おかめ お亀 阿亀 お多福

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雑学の世界・補考   

おかめ(お亀/阿亀)

おかめ(お亀、阿亀)は鼻が低く頬が丸く張り出した女性の顔、あるいはその仮面。頬の張り出した形が瓶に似ているから名付けられたとされる。おたふく(お多福)ともいう。
面は里神楽などで道化役の女性として使われることもあり男性の面であるひょっとこと対に用いられることも多い。またお多福ともいうように福が多いということから縁起がよいとされ浅草などの酉の市の熊手の飾りなどに使われるようになった。
本来古代においては太った福々しい体躯の女性は災厄の魔よけになると信じられ、ある種の「美人」を意味したとされる。だが上記縁起物での「売れ残り」の意味、あるいは時代とともにかわる美意識の変化とともに不美人をさす蔑称としても使われるようになった。
滑稽な面の起源は日本神話の女性アメノウズメといわれているが、おかめの名は室町時代の巫女の名前からという説もある。お多福は前記の福が多いという説と頬が丸くふくらんだ様から魚の河豚が元という説もある。
京都の千本釈迦堂(大報恩寺)には本堂を建てた大工の棟梁を助けたうえ命を絶った妻のおかめの伝説がある。そのため京都で棟上げ式を行うときおかめの面を御幣に付ける習慣がある。
建築土木の現場では、土や砂利、コンクリートなどを掻き寄せたり、敷き均すための用具。「鋤簾」のことを阿亀と称して呼ぶ。
おかめ1【お亀/阿亀】「阿多福(おたふく)」に同じ。「阿亀蕎麦(おかめそば)」の略。
おかめ2【お亀/阿亀】「阿多福(おたふく)」に同じ。〔具をおかめの面のように並べたところから〕かまぼこ・のり・青菜・椎茸などの具を上にのせた汁うどん・そば。近世、伊勢・尾張地方で宿場女郎・飯盛り女のこと。「みやで泊ろか―にしやうかなあ/滑稽本・膝栗毛4」
おかめ3【阿亀】お多福の仮面。下膨(しもぶく)れの丸顔で、鼻が低く頬(ほお)の高い女の仮面。お多福面。甕(かめ)に似ているからという。「阿亀」は、当て字。「ひょっとこ」と対(つい)で用いられたりする。お多福面に似た顔の女。多く、醜女(しこめ)を嘲(あざけ)って言う。類:お多福おかちめんこぶす/用例*雑俳・柳多留−一四「およしをかたづけお亀にむこをとり」。伊勢・尾張地方で、宿場女郎・飯盛り女のこと。おかめ蕎麦(そば)、おかめ饂飩(うどん))の略。
おかめ4【阿亀】不美人と不二歳の代名詞と言えば・・・おたふく【阿多福】とひょっとこ【火男】ですが、この“おたふく”鼻が低く、頬がふくらんでいる様子から魚の“ふぐ”を連想させ、そう呼ばれたとか。古代美人の象徴はふくよかな体つきと愛想とされ、厄除けの意味で尊ばれたそうで、そんな“おたふく”のことを「福の多い阿(むすめ)」=「阿多福」と称し、またの名を「阿亀【おかめ】」とも言いました。ですから阿亀火男【おかめひょっとこ】とは、この“おたふく”と“ひょっとこ”のことです。しかし時代とともに美人と不男の基準は変化し、いつの頃からか“おたふく”は里神楽で道化役の女性として、“ひょっとこ”は男性役として登場します。そういえば、正月の子供遊び“福笑い”も阿亀の図柄でしたよね。ところで建築土木の現場で「阿亀」と言えば、砂利や土、コンクリートなどを掻き寄せたり、敷き均したり、すき取る用具、鋤簾【じょれん】のことを指します。元々は農具としてつくられた鋤【すき】の一種で地方によりいろいろな型が存在します。さらに発展した型として蜆漁などで使われる“ふるい状の熊手”も鋤簾の一種です。
おかめそば【阿亀蕎麦】かまぼこ・しいたけ・青菜などの具を入れたかけそば。具の並べ方がおかめの面に似るところからの名という。
おたふく1【阿多福】「おたふくめん(阿多福面)」の略。*雑俳・柳多留‐二三〔1789〕「しほふきやおたふくをして髭(ひげ)をそり」*宮比神御伝記〔1829〕一九「或説に足利の末頃とか。ある神社の巫子に亀女とて、そ...
おたふく2【阿多福】「阿多福面」の略。おたふく面のような顔の女性。多く、醜い顔の女性をあざけっていう語。「阿多福風」の略。
おたふく3【阿多福】丸顔で、額が高く、頬が膨れ、鼻が低い女の顔の面。2.お多福面のような醜い顔の女。主に、女を嘲(あざけ)って使う。類:おかめ三平二満。自分の妻のことを謙遜して呼ぶ言葉。類:愚妻。中限(なかぎり)相場が、当限(とうぎり)及び先限(さきぎり)に比べて安いこと。
おたふくあめ【阿多福飴】棒状の飴のなかに、おたふく面の形を描き込んだもの。どこを輪切りにしてもこの模様があらわれる。[ク]...
おたふくがお【阿多福顔】おたふく面(めん)に似た顔。おかめ。おたふくづら。おたふく。*満願〔1938〕〈太宰治〉「奥さんは、小がらの、おたふくがほであったが、色が白く上品であった」...
おかちめんこ1【 】顔立ちが整っていない不器量な女性を指す俗語。
おかちめんこ2【 】 目鼻立ちの整わない不美人な女性のこと。
おかちめんことは目鼻がつぶれたような整わない顔をした女性のことで、こういった女性を嘲っていう言葉である。ちなみにおかちめんことはもともと雄勝石で作ったメンコを意味し、地面に叩きつけ、絵柄がつぶれてわからなくなったメンコをこういった女性の顔に見なしたのが語源とされる。他の語源説として、餅を意味する「かちいい」に接頭語「お」を付けて「おかち」、そこに顔を意味する「面(めん)」と接尾語「こ」を付け、お餅のような顔ということからおかちめんこと呼んだとするものもある。
おかちめんこ3【 】 ブス。不細工。器量の悪い女性。
接頭語「お」に餅を意味する古語「搗飯(かちいい)」が訛った「かちん」が付いて「おかちん」、さらに、それが語尾変化して「おかち」。「顔」を意味する「めん」に親愛の情を示す接尾語「こ」で「めんこ」。両者をあわせて「おかちめんこ」となる。したがって、本来の意味としては「餅のようにのぺーっとしていて目鼻立ちがはっきりしない顔」となる。
不細工な顔の形容する語としては「おかめ」があるため、両者を混同して「おかめちんこ」と間違う例が多い。しかし、「ちんこ」とは通常は男性器(陰茎)を意味しているため、この誤用には重大な矛盾がある。
さんぺいじまん【三平二満】「三」「二」は数が少ないことを表す。三でも平安、二でも満足という意味で、満たされない状況にあっても、心が平安で満足していること。額や鼻、頬などの起伏が普通でない顔。また、醜い顔の女をたとえていう言葉。類:阿亀おかちめんこ阿多福/参考*平らな部分、三箇所については、「額・鼻・顎」とも、「目・鼻・口」とも、「両頬(ほお)・鼻」ともいい、ふくらんだ部分、二箇所については、「額・頬」とも、「額・顎」とも、両頬とも言い、諸説ある。
ひょっとこ【 】お面。口が尖(とが)り、一方の目が小さい、滑稽な顔の男の仮面。また、その面を着けてする踊り。潮吹き面。用例*滑・浮世床−初「赤熊(しやぐま)で面をかぶつて、ひょっとこを踊つて貰はあす」。例:「おかめひょっとこ」。男を罵(ののし)って言う言葉。類:すっとこどっこい「ひおとこ(火男)」の変化で、火を吹くときの顔つきから出た語という。
 【阿】 [音]ア || [訓]くま/よる/おもねる/ひさし/お
おか。かぎ形になったおか。おかのはざま。
くま。山や川の曲がって入りこんだ所。「山阿」「水阿」。
かぎ形に曲がった物。曲がったたるき。のき。ひさし。「四阿」。
おもねる。原則を曲げてつき従う。へつらう。迎合する。「阿諛」
親しみの気持ちをあらわして、人を呼ぶことばにつく接頭辞。また、女子の名の上につける愛称「阿母」「阿国」。
梵語「ア」の音訳字。「阿弥陀」。
「阿波」の略。「阿州」。
「阿弗利加」の略。アフリカのこと。「南阿連邦」。
京都の「おかめ」
京都の千本釈迦堂には、良妻の鏡としての京女「おかめ」の伝説がありました。760年前、時は鎌倉時代。大工の棟梁「高次」が本堂造営を任されていました。ところが、本堂の柱として使われる大切な四天柱を誤って切り落としてしまったのです。夫の不祥事に心を痛めた高次の妻「おかめ」は、「もし、夫を助けてくださるなら、私の命を差し上げます。」と、本堂で仏様にお祈りをしました。すると、ご本尊のお膝元に「斗組(ますぐみ)」の姿が映りました。この「斗組(ますぐみ)」手法を夫に語り、本堂は無事に完成しました。夫の成功と幸せだけを祈った「おかめ」は、その約束通り、上棟式前に自らその命を絶ってしまったのでした。高次は、亡き妻「おかめ」をイメージした福面を飾り、妻の冥福と本堂の無事完成を永久に祈ったということでした。
それ以来「おかめ」は、美人と女徳の象徴として祭られ、今でも災難消除、招福祈願を願う「おかめ信仰」が多くの人々により続けられているそうです。
天岩戸で舞った女神「おかめ」
天照大神が天の岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞いを舞い笑いを誘った女神で「天鈿女命」(あまのうずめのみこと)と言うそうです。後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになりました。
古事記、日本書紀に見られる「笑う」は、単純な笑いではなく、悪魔を退散させるなどの呪術的所作であると言われています。天鈿女命は、日本書紀では「気後れしない神」、また古語拾遺では「睨み勝つ神」として描かれており、特異、特別な顔面を持つ神と思われがちですが、一般的には、宮中に奉仕し、主として「神楽」のことに携わった女性で、神楽や芸能の神とされています。
このようなところから「おかめ」伝説がスタートしたと思われます。
また、一方「亀女(かめじょ)」と呼ばれる女性が、「天鈿女命」を尊崇し、日夜精進し皆から親しまれ尊ばれていたそうです。「亀女」の顔は、ふくよかで愛嬌があったので、その顔を模ったお面でその人柄を偲び、また、楽しんだとも言われています。
「天鈿女命」の面は狂言の面としていわゆる「おかめ面」として伝えられるとになったようです。鈿女神社(通称おかめ神社)は、なぜか信州の茅野、岡谷、諏訪に集中してあります。
博多の「お多福」
日本三大祇園祭の一つである「博多祗園山笠」で有名な博多総鎮守である櫛田神社の歴史は大変に古く、その奉納神事の歴史は766年余り、国の無形民俗文化財に指定されています。2月の節分になると表門と裏門に大きな「お多福」門ができ、丁度、口のところから出入りできるそうです。
福をもたらす女性
女性の美しさをランク付けした言葉に一位=華人、二位=麗人、三位=美人、四位=ブス、五位=オカメ、六位=ひょっとこ、七位=ひゅーとん、八位=ぽい、と言うことを聞いたことがあります。ブスやオカメは順番から言えば真ん中で並みだから自信を持て言った励ましの言葉だと思います。いずれにしても、世俗の美醜の判断を超越し、人々に福をもたらすお多福美人、オカメ美人と言う事でしょうか。
福笑い1
これは一般に「お多福」の顔のりんかくだけが描かれた紙があって、そこに目隠しをした人が別途用意された口・目・鼻などの描かれた紙片をのせて遊ぶというものです。顔の部品がとんでもない所に置かれるのが、このゲームのおもしろさです。江戸の後期から遊び始められたのではないでしょうか。明治になるとお正月の遊びとして盛んに行われ、明治以降、昭和35年頃まで各家庭でお正月の遊びとして行われていたが、その後、急速に遊ばれなくなった。
福笑い2
正月に遊ばれる日本の伝統的な遊びである。転じて、変な顔のこと(例:顔面福笑い)。阿亀(おかめ)や阿多福(おたふく)などの面の輪郭を描いた紙の上に、目、口、鼻などの部品を散らし、目隠しをした者がそれを適当な位置に置いていく。並べる者が目隠しをしているため、出来上がった顔は部品の配置が乱れており滑稽な顔立ちになっている。それを見て笑い楽しむものである。よりおかしな顔を作った者、あるいはより正しいふつうの顔を作った者を勝者とするなどして勝敗を決する場合もある。正月の遊びとして定着したのは明治頃とされているが、起源ははっきりしない。平成以降は一般家庭での正月の遊びとしては廃れ気味となったが、パソコンやウェブ上で遊ぶ福笑いソフトなどが登場したほか、自治体などが執り行う新春行事としては変わらず恒例のものといえる。
「おかめ」「ひょっとこ」というのは美人でない女性、美男子でない男性の代名詞ですか?
「おかめ」というのは「お多福」の仮面のことで、また、その仮面に似た「醜い女性」のことを表します。美人じゃない女性の代名詞と考えていいです。
しかし、「ひよっとこ」は違います。「ひよっとこ」というのは「火吹き男」(あるいは「火男」)という言葉からきたもので、竹で火を吹く表情の滑稽さを表したものです。
つまり、「美男子でない男性」のことではなく、誰でもそうなる表情のおもしろさを表現しています。
「ひよっとこ」を美男子ではない男性の代名詞と考えることはできません。
平安顔
平安時代は、おかめ顔が美人とされていたようですが、狭衣物語にでてくる右大臣の娘は「際ヶしきかたち」「鼻高」とあるようにはっきりした顔立ちで美人だったんですよね?
平安時代に美女とされてたのは、中背で、ふっくらとして少しふとり気味。艶があって光るような肌の白さ。清楚な感じ。
下ぶくれ、細い一重の目、目はつりあがっていない。低くて小さな鼻、薄いクチビルっていう能面みたいな顔だったみたいです。
俗に「平安顔」って呼ばれてる顔立ちで、大きな目、高い鼻、ぽっちゃりしたクチビルが好まれる現代とは正反対の美意識ですね。
尚且つ、教養(歌・琴)を身につけている。機知に富むことが条件でした。
しかし、この時代の女性の美しさのポイントは、顔よりも髪だったみたいです。
黒くて長くてサラサラの髪、牛車からおり縁側を上がって屋敷に入っても髪の毛が残っていることが必須だったともいわれます。逆に、顔は普通以下でも、黒髪が美しい女性なら、得点が高かったみたいです。おかめ顔だけが判断の基準ではなかったみたいですね。
ちなみに、井原西鶴の「好色一代女」巻の一の「国主の艶妾」貞享3年(1686)には、「当世顔はすこしく丸く、色は薄花桜にして、面道具の四つ不足なく揃へて、目は細きを好まず、眉厚く、鼻の間せはしからずして次第に高く、口小さく、歯なみあらあらとして白く、耳長みあつて縁浅く、身を離れて根まで見えすき、額ぎはわざとならず自然に生えとまり、首筋たちのびて、後れなしの後髪、手の指はたよわく、長みあつて爪薄く、足は八文三分の定め、親指反つて裏すきて、胸間常の人より長く、腰しまりて肉置(ししおき)たくましからず、尻はゆたかに、物ごし衣装つきよく、姿に位そなはりて心立おとなしく、女に定まりし芸すぐれて万(よろず)に賤(いや)しからず、身に黒子(ほくろ)ひとつもなきをのぞみとあらば〜」
「この条件に合う女性を探してる」という人相書きに書かれてる文章があります。
江戸時代は、このような容姿の女性が好まれたんですね。
追記
右大臣の娘は、態度が尊大で高慢で、容貌もそれほどではない、との記載もあります。読み込みが足りないのか、「際ヶしきかたち」「鼻高」との記載を見つけられないのですが、彼女の他の書かれ方を読むと、「際ヶしきかたち」は、髪が美しかったという比喩、「鼻高」というのは、自分の地位(右大臣の娘という)を鼻に掛けるって意味のように取れたんですが、私の読みが稚拙なのでしょうか。
平安顔は、栄養のバランスが悪かったので、下ふくれだったとの説もありますし、顔をおおきく見せるための化粧で、目や鼻を目立たなくさせたとも言われています。一過性のものではないと思います。
昔の人って、本当に目が細いおかめみたいな女性が美人だと思ってたんですか?
女性がかわいいかかわいくないかという感覚は、DNA的な要素で判断していると思います。昔だと「おかめ顔が美人なんだよ!」という周囲の話だとか、今のわれわれも「アイドルはみんな二重だから外人みたいにぱっちりした二重がかわいいんだよ!」だとか、周りに洗脳されて理性でそう思っているのではなく、ぱっちりした目は赤ちゃんを思わせ、性格がよさそうだ。とヒトとしての本能で感覚をなしている気がします。
したがって、私は、昔の人が細い目の女性が美人だと判断していたのがどうしても信じられません。やっぱり、下膨れで、おちょぼ口で、目が細いと「ブス」だと思っていたんじゃないかと。
学説的にも、やはり男性はみんな目が細いおかめ顔が美人だと思っていたのでしょうか?
おかめ顔が美人というのは平安時代の貴族の中での話です。
それはそれで一時期の一部の文化の中での美人の基準です。
当時は髪が長く太っているのはセレブの証だったんです。働かなくても裕福だから髪も伸ばしっぱなしに出来るし、手入れが行き届いている程長くつややかで黒々としている訳です。たくさん食べて体格も良い。そしてきれいな服を着て、高価な香を焚く。
エステや高級美容院に通い、ブランドの服を着て宝石や香水で飾るのと全く同じじゃないですか。流行なんですよ。
それに、顔の流行は最近だって幾らでも変わってるじゃないですか、20年位前はみんな眉毛ゲジゲジで、それをみんなかわいいといっていたんですから。今は美白とか言って白いのが流行ですけど、褐色がはやった時期もあったでしょ。
マリリンモンローは当時は最高の美人だったんでしょうけど、今見るとちょっとクドイ感じしますよね。
顔の造形が整っているかどうかはある程度時代に左右されない要素だと思いますが、美人の基準は文化、時代ごとの刷り込みです。
性欲は本能ですから、美人だと思った人に本能がうずくのは仕方ありません。
 
