漢詩諸説

曹植1曹植2曹植3漢詩曹操諸葛亮管仲陶潜謝霊運劉季夷駱賓王陳子昂丁仙芝張九齢祖詠王維張均李白高適杜甫李賀賈島白居易杜牧李商隠李清照陸遊高啓邵長蘅鄭板橋黄景仁黄仲則呉蘭雪空海・・・
中国漢詩史樂府詩戦国時代の「四夷」観念・・・
 
時代の漢詩

雑学の世界・補考   

曹植1

(そうしょく、または、そうち)初平3年-太和6年(192-232) 中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。字は子建。陳王に封じられ、諡号は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた人物でもある。
沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の五男として生まれる。生母の卞氏は倡家(歌姫)の出身であるが、「世説新語」賢媛篇に名を列ねる賢婦であった。同母兄に文帝曹丕・任城威王曹彰。同母弟に蕭懐王曹熊。子は曹苗(早世)・曹志。他に2人の娘がいた。
異母兄の曹昂と曹鑠が早世すると、197年頃に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となる。幼い頃より詩など数十万言を諳んじ、自身も詩人であった曹操に寵愛された。211年、平原侯(食邑5000戸)に封じられ、214年、臨葘侯(同)に転封される。
曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛する、闊達さと奔放さをあわせ持った、天才肌の貴公子であった。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征、潼関の戦いや張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。戦場の空気に馴染んでいたとみられる。
このころより詩・賦の才能がさらに高まり、ますます曹操の寵愛は深くなる。同時に、この頃から長兄の曹丕との後継争いが勃発する。彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、217年、正式に曹丕が太子に指名され、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになる。
220年、曹操が没すると側近が次々と誅殺され、221年には安郷侯に転封、同年のうちに鄄城侯に再転封、223年にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死ぬまで各地を転々とさせられた。
この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、文帝曹丕と明帝曹叡に対し、幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。特に明帝の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増える。230年、母卞氏が没し、最大の庇護者を失う。その後も鬱々とした日々を送り、232年11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。子の曹志が後を継いだ。
曹植は中国を代表する文学者として名高いが、曹植自身は詩文によって評価されることを、むしろ軽んじていた節がある。側近の楊修に送った手紙では「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っており、兄の曹丕が「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(「典論」論文より)と主張しているのとは、好対照である。
漢詩の詩型の一つである五言詩は、後漢の頃から次第に制作されるようになるが、それらは無名の民衆や彼らに擬した文学者が、素朴な思いを詠った歌謡に過ぎなかった。しかし後漢末建安年間から、それまでの文学の主流であった辞賦に代わり、曹植の父曹操や兄曹丕、王粲・劉驍轤フ建安七子によって、個人の感慨や政治信条といった精神を詠うものとされるようになり、後世にわたって中国文学の主流となりうる体裁が整えられた。彼らより後に生まれた曹植は、そうした先人たちの成果を吸収し、その表現技法をさらに深化させた。
曹植の詩風は動感あふれるスケールの大きい表現が特徴的である。詠われる内容も、洛陽の貴公子の男伊達を詠う「名都篇」や、勇敢な若武者の様子を詠う「白馬篇」のように勇壮かつ華麗なもの、友人との別離を詠んだ「応氏を送る」二首や、網に捕らわれた雀を少年が救い出すという「野田黄雀行」、異母弟とともに封地へ帰還することを妨害された時に詠った「白馬王彪に贈る」、晩年の封地を転々とさせられる境遇を詠った「吁嗟篇」などのように悲壮感あふれるもの、「喜雨」「泰山梁甫行」など庶民の喜びや悲しみに目を向けたものなど、先人よりも幅広く多様性に富んでいる。梁の鍾エは、「詩品」の中で曹植の詩を最上位の上品に列し、その中でも「陳思の文章に於けるや、人倫の周孔(周公旦・孔子)有り」と最上級の賛辞を送っている。
なお、曹丕から「七歩歩く間に詩作せよ」、と命じられて詠んだというエピソード(「世説新語」文学篇より)で有名な「七歩詩」は、現在真作としない見方が有力である。また彼の最高傑作ともいわれる「洛神の賦」は、曹丕の妃である甄氏への恋慕から作ったという説もあるが疑わしい。
 
曹植2

(192−232) 字(あざな)を子建と言い、曹操の息子で、曹丕(そうひ)の弟にあたり、沛国県(今の安徽省の亳県・はくけん)の出身である。彼は建安時代の著名な文学家として幼い頃から、才智を現し、「七歩を歩く間に良い詩文を作り出した」(七歩詩)という。彼の詩文は優雅な風格に、華麗な辞句が流れており、深い気骨を持っていた。魏太和三年(229年)曹植は河南雍丘(今の河南省杞県)より東阿に移され「藩王」となって、一時に邑食を三千戸も賜わる四年間の生活を続けたが、長くとどまれず太和六年(232年)二月、さらに「陳前四県」(いまの河南省淮陽)に遷移された。十一年間に、たびたび封地を移され、天才と言われるがゆえに政府に疎んぜられ、辺境を流浪する生活であった。心には喜びもなく、鬱屈した生涯であった。この年の十一月、曹植は四十一才の若さで病死した。死後、彼は「思」という謐号を得、「陳王」に封ぜられた経歴を合わせて、後世「陳思王」とも呼ばれている。
曹植の一生は、「三国志」で有名な父、曹操の死を境として、前後の二期に大きく分けることができよう。幼・少年時代の前期は、彼は主に城(ぎょうじょう:河南省臨県・りんしょうけん)で過ごし、風流な貴族公子として、毎日優雅な生活を送っていた。父親の曹操は風雲をも叱咤せんとする、一代の英雄であると同時に、戦場に於も、自然を賞でても、今に多くの詩文を残す、文才溢れる文人でもあった。したがって息子の曹植は幼い頃から政治、文学など学問的雰囲気の中で育てられ、彼の身の周りは常に文臣、武将や文人たちに囲まれていた。そのような環境の中で育った、曹植は早く成熟し、「年十才にして、すでに数十万字にもなる詩文と辞賦を読み、上手に文章を書いた」(「三国誌・陳思王植伝」)という。曹操は自分の幼い息子が「口を開ければ良い文章となり、筆を執れば素晴らしい文章を書く」という「噂」を、どうしても信じられなかった。そこで曹操は、父親として曹植の才能を自分の目で確かめたいと思った。
ある日、曹操は十余人にもなる息子たち全員を、建てられたばかりの「城銅雀台」に呼び出し、ぬきうちの試験を行なうこととした。試験問題に曹操は「銅雀台」というテ−マを与え、息子たちにそれについて文章を書くように命じた。「曹植は筆を執るや、たちまち書きあげてしまい、しかも秀逸のできばえであったので、曹操はそれを見て驚嘆した」という。曹操は「息子たちの中で、ただ曹植一人だけが将来、偉い人間になりそうだ」と感想を述べたという。
南朝の有名な文人、謝霊運は曹植の才能について、次のように高く評価している。「曹植の才能は、天下なべて一石の内、一人で八斗の才能を持っている」(「南史・謝霊運伝」)と評した。(曹植を後世よく「八斗の才」を持つ人というのはこれによる)。さらに揚雄は曹植の創作才能を「天賦」であると言い、彼の作品を「天の神霊による自然現象である」とさえ評論したが、事実は、多年にわたる曹植の懸命な勉学と、創作努力の結果であったと筆者は考える。
曹植は文学の面で造詣が深いばかりではなく、遠大な政治的抱負も持っていた。十四才の時、かれは父親と一緒に袁譚、冀州など北の征途にのぼり戦場を疾駆した。十六才の時には、父親について三郡烏桓(さんぐんうがん)を征服したので、彼は東の碣石まで至り海を見ることができた。十七才の時には父親と一緒に劉表と赤壁で会戦し、二十才には西へ張魯を征服し、散関を出て(今の陝西省宝鶏県)、河池(今の甘粛省徽県)等、西方の征途にものぼった。このような、遠征と戦の青春の下で、曹植は「国のために奮発し、民百姓に恩恵を与え、功績を築き、後世に金石のような功業を残しておきたい」(曹植「与楊徳祖書」)という人生の目標を早くから持っていた。父、曹操が三国の暫定的分極を調停しても、なほ曹植の政治・軍事的野望は、西は「違命之蜀」を滅し、東は「不臣之呉」を踏下して、和平を築くというものであった。このような思想は、曹植の前記作品においてよく反映されている。例えば彼の「白馬篇」において、曹植は次のように述べている。
「金で飾られた駿馬は北と西の戦場を駆け回っている。戦士の姿はまるで精霊と遊侠のようである。あれは誰の息子であるかと聞くと、あれは故郷を離れて、遠征の道にのぼっているわが戦士たちであると。戦士の陣天の声は砂漠を崩し、引きしぼった矢じりは敵の胸に命中する。勇敢敏捷なわが戦士は「月支」(当時北西に住んでいた民族)、匈奴の地へと前進していく。国のためには生命さえ捧げられる」
詩の中で曹植は比類無き、勇敢な戦士の姿を活写し、国のためならば自分の命さえ犠牲にする、愛国志士の姿をつずっている。詩人の崇高な愛国精神と、国のために功を立てたいという心境と、遠大な志を隠さず表しているといえよう。
曹植の人生後期は、前期に反し悲運なものであった。曹植は「わがままに振る舞って、将来のために励まず、酒に溺れる」(「魏史」本伝)。兄、曹丕との間での皇太子の地位の取り合いという長期な戦いのなかで、曹植は権謀術数にたけた兄に負け、曹操の信任さえも失ってしまう。
建安二十二年(217年)、曹丕が正式に皇太子となり、その三年後の建安二十五年正月、曹操が洛陽で病死すると、兄、曹丕が、王に即位した。こうして曹植の非運な、後期人生がはじまった。
曹植・曹丕の兄弟間の戦いは終わらず、曹植は更に悲運に落ち込んでゆく。皇帝となった曹丕は、何かに口実を設けては曹植を死地に陥れようと、姦計をめぐらす事が度重なった。伝説中の曹植の「七歩詩」の物語は、まさにその前後の過程を証明してるといえよう。曹植は行動の自由も奪われ、任命された「封地」では、「監国謁者」の監視下に置かれていた。「国王という名だけは与えられたものの、実際にはそれらしい権力を握らせてはもらえなかった。国の片隅に置かれ、世間とは隔絶され、まるで牢獄のような生活」であった。(「三国志・武文世王公伝」)
曹丕が死ぬと、息子の曹叡が皇帝になるが、曹植の境遇は少しも変わりがなかった。曹植は曹丕親子の迫害の下に、実に十一年という歳月を過ごし、その十一年間に、六回も爵位を変更され、三回も封地を遷移させられた。彼の生活は非常に貧しく、親戚や友人との往来さえも自由にならない孤独な人生であった。彼は「求存問親戚表」(即ち、「求通親親表」)のなかで、次のように胸中の苦しみを述べている。
「血縁の兄弟にも隔絶され、吉とも凶ともわからない自分のこの先を思うと胸がつまる。血縁の礼節も知らず、恩も知らず、私はまるで路上で出会った他人のようである。ますます離れていく兄弟間の距離は、まるで自分が北西の胡人のように疎遠になってしまった」(「魏誌」本伝)。
「遷都賦」では次のようにも述べている。「私は初め、平原に封じられたが、まもなく臨に移封された。次に城に任命されて足を運んだが、またすぐ雍丘に移住を命じられた。後に、また浚儀に、最後に東阿でようやく変遷流転の生活に終止符を打つことができた。これは爵位の六回の変更であり、居所の三回の遷移である。私は至る所で貧窮に追われ、常に衣食の不足に苦しんできた」(「曹植集校注」による)。
彼は普通の人間なら味わえたであろう世間的な歓楽と、人生の意義さえ奪われていたのである。「贈白馬王彪」の詩文には、この間の曹植の苦渋がよく記されている。
山東省東阿県に、風景秀麗なことで有名な魚山がある。伝説によれば曹植は魚山で「梵音」を聞いたという。当時東阿王に任命されてこの地に移ってきた曹植は「常に魚山に登り東阿城に面して、その風景を観賞していた。彼は自分の死後、魚山に身を埋めてもらいたいと遺言を残したので」、その死後、息子の曹志は遺言に従い、父親の亡骸を魚山西麓に移し、山を掘り塚を造って埋葬した。それ以来千七百年たった今でも、参拝者と観光客は後を断たず、毎年大勢の人々がこの地を訪ねて来る。
魚山と曹植は名山・名人となり、彼の名前は内外に広く知られるところとなったのである。
以上のように、曹植の短い人生は、前期と後期では大きく異なるのである。前期においては風流貴族の貴公子であったが、後期においては自己の運命を怨嗟し、その日常は罪を背負った無力な老人のようであった。しかしながら、曹植の特異な辛い経歴は、彼の思想及び創作に深い影響を与えた。また、そのような過酷な人生であったからこそ、不朽の作品を創作できたのである。曹丕親子の曹植に対する圧迫と迫害は、政治的には、彼の抱負、胆力、才能、軍事力などのすべてを埋没させてしまったが、「曹植」の二文字は建安文学の傑物として、中国文学史上、永遠にその名前を刻まれている。  
「魚山曹植墓」/曹植の埋葬地は「魚山」?

山東省東阿県の魚山西麓にある「魏の東阿王曹植の墓」は、いままでも大勢の人々に敬慕されてきた。彼の名を慕って参拝する国内国外の文人、学者は今でも跡を絶たない。ある人は詩篇を吟じ、ある人は祭文を賦していることが、多くの資料に見られる。「東阿県誌」(清道光九年)に記載されているだけでも、例えば、南北朝時代の肩吾、明代の蘇廉、黄哲、九皋子、清代の呉偉業、趙執信、王士禎、張若需など十余人もの著名人がいる。彼等が参拝時に書いた詩文は今だに残っている。
王子禎は魚山で次のような詩を詠んでいる。
王士禎の詩・意訳
「昔、われ、君王(曹植)の詩を誦す、今(目前、黄河の)微波にのぞめば、洛神(曹植の意気)を感ず
今、王(曹植)を葬る地を過ぎなんとして、重ねて建安の詩人(曹植)を憶う
その名は、あの公幹に斉しくも、わずか小人の讒言、その人を殺せり
あわれむべし、その(夭逝した曹植の)才を、今はもうなにもない」
山東按察司の九皋子は次のような詩を詠んでいる。
九皋子の詩・意訳(明・弘治八年)
「かの「三国志」は、誰を持って英雄というのか
曹植こそ、その人ではないのか
「七歩の詩」は世間の名声を独りせしも
千年の名声の人、今、その墓崩れ、その人を知る者にのみ、その価値香る
魚山の西に夕日が沈む、大河流れて東阿の地、哀愁漂う
私は何しにここに来たのであろう、曹植の霊は自然のそのままにあるではないか」
曹植が魚山に埋葬されていることは、皆が知っている周知の事実のように思われているが、実は曹植の墓の所在地について、疑問がないわけではない。それは中国各地に、「曹植の墓」と言われるところがいくつもあるからである。例えば、河南省の淮陽(過去の陳の所在地)、安徴省の亳県(過去の沛国の地で、曹植の原籍である)などにそれぞれ「曹植の墓」がある。それらの「曹植墓」の共通点として、墓には「墓碑」が立ち、碑には「銘文」が刻まれている。そのために「魚山」は曹植の仮埋葬地もしくは、「衣冠塚(ころもづか)」ではないかという疑問をなげかける人がある。
それでは曹植のほんとの墓は一体どこにあるのか、魚山にある墓は本当に曹植の墓なのか。この疑問解明のため、われわれは1977年3月、山東省東阿県の魚山「曹植墓」について、全面的な発掘調査を行なった。
調査中われわれは、「曹植墓」の墓門の右上、高さ約3mの墓壁の中から、文字が刻まれた一個の磚(せん・レンガ)(磚/周代に始まったといわれる、土を焼いて作る建築用材。瓦状からレンガ状まである。日本では奈良時代に始まる)を発見した。それは幅が1,45mの墓壁のなかにあった。その色は青で質は硬く、長さ0,43m、幅0,20m、厚さ0,11mで、重さは14,2Kgあり、三面に銘文が刻まれていた。その後、この磚は北京の「故宮博物院」に送られ、考古学者の顧鉄符先生が、磚の銘文について次のように釈文された。
「別督郎中王□主者司徒従掾位張順、太和七年三月一日壬戌朔十五日丙午州刺史候□遣士朱周等二百人作、塁陳王陵各賜休二百日」
銘文の意味は、「曹植の墓を修墓するため、大量の日にちを費やし、墓の修理で疲れた人々は工事終了後、官家の許可を得て、二百日の休暇をとった」と解釈された。この調査以前に、墓からは大量の副葬品(第六章発掘品目参照)と、遺体の骨格が発掘されている。これらの調査、出土品からも、曹植が確かに魚山に埋葬されており、「曹植墓」の所在地は確実に、山東省東阿県魚山であると断定してよいと、筆者は考えている。
「魚山曹植墓」/曹植墓の埋葬問題

曹植の墓について、中国には次のようないい伝えがある。
「若し曹子建の墓を掘りだすなら、九つの州と十の府、そして百八の県が豊かになる」と言い伝えられてきた。この伝説は、歴史々料に記載されたものではないが、暗に曹植の墓が盗掘されたかのような印象を与える。そこでその影響力を考え、この話の是非を論証してみようと思う。
伝説が言うように、はたして曹植の墓は盗掘されたのか?次の理由から私は違うと思う。
1951年の春、元(もと)の平原省々委員会(合併によりこの省名は現在ない)のある責任者が黄河流域を視察中、魚山に立ち寄った。その時、偶然「曹子建」という三字が刻まれた剣(腰にぶら下げる剣)を見せられたという。(それ以後、その剣は行方不明となった)この事件を契機にようやく曹植墓に対する認識が高まり、同年六月、平原省文物管理委員会及び東阿県文化館は、曹植墓について初めての調査を行なった。
その後の発掘調査の成果もまじえて、曹植墓の全容を紹介すると、曹植の墓は廊下
(甬道・ようどう)、前室及び後室の三つで構成されており、平面図にすると「中」の形となる。前室は正方形で、4,35m2。後室は長方形で長さ2,20m、幅1,78mであった。墓の壁は磚壁(煉瓦づくり)で、厚さ約1,49m、磚(煉瓦)の長さは0,43m、幅0,20m、厚さ0,11mであった。墓の地面にはグレ−色の磚(煉瓦)が敷かれていた。墓の前室の天井はア−チ形で、後室と廊下(甬道)の天井は丸い形にせりあがっていた。墓にはドアが二つ設置されていた。ーつは前室にあり、もうーつは前室と後室の間に設置されていた。ドアの高さは1,90m、幅は1,32mであるが、磚(煉瓦)を上へまっすぐ積み上げ、壁を造って、ドアを閉鎖してあった。
封鎖された墓門を開け中に入ってみると、すぐ足下に瑪瑙の下げ飾り(墜珠)が二個、半円形の青い玉(ぎょく)が三個、そして銅質の門金具などが散らばっていた。墓の主の棺は墓室の中央に静に置かれていた。
棺と遺体についてみると、棺の安置場所は三段階に敷き詰めらていた。底層は一指ほどの厚さで木炭の灰を敷き、中間層には大きさが豆ほどの朱砂を、上層は薄く切られた雲母片で日月星辰の模様を造ってあり、その上に、遺体が安置されていた。雲母片は骨格の一部にも掛かっていた。
驚くべき事に、死者の骨格はまだ完全に腐乱してはおらず、(頭蓋骨は欠けていたが)主要な部分は良好な状態で、28の完全な遺骨が見つかった。
棺の左右には副葬品が置かれていた。その配置を見ると、棺の右側には、セットにした炊事道具が並んでおり、いずれも陶製品で、かまど(竃)、まな板、缶、つぼ(壷)、たらい(盥)などであった。左側にも同じく陶製品が並び、井戸の模型、車の模型の他、鶏、アヒル、ガチョウ、犬などの陶製の俑(俑・よう/殉死者の代わりに死者と埋葬する人形・ひとがた)であった。この発掘調査により、墓の中からは、合計132個の文物が掘りだされた。ほとんどが陶器で、それ以外には石圭などの石器もいくつかあった。
以上の出土文物からみても、曹植墓に貴重品があったとは思えない。逆に曹植の身分にもにあわず、あまりにもお粗末な墓であったというべきだろう。したがって中国の伝説に言う、「九つの州、十の府、百八の県が豊かになる」という話には全く根拠がなかったと言える。
曹植墓の副葬品が余りにも質素なものであった事については、次のような歴史的背景も考慮されるべきであろう。
曹植の父である曹操は「墓葬」について、大胆な改革をおこなった人物でもある。即ち、漢時代及び漢の遥かな昔の時期から、高官貴族の間に無制限に行なわれていた大量の墓葬品の使用に対し、曹操は質素な埋葬を提唱した。
さらに、法令を制定して、法的手段でも豪華な副葬品を制限した。「埋葬された貴族の墓地を掘りだすというような、民百姓の死者に対する報復行為を禁じると同時に、一方では高官貴族の贅沢な埋葬風習を廃止した」。(「三国誌・武帝紀」による)
以後、曹操の息子である魏文帝曹丕も父親の意志に従い、埋葬問題については、厳しい政策を採り続けた。曹丕はこの問題について、遺書の中で次のようにのべている。
「私もいつか死ぬことになり、埋葬されるはずであるが、その墓地は誰にも見つけられない所にしてほしい。死後の骨なら痛さも、痒さも感じない。(私の遺体が埋葬される場所であって)神様がお住まいになる場所でもないのだから、儀礼上においても、私の葬儀について礼法を考究する必要はない。生も死も人間が選択できることではないのだ。どんな立派な棺を造って肉体を入れても、骨も遂には朽ちてしまい、どんな豪華な衣装を着せても、いつかは腐乱してしまうのだ。私はひとけのない、荒地の山を選び墓地としたい。時が移り人がかわり、私の墓地がどこにあったか、だれにもわからなくなってしまうことが、私の望みなのだ。私の柩には金銀銅などの製品は一切入れず、みな陶製品で代替することにする。霊柩車は古い柩車を修理して使い、送霊の形式も簡略にしたい。柩の材料は普通にして、真珠玉石などの使用は止めてほしい。贅沢な埋葬は愚かな風習なのである」(「三国誌・文帝紀」による)と述べている。
確かに、漢と魏の時代の古墓に対する考古発掘の研究成果を比べてみても、魏代には贅沢な墓葬の例は数少ないようである。それは以上のような曹氏父子の「墓葬改革」の結果ではないかと思う。
最後に、曹植の境遇から考えてみることにしょう。前章においてすでに論じられたように、当時の曹植は兄弟間の権力をめぐる争いにも負け、「藩王として、国王という名声だけは与えられたものの、実際にはそれらしい権力を握らせてはもらえなかった。国の片隅に置かれ、世間と隔絶され、まるで牢獄のような生活であった」(「三国誌・武文世王公伝」)ので、曹植の境遇は非常に悲惨であった。「彼に与えられた兵隊はほとんど老人で、人数も二百人余りであった。さらに、曹植は以前に過失があったと問われ、権力の一つ一つを取り上げられ、俸給もそのたびに減らされた。彼は十一年間に三回も移され」(「三国誌・陳思王植伝」)、囚人のように不安定な生活を続けていた。一生、志を遂げられず、精神的にも大きな打撃を受け、常に気がふさいでいた。封じられた、「封地」での生活は貧乏を極め、「怏々とした歓楽のない歳月のうちに、四十一才の若さで病死した」(「三国誌・陳思王植伝」)。彼にとっての「平安」は、ようやくその死によって得られたのである。
したがって、前記の曹植墓の埋葬品についての伝説(曹植墓を破れば、九州十府と百八の県が富む)という世間の言い伝えには、根拠がなく、「噂」として長い間に広く流布された作り話であろうと考えられる。
「魚山曹植墓」/曹植はなぜ魚山に身を葬ったのか

曹植の原籍は安徽省(あんきしょう)の亳県(はくけん・即ち古代沛国のの地)である。それなのに、なぜ死後、祖先の地にも帰らず、異郷の山東省・魚山に埋葬されたのか。曹植が死んだ時、彼はすでに魚山がある東阿を離れて、陳前四県(今の河南省の淮陽)に移され、陳王に封じられていた。にもかかわらず、なぜ死後、わざわざ魚山を選んで自らの墓地としたのか。これらの点は、参観者の多くから出される質問である。確かにそれは一つの謎であり、解釈を求められる問題であると思う。
これについて、筆者は曹植が生活していた当時の環境、及び彼と魚山との関係を解明することによって、その歴史的な淵源を遡及できると思う。
魚山は東阿県の境内に位置しており、県政府の所在地である銅城鎮より19キロm離れている。魚山の標高は82,1mで、1200余畝(約24万坪)を占めている。魚山の東、南両側にはそれぞれ黄河と小清河が流れ、下流にいたって両河は合流している。対岸には連山が起伏し、山峰が聳えたっている。山の北側は堤が長く続き、秋になると、金色の穀物が実り、遠くからみると、それはまるで巨大な竜が静かに伏しているかの観がある。広くて平らな、肥沃の土地がどこまでもつずき、家々と遠くの村が一幅の絵のよう浮かんでいる。その風景はみる者の心を静寂にいざなう。
確かに、標高からみると魚山は低く、本当に目立たない丘であるが、劉禹錫が述べているように「山はただその高さだけが問題ではない。仙人がいれば、(小山も)名山となる」(「陋室銘」)という。
「魚山はまた吾山とも言う」(「水経注」)。「漢書・溝洫誌」によると「漢の武帝は黄河岸辺に立ち、「瓠子歌」を吟詠した。彼はその中で、吾山は平らかで、あたかも巨大な平野を想起させ、また河中の魚は飛び跳ねるように動き回り、さながら冬の白雪を彷彿させる。吾山は即ち魚山である」と定義している。
春秋時代、魚山は斉国に属した。当時魚山には「柳舒城」(または留舒)という城があった。「東阿県誌」によれば「左伝哀公二十七年、陳成了は鄭及を救い留舒に留ませる・・・河が流れるところに吾山があり、その上に柳舒城がある」と述べている。
確かに、1985年の春、魚山において我々が全面調査を行った際、龍山時代(編集部注:中国新石器時代における二大文化のうち、新しい方のもの。古い方の仰韶文化から発展し、中国文化の母体となる。山東省歴城県竜山鎮の城子崖遺跡によって命名。「広辞苑」)の「灰陶片」「黒陶片」のほか、大量の春秋戦国時代から漢時代の遺物を発見した。
魚山の周辺には、またたくさんの名所旧跡がある。たとえば、張良下が書いたと言われる「黄石老人祠」、「漢項王の墓」(何れも山東省平陽県内にある)、「季子挂剣台」(山東省陽谷境内)「馬陵道」などは、天下の名勝地を歴遊した文人墨客さえも帰る事を忘れさせた地で、魚山が風光明媚の歴史的証しであるともいえよう。ましてや、「才、八斗」「七歩歩く間に詩をつくる」才能を持つ曹植においておや、と言うべきではないのか。
もちろん、曹植は行動の自由も奪われ、任命された「封地」では、「監国謁者」の監視下に置かれ、「国王という名だけは与えられたものの、実際にはそれらしい権力を握らせてはもらえず、国の片隅に置かれ、世間とは隔絶され、まるで牢獄のような生活」(「三国志・武文世王公伝」)であったのだから、気軽に名勝遊覧などはできなかったでろう。しかしながら、自由を制約されていたとは言え、自らの封地内に有る魚山に行かないはずはなかったと考えるべきであろう。曹植は魚山に登る度に、いたずらに才をうずめてゆくおのれの悲運を悲憤慷慨し、天に謳ったであろう。
「山東通誌」(清道光十七年本)の記載によれば、曹植はしばしば魚山に登り、胸中の不満と感慨を述べたという。「魚山には魏時代の曹植が読書していたところがある」というが、現在も「羊茂台」という旧跡(魚山八景の一つである)が、その場所として保存されている。(巻頭写真3参照)
曹植にとって魚山は、彼の精神生活上、なくてはならなかった場所と考えるべきであろう。
忿懣と感慨の中にいた曹植は「政務する時以外ほとんど独居し、身辺には侍人しかいない時が多く、妻子の縁も薄くなりつつあった。曹植には、演説したくともふさわしい場所もなく、自分の所見を述べても、その才能を発揮する機会がなかった」(曹植「求通親親表」)。曹植は家族からも、すでに信頼感を失っており、ただ魚山の絶景だけが彼にとっての精神的な支柱であった事がその第一の理由であろう。第二の理由は、彼の東阿でのたった三年余の任官中、放蕩無頼な生活ゆえ、その政治的功績は不明であるが、封地の臣民に対しては同情と憐憫の気持ちを持っていた。したがって、「初めて魚山に登った時、すでに自分の死後を予測し、墓地を魚山にしたいという強い願望を持った」(「三国志」・本伝)という事も、むべなるかの感がするのである。
曹植の魚山に対する強烈な思いいれは、苦痛に満ちた彼の精神的内面をそのまま反映したものだったと言えよう。  
曹植墓の修復記録

魏の東阿王・曹植の墓は山東省東阿県魚山の西麓に位置しており、魏太和七年(西歴233年)三月につくられた。現在に至ってもなお「山東省重点的文物保護対象」となっている。
曹植の墓は、西向きに広い土地を利用して造られている。千七百有余年の長い間、墓は受難を受けつづけた結果、法律により保護の対象となるまでにひどく破壊されていた。1951年6月「平原省文物管理委員会」は曹植墓の発掘調査を行なったが、この時132点の文物が出土した。(巻頭写真の7から11と第六章・発掘品目参照)1956年になって、曹植墓を初めて省級の文物保護の対象としたが、諸原因で長い間、修復することができずにいたところ、1978年9月18日夜8時頃、4,35m四方の主墓室と、2,2mの墓道が崩れてしまった。1985年10月10日、東阿県人民政府は曹植墓を修復する事を決定し、翌年5月20日から修理工事を始めた。作業は70日間かかってその年の8月1日やっと修復落成式があげられた。その修復作業に動員された人数は1080人で、合計13,800元(人民元)という費用を使った。こうして曹植の墓は再び本来の姿を世間に見せることができたのである。  
隋代に建てられた「曹植墓神道碑」

「魚山曹植墓」の北側に、「曹植墓神道碑」と呼ばれる大きな碑がある。これは、隋の開皇十三年(紀元593年)に建てられたものである。碑名について「中国名勝辞典」によれば、「曹子建墓碑」あるいは「陳思王廟碑」とも言う。
碑の高さは257cm、幅103cm、厚さは21cmである。碑の上部は半円形になっており、石質はグレ−色でやや粗い。題字のない碑額が上部にあり、額の中心に三人の像が刻んである。一人は主人で、もう二人は侍者のようである。これは碑文に書いてある内容とも一致する。しかし、時代を経て像の顔部分はすでに壊されて跡だけが残っている。裏に薄く彫刻した龍の模様は、いまだにはっきりと見える。
碑文について考究してみると、文字は篆隷両書体を混用し、文字の直径は4cmである。全文の行数は22行で、毎行の字数は42、あるいは43で、合計931字であるが、そのうち57字が脱落したので、現存されている文字は874字である。碑文作者の名前は不明である。
碑文は曹植一生の業績を纏めて書いており、曹植研究の上で、相当の史料価値を有していると思う。ただし本文については多少言及を要する部分がある。たとえば碑文本文の「四年改封東阿王、五年以陳前四県封」という処について、筆者は「三年・・・六年・・・」であると考え、年代の間違いがあるのではないかと思う(「三国史・陳思王植伝」を参考にしていただきたい)。また、「遂発疾薨、時年三十有一」というのも、「三十」ではなく「四十」であると考える。
とは言っても、文章の内容及び創作手法などについて、詳述部分、省略部分ともに適切だし、内容から見ても、短い文章の中に曹植の原籍から家世、封爵、官職及び生涯などを紹介し、さらに彼の品性が、博識かつ優秀な才能であったと、彼を高く評価しその文章も秀れている。
碑文は曹植の少年時代、父・曹操の愛育のもと、城(ぎょうじょう)で文学にいそしむ貴公子としての生活にも触れ、若年時代の城での彼の文学生活の概略を生き生きと伝えている。
次に碑文の文字について論じてみよう。
これについては、すでに紹介したように、碑文の文字は、篆隷両書体が混合された書法で書かれている。一般的には「篆隷両体の混合使用は、甚だ古い」(「太安府誌」)とされており、またこのような書法については「正書には篆隷を兼用す」(張彦生「善本碑帖録・隋陳思王曹植碑」)と言われていることに合致する。
なぜ篆隷両書体を混ぜた形を使ったのか、その理由はなんだろうか。これについて筆者は碑文の文字について考究してみた。全文の中には篆体の字は41字あり、ほかは隷体が正楷より多く使われている。しかも一字に篆隷体を組合せたり、さらに隷体と正楷両者の使用区別もつかないものもある。そのため、見た目にはかなり雑な感じを受け、文字のサイズにも大小があって、読者に美感を感じさせないように思われる。ところがよく観察してみると、文字は細書きながら力強さを持っており、素朴な形で自然に流れ、全体が渾然一体となっていることが認められ、ほんとうに美しいという感を与えてくれる。
この碑文を見ていると、わが国の書道芸術が古来から極めて高度な「渾然一体の美学」と、書法芸術を目指していたということがよく理解できる。
我国の書法学では、従来、文字が素朴であること、また全体が渾然一体としていることを重視し、そのうえで、字の美観と書法的造詣を論じている。本碑文はそうした「原則」に基づいたものであり、わが国の書法発展史において、当時、篆隷体が正楷へ転化していく過程にあったことを示す数少ない貴重資料である。これは漢字研究の専門学者、及び書法愛好者にとって、ほんとに貴重な資料であろうと思う。歴史的文化遺産としても重要な保存価値があるのではないかと考えられる。
「東阿県誌」はこの碑文について次のように述べている。「開皇十三年、東阿県の西八里にある魚山に、東阿王の碑が建つ。王士禎は篆隷両体を混用したのは甚だ古いと言い、碑に関して「欧集古録」と「趙金石録」及び「金薤琳琅石墨」等に基づいて考察したが、碑は截金した華麗な石で造られていた。しかし、いつかこの碑はなくなり、行方不明となる・・・」。
「太安府誌」は、本碑の行方について「清時代の士人が無くなった碑を、大清河で見つけた」と述べている。
「中国名勝辞典」は、「碑は隋開皇十三年(593年)に建てられて、高さは1,7m(実は2,57m)、幅は1,1m(1,03m)である。碑額には題字がなく、ただ像が刻まれているが、すでに判別が不可能となっている。碑文は22行、毎行が42字で、楷書に篆隷を混用している。これは当時わが国の書法が隷体から正楷体に移る過渡期にあったことを説明している。碑は過去において大清河に沈没していたが、清時代に至ってようやく見つかり、再び墓の側に建て直した」と詳しく記載している。以上の資料からいえることは、碑は隋代に建立されたがいつしかその存在が不明となり、ようやく清代になって世の中に知られるようになったと言うことである。
それでは、なぜ曹植の碑は大清河(今の黄河)に沈められたのか、これはほんとうに疑問が湧く問題である。碑の建てられた位置から考えてみると、碑は魚山の西側に建てられた。にもかかわらず、魚山の東面を流れている大清河にどうして水没したのであろうか。あるいは、当時碑を建てる時、水路を通じて運搬したと思われるが、まさかその時不注意で河に落ちたとは思えない。それでは「洪水が頻繁に発生したため、碑の基礎が崩壊し、大清河に落ちた可能性も考えられる」(「重修陳思王碑楼記」)ということで、大清河に流されたのか?答はいまだに不明であり、記録もない。いずれにしてもこの碑の事が広く世に知られるようになったのは、建立からずっと後の、清代になってからのことであった。
現在、国内の大勢の学者たちがこの碑文について研究しているが、ほとんど本物の碑を見た人はいない。ただ碑の拓本によって、あるいは部分的な資料に基づいて研究を進めている現状である。曹植の碑について全面的に研究、考察することは、単に曹植に対する研究にとどまらず、わが国の書法芸術の継承、発展及び新たな創作において、必ず良い参考になると考えられるし、学術研究においても高い価値があると思う。
次に、いままで筆者が文物考察などの研究活動によって、把握した部分的資料、数字などを以て、以下のように述べさせていただきたい。もし、これが皆様の研究に、参考になれば幸いと思う。  
曹植墓から発掘した磚(レンガ)の「銘文」について

すでに述べたように、1977年3月の発掘調査の時、「曹植墓」の墓門の右上、高さ3m辺り、幅が1,45mばかりの墓壁の中から、文字が刻まれた1個の磚(レンガ)が発見された。その色は青で質は硬く、長さ0,43m、幅0,20m、厚さ0,11m、重さは14,2Kgあり、磚の三面には銘文が刻まれていた。その内容は次のとうりであった。
「別督郎中王□主者、司徒従掾位張順」
文中の「郎中」というのは官名であり、光録勲に属する。「別督」の督は督師の意味であり、両字を合わせて言うと小役人をいい、前に立って指揮する官職を示す。本文で言う「別督」とは、曹植墓工事の監督をする役人を指す。
「司徒」は三公の一つを言う。「司徒従掾」即ち司徒掾であり、司徒の下に属する官名を言う。東漢の時、司徒の下には三十一人が属していた。
「従掾位」は正式に封じられた司徒掾でなく、準司員である。張順は人名で、従掾位に属していた。
「主者」とは、たぶん工事を主事する者を言うと思う。
「太和七年三月一日壬戌朔、十五日丙午州刺史候、□遣士朱周等二百人作」
ここで「丙午」の「午」は「子」の誤字であると思う。また「七年」とは、曹植が死亡した、魏明帝太和六年の翌年を言う。刺史、即ち地方長官のことを言う。当時の「州」というのは、現在の「省」に相当する。候□、即ち州刺史の姓名である。東阿は当時州に属していたので、州の刺史(地方長官)が労務者を組織し、労役に派遣したことを指す。「士」は即ち軍籍を持つ軍人のことを言う。「士家」とは、世代に従軍する家系を言う。「朱周」とは士家の姓を言う。本文では朱周両姓の人家から、二人を選んで労役に従事させたことを言う。
「陳王陵各賜休二百日」
「」は即ち「里」字と同じで、読む時は「理」と発音する。その意味は治す、整理する、あるいは修理するということである。「陳王陵」は曹植の墓を言う。「賜休」とは、休ませていただくという意味で、本文の「賜休二百日」とは、二百日休んで、しかも他の労役にも当たらないことを言う。  
魚山参拝の歴代著名人の題詞選

「陳思王の墓を経由して」南北朝時代・庚肩吾(意訳)
「公子は一人残りて、世間、彼の名を覚ゆ。山上の枯木も消え、畑も荒地となる。酒席で平安歓楽を楽しむも、讒言と甘言は拒否す。早朝、墓参し、話し合うて万事達す。河水は遠く流れ、巨風鳴き、空は共鳴す。雁は雲とありてヨモギを驚かす。枯葉墓に落ち、寒鳥孤城に還る。河の水泣いて曲を歌い、漁陽悲しき鼓声聞こゆ。家を離れれば、また遠来の客来るに心を痛む」
「東阿王詩」唐・李商隠(意訳)
「国事は分明に優れし人に属すべし、しかりといえども、西陵の霊魂は(すでにそれをあきらめ)静かに眠る。君王は天子にならずとも、(あなたは果たして)洛陽の辞賦の神ならん」
「東阿王墓の詩二首」明・黄哲(意訳)
「寂静として河に臨んで荒丘に墓あり。周囲には近隣もなし。一代の豪華名人、散水消えるがごとく、後を絶つ。文海千年を経ても、その神永遠に存す。暮雨の中、孤村に棲身すれば、春風芳草に人哀愁す。船に乗り、歌を歌い賑して河を渡る。誰あろう船に泊まりて緑水青草を行くは」
「一代の風流、建安才子は帝子の哀愁となるも、彼の詞賦、追う者無し。天下に有名の人は己であると。銀宮寂しく過ぎ、宴席荒涼と静ずまる。寒林に身をゆだねれば、日暮れなんとす、山の端」
「東阿で曹子建を弔う」清・李遙(意訳)
「曹子建、東阿の王となるも、天下に棲む処なし。空山に向いて女神を恋々とす。志向の者、国の命運を哀傷し、飽食の者(彼の)才知を恨む。辞賦は短くも、遠大なる志向を載せ、巨風に乗って壮歌と化す」
「陳思王の墓下で」清・王士禎(意訳)
「昔、われ、君王(曹植)の詩を誦す、今(目前、黄河の)微波にのぞめば、洛神(曹植の意気)を感ず
今、王(曹植)を葬る地を過ぎなんとして、重ねて建安の詩人(曹植)を憶う
その名は、あの公幹に斉しくも、わずか小人の讒言、その人を殺せり
あわれむべし、その(夭折した曹植の)才を、今はもうなにもなし」
「陳思王墓に哀悼する」清・趙執信(意訳)
「この小丘に人を埋む。世間、多々怨恨を与う。もとより名分は人より借りるにあらざるに、才知は父兄の嫉みを生ず。雨降りて、山涯の樹木を暗くし、風はたちて愛馬の顔を吹佛す。寺の横、神女立ち、辞賦を書いて何するやと聞くばかり」
「陳思王の墓」清・陶澂(意訳)
「日暮れて、夕日高梢の裏に消ゆ。秋冷の風、細かく埃を吹く。枯れゆく草地は陳思王をしのぶ。新しく住人を迎え白屋は青山と近隣し、風雨の中、共に青春を遊ぶ」
「魚山曹植墓に寄る」清・呉偉業(意訳)
「谷間の小城、西に陳子建の墓有り。魚山の岩、文字を刻むも賛歌なし。兄弟は無為に消え、憂鬱の中、荒墓に秋の豆柄を採る」
「魚山曹植墓に寄る」清・呉偉業(意訳)
「台に天下大事を論ずるも、讒言の者優され、識人迫る。しかりといえども神は天下の子孫を愛し、黄泉の国静まる」
「陳思王の墓」清・張若需(意訳)
「水東に流れ、遺憾湧きだす。激情は遺文を読む。五官と侍女、悲哀して壁に身をゆだぬ。七子才を合わして冠軍となる。白馬詩篇を吟ずれば(詩文を聞いている)客悲しく去る。(詩文で反映された作者の)遠大なる志向は湘君と並ぶ。魚山の仏寺に香煙渦巻き、梵音の韻律響いて、墓地春草に覆われる」
「陳思王の墓」無名氏(意訳)
「千年到るも詞賦才子は永遠に伝う。青山に寄り添えば(陳思王の)孤独な墓はすでに没落。銅雀台には鳥が悲鳴し、魚は水底に潜り、深秋の明月見ゆ」  
「魚山」に伝わる曹植の伝説1/曹植と魚姑(ういくう)の物語

曹植は東阿王に封じられても、毎日憂鬱な心境でいた。
兄弟間の権力闘争にも破れ、兄弟親戚との連絡も取れず、あらゆる方途を立たれた曹植には無理もない事ではあったが、自然と酒にたよる日々を過ごし、そのため、病気となり、とうとう倒れてしまった。
家族は各地の名医を探して、各種の治療を施してみたが、まったく効き目がなかった。しだいに死へと向かっていく彼の姿を見て、家族は悲しみながらも密かに葬式の用意をするしかなかった。
曹植の病気は回復の見込みがなく、みんな弱り果てていたある日ことである。王府の大扉を誰かが叩く音が聞こえてきた。
老いた従者が門を開けて見ると、そこに一人の若い娘が立っていた。十八、九歳であろうか、顔はどこまでも美しく、まるでこの世の人間とも思えない、天女のような雰囲気であった。娘は精巧にできた草篭を担いでいて、微笑みながら口を開けた。
「ごめんください。王様のお具合が悪いと聞いてお見舞いにやって来ました。どうか王様に私の事をお伝えいただけませんか?たぶん私がなんとかできると思います・・・」
老いた従者は驚いて首をしきりに振りながら、あらたまった表情でその娘に、
「王様のご病気は今までにどんな名医を頼んでも治らないんだ。まさか若いお前に治せるはずがないではないか!気持ちだけでもありがたいから、どうかこの場はお引き取り願おう」
従者が断わると、娘は、
「たしかに民家の処方ではありますが、私は王様のご病気をきっと治せると思いますので、そういわずに、どうか一回私に試させていただけませんでしょうか?」
従者は仕方なく、娘を曹植の寝室まで案内した。曹植はベットで横になっていた。痩せた体はまるで枯木のようであった。そのようすを見ていた娘はさっそく曹植の脈をはかり、
「王様のご病状は見た目ほどには、そんなにひどくありません。ただ体に熱が蓄まっているだけです。私が“煎じ薬”を持ってきましたので、これをお飲みになればすぐ治ると思います」
娘は身の回りの人にそう言いながら草篭から一包の薬をとり出した。まもなく薬は煎じられ、従者はそれを王様に恐る恐る飲ませてみた。
暫らくすると、曹植のお腹から、ぐうぐう、という音がしてきた。
おどろいたことに真っ白な顔色がだんだん赤くなってきて、四肢もゆっくりと動き始めたではないか。しばらくすると、遂に曹植は目を覚まして、元気な顔で身の周りの人々を見回した。
曹植は目の前のきれいな娘が自分の病気を治してくれたという話を聞き、さらに元気いっぱいであった。
「王様、具合はいかがでしょうか」
娘が微笑みながら曹植にたずねた。
「よし、元気になった、もう大丈夫だ」
曹植は四肢を動かしながら、娘に答えた。
「若い貴女がこんな素晴らしい医術を持っているなんて!・・・ほんとうにありがとう」
「いいえ、どういたしまして。他人の命を救うのが私の使命でございます。ただ一包の薬でありますのに、そこまで言われると恥ずかしうございます」
曹植は娘の謙遜誠実な答えに感動し、
「貴方のお名前はなんとおっしゃいますか、お住まいはどこですか。私が回復したら、ぜひお宅を訪ね、礼をさせてもらいたいが」
「私はこの辺の魚山の上に住んでおりますので、みんな私を魚姑(ういくう)と呼びます」
大感激をした曹植は宴会を開くよう命じた。魚姑に感謝するつもりであった。座席で曹植はめずらしく大笑いし、話も弾んで、いつか憂鬱の表情はその顔から消えてしまったようであった。魚姑は曹植の回復を心から祝い、嬉しそうに笑っていた。その笑顔はまるで雪蓮花のように美しかった。魚姑は曹植の希望で琴を弾き、一曲の詩を歌った。
「魚姑の詩」(意訳)
「蒼海が桑畑になるには幾星霜を要するのだろうか。激しい大波は砂を流し、純金のみがとどまる。男子の大志は天下にあり、必ず報国を図るべきである。貴重な歳月を無駄に流さないように」
曹植は魚姑の歌があまりに快く響いたことに感動し、その深い意味をしみじみと感じていた。魚姑は歌を歌って自分の憂鬱な心を治してくれ、頽廃した意志を励ましてくれているではないか。曹植はますます魚姑に感激した。そこで彼は魚姑に対し感謝の気持ちを込めて、次のような詩文を読み上げた。
「飛観百余尺の詩」(意訳)
「高窓より下界を眺めると、四周千里の風景が目に入る。朝夕の平原はその広さで人々に美しさを与える。烈士の心には悲しさが口に言えないほど多いが、小人はそこそこ呑気に暇をつぶして楽しむ。国への恨みはいつも(私の)心中を支え、死んでもその心に変わりはないだろう。剣を持ち南西を眺めれば、思いはすでに遥か太山に赴いている。琴弦を激しく弾けば悲声となる。私も感慨し胸中の悲憤が湧きだすのだ」
魚姑は詩文を聞き、感激した面持ちで曹植に、
「王様がこんな素晴らしい感情と抱負をお持ちでありますなら、民百姓の期待に背くことは必ずないと思います。ほんとうによかった」
「それでは、もう遅くなったので、今日はこれで失礼させていただきます」
と曹植の引き止めるのを断って、王府を去ってしまった。
その後、曹植の体はすっかり回復した。彼は魚姑の話を常に思い起し、胸には大きな志を抱いた。それからというもの、曹植は自分の才能を発揮し政務に専念した。二年もたたないうちに、貧窮した東阿の封地を繁栄の地に転じさせたのである。
ある日、曹植は政務を済ませ、懐かしい魚姑を尋ねることにした。彼は一人の侍人を連れ、魚姑が住んでいる魚山に馬で足を運んだ。
魚山は遠くから見ると魚が寝ているように見える。山には木々が生い茂り、雲がたなびいている。山頂には金色のお堂があり、松の枝の陰からキラキラと光って見える。麓には大清河(黄河)が流れ、その奔流は虎の声のように、ゴウゴウとあたりに響いていた。
魚山の麓に着いたところ、一人の老人と出会った。彼は速やかに馬から降りて老人に礼をなし、
「ご老人、この辺に魚姑という娘が住んでいるでしょうか」
老人は髭を捻りながら、
「この辺に魚姑という娘は住んではおらんが・・・この山の上に魚姑廟(寺)があり、中に「魚姑娘々(ういくうにゃんにゃん)」(女神)の像を祭っておる」
曹植はなんだかちんぷんかんぷんで、
「魚姑廟(ういくうびょう)?魚姑娘々(ういくうにゃんにゃん)?それは・・・」
と一人で呟いていた。老人はぼんやりとしている曹植の様子を見て、続けて話してくれた。
「たぶんご存じないと思うが、あの魚姑娘々は神霊なので、霊験はあらたかだ」
と意味ありげな口調で言った。その話を聞いた曹植は、
「私によく分かりませんので、ご老人、魚姑廟の由来について詳しく話してくれないでしょうか」
親切な老人は曹植を一枚の岩の座坪に案内して、次のような伝説を曹植に話してくれた。
「昔々、ある女神が魚山を散歩していたところ、魚山の美しい景色に見惚れてしまって、遂に魚山に身を棲した。その女神は玉皇大帝の義女であり、天下の魚族を管理していたので、みんな彼女を魚姑と呼んでいた。そのためであったのかどうか、魚姑がこの山に住み込んで以来、毎年の桃花の増水期になると、たくさんの魚が五湖四海から、大清河をのぼって来て魚姑に拝謁した。魚山という山名もそこから得たのだ。ところが、いつか魚姑は天宮に呼ばれて帰ってしまった。人々は魚姑のことを懐かしく思い、魚山の上に「魚姑廟」を建て、魚姑の鍍金像を造った。それからというもの、参拝に来る客は列を断ち切れないほどになったのです」
曹植は老人の話に大感激した。彼は老人と別れ、さっそく魚山の山頂へ魚姑廟を探しに登っていった。
山の上に着くと、はたして特別な風格を持つ一棟の寺が建てられていた。お堂の軒は彫刻され、壁もきれいな絵で飾られており、正門の上には「魚姑廟」と大きな額が掛けられていた。曹植は中に入って見ることにした。するとお堂の真ん中に塑像が立てられていた。それをよく見ると、なんとその塑像の顔は二年前、自分の病気を治してくれたあの魚姑の顔とそっくりではないか。魚姑は二年前と同じように微笑んで、まるで曹植の訪問を喜んで迎えてくれているようであった。
「まさか、こんなことが・・・」
びっくりした曹植は像に近付き、自分の命を救ってくれた魚姑に感謝の気持ちを込めて、敬虔な祈をささげた。なぜもっと早く参拝に来られなかったのかと、心の底から懺悔した。その後、曹植は魚姑廟を建てなおし、新しい彩色で魚姑の像を飾った。そこには曹植の魚姑に対する敬慕心と期待感が込められていたのである。
魚姑に再会したいと願う曹植は、魚姑廟の付近にある「羊茂台」というところにわらぶきの家を建てた。以来そこは彼が読書、詩吟する場所となったのである。いまだに夜が更けて、あたりが静まり返った時、曹植の朗々とした読書の声と、魚姑廟の鐘声が聞こえるという。そのため、「羊茂台」は有名となり、「魚山八景」の一つとなったのである。  
「魚山」に伝わる曹植の伝説2/羊茂台(ようもだい)

魚山の中腹に、形の奇妙な、大きな青い岩がある。その岩の形はまるで羊が臥して休んでいるようであり、周囲は茂る草で囲まれているので、人々はその岩を「羊茂台」と呼んでいる。また伝説によると、「羊茂台」は曹植在生当時の読書の場所であったということから、「曹植の読書台」とも呼ばれている。
伝説によると、曹植は東阿に赴任の後、封地内の魚山に来てみると、そこは緑豊かで、雲や霞がたなびき、山頂には金色に輝く「魚姑廟」が緑の中に見え隠れする。(劉玉新氏の話によれば、魚山開発計画の中には、「魚姑廟」の再建計画があるとの話である)麓には滔々と大河が一瀉千里と流れている。山は清く、その土地の人々にも好感が持てる、素晴らしい地であった。とりわけこの不思議な形をした「羊茂台」を曹植は気に入り、しばらくは帰るのを忘れさせてしまったという。
はからずも思い致せば、自己の半生はなんであったのか。いくたびもの誹謗と迫害、思えば、情理にもみはなされた不運な生涯であった。このまま男子一生の事業もなせずに朽ち果てていくのか、それならば自分の道を生きてゆこう。世間に在って悩み煩いの生を送るより、この風景を愛でて生涯を送ろうと決意した曹植は、魚山に移って居住したという。曹植の成し遂げられぬ大望からくる心の軋轢は、こうして魚山の美しい風景によって昇華されたのである。彼が座って読書した羊茂台の石椅子は、長い間を経てつるつるになってしまい、あたりの風景を映せるほどであった。周囲の岩石には曹植の深い足跡がいまだに残されている。(もちろんこれは伝説に過ぎない話であると思うが、魚山八景の一つに「仙人足跡」がある)羊茂台は曹植の人生と深く関わり、「羊茂台」の詩がつくられた。
「羊茂台」の詩(意訳)
「羊茂台、羊茂台よ。羊茂台こそは、曹植が墨痕鮮やかに筆を振るう処。天下にその名を知られた、独占八斗の才、今こそ吟ぜよ」  
「魚山」に伝わる曹植の伝説3/魚山で「梵音(ぼんのん)」を聞く

夜風が心地好い、ある静かな月の夜であった。静寂の中、耳に聞こえるのは唯、松柏の梢の、さざ波のような音のみであった。曹植は魚山の頂の広い芝生で一人酒を飲んでいた。酒を飲んでも、鬱屈とした気持となる。それをほぐそうと、剣を抜いて一曲を舞い、前に創作した詩文「鰕(かそ)篇」を低い声で吟じていた。(= 魚+且)
「鰕(かそ)篇」(書き下し文)
(かそ)は潦(こうろう)に遊びて、江海(こうかい)の流れを知らず
燕雀は蕃柴(ばんさい)と戯れ、いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の遊びをしらん
世士は誠に性を明らかにして、大徳もとより儔(ともがら)も無し
言を駕して五岳に登る、しかれば後、小陵丘
俯(ふ)して観る路上の人、勢力ただこれ謀(はか)りたり
仇高(きゅうこう)は皇家をおもい、近懐、九州に柔らかなり
剣を撫すれば雷音し、猛気は縦横に浮かぶ
泛泊(けんぱく)いたずらに嗷嗷(ごうごう)たり、誰ぞ知る壮士の憂いを
※鰕=小魚 潦=雨の水溜 鴻鵠=大人物の志 儔=チウ・なかま 泛(はん)=漂い浮かぶこと
繰り返して詠んでも気分は晴れず、ますます気持ちは落ち込んでいった。曹植は、「新たな詩をつくろう、この心の苦渋を表現しよう」
立ち上がってゆっくりと山頂へと向かった。夜露が靴や袴を濡らす。折れた木の枝が服を切り裂いても気が付かない。いくら思いをいたしても、空き腹がいくら鳴っても、なかなか良い詩文は胸中に浮かび上がらなかった。
「ああー、曹植よ、天下にその才を謳われた詩人、曹植よ、どうして一首の詩すら浮かばないのだ」
この時代、詩歌は厳格な規則に基づいて造られるものであった。まづ朗々として歌える詩である事、正確に文字の発音を「韻(いん)」として踏んでいる事、詩文全体の構成が優れている事など、その要求はたいへん厳格なものであった。さらには曹植自身の性格にもよるが、彼の創作姿勢は非常にまじめで、いい加減な妥協をすることができなかった。
想に想を寄せ、曹植は必死になって創作につとめたが、片言隻句も浮かんでこない。彼は煩悶の気持ちを落ち着かせるように、剣を抜き、振り回したがそれも効果はなかった。剣を投げ捨て、草むらに寝転んだ時だった、どこからかわずかに鼓楽管弦(こがくかんげん)の音声(おんじょう)が聞こえてくる。
「なんだろう、こんな夜中に」
不思議に思った曹植は静かに耳を傾けたが、その声は山の下からではなく、空中のどこからか伝わってきているのだとわかった。実はそれは「梵唄」であった。その鼓楽管弦の音はますますはっきりしてきて、時には抑揚頓挫、リズミカルな音で、時にはまるで雷声のようであり、時には小川のせせらぎ、行く雲のようである。曹植はその音楽に打たれて夢中となった。彼はその音とリズムにそって詩文を吟味し、遂に次のような一首好詩を創りだしたのである。
「薤露行(かいろこう)」(書き下し文)
天地、窮極(きゅうきょく)無く 陰陽、転じて相い因る
人、一世の間に居り たちまち風に吹かるる塵(ちり)のごとし
願わくば功勤をのぶるを得て、力を明君にいたさん
此の王佐の才を懐(いだ)き、慷慨(こうがい)、独り群ならず
鱗介(りんかい)は神竜を尊び、走獣は麒麟(きりん)を宗とす
虫獣すらなお徳を知る、何かんぞ況んや、士人に於ておや
孔氏は、詩書を刪(けず)り、王業、燦(さん)としてすでに分(あき)らかなり
我が逕寸(けいすん)の翰(ふで)を騁(てい)せよ
藻を流して華芬(かふん)を垂れん
※ 薤露=葬送の時、柩を引く者達がうたう歌のこと 王佐の才=曹植自身の能力を自ら述べ、認められぬ事を慷慨する 鱗介=魚類と貝類 神竜麒麟は曹植をさす 燦=あきらか、あざやか 騁=はしらせること 華芬=花の香り
曹植は詠いおわって子供のように草の上を転げ回って喜んだ。数杯の酒を飲み干すと今度は山の頂上から、どこまでも続く荒野に向かい声を限りに詠うのであった。白々と東の空が明け、鳥が朝の時を告げるまで、つずいたのであった。
曹植はその夜、「聞梵」により創作した詩文を「薤露行(かいろこう)」と名付けたが、その詩はいまだに人々の間で長く伝えられており、その詩文の韻律は大勢な文人や詩人の貴重な模範となっている。曹植の「魚山空中聞梵」の故事は今でもこの地方の人々の間に広く伝えられ、「東阿八景」の一つとなっているのである。次の詩文はこの故事をよく伝えている。
宣房既塞吾山平   上有思王古墓横
万籟息時仙梵動   宛然空谷自伝声  
「魚山」に伝わる曹植の伝説4/曹植が「千年陳醸酒」に酔う

太和三年(西歴229年)の真冬、曹植は河南省雍丘(今の河南省杞県)から東阿に移った。
この頃には彼の数人いた兄弟もこの世を去っており、魏の明帝(曹丕の子供)は彼にとってたった一人の血縁の甥であった。明帝は血縁の情からか、曹植にそれなりの敬意を払うことを忘れず、彼の食邑(食料供給にあずかる家)の数を3000戸まで増やした。加えて当時の東阿は、土地もよく肥えていて食料生産も豊饒の観を呈していた。したがって曹植をとりまく状況は大きく改善され、再びかつてのように、困窮の生活を味わされるような憂慮は、すでに無縁のものとなっていた。ここにあって、曹植には「国を繁栄させ人民をよく養い、永遠の偉業と金石の功績を果さんとする」大願が、またぞろ強烈に湧き起こって来た。
この期間、曹植は大量の表文(自分の意見や考え方を上奏する文章)を記し、次々と皇帝に上奏し、政治に参与して、自分の功績を立て、多年の願望を実現したい旨を打ち明けてみたが、かえって疎ましく思われていた。曹植はそのためまた悶々たる思いと、明帝からの圧力をも受けざるを得なかった。彼はやむなく賭け事(闘鶏や犬の競走)をしたり、跳馬や剣術の稽古をしたり、あるいは酒を飲み詩を書くといったうさ晴らしで、無為な日々を送っていた。
ある日、彼は共の者をつれて猟に出かけた。昼食ごろとなり、山間の居酒屋に立ち寄った。店主は容姿端麗な若い娘であった。曹植をひとめ見て非凡な人物であると悟ったようすで、この方こそが噂に聞く「才学八斗、骨気奇高」の東阿王であると知るや、蔵から年代ものの醸造酒を取り出して、曹植を歓待した。曹植がその酒を口にしてみると、口中に馥郁たる香りが漂い、異常とも言えるほどのみごとな美酒であった。彼は無我夢中で痛飲大酒に及び、酩酊昏睡三日の後、漸く酔いから醒めるといったほどの惚れ込みようであった。
「いやいや、これはみごとな酒じゃのう」
曹植が身を起こすと、全身には精気が溢れ、目も耳もはっきりとして、この美酒の余韻が胸中絶え間なく沁みわたってゆくのを覚えた。かつて彼が生活した父王の城(ぎょうじょう)の府中においてさえ、これほど芳醇な酒を味わった経験はない。そこでかれは女店主を呼んで、
「この酒を10荷、買って持ち帰りたい」
とつげると、女店主は、
「1壺、半壺ならどうにかなりますが、それ以上になるとご勘弁くださいませ」
当惑して返答するばかりであった。
「それはまたなぜじゃ?まさかこの酒は自家用というのではないのであろう?」
と、突然……、
「国王様、私どもは無実の罪を背負わされています」
娘はひざまづいて曹植に哀願した。
女店主の話を聞いてみると、彼女は曹娥という名で、父親は曹剛という酒作りの名人であった。自分で酒坊を設け、「曹氏陳醸」なる酒を専ら醸造していた。この酒は米、麦、黍(きび:イネ科の一年生作物。印度原産とされ、中国では古くから主要な穀物で五穀の一:「広辞苑」)稷(しょく:キビの変種やアワの別称、転じて穀物の神、国家の代名詞:小学館・「中日辞典」)、菽(中国音シュウ、豆類の総称:小学館・「中日辞典」)の五種類の穀物を混ぜ合わせて醸造し、蔵で八年間じっとねかせた後、商品として売りに出せるものであった。このたび曹植にふるまった酒も、父親が自分の娘を嫁がせる時に、娘に持たせるつもりの年代ものの酒であった。
不幸にも半年前のことであるが、父親は県令の諸に逮捕され、牢につながれてしまった。この県令は贅沢三昧のろくでなしで、毎日曹剛の店に来ては、あびるほど酒を飲みまくり、そのくせわずかな酒代さえ払わなかったものだから、曹家は困りに困っていた。そんなある日のこと、また役人が来て酒を出せと言われて、曹剛は、
「酒は有るには有るけれども、まだ寝かせ方が足りませんので、飲める状態にまでになっておりませぬ」
と答えて、ことわったのであるが、県令はその言を信ぜず、
「すぐに酒を持って来い」
と強要するばかりであった。
曹剛はやむなく期限不足の酒を提供するはめになった。県令はその酒を少し飲んでみて、いつもの味と全然違うため、曹剛が故意に悪い酒を出したのだと思い込み、「通匪謀反」(匪族と通じ合って謀叛を企てた)という罪名を着せて、彼を牢につないでしまった。
「このお天とう様の下で、そんなうす汚い役人がのさばっているのを、ほっておいてよいものか」
曹植は娘の涙ながらの直訴を聞きながら、胸中に沸々と憤怒の情が起きてきた。直ちに彼はその県令諸を厳しく咎めたのであった。
曹剛が出獄した後、曹植は費用を工面して、曹剛の酒坊を拡大させ、醸造設備を増築し、酒造技術の改良にも力を貸し、酒をねかせる期間も、新たに十年とすることを取り決めた。
その後、曹植は文朋詩友を接待するに欠かさずこの「曹氏陳醸」を用いて饗応した。墨客たちは酩酊するにしたがい、歌い吟じ、少し調子に乗りすぎて、飲みすぎて苦しい時でさえも、なお苦中に楽有りといった趣きを楽しんでいる風情であった。
「箜篌引(くごいん)」(書き下し文)
置酒す高殿の上 親友、我に従いて遊ぶ
中厨、豊膳を辨(しつら)え 羊を烹(に)、肥牛を宰(さ)く
奏筝何ぞ慷慨(こうがい)たる 齊瑟、和にして且つ柔なり
陽阿、奇舞を奏し 京洛、名謳を出す
楽しみ飲みて、三爵を過ぎ 帯を緩めて庶羞(しょしゅう)を傾く
主は稱す、千金の壽 賓は奉ず万年の酬
久要、忘する可からず 終わりに薄きは義の尤むる所
謙謙たり君子の徳 磬折して何おか求めんと欲する
驚風、白日を飄えし 光景、馳せて西に流れる
盛時、再びす可からず 百年忽ち我に遵(せま)る
生存しては華屋に処り 零落しては山丘に帰る
先民、誰か死せざらん 命を知らば復た何をか憂えん
※ 箜篌=ハープの形をした楽器 引=楽曲名 奏筝・齊瑟=秦のコト、齊のオオコト 陽阿=陽阿生まれの美妓 三爵=君子の飲酒は三杯とす 庶羞=酒の肴 光景=太陽 零落=人が死ぬこと 先民=古人
伝え聞くところによれば、曹植の親友で当時の著名な文学者阮籍は、東平に任じられていた時、たびたび東阿に来て曹植と盃を交わしたとのことである。ある時、阮籍は司馬氏から縁談を持ち出されたが、阮籍の方であまり気乗りがしないため、終日酒に酔って取り合わない方針を決め込んだ。毎日、毎日、二ヵ月間も酔っ払い状態が続いたせいで、司馬氏は結局まるっきり話を進めることができなかったという。この時飲んでいた酒がつまり曹剛の手になる「陳醸酒」であった。
太和五年の春節の日(旧正月)、曹植は10荷の「曹氏陳醸酒」を京師洛陽に運ばせ、魏の明帝・曹叡に献上した。明帝はその酒を口にするやことのほか喜び、春節の後、わざわざ曹植を洛陽に招き寄せて、共に宵佳節を祝ったのである。黄初四年以後、八年ぶりに京師に帰ってきた曹植は、この時初めて、明帝の並々ならぬ努力により、立派に修復され戦いにより破壊された惨状を、みじんも残さぬ洛陽の街を目にする事ができた。「曹氏陳醸」を大量に飲んだ酔いのためもあったであろうが、明帝はこの直系の叔父に対し、非常に丁寧にもてなし、曹植に洛陽城内を遊覧させた。
洛陽で一か月を過ごした後、曹植は新たに陳王になることを命じられた。この時には食邑を500戸増やしてもらい、以前と合計するとその数は3500戸となった。
曹植は陳の地に任官し、しみじみとわかったのだが、自分の大志を実現する可能性がもはや全くなくなったということだった。ために憂悶すること甚だしく、その年の十一月二十八日、ついに病死するに及んだ。享年四十一歳であった。遺言に従いその遺体は東阿の地に、まことに質素な形式で葬られた。おそらく彼は魚山の美しさと、「曹氏陳醸」の味が忘れられなかったのであろう。
曹植は亡くなったが、「曹氏陳醸」は生前の曹植の資金援助を受け、ますます広く伝わっていった。曹植の功績を記念し人々は「曹氏陳醸」を「曹植酔」と呼ぶようになった。今日ある「東阿県酒造局」の名酒「曹植酔・陳醸」はまさしくこの時代に、曹剛の創り出した製造法に基づいて生まれたものである。一九八六年の広州交易会において「曹植酔・陳醸」は大いのその名を馳せ世界の銘柄となり、一度に1500ケ−ス余りの商談を成立させた。もし曹植が九泉の下(黄泉の国)で、このニュ−スを聞いていれば大いに祝杯を挙げているはずである。
「千年陳醸に曹植酔い、万世に東阿王の名を留む。今日魚山に豊碑在り、五洲四海に酒香漂う」  
「魚山」に伝わる曹植の伝説5/曹植の墓参を忘れずに

