昔の女性

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雑学の世界・補考   

晋書巻九十六 / 列伝第六十六 / 列女

「晋書」(しんじょ 繁体字: 晉書)は中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。 
「晋書」については、批判的な評価が多い。 
「史通」「採撰篇」で劉知幾は、「晋書」が「語林」「世説新語」「幽明録」「捜神記」といった書物に記載された怪しげな話を採用していることを指摘し、「分量さえ多ければいい、資料収集が広ければいいという態度だ。小人は喜ばせられるだろうが、君子のあざ笑うところである。」と手厳しく非難している。また、「旧唐書」「房玄齡伝」の評語でも、「晉書 為主 參考諸家 甚為詳洽 然史官多是文詠之士 好采詭謬碎事 以廣異聞 又所評論 競為綺豔 不求篤實」と「晋書」を編纂した史官は文学人が多かったため、怪しげな話を採用し、広く異聞を集めるのを好んだ。その記述態度は奇抜になり、正確であることを求めなかったとする。 
既存の史書と比較するとそれまで個人が執筆・編纂していたものに対し、複数の編者が存在することで前後矛盾する内容となっている箇所もある。例示すれば「李重伝」の中に「見百官志」(百官志に見える)と記述されるにも関わらず「晋書」の中には「百官志」が存在しないなどが上げられる。 
一方で「冊府元亀」の評では、「前代の記録を広く考証し、残存する記録を広く探し、雑草を刈り取るように肝心な部分を抜き出している」と、「晋書」の資料収集を高く評価している。 
上記の理由により「晋書」は史書としての評価は低いものであるが、「三国志」に「地理志」が存在しないことから、三国志愛好家の間では「地理志」に限って「晋書」の記録が多用される傾向がある。
夫三才分位,室家之道克隆;二族交歡,貞烈之風斯著。振高情而獨秀,魯册於是飛華;挺峻節而孤標,周篇於焉騰茂。徽烈兼劭,柔順無愆,隔代相望,諒非一緒。然則虞興嬀汭,夏盛塗山,有娀、有娎廣隆殷之業,大姙、大姒衍昌姫之化,馬ケ恭儉,漢朝推コ,宣昭懿淑,魏代揚芬,斯皆禮極中闈,義殊月室者矣。至若恭姜誓節,孟母求仁,華率傅而經齊,樊授規而霸楚,譏文伯於奉劍,讓子發於分菽,少君之從約禮,孟光之符隱志,既昭婦則,且擅母儀。子政緝之於前,元凱編之於後,具宣閨範,有裨陰訓。故上從泰始,下迄恭安,一操可稱,一藝可紀,咸皆撰録,爲之傳云。或位極后妃,或事因夫子,各隨本傳,今所不録。在諸偽國,暫阻王猷,天下之善,足以懲勸,亦同搜次,附於篇末。 
そもそも天・地・人があるべき場所に分かれてからというもの、夫婦の道は苦難の末にさかんになった。ふたつの血族がうち解けて交わると、厳しくもおこない正しい気風がじつに顕著となった。〔女性が〕気高い心をふるってひとり傑出したとき、魯は花を飛ばすように官位を授けた。厳しい節義に抜きんでてひとり目立ったとき、周は豊かな実を結ぶように記録した。〔彼女たちの〕立派な業績は、うるわしさを兼ねそなえており、〔彼女たちの〕心根はやさしく素直で、道を外れることがなかった。〔彼女たちのような人物は〕時代をへだててもあい望まれており、十把一絡げにできないことは明白だ。そうだとすれば、虞(舜)が興ったのは嬀水のほとり〔で堯のふたりのむすめをめとったから〕であり、夏がさかんになったのは塗山氏がいたからである。有娀氏と有娎氏は殷の王業を広めてさかんにし、大姙と大姒は姫氏の王化を広めさかんにした。馬皇后とケ皇后は他人にうやうやしく自分はつつましくして、漢朝の徳義をおし広めた。卞皇后と甄皇后は立派でしとやかであって、魏代のかぐわしい美名を宣揚した。これらはみな宮中の奧にあって礼をきわめ、奧部屋で義をことにする人たちである。このうえなく若くして恭姜は再嫁しないことを誓い、孟子の母は仁を求めた。華氏(孟姫)は守り役を率いて斉をおさめ、樊姫はきまりを授けて楚〔の荘王〕を覇者とした。〔敬姜は〕文伯が剣を奉じさせたことをそしり、〔子発の母は〕子発が兵士に豆を分配していたことを責めた。少君は礼法にしたがっておこないを引き締め、孟光は隠遁の志を示した。彼女らはすでに女性のきまりをあきらかにし、かつ母たる模範をほしいままにしている。子政(劉向)が以前に彼女らの事跡を〔「列女伝」に〕あつめ、元凱(杜預)が後になって〔「女記讃」を〕編んだのは、女性が守るべき手本をつぶさに述べ、女性が身につけるべき徳の教えをおぎなうためである。そのためさかのぼっては泰始年間(二六五〜二七四)から、下っては恭帝・安帝の時代まで、ひとつにはたたえるべき行いを、ひとつには記すべき技芸を、みなぜんぶ選んで収録し、これを伝のいわれとする。位を極めた后妃の場合や、夫のもとで処理されているときは、おのおのもとの伝のあるところに従い、今は採録しない。〔五胡の〕偽の諸国があって、しばし王化の道がはばまれたが、天下の善たるものは、それでも悪を懲らして善を勧めるのに充分なので、また同じく次に探し出し、篇末に付け加えた。
羊耽妻辛氏 
羊耽妻辛氏,字憲英,隴西人,魏侍中毗之女也。聰朗有才鑒。初,魏文帝得立爲太子,抱毗項謂之曰:「辛君知我喜不?」毗以告憲英,憲英歎曰:「太子,代君主宗廟社稷者也。代君不可以不戚,主國不可以不懼,宜戚而喜,何以能久!魏其不昌乎?」 
羊耽の妻の辛氏は、字を憲英といい、隴西郡の人で、魏の侍中の辛毗のむすめである。聡明博識で目端が利いていた。かつて、魏の文帝(曹丕)が太子として立つことができると、辛毗のうなじを抱いて「辛君にはわたしの喜びがわかるまい?」といった。辛毗は憲英に告げると、憲英は「太子は、君主に代わって宗廟や社稷をまつる者です。天子に代わって心をくだかなくてはいけないし、国の主となるのをおそれなくてはいけないのに、心配するところを喜んでいたのでは、どうして長続きできるでしょう!魏はそれでは繁栄しないのでしょうか?」と嘆いていった。 
 
弟敞爲大將軍曹爽參軍,宣帝將誅爽,因其從魏帝出而閉城門,爽司馬魯芝率府兵斬關赴爽,呼敞同去。敞懼,問憲英曰:「天子在外,太傅閉城門,人云將不利國家,於事可得爾乎?」憲英曰:「事有不可知,然以吾度之,太傅殆不得不爾。明皇帝臨崩,把太傅臂,屬以後事,此言猶在朝士之耳。且曹爽與太傅倶受寄託之任,而獨專權勢,於王室不忠,於人道不直,此舉不過以誅爽耳。」敞曰:「然則敞無出乎?」憲英曰:「安可以不出!職守,人之大義也。凡人在難,猶或恤之;爲人執鞭而棄其事,不祥也。且爲人任,爲人死,親昵之職也,汝從衆而已。」敞遂出。宣帝果誅爽。事定後,敞歎曰:「吾不謀於姊,幾不獲於義!」 
弟の辛敞が大将軍曹爽のもとで参軍となった。宣帝(司馬懿)が曹爽を誅殺しようとして、曹爽が魏帝(曹芳)に従って出たときに城門を閉じた。曹爽の司馬の魯芝が、府兵を率いて関を斬りやぶって曹爽のもとに赴こうと、辛敞を呼んで同道を求めた。辛敞はおそれて、「天子が外におられるのに、太傅(司馬懿)が城門を閉じたので、人は太傅が国家の不利益をはかろうとしていると言っています。そんなことがありうるのでしょうか?」と憲英にたずねた。憲英は「知ることのできないことというのはありますが、わたしが今回のことをはかりますに、太傅はまずそうせずにいられないのでしょう。明皇帝(曹叡)が崩御なさるに臨まれて、太傅のひじをつかんで、後のことを委ねられました。このときの言葉はまだ朝士の耳に残ってます。なおかつ曹爽は、太傅とともに信託されて任を受けられましたが、ひとり権勢をもっぱらにして、王室に対して忠義でなく、人道に対して正直ではありません。この挙に曹爽が殺されるだけにすぎないでしょう」といった。辛敞は「それなら敞は出ないほうがよろしいか?」といった。憲英は「どうして出ないでいられましょう!職分を守るのは、人の大義です。そもそも人は危難にあっても、それでもなお職分に気を配るものです。人のために鞭をとるものがその仕事を捨ててしまうのは、不吉です。それに人のために任にあるものは、人のために死ぬのが、親しく信任されたもののつとめです。おまえはついていくだけですよ」といった。辛敞はこうして出ていった。宣帝はやはり曹爽を誅殺した。事件が落ちついたあと、辛敞は感嘆して「わたしが姉に相談しなかったら、あやうく徳義にそむくところだった!」といった。 
 
其後鍾會爲鎭西將軍,憲英謂耽從子祜曰:「鍾士季何故西出?」祜曰:「將爲滅蜀也。」憲英曰:「會在事縱恣,非持久處下之道,吾畏其有他志也。」及會將行,請其子e爲參軍,憲英憂曰:「他日吾爲國憂,今日難至吾家矣。」e固請於文帝,帝不聽。憲英謂e曰:「行矣,戒之!古之君子入則致孝於親,出則致節於國;在職思其所司,在義思其所立,不遺父母憂患而已。軍旅之間可以濟者,其惟仁恕乎!」會至蜀果反,e竟以全歸。祜嘗送錦被,憲英嫌其華,反而覆之,其明鑒儉約如此。泰始五年卒,年七十九。 
その後、鍾会が鎮西将軍となると、憲英は「鍾士季(会)はどうして西方に出立するのですか?」と耽の甥の羊祜にいった。羊祜は「蜀を滅ぼそうとしてのことです」といった。憲英は「鍾会はことがあるとほしいままにふるまいます。人の下につく生き方を長く続けることはできないでしょう。わたしはかれが別の野心を持っていることをおそれているのです」といった。鍾会は出発しようとして、彼女の子の羊eを参軍にしようと願い出た。憲英は心配して「過日わたしは国のために心配しましたが、今日は難儀がわが家にやってきました」といった。羊eは文帝(司馬昭)に対して固辞したが、帝は聞き入れなかった。憲英は「行くのなら、このことに気をつけなさい!いにしえの君子は、家に入ると親に孝行し、出ると国に臣節を尽くしたものです。職務にあってはそのつかさどるところを思い、徳義にあってはその立脚するところを思って、父母に心配をかけさせませんでした。軍隊の間でやっていくには、優しさと思いやりがあるのみです!」と羊eにいった。鍾会は蜀にたどりつくとやはり反乱したが、羊eはけっきょく無事に帰ってきた。羊祜がかつて錦織りの夜着を彼女に送ったことがあったが、憲英はその華美なことを嫌い、これを裏返しにしてしまった。彼女の明察倹約ぶりはこのようなものであった。泰始五年(二六九)に亡くなり、享年は七十九だった。
杜有道妻嚴氏 
杜有道妻嚴氏,字憲,京兆人也。貞淑有識量。年十三,適於杜氏,十八而嫠居。子植、女韡並孤藐,憲雖少,誓不改節,撫育二子,教以禮度,植遂顯名於時,韡亦有淑コ,傅玄求爲繼室,憲便許之。時玄與何晏、ケ颺不穆,晏等毎欲害之,時人莫肯共婚。及憲許玄,内外以爲憂懼。或曰:「何、ケ執權,必爲玄害,亦由排山壓卵,以湯沃雪耳,奈何與之爲親?」憲曰:「爾知其一,不知其他。晏等驕侈,必當自敗,司馬太傅獸睡耳,吾恐卵破雪銷,行自有在。」遂與玄爲婚。晏等尋亦爲宣帝所誅。植後爲南安太守。 
杜有道の妻の厳氏は、字を憲といい、京兆郡の人である。おこない正しくしとやかで、見識と度量がそなわっていた。十三歳のとき、杜氏にとつぎ、十八歳でやもめ暮らしになった。子の杜植、娘の杜韡はそろって小さいまま残された。憲は若かったけれども、再婚しないことを誓い、ふたりの子どもをいつくしみ育てて、礼儀や節度を教えたので、杜植は成長すると世に名が知られるようになった。杜韡もまたつつましく、傅玄が後妻として求めたとき、憲はすぐさまこれを許した。ときに傅玄は何晏、ケ颺との関係がおだやかでなく、何晏らがいつも傅玄を害そうとしていたので、当時の人々で婚姻に賛成する者はいなかった。憲が傅玄の求婚を受け入れたので、杜家の内外の人々はおそれ心配した。ある人が「何晏、ケ颺が権力を握っており、必ずや傅玄は害されるでしょう。また山を押しのけて卵を押さえつけ、湯を雪にそそぐような無駄なおこないをするだけです。どうして傅玄と親戚になろうとするのです?」といった。憲は「あなたはその一を知っていますが、その他を知らないのです。何晏らはおごり高ぶって贅沢をしており、必ず自ら敗亡するでしょう。司馬太傅(司馬懿)のようすは獣が眠りについているだけで、わたしは卵が破れて雪が溶けるのを恐れるからこそ、自然なとおりに行うのです」といった。そのまま傅玄と結婚させた。何晏らはまもなく宣帝(司馬懿)により誅殺された。杜植はのちに南安太守となった。 
 
植從兄預爲秦州刺史,被誣,徴還,憲與預書戒之曰:「諺云忍辱至三公。卿今可謂辱矣,能忍之,公是卿坐。」〔一〕預後果爲儀同三司。玄前妻子咸年六歳,嘗隨其繼母省憲,謂咸曰:「汝千里駒也,必當遠至。」以其妹之女妻之。咸後亦有名於海内。其知人之鑒如此。年六十六卒。 
杜植の従兄の杜預が秦州刺史になったが、誣告されて、召しもどされた。憲は杜預に書を与えて「はずかしめに耐え忍べば三公に出世するとことわざに言います。あなたは今いわゆるはずかしめを受けていますが、よくこれを我慢なさい。あなたは大臣の座につけるでしょうよ」と戒めていった。杜預はのちにやはり儀同三司となった。傅玄の前妻の子の傅咸が年六歳で、かつてその継母に従って憲にご機嫌伺いしたことがあった。憲は「おまえは千里を走る名馬です。必ずや遠くにたどりつくでしょう」と咸にいった。憲の妹のむすめをかれにめあわせた。傅咸もまたのちに天下で有名になった。彼女の人を見る鑑識眼はこのようであった。享年六十六で亡くなった。
王渾妻鍾氏 
王渾妻鍾氏,字琰,潁川人,魏太傅繇曾孫也。父徽,黄門郎。琰數歳能屬文,及長,聰慧弘雅,博覽記籍。美容止,善嘯詠,禮儀法度爲中表所則。既適渾,生濟。渾嘗共琰坐,濟趨庭而過,渾欣然曰:「生子如此,足慰人心。」琰笑曰:「若使新婦得配參軍,生子故不翅如此。」參軍,謂渾中弟淪也。琰女亦有才淑,爲求賢夫。時有兵家子甚俊,濟欲妻之,白琰,琰曰:「要令我見之。」濟令此兵與羣小雜處,琰自幃中察之,既而謂濟曰:「緋衣者非汝所拔乎?」濟曰:「是。」琰曰:「此人才足拔萃,然地寒壽促,不足展其器用,不可與婚。」遂止。其人數年果亡。琰明鑒遠識,皆此類也。 
王渾の妻の鍾氏は、字を琰といい、潁川郡の人で、魏の太傅の鍾繇の曾孫である。父の鍾徽は、黄門郎となった。琰は数歳にして文章をつづるのをよくし、成長すると、かしこくて度量が大きく上品で、古典を広く渉猟して記憶していた。顔かたちの美しさをとどめ、歌をうたうのを得意とした。礼儀作法は手本にしっかり当てはまっていた。王渾にとつぐと、王済を生んだ。王渾がかつて琰とともに座っていたとき、王済が庭先を走り過ぎたので、王渾は喜んで「生まれた子がこのようであれば、人の心は慰められるものだ。」といった。琰は笑って「もしわたしが参軍どののところにとついでいれば、生まれた子はこんな程度ではなかったでしょう」といった。参軍とは、王渾の中の弟の王淪のことである。琰のむすめもまた才知にすぐれてしとやかであり、賢い夫を求めていた。ときに兵家の子にたいそうすぐれた者がいて、王済はこの人にめあわせたいと思い、琰に相談した。琰は「わたしにその人を見せてください」といった。王済は兵と小者たちが雑居しているところに連れていった。琰は帳の中からこれを観察し、まもなく王済に「緋色の衣の人がおまえの選んだ人ではないか?」といった。済は「はい」といった。琰は「この人の才能は飛び抜けてすぐれているが、環境が悪いので齢を早く取ってしまい、その才能を開花させられないでしょう。婚姻を結んではいけません」といった。こうして止めた。その人は数年してはたして亡くなった。琰が物事の善悪を見抜き将来まで見通す見識は、みなこのようなものであった。 
 
渾弟王湛妻郝氏亦有コ行,琰雖貴門,與郝雅相親重,郝不以賤下琰,琰不以貴陵郝,時人稱鍾夫人之禮,郝夫人之法云。
 
王渾の弟の王湛の妻の郝氏にもまた徳義にかなった行いがあり、琰は貴族の出だったけれども、郝氏といつも互いに親しみ尊重しあっていた。郝氏は身分がいやしいからといって琰にへりくだろうとせず、琰も身分が高いからといって郝氏の上に出ようとしなかった。ときの人は鍾夫人の礼、郝夫人の法といってたたえた。
鄭袤妻曹氏 
鄭袤妻曹氏,魯國薛人也。袤先娶孫氏,早亡,娉之爲繼室。事舅姑甚孝,躬紡績之勤,以充奉養,至於叔妹羣姊之間,盡其禮節,咸得歡心。及袤爲司空,其子默等又顯朝列,時人稱其榮貴。曹氏深懼盛滿,毎默等升進,輒憂之形於聲色。然食無重味,服浣濯之衣,袤等所獲祿秩,曹氏必班散親姻,務令周給,家無餘貲。 
鄭袤の妻の曹氏は、魯国薛県の人である。鄭袤は先に孫氏をめとったが、早く亡くなって、曹氏を後妻として求めた。みずから糸をつむいで働いて舅や姑を養う費用にあて、かれらにたいへん孝行に仕えた。義理の姉妹たちの間でも、礼節をつくしたので、みな喜び満足していた。鄭袤が司空となり、その子の鄭默らがまた朝廷の官の一員として名をあらわしてくると、時の人はかれらの栄耀尊貴なふうをたたえた。曹氏は勢力がさかんなことを深くおそれ、鄭默らが昇進するごとに、心配するようすを声と顔色にあらわした。そういうわけで食事は贅沢をせず、服は洗濯したものを着た。袤らが得た俸給は、曹氏が必ず親類や縁続きの人々に分け与えて、できるかぎりあまねくばらまかせたので、家には余分な財産がなかった。 
 
初,孫氏瘞於黎陽,及袤薨,議者以久喪難舉,欲不合葬。曹氏曰:「孫氏元妃,理當從葬,何可使孤魂無所依邪。」〔二〕於是備吉凶導從之儀以迎之,具衣衾几筵,親執雁行之禮,聞者莫不歎息,以爲趙姫之下叔隗,不足稱也。太康元年卒,年八十三。 
かつて、孫氏は黎陽に埋葬されていた。鄭袤が亡くなると、相談する人々は、孫氏は亡くなって長く経っているのでいっしょにするのは難しいだろうと、合葬させたがらなかった。曹氏は「孫氏は先妻でいらっしゃるのだから、道理からいっても陪葬されるべきです。どうしてひとり魂を寄る辺なきままにさせておけましょうか」といった。そこで吉凶導従の儀をととのえて先妻の遺体を迎え、祭式のための衣服や夜着や机や敷物を用意し、親しく雁行の礼を執り行ったので、聞いた者は嘆息しないではいられなかった。思うに趙姫が叔隗の下についた故事と比べても、たたえるに足りないだろう。太康元年(二八〇)に亡くなり、享年は八十三だった。
愍懷太子妃王氏 
愍懷太子妃王氏,太尉衍女也,字惠風。貞婉有志節。太子既廢居於金墉,衍請絶婚,惠風號哭而歸,行路爲之流涕。及劉曜陷洛陽,以惠風賜其將喬屬,屬將妻之。惠風拔劍距屬曰:「吾太尉公女,皇太子妃,義不爲逆胡所辱。」屬遂害之。 
愍懐太子(司馬遹)の妃の王氏は、太尉の王衍のむすめであり、字を恵風といった。貞淑で折り目正しい志をもっていた。太子が廃されて金墉城にうつされたので、王衍は離婚を願い出た。恵風は号泣したが実家に帰され、帰路を行くのに涙を流した。劉曜が洛陽を陥落させると、恵風をその将軍の喬属に賜ったので、喬属は彼女をめとろうとした。恵風は剣を抜いて属を遠ざけて、「わたしは太尉公のむすめで、皇太子妃だ。反逆者の胡族に辱められるような不義をなすものか」といった。喬属はかくして彼女を殺してしまった。
鄭休妻石氏 
鄭休妻石氏,不知何許人也。少有コ操,年十餘歳,郷邑稱之。既歸鄭氏,爲九族所重。休前妻女既幼,又休父布臨終,有庶子沈生,命棄之,〔三〕石氏曰:「奈何使舅之胤不存乎!」遂養沈及前妻女。力不兼舉,九年之中,三不舉子。 
鄭休の妻の石氏は、どこの出身の人か知られていない。若いのにかたい道徳心を持っていると、十数歳のころに、村里は彼女を評した。鄭家にとつぐと、親族に重んぜられた。鄭休の前妻のむすめがまだ幼く、また鄭休の父の鄭布が死の床にあって、庶子の鄭沈が生まれたので、これを捨てるよう命じたが、石氏は「どうして舅のお子をなきものにさせようか!」といった。そのまま鄭沈と前妻のむすめを養った。力があっても子どもには恵まれず、九年のうちで、三たび死産であった。
鄭休妻石氏 
鄭休妻石氏,不知何許人也。少有コ操,年十餘歳,郷邑稱之。既歸鄭氏,爲九族所重。休前妻女既幼,又休父布臨終,有庶子沈生,命棄之,〔三〕石氏曰:「奈何使舅之胤不存乎!」遂養沈及前妻女。力不兼舉,九年之中,三不舉子。 
鄭休の妻の石氏は、どこの出身の人か知られていない。若いのにかたい道徳心を持っていると、十数歳のころに、村里は彼女を評した。鄭家にとつぐと、親族に重んぜられた。鄭休の前妻のむすめがまだ幼く、また鄭休の父の鄭布が死の床にあって、庶子の鄭沈が生まれたので、これを捨てるよう命じたが、石氏は「どうして舅のお子をなきものにさせようか!」といった。そのまま鄭沈と前妻のむすめを養った。力があっても子どもには恵まれず、九年のうちで、三たび死産であった。
陶侃母湛氏 
陶侃母湛氏,豫章新淦人也。初,侃父丹娉爲妾,生侃,而陶氏貧賤,湛氏毎紡績資給之,使交結勝己。侃少爲尋陽縣吏,嘗監魚梁,以一坩鮓遺母。湛氏封鮓及書,責侃曰:「爾爲吏,以官物遺我,非惟不能u吾,乃以搆癡J矣。」鄱陽孝廉范逵寓宿於侃,時大雪,湛氏乃徹所臥新薦,自剉給其馬,又密截髮賣與鄰人,供肴饌。逵聞之,歎息曰:「非此母不生此子!」侃竟以功名顯。 
陶侃の母の湛氏は、豫章郡新淦県の人である。かつて、陶侃の父の陶丹が申しこんで妾とし、陶侃が生まれたが、陶家は貧しくて身分も低く、湛氏はいつも糸を紡いで金品を用だて、自分を犠牲にして交際を結ばせた。陶侃は若くして尋陽県の役人となったが、かつて魚捕りのしかけを見張って、ひとつぼの鮓(すし)を母に贈ったことがあった。湛氏は鮓を封じて手紙を送り、陶侃を責めて「おまえが役人になって、官のものをわたしに贈っているようでは、わたしを益することができないばかりか、かえってわたしの心配を増やしているのですよ」といった。鄱陽の孝廉の范逵が陶侃のところに泊まったことがあったが、ときに大雪となったので、湛氏はそこで寝所のすみずみまで新たに敷きつめなおし、自ら馬をさばいてふるまい、またひそかに髪を切って隣人に売り、酒のさかなとごちそうでもてなした。范逵はこれを聞いて嘆息して、「この母がいなければこの子は生まれなかったろう!」といった。陶侃はついに功名が世にあらわれた。
賈渾妻宗氏 
賈渾妻宗氏,不知何許人也。渾爲介休令,被劉元海將喬晞攻破,死之。宗氏有姿色,晞欲納之。宗氏罵曰:「屠各奴!豈有害人之夫而欲加無禮,於爾安乎?何不促殺我!」因仰天大哭。晞遂害之,時年二十餘。 
賈渾の妻の宗氏は、どこの出身の人か知られていない。賈渾が介休の県令となったとき、劉元海(劉淵)の将軍の喬晞に攻め破られ、任地で死んだ。宗氏は顔かたちがすぐれていたので、喬晞は彼女をめとろうとした。宗氏はののしって「匈奴のけだものめが!どうして人の夫を害しておいてその上無礼を加えようというのか、ああどうしてなのか?どうしてわたしをつかまえて殺さない!」といった。そこで天を仰いで大声で泣いた。喬晞はかくして彼女を殺してしまった。ときに年は二十あまりだった。
梁緯妻辛氏 
梁緯妻辛氏,隴西狄道人也。緯爲散騎常侍,西都陷沒,爲劉曜所害。辛氏有殊色,曜將妻之。辛氏據地大哭,仰謂曜曰:「妾聞男以義烈,女不再醮。妾夫已死,理無獨全。且婦人再辱,明公亦安用哉!乞即就死,下事舅姑。」遂號哭不止。曜曰:「貞婦也,任之。」乃自縊而死。曜以禮葬之。 
梁緯の妻の辛氏は、隴西郡狄道県の人である。梁緯が散騎常侍になると、西都が陥落し、劉曜に殺された。辛氏がことのほか美貌であったので、劉曜は彼女をめとろうとした。辛氏は地に突っ伏して大いに泣き、顔を見上げて「男は正義感の強いこと、女は再婚しないことと、わたしは聞いています。わたしの夫はすでに死に、ひとり命を全うする道理がありません。そのうえ婦人を再び辱め、殿はまたどうして用いようとされるのですか!いますぐにでも死んで、舅や姑に仕えさせていただきたくお願いします」と劉曜にいった。そのまま号泣してやまなかった。劉曜は「貞婦である。身の処し方は任そう」といった。そこで自ら首をくくって死んだ。劉曜は彼女を礼をもって葬った。
許延妻杜氏 
許延妻杜氏,不知何許人也。延爲u州別駕,爲李驤所害。驤欲納杜氏爲妻,杜氏號哭守夫尸,罵驤曰:「汝輩逆賊無道,死有先後,寧當久活!我杜家女,豈爲賊妻也!」驤怒,遂害之。 
許延の妻の杜氏は、どこの出身の人か知られていない。許延が益州別駕となったとき、李驤に殺された。李驤は杜氏を妻にしようとした。杜氏は号泣して夫の死体を守り、李驤をののしって「おまえたち逆賊は道徳心がないから、死に早い遅いがあれば、さぞ長生きがしたかろう!わたしは杜家のむすめで、死んだって賊の妻になぞなろうか!」といった。李驤は怒って、そのまま彼女を殺してしまった。
虞潭母孫氏 
虞潭母孫氏,呉郡富春人,孫權族孫女也。初適潭父忠,恭順貞和,甚有婦コ。及忠亡,遺孤藐爾,孫氏雖少,誓不改節,躬自撫養,劬勞備至。性聰敏,識鑒過人。潭始自幼童,便訓之忠義,故得聲望允洽,爲朝廷所稱。 
虞潭の母の孫氏は、呉郡富春県の人で、孫権の族孫のむすめである。かつて虞潭の父の虞忠にとついだ。慎み深く従順で、心根正しく穏和であって、女性としての深い徳をもっていた。虞忠が亡くなったとき、遺児はたいそう小さく、孫氏は若かったけれども、再婚しないと誓って、自らいつくしみ養って、成長するまで懸命に働いた。生まれつき賢くて物分かりがよく、物事の善悪を人よりはっきり見分けた。虞潭は幼いころより、まず忠義を教えられてきたので、このためあまねく広い声望をえて、朝廷にたたえられた。 
 
永嘉末,潭爲南康太守,値杜弢構逆,率衆討之。孫氏勉潭以必死之義,倶傾其資産以餽戰士,潭遂克捷。及蘇峻作亂,潭時守呉興,又假節征峻。孫氏戒之曰:「吾聞忠臣出孝子之門,汝當捨生取義,勿以吾老爲累也。」仍盡發其家僮,〔四〕令隨潭助戰,貿其所服環珮以爲軍資。於時會稽内史王舒遣子允之爲督護,孫氏又謂潭曰:「王府君遣兒征,汝何爲獨不?」潭即以子楚爲督護,與允之合勢。其憂國之誠如此。拜武昌侯太夫人,加金章紫綬。潭立養堂於家,王導以下皆就拜謁。咸和末卒,年九十五。成帝遣使弔祭,諡曰定夫人。 
永嘉(三〇七〜三一二)の末年、虞潭は南康太守となった。杜弢の謀反に遭うと、部下を率いてこれを討った。孫氏は死を賭けて忠義をはたすよう虞潭を励まし、そろってその資産を傾けて、戦う兵士たちに食糧を送り、虞潭はこうして勝つことができた。蘇峻が乱を起こしたとき、虞潭は呉興を守っていたので、また割り符を借りて蘇峻を征伐した。孫氏は虞潭を戒めて「忠臣は孝子の門から出ないとわたしは聞いています。おまえは生を捨てて義を取るべきです。わたしが老いているからといって足手まといにしてはいけません」といった。そのうえ家の召使いをことごとくつかわして、虞潭に随行させて戦いを助けさせ、彼女の着けているおび玉を換金して軍資とした。ときに会稽内史の王舒が子の王允之を派遣して督護としたので、孫氏はまた虞潭に「王府君(舒)は子どもを派遣して征伐させています。おまえがどうしてひとりそうしないことがありますか?」といった。虞潭はすぐに子の虞楚を督護として、王允之と軍勢を合流させた。彼女の国を憂うる志はこのようなものであった。武昌侯太夫人の位をいただき、金章紫綬を加えられた。虞潭が家に養堂を立てると、王導以下の人々がみな敬意をはらって面会におとずれた。咸和(三二六〜三三四)の末年に亡くなり、享年は九十五だった。成帝は使者をつかわして弔いその霊をまつった。諡を定夫人といった。
周母李氏 
周母李氏,字絡秀,汝南人也。少時在室,父浚爲安東將軍,時嘗出獵,遇雨,過止絡秀之家。會其父兄不在,絡秀聞浚至,與一婢於内宰猪羊,具數十人之饌,甚精辦而不聞人聲。浚怪使覘之,獨見一女子甚美,浚因求爲妾。其父兄不許,絡秀曰:「門戸殄瘁,何惜一女!若連姻貴族,將來庶有大u矣。」父兄許之。遂生及嵩、謨。而等既長,絡秀謂之曰:「我屈節爲汝家作妾,門戸計耳。汝不與我家爲親親者,吾亦何惜餘年!」等從命,由此李氏遂得爲方雅之族。 
周の母の李氏は、字を絡秀といい、汝南郡の人である。年若く実家にいたとき、周の父の周浚は安東将軍となっていた。周浚がかつて猟に出たとき、雨に遭って、絡秀の家でやり過ごそうとした。たまたま彼女の父兄が不在だったが、絡秀は周浚がやってきたと聞いて、ひとりの端女とともに奧で猪や羊をさばき、数十人のごちそうをそろえた。たいそう手際が行き届いていたにもかかわらず、人の声が聞こえなかった。周浚が怪しんで奧をのぞかせると、たいへん美しいひとりの女の子が見えただけだった。周浚はそこで彼女に妾となるよう求めた。彼女の父兄は許さなかったが、絡秀が「家門が病みおとろえているというのに、どうしてひとりのむすめを惜しむのでしょうか!もし貴族と姻戚となれれば、将来大きな利益をねがうこともできるでしょう」といったので、父兄はこれを許した。こうして周と周嵩と周謨を生んだ。周らが成長すると、絡秀は「わたしが節を曲げておまえたちの家の妾となったのは、実家のためを計っただけです。おまえたちがわたしの実家と親しくしないのなら、わたしはまたどうして余命を惜しみましょう!」と彼らにいった。周らは母の命に従ったので、これにより李氏はとうとう貴族となることができた。 
 
中興時,等並列顯位。嘗冬至置酒,絡秀舉觴賜三子曰:「吾本渡江,託足無所,不謂爾等並貴,列吾目前,吾復何憂!」嵩起曰:「恐不如尊旨。伯仁志大而才短,名重而識闇,好乘人之弊,此非自全之道。嵩性抗直,亦不容於世。唯阿奴碌碌,當在阿母目下耳。」阿奴,謨小字也。後果如其言。 
〔晋の〕中興のとき、周らはそろって高い地位に列した。かつて冬至に酒を置き、絡秀はさかずきをかかげて三人の息子に与えて「わたしは長江を渡った当初より、落ちつく場所もないものと思ってきました。意外にもおまえたちがそろって高い身分となり、わたしの目の前にならんでいるのをみると、わたしはもう何の心配がありましょうか!」といった。周嵩が立ち上がって「おそれながらおっしゃるとおりではありません。伯仁(周)の志は大きいですが才能はとぼしく、名は重きをなしていますが識見はくらく、人の悪いところに乗じるきらいがあります。これは自らを全うする道ではありません。わたくし周嵩は性格が愚直で人と衝突するきらいがあり、また世に容れられないでしょう。ただ阿奴だけが平凡でものの役に立たないので、母上のそばにいることができるでしょう」といった。阿奴は、周謨の幼名である。のちにやはり周嵩の言ったとおりになった。
張茂妻陸氏 
張茂妻陸氏,呉郡人也。茂爲呉郡太守,被沈充所害,陸氏傾家産,率茂部曲爲先登以討充。充敗,陸詣闕上書,爲茂謝不克之責。詔曰:「茂夫妻忠誠,舉門義烈,宜追贈茂太僕。」 
張茂の妻の陸氏は、呉郡の人である。張茂が呉郡太守となって、沈充に殺されると、陸氏は一家の財産を傾けて、張茂の部曲を率い先頭に立って沈充を討った。沈充が敗れると、陸氏は宮廷をおとずれて意見書をたてまつり、張茂が勝利できなかった責任を陳謝した。詔に「張茂の夫妻は忠誠で、一門挙げて正義心が強い。張茂に太僕の位を追贈するのがよかろう」といった。
尹虞二女 
尹虞二女,長沙人也。虞前任始興太守,起兵討杜弢,戰敗,二女爲弢所獲,並有國色,弢將妻之。女曰:「我父二千石,終不能爲賊婦,有死而已!」弢並害之。 
尹虞のふたりのむすめは、長沙郡の人である。尹虞がさきに始興郡太守に任ぜられたとき、起兵して杜弢を討ったが、戦い敗れて、ふたりのむすめは杜弢に捕らえられた。そろって国有数の美貌をもっていたので、弢は彼女らをめとろうとした。むすめたちは「わたしの父は郡太守ですから、どうあっても賊の妻になることはできません。死あるのみです!」といった。杜弢はそろって彼女らを殺した。
荀ッ小女灌 
荀ッ小女灌,幼有奇節。ッ爲襄城太守,爲杜曾所圍,力弱食盡,欲求救於故吏平南將軍石覽,計無從出。灌時年十三,乃率勇士數十人,踰城突圍夜出。賊追甚急,灌督寺虫m,且戰且前,得入魯陽山獲免。自詣覽乞師,又爲ッ書與南中郎將周訪請援,仍結爲兄弟,訪即遣子撫率三千人會石覽倶救ッ。賊聞兵至,散走,灌之力也。 
荀ッのすえむすめの灌は、幼くして非凡なふしがあった。荀ッが襄城郡太守になると、杜曾に包囲されて、味方が弱く、糧食も尽きてしまった。もと部下で平南将軍の石覧に救援を求めようと思ったが、抜け出る方法がなかった。灌はときに年が十三だったが、そこで勇士数十人を率いて、城の囲みを越えて夜中に脱出した。賊はすばやく追いすがってきたが、灌は将士を督励して、かつ戦いかつ進み、魯陽山に入って逃れることができた。自ら石覧のもとを訪れて援軍を求め、また荀ッの手紙をつくって南中郎将の周訪に救援を請い、義兄弟のちぎりを結ばせた。周訪はただちに子の周撫に三千人を率いさせて石覧と合流させ、ともに荀ッを救援した。援軍が来たと聞いて賊が逃げ散ったのは、灌のはたらきである。
王凝之妻謝氏 
王凝之妻謝氏,字道韞,安西將軍奕之女也。聰識有才辯。叔父安嘗問:「毛詩何句最佳?」道韞稱:「吉甫作頌,穆如清風。仲山甫永懷,以慰其心。」安謂有雅人深致。又嘗内集,俄而雪驟下,安曰:「何所似也?」安兄子朗曰:「散鹽空中差可擬。」道韞曰:「未若柳絮因風起。」安大ス。 
王凝之の妻の謝氏は、字を道韞といい、安西将軍の謝奕のむすめである。かしこくて見識があり、弁論の才能があった。叔父の謝安がかつて「「毛詩」はどの句が最も優れているだろうか?」と尋ねたことがあった。道韞は「(尹)吉甫は頌(賛美詩)をなし、清風のようにおだやかです。仲山甫は永懐(永遠の思い)で、その心を慰めます」とたたえた。謝安は雅をもつ人であってはじめて行きつく深遠な境地だといった。またかつて親族が集ったとき、急ににわか雪が降ってくると、謝安は「何に似ているだろうか?」といった。謝安の兄の子の謝朗は「塩を空中に散らすのになぞらえるべきでしょうか」といった。道韞は「柳絮が風によって舞い上がるのに及びますまい」といった。謝安はたいそう喜んだ。 
 
初適凝之,還,甚不樂。安曰:「王郎,逸少子,不惡,汝何恨也?」答曰:「一門叔父則有阿大、中郎,羣從兄弟復有封、胡、羯、末,不意天壤之中乃有王郎!」封謂謝韶,〔五〕胡謂謝朗,羯謂謝玄,末謂謝川,皆其小字也。又嘗譏玄學植不進,曰:「爲塵務經心,爲天分有限邪?」凝之弟獻之嘗與賓客談議,詞理將屈,道韞遣婢白獻之曰:「欲爲小郎解圍。」乃施綾歩鄣自蔽,申獻之前議,客不能屈。 
かつて王凝之にとついで、実家に帰ったとき、楽しくなさそうにしていた。謝安は、「王(凝之)どのは、逸少(王羲之)の子で、悪くない人物だが、おまえは何が恨めしいのかね?」といった。答えて「一門の叔父には阿大(謝安)、中郎(謝万)がおられ、従兄弟たちにはまた封、胡、羯、末がおりますが、まさか天地の中に王君〔のようなだめな人〕がいるとは思いませんでした!」といった。封とは謝韶のことであり、胡とは謝朗のことであり、羯とは謝玄のことであり、末とは謝川のことである。みなその小字(幼名)である。またかつて謝玄の学問が進まないのをけなして、「雑事に心をとらわれているのですか、天分に限りがあるのですか?」といった。王凝之の弟の王献之が、かつて賓客と談議して、詩文の理論でやりこめられそうになった。道韞は端女をつかわして王献之に申し上げて「あなたのために囲みを解こうと思います」といった。そこで青いあやぎぬの幕をほどこして自分を覆い隠し、議論の展開に先立って王献之に申しのべると、客はやりこめることができなかった。 
 
及遭孫恩之難,舉厝自若,既聞夫及諸子已爲賊所害,方命婢肩輿抽刃出門,亂兵稍至,手殺數人,乃被虜。其外孫劉濤時年數歳,賊又欲害之,道韞曰:「事在王門,何關他族!必其如此,寧先見殺。」恩雖毒虐,爲之改容,乃不害濤。自爾嫠居會稽,家中莫不嚴肅。太守劉柳聞其名,請與談議。道韞素知柳名,亦不自阻,乃簪髻素褥坐於帳中,柳束脩整帶造於別榻。道韞風韵高邁,敍致清雅,先及家事,慷慨流漣,徐酬問旨,詞理無滯。柳退而歎曰:「實頃所未見,瞻察言氣,使人心形倶服。」道韞亦云:「親從凋亡,始遇此士,聽其所問,殊開人胸府。」 
孫恩の乱に遭遇したが、立ち居振る舞いは落ちついていた。夫と諸子がすでに賊に害されたと聞くと、そのとき婢に命じて輿をかつがせ、刃を抜いて門を出て、乱兵がいくらかやってくると、手ずから数人を殺して、そこでようやく捕らえられた。彼女の外孫の劉涛がときに年数歳で、賊はまたこれをも害そうとしたが、道韞は「問題は王家にあり、どうして他族に関わりがありましょうか!どうしてもそのようなことをするというなら、私が先に殺されるがましです」といった。孫恩はひどく残虐であるが、彼女の言葉を聞いて態度を改めて、劉涛を殺さないことにした。この事件以後は会稽でやもめ暮らしをしていたが、家中は厳しくおごそかでないことがなかった。太守劉柳は彼女の名を聞いて、ともに談議したいと願い出た。道韞はもともと劉柳の名を知っていたので、険阻なところを苦にもせずやってきた。そしてもとどりにかんざしを刺しただけの飾り気ない姿で、とばりの中に座った。劉柳は贈り物を用意し身なりを整え、別の長椅子で〔威厳を〕つくろった。道韞は人柄がみやびやかで抜きんでてすぐれており、述べるおもむきは清らかで上品であった。話の先が家のことに及ぶと、興奮して嘆き、涙がつきなかった。問われたことに余裕をもって答え、言葉のすじみちが滞ることがなかった。劉柳は退いて「本当に近頃は見ることのないようなかただ。言気を仰ぎ見ると、人の心と形をともに従わせてしまう」と嘆いていった。道韞はまた「親族が亡くなってからというもの、はじめてこのような方にお会いして、その問われるところを拝聴すると、とりわけ人の胸中を開いた心持ちがします」といった。初,同郡張玄妹亦有才質,適於顧氏,玄毎稱之,以敵道韞。有濟尼者,游於二家,或問之,濟尼答曰:「王夫人神情散朗,故有林下風氣。顧家婦清心玉映,自是閨房之秀。」道韞所著詩賦誄頌並傳於世。かつて、同郡の張玄の妹もまた才能と性格がすぐれており、顧氏にとついだ。張玄はいつも道韞に匹敵する女性として彼女をたたえていた。王・顧の両家で遊んだ済尼という者がいて、ある人がこのことを尋ねると、済尼は「王夫人は心情が明るくほがらかで、生来林の下に風があるようなさっぱりしたおかたです。顧家の妻は心の清らかなこと玉に映った影のようで、学芸にすぐれた才媛でいらっしゃいます」と答えていった。道韞の著した詩賦誄頌はそろって世に伝えられた。
劉臻妻陳氏 
劉臻妻陳氏者,亦聰辯能屬文。嘗正旦獻椒花頌,其詞曰:「旋穹周迴,三朝肇建。陽散輝,澄景載煥。標美靈葩,爰採爰獻。聖容映之,永壽於萬。」又撰元日及冬至進見之儀,行於世。 
劉臻の妻の陳氏は、またかしこくて弁が立ち、文章をつづるのを得意とした。かつて元旦に「椒花頌(さんしょうの花を讃える)」を献上し、その詞に「天幕をめぐって周回し、夏殷周の三王朝がはじめて建国されました。春の太陽は散り輝き、澄んだ景色が広がりかがやきます。こずえに美しく霊妙な花、ここに取ってここに献上します。おかんばせがこの花を映せば、天子さまには長生きされましょう」といった。また元日と冬至の進見の儀で〔詩文を〕選んで、世に行われた。
皮京妻龍氏 
皮京妻龍氏,字憐,西道縣人也。年十三適京,未逾年而京卒,京二弟亦相次而隕,既無胤嗣,又無朞功之親。憐貨其嫁時資裝,躬自紡織,數年間三喪倶舉,葬斂既畢,毎時享祭無闕。州里聞其賢,屢有娉者,憐誓不改醮,守節窮居五十餘載而卒。 
皮京の妻の龍氏は、字を憐といい、西道県の人である。年が十三で皮京にとつぎ、年が越えないうちに皮京が亡くなり、皮京のふたりの弟もまた相次いで亡くなったので、そのまま後継ぎとするものもなく、またひとしきり世話をする親もなかった。憐は彼女が嫁いできたときの衣装を金に換え、自ら機織りをして、数年間に三度の喪を挙げて、葬り終わると、時節ごとの祭祀を欠かすことがなかった。村里は彼女が賢いと聞いて、しばしば求婚するものがいたが、憐は決して再嫁することがなかった。節を守って質素に暮らし、五十歳あまりで亡くなった。
何無忌母劉氏 
何無忌母劉氏,征虜將軍建之女也。少有志節。弟牢之爲桓玄所害,劉氏毎銜之,常思報復。及無忌與劉裕定謀,而劉氏察其舉厝有異,喜而不言。會無忌夜於屏風裏制檄文,劉氏潛以器覆燭,徐登橙於屏風上窺之,既知,泣而撫之曰:「我不如東海呂母明矣!既孤其誠,常恐壽促,汝能如此,吾讐恥雪矣。」因問其同謀,知事在裕,彌喜,乃説桓玄必敗、義師必成之理以勸勉之。後果如其言。 
何無忌の母の劉氏は、征虜将軍の劉建のむすめである。若くして折り目正しい志をもっていた。弟の劉牢之が桓玄に殺されたので、劉氏はこのことを思うたびに、いつも報復を考えていた。何無忌が劉裕とともに〔桓玄打倒の〕謀を定めると、劉氏は何無忌の挙動がおかしいことに気づいて、喜びながらも言わなかった。ちょうど何無忌が夜に屏風の裏で檄文を推敲していたとき、劉氏はこっそりと蝋燭の明かりを器で覆い、ゆっくりと腰掛けに登って屏風の上からこのようすをのぞき見した。〔密事を〕知ったのち、泣きながら息子を撫でて「わたしは東海の呂母の知恵にも及びません!すっかり真情にそむいて、いつも寿命が縮まることを恐れていました。おまえがこのようなことを成し遂げられたら、わたしはかたきの恥をそそぐことができます。」といった。そこでその謀に同心している者のことを問いただし、事〔の中心〕に劉裕がいることを知るとますます喜び、そこで桓玄が必ず敗れ義軍が必ず成功する道理を説いて、義軍への勧誘につとめた。後にやはりその言葉のとおりとなった。
劉聰妻劉氏 
劉聰妻劉氏,名娥,字麗華,偽太保殷女也。幼而聰慧,晝營女工,夜誦書籍,傅母恒止之,娥敦習彌氏B毎與諸兄論經義,理趣超遠,諸兄深以歎伏。性孝友,善風儀進止。 
劉聡の妻の劉氏は、名を娥、字を麗華といい、偽朝(漢)の太保劉殷のむすめである。幼いころから物わかりがよくてかしこく、昼は女の手仕事をし、夜は書籍を口ずさんでいた。守り役の女性はいつもこれを止めていたが、娥は習いおさめてますます励んだ。兄たちと経典の解釈を議論するたびに、意義理解は深遠で、兄たちは深く感服していた。性格は親を大切にしてつき合いがよく、身のこなしはめりはりが利いてよろしかった。 
 
聰既僭位,召爲右貴嬪,甚寵之。俄拜爲后,將起儀殿以居之,其廷尉陳元達切諫,聰大怒,將斬之。娥時在後堂,私敕左右停刑,手疏啓曰:「伏聞將爲妾營殿,今昭コ足居,儀非急。四海未一,禍難猶繁,動須人力資財,尤宜愼之。廷尉之言,國家大政。夫忠臣之諫,豈爲身哉?帝王距之,亦非顧身也。妾仰謂陛下上尋明君納諫之昌,下忿闇主距諫之禍,宜賞廷尉以美爵,酬廷尉以列土,如何不惟不納,而反欲誅之?陛下此怒由妾而起,廷尉之禍由妾而招,人怨國疲,咎歸於妾,距諫害忠,亦妾之由。自古敗國喪家,未始不由婦人者也。妾毎覽古事,忿之忘食,何意今日妾自爲之!後人之觀妾,亦猶妾之視前人也,復何面目仰侍巾櫛,請歸死此堂,以塞陛下誤惑之過。」聰覽之色變,謂其羣下曰:「朕比得風疾,喜怒過常。元達,忠臣也。朕甚愧之。」以娥表示元達曰:「外輔如公,内輔如此后,朕無憂矣。」及娥死,偽諡武宣皇后。 
劉聡が帝位を僭称したのち、彼女を召しだして右貴嬪とし、たいそう寵愛した。にわかに皇后に立て、彼女を住まわせるための儀殿を建てようとしたところ、その廷尉の陳元達が強く諫言したので、劉聡はたいそう怒り、かれを斬ろうとした。娥はときに後堂にいて、ひそかに側近に命じて刑の執行を止めさせ、手ずから意見書をたてまつって「伏して聞きましたところではわたしのために宮殿を営もうとなさっているとか、いま昭徳殿に身を置いていますので、儀殿は急ぐ必要がありません。四海(天下)はいまだ統一されず、禍や災難はまだ頻繁に起こっているのですから、人力や資産を動かしもちいるときには、もっとも慎重にならなくてはなりません。廷尉のことばは、国家の政治の大局にかなうものです。それは忠臣の諫言であり、どうして身のためでしょうか?帝王がこれを遠ざけても、また身をかえりみることにはならないのです。わたしが陛下に申し上げたいのは、上には明君が諫言を納れる盛事をたずね、下には暗君が諫言を遠ざける災禍に怒るということです。廷尉をすぐれた爵位で賞し、廷尉を封土でもって報いるのがよろしいでしょうに、どうして意見をお容れにならないだけでなく、かえってかれを殺そうとなさるのですか?陛下がこれわたしのためにお怒りになってなさるのであれば、廷尉の禍はわたしより招いたものです。人は怨み国は疲弊して、罪はわたしに帰するでしょう。諫言を遠ざけ忠臣を害するのも、またこれもわたしのせいでしょう。いにしえから国を敗亡させ家を失わせるに、婦人から始まらなかった例はありません。わたしはいにしえの事跡をみるたびに、食事を忘れるほどの怒りを感じてきましたが、どんな意があって今日わたしが自ら同じことをやるのでしょう!後人がわたしを見るのに、またわたしが以前の亡国の婦人たちを見たのと同様であれば、また何の面目があって髪を飾ってお仕えしておれましょう。陛下を誤らせ惑わせた罪をふさぐためにも、この堂で死なせていただくようお願いします。」と申し上げた。劉聡はこれを見て顔色を変えて、その群臣たちに「朕は病気にかかっていて、喜怒の感情がふつうでなかった。陳元達は忠臣である。朕はこのことをたいへん後悔している」といった。娥を顔見せして「外朝で公のようなものが助けてくれて、内朝でこの后のようなものが助けてくれれば、朕は心配することがない」と陳元達にいった。娥が死んだとき、偽朝の諡を武宣皇后といった。 
 
其姊英,字麗芳,亦聰敏渉學,而文詞機辯,曉達政事,過於娥。初與娥同召拜左貴嬪,尋卒,偽追諡武コ皇后。 
その姉の英は、字を麗芳といい、またかしこくて物わかりが早く、学問を渉猟して、詩文をつくってたくみに論じ、政治にも通暁しているようすは、娥にも勝っていた。かつて娥とともに同じく召されて左貴嬪に任ぜられ、まもなく亡くなり、偽朝により武徳皇后と諡を追贈された。
王廣女 
王廣女者,不知何許人也。容質甚美,慷慨有丈夫之節。廣仕劉聰,爲西揚州刺史。蠻帥梅芳攻陷揚州,而廣被殺。王時年十五,芳納之。俄於闇室撃芳,不中,芳驚起曰:「何故反邪?」王罵曰:「蠻畜!我欲誅反賊,何謂反乎?吾聞父仇不同天,母仇不同地,汝反逆無状,害人父母,而復以無禮陵人,吾所以不死者,欲誅汝耳!今死自吾分,不待汝殺,但恨不得梟汝首於通逵,以塞大恥。」辭氣猛氏C言終乃自殺,芳止之不可。 
王広のむすめは、どこの出身の人か知られていない。顔かたちがたいへん美しく、気概は男まさりのふしがあった。王広が劉聡に仕えて、西揚州刺史となった。南方異民族の将軍の梅芳が揚州を攻め落とすと、王広は殺された。王氏はときに十五歳で、梅芳は彼女を妻にしようとした。彼女は不意をついて暗い部屋で芳を討とうとしたが、当たらなかった。梅芳は驚いて起きて「どうしてさからうのか?」といった。王氏はののしって「けだものめ!わたしこそさからった賊を殺そうとしているのに、どうしてわたしがさからったというのか?父の仇とは同じ天を戴かない、母の仇とは同じ地を踏まないと、わたしは聞いている。おまえはよしなくも反逆し、人の父母を害し、しかもまた無礼にも人を痛めつけようとしている。わたしが死なずにいるのは、おまえを殺したいがためだけだ!いま死ぬのはもとよりわたしの天分で、おまえが殺すのを待ってはいられない。おまえの首を道端にさらすことができなかったのがただ心残りだが、死んで大いなる恥をふさごう。」といった。語気はげしく、言い終えると自殺した。梅芳はこれを止めようとしてできなかった。
陝婦人 
陝婦人,不知姓字,年十九。劉曜時嫠居陝縣,事叔姑甚謹,其家欲嫁之,此婦毀面自誓。後叔姑病死,其叔姑有女在夫家,先從此婦乞假不得,因而誣殺其母,有司不能察而誅之。時有羣鳥悲鳴尸上,其聲甚哀,盛夏暴尸十日,不腐,亦不爲蟲獸所敗,其境乃經歳不雨。曜遣呼延謨爲太守,既知其冤,乃斬此女,設少牢以祭其墓,諡曰孝烈貞婦,其日大雨。 
陝婦人は、姓と字が知られていない。年は十九であった。劉曜のとき、陝県でやもめ暮らしをしていた。叔母にたいそうまめまめしく仕えたので、その家は婦人を再婚させようとしたが、この婦人は自ら顔を傷つけて再嫁しないことを誓った。のちに叔母が病死すると、その叔母にむすめがあって夫の家にいたが、以前この婦人から暇をもらおうとしてもらえなかったことを恨んでいたので、婦人がむすめの母を殺したのだと誣告した。役人は真相を察することができず、婦人を処刑した。ときに鳥の群れが死体の上で悲しい鳴き声をあげ、その声はたいへん哀れだった。盛夏に死体を十日さらしたのに、腐らなかった。虫やけものも傷つけることがなく、そのあたりはついに年中雨が降らなかった。劉曜が呼延謨を派遣して太守とすると、婦人の冤罪であることが知られた。誣告したむすめを斬って、生け贄を捧げて婦人の墓をまつり、諡して孝烈貞婦といった。その日、大雨となった。
靳康女 
靳康女者,不知何許人也。美姿容,有志操。劉曜之誅靳氏,將納靳女爲妾,靳曰:「陛下既滅其父母兄弟,復何用妾爲!妾聞逆人之誅也,尚汚宮伐樹,而況其子女乎!」因號泣請死,曜哀之,免康一子。 
靳康のむすめは、どこの出身の人か知られていない。姿かたちが美しく、操が堅かった。劉曜が靳氏を誅殺すると、靳氏のむすめを妾として後宮にいれようとした。靳氏は「陛下はすでにわたしの父母兄弟を滅ぼしておしまいになり、またなんでわたしを用いようとなさるのですか!反逆者を誅殺すると、宮殿を汚した樹でさえ斬るとわたしは聞いています。ましてやその子女を斬らないことがありましょうか!」といった。号泣して死を願ったので、劉曜はこれを哀れんで、靳康の一子を赦免してやった。
韋逞母宋氏 
韋逞母宋氏,不知何郡人也,家世以儒學稱。宋氏幼喪母,其父躬自養之。及長,授以周官音義,謂之曰:「吾家世學周官,傳業相繼,此又周公所制,經紀典誥,百官品物,備於此矣。吾今無男可傳,汝可受之,勿令絶世。」屬天下喪亂,宋氏諷誦不輟。 
韋逞の母の宋氏は、どこの郡の人か知られていない。家は代々儒学を伝えて名を挙げていた。宋氏は幼いとき母を失い、宋氏の父が自ら彼女を養った。成長すると、「周官」の読みと意味を伝授して、彼女に「わが家は代々「周官」を学んで、伝える仕事を継承してきた。これはまた周公が決められたことで、基本的なきまりや古い詔、百官の等級分類、ここに備わっている。わたしには今伝えるべき男がいないので、おまえがこれを受けるべきだ。決しておまえの代で絶やしてはいけないよ。」といった。天下が争乱のさなかにあっても、宋氏は暗誦することをやめなかった。 
 
其後爲石季龍徙之於山東,宋氏與夫在徙中,推鹿車,背負父所授書,到冀州,依膠東富人程安壽,壽養護之。逞時年小,宋氏晝則樵採,夜則教逞,然紡績無廢。壽毎歎曰:「學家多士大夫,得無是乎!」逞遂學成名立,仕苻堅爲太常。堅嘗幸其太學,問博士經典,乃憫禮樂遺闕。時博士盧壼對曰:「廢學既久,書傳零落,比年綴撰,正經粗集,唯周官禮注未有其師。竊見太常韋逞母宋氏世學家女,傳其父業,得周官音義,今年八十,視聽無闕,自非此母無可以傳授後生。」於是就宋氏家立講堂,置生員百二十人,隔絳紗幔而受業,號宋氏爲宣文君,賜侍婢十人。周官學復行於世,時稱韋氏宋母焉。〔七〕 
そののち、石季龍(石虎)のために山東へ移住させられることとなった。宋氏は夫とともに引っ越しのさなか、小さな車を押し、書を授けた父を背負って、冀州にいたった。膠東の富人の程安寿を頼ると、程安寿はかれらを養い庇護した。韋逞はときに年少であったが、宋氏が昼にはたきぎ取りをし、夜には韋逞を教えて、しかるに糸つむぎの仕事もやめることがなかった。程安寿はいつも感嘆して「学問をする家には士大夫が多いが、このようなのはおるまいか」といっていた。韋逞はかくして学問が成り功名を立てて、苻堅に仕えて太常となった。苻堅がかつてその太学に御幸し、博士に経典のことを質問して、礼楽に欠落があるのを残念がった。ときに博士の盧壼が答えて「学問がすたれてすでに長らく経ち、いにしえの書や注釈もさびれてしまいました。近年になってつづり撰ばれて、正しい経典はおおよそ集まったものの、ただ「周官礼注」にまだその師がありません。私見として申し上げれば、太常韋逞の母の宋氏が代々学問の家の女で、その父の学業を伝え、「周官」の読みと意味を習得して、今年八十になり、耳目も支障がないので、この母以外に後学の諸生に伝えることのできるものはおりません」といった。そこですぐに宋氏の家に講堂を立て、学生百二十人を置き、赤いうすぎぬの幕を隔てて授業をおこなった。宋氏を号して宣文君とし、端女十人を賜った。周官の学が再び世に行われ、ときに韋氏宋母(韋母宋氏の誤り)と称された。
張天錫妾閻氏薛氏 
張天錫妾閻氏、薛氏,並不知何許人也,咸有寵於天錫。天錫寢疾,謂之曰:「汝二人將何以報我?吾死後,豈可爲人妻乎!」皆曰:「尊若不諱,妾請效死,供灑掃地下,誓無他志。」及其疾篤,二姫皆自刎。天錫疾瘳,追悼之,以夫人禮葬焉。 
張天錫の妾の閻氏と薛氏は、そろってどこの出身の人か知られていない。ともに張天錫に寵愛を受けた。張天錫が病のために床につくと、彼女たちに「おまえたち二人はどうやって私に報いてくれるのか?わたしの死後、他人の妻になるのがよいか!」といった。ふたりは「お上がもし亡くなるようなことがあれば、わたしたちは命を捨て、地下を掃除してさしあげること、誓ってほかの志を持っておりません」といった。張天錫の病が重くなると、ふたりの姫はともに自刎した。張天錫の病が癒えると、彼女たちを追悼し、夫人の礼で葬らせた。
苻堅妾張氏 
苻堅妾張氏,不知何許人,明辯有才識。堅將入寇江左,羣臣切諫不從。張氏進曰:「妾聞天地之生萬物,聖王之馭天下,莫不順其性而暢之,故黄帝服牛乘馬,因其性也;禹鑿龍門,決洪河,因水之勢也;后稷之播殖百穀,因地之氣也;湯武之滅夏商,因人之欲也。是以有因成,無因敗。今朝臣上下皆言不可,陛下復何所因也?書曰:「天聰明自我民聰明。」天猶若此,況於人主乎!妾聞人君有伐國之志者,必上觀乾象,下採衆祥。天道崇遠,非妾所知。以人事言之,未見其可。諺言:「雞夜鳴者不利行師,犬羣嘷者宮室必空,兵動馬驚,軍敗不歸。」秋冬已來,毎夜羣犬大嘷,衆雞夜鳴,伏聞廐馬驚逸,武庫兵器有聲,吉凶之理,誠非微妾所論,願陛下詳而思之。」堅曰:「軍旅之事非婦人所豫也。」遂興兵。張氏請從。堅果大敗於壽春,張氏乃自殺。 
苻堅の妾の張氏は、どこの出身の人か知られていない。はっきりと善悪を区別し、才知と識見があった。苻堅が江左(江東)に攻め入ろうとすると、群臣は固く諫めて従わなかった。張氏は進言して「天地が万物を生み、聖王が天下を馭すると、わたしは聞いています。その性質にしたがわないで、のびやかにいられるものはありません。だから黄帝が牛に寄り添って馬に乗ったのは、その性質によるものです。禹が龍門をうがって、黄河の大量の水を流させたのは、水の勢いによるものです。周の后稷が多くの穀物の種をまき、苗を植えたのは、地の気によるものです。殷の湯王が夏を滅ぼし、周の武王が商を滅ぼしたのは、人の欲によるものです。それゆえに拠りどころのあるものは成功し、拠りどころのないものは失敗します。いま朝臣の上下はみないけないと言っておりますのに、陛下にはまた何の拠りどころがあるのでしょうか?「尚書」では「天が聡明なのは我が民が聡明なのによっている」と言っています。天でさえこのようであるのに、どうして人主がそうでないことがありましょうか!人君が国を討とうという志をもつときは、必ず上に天のしるしを観察し、下に多くのきざしを採るとわたしは聞いています。天の道は気高く遠大であって、わたしの知るところではありません。人間社会の事柄できざしを言えば、まだそのよろしいものを見ていません。諺に「鶏が夜に鳴くのは行軍に利がなく、犬の群れが吠えると必ず宮殿の部屋は空っぽになり、兵が動揺し馬が驚くと、軍は敗れて帰ることがない」と言います。年の暮れがやってきて、夜ごとに犬の群れが大いに吠えたて、多くの鶏が夜に鳴き、厩舎の馬が驚いて逃げようとするのがひそかに聞こえ、武器庫の兵器に物音が立っています。吉凶のことわりは、実にわたしごときが論ずるところではありませんが、陛下にはこのことを詳しく思いおこしていただくようお願いします」といった。苻堅は「戦争のことは婦人の関わり合うところではない」といった。そのまま兵を起こした。張氏は従軍を願い出た。堅がやはり寿春で大敗すると、張氏は自殺した。
竇滔妻蘇氏 
竇滔妻蘇氏,始平人也,名宦C字若蘭。善屬文。滔,苻堅時爲秦州刺史,被徙流沙,蘇氏思之,織錦爲迴文旋圖詩以贈滔。宛轉循環以讀之,詞甚悽惋,凡八百四十字,文多不録。 
竇滔の妻の蘇氏は、始平郡の人であり、名を宦A字を若蘭といった。文章をつづるのを得意とした。竇滔は、苻堅のとき秦州刺史となり、砂漠の地にうつされた。蘇氏は夫を思い、機織りをしながら回文旋図の詩をつくって竇滔に贈った。ぐるぐると転がしながらこれを読むと、詞はたいそうもの悲しいもので、およそ八百四十字、文の多くは記録に残されなかった。
苻登妻毛氏 
苻登妻毛氏,不知何許人,壯勇善騎射。登爲姚萇所襲,營壘既陷,毛氏猶彎弓跨馬,率壯士數百人,與萇交戰,殺傷甚衆。衆寡不敵,爲萇所執。萇欲納之,毛氏罵曰:「吾天子后,豈爲賊羌所辱,何不速殺我!」因仰天大哭曰:「姚萇無道,前害天子,今辱皇后,皇天后土,寧不鑒照!」萇怒,殺之。 
苻登の妻の毛氏は、どこの出身の人か知られていない。意気盛んで勇ましく騎射をよくした。苻登が姚萇に襲われて、とりではすでに陥落したのに、毛氏はなお弓を引きしぼって馬にまたがり、数百人を率いて姚萇と交戦して、おびただしい人々を殺傷した。しかし衆寡敵せず、姚萇に捕らえられた。姚萇が彼女を後宮に納めようとしたので、毛氏はののしって「わたしは天子の后だ。どうして賊の羌に辱められたりしようか。なんで早くわたしを殺さないか!」といった。そこで天を仰いで大声で泣いて「姚萇は無道で、さきに天子(苻堅)を害し、今は皇后を辱めようとしています。皇天后土、どうかご覧にならないでいただきたい!」といった。姚萇は怒って、彼女を殺した。
慕容垂妻段氏 
慕容垂妻段氏,字元妃,偽右光祿大夫儀之女也。少而婉慧,有志操,常謂妹季妃曰:「我終不作凡人妻。」季妃亦曰:「妹亦不爲庸夫婦。」鄰人聞而笑之。垂之稱燕王,納元妃爲繼室,遂有殊寵。偽范陽王コ亦娉季妃焉。姊妹倶爲垂、コ之妻,卒如其志。垂既僭位,拜爲皇后。 
慕容垂の妻の段氏は、字を元妃といい、偽朝(前燕)の右光禄大夫段儀のむすめである。年若いときからしとやかでかしこく、高い志をもっていた。いつも妹の季妃に「わたしはどう終わっても凡人の妻にはなりませんよ」といっていた。季妃もまた「わたしもやはりふつうの男の妻にはなりませんとも」といった。隣人はこれを聞いて笑っていた。慕容垂が燕王を称すると、元妃をおさめて後妻とし、こうして格別の寵愛があった。偽朝の范陽王の慕容徳もまた季妃をめとった。姉妹はともに慕容垂、慕容徳の妻となって、ついにその志のとおりとなった。慕容垂(後燕世祖)が帝位を僭称したのち、位をいただいて皇后となった。 
 
垂立其子寶爲太子也,元妃謂垂曰:「太子姿質雍容,柔而不斷,承平則爲仁明之主,處難則非濟世之雄,陛下託之以大業,妾未見克昌之美。遼西、高陽二王,陛下兒之賢者,宜擇一以樹之。趙王麟姦詐負氣,常有輕太子之心,陛下一旦不諱,必有難作。此陛下之家事,宜深圖之。」垂不納。寶及麟聞之,深以爲恨。其後元妃又言之,垂曰:「汝欲使我爲晉獻公乎?」元妃泣而退,告季妃曰:「太子不令,羣下所知,而主上比吾爲驪戎之女,何其苦哉!主上百年之後,太子必亡社稷。范陽王有非常器度,若燕祚未終,其在王乎!」 
慕容垂がその子の慕容宝を立てて太子とすると、元妃は慕容垂に「太子の姿質はゆったり落ちつきはらっていて、優柔不断であり、平和な治世を受け継ぐならば情け深く道理のとおった君主となりましょうが、危難のときに世を救う英雄ではありません。陛下は大業をかれに託そうとなさっていますが、わたしはかれに勝ち気な美点を見たことがありません。遼西と高陽の二王(慕容農と慕容隆)は、陛下のお子のうちの賢者であり、ぜひとも一人を選んで後継者に立てるべきです。趙王慕容麟は、よこしまでずるく謀反気があって、いつも太子を軽んじる気持ちを持っています。陛下がある日お隠れになられれば、必ずや災難を引き起こしましょう。これは陛下のお家のことであり、ぜひこのことを深慮なさってください」といった。慕容垂は受けいれなかった。慕容宝と慕容麟がこのことを聞くと、深く恨みに思った。その後、元妃はふたたびこのことを言うと、慕容垂は「おまえはわたしを晋の献公にさせたいのか?」といった。元妃は泣いて引き下がり、季妃に告げて「太子がよくないのは、群臣の知るところです。それなのに主上がわたしを驪戎の女(驪姫)と比べるなど、なんとつらいことでしょうか!主上のご長寿の後には、太子は必ずや社稷を滅ぼしましょう。范陽王(慕容徳)はふつうでない器量をもっており、もし燕の命脈がまだ尽きていなければ、かれは帝王となっているでしょうか!」といった。 
 
垂死,寶嗣偽位,遣麟逼元妃曰:「后常謂主上不能嗣守大統,今竟何如?宜早自裁,以全段氏。」元妃怒曰:「汝兄弟尚逼殺母,安能保守社稷!吾豈惜死,念國滅不久耳。」遂自殺。寶議以元妃謀廢嫡統,無母后之道,不宜成喪,羣下咸以爲然。偽中書令眭邃大言於朝曰:〔八〕「子無廢母之義,漢之安思閻后親廢順帝,猶配饗安皇,先后言虚實尚未可知,宜依閻后故事。」寶從之。其後麟果作亂,寶亦被殺,コ復僭稱尊號,終如元妃之言。 
慕容垂が死に、慕容宝が偽帝の位を継ぐと、慕容麟を派遣して元妃にせまって「后はいつも後継ぎが大統を守ることができないと主上にいっていましたが、今はけっきょくどうなっているでしょうか?早く自殺なさって、段氏〔一族に罪を連座させず、一族の身〕を全うなさるがよろしいでしょう。」といった。元妃は怒って「おまえたち兄弟は母にせまって殺そうとするほどだから、どうして社稷を保って守っていくことができようか!わたしは死を惜しんだりはしないが、国が久しからずして滅びるのを心配するだけだ」といって、とうとう自殺してしまった。慕容宝は、元妃が嫡統を廃そうと謀り、母后の道にかなっておらず、国葬をおこなうべきではないと発議した。群臣はみなそのとおりだと考えた。偽朝(後燕)の中書令眭邃が朝廷で勇ましくも「子が母を廃する前例がないとはいいますが、後漢の安思閻后は順帝によりみずから廃されながら、それでも安皇(安帝)とともにまつられました。先の皇后の言の虚実はなおさら知ることができませんので、閻后の故事のとおりになさるがよろしいでしょう」といったので、慕容宝はこれに従っ〔て母后をまつっ〕た。その後、慕容麟がやはり乱を起こし、慕容宝もまた殺され、慕容徳(南燕世宗)もまた尊号を僭称し、とうとう元妃のことばのとおりになった。
段豐妻慕容氏 
段豐妻慕容氏,コ之女也。有才慧,善書史,能鼓琴。コ既僭位,署爲平原公主。年十四,適於豐。豐爲人所譖,被殺,慕容氏寡歸,將改適偽壽光公餘熾。慕容氏謂侍婢曰:「我聞忠臣不事二君,貞女不更二夫。段氏既遭無辜,己不能同死,豈復有心於重行哉!今主上不顧禮義嫁我,若不從,則違嚴君之命矣。」於是剋日交禮。慕容氏姿容婉麗,服飾光華,熾覩之甚喜。經再宿,慕容氏偽辭以疾,熾亦不之逼。三日還第,沐浴置酒,言笑自若,至夕,密書其帬帶云:「死後當埋我於段氏墓側,若魂魄有知,當歸彼矣。」遂於浴室自縊而死。及葬,男女觀者數萬人,莫不歎息曰:「貞哉公主!」路經餘熾宅前,熾聞挽歌之聲,慟絶良久。 
段豊の妻の慕容氏は、慕容徳のむすめである。才知があって、読書をよくし、鼓や琴の演奏にすぐれた。慕容徳が帝位を僭称すると、平原公主となった。年が十四で、段豊にめあわされた。段豊が人に中傷を受けて殺され、慕容氏はやもめとなって実家に帰ったところ、偽朝(南燕)の寿光公余熾に再嫁させられそうになった。慕容氏は端女に「忠臣はふたりの主君につかえず、貞女はふたりの夫をかえないとわたしは聞いています。段氏は既に無実の罪で亡くなり、わたしはいっしょに死ぬことができませんでした。どうして再びとつぐ気持ちが持てましょうか。いま主上は礼儀をかえりみずにわたしをとつがせようとしています。もし従わなければ、父母の命令に違えることになります」といった。そこで婚姻の期日を定めた。慕容氏は姿かたちがしなやかで美しく、衣服と飾りは麗しくかがやいていたので、余熾は彼女を見てたいへん喜んだ。二晩泊まりを過ぎて、慕容氏は病気であると嘘をついたので、余熾もまた彼女に迫ろうとはしなかった。三日して屋敷にかえり、沐浴して酒を置くと、談笑しながら落ちついたふうであった。夕方にいたって、ひそかに裳の帯に書きつけたことには「わたしが死んだ後は、段氏の墓のそばに埋めてください。もし魂魄があることを知るなら、段氏のもとに帰るべきなのです」ということであった。そのまま浴室で自ら首を吊って死んでしまった。葬られるとき、見物する男女は数万人におよび、「なんと公主はみさお正しいことか!」と嘆息しないものはなかった。葬列が余熾の家の前を過ぎて、余熾が挽歌の声を聞くと、むせび泣くこと長らくであった。
呂纂妻楊氏呂紹妻張氏 
呂纂妻楊氏,弘農人也。美艷有義烈。纂被呂超所殺,楊氏與侍婢十數人殯纂於城西。將出宮,超慮齎珍物出外,使人搜之。楊氏弱゚責超曰:「爾兄弟不能和睦,手刃相屠,我旦夕死人,何用金寶!」超慚而退。又問楊氏玉璽所在,楊氏怒曰:「盡毀之矣。」超將妻之,謂其父桓曰:「后若自殺,禍及卿宗。」桓以告楊氏,楊氏曰:「大人本賣女與氐以圖富貴,一之已甚,其可再乎!」乃自殺。 
呂纂(後涼霊帝)の妻の楊氏は、弘農郡の人である。美しくつややかではげしい正義感を持っていた。呂纂が呂超に殺されると、楊氏と召使いの女たち十数人は城西で呂纂の殯(かりもがり)をおこなうことにした。宮殿を出ようとすると、呂超が〔楊氏に〕珍奇な宝物を与えようと思って外出し、人にこれを捜させていた。楊氏は激しい声で呂超を責めて「あなたたち兄弟は仲良くすることができず、手ずから刃で殺し合いました。わたしはまもなく死ぬ人間ですから、どうして黄金の宝がいりましょうか!」といった。呂超は恥じて引き下がった。また楊氏に玉璽の所在を尋ねると、楊氏は怒って「粉々にしてしまったわ。」といった。呂超は彼女をめとろうとして、その父の楊桓に「后がもし自殺したら、禍はおまえの一族に及ぶぞ」といった。楊桓がこのことを楊氏に告げると、楊氏は「父上はもともと富貴をはかるためにむすめを売って氐に与えました。一度はすでに我慢しましたが、再び耐えることができましょうか!」といって、自殺した。 
 
時呂紹妻張氏亦有操行,年十四,紹死,便請爲尼。呂隆見而ス之,欲穢其行,張氏曰:「欽樂至道,誓不受辱。」遂昇樓自投於地,二脛倶折,口誦佛經,俄然而死。 
ときに呂紹の妻の張氏もまた品行があった。十四歳のとき、呂紹が死ぬと、即座に尼になろうと願い出た。呂隆が彼女を見てよろこび、彼女の操を汚そうとした。張氏は「悦楽をつつしむことこそまことの道です。誓って辱めは受けません」といった。かくして楼閣に昇って自ら地に身を投げると、二本のすねはともに折れ、仏の経典を口ずさむと、にわかに死んでしまった。
涼武昭王李玄盛后尹氏 
涼武昭王李玄盛后尹氏,天水冀人也。幼好學,清辯有志節。初適扶風馬元正,元正卒,爲玄盛繼室。以再醮之故,三年不言。撫前妻子踰於己生。玄盛之創業也,謨謀經略多所毗贊,故西州諺曰:「李、尹王敦煌。」 
〔西〕涼の武昭王李玄盛(李ロ)の后の尹氏は、天水郡冀県の人である。幼くして学問を好み、弁舌清らかで志をかたく守っていた。はじめ扶風郡の馬元正にとついだが、馬元正が亡くなると、李玄盛の後妻となった。再婚であったため、三年間もの言わなかった。前妻の子をかわいがるようすは自分の生んだ子をも越えていた。李玄盛が〔西涼を〕創業するにあたって、はかりごとや経略について力添えすることが多く、このため西州の諺に「李氏と尹氏は敦煌の王である」といった。 
 
及玄盛薨,子士業嗣位,尊爲太后。士業將攻沮渠蒙遜,尹氏謂士業曰:「汝新造之國,地狹人稀,靖以守之猶懼其失,云何輕舉,闚冀非望!蒙遜驍武,善用兵,汝非其敵。吾觀其數年已來有并兼之志,且天時人事似欲歸之。今國雖小,足以爲政。知足不辱,道家明誡也。且先王臨薨,遺令殷勤,志令汝曹深愼兵戰,俟時而動。言猶在耳,奈何忘之!不如勉修コ政,蓄力以觀之。彼若淫暴,人將歸汝;汝苟コ之不建,事之無日矣。汝此行也,非唯師敗,國亦將亡。」士業不從,果爲蒙遜所滅。 
李玄盛が薨去すると、子の李士業(李歆)が位を継ぎ、〔尹氏は〕尊ばれて太后となった。李士業は〔北涼の〕沮渠蒙遜を攻めようとしたが、尹氏は李士業に「おまえが新しく建てた国は、土地は手狭で人口は少ないので、やすんじるには土地と人を守って、失うのをおそれなくてはなりません。どうして軽はずみなことをするのですか。分不相応な願いは望むものではありません。沮渠蒙遜は勇武にたけ、用兵をよくしており、おまえはかれの敵ではありません。わたしがみるに、沮渠蒙遜はここ数年来というもの兼併の志をいだいており、なおかつ天の時節と人事の流れはかれに帰そうとしているようです。しかし今は〔我が〕国は小さいですが、政治をおこなえば満たされます。満足を知るものは辱められないというのが、道家による明白な戒めです。そのうえ先王が薨去なさるにのぞんで、おまえたちに兵戦をできるかぎり慎み、時を待って動くよう、懇切丁寧に遺命なさいました。お言葉はまだ耳に残っており、どうしてこのことを忘れることができましょうか!徳政につとめおさめて、隣国を観察しながら力を蓄えるしかありません。沮渠氏がもしみだらで粗暴となれば、人々はおまえに帰順してくるでしょう。おまえがもし徳をうち立てることがなければ、遠からずして沮渠氏に仕えることになるでしょう。おまえが出兵をおこなえば、ただ軍隊が敗れるだけでなく、国もまた滅びるでしょう」といった。士業は従わなかったので、やはり沮渠蒙遜のために滅ぼされた。 
 
尹氏至姑臧,蒙遜引見勞之,對曰:「李氏爲胡所滅,知復何言!」或諫之曰:「母子命懸人手,奈何倨傲!且國敗子孫屠滅,何獨無悲?」尹氏曰:「興滅死生,理之大分,何爲同凡人之事,起兒女之悲!吾一婦人,不能死亡,豈憚斧鉞之禍,求爲臣妾乎!若殺我者,吾之願矣。」蒙遜嘉之,不誅,爲子茂虔娉其女爲妻。及魏氏以武威公主妻茂虔,尹氏及女遷居酒泉。既而女卒,撫之不哭,曰:「汝死晩矣!」沮渠無諱時鎭酒泉,毎謂尹氏曰:「后諸孫在伊吾,后能去不?」尹氏未測其言,答曰:「子孫流漂,託身醜虜,老年餘命,當死於此,不能作氊裘鬼也。」俄而潛奔伊吾,無諱遣騎追及之。尹氏謂使者曰:「沮渠酒泉許我歸北,何故來追?汝可斬吾首歸,終不迴矣。」使者不敢逼而還。年七十五,卒於伊吾。 
尹氏は姑臧にやってくると、沮渠蒙遜が引見して彼女をねぎらったので、「李氏は胡のために滅ぼされてしまうのに、また何の言うことを知りましょうか!」と答えていった。ある人が彼女を諫めて「母子の命は人の手にかかっているというのに、どうしておごり高ぶったふるまいをするのですか!国が敗れたうえに子孫が皆殺しにされるのを、どうしてひとり悲しまないのですか?」といった。尹氏は「国の興亡や子孫の死生は、すじみちだてて大きく分かれるのです。どうして凡人の死と同じように、児女の悲しみを起こしましょう!わたしは一婦人で、死ぬことも滅ぶこともできません。どうして斧鉞にかかり命を落とすのをはばかって、臣下の妾となることを求めましょうか!もしわたしを殺すというなら、わたしはそのように願うものです」といった。沮渠蒙遜は彼女を褒めて殺さず、子の沮渠茂虔(沮渠牧犍)のために彼女のむすめを妻としてめあわせた。魏氏(拓跋氏)が武威公主(太武帝の妹)を沮渠茂虔にめあわせると、尹氏とむすめは酒泉にうつり住んだ。その後まもなくむすめが亡くなると、むすめの遺体を撫でて泣くことなく、「おまえは死ぬのが遅かった」といった。沮渠無諱がときに酒泉を鎮めていたが、いつも尹氏に「后のお孫たちは伊吾におられるが、后は行くことができないのか?」といっていた。尹氏はその言葉の意図をつかめず、「子孫はさすらい歩き、醜いえびすに身を託しています。老年は命の余すところ、ここで死を迎えるべきでしょう。匈奴の幽霊になることはできません」と答えていった。唐突にひそかに伊吾に逃れたので、沮渠無諱は騎兵をつかわして彼女を追わせた。尹氏は使者に「沮渠氏は酒泉でわたしが北に帰るのをお許しになったのに、どうして追ってきたのですか?あなたがわたしの首を斬って帰るのでなければ、もどりませんよ」といった。使者はあえて帰るように強要しなかった。享年七十五で、伊吾で亡くなった。 
 
史臣曰:夫繁霜降節,彰勁心於後凋;流在辰,表貞期於上コ,匪伊君子,抑亦婦人焉。自晉政陵夷,罕樹風檢,虧閑爽操,相趨成俗,荐之以劉石,汨之以苻姚。三月歌胡,唯見爭新之飾;一朝辭漢,曾微戀舊之情。馳騖風埃,脱落名教,頽縱忘反,於茲爲極。至若惠風之數喬屬,道韞之對孫恩,荀女釋急於重圍,張妻報怨於強寇,僭登之后,蹈死不迴,偽纂之妃,捐生匪吝,宗辛抗情而致夭,王靳守節而就終,斯皆冥踐義途,匪因教至。聳清漢之喬葉,有裕徽音;振幽谷之貞蕤,無慚雅引,比夫懸梁靡顧,齒劍如歸,異如齊風。可以激揚千載矣。 
史臣がいう:そもそも霜の繁く〔雪の〕降るように節義は〔さかんで〕あり、強い心を明らかにしていたものが、後代にはしぼんでいった。時にあってはとめどなく流れ、徳を高くして正しさを顕彰されるのを待っているのは、かの君子でないか、あるいはまた婦人であるか。晋の政治が夷狄にうちひしがれてからというもの、教化の手本を立てるものもまれであり、落ち着きはなくなり、品行にはそむき、おたがい急いで卑俗になり、劉石をもってこれに敷き、苻姚をもって水に投ずるようである。三月胡に歌い、ただ争ってうわべのつくろいを新たにするのを見るだけだ。ひとたび漢の時代を去ると、なんともいにしえを恋いうる情もかすかである。馬を走らせて土ぼこりが舞い(戦乱が巻き起こり)、名教は脱け落ち、頽廃や放縦や忘恩や謀反は、このとき極まった。そのような状態にいたって恵風(愍懐太子妃王氏)が喬属を責め、道韞(王凝之の妻謝氏)が孫恩に向き合い、荀氏のむすめ(荀灌)が重囲の中の危急を解き、張氏の妻(張茂の妻陸氏)が強賊に対して怨みを報いた。帝位を僭称した苻登の后(毛氏)は死んでも再嫁せず、偽朝の呂纂の妃(楊氏)は命を捨てて惜しまず、宗氏(賈渾の妻)や辛氏(梁緯の妻)は情欲にさからって早死にし、王氏(王広のむすめ)や靳氏(靳康のむすめ)は節を守って終りに就いた。これみな正しい道を踏んで亡くなったのは、教化によるものではないか。〔彼女らは〕天の川がそびえ立ち、葉が高いところにつくように、ゆったりとすぐれた評判があった。幽谷の節操が垂れ下がっているのを奮い立たせ、もとより引いて恥じることなく、男をならべて梁(はり)に引っかけて顧みることなく、剣をならべてあるべきところに落ちつくようであり、普通でないやりかたで風格を整えるようであった。千年のあいだも称揚すべきであろうか。 
 
賛曰:從容陰禮,婉娩柔則。載循六行,爰昭四コ。操潔風霜,譽流邦國。彤管貽訓,清芬靡忒。 
賛に言う。女性が守るべき礼を勧め、女性として守るべききまりにおとなしく従う。〔孝、友、睦、婣、任、恤の〕六つの行いに従いながら、ここで〔婦徳・婦言・婦容・婦功の〕四つの徳を明らかにする。言動がきよらかで、人柄は風や霜のようにおごそかであり、よい評判は国々に流れる。朱色の筆が祖先の教えを書き残し、清々しい人柄は食い違うことがない。 
 
孟郊「列女操」の解釈

詩題の「列女」とは、「節操を有した女性」を指す。また、「義を重んじ、そのためには生命を捨てる気構え」も有している。この点では、任侠に通じる精神性である。また、「列」は「烈」とも書き、気性の強い女性でもある。 
第一句と第二句では、「節操を有した女性」像が描かれている。第一句の「梧桐」は、一語で「あおぎり」を意味する。しかし、第二句の「鴛鴦」と対の関係になっている事から、一語ではなく「梧」と「桐」に分けた。「鴛鴦」も一語で「おしどり」を意味するが、その後の「雙死」から、明確に分けるべきと考えた。第一句でも「相」とあるが、第二句の「雙」は、もっと積極的に別の存在である事を示している。「鴛」は雄であり、「鴦」は雌である。さて、「鴛鴦」は「おしどり」であり、二羽で一つの存在と捉える事が出来るが、「梧桐」はどう言う組み合わせなのだろうか。出典を見つける事は出来なかったが、検索によると、「梧」を雄樹、「桐」を雌樹とする伝説があると言う事だ。その続きに、「其實梧桐樹是雌雄同株」とある。つまり、雄樹と雌樹を分けること自体が意味を為さないと言う事である。しかし、これが何に由来するものか分からない。出典のあるものから強引に解釈を進める事とした。『詩經』「大雅」の「卷阿」に以下のようにある。 
鳳凰鳴矣,于彼高岡.  鳳皇は鳴く、彼の高岡に。 
梧桐生矣,于彼朝陽.  梧桐は生ず、彼の朝陽に。 
「鳳皇が鳴くのはかの高岡であり、鳳皇が羽を休める梧桐の木は彼の朝陽の当たる場所に生じる。」と言う意味である。つまり、「梧桐」は「鳳凰」の止まる木であり、ここから「鳳凰」を示そうとしたのではないか。しかし、これでは「相待老」との繋がりを得られない。これは第二句の「鴛鴦」に引っ張られ、同じく鳥類にするための無理やりな解釈であり、また、これでは「梧桐」を「梧」と「桐」に分ける意味を失ってしまう。「鳳」が「梧」に、「凰」が「桐」に止まる、と言うのであれば、分ける意味を見い出せそうだが、夫婦が別々の木に止まると言うのは、別れを想起させるため、この詩の意味するところと真逆になってしまう。この「卷阿」の「梧桐」には、唐の孔穎達による疏が附されており、「梧桐可以為琴瑟.」とある。確かに、「梧」と「桐」のどちらも「琴」を作るのに適していると言われている。『康熙字典』には、以下のようにある。 
『埤雅』:梧櫜鄂皆五,其子似乳綴其上,柔木也。 
『淮南子』:「説山訓」梧桐斷角。「註」柔勝剛也。 
『風俗通』:梧桐生嶧陽山巖石之上,采東南孫枝爲琴,聲C雅。 
『藝文類聚』「木部上・桐」では、以下のように触れられている。 
『毛詩』曰.椅桐梓漆.爰伐琴瑟. 
『新論』曰.神農皇(○太平御覽九百五十六作黄.)帝.削桐為琴. 
また、『藝文類聚』「樂部四・琴」では、上記引用の後者と同じ内容が触れられている。 
桓譚新論曰.神農氏繼而王天下.於是始削桐為琴.繩絲為弦.以通神明之コ.合天人之和焉.廣雅曰.神農氏琴.長三尺六寸六分.上有五弦.曰宮商角徵羽.文王搏弦.曰少宮少商. 
「琴」はそのまま琴であるが、「瑟」とはどのような楽器か。『康熙字典』には、以下のように書かれてある。 
『樂書』:朱襄氏使士達制五絃之瑟,後瞽瞍判五絃瑟爲十五絃,復揶ネ八爲二十三。 
『禮圖』:雅瑟八尺一寸,廣一尺八寸,二十三絃,其常用者十九絃,頌瑟七尺二寸,廣同,二十五絃盡用。 
『爾雅』:「釋樂」大瑟謂之灑。「註」長八尺一寸,廣一尺八寸,二十七絃。 
つまり、琴に似た楽器で、琴よりも大きく、また、弦の数も多いものである。しかし、「梧」と「桐」のどちらが、「琴」と「瑟」のどちらを作るとは書かれていない。それもそのはずで、上述した通り雌雄同株の樹であるからである。これでは、また、「梧」と「桐」に分ける意味を失ってしまう。ここで、いったん話を「梧桐」から切り離して、「琴瑟」から話を展開する事にする。辞書に拠れば、「瑟」は常に「琴」と合奏されていた、とある。そのため、同じく『詩經』「小雅」の「常棣」に、以下のようにある。 
妻子好合,如鼓瑟琴. 
「妻子」とは「妻」の事である。ここには注が振られていて、以下のようにある。 
好合至意合也. 
合者如鼓瑟琴之聲相應和也. 
ここから「琴瑟相和」と言う語が生まれ、「琴と瑟の音が調和するように、夫婦の仲が良いこと」と意味である。つまり孟郊は、「琴瑟」の材料である「梧桐」を以って、「夫婦」を表そうとしたのではないか。では何故、そのまま「琴瑟」を用いなかったのであろうか。それは、「琴瑟」が人工物であり、それ以上はどのような生物的変化も見せないためである。第一句では「老」、第二句では「死」と、生物的変化が示されており、生物である事が重要なのである。この意味でも、「鳳凰」と捉えるのは無理である。「鳳凰」も生物と言えなくもないが、実際に目にする事の出来ない存在であり、つまり、生物的変化を見る事が出来ないからである。「梧桐」を一つと見ずに、「梧」と「桐」に分けた理由であるが、「夫婦」は当然に「夫」と「婦」であり、「琴瑟」も上述の通りに、「琴」と「瑟」の別々の存在である。前者は結婚によって、後者は演奏によって、一つの存在となるのである。ならば、「梧桐」も、一つ一つの別の存在と見做すべきである。さて、第二句の「會」は、「かならず」の意味である。「鴛鴦」は鴛鴦夫婦と言う言葉があるように、仲の良い存在として知られている。しかし、だからと言って、死ぬ時に「必ず」夫婦で死ぬ、と言う事は現実的にあり得ない。これは、象徴的、文学的表現であって、実際にどうであるかは関係無い。事実、鴛鴦の生態は、この言葉とは逆である。 
第三句と第四句は、「義を重んじ、そのために生命を捨てる気構え」が示されている。「徇」は「殉」に通じ、「身命を捨てて物事にたずさわる」と言う意味になる。第四句との繋がりを考えるとこの通りだが、「徇」には「後を追う、ついて行く」、「添い従う」と言う意味があり、この意味で見る事も出来る。これで見ると、第三句と第四句は、一続きの文ではなく、「夫に添い従う」と「生命を投げ打つ覚悟がある」と言う、二つのあり方を示しているとも取れる。 
第五句と第六句では、「列女」と言うより、「烈女」と言った方がいい女性像である。「烈女」とは、「気性が強く、節操を有する女性」、つまり、「忍耐強い女性」である。「波瀾」は、この場合、「夫婦間のごたごた、揉め事」と言う意味であるが、これを「誓って」起こさない、と言う事は、その実、「起こしかねない」、または、「起こしている、起こしてきた」と言う人物像も見えてくる。だから、結婚に当たって、誓いを立てたわけである。「波瀾」に対する語が、「井中水」である。井戸の中の水は、地下水の状況、井戸の構造によって水位は様々であるが、涸れる事が無く、一定の水位を保ち続ける物である。また、地中にあるため、地上からの影響、風の影響によって、波立つ事も無い。つまり、諍いを起こす事無く、平穏を保っている精神状態を示す。何があっても我慢します、と言うかのようである。 
ここまでの見方では、女性の側が一方的に我慢、忍耐を強いられると言う内容に見える。しかし、平穏、忍耐の象徴とした「井中水」からは、男性に対する「脅し」が見える。井戸の水を汲むためには、縄を付けた釣瓶を落とさないといけない。「井中水」を妻と見做せば、この「釣瓶」は夫と言う事になる。実際の井戸であれば、釣瓶は放り落とす物である。放り落とされた釣瓶は、水面に叩きつけられ、波立つ。外部からの影響をより受けないとなると、その水位はかなり低い所にあると見る事が出来る。しかし、水面が低ければ低いほど、落下の衝撃は強くなり、その結果、立つ波も大きくなる。これを夫婦の関係に置き換えれば、夫の横暴が過ぎて、妻に強く当たるような事があれば、表面上からは見えないが、その実、波立っていると言う事である。妻が堪える事が出来るのは、「井中水」と同様に、外部からの影響、世の辛さや噂、陰口などである。しかし、どんなに深い所にあったとしても、波立たせる事の出来る釣瓶に対しては、堪える対象外としているのである。「井中水」の深さは、妻の我慢できる限度である。我慢を無限に出来る人と言うのは、存在しない。つまり、その深さが浅くなる事もあり得ると言う事である。我慢が続けば「井中水」の深さは浅くなり、その原因は夫の行動による涙であろうか、最初は見えなかった波立ちが見えてくるようになる。しかし、「井中水」は、ダムが決壊するように破壊的に流れはしないし、間欠泉のように噴き出してくるものではない。じわりじわりと水位を浅くして、あふれ出るように流れ出すものである。いくら我慢の限界に達したとしても、爆発的な態度を取るような事は無いのである。それが「井中水」に込められた意味である。これは、つまり、「外からの雑音には堪え続けますが、あなたの対応には堪える限界がありますよ。」と言う、緩やかな「脅し」となるわけである。 
全体を通しで見れば、「共に老い、共に死す」、「捨生取義」であり、これを守り通せるか否かは、あなたの対応一つで決まる、と言うものと言えよう。 
 
日本の女性史概観

原始・古代の女性 
まず、そもそも女性史というのは何なのかを少し説明しておきます。世の中には男と女しかいないのに、何故「女性史」という特別のジャンルがあるのか、ということです。 
女性史に対して男性史というジャンルは普通考えられていません。というのは、普通私たちが習っている歴史はまだまだ男性中心の歴史であり、そこからなかなか抜け出せないでいるからです。確かに、近年の教科書では随分女性のことを取り上げるようになりましたが、それでもやはり男性主体の歴史が一般的です。 
そこでどちらかというと歴史の中で無視され続けてきた女性にスポットをあてて、今一度歴史をとらえ直すとどうなるだろう、ということが少しづつ広がりはじめ、現在では歴史学の一つの大きなジャンル・研究対象になりました。ちなみに、大学入試でもセンター試験をはじめ、たくさんの問題が出題されています。 
そこで、原始(旧石器-縄文[佐原真さんの言い方では縄紋]時代)・古代(一応弥生-平安時代の終わりくらいまで)の女性について考えてみましょう。 
旧石器時代の女性にしろ男性にしても、どのような生活をしていたのかということはよくわかっていません。少なくともいえることは、男女の性別による差別はなかっただろうということです。それより、女性は次の世代の子どもを生み、育てることから尊ばれていたと考えられています。 
ただ、私たちが一般的に生活の基盤としている家族(単婚核家族といいます)というものが成立していたかどうかはわかりません。続く縄文時代を含めて母方の系譜を重んじる母系制社会と考える人と、そうではなく母方も父方も重視される双系性社会だったという人もいらっしゃるので、このあたりはわかっていません。 
ところで、縄文時代の女性というと、何を思い出しますか?そう土偶です。土偶は「縄文のビーナス」ともよばれる、粘土で焼かれた人形です。大抵は妊娠している女性の姿をしています。さらに細かく分けると顔がハートの形をしているハート形土偶、目がサーチライトのようになっている遮光式土偶、土偶全体がずんぐりしているのでミミズク形土偶とよばれるものの3つに大別されます。 
よく知られているように、土偶は妊婦の姿をしていますから、普通は子どもが生まれることを願って作られたものと考えられています。この時代も男女差別というものはなく、男性と女性の自然な分業がなされていたと考えられています。つまり、狩猟や漁労(漁撈)は男性が、植物採集や土器作りは女性が行っていたと考えられています。 
弥生時代から古代社会に次第に入っていくのですが、今のところ、この弥生時代から水稲耕作が本格的に広がっていったとされています。もちろん、今後の発掘調査しだいでは水稲耕作の本格的開始の時代がもっと早くなる可能性は十分あります。男女の分業は依然として続いていて、田起こし、田鋤きなどは男性が、種まき、草取り、脱穀、さらには海に近いムラでは土器に海の水を入れて煮詰める製塩の仕事などは女性がしていたと考えられています。ほら「藻塩焼く」なんていう文が古語にあったでしょ。あれです。 
弥生時代の女性というと、誰を思い出しますか?そう卑弥呼です。なんたって日本史教科書に一番最初に登場するのが、彼女なんですから。それにあまりに濃いキャラで登場しますものね。マンガの日本史でも彼女は若く美しい女性で、しかも神がかりしてあの邪馬台国(邪馬台国の場所がどこにあったかは今は問題にしません)を治めるのです。 
「(前略)すなわちともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、たすけて国を治む」(「魏志倭人伝」)と記されています。この文章を読むとどう考えても先に記したうら若い女性とは考えられません。マンガでは、どう見ても神社なんかでよく見る巫女さんのような姿ですが、「年すでに長大」(つまりおばちゃん)で、「夫婿なく」(結婚していなく)、「男弟あり」(弟がいて)、卑弥呼を助けて国を治めているのでしょう。 
ということは、マンガの卑弥呼の描き方はどう考えてもおかしい。どちらかというと、東北恐山にいるイタコという神がかりして先祖の霊なんかを呼び出す霊力を持っている恐ろしげなオババの方がこの文の内容に近いはずでしょう。なお、女性が神がかりするのは時代を超えてあるようです。例えば沖縄のノロもイタコのような仕事をする女性ですし、近代では天理教を作った中山みき、大本教を作った出口なお(ご親族に超有名予備校講師がいらっしゃるそうです)なんて人がいます。 
ともかく、その卑弥呼は「鬼道」(呪術)を使い、神の声を聞き分け、それを頼りに邪馬台国を治めていたのです。しかし、卑弥呼が亡くなってしまい、邪馬台国はまた内乱状態になってしまいます。その内乱を収拾することができたのもまた女性でしたよね。そう、壱与(トヨともいう可能性もあります)です。年は13歳。彼女は卑弥呼の「宗女」(一族の娘)でした。卑弥呼の霊力は壱与に受け継がれたと考えられ、その結果、邪馬台国の内乱を収拾することができたのではないでしょうか。 
しかし、彼女についてはこれしか記されていません。私としては日本史に出てくる数少ない子ども(もっともこの時代ではもう大人の女性として扱われていたはずですが)ですし、彼女のその後のことが気になりますが、ここから先のことはわかっていません。
古代の女性 / 古代の天皇たち 
今回は卑弥呼以後の女性について述べていくことにします。卑弥呼の後、教科書に出てくる女性というと誰になるでしょう?少し考えてみてください。 
そう、女性の天皇です。大学入試でも、「古代の女帝」などという形で出題されたりします。7-8世紀にかけて6人8代の女性の天皇が登場します。6人なのに何故8代なのかというと、2人の天皇が重祚(くり返し天皇になること)しているからです。順にあげると、推古→皇極(重祚して斉明)→持統→元明→元正→孝謙(重祚して称徳)となります。 
ところで、古代と近世(江戸時代)には女性の天皇が在位しているのですが、古代でも本来は男性が天皇になるのが普通でした。現代は、女性の天皇は生まれないようになっています。というのは、「皇室典範」という天皇家・皇室に関する法律で、「皇位は皇統に属する男系の男子が、これを継承する」(同第1条)と決められているからです。 
先に述べたとおり、古代でも基本的には男性の天皇が普通でした。しかし、場合によっては女性の天皇が即位し、政治を執り行うことがありました。では、どんな時で、どんな人かというと−王位継承が男性から男性へとうまくつなげることができない、ある面では危機的な場合に女性の天皇が即位しました。しかも、その場合、前の天皇の皇后か近親者(例えば娘)が即位しました。 
順にそれぞれのケースをみていくことにしましょう。 
まず、推古天皇(まだ本当は「大王」といった方がいいのでしょうが、一応天皇と表現しておきます。)の場合。 
推古天皇は、父が欽明天皇、母が蘇我稲目の娘の間に生まれました。推古天皇の前の天皇というと、崇峻天皇という人でした。ところが、崇峻天皇は蘇我馬子と対立し、殺害されてしまいました。 
この時代、気に入らなければ、天皇であっても殺害された時代です。逆にいうと、蘇我馬子や蘇我氏(本宗家)は天皇をしのぐ力を持っていたともいえます。しかし、それ程の力を持ってしても、蘇我馬子や蘇我氏は天皇そのものにはなれません。何故なら、馬子は天皇家(大王家)に娘を嫁がせて実力を持つ豪族であり、「臣」(その中で最大の実力者を「大臣」といいます)という位を持ってはいます。 
しかし、天皇家との関係はあくまで結婚を通しての関係にすぎません。この辺のややこしさが背景にあり、また、崇峻の後の天皇候補者が全くいない状態になりました。そこで馬子は、敏達天皇の皇后(馬子からすれば姪にあたります)だった推古を天皇にし、推古の甥の聖徳太子を摂政とすることで、王位継承の危機を乗り越えたのです。いわば、このままでは蘇我氏の天下どころか、天皇家自体が危ういという時期に、前例とかそういうことを無視して推古天皇が即位したというわけです。 
次の皇極天皇の場合。 
蘇我馬子−聖徳太子−推古天皇というトロイカ体制による政治は、その後この3人が相次いで亡くなることで消滅します。ここでまたもや王位継承の問題が発生します。 
馬子の後、蘇我氏側は馬子の子蝦夷が継ぎます。しかし、肝心の天皇の座をめぐり敏達天皇の孫田村皇子と聖徳太子の子山背大兄王が対立します。この時も、蝦夷の子入鹿が、山背大兄王を襲い、自殺に追い込むという事件が起こっています。 
ともあれ、結局田村皇子が舒明天皇として即位するのですが、舒明天皇は641年に亡くなってしまいます。またもや王位継承の危機=政権の危機です。 
そこで、蘇我氏側は推古即位と同じ手を使います。舒明天皇の皇后であり、敏達天皇の孫でもあった皇極を天皇にしました。ところが、この後蘇我氏の横暴に対し、645年、大化の改新が起こりました。天皇をもしのぐ力を持ち、政治をほしいままに動かしていた蘇我氏打倒のクーデタが起こったのです。 
クーデタ終了後、皇極は甥の孝徳に譲位しました。しかし、孝徳を中心とする政権も盤石の政権とはいえませんでした。孝徳は天皇ですが、この政権の真の実力者はクーデタのリーダーだった中大兄皇子でした。孝徳と中大兄皇子とは次第に疎遠になり、都として難波長柄豊碕宮があったにもかかわらず、653年、中大兄皇子は飛鳥に戻ってしまいました。 
翌年失意の中で孝徳天皇は亡くなったといいます。中大兄皇子は、母である皇極を再度即位(重祚)させ、斉明天皇とします。斉明として即位した理由も王位継承の危機を乗り切るためだったと考えられています。 
では、690年に即位した持統天皇の場合はどうでしょうか。 
彼女の人生は非常に波乱に富んだものでした。672年に起きた壬申の乱では夫である大海人皇子(後の天武天皇)と共に飛鳥から逃げ、乱終了後即位した夫を助けます。天武天皇が亡くなると、今度は自ら天皇に即位します。 
その理由は、自分の孫である軽皇子(後の文武天皇)が即位するまでの中継ぎとして即位したのでした。しかも文武天皇が即位してからでも、よほど心配だったのでしょう。最初の太上天皇(上皇)として孫の政治をバックアップしています。 
元明天皇は、文武天皇の母でした。文武は707年急死してしまいます。そこで文武天皇の子首皇子(後の聖武天皇)を天皇にすることを前提に即位したのでした。天皇は708年、住み慣れた飛鳥の地を離れ、都を奈良(平城京)に移しました。豪族の勢力が強い飛鳥から新たな地を求めたのだとされています。 
しかし、元明天皇も715年に亡くなり、今度は文武天皇の姉が即位します。元正天皇の誕生でした。この時も首皇子への王位継承が前提とされていたのですが、まだ幼い皇子に代わって即位したのでした。 
ここで、一息入れましょう。 
長ったらしいことを書きましたが、平安時代の天皇と違うことに気づきましたか? 
平安時代には、天皇は幼い子どもでも問題ありませんでした。そう、天皇が子どもの場合は摂政が補佐する(実際は実権を握る)ことになっていました。しかし、奈良時代までは、天皇は女性であっても政治を執り行うことが必要とされていたのです。ここが平安時代と大きな相違です。 
では、奈良時代の方に話を戻しましょう。 
724年、やっと首皇子は聖武天皇として即位しました。奥さんは藤原光明子です。2人の間には皇子が生まれたのですが、その皇子は早死にしてしまいます。藤原不比等以来次第に実力を持ってきたとはいえ、まだ新興の貴族であった藤原氏は、聖武のもう一人の夫人との間に皇子が生まれたことを知って動揺します。 
付け加えておきますが、古代の場合は天皇は奥さんが1人だけなんてことはあり得ません。何人も奥さんがいたのです。光明子も何人かの奥さんの1人にしかすぎません。光明子以外の女性が生んだ皇子が次の天皇候補者に決まってしまえば、藤原氏の力は当然弱まることになります。 
そこで、藤原氏は光明子を皇后にする計画を実行しようとします。何故なら、これまでの「慣例」では、皇后は場合によれば天皇になることが可能だったからです。蘇我氏が作った慣例を今度は藤原氏が利用したのです。 
729年の長屋王の変とよばれる政争は、長屋王が従来のやり方、つまり皇族以外は皇后になれないという考えをもとに、藤原氏のたくらみを批判したことに原因があるのです。結局、長屋王は謀反の疑いで自殺に追い込まれ、藤原氏は738年、光明子を皇后にすることに成功しました。 
聖武天皇の時代はよく知られているように、政治が乱れ、都は各地に転々としています。749年、父聖武に代わり娘の阿倍内親王が即位しました。孝謙天皇でした。しかし、孝謙天皇が政治を行った期間はわずかしかありません。というのも、母の光明皇太后が元気で、藤原仲麻呂(恵美押勝)に政治を任せていたからです。 
後に仲麻呂は、自分と関係の深い淳仁天皇に譲位させ、思い通りの政治を行ったのです。孝謙は上皇として政権内には留まっていますが、実権は仲麻呂に握られていました。しかし、仲麻呂の後ろ盾であった光明皇太后が760年に亡くなり、微妙なバランスは崩れていきました。 
翌年、上皇の病を治したとされる僧道鏡と結んだ孝謙は、764年仲麻呂を倒し、称徳天皇として即位(重祚)します。しかし、称徳天皇は、770年に亡くなってしまいます。後継者については、何も決めずに亡くなったため、朝廷内は対立が生じ、ようやく光仁天皇が即位して対立は抑えられることになりました。 
これでも細かい説明をずいぶん省いて説明したつもりなのですが、ややこしい話になったと思います。女性の天皇は、つまり、王位継承の危機の中で誕生します。本当は女性の天皇の時代の政治についても詳しく説明する必要がありますが、今回はこれ位にしておきたいと思います。
平安時代の女性たち 
主に平安時代の女性たちを扱うことになりますが、わかっているようでもう一つわからないことが多いのです。例えばこの時代の貴族の住まいである寝殿造だってそうですし、私たちと同じ庶民の女性なんてことになるともうさっぱりという状態です。もちろん、「お前の勉強が足らん!」とお叱りを受ければ、「ごもっともです」と答えるしかないのですが、今ひとつはっきりしないのです。その点は初めからご容赦願うことにしたいと思います。 
ところで、平安時代の女性たちといえば、清少納言と紫式部というのが定番です。しかし、ここでもうわからん!!ということになります。だってそうでしょ。こんなコト考えたあります?「清少納言や紫式部の本名は何っていったか?」ホラ、途端に?(クエッションマーク)でしょ。私がわからんといっているのはこういうことなんです。 
まず清少納言。父は国司クラスの中下級貴族で清原元輔。橘則光、後に藤原棟世と結婚したことや一条天皇の中宮定子に仕えたことはよく知られているのですが、肝心の本名はわかりません。彼女の代表作である「枕草子」は、橋本治さんの「桃尻語訳枕草子」(上中下3巻)がありますから是非読んでみてください。数ある現代語訳のなかで私はかなりのスグレものだと思っています。 
かたや紫式部も同じ。父は漢学者藤原為時。藤原宣孝と結婚し、女の子が1人生まれたものの夫が亡くなったことや、中宮定子のライバル彰子に仕えたことはわかっていても本名はわかっていないのです。なお、「源氏物語」の方も橋本治さんの現代語訳があります。 
それで、彼女たちの本名ですがわかりません。何故そうなってしまったかというと、女房名という女官特有の名前が一般的だったからだそうです。清少納言と紫式部は大変なライバルだったようで、紫式部は清少納言について、「清少納言こそ」と記しています。(「こそ」というのは強調です。古典文法を思い出してください。) 
この時代の貴族の婚姻は、妻問い婚でした。つまり、家は母から娘(とその夫)さらに孫娘へと受け継がれていくことになっていました。「源氏物語」をはじめとするこの時代の文学作品にはこのあたりの状況が描かれています。 
もう少し詳しく妻問い婚について触れると、男性は結婚してからもと女性(妻)の家に通う結婚形態でした。平安中期以降になると次第に婿取り婚という夫が妻の家に住み着く夫婦同居に変化していくようですが、同居する場所は妻の家ですから、女性の地位が高いことに変わりはありません。ですから財産は妻と娘に譲られるのです。 
一口に結婚(婚姻)といっても今とは全く違った意識だったはずで、男は妻の家で子どもと共に同居しているのですが、妻の家を出てしまえば結婚は解消されたことになります。逆に同居を解消した女性の元に新たに別の男がやってきて同居をはじめれば新しい結婚が成立することになります。 
もう一つわからないことがあります。寝殿造の中での生活というものです。住居の歴史ということに不案内な私がどうこういうことはできないのですが、寝殿造は、要するに板間での生活ですし、障子や襖などがないだだっ広い空間があるばかりでした。ですから、「枕草子」にもあるように冬は大層寒かったに違いありません。 
しかも独立した部屋というものがさほどなかったようですから、プライバシーなんて守られたかどうかわかりません。つけ加えになりますが、私たちが住んでいる障子・襖・畳が敷きつめられた状態の家になるのは室町時代以降のことですから、大変さは理解できると思います。 
さらに、私たちが毎日入るお風呂は寝殿造には多分ありません。というより入浴の習慣があったのでしょうか? 
ということは、少し考えてみていただくといいのですが、貴族の女性は長-い黒髪・十二単を身につけているのです。お風呂はない。風邪をひいて1、2日お風呂に入れない状態をイメージしていただけるとわかるはずですが、髪はかゆくて何となく気持ち悪い状態、しかも他人はそういわないのでしょけど、何となく体臭がするような気がしてならない状態が平安時代では普通ということになります。 
もっと極端にいいますと、平安時代の男も女も臭かったはずだ、ということになります。 
そういえば、この時代の文学作品を読むとやたらと「お香」を炊くシーンがありませんか?何故なのかようやく気づいていただけると思うのですが、貴族であれ庶民であれ、少なくとも毎日入浴することはできなかったはずですから臭うのです。体臭が。 
そういう状態で他人が彼ないし彼女を訪ねてきますヨネ。まして、ラブラブの相手の所に夜、お忍びで秘かにやってくるわけです。そんな時、今でいえば「餃子2人前+ニラレバ炒め」を食べた後の彼女の部屋に彼氏がくるというシチュエーションを想像してみていると良くわかるはずです。彼女の方はそれこそ「ヤッバ-!!」てことで慌てるはずです。 
これとおそらく同じじゃないでしょうか。そこで登場するのが、「お香」というわけです。CMじゃありませんが、「くさい臭いは元から断たなくっちゃダメ!」ってことです。香水にしろ「お香」にしろにおいでにおいをごまかしてしまう効果があります。そう考えるとよく電車なんかで香水の臭いがプンプンしていることがありますが、必要以上に自分の臭いが気になるのでしょうか?それとも「シャネルの何番買ってんで-」とわからせたいのでしょうか?といっても、「お香」も同じらしくって「伽羅」という「お香」の原料なんて奴は高いものならウン十万円はザラというものもあるそうです。 
ということで、女性史本題からずいぶん離れてしまったのですが、当時の女性のことからいろんなコトが考えられるでしょ。誰か時間に余裕のある方は私が「わからん」といったことを調べてみてくださるといいのですが…。
中世の女性 / 将軍の妻と庶民の女性たち 
中世の女性を取り上げます。まず、この当時の武士の結婚について説明しましょう。古代の貴族の結婚とは随分違います。少しだけ説明すると、嫁入り婚というものに変わっています。もともと武士は荘園の管理者(荘官といいます。地頭も荘官の1種です。)として各地にバラバラで住んでいました。こういう条件の下では古代貴族のように妻問いをすることは難しいわけです。 
また、武士はご存じのように戦闘を仕事にしています。しかも戦いに勝つためには家族の結束が必要です。そこで「家」というものの存在がこれまで以上に重要視されてきます。つまり、家柄とかいったことです。 
しかし、今述べたように武士は、各地に散らばって住んでいました。自分の「家」と同等の家柄の女性と結婚することが大切だと考えられるようになったのです。しかし、そう簡単に同等の家柄の女性はいません。遠くからふさわしい女性を探してこなくてはならなくなりました。 
こうなると、男中心の世界である武士社会では女性が男の(つまり結婚相手の男性の)家に嫁ぐということにならざるを得なくなったということなのです。但し、だからといって女性の地位が一挙に低くなってしまったわけではありません。妻の相続権や子どもに対する母の権利は認められていました。 
中世の女性の中でまず、教科書などに登場するのは鎌倉幕府将軍・源頼朝の妻、北条政子です。頼朝が平治の乱後、伊豆に配流された時に知り合い結婚したようです。 
彼女には2つの顔がありました。1つは将軍の正妻=「御台所」(注意!おだいどころとは読みません。みだいどころ、と読みます)という側面です。将軍である頼朝を支え、子どもたちを育てる妻・母としての側面です。といっても、頼朝には何人ものお妾さんがいたようです。いちいちダンナの素行の悪さに腹を立てても仕方がないとはいうものの、政子は場合によっては御家人を使いそのお妾さんの家をたたき壊すよう命令したといいます。(頼朝にとればなかなか怖い奥さんだったのです。) 
政子のもう1つの顔とは、「尼将軍」としての顔です。1199年、頼朝は落馬が原因して亡くなるというある種ブサイクな死に方をします。頼朝の死後、政子は髪を剃り尼の姿になりました。そして頼朝亡き後2人の息子(頼家・実朝)の後見人として政治にくわわりました。頼家は父と同じ独断的な政治を行うのですが、政子はそれを許さず、ついには息子との関係を断つまでに至っています。次の実朝が暗殺された後は、事実上の将軍として政治を執り行うまでになりました。特に、1221年の承久の乱では御家人たちを前に演説をし、御家人の結束を強めたことが知られています。私などは北条政子というと、この演説のシーンを思い浮かべてしまい、なかなかすごい「おばちゃん」やと思ってしまうのです。 
次に将軍の妻として登場するのは、日野富子。室町幕府第8代将軍足利義政の奥さん。彼女は北条政子と違いかなり低い評価がされているような気がしてなりません。しかし、彼女がこういう評価をされなければならなくなった原因は、そもそもダンナである義政が頼りなかったということにあると私には思えてなりません。 
大体、義政は慈照寺銀閣を造営したという人ですから、芸術的センスはある。しかし、それ以外は全く無能という人でした。政治を省みず、慈照寺を造営することに「うつつ」を抜かしていた、といったら言い過ぎでしょうか?まあ-現代でもつい最近まで、大変な時にゴルフをやり続けていた首相がいたのですからあまり変わりませんが…。しかも銀閣造営には莫大な費用がいる。将軍だからそういうわがままができたのでしょうが、でも肝心の政治は全くほったらかし。 
加えて1467年から始まる応仁の乱の原因まで作ってしまいました。義政と富子の間には長い間子どもができず、義政は、弟の義視を後継者に選んだのですが、それからしばらくして富子は義尚を生みました。将軍後継者が2人いるという大変な事態になってしまったのです。ここで突っ込み。「大体自分の嫁ハンが妊娠してることもわからんかったかい?!」といいたくなるようなモンです。 
後継者が2人もいることでついに幕府も東軍西軍に分裂。京都の町はダラダラ続く合戦の結果ほぼ焼失したのです。富子は何とか息子義尚を将軍にしようと必死になり、政治にも関与し京都にある7つの関所に課税するなど、政治の私物化を図ったと批判されてしまうのですが、なんといったって、ダンナがどうしようもないノータリンの浪費家ですから、こうでもしないと仕方がなかったのじゃないでしょうか。「母は強し」です。 
一方、今あげた2人の女性とは違い、庶民の女性はどんな生活をしていたのでしょうか?「一遍上人絵巻」など絵巻物にはたくさんの女性が描かれ、一生懸命に働いていたことがわかります。 
「病草紙」という絵巻物には鎌倉時代の高利貸業者である借上(鎌倉時代のサラ金をやってたおばちゃんをイメージしてください)が描かれていて、金貸しでもうけていい食生活をし、太りすぎたおばちゃんが歩くのもめんどくさそうにしているシーンがあります。しかも首からネックレスがわりにお金をひもで通してぶら下げているのですからこの絵はなかなかすごい絵だと思います。いいものを食べると太るんだというごく当たり前のことなのですが、「病草紙」とあるように、太りすぎは中世から「病気」だった?!。 
さらに、室町時代に入ると販女と総称される女性の行商人たちが登場します。 
山川出版の「詳説日本史」という高校日本史教科書にはこのうち桂女が掲載されているはずです。頭に平たい桶のようなものを乗せ、その中に鮎を入れて売り歩く女性なのですが、その鮎がどう見てもバナナのように見えてしまう、何とも楽しい絵です。予備校の講師をしてた時、「この女の人が桶に入れているものは何か」と質問したらある生徒が「バナナ」と真顔で答えてくれて一同爆笑ということがあり、それ以来私は秘かに「バナナ売りのおばちゃん」と言っているのですが…。ともかく、彼女たちは、桂川の鵜飼いのダンナさんがとった鮎を京都に売りに行く女性でした。今の桂川ではとても鮎なんてとれないでしょうが中世では水がきれいだったんでしょうね。 
この他、京都大原には薪や炭を頭に乗せて行商する大原女という女性たちもいたのです。いずれも女性たちは男性と同等にあるいはそれ以上に働いていたのです。 
そういえば昨年このコーナーでも報告したベトナム・ホーチミン市の女性(お母さん)たちも一生懸命働いてました。男どもが木陰で昼寝をしている時にも、女性たちは働いている光景を見て、男である私は、「一体男どもは何しとんねん?」と思ったものです。 
こういうふうに、結婚の仕方は嫁取り婚に変化があった中世でしたが、上は将軍の奥さんから下は庶民の女性まで、まだまだ頑張って仕事をしていたのです。 
ちなみに女性の地位が未ださほど低くなっていなかったことを例えば教科書で見ようとすれば、先程紹介した山川出版社の「詳説日本史」には鎌倉時代地頭に女性がなったことを示す「下文」の写真が掲載されています。説明によると、下野国寒河郡と阿志度郷の地頭に小山朝光の母が就任したとあります。ですから女性も荘官になって仕切っていたのです。 
あるいはかつてセンター試験で狂言の「鎌腹」を史料に、中世の庶民の女性の地位がどのようなものだったかを問う問題も出題されています。なんだかんだと遊んでばかりいるダンナに腹を立てた奥さんにしかられたダンナが鎌で自殺しようとするが果たせなかったというおもしろいお話です。
近世の女性 
はっきり言って近世(大体、信長・秀吉が政権を握ってからその後の江戸時代全般をさします)には著名な女性は多くいません。といって、全くいないわけじゃありません。まず、教科書などに登場する女性をあげてみましょう。 
一人目は出雲の阿国。「生没年不詳」と手元にある「日本史事典」にありますから一体どんな人だったかはわかりません。出雲大社の巫女(みこ)と称していたそうで、阿国歌舞伎をはじめ、これが人気を博したといいます。今流にいえば女性ダンサーの元祖ってところでしょうか。 
この阿国歌舞伎が女歌舞伎に発展したそうです。女歌舞伎とは、そうですね、近世の宝塚歌劇団ってところでしょうか。「オスカル-!!」(ベルサイユのばら)とは言わなかったでしょうが・・。 
ところで、山川版教科書「詳説日本史」には欄外脚注Bに「かぶき」とは何かということと、歌舞伎の発展についての記述があります。その内容を私風に解説してみるとこうなります。歌舞伎の元の言葉は「傾く(かぶく)」という言葉で、それは人に目立つ格好をするという意味でした。そう、よくいるでしょ。夏のクソ暑い日でも革ジャンきて、頭はもちろんキン・キン。場合によってはモヒカン風のお兄ちゃんとかお姉ちゃんとかが、3-4個のティッシュペーパーを指の間にはさんでスーットさしだす。ああいう人のことです。 
予備校で教えていたとき、こういう説明をすると、予備校のある場所が梅田近辺でしたので、生徒たちがうなづいてました。わかってもらえるでしょかね?こういう説明で。ともかく、こういう人たちを「傾いてる人」というんです。いいですか、決して「ヤンキー」とか言っちゃあいけません。「パンク」なお兄さん・お姉さんと言ってもいけません。やっぱり「傾いてる」がぴったりです。 
阿国さんがどんな格好をしていたかはわかりませんが、ともかく、その当時としたらかなり「イケテル」格好をしてたんでしょうね。そしてその「イケテル」=目立つ格好で踊ったのです。これが女歌舞伎の始まりっていうんです。1人だけで踊ったのか何人かで踊ったのかはわかりませんが、「イケテル」人たちが数人で踊ったらそりゃあもうやっぱり「タカラヅカ」でしょう。でも、お上はこういうことには非常に敏感で、禁止してしまいます。そう、「風紀上よろしくない!!」ということです。 
じゃあ、女歌舞伎がダメなら今度は若衆歌舞伎でいこうとしたんですね。若衆歌舞伎は、美少年の踊りです。皆さんはすぐ想像できますね。現代の若衆歌舞伎を。そうです。ジャニーズです。バクテンなんておちゃのこサイサイで、彼らは歌い、踊り、そして可愛い。(私は下の娘に感化されて個人的にV6、キンキ・キッズ、TOKIOが結構好きですが・・・。)しかもこの若者=美少年による歌と踊り、演劇というのは日本の伝統で、すでに室町時代に、能がありました。リバイバル、リニュ−アルです。でも、お上はこれまた禁止したのです。 
そこで、ついに成人男性の登場とあいなりました。野郎歌舞伎になったのです。オッサン歌舞伎!!これなら大丈夫ってところでしょう。歌舞伎というと、何か日本の伝統芸能のようになってしまってますが、決してそんなものじゃありません。市川猿之助さんが演じる歌舞伎というものを私は見に行ったことがありませんが、なかなかすごいものだそうです。「ハッデェー!!」らしいですよ。 
何だか女性史を離れて芸能史のようになってしまいましたが、次の女性は、江戸時代初めの女帝、明正天皇です。父は紫衣(しえ)事件の結果、譲位した後水尾天皇。母は2代将軍秀忠の娘徳川和子。天皇家と徳川家という二大勢力の結びつきの結果誕生した天皇です。 
もっとも、江戸時代にはあと1人後桜町天皇という女帝が即位しています。紫衣事件というのは、紫衣(文字通り紫の衣。僧侶の中で徳の高い人だけが着ることを許される衣です)を着ることを許す権利は朝廷にありました。そこで、後水尾天皇は、大徳寺や妙心寺の僧に紫衣を着ることを認めました。ところが、これが幕府の出した禁中並公家諸法度に違反するという横やりが入ったのです。大徳寺僧・沢庵らは直ちに幕府の「横暴」に抗議しました。幕府はここぞとばかり、沢庵らを流罪にし、幕府の方が朝廷より力があることを見せつけました。後水尾天皇はその結果、譲位してしまうのですが、その後の天皇が明正天皇でした。 
女性史といっても、1人の女性が登場する背景は非常に奥が深いことがわかっていただけたでしょうか?でも、名も無き女性にも歴史はあります。次ぎに近世(特に江戸時代を中心とした)女性を取り巻く状況のようなことを述べることにしましょう。 
近世というと、士・農・工・商という身分秩序を思い浮かべる人も多いでしょう。女性はこうした身分秩序の下でどのような生活をしていたのでしょうか?まず、儒教倫理が次第に浸透する中で、女性の地位はこれまで以上に低く見られるようになりました。 
儒教には「夫婦の別」という考え方があり、夫は子どもを作るためには妾を持つことが許されたのに、妻は(もちろん妾も)1人の男性に貞操を守るべきだとされました。結婚は男女の愛情によるものではなく、家の存続・繁栄のための手段とされたのです。といっても、財産を持たない町民や農民の世界では家の権威というものはあまり強いものではありませんでした。ですから、恋愛結婚で夫婦仲良く暮らすことの方が一般的だったのです。 
よく知られている近世の離縁状=「三行半(みくだりはん)」は、男性が女性に対し、一方的に離婚を申し渡す際、用いられていたと理解されがちですが、決してそうではありませんでした。離婚後は女性の再婚を妨げるものではない、と約束されていますから再婚の自由を認めたものだったのです。 
また、女性はいつも夫の横暴なふるまいを我慢していたという理解も間違いです。もう耐えきれなくなり、離婚したいが、夫はそれを許そうにないといった場合、縁切寺に逃げ込むという非常手段が残されていました。 
  (1)みんなしていびりましたと松ケ岡 
  (2)縁切りと見たで東慶寺を教へ 
  (3)松ケ岡鰹も食わず三年いる 
  (4)松ケ岡似たことばかり話し合ひ 
この4つの句を私が知ったのは、私が尊敬してやまない故・黒田清隆氏(元静岡大学教授)の本「生活史で学ぶ日本の歴史」(地歴社)に収録されている「「かけこみ寺」考−日本近世の一アジールについて」という文を読んでからのことです。これらの句はいずれも鎌倉にある縁切寺・東慶寺のことを詠んだものです。 
舅・姑・小姑、そしてついには自分の夫までが嫁いびりをし、ついに耐えきれなくなった妻が松ケ岡にある東慶寺まで逃げたというのが、(1)である。(2)は、東慶寺まで逃げる様を、(3)は東慶寺=縁切寺には3年いないと離縁できないことを、(4)は同じような境遇で離縁を待つ女性達の会話を描いていると言って良いでしょう。 
縁切寺は駆込寺ともいい、離婚を望む妻がこの寺に逃げ込み、ここで足かけ3年間過ごせば、否応なく離婚できることになっていました。無論、夫婦の話し合いで離婚が成立することもあったのですが、東慶寺に妻が逃げ込み、夫が離婚を拒否した場合、今記したように足かけ3年間をこの寺で過ごすと、離婚が成立することになっていました。ですから決して女性がいつもいつも虐げられていたわけではなかったのです。 
大体、農民・町民は家族みんなの協力がなければ毎日の仕事はできません。ですから、武士や一部の豪商の家を除いて、妻は夫と対等だったと考える方が普通です。夫婦仲良くなければ、そもそも日々の生活自体が成り立たなかったのです。
近現代の女性 
近現代の女性をテーマにします。戦後強くなったのは女性と靴下だとか言われるそうですが、別に女性は突然強くなったわけではありません。どの時代の女性たちも地に足をつけ懸命にそしてしぶとく生きてきたのです。 
こんなことを書いていて、フト思ったのはベトナムの女性たち。とにかくよく働く、図太くそしてまじめに、懸命に働く女性たちを見て、私は「この国の男どもは何しとんねん?」と思いました。お母ちゃんたちが暑い日中を懸命に働いているのに、男どもはといえば、ライオンのように木陰で昼寝中。もしくはオッサンどうしのダベリ。オイオイそんなことでええんかい!と思わずつっこみたくなるような状況でした。日本でも同じです。ウチの大学の学生さんたちもそう。元気なのは女の子たちです。今日はそんな元気な女性たちの元祖のような人たちにスポットをあててみましょう。 
近代の女性のトップをかざるのは津田梅子さん。少しマイナーな人かも知れません。もし知らなかったら知ってください。この人、なんと8歳でアメリカに留学したんです。8歳ですぜ。スゴイと思いません?1871年に派遣された岩倉遣欧使節団のメンバーとして参加し、1882年まで11年間アメリカで生活してたんです。その後1889-92年にかけて再留学までしています。もうハンパじゃありませんよね。今なら比較的簡単に留学できますが、1871年て言うと明治4年です。しかも国の正式な使節団の一員でアメリカ留学。8歳の女の子にしてはかなりのプレッシャーだっただろうと思います。帰国後は女子英学塾を創設し女性教育に尽力します。この女子英学塾が今の津田塾大学です。 
ところで、この時期女性を取り巻く社会状況はどうだったんでしょう?決して女性が暮らしやすいものではなかったようです。1890年に公布された民法(フランス人のボアソナードが協力したものです)に対し、保守的な考えを持つ人たちは「民法出デゝ忠孝亡ブ」と批判し、ついに1898年、民法は保守的なものが改めて公布されたのでした。批判した保守派は、戸主権(戸主が家族個々の生活を統制する権利)、家督相続権(長子単独相続制)、男女不平等(妻の「無能力」の規定)を柱とする民法を強引に公布することに成功しました。 
この民法をめぐっては現在も問題が指摘されています。男女別姓を認めるか否かという問題がそれです。すでに古代の戸籍では夫婦別姓だったのです。ところが次第に女性は結婚後、養子縁組でもしない限り、男性の姓を名乗らなくてはいけなくなってしまいました。こうした明治民法の非民主的な内容以外に、刑法では妻の夫に対する不貞行為だけを罪にする条項や、女性の参政権が認められないなどの問題がありました。 
しかし、いつまでも女性は黙ってはいません。今記したような問題をおかしいと指摘する人たちが明治末から大正期に活躍します。その代表的人物が平塚雷鳥です。彼女は1911年、青鞜社を組織しました。当初は女性の権利を要求するのではなく、女性の文学者の集まりのような団体だったようですが、次第に女性の様々な問題に目を向けはじめたようです。「元始女性は太陽だった」で始まる青鞜社の宣言は、よく知られています。 
1920年になると平塚は、市川房枝らと新婦人協会を組織し、女性参政権獲得のための闘いを始めます。彼女たちの運動は戦後に実ることになりますが、22年には治安警察法第5条の撤廃を勝ち取りました。この条項では女性は政治集会に参加することさえできなかったのですが、それを改めさせたのです。 
ところで、皆さんはストライキという語を知っていますか?労働者は労働条件や賃金の問題で資本家と交渉し、場合によれば労働を一時的に放棄し、要求をする権利を持っています。これがストライキ(スト)なのですが、日本で初めてのストライキも女性が行ったのです。 
もちろん今のように労働組合の結成が認められていたわけではありませんから自然発生的なストライキだったのですが、1886年山梨県甲府の雨宮製糸で女性たちのストライキが実施されました。当時、農家の女性は出稼ぎで製糸工場にたくさん勤めていたのです。日本の資本主義は蛾の繭から取れる生糸に支えられていたといってもいい状態だったのです。その生糸を取り出す作業を農家出身の女性がしていました。労働時間は12時間くらいは普通、安い賃金で働かされ、挙げ句の果てに病気にかかればやめさせられるという非常に劣悪な条件で働いていたのです。もし読む機会があれば、山本茂実さんの「ああ野麦峠」、「続 ああ野麦峠」(いずれも角川文庫で読めます)を読んでください。彼女たちの労働がいかに過酷だったかがわかると思います。ですから、彼女たちはついにやむを得ずストライキという非常手段に訴えたのでした。 
他にももっと記さなくてはならないことがたくさんありますが、この女性史シリーズはこれくらいにしておこうと思います。戦後1947年に日本国憲法が制定され、民法が改正され、男女平等が確認されました。1985年には男女雇用機会均等法が成立し、女性の社会的進出が進んでいます。しかし今でも就職などで女性差別があるのです。実家から通える人でないといけないとか色々と理由?をつけて女性の就職はなかなか難しい現状が続いているようです。なかにはセクハラめいた面接をやる会社もあるといいます。 
そんな問題にもめげずにがんばっている女性たちの抱える問題は単に女性だけの問題ではありません。私も2人の娘の父親です。彼女たちのこれからの人生が彼女たちの夫になるだろう人たち、同じ時代を生きていく人たちとが楽しいものであるように望んでやみません。 
男性も女性も共にこれからの生活をどうすべきか考え手を携えて元気に生きていきたいものです。 
 