おかめとひょっとこ

おかめ(お亀、阿亀)は、おたふく(お多福)ともいうのです。鼻が低く頬が丸く張り出した女性の顔、あるいはその仮面をさすことが多いですね。
阿亀って言えば、工事の用語では「鋤簾(じょれん)」のことですって。建築土木の現場で、土や砂利、コンクリートなどを掻き寄せたり、敷き均すための用具ですよね。 長い柄の先に、竹で箕(み)のように編んだもの、または浅い歯をきざんだ鉄板をつけたものだそうです。
漢字には亀が当てられているが、おかめの名は頬の張り出している形が瓶(かめ)に似ているところからきたとみられています。
おかめの面は、里神楽などで道化役の女性として使われるでしょ。
男性の面である、ひょっとこと対に用いられることも多い。
ひょっとこは、口をすぼめて曲げたような表情の男ですよね。
おかめ同様、面もあります。
ひょっとこは、左右の目の大きさが違ったり、頬被りをしている場合もあります。
あるいは面を付けた人は、頬被りをすることが多いでしょ。
ひょっとこの名前にも、いくつか説があります。
竈(かまど)の火を竹筒で吹く「火男」がなまった。
口が徳利のようであることから、「非徳利」がなまった。
岩手県奥州市の江刺地方に残る民話に、「ひょっとこのはじまり」というのがあります。
この話では、ヘソから金を生む奇妙な顔の子供であり、死んでから自分に似せた面を竈の前に架けておけば家が富み栄えると夢枕に立ったと、あります。
その子の名前がヒョウトクスであったところから、ひょっとこになったという説を立てています。
類似の話は各種あるが、概ね東北地方では火の神様として扱われるようですね。
日本の代表的民謡「出雲安来節」にもひょっとこ顔の男踊りとして、「ドジョウ掬い踊り」がありますね。
ドジョウ掬いでは、五円玉を鼻につけるでしょ。
出雲の国はかつて製鉄が盛んであり、その砂鉄採取が所作の源流とされます。
ちなみにヤマタノオロチも、草薙の剣で知られる天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が出ることや、酒桶に首をつけることから製鉄に関する神話という説もあります。
ドジョウ掬い踊りには、炎と関係の深い金属精錬神への奉納踊りの側面もあったと考えられています。
お金をつけて踊る辺り、岩手県の民話と起源の同一性が感じられます。
出雲弁と東北弁の類似からしても、伝わっている可能性は疑って良いかもしれないですね。
ひょっとこは、田楽などでの道化役として登場することもあります。
ひょっとこに、「火男」説や火の神信仰があるでしょ。
おかめの語源にも、瓶(かめ)から来ているという説がある。
字としては「お亀」「阿亀」のように亀を当てるけど、「瓶」も「亀」も水に関係ありますね。
「お亀」「火男」と並べると、なにか意味が込められていそうですね。
水と女、火と男、これはまさに陰陽ですよ。
さらに陰陽では、水と女は北と天、火と男は南と地、と配されます。
天と女、地と男、まさに古代エジプトではないの。
エジプトにおいて天はヌトという女神であり、地はゲブという男神でした。
両者は夫婦であり、最初は隙間なくくっついていたが、父たるシュウ(湿気)とテフヌト(空気)によって引き離されて現在の姿になったというのですよ。
ゲブはヌトに少しでも近づこうと、山々を作り出したとされるのでしょ。
おかめの別名とされたお多福は、福が多いということから縁起がよいとされ浅草などの酉の市の熊手の飾りなどに使われるようになります。
おかめの瓶(かめ)の水は、恵みの雨をさすのかしら。
水は、豊作と福をもたらす存在だったのね。
女神自体、しばしば、豊穣崇拝の対象でした。
本来古代においては太った福々しい体躯の女性は災厄の魔よけになると信じられ、ある種の「美人」を意味したとされます。
いまでも、太ることが美人の条件とされる地域ってあるでしょ。ありますね。
でも、女性はある程度ふっくらしている方が、冷えないし、妊娠のときも安産しやすいので体には良いですよ。
男だって、ある程度恰幅がいい方が健康的でしょ。そうですねえ。
でも、縁起物での「売れ残り」の意味にも、なったらしいねえ。
時代とともにかわる美意識の変化とともに、不美人をさす蔑称としても使われるようになったですねえ。
ただ、面にされたおかめもひょっとこも、誇張されたものです。
そういえば。いくらかふっくらした多少下膨れ気味の顔なら、今でも美人といわれる人によくみられるでしょ。
程度問題だけど、そうですねえ。
ミロのビーナスや、世界三大美人の顔は確かに、いくらかふっくらした多少下膨れね。
滑稽な面の起源は、日本神話の女性アメノウズメといわれています。
でも、滑稽な面の起源って、アメノウズメの顔も知らないくせによく言うよね。
そうそう、知らないで言うのは失礼ですねえ。
おかめの名は、室町時代の巫女の名前からという説もあります。
でも、こじつけでしょ。
顔だけで、そんなに有名になるでしょうか。
おかめの起源が女神であったとすれば、巫女説が出てくる可能性はあるかもしれないですね。
お多福には福が多いという説の他にも、頬が丸くふくらんだ様から魚の河豚が元という説もあるのですって。
河豚説も、こじつけでしょ。
これこそ、そうでしょうねえ。
京都の大報恩寺千本釈迦堂には、本堂を建てた大工の棟梁を助けたうえ命を絶った妻のおかめの伝説があるそうです。 そのため、京都で棟上げ式を行うときおかめの面を御幣に付ける習慣があるというのです。
大工って、どこからそんな話になるの。
古代エジプトで天はヌトという女神であり、地はゲブという男神でしたよ。 おかめから水と天を、ひょっとこから火と地を、連想すれば確かに繋がるのです。 太陽神ラーが、コーランのアッラーで、聖書のイエスに繋がるでしょ。 あ、イエスは大工の子でしたねえ。 若かったころ、イエス自身も大工だったとされる。 おかめから、古代エジプトへ、さらに、イエスに繋がるなんて。 意外過ぎ!
おかめとひょっとこが、そんなに深いとは思いませんでした。
でも、歴史をたどると面白いですねえ。 おかめとひょっとこ、奥が深いですねえ。
ひょっとこ踊り(日向市の歴史)
ひょっとこ踊りは、塩見永田地区に伝わるこっけいな郷土芸能で、別名橘踊り、ピーヒョロ踊りともいう。1908(明治41)年、塩見で眼科医をしていた橘公行が付近の青年たちに教えたのが始まりと言われる。
狐、おかめ、ひょっとこの面をつけ、赤い着物に白い帯、褌姿で笛・鉦(かね)太鼓のピーヒョロロ、ピーヒョロロのリズムに合わせ、首や腰を前に突き出したり、手足をこっけいに動かし、踊りまくる。現在では「ひょっとこ祭り」という行事もでき、日向市の名物踊りとなった。
由来は昔、オカメという美人と村の若者ヒョウ助が結婚したが子供に恵まれず、毎朝二人はお稲荷様に豆ん飯を供えて祈願していた。ある朝、空腹だった神主が供えてあった豆ん飯を食べた。それを見たお稲荷様が怒って姿を現したが、お稲荷様は美人のオカメに目を奪われて、狐のまま姿を現し、おかめの気を引こうとする。美人のオカメに惚れていた村の若者も集まり、一騒動が起こり、このときの様子が踊りになったという。
 
