子学は幕府の御用学問として形式化したため、これに対する反発のような形で新たに流入した明の陽明学(知行合一を主張する王陽明が創始した学問)や清の孝証学が発達した。また朱子学と陽明学の両方を批判し、孔子や孟子の真意を探求しようとする古学や、これらの良い箇所のみを融和した折衷学も興隆した。
2 朱子学−京学派
林羅山 / 法号は林道春、実名は林信勝。『羅山文集』で知られる林家の祖。石川丈山・松永尺五らと共に、近世朱子学の祖と目される播磨国出身の相国寺僧藤原惺窩に学ぶ。徳川家康から徳川家綱まで四代に亘り侍講(将軍専属教師)を務め、後の昌平黌の元となる家塾を開く。
林鵞峰 / 法号は林春斎、実名は林春勝。林羅山の子。父と共に歴史書『本朝通鑑』を著す。
林鳳岡 / 法号は林春常、実名は林信篤。湯島聖堂大成殿の完成時に徳川綱吉から初代大学頭に任命され、儒仏分離を推進。
木下順庵 / 松永尺五の門弟。前田綱紀に仕え、『錦里文集』を著す。門弟のうち、特に新井白石・雨森芳洲・室鳩巣・松浦霞沼・向井滄洲・服部寛斎・南部南山・三宅観瀾・祇園南海・榊原篁洲らは、木門十哲と称されて有名。
新井白石 / 木門十哲の一人。徳川家宣・徳川家継の侍講。九変五変説に基づき武家政権への移行と徳川幕府の正当性を主張した史論書『読史余論』や自叙伝『折焚く柴の記』、古代史研究法を纏めた『古史通』、諸藩・諸大名の系譜を纏めた『藩翰譜』、国語語源辞書『東雅』などの著作で有名。西洋の地理を纏めた『采覧異言』と西洋の歴史・技術・天文を纏めた『西洋紀聞』は屋久島で逮捕された伊人ヨハン=シドッチから得た情報に基づくものだが、禁制中の基督教に触れる部分があったため非公開とされた。
室鳩巣 / 木門十哲の一人。徳川吉宗の侍講。『六諭衍義大意』『駿台雑話』『兼山麗沢秘策』などの著作で有名。門弟は青地兼山ら。ちなみに後に洋学と儒学を融合させ条理学を提唱した三浦梅園は室鳩巣の流れを汲む儒者であり、帆足万里・広瀬淡窓と共に豊後三大家と称される。
三宅観瀾 / 木門十哲の一人だが南学派の浅見絅斎の門弟となり、後に水戸学に傾倒して彰考館の総裁に就任。
3 朱子学−南学派・水戸学派
山崎闇斎 / 山崎敬義・山崎垂加とも言う。土佐藩家老野中兼山らと共に海南学派の祖・南村梅軒の弟子の谷時中の門弟。会津藩主保科正之に仕える。門弟として有名な崎門三傑(浅見絅斎・佐藤直方・三宅尚斎)らは崎門学派を構成。一方、吉川神道の創始者吉川惟足に影響を受けて垂加神道を創始、『垂加草』などを著す。神道での門弟としては谷秦山が著名。
岡田寒泉 / 京学派の柴野栗山・尾藤二洲と共に寛政の三博士と称される。しかし古賀精里に取って代わられる。
安積澹泊 / 朱舜水の門弟。徳川光圀らと共に『大日本史』の編纂を開始。『大日本史』は後小松天皇までを大義名分論で貫いたもの。神功皇后を皇位から除き、大友皇子を弘文天皇として認め、吉野朝を正統とした。水戸学・尊皇攘夷運動の母胎。最終的に明治時代の栗田寛が完成。
藤田幽谷 / 立原翠軒の門弟。『大日本史』を編纂する彰考館の総裁、『正名論』を著して水戸学を確立。子の藤田東湖は熱烈な尊皇攘夷論者であり、徳川斉昭の下で藩政改革に尽力。門弟の会沢正志斎(会沢安)は藤田東湖と共に尊皇攘夷運動を行い、『新論』『及門遺範』などを著す。
4 古学
山鹿素行 / 小幡景憲の門弟で、聖学派の祖。『聖教要録』で朱子学を批判したため赤穂へ流されたが、配流中にも日本主義を提唱した『中朝事実』や武家政治の由来を説いた『武家事紀』などを著す。他方、武士道を大成した兵学者としても知られる。大石良雄は山鹿流。
伊藤仁斎 / 『論語古義』『孟子古義』『中庸発揮』などを著して原典批判を展開、京都に古義堂(堀川塾)を開設して堀川学派(古義学派)の祖となる。子の伊藤東涯は日本と中国の諸制度を研究・比較して『制度通』を著し、堀川学派を大成。伊藤東涯の子の伊藤東所も著名。
荻生徂徠 / 江戸の茅場町に園塾を開設し、原典重視の古文辞学派(園学派)を開く。徳川吉宗の諮問に答え、参觀交替廃止・礼楽制度樹立・武士土着による「治国平天下」を主張した『政談』を著し、徳川吉宗の政治顧問となる。『太平策』は『政談』の抜粋。著作『経済録』の中で農本主義と藩営専売の必要性を訴えた太宰春台の他、服部南郭らが門弟として挙げられる。
5 陽明学・折衷学・考証学
中江藤樹 / 近江聖人。藤樹書院を開設し、『翁問答』を著す。門弟の熊澤蕃山(熊澤了介)は池田光政に仕えたが、著作『大学或門』の中で極端に重農主義的な論調で武士の帰農や参觀交替緩和などを訴えたため、幕府から弾圧された。
中井甃庵 / 大坂の有力町人と共に懐徳堂を創設、初代学主に師の三宅石庵を迎える。子の中井竹山は松平定信に経世論『草茅危言』を提出、その弟の中井履軒は後に折衷学に傾倒。山片蟠桃・佐藤一斎らは中井竹山の門弟。佐藤一斎の門弟が佐久間象山、さらにその門弟が吉田松陰。
片山兼山 / 服部南郭の門弟。折衷学を樹立。同時期、井上金峨や豊後国で咸宜園を開き高野長英・村田蔵六らを教育した広瀬淡窓らが活躍。
松崎慊堂 / 昌平坂学問所で林述斎に学んだ考証学者。友人の狩谷斎や日向国飫肥藩の儒官安井息軒も考証学者として有名。
教育
岡山藩主池田光政が花畠教場を創立したことを端緒として、各藩は藩士の子弟教育のための藩学(藩校)を創立した。代表的な藩学としては、薩摩藩主島津重豪の造士館、長州藩主毛利吉元の明倫館、土佐藩主山内豊敷の教授館、肥後藩主細川重賢の時習館、米沢藩主上杉綱憲の興譲館、庄内藩主酒井忠徳の致道館、秋田藩主佐竹義和の明徳館、金沢藩主前田治脩の明倫堂、尾張藩主徳川宗睦の明倫堂、水戸藩主徳川斉昭の弘道館、福岡藩主黒田斉隆の修猷館、仙台藩主伊達吉村の養賢堂、そして会津藩主保科正之が稽古場として創立したものを二代目の保科正経が講所とし、それを五代目の松平容頌が整備した日新館などが挙げられる。一方、郷学(郷校)は岡山藩主池田光政が創立した閑谷学校のように庶民教育のためのものと、仙台藩に設置された有備館や摂津国に土橋友直らが設立した含翠堂(がんすいどう)のように藩学の延長なようなものがあった。また庶民は『商売往来』『庭訓往来』などの往来物を用いて寺子屋で学んだ他、町人は心学舎で心学(石門心学)を学んだ。心学は『都鄙問答』『斉家論』などの著書で知られる石田梅岩が町人道徳を説くべく京都で創始した学問であり、江戸に参前舎を創立した中沢道二の他、手島堵庵(てしまとあん)・植松自謙(出雲屋和助)らが出てさらに発展した。
国学
北村季吟 / 『源氏物語湖月抄』『枕草子春曙抄』などの著書で知られ、初代歌学方を務める。国学は古典研究による民族精神の究明を目標とした学問であり、その復古思想は後の尊皇運動に影響を与えた。この他にも、歌論書『梨本集』で歌学の革新を訴えた戸田茂睡や、『万葉集管見』を著した下河辺長流、徳川光圀の下で『万葉代匠記』を編纂した契沖らも有名。なお国学の語は荷田春満の頃から使用された。
荷田春満 / 契沖の門弟。『創学校啓』を著して徳川吉宗に国学の設置を献策。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に「国学の四大人」と言う。
賀茂真淵 / 荷田春満の門弟。本居宣長の師。田安宗武の家臣。『国意考』『万葉考』などで復古思想を提唱。この他、『比古婆衣』の著者伴信友も有名。
本居宣長 / 賀茂真淵の門弟。自宅の鈴の屋で初心者用の『うひ山ぶみ』を用いて講義する一方、『古事記伝』『源氏物語玉小櫛』などを著す。
平田篤胤 / 本居宣長死後の門人。『古史徴』を著し、儒仏に毒されぬ純粋な古道を示して惟神(かんながら)の道の復活を説く復古神道を創始。
塙保己一 / 和学研究所を創設して国史講義と史料編纂を行う。林家と協力して編纂した古代以来の古書の集大成『群書類従』は特に貴重。
蘭学(蛮学・洋学)
1 概要・外国人の活躍
『日本誌』を著した独人ケンペルや『日本植物誌』を著した瑞人ツンベルグ、さらに高野長英・伊東玄朴らを輩出した鳴滝塾の創設者である独人シーボルトら多くの外国人の活躍により発達した蘭学は、自然科学中心の学問である。幕府は当初蘭学を封建体制補強のための実学として奨励したが、やがて西洋の近代化を痛感した蘭学者たちが封建的為政者たる幕府を批判し始めたため、次第に弾圧を展開した。
2 医学者・本草学者の活躍
山脇東洋 / 吉益東洞の友人。後藤艮山から古医方を学び、初の解剖図録『蔵志』を著す。古医方は漢代の張仲景の説に傾倒した名古屋玄医が提唱。
杉田玄白 / 江戸の小塚原で死刑囚の腑分けを行った経験を活かし、青木昆陽の門弟前野良沢と共に独人クルムスが著した『解剖図譜』の蘭訳『ターヘル=アナトミア』を翻訳、平賀源内に洋画を学んだ小田野直武に表紙絵を描かせて『解体新書』を完成。後に回想録『蘭学事始』を著す。
桂川甫周 / 『ターヘル=アナトミア』の翻訳に参加。後にロシアから帰国した大黒屋光太夫を尋問して『北槎聞略』を編纂。
大槻玄沢 / 杉田玄白と前野良沢の門弟。家塾芝蘭堂を開設、オランダ正月(太陽暦新年会)を開催。蘭学入門書『蘭学階梯』を著す。
稲村三伯 / 宇田川玄真と協力して日本初の日蘭対訳辞書『波留麻和解』を著す。桂川甫周は『ヅーフハルマ』を『和蘭字彙』として出版。
華岡青洲 / 日本初の麻酔薬たる麻沸湯を用いて乳癌手術を行う。この他、桂川甫周の門弟で内科書『西説内科撰要』を著した宇田川玄随らが有名。
緒方洪庵 / 長与専斎を塾頭に据えて適々斎塾(適塾)を創設し、橋本左内・佐野常民・大鳥圭介・福沢諭吉・大村益次郎らを教育。
伊東玄朴 / 肥前藩主鍋島直正の保護の下、牛痘ワクチン接種のための種痘館(後の種痘所→医学所→西洋医学所→大学東校)を神田に開設。
貝原益軒 / 『大和本草』『女大学』の著者。「接して漏らさず」の言で有名。なお本草学は『本草綱目』を著した明の李時珍に始まる薬物学である。
稲生若水 / 前田綱紀の下で『庶物類纂』を著す。門弟の野呂元丈は徳川吉宗の命令で蘭語・蘭学を修得する一方、『阿蘭陀本草和解』を著す。
青木昆陽 / 徳川吉宗の命令で蘭語・蘭学を修得する一方、甘藷栽培に取り組み『甘藷記』『蕃薯考』を著す。
飯沼慾斎 / リンネの分類法に基づいた『草木図説』を編纂。この他、『本草細目啓蒙』の著者の小野蘭山も著名。
3 天文学・地理学
西川如見 / 徳川吉宗に招かれて江戸へ入り、海外事情を纏めた『華夷通商考』や教訓書『百姓嚢』『町人嚢』、その他『天文義論』などを著す。
志筑忠雄 / 長崎通詞。ニュートンの弟子ジョン=ケイルの著書を天文・物理学書『暦象新書』として翻訳、初めて地動説を日本に紹介。
高橋至時 / 麻田剛立の門弟、天文方。渋川春海の貞享暦や安倍泰邦の宝暦甲戌暦に代わる寛政暦を間重富と共に作成。後に渋川景佑が天保暦を発明。
高橋景保 / 高橋至時の子。蘭書翻訳局たる蛮書和解御用(後の洋学所→蕃書調所→洋書調所→開成所→大学南校)を幕府天文台に創設。
伊能忠敬 / 高橋至時の門弟。高橋景保の協力の下、量程車を用いて『大日本沿海輿地全図(伊能図)』を作成。長久保赤水は『日本輿地路程全図』。
4 和学(数学)
吉田光由 / 伯父の角倉素庵から程大位の『算法統宗』を学び、『塵劫記』を著して和算を確立。なお日本最古の数学書は毛利重能の『割算書』。
関孝和 / 筆算式代数学を発明、円周率を計算、『発微算法』を著す。死後『括要算法』が出版される。なお沢口一之の『古今算法記』も有名。
5 科学
平賀源内 / 髭髯斎。寒暖計やエレキテルを発明、『西洋婦人図』など洋画も描く。大槻玄沢の門弟橋本宗吉はエレキテルを研究、『究理原』を著す。
帆足万里 / 三浦梅園の条理学を基礎に『窮理通』を著す。帆足万里・三浦梅園に日田で活躍した広瀬淡窓を加えた三人を豊後三大家と言う。
青地林宗 / 日本初の物理学書『気海観瀾』を著す。この他、『舎密開宗』『菩多尼訶経』を著した化学者(舎密学者)宇田川榕庵も有名。
江戸時代の思想
竹内式部 / 1758年、公卿に尊皇思想を説いたため重追放(宝暦事件)。1767年の明和事件では連坐して八丈島に配流。
山県大弐 / 『柳子新論』を著して田沼意次による幕政を批判。後に藤田右門と共に江戸城と甲府城の攻略を謀議、露顕して死刑(明和事件)。
高山正之 / 三条大橋で皇居を拝む。蒲生君平・林子平らと共に寛政の三奇人とされる。『日本外史』『日本政記』を著した頼山陽同様、勤皇思想を宣伝。
蒲生君平 / 皇陵荒廃を嘆いて歴代天皇陵の調査・研究を行い『山陵志』を著す。
林子平 琉球・蝦夷地・朝鮮を図示解説した『三国通覧図説』を著す。海防論書『海国兵談』を出版してロシア南下を警告、禁錮。六無斎と号す。
本多利明 / 経世論者。『西域物語』『経世秘策』を著して開国・貿易・属島開発などを説く。なお経世論は幕政に批判的な経世済民の政治経済論のこと。
富永仲基 / 懐徳堂出身。思想発達の原則たる「加上の法則」を説き、『出定後語』を著して歴史的見地から儒教・仏教を否定。
遠山景賢 / 『利権論』を著し、貧乏大名や貧農への官金貸付を提案。この他、『稽古談』『経済談』などで藩営専売を説いた海保青陵も有名。
山片蟠桃 / 懐徳堂出身、麻田剛立の門弟。升屋の番頭。無神論(無鬼論)を説き、『夢の代』で儒教・仏教・国学を批判、地動説や自由経済政策を主張。
安藤昌益 / 『自然真営道』『統道真伝』を著して階級制度を批判、原始共産主義的な万人直耕の自然世を訴える。
佐藤信淵 / 『農政本論』『経済要録』で産業国営化と貿易展開、『宇内混同秘策』で対外進出による垂統国家建設を提唱。水野忠邦に影響を与える。
横井小楠 / 越前藩主松平慶永の政治顧問。なお佐久間象山は『象山書簡』の中で西洋学術摂取の必要性を主張している。 
7 江戸時代の文化
江戸時代の文化は、徳川家光の時代である17世紀前期から中期に掛けての寛永期文化と、徳川綱吉により天和の治が為された17世紀末期から18世紀初頭までの元禄文化、そして徳川家斉により大御所時代が展開された19世紀初期の文化・文政時代に於ける化政文化の三期に大別することができる。寛永期文化は桃山文化と元禄文化の折衷であり、その担い手は将軍家や大名、公家や上層町人たちである。鎖国の影響から、後の化政文化と共に第二国風文化と称される元禄文化は遊里の事情に通じた粋な気性を尊ぶ上方の豪商たちが中心の文化であり、それが故に豪放な性格を有する文化だった。化政文化は既に爛熟期を迎えており、徳川家斉の放漫政策や、寛政・天保の改革に伴う規制の強化から、洒落や通を好む刹那的且つ享楽的且つ退廃的な色彩を有していた。
建築・彫刻
日光東照宮 / 徳川家光が建立した霊廟建築の一種である権現造の建物。陽明門は殊に華麗。なお松永久秀が焼いた東大寺大仏殿は公慶が再建。
修学院離宮 / 後水尾天皇の数奇屋造の建物。比叡山を背景とした修学院離宮庭園で有名。回遊式の桂離宮庭園を有する八条宮智仁親王の桂離宮も有名。
湯島聖堂 / 江戸の孔子廟に徳川綱吉が林家の家塾弘文館を移築して聖堂学問所とし、孔子を祀る大成殿を設置。亮賢の護国寺、隆光の護持院も有名。
眠り猫 / 左甚五郎が日光東照宮にて製作した彫刻作品。なお元禄期には円空が鉈彫の技法で『両面宿儺像』を製作。
工芸
有田焼 / 伊万里焼。朝鮮出兵の折に帰化した李参平が創始。薩摩焼・萩焼・唐津焼・平戸焼・備前焼・高取焼・上野焼共々、後に藩の専売となる。
京焼 / 『色絵吉野山図茶壺』で知られる野々村仁清が創始。なお初代酒井田柿右衛門は赤絵の技法を完成し、『色絵花鳥文深鉢』などを残した。
蒔絵 / 洛北鷹ケ峰に芸術村を創設した本阿弥光悦が『舟橋蒔絵硯箱』を製作。元禄期に尾形光琳が『八橋蒔絵硯箱』を製作して興隆。
友禅染 / 元禄期に宮崎友禅が創始。これにより元禄模様が施された元禄小袖などが流行。
絵画
住吉如慶 / 幕府御用絵師を務めたが独創性に欠け次第に衰退。朝廷絵師として宮廷絵預所を世襲した土佐派では土佐光信・土佐光起らが活躍。
狩野探幽 / 狩野永徳の孫、幕府御用絵師。『大徳寺方丈襖絵』などを描く。『夕顔棚納涼図屏風』を描いた久隅守景は狩野探幽の門弟。
俵屋宗達 / 装飾画『風神雷神図屏風』を描く。装飾画は元禄期に尾形光琳が『紅梅白梅図屏風』『燕子花図屏風』を描き発展、化政期の酒井抱一が大成。
菱川師宣 / 肉筆画の浮世絵『見返り美人図』を描く。浮世絵では亜欧堂田善が描いた銅版画『浅間山図屏風』なども有名。
葛飾北斎 / 風景版画『富嶽三十六景』を描く。幕府が1867年にパリ万国博覧会に出品。歌川広重(安藤広重)も『東海道五十三次』を描き、大成。
鈴木春信 / 『弾琴美人』などを描き、錦絵(多色刷り版画)を大成。なお役者絵では『市川鰕蔵』『大谷鬼次の奴江戸兵衛』を描いた東洲斎写楽が著名。
円山応挙 / 写生画『雪松図屏風』を描く。美人画では『ポッピンを吹く女』を含む『婦女人相十品』を描いた喜多川歌麿が有名。なお顔の拡大は大首絵。
司馬江漢 / 眼鏡絵(左右対称のため凸レンズを用いて観賞する絵)の一種である西洋画『不忍池図』を描く。
渡辺崋山 / 文人画『鷹見泉石像』を描く。文人画としては清の沈南蘋に写生画を学んだ与謝蕪村が池大雅と共に描いた『十便十宜図』も有名。
松村呉春 / 松村豊昌。与謝蕪村に南画を学び、円山応挙の影響も受け、弟の松村景文と共に四条派を形成。
文学及びそれに類するもの
浅井了意 / 仮名草子『東海道名所記』を執筆。寛永期には鈴木正三が『二人比久尼』、如儡子が『可笑記』などの仮名草子を著す。
井原西鶴 / 八百屋お七を描いた『好色五人女』や『好色一代男』『好色一代女』などの好色物や、『武家義理物語』『武道伝来記』などの武家物、それに『日本永代蔵』『世間胸算用』などの町人物を執筆、従来の仮名草子をより享楽的な浮世草子として大成。なお元禄期には貸本屋が出現。
山東京伝 / 遊里を舞台とした洒落本『仕懸文庫』を著すも、黄表紙『金々先生栄花夢』『鸚鵡返文武二道』の著者恋川春町と共に寛政の改革で罰される。
為永春水 / 恋愛物の人情本『春色梅児誉美』を著すも、合巻『偐紫田舎源氏』などの著者柳亭種彦と共に天保の改革で罰される。この頃、女房詞も登場。
上田秋成 / 読本『雨月物語』を著す。読本としては後に滝沢馬琴(曲亭馬琴)が執筆した勧善懲悪文学の代表作『南総里見八犬伝』の方が有名。
式亭三馬 / 滑稽本『浮世風呂』『浮世床』を著す。滑稽本では十返舎一九が著した弥次郎兵衛・喜多八の話『東海道中膝栗毛』が有名。
大田南畝 / 蜀山人・四方赤良・寝惚先生とも称される狂歌の名手。『万載狂歌集』を著す。門弟の石川雅望(宿屋飯盛)も有名。
柄井川柳 / 前句付を発展させて『誹風柳多留(俳風柳樽)』を著し、川柳を創始。天保の改革で弾圧される。
香川景樹 / 桂園派の祖。和歌はこの他に田安宗武・良寛・橘曙覧らが出て発展。
鈴木牧之 山東京伝の甥の山東京水に挿絵を描かせて随筆『北越雪譜』を完成。菅江真澄の紀行文『菅江真澄遊覧記』と共に当時の民俗資料として貴重。
松永貞徳 / 貞門派の祖。談林派の祖である西山宗因と共に室町末期の俳諧連歌から独立した俳諧の発展に貢献。
松尾芭蕉 / 談林派。「わび」「さび」の境地から蕉風俳諧(正風俳諧)を確立。1689年には門弟の曽良と共に旅立ち紀行文『奥の細道』を制作。また句集『俳諧七部集(芭蕉七部集)』も有名。森川許六・向井去来・服部嵐雪・内藤丈草・志太野坡・越智越人・杉山杉風・立花北枝・各務支考・宝井其角ら蕉門十哲と称される門弟たちと共に俳諧を大成。
小林一茶 / 俳書『おらが春』の著者。この他、『蕪村七部集』を著した与謝蕪村も有名。
芸能
坂田藤十郎 / 規制強化に伴い歌舞伎は阿国歌舞伎→女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎→元禄歌舞伎と変遷。初代坂田藤十郎は上方で和事を公演。
市川団十郎 / 初代市川団十郎は江戸で荒事を公演。なお女形では芳沢あやめが有名。
河竹黙阿弥 河竹新七。『東海道四谷怪談』の作者四代目鶴屋南北の次代の門弟。『白浪五人男』などの白浪物を制作。
竹本義太夫 / 近松門左衛門が制作した脚本、即ち『心中手網島』『曽根崎心中』『冥途の飛脚』などの世話物、『国性爺合戦』などの時代物に基づき、義太夫節で知られる人形浄瑠璃(浄瑠璃に合わせ人形遣いが人形を操る演劇)を公演、成功。
近松半二 / 近松門左衛門の養子、『本朝廿四孝』などを制作。近松門左衛門の門弟竹田出雲は『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』などを制作。
都太夫一中 / 歌浄瑠璃の一中節を創始。この他、常磐津節・清元節・新内節・富本節なども有名。
江戸時代の宗教・社会
黄檗宗 / 後水尾天皇から賜った宇治の万福寺を本山として隠元隆gが創始した禅宗。長崎の崇福寺は中国人壇那寺。臨済宗は白隠慧鶴が再興。
日蓮宗 / 角南重義らの支援の下、日奥が備前国妙覚寺で不受不施派を創始。日蓮正宗・顕本法華宗・本門仏立宗などの受不施派や幕府と対立。
天理教 / 中山みきが創始。他、黒住宗忠の黒住教、川手文治郎(赤沢文治)の金光教、井上正鉄の禊教など神道系宗教が興る。いずれも後の教派神道。
寺社参詣 / 信濃国善光寺、讃岐国金昆羅大権現、安芸国厳島神社、下総国成田山新勝寺、相模国阿夫利神社、下野国日光東照宮など。
伊勢参宮 / 60年神発説に基づき数百万人が抜け参りとして伊勢神宮に押し寄せる御蔭参りが発生。1867年には三河国から狂乱「ええじゃないか」が発生。
巡礼 / 四国霊場八十八所・西国霊場三十三所・秩父霊場三十四所・坂東霊場三十三所など。旅の流行の影響で発展。
庚申講 / 招福除災の集会。観音講・念仏講・地蔵講なども盛ん。この他、ただ日の出・月の出を拝むための日待・月待などの集会もあった。
家元制度 / 家元・師範・師範代・名取などの文化的階級制度。室町時代に始まり江戸時代に普及。
富突 / 富籤。江戸三大富突(谷中天王寺・目黒不動・湯島天神)が有名だったが天保の改革で廃絶。現在の宝籤の原型。 

8 江戸時代の三大改革
享保の改革
(1716年〜1745年 / 八代将軍吉宗による改革)
1 徳川吉宗の将軍就任
紀州藩主徳川光貞の四男松平頼方は慣例として越前国の小藩藩主に就任していたが、長兄徳川綱教・次兄徳川頼職が没し、残る兄一人は夭折していたために紀州藩主に就任し、将軍徳川綱吉の偏諱を受けて徳川吉宗と名乗った。徳川吉宗は伏見宮貞致親王の娘の真宮理子内親王を正妻として娶る一方で藩政改革を断行したが、やがて徳川家継の後継者だった尾張藩主徳川吉通の急死を受け、嫡流への近さと藩政改革の実績を武器に尾張藩主徳川継友・水戸藩主徳川綱条らを退け、将軍に就任した。当時の武士は武陽隠士の著書『世事見聞録』に見られるような借知の影響などで窮乏しており、富裕な庶民が養子縁組の形で幕臣の資格(御家人株)を得ることも珍しくなかった。徳川吉宗はこの状況を「諸事権現様御掟の通り」、即ち徳川家康の治世に回帰させることを目指し、側近政治撤廃・財政再建などの改革を断行した。
2 人材登用
役職に設定されていた役高は人材登用の障害だっていたため、徳川吉宗は禄高と役高との差額を役職に就いている期間のみ足高(たしだか)として支給する足高制を制定、江戸町奉行大岡忠相・勘定吟味役井沢為永・勘定奉行神尾春央らを登用していった。また徳川吉宗は水野忠之を勝手掛老中、加納久通・有馬氏倫・小笠原政登らを御用取次に任命するなど、紀州藩の藩政改革以来の腹心も重く用いた。
3 改革の推進
徳川吉宗は1742年、大岡忠相に命じて下巻103箇条が特に御定書百箇条と称される過去の判例の集大成公事方御定書を幕府の成文法として完成させる一方、裁判事務の停滞を正すと共に直参の経済的困窮を和らげるため、相対済し令を施行して金銭貸借関連の裁判を禁止し、当事者間の示談により処理させた。徳川吉宗は室鳩巣の著書『六諭衍義大意』を用いた風俗矯正や倹約令を断行したため『享保世話』などで皮肉られたが、一方では評定所門前の目安箱に入れられた記名式の目安を元に無料の小石川養生所を設置したり、「いろは」四十七組の町火消の整備を断行したりした。また徳川吉宗は実学を奨励したため1720年には洋書・漢訳洋書の輸入を解禁した。実学者青木昆陽は甘藷(薩摩芋)の研究・栽培を行い、落合孫右衛門は浜御殿で甘蔗栽培に成功した。輸入のみだった朝鮮人参も日光などで栽培が開始された。
4 財政の再建
徳川吉宗は商業統制のため株仲間を公認する一方、経費削減・新規事業禁止・冗員馘首などを断行して支出の抑制に努め、さらに諸大名に1万石あたり100石の八木(米)を賦課する見返りに参觀交替の在府期間を半年とする上米制を定めた。一方、年貢の増収政策としては、坪刈りによる不安定な検見法から毎年一定の定免法への徴税方法変更(後に有毛検見法を併用)、天領租税率の四公六民から五公五民への引上げ、三分一銀納法施行、新田開発などが為された。また1722年には流地禁止令を発令して頼納を禁じたが、出羽国長瀞騒動や越後国高田騒動などの質地騒動を誘発したため翌年撤回された。頼納はこの後黙認されたため、結果的に質流地を集めた村方地主が勃興した。なお徳川吉宗は堂島米相場所の公認の他、米の大量消費を根拠とした酒造制限令や延取引禁止などを断行した。
5 享保の改革の結果
米将軍(米公方)たる徳川吉宗の尽力により幕府財政は潤ったが、米のみが増えて他の商品が増えなかったことによる米相場の低迷、農民や町人の生活水準の向上に伴う労働コストの上昇、そして金貨と銀貨の交換比率の変動などの理由から米価以外の物価が高騰する「米価安の諸色高」という状況に陥った。徳川吉宗はやむなく米価上昇のため享保金銀を発行したが、1732年の享保の大飢饉により米価が暴騰すると今度は1736年に元文改鋳を行って悪質な文字金銀を発行し、結果的に貨幣経済の混乱を助長した。また杓子定規な倹約令に対する反発も強く、尾張藩主徳川宗春などは故意に豪奢な生活を送り、公然と徳川吉宗に反抗した。
田沼時代
(1767年〜1786年 / 金権腐敗政治の典型)
1 田沼時代までの過程
徳川吉宗の嫡男徳川家重は言語不明朗だったため、側用人大岡忠光の抬頭を招き、側近政治の風潮が早くも復活した。1753年には木曾川・揖斐川・長良川が集中する洪水地帯の治水工事が薩摩藩により為されたが、この難工事は51名もの藩士の自殺の上に漸く竣工したため、総奉行を務めた家老平田靫負(ひらたゆきえ)はその直後に引責自害した。この宝暦治水事件は後に薩摩藩が猛烈な倒幕運動を展開する伏線となった。やがて将軍徳川家治により1767年に側用人に抜擢され実権を掌握した田沼意次は、この後、商業資本を積極的に利用することによる幕府財政の再建を目指していった。
2 田沼政治
有名な印旛沼と手賀沼の干拓は耕作地の拡大に伴う年貢増収は勿論、銚子・利根川経由で江戸湾へ至る新たな輸送ルートを開くためにも行われたが、1786年の利根川大洪水により頓挫した。また在方株発行による在郷町の商工業の容認や、計数銀貨(表記貨幣)の南鐐二朱銀の発行による貨幣の融合一体化などによる経済の発達を企図したが、効果は稀薄だった。この他、田沼意次は運上金や冥加金を徴収するための株仲間奨励や、銅座・鉄座・真鍮座・朱座・人参座の専売の認可に伴う収入の増加などを図ったが、やはり芳しくなかった。さらに田沼意次は絹糸取引への課税のために武蔵国や上野国に絹糸改会所を設置したが、これは夷屋・白木屋・大丸などの三都商人の反発や物価高騰による一揆を招いたため、挫折した。繰綿の延取引を円滑にするための繰綿延売買会所も整備されたが、やはり価格の高騰や河内国・和泉国の農民の反発などを招いたため廃止された。この他、石灰・明礬・硫黄なども専売制となった。また田沼意次は貿易を促進するために海泊互市新令を緩和する一方、貿易の代金として金銀が海外へ流出することを防止するために俵物や銅による貿易代金支払を定め、金銀は輸入するように仕向けた。一方、工藤平助は1783年にロシア人の動静など北方情勢を詳細に記した『赤蝦夷風説考』を田沼意次に提出したが、これは田沼意次が最上徳内を1786年に千島列島へ派遣することに繋がった。
3 田沼時代の結末
田沼時代には、1772年の江戸の目黒の行人坂の大火や1783年の浅間山大噴火、さらにその火山灰による天明の大飢饉などの、世情を不安定にさせる事件が頻発した。また田沼意次による露骨なまでの賄賂政治は庶民たちの強い反発を受け、幕府の権威は地に堕ちた。そんな折、田沼意次の子で若年寄を務めていた田沼意知が、私怨から佐野政言に殺害されるという不祥事を1784年に起こした。佐野政言は庶民から「世直し大明神」と称えられた。この事件や過度の商業資本の重視による矛盾の露呈、即ち本百姓体制解体の危機や農業労働力の減少や農民闘争の激化などの様々な理由により、老中首座にまで出世した田沼意次の独裁体制は揺らぎ、1786年に徳川家治が没すると同時にあっさりと失脚したのである。
庶民の困窮と百姓一揆
江戸時代の三大飢饉、即ち蝗害により西国で1732年に発生した享保の大飢饉、浅間山大噴火に伴う冷害や長雨に伴う水害により東北地方で1782年に発生した天明の大飢饉、冷害・水害により東北地方で1833年に発生した天保の大飢饉は、間引の横行や無宿と称される浮浪者を急増させた。農民たちはこうした状況に対し、百姓一揆で抵抗した。
代表越訴型一揆 / 若狭国の松木長操、信濃国の多田加助、下総国の木内宗吾(佐倉惣五郎)、上野国の磔茂左衛門ら「義民」が直訴する百姓一揆。
惣百姓一揆 / 美濃国の郡上一揆(馬場文耕が小説化)、伊予国の武左衛門一揆、中山道伝馬騒動など傘連判を作成して全村民が参加した一揆。
世直し一揆 / 江戸末期、年貢減免・質流地奪還・地主攻撃などのため発生した百姓一揆。武州一揆を端緒とする慶応の百姓一揆など。
百姓一揆の他、田沼時代からは不正を行う村役人の交代を要求する村方騒動が勃発し、幕末には摂津国・河内国などを端緒として在郷商人が率いる合法的農民闘争たる国訴が発生した。また町人や農民が商人・富農・金融業者を襲撃する打ち毀しは享保年間から発生していたが、天明の大飢饉を受けて1787年に大坂で発生して江戸に伝染した天明の打ち毀しは特に大規模なものとして知られている。なお農村での農業形態は、当初は本百姓が実際に経営する地主手作が主流であったが、享保年間からは次第に労働コストの高騰により行き詰まり、高額の小作料に依存する寄生地主が勃興した。
寛政の改革
(1787年〜1793年 / 松平定信による改革)
1 松平定信の実権掌握
御三卿筆頭田安宗武の七男松平定信は白河藩主松平定邦の養子として家督を継ぎ、『凶荒図録』に描かれている天明の大飢饉に於いても藩内で餓死者を一人も出さない程の優れた藩政を執行していた。徳川家治の逝去後に将軍職を継承した徳川家斉は父の一橋治済の推薦により松平定信を老中首座に任じ、さらに将軍補佐役として強権を与えた。実権を掌握した松平定信は政策立案者たる本多忠籌や政策執行者たる松平信明らを抜擢し、一橋治済の協力の下、農村復興・公儀権威回復・商業資本抑圧・階級闘争鎮静化・財政再建などを主要目標とした抜本的改革を断行した。
2 社会改革
松平定信は農村の人口確保のため旧里帰農奨励令を、物価調整のため物価引き下げ令を発令したが、効果は薄かった。さらに直参の借金地獄を緩和するべく棄捐令を発令して江戸の札差での6年以上の借金の帳消しと5年以内の借金の低利償還を定めたが、札差には江戸の商業資本家で構成される猿屋町貸金会所からの見返り融資が実行されたため、寛政の改革では完全な商業資本抑圧が為された訳ではない。この他、松平定信は非常用に町入用節約分の70%を町会所に積み立てて貧民救済や災害復興に充てる七分積金制度や、諸藩に1万石あたり50石の籾米を備蓄させる囲米制度、義倉・社倉・常平倉など穀物を備蓄させるための三倉の設置、などを行う一方、火付盗賊改長谷川平蔵(鬼平)からの建議を容れて江戸の石川島に人足寄場を設け、無宿たちに正職に就くための技術を学ばせた。
3 思想統制・風俗矯正
寛政の三博士の進言を受けた松平定信は1790年に寛政異学の禁を施行し、朱子学を正学、他の儒学を全て異学と定めて異学を禁止する一方、1797年には聖堂学問所を官立の昌平坂学問所(昌平黌)に改め、朱子学のみを教えるようにした。なお寛政異学の禁は大学頭林信敬により施行されたが、実際に推進したのは林述斎である。一方で松平定信は、1792年に林子平の著作物の出版を禁止して思想の弾圧を行うと共に、洒落本・黄表紙などを風俗矯正のために取り締まった。
4 寛政の改革の結果
寛政の改革は田沼時代への反動として発生した復古的理想主義に基づく政治だった。財政的には一応以前の深刻な状態からの脱却に成功したが、厳しい倹約令や風俗矯正は民衆の不満を招いた。太田南畝らの「世のなかにか程うるさきものはなしぶんぶといふて夜も寝られず」「白河の清きに魚の住み兼ねてもとの濁りの田沼こひしき」という狂歌は、これを端的に示している。光格天皇が父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈る際に反対した尊号一件(後に慶光院の尊号が贈られた)や、徳川家斉が父の一橋治済を大御所として江戸城に迎える際に反対した大御所問題などで将軍徳川家斉に睨まれた松平定信は隠居に追い込まれたが、本多忠籌・松平信明らは「寛政の遺老」として老中に止まり改革を続けていった。白河楽翁こと松平定信の著作としては、『花月草紙』や自叙伝『宇下人言』が知られている。
大御所時代
(1793年〜1841年 / 放漫政治の典型)
1 大御所政治の展開
1793年の松平定信の隠居により実権を掌握した徳川家斉は1837年に子の徳川家慶に将軍職を譲位した後も実権を保持し続け、1841年の死没まで大御所として君臨した。徳川家斉が幕政の実権を掌握していた時期を大御所時代と言うが、この時期の政治は「水のでてもとの田沼になりにけり」と称された側用人水野忠成らの抬頭も影響して総じて放漫政治であり、それが故に化政文化が開花したものの享楽化が進行し、社会不安増大が増大した。百姓一揆や打ち毀しは以前にも増して多発したが、徳川家斉はこれにより寺社領や旗本領などが入り組んでいる関東地方の治安が悪化することを防ぐため、1805年には勘定奉行の配下に関東取締出役(八州廻り)を新設し、その配下に50ヵ村程度で構成される寄場組合を設置して、治安維持に当たらせた。寄場組合は寄場役人と言う名主により仕切られた。
2 大御所政治の結果
従来の物価高騰に加え大御所時代には史上空前の規模を誇る天保の大飢饉も発生したため、三河国の加茂一揆、甲斐国の郡内一揆、陸奥国の嘉永三閉伊一揆、近江国の三上山騒動などの百姓一揆が多発した。徳川家斉は対策として江戸に御救小屋を設置して貧民の救済にあたった。また1837年には家塾洗心洞で陽明学を講じていた元大坂町奉行与力の大塩平八郎(大塩中斎)が天保の大飢饉に対する幕府側、就中大坂町奉行跡部山城守(水野忠邦の兄)の無為無策に憤慨し、蔵書を売却した金を庶民に分配すると共に同志を募り、大塩の乱を起こした。大塩の乱の後も、越後国柏崎代官所を平田篤胤の門弟生田万が「大塩門弟」を称して襲撃した生田万の乱や、摂津国にて「徳政大塩味方」を称する農民が蜂起した能勢一揆などが勃発した。また財政窮乏に喘ぐ大名たちの間でも、徳川家斉が自らの55人もの子女のうち娘を嫁がせており血縁関係にある加賀藩前田家など一部の大名のみを贔屓したために、他の諸藩は幕府に反発した。結果的に大御所政治は幕府権威の失墜を招いたのである。
天保の改革
(1841年〜1843年 / 水野忠邦による幕政改革)
幕政刷新を訴える『戊戌の封事』を水戸藩主徳川斉昭から提出された将軍徳川家慶は、水野忠成を退けると共に大坂城代・京都所司代などを歴任していた浜松藩主水野忠邦を老中に抜擢した。佐藤信淵・大蔵永常・二宮尊徳らを登用した水野忠邦は絶対主義への傾斜や内憂外患などの理由から「当御代思召次第」と称される強圧的改革を断行、綱紀粛正・農村復興などを推進した。まず庶民に対しては荒井顕道の『牧民金鑑』に掲載されている人返しの法や贅澤な料理などを厳禁した倹約令を施行する一方、合巻・人情本の刊行禁止、江戸歌舞伎芝居小屋の浅草山之宿強制転居、役者の旅興行禁止などを断行した。経済面では印旛沼干拓を継続する一方、棄捐令を下して借金の半分を幕府の公金支出により相殺した。また十組問屋仲間などによる流通の独占打破と幕府の直接統制による物価引下げを図って株仲間解散令を1841年に施行したが、実際の物価高騰の要因は悪貨発行・凶作・飢饉などだったため効果が稀薄だった上に流通の混乱を招いたため、1851年には株仲間再興令が施行された。やがて水野忠邦は1843年、領地整理や海防政策のため江戸・大坂周辺十里四方を天領とする上知令(上地令)を発令したが、これは老中土井利位(どいとしつら)ら大名・旗本の猛反発を受け、失脚に追い込まれた。結局、天保の改革の頓挫は幕府の権威と権力を再起不能なまでに失墜させたのである。
天保の藩政改革
1 天保以前の藩政改革
江戸中期以降『経済録拾遺』に記されているような財政窮乏に苦しみ始めた諸藩は、財政再建・新田開発・殖産興業・特産品専売制などの実施を柱とした藩政改革を行うようになった。熊本藩主細川重賢が堀平太左衛門の補佐で行った宝暦の改革や、米沢藩主上杉治憲(上杉鷹山)が莅戸善政や細井平洲を用いて断行した藩政改革、秋田藩主佐竹義和が疋田定常や大越範国を用いて行った改革などが挙げられる。
2 薩摩藩の藩政改革
島津重豪の下で財政担当家老を務めた調所広郷(ずしょひろさと)は、薩摩藩が大坂商人などから借りていた500万両を250年間もの長期年賦返済として事実上踏み倒す一方、琉球との密貿易や奄美三島(奄美大島・徳之島・喜界島)で栽培されていた黒砂糖の専売などを断行し、財政を立て直した。調所広郷による改革の功績は海老原雍斎が著した『薩摩天保以後財政改革顛末書』に記されている。島津重豪の次代島津斉彬は軍制改革を行い薩摩藩軍の近代化を図る一方、反射炉・造兵工場・ガラス製造工場を完備した藩営洋式工場群たる集成館を磯ノ浜に建設した。父の島津久光に補佐された島津忠義は、集成館に鹿児島紡績所やガス灯製造所を増設する一方、鹿児島紡績所の分工場として堺紡績所を建設した。
3 長州藩の藩政改革
江戸中期に藩主毛利重就が撫育局を設置して殖産興業を推進していた長州藩では、天保年間の直前から他の藩に倣い特産品の紙や臘を産物方にて専売したが、1830年には専売に反対する防長大一揆が勃発したため中止した。藩主毛利敬親の下で藩政改革に当たった村田清風は、まず37ヶ年皆済仕法により140万両(銀8万5千貫)もの借金問題を解決し、続いて他国廻船の積荷(越荷)を抵当として委託販売業や金融業を行う越荷方を設置し、その利益を元に軍拡・近代化を推進した。
4 土佐藩・肥前藩の藩政改革
土佐藩主山内豊煕は馬淵嘉平ら下級武士開明派の「おこぜ組」を登用して抑商政策や緊縮財政政策を断行したが、失敗した。次代の山内豊信(山内容堂)は、それまでの藩政改革失敗の罪を全て「おこぜ組」に着せてこれを弾圧する一方、吉田東洋を登用して彼の献策である木材・和紙などの専売化を自案の如く推進した。一方、江藤新平らに支えられた肥前藩主鍋島直正(鍋島閑叟)は有田焼の専売などで逼迫財政を立て直すと共に、均田制を施行して小作人の本百姓化を図った。また日本初の反射炉を築造し、1850年にはやはり日本初の洋式大砲を佐賀藩大砲製造所にて鋳造した。これより後、肥前藩は軍備の近代化を急速に推進していった。
5 水戸藩の藩政改革
水戸藩主徳川斉昭は水戸学を奨励して尊皇攘夷思想を重視する一方、会沢正志斎や藤田東湖を登用して蒟蒻・紅花などを専売化して財政を再建し、反射炉築造・鉄砲鋳造による軍備増強を推進した。なお1854年には幕命により石川島造船所を開いた。この他、安芸藩・福井藩などが藩政改革に成功し、前述の各藩と共に雄藩となった。また田原藩では家老渡辺崋山が大蔵永常を藩物産掛に登用するなどの改革を行った。 