曹植は「独占八斗」(天下の才能全てで一石の内、八斗まで独占する事、容量の単位で1石は10斗、1斗は10升をいう)の才能を持っていたのみならず、とてもすばらしい雑技(かるわざ)芸術家(雑技:中国で奇術、軽業の類を演ずるもの・広辞苑)でもあった。このことは歴史書(「三国志」・魏書からの引用文略)のなかにも、その記載がみえるので、確かなことである。
これについて、東阿には次のようなエピソ−ドが伝えられている。それは曹植が東阿王に任じられてまもなくのことである。
曹植は東阿にやってきて、見るもの聞くものすべてが目新しく感じて、あちらこちらをよく歩きまわっていた。ある村にやってくると、何やらやっている様子で広場には大勢の人だかりがしている。近付いてみると江湖の雑技芸人たちが馬を使った見世物を演じている。一人の子供が白馬に跨がって場内を活発に駆け回り、馬の背にあったかとおもうと、すぐに馬の腹の下に入ったり、はたまた倒立をしたりと、さまざまなスリリングな動作をして、場内から盛大な渇彩を浴びている。
曹植はそれを眺めながら微笑を浮かべるのを禁じ得なかった。幼い頃から馬術は体に浸み込んでおり、馬上剣舞の如きはお手のものだった曹植にしてみれば、目の前の子供の演技は、さほど驚くほどのものでもなかった。
暫らくしてドラが鳴ると白馬は退場し管弦の音とともに、赤い服を着た少女が登場して剣と球を持った舞いを演じ始めた。五色の球と、キラリ光る剣が交互に空を舞う。その下で少女が身をかわしながら舞う姿は、トンボが水と遊ぶ如く、またツバメが空を飛ぶ如くで、観衆がハッと息を飲むほどの素晴らしい演技であった。球と剣のスピードはどんどん早くなる、まるで流星か稲妻だ。剣の銀色と球の五色がつらなって虹となった。観衆は目をみはってただ口をポカンと開けたまま。
見ていた曹植は、
「この娘、なかなかやるな」
と思った瞬間、
「一つご教授賜わるかな」
と娘の前に躍り出た。曹植は、
「仙人、桃を摘む」
と一声を発すると、空中に剣を投げ上げた。かとおもうと、すぐさま、
「神亀、露を飲む」
と仰向けになって、五色の球を口で受けとめる。剣と球があまりのすばやさに曹植の体のまわりを回るものだから、観衆には、そこに一つのコマが回っているように見える。少女も負けじと、曹植が遊ぶ剣と球を、虎の姿を借りて捕りにくる。その流麗さはまるで、達人が操る機織りの、糸の間を飛ぶ梭(しゅん:はたおりの道具で縦糸の間を、横糸をとおすためのヘラ状の小器具)の如く、高く低く両人の間を自在に飛ぶ。曹植の「龍潜水」には「燕穿雲」、娘が「猴、月を掴む」と演ずれば曹植が「獅子、糸球を蹴る」で答える。
二人の技術の神技のさえと、見事に合った呼吸に、観衆は誰も彼も魅了され、
「いいぞ!いいぞ!」
と次々に声を出して応援し、やんやの大喝采であった。
二人の息の合った演舞がちょうど最高潮に達した時であった、突然、場外から、
「踊りをやめろ!」
と大きな声がした。少女は急に怯えた表情となり、体を強ばらせて立ったままである。「一体誰がこの東阿王の舞いの邪魔をするのだろう」
曹植は不思議に思いつつ、その男の方を見た。
「劉大官様が小珍を宴会の席におぼし召しじゃ!」
侍人のような男が言った。少女はその声を聞くと恐さで震えあがった。曹植は怪しく思ってその理由を訪ねると、漢の高祖劉邦の子孫だと自称している劉大官というのが、この「小珍」と呼ばれた少女をいたく気に入って、自分の妾にしょうとかねがね望んでいるのだが、小珍はひどく嫌がっているのだということであった。曹植はそれを聞くと、なぜかもの凄く腹がたって、
「とっとと、お前の家に帰って劉大官に伝えろ!東阿王曹子建ここにありだ。大官は別の娘をさがせ!」
観客たちは恐がってみんな立ち去り、大官の使いの黄色い顔色の男もびっくり驚天して、自分の家にホウホウの体で帰って行った。芸人たちは曹植を恭々しく囲んで、東阿王に、
「自分たちの主人になっていただけませんでしょうか」
と懇願した。曹植は殊に風流を愛する人間であったが、ここ東阿の地でこれほど素晴らしい技術を持った芸人たちがいることを知って、彼らの願いを聞き入れずにおれようかと思った。しかもこの“小珍”は曹植がかつて心を動かされた“甄氏”(兄、曹丕の妻・詳しくは文末の注参照)に酷似している。曹植は頭の中で連想して「彼女たちはひょっとして・・・でも、まさか」と思った。たぶん偶然の他人の空似であろうと思い直した。しかし、とにかくこの素晴らしい芸人を悪人の思いどおりにさせることはできないし、雑技馬技もこの地で発展繁栄させていくべきだと考えた。
「私は東阿の地が雑技の故郷であり、技術もすぐれ、芸人も多いと聞いてる。それでどうかな、ここでみんなで雑技大会を開いてみないか。もしみんなが同意してくれるのなら、広く宣伝し、どの芸人グル−プも参加できるようにしたいのだが。劉大官のことなら、みんな恐れることは全然ない。私が話をつけておいてあげようじゃないか」
芸人たちはそれを聞いて跳び上がって大喜び、
「王様はとても立派な偉いお方だ!」
と賞賛の声を上げた。
雑技大会は魚山の麓の広場で挙行された。数十のグル−プが参加し、東阿一帯のすべての雑技団の精鋭が集まった。見物に来た地元民で足の踏み場もない程の大賑わいであった。芸人が入れかわり演技を続け、そのうち曹植本人も登場し、「走馬闘犬」「跳丸跳剣」などを披露し、“小珍”との共演もし、観衆からやんやの渇彩を浴びた。全ての雑技演技の中から一等から三等までを選び出し、曹植が出資して、それぞれに賞品を与えた。曹植は更に銀両を取り出し、貧乏で体の弱った芸人にもそれを手渡した。
これ以来、雑技芸術は東阿でさらに盛り上がり、ますます技術が向上したという。伝えられるところでは、当時東阿には数百の雑技グル−プと数千名の芸人がいたということである。芸人たちは曹植の恩に感激して、「曹子建を拝むことを忘れるなかれ」という民謡を作って、後世に言い伝えたのである。
民謡「曹子建を拝むことを忘れるなかれ」(書き下し文)
馬は解を売る上大の杆 跳丸地圏は流星の鞭
走行行会、平安を保て 忘れることなかれ、先ず曹子建を拝するを
民族の文化はその源をはるか昔にさかのぼる。中国にはすぐれた雑技芸術が、昔のまま今日まで保存されているが、東阿がその故郷だとすることに、誰も異を唱える者はいないであろう。
当地の「美楼村」では一村だけで、大小五つもの雑技団があるくらいだ。また「古官屯郷孟庄」地区では、お年寄りから子供まで、ほとんど全ての村民が幾つかの雑技芸をもっている。今日その名を馳せている 「山東省雑技団」「聊城地区雑技団」「徳州地区雑技団」など、これらはみな東阿がその発祥の地である。また、山西、貴州、雲南、蘭州そして東三省の雑技団体も東阿からその人材を得ている。
名実ともに雑技の故郷である東阿は「中国文芸年鑑」にも、そのことが記載されている。これらの全てが当時曹植によって提唱され、支持されたことと切っても切れない関係にあることはいうまでもない。
甄氏は当代一の美人といわれたが、はじめは城主袁煕の妻であった。曹操の攻略により城陥落の時、曹操の長男・曹丕により略奪され、曹丕の最初の妻となった。魏三代の王、曹叡の実母でもあるが、夫の曹丕が魏文帝となると讒言により自殺、代わって郭女王が后となった。中山郡無極県の生まれで、上祭令甄逸の末娘という。曹植の「美女篇」は、甄氏をモデルにしたという説が古来からあり、曹植と兄曹丕の不仲の原因ともいわれる。  
 
曹丕と曹植 (七歩の才)

文帝・曹丕は曹操の次男、兄曹昂が早く没したので曹操の死後、その後を継いで魏王となる。漢の献帝の禅定で帝位についた。文学にも優れ、帝が作った詩及び文学評論は世に名高い。東阿王・曹植を言う、曹操の三男、文帝の弟。四十一歳で病没した、思と諡されたので世に陳思王と称される。曹植は文才富艶で、当時の文学界の第一人者とされている。
魏の文帝・曹丕(187-226)が、ある時、弟の東阿王・曹植(192-232)に向かって「文帝嘗令東阿王七歩中作詩、不成行大法。」
「七歩あるく、あいだに詩を作れと命じ、もし出来なければ国法に照らして死罪に処すであろう」「応声便為詩曰」 東阿王・曹植はその声に従ってすぐさま詩を作った。世説新語・文学篇。
「煮豆持作羹、漉菽取作汁。豆殻在釜下然、豆在釜中泣。本自同根生、相煮何太急。」帝深有慚色。
豆を煮てそれで熱いスープを作り、味噌を精製してそれを取ってスープの中に入れる。豆がらは釜の下で燃え、豆は釜の中で熱さに耐えず泣いて言う。「豆も豆がらも、もともと同じ根から生まれ出た兄弟であるのに、豆がらは豆を煮ることが、こんなにひどいとは、余りにも無情ではないか」と。帝は深く恥じた様子であった。
唐・徐堅「初学記」巻十・王第五・七歩の条 魏文帝令東阿王七詩成詩不成将行大法遂作詩 曰く「豆を煮るに豆がらを燃やす・豆は釜の中に在りて泣く・本是れ同じく生まれしに・相煮ること何ぞ太だ急なる」 文帝大有慚色。
七歩の詩は兄にしいたげられた弟が兄の非行を訴えた詩として世に有名である
魏の武帝(曹操・155-220)と卞皇后とのあいだには三人の男の子があった。長男が曹丕、次男が曹彰・三男が曹植。曹彰は武勇に勝れ、曹植は詩文に優れていた。武帝・曹操は武将でもあると同時に文藝を好み、自らも優れた詩文を作っていた。卓越した文才を持つ曹植を特に愛し、長男の曹丕にかえて曹植を太子に立てたいと思うこともあった。
それを頼みとして曹植の側近が曹丕との間に王位継承の争いを起こしたのである。争いは曹丕の側の勝利となった。建安二十五年曹丕は即位したが、曹植に対する嫉妬と猜疑の念はとけず、曹植を圧迫しつずけた。曹植がいかに異心のないことを示しても曹丕は遂に信じなかった。曹植は都を追われ、勢力を削がれ、地方の封地を転々と移された。
世説新語・尤悔篇 > 魏の文帝(曹丕)は弟の曹彰が剛勇であることをおそれ憎んでいた。ある時、曹彰は母の卞太后の部屋で兄文帝と碁に興じていた。曹彰が碁を打ちながら棗を食べることを知っていた曹丕は、その時、曹彰の食べる棗にひそかに毒を塗っておいたのである。
棗を食べた曹彰は忽ち苦しみだした。卞太后は慌てて水を持って来るように命じたが、釣べが壊されていると言う。曹丕が予め従者に命じて壊させたのであった。太后は、はだしで井戸端へ走って行ったが、水を汲み上げるすべが無い。曹彰はそのまま死んでしまった。 その後、卞太后は、文帝・曹丕が東阿王・曹植をも殺そうとしていることを知り、文帝に向かって言った。
「そなたは已に、私の曹彰を殺してしまった。その上また、私の曹植まで殺そうとしている。もうそんなことをしてはなりません」  曹植は地方の封地を転々と移されながら、曹丕のつけた監視役に厳しく行動を規制されながら、わびしい後半生を送った。齢四十一の生涯であった。
「雑詩 其五」
僕天早厳駕     御者は早朝から車の支度を調え
吾将遠行遊     私は今、遠い旅に出ようとしている
遠遊欲何之     遠い旅に出てどこまで行こうというのか
呉国為我仇     それは呉の国、我々の仇敵の国だ
将騁万里塗     さあ万里の道に馬を馳せよう
東路安足由     東の国に帰る道など、通る値うちもない
江介多悲風     長江の水辺には悲しい風が吹き渡り
淮泗馳急流     淮水・泗水は流れが激しい
願欲一輕濟     そこを一気に渡りたいと思っても
惜哉無方舟     無念にも並べて渡る舟がない
閑居非吾志     気楽に暮らそうなどとは私は思わない
甘心赴国憂     困難に甘んじて、国の危急に馳せ参じよう
 
漢詩

詩は志を言う。歌は声をながくする。これは中国四千年前から言はれている。
「書・舜典」に詩言志 歌永言。舜の言葉により古今からの定義とされている。詩を教授するもの必ずこの言葉を引用している。「詩は志を言う」とは自分の心境・感想・を表現することであり、「歌は声を永くする」とは声を長く引いて調子を整えて歌うことである。
漢詩の形式・内容は時を移動して変化して行く。然し詩の本質的なものは微動だにしない。古今を通して同じである。重要な条件を三つ言うことができる。先人は言う。
1 漢詩は自分自身の思想・行動を作品として根底をなす。
2 辞句と格調の好く整っていること。
3 創作者の環境と時代性が充分に表されていること。
「厳滄浪・詩辨」にも以下のように述べている。”詩は性情を吟詠するものである。盛唐詩人には惟 興趣にあり。羚羊角を掛け、跡の求めるべき無し。故にこの妙所・透徹・玲瓏・湊泊すべからず。空中の音。相中の色(相対に関係を持つ)。水中の月。鏡中の象。
言、尽きる有って意窮まり無し”と言っている。詩人は語感を修練する必要がある「青灯」と言えば読書人に用いる。「吟辺」と言えば詩人の常用語。但し吟辺は字書にはない。古人の詩を沢山読み自分で詩を作っていくうちに語感は練成していく。先哲者の語。
模範とすべき古人の詩
唐選詩。三体詩。唐人萬首絶句から学習、次に宋の陸游。金の元好問。明の高啓。清の王士禎。等名家集につき精読すべきであり、後世になればなるほど、詩中の用事、用典が多技にわたるので、精細に研究することは困難であり、一言双句を尽く明確に解決する必要はない。要はその体格・声調をわきまえる。
内容とする思想。興致をよく味得すること。
「検韻」には字典がよい。
「詩に別才あり、学に関するに非ず」厳滄浪以来、言はれてきた。漢文は知らなくても出来る。春ヲ待タ不ズ。不待春。と言う文句でどんな時に返らなければならないか。                
昔から。ヲ。ニ。ト。ヨリ。ラル。で返れと言はれている。ヲ、ニ、がついても修飾的に置く時は返らない。静ニ読ム。であり 読ム静ニ。ではない。それ以外に少数の有無、難易、多少、とか助動詞の「不・使・可・宜・当・須・非・莫・未・被」などが返る。
秦の穆公が伯楽に向って言った。お前ももう歳をとった。誰かお前の一族に馬を見る名人はおらんか?彼は答えた。ただ良いと言うだけの馬ならば、形容筋骨で観ることもできますが、天下の馬とも言うべき名馬になりますと、そんなものでは解りません。然るに一たび走れば空を行くようなものです。
臣の子等は皆下材ですから、ただの良馬を観るぐらいは教えてやれます。然し天下の馬を観るには堪えません。臣の貧乏朋友に九方皐(列子・淮南子)と言う者がをります。此の者ならば、馬を観ることにかけては私に劣るものではありません。どうか彼をお召しください。そこで穆公は彼を召出して、馬を捜しに行かせた。
三ケ月ほどして彼は沙丘と言う処に望みの馬が居ると復命した。どういう馬か?との公の問に、牡の黄毛だと言う答えだったが、後、引き取りに行った使者の問い合わせに、彼の指定して置いた馬は牡の驪だと言うて来た。穆公は頗る不機嫌で、早速伯楽を呼び出し、何の事だ、彼奴は馬の牝牡も毛色も解らん!。そんなことでどうして馬を観ることが出来るか!と詰責した。
ところが白楽は之を聞き大いに感心の体で、彼はそこまで至ってをりますかそれでは臣など到底及びもつかぬものであります。彼は馬なんぞ観てをるのではありません。馬よりもっと貴いものを観ているのです。取り寄せて御覧なさい。それはきっと千里の名馬でありましょう。と言った。果たしてその通りであったと言う。
詩においても亦同じ事であり、詩の第一の要件は「いかに統一生動しているか」を示す。  
冒韻詩

韻脚と(同じの韻)同韻の字を第二字以下に用いることを冒韻と言う。韻と同じ字を使う時の注意を言う。二四不同。二六対。下三連は除く。一三五不論。七言の四字目と 五言の二字目。孤平を避ける。これらは平仄の初歩の初歩。
逢鄭三游山     盧同
相逢之處草茸茸。  相い逢うの處 草 茸茸たり
峭壁攅峰千萬重。  峭壁 攅峰 千萬重
他日期君何処好。  他日 君に期す何れの処か好きを
寒流石上一株松。  寒流の石上 一株の松
この詩の相逢うの逢字、攅峰の峰字、共に二冬の韻。韻脚の茸。重。松。の三字と同韻。このような使用法は作詩上、忌むべきであり、慎むべき。然し現在は承句(二句目)からの韻字は比較的に許されている。が誉められた作詩法ではない。出来るだけ使用しないようにしたい。
(詩人玉屑)には、句中の字眼は、七言絶句では第五字、五言絶句では第三字としている。字眼とは一句中の縫目。句腰とも言い、必ずしも五字、三字に限らず第一字より第七字に至り、字句を好く練ることを述べている。
王安石の泊船瓜州の詩
京口瓜州一水間。
鐘山低隔数重山。
春風又緑江南岸。(到 > 過 > 入 > 満 > 緑)
名月何時照我還。
この詩、緑字、最初は到るの字につくっていた。次に過ぎるの字に改めた。次に入の字に改めた。次に満の字に改める。いろいろ考え十餘字ばかり。最後に緑字に決めたと言う。詩は、一字たりとも冗な文字の有るは悪いと言うことを心に命じたい。
王安石(兵を論ずる)の著作
あるうららかな小春日よりの日、北宋の史学者、劉頒(1023-1089)は食事をすませた後王安石(1021-1086)を尋ねた。王安石は丁度食事中だった、門番は劉頒を書斎に通した。劉頒は机の上に置いて在る「兵を論ず」と言う原稿に気がつき、一寸手に取り読んでみた。劉頒は、王安石の見解に深く感服し読み終えると、原稿を元の處え置いた。この時、王安石が入って来た。
二人が挨拶を交わしたあと、王安石は聞いた「このごろ、何か書かれてますか」劉頒という人は、記憶力が優れていて、文章に一度目を通すと、それを諳んじる事が出来る。彼はわざと王安石に冗談でこう言った。「私は「兵を論ずる」と言う一篇を書きましたが、暇をみて書き直そうと思っているところです」真に受けた王安石は、あわてて聞いた。
「その文章の内容 はどんなものでしょう」すると劉頒は大声で「兵と言うものは、凶器である・・・・」と朗読し始めた。
王安石は劉頒が冗談に言っているとは知らず、これはきっと劉頒の近作に違いないと思い込み、沈黙して一言も言はなかった。劉頒が帰った後、彼は思案にくれた。「そもそも文章を書くには、自分独自の見解を述べるのが一番重要で、他に同調するのは最も忌むべきことだ」彼はこう考えると「兵を論ずる」の原稿を破り、捨ててしまった。
暫らくして、劉頒は又、王安石に逢い、「あなたの「兵を論ずる」はもう書き終りましたか」と聞いたところ、王安石は「とっくに破り捨てました」と答えた。劉頒はひそかに歎き、冗談を言うべきで無かったと後悔した。と同時に、王安石の真摯な著作態度に深く感動した。  
字法

語にも、章を改めるには篇を代えるより難しい、字を変えるには句を代えるより難しいと有るように、字を置くのは容易なことではない。古人の中には、「一個の字を吟安し、撫断す数莖の鬚」とまで叫ぶ。一般に篇と言い、章と言うには、句を積んで成ったものである。
しかも、其の句は字を積んで成ったものであり、いはば一字は一篇一章の元である、その元が悪ければ、妙詩佳句の出来ようがない。漫然とし字を下すようなことをすると、失態を生じる。
昔、中国のある青年が朝庭士を取るのに科目に応じて、一篇の詩を作った。處が其の詩が、声律といい、立意といい、誠に獲がた作であった。試験官は、いずれも驚嘆し一時優等で合格することに定まっていたが、或る儒官は其の詩を読んで、「此れは悪い、中に「照破す満家寒」の句があり、破家の二字を折用している。此れは不吉だと言った」
為に、この青年は落第になった。一字の使いかたで絶妙の詩、また悪詩となる
晩唐に王貞伯と言う詩人がいた。御溝という題で五言律詩を作り、自から絶調とし疵なしとし、得意になって時の詩僧、貫休に示した、其の詩
一派御溝水。  一派 御溝の水
緑槐相蔭清。  緑槐 相蔭清し
此波涵帝澤。  此の波 帝澤を涵す
無處濯塵纓。  處として塵纓を濯う無し
鳥道来雖険。  鳥道 来たりて険と雖も
龍地到自平。  龍地 到り自ら平らかなり
朝宗心本切。  朝宗 心 本と切なり
願向急流傾。  願はくば急流に向かい傾かん
詩僧貫休は此の詩を一読し、「誠に傑作だ、然し、中にまだ冗字が一字ある。」と言う。貞白は憮然として帰った。貫休は思うに、王貞白は、英敏な人であるから、やがて、立ち戻って来るだろうと、掌に一字を書いて待っていた。處が果たして来た、然も欣然たり、此波の波の字を改めて、此中涵帝澤としたが、如何だろうと言はれて、貫休も笑いながら、掌を開いた、處がやはり、中の字を書いていた。
詩は、古詩よりか律詩、律詩よりか絶句、近体になるだけ、僅か二三十内外の文字の中に、千万無量の意味を含ませる。一字たりとも浮いた字があってはならない例を述べている。  
字眼・響字・練字

「字眼」「響字」詩中に最も重要な一字で詩も好くもなり悪くもなる。
陶淵明の有名な詩。
菊を東籬の下に採り  悠然として南山を見る。
この「南山を見るを望むにしたら」如何か菊を東籬の下に採り  悠然として南山を望む。では忽ち句が平凡になってしまう。「滄浪詩話」にも「蘇東坡」も「字を下して響きを貴び、語を造して圓を貴ぶ」字眼を論じている。
蘇東坡に才気煥溌の妹がいた。「詩学逢原」「東坡禅喜集」に字眼を説く
面白い話を例に挙げている。或る時、蘇東坡と黄山谷(黄庭堅)が和風細柳澹月梅花の腰へ入れる一字が生命だと、共に沈吟していたが、先ず東坡が
和風搖細柳   和風 細柳を搖かし
澹月映梅花   澹月 梅花に映ず
とした。妹が忽ち、そんなのはまだダメですネと笑った。そこで山谷は、
和風舞細柳   和風 細柳を舞はし
澹月隠梅柳   澹月 梅花を隠す
と作った。妹は少しは好くなりましたネと笑ってる。そこで兄の
扶細柳    和風 細柳を扶け
澹月失梅花    澹月 梅花を失う
これには さしもの両人も兜を脱いで嘆賞した。
唐僧斎己が、早梅の詩。 
前村深雪裏   前村 深雪の裏 
昨夜数枝開   昨夜 数枝開く
を得て鄭谷に示した。鄭谷は數枝では早梅にならない。一枝開くとせねばならぬ。「数」を「一」字に改めた。斎己つい に鄭谷を拝して「一字の師」となした。と言うのが「唐詩紀事」に見える。
夜航詩話にこのような話がある。宋の重臣張詠の机の上に在った彼の詩稿の中に、
独恨太平無一事。   独り恨む太平一事無く
江南閑殺老尚書。   江南閑殺す老尚書  
対句法

作詩者は「措辞と声律〈平・仄押韻)に破錠があるかどうか、詩情がどのように捉えられているか」常に反省の上で古人の書を研究しない限り進歩はない。漢詩・漢文で「対句」は美意識を際立てさせる。対句について初学者に指導する専門書なるものが無い、此に先師、呂山著書を紹介したい。
唐詩鑑賞辞典(東京堂出版)前野直彬、(正確に概念規定をしている、と思はれる。)塩谷温の支那文学概論、(単音にして孤立語の中国語では最も適当な修辞法であり、例として
気蒸雲夢沢。
波撼岳陽城。    杜甫
気・波>名詞。蒸・撼>動詞。雲夢沢・岳陽城>固有名詞。・・・唐詩中有数の名句で・・)簡野道明の唐詩選詳説、五律の対句の古人の説くところが一様でない
上官儀と朱飲山の説を掲げて参考。
上官儀の六対は
正名対(乾坤・日月の如きもの)
同類対(花葉・草目の如きもの)
連珠対(粛粛・赫赫の如きもの)
双声対(黄槐・緑柳の如きもの)
畳韻対(寂寞・逍遥の如きもの)
双擬対(春樹・秋池の如きもの)
朱飲山の九対には
流水対・句中対・分装対・仮装対・反装対・走馬対・折腰対・背面対・層折対。を上げている。弘法大師の文鏡秘府論には入唐して得た当時の長安詩壇で行われた詩論・詩学書から得たものらしく二十九種の対句法を分類している。が、真の対句法は解らない。まして初学者に納得させ、対句を作らせることは到底不可能に近い。では古来詩学者は容易に律詩の対法を心得ているのは何故か。
それは分類の究明で得たものではない。前人の作品を検討し帰納し一つの対
法のこつを得たからである。比較的容易な一つの考え方を提示してくれている(方法論にもつながる)以下に記述すると。
対句のもとになる熟語
対句の規定に文法的構造を同じくせねばならない。古人は文法の品詞論など今日のように分化して、やかましくなったものを全部知らなくては出来ないならいざ知らず、そう言う分類は知らない古人がはっきり認識していた実字・虚字・助字の三分類だけで容易にできる。実字は日本文法の体言・西洋文法の名詞に相当し、虚字はは用言または動詞・形容詞に当る。
助字はこの二大類を除いた、副詞・接続詞・助動詞・前置詞その他にあたる。実字と虚字の違いは、その前に否定詞「不」が直接くるかどうかで解る。「問」「来」「濃」「暖」の前に「不」を着けることが出来るが「山」「天」「月」「花」などは不山、不天、不月、不花、などは言わない。
助字は詩句の曲折を作るもので詩文では実に重要なものである。我々漢詩人は大いに研究しなければならんと心得る。中国でも助字弁略・経伝釈詞・詞詮などがあり、詩や詞に特有なものの研究されて来たが、わが国でも江戸時代の学者がたいへん苦労して、その方面の研究は充分やっている。文法的機能の中で熟語構成法にも対法上の規定がある。
漢語が二字の熟語を作り易いと言う言語学的な説明は省略して、青山・白水・読書・撃竹・山川・草木などの語について見れば、修飾関係・補足関係・並列関係があることがわかる。青山は「青い山」であって山を青を修飾している。
以下同じ、「山川」「草木」は「山」と「川」とが並列され対等の関係で出来あがっていることは容易に理解出来る。「地震」とか「年長」のような主語と述語の関係で出来ているもの。
「不良」とか「可能」のように善悪・力量などを認定すると言うものもあるが非常に少ない。読書・撃竹のような補足関係の語も極めて少ない。多いのは修飾関係と並列関係の熟語である。自論であるが漢詩では修飾関係語が80%。並列関係語が10%。解り難いのが、所謂、連文・連語に属するもの、又、擬声語・擬態語としてできている上に、畳韻・双声の関係を重視してできたものが、わかりにくいこれは自分自身の学習上の過程でわかるべきものに属する。
荷香消晩夏。
菊気入新秋。    駱賓王
荷の香りと菊の気はまさに修飾・被修飾の関係。晩夏と新秋も修飾・被修飾の関係。「消す」と「入る」と言う虚字(ここでは動詞)が挟まれている。荷香と菊気、晩夏と新秋をくらべて見ると意味的な対応が見られる。香と気とは目に見えないものであるが抽象的なものではない。それを修飾した荷と菊とは共に夏の暑さを忘れ秋の爽やかさを感じさせものである。晩夏・新秋の二語を見る時、
被修飾語の夏・秋がともに四季の一つとして同類であり、晩と新とはその季節を修飾する言葉ではあるが反対的なものである。今仮に、菊気を改めて、同じ季節のものとして蘭を入れて蘭菊としたらどうか。対法を失う。蘭菊とか菊蘭と言う時にはその構成法が並列関係になってしまうから。イケナイのだ。
親朋無一事。
老病有孤舟。   杜甫
二字と二字の熟語をつなぐ「無」と「有」は虚字であって意味は相対している。一字と孤舟の対はどうか。こう言うものを数目対などと分類している。数目対と言うのは、この二句全体に対して名ずけたものではない。この「一字」と「孤舟」の部分だけを数目対と考えるのである。次の問題は、字と舟との間に意味的な関連はどう考えるのであるか。どうこじつけても「字」と「舟」とに関連を説明することは困難である。
強いて言えば、どちらも名詞であると答えざるを得ない。中国の発音法の中にある語を強く意識して発音を明確にして相手に解らせるやりかたがある。それを重念と呼んでいる。ここの一字と孤舟の熟語が鮮明に意識されれば、次に置いてある「字」や「舟」の連関は軽く看なすことが出来る。
さらに言えば「無一字」と「有孤舟」とは作者の現況を述べたもので、江南に漂泊して、誰一人として慰めの便りをくれるものも無い老いと病を抱いた自分を託するものとしては、ただ「孤舟」あるのみと感概を述べたものである。ではこの「親朋」と「老病」とはどう考えるべきか。
親朋には親しい朋友とも考えられれようが老病は老人性の病とは解することはできない。それは、まさしく我われ漢詩人が最も忌み嫌う「和習」「和臭」である。そうすれば当然に並列関係のことばと理解しなければならない。
親朋は「親戚」と「朋友」とであり、老病は「老いること」と「病むこと」である。作者の頭には、そんな考え方よりも、老いること・病むことと言うふうに。老も病も虚字であり、その虚字を重ねてできた名詞と考えるべきである。朋は名詞である。親は名詞もあり、動詞もあり、形容詞もある。
「親しい友人」と解することはもとよりあるので字源にはそれしか出ていない。しかし老病は老衰して病むという同じような悲惨なことばを重ね用いた並列関係のことばであり連文なのである。
四十明朝過。
飛騰暮景斜。   杜甫
四十と飛騰が並列関係語としての対法がとってある。飛びもし騰がりもするという熟を並べた「飛騰」が人生の飛騰を表すことはわかるが、四十はどうか。四や十や、あるいは四と十と・・・ではない。
四と十とは掛け合わせて四十という数字になる。こう言う時は観点を四という数字と十という数字とを並べて出来た熟語だとして並列関係の語として扱われてきた。対法として古人があげたものに「仮対」あるいは「借対」という考えがある。まさにそれだ。例えば同じく杜少陵の
酒債尋常行処有。
人生七十古来稀。
尋常に対する七十をもってしているが、尋と常とはともに長さを測る単位を並べたできた並列関係語であることは分明であるが、七十という語も如上の見方でせねばならないものである。  
李白 / 静夜思

起句の「牀前 看月光」と「牀前 明月光」月光を看る。と月光 明らかなり。発端は台湾か香港に留学中の方がこちらでは「月光を看る」と学校でも学習している。 「明月光」とどちらが正解だろうか?と言う問題が提起された。ちなみに、我が国の教本は奈何。
「月光を看る」を採用が、簡野道明、前野直彬、目加田誠、星川清孝、武部利男、久保天随。
「明月の光」は、森槐南、野口寧斎、沈徳潜や、唐詩別栽集、唐詩三百首、中国旧詩佳句韻書、御定佩文斎詠物詩選が採用。
尚、吉川幸次郎、三好達治著「新唐詩選」には(床前に月光を看る)を採用。解説が面白い。「中国では床は部屋の中央に位置し、人は夜そこで寝るばかりではない。昼間の何くれとない時間も、その上でくつろぐ。・・・もはや床の上に横たわって好い時間である。しかし静かな夜の、もの思いにふける人は、じっと立っている。あるいは、その辺を徘徊している。そうして頭を挙げては山月を望み、・・・」

森槐南の李詩講義の内容を簡単に書き留めると「静夜思と言うのは簡単な楽府で六朝の頃に起こった題である。牀前の処に ”名月が照らして来た。初めは月とは思はなかった、霜が降ったのかと思った”ところが、頭を挙げて見れば、山の端に月が出ているから、地上の霜だと疑ったのは、間違いであった。此の床前に照る月は、故郷に居て見た月と・・・」
兪えつ。(「清の学者。字は蔭甫。曲園と号した」1821-1906年。)の随筆に詩の解説が出ていて様様に説いて・・・・・」私は 兪えつの随筆なるもの未だ検分していない。然し私しは後者を採りたい。本場、中国ではどうか?現在の学校現場の教学では、ほとんど、「牀前名月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷」 だと言うことである。

土岐善磨に次のような有名な訳詩がある。 
「静けき夜の思い」
とこにさす月影
疑ひぬ霜かと
仰ぎては山の月を見
うなだれては思うふるさと

井伏鱒二には以下のようなこれも有名訳詩がある。
ネヤノウチカラフト気ガツケバ
霜カトオモウイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイショノコトガ気ニカカル
蘇東坡の題跋と回文

題跋とは一般に、詩話・書画などの後に記された文を云う。題跋はそこに、対象となる作品に関する批評・感想・随想などが述べられている。
回文の詩はサカサマ(倒さま)に読めば一首となる。皮日休の雑詩体の序によれば、晉の温嶠(オンキョウ)が始めてこの体を作ったと言う。
竇滔の妻・蘇氏が八百十二字の詩を作り、反覆、章を成した(もとより一時の遊戯の作に過ぎない)。 蘇東坡は多くの回文を作った。
記宝山題詩  
予昔在銭唐。一日。昼寝於宝山僧舎。起。題其壁云。
七尺頑躯走世塵。十囲便腹貯天真。
此中空洞全無物。何止容君数百人。
其後有数小子亦題名壁上。見者乃謂予誚之也。周伯仁所謂君者。乃王茂弘之流。豈此等輩哉。世子多諱。蓋僭者也。吾嘗作李太白真賛云。生来不識高将軍。手汚吾足乃敢嗔。吾今復書此者。欲使後之小人少知自揆也。

宝山の寺の壁に書きつけた詩についてしるす。
私が昔、銭塘にいたときのことである。ある日、宝山の寺で昼寝をし、目が覚めて、そこの壁に次のような詩を書き付けた。
七尺もあるこの頑丈な体は、ごみごみした俗世界を忙しく走り回っている。十囲もあるこの大きな腹の中には、天然のままの真を貯めこんでいる。この中は空っぽで何も入っていない。
君ら数百人を入れるだけではない。その後、数人のつまらぬ者たちが、私の名前をその壁に書き付けたので、それを見た者は私が彼等を非難していると思った。周伯仁が言う君とは王茂公のような者をさすのである、どうして彼らのような輩のことであろう。世の人たちが忌み嫌うは、身のほど知らずの者である。
私は以前、「李太白の真の賛」と言う詩を書いた。それを言う。平素から高将軍のことは、顔も知らなかった。その手が靴を脱がすときに我が足を汚したが、叱りつける気もしない。「丹元子示す所の李太白の真に書す」
私が今又この文章を書くのは、後世のつまらぬ者どもに、少しは自分自身の価値を見定めてもらいたいと思うからである。
この詩は、蘇東坡が李白にかりて、時の権力者に対する蔑視の態度を表したものである。
題金山寺回文体
潮随暗浪雪山傾。  潮は暗浪に随い雪山傾く
遠浦漁船釣月明。  遠浦 漁船 月明を釣る
橋対寺門松逕小。  橋は寺門に対し松逕小なり
檻當泉眼石波清。  檻は泉眼に當り石波清し
迢迢緑樹江天暁。  迢迢たる緑樹 江天の暁
靄靄紅霞晩日晴。  靄靄たる紅霞 晩日晴る
遥望四辺雲接水。  遥に望む四辺 雲 水に接し
碧峰千点数鴎軽。  碧峰千点 数鴎軽し
   これを逆読すると
軽鴎数点千峰碧。  軽鴎 数点 千峰碧なり
水接雲辺四望遥。  水は雲辺に接し四望遥なり
晴日晩霞紅靄靄。  晴日 晩霞 紅 靄靄たり
暁天江樹緑迢迢。  暁天の江樹 緑 迢迢たり
清波石眼泉當檻。  清波 石眼 泉 檻に當る
小逕松門寺対橋。  小逕 松門 寺 橋に対す  
明月釣船漁浦遠。  明月 釣船 漁浦 遠し 
傾山雪浪暗随潮。  山に傾く雪浪 暗に潮に随う 
題織錦図上廻文   
春晩落花餘碧草。  春晩 落花 碧草を餘す
夜凉低月半梧桐。  夜凉 低月 梧桐に半ばし
人随遠雁辺城暮。  人は遠雁に随う辺城の暮
雨映疎簾繍閣空。  雨 疎簾に映じ繍閣空し
   これを逆読すると
空閣繍簾 疎にして雨に映じ。
暮城辺雁 遠く人に随う。
桐梧 半月 凉夜に低れ。 
草碧にして餘花 晩春に落ちる。
次韻回文  三首(一)
春機満織回文錦。  春機 満織 回文錦。
紛涙揮残露井桐。  紛涙揮ひ残す露井の桐。
人遠寄情書字小。  人遠く情を寄せる書字小なり。
柳糸低日晩庭空。  柳糸 低日 晩庭空し。
   これを逆読すると
空庭晩日低糸の柳。
小字情を書して遠人に寄す。
桐井露残して涙紛を掃い。
錦文回織して機春満つ。
次韻回文   三首(二)
紅牋短写空深恨。  紅牋短写 空しく深恨。
錦句新翻欲断腸。  錦句新翻 断腸せんと欲す。
風葉落残驚夢蝶。  風葉落残して夢蝶を驚かす。
戍辺回雁寄情郎。  戍辺の回雁 情郎に寄す。
   これを逆読すると
郎が情雁に寄せて辺戍より回る。
蝶夢驚くき残す落葉の風。
腸断 翻えさんと欲す新句の錦。
恨み深して空しく写す短牋の紅に。
次韻回文   三首(三)
羞雲斂惨傷暮春。  羞雲斂惨 暮春を傷む
細縷詩成織意深。  細縷詩成りて織意深し
頭畔枕屏山掩恨。  頭畔枕屏 山恨を掩う  
日昏塵暗玉窓琴。  日昏く塵暗し玉窓の琴
   これを逆読すると
琴窓玉暗し塵昏の日。
恨みは掩う山屏枕畔の頭。
深意織成す詩縷細。
暮春傷惨雲を斂めて羞じる。  
竇滔の妻・蘇氏について補足1
晋書巻九十六 / 列伝第六十六 / 列女
「 竇滔妻蘇氏」
竇滔妻蘇氏、始平人也、名宦A字若蘭。善屬文。滔、苻堅時爲秦州刺史、被徙流沙、蘇氏思之、織錦爲迴文旋圖詩以贈滔。宛轉循環以讀之、詞甚悽惋、凡八百四十字、文多不録。
竇滔の妻の蘇氏は、始平郡の人であり、名を宦A字を若蘭といった。文章をつづるのを得意とした。竇滔は、苻堅のとき秦州刺史となり、砂漠の地にうつされた。蘇氏は夫を思い、機織りをしながら回文旋図の詩をつくって竇滔に贈った。ぐるぐると転がしながらこれを読むと、詞はたいそうもの悲しいもので、およそ八百四十字、文の多くは記録に残されなかった。
C商怨 / 葭萠驛
江頭日暮痛飮、乍雪晴猶凛、山驛凄涼、燈昏人獨寢。
鴛機新寄斷錦、歎往事、不堪重省、夢破南樓、拷_堆一枕。
[ 斷錦 ] ここでは妻が夫を偲んで錦に文字を織り込んで送った故事。「晋書・列伝第六十六・列女・竇滔妻蘇氏」の蘇氏の故事。蘇氏は夫・竇滔が罪を得て流沙に流されたのを偲び、錦を織り、その中に回文(順序を逆に読めば、別の意味になる文)を織り込んで送ったことに基づく。原文は「竇滔妻蘇氏,始平人也,……(竇)滔,苻堅時爲秦州刺史,被徙流沙。蘇氏思之,織錦爲迴文旋圖詩以贈(竇)滔,宛轉循環以讀之,詞甚悽。」これを基に作った詞に劉克莊の「玉樓春」がある。
玉樓春 / 劉克莊   林推に戯れて
年年躍馬長安市、客舍似家家似寄。
錢換酒日無何、紅燭呼盧宵不寐。
易挑錦婦機中字、難得玉人心下事。
男兒西北有~州、莫滴水西橋畔涙。
年年馬を躍らす 長安市、 客舍は家に似て 家は寄るが似(ごと)し。
錢 酒に換へ 日ゝに何もする無く、 紅燭に 盧(くろ)と呼び 宵(よ)も寐ず。
挑(みいだ)し易し 錦婦の機(はた)中の字、 得(はか)難し 玉人の心下の事。
男兒の西北 ~州有り、 滴す莫れ 水西橋畔の涙を。 
烏夜啼 / 李白
黄雲城邊烏欲棲 黄雲に城辺に鳥棲(いこ)はんと欲し。
歸飛啞啞枝上啼 帰り飛んで唖唖(アア) と枝上に啼く。
機中織錦秦川女 機中 錦を織る秦川の女(竇滔の妻蘇氏)。
碧紗如烟隔窓語 碧紗 烟のごとく窓を隔てて語る。
停梭悵然憶遠人 梭(ひ)を停(とど)めて悵然と遠人を憶ふ。
獨宿孤房涙如雨 ひとり室房に宿して涙 雨のごとし。
「晋書」列女伝・竇滔妻蘇氏「竇滔妻蘇氏、始平人也、名宦A字若蘭。善屬文。滔、苻堅時為秦州刺史、被徙流沙、蘇氏思之、織錦為迴文旋図詩以贈滔」。なお、蘇氏のことを「秦川女」と称するのは、庾信「烏夜啼」に「弾琴蜀郡卓家女。織錦秦川竇氏妻」とあることによる。
竇滔の妻・蘇氏について補足2
蘇氏寰癡鱒D錦迴文璇璣圖
字若蘭,生卒年不詳。前秦始平人(陝西興平縣東北),竇滔之妻。滔有寵姬趙陽臺,寰ケ之,因與滔相忤,滔斷實ケ,實恨自傷,因織錦為迴文璇璣圖以寄滔。滔感其妙絕,因具禮迎宦B
琴清流楚激弦商秦由發聲悲摧藏音和詠思惟空堂心憂摯逵蝨フ傷仁
芳廊東歩階西游王姿淑窕窈伯邵南周風興自后妃荒經離所懷嘆嗟智
蘭休桃林陰翳桑懷歸思廣河女衛鄭楚樊諮゚中闈淫遐曠路傷中情懷
凋翔飛燕燕雙鳩土迤逶路遐志詠歌長嘆不能奮飛妄清幃房君無家コ
茂流泉情水激揚眷頎其人碩興齊商雙發歌我袞衣想華飾容朗鏡明聖
熙長君思悲好仇舊蕤葳粲翠榮曜流華觀冶容為誰感英曜珠光紛葩虞
陽愁嘆發容摧傷郷悲情我感傷情徴宮羽同聲相追所多思感誰為榮唐
春方殊離仁君榮身苦惟艱生患多殷憂纏情將如何欽蒼誓穹終篤志貞
牆禽心濱均深身加懷憂是嬰藻文繁虎龍寧自感思岑形熒城榮明庭妙
面伯改漢物日我愁思何漫漫榮曜華彫頎孜孜傷情幽未猶傾苟難闈顯
殊在者之品潤乎兼苦艱是丁麗状觀飾容側君在時岩在炎在不受亂華
意誠惑歩育浸集悴我生何冤充顏曜繡衣夢想勞形峻慎盛戒義消作重
感故暱飄施愆殃少章時桑詩端無終始詩仁顏貞寒嵯深興后姫源人榮
故遺親飄生思愆精徽盛翳風比平始璇情賢喪物歳峨慮漸孽班禍讒章
新舊聞離天罪辜神恨昭感興作蘇心璣明別改知識深微至嬖女因奸臣
霜廢遠微地積何遐微業孟鹿麗氏詩圖顯行華終凋淵察大趙婕所佞賢
冰故離隔コ怨因幽元傾宣鳴辭理興義怨士容始松重遠伐氏、恃凶惟
齊君殊喬貴其備曠悼思傷懷日往感年衰念是舊愆涯禍用飛辭姿害聖
潔子我木平根嘗遠嘆永感悲思憂遠勞情誰為獨居經在昭燕輦極我配
志惟同誰均難苦離戚戚情哀慕歳殊嘆時賤女懷嘆網防青實漢驕忠英
清新衾陰艶q辛鳳知我者誰世異浮奇傾鄙賤何如羅萌青生成盈貞皇
純貞志一專所當麟沙流頽逝異浮沉華英翳曜潛陽林西昭景薄楡桑倫
望微精感通明神龍馳若然倏逝惟時年殊白日西移光滋愚讒漫頑凶匹
誰云浮寄身輕飛昭虧不盈無倏必盛有衰無日不陂流蒙謙退休孝慈離
思輝光飭粲殊文コ離忠體一違心意志殊憤激何施電疑危遠家和雍飄
想群離散妾孤遺懷儀容仰俯榮華麗飾身將與誰為逝容節敦貞淑思浮
懷悲哀聲殊乖分聖貲何情憂感惟哀志節上通神祗推持所貞記自恭江
所春傷應翔雁歸皇辭成者作體下遺葑菲採者無差生從是敬孝為基湘
親剛柔有女為賤人房幽處己憫微身長路悲曠感生民梁山殊塞隔河津
織錦回文記 / 高宗武皇後 唐
前秦苻堅時,秦州刺史扶風竇滔妻蘇氏,陳留令武功道質第三女也。名宦C字若蘭。識知精明,儀容秀麗,謙默自守,不求顯揚。行年十六,歸於竇氏,滔甚敬之。然蘇性近於急,頗傷嫉妒。滔字連波,右將軍子真之孫,朗之第二子也。風神秀偉,該通經史,允文允武,時論高之。苻堅委以心膂之任,備曆顯職,皆有政聞。遷秦州刺史,以忤旨謫戍燉煌。會堅寇晉,襄陽慮有危逼,藉滔才略,乃拜安南將軍,留鎮襄陽焉。
初滔有寵姬趙陽台,歌舞之妙,無出其右,滔置之別所。蘇氏知之,求而獲焉,苦加捶辱,滔深以為憾。陽台又專形蘇氏之短,謅毀交至,滔益忿焉。蘇氏時年二十一,及滔將鎮襄陽,邀其同往,蘇氏忿之,不與偕行。滔遂攜陽台之任,斷其音問。蘇氏悔恨自傷,因織錦回文,五彩相宣,瑩心耀目。其錦縱八寸,題詩二百餘首,計八百餘言,縱反覆,皆成章句。其文點畫無缺,才情之妙,超今邁古,名曰《璿璣圖》。然讀者不能盡通。蘇氏笑而謂人曰:徘徊宛轉,自成文章,非我佳人,莫之能解。遂發蒼頭,齎致襄陽焉。滔省覽錦字,感其妙絕,因送陽台之關中,而具車徒盛禮,邀迎蘇氏,歸於漢南,恩好愈重。
蘇氏著文詞五千餘言,屬隋季喪亂,文字散落,追求不獲。而錦字因文,盛見傳寫,是近代閨怨之宗,旨屬文士,鹹龜鏡焉。朕聽政之暇,留心墳典,散帙之次,偶見斯圖,因述若蘭之才,複美連波之悔過,遂制此記,聊以示將來也。如意元年五月一日,大周天冊金輪皇帝禦制。
竇滔の妻・蘇氏について補足3
迴文錦
錢塘洪昇?撰。事本武后御制竇滔妻蘇寳D錦迴文傳。中間牽合點綴處。亦頗有因。與元人織錦迴文關目互異。
略云。扶風人竇滔、字連波。官秦州刺史。給假里居。妻蘇氏、名宦A字若蘭。興平人。性格玲瓏。姿才艷麗。然未嫉妬心。滔雖敬愛之。而不爲束縛。有婢隴禽。乘間獻媚于滔。滔力拒之。隴禽懷恨。時當七夕。夫婦方飮于穿針樓。而朝命忽至。擢滔爲兵部侍カ。促之任。滔赴京。蜀王苻洛與長史尹萬有逆謀。設宴邸第。大召朝臣。爲暗結人心計。酒酣出宮嬪媚珠侑觴。滔踞坐凝睇。觸洛怒。被劾。貶謫燉煌。燉煌監軍內監魯尙義所撫甥女曰趙陽臺。有文武才。爲尙義叅軍。曾繡鴛鴦一隻。尙義欲爲擇配。令懸繡鴛射之。以卜所從。一發而中鴛右目。時有高僧鳩摩羅什能知未來。尙義以陽臺配耦爲問。言當爲人側室。且宜即以繡鴛招善射者。能中左目。即其耦也。而滔適至。射中左目。陽臺遂嫁爲妾。閨房唱和。興至射獵。甚相得也。會尙義內召。苻洛備宴。藏甲謀亂。以尙義諫阻。發其奸。擒洛治罪。尹萬逃入蜀。尙義加官。滔亦擢用。懼其妻蘇對V來。預置外宅。藏陽臺。臨別。陽臺自寫其容于一扇遺滔。寰梶B見其夫神色可疑。陰令隴禽察之。滔方握扇思陽臺。爲隴所見。竊扇吿宦B尅蜩{。尋究得陽臺所在。率羣婢劫以歸。幽之別室。又聽隴禽讒。數加以不堪。滔惶恐。屢折節請。而尓s顧。陽臺之嫗被逐。赴尙義求救。尙義至滔第。賺陽臺還。而滔適奉命爲安南將軍。鎭守襄陽。竟攜陽臺赴任。巵ユ居哀怨。織迴文錦一幅。縱藏詩三十餘首。錯采鏤金。精工絕世。寄至襄陽。滔見而感動。與尙義商。令陽臺從羅什剃度修行。而遣人迎宦B陽臺行至妬女祠。爲文祀神而去。帙去梶B見其文。心憐之。遣人追之不及。旣之任。尹萬在蜀作亂。朝復命滔往征。賊潛引兵南下。圍襄陽甚急。寫ン圍中。遣兵拒賊。屢爲賊敗。陽臺往見羅什。羅什謂其塵緣未斷。使之遄返。助以佛力。得入城見宦B釋怨相愛重。如姊妹。羅什又使陽臺上城樓歌舞以亂賊心。尹萬果惑。乘城而上。爲陽臺所斬。圍解賊平。滔亦提師自蜀還。見妻妾相好異常。乃歸前咎于隴禽。痛懲之。事聞皇后。召見。索觀織錦。深加嗟賞。朝廷論平賊功。滔封侯。蘇氏、趙氏皆爲夫人。后復以巵ィ曠代奇才。特賜蜀江萬頃爲花粉資云。
按陽臺被遣。作者以爲可惜。故幻出後段情節。兩相和好也。射鴛一段。影借唐高祖射雀屛事。杜甫詩屛開金孔雀。即其事也。
本傳云。前苻堅時秦州刺史扶風竇滔妻蘇氏。陳留令武功道質第三女也。名宦A字若蘭。識知精明。儀容秀麗。謙默自守。不求顯揚。行年十六。歸於竇氏。滔甚敬之。然蘇性近於急。頗傷嫉妬。滔字連波。右將軍眞之孫。朗之第二子也。風神秀偉。苻堅委以心膂之任。備歷顯職。皆有政聞。遷秦州刺史。以忤旨謫戍燉煌。會堅寇晉。襄陽慮有危逼。藉滔才略。乃拜安南將軍。留鎭襄陽。初滔有寵姬趙陽臺。歌舞之妙。無出其右。滔置之別所。蘇氏知之。求而獲焉。苦加捶辱。滔深以爲憾。陽臺又專伺蘇氏之短。讒毁交至。滔益忿焉。蘇氏時年二十一。及滔將鎭襄陽。邀其同往。蘇氏忿之。不與偕行。滔遂攜陽臺之任。斷其音問。蘇氏悔恨自傷。因織錦迴文。五采相宣。瑩心耀目。其錦縱八寸。題詩三十餘首。計八百餘言。縱反覆。皆成文章。其文點畫無缺。才情之妙。超古邁今。名曰璇璣圖。然讀者不能盡通。蘇氏笑而謂人曰。徘徊宛轉。自成文章。非我佳人。莫之能解。遂發蒼頭齎至襄陽。滔省覽錦字。感其妙絕。因送陽臺至關中。而具車徒如禮。邀迎蘇氏。歸于漢南。恩好逾重。
按史。晉孝武太原五年夏四月。秦幽州刺史苻洛及苻重舉兵反。秦遣兵擊之。斬重。擒洛。赦之。據此。則洛之反。在幽州。而不在長安邸第。且斬重而赦洛。未嘗誅也。
高僧傳。鳩摩羅什。天竺僧。姚興迎之入關。待以國師。忽一日自請于秦王曰。有二小兒登肩慾障。須婦人。興進宮女一。交而生二子。諸僧欲效之。什聚針盈鉢。舉匕不異常食。曰。若能效我。乃可畜室。一說。興常謂什曰。大師聰明超悟。若一旦厭世。何可令法種無嗣。遂以妓女十人逼令受之。自是別立廨舍。不住僧房。又蓮社高賢傳。佛馱邪舍尊者聞什入長安。姚主逼以妾媵。歎曰。羅什如好綿\。何可使入棘林。據此則後一說爲的。
妬婦津在臨濟。酉陽雜俎云。劉伯玉妻段氏。性妬。後自沉而死。七日。托夢與伯玉曰。吾今得爲水神。伯玉終身不渡水。美人渡津者。皆壞衣毁粧。始得渡。不爾則風波暴發。
蘇東坡 / 詩人の描写能力

詩人は物を描写する技倆をもっている。桑の葉が未だ落ちないぬちは、その葉は柔らかく美しい。
桑の木を他の木に置き換えることは、殆ど不可能である。林逋の「梅花」の詩に、まばらな影が斜めに横たわって、清らかな浅瀬に映り、かすかな香りが月の沈もうとする淡い黄昏の中を揺れ動く. 「山園の小梅・二首」)
有るのは、決して桃や李の詩ではない。皮日休の 「白蓮」の詩に、心を持たないかのような、深い恨みを抱いたようなその花は、誰にも気ずかれないが、月が消え残り 風がすがしく、吹きわたる明け方、散りかける姿こそ無上に美しい。
(陸亀蒙・「襲美の木蘭の後の池三詠に和す。白蓮」)これは決して紅蓮の詩ではない。これが描写の技量と言うものであろう。
石曼卿(石延年)の 「紅梅」の詩に、桃だと認めるには緑いろの葉が無いし、杏だとするには、青い枝がある。とあるのは、ひどくまずい表現である、言うならば、田舎の学校で作るような詩である。
東坡先生全集。題跋「書き留めて過に送り届ける」過⇒蘇過。(1072-1123)  字は叔党。蘇東坡の第三子。蘇東坡が晩年に謫せられて恵州の各地に遷った時、一人従った。蘇過は文才があり、書画をよくし、「小坡」と称される。
詩人有写物之功。桑之木未落。其葉沃若。他木殆不可以当此。林逋梅花詩云。疎影横斜水清浅。暗香浮動月黄昏。決非桃李詩。皮日休白蓮詩云。無情有恨何人見。月暁風清欲堕時。決非紅蓮詩。此乃写物之功。若石曼卿紅梅詩云。認桃無緑葉。弁杏有青枝。此至陋語。蓋村学中体也。
元祐三年十二月六日。書付過。
{訳文}
詩人の物を写すの功有り。。「桑の未だ落ちざる、其の葉、沃若たり」は他の木、殆ど以て此に当る可からず。 林逋の「梅花」の詩に云う、「疎影は横斜し、水は清浅、暗香は浮動し、月は黄昏」と。決して桃、李の詩に非ず。皮日休の 「白蓮」の詩に云う、「無情、友情、何人か見ん。月暁、風清くして堕ちんと欲するの時」と。決して紅蓮の詩に非ず。此れ乃ち物を写すの功なり。石曼卿の 「紅梅」の詩に、「桃と認むれば緑葉無く、杏と弁ずれば青枝有り。と云うが若きは、此れ至って陋語にして、蓋し村中の体なり。元祐三年十二月六日、書して過に付す。
元祐三年(1088)十二月六日、以上、書き留めて過に送り届ける。

文章で十字で言う所は、一字で意を尽くす。
これに就いて面白いお話を紹介。宋代の有名な蘇東坡が恵州にいた時、恵州中の某潭中に蛟がおると言う評判がたった。然し誰も信じない。蘇東坡も信じない。所がある日、虎が水を飲みに行ったところを捕えて食ったので、始めて風説が嘘では無かったことが知れたとのこと。
その時、東坡は十字で之を写した。その詩。 潜鱗有飢蛟、掉尾取渇虎
この句、すでに渇くと言う、虎が水を飲むために災いを招いたと言うことが分かる。と説明している。すでに飢と言う、虎のような猛獣をまで食ったと言うのであると、解説までしている。食ったのが嘘か誠かは問題では無い。平生この調子で詩を学べとも言う。因みに虎の味までは書いていない。

蘇東坡が望湖楼に登った時、満湖の風雨が非常な勢いをしてきたので、東坡は興に乗じて”黒雲翻墨未遮山、白雨跳珠乱入船”と 口号した、ところが三句が出来ない。頻りに沈思しているうちに雨はいつのまにやんだ。一碧の水光、恰も天の如し、この時、何處からともなく東坡の耳に響いたのは、望湖楼下水如天と言う一句だった。
そこで東坡は悟った、転句はあくまで転せねばならないもので有ろうかと、筆を執り巻地風來忽吹散の句を挟んで一絶を作った。其の詩、”黒雲翻墨未遮、白雨跳珠乱入船、巻地風來忽吹散、望湖楼下水如天。”
この詩、前二句は、陰であり、雨である。結句は陽であり、晴である。陰陽雨晴の変化。全詩の構想は第一に転句が普通ありきたりでないことが解る。詩人たる者。転句の工夫を要すること。正に胆に命じる可しと言う。  
旅亭画壁の故事

王之渙は玄宗の開元年中に、当時名高い詩人の王昌齢・高適などとは「おい」 「お前」と呼ぶほど、親しい飲み友達であった。寒い冬の日の夕方空が曇り雪がチラチラ飛ぶ時、この三人は打ち連れて或る料亭に上って酒を飲んでいた。
すると劇場の囃子かた連中が十人ばかりドヤドヤやって来て隣の席で同じく酒盛りを始めた。三人は席を避けて、置炬燵を抱いて彼等の様子を窺っていると、その後、妙齢な若い妓が四人連れでやって来た。
如何にも艶やかな化粧なので、一座は忽ち燦然たる光彩を放って頗る花花しくなった。暫らくすると一座の連中は楽器を手に取って奏楽を開始した。そこで三人は始めて皆な一流の音楽家だということを知った。 王昌齢が「どうだい、君達、我々は今皆な世間に詩名が響いているが、お互いに誰も甲とも乙とも優劣を決めた事がない。
今夜はこの連中が歌うのを聴いて、もし我々連中の詩であった時、その詩の沢山歌はれたものを一番優等だと決めよう」この言葉のまだ終わらない中に、一人の音楽師が節を付けて唄いだした。
寒雨連江夜入呉。  寒い雨の降るのを侵して夜る君と舟で呉に来た
平明送客楚山孤。  明けがた君を送ろうと外に出ると楚山が唯一つ
洛陽親友如相問。  もし洛陽に居る親友が僕の近況を聞いたら
一片冰心在玉壷。  一片の氷が玉壷の中にあるようだと答えてくれ
と言う王昌齢の一絶句であった。王昌齢は大いに得意になって好しと言って壁に画し一絶句と題した。すると又一人の音楽師が唄いだした。
開篋涙沾臆。    箱を開けたら君が私に寄せた手紙が見つかり覚えず涙が
見君前日書。    君が勉強した室はそのまま残っています
夜臺何寂寞。    君は此世を捨てて墓穴に入り何と淋しいことであろう
猶是子雲居。    全く後漢の大襦の楊雄が居た宅のようです
と言う高適の一絶句であった。高適は満面に笑を湛えて壁を画して、一絶句と題した。更に又一人の音楽師が唄いだした。
奉帚平明金殿開。  夜明け方、酒掃を奉ぜようと宮中に伺侯すれば
強将團扇共徘徊。  君主の御出御の頃、妾は團扇を持ち歩きまよう
玉顔不及寒鴉色。  玉の美顔も寵愛が衰えば寒鴉の色さえ及ばない
猶帯昭陽日影來。  暁の空に飛ぶあの鴉でさえ昭陽殿の日影を帯び君の恩光を得て得意になって飛んで来るのに
と言う王昌齢の一絶句であった。王はホクホクしながら今度は二絶句と壁に題した。この様子を見た王之渙は頗る不満だった、彼は世に声名あることを自負し傲然たる態度で、王、高に向って言った。
「こいつらは落ちぶれの楽官で、歌うものは下里巴人の俗調子ばかりだ。陽春白雪の高尚な曲など、こんな奴共に解るもんじゃないよ」とその側にいた桃割を結んだ最も器量の良い若い妓を指して、「此の妓の歌うのを待つ、若し今度僕の詩でなかったら僕は一生君達には敵対しない。
若し僕の詩だったら、君達は僕を仰いでお師匠さんにすることだ」曲を唱う順番がとうとう桃割れの美妓に廻って来た。そして彼女の可愛らしい咽喉から玉を転がすような美しい音声で唄い出された。
黄河遠上白雲間。  黄河にそって上流の白雲の起ちこめるあたりまでさか登って来ると
一片孤城満仭山。  白雲の中に天を摩すばかり満仭の山山が連なり、その辺りに一つだけポツンと城が見えた
羌笛何須怨楊柳。  折りから異人の吹く笛の音が哀切の響きをかなでてる笛の音よ、折楊柳の曲を吹くことはいらないのだ
春光不渡玉門関。  この玉門関から西には春の光は渡ってはこないのだ(どうせ永離別で再び帰郷は出来ないのだ)
の王之渙の一絶句であった。王之渙は「どうじゃ田舎者め」ふざけ半分に意気揚々と、二人をからかって、かく絶叫したのだった。
隣席にいた連中は、この騒ぎ見て不思議そうな顔付きして「なんで皆様はそんなに大騒ぎをなさるのですか」と起って詰問した。そこで王昌齢がその理由を話したら、連中は競うて拝礼し、「いや我々俗人の肉眼で、ここに神仙の降下されたことを知らなかったは残念であった」と言い、皆が乞うてこの三人を自分達の宴席に招待した。そこで三人も亦心地よく皆と一緒に飲んで酣酔歓を尽くした。
奪錦袍 (錦袍を奪う)