平安時代の女性・雑説

平安時代の女性の平均寿命は、27歳位だった 
「平安貴族の女性の平均寿命は、27歳位だった」という題名といたします。このシリーズの「奈良時代の天皇は大量の牛乳を飲んでいた!!」で述べましたが、奈良時代の上流階級は、「牛乳」をはじめ、いろいろな食品を充分に食べていたと申し上げました。したがって、健康で比較的長生きをしておりました。しかし、平安時代中期になりますと、様子ががらっと変わってきます。 
それは、仏教思想の影響で食べ物についての「タブー」が増えてきて、さらには、食べることすら軽視するようになってきたと言われております。その証拠として、あれだけ長い「源氏物語」のなかに、1ヶ所も「物を食べた」という記述がないそうです。 
このため、「上流階級」は、タブーにがんじがらめになってしまい、結果として「栄養失調」になってしまったのであります。平安貴族の女性は、「絵巻物や百人一首の絵」にあるように、長い髪に白く「ぽっちゃり」した姿で描かれていることが多いようでありますが、あれは、健康で太っていたのではなく、栄養失調でむくんでぽっちゃりとしていたといわれます。したがって、必然的に寿命も短かったようです。貴族女性の平均寿命は、大体27歳くらいだといわれているようです。短命の原因は栄養失調による、肺結核・脚気(かっけ)・伝染病などであります。 
だからだというわけでないでしょうが、平安時代には、女性は、若くして亡くなるべきものと考えられていたようです。紫式部は、ある日、清少納言の家の前を通りかかって、40歳(かなり長生きですね)になっていた先輩格の清少納言のヤセおとろえた姿を見かけ、その日の日記(紫式部日記)に「女性は、はやくみまかる(亡くなる)べきものなり」と書いているそうです。 
因みに、男性の方はどうだったのでしょうか?やはり、仏教思想の影響で、食物についての「タブー」にがんじがらめになっており、短命であったことはなんら変わることはありません。短命の原因は変わることはありません。短命の原因は女性とおなじく「栄養失調」による、肺結核・脚気・伝染病などであり、男性の平均寿命は、女性よりは少し長く、33歳位だった言われております。(現代の日本とは、逆ですね)
平安時代の女性には洗髪休暇があった 
平安女性といえば、一番印象的なのは、長い髪だろうと思います。このシリーズの「貴族の子女の家庭教師について」の稿で述べましたが、村上天皇の中宮(ちゅうぐう)芳子という人物の髪は、5mもあったそうです。 
では、平安女性はどのようにして髪の手入れをしていたのでしょうか? 
天武天皇の大宝元年(701年)に発令された大宝令によると、上流階級の女性には、「髪」を洗うための休暇が半月に3日あると書いてあるそうです。ということは、当時の女性はわざわざ休日をとって、髪を洗っていたことになります。大変だったと想像されます。もちろん、シャンプーやリンスもありませんから、なにで洗ったかといいますと米のとぎ汁などを使用したのではないかと思われます。つぎに洗ったあとは乾かさなくてはなりません。これにも、時間がかかったわけです。 
したがって、わざわざ休日が必要であったのでしょう。普段の手入れは櫛(くし)でした。暇(ひま)があれば侍女(じじょ)にといてもらっていたようです。それでも、夏などは臭くなりますから、臭いのをごまかすために、枕に香(こう)くぐらせ髪を巻きつけて寝たようです。それでも臭い場合は「ガマン」するしかなかったようです。
平安貴族が寝所に香をたきしめたわけ 
トイレのことを「かわや」といいますが、これは川の上にある家だからそのようにいったそうです。日本では独立したトイレが登場してくるのは、書院造りなってからであり、それまでは川に流していたようです。一種の水洗トイレです。したがって、歴代の宮殿跡を発掘しても、トイレ跡と思われるものはみつからないそうです。 
この川へ流す習慣が引き継がれ、平安時代の貴族社会では、樋箱(ひばこ)と呼ばれる、長方形の箱の底に砂を敷きつめたものに用を足し、朝になるとその中身を鴨川に捨てに行ったのだそうです。 
樋箱は、いってみれば携帯トイレ」だから、昼間は片付けておき、夜になると寝所に持ってきたわけです。用がすむと蓋(ふた)をしてそのまま置いておくのだそうです。だからどうしても臭(におい)います。と言うことは部屋が臭くなります。そこで、その臭いをまぎらわすために「香」をたいたのです。 
つまり、香をたきしめる習慣は「優雅」の演出と言うよりも必要に迫られていたのです。宮中では、この習慣は明治天皇の東京遷都(せんと)まで続いていたと言われます。 
フランスでもブルボン王朝の頃、盛んに香水を振りまいたり、香をたいたりしたようですが、それも臭いのをまぎらわすのが目的だったのだそうです。ベッドの下の引き出しに、便器を入れておいたからです。 
 
細長

1.細長(ほそなが)は平安時代の産着の一形態であり、狩衣に形状が似ている。江戸時代には徳川氏に世継ぎが誕生した際に朝廷から祝い品の一つとして送られるのが慣例となった。産着細長(うぶぎほそなが)ともいう。 
2.細長(ほそなが)は平安時代中期の女性の衣類の種類の一つ。形態不詳の「謎の装束」とされる。 
3.細長(ほそなが)は10世紀頃に存在した成人男子の下衣。「宇津保物語」吹上の巻などから知られる。 
他、平安後期の文献では殿上童の欠腋袍を「細長袍」と記す例が見られるなど、種類の異なる服について「細長」という呼称が用いられたことがわかる。 
 
平安文学には「高位の女性のお召し物」としてしばしば登場する。一般的に「若い女性の着る着物」とされているが、文学上では30歳を越えているとおぼしき女性が着用している例が散見され、疑問がある。また、贈答品としてしばしばこの「細長」が使われている。 
しかし鎌倉時代以降、次第に着用されることなく廃絶してしまう。その後戦国時代の公家社会の崩壊により全く実態は不明となった。鎌倉後期の高倉家秘伝書「装束色々」では女性用の細長と産着の細長の仕様を別々に説明するが、同じ頃の河内方(源親行ら、主に鎌倉で活躍した源氏物語研究の家)の「源氏物語」の注釈の秘伝を集めた「原中最秘抄」ではすでに産衣細長と女性用の細長の混同が見られる。 
江戸時代、有職故実の復興により公家女子が「袴着の儀式」の時に着用する礼装として復活する。これは袿のおくみが無い形態のもので脇は縫われている。現在の皇室で内親王や女王が「袴着の儀式」を行うときにはこの細長を着用する。 
なお、現在は未成年の皇族女子が女性用の細長を使用するのみで、男子の下衣としての細長はもちろん、産着の細長も使用されない。
女性用細長 
平安時代 
女性用の細長については、平安後期の装束解説書「満佐須計装束抄」(まさすけしょうぞくしょう)には「例の衣のあげ首なきなり」とだけ書かれ、ここから束帯の様な詰め襟でないことだけがかろうじて分かる。「衣」(きぬ)といえば普通は男子の内衣や女子の重ね袿をさすので、いわゆる垂頚(着物襟)だったと思われるが、確証はない。またそれ以外の構造に関してはほとんど史料が無く不明である。 
現在提示されている説としては、脇が縫われず、前身頃と後ろ身頃が別れており、右と左の後ろ身頃は背で縫われて長い着物、脇が縫われず身頃は全てバラバラのパーツであり、袖の辺りでつなぎ止められている平安時代の童女の装束であった汗衫(かざみ)に似ているなどがある。更に極論ではあるが、細長は贈答品専用として作られた衣料であり、実際は着用されてなかったという説まである。 
しかし、「源氏物語」の実際の着用例は事実をふまえたものであろうから、成人を含めた女性が、袿や時には裳まで含む多くの装束とともに重ねて着用したとみてよい。細長の着用は「石清水物語」をはじめとする鎌倉時代の擬古物語にも見えるが、この例はまさに擬古的な雰囲気を出すために記されただけであろうと思われる。 
なお、「源氏物語絵巻」鈴虫第一段(五島美術館)に描かれる女性の装束はかつて「細長」とされ、裾の分かれた細長の形状を示す例とされていたが、近年科学調査に基づく復元模写作成過程で、裳をつけた袿姿であることが明らかになっている。また、汗衫に似た細長の復元案は、「承安五節絵巻」の汗衫姿の童女の図を細長と誤認したことからはじまることが、戦前の雑誌「風俗史研究」の記事などから窺われる。 
江戸時代以降 
近世の女子の細長は高貴な皇女の幼少時の礼装で、形式は上記のように袿に似ておくみのない仕立てで小袿のように中倍を入れるのが普通である。大聖寺には光格天皇の皇女の細長があり、細身で丈が長い。京都国立博物館には有栖川宮家伝来の細長があるが、皇女の細長とほぼ同じ形式ながら丈がそれよりは短く、皇室と世襲親王家とでは区別があったらしい。 
近世の童女の細長は濃色(小豆色)の単を重ね、濃色の袴をはいており、五衣等は重ねない。単の生地は國學院大學所蔵高倉家調進控裂にも含まれるが、成人女性用よりは小型の幸菱である。山科流では多くの場合松重(表萌黄・裏紫・中倍香色もしくは裏紅・中倍薄紅。表の地は松唐草の浮織)を調進した。 
近代においてもこの形式が踏襲されているが、色目は自由度が増して、昭和天皇の皇女の細長は各種の重ねで調進されており、戦後も紀宮清子内親王のそれは紅亀甲地に白松唐草の上紋の二重織物、眞子内親王のそれは紅亀甲地に複数の色糸で白菊折枝を織った二重織物、敬宮愛子内親王のそれは紅三重襷地に複数の色糸で白菊折枝の丸(中倍薄紅裏萌黄)を織った二重織物となっている。
産着細長 
産着としての細長は、鎌倉時代初期の「紫式部日記絵巻」に描かれている。それによると端袖はなく、欠腋で縫われていない前身と後ろ身の裾が分かれて帯状に見える。文献上は、「園太暦」の後伏見院皇女c子内親王誕生の記事に、これを収めた箱とともに詳細な記録がある。近世に徳川家へ下賜された細長はこれを参考資料としている。 
一方、高倉家伝来の「装束寸法深秘抄」(応永6年)には図入りの寸法書がある。盤領だが背面に「肩のひらひら」という小さな裂がつけられ(おそらく襟をあけるときに出た生地であろう)、そこから背守り縫いを施している。襟につけられた紐は、長い紐を二つ折りにした中央で蜻蛉を作り、その両端を長くたらして、そこに蜷結びを施している。蜷結びの上には色糸で鶴と松の置文がされている。また腋は縫われている。生地は色物でもよいが、蜷紐は白に限るという。 
近世の産衣の細長は白い亀甲文の綾で、狩衣のような一身の(背縫いの無い)ものである。襟は盤領(丸襟)だが蜻蛉はなく、水干のように長い紐を、襟の背中心にあたるところと上前の端(狩衣の雄蜻蛉をつけるところ)につける。この紐は右縒左縒の紐2本ずつを使い、女性の檜扇の紐のように蜷結びにして長く下げる。腋は欠腋とし、丈は長い。水干に似るものの、袖が一幅で端袖がない。白い小繁菱(唐衣の裏に用いる柄)の綾の単を重ねる。 
将軍家へ下賜の細長は通常山科家が、前述のように「園太暦」の記事に基づいて調進したが、文政年間には高倉家が「寸法深秘抄」に基づき、それまでと違う仕様で調進したこともあった。色目も山科家調進が白い亀甲文綾に限ったのに対し、萌黄葵立涌文に紅平絹の裏をつけ、白い蜷結びの上には花結びで表現した松と鶴を縫い付けている。おそらく「園太暦」と「寸法深秘抄」が記す装束は同じようなもので、記録するときの着眼点の違いによって記事に差が生じ、結果的に二つの復元案ができてしまったのであろうと思われる。また、産着の細長については、男女による形態の差がなかったようである。 
 
平安時代の理想の女性像について(源氏物語から)

本稿では、平安の時代に貴族の男性が好みとした女性像を考察し、良いと思っている所、悪いと思っている所を明らかにする事を目指す。 
平安の時代を代表する物語の「源氏物語」は平安の中期に紫式部によって書かれたもので、宮廷生活を中心として平安前、中期の世相を書き写した五十四帖からなる長編物語である。主人公の光源氏を通じて周辺の女性たちとの華やかな生涯を描いている前半と、その子供の薫と光の孫になる匂宮と宇治の八の宮の姫君たちとの複雑な人間関係を写している後半に分けられる。特に最後の十帖を宇治十帖という。 
その中の「帚木」の巻の中の雨夜の品定め≠ニ通称される部分では、まだ若い光源氏が頭中将と、途中から加わる左馬頭、藤式部丞の四人でどのような女が素晴らしいか、欠点に思うところなど女性論を展開していく。これを使って考察していきたいと思う。 
場面としては、宮中の物忌みの中、夜の雨も降りのんびりとした雰囲気の宿直所で、恋多き光源氏と色恋ごとの好きな頭中将が源氏の厨子の中にしまってある女性の恋文を見るところから始まる。中将が、 
女の、これはしもと難つくまじきは、難くもあるかなと、やうやうなむ見たまへ知る。(1)ただうはべばかりの情けに、手走り書き、をりふしの答へ心得て、うちしなどばかりは、随分によろしきも多かりと見たまふれど、そもまことにその方を取り出でむ選びにかならず漏るまじきは、いと難しや。(2)わが心得たることばかりを、おのがじし心をやりて、人をば落としめなど、かたはらいたきこと多かり。 
と話す。中将は、この人こそはと思うような、非の打ち所のない人はめったにいないことがわかってきた。とはじめ、(1)の部分で、「手走り書き」と手書きをさらさらと書くこと、「をりふしの答へ心得て」とその時その時に合った返事の仕方を知っていることをあげて、身分相応に多いと言っている。ということは、まずこの二つは当たり前のことという事が分かる。 
そして、(2)の部分で「自分の心得ている事だけをめいめいに得意になって、人をこきおろすなど、傍目にみっともない事が多いのです。」と他人を馬鹿にすることはみっともないと、不快に思っていることが分かる。 
頭中将は話を進めていく中で、中流の女性が一番面白いといっている。 
人の品高く生まれぬれば、人にもてかしづかれて、隠るること多く、自然にそのけはひこよなかるべし。(3)中の品になむ、人の心々、おのがじしの立てたるおもむきも見えて、分かるべきことかたがた多かるべき。下のきざみといふ際になれば、ことに耳たたずかし 
(3)の前に、身分の高い人は噂ではまるでとても素晴らしい人といわれていても、周りの人がそれを言っているだけで事実は隠されているかもしれないということである。そんな真相が隠されている上流の女と違い、中流の女にこそ、それぞれの特徴がはっきりしていて魅力的だといっている。 
ついで、(3)のあとに下層の身分は「耳たたずかし」と取り立てて注意する気にもならないといって、家柄が悪いと見向きもされない。中将はあえて上流の女よりも中流の女の方が興味深いといっている事は面白い。 
それを受けて、源氏が中将に「その上中下という身分をどう種別すればいいのか、中流とはどういった身分のことなのか」と、聞いているところに左馬頭と藤式部丞とが話しに加わってくる。 
源氏の質問に答える中将の言葉を要約すると、中流とは現在の地位も昔からの家柄もほどほどという身分、今はそれほど裕福でなくても昔はとても高い身分だった家ということになる。 
次に馬頭が中流の女の面白さと語る場面で参考になるところを抜き出すと 
(4)元の品、時世のおぼえうち合ひ、やむごとなきあたりの内々のもてなしけはひ後れたらむは、さらにも言はず、何をしてかく生ひ出でけむと、言ふかひなくおぼゆべし。 
という。高貴な家柄でも、その女性の躾や行儀がなっていないのは論外と、躾や行儀がきちんとしていることも条件だとわかる。続いて 
(5)さて、世にありと人に知られず、さびしくあばれたらむ葎の門に、思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ、限りなくめづらしくはおぼえめ。 
人気のない、荒れている家に意外に、愛らしい娘がいるのは心魅かれると、今の家柄は良くなくても、愛らしげであれば心惹かれることがあることがうかがえる。 
馬頭は物知りぶりをうかがわせながら話を進めていく。 
(6)容貌きたなげなく、若やかなるほどの、おのがじしは塵もつかじと身をもてなし、文を書けど、おほどかに言選りをし、墨つきほのかに心もとなく思はせつつ、またさやかにも見てしがなとすべなく待たせ、わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど、息の下にひき入れ言少ななるが、いとよくもて隠すなりけり。(7)なよびかに女しと見れば、あまり情けにひきこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめの難とすべし。 
と言う馬頭の言葉から、(6)では容姿がこぎれいで、若々しい年頃で、行儀は自分に塵もつかぬほどであり、手紙はおっとりと工夫して、墨の濃淡はほんのりとして、関心を持たせられるようなものであり、やきもきと待ち遠しい思いさせ、話が出来るほど近くによっても、かすかな声を途中で呑み込んで言葉少ないのが難を隠す。以上のような女性を艶っぽく感じて、難があっても隠されて、興味を引かれていることがわかる。そして(7)で、その艶っぽさが度を越せば、色好みに見えてよくないもの思っていることがわかる。 
(8)事が中に、なのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知り過ぐし、はかなきついでの情けあり、をかしきに進める方なくてもよかるべしと見えたるに、また、(9)まめまめしき筋を立てて耳挟みがちに美さうなき家刀自、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして、朝夕の出で入りにつけても、公私の人のたたずまひ、善き悪しきことの、目にも耳にもとまるありさまを、疎き人に、わざとうちまねばむやは。近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに語りも合はせばやと、うちも笑まれ、涙もさしぐみ、もしは、あやなきおほやけ腹立たしく、心ひとつに思ひあまることなど多かるを、何にかは聞かせむと思へば、うちそむかれて、人知れぬ思ひ出で笑ひもせられ、「あはれ」とも、うち独りごたるるに、「何ごとぞ」など、あはつかにさし仰ぎゐたらむは、いかがは口惜しからぬ。 
この(8)の部分では、夫の世話という点では、情緒を重んじすぎて、ちょっとした折にも風情をきかせ、趣味の面に力をいれてしまうことはなくてもよい言っている。(9)では、家事の一点張りで、髪は耳挟みがち、美しさのかけらもないような世話女房が見栄え抜きの世話ばかりする。例えば、夫が公や私のことで、見たり聞いたりしたことを、他人ではなく、話のわかる妻にこそ話したいと思うのに、その妻に理解がないと、ついそっぽを向きたい気持ちになる。夫がひとりで思い出し笑いをして「ああ」といえば、「何事ですの」と間の抜けた顔を向けられたのなら、いまいましく思わずにはいられないと感じていることがわかる。 
(10)ただひたふるに子めきて柔らかならむ人を、とかくひきつくろひてはなどか見ざらむ。心もとなくとも、直し所ある心地すべし。げに、さし向ひて見むほどは、さてもらうたき方に罪ゆるし見るべきを、立ち離れてさるべきことをも言ひやり、(11)をりふしにし出でむわざのあだ事にもまめ事にも、わが心と思ひ得ることなく深きいたりなからむは、いと口惜しく頼もしげなき咎や、なほ苦しからむ。 
この(10)では、子供らしく素直であれば、後は足りないところ自分が補えばよいという考えが出てくる。それは仕込みがいがあるとも言っている。しかし(11)で、趣味的なことも実用的なことも自分ひとりでできないことは頼りないと、これにすら欠点が見えてくる。続いて、馬頭が 
(12)今は、ただ、品にもよらじ。容貌をばさらにも言はじ。いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくは、ただひとへにものまめやかに、静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひの頼み所には思ひおくべかりける。 
この(12)では、家柄も、容姿も問題ではなく、ひたすら実直な性格、落ち着いた女性が伴侶に適していると結論を出す。 
この言葉に続き、それに加えてすぐれた資質、才能や気働きが伴っているようなら、それを儲けものと思い、少しは足りないところがあっても、無理な要求はしない。頼もしく信頼がおけて、おっとりとした性質さえ確かなら、表面的な風流気などは自然と身につけることができる。と言っていて、性格がよければもうそれでよいという結論になっている。性格が良いといっても、信頼がおけなければならないともいっている。 
以上を妻や恋人とする女性の良いことと悪いことに分けてまとめると。 
・良いこと 
 手紙の書けること。【(1)(6)】 
 その時その時にあった返事ができること。【(1)】 
 顔や容姿がよく、いかにも年若らしい人。【(6)】 
 言葉少なく男の関心を引くこと。【(6)】 
 手紙や性格などがおっとりしていること。【(6)(10)(12)】 
 夫の世話という点では、情緒を重んじないほうがよいということ。【(8)】 
 ただひたすらに子供らしく素直なこと。【(10)】 
 一途に実直なこと。【(12)】 
 落ち着いていること。【(12)】 
・悪いこと 
 自分が得意なことを得意がり、他人を馬鹿にすること。【(2)】 
 躾や行儀がなってないこと。【(4)】 
 色好みのように見えること。【(7)】 
 見栄え抜きの世話ばかりすること。【(9)】 
 一人で何もできないような頼りないこと。【(11)】 
手紙を書けるなどある程度の教養や、年若らしいなどの容姿や、関心を魅かれるような隠しがちなところ、そしておっとりとした性格などを女性の良いところとし、人を馬鹿にするところや、躾がなってないことは興味をもてないのである。(7)(9)(11)などは、ほどほどならばよくても[(8)(10)(12)]、度が過ぎればそれぞれ悪いこととなる。結局、必要だと思う色々な理想を言っても、妻とするには性格のよさが一番重要なのであろう。 
・それ以外に女性自身の性格でなく、境遇として 
 中流の女性はいろいろな特徴があり魅力的だ。【(3)】 
 草深い家に意外にも愛らしい人が住んでいることは心魅かれる。【(5)】 
ということになる。中流の人が魅力的というところは興味深い。  
 
権力を発揮していた平安の女性達

平安時代から始まった日本の男女差別 
先生は日本の女性史を専門にご研究されていると伺っております。その一環で、家の成立の歴史や王朝史などたくさんのご著書を執筆されています。そもそも、先生が女性史に興味を持たれたきっかけは何だったのですか? 
私は大学卒業後、しばらく小学校の教員として教壇に立っていました。その中で、能力を持った女性教員が、男性教員と対等に役割分担されていないことに疑問を持ったのです。そのことを抗議したところ、校長先生からは「女性がやりたがらないからだ」といわれました。 
その時、男女が不平等なのは社会システムの影響と同時に、女性自身にも問題があるのではないかと感じたのです。そこで、まず女性の意識を変えなければと考え、大学に入り直して女性史の研究を始めました。 
現在では女性の校長先生なども多くみられるようになりましたが、当時はまだ稀だったのでしょうね。ところで、先生は女性史の中でも平安時代をメインにご研究されていますが、その時代を選んだ理由は? 
ドイツの思想家エンゲルスの著書「家族・私有財産・国家の起源」によると、男女差別は国家が成立すると同時に発生するそうです。しかし、日本において男女差別が始まったのは、国家が成立してしばらく経った平安時代から。これは、世界的にみて非常に珍しいことなのです。 
確かに、有名な持統天皇をはじめ、日本では国家が成立してからもたくさんの女性の天皇がおられました。一方、中国に目を向けると、女帝は武周王朝を建てた則天武后ただ一人ですね。 
おっしゃる通りです。古代の日本には、6人8代の女帝がいます。さらに、彼女達は男帝に劣ることのない政治力を発揮していた、というのが最近の通説になっています。それなのに、平安時代を境に女性の天皇がぱったりと途絶えてしまっている。そこで平安時代に興味を持ち、研究を始めたのです。 
国母として権力を発揮した平安時代の女性達 
女性の天皇が認められなくなったのは、明治時代に定められた「旧皇室典範」からですよね。それなのに、平安時代から江戸時代まで、女性の天皇が二人しか現れなかったのはなぜなのでしょう。 
そのお話をするには、少し歴史を遡る必要があります。奈良時代に中国から律令が入り、日本はそれをお手本に法律を作りました。中国の律令では皇帝は男性しか認めていないのですが、日本では「女性の天皇の子どもも同じ」という一文をわざわざ追加し、女帝も認めたのです。 
それは知りませんでした。そうした意味では日本はずいぶんとひらけていたのですね。 
そうなんです。古代の日本は性別にとらわれていなかった、ということが定説化されつつあります。しかし、平安時代からは女性が政治の場に出ることができなくなりました。とはいえ、女性の力が衰えたわけではありません。平安時代は摂関政治の全盛期ですよね。天皇の母親である「国母」は、政治の表舞台に出られなくなった代わりに、父や兄弟を摂関として代行させていたのです。 
つまり、平安時代の女性は表舞台にこそ登場しないものの、裏でかなりの権力を持って国をコントロールしていたわけですね。 
賢女として有名な藤原道長の娘・彰子は、4人もの天皇を補佐するなど、国母としての権限を遺憾なく発揮していました。鎌倉時代に登場する北条政子も、夫である源頼朝が亡くなった後に擁立された若い将軍の後見となって活躍しました。母親が強いという歴史の流れは、その後も続いていたわけです。 
なるほど。しかし、なぜ女性が政治の表舞台に出られなくなったのでしょう。 
平安時代あたりから結婚が社会制度として整いはじめ、「家」という観念が生れました。この頃の貴族の「家」は、今でいう「会社」みたいなもの。というのも、貴族の家には女房をはじめ、大勢の人が住んでいました。道長の家には、実に200人以上もの人が住んでいたといわれています。そこで、女性は政治の場である「朝廷」ではなく、「家」という会社を支える副社長や専務として腕を振るうようになったのです。事実、鎌倉初期までは、夫が亡くなると財産はすべて残された妻が一括相続していました。 
表向きの歴史では男性が日本の政治を支えていましたが、それを下支えする家の管理、財産運用などは女性が担当していた。男女分業が始まり、だんだんと男女差別の意識も生れ始めてきたのですね。 
身近なところから活かせる女性史研究 
先生のご著書を拝読すると、平安時代にもたくさんの女性が活躍していたのだと気付かされます。しかし、そうしたことは歴史ではあまりいわれていませんね。 
それは、今までの研究者達が男性の権力のみに注目し、男性の史料しかピックアップしてこなかったからです。「古事記」や「日本書紀」、「風土記」には女性が活躍したエピソードがたくさん描かれているのに・・・。今まで男性目線で研究されてきた歴史を、女性の視点で異なる分析をすれば、いくらでも新しい発見があると思います。 
先生のご研究は、歴史全体の流れを補完し、歴史の見方を変えるきっかけにもなりますね。 
最近の調査では、古墳に埋められた男女の数は、ほぼ同数だということが分ってきたそうです。反対に、卑弥呼に代表されるシャーマン(覚醒することで、神や霊と交信できるとされた人)は女性だけだと考えられてきたのですが、実は壬申の乱に男性のシャーマンが登場している場面が描かれているのです。 
歴史は先入観にとらわれず、フラットな視点でみることが重要だと。今までは男性の政治史≠「う固定観念で歴史をとらえていた風潮があったのですね。 
そうです。先入観にとらわれ、長い時間を掛けて伝統的につくられた歴史は、新しい伝統によって変えていけばいいのだと思います。変えていく力は学ぶ力であって、学んだことは活かしていかないといけません。そして女性史の良いところは、学んだことを身近で発揮できることにあるんですよ。 
と、いいますと? 
普段の生活から変えていけばいいわけです。私はよく周りの女性に「まず夫から変えなさい」といっています(笑)。夫にお茶を淹れてもらいなさい。その代わりに「美味しい」って誉めてあげるんですよ、と・・・。 
なるほど(笑)。身近にいる人の意識から変えていくことが、女性史の第一歩だということですね。 
私の周りにも、いまだに歴史的につくられた性役割分担にとらわれて生きている女性がいますので・・・。また、日本史の研究者は圧倒的に男性が多いので、女性の研究者を増やしていくことも今後の課題です。 
多くの女性が研究することで、研究の幅の広がりも期待できそうです。女性史の研究に限らず、さまざまな学問を女性の視点から研究していけるようになるといいですね。 
はい。研究というのは、歴史に限らず、現在の問題点を常に意識しなくてはなりません。日々のニュースや書物に常にアンテナをはりめぐらせると、新しい分析の視点を得ることができます。その視点で新しい研究を行なうことで、先人の歴史から現代の問題を解決するための知恵を学びとることができるのです。 
 
平安女性は強くて元気

「今昔物語」の魅力は表現方法のおもしろさ 
先生の書かれた、「平安朝“元気印”列伝」を読ませていただき、「今昔物語」って、こんなにおもしろい話だったのかと驚きました。テンポもいいし、現代の小説を読んでいるみたいに身近に感じました。 
ありがとうございます。そうおっしゃっていただけるのが、一番うれしいんです。自分で言うのは恥ずかしいんですけど、あの本は、一章一章、論文で書いてもいいくらい、新しいことをたくさん盛り込みました。でも、論文として世に出すよりも、古典の魅力をもっとたくさんの人たちに分かってもらえたらと思って、あんなふうなクダケた形の本にしました。 
実は、あの本に書かれている話の他にももっといろいろおもしろい説話が読みたいなと思いまして、注釈付の「今昔物語」を買ったんです。訳文を読んだんですけれど、意味は分かるんですが、一つはパンチがないというか、ドキドキしない、引き込まれていかないんです。やはり、先生にあの手法で書いてもらわないといけないな、と思いました。 
あの本を読んでくださった方は、皆さんそうされるようです。すると、ちっともおもしろくないと…(笑)。そういう意味では、私なりに原典の魅力をできるだけ多くの方に分かってもらいたいと思って書いた甲斐がありました。「今昔」の説話は全部で1,040あるんでずか、ただそのままを平易に解説していってもおもしろくない。やはり一つひとつの話にはポイントがあるわけですから、その話の持ち味が最大限生かされるようなアプローチ方法で切り込んでみたんです。 
先生にとって「今昔物語」の魅力、おもしろさって何ですか。 
表現方法がなんといってもすごいですね。本の中でも紹介しましたが、私たちが想像もできないような表現がたくさん出て来るんです。 
例えば「歯より汗出づ」。「歯から汗が出る」という意味ですが、迫力ありますよね。歯から汗なんか出っこない。でも、出っこない歯から冷や汗がタラーリと出るんです。どうしてよいか分からずに途方に暮れている気持ちが生々しく伝わってきます。「頭(かしら)の毛太りて」もすごい。恐怖感に襲われて髪の毛が逆立った時、普段は意識したことがない髪の毛の存在を突然感じるので、まるで髪の毛が太くなったような気がするという意味です。 
ゾクッとすると鳥肌が立つというのはよく分かりますが、髪の毛も立つんですか。 
立つそうです。私も実は最初、その表現はオーバーだと思ったんです。でも、ある時お医者さんに聞いてみたら、それはあり得るということでした。平素の私たちは、立毛筋が神経でコントロールされていて、毛が立たないようにセーブされているんだそうです。昔の人は今よりももっと感覚的と言いますか、動物に近い部分が残っていますね。ですから、頭に来たり、恐ろしかったりすると、パーッと本当に毛が立ったんじゃないかと思うんです。そういうところを「今昔」は実にリアルに残してくれているんじゃないかと思います。 
なるほど。今の人は使わない表現ですけれど、その様子とか気持ちはよく伝わってくるような気がします。 
「イガイガ」は赤ん坊の泣き声 
まだまだありますよ。「影の如し」というのは、この時代は、痩せ細っている人、病気等で憔悴している人のことを表す時に使われる表現です。重量感のない感じが共通するんでしょうね。 
「笑み曲ぐ」もおもしろい表現です。眉や口を曲げるほどに笑って喜ぶことで、感じが出てるでしょ− 
リアルですね。 
「目さすとも知らず暗きに」というのは「一寸先も分からぬ闇の夜に」と訳しますが、誰かがそばに来て目を突き刺しても分からないほど真っ暗だ、という表現なんです。われわれ現代人から見るととても新鮮な言い回しです。電燈のない平安時代の闇っていうのはすごいですからね。擬音語の中にも、今のわれわれの語感からはちょっと信じがたいものがあります。「イガイガ」なんて、何のことだと思いますか。 
何ですか。 
赤ん坊の泣き声なんです。 
「オギャーオギャー」のことですか。 
そうです。「イガーイガー」と音を伸ばしてみると、なんとなく似てるでしょ−(笑) 
実は「今昔」は、長い間平安時代の庶民生活を映し出す資料的な価値しか認められていなかった。そういった表現方法についてはあまり論じられていなかった。でも私はそのへんに「今昔」の文学的価値があるとみているんです。 
なるほど。そういう角度から古典文学を研究するのは楽しそうですね。 
平安時代の女性は強くて元気 
ところで、「元気印」と先生がタイトルをつけられたように、「今昔物語」に登場する女性というのは、本当に元気で強いですね。 
そうなんです。浮気ものの亭主をやっつける奥さんもいれば、臆病ものの亭主を叱咤する奥さんもいる。女の武器を使って仙人の神通力を失わせてしまう美女、お産で死ぬのが不思議でない時代に一人で山奥に入っていって子供を産む女性、男を虜にして泥棒の仲間に引き入れてしまう女、プレイボーイを自称する一人の男を、逆にあの手この手のテクニックで夢中にさせて焦がれ死にさせてしまう女等々。でも、どの女もどっか愛嬌があってオチャメな部分があるのね。 
登場してくる男はだらしないんですけどね(笑)。 
いやいや、あの本では一章だけですが、勇ましい男の話も書いてありますよ。今昔の別の話には、たくましい男たちの話も多い。あの本は、元気な女にポイントが絞ってあるんですもの。 
それにしても何で女性があんなに強かったんですか。 
社会制度の力が大きいでしょうね。女の家の方の経済力がものをいった時代です。男性は、ある女性が好きになったら、その女の家に通っていくというパターンなんです。女性の家の方で、男の身支度などすべて整えてやることが多い。離婚も簡単です。愛情がなくなれば自然に解消する。男が来なくなれば離婚なんです。女の方も、新しい男をつくっていい。子供ができれば、女は女の家で両親と一緒に育てますから、不都合はないわけです。 
今の婚姻制度に比べると、なんて自由で気楽だと思いませんか。 
男女の形としても自然ですね。だから、平安時代の女性たちは、伸び伸びと生きていられたわれですね。そういう意味では、平安時代とまでは行きませんが、最近の女性たちも、結婚とか出産とか家事、育児なんかにしばられない、伸び伸びとした生活をする人が増えてきたように思いますが。 
そうですね。やはり、仕事を持って自立した生活を送る人が多くなってきたせいではないでしょうか。経済力って、人間関係を支配するんですね。 
話のおもしろい、ウイットに富む女性になろう 
生き生きとした魅力的な女性になってもらいたいということかしら。それには、もっと自分を出して、話のおもしろい、ウイットに富む女性になろう、男を退屈させない女になろう、ということですね。ただし、あまり出過ぎては行けませんけど。 
男性にも言えますね。でも、これは結構難しいことですね。 
聞き上手でもいいんです。これも重要なことですね。話し上手と聞き上手、どちらかというと、聞き上手の方が難しいんですね。まだまだ社会の中で男性と十分対等になっているとは言えないけれど、今は女性が社会に出やすくなりました。今後、女性も、男性と一緒になって世の中、社会を支えていこうと思うのであれば、自分たちをどんどんトレーニングしていかなくては男性に対しても社会に対しても申し訳ないと思うんです。もっと自分を磨いて、自分の足で歩くアクティブな魅力を持った女性たちの誕生を望んでいます。 
よく分かります。でも、具体的にどうしたらいいんでしょう。 
それにはまず、自分に自信を持つことでしょうね。でも、自信の持ち過ぎも困るわ。一つだけ、これなら自分にはできるというものを持てばいいんですね。いつも自信がなくて黙っているような人は「私なんか」という意識をまず捨てていただきたい。そして、自分をよく見て、自分にできそうなことを探してみる。必ずあるんですね。ほんのちょっとしたことでいいんです。料理づくりならできそう、庭づくりなら大丈夫そうなどと。そして、大事なことは、それを実際にやってみて、少しずつ少しずつ力をたくわえていくことです。それが、自信につながっていくんですね。 
そして、一つのことに自信を持つと、不思議なことに輝いて来るんです。そこに魅力が生まれるんです。 
「私は完璧だ」という女性はどうですか。 
それはバツ。人間同士の信頼関係ができにくいんですよ。人間同士のふれ合いが生れるのは、不完全な者同士が自分にはないものを相手に求め魅かれていくからですもの。 
女性たちがみんなちょっとずつ自信を持って、魅力的になって来ると男性も幸せだし、世の中も変わってきますね。 
 
平安時代のキャリアウーマン・女房1

みやびな世の平安時代で大ブレイクした清少納言さんも紫式部さんも女房(キャリアウーマン)でした。文学をなさった藤原道綱の母、和泉式部、赤染衛門さんら全員、ばりばりのキャリアウーマンでした。これ以降は、「キャリアウーマン」さんの事を、単に「女性(キャリア)」と云う表現にします。文学をなさった女性は当然ですが、それでは一条天皇の奥様達の定子さん、彰子さん達を皆さんは、どう思われますか。藤原道長さんの奥様達の源倫子さん、源明子さん達は女性(キャリア)にならないのでしょうか?
藤原氏摂関家の奮闘1
藤原鎌足・不比等さんから日本のリーダーになられた藤原家。奈良時代の攻防は省きまして、ここでは、平安初期に藤原冬嗣さん系が他家から一歩先んじた後からの歴史の流れを振り返ってみます。(冬嗣さんは初代「蔵人頭」。後に上達部になれる超ヤングエリート役職コース。)その前に、一応確認事を。おおよそ女性と男性の思い慈しみ合う秘め事?はお二人にしか明らかな事実は分かりません。従いましてお二人の間にお生まれになられた「お嬢さん」「僕ちゃん」達の存在は、今現在文献等により類推?を含まない世の中で流布されている情報を前提といたします。もう一つ、これからご紹介する皆様には大変失礼ですが、「さん」付けを省略します。更に、表記順を長幼の序にいたしません。悪しからず。 
藤原冬嗣(775-826)のご子息 
1 良房(804-872)系 
2 良門(?-?)系 
3 長良(802-856)系 
1→1 基経(836-891)(=3→1) 
1→1→1 時平(871-909)  
1→1→2 忠平(880-949) 
彼らを、その時代(とき)を引っ張ったリーダー達を「手のひらの上で奔放に飛び立たせ支えた」時の女性達の果てなき「心の大らかさ」を紹介してゆきます。 
女房(にょうぼう)とは 
今の世では「女房」は既に死語となっているやも。ほんの少し前迄、お子様方にとりましては「お母さん」。当事者同士なら「連れ合い」「お嫁さん」「奥さん」「家内」「内の」冷たくは「配偶者」、要は「カーサン」です。どんな「詞」も背景となる時空間の違いにより与えられる意味合いが異なる事は世の常です。 
平安時代は、禁中(天皇の住空間・内裏)・院中(上皇の住空間)でその一部空間で「房」(部屋)を頂けた高位の女官。又、貴族のお住まいでお仕事をする女性。これに当たるのが赤染衛門さんで道長の奥様の倫子さんの下でお仕事をしていました。清少納言さんは宮中(内裏)でお仕事をしていましたが、雇い主が定子さんの父の藤原道隆でしたので後者になります。室町時代は、武士の奥様などにも使用され。やがてご婦人方一般総称に。江戸時代は、商工業者や農作業従事者の奥様にも使われ1945年迄日常に奥さんの意味になっていた感じ。(女官は律令制下の後宮や十二司(今の政府省庁)などにお勤めする女性の総称になります。) 
平安中期・後期の女房は、貴族の子女の教育係であったり、上司(帝・院も含む)のお言葉の取り次ぎ等の雑務をこなすお仕事に従事していましたので、各々開放的なプライベートルームを与えられていて幾ら朝の電車・車での出勤がないにしても、お仕事(勤務中のちょいとしたお休みも含め)に時間を費やす事は日常でした。 
故に、お掃除、お洗濯、お子さんのお世話、食事の用意等々、職場のお仕事以外の「お仕事」は、ご自分では賄いきれずそちらの「お仕事」はどちら様かにお願い(雇って)してやって頂いていました。逆に見れば、素敵で賢く、見目麗しい?、清少納言さんも紫式部さんもそちらの「お仕事」から解放されていたのでエッセーや物語に勤しまれたとも云えます。 
枕草子では女房達の宮中プライベートルーム(房)で彼女らのお子さんが遊んでいる様子が描写されています。 
かと云いましてもお若い女性も当然いらっしゃいましたし、又、日常の出来事として、シングルマザーの女性もいらっしゃいました。お局様(お年をめされた方)だけでは決して有りませんのでご安心を?その様な状況ですので、清少納言さんも頂いた俸禄(サラリー)の中から捻出して?身の回りのお世話をして下さる方々をお雇いになっていたのです。 
その方達も含めて宮中で与えられた部屋空間が「房」(シンプルなキッチン付きリヴィングルーム感覚?)と云う事になります。清少納言さんは定子さんのお世話係をしていましたので、定子さんから見ると彼女は身の回りのお世話をしてくれる大勢の内の一人(但し定子さんに覚えめでたい)になります。ここまでだけでも現代のキャリアーと云われている女性達とはスケールが違い過ぎとお思いになりませんか?
藤原氏摂関家の奮闘2  
1→1→2 忠平(880-949) 
1→1→2→2 師輔(908-960) 
1→1→2→1 実頼(900-970) 
1→1→2→3 師尹(920-969) 
1→1→2→2→3 兼家(929-990) 
1→1→2→2→1 伊尹(924-972) 
1→1→2→2→2 兼通(925-977) 
1→1→2→2→3→5 詮子(962-1001) 
1→1→2→2→3→2 超子(954?-982) 
1→1→2→2→3→1 道隆(953-995) 
1→1→2→2→3→4 道兼(961-995) 
1→1→2→2→3→1→1 伊周(974-1010) 
1→1→2→2→3→1→3 隆家(979-1044) 
1→1→2→2→3→1→2 定子(976-1000)(お世話教養担当係清少納言) 
1→1→2→2→3→6 道長(966-1027) 
1→1→2→2→3→4→2 頼通(992-1074) 
1→1→2→2→3→4→3 教通(996-1075) 
1→1→2→2→3→4→1 彰子(988-1074)(お世話教養担当係紫式部) 
分かりにくいでしょうか?数字は世代交代の流れを表しています。藤原冬嗣さんのご子息からの世代順です。約800年-1075年までの275年間の時代(とき)がとうとうと流れています。江戸時代よりも長いです。私達日本人は、今現在、世界一寿命が長い国だそうですが、それでも約70年-80年です。近代医学が未だ皆無であり、疫病などを読経で退散させようと信じていた平安の世でさえ、藤原道長のお子さん達は今の世と同じく長生きされました。又、彼女・彼らだけでなく、道長の奥様の源倫子さんは、数えで90歳ですし、「小右記」で有名な藤原実資も数えで90歳までこの世で空気をお吸いになられ、その他にも、多くの方々がその時を楽しまれました? 
藤原実資(957-1046)は数字表記ですと、1→1→2→1→3→4(実頼の養子)となります。源倫子(964-1053)さんは後で触れます。 
ここで、皆さん不思議な事に気づきませんか?なぜか、歴史教科書では、お子様達の父をお示し下さいますが、生(産)みのお母さんが基本的に表記されていません。なぜかと問うのは子供じみているのでしょうか?それなら子供のまま(ママ)で展開します。年端を重ねれば「照れ・誤魔化し」の「こうのとり」表現は誰も誰も・・・。父母の存在あってのお子様です。
藤原定子さん、藤原彰子さんはキャリア?  
定子さんの母は、高階貴子(?-996)で円融天皇時代(在位969-984)(959-991)、才長けた宮中キャリア(内侍)でした。道隆と恋に陥り、道隆が邸に通い、結果、伊周・定子さん達がこの世に出現する事に。お二人がちゃきちゃきでお若い時代は、彼の父の兄である兼通が関白でしたので未だ下級殿上人でした。やがて兼通が977年に関白の座を頼忠(1→1→2→1→2)(924-989)に譲りあの世に逝かれました。時が流れ円融帝が譲位され、花山天皇(在位984-986)(968-1008)時代。986年にとても有名な「一緒にお坊さんになりましょ事件」が企画されます。 
プロデューサーは道隆の父の兼家、役者は道隆の弟の道兼、まんまと嵌められたのが花山帝。こんなドラマ演出を「なぜ」行うかは、皆さんご存じの様に「天皇」の義理のお爺ちゃんになる事により、日本のリーダーにならんが為に他ありません。これが世に云う「摂関政治」。このさわり辺りから「枕草子」に描写されています。 
兼家はこの事件のより念願の一条天皇(在位986-1011)(980-1011)の「摂政」になる事に。更に彼は、この時右大臣であった為その職を辞任までします。政府(太政官)の序列では3だったからです。1は太政大臣、藤原頼忠で2は左大臣、源雅信(920-993)(祖父が宇多天皇で源倫子の父)でした。それまで摂政関白は大臣兼務でしたからここに「摂関」と云う政府からは独立した最高「権力」を得る事なりました。988年春には兼家の還暦の祝宴が法性寺で開催され、秋には自邸の二条京極殿で二次会のパーティーが催され、ご接待係のコンパニオンは「山崎の津の才色兼備な女性」、池には「船上の管弦楽団」を用意するなど、飲めや歌えやの舞い踊りでそれはそれは素晴らしい「宴会」だったそうです。(山崎の津は淀川の港、現在の京都府乙訓郡大山崎町と大阪府三島郡島本町の境。桂川、宇治川、木津川の合流地点で交通の要衝地だった。明智光秀と豊臣秀吉の「山崎の戦い」の所です。) 
その2年後の990年に兼家は亡くなります。関白の位を息子達の道隆・道兼とその取り巻きを含めて争いますが、継がれたのが年上の道隆です。道長はこの時争い事には参加していません。 
もうお一人忘れていけないのが兼家のご子息の藤原道綱(955-1020)。母は文学なさった「蜻蛉日記」の作者の「藤原道綱の母・藤原倫寧の娘」です。彼女の数字は(3→4→2→1→4)(?-995)になり長良系の藤原一族です。道隆らの母は藤原仲正(この方は冬嗣系でありません)。冬嗣より3代前の魚名系)の娘、時姫さんでしたので道隆らと道綱は異母兄弟になります。 
やっと、定子さんの父の道隆まで到達しました。ここからが本題になります。
この時代、完璧に日本のリーダー(摂関)になる条件  
(完璧とは暫定的でなく実質長期間と云う意味合い) 
1 先ずは、「健康」。この事はずーっと変わりません。今日でも朝、苦しそうに義務的に?走っておられます。 
2 奥様に丈夫な「お嬢さん」を生んで頂く事。子宝に恵まれる事は勿論、「女性」が先決。 
3 そのお嬢さんが帝の奥様に迎えられる事。 
4 お嬢さんと帝との愛の結晶で、男の子(男性)が生まれる事。 
5 お嬢さんの「父」が健やかで「存命」の事。(お嬢さんと帝との間に、男子誕生-東宮宣旨=立皇太子まで。) 
これらが完備されないと、完璧な日本のリーダー(摂関)にはなれません。1-5は、必要かつ十分条件です。 
定子さんは990年1月に一条天皇邸に入られ(入内)、女御になり10月奥様(中宮=皇后)になりました。彼女の父、道隆はこの年の5月に既に一条帝の摂政になっていた事は前に述べました。 
「枕草子」「大鏡」に依りますと、道隆はとても明るく、冗談が分かる、お酒が大好きなお方だったそうです。母の貴子さんは学者肌で、当時、エリート男性の必須科目であった「漢文・漢籍」に女性でありながらも堪能でいらした方だったそうです。 
そんなご両親でしたので彼女は、反面教師の立場を貫かずに、素直に育ち、お二人の感性及び取り巻き教育係の知識を吸収していたと考えます。この時、定子さんは数えで14歳立派な?「女性」です。一条帝は彼女より3歳年下の数えで11歳未だ「男性」?ではなかった感じです。彼女は、一条帝が素敵な男性になるのを今か今かと待つ日々でしたので、感性を養う時空間があり更にキャリアアップする事になります。 
そうこうしている際に、ちょいと気位が高く、父譲りの漢籍の素養があり、物事・人に心配りできる清少納言の存在を知らされます。彼女は、「その様な素敵な女性を私のブレーンに」と所望され目出度く実現する事に。このお二人の出逢いなくば「枕草子」の存在もなかったと云っても過言でないと思います。彼女らの感性は枕草子をご覧頂く事として、突然ですが995年に父の道隆がこの世を去られます。未だ父の確固たるリーダー存在を確立する「お仕事」が貫徹される前にです。5の条件が欠如する事になりました。4の条件も未だ、満たされていませんでした。お子さんはできないは、サポーターはあちらの世界に逝かれるは、で、定子さんはさぞかし・・・。道隆さんはこれ迄に。 
聡明な定子さんはひとまずおいて、次は彰子(上東門院)さんと道長の今まで誰もなし得なかった燦然と輝く「大成功」の事例に。
清少納言と紫式部(教養担当スタッフ)  
ここで誰でも認めるみやび平安の世のキャリアウーマンの清少納言さんと紫式部さん。 
清少納言 
彼女の生没年は(?-?)です。色んな書籍をあたると994年に中宮定子さんと接近遭遇して彼女のお世話係になったと推察されています。「枕草紙」には994年の出来事が活写されていますのでほぼ間違いないと思いますが不確かです。枕草子をご研究されておられる方々はこの994年頃、清少納言さんのおん年は30歳前位と推定なさっていますので数えで約28-29歳位と考えられます。 
紫式部 
彼女の生没年も(?-?)です。識者の皆さんは清少納言さんよりも年下として想定されています。中宮彰子さんが1008年に身籠もられて、生家の土御門殿(邸)でお過ごしになった状況が「紫式部日記」に記されていますので、それ以前にスタッフになっていたと考えられます。お二人共に、お洒落で素敵な女性ですが、後に紫式部さんの賢子お嬢さんも彰子さんの女房(キャリア)になっていますので、その分情報量が多く、清少納言さんは幾分記述されている書籍が少ない為、より「ミステリアスな女性」と考えています。 
お二人の事は、後に追々と紹介しますので995年から時間を進めます。 
彰子さんが一条帝の邸にお入りになるのが999年数えで12歳の時です。この間にはいろんな出来事が有りました。さしずめ道長にとって(あくまでも彼にとってですよ。)一番ラッキーだったのは、兄の道隆、道兼が健康を害してあの世に逝かれた事。だから、先ずは健康でしょう? 
「大鏡」では、道隆の死後の関白の座をめぐる、道隆の息子の伊周(内大臣)(サポート=一条帝、中宮定子の仲良しさんコンビ)と道隆の弟の道長(サポート=一条帝の母で道長のお姉さんの詮子)との争いで、なぜか詮子(東三条院)さんが道長をエイドして息子の一条帝を口説き落とし、嫌々一条帝は内覧(関白に準じる)の宣旨を下した記述。更に、道長は「氏長者」(藤原摂関家領を継承)・右大臣から左大臣に。(「大鏡」は、「栄花物語」程酷くありませんが、ややよいしょ文脈なので話し半分以下に。)「枕草子」では、後に道長のブレーンになり、道長と同じ年、日に亡くなった藤原行成(972-1027)は数字表記ですと、1→1→2→3→5→1?清少納言の同志のお方です。彼は「頭弁」として登場し、彼女との素敵な時空間を過ごされた様は「函谷関と逢坂の関」で活写されています。 
又、伊周・隆家の「思わず矢が当たっちゃた事件」。 
この事件は、藤原為光(1→1→2→2→8?)(942-992)のお嬢さんを巡る恋の鞘当て。伊周が通っていたお嬢さんは、いと美しい女性?であったような。花山院はその美女の妹さんの所へ通っていたそうな。伊周は、それを何と、あの爺さん?実は美女狙いと勘違いし、少しやんちゃで腕に自信がある?弟の隆家に相談、ブラフをして貰うことに。運悪く射た矢が花山院のお袖に命中?ここまで来ると、最早、冗談では済まされず、やがて二人は左遷の運命に。と色んな書物に書かれていますが、真相は「藪の中」ですので何ともいやはや。花山院は例の「一緒にお坊さんになりましょ事件」でお坊さんになられた花山帝です。 
清少納言さん情報では、この年(996年)に身籠もられ(脩子内親王)ていてお里の二条殿(邸)で過ごされている最中に二人の左遷のショックからの落飾、出家(ロングヘアーをすべてカットしていません。ご安心下さい?)・邸の火事・母親の死などの災難が続きますが、気丈な定子さんは翌年無事出産の運びに。 
藤原斉信(為光の息子で行成と同じく四納言の一人)(1→1→2→2→8?→2)(967-1035)と源経房(969-1023)(源高明の息子で兄に四納言の一人源俊賢(959-1027)源高明については後程)ら懇意の方々に、昨今の情勢から中宮定子さんのお側に余りお近づきにならない様にと耳打ちされます?がしかし、そこは「女の中の男・男の中の女」右顧左眄なさらず、操?は守られました。そんな中、清少納言も用事で里に帰っている期間が長引いた際に、定子さんからのラブコールのお便り。「心には下行く水の湧きかえり 言わで思うぞ 言うにまされり」です。 
紫式部さんは、この頃、父の藤原為時(2→2?→1?→1?→2?)(?-?)のお仕事先に決まった越前国に同行して過ごしている感じです?京都に帰郷後、藤原宣孝(2→1?→3?→3?→1?→1?)(?-?)と目出度く結ばれ、999年ないしは1000年にお嬢さんの賢子さんが生まれます。ここで、ようやく彰子さん入内まで辿り着きました。
藤原道長を支えた女性達  
母 藤原時姫(?-980) 
一条帝に請われて還俗(出家取り止め)した中宮定子さんは、997年に帝の元に戻ります。慈しみ合う愛の力は世情の進展ごときに全く臆せず、お二人の間に男児誕生(敦康親王)です。入内済みの彰子さん、と云うよりも、道長にとっては嫌ーな感じ。翌年1000年には、彰子さんを「中宮」に定子さんを「皇后」へと布石打ち。中宮=皇后ですので、何とお二人の正規?の奥様が存在した事に。これにはさすがの定子さんも持ち前の明るさと才気では抗しきれず、第三子をお産みになった後、体調をいたく壊され、楽しい生活の日々を打ち切り彼岸の世界に旅立たれました。 
1008年に彰子さんと一条帝との間に誕生する敦成親王(後一条天皇)の展開の前に、彰子さんの父母のお話を。藤原道長さんは(さんづけはここのみ後も気持ちは一緒。)、多くの女性にお世話になっておられます。今日まで、ファンタジーフィクション物語・小説のジャンルの1と云われている「源氏物語」の作者の紫式部さんともお付き合いが有った事実は、多くの識者がお認めになっておられます。それはさておき、 
源倫子さん (964-1053)数えで90歳、長寿でしょう。 
母は、藤原穆子 (?-1016)(2→1?→4→3→3)父は、源雅信(源雅信は、前出。宇多源氏の祖、綾小路・五辻などの公家。綾小路きみまろさんは末裔では有りません。南北朝の時代にファッショナブルでお洒落で豪快だった、その時代の言葉では「ばさら」、佐々木道誉は彼の末裔です。)道長が彼女の邸に通い、目出度く連れ合いになるのですが、このお二人が結婚に漕ぎ着けたのは彼女の母の穆子さんのお力添えが有った様です。 
父の源雅信は花山帝の皇太子時代(東宮)に彼のお世話係をしていましたのでお嬢さんの倫子さんを花山帝の奥様にしようと目論んでいました。しかし例の事件で花山帝が一条帝に譲位してしまった為大願ならず、次の一条帝・後の三条帝とは年が離れすぎいて彼らの奥様にはちーと無理が有り、又、彼女とお付き合いが有った道長は、摂政兼家三男坊で出世の見込みが薄いしなあーと思い悩んで妻の穆子さんに相談をした所、女の第六感?か分かりませんが夫に「ぐじゃぐじゃ考えないで道長にお決めなさい。」と促したそうです。 
源雅信は993年に他界しますので、残念ながら奥様の感が大的中した事を確認できませんでした。穆子さんは、彼女らの煌めく栄光の出来事をご自分の眼(まなこ)で。万歳。987年に華燭の典? 
源明子さん (964?-1049)彼女も964年生まれが正しければ、数えで86歳の長寿。 
母は、藤原師輔のお嬢さん(愛宮)(1→1→2→2→多?)父は源高明(914-982)(醍醐源氏・西宮左大臣)969年「安和の変(安和2年)・義理の兄弟(兼家、伊尹、兼通)警護係の源満仲(清和源氏)らの偽り?密告事件」で太宰府に左遷された方。2年後には京の都にお帰りになっていますのでご心配なく。でもご隠居さんです。 
彼が左遷された後に叔父さん、盛明親王(928-986)の養女となり、親王の死後、明子さんは従姉妹の詮子さん(円融帝の奥様(女御)・後の東三条院)の東三条殿(邸)に身を寄せます。お年頃が近く、父らの陰謀策略?に対して詮子さんは、不憫?に思われたやも知れません。或いは、詮子さんは、980年に無事に後の一条天皇をご出産していますが、この時点での円融天皇の1女御?は藤原頼忠(924-989)(1→1→2→1→3)のお嬢さんの遵子さん。 
頼忠は「たなぼた」で円融帝の関白職を得ていましたので、兼家にとっては気分が悪く?詮子さん共々邸で燻っていました。「大鏡」では、遵子さん(957-1017)の弟の藤原公任(966-1041)(四納言の一人で和漢朗詠集・北山抄などの作者)が東三条殿(邸)の前で「悪たれをついた話」が記されています。 
この様な情況ですので、詮子さんの心模様は、同類相憐れむ的?なのか、明子さんの父の怨霊慰撫的?なのか、女性同士の花の連帯感が生まれていたのやも知れません。結果的には遵子さんにはお子さんが生まれませんでしたので、986年、花山帝の例の事件後、息子さんが一条天皇になりました。そんなこんなで、詮子さんは兄弟の中で大のお気に入り?だった弟の道長に彼女とのお付き合いをさせ、こちらも目出度く、988年に婚礼の儀?に。 
道長のお嬢さん達と息子 
○ 彰子 (988-1074) 母 倫子 夫 一条天皇  後一条天皇、後朱雀天皇の母 
● 頼通 ( 992-1074) 母 倫子    *京都宇治に平等院鳳凰堂を作った方 
● 頼宗 ( 993-1065) 母 明子    *紫式部のお嬢さんの賢子 (大弐三位) と仲良しさん? 
○ 妍子 ( 994-1027) 母 倫子 夫 三条天皇  禎子内親王(後朱雀天皇 皇后)の母 
● 顕信 ( 994-1027) 母 明子    *世の煩わしさに嫌気がさし、お坊さんになった方 
● 能信 ( 995-1065) 母 明子    *摂関政治から 「院政」 政治へ変貌する因を作った方 
● 教通 ( 996-1075) 母 倫子    *頼通との不和から延久の荘園整理令を発した方 
○ 威子 ( 999-1036) 母 倫子 夫 後一条天皇 
  章子内親王(後冷泉 中宮)、馨子内親王(後三条 中宮)の母 
○ 寛子 ( 999-1025) 母 明子 夫 敦明親王   
 教通の息子、信家の奥様になるお嬢さんの母 
● 長家 (1005-1064) 母 明子?  *藤原俊成の曽祖父の方、俊成の息子が藤原定家 
○ 嬉子 (1007-1025) 母 倫子 夫 後朱雀天皇  後冷泉天皇の母 
○ 尊子 (1007-1084) 母 明子 夫 源師房  源俊房、源顕房の母 
 麗子(頼通の息子、師実の奥様) の母   
 
続 平安時代のキャリアウーマン・女房2

藤原道長を支えたお嬢さん達と紫式部 
前頁の「平安キャリア」で、1000年までの女性(キャリア)の方々の歴史(時)の流れを紹介しました。このページでは、それ以後の展開です。素敵な女性(キャリア)達の「お仕事」ぶりをみて行きます。中宮定子さんが旅立たれた後、清少納言さんの消息は、良く分かりません。きっと彼女のことですから、素敵に・お洒落に・美しくお過ごしになられたと考えています。田辺聖子さんのフィクション物語「むかし・あけぼの」では、1027年(万寿4年)の時点では未だご存命です。彼女の設定では、紫式部さんはこの年より12-13年前に41-42歳でお亡くなりになっています。何れにせよ平安、否、日本を代表するキャリア女性のお二人には美しすぎて表現する詞を持ち合わせません。 
彰子さんは、未だ、数えで13歳でした。故に立派に「お仕事」に耐えられるかは、微妙なお年頃。素敵なお仕事には少しお時間が必要で有ったのかも知れません。平安時代でも、極めて平安でみやびな時空間だったと思われますので、時の滔々とした流れに身を任せ・・・。 
道長は、彰子さんが生まれてから以後、通うことをお止めになり奥様の倫子さんの土御門殿(邸)で主にお過ごしになっておられた感じです。ですので彼女のご両親は一条第(邸)にお移りになられたそうです。その土御門殿(邸)は、当然道長がお住まいになっていますので、995年以降は回りの方々の「贈与」の甲斐あってそれは・それは素晴らしい邸宅になっていったとの事です。 
やがて、1008年里下がりされていた彰子さんはこの土御門殿(邸)で目出度く息子さん(敦成親王)を出産されます。 
敦成親王は次男坊ですが長男(定子さんのお子さん)はサポーターを欠いていましたので、道長が健康を害さない限り、ほぼ皇位継承を約束されたお子さんでした。 
彼は、後に三条天皇の譲位を受けて後一条天皇になられた方です。 
一方、皆さん大好きな?紫式部さんは1001年頃に夫の藤原宣孝がお亡くなりになります。「源氏物語」は彼の他界後に構想され記述されたものと云われています。大長編スペクタル王朝絵巻物語の圧巻には驚きを隠せません。今の時代のキーボードで打ち込むのと違い、清楚に墨を擦り、料紙に筆で書き付ける作業が必要です。1005年或いは1006年始め頃に彰子さんの教養担当お世話係でお勤めになった感じですので、彼女の「源氏物語」は京都小宇宙空間においては既に圧倒的な人気があり、写本につぐ写本であったと思われます。 
その様な短時間で書き上げる彼女ですので、どちらかと云うと基本的には非社交的で、お外でパキパキとお遊びになるタイプでなく、内なる感情をそこはかとなく、書にしたためる事を得意とした女性に感じるのですが、皆さんはどう思われますか?それ程の赤丸急上昇作家の登場に、かの道長さんは彼女をほっときません。 
是非とも、我が子(彰子さん)の教育担当スタッフとしてお願いする事に。内気な紫式部さんを何とか口説き落とし、彰子さんの教育係になって貰う道長の迫力にも凄さを感じます。 
彼は、回りの皆さんに完璧な迄の「差異表示」をお示ししています。
藤原彰子・妍子・威子・寛子さん 
「里内裏の変遷」 
1008年の時点 道長43歳、彰子21歳、妍子15歳、威子10歳、寛子10歳(数え年) 
1008年 彰子さんと一条帝との間に敦成親王(後の後一条天皇)(在位1016-1036)(1008-1036)が誕生 
1009年 彰子さんと一条帝との間に敦良親王(後の後朱雀天皇)(在位1036-1045)(1009-1045)が誕生 
  道長の長男、頼通と源隆姫(隆子女王)(995-1087)と婚姻 
1011年 一条天皇、三条天皇(在位1011-1016)(976-1017)に譲位 敦成親王を立(皇)太子にして死去 
  藤原行成の「権記」には、一条帝が皇太子を敦康親王(中宮定子との息子で長男)にとの気持ちを彰子さんは理解していて道長の方針に異を唱えたとか 
  三条天皇の母は詮子の姉の超子 
1013年 妍子さんと三条帝との間に禎子内親王(1013-1094)が誕生 
1016年 三条天皇、後一条天皇に譲位 条件は敦明親王(三条帝の長男)を立(皇)太子に道長は摂政に 
  敦明親王(994-1051)の母は藤原済時(1→1→2→3→2)(941-995)のお嬢さん(972-1025) 
1017年 健康を損ね三条天皇、死去 敦明親王は父の後見がなくなり、皇太子職を敦良親王に譲る 
  傷心の敦明親王(小一条院)をフォローしたのが寛子さん、この年彼の奥様に 
1018年 倫子と道長は、春に威子と後一条天皇をめあわせ、初冬には、威子は後一条帝の中宮=皇后に 
  威子の女御から中宮への格上げ儀式が内裏で終わった後、土御門殿(邸)での「大宴会」 
これが「三人のお嬢さんが皇后になっちゃった。」って云う「道長の三女立后」 
彰子=太皇太后 妍子=皇太后 威子=皇后 目出度い席での、飲めや歌えやの最中道長は、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」との歌を披露。
藤原嬉子・尊子さん 
1018年の時点 道長53歳、嬉子12歳、尊子12歳(数え年) 
1021年 嬉子さんと13歳の敦良親王(後の後朱雀天皇)と婚姻 
1024年 尊子さんと源師房と婚姻 
1025年 嬉子さんと敦良親王の間に親仁親王(後の後冷泉天皇)(在位1045-1068)(1025-1068)が誕生 、嬉子さんは産後の肥立ちが悪くお亡くなりになります 
1027年 藤原道長さん、ご逝去 
1035年 尊子さんと源師房(1010-1077)の間に源俊房(1035-1121)が誕生 
1037年 尊子さんと源師房の間に源顕房(1037-1094)が誕生 
  源隆姫と源師房 母は為平親王(952-1010)のお嬢さんで父は具平親王(964-1009)。 
お二人の親王の父は村上天皇(在位946-967)(926-967)。為平親王の奥様が源高明のお嬢さんだった事が安和の変の因。源師房は道長の長男、頼通(奥様は源隆姫)の猶子(養子)になった。道長は、頼通に息子ができなかった場合は源師房に継がせと云ったとも。源師房は村上源氏の祖になり、彼の子孫は、次世代、天皇家に異変が生じる際には、必ず登場し鎌倉(源通親)・南北朝(北畠親房)・室町北山(久我通宣)・明治維新(岩倉具視)らが存亡の危機を脱する役目を不思議と果たします。
妻問い婚(通い婚)とキャリア 
今の私達には、良く理解できない妻問い婚(通い婚)のシステムですが、何の事はないこの時代では、不動産を女性の方々(が、又は、も、)相続していたと云うことです。道長のお住まいになっていた土御門殿(邸・第)は、奥様の倫子さんが相続した土地・建物でした。その物件が時を重ねるに従い、広く大きな地所・邸宅になったのです。道長のお姉さんの詮子(東三条院)さんは東三条殿(邸・第)にお住まいになっておられ、当然道長も小さい子供の頃はここで寝起きしていました。彼がこの家を出られたのは、倫子さんと「連れ合い」になりお嬢さんの彰子さんが生まれた後の事で、倫子さん家(ち)に通う事をお止めになり「鷹司殿(邸・第)」(旧土御門殿)で、ご一家でお暮らしになりました。 
道長のもう一人の奥様の明子(「高松殿」)さんは、敦明親王と一緒になられたお嬢さんの尊子さんに「高松殿」を相続されました。敦明親王は尊子さんと結婚後、内裏から「高松殿」に引っ越されました。故に相思相愛のカップルでも彼女と婚姻と云う手続きを踏みたいケースは、彼女のお家(うち)に3日間連続でお邪魔し(通い)彼女の親御さんに了承を得ると云う儀式が必要でした。これが、妻問い婚(通い婚)です。 
相続と表現しましたが、今の「相続」とはイメージが違います。今現在の相続と云う詞で即イメージするのは、あくまでも資産のお持ちの方々が対象になりますが、相続税。この時代はその様な「税」は、不動産にしろ動産対しても国家と云う幻想体に、めしあげられませんでした。彼女・彼らの時代は、それ以前から続いていた律令制度外の雰囲気的な「日常約束事」で有った体系です。 
「妻問い婚(通い婚)」を、現状制度からの発想を基とした、男性にとって、とっても「楽?」と安易に考えると間違えを起こします。男の勝手な論理で女性に逢いたい時だけ会って、嫌んなったら「さようなら」と云う具合には物事進みません。そんな横柄な事をしたら、昨今の核家族、ちまちま生活空間では消滅していますが「小姑」問題が生じ、それに悩む?「女性」の立場と同じ情況を、この時代(とき)の「男性」は甘受しなければなりません。 
これらの雰囲気・状景・情況を踏まえますと、この時空間でお過ごしの方々は、どれだけ「空気(気合い)」が入っていたかお分かり頂けると思います。 
この世に生を受けて、もの心がつき始めた瞬間(とき)から、ご自分のおかれているシーンを出発点として、回りの雰囲気・状景・情況をありとあらゆる「感性」を使って「思考」して行く積み重ね。 
故に、女性も男性もイーコール(同等)に「キャリア」なのです。 
今現在の、「外でお仕事をなさっている女性・男性」のみが、「欧米輸入詞のキャリア」ではございません。 
「内(家)でお仕事をなさっている女性・男性」の方々もキャリアです。 
母・父から受け継いだ、「こころ・もの」を脈々と次の世代に繋げる宿命を男性より、より多く担った女性。 
感性を豊かにする為の「英才教育」この時代(とき)でしたら、詩歌・管弦・漢籍を積極果敢に猛勉強して、感性UP・スキルUPキャリア目指しは、しごく自然な事ではないでしょうか。(詩歌等お勉強可能な方々は。)
藤原道綱の母・菅原孝標の女 
「蜻蛉日記」=藤原道綱の母=藤原倫寧の女(娘) 
「更級日記」=菅原孝標の女(娘) 
藤原道綱の母は、菅原孝標の女の母方の伯母さんとの事。これらの「母(はは)」とか「女(むすめ)」の表現・表記方法には、皆さん一度は疑問を呈しますよね。「この世をば」の道長の感極まった歌の存在を残して下さった藤原実資。彼の「小右記」では紫式部は、「越後守為時女」と表記されているそうです。今の皆さん、「名字帯刀」を許されていますが、(帯刀は「無言の差異表示」と云う事にしておきます。)この平安の世のみならず、つい先だって迄、名字がなくても全く支障が有りませんでした。 
互いの存在認識は、概ねお住まいになっている「場所名」で分かり合えました。藤原道長ではなく、「土御門殿」。倫子奥様ではなく、「鷹司殿」。明子奥様でなく、「高松殿」の様に。或いは、官僚の方々は役職名で、藤原道長ではなく、左府(左大臣)殿。誰々は、右府(右大臣)殿、大納言殿、中納言殿、頭中将殿、頭弁殿・・・・・等々です。 
一緒の時空間にいらした方々は、決して道長の事を、藤原道長さんとはお呼びしませんでした。「藤原道長」の「道長」とは、公文書に記されている「記号」みたいなものです。後の世の私たちが、その公文書に記載されている書物をみて、彼の事を「藤原道長」と呼(読)んでいます。身近な私ども庶民の名字につきましては、「女帝・女系姓名無し?」をご覧下さい。 
道長のお嬢さん達の子供の際は、彰子さん=一の女(娘)妍子さん=二の女(娘)と云う風になります。回りの皆さんは、彰子と云う記号で呼ばず、彼女の事を996年以降は「左府の一番目のお嬢さん。」と。彼女に云わせれば「藤原彰子ってへんてこりんな物はなぁーに」と云う事になります。そんな記号無しでも「素敵な、解り合える時空間」を共有していたのです。 
ゆめゆめ、「誰々の母・女」表記を男尊女卑とか女性蔑視なんて云う風にお考えにならないで下さい。太古の時代より現在まで、「お財布を握っておられる」のは「山の神(かみ)カミさん。」と云う女性です。
乳母(めのと)と云う女性 
「平安キャリア」でお話ししました様に、清少納言・紫式部さん達の女房、お役所にお勤めの女官、高級官僚の奥様、帝の奥様達は、「ご自分」では、お腹をいためてお産みになったお子さん達をお育てになりませんでした。お子さん達をお育てになって下さるプロの女性方々は、「乳母」と呼ばれていました。乳母になれる第一条件は、新鮮?で健康な「お乳」を供給できる事です。お乳を供給できる条件は、その方が直近にお子さんに恵まれいて(生まれいて)、お乳を豊富に供給可能な母体でなくてはなりません。 
次の条件は、そのお子さんが、赤ん坊⇒よちよち歩き⇒おしゃべりできる⇒飛び歩く⇒意思疎通可能⇒我が侭・やんちゃ・おちゃめ期などの経過時期から元服(大人世界に突入)を迎える迄の間に、それなりのハイソな教育とお世話ができなくてはなりませんので、自ずと乳母には、お子さんを逞しく育てる方法及び高い教養が求められました。 
かなりーきつーい「お仕事」でしょう。女性の皆さん如何思われます?彼女らプロの乳母さん達がこの時代よりも活躍される時代がやがて訪れます。
摂関政治時代から院政政治時代になるきっかけを作った女性達 
藤原道長さんの息子達の帝に嫁がれたお嬢さん達が、なぜか男のお子さんに恵まれなかったのです。 
この時代の帝の順列は、 
一条天皇(在位986-1011)(980-1011) →三条天皇(在位1011-1016)(976-1017) →後一条天皇(在位1016-1036)(1008-1036) →後朱雀天皇(在位1036-1045)(1009-1045) → 
後冷泉天皇(在位1045-1068)(1025-1068) →後三条天皇(在位1068-1072)(1034-1073) →白河天皇(在位1072-1086)(1053-1129) 
藤原頼通のお嬢さん達、寛子さん(1036-1127)は後冷泉天皇皇后 
 養女さん (1016-1039) は後朱雀天皇中宮 実父は中宮定子の息子、敦康親王  
藤原教通のお嬢さん達、歓子さん (1021-1102) は後冷泉天皇皇后  
 真子さんは後朱雀天皇女御  
藤原頼宗のお嬢さん、延子さんは後朱雀天皇女御/彼女の父は中宮定子の弟、藤原伊周  
ここに、摂関家のお嬢さんが男子をお産みにならない事で摂関政治 (外戚政治) の仕組みが崩壊する事に。藤原嬉子 (道長のお嬢さん) と後朱雀天皇の間にお生まれになったのが後冷泉天皇です。  
途中ですが、後冷泉天皇の乳母を紫式部のお嬢さんの賢子(大弐三位)がおやりになりました。禎子内親王(道長の孫)(1013-1094)と後朱雀天皇の間にお生まれになったのが後三条天皇です。禎子内親王の母は道長のお嬢さんの妍子で父は三条天皇になります。 
ここで、藤原能信と藤原実成のお嬢さんで祉子さんご夫妻の登場をお願いする事になります。藤原能信は道長の4男です。奥様のお爺さんは藤原公季(閑院流の祖)数字は1→1→2→2→10?お二人には残念ながら、お子さんができませんでした。お寂しいので養子を頂く事に。男の子は能信の兄、頼宗のお子さんで、女の子は奥様の弟、藤原公成のお子さんでした。その養女が藤原茂子さん(?-1062)で、後三条天皇の奥様になられ後の白河天皇をこの世に送り出します。
乳母・乳母子・乳母兄弟・乳母連れ合い 
白河天皇の乳母は藤原親子さんがご担当されました。彼女の父は藤原親国で院政の因を創った「藤原能信」の家司(けいし)をしていました。(家司は平安中期以降、親王・内親王・摂関家など高級官僚家の家政お世話係。鎌倉以降は違う意味。) 
親国は歴史を遡りますと、道長の母の時姫さんの兄弟が摂関家の家司となり、そのお孫さんになります。親子の連れ合いが藤原隆経で、彼女・彼らの息子さんが藤原顕季(1055-1123)になります。藤原隆経も時姫さんの父の藤原仲正と同じ祖先は藤原魚名(721-783)になります。藤原顕季は母親が白河天皇の乳母をおやりになっていましたので「乳母子」と云う事になります。白河天皇は20歳(数え)(1072年)で帝になられ、34歳(1086年)に8歳の息子さんに帝位を譲られ、後見役の太上天皇(上皇)になりました。[息子さんは堀河天皇(在位1086-1107)(1079-1107)] 
一方、外戚で無くなった摂関家の摂関期間は、藤原頼通1017-1067年/教通1068-1075年/師実1075-1094年/師通1094-1099年/忠実1105-1121年/忠通1121-1158年/基実1158-1166年/基房1166-1179年/基通1179-1186年/兼実1186-1196年/途中 師家1183/11/21-1184/1/22  
基実と基通は 「近衛」 基房と師家は 「松殿」 兼実は 「九条」  後の近衛家 ・九条家の祖 五摂家の走り。  
戻って、白河天皇(在位1072-1086)(1053-1129)、藤原顕季(1055-1123)、実質的には藤原師通、1099年の死去後が「院政」の始まりになります。1086年に帝をリタイヤーされた白河院は、初期の頃には息子のサポーターに徹します。未だ、禎子内親王(陽明門院)(1013-1094)お婆さんも健在。政府も藤原師実・師通が支えていました。政府が一応機能していますので、高級貴族はそちらの組織でお仕事をなさっています。故に白河院(上皇)のサポーターは勢い「受領」層達の中級・下級貴族になります。中でも、白河院が頼りにし、お気に入り近習の1だったのが「乳母兄弟」の藤原顕季でした。 
[受領(ずりょう)は日本68カ国の国司(長官)で実際に現地に赴任した方。] 
[近習(きんじゅう)は権力者の側近くにいて、色々お世話する方。] 
藤原顕季の父は上国の美濃守(国司)でしたが、顕季は上国の尾張・丹波及び大国の播磨国などを歴任。その際に得た経済力で都に邸宅を何カ所も作り、その内の六条殿(邸)が白河院の院庁になった位です。そのお陰で、顕季の家は代々、五位が極位で有ったのが顕季自身が正三位になりその後も優遇されました。快挙は彼の息子の長実と彼の奥様、源方子(源俊房のお嬢さん)との間にお生まれになったお嬢さんが、後に鳥羽天皇(在位1107-1123)(1103-1156)の奥様(藤原得子=美福門院)になり近衛天皇(在位1141-1155)(1139-1155)をこの世に。 
次の方は、堀河・鳥羽天皇の乳母の藤原光子さん。 
彼女の兄、藤原為房(1049-1115)(2→1?→4?→5?→1?→3?→1?→1?→1)で藤原北家良門系です。妹の光子さんのお陰で最終的に参議で正三位になりました。彼の長男、為隆も同様に。共々摂関家の家司。後の時代の吉田家、甘露寺家、勧修寺家、万里小路家の祖になる方。 
次男の顕隆は奥さんの藤原悦子さんが鳥羽天皇の乳母で、お嬢さんが崇徳天皇(在位1123-1141)(1119-1164)の乳母の恩恵で、参議、権中納言になりました。「今鏡」では、彼、藤原顕隆(1072-1129)を関白忠実のリタイヤー後、「夜の関白」と記しています。更に、藤原光子さんのお嬢さんのお一人が、待賢門院=藤原璋子で崇徳天皇・後白河天皇(在位1155-1158)(1127-1192)をお産みになっています。 
その待賢門院の女房であり後白河天皇の乳母が、藤原朝子さん(紀伊の局)です。彼女の連れ合いは、武士政権になるきっかけを作った、藤原通憲(信西)(1106-1159)です。彼は、鳥羽上皇の近臣で上皇が亡くなられた後、1156年に平清盛・源義朝・藤原忠通・後白河天皇側に与し、平忠正・源為義・源為朝・藤原頼長・崇徳上皇側との争い(保元の乱)に勝利を収めました。その後始末として、この平安の世で長い間中止していた死刑罰を復活させたのが彼です。しかし、1159年、藤原信頼・源義朝らのクーデター(平治の乱)により命を落とす事になりました。 
[藤原頼長(1120-1156)は摂関忠通の弟で和漢の書を熟読された勉強家。] 
[藤原信頼(1133-1159)は後白河天皇のご寵愛?を賜った方。] 
最後の方が藤原邦綱(1122-1181)(2→2?→1?→1?→2?→2?→1?→2?→1?)のお嬢さん達。 
藤原成子さんが、六条天皇(在位1165-1168)(1164-1176)の乳母。 
藤原邦子さんが、高倉天皇(在位1168-1180)(1161-1181)の乳母。 
藤原輔子さんが、安徳天皇(在位1180-1185)(1178-1185)と建礼門院(平徳子)(1155-1213)の乳母。 
このケースは前の4タイプと異なり、お嬢さん達の恩恵ではなく、藤原邦綱自身の力量になると思います。摂関忠通・基実の家司・平清盛とは大のお友達との事。又、彼の4代前の兄弟が紫式部になるそうです。彼は蔵人頭から権大納言までなりその間各国の受領を歴任して財力を養い貯め込む事をせず、都(京都)に邸宅を数多く作り、その邸は後白河院の御所・里内裏として使用されたとの事です。現在の京都御所も彼の邸宅の跡であるとの事です。平安後期、立身出世物語の旗頭的存在です。「偉い。」 
[里内裏は内裏焼失時など内裏新造の間、仮に帝がお住まいになった邸。]
平安時代のキャリアウーマン達の変貌 
太古より続いていた「大らかな」気持ち。その消費文化の絶頂を極めて下さった藤原道長さん。(結果論) 
彼は、次世代までレールを引いたのですが、息子さん達はお嬢さん達を帝と婚姻まで持ち込むものの、残念ながら彼女達は「健やかな男のお子さん」をこの世に送り出す事ができませんでした。 
その結果、摂関家のお嬢さんではなく、内親王と帝との間のお子さんと摂関家以外のお嬢さんとの愛の営みより、白河天皇がお生まれになりました。 
彼のお婆さんの禎子内親王が1094年に、外戚でなくなった摂関家で彼のお目付役の藤原師実が1101年に、師通が1099年に他界します。 
1086年に白河天皇が譲位する際、父とお婆さんの禎子内親王(陽明門院)の意志に反し、ご自分の息子さん、8歳の堀河天皇にnextを委ねました。これにより陽明門院さんと白河上皇とは不仲に。しかしながら白河上皇は、いつもでもこの様な塩梅でいれず、孝行心?からか陽明門院さんの「お願い」である、「彼の妹、篤子内親王(1060-1114)を堀河天皇の奥様に。」を聞き入れ、陽明門院さんを安心させます。心安堵の彼女は、この世を去ります。この婚姻は堀河天皇にとってはポカーン情況。なんてったって篤子内親王さんは19歳年上。陽明門院さんの亡くなった1094年時点で、篤子内親王さんは35歳、堀河天皇は16歳。(数え年で。) 
ここで、妻問い婚(通い婚)とキャリアに関わる里内裏の変遷を確認します。 
里内裏の歴史の流れは、「里内裏の変遷」をご覧下さい。 
里内裏の変遷をご覧頂けますと、おぼろげながらこの約100年の空気が伝わってきませんか? 
一条天皇の践祚(せんそ・即位式)以後での内裏及び一条院(準内裏)焼亡は、一条帝時代999・1001・1005・1009年の4件。 
三条帝時代1014・1015年の2件。後一条帝時代は0件。 
後朱雀帝の践祚ご初の内裏焼亡は1039年。1042・1043年の3件。 
彰子さんが2子めの後朱雀帝をお生みになった1009年11月25日以降、三条帝時代の不可解な2年続きの火事以外、1015年により1039年の24年間、内裏は焼亡していません。 
いかに、この時代には、お嬢さん方が健やかな男児をお産みになる事が大切で、藤原道長さんが、あの世に旅立つ1027年12月4日、及び彼の効力残存期間の1039年まで、少なくても京都小宇宙空間では「みやびな世」が流れ続けていました。
里内裏の変遷から見るキャリア達 
それ以後の世の乱れは、里内裏の変遷でけでも読み取れますが、ここでは女性(キャリア)に。摂関家が健康男児をこの世界に出現させる事ができなかった事により、外戚政治と云うシステムに終止符を打たざるを得ませんでした。 
後三条天皇の奥様、茂子さんは彼が帝になる以前1062年に他界しています。彼の践祚儀式(イベント)は内裏も一条院も焼失したままでしたので、母(禎子内親王)がお世話になり滞在していた、藤原能信邸=閑院=能信の奥様相続物件で行われました。能信はこの時点(1068年)では亡くなっています。 
以後、1071年の内裏新造までの期間、御子左第→二条殿→閑院→御子左第→高陽院→四条殿→内裏と移動されます。表向きでは奥様の存在が有りませんので、奥様の里邸は存在しません。その間、一番長く過ごされたのが9ヶ月間の御子左第になります。この空間に良き人?が存在?。御子左第はこの時点では藤原長家が他界していますので、彼の奥様の源高雅(醍醐源氏)女、懿子さんがお住まいになってか、或いは、彼女らのお子さんが過ごされていたと思います。 
御子左第は以前は醍醐天皇の息子、兼明親王の邸でした。(帝の御子、左大臣兼明親王邸から命名とか。) 
後三条天皇のこの頃のお付き合い相手?は源基子さん。(1049?-1134)(三条源氏)(父方のお爺さんが小一条院で、母方の曾お爺さんが藤原隆家(中宮定子の弟))彼女は、実仁親王(1071-1185)、輔仁親王(1073-1119)らをお産みになりました。 
「花園左大臣(源有仁)」で源有仁を紹介していますが、とってもお洒落だった彼の父が輔仁親王です。源基子さんは後三条天皇の奥様、茂子さんの長女の聡子内親王(1050-1131)の女房でした。そんなこんだで、彼女の里邸が、里内裏になろう筈がありません。(お子様が誕生する以前には。) 
後三条天皇は実仁親王をいたく慈しまれ、1072年に白河天皇に譲位される際、実仁親王を皇太子にされました。その翌年、輔仁親王が誕生した1073年に40歳で後三条天皇は生涯を閉じます。 
やがて、その後には、「お父さん」の時代(とき)を迎えます。(院政と云われる時代) 
その「お父さん」の唯一頭が上がらない事は、幼い時代(とき)に、慈しみ・愛し・育んで下さった「乳母(めのと)」と云う女性(キャリア)の存在です。彼にとって信頼を寄せる事ができる年端が近い男性は勢い彼女自身がお腹を痛めて生んだお子さん。所謂、「乳母子」になります。その彼とは、いっと最初の「お友達」に。後の「おひれ・はひれ」は、皆さん良-くごぞんじな筈です。特に乳母の連れ合いは。清少納言さんもご心配になっていました。「枕草子」のかしこきものはの段で・・・。 
連れ合いは別として、乳母と云うキャリア女性、その存在の重要性がここでお解り頂けると思います。
やがて、嫁入婚へ・・・ 
「ご自分」「母」「父」「兄弟姉妹」を思い、必死にお仕事された平安女性(キャリア)達。 
「みやび」で「平安」で「大らかな消費」の一瞬(とき)が過ぎ去り、 「お父さん」の時代(とき)を迎えた結果として、鶏・卵ですが、殺伐とした物理的な「力」が謳歌する時代に。自分の存在背景を無理やり忘却したと思われる父権と称す力をバックとした男性達がちまちま暗躍いたします。平安後期から鎌倉時代、或いは、南北朝から室町初期のどの時点で、 
妻問い婚 (通い婚) ⇒ 嫁入婚 
に変遷したのか未だ明らかでは有りませんが、「思想」の変化が生じたのは否めない事実です。 
平安女性(キャリア)と現代女性(輸入語のキャリアウーマン)と、比べる事はとても失礼ですが、どこか平成バブルが弾けた後の女性の「心模様」と、同じように感じるのですが、如何なものでしょう?その様な事は、「杞憂」で有ると切に願っています。 
 
女性の「髪」の歴史

「垂髪」(たれがみ) 
古墳・大和の時代から平安・鎌倉・室町と各時代を通じての女子の髪型です。(垂れ髪・ひとすじ垂れ髪)最も古く素朴な髪型で 古墳・大和の時代から平安・鎌倉・室町時代まで各時代を通じておおかた子はこの髪型だった。 「すべしもとどり・すべらかしともいう」髪を頭上中央で分けて後ろに下げ、背に垂れた髪型で花や木の葉を髪飾りにしていた。 
「振分髪」(ふりわけがみ) 
飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町時代中期までに見られた髪型です。髪を肩までの長さに切り、頭上中央で左右に分けさばいたまま、垂らす髪型。 
「鬢そぎ」(びんそぎ) 
平安時代後期・鎌倉時代・室町時代中期に行われた女子の髪型です。女子が年頃になると垂髪の鬢(びん)の前方部(頬の両側の部分に当たる所)を短く切りこの髪型を鬢そぎといった。 
「大垂髪」(おすべらかし) 
おうすべかし、あるいは大すらべらかしともいわれる。女子の髪型の一種で、前髪をとり、両鬢を大きくふくらませ、髻(もとどり)を背後にすべらせて長く下げたものをいう。平安時代からの宮廷女子の垂髪(たれがみ)形式が、鎌倉・室町時代を経て、江戸時代に至って定型化したものである。普通の垂髪に対して特に大きなものをいった。平安時代の垂れ髪と異なるところは、鬢を大きく張ったことと垂髪のかもじのところどころに絵元結(えもとゆい)や水引を結んだことである 
「唐輪」(からわ) 
鎌倉時代末期から室町時代初期に結われた髪型の一種で、当時は男子の髷(まげ)であった。初めは武家の少年、寺院の稚児(ちご)などの髪型で稚児輪(ちごわ)ともいった。天正年間に、一部女性の間で流行した唐輪は、中国女性の髪型をまねたもので、前期のものとは形がかなりちがっている。その髪風は頭上で髪の輪を作り、その根を残りの髪で巻き付けるもので、その輪は4つの場合、3つの場合、2つの場合があった。その一種である一つ輪は後に変化して兵庫髷となり、江戸時代の遊女間に流行した。 
「禿」(かむろ) 
室町時代から江戸時代末期に起こった髪型。首の周りくらいまで髪を短く切りそろえる。かぶろ・きりかぶろ(切り禿)ともいう。禿の語義は頭毛の脱落すること、はげることでそれから髪を短く切ることを言ったと考えられている。後にはもっぱら童女の髪とし長く行われ、江戸時代の遊女の召使少女を禿と呼ぶのも童女の髪名が転用されたと考えられる。 
「笄髷」(こうがいまげ) 
「こうがいまげ」江戸時代の女子の髪型。変化によっていろいろな髪型がある。先笄・おばこ結び・勝山髷・片手髷・片外し等。 
「おばこ結び」 
単におばこともいう。幕末に江戸に起こり、明治時代にかけて結われた主婦の髪型。髻の毛をひとねじりして右回りに髪を前の方へ撓め(たわめ)(ちょうど片外しを作るときのごとく)一回転して、髪先を根の周囲にぐるぐると蛇のとぐろを巻く様に巻き上げ、根に笄(こうがい)「また中挿し」をさして輪の上に出して留める。一名遣手(つかいて)結びともいった。 
「勝山髷」(かつやままげ) 
承応、明暦{1652-58}のころ、遊女勝山によって始められた髷。特徴は根で結んだ髷を後ろから前へ曲げて輪を作り、髷の先を髷の内側へ折り返し、根の部に元結いで結びつける。初めは遊女だけが結っていたが、のちに一般化し元禄期に盛んに流行した。江戸中期の勝山髷は、髷の輪がいくらか扁平になり髷の幅がいくぶん広がってきた。享保から天明{1716-89}にわたる70-80年の間は振るわない時代だった。 
その後勝山髷は後古丸髷とよばれ、文化ごろより急速に一般婦人の髪型となり同時に型も変わってきた。総体的に年増が結うことが多く、幕末頃になると既婚婦人のユニフォームにも比すべき結髪と考えられた。正式には笄(こうがい)を挿し、略式には両天簪(りょうてんかんざし)をさした。 
「先笄」(さきこうがい) 
江戸中期からとくに関西の既婚婦人の髷(まげ)として結われた日本髪の一種。島田髷の一種とみられるもので、島田の形に髷を作って、あまった毛先を笄の下から上へ立たせ、さらにS字形に笄を巻きつかせ、先端を中へはめこんだもの。のち「橋」と俗に言う細い仮髪を髷の上に渡すようになった。 
「片手髷」(かたてまげ) 
笄(こうがい)を使用して結髪する笄髷(こうがいまげ)の一種で、片笄(かたこうがい)ともいう。髪の根元を元結いでしばり、上へまわして、根にさした笄に髪の先を巻き付けたもの。江戸時代中期に関西で、変わった風を好む女性や占い師、医師の女房などが、まれに結ったといわれる。江戸大奥の上級の女中が結った片外し(かたはずし)に似ているが、片外しの場合は後の輪がねたようになり、片手髷は後の輪が立つとされている。 
「玉結び」 
江戸時代に結われた女子の髪型のひとつ。髪を垂らしてその先を輪に結んだもの。その結び方が簡単なため、起源が古く(平安時代からそれらしいものはあった)広く行われていたが、儀礼の髪としては価値のないものとされていた。輪が大きく上のほうにあるものは卑しく、輪が小さく下の方にあって元締め(もとじめ)をかけてあるのが上品とされ、庶民でも、上流社会で結われていた。 
「片外し」(かたはずし) 
江戸時代の御殿女中などが結っていた髪型のひとつ。たとえば、かぶきの先代萩(はぎ)の政岡や、重の井の岩藤などの結っている髷(まげ)はこれで、笄(こうがい)を横に貫き一方をはずしたもの。笄を抜けば下げ髪となる。 
「島田」 
この名称は、江戸時代の寛文年間、東海道島田宿の遊女達が結い始めたものといわれ、また寛永ごろの歌舞伎(かぶき)役者島田万吉の髪の型から起こったものといわれ、また、しまだは、締めた、という語がなまったものとの説もある。主として若い未婚の女性に結われる。しめつけ島田・やつし島田・投げ島田・小万・腰折り・小枝(さえだ)・きりずみ・結び・とりあげ・根細・文金・つぶし・かけおろし・いたこ・吉原など島田の名をつけた髷(まげ)が江戸時代全期を通じて大いに行われた。また文金高島田などは婚礼に結われる風習となって現今に伝えられている。 
根を高く結ったものを高島田・文金島田といい、髷下(まげした)に紋縮緬(もんちりめん)のような吉野紙を用い、後世にひ縮緬がかけられるようになった。根の低く平らなものを、つぶし島田といい、島田の中央を細くしたもので、鹿子絞(かのこしぼり)の縮緬(ちりめん)を髻(もとどり)に巻きつけてある。 
 
鎌倉時代の女性の生活

雅な時代から武士の時代へとなっていく鎌倉時代、平安時代に比べると女性の地位は高くなっていきます。 
鎌倉時代の女性でひときわ威光を放ってるのは北条政子、「尼将軍」と言われ、政治にも参加した政子の活躍によって、武家社会では女性の地位はそんなに低くなかったのでした。 
この時代の初めに慈円(じえん)という藤原出身の僧が「愚管抄」という歴史書を書きました。そこに「女人入眼(にょにんじゅげん)」というのを書いています。意味は「日本の歴史では、政治の重要な節目には必ず優れた女性が現れ時代を動かしている。日本の歴史は女性が作る」というものです。この時代に珍しいことを言う人ですね、さらに「人の生命というのは母のおなかに宿って出てくる。この時の母の苦しみたるや言いようがないほどじゃ。母は苦しみを受けて人を生み出す。これもみな、女人、すなわち母の功なのである。女性は母になる。したがって尊いものである」とも言っております。 
ってことは、母にならない女性はダメなんかい!?と言いたくなりますが、この時代はこういうような考えもあったんですねぇ。ちなみに慈円が言うような「女性が母となって初めて権力を握る」というのは、平安時代の後期くらいから徐所にありました。 
乳母の台頭 
この時代、「乳母」というのが権力を持ち始めます。棟梁となる男児を育てるので、乳母の息子達は自然と棟梁と仲が良くなる、こうして乳母の一族は、棟梁に成長した男児の家臣となり、繁栄していくのであります。 
白拍子って? 
女性芸能人として生きている女性のことです。平安時代から白拍子は出てきておりましたが、遊女とは違って「性」を売るというより「芸」を売るという色が強い女性達です。後に白拍子は性を売ることを本業とする女性としていっしょくたにされてしまいますが、まだこの頃は芸を売る女性という感じでした。 
商業の発達 
この時代、平安時代に比べ、経済活動が活発になってきました。そのため、庶民の生活も変化していきます。庶民の女性の活躍も多くあり、女性の役割は平安時代に比べるとかなり大きくなっていきます。 
相続税もあった 
武家社会においては、女性の地位は悪くありませんでした。政治に参加する女性もいたし、地頭に任命される女性もいたし、そして財産の相続もありました。が、鎌倉時代も終わり頃になると、財産相続は長男一人へと変わっていきます。そのためまたも女性の地位が低くなっていっちゃうのです。ところでナゼ女性の相続税がダメになっちゃったか?というと、先祖代々の土地や遺産を分割相続していたのですが、だんだんと土地が小さくなってきちゃいました。ということで、土地からの収入が少なくなり、武士が貧乏になってきてしまったのです。ということで、武士のビンボー生活を守る為に、女性の相続権利が無くなってしまったのでした。 
嫁取り婚へ 
鎌倉時代になると、最初から妻を夫の家に迎えるという結婚方式になってきました。それに親夫婦と同居しないというスタイルが増えてきました。が、これは武士の習慣で、貴族なんかは「嫁取り婚なんてよくない!この流行には腹が立つ!」とプリプリ怒っていました。 
庶民の女性 
武士の家はある程度女性に権限がありましたが、フツーの一般庶民は?というと、板だけの簡素な住宅で草葺の家に暮らしていました。妻はダンナと一緒になって生産活動をするかたわらで、子供も育てていました。田植えや稲刈りなどもやるし、蚕の世話をしたりと、毎日が重労働、ダンナも子供をこわきに抱えて世話してました。が、そんな一般庶民でも、農業経営の主導権を握ってくるのはダンナさん。やはり体力の違いからか労働量が違うからです。こうして庶民の間でも自然に「父」が偉くなっていくのでした。 
それでもヤッパリ・・・平安時代に比べ女性の地位は高くなりましたが、それでもやっぱり男性上位。祖先の偉業を受け継ぐ「家」が成立したし、「戦」の多い時代でもあったので、やはり戦闘に参加できない女性は幕府の役職にはつくことはできませんでした。こうしていい役職についた男性は、権力を確保していくので、家の中でも「家長」として権力を強めていたのでした。 
 
日本史の女性

卑弥呼1
「卑弥呼」の読み方は大丈夫とは思いますが「ひみこ」です。彼女は魏志倭人伝に登場する3世紀の日本の一地方の連合王国の王であり、その連合王国は「邪馬壹國」と呼ばれていました。 
もともとこの地方には男性の王が立っていて、国が乱れ幾つもの勢力が争っていたのですが、みんなで話し合い共同で彼女を王として立てたところ争いが収まったとされます。卑弥呼は「鬼道」につかえ、よく民を「惑わす」とありますので、シャーマン的な王であったのではないかと想像されています。 
彼女は即位した時点でかなり年長であったものの夫はなく弟がひとりいました。そして彼女自身は即位後はあまり民衆の前に姿をあらわさず、弟がその取り次ぎをしていました。 
彼女は何度も魏に貢ぎ物をしており、そのお返しに「親魏倭王」の金印や百枚もの銅鏡をもらっています。そしてある時は隣国との戦争に魏から援軍を派遣してもらって、これを撃破したりしています。 
彼女の死後はまた男性の王を立てたものの国が定まらず、結局卑弥呼の13歳の娘「臺與」を立てて王とした所平和を取り戻したとされます。 
卑弥呼が最初に魏に使いを送ったのが238年。魏に援軍を請うたのが247年の事ですので卑弥呼の治世は10年程度と推定できます。なお魏の援軍が帰ったのは臺與即位後ですから、援軍・卑弥呼の死・臺與即位というのはせいぜい1-2年程度の中でのできごとだと思われますので仮に臺與即位を248年とすると、臺與は236年生まれ。つまり卑弥呼が即位する少し前ということになりますので即位した時年長であった、と言っても40歳くらいだったのではないかと想像できます。すると亡くなった時が50歳くらいで、当時としては寿命でしょうか。 
夫はなかったということですが、これは卑弥呼即位の直前くらいに亡くなっていたか、或いは最初からいなかったかでしょう。その場合想像力を豊かにすると、卑弥呼は巫女的な人のようですから、祭り或いは儀式などにより巫女とし 
て産んだ子が臺與だったかも知れません。 
卑弥呼に関しては文献はこの魏志倭人伝のみですので、何を書こうとしても想像になってしまうのですが、この3世紀のこの時期に日本で少しずつ大きな国が作られていく段階で、巫女的な王が立って全体の統合の象徴になるという手法がここに成立しつつあったというのは興味深いことで、この「邪馬壹國」が大和朝廷につながるのかどうかは分かりませんが、やはり聖徳太子以降の日本の政権構造のモデルがここに芽生えつつあったことは、卑弥呼という人の意義を深いものにするかも知れません。 
石ノ森章太郎氏が書いた卑弥呼のマンガがありましたが、その中で卑弥呼はいくら年をとっても若いままの不思議な女性として描かれていましたが、これだけ大きな国の王になるほどですから、卑弥呼の巫女としての力は相当なものだったのではないでしょうか。当時としては目新しかったアジア北方系のシャーマニズムの遣い手だったのではないか、という想像をする人もあるようです。 
日本の歴史は、この後266年に臺與が今度は晋に朝貢してから、4世紀後半に、やはり巫女的な王神功皇后が朝鮮に出兵するまで約100年間、大陸の文献からは消えてしまいます。その間は国内の古事記・日本書紀をたどることになるのですが、こちらは年数のスケールが不明確なのが欠点です。 
 