9 鎖国の崩壊と幕府倒壊の序曲
ロシアの接近
ロシアは啓蒙専制君主カザリン2世の下、南進政策を展開していた。1792年に伊勢国の船頭大黒屋光太夫を連れて根室へ来航したラックスマンは日本に開国と通商を要求したが、松平定信はこれを拒否する一方、松前奉行に長崎回港許可状たる信牌を交付させて帰国させた。1804年にはアレクサンドル1世の命を受けたレザノフが信牌を持参して長崎に来航したが、幕府は鎖国を「祖法」として開国を拒絶したため、憤慨したレザノフは日本沿岸で略奪行為を行った。このため徳川家斉は、外国船に薪・水・食料を与え迅速且つ穏便に退去させる文化薪水給与令(文化撫恤令)を1806年に発令した。1811年には露人ゴローウニンが国後島で日本側に逮捕されるゴローウニン事件が発生したが、これはロシアが報復として拿捕した淡路国の廻船問屋高田屋嘉兵衛と『日本幽囚記』を著したゴローウニンを交換して決着した。このロシアの接近に対し、幕府は近藤重蔵を千島に派遣して択捉島カムイワッカオイに「大日本恵土呂府」の標柱を設置させたり、伊能忠敬に蝦夷地沿岸を測量させたりした。なお樺太とその対岸の東韃(とうだつ)を探検して後に『東韃紀行』を著した間宮林蔵は、間宮海峡の発見者である。
英帝国主義の台頭
世界初の産業革命を成し遂げた英国は植民地拡大の侵略戦争を展開した。1808年にはナポレオン戦争の影響から英船フェートン号が蘭船を追跡して長崎港内に無断侵入し、これを逃した長崎奉行松平康英が引責自殺するというフェートン号事件が発生した。また1818年には英人ゴルドンが浦賀に来航し、1824年には英捕鯨船員が常陸国大津浜と薩摩国宝島に無断上陸するという事件を起こした。この情勢を受けた幕府は1825年、外国船を躊躇せず砲撃させる無二念打払令を発令する一方、高島秋帆に徳丸ヶ原練兵を行わせたり、韮山代官江川英龍に反射炉を築造させて大砲鋳造を断行するなどして、自衛力の増強に努めた。しかしアヘン戦争での英国勝利を受けた水野忠邦は1842年、無二念打払令を改め文化撫恤令に準ずる天保薪水給与令を制定する一方、琉球開国を示唆して英国を懐柔した。なお英国は太平天国の乱やセポイの乱で民族主義の抵抗の激しさを悟り、外圧を緩和した。一方、蘭王ウィレム2世は欧米の情勢を根拠として1844年に徳川家慶に対して開国を勧告したが、老中首座阿部正弘はこれを拒絶した。
蘭学への弾圧
1828年に天文方高橋景保も関与したシーボルト事件が発生すると、徳川家斉は最盛期を迎えていた蘭学の弾圧を強化した。オリファント社の米商船モリソン号が1837年に浦賀沖と山川沖で駆逐されたモリソン号事件に対し、知識人団体尚歯会傘下の蘭学者団体蛮学社中の構成員、即ち『戊戌夢物語』の著者高野長英や『慎機論』『鴃舌小記(げきぜつしょうき)』の著者渡辺崋山、それに小関三英らは激しく非難したため、徳川家斉は1839年に目付鳥居忠耀(とりいただあき)(鳥居耀蔵;林述斎の子)に命じて彼らを処罰した(蛮社の獄)。なお高野長英は凶作対策として早蕎麦と馬鈴薯の栽培を提唱した『救荒二物考』の著者である。
日米和親条約
(1854年 / 鎖国体制の崩壊)
ゴールド=ラッシュの終焉により太平洋の侵略を開始した米国は、捕鯨や中国貿易の基地を求め日本に接触して来た。阿部正弘は東インド艦隊司令長官ビッドルが1846年に浦賀へ来航した際には開国を拒否したが、ビッドルの後任ペリーはサスケハナ号・ミシシッピ号・プリマス号・サラトガ号という4隻の「黒船」を率いて1853年に浦賀へ来航して久里浜に上陸し、浦賀奉行戸田氏栄・井戸弘道に第13代大統領フィルモアの国書を突付けた。この際の「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず」との狂歌は有名である。国書を受けた阿部正弘は、島津斉彬・伊達宗城・徳川斉昭ら諸大名や朝廷と善後策を協議して自由貿易の拒否を条件とした開国を決定し、1854年に再来したペリーと林復斎の間で日米和親条約(神奈川条約)を締結させた。内容は、下田・箱館の開港、薪・水・食料の米国船への供給、難破船乗組員の救助、米国への最恵国待遇などだったが、同様の内容の日英和親条約や日蘭和親条約も締結された。またロシアのプゥチャーチンは1853年に長崎に来航し、下田で川路聖謨との間に日露和親条約を締結したが、この内容は日米和親条約に準ずるものの他、千島列島での日露間の国境を択捉島・得撫島間と定め、樺太を両国の雑居地とすることを含んでいた。
安政の改革
老中首座の阿部正弘は日米和親条約を締結するのに際し、朝廷に奏上したり有力大名の意見を聞いたりしたため、結果的に幕府独裁体制が終焉した。また欧米の接近を目の当たりにした阿部正弘は米国への漂流経験を持つ中浜万次郎(ジョン万次郎)らを登用し、武家諸法度の大船禁止条項を削除する一方、1855年には後の幕府海軍の前身となる海軍伝習所を長崎に、翌年には幕府陸軍の前身となる講武所を築地に開設し、国防体制を整備していった。海軍伝習所は勝海舟や榎本武揚を輩出した機関である。
将軍継嗣問題
徳川家定(徳川家祥)は病弱で嗣子が望めず、後継者争いを招いた。息子の一橋慶喜を推す徳川斉昭は阿部正弘・島津斉彬・毛利敬親・山内豊信・鍋島直正・松平慶永・伊達宗城ら有力大名と共に一橋派を形成し、徳川慶福を推す彦根藩主井伊直弼や将軍側近ら南紀派と対立した。阿部正弘の死去により1857年には佐倉藩主堀田正睦が老中首座に就いたが、米総領事ハリスの軍事的圧力に負けて朝廷に条約勅許を奏上したものの岩倉具視の活躍で勅許は下らず、将軍継嗣問題解決にも失敗したため失脚した。
日米修好通商条約の締結
(1858年 / 不平等条約)
大老井伊直弼は1858年、井上清直・岩瀬忠震とハリスの間に日米修好通商条約を違勅調印させた。内容は下田・箱館の他に神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と領事館設置、貿易章程に基づく協定関税制度、領事裁判権受諾などであり、日米和親条約と同じく蘭・英・仏・露とも同様の条約を締結した。安政の五ヶ国条約では領事裁判権と言う治外法権を欧米に与えている上、協定関税制度のために関税自主権も無かった。なお神奈川は東海道沿いだったため横浜が開港し、下田はその半年後に閉鎖された。また京都に近いため兵庫開港勅許は下りず、1867年になって漸く神戸港として開港した。井伊直弼は1860年に日米修好通商条約批准書交換のため正使新見正興と副使村垣範正をポーハタン号に乗船させてロアノークへ向かわせたが、同行した幕府護衛艦咸臨丸(艦長;勝海舟、司令官;木村喜毅)は日本初の太平洋を横断した軍艦である。なお福沢諭吉は木村喜毅の従者として同行した。一方、ロシアは1861年に対馬占領事件を起こして対馬列島の植民地化を図ったが、この愚挙は英国により阻止された。
江戸末期の貿易
米国では南北戦争が勃発したため、貿易相手国筆頭は英国となった。貿易の約8割は横浜港で為された。輸出品としては生糸・茶・蚕卵紙・海産物・金・銅、輸入品としては73,8%を占めた毛織物・綿織物の他、武器・艦船などの工業製品が挙げられる。需要の増大に伴い上野国・信濃国の製糸業や駿河国・山城国の茶の栽培などでは経営の近代化が進み、農村にも工場制手工業(マニュファクチュア)が導入された。これを受けた在郷商人は江戸の問屋を通さず絹の道(八王子〜横浜;日本のシルクロード)などを利用して絹糸を横浜へ送り、原善三郎・茂木惣兵衛ら売込商に直接品物を売却するようになったため、幕府は問屋救済と流通統制のため1860年に五品江戸廻送令を発令し、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の江戸問屋経由を義務付ける一方、株仲間再興令により問屋を救済した。また外国の金銀交換比が1:5で日本が1:15だったため50万両もの金が国外へ流出したが、幕府はこの金銀比価問題への対策として1860年に万延改鋳を行い、質の悪い万延小判を発行した。だがこれは、1867年まで続いた輸出超過による国内物資不足と相俟って物価暴騰を招き、消費生活者を困窮させた。また輸入織物の流入は国内の綿工業に打撃を与えた。物価暴騰は1866年の第二次長州征伐で頂点に達し、1867年には慶応の百姓一揆・打ち毀しなどの世直し運動が展開された。 
10 江戸幕府の潰滅
安政の大獄
(1859年 / 反体制派への弾圧)
徳川慶福改め徳川家茂を将軍に就任させ安政の五ヶ国条約を違勅調印した井伊直弼は、腹心の老中間部詮勝に命じて自身に反抗的な勢力への大弾圧を断行した。この安政の大獄では、1854年のペリー再来時に密航を企て萩の野山獄に幽閉されたものの出獄後に松下村塾を創設して高杉晋作・久作玄瑞らを教育した吉田松陰を初め、橋本左内・頼三樹三郎・梅田雲浜ら尊皇攘夷論者が処刑され、徳川斉昭・山内豊信・松平慶永ら諸大名のみならず三条実万・近衛忠煕・鷹司政通・青蓮院宮(中川宮朝彦親王)などの貴族までもが処罰された。この安政の大獄への反発として翌1860年には水戸浪士ら18名が登城途中の井伊直弼を襲撃して殺害するという桜田門外の変を起こした。幕府はこの事件の後に公武合体政策へと大きく傾くが、既に幕府の権威は失墜していた。
安藤・久世政権
井伊直弼が桜田門外の変で殺害された後、幕政の実権は公武合体論者の老中安藤信正・久世広周が掌握した。安藤信正らは将軍徳川家茂に孝明天皇の皇妹和宮親子内親王を降嫁させることを上奏したが、孝明天皇は和宮親子内親王が有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)との結納を既に済ませていた上、自身が大の討幕派であるためにこれを拒絶したが、やがて幕府の攘夷実行を条件に降嫁を許可した。しかし世の尊皇攘夷派はこれに猛反発し、大橋訥庵(おおはしとつあん)に煽られた水戸浪士が安藤信正を襲い重傷を負わせた。この坂下門外の変により安藤信正は失脚し、久世広周も辞職したために政治的空白が発生した。
寺田屋事件と文久の改革
島津久光は公武合体論による幕政改革を断行するべくまず上洛し、伏見の寺田屋にて薩摩藩内の尊攘派志士筆頭有馬新七を討伐して薩摩藩のイデオロギーを公武合体論に統一した後、公卿大原重徳(おおはらしげとみ)と共に江戸城に下向し、文久の改革を指導した。この改革では兵賦令を制定して旗本領からの農兵取り立てを行う一方、一橋慶喜を副将軍たる将軍後見職、松平慶永を大老格の政事総裁職、会津藩主松平容保を京都守護職に任じ、これらを幕政補強機関として公武合体策の推進を図った。文久の改革に対し長井雅楽(ながいうた)が提唱する公武合体論の航海遠略策を退けて尊攘論が勃興してきていた長州藩の下級武士たちは反発し、急進派の公卿三条実美らと共に京都の政局を掌握した。
攘夷運動の激化
米通訳官ヒュースケンが1860年に殺害されたことを皮切りに、1861年には『大君の都』の著者である英駐日公使オールコックが東海道を旅行したことに憤慨した水戸浪士が高輪の東禅寺の英国公使館を襲撃するという第一次東禅寺事件を起こし、翌1862年には英国公使館を警備中の松本藩士伊藤軍兵衛が公使館員を殺害した後自殺するという第二次東禅寺事件が発生した。また高杉晋作と久坂玄瑞は同年、夷人狩りとして品川移転直後の英国公使館を焼討した。攘夷論が高揚を見せる中、徳川家茂は攘夷実行を1863年5月10日と定めて孝明天皇に上奏すると共に、諸藩に対しても公布した。なおオールコックは1862年のロンドン万国博覧会に日本の品物を出展している。
下関事件
(1863年 / 下関戦争へ発展)
長州藩士桂小五郎・高杉晋作は期日通り下関にて米・英・仏・蘭の船舶に対して砲撃を実行した。高杉晋作は下関の豪商白石正一郎の協力の下で庶民混成の奇兵隊を組織したが、オールコックの指揮による翌1864年の下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)では完敗を喫した。なお長州藩士の井上聞多と伊藤俊輔は、英国留学から帰国した後に藩内の攘夷派を説得したため、伊藤俊輔は反対派に襲撃され重傷を負った。
生麦事件
(1862年 / 薩英戦争へ発展)
文久の改革を終えて帰国する島津久光の行列が東海道の生麦に差し掛かったところ、リチャードソンら数名の英人がこの行列を下馬の礼を執ることなく横断した。護衛の薩摩藩士たちは彼らを無礼討ちにしたが、英国は薩摩藩と幕府に対して加害者の引き渡しと賠償金支払いを要求。幕府は賠償金を支払ったが薩摩藩は頑強に拒否したため1863年、英艦による鹿児島砲撃を招いた。この薩英戦争により薩摩藩は英国に賠償金を支払うと共に、攘夷不可能を悟って逆に英国に接近していった。
文久の政変
(1863年 / 攘夷運動、崩壊へ)
攘夷運動の衰微を危惧した中川宮朝彦親王を中心とする尊王攘夷派は、孝明天皇のための大和行幸や伊勢行幸を企て、同時に討幕計画も練った。計画は孝明天皇親征攘夷にまで発展したため公武合体派の薩摩藩は激しく反発し、文久三年八月十八日の政変(文久の政変)を起こして尊皇攘夷派の長州藩士らを京都から追放すると共に、朝廷の三条実美・沢宣嘉(さわのぶよし)・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)・中山忠光ら急進派公卿を長州藩へ追放した。これを七卿の長州落ちと言う。この後、京都は公武合体派雄藩の合議機関たる参預会議が掌握したが、横浜鎖港問題への対応に失敗したため崩壊した。
攘夷運動の終焉
1863年には中山忠光を擁した吉村寅太郎・伴林光平・藤本鉄石ら天誅組が大和五条で天誅組の乱を、また沢宣嘉を担いだ平野国臣は但馬国で生野の変をそれぞれ勃発させたが、鎮圧された。また藤田小四郎・武田耕雲斎らは常陸国筑波山にて尊皇攘夷を主張して天狗党の乱を起こし京都を目指したが、目付井伊意尊(いいおきたか)に潰された。翌1864年には近藤勇・土方歳三・沖田総司ら幕府側の新撰組が尊攘派の拠点である三条河原町の池田屋を襲撃した(池田屋事件)。これに反発した久坂玄瑞ら長州藩士と真木和泉ら尊攘派志士は京都に侵攻したが、薩摩藩・会津藩・桑名藩など京都を警護していた幕府軍の前に敗退した(禁門の変・蛤御門の変・元治甲子の変)。なお新撰組は清川八郎の新徴組と言う浪士組の流れを汲むものである。この頃活躍した尊攘派の人間、即ち山内容堂に処刑された武市瑞山や岡田以蔵を初め、梁川星巌・野村望東尼・大国隆正らを、特に草莽の志士と言う。
薩長連合
(1866年 / 討幕体制の確立)
禁門の変の責任追及という名目で、幕府は下関戦争の直後の1864年に第一次長州征伐を実行し、長州藩に謝罪させた。海援隊(元は亀山社中)の坂本龍馬と陸援隊の中岡慎太郎(武市瑞山創設の土佐勤皇党党員)は、共に攘夷の無謀を悟った薩長両藩に働き掛け、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩の木戸孝允を密会させ、尊皇討幕論を基盤とする薩長連合を結成させた。これに刺激された徳川家茂は第二次長州征伐を断行したが、薩摩藩が幕府軍から離脱した上に長州藩は薩摩藩経由で英国から入手したミニエー銃・ゲベール銃などの新式歩兵銃を奇兵隊などに装備させていたため幕府軍は苦戦し、徳川家茂の大坂城での急死を契機として敗走した。高杉晋作はこの直後に病死した。また『船中八策』を著して公議政体論(天皇中心の雄藩連合政権の樹立)を主張した坂本龍馬は、中岡慎太郎共々京都で1867年に暗殺された。またこの戦いの後に奇兵隊のような諸隊が全国にて結成され、幕府に対し蜂起した。
大政奉還
(1867年 / 徳川幕府の終焉)
孝明天皇崩御後に践祚した睦仁親王(明治天皇)は、攘夷論を退けて兵庫開港勅許を下した。また岩倉具視は三条実美と共に討幕計画を練り、薩摩藩・長州藩・安芸藩の協力を取り付け、やがて1867年10月14日には薩長両藩に討幕の密勅が下った。一方、征夷大将軍に就任した徳川慶喜は薩長連合を支援した英駐日大使パークスに対抗するべく幕府を支援した仏駐日大使ロッシュの助言の下、内閣制度を真似て国内事務局・外国事務局・陸軍局・海軍局・会計局といった五局を設置し、各局総裁に老中を就任させて幕政を改革した。この頃、京都では島津忠義・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂が四侯会議を開催して薩摩藩と幕府の融和を図ったが決裂した。利己主義者山内容堂は薩長連合が武力討幕を果たして土佐藩が冷遇されることを恐れ、坂本龍馬から後藤象二郎を経て献策されていた大政奉還を10月14日に徳川慶喜に建議した。徳川慶喜は翌日これを受諾して朝廷に奏上したが、薩長両藩は大政奉還を阻止するべく12月9日に摂関廃止・三職設置・諸事神武創業の昔への復帰などからなる王政復古の大号令を発表し、有栖川宮熾仁親王を総裁、三条実美・島津忠義・毛利敬親・山内豊信・浅野長勲・松平春嶽・徳川慶勝らを議定、岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛・小松帯刀・木戸孝允・広沢真臣・後藤象二郎・福岡孝弟らを参与に任命した。三職は同日夕刻より京都御所内の小御所にて小御所会議を行い、紛糾した議論の結果、徳川慶喜の辞官納地、即ち征夷大将軍と内大臣の辞任と天領返還が定められた。これにより実質的に徳川幕府は終焉したが、徳川慶喜は大坂城に籠城して抵抗する構えを見せた。 
 
 明治時代

 