唐代のころは、東岸(香山寺あたり)は文人、文客がよく遊び、則天武后もしばしば東山に遊んでいる。自分の容貌に似せた盧舎那佛が黄金に光るのを眺め、さぞや得意だったろう。香山寺には「錦袍を奪う」と言う逸話がある。
隋唐嘉話・唐詩記事に(奪錦袍)
武后游龍門、命群官賦詩、先成者賞錦袍、左史東方蛟(きゅう)既賜、
坐未安、宋之問詩復成文理兼美、左右莫不称善、乃就奪袍衣之。
ある時、武后は香山寺で酒宴を開いた。
詩を作ってみよ、と従臣達に命じた。最初に出来た者に錦袍を与える、と賞品をかけた。最初に名のり出たのが、記録をつかさどる「左史」の官。東方蛟(きゅう)であった。
錦袍を賜り、意気揚揚と自席に戻り着席しようと、その時、侍従職の宋之問が詩を完成した。
武后が宋之問に朗読させたところ、二十一句からなる391字の大作。華麗な言葉がちりばめてある。一座の参加者から讃歓の声があがった。武后は東方蛟(きゅう)から錦袍を取り返し 宋之問に賜った。
宋之問の詩
宿雨霽氛埃、流雲度城闕。河堤柳新翠、苑樹花始開。洛陽花柳此時濃、山水楼台映幾重。群公払霧朝翔鳳、天子乗春幸鑿龍。龍問近出王城外、羽従淋漓擁軒蓋。雲蹕僅臨御水橋、天衣已入香山会。山壁嶄巌断復連、清流澄K俯伊川。塔影遥遥緑波上、星龕奕奕翆微辺。層巒旧長千尋木、遠壑始飛百丈泉。綵仗霓旌廻香閣、下輦登高望河洛。東城宮闕擬昭回、南陌溝畛殊綺錯。林下天香七宝台、山中春酒萬年盃。微風一起祥花落、仙薬初鳴瑞鳥來。鳥來花落紛無已、称觴献壽煙霞裏。欹舞淹留景欲斜石阯P駐五雲車。鳥旗翼翼留芳草、龍騎駸駸映晩花。千乗萬騎鑾輿出、水静山空巌警蹕。郊外喧喧引看人、傾城南望属車塵。囂声引揚聞黄道、王気周廻入紫宸。千王定鼎三河固、宝命乗周萬物新。吾皇不事揺池楽、時雨來觀農扈春。
宗之問は則天武后が唐室の実権を掌握し張昌宗、張易之、のような色男を寵愛するのを見て不快に思う。自分は才学の力で北門学士の地位を勝ち得んとしたが、歯の疾病のために採用されなかったので「明河篇」と言う詩を賦し、その末に「明河は望む可く親しむべからず」の句を述べて暗に武后にその意をほのめかした。
武后は微笑しながら、詩意はよいが、この男、物を言い過ぎる嫌いがあると言い、抜擢しなかった。  
呉王闔盧と滕玉(娘)

呉王闔盧と、その娘・滕玉には有名な逸話がある。王が楚を伐ったとき、夫人と娘・滕玉と共に食事をした。食膳には“魚”を蒸したものが出されていた、王が半分食べて、残りを娘・滕玉に食べる様に進めた。悲劇は此処から始る。
娘・滕玉は「王は食い残りを私によこした。これは私をはずかしめることです。これ以上生きておれません」と言って王を恨んで自殺してしまった。
呉王・闔盧は、非常に悲しんで滕玉を郡の西の昌門の外に葬った。金の鼎や玉の盃、銀の樽や珠の宝物を娘への贈り物とした、そのとき白鶴があらわれ、舞い、人々は鶴とついて行った人々が墓の門まで行った。そこで門を塞いで、娘の死を送らせた。殉葬させられることになる。非情な事である。国の人々はこのことを非難した。
娘・滕玉は何故に「魚」のことで死を選んだのだろうか、父と娘の間柄である。父が魚を半分食べて、のこりを、娘にすすめる、このことは娘を辱しめることであろうか?然し娘には死に値する侮辱であった
説魚 > 魚を煮る。魚を食う。  
魚は典型的な隠語として配偶者・恋人を意味する。「魚」を一個の隠語の例として(聞 一多)言う。魚を以って配偶を象徴させる手段をとる、魚は繁殖力の最も強い生物であり、古代から人間を魚になぞえる。中国民歌の中では隠語の例は多い。
魚を煮る。魚を食う。を以って合歓・つれそうを喩える。
「詩」陳風・「衡門」
衡門之下、 可以棲遅、 沁之洋洋、 可以樂飢。
豈其食魚、 必河之魴、 豈其娶妻、 必斉之姜。
豈其食魚、 必河之鯉、 豈其娶妻、 必宋之子。
「易」六十五
貫魚、 以宮人寵、 无不利。
一つらなりの魚。宮人たちに寵愛があれば、うまくゆかぬことはない。
河南可採蓮、蓮葉何田田。魚戯蓮葉間、魚戯蓮葉東、魚戯蓮葉西、魚儀蓮葉南、魚戯蓮葉北。
(江南は蓮を採る可し、蓮葉何ぞ田田たる、魚は蓮葉の間に戯れ・・・)
「蓮」は「憐」と同音のかけことばで、これも隠語の一種である。ここでは魚は男を喩え、蓮は女を喩えて、魚が蓮に戯れるとは実は男と女が戯れると言うに等しい。
唐代の女性詩人・◇魚玄機・◇薛涛、もこの詩を理解する。 
魚玄機の「寓言詩」は [芙蓉の葉下に魚は戯れ、にじの天辺に雀声あり、人世の悲歓はひとえに夢にして、如何にか双成を作すことを得ん]
薛涛は元愼を袖にしたあとで、彼に献じた「十離詩」の一「魚 池を離る」に [蓮池に戯れ躍ること四五年、常に朱き尾を揺りて銀鉤を弄ぶ。端無くも擺断す芙蓉の朶 清波の更に一遊せんことを得ず。]と言う。
隠語の応用の範囲は古人の中で想像しがたいほどに広かった。それは社会的効用を持ち、若い男女の社交の場に於いては、それが智力を測る尺度であった。国家はそれによって賢才を抜擢する、個人はそれによって配偶を選んだ。(聞一多はその論文で述べる)
闔盧と娘・滕玉のあいだの「魚」は “魚を食べる”だけの意味ではなさそうだ。娘の想う人に父親・闔盧が反対の意を暗に表したのか?他の男に嫁がせることはない。おまえには一生そいとげる男性は現われないのだ、この魚が半分のように。父親の屈折した思いが込められていたのだろうか。
父親の[魚をお食べ」と言う好意が・・・意味深長にとれる。
魚をもって配偶を象徴させるのはなぜか。魚の繁殖と言う働き以上に適当な解釈は他にないのか。中国浙江省東部の婚姻風俗に、新婦が駕籠で実家を出る時、銅銭を地に撒いて、これを「鯉がタマゴを撒く」と言う、それはこの観念の最良の解説である。
漢詩と俳句の文学差異

漢詩は俳句に対して其の内容・思想に於いて・また表現方法に於いて非常に深く・且つ強い影響を与える。俳諧史四百年中・最も光彩を放った時代・又最も意義のある運動を起こした作者は、皆な漢文・漢詩詩趣興味を取り入れ、それを和文和歌趣味と融合させた時代だったと言い得る。
古今集の俳諧歌の欠点のみを真似て、洒落の低級な趣味に満足していた俳句が、高尚な純文学趣味に引き上げられたのは何よりも宗因よりも芭蕉の力であったと言える。俳句は芭蕉時代に於いて芭蕉及び其の周囲の人々により初めて文学として台頭し、高い趣味のもおとして完成された。芭蕉やその周囲の人々が俳句向上の運動を起こしたことに就いては、種々の原因が有るが、漢文漢詩の趣味を取り入れたことも有力な一つの原因である。
芭蕉以前の俳句を看ると、其の内容に於いて漢詩趣味を取り入れたものは極めて少ない。表現方法に於いて漢詩の緊密を学んだものは更に少ない。偶々、取り入れた漢詩も和漢朗詠集の範囲を出ていない。
王朝時代を風靡した白氏長慶集、即ち・白楽天の文集すら取り入れているのは稀である、。王朝時代の人々が、白氏文集に心酔したのは、白楽天の詩が平淡明易であることも一つのであるが、それよりも白楽天は禅僧と交遊し禅道になずんででいた(関わる)けれど未だ深く悟入(さとりひらく)せず、其の思想は人生に対する哀愁逃避の小乗禅(仏教の流派の一つ、この派はただ自利のみ願い、教理がせまく消極的。これに反対して起こった一派が、自らを大乗と言う)に支配されていたので、其の思想が仏教が沈酔した王朝時代の人心に、ぴったり適合したからである。
「源語」を一読しても、如何に其の時代に白氏文集の愛好されたかは、領会される。それが俳諧の勃興した、足利氏時代に至っては、戦乱相次ぎ人心は動揺、宗教家すら続々として処刑されるような、浅ましさき現実を看て、仏教にのみ心髄依頼すること、王朝時代のように深く無かった原因もあるであろう。俳諧者流には白氏文集も余り耽読されなかったらしい。故にこの時代漢詩の趣味、漢詩の表現法を取り入れた俳句は寥寥として探求に苦しむ。殊に其の表現は主として「こそ、けれ」の古今集以後の和歌趣味による弛緩するものであって、漢語をそのまま駆使しているのは、極めて稀である。僅かに捜しえ得たものは、左の数句に過ぎない。
松根に腰をさすってねの日かな   重頼
松によって子供眼をする今朝の門  重貞
此の二句は和漢朗詠集の「倚松根而摩腰千年之翠満手、折梅花而挿頭二月之雪満衣」を踏まえて作られている。一は正月子の日の小松引の句。一は正月の門松の句である。
春雨に洗いてけずれ柳髪   重頼
これも和漢朗詠集の「気霽風梳新柳髪、氷消波洗旧苔髪」をそのまま翻訳したに過ぎない。
紅葉たく林間なべの酒もかな   春可
これも朗詠集中にある白楽天の「林間暖酒燒紅葉、石上題詩払青苔」である。
常磐木か絶えず紅葉屏風の絵  正信
これも朗詠集中の白楽天の詩「不堪紅葉青苔地、又是涼風暮雨天」の詩に過ぎない。
尤も此の時代の末期に出た、椎木才磨(この人は芭蕉以前に出たが、八十二歳の長寿で芭蕉より遥かに遅れて没している人で、第一世団十郎俳号才牛の師)は漢文漢詩も可なり上々。彼の手記「椎の葉」と題する中国の紀行中にも「杜甫慈恩寺の雁塔に上りし一詩の思い出」
飛雁や上みへ並びて塔やらん      
など詠じている。杜甫の詩に「高標跨蒼穹、烈風無時休」の句がある。これより此の句が出来ている。このようにこの時代は未だ広く漢詩趣味を取り得なかった。それも無理のないころで、この時代には漢学が尚を一般的に盛行されなかったからである。
芭蕉時代に入ると、著しく漢詩の影響を受けていることが見受けられる。それは此の時代に知識人たちに漢文学が盛行されはじめた為である。足利時代の末に「藤原惺窩」(ふじわらせいか)が出て、朱子学を提唱した。「漢学紀原」によると僧から還俗した惺窩は文禄年間、中国へ渡航しようとした、然し風波の為に流され遂に薩摩に着陸、薩摩・正龍寺の僧文之玄昌の著「文之点四書」及び桂庵玄樹の著「家法倭点」を写し取り、京都に帰り、自己の独創の訓点として世に広めた。と紀されている。その後、林道春が惺窩点を編纂し「道春点四書」を出すなどして、当時の僧侶、それまでは主として五山の禅僧により研究されていた漢学が儒家の手により大衆的に広められるようになった。
徳川幕府が官学として林家の朱子学派を採用したのに対し、芭蕉の寛文延宝時代に於いては、私学派が勃興し、山鹿素行、伊藤仁斉、荻生徂徠などが古義派の学を提唱するに至り漢文学は益々、盛行し、元禄年間には湯島に聖堂が建ち、昌平校が創設され、此処に学ぶ学生は漢詩が一科目として課せられるようになった。
時代の風潮は、忽ち俳句界にも刺激せずには置かなかった。芭蕉圏内の俳人達も漢詩趣味を取り入れのを当然とし、新趣味とするようになった。
憂方知酒星。貧始覚銭神。
花に浮世我が酒くろく飯白し
の如く「艸合門無径、煙消瓶有塵、憂方知・・・」と言う白楽天の詩を前置きして作句している。
又、広瀬淡窓の「君汲泉流我拾薪」の詩句から
君火をたけよきもの見せん雪まろけ。などと詠じている。又、「懐老杜」と題して
髭風を吹き暮秋歎ずるは誰か子ぞ。と詠じている。
有名な芭蕉の嵯峨日記には、机の上に白氏文集を置いていることを記している。吉野の旅日記には、白雲を看て廬山を思い出し、清水に臨んでは伯夷許由を思う、など、吉野紀行のみならず、芭蕉の俳文には漢文漢詩を取り入れ、又はその趣味に影響されているものが頗る多い。元来・俳文なるもの特に芭蕉の俳文は、殆ど芭蕉独自の独創である、と言っても過言ではないだろう。
「奧の細道」を以て国文の妙味 云々の評があるが国文の妙味よりも寧ろ漢詩趣味が多分を占めている。唐詩・文選の趣味が六分以上占めている。芭蕉は「奧の細道」道中に限らず旅に出かける際には「背負い駕篭」の中に常時「杜甫詩集」を持っていたのも有名な逸話の一つである。
漢詩と俳句との関係は深く強いものであることが解る。芭蕉は漢詩を取り入れて俳句に新生命を与えた、そのご没落した俳壇を救った。蕪村も又、漢詩趣味によった。更に明治の俳壇を文学的に向上させた子規居士が、写生趣味の他に一面に於いて漢詩趣味を取り入れ、格調の上に漢詩を取り入れている。
即ち俳句四百年の歴史を顧みて、其の最も意義有る運動は、漢詩の取り入れにより起こり、最も伝来すべき作家は漢詩趣味の世界から生まれ、絢爛を極めた時代は漢詩趣味の作家が肩を並べて輩出した時代であった。俳句は漢詩趣味により生い立ち、漢詩趣味を離れて俳句は成り立たなかった。
 
曹操

(115-220) 三国魏の武帝、字は孟徳。三国志での怪物である。曹操・乱世の姦雄融知られる。政略に富み詩文にすぐれていた。現存する詩文は百五十。詩三十篇。青年時代の曹操は、鷹を飛ばし、狗を走らせる京樂の生活を送りながら、猛烈に勉学にはげんだ。特に諸家の兵法書を読破し「孫子」に注している。
諸葛孔明が「智計は人に殊絶し、その用法は孫呉を髣髴する」と言い、曹操の勉学が本物だった、事情を示す。曹操の詩は「槊を横たえて詩を賦す」と言うように、慷慨し、壮大な気象にあふれる。
酒に対しては当に歌うべし。人生は幾許ぞ。
譬えば朝露の如し。去日苦はだ多し。
慷して当に以って慨すべし。憂思忘れ難し。
何を以って憂いを解かん。唯杜康有るのみ。
但君が為の故に、沈吟して今に到る。
・・・・・
月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶ。
樹を遶ること三匝、何れの枝にか倚る可き。
山は高きを厭わず、海は深きを厭わず。
周公哺を吐きて、天下心を帰す。
「月明星稀、烏鵲南飛」は蘇東坡の前赤壁賦に引用された、名句である。中国語に「説曹操。曹操到」がある、「噂をすれば影がある」。嫌われ者がやって来る。曹操は「三国志」きっての嫌われ者である。三国志の中で徹底した悪役に仕立てられる。食うか食われるの乱世を生きる為には、下手な情けは禁物である。
旧知の家に泊った夜、刀を研ぐ音を聞き、自分を殺すのかと疑い、家人を皆殺しにする。誤解と解り悲嘆と後悔にくれ「むしろ我、人に背くとも、人の我に背くなからんことを」と考え、気を静めたと言う
曹操が魏の武帝となり、匈奴の使者を引見をしようとしたが、自分は風采が上がらず、遠国を充分に威圧することが出来ないと考え、崔季珪を身代わりにたてた。崔季珪は声も姿も気品があり、眉目秀麗、豊かな顎鬚もたくわえ、威厳があった。曹操自らは刀を持って王座の傍らに立った。会見が終わり間諜をやって尋ねさせた。
「魏王はどうだった。」
匈奴の使者は答えた。
「魏王は押し出しが実に立派だ。しかし、王座の脇で刀を持っていた人、あれこそ英雄だ。」曹操はこれを聞くと、追ってを出してこの使者を殺させた。
魏の武帝、曹操は行軍の途中、水の有る所を見失った、全軍の兵士達は皆な喉がかわいた。すると、曹操は「前方に大きな梅林があって、甘酸っぱい実が一杯なってあるぞ、それで渇きがいやされるぞ。」兵士達はそれを聞くと、みな口の中に唾が沸いてきた、そのおかげで、前方の水源まで辿りつくことが出来た。
魏の武帝、曹操は何時も言っていた。
「わしが眠っている時には、むやみに近寄ってはならぬ。もし近寄った者があれば、ただちに斬るが、それは無意識にやることだ。近侍の者ども、くれぐれも注意するように。」
その後、曹操が眠るふりをしていると、寵愛している一人が、そっと蒲団をかけた。その途端に切り殺してしまった。それからは、曹操が眠っているあいだは、近侍の者は誰一人として近ずかなかった。
魏の武帝。曹操のところに、一人の妓女がいた。その声は澄んでいたが、性格はひどく悪かった。殺してしまおうかとも考えたが、その才能が惜しい、そのままにするにも、我慢がならぬ。そこで百人の妓女を選んで一斉に歌を習わせた。暫くすると、期待にたがわず、歌声がその女に引けを取らぬ者を見つけた。そこで早速、性格の悪い女を殺した。
魏の武帝。曹操のところに「楊徳祖」と言う「主簿」がいた。時に丞相府の門が建造されたが、たるきが組み上がった時、曹操は、図らずも、それを見に出かけ、人に命じて門の扁額に「活」と言う字をかかせ、さっさと立ち去った。楊はそれを見ると、すぐさま門を壊すよう言いつけ、壊し終わると、言った。「門のまん中に「活」と書けば「闊」と言う字になる。王は門の大きいのがお嫌いなのだ。」
ある人が魏の武帝、曹操に酒壷一杯のヨーグルトを贈った。曹操は少し食べると、ふたの上に「合」と言う字を書いて、みんなの者に見せた。人々は誰もどういう意味か解らなかった。ヨーグルトは順送りに送られて、楊脩のところに廻されて来た。楊脩は、さっさと食べて言った、「みなに一口ずつ飲めとの仰せなのだ。何も躊躇することはない」
「合と言う字は「人」「一」「口」とから成っている。」
苦寒行
北のかた太行山に上る、艱なるかな何ぞ巍巍たる。
羊腸の坂詰屈たり、車輪之が為に摧く。
樹木何ぞ蕭瑟たる、北風声正に悲し。
熊羆我に対して蹲り、虎豹路を挟んで啼く。
・・・・・
彼の東山の詩を悲しみ、悠悠として我をして哀しましむ。
曹操には、お気に入りの妾がいた、何処えでも連れて行った。昼寝をすると言い、その膝を枕に横たわり「しばらくしたら起こせ」と命じておいた。妾は曹操がぐっすり寝ているのを見て、すぐには、起こさなかった、曹操は一人で目を覚ましたあと、 妾を撲殺した。
ある時、討伐に出かけた。食料が足らなった。こっそり主計官に「どうしょう」と相談した。主計が言う「桝目を小さくすれば足ります」曹操「よし」 やがて軍中に、魏の武帝、曹操が兵隊を騙していると言う噂が立つ。曹操は主計官に「手段は一つ。貴殿の命を借りて皆をなだめたい。」そう言うなり、切り殺した。その首を取ると、張り紙をして軍中にみせて廻った。「この者は、桝目を小さくして官の米を盗んだ。よって軍門にて斬罪に処した」と書いて貼りつけた。 魏の武帝。曹操の残酷と詐術はすべてこのようである。必要とあれば、非情なことは、なんでもやってのけるところに、曹操の「屈強倨傲」を見る。
 
諸葛亮1

(181-234)山東省の人。日本では諸葛孔明で有名。「三国志」諸葛亮伝。兄の瑾は7歳の年長である。九歳で母を無くし、十二歳で父を失う。兄の瑾は継母を伴ない呉に赴き、孫権に就きのち官職を辞す。孔明は弟の均と共に、諸葛玄を頼り荊州に移住した。
十六歳の時、叔父が殺されてからは、襄陽北西の隆中で晴耕雨読の日を送りながら、襄陽士人、後漢では一流の名門である崔州平、徐庶、遊学仲間の石韜、孟建、らと交わる。
荊州の社交界では、友人の(ほう士元)と並んで「孔明は臥龍。士元は鳳雛」の評判を得た。孔明の草蘆から75`離れた新野には、劉備が住んでいた。徐庶の薦めにより、劉備が「三顧の礼」をもってその出馬を請うたために、ついに出て補佐し、軍師となり、丞相に進み智謀忠誠、国家の柱石であった。天下三分して、蜀主の崩じた後、遺命により後主を輔け、建興五年(227)北征して魏と戦い、十二年陣中で没した。孔明が好んで歌ったとされる
「梁父吟」蜀漢 諸葛亮。  斉の梁父山に近い地方のことを歌った詩。
歩出斉城門。  歩して斉の城門を出で
遥望蕩陰里。  遥に望む 蕩陰の里
里中有三墳。  里中に三墳有り
塁塁正相似。  塁塁として正に相い似たり
問是誰家墓。  問う是れ誰が家の墓ぞ
田疆古冶氏。  田疆古冶氏
力能排南山。  力能く南山を排し
文能絶地紀。  文能く地紀を絶つ
一朝被讒言。  一朝讒言を被り
二桃殺三士。  二桃三士を殺す
誰能為此謀。  誰か能く此の謀を為せる
国相斉晏子。  国相斉の晏子なり
春秋の斉の名相晏平仲が景公に請うて、公孫接、田開疆、古冶子の三士に二個の桃を与えた。晏子は三士に 「三士は何に功があって、その桃を食うのか」と詰る。
公孫接は「大豕や虎などをも一打ちに捕える力がある為だ」と答える。
田開疆は「伏兵を設けて再び敵を奔らせた功がある」と言う。
古冶子は「われは君に従い黄河を渡った時、大亀が添え馬を銜えて河に入ったので、亀を殺し、馬の尾を握って水中から出た。
その亀は河伯と言う黄河の神であった」とと答える。二士は古冶士に及ばないのに桃を食うのは貪ることだと考え、貪欲の不名誉を受けて死なないのは、勇気が無いことになる、というので自殺してしまった。
古冶子は二士が死んだのに自分が生きているのは不仁である。人を恥ずかしめて名声を得るのは、不義である。こんな遺憾な行いをして死なないのは勇気が無いことになると自刎した。
景公のもてあました三士は、讒言に基いたもので、晏子が智慧を出して、
三人とも容易に亡き者となった。智慧の力が、勇者の力よりも、如何に強かったか。ここに孔明の睨む所がある。

晏子は勝れた人物ではあったが心の狭い人であった。即ち自分に対して、三士が礼を失したのを含んで、二桃を与え、それぞれ功を述べさせ互いに恥じて自殺させる策略を謀ったことは、その狭量を物語るものである。それに引き換えて三士の心は誠に壮烈であった。(二桃三士を殺す)
「晏子春秋」から出典して詩を作る。梁父吟を好んで歌った諸葛孔明は兵法家でもあった。
この作を点検すると、第一句の「歩出齋城門」と第二句の「遥望蕩陰里」が対句になっている、第七句の「力能排南田」と第八句の「文能絶地紀」が対句。第九句の「一朝被讒言」と第十句 「二桃殺三士」が対を成している。如何に魏の奸雄、曹操が絶大な兵力を擁していようとも、孔明渾身の正しい智慧には、一たまりもないと言う大きな抱負を、此にぶち明けたもの。
226年に、魏では文帝が死に、その子、明帝が立った。この機をとらえ孔明は、北伐を決意し、翌年「出師の表」を後主にたてまつって出陣する。この「先帝の創業いまだ半ばならずして、中道に崩そす。今や天下三分、益州疲弊し、これ誠に危急存亡のときなり」ではじまる「出師の表」は忠誠の至情に出たもので、千古の名文と言はれ、「これを読んで泣かざる者は忠臣に非ず」とまで言はれた。
梁父は梁甫とも言う。泰山の麓にある山。「梁父吟」は斉の梁父山に近い地方の山川、人物を詠んだ詩とされ、今残るものはこの一首のみで、他は亡失したとされている。
韓非子
リーダーが心得るべき事を簡潔に説明する韓非子は古来から重宝するリーダーは多い。韓非子曰、「明君は、二つの柄を握るだけで、臣下を統率する。二つの柄とは刑と徳である。刑徳とは何か。刑とは刑とは罰を加えること。徳とは賞を与えることである。部下は罰を恐れ、賞を喜ぶのが常だ。虎が犬を服従服従させるているのは、虎に爪・牙があるからである。その爪と牙を虎から取り上げて犬に与えたとしたししたら、逆に虎のほうが犬に服従しなければならない。もし、君主が此の二つの柄を手ばなし、臣下に之を使わせたら、君主は逆に臣下に統率されるだろう。」
誠に凄まじい。虎と犬を例える。韓非子は両者の関係は計算ずくで成り立つ。食うか食われるかの一つなのだ。先見性の無い経営者は言う。人格の形成に努める。相互理解につとめる。部下を信頼する。
儒教的な「愛」とか「仁」とか教育勅語が此の日本に蔓延る。孔子様が聞いたら涙を流して喜ぶことが、ごく一般的である。逆に部下に逃げられ、部下が一派を立ち上げ成功する例は多い。が、韓非子は「人を信ずることは有害である。人を信ずれば、自分が韓非子人に抑えこまれる」韓非子は真っ向うから否定し論述している
韓非子はなぜ、このような論法を取るのか?韓非子曰、「君主と臣下の立場は矛盾する。」現代社会に通用する一面はある。ある特定の人間だけが悪とは論述はしていない。唯、人間は自己の利益の為に行動すると考えたのである。人間の性は本来、悪で有ると認識する性悪説にたっている。韓非子は臣下の実態を把握する七つの術の条件を示す。
一、臣下の言葉を事実と照合すること。
二、法を犯した者は必ず罰する、リーダーの威光を示す。
三、功労者には必ず賞をあたえる、全能力を発揮させる気持ちをもたせる。
四、一人、一人の発言に注意し責任をもたせる。(一人、一人の発言に注意し有能か無能か判断する。)
五、詭計を使う。六、知らないふりをして相手を試すこと。
七、嘘やトリックを使って相手を試すこと。
「ああ、この本の著者に会うことができるなら、わしは死んでもよい」韓非子の著作を読んで思わず嘆声を漏らしたのは秦王・政。のちの始皇帝である。果たして和平の為、韓は使者として韓非子を送って来た。引見した、始皇帝は大いに気にいった。李斯はお膳立てして迎えた韓非子とは同学である。能力の差は知り抜いている。自分の危機を始皇帝に讒言する。韓非子を韓の国に返すと秦が危ない。讒言を始皇帝も信じる。
始皇帝は李斯の讒言を聞きいれて韓非子を獄にくだしてしまった。李斯はすかさず獄中に毒薬を送って韓非子に自殺を強要する。
秦王が思い直して彼を赦免しようとした時には手遅れであった。韓非子は死に、韓もまた、まもなく秦によって滅ぶ。紀元前221年。秦は始めて天下統一を成し遂げた。秦王政は始皇帝になるが、その諸政策はすべて韓非子が編み出した理論にもとずくものである。
韓非子は非業の死をしたが始皇帝が韓非子の論述を施行し韓非子の学説が知られた。始皇帝は韓非子の弟子と言はれる由縁である。
諸葛亮2

(しょかつりょう) 光和4年-興12年(181-234) 中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍略家。字は孔明(こうめい)。
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。
妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原(景春)らがいる。
書生時代
琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(郡の副長官)を勤めた人だが、諸葛亮が幼い時に死去している。生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。後漢の献帝と生没年が同年である。
まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について「三国志」本伝では、従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓(朱儁の子)が豫章太守として派遣され、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く「献帝春秋」では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安二年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。
その後諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていたという。この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はいなかった。ただ親友の崔州平や徐庶だけがそれを認めていたという。また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く「襄陽記」に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを孔明の嫁選びと呼ぶようになった。
三顧の礼
この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。一方劉備は袁紹の陣営を離れた後、曹操に追い散らされて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。荊州では、北の曹操の強大化によってこれまで平和であった荊州も危険になるのではないかと話し合われていたが、高齢の劉表は病気がちな上、長男の劉gと次男の劉jとの間で激しい後継者争いが起こって、有志たちの失望を買っていた。
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、「襄陽記」には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「臥龍」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また「魏略」には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを孔明の出廬と呼ぶ。
赤壁の戦い
建安13年(208年)、劉表陣営では劉jが後継となることがほとんど決定的となり、劉gは命すら危ぶまれていた。劉gは自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉gは一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。
観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉gに外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉gはこれに従い、その頃ちょうど江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉gの兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。
同年、劉表が死去。その後を予定通り劉jが継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉jはすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。
孫権陣営は情勢観察のために魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。
入蜀
戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の四郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、四郡の内の三郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。
建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は龐統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛・趙雲らを連れて長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した(入蜀合戦)。
建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また伊籍・法正・李厳・劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。
夷陵の戦い
その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。
劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。
建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。
劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、諸葛亮は「法正が生きていれば、これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた(法正は220年に死去している)。
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に死去する。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。
北伐
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯・開府治事・益州刺史になり、蜀の政治の全てを任されることになる。諸葛亮は呉にケ芝を派遣し、関羽の死によりこじれた関係を修復すると、魏に対する北伐を企図する。魏の側は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆・王朗・陳羣・許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけた。諸葛亮は返事を出さなかったが、のちに「正議」を発表し、彼らを批判した。
益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしたが、諸葛亮は225年に益州南部四郡を征討し平定した。この地方から得た財物で軍資を捻出し、国を富ませたという。この時にいわゆる七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。
建興5年(227年)、準備を調えた諸葛亮はいよいよ北伐を決行する。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(「文章規範」の評語)と称賛されている。「表」とは公表される上奏文のことである。
魏を攻める前に、諸葛亮はかつて蜀から魏へ降った新城郡太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、異常なまでに曹丕に寵愛されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後はそれまでの寵愛を失い、極めて危うい状況にあった。その情勢を偵知していた諸葛亮は孟達に調略の手を伸ばし、孟達もこれに応じて魏に反乱を起こした。しかし蜀の援軍が到着する前に、孟達は魏の司馬懿に討ち取られてしまった。
最初に躓いたものの、翌建興6年(228年)春に漢中より北へ進軍した。この時魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。
諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。この動きに南安・天水・安定の3郡(いずれも現在の甘粛省に属する)は蜀に寝返った。
これに対し、魏は宿将の張郃を派遣した。諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、その才能を評価していた馬謖を任命したが、馬謖は諸葛亮の指示を無視して山上に布陣したため、張郃により山の下を包囲され、飲み水を確保できず撃破された。街亭の敗北によって進軍の拠点を失った蜀軍は、全軍撤退を余儀なくされる(街亭の戦い)。撤退時に諸葛亮は西県を制圧し千余家を蜀に移住させた。また、この戦いの時に魏の役人だった姜維が蜀軍に降伏してきている。
撤退後、諸葛亮は馬謖を処刑した(「泣いて馬謖を斬る」の語源)。諸葛亮は自分自身も三階級降格して丞相から右将軍になったが、蜀を運営していける人材は他におらず、引き続き丞相の職務を執行した。
同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行した。この時に上奏したとされるのが「後出師表」であるが、これは偽作説が有力である。二度目の北伐は曹真に作戦を先読みされて上手く行かず、食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた王双を討ち取った(陳倉の戦い)。
更に翌年(229年)春、第三次の北伐を決行する。武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。これに対して魏将郭淮が救援に向かったが、諸葛亮自身が出撃して彼の退路を断とうとしたので撤退した。陳式は無事に武都・陰平の二郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰する。
建興9年(231年)春2月、第四次の北伐を行い司馬懿と対戦し、局地的に勝利したが、長雨が続き、食糧輸送が途絶えたことにより撤退する。この撤退の時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺している。食糧輸送の一切を監督していた李平(李厳から改名)は、諸葛亮を呼び戻させる一方、彼が帰還したところで「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」と聞き返すなど、自らの失敗をごまかそうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を出して李平の嘘を見破り、彼を庶民に落とした。
建興12年(234年)春2月、第五次、最後の北伐に出た。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣する。しかし、頼りにしていた呉が荊州と合肥方面の戦いにおいて魏に敗れ、司馬懿は大軍を擁しながら防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。病に侵されていた諸葛亮は、秋8月(「三国志演義」では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。
諸葛亮の死後、蜀軍は全軍退却することになったが、その途中で魏延と楊儀との間に争いが起こり、楊儀が勝って魏延は殺された。蜀軍が引き揚げた後、陣地の跡を検分した司馬懿は「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。
諸葛亮は、漢中の定軍山に魏が見えるように葬られたという。遺言により質素な墓とされた。
諸葛亮が死去したという知らせを聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去したという。また同じく官位を剥奪された廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうのだ」といって涙を流したという。
劉禅は民衆や異民族が諸葛亮の廟を作って祀りたい、もしくは成都に諸葛亮の廟を建立したいとの希望を一度は却下した。しかし、民衆が勝手に廟を立てて密かに祀っているという事実と、習隆・向充の上奏を受けて、成都ではなく沔陽に廟を立てている(「襄陽記」)。

管仲

“管鮑の交わり”が象徴する永遠不滅の友愛のイデア
紀元前8〜7世紀を生きた管仲(かんちゅう)は斉の桓公を中国大陸の覇者にした名宰相であるが、管仲が歴史に不朽の名を刻めたのは親友・鮑叔(ほうしゅく)の長年月にわたる支援があったお陰である。管仲と鮑叔の不滅の友情から派生した故事成語に管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)という言葉があるが、本書管仲は古代中国の春秋時代に芽生えた管鮑の交わりを中心軸として、管仲の「憂暗」から「栄達」への人生の見事な転換を描ききっている。管仲も鮑叔も、中国全土を統べる周王の権威が衰退し始めた紀元前7世紀に生きた士大夫であり、儒教の始祖である孔子よりも古い時代の人物である。
中国の春秋時代には、日本は未だ縄文時代の石器文明の最中にあったが、古代中国の周王室というのは日本の天皇家と非常に良く似た存在であり、権威的な礼に基づく封建制度によって中国大陸を統治していた。殷(商)の紂王(ちゅうおう)を「牧野の戦い」で放伐した周の武王によって周王朝(B.C.11世紀-B.C.256)は建設されたが、天子として君臨した周王の権威は周の軍事的影響力の衰退と共に弱まり、諸侯が周王の命令を無視して群雄割拠するようになった。酒色に溺れた周の幽王の時代(B.C.771年)に、周王室は異民族の犬戎(けんじゅう)に追われて、首都を鎬京(こうけい)から洛陽(洛邑)へと東遷する。洛邑を首都にするようになった東周の時代から、周の中国全土に対する権威は急速に衰退し始めることになるが、小説管仲は周王室が斜陽に入り始めた時期の物語である。
本書管仲の底部に一貫して流れるテーマは、人間の人生の明暗の分かれ目と言って良く、人間の人生の明暗と幸不幸が偶発的な人との出会いによって決まることを幾つものエピソードを通して示唆している。管仲は歴史小説であると同時に恋愛小説でもあり、最愛の女と別れた管仲の孤独と虚無を慰撫する存在として梁娃(りょうあい)という美しい商人の女(むすめ)が描かれ、無謀な武勇にはやる性質のある鮑叔を安定させるかのように需叔(じゅしゅく)という妻が現れる。需叔という類稀な美貌を持つ女性は、無頼の気質のある鄭(てい)の太子から鮑叔に下賜されたのだが、当時最も繁栄していた鄭国の太子である忽(昭公)は、鮑叔に強い好意と信頼を寄せて自らの家臣にしたいと考えた。需叔の弟の需垣(じゅえん)は、管仲に生涯の忠誠を誓う股肱の臣となるが、管仲の周囲にあって管仲の人生に光を投げかけた人間の多くは、鮑叔を介在して関係を持つことになったのである。
鮑叔無くして管仲無しという時、単純に、親友の鮑叔が管仲を斉の桓公に推薦したというだけではなく、虚無主義的な諦観に沈み込もうとする管仲を、鮑叔をハブとしてリンクした人々が無言のうちに支えたということがある。性格に陰が無く闊達としたところのある鮑叔の最大の魅力は誰からも好かれるということであり、鮑叔を凌ぐ最高の知性・思想を持つ管仲の弱点は人によって好かれるか嫌われるかの落差が激しいということであった。管仲の前半生の苦難の多くは、管仲の才能を認めてくれる君主や卿が居なかったことにあり、管仲の後半生の活躍は、管仲の抜群の知性を鮑叔が認め続け、管仲の代わりに鮑叔がそれを推挙したことにある。管仲は天下を左右するほどの才気の持ち主であったが、鄭の昭公(太子曼伯=忽)からはその存在を疎んじられ、魯の荘公からはその才覚を不当に軽視された。
鄭の太子・曼伯(忽)は、鮑叔の武勇と才略は高く評価したが(管仲とは無関係な)管叔鮮の謀反の故事を嫌って管仲の才能を認めることは無かった。魯の荘公も、公子糾を失脚させた召忽の器量よりも管仲の器量を低く評価して、管仲を不吉をもたらす者として遠ざけようとした。管仲は斉の桓公に厚遇されるまで、自己の才覚と理念を縦横に振るえる場を与えられることが無かったが、それは管仲自身が人との出会いを積極的に求めなかったということも関係している。
世俗への適合性が高い鮑叔は人の可能性を最大限に大きく見積もっていたが、厭世的な憂愁のある管仲は人の可能性に限界を見ており、天の普遍的な摂理に基づいたビジョンを描いていた。他者に抜きん出た優秀な才能と計画を持ちながらも、管仲が諸侯に認められにくい背景には人間(俗世)そのものへの関心の乏しさと悲観的な人間の背負う暗さがあった。小説管仲では、人間としての管仲の弱さと未熟さを絶妙な筆致で描き出しており、管仲の歴史的評価からだけでは決して窺うことの出来ない管仲の人間性を創作の中で蘇らせている。
広大な中国大陸全土にその名声を響かせた斉の宰相・管仲であるが、この小説の中で書かれる青年の管仲は、好きな許婚の女性・季燕(きえん)に見捨てられて自殺を考えるほどに弱りこみ、自分の能力を認められないことで人生の前途を悲観するというような人間臭さを隠しきれない小さな存在である。管仲の虚無的な精神の歪曲は母親の愛情を得られなかったことと恋人の季燕と別れることによって生まれたが、前途を閉ざされたように感じた管仲は未来の季燕との生活に僅かな望みを賭けて別れることを決意した。敬愛する父を失った管仲は、放蕩な兄に家の財産を潰され、兄をかばう母に冷淡な仕打ちを受けたが、兄の死後に零落した家計の中で母・弟を扶養することになり、季燕との婚約を解消せざるを得ない状況に追い込まれた。
――天に試されている。
ふと、そう感じた。父を喪ってから管仲を理解し、愛してくれたのは、季燕ただひとりである。士はおのれを知ってくれた者のために死んでも悔いはない、といわれるが、管仲は季燕のために死んでも良いと覚悟した。男の愛とはそういうものである。が、愛する者をおのれの死の道づれにすべきではない。この場合、ほんとうの愛の表現とは、季燕を生かし、幸福にするために、管仲が死ぬべきなのである。ここで季燕の心身を自身の中におさめてしまうと、多分季燕を殺して自分が生きることになってしまう。この感覚は管仲にしかわからぬであろう。男と女とは、そういう相克の関係ではないところで、共通な夢を描くのが正しいありかたではないのか。季燕の愁傷に負けると、かえって季燕を失う。ここでうけとめた季燕は幻想であり、実像は未来にある。管仲は自分の愛しかたが天に通ずることを祷りつつ、手をはなした。
――自分にとって、明日とは、どういう意義があるというのか。
管仲は歩いた。歩いた自分を嫌悪した。季燕を失っても、自分は生きつづけるであろう。それが不純であった。地面が痛かった。
歩きつづけていくうちに、天の広さに気づいた。晴れわたった天で、ひとつの雲もなかった。目をあげると、また涙がながれた。
――天とは広大な哀しみであるのか。
管仲は天を仰ぎつづけた。そのうち、季燕の幸福を祷るだけの人生でもよいではないか、とふとおもった。この心にいつわりがなく、わずかでも人の役に立つような生きかたをすれば、天のあわれみにふれることができよう。
仕官(就職)に目途の立たない管仲は、季燕に三年間、待って欲しいと懇願するが、15歳で結婚することが当然と考えられた古代中国で、18歳の季燕が静かに待ち続けるには三年の月日は余りに長過ぎた。待たせられれば必ず別の男と結婚することになると確信していた季燕は、管仲に自分を連れて逃げることを訴えるが、管仲は不幸な結末になることが分かっている駆け落ちに賛同することは出来なかった。天に試されていると慨嘆して自分の運命を呪った管仲は、普段の冷静沈着さを失い、天を睨みつけて地を踏み鳴らし泣き喚いた。季燕の未来を殺して無力な自分の慰めとする駆け落ちだけは選択できず、三年間の時間を自らに与えてくれるように天に祈念したがその痛切な思いは届くことはなかった。家族に恵まれなかった管仲は、自らの孤独と悲哀を唯一理解してくれた季燕を失い絶望の深淵に沈み込んだ。
時に、三年の月日を待ってくれなかった季燕のことを恨んだりもしたが、本心では、天下無双の学識と才智を讃えられながらも、愛する女性さえ守れない自己の現状の無力さと弱さを嫌悪していたのであった。貧困と虚無の中で管仲の精神は退廃的になり生きる目的を見失いつつあったが、管仲の叡智と理性に再び生気を吹き込んだのは鮑叔の友愛であり、元々余人に抜きん出た器量を持っていた管仲は虚無的な世界観の中から創造的な人生への構えを生み出した。
管仲は、鮑叔を起点とした人間関係のネットワークの中で、自分自身の人生は自分以外の何ものにも変えることが出来ないという真理に到達し、自分から離れた季燕を責める未練の無意味さを悟った。仏教の真理とも通底する会者定離の真理を体験的に感得した管仲は、自分の運命や他人の行動を嘆き悲しむことを止めて、天佑をもたらせる生き方に己の才智と努力の全てを注ぎ込むことにした。古代中国で最高の頭脳と思想を持つと賞賛された管仲が、自分の個人的な不幸に打ち負かされて死蔵していた知識を天下国家の繁栄と自己の理想のために実践的に活かし始めた……その時に、管仲自身の人生だけではなく春秋時代の歴史という巨大な構築物が静かに方向転換を始めたのである。
親友の鮑叔が不遇な時期の管仲にしたことを一言で要約してしまえば、お前の抜群の才能と知性の凄さを俺は十分に知っているから諦めるのはまだ早いと何度も繰り返し言い続けたことであり、管仲の消え入りそうな生存への意欲を管仲への無上の敬意を示すことで鼓舞したのである。他者に好意を寄せられその才覚を認められることの多い鮑叔は、管仲に対して親友以上の師に対するような礼遇を取り、他者に認めらにくい管仲の人格と知性を腐らせずに成長させ続けることに成功した。自分の人生のネガティブな暗さを振り切れず、別れた異性への思いを恋々と引きずる管仲を明るく陽気に照らし続けた鮑叔は、管仲を雌伏する臥龍と見なしており、遠い未来において必ず頭角を現すと疑いなく信じていた。管仲が人間としての弱さや個人的な不幸に押しつぶされて、無為徒食のままに人生を終えるはずなどないという信念と期待が鮑叔にはあり、自分に出来るだけのことをして、何とか管仲が縦横無尽に活躍できる場を与えてやりたいと思っていた。
なぜ、鮑叔が自己犠牲を払うほどに深く管仲に敬愛の念を抱き続けたのかを史実は語ってくれないが、小説管仲では、管仲が自信家であった鮑叔の自己愛を打ち砕き、鮑叔に自分の目指すべき理想の極地を示唆したことが管仲への尊敬の始まりとなっている。周都・洛邑で学問を教えていた管仲と出会ったことにより、鮑叔は初めて自分の知性や器量を超える圧倒的な存在を目の前にし、自分が今まで生きてきた世界の矮小さと自己の能力の限界を知るに至った。小さな世界での自足で終わりかけていた自己の人生が、想像を絶する大器である管仲との出会いによって、大きな世界(中国全体)への可能性へと開かれた……この衝撃的な管仲との邂逅によって、鮑叔と管仲との間の友情は永続的な紐帯として結ばれることになった。
管仲は鮑叔に自分にはない人格上の美質を見出して尊敬し、鮑叔は管仲に自分にはない圧倒的な才能を見出して尊敬し、お互いに相手がどんな境遇や立場にあろうと軽んじることがなかった。鮑叔の人格上の美質は仁徳へと昇華され、遂に自分自身と公子小白の夢(野心)を打ち砕こうとした管仲を許し、管仲を自分以上の重臣として重用することを小白(桓公)に勧めた。公子諸兒・公子糾・公子小白が斉の君主の座を争う競争で、知略の管仲・武威の召忽が公子糾を教育し、勇気と知性のバランスの取れた鮑叔が公子小白を補佐したが、暴君の襄公(公子諸兒)が自滅した後に、天命が味方したのは公子糾ではなく公子小白(桓公)であった。兄の公子糾と弟の公子小白はどちらが斉の太守(君主)になってもおかしくはなかったが、首都・臨シに行くことに不安を覚えて自分の才徳に自信を持てない公子小白を、鮑叔が無理やりに車に乗せなければ公子小白が斉の桓公として偉業を達成することは無かったであろう。
公子小白は、公子糾を支持する管仲の比類なき知性と召忽の並ぶものなき武芸を恐れていたが、公子小白に付き添う鮑叔だけが斉人の世論を味方につけた公子小白の優位(勝利)を確信していたのである。鮑叔は決断力と行動力においては管仲を一枚上回る士であり、――天は、恐れなければならないが、人は一生の中で一度、天に問うときがあると乾坤一擲の覚悟を決めた時の行動は迅速を極めた。
兄は魯軍に護られて帰国し、君主の位に就くであろう。しかも管仲には知恵があり、召忽には武勇がある。とても斉へはいれそうにない
管仲がその知恵を国内に働かすことができれば、国は乱れることはないのですが、管仲はその地位にはいないし、召忽の武勇だけで、何ができるというのですと公子小白をはげました。だが、公子小白は起つのをためらった。
管仲が知恵を働かすことができないにしても、管仲に知恵がないわけではない。召忽が多数の兵を率いることができないにしても、かれの友人がわたしを伐つかもしれぬ
公子小白の展望は悲観に閉ざされてゆく。しかしながら、ここを天与の機と全身で感じている鮑叔は、公子小白の恐怖にみちた心情を斟酌(しんしゃく)しなかった。公子糾が即位してから弟を招いてくれる、などというのは、まさに妄想である。
国が乱れてしまうと、いかなる知者でも治めきれないのです。朋友でも協力することができません。それゆえにあなたさまが徳をもって計画を実行することができるのです
もはや問答無用といわんばかりに鮑叔は馬車を用意させて、公子小白の背と尻を押して馬車に乗せ、自身が手綱をとった。従う家臣は四十人という寡さ(すくなさ)である。
――この寡兵で斉を取るのか。
公子小白はおのれのみすぼらしさを嗤った。
長い屈辱と忍耐の時を亡命した異国の地で過ごした公子小白は、未来の政局を正しく予見した鮑叔によって斉の諸侯の地位を手に入れ、中国東方における覇権を確立することに成功する。最終的に、斉の桓公の宰相となり国政を取り仕切ったのは鮑叔ではなく管仲であるが、斉の桓公の人徳の基礎を鮑叔が教育し、その徳性の素養を大輪の花として咲かせたのが管仲であると言える。相補的な管鮑の交わりの精華として、斉の桓公は春秋の五覇の代表となるような事績を残したが、小説管仲では一人の人間としての管仲が絶望からの再生を果たす過程、鮑叔の持つ比類なき友愛の発露が生き生きと再現されていて、管仲や鮑叔を知らない人でも十分に楽しめる内容となっている。  
“人の己を知らざるを患えず”の精神と自己の人生の肯定的受容
管仲が人民の生活を重視した善政を実際に敷くまでには、天才的な知性を現実世界とリンクさせるために人間そのものへの関心と明るく闊達な人格を取り戻す必要があった。そして、管仲の遁世的な憂鬱の陰と人格の暗さを晴らしたのは親友の鮑叔と妻の梁娃であった。最後に母親からの愛情欠損というトラウマティックな過去と訣別することにより、管仲は生身の人間が織り成す世俗の政治と軍事に真正面から対峙することが出来た。
前半生の管仲は絶えず自己の孤独・人生の空虚の中で懊悩し、鮑叔と自己との違いを人生に対する絶望の有無とさえ考えていたが、その遠因は管仲に温かい愛情を注いでくれる家族と女性が欠けていたことにあった。人間の冷たい側面ばかりを見つめてきた管仲と人間の温かい側面を多く目にしてきた鮑叔との違いであるが、管仲は多様な人との出会いと人生の経験を通して、悲観的で他責的な人間観を劇的に転換させる。過去の自分を裏切り傷つけてきた他者を許し、自分の人生全体を受容するという転換の契機によって、名宰相としての管仲の基盤が形成されたといえる。
普遍的な友情の元型としての管鮑の交わりをメインテーマに据えながら、管仲と鮑叔の性格類型を陽の鮑叔と陰の管仲として対照的に描き分けることで、史書の中では不明瞭な二人の個性を強烈に打ち出すことに成功している。管仲にはない人格上・能力上の美点を鮑叔は多く備えているが、鮑叔にあって管仲にない利点は余人をもって代替することができ、管仲にあって鮑叔にない長所は管仲以外の何ものにも代替できない。これが、鮑叔が最後の最後まで管仲の才覚と人格を重視した根拠であり、管仲の比類なき政治能力は天下の平穏と人民の安楽を約束するものであった。
春秋時代とは、周の血縁と礼制による封建政治では中国全土の繁栄と安全を守ることが出来なくなり始めた時代であり、周の臣下である諸侯が周の権威や命令を軽視し始めた時代だと言える。斉と晋の盟主としての統率力が衰えた戦国時代に入ると、周の権威は完全に否定され弱肉強食の武力闘争の時代になるが、管仲の生きた春秋時代はちょうど「周王の権威」に代わる「盟主の指導力」が要請され始めた転換期である。不甲斐ない周王室に代わって諸侯を取りまとめる盟主を待望する声が高まり、その時代の声に後押しされるかのように、管仲に補佐された桓公は春秋の覇者となった。
管仲(管夷吾)は人臣としての最高位である宰相の地位に就くが、宰相の椅子は長年、公子小白(後の桓公)を養育してきた親友の鮑叔によって譲られたものであった。管仲と召忽(しょうこつ)という有能な大夫は、公子小白(しょうはく)の兄である公子糾(きゅう)を支持して、公子糾を斉の君主にするために全身全霊を尽くしたが、ギリギリのところで鮑叔が補佐した公子小白との君主争いに敗れてしまう。管仲は政治の枢要を理解する知略に優れ、召忽は万軍を率いる武勇に抜きん出ていたが、二人がかりで懸命に養育した公子糾は、最後の最後で、鮑叔ひとりが心情を込めて養育した公子小白(桓公)に及ばなかった。これは、管仲の教育が鮑叔の薫陶に劣っていたことを意味するわけではなく、もともと性質や理念の異なる管仲と召忽という二人の英傑が公子叔の養育を担当したために、管仲・召忽それぞれの利点・長所を十分に生かせなかったという面もあるだろう。
貴族の武芸である射術に優れていた管仲は、公子糾を君主にするための最後の賭けとして、その卓絶した弓矢をもって鮑叔と共に首都・臨シに向かう公子小白の生命を奪おうとする。首都・臨シに鮑叔と公子小白が無事に到着すれば、民衆からの圧倒的支持を受けていた公子小白はそのまま君主となることができるが、管仲の弓矢で公子小白を絶命させれば、斉の君主の血統を継ぐ者で最後に残った公子糾が君主になれるという賭けであった。公子小白に世論の支持が集まり、公子糾に民意の反発が起きたのは、公子それぞれの人格や才能の差によるものではなく、小白と糾を補佐して教育した管仲・召忽と鮑叔の政治的判断の違いであった。公子糾と公子小白の兄である諸兒(しょげい)は襄公として即位したが、襄公は異母妹を妃妾とする背徳行為に溺れ、人民を抑圧して戦争を好む悪政を行った。
既存秩序を尊重する召忽(しょうこつ)は、公子糾に兄の襄公に臣下としての礼節を尽くすように勧め、順当に襄公の後を継いで公子糾を君主の座に据えようとしたが、鮑叔は襄公の冷淡な性情を見切って公子小白に亡命を勧めた。これが、公子糾と公子小白のその後の明暗を決定することになる。兄の襄公の機嫌を伺って外見的な忠節を尽くしていた公子糾は、襄公の悪政を暗黙裡に支持していたものと見なされ、斉の民衆の好意を得ることが出来なかった。一方、鮑叔の助言によって斉国から亡命していた公子小白は、兄・襄公の人民を苦しめる政治を否定していた人物と見なされ、人民から歓呼の声をもって新たな君主として迎えられることになった。
こう書くと召忽によって公子糾の運命が暗く閉ざされたようにも見えるが、召忽は武将としては極めて有能な人物であり君主に対する忠義に対しては右に出る者のない良臣であった。公子小白の未来の栄達への経路を予見した鮑叔がいなければ、召忽・管仲は間違いなく公子糾を斉の君主として擁立することに成功していたであろう。召忽は自分の人生の全てを賭けて補佐した公子糾が失脚するや否や自害したが、管仲は鮑叔の推薦を受けて公子糾を滅ぼした公子小白に仕えることを決意する。儒学の孔子が、管仲のことを君主に対する忠義の徳に欠ける人物として批判した所以であるが、管仲は易経にある君子は豹変し、小人は面(おもて)を革む(あらたむ)をそのまま実践し、斉の繁栄と中国の安定のためにその才能を惜しむことなく費やしたと言える。
鮑叔は桓公の父兄にひとしい傅佐(ふさ)であり、桓公とともに亡命生活をして苦難をしのぎ、帰国を敢行して桓公を君主の座におしあげた勲功の臣である。軍事においても非凡で、そういう才幹が、桓公の政治を大きな顔をして輔ける(たすける)のが当然であるにもかかわらず、鮑叔は卿(けい)の位を望まず、友人の管仲を推挙するや、一大夫として引いてしまった。あいかわらず桓公の謀臣にはちがいないが、政治の表面にはでなくなったのである。
管仲が人民の幸福と国家の安定を実現する宰相として豹変するためには、鮑叔が政治の中枢から離れる必要があったが、鮑叔の人格の高潔さは自身の功績への執着の無さにある。公子小白を君主の座につけた功績を誇ることの無かった鮑叔は、公職における進退を速やかにして国政のすべてを管仲に移譲し、自らは一大夫として国政の背景へと退いた。
公子小白(斉の桓公)を救った天命は、管仲を見放し鮑叔を選んだと言えるが、鮑叔は希代の才能である管仲を桓公に推挙し、桓公は管仲の謀反の罪を許して管仲を厚遇した……主君に反旗を翻した者は、九族に至るまで徹底して処刑される古代中国の慣例に照らし合わせて極めて異例な処置が取られたが、斉の桓公を明君足らしめたのは臣下の声を聴く耳であったと言って過言ではないだろう。斉の桓公はその前半生において鮑叔の訓育を受け、後半生において管仲の教導を受けたことによって中国(東部)の覇者となることが出来たが、斉の桓公自身は己を空虚にして忠臣に支えられることによって王道を為した人物とも言える。斉の桓公は管仲のことを仲父(ちゅうほ)と呼んで崇敬し斉の苦難を管仲の思想と知略によって切り抜けたが、管仲が死没すると周囲に阿諛(あゆ)の家臣が集まり非業の死を遂げることになった。
鮑叔と管仲の補佐によって中国史に燦然とその名を刻んだ斉の桓公は、無類の知性を煌めかせた管仲を失うことによって自己の政治判断を示唆する適切な指標をも失った。斉の桓公は、管仲が斉の重臣に取り立てることをやめるように遺言した人物(易牙・豎勺ら)を近づけて自滅することになり、周の建国の功臣・太公望呂尚によって建国された斉は二度と勢力を回復することが無かったのである。斉の桓公は良い言葉を聴けば善政を行い、悪い言葉を聴けば悪政に流される臣下を映す鏡のような存在であり、斉の国政に反映させるべき賢臣を失った時に斉の命運は潰えてしまった。
人並みの幸福さえ手のとどかぬところにあるというのが、自分の未来図である。母に食われるまで生きる、それだけのことではないか。いままでひそかに自分の才徳を誇ってきたが、そのようなものは運命の力でたやすく拉殺(ろうさつ)されてしまう。周の穆王の裔孫であり、豪族の家に生まれたことは、いまや飾りにもならない。個が内蔵している力は環境が誘導してくれなければ、異彩を放つことはできない。いまの自分のみすぼらしさをよくみよ。個の力は雑草とりに役立つ程度のものだ。人より劣る自分が人並みの夢をもってはならない。苦痛を棄てるとはそういうことだ。人並みになりたいというのが夢であればよい。
中国史上で最高の宰相となる男が、そのように矮小な存在として陋巷(ろうこう)であえいでいたのである。ただし管仲は自己を極端に矮小化したがゆえに宇宙の広大さがわかったのかもしれない。かれは孔子よりおよそ百五十年まえを生きている。したがって儒教の理念を知るはずはないが、個の力を過信せず、また多大に期待しない点において、儒教とは対極的な思想をもっている。そこから国家と人民を守る法の意識が生じるのは、礼を規範とする儒教とは対蹠的である。
管仲が生きた時代の後に生まれた魯の孔子は、人の己を知らざるを患えず、己の人を知らざるを患う・人の己を知らざるを患えず、己の能なきを患えよという言葉を残しましたが、管仲の人生の前半は人から自分の能力や成果を認められない苦悩に覆われていたと言えます。管仲の自己を認められない苦悩に救済の光を当てたのが、管仲の無類の才能を誰よりも愛した親友の鮑叔であり、管仲は鮑叔の魅力的な人徳の深さに胸を打たれ、天、民を矜れむ(あわれむ)。民の欲する所は、天、必ずこれに従うという究極の自助努力の境地へと到達しました。
小説管仲の読後に飛来するのは、個人の能力は環境と他者によって開発されるということであり、自分に与えられた天分と才覚の中で努力し続ける中に自分固有の人生の経路が開かれてくるということです。人の己を知らざるを患えず、己の人を知らざるを患うという他者の価値を認め合う相互性を実践するのは難しいことですが、自己を矮小化して絶望したり、自己を尊大化して慢心しないようなバランス感を持って人生を楽しむことが出来れば、管仲のような大器を持たずとも個人の生としては十分に満足のゆくものになるのではないでしょうか。  
 
陶潜 (陶淵明)

(365-427) 字は淵明。又は元亮、東晉の潯陽の人。潯陽は、北に長江が流れ、近くに名勝盧山が聳え、風光明媚、気候温暖の地である。
陶潜は、若くして両親を失い貧困の中で成長したが学問を好み、田園の自然を愛し詩文を善くしたと言われる。曾て彭澤県の県令となった。県令となって八十日過ぎて偶々県の督郵(巡察官)が政務の視察にやって来た。
その時属吏が陶潜に言った、「必ず礼服を着けて督郵に面謁すること」陶潜は嘆じて「俺はどうして五斗米の給料を得る為め、田舎の小僧輩に腰を屈めて拝することができようか」。と言って、即日、県令の印綬を解き職を辞してしまった。
そして「帰去来辞」を作り「五柳先生伝」を著した。時は義熈元年の11月だった。義熈元年は桓玄が誅に伏した翌年で劉裕が晉の天下を奪い政を専らにする歳である。淵明は義熈以後の年号は決して自分の詩文などに記入しなかった言はれている。
陶淵明の詩の中で最も知られているは
「飲酒二十首」の「其の五」
結盧在人境。    盧を人里に結んで住んでいるが
而無車馬喧。    貴人の車馬の来訪する喧しい音はない 
問君何能爾。    どうしてこんなに静かに暮すことが出来るかと言うと
心遠地自偏。    心が遠く世俗を離れていれば住む地も僻遠の地になる
采菊東籬下。    家の東の籬の下に咲いている菊を採って立上ると
悠然見南山。    ゆったりと南方の山を見るともなく眺めるのである
山気日夕佳。    山に湧く気は、日中でも夕方でもそれぞれ美しく
飛鳥相與還。    朝出た鳥が夕方に飛び連れて山に帰って行くのである
此中有真意。    その中に万象の奥の真理、自然の道理の意味を感じる
欲辨已忘言。    語ろうとすると言葉を忘れ、真実は言葉では語れない
「悠然として南山を見る」の語に深い意味がある。これを「南山を望む」とすると、「一語を改めれば一篇の神気索然たり」と蘇東坡は評している。
白楽天の「効淵明詩」(淵明に効う詩)に「時に傾ける一壷の酒、坐して望む東南の山」とあるのは、また別趣であると理解したい。またそれゆえに意識的にこの詩に倣ったものとしての興趣はある。

夏目漱石(1876-1916)は【草枕】の中で以下のたまいける。【うれしいことに東洋の詩歌はそこを解脱したものがある。採菊東籬下、悠然見南山。
ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣ねの向こうに隣の娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的の利害損得の汗を流し去った気持ちになれる。
獨坐幽篁裏。弾琴復長嘯。深林人不知。明月来相照。(王維)
ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。淵明・王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人間の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔興だ。淵明だって年が年中南山を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹薮の中に蚊帳も釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は売りかこして、生えた筍は八百屋え払い下げたものと思う。

石川啄木(1886-1912)は12/27/1907の日記にはこのように書いている
読淵明集。感多少。嗚呼淵明所飲酒。其味遂苦焉。酔酒酔苦味也。酔余開口哄笑。哄笑與号泣。不識孰是真惨。
(注釈) 淵明集を読んで、感ずる所が多い。嗚呼淵明の飲む所の酒、其の味、遂に苦かりし。酒に酔うは苦き味に酔うなり、酔餘口を開きて哄笑す、哄笑と号泣と、識らず孰れかに真に惨なるかを。
 
謝霊運

(384-433) 河南省陳郡陽嘉の人。晋の将軍謝玄の孫。文才があり顔延年と名を並べた。従叔父謝混の封、康楽公二千石を継いだので、謝康楽と称された。詩文は陶淵明と並んで「陶謝」と言い、顔延之と併せ並び称して「顔謝」と称される。
石壁精舎還湖中作。    石壁精舎より湖中に還りて作る。
昏旦変気候。  昏旦に気候変じ
山水含清暉。  山水 清暉を
清暉能娯人。  清暉 能く人を娯しませ
游子憺忘帰。  游子 憺として帰るを忘れる
出谷日尚蚤。  谷を出でて日尚はやく
入舟陽已微。  舟に入りて陽已に微なり
林嶽斂瞑色。  林嶽 瞑色を斂め
雲霞収夕霏。  雲霞 夕霏を収む
菱蓮迭映蔚。  菱蓮 たびに映蔚し
蒲稗相因依。  蒲稗 相い因 依す
被払趨南径。  被払して南径に趨き
愉悦偃東扉。  愉悦して東扉に偃す
慮澹物自軽。  慮澹にして物自ら軽く
意適理無違。  意適いて理違う無し
寄言摂生客。  言を寄す摂生の客
試用此道推。  試みに此処の道を用って推せ
山水の美を描き尽くした詩。謝霊運の詩の中で最も秀れたものの一つとされている詩。朝夕に変わる湖山の微妙な景色に心安んじて還るを忘れ、この中に陶淵明の所謂「真」の理があることを言外に暗示し、「慮澹にして物自ら軽く、意適いて理違う無し」道をもって養生の要諦とする。と言う結句に至る前提として、渾然とした纏まりをみせる、
感覚の鋭い観察、巧妙な表現により、夕景の変化を刻刻と感じさせる。天才の霊妙な手法である 然し謝霊運の官吏としての生涯が不遇なのも、彼の放縦な性格と自ら引き起こした人間関係のトラブルに関係がある。名門の坊ちゃん、我が儘で自負心が強く、才能を恃み勝手気ままな振る舞いは、世間の顰蹙を買う結果にもなった。
謝霊運は好んで「曲柄笠」(柄の曲がつた車蓋。車に立てる傘⇒貴人の儀仗として用いた)を用いた。孔隠士(孔淳之)が彼に言った。
「きみは心は高遠な境地を慕いながら、どうして、貴人を真似て、柄のついた笠と言う外形にとらわれるのだ」謝霊運は答えた。
「まあ《影を畏れる者はまだ無心になっていない》と言うことではなかろうか」 
謝霊運は父の喪中に詩を作った。為に、罪に問われ一生出世できなかった。それは、父母の死を文学作品として表現する。それだけの、ゆとりを持つことが許されなかった。親の死は人生にとって最大の悲しみとされ、中国の詩人で、妻や子供の死を悼む詩はみられるが、親の死を悼む詩はほとんど無い。稀にはあるが、例外的である。孝という徳には親の生前中に孝養をつくす。祖先の霊をまつるという義務を持つ。
後、謝霊運は文帝の秘書監となり「晋書」の編纂に従事したが、再び会稽に帰り山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒擾罪に問われた。幸い文帝の特赦により臨川内史に任ぜられるが、彼は依然として傲慢な態度を改めなかった。遂に広州へ流罪となる。護送の途中、逃亡の計画が暴露され広州で死罪に処せられた。四十八歳であった。
 