ところで、「邪馬壹國」の読み方なのですが、素直によむと「やまいこく」としか読めないのですが、古来この「壹」は「臺」の誤記ではないか、いう議論があります。古い字ばかりで訳が分からないと思いますので現代の文字で書けば「壹=壱」は「臺=台」で、ここから「邪馬台国」(やまたいこく)という読み方がまかり通っています。そして「たい」は「と」という音に通じるとして、これは「やまと」のことなのだ、という方向に持っていく訳です。 
また卑弥呼の娘の臺與ですが、またまたこの「臺」を逆に「壹」の誤記と考えて、「いよ」と読む人がかなりあるようですが、これもそのまま読めば「たいよ」又は「とよ」でしょう。 
また「邪馬壹國」がどこにあったのかについては古来から九州説と畿内説とが対立していますが、どちらも決定打がありません。また、この国が大和朝廷とつながっているのかどうかについても肯定・否定の両方の意見があります。 
日本書紀の作者は歴代天皇の在位年数として伝えられている数字を逆算していったら、ちょうど卑弥呼の時代が神功皇后の時代と一致してしまったため、卑弥呼は神功皇后のことかも知れないと考えた節があります。ただし文脈からするとその程度は「ひょっとしたら」程度のものだったようで、単に神功皇后の巻にこの魏志倭人伝の記述を一部引用するだけに留めています。実際には卑弥呼と神功皇后は行った事蹟が違い過ぎますし、神功皇后の娘は王になっていませんので、全く別人で時代も異なっていると考えた方が自然です。 
卑弥呼は天照大神のモデルではないか、という説もあります。そして古事記の天岩戸に天照大神が隠れたというのは卑弥呼の死を表しており、復活した天照は実は卑弥呼の後を継いだ彼女の娘臺與ではないかとするものです。面白い議論ですが、証明するのは難しいかも知れません。
卑弥呼2 
この劣った他国の民族をエビスと呼んだ。そして方角別に東のエビスを東夷、西のエビスを西戎、北のエビスを北狄、南のエビスを南蛮と呼ぶ。 
隣接する国々は、この考え方に圧迫されて、中国に貢ぎ物を捧げた。受けた中国側では、朝貢した国に対し、その最高権力者に「国王」の称号と、その証とする「金印」を与えた。さらに、朝貢された物品の5倍・10倍に相当するような宝物を与えた。朝貢品を通貨で買い取るわけではない。必ず宝物をもってお返しした。これが莫大な額に相当するので、朝貢国は喜んだ。はっきり言えば、「中国に従属する形をとっても、実利を得たほうが得だ」と考えたのである。近隣諸国はほとんど朝貢国となり、中国皇帝から国王と金印をもらって従属した。しかしだからといって中国側は、従属国の主権まで奪うわけではない。 
「国政運営は、従来どおりにおこなってよい」ということだ。朝貢したからといって、家臣のように扱ったわけではない。最小限の主体性と自治は認めていたのである。しかし骨のある国にすれば、朝貢したことに対し、「おのれを捨てた」と屈辱的な気持ちをもつ者もたくさんいた。 
ヒミコの弟が眉を寄せたのは、彼にも邪馬台国に対する誇りと自信があったからである。だから、「いかに魏が強大だからといって、何も他国のカを借りることはないではないか」と思ったのだろう。しかし当時の国内状況からすれば、狗奴国の勢いはすさまじく、遮二無に攻めたててくる。放っておけば邪馬台国は滅びてしまう。 
というように書いてきたが、あるいは古代日本や朝鮮・中国との関係は、いまのようにはっきりした国の区分がおこなわれていなかったのかもしれない。筆者はかねがねそんな気持ちをもっている。 
中国大陸や朝鮮半島でしばしば動乱が起こった。それを嫌って、狭い海を越えて日本に渡ってくる亡命者もたくさんいた。その亡命者たちが、あるいは、「この国(日本)で、戦争のない共存共栄の社会をつくりたい」と願ったかもしれない。妙な言葉を使えば、当時の日本は、騒乱に明け暮れる大陸や半島の人びとからみて、「平和の実験地」だったのではなかろうか。その証拠に、大陸や半島から渡ってきた農耕技術や、土木建設の先進技術をもつ渡来人には、いろいろな民族がいた。が、これらの民族がかつての故国における国区分や、民族区分によって争ったというような例はほとんど聞かない。つまり、「日本で共存共栄していた」といえる。とくに朝鮮から渡ってきた高麗人・百済人・新羅人などの諸民族が、「半島にいたときの国区分や民族区分が違う」と言って、再び武器をとって争ったなどという例はない。それぞれが、手を取り合って日本国のために惜しみなく先進技術を伝えている。 
となると、ヒミコの時代にも弟の憂いや不安などは、それほどたいしたものではなかったかもしれない。 
つまり、一衣帯水という言葉があるように、日本と九州と半島をへだてる海域は、それほど遠いものとは認識されていなかったのだろう。もちろん、当時の船で渡るのだから、危険が大きい。にもかかわらず、一衣帯水観によって、大陸・半島と日本、とくに九州とは、行ったり来たりすることがごく当た前に考えられていたのではなかろうか。
大闇見戸売

このタイトルの「大闇見戸売」という名前を見て、氷室冴子さんの「銀の海・金の大地」を読まれた方は「あぁ、あの人!」と思われたことと思います。 
この時代は日本書紀に「初めて国を統治した天皇」と書かれている崇神天皇及びその子供の垂仁天皇の時代で、「銀の海金の大地」に出てくる日子坐(ひこいます)やその息子、道主(みちのぬし)達が活躍した時代です。年代的には4世紀始め頃と考えられます。つまり卑弥呼の時代から40-50年ほど経過した頃です。臺與がもし生きていれば60歳くらいでしょう。 
大闇見戸売(おおくらみとめ)というのは氷室氏が指摘している通り、闇を見る力のある人、つまり大予言者・大占い師という意味だと思います。実際に巫女として神に仕えていたのかも知れません。この時代の超実力者である日子坐は狭穂(さほ)の姫君であるこの大闇見戸売との間に4人の子供を設けており、その中の狭穂姫と呼ばれる姫が垂仁天皇の最初の皇后になります。 
しかし狭穂姫の兄の狭穂彦が垂仁天皇に対して反乱を起こしたため、狭穂姫は兄のもとへ行き、運命を共にします。そしてその後は、狭穂姫の遺言に従い、道主の娘の日葉酢姫(ひばすひめ)が皇后に立ちます。 
この時、狭穂姫は最初兄から「夫と兄とどちらが大事か?」と聞かれ「兄です」と答えたために、兄から天皇の暗殺を依頼され、匕首を寝室に持ち込むのですが、どうしても殺すことができず、涙を流して、その涙で目をさました天皇に謀反の計画を告白してしまいます。しかし反撃に出た天皇側に安寧に居座るだけのずうずうしさも持つことはできず、兄の元に走ってしまいます。 
そして、兄の城で天皇の子供ホムチワケ王を産み落としますが、敗色濃厚な中で子供だけは天皇のもとに返すことにします。天皇は子供を受け取る時に一緒に母親も取り返すように部下に指示するのですが、部下が子供を受け取った所で母親の手をつかもうとすると、手に巻いていた玉の緒が外れ、髪をつかむと、髪がするりと抜け落ち、服をつかむと服は簡単に破れてしまって、結局捉えることができなかったといいます。つまり狭穂姫も相当の覚悟を決めて用意をしていたということでしょう。 
「銀の海・金の大地」では大闇見戸売の双子の姉の子供たちが主人公として活躍する訳ですが、この子たちは氷室氏のオリジナルです。この、資料の非常に少ない時代の物語を生き生きとまとめあげた作家の想像力はやはり大したものですね。「銀金」では主人公たちは超能力と言っていいほどの霊的なパワーの持ち主として描かれていますが、「大闇見戸売」とまで呼ばれた姫の力というのは、やはり相当のものだったのではないでしょうか。 
時に大和朝廷は日子坐らが先頭に立って北陸・東海・西海・丹波と軍を派遣して勢力範囲を大いに拡張しており、こういう戦争の際に巫女に課せられた責任は当然重かったものと思われます。全くの想像ですが、実際に戦績があがっていることから判断して、卑弥呼が操ったかも知れないシャーマニスムのようなものだけではなく、むしろ遁甲のような技術も持っていたかも知れません。有力氏族である狭穂一族の姫ですから、大陸からの資料もある程度入手できたのではないかと思われます。 
なお、日子坐の子供には、この狭穂姫・狭穂彦と後継者である道主の他に、あと一人重要な子供、真若王(まわかおう)がいます。そしてこの真若王のひ孫が次回取り上げる神功皇后になります。 
また、先に述べた日葉酢姫と垂仁天皇の間の娘に倭姫(やまとひめ)がいます。彼女は天皇から天照大神の祭祀を命じられ、何年もの間大和から美濃まで歩き続け、やがて伊勢の地に至ってお告げを得て、伊勢神宮を建てました。 
また、今回のシリーズには登場しませんが、継体天皇の母は垂仁天皇の子孫という関係になっています。継体天皇は父も母も天皇家の血を引いていたからこそ、血筋の途絶えてしまった天皇家宗家を継ぐことができたのでしょう。
神功皇后

神功皇后(じんぐうこうごう)は古事記・日本書紀が語る最も古い女性の天皇です。彼女は古事記・日本書紀では即位の記録がない為、単に仲哀天皇の皇后として記述されていますが、日本書紀ではわざわざ神功皇后のために1巻を作っており、また、風土記の中には彼女をはっきりと天皇と記しているものもあるため、ほとんど天皇に近い存在であったことは間違いないでしょう。 
彼女は前回述べたように「大和朝廷の設立者」日子坐(ひこいます)の子孫で、夫の仲哀天皇は日本武(ヤマトタケル)の子供です。歴史的な流れを追うと、崇神天皇・垂仁天皇及びその将軍格の日子坐・道主(みちのぬし)らが大和朝廷を畿内を中心にして北陸・東海から瀬戸内方面に至るまでの大国に拡大したのに続き、垂仁の次の景行天皇の治世において、日本武が九州・山陰・関東へと遠征を重ねて、北部九州から南関東に至る大帝国を築きあげます。そして、その勢いをかって神功皇后は海外にまで派兵して、朝鮮半島にまでその領土を拡大しようとしたわけです。 
もともと神功皇后と仲哀天皇は日本武がいったん従属させたものの又反抗する姿勢を見せていた南九州の熊襲政権と戦うために九州の香椎に来ていました。しかし、神功皇后は熊襲などと戦うより朝鮮を攻めた方が得られるものは大きい、という神託を得、夫に進言しますが、仲哀天皇は聞き入れず熊襲を討ちに行き、負けて帰って来ます。そして天皇はここで急病にかかり、ぽっくり死んでしまいました。(何も書いてないですが、暗殺くさい死に方ですね。むろん神功皇后か武内宿禰がやったのでしょう) 
ここで朝鮮派兵に反対していた夫が死んだのをいいことに、神功皇后は重臣の武内宿禰(たけうちのすくね)と共に熊襲を討つ為に連れて来ていた兵を朝鮮へと向けます。時に391年。こうして150年前には邪馬壹國や那国などのように中国に貢ぎ物を持っていって金印をもらって喜んでいたような国しかなかった日本は強力な軍事国家として大陸の人々の前に変身した姿を表すのです。 
神功皇后の兵力は朝鮮の新羅(しらぎ)を蹂躪、王を捕らえ、更に百済(くだら)まで攻め入ってこれを服属させます。これに対して脅威を覚えたもう一つの朝鮮半島の政権高句麗(こうくり)も南下して日本軍と戦いを交えました。この後日本の朝鮮に対する干渉は更に150年ほど続きます。 
さて、神功皇后はこの戦いが一段落したところで帰国します。そして九州の宇美で誉田別王(ホムタワケおう、後の応神天皇)を産み落とします。そして、この戦勝の中に生まれた男の子を次期天皇としてかかげ、大和へと凱旋します。 
ところが、大和では仲哀天皇が大中姫との間に設けていた忍熊王がこれに反発します。そもそも誉田別王が生まれた時期からして、これは仲哀天皇の子供ではないのではないかという訳です。(もっともですね) 
そこで忍熊王は神功皇后の一行を都に入れてなるものかと大挙手勢を集めて迎え撃ちます。これに対してまともに戦っては犠牲が多くなると考えた皇后側はわざわざ迂回して紀州に上陸し、南側から大和を目指します。そしていよいよ軍勢が衝突するという所に至った時、神功皇后側は奇策に出、武内宿禰自身がその使者に立ちます。彼は忍熊王の元へ行き、「私たちはただ皇后のお子様をお連れしただけです。天皇の地位などは望んでおりません。私たちも次期天皇には忍熊王殿がふさわしいと考えています。武装していたのは皇后のお子様をここまでお守りしてくるためです。謀反の心が無い証拠に武器は今すぐ捨てさせましょう」と言います。 
そして合図をすると、軍勢はみな武器を川に投げ捨てました。ここですっかり信用した忍熊王は自分たちも武装を解き、神功皇后の一行を迎え入れるのですが、皇后側はちゃんと捨てた武器以外に予備の武器を用意していたのでした。完全にだまし打ちにあった忍熊王軍は散り散りになり、忍熊王は戦死してしまいます。こうして神功皇后の一行は無事都に戻ることができ、誉田別王は3歳で皇太子となり、母帝の死後即位、応神天皇となるのです。 
さて、神功皇后は伝説の時代から歴史の時代への境界線に立っている王と言えます。義父の日本尊にしろ神功皇后本人にしろ、ずいぶん神話的な伝承があるのですが、その後の応神天皇以降は極めて歴史的色彩が強くなってきます。この応神と次の仁徳の世代は大和朝廷の初期の黄金時代となっており、その後に「倭の五王」が出現して日本は安定した国家としての地位を固めて行くのです。 
神功皇后はこういう記紀の記述をたどると、非常に強い性格の女性という感じがします。南九州を支配するより朝鮮を支配した方がいい、といって反対する夫を殺してまで海を渡り、自分の子供を天皇にするために、夫が他の妃との間にもうけた子供たちを倒します。ここには、夫の暗殺にためらって涙を流し、また兄に殉じて死んでしまった狭穂姫のようなか弱さは感じられず、自分の血筋と地位を最大限に利用して生きた自立した女性像が浮かび上がって来ます。 
後に持統天皇の頃天照大神への信仰が盛んになっていった時、伝えられていた神功皇后の物語はやはり天照大神にも投影されていき、それゆえに神功皇后に関する神話的伝承も形作られて行ったのではないでしょうか。
神功皇后2
お札になった偉人 
皇后か、「巫女的特性」を持っていたということは、そのまま、「原始、女性は太陽であった」といわれるように、日本の建国神話にもつながる。つまり、アマテラスオオミカミが神功皇后となって、日本国のために実際行動に出たといえよう。その意味では、神功皇后は、女性であると同時に、「勇猛な軍神」でもあった。しかし女性であるがゆえに、当然夫がいれば妊娠し子を生む。その子が天皇に育つ。その神功皇后がなぜお札になつたかといえば、二通りの推理ができる。 
一つは、自由民権運動というのは、「個人の権利」を前面に出して主張する。しかし、政府側から見れば、「このままだと、個人の権利主張ばかりが強くなって、日本国という国体を忘れ、国に対する義務を忘れかねない」という危惧が湧いたのではなかろうか。そこで改めて、「原始、女性は太陽であった」という神話の力を借りながら、「日本の国体にも考えを及ぼしてほしい」ということを求めたのかも知れない。つまり、「個人の権利を主張しても、日本国民であることを忘れるな。それには日本がどういう国だということも改めて認識してほしい」ということだろう。 
もう一つは、自由民権運動の高まりによって、日本の近代化を急ぐ政府首脳部にとっては、この運動が大きな障害になっていたことは事実だ。彼らにすれば、「いまはまだ日本は若い。育ち盛りだ。そんなときに、熟成した先進国である欧米の民主主義的な考えを持ち込んでも、すぐには実現できない。それに、一部のインテリはともかく、多くの国民は長年の徳川幕藩体制による"依(よ)らしむべし知らしむべからず"という政治の行い方に慣れている。いきなり、「個人の自由や権利」などを与えても、これは猫に小判になる。だから政府首脳部は、「国会開設と国民への参政権付与は、時期が早い」と判断したのである。しかし、高まる世論はそれを認めない。そこで一応、「十年後に国会を開設し、憲法も制定する」と約束した。しかし、その十年間も自由民権論者たちはいよいよ勢いを得て、うるさくなるに違いない。国家は、「内政に行き詰まりを生ずると、外の問題に国民の目を向けさせる」ということをよく行う。あるいは、このときもそういう意図があったのかも知れない。すなわち神功皇后の外征という歴史的事実を持ち出して、「同じような課題が、いまの日本にもある」というテーマを設定したのではなかろうか。ちょうどこの頃日本政府は、清(しん。中国の当時の国名)国と、流球問題について交渉中だった。 
「国会開設も大事だが、当面は清国問題にも大いに関心を持ってもらいたい」と、いわば国民の目を国内から国外へ向けさせるために、神功皇后を日本で最初の、「肖像紙幣」として発行したのかも知れない。しかしその意図はあくまでも、「日本国は、神のつくつた国である」という意味合いが強く、この時点では決して、「女性に参政権を持たせよう」という考えは全く無い。  
推古天皇

さて、前回の神功皇后のあと、更に女性の天皇として飯豊皇女が出ています。彼女も「飯豊天皇」と記述されることがあり、実際に政務を執っていましたので、天皇と考えてよいのですが、正式に記録の上でも天皇になったことが明確に書かれているのは推古天皇(すいこてんのう)が最初です。 
この推古朝の頃の天皇家というのは、非常に近親婚が多い為、血縁関係がなかなか分かりづらいのですが、箇条書きにしますと 
 ・推古天皇の父は欽明天皇。 
 ・推古天皇の母は蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)。 
 ・推古天皇の夫は敏達天皇で、敏達天皇の皇后であった。 
 ・推古天皇の娘の大姫、孫娘の橘女王がともに聖徳太子の妃。 
(ここで、敏達天皇は欽明天皇と皇后石姫(欽明の姪)との間の子供で、推古天皇と敏達天皇は異母兄妹婚になる。また聖徳太子は蘇我稲目の孫) 
といった状態になっています。この当時は大和朝廷で一番大きな権力を持っていたのは蘇我一族で、蘇我の血を引いていないと天皇になれないような状況でした。推古天皇の夫の敏達天皇が亡くなって後、弟の用明天皇が即位しますが病ですぐに死んでしまいます。 
(用明は欽明と堅塩媛の間の子供。つまり推古天皇の同母兄。用明の子供が聖徳太子こと厩戸皇子) 
ここで有力な後継者と見られた穴穂部皇子が何者か!によって殺害され、それをきっかけに、蘇我一族の最大のライバル物部一族と蘇我一族との全面戦争が勃発します。そしてその勝者蘇我一族により崇峻天皇が立てられます。しかし崇峻は蘇我一族のリーダー蘇我馬子を嫌い、これを倒そうとしたため、先手を打った馬子に殺されてしまいます。 
日本書紀に天皇の暗殺がこれほど明確に書かれているのは非常に珍しい例です。これはその実行者の直接の子孫がこの日本書紀の書かれた時期には全く残っていなかったために可能だったことでしょう。 
さて、この崇峻暗殺の後、当然後を継ぐのは弱冠19歳の好青年厩戸皇子と誰もが思ったことでしょうが、意外にも蘇我馬子と厩戸皇子は共同で推古天皇を立て、厩戸が摂政、馬子が大臣として、トロイカ体制による政治が行われることになってしまいます。そしてこの時代に現在につながる日本の国家の基本的な構造が成立していくのです。 
山岸涼子氏は「日出処の天子」の中で、この推古即位というのは厩戸が天皇になるよりも、摂政としての立場を使った方がより大きな権力を得ることができると考えたためである、と分析しています。つまり自分が天皇になって何かを命令しても、群臣がみんなで反対すれば政策は実行できない。しかし、摂政の立場で天皇に進言し、天皇を納得させられると、摂政と天皇の同意の上での決定には、なかなか反対できる者はいない。 
これは非常に面白い説です。一般には聖徳太子が即位しなかったのは19歳では若すぎると思われたのではないか、と言われているのですが、15歳くらいで結婚して子供を作ったりなどといった例もあったと思われる古代社会の中で19歳は十分大人であり、14歳くらいで物部一族との戦いに参戦して活躍したり、といった実績があり、血筋も申し分無い厩戸皇子が「若すぎる」と退けられるかどうかは疑問のあるところです。 
この推古朝が打ち出した政策は、十七条憲法・冠位十二階といった法治国家へと歩み出す道であり、また遣隋使の小野妹子が携えて行った親書にあった隋の煬帝を激怒させた「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」という文句からは、これからは中国とは対等にやっていくぞ、という強い決意が見て取れます。 
こういった推古朝の革新的な政権の中で、その扇の要を占める推古天皇自身の資質というのは、どういうものだったのでしょうか。これも一般には厩戸皇子と蘇我馬子が高く評価されており、推古天皇はお飾りであったかのように言われるのですが、それは男が優秀で女は何もできない、という偏見から来たものではないか、と私は思います。 
推古天皇が何もできないような人物であったら、この政権は馬子と厩戸の二人のパワーゲームにより動かされることになってしまいますが、昔から両雄並びたたず、と言われるようにそのような権力というのは不安定極まりないのです。安定した権力を作るためには、独裁を敷くか、或いは3人によるトロイカというのが理想です。そしてこのトロイカが成立する為には、推古天皇自身もかなり政治的なセンスを持っていなければなりません。そのような面を見せてくれるような資料はないでしょうか。 
まず気付くのは推古天皇に馬子が領地をねだる場面です。この要求に対して、推古天皇は「自分も蘇我一族の出であるし、蘇我の頭領の貴方は私の叔父でもある。だからあなたの言うことは大事にしないではないが、道理に通らないことをすれば、愚かな女が天皇の位などについて馬鹿なことをした、と人々は言うであろう。それは自分とともに貴方自身にも不名誉なことです」と言って拒否した、という記事があります。 
もう一つ、こちらがより強力なのですが、推古天皇の子供達です。先にも述べたように長女の大姫(菟道貝蛸姫)が聖徳太子に嫁がせるとともに、次女の小墾田姫を唯一蘇我の血の入っていない有力皇子彦人皇子に嫁がせ、四女の田眼姫はその彦人皇子の子供の田村皇子(後の舒明天皇)に嫁がせています。更に大姫と聖徳太子との間に子供ができないと見るや、次男の尾張皇子の娘の橘姫をも聖徳太子に嫁がせており、次の世代をにらんでの打つ手の凄さを見る感じです。 
結果的には推古の死後聖徳太子と蘇我馬子の娘刀自古(とじこ)との間の子供、山背皇子は皇位を継ぐことができず、推古朝の全盛期には誰も予想しなかったであろう、田村皇子の方に皇位が来たことを考えると推古天皇の読みの深さは大したものだと思います。 
そして、そもそも、当時の血で血を洗う権力闘争はほんとうに凄まじいもので推古天皇は絶対に運だけでは天皇の地位を手に入れることはできなかったはずです。敏達→用明→崇峻→推古という政権の移り変わりの中でどれだけの血が流されたことでしょう。生き残るだけでも相当のしたたかさが無ければかなわないことでした。 
しかし、推古という天皇は確かに神功などのように、自分から積極的に方針を打ち出すタイプの天皇ではなかったでしょう。それこそ中国から入ってくる新しい考え方や技術に博士クラス以上に詳しい厩戸がいましたし、実行力旺盛の馬子がいた訳ですから、彼女は主として調整と決定をすればよかった筈です。しかし彼女が賢い人でなかったなら、十七条憲法も冠位十二階も遣随使もなかったのではないでしょうか。
斉明天皇

推古天皇から称徳天皇に至るまでの200年弱の期間は、非常にたくさんの女帝が出た、いわば女帝の時代といえるでしょう。その中で推古帝の次に出てくるのが斉明天皇(宝皇女)です。 
彼女は推古天皇に比べるとやや弱い家系の生まれです。父は彦人皇子と大俣王の間の子供の茅淳王、母は欽明天皇と堅塩姫との間の子供桜井皇子の娘吉備姫王ということで、かなり傍系の皇族ということになります。 
そして初め嫁いだ相手が高向王ですが、この人もあまりパッとしない血筋です。用明天皇と広子との間の子供麻呂子皇子の子供です。この高向王との間に漢皇子を産んでいますが、この高向王・漢皇子の消息は分かりません。 
彼女が歴史の表舞台に出てくるのは、推古天皇の死後彦人皇子の子供田村皇子と聖徳太子の子供山背皇子との間の皇位争いの末田村皇子が勝って即位、舒明天皇となったとき、その皇后に迎い入れられてからです。この結婚のお膳立てをしたのは時の実力者・蘇我入鹿で、一応蘇我の血は入っているとはいえ血筋的に弱い舒明を補う意味があったものと思われます。二人は叔父・姪の関係になります。 
そして舒明天皇が亡くなると宝皇女はまず皇極天皇として即位します。この時も山背皇子は次こそ自分という気持ちがあったでしょうから非常に悔しい思いをしたことでしょう。その不満が爆発する前に、蘇我入鹿は先手を取ります。軍勢を山背皇子を初めとする聖徳太子の子孫が住む上宮に向け、一族二十数名を殺害、文字通り全滅させてしまいました。 
これに恐怖を覚えたのが皇極天皇と舒明天皇の間の子供、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。彼は蘇我入鹿が山背皇子を除いた上では、次は自分が殺されると感じとりました。一方その頃蘇我一族の権勢をあまり面白くなく思っている人物が一人いました。蘇我一族により仏教重視政策が取られて苦々しく思っていた神道を奉じる一族中臣家の中臣鎌足です。彼は最初皇極天皇の弟軽皇子に接近しますが、これといったバックアップの無い軽皇子は中臣鎌足の接近に喜び、自分の妻の小足媛を鎌足にプレゼントしてしまいます。 
この対応を見て軽皇子組むに足らずと見た鎌足は軽皇子を諦めて若い中大兄皇子に接触、二人は蘇我入鹿を除くことで意見一致。蘇我石川麻呂を仲間に巻きこんで、入鹿暗殺を実行します。 
場所は皇極天皇の御前、石川麻呂は三韓の献上文を読むことになっていました。鎌足側は道化を使って入鹿がいつも身に付けている剣を取り上げてしまいます。入鹿もまぁいいかと笑いながら自分の席に付きます。石川麻呂が文章を読みます。ここで弱気になってしまった石川麻呂は読みながら震えて来ます。入鹿が「何を震えている?」と聞くと、石川麻呂は「天皇の御前ですので緊張してしまいまして」と答えます。ここでラチがあかない、と感じた中大兄は自ら剣を取って入鹿に斬り付け、重傷を負わせます。 
入鹿は転がりながら天皇の前に逃げ、「一体私が何をしたというのですか」と言います。自分の息子の突然の乱暴に驚いた皇極天皇も「何事か」と詰問します。中大兄は天皇に向い「入鹿は王子達を次々と滅ぼして皇位を傾けています。入鹿を持って天子に代えられましょうか」という言葉を言います。皇極天皇はそのまま席を立ち、入鹿はとどめをさされ、その後入鹿の父親の毛人も自殺してしまったため、蘇我本家は滅亡しました。乙巳の変です。 
皇極天皇はすぐに退位、中大兄に後はお前がやれと言うのですが、中大兄は自分では即位せずに、叔父の軽皇子を皇位に推挙、孝徳天皇が誕生します。ここで中大兄が即位しなかった理由は聖徳太子が即位せずに摂政の立場にいたのと同じ理由でしょう。この後の政治体制を大化の改新と言いますが、大化の改新の基本的な方針は聖徳太子・蘇我毛人・蘇我入鹿らが考えたものだったのです。 
この後、中大兄は皇太子の立場についたまま、ライバルの古人皇子と乙巳の変の仲間の石川麻呂を殺害、やがて孝徳天皇が死ぬと、再び母の宝皇女を皇位にカムバックさせ、斉明天皇として、その皇太子になるのです。そして孝徳天皇の遺児有間皇子も殺害してしまいます。 
折りしも朝鮮との関係がきなくさくなっていました。斉明天皇と中大兄皇子は軍勢を引き連れて九州に来ます。このとき、現在の高宮を経て朝倉に仮の宮を築くのですが、この時朝倉神社の森の木を切って宮を建設したところ、宮に色々な怪異が現れます。雷が落ちたり、巨大な鬼火が現れたりします。そして、とうとう斉明天皇自身が怪死してしまうのです。中大兄は天皇の亡骸を都へと送った上で朝鮮半島へ軍を進め、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗します。 
 
このように宝皇女の生涯を見てみますと、歴史が二転・三転する中であまり自分の意志ではない中で皇位に付けられ、あまりバックアップの無い中、最初の皇位の時は蘇我入鹿だけを頼りに、二度目の皇位の時は息子の中大兄だけを頼りに政務を取るという、非常に不安定・不本意な皇位でした。 
蘇我入鹿は皇極天皇の愛人であったという説もあります。すると乙巳の変で天皇の前で中大兄が言った言葉は、「自分の愛人と自分の子供とどちらを取るか」という問いとも取れます。そういう質問を息子から浴びせられ、答えずにその場を離れて入鹿を見殺しにした所など、宝皇女の性格が現れているように思います。こういう弱い性格の女帝というのは、後に称徳女帝(阿倍内親王)の所でも見ることになりますが、阿倍内親王がいい補佐役に恵まれず道鏡の横暴を許してしまったのに対して、宝皇女の場合は蘇我入鹿・中大兄という名臣に恵まれ、比較的安定した政権を維持できたことは幸せなことだったでしょう。 
なお、宝皇女が最初に産んだ子供漢皇子が、実は大海人皇子ではないか、という説があるようです。この説の面白さは、これで大海人皇子が中大兄皇子の弟と記されているにも関わらず、大海人皇子の方が記録上年上であったことをうまく説明するということです。
斉明天皇2 
土木工事が好きだった、史上初の譲位と重祚を行った女帝
少子化時代の現代では出産以前に、結婚相手を見つけることすら自然にではなく、“婚活”に励む人たちがいる。こうしたことを考え合わせれば、古代社会は男女の仲も、恋愛も、現代社会よりもっと奔放で、さばけていたのではないだろうか。そんな事例が少なくないのだ。ただ、それが皇族、とりわけ女帝となると、さらに驚きだ。むろん、それは政略結婚に違いないのだが…。史上初の、譲位(第三十六代孝徳天皇へ)と重祚を行った斉明天皇は、そんな稀有なケースの女性だ。
第三十五代とされる皇極天皇(在位642〜645年)が重祚して、第三十七代斉明天皇(在位655〜661年)と謚(おくりな)された。諱は宝皇女。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。父は茅渟王(ちぬのおおきみ)。母は吉備姫王(きびのひめのおおきみ)。第三十六代孝徳天皇の同母姉。
彼女は、最初に用明天皇の孫にあたる高向王(たかむくのおおきみ)に嫁ぎ、漢(あや)皇子を産み、その後、田村皇子(後の第三十四代舒明天皇)との間に葛城皇子(後の第三十八代天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(第四十代天武天皇)を産んだ。つまり、再婚して皇后となり、後に天皇となる2人の皇子を産んだわけだ。
斉明天皇は女帝ながら、一般的なイメージとは異なり、各地の土木工事を推進した。また東北の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送るなど、蝦夷征伐も積極的に行ったことは特筆される。水工に溝を掘らせ、水路は香具山の西から石上山にまで及んだ。舟200隻に石を積み、流れにしたがって下り、宮の東側の山にその石を積み上げて垣を築いた。渠(みぞ)の工事に動員された人夫は3万人を超え、垣の工事にも7万余の人夫が使役された。2000年に奈良・飛鳥の地から亀石形の流水施設を含む宮廷施設などが発掘されたが、この女帝の時代に行われた土木工事の痕跡は多数発見されている。
対外政策では新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、斉明天皇、皇太子の中大兄皇子、大海人皇子らは百済救援のため九州へ赴いた。大宰府から奥へ入った朝倉の地に、「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」という仮宮を建造し、斉明天皇が指揮にあたった。女帝ながら、したたかで男勝りな性格が顔をのぞかせる。だが、倭軍は唐・新羅連合軍に敗退。また、朝倉神社の木を勝手に伐採して宮の造営に充てたことから、雷神が怒り建物は崩壊した。宮殿の中にも鬼火が出現し、多くの人々が病に倒れた。そして遂に天皇自身もこの朝倉宮で崩御した。
「大化の改新」の黒幕は皇極天皇ではないか、という説がある。この2年前、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を滅亡に追い込むなど政治の実権を握っていた蘇我入鹿暗殺という古代史上最大のクライマックスともいえる、朝廷を震撼させるクーデター事件が起きた。645年(皇極4年)のことだ。大化の改新の幕開きとなるこの事件の、実質上の首謀者は明らかに中臣鎌足(後の藤原鎌足)だ。鎌足31歳、中大兄皇子19歳のときだ。この年齢差から判断すれば鎌足が首謀者だろう。
ところが、剣で斬りつけられた蘇我入鹿が、斬りつけた中大兄皇子ではなく、皇極天皇に向かって「自分に何の罪があるのか」と問いかけているのだ。ここに入鹿の心情が隠されているのではないか。入鹿が女帝に向かって問いただすことが、そもそも女帝が首謀者と感じていたからではないかという。また、俗説では皇極天皇と蘇我入鹿は愛人関係にあったともいわれる。だからこそ、入鹿にとっては「あなた(=皇極天皇)は、これ(=暗殺の謀略)をすべて知っているのではないですか?」との思いだったに違いない。このあたりは謎だが、これが事実に近いとすると、入鹿暗殺は中大兄皇子と中臣鎌足に引きずり込まれてではなく、皇極天皇の意思が働いていたということになり、何か不気味さが漂ってくる思いがする。 
額田姫王

 

さて、今回の女性は「ぬかたのおおきみ」と読みます。「額田姫王」と書きましたが「額田王」と書かれることの方が多いようです。 
彼女は鏡王の娘、と日本書紀に記されていますが、鏡王がどういう出自の人かはよく分かりません。(中臣鎌足の恋人の鏡女王と何か関係あり??)近江を地盤とする人であろうということのようです。彼女は歌人として名高く、万葉集に12首の歌が収録されています。一番早いものが大化4年(648)のものですので、一番若いケースで633年頃の生まれではないかと考えられます。 
秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の京の 仮廬し思ほゆ 
彼女は初め中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の弟大海人皇子(おおあまとおうじ)と愛しあい、十市皇女(といちのひめみこ)を設けます。しかしその後、今度は兄の中大兄皇子の妻の一人になるのです。 
これが額田王の心変りによるものなのか、或は中大兄皇子の権力によるものなのかは不明ですが、大化の改新は中大兄・中臣鎌足・大海人の三人によるトロイカ体制であったことを考えると、中大兄が権力に物を言わせて弟の恋人を奪うということは考えづらく、むしろ額田王が自ら進んで兄に乗換えたと考えた方が自然でしょう。 
そして十市皇女は中大兄と采女の宅子娘(やかこのいらつめ)との間の子供、大友皇子と結婚します。額田王としては、自分と前の亭主の間の子供が、自分の現在の夫の子供と結婚する訳ですから、もし多少大海人皇子に悪いなという気持ちがあったとしても、非常に満足と安心を覚えられる結婚だったのではないでしょうか。しかも相手は中大兄の子供とはいっても采女が産んだ子供ですから、政治的な騒動に巻き込まれる心配は少ないと考えたと思います。二人の間には葛野王という男の子まで生まれます。 
しかし歴史は皮肉な道をたどり始めます。中大兄は皇后を含めて正式の妃が4人いましたが、その誰との間にも男の子が生まれませんでした。ただ一人遠智娘(持統天皇の母)が建皇子を産んでいましたが、建皇子は言葉が不自由で、皇太子とするには問題がありました。そこで世間は中大兄の次はこの政権を共に支えて来た弟大海人皇子の番であろう、とささやくのですが、ここで身分の低い女の産んだ子として全く問題にされていなかった大友皇子が非常に優秀な才能を発揮してきたのです。彼は群臣の注目するところとなり、中大兄も彼を重用、やがて太政大臣にまで抜擢します。 
これで納まらないのは大海人です。しかも今までの兄の手法からすると自分は葬られるかも知れないと感じた彼は、いち早く「仏門に入るので宮中の仕事からお暇を願いたい」と言って都を脱出、妃のさらら姫やごく少数の側近だけを伴い、吉野の里で隠居生活に入ります。そして中大兄(天智)の病死。古代における最大の内戦が大友皇子と大海人皇子の間で勃発しました。壬申の乱。これを制した大海人が皇位を獲得します。大友皇子は戦死。十市皇女と母の額田王は再び大海人皇子の保護の下に戻ります。 
そして十市皇女は夫を父に殺された悲しみを癒す日々を送る内に、異母弟の高市皇子と心を通わせるようになります。しかし、この新しい恋の日々は突然の十市皇女の死によって終わるのです。まだせいぜい30歳くらい。この若すぎる死は自殺ではないかと言われています。何があったのでしょうか。 
この繊細かつ不幸な娘に対して、おおらかな母は長生きしたようです。80歳くらいまで生きたという説もありますが、そうだとしたら当時としては非常に長寿ということになります。そもそもこの額田王という人は、天智天皇の妻になった後で、宮廷の宴会で前夫大海人を見つけて手を振り、こんな歌を歌った人です。 
あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る 
これに対して大海人皇子も逃げずにきちんと返歌を返しています。 
紫の 匂ほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも 
回りの人たちは額田王の奔放さに息を飲みつつも、うまく返した大海人皇子の器の大きさを見直したことでしょう。むろんこんなやりとりは中大兄と大海人との関係が非常に良好だからこそ許されることでしたでしょうし、中大兄も、この自由な感覚の持主の額田王に惚れ直したかも知れません。そして又彼女は自分の妃にして縛っておける女ではない、と再認識したのではないでしょうか。
額田王2 
天武、天智両天皇とのロマンスが光彩放つ万葉集のスター
大海人皇子(天武天皇)と中大兄皇子(天智天皇)の二人に愛された額田王のロマンスは日本古代史を飾る大輪の花のように華やかな光彩を放っている。彼女は初め、宮廷に仕えていたとも言われているが、美しいうえにずば抜けた歌の才能を持っていた。「万葉集」には長歌三首、短歌九首が載り、万葉初期歌人中、群を抜いている。落ち着いた愛の歌、女の息吹が聞こえる情熱の歌など数が多いだけでなく、格調も一段高い。「万葉集」のスターだ。
天智天皇が蒲生野で薬草刈りをしたとき、彼女と昔の恋人・大海人皇子の間に取り交わされた相聞歌
あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる
はとくに有名。これは怖い亭主(天智天皇)のいる前で、かつての恋人(大海人皇子)が人目を忍んで手を振るのを見てハラハラするというものだ。そして、これに応えて、大海人皇子は
紫の匂える妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
と歌っている。
しかし、近年の研究分析では、これらの歌は密かに贈った歌ではなく、薬草刈り後の宴で、この二人がかけあいで詠んで宴の興趣を盛り上げたという説が有力になっている。したがって、兄弟で一人の女を取り合って火花を散らしたということではないようだ。
また、当時の女性は二婚三婚しているケースは決して珍しいことではない。一人の女を二人の男が争うといっても、命を賭けるような争いにはならず、きょう結婚してあす別れ、一週間後に別の男と、などということはよくあったという。現代の“不倫”などとは全く違う次元のものだ。
額田王をめぐって、中大兄皇子と大海人皇子の兄弟が争って、それが壬申の乱になったという説があるが、これは俗説だ。ただ、斉明女帝の御世、朝鮮出兵のとき伊予で有名な
熟田津に船のりせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
と歌ったころに、額田王の心は夫・大海人皇子から中大兄皇子に移ったといわれる。
というのは、この少し前に中大兄皇子は自分の二人の娘(姉・大田皇女と妹・後の持統天皇)を大海人皇子に嫁がせている。これは皇太弟で実力者の大海人皇子を抑えるための、いわば懐柔策ともみられているが、恐らく額田王としては内心穏やかではない。二人の皇女は自分より10歳以上も若いのだ。そんな精神状態のとき、これはあくまでも推測だが、中大兄皇子が「ゆくゆくはあなたの娘(十市皇女)をわが子大友皇子(弘文天皇)の嫁にもしよう」といったような、いい条件を持ち出して口説いたのではないか−と思われる。中大兄皇子はこのときの朝廷一番の権力者だ。そこで、娘の十市皇女の将来を考え合わせ、才女・額田王は中大兄皇子に乗り換えた(?)のではないか。その結果、二人の兄弟天皇に愛を受けた女性、額田王というヒロイン像ができあがったのだ。 
持統天皇

 

時代は進みます。壬申の乱を制した天武天皇が聖徳太子以来築きあげられて来た日本国家の基礎工事に最後の仕上げをしてから亡くなった後、皇后であった讃良(さらら)皇女は、自分の子供の草壁皇子に皇位を継がせる為、ライバルの大津皇子を殺します。 
しかし、肝心の草壁皇子が病死してしまったため、その草壁皇子と自分の妹の阿陪皇女との間の子供軽皇子に望みを託し、彼が成人するまでの間自らが即位して持統天皇となり、政務を執るのです。 
持統天皇の父は天智天皇、母は乙巳の変の功労者の一人蘇我石川麻呂の娘遠智娘(おちのいらつめ)です。物心つくかどうかの頃、石川麻呂が父の天智天皇に殺されます。更に叔父の大海人皇子に嫁いだとはいえまだ少女時代の多感な時期に、今度は壬申の乱が起こり、幼な妻はけなげに夫の吉野行き、山越えの進軍と行動を共にします。そして目の前にさらされる兄・大友皇子の首。否応なく血で血を洗う争いに巻き込まれたさらら姫はその後も激しい潮流の中での生涯を送ることになりました。 
大和朝廷がそれまでの「倭」という国号をやめて「日本」という国号を名乗るようになったのは天武天皇の時からであるとされます。天武はまた伊勢神宮の祭祀を非常に重要視し、また初めて風水に基づく本格的な都を作ろうとしました。しかしその計画は自らの死によって中断してしまいました。持統天皇はその遺志を引き継ぎ、4年かがりで初めての固定的な都・藤原京を作ったのです。それまで都は天皇が変る度に移されるのが常でした。豪族たちはそれぞれ自分の本拠地に住んでいて、天皇が作った宮へ通勤してきていた訳ですが、ここに大規模な都が作られ、そこに官吏とその家族が住めるようになったことで、政府というものの質がこれ以降変っていくことになります。 
さて、そうこうしている内にやっと孫の軽皇子が15歳になります。うまい具合に自分の孫の最大のライバルと思われた太政大臣高市皇子がなくなりました。天皇は群臣たちに皇太子を誰にするか諮ります。天皇としては当然軽皇子をその位に付けたいのですが、天武天皇と大江皇女との間の子供弓削皇子を推す声もあり、議論は紛糾します。この議論に終止符を打ったのは、大友皇子と十市皇女との間の遺児・葛野王でした。彼は「皇位は基本的に子・孫へと受け継ぐべきもので、兄弟で受け継げば、それぞれの子供の間に皇位をめぐる争いが必ず生じる」と言い、彼の一言で軽皇子が皇太子と決定します。 
持統天皇は軽皇子に譲位、文武天皇が誕生し、持統は史上初の太上天皇として引続き実質の政務を執り続けます。この間、都の造成に引き続く大事業、法令の編纂が行なわれ、まずは天皇支配をうたった浄御原令に続き、日本で初めての法体系大宝律令が完成、大化以来とだえていた年号もこの「大宝」によって再開されます。 
持統上皇はその年、文武と藤原不比等の娘宮子媛との間に首皇子が生まれたのを見届けて、生涯を閉じるのです。 
持統天皇というと、自分の子供・そして孫を皇位につけるために「次々と」皇位継承権のある皇子を血祭にあげていった恐怖政治家、という印象を持っている人がけっこうあるのですが、彼女が実際に殺したのは大津皇子一人で、この時も死を賜わったのは彼一人で、妃の山辺皇女(天智天皇の娘)が後を追って死んでしまった他は、側近の行心という僧が飛騨に流されたくらいでできるだけ余計な血を流さないようにしています。 
また高市皇子に対しては最後まで手を出さず、自分が先に死ぬか高市皇子が先に死ぬか賭けをしていたような感じです。大海人皇子の吉野行きと壬申の乱にずっと付き従っていたのなどを見ても彼女の我慢強い性格を表わしています。 
彼女は古代の多くの女帝の中でも、もっとも強力な指導力を発揮した女帝であったと思われます。藤原不比等はまだ若く、頼れる補佐官としては高市皇子くらいでしたし、彼女がやるしかない状況でした。その中で都作りと法令編纂というどちらも日本で初めての大事業を実行したのは大きく評価されるべきでしょう。 
持統天皇の遺体は夫天武天皇の陵に合葬されました。
持統女帝2 
夫・天武天皇が目指した神格的天皇制を確立した女帝
第四十一代の天皇。歴代の女帝の中には、“中継ぎ”的な人物も確かに存在する。しかし、持統女帝は夫・天武(第四十代天皇)の目指した神格的天皇制を確立するとともに、新しい時代の律令体制の整備を積極的に推進した本格的な天皇だった。
天智天皇を父とし、蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘を母として大化元年(645)に生誕。_野讃良(うののさらら)皇女という。13歳のとき叔父・大海人皇子(後の天武天皇)の妃となった。夫の大海人皇子のもとには姉・大田皇女や、異母妹の新田部皇女、大江皇女など4姉妹が嫁いでいた。ほかにも大海人のもとには十市皇女を産んだ額田王もいた。政略結婚が多い古代とはいえ異例のことだろう。
彼女が実力を発揮するのは父の遺児、大友皇子と夫・大海人皇子が皇位を争った壬申の乱(672)に夫が勝利し、朱鳥元年(686)その夫・天武天皇も亡くなった後のこと。とはいえ、ここに至るまでにも彼女は並みの女性ではない、したたかさをみせている。天智10年(671)10月19日、病床の天智天皇の「後を頼む」という謀(はかりごと)に乗せられることなく、間一髪切り抜け、出家。剃髪し一介の僧となった大海人が近江大津京を発って吉野に向かった。このとき彼女にとっては、父を取るか夫を取るかという物凄いジレンマがあったはずだ。が、妃の筆頭として大海人について行く。
また母親として割り切った強さもみせる。実子・草壁皇子を皇位につけるため、亡き姉・大田皇女の子で、非凡で卓越した才能の持ち主だったライバル大津皇子を謀叛のかどで逮捕し、自害させる。ところが、持統3年(689)肝心の草壁皇子は28歳の若さで病死してしまう。並みの女性なら弱気になってしょげてしまうところだろう。が、ここでも彼女はこの苦境をバネに、一躍スポットを浴びる地位に躍り出る。持統4年1月、やむなく自分が即位し、持統天皇となったのだ。全く見事としか言いようがない。
持統天皇の容姿を記したものはなく、全く分からないが、当時の女性はひっそり部屋の奥深くで着物の中に埋もれていた平安朝の女性と違って、もっとたくましかった。「日本書紀」によれば、静かで落ち着いて、それでいて度胸のいい女性だったとある。節目節目での身の処し方をみると、確かにその通りだ。
持統8年(694)12月、4年の歳月をかけた新京が完成、遷都が行われた。これが藤原京だ。奈良平城宮に先駆ける、わが国最初の本格的な都城だった。また、持統天皇の事績として重要なものに律令体制の整備が挙げられよう。この律令体制を実質的に整備・推進したのが、この時期に宮廷の実力者として登場してきた藤原不比等だ。持統11年(697)、53歳の女帝はただ一人の孫、15歳の皇太子、軽皇子に皇位を譲って、自らは太上天皇となった。こうして藤原氏が律令体制の最大の実力者として着実に不動の地位を固めていくそのはじめと、女帝が太上天皇になって権力を振るおうとする時期がちょうど重なるのだ。天皇制の歴史から、日本の政治史の流れの両面からみて、この時期の持統女帝の存在には見落とせない重要な問題が含まれているといえよう。
在位11年、その間は白鳳美術の盛期、柿本人麻呂などが活躍した時期で、持統自身「春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣干したり天の香具山」など、いくつかの名歌を「万葉集」に残している。大宝2年(702)12月22日、58歳の生涯を閉じた。遺体は火葬にふされたが、これはわが国最初の天皇の火葬となった。 
三千代

 

県犬養橘三千代 藤原不比等を支えた後宮の実力者
県犬養氏は一族に壬申の乱の功臣、大伴氏を持ち、その縁からか三千代は天武朝の女官となった。初めは敏達天皇四世の子孫、美努王(三野王)と結婚し、葛城王(後の左大臣・橘諸兄)と佐為王ら三子を産んだ。詳細は不明だが、10代の後半で妻となり、10代の末ぐらいに最初の子を産んだのではないか。しかし、新しい時代の律令政治に戸惑いをみせる美努王との生活が破綻。生年は定かではない。665年(天智4年)ごろ?か。没年は733年(天平5年)。
三千代は命婦として宮中に仕え、軽皇子(後の文武天皇)の乳母として養育にあたり、持統女帝および阿陪皇女(後の元明女帝)の信任を得て、次第に後宮の内部に地歩を固めていった。
697年(持統11年)8月1日、後宮の長・三千代の最大の願いだった15歳の皇太子・軽皇子が皇位に即位、文武天皇となった。そして、持統女帝は太上天皇に就く。そして美努王が大宰帥として筑紫に赴任したこの頃、三千代は美努王と離婚し、藤原不比等の妻となり、安宿媛(後の光明皇后)を産んだ。
707年(慶雲4年)、不運にも25歳という若さで亡くなった文武天皇の後を受けた元明女帝(文武天皇の母)は、後宮に長く仕えた重鎮の三千代を深く信頼。即位の大嘗祭の宴で盃に橘を浮かべて、その功をねぎらい、「橘宿禰」の氏称を賜与した。したがって、三千代は橘氏の実質上の祖というわけだ。715年に三千代は尚侍(ないしのかみ)となって女帝に仕え、後宮の実力者として君臨した。
後の“藤原摂関政治”の礎を築いたのは不比等だが、それは、三千代の存在を抜きには決して語れない。不比等に対する皇族の厚い信頼のもと、後宮を完全に掌握していた三千代との二人三脚があってこそ、初めて実現したものだったのではないだろうか。
不比等の先妻が産んだ宮子(文武天皇の夫人)の子・首皇子(後の聖武天皇)を皇位継承者とするために、表では夫・不比等が、裏では三千代が擁護した。翌年には娘の光明子を首皇子に嫁がせたが、これも彼女の発言力がものをいったのだろう。藤原不比等の孫(首皇子=後の聖武天皇)が夫に、不比等と三千代との間にできた子(光明子=後の光明皇后)が妻になったわけだ。
不比等の死後、次男の房前が参議・内臣となり、朝廷内の実力者となるが、房前には先夫との間の牟漏女王が嫁いでおり、ここでも三千代の庇護が好影響を及ぼしているとみられる。
三千代は721年(養老5年)、正三位に叙せられ、同年の元明天皇の危篤に際し出家。733年(天平5ねん)死去。死後、同年従一位、760年(天平宝字4年)正一位と大夫人の称号を贈られた。
持統・元明・元正と三代の女帝に仕えた彼女は、江戸時代の徳川三代将軍家光の乳母で、大奥を取り仕切った春日局のような後宮の実力者だったのだろう。 
元明・元正

 

持統天皇の後も、歴史にはさらに元明・元正という女帝が続きます。 
持統天皇が満を持して皇位につけたのが文武天皇でしたが、彼は非常に病弱で実際に天皇の責務を十分に果たすことはできませんでした。初期の段階では祖母である持統上皇にほとんどの仕事を任せており、その死後は刑部親王や穂積親王らが補佐をしており、2人の妃との間に3人の男の子を残しただけで25歳の若さでこの世を去ってしまいます。 
当時皇位を継げるだけの力を持った皇子は何人かいたようですが、文武の母の安閇皇女は何としても自分の孫の誰かに皇位を継がせたいという意志が強く、自ら即位して元明天皇となり、まだ幼い孫たちが成長するまで「中継ぎ」を務めることにします。これは持統天皇が孫の軽皇子(文武天皇)の成長を待っていたのと同じパターンです。しかし、この時代の天皇の業績を見てみると、待ち望まれていた文武・聖武といった男の子たちより、元明・元正といった女の子たちの方が指導力は大きかったようです。 
元明天皇の治世では古事記と風土記の編纂が行なわれ、都の建設・法令編纂に続く歴史書編纂事業が始まります。そして日本で初めての貨幣・和銅開珎(わどうかいちん)の製造が行なわれ、また更に、手狭になってきた藤原京から新しい都平城京へと遷都が行なわれて、奈良時代が始まります。彼女も又偉大な業績を残したのです。 
さて、元明天皇は父は天智天皇、母は蘇我石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)ですので、持統天皇とは祖父の同じ異母姉妹になります。彼女が跡継ぎとして期待していた孫は、文武と藤原宮子媛との間の首皇子と、蘇我石川刀子娘との間の広成王・広世王がいましたが、ここで大化の改新の大功労者中臣鎌足の嫡男として人々の期待を一身に背負って台頭して来た藤原不比等の力が働き始めます。彼は自分の孫である首皇子を皇位につけるため、色々と画策をし、ついに刀子娘の妃の資格を剥奪、これによって広成王・広世王は皇位継承権を失い、元明としては首皇子を跡継ぎとする他はなくなります。 
ここで、首皇子はまだ幼少、自分は老齢の身で、首皇子に皇位を譲り、その孫の政治を補佐してやれる所まで生きていられるか不安がある、というところで彼女は自分と草壁皇子との娘であり文武天皇の姉である日高皇女に譲位、元正天皇が誕生します。 
元正天皇も概して歴史的な評価の低い天皇なのですが、どうしてどうして。彼女の治世下に、古事記に引き続く正式の歴史書・日本書紀が完成、養老律令が発布されています。人によっては元正天皇を次の聖武以上に評価する人もあるようです。 
歴史的な事実を追っていくと 
 715年 元正天皇即位 
 720年 藤原不比等死去 
 721年 安閇皇女(元明)死去 
 724年 聖武天皇(首皇子)即位 
 737年 藤原不比等の子供の藤原四兄弟がそろって病死。 
 748年 日高皇女(元正)死去 
 749年 孝謙天皇即位(聖武天皇が仏門に入るため) 
となっており、聖武の時代もあまり政治力は発揮しなかった聖武天皇に代って日高皇女は色々と政務に関わったのではないかと想像されます。実際日高皇女が亡くなるとすぐに聖武は天皇をやめてしまっており、頼りなさが目につきます。聖武は皇后の光明子(藤原不比等)とともに政治よりも仏教に関心が深く莫大な資金を投入して東大寺と金の大仏を鋳造しています。この間、藤原広嗣の乱が起こりますが、天皇は乱を放置して東国に旅行します。そしてまた群臣の意見を無視して勝手にあちこちと「遷都」を行ない、混乱を招きます。日高皇女としても頭が痛かったのではないでしょうか。 
こうして時代は奈良時代の末期へ、そして女帝時代の最後となる迷君孝謙天皇の治世へと突入していきます。
元正天皇2
独身で即位した初の女性天皇 中継ぎ以上の務めを全う
第四十四代・元正天皇は日本の5人目の女帝だが、あまりにも“中継ぎ”の天皇が強調されて、最も知名度は低いかも知れない。だが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃だったのに対し、彼女には結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇だった。また、歴代天皇の中で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇でもある。但し、父親は男系男子の皇族、草壁皇子のため、男系の血統は維持されている。元正天皇の生没年は680(天武天皇9)〜748年(天平20年)。
元正天皇の父は草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)、母は元明天皇。25歳の若さで亡くなった文武天皇(第四十二代天皇)の姉。即位前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。
歴史に「たら」「れば」をいってみても仕方がないのだが、それを承知で敢えていわせてもらうなら、文武天皇があと15〜20年健在だったら、後を継いだ母・元明天皇、そして姉・元正天皇、両天皇の時代は完全に存在しなかっただろう。文武天皇は25歳で亡くなっているから、あと20年生きていてもまだ45歳。だから、十分あり得る推論なのだ。
ところが、氷高皇女は弟、文武天皇の子、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)がまだ幼かったため、母・元明天皇から譲位を受け、即位し元正天皇となったのだ。皇室が求める「不改常典(ふかいのじょうてん)」の論理と藤原不比等らの政治的思惑とが相互に作用して、一見強引とも思える母から娘への皇位継承が円滑に行われたようだ。
中継ぎの天皇といっても、この元正天皇は19年間の在任期間に、朝廷の中核的存在だった藤原不比等と折り合いをつけ、大過なく務めている。717年(養老元年)、藤原不比等らが中心となって「養老律令」の編纂を始め、翌年編纂業務を完了している。720年(養老4年)に『日本書紀』が完成。また、この年に藤原不比等が亡くなっている。
そこで翌721年(養老5年)、長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任され、長屋王政権を成立させている。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫だった。それだけに、元正天皇にとって心強い政権の誕生だった。それも、朝廷の中核、藤原不比等がなくなったからこそ、遂に実現したのだ。ちなみに、不比等亡き後、藤原氏の朝廷内の布陣は長男の武智麻呂(むちまろ)は中納言、次男房前(ふささき)はまだ参議だった。
豪族の土地所有を否定した律令制度の導入によって「公地公民制」へ転換、実現されるはずだったが、現実には様々な問題があり、崩壊の兆しをみせ始めていた。723年(養老7年)制定された「三世一身法(さんぜいっしんほう)」がそれだ。これは田地不足を解消するため、新しい灌漑施設を伴う開墾地は3代、旧来の灌漑施設を利用した開墾地は本人1代のみ私有を認める−というものだった。これによって開墾は進んだが、いずれは国に土地を返さなければならないため、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。
724年(神亀元年)元正天皇は皇太子・首皇子(聖武天皇)に譲位し、上皇となった。中継ぎ天皇ならここで務めは終わるはずだった。ところが、元正上皇の場合、退位後、20年近くも経ってから、その役割を果たさなければならない時期が到来した。聖武天皇が病気勝ちで職務を行えなくなったこと、あるいは平城京から、恭仁京(くにきょう)、紫香楽京(しがらききょう)、難波京(なにわきょう)と目まぐるしく遷都、行幸を繰り返すなど、情緒不安定だったためで、上皇は聖武天皇に代わり橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたとみられる。 
吉備内親王 

 

冤罪事件で一家全員自殺に追い込まれた長屋王妃
吉備内親王は元明女帝の愛娘の一人で、天武天皇、持統女帝の孫にあたり、母方の血筋をたどれば、天智天皇の孫にもあたる華麗な家系の女性だ。さらにいえば姉(氷高皇女=元正天皇)、兄(文武天皇)も即位した。天皇にならなかったのは、即位を前に早逝した父の草壁皇子と、この吉備内親王ぐらいなのだ。そんな“セレブ”な家系の彼女が、どうしたことか、一時は政府首班を務めた長屋王の妃にはなったものの、周知の「長屋王の変」で夫、そして子供たちとともに自殺に追い込まれているのだ。どうして、彼女がそんな非業の死を遂げねばならなかったのか。
吉備内親王の生年は不詳、没年は729年(神亀6年)。彼女は長屋王に嫁ぎ、膳夫王・葛木王・鉤取王を産んだ。そして、715年(和銅8年)には息子たちが皇孫待遇になった。また、彼女自身も同年、元号が神亀となった後に三品に叙された。さらに724年には二品に叙された。ここまでは、彼女の家系にふさわしい、心穏やかな幸せに満ちた年月を過ごしていたといえよう。
ところが、729年(神亀6年)、思いがけない事件で吉備内親王の人生は暗転する。既述の後世「長屋王の変」と呼ばれる事件だ。結論を先に言えば、これは藤原一族が仕掛けた、長屋王追い落としのための謀略であり、冤罪事件だ。藤原一族が仕掛けたとみられる「長屋王謀反の企て」の顛末はこうだ。長屋王の使用人だった漆部造君足(ぬりべのやっこきみたり)と中臣宮処東人らにより、左大臣長屋王が密かに左道(妖術)を行い、国家を傾けようとしている−との密告があった。
そして、どうしたことか、この密告に聖武天皇が“過剰”反応してしまったのだ。なぜ冷静に、時間をかけて真相究明することに考えが及ばなかったのか。不思議だ。天皇は直ちに鈴鹿、不破、愛発(あらち)の三関所を固め、式部卿・藤原宇合、衛門佐(えもんのすけ)・佐味朝臣虫麻呂らを遣わして長屋王の邸を包囲した。そして翌日、舎人親王、新田部親王らを派遣して、長屋王を追及した。これに対し、長屋王はなんら弁明する余地もなく、自刃して果てたのだ。そして、まもなく妻子らも後を追って殉死した。この事件は後に讒言だったことが明らかになり、長屋王の名誉は回復される。しかし、死後では何にもならない。殉死した吉備内親王らはもう戻ってこない。
繰り返すがこの事件、不可解な点が多い。最大の“汚点”は聖武天皇の行動だ。事実だけをつなぎ合わせれば、天皇が根拠のない密告を簡単に信じて、政府首班の要職にあった長屋王を死に追い込んだのだ。天皇自身が、側近の藤原一族にいいようにコントロールされ、藤原一族に都合のいい情報だけを天皇の耳に入れていた結果、チェック機能が働かないまま、こうした悲劇が起こったとの見方もある。あるいは精神的に弱かった、脆かった天皇につけ込んで、藤原一族が謀った極めて巧妙な企みだったともいえる。いずれにしても、こうして藤原一族は、自分たちに堂々と異論を唱えてくる、邪魔な存在の長屋王を葬ったわけだ。そして、吉備内親王は悲劇のヒロインとなった。
ただ長屋王ではなく、この吉備内親王が、「巫蠱(ふこ)の術」(祈祷によって人を殺す呪術)を使って、生後間もなく亡くなった藤原氏の期待の皇子、基皇子を呪い殺したのではないかとの嫌疑がもたれていたのではないか−との憶測もある。こうした術を使えるのは、霊力に富んだ巫女や皇女に限られていたのだが…。  
光明皇后  

 

皇族以外で初めて皇后位に就いた女性
光明皇后は16歳で聖武天皇の妃となり、後に皇族以外では初めて皇后位に就いた藤原“摂関政治”のいわば看板娘だ。彼女は病気がちの聖武天皇に代わって、東大寺や国分寺の建立を進めたり、孤児収容の悲田院や、貧民のための医療施設である施薬院をつくるなど、有為な政治家だったと伝えられる。ただ、異説を唱える人もあり定かではない。
彼女の生没年は701〜760。父は「贈正一位太政大臣」藤原不比等、母は「贈正一位」県犬養橘三千代、名は安宿媛・光明子。孝謙天皇の母。
天平勝宝元年(749)、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、ここに孝謙天皇(女帝)が誕生する。しかし、この天平勝宝年間(749〜757)から天平宝字4年(760)、光明皇太后が没するまでの約10年間の事実上の政治の実権者は光明皇太后だった。
これにはいくつかの証拠がある。その一つは『続日本紀』にある孝謙天皇の「詔」の中で、彼女が「朕がはは」光明皇太后を「オオミオヤノミカド(皇太后朝)」と呼んでいる点だ。皇太后朝というのは、一種の天皇だ。とすれば光明皇太后は、この孝謙帝の時代から実際の天皇だったといわねばならない。彼女は元明・元正女帝などより、はるかに強い権力を持っていたのだろう。
しかし、彼女は藤原氏出身だ。藤原氏の出身の前皇后が次の天皇となることはできない。それでやむなく、彼女は「紫微中台」にとどまった。「紫微中台」というのは、言葉の上でも実際の天皇を意味する。つまり、彼女は「女帝」だったのだ。
幼い時から藤原一門の期待を担って、彼女には“皇后学”ともいうべき教養が与えられたが、それはインターナショナルな中国の文化を核とするものだったろう。そんな彼女にとって留学帰りの僧玄_と下道真備、後の吉備真備の二人は唐文化の理念的知恵・仏教と実際的知恵・儒教と律令の知識そのものだった。
光明皇后は、この二人を重く用いれば国家は十分治まると思ったに違いない。天平9年の兄の4兄弟、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の相次ぐ死で、自身の権力を支える大きな後ろ楯を失った彼女は心に深い不安を抱えていただけに、玄_と真備の存在には救われる思いすらあったのではないか。
その“のめり込み”が高じて、玄_が彼女の恋人として選ばれたのも当然の成り行きだったかもしれない。皇后と、天下に名だたる高僧だったとしても、生身の女と男、その間に肉体関係が生まれたとしても不思議はない。 
孝謙天皇

 

738年、聖武天皇は光明皇后との間の子供、高野姫(阿倍皇女)を立太子させます。これは女性が皇太子になった初めての例です。それまでの女帝は皆前の天皇が死んでしまってから、誰が後をつぐかもめた上で「あんたやんなさい」という感じで天皇になっているのですが、彼女は初めから皇太子として次の天皇を約束されたのです。 
そして聖武天皇が仏門に入るために749年退位、高野姫は孝謙天皇として即位します。時に32歳。しかし、彼女は即位はしたものの実権はなく、政務は藤原仲麻呂がとっていました。そして何もできないまま、仲麻呂の亡き長男の嫁の現在の夫という立場にあった、仲麻呂からすると息子に等しい存在の大炊王に譲位させられてしまいます。不本意な在位時代と無念の退位でした。 
ここで即位した淳仁天皇ですが、彼も仲麻呂のロボットのような存在でした。言われるままに仲麻呂を臣下としては異例の太政大臣にまであげ、恵美押勝という名前まで与え、仲麻呂好みの儒教的な政策が施行されていきます。 
ところが、ここに道鏡(どうきょう)という密教僧が登場してきます。彼は密教の呪術や薬草・治療などの知識に深く、いつの頃か孝謙上皇に仕えていました。仲麻呂は折りしも平城京に代る新しい都を北の地方に求めようと、天皇と上皇を伴い、近江の国へ行くのですが、この時ハードスケジュールが災いして孝謙が病に倒れます。当然道鏡が熱心に看病するのですが、この二人の仲を仲麻呂が疑ってあらぬ噂を立てる、という事件がありました。 
怒った孝謙上皇は仲麻呂たちを残して都に戻り、五位以上の貴族を全員集めて「今からは通常の祭祀などの小事は天皇が行なうが、国家全般に関する大事や賞罰は全て上皇たる自分が行なう」と宣言するのです。 
慌てた仲麻呂は太政大臣の立場を利用して自分の3人の息子を参議に任じる等の対抗策をとりますが、かえって反感を持つ者を作り、ついに両者は軍事衝突に至ります。 
これに孝謙は勝ち、仲麻呂は斬られます。そして淳仁天皇は衣服どころか履物もはけない状態で上皇軍に拉致され廃位の宣告を受け、幽閉、数年後には殺害されています。そして孝謙は重祚、称徳天皇となって、道鏡を太政大臣・法王に任命して仏教色の強い政治を行ないます。やはり女の子は強かったのです。 
称徳天皇は皇太子は定めませんでした。そして皇位を自分が師としてあがめる道鏡に譲りたいと考えます。しかし道鏡には天皇家の血は流れておらず、そのような決定をしようとすると、臣下の激しい抵抗が予想されました。そのときおあつらえ向きに宇佐八幡御神託事件が起こります。 
宇佐八幡の神が「道鏡を天皇にすれば国は安泰となるであろう」というお告げをした、という噂が都に流れて来たのです。早速これを利用しようと考えた称徳天皇は、非常に信頼していた側近の和気広虫の弟、清麻呂を宇佐へ派遣し、その神託を確認させようとします。 
ここで清麻呂は天皇の意向通りの神託を持ち返るべく九州の宇佐まで行くのですが、彼はこの聖地に立つ神殿に入った途端、その雰囲気に圧倒され、頭が空白になります。そして確かに彼の頭の中に神の声が響きわたりました。 
彼は帰京、天皇に自分が聞いた通りの神の声を伝えました。「古えより天皇と臣下の別は明確である。臣をもって君に代えることはできない」乙巳の変の時中大兄皇子が母の天皇に言ったのと同じ原理です。称徳天皇は激怒、清麻呂と姉の広虫を穢麻呂(きたなまろ)と穢虫と改名させて、遠流に処します。 
しかし、この清麻呂の命を賭けた上奏によって称徳天皇は皇位を道鏡に譲ることはできなくなり、失意のまま翌年病に倒れ、亡くなります。この死によって女帝の時代は終わります。この後、女帝は850年後の明正天皇まで出現しないのです。そして奈良時代ももう終わりを告げようとしていました。
孝謙女帝2
道鏡を異例の皇位に就けようとした未婚の女帝
女性の身で二度も皇位に就いた孝謙女帝は、日本史上稀にみる栄光に包まれた女性だが、反面、史上最悪の黒い噂がつきまとっている。周知の通り、僧道鏡の献身的な奉仕ぶりに感じ入り、恋に堕ちた女帝が前代未聞の、皇族でもない道鏡を皇位に就けようと画策(?)したことだ。
孝謙女帝は推古天皇や持統天皇などそれまで存在した女帝たちとは異なり、初めから皇位継承者として、女性では史上初の皇太子になり、やがて即位した。ただ、これにはわけがある。たった一人の弟で皇太子だった基王が早死にしたので、父の聖武天皇と別の妃の間に生まれた皇子に皇位を奪われないように、光明皇后の実家、藤原氏一族が暗躍。苦肉の策で、強引にかつ大急ぎで皇太子に立てられたのだ。阿倍内親王20歳のことだ。このプリンセスが女帝の座に就いたときは32歳、東大寺の大仏開眼には主役として晴れの盛儀に臨席している。
聖武天皇が亡くなると、女帝の周りはにわかに慌しく黒い渦が巻き起こってくる。まず皇太子交代事件がそれだ。聖武天皇はその死にあたって、未婚で後継ぎのいない娘、孝謙女帝のために、道祖王(ふなどのおう)という皇族の一人を皇太子にせよと遺言した。ところが、この道祖王が聖武天皇の喪中に、宮中の女官と密通したことが発覚。これに憤慨、激怒した未婚の女帝は早速皇太子をやめさせてしまった。代わりに別系の皇族、大炊王(おおいのおう)を立てた。
このとき女帝の片腕として活躍したのが当時の実力者、藤原仲麻呂だ。彼は光明皇后の甥だから、女帝には従兄にあたる。ただ、仲麻呂の献身には魂胆=野心があった。皇太子に選んだ大炊王は、実は仲麻呂の家に住んでいたのだ。早死にした彼の長男の妻の再婚の相手で、いわば女婿といったところだ。ともあれ女帝と仲麻呂=恵美押勝の間は至極和やかだった。
だが、女帝が皇太子、大炊王に皇位を譲り、彼が即位し淳仁天皇となったあたりから心のズレが表面化。天皇に密着して思いのままに腕を振るい始めた仲麻呂の態度を見て、女帝は仲麻呂が自分を愛しているのではなく、権力を愛していたのだと気付く。そのうえ、頼りにしていた母の光明皇后が亡くなったことも、女帝の孤独感を深めた。そのせいか、女帝はまもなく病気になる。このとき、病気を治すまじない僧として呼ばれるのが道鏡だ。
道鏡は自分の呪術のすべてを尽くして女帝の治療に専心する。その甲斐あって女帝は健康を取り戻す。そして、その献身的な奉仕ぶりが女帝の心を深く捉えることになる。彼には仲麻呂のような野心がない。心底からの献身として映る。仲麻呂に裏切られた後だけに女帝の心は急速に道鏡に傾き、恋に堕ちる。
道鏡は一般には妖僧といわれ、彼自身が天皇になろうとしたとの非難がある。しかし、彼はそのころでは珍しくサンスクリット(梵文)も読めた、大変な勉強家だった。また、皇位に就けようと積極的に動き、画策したのは彼自身ではなく、女帝の方だったようだ。道鏡への処遇で淳仁天皇に非難された女帝は、反乱を起こした仲麻呂=恵美押勝を滅ぼし、また淳仁帝を廃し、皇位に返り咲く。称徳天皇だ。
女帝は道鏡を大臣禅師として国政に参与させ、後には法王の称号を与える。そして、政略的な理由で女性皇太子となって以来、遂に結婚の機会を与えられなかった人の、最初にして最後の愛の燃焼ともいえる道鏡への寵愛は、道鏡を皇位に就けようとする強い意志となって表れたのではないだろうか。九州の宇佐八幡にお告げを聞きに行った和気清麻呂のもたらした「ノー」により、結局は実現しなかったが、そこにみられる四十女の恥も外聞もないひたむきさは涙ぐましいほどだ。
ただ、「日本霊異記」などが生々しい艶聞として伝えているように、公人としての称徳天皇が、道鏡と密着して政治を壟断(ろうだん)したことはつとに知られるところであり、批判のそしりは免れない。ここに悪女として紹介した所以だ。 
藤原薬子  

 

平城天皇の威を借り、兄と背後から政治をろう断した悪女?
藤原薬子は平城(へいぜい)天皇が皇太子(安殿親王)のとき、長女を皇太子に仕えさせるため、付き添いとして宮中に上がったところ、母の薬子も皇太子の目にとまり、愛を受けるようになってしまう。彼女は中納言藤原縄主との間に三男二女と5人の子を産んでいたのにだ。相当、魅力にあふれた、すばらしい中年女性だったのだろう。
最初は父で時の桓武天皇の怒りに触れ、薬子は宮中から追放される。ところが、延暦25年(806)3月、桓武天皇が崩御すると宮廷の女官の資格を取ったうえで再び宮中に復帰、後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ)に就任する。 
安殿親王は延暦25年(806)5月即位し、年号を大同と改め平城天皇となった。その翌日、平城天皇の12歳年少の同母弟、賀美能親王を皇太子に立てた。平城朝がスタートすると、薬子は天皇の威を借りて傍若無人の振る舞いに出る。薬子の兄の藤原仲成までもが勝手な行動に出て、大いに周囲のひんしゅくを買った。薬子が天皇の寵愛を一身に集めているのをよいことに、仲成は伊予親王事件に揺れる南家を尻目に藤原式家の繁栄を図った。
平城天皇は生来病弱で、藤原氏内部の抗争などにも翻弄されたが、桓武天皇が都の造営や蝦夷征討によって国家財政を逼迫させたのを受けて、財政の緊縮化と公民の負担軽減とに取り組んだ。また官司の整理統合や冗官の淘汰を進め、官僚組織の改革に先鞭をつけた。この間、天皇は何度か転地療養を試みたが、その効なく在位3年余りにして大同4年(809)4月、皇位を賀美能親王(嵯峨天皇)に譲り、平城旧京へ隠棲した。
ところが、嵯峨朝がスタートしてほどなくすると、平城上皇の健康はにわかに回復へと向かい、いまだ30代という若さも手伝って国政への関心を示し、上皇の命令と称して政令を乱発するありさま。当然のことながら、側近の薬子や仲成も政治の舞台への未練を捨てきれず、遂に平城上皇に重祚するよう促した。 
上皇方の動向を苦々しく思っていた朝廷も、当初は摩擦を避けるため薬子らの横暴にじっと耐えてきたが、その結果「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態に立ち至った。
強気の上皇方は大同4年11月、平城京に宮殿を新たに造営しようとした。そして翌5年、上皇から平城京への遷都を促されるに及んで、遂に嵯峨天皇の朝廷は「二所の朝廷」といわれる事態を打開しようと立ち上がった。朝廷は仲成を捕縛するとともに、正三位の薬子の官位を剥奪した。事態の急変に慌てた上皇は東国への脱出を試みたが、朝廷の命を受けた坂上田村麻呂の軍勢によって行く手を阻まれ、失意のうちに平城京に戻って剃髪し、出家した。薬子は毒を仰いで自殺して果て、仲成も射殺された。
この「薬子の変」により、嵯峨天皇の皇太子だった平城天皇の第三皇子、高岳(たかおか)親王は廃太子となり、代わって大伴皇子(後の淳和天皇)が立太子し、上皇の系統と悪しき側近政治はここに絶たれた。
藤原薬子が本当に悪女だったのか、平城天皇を心から愛し続けた一途な女性だったのか、ドラマチックな彼女の真の人生を書き残したものがなく、本当のところは分からない。 
紫式部と清少納言

 

称徳天皇の後、皇位は再び天智天皇の血筋に戻り、桓武天皇は都を平安京に移して平安時代が始まります。藤原家にも優秀な人材が続出、中でも道長・頼通親子の時代には安定した権力構造ができていました。 
その中で宮中には何人もの優秀な女性の作家や歌人が出現、中でも評価の高いのが清少納言と紫式部でした。 
この二人は一条天皇の別々の妃に仕えました。一条天皇(980-1011)は最初この時代にしては珍しく純愛で結ばれた藤原道隆の娘の定子(977-1000)を皇后にしますが、ここに道長が割って入り、強引に自分の娘の彰子(988-1074)を中宮として入内させ、一天皇二后という異常事態を引き起こすのです。 
時に長保2年(1000)2月。前年父の道隆が亡くなり、兄の伊周と弟の隆家もささいな事件の責任を問われ九州・出雲に流されていました。しかし定子は天皇の愛を何よりもの頼りとし、修子皇女と敦康皇子というふたりの子供にも恵まれて、何とか持ちこたえます。一方の彰子はまだ12歳ですから、形ばかりの妃、道長の圧力は日増しに強くなります。しかし天皇の愛はただ定子のみにあり、定子は懐妊、道長のいらいらはつのります。 
しかし、定子はこの妊娠で第2皇女美子を産むと同時に24歳の若さで亡くなってしまい、一条天皇の純愛は終わりを告げ、道長の時代が始まるのです。彰子は二人の皇子を産み、道長の力によって、この二人はいづれも天皇になります。 
しかし彰子は亡きライバル定子を憐れみ、また自分が定子を死に追いやってしまったような罪悪感にとらわれ、定子の遺児たちを非常に大事に育て、特に敦康皇子をぜひ皇太子にと父道長に誓願するのですが、当然道長は聞き入れませんでした。 
さて、この定子に仕えたのが清少納言、彰子に仕えたのが紫式部でした。定子・彰子が対立していたのはほんの1年程度ですので、清少納言と紫式部の対立というのも一般に思われているほど長い時間ではなかったと思われますし、実際には二人は一度も会ってないのではないか、という説もあるようです。 
この二人の性格は対照的で、漢文が得意ではきはきした文章を書く清少納言に対して紫式部は和文が得意で、その代表作も清少納言が随筆の枕草子、紫式部は小説の源氏物語です。また紫式部は和歌の才能もあったのに対して、清少納言の方は極端に下手で、定子から「あなたは和歌は免除しますから」とまで言ってもらったというか言われていたとのことです。もっとも和歌集に彼女の歌は15首ほど残っていて、その中には次の超有名な歌もありますので、全く書けなかったという訳でもないようです。 
夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも より逢坂の 関はゆるさじ 
清少納言は主を失った後は宮から下がり、普通の生活をしていますが、暮らしは苦しく、晩年の頃は食うにも困るほどであったといわれています。 
紫式部の方は藤原北家の傍系の生まれで、又従兄の藤原宣孝と結婚、女の子をひとり産みますが、宣孝は他の女の所にもせっせと通い、式部は夫を何度も恨みます。しかしその宣孝はぽっくりと病死、紫式部は何か心に穴が空いたようになり、その空白を埋めるために源氏物語を書き始めたといいます。 
そして4年後の1005年、式部は宮中に出て彰子に仕えます。紫式部は970年生まれとされていますので、彰子より18歳上。17歳の彰子の目には頼りがいのある女房と映ったことでしょう。源氏物語は宮中でも評判になり、道長などは続きが気になって仕方なく、ある時は勝手に紫式部の部屋に入ってきて書き掛けの原稿を持って行ってしまうなどということもあったと言われます。 
この源氏物語の主人公自体、藤原道長がモデルなのではないかという説もありますし(なお、彰子が住んでいた所が藤壷)、また紫式部は道長の愛人だったのではないかという説までありますがどのようなものでしょう。源氏物語の他「紫式部日記」・「紫式部集」などを遺しており、また和歌集には彼女の歌が59首入っています。有名なものには 
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲かくれにし 夜半の月かな 
などがあります。微妙な心を歌っていますね。 
紫式部は1013年頃、一度道長の不興を買って彰子の元を辞していますが、その後、後一条天皇の即位に続いて1018年彰子の妹の威子がその皇后に立つという時期に手が足りなくなって古女房がかなり召し出され、この時紫式部も復職したと推定されています。この後のことはよく分かりません。結果的には自分が死ぬ直前くらいまで彰子に仕えたのではないでしょうか。紫式部の死は1020年頃ではないかと推定されています。
紫式部2 
王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女
紫式部は、この時代としては世界的にも稀有な王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女だ。「源氏物語」は現在、世界で20カ国を超える言語に翻訳され読まれている。その高い世界観や人間観察は、後世の文学にも大きな影響を与えたと思われる。
本居宣長は『源氏物語』を古今東西に並びなき「もののあわれ」の文学として激賞したし、折口信夫はこれを怨霊およびそれへの鎮魂の小説と解した
紫式部は越前守藤原為時の娘で、生没年は推定974〜1014。22〜23歳で山城守藤原宣孝と結婚。夫の宣孝は40代で妻妾の多い人だったが、紫式部が父とともに越前に下るとき、後を追いかけそうな情を示したこと、家格、学識の高い立派な男性だったこともあって、20歳以上も年上の宣孝の愛を受け入れたといわれる。結婚して翌年、賢子が生まれ幸せなときを過ごし、どこにでもいるような平凡でかわいい若奥さんだった。
だが、その結婚生活は3年と続かなかった。夫の宣孝が死んで、運命が狂わされてしまう。それ以後、性格がガラッと変わって、物思いにふけり、他人を突き放すような女になってしまうのだ。若奥さんのときは、継子(ままこ)をわが子同様、よく面倒をみたりする優しい面もあったのに、この落差がすごい。
夫の死後、一条帝の中宮彰子に召されて出仕した。この折の宮中内での見聞、体験を物語の中に散りばめたのが「源氏物語」の作品になったと思われるが、その高い世界観、鋭い人間観察、文明批評はその当時としては驚異的だ。
「源氏物語」は表からみれば光源氏の好色な生活を描いたものだが、裏からみれば源氏が愛した女たちへの六条御息所の怨霊の復讐と、それに対する源氏の側からの鎮魂を、物語を貫く黒い糸としていることは間違いない。
源氏物語の哀切で美しい世界と正反対なのが「紫式部日記」。清少納言など同時代の女房たちへの底意地の悪い批評、自慢話、思わせぶりなど、ドロドロとした女性の心の内面がうかがえて興味深い。この時代の女性の心情や生活をきちんと理解するには、「源氏物語」と「紫式部日記」の両方を読み解くことが必要だ。
紫式部は教養深くて、おしとやかで、10年足らずで「源氏物語」のような傑作を書いた女性だけに、とても近寄り難いと思われる。だが半面、「紫式部日記」でホンネを吐露した格好で、かえって親近感を持たせている面があるかもしれない。
「源氏物語」の世界観は、一口で言えば無常観だ。紫式部が無常観に取りつかれたのは、何といっても疫病の蔓延など当時の不安におののく社会情勢がその背景にある。それと最愛の夫をあっという間に失ったからではないかと考えられる。そういう周囲の変化が彼女の性格を変えさせたのだ。無常観は、当時のインテリの最先端の思想で、紫式部はそれを見事に文学に結晶させたのではないか。 
清少納言3 
高い教養を身につけた、平安女流文学の至宝「枕草子」の作者
日本最古の随筆として知られる「枕草子」の筆者。生没年は965年頃〜1025年頃。村上天皇の勅撰和歌集『後撰和歌集』の撰者の一人、歌人・清原基輔の娘。清原氏は代々文化人として政治、学問に貢献した家柄。「枕草子」に「史記」「論語」などの引用がみえることでも分かるように、清少納言は娘時代から漢学を学ぶなど、当時の女性として水準をはるかに超える教養を身につけていたようだ。
10代後半に橘則光と結婚、天元5年(982)に長男・則長という子が生まれているが、まもなくその結婚を解消した。ただ当時は妻問婚で、夫が通って来なくなれば婚姻は解消されることになる。彼女の場合も恐らくそのようなものだったのではないか。正式離婚というわけではないが、彼女が漢学の素養など教養面で則光より優れていたことからくる性格上の破綻が原因だったとみられる。しかし、決して憎み合って別れたのではないことは「枕草子」に則光と親しく話を交わす場面がいくつも出てくることでも分かる。
正暦4年(993)、一条天皇の中宮(後の皇后)定子のもとに出仕し、「清少納言」と呼ばれた。少納言といっても正式な官でないことはいうまでもない。定子の明るく、機知を尊ぶ気分は、鋭い芸術感覚と社交感覚を持った清少納言にとって、その天才ぶりを発揮するにふさわしい舞台だった。
出仕して2年後、定子の父、関白藤原道隆は死に、代わって道隆の弟、道長が最高権力者となり、道隆の子・内大臣伊周(これちか)および中納言隆家は道長と対立し、罪を着せられ流罪になる。やがて伊周、隆家は許されて都に戻るが、道隆一家にはもう昔日の勢いはない。不幸にも藤原道長の全盛時代だったのだ。したがって、宮廷内の様々なことが道長に連なる人脈、あるいは親・道長派の勢力が大手を振ってまかり通る時代で、それ以外の人たちは一歩下がって見守るほかなかったのだ。
宮仕えは数年続いたが、仕えた定子の実家の没落と、後に乗り込んできた中宮彰子との確執などがあって、長保2年(1000)の定子の25歳の死で終止符を打つ。その後、藤原棟世(むねよ)と再婚し、小馬命婦(みょうぶ)と呼ばれる女の子をもうけている。しかし、この二人目の夫は、その少し後に死んでしまったようだ。結局、彼女は最初の夫とは離婚、再婚した相手とは死別と、結婚という点では恵まれなかった。
清少納言は宮仕えで、藤原氏の内部抗争の犠牲となった中宮定子の苦悶、そしてわずか25歳という若さでの死まで、その一部始終を目の前に見ながら、「枕草子」でそのことには一切触れず、定子を賛美し続けた、そういう彼女の意地とゆかしさも好もしい。
紫式部より4〜7歳ほど年上の清少納言は、紫式部を意識したふしはみられない。この点、中宮彰子に仕えた紫式部が何かにつけて清少納言を意識し、とくに『紫式部日記』の中で辛辣な清少納言批判の文章がみられるのと対照的だ。清少納言の晩年はかなり零落していたとの説があるが、明らかではない。 
和泉式部 

 

為尊・敦道両親王との恋に身をやつした多情な情熱の歌人
和泉式部の情熱的で奔放な恋の歌は、同時代の誰しもが認めるものだった。紫式部は『紫式部日記』で和泉式部について、彼女の口から出任せに出る歌は面白いところがあるが、他人の歌の批評などは全く頂けず、結局歌人としても大したものではないとけなしているが…。
和泉式部が紫式部の持たない能力を持っていたことは確実だ。一口で言えば、恋の、もっと言えば好色の能力だ。紫式部は好色の物語『源氏物語』を書いたが、彼女自身、好色の実践者ではなかった。その点、和泉式部は見事なまでに好色の実践者だった。女性として好色の実践者であるためには、美しい肉体を持ち、自らも恋に夢中になるとともに、男を夢中にさせる能力が必要だろう。
『和泉式部日記』は、彼女がどのように帥宮敦道(そちのみや あつみち)親王を彼女に夢中にさせたかの克明な記録だといってもいい。敦道親王は冷泉天皇の第四皇子だが、母は関白・藤原兼家の長女・超子で、優雅な風貌を持ち、時の権力者・藤原道長が密かに皇位継承者として期待を懸けていた親王だった。
『和泉式部日記』はこの敦道親王が、その兄の故弾正宮為尊(だんじょうのみや ためたか)親王が使っていた童子を使いに立てて和泉式部に手紙を届けるところから始まる。和泉式部は為尊親王の恋人だったが、親王は式部らへの「夜歩き」がたたって、疫病にかかって死んだ。
その亡き兄の恋人で、好色の噂が高い和泉式部に好奇心を抱いたのだろう。こうして二人の間にはたちまちにして男女の関係ができ、やがて天性のものと思われる彼女の絶妙の手練手管によって、親王は遂に彼女の恋の虜となる。親王は、一晩でも男性なくして夜を過ごせぬ多情な彼女が心配で、和泉式部を自分の邸に引き取るのだ。だが、このことでプライドを大きく傷つけられた親王の正室が家出してしまうのだ。
一夫多妻制の当時のことだけに、男性が同時に何人の女性と恋愛関係を持とうが、それは誰からも非難されるところではなかったが、女性の立場からみれば複雑だ。夫が外で恋愛関係を持った女性を自分の邸に引き取ることは、正室の女性にはショックで、それが家柄のいい女性の場合、やはり耐え難いことだったに違いない。
『和泉式部日記』は親王の北の方(正室)が親王のつれない仕打ちに耐え切れず、親王の邸を出るところで終わる。和泉式部は完全な恋の勝利者になったわけだ。『栄華物語』は、世間を全くはばからない二人の大胆な恋のありさまを綴っている。衆知となった二人の恋も長くは続かず、敦道親王はわずか27歳で死んだ。和泉式部は30歳前後だったと思われる。
当時、和歌に秀でていることは男性の場合、出世に大きく関わる才能でさえあった。天皇や高級官僚が主催する歌合(うたあわせ)では、その和歌の優劣が、その人の評価=出世につながることさえあったのだ。女性の場合も、今日のように外でデートできない時代のことだけに、和歌に対する素養や表現の仕方ひとつで、男性の心をわし掴みにすることもできたのだ。もっといえば、和歌の世界なら身分の差は関係なく、男女は五分五分だったのだ。
和泉式部は生没年不詳。越前守、大江雅致の娘。996年(長徳2年)、19歳ぐらいでかなり年上の和泉守・橘道貞と結婚。夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。夫道貞との婚姻は、為尊親王との熱愛が喧伝されたことで、身分の違いの恋だとして親から勘当され、破綻したが、彼との間にもうけた娘、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。
1008〜1011年、一条天皇の中宮、藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父、藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。恋愛遍歴が多く、道長から“浮かれ女”と評された。真情にあふれる作風は恋歌・哀傷歌などに最もよく表され、ことに恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人、藤原公任にも賞賛され、男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。
1025年(万寿2年)、娘の小式部内侍が死去した折には、まだ生存していたが、晩年の詳細は分からない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。 
道綱の母 

 

当時の一代の王者、藤原兼家の私生活を暴露したマダム
『蜻蛉日記』の筆者。伊勢守(後に陸奥守)藤原倫寧(ともやす)の娘だが、彼女の名前は分からない。生没年は935〜995頃。王朝三美人の一人といわれているが、肖像画が残っているわけではないので確認できない。右大将道綱の母、とだけ呼ばれている。それでもここで取り上げたのは彼女が、今日では珍しくもないが、当時の最高権力者、一代の王者、摂政・藤原兼家との二十余年にわたる私生活を暴露した「勇気ある先駆者」だからだ。
彼女自身語っている。現代風に意訳すると「私は身分違いの相手に想われ、いわゆる玉の輿に乗ったおんなである。そういう結婚を選び取ったものが、どのような運命をたどったか、その点に興味を持つ読者にも、この日記体の文章は一つの答えを提供するかも知れない」と。
道綱の母は、ただ、きれいごとの王朝貴族ではなく、図々しくて不誠実で、浮気で…と、その私行を余すことなく暴いている。しかし、暴かれた兼家の立場にたてば、まったくたまったものではなかったろう。それにしても、執筆し続けた彼女のすさまじい執念には恐れ入るばかりだ。
今日では、スターと別れた彼女が、」そのスターの素顔を好意的に、あるいはおとしめるために手記を書き、マスコミで取り上げられベストセラーになることはよくあることだが、当時は新聞も週刊誌もなかったから、彼女がいくら書いても1円の原稿料も入ってくることはなかった。それにもかかわらず、彼女は書きまくった。一代の王者として、もてはやされているその男が、彼女にとって、いかにひどい男だったかを、世間に知らしめるために。
天暦8年(954)、藤原兼家の度々の求婚を承諾し、19歳で妻となる。兼家は26歳。この時、兼家には時姫という正妻があり、長男道隆もすでに生まれていた。翌年夏、道綱を産む。道綱が生まれると兼家の足は自然に遠のき、さらに次々に愛人が現れる。この間、嫉妬に悩み、満たされぬ愛を嘆き続けた。また、期待を懸けた道綱は、時姫の子、道隆、道兼、道長らが後に政権を取ったのにひきかえ、たいした出世をしなかった。それは、ひとえに両家の格の違いによるものだった。
『蜻蛉日記』は、約20年間の一人の女の愛情の記録で、36歳の頃から書き始め、4年かけて976年頃にできあがったといわれている。冒頭に「そらごとではなく、自らの身の上を後世に伝えよう」という意図が語られている。二人の交際は、兼家がラブレター(和歌)を寄こすところから始まる。当時彼は、役どころは高くなかったが、ともかくも右大臣家の御曹司だ。彼女の父は、いわゆる受領−中級官吏だから、願ってもない縁談だった。
それだけに周りは大騒ぎするが、彼女は「使ってある紙も、たいしたこともないし、それにあきれるほどの悪筆だった!」と冷然と書いている。これでは、未来の王者も全く形無しだ。それでも兼家はせっせとラブレター(和歌)を送り続ける。いかにあなたに恋い焦がれているか−と。そして、どうせ本気じゃなんいでしょう?−という返歌を書く。これを繰り返して、やがて二人が結ばれる。当時としては結婚の標準コースだ。
兼家は彼女を手に入れると少しずつ足が遠のき始め、やがて彼女が身ごもり、男の子を産むが、その直後、彼女は夫がほかの女に宛てた恋文を発見。勝ち気でプライドの高い彼女は、この日から激しい嫉妬にさいなまれ始める。その後も兼家と顔を合わせれば、わざと冷たくしたり、彼女の気持ちはこじれるばかり。既述した通り、兼家はもともと移り気で浮気症だったらしく、次から次と女の噂が伝わってきて、彼女の心は休まるひまがない。
『蜻蛉日記』にはこうした心境、屈折感を余すところなく書き連ねている。立場を変えてみると、言い訳を言ったり、ご機嫌を取ったり、汗だくの奮戦に努める兼家が気の毒になってくるほどだ。これだけ書けば、妻といえども、夫に嫌われることだけは間違いないだろう。
これにひきかえ、兼家の正妻、時姫は優秀な子らの母として、押しも押されもせぬ足場を確立していた。兼家はその時姫の産んだ娘や息子を手駒に使って、政敵を打倒していった。時姫は、結局はそれが子らの幸福につながると信じ、権力闘争の苛酷さを理解して、黙々と夫の後についていくタイプだった。したがって、家庭内に波風は立たず、子供らは存分に、それぞれの個性を伸ばせたのではないだろうか。
だが時姫は、夫が独走態勢に入り、これから頂点(=摂政)に登り詰めようとする直前に世を去った。そして、時姫の他界から10年後、勝者の満足をかみ締めながら、兼家も永眠した。通綱の母は、さらにそれから5年後に亡くなるわけで、三人の中では最も長生きしたことになる。 
檀林皇后 

 

橘氏出身で唯一の皇后、仁明天皇、淳和天皇の皇后の生母
檀林(だんりん)皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)は、もともと嵯峨天皇の十指にも余る妃の一人に過ぎなかった。ところが、皇后の桓武天皇の皇女の高津内親王が早く逝去したことで、彼女の運命が大きく変わることになった。姻戚の藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は、冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった)らの後押しで立后。橘氏出身としては最初で最後の皇后となった。嵯峨天皇薨去の後、京都嵯峨野に檀林寺というわが国最初の禅院を営んだので、その寺名にちなみ檀林皇后と呼ばれた。
橘嘉智子(たちばなのかちこ)は橘奈良麻呂の孫、橘清友の娘。母は贈正一位田口氏。生没年は786年(延暦5年)〜850年(嘉祥3年)。嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王)・正子内親王(淳和天皇皇后)ほか二男五女をもうけた。嵯峨上皇の崩御後も太皇太后として隠然たる勢力を持ち、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるために「承和の変」も深く関わったといわれる。そのため、廃太子恒貞親王の実母の娘の正子内親王は、嘉智子を深く恨んだといわれる。
彼女の父の橘清友は橘諸兄の孫という歴とした血筋だ。諸兄は敏達天皇五世の孫、光明皇后の異父兄、初め、葛城王と称したが、臣籍に降って橘の家を興こした。藤原四兄弟が相次いで死亡した後、左大臣として国政にあたり、花の天平時代を築いた。その子、奈良麻呂は藤原仲麻呂(恵美押勝)を除かんとして破れ獄死したが、橘氏は藤原氏と並び称せられる家柄だった。橘逸勢は嘉智子のいとこ。
嘉智子は稀に見る美人だった。奈良の法華寺の十一面観音立像は光明皇后をモデルにしたものといわれているが、一説では嘉智子=檀林皇后をモデルにしたものともいう。嘉智子は、朝廷に対する罪人との烙印を押された祖父・奈良麻呂の汚名返上と繁栄を願う、橘氏一族の期待の星だったのだ。それだけに、嘉智子の人生は輝かしい栄華の一方で、周辺を巻き込みつつ、血塗られた政略に満ちあふれたものでもあった。
檀林寺は現在の野々宮から天竜寺に及ぶ一帯を占めた広大な寺院だったというが、消失してしまい現在、嵯峨野の祇王寺に近い東側に再建されている。昭和40年代の初めに造られたもので、新しいものだが檀林皇后時代の遺物がよく保存されている。
奈良朝から中世へかけて天皇家の権威の下に、その門流が繁栄を極めた名族として「源平藤橘」が挙げられる。源氏、平氏はかなり後の平安時代後期に登場する氏族。藤橘の藤は周知の通り、南家、北家、式家、京家の四家に分かれて勢力を競い合った藤原氏であり、橘は檀林皇后すなわち嘉智子の出自の橘氏だ。橘氏は周知の通り藤原氏北家と結び、奈良時代末期から平安時代前期をリードして、人臣その位を極めるエリートとなった。 
小野小町 

 

六歌仙の一人で平安前期を代表する女流歌人
小野小町は平安前期9世紀頃を代表する女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。生没年は809年(大同4年)ごろ〜901年(延喜元年)。ただ、詳しい系譜は不明だ。系図集「尊卑分脈」によると、出羽郡司小野良真(小野篁の息子とされる人物。他の史記には全く見当たらない)の娘とされている。しかし、小野篁の孫とするならば、彼の生没年を考え合わせると、上記の年代が合わないのだ。
「小町」は本名ではない。通称だ。「町」とはもともと仕切られた区画という意味。したがって、後宮に仕える女性だったことは間違いない。仁明天皇の更衣で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説が多いが、それらは小野小町がその時代の人物である在原業平や文屋康秀と和歌の贈答をしているためだ。しかし、それ以上、詳細のことは分からない。
小野小町は非常に有名だ。歴史には疎いという人でも名前だけは知っている。そして絶世の美人だったという。だが、確かな証拠は全くない。ただ伝説として有名な話がある。小野小町に深草少将という貴族が惚れて「おれの女になれ」と迫った。そこで、小野小町は「百日百夜私のもとに通って来てください。そうしたらいうことを聞きましょう」と答えたので、深草少将は毎日毎晩、風の日も嵐の日も通ったという。そして、99日目に疲労のあまり死んでしまった。現代風に表現すれば、さしずめ過労死してしまったというところだ。
この伝説は何を物語っているのか。小野小町は、男に従うような素振りを見せて、結局死ぬほどひどい目に遭わせた、とんでもない女だというわけだが、逆に男に99晩も通わせるほど魅力のある女だったということだろう。
歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉・柔軟艶麗だ。「古今和歌集」序文において、紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に
などの歌はよく知られているところだ。
生まれには多数の説がある。秋田県湯沢市小野という説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、茨城県新治郡新治村大字小野とする地元の言い伝えなど、生誕伝説のある地域は全国に点在している。京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。栃木県下都賀郡岩舟町小野寺には小野小町の墓などがある。福島県喜多方市高郷町には小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野小町の供養等がある。 
源平の戦いの中の女性

 

さて、平安時代というのは基本的には桓武天皇が都を平安京に移した794年から源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年までの約400年間を言う訳ですが、前半の終わり頃と後半の終わり頃に大きな戦役が起きています。前半の終わり頃の戦役が平将門の乱・藤原純友の乱(939)で、後半の終わり頃の戦役が保元の乱(1156)と平治の乱(1159)です。道長・頼通による最も繁栄した時代は1016-1068で、丁度後半の初め頃ということになります。前半の初め頃は彼ら藤原家による摂政ではなく、桓武・嵯峨などの名君による天皇親政が行なわれていました。 
さて、平安時代の後半、頼通亡き後の藤原家には彼らほど優秀な人材が出なかった為、白河天皇はこれを機に権力を天皇家に取り戻そうと、院政を始めます。白河上皇亡き後もこの制度は鳥羽上皇により引き継がれますが、この院政の間、天皇は院に対して文句を言えないように幼帝が常識となり、成人すると退位させられるという変なやり方がまかり通ってしまい、退位させられる側の天皇としては不満やるかたないものでした。その不満が鳥羽上皇が亡くなると一気に爆発し、保元の乱が起きます。 
これは後白河天皇と崇徳上皇、藤原忠通と藤原頼長という、天皇家と藤原家のそれぞれの内部の争いが結びついて軍事衝突に発展したものですが、後白河天皇・藤原忠通側が勝って、藤原頼長は戦死、崇徳上皇は四国に流罪(後暗殺)になります。そしてこの乱をきっかけに、桓武平氏・清和源氏という二大武士団に代表される武士が政治的対立の重要な解決手段として台頭して来るのです。 
そして次の段階としては、この平氏・源氏の両者で主導権争いが表面化、それが平治の乱として爆発します。これに勝った平氏は大きな政治的力を持つようになり、特に平氏のリーダーである平清盛は、自分の妻の妹や娘を天皇に嫁がせ、外戚となるのに成功して、権威低下の甚だしい藤原家に代って、天下に号令する立場になります。 
さて、平治の乱に敗れた源氏側は主要な者はほとんど斬られたのですが、清盛の情けにより、幼い頼朝や身分が低く問題になるまいと思われた義経や義仲などは命を救われます。しかし、この情けが平氏にとってはあだとなりました。 
成人した頼朝は彼の妻である平氏傍系の北条政子の父時政の協力を得て蜂起、これに義仲も呼応、義経はすぐに頼朝に合流して知将として大活躍、彼らの力によって、平氏は一転して都を追われる立場になります。しかし義経の追及は厳しく、一の谷の合戦、屋島の合戦、そして壇の浦の合戦と相次いで撃破、平氏一門は彼らの象徴たる平清盛の孫・安徳天皇とともに関門海峡に消えました。 
この歴史の流れの中で、清盛の妻が平家の本家堂上平家の娘である平時子(二位の尼)。その妹が平滋子(建春門院)で、後白河上皇の女御となり高倉天皇を産みました。そして、清盛と時子の間の娘が平徳子(建礼門院)で、彼女は高倉天皇の皇后になり、安徳天皇を産みました。 
時子・滋子の姉妹は対照的な性格・容貌で、美人で上品な滋子に対して、時子は目立たない娘で、平家の中でも彼女らの家からは格下の家の清盛がかしこみながらプロポーズに行った時、彼女らの父時信はてっきり滋子をもらいに来たのかと思い、あの娘はお前ごときにはやれないと言ったといわれます。 
しかし、父からあまり大事にしてもらえなかった時子の方は清盛の妻として、激動の時代の彼を支え、彼の一族地下平家が本家の堂上平家以上にビッグになっていくのを見つめます。そして清盛の死後は平家全体の没落をも見ることになり、最後は安徳天皇を抱いて壇の浦に沈むのです。 
これに対して、妹の滋子の方は若死にしたため、平家の没落を見ることなく、幸せな祝福された生涯を送ることができました。もっとも時子の生涯と滋子の生涯のどちらがより「いい」かはその人の価値観によるでしょう。 
さて、一番世の同情を引くのは、時子の娘徳子です。彼女も壇の浦で水に入りますが、飛び込んだ瞬間衣服に源氏方の矢がささり、その為に沈むことができずに助けられ、その後、大原の寂光院で余生を送ることになります。 
壇の浦の合戦が31歳の時。それまでの幸せな生活から一転して、戦いの中に不自由な生活をする羽目になり、天皇の母という立場だったのがその幼帝は自分の母とともにあの世に先に行ってしまい、自分だけが助けられて28年間、ほんとうに寂しい生涯を送るのです。壇の浦の合戦の翌年、彼女を気づかって訪れた後白河法王の前で彼女は涙が止まらなかったといいます。 
この建礼門院の侍女に横笛がいました。彼女は平家一門の武士斎藤時頼に愛されますが、後に彼が出家して滝口入道となってから彼のもとを訪れると、修行の妨げだと言われて追い返されてしまいます。しかし現在京都・嵯峨野の滝口寺にはこの二人の像が並んで安置してあります。 
また嵯峨野のこの滝口寺のそばにはもうひとつ平家ゆかりの祇王寺があります。祇王は清盛に愛された白拍子ですが、彼女が仏御前という別の白拍子を推薦したところ、清盛は彼女を愛するようになり、祇王は捨てられてしまいました。その為、祇王は妹の祇女、および母とともに三人で尼になり、この地に小さな庵を結ぶのです。そこへやがて彼女に対する罪悪感にさいなまれた仏御前も、自分も仲間に入れて下さいと言って訪れ加わりました。現在はこの4人の像とともに平清盛の像も安置されています。 
さて、これらの平家方に対して、源氏方の女性も波乱に富んだ人生を送ることになった人たちがたくさんいました。 
義仲の妻の巴御前は武術に長けた女性でした。彼女は夫が木曾の地で蜂起して以来、付き従って、数々の武勲を立てます。義仲は平家を都から追出した所まではよかったのですが、彼の軍隊は都の中で略奪を行ない、京都の庶民の反感を買います。その為、頼朝としては彼を除かざるを得なくなり、義経に義仲打倒を命じることになります。この義経軍との戦いの中でも巴御前は大活躍しましたが、名将義経の前には歯が立たず義仲は戦死、巴御前は越後の地に逃れて尼となり余生を送っています。 
さて、その義経自身も類希な戦いのセンスにより平家を滅亡に追いやりますが、彼の力を恐れた頼朝から追われる立場になります。彼の愛妾として有名なのが静御前でした。彼女は白拍子の出身で、若き義経とともにあり、頼朝から追われるようになっても最初は一緒に逃げていたのですが、やがて吉野山まで来た時、これ以上厳しい逃避行には耐えられないのではないかと判断した義経が、佐藤忠信(「狐忠信」で狐が化けた人)を付けて彼女を別経路で逃そうとします。 
しかし二人は見つかり、忠信は斬られ、静御前は鎌倉へ連行されます。彼女を何とか助けたいと考えた頼朝の妻・北条政子は、頼朝を懐柔する為、静御前に舞を頼朝の前で踊るように勧めますが、静は自分は義経の妾であり、もう白拍子などではないというプライドから何度も拒否します。しかし捕らわれの身でそうそう抵抗も効かず、鶴岡八幡宮で美しい舞を披露するのです。時に1186年4月8日のことです。(「静の舞」)見事な舞でした。 
しかし、この時、彼女は妊娠していることを頼朝に知られてしまいます。頼朝は彼女を殺そうとしますが、政子の説得で、彼女が産んだ子が男の子であればその子は殺し、女の子であれば助ける、静は出産後釈き放つということで折れます。3ヶ月ほどの重苦しい日々の後静は子供を産みます。男の子でした。 
赤ん坊は殺され、静は母に付き添われて四国の地に行き、二人して尼になって余生を送りました。彼女が鶴岡八幡で舞を舞った時に詠んだ歌が残っています。 
吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき 
しづやしづ しづのをだまき 繰返し 昔を今に なすよしもがな
丹後局 

 

夫の死後、後白河法皇の愛人となり時の政治を動かした女性
丹後局は後白河法皇の愛人で、寝ワザを利かせて時の政治を動かしたという意味で楊貴妃と対比される女性だ。それも、40歳を過ぎてから実力を発揮し始めたという。果たして何が彼女をそう変えたのか?
結婚前の名が高階栄子。高階家は受領で、はじめ後白河法皇の側近・平業房に嫁ぎ、5人の子供を産み40歳頃まではごく平凡な母親だった。例えば夫の業房が後白河院を自宅に招待したときなど、下級官吏の夫に目をかけてもらおうと一所懸命、接待に努めた気配がある。
治承3年(1179)、平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した事件で、後白河法皇の側近だった夫・業房が捕えられ伊豆に流される途中、逃亡したが捕えられ殺される。栄子はこれを機に後白河院に接近する。彼女は鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇に仕えることを許され、丹後局と称するようになる。その後、後白河法皇の愛を受けて覲子(きんし=宣陽門院)を産んだ。
以後、復帰した後白河法皇を後ろ楯に政治に参加、院政という個人プレーの取りやすい政治体制の中で権勢をほしいままにした。清盛が亡くなった後の平家が安徳天皇を奉じて都落ちしたあと、後鳥羽天皇を推挙擁立したと伝えられているのをはじめ、政治、人事にことごとく口を出し、その美貌と相まって、当時の人々は丹後局を楊貴妃と対比した。
後白河院はいろいろな女性に子供をたくさん産ませているが、本当に愛した女性は建春門院と丹後局ぐらいといわれる。かなり好き嫌いのはっきりした人だったようだ。楊貴妃に擬せられているが、残されている文献・記録には丹後局が美人だったとはどこにも書かれていない。ただ、非常に好みの強い後白河院が終生、丹後局をそばにおいたということは、よほど魅かれるものがあったのだろう。正式の皇后はいるのに、全然名前が出てこないのだから。
いずれにしても後白河院を後ろ楯に、院との間にできた娘を格上げして門院にしてしまう。門院は普通の内親王と違い、役所と財産権がつく位だ。本来は天皇を産んだ人しかなれない、それを彼女自身、身分が低く女御でもないので娘も位が低いのに、強引に門院に押し込んでしまったのだ。娘が門院になると、丹後局はその母親ということで二位をもらう。また、彼女の口利きで出世した身内の人たちは少なくない。その他、様々に政治にタッチしていたことが分かっている。まさに、やりたい放題、公私混同もいいところだ。
それにしても、どうしてこれだけ無茶なことができたのか?それは「院政」という政治形態に尽きる。現代風に言えば院は代表権つきの会長で、これに対し天皇はサラリーマン社長で、ほとんど実権がない。天皇の上に“治天の君”がいるのだ。それが院で、本当の権力者だ。しかも、官僚機構が発達していない。非常にプライベートな形で権力が振るえる。だからこそ、丹後局は働けたのだ。だが、これだけ好き放題やった女傑も後白河法皇の死後は、すっかりにらみが利かなくなり、法王の廟を建てるよう進言しても政治の実権者になった後鳥羽上皇は耳を貸さなかった。
歴史に「…たら」「…れば」をいっても仕方がないが、清盛のあのクーデターがなければ丹後局という女性が現れることなく、下級貴族、平業房の奥さんで終わっていただろうに…。  
建礼門院徳子 

 

安徳天皇の国母で平家滅亡後、一門の菩提弔う
建礼門院徳子は、平家の天下を一代で築き上げた太政大臣・平清盛と、桓武平氏の宗家(堂上平氏)の娘・平時子(清盛の死後の二位の尼)の間の娘(次女)で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母だ。壇ノ浦で源氏との戦いに敗れ平家一門は滅亡し、母の二位の尼や安徳天皇は入水。ところが、徳子は生き残り京へ送還され、尼になり、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えた。59歳だった。
保元の乱、平治の乱に勝利して、武家(軍事貴族)ながら朝廷内で大きな力を持つようになり、平氏政権を形成した父の清盛の意思で、藤原氏と同様、天皇の外戚となるため、1171年(承安元年)17歳の徳子は11歳の高倉天皇のもとに入内、中宮となった。清盛は徳子のほかに8人の娘があったが、いずれも権門勢家に嫁がせて勢力を強めていった。入内7年後の1178年(治承2年)24歳になった徳子は安徳天皇を産み、国母と称された。
清盛は皇子降誕を心待ちにしていたが、皇子が誕生すると今度は早く即位させようと躍起になった。一方、後白河院は自身退位後、二条天皇、六条天皇を立てて傀儡化し、強大な力で院政を敷いていた。しかし、この院政も次第に平氏の台頭により大きな制約を受けることになった。
1179年(治承3年)、清盛はクーデターを断行し高倉天皇の父、後白河法皇の院政にとどめを刺し、天皇は譲位し上皇となり、安徳天皇はわずか3歳にして即位した。しかし、実父の後白河法皇と岳父、清盛との確執や福原への遷都、平氏による東大寺焼き討ちなどが続き、こうした心労が重なって、高倉上皇は病床に伏し1181年(養和元年)、21歳の若さでこの世を去ってしまう。
その後、建礼門院徳子は源氏に追われ都落ちする平家一門とともに生きながら、数々の苦しみを経験する。壇ノ浦では硯石や焼石(カイロ代わりの石)を懐に詰めて後を追うが、そばの船にいた源氏の武者に熊手で髪をからめられ、助けられる。源氏に捕われの身となってから、髪を落として、京都の大原にある寂光院に隠棲した。1186年、後白河法皇の大原御幸があり、法皇と親しく対面。この後、それまでの波乱万丈の生涯とはうって変わって、ひたすら平家一門の菩提を弔う静かな生活を続けたといわれる。
それにしてもこの徳子、周知の通り悲劇のヒロインとして人気がある。清盛の野望の犠牲者とも考えられるが、ほとんど何も自分ではせず、自分の意思というものがあったのかどうか分からない。結婚生活をみても、子づくりには執着せず、成長した高倉天皇が他の女性に子供をつくってしまう。最初の相手は30歳の乳母で、次が小督局。驚くことに小督を天皇に薦めたのは徳子だといわれている。自分の夫が他の女性と浮気し、子供をつくっても平気だとは、とても考えられない話だ。高倉天皇が亡くなったときも徳子は嘆き悲しんだ様子がうかがわれない。彼女には愛というものが希薄だったことは間違いない。 
右京大夫 

 

私家集で二人の男性との恋を公表した文学者
正式には、建礼門院右京大夫はその名の通り、後白河法皇の子・高倉天皇の中宮、建礼門院平徳子に右京大夫として仕えた女性だが、終生、建礼門院徳子の側に仕えていたわけではない。そして彼女の本性は、「建礼門院右京大夫集」の私家集に表れている。当時、隆盛の平家一門の貴公子、平資盛、そして歌人・画家として有名な藤原隆信という二人の男との恋に生きた、情熱的な文学者だった。
右京大夫は1157年(保元2年)頃に生まれ、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての活躍し、1233年ごろ没。父は藤原伊行、母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。1173年(承安3年)、高倉天皇の中宮、建礼門院徳子に右京大夫として出仕。しかし、中宮の甥・平資盛との恋や平家一門の没落などもあって、6年足らずで辞している。そして資盛の死後、供養の旅に出たという。
傷心が癒えたものか、1195年(建久6年)頃、後鳥羽上皇に再び出仕、その生母、七条院と合わせ20年以上仕えた。建礼門院のもとを辞してから再出仕するまでの16年ほどの間、彼女は私家集に収められた歌を詠み、恋の追憶に浸っていたということなのだろう。
彼女の私家集「建礼門院右京大夫集」は鎌倉時代初期に成立した歌数約360首を収めた作品。前半は源平の戦乱が起こる以前、1174年(承安4年)のできごとに起筆。中宮のめでたさや平家の栄華を讃えながら、年下の貴公子、平資盛との恋愛を主軸に据え、花をめで、月を愛し、優雅な歌を交わす耽美的な生活を描く。また、歌人・画家として有名な藤原隆信とも交渉を持った経過を述べている。
後半は耽美的な生活が突然崩れ、1183年(寿永2年)、一門とともに都落ちする資盛との別離に始まる。この運命の変化を彼女は、「寿永元暦などの頃の世のさわぎは、夢ともまぼろしとも、あはれともなにとも、すべてすべていふべききはにもなかりしかば、よろづいかなりしとだに思ひわかれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ、今までもおぼゆる」 と表現する。
それは「夢とも幻とも、哀れとも何とも言うべき言葉もないありさまであり、どうなっていくのか分からない、思い出したくもないこと」だった。彼女は夢とも幻とも言えないと表現するが、それは夢でも幻でもなく、まさに現実そのものだった。 
源氏との戦いに敗れた平家の滅亡に殉じて、資盛が壇ノ浦の海の藻屑と消えた後、ひたすらその追憶に生きた日々を描いている。
現代風に表現すれば、これはまさに大評判を呼ぶ“告白本”といえよう。 
恵信尼 

 

苦労を一身に背負い込み、親鸞の布教を支えた糟糠の妻
恵信尼は浄土真宗の開祖・親鸞の妻。越後の豪族、三善氏の出。寿永元年(1182)誕生。建仁元年(1201)、親鸞との結婚生活に入る。確実な文献・記録はないが、残されている恵信尼の手紙などからみると、越後のような交通不便で文化の低いところでは不可能なほど高い教養を身につけていたのは、越後に九条家の荘園があって、それを管理していたのが三善氏という関係から考えて、京の関白・九条兼実の屋敷に上がっていたためと思われる。
親鸞は戒を破って妻帯を公にした最初の僧だけに、非難中傷も多く、その結婚生活は苦難の連続だったと想像される。親鸞はおのれを語らなかった人で、史料は極めて少ない。その死後、恵信尼が娘の覚信尼に送った手紙十通が、大正10年に本願寺の宝蔵から発見されるまでは恵信尼はもちろん、親鸞の存在さえ長い間、疑問視されていた。ただ、それでも不明な点は依然として多い。
親鸞と恵信尼の二人が知り合ったのが京都か越後か?ここでは流罪以前の京都説を取ったが、不詳だ。承元元年(1207)親鸞は越後の国府に流罪とされる。恵信尼は越後で一子をもうけ以後、流罪がとけた親鸞とともに、建保2年(1214)常陸国に移住、さらに数人の子をもうけた。親鸞・恵信尼一家は先妻の子、善鸞をはじめ、印信、明信、道性、覚信尼、小黒女房、高野禅尼の四男三女の七人までは確認されているが、それ以外にもいたという説もある。親鸞が寺を持たない主義だったから、恵信尼の苦労は並大抵のものではなかった。食うや食わずの生活が一生続いた。あまりの貧乏で使用人が逃げ出すほどの生活だった。
最後に許されて京に戻ってからも、食えなくて何人かの子供が越後に移り、続いて恵信尼も夫や末娘の覚信尼と別れて越後・国府に戻らなければならなかった。親鸞82歳、恵信尼72歳のことだ。関東時代の弟子がお金を送ってきたといっても一家の生活を支えるには足りなかったようだ。その点、越後には三善家の相続財産である家や土地の管理などの問題もあるからではなかったか。ただ越後に帰ってからも、着るものもろくになかったようだ。
とはいえ、恵信尼は決して厭世的になることも、卑屈になることもない。京にいる覚信尼から着物を送ってもらって大変喜んで、「死出の旅の着物にする」と手紙を書いている。このときはもう80歳を過ぎている。貧窮の中でも、いつまでも女らしさを忘れない、とてもかわいい女性だった。家庭的な苦労をいっさい引き受けて、陰で夫の布教活動を支えた。そのうえ健康で、最後の子供を産んだのは42〜43歳というバイタリティーのある人だったのだ。
悲しみを誘うのは食べていけなくて、京の親鸞と別れて越後に帰ったまま、恵信尼は二度と夫に会うことがなかったという点だ。越後で親鸞の死の知らせが届いたとき、心を静めてから娘・覚信尼に宛てた手紙がある。痛切な、心に響きわたるような文面だ。
恵信尼は晩年14〜15年を越後で過ごし、親鸞の死後6年間存命、87歳で亡くなった。残された彼女の手紙の中で、87歳のときのものが最後だから、亡くなるその歳まで手紙を書いた、かくしゃくとした女性だった。 
北条政子

 