罪軽げ

小学生の頃から大学生に至るまで、漫画を描くのが趣味だった私は、ヒロインはどんな性格で、どんな容姿にしようかな、脇役はこんな性格でこういう育ちだから体形はこんな感じかな?などと考える癖がついていた。そのせいか、現実でも、人の美醜や体形といった「見た目」が、その人の人生に与える影響などを考えるのが好きで、ああこの子はこんな美人だから、無口で無愛想でも周囲に許されているんだとか、あの男子はああいう顔と体形だから自分をピエロに位置づけているんだなとか、思っていたりした。
それで大人になると、古典の登場人物の身体描写や容貌描写について調べて「「源氏物語」の身体測定」とか「ブス論」などを書いた。時代によって美人やブスは社会でどのように位置づけられていたのか、また身分によって身体描写や容貌描写にどんな差があるのかといったことを、あれこれ分析したのである。
結果、分かったことは、身分によって明らかに容姿は違うと考えられていたこと。
第二に少なくとも日本では、時代によって美醜の観念は大して変わらないということ。平安時代は下ぶくれのおかめ顔が美人だったと考えている人もいるが、そういう引き目鉤鼻美人は絵師の個性からきたパターン化された表現という要素も大きい。伊東美咲や米倉涼子が平安時代に生まれてもおそらく美人で通ったろう。
そして第三に、美人とブスに対する「考え方」は時代によってかなり違うということ。
美人が好まれ、ブスがうとまれるのは時代を通じて共通しているが、戦国時代にはあえてブス妻を選ぶことで、武力を増そうとつとめた武士もいるし(でも側室は美人だったかもしれないね)、さかのぼれば日本神話では、ブスな女神が人の寿命を司るなどの力を持っていたりして、それを称して「醜パワー」が信じられていた時代があったなどと私は唱えたわけである。
美人が手放しで絶賛されたり、逆にその高飛車さが強調され、だから年をとってからろくな目にあわないなどという悪意の物語が作られたり、ブスにも大きな存在価値が与えられて活躍したり、逆に徹底的にバカにされるというような、「位置づけの違い」は、時代によってかなりある。
では、最も美人が手放しでもてはやされた時代はいつかというと「源氏物語」を生んだ平安中期である。
この時代は、娘にミカドの子を生ませ、一族繁栄をはかるという、いわばセックス政治が行われていて、ミカドに愛されるには美人というわけで、「美人の娘は親の面目を立てる」(「宇津保物語」)などと物語に書かれたりもしていた。
しかもそういう時代相のためか、前世の行いによって、現世の美醜が決まるという「法華経」の文面が、平安貴族の心の琴線に触れてしまったようで、美=善、醜=悪と、美醜に善悪の観念まで入ってきたものだから、平安文学などは、美貌至上主義ともいえる傾向を帯びてもいた。
だから、空前のブス末摘花を主人公の妻のひとりにした「源氏物語」は凄いのである。「源氏物語」には、文学上の実験としか思えぬ試みがほかにも多々あるのだが、これなどは、こうした時代背景があったればこそ、人をあっと言わせる設定だったのだ。
が、その「源氏物語」にこそは、ほかのどの時代よりも強い美への礼賛と、その思想的根拠が描かれてもいる。だいたい主人公は“光る源氏”、輝くように美しい男なんだから。まぁそういうスターみたいな男が精神的に崩れていく話として読めば、これまた革命的なんだけど。いずれにしてもその根底に流れる美貌至上主義が、この物語に出てくるあることばの中にぎゅっと凝縮されている。
それが、“罪軽げ”。
たとえば頭中将のご落胤の近江の君は、母と早くに死別して、卑しい下人の中で育てられたせいで、すこぶる育ちの悪い姫君として笑いの対象になっているのだが、その容姿というのが、「親しみやすくて愛敬があって、髪は端麗で、“罪軽げ”なのだが、額が狭いのと、早口なのとに損なわれている」という。また宇治十帖のヒロインの浮舟は、二人の男の板挟みにあって自殺未遂したところを、僧侶に救われるのだが、彼女の容姿を見た僧侶は、「まったく実に稀有な美貌だな。前世で功徳を積んだおかげで、こんな容姿に生まれついたのだろう」と感嘆し、また、宮中の祈祷に上がった時に、この浮舟のことを、「一般人にしては“いと罪軽きさま”の人でございました」と告げている。
要するに、罪が軽いというのは、美人の形容なのである。
というと、えーっ!?と驚く人もいるのではないか。だって美人は男を惑わすから「罪深い」って考えも有りなわけで、そっちのほうが、現代人には腑に落ちるであろう。こういう表現があるから、同じ日本語とはいえ、古典は一筋縄ではいかない。
「源氏物語」では、ブスを「罪深そうな顔だ」とはさすがに形容していないが、美人を見て、「あらーあの人、前世でいいことしたのね。罪が軽そうだわー」と言ったり思ったりするってことは、ブスを見たら、「まったく前世でどんな悪いことをしたのやら」と、口に出さないまでも、内心、思っていたりするってことではないのか。
そう思うと、“罪軽げ”なんて美人の形容は、なくなって良かったと言えるかもしれない。しかし、このことば、考えてみると、現代語でも微妙に似たような表現があって、寝ている赤ん坊などを見た時の、「罪のない寝顔ね〜」なんていうやつ。まぁこれは「無邪気」を意味しているわけで、平安中期の“罪軽げ”とは違うが、なにか気脈を通じているように思われて、「じゃあ罪のある寝顔って何なんだ。うーん」と、つい考えてしまうのが私の悪い癖である。
 
阿亀さん

天才とまで名を馳せている棟梁・高次は、どう指図を間違ったか一本の柱の寸法を短くしてしまった事に始まる。
寄進の材木で、代わりの無い木であった事から、建築は進まず、高次は腹切って詫びようかと思うほどの一大事であった。その様子を見て阿亀(おかめ)は自分の命と引き換えに、どうか夫を救う道を教え給えと仏に祈り、斗供(升に似ている事から升組)をもって補う事を授かった。この時代は女人の意見を聞く時代ではなかったが、高次は此れを聞き、短く切った柱に揃えて他の柱を切り、その上に斗供を置いた。それまでに斗供は有ったが、このような使い方をしたのは此れが最初で、見た目も良く、力学的にも重量を逃がして画期的なことであって見事に完成をさせた。しかし阿亀は神仏との約束を違わず自ら命をはて、この完成を見ることはなかった。女人の意見を聞かないのと同じ様に、女人に人前で感謝をすることも無かったこの時代に、高次は棟上の時に扇を二つ広げて円にして、妻阿亀の顔を描き、木の先にそれを付けて、高々と上げ、阿亀有難うと叫んだという。此れを見て周囲は涙しなかった者は無く、お〜お、阿亀さんが帰ってきたと云ったという。
この建築は一世を風靡して世の大工たちは、これに随って棟上には阿亀の御幣を上げて、それが今に継承されている。
此れより、妻の鏡・女の鏡として阿亀信仰が始まり、阿亀さんは今でも境内で升組を両手で包むように大事に持って座っています。
おたのもうします〜、これからは、火吹き男と阿亀さんを一緒にしないでおくれやす。
真言宗智山派/瑞応山・大報恩寺/千本釈迦堂
正式には大報恩寺と云うが、千本通が隣していて釈迦如来を本尊とするところから千本釈迦堂、また、阿亀寺と親しまれています。始まりは義空が承久三年(1221)に創建した小堂でした。後に、倶舎宗・天台宗・真言宗兼学道場となって大伽藍を有して寺運を誇ったが、応仁の乱で奇跡的に本堂を残して諸堂塔は総て焼失した。洛中最古を誇る本堂は、阿亀(おかめ)伝説を残して、古くから阿亀信仰が京女性の誇りとして崇敬を集めています。本堂は勿論国宝で宝物殿には、多くの仏像を有して、快慶作の釈迦十大弟子像は群を抜いて評され義満の花車なる物が、二輪たてかけられていて、当時の牛車の荘厳さを偲ばせている。
阿亀桜
この桜は知る人ぞ知るのみ、枝垂れの一本桜です。本堂は先に記した鎌倉期の洛中最古建築物、長井飛騨守高次とその妻阿亀の話が残る。江戸ごろには娘であったという話もあるらしいが、応仁の乱で焼け残るには妻の話でなければ妙がない。つわものと云えども幼い頃は母に手を引かれたり、お話たるものを聞かないはずはない。母が信仰して尊敬の念を持っている妻の鏡、女の鏡としての阿亀さんの話は聞いていたはずであろう。敵が火を付けるか、焼かれる先に火を付けて戦の作戦にするか、どの寺もその様にして消失していった。この場所の戦いは一度や二度ではない、他の堂宇は放火しても、しかし本堂だけは敵も味方も火を放つ事は最後までなかった。
「斗供」(ときょう) 揺れを吸収するすばらしい木組み
斗と肘木。この組み合わせを「斗供」と言いますが、この組物には、釘を打たないのが普通です。斗供の一番下にある斗と柱や横材は「タボ穴」と「タボ」で組み合わされますから、釘は使いません。タボ穴は小さな穴で、タボはそこに入る突起のようなものです。
斗供は、縦の部材と横の部材を結ぶという非常に重要な役割を果たします。また、斗と肘木をいくつも重ねていくことによって、軒を深くすることができます。
斗と肘木のいいところはそれだけではありません。釘で固定しませんから、湿気の変化で木が膨らんだり縮んだりするのをうまく吸収して、建物がゆがむのを防ぎます。そして、地震や台風かが来ても多少の揺れなら、揺れを吸収してしまいます。ガチガチ固定するから強くなるのではない。組み合わせるだけにして、少し動く余地を残しておくから強くなる。それが、斗と肘木の考え方です。
 