劉季夷

(651-678頃) 「唐才子傳」に「季夷美姿容、好談笑。善弾琵琶。飲酒至数斗不酔、落魂不拘常検」と言う。
代悲白頭翁の此の詩は人世のはかなさ、青春時代に永華を究めた老人の心中を託して歌った有名な詩。いろいろと問題にされ、世間で喧騒された詩である。
七言古詩。 年年歳歳花相似。歳歳年年人不同。(年年歳歳花相い似たり。歳歳年年人同じからず)  劉季夷が暮秋のころ、残花を見ながら酒を飲んでいると、突然、西風が吹いて、花と枯葉を吹き落とした。
この情景を見て劉季夷は(今年花落ちて顔色改まり、明年花開きまた誰か在る)と言う詩を作った。暫らくは、満足して吟誦し、写実的で深い描写だと満足していた、そのうち、この詩は調子が沈みすぎて、これでは自分の寿命も長くないような気分になった。そこで、やはり落花を題に、もう一首作ってみようと、下を向いては落ち葉を見、上を向いては空中に想を練ったが、良いものは出来なかった。劉季夷は諦めず、ずっと翌年の春、花の咲く頃まで考えつずけていた。
ある日、花園に入った劉季夷はたちまち、満開の花に引かれた。昨年の春のことが思い出されたあの時もやはり、このように花は美しかった・・・・と、ひらめくものがあって、昨年の詩を、(年年歳歳花相似たり。歳歳年年人同じからず)と改めた。「死生有命、豈由此虚言乎」 ところが、この詩が完成してから一年も経たないうちに、彼は人に殺されてしまった。
唐才子傳。宋の唐詩紀事。に記されている。
「遂併存之。舅宋之問苦愛一聯、知其未傳於人懇求之、許而竟不與、之問怒其誑己」
この詩の(年年歳歳花相似、歳歳年年人不同。の句)を舅の宋之問が気に入り是非譲って欲しいと言った。劉季夷は一度は承知したが、その後、惜しくなり断った、宋之問は怒り下男に命じて劉季夷を(土のう)で圧死させた。ところが、「宋之問集」にこの「代悲白頭翁」とほとんど同じが「有所思」と題しある。「古文真宝」前集にも宋之問「有所思」と収められている。
清の沈徳潜は宋之問の詩は、実に劉季夷より高く、宋之問が劉季夷の詩を盗んだとは考えられないと言っている。宗之問と劉季夷は詩の格が違うと伝える。
代悲白頭翁  劉希夷
洛陽城東桃李花。  洛陽城東 桃李の花
飛來飛去落誰家。  飛び來り飛び去って誰が家に落ちる
洛陽女児惜顔色。  洛陽の児女は顔色を惜しみ
行逢落花長嘆息。  行く行く落花に逢うて長嘆息す
今年花落顔色改。  今年花落ちて顔色改まり
明年花開復誰在。  明年花開いて復た誰か在る
已見松柏摧為薪。  已に見る松柏の摧かれて薪と為るを
更聞桑田変成海。  更に聞く桑田の変じて海と成るを
古人無復洛城東。  古人復洛城の東に無く
今人還対落花風。  今人還対す落花の風
年年歳歳花相似。  年年歳歳花相い似たり
歳歳年年人不同。  歳歳年年人同じからず
寄言全盛紅顔子。  言を寄す全盛の紅顔子
応憐半死白頭翁。  応に憐れむべし半死の白頭翁
伊昔紅顔美少年。  伊れ昔紅顔の美少年
公子王孫芳樹下。  公子王孫と芳樹の下
清歌妙舞落花前。  清歌妙舞す落花の前
光祿池台開錦繍。  光祿の池台錦繍を開き
将軍楼閣画神仙。  将軍の楼閣に神仙を画く
一朝臥病無相識。  一朝病に臥しては相識る無し
三春行楽在誰辺。  三春の行楽誰が辺にか在る
宛転蛾眉能幾時。  宛転たる蛾眉能く幾時ぞ
須臾鶴髪乱如糸。  須臾にして鶴髪乱れて糸の如し
但看古来歌舞地。  但看る古来歌舞の地
惟有黄昏鳥雀悲。  惟だ黄昏鳥雀の悲しむ有るのみ  
 
駱賓王

(680頃在世) 浙江省義鳥の人。初唐の四傑の一人。武后に上書して、臨海丞に追いやられたが、文中に、武后の罪を責めて、「徐敬業の乱」に加わり、「檄文」を作った。武后はその文中に「一抔之土未乾、六尺之孤安在」の句があるのを読んで、心を打たれ、この才人を失ったことを惜しんだと言う。徐の軍が敗れて彼も又、亡命した。彼の詩には数字を用いて好んで対句を作っているので世に「算博士」の号を得た。
於易水送人 易水に於いて人を送る
此地別燕丹。  此の地 燕丹に別る
壮士髪衝冠。  壮士 髪冠を衝く
昔時人已没。  昔時 人 已に没し
今日水猶寒。  今日 水猶寒し
この詩は「唐詩選」には「易水送別」と題している。武后が唐の帝位を奪ったのを歎いて、荊軻の事に感じてことさらに題を設けて作ったと伝える。
「駱賓王と宗之問 」のエピソード
時は仲秋の月夜の事、月は皎皎と輝き藍色の大空に懸かり、広い山寺の庭には誰もいない。
朱塗りの剥げた大きな寺の圓柱に蟋蟀が一匹とまって鳴いている。松と竹との影は池の泉水に映って婆娑としている。一人の青年が此の幽玄の世界の月夜の絶景に魂を奪われ夜が更けても僧房に帰り寝ることも忘れ、庭の樹を巡り歩いている。山気が冷たく衣に透る。
「嶺邊樹色含風冷」嶺邊の樹 色 風を含んで冷やかなり一句を得た。彼は此句は自然の感興に触れ、ふと出来た好句だと思ったが、一聯の名句に、まとめなければ、面白みが無いと思い直し、口ずさんで仏殿前の長い廊下を歩きはじめた。
ふと、気がつくと仏殿上に付いている瑠璃燈の圓光の下で、独り老和尚が座して静かに瞑想に耽っている。彼は廊下から仏殿の方えだんだん近寄るが、老和尚は見動きしない。
青年は足の音も立てないで又、長い廊下を何回も何回も往復し吟を案じる。和尚は突然、口を開いて、「そこに居るのは誰だ!詩が作りたければ風景は口頭にあるぞ!」
背後から一喝した。青年は驚いた、自分は当今の詩人中の才子である。此の坊主、馬鹿に高飛車に出る。俺を軽蔑するとは怪しい奴だ 「黙れ」と、叱りとばそうと内心は怒って見たが、此の坊主、風景は口頭に有ると馬鹿に乙なことを言う奴だ。何か意味があるのかもしれない。「和尚さん詩をおやりになりますか」と眸を凝らして不思議そうに問うた。
「てまえは、詩を好く会得していない。が一句だけは貴方に代っていま作り上げた」
姿を改めて静かな声で答えた。青年な内心では冷笑しながら、
「それでは吟じて聞かせて下さい・・・・」言うや否や、老和尚は咄嗟に
「・・・・・・石 上 泉 声 帯 雨 秋 」  石上の泉声雨を帯びる秋。 
と朗吟した。この対句は非常に幽俊の出来栄えで、青年は驚喜の餘り、
「老師はいま、立派な対句を作って戴きました。私は霊隠寺の勝景を記せんと苦吟瞑捜、やっと二句ばかり出来ましたが、後が出来ません、恐れいりますが以下ご教授ください」
「左様か、二句が出来たなら、念じてみなさい」
「鷲嶺鬱邵嶢。 龍宮鎖寂寥」と咏むと老僧は忽ち
「馬鹿者!何ぜ・・・楼ハ見ル滄海ノ日。門ハ対ス浙江ノ潮・・・と言はないのか」
と叱った。青年は即興とは思えない詩情妙味に驚き感心してしまった。再び老僧に尋ねた
「老師は大変な大家と存じ、若輩の私には及ぶ所では御座いません。どうか詩作を完整され霊隠寺の勝概を顕してはいかがでしょうか」 老僧は欣然として
「桂子月中落。 天香雲外飄」ろくに思案もせず、ただ口に任せて名句をそれからそれえと續けて朗吟する、聴いていた青年は餘りにも一字一句が完璧で、感服してしまった。
「老師の詩作は、声調は雄渾。風致は曲折。自然の妙の極みに入っています。恐らく老師は詩壇の先輩で、四傑の儔倫ではありませんか、私は老師が普通の隠者で偶然に佳句を得るとは思へません。老師はどのようなご縁でこんな僧侶のお仲間入をなさいましたのですか」
青年は真剣な面もちで尋ねた。老僧は微かに嘆息を洩らしたのみで返答はしなかった。
この青年は宗之問で老僧こそ有名な駱賓王であった。宗之問は則天武后が唐室の実権を掌握し張昌宗、張易之、のような色男を寵愛するのを見て不快に思う。自分は才学の力で北門学士の地位を勝ち得んとしたが、歯の疾病のために採用されなかったので「明河篇」と言う詩を賦し、その末に「明河は望む可く親しむべからず」の句を述べて暗に武后にその意をほのめかした。
武后は微笑しながら、詩意はよいが、この男、物を言い過ぎる嫌いがあると言い、抜擢しなかった彼はそれから、快々楽しまず、とうとう官を棄てて流浪の旅に出て、霊隠に来て飛来峰の景勝と泉石の秀美に憧れ、霊隠寺に寓居していた。宗之問は老僧には何か仔細な事情があると思い生涯の事は問はなかった。それから此の寺で朝夕老僧と親しく交際する機会を得た。
暫らく過ぎて宗之問は此の老僧は確かに勤王の義軍を起こした李敬業将軍の幕僚で、大文豪 駱賓王に違いないと感付いた。ある日、宗之問は老僧の前で、閑談の時、唐室を簒奪した則天武后が残虐、淫蕩をほしいままにしたことを話し、終りに李将軍が敗績し、駱侍御が艸した檄文も無効になったのは残念だ、と言いくるりと老僧の方をみた、老僧は眉毛を顰めてこう言った。
「既往は総て浮雲じゃ、そんなことを言うもんじゃない」と言い放つた。その翌日宗之問は例によって老僧を禅室に尋ねたら、もう此の寺には居なかった。
駱賓王は敬業が敗績すると亡命し、落髪僧となり名山に遊び霊隠寺に隠れ此で圓寂したと言う当時駱賓王は首に数満金の賞金が掛けられ、武后から追捕される身分で、元より自分から駱賓王と自白することは出来ないことであった。
霊隠寺    駱賓王
鷲嶺鬱邵嶢。  鷲嶺 鬱として邵嶢
龍宮鎖寂寥。  龍宮 鎖して寂寥
楼看滄海日。  楼は看る 滄海の日
門対浙江湖。  門は対す 浙江の湖
桂子月中落。  桂子は 月中より落ち
天香雲外飄。  天香は雲外に飄る
捫蘿登塔遠。  蘿を捫りて塔に登ること遠く
刳木取泉遥。  木を刳りて泉を取ること遥なり
霜薄花更発。  霜薄くして花更に発し
氷軽葉互凋。  氷軽くして葉互いに凋む
夙齢尚遐異   夙齢 遐異を尚び
披対滌煩囂。  披対 煩囂を滌ぐ
待入天台路。  天台の路に入るを待って
看余渡石橋。  余の石橋を渡るを看よ
 
陳子昂

(661-702) 字は伯玉。梓州射洪(四川省)の出身。富豪の家に生まれ任侠を好み、常に博徒と遊び十八歳まで少しも読書は解せなかった。後に郷校に入り、大いに前非を悔い感憤し経籍に傾注し、経史百家の書に通じた。又詩文を善くしたので、当時相如、子雲の風骨ありと称された。陳子昂が始めて「感遇詩三十八章」を作ると王適がこれを見て甚だ奇とし「此子は必ず海内の文宗となるだろう」と言い、進んで交際をした言う。
登幽州台歌(幽州の台に登る歌)
前不見古人。   過去に目を凝らし古人を見ようとしても出来ないことである
後不見來者。   未来に生を延ばし未来の人に逢おうとしても、かなわぬことだ
念天地之悠悠。  永遠にして窮まりない天地のことを考えると人生の儚さがしのばれ
獨愴然而下。    ひとりでに悲しみの涙がはらはら流れるのである
世の俗衆が、ただ現世の利欲にあくせく働いているだけなのを諷刺している。興亡の古い歴史を背景にした幽州台上、無限の天地を前景にして悄然たる孤影が目に浮かぶ「この道や行く人なしに秋の暮れ」芭蕉の句意に通ずるものがある
感遇詩 二首之一     
朔風吹海樹。  朔風は海辺の樹を吹いていかにも物淋しい 
蕭條辺已秋。  もう已に辺地は秋の景色となった
亭上誰家子。  あの亭上に居るのはどこの家の子だろう
哀哀名月楼。  此の名月の夜に兵営の中で頻りに哀んでいる
自言幽燕客。  自分は幽燕の地の者で、 
結髪事遠游。  若い時分から遠遊することを仕事にしている
赤丸殺公吏。  赤丸で公吏を殺したり
白刃報私讐。  白刃で私讐を報いたともあった 
避讐至海上。  その後仇を避けて海上にさまよい
被役此辺州。  とうとう此の辺地に来て労役させられる身の上となった
故郷三千里。  故郷へは三千里もある
遼水復悠悠。  遼水へも亦遠い
毎憤胡兵入。  常に胡兵の侵入することは
常為漢国羞。  我漢国の侮辱であると憤慨を発し
如何七十戦。  どうです七十回も戦争をしました
白首未封侯。  然し白髪頭になったこの齢になっても諸侯に封ぜられません
此の「感遇詩」は斎梁時代以后の綺靡浮艶体を積弊を一掃し、詩風上ただちに開元天宝の唐朝代の音韻の正派を開いたと言はれている。特に李白の「古風五十九首」は皆な陳子昂の三十八章を換骨奪胎したものであり、韓愈は「国朝文章盛んにして子昂始めて高踏す」と賞賛し、王士禎も「亦嘗つて魏晉の風骨を奪い、梁陳の俳優を変ずるは、陳子昂の力量、最も大にして張九齢。これに継ぎ、李白又その次なり」と言っている。
陳子昂、無念なことは女傑則天武后に言いくるめられ「大周受命頌」を作り、武后の意趣を迎えた為、後世の人から偽朝の天子に媚び、節義が無いと謗られていることである。
しかも彼は武后から格別に寵用もされず聖暦元年(698)老父につかえるべく郷里に帰った。陳子昂の家の財産に目をつけた縣令の段簡に捕らわれ、無寃の罪に陥れられ二十万緡を強奪され、その上縄絏の辱めを受け、長安二年(702)四十二歳で獄死した。
李白、杜甫などの盛唐の詩人の先駆をなす、初唐の革新的詩人であるとされる。陳子昂が齢三十一で始めて京師に入った時、何人にも彼の名は知られていない。たまたま胡琴を売っている者がいた。立派な胡琴ではあるが、とにかく百万金と言う法外な値段で、都の富豪も手を出してこの胡琴を買うと言うものは一人もいなかった。
然し彼は側から突然進んで百万金を投げ出してこれを買った。群集は驚異の眼を向けて「何に使うのだ」と聞くと、「私は胡琴を弾くのが上手なんですよ」と言う、多くの者は「それでは貴殿の胡琴を弾くのを聞かせて戴きたい」と叫んだ。
「よろしい、明日皆さん宜陽里の街え、おいで下さい。私が弾いて聞かせてあげましょう」と返答した。そこで翌日群集が約束通りやって来ると、彼は酒肴の用意を整え、胡琴の前に飾り、此れらの人人に大宴会を開いた。食事がすんでから、彼は琴を捧げて「蜀の人陳子昂、百巻の詩文を、都え持参しましたが塵土にまみれ、人に知られぬままになっております。
この胡琴は賤しい芸人の道具、心にかけるほどのことがありましょうか」と言いながら、琴を打ち砕いて、自分の詩文を集った人達に全部贈与した。それから一日中に声名は全都に響き渡り、彼の文集は百万金以上に認められるようになった 。
  
丁仙芝

(生卒年不详),一作丁先芝,字元祯,唐·江南东道润州曲阿(今江苏省丹阳市)人。早年应试落第。开元十三年(725)登进士第,开元十八年(730)授主簿、余杭县尉等职。与储光羲友善,同为太学士。工诗文,擅写短诗,善于描绘壮阔的场景,颇负诗死于余杭(卒年不详)。著有《丁余杭集》2卷,被唐代的殷璠编入《丹阳集》中。唐人黄挺章的《国秀集》也载其诗。被载入《全唐诗》诗14首,另有断句2联;入《全唐诗逸》断句1联、《全唐诗外编》诗1首;《千唐志斋藏志》收其作于开元十七年(729)《唐故随州司法参军陆府君墓志铭》1篇。
渡扬子江
桂楫中流望,空波两畔明。   (
桂檝中流望,空波兩畔明。)
林开扬子驿,山出润州城。   (
林開揚子驛,山出潤州城。)
海尽边阴静,江寒朔吹生。   (
海盡邊陰靜,江寒朔吹生。)
更闻枫叶下,淅沥度秋声。   (
更聞風葉下,淅瀝度秋聲。)
此诗写的是秋景:船儿随波漂流,晚秋的天空与水都很清净,扬子驿在树林中闪现出来,润州坐卧在起伏的山冈之中,海边和江边都是寒意浓浓,枫树叶落,传来淅沥之声。
全诗以“望”贯通全篇,情文并茂,画面清新,构思巧妙,是一篇不可多得的佳作。
江南曲
長干斜路北,近浦是兒家。
有意來相訪,明朝出浣紗。
發向塘口,船開值急流。
知郎舊時意,且請攏船頭。
昨暝逗南陵,風聲波浪阻。
入浦不逢人,歸家誰信汝。
未曉已成妝,乘潮去茫茫。
因從京口渡,使報邵陵王。
始下芙蓉樓,言發瑯琊岸。
急爲打船開,惡許傍人見。
 
張九齢

(678-740) 字は子壽、韶州曲江(広東省曲江県)の人。七歳の頃から能文の誉れがあったと伝える、その神童であった事が明かである長安の朝廷で宰相張説に引き立てられて朝廷に立った。
張九齢は唐代において、房玄齢、杜如晦、姚崇、宋mなどと並ぶ賢宰相であり、その人物は優れていた。詩も張説から「後來詞人の称首也」と言われた。進士に及第して高書郎となり玄宗の朝廷に中書侍郎から同平章事となり、国政を担う。
性が硬直で清節を以て人に知られ一代の賢宰相であった。嘗て千秋節に群臣が皆な宝鑑(善い鏡、転じて、日常座右の銘)・「唐書、張九齢伝」「夢渓筆談、異事」「四庫提要、子、芸術類」 を献じたのに、彼は独り委曲をつくし歴代興廃の源を述べ、書五巻を作り「千秋金鑑録」と名ずけて献上した。
それで玄宗も常に畏敬せられたと言う。このころ張守珪が敗軍の将安禄山を京師に送り処置を講うた張九齢は安禄山に反逆の相がある、として之を斬ろうたしたが許されなかったのは有名な話である。
張九齢は始興県伯に封ぜられる。この年、李林甫が表に出てくる。李林甫は無学、面従後言、彼が陰険な「口に蜜あり腹に劔あり」と評判された李林甫の讒言によって排斥される。
天子に迎合し張九齢の行能を嫉み自分の一派の牛仙客を専従し政事をとらせた。張九齢は天子に諌めたが聴かれず、却って尚書右丞相とされて、政事を退いた。張九齢が李林甫ににくまれて位を去った時の詩。
五言古詩・感遇詩。十二首の一。
孤鴻海上來。  孤鴻海上より來る。
池滉不敢顧。  池滉敢て顧りみず。
側見双翆鳥。  側に見る双翆鳥。
巣在三珠樹。  巣うて三珠樹在り。
矯矯珍木頂。  矯矯たる珍木の頂。
得無金丸懼。  金丸の懼無きを得んや。
美服患人指。  美服は人の指さすことを患う。 
高明逼神悪。  高明は神の悪しみに逼る。
今我游冥冥。  今我冥冥に游ぶ。
弋者何所慕。  弋者何の慕う所ぞ。
独り離れた大鴈が、海上から飛んで來る。その鳥は小さな池や水溜りは決して顧りみない。側に二羽のつがいの翡翠の鳥が美しい羽を輝かす三珠樹と言う珠の木に巣を作っている(彼の二人)高高とこの珍しい木の頂上にいれば誰の目につく狙う物が黄金の弾で撃つ懼れが無いわけではない。美しい服は人が指さしあれこれ言う心配がある。高く明い家を作ると高慢な心の為に神の悪に近ずく今私は一羽の鴻となり光の届かぬ空を高く飛でいる射て鳥を捕る人どうして私を追いかけ狙うことなどあろうか、私は何の憂いも無く優游自適の暮らしを楽しんでいる。
この詩は張九齢が失脚の後、自適の心境を述べた詩。政敵李林甫・牛仙客の豪奢高慢を風刺し抑えがたい哀情を発露したものである。陳子昂と方駕し李白と驂乗すべきすべきものと伝えられる。一方、晉の阮籍の詠懐詩に倣い、忠誠の情を鳥魚草木に託して述べたものとも言う。
玄宗の開元の治も、李林甫の登用、張九齢の失脚で凶兆が現れ、天宝の乱に向かって唐朝崩壊えと進む。張九齢の罷免が治乱の原因の一つであろう。古来より歴史研究家の指摘するところ。
照鏡見白髪連句
宿昔青雲志。  宿昔 青雲の志。
蹉詑白髪年。  蹉詑たり 白髪の年。
誰知明鏡裏。  誰か知らん 明鏡の裏  
形影自相憐。  形影 自ら相い憐まんとは。
李林甫と相容れず、その策謀によって退けられた時に、鏡に対して不遇失意の情を述べた詩。「感遇」の詩とあわせて鑑賞すべきもので、李白の「秋浦歌」とは相似て、詩境は異なるもの共に名詩として並び賞賛されている。開元28年(740)に68歳で歿した。詩集に「張曲江集」がある。
 
祖詠

(699?-746?),中國唐代詩人。洛陽(今屬河南)人。開元十二年(724年),進士及第,長期未授官。後入仕,又遭遷謫,仕途落拓,後歸隱汝水一帶。有詩名,與王維交誼甚深,有詩唱和。王維《贈祖三詠》一詩說:“結交二十載,不得一日展。貧病子既深,契闊餘不淺。”可見其一生困頓失意,仕途坎坷,生計惟艱。其詩多寫田園、隱居,風格接近王、孟詩派。個别詩篇也寫得情調昂颺,氣勢豪放。《全唐詩》錄存其詩一卷。事見《唐才子傳》卷一。
終南望餘雪
終南陰嶺秀,積雪浮雲端。
林表明霽色,城中摯驫ヲ。
終南山北嶺的景色秀麗,積雪好像浮在雲端上。初晴的陽光照在樹林末梢,傍晚的長安城中搏Y了寒意。
望薊門
燕台一去客心驚,笳鼓喧喧漢將營。
萬里寒光生積雪,三邊曙色動危旌。
沙場烽火侵胡月,海畔雲山擁薊城。
少小雖非投筆吏,論功還欲請長纓。
一去燕台使作客的我心驚,漢將營中簫鼓聲喧鬧不停。萬里原野上由於積雪結冰產生耀眼的寒光,三邊的曙色映照着高懸的旗幟。沙場上的烽火連接着胡地的月亮,海邊上雲山簇擁着薊城。年輕時雖沒有像班超一樣投筆從戎,論功名還要學習終軍爲國請纓。
洛陽の人。王維と親交があった。開元12(734)年、進士に及第したが、官職は得られず、汝水のほとりの別荘に引きこもって、農耕生活を送った。
終南は長安の南方にある名山。この山の残雪を長安の町から望むという題で科挙に出題されたもの。答案は五言六韻の排律に作らねばならないのだが、作者はこの4句を作っただけで提出してしまった。人から理由をたずねられて、作者は「これで意は尽くした」と答えたという。この言い分が通ったのか、作者な試験に及第した。
終南望餘雪
終南望餘雪     終南の北峰は高くそそり立ち、
積雪浮雲端     峰に積む雪は雲のはしに浮かんでいる
林表明霽色     林の上空には晴れた空の色が明るく映え
城中増暮寒     長安の市街では、夕べとともに寒気が加わってきた。
終南山の北側の嶺がみごとだ。降り積もった雪が雲の端と同じ高さに浮かんでいるかのようだ。林の外の晴れ上がった空の美しさ。街中では暮れ方の寒さが増してきた。
蔡希寂の漢詩に見る祖詠
洛陽客舎逢祖詠留宴   蔡希寂
綿綿鐘漏洛陽城  綿々たる鐘漏 洛陽城
客舎貧居絶送迎  客舎 貧居 送迎を絶つ 
逢君貰酒因成酔  君に逢い酒を貰りて因って酔いを成さん
酔後焉知世上情  酔後いずくんぞ知らん 世上の情  
王維の漢詩に見る祖詠との関係
喜祖三至留宿  祖三の至って留宿するを喜ぶ
門前洛陽客     門前(もんぜん)に洛陽の客あり
下馬払征衣     馬を下りて 征(たび)の衣(ころも)を払う
不枉故人駕     故人の駕(が)を枉(ま)ぐるにあらずんば
平生多掩扉     平生(へいぜい)  扉を掩(おお)うこと多し
行人返深巷     行人(こうじん)は深き巷(ちまた)に返り
積雪帯余暉     積雪は余(なごり)の暉(かがや)きを帯びたり
早歳同袍者     早歳(そうさい)  同袍(どうほう)たりし者
高車何処帰     高車(こうしゃ)は何処(いずこ)に帰らんとするや
門前に洛陽からの客が着き
馬を下りて 旅のころもの塵を払う
なつかしい友が来るのでなければ
いつもは門を閉じたままだ
妻は帰らぬ旅に発ち 君もまた去ってゆく
降り積もった雪は   なごり惜しげに輝くのだ
若い頃は 上着も取り換えたほどの親しい友よ
君の車は どこに帰ってゆこうとするのか
冬になって雪の降るころ、洛陽の祖詠(祖三は排行)が訪ねてきました。祖詠は済州にも訪ねてきたほどの親友で、汶陽の人とのいきさつも知っている竹馬の友でした。王維が洛陽の近くで勤務していたとき以来、おそらく四年振りの再会であったでしょう。王維は祖詠の来訪を心から喜び、招じ入れますが、詩は歓迎と別れの部分だけがあって、中間が欠けている感じがします。実は中間については祖詠の詩があって、四年の間に何もかもすっかり変わってしまって、慰める言葉もなく友の姿を見詰めているだけであったと、祖詠は詠っています。
斉州送祖三二首  斉州にて祖三を送る二首
相逢方一笑      相逢(あいあ)うて方(はじ)めて一笑し
相送還成泣      相送りて還(ま)た泣(なみだ)を成す
祖帳已傷離      祖帳(そちょう)して已に離(わか)れを傷み
荒城復愁入      荒城に 復(ま)た入るを愁う
天寒遠山浄      天寒くして遠山(えんざん)浄(きよ)らかに
日暮長河急      日は暮れて長河(ちょうが)も急なり
解䌫君已遥       解䌫(かいらん)すれば君已に遥けし
望君猶佇立      君を望みて猶(な)お佇(たたず)みて立つ
逢えばとたんに顔がほころび
見送るときは 泣き顔となる
送別の宴で別れを惜しみ
城にもどるのがひどく悲しい
空は寒く 遠くの山は清く澄み
日暮れて 河の流れは速い
䌫(ともづな)を解けば君は遥かに遠ざかり
君を見送っていつまでも佇んでいる
王維は汶陽の人と逢う瀬を重ねながら、趙という隠士や済州の知識人たちと交流していたようです。友人の祖詠(そえい)が王維を訪ねて来たのは、王維が済州にきて四年目の開元十二年(724)冬のことでしょう。祖詠は洛陽の生まれで、王維と同世代の詩人です。王維が長安にいるころから親しくしていましたが、開元十二年の進士に及第していますので、任官後の冬になって公用かなにかで東にやってきたものと思われます。
題名の「祖三」は祖詠を排行(従兄弟を含めた年齢の順位)で呼んだもので、親しみの表現です。表題では「斉州」(山東省済南市)となっていますが、斉州と済州はまぎらわしいので、「斉州」は済州の誤記と思われます。久しぶりの都の友人の来訪に王維はひどく喜びますが、別れの悲しみも深いのでした。
送君南浦涙如糸   君を南浦(なんぽ)に送れば 涙 糸の如し
君向東州使我悲   君は東州に向かい 我をして悲しましむ
為報故人憔悴尽   為に報ぜよ 故人は憔悴(しょうすい)し尽くし
如今不似洛陽時   如今(じょこん)は 洛陽の時に似ず
東州に旅立つ君を 入江の南岸で見送ると
涙は糸のように流れ 悲しみに包まれる
どうか皆に伝えてくれ 友はすっかりやつれはて
洛陽のころとは 別人のようだと
其の二の詩によると、済州の城外に南浦という渡し場があり、王維はそこで送別の宴を催したようです。祖詠は西にもどるところですが、「君は東州に向かい」とあり、東州(とうしゅう)は不明です。長安の「東の州」という読み方をすれば、洛陽方面が考えられます。「故人」(こじん)は旧友のことですが、ここでは王維が自分自身のことを言っています。また長安のかわりに洛陽を用いて詩的に表現するのは、このころの流行です。自分はすっかり憔悴して長安にいたころとは別人のようになったと、長安の友人たちに伝えてほしいというのです。  
「斉州送祖三二首」を引用しての「祖」
王維が見送る人で、祖詠が見送られる、旅立つ人という図式で作られています。最初は君と会っては破顔一笑、別れては涙を流すということで、その出会いと別れを描いています。祖帳というのは別れの宴を言います。この言葉は大変古い言葉で、他には祖餞ですとか、祖宴ですとか、餞というのはしょくへんに錢という字のつくりを書きます。はなむけするという意味であります。こういった宴で詩人達は友人を送るわけですけれども、これについては後で少し補足説明致します。荒城というのは荒れ果てた町ということで、荒城の月の荒城と意味としては同じなんですが、城ではありませんで、これは町。まあ中国は城郭都市ですので、城というのはほぼイコール町と考えていただいていいかと思います。友人のいない町に帰るのは悩ましい。君は既にいないから、帰る町も荒れ果てて見えると、これは心象の風景であって、現実町が荒れているわけではありません。その次にやはりまた山と川が出てまいりまして、天寒くして遠山清らかに。遙か遠く、山々がくっきりと見える。寒いと言いますからこれは季節感を表す言葉で、秋から冬、多くは冬のことを詠む言葉が多いです。日が暮れますと、長河も急なりとはどういう意味かと言いますと、天が寒くなると空気が澄み、遠くの山々がはっきり見えると。これは視覚的な描写で、六句目は日暮れて長河も急なり。日が落ちまして、落ちると視覚的な器官が働かなくなりますので、聴覚的な、耳で川の流れを聞いている。せせらぎが急に聞こえてくるということだと思います。
纜を解きますと、君は既に遙かに遠くまで行って点になってしまう。ずっと君を望み続けては佇み続けるという詩であります。これもやはり山と川が象徴的に歌われておりまして、山は両者を隔てるもの、川は遠く離れた地点を結ぶものといったイメージで、この川の流れに乗れば見送られる祖三は、あっという間に遠く離れていく。やがて帰っていく土地に帰りつくと詠まれている。最後の2連は、君を望めば既に遙けしと読む読み方もございまして、これも人口に膾炙している表現かと思われます。
これも別れの詩なんですけれども、先ほど申しました祖帳について一言申しますと、この祖帳というのは現在の別れですと、例えば駅でも飛行場でもそうですけれども、まあ見送る者と見送られる者がさようならと言って別れます。当時は、例えば長安、都から西もしくは東南に別れるのが主なんですけれども、西に行く人には渭城と言って渭水のほとりの町まで一泊して見送りに行ったんです。つまり見送る者も一泊して、同道して途中まで行きます。で、見送る者は、また帰ってくるわけですね。旅立つ人はそのまま旅先へ進むというかたちで送る、つまり儀式と言いましょうか、これは古代の儀式から繋がっている発想でして、その名残が、実は祖帳とか祖餞とか祖宴というかたちで、別れの宴ということで残っていた。実はその宴というのは、大袈裟に言いますと宗教的な儀礼と言ってもいいかもしれません。古代の社会によっては、そういうようなことが漢字の方からは認めることが出来ます。それが宴と結びついて、儀式というほどの大袈裟なものではないんですけれども、一種セレモニーとして、別れの宴として定着したのが、祖帳、祖宴、祖餞という言葉です。この祖帳というのは「とばり」。直訳しますとテントですので、本来は道ばたにテントを張って宴をしたというのが、原義です。もちろん後には宿屋でこれを行っております。
「 祖」というのは道祖神の祖でもあるんですけれども、道の神様を祖と言いまして、この祖には色々な原義が考えられていますけれども、「且」というのはですね、道の神様だろうと言われております。元々しめすへんは神を示しますので、本来このしめすというのは元々神の依代で、これはしめすでもいいですし、Tの字型、あるいはTの字に点々が左右にふたつ付くという、これは神の依代にお酒を振りかけるというところから来ている象形文字でして、これはローマ字で言いますとIの字、Tの字、それからこの「しめす」という字で、いずれも同じ意味です。ですからかたちとしては変わって表れますけれども、意味は同じで神の依代。右側の「かつ且」と字に本来の意味があったように思われます。  これは道の神様、道神と考えられていまして、その道の神様をお祭りする。中国の古代社会には祖という、道の神様はどういうのかという儀式まで今ではかなりはっきり分かっています。  
 
王維1

(699-759) 維字摩詰・太原の人、「唐才子伝」に”九歳知属辞。工草隷、閑音律、岐王重之。開元十九年状元及第。”とある。王維は太元の人で九歳の頃には已に文辞を善くした、開元19年に進士に合格し大楽丞になった。
九月九日憶山中兄弟
獨在異郷為異客。  自分はたった一人で他郷で旅暮らしをしています。
毎逢佳節倍思親。  佳節の日になると一層肉親たちのことが忍ばれます。
遥知兄弟登高處。  遠く離れていても私は思う、兄弟達が高みに登った時
遍挿茱萸少一人。  皆な茱萸を挿ている中に私一人姿が欠けているのを。
「唐才子伝」に”賊陥両京、駕出幸、維扈従不及、為所擒、服毒称唖病、禄山愛其才、逼至洛陽供旧職。
王維の肉親思いは有名で、王維が高官になった頃、母を亡くした。直ちに官を辞職して喪に服したが、悲しみの餘り喪を続けることが出来ない程、肉体が衰えたと言う。
喪が終り、天宝中に給仕中となった。偶ま安禄山が叛乱を起こし両都を陥れ、玄宗が蜀に蒙塵した際に、王維は賊に捕らわれ従復することが出来なかったから、自ら薬を飲み偽って唖病と称した。
禄山は素より王維の才学を知っている為め、これを憐れみ人を遣わし強いて迎え、菩提寺の給仕中とした、「旧伝」言・「妻亡不再娶、三十年孤居一室、屏絶塵累」「唐才子伝」に言う。「喪妻不再娶、孤居三十年」
妻を喪ってから復た娶らず、三十年間も孤独生活を守り、一室に閑居し塵累を屏絶した。この句、起句の”獨り”結句の”一人を少かんことを”以って味合うべしと古人は言う。
王維に就いて最も興味が有るのは我が国の遣唐使(留学生)であった”阿部仲麻呂”との交流である。仲麻呂は唐室に使えて「朝衡」と言いその官職は秘書監であった。我が国の図書寮の役人のようなもの。
天平勝宝(749-756)中に遣唐使藤原清河が唐に往った時、玄宗は仲麻呂に命じて応接させ清河が日本に還るとき仲麻呂もまた帰朝することになった。彼は「送秘書晁監還日本」を賦して餞別している。晁は朝の古字で秘書晁監の晁氏と言う意味。そして有名な
あをふな原ふりさけ見れば
春日なる三笠の山にいでし月かも
この秀句は仲麻呂が明州に至り船に乗ろうとして海上から月の昇るのを眺め、懐郷の情に堪えず作った。然し、この時仲麻呂は帰朝の目的を達せず、暴風に遭い安南に漂着してしまった。
送秘書晁監還日本
積水不可極。  水の集った大海の涯を極めることは出来ない
安知滄海東。  まして、この青海原の東に日本の国がある考えることも出来ない
九州何處遠。  中国本土の如きものが九つ在ると言うが、日本は最も遠い所だろうか
萬里若乗空。  そこは萬里の虚空を昇って行くような遠い果てなき旅だろう
向国惟看日。  故国に向っては日の出る所をただ目当てにするだけで
帰帆但信風。  帰る船の帆はただ風にまかせて行くより他に方法がない
鰲身映天黒。  海の大亀が時に身体を現すと、その背の色は天に映って暗いと言う
魚眼射波紅。  大魚の眼は波を照らして海も赤く見えると言う
郷樹扶桑外。  郷国は扶桑と言う巨大な桑の木の彼方にあり
主人孤島中。  貴方の家は東海の孤島の中にある
離別方異域。  こうして今こそ我国と境域を異にして君と別れてしまえば
音信若為通。  便りもどうして通ずる事が出来ようか、そう思えば名残は尽きない
安部仲麻呂は復た唐に入り遂いに唐で死んだ。齢は古稀を超えていた。今、西安市の南門、 城壁の外側すぐ東にある、公園内に記念碑があり、市の和平門外、咸寧路の興慶宮公園には阿部仲麻呂の記念碑がある。仲麻呂の留学1200周年を記念して、1979年に建設されたもので 望郷の念を抱きながら何の地で骨を埋めた仲麻呂、今この公園は中国人の憩いの土地でにぎあう。
王維の眼力
在る時、友人が王維に秘蔵の「奏楽図」を見せたことがある。王維はその図を暫らく眺めて大声で笑った。友人はわけが解らず、その理由を問うた、王維は”この絵は入神の技を伝えている、女の楽人が「霓裳羽衣の曲」の第三畳第一拍を演奏している場面を描いたものだ”と答えた。
友人はとても信じられず、君は自分の博学多識をひけらす気か!と非難した。暫らくして、この友人は親王府の宴席に招かれた。宴席には余興として歌舞が演じられる。楽人の指揮者が進み出て「霓裳羽衣の曲」を演じますと言ったので、ふと、彼は王維の話を想い出した。 そこで、よくよく気を付けていると、成る程、第三畳第一拍の所に描かれている所とぴったり一致だった。
蘇東坡が王維を評して「詩中に画あり、画中に詩あり」と嘆賞した。王維は曾て「雪中の芭蕉」を描いたと言う。南画の奥技を禅味で表現したものであろうと言はれている。又、彼の描いた「網川図」 は筆墨微を極め妙に入ったものと言う。網川荘は晩年に宋之問の藍田別荘を買取ったものである。
阿倍仲麻呂
(698-770) 唐朝での名は晁衡。養老元年(開元五年,717)、第八回遣唐使の一員として唐に留学。進士に及第して、玄宗に仕えた。李白・王維らとも親しく交わった。第十回遣唐使・藤原清河の帰国に同行したが、途中に暴風雨に遭って安南に漂着した。長安に引き返し、安禄山の乱に遭って、玄宗に随行して蜀へ行き、鎮南都護に任ぜられてベトナムへ赴任した。大暦二年(767)、長安に帰り、そこで没した。
王維2
(699-759) 字は摩詰。太原祁県の人。九歳で詩文を作り、弟の王縉とともに評判が高かった。書および音楽に詳しく、岐王に才能を認められた。開元十九年(731)、進士に及第した。太楽丞に任ぜられたが、事件に連座して済州司倉参軍に左遷された。張九齡が政務をにぎると、右拾遺に抜擢された。監察御史となったが、母を失って喪に服した。喪が解けると、左補闕・庫部郎中・文部郎中を歴任して給事中となったが、安禄山の乱が起こり、逃げ遅れて捕らえられた。安禄山に仕官を強要され、やむなく受諾して給事中をつとめた。乱の鎮圧後、太子中允に降職されたが、のちに昇進して尚書右丞にまでのぼった。三十歳のころに妻を亡くし、生涯再婚しなかった。詩人として著名だが、書画にもすぐれ、南宗画の祖とされる。「王右丞集」。
李白
(701-762) 字は太白、号は青蓮居士。綿州彰明の人。彼の母は太白星(金星)を夢見て、彼を身篭もったという。 若くは官途を目指して挫折を重ねた。剣術を好み、任侠を愛し、各地を遊歴した。四十二歳になって長安にいたり、賀知章の推薦で玄宗に拝謁し、翰林供奉に任ぜられた。高力士を侮辱して憎まれ、「清平調三首」が楊貴妃を侮辱したものだと讒訴されて宮廷をしりぞいた。再び放浪の生活に入ったが、安禄山の乱が起こると、永王の軍に参加。しかし永王は粛宗と対立して殺され、李白も夜郎に流された。配所に赴く途中で大赦にあい、長江を下って、江南を流浪していたが、当途にいたり、そこで死んだ。一説によると、酒に酔い、池に映じた月を取ろうとして溺れ死んだのだという。「李太白集」。
 
張均1

(ちょう・きん、生没年不詳)は、唐代玄宗朝に仕えた政治家。名宰相とされる張説の長子であるが、安史の乱の際、安禄山に仕え、宰相に取り立てられたため、配流された。弟に張垍、張埱がいる。 文章詩句に長けていた。太子通事舍人から郎中、中書舍人にまで昇進した。開元17年(729年)には、左丞相である父の張説から京官(長安にいる官僚)の査定評価で「上の下」の評価をもらった。しかし、当時の人々は不公平とは考えなかったと伝えられる。 開元18年(730年)の父の死後、燕国公を襲名する。戸部侍郎、兵部侍郎を歴任するが、連座の罪により、饒州、蘇州の刺史に左遷される。長年かかって、また兵部侍郎に復帰した。自らを宰相の才と自負していたが、李林甫によって妨害されていたと伝えられる。天宝9載(750年)、刑部尚書となる。 天宝11載(752年)、李林甫の死後、陳希烈を頼り、昇進の道を歩もうとしたが、楊国忠によって陳希烈は解任される。さらに、弟の張垍の罪に連座し、建安太守に左遷させられる。長安に戻った後、大理卿となるが、常に鬱々とした状態であったと伝えられる。天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し、至徳元載(756年)、長安陥落時に安禄山に降伏し、中書令に任命された。至徳2載(757年)、唐軍の洛陽奪回時に陳希烈、張垍、達奚cとともに、唐軍に降伏した。皆、死罪にあたった。しかし、房琯が「張説の家が滅亡してしまう」と主張し苗晋卿に会い、取りなしを依頼した。粛宗は、張説に自分の誕生の時に助けられたことがあったため、張均の死罪を免じ、合浦に配流した。 建中初年に、太子少傅が贈られ、息子の張濛は徳宗に仕え、中書舍人に任じられた。
張均2
(691-760) 洛陽の人。張説の子。太子通事舎人・中書舎人・兵部侍郎を歴任した。また父の燕国公の位を襲爵した。宰相の地位を望んだが、李林甫・楊国忠らに阻まれて刑部尚書にとどまり、不満を抱いた。安禄山が叛乱して、その軍が長安に入ると、その下で中書令(宰相)に任ぜられた。叛乱が鎮定されると、死罪となるべきところ父の功により減刑されて、合浦に流されて没した。
 
李白

長安元年-宝応元年(701-762) 中国盛唐の詩人。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。
李白の出自および出身地には諸説あり、詳細は不明である。「旧唐書」本伝の記述では山東の出身とするが、清の王gなどをはじめ、通説はこれを誤りとする。
李陽冰の「草堂集序」および范伝正の「唐左拾遺翰林学士 李公新墓碑」、さらにこれらを踏まえたとされる北宋の欧陽脩「新唐書」などの記述では、李白は隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人で、西涼の太祖武昭王・李ロの9世の後裔とする。李白の先祖は、隋末の時代、何らかの事情で西域の東トルキスタンのあたりに追放され、姓を変えてその地で暮らしていたが、中宗の神龍年間、西域から蜀(現四川省)に移住し、李白の誕生とともに李姓に復したという。
20世紀になると、陳寅恪らが李白を西域の非漢民族の出身とする新説を出した。日本の研究者でも松浦友久などが、李白の父が「李客」と呼ばれ、正式の漢人名を持ったという形跡がないこと、また後年の李白が科挙を受験しなかったことなどを根拠に、この説を支持している。
現在の中国における通説では、李白は西域に移住した漢民族の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現在の四川省江油市青蓮鎮)に移住したと推測する。
いずれにしても、遅くとも5歳の頃には蜀の地に住み着いていたと考えられている。
李白墨筆画「草堂集序」「新墓碑」「新唐書」などが伝えるところによると、李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる。5歳頃から20年ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に活動した。伝記や自身が書いた文章などによると、この間、読書に励むとともに、剣術を好み、任侠の徒と交際したとある。この頃の逸話として、益州長史の蘇頲にその文才を認められたこと、東巖子という隠者と一緒に岷山に隠棲し、蜀の鳥を飼育し共に過ごしながら道士の修行をし、山中の鳥も李白を恐れず手から餌をついばんたこと、峨眉山など蜀の名勝を渡り歩いたことなどが伝わる。
725年(開元13年)、25歳の頃、李白は蜀の地を離れ、以後10数年の間、長江中下流域を中心に、洛陽・太原・山東などの中国各地を放浪する。自然詩人孟浩然との交遊はこの時期とされ、名作「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が作られている。732年、32歳の時、安陸県(湖北省)の名家で、高宗の宰相であった許圉師の孫娘と結婚し、長女李平陽と長男李伯禽という2人の子が生まれている。740年、孔巣父ら5人の道士と徂徠山(現山東省)に集まり、「竹渓六逸」と呼ばれることもあった。また730年あるいは737年の頃に、長安に滞在して仕官を求めたというのが近年の研究から通説となっている。
742年(天宝元年)の秋、友人元丹丘の尽力により、玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の推薦を得て長安に上京した。玄宗への謁見を待つため紫極宮(老子廟)に滞在していた折り、当時の詩壇の長老である賀知章の来訪を受け、この時彼から名高い「謫仙人」の評価を得ている。このように宮廷で有力な影響力を持つ2人の推薦を得て、同年の冬、李白は宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになる。以後の3年間、李白は朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草にもあたった。この時期、楊貴妃の美しさ牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られ、宮廷文人として大いに活躍している。だが、抜群の才能を発揮する一方で、杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動をつづけたことから、宮廷人との摩擦を引き起こし。744年、宦官高力士らの讒言を受けて長安を離れることとなった。
長安を去った李白は、洛陽もしくは梁・宋(現河南省開封市・商丘市)で杜甫と出会って意気投合し、1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊した。また阿倍仲麻呂とも親交があり、754年には、前年に仲麻呂が日本への帰国途中、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞き、「晁卿衡を哭す」を詠んでその死を悼んでいる。
安史の乱の勃発後の757年(至徳2年)、当時、李白は廬山(江西省)に隠棲していたが、玄宗の第16子、永王李璘の幕僚として招かれた。だが永王は異母兄の粛宗が玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めず、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされ、高適らの追討を受けて敗死した。李白も捕らえられ、尋陽(現江西省九江市)で数ヶ月獄に繋がれた後、夜郎(現貴州省北部)への流罪となった。配流の途上の759年(乾元2年)、白帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。この時の詩が「早に白帝城を発す」である。赦免後の李白は、長江下流域の宣城(現安徽省宣城市)を拠点に、再び各地を放浪し、762年(宝応元年)の冬、宣州当塗県の県令李陽冰の邸宅で62歳で病死した。「新唐書」などにある有名な伝説では、船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。
李白には上記の「捉月伝説」以外にも様々な伝説が伝わり、後世「三言」などの小説において盛んに脚色された。
靜夜思
牀前看月光     深夜 静寂 月明かり
疑是地上霜     天の氷か 白光 床に溢れ
擧頭望山月     見上げれば 沈み行く月 山にかかり
低頭思故郷     うつむけば 浮かぶふるさと 遠い夢
 
高適

(702?-765) 字は達夫。高適の詩は気象は渾建で、字句は雅老。六朝の左思、鮑昭の一派に近い所がある。と言われている。風骨は「岑参」によく似ているので名を等しく「高岑」と呼ばれている。若い頃は落魄して遊侠の輩と交わり、放縦な生活を送っていたが、有能の士を官吏に登用する「有料科」に挙げられ、以後、広徳中に左散騎常侍となり勃海侯に封ぜられた。
年五十で始めて詩を作ったが、その詩が工みで大いに世の喝采を博し一篇が出る毎に好事者はこれを傳布したと言う。唐代の詩人中、稀にみる栄達者の一人。李白や杜甫とも親交があった。
除夜作 「高適の絶唱の一つ」
旅館寒燈獨不眠。
客心何事転凄然。
故郷今夜思千里。
霜鬢明朝又一年。
旅の宿、さむざむとした燈火のもとで、私は獨り眠らずにいる。旅の身の私の心には、どうしたことか、そぞろに悲しみがつのってくる。故郷では今夜、千里も離れたところにいる私のことを思っているだろう。霜のように白くなった鬢。明日の朝は、又一つ年をとる。第三句。「故郷今夜千里に思う」とも読める、そう読めば、「千里も離れている故郷を今夜私は思う」と言う意味になる。故郷が「千里を思う」でなく、私が故郷を「千里に思う」と解釈している人もいる。
土岐善磨の訳詩
大晦日 (おおつごもり)
はたご(旅館)のともしいねがてに
物さびしさは旅心
今宵千里のふるさとや
あす白髪(しらかみ)の年ひとつ
「一江水」と「半江水」
仲秋の季節、杭州の清風山の一帯は、鶴が空高く舞い、見渡すかぎり紅葉。彩られていた。峠にさしかかった一行がある。”高適の一行”が浙江省の東部を巡察し、この地を通りかかったのだった。夜、高適は清風峠の寺院に宿泊した。秋の夜の峠は、実に爽やかで気持ちが好い。高適は思わず詩興がわき、筆を揮って、僧房の壁に詩を書いた。
絶嶺秋風已自涼。  絶嶺 秋風 已に自から涼しく
鶴翔松露湿衣裳。  鶴翔 松露 衣裳を湿す
前村月落一江水。  前村 月落ち 一江の水
僧在翠微閑竹房。  僧は翠微に在り 竹房閑なり
翌日、高適はまた旅路を急いだ。途中、銭塘江の美しい風光を楽しみ、よく見たところ、江の水が昨晩より少なくなり、半分に下がっていたのに気が就いた。これは江の水は月が昇るときに潮が満ちるにしたがって増え月が沈むと潮が引くとともに水位が下るためだ。
自分が詠じた詩「前村月落一江水」と言うのは明らかに事実と合わない。高適はすぐ、引き返して詩を直そうと考えた。が奈何せん公務がある。高適は続けて進むよりしかたがなかった。
一月余りたち、高適は巡察から帰ると一路清風峠へ急ぎ、僧房に来て、「一江水」を「半江水」と書き直した。「前村月落半江水」と言う千古の名句は、このようにして現在に伝わっていると言う。 「王漁洋」は高適の詩を評して「質朴にして笨伯たるを免れず」と言う。きめの荒さの詩もあると解釈すべきだろう。
 
杜甫1

(712-770)詩聖と称されている唐代の大詩人。
至誠の流露したものが多く時事に関して述べた詩が多く、我われをして覚わず襟を正すようなものが多い。後世の人々が詩聖をして「詩史」と言う
七古では ”哀江頭”。 五古では ”登恩寺塔”。七律では「世に七律の正宗とされている」”登高”五律では”岳陽楼”。七絶では”逢李亀年”。五絶では復愁”。古体より律・絶・の近体は至るまで華実兼有、百代の師表に背かない。
杜甫は中年の頃、長安に10年程、住んでいたことがある。杜甫は当時、国と民衆の為に尽くそうと志を抱いていた。然し残念ながら朝廷の重要が得られず、短い時期、下層官吏になっただけであった。
生活も苦しく、鬱々として楽しまず、時には友人と携え長安南東の ”曲池”に行き心中の煩悶を紛らわしていた。ある日、彼はまた”曲江”に足を運んだ。眼前の華美な宮殿御苑、乱れ飛ぶ飛鳥落花。にも興趣を起こさないばかりか、憂悶をますます深めた。そこで「曲江対酒」の詩をつくり、歳月が流れゆき、才能がみとめられない悲嘆を託した。
その詩の中に、
桃花欲共楊花語。  桃花は欲す 楊花とともに語り
黄鳥時兼白鳥飛。  黄鳥 時に白鳥と兼ねて飛ぶ
の二句があった。杜甫は出来あがった詩を書き友人に贈った。時も過ぎたある日、杜甫はその友人宅を訪れた。見ると、例の「曲江対酒」の掛け軸が大切に掛けられている。彼は筆を手にすると、「桃花欲共楊花語」の一句を薄墨で 
「桃花細逐楊花落」 桃花は細やかに楊花を逐うて落ち。 と改めた。友人が怪しんで、どうして三文字を書き直すのかと聞いた。杜甫が答えて言うには
「桃花と楊花は同じ時期に咲く花ではないので、共に語ることはできない。また、この詩の最後の一句は「老大徒傷未払衣」 老大、徒に傷む未だ衣を払わざるを。で落花とだけ対応できるのです」 と友人は之を聞き頗る感心した。杜甫の語に 「詩を作って事を用いるのは、ちょうど、禅家の語のようでなければならない」と言う。
杜甫が韋差丞に贈った、22韻の詩中に「読書万巻を破し、筆を下して神有るが如し」。自叙伝の一滴。  厳羽は詩法論に、俗体、俗意、俗句、俗字、俗韻の五俗を除けと言っている。読書と下筆の関係が杜甫によって、はっきり裏書きされている。
杜甫2
先天元年-大暦5年(712-770) 中国盛唐の詩人。字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して、「詩聖」と呼ばれている。
杜甫の詩の特徴として、社会の現状を直視したリアリズム的な視点が挙げられる。杜甫は当時の士大夫同様、仕官して理想の政治を行いたいという願望から、社会や政治の矛盾を積極的に詩歌の題材として取り上げ、同時代の親友である李白の詩とは対照的な詩風を生み出した。後世「詩史(詩による歴史)」と呼ばれるその叙述姿勢は、後の白居易の諷喩(風諭)詩などに受け継がれてゆく。
安史の乱前後、社会秩序が崩壊していくさまを体験した頃の詩は、政治の腐敗や戦乱の様子を悲痛な調子で詳細に綴った内容のものが多い。この頃の代表作として「春望」「三吏三別」「秦州雑詩」がある。
比較的穏やかな生活を過ごせた成都時代では、それまでの悲しみや絶望感に満ちた詩にかわって、自然に対する穏やかな思いを詠んだ詩が多く作られている。また諸葛亮を讃えた名作「蜀相」なども詠われている。
成都を去った以後の最晩年期の杜甫は、社会の動乱や病によって生じる自らの憂愁それ自体も、人間が生きている証であり、その生命力は詩を通して時代を超えて持続すると見なす境地に達した。詩にうたわれる悲哀も、それまでの自己の不遇あるいは国家や社会の矛盾から発せられた調子とは異なる、ある種の荘厳な趣を持つようになる。この時期の代表作としては「秋興八首」「詠懐古跡五首」「登高」「登岳陽楼」などがある。
杜甫の詩人としての評価は必ずしも没後短期間で確立したものでない。没後数十年の中唐期に、白居易・韓愈らによってその評価は高まったものの、北宋の初期でさえ、当時一世を風靡した西崑派(晩唐の李商隠を模倣する一派)の指導者・楊億は、杜甫のことを「村夫子」(田舎の百姓親父)と呼び嫌っていたという。
明の胡応麟の「詩藪」ように、絶句を得意とした李白と対照的に、杜甫は律詩に優れているという評価が一般的である。奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意とする。
杜甫と松尾芭蕉
日本文学への影響は漢詩以外のジャンルにも大きく、特に松尾芭蕉は杜甫に傾倒していた。「花屋日記」によると、芭蕉の遺品に「杜子美詩集」があったとされており、生涯を通して杜甫を尊敬していたことが窺える。「奥の細道」の冒頭にも杜甫の人生である道中で息を引き取りたいと、述べている。また、同文の有名な一節である
   さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。
   国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、
   笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。
   夏草や 兵どもが 夢の跡
は、「春望」を引用していることが窺える。だがこの詩の観点はどことなく相違が見える。杜甫は幽閉の最中に作った詩であることにより、人の営みが今滅ぼされてゆくを述べているが、芭蕉は滅んでしまった後であることから日本独自の無常観が見受けられる。

李賀

(791-817) 字は長吉、名は賀、父の名は晋粛。母は鄭氏。杜甫の死後21年「鬼才」と称される特異の詩人李賀が生まれた。李賀は僅か27歳の短い生涯を幽鬼の世界え消えていった<新唐書>。杜甫と李賀は親戚関係であり杜甫の詩題で「李二十九弟晋粛」と唱う。李賀は自ら「宗孫」を以って任ずる。
李賀は痩せ細り、眉の毛が濃くて長かった、若い頃から白髪が多くて、口髭や顎鬚も生やし、手の爪を伸ばし人の注目するところであった。生まれつき虚弱で、よく病気をした、李賀の伝記は死後十五年に記された杜牧の「李長吉歌詩敍」李商隠の「李長吉小傳」、が詳しい。「新唐書」「旧唐書」それぞれある。
幼少にして詩文を良くし、最も楽府を得意とし新鮮華麗で、李賀の右に出るものは居なかった。李賀は、苦しげに吟じながら詩を作るのが癖で、出来上がると大急ぎで書き付け、使いの(異民族の下男)を従え驢に乗り、古い破れた綿の嚢を背負い、何か得るところがあると、書き付けてその嚢に投げいれて家に帰る。母親は「心臓を吐き出し尽すまでは止めないだろう」と心配して何時も言っていた。
19歳のとき、李賀は地方予備試験の河南府試験に合格した、その時の河南令は韓愈(韓退之)であった。韓愈が偶々、洛陽に転任してきた、韓愈は李賀の名声が高いのを聞いて、わざわざ、驢馬を連ねて李賀を訪問した。(唐才子伝、他)
「韓文公(愈)、皇甫補闕、李長吉に見る時、年17才、二公これを信ぜず、「高軒過」の一篇を試す」
李賀は総角の姿で(小児の髪を集めて頭の両側に角の形に結ぶ、小児の姿)衣を羽織って現れた。こんな子供がと信じられず、試みに詩を作らせた。高軒過の詩がある。
高軒過 (立派な車の貴人が立ち寄られた)
華裾織翠青如葱。  華裾 翠を織り青きこと葱の如し
金環圧轡揺玲瓏。  金環 轡を圧して揺いで玲瓏
馬蹄隠耳声隆隆。  馬蹄 耳に隠として声 隆隆たり
入門下馬気如虹。  門に入り馬より下れば気は虹の如し
云是東京才子。    云う是れ東京の才子と
文章鉅公。       文章の鉅公
二十八宿羅心胸。  二十八宿 心胸に羅り
・・・
韓文公(愈)、皇甫補闕の二公は非常に驚き、李賀を馬に乗せて連れて戻り、親しく李賀の為に束髪(成人式)をしてやった。この作品は「古文真宝」に掲載され箋註に七歳のときと記載されている。嵩じて李賀は又、官吏登用試験を志すものが、受験の前に有力者に自己の詩文を見てもらう 「温巻」を私用している。(唐詩紀事) 韓愈と李賀の深い絆を垣間見るのは今後も続く。
ある時、韓愈が客人を送り出した後、疲労困憊、休んでいた所え門人が差し出した李賀の詩巻を帯を解きながら捲っていた、最初の一篇が「雁門太守行」の七律詩だった。ハッと驚き帯びを結び直して李賀を向い入れた。
黒雲圧城城欲摧。  黒雲 城を圧して城 摧けんと欲す
甲光向月金鱗開。  甲光 月に向って金鱗 開く
角声満天秋色裏。  角声 天に満つ秋色の裏
塞上臙脂凝夜紫。  塞上の臙脂 夜紫を凝らす
半捲紅旗臨易水。  半ば紅旗を捲いて易水に臨む
霜重鼓寒声不起。  霜重く鼓寒うして声 起らず
報君黄金台上意。  君が黄金台上の意に報い
提携玉龍為君死。  玉龍を提携して君が為に死せん
韓愈は寒門出身で一匹狼として苦労し地位を築いてきた人物、一面では義侠世界の親分的性格があった。このことは韓愈の門人、李[皐 綻の一文に伺い知る。
兄の如きは、頗る亦賢を好む、必ず甚だ文辞有り、兼ねて能く己に附く者を須つ。我の欲に順うときは、則ち汲汲孜々として憂惜する所無くこれを引抜する、如し或るは力足らざれば、則ち食を分かち以って食せしめ、至らざるなし。(以下略)
李賀と韓愈との間には特殊な関係が生まれる。李賀は河南府に合格した年、さらに中央の進士の試験に望みをもった。その時、予期せぬ横槍が入った、李賀の父の名は晋粛。父の諱が(実名)の「晋」と同音の「進士」に応ずることは「家諱」を犯すものだと、反対運動が起こった。
この時、韓愈は有名な 「諱の辯」を作って李賀の為に弁じ中傷に対し反撃したが、「諱の辯」も効無く李賀は断念せざるをえなかった。
諱の辯
愈與李賀書。勧賀挙進士。挙進士。有名。與賀争名者毀之曰。賀父名晋粛。賀不挙進士為是。勧之挙者為非。聴者不察也。和而唱之.。同然一辞。皇甫G曰。若不明白。子與賀且得罪。愈曰。然。律曰。二名不偏諱。釈之者曰。謂若言徴不称在。言在不称徴是也。律曰。不諱嫌名。釈之者曰。謂若禹與雨。(略)
今賀父名晋粛。賀挙進士。為犯二名律乎。為犯嫌名律乎。父名晋粛。子不得挙進士。若父名仁。子不得為人乎。
夫諱始於何時。作法制以教天下者。非周公孔子与。周公作詩不諱。孔子不偏諱二名。春秋不譏不諱嫌名。康王剣之孫。実為昭王。曾参之父名ル。曾子不諱昔。周之時有麒期。漢之時有杜度。此其子宜如何諱。将諱其嫌。遂諱其姓乎。将不諱其嫌者乎。漢諱武帝名。徹為通。不聞不諱車轍之轍為某字也。(以下略)
愈、李賀に書を與えて、賀を勧めて進士に挙げる、進士に挙げられ名有り、賀と名を争う者、之を毀って曰く、「賀の父の名は晋粛なり。賀は進士に挙げられざるを是と為す。之を勧めて挙げる者を非と為す」と。聴く者察せず、和して之を唱え、然を同じうして辞を一にする。皇甫G曰く、「若し明白にせずんば、子と賀と且に罪を得んとす」と。愈曰く、然り。律に曰く、「二名は偏諱せず」と。之を釈する者曰く、「徴を言えば在を称せず・在を言えば徴を称せざるが若きを謂う、是なり」と。律に曰く、「嫌名を諱まず」と。之を釈する者曰く、「禹と雨と謂うが若き」
今、賀の父の名は晋粛にして、賀、進士に挙げられるは、二名の律を犯すとせんか、嫌名の律を犯すとせんか、父の名晋粛にして、子、進士に挙げられることを得ずんば、若し父の名仁ならば、子は人と為ることを得ざらんか。
夫れ諱は何の時に始まる、法制を作って以て天下に教えるは、周公・孔子に非ずや。周公は詩を作って諱まず、孔子は二名を偏諱せず、春秋には嫌名を諱ざるを譏らず。康王剣の孫は、実に昭王たり。曾参の父の名はルにして、曾子は昔を諱まず。周の時に麒期あり、漢の時に杜度あり。此れ其子、宜しく如何か諱むべき。将た其の嫌を諱みて、遂に其の姓を諱まんか、将た其の嫌なる者を諱まざらんか。漢には、武帝の名を諱みて、徹を通と為せども、又車轍の轍を諱みて某字と為せることを聞かざるなり。(以下略)
李賀に対して中傷を加えた者は白居易の詩友、元慎、字は徴之であったと言う。元慎は明経科に合格した際、李賀に面会を求めたが断られたのを恨み、李賀の受験に異議を唱えたと言う。然し之は李賀と元慎の年代的に無理がある。
李賀の進路を阻んだのは誰かは解からない、然し、韓愈の「諱の辯」の中から推察はできる。「皇甫G曰く、若し明白にせずんば、子と賀と且に罪を得んとす」と。当時、政治社会に於いて派閥関係が芽生えていた、韓愈に対するグループに対し、彼も門弟を結集させて一グループを作ったのは、必然的な流れであったか、李賀は派閥抗争の格好の餌食にされたとみる。
21歳の時、李賀は長安に出て、奉礼郎に任官した、朝廷の会議や祭礼の時の席次を決めたり、儀式の進行をとる職務は李賀にとっては不本意だった。わびしい都会生活示した詩「始為奉礼憶昌谷山居」
掃断馬蹄痕。  掃断す馬蹄の痕
衙回自閉門。  衙より回り自ら門を閉じる
長鎗江米熟。  長鎗 江米熟し
小樹棗花春。  小樹 棗花の春
向壁懸如意。  壁に向かい如意を懸ける
当簾閲角巾。  簾に当たって角巾を閲する
犬書曾去洛。  犬書 曾つて洛を去り
鶴病悔遊秦。  鶴病 秦に遊びしを悔やむ
土甑封茶葉。  土甑 茶葉を封じ
山盃鎖竹根。  山盃 竹根を鎖さん
不知船上月。  知らず船上の月
誰棹満渓雲。  誰が棹さす満渓の雲に
病弱で鶴のような身で都に出たのは誤りだったと後悔する。
李賀の詩を読むと杜甫に傾倒、意識し作詩した形跡が窺える。
杜甫詩、  竹批ぎて 双耳は峻つ。
李賀詩、  竹を批ぎて 初に耳を攅まる
杜甫詩、  石泉は 暗壁に流れ
李賀詩、  石脈 水流れ 泉 沙に滴る
杜甫詩、  暗に飛ぶ 蛍は自ら照らす
李賀詩、  蟄蛍 低く飛び 隴徑 斜なり
中唐に位置つけられる李賀の漢詩の出現で新しい境地え転折し次の晩唐詩が切り開かれてゆく。晩唐の詩風の開祖、杜牧は李賀が13歳の時、生まれた。李商隠は李賀が22歳のとき生まれている。二人の詩人は李賀の文学土壌を要因し晩唐詩風を開花させて行く。
李賀の詩は 「唐詩選」「三体詩」には一首も取り上げられていない、日本で親しまれている、この両書に無いのが李賀の李賀たる由縁か。異端とされる李賀の詩には他の唐詩人に類を見ない独自と個性がある。
26歳の李賀は故郷の昌谷に帰り、翌年故郷で没した。享年27歳。優れた詩才にもかかわらず、恵まれなかった。一説には李賀の性格に因ると言う、傲慢なところがあり、自ら「皇孫」と称した、等。
 