1 大日本帝国の黎明 − 明治維新
戊辰戦争
(1868年〜1869年 / 新旧交代の戦闘)
薩長連合軍はまず小御所会議の決定に反発して来襲した会津・桑名・大垣藩の連合軍を京都の鳥羽・伏見の戦いで破り、会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬の官位を剥奪して討幕派の優勢を確定した。徳川慶喜追討令を受け江戸城へ逃れた徳川慶喜を討つべく、朝廷は東征大総督有栖川宮熾仁親王を派遣したが、江戸城は和宮親子内親王の嘆願やパークスの斡旋により山岡鉄太郎の工作で行われた西郷隆盛・勝海舟会談後、無血開城された。川路聖謨(かわじとしあきら)は翌日自殺したが、彰義隊は寛永寺で上野戦争を敢行した^ため大村益次郎に潰された。同月、会津・仙台・米沢など佐幕31藩は奥羽越列藩同盟を結成したが、長岡藩家老河井継之助がガトリング砲を用いて抵抗した北越戦争や、白虎隊(びゃっこたい)・娘子隊(じょうしたい)が会津若松城で抵抗した東北戦争などで敗れた。海軍奉行榎本武揚は永井尚志・大鳥圭介・土方歳三らと共に武田斐三郎(たけだあやさぶろう)が設計した西洋式城郭たる五稜郭に籠城して箱館戦争を敢行したが、黒田了介(黒田清隆)率いる官軍の前に敗北した。この戊辰の役では全国の諸隊が活躍したが、征討軍先鋒を務めた赤報隊隊長相楽総三(さがらそうぞう)は年貢の半減を掲げたため、偽官軍として下諏訪で斬首に処せられた。
五箇条の御誓文と五榜の掲示
(1868年 / 維新の基本理念及び方針)
1 五箇条の御誓文
開明的な百事御一新の理念、即ち公議世論の尊重・開国和親(鎖国・攘夷の放棄と国際法たる公道の重)・挙国一致体制確立を示して基本方針とした五箇条の御誓文は、由利公正の『議事之体大意』や福岡孝弟の『会盟』に木戸孝允が「列侯会議」という語句を削除するなどの訂正を加えたものであり、古代天皇制と大化の改新の王土王民理論の再興を示すべく、明治天皇が天神地祇に宣誓なさる形で発表された。
2 五榜の掲示
五榜の掲示は五種の高札に示された理想的民衆像であり、同時に人民としての基本的な心得を示したものである。具体的な内容としては、五倫の道徳の遵守、徒党・強訴・逃散の禁止、切支丹邪宗門の禁止、外人への暴行の禁止、郷村脱走の禁止、などが挙げられるが、これらは旧幕府政治を踏襲した保守的且つ儒教的な民衆統制であった。なお切支丹邪宗門禁止の条文に関しては、長崎の大浦天主堂落成と同時に発生した浦上信徒弾圧事件(浦上四番崩れ)に対し欧米諸国が内政干渉の如く抗議して来たことを参考として廃止された。浦上信徒弾圧事件は隠れキリシタンが仏人宣教師プチジャンに信仰を告白したことを端緒とする事件である。
政体書の公布
(1868年 / 政治の基本的組織を示す)
1 太政官制の確立
政体書は五箇条の御誓文を具体化するために、副島種臣と福岡孝弟により起草されたものである。王政復古の大号令で規定された三職制はその後、三職七科制、三職八局制として補強されて来ていたが、政体書では『令義解』や『職邦志略』、それに米合衆国憲法を参考としてこれを抜本的に改め、形式的ではあるが三権分立に基づく中央官制を確立し、同時に官吏公選制(官吏互選制)も規定した。こうして確立された太政官制は、1885年の内閣制度発足まで機能した。
2 三院制への過程
当初は立法機関たる議政官をはじめ、行政官・刑法官・神祇官・外国官・会計官・軍務官の七官(後に民部官が加わり八官)から太政官は構成されていた。議政官は上局と下局から構成されたが、このうち下局は諸藩代表たる貢士(こうし)や才能有る徴士(ちょうし)で構成され、後に貢士対策所、公議所、集議院となり、後の左院の前身となった。版籍奉還後の職員令で定められた二官六省制では、明治政府の祭政一致政策の一貫として神祇官が太政官よりも上位とされ、太政官の下に外務省・大蔵省・兵部省・民部省・刑部省・宮内省・弾正台・大学校・開拓使などが置かれた。やがて廃藩置県後の官制改革では三院制が導入され、太政官を構成する三院が三権全てを統轄する中央集権体制が確立された。正院は太政大臣・左大臣・右大臣・参議により構成される後の内閣に相当する天皇親政上の最高機関であり、神祇省(後に教部省)・外務省・内務省・大蔵省・兵部省(後に陸軍省と海軍省に分割)・文部省・工部省・司法省(後に大審院が独立)・宮内省・開拓使を統括した。左院は正院の任命する議員で構成される諮問機関にして立法機関であり、集議院を吸収し、後に元老院となった。また右院は各省の卿と大輔(たいふ)で構成される行政上の連絡機関だった。なお明治政府の首脳は、公家出身者以外は下図のように「薩長土肥」出身者でほぼ独占されていた(藩閥政府)。
公家 / 三条実美・岩倉具視・万里小路博房・東久世通禧
薩摩 / 西郷隆盛・大久保利通・島津久光・寺島宗則・黒田清隆・松方正義・大山巖・西郷従道・森有礼・三島通庸
長州 / 木戸孝允・大村益次郎・山県有朋・伊藤博文・井上馨・前原一誠・山田顕義・山尾庸三・青木周蔵・桂太郎
土佐 / 板垣退助・後藤象二郎・福岡孝弟・佐々木高行・岡本健三郎・谷干城・田中光顕
肥前 大隈重信・江藤新平・副島種臣・大木喬任
その他 / 由利公正(旧越前藩士)・伊達宗城(旧宇和島藩主)・福羽美静(旧津和野藩士・国学者)
中央集権体制の確立
1 版籍奉還と廃藩置県
(1869年・1871年 / 中央集権体制確立)
1868年の明治改元と一世一元制導入、明治天皇の即位の礼の挙行、翌年の東京遷都など、政府は新政策を次々と断行して中央集権体制の確立を目指していた。諸藩は政体書の府藩県三治制により封建的支配を続けていたが、政府は大久保利通・木戸孝允・板垣退助・大隈重信に各々の郷里の藩主を説得させ、島津忠義・毛利敬親・山内容堂・鍋島直正に版(土地)と籍(人民)を返還させた。これに倣って他の藩も版籍奉還を行ったが旧藩主は知藩事として封建的支配を続けたため中央集権体制は確立されず、失敗した。これを踏襲した政府は、知藩事を廃止して中央が任命した府知事・県令(後の県知事)を派遣する廃藩置県を断行した。諸藩は藩解消による借金の帳消しと農民一揆の頻発による弱体化、また薩長土三藩が派遣した1万人の御親兵による首都厳戒などの理由から、廃藩置県におとなしく従った。
2 治安維持
政体書では警察機関として弾正台が刑部省の下に置かれた。後に弾正台は刑部省と合併して司法省となったが、1873年に地方行政担当の内務省が新設されると警察の機能はこちらに移行した。当時は邏卒(らそつ)が一般的な治安維持を行っていたが、1874年に内務大臣の指揮下に警視庁が新設されると巡査に改称された。
3 地方行政改革
府藩県三治制では全国に3府262藩26県が設置されたが、廃藩置県で3府302県が設置された後、1871年には3府72県、1888年には現在とほぼ同じ1道3府43県が設置された。政府は1878年、内務省法律顧問の独人モッセの意見を参考として郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則から構成される地方行政三新法を定め、戸籍法に基づく画一的な大区・小区を改め、所謂三新法体制の下で行政改革を断行した。1888年には内務大臣山県有朋により市制・町村制が、また1890年には北海道と沖縄県を除く全国に府県制・郡制が施行され、改革が進行した。
身分制度の撤廃と徴兵令
1 四民平等
江戸時代の封建的身分制度は撤廃され、公家や旧大名は華族、上・中級武士は士族、下級武士は卒(そつ)(後に士族)、他の農民や商人や職人は全て平民となり、階級間の通婚・住居・苗字・職業選択などが自由化された。なお苗字は平民苗字必称義務令により義務化された。1871年には戸籍法が制定され、「全国惣体の戸籍」として日本初の近代的戸籍である壬申戸籍が翌年作成された。また身分解放令(賤民解放令)では穢多・非人の呼称が廃止され、1874年には救貧法(恤救規則)が施行された。
2 秩禄処分
秩禄(士族全員に従来の1割程度支給されていた家禄と維新功労者への賞典禄)は国家財政の支出の3割を占めていたため、政府は1873年に家禄奉還制(秩禄奉還法)を制定し、秩禄数年分をまとめた秩禄公債証書や一時賜金を給付した。政府は秩禄を金禄(永世禄・終身禄・年限禄に細分される)として現金支給するなどしていたが1876年には金禄公債証書発行条例を施行し、金禄を数年分まとめた金禄公債証書を発行した。金禄公債証書は華族が64000円、士族が548円だった。金禄公債証書は5年間の据え置きが定められ、その後は抽選により換金することができた。
3 不平士族の発生
官吏・軍人・教員・巡査などにならなかった大半の士族は商売を始めたが、実業家として成功した渋沢栄一や岩崎弥太郎を除いた殆どの士族は傲慢な「士族の商法」などにより挫折し、没落の一途を辿った。政府は士族の没落防止のため、事業資金を貸し付ける就業奨励策として士族授産を行ったり、1874年に黒田清隆の建議を基に北海道屯田兵制度を定めたりしたが効果はあまり芳しくなかった。困窮した士族は徴兵令や廃刀令への不満も重なり、次第に反体制的になっていった。
4 徴兵令
(1878年 / 国民皆兵精神)
奇兵隊出身の兵部大輔大村益次郎が構想した近代的軍制は、彼の暗殺後、山県有朋・村田蔵六らによって実現された。1872年の徴兵告諭は徴兵令施行への予告だったがこの文章を誤解した農民たちは徴兵による農業生産力の低下への危惧と相俟って血税反対一揆(徴兵反対一揆)を起こした。徴兵令はフランスの軍制を参考としたものであり、国民皆兵精神の下、満20歳の男子全員に3年間兵役義務を課し、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の鎮台(軍管区統轄・後の師団)や佐倉・新潟・青森・金沢・大津・姫路・丸亀・小倉の連隊司令部に配属した。しかし、戸主・嗣子・養子・官吏・学生・洋行経験者・病弱者・身長5尺1寸未満・270円以上の代人料納入者など全体の約82%の者は兵役を免除されたため、結果的に徴兵通知書たる徴兵令書を受ける者は貧農の次男以下であった。また『徴兵免役心得(ちょうへいのがるるのこころえ)』などの徴兵忌避を煽動する兵役免除の手引書も発行された。
地租改正
税制を明瞭且つ画一的なものとし、また財政収入の約八割を占める地租の安定と増収を図るべく、政府は地租改正事務局を設置し、神田孝平が著書『田租改革建議』で求めた近代的税制改革たる地租改正を断行した。1871年の田畑勝手作許可、翌1872年の田畑永代売買解禁などで準備を整え、「旧来ノ歳入ヲ減ゼザル」方針で地価を定めて暫定的な壬申地券を発行した政府は、1873年に地租改正条例を制定して村毎の土地台帳の作成(地押(じおし))を行い、所在・地目・反別・所有者・地価を明記した正式な地券を発行した。地租改正条例では、課税基準を従来の石高から地価に変更すること、税率は一律で地価の3%とすること、納税は土地保有者が金納で行うことなどが定められていた。なお地券は1886年に登記法が制定されると廃止された。また地租3%の他に、地方税たる民費も別途に1%徴収された。地租改正により政府の財政は安定したが、地主と小作人の関係は温存された上、大地主は米価上昇により利益を得たが、小地主や自作農は小作人に転落することもあった。彼らは松方財政による不況で更に困窮し、最終的に寄生地主制の確立を招いた。地租改正と同時に政府は所有者不明の入会地の接収や永小作の整理を図ったため、1876年の真壁騒動(茨城大一揆)と伊勢暴動(三重大一揆)を端緒として堺県・茨城県・岐阜県・愛知県・三重県で地租改正反対一揆(竹槍一揆)が勃発した。内務卿大久保利通は1877年に税率を2.5%に下げたため、地主は「竹槍でドンと突き出す二分五厘」としてこれを歓迎したが、現物小作料率が68%で一定の小作人には無関係だった。なお1870年代には、地租改正・徴兵令・学制などへの反発から、信濃川疎通反対一揆やわっぱ騒動などの農民一揆が勃発した。
貨幣制度の改革と金融機関の設立
1 貨幣制度の改革
明治政府は財政難だったため、江戸時代の諸藩に倣って三井組・島田組・小野組・鴻池組などから御用金を徴収したり、1868年に会計官由利公正が発行した太政官札や翌年の民部省札のような不換紙幣を発行していた。このため貨幣制度は混乱していたが、近代国家に相応しい貨幣制度の確立を目指す新貨条例が1871年に公布され、大阪造幣寮(後の大阪造幣局)で造られた新貨幣が翌1872年に発行されるとこれは沈静化した。新貨幣は従来の両・分・朱・文の四進法ではなく円・銭・厘の十進法であり硬貨は円型であった。政府は当初、欧米と同様金貨を本位貨とする金本位制を目指したが、実際には銀貨を本位貨とするアジア諸国との貿易の便宜のために貿易銀を鋳造したため、金銀複本位制となった。金銀複本位制は後の松方財政で銀本位制となり、日清戦争後に漸く金本位制が確立された。
2 金融機関の設立
日本初の近代的な金融機関は旧両替商の三井組・小野組・島田組が1869年に設立した為替会社であるが、すぐに頓挫した。伊藤博文の指示を受けた渋沢栄一は1872年、米国のナショナル=バンク制度を改良した国立銀行条例を起草し、民間株式組織たる国立銀行の創設を目指した。渋沢栄一は三井組・小野組の出資により1873年に創設された第一国立銀行の頭取に就いたが、国立銀行は兌換制度に基づく発行銀行券の正貨兌換が義務だったため四行しか設置されなかった。やがて多数の国立銀行創設を企図した政府がこの義務を解除した結果、全国に153行の国立銀行が創立されたが、多くは国立銀行券と言う不換紙幣を乱発したため、西南戦争の戦費と相俟ってインフレを引き起こした。一方、島田組や小野組を破産させた為替方の三井組は、初の普通銀行として1876年に三井銀行を設立した。なお松方財政の後には農業に融資する日本勧業銀行や工業に融資する日本興業銀行、貿易に融資する横浜正金銀行の他、北海道拓殖銀行・台湾銀行・朝鮮銀行などの特殊銀行が設立された。
殖産興業
1 鉄道・海運事業の発達
陸蒸気(おかじょうき)と称された鉄道は、1872年に東京・横浜の両駅(ステンショ)の間、現在の汐留・桜木町間に開通したのが端緒であるが、資金(100万ポンド=884万円)・技術・レールを英国に依存していたため、1889年に東京・神戸間が全通した東海道線を含め、開通する日本の鉄道の大多数は英国と同じ狭軌となった。日本鉄道会社が上野・熊谷間を1883年に開通させたことを皮切りに、九州・山陽・北海道炭礦・関西・北越などの鉄道会社が誕生し、将来の買収を示した鉄道敷設法が下されると私鉄はさらに増加した。なお1893年に全通した直江津線の横川・軽井沢間は、日本初のアプト式鉄道である。日露戦争後の1906年には鉄道の軍事・経済上の重要性や経営難の私鉄の救済のため鉄道国有法が制定され、民営鉄道17社が買収された。一方、土佐藩出身の岩崎弥太郎は政府の保護の下で旧土佐藩の大阪西長堀商会(大阪商会)を譲り受け、これを基礎として1870年に土佐開成商社(九十九商会に改称)を設立、海運事業を開始した。発展に伴い1873年には三菱商会と改称、1875年には日本郵便蒸気船会社を吸収して郵便汽船三菱会社(三菱汽船会社) となった。岩崎弥太郎は佐賀の乱・台湾出兵・西南戦争など諸紛争の兵站線を独占することで発展を続け、1885年には三井系の共同運輸会社を吸収合併して日本郵船会社を設立し、1896年の造船奨励法や航海奨励法を受けて、インドボンベイ航路・欧州アントワープ航路・米国シアトル航路・豪州メルボルン航路などへの遠洋航路にも進出していった。
2 通信の発達
電信は1869年に東京・横浜間に設置されたのが端緒であり、1878年には電信中央局が設置され、翌年には万国電信条約に加盟し、1900年からは無線電信が開始された。電話は1877年に輸入された。郵便は、1871年に駅逓頭(えきていとう)前島密(まえじまひそか)によりまず東京・大阪間に郵便制度が発足し、全国の郵便役所(後の郵便局)や郵便箱の設置、それに郵便切手・郵便配達夫の採用で発達し、1877年には万国郵便連合条約へ加盟した。
3 殖産興業の推進
欧米諸国の帝国主義に基づく植民政策に対抗するため、政府は富国強兵・殖産興業のスローガンの下、上からの産業育成を推進した。具体的に産業育成に関連したのは、1870年に工業部門の殖産興業のために新設された工部省、1873年に農業部門と内政一般のために新設された内務省、それに大蔵省である。政府は既に、経済面では株仲間・専売制・津留の廃止、交通面では関所・助郷制の廃止などを行い封建的諸制度を是正していたが、さらに工部省の工学寮(後の工部大学校)にて技術教育を行ったり、大久保利通が中心となって上野で102日間の第一回内国勧業博覧会を1877年に開催するなどして、さらなる産業の発達を図った。
4 官営鉱山の変遷
工部省は旧幕府や諸藩が保有していた鉱山を接収していたが、財政難もあって次第に民間への払い下げを行うようになった。院内・阿仁鉱山と足尾銅山は古河市兵衛、相川金山と生野銀山は岩崎弥太郎、高島炭鉱は後藤象二郎を経てやはり岩崎弥太郎、小坂鉱山は藤田伝三郎、日本初の蒸気揚巻機による排水で知られる三池炭鉱は佐々木八郎を経て三井組、にそれぞれ払い下げられた。これらは後の財閥の基礎となるものであり、就中、藤田組や三井組は長州閥に接近していったことで知られている。
5 官営軍事工場
官営軍事工場は旧幕府や諸藩の設備を再編統合して政府が経営を行う軍事工場である。代表的な工場としては、江戸関口大砲製作所の後身であり後に村田連発銃などを製造した東京砲兵工廠、旧幕府の長崎製鉄所の機械を流用して陸軍の銃火器を製造した大阪砲兵工廠、横須賀製鉄所の後身であり横須賀海軍工廠の前身である横須賀造船所、長崎製鉄所の後身であり後に岩崎弥太郎に払い下げられ三菱長崎造船所となった長崎造船所、加州製鉄所の後身であり後に川崎正蔵に払い下げられ川崎造船所となった兵庫造船所、そして板橋火薬製造所などが挙げられる。
6 官営模範工場
工部省が外国の技術を導入して殖産興業のため設置した官営模範工場は、1880年に官営工場払下概則が施行された後に民間へ払い下げられた。群馬県の富岡製糸場と新町紡績所は共に三井組へ払い下げられたが、特に仏人技術者ブリューナーの指導による富岡製糸場では著作『富岡日記』で有名な和田英(後に六工社製糸場へ移籍)ら、富岡工女が労働した。他の繊維工場としては、軍服の材料である羅紗(らしゃ)を製造した千住製絨所や、後に篠田直方に払い下げられた愛知紡績所、薩摩藩が設立したものを引き継いだが浜崎太平太に売却された堺紡績所、落成前に広島綿糸紡績会社へ払い下げられた広島紡績所、などが挙げられる。繊維工場以外の官営模範工場としては、札幌麦酒醸造所(サッポロビールじょうぞうしょ)や後に西村勝三に売却された品川硝子製造所、浅野総一郎に払い下げられた深川セメント製造所と西村勝三に売却された深川白煉瓦製造所からなる深川工作分局などが挙げられる。
7 農業・畜産業
勧農政策を推進する明治政府は、1872年に現在の新宿御苑の場所に西洋農業移植のための内藤新宿試験場を開設したことを初めに、1874年には旧薩摩藩邸跡地に内務省管轄の三田育種場を設立し、翌1875年には後に下総種畜場として合併される下総牧羊場と取香種畜場(とりかしゅちくじょう)を開設した。また1874年に内藤新宿に設立された農事修学場は1877年に駒場へ移設され駒場農学校となったが、これは後の東大農学部の前身となった。農業用水としては1882年に士族授産事業の一環として竣工した福島県の安積疎水や、1884年に竣工した愛知県の明治用水などが挙げられる。
8 北海道開拓事業
蝦夷地が北海道と改称された1869年に、北海道開拓使は東京に設置され、1871年に札幌へ移された。初代次官黒田清隆は、米人農政家ケプロンを招いて札幌農学校を設立したり、1875年に初めて琴似村へ入植した屯田兵を用いるなどして北海道開拓を推進した。1882年には北海道開拓使が廃止されて札幌県・函館県・根室県が設置されたが、やがて1886年に北海道に統合され、北海道庁の北海道長官が統轄した。政府はアイヌ同化政策を執り、北海道旧土人保護法などを制定したが、この結果アイヌ文化は衰退した。なお札幌農学校教頭の米人クラークは"Boys, be ambitious!"という帰国時の台詞で知られているが、彼の基督教的な教育指導方針に感化された新渡戸稲造・内村鑑三・宮部金吾らは、後に信仰集団たる札幌バンドを結成した。
明治維新への反動 − 士族反乱
1 士族反乱
1870年に長州藩で諸隊士が中心となり勃発した脱隊騒動以来、四民平等・徴兵令・経済的窮乏などで発生した不平士族は散発的な抵抗を続けていたが、征韓論政変に於ける征韓派の敗北を機に暴徒と化した。征韓党を率いる前参議江藤新平は1874年、島義勇(しまよしたけ)の憂国党と共に征韓と封建体制復帰を主張して佐賀の乱を勃発させた。また佩刀の自由を定めた脱刀令に強制力を持たせる形で1876年に発令された廃刀令は、秩禄処分と相俟って士族の反発を招き、神官の太田黒伴雄率いる敬神党が熊本鎮台を襲撃した神風連の乱や、これに呼応する形で秋月党党首宮崎車之助が征韓による国権拡張を訴えた秋月党の乱、松下村塾出身の前原一誠らが蜂起した萩の乱、永岡久茂らが起こした思案橋事件、などが勃発した。
2 西南戦争
(1877年 / 最後の士族反乱)
征韓論政変で下野した前参議西郷隆盛は鹿児島で私学校を開いていたが、桐野利秋・篠原国幹(しのはらくにもと)ら私学校党に担がれて挙兵、30000人の軍勢を率いて熊本鎮台長谷干城が籠る熊本城(加藤清正が築城)を攻めたが、田原坂(たばるざか)の戦いを経て到着した政府軍に敗北し、城山の戦いで村田新八らと共に自害した。残党は司法卿大木喬任(おおきたかとう)により断罪された。西南戦争では反乱軍の半数程度の徴兵軍が活躍したためこの実力が立証された他、武力闘争の無謀を悟った不平士族が言論活動を開始する契機となった。
3 紀尾井坂の変
(1878年 / 大久保利通暗殺)
西南戦争の最中の木戸孝允の死、及び西郷隆盛の戦死によって、維新三傑の最後の一人となった内務卿大久保利通だったが、翌1878年、東京・紀尾井坂において旧加賀藩士島田一郎らに暗殺された。この紀尾井坂の変も、不平士族による犯行とされている。また同年には、西南戦争の少ない恩賞に反発した三添卯之助ら近衛砲兵隊員約260名が竹橋事件という暴動を起こしたため、政府は皇軍(=天皇直轄軍隊)という理想的な軍隊像を示した軍人勅諭を1882年に下した。西周(にしあまね)の起草によるこの軍人勅諭で天皇直轄軍隊と定められ、また後の大日本帝国憲法で統帥権の独立が確立されたため、軍隊は陸軍参謀総長や海軍軍令部総長が直接天皇に上奏する帷幄上奏権(いあくじょうそうけん)を獲得した。なお陸軍は1888年に鎮台制を師団制に変更し、1891年には近衛師団が設置され、軍隊教育を司る教育総監部も設けられた。また海軍は呉・横須賀・舞鶴・佐世保に鎮守府を設置して艦隊をここに配置し、有事には連合艦隊として組織された。 
2 明治時代の国民文化
文明開化
「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と称された断髪令や、土下座・仇討の厳禁及び廃刀令などにより封建的風習は随時撤廃される一方、若手知識人の間には牛鍋(安愚楽鍋(あぐらなべ))などが流行し、無声映画を活動弁士が説明した活動写真や、蓄音機・レコードなども出現した。また横浜には日本初のガス灯が灯され、洋服や洋風公園なども広まった他、和泉要助が発明した人力車や後の鉄道馬車の原型の乗合馬車など、新しい交通手段も生まれた。さらに太陰太陽暦の天保暦は明治5年12月3日をもって太陽暦の明治6年1月1日となり、1876年には七曜制も採用された。主な建築は次の通りである。
辰野金吾 / 現在も残る東京駅駅舎の他、工科大学本館・日本銀行本店を設計。いずれも煉瓦造で知られる洋風建築の代表的なもの。
コンドル / 英人。露人ニコライが伝えたギリシア正教(日本ハリストス正教会)の本部たる神田のニコライ堂を設計。他、鹿鳴館の設計も担当。
片山東熊 / 赤坂離宮(現在の迎賓館)の他、奈良・京都国立博物館も設計。他の建築家としては、第一国立銀行を設計した清水喜助などが有名。
田辺朔郎 / 西洋の土木技術を用いて琵琶湖疎水工事を完遂。関門トンネル計画を立案した人物としても有名。
明治時代の思想の概要及び思想家
明治初期に急速に流入した西洋思想の根底は、人間は元来自由平等であり幸福を求める権利を有する、とする天賦人権説であり、主としてフランス流の共和主義と英国流の個人主義・自由主義を含有する功利主義に大別される。これらの天賦人権説は自由民権運動の理論的支柱となったが、やがて欧化政策への反発から特に明治20年代以降国粋主義(国粋保存主義)が高揚し、民族主義・国家主義が興隆を見せた。
中江兆民 / ルソーの『社会契約論』の一部『民約論』を訳して『民約和解』を発行、モンテスキューらの共和主義を紹介。『東洋のルソー』と称される。
植木枝盛 / 『民権自由論』を著し、著書『天賦人権論』で知られる馬場辰猪らと共に自由民権運動のアジテーターとなる。
中村正直 / ミルの『自由論』を基にした『自由之理』や、スマイルズの『自助論』を基にした『西国立志編』を著し、『日本開化小史』の著者田口卯吉、そして福沢諭吉らと共にスペンサーや「最大多数の最大幸福」を提唱したベンサムらの功利主義を蔓延させる。
福沢諭吉 / 適々斎塾出身。慶應義塾を創設。『文明論之概略』『西洋事情』『通俗民権論』『通俗国権論』『学問ノスゝメ』『福翁自伝』など著書多数。特に『脱亜論』については今日の日本をめぐる近隣諸国情勢においても通用する有用な論が見受けられることで知られている。
森有礼 / 薩摩藩出身。1873年、福沢諭吉・中村正直・田口卯吉・西周・神田孝平・西村茂樹・津田真道・加藤弘之らと共に啓蒙思想団体の明六社を創設。機関誌『明六雑誌』は新聞紙条例・讒謗律などで抑圧され43号で廃刊、1879年に事実上解散。開成所出身者の巣窟だった。
加藤弘之 / 『隣艸』で西洋の立憲政治を紹介、また『真政大意』『国体新論』などで天賦人権説を主張、初代東京大学総理に就任。後にダーウィンの生物進化論を進歩させた社会進化論に基づいて『人権新説』を著し、適者生存・優勝劣敗の立場から国権論に賛同、民権論を否定した。
西村茂樹 / 日本弘道会を設立して皇室中心主義の国民道徳興隆に尽力、『日本道徳論』を著す。日本国粋主義の祖。
徳富蘇峰 / 米人教諭ジェーンズの影響で熊本バンドが結成された熊本洋学校の出身。民友社を結成して『国民之友』『国民新聞』を創刊、平民主義を提唱するも、三国干渉を機に国権論に転向、『将来之日本』『新日本之青年』『大日本膨脹論』などを執筆。
三宅雪嶺 / 『真善美日本人』の著者。『日本風景論』『南洋時事』の著者志賀重昂、裕仁親王に倫理学を進講した杉原重剛らと共に1888年に政教社を結成、機関誌『日本人』で国粋主義を提唱。これにより国粋主義が特に高揚。
高山樗牛 / 『滝口入道』で文壇登場、『太陽』で日本主義を主張。この他、『日本』を著して国民主義(国家独立と国民統一)を訴えた陸羯南も有名。
大西祝 / 基督教徒。内村鑑三不敬事件に関連して基督教を論難した井上哲次郎を批判。他、『巌頭之感』を残して華厳の滝で自殺した藤村操も有名。
祭政一致政策
明治政府は神祇官を復活させて太政官よりも上位としたり、神仏分離令(神仏判然令)を施行して神仏混淆を禁止したりした。神仏分離令は神道を臣民教化の超宗教と位置付けるべく下されたが廃仏毀釈運動を勃発させた。反対する浄土真宗大谷派は三河国や越前国で護法一揆を起こしたが、潰された。この後、衰退した仏教界は浄土真宗僧島地黙雷が立て直した。また1870年に皇道宣布運動の一環として神仏分離令と同様の目的で下された大教宣布の詔では、既設の宣教使に加えて教部省を設置することが規定され、教部省の内部に大教院を設置して神官や僧侶を教導使に任命し、臣民を教化していく方針が示された。また政府は神道13派(天理教・金光教・黒住教・扶桑教・実行教・御嶽教・禊教・神習教・神理教・大成教・神道大教・出雲大社教・修正派)を教派神道と定め、神社神道についてもこれを国家神道として保護する一方、官幣社・国幣社などの社格制度に代表される神社制度も制定した。戊辰戦争後の戦没者慰霊のために建立された招魂社(靖國神社)は別格官幣社である。さらに1873年には皇室の祭典日として新年節(1月1日)や紀元節(2月11日=神武天皇即位日)、天長節(11月3日=明治天皇生誕日)や春季皇霊祭・秋季皇霊祭などが規定された。なお、明治天皇の六大巡幸は1872年から実施された。
教育
1 学制の公布
文部省は1872年に太政官布告214号『学事奨励に関する被仰出書』を下し実学尊重・国民皆学・教育機会均等などの基本方針を発表し、翌日に学制を公布した。学制はフランス式のもの、即ち全国を八大学区(実際は七大学区)に分割する画一的且つ中央集権的なものであり、これにより近代的な国民教育の建設を企図していた。だが教育費が国民負担だったため農民一揆を誘発し、結局実施が多少困難になった。学制では、文部省が編纂した『小学読本』や福沢諭吉の著書『世界国尽』などを教科書として用いる小学校(日本初の小学校は京都上京第27番組小学校)の他、下等中学校・上等中学校、そして昌平学校に開成学校・医学校を統合した大学校(大学)が規定された。このうち大学はやがて廃止され大学南校と大学東校となったが、再統合されて東京大学となり、さらに工部大学校や東京農林学校も統合した。なお、この時代の教員は師範学校や女子師範学校で養成された愛国者が多かった。
2 愛国心教育への改善
国教主義者元田永孚(もとだながざね)が起草した教育聖旨は1879年に公布され、天皇中心・仁義忠孝の徳育が教育の至上の目的とされた。同年には米国式の自由主義的な教育令により学区制が撤廃されたが、翌1880年には中央集権的な改正教育令が施行され、やがて1886年には文部大臣森有礼が学校令を下し、国家主義に基づく教育体制を確立した。学校令は帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令の総称である。これにより東京帝国大学などが設置された。また上等中学校・下等中学校は高等中学校・尋常中学校に改められ、後の高等学校令で高等学校・中学校に改められた。小学校令では高等小学校と4年間(後に6年)の義務教育制の尋常小学校が設けられた。なお女子の高等普通教育の制度化は、1899年の高等女学校令により為された。
3 教育を巡る諸事件
家族国家観に基づき儒教的な忠君愛国の実践者の育成を教育の至上の目的と定めた教育勅語は、井上毅と元田永孚の起草で第1回帝国議会の開催直前の1890年に発布された。だが1891年の教育勅語奉戴式に際し『余は如何にして基督信徒となりし乎』などの著作で知られる無教会主義者の第一高等中学校教諭内村鑑三が、御名に敬礼しないという内村鑑三不敬事件を起こした。この事件に対し日本主義者井上哲次郎は『教育ト宗教ノ衝突』という論文で基督教を攻撃し、さらに仏教的国粋主義者の井上円了も批判を強めたため、基督教は衰退した。一方、当初の教科書検定制度は1902年の教科書汚職事件を機に文部省編纂の国定教科書制度に変更され、日本歴史と修身の中で忠君愛国を説く世界標準的な体制が整備された。
4 代表的な学校
英吉利法律学校 / 英国法学系の学者たちが創設。後の中央大学。一方、フランス法学系の学者たちは関西法律学校(後の関西大学)を創設。
慶應義塾 / 1858年に蘭学塾として福沢諭吉が創設、1868年に命名。
東京専門学校 / 1882年に在野時代の大隈重信が創設。1902年に改名、早稲田大学となる。
東京高等商業学校 / 商法講習所が起源。現在の一橋大学。一方、官立の東京職工学校が起源の東京高等工業学校は後の東京工業大学。
女子英学塾 / 岩倉遣外使節の津田梅子が創設。後の津田塾大学。なお私立大学や専門学校は1903年の専門学校令で制度化。
同志社 / 新島襄。後の同志社大学。この他、岸本辰雄の明治法律学校(明治大学)、山田顕義の日本法律学校(日本大学)なども有名。
明治学院 / ヘボン式ローマ字の発明で知られる米人ヘボンが創設。後の明治学院大学。この他、井上円了の哲学館(後の東洋大学)も有名。
明治時代の学問
北里柴三郎 独人コッホの門弟。伝染病研究所の設立や破傷風・ジフテリアの血清療法発明やペスト菌発見などの功績で知られる。この他、細菌学者としては、独人エールリヒと共に梅毒治療薬サルバルサンを開発した秦佐八郎や、赤痢菌を発見した志賀潔らが有名。
高峰譲吉 消化薬タカジアスターゼと強心剤アドレナリンを創製。この他、オリザニン(ビタミンB1)の抽出に成功した鈴木梅太郎や、桜井錠二も有名。
下瀬雅允 / 下瀬火薬(ピクリン酸爆薬)を開発。下瀬火薬は日露戦争で威力を発揮した。
木村栄 / 地球物理学にてZ項を発見した。この他、物理学者としては地磁気を測定した田中館愛橘や原子構造を研究した長岡半太郎も有名。
大森房吉 / 大森公式を発見、地震計を考案。政府は関東大震災の後に地震研究所を設置して地震学を発展させた。
河口慧海 / 日本人初のチベット入りを果たした。日本人初の南極上陸は白瀬矗が達成。この他、植物学者の牧野富太郎も有名。
久米邦武 / 岩倉遣外使節に同行、『米欧回覧実記』を著す。重野安繹と共に後に『大日本史料』『大日本古文書』を編纂する帝国大学史料編纂掛を創設。1891年、論文『神道は祭天の古俗』で神道を侮辱したため、神道家・国学者らの攻撃を受け帝大教授を引責辞職して終わった。
喜田貞吉 / 法隆寺再建論者。文部省編修官在任中の1911年に、編纂を担当した『尋常小学日本歴史』の中の南北朝併立の記述が国会で南北朝正閏論として問題化し、休職処分となった。この後、教科書の記述は吉野朝正統に修正された。
メッケル / 陸軍大学校教官として日本に独式軍制を導入。前述以外の外国人教師(御雇外国人)としては、独人医師ベルツ、英人地震学者ミルンらの他、日記『日本その日その日』でも知られるモースなどが有名。
ジャーナリズムの勃興
『横浜毎日新聞』 / 長崎通詞本木昌造が発明した鉛製活字を利用して、島田豊寛が1870年に発刊した日本初の日刊邦字新聞。
『東京日日新聞』 / 条野伝平らが刊行。後に岸田吟香・福地源一郎らが入社、長州閥の御用新聞即ち立憲帝政党の機関紙となる。
『郵便報知新聞』 / 矢野文雄・前島密らが刊行。『朝野新聞』と共に立憲改進党の機関紙となるが、やがて『報知新聞』となり大衆化。
『万朝報』 / 黒岩涙香が発刊した政治評論を中心とする大新聞。日露戦争の前まで、幸徳秋水・堺利彦らが記者として在籍。黒岩涙香はビクトル=ユゴーの長編小説『レ=ミゼラブル』の邦訳『噫無情』でも知られている。
『読売新聞』 / 読売瓦版が進歩した小新聞の元祖。子安峻が創刊。大正末期、正力松太郎の下で急成長。現在は発行部数日本一。
『朝日新聞』 / 村山龍平が初代社長。後に星亨の『めざまし新聞』を乗っ取り『東京朝日新聞』を創刊、元の方を『大阪朝日新聞』とする。米騒動の際に不穏当な記事を掲載、村山龍平・鳥居素川・長谷川如是閑・大山郁夫・丸山幹治らが辞職(白虹事件)。関東大震災では流言飛語の伝播媒体となり社会不安を煽った。1940年に合併。終戦後はサンゴに傷をつけるなどの捏造報道を展開し、今日に至る。
『時事新報』 / 福沢諭吉が独立不羈・不偏不党の立場から発刊。この他、本山彦一は『大阪毎日新聞』を刊行。
『東京経済雑誌』 / 日本初の経済誌。田口卯吉が主宰。この他、巌本善治は『女学雑誌』を刊行。滝田樗陰は『中央公論』の基礎を築く。
芸術
岡倉天心 / 岡倉覚三。フェノロサと共に東京美術学校(後の東京芸術大学)を設立する一方、英文で『日本の目覚め』『茶の本』『東洋の理想』を著す。
狩野芳崖 / 狩野雅信の門弟、近代化に尽力。死の直前『悲母観音』を著す。『龍虎図』で有名な橋本雅邦は同門。『落葉』の菱田春草は橋本雅邦の門弟。
浅井忠 / 工部美術学校の伊人フォンタージが基礎を築いた洋画界にて、小山正太郎と初の洋画団体である脂派の明治美術会を創設。『収穫』で有名。
黒田清輝 / 『湖畔』で有名。久米桂一郎と共に紫派の白馬会を結成。『海の幸』で知られる青木繁や、岡田三郎助・和田英作・和田三造らは白馬会。
ビゴー / ポンチ絵で知られる風刺漫画雑誌『トバエ』の発行者。第二次山県内閣の時国外追放。ポンチ絵はワーグマンの『ジャパン=パンチ』が端緒。
高村光雲 / 『老猿』を制作。木像では竹内久一・石川光明が、また工部美術学校の伊人ラグーザが導入した洋風彫刻では『女』の作者荻原守衛が有名。
福地桜痴 / 福地源一郎。歌舞伎座を計画。歌舞伎座では九代目市川団十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左団次が活躍、全盛期「団菊左時代」を現出。
川上音二郎 / 自由民権運動のためオッペケペー節で知られる壮士芝居を創始。角藤定憲らが演ず。『板垣君遭難実記』は大流行。壮士芝居は新派劇に発展。
島村抱月 / 新劇指導者。片桐且元を描いた戯曲『桐一葉』で有名な坪内逍遥と共に文芸協会を、後に近代的女優の祖である松井須磨子と芸術座を結成。
伊沢修二 / 文部省音楽取調掛を設置、後に東京音楽大学を創立。唱歌教育を推進。滝廉太郎は『荒城の月』『箱根八里』『花』などを作曲して活躍。 
3 自由民権運動
岩倉遣外使節
(1871年〜1873年 / 征韓論政変へ)
右大臣岩倉具視を特命全権大使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳を副使とする岩倉遣外使節は、欧米の諸制度や議会の視察という目的の他に条約改正の予備交渉という意味も含んで派遣された。派遣中の留守政府は太政大臣三条実美と参議の西郷隆盛・大隈重信・板垣退助らが取り仕切ったが、山城屋和助事件などへの対応に苦慮した。欧米に条約改正を拒否され帰国した使節たちは日本の内地改良を唱えたが、これは朝鮮の大院君が中国を宗主国を仰ぎ鎖国排外政策を執っていたために西郷隆盛らが提唱していた征韓論と激しく対立した。この内治派と征韓派の対立は、1873年の征韓論政変(明治六年の政変)による西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平ら征韓派参議の下野によって決着した。ちなみに岩倉遣外使節には帰国後に『三酔人経綸問答』を著した中江兆民や『米欧回覧実記』を著した久米邦武の他に、津田梅子・上田悌・永井繁・山川捨松・吉益亮子ら五名の女子留学生も同行した。
民撰議院設立建白書
(1874年 / 国会開設運動の端緒)
征韓論政変で下野した征韓派は徴兵令・学制・地租改正などに反発して頻発していた農民一揆などの反政府運動と結合し、天賦人権説などの西欧思想を理論的支柱とする自由民権論を提唱し、自由民権運動を開始した。板垣退助は共に下野した後藤象二郎・副島種臣・江藤新平に由利公正・小室信夫(こむろしのぶ)・岡本健三郎・古沢滋らを加えて高知県に日本初の政治結社たる愛国公党を設立し、藩閥有司専制政治即ち大久保利通らによる高級官僚政治に反対する旨を明記した民撰議院設立建白書を左院に提出した。これは反政府感情の吐露とも言えるが、英人ブラックが刊行者なので治外法権が通用する新聞『日新真事誌』に掲載されたため自由民権運動の初期段階たる国会開設運動が興隆する契機となった。なお明治政府は当初自由主義的な政策を執っていたが、自由民権運動を抑圧する必要性や、西欧文化の急速且つ表面的な流入に対する日本の伝統文化の再認識の必要性から、次第に国家主義的な政策へと転換していった。
大阪会議
(1875年 / 自由民権運動への懐柔策)
愛国公党は江藤新平が佐賀の乱で刑死したため解散されたが、板垣退助は植木枝盛・林有造らと共に片岡健吉を社長として立志社を1874年に高知に創立した。これを契機として、福島の河野広中の三師社・石陽社、東京の沼間守一の嚶鳴社、熊本の松山守善の相愛社、福井の杉田定一の自郷社などの政社が各地に創立され、翌1875年には日本初の自由民権運動の全国組織たる愛国社が板垣退助らによって大阪に結成された。大久保利通は征韓論政変や征台の役以後停滞していた政治状況を打破するべく台湾出兵に抗議して下野した木戸孝允や板垣退助との大阪会議を伊藤博文と井上馨の斡旋で行った。この結果、政府は左院に代わる立法機関元老院と司法機関大審院を設置する一方、木戸孝允の要求を容れて立憲政体樹立の詔を下し、国会開設の準備のための地方官会議の開催を約束した。これにより板垣退助と木戸孝允が参議に復帰し、同1875年には讒謗律と新聞紙条例が施行されたため愛国社は衰退した。
自由民権運動の興隆
西南戦争の後に不平士族が言論活動に転じたことで尚更の発展を見た自由民権運動は、各地の政社の他、1878年に制定された地方行政三新法の中の府県会規則に基づき設置された府県会を初め、区会・区戸長会・町村会などの民心慰撫のため設置された民会での民撰議員の活動により更に興隆した。愛国社の衰退後も活動を続けていた立志社の片岡健吉は失政八箇条を記した『立志社建白』の明治天皇上奏を企てて失敗したが、これにより具体的且つ統一的な目標、即ち政治的には国会開設、経済的には地租軽減、対外的には条約改正が定まったため自由民権運動は更に本格化した。また片岡健吉は河野広中と共に愛国社を1878年に再興、1880年の第四回大会で国会期成同盟と改称し、全国87000人の署名を添付した国会開設請願書を太政官に提出した。だが伊藤博文ら政府首脳はこれを却下する一方、すぐに政談演説会などを取り締まるための集会条例(後の集会及政社法)を公布して自由民権運動への弾圧に乗り出した。
明治十四年の政変
(1881年 / 薩長藩閥専制体制が確立)
北海道開拓使長官黒田清隆は、「黒田王国」とも称される北海道の官有の工場・官舎・牧場・鉱山などを安価且つ無利息30年賦で薩摩出身の政商五代友厚(五代才助)が経営する関西貿易社(関西貿易商会)に払い下げることを企てたが、1881年に一連の計画が報道されると世論は沸騰した。この北海道開拓使官有物払下事件により国会開設運動は一気に激化したため、政府は明治二十三年国会開設の勅諭の公布する一方、三井組に資金を出させて板垣退助と後藤象二郎を洋行させたり、翌1882年に集会条例を改正して抑圧を強めたりして対処した。一方、政府内でも即時開設派の大隈重信が二年後の国会開設を訴える国会開設意見書を左院に提出して時期尚早派の伊藤博文と対立していたが、福沢諭吉率いる三田派をブレーンとする大隈重信の考えが民権論に通じることを嫌悪した岩倉具視は大隈重信に機密漏洩の罪を着せて政府から追放した。この政変で肥前閥の巨頭大隈重信が失脚したため、薩長藩閥専制体制が確立された。
政党の結成
『自由党盟約』でフランスの急進的民権思想に基づく主権在民・民約憲法・一院制・普通選挙制などを主張する自由党は、後に『自由党史』を著した初代総理の板垣退助が植木枝盛らを誘い国会期成同盟の後身として1881年に結成し、機関紙『自由新聞』を発行して士族・農民・商業資本家などの支持を得たが、後に中江兆民・大井憲太郎ら左派は西園寺公望の『東洋自由新聞』を機関紙とする東洋自由党を創設した。一方、英国の穏健的立憲思想に基づく立憲君主制・二院制・制限選挙制・国権拡張などを提唱した立憲改進党は、翌1882年に初代総理の大隈重信が『国権汎論』の著者小野梓(おのあずさ)や『郵便報知新聞』を機関紙化した矢野文雄(矢野龍溪)らと共に結成し、三田派などの知識層や三菱組などの産業資本家の支持を得た。これに対し同1882年には政府の御用政党として『東京日日新聞』の社長福地源一郎が丸山作楽と共に欽定憲法を主張する立憲帝政党を結成したが、勢力は微弱であり、翌年には政府勧告に従い解党した。
松方財政
大蔵卿松方正義は1880年代に不換紙幣の整理を断行し、それに伴う財政の窮乏は酒税(酒造税)・煙草税・地方税などの増税や軍事費以外の緊縮財政政策、さらに政商への官営企業払い下げなどで補填した。松方財政は結果的に猛烈なデフレを招き、官僚前田正名が著した『興業意見』に記されているように小企業や農民を経済的に圧迫して没落させたが、それに伴う低賃金労働者の発生と相俟って資本主義経済の基盤が確立された。なお自由党は酒屋会議(全国酒造業者大会)を開き、酒造税則是正を求める酒税減税請願書を政府に提出した。一方、松方正義は1882年に唯一の中央銀行として日本銀行を設立して金融界の中央集権化を図り、1885年からは銀兌換銀行券として日本銀行券を発行して正貨兌換を開始したため、銀本位制が確立された。
自由民権運動の衰退
1 自由民権運動及び政党の衰退
概括的な自由民権運動の衰退の原因としては、まず政治的には国会開設を公約して政府が指導者たちを懐柔したこと、経済的には松方財政による不況で運動の支持母体である農民や小地主たちが困窮して分裂したこと、そして対外的には朝鮮半島情勢の緊迫に伴い世論の大勢が民権論から国権論に転換したこと、などが挙げられる。大隈重信は政府が自由党の板垣退助・後藤象二郎らを外遊させた際の資金源を追及したが、逆に自身の三菱組との癒着を自由党に攻撃され、結果的に両党は衰退した。板垣退助が相原尚に襲撃され負傷した1882年の岐阜事件では「板垣死すとも自由は死なず」と喧伝されたものの、自由党は支持母体の農村が松方財政による不況で弱体化し、激化諸事件で党員が失態を演じたため1884年に崩壊した。
2 激化諸事件(激化諸憂擾)
主な激化諸事件としては、福島県令三島通庸が地域振興のため行った工事に対し県会議長河野広中ら福島自由党員が農民蜂起を煽動したが鎮圧され投獄された1882年の福島事件をはじめ、潟県頸城の自由党員赤井景韶(あかいかげあきら)が摘発され北陸地方の自由民権運動を壊滅させた1883年の高田事件、妙義山麓で発生した1884年の群馬事件、借金党・負債党の武相困民事件に乗じた田代栄助・井上伝蔵らが自由党の後援で貧農集団困民党を結成し官庁・高利貸・大地主を攻撃した1884年の秩父事件や、栃木県令三島通庸(保安条例施行時の警視総監)の暗殺を企てた河野広鉢が挙兵したが鎮圧され自由党解党の原因となった同年の加波山事件、1884年の名古屋事件の後に愛知県の自由民権派士族村松愛蔵が没落農民と共に長野県で蜂起を計画するも失敗し内乱陰謀罪で処刑された飯田事件、甲申事変後の天津条約に反発した急進派の大井憲太郎・磯山清兵衛・岸田俊子(中島俊子)・景山英子(福田英子)らが朝鮮に開化派の独立党政権を樹立することによる自由民権運動再興を企てたが露顕し摘発された1885年の大阪事件などが挙げられる。こうした動きは、1886年の静岡事件で終焉を迎えた。
3 大同団結運動の勃発
(1886年 / 星亨が提唱した統一的反政府運動)
大阪事件が国権論的要素を含んでいたことからも明白なように、既に自由民権運動は革命的・民衆的要素を失っていた。そんな折、鹿鳴館時代と称される井上馨の極端な欧化政策への批判を端緒として、地租軽減・言論の自由・外交失策挽回を要求する三大事件建白書を片岡健吉が元老院に提出し、三大事件建白運動を起こした。大同団結運動を指導していた後藤象二郎は三大事件建白運動による自由民権運動の興隆を企てたが、1887年の保安条例で中江兆民・尾崎行雄・片岡健吉・星亨ら活動家570名が皇居及び行在所外三里に3年間追放の処分を受けた上、後藤象二郎自身が政策を放棄して1889年に入閣したため、大同団結運動は頓挫した。 
4 大日本帝国憲法
私擬憲法(政党・政社・民間有志が発表した新憲法案)