さて、前回源平の争いの中に見え隠れした女性たちを追ったのですが、その中でも北条政子は別格で取り上げるべきでしょうから、稿を改めました。 
彼女は北条時政の娘で、源頼朝の妻となり、頼家・実朝を産みます。彼女が前回取り上げた女性たちとは別格なのは、彼女が夫や息子たちの意図を飛び越えて、自分のなすべきことをなしとげて行ったからです。 
北条家は平家の一門ですが、源平の最終戦においては、頼朝の保護者であったことから、源氏側として戦います。そして鎌倉幕府成立後は執権という立場になり、形骸化した将軍を差し置いて、日本の支配者になるのです。ということで源平の争いの最終勝者は実は平氏だった訳です。 
それはさておき、北条政子は頼朝が生きている間も積極的に政治的問題に介入しましたが、実力を発揮するのは、やはり頼朝の死後です。 
平家を倒し、弟の義経も倒して敵のいなくなった源頼朝は征夷大将軍の職名をもらい、政子の父の北条時政や、有能な官吏である大江広元らを中心に政治組織である幕府を編成、武家政治の基本構造を作りますが、馬から落ちてあっけなく死んでしまいます。 
そこで頼朝の長男の頼家が将軍職を継ぐのですが、彼はいたって無能な人物でした。その為、早々に北条政子は父の時政にも協力してもらい、政治の実権を将軍から奪い、幕府の色々な決裁に関しては政子が判断するような体制を整えます。これに対して、どうにも無能な頼家は、対抗処置を取るような根性も無く、同じように無能な仲間を集めて騒いだり部下の妻を強奪したりして、ひんしゅくを買い、最後は何かとうるさい母と祖父を除こうとします。が、むろん逆に捕らえられ、殺されます。(比企能員の変) そして将軍職は弟の実朝が引き継ぎます。 
ところが、頼家の息子公暁が実朝を父の仇と狙い、鶴岡八幡宮に参拝に来た所をふい打ちして暗殺してしまいます。むろん公暁は護衛の武士にその場で殺されますが、頼朝の血統はあっという間に消えてしまいました。 
ここで北条政子は将軍不在のまま、頼朝の妻であるからには幕府の長であるとして武士たちの上に君臨し、頼朝がやり残した幕府の職制の整備を行ないました。そして続いて起きた後鳥羽上皇による承久の変においては、御家人たちをカリスマ的な説得力で味方につけて上皇軍を打ち破り、鎌倉幕府の基礎を固めたのです。この為、彼女は「尼将軍」と呼ばれ、非常に尊敬されました。 
北条政子が晩年心の拠り所としたのは、頼家の娘の竹御所でした。彼女は国のために自分の息子の頼家の殺害を命じるのですが、それ故に息子の忘れ形見の彼女を宝物のように大事に育てていました。 
そして北条政子の死後、やはり将軍を誰か立てなければならない、ということになった時、頼朝の姪の孫の当たる九条頼経が京都から呼ばれ将軍になりますが、竹の御所がその妻になりました。彼女がもし子供を産んでいたら将軍家の血統は一応頼朝の直系で続いて行っていたところなのですが、頼経の子を身篭るも、子供は死産・自らもそのお産で死ぬという非運に見舞われます。この結果、将軍職はその後、源氏とはゆかりもない天皇家の親王から迎え入れることになります。 
結果、幕府の実権は将軍ではなく北条家のものが執権の名で掌握する体制になっていきます。また考えてみると、そもそも北条政子が頼朝と結婚していなかったら、源氏の蜂起に北条一族が協力することもなく、頼朝はあえなく倒されていたでしょうから、北条政子こそ、鎌倉幕府を作った人と言ってもいいかも知れません。
北条政子2 
このわかりきったことを頼朝は改めて、「天下草創の時」と言ったのは、京都にある公家政権(朝廷)とは別に、「武士の・武士による・武士のための政府」を創設したという意気込みを物語る。しかしだからといって、京都の朝廷を否定したわけではない。頼朝は、朝廷を主宰していた後白河法皇とは連携を密にし、法皇のことを、「日本一の大天狗(策謀家)」とからかいながらも、いわば政権の併存状況を保っていた。京都と鎌倉の完全な"二元政治"を実現した。しかし頼朝は東国武士を主体に、次第に体制を強化していった。 
この時代に生まれた言葉に、「御恩と奉公」あるいは「いざ鎌倉」というのがある。御恩というのは、頼朝が主として東国武士(武士たちは自分たちのことを御家人と呼んだ)の土地所有を保証し、それを給与として与えた。これに対し、「一所懸命の思想(土地を至上の財とする当時の日本人の財産観)」を安堵してくれたので、頼朝に対し、「何かあったときは、すぐ馳せ参じて御恩を返す」という考えをもった。これが「御恩と奉公」だ。そして、ローマのように鎌倉からは放射状に各地に道路がつくられていた。逆にいえば、鎌倉を囲む地域からはすべての道が鎌倉に通じた。これを「鎌倉街道」という。後の東海道や中山道などのように、鎌倉街道は一本ではない。 
「いざ鎌倉」というのは、この鎌倉街道を突っ走って、ことの起こった鎌倉へ駆けつける武士の態度をいう。そしてこのいざ鎌倉も、源頼朝とその子の頼家、その弟の実朝と三代つづく源氏の時代は、将軍家への忠誠心としてあらわれたが、四代目以降は将軍ではなくむしろ執権を務めた北条家のためだった。 
こういう土台をつくったのが、頼朝の妻北条政子である。北条と名乗るように、政子はいまでいえば、「夫婦別姓の祖」といっていい。したがって政子の頼朝へのつくし方は、いわゆる"内助の功"ではない。 
「夫とともに生きるが、あくまでも女性の主体性を保つ」という姿勢である。そして夫の頼朝以上に政子が大事にしたのが、「東国武士の初心・原点」であった。夫の頼朝がなぜ鎌倉に幕府を開いたかといえば、常にこんなことを言っていたからだ。 
「武士が京都に行って長く暮らすと、次第にその生活ぶりが公家化する。やがては武士の初心を失ってしまう。京都は魔の都だ。自分は絶対に京都には拠点をおかない。野深い東国におく」 
政子は全面的に頼朝の考え方を支持した。というよりも、政子のほうが頼朝以上に、「東国武士の精神」をもち、大切に保持していた。 
北条政子は、伊豆国の国府に務める下級役人北条時政の娘として生まれた。それほど学問は深くなかったが、東国武士は平将門以来の伝統を引き継いで、「独立心」が非常に強かった。政子もこの気風をそのまま自分の血の中に流していた。かなり激しい性格だった。当時日本の政治状況は、平家一門が日本全国を支配していた。平清盛を長とする一族が、京都朝廷の地方役人の主だったところをほとんど占めていた。だから表の中には、「平家にあらざれば人にあらず」などと豪語する者もいる始末だった。これに対し、源氏の一部が反乱を企てた。敗れた。青年頼朝もその反乱軍の中にいた。敗れたのち頼朝は生命を助けられ、伊豆に流された。この流人頼朝と政子は恋におちた。治承元(一一七七)年のころだった。時政は怒った。そして、「流人と情を通じるなどもってのほかだ。平家にしられたらエライことになる」と怒って政子を幽閉してしまった。しかし、政子は閉じられた部屋から飛び出し、雨の中を伊豆山にいた頼朝のところへ走った。そして、「事実上の結婚宣言」をおこなった。この娘の行動に、父時政も次第に考え直しはじめた。それは時政自身も、「平家の東国武士の扱いは非情だ。いつまでもイヌのようにシツポを振って従っていても、ろくな目にあわない」と、現実認識を深めたことと、同時に東国武士特有の「独立心(自治精神)」がむくむくと頭をもたげたためである。
北条政子3 
激情家にして「現実対応」をよくした尼将軍、源頼朝と北条政子
やがて頼朝が急死し、二代目二二代目将軍がそれぞれ若死にすると、頼経が四代目将軍になった。ただし、頼経はまだ幼かったので、政子が後見した。そこで政子は、「尼将軍」と呼ばれた。 
京都の後鳥羽上皇が、平家の残党たちを語らって、「鎌倉幕府打倒」の兵を挙げた。かつて頼朝に従っていた東国の武士たちは動揺した。鎌倉を守るべきか、それとも京都側について鎌倉を攻めるべきか。侃々諤々の騒ぎになった。この時、政子は東国の武士を鎌倉に集め、こう宣言した。 
「あなたがたは、かつて京都でどういう扱いをされたか忘れてしまったのか。あの頃、東国の武士はすべて公家のイヌとして扱われ、雨の日も雪の日も門の外に立たされ、番犬の役割をしていた。しかもその費用は全部自分持ちだった。だから京都からは、ポロポロの着物に、すり切れたワラジひとつで戻ってきた。しかも、任期は三年だった。それをわが夫頼朝公は、期間を半年に縮めたうえ、費用は全部京都持ちにさせた。そのことをお忘れか?もう一度あの惨めな状況に戻りたいのならば、さっさと京都へ行くがよい。しかしその時は、かならずこの政子を殺してから行ってほしい」火を吐くような政子のことばに、東国の武士たちは感動した。  
北条政子4 
愛情過多、壮大な“やきもち”で源家三代の悲劇起こす
北条政子は周知の通り、鎌倉幕府の創立者、源頼朝夫人だ。現代風に表現すれば鎌倉時代のトップレディーのひとりで、夫の死後、尼将軍などと呼ばれて政治の表面に登場するため、権勢欲の権化と見る向きもある。しかし、実際は愚直なほどに愛情過多で、また壮大な“やきもち”によって源家三代の血みどろな家庭悲劇を引き起こす遠因をつくった悪女といえよう。
政子がどれだけやきもちだったか?やきもち劇の始まりは頼朝が政子の妊娠中、伊豆の流人時代から馴染みだった「亀の前」という女性と浮気したときだ。政子はこともあろうに、屈強の侍に命じてその憎むべき相手の亀の前の隠れ家を無残に壊してしまったのだ。鎌倉じゅう大評判になった。ミエや夫の名誉などを考えたら、普通ここまではできない。頼朝は懲りずに第二、第三の情事を繰り返し、その度に政子は狂態を演じることになる。
夫の死後、彼女は長男の頼家を熱愛しようとした。ところが、すでに成人していた頼家は愛妾若狭局に夢中で、母には振り向きもしない。彼女は絶望し、若狭局を憎むようになる。現代も母と嫁の間によくあるケースだ。その後、母と子の心はさらにこじれて、可愛さ余って憎さ百倍、遂に政子は息子頼家と嫁に殺意を抱く…。すべてが終わったとき「私はとんだことをしてしまった」と激しい後悔の念に襲われる。
そこで、政子はせめてもの罪滅ぼしに、頼家の遺していった男の子、公暁を引き取り、可愛がる。父の菩提を弔うために仏門に入れ都で修業もさせるが、やがて手許に引き取り、鶴岡八幡宮の別当(長官)とする。ところが、この孫は祖母の心の痛みなどは分かっていない。父に代わって将軍になった叔父の実朝こそ親の仇と思い込み、遂にこの叔父を殺してしまう。
母と子、叔父と甥、源家三代の血みどろの家庭悲劇を引き起こしたのは、政子の抑制の利かない愛情過多がその一因になっていると言わざるを得ない。もちろん幕府内部の勢力争いもからんでいるが、政子の責任は大きいのだ。
一般に政子を冷たい権力欲の権化、政治好きの尼将軍と見做す向きもある。しかし、彼女は決して冷たい人間でもなければ、政界の手腕家でもない。唯一、承久の変が起こったとき、確かに彼女は鎌倉の将兵を集めて大演説をしている。しかし、これも今日では彼女の弟、策略に長けた稀代の政治家、北条泰時の指示のままに「施政方針演説」を朗読したにすぎない−との見方が有力だ。
こうしてみると、政子の真骨頂は庶民の女らしい激しい愛憎の感情を、歴史の中に残したところにあるといえそうだ。また、その分、女の中にある愛情の“業”の深さを浮き彫りにしたのが政子の生涯だったといえるのではないか。  
後深草院二条 

 

「蜻蛉日記」と双璧の、「とはずがたり」を著す
後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)は後深草上皇に仕えた女房二条
のことで、彼女は鎌倉時代の中後期に五巻五冊からなる「とはずがたり」を著した。
この作品は、誰に問われるでもなく、自分の人生を語るという自伝形式で、後深草院二条の14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇、後深 れている。二条の告白という形だが、ある程度の物語的虚構性も含まれるとみる研究者もいる。1313年ごろまでに成立したとみられる。
二条は出家するにあたり五部の大乗経を写経しようと決意、発願する。「華厳経」60巻、「大集経」26巻、「大品般若経」27巻、「涅槃経」36巻、「法華経」8巻など。有職故実書をみると、合計190巻、料紙4220枚となっており、これ全部を写経するとなると大変な作業だ。
この写経、「とはずがたり」を綴り終わるまでには全部を書写しきれなかったようだが、様々な文献を照合すると、二条はこれをやりきっている。不屈の意志で、霊仏霊社に参拝しては寺社の縁起を聞いて、そのたびに結縁を繰り返すというやり方だ。
例えば、「大品般若経」の初めの20巻は河内の磯長の聖徳太子の廟で奉納して、残りは熊野詣で写経。「華厳経」の残りは熱田神宮で書写して収め、「大集経」は前半は讃岐で、後半は奈良の春日神社で泊まり込んで書写するという具合だ。出家して尼になった二条が、まさに“女西行”になったような趣だ。
ここで、二条が著した傑作「とはずがたり」のあらすじを紹介しておこう。第1巻は、二条が2歳のときに母を亡くし、4歳からは後深草院のもとで育てられ、14歳にして他に慕っている「雪の曙」がいるにもかかわらず、父とも慕ってきた後深草院の寵愛を受ける。後深草院の子を懐妊、ほどなく父が死去。皇子を産む。後ろ楯を亡くしたまま、女房として院に仕え続けるが、雪の曙との関係も続く。雪の曙の女児を産むが、雪の曙は理解を示して、この子を引き取って自分の妻に育てさせる。ほぼ同じ頃、皇子夭逝。
第2巻は二条が18歳になっている。粥杖騒動と贖い。後深草院の弟の亀山院から好意を示される。さらに御室・仁和寺門跡の阿闍梨「有明の月」に迫られ、契りを結ぶ。女樂で祖父の兵部卿・四条隆親と衝突。「近衛大殿」と心ならずも契る。
第3巻では、有明の月の男児を産むが、他所へやる。有明の月が急死。有明の月の第二子を産み、今度は自らも世話をする。御所を退出する。
第4巻はすでに尼になって、出家修行の旅に出ている場面から再開。熱田神宮から、鎌倉、善光寺、浅草へ。八幡宮で後深草法皇に再会。伊勢へ。
第5巻は45歳以降のこと。安芸の厳島神社、讃岐の白峰から坂出の崇徳院御陵、さらに土佐の足摺岬。後深草法皇死去。
登場人物のうち、「二条」は久我雅忠の娘、「雪の曙」は西園寺実兼、「有明の月」の阿闍梨は性助法親王、「近衛大殿」は鷹司兼平とみられる。 
檜皮姫

 

ひわだひめ、寛喜2年-宝治元年(1230-1247) 鎌倉時代中期の北条一門の女性。北条時氏の娘で、母は松下禅尼。鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣の正室。 
檜皮姫の祖父である3代執権北条泰時の死後、19歳の兄北条経時が跡を継ぐと、将軍藤原頼経を中心とした反得宗勢力と執権北条氏との対立が起こる。経時は将軍頼経を解任させ、頼経の子で6歳の藤原頼嗣を新将軍に立てると、翌年の寛元3年(1245年)7月26日、16歳の妹檜皮姫を7歳の新将軍頼嗣の正室として嫁がせた。凶日であるとして反対する周囲を押し切っての輿入れだった。この婚姻成立によって、頼経の正室竹御所の死後に失われた北条氏の将軍家外戚の地位を復活させたのである。 
しかし経時は翌年寛元4年(1246年)に死去し、その弟北条時頼が執権職を継いで将軍派との対立が激化する中、檜皮姫は病床に伏し、加持祈祷の甲斐なく宝治元年(1247年)5月13日、18歳で死去した。宝治合戦の1ヶ月前の事であった。  
葛西殿

 

かさいどの、天福元年-文保元年(1233-1317) 鎌倉時代中期の北条氏一門の女性。葛西禅尼とも。北条重時の長女。鎌倉幕府5代執権北条時頼の正室(継室)。8代執権北条時宗の母。子は他に北条宗政、女子(早世)。 
北条時頼は13歳で毛利季光の娘を正室としたが、宝治合戦で季光が三浦氏側に付いたために離別しており、北条一門の宿老で大叔父にあたる重時の娘を継室として迎えた。「北条氏系図」(浅羽本)に毛利季光の娘を時宗の母とする記述がある事から、時宗の母を毛利季光の娘とする説もあるが、北条重時の13回忌に書かれた極楽寺多宝塔供養願文に重時の娘が時宗を生み育てたとあり、他にも時宗の母を重時の娘とする確かな史料が複数見られる。 
時頼はすでに宝寿丸という男子をもうけていたが庶子であり、正妻から嫡子が生まれる事を強く望んでおり、鶴岡八幡宮に懐妊祈願を行っている。建長2年(1250年)12月、懐妊が明かになると、時頼と重時は安産祈願のために所領や分国での殺生を禁断し、さかんに加持祈祷を行った。この頃、重時の娘と時頼の妾三河局との間に諍いがあったと見られ、父重時は時頼に申し入れて三河局を他所に移させている。建長3年(1251年)5月15日、時頼の母松下禅尼の甘縄邸で時宗を出産。 
建長5年(1253年)正月28日には宗政、翌建長6年(1254年)10月6日に女子を出産する。女子は建長8年(1256年)10月13日に3歳で死去し、この年に時頼は出家している。葛西殿は宗教面において西大寺流律宗へ帰依し、時頼に嫁して禅・律などの法薫を受けた。 
「葛西殿」は葛西谷(現鎌倉市小町)に居を構え、得宗領などを支配し、対元貿易に関わっていた女性である事が知られる。「鎌倉年代記裏書」に、文保元年(1317年)10月16日、「葛西殿御逝去八十五」と記されており、時宗の母と見られている。  
静御前

 

静御前が頼朝の前で義経の妻として舞う勇気
聞いていた鎌倉武士たちは一斉に顔を見合わせた。歌の意外さに驚いたからである。頼朝の本拠鎌倉に来たのだから、「将軍万歳」というような歌詞を期待していた。ところが静が歌ったのは、あきらかに行方のわからない夫義経を慕う歌だ。しかも、歌はそれで終わらなかった。静はさらにつづけた。 
しずやしず賎のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな 
しずというのは、自分の名前静に引っかけたものだろう。しかしいくらやまびこのように名を呼んでも、昔は今に帰らない。夫の義経との日々が懐かしいという哀切きわまりない歌だ。 
聞いているうちに頼朝は怒りだした。ブルブル身を震わせる夫を、脇にいた妻の政子が静か に抑えた。そして、こうなだめた。 
「いま舞っている静は、義経殿の妻でございますよ」この一言に、頼朝は怒りを鎮めた。しかし目は憎しみに燃えていた。それは静が憎いのではない。ここまでひとりの女性に慕わせる弟が憎かったのだ。眼前に舞う静には、おそれも何もない。ひたすらに弟義経を慕っている。その悲しいまでの恋慕の情が、鶴岡八幡宮に集まった人びとの胸を打った。なかには瞼を押さえる者も何人かいた。いいようのない感動が社前に満ち満ちていた。天下人源頼朝も、この空気には圧倒された。 
このとき静は十九歳である。やがて閏七月二十九日に産んだ男の子は、頼朝の命令で由比ケ浜に捨てられた。傷心の静は京都に戻った。そして嵯峨の草庵にこもり、消息不明の義経の身を案じた。が、翌年二十歳の秋に、ひとり静かにこの世を去ったと伝えられている。そして、その翌々年の文治五(一一八九)年四月に、奥州平泉の衣川の館にいた義経も、藤原一族の手によって殺された。しかし、「いまのわたくしは白拍子ではなく、源義経の妻でございます」と言い切った静の勇気は、長く語り伝えられた。
阿野廉子  

 

わが子を後醍醐天皇の後継ぎにするために画策?
阿野廉子は最も後醍醐天皇の寵愛を受け、3人の皇子を産んでいる。そして、この中で誰かが後醍醐天皇の後継ぎになるようにと、建武の親政にも様々に口出しし、画策したと伝えられている。実際はどうだったのか。
ところで、後醍醐天皇の女性関係は実に華やかだった。天皇家の系図の中では比較的信憑性の高い「本朝皇胤紹運録」によると、後醍醐の子を産んだ女性だけで20人、生まれた子が皇子17人、皇女15人になる。子を産まなかった女性はカウントされていないので、実際に性的関係を持った女性は何人に及んだのかは分からない。
「太平記」の表現から推察すると、やはり20人の女性の中でも後醍醐のご指名ナンバーワンは阿野廉子だった。廉子は阿野公廉の娘だった。生年は正安3年(1301)説、乾元元年(1302)説、応長元年(1311)説など諸説あるが、後に後醍醐の子供たちを産んだ年齢から考えると、応長元年説は成り立たず、正安3年か乾元元年かのどちらかかと思われる。
彼女の運命が大きく変わることになったのは、文保2年(1318)8月の、中宮禧子の入内だ。このとき、廉子が禧子について上臈として宮中に入ることになった。正安3年誕生説をとれば18歳、乾元元年説をとれば17歳のことだ。「太平記」の表現がそのままだとすれば、彼女はすぐに後醍醐の目にとまり、寵愛を受けることになったのだろう。その結果、ほどなく後醍醐との初めての子、恒良親王を産み、嘉暦元年(1326)に成良親王、同3年(1328)には義良親王を産んでいる。したがって、このころの後醍醐の寵愛を一人占めしていた観がある。
ただ、廉子は美貌と肉体だけが売り物の女性ではなく、才女で後醍醐のよき話し相手だったのではないかと思われる。だからこそ、後醍醐が隠岐へ流されるときも、彼女を手放すことができず、配流先の隠岐まで連れて行ったのではなかろうか。
後醍醐の皇子のうち比較的はっきりする8人を出生順に列挙すると、・尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良−の各親王だ。廉子の産んだ長子の恒良より前に、少なくとも4人の男子がいたことが分かる。恒良より上の4人の中に、仮に中宮禧子の産んだ子がいれば、その皇子が皇太子となる可能性が大きかったが、廉子にしてみれば幸いなことに、中宮禧子の子はいなかった。ただ、護良親王が元弘・建武の争乱にあたっては後醍醐の手足となって、実際の軍事行動のかなりの部分を担っており、現実に一時的にではあるが、征夷大将軍にも補任されているのだ。ある意味では後醍醐の後継者の最短距離にあったといってもいい。
ところが、建武元年(1334)正月23日、立太子の儀が行われたとき、皇太子に選ばれたのは護良ではなく、廉子の長子、恒良だった。つまり、後醍醐は実力ナンバーワンで実績のある護良ではなく、まだ10歳か11歳になったばかりの恒良を後継者として指名したのだ。そして、廉子の産んだ二人目の子、成良は鎌倉に下り、三人目の子、義良は奥州に下った。つまり、廉子が後醍醐と相談のうえか、廉子の独断かは別にしても、将来考えられる3つのコースに、それぞれ後醍醐との子を送り込んだ。つまり、恒良を後醍醐直系、成良を足利尊氏路線、義良を護良親王・北畠親房路線として、最終的にどのコースが勝っても、後醍醐と廉子の生んだ子を政権担当者の座に就かせる戦略だった−とする見方がある。
才気煥発な廉子がそのくらいの画策をしたことは十分考えられる。また、護良親王が皇太子になれなかったことについても、わが子が皇位に就くために将来邪魔になるであろう護良を除こうと考え、同じく護良を除こうと考えていた足利尊氏と目的が一致。尊氏と組んで、尊氏から「護良親王が後醍醐天皇を廃そうとしている」という護良親王謀反の通報が廉子にあり、それを聞いた後醍醐が護良を捕えた−とする「太平記」の叙述を100%信用できないにしても、似た素地はあったのではないだろうか。 
日野富子

 

鎌倉・室町・戦国・江戸と続く武士の社会の中では女性の活躍の場は非常に少なかったといえます。大陸から入ってきた儒教は特に女性の生活を社会的なものから家庭的なものへと押し込めようとしました。しかしチャンスさえあれば力を発揮する人たちはいたのです。その中から今回と次回でやや似たケースとなる二人の女性を見てみましょう。今回は日野富子です。 
日野富子は応仁の乱の原因を作った人のように言われますが、彼女に全ての原因を押し付けるのは酷でしょう。 
室町幕府の足利家も南北朝を統合し、更に自らが天皇にとって代ろうとまでした三代将軍足利義満の後はやや人材不足気味になり、実権は次第に管領を務める畠山・斯波・細川等の有力大名の手に移っていきます。制度というものが決して権力を保証しない、という非常にいい例でしょう。権力は実力のある人が獲得するものなのです。 
そしてその足利家自体が没落を始めます。1441年には義満の息子で6代将軍の義教が暗殺されるという事件がありましたし、その息子で8代将軍となった義政は政治に無関心で遊んでばかりで、後花園天皇から注意を受けるほどでした。そしてこの困った義政の妻が日野富子です。 
当時幕府の実力者である紀州の畠山家・越前の斯波家で相続争いが起きていましたが、その双方が細川家と山名家に支持を求め、対立がより根深くなっていました。色分けとしては 
畠山政長 − 細川勝元 − 斯波義敏   (東軍) 
畠山義就 − 山名持豊 − 斯波義廉   (西軍) 
となります。ここで彼らを調整すべき足利家は頼りない義政が当主。そして更にその足利家自身が難問を作ってしまいます。 
義政と日野富子の間になかなか子供ができなかった為、足利家では次期将軍として弟の義視を還俗させて、後継者にします。ところがその直後富子に男の子義尚が生まれてしまうのです。このため、富子としてはこの義尚を次期将軍の位につけたいと考えるのですが、義視は細川勝元の支援を受けており、富子は山名持豊に支援を求めたため、足利家自体が分裂状態に陥ります。そして調停者無き対立は自然と武力衝突へと発展し、1467年応仁の乱が勃発するのです。 
この戦乱によって京都は焼け野原となり、貴族たちは戦乱を逃れて地方に避難、天皇家も将軍家も財政的な基盤がなくなって、戦国時代へと時代が移っていくことになります。 
そんな中にあって、日野富子は乱のさなか酒を飲んでるばかりで何もしない義政に代って、自らが幕府を指揮・立て直す役目を果たさざるを得なくなります。 
彼女は前回取り上げた北条政子ほどの政治的な能力はなかったものの、経済的なセンスに恵まれていました。この混乱の世の中でうまい具合に税金を徴収したり、米相場に参加したり貸金業までやったりして資金を調達、幕府を何とか回らせていき、困窮を極めた天皇家にも財政支援をします。天皇家は後土御門天皇が亡くなった時など葬儀の費用が調達できなくて遺体が40日間も放置されるなどといった悲惨な状況でした。 
応仁の乱自体は1477年頃、多くの大名が京都から引き上げて領地に戻ってしまった事から自然消滅しますが、その後、大名たちは力を失った幕府を見限って、各自勝手に隣の国を侵略したりして領土の拡張を図ります。このような時代がそれから約100年続く訳ですが、日野富子は名ばかりとなってしまったとはいえ一応武家の頭領である足利家を全力で支えていきました。 
そして、将軍職は日野富子の希望通りに義尚に引き継がれ、義尚が成人するまでは富子がその補佐をしていました。特に天皇家などとの対外折衝に関しては義尚成人後も手伝ったりしているようです。彼女はトラブルの原因を作った人でもありますが、それは彼女が悪かったというより力不足だったという面が強く、彼女は彼女なりに一所懸命でしたし、彼女がいなかったら間違いなく足利幕府はこの時点で消滅していたのではないでしょうか。
日野富子2 
将軍義政の失政に拍車をかけた日本史上稀にみる“悪妻”
室町幕府八代将軍、足利義政は無責任と優柔不断さで「応仁の乱」(応仁元年=1467〜文明9年=1477)を引き起こしたことは衆知の通り。飢饉のために都に餓死者があふれる中、あちこち物見遊山にでかけ、為政者の責任は放棄して、連夜の酒宴を催すなど数々の失政にまみれた人物だ。そして、この失政・悪政に拍車をかけたのが、義政の正夫人(御台所)日野富子だ。日本史上稀にみる“悪妻”と呼ばれ最も「カネ」にも汚い女といわれた。
冨子は、足利将軍家の夫人を代々送り出している裏松日野家の出身だ。したがって、血筋からすれば後世の彼女に対する悪評は決してふさわしいものではなく、人生の歯車が大きく狂ったのは夫・義政にその大半の責任があるといっていい。
義政は、内大臣日野政光の娘でまだ16歳の冨子を妻に迎えた。結婚後、冨子がしばらく男の子を産まなかったため、まだまだ後継者の男子が生まれる可能性があるのに、早々と弟・義視を口説き還俗させて後継者とし引退の準備を整えた。そして「万一、これから冨子との間に男子が生まれても、絶対に後継者にはしない。出家させる」という確約もした。そのために幕閣第一の有力者で宿老の細川勝元を後見人にも立てた。これほど用意周到に準備したのは、義政自身が早く政界から引退したくて仕方がなかったのだ。ただただ為政者の責任を放棄し、気楽な立場で遊んで暮らしたかったからだ。決して年を取ったからでも、体を悪くしたからでもない。
ところが、この決断はあまりにも性急過ぎた。皮肉なことに弟が後継者に決まって1年も経たないうちに、冨子は懐妊し翌年男子を産む。これが義尚だ。当然、冨子はわが子・義尚を跡継ぎにと夫・義政に迫ることになる。そこで、義政はどう動いたか。現代流に表現すれば“問題先送り”し、どちらにも決められず、将軍の座にとどまり続けたのだ。優柔不断そのものだ。その結果、細川勝元が後見する義視派と、冨子が山名宗全を味方に引き入れた義尚派との間で争いとなり、これが応仁の乱の導火線となった。
都を荒廃させたこの大乱の前後を通じて義政は全く政治を省みなかったため、冨子はこれ以後、異常なほど「カネ」に執着するようになる。兄・勝光とともに政治に口を出すばかりでなく、内裏の修理だとか、関所の通行税だと称してはカネを集め、そのカネを諸大名に貸して利殖を図った。
とくに信じられないのは、東軍側の冨子が敵方、西軍の武将、畠山義就に戦費を融通していることだ。息子義尚を将軍にしたいがために、戦争まで引き起こしてしまったというのに、敵方の武将にカネを貸して戦乱を助長しているのだ。諸大名が戦費に困っているなら、融資などやめればいいのだ。それで戦争は終結に向かうはずだ。
冨子は1474年、義政と別居。その後義尚を指揮下に政治を行う。そして1489年、25歳の若さで義尚が死に、翌年義政を失った冨子は、慣例的に尼になる。普通ならここで念仏三昧の静かな日々を過ごすことになるはずなのだが、彼女は全く違う。世の無常を感じるどころか、次の将軍義稙(よしたね)にまで口出しするのだ。義稙は義視の子だ。権勢に対する執念の深さはいままでの歴史上の女性にはみられないものだ。応仁の乱を機に幕府の実際の生命は絶えたような状況だったが、それでもなお、その座を捨てきれない。エネルギッシュな行動力を持った女性だったといえよう。  
諏訪御料人

 

諏訪御料人(すわごりょうにん 1530?-1555?)は、武田信玄や武田勝頼が登場する小説や時代劇には欠かせない人物である。 
実際の名は不詳な為、諏訪の美人な女性と言う意味で、諏訪御料人又は諏訪御前(すわごぜん)とも呼ばれる事が多いが、新田次郎著「武田信玄」では湖衣姫(こいひめ)、井上靖著「風林火山」では由布姫(ゆうひめ)と想像上の名で書かれている。作者が大分県の由布院(現在の湯布院)で由布岳を見ながら執筆した為と言われている。 
諏訪御料人は信濃国・諏訪頼重(すわよりしげ)と側室になっていた小笠原長時の家臣・小見(麻績)氏のとの間にできた娘である。 
諏訪氏の滅亡 
武田信虎は信濃進出の為、まず敵対関係にあった諏訪氏と和睦し、その後更に関係を強化する為、1540年11月に武田信虎の三女(武田信玄の妹)・禰々(1528年-1543年1月19日)を諏訪頼重の正室に送り、武田家と諏訪家は姻戚関係となった。この時、禰々は僅か12歳、諏訪頼重は24歳である。 
しかし、1541年6月、武田信虎が息子の武田晴信(のちの武田信玄)に追放され、武田晴信が武田家当主となると、諏訪を完全に武田のものにする為、1542年6月、武田晴信は諏訪分家の高遠頼継や諏訪下社の金刺氏と手を結び、諏訪領へ進行する。 
諏訪氏は、ただの大名ではなく諏訪大社の大祝(おおほうり)職を世襲=「生き神様」になる権利を有していたことなどに目をつけたものと考えられる。 
上原城は自落し、諏訪頼重は桑原城に立て篭もるが、1542年7月5日、助命を条件に武田に降伏。弟の大祝(おおほうり)・諏訪頼高と共に甲斐に連行され、東光寺に幽閉された。しかし、諏訪頼重と諏訪頼高は1542年7月21日、自刃させられ、諏訪惣領家は滅亡。諏訪大社の大祝職には、武田に通じていたとされる叔父の諏訪満隣が継承した。 
諏訪頼重の正室禰々は甲府に戻ったもの、病に倒れ翌年1543年1月19日死亡、僅か16歳である。 
禰々は寅王と言う諏訪の男児を産んでいた。 
安国寺の戦い(安国寺合戦)と寅王 
武田の諏訪攻めに協力した高遠頼継だったが、諏訪領の正統の後継者であると自負するあまり、武田を裏切り1542年9月10日挙兵し、伊那の福与城城主・藤原頼親を後ろ楯に干沢城に入って、武田が守る諏訪・上原城を急襲。そして、諏訪上社、諏訪下社を占領し、諏訪の地を確保した。 
まだ22歳と若き武田晴信(のちの武田信玄)は、すぐさま諏訪氏の遺児・寅王をたて、板垣信方らが出陣。武田勢は諏訪領有権の正当性をアピールし、諏訪の有力者は武田についた。そして、9月25日に安国寺の戦いとなる。6時間の激戦で合ったとも言われ、高遠頼継の弟・高遠頼宗が討死するなど、高遠勢は死者700名以上となり、杖突峠を越えて高遠に敗走。武田勢は死者50名ほどと、高遠勢に圧勝し、武田晴信は諏訪を取り戻した。 
しかし、その後、寅王の名が歴史に出てくることはなく、病死したのか仏門に入ったのか、あるいは殺害されたのか?消息は不明。 
輿入れ 
そんな諏訪頼重の側室・小見氏の娘(実名不明)が生んだ娘に、諏訪御料人(湖衣姫・由布姫)がおり、武田晴信が諏訪を攻めた際、13歳前後だった諏訪御料人が、年代は不明だがのち武田晴信の側室となった。 
諏訪頼重に禰々が嫁いだ際に、当時9歳だった諏訪御料人(湖衣姫・由布姫)を人質として、武田信虎が1541年前後に甲府に呼んだと言う説もあるが、確かな事はわからない。 
16歳前後と考えられる1546年に武田勝頼が生まれているので、1542年-1545年頃までに武田晴信の側室になったのであろう。敵大名の娘が仇とも言える武田晴信の側室になった経緯には山本勘助らの尽力もあったと小説などでは紹介されているが、なにしろ本当の名もわからない姫であり、実際そうであったかどうかはわからないことが多い。 
「高白斎記」には、1542年に武田信玄の側室が禰津から来て祝言をあげたと記載されている。こちらも実名は不明だが、禰津から来たと言うことで「禰津御寮人」と呼ばれている。その禰津御寮人こそが、諏訪御寮人で、敵将の娘では体裁が悪いため、諏訪一族で、武田氏とも親戚関係にあった禰津元直の元に、小見氏と諏訪の姫は預けらた、又は養女として、禰津から甲府に来たのではないかと言う有力な説もある。 
いずれにしても、諏訪御料人は美女であったとされ、武田晴信最愛の妻とも言われているが、どのような人物であったかの具体的な記録は全く残っていない。しかし、小説やドラマではその辺り興味を引くように創作されており、ドラマや小説上のイメージや物語はあくまでも空想の世界であることを知って頂きたい。 
薄幸の女性としても知られ、子が1人しかなかったように体が丈夫ではなかったのか、25歳前後で死去。没年は1554年とも1555年とも言われている。墓所は武田勝頼が高遠城主になった際に作った、長野県伊那市高遠町の建福寺。 
※小坂観音院(長野県岡谷市)にある墓は、現代になってから建てられた墓である。 
武田勝頼の名には、諏訪家の通字「頼」を名乗らせている事から、武田信玄は武田勝頼に諏訪大社を預る諏訪家の血を継ぐ者として、諏訪家を相続させるつもりだったのは明らかである。  
今川寿桂尼 

 

今川義元を育てた女戦国大名
今川寿桂尼は今川氏の七代目、今川氏親の妻だった。これはもちろん、夫氏親が大永6年(1526)に病没してしまった後、髪をおろし出家してからの名前だ。残念ながら、それ以前の彼女の名前は分からない。
今川氏は足利氏からの分かれだ。足利氏から吉良氏が出、吉良氏から今川氏が出ている。初代今川範国が南北朝内乱の時代、足利尊氏にしたがって各地で戦功を上げ、しかもその過程で兄弟5人中、出家していた1人を除き、範国以外全員討ち死にしてしまったため、兄たちの恩賞も全部含まれて、駿河・遠江二カ国の守護に任命され、引付頭人といった幕府の要職にも就いた。その後、遠江の方は三管領の一家の斯波氏にとって代わられたが、以来十代目の今川氏真が武田信玄、徳川家康に攻められて滅びるまで、およそ230年余にわたって東海地域に覇を唱えた名門中の名門だ。
寿桂尼は、京都の公家中御門宣胤の娘だった。中御門氏は甘露寺氏や万里小路氏などと同様、藤原北家勧修寺派の一つで、鎌倉時代の後期に坊城家より分かれたもの。寿桂尼の父中御門宣胤は権大納言になっており、権大納言のお姫様が地方の戦国大名に嫁いだというわけだ。
とはいえ、京都の公家が応仁の乱後、生活が困窮して経済援助が期待できるなら、どんな家にでも嫁がせるというわけではなかった。落ちぶれたとはいえ、京都の公家もそれなりの家格はみていたのだ。その点、今川氏は代々、京都志向が強く、今川了俊・今川範政など文化面で業績を残した人物も輩出した、教養の高い文化人大名として知られていた。中御門宣胤が娘を氏親に嫁がせたのはこうした点を踏まえたうえでのことだったのだろう。
彼女が氏親といつ結婚したのか分からない。永正10年(1513)に長男氏輝を産み、同16年(1519)には五男の義元を産んでいる。氏親には、はっきりしているだけで6人の男子、4人の女子がいたが、そのうち何人が寿桂尼の子で、何人が側室の子かは分からない。五男義元が生まれて少しして、一つのアクシデントに見舞われる。氏親が中風になってしまったのだ。大永元年(1521)頃のことだ。氏親51歳、寿桂尼の30代前半のこと。これは、結果的に彼女にプラスになることだった。病床に就いた夫を手助けしながら、実地に「政治見習」をすることができたからだ。
戦国大名今川氏といえば分国法、すなわち戦国家法の「今川仮名目録」が有名だ。これについても重要な役割を果たしたようだ。夫氏親の死が近いことを悟った寿桂尼が中心になってこの策定作業をしたのではないかとみられる。この「今川仮名目録」が制定された大永6年(1526)4月14日から、わずか2カ月後の6月23日、氏親は死んでいるのだ。そして、氏親の死後、形の上では後を子の氏輝が継いだことになっているが、それから2年間、実質的に今川家の当主は寿桂尼だったという。
氏輝にやっと政治を任せられるようになったと思った矢先、その氏輝が24歳の若さで死んでしまったのだ。氏輝は結婚していなかったらしく、子供もいなかった。そこで、夫と一所懸命築き上げた今川家を、寿桂尼は自分の産んだ子に後を継がせるべく差配する。義元より年上の玄広恵探を推すグループとの家督争いでこれを退け、義元を第九代当主の座に就けるのだ。京都の公家のお姫様だった彼女が、さながら“女戦国大名”として見事に力を発揮したわけだ。 
淀君と妹たち

 

淀君は浅井長政と、織田信長の妹お市の方との間の娘で、名は茶々といいました。妹に京極高次の妻となったお初、徳川秀忠の妻となったお江与がいます。 
彼女ら三姉妹の母のお市の方は最初浅井長政に嫁ぎ、男の子一人とこの三姉妹を産みますが、浅井家と織田家の関係がその後冷却し、浅井家は織田家に攻め滅ぼされて、浅井長政とお市が産んだ男の子は殺されます。当時の習慣として女性は嫁いでも実家の者とされ、二人の間にできた子供の内、男の子は夫の子だが女の子は妻の子とみなされる習慣でしたので、お市と三姉妹は織田家に戻ります。 
その後織田信長は明智光秀に殺され、明智光秀は羽柴秀吉に倒される訳ですが、織田家臣団はここで信長の後継をどうするかということでもめます。この時、お市の方は信長の息子の信孝に期待をかけ、かれを支持する柴田勝家と連携・そして結婚します。 
しかし、柴田勝家はその翌年、羽柴に攻められて落城。ここで本来はお市は娘たちを連れて城を出るべきだったのですが、やはり余程くやしかったのでしょう。娘たちだけを逃して、自分は勝家と運命を共にするのです。 
さて、こうして秀吉に保護されることになった三姉妹ですが、それぞれ激動の人生を歩むことになります。 
まず一番運命が目まぐるしく変ったのは末娘のお江与でした。彼女は最初信長の妹お犬の息子佐治一成と結婚しますが、秀吉はこの佐治家の所領を没収、お江与を強引に離婚させて、自分の甥の木下秀勝と結婚させます。しかし秀勝は朝鮮戦役のさなかに病没してしまいます。 
しかししかし秀吉は彼女を休ませてくれず、彼女は23歳の若さで三度目の結婚をすることになります。相手はまだ17歳の徳川秀忠。彼女は家光・忠長兄弟と千姫・お初・和子の三姉妹を産みます。 
この千姫は後に秀吉と淀君の間の子供秀頼と結婚しますが、大阪落城の際に危うく助け出されて、本多忠刻の妻となります。和子は後水尾天皇に嫁ぎます。 
さて、真ん中のお初ですが、彼女は京極高次の妻となりました。京極高次は大津の領主でしたが、関ヶ原ではあっさりと家康方に付きます。その為豊臣側に攻められて城を失うのですが、家康からたっぷりとねぎらいの言葉を受けて、前より大きな若狭の領地をもらいます。更に秀忠と妹お江与の間に生まれた娘を養女に迎えて自分と同じお初という名前を付けるのです。京極高次とお初は次は徳川である、と的確に時代を読んでいました。お初はその後大阪冬の陣の後の和平交渉役などもかって出て、かたくなな姉淀君の説得にあたったりしています。 
さて、問題のお茶々(淀君)です。彼女は三姉妹の中で長女でありながら最後まで豊臣家に残ることになり、やがて秀吉の側室となります。秀吉は子供がなかったため、姉の子供の秀次を養子にし、秀次は1591年秀吉から関白を譲られていました。しかし1593年、茶々が男の子・秀頼を産むと、秀吉は自分の実子に後をつがせたいばかりに秀次を疎んじるようになり、1595年、関白の地位を奪い、切腹を命じてしまうのです。そして茶々は秀吉の後継者の母として大阪城において大きな地位を占めることとなり、1598年秀吉の死後は豊臣家の代表の立場に立つことになります。 
(しかし、蘇我家といい、天智朝・天武朝といい、鎌倉幕府といい、室町の8代将軍の頃といい、親族同士で殺しあいをした家は必ず滅びるようですね) 
しかし、秀吉の死についで、豊臣家に距離は置いていたものの精神的な支柱であった前田利家が1599年亡くなると、家康は豊臣家打倒の手を打ち始めます。まず1600年関ヶ原の戦いで豊臣家を政権の座から引き下ろし、時を置いて1614年大阪冬の陣、1615年大阪夏の陣で豊臣家は滅亡します。燃え盛る大阪城の中で、茶々はわが子秀頼とともに死んでいくのです。 
茶々の立場というのは、子供がなかったために養子を迎えたら、その後で子供が生まれてしまって、その子の母という立場からその子を次の日本の主にしようとした、という点で日野富子と非常に似た立場にあります。そして二人とも後を継がせるのには成功するも、日本の主にすることには失敗しているという点も似ています。やはり我が子可愛いさが目を狂わせてしまうのでしょうか。 
しかし、日野富子がそれでも何とか足利幕府を支えていったのに対して、茶々にはそれほどの才覚はなかったと言えましょう。また相手・徳川家康がすごすぎた、という面もあるかも知れません。日野富子の時代にはあれほどの大物はいませんでしたし、また皆足利家をつぶすまでの意図はなかった筈です。また日野富子には兄の勝光や一条兼良などといった協力者がいたのに対して茶々にはそういう者がおらず、石田三成も関ヶ原に敗れて斬首され、駒が足りなかったという面もあるのでしょうが。
淀君2 
息子秀頼への“教育ママ”ぶりと権勢欲が豊臣氏を滅ぼす
歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないというが、それでもこの淀君には敢えて言いたいと考える人は多いのではないだろうか。「関ケ原の戦い」(1600年)に際してはもちろん、「大坂冬の陣」(1614年)、「大坂夏の陣」(1615年)で、もう少し相手、徳川家康の心理を読み、いま少し冷静に自陣の将兵に接する気持ちがあれば、情勢は変わったのではないか?とくに名目上の総大将、息子の豊臣秀頼に対する“教育ママ”ぶりを抑える器量があれば、少なくともあれほどあっけなく歴史上、豊臣氏が消えることはなかったろう。淀君の度を超えた虚栄心、権勢欲が豊臣氏を早期滅亡させた要因といっても過言ではない。
淀君は永禄10年(1567年)生まれ、本名はお茶々。母は織田信秀の5女で、信長の妹、お市だ。父は小谷城主、浅井長政。戦国時代にはよくあったことかも知れないが、彼女の少女時代は必ずしも幸福ではない。7歳の時に母の兄、織田信長に攻められ小谷城は落城、父は自害する。落城に際し、彼女は母のお市や妹たちとともに、織田の陣営に引き取られる。ところが「本能寺の変」(1582年)で、頼みの信長が明智光秀に殺害されたことから、彼女の人生も波乱に満ちたものとなる。
まず母のお市の嫁ぎ先、織田家の有力武将、越前北ノ庄(福井県)の城主、柴田勝家のもとへ。しかしここもポスト信長の“天下取りレース”で主役の座に躍り出た羽柴秀吉に攻められ、母は夫とともに自害し、お茶々たち3人の娘だけが秀吉の手に渡される。この後、お茶々は秀吉の側室となる。秀吉にはほかにもたくさん側室がいたし、長年連れ添ったねねが、正室・北政所としてデンと構えている。それだけに心穏やかではなかったかもしれない。
やがて、お茶々は身ごもり出産。不幸にしてこの子は早死にするが、まもなく2人目の子(後の秀頼)が生まれる頃から、秀吉は親ばかになり、お茶々は淀殿と呼ばれ一段と猛母になる。秀吉の死後、秀頼が大坂城のあるじになると、ぴったり彼に寄り添って離れない。そして北政所を大坂城から追い出してしまう。豊臣氏滅亡を早めた大きなミスの一つだ。
淀君は猛烈な“教育ママ”の顔を持ちながら、秀頼の教育において決定的なミスを犯している。「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」ということに気付かなかったのだ。秀頼は秀吉とは違う。溺愛するあまり、秀頼は普通の子、秀吉と比べれば“ボンクラ”であることを見抜く冷静さに欠けていた。
やがて彼女は挫折する。冒頭でも述べた通り、徳川方と戦ってはことごとく敗れる。実はこの戦いの前に、家康は秀頼が大和一国で我慢するなら命を助けてやろう、と言っている。“たぬきオヤジ”といわれた家康の真意のほどは分からないが、もしそれがホンネだとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。そして、彼女にそれを受け入れる度量の広さや冷静さがあったら、母子して猛火の中でその生涯を終えることはなかったろう。  
北政所ねね

 

「北政所(きたのまんどころ)」というのは本来貴人の奥方を呼ぶ一般的名称ですが、日本史の中で単に「北政所」といえば、通常豊臣秀吉の妻・ねねのことを指します。 
ねねの生家は元は杉原といい、父が杉原定利、兄が杉原家定と名乗っています。そして秀吉の出世に合わせて木下・羽柴・豊臣の姓を名乗ります。家定は後に姫路城主になります。この家定の長男が勝俊(長嘯)で、秀吉の在命中は彼を支えていますが、関ヶ原以降は政治から離れ、文人として良余生を送っています。次男の利房は関ヶ原では西軍について減封になりますが、大阪夏の陣では徳川方でねねの守護をし、後禁裏御番になっています。 
そして、家定の五男が小早川秀秋ですが。彼の話はもう少し後に出てきます。 
ねねは若い時分の藤吉郎と結婚し、彼と苦労を共にしてきました。そして彼が羽柴秀吉として、長浜城主となると大名の妻として立派な務めをしてします。当時の大名の正室というのは、大名不在時の城主代理であり、内政・外交に関する重大な責任と権限を持っていました。大名の妻が夜を共にして子供を産むことだけを求められるようになるのは江戸時代になってからのことです。 
ねねは税制問題やキリシタンの問題などで秀吉とよく話し合い、その施策に影響を与えているようですし、信長の許を訪問してセンスのいい贈り物をするなど、非常によく動いています。また正室というものは側室たちを束ねる仕事も任せられており、後に醍醐の花見の時に、淀君と松の内殿が争い事を起こしたときにその仲裁をしたりしています。 
彼女は庶民の出身でありながら政治的なセンスに恵まれた人だったようです。秀吉も彼女がいたからこそ、色々といい仕事ができたように思われます。秀吉が関白になると、ねねも朝廷から従一位の位を受けており、彼女は直接天皇家と交渉ができる地位を与えられました。これにより彼女は北条政子や日野富子と同格になったのです。 
やがて秀吉の側室淀君が男の子鶴松を産みますと、その養育を聚楽第に住むねねに託します。当時秀吉は京都の聚楽第と大阪城とを行き来しており、武士のトップの象徴としての大阪城と天皇の補佐役関白としての住まい・聚楽第を使い分けていました。淀君は大阪城にいましたが、秀吉は大名たちの妻を京都に集めさせており、聚楽第こそが彼の権力の象徴であり、そこにいるねねは彼にとって一番大事な人でした。彼はよく「ねね様の次には淀君を愛している」と言っており、彼の心持ちが伺えます。 
ところが、この鶴松はわずか2歳で死に、関白職は養子の秀次につがせます。その後淀君はまた男の子秀頼を産みますが、彼は当初は秀頼については「淀君の子」ということにし、家督に関わらせるつもりはありませんでした。その為大事大事にした鶴松の時とはうって変って、放ったらかしに近い状態で淀君自身に育てさせました。しかし、これが淀君の秀頼への盲愛を招き、やがて豊臣家の滅亡を招くのです。 
1598年、秀吉が死去。この瞬間、秀吉の正室として側室たちを束ねてきたねねの立場も崩壊してしまいました。大阪城の主と化した淀君が天下に号令するようになります。自分の役目の終了を敏感に感じとったねねは、淀君と争ったりせずに尼になって、京都・高台寺に住むことにします。しかし、時代はねねをまだ政治の社会からは引退させてくれませんでした。 
淀君の回りには石田三成を初めとする、新しい世代の豊臣家の側近たちが集まっており、それに不満を持つ古くからの秀吉の盟友であった加藤清正や福島正則ら大勢の大名たちが、ねねの許を訪問しました。そしてその中には徳川家康の姿までありました。 
家康とねねが何を話したのかは今となっては正確には分かりません。が、その結論はすぐに分かることになります。1600年、関ヶ原の戦いにおいて、東西の勢力が拮抗してなかなか決着がつかないでいた時、突然西軍にいたはずの小早川秀秋軍は一転して西軍に対して攻撃を掛け始めました。突然内部にわいて出た敵軍。絶好のタイミングでの裏切り。これによって東軍は圧倒的な勝利を収め、徳川は天下を取ることができたのです。ねねの甥である小早川秀秋の予定された寝返りは、徳川家康とねねの話合いの結果と考えるのが自然です。淀君を倒すということにおいて、家康とねねの利害は一致していました。そして、杉原の家のものにとってはねね様を守ることが至上命令であり、淀君の大阪城に忠誠を誓う義理も必要性もありませんでした。 
この関ヶ原の戦いの後で、ねねは家康の代理として大阪城に行って淀君と交渉をしたりしています。彼女はその後大阪城の炎上を冷静に見て、徳川家光の時代の1624年まで生きて83歳の大長寿をまっとうしています。お市の方の三姉妹の中のお初も1633年まで生きて65歳くらいの当時としては長寿の部類に入る年齢で亡くなっていますし、この時代、したたかな人は長生きすることができたようです。 
北政所・おねねという人は足軽の妻・城主の正室・関白の奥方・豊臣家の正当な後家、と何度も立場が変りながらも、それを巧みに生き抜き、非常に充実した人生を送った人なのではないでしょうか。
ねね2 
士民出の戦国女性代表で、識見高い、太閤秀吉の正室
ねね(のちの高台院)は応仁の乱を機に、それまでの階級制が崩れ、台頭してきた才覚、実力のある士民階級出の代表的な戦国女性の一人で、識見豊かな太閤秀吉の正室=北政所だった。幼名には諸説あるが、一般的には「ねね」、あるいは「おね」。秀吉の養子となり、後に小早川家を継いだ小早川秀秋は甥。
豊臣秀吉の死後、天下が東軍・西軍に二分して対立した際、京都・高台寺に隠居したねねの“関ケ原工作”が奏功していれば、豊臣家は小大名として名を残し、今日でも「豊臣さん」という人がいたはずだ。
ねね=高台院は、豊臣秀頼を総大将とする西軍ではなく、時流は東軍=徳川にあると苦渋の判断を下した。そして秀吉子飼いの家来で、かつては彼女が母のように面倒をみた加藤清正、福島正則らとともに徳川方についた。それもこれも小大名となっても、豊臣の名を残すことが、亡き秀吉への最良のプレゼントになると考えたからに他ならない。しかし、故太閤の遺児と側室という、誇りや意地にこだわった、秀頼と淀君の愚かな対応が、ねねのその思いを無にしたのだ。
大坂の陣が始まったとき、ねねは秀頼・淀君を説得するため大坂城に行こうとした。しかし、政治的に混乱すると困ると考えた徳川家康は人を使ってこれを止めている。また、家康は関ケ原以後、豊臣家攻略には随分、時間をかけている。これは天下の人心を考えたからだが、このねねの存在に十分配慮したためで、一気に決着をつける、むごい仕儀を差し控えたのだ。
ねねの官位は従一位。生没年は推定1542〜1624。杉原、木下、浅野の三姓があって、父親は不明。出生地もよく分からない。叔母の嫁ぎ先、尾張国海東郡津島(現在の津島市)の、織田信長のお弓頭・浅野長勝の養女だったが、14歳のとき木下藤吉郎(秀吉)に請われて結婚。当時は政略結婚が普通だったが、この結婚は珍しく恋愛結婚の部類に入るだろう。
ねねの性格はおおらかで、識見高く、秀吉が関白になってから、大名の処分や国、郡統廃令などについて意見を求められた。秀吉には多くの愛妾がいたが、妾たちには公正な態度で臨み、嫉妬や自分の好悪の感情で傷つけることはなかった。
1585年(天正13年)、秀吉が関白に任官したことに伴い。従三位に叙せられ北政所と称した。1588年、後陽成天皇が聚楽第に行幸、その還御の際に従一位に叙せられた。1598年(慶長3年)、秀吉が没すると落飾し、高台院湖月尼と称した。1599年、大坂城西の丸を退去し、京都三本木の屋敷に隠棲。1605年(慶長10年)、秀吉の冥福を祈るために家康に諮り、京都東山に高台寺を建立、ここを終焉の地と定めた。1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後も、江戸幕府の保護を受けていた。 
まつ  

 

加賀百万石を築く礎として力のあった藩祖・前田利家の妻
まつ(のちの芳春院)は加賀百万石の祖・前田利家の妻。「ねね」と同様、士民階級出の女性で、現実にねねとまつは幼い頃、隣同士だったようだ。そして、それぞれやはり士民階級出の秀吉、利家に嫁ぎ、亭主たちの死後起こった天下分け目の関ヶ原で、秀頼を捨てて家康側についた。歴史を変えた関ケ原で、どちらにつくかという大事なことを、味噌や醤油を貸し借りあった無二の親友は、相談して決めた気配がある。
まつの生没年1547〜1617。尾張(愛知県)に生まれ、父親は不明。幼い頃、親類の荒子城主・前田利昌の養女となり、数え12歳で兄妹のように育った利家(城主の4男)と結婚、前田家の繁栄を支えた。利家との間に二男九女をもうけた。戦国時代の女性は比較的、多産だが、それでも11人の実子がいる女性は稀有だ。1599年、利家の没後、芳春院と号した。
まつ=芳春院は腹の座った女性で、秀吉、そして夫・利家の死後、1600年(慶長5年)家康が前田家を滅ぼして天下制覇の足がかりにしようとしているのを知り、自ら人質となって江戸へ行き、14年間江戸城で過ごし、前田家の危機を救った。
このとき前田家を継いでいた長子、利長に、家康から挑発的な難題がふりかかっても「何事もお家第一。そのためには迷わず母を捨てなさい!」と言い置いて江戸へ向かったという。これにはまだ後日譚がある。まつの見返りに徳川方は二代将軍秀忠の次女おたまを前田家に出し、これで徳川家と前田家はがっちりと握手を交わすことになるのだ。
まつは加賀百万石を築く礎として力を発揮した。彼女が結婚したときの利家はせいぜい二千石。利家自身そんな大きな身代になる能力があったとは思えない。運のよさと、秀吉から頼まれたことをきっちりやる律儀さ、実直さで身代を大きくしたと思われる。
それだけに、人間的なスケールは利家よりまつの方が大きい。秀吉に加賀をもらって城主になったとき、隣の富山の佐々成政と戦いになる。大名に成りたての利家は、秀吉が長浜で募集したように人を集めようとするが、利家がケチでカネを出し惜しむから、なかなか人が集まらない。見かねたまつが蔵から金銀の袋を持ち出して、利家の前に袋を投げ出したという。これに奮起した利家が佐々成政を破って凱旋する。
まつが賢夫人と評されるのが賤ヶ嶽の合戦の柴田勝家と羽柴秀吉への対応だ。秀吉が勝家を破ったこの合戦は夫・利家にとってはつらい闘いだった。秀吉は刎頚(ふんけい)の友。勝家は「おやじどの」と敬愛する先輩で、戦国の常として双方に娘を人質として(秀吉へは養女として)差し出してあった。利家は勝家に加担すべく近江まで出兵して布陣するが、戦意なく潮時をみて軍を引き揚げる。昇竜の勢いの秀吉に全面敵対する決断がつかなかったのだ。
資料によると、越前府中の城に入った利家のもとに立ち寄った勝家は、利家の心中を察し、湯漬けをふるまわれ、進呈された替え馬で北の庄(福井)へ落ちていく。その後へ秀吉軍が現われる。秀吉は城門を開けさせると、ずかずか入ってきて、まず台所のまつを訪ねる。聡明な彼女は、すかさず長子、利長に「筑前殿(秀吉)の先手を受け持たせていただくように」という。すると、秀吉は「亭主殿(利家)はあとからゆるゆると来られよ。とりあえずせがれどのを借りる」と応じ、まつ手作りの湯漬けをサラサラかき込むと、慌しく北の庄へ向かって進撃していく−という具合だ。まつは刎頚の友でありながら、一時的とはいえ敵対した夫(利家)と秀吉のきまずさを、さりげなく救ったのだ。 
天秀尼  

 

豊臣秀頼の子で、駆け込み寺の守護女神
天秀尼(=奈阿姫、なあひめ)といっても馴染みがない人がほとんどだろう。実は淀君の孫娘、豊臣秀頼の娘だ。ただ、母は有名な正室、千姫ではない。側室の小石の方(こいわのかた、成田五兵衛の娘)だ。名は千代姫ともいった。出家後の名が天秀尼(てんしゅうに)。兄の豊臣国松とは異腹。千姫とは義理の親子だったが、仲がよかったとされる。この天秀尼、三百数十年前、かよわい女性の身で、救いを求めてきた何人かの女性の命を助けた、女神のような存在だったのだ。 生没年は1609年(慶長14年)〜1645年(正保2年)。
奈阿姫は大坂城で生まれ、何不自由なく育った。1612年(慶長17年)4月頃から徳川家と豊臣家の関係が悪化。1615年(元和元年)、大坂夏の陣での豊臣方の敗北は彼女を、いわば戦災孤児へ突き落とした。兄の国松は斬殺されたが、千姫が奈阿姫を自らの養女としていたために特別に助命され、出家して縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺に入った。
もともとこの寺は格式の高い尼寺で、代々、毛並みのいい女性が住持になる習わしで、罪を犯した人やその家族をかくまう、いわば治外法権的な権力を持っていた。身分は高いが戦犯の娘で、しかも孤児となった彼女には、極めてふさわしい住み家だったといえよう。
天秀尼が東慶寺に入ったのは8歳のとき。後に師の跡を継ぎ、その20世住職となる。彼女が30歳前後のとき、後世に彼女の名が残る事件が起こった。会津若松40余万石の城主、加藤明成と家老の堀主水の妻子が救いを求めて転がり込んできたのだ。夫の主水が主君と意見が合わず、一族ともども会津を出奔したという。主水は主君の非を幕府に訴えるつもりだったが、それより早く、怒った明成が追ってきたので、兄弟揃ってとりあえず高野山に逃げ込んだ。ところが高野山は女人禁制。そこで何卒、私どもだけ、この寺におかくまいください−と主水の妻は訴え、天秀尼の法衣にすがりついた。
ただ、当時は「主君に忠」が憲法第一条の時代だ。いかに主水の言い分が正しくても、主君に背くのは憲法違反の重罪だ。高野山も昔から罪人をかくまう治外法権的な特権を持っていたのだが、徳川の全国統一によって次第に力が薄れ、このときは明成の脅しに遭うと、あえなく腰砕けになって、遂に主水兄弟を引き渡してしまう。勝ち誇った明成は彼らを斬殺、今度は東慶寺に妻子を引き渡せと言ってきた。ここで天秀尼は、徳川の忠君憲法と、明成の強情の前に厳しい選択を迫られることになった。堀主水の妻子を助けるか助けぬか−。
天秀尼は、昔からここに逃げ込んだものは、決して引き渡さないという掟があるのをご存知ないのですか−と悩んだ末に遂に堀主水の妻子をかくまう道を選んだ。そして、明成の非を養母の千姫を通じて三代将軍家光に訴えた。無礼者明成をつぶすか、この寺をつぶすか、二つに一つでございます−と。捨て身の彼女の訴えに、幕府は彼女の言い分を聞き入れ、明成の40余万石は没収、代わりに1万石を与えて家名だけを継がせることにした。千姫という後ろ楯があったにせよ、天秀尼は見事に勝ったのだ。天下の高野山が守りきれなかった憲法違反者の妻子の命を女の細腕で守り通したのだ。こうして同寺は「縁切り寺」「駆け込み寺」として広く認知され、夫や姑に虐待されても自分の方から離婚を申し立てられなかった当時の女性にとって、長く救いの場所になったのだ。
彼女の死去により、豊臣秀吉の直系は断絶した。 
細川ガラシャ

 

細川ガラシャの夫を変えた悲壮な死
徳川家康と、これに従う諸大名が東北に向かった留守に、石田三成は兵を起こした。玉の夫細川忠興も勇躍、徳川家康の軍に参加していた。大坂城周辺にいた諸大名の家族は次々と城内へ拉致された。細川邸にも軍勢がやってきた。留守を仕切っていたのが家老の小笠原少斎である。細川忠興は出陣する時打少斉に命じた。 
「玉を絶対に敵に渡してはならぬ」これには理由があったという。それは、玉があまりにも美しすぎるので、忠興は終始男性としての不安を感じていた。 
「玉を他人に盗まれはしないか」ということだ。豊臣秀吉が天下人時代に、しきりに大名の夫人を城内に招いた。妙な噂が立った。それは秀吉が無類の女好きで、「大名夫人に、夜の相手をさせている」 
というものだった。しかし、そういう噂を立てられても、身を屈して妻を城内へ差し出す大名もいた。物笑いになった。玉にも声がかかってきたことがある。しかし、玉は頑としてはねつけた。秀吉は苦笑した。 
「さすが光秀の娘だ。気が強い」と言い、二度と声はかけなかった。そういうことがあったので、忠興にすれば、「たとえ秀吉公がいなくても、大坂城内では、人質がどんな目にあわされるかわからぬ」 
と心配していたのである。玉にすれば笑止千万な心配だ。 
石田勢は執拗だった。渡せ、渡さぬの押し問答が続いた。石田勢はついに武力行使を宣言した。小笠原少斎は玉のところに行った。 
「いかがなさいますか」そう聞いた。玉は平然として、「私を薙刀で突きなさい」と命じた。少斎は眉を寄せた。大名の妻なら懐剣で自分の身を突き、自決することも可能だ。 
なぜその道を選ばないのだろうか、と不思議に思った。そんな少斎の気持ちを察して玉はこう言った。 
「キリシタンは自殺を禁じられております」少斎は納得した。しかし毅然と言い切る玉の姿勢に別なものを感じた。 
「玉様は、最後までご自身の誇りを貫かれるおつもりなのだ」玉の気性からすれば、たとえ禁じられていても敵に自分の身体が奪われるとなれば、あえて自決するはずだ。あるいは、いくつかの大名家で敢行したように屋敷からの脱出も可能だったろう。が、玉はあえてそれをしなかった。  
細川ガラシャ2 
人間の運命を見事に全うした女の一生、細川忠輿とガラシャ玉
ある日、久しぶりにふたりで食事をした。庭で植木職人が高い木に登って努定を行なっていた。が、どうしたのか突然、足を踏みはずした。地面が揺れた。怒った忠輿は、だまって立ち上がると、刀を抜いて、いきなりその植木職人を殺してしまった。 
戻ってきた忠輿を、玉は静かな表情で見た。あまりの冷静さに、忠興があきれて言った。 
「ずいぶん冷静だな。おまえは蛇か?」玉は静かにこう答えた。「鬼の女房には、蛇がふさわしゅうございましょう」これには忠輿も言い返すことばを失った。 
忠輿は秀吉に重用されて仕事が忙しいため、なかなか屋敷に居つかない。玉はひとりで過ごすことが多くなった。やがて玉は、変わらずに仕えていたマリアの言に従って、ついに洗礼を受けた。ガラシャという洗礼名をもらった。ガラシャというのは、<神の恩寵>のことである。信仰一途に生きはじめた玉は、生きがいを得た。 
やがて、関ケ原の合戦が起こった。忠興は父・幽斎とともに、徳川家康のひきいる東軍につく。西軍の将として、石田三成は大坂にいた徳川方の大名の妻子に人質として大坂城に入城するよう追った。玉のところにも軍勢がやってきた。この時、玉は入城を拒み、家老に、「わたしはキリシタンなので自殺はできません。あなたが殺してください」と言って、自分の胸を槍で突かせた。家老は玉を殺したあと、屋敷に火を放ち、その火の中で腹を切って死んだ。 
そのことを前線で知った忠輿は、言いようのない衝撃を受けた。 
「わたしは石田三成の人質にはなりません。自分を大切にして、お先にあの世へまいります」忠輿への遺書には、そう書かれていた。忠興が感動したのは、「妻は最後まで人間の尊厳を大切にして生きぬいた」ということである。そして、そのために死を恐れなかったということだ。以後の忠輿は変わる。かれは玉の死によって学んだ。「自分にとっていちばん大切なものは、どんなことがあっても失ってはならない」ということを。
細川ガラシャ3 
クリスチャンが最後は“武士の妻”で生涯を全う
細川忠興の妻ガラシャ(おたま)は「関が原の戦い」の直前、豊臣方の石田三成が豊臣家に縁のある大名を味方につけようとして、その妻子を大阪城内に移そうとした。その際、徳川家康に従って上杉征伐に出陣している夫・忠興の命でなければ行動できないと三成の命令を拒み、キリシタンで自害できない彼女は火が放たれた屋敷で、家来の振りかざす白刃の下で果てた。享年37歳。一本気な彼女らしい壮烈な最期だ。その最期の言葉が
ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花は花なれ人は人なれ
の辞世だ。ちょっと妙に思われるのは、彼女はガラシャという洗礼名を持つクリスチャンだ。その彼女が日本風の辞世を詠んで死を迎えたことだ。当時の彼女は朝夕のお祈りなど精神的にはクリスチャンとしての生活を送っていたと思われるのに、最後は“日本の武士の妻”として波乱万丈の生涯を全うしたのだ。そのことが後世の人の、細川ガラシャに対する哀憐の情をさらに深めていることは言うまでもない。 
細川ガラシャ(おたま)は明智光秀の三女。生没年1563〜1600。織田信長の仲介による政略結婚。三男二女を産む。美男美女で夫婦仲は大変よかった。ところが、1582年6月、父・光秀が主君信長を本能寺で討って、事態は急変。夫・忠興が光秀を見捨てて秀吉側についたため、当時のおたまは形の上で離縁され、丹波山中に幽閉された。父の叛乱のショックと、この山中での瞑想生活がキリスト教入信の契機になったと思われる。二年後、信長に代わって天下を統一した秀吉に許され復縁、夫婦として再スタートした。
1587年、洗礼を受けてガラシャの霊名を受けた。ただ、忠興は嫉妬心が異常に強く、ガラシャは教会への礼拝さえ思うに任せなかったらしい。ざっくばらんに言えば二人はしょっちゅう火花を散らすようなケンカをしていた。当時の大名家の夫婦としては極めて珍しい、ある意味で近代的な感じの夫婦だったのかもしれない。
文献によると、ガラシャ(おたま)は容貌の美しさは比べるものなく、精神活発にして鋭く、決断力に富み、心情高尚、才智抜きんずる−とあり、誇り高く、冒しがたい気品のある女性だった。 
お豪

 

島流しの夫を支えつづけた利家の娘、宇喜多秀家とお豪
一方、秀家が薩摩に逃亡したのち、お豪は実家の前田家に戻った。前田家は加賀国(石川県)の金沢城に拠点をおいていた。しかし、やがて夫の秀家が自首し、家康に命を助けられて八丈島に流されたと開くと、「私も八丈島に行きたい」と、お豪は無茶なことを言った。お豪はかなり強気な女性で、男のような振る舞いが多かったという。まわりの人間はしきりに止めた。が、お蒙はあきらめなかった。 
その後、前田家は富山に分家をつくつた。現在の富山城である。これに目をつけたお豪は、一策をめぐらして、富山の山岳部のふもとに、「奥山番」という役所を設けてももらった。これは、分家が管理する山林関連の仕事を行なう役所だ。ところがお蒙のねらいは、山林管理などではなかった。 
「ここを基地にして、八丈島の夫に密かに必要な食糧やお金を送りたい」というのが、役所新設のほんとうの理由だった。加賀の金沢城でそんなことをおおっぴらに行なえば、すぐ徳川幕府ににらまれる。そこでお豪は知恵を働かせて、分家の城下町の片隅にこの秘密の基地を設け、実家が困らないようにしたのである。 
現在も富山市内では、この奥山番の役所のことを「浮田屋敷」と呼んでいる。字が違うが、これはおそらく世をはばかって「宇喜多」を「浮田」に変えたのだろう。 
富山を訪れた時、この家の管理責任者に話を開くと、「ここは山林管理を表向きの役目にしていますが、じつは八丈島の字喜多一族に差し入れをするための秘密の基地だったのです」と説明してくれた。 
お豪の夫思いの心は、八丈島の秀家に通じた。 
本来、島に流された罪人は、餓死させられるのがふつうだ。島の人間は面倒を見ない。秀家もかつての大名の身分を忘れて、自分で海藻を拾ったり、魚を捕まえたりしなければ生きていけなかった。秀家はつくづく「こんな暮らしには耐えられない」と思ったことだろう。 
そこへ、思いもかけぬお牽からの差し入れである。秀家は喜んだ。そして、島の端から本土を望み、遠く金沢の地にいる妻の姿を思い浮かべながら、「ありがとう」と心の底から礼を言った。この差し入れは長くつづいた。 
秀家とお豪は二度と会うことはなかったが、お豪の夫を思う気持ち、秀家の妻を思う気持ちは、時空を超えて行き交った。秀家はこの鳥で八十三歳まで生きぬく。 
ちなみに、字喜多秀家の子孫は島に定住したが、徳川幕府が存続する限り、その罪は許されなかった。幕府が倒れて明治維新になって、やっと許された。この時、宇喜多家の子孫が、まず訪ねていったのが前田家であったという。前田家の八丈島の秀家の子孫に対する厚情は、その後もつづいていたのだ。 
宇喜多秀家とお豪夫婦は、戦国に咲いた「一輪の美しい花」である。 
秀吉が秀家を愛し、おねがお豪を愛したのは、ふたりが「汚れのないナイーブな気持ち」を持っていたからである。詩人中原中也の「汚れちまった悲しみ」とは縁のない、ふたりの心の美しさを愛したのだ。苦労の連続だった秀吉とおね夫婦は、秀家・お豪蒙夫婦に、「あるべき夫婦像」を見たに違いない。  
小松

 

当て馬を見事に変身させた女の器量、真田信之と小松
しかし、決戦場である関ケ原では、西軍側に次々と裏切り者が出た。大坂城からは豊臣秀頼も、総大将の毛利輝元も出てこなかった。徳川家康は大勝し戦後後処分が行なわれた。首謀者の石田三成たちは捕らえられて処刑され、三成に味方した大名は全部領地を奪われた。 
ゲリラ戦で秀忠軍をくいとめて、ついに秀忠軍を決戦に参加させなかった真田昌幸と信繁父子は、重大な戦争犯罪人だ。当然、死刑が予想された。 
この時、小松は、「おふたりの助命をお願いしましょう」と、まず、信之に家康への助命嘆席を頼んだ。そして、「わたくしも実父にお願いします」と、みずからも手を打った。小松の実父は家康の功臣本多忠勝だ。はじめは「真田父子は殺す」と考えていた家康も、この嘆願には心を打たれた。ふたりは命を助けられ、紀州国(和歌山県)の紀ノ川上流の九度山に流された。 
そうなると小松は、「この果物を召し上がってください」とか、「ご不自由でしたら、なんでもお申しつけください。すぐお届けします」と、しきりに差し入れをした。そのたびに夫の信之は「すまぬ」と礼を言った。一方、九度山で蟄居生活を送る昌幸は信繁に、「小松はすばらしい嫁だ。おかげで命が助かったし、流刑の地での暮らしにもあまり不自由せぬ。信之は果報者だ」と再三語った。 
妻に感謝しつつも、夫の信之は半面では不思議に思い、「なぜ、おまえは父と弟にこんなに温かいのだ? 関ケ原の合戦の時には、ふたりを沼田城で門前払いしたではないか」と訊く。小松は微笑んでこう答えた。 
「あの時、おふたりはあなたの敵でございました。でも、敗れたのちは家康さまに降伏なさいました。いまは"ただの人"でございます。というより、わたくしの舅と義理の弟です。困っているのに、知らん顔はできません」「なるほど」生き方にメリハリをつけて筋道を通す妻に、信之はあらためて、「おれはこの妻に支えられている」と思うのだった。 
その後に起こった大坂の陣の前に昌幸は死に、信繁(幸村)は大坂方のために奮戦するが、豊臣家は滅びる。信之は信州松代城を与えられ、その地位は子孫に受け継がれ、明治維新までつづく。当主のひとりは、外様大名でありながら徳川幕府の老中にまでなる。 
これもすべて、信之が小松と心を合わせて、徳川家康のために尽くした結果であった。最初の婿探しで小松が選んだ信之という夫は、まさに期待どおりの武士だったのである。  
お市の方 

 

二度の落城・夫の切腹に立ち会った、淀君らの母
戦国時代に生きた女性は、いずれも決まったように政略結婚の道具にされ、運命にもてあそばれて生涯を閉じているが、織田信長の妹、「お市の方」もその一人といえる。
しかし、お市の方は、後の歴史に名を残す立派な姫君を産んでいる。後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀君)をはじめ、幾度も政略結婚の犠牲となって、最終的には徳川秀忠に嫁いで徳川家光や千姫を産むお江(ごう)、それに京極高次に嫁いだお初(はつ)の三人姉妹の母なのだ。このお市の方がいなかったら、秀頼も生まれない、家光も存在しないことになるわけで、ずいぶん歴史は変わっていたことだろう。
また、お市の方は二人の男の子を産んでいる。ただ、敗将・浅井長政との間の子だっただけに、不幸な運命をたどり、長男の万福丸は殺害され、二男の万寿丸は出家させられた。
お市は戦国時代の女性だが、生年は1547年(天文16年)(?)と定かではない。没年は1583年(天正11年)。市姫とも小谷の方とも称される。『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。父は織田信秀、信長の妹。
18歳で近江・小谷山城主、浅井長政に嫁ぎ、そして36歳のとき兄信長が本能寺で明智光秀に殺された後、信長の重臣の一人、25歳も年上の柴田勝家と再婚した。しかし、二度とも男の論理によって引き起こされた合戦の結果、落城と夫の切腹という悲惨な状況に立たされた。
二度目の越前北ノ庄城落城の際、お市の方は遂に生き抜くことの悲しみに絶えかね、勝家と運命をともにする。しかし、三人の娘だけは道連れにせず、秀吉のもとへ送り届けている。このとき詠んだのが次の辞世だ。
さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな
越前北ノ庄城での合戦の際の敵は秀吉だ。秀吉はお市の美しさに惹かれていたという説がある。落城のとき夫・勝家が勧めたように、城を出て生き延びようと思えば生きられたはずだが、なぜか夫に殉じて死を選んでいる。
戦国時代でも一番の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、兄信長にもかわいがられたお市の方の生涯。私欲のため美貌を売り物ともせず、三度同じような流転の生涯をたどることをきっぱりと拒否したきれいな生き方には、とてもさわやかなものを感じさせられる。
ただ近年、お市の方の出自に?が付けられ、彼女は信長の実の妹ではなかったのではないかとの説が出されている。実は信長とお市は男女の関係にあり、信長がお市の嫁ぎ先の浅井長政のもとを訪ねた折の、様々な不自然な行動などが槍玉に挙げられている。その後、信長が浅井長政を攻めた際のお市の対応も、少し不自然な部分があるとか、確かな論拠には欠けるが、不可思議な点があるのだ。いずれにしても、お市の方は越前北ノ庄城で夫・柴田勝家とともに紅蓮の炎の中で、その生涯を閉じたことは確かだ。 
出雲阿国  

 

歌舞伎の始祖 大スター兼プロデューサー
出雲お国の出自は諸説あり、詳しくは分からない。出雲の生まれで、父は出雲大社に召し抱えられていた鍛冶職人。お国は大社の巫女だったともいわれている。歌舞伎の歴史をみると、1603年に出雲お国が京都の五条で舞台掛けしたのが始まりとされる−とある。お国は三百数十年前に亡くなったが、歌舞伎の始祖といえるのだ。
安土・桃山時代から徳川の時代へ移るとき、出雲大社が勧進のため、お国たちを京へ上らせた。勧進とは寄付募集のことで、お国たちは神楽舞を舞ったりして人々の喜捨を仰いだ。このとき田舎からやってきたお国は、信長、秀吉らが天下を握った時代の、自由奔放で生き生きとした息吹きを感じ、神楽舞や能、幸若舞などが早晩、時代遅れになると判断。一足でも早く新しいものを始めたものが勝つと見極めをつけた。そして、さっさと勧進興行の一座を抜けてしまった。
出雲大社はカンカンになったが、お国は冷静に新しい企画に取り掛かった。彼女はまず女優だけの一座を結成した。「宝塚歌劇」を目にしているいまの私たちには何の新しさも感じられないが、当時としては画期的なことだった。何しろそれまでは演劇も舞いも男ばかり。女役も男がするものと決まっていたのを、彼女は逆手を使ったわけだ。囃し方や道化だけは男が務めるが、二枚目の男はお国をはじめ男装の女が演じた。たちまち好奇の目が集まり、お国一座は大人気を獲得したのだ。300年前のことだ。
お国歌舞伎の凄いところは、彼女はいつも主役の男役を演じ、スター兼プロデューサーだったことだ。今日風に表現すれば、これまで誰もやったことのない新しい演劇、舞踊を考え出すという企画・製作から興行・広告まで、たった一人でやってのけたのだ。舞台も桃山風の小袖をしどけなくまとって、はだけた胸からはキリシタンの金の十字架をのぞかせて−といった、時代の先端をゆく大胆で斬新奇抜なものだったらしい。踊りや芝居も、エロチックな、かなりきわどいものだったようだ。
人気が高くなると、ごひいき筋の客種がよくなるのは今も昔も同様で、お国は方々から引っ張りだこになった。諸大名や将軍家、果ては宮中にも招かれたという。
お国がここまで人気を獲得した最大の要因は、彼女の芸能人としての根性だ。何事もお客様第一。飽きられないように、次から次へと新手を考え出した。その手掛かりとして、お国は強力なブレーンを獲得した。当時の一代の風流男、名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)だ。山三郎はイケメンで、少年時代には蒲生氏郷の小姓で男色の相手として有名だったし、槍の名人でもあった。氏郷の死後、多額の遺産をもらって京で気ままな暮らしを始めた。こんな山三郎が、お国の一座のために巨額の金を出し後援しているというだけで、人気を博した。
また、お国は生半可なことではへこたれない、したたかさもみせた。頼みとする山三郎が旅先で、ある事件のために殺されてしまったのだ。彼の妹は、森美作守忠政という武士に嫁いでいたが、山三郎がその領地で森家の家臣と口論したのが災いのもとだった。山三郎の訃報がもたらされたとき、都中の人がお国一座はもうダメだろうと思った。ところが、お国はその直後、敢然と興行の幕を開けたのだ。しかも、驚くことに山三郎の死を題材にした狂言を上演したのだった。山三郎はお国の愛人、との噂もあった。普通なら恋人の死に泣き崩れるところを、二人の経緯を自作自演したのだから、都中の話題をさらった。まさに芸能人のど根性だ。大スターであり、歌舞伎役者・お国の真骨頂ともいえよう。  
山内一豊の妻・千代  

 

へそくりで名馬を買い入れた内助の功で有名
戦国末期の武将で、信長・秀吉・家康に仕え、後の土佐二十四万石の大名となった山内一豊(1546〜1605)の妻。近江の若宮家の出といわれるが、確かなことは分からない。千代の生没年は1556年(弘治2年)〜1617年(元和3年)。出生地には諸説あり定かではないが、郡上市八幡町と米原市近江町の二つが有力だ。千代は良妻賢母を称える際に必ず名を挙げられる女性で、彼女の「内助の功」に関する逸話は周知の通り。へそくりで奥州の名馬を買い、馬揃えで織田信長の目にとまった話が有名だ。
浪人生活の一豊と貧乏の中で結婚し、その日の糧にも事欠く生活を送っていたとき、一人の馬喰が見事な馬を売りにきた。一豊が大層欲しがるのをみて、千代は“夫の一大事の折に用いよ”と嫁ぐときに育ての親からもらった十両を、鏡筐の底から出して夫に差し出し、その奥州の名馬を買い入れた。
翌年、馬揃えの式で信長の目にとまり、馬を買い入れた経緯を聞き「あっぱれなる女房を持って一豊は天下一の果報者ぞ」と褒められた。その後、一豊はその馬にまたがり、様々な戦場をかけめぐって勇猛振りを発揮したという。ただ、残念ながらこの逸話を証明する史料は何もない。
一豊は信長、秀吉と仕え、秀吉に掛川(静岡)五万石をもらい、大名になる。さらに関ケ原では徳川につき、家康から抜擢を受けて土佐をもらった。一豊というと、奥方の千代が偉くて様々な逸話があるが、作り話が多い。いずれにしても「奥方のおかげ」は幕末までいわれたようだ。頼山陽に千代の才覚をうたった詩があって、これが知れわたって、伝説が文学になって一層広まったとみられる。
では、一豊は千代の力なしには出世できないような人だったのか?確かなことは分からないが、人間の器量が割合大きく「いいたいやつには言わせておけ」とあまり気にとめなかっただけなのではないか。一豊自身、関ケ原の時、掛川の城を家康に「おたくでお使いください」と明け渡した。家康は後で「あそこで山内殿がああいってくれたから、みんなが右へならえしてくれた」と一豊を褒めた。そして、それが土佐二十四万石につながったのだ。
一豊は決してボンクラではなかった。物事はよくできるが、千代の方が頭がよく、カンがよく、世間の見える女だったので、亭主の仕事に口を出したということのようだ。そして、それが幸運にもすべて適切だったというわけだ。
一豊は土佐入国から5年、1605年(慶長10年)61歳で亡くなった。夫の死後、妻千代は出家し、見性院(けんしょういん)となり一豊の冥福を祈りつつ、念仏三昧の穏やかな生活を送るはずだった。ところが、彼女は一豊の存命時代と同様、その政治・外交力などで山内家を助け、京都で61歳で没した。 
お江与  

 

三度目の嫁ぎ先で徳川二代将軍秀忠の正室の座射止める
お江与は、度々女としての不幸に出くわしながら、幸運にも3度目の嫁ぎ先で後世に広く知られる存在となった。徳川二代将軍秀忠夫人、正室の座を射止めたのだ。とはいえ、この結婚、全くのシンデレラ・ストーリーというものではない。それは彼女自身の血筋が良かったから可能だったといえる。彼女は、豊臣秀吉の側室となり、権勢を誇った淀君の二人目の妹なのだ。
お江与は1573年、近江小谷城主・浅井長政と織田信長の妹、お市の方との間に生まれた。上に兄・万福丸、姉・茶々、初の二人がいた。彼女は江(幼名=ごう)、達子(みちこ)、徳子、小督(こごう)など、多くの名で呼ばれている。母お市の方は、当時のミス日本ともいうべき美貌の持ち主だったほか、姉の茶々もそれに劣らぬ美人だったようだ。だが、お江与には美人だったという言い伝えも史料も全く残っていない。
冒頭でお江与は度々不幸に出くわしたと述べたが、それはもう尋常なものではない。父の死、母の死、夫の死なのだ。既述の通り、父は小谷城の主、浅井長政、母はお市の方だ。彼女の悲劇は物心つくかつかないうちに始まった。父の居城・小谷城が、母の兄織田信長に攻められて落城。父は自刃、母とともに彼女は信長に引き取られた。ところが、その信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺され、庇護者を失った母は柴田勝家と再婚。それに従って越前へ行くが、今度はその勝家が豊臣秀吉に攻められて敗死し、母も世の無常を感じ遂に勝家に従って自害してしまったのだ。
父も母も失い孤児となった三姉妹のうち、初めに縁談がまとまったのが、姉茶々に比べると器量のよくなかったお江与だった。16歳のときのことだ。彼女の最初の夫は尾張の小大名、佐治与九郎一成だった。彼女の伯母、お犬(お市の姉)が佐治家に嫁いでもうけた子だから、従兄にあたる。この縁組をまとめたのは羽柴秀吉だ。彼はこの後、お江与のすぐ上の姉のお初と京極高次の縁談もまとめている。つまり、秀吉の狙いは茶々を手に入れることで、茶々の周りの妹たちが邪魔だったのだ。
そんな秀吉の魂胆はさておき、お江与は大名の格としては三流でも、マイホーム型の良き亭主、与九郎との間で愛を育み、幸せなときを過ごし、見違えるような「女」に成熟したようだ。だが、皮肉にもその変貌した美しさのために、彼女の不幸が始まる。その頃、姉の茶々は秀吉夫人となって秀頼を産んでいる。そのお祝いも兼ね、茶々を訪ねたお江与は、秀吉にも久しぶりに対面した。その道にかけては抜け目のない秀吉は、どうにかしたいものと考え、密かに佐治与九郎に離婚を命じる。しかし茶々の手前、自分の側室にすることは無理と判断した秀吉は、甥の羽柴秀勝の妻にしてしまう。この強引な離婚は、お江与本人の知らぬ間に進められ、有無をいわさず秀勝の妻にされてしまったというのが実態だったようだ。ともあれ、彼女はいまや関白さまの甥の妻となったのだ。ただ、この結婚は彼女に幸せをもたらしはしなかった。新しい夫の秀勝が朝鮮戦役に出陣して1592年、彼の地で亡くなったのだ。20歳ぐらいの年齢で、二度目の夫にも死別するという夫運の悪さだ。
そこで、またも秀吉は彼女の嫁入り口を探し出す。今度の相手はライバル徳川家康の嫡男・秀忠だった。秀勝の死後3年経った1595年(文禄4年)お江与は秀忠に嫁した。この結婚は茶々(=淀君)の妹という身分を最大に政治的に利用した、実力者・徳川家との婚姻政策だったことは間違いない。
それにしてもこの結婚は世にも奇妙な組み合わせだった。新婦のお江与は23歳で二回離別の身だったのに、新郎は初婚の、それもたった17歳の少年だった。一見、不似合いな結婚は彼女に幸せをもたらした。関ケ原、大坂の陣での豊臣方の敗北と徳川方の勝利。姉の茶々(=淀君)の無残な死と引き換えに、彼女はトップレディーにのしあがるのだ。そして、いま一つ幸運だったのは夫の秀忠が、徳川歴代将軍の中で異例ともいえるカタブツだったことだ。
徳川家に嫁してからお江与は千姫(豊臣秀頼夫人)、子々(ねね)姫(または珠姫)、勝姫、初姫と女子ばかり産んだが、1604年(慶長9年)、結婚10年目にしてようやく嫡子を産む。これが三代将軍家光だ。その後もお江与は秀忠との間に次男忠長、五女和子を産んでいる。この和子が後水尾天皇に嫁ぎ、後の明正天皇を産み、徳川家と天皇家を結ぶ絆になっている。お江与は出家した後、崇源院となり、1626年(寛永3年)江戸城で没。54歳だった。 
春日局

 

時代はまだお市の方の三姉妹の話から離れることができません。 
二代将軍徳川秀忠の妻となったお江与は、非常に幸せな生活を送りました。秀忠は側室をほとんどおかず、お江与をひたすら大事にしてくれたため、彼女は三度目の結婚において、やっと安らぎを得ることができたのです。 
彼女は豊臣秀頼の正室となる千姫、後水尾天皇の中宮となって明正天皇を産む和子、そして三代将軍となる家光のほか、京極家にお初を養女に出していて、彼女の存在によって名家浅野家の血筋が後世に伝えられることになります。 
さて、秀忠とお江与の間には最初男の子が生まれ、続いて竹千代(家光)が生まれるのですが、竹千代が生まれた途端、最初の男の子が死んでしまいます。すると両親としては、竹千代が生まれた為に上の子が死んだような気がして、どうも竹千代に対して愛情を降り注ぐことができませんでした。 
そうこうする内、お江与はまた男の子・国松(忠長)を産みます。すると今度はこちらが死んだ子の生まれ変わりのような気がして、両親の愛は国松一人に集中することになるのです。 
この辛い少年時代を支えたのが竹千代の乳母の斎藤福でした。彼女の父は明智光秀の家臣だったために、豊臣の世では日の当たらぬ所で生きて来たのですが、徳川の世になると一転して豊臣の敵であったということで、逆によい立場に置かれ、彼女が天然痘経験済みを示すひどいアバタ顔であって、乳母としては天然痘の免疫を持っている者は非常に適任であったことから竹千代の乳母に採用されたのです。 
逆賊の汚名を着て顔もアバタだらけで、辛い日々がこの後一転する訳ですが、彼女はやってきた幸運を座ってただ味わっているような女性ではありませんでした。彼女は自分の力で運命の輪を動かして行きます。 
彼女は竹千代・国松の両親たちの態度を見ていて、このままでは世継ぎは竹千代を差し置いて国松になってしまう、と危機感を覚え、家康に直訴することを考えます。しかし当時はもう入鉄砲・出女の規制の掛かっていた頃で、女性が隠密裏に江戸を出ることは不可能でした。その為、彼女はお伊勢参りに行きます、という口実を作って江戸城を出、そのまま駿府城に退いていた家康の所へ行って現状を訴えます。家康はすぐに行動を起こしました。 
突然の大御所の来城に秀忠は慌てます。とにかく上座を勧めて、挨拶など交わすのですが、「孫の顔が見たくなってのう」などと家康はとぼけた顔で言います。そこで竹千代と国松が呼ばれるのですが、家康は竹千代に「こちらに来なさい」と言って呼び寄せ、隣に座らせます。すると国松も一緒に側に寄ろうとしますが、ここで厳しい言葉を投げつけます。「長幼の儀礼をわきまえないとは何事か。竹千代殿は兄、世継ぎとなる身、国松殿は弟、臣下となる身であろう。同列に並ぶことは許さぬ」と。 
そして家康は畏まる秀忠に笑顔で一言声を掛けるのです。「ほんに竹千代殿はよい将軍になられるであろうのう」この家康のまさに鶴の一声により、将軍家を継ぐのは竹千代と決定したのです。 
後に竹千代は家光となって将軍職についた後、天皇家に嫁いだ妹・和子を気遣って、福を自分の使者として朝廷に派遣しています。この時、福は無位の身なので、本来殿上に上がることはできないのですが、将軍家の力で三条西実条の仮の妹という名目で強引に宮中に入り、和子中宮から「春日局(かすがのつぼね)」という号をもらいます。このことで無力感を感じた後水尾天皇は和子の産んだ皇女興子内親王に譲位、ここに859年振りの女帝が誕生します。 
更に春日局には家光が一万石を与え、女性としては異例の大名の資格を持つことになります。春日局はこうして家光から与えられた権限を大いに活用し、将軍の妻たちが住む場所、大奥に色々な秩序付けを行ない、組織として編成していきます。また彼女は家光の側近中の側近、松平伊豆守とも良好な関係を保って、政治的な問題でも色々と家光に助言をしていきました。 
彼女は結局家光をあまり愛さず、そして早死にしてしまったお江与に代って、家光の生母に近い立場で、国政に関与したとも言えるでしょう。 
江戸時代に将軍に近い立場で国政に口を出した女性は、綱吉の生母桂昌院、家斉の側室・お美代の方などの例がありますが、概して国を傾けるような関与の仕方をしているのに対して、春日局の場合は幕府の基礎作りに貢献しているのです。 
なお、春日局の行動により将軍職につきそこなった忠長ですが、終生家光とは不仲で、最後は家光から切腹を命じられます。彼の遺児・松平長七郎は無頼のやからと交わり、強盗の一味に加わるなど乱れた生活をして世の顰蹙を買ったと伝えられています。TV番組の長七郎は史実とまるで正反対の長七郎像を映しているようです。 
大奥 
江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所。 
江戸時代、徳川の天下の中で室町時代に築城された江戸城は「将軍様のお城」として増改築を繰り返されてきました。特に三代将軍家光の時までは大規模な増築がされ、総坪数は222,182坪、そのうち本丸の建坪は10,978坪になります。 
江戸城本丸は南から北へ、「表」「中奥」「大奥」の三つの部分から成っていました。「表」は、広大な白洲に謁見が行われる大広間があり、大名や役人が執務する多くの座敷が廊下でつながっていて、政治の中心となる所です。「中奥」は、将軍の官邸で、将軍が自ら政務を行なったり、普段生活している場所です。休息の間、台所、能舞台などもありました。そして「大奥」。将軍の正室をはじめとする各女性たちが住む場所で、将軍の私邸です。本丸の北半分の敷地を占め、中奥とは銅塀で遮断され、御鈴廊下と呼ばれる廊下のみでつながっていました。出入り口は御錠口(おじょうぐち)のみで、将軍が大奥に入るときは、係が太いひもにつるした鈴を鳴らすので「御鈴口(おすずぐち)」とも呼ばれました。御錠口は午前6時ごろに開き、午後6時頃に閉られ、それ以外の通行は禁じられていました。原則として将軍以外の男は入れませんでしたが、将軍の親戚の御三家・御三卿、御台所・側室の譜代大名の親戚、老中、御留守居役、大奥付の医者や僧侶は立ち入ることができたそうです。 
二代目将軍 秀忠の時代である1618年(元和4年)1月1日に「大奥法度」という法律が作られてから以後は表の世界とは完全に分離され、その体勢は江戸城開城まで続きました。 
御台所 
大奥一の女主であり主宰者でもあるのが、将軍正室である「御台所」である。御台所は、公家・宮家・天皇家から迎えるのが慣例となっていた。11代将軍徳川家斉御台所・広大院と13代将軍徳川家定御台所・天璋院の2人は、どちらも島津家出身であったが、近衛家に養女となった上で輿入れしたため形式的には例外はない。 
江戸時代初期においては大抵の場合、御台所は形式上の主宰者であった。例えば、3代家光夫人・鷹司孝子は夫との仲が極めて険悪で、正式に「御台所」と称することのないまま、結婚後程なくしてその居所を本丸から中丸に移され、大奥の実権はもっぱら春日局らが握っていた。その立場に変化が現れたのは、6代将軍徳川家宣の時代で、家宣が、御台所・天英院の父・近衛基煕を儀礼指南役として重用し敬意を表した事で、幕府役人はもちろん、大奥の儀礼も整えられた。それによって御台所の立場は不動のものとなったが、約100年もの間、御台所不在の期間が続き、その間は先代将軍の正室や将軍子女らが、大奥を主宰した。 
側室 
将軍の側室は基本的に将軍付の中臈から選ばれる。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。御台所付の中臈が将軍の目に適った場合は、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合って寝間の準備が行なわれた。 
寝間を終えた中臈は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」(おはらさま)、男子を出産すれば「お部屋様」(おへやさま)となり、ようやく正式な側室となる。さらに我が子が世子となり、やがて将軍ともなれば、落飾した側室でも将軍生母として尼御台(あまみだい、落飾した御台所)をはるかに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院はその最たる例で、従一位に叙せられている。 
しかし側室や将軍生母の力は時代が下るとともに低下していった。江戸時代後期になると、側室はたとえ我が子が将軍世子であっても自身の地位は一介の女中のそれと同等にとどまり、我が子が将軍になって初めてお上(おかみ、将軍)の最近親として礼遇された。その他の側室は二丸御殿や桜田御用屋敷で静かに余生を過ごした。 
大奥女中 
大奥に住む女性たちの大部分を占めていたのが女中たちであった。ちなみに幕府から給金を支給されていた女中たちすべてを「大奥女中」と言い、実際には将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも存在していたという。女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われる。 
女中は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別されているが、役職名は殆ど同じである。ただし、格式や権威に関しては将軍付の方が高かった。また、特定の主人を持たない女中たちを「詰」と呼んだ。 
春日局2 
「反逆者の娘」から「将軍家の乳母」へ華麗に変身 
まず、春日局がたどった生涯を、大ざっぱに整理しておこう。 
春日局は本名を福といい、天正七年(一五七九)に生まれた。父は斎藤内蔵助利三であり、利三の父は利賢といった。福の母あんは、明智光秀の妹であり、稲葉一鉄の姪にあたる。稲葉一鉄は、最後には良通といったが、それまでに通以、通朝、貞通、長通などと何度も名を変えた。美濃(岐阜県)清水城の城主であり、「美濃三人衆」の一人といわれた。国盗りとかマムシと呼ばれた斎藤道三以来の重臣だったが、その子義龍の時代になって、織田信長に帰順した。稲葉一鉄だけでなく、三人衆の他の二人も信長にしたがった。早くいえば、斎藤家を裏切って織田信長にしたがったのである。 
福の父の斎藤利三は、よく転職した。はじめは斎藤義龍に仕え、その後、稲葉一鉄に仕え、やがて義兄にあたる明智光秀に仕えた。 
この斎藤利三は、有名な明智光秀の織田信長殺し(本能寺の変)で、信長を攻撃した主力部隊の総大将をつとめている。だから、直接、信長を殺したのは福の父だったといっていい。 
本能寺の変のあと、信長の部下であった羽柴秀吉がたちまち明智光秀を攻めたが、斎藤利三は近江国に隠れていた。しかし、発見されて、長男とともに処刑された。 
反逆者の娘となった福は、このとき四歳だったが、母とともに、伯母の夫である四国の長曾我部元親を頼って土佐に渡った。そしてそこで成長した。 
十七歳になったとき、本土に戻り、母方の親戚にあたる稲葉重通の養女となって、重通の養子の稲葉正成の妻になった。正成はすでに重通の娘の婿になっていたが、その娘が死んだので、福を後妻にしたのである。ところが福は、美人ではなかった。子供のころにかかった痘瘡の痕が、たくきんのアバタとなって残っていた。いまふうにいえば、完全なブスであった。そのため夫の心はしだいに福から離れていく。 
福は、正成とのあいだに、正勝、正定、正利という三人の男の子を生んだ。だが、世の中が落ち着いてくると、夫の正成に情人ができた。正成は、これみよがしにその情人を家に引きいれて、一緒に暮らしはじめた。怒った福は、その情人を刺し殺し、家を飛びだした。  
徳川家康に直訴し家光を将軍に 
このようにして福は竹千代の乳母に採用されたのであるが、竹千代が成人するにしたがい、父の秀忠と、その妻である江与は、竹千代のあとに生まれた国松のほうを愛するようになった。そして二人は、「竹千代よりも、国松を跡取りにしたい」と考えはじめた。これは母江与の強い希望だったが、どうも父の秀忠もぐらついていたようだ。 
これを見た福は、たいへんなことだと思い、「お伊勢さまにおまいりしてきます」とウソをついて東海道をのぼった。そして、静岡にいた徳川家康に直訴した。福の訴えを開いた家康は、「秀忠のバカめ」とつぶやき、「鷹狩りに行く」といって、そのまま江戸城までやってきた。そして、秀忠や江戸城の重役たちが居並ぶ前で、はっきり竹千代を次期相続人に指名したのである。 
竹千代が、のちの徳川家光として三代将軍のポストを得たのには、福の直訴が絶対的な影響をもっていた。したがって家光は、福が死ぬまで、単なる乳母としてだけでなく、自分を将軍の地位につけた恩人として敬ったのである。そのため、福の権限は絶大なものになった。 
福は、家光に売った恩を最大限に活用した。つまり、「大奥」という女性社会に、単なる将軍のセックス発散の場ではなく、オモテの政治や幕府上層部の人事にまでかなり口を出せるような権限をもたせたのである。いわば「力をもつ女性社会」を、江戸城の一角に構築したことになる。 
ただし、これだけなら、福の単なる″女の野望″の実現で終わってしまう。が、福はそうしなかった。彼女は、大奥に構築した女性の権限の代表者として、オモテの幕府の威令を天下に示すうえでも活躍した。それは、ときの新郎賢皇を退位に追いこんだことである。  
家光の弟・国松を自害に追いやる 
その最大の例が、国松が成長してからの始末である。国松はのちに駿河大納言忠長としていろいろな問題を起こすが、結局、兄の家光の命によって流罪人となり、やがて自害して果ててしまう。その背後には福のカが大きく働いていたという。 
また彼女は、家光の側近群を育てあげた。自分の子供である稲葉正勝のほか、阿部忠秋、松平信綱、堀田正盛、三浦正次、久世広之などはすべて福の息がかかっていた。同時に、家光の補導役であった酒井忠世、土井利勝、青山忠俊などの実力者も、福に一目おいていた。さらに福は、自分の生んだ子供たちをそれぞれ大名にしてもらっただけでなく、かつて別れた夫の稲葉正成をも大名に取りたててもらった。 
福の長男である正勝の系統は、長く大坂の淀城主となった。幕末の城主稲葉正邦は、老中になっていた。が、鳥羽伏見の戦いのときには淀城の門を閉ざし、敗走してくる幕府軍を一兵も入れなかった。この事件は「淀城の裏切り」として有名である。もちろん、福は知るよしもなかった。 
福は、寛永二十年(一六四三)に死んだ。六十五歳であった。  
波瀾万丈の経歴 
これまで見てきたように、福の経歴はまさに波瀾万丈の生涯といっていい。そこで今度は、視点を変えて、彼女の生涯を別な角度から整理してみよう。大ざっぱに分けて、彼女の生涯は次のようにいえるだろう。 
○時代の波に翻弄きれ、転職をくりかえす父とともに生きる。結局、父は反逆者として捕らえられ、刑死するという少女時代。 
○そのために、流浪と潜伏をくりかえさなければならなかった娘の時代。 
○不美人であるにもかかわらず、親戚側の事情によって一族の男の後妻に入らなければならなかった妻の時代。しかし、三人まで子を生んだが、結局は夫に情人ができたために、これを刺し殺して家を出た時代。 
○たまたま京の高札場で見た乳母募集に応募して採用され、以後、将軍家康の孫である竹千代の保育にあたった時代。 
○単なる乳母から、たまたま起こった将軍の後継ぎ問題に積極的に乗りだして、大御所家康に直訴するという時代。 
○それが受けいれられて、竹千代が将軍家光となり、その威光を背景に「大奥」という女性社会をつくりだした時代。 
○その女性社会の権限をフルに活用した時代。 
福が経験したこれらの「時代」には、やはり大きな「歴史のうねり」がある。つまり福は、まさしくこのころの日本人が味わった「戦国の世から平和な日本社会への移行」を、文字どおり自分のこととして味わったのである。 
その意味では、この時代に生きた歴史上の人物と、福はことごとく接触している。織餌信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光だけでなく、稲葉一鉄、明智光秀、江与、酒井忠世、土井利勝、青山忠俊、阿部忠秋、松平信綱、堀田正盛、三浦正次、久世広之などである。さらに、名所司代といわれた板倉勝重も入る。 
これだけ多彩な歴史上の人物とかかわりをもった女性もめずらしい。そういう意味でも、福の人生は傑出している。  
愛妾を殺すが家康の後ろ盾があったので追求されなかった 
そうなると、正成の性格が一変した。わがままになった。同時に、いままで隠していた別な面を露骨にした。何人かの愛妾をつくり、この女性たちと福たちを同居させた。これは、福にとってたまらない屈辱であった。しかも、正勝、正定、正利の三人の子を生んですべて男子だったために、福の存在そのものも用ずみになってきた。 
福の胸のなかで、少女のころに身につけた「流動精神」が頭をもたげた。流動精神は、一所懸命という規制の秩序に対してある種の反逆性をもっている。福は、流動精神に忠実にしたがった。つまり、稲葉家に漂っている一所懸命の思想に反乱を起こしたのである。どう反乱したかといえば、慶長九年(一六〇四)の夏、彼女は突然、夫正成の愛妾の一人を刺し殺した。 
このへんはほんとうにそうであったのかどうか、確かめるすべはない。が、多くの書物にそう書いてある。そうなると、福は殺人を犯したことになる。そして、夫の愛妾を殺すということは、殺人の理由としては正当性がない。つまり、嫉妬の所産であるからだ。 
にもかかわらず、福はその後の生涯をまっとうする。福が将軍家の乳母となってからも、この殺人を罪として追及きれたことは一度もない。これはやはり、徳川家康のかばいだてが功を奏していたのであろうか。 
忘れないうちに書いておけば、徳川家康がのちの福に対して特別なかばいだてをしたのには、福のそれまでの人生航路が(かなり俺と似ているな)と思ったからだろう。家康もまた、不幸な前半生を送っていた。とくに六歳のときから十八鹿のときまでは、人質として他人の家の冷飯を食った。半分は囚われ人としての生活である。そんな暮らしをして、明るい気持ちが植えつけられるはずがない。 
家康は、「人間の一生は、重い荷をかついで遠い山道を行くようなものだ。急いではならない」という有名な人生観をもっていた。ここには、家康独得の怜倒な人間観察眼が感じられる。 
つまり、違った言い方をすれば、「俺は、少年期から青年期にかけて深い傷を負った。自分で、猫のようにその傷をなめながら育った。だから、俺には他人の傷の痛みがわかる」ということだろう。 
福を発見した家康の目には、福が単なる女性ではなく、自分と同じような人生航路をたどってきた人間として映ったことだろう。つまり、「同じ傷の共有者」として福を見たのではなかろう。  
将軍夫人の「威厳」に新しい人生目標を見出す 
しかも、普通なら、自分よりすぐれた女性に出会うと羨望や嫉妬や、果ては憎悪の念までもつ人もいるだろうが、福の場合は違った。はっきりいって、福は江与に感嘆したのである。 
彼女もまた、自分なりに調べて、江与の生涯を頭のなかに諳んじていた。自分と同じような経歴をたどっているし、その意味では決して前半生は幸福とはいえない。とくに、徳川家の牙城である江戸城に入って、いったいどういう孤独な生活を送っているのか、と勘ぐりさえした。 
ところが、江与にはそんなところは微塵もなかった。めざめた一個の女性として堂々とふるまっていた。夫の秀忠に対してきえ毅然とした姿勢を保ち、自分を卑しめるような低い悪度をとらなかった。このことは、福自身にも新しい目標を与えた。つまり、「自分以上に不幸な半生を送りながら、しかもなお、敢然として生きている方がいらっしゃる。私もこんな人生を送りたい」という思いである。 
いまの言葉でいえば、福は、江与の毅然とした態度にサディズム的な要素を発見し、そして、それをたたきつけられることにえもいわれぬ快感を覚えていたのである。したがって、福の場合はマゾヒズム的感覚が濃厚だったといっていいだろう。さげすまれ、たたきつけるような態度をとられながらも福は、江与に反感を覚えることなく、逆に感動してしまったのである。 
こういうところが、福の「教養を超えた猪突性」の一端だといといえるだろう。つまり、言葉は悪いが、福はいわば「感激オンチ」だったのではなかろうか。 
福は江与に会って、対抗者としてよりも、むしろ「学ぶところの多い女性」と感じた。これは、福にとってよいことだったかもしれない。だが、初対面の日に、これほどまでに福を感動させた江与とは、その後まもなく敵対関係に入る。それも、女同士が自分の生命をもかけかねないような一大闘争に発展する。  
福の直訴に家康が江戸城に乗りこむ 
ある日、福は突然、「お伊勢まいりに出かけたい」と願いでた。このことが秀忠夫妻に伝えられると、夫妻とも「いいだろう」と許可した。竹千代も国松も、ある程度大きくなっていたからである。 
福は飛びあがって喜んだ。しかし、その喜びの色を表しはしなかった。彼女は、すぐ旅出た。もちろん、伊勢になど行く気はない。彼女がめざしたのは駿府である。駿府につくさっそく家康に面会を申しこみ、家康は「よし、会おう」と応じた。その後の孫たちの話聞きたかったからである。しかし、家康の前に出た福は張りつめた面持ちで、江戸城内の忠夫妻の竹千代と国松に対する態度を語った。 
このときの家康の態度については、「秀忠夫妻はとんでもないヤツだ! 俺がすぐ江戸に行って決着をつける」と怒ったという説もあれば、逆に、「お前は乳母の分際で、将軍のすることにいちいち勝手な推測を加えるとんでもない女だ! さがれ!」とどなりつけという説もある。どっちがほんとうかわからないし、前者の考えを胸に抱きながら後者の態度をとったとも考えられる。 
むしろそれらの説よりも、いっさいの反応を示さずに、ただ「ご苦労さん」と応じたという見方のほうが真実に近いかもしれない。つまりタヌキおやじの家康は、目を細めて「ふふん」といいながら、いっこうに驚いた様子もなく黙って福の話を開いていたのではあるいか。いくら心の中であれこれと思っていても、それを表情に出すほど家康は単純な男でなかったはずである。  
家康は弟・国松を怒鳴り竹千代をたてる 
すでに使いを走らせていたので、家康たちが江戸城につくころ、竹千代と国松は堀の端で出て祖父を迎えた。このとき家康は、二人の孫に「おう、おう」と声をかけただけで、段改まった態度は示さなかった。 
家康は西の丸に入った。翌朝、家康の日の覚めたところを見はからって、秀忠夫妻は二人の息子をつれてきた。が、妻の江与のほうは、意識的に国松を竹千代より前に出すようにしていた。 
家康は、二人の孫を見ると、こういう声のかけ方をした。 
「おう、竹千代、大きくなったな。ここへ来い。菓子をやろう」 
家康は、一段高い座にすわっていた。指名なので、江与は秀忠と顔を見合わせ、しぶしぶ竹千代に「おじいさまのところに行きなさい」と冷たくいった。竹千代は、オドオドしながら家康のそばに行った。家康は竹千代の頭をなで、「いい子だ、いい子だ」といいながら、菓子を与えて自分の脇にすわらせた。 
江与は、国松の尻をつついた。そして小さな声で、「お前もはやく、おじいさまのそばに行きなさい」といった。国松は、竹千代とは違って天真爛漫な子だから、母親にいわれるとすぐチョコチョコと家康のそばに行った。そして、そのまま竹千代の脇にすわろうとすると、突然、家康がカッと目をむいた。そして、「国松!お前はここにすわってはならない!下におれ」とどなりつけた。  
福の事件で長子相続制が定まった 
この事件で、徳川家には次のようなルールが生まれたといっていいだろう。 
○徳川将軍家は、徳川本家の長男をもって相続人とする。 
○それは、長男が多少ボンクラであっても家臣がそれを補佐して、将軍の責務をまっとうさせるということになる。 
○同時にこれは、もはや徳川家以外の人間には将軍のポストを与えないということを意味する。それはとりもなおさず、「徳川家康は、成人した豊臣秀頼にそろそろ将軍の職を譲るだろう」すなわち「天下を譲るだろ、つ」という世間の憶測をたたきつぶし、「そんなことはない」という決意のほどを天下に示すことになる。 
徳川家康は、はじめのうちはおそらく、最後の「天下は二度と豊臣家に渡さない」という点を強調することにウエートをおいていただろう。その意味では、「徳川将軍家の後継ぎは、別に長男でなくても有能な者であれば誰でもいいのではないか」という考えをもっていたかもしれない。「長子相続制」までは考えがおよんでいなかったかもしれない。それが、この事件によって家康自身のフラフラする気持ちもはっきりさせられたのである。そうきせたのは、なんといっても福のカであった。  
福は子供、親族を出世させた 
稲葉千熊は、福が稲葉正成の後妻となって生んだ子供である。亭主がほかに愛人をつくり、その愛人を福が刺し殺すという事件も引きおこしたが、やはり子供はかわいかったようだ。福は、自分の子を竹千代の遊び相手として江戸城に呼んだ。 
また、のちにいちばん若手の老中になる堀田正盛という側近がいるが、これは福の夫であった稲葉正成の前妻が生んだ娘の亭主だ。しかし、福はこれも江戸城に引きこんで、しかも自分の養子にしている。そのため正盛の出世はフルスピードで、高いポストをきわめていった。 
こういうところを見ると、福の処世術もなかなか達者だ。彼女は、大奥というところに特別な女性の権成社会を確立したが、それだけではなかった。なんといっても、江戸幕府は男の社会である。女性の社会ではない。大奥にいかに権力を確立したといっても、もともと大奥というところは将軍の後宮だ。つまり、将軍の閏房の相手をする女性のたまり場である。 
政治は、やはりオモテで行われる。したがって、そこに同調者やいうことを開く連中がいなければ、大奥での権威もアヤフヤなものになる。そのへんを考えて福は、オモテのほうにも自分の意のままになるような若者を次々と送りこんだ。  
福は天皇を退位させた 
天皇は、このとき、侍臣を通して福に、「生まれはどこか」と聞いた。福は、「春日という土地でございます」と答えた。そこで天皇は、「今日から春日局と名のるがよい」といわれた。こうして福は、福という本名よりも彼女を有名にしている「春日局」という名を、後水尾天皇から与えられたのである。寛永六年(一六二九)十月のことであった。 
うわさが広まると、人々はみな驚いた。「前代未開のことだ」と大騒ぎになった。それはそうだ。将軍の乳母にすぎない女性が、龍顔を拝して直接お言葉をたまわったというのだから、人々は仰天したのである。 
しかし、驚きはそれだけではなかった。後水尾天皇は、徳川幕府から派遣された女性使者と面会した翌月の寛永六年十一月六日に、突然、退位を宣言した。そして、わずか七歳の興子内親王に皇位を譲った。輿子内親王は、東福門院すなわち徳川秀忠の娘和子が生んだ娘である。いわずもがなだが、興子内親王が天皇の位についたということによって女帝が出現した。これは、称徳天皇のとき以来絶えてなかったことだ。(中略) 
天皇は決して福に好感はもっていなかった。むしろ「出すぎた女め!」と思ったに違いない。 
このことが、さらに評判を呼んだ。徳川幕府は世間から、「乳母を使って天皇を退位させた」といわれた。しかし、その非難の大部分は福が受けた。福はジッと耐えた。なにも弁解しなかった。また、徳川幕府のオモテ側、つまり男性社会に対して抗議することもなかったというのも、彼女自身が、この役に命ぜられたときに「お受けいたします」と応じて出かけたからである。いったん役を引き受けた以上は、その役割が最初に開いたものと違ったからといって文句をいう筋あいではなかった。そういう点、福は、なんといっても戦国を生きぬいてきた女性である。したたかな精神がその底にあった。  
朝廷の台頭を止めるため家光の妾・お万の子を次々と堕胎させる 
徳川家光いちずに生きてきたとはいえ、現在の彼女は徳川家光一人だけを念頭においているのではない。彼女が考えているのは、「徳川家の長続き」である。 
徳川将軍家は徳川家の子孫で代々継がれなければならない。そして、その権威に対して、京都朝廷が再びカを増して、かつてのような強い存在になることは認められない。なんとしてもそれを食いとめなければならない。それが、女ながらに春日局の考えたことであった。 
そこで家光に対しては、お万を、「女性というのもなかなかいいものだ」という気にさせるための道具にとどめさせた。そういう考えを生むことには賛成だったが、実際に男の子を生むところまでは許さなかったのである。だからお万が妊娠したと開くと、それが男の子か女の子か確かめないうちに、春日局は次々と堕胎させた。このあたりは、じつに恐ろしい女だ。 
しかし、春日局にも得るところがあった。それは、お万を見て家光が、自分のほうから「あの女が欲しい」といいだしたことである。そこで春日局は、(家光さまの女性に対する関心を引きとめなければならない。それには次の女性を用意することだ)と考え、(その女性はなによりもお万に似ていなければならない)という結論に達したのである。 
こういうことになると、春日局の知恵はじつによく働く。そして、彼女の行動にはつねに一貫性がある。なによりも彼女は現実主義者であった。決してムリをしない。そして飛躍もしない。だから、家光がお万に惚れたとなれば、お万をしりぞけるようなことをしつつも、その次に差しだす女性はお万に似ている者を選ぶというような一貫性を保つのである。 
このあたりは春日局の生まれつきの才能なのか、それとも、戦国からずっと経験してきか生き方にもとづくものなのか、それはよくわからない。いずれにせよ、特別な才能といってもいいだろう。そして春日局は、今回は、お万に似た娘を探しだすという役をみずから買ってでた。もちろん″極秘″にである。 幸か不幸か、やがて、お万に似た娘を見つけた。浅草観音の境内である。
春日局3 
本名は齋藤福(さいとうふく 1579-1643 享年64)。春日局の名は天皇拝謁の際に賜った院号。お福、阿福とも呼ばれる。 
父は明智光秀の重臣で斎藤利三(斉藤利三、齋藤利三)(1534年-1582年6月17日)。母は稲葉一鉄の娘で稲葉あん。 
実家である斎藤家は斉藤道三以前からの美濃・斉藤氏の一族で、守護代を代々務めた名門。斎藤利三は斎藤義龍の死後、1561年から稲葉一鉄に仕えていたが、1579年に頑固一鉄で知られる稲葉一鉄(稲葉良通)と喧嘩別れしてからは、親戚関係だった明智光秀に1580年頃仕えたと考えられている。 
斎藤利三は明智光秀の元で手腕を発揮し、明智光秀は荻野氏の黒井城(赤井直政)を陥落させ丹波平定した際に、斎藤利三に10000石を与えられて丹波・黒井城主を命じた。その頃に齋藤福は誕生している。生まれた場所は諸説あるが、稲葉家文書には黒井城とあり、城下に齋藤福が腰をかけたという「お福石」や「お福の産湯井戸」(斎藤屋敷(下)=現在の興禅寺境内)をはじめ、誕生伝説が多くある。 
1582年の春頃には父・斎藤利三と共に丹波・亀山城にいたが、明智光秀の筆頭家老でもあった為、1582年6月2日の本能寺の変では明智光秀の命に従い織田信長を襲撃する。本能寺にて信長を討った後、一時、近江・佐和山城に入ったが、豊臣勢を迎撃する為、明智本隊に合流。1582年6月13日、山崎の戦い(山崎合戦・天王山の戦いとも)で明智勢16000の先鋒として活躍するが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)勢36500に敗北。 
亀山城下も高山右近らの攻撃を受け、斎藤福は母・お安(おあん)や兄弟と共に、京に逃げた。斎藤利三も敗走し、明智光秀の本拠地だった坂本城下の近江堅田(大津市堅田)で捕らえられて、6月17日六条河原で処刑された。亡骸は磔(はりつけ)にされたとも言われている。享年49。 
本能寺の変の際にお福はまだ4歳の幼子で、京に逃れた際に、父の処刑を見ることになったと言われており、前後して兄弟らと、浅井長政の家臣・海北綱親の子で絵師(画家)の海北友松(かいほうゆうしょう)を頼り京都の東福寺を訪れたと考えられている。海北友松は父・斎藤利三と大変仲が良かったと言われている。 
しかし、豊臣勢の追っ手が迫ったこともあり、母の父である稲葉一鉄の世話で、斎藤福は三条西公国(さんじょうにしきんくに)を頼った。三条西公国は、稲葉一鉄の妻の甥にあたり、太政大臣・左右大臣にもなれる家柄で、斎藤福らを奉公人として匿った。斎藤福は、公家の書道・歌道・香道といった教養を身につけることができた。されど、平穏な生活も約3年しか持たず、豊臣秀吉に斎藤福が三条西公国に居る事が知れてしまい、1584年、亡き父・斉藤利三の妹が長宗我部元親に嫁いでいたことから、四国は土佐・岡豊城の長宗我部元親を頼った。斎藤福は土佐で今度は武士の法律や武家の学問・知識・教養を身につけた。 
1589年、12歳になった斎藤福は、三条西家を継いでいて年もそんなに離れていなかった三条西実条を頼って再び京を訪れ、歌や文学・学問などの教養を更に身につけたと言う。斎藤福は何処へ行っても人に好かれ賢い娘だと評判だったとも言われる。 
その後、三条西家と稲葉家で話し合いも行われたのであろう。斎藤福は、稲葉一鉄の長男・稲葉重通の養女となり、稲葉福となった。ちなみに、稲葉本家は美濃・曾根城主であり、正室(三条西家公条の娘)の子であった2男の稲葉貞通が継いでおり、のちに50060石の臼杵藩初代藩主になっている。 
稲葉重通は長男でありながら側室の子であった為、稲葉本家の家督こそ継げなかったが、美濃・清水12000石を知行し大名になっていた。 
稲葉重通には林政秀の次男で、稲葉重通の娘と結婚させ、婿養子に迎えていた稲葉正成がいた。しかし、稲葉正成と結婚させていた娘が若くして亡くなった為、1595年、養女にしていた稲葉福を稲葉正成の後妻とした。稲葉福17歳、稲葉正成25歳だっと言われる。 
稲葉重通と稲葉正成は豊臣秀吉の家臣であったが、筑前・名島城主で307000石の小早川家家督を継いでいた小早川秀秋14歳の家老として仕える様、豊臣秀吉の命を受けて1597年に50000石を領した。(1594年に小早川家に養子に入った際に、稲葉重通と稲葉正成は平岡頼勝と共に小早川家家臣になったとも。) 
同じ1597年の朝鮮出兵の際には総大将として小早川秀秋が指揮したが、僅か14歳だった為、27歳の稲葉正成が副将となった。しかし、朝鮮では苦戦した為、小早川秀秋と稲葉正成は、豊臣秀吉から叱責を受ける。これを救ったのが徳川家康であり、稲葉正成と徳川家康の絆が強くなったとされている。 
この年、稲葉福は19歳で最初の男子・稲葉正勝を出産。 
1598年、豊臣秀吉が死去。以後、石田三成と徳川家康の対立が深くなって行き、1600年に関が原の戦いとなる。 
小早川秀秋は石田三成らの西軍として15600で布陣したが、稲葉正成と平岡頼勝が徳川家康と内通し、小早川秀秋を東軍に寝返らせることに成功したと言う説が有力だが諸説あり。いずれにせよ、小早川秀秋が東軍に加わったことにより大勢は決し、西軍は壊滅した。 
小早川秀秋は岡山550000石(500000石とも)に加増され、稲葉正成も70000石になったと言われている。しかし1602年、小早川秀秋が死去。子がいなかった為、徳川政権初の無嗣改易となり、小早川家は断絶・取り潰しとなり、家臣は全員浪人となった。 
小早川家の旧臣は関が原で裏切った事を良く思われず、仕官先がなかったと言う。稲葉正成も当然ながら浪人となり、稲葉正成と稲葉福は美濃で半農の生活を始めた。 
1603年には徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開く。 
1604年7月、徳川家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母を探すことになり、京都所司代・板倉勝重によって京都に在住する教養ある乳母募集がなされ、三条西実条の推薦を受け、3人目の稲葉正利を産んだばかりの稲葉福(26歳)が応募したところ採用が決定。 
徳川家康は、関ヶ原の戦いで自分に味方した元小早川家付家老・稲葉正成の戦功と妻である稲葉福の公家や武家での教養に目を止めて、稲葉福を竹千代の乳母として採用したと言われている。また、一度天然痘をやってアバタ顔であったため、天然痘に免疫もあると言う事で乳母に最適だったとも言われている。 
稲葉福は、将軍家の乳母となるために夫の稲葉正成と離婚する形をとったが、離婚した理由には諸説有。俗説では夫の浮気に怒りその相手を殺害して出奔したと言う説もあるが、一般的には一族再興と子供の出世を願って乳母に応募したと言われている。 
1604年、2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代の乳母を正式に任命。竹千代の母であるお江与の方(於江与の方)と対面した。 
竹千代は生まれながら虚弱体質で体が弱かった。生母お江の方も最初は可愛がったが1606年に次男・国松(のちの徳川忠長)が生まれると、国松を世継ぎにする為、優遇する。 
なお、竹千代が生まれ際に、最初の男子・長丸が生後9ヶ月で死んでしまう。 
お江与の方の母は織田信長の姉・お市。お江与の方は母の兄弟である織田信長を殺害した明智光秀を快く思っておらず、その明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘である齋藤福が竹千代の乳母になるのを嫌ったとされるが、お江与の父である浅井長政は織田信長の攻撃で自害し、お市の方は豊臣秀吉の攻撃で自害、姉の茶々は徳川家康の攻撃で自害、もう1人の姉・初が嫁いだ京極家は関が原では当初西軍だったが裏切って東軍に加担と、これらの事情をべると、織田信長が討たれた事じたいに、そんなに恨みを持っていたとは考えにくい。むしろ、裏切りにより翻弄される人生であった為、裏切り人に加担した者の娘と言う事で斉藤福を嫌ったものと小生は考える。 
この時代、高貴な女性は決して我が子に自ら授乳し育児をする事は無い。また、実子でもお気に入りの子だけを、ひいきにするのは普通の事だった為、お江与の方が、国松(国千代、のちの徳川忠長)を次期将軍にと推薦したのは斉藤福への対抗意識と言うものではないと考えられる。 
また、徳川秀忠は正室・お江与の方に頭が上がらなかったとされており、側室を持っていないので、お江与の方の国松を世継ぎにとの望みを無下ににはできなかったと推測する。 
徳川家光死後の1686年に編集された「春日局略譜」では、徳川秀忠夫妻が竹千代の弟・国松を溺愛している様子を見て、竹千代(徳川家光)は子供ながら自害しようとしたと言われ、斎藤福は、駿府城にいた大御所・徳川家康に長男・竹千代が世継ぎであると発表して欲しいと直訴したとされている。 
当時は既に入鉄砲・出女の規制があり、女性が勝手に箱根を越えることは不可能だった為、斎藤福はお伊勢参りを口実に旅に出たとされる。 
徳川家康は当初、竹千代を世継ぎにすることには乗り気ではなく、江戸城に赴いたところ予想以上に徳川秀忠夫妻が国松を寵愛しているのを見て、竹千代を世継ぎにするべきだと考えを改めたとも言われている。 
徳川家康が上座に座り、竹千代と国松が部屋に呼ばれた。徳川家康は竹千代に「こちらに来なさい」と言って呼び寄せ、隣に座らせた。そこへ呼ばれていない国松も一緒に側に寄ろうとたが長幼の儀礼をわきまえないとは何事か。竹千代殿は兄、世継ぎとなる身、国松殿は弟、臣下となる身であろう。同列に並ぶことは許さぬ」と発言したとか・・。 
「ほんに竹千代殿はよい将軍になられるであろうのう」との一言で、3代将軍になるのは竹千代(徳川家光)と決定したのであった。 
1607年には斎藤福と離縁していた稲葉正成は徳川家康に仕えることになり、旧領の美濃・十七条に10000石の領地を与えられ大名に列した。その後、徳川家康の孫・松平忠昌の家老に就任。1615年に豊臣が滅亡した大坂夏の陣では松平忠昌を補佐して戦功を挙げる。 
1616年4月17日、徳川家康が駿府城において死去。享年75。 
1616年5月には、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が竹千代付けの年寄に就任し、1616年9月には久世広之など約60名の少年が小姓として任命された。斎藤福の子である稲葉正勝もこの頃より竹千代に小姓として仕えたようだ。 
1618年、稲葉正成は越後・糸魚川に20000石となる。 
1618年には、稲葉正成の前の正室の子で嫡男だった稲葉正次が徳川秀忠に仕え5000石。家督は斎藤福が竹千代の乳母であったことから、家督は福が生んだ稲葉正勝に譲ることとなり、稲葉正次の子孫は旗本として代々仕えた。 
また、この年斎藤福は大奥法度を定め、整備し統括をする。 
徳川家康の死去で延期されていたが、竹千代は1620年に元服し、名を徳川家光と改名。小姓として竹千代(徳川家光)に仕えていた稲葉正勝は、御小納戸・御徒頭・小姓組番頭を経て1622年に下総・上総など5000石となり奉書に加判する奉行職に就任。 
1623年に徳川秀忠が隠居し徳川家光が将軍に就任。徳川秀忠は江戸城西の丸に隠居し、徳川家光は本丸へ移る。そして、徳川家光は大奥の統制をすべて斎藤福に任せた。 
また、斎藤福の娘(まん)が嫁ぎ先で産んだ子である堀田正盛1000石の旗本に過ぎなかったが、徳川家光の近習に取り立てられた。 
1623年8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年1623年12月には正式に徳川家光に輿入れ。 
稲葉正成は1624年、松平忠昌の越前転封には従わず再び浪人した。この頃、斉藤福は江戸の湯島に天沢寺(麟祥院)を建立している。 
前後して、稲葉正勝は常陸・真壁に5000石加増され合計10000石として柿岡藩主となり大名に列した。 
1626年にお江与が亡くなると、斎藤福は優れた手腕で大奥制度を確立し、大奥を完全に支配する。春日局自身も江戸に上・中・下屋敷を拝領し3000石を与えられている。 
また、この1626年には、近習になっていた堀田正盛が小姓組の番頭となり相模国と常陸国に合計5000石の領地に与えられ、続いて上野国にも新しく5000石を加増され、合計10000石で譜代大名となった。 
その後、斎藤福の口添えもあったようで、1627年、稲葉正成は譜代大名として再び召し出され下野・真岡20000石となったが翌年1628年10月14日に58歳で没。遺領は、稲葉正成と斎藤福の子である稲葉正勝が相続し、稲葉正勝は合計40000石となった。 
一方、将軍にはなれなかった徳川忠長は甲府・駿河550000石を与えられていたが、浅間神社で猿を斬ったり、辻斬りを行うなど奇行が目立つようになり、1631年5月には徳川秀忠より甲府への蟄居を命ぜられる。 
1632年3月4日、徳川秀忠死去。以後、徳川家光は旗本を中心とする直轄軍の再編に着手し、老中・若年寄・奉行・大目付と行った幕府政治体制を確立。 
また、1632年、徳川家光は弟・徳川忠長の駿河・甲斐両国を没収。高崎城に預けられたが翌年1633年に高崎城で自害した。享年28。 
徳川家光は1632年5月に外様系大名を招集し、肥後熊本藩主加藤忠広の改易を命じている。 
稲葉正勝はその後、徳川家光のもとで老中となり、播本藩・加藤忠広改易のときの事後処理などで功績があった事から、1632年、相模・小田原藩85000石と異例の出世をつけだ。 
堀田正盛は1633年には六人衆(後の若年寄)に任命され、相模国・常陸国・甲斐国に加増を得て合計15000石で城主格。1635年3月1日には老中に就任し、武蔵・川越藩主35000石。1638年3月8日には100000石で信濃・松本藩に転封。1642年7月16日には下総・佐倉藩110000石と、春日局の縁者は大出世を遂げている。 
徳川家光の妹である和子(まさこ)が後水尾天皇に嫁いでいたが、様子が心配になり、徳川家光は1629年に、斎藤福を伊勢参拝のついでにと将軍の名代として京都に上洛させた。しかし、斎藤福は無位無官の身。天皇の女御に面会できる地位ではなかったが徳川家光は将軍家の威光をもって強行。斎藤福を縁のある三条西実条の猶妹(仮の妹)と言う名目で宮中に入れた。 
これに対して後水尾天皇は斎藤福に「春日局」の称号を与えたが、天皇の権威が失墜したことを嘆き、また公卿らの不興をかい、後水尾天皇は和子の娘・興子内親王に譲位して、859年振りの女帝(明正天皇)が誕生した。 
なお、春日局が参内できるよう画策した三条西実条は、武家伝奏から内大臣にまで出世していたのだが、春日局参内後、1635年には従一位に進み、1640年6月には徳川家光の執奏により、三条西家としては異例の右大臣に任ぜられた。大臣家の最高職は内大臣が通例であり、右大臣任官は三条西実条と中院通躬り2例のみと言う大出世である。 
一方、徳川家光は1635年に武家諸法度を改訂し大名に参勤交代を義務づけるなど、徳川幕府体制の基礎を築いた。 
この頃までに、御台所だった徳川家光の正室・鷹司孝子は大奥から追放されて称号を「御台所」から「中の丸様(中の丸殿)」と変えられ、吹上の広芝に設けられた邸宅で軟禁生活を送らされるなど、事実上家光から離婚させられており、当然子はいなかった。 
徳川家光に世継ぎが出来ぬと斎藤福は心配し、徳川家光好みの側室探しに奔走。 
春日局の養女として大奥に入っていたお振の方との間に、徳川家光にとって初めての子ができ、1637年3月5日、長女・千代姫が誕生した。これ以降、徳川家光は側室をたくさん迎えることになる。 
1939年には春日局が見つけた伊勢・慶光院の院主であったお万の方が側室となり、1934年前後に大奥に入れていたお楽の方は1941年に、のち4代将軍となる徳川家綱を産んでいる。 
お夏の方は正室・鷹司孝子付の女中で「御末」という将軍お目見え以下の役職だったが、将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を担当しており、その際徳川家光の手がつき懐妊。のちの甲府宰相・徳川綱重を1644年に産んでいる。 
お万の方の世話をしていたお玉も春日局が探してきた女中だが、徳川家光の手がつき1946年に5代将軍となる徳川綱吉を産んでいる。 
なお、春日局は徳川家綱の誕生を見た後の1643年9月に死去、享年64。 
墓所は麟祥院で、その地の住所は東京都文京区春日となっている。 
稲葉家 
相模・小田原藩85000石となり、大出世した稲葉正勝は将来を期待されたが1634年僅か38歳で死去。長男が早世していた為、あとは次男・稲葉正則、稲葉正道と続き、いずれも幕府老中の要職を務めたが、5代将軍擁立の際、稲葉正則は失脚し、1683年に隠居。稲葉正往が家督を継いだが、1685年、江戸に近い小田原から移封となり103000石で越後・高田藩に移った。その後、102000石で下総・佐倉藩、1723年以降は山城・淀藩102000石で幕末まで続いた。 
堀田家 
堀田正盛は徳川家光から寵愛を受けた男同士の関係だったとされ、徳川家光死去の際に堀田正盛はあとを追って、同日1651年4月20日に殉死(自害)している。 
その後、下総・佐倉藩110000石は長男・堀田正信が継いだが、1660年10月8日職務を放棄して佐倉に帰った為、所領没収。堀田正信の身柄は弟である信濃・飯田藩の脇坂安政に預けられた。 
最終的には1680年5月、将軍・徳川家綱死去の報を受け、配流先の徳島で喉を突き自害している。 
しかし、堀田正盛の功績により堀田正信の長男・堀田正休はお家再興を許され、この系統は吉井藩後近江宮川藩主となった。堀田正盛の3男の堀田正俊は春日局の養子となり、徳川綱吉の時代に大老まで上り詰め、その子孫も譜代大名として幕府の要職を占めており、篤姫の時代の老中・堀田正睦(佐倉藩主)なども有名。 
徳川家光誕生の部屋と春日局化粧の部屋 
埼玉県川越市にある喜多院と言う寺に、徳川家光誕生の間と、春日局化粧の間(いずれも国の重要文化財)が、現存する。 
江戸城で生まれたはずの徳川家光が生まれた部屋がなぜ、川越にあるかと言うと、喜多院が1638年の大火で山門以外のすべての建物が消失。1539年、徳川家光が堀田正盛に命じて、江戸城にあった客殿、書院、庫裏を喜多院に移築させたのである。喜多院は天海が住職として関わりある寺であり、徳川家康の遺体を久能山から日光に送致する際にも、川越の喜多院を経由した程、天海は徳川家に大きく関わっている。 
こんなこともあり、徳川家光は喜多院の再建のため、江戸城の建物を移築し、現在も現存しているのである。  
春日局4 / 逸話