賈島(かとう)1

(779-843) 「苦吟詩人」と言われる。句を練りに練って寝食を忘れるタイプであった。”推敲”の故事で有名。ある日、ある時、良い対句が浮かんだが
鳥は宿る池中の樹。僧は推す月下の門。
賈島は驢馬に乗って「推す」でなく「敲く」にした方が良いか? いや!やはり「推す」の方が良かろうか、夢中になって考えているいちに貴人の行列の中に迷い込んでしまった。それは”詩人”としても令名でもあった韓愈の行列であった。韓愈の前に引きだされた賈島は訳を話し無礼を詫びると、韓愈は暫らく考えていたが、「君、それは敲くの方が良いよ」と言ったと言う。「推敲」の故事は此から始じまったと言う。
復た、ある年の秋、賈島が痩せたロバにまたがり、都・長安の大通りを歩いていると秋風に吹かれて枯れ葉がいっせいに降り注いで来た。詩興のわいた彼は、思わず「落葉 長安に満つ 」と口ずさんだ。ところが、これに対応する句がどうも浮かばない。
一年経ち・二年経った。いろいろ考えたがどうも良い句が續かない・・・・・・。とうとう復た秋がやって来た。彼は秋風に吹かれて散る葉を見ながら苦吟して、歩いている内に、劉栖楚と言う高官の乗っている馬にぶっかってしまい不遜な奴だ!と、牢屋に入れられてしまった。
牢屋の中でも苦吟していると、水の流れる音が耳に入ってきた。おや!と思って賈島は格子窓から覗いて見た。牢屋の外は渭河(長安の北を東に流れ、黄河に合流する)で、秋風にあおられて波頭を立てながら、とうとうと流れているのだった。それを見ているうちに、口をついて句が出てきた。
秋風 渭水に吹き
落葉 長安に満つ
のちに、此の詩は人々の絶賛を博した。だが、誉められた賈島は答えた。「私の詩が”三年両句を得、一吟双涙流る”だと言うことは、みなさん、お解かりかな」推敲と言う言葉から、派生した逸話とも言う。
賈島は貧窮の中に死んだ。(843年)「唐才子伝・五」に言う。「死に臨む日、家に一銭無し、惟だ病躯と古琴とのみ」
賈島2
中国唐代の詩人。字は彭仙(ろうせん)または浪仙。范陽の人。はじめ僧侶で無本と号し、のち韓愈に認められて還俗、仕官した。五言律詩にすぐれ、著に「長江集」「詩格」がある。「推敲(すいこう)」の逸話は有名。賈長江。  
 
白居易 (白楽天)

はく きょい/大暦7年-会昌6年(772-846) 中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。
772年、鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5-6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。
彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳で盩厔県(ちゅうちつけん、陝西省)の尉になり、その後は翰林学士、左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作する。
815年、武元衡暗殺をめぐり越権行為があったとされ、江州(現江西省九江市)の司馬に左遷される。その後、中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、杭州・蘇州の刺史となり業績をあげる。838年に刑部侍郎、836年に太子少傅となり、最後は842年に刑部尚書の官をもって71歳で致仕。74歳のとき自らの詩文集「白氏文集」75巻を完成させ、翌846年、75歳で生涯を閉じる。

白居易は多作な詩人であり、現存する文集は71巻、詩と文の総数は約3800首と唐代の詩人の中で最多を誇り、詩の内容も多彩である。若い頃は「新楽府運動」を展開し、社会や政治の実相を批判する「諷喩詩(風諭詩)」を多作したが、江州司馬左遷後は、諷喩詩はほとんど作られなくなり、日常のささやかな喜びを主題とする「閑適詩」の制作に重点がうつるようになる。このほかに無二の親友とされる元稹や劉禹錫との応酬詩や「長恨歌」「琵琶行」の感傷詩も名高い。
いずれの時期においても平易暢達を重んじる詩風は一貫しており、伝説では詩を作るたび文字の読めない老女に読んで聞かせ、理解できなかったところは平易な表現に改めたとまでいわれる(北宋の釈恵洪「冷斎詩話」などより)。そのようにして作られた彼の詩は、旧来の士大夫階層のみならず、妓女や牧童といった人々にまで愛唱された。
日本への影響
白居易の詩は中国国内のみならず、日本や朝鮮のような周辺諸国の人々にまで愛好され、日本には白居易存命中の844年に、平安時代の留学僧恵萼により67巻本の「白氏文集」が伝来している。平安文学に多大な影響を与え、その中でも閑適・感傷の詩が受け入れられた。菅原道真の漢詩が白居易と比較されたことや、紫式部が上東門院彰子に教授した(「紫式部日記」より)という事実のほか、当時の文学作品においても、「枕草子」に「白氏文集」が登場し、「源氏物語」が白居易の「長恨歌」から影響を受けていることなどからも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがえる。白居易自身も日本での自作の評判を知っていたという。
禅僧との交流
白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の仏光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や、浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。

「景徳傳燈録」巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、人口に膾炙している牛頭宗の鳥窠道林(741-824)との「七仏通誡偈」に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。  
「長恨歌」/ 唐代の玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを歌い、平安時代以降の日本文学にも多大な影響を与えた。806年(元和元年)、白居易が盩厔県(陝西省周至県)尉であった時の作。七言古詩(120句)。

漢皇重色思傾國、御宇多年求不得 - 漢の皇帝は美女を得たいと望んでいた。しかし長年の治世の間に求めても得ることができなかった。
楊家有女初長成、養在深閨人未識 - 楊家の娘はようやく一人前になるころである。深窓の令嬢として大切に育てられ、周囲には知られていなかった。
天生麗質難自棄、一朝選在君王側 - 天性の美は自然と捨て置かれず、ある日選ばれて王の側に上がった。
回眸一笑百媚生、六宮粉黛無顏色 - 視線をめぐらせて微笑めば百の媚態が生まれる。これには後宮の美女の化粧顔も色あせて見えるほどだ。
春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂 - 春まだ寒いころ、華清池の温泉を賜った。温泉の水は滑らかに白い肌を洗う。
侍兒扶起嬌無力、始是新承恩澤時 - 侍女が助け起こすとなよやかで力ない。こうして晴れて皇帝の寵愛を受けたのであった。
雲鬢花顏金歩搖、芙蓉帳暖度春宵 - やわらかな髪、花のような顔、歩みにつれて金のかんざしが揺れる。芙蓉模様のとばりは暖かく、春の宵を過ごす。
春宵苦短日高起、從此君王不早朝 - 春の宵はあまりに短く、日が高くなって起き出す。これより王は早朝の執政を止めてしまった。
承歡侍宴無濶ノ、春從春遊夜專夜 - 王の意を受けて宴に侍って途切れる暇もない。春には春の遊びに従い、夜は夜で王の側に一人で侍る。
後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身 - 後宮には三千人の美女がいたが、三千人分の寵愛をいまや一身に受けている。
金屋妝成嬌侍夜、玉樓宴罷醉和春 - 金の御殿で化粧を凝らして、艶めかしく夜も侍る。玉楼での宴が果てた後、春のような気分に酔う。
姊妹弟兄皆列士、可憐光彩生門戸 - 彼女の縁戚はみな列士となり、輝かしい栄光が一族に訪れた。
遂令天下父母心、不重生男重生女 - 遂には世間の親たちの心も、男児の誕生より女児の誕生を喜ぶようになった。
驪宮高處入青雲、仙樂風飄處處聞 - 驪山の離宮は高所にあって雲に隠れるほどである。天上の音楽が風に乗ってあちこちから聞こえる。
緩歌慢舞凝絲竹、盡日君王看不足 - のびやかな歌や踊り、笛や琴の音も美しく、王は終日眺めて見飽きることがなかった。
漁陽鼙鼓動地來、驚破霓裳羽衣曲 - 突如、漁陽の陣太鼓が地を揺るがして迫り、霓裳羽衣の曲を楽しむ日々は砕け散った。

九重城闕煙塵生、千乘萬騎西南行 - 王宮の奥にも煙と粉塵が立ち上る。車や騎兵の大軍は西南を目指していった。
翠華搖搖行復止、西出都門百餘里 - かわせみの羽で飾った天子の御旗はゆらゆらと進んでは止まり、都の西門を出て百里のあたりまで来た。
六軍不發無奈何、宛轉蛾眉馬前死 - もはや軍は進もうとせず、如何ともしがたく、優美な眉の美女は天子の馬前で死したのであった。
花鈿委地無人收、翠翹金雀玉搔頭 - 花のかんざしは地に落ちて拾い上げるものもなく、かわせみや金の雀、宝玉の髪飾りも同様であった。
君王掩面救不得、回看血涙相和流 - 王は顔を覆うばかりで助けることもできず、振り返る目からは血の涙が流れた。
黄埃散漫風蕭索、雲棧縈紆登劍閣 - 黄色い砂塵が舞い、風がものさびしく吹きすさぶ。雲にかかるほどの険しい道を剣閣へと登る。
峨嵋山下少人行、旌旗無光日色薄 - 峨嵋山のふもとには道行く人も少ない。天子の御旗も今は光なく、日の光さえ弱々しい。
蜀江水碧蜀山青、聖主朝朝暮暮情 - 蜀江の水は深緑色、蜀山は青々としている。王は朝も夕も彼女を恋い慕って嘆いた。
行宮見月傷心色、夜雨聞鈴腸斷聲 - 仮御所の月を見れば心が痛み、夜に雨音を聞けば断腸の思いである。
天旋日轉迴龍馭、到此躊躇不能去 - 世情が変わって天子の御車も方向を転じて都を目指す。しかし心が引かれてこの地を立ち去ることができない。
馬嵬坡下泥土中、不見玉顏空死處 - 馬嵬の坂の泥の中に、もはやかつての玉のように美しい顔は見ることができず、その跡がむなしく残るばかり。
君臣相顧盡霑衣、東望都門信馬歸 - 君臣は互いに振り返りながら旅の衣を涙で濡らし、東に都の門を望みながら馬に任せて帰る。
歸來池苑皆依舊、太液芙蓉未央柳 - 帰ってきてみれば池も庭もみな元のままで、太液池の芙蓉も未央宮の柳も変わりないのである。
芙蓉如面柳如眉、對此如何不涙垂 - 芙蓉の花は彼女の顔のよう、柳は彼女の眉のようで、これを見てどうして涙を流さずにおられようか。
春風桃李花開夜、秋雨梧桐葉落時 - 春風に桃李の花が夜開き、秋雨に桐の葉が落ちる。
西宮南苑多秋草、宮葉滿階紅不掃 - 西の宮殿の南の庭には秋草が繁り、落ちた葉がきざはしを赤く埋め尽くしても掃き清めるものもない。
梨園弟子白髮新、椒房阿監青娥老 - かつての梨園の弟子もすっかり白髪が増え、椒房の女官もすっかり年をとった。
夕殿螢飛思悄然、孤燈挑盡未成眠 - 夕方の宮殿に蛍が飛ぶのを見ても悄然として考える。ひとつ残った灯りをともしきってもまだ眠りに就くことができない。
遲遲鐘鼓初長夜、耿耿星河欲曙天 - 時を告げる鐘鼓は遅々として夜の長さを思い知らせる。天の川はうっすら光って空は明けようとしている。
鴛鴦瓦冷霜華重、翡翠衾寒誰與共 - おしどりの瓦は冷え冷えとして霜が真っ白に積もる。かわせみの夜具は冷え切っていて共に休む人もない。
悠悠生死別經年、魂魄不曾來入夢 - 遥か遠く生死を分けてから幾年月、彼女の魂魄が会いに来て夢に現れることもない。

臨邛道士鴻都客、能以精誠致魂魄 - 臨邛の道士が都に旅人として訪れており、精を込めて祈ることで魂魄を招くことができた。
為感君王輾轉思、遂ヘ方士殷勤覓 - 王が眠れぬ夜を重ねていることを案じていた人々は、彼に念入りに捜し求めるようにしたのである。
排空馭氣奔如電、升天入地求之徧 - 空を切って気流をとらえ雷のごとく天駆け、天に昇り地に入ってくまなく捜し求める。
上窮碧落下黄泉、兩處茫茫皆不見 - 上は空の窮みまで、下は黄泉まで探したが、どちらもただ茫々として果てなく見つけることができない。
忽聞海上有仙山、山在虚無縹緲 - そのうち海上に仙人の山があると聞き及ぶ。山は何もないところにぽつんと在った。
樓閣玲瓏五雲起、其中綽約多仙子 - 楼閣は玲瓏として美しく五色の雲が起こっている。その中にたおやかな仙女がたくさんいた。
中有一人字太眞、雪膚花貌參差是 - その一人は名を太真といった。雪のような肌、花のような容貌、どうやら彼女らしい。
金闕西廂叩玉扃、轉ヘ小玉報雙成 - 金の御殿の西の棟に宝玉の扉を叩いて訪れ、小玉や双成に取次を頼んだ。
聞道漢家天子使、九華帳裏夢魂驚 - 漢の天子の使いと聞いて、幾重もの美しいとばりの中で彼女の魂が夢から覚めた。
攬衣推枕起裴回、珠箔銀屏邐迤開 - 衣装をまとい枕を押しやって起き上がり、しばらく躊躇してから玉の簾や銀の屏風が次々に開かれた。
雲鬢半偏新睡覺、花冠不整下堂來 - 雲のような髪は少し崩れて目覚めたばかりの様子。花の冠も整えないまま堂に降りてきた。
風吹仙袂飄颻舉、猶似霓裳羽衣舞 - 風が吹いて仙女の袂はひらひらと舞い上がり、霓裳羽衣の舞を舞っているようだった。
玉容寂寞涙闌干、梨花一枝春帶雨 - 玉のような美しい顔は寂しげで、涙がぽろぽろとこぼれる。梨の花が一枝、雨に濡れたような風情である。
含情凝睇謝君王、一別音容兩渺茫 - 思いのこもった眼差しで、君王に謝辞を述べた。あの別れ以来、声も姿も両共に遠いものとなりました。
昭陽殿裏恩愛絕、蓬萊宮中日月長 - 昭陽殿での恩愛も絶え、蓬莱宮の中で過ごした時間も長くなりました。
回頭下望人寰處、不見長安見塵霧 - 振り返って人間世界を見下ろしてみても、長安は見えず、霧や塵もやが広がるばかり。
唯將舊物表深情、鈿合金釵寄將去 - 今はただ思い出の品によって私の深情を示したいのです。螺鈿の小箱と金のかんざしを形見にお持ちください。
釵留一股合一扇、釵擘黄金合分鈿 - かんざしの脚の片方と小箱の蓋をこちらに残しましょう。かんざしの小金を裂き小箱は螺鈿を分かちましょう。
但ヘ心似金鈿堅、天上人陂相見 - 金や螺鈿のように心を堅く持っていれば、天上と人間界とに別れた私たちもいつかまた会えるでしょう、と。
臨別殷勤重寄詞、詞中有誓兩心知 - 別れに際し、ていねいに重ねて言葉を寄せた。その中に、王と彼女の二人だけにわかる誓いの言葉があった。
七月七日長生殿、夜半無人私語時 - それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった。
在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝 - 天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう、と。
天長地久有時盡、此恨綿綿無絕期 - 天地は悠久といえどもいつかは尽きることもある。でもこの悲しみは綿々と続いて絶える時はこないだろう。
金針詩格 舊題唐‧白居易
元和中,有詩友數十人,愛相酬唱。獨得詩之深者劉夢得、元微之,二公尤知其理,時人多以元、劉為先,號曰〔劉白〕、〔元白〕。故知元、劉之詩,知詩之骨髓,而播在人口,莫非騷、雅者也。夢得相寄云:〔沉舟側畔千帆過,病樹前頭萬木春。〕〔雪裡高山頭白早,海中仙果子生遲。〕此二聯神助之句,自能詩者鮮到於此,豈非夢得之深者乎?
居易貶江州,多遊廬山,宿東西二林,酷愛於詩。有《闍瘁t云:自從苦學空門法,銷盡平生種種心。惟有詩魔降未得,每逢風月一闍瘁B自此,味其詩理,撮其體要,為一格目,曰《金針集》。喻其詩病而得針醫,其病自除。詩病最多,能知其病,詩格自全也。金針列為門類,示之後來,庶覽之者猶指南車,而坦然知方矣。
詩有內外意
一曰內意,欲盡其理。理,謂義理之理,美、刺、箴、誨之類是也。
二曰外意,欲盡其象。像,謂物象之象,日月、山河、蟲魚、草木之類是也。內外含蓄,方入詩格。
詩有三本
一曰有竅。二曰有骨。三曰有髓。以聲律為竅;以物象為骨;以意格為體。凡為詩須具此三者。
詩有四格
一曰十字句格。二曰十四字句格。三曰五隻字句格。四曰拗背字句格。
詩有四得
一曰句欲得健。二曰字欲得清。三曰意欲得圓。四曰格欲得高。
詩有四煉
一曰煉句。二曰煉字。三曰煉意。四曰煉格。煉句不如煉字;煉字不如煉意;煉意不如煉格。
詩有五忌
一曰忌格懦。二曰忌字俗。三曰忌才浮。四曰忌理短。五曰忌意雜。格弱則詩不老,字俗則詩不清,才浮則詩不雅,理短則詩不深,意雜則詩不純。《格致叢書》
詩有八病
一曰平頭。二曰上尾。三曰蜂腰。四曰鶴膝。五曰大韻。六曰小韻。七曰旁紐。八曰正紐。
詩有五理
一曰有美。〔都來消帝道,渾不用兵防。〕美君有道コ,以服遠人。
二曰有刺。〔桑柘廢來猶納稅,田園荒去尚征徭。〕刺賦斂之重也。
三曰有規。〔幸無偏照處,剛有不明時。〕規聖人行號令有不明時。
四曰有箴。〔日暮碧雲合,佳人期不來。〕箴佞人進而使賢人不仕也。
五曰有誨。〔明河川上沒,芳草露中衰。〕誨明時草澤中,賢人不得用也。
詩有三體
紀帝コ曰頌。〔明堂坐天子,月朔朝諸侯。〕頌也。明時,太平也。干王道曰雅。〔才分天地色,便禁虎狼心。〕雅也。君臣正,父子和。諷上曰風。〔宮中誰第一,飛燕在昭陽。〕風也。君不用正人。
詩有四得
一曰有喜而得之者。其辭麗:〔有時三點兩點雨,到處十枝九枝花。〕
二曰有怒而得之者。其辭憤:〔顛狂柳絮隨風舞,輕薄桃花逐水流。〕
三曰有哀而得之者。其辭傷:〔淚流襟上血,髮變鏡中絲。〕
四曰有樂而得之者。其辭逸:〔誰家克飲連夜,何處紅妝睡到明?〕
詩有四失
一曰失之太喜其思放。〔春風得意馬蹄疾,一日看盡長安花。〕
二曰失之太怒其思躁。〔解通銀漢終須曲,才出崑崙便不清。〕
三曰失之太哀其思傷。〔主客夜呻吟,痛入妻子心。〕
四曰失之太樂其思蕩。〔驟然始散東城外,倏忽還逢南陌頭。〕
詩有上中下三等
一曰純而歸正者上等也。〔几席延堯舜,軒轅立禹湯。〕
二曰淡而有味者中等也。〔陝Y太古石,醉臥洞庭秋。〕
三曰華而不浮者下等也。〔山花插寶髻,石竹繡羅衣。〕
詩有四不入格
輕重不等,用意太過,指事不實,用意偏枯。
詩有齊梁格
四平頭,謂四句皆用平字入是也;兩平頭,謂第一句第三句用平字入是也。
詩有扇對格
第一句對第三句,第二句對第四句。
詩有魔
好吟而不工者才卑也;好奇而不純者格卑也。
詩有三般句
一曰自然句;二曰容易句;三曰苦求句。命題屬意,如有神助,歸於自然也;命題率意,遂成一章,歸於容易也;命題用意,求之不得,歸於苦求也。
詩有數格
曰葫蘆;曰轆轤;曰進退。葫蘆韻者,先二後四;轆轤韻者,雙出雙入;進退韻者,一進一退。
詩有六對
唐上官儀曰:詩有六對。
一曰正名,天地、日月是也;
二曰同類,花葉、草芽是也;
三曰連珠,蕭蕭、赫赫是也;
四曰雙聲,黃槐、獄是也;
五曰疊韻,彷徨、放曠是也;
六曰雙擬,春樹、秋池是也。
詩有四字對
一曰疊韻字對;二曰疊語字對;三曰骨肉字對;四曰借聲字對。
詩有義例七
一曰說見不得言見;
二曰說聞不得言聞;
三曰說遠不得言遠;
四曰說靜不得言靜;
五曰說苦不得言苦;
六曰說樂不得言樂;
七曰說恨不得言恨。
詩有二家
一曰有詩人之詩;二曰有詞人之詩。詩人之詩雅而正;詞人之詩才而辯。
詩有物象比
日月比君后。龍比君位。雨露比君恩澤。雷霆比君威刑。山河比君邦國。陰陽比君臣。金石比忠烈。松柏比節義。鸞鳳比君子。燕雀比小人。蟲魚草木,各以其類之大小輕重比之。
補遺
第一聯謂之〔破題〕,欲如狂風捲浪,勢欲滔天。又如海鷗風急,鸞鳳傾巢,浪拍禹門,蛟龍失穴。第二聯謂之〔頷聯〕,欲似驪龍之珠,善抱而不脫也。亦謂之〔撼聯〕者,言其雄贍遒勁,能捭闔天地,動搖星辰也。第三聯謂之〔警聯〕,欲似疾雷破山,觀者駭愕,搜索幽隱,哭泣鬼神。第四聯謂之〔落句〕,欲如高山放石,一去不回。
〔枯桑知天風,海水知天寒。〕謂隱〔不〕之一字也。如《詩》云:〔摻摻女手,可以縫裳。〕言不可也。
 
杜牧

(830-853) 字は牧之。若年の頃は美貌の風流才子として浮名を流したが 性剛直で奇節あり「孫子」の研究者としても知られている。晩唐詩壇の繊細優婉な一般的傾向とは別格の男性的気概の作風は豪邁と艶麗の両面を兼ねそなえ 詠史・時事諷詠に長じ特に懐旧の情をもった絶句に名作が多い。
遣懐
落魂江湖載酒行。  水郷の辺り 落ちぶれ行くにも酒を載せて旅をし
楚腰腸断掌中軽。  かぼそい腰の女は手の上で舞い得るような繊細な美人と戯れた
十年一覚揚州夢。  しかし揚州の歓楽街での十年の夢が今覚めてみると
贏得青楼薄倖名。  ただ歓楽街で冷たい不幸な名を受けたにすぎなかった
杜牧が 揚州大都督の牛僧孺(779-847)の幕下に入り書記として官吏生活を送ったのは太和七年(833) 三十一歳の時から数年間であったが名門の出でもある好青年杜牧はこの游楽の江都で風流のかぎりをつくした 杜牧の身を案じた牛僧孺が士卒に命じて変装をし密かに護衛させ 数年後 杜牧が中央に還る時 牛僧孺が士卒に命じ「あれを持って参れ」と命じた。
「ご自分でそれを開けてごらんなさい」 杜牧は文函を開けた。そこには報告書の束が収められていた。士卒の市内巡察小吏の報告である。
> 杜書記は張家から江都楼 彩虹閣を回り 再び張家え。帰宅。恙無し。
> 杜書記は張家から流波館へ。宴会。遊侠の徒 宴席に闖入する者あり。取り押さえる。張家に 戻り 帰宅。恙無し。
> 杜書記 張家。九峰園。天瑞館。張家。路地に入り二刻を経過して春屏原に出る。家まで同道。
杜牧は毎晩 妓楼のハシゴをしていた。先ず張好好(蘇州出身。彼女は揚州でも屈指の名妓として知られていた。)の処に行き それから妓楼を回る。最後にまた張好好の処に戻り 泊まったり 家に帰ったりした。唐の揚州城は 隋の煬帝が造営した江都で 迷楼と呼ばれる豪壮な建造物だった。
杜牧は読んでいるうちに赤面慚愧に堪えない表情。牛僧孺は続けて言う。
「全部読んでも仕方がない。大抵同じような報告だ。士卒の長に数えて貰ったら千枚を超える」
「毎晩 三十人前後の街卒が 私服であなたをそれとなく警護していた」  
「あなたは千歳希有の才能の持ち主だから。 国家の為に そなたに万一のことがあってはならない」杜牧は言葉も無く 「そんな・・・・」その場に額ずいた。 
(出典) 「揚州夢記」唐の于業。
山行
遠上寒山石径斜。  秋の寂しい山 石混じりの小道が斜に通じている
白雲生処有人家。  はるか白雲の漂うあたりに人家が見える
停車坐愛楓林晩。  車を停めて何となく楓の紅葉した日暮れの風景に見とれていると
霜葉紅於二月花。  霜にで紅葉したその色は 夕日に映えて春の花よりも勝っている
「唐才子伝」「新唐書」に(弟の病を以て官を棄つ)としるし。杜牧は弟を揚州禅智寺で療養させた。ある年 見舞ったついでに友人を尋ねた。その時 彼は長年求めていた絶世の美女にめぐりあった。
年を聞くと十余歳と言う。(この少女が成長すれば まさに天下一の美女だ。・・・・)杜牧は少女の母にかけあった。結納の金を渡し「十年経てば私は湖州刺史として此へ赴任して来る。それまで待つてて下さい。十年です。」と言った。
「でも 十年をすぎたなら・・・・」 少女の母親は心配だった。二十をすぎると 婚期を逸したと言う時代であった。
「十年すぎれば 仕方がない。・・・・・・きっと十年以内にやって来ます。」  
杜牧は約束した。
杜牧は失明した弟の一家を引き受けた。地方長官を勤務しなければ生活費が捻出 出来ない。中央諸官を歴任すれば出世の近道である。杜牧自身は昇進のことは考えないことにした。
弟一家を引き連れて 杜牧の地方官勤務が始った。湖州刺史就任が実現したのは 大中四年(850) 彼が四十八歳の時である。あの絶世の美少女を発見したときから すでに十四年たっていた。喜び勇んで湖州に来た。
「十年のお約束でございました。もう一年待つて 十一年目に結婚いたしました。娘を是非にと熱心に望んでおられた人がいましたので。・・・三年前のこと。・・・・それから、  一年に一人ずつ子を生んで、いま三児の母となっています」
少女の母は弁明した。例の美少女はすでに人妻になっていた。「そうか。幸せだというから めでたいことだ。・・・・・残念ではあるが、目出度くもある。」杜牧はこみあげてくるため息だけでなく 涙までにじみ出てきそうになった。
「一首できた。・・・筆と紙を戴きたいが・・・。」
自是尋春去校遅。  自から是れ 春を尋ね 去ってしらぶる(校)こと遅し
不須惆悵怨芳時。  須(もち)いず 惆悵 芳時を怨むを
狂風落尽深紅色。  狂風 落ち尽くす 深紅色
緑葉成陰子満枝。  緑葉 陰を成して 子枝に満つ

「山行」の結句。 霜によって紅葉した色彩。鮮やかさが 春の花より紅いと言うのは人妻となったその女性が人生の青春である若い娘たち(ブランド物に身を飾るギャル)よりなお美くしい。と言う説がある。先ずこじつけの説と考えられている。然し・・寓意とも感じられないこともないが・・・
一般に中国人は春の花を詠じることが多いが秋の紅葉を詠じることは少ない。紅葉を華やかさなものとして詠じる例は我が国 特有のものらしい。

現代作家・茅盾(子夜など、実在論者)に「霜葉紅似二月花」と言う長編小説がある。(1943年刊)。「紅於二月花」を「紅似二月花」と変えて題名したもの。茅盾はその理由を 一見ほんものの二月の花のように 行動している一群の人人が 実際は紅葉した葉であって間もなく散り落ちて行く運命にある。その次第を描きたかった からだと言う。つまり 紅葉はほんものの赤い花よりも赤く見えることもあるが所詮は似て非なるものである と言う意味で 「霜葉紅似二月花」 と題したと言う。

杜牧の詩には数字を用いることが多い。
「漢宮一百四十五」。「二十四橋名月夜」。「南朝四百八十寺」。王漁洋は「算博士といえども何ぞ妨げん。只 呆相なからんのみ」と言う。

杜牧の作品の態度について彼自身が 「某苦心為詩 本求高絶 不務奇麗 不渉習俗 不今不古處於中間」 (巻十六献詩啓)と語る。
廃頽してゆく世を挽回するには 先ず善政が不可欠。杜牧は太宗を偲んで「将赴呉興登楽游原一絶」を作り玄宗の晩年を諷刺しては「清華宮三十韻」を作詩。天子の精励を熱望し 一方では杜牧は弱き物。虐げられた者に対して 満腔の同情を禁じ得なかった。杜牧が31歳の時、杜秋という女性のために、その劇的な女の一生を描く、五言百十二句の長篇の詩を作った。友人の張祐は歌った。
年少 多情の 杜牧之。
風流 仍ほ作る 杜秋の詩。 (張祐・読池州杜員外杜秋娘詩)
遊びの心が横溢し、奔放である者、まさに「風流」の典型であった。邨行・題邨舎は農民の困難苦悩を。杜秋娘詩・張好好詩は女の憐れさを。 李甘詩・李給事二首は剛直さ故の不遇であった李甘・李敏中に対する友情を詠じている。杜牧が目指した詩人が杜甫。韓愈、であった。「読韓杜集」で理解出来る。  
 
李商隠

(812-858年) 字を義山。憲宗皇帝の元和78年。河南省懐州河内の人。懐州は現在、河南省に属し黄河の北辺で黄徳という所。ここが唐代の懐州。彼はここで生まれた。「甘露の変」という歴史上著名な事件が突発し、義山は壮年時に此の事件に出遭った。
義山自身この政治上の激変のため、社会の風波に篏揚された。この事実が詩にも現れ、自然にその詩が怪譎に流されたのは止むを得ない。後に宰相になった令狐楚の知遇を受けた。狐楚の勧告で当時流行の文字を綺麗にし、なるべく句造を綿密にする詩体をめざした。
錦瑟
錦瑟無端五十弦。  錦瑟 端無くも 五十弦
一絃一柱思年華。  一絃 一柱 年華を思う
荘生曉夢迷胡蝶。  荘生の曉夢 胡蝶迷い
望帝春心托杜鵑。  望帝の春心 杜鵑に托す
滄海月明珠有涙。  滄海 月明らかにして 珠 涙有り
藍田日暖玉生烟。  藍田 日暖かにして 玉 烟を生ず
此情可待成追憶。  此の情 追憶を成すを待つ可けんや
只是当時已惘然。  只だ是れ 当時 已に惘然
唐代で朋党の軋轢が最も甚だしい時代【牛僧孺と李徳裕】の二党に彼はこの党争の渦中に巻き込こまれた結果となる。義山の知己は長きは三年、短きでは一年位で皆物故するので、彼は全く途方にくれ復た都に戻るしか道がない。
楽游原
向晩意不適。  晩に向かい 適なわず
駆車登古原。  車を駆りて 古原に登る
夕陽無限好。  夕陽 無限に好し
只是近黄昏。  只だ是れ 黄昏に近し
陸亀蒙は詩人の窮厄は多く天物を暴して、造化の秘を発くことの報である。李長吉の夭折、孟東野の窮し、李商隠の官、朝籍に掛けづして死去したのは、皆な此処が為だと言う。蓋し然からん。李商隠は詩文を作る際は非常に刻苦した。色々な資料を集めて、部屋一杯に並べた。まるで、獺が魚を捕り食いするように、直ぐに食はないで、十数尾を排列して祭りの供え物のようにし、その上で片ッ端から口に入れていく。称して【獺祭魚】と言った。正岡子規は自分の書斎を「獺祭書屋」と号した。
夜雨寄北      夜雨北に寄せる
君問帰期未有期。  君は帰期を問うも 未だ期有らず
巴山夜雨漲秋池。  巴山の夜雨 秋池に漲る
何当更剪西窓燭。  何か当に 更に西窓の燭を剪り
却話巴山夜雨時。  却つて話らん 巴山 夜雨の時なるべし
何時お帰りですの、とお前はたずねて来たが、まだ何時と、いうあてはない。
今ここ巴山の山中では、夜の雨が秋の池を漲らせて降りつづく。
あの西向きの窓べで、お前と二人夜更けまで灯心を切りつつ語りあうことが出来るのは、何時のことか。
その時こそ巴山に雨が降る今の私の心を語りあえるのだが 
この詩、一首全体が妻に語りかける手紙のように構成されて、夫のやさしい愛の囁きと言った詩であり中国詩としては珍しい内容のものである。
義山についての逸話:真宗が宮中で内宴を張り観劇の催しがあった時、揚憶を初め当時の館閣の詞臣、即ち西崑唱酬集中の人たちが列席していた。俳優で滑稽に長じている者が一人、海藻のようなボロボロの衣裳を着て舞台に現れ
「俺は李義山だぞー」
と言って威張っている。すると、相手がたの一人が「何、お前が李義山と言うのかそのボロボロの着物は一体どうしたのじゃ」と問うと「是は他でもない、最近、館閣の先生方に私の着ている者は、すっかりむしり取られて、このような乞食のような浅ましい姿となってしまった」
この滑稽的風刺は当時、李義山の詩が如何に、流行していたかと言う事を証明している、と言う。義山の詩は専ら修辞を以ってその生命としていた。しかもその中に寄託するとこが多く、時事を風諭して、文字に深い意味を含ませることを貴び、好んで故事古典を巧みに運用したので、時に晦渋に流れて彼の真意が果たして何処にあるのか解らないことが多い。
然し、義山は単に艶麗綺縟な晦渋の詩ばかりを作ってはいない。堂々と雄健な筆を揮って「韓碑」のような長篇を作っている。晩唐の他の詩人の中で、杜甫、韓愈、の文字の正脈を系統だてて継承している。李商隠の詩は凡そ五百数十篇ある。(858年・鄭州で47歳を以って病没)
 
李清照

りせいしょう。生没年不詳と言うが一般には(1084-1151)とされている。北宋末から南宋時代の著名で代表的な女性詞人である。號は易安居士、漱玉。「漱玉詞集」がある。現在の山 東省の人。父、李格非は當時の著名な學者で又、「寒族・貧倹」ではあつたが李清照は、文学的雰囲気が濃厚な家庭で養育され、小さい時から経史子集、詩詞歌賦、軼事遺聞にも目を通し名門の子女として養育された。
明代の文豪・楊慎は言う「宋人で李清照は詞人の冠絶した一人である、男性作者に交しても秦観。黄庭堅と雄を争うであろう」。唐代に完成された近体詩は句数、押韻、平仄など細かい規則があり、「唐詩」として模倣され制作されてきた。楽府や歌はれる詩の作詞と作曲が最も盛んな唐代に変り宋代に入り「詞」が盛んに制作され始めた。
李清照は十八歳の時に趙明誠と結婚した。趙明誠は、字を徳甫。李清照より三歳年上、金石考據家の趙明誠と結婚。結婚初期の生活は優裕で、夫の趙明 誠と共同して書畫金石の搜集整理に努めた。趙明誠は不断の蒐集めと研鑽によって、後に金石に関しては淵博な知識をもつようになり、宋代に於いて欧陽脩に続く著名な金石学者となった。
李清照は夫の文物蒐集を助けるため、家庭生活をできるだけ切り詰めた。結婚した当時、趙明誠はまだ京師の大学で勉学中で毎月一日と十五日には、衣服を質にいれて五百銭を手にし大相国寺に出かけた。(現在の河南省開封市に今も相国寺がある。)北宋の封建社会では、女性は纏足を始めるなど、男性の付属物の一種であったが、趙明誠は李清照を平等の態度で対し、彼女は幸福に感じていた。
金時代に入り軍兵が中原に拠し南方に流浪するうちに、夫の明誠が病死する、李清照には大きな打撃であり、境遇は一変し孤 苦翩々。彼女の人生に於ける大きな転機でもあった。元来、身体の弱かった重い病気にかかってしまった。李清照はこの時、未だ書籍二万巻、金石刻二千巻のほかの器物を持っていた。金人が侵入して来た。従者や護衛も四散した為、これ等の品もすべて消えてしまった。
夫との死別、戦乱、更に病気が加わって境遇は凄惨を極めていた。この時。張汝舟が挨拶に来り、彼女を励ます、病床の李清照を感激させた、彼が五十近い李清照を娶ったのは彼女の才能や容姿に惹かれたからではない。その財産が欲しかったからである。夏に再婚し同年秋に離婚するまでの約百日間、李清照は精神的な苦しみを嘗め尽くした。
作詞家を「詞人」と言う。中国では恋愛をうたうために生まれた歌謡曲を「詞」と言う。女性詞人の最高峰が李清照。詞論で同時代の蘇軾や王安石など大家ばかりでなく品評し批判でもあった。前期は悠關カ活を多くの詞を書くが、後期は多くの身世を悲嘆したものが写きだされている。
○ 花は自から飄落し水は自から流れる。
花びらは、ひとりでに舞い散り、水は、ひとりでに、流れる。社会情勢の変化はそれ自体の規律に従がって起こるものである。自然の摂理として、それを変えようとしても無駄であるとうたいあげる。
○ 生きては当に人傑と作るべし、死するも亦鬼雄と為らん。
この世では豪傑となるべきであり、死しては死霊の中の英雄になるべきである。項羽が漢の高祖に敗れた後も、逃れず死したことを示す。当時江南に追われた南宋王朝の優柔不断で妥協的な姿勢を痛烈に批判した詩を書く。現在では、闘争の段階においては英雄気概を持つべきだと言う意味に用いられる。
○ 冷冷たり清清たり、凄凄たり惨惨たり戚戚たり。
有る場面では亦た情緒と感傷を以って 中原の懷憶の念いを栄枯衰勢。没落衰退の描写を形式上の手法、自から語言の清麗さを詞を以って論じ強調する。典雅、情致を詞で表す。作詩文の方法論と作詞文の方法論は反切を以って、多くを留めていない。
欧米では李清照は有名な詩人で多くの翻訳書もあるが、日本では中国文学でこの「詞」のジャンルが最も遅れていた。現在、中国では漢詩を(旧体詩)と呼び、漢詩よりも詞詩の方が馴染み深い。李清照は誰も知る詞人であり、優美かつ通俗な言語、調和のとれた流動的な音韻の手法を駆使して精密で創造性に富んだ詞人であろう。華麗な詞が多くのフアンを維持し続ける。永遠に忘れ難い詞人である。詞の内面性と音律が中国の若者を惹きつけるのが大きな起因でもある。
 
陸遊

(1125-1209) 号を放翁。南宋時代第一の詩人・憂国の志士としての詩人で夙に有名。 陸遊が生まれた翌年、都(開封・ベン「サンズイに卞」京)は北方女真族の金の手に落ち、又翌年、北宋の天子欽宋は父徽宗と共に捕らわれて金の国に連れ去られる。
紹興13年、陸遊、二度目の上京。科挙を受験し、また落第。そのまま都の滞在。この頃に、陸游が最初の妻、唐婉と結婚したのは、20歳のころ、二人は相思相愛の仲であったが二人の結婚は真に不幸な結果に終る。
陸游の母と唐婉の折り合いが悪く、それが原因で唐婉は家を出されてしまう。唐婉は宋の帝室とも血筋のつながった趙士程と再婚。陸游も間もなく二度目の妻、王氏を迎える。
陸遊は最初の妻の面影を何時までも抱き続けていた。のちにこの二人は劇的な再会の機会を持つ。陸游31歳の時、沈氏所有の園庭で、はからずも前の妻、唐婉と再会する。その時、唐婉は夫の趙士程に語って、酒肴を陸游の元へ届けてきた。
陸游は悵然たる新たな悲嘆にくれた。有名な「釵頭鳳」。陸遊は邸の壁にこの詩余を書いて立ち去った。唐婉はこの再会ののち、間もなく世を去ったと言う。
釵頭鳳       陸遊
紅酥手 黄縢酒。  紅やわらかな指 黄色い紐の酒
萬城春色宮墻柳。  街一杯の 春景色 宮墻の柳
東風悪 歓情薄。  にくや春風 歓情は薄く
一懐愁緒。      ひとたび愁いに とらわれては 
幾年離索。      年を重ね 別れてもとめる
錯錯錯。       あやまりて あやまりて あやまりて
・・・・・
人づてにその詞を知り、読んだ唐婉が返歌として詠んだ詞が読む者の心に響く。 陸游の原作と同じ詞牌、同じ入声の脚韻が用いられ、その才能の高さが伺える。
釵頭鳳      唐婉
世情薄、       世情は薄く、
人情悪、       人の情は悪し、
雨送黄昏花易落。 雨 黄昏を送り、花 落ち易く。
暁風干、       暁風 乾き、
泪痕残。       泪痕 残す。
欲箋心事、      心事を箋に欲せんとす
独語斜欄。      独語し欄に斜す。
難、難、難。     難しい 難しい 難しい。
人成各、       人 各々に 成り、
今非昨、       今は昨に非ず。(今是昨非。を倒挿したもの)
病魂常似秋千索、 病魂 常に千秋(ブランコ)の索くに似たり。
角声寒、       角声(軍隊で夜中に吹く角笛) 寒し、
夜爛珊。       夜 爛珊たり。
怕人尋問、      人の尋問を怕れる。
咽泪装歓。      咽泪せしも歓を装う。
瞞、瞞、瞞。     瞞たり 瞞たり 瞞たり。
紹興23年(1153)陸遊29歳。三度、科挙に応じて省試を受けた。秦檜(1090-115)の孫の(ケン・土扁に員)と首位を争い一位で及第、秦檜の恨みをかった。翌年の殿試でもやはり成績は一位であったが、秦檜の妨害で落第させられ、かわって秦檜の孫(秦ケン)が首席で合格した。
秦檜死後の紹興28年(1158)ようやく福州寧徳(福建省寧徳県)の主簿につくことが出来た。乾道五年(1169)12月6日に四川省キ州の通判に任命するの報を受けた。陸遊は出発した。
揚子江を遡って旅は五ケ月余かかった。沿岸の風物・寄航した土地の風俗地理を日記風に書き記す「入蜀記」は宋代における紀行文学の傑作とされる作品。李白・杜甫。他の詩人の作品に言及すること、屡であり、叙述も懇切、読む者をして山中の美学。歴史の様々な場面に立つ思いをさせる。
雨中泊趙屯有感。  雨中 趙屯に泊して感有り。(七月二十七日の作と考えられる)
帰燕羈鴻共断魂。  帰燕 羈鴻 共に魂を断つ 
荻花楓葉泊孤村。  荻花 楓葉 孤村に泊す
風吹暗浪重添纜。  風は暗浪を吹き 重ねて纜(ともずな)を添え
雨送新寒半掩門。  雨は新寒を送り 半ば門を掩う
魚市人煙横惨淡。  魚市の人煙 横たわって惨淡たり
龍祠簫鼓閙黄昏。  龍祠の簫鼓 黄昏に閙がし
此身且健無餘恨。  此の身 且く健ならば餘恨無し
行路雖難莫更論。  行路難しと雖も更に論ずること莫けん
陸遊「入蜀記」船旅の途中の作。
7月20日。江の中に江豚(イルカの一種)が十数頭出没する。黒いものあれば、黄色いのもある。すると、突然、数尺もの長さのあるのが現れた。色は真っ赤で、大きな蜈蚣(むかで)のようである。首を振り立てて流れに逆らって上ると、水を二、三尺の高さまであげた。ことのほか恐ろしかった。過道口に宿泊。
7月27日。今日は風が強く、夕方になっても止まない。岸に上って散歩し、夾の口のあたりまで行く。大江の中に怒涛が荒れ狂うのを見た。一艘の舟が大浪に翻弄され、二度、三度と夾に入ろうとするが入ることが出来ず、殆ど転覆しそうであった。声をかぎりに叫んで救いを求めたが、ずいぶん時が経って、やっと夾に入ることが出来た。北の方を望むと、真正面にユ山が見えた。
7月28日。舟が岸壁の下に着くと、昼間なのに急にあたりが暗くなり、風が横なぐりに吹きつけた。船頭は大そう恐れて色を失い。大慌てに帆を降ろして、小さな入り江に逃げ込もうとした。不意に大魚が現れた。真緑で腹の下が丹のように赤い色をしている。舵の傍を三尺ばかりも高く躍り上がるので、人々はみな不吉な予感を抱いたが、果たして、夕方に帆柱が折れて帆が破れて、ほとんど、修理不可能の状態になつてしまった。夜に入って風が益々強くなり纜を十本増やした。
権謀術数が渦巻き、政争にあけくれる官界を逃れて郷里に帰った陸放翁にとって、美しい山河に抱かれた江南の農村こそ、心の休まる場所であった。
遊山西村     山西村に遊ぶ
莫笑農家臘酒渾。  笑う莫れ 農家 臘酒の渾れるを  
豊年留客足鶏豚。  豊年 客を留むるに 鶏豚足る
山重水復疑無路。  山重 水復 路無きかと疑う
柳暗花明又一村。  柳暗 花明 又た一村
簫鼓追随春社近。  簫鼓 追随して 春社近く
衣冠簡朴古風存。  衣冠 簡朴にして 古風存す
従今若許閑乗月。  今従り若し閑かに月に乗ずるを許さば
挂杖無時夜叩門。  杖を挂き 時と無く 夜に門を叩かん
唐婉と再会して別れた40年の後、陸游はまた沈氏の園を再度訪れる。曽って作った「釵頭鳳」の詞を彫り付けた石を見い出す。それから歳月は経ち、7年の後、陸游75歳、今一度沈園を訪れる。
その時の二首の一。陸游86歳の生涯を影のようについて離れることのなかった永遠の女性。薄倖な女性への心の痛み。自からの罪の意識。
          二首の一
城上斜陽画角哀。  城壁の上に夕日は傾き、吹き鳴らす角笛の音が悲しい。
沈園非復旧池台。  沈氏の園はもう昔の池や楼閣にかえることはない。
傷心橋下春波緑。  心を傷ましめる橋の下で春の水が緑の波をゆらめかせる
曽是驚鴻照影来。  ああ、それは驚く白鳥の影をうつしたこともあったのだ。
人生の暮年に到った時、思い出の園を訪ね、思い出の人を偲ぶこの二首は、かって激しい思慕の情も長い歳月に浄化され、それだけに心の奥底に沈潜した美しいイメージとして、しみじみと詠じられている。小品ながら、かりそめの時をともに過ごした亡き人を想う真摯な情愛がうたいだされている佳作である。 陸遊と唐氏の悲恋物語は南宋末の周密の「斉東野語」巻一。に詳しい。
祖国恢復の情熱を最後まで燃やし続けた陸遊は、愛国主義者として知られると同時に、律詩を中心とする、はば広い詩作活動により南宋詩人の第一人者と称えられている。
詩集「剣南詩稿」85巻には九千余首が集録されている。1209年歳暮故郷にて死去。85歳。
 
高啓

(1336-1374) 字は季迪。長洲(江蘇省)の人。号を高青邱と言う。青邱の祖先は渤海に起ったと言はれていから北方人の血を受けていたことになる。高啓は次男であった。兄は咨と言い准右に軍務に服していたので高啓が兄に代わって家政をみていた。
裕福であった高家もこのころから家産も傾き始め高啓18歳頃には零落してしまった。青邱が18歳の時、周仲達の娘(初恋の女性)を娶ったが結婚六礼の式を挙げる費用すら調達できないほど困窮していた。妻の父の援助を得て式を挙げた。
青邱は幼時より英才明敏の天才児でありながら日夜刻苦勉励し一日に詩五首を課し一日も怠ることがなかったと言う。年僅十六歳で北郭十才子の一人と称され呉中に広く傳わった。風貌は痩せていて長身。大人びた態度で当時一流の老詩人の中にいても一段の光彩を放っていたと傳える
弱冠時代の交友を追憶して作った詩。
春日十友を懐う  (僧道衍)
楞伽曽往問。  楞伽 かって往いて問う
縁澗冒嵐深。  澗に縁って嵐の深きを冒す
残雪寒山暮。  残雪 寒山の暮れ
幽扉閉竹林。  幽扉 竹林を閉ざす
欲寄棲禅跡。  棲禅の跡を寄せんと欲するも 
尚違捐俗心。  尚を捐俗の心に違う
別後空遥念。  別後 空しく遥に念う
迢迢双樹陰。  迢迢たる双樹の陰
高啓が二十一歳の時、明の太祖は軍を率いて金陵(南京)を攻略して都を此に移し応天府と称した。時に臨安に張士誠を使わし攻めさせて、これを占領した。張士誠は鏡介という者を淮南行政参政に任じた。鏡介は高啓が非凡の才人であることを知り、詩を以て張士誠の上客として待遇し再三官仕を勧めたが青邱は応じなかった。
権威に屈せず乱を避けて呉淞江上の青邱に隠れ、妻の実家に寄寓し身の安全を計った。そして自ら青邱子と号した。時に年二十三歳であった。胸中満腔の熱血を抱き貧に堪え権勢に反抗し官途に膝を屈することをしなかった。この意気をして明一世の詩界に於いて鬼才たらしめた原因であった。
逢呉秀才復送帰江上。
江上停舟問客縦。  江上 舟をとどめ客縦を問う
乱前相別乱余逢。  乱前 相別れ乱余に逢う
暫時握手還分手。  暫時 手を握り還た手を分つ
暮雨南陵水寺鐘。  暮雨の南陵 水寺の鐘
高啓の七言詩の中では圧巻の名作と言われ広く知られている。張士誠が自から王と称して明王に謀反したので呉越一帯は戦乱の巷と化した。青邱は乱を避けながら呉越を流浪すること三年。一時家郷に帰り青邱より居を遷して江浜に寓居。至正二十六年に乱は治まり世の中が平和となったので再び故郷の江東青邱に還った。
青邱は十八になっていた時まだ結婚していなかった。妻の父(周建仲)が「蘆雁の図」を取り出して、それに配する詩を書くように命じた。青邱は絶句一詩を書いた。
西風吹折荻花枝。  西風 吹折す荻花の枝
好鳥飛来羽翩垂。  好鳥 飛来し羽翩 垂らす
沙闊水寒魚不見。  沙闊く水は寒し 魚 見えず
満身風露立多時。  満身 風露 立つこと多時
岳父は「妻がほしいと言うことだな」と言って、吉日を選んで娘をめあわせた。「蓬軒雑記」
戦乱を避けての前後十年の間、青邱は詩を作り七百三十二篇の詩。「缶鳴集」として出版これが青邱の始めての詩集であった。翌年、明の洪武元年、明太祖即位し、乱離二十年、兵災に苦しんだ人民は極度に疲弊し、人心は乱れ、道義は廃頽し末世の世態となった。
そこで明の太祖は大いに文教を興さんとし、開国の例にならって前朝の元史を修めることした。洪武二年青邱は文学の士として召されて金陵に赴いた。元史修纂の大業に参与する。曽て孤高を持して仕官に応じなかった彼が何故に進んで元史の編纂に参加とは。
祖先は北方の人であり、祖先は元の重臣で皇帝と共に渡南した家系であった、元の歴史については一家見を有していた。元史修史の大業を支配する責任者は宋濂であった。青邱は直ちに文案を草して奉典殿に上奏した、帝は嘉として白金文綺の下賜があった。
明の太祖は性極めて猜疑心の強い人で、曽ての功臣は相次いで刑され、終りを全うする者が無いありさまであったので、青邱は保身の必要から退隠を欲していた。帝やむなく白銀を賜り帰郷を許すに至った。この時から帝は青邱を怨むようになったと言われる。
宮女図
女奴扶酔踏蒼苔。  女奴 酔を扶けて蒼苔を踏む
名月西園侍宴廻。  明月 西園 宴に侍してめぐる
小犬隔花空吠影。  小犬 花を隔てて空しく影に吠え
夜深宮禁有誰来。  夜は深く宮禁に誰か来たるあり
画犬
獨児初長尾茸茸。  獨児 初めて長じて尾茸茸
行響金鈴細草中。  行く行く金鈴を響かす細草のうち
莫向瑤階吠人影。  瑤階に向って人影に吠える莫れ
羊車半夜出深宮。  羊車 半夜深宮を出ず
宮女図と画犬の二つの詩は詩の内容が類似して宮中のことを比喩した詩である。明の太祖は色を好み乱行が多かった。宮中の麗人9000人その御白紛代が金40萬金であったと傳える。これを青邱は諷刺したものであろうと言う。宮中官女の生活を叙述したにすぎない小詩であるが、ただ下二句は太祖を諷したものであると、奸人が皇帝に内奏して誹った。
洪武五年十月に礼部主事{魏觀}と言う人が蘇州府の知事となって来た。
曽て青邱が元史編纂の時、南京で親しく交わった親友の一人であった。新知事の最も大きな任務は旧城の再建であった。青邱は蘇州の考古に明るい。専ら魏觀の力になった。
猜疑心の強い太祖は間者を密かに蘇州に派して魏觀と青邱の行動を内偵させる。この使者は帝に讒言をしたので、皇帝は知事魏觀を召還させる。
或る夜、青邱は夢に亡父に会った。亡父は青邱の掌に「魏」の一字を書いてこの者と今後相見ることならん、と告げた。そこで青邱は身の危険を感じて蘇州城内を脱出して行方をくらましてしまつた。暫らく江辺に隠れていたが罪を許して仕官させる。との虚傳にかかって先父の誡めを破り蘇州城に帰ったところを捕縛されてしまった。
青邱は蘇州城外寒山寺の傍にある楓橋から舟に乗って北向する時、既に死っを覚悟して吟じた一詩は広く世間に流布したと言う。
楓橋北望草斑斑。  楓橋 北望すれば草斑斑たり
十去行人九不還。  十去の行人 九還らず
自知清徹原無愧。  自ら知る清徹 もとより愧る無し
蓋倩長江鑑此心。  むしろ長江を倩うて この心を鑑みるべし
翌年ついに腰斬の刑を受けた。三十九歳。高青邱の詩二千首、磊落豪宕な詩風はその性格によるものであり、南国的な婉美な詩情と慷慨に満ちている。明治時代の漢詩人に最も愛読されたのが高青邱の詩集と傳える。
 
邵長蘅

邵长蘅(1637-1704),字子湘,号青门山人,江苏武进人。
生于明思宗崇祯十年
(1637),读书一目数行,十岁补诸生,康熙中曾应博学鸿词科。江苏巡抚宋荦聘致幕中。善写文章,为王士メA汪琬所称道,主张为文必多读书。卒于清圣祖康熙四十三年(1704)。著有《青门集》、《八大山人传》。
 
鄭板橋

(1693-1765) 揚州八怪の(金農・羅聘・鄭燮・李方膺・汪士愼・高翔・黄愼・李宗)の一人。みな、畸行の士として知られ、画を好み、揚州に流寓したので揚州八怪と称される。鄭板橋は中国近代画壇に最も影響を与えた人で、画家でもあり文人である。特に好んで「四君子」 ”梅・蘭・竹・菊”を題材したが鄭板橋の 「蘭」は特に有名。詩は(金農)金冬心と双璧を為す。
鄭板橋は世間あらゆる辛酸を嘗め尽くしてきた。その結果、しっとりとした情操を涵養することが出来た板橋が山東省の縣知事の時、巡撫を含めて竹を画いた一幅の上に書いた詩。
衞齋臥聴蕭蕭竹。  衞齋 臥して聴く蕭蕭の竹
疑是民間疾苦声。  疑うは是れ 民間 疾苦の声かと
些小吾曹州県吏。  些小 吾が曹州県吏
一枝一葉總関情。  一枝一葉 總て情に関ず
板橋の芸術と彼の生活は深い生命内に基ずいている。板橋のように毎日酒盃を傾けて官職を意とせず、落胆しても逸居の気風は少しもなかった。乳母と言う可憐な追憶の詩。
乳母詩
平生所負恩。  平生 負う所の恩
不獨一乳母。  獨り一乳母のみならず
長恨冨貴遅。  長恨す冨貴遅きを
遂令慚愧久。  遂に慚愧をして久しからしむ
黄泉路迂闊。  黄泉 路迂 闊し
白髪人老醜。  白髪 人老て醜し
食禄千万鍾。  食禄 千万鍾る
不如餅在手。  如かず餅の手に在るに
鄭板橋は四歳の時に母を亡くして、以来、祖母と乳母(費氏)に育てられた。その頃、家は貧困を極め乳母は他所へ働きに出て、彼の家の仕事を助けてくれた。朝起きると、乳母は彼を背にオンブして、街へ出かけ、一銭出して煎餅を彼に食べさせ、それから彼女の家族に分けた。
何か美味い物があると、必ず先ず板橋に食べさせて、それから彼女の家族に分けた。そのうちに貧乏がひどくなり、彼女の夫は何処かへ移る相談をした。彼女は何も言はず、泣きながら毎日毎日、彼と祖母の古着を洗濯したり縫い張り、水瓶に水汲み、釜戸に薪を積み、四五日してとうとう居なくなった。
三年後に乳母は帰って来た。そして彼の祖母を世話しながら、以前にもまして彼を愛した。板橋が進士になったとき彼女は 「坊ちゃまは出世なさるし、子供は官吏になるし、もうこれ以上のことはありません。と喜んだ。」 それから三十四年務めて七十六歳で亡くなった。その間に彼女の子供が官吏になって迎えに来たが彼女は彼と祖母のところから離れず、子供の処へは帰らなかった。
七歌之一首
鄭生三十無一営。  鄭生 三十にして 一営なし
学書学剣皆不成。  書を学び剣を学んで 皆成らず
市楼飲酒拉年少。  市楼 酒を飲んで 年少を拉し
終日撃鼓吹竿笙。  終日 鼓を撃ち 竿笙を吹く
今年父没遺書売。  今年 父没して 遺書を売り
剰巻残編看不快。  剰巻 残編 看て快からず 
竈下荒涼告絶薪。  竈下 荒涼 薪 絶えたるを告ぐ 竈(かまど)
門前剥啄来催債。  門前 剥啄 来たりて債を催まる
鳴呼一歌兮歌逼側。 鳴呼 一歌 兮して歌逼側す 逼側(せまる)
皇遽読書読不得。  皇遽(あわただしく)書を読めども 読むことを得ず
板橋が無方上人のために竹を画いて贈った詩。板橋の心境と芸術の真髄を見る思いがする。
為無方上人写竹
春雷一夜打新篁。  春雷 一夜 新篁を打つ
解筍抽梢満尺長。  筍を解き 梢を抽いて 満尺長し
最愛白方窓紙破。  最も愛す 白(あきらかに) 窓紙の破に方って
乱穿青影照禅床。  乱穿 青影 禅床を照らすを
彼は最も”蘭”を愛し、画き又詩を書く。侶松上人に荊棘蘭花を画いた詩。
為侶松上人画荊棘蘭花
不容荊棘不成蘭。  荊棘を容れずんば 蘭を成さず
外道天魔冷眼看。  外道 天魔 冷眼に看る
門径有芳還有穢。  門径 芳あり 還た穢(けがれ)有り
始知佛法浩漫漫。  始めて知る佛法 浩漫漫たるを
鄭板橋の心境を窺がい知ることができる。板橋は”石”についても独特の妙詣をもっていた。米元章が石を論じて、痩といい、皺といい、漏といい、透と言ったのは板橋は妙を尽くしいると言う。
鄭板橋の詩は白香山。陸放翁に傲う。
「偶然作」の七古、開頭四句
英雄何必読書史。  英雄 何ぞ必らずしも 書史を読まん
直陳血性為文章。  直に血性を陳べて 文章と為す
不仙不佛不賢聖。  仙ならず 佛ならず 賢聖ならず
筆墨之外有主張。  筆墨の外に 主張あり
1765年12月12日卒。享年七十三。興化県城東管阮荘に葬る。
 