大阪発見 / 織田作之助

年中夫婦喧嘩をしているのである。それも仲が良過ぎてのことならとにかく、根っから夫婦(ふたり)一緒に出歩いたことのない水臭い仲で、お互いよくよく毛嫌いして、それでもたまに大将が御寮人さんに肩を揉ませると、御寮人さんは大将のうしろで拳骨を振り舞わし、前で見ている女子衆(おなごし)を存分に笑わせた揚句、御亭主の頭をごつんと叩いたりして、それが切っ掛けでまた喧嘩だ。十年もそれが続いたから、母屋の嫂もさすがに、こんなことでこの先どないなるこっちゃら、近所の体裁も悪いし、それに夫婦喧嘩する家は金はたまらんいうさかいと心配して、ある日、御寮人さんを呼寄せて、いろいろ言い聴かせた末、黒焼でも買いイなと、二十円くれてやった。
上等の奴やなかったら効かへんと二十円も貰った御寮人さんは、くすぐったいというより阿呆らしく、その金を瞬く間に使ってしまった。けれども、さすがに嫂の手前気がとがめたのか、それとも、やはり一ぺん位夫婦仲の良い気持を味いたかったのか、高津の黒焼屋へ出掛けた。
湯豆腐屋で名高い高津神社の附近には薬屋が多く、表門筋には「昔も今も効能(ききめ)で売れる七福ひえぐすり」の本舗があり、裏門筋には黒焼屋が二軒ある。元祖本家黒焼屋の津田黒焼舗と一切黒焼屋の高津黒焼惣本家鳥屋市兵衛本舗の二軒が隣合せに並んでいて、どちらが元祖かちょっとわからぬが、とにかくどちらもいもりをはじめとして、虎足、縞蛇、ばい、蠑螺、山蟹、猪肝、蝉脱(ぬけ)皮、泥亀頭、手(もぐら)、牛歯、蓮根、茄子、桃、南天賓などの黒焼を売っているのだ。御寮人さんはその一軒の低い軒先をはいるなり、実は女子衆(おなごし)に子供がちょっともなつかしまへんよってと、うまい口実を設けていもりの雄雌二匹を買った。
帰り途、二つ井戸下大和橋東詰で三色ういろと、その向いの蒲鉾屋で、晩のお菜の三杯酢にする半助とはんぺんを買って、下寺町のわが家に戻ると、早速亭主の下帯へこっそりいもりの一匹を縫いこんで置き、自分もまた他の一匹を身に帯びた。
ちかごろヴィタミンCやBの売薬を何となく愛用している私は、いもりの黒焼の効能なぞには自然疑いをもつのであるが、けれども仲の悪い夫婦のような場合は、効能が現われるという信念なり期待なりを持っていると、つい相手の何でもない素振りが自分に惚れ出した証拠だと錯覚して、そのため自分の方でそれにひきつられてしまうのではあるまいかと、私はその効能に心理的根拠を与えたいのである。
ところが、その大阪的な御寮人さんの場合どうなったか、私は知る由もないが、しかし彼女が時時憤然たる顔をして戎橋の「月ケ瀬」というしるこ屋にはいっているのを私は見受けるのである。「月ケ瀬」へ彼女が現れるのは、大抵夫婦喧嘩をしたときに限るので、あんまり腹が立ちましたよって「月ケ瀬」で栗ぜんざい一杯とおすましとおはぎ食べてこましたりましてんと、彼女はその安い豪遊をいい触らすのである。
「月ケ瀬」は戎橋の停留所から難波へ行く道の交番所の隣にあるしるこ屋で、もとは大阪の御寮人さん達の息抜き場所であったが、いまは大阪の近代娘がまるで女学校の同窓会をひらいたように、はでに詰め掛けている。デパートの退け刻などは疲れたからだに砂糖分を求めてか、デパート娘があきれるほど殺到して、青い暖簾の外へ何本もの足を裸かのまま、あるいはチョコレート色の靴下にむっちり包んで、はみ出している。そういう若い娘たちにまじって、例の御寮人さんは浮かぬ顔をして突っ立ち、空いた席はおまへんやろかと、眼をキョロキョロさせているのである。そして私もまた、そこの蜜豆が好きで、というといかにもだらしがないが、とにかくその蜜豆は一風変っていて氷のかいたのをのせ、その上から車の心棒の油みたいな色をした、しかし割に甘さのしつこくない蜜をかぶせて仲々味が良いので、しばしば出掛け、なんやあの人男だてらにけったいな人やわという娘たちの視線を、随分狼狽して甘受するのである。
五年前、つまり私が二十三歳の時、私はかなり肩入れをしていたKという少女と二人でいそいそと「月ケ瀬」へ行った。はいるなりKという少女はあん蜜を注文したが、私はおもむろに献立表を観察して、ぶぶ漬という字が眼にはいると、いきなり空腹を感じて、ぶぶ漬を注文した。やらし人やなというKの言葉を平然と聞流しながら、生唾をのみこみのみこみ、ぶぶ漬の運ばれて来るのを待っていると、やがて、お待ちどうさんと前へ据えられた途端、あッ、思わず顔が赧くなって、こともあろうにそれはお櫃ではないか。おまけに文楽の人形芝居で使うような可愛らしいお櫃である。見渡すと、居並ぶ若い娘たちは何れもしるこやぜんざいなど極めて普通の、この場に適しいものを食べている。私一人だけが若い娘たちの面前で、飯事(ままごと)のようにお櫃を前にして赧くなっているのだ。クスクスという笑い声もきこえた。Kはさすがに笑いはしなかったが、うちいややわと顔をしかめている。しかし、私は大いに勇を鼓してお櫃から御飯をよそって食べた。何たることか裕然と構えて四杯も平げたのである。しかもあとお茶をすすり、爪楊子を使うとは、若気の至りか、厚顔しいのか、ともあれ色気も何もあったものではなく、Kはプリプリ怒り出して、それが原因でかなり見るべきところのあったその恋も無残に破れてしまったのである。けれども今もなお私は「月ケ瀬」のぶぶ漬に食指を感ずるのである。そこの横丁にある「木の実」へ牛肉の山椒焼や焼うどんや肝とセロリーのバタ焼などを食べに行くたびに、三度のうち一度ぐらいはぶぶ漬を食べて見ようかとふと思うのは、そのぶぶ漬の味がよいというのではなく、しるこ屋でぶぶ漬を売るということや、文楽芝居のようなお櫃に何となく大阪を感ずるからである。
私の失恋はぶぶ漬が直接の原因になったけれど、一つにはKの女友達の「亀さん」が私を一目見て、なんや、あの人ひとの顔もろくろくよう見んとおずおずしたはるやないの、作文つくるのを勉強したはるいうけどちっとも生活能力あれへんやないのと、Kに私のことを随分くさしたからである。「亀さん」はあるデパートのネクタイ部で働いている女だったが、かねがね、うちは亀さんみたいに首の短い人は嫌いや、鶴みたいな人が好きやねん、亀さんは借金で首まわれへんさかいなど、わけのわからぬことを口走っていたゆえ、私はくやしまぎれに彼女に「亀さん」という綽名を呈したのである。「亀さん」はデパートに勤めているが、父親が強慾でしばしば芸者にされようとしていた。その目で見たせいか、彼女の痩形の、そして右肩下りの、線の崩れたようなからだつきは何かいろっぽく思えたが、しかし、やや分厚い柔かそうな下唇や、その唇の真中にちょっぴり下手に紅をつける化粧の仕方や、胸のふくらみのだらんと下ったところなど、結婚したらきっと子供を沢山産んで、浴衣の胸をはだけて両方の乳房を二人の赤ん坊に当てがうであろうなどと私はひそかに想像していた。間もなく「亀さん」が結婚したという噂をきいて、それきり顔もみなかったが、最近私は千日前の自安寺で五年振りに「亀さん」と出会った。
千日前自安寺の境内にある石地蔵のことを、つい近頃まで知らなかったのは、うかつだった。浄行大菩薩といい、境内の奥の洗心殿にはいっているのだが、霊験あらたかで、たとえば眼を病んでいる人はその地蔵の眼に水を掛け、たわしでごしごし洗うと眼病が癒り、足の悪い人なら足のところを洗うと癒るとのことで、阿呆らしいことだけれど年中この石地蔵は濡れている。水垢で赤くびついていて、おまけに眼鼻立ははっきり判別出来ぬほどすり切れていて胸のあたりなど痛々しい。ときには洋装の若い女が来て、しきりに洗っているとFさんにきいて、私は何となく心を惹かれ、用事のあるなしにつけ千日前へ出るたびにこの寺にはいって、地蔵の前をぶらぶらうろうろした。そしてある日、遂に地蔵の胸に水を掛け水を掛け、たわしで洗い洗いしている洋装の女を見つけた。ふと顔を見ると、それが「亀さん」だったのである。
父親のこのみで彼女はむかし絶対に洋装をしなかったのであるが、いまは夏であるから彼女も洋装していた。察しのつく通りアッパッパで、それも黒門市場などで行商人が道端にひろげて売っているつるつるのポプリンの布地だった。なお黒いセルロイドのバンドをしめていた。いかにも町の女房めいて見えた。胸を洗っているところを見ると、肺を病んでいるのだろうか、痩せて骨が目立ち、顔色も蒼ざめていた。「亀さん」は私の顔を見ると、えらいとこ見られたと大袈裟にいった。そして、こんどの土用丑には子供の虫封じのまじないをここでしてもらいまんねんというのであった。私はただ「亀さん」の亭主がまかり間違っても白いダブルの背広に赤いネクタイ、胸に青いハンカチ、そしてリーゼント型に髪をわけたような男でないことをしきりに祈りながら、赤い煉瓦づくりの自安寺の裏門を出ると、何とそこは「いろは牛肉店」の横丁であった。「市丸」という小料理屋の向って左隣りには「大天狗」という按摩屋で、天井の低い二階で五、六人の按摩がお互いに揉み合いしていた。右隣は歯科医院であった。
その歯科医院は古びたしもた家で、二階に治療機械を備えつけてあるのだが、いかにも煤ぼけて、天井がむやみに低く、機械の先が天井にすれすれになっていて、恐らく医者はこごみながら、しばしば頭を打っつけながら治療するのではないかと思われる。看板が掛っていなければ、誰もそんな裏長屋の古ぼけた家のようなそこを歯科医院とは思わぬであろう。屋根に、六つか七つぐらいの植木の小鉢が置いてあったのを見て私は、雁治郎横丁を想い出した。雁治郎横丁は千日前歌舞伎座横の食物路地であるが、そこにもまた忘れられたようなしもた家があって、二階の天井が低く、格子が暑くるしく掛っているのである。そしてまた二つ井戸の岩おこし屋の二階にも鉄の格子があって、そこで年期奉公の丁稚が前こごみになってしょんぼり着物をぬいでいたのである。そうした風景に私は何故惹きつけられるのか、はっきり説明出来ないのであるが、ただそこに何かしら哀れな日々の営みを感ずることはたしかである。はかなく哀れであるが、しかしその営みには何か根強いものがある。それを大阪の伝統だとはっきり断言することは敢てしないけれど、例えば日本橋筋四丁目の五会(ごかい)という古物露天店の集団で足袋のコハゼの片一方だけを売っているのを見ると、何かしら大阪の哀れな故郷を感ずるのである。
東京にいた頃、私はしきりに法善寺横丁の「めをとぜんざい屋」を想った。道頓堀からの食傷通路と、千日前からの落語席通路の角に当っているところに「めをとぜんざい」と書いた大提灯がぶら下っていて、その横のガラス箱の中に古びたお多福人形がにこにこしながら十燭光の裸の電灯の下でじっと坐っているのである。暖簾をくぐって、碁盤の目の畳に腰掛け、めおとぜんざいを注文すると、平べったいお椀にいれたぜんざいを一人に二杯もって来る。それが夫婦(めおと)になっているのだが、本当は大きな椀に盛って一つだけ持って来るよりも、そうして二杯もって来る方が分量が多く見えるというところをねらった、大阪人の商売上手かも知れないが、明治初年に文楽の三味線引きが本職だけでは生計(くらし)が立たず、ぜんざい屋を経営して「めをとぜんざい屋」と名付けたのがその起原であるときいてみると、何かしらなつかしいものを感ずるのである。
戎橋そごう横の「しる市」もまた大阪の故郷だ。「しる市」は白味噌のねっとりした汁を食べさす小さな店であるが、汁のほかに飯も酒も出さず、ただ汁一点張りに商っているややこしい食物屋である。けれどもこの汁は、どじょう、鯨皮、さわら、あかえ、いか、蛸その他のかやくを注文に応じて中へいれてくれ、そうした魚のみのほかにきまって牛蒡の笹がきがはいっていて、何ともいえず美味いのである。私は味が落ちていないのを喜びながら、この暑さにフーフーうだるのを物ともせず三杯もお代りした。狭い店の中には腰掛から半分尻をはみ出させた人や、立ち待ちしている人などをいれて、ざっと二十五人ほどの客がいるが、驚いたことには開襟シャツなどを着込んだインテリ会社員風の人が多いのである。彼等はそれぞれ、おっさん、鯨や、とか、どじょうにしてくれとか粋な声で注文して、運ばれて来るのを寿司詰の中で小さくなりながら如何にも神妙な顔をして箸を構えて、待っているのである。何気なくふと暖簾の向うを通る女の足を見たりしているが、汁が来ると、顔を突っ込むようにしてわき眼もふらずに真剣に啜るのである。
喫茶店や料理店(レストラン)の軽薄なハイカラさとちがうこのようなしみじみとした、落着いた、ややこしい情緒をみると、私は現代の目まぐるしい猥雑さに魂の拠り所を失ったこれ等の若いインテリ達が、たとえ一時的にしろ、ここを魂の安息所として何もかも忘れて、舌の焼けそうな、熱い白味噌の汁に啜りついているのではないかと思った。更に考えるならば、そのような下手(げて)ものに魂の安息所を求めなければならぬところに現代のインテリの悲しさがあり且つ大阪のそこはかとなき愉しさがあるといえばいえるであろう。
土用近い暑さのところへ汁を三杯も啜ったので、私は全身汗が走り、寝ぼけたような回転を続けている扇風機の風にあたって、むかし千日前の常磐座の舞台で、写真の合間に猛烈な響を立てて回転した二十吋もある大扇風機や、銭湯の天井に仕掛けたぶるんぶるん鳴る大団扇をを想い出しながら、「しる市」を出ると、足は戎橋を横切り、御堂筋を越えて四ツ橋の文楽座へ向いた。
デンデンと三味線が太く哀調を予想させ、太夫が腹にいれた木の枕をしっかと押えて、かつて小出楢重氏が大阪人は浄瑠璃をうなる時がいちばん利口に見えるといわれたあの声をうなり出し、文五郎が想いをこめた抱き方で人形を携えて舞台にあらわれると、ああここに大阪があると私は思うのである。そうしてこれがいちばん大阪的であると私が思うのは、これらの文楽の芸人たちがその血の出るような修業振りによっても、また文楽以外に何の関心も興味も持たずに阿呆と思えるほど一途の道をこつこつ歩いて行くその生活態度によっても、大阪に指折り数えるほどしか見当らぬ風変りな人達であるために外ならず、且つ彼等の阿呆振りがやがて神に近づくありがたい道だと何かしら教えられるためである。
大阪を知らない人から、最も大阪的なところを案内してくれといわれると、僕は法善寺へ連れて行く。
寺ときいて二の足を踏むと、浅草寺だって寺ではないかと、言う。つまり、浅草寺が「東京の顔」だとすると、法善寺は「大阪の顔」なのである。
法善寺の性格を一口に説明するのはむずかしい。つまりは、ややこしいお寺なのである。そしてまた「ややこしい」という大阪言葉を説明するのも、非常にややこしい。だから法善寺の性格ほど説明の困難なものはない。
例えば法善寺は千日前にあるのだが、入口が五つある。千日前(正確に言えば、千日前から道頓堀筋へ行く道)からの入口が二つある。道頓堀からの入口が一つある。難波新地からの入口が二つある。どの入口からはいって、どこへ抜け出ようと勝手である。はいる目的によって、また地理的な便利、不便利によって、どうもぐりこもうと、勝手である。誰も文句はいわない。
しかし、少くとも寺と名のつく以上、れっきとした表門はある。千日前から道頓堀筋へ抜ける道の、丁度真中ぐらいの、蓄音機屋と洋品屋の間に、その表門がある。
表門の石の敷居をまたいで一歩はいると、なにか地面がずり落ちたような気がする。敷居のせいかも知れない。あるいは、われわれが法善寺の魔法のマントに吸いこまれたその瞬間の、錯覚であるかも知れない。夜ならば、千日前界隈の明るさからいきなり変ったそこの暗さのせいかも知れない。ともあれ、ややこしい錯覚である。
境内の奥へ進むと、一層ややこしい。ここはまるで神仏のデパートである。信仰の流行地帯である。迷信の温床である。たとえば観世音がある。歓喜天がある。弁財天がある。稲荷大明神がある。弘法大師もあれば、不動明王もある。なんでも来いである。ここへ来れば、たいていの信心事はこと足りる。ないのはキリスト教と天理教だけである。どこにどれがあるのか、何を拝んだら、何に効くのか、われわれにはわからない。
しかし、彼女たちは知っている。彼女たち――すなわち、此の界隈で働く女たち、丸髷の仲居、パアマネント・ウエーヴをした職業婦人、もっさりした洋髪の娼妓、こっぽりをはいた半玉、そして銀杏返しや島田の芸者たち……高下駄をはいてコートを着て、何ごとかぶつぶつ願を掛けている――雨の日も欠かさないのだ。
彼女たちはただ願掛けの文句を拝むだけでは、満足出来ない。信心には形式がいる。そこで、たとえば不動明王の前には井戸がある。この井戸の水を「洗心水」という。けがれた心を洗いまひょと、彼女たちは不動明王の尊像に水をかける。何十年来一日も欠かさず水をそそがれた不動明王の体からは蒼い苔がふき出している。むろん乾いたためしはない。燈火の火が消えぬように。
水をかけ終ると、やがて彼女たちはおみくじをひく。あっ? 凶だ。
しかし、心配はいらぬ。石づくりの狐が一匹居る。口に隙間がある。凶のおみくじをひいたときは、その隙間へおみくじを縛りつけて置く。すると、まんまと凶を転じて吉とすることが出来る。
「どうか吉にしたっとくなはれ」
祈る女の前に賽銭箱、頭の上に奉納提灯、そして線香のにおいが愚かな女の心を、女の顔を安らかにする。
そこで、ほっと一安心して、さて「めをとぜんざい」でも、食べまひょか。
大阪の人々の食意地の汚なさは、何ごとにも比しがたい。いまはともかく、以前は外出すれば、必ず何か食べてかえったものだ。だから、法善寺にも食物屋はある。いや、あるどころではない。法善寺全体が食物店である。俗に法善寺横丁とよばれる路地は、まさに食道である。三人も並んで歩けないほどの細い路地の両側は、殆んど軒並みに飲食店だ。
「めをとぜんざい」はそれらの飲食店のなかで、最も有名である。道頓堀からの路地と、千日前――難波新地の路地の角に当る角店である。店の入口にガラス張りの陳列窓があり、そこに古びた阿多福人形が坐っている。恐らく徳川時代からそこに座っているのであろう。不気味に燻んでちょこんと窮屈そうに坐っている。そして、休む暇もなく愛嬌を振りまいている。その横に「めをとぜんざい」と書いた大きな提灯がぶら下っている。
はいって、ぜんざいを注文すると、薄っぺらな茶碗に盛って、二杯ずつ運んで来る。二杯で一組になっている。それを夫婦(めおと)と名づけたところに、大阪の下町的な味がある。そしてまた、入口に大きな阿多福人形を据えたところに、大阪のユーモアがある。ややこしい顔をした阿多福人形は単に「めをとぜんざい」の看板であるばかりでなく、法善寺のぬしであり、そしてまた大阪のユーモアの象徴でもあろう。
大阪人はユーモアを愛す。ユーモアを解す。ユーモアを創る。たとえば法善寺では「めをとぜんざい」の隣に寄席の「花月」がある。僕らが子供の頃、黒い顔の初代春団治が盛んにややこしい話をして船場のいとはんたちを笑わせ困らせていた「花月」は、今は同じ黒い顔のエンタツで年中客止めだ。さて、花月もハネて、帰りにどこぞでと考えると、「正弁丹吾亭(しょうべんたんごてい)」がある。千日前――難波新地の路地の西のはずれにある店がそれだ。「正弁丹吾」というややこしい名前は、当然、小便たんごを連想させるが、昔ここに小便の壺があった。今も、ないわけではない。よりによって、こんな名前をつけるところは法善寺的――大阪的だが、ここの関東煮が頗るうまいのも、さすが大阪である。一杯機嫌で西へ抜け出ると、難波新地である。もうそこは法善寺ではない。前方に見えるのは、心斎橋筋の光の洪水である。そして、その都会的な光の洪水に飽いた時、大阪人が再び戻って来るのは、法善寺だ。
 