『私擬憲法案』 / 三田派の団体交詢社の矢野龍溪が起草。議院内閣制・国務大臣連帯責任制など英国の制度を模倣したもの。
『私擬憲法意見』 / 嚶鳴社の沼間守一が起草。内容的には『私擬憲法案』と大差無く、英国流の穏健なもの。
『東洋大日本国国憲案』 / 植木枝盛が起草。革命権・一院制・連邦制・抵抗権などを認めたフランス流の急進的な案。
『日本憲法見込案』 / 立志社起草。内容的には『東洋大日本国国憲案』の模倣。内藤魯一は同名の私擬憲法を起草。
『日本帝国憲法』 / 五日市学芸講談会の千葉卓三郎が発表。『五日市憲法』とも言い、国民の権利の保障を訴える。
『日本国憲按』 / 元老院が起草(=私擬憲法ではない)。福地源一郎の私擬憲法『国憲意見』と同様、主権在君を訴える。
憲法制定への準備
伊藤博文は西園寺公望らと共に独・墺へ渡り、ベルリン大学教授グナイストから憲政の得失、ウィーン大学教授シュタインから君主権が強く専制的なプロシア憲法を学び、帰国した。やがて1884年に伊藤博文は伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎・山県伊三郎・荒川邦武・牧野伸顕と共に憲法草案起草のため制度取調局を宮中に設置し、モッセやロエスレルを顧問として招いた。また同1884年には華族令を施行し、公家や旧大名に加え維新の功臣も華族に列し、全員に爵位(公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵)を与え将来の貴族院開設に備えた。1888年には明治天皇の御臨席の下で憲法草案を審議する枢密院が議長伊藤博文以下井上毅・金子堅太郎・ロエスレル・モッセらにより創設されたが、枢密院は後に天皇の政治上の最高顧問機関となり、内閣を左右した。なお軍事上の最高顧問機関は元帥府であり、軍事上の諮詢に答える機関は元帥府の構成員に参謀総長と軍令部長を加えた軍事参議院である。
内閣制度の発足
(1885年 / 第一次伊藤内閣)
内閣制度は憲法公布に先駆けて太政官制を廃止し、制度取調局を内閣法制局として吸収することにより発足した。初代内閣総理大臣は伊藤博文であり、閣僚としては内務大臣山県有朋・大蔵大臣松方正義・外務大臣井上馨・文部大臣森有礼・農商務大臣谷干城・司法大臣山田顕義・逓信大臣榎本武揚・海軍大臣西郷従道・陸軍大臣大山巖・内閣書記官長田中光顕・法制局長官山尾庸三らが名を連ねた。当初、内閣は宮中の対義語「府中」と称された。また宮内省と、天皇補佐・国璽や御璽の管理・宮中顧問官の統轄などを司る内大臣府は宮中と政治の分離のため閣外に設置されたが、黒田内閣の倒壊直後、例外的に内大臣三条実美の宮中内閣が政務を執った。なお初代宮内大臣は伊藤博文が兼任した。一方、元来日本の国土は朝廷・皇室のものであったが、明治時代に入り岩倉具視らが皇室御料地拡大などに奔走した結果明示的な皇室財産は爆発的に増加し、皇室は日本一の地主・資本家となり、大日本帝国憲法の主権在君の理論的な背景の一つとなった。
大日本帝国憲法
1 概要
1889年2月11日、明治憲法は黒田清隆総理大臣により公布、翌1890年11月29日に施行された。冒頭の憲法発布勅語以下7章76条から構成される明治憲法では天皇制が確立された他、三権分立や臣民の権利・義務なども規定されており、近代憲法としての体裁を保持していたが、多数の条文が「法律ノ定ムル所」と制限されていたため、後にこれを根拠として様々な法律が発令される結果となった。明治憲法により日本はアジア初の立憲政治が確立された他、専制政府に対するある程度の規制が為されることとなった。
2 天皇と臣民
天皇は第1条で国家元首、第3条で神聖な現人神と規定された他、皇室典範により即位式・皇位継承・皇族の身分及び範囲・摂政の制などが規定されたが、皇室典範は臣民に公布されなかった。また天皇は第4条で三権を統治権として総攬することが規定されたため、統帥権・外交権(宣戦・講和・条約締結)・緊急勅令発令権・戒厳令発令権・文武官任免権などの天皇大権を有していた。一方、天皇の臣民には参政権や生活権が保障され、兵役や天皇大権妨害禁止などの義務が規定された。
3 三権の規定
帝国議会は勅任議員(勅選議員と多額納税者議員)・皇族・華族などで構成される貴族院と民撰議員で構成される衆議院の二院制であり、衆議院が予算先議権を有する他は両院平等だったが、議会法に基づき活動する天皇親政の協賛機関だったため、実質的に勅撰の貴族院が優位だった。また議会の予算議定権は第71条で制限され、予算不成立の場合は前年度予算を踏襲することが規定された。一方、内閣は天皇により任命される輔弼機関であり、天皇に対してのみ責任を負ったため帝国議会よりも優位な立場にあり、勅令として法律を施行することもあった。最後に天皇の名の下で司法権を行使する大審院などの裁判所は、軍法裁判所や行政裁判所などの特別裁判所の管轄事項を除く全ての裁判を司ったが、他の二権からは独立していた。
法典の編纂
中国の明律・清律や幕府の公事方御定書を参考とした新律綱領や、三年後の1873年にナポレオン法典を参考として五刑撤廃などを定め施行された改定律例は、身分による刑罰の差が見られるなど不備な点が多々有ったが、仏人法学者ボアソナードの起草により1880年に施行された刑法は罪刑法定主義が確立されていた他、不敬罪・大逆罪・内乱罪なども定められていた。後に刑法は厳しい独法系のものに改正された。ちなみに刑事訴訟法たる治罪法もボアソナードが起草し、1880年に施行された。ボアソナードはまたナポレオン法典を参考に民法も起草したが、独法学者穂積陳重・穂積八束と仏法学者梅謙次郎が民法典論争を展開したために施行されなかった。穂積八束が雑誌『法学新報』に掲載した「民法出デテ忠孝亡ブ」などを参考とした政府の法典調査会は1898年、ドイツの民法と戸主権などの家族制度を折衷した所謂明治民法を施行した。民事訴訟法は1890年にドイツの法令を参考に定められた。最後に、商法はロエスレルの起草により1890年に施行されたが、外国法の模倣だったため1899年に改正された。こうして六法は確立されたが、改正された法令が全て官報に掲載されるようになったのは1886年の公文式(こうぶんしき)の公布以後のことである。 
5 立憲政治の展開
黒田内閣
内閣総理大臣黒田清隆は憲法公布直後、『牧野伸顕文書』や『明治政史』に見られるような超然主義の演説を行って政党政治を否認し、枢密院議長伊藤博文もこれに同調した。政府は以後日清戦争直前の第六議会まで、この超然主義に基づいて政党に抑圧を加えていった。だが軍事予算を巡り政府と民党(民権論を訴える野党勢力)は初期議会で常に対立し、常に民党側が有利であった。なお黒田内閣は大隈重信外相が条約改正問題を巡り襲撃され負傷したため総辞職した。黒田内閣が明治憲法成立に伴い1889年に初めて公布した衆議院議員選挙法では、選挙権は直接国税(地租・所得税・営業税)15円以上を納める25歳以上の男性にのみ認められ、有権者数は全体の1.1%の45万人程度だった。この制限は、第二次山県内閣の1900年に10円(98万人・2.2%)、原敬内閣の1919年に3円(306万人・5.5%)と緩和され、加藤内閣の1925年には納税額制限が撤廃され1240万人(全体の20.8%)に選挙権が付与されることとなった。1899年に中村太八郎が結成した普通選挙期成同盟(翌年普通選挙同盟会に改組)は、1911年に政府圧力で解散している。なお、『牧野伸顕文書』の牧野伸顕は大久保利通の次男であり、吉田茂の舅である。
第一次山県内閣
1890年に行われた第一回総選挙では板垣退助の愛国公党と大井憲太郎の大同協和会と河野広中の大同倶楽部が合同した立憲自由党が130議席、立憲改進党が41議席を獲得、実に300議席中過半数の171議席が民党となった。吏党としては杉浦重剛・元田肇が創立して79議席を得た大成会や5議席を獲得した国民自由党が知られており、他に無所属の45人が政府支持だった。第一議会にて、民党は山県有朋が施政方針演説の中で「主権線以上の利益線(朝鮮半島)」獲得のための軍拡を主張したことに反発、経費節減・地租軽減・民力休養(地価修正)を求めたが、政府は立憲自由党の植木枝盛・竹内綱・林有造ら40名の土佐派を切り崩して予算を成立させた。憤慨した中江兆民はこれを「無血虫の陳列場」と酷評し、衆議院議員を辞職した。
第一次松方内閣
第二議会では海軍大臣樺山資紀の藩閥政府を擁護する蛮勇演説も空しく軍艦建造費を削減した予算案が可決されたため、松方正義は初の国会解散を断行した。これに伴う1892年の第二回総選挙では内務大臣品川弥二郎が白根専一を用いて選挙大干渉を実行したが失敗し、引責辞職した。第三議会では選挙大干渉に対する非難で議事が難航した上に軍拡予算が再び否決され、閣内不一致も発生したため、内閣は総辞職した。
第二次伊藤内閣
山県有朋・黒田清隆・井上馨らを擁する元勲内閣として発足した第二次伊藤内閣は、日清間の緊張にも拘らず軍拡予算が否決された第四議会を明治天皇が下された宮廷費・文武官俸給削減からなる建艦詔勅(上下和衷共同の詔)で切り抜けた。第四議会では大成会の後継吏党として西郷従道・品川弥二郎・佐々友房らが結成した国民協会が活躍したが、陸奥宗光外相の条約改正交渉と西郷従道の入閣に反発して民党となり、第五議会では立憲改進党や大井憲太郎の大日本協会と共に対外硬六派の対外硬派連合を結成して条約励行を主張したため、政府は国会を解散した。次の第六議会では政府弾劾上奏案が可決されたため、再び国会解散が断行された。
憲政党の興亡
1894年に勃発した日清戦争を機に第二次伊藤内閣は自由党の板垣退助を内務大臣に迎えて妥協したが、反発した立憲改進党は立憲革新党や中国進歩党を吸収して進歩党を結成した。やがて松方正義は進歩党党首大隈重信を外務大臣に迎え1896年に松隈内閣たる第二次松方内閣を組閣し、日清戦争の戦後経営として軍備拡張や産業振興に務めたが、進歩党が軍拡予算案に反対したため崩壊した。1898年に組閣された第三次伊藤内閣は地租増徴を柱とする増税案を議会に提出したが進歩党と自由党の反対で否決されたため間も無く総辞職した。これを機に進歩党と自由党は合同して憲政党を結成し、大隈重信を総理兼外務大臣、板垣退助を内務大臣として、軍部大臣を除く全閣僚が憲政党員で独占された日本初の政党内閣たる第一次大隈内閣(隈板内閣)を組閣した。しかし文部大臣尾崎行雄が共和演説事件により失脚すると内閣は崩壊し、大隈重信は憲政党から脱党して立憲改進党系の憲政本党を結成した。
第二次山県内閣
憲政党を与党として1898年に組閣した山県有朋は地租税率を2.5%から3.3%に引き上げる地租増徴案や選挙法改正を実現する一方、政党への抑圧を断行した。1899年には文官任用令改正を実施し、政党員の官界介入を防ぐため特別任用を除く全勅任官を高等文官試験に合格した奏任官から任用するよう定め、他にも政権交代の官界波及を防止する文官分限令や、文官懲戒令などを発令して官僚政治を確立した。1900年には社会運動を規制するため讒謗律・新聞紙条例・集会及政社法・保安条例などの集大成と言える治安警察法を制定した。また同1900年には政党員の軍部介入を禁止するため軍部大臣を現役の大将か中将から任用する軍部大臣現役武官制を法制化したが、これは軍部の内閣人事介入に伴う国政への影響力を増大させてしまう結果となった。なお北清事変への参加も、この第二次山県内閣により断行された。
第四次伊藤内閣
伊藤博文・黒田清隆・山県有朋・松方正義・桂太郎・西園寺公望・井上馨・西郷従道・大山巖といった9名の元老は、明治天皇の詔勅で任命された非公式の最高諮問機関であり、明治時代の首相を元老会議で決定していた。伊藤博文が分裂後の憲政党幹部星亨と交渉した結果1900年には伊藤博文自身を初代総裁とする立憲政友会が結成され、翌月には立憲政友会を与党とする第四次伊藤内閣が成立した。立憲政友会成立に対し旧自由党左派の幸徳秋水は『万朝報』に「自由党を祭る文」を掲載し、旧自由党員の政府との妥協を批判した。第四次伊藤内閣は外務大臣加藤高明の下、日英同盟へ向けて従来の外交方針を転換したが、渡辺国武による渡辺子爵事件や憲政本党の島田三郎が『毎日新聞』で追及した結果利光鶴松が起訴されて星亨逓相が辞職に追い込まれた東京市会収賄事件などにより総辞職に追い込まれた。総辞職直後の1901年には、非合法ではあるものの日本初の社会主義政党である社会民主党が叩き潰された。 
6 明治初期の外交
日清関係
寺島宗則の尽力により1871年に伊達宗城と李鴻章の間で締結された日清修好条規は、通商章程と海関税則を含み領事裁判権・関税率最低などを相互承認した日本初の対等条約だった。しかし日清関係は同1871年の琉球王国の鹿児島県編入とその直後に清が台湾に漂着した琉球漁民66名中54名を殺害した琉球漁民殺傷事件、さらに翌1872年の琉球藩設置と藩王尚泰の華族化などにより次第に緊迫していった。琉球漁民殺傷事件への清の責任逃れに対し国内には征台論が発生し、1874年には西郷従道・赤松則良・谷干城らにより明治政府初の対外進出たる台湾出兵(征台の役)が強行された。台湾出兵は英駐清公使ウェードの調停により清が50万両(テール)の賠償金を支払って決着したが、1879年に日本が琉球処分(首里城藩王府を接収し琉球藩を沖縄県とする)を断行すると琉球の宗主権を主張する清との間に琉球帰属問題が発生した。日本側は懐柔策として先島諸島(さきしましょとう)の割譲を図ったが、分島問題として世論が沸騰したため挫折し、米大統領グラントの調停も事態の悪化に終始し、結局日清戦争での日本の勝利により解決された。なお沖縄県の近代化は人頭税の存続などの旧慣温存策により遅れたが、1899年には活動家謝花昇(じゃはなのぼる)が沖縄倶楽部を結成し、参政権などを要求した。
日朝関係
征韓論は征韓論政変で一応の終結を見たが、1875年には帝国海軍所属駆逐艦「雲揚」が朝鮮半島の漢江河口の江華島に飲料水補給のため接近した際、同島砲台(永宗城)から突如砲撃を受けたためこれを報復占拠する、という江華島事件が勃発した。この事件を受けて黒田清隆と井上馨が朝鮮政府と交渉した結果、釜山・仁川(じんせん)・元山(げんざん)の開港と日本の領事裁判権・無関税特権などが規定された日朝修好条規(江華条約)が1876年に締結され、朝鮮の鎖国体制は崩壊した。
日露関係
1854年の日露和親条約では得撫・択捉間が国境、樺太は雑居地とされていたが、駐露公使榎本武揚・外務卿寺島宗則が全権としてロシアと交渉した結果、1875年には樺太・千島交換条約が締結され、樺太がロシア領、千島列島が日本領と定められた。故に北方四島を含む千島列島は日本固有の領土である。一方、1593年に小笠原貞頼が発見した小笠原諸島は1875年に日本領として宣言され、米・英などの諸国もこれを承諾した。
条約改正交渉の進展
1 寺島宗則の交渉
安政の五ヵ国条約の是正を図る条約改正交渉は1871年の岩倉遣外使節の派遣に始まるが、適々斎塾出身で薩英戦争時に英国に連行された経歴を持つ外務卿寺島宗則は、1878年に米国との間で関税改定約書(所謂吉田・エバーツ条約)を調印した。だが、これは独・英の反対で発効しなかった上、独船ヘスペリア号による検疫無視事件や英商人ハートレーのアヘン密輸事件が発生したため、交渉は暗礁に乗り上げた。
2 井上馨の交渉
外務卿と第一次伊藤内閣の外務大臣を歴任した井上馨は秘密外交の方針に基づき、1882年には各国代表を集めた予備会議、1886年には第一回条約改正会議を開催して外国人判事任用や外国人の内地雑居(内地全開)を条件とした関税自主権一部回復と領事裁判権一部撤廃の承諾を取り付けた。他方、井上馨は円滑な交渉進展を目指して日比谷に音楽会や舞踏会のための鹿鳴館を1883年に建設し、鹿鳴館時代と称される極端な欧化主義政策を執った。しかし谷干城やボアソナードが外国人判事任用に反対した上、世論の反発も強まったため、井上馨は辞職に追い込まれた。
3 大隈重信の交渉
日本人乗客23名を見殺しにした英人乗員が治外法権のため禁錮刑で許された1886年のノルマントン号事件は、条約改正賛成の世論を高めた。黒田内閣の外務大臣大隈重信は、国別の秘密交渉で外国人判事任用を大審院に限るなどの案を提示したが、1889年にこの案がパーマーにより『ロンドン=タイムズ』に掲載されると反対運動が激化した。やがて、平岡浩太郎が創立した向陽社の後身として頭山満(とうやまみつる)が結成した右翼結社玄洋社の構成員来島恒喜(くるしまつねき)による爆弾テロで大隈重信自身が負傷して辞職したため内閣総辞職に至り、交渉は中断され、外国人判事任用も断念された。
4 青木周蔵の交渉
第一次山県内閣と第一次松方内閣の外務大臣を務めた青木周蔵は、英国から治外法権撤廃の承諾を得たものの、1891年の大津事件の責任をとって辞任した。大津事件とは、来日中のロシア皇太子ニコライ=アレクサンドロウィチ(後のニコライ2 世)を警備中の巡査津田三蔵が襲撃した事件である。松方正義はロシアに謝罪する一方、津田三蔵の死刑を求めたが、大審院長児島惟謙(こじまいけん)は担当裁判官に命じて無期徒刑とした。これは司法府独立を示す好例であるが、裁判官個人の司法権独立に反するものである。
5 陸奥宗光の交渉
榎本武揚の後継として第二次伊藤内閣の外務大臣となった陸奥宗光は青木案を踏襲して交渉を進め、ついに日清戦争直前の1894年には駐英公使青木周蔵の尽力により領事裁判権撤廃や関税自主権一部回復が定められた日英通商航海条約締結に成功し、他の欧米14ヵ国もこれに追随した。五年後に施行された通商航海条約は国定関税制であり、各国の特産輸出品には協定税率が承認されていた。陸奥宗光は外交回想録『蹇蹇録(けんけんろく)』を著したが、彼は『大勢三転考』で知られる伊達千広の息子である。
6 小村寿太郎の交渉
大隈重信・西徳二郎・青木周蔵らの後継の外務大臣小村寿太郎は1911年、第二次桂内閣時の第二次条約改正による日米新通商航海条約で関税自主権を完全に回復した。条約改正交渉成功の原因としては、資本主義発達に伴う国力の充実や六法編纂による立憲・法治国家体制の確立、それに日清・日露戦争勝利による国際的な地位向上、またロシアの南下に対抗するための英国の日本への接近、などが挙げられる。 
7 大陸への進出
朝鮮事変
江華条約締結後、朝鮮政界は革新的な親日派と保守的な親清派に分裂していた。国王高宗(李太王)の父で親清派の守旧党を率いる大院君は摂政として排外主義を展開したが、王妃の閔妃(びんひ)率いる親日派の開化党との政争に敗れたため1882年に漢城に於いて壬午事変(壬午軍乱・第一次京城事変)を起こして日本公使館を襲撃し、軍事顧問の塚本礼造を惨殺した。駐朝公使花房義質(はなぶさよしとも)の緊急帰国を受けた日本政府は軍隊を派遣して乱を鎮圧した。実権を掌握していた大院君は日朝戦争を恐れる清の李鴻章の命令を受けた北洋艦隊提督丁汝昌により天津に軟禁されたが、日本は済物浦条約(さいもっぽじょうやく)を締結して賠償金と公使館守備兵駐留権を獲得した。また清は漢城に袁世凱を派遣した。親清派に転じた閔妃はやがて事大党を結成したが、これに対抗する金玉均(きんぎょくきん)・朴泳孝(ぼくえいこう)ら親日派は独立党を創立、清仏戦争での清敗北を契機として1884年、駐朝公使竹添進一郎の支持を得て甲申事変(第二次京城事変)を起こした。これは清軍の介入で事大党の勝利に終わったが、朝鮮政府は漢城条約(京城条約)を締結し、日本に謝罪して雀の涙程の賠償金を支払った。また日清間では1885年、伊藤博文・李鴻章の間で、軍の撤収・軍事顧問や教官の派遣禁止・出兵時の相互通知などを規定した天津条約が締結された。この後、日本では天津条約に反発する大阪事件が発生した他、福沢諭吉が現代にも通用する名論として知られる国権論的な『脱亜論』を『時事新報』に発表して脱亜入欧を訴えた。また朝鮮政府は日本への復讐として1889年、凶作を建前として大豆や米の対日輸出禁止を定めた防穀令を発令した。日本政府の抗議でこれは翌年撤回され朝鮮政府は四年後に損害賠償を支払ったが、この防穀令事件に対し清が宗主権を理由に抗議したため、日清間は再び緊迫した。
日清戦争
(1894年〜1895年 / 皇軍圧勝)
1 甲午農民戦争
(1894年 / 日清戦争の端緒)
崔済愚(さいせいぐ)が創始した民族宗教の東学(旧教たる西学の対義語)の信徒は朝鮮政府の悪政に反発し、幹部の全準の指導の下に「斥倭洋倡義」を掲げ、朝鮮南部で一斉に蜂起した。この甲午農民戦争(東学党の乱)は全国の農民の蜂起を招いたため朝鮮政府は清に救援を仰いだ。清は日本に通告して出兵したが、第二次伊藤内閣は清が恣意的な朝鮮の内政改革を行うことを危惧し、日本軍を出撃させた。日清両軍により反乱は鎮圧されたが、日本が提示した朝鮮の内政改革案を清が無視したため、やがて日清両国による朝鮮支配権帰属問題にまで波及し、ついに軍事衝突に至った。なお衝突の一週間前には駐朝公使大鳥圭介の命令で帝国陸軍が朝鮮王宮占領事件を起こし、親清派の高宗を景福宮に襲撃して拉致して閔妃を追放し、親日派の金弘集政権を樹立していたが、これは日清戦争の遠因となった。
2 戦争の経過
大日本帝国は戦時大本営条例に基づき広島に最高統帥機関大本営を設置した。帝国海軍はまず1894年に仁川港外の豊島沖海戦で大艦巨砲主義に堕落していた清国艦隊に快勝した。また村田経芳(むらたつねよし)考案の新式歩兵銃村田銃を標準装備した帝国陸軍は成歓の戦いや牙山の戦いで連戦連勝し、平壌の戦いに圧勝して朝鮮半島からの清国陸軍駆逐に成功した。帝国海軍は同じ頃の黄海海戦に於いて清国海軍の主力北洋艦隊を粉砕し、帝国陸軍は旅順口を占領した。翌1895年には山東半島の北洋艦隊母港である威海衛が陥落し、遼東半島の完全制圧も成り、帝国の完全勝利が決定した。
3 下関条約
(1895年 / 日清講和条約・馬関条約)
日本側全権伊藤博文・陸奥宗光と清側全権李鴻章・李経方・伍廷方が下関の春帆楼で行った日清講和会議で締結された下関条約では、清の宗主権放棄による朝鮮独立の承認、賠償金2億両(約3億1千万円)の日本への支払い、遼東半島・澎湖諸島(ほうこしょとう)・台湾の日本への割譲、揚子江沿岸の沙市(さし)・重慶・蘇州・杭州の開市開港、日本船の揚子江航行権承諾、日本への最恵国待遇、などが定められた。また1896年の日清通商修好条約では日本の領事裁判権・協定関税制・租界設定権が規定された。この下関条約で得た賠償金は日清戦争遂行費たる約2億円を軽く上回る額であったが、これは主に軍事拡張費・教育基金・皇室費などに充てられた。下関条約による割譲に反発した台湾省の台湾巡撫唐景ッ(とうけいすう)は邱逢甲(きゅうほうこう)に唆され台湾民主国の独立を図ったが、日本軍の誅伐と台湾総督府設置により鎮圧された。初代台湾総督樺山資紀は1896年に制定された台湾総督府条例に基づき軍政を行ったが、植民地経営は後に台湾総督府官制が制定され、民政長官後藤新平が赴任することにより軌道に乗った。
4 三国干渉
(1895年 / そして復讐へ)
下関条約の六日後、日本領遼東半島が自国の満州侵略を妨げると判断したロシアは、露仏同盟を結んでいたフランスと、ロシアの対欧州侵略を懸念するドイツを誘い、日本に対し遼東半島の清への返還を要求した。第二次伊藤内閣は三度の要求に屈し、遼東半島還付条約を締結してしまったが、国民の間では理に叶わぬ要求を貫徹したロシアに対する敵愾心が高揚し、『史記』の中の名文句「臥薪嘗胆」が三宅雪嶺の『日本』に掲載されて以来反露スローガンとなった。政府は国民感情を背景として、ロシアを仮想敵国とした軍拡に努力していった。なお朝鮮では閔妃がロシアと結託したため、三浦梧楼(みうらごろう)らが1895年に閔妃殺害事件を実行した。
支那分割
日清戦争で敗北した「眠れる獅子」たる清に対し、帝国主義政策を執る欧米諸国は、租借・借款供与・鉄道敷設権獲得という形で分割を開始した。まずロシアは長城以北と遼東半島の旅順・大連を獲得し、ドイツは山東省を得て膠州湾(こうしゅうわん)に東洋艦隊の基地として青島を造営した。英国はこれに対抗するため山東半島の威海衛を租借した他、香港の対岸の九龍半島(現在の新界)や長江流域も獲得した。フランスは仏印に隣接する雲南・広東・広西の一帯を獲得し、広州湾を根拠地とした。また大統領モンローが1823年にモンロー宣言を発表して以来モンロー主義に則って対外侵略を慎んでいた米国は、国務長官ジョン=ヘイが門戸開放覚書を1899年に発表し、領土保全・門戸開放・機会均等といった通商の自由を求める三原則を清に突き付けた。こうして欧米諸国が恣意的な侵略を続ける中、日本が手に入れたのは台湾のみであり、福建省は他国への不割譲を確約させただけ、という非常につつましいものであった。
日露戦争
(1904年〜1905年 / 世界史上初の帝国主義国家間直接戦争)
1 非戦論と主戦論
反戦論・非戦論は、『万朝報』を退社した直後の幸徳秋水や堺利彦らが1903年に結成した平民社の『平民新聞』や、「二つのJ」主義で知られ基督教的人道主義を主張した内村鑑三らによって唱えられた。他にも『明星』に「君死にたまふこと勿れ」の一節で有名な反戦詩「旅順口包囲軍の中にある弟を歎きて」を発表して大町桂月(おおまちけいげつ)と論争を展開した与謝野晶子や、『太陽』に反戦詩「お百度詣で」を発表した大塚楠緒子、さらに『火の柱』『良人の自白』を著した木下尚江らも反戦論者である。逆に主戦論者としては、対外硬同志大会を開催した対露同志会の近衛篤麿や頭山満、それに1903年に七博士意見書を第一次桂太郎内閣に提出して毅然とした外交態度を求した戸水寛人(とみずひろんど)・富井政章(とみいまさあきら)・金井延(かないのぶる)・小野塚喜平次・高橋作衛・寺尾亨・中村進干ら東大七博士、などが挙げられる。なお中村進午は学習院教授である。
2 日露関係の緊迫
1896年の対日軍事同盟たる露清密約の締結によりロシアは東清鉄道(東支鉄道)の敷設権を手に入れた。同年、日露間では閔妃殺害事件の処理や朝鮮半島駐留兵力を規定した小村・ウェーバー覚書と、朝鮮非常事態に対する両国の対処方法を確認した山県・ロバノフ協定がペテルスブルクで結ばれ、1898年には朝鮮での日本の商工業発展をロシアは阻害しないと定めた西・ローゼン協定が東京で締結された。だがロシアは強圧的な態度を取り続け、日本国民の復讐心に火をつけた。
3 北清事変
(1900年 / 日露戦争への導入)
中国分割以来慢性化していた中国民衆の排外意識は、義和拳法で戦う戦闘的な秘密宗教結社の義和団が1899年に山東省で「除教安民」「扶清滅洋」を掲げて起こした義和団事件で一挙に爆発した。当初の仇教運動は次第に排外運動となり、西太后もこれを支持して諸外国に宣戦布告したため、日・露・独・伊・墺・仏・米・英は多国籍軍を結成してこれを潰した。この北清事変の鎮圧後、清は1901年に北京議定書(辛丑和約(しんちゅうわやく))を諸国と締結し、賠償金を支払い多国籍軍の北京駐兵権を承諾した。22000人もの軍勢を派遣して多国籍軍の中核となった日本は「極東の憲兵」として欧米に認められたが、北清事変の混乱に乗じて満州を不法占拠したロシアとの間の軋轢は次第に大きくなっていき、やがて日露戦争へと繋がっていった。
4 日英同盟
(1902年 / 対露軍事同盟)
ブーア戦争で無力さを自覚した英国は「光栄ある孤立」を捨て、共にロシアの南下に備えるため日本との同盟交渉を開始したが、日本政府内では日英同盟論を主張する山県有朋・桂太郎・加藤高明・小村寿太郎らと、日本の韓国、ロシアの満州に対する優越権を相互承認して緊張緩和を図る日露協商論(満韓交換論) を主張する伊藤博文・井上馨・尾崎行雄らが対立していた。やがて駐英公使林董(はやしただす)の尽力によって日英同盟協約が結ばれて日英同盟が成立し、ロシアと相対する日本を英・米が後援する体制が整った。
5 日露戦争の経過
満州と朝鮮を巡って緊迫した日露間は、1904年に帝国陸軍が旅順口閉塞作戦を発動したことで全面戦争に突入した。仁川沖海戦で快勝を収めた帝国海軍は黄海海戦でもロシア太平洋艦隊の出鼻を挫く大勝利を収めた。一方、西郷隆盛の従弟の満州軍総司令官大山巖は、クロポトキン率いるロシア陸軍との間で初の陸軍同士の大会戦たる遼陽会戦を敢行し、快勝して遼陽を占領した。続く沙河会戦では睨み合いに終始したものの、旅順攻囲戦では第三大隊を率いていた陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)がロシア側の将軍ステッセルを説得して旅順を降伏させた。やがて1905年には日露両国の陸軍主力同士が衝突した日露戦争最大最後の陸戦たる奉天会戦が勃発し、激戦の末、やはり大山巖率いる帝国陸軍がロシア陸軍を完全に殲滅した。また連合艦隊司令長官東郷平八郎が乗船する戦艦「三笠」を旗艦とする帝国海軍主力は、遭遇したロシア最強のバルチック艦隊との間で日本海海戦を展開し、敵艦隊を潰滅させた。なおこの際のZ信号旗と、信号文「皇国の興廃此の一戦にあり」は極めて有名である。この後、ロシアでは黒海艦隊でポチョムキン号の反乱が勃発するなど、混乱が続いた。
6 ポーツマス条約
(1905年 / 日露講和条約)
ロシアでは1905年、ガポンのデモ隊に軍隊が発砲して第一次ロシア革命の発端たる血の日曜日事件が勃発したため情勢が緊迫し、日本では財政的限界が近付いていた。親日家の米大統領セオドア=ルーズベルトは両国を斡旋し、日本側全権小村寿太郎・高平小五郎とロシア側全権ヴィッテ・ローゼンをバージニア州ポーツマスに招き、日露講和会議を開催した。採択されたポーツマス条約では、日本は韓国(1897年に国号を大韓帝国と改称)指導権や東清鉄道南部支線(哈爾浜から旅順まで)のうち長春以南の租借権、遼東半島租借権、鉱山採掘権、沿海州・カムチャッカ漁業権、北緯50度以南の南樺太領有権などを獲得した。なお北洋漁業に関しては、1907年に日露漁業協定が締結され、発展していった。一方、日本は満州に関する日清条約を清との間で締結し、これを承諾させた。
7 日露戦争の結果
日露戦争の戦費は日清戦争の8.5倍の約17億円も掛かり、政府はこのうち4億円を煙草専売制度や非常特別税の徴収、6億円を内国債で賄い、残り7億円はロンドンとニューヨークで募集した外国債で応急的に集めたが、ポーツマス条約では狡猾なロシア側の策謀により賠償金が規定されなかったため国民は不満を抱き、『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』などは社説で戦争継続を主張した。講和同志連合会はポーツマス条約破棄を要求する講和反対国民大会を1905年に日比谷公園で行ったが、やがて暴徒と化して警察・教会・電車などを焼く日比谷焼打ち事件にまで発展した。これは日本初の戒厳令発動を招き、結果的に第一次桂内閣を総辞職させた。一方、日露戦争で鉄道の軍事的必要性を痛感した政府は1906年、有事の際の担保としても活用するために私鉄17社を買収して国営とする鉄道国有法を発令した。また同年には後藤新平を初代総裁として半民半官の南満州鉄道株式会社(満鉄)を創設すると共に、満鉄の監督と関東州(遼東半島)の行政を司る関東都督府を設置した。これは後の関東庁と関東軍の前身である。なお樺太には1907年に樺太庁が設立された。
日露戦争後の国際関係
1 日露関係の融和
ロシアは第一次ロシア革命を機に極東から撤退してバルカンを侵略したため、独・墺との対立を深めたが、1907年には英露協商の締結に成功し、ここに英・仏・露の所謂三国協商が成立した。同1907年には第一次日露協約(日露協約)が締結され、日本の韓国と南満州、ロシアの北満州と外蒙古での勢力圏の相互承認が為された。1910年の第二次日露協約では他国から領土侵犯された際に相互に共同防衛することが定められ、1912年に締結された第三次日露協約では辛亥革命を受けて内蒙古の二分割が約束された。こうして日露関係は次第に氷解に向かい、1916年には第三国の中国進出を防止すると共に極東での共同戦線結成を約束するという内容の日露同盟(第四次日露協約・日露大正五年協約)が締結された。
2 米国の台頭と横暴
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を端緒として、欧米には黄色人種たる大和民族の急速な興隆を危険視する黄禍論(イエロー=ペリル)が蔓延した。米西戦争に辛勝した米国は1898年に比律賓・グアムを自領とした後、ハワイも侵略して日本への親密な接近を図っていたカメハメハ王朝を滅ぼし、次第に太平洋にその触手を延ばしていた。1905年には米国の比律賓諸島、日本の韓国に対する優越権を相互承認した桂・タフト協定が締結されたが、米国の鉄道王ハリマンが満鉄買収案を日本政府に示して桂・ハリマン覚書で承諾を得たものの小村寿太郎の反発で頓挫したハリマン計画事件や、米国務長官ノックスによる満鉄中立化案の提示などにより日米関係は次第に悪化した。米国では1906年のサンフランシスコ学童排斥問題などに代表される日本人移民排斥運動が発生し、改善を促す日米紳士協約の締結も実効性が伴わなかったため、日米関係はより冷え込んだ。なお英国との間では1905年に日本の韓国保護権を承認した第二次日英同盟が、1911年には日米関係悪化を受けて米国を除外した対独同盟たる第三次日英同盟が締結された。
韓国併合
(1910年 / 大陸進出の布石)
1904年に締結された日韓議定書では韓国の日露戦争への協力を規定していたが、同年の第一次日韓協約では韓国政府内に日本人外交・財政顧問を設置することが規定され、翌1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約・乙巳保護条約(いっしほごじょうやく))では韓国外交権を日本の外務省が吸収し、韓国の保護国化に成功した。翌1906年には朝鮮贔屓の伊藤博文を初代統監とする統監府が設置された。高宗は1907年にオランダのハーグで開催された第二回万国平和会議に密使を派遣したが、密使は外交権が無いため会議参加を拒否された上、やがて伊藤博文の知るところとなった。このハーグ密使事件を機に高宗は子の純宗に譲位したが同1907年には日本が韓国内政権を掌握する第三次日韓協約が締結され、韓国軍は解散された。反日運動として都市部の愛国文化啓蒙運動や全国的な義兵運動が展開される中、安重根は1909年10月に伊藤博文を哈爾浜駅頭で暗殺した。これを受けた政府は1910年、朝鮮統監寺内正毅(てらうちまさたけ)に韓国首相李完用との間で日韓併合条約を締結させることで韓国を併合し、寺内正毅を京城の天皇直属機関朝鮮総督府の長たる朝鮮総督に就任させた。韓国併合の裏面工作には玄洋社から派生した内田良平率いる右翼団体黒龍会が活躍した。なお朝鮮の開発は主として東洋拓殖株式会社が実行した。
支那革命
北清事変の後、旧制度改革を行い満州人支配の延命を図る清政府に対し孫文は1894年、ハワイで興中会を結成し、華僑の支援を受けて「排満興漢」の革命運動を展開した。やがて孫文は興中会に章炳麟(しょうへいりん)の光復会や黄興の華興会を加えて東京で1905年に中国革命同盟会を結成し、機関誌『民報』などで三民主義(民族独立・民権伸張・民生安定)やそれに基づく四大綱領(駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権)を発表した。革命運動は清軍内の新軍に浸透したが、幹線鉄道国有令を受けて勃発した四川暴動の鎮圧命令を受けた湖北新軍は1911年に武昌起義を断行し、1912年元旦には孫文を臨時大総統とするアジア初の共和国の中華民国が成立した。宣統帝(溥儀(ふぎ))は翌月退位し、清は滅亡した。この辛亥革命(第一革命)は民族革命・政体変革であって社会革命ではなく、袁世凱(えんせいがい)が臨時大総統に就任したため結果的に保守派政権が創立された。袁世凱は1912年に臨時約法を公布する一方、専制に反発する宋教仁らの国民党が起こした第二革命を鎮圧して独裁を強化し、やがて帝政を開始した。このため1915年には第三革命が勃発したが、翌年袁世凱が没すると分裂した。以後、安徽派の段祺瑞(だんきずい)、直隷派の呉佩孚(ごはいふ)、奉天派の張作霖(ちょうさくりん)などの軍閥が北京で争い、軍閥政権を形成した。 
8 資本主義経済の発達と社会主義思想の蔓延
産業革命の概要
日本の近代資本主義発達の特徴としては、自主的発展ではなく先進資本主義の技術を急速に導入したこと、政府の主導で本源的な蓄積過程が進められたこと、発達の不均衡が顕著で小農経営や中小企業の広範な残存が見られること、などが挙げられる。1890年の初の恐慌の後、蒸気機関の導入により日清戦争前後に為された第一次産業革命の結果軽工業が発展し、1897年には貨幣法が施行され金本位制が実施されたが、戦勝景気に乗じた企業勃興や株式騰貴は1900年の資本主義恐慌を招き、操業短縮が頻発して多くの企業が没落した。しかし三井・三菱・住友・安田などは銀行資本の成立に成功した。やがて日露戦争前後には、東京電燈会社が山梨県に設置した駒橋水力発電所など全国の発電所から供給される電力を用いて、重工業中心の第二次産業革命が為された。
第一次産業革命
江戸時代以来の手紡ぎは、第一回内国勧業博覧会で臥雲辰致(がうんたつむね)が発表したガラ紡による紡績を経て、やがて英国のリング紡績機やミュール紡績機を用いた洋式機械紡績へと変遷していった。明治初期の大阪・大阪合同・三重・尼崎・摂津・鐘ヶ淵・富士瓦斯といった七大紡績会社のうち、1882年に渋沢栄一が初の民間機械制工場として設立した大阪紡績会社は三重紡績会社と合併して東洋紡績会社となり、大阪合同紡績会社を吸収した。また尼崎紡績株式会社と摂津紡績会社は合併して大日本紡績会社となった。紡績業のカルテルである大日本紡績連合会が1896年に綿花輸入関税免税法を実現させた結果、1897年には綿糸の輸出高が輸入高を超え、綿糸紡績業が確立され、第一次産業革命が完成された。製糸業では、改良座繰や繰糸機を用いて手挽きする座繰製糸(ざぐりせいし)が水車の力を用いた器械製糸に代わり郡是製糸(ぐんぜせいし)・岡谷製糸などの製糸会社が設立された。織物業では手紡の手織機(ておりばた)が飛び杼(とびひ)の導入などにより改良されたが、やがてフランスから自動紋織機のジャガードやバッタンが輸入され、豊田佐吉が初の国産力織機として豊田式自動織機を開発したことにより興隆した。出版業の活性化で発達した製紙業では王子製紙・四日市製紙・富士製紙などが設立された。
第二次産業革命
農商務省管轄の八幡製鉄所は1897年に設立され、1901年に操業を開始した。原料である鉄鉱石は中国の大冶鉄山(だいやてつざん)、また燃料の石炭は筑豊炭田(後に満州の撫順炭田)のものを使用していた。これ以降、田中長兵衛が設立した田中製鉄所の後身である三井系の釜石製鉄所や、池貝正太郎の池貝製鉄所、それに神戸製鉄所などが鉄鋼業に参入した結果、1906年には輸出超過となり、第二次産業革命が達成された。英国の兵器会社であるビッカース社やアームストロング社と技術提携して1907年に室蘭に設立された三井系の日本製鋼所は、最大の民間兵器製鋼会社である。三井系の工場としては、この他に田中久重の田中製作所を引き継いだ芝浦製作所が挙げられる。一方、造船業は軍備拡張や造船奨励法を受けて発展し、国内自給率や造船技術水準の向上を齎した。
財閥の興隆
日露戦争の戦勝景気で原料綿花・軍需品・重工業機械の輸入超過が発生し、外国債の利息の支払いで国際収支が悪化したため1907年には明治四十年の恐慌が起こり、農村・社会問題が深刻化した。こうした情勢下で出現した企業連合(カルテル)・企業合同(トラスト)・企業連携(コンツェルン)などの独占資本はやがて財閥となった。財閥は持株会社を中心とするものと産業資本を中心とするものに大別することができる。益田孝(ますだたかし)が理事長となった三井合名会社が三井物産・三井鉱山などを取り仕切る三井財閥や、岩崎弥太郎の弟の岩崎弥之助が設立した三菱合資会社が日本郵船などを統轄する三菱財閥、後に住友合資会社となった住友総本店を中心とする住友財閥、安田善次郎が設立した安田保善社が安田銀行などを統轄する安田財閥などは前者の最たる例であり、三井財閥は立憲政友会、三菱財閥は立憲同志会・憲政会・立憲民政党に接近した。一方、後者の例としては、鉱山資本を中心とした古河財閥、浅野総一郎の浅野セメント合資会社を中心とした浅野財閥、造船業を中心とした川崎正蔵の川崎財閥などが挙げられる。
農業の変遷
1893年に東京の西ヶ原に設けられた農業試験場の活動や河川法制定、農業の合理化と生産増大のための灌漑工事を促す耕地整理法の制定、大企業対策として協同組合設立を認めた産業組合法制定などにより農業は発達したが、人口の増加に追い付かず慢性的な米不足が発生した。このため綿布を輸出する代わりに満州から金肥の大豆糟を輸入したり、朝鮮や台湾から米を移入したりした。なお台湾からは原料糖も移入した。1899年の農会法では、政府助成による農業・農民の保護育成のため行政区画毎に農会(後の農業会・農業協同組合)が設置され、中央農業団体としての大日本農会(後の全国農事会・帝国農会)も出現して農業発展に尽力した。また明治時代から大正時代に掛けては、塩水選や正条植、それに足踏み脱穀機や新潟県が統一化した短冊形苗代の導入など、稲作技術も進歩した。一方、地主と対立した小作人たちは小作人組合を結成したが、宮崎民蔵は1902年に土地復権同志会を結成して土地の再分配を企図した。また二宮尊徳に始まる報徳運動は報徳社の岡田良一郎・古橋暉兒(ふるはしてるのり)らにより報徳教として広まり、1924年には全国の報徳社が大日本報徳社として団結した。なお御木本幸吉(みきもとこうきち)は三重県で初めて真珠(御木本真珠)の養殖に成功したことで知られている。
社会問題の発生
松岡好一が取材した高島炭坑問題を掲載した『日本人』や横山源之助が1899年に著した『日本之下層社会』、それに農商務省が1903年に編纂した『職工事情』や1925年に細井和喜蔵が著した『女工哀史』などに見られるように、当時の労働者には重労働が課せられていた。炭鉱や作事場では、労働者を監獄部屋に泊まりさせ納屋頭の指揮で働かせる納屋制度(飯場制度)が採用された他、囚人労働なども用いられた。1968年に山本茂実が著した『ある製糸工女哀史− あゝ野麦峠』には、「男軍人女は工女、糸をひくのも国のため」という工女節も記されている。やがて労働運動が開始され、1894年には初の労働争議として山梨県で雨宮紡績ストが発生し、天満紡績スト・三重紡績ストなどが続発した。米労働総同盟の指導を受け帰国した高野房太郎は1897年、職工義友会を結成して『職工諸君に寄す』を刊行し、翌1898年には片山潜らも加えて労働組合期成会を組織した。『労働世界』を機関誌とするこの労働組合期成会の指導で鉄工組合・活版印刷工懇話会(後の活版工組合)・日本鉄道矯正会などが興ったが、就中日本鉄道矯正会は同年、日本鉄道機関手ストを決行した。また1907年には、足尾銅山争議に触発された別子銅山・生野鉱山・幌内鉱山・呉海軍工廠・横須賀海軍工廠・大阪砲兵工廠・東京砲兵工廠などの労働者が労働争議を起こした。
足尾銅山鉱毒事件
栃木県の足尾銅山製錬所が排出する硫酸銅が渡良瀬川に流出していたため、栃木県令藤川為親は魚の捕獲を禁止するなどして対処していたが、流域の田畑は洪水の度に大打撃を被っていた。この足尾銅山鉱毒事件は、立憲改進党の衆議院議員田中正造により第二議会で「足尾銅山鉱毒加害之儀ニ付質問書」が発表され全国的な問題として注目を集めたが、政府当局者の農商務大臣陸奥宗光は次男陸奥潤吉を足尾銅山の経営者古河市兵衛の養子としていたためこれを無視した。渡良瀬川流域の農民が1900年に大挙請願を企てたものの官憲に阻止されるという川俣事件を受けた田中正造は衆議院議員を辞職し、1901年12月10日に明治天皇への直訴を試みた。足尾銅山鉱毒事件はやがて谷中村の廃村と遊水池設置で一応の決着を見たが、この事件は明治時代最大の社会問題であると共に、日本の公害運動の原点となる事件であった。なお直訴状を起草した幸徳秋水や事件後に『谷中村滅亡史』を著した荒畑寒村、木下尚江・石川三四郎・松岡荒村ら社会主義者、安部磯雄・内村鑑三・島田三郎・岩本善治ら基督教徒、矢島揖子(やじまかじこ)ら矯風会の鉱毒被害地救済婦人会、東大・慶大・早大・明大などの学生鉱毒救済会などは、田中正造らを支援した。ちなみに古河潤吉が1905年に古河鉱業合名会社の社長に就任した際、陸奥宗光の秘書官である原敬(はらたかし)は副社長に就任した。
社会主義思想の蔓延
1 社会民主党への道
片山潜・樽井藤吉・中村太八郎らは1897年に社会問題研究会を結成し、翌1898年には『廿世紀之怪物帝国主義』『社会主義神髄』などの著作で知られる幸徳秋水や、安部磯雄・村井知至(むらいともとし)らと共に社会主義研究会を設立、1900年には堺利彦らを加えて社会主義協会を結成した。第二次山県内閣は1900年に治安警察法を制定して左傾化煽動運動を防止したが、翌1901年には片山哲・安部磯雄・幸徳秋水・木下尚江・西川光次郎・河上清ら6名が社会民主党を結成した。第四次伊藤内閣の内務大臣末松謙澄は安部磯雄が起草した社会民主党宣言の中の軍縮の項に激しく反発し、内閣総辞職の直後だったがこれを即日解散に追い込んだ。
2 日本社会党の盛衰
日露戦争を前に『万朝報』を退社した幸徳秋水らは1903年に平民社を結成し、翌年『平民新聞』に「与露国社会党書」を掲載、1905年にはメーデー茶和会を行うなどの活動を行ったが、内部対立から瓦解した。一方、第一次西園寺内閣の融和政策に乗じて西川光次郎が日本平民党の結成に成功すると、堺利彦は片山哲・田添鉄二・西川光次郎らと共に1906年、初の合法的社会主義政党として日本社会党を結成した。だが日本社会党は米国から帰国した幸徳秋水ら直接行動派と田添鉄二ら議会政策派の対立により翌年崩壊した。議会政策派は社会主義同志会を組織して活動した。
3 社会主義の壊滅
神田の錦輝館(きんきかん)付近で山口義三の出獄を歓迎する大杉栄・堺利彦・山川均・荒畑寒村らが赤旗を掲げ革命歌を歌ったため検挙された1908年の赤旗事件や、天皇弑逆計画が露顕して宮下太吉・幸徳秋水・管野スガ・新村忠雄・内山愚堂ら12名の社会主義者が誅された1910年の大逆事件、それに1911年の警視庁特別高等課設置により社会主義は「冬の時代」に突入した。なお徳富蘆花は『謀叛論』で幸徳秋水を弁護した。
労働者救済への道
大逆事件をこなした第二次桂内閣は翌1911年、『職工事情』を参考とした初の労働者保護立法として12歳未満の労働と15歳未満か女子の15時間労働を禁じた工場法を制定したが、労働条件や労働基準が国際水準よりも低かった上に従業員15人以下の零細工場は対象外とするなど問題が多く、さらに女工を多く抱える繊維業界からの猛烈な反発を食らったため実施は1916年、第二次大隈内閣の時にまでずれ込んだ。またこの頃公共職業安定所も設置された。一方、民間の貧民救済団体としては、金井延が開いた社会政策学会や窪田静太郎が開いた貧民研究会と中央慈善協会、それに1911年に初の民間療養団体として設立された済生会などが挙げられる。また英人ブースが創立した基督教の一派である救世軍は、日本救世軍司令官山室軍平(やまむろぐんぺい)を中心として社会鍋を用いて貧民救済のための募金活動を行い、矯風会(基督教婦人矯風会)の矢島揖子や潮田千勢子は廃娼運動などの矯風運動を展開した。なお日露戦争後、政府は財政強化と軍備拡張のために地方改良運動を展開したが、その一環として創立された在郷軍人会・青年会(青年団)・愛国婦人会などは草の根組織として地方の興隆に貢献した。 
 