黄景仁

(1749-1783) 字を仲則・号を鹿菲子。乾隆14年常州府の武進県に生まれた。先祖は宋代の大詩人黄山谷、彼の祖父も父も武進県の教育者であるが、進士の試験資格は取れなかった。黄景仁は4歳で父を亡くし、祖父母に育てられた。学才はあったが、苦しい受験生活に一生を費やし、郷試に合格せず、会試を受けて進士となることなく終った。
彼が十八歳の時、県試を受けに行った宿屋で同郷の「洪北江」に出会ったことが詩人として彼を運命づけた。その宿屋で洪北江が母から貰った漢魏楽府を持っていて、楽府体の詩を真似て作って見せた。黄仲則はそれを見て僕にも教えてくれと一諸に作りあって一ケ月余りで洪北江よりも上手になった。詩にとりつかれた黄仲則は楽府体の古詩から近体の絶句律詩へと創作意欲を駆り立てられた(1766年)冬、十八歳の時、揚州に遊学時に作った。
少年行
男児作健向沙場   男児 健と作し 沙場に向かう
自愛登台不望郷   自ら登台を愛し 郷を望まず
太白高高天尺五   太白 高高 天尺五
宝刀明月共輝光   宝刀 明月 共に輝光す
洪北江は「黄仲則は背が高く、すんなりして、読書撃剣を好み、古の侠士の風格があり、名山大川を歴訪して、古跡に詠懐し風月に留連し、名士を訪ね詩をたたかわすのが好きだった」と書いている。安徽省城で三月三日の節供に采石磯の太白楼で一大詩會が催された。
最年少の彼が白い袷を着て庭に出て、たちどころに数百首の詩を作って諸客に見せたら、諸客はみな筆をすててたじろいだ。太白楼下には数百人が見物に来ていたが、彼の詩を写すために紙屋に走ったので紙の値段が騰貴したと言う。この詩は当時の大書家梁山舟が筆の詩碑が出来た。
清朝の乾隆時代の詩人「洪稚存」(1746-1089)の北江詩話に「詩には必ず珠光と剣気とが有り始めてその永遠性があるのを信じる。呉蘭雪の詩は珠光が七分、剣気が三分ある。黄仲則も又そうだ。私の詩は剣気が七分で珠光が三分だ。張船山も私と同じだ」と言っている。
剣気と言うのは気魄の強い詩。万里の長城あたりがもつ男性的な気を感じさせる詩とするなら珠光は浪漫的は詩情をたたえたもので、女性的なもの唯美的なものをねらった詩のことである。
他郷に衣食を求めて生活する作者が帰省し、九月九日の重陽の節供に老母に侍した作。四歳で父を失った仲則には武進の家に老母と妻子がいる。残しては旅に出て保護者のもとで秘書や教師をしながら、国家試験の勉強もせねばならない。老母に別れる詩。
別老母 (乾隆三十六年)
搴幃拝母河梁去   幃をあげ 母を拝して 河梁に去らんととき
白髪愁看涙眼枯   白髪 愁い看て 涙眼 枯れたり
惨惨柴門風雪夜   惨惨たり柴門 風雪の夜
此時有子不如無   この時 子あるは無きにだも如かず
二十六歳の時、洪北江と常熟に旅した時、暮れ方虞山に登り、恩師邵先生の墓を弔うたとき洪北江に「私は長生き出来ないから遺稿を君に頼む」と言ってきかない、北江がそんな事は無いから心配するなと言うと、墓前で香を焚いて、約束するまで帰らないと言い張って約束させている。
二十九歳の時、彼は北京で生活をしていたが、老母と妻子は故郷武進にいて洪北江が保護していた。彼は洪北江に手紙を出して、都は生活できないと言うのは誤りだ、どうか、私の母や妻子を北京に連れて来てくれ、故郷の田畑邸宅を質に入れて金を作って費用にしてくれ、と頼でいる。
母妻子を都に迎えた。然しどうしても試験が通らず、洪北江が金を出してくれて、母妻子を故郷に帰した。度重なる落第、都の生活難に彼は疲れきっていて病気になっていた。借金の重なる浪人の身こういう受験生活は要人の保護の下に大抵お寺の一房を借りて住む。
杜甫がそうであった。法源寺に一時彼が下宿したこともある。その時の詩、二首がある。
癸巳除夕偶成二首 (一)
千家笑語漏遅遅   千家の笑語に漏(とけい)も遅遅たるに
憂患潜従物外知   憂患はひそかに物外より知る
悄立市橋人不識   悄として市の橋に立てども人は識らず
一星如月看多時   一星の月の如くなるを看つつ時なるを多し
      々       (二)
年年此夕費吟呻   年年この夕べ吟呻を費す
児女燈前竊笑頻   児女は燈前にて竊に笑うこと頻りなり
汝輩何知吾自悔   汝が輩何ぞ知らん吾れ自ら悔い
枉抛心力作詩人   枉げて心力を抛げうって詩人となるを
除夜は詩人が一年間の作品を祭る慣わしとして作品が多い。
最後の一首は帰る時の気持ちである。友と酒も汲み交わした。菊も見た。古寺の夕靄と別れて帰る。帰って行くのは下宿の書斎。誰も待っていない冷たい部屋が待っている。
偕王秋畦張鶴柴柴訪菊法源寺
身離古寺暮雲中   身は離れる古寺 暮雲の中
帰怯秋齋似水空   帰りて怯る 秋齋 水のごとき空しさを
瞑色上衣揮不得   瞑色 衣に上って揮い得ず
夕陽知在那山紅   夕陽 いずくの山にあって紅なるを知る
黄仲則と比較されている呉蘭雪は黄仲則よりやや遅れて詩壇に出たが、一生黄仲則と比較される運命にあった。黄仲則の良き保護者であった一人、翁方綱が、両人の詩を合刻しようとした時、二十年たったら合刻してほしいと言っている。
乾隆四十八年35歳の三月、病をおして北京を出て西安に旅立つ。北京で官途に就こうと詮衝を待っていたが借金取りに責められ、待ちきれず夜逃げ同然、都を出て病躯太行山脈を越えて雁門を出て山西省を目指したが、途中の解州で病気がひどくなり、四月二十五日、旧知の宿舎で死亡した。
洪仲江が駆けつけて葬儀を営み、故郷に帰葬することが出来た。洪北江は書き残す「仲則は母へ手紙を書いて目をつぶったが、また生き帰って私に手紙を書いた仲則の衣料は医薬の資としてすっかり無くなり、あとには名刺や破れた冠や数本の筆しかなかった。」
 
黄仲則

呉蘭雪と並び評される黄仲則。黄仲則の一生は就く一編の血と涙の長詩の如く、無法の困難と疾病から脱すること無く、冷酷な社会が彼の屈辱と苦痛。追求と失敗と愛情生活の不幸。
清朝の乾隆時代の詩人「洪稚存」(1746-1089)の北江詩話に「詩には必ず珠光と剣気とが有り始めてその永遠性があるのを信じる。呉蘭雪の詩は珠光が七分、剣気が三分ある。黄仲則も又そうだ。私の詩は剣気が七分で珠光が三分だ。張船山も私と同じだ」と言っている。
剣気と言うのは気魄の強い詩。万里の長城あたりがもつ男性的な気を感じさせる詩とするなら珠光は浪漫的は詩情をたたえたもので、女性的なもの唯美的なものをねらった詩のことである。
彼の短い一生の内、2000首の多きの詩歌を残している。詩の創作は黄仲則は正に「性霊説」の有力な支持者。大量の創作実践を展開し自己の独特の個性を現している。
少年時、、漢魏楽府体に、復遍く唐宋緒家を学び、為に王昌齢、李白、高適又楊万里その所詣は青蓮(李白)に近いと言う。詩集に両當軒全集が有る。
■秋夕
桂堂寂寂漏声遅    桂堂 寂寂 声の遅きを漏らす
一種秋懐両地知    一種の秋懐 両地知る
羨汝女牛逢隔歳    汝を羨む女牛 隔歳に逢い
為誰風露立多事    誰が為に風露 多事に立つ
心如蓮子常含苦    心は蓮子の如く常に苦を含む
愁似春蚕未断糸    愁は春蚕に似て未だ糸を断たず
判逐幽蘭共頽化    逐に判る幽蘭の共に頽化するを
此生無分了相思    此の生 分なく 相思を了る
■感旧四首 (1)
大道青楼望不遮    大道の青楼 望み遮えぎらず
年時繋馬酔流霞    年時 馬を繋ぎ 流霞に酔う
風前帯是同心結    風前 是れ同心の結びを帯び
杯底人如解語花    杯底 人は解語の花の如く
下杜城辺南北路    杜を下る城辺 南北の路
上闌門外去来車    闌に上る門外 去来の車
匆匆覚得揚州夢    匆匆 覚え得たる揚州の夢
検点閉愁在鬢華    検点 愁を閉ざし 鬢華に在り
■感旧四首 (2)
喚起窗前尚宿酲    窗前に喚び起す 尚を宿酲
啼鵑催去又声声    啼鵑 去るを催し 又声声
丹青旧誓相如札    丹青 旧誓 相如の札
禅榻経時杜牧情    禅榻 経時 杜牧の情
別後相思空一水    別後 相思する空しく一水
重来回首已三生    重来 回首すれば已に三生
雲階月地依然在    雲階 月地 依然として在り
細逐空香百遍行    細かに空香を逐い百遍に行く
■雨後湖泛
風起水参差       風起きて 水 参差たり
舟軽去転遅       舟軽 去ること転じて遅し
一湖新雨後       一湖 新雨の後
萬樹欲烟時       萬樹 烟を欲する時
有客倚蘭楫       客有りて蘭楫に倚る
何人唱竹枝       何に人ぞ竹枝を唱るは
蓮娃帰去尽       蓮娃 帰り去り尽くす
極浦剰相思       極浦 相思を剰す
■雑感
先佛茫茫両未成    先佛 茫茫 両つながら未だ成らず
惟知獨夜不平鳴    惟だ獨夜 不平の鳴を知る
風蓬飄尽悲歌気    風蓬 飄尽す悲歌の気
泥絮沾来薄倖名    泥絮 沾来る薄倖の名
十有九人堪白眼    十に九人有り 白眼に堪える
百無一用是書生    百に一用無く 是れ書生
莫因詩巻愁成識    詩巻に因って識を成すを愁いる莫れ
■春夜聞鐘
近郭無僧寺       近郭 無僧の寺
鐘声何処風       鐘声 何処の風
短長郷夢外       短長 郷夢の外
断続雨糸中       断続す雨糸の中
芳草遠逾遠       芳草 遠く逾々遠く
小楼空更空       小楼 空にして更に空し
不堪沈聴寂       沈たる聴寂に堪えず
天半又帰鴻       天半 又帰鴻
■酔醒
夢裏微聞軒蔔香    夢裏 微に聞く軒蔔の香
覚時一枕緑雲涼    覚る時 一枕 緑雲の涼
夜来忘却掩扉臥    夜来 忘却す扉を掩うて臥するを
落月二峰陰上牀    落月 二峰 牀に上って陰する
■月下雑感
名月幾時有     名月 幾時有る
人間何事無     人間 何事も無し
傾城顧形影     傾城 形影を顧みる
壮士撫頭顛     壮士 頭顛を撫す
方寸誰堪比     方寸 誰が比れに堪える
深宵我共孤     深宵 我は孤を共に
感君行楽処     君を感じる行楽の処
分照及蓬廬     分ち照らして蓬廬に及ぶ
■春日楼望
一碧招魂水漲津     一碧の招魂 水は津に漲る
遠山濃抹霧如塵     遠山 濃に抹し 霧は塵の如し
忽風忽雨春愁客     忽ち風 忽ち雨 春愁の客
乍暖乍寒天病人     乍ち暖 乍ち寒 天 人を病さす
芳草遠黏孤騎没     芳草 遠く孤騎に黏て没す
緑楊低罩幾家貧     緑楊 低く幾家を罩めて貧なり
天涯飛絮帰何処     天涯の飛絮 何処に帰る
不到登楼也愴神     楼に登り到らず也た愴神
■武昌雑詠 (2)
魯口帆檣取次開     魯口の帆檣 取次に開く
扁舟常繋?磯隈      扁舟 常に繋ぐ?磯の隈
三春無樹非垂柳     三春 樹 無く 垂柳に非ず
五月不風猶落梅     五月 風なず 猶を落梅
楼城休誇崔頴句     楼城 休み誇る崔頴の句
天涯誰識禰衡才     天涯 誰が識る禰衡の才
可憐夙負黄童誉     憐む可し夙に負す黄童の誉
漂泊翻成異地哀     漂泊 翻って異地の哀みと成す
■霊澤婦人祠
空江落日點祠門      空江の落日 祠門を點ず
髣髴雲裳涕涙痕      髣髴たり雲裳 涕涙の痕
一慟無由恩已絶      一慟 由し無し 恩 已に絶え
両家多故事難言      両家 故に多く 事 言い難く
千秋杜宇休啼血      千秋 杜宇 休めよ啼血るを
萬里蒼梧合断魂      萬里 蒼梧 合に断魂すべし
終古湘霊有祠廟      終古 湘霊 祠廟あり
流伝真偽更誰論      流伝す真偽 更に誰が論ぜしを
■烏江頃王廟 美人駿馬甫沾襟      美人 駿馬 甫って襟を沾す
遽使江東阻壮心      江東に遽使 阻壮心を阻む
子弟重来無一騎      子弟 重ね来って一騎 無し
頭顱将去値千金      頭顱 将に去りて千金に値すべし
誰言劉季真君敵      誰が言う 劉季 真の君が敵
畢竟諸候負汝深      畢竟 諸候 汝に負いて深く
莫向寒潮作悲怒      寒潮に向かって悲怒を作す莫れ
歌風台址久消沈      歌風 台址 久しく消沈す
■舟中望金陵
片帆昨日下呉頭      片帆 昨日 呉頭を下る
破浪来看建業秋      破浪 来り看る 建業の秋
九派江声猶入夢      九派の江声 猶を夢に入る
楼台未尽埋金気      楼台 未だ金気に埋もれ尽さず
風景難消撃楫愁      風景 消すに楫愁を撃ち難く
回首燕磯随柁尾      燕磯を回首し 柁尾に随う
寄声風利不能休      声を風利い寄せ 能く休まず
■新涼曲
聞道辺城苦     聞くならく辺城の苦なるを
霏霏八月霜     霏霏たる八月の霜
憐君鉄衣冷     憐れむ君が鉄衣の冷やかなりしを
不敢愛新涼     敢えて新涼を愛せず
■問渡
道遭漁夫来    道で漁夫の来るに遭う
指点停舟処    指点す停舟の処
只在小橋辺    只だ小橋の辺に在り
風吹著渓樹    風吹き 渓樹を著ける
■途中遭病頗劇愴然作詩 二首之一
揺曳身随百丈牽      揺曳し身に随い百丈牽く
短繋孤照病無眠      短繋 孤照 病い眠り無く
去家已過三千里      家を去り已に過ぎる三千里
堕地今将二十年      地に堕て今 将に二十年なるべきに
事有難言天似海      事 言い難く天は海に似たる有り
魂応尽化月如烟      魂 応に化し尽きて月 烟の如なるべきに
調度量水人誰在      度を調り 水を量る人誰か在る
況値傾嚢無一銭      況んや嚢を傾け一銭も無きに値する
■途中遭病頗劇愴然作詩 二首之二
今日方知慈母憂      今日 方に知る慈母の憂い
天涯涕涙自交流      天涯 涕涙し 自ら流を交える
忽然破涕還成笑      忽然 破涕し還た笑を成す
豈有生才似此休      豈に有んや生才 此に休むに似たるに
悟到往来惟一気      悟り到る往来 惟だ一気
不妨胡越與同舟      胡越と同舟とを防げず
撫胸何事堪長歎      胸を撫し何事ぞ長歎に堪える
曾否名山十載遊      曾つて否しや名山の十載の遊
■湘江夜泊
三十六湾水     三十六湾水
行人喚奈何     行人 喚んで奈何ぞ
楚天和夢遠     楚天 夢に和して遠く
湘月照愁多     湘月 愁を照らすこと多く
霜意侵芳若     霜意 芳若を侵す
風声到女蘿     風声 女蘿に到る
烟中有漁夫     烟中 漁夫あり
隠隠扣舷歌     隠隠 舷を扣て歌う
■耒陽杜子美墓
得飽死何憾     飽を得て 死して何の憾
孤墳尚水辺     孤墳 尚を水辺
埋才当乱世     才に埋もれ 乱世に当る
併力作詩人     力に併せ 詩人と作る
遺骨風塵外     遺骨 風塵の外
空江杜若春     空江 杜若の春
由来騒怨地     由来 騒怨の地
只合伴霊均     只だ合に霊均に伴うべし
■春夜雑詠
背手巡空垣     手を背に空垣を巡る
皓魂忽堆素     皓魂 忽ち素に堆かし
合睫暉余凝     睫を合し暉 余凝らす
低頭影相歩     頭を低くし影 相歩む
驚禽時一翻     驚禽 時に一翻
簷花落無数     簷花 落て無数
微微辧遊糸     微微 遊糸に辧ずる
裊裊入深樹     裊裊 深樹に入る
■聞子規
声声血涙訴沈冤      声声 血涙 沈冤を訴える
啼起巴陵暮雨昏      啼起す巴陵 暮雨 昏し
只解千山喚行客      只だ千山の行客に喚ぶを解す
誰知身是未帰魂      誰が知る身は是れ未だ帰魂をならずを
■湖上阻風雑詩
平湖八月浩無津      平湖 八月 浩として津なく
名月蘆花思煞人      名月 蘆花 煞人を思う
縦使洞庭斎化酒      縦とい洞庭をして斎しく酒に化せ使むるも
只宜秋酔不宜春      只だ秋酔に宜し 春に宜しからず
■武昌雑詠  (1)
上遊形勢百夷分      上遊 形勢 百夷分つ
黯惨夷天易夕曛      黯惨 夷天 易夕曛なり易し
西上荊門江一綫      西上の荊門 江一綫
南来衡嶺雁千群      南来の衡嶺 雁千群
郘中有客皆詞賦      郘中 客あり皆な詞賦
楚国何峰不両雲      楚国 何れの峰 両雲ならず
誰信曲高真和寡      誰が信じる曲高く真和の寡
至今延露総難聞      至今 延露 総て聞き難し
■金陵雑感
平淮初漲水如油      平淮 初めて漲ぎり 水 油の如く
鐘阜嵯峨倚上遊      鐘阜 嵯峨たり 上遊に倚る
花月即今尚似夢      花月 今に即り 尚を夢に似たり
江山従古不宜秋      江山 古え従り 秋に宜ろしらず
烏啼旧内頭全白      烏啼き旧内 頭 全て白ろく
客到新亭涙已流      客到り新亭 涙 已に流れる
那更平生感華屋      那を更らに平生 華屋を感じる
一時長慟過西州      一時 長慟し過西州を過ぎる
■稚存帰索家書
只有平安字     只だ有り 平安の字
因君一語伝     君に因って一語 伝える
馬頭無歴日     馬頭 日を歴する無く
好記雁来天     好し記さん雁来の天
■金陵別倦蜥遊
三千余里五年遥      三千余里 五年 遥かなり
両地同為断梗飄      両地 同じ 梗飄を断ずると為す
縦有逢迎皆気尽      縦え逢迎し皆 気尽す有るも
不当離別亦魂消      離別 亦た魂の消ずるに当たらず
経過燕市成呉市      経過す燕市 呉市と成る
相送皐橋又板橋      相送る皐橋 又 板橋
愁絶駄鈴催去急      愁絶す駄鈴 急に去ることを催す
白門烟柳晩蕭蕭      白門の烟柳 晩に蕭蕭たり
■以所携剣贈容甫
匣中魚鱗淬秋水      匣中の魚鱗 秋水を淬す
十年仗之走江海      十年 之を仗して 江海を走る
塵封錆渋未摩娑      塵封 錆渋 未だ摩娑たらず
一道練光飛不起      一たび道う練光 飛んで起さず
相逢市上同悲吟      相逢う市上 同じく悲吟す
今将払衣帰故林      今将さに衣を払い故林に帰るべし
知君憐我重肝胆      知る君が我を憐れみ肝胆を重ねるを
贈此一片荊軻心      此に贈る一片 荊軻の心
■七夕懐容甫遊采石
疎梧??漏遅遅      疎梧 ?? 漏れて遅遅たり
人去庭空獨立時      人 庭空に去り 獨り立つ時
羨汝萬峰高処望      羨む汝が萬峰 高処に望み
半輪涼月下蛾眉      半輪の涼月 蛾眉に下るを
■贈萬黍維即送帰陽羨  (二首之一)
語我家山味可誇      我に語る家山の味 誇る可きと
燕来新筍雨前茶      燕来 新筍 雨前の茶
辨香歳展方回墓      辨香 歳展する方回の墓
画舫春尋小杜家      画舫 春尋する小杜の家
北郭買田?志願      北郭 田を買い志願を?のる
南山射虎旧生涯      南山 虎を射つ旧生涯
他時風雪如相訪      他時 風雪 相い訪うが如く
陽羨渓光似若耶      陽羨渓光 若耶に似たる
・・・・・
■春日客感
只有郷心落雁前      只だ有り郷心 落雁の前
更無佳興慰華年      更に無し佳興 華年を慰むるは
人間別是消魂事      人間 別に是れ消魂の事
客里春非望遠天      客里 春は遠天を望むに非らず
久病花辰常聴雨      久きしく花辰に病み 常に雨を聴く
獨行草路自生煙      獨り草路を行き 自ら煙を生ずる
耳辺隠隠清江漲      耳辺 隠隠 清江 漲る
多少帰人下水船      多少の帰人 水を下る船
■池陽杜牧祠
登徒好色馬卿消      登徒の好色 馬卿消
黄絹清歌響未遥      黄絹 清歌 響いて未だ遥かならず
我読先生《燕将録》     我は先生の《燕将録》を読む
鬢糸禅榻太無聊      鬢糸 禅榻 太はだ無聊
・・・・・・
■別老母
搴幃拝母河梁去      幃を搴げ母に拝して河梁を去る
白髪愁看涙眼枯      白髪 愁い看れば 涙眼 枯れる
惨惨柴門風雪夜      惨惨たる柴門 風雪の夜
此時有子不如無      此の時 子ありて 無きが如し
■夜坐懐維衍桐巣
剣白燈青夕館幽      剣白く燈青し夕館幽なり
深杯細倒月孤流      深杯 倒に細く月孤流る
看花如霧非関夜      花の霧なるが如を看て夜に関するに非ず
聴樹当風只欲秋      樹に風に当たるを聴き只だ秋ならんと欲っす
呉下酒徒猶罵座      呉下の酒徒 猶を座を罵す
秦川公子尚登楼      秦川の公子 尚を楼に登る
天涯幾輩同漂泊      天涯 幾輩 漂泊を同じくす
起看晨星暗未収      起きて晨星を看る暗く未だ収まざるを
■喜新涼
経旬苦焦暑      経旬 暑を焦るに苦しむ
一雨快披襟      一雨 快よく披襟する
萬緑烟生樹      萬緑 烟 樹に生ず
初絃月照琴      初絃 月 琴を照らす
當風人意定      風に當り 人意 定まる
移簟竹香深      簟を移し 竹香 深かし
即此新涼時      即ち此の新涼の時
因知造物心      造物の心を知るに因る
■写懐
望古心長入世疎      古を望み心長 世疎に入る
魯戈難返歳云徂      魯戈 返し難く 歳云に徂く
好名尚有無窮世      好名 尚を有り 世に窮まり無く
力学真愁不尽書      力学 真に愁い 書をj尽さず
華思半経消月露      華思 半ば経て 月露を消じ
綺懐微懶註蟲魚      綺懐 微に懶うし 蟲魚を註す
如何辛苦為詩後      如何ぞ辛苦 詩と為す後
転?前人総不如      転? 前人 総て如かず
・・・・・
■夜起
憂本難忘忿?捐      憂う本 忘れ難し忿? 捐す
宝刀間拍未成眠      宝刀 間に拍し未だ眠をなさず
君平與世原交棄      君平と世と 原と交も棄てる
叔夜干仙已絶縁      叔夜 干仙 已に絶縁
入夢敢忘舟在壑      夢に入り敢えて舟壑に在るを忘れ
浮名拌換酒如泉      浮名 拌換 酒 泉の如し
祖朗自愛中宵舞      祖朗 自ら愛す中宵の舞
不為聞?要著鞭      ?を聞き為さず要して鞭を著ける
・・・・・
■寄?耘荘
蹤跡吟場半戴同      蹤跡の吟場 半戴の同じ
水西楼下別忽忽      水西 楼下 別に忽忽
清狂好占渓頭月      清狂 好し占う 渓頭の月
寥落応憐三惨鴻      寥背 応に憐れむ憐三惨
画痕剣恨澤頭月      画痕 剣恨む澤頭の月
劇歯青余三径草      劇歯 青余 三径の草
涙珠紅入半江楓      涙珠 紅入る半ば江楓
酒痕険点春衫在      酒痕 険点 春衫在り
聚散渾疑一酔中      聚散 渾て疑う一酔の中
■秋夜
絡緯啼歇疏梧烟      絡緯 啼き歇みる 疏梧の烟
露華一白涼無辺      露華 一白 涼無辺
繊雲日蕩月沈海      繊雲 日蕩 月 海に沈む
列宿乱揺風満天      列宿 乱揺 風 天に満つ
誰人一声歌子夜      誰が人か一声 子夜を歌う
尋声宛転空台?      声を尋ね 宛も転じ 台?空し
声長声短鶏続鳴      声長く声く 短鶏続鳴
曙色冷光相激射      曙色 冷光 相い激しく射る
■雑感 (四首之一)
似綺年華指一弾      綺に似たる 年華 一弾を指す
世途惟覚酔郷寛      世途 惟だ覚うる 酔郷の寛しを
三生難化心成石      三生 化して難たし 心 石と成り
九死空嘗膽作丸      九死 空しく嘗める 膽 丸と作るを
出郭病躯愁直視      郭を出て病躯 愁いて直視
登高短髪愧傍観      高きに登り短髪 愧じて傍観
升沈不用君平卜      升沈 用いず 君平の卜
已?秋江一釣竿      已に秋江を?じる一釣竿
・・・・・
■道中秋分
萬態深秋去不窮      萬態 深秋 去りて窮わらず
客程常背伯労東      客程 常に背むく 伯労東
残星水冷魚龍夜      残星 水冷やか魚龍の夜
獨雁天高閭闔風      獨雁 天高かく閭闔の風
痩馬羸童行得得      痩馬 羸童 行きて得得
高原古木聴空空      高原 古木 聴いて空空
欲知道路看人意      道路を知らんと欲して人意を看る
五度清霜圧断蓬      五度の清霜 圧断の蓬
・・・・・
■銭塘江舟中看月
越峰青断海門青      越峰 青断 海門青く
之字江流入杳冥      之字の江流 杳冥に入る
月出島烟常帯湿      月出て島烟 常に湿を帯びる
潮回沙気半浮醒      潮回り沙気 半ば浮醒
眼将天水分離合      眼は将に天水 離合を分つべし
身與魚龍判睡醒      身と魚龍と睡醒を判ける
烟外何人尚吹笛      烟外 何人 尚を笛を吹く
夜深愁激子胥霊      夜深 愁激 子胥の霊
■答仇一鴎和韻
連旬買棹聖湖辺       連旬 棹を買う 聖湖の辺
花月従来不計銭       花月 従来 銭を計らず
玉笛楼台連夜雨       玉笛 楼台 連夜の雨
緑楊城郭萬家烟       緑楊 城郭 萬家の烟
逢君陌上鞭双控       君と逢う陌上 鞭双の控
酔我斎頭被共眠       我と酔う斎頭 共に眠られる
逕許携琴日相訪       逕許 琴を携え 日に相い訪う
新詩吟入晩涼天       新詩 吟じ晩涼の天に入る
・・・・・
■冬日克一過訪和贈 (三首之一)
不愧狂名十載聞       狂名を愧じず 十載に聞く
天涯作達儘輸君       天涯の作達 儘とく君に輸る
移栽洛下花千種       洛下に移し栽える花千種
酔倒揚州月二分       揚州に酔い倒れる月二分
翻笑古人都寂寂       翻って笑う古人 都とく寂寂
任他余子自紛粉       さもあらばあれ余子 自ら紛粉
樽前各有飛楊意       樽前 各々有り飛楊の意
促節高歌半入雲       高歌を促がし節すれば半ば雲に入る
・・・・・
■呈袁簡斎太史 (四首之一)
一代才豪仰大賢    一代の才豪 大賢を仰ぐ
天公位置却天然    天公の位置 却つて天然
文章草草皆千古    文章 草草 皆な千古
仕官怱々只十年    仕官 怱々 只だ十年
暫借玉堂留姓氏    暫らく玉堂を借りて 姓氏を留める
便依勾漏作神仙    便ち勾漏に依て神仙と作す
由来名士如名将    由来 名士 名将の如く
誰似汾陽福命全    誰が汾陽に似たり 福命全うす
・・・・・
■春暁
黯黯復沈沈    黯黯 復た沈沈たり
虚堂擁薄衾    虚堂 薄衾を擁す
枕辺尋断夢    枕辺 断夢を尋ねる
門外醸軽陰    門外 軽陰を醸す
謝識孤花意    謝して識る孤花の意
帰知獨雁心    帰り知る獨雁の心
峭寒尚似許    峭寒 尚を許すに似て
不道入春深    春深に入るを道はず
■将之京師雑別
身世渾拌酔似泥    身世 渾拌 酔うて泥に似たる
酒醒無奈聴晨鶏    酒醒めて晨鶏を聴くをいかんとも無し
詞人畏説中年近    詞人 説うを畏れる中年の近きを
壮士愁看落日低    壮士 看るに愁うる落日の低きを
才可升沈何用卜    才可 升沈 何ぞ卜するを用いる
只愁寒食清明候    只だ愁う寒食 清明の候
鬼飢墳頭羨馬医    鬼飢 墳頭 馬医を羨む
・・・・・
■言懐 (二首之一)
聴雨看雲暮復朝    聴雨 看雲 暮復た朝
誰於籠鶴採?標    誰於籠鶴 ?標を採る
不禁多病聡明減    多病を禁じえず 聡明 減ず
?慣長間意気消    ?慣れんや長間 意気 消じる
静里風懐元度月    静里 風懐 元度の月
愁辺心血子胥潮    愁辺 心血 子胥の潮
可知戦場渾難事    知る可し戦場 渾て難事
一任浮生付濁醪    一任す浮生 濁醪に付すを
・・・・・
■晩眺
関河容易入斜薫     関河 容易 斜薫に入る
獨立蒼茫数雁群     獨立 蒼茫 数雁の群
樹裏沙淮流漸合     樹裏の沙淮 流れ漸やく合し
門前梁楚地初分     門前の梁楚 地は初めて分つ
天黏野草疑無路     天黏 野草 路無きかと疑う
風旋驚鴉忽入雲     風旋 驚鴉 忽まち雲に入る
我意先秋感揺落     我が意は先秋 揺落を感じ
澤蒲汀柳漫紛紛     澤蒲 汀柳 漫りに紛紛たり
■綺懐 (十六首之一)
露檻星房各悄然     露檻 星房 各々悄然
江湖秋枕当遊仙     江湖 秋枕 当に遊仙なるべし
有情皓月憐孤影     情有る皓月 孤影を憐れむ
無頼間花照獨眠     頼無く間花 照して獨り眠る
結束鉛華帰少作     鉛華を結束 少作にて帰る
屏除絲竹入中年     絲竹を屏除 入中年に入る
茫茫来日愁如海     茫茫たる来たる日 愁は海の如く
寄語羲和快著鞭     語を羲和に寄せれば快よく鞭を著ける
・・・・・
■二十夜
破窗蕉雨夜還驚     破窗 蕉雨 夜る還りて驚く
紙帳風来自作声     紙帳 風来 自から声を作す
墨到郷書偏暗淡     墨は郷書に到り偏えに暗淡
灯於客思最分明     灯は客思より最も分明
薄醪似水愁無敵     薄醪 水に似て愁い敵無し
短夢生雲絮有情     短夢 雲を生じて絮は情有り
怪?隣娃恋長夜     怪?なり隣娃 長夜を恋う
坐調絃柱到三更     坐して絃柱を調べて三更に到る
■都門秋思 (四首選一)
四年書剣滞燕京     四年 書剣 燕京に滞まる
更値秋来百感并     更に秋来って百感の并に値いする
台上何人延郭傀     台上 何人 郭傀を延る
市中無処訪荊卿     市中 処として荊卿を訪う無し
雲浮万里傷心色     雲浮 万里 傷心の色
風送千秋変微声     風送 千秋 変微の声
我自欲歌歌不得     我れ自ら歌わんと欲す 歌は得ず
好尋雛卒話生平     好し雛卒を尋ねて生平を話さん
 
呉蘭雪

字は蘭雪・号は蓮花博士/石渓老漁渓肪。江西省東郷の人。清朝時代。乾隆の始め鴻博に召試されたが、遇をはずして帰り郷に挙げられ内閣中書内閣となり黄景仁と試才を等しくした。
朝鮮の吏判書金魯敬。崇梁を以って詩佛と称す。黄景仁は字を仲則。蘭雪と仲則は何時も並び評される。両人共も詩は剛健且つ剣気を帯びる。
呉蘭雪は書室を香蘇山館と言う、著に香蘇山館詩抄がある。今回は律詩を中心に収録した。前録した絶句集は平易。律詩は難解が多い。
呉蘭雪の時代背景を考察し鑑賞すると解り易い。
清朝の乾隆時代の詩人・洪稚存(1746-1089)の北江詩話に「詩には必ず珠光と剣気とが有り始めてその永遠性があるのを信じる。呉蘭雪の詩は珠光が七分、剣気が三分ある。黄仲則も又そうだ。私の詩は剣気が七分で珠光が三分だ。張船山も私と同じだ」と言っている。
剣気と言うのは気魄の強い詩。万里の長城あたりがもつ男性的な気を感じさせる詩とするなら珠光は浪漫的は詩情をたたえたもので、女性的なもの唯美的なものをねらった詩のことである。
漢詩作詩家は一読の価値はある。日本での註釈は少ない。漢魏六朝から唐宋明の解釈は多い。「全唐詩」だけでも九百巻、四万八千九百首余。千年後の清朝時代の康煕年間に収録されたものである。
■雲風堂 (朱子嘗註離騒於此)
雲風記手題     雲風 手に記して題す
紫陽読書処     紫陽 書を読む処
蕭蕭庭樹陰     蕭蕭たる庭樹の陰
夕陽見鶴歩     夕陽 鶴の歩するを見る
何人載酒来     何人ぞ酒を載せて来り
一問離騒註     一に離騒の註を問う
■市湖
環城九千頃     城を環る九千頃
湛然磨鏡銅     湛然たり鏡を磨する銅
月上或倒影     月は上り或は影を倒にする
雲過無留蹤     雲過ぎて蹤を留むる無し 
?余青天色     ?だ余す青天の色
萬古涵虚空     萬古 虚空を涵す
■琵琶州
落霞散空波     落霞 空波に散ず
向来歌舞地     向へ来る歌舞の地
蒼茫煙樹中     蒼茫たる煙樹の中
時有片帆至     時に片帆の至る有り 
忘機譲白鴎     忘機 白鴎に譲る
夜夜占沙睡     夜夜 沙を占めて睡る
■次韻覃谿師題蘭雪図
人間凄絶那有此      人間凄絶 那ぜに此に有る
謫仙語妙偶得之      謫仙の語は妙 偶々之を得る
満叢氷雪花開時      満叢の氷雪 花開の時
蝴蝶黄蜂知未知      蝴蝶 黄蜂 知や未だ知らずや
東風早晩透消息      東風早晩 透消息を透す
辛苦耐寒須努力      辛苦 寒の耐えて須らく努力すすべし
素心一点傾向誰      素心一点 傾して誰に向かう
日暮空山雲溌墨      日暮空山 雲 墨を溌す
■題襟館草木雑詠
老梧一千尺     老梧 一千尺
特立異群樹     特に立つ 群を異にする樹
弧根天所培     弧根は 天に培する所
年深飽霜露     年深く 霜露に飽きる
人間自春秋     人間 自ら春秋
栄悴守其素     栄悴 其の素を守る
■秋懐二十首(其の一)
此生幸為人     此の生 幸い人に為す
此日殊可惜     此の日 殊に惜しむ可し
遷物與虫沙     遷物と虫沙と
前身沓難識     前身 沓として識り難く
失脚塵海中     失脚 塵海の中
自援苦無力     自から援すけ無力に苦しむ
惘懼三十年     惘懼たり三十年
労労半行役     労労たり半行の役
■評跋 洪亮吉稚存(黄仲則)
詩必有珠光剣気      詩は必らず珠光の剣気有り
始信其不可磨滅      始は其の磨滅ベからざるを信んじる
蘭雪詩珠光七部      蘭雪の詩 珠光七部なり
剣気三部仲則亦然     剣気三部 仲則も亦た然り
吾詩剣気七部珠光三部  吾が詩 剣気七部珠光三部なり
船山亦然          船山も亦た然り
■冬菊
已過重陽菊尚胎      已に重陽を過て 菊 尚を胎む
移根磁斗與親栽      根を移す磁斗と親栽と
誰知花信低徘久      誰が知る花信 低だ徘久し
却向氷天爛漫開      却って氷天に向かい爛漫として開くを
晩節自持惟正色      晩節 自ら持す 惟だ正色
孤芳能賞亦奇才      孤芳 能く賞す 亦た奇才
曲房多少間桃李      曲房 多少 間の桃李
未嫁春風已自媒      未だ春風に嫁せず已に自ら媒す
■闥
久病無聊感索居      久しく病い無聊 索居を感じる
闥滋味領何如      闥 滋味 領めて何如
平心自覚能容物      平心 自ら覚える能く物を容るを
習静惟応臥擁書      習静 惟だ応に臥して擁書を擁すべし
新雨収成知予兆      新雨 収めて 予兆を知るを成す
故人恵問不曾疎      故人 恵みて 曾疎ざるを問う
只嫌咫尺西山近      只だ咫尺の西山の近きを嫌う
潭拓清遊約又虚      潭拓 清遊 約して又た虚し
■簡汪?泉閣学
廿四年前締夙盟      廿四年前 夙に盟を締める
早於風骨見崢エ      早に風骨よりも崢エを見る
文章鉅手培三館      文章 鉅手 三館を培う
蔬水甘心奉一生      蔬水 甘心 一生を奉まつる
持正願公称老鳳      正を持し公を願いて老鳳と称す
論詩許我掣長鯨      詩を論じ我を許し長鯨を掣く
病中預祝孱躯健      病中 預め躯健の孱を祝す
悲喜今真感涕并      悲喜 今真 感涕并ぶ
■早梅
梅信今年早      梅信 今年は早く
春従小雪還      春 小雪に従ぅて還る
暖催花半樹      暖は催す花半樹
香透屋三間      香は透る屋三間
携鶴尋幽径      鶴を携え幽径を尋ね
騎驢夢故山      驢に騎り故山を夢みん
一枝容索笑      一枝 容れて笑を索め
我亦愛高間      我れ亦 高間を愛す
■賓谷中丞遨集花之寺看海棠
尋春恐負城南約      春を尋ね城南の約に負くを恐れる
風息今朝喜正開      風は息み今朝 正に開くを喜ぶ
三宝護持惟佛力      三宝 護持 惟だ佛力
萬花襟籠此仙才      萬花 襟籠 此の仙才
放翁苦憶成都客      放翁 苦ごろに憶う成都の客
坡老曾遊定恵来      坡老 曾つて遊ぶ定恵に来るを
一盞莫辞同日酔      一盞 辞すること莫れ同日の酔
紅粧白髪共低回      紅粧 白髪 共に低回
■題孫子瀟太史席道華夫人隠湖偕隠図即次原韻二首(其之一)
隠湖春水緑年年      隠湖 春水 緑年年
只許鴛鴦上釣船      只だ鴛鴦の釣船に上るを許す
涼月三夏開檻坐      涼月 三夏 坐を檻して開く
白雲一榻枕書眠      白雲 一榻 書を枕にして眠る
同心曲按吹簫侶      同心 曲按じて簫を吹く侶
並蒂花開種藕田      並蒂 花開いて藕を種る田
認取鴎波林? 美       認取す鴎波 林?の美
始知趙管即神仙      始めて知る趙管 即ち神仙なるを
■六十初度寄此奉酬 (其之二)
金剛雲気接匡櫨      金剛の雲気 匡櫨に接す
奇句飛来夢亦符      奇句 飛び来たりて夢亦た符す
天下幾人宗老杜      天下 幾人か老杜を宗す
海東今日又三蘇      海東 今日は三蘇に又す
紫裘腰笛能高唱      紫裘 笛を腰してく高唱を能くす
白髪簪花願補図      白髪 花を簪して補図を願う
重譯同斟周甲酒      重ねて同斟を譯む 周甲の酒
生辰佳話古曾無      生辰の佳話 古えに曾つて無し
■題徐廉峰編修詩巻
阿翁才力横天下      阿翁の才力 天下に横たわる
吾子耽詩更苦吟      吾子 詩に耽り更に苦吟す
一第早収名士涙      一第 収むるに早し名士の涙
十年冥造古人心      十年 造るに冥らし古人の心
牆穿竹筍春雷壮      牆は竹筍を穿ち春雷壮なり
門掩棣花夜雨深      門は棣花を掩い夜雨深く
白髪平生同社少      白髪 平生 社を同じくするは少く
喜聞雛鶴有奇音      喜び聞く雛鶴の奇音あるを
■二月廿七日奉許太宜人出都
孤生誤微禄      孤生 誤微禄を誤まる
出処素心違      出処 素心 違う
一慟辞官晩      一慟 官を辞する晩れ
扁舟奉母帰      扁舟 母を奉じて帰る
雲還遮故国      雲還り 故国を遮る
草自恋春暉      草自ら 春暉を恋う
莫近河西泊      河西に近く泊する莫れ泊
天寒雁獨飛      天寒く雁 獨飛する
■荷花生日慶祐之方伯枉過寓園
旌旆侵晨過草堂      旌旆 晨を侵して草堂を過ぐる
巡檐先聴鵲声忙      檐を巡りて先ず聴く鵲声の忙
青山導客雲倶入      青山 客を導き雲と倶に入る
江藕フ花水亦香      江藕 花をフげて水も亦た香ばし
門外笙歌沿旧俗      門外の笙歌 旧俗を沿え
池辺楼閣受新涼      池辺の楼閣 新涼を受ける
誰知密坐論心久      誰が知る密坐 論心の久しきを
午樹移陰已下墻      午樹 陰を移して已に墻を下す
■聴香館悼亡詩為岳姫緑春作 (其之一)
冷暖相依僅五年      冷暖 相い依る 僅か五年
不応草草賦遊仙      応に草草 遊仙を賦さざるべし
早知一病無医法      早に知る一病 医法の無kを
何苦三生種夙縁      何ぞ苦しむ三生 夙縁を種しを
嫁日歓娯如夢裡      嫁日の歓娯 夢裡の如し
?時明麗倍生前      ?時の明麗 生前に倍す
定情詩扇教随殉      情は詩扇に定めて教え随殉しすむる
誰誦新詞遍九泉      誰が新詞を誦えて九泉に遍ねし
■瓶中白山茶
娟娟玉茗比幽姿      娟娟たる玉茗は 幽姿に比す
開罷依然供折枝      開き罷めて依然 供に枝を折る
一点花魂無覓処      一点の花魂 覓とむる処なし
小窗斜月夢来時      小窗 斜月 夢の来る時
■石渓館梅
臨水柴門久未開      水に臨む柴門 久しく未だ開かず
寒香漠漠点蒼苔      寒香 漠漠 蒼苔に点ず
傷心一樹梅花影      傷心 一樹 梅花の影
曾上仙人縞袂来      曾つて仙人の縞袂に来りて上る
■憶別虎邱寓園蒼然有作
紅樹斜陽点画楼      紅樹 斜陽 画楼に点ず
離魂凄断在蘇州      離魂 凄断たり在蘇州に在り
而今怕作江南客      而今 怕れ作す江南の客
花月傷心異昔遊      花月 傷心 昔遊を異にする
■闍
四十帰田悔已遅      四十 帰田 已に遅きを悔やむ
平生心事白雲知      平生の心事 白雲 知る
身経倦客難勝酒      身は倦客を経て酒に勝り難し
心冷名山漸廃詩      心は名山に冷く漸やく詩を廃す
幽臥最憐初雨後      幽く最も憐れむ初雨の後に臥す
意行多在晩晴時      意は多く晩晴に在りし時に行う
寛鞋痩策相忘久      寛鞋 痩策 相い忘れること久し
除却林泉総不宜      除却する林泉の 総べて宜からずを
■孫燭渓舎人蒼山棲図
一水空明涵古樹      一水 空明 古樹を涵す
一楼飛翠入遥山      一楼の飛翠 遥山に入る
花開冷処香逾妙      花開の冷処 香よいよ妙なり
寉歩移来影亦間      寉歩 移し来たれば影亦間なり
紅薬譲誰吟日下      紅薬 誰に譲りて日下に吟ずる
白雲笑我尚人間      白雲 我を笑うて人間を尚ぶ
石渓也有三椽屋      石渓 也た三椽の屋有り
偏愛西湖久未還      西湖を偏に愛するも久しく未だ還らず
■題瞿花農通守漢皐贈別図
一笛梅花二十年      一笛 梅花 二十年
美人名士総成烟      美人 名士 総べて烟と成る
誰知漢上題襟客      誰が知る漢上 襟に題する客
重上西冷載酒船      重て上る西冷 酒を載せる船
官似白公非謫宦      官は白公に似て宦に謫するに非ず
詩如坡老妙通禅      詩は坡老の如く禅に通じて妙なり
布帆我亦凌潮去      布帆 我れ亦た潮を凌いで去る
莫遣玲瓏唱別?      玲瓏を遣いて別?を唱すること莫れ
 
 
空海

宝亀5年(774)護岐国多度郡、で生誕したと伝える。幼名、真魚。父は佐伯直田公、母は阿刀氏。然し近年、生誕地は畿内と言う説もある。「弘法大師空海の研究」(吉川弘文館)参照。延歴7年(788)都に出、母方の舅(おじ)阿刀大足について、論語、孝経・史伝・文章等を学ぶ。後に大学(明経科)に入学し春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学ぶ。20歳すぎに大学を去り、山林での修行に入ったとされる。「空海僧都伝」によれば当時の心境を「我習う所は古人の糟粕なり。目前に尚も益なし。況や身斃るるの後をや。この陰已に朽ちなん。真を仰がんには如かず」と伝えている。空海の得度に関しては古来様々に云われてきたが、現在は31歳得度・受戒説が有力となっている。
空海の若き日の苦悩。
なぜ人は生まれて来るのか。人はなぜ老いて病み死んでいくのか。 今の人生にどんな意味があるのか。 なぜ高い位に生まれ栄華を極める者がいる一方で、生まれながらに体が不自由で貧しく恵まれない者がいるのか。 今学んでいる学問に貴重な時間をかけて学ぶ価値があるのか。 大學を出て立身出世をして、それが本当に幸福といえるのか。 旨く立ち回って出世する者もあれば実直に働いて認められない者もいる。立派な家に住み美しい着物を着て素晴らしい車に乗り瞬く間に過去のものになり消え去る流行を追い求めことが幸せなのか。死とは何か。そして死後にはどんな世界が待っているのか。
空海はこれらの答えを探す為に苦しんでいた。十五歳で上京し十八歳で栄達が約束された大學へ地方豪族の子としては異例の入学が出来た。一族の大きな期待を一身に受けていた。空海の出世が一族の繁栄に繋がる時代であった。都の政治権力闘争の中で造営中途放棄され、空海21歳の時、更に北の平安京へと移された。長岡京造営が始まる。陰謀により早良親王が乙訓寺に幽閉され憤死する。その後も朝廷には不吉なことが多く出現する。四国の讃岐から上京したばかりの多感な青年期の空海は、この激しい政治腐敗と人間の権力や富への果てしない欲望。弱肉強食の世界を見るにつけ深い絶望感を抱く。空海は大學の学問に知的欲求を満たし宇宙の真理を解き明かし又、自からの問いに答え得る真実の輝きがあれば、ひたすら学究の徒としての道もあった。
然し、空海は「今の大學の学問はすでに過去の遺物、かすのようであり、今を生きる者にとっては全く役に立たない。まして死後のことなどを。深く悩む心に光りを当てられない。この身は刻一刻と老いて死に向かっていく。本物を求めよう」 このように述べている。空海には兄二人が若くして亡くなっていることも空海に生命の儚さを実感させ、生命とは何かという深い問いを持たせた。空海を宗教哲学の輝く精神へと誘った。一族の期待を担って進んだ大學を悩みながら去った。国が取り締まりに手を焼き弾圧までした私度僧という山林修業者の中に自由を求めて身を投じてしまう。空海の精神は山で癒され満たされ自由を感じていた。山に一人の沙門、僧がいた。その沙門が誰なのかは解らない。奈良の高僧勤操とも言われている。その沙門から一つの秘法を授かる。虛空蔵菩薩の真言を法に従い百万回唱えると、あらゆる教えも教典も立ち所に暗記出来るという。空海はこの法を行じた。山中で眼前に海が洋洋と広がる岬で。
空海を仏教へ誘ったのは教典では無くこの山中や海へ臨んで真言マントラを唱え続けたときに輝いた明星にほかならない。宗教的開悟の原始体験。その光源を極めるための新たなる旅が始まった。
延歴(23年)遣唐大使の乗る第一船で肥前国松浦郡田浦を出航、入唐の途につく。空海の活躍期は9世紀の前半。中国で中唐時期に相当する。中唐は唐詩の第3の興隆期。「駢儷体」に替わる「古文」という新しい散文の文体が形成された時期になる。この時期の詩人では、韓愈、白居易、蜿@元、等、然し空海が彼等と相知る機会は無かった。空海は「文鏡秘付論」に於いて作詩の一般的な規則を提示している。詩を作るに就いて、声韻の結果によって起こる八つの忌むこと、即ち避けなければならない事が有る。是は、梁の沈約が定めたもので、称して詩の八病と言う。現代の漢詩衰退時には、厳しく戒められないが、一応この様なことが有る、と認識する程度で良いとされている。「詩の八病」に即いては曾って吉川孝次郎氏が「文鏡秘付論」について批判的な評価をされていた。
詠響喩
口中峡谷空堂裏。  口中 峡谷 空堂の裏
風気相撃声響起。  風気 相い撃ちて声響起こる
若愚若智聴不同。  若しは愚 若しは智 聴くこと同じならず
或瞋或喜匪相似。  或いは瞋り 或いは喜ぶ 相似に匪らず
因縁尋覓曾無性。  因縁 尋に覓む 曾つて無性なり
不生不滅無終始。  不生不滅にして終始なし
安住一心無分別。  一心に安住して 分別すること無かれ 
内風外風誑吾耳。  内風外風 吾が耳を誑かす
聞後夜佛法僧鳥
閑林独座草堂暁。  閑林 独座 草堂の暁
三宝之声聞一鳥。  三宝之声 一鳥を聞く
一鳥有声人有心。  一鳥 声あり 人 心あり
声心雲水倶了了。  声心 雲水 倶に了了
声字実相義
五大皆有響。     五大 皆な響き有り
十界具言語。     十界 言語を具す
六塵悉文字。     六塵 悉く文字なり
法身是実相。     法身は是れ実相なり
過因
莫道此華今年発。  道う莫れ此の華 今年発くと
応知往歳下種因。  応に往歳の種因を下せしを知るべし
因縁相感枝幹聳。  因縁 相感じ枝幹聳へる
何況近日遭早春。  何ぞ況んや近日 早春に逢うことを
献柑子
桃李雖珍不耐寒。  桃李 珍と雖えども 寒さに耐えず
豈如柑橘遇霜美。  豈に柑橘 霜に遇うて美なるに如かん
如星如玉黄金質。  星の如く玉の如く 黄金の質
香味応堪実簠簋。  香味 応に簠簋に実つるに堪るべし
太奇珍妙何将来。  太はだ奇なる珍妙 何こに将ち来る
定是天上王母里。  定めて是れ天上の王母の里ならん
応表千年一聖会。  応に千年 一聖の会を表わすべし
攀摘持献我天子。  攀じ摘まんで持って我が天子に献ずる
中寿感興
黄葉索山野。     黄葉 山野に索め
蒼蒼豈始終。     蒼蒼 豈に始終なるや
嗟余五八歳。     嗟、余は五八歳
長夜念円融。     長夜 円融を念う
浮雲何処出。     浮雲 何処より出づる
本是浄虚空。     本とより是れ 虚空を浄す
欲談一心趣。     一心の趣を 談ぜんと欲す
三曜朗天中。     三曜 天中に朗かなり
般若心経秘鍵
真言不思議。     真言は不思議なり
観誦無明除。     観誦 無明を除く
一字含千理。     一字 千理を含む
即身証法如。     即身 法如を証す
行行至円寂。     行行として円寂に至る
去去入原初。     去去として原初に入る
三界如客舎。     三界 客舎の如し
一心是本居。     一心 是れ本居なり
詠旋火輪喩
火輪随手方与円。  火輪 手に随い 方と円と
種種変形任意遷。  種種 変形は意に任せて遷る
一種阿字多旋転。  一種の阿字は多く旋転す
無辺法義因茲宣。  無辺の法義 茲に因って宣ぶ
現果
青陽一照御苑中。  青陽 一たび照らす御苑の中
梅芯先衆発春風。  梅芯 衆に先んじて春風に発く
春風一起馨香遠。  春風 一たび起こり馨香遠し
華蕚相暉照天宮。  華蕚 相い暉き天宮を照らす  
   

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中国漢詩史
BC202- 前漢
  「楚辞」で屈原に続く詩人として宋玉(bc303?-221?)がいた。生涯に不明な点が多い楚の文人。戦国末に唐勒、景差らと共に宮廷文人として活躍していたという。作品として13篇が伝わり、文学史上に果たした役割は大きい。作風は二つの方向に分けることができ、一つは屈原の作風を継いで、自己の感慨を強く表出したもの、他の系列は華麗な用字・修辞を駆使した宮廷文学的性格の強いもの。宋玉の賦の技法は、前漢になってさらに発展し、その時代を代表する文学形式となった。
この「楚辞」風の句形によるいわゆる[楚声の歌]が流行するが、代表的な詩人として、病没する始皇帝の刺客となった荊軻、楚の項羽、そして漢王朝を創始した高祖劉邦 、のちの建安の七子の曹操が名を連ねる。屈原にしたところで政治に深く関与していた巫覡の長なのだ。楚声の歌はあの七代武帝まで系列が続く。
因みに、楚は南方の大国であり、気候温暖、雨多い湿地帯密林が広がっていた。物産に恵まれ、人々の生活にもゆとりがあったといわれる。苗族を始め異民族との交流が密接で、異民族の風習や神話・伝説の影響が強く、[楚文化]ともいわれる独自の文化を育んでいた。戦国時代に、諸子百家の登場に見られるように、混乱期・変革期の乱世には古代の宗教性よりも理性が重要な意味を持ち始めた。しかし、恵まれた楚の国は依然他所で衰え始めた呪術の最期の拠点として保持していた。楚国のみは当時なお祭政一致の体制を残し、例えば屈原は神を呼び出す神に仕える霊能者であった。もともと楚の王族の出身で朝廷の要職を歴任した詩人である。
戦国七雄のうち強大であったのが並ぶ秦と楚であった。結局秦が天下統一し、楚人は恨みを持っていた。秦亡国後の項羽、劉邦ら反乱軍の勢力は楚人たちが中心であり、前漢の功臣たちが概ね楚の出身であった ことから、楚の歌が流行したのも当然といえる。
漢王朝中興の名君である武帝は美文を愛好し、読書・学問など文化を重んじて儒者を招聘し儒教思想を国家経営の精神的支柱とし、教育を振興した。武帝の文化政策は、修辞技巧の練磨にこころくだいた絢爛豪華な文学様式[賦]が確立し、その確立に最も貢献したのが武帝期の文人、司馬相如であった。一方で官署[楽府]が設置されたことで五言詩型が現われる。楽府は民間の歌謡や知識人の詩を収集・整理し、曲をつけたが、当時は西域との交流も盛んで異国の楽器とそれらが奏でる耳新しい音楽が入り、それに合う新しい歌詞が必要となった。こうした背景の下で、新しい詩型[五言詩]ができた。
AC25- 後漢
  前漢に李延年、卓文君、班婕、、李陵、蘇武など伝わるが李延年以外は偽作の可能性も強く、やはり五言詩の作例が本格的に現われ始めるのは後漢に入ってからで 、まず班固の[詠史詩]が上げられる。そして秦嘉、趙壱、辛延年が続く。後漢はまもなく政治的には外戚ついで宦官が勢力をのばし、彼らの専横と政権私物化に反発した儒家思想を学んだ知識人たちは、外戚の力は弱めることができたが、次の宦官からは徹底的に弾圧され、四方に潜伏し在野の勢力として時事評論や人物批判を続けることになる。為政者側もこれを無視することはできなかった。政界を追われた彼らは詩において心境を吐露し、ここに新しい民歌の形式を採用し五言詩が公然と現われる。特にすぐれたもの、流布したもの十九首がまとめられて「古詩十九首」と名づけられた。そこでは、これまでの中国詩歌になかった無常観と享楽志向が大胆に表出されている。
後漢中期以降、建安の三曹七子前に、思想・歴史の他に数学・天文・音楽に造詣が深かった蔡邕、その娘の蔡琰がいる。
蔡邕(中期) 思想・歴史・数学・天文・音楽に造詣が深い。
蔡琰(後期) 蔡邕の娘。南匈奴へ。才媛。
 
  魏の正始文学すなわち竹林の七賢、地位争いと陰謀・策謀のめぐらしの不穏から逃避した知識人たち、韜晦的言語活動で抵抗の姿勢を示してもいた。単に竹林で酒を飲みながら琴を弾き、抽象的・哲学的清談に耽っていたのではない。
●三曹七子
三曹
曹操
曹丕 文学評論の先駆け
曹植 [閏怨詩]の基本を確立。
[健安の七子]鄴下の七子 / 過度の悲哀・極度に不幸な状況を設定
孔融
陳琳
王粲
徐幹
阮瑀
応瑒
劉蹄
●正始文学 / 竹林の七賢人。逃避的態度と韜晦的言語活動による抵抗。老荘思想から酒と琴、清談。
阮籍 狂気を装う。動植物を。陶淵明・陳子ミ・李白に影響。内省的・象徴的詩風。
嵆康 琴の名手。音楽理論。哲学的で難解。
山濤
向秀
劉伶
王戎
阮咸
265- 西晋
  西晋時代は七賢の影響で談論が活発になるが、自らが貴族ゆえ批判精神はなくなり、形而上的哲学[玄学]が成立し、[太康・元康文学]と呼ばれる。代表する詩人は「三張二陸両潘一左」という語でまとめられる張載、張協、張亢、陸機、陸雲、潘岳、潘尼、左思。建安・正始文学の流れにあり修辞尊重だが、五言詩が多様化し取材範囲が拡大する。次の二つが特徴といわれる。第一に、隠遁願望を詠い[招隠詩][遊仙詩]の領域が確立されたこと。清談の内容が詩にも浸透し、俗界を捨てて山林に住む願いを詠じ、自然描写が織り込まれる。第二に描写が細密化されたこと。とりわけ小さな動植物が好んで取り上げられる。観察眼が精緻で、用語が吟味されて自身の内面にも向けられる。ただ左思以外の全員は、張華はクーデターの際腐敗政治の責任を問われて殺され、[悼亡詩]の領域を定着させた功績を持つ潘岳は讒言によって殺され、陸機も讒言によって弟と共に殺されるという非命の死をとげる。当時、政権が交代するたびに旧勢力の関係者は殺害されるから、詩人たちも大変である。
張載
張協
張亢
陸機
陸雲
潘岳 [山水詩]の先駆け
劉琨
蘆ェ
郭璞
317- 東晋
  西晋から東晋にかけて、劉琨、廬ェ、郭璞が現われる。「遊仙詩十四首」の連作で名高い郭璞は、西晋末の[招隠詩]の突出した成果だった。東晋に入ると、玄学的思索を詩の中に表現する傾向はさらに強まり、大量の作例が現われた。それが[玄言詩]と呼ばれ、流行した割りには作品が残存しておらず、その代表として孫綽がいる。しかしこの玄言詩があったからこそ、のちの陶淵明と[山水詩]謝霊運は自らの詩風を築くことができ、その点で文学史的意義は高い。
孫綽 玄言詩
陶淵明 隠逸詩人
420- 宋・北魏
  宋は謝霊運を含む[元嘉の三大家]を生む。他の二人は、文壇の中心であった顔延之と、詩を個人的抒情の器として扱う姿勢で後の盛唐詩の先駆けの役を果たした言われる鮑照。
元嘉の三大家
謝霊運 山水詩の開拓者・祖。
顔延之
鮑照 盛唐詩の先駆け、李白・高適・岑参らに影響を与える。
  斉・梁・陳
  斉・梁・陳王朝では、詩の手法・形式は洗練の極に達し、特に用語・音声面の探求が著しくなる。内容的には、女性の感情や姿態を唯美的に描く[宮体]と様々な動植物や器物の性質・形状を詠じてそこに寓意を込める[詠物]の詩を一括して[斉梁体]と呼ばれる。斉では竟陵王 、蕭子良のもとに詩壇が形成され、新しい詩風[永明体]が起こり一つの画期を成した。その詩壇の中心人物8名が沈約、謝朓ら[竟陵の八友]だった。
梁王朝では女性の描き方が特色で、呉均、そして高度な象徴性のある江淹、王僧孺がおり、南北朝最期の詩人として廋信がいる。 廋信の父廋肩吾も宮廷詩人であり、廋信は同時期の徐陵と並べて[徐廋体]を成した。
北朝にも異才を放つ楽府詩が数々あり、隋にものちの[辺塞詩]を予告する詩が多くあるという。隋の代表的な詩人として、何とも、奢侈な生活で悪名高い二代皇帝煬帝がいた。荘重にして剛健な作風であるというが、悲しきかな。  
沈約 詩の美感を音声面から追求、四声を明らかにする。
謝朓
謝恵運
劉勰
庾信 南北朝最後の詩人。西魏に留められる。
呉均
江淹
王僧孺
618-
618-712 初唐
  ●転換期の二大詩人
魏徴(580-643) 唐朝建国の功臣として名高い。重用、捕虜の後、[貞観の治](627-649)を支える要人となる。学者としてもすぐれ「隋書」「五代史」などの正史や「群書治要」の編集を行う。詩は35首現存。祭礼の歌詞が多いが、代表作は五言古詩。
王績(585-644) 隋末に官につくが唐初の不安定な政情の中、仕官と辞職を繰り返し、貞観年間(627-649)に隠退した。詩は隠遁者として日々の生活や処士(仕官しない在野の士)との交遊から生まれたものが多い。
●太宗の文化政策と宮廷詩人
虞世南(558-638) 貞観の治を支えた人材の一人。隋の煬帝にその才能を妬まれ、唐に入って厚遇され弘文館学士(図書の校正・伝授を担当、また朝廷の制度・儀式につき検討した官職)、「北堂書鈔」を編集。ロマン的な詩情。
上官儀(   ?-664) 弘文官学士から秘書郎、太宗に信任されて多くの文章を起草。宮廷詩壇の中心人物であり、その詩風は朝廷を風靡し[上官体]と呼ばれた。社交の作が多い。
●初唐の四傑 / 太宗没(649)前後に出現。皆社会的地位に恵まれず、不満の多い境遇ゆえか自我の強さをうかがわせる逸話を残す。功績は、長篇の歌行詩(歌謡の性格を強く意識して作られた伝統詩の一分野)を多作したこと。自照の要素も多い。
王勃(649?-676?)
楊炯(650-?)
廬照鄰(637?-680?)
駱賓王(640?-684?) 最も悲惨な人生を強いられ、不遇と貧困に加えて風痺(中風)を患い、病苦に耐えられず投水自殺。
●四傑とほぼ同時代の二人
劉希夷(651-679?) 四傑の歌行制作に同調しつつ詠嘆的方向を強め、流れるようなリズムに乗せる。
張若虚(   ?-   ?) 二首のみ現存するが、劉希夷と並称される。
●則天武后の治世(690-705) 文化を重んじ詩人文人を優遇して華やかな宮廷文化をひろげる
沈佺期(?-714?) 驩州(北ベトナム)に左遷。
宋之問(656?-713) さはての地に流される。
杜審言(645?-708) 杜甫の祖父。峰州(ベトナム)に左遷、復帰後修文館直学士。43首現存、その8割は近体詩で五律が多い。建築的構成美と厳密な観察眼。
●初唐から盛唐への過渡期
陳子昂(661?-702) 二十四歳で進士に及第、則天武后に認められて参謀として従軍するが、主張が認められず辞職し帰郷。南朝の余風に反対し、遡って漢・魏の素朴剛健な詩風に学ぼうとした。
張説(667-730) 寒門の出身だが、則天武后に抜擢され官につく。玄宗のとき政争のため左遷され、地方の刺史(長官)などを務め、やがて中央に復帰。詩は約350首現存。
張九齢(678-740) 要職について玄宗に直諫したが、やがて荊州(湖北省)に左遷され、その後は荊州で自適の生活を送る。
  ■盛唐詩 / 二系列(辺塞詩と自然詩) 玄宗の治世中心
  ●辺塞詩
王翰(687?-726?) 初唐期。出征兵士の心情や辺地の珍しい風物を。辺塞詩の基本型を成す。
盛唐期
高適
王昌齢
常健
岑参(715?-770) 盛唐辺塞詩で異彩を放つ。節度使の幕僚として二度西域に赴く。
●自然詩 盛唐詩の今一つの多いな流れを成す
自然愛好の風は、特に後漢以降、神仙思想の流行に伴い、山に入って神仙の雰囲気に浸る行動となって現われた。それが南朝頃からは自然美そのものに目が開かれ、唐代に入ると一種の娯楽として定着した。特に盛唐以降、詩の中に自然描写の占める割合が多くなっている。盛唐の自然詩をより細かく見ると、自然描写を主としたものと、農村生活の中での人と自然とのかかわりあいを描いたものとに分かれる。そして、前者を山水詩、後者を田園詩と呼んで区別することもある。いずれも、根底に郷土に対する愛がある。自然詩人として王維と儲光義、次いで丘為、祖詠の名があげられる。
王維(699?-762) 当時の名門、太原の王氏の出。母は賢母のほまれ高く、仏教を篤く信仰。幼少より詩・画・書・音楽の才を発揮。十五歳で都長安に出るとたちまち社交界の寵児となる。二十一歳で進士。しかし二十二歳である事件に連座し済州に左遷され、以後各地を転々とし、三十六歳に長安に戻される。安史の乱までの十七年間に宮廷詩人としてますます名声を高め、藍田山の麓に別荘を入手、その[輞川荘]で友人 ・裴迪らと閑雅な時を過ごす。そうした生活の中で自然詠が磨きがかけられる。視角イメージを重視し「詩中に画あり(蘇軾)」。755年に安史の乱勃発、王維は反軍に捕われ洛陽に送られ、強要されて反軍の官につく。乱の平定後、反軍に仕えた罪を問われたが、ひそかに唐をしのぶ詩を創っていたためもあって罪が減ぜられ死罪は免れた。以後、王維の詩は少なくなる。仏教修行に励み、官も書記官長となる。
儲光義(706?-763)
丘為
祖詠
孟浩然(689-740) 字も浩然。科挙に及第せず、官職が得られぬまま各地を遊歴したり、郷里に近い鹿門山に隠棲。しかし、その詩才は広く認められ、名士として交遊関係は広かった。詩には、深い恥辱と挫折感、やむない隠遁、交遊の広さが現われている。達観の境地を目指し、山水に心を向けている。
李白(701-762) 字は太白。父は裕福な商人で、西域(キルギス共和国トクマク)で生まれる。五歳のとき四川省に移住、二十代半ばまでその地に過ごす。幼少より読書を好み、また奔放な面を発揮、剣を学んで任侠の士と交際、刃傷沙汰を起したり、隠者たちと山にこもったりする。二十五歳頃、蜀を離れ、長江を下って東南の名勝を歴遊する。そこに李白の自然描写の特色−スケールの大きさと奔放さ−が発揮される。二十七歳頃結婚、湖北に居を構える。太原や魯などを歴訪。四十二歳で玄宗の朝廷に召される。しかし、わずか二年後に讒言によって長安を追われる。放浪の身となるが、すでに宮廷詩人としての名声は高く各地で歓迎される。江南、揚州など歴訪。756年に廬山(江南省)に隠居。その年の12月、朝廷の関係者(玄宗の第10子)からの招きで長安に戻るが、第10子は反軍として討伐され李白も流罪となる。恩赦後、各地の漫歴、旅に明け暮れる生涯であった。
杜甫(712-770) 祖父は初唐の宮廷詩人杜審言。ちちは地方官を歴任、母は早く亡くなり、おばに育てられる。十九歳から各地を遊歴して見聞を広めるが、二十四歳のとき科挙の進士科に落第。三十歳のとき洛陽で結婚。長安に出るがなかなか官職を得られなかった。四十四歳でようやく微官を授けられるが、安録山の乱が勃発、反軍に捕えられ幽閉される。脱出して仮御所に至り、新に官を授けられる。ところが束の間、ある弁護が越権行為として華州に左遷される。その地で民衆の窮乏を目の当たりにし、社会性の強い詩を多作。やがて官を辞し秦州に移住。すぐ成都に赴く。そしてさらに持病を持ちながら各地を転々と放浪する羽目になる。
763-840 ■中唐詩
  ●初期 / 社会詩と自然詩の二派
杜甫の社会詩を受け、のちの白居易・元稹らの新楽府運動への橋渡しの役となる。
元結(719-772) 科挙に失敗して農耕生活に従事、やがて道州の刺史となる。安史の乱で荒廃したのを熱心に復興、成果を上げ州民に尊敬された。詩の諷諌を重視。
顧況(727?-816?)
載叔倫(732-789)
自然詩 閑適派 / 大暦の十才子 繊細な自然描写や超俗の心境を詠ずる
廬綸(748?-799)
銭起(710?-782?)
司空曙(   ?-790?)
耿湋
李端
十才子と前後して活躍した詩人たち
劉長卿(726?-786?) 自我が強く上司の不興を買って二度投獄されるが、詩は感傷性に富む。
韋応物(737?-791?) 自然詩人+社会詩人、元結のあとを継ぐ。
李益(748-829?) 特に辺塞詩の分野。
  ●新楽府運動
白居易(772-846) 字は楽天。号は酔吟先生。十五歳より本格的作詩。二十九歳で進士、ついで上級試験にも及第、翰林学士など歴任するが、四十四歳のとき越権行為で江州に左遷される。以後杭州や蘇州の刺史を歴任、晩年の十八年間は洛陽で隠居生活を送る。諷刺詩と、腐敗した政界に望みを失って老荘思想に傾倒し世俗を超越した作風。自らの作品を諷喩詩、閑適詩、感傷詩、雑体詩の四種類に分類し、諷喩詩(全部で170余首)を最も重んじた。自身の多情多感な内面生活、詩や音楽を愛する風流な人柄が作品に反映される。時代を超越した人道主義的姿勢があり、人間存在の根本的な悲劇性を鋭く突く。やがて仏教へ傾倒し、病臥の経験や老いの自覚を通して知足安分を目指し、深い人生観照と達観の境地に至る。なお、同期生で終生の友情を保った元 稹との[元白の交わり]、その特徴である誰にでもわかる平易な詩風を目指した[元和体]も重要。
元稹(779-831) 幼いときに父を亡くして苦学、十五歳で明経科に及第。官僚として極めて精励恪勤、厳格直情な性格でしばしば左遷された。
新楽府運動にかかわる詩人たち
張籍(766?-830?) 韓愈に認められ[韓張]と並称、王建とともに[張王の楽府]と称される。
王建(766?-831?) 寒門の出身。進士として歴任、辺境にも従軍、晩年は咸陽で貧しく暮らす。取材の範囲が広い。
李紳(772-846) 要職を歴任。李徳裕、元稹とともに[三俊]と称される。
  ●韓愈とその門下
韓愈(768-824) 字は退之。南陽(河南省)の人。三歳で両親を失い、十四歳で父代わりの兄を失う。二十五歳で進士に及第。要職を歴任し、やがて直言が禍し二度左遷される。思想上は儒家思想を堅持して仏教・道教に反対、文章家としては古文の復権を主張、南朝以来の技巧重視・形式偏重の四六駢儷文に反対した。詩人としては、事物の多角的描写に秀で、まあ新奇な題材・語句を好んで扱い独特の剛直な詩風を築き上げる。中唐詩壇の領袖としてよく後進を導き多くの門下を輩出する。 韓門(韓愈門下)の詩人たち、韓門の双璧である孟郊と賈島、 張籍、王建。
孟郊(751-814) 賈島と並べて[郊寒島痩]と評される
賈島(779-834) しばし科挙に落第、出家して無本と号する。その後韓愈に認められて還俗。苦吟型の詩人で、「推敲」の故事で知られる。実直な詩風。
李賀(790?-816?) 韓門で一際異彩を放つ。韓愈によって進士に推挙されたが、結局妨害があって受験すらできなかった。詩作に精進し、外出時は錦の嚢を背負い、詩句が浮かぶたびに書きとめて投げ込んだ。死せる少女のイメージ、神話の世界に飛翔し想像上の動物達も登場させる。
  ●二人の左遷詩人 / 中唐後期
柳宗元(773-819) 二十一歳で進士に及第、劉禹錫と同年の進士。劉禹錫とともに政治革新運動に参加。政争に巻き込まれて永州、十年後に柳州に左遷される。不遇を紛らわすため南国の山水を巡り歩き、自然詩人として名を高める。散文の領域では韓愈に共鳴して古文復興を進め[韓柳]と並称される。
劉禹錫(772-842) 二十二歳で進士、同年の進士柳宗元とともに王叔文の同志として活躍。叔文の失脚とともに朗州司馬に左遷、以後連州、朗州の刺史を転々として二十年、その後朝廷に戻る。晩年は洛陽に住み白居易と交遊。豪放な詩風だが、音楽との親近性もある。楽府体の詩が多い。七絶の世界に新生面を開き、白居易ら周辺詩人にも影響を与えた。
840-907 ■晩唐期
王朝の腐敗・混乱が激しく、内面に閉じこもるか市井とりわけ安息の場となった妓館に詩的刺激を求める。
  ●晩唐前期の三詩人
社会批判や経世の思想を含む謹直な詩と、男女の情愛を主とする耽美的・退廃的な詩の両方を作る。
杜牧(803-852) 名門貴族の出身。政治や軍事に一家言を有する論客。二十六歳で進士に及第。やがて自ら願い出て各地方の官につく。四十九歳のとき中央に呼び戻される。詩的イメージの結晶が高く、軽快さと流れの良さがある。
李商隠(812?-858) 詩文を作るとき常に多くの書物を用意し、身辺に並べたので[獺祭魚]と呼ばれた。多くの典故を並べ、華麗かつ難解な詩風。
温庭筠(812?-866) 文才に恵まれたが行状が疑問視され科挙に及第せず、官には恵まれなかった。李商隠とともに[温李]と並称された。速筆で[温八叉]と呼ばれた。また、新興の韻文様式[詞]に本格的に取り組み、初期の詞風は温庭インによって決定された。
  ●晩唐期の社会派詩人
藩鎮の独立化が収まらず、天子も宦官によって擁立され、宣宗は国の再建に尽力し税制改革も行うが不調に終わり国庫は窮乏、旱魃や水害・蝗害などの天災も加わって農民の流民化・暴徒化が促進される。この時期、詩人の良心を示そうとするかのように、一群の社会派詩人たちが出現する。
皮日休(841?-883)
聶夷中(837-?)
杜荀鶴(846-907) 
  ●唐詩の殿軍
874年に黄巣の乱が起こる。907年に朱全忠が皇帝となり唐王朝滅亡。唐詩三百年の栄華の掉尾を飾る二人。
韋荘(836?-910) 五十九歳で進士に及第。新興の散文[詞]の作者としても大きな足跡を残す。
韓偓(842?-923?) 玉山樵人。父は李商隠と同年の進士であり両家は親戚関係。アクは李商隠に才能を認められる。進士に及第後、昭宗に信任厚くしばしば相談役となり、宰相に推されたこともあった。しかし朱全忠には疎まれ濮州の司馬として左遷される。一つに男女の情愛や女性の姿態動作を詠ずる艶麗な作品群があり、感傷的・頽廃的な趣が強く[香奩体]と呼ばれる。また日常折節の体験や光景を書きとめた小詩の系列は、すがすがしい詩風の点で宋詩の先取りするものとして評される。)
   