美人

容貌の美しい人物をさす言葉。元々は人と言う漢語が、主に男性を社会的に指す言葉であったことから、古語では、女性ではない(例えば、美しい少年は「美少人」と呼ばれた)。女性の場合は美女(びじょ)という言葉を用いた。近世以降、男性の場合は美男子(びなんし、びだんし)と称されることが多くなり、やがて近代に入って「美人」が専ら美女を指すようになる。なお、未成年者に対しては、それぞれ美少年、美少女と呼ぶことが多くなっている。
文化や時代によって美人ないし美女の基準は異なる。過去には美人(美女)の代名詞的存在(銀幕女優の山本富士子など)がいたが、同じ地域でも時代により美人の定義は変化し、同時代であっても地域・文化圏の違いによって基準は異なる。
また、ある共同体での一般的な美人像がその共同体内の全ての個人に共通している訳ではない。価値観の多様化が進んだ社会であれば美人に対する基準にも個人差が大きくなる。
美人という言葉は内面を指すこともあるが、一般には外見の判断であることが多い。ミス・コンテストなど、美人を基準にした社会での女性の扱いについては、フェミニストなどから問題提起されることもある。また、ジェンダーの問題とも関連する。
日本の美しい女性像
平安時代の美人像は、肌理(きめ)の細かい色白の肌、小太りで、顔形はしもぶくれ気味の丸顔であご先は丸く、引目と呼ばれる細い象眼が尊ばれた。頭髪は長くしかも水分の多いしなやかな髪の毛が美人の条件とされているが、これは成熟した女性の証でもあった。胸の大きさは、当時の女性の成年年齢が12歳程度が初めであったことから、むしろ妊婦などの中年的な象徴であった。
江戸時代以来、日本では色白できめ細かい肌、細面、小ぶりな口、富士額、涼しい目元、鼻筋が通り、豊かな黒髪が美人の条件とされた(浮世絵で見られる小さな目で描かれた女性は、当時の美人像と必ずしも一致しないことに注意が必要である。詳しくは美人画を参照)。こうした美意識は、明治時代から大正時代に至るまで日本の美人像の基調となった。井原西鶴の作品には、低い鼻を高くしてほしいと神社で無理な願いことをするとの記述があり、当時鼻の高さを好んだ傾向が伺える。また朝鮮通信使の記録には、「沿道の女性の肌はお白いをせずとも白く、若い女性の笑い声は小鳥のようである」と国王に報告している。
関東大震災後から、パーマネントや断髪、口紅を唇全体に塗るなど、欧米の影響を受けて従来の美意識と相容れないような美容が広まった。戦後の日本では、西洋の影響を受けて、白人に近い顔立ちが美人とされたり、健康的と考えられた小麦色の肌が美しいと思われて、一部で日焼けが流行するなどした。
また、20世紀には映画・テレビをはじめとする動画が一般化日常化するなかで、静止画的な美しさだけでなく、動的な美しさも評価されるようになった。美人の基準も多様化しているため、美人の代名詞と言えるような女性はいなくなった。上記の美人像とはかなり異なる顔立ちの女性であっても、美しいと見なされることがままある。
アニメの美人顔と伝統的な美人画の様式は全く異なる(特に目の描き方)が、共通点もある。アニメや漫画でよく見られる顎が小さく、口が小さい女性像は平安時代からの名残である。日本の漫画家・アニメーターは人物の口を小さく描くことを好む傾向がある。これは、目の大きさに合わすために顔のバランスを調整しているからだとされる。
美人の比喩
日本では木花咲耶姫以来、神代から、正真正銘の美人を指すのに花の比喩をよくつかう。
大和撫子(やまとなでしこ)
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花
ただし、これは飽くまでも日本の文化(大和民族の文化)における伝統的美意識による発想である。たとえば金田一京助は、アイヌ人に「お前、桜の花きれいだと思わないか」と訊いたところ「きれいだ」との返答だったので、「じゃ美人のときに、花のようだと言ったら」と重ねて問うと、そのアイヌ人から「だって全然違うじゃないか。花はこんな形をしているし、顔とは全然違う」と笑われたと伝えられる。
美人に関する諺
佳人薄命-美人薄命、美女薄命とも
八方美人
平均美人説
Judith LangloisとLori Roggmanは、無作為に抽出した顔写真の合成写真を被験者に示した時に、その写真が魅力的であると判断されることが多いとする研究結果を発表した(Psychological Science1990)。この事から、美人とはそのコミュニティにおいて最も平均的な容姿を持つものであるという仮説が提唱された。この説によると、美人像の変遷は、そのコミュニティの構成員の変化を背景としているものと考えられる(鼻が高い人が多くなれば、鼻が高いことが美人の要素となる)。このように平均的な女性が美しいと感じられる理由としては、平均的であるということが、当該コミュニティで失敗のない生殖を行う可能性が高いことを示している(繁殖実績が多い)と考えられるためと説明されている。
黄金比率美人説
カナダのトロント大学のKangLeeが視覚研究の専門誌「VisionResearch」で白人女性のみを対象にした研究結果を発表した。そこで女性の見た目の美しさは両目の間隔や目と口の距離が顔全体に占める割合によって決まるという研究結果が発表されている。その研究結果は目と口の距離は顔の長さの36%の時に一番美しいと感じられ、両目の間隔は顔の幅の46%の時に一番美しいと感じられることが分かった。
世界の三大美人(日本)
日本で言われる歴史上の「世界の三大美人」。なお、中国での美人の代名詞は西施であって、楊貴妃はそれに続いて名前が出てくる程度である。
小野小町 / 楊貴妃 / クレオパトラ7世
 