 

逸話1 亭主も子供も置き去り  
三代将軍家光の話には、何としても乳母春日局(斎藤氏、福子)を取除けられません。その春日局は名高い女でありますから、かれの経歴もあまねく世間に知られて居るようですが、誰でもする春日局の話によって、伝えられた彼の人柄は、私どもの甚しく疑うところであります。  
かれは明智日向守光秀の部下として勇名を馳せ、粟田口で磔にかかりました斎藤内蔵助利三の女で、佐渡守利光、後に朝鮮征伐に強勇の聞えを取った斎藤竜本を兄に持ち、浮田中納言秀秋の家来林八右衛門(稲葉佐渡守正成の前名)の後妻になり、男子二人を産みながら、離縁して家光の乳母に出たという女なのです。  
春日局が家光の乳母になりましたのは、慶長九年七月十五日で、二十六歳の時ですが、二人の子供は慶長二年に産んだ丹後守正勝が八歳、慶長九年に生れた内記正利は当歳、この正利が生れた年に乳母になったのです。春日局は生れたばかりの正利を残して、何故稲葉家を去ったのでしょう。稲葉正成はまた何故女房を離縁したのでしょう。  
「麟祥院清話」には春日が乳母に任用されて江戸ヘ下った後に、本夫たる故を以て、正成も徳川家へ任用されると聞いて、妻の脚布に裹(つつ)まれて出る士ではないというので、急に離別したのだとありますが、それほど立派な見識のある正成ならば、何故自分の妻を徳川氏の乳母にしたか。家康の嫡孫の乳母の本夫ならば、早かれ晩かれ俸禄の来る日があるのは知れきって居ります。女房の御蔭を蒙りたくないたらば、竹千代(家光の幼名)の乳母などに出さぬがいいので、春日だって亭主の承知しないのに、乳母になろうとする筈がないと思うのです。  
ただ稲葉正成はその時既に浪人して居りました。春日が本夫が埋れ木の花咲くこともなさそうなのを心配して、世間へ出そうというので情を忍び、本夫と愛児とに哀別し、身を夫や子供の青雲の梯にするつもりで、乳母になって遠く関東ヘ下ったのでしょうか。それならば悲しい女房の親切に対して、正成もさすがに差留めかねる事情もありましょう。  
ここのところが頗る不明瞭でありますが、それを仮定すれば、妻の親切に対して関東行きを差留めかねたけれども、何と考えても嚊の御引立てを受けるのが辛抱しきれない。そこで煩悶懊悩の結果が絶縁となったのでしょうか。そうすると稲葉正成は煮えきらない、武士らしくない男になってしまうのみならず、春日もまた妙なものにならなければなりません。三百二十年前の離縁話ではありますが、今更のように首を傾けて、思案する余地はたしかにあります。  
新井白石も「藩翰譜」を書きますのに、いろいろな雑説を採らず、「正成初め斎藤内蔵助利三が如何なるゆゑやありけん、此妻、家を出て後、将軍家の若君竹千代殿の御乳母となされ」といって、離縁の事さえ云わないで、一切を不明瞭のままにしてあります。白石ばかりではない、誰にしても正成が幕府の下に大名になった順序から眺めて往きますと、妻の脚布に裹まれて、立身出世する武士ではないなどと、男らしく立派な言を吐いたとは信ぜられません。正成が慶長十六年、越前参議忠直卿に付けられて、大坂落城の際に軍功を立てましたのも、御乳母春日の故に早く召出されたからです。その忠直が元和九年五月に、豊後萩原へ配流になりました後、正成は春日へ申立てて幕府へ召返して貰いました。正成は女房お福の脚布にくるくる裹まって立身したのです。けれども越前家では永見右衛門の娘を娶り、幕府へ戻っては松平土佐守の女を迎え、春日局のお福の後に二度も妻を迎えて居りますから、春日を離別したのは事実に相違ありません。  
この離別に就きまして、「香宗我部記録」に「嫉妬にて佐渡守家を出、京都に行」とありますが、系譜で見ますと、正勝と正利との間に、異腹の女子があります。この女子は後に堀田勘左衛門の妻になり、加賀守正盛を産んで居りますが、申すまでもなく正成は妻でない、他の女にこの娘を産ませたのです。それで春日は嫉妬に堪えぬから、正利の分娩を待ちかねて、亭主も子供も置き去りにして、京都へ往ってしまったものらしい。稲葉の方では離縁するもせぬもあったものではありません。置き去りにされたのですから、三行半を与えるより外に方法はないのです。  
逸話2 嫉妬で名高い御台所  
焼餅黒々としたこの春日は、家光の乳母になって、千代田城の大奥へ入り込みました。家康の正妻築山御前(関口氏)は嫉妬で著名なものでありましたが、二代秀忠の夫人江子(こうこ)もまた嫉妬で名高い女であります。この人は浅井備前守長政の女で、淀君の妹に当るのですが、江子が伏見城へ入輿致しましたのは、二十三歳の文禄四年九月でありまして、その時秀忠は十七歳ですから、六つも違う姉女房なのです。第一の夫である尾州大野城主佐治与九郎とは生別し、第二の夫の丹波少将秀勝、第三の夫の九条左大臣道房とは死別して居りますので、丙午ではないかと思って繰って見ましたが、天正元年生れですから、まさしく癸酉である。秀忠は第四の夫に当るわけで、特に九条家では女子を二人も産んで居ります。新郎古婦とでも云って見たいような間柄でありますのに、焼餠の方は真黒々に焼き立てました。そうして結婚後十八箇月目の慶長二年四月十一日に千姫、四年六月十一日に子子姫(ねねひめ)、五年五月二十日に勝姫、六年十二月三日に長丸(おさまる)、七年七月九日に初姫、九年七月十七日に家光、十一年五月七日に忠長、十二年十月四日に和子(東福門院)を産んだのです。二十五歳から三十五歳までの十箇年問に、男女八人の母になったわけで、この分娩と妊娠とを、閑な御方は勘定して御覧なさい。その忙しいこと、殆ど失笑を禁じ得ません。秀忠の庶子はただ一人で、他は悉く嫡出の子女であります。その庶子肥後守正之は、慶長十六年五月七日の出生で、秀忠が三十三歳の時の子なのですが、奇妙なことに秀忠はその後に子がありません。正之の生母であるお静は、江戸近い板橋在の竹村というところの大工の娘で、部屋方へ奉公していたのに、秀忠が手を付けたのです。お静が懐胎したといっては、御台所浅井氏が納まりませんから、秀忠将軍も頗る閉口の体で、田安の閑栖にいる見性院(穴山梅雪の寡妻)を頼んで、ひそかにお静の始末をさせました。  
正之は足立郡大間木村の民家で生れ、やがて保科弾正大弼正光の養子にしてしまったのです。庶子であるにもせよ、正之は秀忠の末男でありますのに、御台所を憚って全く秘密にされ、その生前には父子の対面すらなかったのですから、二代将軍も随分な恐妻家であります。  
例の駿府逗留中の秀忠のところへ、家康が十八歳の美女に菓子を持たせて遣したところ、秀忠は上座へ引いて菓子を頂戴し、その方の御用は相済んだ、早く立帰れといって戸口まで送り出したという話、家康がそれを聞いて、将軍は律儀な人だ、予は梯子をかけても及ばぬ、と感心したというのですが、或はそんな宣伝芝居も行われないとも云えず、また秀忠は甚しく親父を恐れた人でもありますから、何も彼もなしに、ただ恐縮してしまったのかも知れません。併し私どもはお静に正之を産ませた手並を心得て居りますので、一概に彼の謹厳慎重を信ずるわけにも往かぬのです。  
手近い「視聴草(みききぐさ)」などを見ましても、後藤源左衛門忠正の女が、崇源院に仕えて大橋局といった、台徳院の御寵愛を蒙ったが、権現様の上意によって庄三郎光次に嫁した、というようなことが出て参ります。崇源院は江子の法名、台徳院は秀忠の諡号ですが、そうして見れば金座の後藤庄三郎の妻は、秀忠のお古なのです。それは家康も御存じであるに拘らず、お静の外には寵女がないことになっている。何故そうなっているかといえば、秀忠の恐妻のためなので、実は御台所江子の嫉妬の凄まじさを立証して居ります。我国に避妊の行われたことは、決して新しくありません。翻訳の新マルサス主義を珍しがったり、サンガー婆さんで騒いだりするのは、何も知らない連中のことでありまして、四百年乃至五百年前から、或階級には巧妙に実施されていたので見れば、二代将軍の奥向にも、嫉妬除けの厭勝(おまじない)として、或方法が行われていたかも知れません。  
逸話3 美人ではない  
こう考えて参りますと、「落穂集事跡考」の「若君の御実母御台所無類の嫉妬にて、春日局の年頃といい容儀あるを、台徳公の御手付かんかとの御疑ひより、諸事若君へうとくあられ候」というのが、私どもの眼を射るように感ぜられます。春日局は秀忠将軍と同年で、御台所江子は六つも年上なのですから、嫉妬の眼玉が光るのも無理はありませんが、伝説によると、春日局は美女でなかったといいます。それはかれの木像を安置してある湯島の麟祥院に伝わった説なので、木像を製作する時分に、つとめて容貌に似せて持え、両三度も改作させましたが、何分にも気に入らない。そこで仏師が考え直しまして、極めて柔和な容貌に持え、ただ瞳だけを写実にして見せたところ、漸く満足したというのです。  
現存する麟祥院の木像は、如何にも鋭い目つきをして居ります。しばらくこの伝説から逆に考えますと、春日局は凄まじい顔でありましたろう。無論悪女ではありませんが、好んで柔和な容貌に持えさせながら、また平凡になるのを避けて、目つきだけを鋭くさせた、そこに本人の人柄が露出して居ります。我執の強い、意地の悪い、小才の利く、御殿女中気質の標本に適当な女なのですから、春日局は決して嬉しい人物ではありますまい。秀忠との間柄は、果して御台所が睨める程度に達していたかどうですか、何とも判断することは出来ませんが、自分の腹を痛めた家光、忠長の二児に対して、際立てて愛憎し、全く家光を顧みないようになりましたのは、春日を睨む余り、諺にいう坊主が憎けりゃ袈裟まで憎いわけなのでしょう。一体なら怜悧な春日だけに、家光を冷遇する御台所の心の底には、嫉妬のあるのを知らずにいる筈はありません。知っていたら御仕え申す幼君の御為を思って、速かに退身して御台所を安心させ、家光の安全を図らたければならぬのですが、  
意地の強い春日には、己れを撓めて無事を計ろうなどということは、夢にも考えられなかったのです。御台所は国千代(忠長の幼名)を殊に寵愛されましたので、幕府の吏僚は勿論、諸大名までが国千代の御機嫌を取難すように仕向けたのみならず、家光は長子でありますのに、衣服の給与さえ怠り、食饌も国千代より悪くしました。家光が呉服所後藤縫殿助に与えた墨付に「其の方の恩を忘るゝに於ては、黒本尊の御罰を蒙るべき也」と書くほどに感悦したのは何であるかといいますと、縫殿助は春日と昵近でありましたから、年中の御召物を無代で献進し、御不自由な物は何といわずに差上げたからであります。  
家光、忠長の両公子といううちにも、家光は嫡長子で三代将軍になるべき人です。乳母根性から兄の乳母、弟の乳母というだけでも、扁身の広狭が違いますのに、弟が兄よりも優遇される。衣服や食物にも逆に差が付けられては、如何に気楽な乳母でも堪えられますまい。まして意地強い春日が辛抱する筈はないのです。ただあいにくなことに惣領の順禄で、家光は賢くない。親父の秀忠が惣領の家光に相続させることをあやぶんだのは、国千代の方が怜悧だったからであります。家光に対して父母が暖くない理由は、同じではありませんが、熱の乏しいことに変りはありません。親の情、殊に女の親の心持から云えば、馬鹿な子ほど余計に可愛いのが世間並ですが、泥坊猫よりも腹の立つ春日が付いて養育している家光は可愛くない。嫉妬から愛子を忘れることになるので、春日も赤子を置き去りにして稲葉家を去りましたが、御台所江子も我子の家光を愛さないのです。衣服や食物にさえ不自由させたのも、春日を苦しめるためでありましたろう。もし春日が御暇を願って、家光の身辺から去り、秀忠の目にも触れないようになりましたならば、御台所江子が家光に加えた圧迫は、直ちに除かれたろうと思います。  
逸話4 妬婦兼騒動女  
嫉妬されればされるほど、春日はなお動きません。嫉妬するのは弱味、嫉妬されるのは強味と思うので、秀忠将軍の情愛を幾分でも殺ぎはせぬか、と感ぜしめただけの強味を持つ。これは御殿女中の一般心理ともいえましょう。まして嫉妬女の春日です。春日の性格からは、到底辛抱されまいと見える家光の待遇でありまして、飲食衣服にも事を欠く上に、国千代は利口で家光は馬鹿だと吹聴される。幕府の吏僚から諸大名までがする冷淡な取扱いも、対抗するのだとなれば忍耐するのです。春日が苦い苦い顔で忍耐するその顔色が、御台所の嫉妬心からは快いので、我子に飲食衣服の困窮をさせるのも忘れて、過度な圧迫を加えて気が付かない。二人の焼餅競争に挾まれて、童年を泣いて過した家光の運命は、まことに悲しむべきものでありました。  
賢女だとか烈婦だとか、春日局は頻りに褒められて居りますけれども、御台所江子は何故生みの子家光を虐げたかを考えないと同様に、春日の人物は一向に吟味されて居りません。彼がひどい嫉妬の女であったことすら殆ど知られなかったのです。ただ江村専斎はかれに就いて「慈照院殿の時、春日局と云ふ女あり、彼が所為にて応仁の乱起り天下騒動す、近来の春日局の号は、是を考へずして然る歟」と云って居ります。専斎は百歳の寿を保ち、寛文四年まで存生した医者ですが、親しく時勢を見ている人だけに、その言葉には寓意があるらしく思われる。妬婦春日局はまた実に騒動女でもありました。御台所江子の亡い後に、むごたらしく復讐を企てて、遂に忠長を自殺させるまで、何ほど世間を動揺させましたろう。  
忠長の謀叛を虚構するために、土井大炊頭利勝に偽廻文を作らせて、天下の諸侯を惑乱せしめるなどは、申分のない騒動女であります。私どもが春日局を想像する毎に、いつでも厭わしく思われるのは、かれの才走った往き方です。かれがまだ焼餅競争の最中に、家光が天然痘に罹ったことがありますが、その時春日は侍医の岡本玄冶に向って、酒湯にかかることは、唐の医書にないことであるから、御無用になされて御宜しかろう、と云った。すると玄冶が、唐になくて日本で致すことも沢山ある、それを酒湯に限って、古来の仕習わしもあるのに止めるにも及ぶまい、医者のすることを素人の止めらるるもその意を得ぬ、一体医書にないと云われるが、唐の書物を見もせずに文盲な申事である、これを御覧ぜよ、と云って懐中から唐本の医書を出して見せ、読んで聞かせて御酒湯を済ませました。玄冶は更に、素人の分、殊に女性の身として不念な事を申され、小癪でござる、と痛く春日を遣り付けたということです。  
御台所に睨まれて、多方面からの圧迫に対抗している時にも、このくらいの遣り過しをする春日なのですから、独り天下になった三代将軍の大奥では、三千石の俸禄を受けて、三万石の暮しをしました。家光の夫人鷹司氏は嫉妬が強いというので舳舳(しりぞ)けられましたが、実は忠長に同情されて、救解を試みられたのが、科条になったらしいのです。それがために大奥女中は悉く春日の支配するところとなり、後来御台所がありましても、奥向は一切御年寄という高級女中の取はからいに帰し、長く大奥女中の勢力が幕閣を動かす基礎を据えることになりました。この事はかれの続き柄で七八人の大名が出来たのよりも、なお大きい影響を徳川氏の運命に与えて居ります。 
春日局5 
逆賊のアバタ娘が離婚後、徳川三代将軍家光の乳母になる
春日局といえば、徳川三代将軍家光の乳母となり、将軍の後継ぎ問題を円滑に進めるために、江戸城の“大奥”をつくり、半面、清楚な「賢婦人」のイメージを抱く。だが、彼女は現実にはひどいアバタ面で、壮烈なヤキモチ焼きで、勝ち気でしたたかな女性だった。
春日局の本名はお福。夫の稲葉正成と先妻(死亡)の間に2人の子供がいるところへ後妻として嫁いだ。彼女の父は明智光秀の家臣で、山崎の合戦で討ち死にしている。つまり逆賊の家で世間の目が冷たく、経済的にも苦しかったからだ。しかも彼女自身、天然痘を患ってひどいアバタ面だったという。
結婚したお福にとって我慢できなかったのは、夫が女中に次々と手をつけることだった。そんな思いが爆発するときがくる。お福が3人目の子を産んで一月ほど経ったある日、勝ち気な彼女は夫の寵愛を受けている女中の一人をいきなり殺してしまったのだ。そのまま「もう家にはおりません」と宣言して、彼女は子供を置き去りにして家を飛び出してしまう。
この気性の強さがお福の運命を切り開く。夫の側室を殺して家を飛び出した彼女は、そのまま京へ上る。そして町の辻に立てられた高札を目にしたことが、その後の彼女の生涯を決定した。「将軍家康公の嫡孫竹千代君の乳母募集!」とある。子供を産んだばかりのお福は、まさに有資格者だった。
早速、申し出ると即座に採用決定。お福は新しい生活の第一歩を踏み出す。彼女は竹千代を熱愛した。報われなかった夫への愛の代わりに、狂おしいまでの愛情を竹千代に注ぎ込む。あるとき竹千代が天然痘にかかると、彼女は薬断ちの願をかけ、遂に生涯薬を飲まなかったといわれるほどだ。
家光への溺愛、そして独占欲の表れは、まず竹千代と弟・国松の将軍三代目の跡目相続をめぐっての、駿府に隠居している大御所・家康への直訴だ。ここで「長子相続」をタテに竹千代の跡目相続を勝ち取る。次いで、竹千代が元服して家光と名乗り、やがて父秀忠の後を継いで三代将軍になった後、お福は家光にとって危険と思われるものを用心深く周りから取り除いていく。かつての国松=忠長の存在だ。いつ周りから担がれて将軍職乗っ取りを図るかも知れないと、口実をもうけて忠長に詰め腹を切らせてしまった。
表向きには、お福はこの事件とは全く関わりがないようにみえる。しかし、鎌倉の東慶寺に残る棟札には忠長の死後、彼の住んだ御殿を東慶寺に移したのは「春日局のおとりもちだ」と書いてあるという。こうしてみると、長い間、忠長を憎み続けてきた彼女が、終戦処理をしたとみられる。
家光にはホモの趣味があって、初めは女にあまり興味を示さなかった。そこでお福は、伊勢の慶光院院主の尼僧を近づけて、巧みに女性開眼させた。普通の女性には見向きもしない家光だったが、頭を丸めた尼僧という異形の女性には少なからず興味をそそられたということらしい。これをきっかけに、家光はがぜん女性への関心を示し始め、無事に後継ぎも生まれた。
お福のスゴ腕は朝廷に向けても発揮された。将軍秀忠時代、彼女は上洛して後水尾天皇に拝謁している。「春日局」はそのとき朝廷からもらった名前だ。この拝謁には下心があった。お福はその席で帝に「そろそろ、ご退位を…」とほのめかしたという。
このとき後水尾天皇の妃は秀忠の娘和子で、帝との間に姫宮をもうけていた。その姫宮へご譲位を!というのが幕府の魂胆で、お福はその特命全権大使だったのだ。恐るべし、夫も子供も捨てて、第二の人生に懸けた中年女のしたたかさだ。 
桂昌院 

 

悪法“生類憐みの令”生みの親
桂昌院は徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となった。八百屋の娘からここまで登り詰めた、いわば日本版シンデレラだが、その一方で悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくった悪女でもある。
彼女の生まれは京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘で、名前はお玉。16歳で家光の側室、お万の方の腰元として江戸城に入るのだが、京都の八百屋の娘が江戸城の大奥に入るようになるのは少し込み入った事情がある。それは、京都の公卿のお嬢さんが伊勢・慶光院という門跡寺の尼になり、寛永16年(1639)3月、そのお礼のために家光のところに出向いた。
江戸城で家光に拝謁したところ、家光はそのお嬢さんを一目見て「尼にしておくのはもったいない」と不心得を起こし、そのまま江戸に留め還俗させて、側室・お万の方が誕生することになる。そして、そのお万の方の腰元としてお玉が行くことになったのだ。
腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまったというわけだ。身分制度のやかましかった徳川封建体制下ではラッキーなことだが、そのうえ彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になった。生まれたのが女だったら、桂昌院として歴史に名を残すようなことはなかったろう。そういう意味では彼女には幸運が続く。
というのは、家光には側室は彼女の他に4人いて、別の側室2人に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたので、本来なら彼女の子は将軍にはなれないはずだった。ところが、ツキのあるときはどこまでもうまくいくもので、四代を継いだ家網は子供なしで早死にし、続いてその弟、網重も亡くなる幸運。兄2人が死んで、上州・館林の藩主だった綱吉に将軍の座が回ってきたというわけ。その頃はすでに家光に死別して、お玉は未亡人になっており、当時の慣例として剃髪し、桂昌院と呼ばれていたが、自分の意思や策謀なしにこれほどトントン拍子に出世した人はいない。稀有なケースといっていい。
綱吉は学問好きの将軍として知られているが、これは桂昌院・お玉が教育ママで「勉強しなさい」といつも尻を叩いていたからだ。夫の家光が戦乱の余燼がまだおさまらない時代に成長し、学問をする時間がなかったので、子供たちには学問させたいと考えていたのだ。お玉はその言葉を守って綱吉にハッパをかけたので、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になった。四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは、学者はだしだったという。
美貌とともに、伏魔殿のような大奥でうまく泳いでいく処世術を身につけていた桂昌院は、82歳まで生き幸福を享受し続けたが、その生涯の最大の汚点は悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくったことだ。信仰心が篤かった桂昌院はそれが災いし、結果的に大奥に悪僧、隆光を引き入れ、その進言で“生類憐みの令”という未曾有の悪法を綱吉に進言。その結果、犬一匹殺しても死罪、魚、えび、しじみに至るまで食べるのを禁じるところまでエスカレートし、庶民の苦痛、不便、迷惑は大変なものだった。この悪法は1685年から綱吉が死ぬ1709年まで続く。この24年間は庶民にとって耐え難い時期だったといえる。
通常、権力者の世界では“父母に忠孝”というのは建て前で、“天子に父母なし”といって、天子になったら父母のいうことを聞かなくてもいいという考えもあった。ところが、綱吉は儒教の忠孝の教えを守って、母・桂昌院のお膳の上げ下げまでしたという。それだけに、綱吉が“犬公方”と呼ばれ、後世の批判を浴びているのは、母・桂昌院のせいといえる。 
絵島 

 

大奥大年寄 江戸城内の幕閣の権力争いのスケープゴートに
江戸時代中期、徳川七代将軍家継の生母、月光院(六代将軍家宣の側室、左京局)に仕えた大年寄(大奥女中の総頭で、表向きの老中に匹敵する地位)を務めた絵島は、当時名代の歌舞伎役者、生島新五郎との恋愛沙汰が露顕して、“絵島生島事件”として後世に長く伝えられる、大きなスキャンダルを起こし、失脚したといわれる。絵島は果たして、本当に“禁断の恋”に走るほど奔放な恋多き女性だったのか?
今日に伝えられる絵島生島事件は、錦絵に描かれ、新作歌舞伎で演じられ、大年寄絵島は隠れもなき美男、生島新五郎との悲恋のヒロインとして粉飾されたものだ。そのため、この事件の真相は、禁を犯した、あたかも大奥女中と歌舞伎役者の情事に決定的な原因があったように印象付けられている。
だが、江戸・木挽町の芝居小屋、山村座での芝居見物はただ一回のことだったし、絵島と生島新五郎の二人の情事を裏付けるような史料はない。また当時、大奥女中の芝居見物は“公然の秘密”として、通常は見逃されていた。それがなぜ、大年寄絵島をはじめとして、その由縁の人多数が斬首、流罪、追放に処せられなければならなかったのか?
結論からいえば、大奥を含めた江戸城内の幕閣の権力争いが背景にあり、絵島はその争いに巻き込まれ、いわば“スケープゴート”にされたのだ。具体的には、幼少の七代将軍家継を擁立して権勢を振るう月光院や新参の側用人、間部詮房(まなべあきふさ)、家継の学問の師・新井白石らの勢力と、譜代の大名、旗本や六代将軍家宣の正室、天英院らの勢力との対立だ。大奥では絵島が属する月光院側が優勢だった。そこで、この“絵島生島”事件が天英院側の勢力挽回策としてつくり上げられたのだ。いわゆる“正徳疑獄”と称されるものだ。したがって、通常でさえほとんど罪状としていないことを、針小棒大に表現、疑獄として構築された、あるいは事件としてでっち上げられた部分も少なくないだろう。対抗勢力に決定的なダメージを与えることに目的があるのだから、それも当然だ。
事件は1714年(正徳4年)、絵島らが月光院の名代として上野寛永寺および芝増上寺に参詣した折、その帰途に木挽町の山村座に遊び、帰城が夕暮れに及んだことに端を発する。これにより、絵島は同僚、宮路ともども親戚に預けられ、目付、大目付、町奉行の糾問を受けることになった。このとき女中7人も押込(おしこめ)となっている。評定所の判決が下り、絵島は死一等を減じ遠流(おんる)とされ、月光院の願いによって高遠藩主、内藤清枚(きよかず)、頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移された。罪状は、その身は重職にありながら、御使、宿下(やどさがり)のときにゆかりもない家に2晩も宿泊したこと、だれかれとなくみだりに人を近づけたこと、芝居小屋に通い役者(生島新五郎)と馴れ親しんだこと、遊女屋に遊んだこと、しかも他の女中たちをその遊興に伴ったこと−などだ。
相手の生島は三宅島に流罪、絵島の兄の白井勝昌は死罪に処せられた。旗本、奥医師、陪臣など連座するものは多数に上り、刑罰も死罪、流罪、改易、追放、閉門などに及び、大奥女中は67人が親戚に預けられた。この後、絵島は高遠の囲屋敷で27年の歳月を過ごし、1741年(寛保1年)61歳の生涯を閉じ、生島はその翌年赦されて江戸に帰った。絵島の“禁断の恋”に擬せられた芝居見物の代償は何と大きかったことか。 
加賀千代女  

 

芭蕉門下の各務支考に認められ全国に名が知れ渡る
加賀千代女(かがのちよじょ)は、江戸時代中期の女流俳人だ。代表的な句の一つ、「朝顔に つるべ取られて もらい水」など、朝顔の句を多く詠んだことで知られている。
千代女の出身地の松任市(現在の白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。千代女の生没年は1703(元禄16)〜1775年(安永4年)。
加賀千代女は加賀国松任で、表具師、福増屋六兵衛の長女として生まれた。号は草風。法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。母方の実家は町方肝煎の村井屋で、当時の松任御旅屋文書には村井屋小兵衛の署名捺印が多く残っており、福増屋も比較的恵まれた家庭だったと推察される。白山市中町の聖興寺に遺品などを納めた遺芳館がある。
千代女は幼いころから、一般の庶民にもかかわらず、俳諧を嗜んでいたという。石川郡誌によると、12歳のころには本吉町(現在の美川町)の町方肝煎を務めていた北潟屋半睡(大睡)に師事したと伝えられている。
17歳のころ諸国行脚をしていた人に、松尾芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)が諸国行脚して、ちょうどここにきていると聞き、各務支考がいる宿を訪ねた。このことが、その後の彼女の生き方を決めることになる。
千代女はそこで、弟子にさせてくださいと頼むと「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められた。彼女は、俳句を夜通し詠み続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明けにけり」という句で、遂に各務支考に才能を認められた。そのことから、千代女の名を一気に全国に広めることになり、彼女は生涯にわたり句作に励むことになった。
1720年(享保5年)、18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽、福岡弥八に嫁いだ。このとき「しぶかろか しらねど柿の 初ちぎり」という句を残した。しかし20歳のとき、不運にも夫に死別し、松任の実家に戻った。
30歳のとき京都で中川乙由(なかがわおつゆう)に会った。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳のときに剃髪し、素園と号した。72歳のとき、与謝蕪村の「玉藻集」の序文を書いた。1775年(安永4年)、73歳で没したが、そのとき「月も見て 我はこの世を かしく哉」の辞世の句を詠んでいる。
生涯で1700余の句を残したといわれ、句集『四季帖』『千代尼句集』『松の声』などがある。代表的な句に
○朝顔に つるべ取られて もらい水 (35歳のとき、「朝顔や」と詠み直されている)
○月も見て 我はこの世を かしく哉
○蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら
○起きて見つ 寝て見つかやの 広さかな   などがある。

 

芭蕉殺しの汚名の「試練」を分けあう、斯波渭川と園
元禄七年(一六九四)の九月二十七日、芭蕉は弟子の支考を連れて、おしどり俳人の家を訪れ、句会を開いた。じつはこの時、芭蕉は体調を崩し、熱が高く悪寒に身を震わせていた。しかし、サービス精神の旺盛な芭蕉は、そのことをおくびにも出さず、いつものようにおだやかに振る舞った。 
芭蕉の体調のことを知らない周は、「先生にごちそうをしてさしあげよう」と、用意していたキノコをいろいろ工夫しながら調理して出した。芭蕉は喜んで食べた。ところが、その帰途、病状が悪化し、芭蕉はそのまま大坂の南御堂前の花屋の離れで寝込んでしまった。それを開いた園はあわてた。 
「まさか、お出ししたキノコがあたったのではないでしょうね?」「そんなはずはない。だって、あの席にいた人は、私を含め、みんなおまえさんのキノコ料理を食べたのだからね。私だってこのとおりピンピンしているじゃないか」と、夫の渭川はなぐさめた。園は夫のことばに、「そうですね」といちおうは安堵した。 
ところが十月十日の午後、芭蕉は死んでしまう。諸国から弟子たちが集まった。うわさが流れた。それは、「先生は園女が出したキノコにあたって急に亡くなられたのだ」というものだ。おせっかいな弟子のひとりがこれを園に伝えた。園は「わたしのせいだ」と自分を責めた。 
心あたりはあった。芭蕉の病状が悪化したと開いて、園は何回か花屋の離れに見舞いに行った。ところが、部屋にいる弟子たちは、冷たい表情で園の見舞いを拒否した。目の底には、「おまえさんが出したキノコのせいで、先生の病状は悪化したのだ」という非難の色がありありと見えた。 
そういう事情だったため、園は葬式にも行けなかった。もちろん、芭蕉を弔う句会にも参加させてもらえない。園は嘆き悲しんだ。 
「あれほど先生を慕っていたわたしなのに、なぜ、お花一本供えさせていただけないのか」そう嘆く園を、そっといたわったのが夫の滑川だった。ただし、滑川は底の浅いなぐさめ方はしなかった。「おまえさんがそれほど苦しむのなら、その苦しみにいっしょに立ち向かおう。逃げるわけにはいかない。しつかりと苦しみと向きあおう」ふつうの夫だったら、「体をこわすといけないから、あまり心配しなさんな」と言うに違いない。が、渭川はそうではなかった。園はしみじみ思った。 
「夫婦は一心同体だと言われる。まさにわたしの夫は、そのことを実行してくれている」渭川と園はその後も、芭蕉門下の人びとから、「師を殺した悪人」という非難のツブテを投げられた。しかし園は、夫にしっかり寄り添って生きぬく。そして、ふたりにそういうカを与えたのは、やはりあの慈悲深い芭蕉のおもかげと、豊かな俳句の心である。 
「先生が残してくださったこの心さえ失わなければ、わたしたちは生きていける」夫の滑川はそう言った。園はうなずく。 
しかし、「師殺し」の汚名はなかなか消えることはなかった。そのうち、滑川が病の床についた。渭川は医者だから、自分の体のことはよくわかった。やがて、固に言った。 
「ダメかもしれないな」「心細いことを言わないでください。まだ、わたしの苦しみは終わっていません。もうすこしいっしょに生きてください」「いや、おまえさんはもう、ひとりで立派に生きていけるよ。もともと、芭蕉先生を死なせたのはおまえさんではないのだから、そろそろ免罪符をもらってもいい頃だよ。わたしは先に逝っても、あの世からずっとおまえさんを見守るよ」滑川は気弱く微笑みながら、そう告げた。そして滑川はあの世へと旅立った。 
夫を弔ったあと、園は江戸に出た。冷たいまなざしに囲まれて大坂で生きることはもうできない。知己のいない江戸で生きようと考えたのだ。 
滑川に死なれた当時、園は四十二歳だったという。まだ女盛りなので、言い寄る男も少なくなかった。園はザルをかぶったり、あるいは化粧なしのすっぴんで客に応対したりして、できるだけ自分の体から漂う女らしさを隠した。やがて男たちも寄りつかなくなった。 
園の心の中には、つねに滑川がいた。「同行二人」のことばどおり、夜、夢を見ると、園はかならず夫といっしょに杖をついて、遠い道のりを歩いている。その毎晩の夢が、昼間の苦しみに満ちた生活をどれだけ救ってくれたかわからない。 
享保十一年(一七二六)四月二十日、囲も死ぬ。しかし、決して孤独ではなかった。 
「すぐ行きますよ、待っててくださいね」あの世への道をたどりながら、園は待ってくれている夫にそう呼びかけた。  
たま

 

ガンコ者の奇才を支えた苦労人の賢妻、上田秋成とたま
たまは夫の悩みをそのまま自分の悩みとするから、自分自身もつらくて仕方がない。しかし、たまにすれば、いつまでも自分を責めつづける秋成に、ぜひ弱った心を奮い立てて立ちなおってもらいたい。そんな気持ちが伝わったのか、ある日、秋成がたまを呼んだ。 
「ちょっと話がある。医者をやめようと思う。医は意だ、と言ってきたわたしが、医者にあるまじきことをして娘さんを死なせてしまった。どうにも責任の取りようがない。いっそのこと、お坊さんにでもなって、あの娘さんにお詫びをしたい」「では、そうしましょう」と微笑みながらうなずくたまを、秋成は驚いて見返した。 
「なんだって? おまえさんはわたしの気持ちをそんな簡単なものと思っているのかい?」「決してそんなことはありません。あなたがお坊さんになって、難波屋のお嬢さんの菩提を弔いたいとおっしゃるなら、わたしもいっしょに髪をおろします」 たまの日の底には、「あなたの行くところには、いつでも、どこでもついていきます」という決意が秘められていた。 
「たまさん、おまえさんは、そこまでわたしのことを・・・」「あなたとはいったい何年いっしょに暮らしてきました? わたしがお店の家事手伝いをしていた頃からの伸ですよ」「知らなかったな、おまえさんのそういう気持ちを。若い頃のわたしは、養子のくせに道楽をつづけていて、おまえさんなど眼中になかった。おまえさんのほうも、わたしのことをしょうのない道楽息子だと思っていたに違いない。しかし、こうして夫婦になったのも何かの縁だ。縁というよりも、ホトケさまのおぼしめしかもしれない。おまえさんの存在がわたしにとっていかに大切かを、今夜はあらためて知ったよ」そう言って、秋成は一瞬、幸福感に浸っていたが、まもなくきびしい表情になった。 
「しかし、そんな勝手なことができるかな。暮らしの費用が得られなくなる」 
「両方を立てようとしても無理ですよ。自分のしたいことをすれば、一方では何かを失うのです。仕方ないでしょう」  
> 上田秋成 / 享保19年-文化6年(1734-1809) 江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人。怪異小説「雨月物語」の作者として特に知られる。  
中野竹子

 

会津の女性決死隊
激戦がおこなわれたのは八月二十五日のことである。攻撃軍は、長州・美濃・大垣の合同軍だった。襲いかかる敵兵の中で叫び声があがった。 
「会津軍の中に女がいるぞ!」この声をきくと、政府軍はいったんピタリと戦うのをやめ、その所在を確かめようと眼を皿のようにした。獰猛な獣心がみるみるその眼に浮かんだ。 
かれらは一様に、「生捕りにして、犯してやろう」と思った。 
竹子は声を励ました。 「絶対に、生きて捕らえられてはなりませんぞ」娘子軍はオーツと声をあげた。全員が薙刀を激しく振りまわし、勇敢に戦った。とくに竹子は美人だったので、敵兵が群がり寄った。これを水車のように薙刀を振りまれしながら、斬り払い斬り払い奮戦した。が、敵側の撃った鉄砲の弾が竹子の胸に当った。これにはかなわない。 
竹子はドーツと倒れた。「それ」と声をあげて迫る敵兵を、妹の優子が仁王のように立ちはだかり、水車のように薙刀を振りまわした。そして、スキを狙って姉の首を打ち落とし、それを抱えてその場から退避した。優子はさっきまで姉が振りまわしていた薙刀も脇に抱えた。 
この薙刀には、一首の歌が短冊に書かれて結びつけられていた。 
武士の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも 
というものだった。竹子が戦死した激戦の地は、若松市西郊の湯川に架かった柳橋である。 一名"泪橋"ともいわれた。現在柳橋から坂下に向かう国道の右奥に、「中野竹子殉節之地」と刻まれた大きな石碑が立っでいる。優子が持ち去った首は近くの法界寺に埋められた。 
会津戦争では、多くの悲劇が生まれたが、娘子軍を組織した中野竹子の奮戦は、なかでも際立っている。彼女は文字どおり、みずからか"身知らずの柿"のひとつとして、その身を主家のために投げ出したのであった。
和宮親子

 

「徳川の人間」になりきった内親王、徳川家茂と和宮親子
ところが嫁いでみると、家茂は意外とやさしい、気品のある青年だった。ともに十七歳である。親近感がしだいに「夫と妻の愛情」に変わっていった。和宮は献身的に家茂に尽くすようになった。 
やがて、第二次長州征伐の総指揮をとるために、夫の家茂は大坂城に下った。しかし、もともと病弱だった家茂は、この大任に耐えることができず急死してしまう。慶応二年(一八六六)七月のことである。二十二歳だった。出発する前に、家茂は和宮に対し、「大坂へまいりますので、何か京都で土産を買ってきましょう」と言った。和宮は喜んで、「それでは、京の錦の布がほしゅうございます」と答えた。家茂は大坂城に入ると、すぐに使いを出して、京都から錦の布を賄入し、それを大切に持っていた。そして、「早く江戸に戻って、これを和宮さまにさしあげたい」と楽しみにしていた。ところが急死してしまった。家茂の遺体とともに、土産になるはずだった錦の布が届けられた。和宮は泣いた。そしてこう詠んだ。 
うつせみ(空蝉)の 唐織ごろも 何かせん 綾も錦も 君ありてこそ 
「いまはむなしくなってしまったこの錦の布、わたしにとっては何の意味もない。美しい綾も錦も、君(家茂のこと)がいらっしやつてこそはじめて価値があるのだ」という、哀切極まりない歌である。 
家茂のあと将軍になった徳川慶喜は、やがて大政奉還し、徳川幕府は消滅する。しかし京都新政府は、「慶喜を朝敵として殺し、江戸を焼き払う」という方針を決めた。 
その東征大総督には、皮肉なことに有栖川宮蛾仁親王が任命された。和宮のかつての許嫁である。これを知った和宮は、有楢川宮に手紙を書いた。 
「最後の将軍徳川慶喜には、朝廷への謀反の気持ちなど毛頭ありません。どうか、かれの命を助け、徳川家を存続させてください。また、江戸には百万の市民がおりますので、火をかけるようなことはなさらないでください」 
いまや完全に「徳川の人」となった和宮の悲痛な願いであった。有栖川宮はこの手紙を参謀の西郷隆盛に見せた。西郷も腕を組んで考えた。西郷の胸の中にも、(もしも和宮さまに万が一のことがあったら、政府軍の責任になる) いう心配があった。西郷は旧幕府代表の勝海舟との会見心よって、江戸の無血開城を実現させた。江戸は救われた。 
ここにいたるまでの和宮の努力は、並大抵のものではなかった。かつての許嫁に、「最後の将軍の助命嘆願」の手紙を書く気持ちは、じつに複雑なものであった。しかし、いったん嫁入りした以上、和宮はあくまでも、「わたくしは徳川の人間だ」と考えていた。そしてそうさせたのは、生前の夫家茂のつねに静かでやさしいまなざしと、深い愛情であった。 
和宮は、明治十年の秋、三十二歳で箱根の温泉宿で静かに亡くなる。家茂が京都で買ってきてくれた錦の布を生涯大切にしていたという。  
天璋院篤姫  

 

勝海舟とともに江戸無血開城の際の幕府側の立役者
徳川家康が江戸幕府を開いて以来260年余、威光を誇った徳川政権が、その終焉を迎えたとき、江戸城開城をめぐって華麗なドラマが繰り広げられた。主役を演じたのは周知の通り、勝海舟と西郷隆盛だが、その舞台の陰にはこの天璋院篤姫の活躍があった。
東征大総督府参謀の西郷に江戸城総攻撃中止、戦争の回避、慶喜の助命、徳川宗家の存続−を決断させたものは何だったのか?この点については今もなお謎が多いのだが、近年西郷の譲歩を引き出した要因として、西郷に宛てた天璋院の切々たる嘆願書ではないかとの見方がクローズアップされている。
長い手紙だが、願いの筋は「徳川家の安堵」という一点に絞られている。自分は御父上(島津斉彬)の深い思慮によって徳川家に輿入れしたが、「嫁したからには、生命ある限り徳川家の人として生き、当家の土となる覚悟です。自分の生きている間に徳川に万一のことがあれば、亡き夫家定に合わせる顔がありません。寝食を忘れ嘆き悲しんでいる心中を察して、私どもの命を救うより、徳川家をお救い下されば、これ以上の喜びはありません。これを頼めるのはあなた様をおいて他にいません」と、天璋院は繰り返し西郷の心情に訴えかけている。
慶喜のことについても、「当人(慶喜)はどのように天罰を仰せ付けられてもしようのないこと」と突き放しながら、それでも慶喜本人が大罪を悔いて恭順している今、徳川宗家存続を許すことこそが、西郷自身の武徳や仁心にとってもこの上ないことと主張、西郷に大いなる義の心を求めているのだ。
東征軍が江戸城へ刻々と迫る中、天璋院の瀬戸際でのこの懸命の努力が、江戸無血開城という形で実現、新旧の国家権力の交代劇につながった。
天璋院篤姫は1835年(天保6年)、鹿児島城下の今和泉島津家に生まれ、一(かつ)と名付けられた今和泉家は島津本家の一門、石高1万3800余と小藩並みだ。実父の忠剛(ただたけ)は島津斉宣の子で、斉彬の叔父にあたる。したがって、斉彬と篤姫はいとこ同士だった。島津本家当主斉彬の養女となり、五摂家筆頭の近衛忠煕の娘として1856年(安政3年)、徳川13代将軍家定の正室に、そして大奥の御台所となった。これ以降、彼女は生涯を通して再び故郷の鹿児島に戻ることはなかった。
1858年(安政5年)、夫の将軍家定が急死し、これに続き父斉彬までも亡くなってしまう。篤姫の結婚生活はわずか1年9カ月だった。家定の死により篤姫は落飾、天璋院と号した。その後は和宮に代わり、大御台所として江戸開城に至るまで大奥を統率した。
名を東京と改められた明治時代。天璋院は東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。生活費は倒幕運動に参加した島津家には頼らず、徳川家からの援助だけでまかない、あくまで徳川の人間として振舞ったという。大奥とは違った、自由気ままで庶民的な生活を楽しみ、旧幕臣の勝海舟や静寛院宮(和宮)ともたびたび会っていた。また、田安亀之助(徳川宗家16代・徳川家達)を教育し、海外に留学させるなどしていた。ペリー提督が持ってきたといわれるミシンを、日本人として初めて使ったのも天璋院といわれている。1883年(明治16年)、脳出血で48年の生涯を閉じた。死後、新政府から剥奪されていた官位、従三位を再び贈られた。 
八重

 

大きなフイゴの空洞となった秀才塾のおかみさん、緒方洪庵と八重
洪庵は幕末に死ぬが、八重は明治十九年(一八八六)まで生きる。この塾から出た俊秀たちは、折りふれて八重を訪ねた。そして、その当時の日本の状況や自分が日下やっていることなどについて話した。ニコニコしながら耳を傾ける八重は、かれらが帰ると、かならず夫の位牌に報告した。 
「今日は福沢さんが来て、こういうお話をしていきましたよ。福沢さんもずいぶんと立派におなりです」 
位輝にそういう報告をすることが、夫がいなくなったあとの八重のなによりの楽しみであり、同時に生きがいでもあった。 
緒方洪庵の教育方法は、単なる自由奔放主義ではない。洪庵の思想の原点は、中国古代の思想家の老子や荘子である。とくに老子だ。 
老子にこういうことばがある。 
「フイゴにとって大切なのは、器具の部分ではなく、むしろなにもない空洞だ。空洞がなければ、フイゴは風をおこして火をおこすことができない」 
洪庵が適塾の門人に教えたのは、「フイゴの空洞になれ。その心がまえが世の中に役立つ」ということであった。八重はこの教えを守った。 
「私は夫のフイゴの空洞になろう」と志した。だからこそ逆に、門人たちにとって、なくてはならない存在になったのである。  
お龍  

 

日本で最初の新婚旅行をした坂本龍馬の妻
坂本龍馬の妻、お龍は、正確には楢崎龍(ならさきりょう)といい、この時代の女性としては珍しいくらい自由奔放な性格だった。そんな女性を気に入り坂本龍馬は妻とした。二人は薩摩藩の重臣、小松帯刀の誘いで、薩摩藩の温泉に湯治を兼ねて旅行を楽しんでおり、これが日本で最初の新婚旅行だったといわれている。お龍の生没年は1841(天保12)〜1906年(明治39年)。
お龍は京都の町医師の楢崎将作の長女として生まれた。一般におりょう(お龍)と呼ばれることが多い。父の将作は青蓮院の侍医で、漢学を貫名海屋に学び、梁川星厳らの同門だった。また頼三樹三郎や池内大学らとも親密で、お龍が幼いときから行き来があり、彼女自身にも勤皇の思想が備わっていたと思われる。そんな父だっただけに、不幸なことに井伊直弼による安政の大獄に連座して捕らえられ、獄死している。
このため、お龍と母、そして幼い弟妹は生活に困窮。長女のお龍は家族を養うため旅館、扇岩で働いた。しかし、まもなく旅館を辞めて天誅組残党の賄いとなった。その後、天誅組が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになった
このとき、坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られて愛人となり、その世話を受けて寺田屋に奉公することになった。1866年(慶応2年)、薩長同盟の成立を悟った新選組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、裸で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる。
その直後に、中岡慎太郎の仲人、西郷隆盛の媒酌で二人は結婚し、小松帯刀の誘いで新婚旅行を楽しんだというわけだ。
1867年(慶応3年)、夫の龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたとき、お龍は下関の豪商・伊藤助太夫のもとにいたため、難を逃れた。龍馬の死後、三吉慎蔵が面倒をみていたが、1868年(慶応4年)にはお龍を土佐の坂本家に送り届けている。龍馬の姉、坂本乙女の元に身を寄せたが、まもなくそこを立ち去る。このとき龍馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係のない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまっている。
その後、お龍は土佐から京へ行き、近江屋を頼ったり、また西郷隆盛や海援隊士を頼り東京に出たりした。転々としながら横須賀へ流れ、30歳のとき旧知の商人、西村松兵衛と再婚した。晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛にこぼしていたという。龍馬、松兵衛いずれの夫との間にも子供はなかった。
ただお龍は、信じ難いことだが、これだけ思いの深かった龍馬が何をしていたのか、ほとんど知らなかったという。龍馬は無条件に大好きだが、彼の業績には全く興味がなかったのだ。すべてを知るのは、明治政府から伝えられたときだったという。細かいことに捉われない、こんな女性だったからこそ、龍馬は気に入ったのだろうが、ここまでいくと同じときを過ごした男(龍馬)の立場からみると、少し寂しい思いがするのではないか。 
坂本乙女  

 

龍馬を育て力づけ励まし続けた、文武両道の女丈夫
坂本乙女は坂本龍馬の三番目の姉で、幼いときに病気で母をなくした龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術など様々なことを教え、後の龍馬を育てた女丈夫だ。坂本乙女の生没年は1832(天保3)〜1879年(明治12年)。
坂本乙女は豪商・才谷屋の分家の、土佐藩郷士、坂本八平と幸の三女だ。城下でも屈指の富豪だから、乙女は家事などは手伝わず、気ままに遊芸を習うことができた。17、18歳のころは義太夫では玄人はだしの腕になり寄席を買い切って高座に上ったこともある。三味線、一弦琴、謡曲、舞踊、琵琶歌まで習い、そのいずれもが素人離れしていた。
とくに自慢は剣術と馬術で土佐藩の恒例行事の正月の「乗初(のりぞめ)」式に女ながらも藩に無断で出場し、栗毛の肥馬に乗り男袴をはき、十尺の薙刀(なぎなた)を振り回して人を驚かせた。このほか弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったといわれる。
乙女は、身長五尺八寸(約174cm)・体重三十貫(約112kg)という当時はもちろん、現代的にみてもかなり大柄な女性だった。そのため力が強く、米俵を二表らくらくと両手に提げて歩くことができた。城下では「坂本のお仁王さま」と異名された。それだけに1846年、病弱だった母親、幸が亡くなった後、乙女は龍馬の母親代わりを務めた。龍馬に書道・和歌・剣術などを教え、当時龍馬が患っていた夜尿症を治したともいわれている。
それほど諸芸に堪能な彼女が、炊事と裁縫だけはできなかった。ただ彼女の場合、できないというより、その種の仕事を嘲弄していたふしさえあった。龍馬の盟友だった武市半平太の夫人は富子といい、小柄で温和で貞淑という点では典型的な武家家庭の主婦だった。乙女はこの富子に「あなたも家事以外のことで夢中になってみてはいかがですか。例えば薙刀や馬術などに」と、女仕事からの謀反を勧めている。
乙女は晩婚で1856年、兄の友人の典医・岡上樹庵と結婚して一男一女(赫太郎・菊栄)をもうけた。岡上は長崎で蘭学を修めた人物だったが、身長が五尺そこそこしかなかった。そして、10年余の結婚生活の後、乙女は岡上と話し合い、二人の子供を置いて坂本家に戻った。家風の相違や夫の暴力、浮気などが原因で、姑の経済観念と、乙女の大らか過ぎる家計のやりくりとが合わないといったことも、その理由だったらしい。1867年のことだ。ただ、その後も息子や娘が坂本家に遊びにきているところをみれば、乙女はごくさわやかに、この離婚問題を処理していたと思われる。
坂本家に戻った乙女はその後、龍馬の良き理解者として、龍馬が国事に奔走するのを力づけ相談に乗ったり、励ましたという。乙女は自分も国事に尽くそうと上洛を望み、龍馬の迎えの便りを待っていたが、頼みの龍馬が暗殺され、志を果たせなかったという話がある。
ただ、龍馬の妻、おりょうとは不仲だったようだ。これは、乙女に対するおりょうの接し方にも問題があったのかも知れないが、しっくり行っていなかったことは確かだ。龍馬が京都で暗殺された後、おりょうは坂本家の乙女のもとに身を寄せたのだが、程なくしてここを去り、身寄りのないおりょうは各地を放浪したという経緯がある。
晩年は独と改名し、養嗣子の坂本直寛とともに暮らした。1879年、コレラが流行した際、感染を恐れて野菜を食べなかったためか、壊血病に罹り死去した。享年48。 
大浦慶  

 

亀山社中の面倒をみた女商人,前・後半生で明暗を分けた人生
大浦慶(お慶)は、長崎で若くして大胆にも外国貿易商と組んで茶商となり、とくに対米輸出で大成功を収め、有数の茶商としての地位を築いた。その後、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、とりわけ坂本龍馬率いる亀山社中の面倒をみたといわれる。そんな充実した日々から一転、騙されて3000両(現在の貨幣価値にして3億円)もの借財を背負った後半生は、どんなにか悲惨なものだったに違いない。前半生と後半生、きれいに明暗を分けたドラマチックな人生の一端をみてみたい。
文政11年、シーボルト事件が発覚した年、お慶は長崎の町人で中国人相手の貿易商だった油屋、太平次の一人娘として生まれた。16歳のとき大火で店が焼けるが、すでに父は亡く、店の再興のために翌年、幸次郎を婿養子に迎える。この幸次郎という人物、番頭だったとも、蘭学修行にきていた書生ともいわれるが、定かではない。そんな婿養子だったが、お慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日追い出してしまったという。
当時、日本は鎖国下にあり、禁を破れば死刑も免れない。しかし、嘉永6年、お慶は出島のオランダ人に頼み、茶箱に詰め込まれ、インドに密航したという話が残されている。お慶の後世の出世により生まれた作り話との説もあるが、お慶自身も晩年、上海への密航の話を語っていたという。いずれにせよ、お慶は外国貿易商と組んで茶商となり、中国の動乱に紛れて日本の茶を輸出しようとして、国際流通に目を向けたことは確かだ。嘉永6年、長崎出島に在留するオランダ人テキストルに頼んで、嬉野茶の見本を英・米・アラビア3国に送ってもらった。お慶26歳のときのことだ。
3年後、英国の商人オルトがお慶の前に現れ、12万斤(72トン)ものお茶を注文した。お慶は嬉野だけでは賄いきれず、九州全土を走り回り、その3年後、安政6年、長崎港からアメリカへ初のお茶輸出船が出航する。このときにお慶が集めた茶はやっと1万斤だったが、それでも大成功を収めたこととなり、お慶の茶商としての地位は築かれた。
この時期、長崎には多くの志士が集まってきており、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、資金援助に奔走し、志士たちの面倒をみた。彼女が一番世話したのが坂本龍馬率いる亀山社中(後の海援隊)の若者たちだったといわれる。このころがお慶の人生の絶頂期だったのかも知れない。
維新後、志士たちは長崎から姿を消し、お慶もめっきり寂しくなった。ぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちに包まれていた、そんなとき、熊本藩士遠山一也が現れる。遠山はお慶に巧みに取り入り、オルトとタバコの売買契約を結ぶ。そして手付金を受け取ると、彼は姿をくらましてしまったのだ。遠山は輸入反物の相場に失敗し借金返済のために、お慶を騙したのだ。保証人になっていたお慶は家を抵当にこの3000両、いまでいえば3億円もの借財を被り、膨大な裁判費用まで払う破目になった。結局、お慶は明治17年、57歳で亡くなるまでにこの借財をすべてきれいに返済していたという。膨大な金額だけに、全く見事としかいいようがない。
若くして才気立っていろいろな仕事をし、志士たちを助けたが、明治の元勲となった者たちからの見返りもなく、借財を払って終わった人生だった。だが、その起伏に富んだ、ドラマチックな生きざまは魅力にあふれている。
明治になって元米国大統領グラント将軍来日の際は、事業の失敗にもかかわらず、お慶は長崎県の名士の一人として、長崎県令とともに軍艦に招待されたという。 
幾松

 

文字通り「たとえ火の中、水の中」を生涯つらぬく、桂小五郎と幾松
桂の恋人幾松は、京都三本木の芸者である。若狭国小浜の武士の娘だったというが、家が貧しかったので、京都に出てきて芸者になった。当時、京都の芸者も、武士と同じように勤王芸者と佐幕芸者に分かれていた。幾松は勤王芸者である。 
禁門の変の前後から、恋人の桂のゆくえがわからなくなってしまっていた。幾松は必死になって探し歩いた。 
たまたま長州藩に出入りしていて、幾松も知っている商人にバッタリ会った。 
「桂さんはいまどこにいらっしゃるかわかりませんか?」と訊くと、その商人は声をひそめてこう言った。 
「鴨川の橋の下にいらっしゃいます」幾松はびっくりした。鴨川の橋の下にいるということは、桂は物乞いになって身をひそめているということだ。幾松は、「桂さんはそこまで追い詰められているのだ」と思うと、胸がいっぱいになった。 
そこで夜になると、幾松はにぎり飯をたくさんつくつて、鴨川に足を運び、河原を忍び歩いた。ある席の下に行くと、「幾松」と呼びかける男がいた。近寄ると、桂だった。 
「先生」幾松の目には、喜びの涙がどっとあふれた。「ひどいことになった。行き場所がない」桂はそう言って苦笑した。どんなに追い詰められても、笑顔を忘れないのが桂の性格だった。幾松はほっとして、持ってきたにぎり飯をさし出した。すると、桂はとても喜んだ。 
「これはありがたい。ちょうど腹が減っていたところだ。おい、みんなで食おう」そう言って桂は、幾松からもらったにぎり飯を、橋の下にいる仲間に分けた。仲間たちも喜んで、にぎり飯にむしゃぶりついた。そんな光景を、幾松は胸がしめつけられる思いで見つめていた。 
次の晩も、その次の晩も、幾松はにぎり飯を運んだ。「こんなところを幕府の役人に見つかったら、おまえも捕まるぞ」桂が心配してそう言った。幾松は激しく首を横に振った。「いいえ、先生のご苦労を思えば、こんなことぐらいなんでもありません。わたしも命がけです」そう強い決意で言う幾松に、桂は心から感謝した。  
幾松2 
幕末、桂小五郎を庇護し、体を張って支えた木戸孝允の妻
幾松(いくまつ)は芸妓時代の名で、明治維新後、木戸孝允の妻となり「木戸松子」となった。幾松は文久年間以降、京都にあって桂小五郎が命の危険に晒されていた、最も困難な時代の彼を庇護し、文字通り体を張って必死に支え続けた。新選組局長近藤勇に連行され、桂の居場所を聞かれたこともあったと伝えられている。幾松の生没年は1843(天保14)〜1886年(明治19年)。
幾松は京都三本木(現在の京都市上京区三本木通)の芸妓として知られ、桂小五郎(後の木戸孝允)の恋人。幼少時の名は計(かず)もしくは計子(かずこ)。幾松=木戸松子の生い立ち、幼少期、芸妓時代に関しては諸説あり、定かではない。父は若狭小浜藩士、木崎(生咲)市兵衛(きざきいちべい)、母は三方郡神子浦の医師、細川益庵(ほそかわえきあん)の娘、末子。兄弟姉妹に関しても諸説あるが、磯太郎、由次郎、計、里など四男二女(または三女)あり、計は長女と思われる。
嘉永元年ごろ、小浜藩に農民の騒ぎで奉行が罷免される事件があり、市兵衛もその際、職を辞し行方知れずとなった。母の末子は、男子は親戚に預け、計と里を連れ実家細川家を頼るが、5年後に京都加賀藩邸に仕える市兵衛の消息を知り、里だけを連れて京へ上り、ともに藩邸で暮らすことになった。市兵衛は生咲と改名していた。細川家に残されていた計は、魚行商人の助けにより独りで京へ向かい父母の元に無事たどり着き、一家四人で京都市中に借り住まいを始めた。しかし、まもなく市兵衛が病に伏し生活苦のため、計は口減らしに公家九条家諸太夫の次男、難波恒次郎のところに養女に出された。
恒次郎は定職も持たず放蕩三昧で三本木の芸妓幾松を落籍して妻としており、実家に寄生するその日暮らしをしていたが、遊ぶ金が底をつくと計を三本木の芸妓にし、安政3年の春、14歳の計に二代目幾松を名乗らせた。
嘉永7年、ペリー来航以来、尊皇攘夷、討幕を唱える勤皇志士たちが京に集まり、盛んに遊里を使うようになっていた。御所に近い三本木にも多くの志士が出入りし、その中に長州の桂小五郎もいた。そのころ幾松は笛と舞の名手で、美しく頭もいい名妓として評判になっており、桂と出会ったころにはすでに旦那もいたといわれ、桂は金と武力で奪い取ったという話もある。
二人の出会いは文久元年または2年ごろといわれる。幾松は実家と養家の生計を担っており、落籍には多大の金がかかったが、長州の伊藤博文の働きがあったようだ。このとき幾松20歳、桂は30歳だった。木屋町御池上る−に一戸を構え、桂の隠れ家としても使い、落籍後も幾松は芸妓を続け、勤皇志士のために宴席での情報収集に努めた。幾松のこうした同志的活動と内助の功があって、桂の長州藩におけるポジションも優位なものになっていったともいえよう。
桂小五郎は長州藩主毛利敬親の命により、木戸貫治と改名し、その後、木戸準一、さらに維新後、孝允となった。幾松も松子と改め、長州藩士岡部利済の養女として入籍し、木戸と正式な夫婦となった。その後、木戸が明治政府の要人となるために明治2年、東京に移り住んだ。 
一橋直子  

 

幕末、一橋家を取り仕切り、慶喜を助け支えた若い義母
一橋直子(ひとつばしつねこ)は伏見宮家の姫として京都に生まれたが、わずか11歳で一橋慶寿のもとへ嫁いだ。子に恵まれぬまま夫が他界したため、養子を迎えた。その養子が、後に徳川第十五代将軍となった慶喜だった。慶喜よりわずか7歳年上の彼女は、慶喜の母親として、そして当主・慶喜が不在の折は女当主として一橋家を見事に取り仕切り、才女ぶりを示した。また、京の中川宮、輪王寺宮、仁和寺宮らは直子の甥にあたり、朝廷工作をする慶喜を、直子は実家である伏見宮家の縁を利用し、陰から慶喜を助け支えたと思われる。直子は京都の有力公家の出の姫ながら、才覚のある女性だった。
一橋直子は東明宮直子といい、のち嫁ぎ先の夫に先立たれた以降は徳信院といった。直子は天保12年の暮れ、わずか11歳で江戸へ下り、一橋慶寿のもとへ嫁ぎ、不幸にも子宝に恵まれないまま夫は他界。そこで幼少の養子を迎えるが、その養子が2歳で死去。その養子として迎えたのが慶喜だった。直子とは系図上、祖母と孫養子の関係になるが、慶喜が一橋家を相続した12歳当時、直子改め徳信院はまだ19歳だった。つまり、わずか7歳年上の母親で、周囲の目には姉弟のように映ったといわれる。
慶喜が一橋家に入った当時は、ともに永代一橋別邸で穏やかな日々を送った。当時の十二代将軍家慶は、この少年当主(慶喜)を可愛がり、よく別邸を訪ね、その聡明さに感心していたという。そのため5年後、浦賀にペリーが来航した際、一橋慶喜が将軍家存続の要人として注目を浴びるもととなったのだ。
一橋家は田安・清水家と並び、将軍家となる資格を持つ三卿の家柄の一つで、本邸は江戸城の一ツ橋内、現在の皇居平川門に面する細長い土地にあった。一橋家は個人よりも家、家よりも主君、将軍家を大事とする。その家の主人である直子は、個人の幸せよりも将軍家を大事としなければならなかった。
十三代の新将軍家定が病弱で、この黒船騒ぎ以後、慶喜を次期将軍に推す動きが慶喜の実父、水戸藩主水戸斉昭、薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平春嶽らから起こり、紀州慶福(よしとみ)を推す大老井伊直弼らと対立。一橋家は当主が早世のために慶喜を迎えてやっと安定したというのに、この政争に一橋家が巻き込まれることを直子は悩み、慶喜に一橋家に留まるよう詰め寄ったといわれる。慶喜も一時はこれに応じ、大奥へ働きかけて、このときの将軍後継話は潰れている。直子が政治に関して自分の意見を言った点で、当時の将軍家周辺の女性としては珍しい存在だったと思われる。
大名ならば跡継ぎがなければお家断絶とされていた当時、三卿(田安家・一橋家・清水家)の場合は一代ごとに将軍から禄を拝領する形になり、当主不在でもお家の存続は可能だったため、女当主が取り仕切ることもできた。そのため、慶喜が「安政の大獄」で井伊直弼から隠居謹慎処分を受けた間、将軍後見職として京で政権を動かした間と、維新に至るまで直子が一橋家の当主として家を守ったのだ。
慶喜の三女、鉄子を一橋家跡取りの達道の妻に迎えたのを見届け、直子は明治26年、他界した。 
野村望東尼  

 

高杉晋作ら勤皇の志士たちに母のように慕われた尼
幕末、血気盛んな勤皇の志士たちが母のように慕う女性がいた。野村望東尼(のむらぼうとうに)という人物だ。彼女は夫の死後、出家し、多くの志士たちと親交、とくに長州藩の高杉晋作とは親しかった。高杉が死の直前詠んだ辞世「おもしろきこともなき世をおもしろく」の上句を受けて、望東尼が「すみなすものはこころなりけり」の下の句を詠み、辞世を完成させたとされる。女だてらに勤皇なんて…と噂されようとも、新しい時代をつくるために自分が信じる道をひとすじに貫いたのだ。生没年は1806(文化3)〜1867年(○○年)。
野村望東尼は筑前早良郡谷(現在の福岡市中央区)で、三百石の福岡藩士、浦野重右衛門勝幸の三女として生まれた。名を「もと」といい、招月、向陵(こうりょう)と号した。17歳のとき20歳も年上の知行五百石の郡利貫に嫁ぐが、半年で破局を迎え実家に戻る。その後、九州で著名だった大隈言道(ことみち)に和歌や書道を学び、この師のとりなしで、24歳のとき、同門だった福岡藩馬廻役、野村貞貫(さだつら)の妻となった。夫には先妻との間に17歳を頭に三人の男子がいた。また、もとも四人の子を産むが、皆早世してしまったという。しかし、夫婦仲はよく、二人は同じ趣味に生きた。互いに歌作を競っては、心の中を語り合い、ともに歌道を究めようと学んだ。
夫の貞貫は彼女が40歳になったとき、家督を長子の卯左衛門貞則に譲って、現在の福岡市中央区平尾にあった隠居所、平尾山荘に移ってきた。それから二人は世俗を離れて十有余年をこの山荘で静かに送った。彼女が髪を降ろして尼となり、身を墨染めの衣に包むようになったのは、夫貞貫が66歳で亡くなったときからだ。そのとき彼女は54歳だった。彼女が尼となったのは世捨て人になろうと決心したからだった。
しかし、彼女は世捨て人にはなりきれなかった。桜田門外の変(1860年)はじめ、ロシア軍艦による対馬占領事件(1861年)、そして坂下門外の変(1862年)などが相次いで起きた、激動の時代だったからだ。尼の耳には世の中の慌しい動きが嫌でも伝わってきた
この山荘には多くの志士が出入りした。元治元年、望東尼がこの山荘に住んで20年近く経ったころ、高杉晋作が訪れている。高杉は長州藩の佐幕派の俗論党に追われ、谷梅之介の偽名を使って長州を逃れ、多くの志士たちが頼りにしていると聞く望東尼の平尾山荘にやってきたのだ。
高杉は討幕の九州連合をつくることにより、外部からの長州の改革を企てたが、筑前もいぜん佐幕派が強く、博多に身を潜めるのも危険な状態になり、この山荘に身を寄せたわけだ。高杉はここで約10日間過ごし多くの志士たちと会い、また薩摩の西郷隆盛とも初めて会ったともいわれているが、真偽は定かではない。高杉はその後、長州へ戻り、1カ月後同士と謀り俗論党を倒し、藩の主導権を握った。
高杉を匿った翌年、望東尼は福岡藩から、志士たちの隠匿の嫌疑で咎められ、玄界灘の姫島に流罪となった。60歳のときのことだ。荒格子だけの四畳牢で吹き晒しの中、食べ物を運んでくれる島民を支えに、彼女はここで10カ月を過ごす。高杉はこの厳しい流刑地の望東尼の身を案じていたが、小倉戦争後、病に伏せることが多くなり、信頼する者に救出に向かわせる。慶応2年望東尼は下関の白石正一郎のもとに身を寄せる。そして、喀血して病に倒れた高杉を看病する愛人おうのを助けたという。
数えで29歳という若すぎる不世出の天才児、高杉の死を見届けた後、望東尼は下関を去り、薩長同盟が成立し、両藩の軍艦が集結する三田尻に行く。彼女は防府天満宮に7日間籠もり、断食して勝利を祈った。そのため、体を壊し病床につくことになった。しかし、大政奉還がなり、王制復古が実現したとの知らせが届き、彼女は満足して没したといわれる。高杉の死後、約7カ月後のことだった。 
松尾多勢子  

 

10人の子供を産み育て上げた後、討幕運動で活躍した女性
松尾多勢子は幕末、討幕運動で活躍した女性活動家だ。多勢子は6男4女、10人の子供を産み、旧家の大家族の主婦として家事を取り仕切り、主婦の座を嫁に渡した後、上洛し討幕活動に参加。渉外・連絡・スパイ活動などをするかたわら、20歳前後の若者の多い活動家たちを、物心両面で助けた。また、岩倉具視の信任を得て、維新後は新政府の要人となった岩倉に招かれ、岩倉家の家政を取り仕切り、岩倉家の女参事と呼ばれた。この当時としては異例の生涯を送った女性だ。多勢子の生没年は1810(文化8)〜1894年(明治27年)。
松尾多勢子は信濃国下伊那郡山本村(現在の長野県飯田市)の庄屋、竹村常盈の長女として生まれた。12歳のとき、父の実家、北原家に預けられ、従兄の北原因信から読み書きと和歌を学び、北原因信の妻から家事と礼儀作法を学んだ。19歳のとき、伊那谷伴野村の豪農、松尾家の長男、左次右衛門と結婚。6男4女をもうけた。主婦として30余年を過ごし、その間に和歌を学び、とりわけ飯田の歌人・国学者岩崎長世の説く尊王攘夷論に深く感化された。また、平田篤胤の養嗣子、銕胤のもとに入門し学問を再開した。
多勢子の人生が大きく変わるのがこれからだ。それも普通なら、もうそろそろ人生も“たそがれ”と思われる52歳のとき、1862年(文久2年)彼女は夫の了解を得て、意を決して上洛したのだ。まだ自分にはやりたいこと、やり残したことがあるとの思いからだったか。彼女は“信州の山奥から出てきた歌詠みおばさん”という触れ込みで諸卿の門に出入りし、宮中の女官と親交を結ぶようになった。
長州藩の久坂玄瑞、品川弥二郎、藤本鉄石らとも交わり、志士を堂上家に紹介したり、両者の連絡にあたったりした。老女のため、警戒されることも少なく、様々な頼みごとを持ち前の義侠心で引き受けその実現に奔走、農民や商人などに変装し活動を続けたのだ。
多勢子の人生をさらにステップアップさせたのは、岩倉具視の信任を得たことだ。これは岩倉が奸物として志士に命を狙われたとき、彼女が志士たちに岩倉が奸物でないことを説いて危険を免れさせたからだという。彼女は快活で弁舌に長じ、世話好きで資力も豊かだったから、志士でその世話になった者が多かった。
多勢子は1863年(文久3年)、等持院の足利三代木像梟首事件に関係し、また天誅組の志士を保護して幕吏に疑われ、捕らわれの身となる恐れもあったが、長州藩邸に匿われて事無きを得たこともあった。同年、国許から迎えにきた息子らとともに帰郷するが、郷里では多勢子を頼ってくる志士も多く、松尾家には常に数人が滞在していたという。
明治維新後、多勢子は新政府の要人となった岩倉具視に招かれ、再び上洛して女中の教育や客の応対など岩倉家の家政を取り仕切ったりし、岩倉邸の女参事と呼ばれた。具視の多勢子への信頼は厚く、彼女の進言は必ず受け入れられたという。また、彼女の口入れで官途に就こうとする者も多かった。晩年は郷里に隠居して静かに余生を送り、1892年(明治25年)には皇后から白縮緬を下賜された。
島崎藤村の『夜明け前』には松尾多勢子の名が13回も出てくる。 
村山加寿江  

 

井伊直弼の寵愛を受け、愛人のため志士の諜報活動
村山加寿江(かずえ)は、後に第十三代彦根藩主となる井伊直弼がまだ部屋住み時代、その寵愛を受け、後に井伊直弼が幕府の大老に就任、「安政の大獄」を断行した際、これを実質的に指揮した謀臣・国学者・長野主膳の愛人でもあった。
加寿江の場合、閨房で待つ、単なる愛人ではなく、主膳を助けて、その謀者となって息子の帯刀とともに、京の志士の動静探索に力を尽くした。そのため、逆に薩長両藩の志士に襲われ、三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩生き晒しの辱めを受けた。加寿江の生没年は1810(文化7)〜1876年(明治9年)。
村山加寿江(村山たか)は江州(滋賀県)多賀神社の神主の娘。幼少の頃より美人の誉れ高く、踊・音曲を好み祇園の芸妓となったが、金閣寺長老永学に落籍され、天保4年、一子、常太郎(帯刀)を産んだ。のち同寺の代官、多田源左衛門の妻となったが、その後離縁となり、彦根に戻ってまだ部屋住み時代の井伊直弼の寵愛を受けた。そして、直弼が家督相続するころに暇を出され、直弼の知恵袋と目されていた国学者・長野主膳がその後始末を任されたのだ。
加寿江は容色にも恵まれ、文章にも優れていた。九条家、今城家などにも出入りしたほどだから、知恵者の長野主膳とも意気投合して深い関係におちた。
その後、時局が急展開し、安政5年、幸運にも彦根藩主となった井伊直弼が幕閣の大老に就任。安政の大獄が断行されると、これを実質的に指揮した長野主膳を、加寿江は女だてらに彼の片腕となって助け、息子の多田帯刀とともに西南雄藩の志士の動静探索に力を尽くした。
これが後に勤王派の志士たちの耳に入り、その中の過激な連中から逆襲されることになった。1862年(文久2年)、洛西・一貫町の隠れ家で長野主膳一味として薩長両藩の志士に襲われ、天誅のもとに息子の帯刀は斬殺され、加寿江は三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩、生き晒しの辱めを受けた。
そのとき尼僧に助けられ、彦根の清涼寺で剃髪して尼僧となった。その後、金福寺に移り、留守居として入った。彼女は妙寿尼と名乗り、ここで数奇な生涯を閉じた。祇園の芸妓だった彼女が、後に日本国を動かす人物の寵愛を受け、さらに女だてらに天下・国家を動かしていた人物の片腕として働くという、この当時の女性にはほとんど経験できない人生を生きたのだ。  
中西君尾  

 

勤皇・佐幕派を問わず様々な人物とつながりを持った芸妓
幕末、京都祇園の芸者だった中西君尾(なかにしきみお)は、高杉晋作を介して、井上聞多、品川弥二郎など多くの長州藩士とつながりを持ち、彼らの心を癒した。とくに井上聞多の命を救った贈り物の逸話は知られているが、桂小五郎と幾松のように、君尾と井上は結ばれることはなく、結果的に君男は祇園で多くの勤皇の志士のために手助けをすることになる。君尾の生没年は1843(天保14)〜1918年(大正7年).
中西君尾は京都府船井郡八木町に生まれた。本名はきみ。19歳で祇園の置屋、島村屋から芸妓となった。主に縄手大和橋の御茶屋『魚品(うおしな)』で後の明治時代に元老となる井上聞多(後の井上馨)と出会い、親密な間柄となった。元治元年、井上が長州藩内で敵対する俗論党に、山口・湯田温泉で襲われ、虫の息の彼が止めの刃を胸に受けたとき、懐の鐘に切っ先があたり死を免れた話が残っている。これは、これより数年前井上がロンドンに向かうときに、井上が自分の小柄と交換した君尾の鐘で、彼がずっと肌身離さず持っていたものだったという。
君尾は芸妓という立場上、当然ともいえるが勤皇・佐幕派を問わず、実に様々な人物とつながりを持った。彼女はまず長州の寺島忠三郎に頼まれ、スパイとして志士弾圧の急先鋒だった島田左近の“思われもの”になったこともあるといわれ、この後、島田は天誅第1号として斬殺されている。
近藤勇も祇園の『一力』の座敷で君尾と出会ったことがあるが、近藤が口説いたところ、君尾は「禁裏様のお味方をなさるなら、あなたのものになりましょう」といい、近藤は「我々は会津に従う。(だから、お前の)言葉には従えぬ。無礼は許せ」と酒を一気に呑み干し、席を立ったという話が残されている。
また、鴨川の川座敷で桂小五郎、久坂玄瑞、鳩居堂の主人らと酒を酌み交わしかえる途中、新選組隊士に壬生の屯所に引き立てられ拷問にかけられるが、君尾は気丈にも同席者の名や話の内容など肝心なことは口を割らなかった。そのため、近藤は「新選組は無茶な殺生はしない」と駕籠を呼んで送り返してやったという。まだある。君尾はまた追われていた中村半次郎(後の桐野利秋)を匿ったり、会津藩士に踏み込まれた勤皇の青年を裏から逃がしたり、多くの志士たちを救っている。
長州の品川弥二郎もその一人だ。君尾は弥二郎と恋仲になった。慶応4年に東征軍が進発のときに歌った「宮さん、宮さん〜」のトンヤレ節は品川の作詞といわれる。また曲をつけたのは君尾だとされている。君尾は品川の子供を宿し、その子、巴は祇園の役員になった。
明治時代になっても、君尾はずっと祇園の芸妓を通した。そして維新で高官となった、かつての志士たちと昔語りをするのを楽しみにしていたという。 
中山慶子

 

 
 
 
江戸時代中期以降は取り上げるのにふさわしいほどの活動をした女性があまり見あたりません。平塚らいてうはどちらかというと近代フェミニズムの人で、今回の趣旨とは逆方向になりますし市川房枝もやや実績不足。与謝野晶子・樋口一葉も一世を風靡するほどの活動ではありません。 
彼女は権大納言中山忠能の次女ですが、京都八瀬に里子に出されて育ち、小さい頃はこの片田舎の土地で近所の子供たちとどろんこになって遊んでいました。ところがその彼女が一転して、17歳の時宮中に召し出され、典侍御雇となります。この時、他の女官が皆箱入娘で上品なのに対して、慶子はその育ちから野性的な魅力を持っており、孝明天皇が彼女の雰囲気に惹かれ、彼女の話す田舎での生活などに興味を持ち、そのため彼女はとんとん拍子に出世してあっという間に権典侍となります。そして1年後彼女は懐妊の兆を見せるのです。 
ところが彼女は妊娠6ヶ月の頃激しい腹痛に見舞われます。宮中は大騒動になるのですが、単なる赤痢と判明。妊娠中ということもあり漢方薬でこれを直しますが、これを期に、もともと自由な家で育った慶子には、宮中での出産より実家での出産の方がよいのではないか、という議論が起きます。 
この話を進めたのが孝明天皇の実質皇后であった九条あき子(彼女を皇后にしたいという朝廷側の意向を再三幕府が拒否した為、彼女は孝明天皇の死後皇太后に叙せられただけ)で、慶子は彼女の親切な取計いによって実家に下がって、天皇の子供を産むことになります。 
ところがこれに慌てたのは父の忠能です。中山家はそんなに名門という訳でもなく、お金持ちでもないため、天皇の子供を産むにふさわしいような場所が存在しないのです。彼は金策に走り回り、あちこちに支援を頼み、大量の借金をして何とか六畳と十二畳の二間の小さな御産所を作りあげます。 
しかしこれでもし生まれた子供が女の子であれば、お上から支給される支度金はほんの僅か。借りているお金がとても返せません。忠能は慶子が男の子を産んでくれることを真剣に祈らざるを得ませんでした。そして1852年9月22日。出産。生まれたのは男の子でした。皇子誕生の知らせに九条あき子と孝明天皇の母・藤原雅子がお祝いに駆け付け、12月には天皇の前に初参内します。 
そして普通なら皇子はここで専門の養育係に託される所なのですが、天皇は引き続いて中山家で育ててくれるように依頼します。 
この、そもそも中山慶子のような庶民的な女性が明治天皇のお世話をする女官になったこと、そして皇子の養育まで依頼されたことの背景には、天皇家とその周辺にあった血統に対する危機感があったという説があります。つまり天皇家にしろ藤原一族にしろ、家柄重視の結婚が何代も続き、結果的に多くの近親結婚がなされて、そのためか天皇の妻となる人たちにも病弱な人が多く、折角子供が生まれてもすぐに死んでしまうといったことが頻発していました。 
このあたりで新しい血をどこからか入れないと天皇家の存続が危うくなる、という思いから、こういった異例の処置がなされたのではないかという訳です。その為、彼女のような、箱入り娘でない女性の血が必要であり、何一つ不自由の無い宮中ではなく、何かと不便な臣下の家で母親のそばで育てようということになったというのがこの説です。 
この皇子は8つまで中山家で育てられ、1860年、実質的皇后九条あき子の子供とみなすとされて、親王の宣下が行なわれ、睦仁の名が与えられます。こうなってしまうと身分の低い慶子は自分の子供になかなか会うこともできなくなってしまうのですが、そうこうする内に1866年孝明天皇が36歳で死去(暗殺)、その睦仁親王が践祚して明治天皇となりますと、その生母として従三位を贈られ大典侍となって、後宮の事実上の長に任じられます。 
そして、わが子明治天皇に皇太子嘉仁が生まれるとその養育も担当することになり、彼女は二代の天皇を育てたことになります。そして最後は従一位にまで叙せられており、田舎育ちの娘が大出世をしたことになります。そして彼女が産み、育てた明治天皇は、その彼女から伝えられ教えられた野性味のある気質によって難しい時代の日本の舵取りをしていくのです。
津田梅子  

 

維新直後、米国留学した、新しい時代の女子の全人教育の創始者
明治4年(1871)11月12日、岩倉使節団がアメリカに向けて出発したが、このとき59人の留学生一緒に横浜港を出帆している。この59人の留学生の中に、北海道開拓を目指して設立された開拓使が募集した5人の女子留学生も含まれていた。しかし、明治4年といえば、まだ一般庶民にアメリカのことは知られておらず、開拓使の募集に対しても、締切日までには一人の応募者もなかったという。そこで、再度募集し、ようやく次の5人が集まったというわけだ。
東京府士族吉益正雄娘 亮子(15歳) / 静岡県士族永井久太郎娘 繁子(9歳) / 東京府士族津田仙弥娘 梅子(8歳) / 青森県士族山川与十郎妹 捨松(12歳) / 新潟県士族上田峻娘 悌子(15歳)
ここで注目されるのは、彼女たちの父親および兄がいずれも士族で、幕臣ないし戊辰戦争のとき薩長を中心とした官軍に敵対した藩の藩士だったという点だ。外務省筋から強い勧めがあったのか。
さて、海を渡った5人の少女は、それぞれアメリカの家庭にホームステイの形で預けられ学校に通ったが、年長の二人、吉益亮子と上田悌子は早々に健康を害し、途中で帰国してしまった。10年という予定の留学期間を全うしたのは残りの三人だった。ただ、彼女たちが帰国したときには開拓使そのものが廃止されて、北海道での女子教育を担うという、所期の目的そのものがなくなってしまっていた。結局、山川捨松は後、陸軍元帥となる大山巌と結婚し、永井繁子も海軍大将瓜生外吉と結婚した。純粋に教育畑を歩き続けたのは津田梅子ただ一人だった。
梅子のホームステイ先はアメリカ東部ジョージタウンのチャールズ・ランメン宅だった。彼女は足掛け12年間にわたって寄留し、ランメン夫妻は彼女を実の娘のようにかわいがったという。彼女はアーチャー・インスティチュートに在学し、10年目に帰国期限がきたとき、卒業まであと一年あったので、留学延長を申し出、結局帰国したのは明治15年(1882)のことだった。19歳になっていた。
梅子は8歳のときに渡米し、アメリカでは一切日本語をしゃべらない生活をしていたので、日本語を全く忘れてしまって、帰国後、しばらくの間は梅子の妹が通訳を務めていたというほどアメリカ人になりきってしまっていた−というエピソードがある。
津田梅子は帰国してしばらくの間は英語教師をしていたが、明治22年(1899)、華族女学校教授在官のまま再びアメリカに渡り、ブリンマーカレッジに選科生として入り、生物学を専攻。その留学中、指導にあたったモーガン教授と共同研究を行った成果をまとめ、日本女性として初めての科学論文「蛙の卵の発生研究」を発表している。つまり、津田梅子は自然科学者として認められていたのだ。明治25年に帰国、華族女学校教授に復帰し、請われて同31年には女子高等師範学校の教授を兼ねている。ところが、同33年(1900)7月、37歳の梅子は両校の教授を突然辞めている。自分が考える新しい時代の、新しい女学校を創るためだった。
その新しい学校は女子英学塾だ。学校といっても、塾生が10名という小さな塾だった。開校式が行われたのはその年の9月14日で、東京の麹町区一番町(東京都千代田区一番町)の借家でスタートした。アメリカ留学仲間の大山捨松が援助し、梅子が留学中キリスト教の洗礼を受けて聖公会に所属していたので、その関係者やアメリカ人の友人たちが無報酬で授業を手伝ってくれた。塾生たちはめきめきと力をつけ、その評判によってさらに塾生が集まり、同37年(1904)には専門学校に昇格した。
ここでの教育のポイントの一つは英語教師の免状取得だが、もう一つはキリスト教精神による教育だった。語学力をつけるだけでなく、明治女学校の巌本善治や新渡戸稲造を招いて講演してもらったり、時事問答の時間を設けて、全人的な教育が試みられていたのだ。こうした個性を生かした教育を実践するためには、私立でなければ難しいと判断したのだ。
女子英学塾創立後も彼女は何度か長い外国旅行をしている。アメリカの最新の情報を得るためだった。こうした無理がたたったのか、大正6年(1917)、病に倒れ、その後は遂に教壇に立つことはできなかった。そして、昭和4年(1929)8月、亡くなった。
その後、昭和8年(1933)津田英学塾、同18年(1943)津田塾専門学校と改称。戦後、1948年、津田塾大学となり、今日に至っている。 
荻野吟  

 

封建的な因習が残っていた明治初期、近代の女医第一号に
何事も人がやらないことを初めてやろうとするのは大変なことだ。偏見と戦わなければならないし、様々な妨害も乗り越えなければならない。近代の女医第一号となった荻野吟の場合も、女医になるまでの道のりは実に険しかった。
彼女は嘉永4年(1851)、武蔵国大里郡泰村で生まれている。頭は良かったが、ごく普通の豪農の娘として育てられ、親が決めた結婚相手と普通の結婚をしている。16歳だった。そのまま何事もなければ、恐らく彼女は普通の主婦として平凡な一生を送っただろう。
ところが、結婚後しばらくして夫から性病の一つ、淋病をうつされたことによって、その後の吟の一生はガラッと変わることになった。明治早々のまだ封建的な因習が色濃く残っていた頃のことだ。病気そのものを夫からうつされたにもかかわらず、彼女は実家に戻され、次いで離婚させられている。全く理不尽な話だが、吟は黙ってそれに従うしかなかった。
吟の実家は素封家だったので、経済的に困るというようなことはなかった。東京の順天堂病院に入院、治療に専念することになった。淋病なので、診察のたびに男の医師たちに女性性器を調べられる。まだ10代だった彼女にとってその恥辱はいかばかりだったか。このときの恥辱が、彼女を女医へと駆り立てたといっていい。江戸時代から産婆がいるのだから、女の医者がいてもいいではないか、自分は産婦人科医になろう−というわけだ。
新しい時代、明治時代だが、医師の世界にまでまだ新しい波は押し寄せていない頃のこと、彼女が考えるほどことは簡単ではなかった。まず明治6年(1873)、彼女が23歳のとき、東京へ出て国学者で漢方医でもある井上頼圀の門に入った。西洋医学ではなく、なぜ漢方医なのか?それはその頃、女医そのものが一人もおらず当然、女医養成のための学校などあり得るはずもなかったからだ。このことは彼女がこの後、甲府の内藤女塾の教師兼舎監に、そして明治8年(1875)開校された東京女子師範学校に入学していることでも分かる。“筋違い”で、遠回りだが、こうした方法しかなかったのだ。
ただ、彼女はそこで猛勉強する。そして、明治12年(1879)首席で卒業した。首席卒業の吟の将来の希望が女医だと知った同校の永井久一郎教授から紹介された石黒陸軍医監の口添えで、好寿院という医学校への入学が許可された。とにかく、それまで男にしか入学を許さなかった医学校に入ることができたのだ。だが、初めての女子の入学だ。好奇の目で見られたし、露骨に「女が来るところではない」といわれ、毎日のように嫌がらせやいじめがあるなど、そこでの勉学生活は決して快適なものではなかった。しかし、彼女はへこたれず、見事卒業したのだ。
しかし、まだ彼女の前に立ちはだかるハードルは高かった。医者になるには医術開業試験に通らなければならない。ところが前例がないからと、受験そのものが却下されてしまったのだ。そこで、過去の日本の歴史上に女医がいたかどうかを調べた。すると、古代律令制の時代にも女医がいたことを突き止めた。その結果、明治17年(1884)6月、内務省もようやく女性に対し、医師の道を拓くことになった。同年9月、初めて女子にも開放された医術開業試験の前期試験が行われ、荻野吟のほか、木村秀子、松浦さと子・岡田みす子の3人が受験した。合格したのは吟だけだった。翌18年3月、後期試験が行われ、吟はこれも見事に合格し、ここにわが国初の女医(西洋医)が誕生した。
ちなみに、女医第二号は翌19年11月に後期試験を通った生沢クノで、その後、高橋瑞、本多詮などが続いている。明治21年(1888)までの女性合格者は14人を数えている。後、同じように男たちのいじめにあいながら苦労して女医になった吉岡弥生が、後進の育成のために東京女医学校を設立したのは、明治33年(1900)のことだった。 
与謝野晶子

 