  960- 北宋
    古代十国(907-960)の混乱期。北中国では異民族王朝を含む五王朝、南中国では主として漢民族の十三王朝が興亡を繰り返す。貴族層に代わって新興地主層が政治・文化を支える。この時代、江南で[詞]が盛んとなり、次の宋の大発展を準備、しかし伝統詩はあまり振るわなかった。960年、趙匡胤が宋王朝を建て都を開封とする。中央集権を強化し、文官官僚を重用する方針をとる。科挙制度が整備拡張され、各種の教育機関も急増し、文化・教育の水準が高まっていく。
■初宋の詩人たち
    ●初期 徐鉉、藩閬、五代の繊細な詩風を受け継ぐ。
王禹偁(954-1001) 孤高の先覚者。三十歳で進士、直諌で三度左遷、地方を歴任。杜甫と白居易を模範とし清新・率直な詩を作った。 当時大方の共感を得られず、数十年後に欧陽脩に注目されるまで待つことになる。
●[西崑体] 真宗の時代 安定期で高級官僚たちが社交的な詩を作り合い、数十年にわたって一世を風靡。
五代の繊細な詩風に飽き足らず晩唐詩とりわけ李商隠を模範とし、修辞を重視。 幻想的・装飾的な境地を作り出した。漢字の表現特性を徹底的に追求。 北宋中期に欧陽脩に批判され、清代に再評価されるまであまり顧みられなかった。
楊億(974-1020)、劉筠、銭惟演(977-1034)
●宋初の晩唐派 官途につかず民間にあって詩作を続けた人々
隠遁詩人たち
魏野(960-1019) 真宗に召されたが仕えず隠者として生活、詩名は高かった。
林逋(        ) 江南を放浪の後、西湖の辺の孤山に隠棲二十年。梅と鶴を友とする。
僧侶詩人たち[九僧]
寇準(961-1023) 例外的に唯一の高級官僚。主戦派。
    ■宋詩の確立 / 欧陽蘇梅
仁宗の治世になると安定し[慶歴の治]と呼ばれる新政が推し進められる。 この時期に宋代の政治の基本が定まる。軌を一にするかのように詩文にも革新の動きが起こった。 欧陽脩を中心に梅尭臣、蘇舜欽らがこれに同調し補佐する形で進められた。
    梅尭臣(1002-1060) 地方の主簿や県令を歴任、貧弱の生活を続けた。西崑体の詩風に反対し「平淡」を重視。対象に正面から向き合い、飾りも外連味もなしに正直に表現し、生き生きした描写と言外の余韻を尊ぶ。宋詩の基礎固めに貢献する。
蘇舜欽(1008-1049) 革新派の官僚として活躍し、時に保守派に疎まれて失脚し、蘇州の滄浪亭に閑居。その後は読書・詩作に気を紛らわす。詩風は豪放で力強い。
欧陽脩(1007-1072) 四歳で父を失い困窮。二十四歳で進士。真宗ら四代に仕え、新政を支持し保守派に疎まれて二度左遷歴を持つ。枢密副使などを歴任するが、王安石の新法に反対し、やがて隠居した。文壇の中心人物として実作・評論・感化力の各方面で大きな功績をあげた。散文では韓愈のあとを継ぎ尹洙や蘇舜欽とともに古文を主張する。[唐宋八大家]の一人。詩は知的で端正だが、晩年は感情を強く全面に出す。
    ■北宋詩の全盛期 / 神宗朝以来
    王安石(1021-1-86) 二十二歳で進士、地方官を歴任後神宗のとき抜擢されて参知政事となり、新法を敢行した。宰相を二度。1079年に一人息子の夭逝を機に江寧郊外の鍾山に隠退、読書と詩作の日々を送る。[唐宋八大家]の一人。特に絶句では北宋第一と言われた。精緻で、かつ情熱的な雰囲気に富む。政治詩では自己主張が旗幟鮮明、しばし宋王朝へ警告の意を含ませる。先人の詩句やイメージを変化させたりする技法は、やがて[江西詩派]の特色となり、[換骨奪胎法]と名づけられる。生涯背筋を伸ばして理想を求め続けた正義の詩人であった。
蘇軾(1038-1101) 号が東坡。父は古文家として名高い蘇洵。弟の蘇轍と合わせ[三蘇]と並称され、みな[唐宋八大家]の一人。詩・詞・散文・書・画に才能を発揮。門下に黄庭堅ら[蘇門四学士]始め人材が多く、彼らを通じて後世に与えた影響も大きい。幼少から道士の塾に学び、母の影響で仏教をも学ぶ。三十四歳のとき王安石と対立し、翌々年から地方を知事として遍歴。四十四歳のとき詩で新法を批判したかどで逮捕される。この舌禍事件で死を覚悟するが、幸運にも恩赦があり、出獄後黄州で自ら耕作する。生活は楽でなかったが、この東の丘を「東坡」と名づけ、自ら東坡居士と号した。その時、創作活動は大いに充実した。やがて、中央に戻され翰林学士となる。が、碩学と論争となりまた各地を左遷させられる。詩風は独創的な比喩法で縦横無尽。 蘇軾門下に黄庭堅、陳師道、秦観。 [蘇門四学士] 黄庭堅、晁補之、秦観、張耒。 [蘇門六君子] 蘇門四学士に陳師道、李チ(薦−クサカンムリ)。
黄庭堅(1045-1105) 二十三歳で進士。北京の国子監教授となり蘇軾と親交を結んだが、党争に巻き込まれ浮沈みの多い官僚生活となった。左遷先の宜州で没。蘇軾とともに[蘇黄]と並称される。古人の詩句や詩境を借りて活用する技法を唱え、特に作詩論で一時代を劃し後世に大きな影響を与えた。「点鉄成金」「換骨奪胎」などの語を用いてこれを主張した。影響を受けた人々は、黄庭堅の出身地に因んで[江西詩派]と呼ばれるようになる。主知的傾向が強く、思索と推敲を重ねる。
陳師道(1053-1101) 王安石の教育改革を嫌って小官にとどまり貧窮に苦しむ。晩年は蘇軾らの推薦で徐州教授となり、のち太常博士となる。江西詩派の代表となる。詩想を練る度に寝台で蒲団をかぶって推敲を始め、家人はその都度幼児や犬を連れて隣家に移ったと言う。
秦観(109-1100) 蘇門下では一際個性的な存在。若くして蘇軾に認められ、王安石にも詩才を認められるが、政治上は旧法党に属した。蘇軾の推薦で太常博士、国史館編修になるが、のち各地を転々とし、最期は藤州で没。詩風は繊細で、しばしば幻想味豊かな詩境を作り出す。
  1127- 南宋・金
    ■過渡期 / 北宋末から南宋初期にかけて
    江西詩派の詩人たちで、金討伐を主張する主戦派であり、のちに和平派によって排斥される。
陳与義(1090-1136) 洛陽の人。北宋末に太常博士などを務め、金軍侵攻後は広東・福建を転々、南宋政権下に参知政事などの要職につく。江西詩派の代表として黄庭堅・陳師道とともに[三宗]と称された。
曾機(1084-1166) 陸游に作詩法を教授する。
呂本中(1084-1145) 江西詩派宗派図を作る。
    ■南宋前半期の大詩人 / 范成大と楊萬里 南宋詩壇の最盛期(第二代孝宗の治世 1162-89)
    [南宋四大家] 范成大、楊萬里、陸游、尤袤(1124?-1193)。 尤袤もしくは蕭徳藻、1147前後在世)だが、両者とも詩文集は失われ、伝わる作品も少ない。 他の三人は、江西詩派の作風に飽き足らず、新境地を出しつつ時代を反映。 すなわち、主戦派詩人しての側面と田園詩人としての側面の二面性を持つ。
范成大(1126-1193) 十代半ばにして父母を失って困窮したが、二十九歳で進士に及第。四十五歳のとき孝宗の命を奉じて金に赴き、和平条約の内容改善の要求という困難な任務を果たした、毅然たる態度は金の廷臣たちに感銘を与えたという。帰国後も要職を歴任し参知政事に至る。晩年は郷里の石湖に隠退する。同時期の楊萬里、陸游に比して端正・堅実であるが、大自然の威容を題材にするとき迫力に満ち壮麗雄大な描写が見事である。また、重税に苦しむ農民の姿を楽府題によって描き出し、諷諫の精神を忘れぬ正統派詩人の面目をよく示している。
楊萬里(1127-1206) 二十八歳で進士に及第、同期に范成大がいる。地方官を歴任したが主戦派の将軍に強い影響を受け、周囲に疎まれ晩年は郷里に隠棲する。権臣の無謀なる罪状を糾弾する上奏文を執筆、筆を置くと同時に憤死したと伝えられる。詩では特に小動物の生態を捉えた諸作が特色。また"生活詩"ともいうべきユニークな作品群を生み出した。
陸游(1125-1210) 家は四代前から官僚を出した地主。また曽祖父の陸珪、祖父の陸佃、父の陸宰はみな学者として一家をなし、とりわけ父は蔵書家として知られた。蘇門四学士の一人である晁補之が母方の親戚、祖父の佃が王安石の門下であった。陸游の博学と無類の読書好きは家系の気風によるものと言われる。主戦派である江西詩派の曾機に学ぶ。二十歳で結婚した妻唐 琬と夫婦仲が良かったのに不本意な離別、再婚するも疎まれることがあって仕官が遅れる。免官と帰郷を繰り返し、詩は不遇を嘆き憤る作が多い。蜀中各地の副知事などを転々とし、放埓な生活が批判される。ついに六十五歳で弾劾され免職、官界を去り郷里へ帰る。詩は低徊趣味の詠みぶりとなる。年金を受けつつ農耕に従事し、時に薬を売ったり医事に携わったりする生活を送る。再び仕官し国史編纂官の職につくが、まもなくまた弾劾される。
    ■南宋後半期 / 永嘉の四霊、江湖派、文天祥
    ●永嘉の四霊 / 寧宗時代
寧宗時代一応の平和と産業の発展、文化の普及を背景に詩壇に一つの新しい傾向が現われた。また印刷出版業の隆盛もあって読書・詩作えいする人々の層が大幅に拡大大衆化し、そのような中、詩壇に[永嘉の四霊]と呼ばれる詩人たちが活躍した。いずれも字や号に「霊」の字を含み、また出身地もしくは居住地が永嘉(浙江省温州市)であることからこう呼ばれた。小動物や自然の音を聞き分ける細やかな感覚、洗練された用字・造句と、そこから作り出される閑雅・平淡な詩境。それは当時の陶磁器や山水画・花鳥画などと共通する美意識の産物であった。
永嘉の四霊 / 徐照(字は霊暉、?-1211)、徐璣(号は霊淵、1162-1214)、翁巻(字は霊舒、?-?)、趙師秀(字は霊秀、1170-1219?)。
    ●江湖派 / 理宗時代
出版業者兼書店経営者の陳起が多くの詩集を編集出版し、それらを総称して「江湖集」と名づけたことに基づく。そこから、陳起と面識のあった民間の詩人たちを総称して[江湖派]と呼ぶようになった。中晩唐の詩を手本とし、平淡でスケールの小さい境地を特色とする。が四霊と異なって、社会性・諷刺性の強く現われた作品が多い。いくつかが焼却処分となり、陳起が流罪となったこともあった。
そうした詩風が流行した背景には「遊士」の存在がある。当時、高学歴でありながら科挙に落第したり、或いは科挙受験を放棄した人々が民間で結束し、一つの社会勢力となっていた。彼らは「遊士」と呼ばれ、しばし上書などの言論活動を行い、官吏の横暴や重税などを告発した。その精神が彼らが作る詩の中にも投影され、江湖派の特色となった。社会性・諷刺性が見られ、表現は激烈で陸游の詩風の継承を思わせる。しかしそれは、王朝滅亡の予兆にせきたてられた精一杯の警鐘だった。江湖派最大の詩人は戴復古と劉克荘。
戴復古(1167-1248?) 一生仕官せず各地を放浪。詩冊を売って高官や豪族たちの保護を受け、彼らの依頼によって作詩し、その報酬によって生計をたてた。民衆の労苦をしばしば詩に取り上げた。
劉克荘(1187-1269) 地方官を歴任後、理宗の代に中央の要職につく。しかししばしば直言してしりぞけられ硬骨漢であった。また評論家としても一家を成す。新楽府の精神を継ぐ詩人と評される。
    ●南宋末期 / 文天祥と遺民詩人たち
十三世紀半ば モンゴル軍の南宋への本格的攻略、1279年に南宋滅亡。
文天祥(1236-1283) 進士に及第するがやがて上と合わず辞職、地方の知事となり、元軍の南下に対し義勇軍を組織して善戦、翌年要職につき首都臨安を死守した。和平交渉のため元に赴くが逮捕される。脱出して再び義勇軍を率い、やがて捕虜となる。フビライはその才能を惜しんで帰順させようとしたが応ぜず、三年後に殺される。詩は、漢民族に脈々と流れる「正気」を褒め称え、民族の誇りを守る決意を表明する。
遺民詩人たち 宋王朝滅亡後元に仕えず遺民としてそれぞれのやり方で自からの思いを詩に託す。
汪元量(    ?-    ?) 亡国後大都に抑留され、獄中の文天祥と詩の応酬をする。フビライの誘いを拒否し、道士となって帰郷、遺民として放浪の生活を続けた。
謝翺(1249-1295) 官途に恵まれなかったが文天祥の義勇軍のもとで参謀をつとめた。詩は中唐の風を学んだが、文天祥の刑死を聞いて作った詩は激烈悲壮。
鄭思肖(1241-1318) 宋滅亡後は蘇州に隠棲。モンゴル語を耳にすることも拒み、決して北の方を向かなかった。詩は憤激の情に溢れ、モンゴルへの敵意に充ちている。
蕭立之(    ?-    ?)
林景熙(1242-1310)
   
    第二代太宗は漢文化愛好者で漢人の登用、学校の建設、科挙も実施。
●前期 / 北宋詩とりわけ蘇軾や江西詩派の影響下にあり、中心となったのは、使途として金に赴き抑留され金に仕える身となった北宋の廷臣たち
宇文虚中(         ) 倨傲な性格が災いし、謀反の嫌疑を受けて誅殺された。
高士談
呉激
蔡松年
    ●後期 / 生粋の金人が活躍。しかし国運は傾き、領内の異民族や反体制の女真族の反乱、財政の失敗など世情が不安定になる。そして十三世紀に入ると新興のモンゴル族の圧迫が衰運を加速する。詩は世相を反映して、現実直視の姿勢と悲壮な感情表現を具えた詩風が行われた。ここに現われた大詩人が元好問である。
蔡珪
党懐英
元好問(1190-1257) 幼児より俊才をうたわれ、三十二歳で進士に及第。四十五歳の時に王朝はモンゴルに滅ぼされ、他の官僚とともに三年間拘留された。釈放後は元に仕えず、農民として著作に専念、有力者の援助を受けて生活した。金一代の詩集「中州集」を編纂し六十歳で完成。フビライに謁見、詩は1360首余現存。兄は元との戦いで戦死、詩は深い悲痛の色に染められている。収集した史料は「金史」び重用史料として活用され、「金史」制作の功労者として称えられている。  
1271-
  東西交流が活発化し、首都大都(北京市)は商業都市として栄え国際都市の様相を呈し、文化史的に一種の転換期の性格を有した。ただ人種別の身分制度が厳格であったため、融合して新しいものをつくるには至らなかった。逆に、少数民族出身の詩人の活躍が見られ、また異国の風物が題材となった。
■元代初期 / 草創期-第四代仁宗(1271-1311)の40年間
  耶律楚材(1190-1244) モンゴル系契丹族の出身、始め金に仕えたが、チンギス・ハンに招かれ、ついでオゴタイ・ハンに仕えて朝政に参与した。モンゴル政権の基礎を固めた功労者。しばしば諫言を行ってモンゴル軍の悪習を抑え、大虐殺を一度ならず防止、中原の産業や文化を救った功績は絶大なものがある。詩は、ホラズム国の首都サマルカンドでの連作が代表作。
劉因(1249-1293) 北方を代表する詩人。フビライに招かれて入朝、まもなく辞職して帰郷。南宋を追慕し、遺民の心情を投影、強い抵抗の気概を保持していた。
方回(1227-1307) 南方を代表する詩人。若い頃無頼で鳴らし三十歳半ばより南宋に仕えた。亡国後元に仕えたが間も無く辞職、詩に力を注ぎ教育に従事した。江西詩派を尊び、[一祖三宗]の説(杜甫を祖とし、黄庭堅・陳師道・陳与義を宗とする)を唱えた。詩には若い頃の行跡や奇矯、女性関係は見られず、真摯な作風。
趙孟頫(1254-1322) 特異な経歴・境遇から数々の名詩を残した詩人。宋の王室の出で南宋末に官途につく。亡国後は隠棲したが、フビライに招かれて元に仕えた。しばしば上手くかなかったが仁宗の時翰林院学士承旨に至っている。詩・書・画ともにすぐれた文化人で、特に書は[趙体]として称えられた。
  ■元代中期 / 元詩四大家
仁宗の時、政情の不安定化を防止するため中国風の官僚政治を導入、科挙も復活。結果、漢人官僚が多く朝廷に入り、詩の応酬も盛んとなる。元への反感は既に影を潜め、詩人たちは用字・句法など技巧面を熱心に追及、山水、題画、贈答の詩が多く作られた。この時期を代表するのが[元詩四大家]。いずれも唐詩を模範とする。
  楊載、范梈、虞集
掲傒斯(1274-1344) 時世批判の気骨と詩的感覚の冴えとの両方を最も鮮明に示した。行政の場でも、また正史(「遼史」「金史」「元史」)編集に当っても厳正実直な態度を貫いた。
  ■元代末期 / 最期の40年間
内乱の続発、朝廷の後継者争いなど壊滅の様相が色濃くなる。民衆の悲惨な境遇や社会の乱れを告発する詩人たち、薩都刺、王冕が現われる。一方、南方の文人層が意気盛んであり、政治と無関係に詩作に打ち込み、また結社を作って腕を競い合った。その代表的な詩人が楊維驕B
  薩都刺(1305?-1355?) 西域の回族(答失蛮氏)出身。二十歳の頃進士に及第、官途につく。直言のため左遷され、晩年は難を避けて杭州に隠棲。漢文化全体に造詣が深く、詩のほか書画にも秀でていた。詩の題材は多岐で、第一には社会批評の詩であった。
王冕(1287-1359) 農家の出身、放牧の傍ら学業に勤しみ、儒家思想に通暁した。しかし科挙には及第せず、天下を漫遊、のち官吏に推薦されたが受けず、やがて世の乱れを避けて九里山に隠棲、画を売って生活した。朱元璋が攻略の際し軍事作戦の職を授けたが、まもなく没。詩は、高潔志向の裏に、現実の世情への烈しい不満・反感が潜んでいる。たび重なる徴兵や重税のために困窮する農家のありさまを描く。
楊維(1296-1370) 三十二歳で進士、まもなく元末の世の乱れに遭って辞職、以後各地を転々とし隠者として過ごす。張士誠の招きで詩作に専念、江南詩壇の指導者として名声が高かった。奔騰する詩想で、詩風は奔放多彩で幻想に富み[鉄崖体]と称された。
1368-
  古典志向と在野精神 / 朱元璋(太祖洪武帝)は張士誠を倒して国都を南京とし国力及び漢文化復興に意を用いた。儒学を提唱し教育を振興、科挙を簡素化し詩作を科目から除外し八股文(八種の対偶を一定に並べて篇章を作る文体)を課した。
■明代初期 / 明らしさが現われ始めるあたりまで
  ●前王朝から既に名声のあった詩人たち / 高啓、劉基、袁凱ら
洪武帝の数々の粛清、酷薄な性格が官僚詩人たちの詩風に暗い影を落としている。
[呉中の四傑]高啓、楊基、張羽、徐賁。
高啓(号は青邱子、1336-1374) 十代半ばにして蘇州政権の主・張士誠の知遇を得てその幕下に出入し青邱に住む。朱元璋が明を建国すると「元史」の編者の一人として首都南京に召され、ついで要職に抜擢されるが、固辞して郷里に帰る。友人の謀反の容疑に連座し、三十九歳で腰斬の刑に処された。詩は李白からの影響が大きく、変化に富んだ詩想。あっさりした詠みで内省・感傷を示しながら、壮麗な詩境を作り出す。
劉基(1311-1375) 高啓につぐ詩人で、明の建国に功臣。弘文官学士などを歴任。辞職後、権臣に睨まれ投獄され獄中に憤死する。学者としても第一流であり、天文・兵法・数学・歴史・占術などに造詣が深かった。詩は、王朝交代期に生きる苦悩が率直に表されたものが多い。
袁凱(1316-   ?) 元末に仕官、楊維驍ノ賞賛されて名声を上げ[袁白燕]と呼ばれた。五十四歳で太祖に召され監察御史となるが、やがて太祖の不興を買い、精神の不調を装って帰郷した。杜甫と漢・魏の作を尊重し、明中期以降の擬古典主義の先がけを成した。
  ●[薹閣体]の流行 / 15世紀初頭、永楽帝の時代(1403-1424)太平が続いた。 社交性が濃厚で高官を中心に応酬唱和が盛んとなる。 [薹閣体]の中心となった詩人は[三楊]と呼ばれる楊士奇、楊栄、楊溥。
楊士奇(         ) 古詩に見られる豊かな文藻、絶句の知的構成、都雅で洗練された詩風。
于謙(1398-1457) 特に軍政に秀でた優れた官僚であり、地方で善政を行い、15世紀半ばに王朝が直面した危機を救った功労者。その剛直厳格な人柄が恨まれ、謀反の心ありと中傷されて投獄、棄市された。薹閣体全盛の時期にあって、独自の一を占める。詩の内容は社会不安を反映していた。
  ●詩風改革運動(李東陽ら)と江南詩人の擡頭(沈周ら)
[茶陵派] 李東陽ら(16世紀後半)、[薹閣体派]を排撃、唐詩尊重を主張。
李東陽(1447-1516) 茶陵(湖南省)の人。神童の誉れ高く十八歳で進士、翰林院に三十年間、しばしば直諌した。前半生は薹閣体の盛行期に当っていたが、その社交的で温雅な作風を嫌い、盛唐詩と唐宋八大家の古文を模範とする新しい流派[茶陵派]を起した。特に杜甫を尊敬し、律詩に力を注ぎ、端厳巧緻、標準的な対偶美を示す。後進を熱心に導き、門下から李夢陽、何景明らが出る。
江南詩人たち / 沈周と、彼の友人・弟子たちによる自由奔放な詩風−[呉中四才子]
15世紀後半、江南地区はようやく復興・安定し、商品経済の隆盛とともに詩文や書画の分野も大きく発展し始めた。作家たちはおおむね、官につかない在野の人であったため、李東陽以降、北方の宮廷を中心に盛行した擬古典主義と異なる詩風を形づくる。誇り高き江南文人の出現である。
沈周(         ) 永く文壇の指導的地位にあった。家は裕福で、学問・芸術の気風に富み、名士たちの往来も多く、常に豪奢な宴会が開かれていた。科挙に応ぜず、郷里を離れず、老母に仕え、兄弟の世話をして暮らした。詩とともに、画業に秀で唐寅、文徴明、仇英と共に[明四家]に数えられた。詩は、影や音声という付随的要素に注目し、雰囲気を巧みに捉え、叙景が極めて印象的である。
[呉中四才子] 沈周の弟子の中の四人で、北方の[前七子]と同時代に活躍。 祝允明、唐寅、文徴明、徐禎卿。
唐寅(1470-1523) 呉県の人。飲食店うぃ営む家に生まれる。十代半ばから詩や画に才能を発揮、十九歳で結婚したが、二十四歳のときに父と妻を、翌年に母と妹を喪い、自暴自棄の生活に陥る。二十九歳で郷試の首席となるが、翌年試験問題の漏洩事件に連座し受験資格を剥奪された。帰郷して再び頽廃の生活を送る。やがて立ち直り、知友に恵まれながら貧しい生活を続け、詩文書画の道に専念した。詩は形式に捕われず奔放で、時に荒々しい反骨精神をぶつける。
文徴明(1470-1559) 詩文書画に巧みで、特に山水画に秀でた。長命で呉の文人の指導的地位にあって三十年、書画で日本への影響も大きい。詩は感受性が鋭い。
  ■明代中期 / 擬古典主義の[前七子・後七子]
明中期、16世紀は全体として擬古典主義運動=[古文辞派]の時代であり、それがすなわち明詩全盛の時代となった。世紀の前半は李夢陽、何景明、徐禎卿らの[前七子]、後半は李攀龍、王世貞らの[後七子]が中心となって活躍した。
  [前七子] 徐禎卿以外はみな北方出身
李夢陽(1473?-1530) 古文辞派の最初の主張者で、支配的であった李東陽に飽き足らず、さらに極端に進める。書道が古人の模写から始まるように、詩作も古人の模倣から創造へ至るのが当然だとみなす。それは作詩技術を練磨する方法であると。剛直な性格で、権力者や同僚としばしば対立し、投獄・免職の憂き目に遭った。没後、景文と謚されている。[前七子]の領袖。詩は人柄そのまま豪壮優偉。
何景明(1482-1521) 李夢陽とともに[李何]と並称される。実直潔癖な人で、劉瑾を批判して罷免される。瑾没後、李東陽の尽力で復帰。詩では、復古を主張し初唐の四傑を重視。かつ李夢陽と比べると独創性の大切さを強調していることが目立つ。李夢陽が律詩を得意としたのに対し、古詩と絶句に特色を発揮した。
  [後七子] 擬古典主義をさらに先鋭化、盛り上げる。みな南方出身。やや教条主義に傾いた感さえある。
李攀龍(1514-1570) 早く父を亡い、母の手で育つ。三十一歳で進士、官僚生活の傍ら古文辞を大いに鼓吹した。自負心の強い性格で官途い意を得ず、のち辞職して郷里の郊外に隠棲、母が他界すると悲嘆の余り健康を損ね、翌年に世を去った。詩は脱俗の人生を湛えながら世俗への憤りや不遇の嘆きなどは取り上げず、からりと楽天的・肯定的な詠みぶり。
王世貞(1526-1590) 二十二歳で進士。途中政敵に幾度か陥られたが屈せず、栄達して刑部尚書に至る。李攀龍の没後二十年間、文壇の指導者として名声を高める。特に楽府・古体詩に定評があった。擬古典派の重鎮ながら類型性や陳腐さはなく、むしろ新鮮味がある。  
  ■明代後期 / 擬古典派への反省
大思想家の王守仁が発端となり、その詩想を文学評論に応用し大きな反響を呼んだのが李贄だった。
  王守仁(1472-1528) 王陽明のこと。当時官学であった朱子学に飽き足らず、文章学・仏教・道教・兵法などを研究模索し、一種の主観的・唯心論的立場に到達した。人の心の本体を[良知]であるとし、その完全実現が人生の目標であるという[至良知]説を唱えた。これは人間の言動の個性・自由を重視するものであった。自ら政治家として軍功を上げる傍ら講義を続け、江南一帯にその思想は広まった。特に農民や商工業者の間に大きな支持を得た。後継者は、理論を尊ぶ[右派]と、体制批判に急な[左派]とに分かれ、後者の最期に李贄が現われる。
李贄(1527-1602) 明末思想界にあって文学批評にも力を入れる。技法よりも内容、詩のみならず戯曲・白話(口語)小説も重視する。純粋な内心の必然性からの、童心説(発情説)を唱える。王守仁、李贄の思想の動向は、詩壇をも刺激し、擬古典主義に捕われない詩風をめざす[公安派]、ついで[竟陵派]の擡頭を促した。
  ●中期への反動 / 反擬古典主義の[公安派・竟陵派]の活動
[公安派]公安(湖北省)出身の袁氏三兄弟[三袁]宗道・宏道・中道、 李贄の主張を受け継いで擬古派に反対し、まずは真情を吐露すべきものとする。
袁宏道(1568-1610) 十代半ばより詩社を結成、二十四歳で李贄に面識を得て、その童心説に共鳴する。二十五歳で進士に及第し官僚に入るが、官吏の生活が合わず、また心身の健康を損ない隠棲と再出仕とを繰り返し、結局安定した生活が得られぬままに四十二歳で没した。詩は、才気に溢れた句作りと鬱勃たる反抗精神が見られる。
[竟陵派]代表者の二人がともに竟陵(湖北省)出身なための呼称。 思想・感情の表出が直接的過ぎて含蓄や余韻に欠けがちな公安派に、さらに詩としての深みを追求した。真実味ある表現を求めるに古人の詩の学ぶ必要も認め、公安派の軽率・平俗な面を批判して[幽深孤峭の境地を目指す。特異な用字・修辞を駆使する手法になっていき、難解・晦渋との評を被ることになる。
鍾惺(1572-1624)
譚元春(1586-1637)
  ●王彦泓と亡国詩人たち / 明王朝は、東林党と宦官一派との抗争、農民反乱、女真族の侵入と亡国の兆しを見せ、1644年に李自成の率いる農民軍が北京を占領するに至る。この時期、詩壇では盛んに結社が作られ、団結して憂国の心、民族意識を詠じ、往々政治活動に赴いた。その中で、独自の詩風を見せた王彦泓のような人物もいた。
王彦泓(1593-1642) 科挙に及第せず、晩年に職について終わった。詩は極めて耽美的・幻想的で[香奩体][西崑体]の詩風を受け継ぎ、不健康な雰囲気を伴う。
亡国詩人たち / 張溥と[復社]、陳子龍と[幾社]。
王朝に殉じた詩人たち / 張煌言、夏完淳。
1644- 清 
  漢詩の集大成 / 清王朝は再び女真族が建てた王朝で、中国文化を一程度尊重し、中国的統治法を採用した。明に続いて儒家思想を政治理念とし、科挙も実施。皇帝たちも学問を愛好し、中国の文芸復興時代を呈した。
詩に限っても、詩人と作品の多いこと、詩派、詩論の多いことは中国史上空前のことであった。清詩三百年の歴史は一般に三区分される。
1736-1759 ■清代初期(草創期から乾隆期
明の遺民詩人たちの活動から、その後を継いだ王士メA査慎行による清詩の基本的性格が確立。
  ●遺民詩人 / 明末の南方詩壇の作風を伝え、明・清ニ王朝に仕えた
銭謙益(1582-1664) 呉偉業・龔鼎孳とともに[江左の三大家]。明末清初の学界・文壇の中心人物であり、絶大な影響力を持っていた。真詩と無詩を区別。宋元詩を推奨。乾隆帝は著作をすべて没収し廃棄処分にする。
呉偉業(1609-1671) 隠居し郷里で文学結社を主宰。内省的・思索的。[梅村体]。
  ●清朝考証学の影響 / 明の学問が抽象的過ぎたのを是正し、実証と経世を旨とする。
顧炎武(1613-1682) 清朝考証学の祖。擬古派に反対し、世直しの精神を重視。清初の三大思想家の一人(あと王夫之、黄宗義)。朝廷の腐敗を批判、清軍の南下後は抵抗運動に加わる。各地を遊歴し学問を続ける。
  ●南施北宋と南朱北王 / 清初の詩人たち
清初の詩人として顧炎武と同世代の南施北宋、やや遅れて南朱北王が現われる。
宋琬(1614-1674) 官途についた直後に誣告され三年間獄中生活を送る。詩に憂愁の色が濃い。のちに王士モノよって施閏章とともに[南施北宋]と並称された。
施閏章(1618-1683) 行政の手腕にすぐれた博学で、晩年は翰林院の要職につく。「明史」の編集にも参加。詩は盛唐を模範とし格調高く、景と情がよく融合した作風、描写がとりわけ巧みである。
朱彝尊(1629-1709) 浙江省の人。明の滅亡後は読書や古代学に専念するとともに各地の史跡を遊歴。博学で、特に経学・史学・言語学にすぐれ「経義考」を著す。南方の詩壇に大きな影響力を持った。本拠地の浙江省では、王士モフ神韻説に染まらない、学問を重んずる独自の詩風が形成され[浙調][派]と呼ばれる。その後の浙派が宋詩を尊ぶのに対し、唐詩とりわけ杜甫を尊重した。王士モニともにそれぞれの出身地によって[南朱北王]と呼ばれ、両者はそれぞれの地域で詩壇の指導者となり、清詩の清詩らしさをほぼ確立する。このあたりまでを清詩の第一期とする。詩を警世・諷喩の具としてではなく、純粋に文芸として考える方に傾いている。
王士(1634-1711) 号は漁洋山人。新城(山東省)の人。山東の名家の出で、代々高官や文才に富む人が多く、六、七歳で詩才を発揮、十五歳で既に詩集を刊行。二十四歳で進士となり順調な官途を歩んだ。晩唐や北宋の影響下に[神韻説]を提唱。用字や技巧に捕われない率直な詠み、深刻な感情や主張・奇抜な着想など過度な表現を避け、むしろ言外の雰囲気を尊び、景と情がしめやかに融合する境地を目指す。この神韻説は圧倒的な支持を得、詩壇の中心人物となった。
査慎行(1650-1727) 康熙帝の傍近くに仕える。中国各地を歴遊する。しかし晩年に筆禍に連座して免職となり、翌年没する。ようやく明代擬古典派の束縛から逃れ、新しい価値を模索でき、次の第二期の先駆け的存在となった。詩体ごとの様式感に敏感な作風。
趙執信(               )
1796-1820 ■清代中期(乾隆から嘉慶初年 / 王朝の版図が最も膨張した時期
世の安定とともに詩作、詩作理論の探求がますます繁栄する。浙派では賜ユが大成してこの派の領袖となり、また王士モフ[神韻説]に続いて、詩の本質や詩作の心構えについて一定の拠り所を求める気風が生じ、新たな省察を加える段階となる。逆に、修辞や機知を競う、小さな詩境に安ずる傾向が強まっていくともいえる。
  ●格調説
沈徳潜(1673-1769) 早くから詩の研究家として名声が高かったが晩成型で、六十七歳で進士に及第、乾隆帝の信任を得て要職につき、宮中の教育係や郷試の試験官を勤めて名声を博した。致仕(辞職)してからは郷里にあって詩壇の重鎮となり格調説を主張。呉の地の詩壇=[呉派]の指導者となった。格調説の詩作の基本姿勢は、詩情と同時に「法」も必要なこと、構成は詩情に従うべきであること、詩の起伏や移り変わりは作者の詩情の変化を自然に反映するものであること。内容と形式の調和、もしくは形式の内面化を目指す。儒家的詩精神を尊び[温柔敦厚]に徹することことを求める。結局、中国伝統詩の原点に帰ることを主張する立場であった。つまり、明の擬古派の長所を認めるものであった。必然的に、宋・元の詩を正道から外れるるものとして排斥する。門下からは多くの学者詩人が輩出、その代表を[呉中七子]と称する。そのうちの一人、銭大マは、むしろ経学・史学・金石学にひろく通じ考証学の大家としてあまりにも名高い。
  ●性霊説
袁枚(1716-1797) 二十四歳で進士、沈徳潜と同期。各地の知事を歴任したが、四十歳のとき父の喪を機に官を辞し、江寧(江蘇省)の小倉山の山荘[随園]にて自適の生活を送る。本来浙派に属する詩人であるが、天才肌の風流詩人であり、詩・文ともにすぐれ、また山水の自然を愛し、六十歳を過ぎてからも多くの弟子たちとともに各地を歴遊した。著書「随園食単」も有名。乾隆期の後半を代表する詩人で、[性霊説]で感情表現が曖昧になりがちな神韻説や、道徳重視で自然さを欠きがちな格調説に反対した。個性と情感の表現を主とする「艶情の詩」を高く評価し、読書や学問そして典故の活用を意義を認め、王朝に左右されう古い時代を"標準として"学ぶことは拒否する。詩作の親しみやすさから、農民や商工業者など極めて広い範囲の人々が門に入った。女子の弟子も多かった。性霊説に共鳴した詩人に 蔣士銓、趙翼がいる。
蔣士銓 翰林院編修を勤め、その後、各地の書院の院長として教学に携わり、晩年には国史館纂修官となった。詩のほか戯曲創作でも有名であった。幅広く活躍した文化人。詩の社会的効用を重視。
趙翼(1727-1814) 各地の武官を勤めた後、官を辞し、安定書院で教育に携わり、晩年は著述に専念する。歴史学・考証学の大家であり、詩は正統的で老練な作風を見せる。
  ●肌理説
扇方綱(1732-1818) 官は内閣学士に至った。博学で経学、金石学、書画の学に通じ、また書家として清の四大家に数えられる。王士モフ高弟の黄叔謝に師事、趙翼と親交があった。また沈徳潜の弟子の銭大マらとも親しく、交友は多彩であった。肌理説は、神韻説や格調説の発展的継承であり、肌理とは肌の表面のあやのことで、詩の意味内容と修辞・形式の両方に渡る概念であった。詩人はそれぞれ自分の肌理に養うべきである、とする。それは詩作において自己・時代・題材に切実であること要し、それは幅広い学問によって可能となる、とする。宋詩、学問えお重んじ浙派との親近性も強く感じられる。
  ●浙派
賜ユ(1692-1753) 博学鴻詞科に推薦されたが試験に落第して帰郷、浙江の詩壇に大きな地位を占めた。陶淵明、謝霊運、猛浩然、王維を始め自然詩人に多くを学んだほか、幅広い読書・学問による教養を基盤とすること、宋詩を尊ぶこと、技巧の鍛錬にも心を配ることの三点を重視し、その後の浙派の特色として定着した。詞学にも通じ、情緒纏綿の趣がある。
2) その他の乾隆期の詩人たち / 独自の境地を開く
鄭燮(1693-1765) 呼び名は鄭板橋。各地の知県(知事)として善政を布く。六十一歳のとき上司と衝突して帰郷、以後は揚州で詩詞・書画に専念した。画家として[揚州八怪]の一人に数えられ、特に蘭、竹、石にすぐれていた。詩は社会批判に生彩があった。
黄景仁(1749-1783) 幼児より聡明で知られたが郷試を七度失敗、士官できなかった。十九歳で結婚。扇方綱の幕客になるなど高官たちの援助を得、その詩はひろく伝播されあが、不遇感が癒されぬまま常に貧窮と病気とに苦しみ、三十五歳で病没した。詩詞のほか書道にも秀でていた。詩は心境告白した自照の作が多い。
1821-1850 ■清代後期 / 嘉慶・道光から王朝末年
  ●嘉道の風 / 修辞を重んずる軽妙洒脱な詩風
張問陶(1764-1814) 呼称は張船山。若い頃は"李白の再来"と言われ、日本でも大いに読まれた。新楽府に連なる沈痛な社会詩も見られるが、より印象深いのは練達の名人芸を惜しげもなく披露した律・絶が多い。
陳文述(1771-1842) 西崑体を学ぶ。
阮元(1764-1849) 「経籍セン話」などの編者として名高い。
  ●宋詩派(清末江西派) / 動乱期・道光以後の百年間
白蓮教徒の乱(1796)からアヘン戦争(1840-42)、西欧列強の介入など史上未曾有の動乱期だった。詩は、伝統詩が民族意識の高揚と密接につながり国運を憂える作品が多くなる。また外国の文物・思想や新語を詩に取り入れる。
張維屏(1780-1820) 若い頃は「嘉道の風」の詩人であった。イギリス軍の広州攻撃を目の当たりにして詩風を一変させ、愛国精神の充満した作品となる。弱腰の政府を批判し、農民の闘争心を湛える。
程恩沢(1785-1837) 宋詩運動を提唱し、清末同光体の祖とされる。不穏な社会情勢を直視する。以後、同光体は、時事を論ずる傾向を一貫して見せ続ける。
  ●清末期の詩人たち
龔自珍(1792-1841) 官僚の家の出身。外祖父は古代言語学者。博学と才気は早くから有名だが、急進的姿勢が為政者に疎まれ科挙にしばしば落第、三十九歳でようやく進士、官途には恵まれなかった。十年後に官を辞して帰京、翌々年アヘン戦争最中に五十歳で病没。政治改革を主張、土地制度や国防を論じ清末の進歩的思想家の先駆となった。詩では直感や想像力を重んじ、象徴的手法を多用した。
林則徐(1785-1850) 四十年ほど役人生活を送り、その前半は各地で災害対策や教育事業に治績を上げ、後半はアヘン戦争に心血を注いだ。英軍に対して善戦したが、和平派によって罷免され追放処分となった。その四年後に復帰。太平天国の鎮圧のため大臣となって赴くが、途中で病死。文忠とおくりなされた。
朱g(1803-1861) 編修から御史に進み、しばしば天下の計を直言して名声を高めた。晩年には太平天国の鎮圧にも尽力している。前線で生命を落とした将兵たちを悼み、長く伝承された。
  ● 終末期の詩人たち / アロー戦争以後
第二次アヘン戦争(アロー戦争・1856-60)以後、列強の進出がますます露骨になる。清仏戦争(1884-85)、日清戦争(1894-95)と続く。各地の租借地が確定し、中国分割が起こる。光緒帝、康有為らの革新運動(変法自強)も西太后ら保守派によって弾圧される(戊戌の政変、1898)。そして義和団事件(1900-1)、列強八国との紛争、辛丑条約(1901)、清朝に対する漢民族の不満、こうして立憲政体への希求が一気に高まる。ついに1911年に四川暴動を端緒として辛亥革命が勃発、翌年宣統帝溥儀は退位。このような状況を詠んだ宋詩派の詩人に陳宝探と陳三立がいる。
陳宝探(1848-1935) 進士で、直諌を行って西太后に罷免された硬骨の士。宣統帝の即位とともに召されて入京し、帝の侍講(書物の講義をする役)となっている。詩は終末観が強い。
陳三立(1852-1937) 戊戊の変法に参加したため罷免され、辛亥革命の後は遺老として日々を送った。同光体の殿将と称された。詩は、伝統い捕われず新鮮。
  ●新派・詩界革命
清末宋詩派を脱して、伝統詩の新たな存在意義を求めて努力。
康有為(1858-1927) 変法運動の指導的立場。
梁啓超(1873-1929)
譚嗣同(       )
黄遵憲(1848-1905) 日本公使書記官、サンフランシスコ総領事、英仏公使館二等参事官、シンガポール総領事などを歴任。長い外交活動の中で諸外国の社会事情や制度・文物に触発され、日清戦争後は康有為、梁啓超らの変法運動を支援する。その後、帰郷して教育・著述に専念する。
  ●革命家たちの詩 / 中国革命同盟会、南社の周辺
新派の詩風は、19世紀から20世紀初頭、民主政体を目指す革命運動の中に受け継がれ、高揚していった。
1) 革命同盟会(孫文)の詩人
秋瑾(1875-1907) 日本に留学、孫文の革命同盟会に加わり、帰国後は各地で革命組織の拡充に尽力。しかし武装蜂起の計画が露見し、郷里で処刑された。
2) 革命的文学結社・南社(1909)
詩文によって革命を鼓吹することを目的とする。辛亥革命後は軍閥政権への反抗を表明。
陳去病(1874-1933)
高旭(1877-1925)
柳亜子(1887-1958) この社の代表格。上海愛国学社、中国革命同盟会に属し、数回に渡って南社の代表を務めた。辛亥革命後は孫文の秘書や国民党の要職を勤め、魯迅とも親交があった。中華人民共和国成立後は中央人民政府委員会委員、全国人民代表大会常務員会委員などを歴任。中国現代史を背負って立った人物の一人。
南社の他の詩人 / 黄節(1873-1935)、蘇曼珠(1884-1918)、周実(1889-1911)
   
  ■詩的演變
一.詩經與楚辭
曾經有人問我:中國第一首詩是甚麼?這個問題大概沒人能夠回答!最早的詩應 該只是古人為抒發情感,用通俗的口語,在很自然的情況下,隨口所吟唱而成。沒有 固定的模式規範,正如毛詩序所說:「在心為志,發言為詩,情動於中而形於言,言 之不足,故詠歌之」。商周之時,詩漸用於教化萬民。且每逢天子巡守,各國必將他 們的詩作〔陳而觀之〕,天子亦將此做為對各國考核的依據。(見朱熹詩經傳序)〔 詩經〕便是收錄當時十五國的詩歌,並經孔子修訂,分為風(里巷歌謠),雅,頌( 朝廷郊廟樂歌之辭)三大部分,可以說是中國最早的詩歌集成。可惜原可吟唱的音律 已失,至今只有歌詞的部分了!至於〔古今樂錄〕所言,堯作〔神人暢〕,舜作〔南 風歌〕,〔思親操〕,應屬後世偽託,不足採信!
到了戰國時期,南方的楚國,也產生了一部經典之作〔楚辭〕。它是由後人(漢  劉向)整理,並雜以漢代民間仿作而成。其作者,歷來爭論頗多,其中〔離騷〕, 〔九歌〕、〔九章〕、〔天問〕四篇為屈原所作,較無異議。
從北詩經,到南楚辭,詩由於不再限定四言,而是以長短句的方式,這種方式, 便於表達新的創作。整體觀之,〔楚辭〕無論在內容(如多了神話色彩),手法(賦 比興),詞藻(更為豐富),及韻(以南方口語為主)的運用都超出了〔詩經〕,創造了詩的首次變革。
二.漢
到了兩漢,代之而起的是〔樂府詩〕,因漢武帝建〔樂府〕為採詩機關,故名之 。後來便將這種配合樂曲能吟唱的詩,統稱之為〔樂府〕了。此時,四言詩逐漸式微 ,大部分用於郊廟歌辭,流為歌功頌コ之用。正如白居易詩道:郊廟登歌贊君美,樂 府艷詞ス君意。反倒是五言詩,卻由〔樂府詩〕脫穎而出,發展出另一番風貌!
尤其漢末建安年間,世局動蕩不安。詩的創作,遂轉由一些失意政客與身遭離異 變故的民間百姓發揚光大。〔古詩十九首〕、〔孔雀東南飛〕等,實為後代古詩的先 導,建安文風,更深遠影響此後中國詩壇。
三.魏晉南北朝
漢朝文以賦為主,詩作較少,從表面上看,樂府與古詩很難分辨,伶工所奏是〔 樂〕,詩人所吟的是詩,詩是樂府的歌詞,而無法入樂的詩便稱之為古詩了!歷來有 許多研究者,如董文煥、王漁洋等,試圖找出古詩的規律性,卻也不能一以定之。魏 晉時期,從初期曹操父子三人,以及所謂三張,〔華、載、協〕二陸〔雲、機〕兩潘 〔岳,尼〕一左思,一直到東晉的竹林七賢、郭璞、陶淵明,是五言古詩最蓬勃的時 期。當時只對聲律的協調還有注意,但字的平仄講究,則要到南北朝了。
南北朝時,佛教大盛,大量佛經自天竺傳入中土需要翻譯。因此,字的聲調開始 受到注意。南史陸厥傳:〔時盛為文章,吳興沈約,陳郡謝朓,琅邪王融以氣類相推 轂。汝南周顒善識聲韻。約等文皆用宮商;將平上去入四聲,以此制韻...有平頭 上尾蜂腰鶴膝。〕從此,四聲八病便為詩加上了桎梏,最後便形成唐代的近體詩了!
四.隋
繼沈約後,隋朝陸法言、劉臻、顏之推、魏淵、盧思道、李若、蕭該、辛コ源、 薛道衡等八人,將各地語音歸納,做了〔切韻〕一書,計一九三韻。其後廣韻,到今 日所本的詩韻(平水韻)一零六韻,皆由此演變而來。
五.唐
唐朝,是中國古詩最輝煌的朝代。明朝高棟的〔唐詩品彙〕將唐朝分為初唐、盛 唐、中唐、晚唐、四個階段。初唐時宋之問,沈佺期,杜審言(杜甫祖父)等,正式 將律詩定型。至於絕句,一說受六朝五言四句民歌影響(如樂府之烏夜啼、子夜歌) ,一說乃截律詩四句而成。但無論如何,這種具有固定格律的律詩與絕句,這兩大近 體詩的主角,便從此成為以後古詩的主流。雖然除此仍有其他詩體,(如排律)亦只 是聊備一格罷了!
六.宋
曲子詞,就是一般所說的詞,之所以稱〔詩餘〕乃因它是由詩所演變而來。起於 隋而盛於宋。除與音樂相配合,更具音樂性外,王國維〔人間詞話〕說〔詞之為體, 要眇宜修〕,是詞在表現手法上的另一特色。
七.元
元曲起源,雖可上溯漢朝樂府以前,然與宋詞界限不明,後人乃將它定以〔元曲 〕之名,以別於宋詞。因而有〔詞餘〕之稱。它的文字淺顯通俗,非常平民化,這是 因當時漢族文人仕途受限,轉至創作民間戲曲的時代背景,具相互因果關係。
八.近代
經過明.清兩朝,到民國初年的五四運動之後,由於白話運動及西風東漸,詩做 了徹底的改變;這就是我們現在所流行的新詩了。  
  ■詞的常識

也寫作「辭」。也稱「詩餘」、「長短句」、「琴趣」、「樂章」等。唐五代時稱為「曲詞」或「曲子詞」。宋代稱為「歌詞」、「小歌詞」,或稱「曲」、「曲子」,古詩體之一。本為按樂譜曲調和節拍來填寫、歌唱的一種文學樣式。根據樂調上的變化,一般可分為小令、中調、長調三類。明代武陵逸史《類編草堂詩餘》以五十八字以內為小令,五十九字至九十字為中調,九十一字以外為長調。每首詞內的分段,又有單調、雙調、三疊、四疊的不同。句式以參差不齊為特點,講究平仄格律和用韻。始於唐,盛於宋。關於詞的起源,歷來有不同的說法:
(一)或認為起源於前代的樂府詩,如王國維《戲曲考源》云:「詩餘之興,齊梁小樂府先之。」
(二)或認為由近體詩配樂時經過加減字演化而成,如宋代朱熹《朱子語類》云:「古樂府只是詩,中間卻添許多泛聲,逐一聲添個實字,遂成長短句,今曲子便是。」
(三)或溯源於上古歌謠和《詩經》,如清代汪森《詞綜序》云:自有詩而長短句即寓焉,〈南風〉之操,〈五子之歌〉是已。周之〈頌〉三十一篇,長短句居十八,漢〈郊祀歌〉十九篇,長短句居其五,至〈短蕭鐃歌〉十八篇,篇皆長短句,謂非詞之源乎?
(四)或認為由胡樂(西域音樂)和民間小調中產生,如明代吳訥《文章辨體‧序元天寶中,梠R成俗。於時才士,始依樂工按拍之聲,被之以辭。其句之長短,各隨曲度。流傳下來的詞調,清代萬樹《詞律》收六百六十調,清代王奕清編《欽定詞譜》收八百二十六調,經後人陸續補輯,總數不下一千餘調。
長短句
詞的別稱,因句式長短不齊而得名。詞是入樂文學,以詞從樂,句子的長短,要根據曲調的節拍而訂,故或長或短,參差錯落,現存宋人詞集中,以長短句題名者,有秦觀《淮海居士長短句》、辛棄疾《稼軒長短句》、劉克莊《後村長短句》等。
小令
(一)也稱「令曲」,短調的詞,如「十六字令」、「漁歌子」、「浣溪紗」等。自明嘉靖顧從敬刻本輯《草堂詩餘》以小令、中調、長調為目錄以後,舊詞譜即據以為例。五十八字以內為小令,五十九字至九十字稱中調,九十一字以上稱長調。清人徐コ《詞苑叢談》:「唐人長短句皆小令,一名可演為中調、長調,或繫之以犯、近、慢,不能以字數分。」清萬樹《詞律》亦不用舊說,只泛稱短調為小令。
(二)也稱「葉兒」。散曲的一種。短小、單隻、一韻到底的曲子,如〈中呂官‧陽春曲〉、〈雙調‧天淨沙〉等,一般單隻成篇。另有幾種特殊形式:
1.按照原曲調重複一遍,兩遍之間加「么」字,稱「么篇」。
2.按照同一曲調重複多遍,用韻互異,首尾句法全同,稱「重頭」。
3.將兩、三個宮調相同而音律銜接的單隻曲子聯接起來,用時標明什麼曲帶過什麼曲,稱「帶過曲」。
4.自同一宮調或屬於同一笛色的不同宮調內,選取不同曲牌的各一節,聯為新曲,另立新名,稱「集曲」或「犯調」,如〈風入松犯〉、〈甘州歌〉等。
5.摘取大曲中的一遍或若干遍以製曲,稱「摘遍」,如〈泛清波摘遍〉等。
中調
詞調體格之一。明代武陵逸史《類編草堂詩餘》以五十九字至九十字為中調,相沿成例。包括「引」和「近」等。往往在詞牌上就有「引」、「近」、「近拍」之類字樣,如〈清波引〉、〈好事近〉、〈快活年近拍〉等。
長調
詞調體格之一。明代武陵逸史《類編草堂詩餘》以九十一字以上者為長調,相沿成例。如:〈水調歌頭〉、〈八聲甘州〉、〈沁園春〉等。
詞牌
詞調名。詞最初需配合音樂歌唱,故需按律製調,依調填詞,根據詞的內容標題,這個標題就是詞牌。後來詞已不再配樂歌唱,詞牌和詞的內容不再有聯繫,各詞牌名只作為文字結構的定式。詞牌之得名,一般有具體來源。如〈烏夜啼〉係借古樂府曲名〈金谷曲〉取晉石崇金谷園為名;〈玉樓春〉取唐白居易〈玉樓宴罷醉和春〉詩意為名等。有的詞牌同調異名,如〈蝶戀花〉又名〈鵲踏枝〉、〈鳳棲梧〉、〈一籮金〉、〈明月生南埔〉、〈捲珠簾〉、〈魚水同歡〉等。有的詞牌同調異體,如〈何滿子〉,正格為三十六字,單調;又一體為三十七字,單調;或七十四字,雙調。詳清代萬樹撰《詞律》和清代王奕清編《欽定詞譜》。
單調
詞牌體例之一。指一闋為一首的詞,往往就是一首小令,如〈漁歌子〉、〈如夢令〉、〈桂殿秋〉等。
雙調
詞牌體例之一。將一首詞分為前後兩闋兩闋的字數相等或基本上相等,平仄也相同。字數相等的就與一首曲譜配兩首歌詞相似;字數不相等的,一般是開頭的兩三句字數不同或平仄不同,叫做「換頭」。雙調的詞有的是小令,有的是中調或長調,是詞最常見的形式,如〈踏莎行〉、〈鷓鴣天〉、〈漁家傲〉、〈賀新郎〉等。
三疊
詞牌體例之一。三闋一首的詞,如〈蘭陵王〉等。
四疊
詞牌體例之一。四闋一首的詞,如〈鶯啼序〉等。  