美人の科学

はじめに
いよいよ「美人」について科学的な分析をまとめることにしました。この文章を読んだら、美人に対する理解が少しは深まり、方法論を実施すれば、美人へ近づくことが出来るようにとの思いで始めます。
ところで始める前に片づけなければならない問題があります。それは「美人」とは何だと言うことです。また、美人の条件とは、美人の基準とは、等と、美人をはっきり捉えるためには整理しなければならないことが山積みなのです。そこで、まずは「美人」とはどのように定義されているか、「広辞苑(岩波書店)」で調べてみましょう。「美人:(1)容貌の美しい人。美女。佳人。麗人。(2)常に敬慕する君主または聖賢。(3)漢代の宮女の官名。(4)虹の異称。」とありました。ついでに関連用語も調べてみますと「美女:容姿の美しい人。」、「佳人:美人。」、「麗人:みめうるわしい人。美人。」となっています。まあ美人について(2)〜(4)は現在では日常語ではないので(1)の容貌の美しい人、或いは容姿の美しい人というのが定義と考えて良いのですが、さてはその美しいという基準が難しいわけです。
では、つぎにインターネット上で美人に関してどのくらいの情報があるか調べてみました。ひょっとしたら既に「美人の科学」についてしっかりした研究がされているかも知れません。ここ数年で美人について言えば、井上章一さんの「美人論」が最も有名ですが、この中で美人の科学論はほとんど触れられていませんでした。インターネット検索は「Yahoo!Japan」と「Google」の2大検索サイトで行いました。
その結果、「美人の科学」は両サイトとも3件のヒットで、そのうち2件は何と「ビューティサイエンスの庭」でした。「美人の科学」について書くことを「美容の話」で触れていたことが検索に引っかかった訳です。まだ誰も本格的には美人を科学していないと予測されますが、あくまでもインターネット上の話ですし、検索漏れもあるでしょう。次に、「美人」で検索をすると「Yahoo!」で462,000件、「Google」で1,750,000件と膨大な数量になりました。これでは絞り込む必要がありますので、「定義」で絞り込むと、それぞれ12,500件と28,000件でした。上位にリストされているサイトには参考すべきものも多くありました。次は「美人/条件」で絞り込んでみますとそれぞれ39,800件と123,000件でした。
インターネット上でさえ、こんなに美人についての情報が多量に流れていているわけです。これら情報を確認していませんが、各種各様のことが述べられているはずです。また、本やTVなどでも「美人」については更に膨大な情報が流されています。どの情報に当たるかで、きっと様々な相違が生まれているかも知れませんし、或いは案外皆同じような内容だったかも知れません。ともかく、このような情報の氾濫の中ですが、きちんと「美人」を科学して、整理してみようと思ったのです。
美人の定義
美人を科学するには美人を定義しなければ話は進めません。「1-1」で美人の辞書上での定義は調べてみましたが、「容貌の美しい人」となっていました。でもこれでは現在の使われ方をみると狭過ぎる定義だと思いますし、私自身、美人を科学する上に適さないと考えています。
そこで、ここでの美人の定義は単純に「美しい人」といたします。言葉通りですが私は美人の科学はこの定義から出発することが良いと考えていますし、現在の研究状況をみても整合性があるといえます。そして「美しい」の対象ですが、これは容貌はもちろんですが、容姿、表情という外見は当然としても、心や思いやり、態度、更には言葉や仕草等の表現も含まれていると思います。つまり「**美人」とつく用語があれば、それは特定の「**」という対象に対して「美しい人」となるのです。一人の人が「美しい」対象を多数持てば持つほど美人度は高まるし、一つの対象に対して美しさの完成度が高まれば高まるほど美人度が高まる訳です。つまり美人とは複合的な要素を持つし、美人度という何らかの尺度は時と共に変化をするということが科学する上に大事になってくるのです。このことは今後の各論できちんと述べていきます。
さて、美人度には何らかの尺度があると述べましたが、ここで少し雑学的な話をしましょう。それは古くより美人度を表す用語があったことを御存知でしょうか?いや一度は聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。佳人、麗人、別嬪(べっぴん)、美人、並上、並々、並下、ブス、ヘチャムクレ、鬼瓦、夕日の鬼瓦、という順序で美人度を表すということを聞いたことがあります。しかし、雑学上の用語で、現実に使われるのは美人とブスくらいではないでしょうか。用語の上では何とでも言えますが、現実に美人度の基準が明確でない以上、あまりとやかく議論しても空論になるに決まっています。それは科学的なものごとの捉え方ではないと思います。
ここで「美人の定義」をまとめてみますと、「美人」とは「美しい人」であり、「美しい」には複数の「対象」があり、「美しい」にはそれぞれの「尺度」があるということです。つまり美人には美人度という尺度を考えると広がりと深さというものがあると言うことですが、これは分かり易い図に表現するする必要性がありますね。これも各論でしっかりと述べていきます。ということで、「美人の科学」のイントロといたします。
美人の歴史学
それでは「美人の科学」を進めるに当たって、歴史的な考証から入ってみます。事実背景をみるには今までに美人として残された記録を検証して考えてみると、改めての発見があるかも知れません。記録に残り、記憶に残っているわけですから、そこに美人の強力な要素があると考えてみるのもムダではないというわけです。
日本では世界の歴史上の美人(美女)といえば、古代中国の楊貴妃、古代エジプトのクレオパトラ、日本の平安時代の歌人、小野小町が挙げられ、東洋、西洋(?)、日本とバランス良く列記されていました。特に何故か日本の美人の代表としては小野小町が取り上げられて、「**小町」と呼ばれるローカルな美人の話を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。かなり身近な感じがするのですが、対して楊貴妃とクレオパトラは「絶世の美女」という形容詞までついて私達とはかなり縁遠い存在として捉えられています。また、この2人の美人は国家の統治者へ強い影響を与え、国を滅ぼしてしまうほどの強力な威力を持っていました。
ところが、歴史上の美人を現実に見た人は現在誰もいません。記述されたり、絵になってイメージが残されているものを元に頭の中でそれぞれ再現しているに過ぎません。だから本当に美人であったかどうかは判らないのが正確な状況だということです。ただ共通で持っている歴史上の美人を「映画」のイメージで持っている人は多いわけです。例えばクレオパトラはエリザベス・テーラーの演じたイメージを持っている人が最も多いのではないでしょうか。実は、私も高校時代にリバイバル上映されたとき見て、壮大なスケールで描かれた歴史物語の中で、エリザベス・テーラーをクレオパトラのイメージとして強く記憶に刷り込んでしまいました。このように歴史上の美人は、はっきりした具体的イメージを持っていないので、本当に美人であったかどうかは判らなく、ただ語り継がれた事件が、美人であったことを後世に伝える強さがあったということではないでしょうか。そう言えば、「トロイのヘレン」という古代ギリシア時代を描いた映画があり、やはり絶世の美人であるヘレンが強固な城壁を持つ都市国家を滅ぼした原因とされていました。
ここで私が言いたいのは、歴史上の美人は、実際に美人であったかどうか、或いは現在の基準(もしあるとしたら)に照らし合わせて美人かどうかが問題ではないということです。美人であったがためにどれだけの事件を引き起こしたか、その強さが美人の印象として語り継がれる性質のものだと考えたいからです。そう、言うならば「美人パワー」とでもいいましょうか、そういうたぐいの言葉です。語り継がれ、歴史に残る「美人の影響力」という力のベクトルをもつということが、ここで言いたかったのです。
(注)美人だから、あるいは美しさが主要な原因で語り継がれるような事件を引き起こしたのかどうかそれについて深く検証はしておりませんので悪しからず。ただ、「美人の影響力」を言いたいが為に歴史的な考証として取り上げたのです。