本名晶(しょう)。大阪堺に生まれる。女学校時代から源氏物語や枕草子など古典を愛読する文学少女で、10代半ばから短歌を作り始める。二十歳頃に新聞で与謝野鉄幹の歌を知り深く感銘を受け、 
1900年(22歳)、4月に鉄幹が「明星」を創刊すると同誌で歌を発表した。8月に初めて鉄幹と会い 恋心が爆発、翌夏には鉄幹を追って家出同然で上京し、鳳晶子の名で第一歌集「みだれ髪」(6章 399首収録)を刊行、その2ヵ月後に妻と別れた鉄幹と結婚する。時に晶子23歳、鉄幹28歳。女性が自我や性について語ることがタブーだった保守的な明治の世にあって、愛の情熱を自由奔放かつ 官能的に歌い上げた「みだれ髪」は一大センセーションを巻き起こした。 
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」 
(熱くほてった肌に触れず人生を説くばかりで寂しいでしょう) 
「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす」 
(みだれ髪を綺麗に結いなおして朝寝するあなたを揺り起こす) 
「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ」 
(春は短く命に限りがあるからと弾ける乳房に手を導く) 
「罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ」 
(罪多き男たちを懲らしめる為に我は肌も髪も美しく作られた) 
彼女は封建的な旧道徳に反抗したことで伝統歌壇から批判されたが、愛に根ざす人間性の肯定は民衆から熱狂的な支持を受け、「若菜集」の島崎藤村と共に浪漫主義文学の旗手と称された。 
それから3年後の1904年(26歳)、日露戦争の最中にロシアの文豪トルストイがロマノフ王朝に向けて発表した戦争批判が日本の新聞に掲載され、敵国国民の反戦メッセージに深く感動した晶子は、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟に呼びかける形で「明星」9月号にこう応えた。 
「君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し、獣(けもの)の道に死ねよとは…」 
(弟よ死なないでおくれ。天皇自身は危険な戦場に行かず宮中に安住し、人の子を獣の道におちいらせている) 
この反戦歌は発表と同時に、日露戦争に熱狂する世間から“皇国の国民として陛下に不敬ではないか”と猛烈な批判にさらされた。文芸批評家・大町桂月は「晶子は乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と激しく非難したが、晶子はこれに反論すべく「明星」11月号に「ひらきぶみ」を発表、“この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ”と前置きしたうえで 
「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、危険思想ではないかと考えます。歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」 と全く動じることはなかった。 
晶子は非難に屈するどころか、翌年刊行された詩歌集「恋衣」に再度“君死にたまふことなかれ”を掲載する。 
その後も女性問題や教育問題などで指導的活動を続け、1911年(33歳)には日本初の女性文芸誌「青鞜」発刊に参加、「山の動く日来(きた)る。(中略)すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」と賛辞を贈ってその巻頭を飾り、43歳で文化学院の創設に加わり自由教育に尽くした。また、文学者としては短歌だけでなく、「新訳源氏物語」を始めとした古典の現代語訳にも多くの著作を残す。 
1930年代に入って満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍国化が進み、日増しに言論の自由が奪われていく中で、晶子は1936年(58歳、死の6年前)に国家の思想統制についてこう書き残した。「目前の動きばかりを見る人たちは“自由は死んだ”と云うかもしれない。しかし“自由”は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが“自由”の復活を祈っているのです」 
※自由が泣いている、こんな表現もあるのか…! 
明星派の歌人として生涯にわたって鉄幹の仕事をサポートし(鉄幹は57歳の時に先立つ)、家庭では11人の子を育て、太平洋戦争の真っ只中の1942年に63年間の人生を終えた。 
・鉄幹について 「一体今の新流の歌と称しているものは誰が興して誰が育てたものであるか。この問いに己だと答えることの出来る人は与謝野君を除けば外にはない」(鴎外) 
・「われ男(を)の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子」(鉄幹)  
・「明星」は啄木、高村光太郎、北原白秋らを世に送った。
與謝野晶子 / 愛国短歌  
『さくら草』(大正四年三月)  
あかつきの杉の木立の中を行く御裳裾川の春の水おと  
  (御裳裾川とは五十鈴川のこと。初代斎王(倭姫命)の伝承による命名)  
天照す神の御馬のいななける清き夜明の杉木立かな  
  (神の御馬とは朝廷から伊勢神宮に贈られる神馬。現在も同様らしい)  
二とせの御涙よりなりにたる白き泉にかくれ給ひし  
  (昭憲皇太后崩御のとき)  
かしこかる大后をば帝さへ目に見給はぬ空に送りぬ  
  (昭憲皇太后崩御のとき)  
『白櫻集』(昭和十七年九月)  
國は今二千六百載を經て菊きよく咲く秋としなりぬ  
  (紀元二千六百年のお祭り)  
神武よりこの大御代にいたるまで數ふる業の楽しかりける  
日の本の今日のさかえをその世より思し掟し橿原の神  
いにしへの大和の宮にぬかづきし祖たちのごと君にぬかづく  
ひんがしの亜細亜洲をばみちびくと光りをはなつ菊の花かな  
いにしへに橿原の神建てましてゆるぐことなき御太柱  
日の本の大宰相も病むわれも同じ涙す大き詔書に  
  (日米開戦の時の歌と思います)  
水軍の大尉となりてわが四郎み軍に往く猛く戰へ  
  (出征する息子を励ます有名な歌です)  
子が乗れるみ軍船のおとなひを待つにもあらず武運あれかし  
  (同上)  
三千とせの神の教へに育てられ強し東の大八島びと  
めでたきもかがやかしきも東海の瑞穂の國のますらをにして  
古き國わが御祖達開きたるアジアの北の土に親しめ 
遺書 / 與謝野晶子 
一  
私にあなたがしてお置きになる遺言と云ふものも、私のします其(そ)れも、権威のあるものでないことは一緒だらうと思ひます。ですからこれは覚書です。子供の面倒を見て下さる方(かた)にと思ふのですが、今の処(ところ)私の生きて居る限りではあなたを対象として書くより仕方がありません。私は前にも一度こんなものを書きました。もうあれから八年になります。花樹(はなき)と瑞樹(みづき)の二人が一緒に生れて来る前の私が、身体(からだ)の苦しさ、心細さの日々(にち/\)に募るばかりの時で、あれを書かなければならなくなつたのだと覚えて居ます。十二月の二十五日の午後から書き初めたのでした。今朝(けさ)は耶蘇降誕祭(クリスマス)の贈物(おくりもの)で光(ひかる)と茂(しげる)の二人を喜ばせて、私等二人も楽しい顔をして居たと確か初めには書いたと思つて居ます。その時のも覚書以上の物ではありませんし、唯(たヾ)今と同じやうにあなたの見て下さるのに骨の折れないやうにと雑記帳へ書くこともしたのでしたが、今よりは余程瞑想的な頭が土台になつて居ました。あなたの次(つい)で結婚をおしになる女性に就いていろ/\なことを書いてありました。数人の名を挙(あげ)て批判を下したり、私の希望を述べたりしたのでした。思へば思ふ程滑稽な瞑想者でした、私は。瞑想は下らないものとして、あなたに僭上(せんじやう)を云つたものとして、併(しか)しながらあの時にA子さんやH子さんのことをあなたの相手として考へたやうに、今も四人や五人はそんな人のあつた方(はう)が、この覚書を読んで下さる時のあなたを目に描(か)いて見る私にも幸福であるやうに思はれます。あの方(かた)よりさう云ふ人を今のあなたは持つておいでにならない、あの方(かた)は私が見たこともなし、委細(くは)しい御様子も聞いたことはありませんけれど、近年になりまして私が死んだ跡(あと)のあなたはどうしてもあの方(かた)の物にならなければならない、私の子を世話して下さる人はあの方(かた)よりないと云ふことがはつきりと、余りにはつきりと私に思はれて来ました。自分の死後の日を見廻す中にも、私は傷(いた)ましくてその絵の掛つた方(はう)は凝視することが出来ません。私は冷く静かな心になつて居ると思つて居ながら、あなたの苦痛のためにはこれ程の悲しみを感じるのかと自(みづか)ら呆れます。あの方(かた)はあなたの初恋の方(かた)で、然(しか)も何年か御一緒にお暮しになつた方(かた)で、あなたのためにその後(のち)の十七八年を今日(けふ)まで独居しておいでになる方(かた)であつても、悲しいことにはあなたよりもつとお年上なのでせう。去年あの方(かた)のお国から出ておいでになつた岩城(いはき)さんが、私等夫婦をもすこし開(あ)け広げな間柄であらうとお思ひになつて、あの方(かた)のことをいろ/\とお話しになつた時に、年は自分よりも確か二つ三つ上だと云つておいでになりました。岩城(いはき)さんはあなたよりまた二つ三つ上なのでせう、であつて見ればあの方(かた)の髪にはもう白い毛が出来て居るでせう、お目の下の皮膚から紫色になつた血が透(す)いて見えるでせう。真実(ほんたう)にあなたはお可哀相(かあいさう)です。お可哀相(かあいさう)です。あの方(かた)のことをあなたが私へお話しになつたことは唯(たヾ)一度しかありません。結婚して一月(ひとつき)も経たない時分でした。つまりお互(たがひ)に自己の利益などは考へ合はなかつた時だつたのです。ですからあなたは虚心平気でいらつしつた。昔の恋人のためにしみじみとお話しなさいました。けれどその晩を私は一睡もようしないで明(あか)したことを覚えて居ます。 
二  
あの××県のあなたの兄様(にいさん)の拵(こしら)へておいでになる女学校を、神童時代の次の十八九のあなたが教えておいでになる時、其処(そこ)の舎監で、軍人の未亡人の切下げ髪の人とかが、毎夜毎夜提灯を点(とも)して遠いあなたの住居(すまゐ)を訪ねて来て、あなたを挑(いど)まうとしながら表面(うはべ)では学校のあの二人の才媛の何方(どちら)をあなたは未来の妻にしたいと思ふかなどと云ふ話ばかりをして居たと云ふこと、あなたは第一の才媛は容貌(きりやう)が悪いから厭だ、あの人ならとあの方(かた)のことをお云ひになつたのだと云ふこと、京の北山(きたやま)の林の中へ鉄砲を持つて入(はひ)つて、あの方(かた)と添はれない悲しみに死なうとなすつたこと、それから五六年もしてあなたとあの方(かた)が一緒になつて、女の赤さんを生んで、そしてその子が死んでからお別れになつた時、あの方(かた)は大きい柳行李(やなぎがうり)に充満(いつぱい)あつたあなたの文(ふみ)がらをあなたの先生の処(ところ)へ持つて行つて焼いたと云ふこと、こんなことでした。私が何故(なぜ)別れるやうになつたのでせうと云ひましたら、赤坊(あかんぼう)の死んだのが悪かつたのだとあなたは云つておいでになりました。年上の女と恋をするのはどんな気持なものかとも私がお尋ねしましたら、綺麗な人だつたせいか自分は年上とも思はなかつたとあなたは訳(わけ)なしに云つておいででした。よくあなたや私の知つた人が、年上の女を娶(めと)つたり、年下の男の処(ところ)へ行つたりするのを見て何故(なぜ)ああした気になれるだらうとあなたはよく不思議がつておいでになりました。私は何時(いつ)も昔のあなたがお思ひになつたやうに年(とし)と云ふものの目に映つて来ない幸福な気(き)に包まれた人達なのであらうと、さう云ふ人達に対しては思つて居るだけなのです。あの方(かた)が何年間かのあなたの心を蓄(たくは)へた行李(かうり)を開(あ)けて人に見せ、焼き尽しもした程|憎(にく)みを見せながらそのあなたの弟や妹に、実姉妹のやうな交際を猶(なほ)続けて来て居ることは三四年前まで私は知りませんでした。あなたは私よりもつと後(あと)までお知りにならなかつたかも知れません。知つておいでになつたかも知れない。或(あるひ)はまた西洋においでになる時にも門司(もじ)でお逢ひになつた妹さんの口から何事もあなたへ伝へられなかつたかも知れません。私はお艶(つや)さんとあなたのお留守に一月(ひとつき)程一緒に居ました時、お艶(つや)さんは私を苦(くるし)めたいのでもなく、何(なに)の気なしによくあの方(かた)のことを賞(ほ)めてお聞かせになりました。烈(はげ)しいヒステリイの起つてゐる時などは、悲しい程にさうでした。あなたの兄上や嫂(あによめ)の君の信用の最も厚い婦人と云ふのはあの方(かた)であるとも聞きました。私が幾人も残して行(ゆ)く子供を育てヽ下さるであらうと依頼心をあの方(かた)に起(おこ)すやうになつたのもお艶(つや)さんの言葉が因(いん)になつて居るのです。岩城(いはき)さんが某氏の後添(のちぞひ)にあの方(かた)を世話しやうかと思ふと云つておいでになつた時に、私は滑稽なことを云ふ人であると思つて笑つたのでしたが、あの時はあなたも傍(そば)においでになつて、私がさも心から嬉しげに笑つたとはお思ひにならなかつたでせうか、私はあなたのその時の顔をよう見ませんでしたけれど。  
私は子供のことばかりを書いて置かうと思つたのでしたが、前に書いた遺書のことから云はないでもいいことを書きました。 
三  
私が今日(けふ)またこんな物を書いて置かうと思ひましたのは、花樹(はなき)と瑞樹(みづき)が学校へ草紙代や筆代で四十六銭づヽ持つて行(ゆ)かねばならないと云ひまして、前日先生のお云ひになつたことを書いて来た物を持つて来て見せました時、私が居なくてこの子等がこんな物を見せる人がなかつたならと、ふとそんな気がしまして、そんな事などをお頼みする物を書かうと思つたのでした。私は今また遺書ではありませんが、四五年前に死を予想して書いた物のあつたことをふと思ひ出しました。それは私が亡霊になつて家(うち)へ来ることにして書いたものでした。  
東紅梅町(ひがしこうばいちやう)のあの家は書斎も客室(きやくま)も二階にあつたのでした。階下(した)に二室(ふたま)続いてあつた六畳に分(わか)れて親子は寝て居ました。亡霊の私が出掛けて行(ゆ)くのは無論|夜(よる)の夜中(よなか)なのです。ニコライのドオムに面した方(はう)の窓から私は家の中へ入(はひ)ると云ふのでした。私は何時(いつ)も源氏の講義をした座敷の壁の前に立つて居ました。青玉(せいぎよく)のやうな光が私の身体(からだ)から出て、水の中の物がだんだんと目に見えて来ると云ふ風に其処等(そこら)がはつきりとして来ると云ふやうなことは、私が書かうと思つたことではありません。私はやつぱり電気灯のスイツチを廻して座敷の真中(まんなか)へ灯(ひ)を点(つ)けました。室(へや)の中は隅々まで綺麗になつて居ました。私は昼間|階下(した)の暗いのに飽(あ)いて二階へ上(あが)つて来て居る子供等が、紙片(かみきれ)や玩具(おもちや)の欠片(かけら)一つを落してあつても、  
「この穢(きたな)いのが目に着かんか。」  
とお睨(にら)み廻しになるあなたの顔が目に見えて身慄(みぶる)ひをすると云ふのです。または自身達の散(ちら)して置いた塵(ちり)でなくても、  
「この埃(ほこり)が目に見えないのか。」  
と子供等は云はれたであらう、梯子|上(のぼ)りにだんだん怒(いか)りが大きくなつて来るあなたは、終(しま)ひには縮緬(ちりめん)の着物を着た人形でも、銀の喇叭(らつぱ)でも、筆の莢(さや)を折るやうにへし折つて縁側から路次へ捨てヽおしまひになるやうなこともあつたに違ひないと思ふと云ふのでした。床の間は何時(いつ)来て見ても私の生きて居た日に少しの違ひもない品々の並べやうがしてあると云ふのです。唯(た)だ私の詩集が八冊程|花瓶(はながめ)の前へ二つに分けて積まれてあるのだけは近頃からのことであると思ふと云ふのです。本の彼方此方(あちこち)には白い紙が栞(しおり)のやうにして挟(はさ)んであると云ふのです。本の上には京の茅野(ちの)さんの手紙が置いてあるのです。私は全集に就いてして呉れた茅野(ちの)さんの親切な注意をよく読んで見たいと思ひながら遅くなるからと思つてそれは廃(や)めると云ふのです。また私は詩集の中がどんな風に整理されてあるのか見たいとも思ふのですが、自分がどうすることも出来ないのであるから仕方がないと諦めます。併(しか)しさう思つてしまへば、子供を見るためにかうして時々この家へ来ると云ふことも同じ無駄なことであらうと苦笑するのです。私の作物(さくぶつ)には生んだ親である自分にも勝(まさ)つた愛を掛けて呉れる人達が少(すくな)くも幾人かはある。私の分身の子には厳しい父親だけよりない、さうであるからなどヽ恥(はづか)しい気もありながら思ふのです。最初には気が附かなかつたのですが、柳箱(やなぎばこ)の上に私の写真が一枚置いてあるのです。何処(どこ)かの雑誌社から返しに来たのであらうと思ふと云ふのです。 
四  
今日(けふ)はもう書斎へは入(はひ)つて見ないで置かうと私は思ふのです。死ぬ少し前まで一日のうちの八時間は其処(そこ)で過(すご)して、悲しいことも嬉しいことも其処(そこ)に居る時の私が最も多く感じた処(ところ)なんですから、自身の使つて居た机が新刊雑誌の台になつたりして居る変り果てた光景は見たくないからなのです。併(しか)し階下(した)へ降りるには其処(そこ)を通つて梯子口へ出なければならないと思つて、また自分は亡霊であるから梯子段などは要らないと非常に得意な気分になつて、階下(した)へすつと抜けて入(はひ)るのです。  
子供の寝部屋には以前の二燭光よりは余程明るい電気灯が点(つ)けられてあるのです。子供は淋しがらせたくないあなたの心持を私は嬉しく思ふのです。処(ところ)でね、蚊帳(かや)の中には寝床が三つよりない、光(ひかる)と茂(しげる)と、それから女の子が一人より居ません。亡霊の胸は轟(とヾろ)きます。どうしても三つよりない。然(しか)も一つの寝床には確かに一人づヽより寝て居ません。寝て居る方(はう)は瑞樹(みづき)なのであらう、居なくなつたのは花樹(はなき)であらう、花樹(はなき)は美濃(みの)の妹が来て伴(つ)れて行つたのであらうと私は直(す)ぐそれだけのことを直覚で知ると云ふのです。三郎が京の茅野(ちの)さんの処(ところ)へ行つてからもう十五日になる、花樹(はなき)は何時(いつ)行つたのであらうなどヽ考へながら私は引き離された双生児(ふたご)の瑞樹(みづき)の枕許(まくらもと)へ坐ります。大人ならば到底眠れないだけの悲痛な音(おと)がこの子の心臓に鳴つて居る筈(はず)である、どんなに瑞樹(みづき)さんは悲しいだらう、双生児(ふたご)と云ふものは普通人の想像の出来ない愛情を持ち合つて居るもので、まだ生れて四五月目から泣いて居る時でも双方の顔が目に映ると笑顔を見せあつたあなた達ですね、けれどあなたの方(はう)が幾分か両親に大事がられたので、妹になつては居るのだけれど姉のやうな心持で双生児(ふたご)の一人を庇(かば)ふことを何時(いつ)も何時(いつ)も忘れませんでしたね、大抵の病気は二人が一緒にしましたね、さうさう下向(したむき)に寝返(ねがへ)りを仕初めたのも這ひ出したのも一緒の日からでしたね、牛乳を飲む時には教へられないのに瓶を持ち合つて上げましたね、あなた方(がた)はね、世間の双生児(ふたご)には珍(めづ)らしい一つの胞衣(えな)に包まれて居たのでしたよ、などとこんな話を口の中でした瑞樹(みづき)の顔を覗(のぞ)かうとするのでしたが、赤いメリンスの蒲団に引き入れた顔は上を向き相(さう)にもないのです。泣きながら寝入つたことがよく解(わか)るのです。枕の前には硝子(ガラス)の箱に入(はひ)つた新しい玩具(おもちや)が置いてあるのです。花樹(はなき)もこれと同じのをお父様(とうさん)に買つて頂いて行つたのであらうと私は思ふのです。蒲団から出して居る瑞樹(みづき)の手の掌(てのひら)には緋縮緬(ひぢりめん)のお手玉が二つ載つて居るのです。私が五つ拵(こしら)へて遣つて置いたのを、花樹(はなき)に三つ持たせて遣(や)つたのであらうと私は点頭(うなづ)くと云ふのです。大胆な茂(しげる)の顔にも少し痩(やせ)が見えて来たと哀れに思ひながら見て、私は一番端に寝た光(ひかる)の寝床へ行(ゆ)くのです。苦しい夢でも見て居るやうに、光(ひかる)の眉の間には大人のやうな皺が現はれたり消えたりするのです。私は物が言ひたいと長男の胸を抱いて悲しがるのです。  
「光(ひかる)さん。」  
とだけでいヽ、唯(た)だそれだけでいヽ、もう永劫にこの子等を見に来られないことになつてもいヽ、今夜の今、  
「光(ひかる)さん。」  
と云つて、この子を眠(ねむり)から醒(さま)させたいと遣瀬なく思ふのです。 
五  
そのうち光(ひかる)がのんびりした寝顔になるのを見て、私の心はだんだんその美に引き入れられながら、何と云ふ綺麗な子であらう、私はこんな美しい物を見たことがない、生きて居た日にはもとより、天上の果てから地の底までも見ようと思つて歩いている今でさへも見ることのない美しさであると思ふのです。私は渋谷の丘の上の家で、初めて自分の分身として光(ひかる)を見た時の満足にも劣らない満足さを感じるのですが、やはりあの時のやうに目を開(あ)いて居ない、真紅(まつか)な唇は柔かく閉(とざ)されて鼻の側面が少女(をとめ)のやうである、この子を被(おほ)ふのには黄八丈(きはちぢやう)の蒲団でも縮緬(ちりめん)でもまだ足るものとは思はないのに、余りに哀れな更紗(さらさ)蒲団であるなどヽ思ふのです。白い掛襟の綻(ほころ)びの繕はれてないのも口惜(くや)しいことに思はれるのです。光(ひかる)の枕許(まくらもと)には大きいリボンを掛けた女の子を色鉛筆で描(か)いた絵葉書が作られてあるのです。  
瑞樹(みづき)ちやんは昨日(きのふ)も今日(けふ)も花樹(はなき)ちやんに逢ひたいとばかり云つて泣いて居ます。花樹(はなき)さんがこの絵のやうな大きいお嬢さんになる時分には、兄(にい)さんも大きくなつて居て一人で汽車に乗つて迎へに行つて上げますよ。兄(にい)さんの上げた林檎は汽車の中で食べましたか。  
などヽ仮名で書いてあるのです。表の宛名はまだ書いてありません。  
私はあなたの蚊帳(かや)の中へもすつと入(はひ)りました。三郎の寝床がなくなつてからのあなたの蚊帳(かや)の中の様子は海の中に唯(たヾ)一つある島のやうであると思つて、この前と同じやうな淋しさを私が感じると云ふのです。此処(ここ)の電気灯も十燭光位が点(つ)いて居るのです。私は三度程ぐるぐるとお床(とこ)を廻つてから恥(はづか)しいものですから背中向きにあなたの枕許(まくらもと)へ坐るのです。亡霊になつてからまだあなたのお顔だけはしみじみと見たことが初めの一度きりしかないのです。そしてまたこれが出してあると私は思ふのです。それは(実際はそんな物をお持ちになりませんけれど、)私から昔あなたへお上げした手紙の一部である五六通が一束(ひとたば)になつた物なのです。亡霊は出て来る度に、これを読んで寝ようとお思ひになつてあなたが二階から態々(わざ/\[#底本では「/\」は「/″\」と誤植])床(とこ)の中へ持つて来ておありになるのを見附けますが、私の生前に束(たば)ねられた儘の紙捻(こより)の結び目は一度もまだ解いた跡がないのです。私の生前と云ふよりも、私があなたの許(もと)へ来る前に束(つか)ねられた儘なのです。私には全(まる)で見当の附かない名の書かれた女の手紙が二通と、私の知つた中のつまらない女の手紙が一通あるのです。私の古手紙のやうな煙(けぶり)のやうな色をしないで、それらは皆鮮かな心持のいヽ色をした封筒に入つてゐるのです。男のも一通はあるんです。その知らない女の一通の方(はう)の手紙は今日(けふ)来たのではなく、二三日前のであつて、今までにもう五六度も読まれた物であると云ふことが私の心には直(す)ぐ解るのです。葉書も二枚あるのです。一枚は私の妹から瑞樹(みづき)の機嫌の好(い)いことを知らせて来た物です。それには涙に匂ひが附いて居るので私はまた悲しくて溜らない気になると云ふのです。一枚は悪筆で、  
ワイフを貰ふことなんかを考へ出してはおまへのためによくねえぞ。その外のことならどんなことでも相談に乗つてやらう。心得がある。  
こんなことが書いてあるのです。 
六  
私は阪本さんのために珍しく笑はせられながら、床の間の玩具棚(おもちやだな)を灯(ひ)の光で見ようとして行(ゆ)くのです。下の棚はがら空(あき)になつて居るのです。二段目にも隅の方(はう)に三郎のだつたがらがらが一つあるだけなのです。花樹(はなき)があの欠けた珈琲(こうひー)道具も、壊れかかつた物干の玩具(おもちや)も持つて行つたのかなどと私は思ふと云ふのです。三段目には蒲団が敷かれて人形の二つが並んで寝て居るのです。その前には木(こ)の葉や花の御馳走が供へられてあるのです。一人(ひとり)前だけです。花樹(はなき)さんお飲みなさいよと云つてあの茶碗の水は注(つ)がれたのであらうと私は想像をするのです。一番上の人形ばかりの段を見ますと、二つづヽあつたのが皆|対(つゐ)をなくして居るのです。瑞樹(みづき)だけでなくて沢山|双生児(ふたご)の欠片(かけら)が出来たと私は驚きます。  
私はもう帰らうとしてまた台所の方(はう)を一寸(ちよつと)覗(のぞ)きに行(ゆ)く気になると云ふのです。  
また電気灯を点(とも)すと、白つぽくなつた壁際(かべぎは)の二段の吊棚が目の前へ現はれて来るのです。私は洋杯(こつぷ)の中に入(はひ)つた三郎の使ひ残した護謨(ごむ)の乳首(ちヽくび)に先(ま)づ目が附きます。丁度二時頃の今時分に毎夜|此処(ここ)へ牛乳(ちヽ)を取りに来た、自身でそれをしに来られなくなつた頃から私はもう死を覚期(かくご)したなどヽ思ひ出すのです。埃(ほこり)の溜つた棚の向うの隅には懐中鏡が立てヽあるのです。洗粉(あらひこ)のはみ出した袋なども私は苦々(にが/\)しく思つて眺めるのです。併(しか)し私が居たからと云つても、心でくさくさと思ふだけで、表に現れる処(ところ)では有つても無くても同じ程な寛容な主婦なのであると思ふのです。女中に対する寛容は私の美徳でも何でもなかつた[#「た」は底本では脱落]のである、私は我身を惜んで、一日(いちにち)でも二日(ふつか)でも女中の居なくなつて下等な労働をさせられてはならないと思ふ心を離さなかつたからであるなどとも思ふのです。私はふと水口(みづくち)の土間に泥の附いた長靴があるのを見るのです。誰(たれ)のであらう、もとよりあなたのではない、書斎も玄関も通らなかつたけれど、これを穿いて来たやうな客の寝て居る風はなかつた、盗賊(どろばう)のではないかと思つて戸の方(はう)を見ても、硝子(ガラス)戸もその向うの戸もきちんと閉(しま)つて居るのです。私はそのうち板の間に並んだ女中部屋から烈(はげ)しい男の寝息の聞(きこ)えて来るのに気が附くと云ふのです。二人の女中と一足の長靴と云ふことで私は暫(しばら)く怖(おび)えさせられて居ると云ふのです。阪本さんはあんなことを云ふが、この上主人が夜泊(よどま)りでもするやうになつては困つてしまふではないかなどと思つたと云ふのです。確かそれでおしまひなのでした。これは書いたのを直(す)ぐ破つてしまつたのでした。前に書いた覚書は何処(どこ)かヽら出て来ることもあるでせう。  
私にはまだ書かうと思つて書かないでしまつた遺書もあるのです。あの腎臓炎を煩(わづら)つた前のことだつたやうに思ひます。あの時分の私は、あなたの妹さんのお艶(つや)さんは私の代りになつて、私以上にも子供を可愛がつて教育して下さる方(かた)に違ひないと信じ切つて居ました。何時(いつ)死んでも好(い)いと云ふ位に思つてゐましたから、どうぞ継母(まヽはヽ)に任せないで、生理的の事情から一生独身で居ると云ふことになつて居るお艶(つや)さんに私の子をすつかり育てヽ貰つて下さいとかう書かうと思つて居たのでした。 
七  
世の中のことは二三年もすれば信じ切つて居た物の中から意外なことを発見するものであるなどと、私は人間全体の智慧の乏しさにこの事を帰して思ふのではありません。私一人が悪いのだと思つて居ます。ああした身体(からだ)になつた人には女のやうなヒステリイはないのであらうと云ふ誤解をしたり、既に男性的な辛辣な性質も加つて居ると云ふ観察をようしなかつたりして、一生に比べて見れば六箇月は僅かなやうなものヽ、その間を私の子の肉体から霊魂までも疑ひを挿(はさ)まずにお艶(つや)さんに預けて行(ゆ)きました。私は自分の子に済まないことをしたと思つて泣いても泣き足りなく思ひます。私は欧州に居た間の叔母さんと子供等とに就いて然(しか)もそれ程くはしいことは知らないのです。四人程そのことに就いて話してやらうと云つて来た人がありましたが、私は自分の後暗(うしろくら)さから(間接に子供を苛(いぢ)めたのは私とあなたなのですから)その人等には曖昧なことを云つて口を閉(とざ)させました。けれども四つ五つの話から見たくない全体も目に描かれて、悲しいことは同じだけの悲しみを私にさせます。私は留守中のお艶(つや)さんのなすつた総(すべ)てを決して否定しては居ません。唯(た)だあの人には父に似た愛はあつても母らしい愛に似たものもなかつたのが子供等の不幸だつたのです。巴里(パリー)の下宿で毎日帰りたいと泣くやうになりましたのは、子供等の心が私に通じたのであると、私はこれまでの経験の中でこのことだけを神秘的なことと思つて居ます。お艶(つや)さんがお去りになつた翌日、光(ひかる)が朝のお膳に向ひながらぼんやりとして居ますのを、どうしたかと聞きますと、××の育児園の生徒は可哀相(かあいさう)だ、今日(けふ)からは僕達のやうに叔母さんから苛(いぢ)められるだらうからと云ふのです。私は顔を覆ふて泣きました。でも母様(かあさん)が生き返つて来たから好かつたではないかと私は云つて慰めました。生き返ることの出来ない処(ところ)にそれが行つて居たのでしたらどうでせう。里から取り返されて、母(かあ)さんなんか厭だよと口癖に云つて居ました佐保子(さほこ)だけを王様のお姫様のやうに大事になすつて、今に佐保子(さほこ)に兄様(にいさん)達を踏み躙(にじ)らせますとばかり叔母さんは云つておいでになつたさうです。末の妹に踏み躙(にじ)られるやうな兄達を生みの親であれば作り上げやうとは思ひませんけれど。私が花樹(はなき)と瑞樹(みづき)に三枚づヽの洋服を買ひ、佐保子(さほこ)に一枚を宛てて買つて来た程のことにもお艶(つや)さんは佐保子(さほこ)を粗末にするとお取りになつて清(きよし)さんの家(うち)へ泣いておいでになつたのです。洋服などは直(す)ぐ小(ちひさ)くなるのですから下へ譲つて行(ゆ)かなければならないではありませんか、さうした物質的のことで親の愛の尺度は解るものではありません。丁度私の帰つた日に二羽の矮鶏(ちやぼ)の一羽が犬に奪(と)られて一羽ぼつちになりましたのを、佐保子(さほこ)が昨日(きのふ)までに変つて他(た)の兄弟から忌(い)まれて孤独になつた象徴(しるし)であるらしいと台所で女中に云つて聞かせたりもお艶(つや)さんはなさいました。何処(どこ)の国に親が帰つて来て孤独になる子がありませうか。母様(かあさん)の処(ところ)へ行(ゆ)け行(ゆ)けと云つてはその一番可愛い佐保子(さほこ)の頭をお打(うち)になる音を私にお聞かせになりました。そして私の居ない処(ところ)ではあの大きな佐保子(さほこ)に出ないあの方(かた)の乳を吸はせたりもなさるのでした。佐保子(さほこ)が私を敵視するやうになり、この間まで僕婢(ぼくひ)のやうであつた兄弟達が物とも思はなくなつたのに、憤(いきどほ)つてます/\横道へ捩(ねじ)れて行つたのも、その時には是非もないことだつたのです。 
八  
光(ひかる)を見てお艶(つや)さんが母と叔母の前で陰陽(かげひなた)をすると云つて罵しつておいでになつた日には、私は思はずヒステリーに感染した恥(はづ)かしい真似をしました。雨の中へ重い光(ひかる)を抱いて出まして、叔母さんが恐(こは)いから逃げて行(ゆ)きませうなどと云ひました。私を介抱して下すつたのは春夫さんと菽泉(しゆくせん)さんでした。そのお二人がお濡(ぬら)しになつた靴足袋(くつたび)を乾かしてお返しする時にお艶(つや)さんのなすつた丁寧な挨拶を書斎に居て聞きながら、私は病(やまひ)の本家が自分になつたと思つて苦笑しました。光(ひかる)が叔母さんの前ですることが陰(かげ)なら、母(かあ)さんの前ですることもやはり陰(かげ)で、そんなにいヽと思ふこともして居ないと私はお艶(つや)さんに云ひたかつたのですが、大阪育ちの私はそんな時には駄目なのです。光(ひかる)が善良な子であると云ふことにはあなたも異論がおありにならないでせう。一年に三四度づヽは学校の先生もさう云つて下さいます。藤島先生もさう思つていらつしやるのです。私の日本を立つ時に敦賀まで来て下すつた茅野(ちの)さんも、光(ひかる)さんは憎まうとしても憎めない性質を持つて居るから叔母さんも可愛がりなさるでせうと云つて私を安心させて下すつたのでしたが、つまりああした中性のやうになつた方(かた)は男から見ても女から見ても想像の出来ない心理の変態があるのだらうと思ひます。  
最初の覚書にはまだ光(ひかる)のエプロンにはこんな形がいいとか、股引(もヽひき)はかうして女中に裁(たヽ)せて下さいとか書いて図を引いて置いたりしましたが、其頃(そのころ)のことを思ひますと光(ひかる)は大きくなりました。私等二人のして来た苦労が今更に哀れなものとも美しいものとも思はれます。この書物(かきもの)が不用になつて、また何年かの後(のち)に更に覚書を作るのであつたなら、この感は一層深いであらうと思ひます。私はもうその時分になつてはこんな物を長々と書くまいとも思ひ、一層書くことが多いであらうとも思はれます。私は併(しか)しながら話を聞くだけでも眩暈(めまひ)のしさうな光(ひかる)達の祖父の方(かた)がなすつたと云ふ子女の厳しい教育に比べて、煙管(きせる)の雁首(がんくび)でお撲(う)ちになつた傷痕(きずあと)が幾十と数へられぬ程あなた方(がた)御兄弟の頭に残つて居ると云ふやうなことに比べて、寛容をお誇りになるあなたであつても、生きた光(ひかる)達をお託しすることの不安さは何にも譬(たと)へられない程に思つて居るのです。あなたのお飼ひになる小鳥の籠を覆(くつがへ)すやうなことがあつても私の子は親の家を逐(お)はれるでせう。あなたが仏蘭西(フランス)からお持ち帰りになつた陶器の一つに傷を附けた時、私の子は旧(もと)に戻せと云ふことを幾百|度(たび)あなたから求められたでせう。私は此処(ここ)まで書いて来まして非常に気が昂(あが)つて来ました。母を持たない我子は孤児になる方(はう)がましなのではなからうかと思ひます。先刻(さつき)御一緒に飲んだココアのせいなのでせうか。私には隣国の某|太后(たいこう)が養子の帝王に下した最後の手段を幻影に見て居ます。けれど私はそれを決して実行致しません。もとよりこの覚書を見て頂かうと思つて居ます。殊(こと)に私は白髪(しらが)を掻き垂れて登場して来ようとするあなたの初恋の女のために、あなたと一緒に葬られやうとしたと思はれては厭ですから。  
妙な調子になつて来ました。 
九  
私は光(ひかる)のためにあのことも書いて置きませう。これは一昨年(をとヽし)の歳暮(せいぼ)のことでした。ある日の午後学校から帰りました茂(しげる)が護謨(ごむ)鞠(まり)を欲(ほ)しいと頼むものですから、私は光(ひかる)に買つて来て遣ることを命じたのでした。簡単な買物として私は光(ひかる)の経験にとも思つて出したのでした。清(きよし)さんの家(うち)の譲(ゆづる)さんにも頼んで一緒に行つて貰つたのです。麹町の通りで購(あがな)はれた鞠(まり)は直(す)ぐ茂(しげる)の手へ渡されたのです。茂(しげる)は嬉しさに元園町(もとぞのちやう)の辺りでは鞠(まり)を上へ放り上げながら歩いて居たのです。どうした拍子にか鞠(まり)はあの阪(さか)の中途にある米何(こめなに)とか云ふ邸(やしき)の門の中へ落ちたのださうです。光(ひかる)自身の物であればあの恥(はづか)しがる子がどうして知らない家へ拾ひに入(はひ)りませう、また貧しいと云つても自分の親には十や二十の鞠(まり)を買ふだけの力はあると信じて居ますから、もう一度帰つてから麹町の通(とほり)まで行(ゆ)けばいいと諦めた丈(だけ)で帰るのだつたのです。今の今迄|悦(よろこ)んで居た弟の淋しい泣顔を見てはじつとして居られないやうな気がしたのでせう、然(しか)もまだ二人だけであつたなら手を取り合つて帰つて来たかも知れませんが、従弟(いとこ)の心も自分と同じやうに茂(しげる)のために傷(いた)められて居るのであらうと見ては、一番年上の自分が勇気を出して見なければならないと思つたのでせう、光(ひかる)はその米何(こめなに)の門を五六歩|入(はひ)つて行つたのださうです。それだけで十一年の間|玉(たま)のやうに私の思つて来た子は無名の富豪の僕(ぼく)に罵られたのです。辱(はづかし)められたのです。光(ひかる)は多くを云ひませんし、私も尋ねないでそれで済んだのですが、私の心は長い間その事から離れませんでした。僕(ぼく)を老人として赤ら顔の酒臭い男を思つて見たり、若くて背中の曲がつた男かと思つて見たり、車夫(しやふ)姿をした男かと思つて見たり、我子を罵つた言葉は越後訛か、奥州訛かと考へて見たり、門内の物は塵一本でも自家の所有物であると、ねちねちと物を言ふ半商人、半書生が憎まれたりもしました。人の子を瓦の片(はし)のやうに思つて居るそんな人間を養つて置く広い邸(やしき)や無用な塀の多い街を私は我子を置いて死に得(う)る処(ところ)とはよう思ひません。ウイインの王宮の庭は平民達の通路になつて居るではありませんか。であるからヨセフ老帝は薄命だと云はれるのである、自身の居る窓の下に旅人の煙草(たばこ)の吸殻を捨てさせるなどとは憐むべきである、絶東(ぜつとう)の米何(こめなに)だけの威(ゐ)をもよう張らないのであると米何(こめなに)は思つて居るかも知れません。私は米何(こめなに)を無名の人と書きましたが、あの海軍の収賄問題のやかましい頃に贈賄者として検挙される筈(はず)であるとか、家宅捜索を受けたとか、度々(たび/\)米何(こめなに)の名は新聞に伝へられましたから、そんな意味に於(おい)ての名はある人なのでせう。 
十  
光(ひかる)はどう大人にして好(い)いのでせう。親は二人あると思つてもこのことは考へなければならないのです。翅(はね)を持たないだけの天使は人間界の罪悪を知りもしなければ、それに抵抗する準備もありません。私は心細くて心細くてなりません。光(ひかる)はまだ子は母より生れるものとより他(た)を知りません。同じ家に居るからと云つて子に父の遺伝があるなどヽ云ふことは不思議なことではないかと、この間も茂(しげる)に語つて居るのを聞きました。それは結婚と云ふことがあるからであらうと思ふがと、斟酌(しんしやく)をして居るやうな返事のしかたを弟はして居ました。茂(しげる)の懐疑は光(ひかる)のそれに比べられない程に根底が出来て居るらしいのです。弟は両親が兄に対する細心な心遣ひを知つて居ますから、自分は自分、兄は兄として別々にして置かうと思つて居るらしいのです。光(ひかる)はそんなのですから、荒々しくて優しい趣味の乏しく思はれるやうな男の友より女の友と遊ぶのを悦(よろこ)んで居ます。綺麗だから欲(ほ)しいと云ふものですから、私は叱ることもようせずに、花樹(はなき)や瑞樹(みづき)に遣るやうな小切れを光(ひかる)にも分けて与へてあるのです。色糸(いろいと)なども持つて居ます。平生(ふだん)はそれを出して遊ばうとはしませんが、玩具(おもちや)棚の一番下にある黒い箱がそれです。女の友達の来て居る時に刺繍(ぬひ)を拵(こしら)へて遣つたり、人形を作つたりしてやることがあるのです。女も交(まじ)つて遊ぶ学校へ入つて居たなら、光(ひかる)も運動場の傍観者ではなかつたかも知れません。このことは性の別がはつきりと意識される日に直ることであらうと思ひます。光(ひかる)はまた男性的でないのではありません。あの大様(おほやう)な生々(いき/\)とした線で描(か)く絵を見て下さい、光(ひかる)の書いて居る日記を見て下さい、光(ひかる)は母親の羨(うらや)んで好(い)い男性です。私が光(ひかる)に危(あやぶ)みますのは異性に最も近い所で開く性の目覚(めざめ)です。この間私は電車が来ないために或停留場に二十分余りも立つて待つて居ましたが、丁度|祭日(まつりび)であつたその夕方に、綺麗に装(よそほ)はれた街の幼い男女(なんによ)は並木の間々(あひだ/\)で鬼ごつこや何やと幾団(いくだん)にもなつて遊んで居ました。その子等の絶えず口占(くちずさみ)のやうにして云つて居ますことは、二字三字活字になつて本の中に交つても発売禁止を免れることの出来ないやうな言語なのです。そればかりなのです。恐(おそろ)しい都、悲しい都、早熟な人間の居る南洋の何やら島(じま)の子も五つ六つで斯(か)うなのであらうかと、私は青ざめて立つて居ました。性欲教育と云ふことはその子等の親達には考へるべき問題でないでせうが、私等のためには重大なことなのです。よく考へて遣つて下さいな。  
光(ひかる)のことを思つて居ますうちに、私の心は四郎のことを少し云はないでは居られないやうになりました。私は四郎の生立(おひたち)をよう見ないのでせうか。五つ六つ、七八(なヽや)つで母親を亡くした人を見ては、光(ひかる)もああなるのではあるまいかと運命を恐れながら漸(やうや)く十三歳(じうさん)に迄なるのを見ました。四郎は二歳(ふたつ)ではありませんか、光(ひかる)と同じ顔をした同じやうな性質を持つて生れた四郎を、私はどうかするともう十三歳(じうさん)に迄してあると云ふやうな誤つた安心を持つて見て居なかつたでせうか。四郎が二歳(ふたつ)であることを思ふと私は死なれない、死にともない。  
雑記帳は唯(た)だこればかしでもう白い処(ところ)がなくなりました。後(あと)を書いて置くかどうか、よく解りません。 
樋口一葉

 

明治5-29年(1872-1896) 日本の小説家。東京生れ。本名は夏子、戸籍名は奈津。 
中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去。「一葉日記」も高い評価を受けている。 
1872年5月2日(明治5年3月25日)、東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋で生まれる。本名は樋口奈津。父は樋口為之助(則義)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)の第五子で、一葉は二女。姉のふじ、兄に泉太郎、虎之助がおり、後に妹くにが生れた。 
父親の則義は甲斐国山梨郡中萩原村(現、甲州市塩山)の百姓であったが、祖父は俳諧などの文芸や経書に親しんでいたようで、則義も農業より学問を好み、さらに多喜との結婚を許されなかったため駆け落ち同然に江戸に出たという。則義は蕃書調所の小使いから1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く幕府直参となり、明治維新後には下級役人となり士族の身分を得るが、1876年(明治9年)に免職となる。その後は不動産の斡旋等で生計を立てている。 
少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類いを読み、7歳の時に曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」を読破したと伝えられる。1877年、本郷小学校に入るが、幼少のために続かず、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学した。1881年(明治14年)、次兄の虎之助が分家し、陶器絵付師に弟子入りした。同年には下谷区御徒町へ移ったため、11月に上野元黒門町の私立青海学校に転校する。高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。これは母・多喜が、女性に学業は不要だと考えていたからだという。 
一方、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせたという。1886年(明治19年)、父の旧幕時代の知人である遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門。ここでは和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学んでおり、源氏物語などの王朝文学が一葉の初期作品のモチーフになっている。萩の舎時代に一葉は親友の伊東夏子や田辺龍子と出会い、助教として講義もしている。萩の舎は当時、公家や旧老中・旧藩主などの旧体制、明治政府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通う歌塾だった。士族とはいえ元農民出身であったため、一葉は平民組として扱われ、上流階級の姉弟子たちにから「ものつつみの君」と呼ばれるほど内向的になる。入門して初めの正月、新春恒例の発会が近づくと、令嬢たちの晴れ着の話題など、着物の話はとても下級官吏の娘が競える内容ではなかった。それでも劣等感をはねのけ、親が借りてきた古着で出席した。 
一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引っ越しをした。1888年(明治21年)、戸主であった長男の泉太郎が死去し、父を後見に相続戸主となる。1889年(明治22年)、則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年7月に死去。 
一葉の許婚であった渋谷三郎との婚約が解消される。則義の死後、樋口家には多額の借金があったのに渋谷三郎から高額の結納金を要求されたことが原因とされる。一葉は17歳にして戸主として一家を担う立場となり、1890年(明治23年)には萩の舎の内弟子として中島家に住む。同年9月には本郷菊坂(東京都文京区)に移り母と妹と三人での針仕事や洗い張りをするなど苦しい生活を強いられる。ただし一葉自身は労働に対する蔑視が強く、針仕事や洗い張りはもっぱら母や妹がこなしていたと言われる。 
一葉は、遠視や正視ではなく、近眼のため本来細かい仕事に向いているはずだが、針仕事を蔑視してので、自分にできる他の収入の道を探していたところ、同門の姉弟子である田辺花圃が小説「薮の鶯」で多額の原稿料を得たのを知り、小説を書こうと決意する。20歳で「かれ尾花一もと」を執筆。同年に執筆した随想で「一葉」の筆名を初めて使用した。さらに小説家として生計を立てるため、東京朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し、図書館に通い詰めながら処女小説「闇桜」を桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した。その後も、桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続ける。次第に、一葉は桃水に恋慕の感情を持つようになる。しかし二人の仲の醜聞が広まった(双方独身であったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮であった)ため、桃水と縁を切る。桃水とけじめをつけるかのように全く異なる幸田露伴風の理想主義的な小説「うもれ木」を刊行し、一葉の出世作となる。 
ヨーロッパ文学に精通した島崎藤村や平田禿木などと知り合い自然主義文学に触れあった一葉は、「雪の日」など複数作品を「文学界」で発表。このころ、検事になったかつての許婚者阪本三郎(前述の渋谷三郎)が求婚してくるが拒否する。生活苦打開のため、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが1894年(明治27年)5月には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居する。この時の経験が後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材となっている。執筆を継続した。12月に「大つごもり」を「文学界」に、翌1895年(明治28年)には1月から「たけくらべ」を7回にわたり発表し、その合間に「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」などを発表し、「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる。 
1896年(明治29年)には「文芸倶楽部」に「たけくらべ」が一括掲載されると鴎外や露伴らから絶賛を受け、森鴎外は「めさまし草」で一葉を高く評価し、「文学界」同人も多く訪れるようになる。5月には「われから」、「日用百科全書」に「通俗書簡文」を発表。一葉は結核の症状が進行しており、8月に診断を受けたが絶望と診断された。11月23日に24歳と8ヶ月で死去。一葉の作家生活は14ヶ月あまりで、死後の翌1897年には「一葉全集」「校訂一葉全集」が刊行された。 
墓は樋口家の菩提寺である築地本願寺別院で、のち杉並区和泉の西本願寺和田掘廟所へ移された。法名は、智相院釋妙葉。肉筆原稿や関係資料などの文学資料は日本近代文学館や山梨県立文学館に所蔵されている。2004年11月より、日本銀行券のE号五千円札の肖像に採用されている。
作家評 
近代以降では最初の職業女流作家である。24年の生涯の中で、特に亡くなるまでの1年2ヶ月の期間に日本の近代文学史に残る作品を残した。 
家が没落していくなかで、自らが士族の出であるという誇りを終生持ち続けたが、商売が失敗したのもそれゆえであるとみるむきもある。生活は非常に苦しかったために、筆を折ることも決意したが、雑貨店を開いた吉原近郊での生活はその作風に影響を与えた。井原西鶴風の雅俗折衷の文体で、明治期の女性の立ち振る舞いや、それによる悲哀を描写している。「たけくらべ」では吉原近くの大音寺前を舞台にして、思春期頃の少年少女の様子を情緒ある文章で描いた。ほかに日記も文学的価値が高い。 
「一葉」 
「一葉」は雅号で、戸籍名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。「樋口一葉」として知られるが、歌人としては夏子、小説家としては無姓志向の一葉、新聞小説の戯号は浅香のぬま子、春日野しか子として筆名を使い分けている。発表作品においては「樋口夏子」に類する本名系と「一葉」の雅号系に分類される。「樋口一葉」と混合した署名を用いている例はわずか一つであり、「たけくらべ」未定稿などにおいて「一葉」と記された署名に別人の手により姓が書き加えられているケースがある。明治前半期の女性作家においては家への抵抗や姓の変遷などから同様に姓の忌避や創作世界においては雅号を用いるといった署名傾向があり、一葉にも女戸主としての意識が強くあったとも考えられている。一葉という筆名は、当時困窮していた事(お足が無い)と一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り後に手足を失った達磨の逸話に引っ掛けたものである[1]。 
 
夏目漱石の妻・鏡子の著書「漱石の思ひ出」によると、一葉の父・則義が東京府の官吏を務めていた時の上司が漱石の父・小兵衛直克であった。その縁で一葉と漱石の長兄・大助(大一)を結婚させる話が持ち上がったが、則義が度々直克に借金を申し込むことがあり、これをよく思わなかった直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない。」と言って、破談にしたという。 
五千円紙幣 
一葉の肖像は2004年(平成16年)11月1日から新渡戸稲造に代わり、日本銀行券の五千円紙幣に新デザインとして採用された。女性としては神功皇后(大日本帝国政府紙幣;壱円券は1881年発行開始;肖像は全くの創作)以来123年ぶりの採用である。なお、2000年に発行開始された二千円紙幣の裏面に紫式部の肖像画があるが、この肖像画は肖像の扱いではなく、弐千円券には肖像がないことになっている。よって写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。偽造防止に利用される髭や顔の皺がすくないため版を起こすのに手間取り、製造開始は野口英世の千円紙幣、福澤諭吉の一万円紙幣より遅れた。 
肖像を女性にしたいがための安易な採用との非難があるが、聖徳太子の紙幣使用の終わり(1983年)ごろ、新紙幣の図柄を決める関係者の女性を採用してはという意見の中で、清少納言、紫式部、樋口一葉、与謝野晶子(出生順)の4人が候補に上がったが、当時はいずれも採用にはいたらなかったという逸話がある。 
 
この年はギリシャのアテネでオリンピックが行われた。日本の女性選手の活躍がめざましかった。しかし、樋口一葉が十一月一日にお札になることは随分前から決まっていたようだ。もっといえば、樋口一葉はいままで何度もお札の候補になっている。したがって、無理に平成十六年と結び付ける必要はないのかも知れない。 
つまり樋口一葉は、「いつお札になってもおかしくない女性」であって、特にこの年の出来事とそれほど無理に結び付ける必要はないような気がする。国内的・国際的にもいろいろな事件があった。日本国内では、台風が例年に無く多く発生し、またそのあと中越(新潟県)地方に大きな地震が襲った。樋口一葉の存在は、そういう状況の中で、「癒しの存在」になる。辛いけれども、その辛さの中にほっとするものを与えてくれる。国際的にテロが頻発し、ギラギラした刺々しい世界相の中にあって、一葉の存在は単に日本国内だけではなく、国際的にも"癒し"を投げかけるはずだ。紫式部と同じように、一葉の作品も外国語に翻訳され、世界的な文学作品になる日が待ち遠しい。  
樋口一葉2
近代以降で最初の職業女流作家
今日ではごく当たり前の女流作家。しかし、明治初頭、どれだけ頭がよくて学校の成績が良くても、女性に学業は不要だと考える人が多く、女性にとって作家という職業は未開のものだった。そんな社会・環境の中で、樋口一葉は近代以降では最初の職業女流作家となった。
一葉は、現在の東京都千代田区の長屋で男2人・女3人の5人兄妹の第五子、次女として誕生。父・樋口則義は、南町奉行配下の八丁堀同心だった。そんな士族の娘である誇りが彼女を支え、恐らく彼女を凛とした女性にしたのだ。
ただ父・則義は、本来は甲州(現在の山梨県)農民で、株を買って入り込んだのだ。父は妻あやめ(後、たき)とともに出奔同然に村を捨てて江戸に出た。下僕をしたり、旗本に中小姓として仕えたり、妻あやめは旗本屋敷の乳人奉公をしたりして蓄財をした。やがて、彼らは八丁堀同心浅井竹蔵の三十俵二人扶持の株を買って、樋口為之助と名乗った。あやめは「たき」と名を変えた。
しかし、そんなに簡単に株を買えるのか。司馬遼太郎氏は「株を買うのに二、三百両は要ったろうし、そんな金が武家奉公の蓄財でできるはずもない。借金したとすれば、樋口家の宿業(しゅくごう)ともいうべき貧乏は、これが原因だったに相違ない」と記している。
父は明治20年、一葉が16歳のとき警視庁を退職し、その翌年、事業を興そうとして失敗した。これが樋口家の借金をさらに増やすことになった。遂に明治22年、破産し、その年に父は病没した。
その結果、一葉は17歳の若さで戸主として一家を担う立場となり、生活に苦しみながら、わずか24年8カ月の生涯の中で、とくに亡くなるまでの1年2カ月の期間に作家として完全燃焼。森_外、幸田露伴はじめ明治の文壇から絶賛された「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など日本の近代文学史上に残る秀作を残し、肺結核で死去した。生没年は1872〜1896年。一葉は雅号で、戸籍名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。
少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類を読み、7歳のときに曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。1881年、上野元黒門町の私立青海学校高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まず退学した。これは彼女の母・多喜が女性に学業は不要だと考えていたからだという。
ただ、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせた。これを機に一葉は中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門し歌、古典を学び、後に東京朝日新聞・小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し小説を学んだ。一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引越しをした。
一葉の処女小説は桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した『闇桜』。桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続け、一葉も次第に桃水に恋慕の感情を持つようになるが、二人の仲の醜聞が広まったため、桃水と別れる。二人とも独身だったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮が強かったためだ。この後、一葉はこれまでと全く異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、彼女の出世作となった。
ヨーロッパ文学に精通した島崎藤村や平田禿木などと知り合い、自然主義文学に触れ合った一葉は、「文学界」で『雪の日』など複数作品を発表。1894年『大つごもり』を「文学界」に、翌年1月から『たけくらべ』を7回にわたって発表し、その合間に「太陽」に『ゆく春』、「文芸倶楽部」に『にごりえ』『十三夜』などを相次いで発表した。1896年、「文芸倶楽部」に『たけくらべ』が一括掲載されると、_外や露伴から絶賛を受け、一躍注目を浴びる存在となった。
一葉の肖像は2004年11月1日から新渡戸稲造に代わり日本銀行券の5000円券に新デザインとして採用された。女性としては神功皇后以来の採用だ。写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。 
クーデンホーフ光子

 

 
 
 
日本に生まれ世界に影響を与えた女性、クーデンホーフ光子を取り上げましょう。 
彼女は正確には青山光子といい、東京市牛込区納屋町で1874年7月16日に生まれています。父親は青山喜八といって、骨董商を営む大地主、東京の「青山」という地名はこの家の苗字が由来であるという説もあります。 
ある冬の日、この骨董店の前の凍った水たまりで一人の男性が滑って転びました。それを見たこの家の三女の光子は彼を家にあげて親切に介抱します。未だにチョンマゲを切らずに文明開化に抵抗している喜八は男性が外国人であることに気が付くとしかめっ面をしますが、光子はこれが縁となってこの男性の務め先であるオーストリア公使館に勤務することになります。彼はオーストリア代理公使の肩書を持つ、ハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギ(HeinrichCoudenhove-Kalergi)伯爵でした。そして1892年、彼女は18歳でハインリッヒと結婚することになるのです。 
当時国際結婚というのは5000円札の人物・新渡戸稲造を初め、多くの前例はありましたが、やはり世間の目としては特に女性が外国人男性と結婚するというのは、もう人間でなくなってしまうかのような見られ方をした時代です。この結婚に対しては喜八も当然猛反対しましたし、またハインリッヒ側も伯爵家ということで、東洋の辺境の異教徒の国の娘などと結婚するということに対して相当の抵抗があったようです。しかし二人はこれを乗りきり、1895年3月26日、めでたく入籍にこぎつけています。その時既に二人の間には光太郎・栄次郎という二人の男の子も生まれていました。 
これでやっと落ち着いたのも束の間、夫のハインリッヒに帰国命令が出ます。悩む光子ですが、やはり夫に付いて行くことにし、子供たちを連れ、両親やきょうだいに別れを告げて、遠い国へと旅立って行きます。 
クーデンホーフ=カレルギ家の領地はオーストリアのボヘミア地方にありました。一家はそこのロンスベルク城で充実した日々を過ごし、次々と5人の子供が生まれました。当時の伯爵家というのはまだ言葉がよく出来ないミツコの語学教師・話相手役、子供たちそれぞれの家庭教師、料理人、子守、御者、森番、庭師などと十数人もの使用人のいる大きな家でした。 
優しい夫と7人もの子供に囲まれて幸せな日々を送っていた光子ですが、東洋で日露戦争が始まった頃、突然彼女は結核にかかり、一家は治療の為、みんなで南チロルのアルコに移り住みます。この闘病生活は大変だったようですが、彼女は自分のお国が頑張っているから私も頑張らなければと言って気力を振り絞ります。そして日本がロシアに勝つと、ほんとに光子の病気もよくなってしまいました。 
一家は喜んでホベミアに戻ります。が、ここで光子は大きな不幸に見舞われることになります。1906年5月16日、夫ハインリッヒの突然の死。彼の愛情だけを頼りにこの異国の地で頑張ってきた光子にとって、その衝撃はあまりにも大きいものでした。この夫の死は光子を「東洋の花から西洋の竜に」変身させます。 
ハインリッヒは遺書で全ての財産を光子に、と書いていましたが、親戚一同は東洋人などに伯爵家を渡してなるものかと光子に譲渡を迫ります。しかし光子は動じず、裁判で争って、確かに夫の遺産を引き継ぎます。そして子供たちをウィーンの名門学校に入れて、伯爵夫人として社会的に活動を始めるのです。 
この頃から彼女はウィーンの社交界にも顔を出すようになります。それまでは誰も日本などという国がどこにあるのかも知らなかったのですが、日露戦争で大国ロシアを負かした国として当時日本はヨーロッパで注目のまとでした。そこで、彼女を見る人々の目も珍奇な物を見るような目ではなく、驚異を持って見られ、彼女は社交界の花形になります。 
しかし、ここで彼女を怒らせる事件が起きます。次男のリヒャルト(栄次郎)がサロンを通して知り合った女優イダ・ローランと駆け落ちするのです。彼女はなまじイダと親しかっただけに激怒、リヒャルトを勘当します。 
やがて第一次世界大戦が勃発。3男のゲロルフは志願兵になると言い出しますが、愛国心の強い光子はこれに喜び、司令官の所へ行って、息子をぜひ前線に出して活躍させて下さいと申し入れます。普通だったら貴族の息子の親が訪問して来たら危ない所へは行かせないでくれと頼むのが普通で、しかも光子の母国日本はオーストリアにとっては敵国なので、司令官はこれに大変感動し、最大限の賛辞を彼女に贈りました。 
戦争の間、ミツコはホベミアのストッカウ城に住んでいました。この戦争には長男のハンス(光太郎)も参戦、彼は戦線の中でユダヤ人女性リリーと結婚して帰って来ましたが、これも光子を怒らせるものでした。伯爵夫人としては長男にはできれば相応の身分のある女性と結婚させたかったからです。しかし、彼女は二人をロンスベルク城に住まわせ、二人の間にはピクシーという女の子が生まれます。ピクシーは後、次女のオルガとともに光子の心の支えとなりました。 
この戦争が終わった頃、パリで「ミツコ」という香水が発売されました。この香水の名前そのものは一般的に日本人女性をイメージして付けられたものだそうですが、人々はオーストリアで一際存在感を持つクーデンホーフ伯爵夫人・ミツコにこの香水を結び付けて連想しました。 
1924年、次男のリヒャルト(Richard Nicolaus Coudenhove-Kalergi,1894-1972)は第一次世界大戦の結果を見て、このようにヨーロッパの人間が互いに戦い合っていては、やがてヨーロッパは没落してしまうとして、ヨーロッパを建て直す為にはヨーロッパの全ての国が合体して一つの国になるべきだという「パン・ヨーロッパ」思想を打ち立てます。そしてパン・ヨーロッパ連盟を設立、雑誌「パン・ヨーロッパ」を創刊しました。 
彼の思想はフランス外相アリティート・ブリアンやドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマンらの共感を呼び、具体的な条約作成への動きまで具体化しますが、第2次世界大戦の勃発により頓挫します。 
パン・ヨーロッパ連盟の本部はナチスに急襲され、リヒャルトとイダは危うく難を逃れ、スイス政府の協力で国外脱出、そして映画「カサブランカ」並みの危ない橋を渡ってアメリカに逃れました。 
彼はアメリカでもこの思想を唱え続け、後この運動は第2次世界大戦が終わってから、イギリス首相チャーチルらの活動によって1958年1月1日欧州経済機構(EEC)の成立となって実を結びます。そしてこのEECは1967年7月1日にはもっと統合が進んでECとなり、現在その次の段階として通貨統合を目指しています。 
クーデンホーフ光子という人は最近になって日本人がやっと「しなければならない」と思い始めた「国際化」ということを100年前に個人でやりとげた人とです。彼女は明治時代におけるヨーロッパへの民間大使のような働きをしました。クーデンホーフ伯爵が日本人の奥さんをもらって帰国するという話を聞いた時、親戚や知人たちは何か訳の分からない服を着て入墨でも入れた女が来るのではないかと思っていたところ、ごく普通の感じの、上品な女性が来たのでびっくりした、という話もありますが、それくらい偏見の強かった日本というものを彼女はヨーロッパに存分にアピールしました。そして又、彼女は日本とオーストリアという二つの祖国を持つ、開かれた国際人となったのです。 
そして、その「国際化」ということを、もっともっと進めたのが皮肉にも彼女が勘当した次男リヒャルトの思想でした。その結実としてのECは世界の平和に貢献することになる人類全体への大きなプレゼントです。 
晩年、光子は中風に悩まされ、次女のオルガに世話をしてもらい、孫のピクシーとの文通だけを楽しみにして暮らしていました。そして1941年8月27日夜、そのオルガだけに看取られて死去。7人の子供たちの内来ることができたのは3男のゲロルフと3女のイダだけでした。長男ハンスは妻がユダヤ人であることからローマに逃げていましたし、次男のリヒャルト夫妻はアメリカ亡命中、長女のエリザベートは既に亡く、4男のカルルはギリシャに行っていました。彼女はボヘミアに眠る夫のそばに埋葬してくれるように頼んで死にましたが、オルガ自身もその後難民の身となり、この願いは叶いませんでした。 
現在、ゲロルフの子供や孫たちがロンドンとウィーンに住んでおり、ピクシーはアメリカ在住、カルルはオーストラリアを経てギリシャで大学教授をしていましたが、現在はスイスで気楽な文筆業とのことです。彼女の子孫たちも大いに国際化しているようです。 
この話を終わる前に、クーデンホーフ光子たちと少しだけ軌跡の交わる国際人たちにも少しだけ触れておきましょう。それはシーボルトの子孫です。シーボルトは有名なお滝との間に楠本イネをもうけており、彼女が日本で最初の女医になるのですが、シーボルトは帰国後ヘレーネという女性と再婚して3男2女をもうけています。そして、その中の長男アレクサンダーと次男ハインリッヒは後に父とともに日本にやって来ており、ハインリッヒはちょうどクーデンホーフと同じ頃、やはりオーストリア代理公使を務めています。 
ハインリッヒは異母姉のイネの応援もあって岩本ハナという女性と結婚し、オットー(於莵)、レン(蓮)という子供が生まれています。アレクサンダー・ハインリッヒのシーボルト兄弟は日本の華族制度の産みの親のような人なのだそうですが、この二人が帰国する時、岩本ハナは光子とは違って日本に残る道を選びました。 
しかし、彼女もシーボルト夫人として日本の華族界では非常に大事に扱われ、福沢諭吉の娘の踊りの師匠であるとか、学習院の主一館寮母などを務めています。クーデンホーフ光子とシーボルト花というのは舞台は違っても似たような苦労をした部分もあったようです。 
明治時代は江戸時代に更に輪を掛けて女性の人権が抑圧された時代ですが、その中にもクーデンホーフ光子たちを初め、津田梅子・荻野吟子・川上貞奴など抑圧をものともしなかったかのように自由にはばたいた女性たちもいました。
平塚らいてう  

 

日本の女性解放運動・婦人運動の指導者
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」
これは明治44年(1911)9月に結成された「青鞜社」の機関誌『青鞜』の創刊号に、平塚らいてう自身が書いた冒頭の有名な文章だ。
今日では青鞜社の結成は「女性たちの近代的自我の目覚め」と高く評価されるが、当時、世間は青鞜社に対し好意的な目で見ていたわけではない。近代になったといっても、家族制度は江戸時代までと全く同じ封建的なものだった。これまでと少し変わったことをすると、「女だてらに」「女だから」と世間の冷たい視線にさらされ、攻撃され批判を浴びる。そんな女性蔑視の、既成の家庭道徳なるものを、らいてうらは少しずつ打破しようとしていたのだ。
『青鞜』創刊号の表紙は、らいてうと日本女子大学在学中、テニスのダブルスを組んだ長沼智恵子(後に高村光太郎と結婚)が描いているほか、与謝野晶子(第七回で紹介)も歌を寄せている。この後、5年余り続く『青鞜』の主な執筆者をみると、田村俊子、福田英子(第五回で紹介)、岡本かの子、吉屋信子、野上弥生子、伊藤野枝、山川菊栄、山田わかなどかなり豪華なメンバーだった。
らいてうは大正3年(1914)、画学生で彼女より5歳年下の奥村博と同棲を始める。正式な結婚ではなく、戸籍を入れない同棲だった。ここにも、らいてうの、既成の家庭道徳への挑戦があった。しかし、奥村博の発病、そして長男の誕生と家庭の重みから、編集を若い伊藤野枝に任せ、らいてうは第一線から身を退かざるを得なくなった。奥村との間にらいてうは2児(長男、長女)をもうけたが、従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている。
だが、らいてうが抜けてしまっては、やはり青鞜社は成り立たなかった。『青鞜』の1913年2月号に福田英子が寄せた「婦人問題の解決」という文章の中で「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりませう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁処分を受けたのだ。『青鞜』は大正5年、52号まで出したが、財政難で廃刊となり、青鞜社そのものも解体した。
しかし、らいてうはそのまま婦人運動から遠のいてしまったわけではなかった。大正8年(1919)、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、自宅を事務所として「新婦人協会」を発足させた。青鞜社がどちらかといえば上流婦人のサロン的文芸サークルの雰囲気があったのに対し、この協会は「婦人参政権」の獲得を目指すという社会運動としてスタートしたところに大きな特徴があった。
らいてうは昭和に入っても活動を続け、婦人消費組合運動を推進し、敗戦後は平和運動にも一定の役割を果たした。
平塚らいてうは東京府麹町区三番町で3人姉妹の3女として誕生。本名の平塚明(ひらつかはる)や平塚明子で評論の俎上に上がることもある。生没年は1886〜1971。父の定二郎は会計検査院の院長も務めたエリート官僚であり、彼女自身もお茶の水高等女学校、日本女子大学家政科を卒業。
ふつうならば、そのままいいところにお嫁に行くというのがお定まりのコースだったが、彼女が通っていた英語学校で、教師の森田米松と出会い、その後の人生が大きく変わった。二人は恋に堕ち、すでに妻子があった米松と悩みに悩んだ末、心中未遂事件を起こすことになった。当時の古い家庭道徳からすれば、妻子ある男に恋をし、心中に引きずり込んだのはけしからん、ということになる。既述の通り、彼女が後に青鞜社を組織し、女の自立を呼びかけるようになる原点は、ここにあったと思われる。  
福田英子  

 

明治から大正時代の婦人解放運動の先駆者
福田英子は慶応元年(1865)10月5日、岡山藩の右筆、景山確の二女として誕生。本名英。廃藩置県後、失業した父は塾を開いたが、それを手伝っていたのが母の楳子(うめこ)だった。実際には楳子の方が中心になっていたともいわれている。英子は、小さいうちからその楳子に学問の手ほどきを受けた。後年、彼女自身が書いた自伝『妾(わらわ)の半生涯』によると、11〜12歳のとき、県令・学務委員らの臨席する試験場において、『十八史略』や『日本外史』を講じたという。母の英才教育の影響があったのだろう。
小学校を卒業すると同時に、英子は15歳で助教となった。その後、いくつも持ちかけられた縁談をすべて蹴って、当時としては異例の、女教師として経済的に自立する生き方をしている。
彼女の人生が大きく変わる契機となったのは、女性自由民権活動家、岸田俊子との出会いだ。18歳のときのことだ。岡山で演説会があり、そのとき岸田俊子の「岡山県女子に告ぐ」という演説を聴き、自ら自由民権運動に飛び込んでいる。この演説会の後、岡山女子親睦会という団体が結成されると、それに参加し、また女教師だった経験を生かし、蒸紅学舎を開いて働く女性に教育しようとした。そしてその頃、友人の兄で自由党員だった小林樟雄と知り合い、婚約しているのだ。
彼女の人生の転機となったもう一つのできごとは、明治18年の「大阪事件」だろう。大阪事件は朝鮮で起こった「甲申事変」に連動している。朝鮮の独立党が清国寄りの事大党を倒して新しい政府を樹立したところ、清国の手によってあっさり覆されてしまったのだ。これをみた日本の自由党の闘士たちは、独立党を助けようと様々な行動を起こし始めた。その中で最も急進的な動きをしたのが、大井憲太郎らのグループだった。英子もそのグループに加わっていた。
彼女の任務は、朝鮮へ爆弾を運ぶことだった。ところが失敗し、長崎で逮捕されてしまい、それから4年間、投獄されている。実は彼女の人生の転機となったのは大阪事件そのものより、その後の4年間の獄中生活だった。彼女はそこで40代半ばの大井憲太郎に恋心を抱いてしまったのだ。前記のように彼女は小林樟雄と婚約していたのだが…。明治22年(1889)2月、憲法発布の大赦によって、大阪事件の関係者は出獄できることになったが、英子はそのとき婚約者のもとではなく、大井憲太郎のもとに走った。
英子が、大井憲太郎に妻がいることを知っていたかどうかは分からない。妻がいたとしても、自分の愛情のほうが勝つと信じていたのか。彼女は妊娠し、やがて大井憲太郎の子、龍麿を産む。そして、その頃から彼女は大井に対し入籍を迫っている。ところが、そんな英子にとって実に残酷な事件が待ち受けていた。
彼女のもとに一通の手紙が届けられた。宛名は「影山英子」宛てとなっていたが、中身は何と親友の清水紫琴(しきん)宛てだった。大井憲太郎が英子と紫琴の二人に同時に手紙を出したとき、封筒と中身を取り違えたものとされている。紫琴宛の手紙は病院に入院し、大井憲太郎の子を産んだばかりの紫琴に対する見舞いの言葉が述べられたものだった。妻がおり、英子という愛人がありながら、さらに清水紫琴とも関係を持って、子供を産ませている大井憲太郎という男を、このときばかりは英子も許せなかったのだろう。怒り狂った英子は、龍麿を引き取り、大井と手を切ったのだった。
未婚の母、影山英子は福田友作という男と知り合い、結婚する。福田英子になったのだ。まずまず幸せな結婚で次々に3人の子供が生まれた。ところがこの夫には生活力がなく、やがて胸を患い死んでしまう。結局36歳で未亡人となった福田英子はその後、12歳も年下の書生、石川三四郎と同棲し始める。しかし、その石川も「外国へ行く」といって、彼女のもとを去っていってしまった。
こうして彼女は、大井憲太郎の子と、福田友作の3人の子を、女手一つで育てなければならなくなったのだ。こんな状況になれば、普通ならその重圧に打ちひしがれるところだ。事実、彼女も一時は運動から遠ざかる。しかし、やはり自由民権運動の洗礼を受けた“女闘士”だけに立ち直りは早い。堺利彦・美知子夫妻との出会いによって、彼女は新しい思想的潮流としての社会主義に接近していったのだ。
1907年(明治40年)、福田英子が中心となって『世界夫人』という新聞を創刊。これまでの法律、習慣、道徳は、婦人の人格を無視したものであると厳しく批判し、「広く世界の宗教・教育・社会・政治・文学の諸問題を報道し、研究する」とその創刊の目的を宣言している。このほか、彼女は足尾鉱毒事件の田中正造を助け、谷中村の救援活動に全力を投入した。福田英子はまさに、筋金入りの、強靭な精神力を持った闘士だった。 
川上貞奴

 

 
 
 
 
かわかみさだやっこ、本名 川上貞[旧姓:小山]、明治4年-昭和21年(1871-1946) 戦前の日本の女優。  
東京・日本橋の質屋・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となる。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は、時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。  
1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし当初は苦労も多く、音二郎の2度もの衆院選挙落選により資金難に陥る。1898年に2人は築地河岸よりボートに乗り、国外への脱出を図るという挙に出たこともある。この試みは失敗し、淡路島に漂着して一命を取り留めた。  
1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行したが、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため(興行主から「女の役は女性がするべきで女形は認められない」と拒否されたためとも)急遽代役を務め、日本初の女優となった。ところが、公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされた。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着し、極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が(空腹で倒れたのを、何も知らない観客が演技だと勘違いしたのもあって)観客に大受けした。エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得た。  
1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年にパリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演を行った(日本の事務局には許可願いを出していなかったという)。7月4日の初日の公演には、彫刻家ロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。  
パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。  
1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立した。  
1911年に音二郎が病で死去。遺志を継ぎ公演活動を続けるも、演劇界やマスコミの攻撃が激化。ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い、『日本の近代女優第一号』として舞台から退いた。  
福澤諭吉の娘婿で「電力王」の異名をとった実業家・福澤桃介(旧姓 岩崎)との関係も話題を呼んだ。桃介との馴れ初めは1885年頃にさかのぼる。馬術をしていた貞が野犬に襲われるのを、学生だった桃介が制したことで2人は恋に落ちる。1年後、桃介は諭吉の二女・房と政略結婚。この後、貞奴と桃介は長い別離を挟む。しかし、女優を引退した後の貞奴は、再び悲恋の相手だった桃介と結ばれる。事業面でも実生活でも桃介を支え、仲睦まじく一生を添い遂げた。2人並んで公の場に姿を現し、桃介が手掛けた大井ダム工事の際も貞奴は赤いバイクを乗り回し、現場を訪れ、他の社員が尻込みする中を1人桃介について谷底まで向かったという。  
1920年頃、2人は同居を始めた。2人が名古屋市内で住んだ邸宅は「二葉御殿」と呼ばれ、政財界など各方面の著名人が集うサロンとなった。現在は復元・移築され、「文化のみち二葉館」として再生している。  
作家の長谷川時雨は、初老にさしかかった桃介と貞奴を見かけた折に「まだ夢のやうな恋を楽しんでいる恋人同士のやう」だと驚き、記している。2人のロマンスは、1985年にNHK大河ドラマで『春の波涛』の名でドラマ化された。  
1946年、膵臓癌により死去。享年75。その亡骸は、貞照寺に埋葬された。  
川上貞奴と三浦環  
日本初の女優で、海外では「マダム貞奴」として人気を博した川上貞奴。一方の三浦環は、貞奴からはやや遅れるものの、歌劇「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」の主役を演じて海外で絶賛されました。日本人初の国際的スターともいえるこの2人。はたしてこの対決やいかに?  
東京・日本橋の両替商の娘として明治4年(1871)に生まれた貞奴(本名・小山貞)は、7歳のときに芸者置屋の養女となり、やがて貞奴の名前で芸者として座敷きに上がりました。持って生まれた美貌で、たちまち伊藤博文や西園寺公望など、当時の政府高官に贔屓にされる売れっ子芸者となりました。ところが20歳のときに、「オッペケペ節」で知られる川上音二郎が率いる劇団の公演を見に行った際に川上と知り合い、芸者を辞めて結婚。以後は資金面で川上の新派劇運動を援助しましたが、借金は増えるばかり。明治32年(1899)、28歳のときに川上一座とともにアメリカ巡業に出かけ、このときに「娘道成寺」を踊ったのが、女優としての第一歩となったのです。  
明治17年(1884)に、貞奴と同じく東京で生まれた三浦環はお嬢様育ち。女学校時代に音楽の才能を見いだされ、東京音楽学校(東京芸大)に進学しました。そこで、作曲家の滝廉太郎に師事し、19歳のときに日本初の歌劇「オルファイス」の主役になり、その後は帝劇歌劇部専属歌手となりました。大正3(1914)、30歳のときに歌の勉強のためにドイツに留学。翌年、ロンドンで世界的指揮者のヘンリー・ウッドに見いだされ、オペラハウスにおいて日本人初のプリマドンナとして、プッチーニの歌劇「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」の出演を果たしています。  
芸者から紆余曲折を経て女優になった川上貞奴と、家庭環境にも海外渡航にも恵まれていた三浦環。国際的スターになるまでのドラマチック度という点では、勝負は明らかのようです。というわけでこの勝負、川上貞奴の勝ち!  
アメリカで巡業を行っていた川上一座は、日本的な演出が各地で評判を呼び、大成功。続けてヨーロッパにも渡り、イギリス、フランス、ロシアなどで巡業を行いました。明治33年(1900)に開かれたパリ万博での公演でも、つめかけた大観衆を魅了。川上貞奴は「マダム貞奴」として国際的に広く知られるようになったのです。帰国後はヨーロッパの戯曲を中心に演劇活動を行い、女優養成所や児童劇団などを設立して、後輩の育成や演劇の普及に努めました。  
「蝶々夫人」で大成功を納めた三浦環は、その後も欧米各地で「蝶々夫人」を2000回以上も演じ、好評を博しました。大正9年(1920)には作曲家プッチーニとも対面。プッチーニは彼女を「世界でただ一人の理想的な蝶々」と絶賛しました。アメリカでは、日本人として初めてメトロポリタン劇場の舞台に立つ栄誉にも輝いています。昭和11年(1936)、52歳のときに帰国しましたが、それまでの約22年間、海外を拠点に公演を続けてきたわけです。  
海外での知名度という点でいえば、やはり「蝶々夫人」でプッチーニから激賞された三浦環のほうに軍配が上がりそう。というわけでこの勝負、三浦環の勝ち!  
日本国内での知名度という点でいえば、美貌の持ち主としれ知られ、日本人初の女優である川上貞奴のほうが上かもしれませんが、国際的な女優という点では、活躍の大半が海外であった三浦環のほうが上回っています。   
川上貞奴2
明治の元勲たちからひいきにされた日本一の芸妓
日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった川上貞奴(かわかみさだやっこ)は、時の総理、伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲からひいきにされ、名実ともに日本一の芸妓となった。自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した後、アメリカ興行に同行した彼女は、一座の女形が死亡したため、急遽、代役を務め、日本初の“女優”となった。欧米各地で公演を重ねるうち、エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得たという。川上貞奴の生没年は1871(明治4)〜1946年(昭和21年)。
川上貞奴は東京・日本橋の質屋、越後屋の12番目の子供として生まれた。本名は川上貞(旧姓小山)。生家の没落により、7歳のとき葭町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となった。伝統ある「奴」名をもらい、「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがり、多くの名立たる元勲のひいきを受け、名実ともに日本一の芸妓といわれた。
そんな貞奴が1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし、当初は苦労も多く、夫の音二郎が二度も衆議院選挙に落選したことで、資金難に陥った。貞奴にしてみれば明らかに想定外のことだったに違いない。
日の当たる場所から身を引いた貞奴だったが、どういうめぐり合わせかスポットライトを浴びるときがくる。1899年、貞奴は川上音二郎一座のアメリカ興行に同行、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため、急遽この代役を務めることになったのだ。日本初の“女優”の誕生だ。ところが、ここで思いもかけない不幸が一座を襲う。公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀なくされた。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着。極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が観客に大うけしたのだ。何が幸いするか分からない。
1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年パリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場で公演を行った。7月4日の初日の公演には彫刻家のロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。
8月には当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、着物風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソらは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立した。1911年、音二郎が病で死亡。遺志を継ぎ公演活動を続けたが、演劇界やマスコミの攻撃が激化。ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い「日本の近代女優第一号」として舞台から退いた。
福澤諭吉の娘婿で、「電力王」の異名をとった福澤桃介(旧姓岩崎)との関係も話題を呼んだ。長い別離を挟み結ばれた二人は、仲睦まじく一生を添い遂げた。  
新島八重 

 

会津の戊辰戦争で砲術者として奮戦した、新島襄の妻
新島八重は幕末から昭和初期の日本女性で、同志社創立者の新島襄の妻として有名な人物だ。また、戊辰戦争時には会津若松城籠城戦で、断髪・男装し、砲術者として奮戦したことが知られており、後に「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれる、武士の魂を持った女性、男勝りの“猛女”でもあった。生没年は1845(弘化2)〜1932年(昭和7年)。史料によっては「新島八重子」と書かれている場合もある。旧姓は「山本」。
新島八重は、会津藩の砲術師範だった山本権八・さく夫妻の三女として生まれた。戊辰戦争が始まる前に、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚したが、会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中、尚之助は行方不明になった。また、この戊辰戦争で八重は父と弟を失った。
八重の長兄、山本覚馬は師の林権助が江戸出府を命じられた際に随行し、佐久間象山、勝海舟に師事。また西周らとも親交があり、全盲となりながらも京都府の府政を担い、後に新島襄と同志社を創立している。
1871年(明治4年)、八重は京都府顧問となっていた実兄、覚馬を頼って上洛する。翌年兄の推薦により、京都女紅場(にょこうば)(後の府立第一高女)の舎監兼教導試補となった。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになった。
八重は兄のもとに出入りしていた新島襄と知り合い、1875年(明治8年)府知事・槇村正直の仲人で襄と婚約。女紅場を退職、翌年襄と結婚した。1876年(明治9年)、八重は京都初の洗礼を受けた。全国的にまだキリシタン迫害の気風が残っていただけに、女性が堂々と洗礼を受けることは相当の勇気が必要だったと思われる。ともあれ、欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦だった。
1878年(明治11年)、同志社女学校が正式に開校となり、同志社社長に襄、結社人山本覚馬、教師は外国人宣教師があたった。
1890年(明治23年)、夫の襄が46歳の若さで病気のため急逝。二人の間には子供がおらず、新島家にも襄以外に男子がいなかったため、養子を迎えた。ただ、この養子とは疎遠で、その後の同志社を支えた襄の多くの門人たちともソリが合わず、同志社とも疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知り合った円能斎で、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し、裏千家流を広めることに貢献した。
当時の女性としては珍しく、精神的にも経済的にも自立した八重は、世間の目に左右されることなく、自分の気持ちに忠実に生きたといえよう。日清・日露戦争では篤志看護婦となって、劣悪な環境の下で傷病兵の看護にあたった。看護婦の中には伝染病で亡くなった女性もいたほど。その功績により勲七等、そして勲六等を受章し、1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位大礼の際に、銀杯を授与された。その4年後、夫の襄の死から42年間、一人で過ごした寺町丸太町上ルの自邸(現在の新島襄旧邸)で、八重は87年の生涯を閉じた。  
川島芳子

 

清朝皇族の血ひく、日中双方で人気の“男装の麗人”
川島芳子(本名・愛新覚羅顯<王偏に子、以下同>)は清朝の皇族・粛親王の第十四王女だが、日本人の養女となった。日本では“男装の麗人”としてマスコミに取り上げられ、新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を巻き起こした。日本軍の工作員として諜報活動にも従事し、第一次上海事変を勃発させたともいわれたため、戦後まもなく中華民国政府によって「漢奸」として逮捕され、銃殺刑に処された。だが、処刑された遺体が実際に芳子だったのか、謎や疑問点も少なくない。そのため、日中双方での根強い人気を反映して、現在でも生存説が流布されている。
川島芳子の字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。川島芳子の生没年は1907〜1948年。愛新覚羅氏は満州(中国東北部)に存在した建州女真族の一部族名で、中国を統一し清朝を打ち立てた家系。アイシンとは彼らの言葉で「金」を意味する。清朝滅亡後、愛新覚羅氏の多くが漢語に翻訳した「金」姓に取り替えた。清朝建国にあたってとくに功績の大きかった八家が他の皇族とは別格とされ、八大王家(のちに四家が加わり十二家に)と呼ばれた。川島芳子もこの八大王家の中から出た女性だ。
中国で1911年、辛亥革命が起こり、1912年、宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位。袁世凱を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が建国されたのに伴い、袁世凱の政敵でもあった粛親王が北京を脱出。日本の租借地だった関東州旅順に、家族とともに亡命した。旅順では粛親王一家は関東都督府の好意により、日露戦争で接収した旧ロシア軍官舎を屋敷として提供され、幼い顯も日本に養女にいく前の一時期をそこで過ごした。この際、一家亡命の橋渡し役を務めたのが、粛親王の顧問だった川島浪速だ。
粛親王が復辟運動のために、日本政府との交渉人として川島浪速を指定すると、川島の身分を補完し、両者の親密な関係を示す目的で、顯は川島浪速の養女となり芳子という日本名が付けられた。
1915年に来日した芳子は当初、東京・赤羽の川島家から豊島師範付属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学した。やがて川島の転居に伴い、長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学した。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したという。1922年に実父、粛親王が死去し、葬儀参列のため長期休学したが、復学は認められず松本高女を中退した。
芳子は17歳で自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになった。断髪の原因は、山家亨少尉との恋愛問題とも、養父・浪速に関係を迫られたためともいわれているが、その詳細は明らかではない。断髪した直後に女を捨てるという決意文書を認め、それが新聞に掲載された。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、本人のもとに取材記者なども訪れるようになり、この時期のマスコミへの露出が、後に“男装の麗人”像となり、昭和初期の大衆文化の中に形成される大きな要因となった。
芳子の端正な顔立ちや清朝皇室出身という血筋は、世間で高い関心を呼び、芳子のマネをして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を起こしていた。
1927年にパプチャップ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャップと結婚したが、3年ほどで離婚した。その後、上海へ渡り、同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれている。だが、実際に諜報活動をしたのかどうか、その実態は謎に包まれている。  
楠本いね 

 

シーボルトの娘で、明治の日本最初の西洋女医
楠本いねは、日本に医術開業試験制度が導入される前、1859年(安政6年)長崎西坂の刑場でオランダ医師ポンペによって行われた罪囚の死体解剖に立ち会った46人の医師のうちただ一人の女医師だった。また、1870年(明治3年)東京築地一番町で産科医を開業した日本最初の西洋女医だった。だが、いねは周知の通り、長崎オランダ商館医、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘だっただけに、当時の世間の眼は冷たく、いわれのない差別も受け育った。いねの生没年は1827(文政10)〜1903年(明治36年。)
日本人で初めて女性で西洋医学を学んだ産科医・楠本いねは母瀧(お滝)とドイツ人医師シーボルトの間に生まれた。母の瀧は商家の娘だったが、当時長崎・出島へ入ることができたのは遊女だけだったので、「其扇(そのぎ)」と名乗り、遊女を装って出島に出入りしていてシーボルトと恋に堕ち、結婚したとする説、もともと長崎の遊郭、丸山の遊女、「其扇」としか記されていない史料もあり定かではない。いねの出生地は長崎で、出島で生まれ出島で居を持ったという。「楠本」は母、楠本瀧の姓。
シーボルトは1828年(文政11年)、いねが2歳のときスパイ容疑で国外追放された。そこで瀧はやむなく俵屋時次郎という商人と結婚し、いねが14歳のときシーボルトの弟子で宇和島藩開業医、二宮敬作に娘を預けた。いねは外科の医術を二宮に学び、18歳になると備前岡山の石井宗謙のもとで産科医の学問、技術を学んだ。石井には妻子があったが、彼はいねに娘高子(たか)を産ませている。
また、いねは村田蔵六(のちの大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からオランダ軍医ポンペから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任、ボードウィンに学んだ。後年、大村益次郎が襲撃され、重傷を負った際には、ボードウィンの治療のもと彼女は大村を看護し、その最期を看取っている。
1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約締結によって追放処分が取り消され、いねは1859年(安政6年)再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学んだ。シーボルトは長崎・鳴滝に住居を構え昔の門人や娘いねと交流し、日本研究を続けた。1861年、シーボルトは幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。
いねはドイツ人と日本人という当時では稀な混血児ということで、特別な眼で見られ差別を受けながらも、宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で、東京築地一番町で産科医を開業した後、宮内省御用掛となり、明治天皇の女官、権典侍・葉室光子の出産に立ち会うなど、その医学技術は高く評価された。
その後、日本にもようやく医術開業試験制度が導入された。ただ、これはいねにとっては不幸なことだった。というのは、女性には受験資格がなかったからだ。すでに産科医として実績を積んできているのに、この制度がスタートしたことで、理不尽にもいねはその埒外に置かれることになってしまったのだ。勝気な性格で、負けず嫌いだったいねにとってはたまらないことだったろう。そのため、いねは断腸の思いで東京の医院を閉鎖、長崎に帰郷する。
1884年(明治17年)、医術開業試験制度の門戸が女性にも開かれるが、いねにとっては遅すぎた。すでに57歳になっていたため、合格の望みは薄いと判断し、以後は産婆として開業した。62歳のとき、娘(石井宗謙との間にできた高子)一家と同居のために、長崎の産院も閉鎖し再上京。医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリッヒの世話になり、余生を送った。いねは生涯独身だったが、1903年、食中毒のため東京麻布で亡くなった。  
三浦環 

 

日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手
三浦環は日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手だ。十八番だった、プッチーニの『蝶々夫人』の蝶々さんと重ね合わされて、国際的に有名だった。三浦環の生没年は1884(明治17)〜1946年(昭和21年)。
三浦環は東京・芝で公証人の柴田猛甫を父に、永田登波を母に生まれた。元の名は柴田環、次いで藤井環。1900年に東京音楽学校に進みピアノを滝廉太郎に師事。1903年、東京音楽学校在学中、日本人による最初のオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』上演にエウリディーチェ役で出演した。1904年に卒業後、補助教員として東京音楽学校に勤務、その後助教授となった。この間に山田耕筰らを指導したといわれる。
1911年に帝国劇場に所属し、翌年からプリマドンナとして活躍を続けた。1913年に柴田家の養子で医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学した。しかし、第一次世界大戦の戦火を逃れて、イギリスに移動。1915年、ロンドンのオペラハウスに日本人として初めてプリマドンナとして出演。プッチーニの『蝶々夫人』を歌った。この英国デビューの成功を受けて、1916年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じた。好意的な批評によってその後、「蝶々夫人」やマスカーニの『あやめ』をニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで演ずることができた。ちなみに三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手だ。
三浦環はその後、ヨーロッパに戻り、ロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年、米国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評だった。1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に客演した。1922年帰国すると、長崎に留まり『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに、長崎市のグラバー園に建っている。
三浦環は欧米各国で20年間に2000回にわたり蝶々さんを演じた。ソプラノのその明澄甘美な歌声は、作曲者のプッチーニに「わが夢」と激賛されるほどだった。1935年(昭和10年)帰国し、翌年、歌舞伎座で2001回目の『蝶々夫人』演奏会を開催。以後、死ぬまで10年間は日本で演奏教育活動を行った。
『蝶々夫人(=マダム・バタフライ)』はJ.L.ロングの原作(1895年)で、明治中期の長崎を舞台に、士族の娘お蝶とアメリカ海軍のピンカートン中尉との愛と悲劇を描いた作品だ。二人は恋をし、結婚して子供までもうける。しかし、ピンカートンは帰国することになる。彼はそのうち戻るからといって単身でアメリカへ帰ってしまう。やがて3年の月日が流れ、やっとピンカートンが長崎にやってきたが、彼の側にはアメリカで結婚したケイトが付き添っていた。ピンカートンを信じきっていたお蝶はショックを受け、このまま侮辱を受けるよりは、武士の娘として高貴な死を選ぼうといって自刃して果てる−こんなストーリーだ。
この物語は実話を元にしているとされ、グラバー園のトーマス・グラバーと夫人の鶴さんがモデルではないかとの説もある。ただ、この種の話は当時、随分多かったようで定かではない。実際にはグラバーは帰国せず、日本で様々なビジネスに取り組み、東京・麻布で亡くなっている。  
 
日本売春文化の始まり

 

かつて東欧の社会主義体制が崩壊して経済が一時的に混乱状態に陥ったとき、いち早く復活したものに売春があった。社会主義体制のもとでは基本的にありえなかったこの職業を、当時のジャーナリストたちは人類最古の職業が復活したといって、皮肉っぽく紹介していたものだ。 
売春が果たして人類の歴史の黎明期に遡るほど古い文化なのか、筆者にはいまのところ詳しく跡付ける資料がない。ただ大まかに、エジプトやオリエントの古代文明において売春を行とする遊女たちが存在したらしいことを、断片的なデータに基づいて知るのみである。 
比較的よくわかっているのはローマ時代である。都市の中に多く作られた公衆浴場を舞台にして、遊女たちが活躍していたことが知られている。また、中国においては、唐の時代に大規模な遊郭街が形成され、売春文化ともいうべきものが花開いた。日本でもその影響を受けてか、室町時代に遊女たちを集めた遊郭街が京の辻々に出現し、また徳川時代には京都島原や江戸吉原に公認の遊郭街が作られた。 
しかし日本で性を売り物にする職業が成立するのは、そう古いことではない。せいぜい鎌倉時代に遡るくらいである。それ以前にも遊女という言葉はあちこちに出現するが、それは文字通り芸を売る女たちをさしており、売春を伴うことは殆どなかったものと思われる。 
万葉集は、遊行女婦(うかれめ)の作品とされるものをいくつか収めている。筑紫娘子、蒲生娘子、小島娘子といわれる女たちである。その名称からして、現代のわれわれには性を売る遊女を連想させるが、実体はそうではなかったものと思われる。小島娘子などは大伴旅人の宴に列して、即興で歌を詠んでおり、かなりの教養を感じさせもする。 
これらの女たちは、諸国を歩き回りながら、管弦や音曲などを披露していたのではないか。遊行女婦の遊行という文字には、今日言うような遊びという意味よりも、放浪するという意味合いが強かった。だから「うかれめ」とは「浮かれ騒ぐ女」という意見合いより、「諸国を放浪して芸を売る女=女芸能者の一団」という意味が込められていたと思ってよい。 
このような遊行女婦たちの、やや時代が下がった頃の姿を、更級日記の作者が書きとめている。京に向かう一行が足柄山に差し掛かったとき、遊行女婦の一団が現れて芸を披露するくだりである。 
「ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西国の遊女はえかからじ」など言ふを聞きて、「難波わたりに比ぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろしげなる山中に立ちて行くを、人々飽かず思ひて皆泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りを立たむことさへ飽かず覚ゆ。」 
これは11世紀はじめの出来事である。遊女が3人、いづれも汚げなき様子で、身を持ち崩したイメージはない。若い方の女は「こはた」という遊女の孫だと名乗っている。遊女の職業が母親から娘へと受け継がれていたことを思わせる。その芸は質が高く、即興の歌を詠むほどに才知にも長けていた。 
こうした遊女たちが性を売るようになるのはいつごろのことだろうか。詳細はわからぬが平安時代中期にはその兆しが現れているようだ。10世紀前半に成立した辞書「和名類聚抄」には、遊女の説明として、「昼に遊行するを遊女といひ、夜を待ちて淫売を発するを夜発といふなり」とある。ここにある夜発が性を売るもの、つまり売春の始まりの形と思われるのである。 
売春は性を買う男と、金のために性を売る女の存在を前提とする。日本の古代は、女の自立性が高かった時代である。そこでは暮らしのために性を売ることの必然性が弱かったと同時に、金を払って女の性を買う男もいなかった。古代の日本は男女の結びつきが弱く、男も女も非常に簡単に配偶者を変えた。このような結婚の形態を対偶婚という。このような社会においてはしたがって、婚姻の外に特別に性的はけ口を求める動機が希薄だったのである。 
日本において女が性を売るようになるのは、女の自立性が弱まる一方、男の経済的な支配性が高まる時代の到来を物語っていた。伝統的な婿取り婚に変わって嫁取り婚が支配的な形となり、一夫一妻制が定着していくのに伴い、婚姻の外に性の捌け口を求める男と、暮らしのために性を売る女が登場してくる。こうして日本においても、売春文化というべきものが発展していくのである。 
日本の売春文化は、鎌倉時代には「好色家」とか「傾城屋」といった売春宿を生み出し、室町時代には「辻子君」と呼ばれる遊女が街の一角に集められて大規模な売春に従事するようになる。かつて女芸能民として高い技芸を誇っていた白拍子やクグツの集団もこうした流れに飲まれていく。 
先に紹介した「更級日記」の遊女たちは、時代の変換期に生きた人びとだったのだろう。 
 
「家制度」の成立・家族の歴史

 

歴史の転換期 
今私たちが生きている20世紀末から21世紀初頭、この時代をどうとらえるか。未来の学者から見れば、歴史上、一つの大きな転換期とみなされるのではないかと思っています。長い間、日本人の生活や意識を大きく規定していた「家制度」なるものが衰退、あるいは崩壊した時期として。 
家制度的なものの衰退は、戦後、徐々に進行したと考えられます。兆候として挙げられるのは、分割相続の一般化、夫婦別姓問題のクローズアップ、核家族化の進行、あるいは離婚の増加、性的規範の緩み、恋愛結婚の一般化等々です。 
家制度の評価については、両極端な二つの立場があります。 
一つは「家制度美化論」。一部の保守的な政治家や論者に代表される見解で、〈家制度は古代から続く日本の美風。家族崩壊とみなされる諸問題は、家制度的な秩序や道徳の復活によって解決される〉とするもの。他方は「悪(あ)しき封建遺制論」。敗戦直後に丸山真男ら近代化主義者がよく展開した議論で〈家制度こそは悪しき封建制のなごり。一掃しない限り、真に民主的で近代的な社会は建設できない〉といった内容です。 
結論から言うと、どちらもかなり一面的な評価だと思います。私は歴史学者ですので、短絡的にその功罪を問うのではなく、家制度の成立過程を具体的に考察することで、ことの本質が探れるのではないかと考え、研究を進めてきました。 
本日の講義では、家制度がいつごろ、いかなる過程を経て成立したのか明らかにすることで、家制度が崩壊したと言われる21世紀の家族のあり方、換言すれば家族の未来を探るヒントを得ようと考えています。 
なお、これは私独自の概念ですが、家制度が大きく意味を持った社会を「家社会」、それ以前を「プレ家社会」、それ以後の社会を「ポスト家社会」と命名し、実は「プレ家社会」と「ポスト家社会」の間には結構似たところがあり、その共通点に目を向けて行こうと考えています。私たち歴史学者にとって「歴史は繰り返す」という言葉は非科学的なタブーですが、あえて言えば、歴史はもしかしたら繰り返す部分もあるかもしれない。 
私なりの「家」の定義を紹介しますと、「家」とは、家の名前である「家名」、家の財産である「家産」、家の職業である「家業」を、父親から基本的に嫡男へ父系の線で先祖代々継承する、それによって維持される永続的な形態です。家を相続する長男には家長として家の財産を一括相続する権利と、それに伴う義務が生じます。 
象徴としての家名 
まず、家のシンボルとしての家名についてお話しします。歴史学的に言うと、苗字(みょうじ)と姓はまったく別物です。苗字こそが家名。姓と苗字の混同は江戸時代から始まっていましたが、一番混乱させたのは明治維新です。 
姓というのは氏名(うじな)。古代の貴族が作っていた氏という族集団のシンボルマークです。源氏、平氏、藤原氏、橘氏に代表される集団の名前で、本来は、天皇が家臣に与える公的な名前。これに対して苗字は、先祖代々続く家のシンボル。最初に名乗ったのは中世の武士ですが、室町以降は庶民も名乗るようになる。つまり、姓が上から与えられる名前だったのに対し、苗字は私的に名乗る家名であり、したがって家の成立は、苗字の成立とリンクします。 
江戸時代、庶民は苗字帯刀禁止でしたが、明治時代に四民平等となって庶民も苗字をあわててつけたと、まことしやかに言われます。しかし、最近の研究で確定していますが、江戸時代の庶民にも私的に苗字を名乗っているものがかなりいた。要は武士の前で使ってはいけないだけ。私がずっと調査対象としている丹波国山国荘、現在の京都市北部の山国地域に残る古文書を見ると、武士に提出する書類等では「何とか村の誰兵衛(べえ)」などと名乗っているのに対し、同じ人物が村の中でやり取りする書類では堂々と苗字を用いている。 
ここからは私のオリジナリティーになりますが、実は室町時代の庶民も平気で苗字を名乗っていた。山国荘には、当時の庶民が名乗っていた苗字がわかる資料が数多く残されており、14世紀前半ぐらいから資料上に3軒の苗字が出てきてます。その数はどんどん増加し、15世紀後半から16世紀に一般化したと考えられます。 
家産の成立 
現在は戦後民法のもとで財産の分割相続が原則になっています。ところが、家制度のもとでの家産は単独相続で、その起源は家産の起源とほぼイコールです。 
鎌倉時代以前は、土地財産を娘を含む子供たち全員で分ける分割相続が一般的だった。それが単独相続化した時期について、私はこれがまた室町時代だと言いたい。分割相続は親の財産を等分にしていくので、代を重ねるごとに土地が細分化されてしまう。 
鎌倉時代は、武士ならば戦争をやって一獲千金、敵方から没収した領地を恩賞として分けてもらって取り返せますから、問題なかった。庶民も、分割した分、新たに耕地を切り開けば復活可能だった。しかし、ある段階以降は、あまり戦争のない平和な世に。耕地も当時のレベルでほとんど開発し尽くしてしまった。 
と、なると、分割相続の繰り返しでは、土地や領地が減り食べていけなくなる。こうして単独相続という制度が一般化していきます。 
「家社会」と変化 
家制度が一般化した室町時代の「家社会」と、鎌倉時代以前の「プレ家社会」とはどんな点が違うのか。 
まず、名前の問題ですが、夫婦別姓から夫婦同一苗字へという形でまとめられると思います。鎌倉時代以前は夫も妻もそれぞれ姓を名乗っていて、結婚後も変わらなかった。例えば、源頼朝と結婚後も、妻の政子は平の姓を名乗り続けた。 
これに対して室町時代以降、夫婦は同苗字を名乗るようになる。山国荘の例で同一苗字を名乗っている資料が複数あります。女性は夫と同一苗字を用いるか、男性の名前の下に妻とか娘とつける形で“名無しの権兵衛”になってしまう。または、成人後も童名のままで、一人前の大人の名を持てなくなる。 
次に財産相続の問題ですが、分割相続であった鎌倉時代には娘も相続権を持っており、女性にも経済力があった。ところが、鎌倉時代の終わりから風向きがあやしくなり、本人の生存中だけの「一期分相続」が一般化。室町時代になるとさらに進行して、化粧料(けわいりょう)と呼ばれる持参財をのぞくと土地財産を一切保持できなくなる。つまり女性の経済力はほとんどなくなり、夫に従属せざるを得ない状況が一般化してくる。 
第三に婚姻の問題ですが、高群逸枝という著名な女性史研究者によれば、平安時代の婚姻は夫が妻のもとに通う「妻問(つまどい)婚」から始まり、しばらくたつと、妻の実家、もしくは新居に移り住む。これは男が婿に入る「婿取り婚」とみなされるとしています。別の側面から見ると、気の向く間だけ結びつく不安定な「対偶婚」といえる。簡単に言うと今日の同棲(どうせい)のようなものです。私は、庶民レベルではそれが鎌倉時代まで続いたと考えています。 
ところが、室町時代になると、妻が夫の家族の一員になる「嫁取り婚」が一般化。生涯一緒に暮らすのを前提とするような安定した婚姻形態が一般化します。家の跡継ぎが生まれなければ困るとして、男が妻以外の女性と関係を持つことに対してはかなり寛容でしたが、女性の貞操は一方的に重視される。妻の性の自由を認めると、夫は「自分の子供」という確証を得ることができないため、一切他の異性から遮断するような形で囲い込んだのです。 
以上のような形で、「プレ家社会」である鎌倉時代以前と、「家社会」の室町時代との間には婚姻形態や財産権、恋愛、女性の貞操観念の問題において大きな隔たりがある。 
歴史と未来 
従来の歴史学者の多くは、経済の発展を前提にした歴史の法則的な進歩・発展史を重視し、その延長線上に未来の理想社会を予測してきました。しかし、家をめぐる問題は、そういった歴史観とはなじまないのではないかと考えています。そこで、私は「プレ家社会」が「家社会」になって、21世紀以降は「ポスト家社会」に転換するという図式を示してみました。 
岸本美緒さんという中国史の研究者は、東アジアの歴史を見ていくと、各国の“伝統”と言われるものが、実は太古の昔までは遡(さかのぼ)れず、せいぜいのところ数百年ほど以前の16-18世紀に一斉に成立したとみなし、これは進歩・発展とはまったく別次元の問題だとしています。この「伝統社会」理解は、私の「家社会」理解と重なります。 
最後に話したいのは、「プレ家社会」と、これから来るであろう「ポスト家社会」が実はかなり似ているということ。共通点として夫婦別苗字や夫婦別財の広まり、分割相続の一般化、それから核家族の多さ、離婚の増加、恋愛結婚の一般化などが挙げられます。 
そこで、私はあえて歴史は繰り返すと言いたい。日本の長い歴史において、保守的な方たちが強調する日本的な伝統社会である家社会が存続したのは16世紀から20世紀の400年あまり。長い短いは主観の問題ですが、これを私は「たかだか」というふうに取りたいと思っています。 
では果たして、歴史学は未来を予言できるのか。私は、「今起こっている現象は過去と同じです。だからびっくりする必要はありません、日本の長い歴史でいえば、昔だって同じようなことがあったんですよ」ということを言ってはいますが、別に未来を予言しているわけではありません。 
社会・経済・文化すべてを、進歩・発展という図式で統一して、歴史を過去から未来に至るまで一貫した「大きな物語」として描くのは、歴史学のおごりだと思います。しかし、家の問題のような、個々の局面ごとの小さな物語を小さなレベルで語ることは、もしかしたら可能ではないか。実は本講座もその試みの一つなのです。 
 
遊女考

 