 大正時代

 

1 桂園時代と大正初頭の政変
桂園時代
山県有朋の後継者たる桂太郎は1901年に第一次桂内閣を組閣して日英同盟や日露戦争を遂行したが日比谷焼打事件を機に総辞職した。立憲政友会総裁西園寺公望は1906年に第一次西園寺内閣を組閣したが日本社会党を認可したため元老に嫌われ、赤旗事件勃発の責任を追及され退陣した。これを受けて1908年に成立した第二次桂内閣は自由主義を戒め勤勉倹約を勧める戊申詔書を公布する一方、大逆事件の処理や工場法公布、地方改良運動や経済再建を推進し、また外務大臣小村寿太郎により関税自主権回復や、韓国併合も為された。1911年には西園寺公望が原敬を内務大臣に迎えて第二次西園寺内閣を組閣し、外務大臣内田康哉(うちだこうさい)の指導で辛亥革命に干渉する一方、内政面では立憲政友会の支持者が地主・中産階級・知識人であるが故に緊縮財政を断行した。1912年には明治天皇崩御に伴う皇太子嘉仁親王の践祚、並びに大正改元が為されたが、乃木希典夫妻の殉死は森鴎外・夏目漱石などの作家をはじめ国民に大きな衝撃を与えた。
憲政擁護運動
軍部は1907年の帝国国防方針で八個師団増設と八八艦隊建設を定めていたが、陸軍はひとまず韓国併合に伴う二個師団増師を第二次西園寺内閣に求めた。だが緊縮財政を行う内閣がこれを拒否したため陸軍大臣上原勇作は帷幄上奏権を行使(厳密には違法)して単独辞職した。「軍部の大御所」たる山県有朋が軍部大臣現役武官制を利用して「陸軍のストライキ」を行い後任の陸軍大臣を出さなかったため内閣は総辞職し、内大臣兼侍従長として既に府中を離れ宮中に在った桂太郎が1912年、海軍大臣斎藤実(さいとうまこと)らを詔勅で留任させて第三次桂内閣を組閣した。これに対し立憲政友会の「憲政の神様」たる尾崎行雄と立憲国民党(憲政本党の後身)の犬養毅は閥族打破と憲政擁護、即ち軍閥や特権官僚の排除と政党内閣による立憲政治の実現を目指し、保守政党外郭団体の院外団や商業会議所、交詢社の実業家、それに知識人らと共に憲政擁護運動(第一次護憲運動)を展開した。この一連の推移は『中島信虎日記』などに記載されている。
大正政変
(1913年 / 民衆の力が倒閣を達成した初の事件)
桂太郎は立憲国民党と大同倶楽部系の中央倶楽部を糾合して新党結成を目指したが、『大日本憲政史』に見られる演説などで尾崎行雄らから攻撃された上、民衆が政府側の『国民新聞』本社などを襲撃したため、1913年に衆議院議長大岡育造の勧告を受諾、組閣からわずか53日間で総辞職した。ちなみに新党の立憲同志会は桂太郎が逝去した二ヵ月後に、岩崎弥太郎の娘婿加藤高明を初代総裁として成立した。
第一次山本内閣
薩摩閥の山本権兵衛は立憲政友会を与党として組閣したが、これに反発した尾崎行雄は脱党して政友倶楽部を結成した。大正政変を踏襲した第一次山本内閣は1913年に軍部大臣現役武官制を改正して予備役・後備役の大・中将の大臣就任も可能とする一方、軍人支配色緩和の必要性から文官任用令を緩和して政党員の上級官吏進出を認めた。また同1913年には中華民国(支那共和国)を承認した。やがて海軍軍拡予算案を内閣が提示すると営業税・織物消費税・通行税撤廃を求める廃税運動が起こり、1914年にはドイツのシーメンス社と海軍高官の癒着が露顕(シーメンス事件)し、ほぼ同時に英国のヴィッカース社との戦艦「金剛」建造に絡む癒着も発覚したため、内閣は総辞職した。やがて1914年には、大隈重信が立憲同志会総裁加藤高明を外務大臣に迎え、立憲同志会・中正会・大隈伯後援会を与党として第二次大隈内閣を組閣した。 
2 第一次世界大戦
欧州大戦の勃発
ドイツと英国は民族的には汎ゲルマン主義と汎スラブ主義、帝国主義的には3B政策(ベルリン・バグダード・ビザンティウム)と3C政策(ケープタウン・カルカッタ・カイロ)で対立していたが、やがて独・墺・伊の三国同盟にトルコを加えた同盟国と、英・仏・露の三国協商を中心とした27国の連合国が軍事的対立を強めた。やがて「欧州の火薬庫」たるバルカン半島のボスニアの首都サラエボで1914年6月、墺皇太子フランツ=フェルディナンド夫妻がボスニア=ヘルツェゴビナ併合に反発するセルビア人プリンチップに暗殺されるというサラエボ事件が発生し、欧州大戦が勃発した。シュリーフェン計画を発動したドイツが1914年に中立国ベルギーに侵攻したことを受けた英・仏・露は対独宣戦を行い、ロンドン宣言で単独不講和を約す一方、翌1915年にはロンドン密約に基づきイタリアを連合国側へ寝返らせた。
欧州大戦の終結
両陣営の共倒れによる債権不払いを恐れた米大統領ウィルソンは「勝利なき平和」を提唱したが、かつてルシタニア号事件で多数の自国民を失っていたため1917年にドイツが無制限潜水艦戦を始めると連合国側に参戦した。英国からドイツ東洋艦隊追撃・連合国艦船保護の要請を受けた寺内内閣は地中海作戦を発動、巡洋艦「明石」を旗艦とする第二特務艦隊を派遣し、6月には巡洋艦「出雲」を代替旗艦として派遣した。作戦中駆逐艦「榊」がギリシア南海域にてUボートに撃沈されたが、59名の戦死者はマルタ島に葬られた。やがて1917年にはレーニンらが「パンと平和」を求めてロシア革命を起こし、三月革命でニコライ2世のロマノフ朝が倒れ、十一月革命で成立した悍ましいソビエト政権がドイツとの間にブレスト=リトフスク条約を締結して戦線を離脱した上、1918年にはドイツ革命が勃発したため、大戦は終結した。
日本の大陸進出
『世外井上公伝』に記されている井上馨の「今回欧州の大禍乱は日本国運の発展に対する大正新時代の天佑」との進言を受けた大隈重信は1914年、外務大臣加藤高明の主導で日英同盟の情誼に基づき対独宣戦し、僅かの間に独領南洋諸島や青島を占領した。やがて大隈重信は外務省政務局長小池張造が立案した二十一ヵ条の要求を袁世凱政権に提示し、1915年5月9日に希望条項の第五号を除いた十六ヵ条を最後通牒で承諾させた。主な要求は、山東省のドイツ権益の継承、旅順・大連・満鉄の租借期限延長及び南満州・東部内蒙古の特殊権益強化、日本興業銀行などが資本を大量輸出していた漢冶萍公司(大冶鉄山・萍郷炭坑・漢陽製鉄所からなる民間製鉄会社)の日華合弁化、福建省不割譲確認及び中国沿岸の港湾・島嶼の他国譲与・貸与禁止、中国政府内への政・財・軍の日本人顧問設置及び満州警察の日中合同化、などである。また第二次大隈内閣は同1915年にロンドン宣言にも調印したが、大隈重信や加藤高明の対華政策の軟弱さを責める福田和五郎の国民外交同盟会の構成員下村馬太郎は1916年、大隈重信に対する爆弾テロを試みたが、爆弾が不発だったために大隈重信には被害は及ばなかった。またこの頃、清の粛親王を擁する大陸浪人川島浪速は中国からの独立を企てた(満蒙独立運動)。この企てが失敗した後も粛親王の娘の愛新覚羅顯は川島浪速の養女となり川島芳子と改名し、「男装の麗人」として清朝復活を図り日中間を暗躍した。
寺内内閣の成立
桂太郎の後継者たる寺内正毅は非立憲的な藩閥超然内閣を立て、北京の段祺瑞政権に私設秘書西原亀三を介して日本興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行から1億4500万円の西原借款を与えて南方の革命勢力と対峙させた。また進出に反発する米国への懐柔として石井菊次郎と米国務長官ランシングとの間で1917年に石井・ランシング協定(中国に関する交換公文)を締結させ、日本が中国の門戸開放を認める代わりに米国に日本の特殊権益を認めさせた。
ヴェルサイユ条約
(1919年 / ドイツ抑圧を目指すヴェルサイユ体制を構築)
第一次世界大戦の終結後開催されたパリ講和会議では、対独賠償金賦課・軍備制限・植民地の委任統治領移行・ポーランド独立・ラインラント非武装化などが定められ、原内閣により派遣された西園寺公望と牧野伸顕は山東省の旧ドイツ権益と赤道以北の独領南洋諸島の委任統治権を獲得した。またこの会議では労働法制委員長ゴンパースの下で労働九原則を定めた国際労働協約が締結されたが、日本提出の人種差別禁止案は米・英・豪の反対で否決された。さらに米大統領ウィルソンが民族自決や国際平和などを基本理念として発表したウィルソン14ヵ条を受け、1920年には世界史上初の国際平和機構たる国際連盟が結成され常任理事国には日・英・仏・伊が就任したが、当の米国自身は孤立主義に蝕まれた上院で加盟案が否決されたため、参加しなかった。
朝鮮・中国の暴動
韓国併合以来の土地調査事業により朝鮮農民が土地を失ったことや1910年に朝鮮総督府が発令した会社法の結果朝鮮人企業が不利になったことへの反動として、1919年には「独立万歳」を叫ぶ三・一運動(万歳事件)が天道教指導者孫秉煕(そんびょんひ)の煽動で勃発し、平定された。また李承晩と金九は混乱に乗じて有名無実な大韓民国臨時政府を上海に設置した。三・一運動を機に原内閣は統治体制を武断政治的なものから文化政治(文治政治)的なものへ変質させた。またパリ講和会議で中国の二十一ヵ条解消要求が否決されたため北京大学生らが起こした五・四運動は全土に波及し、反帝運動や日貨排斥運動が激化した。
大戦景気
1915年から1918年に掛けて第一次世界大戦に伴う軍需増大とアジア市場独占により発生した大戦景気は、日本を債務国から債権国にする一方、輸入途絶による重化学工業の飛躍的発展と金融資本の支配力強化による財閥の産業支配体制の確立をもたらした。また大戦景気では内田信也の内田汽船などの船成金(ふななりきん)や、鉄成金などが出現した他、世界第三位の距離を誇る猪苗代水力発電所・東京間の送電も1915年に開始され、遠距離大量送電時代に突入した。なお米国が参戦して金輸出を停止したため、日本は1917年に金輸出禁止、即ち金本位制の停止を断行した。
シベリア出兵
(1918年〜1922年 / 最大72000人、経費10億円)
ウラジオストクのチェコスロバキア軍救出とロシア革命牽制のためのシベリア出兵は、寺内正毅・山県有朋・牧野伸顕ら慎重派を外務大臣本野一郎や上原勇作・田中義一ら積極派が押し切り、米・英・仏と共に断行した。寺内内閣の次の原内閣は他国が撤収した1920年以後も出兵を継続したが、黒龍江河口の尼港(ニコライエフスク)で日本軍と日本人居留民700余名が抗日パルチザンに惨殺される尼港事件が勃発した上、1921年の大連会議で日ソ交渉が進展したため加藤友三郎内閣は1922年に軍隊を撤収させた。この後、第一次加藤高明内閣の外務大臣幣原喜重郎は1925年、芳沢謙吉にカラハンと交渉させ日ソ基本条約を北京で締結させた。
ワシントン会議
(1921年〜1922年 / 恣意的な米国の主導)
高橋内閣は米大統領ハーディングが提唱したワシントン会議に海軍大臣加藤友三郎・貴族院議長徳川家達(とくがわいえさと)・幣原喜重郎らを派遣した。会議ではまず太平洋での領土や権益の相互尊重、問題の平和的解決を約した四ヵ国条約が1921年に日・米・英・仏の間で締結され、日英同盟が破棄された。1922年には米・英・日・仏・伊の主力艦保有率を5:5:3:1.67:1.67と規定して10年間の主力艦建造禁止を定めたワシントン海軍軍縮条約が締結され、また中国の主権尊重・門戸開放・機会均等を定めた九ヵ国条約も日・米・英・仏・伊・蘭・白・葡・中の間で調印された。日本は前者により原内閣が漸く議会を通過させた八八艦隊計画を断念させられた上、後者に基づき中国との間で結ばれた山東懸案解決に関する条約により山東省の権益を失い、また二十一ヵ条の要求の一部と石井・ランシング協定も破棄され、孤立化を強めた。こうして完成した日本の中国・太平洋進出妨害のための東亜・太平洋地域の米国中心の欺瞞的な国際秩序をワシントン体制と言う。なお米国では1924年、クーリッジ大統領が1920年の加州排日土地法を全国化した排日移民法を成立させ、人種差別を強めた。 
3 第一次世界大戦後の政治・経済
米騒動
(1918年 / 社会運動高揚の契機となる)
従来の米不足に加え、米価上昇を目論む米商人や地主がシベリア出兵用の軍用米として米を売り惜しみ、米価は暴騰した。やがて富山県滑川の漁民主婦が女房一揆(越中の女一揆)を起こしたことを機に1道3府38県で約70万人が参加して米価引下げと廉売を求める米騒動が勃発した。米騒動は三ヶ月後に軍隊も出動して鎮圧されたが、寺内内閣は倒壊し、1918年には立憲政友会の総裁原敬が初の平民宰相として原内閣を組閣した。この顛末は前田蓮山の『原敬伝』に詳述されている。
原内閣
原内閣は外務大臣内田康哉・陸軍大臣田中義一・海軍大臣加藤友三郎を除く全閣僚が立憲政友会員で占められた初の本格的政党内閣である。対外的にはヴェルサイユ条約調印・国際連盟加盟などが為された他、1919年には旅順の関東都督府を関東軍司令部と関東庁に改組した。内政的には高等教育普及政策として1918年に高等学校令と同時に大学令を施行し、官立単科大学・公立大学・私立大学を認可した他、旧来の鉄道院を鉄道省に改組して産業開発を助長した。一方、政党勢力強化を目指す原敬は1919年の選挙法改正で小選挙区制を導入したが、階級制度保護のため普通選挙には反対した。翌1920年の総選挙では立憲政友会が大勝したが、原敬は1921年に郡制廃止法を施行し、さらなる政党勢力の強化に努めた。だが1920年以来の戦後恐慌は大蔵大臣高橋是清の指示による日本銀行からの3億6000万円もの救済資金貸出にも拘らず繊維産業の操業短縮や銀行休業、成金や中小企業の倒産を招き、財閥を成長させた。また力の政治に伴い東京市疑獄事件などの腐敗も進展したため、憤った青年中岡艮一(なかおかこんいち)は1921年に原敬を東京駅で暗殺(現職首相では初)し、内閣を崩壊に至らしめた。
関東大震災以前の政界
立憲政友会総裁の座を継承した高橋是清は原内閣の全閣僚を留任させて高橋内閣を組閣したが、屈辱的なワシントン会議の決定を受諾した後に立憲政友会の内部対立から内閣改造に失敗し、総辞職した。立憲政友会の支持を受けた加藤友三郎は1922年、官僚や貴族院議員を中心として加藤友三郎内閣を立ててシベリア撤兵や陪審法を実施し、陸軍大臣山梨半蔵には山梨軍縮を行わせたが、同1922年には非合法の日本共産党が組織され、また犬養毅が立憲国民党の後身の革新倶楽部を旗揚げした。なお加藤友三郎は1923年8月に死去したため、翌9月に勃発した関東大震災時には首相はいない。 
4 大正デモクラシー
大正デモクラシーの概要
日露戦争後の産業の発展や大衆文化の成立に加え第一次世界大戦に於いて連合国側がデモクラシーを大義名分としたことで抬頭した自由主義的且つ民主主義的な風潮は、知識人や民衆、それに大戦景気に伴う資本主義経済の発展で成長した中産階級に支持され、やがて明治憲法の範疇での可能な限りの民主化を目指す大正デモクラシーを現出させた。この理論的支柱となったのは東大教授吉野作造が1916年に『中央公論』に寄稿した「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」で提唱した民本主義と、著書『憲法撮要』で美濃部達吉が主張した天皇機関説(国家法人説)であるが、民本主義が主権の「民衆本位」の運用を主張し政党内閣制・普選実現を訴えたのに対し、天皇機関説は「天皇は国家の最高機関として法人たる国家が有する統治権を行使する」としていたため、穂積八束・上杉慎吉らが提唱する天皇主権説と激しく対立した。
学生運動と言論統制
福田徳三・麻生久らと共に啓蒙団体たる黎明会を1918年に結成した吉野作造は、赤松克麿らと共に東大の新人会を同年結成した。やがて早大の建設者同盟や京大の労学会が結成され、1922年には学生連合会、1924年には学生社会科学連合会が設立された。東大では1920年に森戸辰男(もりとたつお)が同僚大内兵衛(おおうちひょうえ)の刊行する雑誌『経済学研究』に掲載した「クロポトキンの社会思想の研究」が危険思想として原敬や学内の興国同志会の上杉慎吉から攻撃され、大内兵衛共々休職に追い込まれるという森戸事件が発生した。
労働運動
1912年に鈴木文治が労資協調を唱え組織した改良主義的労働団体の友愛会は、1919年に大日本労働総同盟友愛会、1921年に日本労働総同盟と改組され、次第に階級闘争主義・労資対立路線へと変質していった。また1925年に日本労働総同盟から追放された左派は日本共産党に煽動され日本労働組合評議会を組織した。一方、1920年5月2日には鈴木文治・松岡駒吉・野村孝太郎らの指導により上野公園で初のメーデーが実施され、以後1936年まで毎年5月1日に行われていった。また1920年の八幡製鉄所争議や翌年神戸で発生した三菱・川崎造船所争議を端緒として、足尾鉱山争議・釜石鉱山争議・日立鉱山争議・三菱長崎造船所争議・石川島造船所争議などが発生した。
農民運動と部落解放運動
初の生協の設立や著書『死線を越えて』で有名な基督教徒賀川豊彦が杉山元治郎らと共に日本初の全国的小作人組合として1922年に結成した日本農民組合は、大戦景気による小作料騰貴と耕地投機化に対し小作料減免・小作権確認を求めて数多の小作争議を指導したが、1924年に政府が小作調停法を施行し1926年に右派の平野力三らが脱退したために崩壊した。一方、被差別部落民は三好伊平次が結成した備前平民会などで部落解放運動を行っていたが、やがて1922年には松本治一郎らが京都で全国水平社を結成した。なお「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と結ばれる水平社宣言は西光万吉、水平社綱領は阪本清一郎が起草した。また倉敷紡績会社社長大原孫三郎(大原孝四郎の子)は1919年、高野岩三郎を初代所長とする大原社会問題研究所を大阪に設立した。
婦人運動
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である」という創刊号の文言と長沼千恵子(高村千恵子) が描いた表紙絵で有名な雑誌『青踏(せいとう)』は、「新しい女」たる平塚明子(ひらつかはるこ)(平塚雷鳥(ひらつからいてう))の青踏社が婦人解放運動や婦人参政権運動を進めるため刊行した。青踏社が資金難で瓦解した1916年には友愛会婦人部が創設され、1920年には平塚明子・奥むめお・市川房枝らが新婦人協会を設立したが、新婦人協会は1922年に治安警察法第五条改正を実現し、女性の政治集会参加を可能とした。なお山川菊栄・伊藤野枝・近藤真柄(こんどうまがら)は1921年に赤瀾会(せきらんかい)を結成した。また市川房枝は1924年に婦人参政権獲得期成同盟会(翌年に婦選獲得同盟)を結成し、婦選運動を展開した。
社会主義運動
反資本主義勢力を寄せ集めた日本社会主義同盟が成立した1920年頃、社会主義は荒畑寒村と共に『近代思想』、内縁の妻伊藤野枝と共に『労働運動』を刊行していた無政府主義者の大杉栄らが提唱するアナルコ=サンディカリズム(革命的労働組合主義)と、妻の山川菊栄と共に『社会主義研究』を刊行していた山川均らが提唱するボルシェビズム(マルクス= レーニン主義)に分裂し、アナ=ボル論争が展開されていた。1922年の日本労働組合総連合創立大会ではアナ派とボル派が主導権を巡って衝突し、ボル派が勝利したものの連合は成立しなかった。やがて同1922年にはコミンテルンの傀儡として山川均・堺利彦・近藤栄蔵らが日本共産党を設立したが、「暁の手入れ」たる翌1923年の第一次検挙では山川均・堺利彦・徳田球一・野坂参三らが検挙された。
無産政党の変遷
1925年に杉山元治郎・浅沼稲次郎らが結成した農民労働党は即日禁止されたが、杉山元治郎は1926年にその流れを汲む労働農民党を結成した。労働農民党は全国水平社と関わったが同年分裂し、右派の安部磯雄・片山潜らが社会民衆党、中間派の三輪寿壮(みわじゅそう)・麻生久らが日本労農党を創立、残留した左派は大山郁夫を委員長として労働農民党を再組織した。やがて日本労農党は農民労働党系の平野力三の日本農民党と労働農民党系の鈴木茂三郎の無産大衆党を吸収して1928年に日本大衆党を結成、さらに社会民衆党を脱党した宮崎龍介らの全国民衆党を加え1930年に全国大衆党を創立した。全国大衆党は労働農民党の後身労農党と合併して全国労農大衆党となり、1932年には社会民衆党と合同して安部磯雄を党首とする社会大衆党が成立した。 
5 大正末期の政治・経済
関東大震災
(1923年9月1日 / 死者9万名、不明者5万名、損壊家屋57万戸)
相模湾を震源として発生した関東大震災は未曾有の大惨事となった。東京市は混乱を極め、日比谷焼打事件以来の戒厳令発動を招き、『朝日新聞』による流言飛語のため朝鮮人が自警団により誅されたりした。また亀戸事件では平沢計七(ひらさわけいしち)・川合義虎など10名の社会主義者が血祭りに上げられた他、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一が憲兵隊に連行され憲兵大尉甘粕正彦により扼殺されるという甘粕事件も勃発した。
震災恐慌と第二次山本内閣
関東大震災の被害総額は60億円に達した。政府は復興院を設置してこれに対処したものの、震災により京浜地域の経済が停止して銀行手持ちの手形が決済不能となった上、金融機関自体が焼失し、さらに国富も壊滅的打撃を被ったため経済界は混乱して信用制度の根幹が動揺し、震災恐慌が発生した。山本権兵衛は日銀総裁井上準之助を大蔵大臣に登用して30日間支払猶予令(モラトリアム)を断行させて取付騒ぎを防ぐ一方、震災手形割引損失補償令を施行して震災で支払えなくなった震災手形の一部を政府が補償し、混乱を鎮めた。やがてアナ派の難波大助が摂政宮裕仁親王を狙撃して失敗し誅されるという虎ノ門事件が1923年末に発生したため、内閣は総辞職した。
第二次護憲運動の展開
元老西園寺公望に支持された貴族院議長清浦奎吾が1924年に貴族院中心の清浦内閣を立てると、加藤高明の憲政会(立憲同志会・中正会・公友倶楽部が合同)に高橋是清の立憲政友会と犬養毅の革新倶楽部を加えた護憲三派は普通選挙断行・超然内閣打倒・行財政整理・貴族院改革・枢密院改革などを掲げ、階級闘争防止と体制内での改良を目指す第二次護憲運動を政党員のみで展開した。反発した立憲政友会の床次竹二郎(とこなみたけじろう)ら内閣支持派は政友本党を結成したが、1924年の総選挙は憲政会以下護憲三派の圧勝に終り、総理大臣加藤高明・農商務大臣高橋是清・逓信大臣犬養毅などからなる第一次加藤高明内閣(護憲三派連立内閣)が成立した。
護憲三派連立内閣
1925年の日ソ基本条約締結によるソ連からの共産主義思想の流入に対し、政府は改正衆議院議員選挙法(所謂普通選挙法)を成立させて公布し、階級闘争を防いだ。だが国内の共産主義運動が東亜の民族解放闘争と結合することや普通選挙の実施により無産政党員が増大することを危惧した政府は、共産主義を中心としたあらゆる社会主義運動を誅する体制を整えるため、国体の変革や私有財産制否認を吹聴する結社・運動・思想などを制限する治安維持法を同1925年に公布した。一方、外務大臣幣原喜重郎は幣原協調外交を開始し、内務大臣若槻礼次郎は郵便貯金や各官庁積立金などの大蔵省預金部資金の地方還元を推進したが、四個師団削減と兵力機械化を目指す宇垣軍縮を断行した陸軍大臣宇垣一成は将校を失業から救うと同時に学生の徳育と体育のため陸軍現役将校学校配属令を制定して配属将校を諸学校に送り込み、中等学校以上は正課となる軍事教練を指導させた。治安維持法適用の端緒は同志社大学内にこの軍事教練に反対するビラがあったことに関連して京大教授河上肇の自宅が家宅捜索され京大生38名が起訴された1926年の京都学連事件である。なお連立崩壊に伴い成立した第二次加藤内閣は憲政会単独内閣であるが、以後犬養内閣に至るまで、衆議院での多数党が政党内閣を組織する「憲政の常道」が続けられていった。 
6 大正時代の大衆文化
学問
河上肇 / 『貧乏物語』で奢侈根絶による貧乏廃絶を説く。雑誌『社会問題研究』発刊後マルクス主義経済学に進み、『第二貧乏物語』を著す。
櫛田民蔵 / 猪俣津南雄の『労農』に寄稿、労農派。『日本資本主義発達史講座』の編者野呂栄太郎ら講座派と内ゲバ対立。
田中王堂 / 哲学者。『三太郎の日記』を著した阿部次郎や『善の研究』を著し西田哲学を確立した西田幾多郎、『風土』の著者和辻哲郎も有名。
柳田国男 / 雑誌『郷土研究』を発刊、民族学を確立。歴史学では『神代史の新しい研究』などが蓑田胸喜に攻撃され起訴された津田左右吉らが著名。
山本実彦 / 『中央公論』に匹敵する『改造』を創刊。両誌は後に横浜事件で廃刊。なお石橋湛山は『東洋経済新報』で平和的経済発展を説く。
仁科芳雄 / KS磁石鋼を発明した本多光太郎と共に有名な物理学者。数学者では高木貞治、電気工学者では八木秀次、医学者では三浦勤之介が有名。
野口英世 / 幼名は野口清作。手が不自由。米国ロックフェラー研究所にて梅毒スペロヒータの培養に成功。黄熱病研究中、黄熱病で死去。
美術
横山大観 / 岡倉天心の門弟。『生々流転』が有名。狩野芳崖・橋本雅邦の門弟下村観山と共に日本美術院再興、院展を開催。
牧野伸顕 / 第一次西園寺内閣の文相。文展を創始、土田麦僊・村上華岳・平福百穂・鏑木清方らを発掘。後に松岡映丘らを審査員とする帝展に変わる。
石井柏亭 / 二科会を創立。二科会は『紫禁城』で知られる梅原龍三郎や『孔雀と女』で有名な安井曽太郎の他、有島生馬・万鉄五郎・小出楢重らを輩出。
岸田劉生 / 当初フューザン会、後に春陽会所属。『麗子五歳の像』『麗子住吉詣立像』などの『麗子像』を描く。
高村光太郎 / 彫刻家。高村光雲の子で『手』『鯰』などを残した。この他、『墓守』で知られる朝倉文夫や、『転生』『五浦釣人』の作者平櫛田中も有名。
生活
国勢調査は1920年以降5年毎に行われるようになった。当時は文化住宅が盛んに都市郊外に立てられ、女性の地位も上昇して職業婦人と称される輩が出現した。また日本活動写真や松竹キネマが尾上松之助・阪東妻三郎らを用いて盛んに無声映画を制作、1931年にはトーキー映画も出現した。庶民の間には大正琴の普及により『船頭小唄』『籠の鳥』などの流行歌が浸透した他、円本が読まれ、また鈴木三重吉が主宰した児童雑誌『赤い鳥』や、大衆雑誌『キング』が創刊された。1925年には芝愛宕山の東京放送局にてラジオ放送が開始され、翌年にはNHK(日本放送協会)が設立された。また1912年のストックホルムオリンピックに金栗四三と三島弥彦が日本人初のオリンピック選手として派遣される一方、1915年には名古屋山本球場にて全国中等学校野球大会が、1925年には早大・慶大・明大・法大・立大・東大の東京六大学野球が開始され、「人に勝つより自分に勝て」という名言で知られる嘉納治五郎が創始した柔道も講道館を中心として一般に普及した。また市電も京都を端緒として運転が開始された他、生駒山などのケーブルカーが建設された。 
7 近代日本文学史
小説
戯作文学 / 読本・黄表紙・洒落本・滑稽本・人情本などの延長。『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』などを著した仮名垣魯文が最後。
翻訳小説 / 英人リットン原作のものを『花柳春話』として訳した丹羽純一郎(織田純一郎)が有名。翻訳というより翻案。
政治小説 / 自由民権運動宣伝のため矢野龍溪が著した『経国美談』の他、末廣鉄腸の『雪中梅』、東海散士の『佳人之奇遇』などが有名。
写実主義 / 坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』などが有名。また『金色夜叉』『多情多恨』の著者尾崎紅葉は、『夏木立』で有名な山田美妙と共に硯友社を結成、機関誌『我楽多文庫』を発刊。言文一致体の代表作『浮雲』や翻訳『あひびき』で知られる二葉亭四迷も写実主義。
擬古典主義 / 『五重塔』を著し紅露時代を現出した幸田露伴や、雅俗折衷体の『たけくらべ』『にごりえ』を著した樋口一葉が著名。
浪漫主義 / 日清戦争の前年、近代的自我の成長の必然と西洋文学の啓発のため、北村透谷が雑誌『文学界』を創刊。『高野聖』の著者泉鏡花も有名。
自然主義 / 島崎藤村は当初浪漫主義的詩集『若菜集』などを発表したが、『破戒』で自然主義を確立。徳富蘆花の家庭小説『不如帰』も自然主義だが国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』『武蔵野』、田山花袋の『蒲団』、徳田秋声の『黴』、正宗白鳥の『何処へ』も著名。
反自然主義 / 『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』『こころ』を著し、『明暗』で則天去私の表現を試みた余裕派・低徊趣味の夏目漱石や、『舞姫』『即興詩人』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』を著した森鴎外が超有名。
新浪漫主義 / 反自然主義の一種、耽美派(唯美派)。永井荷風の『腕くらべ』、谷崎潤一郎の『刺青』『春琴抄』『痴人の愛』『細雪』など。
新理想主義 / 反自然主義の一種、白樺派。『お目出たき人』『その妹』『人間万歳』の著者で宮崎県に「新しき村」を建てた武者小路実篤が著名。他、志賀直哉の『暗夜行路』『城の崎にて』、有島武郎の『或る女』『カインの末裔』、倉田百三の『出家とその弟子』も有名。
新現実主義 / 「真」の自然主義、「善」の新理想主義、「美」の浪漫主義に関連したもの。まず新思潮派では『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』『蜘蛛の糸』『河童』『歯車』『或阿呆の一生』などを著してガス自殺した芥川龍之介や、『恩讐の彼方に』『父帰る』『忠直卿行状記』で知られ雑誌『文藝春秋』を刊行した菊池寛、『波』『女の一生』の著者山本有三が有名。自然主義系私小説では葛西善蔵の『子をつれて』や宇野浩二の『蔵の中』が著名。永井荷風が発刊した『三田文学』からは、久保田万太郎や『田園の憂欝』の著者佐藤春夫らが輩出された。
革命文学 / プロレタリア文学。小牧近江が刊行した雑誌『種蒔く人』が端緒。日本プロレタリア文芸同盟の雑誌『文芸戦線』は『海に生くる人々』の著者葉山嘉樹や『施療室にて』の著者平林たい子を、全日本無産者芸術同盟(NAPF)の雑誌『戦旗』は『蟹工船』『党生活者』の著者小林多喜二や『太陽のない街』の著者徳田直をそれぞれ輩出。
新感覚派 / 『日輪』『機械』『旅愁』などの著者横光利一や、『伊豆の踊子』『雪国』などの著者川端康成らが有名。
大衆文学 / 『宮本武蔵』『新・平家物語』『新書太閤記』などの著者吉川英治や、『赤穂浪士』の著者大佛次郎、『二銭銅貨』『心理試験』『陰獣』『孤島の鬼』などを著して探偵小説を確立した江戸川乱歩、『立川文庫』を集団執筆した玉田玉秀斎・山田阿鉄らが有名。
詩歌
土井晩翠 / 新体詩の詩集『天地有情』を残す。新体詩は外山正一の『新体詩抄』が端緒、他に森鴎外の『於母影』、上田敏の『海潮音』などが有名。
与謝野昌子 / 夫の与謝野鉄幹の新詩社が刊行した『明星』で活躍、『みだれ髪』で有名。明星派の詩人では『思ひ出』『邪宗門』の北原白秋らも有名。
石川啄木 / 東京朝日新聞社入社後、『一握の砂』『悲しき玩具』を執筆。大逆事件を受けた『呼子と口笛』や評論『時代閉塞の現状』などは「赤」。
正岡子規 / 高浜虚子と俳句雑誌『ホトトギス』を刊行。『歌よみに与ふる書』の他、随筆『病牀六尺』が有名。門弟長塚節は『土』を執筆。
伊藤左千夫 / 根岸短歌会機関誌『馬酔木』廃刊を受け『阿羅々木』創刊。アララギ派では『赤光』『あらたま』の斎藤茂吉や島木赤彦が著名。
高村光太郎 / 『道程』『智恵子抄』『典型』などで知られる。室生犀星と共に詩誌『感情』を創刊した自由詩の元祖萩原朔太郎と共に近代詩を確立。
宮沢賢治 / 日蓮宗徒。詩集『愛と修羅』、童話『銀河鉄道の夜』で有名だが、これは没後草野心平が紹介してから。
谷川俊太郎 / 哲学者谷川徹三の長男。萩原朔太郎の門弟三好達治が世に紹介。『二十億光年の孤独』『六十二のソネット』、詩論『世界へ!』など。 
 
 昭和時代

 