歴史上の美人と言うより、今回は芸術品として残されている美人について話してみます。その作品とは「ミロのビーナス」と「モナリザ」です。どちらもパリのルーブル美術館にあり、誰しも美術の教科書で見ているので、知らない人はいないのではないでしょうか。この二つの作品は私が美人を科学する上に重要なヒントを持っていると思っていたし、2年前にパリの国際皮膚科学会に行ったとき、思う存分観て来て、その通りだったと確信したのです。
まず「ミロのビーナス」ですが、発掘の経緯や作品の歴史的意味はさておいて、私は小学生のころからある一方向の写真しかイメージがありませんでした。でも、身体の均整がしっかりとれて完璧な顔の輪郭や首、胸、腰へと理想的なバランスだと思っていました。でも、彫刻って観る角度によって印象が違うことにその後気がついて、いつの日か、「ミロのビーナス」をぐるりと見回って、印象がどう変わるか確かめたくなりました。今から10数年前パリに最初に入った時、ルーブル美術館に行ったのですが、残念なことにストライキ中で入館出来ませんでした。やっとの思いで2年前にいけたのです。そして、ぐるりと見回って、発見しました。確かに、何処から観ても完璧な美しさのバランスを取っているように見えますし、何よりも観る角度で印象がずいぶんと違っていたのです。幸い、写真は自由に撮れますので、ビデオと写真と併せて撮りました。この作品で言いたいことは、黄金律うんぬんではなく、単純に、一つの美しい彫刻作品を観ても、観る角度により、複数の美しい印象を持っていることです。そう、観る角度によって、美人要素も印象が変わってくるのです。さて、その法則性は、今後の展開の中で話していく予定です。
もう一つの作品「モナリザ」ですが、レオナルド・ダ・ビンチ作品で、これまた微笑が有名で、やはり美術の教科書でおなじみです。モナリザの微笑については数々の研究(?)がありますが、私は教科書の写真で受けた印象と、やはり本物の絵と見比べて、これまで受けていた印象とどうだったか、確かめたく思っていました。さすが世界的に有名な絵ですので、ルーブル美術館では、「モナリザ」にたどり着くまで行列に並ぶ必要がありました。たどり着いたときは人山をかき分けて前に進むのですが、さて目前にすると、この作品だけは額縁にガラスが張ってありました。残念ながら、私にとってガラス越しの「モナリザ」は鮮度を感じることが出来ませんでした。ただ、ガラス越しであっても、微笑の印象が、数秒ごとに変化したことです。そう、この作品で言いたいのは、微妙な表情は、受け取る側の心理状態によって、印象が変化するという事実です。「モナリザ」は美人であるかどうかではなく、表情の変化、あるいは表情の受け止め方に「ゆらぎ」があることです。これは、おそらく美人の科学を進める時に、表情について話さなければならない時に役立つのではないかと思ったのです。
このように歴史上の美作品から、やはり何らかのヒントを得ました。でも、これは、小学生時代から引きずっていた思いでもあることに、改めて驚いたのです。美しいと思う気持ちや基準って、生まれてから育ってくる過程で、いろんな体験をするのですが、意外と影響は大きいのではないかと思います。
美人の分析
顔の印象
さて、これから美人についていろんな角度から分析してみます。ところで、美人かどうか判断する時の対象ですが、やはり顔からはいる場合が多いのではないでしょうか。とすると、その顔は直接会っている時、会った後の印象、写真やビデオなどの映像が決め手になります。でも、直接会っている最中に美人かどうかと判断することは普通少ないはずです。もしあるとすれば、貴方が美人コンテストの審査員か何らかのオーディションの審査員である場合でしょう。一般的には、記憶に残った印象で判断することの方が多いのではないかと思います。しかしその記憶に残った印象が実際はとってもあやふやであるということに気がつきませんか。後日、記憶をもとに顔のイメージを思い出そうとしてもはっきりと描けないものです。
私達は顔の印象をどのように記憶しているかといえば、会っている時に印象的な表情を断片的に記憶し、それらの表情を重ね合わせたような顔のイメージになっていると考えられます。そう仮定してみると、会っている時に好意を持っているかどうかでかなり印象が変わってくるでしょう。好意を持っていれば、記憶される印象的な表情は良い表情が多いでしょうし、逆に嫌意を持っていれば悪い表情ばかりを記憶してしまうでしょう。最初出会った時はさほど美人だとは思えていなくとも、出会いを重ねて好感を持つようになって、次第に美人だと思うようになることは往々にしてあります。
このような実例としては、女優の印象について考えてみると分かり易いでしょう。つまり見た映画によって記憶されたイメージが変わり女優の美人度合いが変わっていくのを体験します。そして結果的に女優に好感度を持つかどうかが最終的に美人度合いに大きく影響することも体験したことがあるのではないでしょうか。
また、一枚の写真から判断する時も、周辺情報から好意を持つかどうかで印象が変わるものです。たった一枚の写真なのですが、見るときに好意を持っていれば、写真の中から良い印象の部分を強く記憶し、イメージとしては良い方向にデフォルメされていると考えられます。逆に悪い情報を持っていると、写真の中から悪く感じる部分を記憶し、悪い方向にデフォルメされてしまうのでしょう。指名手配の写真や犯罪のニュースで取り上げられる写真からもつ印象が悪い情報下での実例です。
結論としては、記憶に残ったあやふやな顔の印象は、その人に対し好意を持っているかどうかでずいぶんと変わるものだという言うことです。
造形/部品と配置
美人という以上は形が左右することは当然です。美しい人が美人の定義なら、「美人」は「美しい形をした人」となるでしょう。ところが人の場合美しい形と言ってもなかなか難しいものです。人の形と言っても、体全体のことなのか、それとも顔のことなのか、或いは足の形なのかそれぞれの部分か全体なのかで話は違ってきそうです。しかし、一般的に「美人」という場合は圧倒的に「顔」について言うようですので、ここでは「顔の形が美しい人」と、とりあえず美人の定義としてみましょう。
そうすると、顔の造形を構成している部品は「目」、「口」、「鼻」そして「眉」が影響の強さで挙げられます。その他には「耳」、そして「頬」、あとは顔全体を形どる「輪郭」があるでしょう。よく考えれば、漫画に描かれる顔の構成要素だとも言えるでしょう。福笑いというゲームがありますが、目隠しで顔に置いていく部品が「目」、「口」、「鼻」そして「眉」ですね。置かれ方でずいぶんと印象が違い、その滑稽さで楽しむゲームです。各部品の美しさが大事なのですが、福笑いというゲームでわかるように、置かれ方でずいぶんと違ってきますね。これで解るように、どうやら「顔の形が美しい人」と言うことは、顔の部品の美しさと、顔に美しく配置されていることが条件になります。ここでは顔を構成する部品の形と配置が美しさを決定するとして話を進めましょう。
そこで美しい形や配置について考えてみますと、なにやら法則みたいなものが出てきます。単純な形で考えてみても、四角形や三角形、そして円形をみても、整った正方形や正三角形、あるいは正円形とか、左右対称な二等辺三角形は多くの方は美しい形と認識する傾向にあります。顔の部品も何か整った形が美しいと感じられているようです。正円形や正方形といった形は顔の部品にはあり得ませんが、左右対称形は比較的多く見られます。特に「目」や「眉」は一つではなく左右で一組になっていますので、左右対称形は配置によって決まっています。また、「鼻」や「口」は左右対称の形をした一つの部品です。
そして、部品の形や配置は様々な研究者により研究されて、美しい条件を満たす法則性を見つけ出すのです。その最も有名なものが「黄金分割」と呼ばれるものです。これについては更に詳しく、「その2」で述べていきます。
造形/黄金分割
顔を構成している部品がどのように配置しているか、このことに最も研究が盛んなのは「黄金分割」についてです。顔の造形だけでなく、建築物、絵画、写真の構図など、形ある物には全て論じられているほどです。ここでは、あまり詳しくは説明しませんが、要するに美人は顔を構成している部品の配置が「黄金分割」と呼ばれる位置取りになっているというのです。実際に「黄金分割」を論じている本や、インターネットのHPに記載されている内容や写真、図をみても、解ったようで解らない印象です。その理由としては、美人女優さんの写真、つまりたくさんあるはずの表情の一部の静止画を使って、分割をして、それが「黄金分割」の何らかの意味ありげな位置に顔の部品があったりするのです。しかし、どのような表情をしているのが標準なのでしょうか?この点は十分に考えておかないといけません。
さて、論より証拠と言うことで、私がつくった「黄金分割」配置のモデル写真を載せてみましょう。この顔が誰だか当ててみて下さい。可憐な乙女で映画デビューし、長いこと日本でも世界でも愛された女優さんの顔部品をおかりしてみました。顔の輪郭横幅が1に対して縦の長さが約1.618になった楕円形を全体の顔フレームにしてみました。その他にも1対1.618の黄金分割になるような長方形と三角形をつくり、その輪郭の中に適当に埋め込み、何となく顔の部品が置けそうな状態にしました。その黄金分割顔マップに女優さんの顔の部品を当てはめてみました。何となくマップにおさまって、黄金分割は美人顔の法則に思えてきました。でも、ここで考えて欲しいのは、黄金分割マップは私が適当に作った、何の法則性も考えていないものだということです。ひょっとしたらこの黄金分割マップに不美人顔を当てはめると、ぴったりと当てはまる場合もあるのではないでしょうか。
私の推論ですが、黄金分割は確かに美しい形や配置を決める一つの要素かも知れませんが、黄金分割に当てはまった物が全て美しいかと言えば、そうでもないことがあり得ると言うことです。論理学で言えば、黄金分割は必要十分条件では無いと言うことです。このことは、インターネットで黄金分割について調べていたら、何と青木義次さんから指摘されていたことと似た意見でした。「美しいものをみようとする心は、美しいものについて理論をつくる。・・・それ自体は健全な発想でありデザインに有用である。」と前振った後に黄金分割が「美意識による幻影」であることを示唆している。是非、青木さんの「黄金分割神話」を見て下さい。黄金分割についても様々な現れ方をすることも、多少難しいのですが丁寧に説明してあります。ただし、最後の結論が「意図なき黄金分割」となって、「神が与えたとしか思えないこの美しい図形が、われわれの世界を形造っていると考える方がよいのではなかろうか。」と締めくくっているのには賛成しかねます。美しい形を造り出す基本構造として、黄金分割が全てではなく、あくまでも一つの要素にしか過ぎないのではないかと私は考えています。
造形/シンメトリー
美術などで言われるように造形学的にはシンメトリー、つまり左右対称のデザインはバランスがとれて美しいものだとされています。このことはシンボルマークなどのように形式的な、或いは記号的なものには良く当てはまります。絵画でも左右対称に描いてみると一応スッキリと安定して見えますがなにか冷たい、無感動な印象があるものです。「シンメトリー」と「美人」というキーワードでネット検索をすると美容整形でもシンメトリー美人を目指しているところが多く見あたります。果たしてそのような美容整形医は、ほんとうに美人を理解しているのでしょうか。
左右のバランスは安定をもたらすために欠かせない要素の一つです。しかし、自然界には一見左右のバランスがとれているように見えても、少しだけ左右の大きさや形が違うものが多いことに気がつきます。例えば花を見てください。美しいと思う花は左右対称である場合が多いのですが、よく見ると少しだけ左右対称ではありません。私は思うのですが、その少しの崩れこそ自然界が作り出し、感情を揺るがす要素ではないかと。人工的な創造物では完全に近い左右対称のものは多く、それは安定感を与えてくれるものです。それは作者の意図的なものですが、逆に見る人の感情を揺るがせる為にあえて左右対称を少し崩している作品も多く見られます。崩れている分だけ少し不安定で、動的に見えたりするものです。
顔の場合も同様で、鏡をよく見るとおおざっぱには顔のパーツは左右対称になっているのですが、細かく観ると形や大きさは違っているものです。正面から撮っている顔写真がありましたら鏡を真ん中に立てて右半分で作った顔と、左半分で作った顔の印象がずいぶんと違うことに気づくはずです。これは顔を横から観ても同じこと言えて、右から観ると優しそうなのに、左からはちょっとクールに見えるなどと印象が変わることも良くあります。おそらく、このような微妙な左右の違いこそ見る人の心を揺さぶるのではないでしょうか。美人の法則としては、造形的な安定美を求めるなら左右対称がよいに決まっていますが、心を揺さぶるような美人とすれば、左右対称が絶妙に違っていた方が良いのではないでしょうか。目鼻や口だけでなく、顔には黒子やエクボなどポイントとなるランドマークもあります。これも左右対称をあえて崩し、見る人の心を揺さぶる仕掛けになっているのでしょう。そう言えば、印象的な美人の方は、どこか左右非対称の魅力を持っている人が多いと思いませんか?
造形/曲線と曲面
私達生物と非生物の違いとして大きく違うのは造形的に曲線や曲面が多い点でしょう。特に動物は運動が激しい為か曲線や曲面が多く、しかも時間と共に変化も激しいものです。このように考えてみると、人の顔を真っ直ぐな定規では描けないほど曲線と曲面だらけです。目立つところだけでも顔の輪郭、目、瞳、眉、口、耳、そして鼻といったように全てが曲線です。頬やあごは曲面だし、首も曲面で、額だけがやや平面的かも知れませんがよくみると穏やかな曲面です。どうやら美人の造形学を述べるにも曲線と曲面を取り上げないと話が進まないという訳です。
造形学上、曲線は直線に比べて優しい印象を与えます。柔らかさも感じさせてくれます。顔の輪郭は丸いのですが、真円と楕円を比べると楕円の方が顔の輪郭っぽいように見えますし、楕円の下をすぼめると更に顔の輪郭らしくなります。この典型的な形の例として日本では瓜実(うりざね)が使われてきて美人の形容として代表的になっています。顔の輪郭に瓜実の形を形容した人は誰だか調べていませんが、なかなかの美的センスのある人だと思います。円形〜楕円形までをいろいろ並べてみると、瓜実形はかなり美しいと思われるのではないでしょうか。その面からしても瓜実形を顔の輪郭で美人の典型としたのは当を得ています。
その他、顔の中には曲線で出来た造形がたくさんありますが、美人の造形学にとって一番大きい要素は目ではないでしょうか。目の造形は楕円の変形で両端が細くなっています。どちらかと言えば目尻の方の端が細い傾向にあります。目の造形にはアクセントとしての瞳、そして光彩があります。美人の目の特徴をあげるのに、目の形と大きさ、更には瞳の大きさが様々に言われてきましたが、ここはなかなか科学的にこうだと言い切れないところがあるようです。その他、眉の形や位置、唇の形にしても印象に大きく影響を与える曲線がまだまだあります。
このように顔を構成する曲線や曲面からなる造形は多く、それらの組み合わせも天文学的な数字になります。だからこそ個性の違う顔がたくさんある訳です。その中で美人として認められやすい組み合わせは確かにあるのでしょうが、それは一つの典型的なものではないような気がします。今後の研究の中でできることは、美人として認められやすい曲線と曲面の組み合わせを見つけて体系化することではないかと現段階では思っています。
造形/平面と立体
最近、陶芸をやっていて感じることがあるのですが、作りたいもののデッサンをするときに正面図や側面図、場合によって上面図まで描いておくと作りやすいのです。また一枚でデッサンをする場合には斜め上から見た図を描いているとよいのです。そこで陶芸は立体なのだということに改めて気付いたのです。また美人の造形学にも通じることも同時に気付きました。美人学の対象は顔を始めとする3次元の立体であるということに気付いた訳です。ということで今回は平面と立体という見地で考えてみましょう。
多くの場合、顔を描く時は正面から見た状態を描きますね。似顔絵を描いてもらう時や指名手配の似顔絵もほとんどが正面から見た顔です。もちろん、正面から見た顔が一番特徴が出ていることは正しいと思いますが、実は顔には凹凸があり、この立体的な造形も美人度に大きく影響をしています。正面から見た絵や写真でも、陰影が付くことでその立体的な特徴を感じることが出来ます。その立体的な特徴もしっかりと伝えたい時、斜め横から見た状態を絵に描いたり、写真に撮ったりします。
立体の特徴を造形学的に分析する時は正面図と側面図がまず必要ですが、正面図での美的な要素がそのまま側面図に当てはまることは少ないと思います。むしろ側面には側面の美的な要素があると考えるべきですが、いざ顔について考えてみると、そう簡単なことではありません。よくギリシア彫刻にみる美人プロポーションとして額と鼻の線が直線的でつながるとかありますが、現実的にはそれで美人が決定しているようには思えません。ここにはどうやら民族的な特徴が絡んできそうで、一概には美人要素を決めつけることはできないように思えます。
またシンメトリーのところでも述べましたが、多くの場合左右は微妙に非対称です。だから右から見た顔と左から見た顔の印象が違うことも多々あります。例えば右から見たら美人度は高いが左から見たらやや美人度が低いというようなこともありえます。もし美しい写真や似顔絵を描こうとすれば左右のどちらかがより美しいか見比べて撮ったり描いたりするでしょう。この場合に顔の部分で言えば目や眉の形が一番影響を持っています。真横から見れば、額、鼻筋、口、顎のラインは同じですから当然といえるでしょう。ただし斜め横から見ると鼻や口の影響が出てきますので印象はずいぶんと変わるので美人度に影響します。