白女 
古今集巻八離別歌云、源のさねがつくしへ湯あみんとてまかりける時、山崎にて別ををしみける所にてよめる、白女「命だに心にかなふ物ならば何か別れのかなしからまし」、後撰集巻十五雑歌(五紙左)云、女ともだちのもとにつくしよりさし櫛を心ざすとて、大江玉淵朝臣女「難波がた何にもあらずみをつくしふかき心のしるしばかりぞ」、大和物語(抄四巻の十八紙左)云、亭子の帝河尻におはしましにけり、うかれめにしろといふ物ありけり、めしにつかはしたりければ、まゐりてさぶらふ、上達部、殿上人、皇子達のあまたさぶらひ給うければ、しもにとほくさぶらふ、かうはるかにさぶらふよし、歌つかうまつれ、とおほせられければ、すなはちよみてたてまつりける、「浜千鳥とびゆくかぎり有ければ雲立山をあはとこそみれ」とよみたりければ、いとかしこくめで給ふて、かづけもの給ふ、「命だに心にかなふものならば何か別のかなしからまし」といふうたも、此しろがよみたる歌なりけり、(此語、大鏡巻卅右、大同小異、古今著聞集、十訓抄にも出、又、二十紙右云)、亭子のみかど鳥かひの院におはしましけり、例のごと御遊有、このわたりのうかれめどもあまたまゐりてさぶらふ中に、声おもしろく、よしある物は侍りやととはせ給ふに、うかれめばらの申やう、大江のたまぶちがむすめといふものなん、めづらしうまゐりて侍る、と申ければ、見させ給ふに、さまかたちも清げなりければ、あはれがり給て、うへにめしあげ給ふ、そも/\まことか、などとはせ給ふに、とりかひといふ題を人々によませ給ひけり、おほせ給ふやう、たまぶちはいとらうありて、歌などよくよみき、此とりかひといふ題を、よくつかうまつりたらんにしたがひて、まことの事はおぼさん、とおほせ給ひけり、承りて、すなはち「浅緑かひある春にあひぬれば霞ならねど立のぼりけり」とよむ時に、帝のゝしりあはれがり給ふて、御しほれた給ふ、人々もよくゑひたる程に、酔なきいとになくす、帝御うちぎひとかさね、はかまたまふ、ありとあるかんだちめ、四位、五位是に物ぬぎてとらせざらんものは、座よりたちね、との給ふければ、かたはしよりかみしもみなかづけたれば、かづきあまりて、ふたまばかりつみてぞおきたりける、かくて南院の七郎ぎみといふ人有けり、それなん、此うかれめのすむあたりに、家つくりてすむときこしめして、それになんのたまひ、あづけゝる、かれが申さん事、院にそうせよ、院より給だせん物も、かの七郎ぎみよりつかはさん、すべてかれにわびしきめなみせそ、と仰られければ、つねになん、とぶらひかへり見ける、(此語、大鏡八の卅五、大同小異)古今著聞集巻之五(四十三紙右)云、歌よくうたひて、声よき物を、ととはるゝに、丹後守玉淵が女に白女と申けり云々、(大鏡裏書云、丹後守大江玉淵事参議音人卿男)大和物語亭子の帝河尻に云々の条の註云、江口の遊女也、或説に源のつくるがむすめと云々、 
遊女記 
自2山城国与渡津1浮2巨川1、西行一日、謂2之河陽1、往2返於山陽、南海、西海三道1莫レ不レ遵2此路1、江河南北邑々処々分流向2河内国1、謂2之江口1、蓋典薬寮味原樹、掃部寮大庭荘也、到2摂津国1有2神崎、蟹島等地1、比レ門蓮レ戸人家無レ絶、倡女成レ群棹2扁舟1看2検舶1、以薦2枕席1、声過2渓雲1、韻飃2水風1、経廻之人、莫レ不レ忘レ家、州盧浪尤、釣翁商客、舳艫相蓮、殆如レ無レ水、蓋天下第一之楽地、江口則観音為レ祖、中君、□□□小馬、白女、主殿、蟹島則宮城為レ宗、如意、孔雀、香炉、三枝、神崎、則河孤姫為2長者1、孤蘇、宮子、力余、小児之属、皆是倶尸羅之再誕、衣通姫之後身也、上自2卿相1下及2黎庶1莫レ不下接2床第1施中慈愛上、又為2妻妾1歿レ身被レ寵、雖2賢人君子1不レ免2此行1、南則住吉、西則広田、以レ之為下祈2徴嬖1之処上、殊事2百太夫1、道神之一名也、人別宛2□之1数及2百千1、態蕩2人心1、亦古風而已、長保年中、東三条院(兼家女詮子)参2詣住吉社、天王寺1、此時禅定大相国(道長)被レ寵2小観音1、長元(後一条)年中、上東門院(道長女彰子)又有2御行1、此時、宇治大相国(頼通)被レ賞2中君1、延久年中、後三条院同幸2此寺社1、狛犬、壹等之類並レ舟而来、人謂2神仙1、近代之勝事也、相伝曰、雲客風人為レ賞2遊女1自2京洛1□2河陽1之時、愛2江口人1、刺史以下自2西国1入江之輩愛2神崎1、神崎人皆以2始見1為レ事之故也、所レ得之物謂2之団手1、及2均分之時1廉恥之心者、忿励之与、大小諍論不レ異2闘乱1、或切2鹿絹尺寸1、或分2米斗升1、□□有2陳平分レ肉之法1、其豪家之侍女、宿2上下舶1之者謂2之□1、亦遊得2少分之贈1為2一日之資1、愛有レ髷、俵2月絹之名1、舳取2登指1、皆土2九公之物1、習俗之法也、雖レ見2江翰林序1、今亦記2其余1而已、 
注:宛は正しくはリットウ。壹は正しくはリッシンベン。鹿は正しくは鹿三つ。月はイトヘン、 
檜垣嫗 
後撰集巻第十七雑上(四紙右)云、つくしの白河といふ所にすみ侍けるに(まへよりイ)大弐藤原興範朝臣のまかりわたるつひでに、水たへんとて打よりてこひ侍ければ、水をもて出てよみ侍けるひがきの嫗、「年ふれば我黒髪も白河のみづはくむまでおいにける哉」、かしこに名たかく、ことこのむ女になん侍ける、大和物語(抄三の五十一紙云)、つくしに有けるひがきのごといひけるは、いとらうあり、をかしくて、世をへける物になん有ける、年月かくてありわたりけるを、すみともがさわぎにあひて、家もやけほろび、物の具もみなとられはてゝ、いといみじう成にけり、かゝりともしらで、野大弐うて(討手)の使にくだり給ひて、それが家のありしわたりを尋て、ひがきのごといひけん人に、いかであはん、いづくにかすむらん、とのたまへば、此わたりになんすみ侍りしなど、ともなる人もいひけり、あはれ、かゝるさはぎにいかに成にけん、たづねてしかな、とのたまひけるほどに、かしら白きをうなの水くめるなん、まへよりあやしきやうなる家にいりける、ある人ありて、是なんひがきのごといひける、あはれがり給ふてよばすれど、はぢてこでかくなんいへりける、むば玉の我黒髪は(おひはてゝかしらの、家集)白河のみづはくむまで成にけるかな、と読たりければ、あはれがりて、きたりけるあこめ(相)ひとかさね、ぬぎてなんやりける、又おなじ人、大弐のたちにて、秋の紅葉をよませければ、鹿の音はいくらばかりのくれなゐぞふり出るからに山のそむらん、このひがきのご歌なんよむといひて、すき物どもあつまりて、読がたかるべき末をつけさせんとて、かくいひける、わたつみのなかにぞたてるさをしかは、とてすゑをつけさするに、秋の山べやそらにみゆらん、とぞつけたりける、檜垣嫗集(塙本二百七十二巻十七紙右)に有り、 
宮木 
後拾遺集第廿釈教(八紙五)云、書写のひじり結縁経供養し侍けるに、人々あまた布施おくりける中に、おもふ心や有けん、しばしとらざりければよめる、遊女宮木、津の国のなにはのことか法ならぬあそびたはぶれまでとこそきけ、遊女記、木作レ城はおなじ人なるべし、 
靡 
詞花集巻第六別(三紙左)云、東へまかりける人のやどり侍けるが、あかつきにたちけるによめる、くゞつなびき(傀儡靡)はかなくもけさのわかれのをしき哉いつかは人をながらへてみし(むイ) 
戸々 
千載集巻第十三恋三云、藤原仲実朝臣備中守にまかれりける時、ぐしてくだりけるを、おもひうすくなりて後、月を見て詠侍ける、遊女戸々、数ならぬ身にも心の有かほに独ぞ月をながめつる哉、 
妙 
新古今集巻第十覇旅歌(十二紙右)云、天王寺へまゐりけるに、にはかに雨ふりければ、江口に宿をかりけるに、かし侍らざりければ、よみ侍ける、西行、世の中をいとふまでこそかたらめかりの宿りををしむ君かな、返し、遊女妙、世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ、山家集下(六紙右)撰集抄、 
源平盛衰記巻第八(九右)西行法師と云るが云々、(九紙左)云、江口の妙に宿をかり、仮の宿と読しかば、心とむな、と返しつゝ云々、 
木姫 
公卿補任曰、嘉禎三年、従三位藤原兼高、十月廿七日叙、故中納言長方卿四男、母江口遊女、木姫、イ隠(壱イ)岐守師高朝臣、 
初君 
玉葉集巻第八旅(十八紙左)云、為兼佐渡国へまかり侍りし時、越後の国てらどまりと申所にて、申おくり侍りし遊女初君、物おもひこしぢの浦のしら波の立かへるならひありとこそきけ、 
阿已 
新続古今集巻第九離別歌(四紙右)云、尾張国に京よりくだれりける男の、かたらひつき侍けるが、あすのぼりなんとしける時、しぬばかりおぼゆれば、いくべき心ちせぬよしいひけるに、傀儡阿已、しぬばかり誠になげく道ならば命とともにのびよとぞおもふ、 
侍従 
新続古今集巻第十羅旅歌(十紙右)云、あづまのかたよりのぼりけるに、あをはかといふ所にとまりて侍けるに、あるじの心あるさまにみえければ、あかつきたつとて、堪覚法師、しるらめや都を旅になしはてゝ猶あづまぢにとまる心を、返し、傀儡侍従、東路に君が心はとまれども我も都のかたをながめむ、 
小観音 
遊女記白女条に既出、古事談第二臣節条云、御堂召2遊女小観音1、(観音弟也)其出家之後、被レ参2七大寺1之時、帰洛経2河尻1、其間小観音参入、入道殿聞レ之頗赭面、給2御衣1被レ返2遣之1云々、 
中君 
遊女記白女条に既出、 
小馬 
遊女記白女条に既出、 
主殿 
遊女記白女条に既出、 
如意 
遊女記白女条に既出、 
香炉 
遊女記白女条に既出、古事談第二巻臣節条云、小野宮大臣愛2遊女香炉1、其時又、大二条殿愛2此女1、相府香炉被レ問云、我与レ鬚愛レ何乎、汝已通2大臣二人1、(二条関白鬚長之故称レ之) 
孔雀 
遊女記白女条に既出、 
三枚 
遊女記白女条に既出、 
河孤姫 
遊女記白女条に既出、 
孤蘇 
遊女記白女条に既出、 
宮子 
遊女記白女条に既出、 
力余 
遊女記白女条に既出、 
小児 
遊女記白女条に既出、 
狛犬 
遊女記白女条に既出、 
壹 
遊女記白女条に既出、 
長柄 
壬生忠見集(十三紙右)云、いよにくだるに、よしあるうかれめに、おとにきゝめにはまだみぬはりまなるひゞきのなだと聞はまことか、返し、女、年ふれば朽こそまされ橋柱むかしながらの名にはかはらで、 
己支 
元良親王御集(塙本二百冊之二紙右)云、宮うかれめこ支に住給ふ頃、せまりつといひさわぐを聞給ふて、蔵人にいひつかはしける、ひとりのみ世にすみがまにくゆる木のたえぬ思ひを知人のなき、いとへどもうき世間にすみがまのくゆる煙を待よしもがな、御返し、女、はゝ木々を君が住家にいりくべてたえし煙の空にたつ名は、 
毛止里 
相如集(塙本二百五十一の三紙右)云、はらへの使に難波にゆきて、もとりといふうかれめにつきて、津の国のなにはの蘆のほのかにもねにきと人にいひつべきかな、おなじもとりにやる、行末は命もしらず夢ならでいづれのよにかまたはあふべき、 
熊野 
中右記巻之四(七十五紙右)元永二年記云、九月三日夜半、参2北殿御前1、乗レ車出レ門、下官権中納言同車、向2源相公六条亭1令2同車1、天曙間乗2善光寺別当清円船1、(伝平等院所供儲也)以2円賢(弥勒寺別当)船1為2女房御船1、以2八幡別当光清舟1為2伊与守船1、以2上野前司実房舟1為2相公船1、自余不レ能2委記1、勧修寺僧雖レ被レ設2八珍膳於予船1、道間組合也、扈従人々、源相公、伊与守、権中将、下官及三人息男等也、又禅師小野僧都被レ参、過2土曲之間江口1、熊野与2比和君1同船、追2一舟1中指二笠、発今様曲、付船漸過2神崎1之間、今長者、小最、弟黒、輪鶴四艘参会、各五、内有下望2与州寵愛1之気上、暫遊2廻水上之間1、微雨灑漸滂沱、留2女房船於遊女白古宅1、与州以下遊君向2北前宅1、及2半夜1唱歌至2暁更1、各帰宿、相公迎2熊野1、与州招2金寿1、羽林抱2小最1、下官自レ本此事不レ堪、仍帰自沈寝了、四日云々、五日云々、六日出2神崎1、於2高浜1召2遊君六人1、纒2頭長者金寿1、(三領単衣)熊乃、江口、伊世、(三領)、比和(江口)、輪鶴、(各一領)此外、伊与守給レ米云々、路間長谷荘、真上荘、平田荘(平等院左也)送2酒肴1、過2江口之間1、遊女群参、長者熊野自レ本在2此船1為レ饗、書2長者請文1令レ和2母子判1、給2熊野1、件母子預2纒頭1又戸母給レ扇、事了、猶相2具熊野、伊世二人1、宿2八幡別当光清木津荘1、光清儲2珍膳1、 
比和君 
中右記既出、 
小倉 
前に同、 
弟黒 
前に同、 
輪鶴 
前に同、 
白古 
前に同、 
金寿 
前に同、 
伊世 
前に同、 
小三日 
前に同、 
傀儡記 
傀儡子者無2定居1無2当家1、穹廬鬚氈帳遂2水草1以移徒、頗類2北狄之俗1、男則皆使2弓馬1以2狩猟1為レ事、或双剣弄2七九1、或舞2木人1闘2桃梗1、能2生人之態1、殆近2魚竜曼蜒之戯1、変2沙石1為2金銭1、化2草木1為2鳥獣1、能□2人自1、女則為2愁眉啼1粧2折腰歩齲歯笑1、施レ朱傳レ粉、倡歌淫楽以求2妖媚1、父母夫智不レ誠、□丞雖レ逢2行人旅客1、不レ嫌2一宵之佳会1、徴嬖之余自献2于金1、繍服、錦衣、金釵、鈿匣之具、莫レ不2異有レ1之、不レ耕2一畝1不レ採2一枝葉1、故不レ属2県官1、皆非2土民1、自限2浪人1、上不レ知2王公1、傍不レ怕2牧宰1、以レ無2課役1為2一生之楽1、夜則祭2百神1、鼓舞喧嘩以祈2福助1、東国美濃、三河、遠江等党為2豪貴1、山陽播州、山陰馬州土党次レ之、西海党為レ下、其名儡、則小三日、百三、千載、万歳、小君、孫君等也、動2韓娥之塵1、余音繞レ粱、周書霑レ纓、不レ能2自休1、今様、古川様、足柄、片下、催馬楽、里烏子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満周(固イ)風俗、呪師、別法士之類、不レ可2勝計1、即是天下之一物也、誰不2哀憐1者哉、 
百三 
傀儡子記既出、 
千載 
前に同、  
万歳 
前に同、 
小君 
前に同、 
孫君 
前に同、 
目古曾 
古事談第二臣節条云、二条師長実著2水干装束1、遊女(神崎君目古曾)ニ、イカゞミユルト被レ問ケレバ、目出ク御座ノ由申レ之、重被レ問云、水干装束ニテ又ヨカリシ人、又誰ヲカ見哉云々、肥前守景家ト申人コソ見候シカト、詞未レ了前忽解脱云々、 
金 
古事談第二巻臣節条云、神崎遊女金は大治年間之女、十訓抄巻第十(十八紙左)云、伊通公参議の時、大治五年十月五日の除目に、参議四人、師頼、長実、宗輔、師時等、中納言に任ず、是皆位次の上臈也といへども、伊通其恨にたへず、宰相、右兵衛督、中宮太夫、三の官を辞して、檳榔毛車を大宮表に引出して、破りくだき、褐水干にさよみの袴著て、馬にのりて、神崎の君かねが許へおはしけり、今は官もなき徒者なれる由なり云々、梁塵秘抄口伝集(三紙右)云、神崎のかね、女院に候ひしかば、まゐりたるには申てうたはせてきゝしを云々、猶うたひしを、らねがつぼねむかへりしかば云々、(四紙右)云、資賢やかねなどがうたをきゝとりて云々、 
若御前 
続古事談上巻(五十一紙右)云、其時白拍子ノ会アリケリ、若千歳ニゾアリケル、糸竹口伝(十五紙右)云、若御前ノ流ト云箏弾、世間ニアリ、彼人ハ按察大納言宗俊ガ孫也、京極大臣宗輔公女、鳥羽院御時、男子ノ装束ヲシテ具シマキラレタリケルニ、若御前ト云名ヲタビテケリ、名誉ノ箏弾ナリ、祖父、曾祖父マデ箏ノ家ナリ、箏ノ少将ノ局ト云人ノ弟子也、彼若御前ノ流ヲバ、三位実俊ツタヘラレタリ、其子中将公世卿、御賀ノ時スゝミ申サレシカドモ、御承引ナカリキ、今ハ絶タルニヤ、中ニモ妙音院大臣箏ニ名ヲ得給ヘリ、委ハ系図ニミエタリ、平家物語妓王が条に出す、合せみるべし、 
梁塵秘抄口伝集(八紙右)云、あこまろが母は大進の姉にて、和歌と申候ひし也云々、 
延寿 
平治物語巻一(廿二紙云)云、みのゝ国あをはかにつき給ふ、かの長者大炊がむすめえんじゆ、 
和名抄大須本抜云、建長八年二月、延命、延寿、石熊等、利銭日記同年四月、白拍子玉王注進云々、 
梁塵秘抄口伝集(三紙左)おとまへがやう、あこまろがには、ことの外にかはりたれ、延寿がは、あこまろがあなじさまなれど云々、 
延命 
前条に出、 
石熊 
前におなじ、 
大玉王 
前条に見えたる玉王は、大玉王の大の字落たるなり、古今著聞集第廿(卅四紙左)云、白拍子ふとだまわうが家にある女に、ある僧かよひけるを、本妻あさましく物ねたみのものにて、いかにせんとねたみけれども、猶用ひず通ひけるほどに云々、建長六年二月二日の夜、又此僧かの女に合宿したるに云々、 
妓王 
平家物語巻一(十二紙右)云、其頃京中に聞えたる白拍子の上手、ごわう、ぎ女とておとゝひ有、とぢといふ白拍子が娘也、しかるに、あねのぎわうを入道相国ちようあひし給ひしうへ、いもうとのぎ女をも、世の人もてなす事なのめならず、母とぢにもよき屋つくりてとらせ、毎月に百石百貫、たのしひ事なのめならず、抑我朝に白拍子のはじまりける事は、昔鳥羽院の御宇に、島の千ざい、わかの前、かれら二人が舞出したりける也、始は水かんに立ゑぼし、白さや巻をさひて舞ひければ、男舞とぞ申ける、しかるを、中ごろより、ゑぼし、刀をのぞかれ、水干ばかり用ひたり、扨こそ白拍子とは名付けれ、京中の白拍子、ぎわうが事のめでたきやうを聞て、うらやむ者も有、猜者も有、うらやむ者は、あなめでたのぎわう御前のさいはひや、おなじいう女とならば、誰もみなあのやうでこそありたけれ、いかさまにも、ぎといふ文字を名に付て、かきはめでたきやらん、いざや、我らもつひてみんとて、或はぎ一、ぎ二とつき、或はぎふく、ぎとくなど付しも有けり云々、(此間の事は今様の部に出す、依て略す、同十六紙右)云、さてしも有べき事ならねば、ぎわう今はかうとて出けるが、なからん跡の忘れがたみにもとや思ひけん、しやうじになく/\一首の歌をぞかきつけゝる、もえ出るもかるゝもおなじ野辺の草いづれか秋にあはではつべき、(中略、前におなじ)かくて都にあるならば、又もうきめをみんずらん、今はたゞ都の外へ出んとて、ぎわう廿一にて尼になり、さがのおくなる山里に、柴の廬を引結び、念仏してぞゐたりける、いもうとのぎ女是を聞て、あね身をなげば、我も共に身をなげんとこそ契りしが、ましてさやうに世をいとはんに、誰かおとるべきとて、十九にてさまをかへ、姉と一所にこもりゐて、偏に後世をぞねがひける、母とぢ是を聞て、わかき娘共だにさまをかふる世の中に、年おひ、よはひおとろへたる母、しらがを付ても何にかはせんとて、四十五にてかみをそり、二人の娘もろともに、一向せんじゅに念仏して、後世をねがふぞあはれなる、(中略、同廿一紙左)云、されば、かの後白河のほうわうの長がうだうのくわこちやうも、ぎわう、ぎ女、とぢらがそんりやうと、四人一所に入られたり、 
妓女 
前条に出、 
とぢ 
前条に出、 
仏 
平家物語巻一(十二紙左)云、かくて三年といふに、白拍子の上手一人出来たり、かゞの国の者なり、名をば仏とぞ申ける、年十六とぞ聞えし云々、(二十一紙右)に、仏が尼に成る事、年十七と有、委しくは今様の巻、またぎわうが条と引合て見べし、 
侍従 
平家物語巻十(十六紙右)云、池田の宿にも着給ひぬ、かのしゆく長者ゆやがむすめ、じゝうがもとに、其夜は三位(重衡)しゆくせられけり、じゝう三位の中将殿を見奉て、日頃はつてにだに思召より給はぬ人の、けふはかゝる処へ入らせ給ふ事のふしぎさよとて、一首の歌を奉る、旅の空はにふのこやのいぶせきにふる里いかに恋しかるらん、中将の返事に、ふるさとも恋しくもなし旅の空都もつひのすみかならねば、やゝ有て、中将かぢ原をめして、さても、只今の歌のぬしはいかなる者ぞ、やさしうも仕つたるものかな、とのたまへば、かげときかしこまつて申けるは、君はいまだしろしめされ候はずや、あれこそ八島の大臣殿(宗盛)の、いまだ当国の守にてわたらせ給ひし時、めされ参らせて御さいあひ候ひしに、老母をこれにとゞめおきつれば、いとま申しゝかども、たまはらざりければ、頃はやよひのはじめにてもや候けん、いかにせん都の春はをしけれどなれしあづまの花やちるらん、といふ名歌つかまつり、いとまたまはつてまかりくだり候ひし、海道一の名人にて候、とぞ申ける、 
千手 
平家物語巻十(十八紙左)云、年のよはひ二十ばかりなる女房の、色しろうきよげにて、かみのかゝり誠にうつくしきが、めゆひのかたびらにそめつけの細まきして、ゆどのゝとをさしあけて参りたり、其あとに、十四五ばかりなるめのわらはめ、かみはあこめだけなりけるが、こむらごのかたびらきて、はんざふたらいにくし入て、持て参りたり云々、(十八紙右)云、中将しゆごのぶしにの給ひけるは、さても、只今の女房はいうなりつる物哉、名をば何といふやらん、ととひ給へば、かのゝすけ申けるは、あれは手ごしの長者がむすめで候が、みめかたち、心ざま、いうにわりなき者とて、此二三年は、佐殿にめしおかれて、名をばせんじゅのまへと申候、とぞ申ける、其ゆふべ、雨すこしふつて、よろづものさびしげなる折ふし、件の女ぼう、びは、こと持て参りたり、かのゝすけも家の子らうどう十よ人引具して、中将殿の御まへちかふ候けるが、酒をすゝめ奉る、千じゅのまへしやくをとる、中将すこしうけて、いとけうなげにておはしければ、かのゝ介申けるは、かつきこしめされてもや候らん、むねもちは本より伊豆の国の者にて候へば、かまくらにてはたびにて候へども、心のおよばん程は奉公仕候べし、何事も思召事あらば、承つて申せ、と兵衛佐殿おほせ候、それ何事にても申て、酒をすゝめ奉り給へ、といひければ、情なき事をきふにねたむ、といふらうゑいを、一両度返したりければ、三位の中将、此朗詠をせん人をば、北野の天神、まい日三度かゝつて守らん、とちかはせ給ふとなり、されども、しげひらは、今生にてははや捨られ奉つたる身なれば、じよゐんしても何かせん、但ざいしやうかるみぬべき事ならば、したがふべし、とのたまへば、千じゅのまへ、やがて、十あくといふとも、猶ゐんぜうす、といふらうえいをして、極楽ねがはん人は皆、みだの名がうをとなふべし、といふ今やうを、四五返うたひすましたりければ、其時、中将さかづきをかたぶけらる、千じゅのまへ給はつて、かののすけにさす、むねもちがのむときに、ことをぞ引すましたる、三位中将、ふつうには此がくを五常らくといへども、今しげひらがためには、後生らくとこそくはんずべけれ、やがてわうじやうのきうをひかん、とたはぶれ、びはをとり、てんじゆをねぢて、皇じやうのきうをぞ引れける、かくて夜もやう/\ふけ、よろづ心のすむまゝに、あな思はずや、あづまにもかゝるいうなる人の有けるよ、それ何事にても今一こゑ、とのたまへば、千じゅのまへかさねて、一じゅのかげにやどりあひ、おなじながれをむすぶも、皆これぜんぜのちぎり、といふしらびやうしを、誠におもしろふかぞへたりければ云々、(二十一紙右)云、其後中将南都へわたされて、きられ給ひぬと聞えしかば、千じゅのまへは中々おもひのたねとや成にけん、やがてさまをかへ、こきすみぞめにやつれはてゝ、しなのゝ国ぜんこうじに行ひすまして、かの後世ぼだいをとぶらひけるこそあはれなれ、 
横笛 
平家物語巻十(二十一紙左)云、高野に年頃しり給へるひじり有、三条の斎藤左衛門もちよりが子に、斎藤たき□時よりとて、本は小松殿の侍たりしが、十三の年本所へ参りたりければ、建礼門院のざうしよこぶえといふ女あり、滝口是にさいあひす云々、(二十一紙右)云、うき世をいとひ、誠の道に入なんとて、十九のとし、もとゞりを切て、さがのわうじやういんにおこなひすましていたりける、よこぶえ、此よしをつたへ聞て、我をこそすてめ、さまをかへん事のうらめしさよ、たとひ世をそむくとも、などかかくとしらせざらん、人こそ心つよくとも、たづねてうらみん、と思ひつゝ、ある暮がたに都を出て、さがのかたへぞあくがれける云々、(二十二紙左)住あらしたる僧坊に、念じゆしけるを、滝口入道が声ときゝすまして、御さまのかはりておはすらんをも、みもし、見え参らせんがために、わらはこそ是まで参て侍へ、と具したる女にいはせければ、滝口入道むねうちさはぎ、あさましさに、しやうじのひまよりのぞきて見れば、すそはつゆ、袖はなみだに打しほれつゝ、すこしおもやせたるかほばせ、誠にたづねかねたる有さま、大道心者も心とわう成ぬべし、滝口入道を出して、まつたく是にはさる人なし、もし門たがひにてもや候らん、といはせければ、よこ笛なさけなううらめしけれども、力およばず、なみだをおさへてかへりけり、其後、滝口入道、同宿の僧に語りけるは、是も世にしづかにて、念仏のせうげは候はねども、あかず別し女に、此すまひを見えて候へば、たとひ一度は心づよくとも、またもしたふ事あらば、心もはたらき候なんず、いとま申とて、さがをば出て高野へ上り、しやう/\〃しんゐんにおこなひすましてぞいたりける、よこ笛もさまをかへぬるよし聞えしかば、滝口入道一首の歌をぞおくりける、そるまではうらみしかども梓弓まことの道に入ぞうれしき、よこぶえが返事に、そるとても何かうらみん梓弓引とゞむべき心ならねば、其後よこ笛はならの法花寺に有けるが、其思のつもりにや、いく程なくて、つひにはかなくなりにけり云々、
静 
平家物語巻之第十二(二十五紙左)云、判官はいそのぜんじといふ白びやうしがむすめ、しづかといふ女をちようあいせられけり云々、義経記巻四義経都落の条(二十五紙右)云、其ころ、世にもてなしけるいそのぜんじが娘に、しづかといふ白拍子を、かりしやうぞくきせてぞ召上せられける云々、(二十八紙左)云、其外しづかなどをはじめとして、白拍子五人、惣じて十一人、ひとつ船にぞのり給へる、同書の第五よしの山の条(一紙左)云、判官聞給ひ、くるしき事にぞおぼしめしける、しづかゞ名残すてがたく、(中略、三紙左)、判官びんのかゞみを取出して、是こそ朝夕にかほをうつしつれ、見ん度ごとに義経をみると思て見給へとて、たびにけり、是賜はりて、今なき人の様に、むねにあてゝぞこがれける、泪のひまより、かくぞ詠じける、見るとてもうれしくもなしますかゞみ恋しき人のかげをとめねば、とよみたれば、判官枕をとり出して、身をはなさで是をみ給へとて、かくなん、いそげども行もやられず草枕しづかになれし心ならひに、それのみならず、財宝を其数とり出してたびけり、其中に、ことに秘蔵せられたりける、したんのどうにひつじの革もてはりたりけるたくぼくのしらべの鼓を給はりて、仰られけるは、此つゞみは義経秘蔵して持つるなり、白河院の御時、法住寺の長老の入唐の時、二ツの重宝をわたされけり、めいぎよくといふびは、初音といふつゞみ是なり云々、(四紙左)しづかよし野山に捨らるゝ条云、供したる者ども、判官のたびたる財宝をとりて、かきけすやうにうせにける、しづかは日くるゝにしたがひて、今や/\と待けれども、帰りてこと問ふ人もなし、せめておもひのあまりに、なく/\枯木のもとを立出て、あしにまかせてまよひける云々、(中略、五紙左)云、ある御堂のかたはらに、しばらく休、これはいづくぞ、と人にとひければ、よしのゝみたけ、とぞ申ける、しづかうれしさかぎりなし、月日こそおほけれ、けふは十七日、この御えん日ぞかし、たうとくおもひければ、道者にまぎれ、御正面に近づきて、拝み参らせければ、内陣、外陣の貴賤、中々数をしらず、大しゆの所作の間は、くるしみのあまりにきぬ引かづき、ふしたりけり、つとめも果しかば、しづかもおきゐて、ねんじゆしてぞ居たりける、げいにしたがひて、思ひ/\のなれこまひする中にも、おもしろかりし事は、あふみの国より参りけるさるがく、いせの国より参けるしらびやうしども、一ばんまふてぞ人にける、しづか是をみて、あはれ、我も打とけたりせば、たんせいをはこばざらん、ねがはくは、権現の此度安穏に都に返し給へ、又あかで別し判官に、ことゆゑなく、今一たび引あはせ給へ、さもあらば、母のぜんじとわざと参らん、とぞ祈り申ける、道者皆下向して候、しづか正面に参りて、念珠して居たりける所に、わか大しゆ申けるは、あらうつくしの女の姿や、たゞ人ともおぼえず、いかなる人にておはすらん、あのやうの人の中にこそ、おもしろき事もあれ、いざやすゝめて見んとて、正面に近付しに、そけんの衣をきたる老僧の、はんしやうぞくの珠数もちて立しが、あはれ権現の御前にて、なに事にても御入候へ、御ほうらく候へかし、とありしかば、(中略、七紙右)ものはおほくならひしたりけれども、別して白拍子の上手にて有ければ、おんぎょく、もじうつり、心もことばもおよばず、聞人泪をながし、袖をしぼらぬはなかりけり、つひにかくぞうたひける、(白拍子のうたひもの、今様の部に出、略レ之、七紙左)云、一とせ、都に百日の日でりありしに、院の御幸ありて、百人の白拍子の中にも、しづかゞ舞たりしこそ、三日のこうずひながれたり、扨こそ日本一といふせんじを下されたりしか云々、(八紙右)云、修行の坊にとりいれて、やう/\いたはり、その日は一日とゞめて、あけゝれば、馬にのせて人をつけ、北白川へぞおくりける、是はしゆとの情とぞ申ける、巻之第六(二十二紙右)しづかかまくらへ下る条に云、大夫判官四国へおもむきたまひし時、六人の女房達、白拍子五人、惣じて十一人の中に、ことに御心ざしふかゝりしは、北白川のしづかと云白拍子、よし野のおくまで具せられたりける、都へかへされて、母のぜんじが許にぞ候ける、判官殿の御子を妊じて、近き程に産をすべきにてありしを、六はらに此事聞えて云々、 
(中略、二十三紙右)云、一たんのかなしみのがれんために、ほつしやうじなる所にかくれ居たりしを尋出して、母のぜんじもろともにぐそくして、六原に行、ほりの藤次請取て下らんとしける、磯のぜんじが心の中こそむざんなれ、まのあたりうき目を見んずらん、とかなし、又とゞまらんとすれば、たゞひとりさしはなつて、はる/\〃と下さん事もいたはしく云々、(二十余四紙右)鎌倉殿仰られけるは、殿上人には見せ奉らずして、など九郎には見せけるぞ、其上、天下の敵になり参らせたる者にて有に、と仰せられければ、前司申けるは、しづか十五の年までは、おほくの人々おほせられしかども、なびく心もさふらはざりしかども、院の御かうにめしぐせられ参らせ、神泉苑の池にて、雨の祈りの舞の時、判官に見えそめられ参らせて、堀川の御所にめされまゐらせしかば、たゞかりそめの御あそびのためとおもひ候しに、わりなき御心ざしにて、人々あまたわたらせ給ひしかども、ところ/\〃の御住居にてこそわたらせたまひしに、堀川殿に取おかれ参らせしかば、是こそ身にとりては面目、とおもひしに、今かゝるべしと、かねては夢にもいかでかしり候べきとて、さめ/\〃となきければ、御前の人々是を聞て、鎌倉殿の御前をもはゞからず、こしかたより今までのしづかゞ身を、おめずおくせず申たり/\とて、おのおのほめ玉ひけり云々、(二十六紙右)云、かくて月日もかさなれば、其月にも成にけり、しづかおもひのほかにけんらう地神もあはれみ給ひけるにや、いたむ事もなく、其心つくと聞て、藤次の妻が、ぜんじもろともにあつかひけり、ことさら御産も平安なり、少人なき給ふ声を聞て、ぜんじあまりのうれしさに、白ききぬにおしまきてみれば、祈るいのりはむなしくて、三神相応したるわかぎみにてぞおはしける云々、(二十八紙云)しづかわか宮八幡へ参詣の条、(三十三紙云)鎌倉殿やがて御参詣有りけり、しづか舞ぬると聞て、若宮には門前に市をなす云々、(三十四ン紙)云、左衛門のぜう、藤次が女房もろとも打つれて、廻廊にぞもうでたりける、ぜんじ、さいばら、そのこま、其日の役人なりければ、しづかとつれ、廻廊の舞台へのぼる、(中略)、しづかは神前にむかひて、ねんじゆしてぞ居たりける、先いそのぜんじ、めづらしからねども、法らくのためなれば、さいばらにつゞみうたせて、すきものゝせうしやと云白拍子を、かぞへてぞ舞たりける、心も詞もおよばれず、さしも聞えぬぜんじが舞だにも、これ程におもしろきに、ましてしづかゞ名にしおふたる舞なれば、さこそおもしろかるらめ、と申あひける云々、(三十七紙右)云、しづかゞ其日のせうぞくには、白きはかまふみしだき、わりびしぬひたるすいかんに、たけなる髪をたからかにゆひなして、此程のなげきにおもやせて、うすげせうまゆはそやかにつくりなし、みなくれなゐの扇をひらき、ほうでんにむかひてたちたり云々、(卅七紙左)しづか、其日は白拍子はおほくしりたれども、ことに心にそむものなれば、しんむじやうのきよくといふ白拍子の上手なれば、心もおよばぬこは色にて、はたとあげてぞうたひける、上下あとかんずる声、雲にひゞくばかりなり、(中略)、祐経、心なしとやおもひけん、すいかんの袖をはづして、せめをぞ打たりける、しづか君が代をうたひあげたりければ、人々是をきゝ、なさけなき祐経かな、今一折まはせよかし、とぞ申しける、せんずるところ、てきのまへのまひぞかし、おもふ事をうたはばやと思て、しづやしづしづのをだまきくりかへしむかしを今になすよしも哉、芳野山みねの白雲ふみ分て入にし人のあとぞ恋しき、とうたひければ云々、(三十八紙左)云、かゝるうき世にながらへても、なにかせんとやおもひけん、はゝにもしらせず、かみをきりてそりこぼし、てんりうじのふもとに草のいほを引むすび、ぜんじもろともにおこなひすましてぞ有ける、すがた、心、人にすぐれたり、をかしかるべきとしぞかし、十九にてさまをかへ、次の年の秋のくれには、おもひやむねにつもりけん、念仏申、往生をぞとげにける、きく人、てい女の心ざしをかんじけるとも聞へける、 
いそのぜんじ 
平家物語、義経記、前条に出、 
玉寿 
古今著聞集巻九武勇第十二(十一紙左)云、貞綱は酒に酔て、白拍子玉寿と合宿したりけり、思ひもよらぬに、寝所に打入たりければ、貞綱太刀をぬきて打はらひて、玉寿引立て、後園にしりぞきて、檜垣より隣へこして、我身もともに遁にけり云々、 
金 
古今著聞集巻之十(二十三紙右)云、近頃、近江国かいづに、金といふ遊女有けり、其頃のさたの者なり、法師の妻にて、年頃すみけるに、件の法師、又あらぬ君に心をうつしてかよひけるを、金もれ聞て、安からず思けり云々、此金大力なる事みへたり、 
姫法師 
諸門跡譜巻之中(六紙右)云、後鳥羽院愛 女舞女姫法師 、 
虎 
曾我物語巻之四(二十八紙左)大いそのとらおもひそむる事の条に、されば、しうぢやく身をはなれず、おんせいつきずして、大磯のちやうじやのむすめとらといひて、十七さいになりけるいうぐんを、すけなりとしごろ思ひそめて、ひそかに三とせぞかよひける、これやふるきことばに、うつし得たりやうひとうのゑくぼを、なしあらはせりにんみんあふきたるくちびるを、なんど思ひ出して、をり/\なさけをのこしける、同巻(二十五紙右)とらを具してそがへゆきし条云、かくて月日をおくりけるが、さだむるつまもつべからずとて、たゞとらがなさけばかりにひかれて、をり/\通ひける、たがひの心ざしの深き事は、ふつくんにもおとらず、千代よろずよとぞちぎりける、そも/\このとらと申は、ははは大磯のちやうじや、ちちは、一とせあづまにながされしふしみの大納言さねとものきやうにてぞましましける、なん女のならひ、りよしゆくのつれ/\〃、一夜のわすれがたみなり、されば、とらが心ざまじんじやうにして、わかの道に心をよせ、人丸、赤人のあとをたづね、なりひらのむかし、源氏、伊勢物語になさけをうつし云々、同巻(初紙右)十郎おほいそへゆきてたちぎゝの条云、此二三年なさけをかけてあさからぬとらに、いとまこはんとて云々、(二紙左)云、をりふし、とらがすみかには、とものいうくんあまたなみゑて、物がたりしける中に、とらが声とおぼしくて、たゞいまのぼる人々は、いづの国の誰人ぞ、聞給はずや、せんぢんはよこ山のとうまのぜう、とぞ申しける、とらききて、まことや、ぐしのことばに、みゝのたのしむときにはつゝしむべし、心のおこる時にはほしいまゝにすべからざれとは申せども、あはれ、げにこのとのばらの、うま、くら、よろひ、はらまきを、わらはにくれよかし、女ぼうたちきゝて、あはぬねがひもの、なにの御ようにや、といふ、すけなりにまゐらせ、おほふ事を、とばかりいひて、なみだをうかべけり云々、同巻(三紙右)わだのよし盛さかもりの事の条云、みやこの事はかぎりあり、ゐなかにては、きせ川のかめづる、てごしのせうしやう、大いそのとらとて、かいどう一のいうくんぞかし、一献すゝめてとほらばや、しかるべく候とて、かのちやうなのめならずによろこびて、とほさぶらひのちぎりをはらひ、よしもりこれへ、としやうじけり、とらにおとらぬ女ぼうども三十よ人いでたゝせ、ざしきへこそはいだしけれ、(中略)、されども、とらはざしきへ出ざりけり、よしもり心えずおもひて、この君たちもさる事なれども、とらごぜんのけんざんのためたり、などや見え給はぬ、(中略)、とらは又、十郎が心を見かねて、いかにや、むかしのふん女が事をみしり給はずや、さやうの事だにあるぞかし云々、同巻(十一紙右)あさひなとらがつぼねへむりにゆきし事の条云、さても、はゝはとらをせいしかね、何とてはゝにはしたがはざるや、とぞいひける、とらは猶も泪にむせび、ながれをたつる身ほどかなしき事はなし、つまの心をおもひしれば、はゝのめいにそむき、はゝにしたがへば、ときのきらにめづるに似たり、とにもかくにも、わがおもひみだれそめける黒髪の、あかぬなさけのかなしさよ云々、(中略)、十郎此あり様を見て、何かはくるしかるべき、一たんこそあれ、ざしきへいで給へかし、母のめいにそむきなば、みやうのせうらんもおそろし、と申ければ、とらは是にもしたがはず、たゞなくよりほかの事はなし云々、(下略)同巻(十四紙左)とらがさかづき十郎にさしぬる事の条(よしもりいかる事みへたり、文略レ之)同巻(十六紙左)五郎おほいそへゆきし事の条(五郎があにの後ろにある事をしりて、よしひで歌をうたひて、座を和らぐる事みへたり)同巻(十八紙左)あさひなと五郎ちからくらべの事の条云、あさひなさかづきとりあげ、三どほす、そのさかづきをとらのみて、よしもりにさす云々、同巻(二十紙左)そがにてとらが名残をしみし事の条(二十二紙左)云、こんどの御ともをさいごにさだめ、ふたゝびかへらじと思へば、別のみちすてがたくて、と申ければ、とらきゝもあへず、十郎がひざにかゝり、しばしは物もいはざりけれ、やゝありて、うらめしや、とはずばしらせじとおぼしめすかや、まことにわらはゝ大いそのいうくん、あさましきものゝ子なれば云々、(中略)、十郎がひざのうへも、とらが泪にうくばかり、袖もしぼりぞ兼たりける云々、(中略)、是をかたみにとて、すけなりにそふとおぼしめせとて、びんのかみをきりてとらせぬ、とらは泪もろともにうけとり、はだのまぼりにふかくをさめ、ものをもいはず、ふししづみぬ云々、(中略)、今をかぎりの別なり、のちの世までのかたみとて、十郎きたりけるめゆひのこそでに、とらがこうばいいろのこそでにきかへて、心のあらばうつり香よ、しばしのこりてうきわかれ、なぐさむほどもおもかげの、きかへしきぬにとまれかし云々、同巻(二十七紙右)山びこ山にての事の条(そがとなかむらのさかひ山びこ山まで、とら御前の十郎をおくりし事也) 
同巻第十(十六紙右)云、あにの十郎は、やはんに打死し給ひぬ、おとゝの五郎どのは、あかつきにおよびいけどられ給ひき、此人のふるまひは、てんまきじんのあれたるにや、かゝるおびたゞしき事を、大いそのとら御前のいもうときせ川のかめづる御ぜんより、大いそへつげさせ給ふ御つかひなりとて、はしりとほりけり、同巻第十一(初紙右)とらがそがへ来りし事の条云、あま一人、こき墨染の衣におなじいろのけさをかけて、あしげなる馬にかいくらおきてのりし人出きたる、何ものぞとみれば、十郎がつねにかよひし大いそのとらなり云々、(文長ければ略す)同巻(六紙左)はゝはとらをぐしてはこねへ登りし事の条(十八紙右)云、又大いそのきやくじんの御心ざしこそ、世にすぐれては候へ、かまへて/\、おこたらずとぶらひ給へ、とおほせられければ、とらもなみだをおさへて、仏事とうけたまはりし事、ゑしんはつぐわんのぎなりければ、あかぬ別れのみち、いつかはおこりたり候はんと云々、同巻第十二(初紙右)とらはこねにていとまごひして行わかれし事の条に云、さる程に、大いそのとらは、十郎すけなり打死して後、いかなるふちかはにも入ばや、と思ひけれども、なき人のぼだいのためにもなるまじければ、ひとへにうきよをそむき、かの人のごせをとぶらはん、と思ひたち、けさ、衣などとゝのへて、はこね山にのぼり、百ケ日の仏事のをりふしに、なく/\ひすいのかざりをそりおとし、五かひをたもちけり云々、(中略)、とら御ぜんに申されけるは、そがへいざなひ、十郎がかたみに見まゐらせ候はん、といはれければ、とら、もつとも御とも申、たがひのかたみに見えまゐらせたく候へども、大磯にてのついぜん、又はぜんくわうじへの心ざし候、げこうにこそまゐり候はめ、とて行別れけり、同巻(二紙左)出のやかたのあと見し事の条云、かくてとら心に思けるは、此ついでに、十郎のむなしくなりしふじのすそ野、出の屋かたの跡を心ざして、はこねの山をうしろになして行程に云々、(中略)、つかのほとりにてねんぶつし、くわこいうれい、じうぶつとくだつ、とゑかうすれば、十郎のこんれいも、いかばかりうれしとおぼすらん、と思ひやられてあはれなり、とらなみだのひまより、かくぞつらねたまひける、露とのみきえにしあとをきてみれば尾花が末に秋風ぞふく、うき世ぞと思ひそめにしすみごろも今また露や何とおくらん云々、同巻(六紙右)手ごしの少将にあひしことの条云、さても、とらはあるこいへにたちより、あるじのをんなをかたらひて、せうしやう御ぜんをよび出して、たび人の、これにてそと申べき事の候、と申給へといひければ、やすき事とてよび出しけり、少将はとらがかはれるすがたを見て、いひ出すべきことばもなくて、たゞなみだをぞながしける、とらなく/\申けるは、かのすけなりにあひなれて、すでに三年になりさふらふ、しゆくゑんふかきゆゑにや、又よの人をみんとおもはざりつるなり、此人うせ給ひぬるとききしときは、おなじこけのしたにうづもればや、と思ひしかども、つれなきいのちながらへて候ぞや、されば、世をわたるあそびものゝならひは、心にまかせぬ事もさふらふべし、と思ひて、百ケ日のぶつじのついでに、はこねにてかみをおろし云々、同巻(八紙左)とらと少将はふねんにあひたてまつりし事の条云、さる程に、二人はうちつれだち、あさ衣、かみのふすまをかたにかけて、諸国をしゆ行し、しなのゝ国ぜんくわうじに、一両年のほど、たねんをまじへずしてねんぶつ申、くわこしやうりやう、とんせうぼだい、といのり、又みやこにのぼり、はふねん上人にあひたてまつり、ねんぶつの法だんをくわしくちやうもんし、いやましにねんぶつしゆぎやうすゝみけるこそ、ありがたけれ、同巻(九紙右)とら大いそにとぢこもりし事の条(かうらいじの山のおくの廬に、少将もろとも住し事也)同巻(九紙左)母と二の宮のあね大いそへたづね行しことの条(十一紙右)とら出あひよび入し事の条(十四紙右)云、とらなみだをとゞめて申しけるは云々、(中略)、あのあまごぜんはわがあねにてまし/\候、みづからをうらやみて、おなじくともにさまをかへ、ひとついほりにとぢこもり云々、 
少将 
前条にみえたり、猶、曾我物語巻八(二十七紙左)すけつねがやかたへゆきし事の条云、すけなりすこしもはゞからず、やかたのうちへいり、見たまへば、てごしのせうやうはさゑもんのぜうが君とみえたり、ちやくしいぬばうにしやくとらせ、さかもりしけるをりふしなり云々、同巻(二十四紙左)やかたのしだい五郎にかたる事の条(三十七紙右)云、びぜんのくにのぢう、きびつみやのわうとうない、手ごしのせうしやう、きせがはのかめづるを並べおきて、さかもりなかばなりしに云々、同巻第九(十八紙右)すけつねうちし事の条(十九紙右)云、あたりをみれば、人もなし、さゑもんのぜうはてごしのせうしやうとふしたり、わうとうないは、たゝみすこしひきのけて、かめづるとこそふしたりけれ云々、同巻第十二(七紙左)少将しゆつけの事の条云、かくてせうしやうは、とらがかはれるすがたを見て、まことにうらやましく、なれるすがたかな、だうりかな、ことわりかな云々、(中略、八紙左)云、御身は十郎どのぜんちしきとして、うき世をそむき給ふ、われは又、御身のすがたをぜんちしきとして、ころもをすみにそめんとおもひ候とて、やがてひすいのかみをそりおとし、花のたもとをぬぎかへて、こきすみぞめにあらためつつ、年廿七と申に、するがの国手ごしの宿を出立けり云々、同巻(十五紙左)せうしやうほうもんの事の条云、かくて、はゝも、二の宮も、ぶつだうのおもむき、くはしくきかまほしく候へ、と申ければ、とらはせうしやうのかたを見やり、すこしうちわらひ、あねごはねんぶつのほうもんどもしらせ給ひて候へ、申てきかせまゐらせ給へ、と申ければ、わらはもくはしき事はしりまゐらせず候、一とせみやこにて、ほうねん上人おほせられしは云々、(法文略レ之、少将のとらのあねなる事、前にもみえたり) 
亀鶴 
虎が条、少将が条に出たり、又からいとぞうし下(十二紙左)云、二番は、きせ川のかめづる、しぼりはぎをうたふたり云々、(歌は今様の部に出) 
とねくろ 
梁塵秘抄口伝集云、あそびとねくろが、いくさにあひて、臨終のきざめに、いまは西方極楽の、とうたひて往生し云々、 
ぼたん 
からいとざうし下(八紙右)云、五番は、むさしの国いるまがはのぼたんといひししらびやうし、是をはじめて十一人なり云々、(十二紙左)云、四ばんは、いるまがはのぼたん、すゞりわりをうたふたり云々、 
千代 
前太平記巻之第九(十四紙左)云、爰ニ松崎ノ千代ト云シ遊君ハ、九州第一ノ美女ニテ、無双ノ舞姫ナリケルヲ云々、(松崎ハ筑前也) 
白菊 
北条時頼記巻之第六(九紙左)云、円が谷に白菊といふ白拍子有云々、 
力寿 
源平盛衰記巻第七(二十紙右)近江石塔寺事条云、大江定基、三河守ニ任ジテ、赤坂ノ遊君力寿ニ別テ、道心出家シテ大唐国ニ渡云々、 
亀菊 
婦人養草巻之第一(二十五紙右)云、承久三年、武家天気にそむく事は、其時の舞女、亀菊といふものゝ申状に依て也、其ゆゑは、後鳥羽院より、亀菊が訴訟を、鎌倉へ両度までおほせらるれども、義時同心せざるがゆゑに、御気色あしく成て、承久の乱おこれり、承久兵乱記云、摂津国長江、倉橋の両荘は、院中に近う召つかはれける白拍子、亀菊に給ひたりけるを云々、 
八幡愚童訓下(二十四紙左)云、承久兵乱為2御祈祷1御幸アリき云々、(二十六紙左)二位殿、亀菊御前理不尽ニ内奏シ、光親、宗行中納言ノ御気色、近習尊長、尊範ガ梟悪被レ勧、西面下朧メラガ力ヲ憑セ給テ、無益ノ合戦ヲ思食立テ、只一日ノ聞ニ、天下ハ暗ト成ハテヌ、(中略)、傾城トハ城ヲ傾クト書、依レ有2先蹤1也、亀菊御前ニ過タル傾城コソ無リケレ、 
文殊御前 
婦人養草巻之第三(二十三紙右)云、竹岡の尼といはれしは、もとは室といふ所の流婦なり、中納言源顕基ふかく愛せられけるが、後にはすてられて、京より室へかへり、尼になり、竹岡といふ所に、後世をつとめて有ける、ある時、中納言の御内のもの、西国より京へかへるとて、路にて此尼にあへりければ、陸奥紙に我黒髪をつつみ、一首の歌をよみて、中納言の従者ののる舟のうちへ投入しなり、つきもせぬうきをみるめのかなしさにあまとなりても袖ぞかはかぬ、此歌を中納言見たまひて、くやみ、あはれがり給ふとなり、 
桜木 
尾花集巻之第二(二十紙左)云、題しらず、遊女桜木、ものおもふとながむる空のしぐるゝは身をしる雨のふるにぞ有ける、 
雲井 
尾花集巻之第五(八紙左)云、八月十五夜、たのめける人のまからざりければ、遊女雲井(江戸)、もろともにみてこそ月は月ならめ何中空にあくるがるゝ身や、 
音羽 
尾花集巻之第五(八紙右)云、人のもとより、おとにきく音羽の滝のいとはやもみなれぬ袖になみのかくらん、とよみて、つてにおこせける返しに、遊女音羽(江戸)、よる瀬なき袖のしら波数ならぬ音羽の滝の音もはづかし、 
浅尾 
渚の松巻之第五(二紙右)云、八月十五夜、たのめける人のとはざりければ、遊女浅尾(越後柏崎)もろともにみてこそ月も月ならめ空だのめにもふけ行はうし、 
刈藻 
渚の松巻之第十二(四紙左)云、身をなげきてよめる、遊女刈藻(越後柏崎)河竹のよそにながれの名は立て枕さだめぬうきねにぞなく、 
栄花物語三十一殿上花見巻(十四紙左)上東門院住吉石清水詣の条にいはく、えぐちといふ所になりて、あそびどもかさに月を出し、らでん、まき絵さま/\〃に、おとらじ、まけじとしてまゐりたり、こゑども、あしべ打よする浪の声も、江ぐちのいふべきかたなくこそ見えしか云々、(十六紙左)云、二日、あまの河といふ所にとまらせ給ひて、あそびどもめして、物どもたまはす、人々みな物ぬぎなどす、同三十八松のしづえの巻(十七紙左)後三条院住吉詣の条に云、二十二日のたつのときばかりに、御船いだしてくだらせ給ふ程に、江口のあそび、ふたふねばかりまゐり、禄などをぞ給せける、 
更科日記(九紙右)云、足がら山といふは、四五日かねて、おそろしげにくらがりわたれり、やう/\入たつふもとの程だに、空のけしきはか/\〃しくもみえず、えもいはずしげりわたりて、いとおそろしげなり、麓にやどりたるに、月もなくくらき夜の、やみにまどふやうなるに、あそび三人、いづくともなく出来たり、五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四五なると有、いほのまへに、からかさをさゝせてすゑたり、をのこども火をともしてみれば、むかし、こはたといひけんがまごといふ、髪いとながく、ひたひいとよくかゝりて、色しろく、きたなげなくて、さても、ありぬべき下づかへなどにてもありぬべし、など人々哀がるに、声すべて似るものもなく、空に澄のぼりて、めでたく歌をうたふ、人々いみじう哀がりて、けぢかくて人々もてけうずるに、にしぐにのあそびは、えかゝらじ、などいふをきゝて、難波わたりにくらぶれば、とめでたくうたひたり、みるめのきたなげなき、声さへにる物なくうたひて、さばかりおそろしげなる山中にたちて行を、人々あかず思て、皆なくを、おさなき心地には、まして此宿りをたゝん事さへあかず覚ゆ云々、同記(十四紙右)云、美濃国なるさかひに、すのまたといふ渡りして、野上といふ所につきぬ、そこにあそびども出で来て、夜一夜うたうたふに、あしがらなりしおもひ出られて、哀に恋しき事かぎりなし云々、 
江次第巻第十五(二十二紙右)八十島祭条(三十四紙右)云、次中宮御料、次東宮御料宮主著2膝突1西面、捧2御麻1修レ禊、了以2祭物1投レ海、次帰レ京、於2江口1遊女参入、纒頭例禄如レ恒云々、 
明日香井和歌集下(五十五紙右)吾妻へ下るとて、あをはかの宿にて、あそびて侍ける傀儡のぼるとてたづねければ、身まかりけるよし申をきゝて、たづねばやいづれの草の下ならん名はおほかたのあをはかの里、 
藤原光経集(五十五紙左)云、貞応二年十月二十六日、津の国をばやしといふ所に、湯あみんとてまかりて侍りしほど、なれあそびし遊女に、十一月九日、小屋野より別るとて、旅人のゆきゝの契り結ぶともわするな我を我も忘れじ、 
古事談巻之第三に云、書写上人可レ奉レ見2生身普賢1之由祈請給、有2夢告1云、欲レ奉レ見2生身普賢1者可レ見2神崎遊女之長者1云々、仍乍レ悦行2向神崎1相2尋長者之家1之処、只今自レ京上日之輩群来、遊宴乱舞之間也、長者居2横座1、執レ鼓弾2拍子之上句1、其詞云、周防ムロツミノ中ナルミタライニ、風ハフカネドモサゝラナミタツ云々、其時聖人成2奇異之思1、眠而合掌之時、件長者応2現普賢之貌1、乗2六牙白象1、出1眉間之光1照2道俗之人1、以2微妙之音声1説曰、実無漏之大海ニ五塵六欲之風ハ不レ吹トモ、隋縁真如ノ波タゝヌトキナシト云々、其時聖人信仰恭敬シテ拭2感涙1、開レ自之時ハ又如レ元為2女人之顔1、弾2周防室積1船、閉レ眼之時ハ又現2菩薩形1演2法文1、如レ此数ケ度敬礼之後、聖人乍2涕泣1退帰、于レ時件長者俄起レ坐、自2間道1追2来聖人之許1示云、不レ可レ及2口外1ト、謂了即逝去、于レ時異香満レ空云々、長者俄頓滅ノ間、遊宴醒レ興云々、(此語西行撰集抄五の巻十九のひだりにもみえたり) 
今昔物語集旧本巻之第十三定法寺別当之条(八十八紙右)云、遊女、傀儡等ノ歌ヲ招テ、詠ヒ遊ブヲ常ニ業トス云々、同巻之十九(四十八紙左)云、仏事ヲバ不レ営リケリ、常ニ、遊女、傀儡ヲ集テ、歌ヒ嘲ケルヲ役トス云々、 
平家物語巻の第五(三十八紙云)富士川合戦の条云、其辺近き宿により、ゆう君、ゆう女どもめしあつめ、あそび、さかもりしけるが、あるひはかしらわられ、或はこしふみをられて云々、同巻之第六(十八紙右)云、今年正月十五日、備後のともへおしわたり、遊君、遊女共召あつめて、あそびたはぶれ、酒もりしける処へ云々、同巻之第十(四十紙左)云、三河守範頼、やがてつゞいてせめ給はゞ、平家はたやすうほろぶべかりしに、むろ、たかさごにやすらひ、遊君、ゆう女どもめしあつめ、あそびたはぶれてのみ月日をおくり給ひけり云々、 
増鏡巻之第一(二十六紙左)云、とほつあふみの国はしもとの宿につきたるに、れいのゆう女、おほくえもいはずさうぞきてまゐれり、頼朝うちほゝゑみて、はしもとの君に何をかわたすべき、といへば、かぢはら平三景時といふぶし、とりあへず、たゞそまやまのくれであらばや、いとあいだちなしや、馬くら、こんくゝり物などはこび出てひけば、よろこびさわぐ事かぎりなし、同巻之第六(二十二紙左)云、鵜舟御らんじ、白拍子御船にめし入て、歌うたはせなどせさせ給ふ云々、 
曾我物語巻之第五(二十二紙左)五郎をんなになさけかけし事の条(二十三紙右)云、ときむねも、けはひざかのふもとに、しりたるものゝ候、五日、十日をへてゆく道にても候はず、このたびいでなんのちは、又あひみん事もかたし、明日まゐり、あひ申さん、とてうちわかれけり云々、(かぢはらげんだざゑもんとあらそひの事、略レ之、三十四紙左)云、そも/\此ゐしゆをたづぬるに、けはひざかのふもとにゆうくんあり、ときむねなさけをかけ、あさからずおもひしに、ひくてあまたの事なれば、かぢはらがはまいでして、かへりざまに、この女のもとにうちよりて、夜とともにあそびけり、あかつきかへるとて、いかゞしたりけん、こしのかたなをわすれいでけるを、女のもとより、かたなをつかはしけるとて、いそぐとてさせるかたなをわするとはおこしものとや人のみるらん、かげすゑむまにのりながら、ゆんでのあぶみをいまだふみもなほさず、返歌をぞしける、かたみとておきてこしものそのまゝにかへすのみこそさすがなりけれ、そのころ、げんだざゑもんは、歌道には、ていか、かりうなりともおもひしなり、さても此うたのおもしろさよ、と思ひそめて、かげすゑかよひなれけり、よその事わざなどたはれければ、女ひきこもり、五郎一人にもかぎらず、しゆつしをとゞめけり、これをしらで、五郎、かのもとにゆき、たづねけれども、あはざりけり、なにによりけるにや、あやふくとものゆうくんにとひければ、かぢはらげんだどのゝとりておかれ、よのかたへはおもひもよらず、といひければ、五郎きゝて、ながれをたつるあそびものをたのむべきにはあらねども、世にある身ならば、げんだには思ひかへられじ、と身一ツのやうにおもひける、ひんはしよどうのさまたげとは、おもしろかりけることばかな、人をも世をもうらむべからず、とて此うたをよみて出きぬ、あふとみるゆめぢにとまるやどもがなつらきことばにまたもかへらん、とかきて、ひきむすびておきたりけり、五郎かへりてのち、此女出てみれば、むすびたるふみあり、とりあげてみれば、日ごろなれにし五郎がしゆせきなり、このうたをつく/\〃見て、文をかほにあて、さめざめとなきつゝ、とものゆうくんに、これ御らんぜよや、人々、はぢともしらで、はづかしや云々、同巻(二十九紙右)五郎がなさけかけし女しゆつけの事の条云、さるほどに、みな人よくきゝ給へ、ていじよりやうふにまみえずとは、まへにいひつる女の事也、いかなるていじよか、二人の夫に見え、いかなる身にてか、ひく手あまたにむまれつらん、さらぬだに、われらふぜいのものは、よくしんにぢうする、といひならはせり、おのれをしるものゝために、かたちをつくろふ、ともんぜんのことばなるをや、われ又かひ/\〃しくなければ、かげすゑがまことのさいじよになるべき身にてもなし、らいせこそつひのすみかなれ、そのうへ、ほとけもなふじゆし、じひをたれたまふ、されば、花になく鶯、水にすむかはづだにも、うたをばよむぞかし、いはんや、人としていかでか是をはぢざるべき、とて此うたをよみける、かずならぬ心の山のたかければおくのふかきをたづねこそいれ、すつる身になほおもひでとなるものはとふにとはれぬなさけなりけり云々、(中略)、しかるべきぜんちしきをたづねて、しやうねん十六さいと申に、しゆつけして、しよこくをしゆぎやうして、のちには大いそのとらがすみかをたづね、ともにおこなひすまして、八十よにして、大わうじやうをとげにける、ありがたかりし心ざし、とぞきこえし云々、 
 
吉野伝

 

遊女吉野、実の名は徳子、祖父は藤原の秀郷の末なりとぞ、慶長の頃、都大仏の辺りにうまれぬ、まだいとけなきほどより、六条三筋町の廓林何がしなるうかれ女の長がもとにありて、童名をば林弥といひき、一とせ、出雲の国の守、これが相を見給ひて、家あるじにのたまふやう、此童なみならず、よくおほしたてよ、かならず名を日の本にしらるべき相あり、とをしげ給ひしが、げに、およずけては、天の下にならびなきあそびとなりてぞ、万のをのこしたはざるはなかりし、其頃、もろこしまでもきこえたる人は、あづまに羅山林氏、都に徳子よし野となん、むかし、江口の妙、西行に歌よみかけしなどは、こよなきほまれながら、すこしほふけづきて、すきたわめたるかたの、情にうとくやありけむ、とおもひやらる、されば、日のもとにてたぐひなき名妓とは、此よし野をぞいふべき、さて天正のはじめ、二条万里小路に廓ありし時より、今の島原の廓になりて、寛文、延宝の頃までに、吉野といひし遊女十人ありけり、此徳子は二世のよし野なるを、今はさだかにしれる人あらざれば、先其時をかうがへわかちて、こゝにしるしつ、  
林与次兵衛家  
二条柳町、遊女の長なり、はじめ又一郎といふ、其後、六条より今の廓に移りて、寛文五年、家断絶す、  
元祖吉野 諱禎子  
時代詳ならず、上職、高名の遊女なり、今按るに、天正、慶長の頃、万里小路の廓の遊女なりしならん、  
二代吉野 諱徳子  
六条廓上職の遊女(コレヲ太夫職、又五三ノ君ナド通称ス)、禿名林弥、肥前といへる天職にしたがひて、元和五年五月出世、寛永八年退廓、在廓の間十三年、六条にて七人衆の内、定紋一ツ巴なり、  
三代吉野 諱恰子  
時代詳ならず、坤廓(今ノ島原ヲイフ)天職の遊女(俗ニ天神トイフ)今按るに、正保、慶安の遊女ならん、  
喜多八左衛門家 上ノ町  
初代吉野 諱雄子  
六条廓上職の遊女、寛永十七年出世、それより坤廓に移りて、正保三年退廓、  
二代吉野 諱雪子  
坤廓天職の遊女、明暦三年出世、始上職、万治二年、天職となる、寛文二年卒す、もと浪花の上職にて、薫といひし者なり、  
三代芳野 諱媛子  
坤廓上職の遊女、禿名三弥、延宝三年出世、徳子吉野に次ては高名の聞えあり、定紋は一ツ巴の中に桜の花あり、今人、二代吉野とおもへるは、此媛子がことなり、  
田中喜三郎家 中ノ町  
吉野 諱征子  
時代詳ならず、坤廓上職の遊女、後天職となる、今按ずるに、正保、慶安の間ならん、  
高田七郎右衛門家   
よし野 諱栄子  
坤廓天職の遊女、もとは林家の上職なりしが、正保四年、高田家に移りて天職となる、  
伊藤吉右衛門家 柏屋と云、上町  
吉野 諱球子  
時代詳ならず、坤廓にて上職の遊女なり、今按るに、万治、寛文の間ならん、  
宮島甚三郎家 大夫町  
吉野 諱悦子  
坤廓天職の遊女、禿名七之丞、寛文十一年出世、  
さて、徳子吉野がことは、箕山が大鑑の処々に見へたるを、またべちに、烈女伝とて真名もて書たる巻あり、其中に吉野伝ありて、いと/\つばらかなり、今其本文のまゝを出して、後のしるしとす、 
色道大鑑 (巻之十七)  
扶桑女列伝云、吉野、諱徳子、姓藤原、松田氏、曩祖出2於俵藤太秀郷1、後陽成院御宇、慶長十一年丙午三月三日、生2落陽大仏1、自2七歳之秋1、被レ養2林氏与次兵衛之家1、而従2益子肥前1、禿名林弥、肥前不レ深レ憐2愍徳子1、而家主労而令レ退レ之、其後不レ扈2従先輩1矣、于レ時雲州太守視レ之、告2家主1曰、童女林弥、有2奇異相1、必発2名於日域1、最可レ為2上職1、依2此言1、元和五年已未五月五日出世、而補2太夫職1、于レ時徳子年十四、名曰2吉野1、自レ是先有2此名1、依レ為2高名1号レ之、徳子性軽爽而智恵甚深、霊艶而化レ心活然恣レ気、且下レ情有レ要焉、徳子聰レ香得レ妙、亦常好レ酒、能2遊宴1、言語奪2人心1、在廓之内、高徳威儀、其繁数無2指頭1、語断2舌根1而已、有2大明国呉興季湘山者1、夢中会2吉野1通レ言、嘉2這幽容1、而以寛永四年丁卯秋八月、賦レ詩而送2扶桑1、其詩曰、  
日本曾聞芳野名、夢中髣髴覚猶驚、  
清容未レ見恨無レ極、空向2海東1数2雁行1、  
又翌年、自2漢土1請2徳子之寿像1、我朝之遊客議レ焉、而命2画工1令レ図レ之、跪2徳子之目前1写2佳貌1、画工尊2其暉相1、而不レ採2毛延寿之例1、時図画処七影、不レ違2顔色1、恰如レ移2影鏡1、悉附レ軸為2七幅1、而遣2九州1、異朝商人代2之綾羅1、而歓喜夥、況於2倭人1乎、衆人見2金峰山之花1者、忍2松氏姿1、詠2袖振山之月1者、思2徳子面影1矣、寛永第八辛未年、就2麁客1而有2訴論1、因レ茲雖レ不レ充2年季1、同年八月十日、年廿六而還2旧里1、  
箕山之評云、嗚呼徳之感2天下1也、夫至乎哉、吉野流1美名于中華1、令2風雅之士1悩2丹心1、何必在レ色耶、吾国唱2名于異域1者、載2青史1、而今不レ足レ贅、天正而来、羅浮子道春達2名大明1、活所子道壇2文詩名于海外1、吉野可下与2二賢1並レ鏨馳上矣、惜哉、使2司馬氏在1必採載2女史之伝1、  
また、吉野がかたち、その世にたぐひなかりしよしは、同じ書の寛文遊女式てふ巻中に云、上略、六条の時、太夫十八人の大寄ありけり、さなきだに、その時の上職どもは、荘厳常にあたりもかゞやくばかりなるに、此日ははれの会なりとて、あらたに衣裳を改む、綾羅錦繍をまとひ、金色のひかり座に充て、ひとへに安養浄土に異ならず、此日、吉野其上客たりけるが、いまだ出座なし、いかにととへば、暁天まで起居給ひしに、いまだしづまりておはす、といふ、さらば夢おどろかし申せ、と寝所にて手水をこひ、ねみだれ髪にて座に出たり、白綾の肌着に無地なる黒きものふたつかさね、紫のくゝし帯をまはし/\出つるが、数輩並居たる女郎をこえて、座上に着たる体、あつと感じられて、しばらく挨拶もしがたかりけるとかや、其座におはしける歴々の御かた、予にかたらせたまひけるまま、書つけ侍る云々、(採要)、私に云、今按ずるに、此頃の太夫職といふものは、先童なるほどより其人をえらび、いとよくおほしたてゝ、さて、世に有がたきほどの姿ならでは、此職にはなさずと、(今按るに、傾国の上首を太夫といへるは、元和の頃よりの称なり、其頃、六条に佐渡島庄五郎などいふ座ありて、申楽の能をなすに、其中に、芸の堪能なる遊女をさしてしかよびしより、中頃は、又姿とみやびわざと、うちあひてすぐれたるを、百人が中より十人ゑり、十人が中より一人ゑらみ出すほどならでは、太夫とはいはざりしとなん)されば、おのづからをよしとて、おもてに化粧せず、まれ/\化粧するは、品くだりたる遊女なりとなん、さるに、此吉野、名だゝる遊びどものさばかり心づかひしたる円居のむしろに、つくろはぬ姿の、かくもきぢめの見えつるは、いと/\たぐひなきかたちなりかし、先に、閑田子伴のうし、続畸人伝を草案せし時、此遊びの伝を載す、其中に、鍛冶のをのこ吉野に懸想して、つひにほいをとげて、後西川に沈みて死せしことをときたり、こは西鶴がつくれる好色一代男(天和二年板本、桜塚西吟が跋あり)てふたはれ書に見ゆ、(其後、名代紙子など云冊子にも云り)「都をば花なき里になしにけり吉野は死手の山に移して」と或人のよめり、なきあとまで名を残せし太夫、前代未聞の遊女なり、いづれをひとつ、あしと申べき所なし、情第一深し、爰に、七条通に駿河守金綱と申鍛冶の弟子、吉野を見て、人しれず我恋の関守は、よひ/\ごとの仕事にて、五十三日に五十三本、五三の価をためて、いつその時節を待ども、魯般が雲のかけはしのよすがもなく、袖のしぐれは、神かけて是ばかりは偽なし、吹革祭の夕暮に立しのび、及事のおよばざるはと、身のほどいと口をしと歎くを、或者太夫にしらせければ、其こゝろいれ不便と、ひそかに呼入、こゝろのほどをかたらせけるに云々、(下略)、続畸人伝中、吉野が伝に云、かくて、明の日桂川に身を投し者ありしが、一通の遺書あり、とし比のおもひをばとげて、今は世におもふことなければ、かく身を捨るなり、とかけり、何事ともしられざりしが、この鍛冶男なりけるとかや、希有のことゝいふべし、(採要)、私に曰、又其比、近衛信尋公(応山公と称す、世に三筆と称せし三藐院殿の息なり)華街にての御名を石白と呼て(石白は関白をかくしていふならん)しば/\吉野が許にかよひ給て、御情の程いと深かりしに、吉野おもはずも人の妻となりければ、いとゞおもひみだれ給ひしよしは、松花堂昭乗に賜ひし御文にてしらる、其文に曰、(此文は賀楽主人かくせり)  
年来誤り候て執着候事之、今更截断難レ叶事出現候て、妄念乱候、一両日山居候而、仏法之道理も申談候は如何、猶承諾于三十日辺可2登山1候、  
菊月十一日 
滝本  
今案ずるに、天正十八年、原三郎左衛門といふ者、豊太閤の御ゆるしを得て、都万里小路二条の南北三町にはじめて遊女町をつくる、(傾城廓の名ここにおこる)まだ其比は、人の家もなく、大路は柳の木立ならびたりしを、木を伐りて家の柱とし、格子、局など、時の間に成て、こゝを柳町の廓とぞいひける、(今俗、柳馬場といふも、柳の木ありしゆゑなり、又、今の島原に、出口の柳といへるも、其なごりなりとぞ)さるほどに、四方に在しうかれ女の長ども、皆こゝにつどひて、いと/\にぎはへることなりけん、豊太閤は、もとよりかやうのことをすき給ふ御本性なりしかば、御顔をものにつゝませ給ひ、従者一人二人にて、人しれず、格子、局など、見ありかせ給ひしとなん、これらにていにしへをしるべし、それより、こゝにあること十三年の後、やゝ世の中おだしくなりしにつきて、商人の家造るさはりなりとて、秀頼公の御時、慶長七年に柳町の廓を、六条坊門(今の五条をいふ)の南、西ノ洞院の東に遷さる、中に三つの大路あるからに、時の人、三筋町の廓とぞいふ、(今の室町、新町、西洞院これなり)かくて、元和のはじめに、浪華津の浪しづまりてよりは、天の下にありとある人、みながらやすくたのしき時にあひしかば、やんごとなき御かた/\〃、国の守などもこゝに通ひ給ひて、よき人になれまゐらする遊女どもなれば、その様おのづから風流なりけり、万のあそびわざもむかしめきて、十柱(正しくは火扁)香、貝おほひ、歌よみ、連歌し、弾ものも、琵琶、琴など、すべてえんなることをこのみて、下者のわざは目にだにもふれず、其比、三筋町に七人衆といひて、わきて名高きあそび七人ありけり、其七人といふは、林家の吉野、同じ家の対馬、同じ家の土佐、柏屋の三笠、宮島家の小藤、若女郎家の葛城、永楽屋の初音、又其後、六条の四天王といふあり、万右衛門家の万戸、同じ家の淡路、五郎左衛門家の野風、八左衛門家の長島、かく世にしらるゝほどの遊女は、一とせの身の代りとて、黄金あまた家あるじにあたへおき、さておのがまに/\まらうどに逢ふほどに、司高き人にまれ、宝おほき人にまれ、心にあはぬ人には絶て見えず、されば、もしあはじといはれし人は、うき恥を見て長き思ひに沈み、またかれが心にあひてしたしむほどの人は、つひに身をはふらかし、家をうしなふにいたるとぞ、伝て云、ある年のやよひ、仁和寺の花おもしろき頃、都の守りし給ふ公の(板倉周防君なりといふ)此辺りをすぎさせ給ふに、木々には色々の幕うち廻し、廓のもとには、いときら/\しき女の乗ものゝあまた立ならびたりしかば、さては内あたりの女房のしのびて花見給ふならむ、と人してとはせ給ひしに、三筋町のうかれ女どものつどひて、花見に来たれるなりしとなん、かうやうの過差のことのみありしゆゑにや、大猷院殿の御世、寛永十八年に、又今の朱雀野へ遷されたるなり、(此所を新屋敷といふ、又島原といふは、其年、肥前の島原に耶蘇宗門の徒蜂起す、其族徒、楯こもる所を島原といふ、此廓も其所に類するをもてしかいふなり、名づくる所自称にあらず、と正徳の山州名跡志にいへり)されども、万治、寛文の比は、猶ときめきて、遊女のみやびなりしこと、六条の時におとらざりしを、(今の廓になりて、正保、慶安の間、奥村の八千代、中村家の小藤などいひしは、いと名高くすぐれたる遊びなりし、又寛文中には、喜多家の大和、高田家の左門、柏屋の小藤、上林家の薫、此四女を後の四天王といひしとなり)おほやけの法やゝつよくて、品高き人の出入をとゞめ、はた我人おさまれる世の習ひに移りて、とめるを尊み、貧しきをいやしみ、若き人もおのづからまめ/\しう、かゝるあたりに宝をうしなふ人まれ/\になりもて行に、遊びどもゝ、さるかたに心ひきて、いつとなう品くだりて、延宝、天和の比には、手かき、歌よみ、よろづに心高き遊女はやう/\なくなりにたり、と箕山翁がかきたるにてしりぬ、さても、吉野かく姿のめでたかりしのみならず、其心の操も、又こと人には似ざりし、大鏡十五、雑談の部といふに云、六条の時、後の吉野徳子天下に名を高くし、威勢都鄙にかゞやかせり、子細ありて、季の充るをまたず、家主隙を出し、暫く洛外に居たり、上京なる人これをしたひ、むかへて妻室とす、其頃、京わらんべ吉野が高徳をほむるに、夫の家名をつけてこれを唱ふ、一族聞て、安からぬことにおもひ、使をもつて離別すべきことを諌といへども、夫これを請ず、一類名あるものどもなれば、各議して不通せり、然りといへども、夫これをいたまず、猶なづみて、昼夜これをたのしみ居けり、かくして年を過るに、吉野、節あり義あることを、夫が一類伝へきゝ、感じて和睦しけり、さらば、妻室に対面して一門の交りをなさんと、日をさし夫が家にあつまる、一門の女中、天下無双の吉野といふに初て逢事を恥て、さなきだに綺羅を尽すなる輩、あらたに綾羅錦繍をたちぬひて、香をたき、翠黛紅粉こゝをはれとみがき立、彼亭にうつる、一家の男女おしなべて座につきたる粧ひ、善尽し美尽せり、一門土器とりどりに酒蘭なるまで、吉野座敷へ出ず、使をたてゝ間に、吉野がいはく、我身不祥なり、御一門の座につらなり奉ること憚おほかるべし、と謙退す、一門の女中、先吉野を見たがり、我々ども外ならぬ身にしあれば、いかでかこゝろおかせ給ふべき、さあらば奥に入り侍らん、とて男女もろとも簾中におしこみ、こゝかしこを見るに、吉野といふべき人なし、内室はいづちにぞ、といへば、台所の末にきよげなる女の、しをれたる肌着のうえに、藍染の木綿の袷をかさね、黒き帯を押しごきて高くしたり、髪をばつくね兵庫に曲て、腰に白きさらし布をはさみ、とりしまひたる器をおしのごひて居たり、是何人ぞや、これ則吉野なりき、一門女中、そば近くむらがり、吉野が手をとりて、中の亭まで誘ひ出し、各並居つゝ、かく紫のゆかりと成ては、隔なく睦びまゐらせんとおもふに、さまではいかばかり辞しおはしますぞや、うしろめたしなどいへば、さて/\有難き仰、冥加なきまでにおぼえ候、妾は是匹夫の家に生れ、幼少より人につかへ、殊更つたなき傾国となりし身なり、なべての妾は、色につきて、其一人の寵をいたましむるに堪たり、今公の御いたはりによりて、是にとゞまるといへども、簾中のさたに及ばず、ひとつとして其心なし、しかあるに、今公の妻室になずらへさせ給ひ、ゆかりあるかたにおぼさんとや、中々おもひもよらず、自今以後、公の家女としてつかうまつり、御家門の御まじはりにめさせ給はゞ、倍膳をつとめ、御酌につかへまつらん、と倹に演たりし詞の、花のにほひあまりて、一門の女中、さしもきらめきてかざりし、かのこ、縫箔の玉の光も、よし野が藍染の麁服にけおされて、たゞ色なくぞ見えわたりける、おの/\あつと感じ、つや/\返答にだに及ばず、をとこがたの親類も皆対面して、努々疏意あるまじ、向後隔なく申かはしまゐらせん、と諾して、それ/\〃に盞事をはりて引ぬ、それよりして、一家一門の憐愍、したしみ、あげてかぞへがたし、をしい哉、人生かぎりあれば、吉野の花も無常の風にちりて、人のことの葉のみぞ今世に残れる、物みなかくのごとし云々、(採要)、今案ずるに、上にいへる上京なる人とは、佐野三郎兵衛といひし人なり、又、真名伝に、麁客につゐて訴論あり、これによつて、年季不レ充といへども旧里にかへる、といふ、此麁客は、かの鍛冶のをのこがことなり、さて、吉野、此をのこがことにて訴などのくぜちいできたるを、佐野氏はもとよりあひおもふ中なるうへにて、情深きこゝろざしのいと殊勝なりとて、日頃よりおもひまさり、人しれずかれが身の代をあたへ、さて、家あるじよりは訴るによりて、旧里にかへせしよしいはしめ、しばらくかごかなる処におきて、後むかへとりたるならむ、佐野氏は、其頃、都にきこえたるとみ人にて、箕山などとも、風流をもてしたしくむつみたる中なるべければ、かやうにたど/\しく書たるなるべし、吉野、佐野が家にうつりて、十二年の後、寛永廿年八月廿五日、卅八歳にてみまかりぬ、佐野氏は代々日蓮宗にて、立本寺に塚あり、かの寺にはふむりしにやあらん、此寺、もと上京にありしを、宝永の火の後、西の京にうつされたれば、今はさだかならず、又、鷹が峰の日蓮宗の壇上に(寺号は寂光山常照寺と云)吉野塚とてあり、こは日経上人の因をおもひて、これが髪などをさめたるならんか、此日経上人の事は、畸人伝に云、よし野島原にありしとき、(時代の事よくかうがへられざりしなり)ある客舎へ一人の僧きたりて、よし野とやらん一目みたし、といふ、あるじ頭をふりて、よし野は名妓なり、かろ/\〃しく見給ふべきにあらず、殊にさる御身にては似げなし、とあら/\しくいへども、僧きかず、たゞ見るべし、と動かねば、もてあまして、せんかたなく、かくと告たれば、何とかおもひけん、ついきたりて、いざおくへおはしませ、といざなふを、僧は立ながらつら/\と見て、よくみせたり、今は用なし、はやかへるべし、たゞし是を見るには、一百銭の銀入べしと人いへり、さらば是を、とて首にかけたる財布よりとりでゝ、其家主にあたふ、あるじ笑ひて、これ計の事に何の価をかうけ侍らん、とかへしたれば、さては人が我を欺きしなり、とて又首にかけて出られぬ、吉野ふしぎにおぼえて、密に人をつけて、其帰る所を見せ、其名をもきかしむるに、鷹が峰の壇上にて学匠の聞えある日経上人といへるにて、かの銀は、人のいふまゝに信心の旦那にかりて携へられしなりき、吉野深く信仰して、殊更に、小袖、金子などを施して、今よりは帰依の者に成侍らん、何にてもともしからんものは心おかず仰給へ、とてこれより後はしば/\音信しが、灰屋にていくほどなく身まかりし、後ある人、此僧のことを告しかば、則嵩が峰壇上にはふむりて、今も吉野塚とて有となん云々、一日、立入うし予が為に鷹が峰にゆきて、吉野塚を尋ね、はた僧にかたらひて、鬼録等を写して予におくらる、塚は本堂のうしろのかたにあり、  
唱玄院妙蓮日性 寛永廿年八月廿五日 于レ時卅八歳  
又、鬼録には、佐野紹益先妻としるせり、寺僧云、此寺、先の門は名妓よし野が建る処なりと、又これが為に、年に三たび(正、五、九なり)今に経を読誦するとぞ、いと/\すさうのことゝいふべし、又、吉野あそびたりし時、常にもてならせし調度、広東島の衣のきれ、京極黄門の山中の色紙、蟹の盃などいふものを、世に伝へてもたる人こそありときゝしが、  
因に云、佐野三郎重孝は、都上売立の人にて、通名は灰屋三郎兵衛、後剃髪して紹益といふ、(重孝は其懐紙に書たるところ也)実は本阿弥光益が男佐野紹由が為に養はる、重孝はやく妻あり、或人いふ、本阿弥光悦が女なりと、よし野はそれが後にむかふ処なり、(大鏡に、一類名ある者どもなれば、とかけるは、これらをいふか)重孝、和歌、および、茶、香、鞠に名あり、中にも歌は逍遥軒貞徳翁にまなびて、いとよくよみしとぞ、  
むさし野の草はみながら置露の 月をわけゆく秋の旅人  
又、或人のもたる懐紙の歌、  
明やすきうらみはあらじ我袖に すゞしさのこせ夏の夜の月  
又、よし野の身まかりし時、哀悼の歌とていひつたへたるは、  
都をば花なき里になしにけり よし野は死手の山にうつして  
此人の著す処、にぎはひ草二巻あり、こは兼好ほふしのつれ/\〃草にはたがひて、茶、香、鞠、あるは和歌のことにて、やごとなき人々にちかづき奉り、其身幸ありしことどもをおもひ出て書たるなり、この草子のはじめに、我身の幸を人にしらしめむとするにやと、罪うべきことにも思ひ侍らぬにはあらねども、といへり、これらもて、其富たりし事しらる、又下の巻には、光悦が鷹が峰の太虚菴の有様など、つばらかにしるせり、元禄四年十一月、八十一歳にて終れりとなん、  
 
色道大鏡

 

寛文式上 (一部)(前略)  
一、新艘の女郎には、ちいさき子のはじめたる禿をつけたるよし、新艘のためとて、一たび先輩に付たる禿をとりかへて付る事なかれ、その故は、先とりあひあしく、且女郎よりこなしてつかひにくし、又は新艘の女郎を禿よりもどかしがる体見れば、其女郎の瑕瑾となる、新艘のとりたては、つれて出たる女郎と、やりてとして引たつる物なれば、禿はいづれにてもくるしからず、  
一、家主より女郎に命じて、始たる禿を付る時は、主人より小袖一、女郎より小袖二、上帯、下帯相添てくるゝ式なり、女郎よりはじめて禿に盃を下す、次に遣女より禿に盃を下す、上代には此法たがはざりけれど、今の世になりて、この義まち/\なり、女郎はじめてつれて出る前日、額髪をわけて禿髪に結かふる也、禿髪といふは中じめの事也、櫛道具、帯、はな紙、はき物等に到るまで、惣じて禿の身のまはり、はや此日よりめしつかふ女郎のさばきなり、この以後主人より禿に出すものは、年中に綿布一づゝのみ也、  
一、禿成長して禿のかはり出、其者引こむ日より、髪の中じめを改めて、島田わげに結かふる法なり、おなじく後帯をかへて前帯に改む、さrども、俄に前帯するはすしにみゆる物なれば、帯は後帯もよし、  
一、新艘の傾城出世するに、女郎つれて出る事、禿の時めしつかひたる女郎即導く、是諸郭共に定る法也、たとひ其女郎いきほひなき人にても、他女これをさまたげざる処也、又、いづれの女郎にも、禿につけずして突出に出す新艘あり、是は主人の見立次第にして、其家にて勢ある女郎に、つれて出よといひわたす事也、是をよろこぶ女郎はなしといへど、権命なればちからなし、又、其中の貌すぐれたる新艘にて、前簾より沙汰ある程のものは、ほうばいの女郎せりあひつれて出る事も自然に有、 (中略) 
一、新艘出世定月之事  
太夫職の出世は、月を定め、日を撰む事、その家/\の吉例なり、喜多宗真が家には、六条より已来、正月ならでは太夫を出さず、彼家の小長門出世の時、子細ありて、三月に出世すべきよし、おの/\議したれども、賢子左門云、先祖よりの恒例今更そむきがたしとて、寛文元年正月に、左門連て出たり、上林家にも、同じく正月をもつて太夫出世の定月とす、即此家の二世薫、諱倹子、慶安四年正月廿日に出世したり、三世薫、諱輝子、初若菜といひて出世の時、前薫出世の例に准じ、寛文元年正月廿日に出世したりけるが、吉例にや有けむ、前代に増りて繁昌しかりき、これより、いよ/\正月廿日を太夫出世の定日とす、其外出世の定月、正月を用ひざる家には、二月初午、三月の御影供、四月稲荷祭、或は端午、或は祇園会、名月、豕子等、かくのごとくの目にたつ物日を、出世の定日にとれり、是上職、天職、囲職共に此儀同じ、  
一、新艘出世門出之法  
その日、飯後に新艘着用の小袖三或は四、匣のふたにのせ、上に包熨斗をそへて出す、(上代には、蒔絵のひろぶたに是をのす)先輩の女郎、是を介錯して着せしめ、香をとむる、導きの女郎、新艘をめしつれて座敷に通り、第一の上座に着、若両女とも天職ならば太夫職の次に着べし、それより一家の傾城、労次第に座に着、次に挙屋の年寄、并に水上の挙屋末席に連る、先、熨斗昆布の三方出る、次に吸物、次に銚子、次に重箱、肴は、うるめ、するめの両種なり、家主盃をはじむ、先、長の盃を導く先輩の女郎にさす、此盃長に返る、第二に、新艘の女郎にさす、此盃長にかへる、第三、遣女を召出して長よりさす、盃又々長に返る、長より女房にさす、長の婦より導く女郎にさして、次に新艘より両人の挙屋にさす、その盃もどりて、それより一家へ盃めぐる、若日たけたる時は、傍輩の宴をなほざりにす、挙屋人は巳の下刻を本とす、行列の次第、新艘の女郎、太夫職なれば、一人先にたてゝ、導きの女郎後によりそひて歩む、天職なれば、二行にたてゝ先に進む、その次に、一家の上職、天職、年にしたがひて先にすゝむ、いづれも二行たるべし、囲職は、先輩たりといふとも、若き天職より後に有べし、次に一家の禿、列を乱して一図に付べし、その中に、導く女郎の禿、新艘の禿二人は先に進むべし、禿の後に、一家の遣女残らずつゞく、遣女の出立、服には清絹を着し、前垂は常のごとくす、(五節供に出る女郎の供にはこれを除く)次に、家のおのこ残らずもすそをかゝげて、趾のおさへに付べし、女郎ども、新艘を誘引して、先郭中の親族の方に到る、家門の礼おはりて、挙屋町に至る、先、水上の挙亭へ新艘を同道して、一家の女郎残らず入べし、新艘の部屋には、太夫の時衣桁三脚、天職の時二脚たつる、夏の季たりといふとも、小袖共にかざる、女郎座に着より、三方に熨斗、土器にて引わたし有、(此時は冷酒)次に雑煮、次に銚子出る、挙亭の夫婦出て、新艘と盃あり、宴をはりて挙亭町の礼を勤む、此時、一家の女郎、新艘の後に付て残らず出る、但、家の太夫職計りは、出ずしてもくるしからず、此礼をはつて、傍輩の女郎、面々の挙亭に退く、  
一、太夫の新艘、出世の日より三ケ日の間、さげ髪にて後帯する法也、天職の新艘は、両日の間右之通也、然りといへども、すがたぬるしとおもひてや、或は両日、或はその日計りにてやむるも有、此両品は、新艘のしるしを見せしむる謂也、さげ髪を改むるときは、島田兵庫にゆひて、さしぐしをさす、元結は平もとゆひたるべし、初日にても、次の日にても、夜に入てよりは、さげ髪をあらためて、島田にもゆふ、またはつくね兵庫にもゆふ也、 (中略) 
一、禿の時より磨きたつるには、いづくにおろかはなけれども、耳のわき、うなじのあたりを、せむに磨べし、いかによのかたをあらためたりとも、此所くろきはおぼえをとり、つたなくみゆ、生れつきにもよるべけれど、実は年をかさねてみがきたらむには、そのしるしなくてやはあるべき、  
一、生れつき眉うすき女郎の、眉をそりて黛ひかんに、細すぎたるは、顔愁に見えてわろし、ふときは、すさまじく見えて猶わろし、墨のこきは、いやしくて見ぐるし、眉さきの作り出しをほのかにうすくして、眉さきをこく引出して、眉じりをうすく作る女郎あり、いたくしのばしからず、  
一、額うすき女郎、墨をおく事なかれ、町の女さへ見ぐるしきに、まして傾城たらむ人、此わきまへならむや、額のもぎあげたらむは、あがりたるまゝにて顔の作やうあるべし、額のとりやうは、丸きにしくはなし、丸きとても、真中ばかり高くあげて、富士なりにとりたるはわろし、瓦燈がた、袴ごし、かたく是を制す、鬘づらのうすき人は、十川額にもとる、年たけたる女はくるしからず、十川額といふ事、むかし十川氏の男子とりはじめたる額のなり也、さりけれど、女の額に用来りて、中頃までは女中これをこのめり、今もよきにはあらねど、置墨くろくせむよりはまさるべきか、項の髪はへさがりたるとて、剃刀にてそる女郎あり、必制すべし、ぬきつくされぬ時は、そのまゝ置べし、剃口を見たるは、興ざめて覚ゆる物也としるべし、  
一、傾城の顔に化粧する事、これを制する処也、但し、新艘立の女郎、少の間は是をゆるす、月を経ては必とゞむべし、端女郎はいかほども心まかせにぬるべし、その故は、局に入来る輩、其善悪をわきまへざれば、たゞ色白く見えたる計りよし、挙女郎の年へたるにも、折々化粧する女かたへにあり、是よからぬ事也、最停止すべし、抑傾城といふは、禿立より、朝夕五体をみがきあげて、繕なき貌を本とす、道に長ぜる人は、傾城の色くろきとてきらはず、色くろき女郎は、くろきまゝにておくべし、是生れつきにて、ぶたしなみとはいはず、むかし天が下しろしめしたる君は、女の顔のいたくしろきをきらはせ給ひて、あさぐろきをこのませ給へり、是御物ずきのたけさせ給ゆへなりと、かんじおぼゆ、  
一、髪の結やうは、島田わげ、島田兵庫、乱島田、つくね兵庫、立兵庫の銀杏がしら、笄わげ、笄もどき、笄くずし、ひつかへし、こかし、すべらかし、丸わげ等也、その中に、立兵庫の銀杏がしらは、昔の傾城、おしなべて是をこのめり、されども、近代かたく是を制す、傾城めきて貌はなはだしければ、却て初心に見ゆ、丸わげ又制す、当世もいなかにては、年たけたる女郎、まれ/\自然の手すさびに、丸わげして出立事あり、是無用のいたり也、丸わげは、町かたにても下女のしわざなれば、すがたいたくいやし、かりにも此たはぶれをすべからず、笄わげは振袖の中ばかりを制す、袖をつめたる以後は、心まかせにゆふべし、されども、笄は年のかさなる女郎によし、つくね兵庫は、傾城によくとりあひて、いかにもおもしろし、別てすぐれたる物なり、然れども、初対面の座、はれの時は、斟酌あるべし、これも若年の女郎にこのましからず、このおもしろさをしらざるにや、京の外他郭に是を用ず、ぜひなき次第也、島田わげは、おしさがりてあふのきたる、いたくなつかしき処あり、そのおしさがりてすこしゆがみたるも、猶なつかし、されども、五度の祝儀日、或ははれの時、又は初対面の会などにはこのましからず、是はたゞ心やすくあひなれたる参会によろし、又、ながゝらぬ髪を、そへいれずにすき尽して、ふたつに折わげ、仮にしめゆひたるも、一しほすぐれて見ゆ、されども是は、人に名をもよばれ、其功ある女郎などはよし、さなき女郎は、たけ過たるやうにてよろしからずと見ゆ、次に髪のつとをする事、いやしき業也、さればにや、京の女郎につとをこのむものなし、大坂は大郭なれども、田舎なる故にや、髪のつと専也、無念といひつべし、その外の鄙郭はいふにたらず、  
一、笄わげの事、上つかたの女中、さげたる髪をくるくるとまきあげて、髣掻にてさしかためおき、上よりめさるゝ時、笄をぬきて御前へ出たまふを見て、地下の女、これをならひてゆひつけたり、笄とは異朝のかむざしなり、今ももろこし人は、女子ならねども男子も髪長きゆへに、髪を巻て笄をさす也、笄、釵、鈿、珈、筵、簪、皆これかむざしとよむ字也、かうがいともよめり、  
一、指櫛の事、此根源は、斎宮伊勢へ行啓の時、大極殿にて、天子御手づから、斎王にさしぐしをさゝせ給へる也、是を湯津の爪櫛ともいふ、湯津とは猶レ言レ湯也、津語助、湯者清潔之儀、水能洗 滌不浄 故曰レ湯也、爪櫛者梳形似 爪甲 、その時、天子斎王に宣へるは、二たび都へのぼりましますな、とて御いとまごひある事也、その子細は、当今かはらせたまへば、斎宮もかはらせたまふ故也、されば、上をまなぶ下とやらむにて、凡下の者も、餞別に櫛はせぬ事也、これをまなぶはおほそれありといへども、ことはりに過たれば、尤にこそ侍れ、斎王のさゝせ給へるのみならず、女の髪にくしをさす事、上代よりありけるにや、清少納言が枕草子に、かしらども一ところにまろびあひて、さしぐしもおち、よういせねば、をれなどしてわらふも又をかし、とあり、延喜弾正式云、刺櫛は女の額にさすくし、と有、げにや、今みれば、傾国共の髪の根もとにさしたるより、ひたいぐちにさしつ、又は鬢頬、又はうなじなどに、さしこみをかろくさしなしたる、いとやさしと見ゆ、たがつたふるとしもなきに、傾国高上の心よりかゝる風流をあらはす事、爰にて筆をなげうつ、今傾城の髪に櫛をさすおこりは、六条の時、名家亜相の、御髪にくしをさゝせ給へるを、その時の傾国共見て、さしはじめつるよし、尊子八千代、予にかたりき、  
一、額髪みじかきは野体なり、長過たるは初心めきたり、長からず、みじかゝらざるやうにすべし、但し、やつこふうをこのむ女郎は、成ほど、みじかき方とりあひてよし、  
一、爪は手足ともに直にとるべし、丸きはいやしければ、ゆめ/\まろくとる事なかれ、爪はすぐにとりて、うへの肉のかみ出したる、是女の上品なり、肉のさしあがるやうにとりなすべし、爪紅粉もこくさして、ひかり色など見ゆる、いたくうるさし、又さゝぬもあしければ、そのよきほどを可2心得1也、  
一、傾城の衣服は、すその長きにしくはあらじ、おもひの外ながきほどよし、大坂の傾城、ゐなかなれども、この頃長きを用ゆ、きどくと謂つべし、長崎の傾城、もちろむ美服は着すれども、すそのたけ抜群みじかし、よき事をしらねば、ちからなしとやいはむ、当世傾城の袖のゆきみじかきは、口惜けれど、都の傾城さへ、今はみじかければ、是非におよばず、六条の時代までは、京、大坂、田舎の果までも、袖のゆき長く、袖のふりも長く、たをやかなれば、風流ことさらなりき、奥村家の八千世が時までは、今のやうに殿中袖はなし、これより後、いよ/\品くだりて、女郎さへ六ぼうめき、つよみがちなるを誉る世にこそ成けれ、これによつて、時にしたがひ、袖のゆきみじかく、大袖口などよしとす、豈女の服ならむや、  
一、小袖の綿は厚きほどよし、うすきは少分に見えて、女にくらひなし、殊更、襟には綿を厚く入べし、すそはうらのふきたる方よし、つまも高きよし、この分は末の世までもかはらず有ぬべし、袖下、袖のなりは、時のはやるにしたがふべし、  
一、傾城の小袖の着やうは、いくつ着しても、ひとつまへよし、下がへのゑりさきを裏返し、折付てより上がへを合するものあり、これによつて、こしつきよし、立居にもよし、これ程の事さへ、ゐなか傾城のしらざるこそあはれに侍れ、  
一、帯の仕様は、さがり過たる程なるをよしとす、傾城は腰のふとみにしぬるものなるが故に、下に居て身をうごかせば、かならず上のほそみへすりあぐるもの也、かかる処をしりて、都の女郎はまもなく帯をおしさぐる、たちあがる時は、いよ/\おしさぐる也、大坂の傾城、京に遠からずといへども、これをしらず、予、年々大坂にくだりて、是を制すといへども、受納する傾城五三人には過ず、江戸にいたりて是を制するに、耳にも聞いれざりき、長崎にわたりて見れば、弱腰にしめ付侍る、これは諌むるに及ばず、剰巻物を三ツ割にして、帯に用ゆ、かゝる処に、肥前の佐賀の住人にあひぬ、是京にたびたび来たるをのこにて、旧友なれば、此人にむかひて、これをあはれがりしに、此ひといはく、さればとよ、われも都の風儀のたうとき事を年頃見おきて、是を歎きつゝ、をり/\制したりし故にや、傾城のすがたとおぼしきもの所々出たり、これ/\とてゑり出し見するに、二ツ割の帯をおしさげてしたる者五六人あり、是を尋ぬれば、廓中にて高名の者のみなり、是に本づきて、我も又鄙風を制し、品々を諌むれば、やう/\傾城めきたる者廿人ばかりあらはれたり、かゝれば、より/\誠の道をしる者出来なむと、たのもしく侍る、  
腰のふとき傾城、ふとく見えむ事を苦にして、帯をおしあげてすれば、下ふくれて、いよ/\ふとく見ゆる、腰のふとみにひきまはせば、そのふとさをかくすものなり、なべての女、此極意をしらず、こしのふときを、女の身にしてはくるしむ者おほかれど、ほそきとふときとくらぶれば、ふときかたはまされり、こしのほそきは、幼稚にてしのばしからず、うしろつき見ぐるしきもの也、是秘蔵の事也、でじりの見ぐるしきといふ事は、誰もしれる事なれば、しるすにおよばず、丸きこしは見てあしきもの也、こしつきのよきといふは、うちひらめにて、上下出入なく、すぐなるよし、と先人さだめあひけり、 (中略) 
一、帯のむすびめは、真中よりすこし右の方へよせてむすびたるよし、又なるほど引廻して片わきにてむすびたるもよし、しかる時は、帯のうはかた前へかゝりたる所を、すこしおりかけたるよし、  
一、客の前ならず、内証にていそぐ時など、帯の真中とりてまへにあて、うしろのかた帯もじれて、見ぐるしきもの也、傾城は、人前ならずとも、常に心得あるべき事也、町の女はかゝる処をわきまへず、人前にてもかゝる帯の仕姿有、身をはぢぬ故成べし、 (中略) 
一、傾城の打懸をする事、時により、事によりて着すべし、貴人の前へ出るか、或は初対面の会にいづるか、或は大よせの座席に至る時などはさもあらむか、また残暑の時分、端居したる夕つかた、袖にすゞしく、さとふく風におどろかせ、禿に命じ、帷子の上に小袖うちかけたる、又、肌寒き折から、月にうかれて三絃をしらべ、又盤にかゝりてふくるをわすれたる夜半、うすく着なしたる上に、まどゐしながら、又ひとえ引かさねたるなどは、天性おのづからのけしきにて、もとめたる業にあらず、或は挙屋の見せに客待うけつゝ、うちかけして立たるなど、きながしよりはまされり、かやうの処をよく味ひて、うちかけすべし、また、子細あつてうちかけを好むもあるべし、すぐれてせいひきゝ女郎は、胴つまりて、かならず腰つきあしゝ、又、せいひきからねども、天然とすがたよからぬ女郎もあり、これらの類は、うちかけにてつゝまむために、常にこのむと見えたり、伊藤家の藤江、大坂の常世、両女共に、さしもすぐれたる容貌なりしに、そのたけみぢかくして、杉針の、恋のうき名のなどいひわたりしが、裳すそを長く着なし、常にうちかけしたりつるが、見にくきやうにはあらざりけらし、天職たる人のうちかけする事、心得あるべき事也、客まちながら挙亭の見世に立時は、いづれにてもくるしからず、初対面の座へ出る時は、その身高名の女郎ならば、打懸もしかるべし、さもなき人は無用の至也、又、太夫職と入まぜの座ならば、斟酌あるべし、囲職たる人の打懸、見かけ然るべからず、遠慮すべき事也、  
一、傾城の衣裳を、客の前へきかへ出る事、両三度迄を許す、その上は然るべからず、大よせの座などにて度々改る事、初心のいたりなり、六条の時、太夫十八人の大寄あり、さなきがに、此時の上職どもは、荘厳常にあたりもかゞやく計りなるに、此日ははれの会なりとて、あらたに衣裳を改む、綾羅錦繍をもとひ、金色のひかり座に充て、偏に安養浄土に異ならず、此日、吉野(諱徳子)上客たりけるが、いまだ出座なし、いかにととへば、暁天まで起居給ひしが、いまだしづまりておはす、といふ、さらば夢おどろかし申せ、とて座中より使をたてしに、目をさまして、はや何も来り給ひつるか、それへ参りなん、と寝所にて手水をこひ、ねみだれ髪にて座に出たり、白綾の肌着に、無地なる黒き物二ツかさねきて、紫のくゝし帯をまはし/\出つるが、数輩並居たる女郎を越て、座上に着たる体、あつと感じられて、しばらく挨拶もしがたかりけるとかや、その座におはしける歴々の御方、予にかたらせ給ひけるまゝ書つけ侍る、 (中略) 
一、太夫あがりの事、天神より太夫になる事は、一分の利発すぐれ、且、その身運に乗じて昇進する道也、自分の訴訟にてなるはまれ/\の事也、おほ方は、その身平生の勤め、世間の見聞をもつて、主人よりいひわたす事也、辞退するもあり、又命に応ずるもあり、其身上職たらむと心に治定したる時は、日頃の知音共により/\相談すべし、きゝえたるをとこはよし、きゝえがたき男を其まゝおきてきはむる時は、口舌のもとなり、其男聞えざればとて、女郎のためあしかれとおもふにはあらず、一世浮沈の処なれば、大事がりておもふなるべし、それを打捨ておかず、遣手にもいはせ、挙屋にもいはせ、其主はいく重にも辞退の心なれども、達て主人より申つけらるゝといへども、そのほうさまと談合の上ならでは、内への返事もいまだ御申なきなどゝ、その男次第のやうにいひてのみこませ、いづかたをも下談合すましおきて、日限きはむるよし、太夫あがりの法は、  
主人より小袖十、并寝道具かはるべし、  
禿に小袖一、帯一筋、主人より出す、  
女郎自分に、小袖三或ニ、帯二、下帯等を用意す、  
禿の小袖二、帯一、これも女郎自分の用意也、  
客より来る小袖は此外たるべし、  
扨、知音の輩に約して日並をくばり、太夫なりの日より出続る事、五十日、或は三十日、その身の器量にまかす、惣じて高名の女郎には、物日といふ事もなく、いつまでといふ際もなし、不断出るものなれば、いつとても闕日あるべからず、初日には、知音の男より一家の女郎を挙る法也、さなき時は、とりたてのけいせい一両輩、并昵近の囲職五人、或三人、太夫につれて挙べし、挙亭の饗応、木具にて二膳たるべし、尤造り花、島台等を用意すべし、客より挙亭への祝儀、分量は時の様子次第にして、折紙を出す、客より遣手にも此目録をつかはす、時服にても、金銀にても、又、太夫より遣手へは、必時服たるべし、  
天神の太夫に昇るは、よく思案すべき事也、明暦三年十月、上の町天神女郎、みづから太夫職に望みをかけて、只独り有知音に談合したり、此男も年頃知音する程の心なれば、太夫になしたくやおもひけむ、一段しかるべき、とうけたり、女郎満足して、主人にかたる、家主遣手をよびていはく、我是非とも太夫にせむとはおもはねど、知音所望の上ならば、ともかくもすべし、といふ、遣女尤とおもひ、内談するに、彼男、先一ケ月に十日宛うけとりたり、其外は又をりふし来る人もあらむなれば、先あげよとて、太夫になしたり、彼男かしらをうけとりつゝ、此以後、誰にても他客来りて望む時、我にことはるまでもなく引合すべし、といひつけて、五日過れども、十日過れども、外より請待せねば、是非なく、廿日ばかりこたへしが、少やすまむとて内にかへす、第一、この傾城、かこひとはいはれざりしが、無類の天神といふ程の貌にもあらず、右はをり/\あふたる者もありつれど、太夫職になりぬと聞てより、眉をひそめて来らざれば、外に忍ぶものなし、毎月の物日節供うりまで、一日もかゝさず、彼男計りにあてつけければ、此者ことのほか草臥つくまゝに、のきたくおもひて、色々の無理をたくみ、難題をいひかけみれど、むりともにせめかけ/\無心をいへば、此男後にはあいそをつかしてのき切けり、さるほどに、男一人もなければ、すべき手だてもなし、あけくれ隙ある身となれば、家主いかりて、さればこそ、我心にすゝまぬ事をいひ出、いらざる太夫になりしよ、とはぢしめられ、ほどなくもとの天神となりき、まもなく、あがりさがりする女郎を、最上河ともいひ、又やねふき傾城といふも、このたぐひ歟、  
一、天神あがりの事、囲職より天神に昇る事は、度々諸郭におほし、かこひの天職にあがるも、天職にあがるも、天職の太夫になると心持は同じ事也、儀式さして改まらず、女郎の知音に内談するとても、囲職をかふ程の知音は、さまでの者ならねば、談合のはかもゆきがたし、只主人の見立計りにて天職となる也、  
家主より、小袖五、并寝道具かはるべし、  
禿に小袖一、帯一、主人より出べし、若禿の小袖主人より出ぬ時は、女郎自分に用意す、たとひ主人より出るといへども、数なき故に、女郎ぜひ共に用意すべし、  
天神なりの日より出続る事、三十日、或は廿日、その女郎の器量によるべし、  
一、太夫おろしの事、傾城屋の太夫を持事、家の規模なれば、たとひ不全盛なりとても、しばらくは持こたへ見るもの也、然といへども、一円知音もつかず、其身不運なれば、天職にくだす、又主人の命ならねども、その身不全盛なることを恥ぢ、度々訴訟をして天職となるも有なり、天職となれば、太夫より身もちも心やすく、万事ちがふ事のみあれば、自分より望むも尤なるべし、又、太夫の時うちくもりたる女郎、天職となりて俄にうり出し、然らば、おもひきりて官を下すも一ツの謀也、  
一、天神おろしの事、天職のかこひにくだる事は、よく/\無仕合なる事也、太夫の天神におり居たる計りは、外聞はよろしからねど、又うり出せば、人がらもよく見えて、むかしをくゆる程の事なし、天職のかこひに下りたるは、先禿をつかはねば、見かけといひ、不自由といひ、衣服、寝道具のかはりめあり、遣手のあしらひまでちがへり、その上一ぶむの客のかふ事稀にして、太鼓式のあひてとばかりなる事なれば、是非なき次第也、天神おろしの法は、主人より遣手承りて、其日挙亭中を廻り、今日より囲になし申由、触しらする事也、  
囲職の見ぐるしきは、坤郭のみなり、第一禿を付ず、且、太夫、天神の引者と見ゆるによつて、傾城のはへなし、大坂の囲は禿をつるゝといひ、其上一分の知音をもつ故に、太鼓めかず、自然に上職の挨拶にくはゝるといへども、目にたゝざる也、又小郭の囲は、猶以其へだてなし、是田舎なる故ならむかし、  
一、端女郎の事、端女の居る所を局といふ、局にかくる暖簾、むかしは花族の御家へ申上、御ゆるされを蒙りてかけたり、免許なければかくる事かなはず、即、彼御家より出たる暖簾布を、柿染にして、長さ四尺、はゞ三幅也、縫合の二所に柑子皮の露あり、然といへども、此儀今は断絶して、かの御家より吟味なし、傾城屋自分のはからひとして、是をかくる、当時暖簾の色は紺染を用ゆ、されども、太夫町一町ばかりには、柿色を今に用ゆる事、吉例をもつてす、寔に殊勝の事也、この局の内、土間は外にして、畳二帖敷を先定れる法用とす、或は三帖敷もあり、又四帖半に床棚を付るも有、昔の局には、壁に対て竿をつる、是を衣掛の竿といふ、子細これあり、江戸の局は、口の間も広く、奥の間に寝所をかまふ、西国の局には、端女二人三人一所に並居て、男来れば、その好む女一人残りて、外は奥に退く、是国々の風俗也、  
局の具、  
屏風、主人よりこれを引、屏風の模様は、物ずきにかまはず、只目にたつを本とす、  
蒲団、敷筵、主人よりこれを渡す、  
莨宕(正しくは草冠)盆、端女自分として用意す、たばこも自分にこれをまかなふ、  
手水鉢、主人よりこれをおく、  
火鉢、火ばちは主人よりわたす、炭は端女自分にこれをまかなふ、  
上帯、下帯、楊枝、雑紙、はきもの等、端女自分にまかなふ、  
端女の遣手外にあり、端女の多少によらず、その家に一人宛これ有、挙女郎の遣手を兼てめしつかふ事なし、  
一、若衆女郎の事、近年傾城の端女に、若衆女郎といふあり、先年祇園の茶屋に、亀と謂し女、姿かたちを若衆によく似せて酌を取たり、されども、是遊女ならず、これのみにて断絶しぬ、若衆女郎の始る所は、大坂新町富士屋といふものゝ家に、千の助とてあり、此女始は葭原町の局にありしが、おのづから髪をみじかく切てあらはしゐたり、寛文九年已酉の年より、本宅の局に帰りて、さかやきをすり、髪をまきあげにゆひ、衣服のすそをみじかくきり、髪をまきあげにゆひ、衣服のすそをみじかくきり、うしろおびをかりたむすびにし、懐中にはながみかさ高くいれて、局に着座す、よそほひかはれるしるしに、暖簾もかへよとて、郭主木村又次郎がゆるしをえて、暖簾に定紋を付たり、紺地に鹿の角を柿にて染いれたり、是若衆女郎の濫觴なり、見る人めづらしきといひて、門前市をなす、故に、爰に一人、かしこに一人づゝ出来るほどに、今はあまたになり、堺、奈良、伏見の方までひろまれり、是衆道にすける者をも引いれむの謂ならむか、されども、よき女をば若衆女郎にはしがたし、それにとりあひたる貌を見たてゝするとみゆ、大坂の若衆女郎は、外面よりそれとしらしむるためにや、暖簾にかならず大きなる紋を染入る、  
一、恵比須箱の事、恵びす箱といふは、端女のとれる料足、銀などを入る箱也、長さ三尺、はゞ六寸、高さも六寸にて、上に七穴あり、小口に引出し鎖前あり、長さを三尺にとる事、一月の日数三十日に比すと云、はゞ六寸、高六寸は、六根六色なり、七穴は七耀の星をかたどる、権大僧都栄海に加持をたのみて、しやぐはんの又市さだめたる法式なり、 
寛文式下 (一部)(前略)  
一、躍の事、盆のをどりは、さはがしくてよからぬたはぶれなれど、郭中商売の為なれば、停止しがたし、此見物として入こむ輩、郭中無案内の老若ともに来らずといふ事なし、名にある傾城のをどるぞと計りおもひて、見る事にや、先心をつけて見るに、ならはぬ芸なれば、拍子そろはず、殊更傾城ばかり儀式をたてゝもをどらず、道俗人ごみにをどれるすがた、茫々としてらうがはしゝ、年に一度の事なりとも、よくならはせて見まくほしき事也、室、下関、長崎は、田舎なれどもをどりをたしなみ、一ふりふりたる品すがた、都の傾城にはまさり侍る、  
一、近代は、傾城の中に奴風といふあり、野郎若衆にも奴風あれど、是は根本男子なれば、ゆるす処もありけむ、女郎の奴だて、いさゝかいぶかしき事なれども、つくづく愚案をめぐらするに、時うつり、品かはりて、人の心直ならず、多くは野人のもてあそびものとなりて、きやしやなる事はこのまず、はづみたる事計りをすく世にしあれば、かゝる風情もなくてやはあるべき、しかりといへども、太夫職の用ゆべき風儀にあらず、天職より以下の業なるべし、うちくもりたる処なくて、心勇む物なれば、是をあしとにはあらず、此風によくはまりたる傾城は、よのつねの女郎より、をとこのすく事莫大也、もし此風儀をたてむとおもふ女郎あらば、しめすべし、いかに人のおもしろがればとて、傾城の格をはづすは、狂人に似たり、かはるところと、かはらぬ処と有べし、つよきはつよきにたてゝ、卑劣なるふるまひをせず、気推は気推にたてゝ、またなくむさからぬ体を心に持べし、この心得なからむ傾城は、奴をまなぶといふにはあらで、本性あらはさむは、口惜かりぬべし、つよみがちなるうちも、心にうけえたる人にあひ、ひし/\となりて、もろくたはるゝ所ありなば、男のまよふ事、たなごゝろをさすがごとくなるべし、近世まのあたり見およびたる奴には、江戸の勝山、京には、三笠、蔵人、大坂にては、八千代、御階、大隅等也、  
一、遣女の事、遣女とは遣手なり、やりてといふは、主人より傾城をあづけ置もの也、又、傾城の与力として、後見のため、又横目にも比せり、つねに召つるゝ故に、家来かとおもへば、其元傍輩たり、さるによつて、これをこなしてつかふ傾城すくなし、其上近代の傾城は、平生入用のまかなひ、皆遣手をたのまざれば、曾てとゝのひがたし、遣手も又、是を鼻にあてゝ、女郎を尊敬する事うすし、かゝれば、客のまへ、傾城の威をうしなひ、心ざしをうばふ、傾城たる者、その身奉公の勤め、私なく、まぶてぐだする心ならねば、やりての異見をうけず、恐るべき事なければ、へつらふ事なし、然といへども、疵のなき傾城は、十人に一人もあらぬ物なるがゆへに、やりてに物をかくし、恐るゝこと也、されども、やりてはおもはくある風情を、かりにも見付ずといふ事なし、又、子細をしりたればとて、そのまゝ主人へ告るものにもあらねど、一段しかるべきといふやりてなければ、つつしむもことはり也、遣手、女郎に対し、ひそかに教訓すれば、或は陳じ、或はのぼる、或は領掌しておもひやむものあればよけれど、やりてにおどろかされてとゞまる女郎、又十人に一人もなし、そのやりて、折々異見するまゝなれば、いふところなきに、相おもふ男と女郎と、密談して謀をめぐらし、遣手をだき込てならびとなる事、すくなからず、又、不忠にして賄にふける遣手は、謀におよばず、つゝまずしてあかすを悦びつゝ、傍輩の女郎にさへかくし、三人一味すれば、その女郎心のなほるべきやうあらず、そも又、賄に遠ければうちはわれして、人にもかたり、我よきものゝやうにしなすは、やりて也、かく前うしろなく、始終心の糺しきやりてを、主人もよく聞とゞけてまねきよせ、傾城に付る事也、かやうの遣手をば、客又にくみ、女郎もうちとけがたく、むつかしがるもの也、女郎、遣手、共に誠の忠あらば、何をもつてか恐れへつらふ事あらむや、  
やりての所作、女郎のさばきは、田舎なれども、大坂のやりて、京のやりてにおとらず、されども、風俗は京のやりてに及ばず、いかにとなれば、客のまへにて行儀のたゞしきと、詞のきやしやなるとのかはりめ也、その外は、さしてかはる処なし、片田舎の遣手をみれば、悉皆女郎の友達なり、其心を客にもあてゝ、座をはなれず雑談し、酒宴をことゝす、又傾城も、京、大坂とかはり、一人の客と対する内に、やりて来れば、まねきよせて、客もたづねざるはなしをし、物をくはせ、酒をしゐ、馳走するさま、誠につたなくうるさき事也、惣じて、遣手は、客の前の長ばなし、よびいださゞるに出る事、客のこのまぬ事なり、すいなる遣手は、よく/\の用なきには出ず、若やりてより女郎に用ある時は、禿をもつてよびたつるよし、それも又、客せきぶんのをとこにて、少の事も不審するとしらば、目通りの次まで出て、用事をかたるべし、女郎にさゝやく事、あまねく客のきらふ事也、 (中略) 
一、挙屋より三味線を取に遣はす時、そのまゝ持来る事、野体也、箱に入来るもあしゝ、袋に入るべきなり、袋とても、むかしの盲目の持たるやうに、海老尾の処よりおりかけてむすびたるは、いと初心なり、緒を二重にし、両方に口をあけてさし込み、半にてかけむすびにしたるよし、是は八橋検校江戸にて仕出したる袋の形なり、段子、綸子、ちりめんなどにて、女郎の定紋、和歌など、縫にしたてちらしたるはよろし、  
一、太夫職の三味線をひく事、上手ならば、初会にてもひきてあしからず、その後はいよ/\ひくべし、初会に引べきならば、取出し、はじめて調子をあらたむべからず、先太鼓女郎にひかせて後、それをとりてひくべし、上職は大かた後までも、歌をうたひて引事なかれ、人にうたはせのせたるばかりよし、糸のきれたる時、太夫職などのみづからつぐはあしゝ、太こ女郎につがせて後、糸をあはすべし、  
一、琴は、たとひよくひくとも、初会にひく事なかれ、なれてもまた時節によりてひくべし、ながくひく事もよろしからず、  
一、歌がるたとる事、よき女郎の心をうつして取も曲なし、ついさしよりとりて、客もあらば、あからさまにしまはせたる見よし、  
一、常のかるたをうたむに、賭をさだめずしては無興なり、但し、さだむるとも、耳引がけか、又竹篦がけをよろしとすべし、  
一、双六は、客を待うけたる内に、うちかゝりたるなど見よし、初会にてしづまりたる座席に、他家の女郎などとうちあひたるもよし、双六の半、太鼓女郎ならびに禿などに命じて、たばこつけさせてのみたる体よろし、  
一、傘の事、太夫職、天職ともに、長柄たるべし、囲職の出る時は中柄たるべし、最定紋を傘にゑがく、日傘は無紋にして、新艘出世の時さしかくる事勿論也、然れども、天曇たる時はさし置べし、五節供に女郎の出る時は、必日傘を用ゆる法也、且又、極熱の時分、日のつよき時は、常にも用ゆ、然るに、この頃見れば、雨傘を日傘に用ゆ、是非なき次第にあらずや、 (中略) 
一、賢子左門、予に語ていはく、この頃傾城とても、さかしき女郎は、身をたしなむ事残る処なくさふらへども、鼻の内までに気をつける女郎なし、といひし、実もとぞおぼゆ、 (中略) 
一、酒宴の事、傾国の酒を用ゆる事、三味線に次ての一芸なり、ひたすらの下戸は、傾城三ツの悪相のそのひとつにして、殊更にきらふ事なり、上戸の傾城は、上戸の客にあふて勿論よし、下戸の客にあひても、酒のまぬ分にてすむ事也、下戸の女郎の、酒のみ男にあひたる時は、座をもちかぬる物也、上戸の客は、たとひ容貌すぐれぬ女郎にても、酒のむ方をとる心なれば、いかにきよらなる女郎にても、下戸なれば何とやらむうたてく、きのどくがるもの也、又、さけさへのめばよきとて、人もすゝめざるに、女郎のづば/\のむものにあらず、大かたに酒のつよき女郎とても、随分軽くうけて、底をつよく捨ざれば、こたへ難き物なり、客にもりかけたる盃の、むくひてしきりにおさへられ、さしづめになりなどする時は、いさぎよくはのむべき、又、客のかたへさゝむとするに、女郎のまいりたらば、われらもたべむ、といひてつがるゝ時、女郎のまずして客にもらむとする事、なりがたし、むりにさせば、我のむ事のいやさに、人をかへてさすべきとすれば、さしそこなひといひて、人これをうけえず、かやうの時こそ、ぜひにおいてのまねばならぬ所成ければ、かゝる時、あたりへあひを頼み、むかふのこと葉をかためて、さはやかに呑など、見かけうるはしくけしきだちて、いさみかゝるもの也、下戸の女郎は、一きは無理をもいひてみれど、あいさつもつれ、をとこがたへかゝり、つれたる女郎へ言葉をゆづり、あるひは禿に科をおほせ、とやかくもてゆけども、さしづめになりて、のまでかなはねば、ひとつうけはうけながら、まあひをみてすてむとし、たゝむとするをも、すかさずつめかけてのますれば、さは/\と色に出、心ときめきして、くるしき事のかぎりなりける、夜に入て酔おもければ、床の内にてねいる事まのあたりなり、然れば、一日の勤無益の業とはなる、恐るべし、つゝしむべし、さらば、下戸なる女郎は、いかにとかすべきなれども、心をさへはたらかしめ、あいさつすぐれたれば、男は女郎に負るがちなり、きめつけては、酒ももりがたく、又、色にほだされては、用捨なきにあらず、かゝる品々にて、下戸の女郎は、酒の中にてそだち行もの也、一筋に思ふべからず、  
評曰、源氏酒、振廻し、けむ酒、花酒盛などは、下戸、上戸わかたぬ一興なれば、たとひ下戸の女郎とても、おくれを見せず進むべきみちなり、 (中略) 
一、傾城は歌学するまでこそあらめ、せめて、歌の文字、よみ計りなどは覚えおきて、折ふしのうつりかはる風景などに、古歌をも吟じ見むは、いとやさしくゆかしかりなむ、傾城買とて、野人なる者ばかりもてあそぶにはあらじ、さやうの人に、心ある客あひかたらはゞ、外をもとめむ事やはあるべき、鳳子小藤、尊子八千代などは、心やさしくやありけむ、古歌をよく覚えたりければ、折ふしごとには、感に堪たる事おほかりけり、鄙郭なれども、大坂の明子小太夫、又其ごとくありき、此書をみむ女郎ありとも、その心つく人あるまじければ、只歎きて過るのみならし、 (後略) 
翫器部   
三味線 三絃とも書、夫琴は大なれども、三味線は当道翫器の第一なれば、此部の巻頭におく、三味線のおこりは、永禄年中に、琉球国より是を渡す、その時、蛇皮にてはりて三絃なる物也、泉州堺の琵琶法師中小路といひける盲目に、人のたらせたりけるを、此盲目よろこびて、しらべつゝこゝろみけれど、教をきかざれば、音律かなはず、是を心うくおぼえて、長谷の観世音に詣て、一七日参籠し、引やうを祈りしに、あらたなる霊夢ありて、階をくだる時に、大中小の糸三筋、盲目が足にかゝる、是をとり、三筋の糸をかけてひくに、無尽の色音出たり、それより三絃にきはむる故に、三味線としかいふ、其砌は、むざと引きてなぐさみとせしに、暫して虎沢といひし盲目是を引かため、本手、破手といふ事を定めて、人にこれをつたふ、其後、沢住といふ盲目ありて、是をひきおぼえ、歌に載て引出したり、それより、公家、武家の内にも、賞翫せさせ給ふかたおほくありて、みづからもひかせたまふ、其時は、此器に緒をつけて、頸にかけて引を用とす、其後、平家の俤にして、浄瑠璃と云ものはじまりて、かたり出たりしかば、平家にのせて琵琶をひくごとくに、浄瑠璃にのせて三味線を引はじめたるは、沢住がなすところ也、而後寛永のはじめ、摂州大坂に、加賀都、城秀といふ坐頭両人世に出て、三味線を引出すに、その堪能なる事、古今に独歩たり、東武にわたりて、大家高門の翫者となり、既に盲目の極官に昇進す、加賀都は柳川検校、城秀は八橋検校となれり、今にいたり、三味線において、柳川流、八橋流といふは是也、其後、出世したる検校、勾当の内に、此両検をあざむくほどの名人あまたあれども、柳川、八橋両検は、三味線の嚢祖たり、これによつて、今世三味線の工人に、八橋豊前、柳川吉兵衛などいふも、此名字をゆるされたる者也、抑、傾国の芸において、三味線に上こすものなし、傾城の是にうときは、官家の人の和歌を詠ぜず、武士の弓ひくすべしらぬにひとしければ、尤修練すべき道なり、六条にしては、小村家の幾島、越前、三味線に堪能なり、坤郭にうつりて、鳳子小藤、尊子八千代、是三味線の棟梁たり、転子藻塩これに亜けり、所謂八千代が楊枝引、小藤が下調ひゞき、風流を招きて恋慕を催す事、古今たぐひなかりき、俗語ながら、誠に、恋の寄太鼓とは、むべいひけらし、遊客の心を動す事、三味線にしく物なし、かすかなる端女とても、是に堪たる者は、諸客に呼出され、太夫職の座席にいたる、尤当道において、遊興に奇器なるものをや、  
何事もおとろへ来るといへども、三味線の荘厳ばかりは、むかしにまされり、六条より坤郭にうつり、はるかに年を経るまで、銘のある三味線はなかりき、むかしのよき三味線と見ゆるは、蒔絵をしげく書尽したるのみを賞美したり、頃年もてはやす三味線のかざりは、さのみ蒔絵をばこのまず、其上、蒔絵のしげきは、色音にさはり有と覚ゆ、当時の三味線は、胴の内を吟味して、音色のすぐれたるに銘を付て、是を秘蔵させしむ、高田家の猷子家隆所持したりし三味線、銘は浦千鳥と号す、胴たがやさん、棹したん、胴の四方なでしこのまきゑ、金貝をもつて是をいるゝ、黒檀の菊てんじゆに銀のさかわあり、金銀の三枚しとゞめ、根緒は金糸、根緒かけの座、銀にて三ツかりがねに三ツなでしこのすかし金物、猿尾のせつぱ三枚菊座、海老尾に銘あり、但し、ふむだみ、乳ぶくらの裏に、三ツかりがねの紋有、同じくふむだみ、已上、  
上林家三世薫暉子のもてる東雲といふ三味線のかざり、胴くわりん、棹したん、こくたんの亀甲てんじゆ、からうとめんをとりて、小口に、定紋をば青貝にて入たり、根緒は銀糸の石だゝみ、根緒かけの座、金銀にてすかしたる菊の折枝、しとゞめは赤胴の三枚菊座、猿尾のせつぱ三枚は、金の唐草をすかせり、海老尾の表に二字の銘を金具にて入る、裏は亀甲に桔梗の定紋、同じく金貝、乳ぶくらには紋なし、胴の上下に一重稲妻の蒔絵在レ之、已上、  
今世高名の傾国の所持したる三味線、いづれも右の三絃にまさりはするとも、おとるべからず、さりけれど、すこしいたましきは、此頃、女郎へおくる三味線に、銘さへつけてつかはせば、よきとおもへるにや、さしてすぐれざる三味線にも、銘のなきはなし、ひくといふ縁さへあれば、朝霞、夕霞、子日の松、君が袖などゝ名づけ、よからぬ筆して、ふんだみなどにかけるさま、人並に覚えて、をかしくこそ侍れ、 
琴   
琴は、倭漢共に管弦の大器にして、黄帝の時よりはじまれり、始皇帝は、琴ゆゑにとらはれをまぬかれ給、和朝にしては、清見原天皇弾じ給ひぬれば、天人あまくだり、五節の舞をかなづ、その徳高く、品芳しき事、あげてかぞへがたし、然りといへども、当道において、三味線の徳にはこえず、寛永のはじめまでは、傾国の坐にもてはやさゞりき、然るに、八橋検校初度の上衆引たりし時、江戸において、筑紫楽といふことを引いだし、人のもてあそびとなる、寛永十三年丙子年、花洛にのぼり、寺尾検校城印が下にて、勾当職に任じ、山住と名づく、山住は予が家来にして、勾当が老母を扶持し置たれば、予が家にて五六ケ月滞留す、其時節、城言と謂し座頭ありしが、筑紫琴をなげきて懇望し、既に山住が門弟と成て是を学び、大坂の万重といひし太夫職にひかせけるより、ことおこれり、其後寛永十六年已卯閏十一月に、山住勾当、江戸より又上洛して、検校職に任ず、山住を改て、上永検校、諱城談といふ、其後又称号を改て、八橋検校といへり、此時も猶予が家に来りて、一二月休息し、武江の発足を待内に、八橋述作せし琴の秘曲といふを引て、旧友のものに聞せける、その時、城連、城行といひける座頭両人、そば近くありしが、是を懇望して伝へを請、これより秘曲も世にひろまり、こと/\〃く傾国の手にも渡れり、されども、琴は挙亭にて場をとるものなれば、さまでこのましからず、又よくひく人もまれなり、すぐれずしては聞おほせがたければ、なくてもくるしからずとしるべし、 
小弓   
むかしは、遊興の座へかならず出したれど、この頃はよくひく人もなければ、絶て久しく出さず、むかしの小弓は、弓の絃をいたくはりて引用ひたり、小弓も、八橋検校みづから考へて、弓をなめらかに長く、手づから削りてこしらへたり、絃を引はらず、ゆた/\とゆるやかにのべて、無名指にてひくやうにかけたり、その色音、昔にかはり格別也き、八橋が外には、大坂太左衛門、法名是閑といふもの、頗名人なりき、傾城にしては、大坂の長崎万重、諱倚子、小弓に堪なり、其後、尊子八千代、もとめずして心にかなひ、折々しらべ出るに、人の心をなやませり、今はひく人もなく、聞人もなければ、おもしろきといふ所をしらず、是諸道堪能ならざる故ならむか、 
尺八   
尺八の事、漢朝よりはじまる、遊仙窟に、大篳篥詠 尺八 、長一尺八寸、舌四寸八分、律呂図云、大篳篥、小篳篥、又云、尺八為 短笛 、古文真宝前赤壁賦、客有下吹 洞簫 者上、倚レ歌而和レ之、其声鳴々然、如レ怨如レ慕、如レ泣如レ訴、とあり、是尺八の事と註せり、玄宗皇帝、前身は羅漢なり、好みて尺八を吹て擯出せらると云々、唐の代が亡びたる事を句に、尺八唐音砕云々、尺八の笛と歌にも読り、みよぎりの尺八は、普化僧これを専とす、かゝるゆへに、傾国などにはとりあはぬものなるが、奥村家の尊子八千代、恋慕ながしを吹出したるを聞たる時は、楊貴妃のためしもおもひ出られ、そゞろになつかしく侍りき、一よ切も、おなじく八千代好みて、常に吹侍りぬ、諸芸堪能の遊女なりつれば、いづれにおろかはなかりき、八千代が外に、尺八をこのめる人なければ、よしともあしゝとも定めがたし、尺八もすぐれたるにしたがひてきかば、いかでか興なくてはあらむ、 
貝覆   
上品の女中のもてあそびながら、六条の時代には、傾国も是をもちひて興じつれど、近代此沙汰なし、これほどに、世かはり品くだりつるよとおもふ故に、こゝに載侍る、 
続松   
歌がるたの事也、当時傾国のとるは、貝おほひのごとくに、残らずならべ置て、歌の上の句を一枚づゝ出し、歌に合てとる時は、露松といふ、又、常のかるたのごとくに、歌のかたを下にかくして、三枚づゝまきならべ、扨、一枚づゝうち出て、歌のあひたる数のおほきかたを勝と定むるを、歌がるたといふ、其もとはおなじ物ながら、とりやうにて名目かはるなり、されども、かるたのごとくにうちあふ事、今はたえて、貝おほひのごとくにのみもてあそび来れり、女郎いとまある折ふしや、座中つれ/\〃としらけたる時は、やさしくもおもはれ侍る、此歌がるたに、百人一首の歌ならでは用ひざるやうにおもはれて、をかしくこそ侍れ、ねがはくは、古今集の歌や、伊勢、源氏やうの歌などをも、かゝまほしけれど、小藤、八千代ごときの女郎、今はあるまじければ、ちからなくこそ侍れ、 
加留太   
かるたは、異狄より渡りたれば、その根元をしらず、ばう、いす、おうる、こつぶ、などいふ名目も弁へ知りがたし、上品にはあらねど、わさ/\したる物なれば、時により、傾国の内でも難なし、一座のさびしき時は、興ともなるなり、竹篦がけなどいふも、一きはをかしく聞え侍る、 
歌文字鎖   
男女しめやかなる参会に、是程の口すさびは有まじけれど、是も歌数おぼえぬ女郎とは催しがたし、たとひ一人二人ありとても、その中に一人にても古歌しらぬ女郎ありなば、無興なるべき、所詮、ところにしたがひて、座のしらけざる様に心をくばるべし、 
双六   
尤、傾城の手すさびに、よく似あひたる物なり、露松などは隙をとる物なれば、座のしらくる事おほし、双六ははてくちはやきゆへに、酒になりたる時、仕まひやすし、又、双六うつうちに、盃とりかはしたるにも興あり、とかくいさみたる物なれば、わやつくうちにも、うたれずといふ事なし、客と取くみても、女郎どちうちても難なければ、歌がるたにはまさろ侍る、  
夫双六は、子達よりはじまり、又、張文氏が十娘と双六を作る事、遊仙窟にあり、兼名苑には、阿育王の作り始給ふ、とあり、天竺にては、波羅と名け、又は六采六字といふ、依レ之、漢土には双六といふ、六を双ぶる義也、天監年中に、始めて日本に渡る、聖武天皇、曲水宴の時、詩を作らざる者には、五位已上に双六局を賜ひて、賭には青銅三千貫を給ふといへり、  
双六に十二の名目あり、  
相見、品態、扣子、平齊、乞出、入破、採居、立入、袖隠、透筒、要筒、定筒、  
双六盤の事、三味線に亜で、傾国のもちゆる翫器なれば、名ある女郎は自分に拵ておくべきことなるに、さはなくして、挙亭にありあひたるを取出せば、盤も見ぐるしく、筒はわれかゝり、齊たらずなどいふ事粗あり、上職の女郎などのうちかゝるには、口をしくおもはれ侍る、用意をしおくともかたからず、客より心を付るにも、いとやすき事にはあらずた、双六の手まはしすぐれざらむ女郎は、唯うたざらむにはしかじ、手のおそきも見ぐるし、上林家の金太夫、諱麗子、さしもの上手なりしが、是はあまりはやすぎてすげなかりしかば、常の人とはまだるきとて、心しりの女郎どち打に、つねの一番すぐる間に、五六番づゝうち仕廻たり、是をよしとも定めがたきは、わきより見るに、興ずるいとまあらず、惣じて、傾城のうつかゝりは、まてにうつべからず、はをする事をいとはずして、敵の石をむざととりひしぐにきはまれりとしるべし、 
手鞠   
傾国のすさびに、あながちこのましからねど、時節により、自然には有べし、是正月中に用ゆ、客の来らぬ内、挙屋の見世の内などにては取べし、土地にてとる事、ゆめ/\有べからず、されども、天職以下のすさびなり、此手まりといふは、糸にてまろく巻かためたる物なり、近年は、皮にてくゝりたる木鞠を、上職、下職ならびてこれをつけり、風流ならずおもへど、制すべきやうなし、もすそをたぐりあげ、あつければ肩をぬぎかけなどして、うち見さわがしきさま、いたくらうがはし、 
はねつき   
尤正月の手すさびなり、是、上職、天職共にくるしからず、初春の夕つかた、小づまかいとりて、はね、胡鬼板、右の手のみにてさばきたる、いとやさしげあり、立むかひて、はねをやりあひたるより外なし、そも亦、程のひさしきも、さのみ見よからず、やがてさしおくべきなり、数をかぞへてひとりのみつく事、努々有べからず、 
弾貝   
伊勢貝とも、瀬々がひとも、猫貝ともいふ、傾城の弾貝をとるは、おほむね格子にての手すさび也、禿などの持たるをとりて、挙亭にてとる事も、自然にあり、幼浅なる事ながら、いたいけに、花車なるすさび也、をかしく、にくからずと見るべし、 
石何劫   
是も格子にての所作也、されども、これはわさわさしたるものなれば、挙屋にてもくるしからず、禿やうのものゝすさびなれども、すぐれてよくとるは、一きはさはやかなるもの也、いしなごは、胡桃にてとるを第一とす、荘厳するには、ふむだみ、箔だみを用ゆ、檳椰子は、こけすぎてゆぶつく、象牙もこけ過る、其上おもくてひゞきあしゝ、象牙のまりこも、手の内よろしからず、小石も重し、且野卑なり、とかく胡桃ばかりを用ゆべし、石何劫の名人、六条にては玉葛鬢、坤郭にうつりて宮島家の左馬助、今の八左衛門家のきぬがえ、 
音曲部   
小歌   
当道音曲の最上也、小歌といふは、むかしの白拍子のうたひし今やうといふものを縮めたる物なり、中比、泉州堺の住人高三氏隆達といひし者、三十一字の和歌に、みづからふしをつけてうたひける、是弥小歌といふ名目にかなへり、即隆達ぶしとて、今も世に残れり、此一流、殊勝とは聞えて、風流先だゝずなむ、古風といつゝべし、其後、洛下に平野九郎右衛門尉(法名宗孝)一流をうたひ出し、是を平九流と名く、東武において、森田庄兵衛(法名体音)葛野九郎、我道の芸に亜で、小歌に鳴事世に甚し、されども、傾国の歌の道筋は、むかしより品かはり、声やさしくて、風流すぐれたり、六条において、対馬が労さい、内記が片撥、古今無双にして、聞人丹心を悩す、坤郭において、尊子八千代、周子初音、祝子若松、又是に亜げり、とかく傾城のたしなむべきは、第一に三味線、第二小歌たるべし、抑、傾城の歌は、らうさい、片撥を最上とす、次に、梛節、信田節、尤是を賞す、但、此二節は、時分によりて、一きは甘味あるべし、惣じて小歌は、年々にあたらしきせうが、いづくともなくはやり出て、世にひろまれば、先めづらしき歌のみ人の口にちかし、然といへども、右の四節は、小歌の■■にて、むかしより賞翫する事、此にたえず、自今已後も、又々かくの如し、按るに、江戸の小歌と三味線計りは、男女ともに、都よりまさり、丹前の一節も、江戸より出たり、丹前といふ名目は、堀丹後守殿門前に、桔梗風呂の吉野といひし者のうたひ出せし一流なれば、即是を丹前節といふ、丹前といふ歌は、根本は片撥なり、  
桔梗風呂の吉野は、丹前の元祖也、紀伊国風呂の市野は、吉野が高弟にして、丹前の歌を請つげり、師にすぐれて名人なれば、吉野に歌はまされり、同家の勝山も吉野が門弟にして、是又歌の上手なりき、同家の采女、同じく吉野に是を学ぶ、山方風呂の幾夜、市野が第一の弟子たり、此幾夜、丹前は市野に請つぐといへども、頗名人にて、又一流をうたひあらたむ、追手風呂の淡路、同じく市野に丹前をならひえたり、明暦三年丁酉、江戸の風呂の遊女停止となりて、三谷に移る時、右の勝山、幾夜は、山本芳潤が家に来る、采女は三浦が家に入れり、幾夜山本家に来りて、郭中の小歌ぶし改りて、幾夜にしたがはずといふ事なし、今に至り、歌の風俗よろしきは、幾夜が流をくむにあり、惜哉、万治三年、芳潤が家にして早世しぬ、此外に、山方風呂の柏木といふ者、幾夜が古傍輩なりしが、是は師を求めずして、おのずから労さいの名人なりき、かゝる歌どもは、前後無双なり、当時の歌ははるかにおとり侍る、 
浄瑠璃   
じやうるりの由来は、矢矧の長者がむすめ、浄瑠璃姫の事を作り始めたるによつて、じやうるりと名付たり、此十二段と云ものを見るに、何者の作りたれば、かゝる不都合なる事のみを書つゞけたるぞとおもふに、小野の通が作なれば、実ことはりとぞ覚ゆる、通女つとめの身にて、学問すべきいとまはなく、をりふしごとに、わらはべの、むかし/\かたるやうに書つらねたると見えたり、書たる始は草紙なりしを、滝野勾当といふ者、平家をやつして、是に節をつけたり、其頃、五条に次郎兵衛といふ者ありて、滝野に是をならひかたりけるに、おなじく洛人熊村小平太といふ者、是をきゝならひ、是をたのしみて、夜毎に洛中をかたりありきけるを、京わらべ聞て、これよりじやうるりといふ事をしれり、小平太江戸にまかりて、此浄るりをかたる、即太夫となりて江戸薩摩といひしは、此小平太が事也、老後に入道して浄雲といへり、抑浄るりは、滝野勾当ふしを付て、文禄三年甲午の年よりかたりはじめたり、此じやうるりに、本ぶしとてあり、此本ぶしに、表裏とて秘伝あり、粤に杉山七郎左衛門といふもの世に出て、滝野直伝の本ぶしをかたり、尤、浄るりにおいて中興の開基たり、杉山江戸に至り、元和二年丙辰の年より芝居をたて、操をして浄るりをかたる、其後杉山氏、承応元年の夏、江戸より京都に上り、忝も口宣を頂戴して、天下一杉山丹後掾藤原の清澄となのる、入道しては宝山高智といへり、伜予も又、受領して肥前掾といふ、浄るりの最初に序を付始たるは、是清雲が作也、丹後はじめて是をかたる、予倩おもふに、序を付たるは、浄るり奥深くて聞よきが、浄るりの初段の発端に、さても其後といふ事、聊不審なり、二段目よりは尤ときこゆ、いかにしても、此道理きこえがたさに、丹後掾、并喜太夫、大坂の出羽、播磨、こと/\〃くかれらにあひて、是を尋ぬれども、終に理をわかたずして曰、此扨も其後といふに、家々のふし、ゆり、息継、音声、さま/\〃子細あり、調子をうかゞふに秘術ありて、一子一弟に相伝する事なれば、たとひ誤りにても候へ、今又改めがたし、といひてやみぬ、むかしの浄るりは、詞つゞき凡卑なりしかども、若狭がかたり出たる命乞の時分より、すがた、詞やさしくなり、又此頃作り出せるは、抜群おとなしき物にぞありける、夫浄るりの風儀は、年々にかはるもの也、其上、所びいきといふ事ありて、京は京の太夫をよしとし、江戸は江戸の太夫を好む、大坂は大坂の太夫ならではとおもふゆへに、いづれを是とも定めがたし、畢竟、浄るりといふもの、下品なる芸なれば、素人の口すさびとても、よき人かたるべからず、たとひかたるとても、一段の始終をそろへてかたらむは曲なし、節ある所をかいとりて、みじかくかたるをよしとす、又、よき傾城の浄るりはのらぬものなり、天職までは制禁すべし、かこひ以下の沙汰なり、端女とても、小歌とかはり、浄るりは、外より望まれてかたり出べし、かたるとも、道行などこそやさしかるべけれ、女の口より、さてもその後といふ発端は、聊斟酌あるべし、 
説経   
説経の操は、大坂与七郎といふ者よりはじまる、沙門の説経をやつして、下僧のかたるを歌念仏といへり、たとひふしを付るとも、仏教のみをかたらば、さも有なむ、小栗、山椒大夫などいふものに、鉦鼓の拍子をとりてかたる事、これいかにぞや、歌念仏の名目にはたがへり、操にする説経のふしも、当時は浄るりに近くなりにたり、田舎の傾城は、自然に是を学ぶものありて、芸のひとつとす、興ずる者も又田舎ものにして、都のかたにはあらぬ業なり、男子は太夫の外、白人かたる事、よしなき口すさびなり、 
船歌   
船子やうのうたふ船歌の類にはあらず、時節相応の事を長くいひならぶる作り船歌の事也、されども、是には音頭のとり処ありて、おほくは、地よりつけてうたふものなれば、上手、下手のわかちも、さまで有べからずとしるべし、 
躍口説   
船歌とかはり、上手、下手、さま/\〃ある事也、をどりのくどきといふ事、むかしとかはり、中比よりは、殊外高上になりにたり、このくどきの詞に、儒道を先だて仏教をしめし、又神道をあらはす、詩歌の心をふくませ、且和漢の古事を引出すことおほかり、詞さへおぼゆれば、誰もいふべき事なめれど、音声、息継、拍子合に、上手、下手ありて、品々わかてり、先上京に、或法師、此妙を得て、天下に名あるといへども、予が一族なれば、はゞかりて姓名をしるさず、次に役者喜内といひし者あり、法師につぎて此名を得たり、其後、願西次郎兵衛、自然とこの道にかなひて、これを口ばしると、其芳しき事、先達をあざむくなるべし、 
日本遊郭総目 (一部)  
一、京(西新屋敷、号 坤郭 、又号 島原 )  
二、山城国伏見(夷町)  
三、同伏見(柳町)  
四、近江国大津(馬場町)  
五、駿河国府中(島)  
六、武蔵国江戸(三谷)  
七、越前国敦賀(六軒町)  
八、同三国(松下)  
九、大和国奈良(鳴川、木辻)  
十、大和国小綱(新屋敷)  
十一、和泉国堺(北高洲町)  
十二、同処(南津守)  
十三、摂津国大坂(瓢箪町)  
十四、同兵庫(磯町)  
十五、佐渡国鮎川(山崎町)  
十六、石見国塩泉津(稲荷町)  
十七、播磨国室(小野町)  
十八、備後国鞆(有磯町)  
十九、安芸国広島(多々海)  
廿、同宮島(新町)  
廿一、長門国下関(稲荷町)  
廿二、筑前国博多(柳町)  
廿三、肥前国長崎(丸山町、寄合町)  
廿四、肥前国樺島  
廿五、薩摩国山鹿野(田町)  
以上廿五箇所 
第一 落陽傾城町由来  
粤に原三郎左衛門といふもの有、豊臣太閤秀吉公に仕へて、出駕の御供には必はづれざりけり、或時、太閤諸士に謂てのたまはく、予天下を掌握に治しより此かた、国富民栄ふること、其限しられず、此時に当りて、いかなる雑人ばらにても、心に望み思ふことあらば、申べきよし、仰下さる、然るに、太閤、落陽万里小路を馬上にてとほらせ給事有、其時、三郎左衛門も御供しけるが、其比万里小路辺は、道の左右に並木の柳生つゞきたれば、俗に柳の馬場といひける、此処にて、三郎左衛門、公の馬前に跪きて申上けるは、恐多き申事ながら、私内々存る旨あり、遊女を抱集めて、洛中に傾城町を建、格子、局をかざり、糸竹の調に歌舞を尽し、衆人を慰めて、京師の賑ひ、且国家安泰の佳相なるべく候やらん、と申上る、秀吉公元より色をおもんじ給ふ武将なれば、頓て腔に入らせ給ひ、実に是はさぞあるらん、さあらば、汝に是を許容す、則此所に町を取立べきのよし仰下さる、寔に宜御機嫌に申出し、有難き上意を奉て、三郎左衛門は此処に一人残り、人夫を招きよせ、はや並木の柳の枝をうち、是を門の柱に用ひ、かりなる麁屋をしつらひ、暖簾をかけわたしける処に、太閤帰路に及び、此所を通らせ給ひ、是を御覧じて、きやつめははや遊郭をしつらひたるよな、さてのこゝろよし、猶もさし急ぎて棟をならべ、家毎に格子をとり付、遊女をかざるべきよし、仰含られて帰城し給ひぬ、それより諸方に幽居せし者ども馳集りて、三郎左衛門に属しつゝ、屋敷を請取、家を造る、于時、天正十七年已丑に、是を建創す、(原三郎左衛門は、上町、今の九郎左衛門祖父なり)万里小路通二条押小路南北三丁、名付て柳町と云、上丁、中丁、下丁、是也、此より先に、洛中の遊女僅に是ありと雖ども、一所に集らず、離れ/\に居住せし也、此柳町へは、秀吉公の時々ならせ給ひ、御顔に袖を覆ひ、格子/\、局々迄、残りなく見物し給ひけるとかや、其後、秀頼公の御代、慶長七年壬寅に、柳町を室町の六条に遷さる、爰に於て三筋町と名付、此地に居をしむる事四十年、其後大猷院殿の御代、寛永十八年、又六条より今の新屋敷に遷さる、此時より此処を島原ともいふ、或云、肥前国島原陣落去の砌として、郭の構一郭一門にして、四方掻揚の堀なるが、有馬の城に似たりとて、かくいひし、ときけど、是はおぼろげのたとへとや申べからん、抑、島原といふ心は、人皇七十四代鳥羽院の御宇に、島千歳、和歌前といひしは、是本朝遊女の根元也、此島といふ字を取て、此遊郭になづく、原とは広き心をいふ也、(毛詩十七、公劉篇、鄭言曰、広平曰レ原云々)又或説に、肥後国たはれ島といふ有、風流島と書く、又、六条宮の御撰の伊勢物語の真名本には、遊島とあり、彼是両様をもつてみれば、兎角たはるゝ境地なれば、此島の流にしたがひて、島原と名づけ侍る物ならし、後撰集第十五に、朝綱朝臣、  
まめなれとあだ名はたちぬたはれじま よるしら浪をぬれぎぬにして  
同第十九、よみ人しらず、  
なにしおはゞあだにぞおもふたはれじま 浪のぬれぎぬ幾夜着つらん  
所詮、此地を島原といふも、耳にたちてきこゆ、落陽の西南にあたれば、坤郭といはんに、何ぞ難かるべき、 
坤郭八景  
壬生残花  
壬生境静幾吟望、可レ愍白桜残2半粧1、知レ是為レ消2蜂蝶恨1、後レ花春色一枝香、  
朱雀孤月  
朱雀荒来孤月幽、閑人温レ故尚悲レ秋、深叢落レ露三千丈、破屋舗レ瓊十二楼、  
古塚草露  
何歳何人荒塚残、更悲蔓草露溥々、往来日夜千行涙、秋色蹊深故不レ乾、  
前塘竹雨  
回塘修竹近籠煙、雨入2秋情1洗2世縁1、尚勿下為2孤閑1拓上レ径、繁陰滴々不レ安レ眠、  
青田暮蛙  
田面雲青日已傾、群蛙鳴度入2多情1、従来自レ慣2英遊地1、迎レ月陰々鼓吹声、  
丹径雪樵  
路歴2丹陽1樵歩頻、雪花片々飾2柴薪1、一朝買子休帰去、又怪担頭帯レ錦人、  
東寺雲塔  
巨寺久留空海蹤、怪看層塔宿2蛇竜1、自高密法半天上、十里鈴声玉一峰、  
本国暁鐘  
本国隣連恨必生、楼鐘報レ暁独空驚、情談未レ尽同床月、夢送2声々1錯2転更1、  
京傾城は郭外に出ず、遊料は、太夫職五十八匁、天職は三十匁、囲職十八匁、端女郎昼よりは囲職並、夜に入ては十一匁、午刻より未刻まで昼隔子あり、但、太夫職は隔子へ出ず、傾国のかしなし、客の夜泊りあり、酉の上刻より惣門を閉て、客の出入なし、卯の上刻に惣門を開て、挙屋廿四軒、客入に腰物を預る、但昼の内計りにて、夜泊是を制する処なり、  
坤郭年中売日(是を物日ともいひ、又紋日ともいふ)  
(略) 
第二 山城国伏見(夷町)  
伏見の鐘木町は、本名夷町也、鐘木町とは、油掛通東行あたりの町をいふ也、夷町も、町の象鐘木に似たりとて、いひならはしたるべし、惣じて、遊郭の本名をいはずして、外の町名を呼るたぐひ、所々におほし、是より先に、林五一郎といふ者出て、豊臣太閤に遊郭を申請け、伏見県の西にあたり、田丁といふ所を賜ひて、慶長元年丙申に傾城町をとりたつ、然りといへども、太閤大坂に帰城し給ひ、剰、程なく薨じ給ひければ、伏見の繁栄、時移りことさりて、此処の者も落陽にうつり、又大坂に退く、跡はいたづらに野となりて、只狐梟の栖となれり、然る所に、渡辺掃部、前原八右衛門といふ者有、其時の奉行長田喜兵衛尉、芝山小兵衛尉といひける、此両人によしみありければ、是にたよりて、遊郭を再興致し度よし訴ふ、忝も、上意として、富田信濃守屋敷の跡を遊郭に仰付られ、慶長九年甲辰十二月二日に開地せしむ、今の夷町是也、即其時、長田、芝山、上意の趣をしるし、一通の状を渡辺、前原に遺して、永く夷町に遺す、寔によしある遊郭也、  
京より鐘木町に至る行程、落陽五条橋より大仏正面迄五丁、正面より一の橋迄六丁、一の橋より稲荷鳥居にて十三丁、鳥居より極楽町の角まで十一丁、極楽町より墨染之辻迄七丁、墨染より十丁目の辻まで二丁、此辻より鐘木町の門まで一丁、合四十六町也、  
当郭の傾城、先年半夜女計の時は、いたく凡卑なるが故に、京の者の翫ぶ事もなかりし所に、初音、小左衛門抔いふ女来りしより、京の者も少々出そめたり、又、寛文の始より、天職出世しつれば、歴々の人まで入込、弥繁昌しけり、されども、今は天職も中絶し、入ける客も減じぬれば、所の賑ひもかはりぬ、惣じて、当所の傾城、都ちかき郭なれば、京の者に馴て風流少しなきにしもあらず、然といへ共、小郭にて育あがりたる女故に、物を広くうかゞはざれば、腹中せばし、京の者とさへいへば、智あるも愚なるも、福人にもすりきりにも、其かんがへなく、ひたぶるに思ひ付て、行末久しかるべきとおしはかり、すまじき人にも、心中の懇志を尽すといへども、男の心はか/\〃しからず、されども、一たびの負おしみ、是非なくつとむるなど、皆当郭の傾城の癖也、究竟男をたらす事は成がたく、男にたらさるゝといふもの也、不便と謂つべし、倩おもひ競れば、傾国の正理にたがへり、此頃は所さびしく、又々おとろへ来りぬれば、猶品あしくなりもて行べきと、いたましく思ひ侍る、 
鐘木町、天職、囲職来由  
伏見夷丁、昔は押並て半夜女ばかり也、然る処に、摂州大坂木村又二郎が家女両人、江州大津に預けおけるを、当郭主前原九左衛門忠勝、万治三年庚子四月十一日に、是を需めて囲職に補す、是当郭囲職の濫觴なり、一人は初音と名付、是、大坂にては元名山崎といひ、大津にしては丹州といひしなり、当郭以後、南都にして留伊といひし者也、今一人は小左衛門となづく、是も大坂にては元名御船といひ、大津にしては浮船といひし者也、寛文元年辛丑に、同家の仄、浮船両人、又囲職となる、寛文三年癸卯十一月廿八日、大坂木村又次郎が家女両人、又前原家に遷りて、天職に補す、一人は淡路、是大坂にて繁山と云し女、一人は小藤、是大坂にて佐渡と云たる太夫職なりき、此時、同家の仄、天職に昇進す、是当郭天職の権輿なり、然るに、寛文第五乙巳年、淡路、小藤、大坂に帰る、仄は寛文六年三月廿日病死す、道号紫光、法名妙雲といふ是なり、天職暫中絶し畢、  
挙屋五軒、客入に腰物預る、昼隔子を出す、昼女郎の借しあり、夜客をとゞむる事、京のごとし、遊料は、天職廿八匁、囲職十六匁、半夜八匁、然る処に、挙屋困窮により、延宝四年辰八月より、囲職十八匁、半夜九匁宛、  
鐘木町年中物日  
(略) 
第三 伏見柳町の遊郭(俗に泥町といふ)  
此郭は、夷町より十六町坤の方なり、此間、南部町通板橋下る町に、金札宮あり、此社は太玉尊也、此外させる旧跡なし、遊郭を柳町といふを、誤りて泥町といへり、泥町とは、河波橋を渡りて、此柳町の入口、東西へ通りたる町をしかいふ、斯のごとき誤名、当所にかぎらず、遊郭ごとに是あり、落陽坤郭の本名を柳町といへば、此所を柳町といふもまぎらはしけれど、名付ぬれば力なし、猶、筑紫の博多なる遊郭をも、柳町といへり、抑、臥見柳町の一郭、先年は柿木浜に是有、小堀遠江守政一奉行たりし時、寛永三年丙寅に屋敷がへありて、此処に遷す、当郭を柳町と名付る事、僧雪岑が柳の詩曰、  
渭水橋辺送レ別時、馬前折送笛中吹、若教下繁2得離情1住上、何必千糸又万糸、  
目前の景気此心に相叶へり、仍是に名づく、当郭の物日少々有といへども、事繁によりて略す、  
伏見の柳町は船着の遊郭にして、麁女のみ集あける所なれば、風俗をいふにたらず、たとへば、高瀬の船人、馬借の類、入込て興ずる者なれば、昔より今に至り、其味ひ少し、されども、元祖の薫美子、奥村家の尊子八千代抔は、此地より来現したり、奇妙と謂つべし、 
第四 近江国大津遊郭(馬場町)  
大津の遊郭は、世に柴屋町といひならはし侍れど、馬場町なり、柴屋町といへるは、遊郭の外、下の一町をいふ、柴屋町は、昔、比良、小松わたりの柴を船につみて、爰につけて売たる所なれば、斯いへるなるべし、抑江州大津は、帝城を去る事三里、昔時、天智天皇此所に宮造りし給ひて、大津宮と申奉りき、台嶺魏々とそびへ、前には湖水洋々たり、所謂大津八町は、都より吾妻に趣く最初の旅館にして、人馬道につどひ、往還爰にしげし、あやしの出女迄も一ふり見えて、恋のしるべなきにしもあらず、  
大津馬場町年中の物日  
(略)  
大津の傾城、郭中の外へ出ず、天職廿六匁、小天神廿一匁、囲職十六匁、青大豆十匁、半夜八匁也、昼隔子なし、昼がしなし、夜見世有、夜隔子、酉下刻暫時也、夜隔子過て、目利所望の客あれば、其家の内に燈を立、傾城を出す、合十軒、客人に腰物預る、郭の入口四方に是有、客の出入昼夜不レ苦、  
当郭の傾城、先年は八丁の旅館迄も出しぬれば、旅人一宿の便ちかく、且洛人思ひよりて通ふ輩も、郭中の挙屋をさしおき、八丁にのみ宿しければ、其賑ふ事限りなし、されども、いつぞの頃よりかは、御禁制にて、傾城郭外へ出ず、所に住馴し傾城長も家をさり、身を退きなどして、さびわたりたるを、昔の五分が一もあらず、凡大津傾城は、物ごとおほやうにて、伏見よりは少しまさりたるやうにありつれども、今かくおとろへたれば、いづれともわきがたし、伏見は京に近けれど、其かはりに、所の遊客にさせる勇士なし、大津は京の客たよりに成がたけれど、地の客に折々勇士たえず、傾城も人の口に出る者二人三人宛ありき、然れ共、頃年は地の客も心はたらかず、能傾城もなくなりゆけば、所の風俗とても、しるすべき品もあらず、筆の行ゑも定めがたし、 
第五 駿河国府中(島)  
府中の遊女は、昔より有けり、中頃、宮城野といひし者、其頃世に隠なかりき、容貌他にすぐれ、智あまり、手をも能かけり、和歌の道にも心をよせ、情の色深し、遠近の人是をしたひ、風流の輩是にしたしまざるを恨とす、  
八月望の頃読る歌、  
遊女 宮城の  
いくよわれおしあけがたの月影に それと定めぬ人にわかるゝ  
府中の内に、藤井清六とて京家の人有けり、先祖国司の家なりしが、地下にくだり、此所に住宅し、富める身にてぞくらしける、父には後れ、母一人ありしが、藤井氏此宮城野になれて、浅からぬ情の末にや迷ひけん、家主に此女を乞請、身の代を出し、則妻とす、母本意ならね共、是非なく迎取て、同家に住けり、宮城野もとより才智すぐれたる女なれば、姑につかふまつること、実の母のごとくす、母かぎりなく歓び、此妻いかなる人の末にもあれ、孝行の道をしりて節義を守る、我子のまどひめでぬるも理ぞとて、いと惜み深かりけり、京に此母の弟有しが、頻に煩よしの便有、叔父の事なれば、清六、京にのぼりて看病せんとするに、死しぬ、清六、力なく国に帰らんとするに、其頃乱世にて、道々関すはりて、行ことあたはず、其内に、母も亦病付て、今を限とぞ見えし、此妻、母の病中に、暫もいねずしてあつかふといへども、猶頼母しげなく見えつれば、母の命にかはらんと、天帝地祇に是を祈りしかども、限り有て、終にはかなくなりぬ、妻歎きながら、是非なくからをおさめ置、夫の帰国を待所に、永禄十一年戊辰、武田信玄駿河に発向して、府の城に取かけ、民屋に火を放ち焼立ければ、今川氏実堪りえずして落うせたり、武田方の軍兵、家々に乱入、乱妨分捕、狼藉いふばかりなし、藤井が家に入て、宮城野をとらんとす、妻奥に逃入て、みづから溢れて死しぬ、兵士共、其貞節を憐み、屍を家の後なる柿の木のもとに埋めり、駿州は武田家の手に入、諸大将も和睦しければ、清六漸くして国に帰りみれば、家に人もなく、其由を尋れば、しか/\〃とこたふ、生死無常のことはり、力及ばず、母と妻の廟をひとつ所にして、朝夕廟参しつゝ、妻の貞節を感じ、又は歎きのあまり、ねがはくは、ありし世の姿を暫も見え給へ、と念じて、廿日計りに及ぶ、或夜、月くらく星あらはなる夜、独燈をかゝげて座す、宮城野が姿影のごとくにして来り、君が念を感じて、司禄神に暇を乞て、今爰に顕れたりとて、始終の事共を泣々かたるに、自もとより官家高門の息にあらず、あだにはかなき流のみとなり、人に契りて心をとゞめず、色につくろひ、花をかざり、姿をなまめき、詞をたくみにす、昨日の人を送り、けふの客をむかへ、西より来れば、西なる人の婦となり、東より来れば、東よりの人の妻となりて、よるべさだめぬ契にのみ月日を送りしに、君に逢て誠の妻となり、昔のならはしを捨て、正しき道をおこなはむとするに、かゝる禍にあふ事、前世の業因つたなきをしる、然れども、貞節孝行の徳により、天帝地府、我を変じて男子となさしむ、今鎌倉の切通しに富裕の家あり、高座の某となづく、此子となりて明日生れ侍る也、君爰に来り給へ、君にあはゞ笑ひ侍らん、是をしるしとし給へ、といひて、亡者のかたちは消うせけり、藤井、歎きながらも不思議の思ひをなし、七日を過して鎌倉にゆき、高座の某が家に尋入、此間生れし子や有、子細のあれば見せ給はれ、といふ、此子胎内に廿ケ月ありて誕生せしが、今に至り、昼夜鳴て声絶ず、とて懐きて出す、藤井をみるより、莞爾と笑ひ、それより鳴やみてけり、藤井有のままに件の物語しつゝ、自今以後、一族の契約して、往来のちなみ絶ずぞ有ける、右府中の遊女の濫觴は分明ならざれども、有が中に奇異のもの語りなれば、爰にしるし侍る、 
第六 江戸三谷  
江戸の傾城町は、近来迄葭原といひて、深川の辺に有しかども、明歴三年丁酉正月十八日、本郷より火出て、葭原も此時に灰燼となりぬ、其砌は、焼跡に小屋抔かけわたし、かりなるしつらひにて客をとゞめけるが、同年初秋の頃、今の三谷といふ所に、此遊郭を移されたり、北方一口に惣門を構へ、右葭原の如くに町をわりて、家造りし侍りぬ、かたついなかの遊郭さへも、其程々につきてにぎはふ物なるに、ましてや、是は天下の武陵にして、日本の貴賤集りをれば、遊人日々にしげく、繁栄日にかさなれり、帝都をさること杳かなれども、郭風いさぎよく、行粧さはやか也、誰か是をしのばざらんや、  
江戸三谷年中の物日  
(略)  
江戸の傾城、郭を出ず、太夫職廿七匁、昼夜続は七十四匁、格子女郎廿五匁、挙屋十四軒、客入に腰物預る、散茶町の傾城は挙屋なし、内留也、客入に腰物預る、金一歩宛、或廿匁、但当座銀、一夜銀にして宿本を不レ尋、若逗留する時は、請人を立る、散茶町にても、昼夜居続れば、遊料一倍増也、  
(略) 
第七 越前国敦賀(号2六軒町1)  
敦賀の遊郭は、六軒町といふ、挙屋の居る所をみづやといふ、傾国の遊料十六匁、次は十匁宛なり、端女は六匁宛、 
第八 越前国三国(号2松が下1)  
三国の傾城は、松がしたと上新町とに有、此内に挙屋も有、出村には竪町と地蔵町とに有、 
扶桑列女伝 
落陽  
吉野伝  
吉野諱徳子、姓藤原、松田氏、曩祖出2於俵藤太秀郷1、後陽成院御宇慶長十一年丙午三月三日、生2洛陽大仏1、自2七歳之秋1、被レ養2林氏与次兵衛之家1、而従2益子肥前1、禿名林弥、肥前不3深憐2愍徳子1、而家主労而令レ退レ之、其後不レ扈2従先輩1矣、于時雲州大守視レ之、告2家主1曰、童女林弥、有2奇異相1、必発2名於日域1、最可レ為2上職1、依2此言1、元和五年已未五月五日、出世而補2太夫職1、(于時徳子年十四)名曰2吉野1、自レ是先有2此名1、依レ為2高名1号レ之、徳子性軽爽、而智恵甚深、霊艶而化レ心、活然恣レ気、且下レ情有レ要焉、徳子聴レ香得レ妙、亦常好レ酒能遊宴、言語奪2人心1、在郭之内、高徳威儀、其繁数無2指頭1、語断2舌根1而已、有2大明国呉興李湘山者1、夢中会2吉野1而通レ言、慕2這幽容1、而以2寛永四年丁卯秋八月1、賦レ詩而送2扶桑1、其詩曰、  
日本會聞芳野名、夢中髣髴覚猶驚、清容未レ見恨無レ極、空向2海東1数2雁行1、  
又翌年自2漢土1請2徳子之寿像1、我朝之遊客議レ焉、而命 画工 令レ図レ之、跪 徳子之目前 而写 佳貌 、画工尊 其暉相 、而不レ採 毛延寿之例 、時図画処七影、不レ違 顔色 、恰如レ移 影鏡 、悉附レ軸為 七幅 、而遣 九州 、異朝商人代 之綾羅 、而歓喜夥、況於 倭人 乎、衆人見 金峰山之花 者、忍 松氏姿 、詠 袖振山之月 者、思 徳子面影 矣、寛永第八辛未年、就 麁客 而有 訴論 、因レ茲、雖レ不レ充 年季 、同年八月十日、年廿六而還 旧里 、  
評曰、嗚呼徳之感 天下 也、夫至乎哉、吉野流 美名于中華 、令 風雅之士悩 丹心 、何必在レ色耶、吾国唱 名于異域 者、戴在 青史 、而今不レ足レ贅、天正而来羅浮子道春、達 名大明 、活所子道円、擅 文詩名于海外 、吉野可下与 二賢 並レ鏨馳上矣、惜哉、使 司馬氏在 、必採戴 女史之伝 、  
左門伝  
左門諱賢子、姓平、三浦氏、南都之人也、生 寛永三年丙寅春二月 、小名鶴、幼時後レ父、其母誘レ彼而令レ嫁 他家 、自 幼稚之時 秀才発レ外、利根遮レ眼、雖レ然継父不レ歓、(以下脱紙闕文)  
八千代伝  
八千代諱尊子、姓藤原、波多野氏、寛永十二年乙亥五月朔日、生 於播州姫路 、母夢見レ懐 金宝器 而即孕、生而為 七歳 之時、後 于父 、于時兄弟三人、母雖レ養 育之 、家益貧而難レ保レ之、因レ茲、正保二年乙酉、(于時尊子年十一)遣 城州臥見柳町(此遊郭、俗号 泥町 )福田理兵衛者家 、小名石、慶安元年戊子春二月、出世居而為 囲職 、名曰 千戸 、(于時年十四)同二年已丑春二月、入 坤郭 而遷 奥村三四郎之家 、同年三月七日、郁子三笠導レ之、而再出世補 太夫職 、(于時年十五)改レ名号 小太夫 、其後亦改レ名而号 八千代 、重職如レ元、自レ是其名充 天下 、威勢覆 于世 、巍然其徳芳、才智越 万人 、通 達諸芸 、其中能レ書、而為 一流祖 、次粋 糸竹 也、三味線名人、而又一流之大祖也、次玄(正しくは玄に少)レ琴也、次小弓、尺八之音声異 于他 也、小歌殊勝而節有 感味 、剰好 茶湯 、而以窺レ式、又翫 風雅 、而快 吟旧歌 、且携 俳諧連歌 、而作 発句 、松江氏重頼聴レ之、万治三年庚子夏五月、集 懐子 之時、尊子之句撰 入彼集 、寛文三年癸卯春三月、以空軒安静撰 鄙諺集 、尊子之句猶入 此集 矣、承応三年甲午春三月、発 起百人弌首 、自レ洛呼 講談人 而聴レ之、同年六月、聴 伊勢物語 、明暦元年乙未春、聴 徒然草 、同三年丁酉春正月、聴 古今和歌集読方 、同年自 四月上浣 、聴 源氏物語 、翌年十月、至レ詠 幻巻 、講人病故懈怠、惜哉、其後依レ催 退郭義 、而不レ充レ志矣、尊子性正直而兼 備智仁勇之三徳 、専 忠勤 矣、或時家有 賀儀 、而家女悉作レ列、以 先輩 座上之恒例也、因レ茲、定 第一郁子三笠、第二栄子野風、第三宗子吉高、第四尊子八千代 、厥時尊子分 入三笠下野風上 而令レ着レ座、(于時年十五)爾時座中懲レ気、家主謂 尊子 曰、座席違背如何、尊子曰、座上者不レ可レ寄 年積 、可レ寄 忠功 、以 其意 居レ此、家主入 腔子 不 復言 矣、随 成長 而尽 孝慈母 救 昆弟 、且昵近之傾城、或有レ好之輩、尊レ之敬レ之、而尊子与 重貨 、施 無量金銀 也、自 己丑 至 戊戌 、臘十箇年之間、従レ彼而出世之遊女七人、馨艶之風流停 這一人 、荘厳倍 上古 、所謂天下壮観也、尊子紋者花輪違梧也、此紋聞 異域 、而以織 之金襴之地紋 、而渡 我朝 、明暦元年乙未秋九月、唐船入 肥前州長崎県 、諸方商人挙而寄焉、唐人解 其織物 、而戯謂 倭人 曰、是貴邦第一傾国紋也、重レ色之人者豈厭 価高 、須 速買 矣、又自 朝鮮国 聴 此紋 、而画 茶碗 而渡 日本 矣、自レ古至レ今、本朝之遊女、聞 異朝 而弥レ之者、於 六条 徳子芳野、於 坤郭 尊子八千代、唯此両女而已、万治元年戊戌十二月廿九日、廿四歳而退 去郭中 、  
初音伝(杉山家)  
初音諱夭子、姓源、渋河氏、江州永原之人也、生 寛永四年丁卯 、従 前初音琢子 、禿名長吉、寛永十八年辛巳、出世而補 天職 、(于時夭子年十五)琢子初音導レ之、名曰 和泉 、依 貌麗 呼 其名 、而正保元年甲申三月廿一日、昇 進太夫職 、改レ名号 初音 、承応之始迄、雖レ発 其名 、自 明暦之末 威勢衰、適雖レ求 珍客 、続而不レ会、故累年悔レ之、且身自悲 歓退出之遅々 、夭子常信 観世音 、因レ茲、祈 意趣於観自在 、雖レ然不 幸来 尚矣、寛文元年辛丑八月十日寅刻、夭子夢、大悲尊座 巌上 、而指 夭子 曰、汝無 現世之果福 、可レ想 後生之需 也矣、同十六日戌下刻又夢、白衣神女来 夭子之枕上 、而振 素幣 曰、  
憂世乎去天乃知會多能死喜  
此句両三遍唱而去レ空、同月十八日頓卒、年三十五、法名号 妙修 、滅後覧レ之件遣翰在 一匣中 、  
藤江伝  
藤江諱貴子、姓最不レ賤、降 誕寛永十二年乙亥十月 、母蔵 其姓氏 而遣 他家 、而又自 其家 贈 郭内 、小名曰レ万、不レ扈 従先輩 、而慶安元年戊子九月廿一日、出世而補 太夫職 、(于時貴子年十四)峰子高根導レ之、貴子性堆尋常而容貌潔、眼裏麗々有 奇相 、音声清々爽馨、豁然独立、必飽花車、而深悪 卑風 、在郭之間、仮不レ聴 商業沙汰 、猶口不レ語 野言 、所謂蓮者生 汚泥 而如レ不レ染レ濁、臘十有二年之間、従 貴子 而出世之弟女六輩、所謂高子小藤、川子鳴瀬、雲子葛城、朗子衣重、波子松山、謙子藤江(謙子藤江退出之疇昔、依レ為 出世 、而即譲 其名 矣)等也、万治二年已亥六月十日、年廿五而退 去郭中 、  
葛城伝  
葛城諱雲子、姓藤原、斎藤氏、平安城之人也、生 寛永廿年癸未春二月聚落 、従 貴子藤江 、禿名八弥、明暦三年丁酉、出世而補 太夫職 、(于時雲子年十五)名号 葛城 、貴子藤江導レ之、雲子性情潔而心理閑寂也、粛然恐レ己、肅然観 浮世 、能相 同貴子之心 、無欲第一而雲子独浄レ此也、嫌 於勇剛之人 、招 於和直之客 矣、雲子常尊レ法、而帰 浄土門 、万治三年庚子冬十月、求 於師 受 血脈 、且勤為 念仏五千返日所作 、自 寛文三年夏五月 病、同秋九月十三夜、夢中、善導和尚現 半金色之尊貌 、告白、汝今厭 離此穢土 而生 安楽国 也矣、雲子夢覚歓喜、拝 虚空 、而不レ愁 病困 、断 薬療 而以静修 臨終之業 、同十五日午刻、唱 弥陀宝号 、向レ西合掌卒、于時年廿一、葬 四条京極大雲院 、道号明室、法名光雲、  
初音伝(宮島家)  
初音諱周子、姓不レ詳、寛永十七年庚辰六月三日、生 落陽 、幼稚而後 父母 、他腹之兄無レ恵レ之、依レ為 貧家 不レ能レ保レ之、而為 傾国 、従 伯子薄雲 、禿名号 長吉 、出 世承応三年甲午春三月 、而補 天職 、(于時周子年十五)伯子薄雲導レ之、周子性利根英才而面在 愛敬 、毎レ会レ客不レ択 美醜 、下レ情無 浅深 、小歌名人而天下之寄レ焉、且粋 三線 也、故鳴 於都鄙 、因レ茲、万治元年戊戌冬十月、補 太夫職 、自レ是益レ威、光雲覆 於世 、徳山高 於地 、寛文三年癸卯十二月四日、年廿四而退 曲郭 矣、  
和泉伝  
和泉諱清子、姓藤原、結城氏、生 寛永十八年辛巳五月九日華洛 、禿名筑紫、従 前和泉芳子 、承応三年甲午秋七月、出世而補 天職 、(于時清子年十四)清子性正直潔白而容貌険麗也、周子初音、依レ為 先輩 為レ之下レ言、清子曰、出世遅速レ隔レ月、未レ隔レ年、忠勤不レ劣 周子 、何故侮レ予矣、周子曰、夫家族者雖レ隔レ日、従 先輩 之例也、奈憤 於我 哉否、而不レ止 威論 、爾時家主宥 双方 、而以請レ同 言語 、遂応 家主之諌 焉、万治二年已亥四月十一日、補 太夫職 、(于時清子年十九)旧年冬十月、周子初音依レ任 太夫職 、重職相同、因レ茲、亦両女諍レ威尚矣、寛文三年癸卯五月三日、花齢廿三而退廓、  
金太夫伝  
金太夫諱麗子、其姓氏不レ詳、寛永十六年已卯春三月、生 於華洛 、少年之間、従 深子初島 、禿名号 長吉 、承応二年癸巳六月七日、出世而補 太夫職 、(于時麗子年十五)深子初島導レ之、麗子性大胆而常好 花美 也、顔容勝 于世 、体弱前後無双、寔天生麗質、而讃不レ足レ口、仰在 其恐 、郭中之美容無 顔色 也、座配風流、而飲宴有 佳興 、献酬闌而剰不レ飽 交会 、是以諸客莫レ不レ忍焉、険子薫者家族而雖レ為 先輩 、不レ随レ彼、恒諍 威勢 及 累年 矣、薫客来 此方 不レ通、金客又遷 彼方 、自レ薫不レ通、故隔 呉越 、数輩之家族分 南北 、而以北者号 険子派 、南者呼 麗子派 、権威倶無 増劣 、寛文元年辛丑三月十日、年廿三而退去、 
武州江戸  
勝山伝  
勝山諱張子、未レ詳 其姓氏 、武州八王子之人也、正保三年丙戌、出 世紀伊国風呂 、而号 勝山 、勝山性大胆而有 余情 、活然而好 異風 也、見 聞之葭原 而莫レ不 望慕 矣、承応二年癸巳秋八月、山本氏芳潤需レ之、以補 太夫職 、山之家族宏子采女者、遷 三浦宅 、自レ是勝山挫 郭中 、依以先輩之上職無 其色 矣、張子常不レ飽レ酒、猶粋 小歌三線 也、是丹前吉野直伝之祖也、剰結レ髪興 一流 、行レ道改 身振 、踏レ土用 草履 、所謂勝山綰、勝山歩、勝山鼻緒、是也矣、粤都巽郷有レ客、其貌黒色而且有 痘痕 、法体而齢超 初老 、往年勤 武江 而有レ暇之時、慕レ山而会レ之、其間撰レ友重 威儀 、贈 衣服并珍器 、善尽哉美尽哉、于時都巽之客問レ山曰、公是何背レ我、否哉、山答曰、予洛陽之人有 可レ伝言 、不レ違 一言 慥達レ之者、為 交会 、法師曰、不レ及レ言、豈背レ仰哉、山曰、誓聞レ予、其時動 天神地祇 而誓レ言、爾時張子和レ色而謂 法師 曰、脚下者洛陽坤郭而会 尊子八千代 、有 其聞 、即八千代可レ伝レ言、伝聞尊子者、洛陽第一之佳名、而其威夥レ是、然脚下魏(正しくは女扁)希 有于世 人相也、何以親レ之睦レ之哉、妾是雖レ在 鄙郭 、好 美容 不レ好レ賂也、不レ残 此言 通 尊子 、法師感 動此言 、諾而待 芳情 、張子不レ能レ辞、既従 客之意 、翌日以 消息 通レ客曰、契会限 畴昔 也、重而不レ能レ逢、法師無レ力、上洛而会 八千代 、褒 美東郭 而伝 此言 而已兮、明暦第二丙申春、告 衆人 曰、予念、今年之内可レ去 当郭 、不レ違 此語 、而同年秋八月、的然而退郭、  
高雄伝  
高雄諱娥子、氏松岡、武州豊島郡之人也、小名曰レ徳、不レ扈 従先輩 、明暦元年乙未夏五月、出世而補 太夫職 、宏子采女導レ之、娥子性飽花車而貌殊麗、気質弱細而姿優美也、所謂応 小町之歌風 、能レ書絶 三線小歌 矣、自 万治三年庚子臘月朔旦 着 病床 、而同月十八日卒矣、于時年十九、法名号 妙信 、 
摂州大坂  
小太夫伝  
小太夫諱明子、姓橘、楠氏、寛永九年壬申二月十日、生 摂州東成郡 、母産レ之時有 光気室 矣、父祖出 於武臣 、已来下 商賈 経レ年尚矣、屡依 家貧 、而寛永十六年已卯秋八月、為 木村又次郎家女 、(于時明子年八)禿名号 須美 、暫従 輪子葛城 、正保二年乙酉四月朔日、出世而補 太夫職 、名曰 小太夫 、延子定家導レ之、明子性聡明絶倫而賢才広平也、依レ有レ才広レ気、依 心広 于世高レ名、依 名高 富貴積レ身、依 其身富 能施、依 能施 衆人崇レ之、依 人崇 其徳高、洋々乎自貴、的然覚 人之心 、剰孝之厚無レ量 勝計 矣、倩観 明子之本性 、花車風流之根元、而亦不レ可レ有レ例、常哀 当郭之鄙風 、而猶己恨レ不レ住 帝都 也、明子心直而気浮、空艶情飽而強矣、耀 舞遊之扇 、被レ比 五節之舞妓 、弾レ琴松風之響終古催、次能レ毫、雖レ随 国風 、器量抜群而翰法不レ卑、又寄 意倭歌浦波 、雖レ不レ求レ師、以 旧歌 為レ師、而時々令レ歌レ之、客採 集之 、入レ洛而逍遊軒明心居士請 添削 、貞徳翁啓レ之覧レ之、粗有 秀逸之和歌 、可レ謂 奇特 、其後雖レ不レ為 対談 、徳老人為 尊師 、而常贈 添削之詠草 矣、或好 茶湯 而寄 器物 、且得レ妙 物数奇 也、仮令改 茶器袋及表具衣色等 、恰莫レ不レ中 大有宗甫居士之遺風 、或著 衣裳作用 、定 遊行法 、又令レ帰 依禅 、招 小林寺月潭和尚 、而屡聞レ法、而以為 参徒 、其後謂レ予曰、儒者不レ中 我道 、請窺 南華老人之道 、予説 逍遥遊斎物論之大意 、而示 荘子之寓言 、明子聴 此両篇 、而以速弁 天地万物之理 、誠不可思議之遊君也、聴 華洛之体想 者、明子独無レ不レ受レ之、尊子八千代常聴 明子之行 、而令レ感レ之、会下毎通 明子 之客上、伝レ言而述レ徳、潜探 郭内 聞 郭外 、不レ堪レ忍者、脚下一人而已、兼念願同 居脚下 矣、伝レ言及 度々 、而後時々通レ書也、惜哉、令レ居 坤郭 者、並 尊子 而比 飛車之両輪 矣、承応三年甲午六月十日申刻、退 出郭中 、于時年廿三、  
大和伝  
大和諱耀子、姓不詳、寛永十七年庚辰夏五月、生 摂州住吉県 、来 木村之家 、而自 九歳 至 十二歳 、従 晋子静間 、禿名号 伏屋 、静間自 退出 、相続而従 明子小太夫 、禿名如レ元、承応二年癸巳九月朔日、出世而補 太夫職 、(于時耀子年十四)名曰 大和 、明子小太夫導レ之矣、耀子性芳艶而面有 微笑相 、眼粧帯レ炯、而美靨鮮々、顔容勝 百千 、姿貌窈窕司 古今 矣、癸巳之重陽者、耀子出世而不レ過 十日 、然諾 耀子 而為レ待レ之客、有 五輩 也、諍 契約之先後 、而既挙屋与 遣女 、(于時加津)不レ正 相論 、爾時明子小太夫契 先言 之人、定 重陽之客 、其次者採レ鬮而極レ之、自レ是世上之賞翫夥、威勢過 先達 也、蓋傾国新造而諸客称レ之者、唯帰 耀子 乎、及 成長 而益鳴 于世 超 諸郭 矣、万治二年已亥五月廿八日退レ郭、而寓 居大坂 五年、而後寛文三年癸卯秋九月卒、年廿四、  
 