1 昭和初期の激動
金融恐慌と政界の激変
加藤高明死後、第一次若槻内閣を組閣した憲政会総裁若槻礼次郎は1926年に裕仁親王践祚と昭和改元を推進した。当時の日本経済は中華全国総工会が1925年に上海在華紡で起こした五・三〇事件以来の輸出不振により不況に陥っていたが、震災手形処理に関する1927年の大蔵大臣片岡直温(かたおかなおはる)の失言は渡辺銀行などの休業を機に取付騒ぎを招き、金融恐慌を誘発した。恐慌は十五銀行や多数の企業を倒産させ、金子直吉の鈴木商店に対する巨額不良債権を抱えた台湾銀行も破産に瀕したため政府は日本銀行の特別融資でこれを救う台湾銀行救済勅令案を枢密院に提出したが、伊東巳代治ら枢密顧問官は孫文と李大サ(りたいしょう)による第一次国共合作や蒋介石率いる国民革命軍の北伐に危機感を抱く軍部に支持されてこれを否決し、内閣を総辞職させて幣原協調外交を中止させた。新たに組閣した立憲政友会総裁田中義一は大蔵大臣高橋是清に命じて3週間の支払猶予令の間に台湾銀行救済勅令案を可決し、また日本銀行からの20億円の非常貸出を断行して恐慌を収拾した。五大銀行(三井・三菱・住友・安田・第一)は恐慌後に施行された銀行法に基づき、中小銀行を吸収して銀行資本を構築し、産業資本と融合して独占資本(金融資本)たる財閥を形成した。著名な財閥としては、三井・三菱・住友・安田・川崎・浅野・古河・大倉といった八大財閥が挙げられる。
田中義一内閣の内政と外交
1928年の第一回普通選挙で労働農民党の山本宣治ら無産政党員8名が当選したため、政府は治安維持法改正を断行して死刑と無期刑を追加する一方、全国に特別高等警察を設置した。また三・一五事件では対華非干渉運動を展開する無産政党員を検挙して労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟の結社を禁止し、一方で京大教授河上肇・東大教授大森義太郎・九大教授向坂逸郎らを大学から追放した(河上事件)。さらに翌1929年の四・一六事件では市川正一・鍋島貞親ら日本共産党幹部など290名を起訴した。一方、政府は邦人と張作霖保護のため1927年に第一次山東出兵を敢行する一方、東方会議では「対支政策綱領」(『日本外交年表竝主要文書』収録)を採択して強硬外交を明示した。北伐再開に抗議するため翌1928年に為された第二次山東出兵では日本軍が国民革命軍と済南事件(さいなんじけん)で初めて衝突したため、すぐに第三次山東出兵が為された。また国民革命軍に北京を占拠された張作霖が不穏な動きを見せたため関東軍参謀河本大作(こうもとだいさく)は同1928年、後に満州某重大事件と称される事件を敢行、張作霖を奉天郊外で爆殺したとされている。田中義一は内田康哉に命じて米国務長官ケロッグと仏外相ブリアンが提唱したパリ不戦条約を調印させたが、条約文中の「人民ノ名ニ於テ」との文言が枢密院に嫌われた他、立憲民政党に満州某重大事件を追及されたため、昭和天皇の不信任を招き総辞職した。
世界恐慌
「暗黒の木曜日」たる1929年10月24日のウォール街ニューヨーク株式取引所での株価大暴落は、五ヵ年計画を推進するソ連を除く全資本主義国家に深刻な打撃を与えた。フランクリン=ルーズベルト米大統領はニュー=ディール政策(新規巻き直し政策)を断行する一方、英国がオタワ会議で決定したブロック経済圏構想にフランスと共に追随した。この世界恐慌によりVW体制は崩壊へ向かい、「持てる国」の独善的・排他的方針により壊滅的打撃を受けた「持たざる国」たる日本やドイツは、対外膨脹を余儀無くされた。
昭和恐慌
憲政会と政友本党の合同で誕生した立憲民政党総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)は1929年に浜口内閣を組閣し、工業の国際競争力不足と慢性的インフレによる輸入超過を金本位制回帰による為替相場安定と貿易拡大で打破するため、大蔵大臣井上準之助に金解禁を断行させた。だが国際信用を重んじて旧平価($49.85=100円)で解禁したため輸出は停滞し、さらに財界の予測とは裏腹に世界恐慌が襲来したため、昭和恐慌が発生した。昭和恐慌は財閥の資産安全確保目的のドル買いによる正貨流出を招いた他、対米生糸輸出の激減と繭価暴落により農村の基幹産業たる養蚕業を壊滅させ、植民地米移入と豊作による豊作飢饉や東北大飢饉などによる農業恐慌(農村恐慌)を招き、就中寄生地主に土地を奪われた小作人層を困窮させ、『日本農業年報』に見られる身売りや欠食児童が発生した。金融恐慌下で野田醤油争議を指導した日本労働組合総連合は、昭和恐慌を受けて1930年には鐘ヶ淵紡績争議・東洋モスリン争議・東京市電争議などが発生したが、不調だった。工業組合法を制定して中小工業窮乏に対処するなどの産業合理化を進める井上準之助は1931年にカルテル活動保護と生産・価格制限のための重要産業統制法を制定したが、これは国家独占資本主義を目指す統制経済の端緒である。
浜口内閣に於ける幣原協調外交
満州某重大事件後、中国では張作霖の子で満州自立開発計画を持つ張学良が国民政府に合流したため国権回復運動が高揚していたが、幣原喜重郎は1930年に日華関税協定を締結して中国の関税自主権を認めて融和を図った。また1929年には全羅南道で学生が衝突する光州学生事件が、翌年には台中州で高砂族が反乱する霧社事件(むしゃじけん)が発生した。一方、米大統領クーリッジの提案による1927年のジュネーブ会議が田中強硬外交に基づく日本全権斎藤実の反対で不調に終わったため1930年に英首相マクドナルドの提唱で行われた第一次ロンドン会議では、補助艦の比率を米:英:日=10:10:7弱に制限して主力艦の建造停止も1936年まで延長するロンドン海軍軍縮条約が採択された。政府は『原田熊雄覚書』に見られる美濃部達吉の「軍令部に決定権は無い」との学説を背景とする世論や西園寺公望の支持を得て、全権の若槻礼次郎と海軍大臣財部彪(たからべたけし)に調印を命じた。しかし海軍は条約派と艦隊派に分裂し、艦隊派の軍令部長加藤寛治は統帥権干犯を主張して野党や右翼と共に政府を攻撃した。やがて1930年に浜口雄幸は右翼の佐郷屋留雄(さごうやとめお)に襲撃され翌年死去し、内閣は総辞職した。
昭和ファシズムの形成
原則的に共産主義や自由主義を否定し、政治的には軍部政権を目指し経済的には対外膨脹を目指す全体主義ファシズムは、日本では超国家主義や軍国主義として現出した。右翼団体としては内田良平の黒龍会や天皇大権中心の国家社会主義を説く『日本改造法案大綱』の著者北一輝(きたいっき)が大川周明・満川亀太郎と共に立てた猶存社(後の行地社(こうちしゃ))、それに関東と関西の博徒親分が中心となり結成した大日本国粋会や、官僚・軍人を中心に平沼騏一郎が国民精神作興のため結成した国本社、民間右翼団体の連合組織たる国体擁護連合会などが挙げられる。権藤成卿(ごんどうせいきょう)・橘孝三郎らが提唱する農本主義を母胎とする昭和ファシズムは、田中内閣の文部大臣小橋一太(こはしいちた)・鉄道大臣小川平吉・朝鮮総督山梨半蔵らが起こした売勲事件により高揚し、やがて橋本欣五郎の桜会や右翼国家社会主義者の「右翼・革新」らによる国家改造運動(昭和維新) を発生させた。 
2 国際的孤立と右傾化の進展
満州事変
1 満州事変の勃発
(1931年 / 十五年戦争の開始)
対米殱滅戦争を想定した著書『世界最終戦論』で知られる関東軍参謀石原蒄爾(いしはらかんじ)は、中国の一方的な満鉄平行線建設に伴う日本の鉄道収益への損害や、1931年に関東軍参謀中村震太郎が中国軍に惨殺された中村大尉事件、それに満州人と朝鮮人が長春で衝突した万宝山事件などを踏まえて『満蒙問題私見』を発表し、朝鮮統治・資源供給・失業救済などの利点を挙げて進出を主張した。やがて石原蒄爾や土肥原賢二に唆された参謀長板垣征四郎率いる関東軍は1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道爆破事件を起こし、これを張学良の仕業として報復軍事行動を開始した。
2 満州国建国
(1932年 / 日満経済ブロック形成へ)
排日派中国人による日本人僧侶殺害を機に1932年に勃発した第一次上海事変は日本の海軍陸戦隊や陸軍部隊により潰され、上海停戦協定が結ばれた。その間、関東軍は長城以北の東三省(奉天省・吉林省・黒龍江省)を獲得し、犬養内閣の反対を退けて1932年に満州国を建国し、首都新京(長春)には天津から溥儀を執政として迎えた。斎藤内閣の外務大臣内田康哉は満州国を承認すると同時に日本の権益承認・日本軍駐屯を規定した日満議定書を締結した。また翌1933年には熱河省を満州国の版図として獲得した他、1934年には溥儀が皇帝に就任した。なお満州国創建後、日本は「王道楽土・五族協和」を唱え国民組織協和会を結成した。
3 国際的束縛からの解放
国民政府の提訴を受けた国際連盟日華紛争調査委員会は1932年に英人リットンを長とするリットン調査団を派遣した。後に提出されたリットン報告書に基づき国際連盟理事会は対日満州撤退勧告案を13:1で採択した。翌1933年の総会でも42:1、棄権1で可決されたため日本代表松岡洋右(まつおかようすけ)は退席し、焦土外交を展開する内田康哉は同1933年、国際連盟に脱退を通告した。岡田内閣の外務大臣広田弘毅は1934年にワシントン海軍軍縮条約を破棄した他、1935年から永野修身・永井松三ら日本全権と米・英・仏代表との間で行われた第二次ロンドン会議の決裂による脱退、それに伴うロンドン海軍軍縮条約失効などにより、日本を無制限建艦時代に突入させた。
4 転向の時代
1933年に日本共産党幹部の佐野学・鍋島貞親らが民族社会主義への転向を発表したのを機に、当初カウツキーの『資本論解説』などを媒介にマルクス主義を紹介していた高畠素之らは転向して共産主義を改め、村山知義の『白夜(びゃくや)』、島木健作の『癩』『生活の探求』、中野重治の『第一章』などの転向文学も発表された。こうした中、野坂参三は1936年にモスクワで「日本の共産主義者への手紙」を発表した。
第二次若槻内閣
浜口内閣の大蔵大臣井上準之助と外務大臣幣原喜重郎を留任させて1931年に立憲民政党総裁若槻礼次郎は組閣したが、満州事変が勃発すると不拡大方針を示した。第二次若槻内閣成立の直前に宇垣一成軍部内閣成立を目指して三月事件を起こしていた橋本欣五郎はこれに憤慨し、大川周明と共に若槻礼次郎と幣原喜重郎を暗殺して荒木貞夫軍部内閣の成立を企てたが、未然に露顕した(十月事件)。しかし内閣は動揺が続き、内務大臣安達謙蔵らが提唱した親軍的協力内閣論もあり、閣内不一致で総辞職した。
犬養内閣の経済政策
立憲政友会総裁犬養毅が組閣した犬養内閣の大蔵大臣高橋是清は、赤字公債の発行や1931年の金輸出再禁止、それに伴う管理通貨制度(1942年に日本銀行法で法制化)の導入で昭和恐慌に対処する一方、1933年には外国為替管理法を制定し、横浜正金銀行を通じて低為替政策を実施して輸出増加を図ったが、これはソーシャル=ダンピングとして英国の反発を招き、1936年には日印通商条約が一方的に破棄された。産業面では1934年に製鉄大合同が為され、半民半官で90%のシェアを誇る日本製鉄会社が設立された他、軍需・重化学工業を中心に新興財閥が成立した。新興財閥としては、満州重工業会社を設立した鮎川義介(あいかわよしすけ)の日本産業会社の日産コンツェルンや、昭和電工を設立した森矗昶(もりのぶてる)の森興業の森コンツェルン、野口遵(のぐちしたがう)の日本窒素肥料会社の日窒コンツェルン、理化学研究所所長大河内正敏の理化学興業の理研コンツェルン、中野友礼(なかのとものり)の日本曹達の日曹コンツェルン、などが挙げられる。
五・一五事件
(1932年 / 政党内閣の終焉)
茨城県磯浜の護国堂に在った井上日召は一人一殺を唱えて血盟団を組織し、小沼正に命じて前大蔵大臣井上準之助、菱沼五郎に命じて三井合名理事長団琢磨(だんたくま)を暗殺した。この血盟団事件により世情不安が広まる中、農村の窮乏と政治腐敗に憤った海軍青年将校たちは陸軍士官学校生徒や橘孝三郎の愛郷塾の構成員らと共に首相官邸・警視庁・日本銀行などを襲撃し、犬養毅を射殺するという五・一五事件を起こした。立憲政友会総裁には鈴木喜三郎が就いたが、元老・重臣は政党員を含む挙国一致内閣または政党と軍部の中間内閣として、穏健派の海軍大将斎藤実に組閣させた。
斎藤内閣
長野朗(ながのろう)らの農村救済請願運動を受けた政府は1932年、内務省と農林省を中核として農村の自力更生・隣保共助を進める農山漁村経済更生運動(自力更生運動)を展開する一方、時局匡救費を支出して公共事業を行い農民を就労させて現金収入を得させた。また1933年には天野辰夫らのクーデター未遂事件たる神兵隊事件や、京大法学部教授で『刑法読本』『刑法講義』の著者滝川幸辰(たきがわゆきとき)が文部大臣鳩山一郎により強制休職させられたため同僚の佐々木惣一・末川博らが抗議して辞職した滝川事件などが発生した。斎藤内閣は翌1934年、帝国人絹会社の株式売買疑獄事件たる帝人事件で総辞職した。
岡田内閣
岡田内閣は海軍大将岡田啓介が中間内閣として組閣したが、統制経済などの国防国家を提唱する『国防の本義と其強化の提唱』を1934年に陸軍省が発行して公然と政治に介入した陸軍パンフレット問題からも明らかなように実際は軍部に押され気味だった。翌1935年には貴族院議員菊池武夫が美濃部達吉の天皇機関説を攻撃して所謂天皇機関説問題が発生したが、政府は美濃部達吉の『憲法撮要』『逐条憲法精義』を発禁として貴族院議員を辞職させる一方、「日本は万世一系の天皇が統治する国であるため天皇機関説は国体に悖る」という主旨の国体明徴声明を出し、本格的な思想統制を開始した。なおこの十月声明は、八月声明が「天皇機関説」の語句を含まなかったため軍部などから攻撃を受けた結果、発せられた。
二・二六事件
(1936年 / 軍部の発言力強化の契機)
陸軍は十月事件を機に、新官僚と共に統制経済・反政党の立場をとる軍部政権を樹立させ高度国防国家建設を目指す永田鉄山(ながたてつざん)・石原蒄爾・寺内寿一(てらうちひさいち)・東条英機ら統制派と、北一輝・西田税(にしだみつぐ)と交流を持ち国家革新のためのテロを唱える荒木貞夫・真崎甚三郎・山下奉文(やましたともゆき)ら皇道派に分裂し、皇道派の蜂起計画を統制派が暴いた1934年の士官学校事件や翌年に軍務局長永田鉄山が皇道派の相沢三郎に殺された相沢事件などで両派は対立を深めた。そんな折、1936年2月26日午前5時頃、皇道派青年将校栗原安秀・中橋基明・河野寿・安藤輝三・坂井直は同志と共にそれぞれ岡田啓介・高橋是清・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実と渡辺錠太郎を襲撃し、このうち秘書官松尾伝蔵を身代りとした岡田啓介や鈴木貫太郎・牧野伸顕を除く全員を惨殺し、さらに警視庁や朝日新聞社も攻撃して永田町界隈を占拠した。軍部は憂国心からの蜂起として蹶起部隊に同情的だったが老臣たちの惨殺に立腹された昭和天皇は叛乱部隊の原隊復帰を命ずる奉勅命令を下された。やがて叛乱部隊は戒厳令で設置された戒厳司令部に平定され、事件は幕を閉じた。この二・二六事件の後、粛軍のため皇道派を一掃した統制派が主導権を獲得することとなった。
その後の政界
二・二六事件による岡田内閣総辞職を受け、元老や重臣はかつて玄洋社に関係していた外交官広田弘毅に庶政一新・日本精神作興・統制経済強化など広義国防国家を目標とする広田内閣を組閣させた。軍部との協力内閣である広田内閣は1936年に軍部大臣現役武官制を復活する一方、首・陸・海・外・蔵相の五相会議で北守南進策のための軍備拡張と国家総動員体制確立を目指す「国策の基準」を決定し、帝国海軍の象徴となる弩級戦艦「大和」「武蔵」の建造を開始した。また同1936年にはヒトラー率いるナチスドイツとの間に日独防共協定を結び東京・ベルリン枢軸を確立したが、やがて軍拡を巡り陸軍大臣寺沢寿一と立憲政友会の浜田国松が行った「腹切り問答」を機に1937年、総辞職した。組閣の大命は宇垣一成に降下したが陸軍がこれを嫌ったため成立せず(宇垣流産内閣)、陸軍大将林銑十郎が「祭政一致」を唱える林内閣を立てた。林銑十郎は財界の結城豊太郎を大蔵大臣に迎え「軍財抱合(ぐんざいほうごう)」の結城財政を行わせた他、外務大臣佐藤尚武に満州国問題に触れない対華和平を模索させたが、短命に終わった。 
3 第二次世界大戦への道
日華事変以前の中国情勢
国民政府が関東軍の満州統治を認めた1933年の塘沽停戦協定に基づき、関東軍は長城以南の北京や天津を非武装化した。1935年には北支駐屯軍司令官梅津美治郎(うめづよしじろう)と何応欽(かおうきん)の間で河北省に関する梅津・何応欽協定、土肥原賢二と秦徳純の間で内蒙古に関する土肥原・秦徳純協定を締結させ、殷汝耕(いんじょこう)を首班とする冀東地区(きとうちく)防共自治政府を河北省北部に立てた。1934年に中華ソビエト共和国臨時政府のある瑞金から長征(大西遷)を開始し途中の遵義会議で「北上抗日」を決定して指導権を掌握した毛沢東は、岡田内閣の外務大臣広田弘毅による国民政府の華北分離工作中止要請拒否を受けて1935年に八・一宣言(抗日救国のため全同胞に告げる書)を発表し、内戦の停止と抗日救国運動を訴えた。太渡江瀘定橋・大雪山・大湿原などを経て長征を終え1936年に延安に紅軍を集結させた毛沢東は、徐海東らと共に陝西省解放区を確立した。抗日救国運動は広田内閣が「国策の基準」で華北五省進出を示すと、さらに激化した。
日華事変
綏遠省東部で関東軍と内蒙古軍が国民政府軍に敗北した1936年の綏遠事件を機に日中交渉は決裂したが、中国では張学良と楊虎城が西安事件を起こして蒋介石を監禁し、周恩来の斡旋により「一致抗日」を承服させた。やがて1937年7月7日には北京郊外の永定河(えいていが)の蘆溝橋(ろこうきょう)で宋哲元の国民政府軍と支那駐屯軍が衝突する蘆溝橋事件が勃発し、北支事変が始まった。国民政府は中ソ不可侵条約を締結する一方、第二次国共合作により抗日民族統一戦線を結成して紅軍を国民政府第八路軍に編成した。この抵抗に対し第一次近衛内閣の外務大臣広田弘毅は大山勇夫(おおやまいさお)が上海で殺された第二次上海事変を機に中国政府断固膺懲を発表、日本軍に上海・広東・武漢三鎮を占拠させ、戦闘は中国全土に拡大した(支那事変)。日本軍は国民政府の重慶移転後に南京を占領した際、所謂南京大虐殺(なんきんアトロシティ)を行ったとされているが、被害者の人数が当時の南京の居住人口を遥かに上回るなど人数の根拠が不明確な上に、証拠とされる史料も捏造と推定されるものがあり、真相は不明である。なお、中国共産党政府は後にチベットなどで遥かに大規模な虐殺行為を展開したことで知られている。一方、独駐華大使トラウトマンの日中和平斡旋が不調に終わると近衛文麿は1938年に「国民政府を対手(あいて)とせず」という第一次近衛声明を発し、中支派遣軍に命じて南京に中華民国維新政府を樹立させた。これはやがて瓦解したが、やがて日華事変の目的を円ブロック経済圏確立による「東亜新秩序」の建設に定める第二次近衛声明を発し、続いて第三次近衛声明を発して日中和平の条件を善隣友好・共同防共・経済提携という近衛三原則に限定した。
第一次近衛内閣の外交
後藤隆之助の昭和研究会を初め多数の国民に支持された貴族院議長近衛文麿は1937年に第一次近衛内閣を組閣し、勃発した日華事変に対応する一方、対ソ連のみならずVW体制の打破と枢軸国による世界新秩序を目指す日独伊三国防共協定に調印した。関東軍とソ連軍は1938年のソ満国境付近に於ける張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)、また翌1939年の満蒙国境に於けるノモンハン事件で衝突したが、ソ連の戦車部隊を前に関東軍は苦戦を強いられた。
思想統制
挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を唱える国民精神総動員運動は日華事変勃発直後に興隆した。これに基づき、反ファッショ人民戦線の結成を計画した加藤勘十・山川均・鈴木茂三郎らが1937年、大内兵衛・有沢広巳(ありさわひろみ)・美濃部亮吉らが翌1938年に検挙される人民戦線事件が発生し、全国農民組合はこれを機に大日本農民組合に改組され右派に転じた。また『帝国主義下の台湾』『帝国主義下の印度』『植民及植民政策』などで軍部に睨まれた東大教授矢内原忠雄(やないはらただお)が論説『国家の思想』を機に退職した1937年の矢内原事件や、『ファシズム批判』『社会政策原理』『時局と自由主義』などの著者である東大教授河合栄治郎が休職処分となった河合事件、それに早大教授津田左右吉(つだそうきち)の著作『神代史の新しい研究』などが発禁となった津田筆禍事件などが発生したため、文部省教学局は『国体の本義』『臣民の道』などを利用して国民の教化に務める一方、戦意高揚のため1939年以降毎月1日を興亜奉公日、1942年以降毎月8日を大詔奉戴日と定めた。また1940年には内閣情報局が置かれ、翌1941年には治安維持法予防拘禁制と言論・出版・集会・結社等臨時取締法が実施された。
経済統制
第一次近衛文麿内閣は1937年に臨時資金調整法を施行して融資を軍事産業優先とする一方、輸出入品等臨時措置法を施行して貿易を統制した。また企画院を設置した他、政府の私企業介入の端緒となる電力国家管理法を制定して全電力会社を統制する日本発送電会社を1938年に設立し、やがて人や物の流れを勅令で統制する国家総動員法を成立させた。これを受けて平沼内閣は翌1939年、初任給を固定する賃金統制令や国民を軍需産業などに徴用する国民徴用令を施行した。また平沼内閣は米の安定供給を図るべく1939年に米穀配給統制法と小作料統制令、翌1940年に米穀強制出荷命令を施行したが、1941年には配給通帳制が導入された。また同1941年には生活必需物資統制令が実施されたが、1939年に九・一八ストップ令として賃金臨時措置令・地代家賃統制令と共に施行された価格等統制令による公定価格制と共にこれは物資不足を招いた。
世界情勢の変遷
ドイツ第三帝国は1936年にロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐し、ムッソリーニ率いるイタリアは同1936年にエチオピア併合を敢行した。ドイツは1938年にオーストリアを併合する一方、英・仏・独・伊の首脳を集めたミュンヘン会談にてチェコスロバキアのズデーテン地方の領有を正当化した。英首相ネヴィル=チェンバレンと仏首相ダラディエはこの宥和政策で戦争回避を目指した。スペインでは1936年に人民戦線政府が成立した後、右翼のフランコ将軍が独・伊に支持されてスペイン内乱を起こし、国際義勇軍やソ連軍の支援を受けた人民戦線軍を叩き潰して1939年に独裁政権を樹立した。やがて、日独防共協定の存在にも拘らず英国の対独包囲網打破のために独ソ不可侵条約を締結したドイツは、1939年9月1日にポーランドへ侵攻し、世界史上最大規模の戦争となる第二次世界大戦を勃発させた。
政界の動揺
1939年に有田八郎を外務大臣に迎え平沼騏一郎は組閣したが、1939年には米国が一方的に日米通商航海条約破棄を通告して来た上、独ソ不可侵条約が締結されたため状況把握に疎い平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢」と吐露して総辞職した。この後に組閣した陸軍大将阿部信行は、第二次世界大戦には不介入の方針を発表し、日華事変解決を目指す一方、外務大臣野村吉三郎に米駐日大使グルーと会談させて日米国交の復旧を図ったが、不調に終わった。さらに昭和天皇の命を受けて陸軍大臣となった畑俊六が陸軍幕僚から攻撃されたため内閣は総辞職した。1940年には穏健派の海軍大将米内光政が組閣したが、日華事変処理に関して反軍演説を行った立憲民政党の斎藤隆夫が軍部の圧力により議員を除名されたことからも明らかな通り、この頃には軍部の抬頭が著しくなった。近衛文麿らはナチスやファシスタ党を模した国民組織の創立による総力戦体制の樹立を目指す新体制運動を行っていたが、これに期待した軍部はドイツがフランスを屈服させたことを機に、6月に陸軍大臣畑俊六を単独辞職させ、米内内閣を総辞職に追い込んだ。
大政翼賛会の成立
(1940年 / 強力な政治体制の確立を目指す)
組閣直後「基本国策要綱」を発表して新体制運動を進めた近衛文麿は、立憲政友会・社会大衆党・国民同盟・東方会・立憲民政党を解散して大政翼賛会を結成した。この大政翼賛会の下、1942年には大政翼賛運動実践部隊たる大日本翼賛壮年団が組織され、さらに大日本国防婦人会・大日本連合婦人会・愛国婦人会を糾合した大日本婦人会や、大日本産業報国会・農業報国同盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団が傘下組織として組織された。なお大日本産業報国会は、協調会が産業報国連盟の下に結成した各工場の産業報国会を糾合して厚生大臣を中心に結成された。総理大臣を総裁、道府県知事を支部長とする大政翼賛会の末端組織は相互扶助のために町内会や部落会の下に結成された隣組であるが、やがて大政翼賛会はこうした組織により上意下達の機関と化した。なお第二次近衛内閣は1940年に皇居前に於いて皇紀二千六百年記念式典を挙行した他、翌1941年には小学校をドイツ流の国民学校に改組し、「八紘一宇」の教えなどを諭した。 
4 大東亜戦争(太平洋戦争)
南進政策の展開
1940年、仏印ルートとビルマ=ルートからなる援蒋ルート遮断のために北部仏印進駐を敢行した後、海軍大臣及川古志郎の反対を押し切った外務大臣松岡洋右は陸軍大臣東条英機と共に駐独大使来栖三郎に命じて独総統ヒトラー・伊外務大臣チアノとの間に事実上の対米軍事同盟たる日独伊三国同盟を締結した。これに対し米国は制裁として屑鉄・鉄鋼の対日禁輸措置を執った。また第二次近衛声明に呼応して重慶を脱出した中国国民党左派汪兆銘(汪精衛)は脆弱な南京新国民政府を樹立していたが、政府は日華基本条約を締結してこれを承認、日満華三国防共体制を目指した。一方、1941年には松岡洋右・モロトフ両外務大臣間で日ソ中立条約が締結されたが、独ソ戦争が勃発したことを受けた御前会議では南北併進策が決定され、70万人もの関東軍による関東軍特種演習(関特演)が実施された。
日米交渉決裂
「帝国国策要綱」に則り1941年には石油・ゴム・燐酸・アルミなどの資源を得るべく南部仏印進駐が為されたが、これは米国の対日石油禁輸措置と在米日本資産凍結、それに英国の日英通商条約廃棄通告を招いた。同1941年の米英首脳会談にて採択された大西洋憲章では対日圧力の強化が決定されたため、御前会議は最悪の場合の日米開戦を想定した準備を定めた「帝国国策遂行要領」を採択した。やがて近衛文麿は内大臣木戸幸一が推挙する東条英機に総理大臣の座を譲ったが、東条英機は当初昭和天皇から下された戦争回避の命令を遂行するべく、努力した。しかしABCDラインによる米・英・中・蘭の対日包囲網が既に完成していた他、駐米大使野村吉三郎・来栖三郎・米国務長官ハルらが行っていた日米交渉も1941年11月に米側が事実上の最後通牒として満州事変以前の状態への回帰を要求するという実現性ゼロの無理難題であるハル=ノートを示したため、完全に決裂した。
戦時下の国政
1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会推薦者381名が当選して非推薦当選者85名を圧倒、すぐに翼賛議員同盟の後身たる翼賛政治会(後の大日本政治会)が発足した。東条内閣は軍需省を設置する一方、独駐日大使ゾルゲと近衛文麿のブレーン尾崎秀実を1941年にソ連の密偵として検挙したり(ゾルゲ事件)、細川嘉六が論文「世界史の動向と日本」を1942年に『改造』に掲載したことを機に『中央公論』『改造』を廃刊させたり(横浜事件)した。また東亜共同体論を背景に欧米覇権からの脱却と各地の新政権樹立、それに日本の資源確保体制の確立を目指す大東亜共栄圏構想に基づき、1943年には中華民国の汪兆銘、満州国の張景恵、フィリピンのラウレル、自由印度仮政府のチャンドラ=ボース、タイのワンワイ=タヤコン、ビルマのバー=モウらを招いて大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を採択した。
軍政の実施
日本の一部である朝鮮では、創氏改名・神社参拝・日本語使用などを強く奨励する皇民化政策が執られ、近代的家族制度の確立に貢献した。また内地で労働に従事した中国人らは、花岡事件などの集団蜂起事件を起こした。また、朝鮮では金日成率いる朝鮮人民革命軍、仏印ではホー=チミン率いるベトナム独立同盟、フィリピンではタルク率いる抗日人民軍などの抗日運動が展開された。なお占領地では物資調達のための軍票が発行された。
戦時下の社会
憲兵や警察に統制された銃後(内地の国民)は1943年に設置された女子勤労報国会や女子挺身隊への編入、それに学徒動員などにより軍需産業に勤労動員された。加えて同1943年には在学中の徴兵猶予制が停止されて学徒出陣が為され、同時に徴兵適齢も19歳となった。また1938年以降は陸軍志願兵制度に基づき当時は同じ日本人であった朝鮮人・台湾人にも平等に徴兵制が適用された。この頃の日本は大連・新京間を走った満鉄特急「あじあ号」や、1941年に鴨緑江に竣工した水豊発電所などで大東亜の盟主たる地位を確立していたが、清沢冽の『暗黒日記』には千人針・国民服・もんぺなどの他、「贅澤ハ敵ダ!」「欲しがりません勝つ迄は」の標語の下に不急不要の民需品が禁止され砂糖・マッチ・石炭・衣料・煙草などの切符制、米の供出制収集、米・塩の通帳配給制が整えられたことなどが記されている。
大東亜戦争
(1941年12月8日〜1945年8月15日 / 世界史上最大の戦争)
意見書『海軍航空設備の現状』を提出した井上成美や連合艦隊司令長官山本五十六、それに米内光政ら海軍良識派は12月1日の御前会議で戦争回避を訴えたが、軍令部総長永野修身・参謀総長杉山元らは戦争停止による内乱・革命勃発への懸念やドイツへの過信などから主戦論を唱え開戦を決定した。
国力差から短期決戦を図った山本五十六は「仙人参謀」黒島亀人らの策定した真珠湾攻撃作戦を発動し、11月26日に択捉島の単冠湾から出発していた空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」と戦艦「比叡」「霧島」の他巡洋艦2隻・駆逐艦9隻・潜水艦3隻からなる機動部隊を率いる南雲忠一に対し、12月2日に「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文を送信した。かくして零式艦上戦闘機21型350機による真珠湾攻撃が12月8日に為され、太平洋艦隊戦艦「アリゾナ」「オクラホマ」などの撃沈に成功した。だが外務省の怠慢から結果的に奇襲攻撃となった上、燃料タンクなどの主要な軍港施設の破壊に失敗し、さらに空母「エンタープライズ」「サラトガ」「レキシントン」を討ち損じたため、戦略的には悔いの残る結果となった。なお米国はこの直後、西海岸地方の日系米人を強制収容所に拘束した。
同12月8日、陸軍はマレー半島上陸を敢行したが、小沢治三郎率いる南遣艦隊は12月10日に英東洋艦隊とマレー沖海戦を行った。この際、松永貞市率いる第22航空戦隊はフィリップス率いる戦艦「プリンス=オブ=ウェールズ」「レパルス」を世界史上初めて航空機により撃沈した。陸軍は12月25日に香港、翌1942年1月2日にマニラを占領したが、マニラから逃亡する司令官マッカーサーが"I shall return."と言い残したことは有名である。なおバターン半島に追い詰められた米兵など10万人は捕虜となったが、収容施設が近隣に無かったため司令官本間雅晴はやむなく90kmもの道程を捕虜に歩かせたとされている(バターン死の行進)。また日本軍はシンガポール(昭南市)を占拠した際も抵抗する華僑を鎮圧したが、これは血債の塔に祀られた。
南方補給線確保のためニューギニア島のポートモレスビ攻略を目指す井上成美が率いる空母「翔鶴」「瑞鶴」「祥鳳」などは5月7日、フレッチャー率いる「レキシントン」「ヨークタウン」などと衝突し、世界史上初の機動部隊同士の近代戦たる珊瑚海海戦を展開した。日本軍は戦術的には勝利したものの「祥鳳」を失い、「翔鶴」「瑞鶴」は損傷して暫時修理が必要となったため、戦略的には惜敗だった。
4月18日に空母「ホーネット」から離陸したB25ミッチェルにより初めての東京空襲が為されたことを重く見た山本五十六は、真珠湾攻撃で討ち損じた米機動部隊を誘い出し徹底的に殱滅するべく空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」を中心とする99隻の大艦隊を南雲忠一に任せ、出撃させた。艦隊は6月4日にスプルアンス率いる米機動部隊と衝突したが、参謀長草鹿龍之介の進言による魚雷から爆弾そして魚雷への装備変更に手間取ったため、第二次攻撃隊の出撃直前に米軍機の総攻撃を受け、米軍を恐れさせていた山口多聞の「飛龍」を含む全空母と巡洋艦「三隈」「最上」、それに精鋭パイロット数百名を失った。結局、このミッドウェイ海戦は日本軍の進撃を止めさせ、米軍が攻勢に転ずる契機となった。
ソロモン諸島のガダルカナル島には飛行場を建設できる平地があったため、南太平洋全域の制空制海権を求める日米両軍は熾烈な攻防を展開した。まず1942年7月5日、フレッチャー率いる米軍のガダルカナル島奪取作戦発動を受けラバウルから出撃した三川軍一率いる巡洋艦「鳥海」など7隻は、夜間魚雷戦では圧勝したが敵輸送船団の攻撃はできなかった。この第一次ソロモン海戦の後、8月8日に勃発した第二次ソロモン海戦では南雲忠一が軽空母「龍驤」などを囮として米軍を混乱させる間に「翔鶴」「瑞鶴」中心の機動部隊が米軍に痛撃を加えて空母「ワスプ」を撃沈、「サラトガ」「エンタープライズ」を損傷させた。しかし米軍はガダルカナル島上陸作戦を続行し、やがてヘンダーソン飛行場を建設したため10月26日には南太平洋海戦が勃発した。南雲忠一・キンケイド両提督率いる日米主力機動部隊はサンタクルーズ沖で衝突し、熾烈な空中戦が展開された結果、米軍は空母「ホーネット」を失い「エンタープライズ」も中破させられた。南太平洋海戦は第八戦隊司令官阿部弘毅らの活躍により日本軍の勝利に終わったが、日本軍はここでも約百名もの熟練パイロットを失った上、11月26日の第三次ソロモン海戦では戦艦「比叡」「霧島」がレーダーの性能不足から撃沈されたため、日本軍は翌1943年2月にガダルカナル島から撤収した。