樂府詩
韻と五七調・七五調
唐代の詩人たち、例えば李白や杜甫が詩を作る時は、筆と紙を構えて即座に書きとめるということも勿論したであろうが、我々後代の鑑賞者の抱くイメージでは、眼前に広がる感動的な情景を前にして、朗々と声に出して吟じる姿である。しかしそれはそのまま本当にそうであったのであろうか。日本の歌人や俳人達の場合はどうであったであろうか。『万葉集』の長歌等の場合を除いて、和歌や俳句は比較的短いものであるし、七五調・五七調のリズムにも助けられて、そのまま記憶に留め、後になってそれをかきとめたのかもしれない。しかし記憶という点では唐の詩人たちの場合はどうであったろうか。これもやはり長い詩は別として、七言の律詩ぐらいまでなら、作り終えたその場でそのま ま記憶しておく事はそんなに難しい事では無かったであろう。
日本の場合、七五調五七調と言うリズムは声に発するにも、耳に聴き取るにも、脳に記憶するにも、きわめて頭と心に無理なく落ち着いて、そのリズム上の特徴が、和歌や俳句が後の時代までも永く人々の口の端に繰り返され、書写伝世と相俟って、今になお残り得てきた理由であろう。唐詩の場合、こうした日本の七五調五七調に代わるものが押韻であり、平仄であったであろうと思われる。英語で書かれた詩にも良く見られる押韻は、中国語の詩にはあっても、日本語の詩には無い。ただ日本には、所謂押韻ではないが、次のようなものが、古事記歌謡にはある。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
これは「八雲」を引き手として、三回にわたる「八重垣」を引き出し、更にその「八雲」から「出雲」に繋げているのである。又日本書紀歌謡の来目歌には、
忍坂の 大室屋に 人多に入り 居りとも 人多に来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭槌い 石槌い持ち 撃ちてし止まむ
とある。これらは韻ではなく、同音の語を繰り返して、その意味とともに響きを楽しむものである。また句頭に同音語を繰り返すものもある。万葉歌27番天武天皇の、
よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見
などがそれである。ただこうした場合は些か諧謔的な意味合いを出すのに効果を挙げているといえる。また近現代の例も無いではない。例えば童歌の
あんた方何処さ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場さ 船場山には狸が居ってさ…
の「さ」などがそれであるし、嘗ての文部省唱歌、
春が来た 春が来た 何処に来た…
の句末の「来た」もそれである。要するに古代の口頭伝承性の強い詩歌、御伽噺、説話、言い伝え、諺語、また文字をあまり媒介とすることの無い地方で歌い継がれてきた民謡、或いはまだ文字と言うものに習熟していない小児を対象とした詩や歌に繰り返しが多いのは、伝承の条件から考えて当然の事なのであろう。
樂府詩以前・『詩經』詩の韻
詩歌における語句の繰り返しは、もちろん中国の古詩にも数多く見ることができるものである。中国で最も古いとされて、清の沈徳潛『古詩源』の巻頭に掲げられている「撃壌歌」
日出而作 日入而息 鑿井而飮 耕田而食 帝力我於何有哉。
(日出でては作り 日入りては息ふ 井を鑿ちて飮み 田を耕やして食す 帝力我に何か有らむや)
はそれぞれの句末、「作」は入声の鐸韻、「息」は入声の職韻、「飲」は上声の寝韻、「食」は入声の職韻に属している。つまり第二句と第四句が、可なり定石通りに韻を踏んでいる。編者沈徳潛の解説によると、この歌は、「『帝王世紀』(逸書 晋 皇甫謐)によるもので、帝堯の世の歌。天下太平、百姓無事を、一市井の老人が歌った」とある。これを、特に其の時代などをそのまま信じるわけにもいかないが、しかし春秋期以前の相当古いものであることは間違いあるまい。それでも韻は『詩經』詩に見える格律の通りに踏んでいるのである。また同書の第七番目の歌「帝載歌」を見ると、
日月有常 星辰有行 四時從經 萬姓允誠 於予論樂 配天之靈 
於賢善 莫不咸聽 鼖乎鼓之 軒乎舞之 菁華已竭 褰裳去之。
(日月常有り 星辰行有り 四時經に從ひ 萬姓誠に允す 予に於ひて  樂を論しめば 配天の霊は 賢善にりて 咸く聴かざる莫し 鼖乎として鼓ち 軒乎として舞へば 菁華已に竭きて 褰裳去る)
これは第三句末、第六句末、第八句末で韻を踏んでいる。「經」は平声青韻、「靈」も平声の青韻、「聽」も平声の青韻である。以上二種は、題名に歌字が付いているから恐らくある種のメロディーに載せて歌ったのであろう。
中国現存最古の詩集である『詩經』の詩も、国風、大雅、小雅、頌に分かれているが、風は各地方の民謡であり、またそれらを借りて宮廷用としたものが大雅であり、小雅である。頌は各王朝の成立と善政についての賛歌・郊廟歌であり、踊りも付いていたといわれている。今此処に『詩經』詩の押韻の例を王力の『詩經韻読』にしたがっていくつか掲げてみよう。
先ず国風・周南の『關雎』
關關雎鳩(kiu)  在河之洲(tjiu)
窈窕淑女     君子好逑(qiu)
參差荇菜     左右流(liu)之
窈窕淑女     寤寐求(qiu)之
求之不得(tek)  寤寐思服(biuek)
悠哉悠哉     輾轉反側(tzhiek)。
參差荇菜     左右采(tse)之
窈窕淑女     琴瑟友(hiue)之
參差荇菜     左右芼(mo)之
窈窕淑女     鐘鼓樂(lok)之。
(關關たる雎鳩は 河の洲に在り 窈窕たる淑女は 君子の好逑たり 參差たる荇菜は左右之を流し 窈窕たる淑女は 寤寐之を求む 求めて得ざれば 寤寐思服す 悠なる哉悠なる哉 輾轉反側す 參差たる荇菜 左右に之を采る 窈窕たる淑女は 琴璱之を友とす 參差たる荇菜 左右に之を芼らぶ 窈窕たる 淑女は鐘鼓之を樂しむ)
次に大雅の『大明』を挙げてみると、
明明在下     赫赫在上(zjiang)
天難沈斯     不易維王(hiuang)
天位殷適     使不梜四方(piuang)
摯仲氏任     自彼殷商(sjiang)
來嫁于周     曰嬪于京(kyang)
乃及王季     維コ之行(heang)
大任有身     生此文王(hiuang) 以下略
(明明たること下にあれば 赫々たること上にあり 天沈まことになり難く 易やすから不りしは維これ王 天位は殷適も 四方を梜たもたた不ら使む 摯しの仲ちゅう氏し は任 彼の殷商自り 來たりて周に嫁つぎ 日ここに京けいに嬪ヨメたり 乃ち王季と 維こ れコを行なへり 以下略)
次に小雅の「鹿鳴」では、
呦呦鹿鳴(mieng) 食野之苹(being)
我有嘉賓     鼓瑟吹笙(sheng)
吹笙鼓簧(huang) 承筺是將(tziang)
人之好我     示我周行(heang)。
呦呦鹿鳴     食野之蒿(xo)
我有嘉賓     コ音孔昭(tjio)
視民不恌(thyo)  君子是則是傚(heo)
我有旨酒     嘉賓式燕以敖(ngo)。
呦呦鹿鳴     食野之芩(giem)
我有嘉賓     鼓瑟鼓琴(giem)
鼓瑟鼓琴(giem) 和樂且湛(tem)
我有旨酒     以燕樂嘉賓之心(siem)。
(呦呦として鹿鳴き 野の苹を食す 我に嘉賓有り 瑟を鼓ち笙を吹く 笙を吹きて簧を鼓ならし 筐はこを承ささげて是れ將す 人之れ我を好み 我に周行を示す 呦呦として鹿鳴き 野の蒿を食す 我に嘉賓有り コ音孔はなはだ昭らかなり 民に視めすこと恌うすからず 君子是れ則り是れ傚ふ 我に旨酒有り 嘉賓式そ って燕えんして以って敖たのしむ 呦呦として鹿鳴き 野の芩を食す 我に嘉賓有り 瑟を鼓き琴を鼓く 瑟を鼓き琴を鼓き 和樂して且つ湛たのしむ 我に旨酒有り 以って嘉賓の心を燕やすんじ樂しましむ)
( )の中は王力による復元古代音である。その音で見る限り、『詩經』の詩が非常にはっきりした韻を踏んでいたという事が分かる。
しかし五七調・七五調にしろ、押韻、平仄にしろ、或いは同音・同語や繰り返しの場合であっても、いずれの場合でもそれらは口に出さないと、そのリズムや韻律の調和の美しさや、繰り返しの音の面白さは感じ取る事が出来ない。
ゆえにこのような所謂「詩」と言う形態のものは全てすべからく、詠む者は声に出し、自らそれに陶酔し、或いは他者に聞かせ、聞くものを使て陶酔の境地に向かわしめようとしたはずである。しかしこうしたリズムや韻律の調和などの技巧を凝らさなくても人を酔わしめるほどの美しさを感じさせるものがある。それはとりもなおさず、 メロディーに乗せられた「うた(歌)」である。歌は五七調・七五調のリズムや、韻律の調和等は必ずしも必要ではない。ただ美しいメロディーがあれば、それにはおのずとリズムが決まっているから、それにあわせて歌う事が出来さえすれば、歌う者にとっても、聴く者にとっても美しいのである。そういう意味から、人類の歴史の上で、所謂ポエムよりソングの発生のほうが早いというのは当然のことであろう。ただ残念ながらポエム以前のメロディーで今に残るものは、残す方法が無かった為に無い。ただ「歌」の場合も、まず詩を作ってからそれに合わせて曲を作るとか、曲に合わせて詩を作る場合でも、やはりリズムや韻律の調和に合わせたほうが耳にスムーズに響くという事から、今に残るものとしての歌詞(歌詩)も多くはその為の技巧が凝らされている事は論を待たない。中国の詩としては、唐代が最も盛んであったと思われるのであるが、その唐詩の吟唱の場合もメロディーと同じで、古代の詩人たちがどのような節調で吟じたのかは今となっては全く分からない。
樂府の設置
前漢時代には、音楽を掌る役所として「樂府」が設けられた。『漢書』「禮樂志」に、「至武帝、定郊祀之禮、乃立樂府、采詩夜誦(武帝に至り、郊祀の禮を定め、乃ち樂府を立て、詩を采し夜誦す)」とある。此処で全国各地から多くの歌や音楽や歌詞があつめられ、それらは宮廷での儀式や儀礼に、そのまま或いは編曲され、或いは新たに別の歌詞が作られてそれらの曲に、歌謡として供されるという事もあったであろう。しかし「采詩」はともかく、楽曲はどのような形で集められたのであろうか。現代の楽譜の役割を果たすようなものか、或いは何かそれに替わるような何らかの方法が取られたのであろうか、非常に興味のもたれる点である。また樂府に集められた楽曲の中には、当時の漢民族の領域からは遠く離れた地域から集められたものもあったらしい。清の郭茂倩『樂府詩集』「横吹曲辞」の項には、
横吹曲、其始亦謂之鼓吹、馬上奏之、蓋軍中之樂也、北狄諸國皆馬上作樂、故自漢已來北狄樂総歸鼓吹署。其後分爲二部、有簫笳者爲鼓吹、用之朝會、道路、亦以給賜。漢武帝時、南越七部、皆給鼓吹是也。有鼓角者爲横吹、用之軍中、馬上所奏者是也。《晉書・樂志》曰〈横吹有鼓角、又有胡角。按周禮云『以鼖鼓鼓軍事』。舊說云、蚩尤氏帥魑魅、與黄帝戰於涿鹿、帝乃始命吹角爲龍鳴以禦之。其後魏武北征烏丸、越沙漠而軍士思歸、於是减爲鳴、尤更悲矣。横吹有雙角、卽胡樂也。漢博望侯張騫入西域、傳其法於西京、唯得《摩訶兜勒》一曲。李延年因胡曲更造新聲二十八解、乘輿以爲武樂、後漢以給邊將、和帝時萬人將軍得用之。
(横吹曲は、其の始亦之を鼓吹と謂う、馬上に之を奏でる、蓋し軍中の樂なり、北狄諸國皆馬上に樂を作す、故に漢自り已來北狄の樂は総て鼓吹署に歸す。其の後分かれて二部と爲る、簫笳有る者は鼓吹と爲す、之を朝會、道路に用い、亦た以って賜に給す。漢武帝の時、南越七部、皆鼓吹を給するは是なり。鼓角有る者は横吹爲り、之を軍中に用いる、馬上奏する所の者は是なり。《晉書・樂志》に曰く、〈横吹に鼓角有り、又胡角有り。按ずるに周禮に云く、『鼖鼓を以って軍事を鼓する』舊說に云く、蚩尤氏魑魅を帥ゐて、黄帝と涿鹿に戰う、帝乃ち始め吹角に命じて龍鳴を爲し以って之を禦す。其の後魏武北して烏丸を征し、沙漠を越えて軍士歸らんと思ふ、是に於て鳴を爲すを減じ、尤も更に悲し。横吹に双角有り、卽はち胡樂なり。漢の博望侯張騫西域に入り、其の法を西京に伝う、唯《摩訶兜勒》一曲を得。李延年因って胡曲を更に新聲二十八解を造り、輿に乘りて以って武樂を爲す、後漢以って邊將に給す、和帝の時萬人將軍得て之を用う。〉
とある。以上から分かる事がいくつかある。
すなわち、
@ 樂府の横吹曲辞の中には北狄諸国の歌がある。
A また横吹曲が北狄から入ったのは非常に古く、伝説上では黄帝、蚩尤の時代から既にあったとされている程である。
B張騫博望侯が胡樂を西域から持ち帰った。
C 北狄と非常に深い関係を持っていたと思われる中山王国出身の李延年が胡曲を基礎にして新たに二十八章を作った。
北狄諸国の歌といえば、『樂府詩集』の新歌謡辞に、有名な六朝期東魏の勅勒人(恐らくトルコ系民族)斛律金がったという『勅勒歌』がある。この歌の歌詞は
勅勒川陰山下、天似穹廬、籠蓋四野、天蒼蒼野茫茫、風吹草低見牛羊。
(勅勒の川は陰山の下にあり、天は穹盧に似て、籠りて四野を蓋ふ。天は蒼蒼として野は茫茫たり、風吹き草低れ牛羊見ゆ。)
とあって、広々とした大草原を思わせる雰囲気は感じられるものの、北狄異民族の歌と思わせる歌詞が特に含まれているわけではない。ただ『唐書、回鶻傳・上』に、
回鶻其先、匈奴也、俗多乘高輪車、元魏時亦號高車部、或曰勅勒、訛爲鐵勒。
(回鶻其の先は、匈奴なり、俗は多く高輪車に乘る。元魏の時高車部と號す、或いは曰く勅勒、訛して鐵勒と爲す)
とあり、回鶻、高車や鉄勒と言うのは現在のウイグル族を指すものとされている。モンゴル族の出自も陰山山脈のほとりとされているから、「勅勒川陰山下」とあれば、回紇の先が匈奴とされるのも無理は無いものと思われる。現在匈奴はモンゴル族の祖先であり、ウイグル族はトルコ系の民族で、モンゴルとは全く異なるものとされている。しかしこの両者は出自がアジアのほぼ同地域であるために、古代へ遡れば遡るほど其の境界線は曖昧になってくることも確かである。
樂府詩の特徴
『樂府詩集・勅勒歌』の解説の中に、
其歌本鮮卑語、易爲齊言、故其句長短不齊
(其の歌本は鮮卑語なり、易えて齊言と爲す、故に其の句は長短齊はず)
とも見えることを考えあわせると、樂府に集められた歌の中には、西方トルコ系諸民族の歌もある程度含まれていたという事が分かる。そして「長短不ぞろいな句」は、新歌謡辞や横吹曲辞の一部ばかりでなく、鼓吹曲辞や相和歌辞にも結構多い。
例えば鼓吹曲辞では、『戰城南』、
戰城南       城の南に戰ひ
死郭北       郭の北に死す
野死不葬烏可食  野に死して葬むられざれば烏食すべし
爲我謂烏      我が爲に烏に謂へ
且爲客豪      且らく客の爲に豪せよ
野死諒不葬     野に死して諒に葬むられず
腐肉安能去子逃  腐肉安んぞ能く子を去りて逃げん
水深激激      水深く激激たり
蒲葦冥冥      蒲と葦は冥冥たり
梟騎戰闘死    梟騎は戰闘に死せり
駑馬徘徊鳴    駑馬は徘徊して鳴く
梁築室       梁、室を築くに
何以南       何ぞ南を以ってし
梁何北       梁、北を以ってす
禾黍而穫君何食 禾黍あれど穫りて君何を食さん
願爲忠臣安可得 願ひて忠臣たらんとするも安んぞ得べけんや
思子良臣     子の良臣たるを思ひ
良臣誠可思    良臣誠に思ふべし
朝行出攻     朝行きて出て攻め
暮不夜歸     暮れても夜歸らず
また『上邪』では、
上邪        上よ
我欲與君相知   我は君と相い知らんと欲す
長命無絶衰    長く絶え衰ろふこと無から命む
山無陵       山に陵無く
江水爲竭      江水爲に竭き
冬雷震震夏雨雪 冬雷震震となり夏雪雨る
天地合       天地合えば
乃敢與君絶    乃ち敢えて君と絶へん
であるが、このほかに『思悲翁』『艾如張』『翁離』『巫山高』『雉子班』など。横吹曲辞では『隔谷歌』、など。また相和歌辞でも『東門行』を例として挙げると、
出東門       東門を出て
不顧歸       歸ることを顧みず
來入門       來たりて門に入る
恨欲悲       恨みて悲しまんと欲す
盎中無斗米儲  盎の中には斗米の儲無く
還視架上無懸衣 還視れば架上に懸衣無し
抜劍東門去    劍を抜き東門より去かんとすれば
舎中兒母牽衣啼 舎中の兒の母衣を牽きて啼く
他家但願富貴  他の家但富貴のみを願う
賤妾與君共餔麋 賤妾は君と餔麋を共にせん
上用倉浪天故  上は倉浪の天の故を用ってし
下當用此黄口兒 下は當に此の黄の口の兒を用ってすべし
今非        今は非なり
咄行吾去爲    咄行かん吾去くはしと爲す
白髪時下難久居 白髪時に下け久しくは居り難し
このほか『烏生』『董逃行』『西門行』『婦病行』『孤兒行』等である。これは西南異民族歌謡の影響を深く受けてきた『楚辭』等の詩は一応別として、それまでの伝統的な漢民族の四言詩を基調とした『詩經』の詩などとはかなり異なった雰囲気を持っているといえる。これらの詩の中からいくつかの特徴をまとめて挙げてみると、
@長短句がそれぞれ不ぞろいである。
A歌辞全体に亘って現実的な物語性が認められる。
B歌辞に『詩經』に使われていたような雅語的な言葉だけではなく、会話的、俗語的な語彙が散見される。
C古代歌謡特有の繰り返し、また繰り返しによる次節内容の示唆が少ない。
D古代歌謡、説話などによく見られる、擬人法的表現、語り口が少ない。
E樂府詩は、特に長短不ぞろい句である為もあって、あまり確実な韻は踏んでいないことが多い。
一句の長短が不ぞろいであるという事は、これらが歌詞であるという事から考えて、敢えて簡単に言ってしまうと、一小節、つまり一息の間に歌われる歌辞音節が少ない句は、比較的テンポがゆっくりとしており、歌辞音節が多い句は比較的テンポが速い節という事になるであろう。すなわち樂府の歌の中には、それまでの漢民族特有の、四言、五言の比較的ゆっくりしたテンポの曲の運びとは異なった、速いテンポの曲が使われるものもあったという事であろう。そうした中には本来テンポの速い、舞踏を伴っていたような、西域や中東の音楽もあったのではなかろうか。すなわちそこに北狄諸民族歌曲の大きな影響を見ることができるという事である。また明の李攀龍が編纂した『唐詩選』の中に無名氏の作として「胡笳曲」と題する詩が収録されている。之は其の題名から見て恐らく樂府系の胡歌であろう。
月明星稀霜滿野  月明らかに星まれにして霜野に滿つ
氈車夜宿陰山下  氈車夜陰山の下に宿る。
漢家自失李將軍  漢家李將軍を失ひて自り
單于公然來牧馬  單于公然と來たりて馬を牧す。
この詩は七言絶句という形をとってはいるし、野、下、馬がそれぞれ、上声の馬韻で、韻を踏んではいるが、平仄の法に法っている訳ではない。
「李將軍」の語が事も無げに入っているのを見ると、この詩が本当に唐代に作られたものかどうか些か疑わしいが、もし本当に唐代であるとすれば、樂府系の詩は此の例からも、当時守るべきであった筈の平仄の格律にあまりこだわっていないということがよくわかる。なぜなら隋唐代こそ最も平仄に対して厳しい規定が要求された時代であるからである。樂府詩最盛の漢代ではまだ平仄が云々されることは無かったであろうが、たとえ唐代の詩であっても、樂府系の詩はそれだけ詩律から自由であったということであろう。
1 樂府詩と物語性
歌辞の中に全体として、物語的な雰囲気を帯びたものが結構多い。ここでその例として多くを挙げる余裕は無いが、前項で挙げた、『戰城南』や、『東門行』などの中に、ある程度は物語性を感じ取ることは決して難しいことではないはずである。今これらのほかに二つ三つ、上げてみると、先ず『思悲翁』、
思悲翁        悲しき翁を思ふ
唐思         唐として思ふ
奪我美人      我が美人を奪ひ
侵以遇        侵みて以って遇ふ
悲翁也但      悲しき翁は也但たり
我思蓬首      我蓬首を思ふ
狗逐         狗逐はれ
狡兔食        狡兔食はれ
交君梟子五梟母六 君を交へて梟子五梟母六と
拉沓高飛暮安宿  拉沓として高く飛べども暮れれば安くにか宿らん
次に雑曲歌辞の中から、『蜨蝶行』を挙げてみると、
蜨蝶之遨遊東園  蜨蝶の東園に遨遊す
奈何卒逢三月養子燕 奈何ぞ卒はかに三月子を養ふ燕に逢ふや
接我苜蓿間     我苜蓿の間にあるに接す
持之我入紫深宮中 我を持ちて紫深なる宮中に入る
行纏之傅欂櫨間   行きて欂櫨の間に纏ひ傅く
雀來燕        雀として燕に來たる
燕子見銜哺來    燕の子哺を銜みて來たるを見
搖頭鼓翼何軒奴軒 頭を揺らし翼を鼓すこと何ぞ軒たり奴きりに軒たり
このほか、『婦病行』や『孤兒行』『雁門太守行』『豔歌何嘗行』『白頭吟』などに其の典型を見ることが出来るが、いずれも長編なのでここに提示する紙面の余裕は無い。
このように物語性が強いという事はどういう事であろうか。これは議論の多いところではあろうが、漢民族の間には所謂神話と言うものがあまり発達しなかったようである。古代の各村々には常に小規模の神話が数多くあったに違いない。しかしそれらはあまり重視される事なく、程なくして消えてしまったようである。其の理由は色々考えられるが、極く簡単に言ってしまえば、神の意思をそのとき其の時で判断する為に、殷代の甲骨による占卜、或いは周代以降の木片や筮竹を使うことを手段としたために、神話として代々伝えていかねばならないような天或いは神の教えを継承する必要が無かった。もう一つは、神話は支配者自身が、その支配の正統性を被支配民たちの前に主張する為に欠くべからざるものであったが、漢民族にあっては、それが最も必要であった時期には、例えば漢族の最初の統一王朝である秦の時代はすでに孔子や諸子百家たちの人間哲学、人生哲学、政治哲学、政治理論がほぼ出揃っていて、神話が登場する舞台がもう存在していなかったという事である。
今に残る漢民族の神話で有名な盤古や伏羲、女媧の話がある程度物語としてまとまった形で口承にしろ登場してくるのは、恐らく六朝以後である。漢民族文化の中で純粋な意味で、物語が生まれて来るのは六朝志怪小説以降であるし、それ以前の諸子百家の文章に出てくるものは、ある論理の理解の便宜のために引用された飽くまでも例え話であって、説話逸話伝説の域を出るものではない。また六朝以降の志怪小説の類も、リアル性からは可成乖離した、幽霊、お化けの話でしかない。その点から考えると漢代の樂府詩の中には、以上述べてきた文化的環境段階に相応しくないほどリアルな物語性を見ることができるのは何故であろうか。それは特に、『東門行』『婦病行』『孤兒行』などにきわめて顕著である。これは恐らく匈奴、鮮卑、高車などの民族を通じて、漢民族が西方の国々から受け取った文化の影響によるものであろうと思われる。つまりそれはギリシャ神話やローマ神話、イソップ寓話などを始とする多くの西方の伝承文学、創作説話などが其の背景に存在していたのではないかと思われるのである。
2 樂府詩と俗語
次に樂府に用いられている語彙についてみると、それまでの『詩經』や、漢代以降の古詩にはあまり現れる事のない、俗語的と思われる表現が多く用いられている。例えば、前項の例として挙げた鼓吹曲辞の『思悲翁』では、「唐思」「梟子五梟子六」「拉沓」等、『戰城南』では、「客」「豪」「激激」「梟騎」など、横吹曲辞の『企喩歌辭』では、
男兒欲作健    男兒健けきもの作らんと欲す
結伴不須多    伴を結ぶに多きを須ひず
鷂子經天飛    鷂子天を經て飛び
羣雀兩向波    羣雀兩になりて向かひて波る
放馬大澤中    馬を大澤の中に放つ
草好馬著臕    草は好く馬は臕に著く
牌子鐵裲襠    牌子は鐵の裲襠
鉾鸐尾條     鉾に鸐尾の條 ( 以下略 )
の「裲襠」「鉾」等が恐らく当時の所謂軍隊用語であまり他では使われないものであったであろう。以下俗語ではないかと思われる部分だけを取り出してあげてみると、『瑯琊王歌辭』では、
一日三摩娑、劇於十五女 一日三たび摩娑し、十五の女より劇し
の「摩娑」や、
懀馬高纏鬃、遙知身是龍   懀馬高く鬃を纏い、遙かに知る身は是龍なるを
の「懀馬」などは其の意味は解しがたいが、恐らく当時の俗語なのであろう。
また、『折楊柳歌辭』では、
遙看孟津河、楊柳鬱婆娑   遙かに看る孟津の河、楊柳鬱として婆娑なり
我是虜家兒、不解漢兒歌   我是虜家の兒にして、漢の兒の歌を解せず
の「婆娑」がそうであろう。それにここで面白いのは、此の歌詞から解かることであるが、此の歌詞の作者は漢民族ではなく、漢人にとらわれた異民族の児の歌であるということである。其の異民族の歌を漢語に訳したのが此の歌辞ということになる。
また『折楊柳枝歌』では、
阿婆不嫁女、那得孫兒抱   阿婆女を嫁がせざれば、那んぞ孫兒を得て抱かん
勅勅何力力、女子臨窓織   勅勅何ぞ力力たるや、女子は窓に臨みて織る
この場合の「阿婆」「那」「勅勅」「力力」などが俗語であろう。
また相和歌辞の『西門行』では、「逮爲樂」「怫鬱」「來玆」「心所懽」等、『婦病行』では、「属累」「笪笞」「思復念」など、『孤兒行』では、「辨」「腸月」「渫渫」「還我蔕」等々。以上掲げた語は本当に俗語と言う範疇に入るかどうか些か判断に窮するところでもあるが、当時の樂府以外のジャンルの詩ではあまり見かけない語であり、表現である。もしこれらを俗語と呼んでいいのなら樂府は、こうした語、表現にあふれており、其の基盤にある物はどうも伝統的な漢民族の、ある意味では儒教をはじめとする、多くの人生哲学に裏打ちされた作詩基盤とは違うもののように思える。恐らくこれらも西方の作詩態度から齎らされたものの影響によるのではなかろうか。前掲の『樂府詩集・横吹曲辭』に、「横吹、胡樂也。張騫入西域、傳其法於長安」とあるのは其のあたりの事情を表しているのであろう。
3 樂府と北狄曲
また「横吹曲辭」の解題には続いて、
在俗用者有黄鵠、隴頭、出關、入關、出塞、折楊柳、黄覃子、赤之楊、望行人十曲
(俗に在りて用いる者は、黄鵠、出関、……十曲有り)
とある。つまり当時張騫が漢土にもたらした『摩訶兜勒』一曲に続いて、割合に多くの西方の曲が漢土に入って、それが一般にも用いられていたという事である。時代は少し下るが、後漢に入ると、蔡文姫が作曲したという、琴曲『胡笳十八拍』が有名となる。「胡笳」は唐代の作ではあるが、岑参の『胡笳歌』、「君不聞胡笳聲最悲、紫髯緑眼胡人吹(君聞かずや胡笳の聲の最も悲しきを、紫髯緑眼の胡人吹く)」
で、広く知られるようになった、西域北狄諸民族の用いる蘆笛の一種である。因みに、『胡笳十八拍』の作曲者蔡文姫(蔡琰)について、『樂府詩集・琴曲歌辭・胡笳十八拍』に解説がある。
『後漢書』曰、蔡琰、字文姫、邕之女也、博學有才辯、又妙於音律、適河東衞仲道、夫亡無子、歸寧于家、興平中、天下喪亂、文姫没於南匈奴、在胡中十二年、曹操痛邕無嗣、乃遺使者、以金璧贖之、而重嫁陳留董祀、後感傷亂離、作詩二章、蔡琰別傳曰、漢末大亂、琰爲胡騎所獲、…胡虜犯中原、爲胡人所掠、入番爲王后、王甚重之、武帝與邕有舊、敕大將軍贖以歸漢、胡人思慕文姫、乃捲蘆葉爲吹笳、奏哀怨之音、後董生以琴寫胡笳聲、爲十八拍、今之胡笳弄、是也。
『後漢書』に曰く、蔡琰、字文姫、邕の女なり、博學にして才辯有り、また音律に妙なり、河東衞仲道に適きて、夫亡し子無くして、歸りて家に寧す、興平中、天下喪亂し、文姫南匈奴に没す、胡中に在ること十二年、曹操邕の嗣無きを痛み、乃ち使者を遣わし、金璧を以って之を贖う、而るに重た陳の留菫祀に嫁ぐ、後亂離を感じ傷みて、詩二章を作る、蔡琰の別傳に曰く、漢末に大亂ありて、琰胡騎の獲ふる所と爲る、…胡虜中原を犯し、胡人の掠する所となる、番に入りて王の后となる、王甚だ之を重んず、武帝邕と舊有り、大將軍に勅して贖い以って漢に歸る、胡人思ひて文姫を慕ひ、乃ち蘆の葉を捲きて吹笳を爲りて、哀怨の音を奏でる、後菫生琴を以って胡笳の聲を写して、十八拍を爲る、今の胡笳の弄、是なり。
この『十八拍』も以上の、作られた経過から見て、明らかに西域或いは西方の雰囲気を持った胡歌に属するものであったに違いない。
また樂府詩には韻を踏んでいないものも、或いは韻を踏んでいない部分、解が結構多いのであるが、それは詩としてよりも、寧ろ曲のほうに重点が置かれて一般に入って行ったという証左であろう。
樂府を取り巻く西方的文化
『史記・大宛列傳』に、大宛国について、
多善馬、馬汗血、其先、天馬子也。
善き馬を多くし、馬血を汗す。其の先は、天馬なり
とあって、『漢書・武帝紀』には、
四年春、貳師將軍李廣利斬大宛王首、獲汗血馬來、作西極天馬之歌
四年春、貳師將軍李廣利大宛の王の首を斬り、汗血馬を獲て來たる、西極の天馬の歌を作る
ともあるように、音楽ばかりでなく、西方の多くの文化が入ってきているのである。実は秦の時代にすでに西域に雄飛して、財をなした漢人もいたぐらいである。『漢書・敍傳・上』に、
始皇之末、班壹避墜於樓煩、致馬牛羊數千羣。値漢初定、與民無禁、當孝惠、高后時、以財雄邊、出入弋獵、旌旗鼓吹、年百餘歳、以壽終。
始皇の末、班壱避けて楼煩に墜つ、馬牛羊數千の群を致す、値漢初に定め、民に與えること禁ずる無し、孝恵、高后の時に當たりて、財を以って邊に雄たり、弋獵に出入し、旌旗鼓吹す、年百餘歳、以って壽終える
とあるから、漢初にすでに、漢と西域との交流には相当深いものがあったものと推察される。またこの文に、「鼓吹」の字も始めてみる事が出来る。また『漢書・西域傳』に、
初、武帝感張騫之言、甘心欲通大宛諸國、使者相望於道、一歳中多至十餘輩。
初め、武帝張騫の言に感じ、甘心して大宛諸國と通ぜんと欲す、使者道に相望す。一歳の中に多く十餘輩を至す。
とあって、武帝の西域交流に対する熱意の程が見て取れる。
またこれも時代は少し降るが、『後漢書・李陳龐陳橋列傳』には、
永寧元年、西南夷撣國王獻樂及幻人、能吐火、自支解、易牛馬頭。明年元會、作之於庭、安帝與羣臣共觀、大奇之。禪獨離席擧手大言曰、昔齊魯爲夾谷之會、齊作侏儒之樂、仲尼誅之。又曰、放鄭聲、遠佞人。帝王之庭、不宜設夷狄之技。尚書陳忠劾奏禪曰、古者合歡之樂舞於堂、四夷之樂陳於門、故詩云、以雅以南、韎任朱離。今撣國越流沙、踰縣度萬里貢獻、非鄭衞之聲、佞人之比、而禪廷訕朝政、請劾禪下獄。
永寧元年、西南の夷揮國王樂及び幻人を獻ず、能く火を吐き、自から支解し、牛馬の頭を易る。明年元會、之を庭に作し、安帝群臣と共に觀、大いに之を奇とす。禪獨り席を離れ手を擧げて大言して曰く、昔し齊魯夾谷の會を爲し、齊侏儒の樂を作す、仲尼之を誅す。又曰く、鄭聲を放ち、佞人を遠ざけよ。帝王の庭、夷狄の技を設く宜からず。尚書陳忠、禪を劾奏して曰く、古は合歡の樂は堂に舞い、四夷の樂葉門に陳ぶ、故に詩に云ふ、以って雅とし以って南とす、韎を朱離に任ず。今揮國流沙を越え、縣度萬里を踰えて貢獻す、鄭衞の聲に非ず、佞人の比ひにして、而して禪廷朝政を訕るなり、請ふ禪を劾して獄に下せよと、
という件がある。これとほぼ同じ事象を扱った文章が、同じ『後漢書』の「南蠻西南夷列傳」にある。
永初元年、徼外僬僥種夷陸類等三千餘口擧種内附、獻象牙、水牛、封牛。永寧元年、撣國王雍由調復遣使者詣闕朝賀、獻樂及幻人、能變化吐火、自支解、易牛馬頭。又善跳丸、數乃至千。自言我海西人。海西即大秦也、撣國西南通大秦。明年元會、安帝作樂於庭、封雍由調爲漢大都尉、賜印綬、金銀、綵所e有差
也。
永初元年、徼外の僬僥種の夷陸類等三千餘口種を擧げて内附して、象牙、水牛、封牛を獻ず。永寧元年、揮國王雍由調復た使者を遣して闕に詣りて朝賀し、樂及び幻人を獻ず、能く變化して火を吐く、自から支解し、牛馬の頭を易ふ。また善く丸を跳ばす。數乃ち千に至る。自ら我は海西人と言ふ。海西は即ち大秦なり、揮國の西南は大秦に通ず。明年元會、安帝庭に樂を作し、雍由調を封じて漢の大都尉と爲し、印綬、金銀、綵盾賜ひ、各おの差有るなり
とあり、この「撣國」は、「越流沙踰縣度」なる処にあるという。「縣度」は注には、「山名也。谿谷不通、以縄索相引而度、去陽關五千八百八十里(山の名なり。谿谷通ぜず、縄索を以って相ひ度るに、陽關を去ること五千八百八十里)」とある。という事は、「撣國」は、現在のジュンガルの東あたりであろうか。それにしては「南蠻西南夷列傳」にあると言うのは些か疑問がないではない。そしてこの時献上されたのが「幻人」であるが、其の技から考えるとこれは所謂魔術師、手品師の類で、唐以降ならともかく、それまでの漢人の文化には見当たらない芸人である。『漢書・西域傳・安息國』には、
武帝始遣使至安息、王令將將二萬騎迎於東界。東界去王都數千里、行比至、過數十城、人民相屬。因發使随漢使者來觀漢地、以大鳥卵及犂靬眩人獻於漢、天子大悦。安息東則大月氏。
武帝始使いを遣はして安息に至らしむ、王將將二萬騎をして東界に迎へし無し。東界は王都を去ること數千里、行きて比むね至る數十城を過ぎ、人民相ひ屬す。因って使を發して漢の使ひに随はしめ來たりて漢地を觀しむ、大鳥の卵及び犁靬の眩人を以って漢に獻ず、天子大いに悦ぶ。安息の東は則ち大月氏なり。
とある。安息とは当時カピス海の南に栄えたパルチア王国のことで紀元三世紀初め頃からはササン朝ペルシャとなる国である。大月氏国はパルチアの東であるから、恐らくバクトリアあたりである。そして紀元直前からはもう、パルチアのほぼすぐ西隣が、ローマ帝国である。此処に言う「眩人」と前記の「幻人」は同じである。『漢書』の、犂靬国の人とされている眩人が、どのあたりの人間かははっきりしないが、漢の武帝期に既に西方の色々な文化が入ってきていた事はこれらの記事によっても確かである。
恐らく西方の国の芸人であろうこの「幻人」は、自らは「海西人」と言い、海西とは「大秦」であると言っている。「幻人」と言うのも此れは普通名詞である。もし此れが其れまで漢民族とある程度関係の深い西域の人間ならば、少々長くなっても、それほどの技量を持った芸人である限りは、その個人の名を記したことであろうが、それを記さないということは、その名に、漢族としては余りにも馴染みがなかったからであろう。其の点から考えると恐らくこの芸人は、西域より更に西方、あるいは中東、或いはローマ帝国あたりからやってきた者達であったに違いない。ローマ帝国は、知られているように「大秦國」と呼ばれていたのである。
因みに同じ『後漢書・西域傳』に、「大秦傳」があり、それには次のような記述がある。
大秦國一名犂鞬、以在海西、亦云海西國。地方數千里、有四百餘城。小國役屬者數十。以石爲城郭。列置郵亭、皆堊墍之。有松柏諸木百草。人俗力田作、多種樹蠺桑。皆髠頭而衣文繡、乘輺輧白蓋小車、出入撃鼓、建旌旗幡幟。
大秦國は一名犁鞬、海西に在るを以って、また海西國と云ふ。地方數千里、四百餘城有り。小國で役屬する者數十。石を以って城郭を爲る。列して郵亭を置き、之を堊墍ぬる。松柏諸木百草有り。人の俗は田作に力め、多種の蠶桑を樹うる。皆髠頭にして文繡を衣る、輜輧白蓋の小車に乘り、出入に鼓を撃ち、旌旗幡幟を建つ。
とあり、この後、大秦国の都城の大きさ、其の城の有様、政治のやり方、人々の暮らしぶり、またこの国の鉱産物、畜産品などの珍奇な名産品について記している。またこの国と諸外国との交通交易についても触れている。また興味引かれることは、上記引用文の後文に、 
或云其國西有弱水、流沙、近西王母所居處、幾於日所入也。
或いは云ふ其の國の西に弱水、流沙有り、西王母の居する所に近く、幾んど日の入る所なり 
とある事で、これは当時の漢民族のある種の理想郷の夢を託した言い方である。しかしこの記述は、実は『漢書・西域傳』にある、
烏弋山離國、王去長安萬二千二百里。不屬都護。戶口勝兵、大國也。東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬、條支接。行可百餘日、乃至條支。國臨西海、暑濕、田稲。有大鳥、卵如甕。人衆甚多、往往有小君長、安息役屬之、以爲外國。善眩。安息長老傳聞條支有弱水、西王母、亦未嘗見也。自條支乗水西行、可百餘日、近日所入云。
鳥弋山離國、王長安を去ること萬二千二百里。都護に屬さず。戶口兵に勝へ、大國なり。東北都護の治所に六十日行く、東は罽賓と、北は撲挑と、西は犁靬、條支と接す。行くこと百餘日なる可くし、乃ち條支に至る。國は西海に臨み、暑にして濕、田は稲なり。大鳥有りて、卵は甕の如し。人衆甚だ多く、往々小君長有り、安息は之に役屬し、以って外國と爲す。眩を善くす。安息の長老條支に弱水、西王母有るを傳え聞くも、また未だ嘗て見ざるなり。條支自り水に乘りて西行すれば、百餘日なる可し、日の入る所に近しと云う。
から引いてきたものである。此処に言う「犂靬」は、既にに前掲の引用文にあったが、『史記・大宛列傳』の安息の条にもあり、
〔安息〕其西則條枝、北有奄蔡、黎軒。
安息、その西は則ち條支なり、北には奄蔡、黎軒有り。
とある。「黎軒」について司馬貞の『索隱』は、
漢書作犂靳。續漢書一名大秦。(漢書は犁靳に作る。続漢書は一名大秦)
『正義』には、
後漢書云、大秦一名犂鞬、在西海之西、東西南北各數千里。有城四百餘所。
(後漢書に云く、大秦一名犁鞬、西海の西に在り、東西南北各々數千里。城四百餘所有り。)
とある。因みに「西海」については、『史記・大宛列傳』前掲引用文に続いて、次のようにある。
條枝在安息西數千里、臨西海。暑濕。耕田、田稲。(以下前掲『漢書・西域傳』烏弋山離國の条とほぼ同文)
また『後漢書・西域傳』には、
自安息西行三千四百里至阿蠻國。從阿蠻西行三千六百里至斯賓國。從斯賓南行度河、又西南至于羅國九百六十里、安息西界極矣。自此南乗海、乃通大秦。其土多海西珍奇異物焉。
安息自り西行三千四百里で阿蠻國に至る。阿蠻國從り西行三千六百里で斯賓国に至る。斯賓國從り南行し河を度り、また西南して于羅國に至るは九百六十里なり、安息は西界の極みなり。此自り南して海に乘れば、乃ち大秦に通ず。其の土海西の珍奇なる異物多きなり。
とあり、書かれている状況から考えて、『史記』のこの場合の西海とは恐らく地中海のことであろうことが推察される。
このように見てくると、後漢の時代には西方諸国との交流にはかなり深いものが在ったはずである。『後漢書・桓帝紀』の延熹九年九月の条には、「大秦國王遣使奉獻。(大秦国王使ひを遣はして奉獻す)」とある。その李賢の注には、
時國王安敦獻象牙、犀角、玳瑁等(時の國王安敦象牙、犀角、玳瑁を獻ず)
とある。「安敦」とは、ローマ帝国の五賢帝の一人、皇帝アントニウスであるということは、広く知られていることである。
先の幻人については『魏書・西域列傳』の悦般國の項に、これまた当時の西国の民俗を知る上で興味深い記述があるので、直接には幻人と関係がない部分も当時の西国も状況を知る参考として引用してみると次のようである。
ス般國、在烏孫西北、去代一萬九百三十里。其先、匈奴北單于之部落也。爲漢車騎將軍竇憲所逐、北單于度金微山、西走康居、其贏弱不能去者住龜茲北。地方數千里、衆可二十餘萬。涼州人猶謂之、單于王。其風俗言語與高車同、而其人C潔於胡。俗剪髪齊眉、以醍醐塗之、cc然光澤、日三澡漱、然後飮食。其國南界有火山、山傍石皆燋鎔、流地數十里之凝堅、人取爲藥、即石流黄也。
與蠕蠕結好、其王嘗將數千人入蠕蠕國、欲與大檀相見。入其界百餘里、見其部人不浣衣、不絆髪、不洗手、婦人舌舐器物、王謂其從臣曰、汝曹誑我入此狗國中、乃馳還。大檀遣騎追之不及、自是相仇讎、數相征討。眞君九年、遣使朝獻。併併送幻人、称能割人喉脉令斷、撃人頭令骨陥、皆血出或數升或盈斗、以草藥内口中、令嚼咽之、須臾血止、養瘡一月復常、又無痕瘢。世祖疑其虚、乃取死罪囚人試之、皆驗。
悦般國は、烏孫の西北に在り、代を去ること一万九百三十里。其の先は匈奴の北單于の部落なり。漢の車騎將軍竇憲の逐ふ所と爲り、北單于は金微山を度り、西の康居に走る、其の嬴弱くて去ること能はざる者は龜茲の北に往く。地方數千里、衆は二十餘萬。涼州の人猶之を單于王と謂ふ。其の風俗言語は高車と同じ、而るに其の人胡よりC潔なり。俗は髪を剪り眉を齊のへ、醍醐を以って之に塗り、ccとして光澤あり、日に三たび澡漱し、然る後飮食す。其の國の南の界に火山有り、山の傍らの石は皆燋鎔なり、地を流れること數十里の凝堅なり、人取りて藥と爲す、即ち石流黄なり。
蠕蠕と好を結ぶ、其の王嘗て數千人を將ゐて蠕蠕國に入れ、大檀と相ひ見えんと欲す。その界に入りて百餘里、其の部の人を見るに衣を浣はず、髪を絆はず、手を洗はず、婦人舌で器物を舐む。王其の從臣に謂ひて曰く、汝曹我を誑むきて此の狗國の中に入れ、乃ち馳せ還へる。大檀騎を遣はして之を追はすも及ばず、是れ自り相仇讎となり、數たび相征討す。眞君九年、使ひを遣はして朝獻す。併せて幻人を送る、能く人の喉を割り脉を斷た令む、人の頭を撃ちて骨を陥がた令む、皆血出ずること或ひは數升或ひは斗に盈つ、草藥を以って口中に内れ、之を嚼み咽こま令めば、須臾にして血止まり、瘡を養ふこと一月にして常に復して、また痕瘢無し。世祖其の虚を疑ひて、乃ち死罪の囚人を取りて之を試すも、皆驗しあり。
悦般國とは何処にある、また如何なる國か判然としないが、此処に書かれた里程から言えば恐らく現代のカザフスタンの北部あたりであろう。言葉は高車と同じと言うから、ウイグルと同じトルコ系の民族であるらしい。また清潔好きで、常に身体を清潔に沐浴し、顔には油を塗って、皮膚はつやつやと光沢があったという。ところがこの悦般國といい関係にあった蠕蠕國の人々は不潔で、着物も洗わず、髪も結わず、手も洗わず、使った食器は舌で綺麗に舐めておしまいであったというのである。蠕蠕國とは柔然國のことである。そしてこの国からも幻人が送られてきて、不可思議な事をたくさんおこなったというのである。この場合も、幻人は明らかに、現在のカザフスタンやトルコなど以西の国からやってきた人であろう。
樂府の廃止
このような西方文化の雰囲気の中で、音楽が作詩作曲の上で様々な試みが為された事は疑いないであろう。
結局樂府は、『漢書・禮樂志』に、「至武帝、定郊祀之禮、乃立樂府、采詩夜誦」とあるように、武帝期から始まり、全国からの多くの詩歌の採集で大きな成果を挙げたばかりでなく、国外から取り入れた音楽を基礎として、作曲、作詩、編曲、訳詩の上でも様々な改変が試みられたのであるが、約百年の後、哀帝期には廃止となった。何故廃止になったのかはあまり明らかではない。『漢書・禮樂志』によれば哀帝は次のような詔を発している。
是時、鄭聲尤甚。黄門名倡丙彊、景武之屬冨顯於世、貴戚五侯定陵、冨平外戚之家淫侈過度、至與人主爭女樂。哀帝自爲定陶王時疾之、又性不好音、及卽位、下詔曰、惟世俗奢泰文巧、而鄭衞之聲興。夫奢泰則下不遜而國貧、文巧則趨末背本者衆、鄭衞之聲興則淫辟之化流、而欲黎庶敦朴家給、猶濁其源而求其
C流、豈不難哉、孔子不云乎、放鄭聲、鄭聲淫、其罷樂府官。
是の時、鄭聲尤も甚だし。黄門の名倡丙彊、景武の屬の富世に顯らか、貴戚五侯定陵、富平外戚の家、淫侈度を過ぎ、人主と女樂を爭うに至る。哀帝自から定陶王の時之を疾と爲し、また性音を好まず、卽位するに及びて、詔を下して曰く、惟世の俗奢泰文巧にして、而して鄭衞の聲興る。夫れ奢泰なれば則ち下不遜にして國貧し、文巧なれば則ち末に趨ひて本に背むく者衆し、鄭衞の聲興これば則ち淫辟の化流れて、而して黎庶敦朴の家給さんと欲す、猶其の源を濁してC流を求むるは、豈難からざる哉。孔子云はざるか、鄭聲を放てば、鄭聲は淫なりと、其樂府の官を罷めん。
すなわち孔子が嫌ってやまなかった鄭や衛の音楽がはやり、専ら女楽が幅を聞かせるようになった。それに加えて、哀帝の人となりは、あまり音楽を好まなかった。それらの理由によって、樂府は廃止になったというのである。しかし哀帝は、上文に続けて、
郊祭樂及古兵法武樂、在經非鄭衞之樂者、條奏、別屬他官
郊祭の樂および古兵法の武樂は、經に在りて鄭衞の樂に非らざれば、條く奏でて、別に他官に屬さしむ。
と述べているから、必ずしも「性不好音」ではなかったと思われる。其の証拠に、丞相孔光や大司空何武の案に従って、音楽職約八百人ぐらいの内、三分の一弱の二百五十人はやめさせてはいるが、他は残して音楽業務を続けさせている。
此処で哀帝の言う「鄭衞之聲」とは何を言っているのか、些か考えて見る必要がある。鄭声が淫であると言うのは、『論語・衞靈公』にある孔子の言葉に、
放鄭聲、遠佞人、鄭聲淫、佞人殆(鄭聲を放なちて、佞人を遠ざけよ、鄭聲は淫なり、佞人は殆ふし)
とあるのに拠っている。孔子の時代と漢哀帝の時代では約五百年近くの隔たりがある。しかも孔子は『詩經』編纂に当っては鄭衛の淫なる物は全て削除したらしい。ゆえに現在に残る『毛詩』には鄭衛の、淫を感じさせるような者は殆どない。敢えて挙げれば「鄭風」の『將仲子』『有女同車』『擇兮』『溱洧』など数編である。更にそれらは、儒教的に見ても目くじら立てるほど淫なるものではない。まして『詩經』は始皇帝の焚書坑儒以来長らく人々の目に触れることが無かったし、其のあとは斉詩、韓詩、魯詩の三家詩によって、僅かに『詩經』の一部のみが読まれていたに過ぎない。学官が立てられたのは、斉詩は景帝、韓詩は文帝、魯詩は武帝のときである。その後趙人毛公が伝えた『毛詩』がいつ世に出たのかははっきりしないが、恐らく前漢の初めから中頃ぐらいであろう。となると、哀帝が非難を込めて言うところの鄭声、衛声と言うのは、嘗て孔子が言及した鄭声、衛声と同じものなのであろうか。それにこれらの詩には楽曲が付いていたはずであるが、そちらのほうはどうなのであろうか。こういう状況の中で、五百年に渡って、曲がそこまで歌い継がれてきたとは思えない。つまり鄭声、衛声の語は実際には既に実態を伝えた言葉ではなくなっていたのであろう。
樂府詩における樂府題の意味
詩と言うものは、それ自体非常に感動的なものも当然あるが、それに曲が付いていて、広い範囲で人々によって歌い広められ、歌い込まれていって、初めて其の歌はいい意味でも、悪い意味でも人々の心を揺さぶるものとなるのである。そうなった時為政者は、それらの歌の効用に鑑みて、何らかの対策と処置が取られるようになるはずである。漢民族の場合も他民族と同じように、たとえ当時の社会の上層部の人間であっても、全ての人が文字を読めたわけではあるまい。そうした中で、詩を何百年も読みついで行くという事はそう簡単な事ではない。だから彼らは歌い継ぐ以外はなかった筈である。
樂府詩には、樂府題と呼ばれるものがあって、其の一つの樂府の題の下に多くの異なった詩が作られている。例えば今『樂府詩集』の「相和歌辭」を開けてみると、始めに『公無渡河』と題する詩が掲げられているが、其の後には『同前』と題された、それぞれ内容の異なった詩が五首録されている。また例えば「雜歌謠辭二」では『李夫人歌』があり、其の6360 旬次には『同前三首』とあって、三首の『同前』が掲げられている。こうした例はこの詩集全篇を通じて非常に多い。これは、一つの歌が歌い広げられ、歌い継がれて、其の歌に習熟してしまったならば、今度は其の曲に合わせて、元の曲につけられた歌詞とは違う歌詞を自分で作って歌うようになったからである。つまり詩を作る事はそんなに難しい事ではないが、曲を作る事は誰にでも、何時でも出来るというわけではない。そこで曲を非常に大事にし、詞だけを自分にあった、或いは其の時の気分に合ったものに変えて歌うのである。これが『同前首』の意味している内容である。
樂府廃止の真相
しかしそうした曲も何百年もそのまま、受け継がれていけるものではない。時の経過と共に曲も変わっていくであろう。それもただ変わって行ったのではなく、全く新しい曲に乗り移っていた詩も多かったに違いない。其の場合、より新らしく、より魅力あるものとして、西域、西方から輸入された曲に乗り換える事もあったであろう。そうした場合、其の歌は今までの漢民族の伝統的な歌とは全く異なったリズムとメロディーを持っていたに違いない。先に挙げた樂府詩の長短句の不ぞろいとは、こうした事情の表れであると解釈できるであろう。哀帝が嫌ったという「鄭聲」や「衞聲」と言うのは、孔子の指弾を受けたそのまま文字通りの「鄭」「衞」の楽音ではなく、恐らく当時この語が既に「淫なる樂」の代名詞となっていたのであって、その実際に意味するところのものは、西域、西方、あるいは今言うところの中東などから齎された、テンポの速い、後唐代にもてはやされた「胡旋舞」に用いられたような曲を基礎として作られた歌詞楽曲ではないかと思われる。樂府が設けられてからの百年と言う年月は、こうした変化を起こしていくには決して短すぎる年月ではない。こうした曲が、儒教的伝統を重んじる当時の為政者たちの意に染まらなかったのは当然である。つまりこうした漢民族の伝統的な四言句的、四言詩的リズムの音楽文化とは全く異なった音楽文化、いってみれば現代のトルコなどを含めた中東地域でよく踊られている「ベリーダンス」までは行かないにしても、それに近い音楽舞踏文化は、儒学を国是として、ほぼ二百年続いてきた漢王朝の支配層、つまり哀帝を中心とした上層部には馴染みきれず、到底受け入れがたかったに違いない。これが樂府廃止の本当の理由ではなかろうか。
ムハンマドが唱えたイスラム教が、サラセン帝国で成立するのは七世紀になってからである。西アジアでの、あの激しいリズムと舞踏は、イスラム教成立の前から存在していた。それは西アジア、中東のいわば土着の文化であった。それが漢民族に受け入れられるようになるのもやはり七世紀、唐という、強大な胡漢混淆文化が成立してからの事である。李白や白楽天が愛した「胡旋舞」は、残念ながら漢代文化の中では、入口を少し入ったところで、もう外に 押し出されてしまったのであった。

中国戦国時代における「四夷」観念
戦国前期に初見する「四夷」観念の前提となる異民族の辺境化はいかなる過程であったのか。「四夷」観念の成立が、その後の華夷関係をいかに規定していったのか。これらの問題を解明するためには、西周・春秋期の四夷の状況を確認しなければならない。本発表は、出土文字資料および同時代性を主張しうる文献に対象を限定することで、西周・春秋期の「四夷」に関わる確度の高い知見の獲得を図るものである。
「夷」
西周金文では、「夷」は東方・南方とくに淮水流域の異民族を指すことが多いが、??を「犬夷」「串夷」と称する「詩」の事例によれば、本来、異民族の汎称である。TB大盂鼎は「邦」「夷」を区別するが、VA宗周鐘・駒父?には「夷」の「邦」すなわち国家が見える。「夷」に関わる金文には銅の鹵獲・賜与が頻見し、華夏の夷との交渉は、銅の獲得に大きく動機付けられていた。西周王朝滅亡後、晋文侯(前780-前746)・昭侯(前745-前739)・鄭荘公(前743-前701)・斉桓公(前685-前643)・魯僖公(前659-前627)・宋襄公(前650-前637)らが淮域進出を図った。魯について「詩」魯頌/?水・?宮や「書」費誓がある。宋襄公は、曾伯p?に淮夷遠征が見える?君を牲殺し、その東夷への影響力を奪取したが、泓の戦(前638)で楚に敗れる。これ以後、「論語」子罕「九夷」以外、「夷」はほとんど見えず、「春秋」にも昭4(前538)「淮夷」が一見するだけで、「左伝」にも楚に関連する記述に限定される。「夷」の居住域が楚の勢力圏に入り、中原への情報が絶たれてしまったのである。
「夷」の消滅の今一つのより重要な原因は、「夷」が国家を形成し、資料的に「夷」と明示されなくなったことがある。「左伝」は、呉・越のほか、「夷」系の小国を「蛮夷」と蔑称する。これら諸国の国君は春秋金文では「王」「公」「侯」「伯」を自称するが、「春秋」は「子」と貶記する。「礼記」曲礼下「其在東夷・北狄・西戎・南蛮、雖大曰子」は、「春秋」の「子」の一つの意味を正しく指摘している。「春秋」は「夷」系国君を「国号+爵」と記すことで華夏諸国に準ずる国家として認めながらも、爵を「子」に貶記して、その出自を暗示しているのである。一方、「子」を五等爵の一とする「左傳」には貶意がなく、戦国前期には「夷」の出自が日常的に意識されない程度に華化が進行していたことを知る。「子」の貶意を明示的に否定したのは、戦国中期、前4世紀後半の「孟子」万章下「天子之制、地方千里、公侯皆方百里、伯七十里、子男五十里、凡四等」である。孟子は、孔子の出身地・魯の隣国たる鄒の出身を誇るが、その鄒がかつて「蛮夷」と蔑称された?であったことは、この間の華化の徹底を如実に物語る。
「蛮」
「蛮」は西周VA戎生編鐘に「蛮戎」として初見する。VBの??出現を契機に、東方・南方の異民族を専ら指すようになっていた「夷」に代わって異民族の汎称となり、宣王5年(前823)兮甲盤は淮夷を、12年(前816)?季子白盤は??を「蛮」と称し、「詩」小雅/采zは楚を「蛮荊」と、大雅/韓奕は「北国」の「貊」を「百蛮」と称する。「竹書紀年」に拠る「後漢書」南蛮西南夷伝は、晋文侯南征に関して淮夷を「蛮」と称し、魯僖公に関わる「詩」魯頌/?宮には「蛮貊」が見える。さらに秦出子(前703-前698)・晋景公(前599-前581)・秦景公(前576-前537)製作器には「蛮方」「百蛮」「蛮夏」が見える。
楚を「詩」小雅/采zは「蛮荊」と称し、魯頌/?宮は「荊舒」を「戎狄」と並列する。楚君は?冒(前760-前734)以降、王を自称したが、「春秋」は「楚子」と貶記し、「蛮」の出自を暗示する。楚地で成書した「左伝」は楚を異民族とする言説を排除するが、「孟子」滕文公上が楚人許行を「南蛮鴃舌之人」と称し、「公羊」「穀梁」が楚を「夷狄」とするように、その出自は一貫して意識されつづけた。しかし、「春秋」はすでに楚を華夏諸国に準ずる国家として扱い、「孟子」梁恵王上は楚を「四夷」と区別する。
「左伝」における具体的な民族名としての「蛮」は楚関係の記述に専ら見える。「蛮夷」も「左伝」に初見し、呉・越や「夷」系小国の蔑称か、やはり楚関係の記述に限定して出現する。「夷」系小国のうち、杞(前445)・?(前431)は楚に、?(前414)は越に併合され、呉(前473)を併合した越も、「左伝」の成書する前4世紀前半には混乱に陥り、やがて楚に併合される。「左伝」が楚地で成書したことを考慮すれば、「蛮夷」は本来、楚が従属する異民族を汎称する語彙であったと思われる。
「左伝」が「蛮夷」と蔑称する諸国は、国君が「国号+子」の形式で記述されることで、華夏から国家として認証されていたが、戦国後期、「国語」周語上・「荀子」正論の五服説において、華夏により近いものとして「蛮夷」を「戎狄」と差異化する言説は、「左伝」の「蛮夷」に基づくものであろう。
「戎」
「戎」の原義は兵器で、敵対的な異民族の汎称に引申する。VA戎氏編鐘「蛮戎」の「戎」は汎称であり、具体的な民族にはUA班@「東或Q戎」・臣諫@「戎」があり、UBa鼎一「淮戎」・a@一「戎」は淮夷を指し、「書」費誓に「徐戎」が見える。??はVA・VBの交に初見し、多友鼎・不期@は??を「戎」と称する。多友鼎には??の戦車鹵獲が見え、??は華夏と同様に戦車戦を行っていた。「詩」大雅/緜「混夷」・皇矣「串夷」・「左伝」閔2「犬戎」の「混」「串」「犬」は「?」と発音が近く??を指す。「詩」には小雅/采薇・出車・六月・采?など??が頻見し、周王朝への衝撃の大きさを物語る。「夷」が南方・東方の異民族に頻用されていたため、「混夷」「串夷」ではなく、「犬戎」が定着し、ついで「戎」は、「詩」小雅/出車「西戎」の如く、西方異民族の汎称ともなる。遠祖に「戎胥軒」をもつ秦もまた戎の一部族であったが、秦仲(前844-前822)・荘公(前821-前778)は宣王の命で西戎と交戦した。宣王・幽王期の王朝の「戎」との交戦は「竹書紀年」を引く「後漢書」西羌伝に見える。西周王朝滅亡の前後より、渭水流域ではすでに戎の諸族が自立し、豊王・亳王など王号を称するものや、蕩氏・彭戯氏など国家に次ぐ政治組織「氏」をもつものが「史記」秦本紀に見える。
地名などを冠した「戎」は「左伝」では、渭水から伊水・洛水流域の民族集団の呼称として頻見する。戎は「田」を有し、徐吾氏・蛮氏・姜戎氏・陸渾氏など「氏」級の政治組織をもち、驪戎男・戎子駒支・蛮子/戎蛮子などその首長は「子」「男」を称した。これらは戦国前期までには晋・楚に併合された。
これらとは別に、「左伝」桓13(前699)・文16(前611)には楚地の「戎」が見える。「春秋」には済西の戎と仮称される「戎」が見える。「左伝」の「北戎」は、済西戎が鄭の視点からかく称されたものであろう。渭水から伊水・洛水の「戎」が、華夏諸国と同様の戦車戦に従事したのに異なり、北戎は歩兵戦に従事した。済西戎は「春秋」荘26(前668)、北戎は「左伝」僖10(前650)を最後に唐突に消滅し、代わって「狄」が出現する。済西戎・北戎の一部は「狄」に吸収され、一部は、「左伝」哀17(前478)に見える衛の「戎州」の如く、諸侯国の領域内に孤立したものであろう。さらに今一つの「戎」である山戎は、斉桓霸業との関連で戦国後期以降の文献に喧伝されるが、春秋経伝の同時代的記述においては、一回的な出現でしかない。
「狄」
「春秋」荘32(前664)に初見する「狄」の原義は「遠」で、「遠方に駆除する」の意に引申し、やはり敵対的な異民族の汎称である。「狄」は晋の領域の西・北・東に広範に分布した。「春秋」では、文13(前614)までは「狄」しか見えないが、宣3(前606)に「赤狄」が、宣8(前601)に「白狄」が出現する。「左伝」には僖33(前627)に「白狄子」が見える。晋は対狄戦のために僖28(前632)に歩兵部隊「行」を編制したが、僖31(前629)にはこれを戦車部隊「軍」に改編している。このころ「狄」の一部が政治的結集を進め、華夏に倣って城居し、戦車戦を導入したものであろう。
前594〜前588年に晋に併合された「赤狄」は、?氏を中心に、甲氏・留吁・鐸辰・?咎如などから構成され、「衆狄」を服属させていた。?氏・甲氏は「氏」級の政治組織をもち、?氏には「子」の称号をもつ首長・?子嬰児があり、晋と通婚していた。
「赤狄」「白狄」登場以後も、「春秋」成12(前579)には晋が「狄」を破ったとあり、「左伝」昭元(前541)には晋が大原で「無終及群狄」を破ったとある。襄4(前569)には、「子」の称号をもつ「諸戎」「戎狄」の首長・無終子嘉父が見える。他の「戎」が黄河右岸にあったこと、「左伝」の晋関係の記述が、「戎」「狄」を混用することを考慮すれば、襄4の「諸戎」は昭元の「群狄」と同じものであろう。「群狄」は、狩猟に従事し、歩兵戦を行う生活様式を保持したが、晋に抗して無終を中心に結集したのである。
「白狄」は「春秋」では襄18(前555)、「左伝」では襄28(前545)に終見し、「春秋」昭12(前530)に「鮮虞」が出現する。二字名は華夏との一定の差違を保留するが、「狄」を附さないことで華夏諸国に準ずる国家であることを認めている。「鮮虞」も複数の政治組織の連合体で、「左伝」には鮮虞に属する肥子緜皐・鼓子鳶?など「子」の称号をもつ首長が見える。「左伝」定4(前506)には戦国中山国の前身である「中山」が初見する。

東夷・北狄・西戎・南蛮の表現は、戦国前期、前4世紀前半の「礼記」曲礼下に初見するが、当時の中原において、蛮夷戎狄はすでに華夏に併合され、あるいは華夏諸国に準ずる国家を形成していた。現実にもはや存在しないからこそ記号化されえたのである。異民族を蛮夷戎狄で代表させることは、曲礼が成書した魯地に既存の言説に依拠した。戎・狄は、「詩」魯頌/?宮「戎狄是膺」に見え、「春秋」に登場する異民族のほとんどであった。蛮・夷は、「詩」小雅/采?「蛮荊」・魯頌/?宮「淮夷蛮貊」や、「論語」の「夷狄」「蛮貊」に見える。東西南北への配当も、「東夷」は西周VB金文から「左伝」の年代記的記述にまで、「西戎」は「詩」小雅/出車に見える。「北狄」「南蛮」は、「春秋」の狄が晋の西方・北方・東方、「左伝」の「蛮夷」が東方・南方に当たることから配当されたものである。
「四夷」は、華夷の空間的区分を含意し、異民族を内包しない華夏の「領域」としての「中国」の理念的な確立を示す。華夏を「中国」に位置づける空間理念を前提に華夷関係のあり方が構想されていく。「左伝」では、「四裔」に居住するものが四夷とされ、華夷の別は原理的に克服されえないが、戦国後期の「公羊」「穀梁」は華夷の可変性を強調する。華夷の別を超えた領域内部の高度の均質化を方向付ける、秦の郡縣制の如き支配装置がこの時期に普及しはじめ、領域支配が高度に強化されたことに呼応する。
しかし、集権的で均質な領域支配には限界があり、戦国中期以前に儒家において確立された、華夏内部さらには四夷に対する封建制に基づく緩やかな支配が一方では主張されつづける。戦国後期以降の畿服説では、四夷が華夏と同様に貢納を負担し、華夷の差違は量的なものとなる。天子の支配力に比例する職貢の質量が王畿からの距離に従って段階的に漸減する、無理な均質化を拒否する構想でもある。かく仮構された言説が逆に前漢以降の現実の華夷関係を規定していく。
同じく戦国後期以降、儒家の礼楽に対する批判装置として四夷を肯定的に記号化した言説や、礼楽の原理的な普遍性を否定すべく、礼楽の及ぶ天子の支配領域としての「天下」「海内」の外の世界を想定する言説も出現する。 これら様々な理念を時系列的に整理した上で、秦漢以降の現実の華夷関係との間の相互作用を解明することが、今後の課題となろう。