吉原ガイド

 

江戸編年事典(稲垣史生)という便利な書物を愛用して数年になりますが、付録に「実用江戸風俗帖」としてまとめられた一文があります。「吉原大全」という明和5年(1767)刊、酔郷散人の著作から抜粋されたものです。どうすれば通とか粋と呼ばれる遊び人になれるかを、主に精神面を中心に解説していて興味深いものがあります。結論から先に言えば、功をあせらず、軍資金はふんだんに用意して、未練なく使い切れというものです。それでも、うまく行かない時は、あっさり諦めるしかない。お洒落感覚とか洗練された言葉が使えないと、やはりふられるそうです。この道は極めて厳しいものがありますね。  
前半を省略して、半可と吉原好きの生態を描いた部分を抜粋して紹介します。これなど、夜の高級クラブに出入りする現代人の生態に近似しているように思えて、苦笑せざるを得ません。
半可・吉原好き・色客  
「又、通りもの風にて、しゃれもいひ、小田原町、蔵前辺りはもちろん、そのほか、名ある人をば、ききおよびしまま、大ていは、ちか付がほにいひなし、女郎をも、相応にかこひなすを、半可といふ。この輩(ともがら)当世もっぱら多し。すべてよし原ずきといふは、吉原の酒をこのみ、月に五六度も、出入りの座頭などをつれ、中の丁へ行くと、そのまま大はだぬぎになり、たらひの湯をくませ、せんそく(洗足)つかふそばより、女房はさかづきを出し、すひ物のでるまで、あり合ひのさかなにて、酒事になるうち、あひかたの女郎、ひまな新ざうをありたけ引きつれ、えんがはにこしかけて、さけのすぎるを一トとほりにとむれば、新ざう禿はさし心え、よねんもなく、いせおんどうをうたふてゐる客の、肩も背中も、えんりょなく引つたつれば、片息ながら、千鳥あしにて、女郎やのはしごをじたばたとふみならし、ざしきへあがると、まず醤油じみたかずのこ、しなびた九年ぼで、やたらのみにのむうち、女郎は外にてあそび、よいかげんなじぶん、ざしきへゆき、酔ひつぶれてねこんでゐる、客の鼻のあなへこよりをいれ、あるひはつめりなど、かれこれとからかふ間に、夜食もでれば、女郎はまたくひ、などするうち、かのざしきには、床もをさまれども(敷かれる)、女郎は大ていにてゆかず、夜ふけて行きて見れば、前後をしらず、大いびきのわきへ、そつとはいり、せなかあはせに一トねいりするに、はや、茶や船などは、むかひに来れば、やうやう目をさまし、帯をしめ、はをりをきるまで、とくと仕度をさせたうへで、ぎり一ツぺんにとめるあいさつ。そのうへ、むかふ節句の、やくそくを、がてんして帰るなど、これ女郎にかまはず、吉原好きといふものなり。(以下略)」  
以上のような解説があって「女郎の心を見わける法」「ふられる夜と持てる夜」「馴染み女郎不在の夜の心得」「女郎に持てる十ケ条」と続きます。全体をご紹介するのも、芸のない話なので、一応最後の章から、要旨を抜粋することにしましょう。
女郎に持てる十ケ条  
一 初会より、なじみにいたりても、女郎に、のみこまれぬやうが肝心なり。最初からなじまないのは当然で、時間とともに馴染むようになる。結婚しようと言えば、持てると思うのは愚かのいたり。相手も仕事だから良いような、その気がある返事をするけれど、真に受けてはならない。  
二 女郎によりて、しばしなじめば、外の客へやる文を、めのまへでかき、又客よりきたりし文も、引きちらしおくことあり。かならず見ぬものなり。心に訴える効果のあるものだけを出しておくのであって、見せて悪い文は隠している。それを自分にだけ、何事も隠しごとをしないのかと感動するのは、あまりにも、お人好しというもの。  
三 女郎のあひようがつまらぬの、しかたがわるいのといふ事、友だちや、茶やなどへいはぬ事なり。自分さえうまく行かないものを、他人のことまで干渉したってはじまらない。嫌なら、さっさと切れなさい。  
四 女郎は、野郎、子供とちがひ、よく気のないものにて、あればありぎりに、くらすもの也。たまたまむしんをいへば、欲心女郎の、なんのといふは、あやまりなり。お客以外に頼めない女郎が、頼むのはよっぽどの事だと受け止めなさい。  
五 十人客のある女郎なれば、九人はだしなり。かしこい女郎はだしに使うお客を仲間以外にまで、大切にして見せるから、良く目をきかせなくてはいけません。  
六 きれし女郎への、つらあてとて、となりの家へ、ゆくは、せぬ事なり。ゆくからしては、今までより諸事よくせんと、思ふかくごの事ながら、その女郎の、あひやうによりては、とげて、買はれぬ事あり。次の揚屋でも切れて、あちこちゆけば、恥の上塗りになってしまう。切れる時は、筋を通し、他人には一言ももらさず、近くのお店へは行かないのが客のたしなみと言うものです。  
七 もはや、ふたたび来ぬなどど、いひちらし、腹立ちまぎれに、どやどやと、きれても、又立ちかへり立ちかへりすれば、くせになって女郎はおどろかず。おどしがきかなくなって、連れにたのんで、引っ張りだそうとするのがいるが皆の迷惑。客として恥ずかしいことです。  
八 見えのよき女郎に、あひたきは、人情なれば、女郎も又、その心なるべし。これを欲心だと思ってはならない。好きな男性にまことを尽くしたいのが人情。  
九 吉原は、全体意気をみがく所にて、諸事を、あまりこしらへ過ぎたることはせずど派手な服装をしたり、高いアクセサリーを見せるのは、いただけません。  
十 女郎買は、金をつかひ習ふより、意気地を覚ゆるが肝要なり。金はわきもの、ありさへすれば、つかふに、苦のなきものにて、意気は、にはかに覚えがたし。  
第一、男ぶりよく、心にしゃれありて、金銀も自由になり、此の三ツをそなへたるものこそ、まことの買手といふべし。しかし又、女郎かひには、貧富の論なく、名ほど貴きはなし。名のとほりたる、意気人には、いづかたにても、女郎はほれるものとしるべし。又女郎をだましすかすなど、さもしきわざにて、真の通人には、なき事なり。されば、意気地というは、心さっぱりと、いやみなく、伊達寛濶にて、洒落を表とし、人品向上(高尚)にして、実を裏とし、風流をもって遊ぶを真の通人といふ  
まあ、このように結論づけてあります。そこまでして通人なぞになりたく無いと思う人は、この世界に足を踏み込まないことと、最初に断ってありました。  
この書物が出た1767年は揚屋遊びが消滅して六年が経過していた時期になります。従って、手軽に遊べる引手茶屋が繁盛しはじめたころに作られたガイドブックであったことが分かります。ここに解説された通人の心得は、ほとんどが「揚屋遊び」時代に生まれたものながらそれを、庶民に開放する必要から、このような書物に大成されたのでしょう。本来は、このようであったと解説し、今の引手茶屋は、それらに比べれば随分簡略ですよと指導し、ファンを拡大することを狙ったものでしょう。  
クラブ、ラウンジ、スナックと呼び方は横文字になったけれど、現代の夜のお店でのマナーについても、上記十ケ条に通じるものがありそうです。  
 
女の器量

 

上田秋成とたま / ガンコ者の"奇才"を支えた苦労人の賢妻  
たまは夫の悩みをそのまま自分の悩みとするから、自分自身もつらくて仕方がない。しかし、たまにすれば、いつまでも自分を責めつづける秋成に、ぜひ弱った心を奮い立てて立ちなおってもらいたい。そんな気持ちが伝わったのか、ある日、秋成がたまを呼んだ。  
「ちょっと話がある。医者をやめようと思う。医は意だ、と言ってきたわたしが、医者にあるまじきことをして娘さんを死なせてしまった。どうにも責任の取りようがない。いっそのこと、お坊さんにでもなって、あの娘さんにお詫びをしたい」「では、そうしましょう」と微笑みながらうなずくたまを、秋成は驚いて見返した。  
「なんだって?おまえさんはわたしの気持ちをそんな簡単なものと思っているのかい?」「決してそんなことはありません。あなたがお坊さんになって、難波屋のお嬢さんの菩提を弔いたいとおっしゃるなら、わたしもいっしょに髪をおろします」たまの日の底には、「あなたの行くところには、いつでも、どこでもついていきます」という決意が秘められていた。  
「たまさん、おまえさんは、そこまでわたしのことを・・・」「あなたとはいったい何年いっしょに暮らしてきました?わたしがお店の家事手伝いをしていた頃からの伸ですよ」「知らなかったな、おまえさんのそういう気持ちを。若い頃のわたしは、養子のくせに道楽をつづけていて、おまえさんなど眼中になかった。おまえさんのほうも、わたしのことをしょうのない道楽息子だと思っていたに違いない。しかし、こうして夫婦になったのも何かの縁だ。縁というよりも、ホトケさまのおぼしめしかもしれない。おまえさんの存在がわたしにとっていかに大切かを、今夜はあらためて知ったよ」  
そう言って、秋成は一瞬、幸福感に浸っていたが、まもなくきびしい表情になった。  
「しかし、そんな勝手なことができるかな。暮らしの費用が得られなくなる」「両方を立てようとしても無理ですよ。自分のしたいことをすれば、一方では何かを失うのです。仕方ないでしょう」 
斯波渭川と園 / 芭蕉殺しの汚名の「試練」を分けあう  
元禄七年(一六九四)の九月二十七日、芭蕉は弟子の支考を連れて、おしどり俳人の家を訪れ、句会を開いた。じつはこの時、芭蕉は体調を崩し、熱が高く悪寒に身を震わせていた。しかし、サービス精神の旺盛な芭蕉は、そのことをおくびにも出さず、いつものようにおだやかに振る舞った。  
芭蕉の体調のことを知らない周は、「先生にごちそうをしてさしあげよう」と、用意していたキノコをいろいろ工夫しながら調理して出した。芭蕉は喜んで食べた。ところが、その帰途、病状が悪化し、芭蕉はそのまま大坂の南御堂前の花屋の離れで寝込んでしまった。それを開いた園はあわてた。  
「まさか、お出ししたキノコがあたったのではないでしょうね?」「そんなはずはない。だって、あの席にいた人は、私を含め、みんなおまえさんのキノコ料理を食べたのだからね。私だってこのとおりピンピンしているじゃないか」と、夫の渭川はなぐさめた。園は夫のことばに、「そうですね」といちおうは安堵した。  
ところが十月十日の午後、芭蕉は死んでしまう。諸国から弟子たちが集まった。うわさが流れた。それは、「先生は園女が出したキノコにあたって急に亡くなられたのだ」というものだ。おせっかいな弟子のひとりがこれを園に伝えた。園は「わたしのせいだ」と自分を責めた。  
心あたりはあった。芭蕉の病状が悪化したと開いて、園は何回か花屋の離れに見舞いに行った。ところが、部屋にいる弟子たちは、冷たい表情で園の見舞いを拒否した。目の底には、「おまえさんが出したキノコのせいで、先生の病状は悪化したのだ」という非難の色がありありと見えた。  
そういう事情だったため、園は葬式にも行けなかった。もちろん、芭蕉を弔う句会にも参加させてもらえない。園は嘆き悲しんだ。  
「あれほど先生を慕っていたわたしなのに、なぜ、お花一本供えさせていただけないのか」そう嘆く園を、そっといたわったのが夫の滑川だった。ただし、滑川は底の浅いなぐさめ方はしなかった。  
「おまえさんがそれほど苦しむのなら、その苦しみにいっしょに立ち向かおう。逃げるわけにはいかない。しつかりと苦しみと向きあおう」ふつうの夫だったら、「体をこわすといけないから、あまり心配しなさんな」と言うに違いない。が、渭川はそうではなかった。園はしみじみ思った。  
「夫婦は一心同体だと言われる。まさにわたしの夫は、そのことを実行してくれている」渭川と園はその後も、芭蕉門下の人びとから、「師を殺した悪人」という非難のツブテを投げられた。しかし園は、夫にしっかり寄り添って生きぬく。そして、ふたりにそういうカを与えたのは、やはりあの慈悲深い芭蕉のおもかげと、豊かな俳句の心である。  
「先生が残してくださったこの心さえ失わなければ、わたしたちは生きていける」夫の滑川はそう言った。園はうなずく。  
しかし、「師殺し」の汚名はなかなか消えることはなかった。そのうち、滑川が病の床についた。渭川は医者だから、自分の体のことはよくわかった。やがて、固に言った。「ダメかもしれないな」「心細いことを言わないでください。まだ、わたしの苦しみは終わっていません。もうすこしいっしょに生きてください」「いや、おまえさんはもう、ひとりで立派に生きていけるよ。もともと、芭蕉先生を死なせたのはおまえさんではないのだから、そろそろ免罪符をもらってもいい頃だよ。わたしは先に逝っても、あの世からずっとおまえさんを見守るよ」滑川は気弱く微笑みながら、そう告げた。そして滑川はあの世へと旅立った。  
夫を弔ったあと、園は江戸に出た。冷たいまなざしに囲まれて大坂で生きることはもうできない。知己のいない江戸で生きようと考えたのだ。  
滑川に死なれた当時、園は四十二歳だったという。まだ女盛りなので、言い寄る男も少なくなかった。園はザルをかぶったり、あるいは化粧なしのすっぴんで客に応対したりして、できるだけ自分の体から漂う女らしさを隠した。やがて男たちも寄りつかなくなった。  
園の心の中には、つねに滑川がいた。「同行二人」のことばどおり、夜、夢を見ると、園はかならず夫といっしょに杖をついて、遠い道のりを歩いている。その毎晩の夢が、昼間の苦しみに満ちた生活をどれだけ救ってくれたかわからない。  
享保十一年(一七二六)四月二十日、囲も死ぬ。しかし、決して孤独ではなかった。「すぐ行きますよ、待っててくださいね」あの世への道をたどりながら、園は待ってくれている夫にそう呼びかけた。 
細川忠輿とガラシャ玉 / 人間の運命を見事に全うした女の一生  
ある日、久しぶりにふたりで食事をした。庭で植木職人が高い木に登って努定を行なっていた。が、どうしたのか突然、足を踏みはずした。地面が揺れた。怒った忠輿は、だまって立ち上がると、刀を抜いて、いきなりその植木職人を殺してしまった。  
戻ってきた忠輿を、玉は静かな表情で見た。あまりの冷静さに、忠興があきれて言った。  
「ずいぶん冷静だな。おまえは蛇か?」玉は静かにこう答えた。  
「鬼の女房には、蛇がふさわしゅうございましょう」これには忠輿も言い返すことばを失った。  
忠輿は秀吉に重用されて仕事が忙しいため、なかなか屋敷に居つかない。玉はひとりで過ごすことが多くなった。やがて玉は、変わらずに仕えていたマリアの言に従って、ついに洗礼を受けた。ガラシャという洗礼名をもらった。ガラシャというのは、<神の恩寵>のことである。信仰一途に生きはじめた玉は、生きがいを得た。  
やがて、関ケ原の合戦が起こった。忠興は父・幽斎とともに、徳川家康のひきいる東軍につく。西軍の将として、石田三成は大坂にいた徳川方の大名の妻子に人質として大坂城に入城するよう追った。玉のところにも軍勢がやってきた。この時、玉は入城を拒み、家老に、「わたしはキリシタンなので自殺はできません。あなたが殺してください」と言って、自分の胸を槍で突かせた。家老は玉を殺したあと、屋敷に火を放ち、その火の中で腹を切って死んだ。  
そのことを前線で知った忠輿は、言いようのない衝撃を受けた。  
「わたしは石田三成の人質にはなりません。自分を大切にして、お先にあの世へまいります」忠輿への遺書には、そう書かれていた。忠興が感動したのは、「妻は最後まで人間の尊厳を大切にして生きぬいた」ということである。そして、そのために死を恐れなかったということだ。以後の忠輿は変わる。かれは玉の死によって学んだ。「自分にとっていちばん大切なものは、どんなことがあっても失ってはならない」ということを。 
徳川家茂と和宮親子 / 「徳川の人間」になりきった内親王  
ところが嫁いでみると、家茂は意外とやさしい、気品のある青年だった。ともに十七歳である。親近感がしだいに「夫と妻の愛情」に変わっていった。和宮は献身的に家茂に尽くすようになった。  
やがて、第二次長州征伐の総指揮をとるために、夫の家茂は大坂城に下った。しかし、もともと病弱だった家茂は、この大任に耐えることができず急死してしまう。慶応二年(一八六六)七月のことである。二十二歳だった。出発する前に、家茂は和宮に対し、「大坂へまいりますので、何か京都で土産を買ってきましょう」と言った。和宮は喜んで、「それでは、京の錦の布がほしゅうございます」と答えた。家茂は大坂城に入ると、すぐに使いを出して、京都から錦の布を賄入し、それを大切に持っていた。そして、「早く江戸に戻って、これを和宮さまにさしあげたい」と楽しみにしていた。ところが急死してしまった。家茂の遺体とともに、土産になるはずだった錦の布が届けられた。和宮は泣いた。そしてこう詠んだ。  
うつせみ(空蝉)の唐織ごろも何かせん  
綾も錦も君ありてこそ  
「いまはむなしくなってしまったこの錦の布、わたしにとっては何の意味もない。美しい綾も錦も、君(家茂のこと)がいらっしやつてこそはじめて価値があるのだ」という、哀切極まりない歌である。  
家茂のあと将軍になった徳川慶喜は、やがて大政奉還し、徳川幕府は消滅する。しかし京都新政府は、「慶喜を朝敵として殺し、江戸を焼き払う」という方針を決めた。  
その東征大総督には、皮肉なことに有栖川宮蛾仁親王が任命された。和宮のかつての許嫁である。これを知った和宮は、有楢川宮に手紙を書いた。  
「最後の将軍徳川慶喜には、朝廷への謀反の気持ちなど毛頭ありません。どうか、かれの命を助け、徳川家を存続させてください。また、江戸には百万の市民がおりますので、火をかけるようなことはなさらないでください」  
いまや完全に「徳川の人」となった和宮の悲痛な願いであった。有栖川宮はこの手紙を参謀の西郷隆盛に見せた。西郷も腕を組んで考えた。西郷の胸の中にも、(もしも和宮さまに万が一のことがあったら、政府軍の責任になる)という心配があった。西郷は旧幕府代表の勝海舟との会見心よって、江戸の無血開城を実現させた。江戸は救われた。  
ここにいたるまでの和宮の努力は、並大抵のものではなかった。かつての許嫁に、「最後の将軍の助命嘆願」の手紙を書く気持ちは、じつに複雑なものであった。しかし、いったん嫁入りした以上、和宮はあくまでも、「わたくしは徳川の人間だ」と考えていた。そしてそうさせたのは、生前の夫家茂のつねに静かでやさしいまなざしと、深い愛情であった。  
和宮は、明治十年(一八七七)の秋、三十二歳で箱根の温泉宿で静かに亡くなる。家茂が京都で買ってきてくれた錦の布を生涯大切にしていたという。 
宇喜多秀家とお豪 / 島流しの夫を支えつづけた利家の娘  
一方、秀家が薩摩に逃亡したのち、お豪は実家の前田家に戻った。前田家は加賀国(石川県)の金沢城に拠点をおいていた。  
しかし、やがて夫の秀家が自首し、家康に命を助けられて八丈島に流されたと開くと、「私も八丈島に行きたい」と、お豪は無茶なことを言った。お豪はかなり強気な女性で、男のような振る舞いが多かったという。まわりの人間はしきりに止めた。が、お蒙はあきらめなかった。  
その後、前田家は富山に分家をつくつた。現在の富山城である。これに目をつけたお豪は、一策をめぐらして、富山の山岳部のふもとに、「奥山番」という役所を設けてももらった。これは、分家が管理する山林関連の仕事を行なう役所だ。ところがお蒙のねらいは、山林管理などではなかった。  
「ここを基地にして、八丈島の夫に密かに必要な食糧やお金を送りたい」というのが、役所新設のほんとうの理由だった。加賀の金沢城でそんなことをおおっぴらに行なえば、すぐ徳川幕府ににらまれる。そこでお豪は知恵を働かせて、分家の城下町の片隅にこの秘密の基地を設け、実家が困らないようにしたのである。  
現在も富山市内では、この奥山番の役所のことを「浮田屋敷」と呼んでいる。字が違うが、これはおそらく世をはばかって「宇喜多」を「浮田」に変えたのだろう。  
富山を訪れた時、この家の管理責任者に話を開くと、「ここは山林管理を表向きの役目にしていますが、じつは八丈島の字喜多一族に差し入れをするための秘密の基地だったのです」と説明してくれた。  
お豪の夫思いの心は、八丈島の秀家に通じた。  
本来、島に流された罪人は、餓死させられるのがふつうだ。島の人間は面倒を見ない。秀家もかつての大名の身分を忘れて、自分で海藻を拾ったり、魚を捕まえたりしなければ生きていけなかった。秀家はつくづく「こんな暮らしには耐えられない」と思ったことだろう。  
そこへ、思いもかけぬお牽からの差し入れである。秀家は喜んだ。そして、島の端から本土を望み、遠く金沢の地にいる妻の姿を思い浮かべながら、「ありがとう」と心の底から礼を言った。  
この差し入れは長くつづいた。  
秀家とお豪は二度と会うことはなかったが、お豪の夫を思う気持ち、秀家の妻を思う気持ちは、時空を超えて行き交った。秀家はこの鳥で八十三歳まで生きぬく。  
ちなみに、字喜多秀家の子孫は島に定住したが、徳川幕府が存続する限り、その罪は許されなかった。幕府が倒れて明治維新になって、やっと許された。この時、宇喜多家の子孫が、まず訪ねていったのが前田家であったという。前田家の八丈島の秀家の子孫に対する厚情は、その後もつづいていたのだ。  
宇喜多秀家とお豪夫婦は、戦国に咲いた「一輪の美しい花」である。  
秀吉が秀家を愛し、おねがお豪を愛したのは、ふたりが「汚れのないナイーブな気持ち」を持っていたからである。詩人中原中也の「汚れちまった悲しみ」とは縁のない、ふたりの心の美しさを愛したのだ。苦労の連続だった秀吉とおね夫婦は、秀家・お豪蒙夫婦に、「あるべき夫婦像」を見たに違いない。 
真田信之と小松 / "当て馬"を見事に変身させた女の器量  
しかし、決戦場である関ケ原では、西軍側に次々と裏切り者が出た。大坂城からは豊臣秀頼も、総大将の毛利輝元も出てこなかった。徳川家康は大勝し戦後後処分が行なわれた。首謀者の石田三成たちは捕らえられて処刑され、三成に味方した大名は全部領地を奪われた。  
ゲリラ戦で秀忠軍をくいとめて、ついに秀忠軍を決戦に参加させなかった真田昌幸と信繁父子は、重大な戦争犯罪人だ。当然、死刑が予想された。  
この時、小松は、「おふたりの助命をお願いしましょう」と、まず、信之に家康への助命嘆席を頼んだ。そして、「わたくしも実父にお願いします」と、みずからも手を打った。小松の実父は家康の功臣本多忠勝だ。はじめは「真田父子は殺す」と考えていた家康も、この嘆願には心を打たれた。ふたりは命を助けられ、紀州国(和歌山県)の紀ノ川上流の九度山に流された。  
そうなると小松は、「この果物を召し上がってください」とか、「ご不自由でしたら、なんでもお申しつけください。すぐお届けします」と、しきりに差し入れをした。そのたびに夫の信之は「すまぬ」と礼を言った。一方、九度山で蟄居生活を送る昌幸は信繁に、「小松はすばらしい嫁だ。おかげで命が助かったし、流刑の地での暮らしにもあまり不自由せぬ。信之は果報者だ」と再三語った。  
妻に感謝しつつも、夫の信之は半面では不思議に思い、「なぜ、おまえは父と弟にこんなに温かいのだ?関ケ原の合戦の時には、ふたりを沼田城で門前払いしたではないか」と訊く。小松は微笑んでこう答えた。  
「あの時、おふたりはあなたの敵でございました。でも、敗れたのちは家康さまに降伏なさいました。いまは"ただの人"でございます。というより、わたくしの舅と義理の弟です。困っているのに、知らん顔はできません」「なるほど」生き方にメリハリをつけて筋道を通す妻に、信之はあらためて、「おれはこの妻に支えられている」と思うのだった。  
その後に起こった大坂の陣の前に昌幸は死に、信繁(幸村)は大坂方のために奮戦するが、豊臣家は滅びる。信之は信州松代城を与えられ、その地位は子孫に受け継がれ、明治維新までつづく。当主のひとりは、外様大名でありながら徳川幕府の老中にまでなる。  
これもすべて、信之が小松と心を合わせて、徳川家康のために尽くした結果であった。最初の婿探しで小松が選んだ信之という夫は、まさに期待どおりの武士だったのである。 
緒方洪庵と八重 / 大きなフイゴの"空洞"となった秀才塾のおかみさん  
洪庵は幕末に死ぬが、八重は明治十九年(一八八六)まで生きる。この塾から出た俊秀たちは、折りふれて八重を訪ねた。そして、その当時の日本の状況や自分が日下やっていることなどについて話した。ニコニコしながら耳を傾ける八重は、かれらが帰ると、かならず夫の位牌に報告した。  
「今日は福沢さんが来て、こういうお話をしていきましたよ。福沢さんもずいぶんと立派におなりです」位輝にそういう報告をすることが、夫がいなくなったあとの八重のなによりの楽しみであり、同時に生きがいでもあった。  
緒方洪庵の教育方法は、単なる自由奔放主義ではない。洪庵の思想の原点は、中国古代の思想家の老子や荘子である。とくに老子だ。  
老子にこういうことばがある。  
「フイゴにとって大切なのは、器具の部分ではなく、むしろなにもない空洞だ。空洞がなければ、フイゴは風をおこして火をおこすことができない」洪庵が適塾の門人に教えたのは、「フイゴの空洞になれ。その心がまえが世の中に役立つ」ということであった。八重はこの教えを守った。  
「私は夫のフイゴの空洞になろう」と志した。だからこそ逆に、門人たちにとって、なくてはならない存在になったのである。 
桂小五郎と幾松 / 文字通り「たとえ火の中、水の中」を生涯つらぬく  
桂の恋人幾松は、京都三本木の芸者である。若狭国小浜の武士の娘だったというが、家が貧しかったので、京都に出てきて芸者になった。当時、京都の芸者も、武士と同じように勤王芸者と佐幕芸者に分かれていた。幾松は勤王芸者である。  
禁門の変の前後から、恋人の桂のゆくえがわからなくなってしまっていた。幾松は必死になって探し歩いた。  
たまたま長州藩に出入りしていて、幾松も知っている商人にバッタリ会った。  
「桂さんはいまどこにいらっしゃるかわかりませんか?」と訊くと、その商人は声をひそめてこう言った。  
「鴨川の橋の下にいらっしゃいます」幾松はびっくりした。鴨川の橋の下にいるということは、桂は物乞いになって身をひそめているということだ。幾松は、「桂さんはそこまで追い詰められているのだ」と思うと、胸がいっぱいになった。  
そこで夜になると、幾松はにぎり飯をたくさんつくつて、鴨川に足を運び、河原を忍び歩いた。ある席の下に行くと、「幾松」と呼びかける男がいた。近寄ると、桂だった。  
「先生」幾松の目には、喜びの涙がどっとあふれた。  
「ひどいことになった。行き場所がない」桂はそう言って苦笑した。どんなに追い詰められても、笑顔を忘れないのが桂の性格だった。幾松はほっとして、持ってきたにぎり飯をさし出した。すると、桂はとても喜んだ。  
「これはありがたい。ちょうど腹が減っていたところだ。おい、みんなで食おう」そう言って桂は、幾松からもらったにぎり飯を、橋の下にいる仲間に分けた。仲間たちも喜んで、にぎり飯にむしゃぶりついた。そんな光景を、幾松は胸がしめつけられる思いで見つめていた。  
次の晩も、その次の晩も、幾松はにぎり飯を運んだ。  
「こんなところを幕府の役人に見つかったら、おまえも捕まるぞ」桂が心配してそう言った。幾松は激しく首を横に振った。  
「いいえ、先生のご苦労を思えば、こんなことぐらいなんでもありません。わたしも命がけです」そう強い決意で言う幾松に、桂は心から感謝した。 
源頼朝と北条政子 / 激情家にして「現実対応」をよくした尼将軍  
やがて頼朝が急死し、二代目二二代目将軍がそれぞれ若死にすると、頼経が四代目将軍になった。ただし、頼経はまだ幼かったので、政子が後見した。そこで政子は、「尼将軍」と呼ばれた。  
京都の後鳥羽上皇が、平家の残党たちを語らって、「鎌倉幕府打倒」の兵を挙げた。かつて頼朝に従っていた東国の武士たちは動揺した。鎌倉を守るべきか、それとも京都側について鎌倉を攻めるべきか。侃々諤々の騒ぎになった。この時、政子は東国の武士を鎌倉に集め、こう宣言した。  
「あなたがたは、かつて京都でどういう扱いをされたか忘れてしまったのか。あの頃、東国の武士はすべて公家のイヌとして扱われ、雨の日も雪の日も門の外に立たされ、番犬の役割をしていた。しかもその費用は全部自分持ちだった。だから京都からは、ポロポロの着物に、すり切れたワラジひとつで戻ってきた。しかも、任期は三年だった。それをわが夫頼朝公は、期間を半年に縮めたうえ、費用は全部京都持ちにさせた。そのことをお忘れか?もう一度あの惨めな状況に戻りたいのならば、さっさと京都へ行くがよい。しかしその時は、かならずこの政子を殺してから行ってほしい」  
火を吐くような政子のことばに、東国の武士たちは感動した。  
 
傀儡女の登場と変容 / 日本における買売春

 

はじめに  
傀儡子は、定まれる居なく、当る家なし。穹廬氈帳、水草を遂ひてもて移徙す。頗る北荻の俗に類たり。男は皆弓馬を使へ、狩猟をもて事と為す。或は双剣を跳らせて七丸を弄び、或は木人を舞はせて桃梗を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜蔓蜒の戯に近し。沙石を変じて金銭と為し、草木を化して鳥獣と為し、能く人の目を□す。女は愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲を為し、朱を施し粉を傳け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む。父母夫聟は誡□せず。  
と『傀儡子記』に描写したのは、大江匡房(1041〜1111)であり、晩年の作とされている。十一世紀に生きた藤原頼通(992〜1074)も、「傀儡子は、素より往来頻りにて、万里の間に、居も尚新たにす」と詠っている。十一世紀には、家を構え定着して居住するのではなく、諸国を移動しつつ生活していた。  
『傀儡子記』からは、傀儡子集団は主として狩猟生活を営んでいること、二本の剣をお手玉にしたり七つの玉投げなどの芸、「魚竜蔓延の戯」すなわち仮頭を頂いて魚が竜になったり竜蛇や熊虎になったりする変幻の戯芸等と、木人を舞わす芸等を行っていたことがうかがえる。前者の芸は、七・八世紀に取り入れられた唐散楽のうち軽業的なものと幻術的な芸であり、後者の人形回しは、十一世紀中頃の『新猿楽記』にも、「くぐつまはし」とあり、日本固有の芸能であった。主として傀儡子集団の男性芸能である。  
さらに、傀儡子集団の起源については、奈良時代の乞食者の後身とし、古代の漁労民・狩猟民に求める林屋辰三郎説などに対して、傀儡子族は朝鮮からの渡来人で芸能は生地で中国人か西域人に学んだもの、とする滝川政次郎説、過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民とする角田一郎説などがある。小稿では主として平安時代以降の傀儡子集団の中での女性を対象とするので、起源等は問わない。  
大江匡房は、傀儡子女性に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩き難いふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧、等々で歌を歌い淫楽をして男をさそう、父母夫聟は誡めもしない、と記す。多分に漢籍的表現であり現実の描写とするには躊躇されるが、歌を歌い売春をする姿は実態であろう。この傀儡子女性については、滝川政次郎・脇田晴子氏等は、遊女は水辺、傀儡女は陸の宿駅と区別されていた、と遊女や白拍子との相違を明確に提示しているが、いっぽうでは、「傀儡子という遊女」と記されることも多い。たしかに、『下学集』下、態藝では、「傀儡〈日本、俗に遊女を呼びて傀儡と曰う〉」とある。しかし国語辞典である『下学集』は、文安元年(1444)頃の成立とされており、十五世紀には、遊女と傀儡が同じだったことは確かめられる。しかし、何時頃から、どのような要因で傀儡子女性が遊女と呼ばれるようになったのか、詳細な研究はなされていない。日本における買売春の成立にとっては大変重要な一つの要素であり、また最近、買売春の通史も出ているが、混乱がみられるように思われる。筆者は白拍子についても同様な課題で分析したが、小稿は、傀儡子女性について、買売春の成立過程と変容の視点から、史料に即して考察を加えたい。そのため、傀儡子女性を傀儡女と記すこととする。
一、傀儡女の登場  
傀儡女のことだろうと推察される早期の史料に、次の長久元年(1040)五月三日の日記がある。  
右府に参る。相公亞将云わく、「今日、桂別業に向かうべし。相共に如何」。予、応許す。巳時ばかり、同乗し、彼の所に向かう。資高、資頼、資仲等、相同す。終日遊興の間、傀儡子来たりて歌い遊ぶ。はなはだ興有り、興有り。(『春記』)  
藤原資房は、養祖父右大臣藤原実資八十四歳邸に行ったところ、娘千古の婿参議左中将兼頼二十七歳から桂別業での遊宴に誘われたので、資高四十二歳、資頼、資仲二十歳等の小野宮一族たちと同行する。午前十時頃から夕方まで、終日遊興した場所に、傀儡子が来て歌った、という。父中納言資平五十七歳は同行しておらず、二十〜三十歳代の男性達で出かけたようである。『源氏物語』にも光源氏が桂の院の別邸で遊宴した場面があり、また藤原道長も造作しており、桂別業は貴族層の別荘の地だった。道長の孫兼頼の誘いであり、道長が造作した桂別業であろうか。  
十世紀から十一世紀にかけて、江口・神崎等には遊女がおり、貴豪族層の寺社詣でや任国赴任等の職務による往来等の際には活躍していたが、交通の要衝ではない桂別業辺りに遊女はいなかった。「傀儡子来たりて歌い遊ぶ」とあるから、男性芸能者ではなく、傀儡女と考えてよく、また「来たりて」との表現から、傀儡女集団の居住地は桂別業あたりではない可能性があり、この期は、先の『傀儡子記』のように、定住していなかったと推察される。  
なお、「傀儡」そのものは、『枕草子』に登場する。  
とりもたるもの、傀儡のこととり。  
(得意然としているものは、傀儡の長)  
「傀儡のこととり」とは、傀儡回しの長であり、『枕草子』の前後関係から詳細に分析すると、年の始めに貴顕富家を訪れて、人形を廻しながら、めでたい寿言を唱え、言霊の幸を予祝する十数人で構成された傀儡集団が想定できる、とされている。この場合は、『今昔物語集』巻第二十八第二十七話「伊豆守小野五友目代語」が想起される。伊豆守小野五友は、目代が居なかったので東西を捜したら、「駿河ノ国ニナム、才賢ク弁ヘ有テ、手ナド吉ク書ク者」がいたので採用した。書も算術も有能で、万を任せていた。ある日、「傀儡子ノ者共多ク館ニ来テ」「歌ヲ詠ヒ、笛ヲ吹キ、オモシロク遊ブ」。これを聞いた目代は、文書に押す印を傀儡子の拍子に合わせて、「三度拍子ニ印ヲ指ス」。傀儡子たちは怪しがって、ますます詠い叩き、「急ニ詠ヒ早ス。其ノ時ニ、此ノ目代、太ク辛ビタル音ヲ打出シテ、傀儡子ノ歌ニ加ヘテ詠フ」。音楽を聴き、思わず昔の事を思い出し、詠ってしまったのである。はたと気がついた本人は、恥ずかしがってその場から逃げ出したが、守は「傀儡子目代」と名付けた。「少シオボエ下リニケレドモ、守糸惜ガリテ、尚仕ヒケリ」。この説話では傀儡集団が笛や太鼓で拍子を取り、面白おかしく囃しながら、歌を詠ったこと、地方を巡業していたことがわかる。目代が詠ったとあるから、傀儡集団は男性が居た事はたしかであるが、後に述べるように傀儡女は歌を詠うから、居たのであろう。さらに、目代は駿河国出身であり、伊豆国の傀儡子集団には面識がなかったことも判明する。各国単位くらいに傀儡子集団がおり、国内を巡業していたのであろうか。  
十二世紀中頃に成立したとされる『本朝無題詩』には、「傀儡子」をまとめた七遍の漢詩があり、藤原頼通の漢詩が最初である。  
  傀儡子は 素より往来頻りにて  
  万里の間に 居も尚新たにす  
  宿を卜して独り歌ふ 山月の夜  
  蹤を尋ねて定めず 野煙の春  
  壮年には 華洛の寵光の女なりしも  
  暮歯には 蓬廬の留守の人なり  
  行客征夫の 遥かに目を側むるは  
  是れ斯れ 髪白く 面も空しく皴めればなり  
資房たち一行の年齢を考慮すると頼通の壮年の作と推察されるので、資房が傀儡女に出会った頃と考えてよかろう。天下を頻りに往来し万里の間に居所を新たにしつつ、宿所を定めて山川のうるわしい夜に歌うこともあり、「華洛」で評判の傀儡女がいたことがうかがえる。桂別業に「来た」傀儡女たちだったのかもしれない。  
『本朝無題詩』には、頼通の他に藤原敦光( 1062〜1144)、藤原基俊(1056〜1142)、藤原実光(1069〜1147)等の生没年が判明する貴族の傀儡女を詠んだ漢詩が載っているので、十一世紀後期には、貴族たちとの交流が多かった事が明らかになる。いっぽう、漢詩はむしろ十世紀から十一世紀前期の方が盛んだったとされるが、傀儡女を詠うのは頼通作が最初であることから、傀儡女が貴族と交流するようになるのは、十一世紀中期頃からと考えてよいと思われる。  
では、傀儡女たちはどこに居たのか。『傀儡子記』には、「東は美濃・参川・遠江等の党を、豪貴と為す。山陽は播州、山陰は馬州等の党、これに次ぐ。西海の党は下と為せり」とある。美濃・三河・遠江は東海道である。藤原敦光は、「濃州傀儡子の居る所、青冢」と説明しており、美濃国不破郡の宿駅青墓が居所だった。十一世紀末には、すでに傀儡女が本拠とする居所が決まっており、その地には「党」と呼ばれる集団が存在したことが判明する。『梁塵秘抄口伝集』には、「さはのあこまろとて、青墓の者、歌数多知りたる上手、このたび上りたり」と「さはのあこまろ」が見え、さらに、「あこまろが母は、大進が姉に和歌と申し候し也」と、母子で上京し、貴族たちと今様を詠っている。また「五月花のころ、江口・神崎の君、美乃の傀儡女集まりて、花参らせし事ありき」と美濃の傀儡女が見える。歌人で白河上皇の側近公卿藤原顕季(1055〜1123)が、「日詰めにて、墨俣・青墓の君ども数多喚び集めて、様々の歌をつくしける」と東海道の墨俣や青墓の傀儡女が多く上京して歌を詠っており、墨俣にも傀儡女がいる。  
藤原茂明は「名を傀儡と称すは 何れの方にか有る」と詠いだし、「鏡山の月冷じきに家郷を卜す」と、鏡山にも傀儡女が家居している(『本朝無題詩』)。鏡山は滋賀県蒲生郡の宿駅で、『梁塵秘抄口伝集』には、「鏡の山のあこ丸」(後述)が著名である。また、『無名抄』には、「ふけの入道(関白忠実)に、俊頼朝臣候へる日、かがみのくぐつども集まりて、歌つかふまつりけるに」と、鏡の傀儡どもが関白藤原忠実の邸宅に集まっていたとある。後述するように、傀儡女たちは本拠地から上京して都の貴族邸で詠歌している。「鏡の傀儡ども」とあるから、大勢上京したのであろう。  
中原広俊は、「三河国赤坂傀儡女中、口髭多い者有り。口髭君を号す故なり」と詞書きに記し、「名を得たる赤坂は 口に髭多し」と詠っている(『本朝無題詩』)。三河国赤坂にも傀儡女がいたことが判明する。東海道の宿駅、近江国の鏡、美濃国の青墓・赤坂等には傀儡女が居た事が確認でき、その中でも、美濃・三河・遠江の傀儡女達は「豪貴」、華やかで豪華だったのであろう。  
また中原広俊は、「色を売る丹州は 容の醜きを忘れ」と詠い、「丹波国傀儡女、容貌皆醜し。故にいわく」と説明している(『本朝無題詩』)。『傀儡子記』には、「山陽は播州、山陰は馬州等の党」とあり、但馬が見えるから、山陰道の宿駅にも傀儡女が居た。  
十一世紀から十二世紀初頭にかけて、「傀儡」「傀儡子」「傀儡女」と史料にみえるのは、以上であるが、十二世紀末まで、すなわち平安時代に関しては、淀川の山崎・桂本・江口・神崎等は遊女、東海道・山陰道等の陸の宿駅にいるのは傀儡女と明確に区別されていたことは、史料的にはほぼ妥当である。後白河上皇は『梁塵秘抄口伝集』の叙述において、明確に区別している。  
斯くの如き上達部・殿上人は言はず、京の男女・所々の端者・雑仕・江口神崎の遊女・国々の傀儡子、上手は言はず、今様を謡ふ者の聞き及び我が付けて謡はぬ者は少なくやあらむ。  
遊女は江口神崎、傀儡子は諸国とある。十二世紀末成立の『建久四年六百番歌合』には、「遊女に寄せる恋」十二首は、すべて水上、「傀儡に寄せる恋」はすべて陸上であり、間違いなく、水上と陸上の女性達の区別は明確になされていたと言う事ができる。  
ところで、『更級日記』で作者たち帰京一行は、足柄山の麓で「あそび」に出会った。  
麓にやどりたるに、月もなく暗き夜の、闇にまどふやふなるに、遊女三人、いづくよりともなく出できたり。五十許なるひとり、二十許なる、十四五なるとあり。庵のまへにからかさをささせて、すへたり、をのこども、火をともして見れば、昔、こはたといひけむが孫といふ。  
「遊女」と漢字で記され、「あそび」とルビがふられている。高く澄んだ声で謡ったとあるから、二十許の女性が謡ったのであろう。こはたの孫はこの女性だとすると、十世紀末頃にいたことになる。前述の十二世紀末までは、遊女は水辺、傀儡女は陸上の芸能者、との整合性はどのように考えるべきであろうか。千葉県市川市にある下総国府域出土の「遊女」墨書皿が、「遊女」の初見史料であり、出土地は、九世紀後半の井上駅家や市が推定されている。また、寛平三年(891)十一月二十四日の賀茂臨時祭には、「鴨明神に於いて奉幣走馬有り。勅使右兵衛督藤原高経、遊男二十人を率い上下社に参る」(『日本紀略』)、と九世紀末には「遊男」が出てきており、この遊男は、歌舞を奉納するために選ばれ教習された若い官人たちだった。「遊女」はあそびと訓じられており、「遊男」も同様によばれていたと思われる。  
『遊女記』には、「倡女群をなして、扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む」とあり、歌を謡い、共寝もする芸能者である。『傀儡子記』には、「倡歌淫楽して、もて妖媚を求む」と、謡と、共寝は同じである。『今昔物語集』巻第十三第四十四話にも、「遊女・傀儡等ノ歌女ヲ招キ詠ヒ遊ブ」と遊女と傀儡女は「歌女」と分類されている。京内の歌女については白拍子検討の際に、考察を加えたが、『梁塵秘抄口伝集』でも、今様を謡うのは同じであった。本来は、陸上も水辺も「歌女」は「あそび」とよばれ、「遊女」と記していたものの、旅の無事を言祝ぐ傀儡子集団が陸の宿駅に多く定着するようになり、傀儡女が今様を謡うようになったため、陸上は「傀儡」「傀儡子」「傀儡女」、水辺は「遊女」と漢字で区別され、呼ばれるようになったのではなかろうか。まだ仮説の域でしかないが、今後とも検討したい課題である。  
いずれにしても、十一世紀以降十二世紀末までは、水辺と陸上の「歌女」は区別され、水辺は遊女、陸上の宿駅は傀儡女、さらに京内は歌女と区別されていたことを確認しておきたい。
二 傀儡女の存在形態  
陸上の宿駅で今様を謡う「あそび」としての傀儡女の、生活を史料に即し、具体的に考察していきたい。  
まず、第一に、基本的生活の資は、歌と売春だったことが指摘できる。藤原敦光は、次のように詠っている。  
  秋の月に関を出でて 遠城に赴くに  
  傀儡の群至りて 行き行くを妨ぐ  
  契り結びし旅店 霜低き夕  
  歌ひ居る駅亭 月落つる程  
  翠黛紅粧もて 己が任と為し  
(秋の頃 関を出て東方への遠い旅に出る。すると傀儡の集団が旅路に立ち現れる。旅宿がおり始めた夕方に一夜の契りを結び、月も沈む頃、宿場で歌を歌う。黛や頬を赤く化粧することが仕事で)(『本朝無題詩全註釈』より)  
傀儡女は旅宿で歌い、夜は一夜の契りを結ぶ、つまり共寝をする。この歌と売春が基本的な生活の資である。『傀儡子記』には、「父母夫聟は誡□せず」と父母や夫が居た事が記されていたから、「傀儡の群」の中には父母や夫を持つ女性もおり、集団で生活しつつ、「旅店」「駅亭」で歌と共寝の仕事をしていたのであろう。傀儡集団では、夫は妻である傀儡女の性を独占的に所有していなかったのは、職業柄であろう。  
十一世紀末から十二世紀には、すでに東に向かう東海道の宿駅に、歌と共寝を業とする傀儡女が定着して生活していた。  
第二に、定着が始まっても、顧客の要請で、京上したり、地方赴任に同行するなど、移動も多かった点である。保元二年(1157)九月、後白河法皇が、法住寺で今様談義をしていた時、乙前(1087〜1169)は次のように語る。  
監物清経、尾張へ下りしに、美乃国に宿たりしに、十二三にてありし時、目井に具して罷りたりしに、歌を聞きて、「めでたき声かな。如何にまれ、末徹らむずることよ」とて、やがて相具して京へ上りて、目井やがて一つ家にいとほしくして置きたりしに(『梁塵秘抄口伝集』)  
乙前が十二三歳のこととあるので、永長元年(1096)ないし承徳元年(1097)に、監物清経が尾張国への下向途中で、美濃国青墓宿の傀儡女目井と出会い、その養女乙前の声がすばらしく、末はたいした事になるに違いないと考え、やがて目井と乙前と一緒に上京し、目井に家を与えた、とある。監物清経は、源清経であり、西行法師の外祖父とされている。清経は、目井に他の弟子も取らせ、今様を徹底的に伝授させる。  
清経、目井を語らひて、相具して年比棲み侍けり。歌のいみじさに、志無くなりにけれど猶在りけるが、近く寄るもわびしく覚えけれど、歌のいみじさに、得退かでありけるに、寝たるが余りむつかしくて、空寝をして後向きて寝たり。背中に目をたたきし睫毛の当たりしもおそろしきまでなりしかど、それを念じて、青墓に往く時はやがて具して行き、迎へに行て具て還りなどして、後に年老いては、食物給てて、尼にてこそ死ぬるまで扱ひてありしか。「近代の人、志無からむに、京なりとも行かじかし」とこそ言ひけれ。(『梁塵秘抄口伝集』)  
清経は、上京して目井と同棲していたが、今様がすばらしく棄てがたかったので、情人としての愛情は無くなり、寝ていて背中に睫毛が当たるのも煩わしかったけれども、目井が故郷の青墓に帰る時は同行し、迎えにも行くなどして、年老いても「食物給ひ」、生活は保証し、尼になり、亡くなるまで世話をした。近頃の男性は、熱が冷めると京内だって行ってくれたりしないのに、清経はよくしてくれたものだ。これも乙前が後白河上皇に語った言葉である。目井も乙前も、京と青墓を往復している。目井は、清経の情人=妾となり、京に長年住んでいても、「青墓の目井」と人々から称されていたことも傀儡女の宿駅への定着が確認される。  
青墓のあこまろの母の和歌は、「四三に疾く後れて、大曲の歌をばえ謡はざりしに、土佐守盛実が甲斐へ具て罷りたりしに習ひたりし」(『梁塵秘抄口伝集』)と語っている。四三とは、美濃国青墓の傀儡女師承系譜では、宮姫─小三─なびき─四三と継承される今様の継承者であり、盛実は四三から今様を伝授されていたのであろう。いずれにしても、傀儡女和歌は、国守に同行して、甲斐国まで行っている。四三も、「ふしみにくぐつのしさむがもうできたりけるに・・もと宿したりける家にはなしてと、もうでこざりければ」(『散木奇歌集』巻十雑)とあり、伏見に来ていた。「ふけの入道(関白忠実)に、俊頼朝臣候へる日、かがみのくぐつども集まりて、歌つかふまつりけるに」(『無名抄』)とあり、鏡宿の傀儡女集団が上京していた。ここでも「鏡の傀儡女」とあり、鏡宿傀儡女は、京と鏡宿を往来していた。  
十三世紀中頃、藤原時朝が旅の途中で歌を詠んでいる。京よりくたし侍りけるに、いけたの傀儡〈かめつる〉きせかはまであひつれて侍りけるか、それよりかへしはべるとて、なれきつる袖の別の露けさは、かたみにかかるなみたなりけり(『新和歌集』)  
藤原時朝は、常陸国笠間の武士で塩屋朝業の子である。京都から関東に下向する途中で遠江国池田宿の傀儡女かめつるを、駿河国黄瀬川宿まで伴ったことがうかがえる。また、遠江国橋下(本)宿の藤王という傀儡女が、男性に伴って宇都宮まで行き、しばらく伺候して帰国したことも『新和歌集』からうかがえる。  
十一世紀に宿駅に定着しはじめていた傀儡女集団は、しかし、様々な要因で諸国を往来していたのである。  
第三は、傀儡女が他の職種にも就いていた事がこの期の特徴である。今様狂いの後白河法皇は、今様の歌手を招いて習い謡う。  
資賢・季兼など語らひ寄せても聞き、鏡の山のあこ丸、主殿寮にてありしかば、常に喚び聞き、神崎のかね、女院に候しかば、参りたるには申て謡はせて聞きしを、「あまりにては。時々はこれにても如何で聞かではあらむずるぞ」と夜交ぜに給ばむとて給しかば、あの御方へ参夜は、人を付けて暁帰るを喚び、我賜はる夜は、未だ明きより取り籠めて謡はせて、聞き習ひて謡ふ歌もありき。(『梁塵秘抄口伝集』)  
鏡山のあこ丸が、主殿寮におり、神崎のかねは、待賢門院に仕えている。かねが女院に出仕した日には、法皇が歌を謡わせてばかりいるので、女院は、「そう終始借りられては困る。こちらでも聞きたい」と言って、一夜交替でお貸しくださろうと言う事になったが、女院に参仕した夜も明け方帰る時に呼び止めて謡わせ、法皇に貸してもらえた日は、夕方から謡わせて、聞き習って謡う歌もあった、という。鏡山の傀儡女あこ丸は主殿寮に、神崎の遊女かねは、女院に出仕している。ただし、女院の言葉から推察すると、奉仕の内容は、今様を謡ういわば歌手だったようである。  
このあこ丸は、中納言藤原親信(1137〜1197)の息子、定輔・親兼・仲経達の母と考えられている。定輔は、『尊卑分脈』道隆公孫水無瀬では「母官女阿古丸」とあり、『公卿補任』では「母官仕女(半物阿古丸)」(建久二年尻付)とある。「主殿寮」に出仕していた官女、詳しくは半物阿古丸と同じと考えて間違いなかろう。親信は、後白河法皇の側近で、『梁塵秘抄口伝集』にも、仁安四年(1169)の第十二度の熊野詣でに同行し、両所の御前で一緒に寝て、長歌・古柳・今様・早歌等を奉納し、「えもいはぬ麝香の香」を一緒に嗅いでいる。後白河法皇の今様教習の場で、主殿寮の半物だった傀儡女阿古丸と親信が出会ったのであろう。
定輔(1165〜1227)は、親信二十八歳の時の誕生である。  
貴族層男子は、十代後半から二十代前半に、正式な結婚をし同居するので、正式な妻は他に居たが、子どもが生まれなかったか、早世したため、阿古丸所生の定輔が一男として権大納言正二位まで昇ったものと考えられる。従来、遊女や傀儡女・白拍子が賤視されていなかったことの証として、公卿の母となったことが指摘されている。また、太政大臣実基の母が「白拍子(五条夜叉)」(『公卿補任』承久二年尻付)とあることから、正妻として遇された、ともされる。しかし、実基の場合は、左大臣実房女を母に持つ兄弟の実嗣が早世した結果だった。建暦三年(1213)五月、三男親兼が母の服解から復任しており、阿古丸は親信よりも長寿であり、八十歳以上と推定されている。阿古丸は、寿永二年(1183)六月、仏師運慶と共に「女大施主」となり、他の六十六人と一緒に法華経書写を行っている。いわゆる「運慶願経」である。夫親信はまだ生存しており、阿古丸独自に、傀儡女、遊女、白拍子等の芸能人を二十数名結集して結縁している。それだけの財力と結集力を持っていた。  
他にも、後白河法皇に寵愛され円慧法親王を産んだ二条院のめのと坊門殿と目井の弟子初声は知り合いだった(『梁塵秘抄口伝集』)。坊門殿は、兵衛尉藤原信業の娘だから、下級貴族層出身の女房である。女房と傀儡女が緊密な交流を持っていたことは、身分意識や階層意識に違和感がなかったからであろう。傀儡女が朝廷の下級女官として奉仕していたことが確認される。  
また、朝廷や貴族邸宅に仕える「半はしたもの物」は、貴族層の懸想の対象だった。天仁元年(1108)四月刃傷事件が起こっている。  
四月二十六日 戌刻(午後八時)ばかり、尾張権守佐実の雑色、走り来たりて告げて云わく、土御門富小路辺において、驚く事有り、雑色両三人すでに刃傷さるるなり。聞き驚き、人を走らせ尋ねしむに、誰人の所為か知らず。  
五月十一日、尾張権守佐実消息を以て、殿下(忠実)に奉りおわんぬと云々。是れ疑人を申し達するか。  
十八日、殿下より御消息を以て仰せられて云わく、佐実刃傷さるる事、日ごろ誰人の所為か知らざるの間、昨日酉時ばかり、皇后宮大進源仲正を召し問うところ、すでに以て承状(伏カ)す。下手人等彼の従者を搦め取りおわんぬ。是れ互いに下女を愛するの間、此の犯過を成すなり〈件の女は半物なり。  
皇后宮宣旨の曹局の者なり〉。驚きながら書状をもって、佐実の許に告げおわんぬ。  
二十一日、盛重この間、尾張権守佐実を刃傷の犯人等を追捕するなり。よりてこの勧賞あり。大夫尉三人初例なり(中略)。去月二十六日夜、佐実刃傷さるなり。是れ皇后宮大進源仲正の所為なり。よりて一日、左衛門弓場に下されおわんぬ。彼の人の郎等を尋ね所々を追捕するなり。(『中右記』)  
事件は四月二十六日に起こったが、五月十一日には被害者藤原佐実が摂政に訴え、十二日には、「佐実犯人擬し申す。よりてその由を院に奏せしむ」(『殿暦』)と忠実が白河上皇に訴えている。佐実は、嘉承二年(1107)四月二十六日の忠通元服儀式には前駈になっており、摂関家の家司を兼ねていたのであろう。ゆえに院まで報告され、犯人探しが行われ、十八日には皇后宮大進源仲正の従者が下手人として捕まっている。佐実を刃傷した理由は、「互いに下女を愛する」故であり、この下女は、「皇后宮宣旨」に仕えている半物だとある。皇后は、白河上皇の皇女令子内親王であり、鳥羽天皇の准母として立后されている。宣旨は、立后の際に任命された女房三役の一人である。皇后宮大進源仲正は、職務柄皇后宮に出入りしており、そこで女房宣旨のもとで働いていた半物と愛情関係を持っていたのに、身分の高い佐実が横取りしようとしたのであろうか。いずれにしても、女房に仕える半物をめぐって貴族同士で刃傷事件まで起こっていた事がうかがえる。  
また、『古今著聞集』二〇二段には、宇治入道殿(師実)に侍う「うれしさといふはした物を、顕輔卿けさふさせられけるに、つれなかりければ、つかはしける」とあり、正三位まで昇る藤原顕輔(1090〜1159)が、摂関家の半物に懸想して和歌を送るが、半物の方が誘いに乗っていない。説話ゆえに誇張がされてはいようが、貴族層にとって、半物は、恋愛の対象になる女性たちだったのである。半物阿古丸と親信との関係も首肯できよう。  
平安中期から後期にかけて、朝廷や貴族邸宅に出仕する女房や女官は、夫やパトロンを持たなければ、安定した生活を送れなかった。「大殿(兼家)年来やもめにておはしませば、御召人の内侍のすけのおぼえ、年月にそへてただ権の北の方にて、世の中の人みやうぶ(名簿)し、さて司召しの折りはただこの局に集る」(『栄花物語』巻二)。兼家は、時姫や村上天皇皇女保子内親王が没し、『蜻蛉日記』の作者と別れて後、正式な妻は持たなかった。娘の超子の女房だった大輔は、妻ではなく妾的位置の召人だった。すでに平安中期の上層貴族層では、正式に儀式を挙げたツマの内、同居の正妻・次妻、儀式をあげない継続的性関係を持つ妾等、ツマ達の序列が明確になりつつあり、院政期になると一夫一妻多妾制が確立する。摂関の妻が北政所となる十一世紀後期が画期である。  
院政期には、落ちぶれた貴族女性や女房たちを、貴豪族層の男性達に斡旋する「中媒」がおり、実質的な買売春が行われていた。『遊女記』には、「その豪家の侍女、上下の船に宿る者、これを湍繕と謂ひ、また出遊と称ふ。少分の贈を得て、一日の資と為せり」とあり、豪家に仕える侍女、すなわち女房や半物、雑色等が、遊女と同じく売春をして生活の資にしていることが描写されている。「出遊」は、「娼家に属せぬ素人の売色のこと」と説明されている。「いであそび」と称されており、やはり「あそび」だったのである。遊女・傀儡女は、芸能と売春を業としていたが、女房や半物、雑色等も、出仕しつつ、同様な売春をしていたのである。けっして、遊女や傀儡女だけが特別だったわけではなかった。  
第四の特徴は、永続的な配偶関係の妾になることである。傀儡女が上京し、朝廷や貴族に出仕することは一般的だった。その過程で、目井と清経、阿古丸と親信のように、妾として生涯に渡って生活を援助された傀儡女が登場する。ところが、『公卿補任』や『尊卑分脈』で、母に「傀儡」「傀儡子」「傀儡女」と明記された事例はほとんどない。『公卿補任』において、母に白拍子・舞女・遊女等と記されたものを検討すると、白拍子・舞女を母に持つ公卿が十一名いた。遊女は、従三位参議藤原(一条)信能の母「江口遊君(慈氏)」(承久二年尻付)、藤原(葉室)頼藤の母「遊君」(永仁二年尻付)の二名だけである。傀儡女はいない。白拍子は十二世紀中頃に男舞を舞うようになった芸能者で、京内にいた歌女等はその源流であった。後鳥羽上皇による水無瀬殿の宴では、江口・神崎等の遊女は郢曲、京からやってきた白拍子は舞、と確実に区別されていた。白拍子や舞女が多いのは、京にいたため、恒常的な配偶関係である妾になる機会が多かったのであろう。ただし、『尊卑分脈』では、母に橋本や池田宿等の東海道宿駅の遊女と注記された武士は多い。これは、後述するように、十三世紀には、傀儡女が遊女と称されるようになった結果であり、むしろ、義朝の息子義平の母は橋本宿の傀儡女、範頼の母は池田宿の傀儡女と考えて間違いない。傀儡女は陸の宿駅におり、京と拠点を往来する武士層と恒常的性関係を持つ妾となったのであろう。  
ただし、『梁塵秘抄口伝集』には、「歌謡ひのひめうし」「このひめうし、目井が弟子、伊通・伊実父子の愛物なり」とある。美濃国青墓の目井の弟子だから、ひめうしも傀儡女の可能性が高い。太政大臣になる藤原伊通(1093〜1165)と藤原伊実(1124〜1160)父子の愛物とあり、父子の妾的存在だったのであろう。妾となっても目井のように清経の子どもを出産しないと系図類にのこることは無い。さらに、妾としての配偶関係は、不安定な関係であり、愛情が薄れると生活の援助もされず、放棄されることが多かったものと思われる。だからこそ、目井への愛情が薄れても、死去するまで面倒を見た清経が高く評価されたのであろう。「傀儡あこ」は次のように詠っている。  
尾張国に、京よりくだれりける男のかたらひつき侍けるが、あすのぼりなんとしける時、しぬばかりおぼゆれば、いくべき心ちせぬよしいひけるに、  
しぬばかり誠になげく道ならば命とともにのぼよとぞ思ふ  
傀儡とあるので、十二世紀〜十三世紀に詠まれた歌と思われるが、京から尾張国に任務でやって来た貴族層と語らっていた傀儡女は、相手が上京する別離に、「死ぬばかり」苦しんでいるとの歌を詠う。もちろん歌の誇張であろうが、尾張国に滞在中に一定期間関係を継続していたのであろう。  
街道の傀儡女は、様々な要因で上京し、貴豪族層と交流し、和歌を詠み、今様を謡った。平安末までは、けっして貴族層と対等ではなかったものの、卑賤視されたり、低く見られていなかったことは、以上の特徴からうかがえたと思われる。そもそも、『梁塵秘抄口伝集』を見ると、江口・神崎の遊女や、青墓・墨俣等街道の傀儡女が、後白河法皇の御所に自由に出入りしており、芸能者として評価されている。たしかに、売春をするものの、後見者を持ち正式に結婚し妻となる貴族女性は別として、当時は女房や女官として朝廷や貴族邸宅に出仕する女性達は、主の性的奉仕者としての召人となったり、出入りの貴族達の妾となったり、あるいは男を斡旋する老女や物知り女房などの媒介により一夜の性関係をもったり、上京中の地方豪族の現地妻になったり、場合によっては淀川に浮かぶ舟で売春をする「出遊」をしたりしないと生活できない女性が多かった。女性が置かれていた時代背景を考えると、遊女や傀儡女とさほど差はなかったゆえに、けっして非難も蔑視もされなかったのである。
三 傀儡女のゆくえ  
平安末の十二世紀には、上京して後白河上皇に今様を伝授するほど活躍していた傀儡女は、しかし、十三世紀後半には姿を消していく。その具体的なプロセスと、要因を考察してみたい。  
まず、街道の傀儡女たちが遊女と呼称されるようになるのは、十三世紀初頭である。京都で隠遁生活を送る貴族が東海道を通って鎌倉まで行った『海道記』がある。貞応二年(1223)四月四日、京都を出発し、東海道旅行の様子を記し、十七日には鎌倉に到着し、十日ほど滞在し、母の病で帰途に着くところで終わっている。赤坂宿を次のよう記している。  
九日、矢矧を立ちて、赤坂の宿を過ぐ。昔、この宿の遊君、花齢春こまやかに、蘭質秋かうばしき者あり。貌を潘安仁が弟妹にかりて、契を参川の吏の妻妾に結べり。  
(矢矧を出立、赤坂の宿を過ぎる。昔、この宿の遊女で、顔は春の花の様に美しく、正確は秋の蘭のようにすぐれていた。顔は潘安仁の妹のようであり、三河国の守の妻妾になった)  
三河国赤坂宿の傀儡女は「遊君」と表現されている。なお、この説話の三河守は、三河守大江定基であり、出家して寂照となり、中国に渡り円通大師と呼ばれ、長元七年(1034)杭州で没する。出家の理由を『今昔物語集』巻第十九第二話では、若い美しい女性を妻にして三河国に赴任した。妻が亡くなったが葬送しないで抱き続け、口を吸ったらあまりの口の臭さに驚き、葬り世をはかなんで出家した。出家の動機は都から連れてきた美人妻だった。ところがここでは赤坂宿の遊君となっている。さらに『源平盛衰記』七、近江石塔寺事では、「赤坂の遊女力寿」とされている。時代の変容も興味深いが、ここでは問わない。  
『海道記』四月十六日は、足柄山から関下、逆川の行程である。  
かの山祇の昔の歌は、遊君が口につたへ、嶺猿の夕の鳴は、行人の心を痛ましむ〈昔、青墓の宿の君女、この山を越えける時、山神、翁に化して歌を教えたり。足柄と云ふは、此なり。〉  
(あの山の神の昔の歌は、遊女の口に伝えられ、峰の猿の夕方の声は、旅人の心を悲しませる〈昔、青墓の宿場の遊女がこの山を越えた時、山の神が老人の姿で現れ、歌を教えた。「足柄」という歌のことだ〉)。  
青墓宿の「遊君」が足柄山を越えた説話が出来ていたのも興味深い。さらに、同日の記事である。  
関下の宿を過ぐれば、宅を双ぶる住民は、人をやどして主とし、窓にうたふ君女は、客を留めて夫とす。憐むべし、千年の契を旅宿一夜の夢に結び、生涯のたのみを往還諸人の望にかく。  
(関下の宿場を通ると、家を並べる住民は旅人を泊めて一夜の主人とし、窓辺で謡う遊女は、旅人を引き留めて一夜の夫とする。可哀想だよ。千年までも夫婦でいようという約束を旅の宿の一夜の夢に結び、一生涯の生活の頼みを行き来する旅人の泊をする気持ちにかけている)  
関下宿には「君女」とあるが、遊女と考えてよく、多くいた事がうかがえる。  
ただし、傀儡女の呼称が、すべてただちに遊女・遊君になったわけではない。前述の常陸笠間の武士塩屋時朝が、池田の傀儡かめつるを黄瀬川宿まで同行し歌を詠んだのは十三世紀中頃だった。遠江国橋下(本)宿の藤王という傀儡女も登場していた。  
また、鎌倉期の傀儡女で一番著名なのは、建長元年(1249)七月二十三日の関東下知状である。駿河国宇都谷郷今宿傀儡と久遠寿量院雑掌教円との相論に対して、幕府が裁決を下した。幕府は、それまで傀儡が負担した事のない旅人雑事用途の賦課や、走湯・箱根両権現の参詣に要する役、あるいは在家間別銭の賦課など、教円が行った七箇条に渡る様々な新儀を停止し、しかも教円を交替させる裁決を行った。すなわち、傀儡の言い分を全面的に認めたのである。「当郷預所四代内三代の預所代は、栄耀尼の聟たるの間」とあり、傀儡女が孫まで三代に渡り聟を取り預所代にしており、母系的に継承されたことが指摘されている。傀儡女栄耀尼は宇都谷郷今宿に定着し、土地を領有し、三代に渡って預所代官を勤める長者だった。ここでは、「傀儡」と称されている。  
文永四年(1267)十二月二十六日、鎌倉幕府から追加法が出されている。  
一 離別妻妾知行前夫所領の事  
右、有功無過の妻妾、離別されると雖も、前夫、譲り与える所の所領を悔い返すこと能わずの由、式目に載せられおわんぬ。(中略)次ぎに非御家人の輩の女子ならびに傀儡子・白拍子・及び凡卑女等、夫の所領を誘い取り、知行せしむるは、同じく之を召さるべし。ただし、後家と為り、貞節有るは、制の限りに非ず。  
傀儡女・白拍子たちが、鎌倉御家人の妻妾となること、夫から所領を譲与されること、夫没後、後家になって貞節を守っていれば、その所領は悔い返されないこと、等がうかがえる。  
文永五年(1268)八月、駿河国実相寺衆徒らが、院主の非法を幕府に訴えた中にも傀儡が出てくる。  
一同仁(院主代)、女を遊宴余に会し、住僧を煩わせしむ事  
右、偏に権門張行と号すの間、或いは馬を参籠の行人に宛て、鎌倉の女を送らしむ。或いは夫を修学の住僧に招き、蒲原の君を迎えしむ。啻だ傾城の送迎を愁うのみに匪らず、傀儡に田畠を宛作せしむを、止住の僧涙を流し、悲しむ。見聞きの輩は控手し、笑うのみ。昔は殊に清浄の寺と為す。今は、変じて、汗穢の郷と作る。鬼神定めて祟るか。仏語あに妄や。  
実相寺は駿河国富士郡岩本(現富士市)にあり、富士川をはさんだ対岸に蒲原宿があり、そこから「君」を招き、送迎をさせ、その上、傀儡に田畠を宛作させる、と訴えている。清浄であるべき寺内に傀儡女を招き、遊宴し、その傀儡女たちに領地の耕作を優先的にさせているのであろう。「傀儡」の文言が使用されている。  
以上の二点の文永年間の傀儡史料が、ほぼ、街道傀儡女の登場下限である。以後は、ほとんど「遊女」が使用される。たとえば、弘安六年(1283)に出された御家人宇都宮氏が定めた法律「宇都宮家式条」の一条文である。  
一、鎌倉屋形以下の事、地の事。  
右、給人の進止として子孫に相伝すべからず。たとえ当給人、存日たりといえども伺候の躰に従い、別人に宛て行わるべし。兼ねて又、白拍子・遊女・仲人等の輩、彼の地に居え置く事、一向これを停止すべし。  
宇都宮氏の代理人である給人が鎌倉の屋形に住んでいたこと、屋形は給人の子孫に勝手に相続させてはいけないこと、白拍子・遊女・仲人等が給人から借りて住んでいたことがうがかえる。白拍子・遊女・仲人たちは、屋形を借りて家賃を払い、商売を行っていた。ここでは、白拍子・遊女とあり、傀儡女は出てこない。  
東海道宿駅の女性芸能者たちについては、『平家物語』『源平盛衰記』『義経記』等に頻出するが、すべて「遊女」「遊君」であり、傀儡は出てこない。また、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』もすべて同様である。どれも、十三世紀後期に原形ができあがったものである。『吾妻鏡』も編纂過程で当時の用語である遊女・遊君に統一したのであろう。とするなら、やはり十三世紀初頭から陸の傀儡女は遊女・遊君と称され始め、十三世紀末にはほぼその呼称が浸透したといえよう。  
先の「宇都宮家式条」が出されたのと同じ文永・弘安年間頃成立の『塵袋』には、次のようにある。  
クグツト云ウハ、昔ハサマザマニアソビ・術ドモヲシテ、人ニ愛セラレケリ。今ノ世ニ其ノ義ナシ。女ハ遊君ノゴトシ。男ハ殺生ヲ業トス。  
諸国を巡回する『今昔物語集』のような傀儡子集団は無くなり、  
女性は宿駅に定着して遊女となったのである。男性の人形廻しを  
しつつ年頭を言祝ぐ芸能者は、別の名で呼ばれたのであろうか。この十三世紀の中頃こそが、傀儡女とよばれ今様を謡った芸能的側面が低下し、旅人と一夜を共にする売春の方が強くなった時期ではないかと推察される。
おわりに  
十一世紀頃から、陸の宿駅で、歌と共寝をする傀儡女が姿を見せ、十二世紀には、白河法皇御所に自由に出入りし、一緒に今様を謡い、貴族の配偶者の妾となる傀儡女の変遷を見てきた。後白河法皇は、御所で今様談義をする。  
法住寺の広御所にして今様の会あり。小大進が足柄を聞くに、我に違わぬ由申す。(中略)広時、「御歌も聞かぬ居中より上りきたるが、斯く露違わぬ事の、物の筋あはれなる事」とて流涕するを、人々これを笑ひながら、皆涙を落とす。あこ丸腹立ちて、小大進が背中を強く打て、「良かむなる歌、また謡はれよ」と云ふ。皆人憎み合ひたり。(『梁塵秘抄口伝集』)  
今様という芸術を媒介に、今様を謡う傀儡女たちと隔てのない交流を行う。芸術に関しては権力者法皇の前でも遠慮無い愛憎劇を繰り広げることさえある。「白河の居所は、「上達部・殿上人は言はず、京の男女・所々の端者・雑仕・江口神崎の遊女・国々の傀儡子」の往来・交流・交感の〈場〉であった。そして、践祚・即位の後、親政・院政の時代を通じて、後白河の宮廷は、帝王と遊芸の徒との交錯の〈場〉、したがって交通・情報ネットワークのサブセンターであり続けた」。しかし、「鳥羽院崩れさせ給ひて、物騒がしき事ありて、あさましき事出て来て、今様沙汰も無かりし」(『愚管抄』)時代になってくる。仁安三年(1168)の傀儡女乙前の死は、傀儡女たちの歌謡が芸術として評価される最高の時代の終焉であり、後鳥羽上皇の水無瀬殿での遊宴が下降を早めたのではなかったか。十三世紀になると、傀儡女の名称は消滅の一途をたどり、十三世紀末には、ほぼ無くなっていく。以後、水辺の遊女も宿駅の遊女も、売春の側面を強めていく。ちょうど、農民層にも家が確立し、家長の夫に妻の性が所有されていく時期である。一夜の共寝で生活の資を稼ぐ売春は、非難され、遊女が賤しく見なされる時期とも重なっている。  
鎌倉期から室町・戦国期にかけての遊女たちの存在形態、男女の性意識の考察がさらなる課題である。 
 

 

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