1943年4月18日、暗号を解読した米軍はパープル作戦を発動、ラバウル上空にて山本五十六の乗る一式陸攻を撃墜した。稀代の名将山本五十六の殉職後、連合艦隊司令長官は古賀峰一が継いだが、アッツ島玉砕や木村昌福の好采配によるキスカ島撤収など戦線後退が続き、陸軍が敢行したインパール作戦も牟田口廉也の拙劣な指揮により多数の日本兵犠牲者を出して失敗に終わった。やがて古賀峰一がサイパンまで暗夜荒天を衝いて飛行中に消息を絶ったため豊田副武が連合艦隊司令長官に就任したが、古賀峰一が所持していた暗号書や秘密書類は全て米軍に渡ったため、以後の作戦行動は困難を極めた。
スプルアンス率いる空母15隻・戦艦7隻・航空機900機の大艦隊のマリアナ諸島進軍に対し、日本の主力艦上爆撃機彗星の高性能さを信じる小沢治三郎は弩級戦艦「大和」以下空母9隻・戦艦5隻などからなる艦隊で迎撃を図った。だが海軍飛行予科練習生(予科練)上りの搭乗員たちは総じて訓練不足だった上、航空機の絶対数も少なく、さらに米軍が新兵器VT信管を導入していたため、6月19日のマリアナ沖海戦は米軍パイロットが「マリアナの七面鳥撃ち」と言う程の一方的な戦いとなった。結果的に日本軍は空母「大鳳」「翔鶴」と搭乗員400名を失い、航空兵力は壊滅した。
この敗戦の結果、南雲忠一が拠るサイパン島や角田覚治が拠るテニアン島、それにグアム島などが玉砕し、日本の絶対国防圏は破られた。このため東条内閣は重臣岡田啓介らに総辞職させられたが、後継の小磯国昭・米内光政協力内閣も本土決戦・一億玉砕・一億国民総武装を唱えた。しかしマリアナ諸島などから出撃した戦略爆撃機B29スーパーフォートレスは日本の主要都市に対して夜間無差別焼夷弾爆撃を実行したため、この頃から学童疎開が本格化した。
南方資源地帯から本土への補給線を死守するべく大本営が発案した捷一号作戦に基づき10月23日に行われた比島沖海戦では、栗田健男率いる「大和」「武蔵」などを中心とする主力艦隊を航空機の援護無くレイテ湾に突入させるため、小沢治三郎が囮艦隊を率いてハルゼイ率いる米主力艦隊を引き付けた。作戦の途中「瑞鶴」がエンガノ岬沖、「武蔵」がシブヤン海にて撃沈されたものの主力艦隊は何とかサンベルジノ海峡を通過し、レイテ湾の目前まで迫ったが、栗田健男が何を血迷ったのか反転したため、この戦いは連合艦隊に壊滅的打撃のみを残し、終焉した。なおこの戦いでは大西瀧治郎が考案した神風特攻隊や人間魚雷「回天」などが活躍したが、初の「神風」を敢行したのは直前の台湾沖海戦の司令官有馬正文である。
弩級戦艦「大和」型三番艦として建造が開始され途中で世界最大最強空母に設計変更された「信濃」は連合艦隊の期待を担って就役したが、直後潮岬沖で米潜水艦に撃沈された。また1945年3月10日には下町への焼夷弾絨毯爆撃を中心とした東京大空襲が為され、十万人が無差別に虐殺された。
3月17日に栗林忠道が守る硫黄島を玉砕させた米軍は3月26日に慶良間列島攻撃を開始、4月1日にはスプルアンス率いる海兵隊と陸軍部隊、計18万2千人が沖縄本島への揚陸作戦を発動した。沖縄戦では後に摩文仁の丘の健児之塔に祀られた鉄血勤皇隊や現地招集の郷土防衛隊、それにひめゆり隊・白梅隊・瑞泉隊・なごらん隊・梯梧隊・積徳隊などが活躍した。大本営は菊水作戦を発動して400機の神風特攻隊を沖縄周辺の敵艦隊に突撃させる一方、海上特攻隊として伊藤整一が指揮する第二艦隊を沖縄へ派遣したが、艦長有賀幸作率いる旗艦「大和」は坊ノ岬沖で4月7日に撃沈され、沖縄司令官牛島満も6月24日に自決した。結局日本軍9万人と民間人10万人が死亡、米軍も5万人の死傷者を出し、沖縄戦は大東亜戦争に於ける最大最後の激戦となった。
1943年2月のスターリングラードの戦いでの独軍敗北以後、欧州では枢軸国が劣勢になったが、カサブランカ会談後の連合国軍のシチリア島上陸を機にイタリアのムッソリーニは失脚し、新たに成立したバドリオ政権は9月に無条件降伏した。またテヘラン会談を受け、1944年6月にはアイゼンハワーの下、ノルマンディー上陸作戦が実行された。さらにソ連軍がベルリンに迫ったため、独総統ヒトラーは愛人エヴァ=ブラウンと共に4月30日に自殺。後継のデーニッツ政権は5月7日に無条件降伏した。
我が国に対する戦時中の連合国側の決定等としては、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が1943年11月に開催したカイロ会談で日本の無条件降伏・植民地没収などを求めたカイロ宣言の他、ルーズベルト・チャーチル・スターリンが1945年2月に開催したヤルタ会談で対独戦後処理や枢軸国を「敗戦国」と扱う国際連合の設置を決定したヤルタ協定、そしてトルーマン・チャーチル(後にアトリー)・スターリンが1945年7月に開催したポツダム会談で日本からの軍国主義絶滅・再軍備禁止・民主化促進・主権限定(領土を四島と付属小島に限定)などを取り決めたポツダム宣言などが挙げられる。
米軍の沖縄上陸を機に小磯・米内協力内閣は総辞職し、代わって鈴木貫太郎内閣が成立した。鈴木貫太郎はポツダム宣言を黙殺して聖戦完遂・本土決戦を唱え、最後の連合艦隊司令長官小沢治三郎に徹底抗戦を命じる一方で、ソ連を利用した和平の道も模索した。しかし既にスターリンはヤルタ会談にて、日ソ中立条約を反古にした対日参戦と、それに伴う南樺太と日本固有の領土である千島列島の占領を米大統領ルーズヴェルトと英首相チャーチルに承服させていたため、この和平交渉は成就する筈もなかった。やがて米国は、レスリー=グローブスの指揮の下、産・軍・学の相互協力によりマンハッタン工兵管区の事務所を中心として推進されていたマンハッタン計画を急がせ、大量無差別殺戮兵器の原子爆弾を完成させ、重巡洋艦「インディアナポリス」に搬送させ、前線へ配備した。B29スーパーフォートレス・エノラ=ゲイ号は8月6日に広島へ、またボックス=カー号は8月9日に小倉の天候が不良だったため長崎へ、それぞれ原爆を投下した。この背景には、ヤルタ密約に基づき実際に8月8日に満州へ侵攻して関東軍を壊滅させ、日本の満蒙開拓団などの農業開拓移民を虐待すると共にシベリアへ強制連行して多数の残留日本人孤児を生じさせたソ連の動きがあったものと推定される。
8月9日に開催された御前会議では、国体護持を条件としたポツダム宣言の受諾を主張する外務大臣東郷茂徳と聖戦完遂を主張する陸軍大臣阿南惟幾が対立したため、昭和天皇の御聖断により終戦が決定され、翌日米・英・中・ソに通告された。8月14日の最終決定後に起草された終戦の詔勅は翌8月15日正午、玉音放送として昭和天皇御自身が国民に公表された。これを拝聴した大西瀧治郎ら多数の軍人は自決し、宇垣纏は沖縄沖の米艦隊に対し最後の特攻を敢行した。やがて8月17日には東久邇宮稔彦王が組閣し、9月2日、横浜沖の戦艦「ミズーリ」の甲板上にて政府代表の外務大臣重光葵と軍部代表の参謀総長梅津美治郎、8月30日に厚木に到着したマッカーサー元帥や太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥らが降伏文書に調印し、戦争は終結した。 
5 占領統治
占領統治体制の確立
占領統治の最高機関は米・英・ソ・中・仏・蘭・豪・加・印・比・新の11国(後に緬・パキスタンが加わる)で構成されるFEC(極東委員会)であり、この下にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が設置された。その最高司令官(SCAP)はマッカーサーであり、東京にはその諮問機関として米・英・ソ・中のACJ(対日理事会)が設置されたが、極東委員会の決定は米国を通じて実行されたため、米国は日本が脅威とならないよう統治を行った。GHQの統治は軍法による直接統治ではなく、所謂「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」という勅令をもとに憲法を上回る拘束力を持たせたポツダム勅令(後にポツダム政令)を、日本政府のの終戦連絡中央事務局を通じて下す、間接統治であった。
五大改革指令
(1945年 / 米国の占領政策)
多数の兵卒の復員(シベリア抑留者は1949年)や一般人の引揚げは戦後の混乱と相俟って物資不足を招き、都市部から農村への買出しや、闇取引・闇市などが横行した。プレス=コードやラジオ=コードでGHQへの批判禁止を義務付けたGHQは、国体護持を主張して治安維持法・内務省廃止を躊躇した東久邇宮稔彦首相に圧力を掛けて総辞職させ、次の幣原喜重郎首相に婦人解放・労働組合助長・教育自由主義化・圧政的諸制度撤廃・経済民主化からなる五大改革指令を突き付けた。
教育の改革とその後の変遷
教育改革指令に基づき愛国者は教職を追放され、皇国史観に基づく修身・日本歴史・地理の授業が停止され、生徒は墨塗教科書を用いて青空教室で授業を受けた。GHQは1946年に米国教育使節団を招き、教育刷新委員会を創設して新教育を推進させたが、これを受けた第一次吉田内閣の文部大臣高橋誠一郎は1947年、平和愛好・機会均等・義務教育を定めた教育基本法と画一的な六三三四制を定めた学校教育法を制定した。1948年には教育委員会法に基づき教育委員会が発足したが、日教組(日本教職員組合)などの偏向教育を懸念した政府は1954年に教育二法を施行して教員の政治的中立化を図る一方、1956年には新教育委員会法を定めて当初は公選制だった教育委員を任命制とし、1957年には教員勤務評定制度の趣旨を徹底させた。しかし1965年には中央教育審議会が発表した「期待される人間像」が日教組等に攻撃される一方、家永三郎が教科書検定訴訟を起こすなど、教育をめぐる混乱が続いた。
諸制度の改革と東京裁判
まず1945年の神道指令により国家神道は消滅し、昭和天皇は新日本建設に関する詔書を翌年に下して五箇条の御誓文を再確認されると共に、現御神を架空の観念とされた(天皇の人間宣言)。GHQは政・官・財・言論界の国家主義者21万名の公職追放令を出す一方、枢密院や特高を廃止した。またGHQが規定する戦争犯罪人(戦犯)のうち、戦争計画者など平和に対する罪を問われたA級戦犯28名は、巣鴨プリズンで東京裁判(1946年〜1948年)に掛けられ、インドのパル判事の全員無罪表決やオランダのレーリンク判事の「これを平和探求の契機とすべき」との進言も空しく、見せしめのため全員有罪となった。結局全国の裁判でA級・B級・C級戦犯合計5416名が起訴され、うち937名が死刑となり惨殺された。具体的には、東条英機・広田弘毅・板垣征四郎・土肥原賢二・松井石根・木村兵太郎・武藤章ら7名は絞首刑、木戸幸一・小磯国昭・平沼騏一郎・梅津美治郎・畑俊六・橋本欣五郎・荒木貞夫・賀屋興宣・嶋田繁太郎・南次郎・白鳥俊夫・大島浩・鈴木貞一・佐藤賢了・星野直樹・岡敬純ら16名は終身禁錮、この他、東郷茂徳は禁錮20年、重光葵は禁錮7年に処せられ、松岡洋右・永野修身は病死、大川周明は発狂、近衛文麿はA級戦犯に指名されたことに落胆して服毒自殺したため起訴には至らなかった。改めて述べるまでもなく戦犯は犯罪者ではなく、むしろ国に対する功労者・昭和受難者という側面もあり、それが故に彼らは戊辰戦争以後の国のために殉じた人物と同様に靖国神社に祀られ、また衆参両院において名誉回復の議決が為されている。
農地改革
幣原内閣は1946年、農地調整法改正により地主の貸付地所有限度を5町歩としてそれ以上の土地を地主・自作・小作各5名ずつから構成される各地の農地委員会に買い取らせる第一次農地改革を断行した。だがGHQの不満を買ったため第一次吉田内閣は1946年に第二次農地改革を断行し、農地調整法再改正を行って不在地主の貸付地全部と在村地主の内地1町歩・北海道4町歩を超える土地を、地主:自作:小作=3名:2名:5名から構成される農地委員会が自作農創設特別措置法に基づき強制的に買い上げ、さらに新たな自作農のため農業共同組合法に基づき農業共同組合が設置された。また小作料は第一次農地改革で金納となっていたが、第二次農地改革では田25%・畑15%に制限された。一連の農地改革の結果、山林・水利権には手が付けられなかったものの自作地:小作地=87:13となり、寄生地主制撤廃・自作農創設という目的は達成された。また1952年には農地法が制定され改革の恒久化が図られた。
経済体制の改革
1 財閥解体
1945年の財閥解体指令に基づき財閥資産は凍結され、翌年には財閥の持株を没収・公売を担当する持株会社整理委員会が発足した。また1947年には独占的企業結合と不公正取引を禁じた独占禁止法(監視は公正取引委員会)が制定され、三井・三菱・住友・安田・川崎・浅野・大倉・古河・野村・渋沢・日産・日窒・理研・日曹・中島の15財閥の一族の財界追放も為された。さらに同1947年には巨大企業分割を図るため過度経済力集中排除法が制定され、指定325社中11社が分割された。だが財閥解体は独占資本の激しい抵抗と占領政策の転換、それに預金者保護の見地から銀行が解体から除外されたため不徹底に終り、結局は戦前のピラミッド型から株式持合いによる円環状型に連携の形態が変化したのみだった。
2 経済復興
インフレ防止のため1946年には金融緊急措置令に基づき一定額以上の預金封鎖・旧円の新円切換・通貨量縮減が為され、国家財政の逼迫は富裕者への財産税賦課で補填した。また第一次吉田内閣は有沢広巳が提案した傾斜生産方式を決定(実施は片山内閣と芦田内閣)し、1947年には基幹産業(石炭・電力・鉄鋼・肥料)復興を促す復興金融金庫が大蔵大臣池田勇人(いけだはやと)により設置されたが、復金インフレを誘発した。また片山内閣は、新公定物価体系を基軸として価格差補給金を支出するインフレ抑制策を実施したが、これは生産上昇を開始させたものの赤字財政による巨額な紙幣増発と物資不足によりさらなるインフレが進行する結果となった。日本経済は米国の援助と補助金に立脚した「竹馬経済」だったが、中国革命の急速な進展により日本の自立と国際経済秩序復帰の必要性に駆られたGHQは予算均衡・徴税強化・資金貸出制限・賃金安定・物価統制・貿易改善・物資割当改善・増産・食糧集荷改善からなる経済安定九原則を1948年に発表し、この実施のためデトロイト銀行頭取のドッジを招き、復興金融金庫廃止・赤字厳禁超均衡予算・単一為替レート導入($1=360円)などの大企業中心の具体的な経済再建政策を実行させた。このドッジ=ラインの後、日本ではドッジ恐慌が発生したが、コロンビア大学教授シャウプらのシャウプ勧告を受けたGHQは1949年に税制改革を行い、間接税中心から直接税中心への移行や青色申告制度の導入、それに地方の税収不均衡是正のための平衡交付金制度の採用などを断行した。なお日本の食糧や医薬品は占領直後から支給されたガリオア資金(占領地域救済資金)、羊毛や綿花は1949年から支給されたエロア資金(占領地域経済復興援助資金)により供給された。
日本国憲法
戦後、様々な憲法草案が作成された。代表的なものとしては、尾崎行雄・岩波茂雄・稲田正次ら憲法懇話会が発案し君民同治主義を提唱した『日本国憲法草案』、高野岩三郎・森戸辰男ら憲法研究会が発案し国民主権の立憲君主制を提唱した『憲法草案大綱』、大原社会問題研究所長高野岩三郎が発案し大統領制・土地国有などを提唱した『日本共和国憲法私案要綱』、日本共産党が発表した『人民共和国憲法草案』などが挙げられる。幣原内閣の憲法改正担当国務大臣松本烝治(まつもとじょうじ)は美濃部達吉・宮沢俊義・河村又介・清宮四郎らと共に憲法問題調査委員会を結成して『憲法改正要綱』を作成した。だがGHQは1946年にこれを拒否し、さらに象徴天皇制・戦争放棄・封建制度廃止というマッカーサー三原則に基づくマッカーサー草案を突き付けた。第一次吉田内閣はやがて憲法案を国会審議に掛け、1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行した。こうして成立した11章103条からなる「押し付け憲法」日本国憲法は、主権在民・戦争放棄・基本的人権尊重を基本理念としており、立法面では貴族院廃止と権限の弱い参議院の設置、行政面では議院内閣制(総理大臣と国務大臣過半数は国会議員)導入、司法面では違憲立法審査権を持つ最高裁判所の設置、が為された。また改正は全議員の2/3以上の同意で発議し、国民投票で過半数を得票することで成立する硬性憲法である。なお文部省は1947年に『あたらしい憲法のはなし』を発行した。
憲法制定に伴う諸法令の整備
第一次吉田内閣は1947年に直接選挙やリコール制を定めた地方自治法を施行した。また片山内閣は刑法改正を実施して大逆罪・不敬罪・姦通罪などを廃止する一方、民法改正を行って戸主制廃止・男女平等などに基づく新民法を定めた。さらに芦田内閣は翌1948年に警察法を施行して自治体警察と国家地方警察を設置した他、黙秘権などを認めた新刑事訴訟法を実施した。なお婦人参政権などを認めた1945年の改正選挙法による翌1946年の第22回総選挙では婦人代議士39名の他、日本共産党の徳田球一・志賀義雄ら5名が当選した。
政党の変遷
1945年、片山哲は旧無産政党各派を糾合して日本社会党を、鳩山一郎は旧立憲政友会系の日本自由党を、町田忠治は旧立憲民政党系の日本進歩党をそれぞれ結成し、年末には千石興太郎が中道政党として日本協同党を立てた。日本協同党は翌年に小会派と合併して協同民主党となったが、これも1947年に国民党と合併して三木武夫を書記長とする国民協同党となった。やがて日本進歩党に日本自由党と国民協同党の脱党者が加わって芦田均総裁の下に民主党が成立したが、日本社会党は民政党・国民共同党と連立して同1947年に日本史上初の社会主義政党主体の内閣たる片山内閣を結成して、内務省解体などを行った。翌1948年に民主党が主体となり組閣された芦田内閣は中道政治を図ったが、党副総理西尾末広と日野原節三の癒着が発覚した昭和電工疑獄事件を機に総辞職した。後継内閣は日本自由党が民主党脱党派を取込むことで成立していた民主自由党の総裁吉田茂が組閣した第二次吉田内閣であり、以後第五次まで7年強に亘り政権を担当した。なお民主自由党は1950年に民主党連立派を加えて自由党を結成したが、民主党野党派は国民協同党と共に国民民主党を立てた。しかし国民民主党は1952年に農民協同党と合併して改進党(総裁重光葵)となった。
労働運動の高揚
1946年に皇居前で行われた食糧メーデー(飯米獲得人民大会)は翌日GHQにより禁じられたが、やがて日本共産党主導の産別会議(全日本産業別労働組合会議)と反共の総同盟(日本労働組合総同盟)、それに資本家団体の経団連(経済団体連合会)が発足した。総同盟・産別会議は公務員中心に600万人が参加する二・一ゼネスト計画を翌年に立てたが、占領政策の転換からこれを嫌ったGHQは、前日に全国労働組合共同闘争委員会委員長伊井弥四郎に中止を命じた。この後、産別会議と総同盟が野合した全労連(全国労働組合連絡協議会)は労働三法(労働組合法・労働関係調整法・労働基準法)を武器に活動したが、1948年のポツダム政令201号に基づく公務員スト禁止と国家公務員法改正に伴う公務員争議権・団体交渉権の剥奪により、壊滅した。1949年には国鉄職員削減を定めた定員法が施行されたが、国鉄総裁下山定則の轢死体が常磐線綾瀬駅付近で発見された下山事件や三鷹駅で列車が暴走した三鷹事件、東北本線の松川駅・金谷川駅間で列車が転覆した松川事件(広津和郎は被告無罪主張)など、国鉄労組と日本共産党員の陰湿な活動が続いた。産別会議での日本共産党影響拡大を憂いた産別民主化同盟は1950年、中立組合と共に反共の総評(日本労働組合総評議会)を結成した。また全労連はGHQ命令で解散されたが、その一部の総同盟は1954年に全繊同盟と共に右派の全労会議(全日本労働組合会議)を組織した。なお1952年には主権回復後初のメーデーで皇居前広場事件が起こったが、これは団体等規制令を強めた破壊活動防止法の制定を招き、更に翌1953年にはスト規制法、1954年には新警察法(警察庁・都道府県警察を設置)が施行された。 
6 冷戦体制の確立と日本の主権回復
冷たい戦争
大戦中のサンフランシスコ会議で採択された国際連合憲章に基づき国際連合は1945年に発足したが、米・ソ・中・英・仏が常任理事国として取り仕切る安全保障理事会は国際連盟瓦解への反省から武力制裁発動権を持っていた。やがて英元首相チャーチルの「鉄のカーテン」演説を機に世界は資本主義と社会主義の二大陣営に分裂したが、米国はトルーマン=ドクトリンでソ連の封じ込めを図る一方、マーシャル=プランで抗ソ連のため欧州経済復興を援助し、ソ連はコミンフォルム(共産党情報局)を諸国に設置して社会主義陣営の結束の図った。1948年のベルリン封鎖を機に冷戦は激化し、翌1949年には東側の経済相互援助会議(COMECON)と西側の北大西洋条約機構(NATO)が成立した。一方、中国内戦は中国共産党主席毛沢東が1949年10月1日に中華人民共和国を設立、本来の「中国政府」である中華民国の国民政府が成都から台北へ移ったことで終結したが、中華人民共和国は翌1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を締結してソ連に接近した。また朝鮮では1948年に米国の主導下の大韓民国(大統領李承晩・首都ソウル)とソ連の主導下の朝鮮民主主義人民共和国(首相金日成・首都平壌)が成立したが、韓国は1950年に米韓相互防衛援助協定を締結して戦争に備えた。
朝鮮戦争
(1950年〜1953年 / 世界史上初のジェット機中心の戦争)
北側の北緯38度線侵犯を機に両国は戦争状態に入った。国連軍としての米軍は一気に北側を追い詰めたが中国人民義勇軍やソ連軍の参戦により戦線は膠着し、国連軍総司令官マッカーサーは原爆使用を企てたためトルーマンにより更迭され、リッジウェイが後任として赴任した。やがて戦争は板門店での会談で終結した。日本国内では関連してGHQによりレッド=パージが為され、政・官・財・言論・教育界の共産主義者駆除と日本共産党幹部公職追放、『アカハタ』発禁が為された他、愛国者の公職追放処分解除と戦犯釈放が為された。この点からも、東京裁判における戦犯が犯罪者ではないことが読み取れる。経済面では1950年から1953年まで特需景気が起こり、1952年には世界銀行(世界復興開発銀行)とIMF(国際通貨基金)に加盟した。
サンフランシスコ講和会議
(1951年 / 主権の回復)
この会議の議長は米国務長官アチソンであり、日本からは吉田茂・苫米地義三(とまべじぎぞう)・星島二郎らが出席したが、中華民国と中華人民共和国は不招致、印・緬・ユーゴスラビアは不参加だった。サンフランシスコ平和条約は拒否したソ連・波・チェコスロバキアを除く48国との間で調印されたが、日本国内では政府の片面講和論(単独講和論)と安倍能成らの平和問題懇話会など左派を中心とした全面講和論が対立し、日本社会党はこれ以降右派と左派に分裂した。また米講和特使ダレスの主導で日米安全保障条約も同時に締結されたが、米国は豪・新と共に対日安保として太平洋相互安全保障条約(ANZUS)を締結していたため、日本は翌1952年に日米行政協定を締結して駐留軍の配備など日本側に不利な内容を受諾せざるを得なかった。
その後の国際情勢の変遷
1952年には日華平和条約・日印平和条約・日緬平和条約が結ばれ、各国は戦争終結を確認して賠償請求権を放棄したが、日本はこれに前後して対比1980億円・対緬1224億円・対インドネシア803億円・対南越140億円もの莫大な賠償金を支払っていた。なお、サンフランシスコ平和条約にも賠償請求権放棄は盛り込まれていたため、この時点で諸外国との賠償問題は決着した。また奄美群島は1953年に返還された。世界では、1954年に米・英・ソ・仏首脳がジュネーブ四巨頭会議を行い、翌年、インドネシアのバンドンにて29国が参加してAA会議(アジア=アフリカ会議)が開催され、世界は「雪解け」という緊張緩和を迎えた。 
7 主権回復後の政治・経済・外交
国防組織の創立
中華人民共和国成立を受けたマッカーサーは、日本を「反共の防壁」とするべく朝鮮戦争中の1950年に警察予備隊令を発し、米軍事顧問団の指導の下に7万5千人からなる警察予備隊を創設した。やがてサンフランシスコ平和条約発効に合わせて1952年には保安庁法が制定され、警察予備隊改め保安隊と海上保安庁管轄の海上警備隊を取り仕切る保安庁を設立した。1954年にはMSA協定(日米相互防衛援助協定)が締結され、日本は相互安全保障法に基づく対日経済援助の代償としての防衛力漸増を求められたため同1954年には自衛隊と防衛庁が設置された。後に防衛方針は文民主導の国防会議で決定されるようになった。なお米軍基地反対闘争として、石川県の内灘事件や山梨県の富士山麓基地反対闘争、それに東京都の砂川事件などが勃発した。
鳩山一郎内閣
(1954年〜1956年 / 55年体制スタート)
1954年の造船疑獄事件にて自由党は法務大臣犬養健に指揮権を発動させて幹事長佐藤栄作らを救ったが、憤った鳩山一郎は脱党、三木武吉の日本自由党や重光葵の改進党を糾合して日本民主党を結成し、やがて組閣した。日本民主党は1955年、憲法改正を掲げて自由党と保守合同して自由民主党を結成したが、日本社会党はこの直前に左派鈴木茂三郎の下で護憲のため統一された。これを55年体制と言う。自由民主党は第三次鳩山内閣を立て、翌1956年には憲法調査会法に基づき憲法調査会を設立した。外交面では同1956年に農林水産大臣河野一郎が日ソ漁業条約を結んで北洋漁業問題を解決させた他、鳩山一郎・ブルガーニン両首相がモスクワにて戦争終結と日本の国連加盟支持等を明記した日ソ共同宣言を発表、日本は同1956年に国際連合への加盟を果たし、23年振りの国際社会復帰を果たした。だが日ソ共同宣言では歯舞群島と色丹島の返還が定められたため、北方領土問題が浮上した。なおMSA協定締結や韓国復興資材の輸出、それに技術革新や世界的好況の影響から1955年から1957年に掛けて神武景気が発生し、1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」と発表した。
岸内閣
(1957年〜1960年 / 安保闘争への道)
1956年には石橋湛山が組閣したが、病気のため退陣し、翌1957年には岸信介が組閣した。対内的には鍋底不況を受けて汚職・暴力・貧困の三悪追放を提唱し、対外的には対米親善・対中敵視を明示した岸内閣は、同1957年には第一次防衛整備計画(一次防)を発表する一方、日本を国連安保理の非常任理事国に当選させた。しかし翌1958年に提出した警察官職務執行法改正案が廃案となるなど国内では左翼勢力の抬頭が目立ち、1960年に日米新安全保障条約(日米相互協力及び安全保障条約)が締結されると、日本社会党と日本共産党が煽動した安保改定阻止国民会議を中心として特に法案の強行採決以降安保闘争が激化したが、岸信介は自然成立を待って総辞職した。なお1961年には日米新安全保障条約への抵抗として東亜社会主義国三国の間でソ連・朝鮮・中国友好相互援助条約が締結された。
池田内閣
(1960年〜1964年 / トランジスタの行商人)
1960年に石炭から石油へのエネルギー革命を示す三井三池炭鉱争議が発生したことを踏まえて「寛容と忍耐」を唱え初の女性大臣として厚生大臣中山マサを起用して組閣した池田隼人は、同1960年に10年間での国民総生産の倍増を目指す高度経済成長政策(所得倍増政策)を発表し、翌1961年には農業基本法を定めて農業構造改善を図った。池田隼人は1961年に日米貿易経済合同委員会を設置した他、1952年に吉田茂が締結した日中間第一次貿易協定を拡大し、1962年に廖承志と高碕達之助の間で日中総合貿易覚書を結ばせ政経分離に基づく日中準政府間貿易としてLT貿易(後の日中覚書貿易)を開始した。また、1964年にはIMF8条国移行を達成して貿易を自由化する一方、OECD(経済協力開発機構)にも加盟して資本を自由化した。
佐藤内閣
(1964年〜1972年 / 日本憲政史上最長の内閣)
岸信介の弟の佐藤栄作が組閣した翌年の2月には防衛庁の「三矢研究」が問題化したりしていたが、佐藤栄作は1967年に防衛二法(防衛庁設置法・自衛隊法改正)を成立させた。また佐藤栄作は1965年、第七次日韓会談にて朝鮮半島の唯一の合法的政府たる韓国の朴正煕政権との間に日韓基本条約を締結し、戦後漸く外交関係を樹立した。また小笠原諸島は日米共同コミュニケに基づき1968年に返還されたが、1965年に開始されたベトナム戦争北爆以後の反戦運動に押されて米国が1968年に主席公選制を認めた琉球政府では、屋良朝苗(やらちょうびょう)が主席に就任し、沖縄県祖国復帰協議会に祖国復帰運動を行わせて米大統領ニクソンに圧力を掛け、1969年には沖縄返還を示した日米共同声明を出させた。佐藤栄作は1970年に日米新安全保障条約を自動延長した後、1971年には沖縄返還協定に調印し、1972年に沖縄県を設置した。なお、返還方針は「核抜き基地本土並」とされていた。一方、経済面ではこの頃八幡製鉄と富士製鉄が合併して世界最大の新日本製鉄が誕生した他、六大銀行(三井・三菱・住友・富士・第一勧銀・三和)の寡占が続き、また1968年にはGNPが資本主義国で世界第二位となった。1971年のニクソン=ショックに際しては、円を切上げて1ドルを従来の360円から308円とした。
ロッキード疑獄事件
(1976年 / 今太閤田中角栄の航空業界汚職事件)
1972年に「日本列島改造」を掲げて華々しく組閣した田中角栄は日中共同声明を発して「一衣帯水の間にある隣国」とする中国との国交を正常化し、台湾の中華民国と断交した。この外交政策・判断は、今日賛否の分かれるところである。一方、翌1973年には変動為替相場制を採用して経済発展に努めたが、第四次中東戦争勃発後にOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が発動した石油戦略に伴いオイル=ショック(石油危機)が襲来してインフレが進行した。やがて立花隆が『文藝春秋』誌上にて田中角栄本人の金脈問題を喧伝したため1974年に総辞職した。代わって組閣した三木武夫は「偽りのない政治」を掲げ、1975年にはジスカールデスタン仏大統領の提唱による先進国首脳会議に出席したが、翌1976年にはロッキード疑獄事件が発覚して自由民主党の内部対立が深まった結果、河野洋平らが脱党して新自由クラブを結成した。さらに自由民主党が12月の総選挙で大敗したため、三木内閣は総辞職した。
その後の政界
福田赳夫は新自由クラブとの連立内閣を1976年に組閣し、翌1977年には二百海里漁業専管水域を定めた海洋二法を施行した。また1978年には福田赳夫・華国鋒(かこくほう)・ケ小平の立会いの下、外務大臣園田直(そのだすなお)と外交部長黄華の間で日中平和友好条約が締結された。やがて同1978年には大平正芳が福田赳夫から自由民主党総裁の座を乗っ取って組閣し、国際人権規約批准・婦人に対する差別撤廃条約署名などを断行したが、ロッキード事件拡大・エネルギー危機・景気低迷などにより支持率は急落した。1980年の衆参同日選挙では大敗が確実だったが、選挙戦中に大平正芳が急逝したため浮動同情票を集め、大勝した。組閣した鈴木善好は、公職選挙法を改正して参議院議員全国区選挙に比例代表制を導入する一方、「反日」で世論を誘導・統一せざるを得ない国々からの干渉により教科書検定問題が外交問題に発展した。やがて1982年に組閣した中曽根康弘は、行財政改革・教育改革を強力に推進し、国営企業民営化を実施してJR・NTT・JTなどを発足させる一方、対米・対韓関係強化のため1983年には米国と韓国を相次いで訪問し、米大統領レーガン・韓大統領全斗煥(ぜんとかん)を日本へ招いた。また1985年には改正男女雇用機会均等法を成立させたりもしたが、やがて地価高騰などにより支持率は低下、提出した売上税法案も廃案となり、防衛費の対GNP比1%を突破させて1987年にSDI協定(日米戦略防衛構想協定)を成立させた後、総辞職した。なお中曽根康弘はかつて『憲法改正の歌』を作詞した人物としても知られている。 
8 現代の社会問題
公害問題・都市問題・同和問題
熊本県のメチル水銀による水俣病、富山県のカドミウムによるイタイイタイ病、新潟県のメチル水銀による新潟水俣病、三重県の二酸化硫黄による四日市喘息、といった四大公害訴訟の展開や光化学スモッグ・ヘドロ公害などの問題化を受けた佐藤栄作は、1967年に公害対策基本法を施行し、1971年には環境庁を設置した。だが騒音・振動・大気汚染・水質汚濁などの公害も露顕して来ている。また過疎・過密や通勤ラッシュなどの都市問題も公害と共に表面化して来たため、1962年には新産業都市建設促進法に基づき全国総合開発計画が立てられ、各地に新産業都市が設置され始めたが、依然として現在も住宅問題や外国人犯罪問題などが残存している。一方、被差別部落問題については1946年に設置された部落解放全国委員会(後の部落解放同盟・全日本同和会・全国部落解放運動連合会)が改善を主張し、1961年には部落解放同盟の要求を容れた池田隼人が同和対策審議会を設立し、1969年には佐藤栄作が同和対策事業特別措置法(後の地域改善対策特別措置法→地域改善財特法)を施行した。
左傾化による騒擾
主婦連(主婦連合会)と同様1948年に成立した全学連(全日本学生自治会総連合)は、安保闘争の最中に六・一五事件を起こし、国会に乱入して暴力行為(樺美智子死亡)を展開した。また1968年に勃発した東大医学部の学生の暴動を端緒として安田講堂不法占拠などが為された大学紛争は政府の大学運営臨時措置法などにより鎮圧されたが、戦後の反動的偏向教育の所産たる新左翼の煽動により翌1969年には高校紛争も勃発した。一方、1967年には東京都知事に革新首長として美濃部亮吉が当選し、住民運動も相次いだが、左翼はこの後も新宿事件や成田闘争で荒れ狂い、日本赤軍は1970年に日航機よど号ハイジャック事件、連合赤軍は1972年に浅間山荘事件などを起こし、世を騒がせた。今日では、これらの活動はほぼ下火となっている。
核兵器問題
米国が広島・長崎に投下して大量の民衆を虐殺した原子爆弾や、1954年の米国によるビキニ水爆実験(標的は戦艦「長門」)に伴う死の灰で日本の第五福竜丸の乗員である久保山愛吉を死に至らしめた水素爆弾に対する批判は、1950年のストックホルム=アピールや1957年のバグウォッシュ会議などにより世界的に高まり、日本でも1955年に原水爆禁止世界大会が開催されるなどして原水爆禁止運動が展開された。ちなみに戦艦「長門」は水爆の直撃を受けたにも拘らず3日間もビキニ環礁に浮かび続けたため、はからずも大日本帝国の造船技術の高さを世界に知らしめる結果となった。やがて、世界では1963年に部分的核実験停止条約、1968年に核兵器拡散防止条約が米・英・ソを中心に締結され、日本では1967年に総理大臣佐藤栄作が非核三原則を発表した。なお、日本における原水爆禁止運動は、欧米諸国の核問題については猛攻撃を加えるものの、中国・北朝鮮等の核問題にはあまり積極的に触れない、という偏った姿勢が見られることで知られている。 
 
土地から見た日本史

 

日本はもちろん大陸から離れた島国ですが。決して孤立したことはありません。そもそもこの国は、半島から、あるいは北方を陸伝いにして、または南方の島々から渡ってきた人々が、ゆっくりと作り上げていきました。
いずれにしても、どの段階からカウントするにせよ、中国という偉大な文 明の光を抜きにして日本史を語ることは出来ません。 中国は、我々が文字を持たなかった紀元1世紀から我々の姿を残してくれています。
漢書地理誌には『楽浪海中倭人あり,分かれて百余国をなす』とあります。 そのような沢山の小国が争って離散集合を重ねた結果、その寄せ集まったのが、いわゆる大和政権です。 部族の寄せ集めであるため、必然的に『地方分権的』な体制をとっていました
その中央には大王=天皇がおり、有力な一族には氏姓が与えられました。そのうち、『大臣』『大連』という大豪族が政治を担当する連合国家に収斂していきます。 このように、有力氏族が集まって出来た、ゆるやかな連帯国家が日本の始まりでした。このとき、ほとんどの領土は、豪族の領土である田荘で占められていまし。
大中小豪族が並存する中央で、血脈と神性によって統治したのが大王であり天皇です。 そして、数百年。 大和政権が成立する過程においても、中国から経典、黄金色の仏像、陶器・鍛冶・養蚕・機織りの技術…様々な魅力あふれる文明の光が伝えられてきました。
文明とは、周辺の国にそこに参加したいという欲求を起こさせる魅力を持ちます。 そして、大和政権の中にもそうした文明の魅力に惹かれる者が現れました。 7世紀頃、中国からつけられた倭(チビというニュアンスがあります)という名を嫌い、日本という名に変えたころ。日本は中国を目指しました。具体的には、中央集権制度…そして、律令制に基づく法治国家になろうとしました。
先鞭をつけたのは、かの聖徳太子。 天皇家の重臣である彼は、親戚である蘇我氏と協力する一方で、中国に使節を派遣しながら中央集権化を進める政策を打ち立てました。 『十七条憲法』による中央集権的な政治ステムの規範の作成 。『冠位十二階』による氏姓に関わらない能力主義的な人材配置。しかし、これらの画期的な政策は彼の死後は継続されず、やはり蘇我氏ら有力豪族を中心とする政治体制は覆りませんでした。
それを一挙に覆そうとしたのが後の天智天皇(当時は中大兄皇子)と藤原鎌足(当時は中臣鎌足)です。 当時、権力基盤のない皇族と中小豪族が組んで起こし、有力豪族に反旗を翻し中央集権体制を作ろうとしたのが、いわゆる『大化の改新』す。
まずは、645年にクーデターを起こし蘇我氏の当主を殺害すると、氏姓制度を解体し、全ての領土と領民を全て天皇のものとすると宣言しました。 新たに作成した戸籍に基づいて、税金や軍役を課し、政治を担当するのは試験を経て選ばれた官僚と決めます。 そして、こうした全ての政治は、律令という法律に基づいて行われることになりました。 中国で作られた制度を輸入して、自分のものとしたわけです。戸籍もそう。現代でも東アジアの一部を覗いて、世界に戸籍のある国はほとんどありません。
一方で、これらの律令制度に基づく一連の改革は、大化の改新で全て成し遂げられた訳ではありません。天智天皇の治世においては完成させられませんでした。 天智天皇の死後に起こった壬申の乱で大豪族+大友皇子側が敗北し、天武天皇+中小豪族側が勝利したこと。天武・持統両天皇の継続的な諸改革。これらを経て、ようやく半世紀後の701年に大宝律令が完成しました。
しかし、ようやく作った律令でしたが、中国以上に徹底して律令国家と儒教の支配を成し遂げた朝鮮半島とは異なり、日本の律令制度は穴だらけでした。 まず、科挙という官僚を採用するためのテストがありません。さらに大貴族の子弟は一定の年齢に達すると、高い官位を得ます。 従って、ここでも一部の貴族が政治を牛耳る体制は、結局変わりませんでした。 むしろ状況は悪化したと言えるでしょう。複数の豪族による寡占状態だった大化の改新以前とは異なり、中臣鎌足の子孫である『藤原氏』という大貴族の完全な独裁状態に陥ったのですから。
710年の平城京遷都から100年近く続く奈良時代の権力闘争は、そのまま皇族と藤原氏の権力闘争でした。 拮抗していた権力闘争も、平安時代に突入し、藤原氏が外戚…自分の娘を天皇に嫁がせて生まれた子を天皇にし、自分が実権を握る…という巧妙なシステムを作り上げることで終止符が打たれました。 8世紀からの数百年間は、藤原氏がいかにして権力を握ったかのプロセスと重なります。
さらに、日本の律令制度の最大の欠陥は、早々に公地公民制度を撤廃したことです。 重税に耐えかねて戸籍を偽り逃げ出す農民達…納税率の低下にこまった政府は、早くも大宝律令施行から30年後、743年に『墾田永年私財法』を施行します。 これは一言で言えば、『自分で耕した土地はずっと私有地にしていいよ(ただし、税金はキッチリおさめてね)』という法律です。 公地公民の大原則が壊れては、律令政治も形だけになるのは止むを得ません。
『墾田永年私財法』が施行されてしばらくは、貴族や寺社が自分の領土をどんどん広げていった。これが荘園です。 荘園の領主たちは、あの手この手で利権を要求し、終いには税金を免除する特権まで得ました。 律令制度という点では困った事態です。しかし、政府=藤原氏というような状態では、むしろ好都合でした。税金をとりっぱぐれる代わりに、かつ荘園領主や荘園領主からの付け届けが藤原氏の懐に流れるシステムが出来たのですから。
こうして、日本の中央集権体制は達成されたものの、中身は藤原氏という大貴族の牛耳る土地私有国家という何とも中途半端な状態になりました。 さらに平安時代以降になると、荘園はどんどん広がり、未開の関東など現地の人々の開墾した土地まで吸収しました。 藤原氏は、税金免除の特権をあげるから管理させてよ(もちろん管理のためのマネーは頂くけどね)、と積極的に支援します。こうしてどんどん藤原氏は肥えていきました。
一方で、これらの実際に土地を耕す農民が、自分達の持つ土地を守るために武装したのが武士です。
武士。 9世紀以降のその初期の姿は後年われわれがイメージするものと完全に異なります。 自分たちが耕した土地を守るために武装した集団が武士です。 農民と武士の境目など、ほぼゼロに等しいと言えるでしょう。
しかし、ここで問題になってくるのは、自分が耕す土地であっても、藤原氏に高い管理費を払う必要があります。それでなければ、もっと高い税金を払わなければなりません。また、時には、藤原氏から理不尽な要求をされることもあります。
そのために、中央の貴族と交渉できる力を持つ有力者のもとに、武士たちは結集しました。有力者は、中央から派遣されて後に土着した元皇族・貴族であるケースがほとんどです。 その代表格が『源氏』と『平氏』。 ともに、皇族から臣籍降下して貴族となった二者は、関東から関西にかけて勢力を伸ばし、武士を束ねる存在として朝廷と藤原氏に奉仕しました。
やがて時は経ち、11世紀に、終に藤原氏の娘から子供が生まれなくなり、藤原氏と縁のない後三条天皇が即位しました。 外戚政治、藤原氏の天下の終焉です。 およそ数百年ぶりに、政治の実権は朝廷と天皇に返されました。 すると、後三条天皇の子の白河天皇は、早々に引退して上皇として直接政治を行う『院政』を創始しました。 上皇が貴族や皇族を超える絶対権力者として実権を握った瞬間です。
が、朝廷を超える最高権力者である上皇にも、恐いものがありました。 寺社勢力が武装して様々な要求を行う『強訴』です。 形の上で出家して法皇になっていた白河上皇にとって、無碍にできない、かといって言う事を聞いてばかりもいられない、厄介な存在でした。これに対抗するため武士が重用されました。
特に院政下で勢力を伸ばしたのが、平氏です。 一族の棟梁だった平将門が朝廷に反旗を翻していた頃は関東に一大勢力を持っていましたが、将門が討たれたのち、関東では源氏が勢力を伸ばすようになると伊勢などに追いやられました。 それを逆手にとって、朝廷や上皇に近づいたのが正解でした。
12世紀に、朝廷を二分する争いが起きます。 天皇家や貴族の後継者争いであったはずが、上皇が噛み、武士が参加するようになると二度の大きな武力衝突となりました。 上皇の庇護の下で、最終的に勝利したのは平氏の当主、平清盛。 源氏の当主とその息子は処刑。
この結果、朝廷と院で一大勢力を築いたのが平氏です。 貴族たちを追いやって、今度は自分たちが権力の座に就くようになったのです。 特に平清盛とその一派の成り上がりぶりは並大抵のことではなく、清盛は武門で初めて太政大臣の位に就きました。しかし、平氏が貴族化する一方で、武家の棟梁としての本分を失っていったのも事実です。
彼らは、大小無数の武士の土地の所有権を認め、相続などの土地の争いを調停するのが第一の職務です。 その職務をないがしろにして、朝廷で貴族として振る舞ったことに憤慨した関東の武士は、清盛の死後、源氏の棟梁として源頼朝を守り立てて、平氏を破りました。
源頼朝は、自分に何の権力基盤もないことはよく分かっており、ひたすら関東武士の代弁者としての役割に徹しました。 この結果、終に日本の政治は朝廷から独立した、関東の武士を中心とする鎌倉幕府によってとり行われることになったのです。 が、これが強力な政体ではなく、無数の武士の寄せ集めに過ぎないことは、その後源氏が三代で絶えて、藤原氏や皇族から将軍が迎えられたことからもわかります。
要は、トップは実権を持たない方が上手く行く。 それがこの国の政治の特徴の一つです。 こうした無数の武家の集合体である幕府は、一時後醍醐天皇の施政により中断されたましが、源氏の一派である足利氏による室町幕府の時代も継続されました。
しかし、室町幕府は、あまりに配下の武家が力を握りすぎました。 幕府に反対する後醍醐天皇と足利氏が擁立した天皇との分裂時代、世に言う南北朝時代。 どちらも、自分達の側に武士を惹きつけようと様々な甘言を囁きました。 結果、南北朝が統一する頃には、配下の武士たちはそれまでにない権限を得たのでした。
後には守護大名として半ば自立するようになり、さらに応仁の乱を経て幕府の存在は無いも同然の状態となり、戦国乱世と相成りました。 しかし、これは平安・鎌倉時代の状態とあまり変わりがないとも言えます。 幕府という重しがなくなっただけで、生き方も戦い方も変わっていません。大名という武士のリーダーは、配下に土地を分け与えて、その多寡に従って兵役を行わせます。 戦闘は、基本的にシーズンが決まっていて、農作物の収穫のときなどはパス。
そこに現れたのが、織田信長です。 ちっぽけな領土しかない彼は、領土ではなく俸給を与えて軍役の義務を負わせるサラリーマン武士団を組織しました。 領土を与えても、頻繁に配置換えしました。 領土を管理するのは、最終的には自分であるという公地公民制度の復活です。
さらに、後継者たる豊臣秀吉が大阪を中心とする経済体制を作り上げ、豊臣家に勝利した徳川家康がそれらをそっくり頂いて江戸幕府を成立させました。 家康は、基本的にサラリーマン武士団システムも、経済システムもそのまま流用して、そこに徳川家オリジナルの政治体制を加えました。
江戸幕府は、徳川家が生き残るための究極の飼い殺しのシステムです。 諸大名や朝廷に対し、徹底した法治体制を敷き、逆らえば即所領没収か配置換え。 参勤交代や武家諸法度で大名を締め付け、幕府の職務は一部の親藩・譜代の大名が独占しました。 これによって無数の大名の中心で幕府が圧力をかけるという擬似的な中集権体制が生まれました。
さらに頻繁に配置換えすることで、土地の所有者としての武家の在り方は変容し、あくまでも大名は統治するだけで土地の所有者は、藩の政治に携わらない土着の中下級武士であり農民であるという体制が生まれました。
江戸時代。 その300年近い治世は、世界的に稀な平和を保った時代です。 そして、その太平を壊したのがペリーその人…と思われているようですが一概には言えません。 有名なペリー以前にも、18世紀以降、断続的に欧米の列強は日本にやってきていたのです。
18世紀末、巨大な体をますます広げるロシアは、広大なシベリアを維持するための基地を欲していました。 そこで目をつけたのは日本。 しかし、幕府は、何度も繰り返しやってくるロシア船を鎖国を盾にすげなく追い返しました。その帰り際、腹いせに千島列島を襲われたこともあります。 その後、ロシア以外にもイギリス、アメリカ、オランダから続々と使節が送られて半世紀あまり。
1853年、米国東インド艦隊総督マシュー・カルブレース・ペリーが現れました。 それまで知識としては欧米の技術は導入されてきました。しかし、断続的に西洋列強からプレッシャーをあ耐えられた挙句、新たな文明が巨大な形をとって現れた恐怖を思い起こしてみてください。 初め、攘夷攘夷と叫んでいた者も、交戦して実際に欧米の文明に触れることで、現実を知りました。
列強の軍事技術を前にして、このままの体制では西洋からの独立を勝ち取ることすら危ういと感じました。その危機感が、幕府を倒すエネルギーになり、日本を近代国家へ生まれ変わらせる原動力となったのです。そして、薩摩・長州といった一部の大藩が主導する形で、江戸幕府は幕を引きました。
しかし、未だ藩というシステムは継続しており、各地に多くの家臣団を抱える殿様が控えていたのです。 それらの藩を解体するのは大変…かと思いきや、あっさり藩は解体されて府県制度がしかれ、実権のない天皇を中心にすえた中央集権体制になりました。
これは多数派に流れる国民性もありますが、経済が発展するのを無視して開幕直後から農業重視してきた幕府にも責任があります。 おかげで、ほとんどの大名は借金で首が回らなくなっており、明治維新後の悠々自適の暮らしを楽しむ声が大半でした。
今度こそ本当に中央集権はなったにしても、迫り来る列強、特に国境の近いロシアの圧迫から逃げるには無理に無理を重ねる改革が連続して行われました。 もともと、生糸と銅くらいしか輸出に耐える製品などない貧乏国日本。 ひたむきさで、それを補いました。 土木建築学のパイオニア、古市公威は留学中、体を壊すほどな勤勉ぶりを見かねた宿のおかみに、少しは休むよう忠告されると 「私が一日休めば、日本が一日遅れるのです」 そういって、また机に向かったそうです。 新興国家の常で、勤勉さが出世につながり、また社会もそれを認めた時代でした。
そして、その努力が清・ロシアという老いたる二大帝国に勝利することで実を結び、念願叶って独立を堅持できました。 しかし、もともとギリギリの勝利だったのです。 ロシアとの戦争にいたっては、もう1年戦争が継続していれば負けるのは日本だったに違いありません。 なけなしの国力を一点に集めてようやく勝利したのでした。
にもかかわらず、日本人は日露戦争に勝利後、喜ぶあまりこれを忘れました。 正当に論功を行わなかった政府にも責任がありますが、煽りに煽った当時のマスメディアの責任は重いと言わざるを得ません。 おかげで、やっと成立したロシアとの講和条件が『弱気すぎる』と暴動が起きたくらいです。
いつしか、日本は現実が見えなくなってきました。敗北しているとき、弱い立場のときは寧ろ良いんです。いつも自分達の立場を客観的に見ることが出来るので。 しかし、問われるのは勝利した後でも、この現実的・客観的な視野を保てるかどうかです。 日露戦争後、国は富みました。 軍部は力を得ました。
残念ながら、人は誰しも、勝利し強くなればなるほど、自分の殻にこもる傾向があります。 それは、明治維新を見届けた世代、弱小国家を勝利に導くため苦戦した世代が引退し、勝利した日本を見て育った世代が台頭する頃から目立ち始めました。
軍事も政治も、事実に基づいた計算が働かなければなりません。 しかし、その計算を否定して、自分達の夢物語を語るとき、もはや政治や軍事とは呼べない、神秘学的な宗教ともいえるほどの理屈をこねくりまわします。 結果としておきたのが太平洋戦争です。
そもそも、日本は戦争に強い国ではない上に、戦争して利益が出ようはずもありません。 開戦は失策でした。以下はその理由を羅列します。
1海岸線が長すぎるので守りきれない
→奇跡的にロシアのバルチック艦隊を破ったものの、ほとんどバクチ。
2国力がないので孤立したら戦争を継続することすら不可能
→資源の輸入先であるアメリカと戦争して、資源がないのでなし崩し的にアジア諸国に攻め入るなど狂気としか思えません。
3そもそも、戦争して得るものがない
→帝国主義とは植民地を得て、そこで交易することで利益を生むのです。交易も何も売る品すらまともにない日本が帝国主義に参加すること自体無理はありました。
70年前の戦争が無茶であったことは幾ら言葉を重ねても言い足りませんが、これには哀れみすら覚えます。 帝国主義というバケモノに恐怖し、恐怖するあまりこれに勝利するために無理に無理を重ねて、勝利すると一旦乗ったレールから降りられずに暴走してしまったことに関してはやるせない気持ちがします 。
こんなことのために人が死んでいいはずはありません。冷静に考えれば起こしてはならないことはならないのに、それが出来ずに哀しみと恨みを買いました。 だが、冷静に考えたら勝てるはずもない戦いを起こすほど、人は現実が見えなくなることに恐怖すら覚えます。
土地の私有化と共有化の間でせめぎあい、ついには他国の領土まで獲得した帝国・日本は、泡沫のように消え、辛うじて独立という体裁は保ったものの、勝利した連合国家によるGHQに統治される状態でした。
気をつけてどうなるものでもないですが、失敗に学ばなければそれこそお終い。学んで思わざれば則ち暗し、 思いて学ばざれば則ち危うし。 です。
とはいえ、歴史は繰り返す。 一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。 何千年も繰り返された歴史の末に、我々は生きています。 その歴史の流れの中に生きています。 何をしようとも同じ事の繰り返しなのかもしれません。 それでも、私はこの歴史という舞台の一員として精一杯出来ることをしたいと思います。 歴史はそうして動かされてきたのですから。
 

 

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