今回の結論としては、私達人間は立体的な造形であるがゆえに、平面的な特徴だけでなく立体的な特徴も大いに美人度合いに影響するということと、民族的な特徴もあるために一概に美人規格のようなものを設定することが難しいものであるということを指摘するに留めておきます。今後、美人について科学的に述べるには、まだまだ研究するべき課題が多いという訳です。
造形/動的造形
私達は写真の印象と実際に会った時の印象がずいぶんと違ったという体験をよくします。それは写真が平面的な形で実際は立体的な形なのですから当然といえるかも知れません。そこにはもう一つの大きな要素があります。それは実際の人物は生きて生活をしており、話しをしたり、喜怒哀楽をもち、様々な表情を持っているのです。写真の場合は笑顔やすました顔が多いのですが、実際に会った時はそうとは限らないのです。様々な表情をしている中で、最も美しいと思える表情が写真等に固定されてその人の代表的なイメージとして認識をされるのです。この選択を間違えると美人であっても不美人になることもある訳です。栄華に輝く時の顔と、犯罪などでニュースに取り上げられている時の顔が同じ人物でもずいぶんと違ってくるのは映画やドラマでよく見かけます。ここでは美人であっても選ばれる表情が重要であると言うことなのです。
もう一つ忘れてはならないこととして、私達の記憶の仕組みです。様々な表情の変化により顔の形が変わるのですが、一番印象的な表情の形を強く記憶に残していると考えられます。その形は一つとは限りませんが、いずれにしてもたくさんある形の限定された形がその人物の認識として記憶されるのです。それが必ずしも一番美しい形とは限りません。だからよく、美人だと言われている人がそのように思えないこともあって当然なのです。美人とは多くの人に美しい形を高い確率で記憶に残す人とも言い換えることができるのかも知れません。
更に重要なことは、生きている以上、成長もするし老化もすることです。加齢による変化は避けられない運命といえるでしょう。動的な造形変化は時間と共に変わりゆくのです。多くの場合、加齢による変化で老化は美しさを失うと一方的に思われているのですが、年齢と共に美しさの基準が変わる場合もあるのではないでしょうか。このことについての研究はあまりされていません。若い時の美しさの基準と年齢変化による美しさの基準変化は同列に比較するするものではないのかも知れません。造形の変化は確かにありますが美しさ、魅力、或いは味というような良い印象は老化の進行によっても損なわれない可能性も充分にあると私は思います。むしろ増えることがあってもおかしくはないでしょう。また、人によっては美しさのピークが一つの年齢ではなく複数の年齢に現れることもあるし、かなり加齢してから美しさや魅力がピークを迎える事例も多くあるように思えます。今の段階では美しさの時間変化はまだまだ研究途上と言ってよいのではないでしょうか。私の体験ですが、加齢してみなければ解らない美の要素もかなりあると感じています。
造形/形状変化
私達生物の形状は岩石や金属のように硬くなく、変化しやすい素材で出来ています。もちろん骨格は硬い骨でつくられていますので変化しにくいのですが、その表面を覆っている皮膚は柔軟で傷つきやすく、さらに顔面は表情筋によって骨格とくっつき絶妙な緊張関係の上でなりたっている形状です。また皮下脂肪によっても膨らみ具合が変わり形状の変化をもたらします。これらの変化は人工的にもつくることができるし、何らかの事故によって傷つくことで起こることもあります。つまり、美人という造形があっても強固なもので無く、大事にしなければ失いやすく、或いは人工的に美人という造形をつくり出すことも可能だということです。
人工的な形状変化は、現在、美容外科という医療が発達してきてかなりの容貌の変化が可能になりました。一般的には美容整形と言われていますが、骨格を削ったりすることもありますが、主には皮膚を切ったり、引っ張ったり、中に物質を詰めたりして形状を変えるものです。美人というある造形的な法則が出来ていれば美人になることは可能なこととなるのです。ところがこれまでに述べましたように、美人という法則はなかなか一筋縄ではいきませんので、実際は簡単ではないようです。特に、美容外科を行う医師の美的センスが重要で美人という造形学の法則を何処まで理解しているかが問われます。また美人と言っても唯一無二の絶対的形状がある訳でもありませんし、好みの問題もあります。
さてもう一つの事故的な形状変化についても述べておきますが、もっとも激しいのは交通事故などにより骨格さえも変化してしまうほどの外傷が代表的です。軽い場合は、何かにぶっつけたりして切り傷や腫れたりすることですが、多くの場合は治癒して基の形状に戻ります。また事故的とは言えないかも知れませんが、ダイエットによる皮下脂肪の減少や、過食症による皮下脂肪の沈着も形状変化を及ぼします。この場合も美人の要素をずいぶんと変化させてしまいます。ここでは、形状は容易に変化するものだということがわかってもらえれば良しとしますので、詳しい形状変化の説明は省略します。
この項目では、美人という造形を構成している素材は変化しやすいものであるということが押さえどころになります。そのことは造形をもっとも支配している素材の皮膚について、もっと理解を深め、大事に扱うことが美人になるためにも、維持するためにも重要であるということなのです。
造形/ズレの法則
さてこれまで造形学で押さえる条件として、部品と配置、黄金分割、シンメトリー、曲線と曲面、平面と立体、動的造形、形状変化と、それぞれについて述べてきました。これらの条件を全て統括して美人としての法則を造形学観点から考えてみますと、全てに於いて絶妙なズレがあることが私達の印象を揺さぶるほどの強い影響力が出てくるのではないかということです。例えばわかりやすい例で言えば絵画や彫刻でみられる完璧な左右対称の美人像は機械的で人工的な印象を与え、自然に見える美人の顔はどこか左右のバランスが崩れている場合が多いように思えます。また、美人を描いた作品には真正面からではなく、左右どちらかから斜めに向いている場合が多いこともそのことを示唆しているのではないでしょうか。むろん、この場合には左右のバランスをズラだけではなく、立体的に見せる効果もありますので、より実体的に表現できるベストな角度と言うことができるのでしょう。
このように造形学的バランスから絶妙にズレたところに美人の条件があるとすると、これを「ズレの法則」と名付けてみるのも解りやすいと思います。おそらくズレというのは自然界のゆらぎの影響を受けて発生しますので、自然な美しさを感じるのではないでしょうか。あまりにも造形学的バランスを持ちすぎていると人工的、機械的なものとして私達は自然界から知らずのうちに学び取った感覚で判断をしているのではないでしょうか。このようなズレによる自然的なゆらぎは安心感を与えるのでしょう。また、造形学的バランスをもう少し不規則、不安定にズラすと、情緒的な感覚を揺り動かすのではないでしょうか。ここで言いたいのは絶妙なズレということは自然的なゆらぎプラスもう少し不規則、不安定に寄ったところと考えます。そこにハッとするような印象を受けるのではないでしょうか。
世の中、様々な美人コンテストがあります。そこで選ばれる人々を見ても一律に述べることは難しいでしょうけど、造形的バランスからみて、どこか絶妙にズレをもっている人が多いように思います。それが或る意味で美人としての個性を発しているのかも知れません。或いは美人だと言われている女優や有名人を見ても、やはり造形学的な絶妙のズレを感じます。案外個性というのは造形学上の様々な条件を絶妙にズラしたことで生まれてくるものかも知れません。これが現在私が考えている造形学からみた美人の条件です。
とすれば、美人になる造形学的な条件を満たす方法として、現在の造形学的なズレを絶妙なところに修正することで美人度を上げることもできます。それがメイクアップであり、表情の修正であるのではないでしょうか。もう少し踏み込めば、美容整形はその方法を顔を作っている骨格、表情筋、皮膚を変化させる方法なのです。また、忘れてはいけないのは、私達人間は生物である以上、加齢現象を筆頭として変化し続けるものです。永遠の美しさを求め、造形を固定するのは難しく、そのこと自体が不自然に見えるので、形は美しくとも印象的な美人とは言えなくなるのかも知れません。ほどほどの加齢変化はその年齢層の美人として必要な条件なのかも知れません。この当たりは更に研究を進めたいと思っているところです。
美人の印象学
印象を決める要素
美人は造形的な要素が大きいのですが、もう一つ大きいものは脳での判断、つまり目で見たあとでどのような印象を持つのかということです。脳での判断に使われる情報は各人各様で美人という定義と画像的な記憶、言語的な記憶が引き合いにだされ、目で見えた画像情報とつきあわされて美人かどうかを判断しているものと考えられます。つまり美人であるかどうかの印象は、今までの体験的な情報から判断されるということです。体験は個人的な要素が強いので画一的ではありません。だから人によって美人であるかどうかという判断の意見が分かれることが往々にしてあります。
しかし、美人かどうかを判断する情報には共通要素もあるのです。それは文化的な情報です。私達は生まれてからたくさんの美人にまつわる情報を見聞きしてきます。親であったり、兄弟、親戚から「○○さんは美人だね」とか聞く度に脳内では美人情報が記憶されていきます。また本や映画、テレビなどからも美人という言葉や意味と同時に映像が記憶されていきます。小説を読んでも美人について概念的な情報として記憶されていきます。これらの美人に対する情報の中で特に強いものは美人コンテストや美人リストに関するニュースです。やはり社会的に美人だと確認された情報は強く残るもので、これが社会的な常識のようなものにあたり、私達は自然にその基準に合わせようとするのでしょう。もちろん、この社会基準に合わすかどうかは個人の判断ですから画一的ではありません。今年のミス日本は今までに比べてどうこうと批評したり、アカデミー賞を受賞した○○という女優は美人であるとか演技派であるとか話題になることも美人の印象を決める判断材料になるのです。
美人の印象を決める情報は以上のように個人的なものと社会的に共通的なものがありますが、現在のように情報が国際的に広がってくると国によっての差も少なくなってきています。例をあげれば国際的な美人コンテストにおいて優勝者や入賞者に国際的な広がりが出ていることからもいえるでしょう。女優や有名人においても国際的に美人と評価されている人も増え、それらがまた美人の判断情報として記憶されてきます。しかし一方では、あいかわらず情報が閉鎖的な国や地域ではかなり伝統的な美人基準が残っているものと考えられます。いずれにしても美人の印象を決めているのは個人的に記憶されている美人情報であるのです。そして記憶された数多くの美人情報においても美人判断のウエイトが個人により様々に違っているのです。
美人薄命の意味
美人についてのことわざは数多くありますが、四字熟語でもおなじみの「美人薄命」という言葉が今回のテーマですが、美人の印象学の観点からすれば、これほど当を得ている言葉は無いように思います。女優の吉永小百合さんを例に出すほどでもなく、美人で、或いは美人の状態で人生を息長く活躍されている方は多いと思います。だから「美人薄命」とは科学的事実であるというより、印象の強さを感じる、或いはそうだった人を惜しむとか偲ぶ意味があるのでしょう。ちなみに四字熟語データーバンクというサイトで「美人薄命」を調べてみますと、意味としては「容姿が美しく生まれついた人はとかく不運であったり、短命であったりすること。」となっており、花言葉は「はかない美」となっています。
このように「美人薄命」という言葉には美人の印象を強烈に感じさせる強ささえ含んでいるのでしょう。やはり美人であるためには強烈な印象があった方が多くの人の記憶に残りやすい、いわば対比の問題かも知れません。美人度を測ることが出来る物差しがあって二人の美人を測ってみても、それぞれの生い立ちや印象の強さで実際の美人度より、印象の強さの方が美人度が高いと思うはずです。美しく輝くという言葉もあるように、美人である為にはキラリと輝いて強い印象を残すことでしょう。私達は記憶が頼りの生き物です。だからこそ印象度というものが大事で、どうしたら強く印象を与えることができるのか、そこに美人の印象学の意味があります。そのことを一番よく言い表している言葉が「美人薄命」だと私は思うのです。一面では美しい物は儚いように美人も儚いものだという運命論的捉えることもあるでしょうが、美人の科学においては「美人薄命」とは、あくまでも美人の輝き印象度が大事であるという意味で考えておきます。
現実的には、年齢やそれに伴う様々な人生要因で美人の輝きが変化するでしょう。でも、いつまでも輝き続けることは難しくとも、輝き方を変えたりすることでキラキラと美しい魅力を印象づけることは不可能ではありません。そのような実例は数多くありますし、今後はもっと増えるものと思います。それはメディアによって広く、永く伝えられ、広まっていくでしょう。方法論的にも美容科学の発展、ファッションの発展により美人度を高め、印象度を強める方法を選ぶことも容易になってきています。そう言う意味では可能性として「持続的美人」とか「美人長命」なんてあり得るのではないでしょうか。
好き嫌いの影響
恋は盲目という言葉あるように、好きになれば、愛するようになればその相手の人が素敵に見えてくる体験は多くの方が、いやほとんどの方がされているのではないでしょうか。これまでも述べてきましたように私達は目で物理的に写った影像をそのまま印象として大脳では処理していないのです。何かが強調され、何かが修正されてイメージを認識しているのです。印象とはそういうものなので、誰々は美人であるという評判が聞こえてくれば、実際に網膜に写った実影像を美人要素を加味してイメージが出来上がる訳です。また比較の問題もあるでしょう。男性が多数を占めている集団では数少ない女性の美人度が高まるという話がよくあります。(その逆で女性集団の中の数少ない男性が美男度が高くなる話はあまり聞きませんが・・・)その例は、比較する対象が少ないことだけではなく、やはり希少性と異性に対する好感度が自然と高まるからではないかと思います。そう、好感度が高まれば自然と美人と感じる印象化が大脳の中で処理されるのではないでしょうか。
逆に、姿形は美人だと客観的に思える人でも、何らかの理由でその人を嫌いになることがあれば、とたんに美人には見えなくなる体験も多いのではないでしょうか。嫌悪感は網膜に写る実影像を大脳で悪い印象へ変換する作用があると考えられます。このことから印象に対する好き嫌いの影響はかなり大きなものがあると考えざるを得ないでしょう。美人という印象を与えるには好感度という好きの要素をいかに与えるか、印象づけるかが大事なのです。これは映画やテレビのドラマを観てもよく解ります。多くの場合、ヒロインとアンチヒロイン、つまり恋敵であったり、意地悪をする役柄の女優さん達を比較すると解ります。脚本の構成上、どのような性格の人物として演技してもらうかにより、女優さんの容姿がガラリと変わります。憎まれ役はどうしても美人には見えなくて、ヒロインは決まって美人に見えてきます。憎まれ役が多かった女優さんがヒロインに抜擢されて、そのとたんに美人女優だと認知される実例は数多くあります。
美人である印象を強める要素として好感度、つまり好きにさせることが大きいことは美人の印象学でのもっとも重要なことなのです。美人だと認識するにはありとあらゆる方法で好感度を上げる、好きにさせること、この方法論に徹すれば、美人度を高めることになるのでしょう。ただし注意が必要なのは、嫌いになれば美人度も突然低下するわけです。度の過ぎた好感度戦略は嫌悪感を生むこともよく知られていることだし、おそらく経験もあるでしょう。やはり人間関係は難しいし、科学的に公式通りには行かないことも納得しなくてはなりません。
個性という特徴
さて印象学なので最後は印象をどれだけ強く残すのかがテーマとなります。黄金分割の項でも述べましたが、ただ整っているだけでは美しいということには間違いありませんが、それ以上の感覚を揺さぶるまでには行かないでしょう。顔つきのどこかにちょっとしたアンバランスがあり、そこに個性的な特長が現れることを私達は様々な体験をもとに知っているはずです。もちろん最も特長が現れやすいのが目なのですが、眉、口、鼻、輪郭、そして耳までもその対象の部位になるのです。しかし、ちょっとしたアンバランスというのがポイントでバランスを崩し過ぎますと、個性的ではありますが美人の範疇からははずれてきてしまいます。このちょっとしたアンバランスこそ重要なのですが、もっと研究の余地があると考えています。このためには顔の形状にもっとも影響を与えている表情を無視する訳にはいきませんし、メイクアップや顔のフレームともなるヘアスタイルも重要になります。
人間は生きている以上、喜怒哀楽を感情に伴って表情として表れてくるものです。表情とは表情筋によって顔の形を瞬間的に、あるいはある程度持続的に変化させている訳ですが、見る方からすれば強い印象が残った表情に強い印象が残るものです。例えば笑顔がとても印象的で全体的な印象が口元の優しさと目元の柔らかさが素敵だったとかいうように、数多くの表情の中で最も印象に残る表情と顔全体の形状が記憶されて美しい人として認識されることが多い訳です。逆に怒った顔が強く印象に残りますと、たとえ顔全体の形状的バランスがとれていても歪んだ顔として認識され、本来は美人の要素が強いはずなのに不美人として認識されるでしょうし、好ましくない人物として記憶されることが多いものです。その為、再会した時に、その好ましくない印象が先入観として先立ちますので、事実と違うものならそういった誤解は早めに取り除く努力が必要となります。
現在では多くの女性は人に会う時は、メイクアップをしていますし、ヘアーもスタイリングしています。メイクアップをしなくても、何らかの形で顔を整えている場合がほとんどでしょう。メイクアップもヘアースタイリングも顔の印象に大きく影響しますが、その時に顔の個性を引き立てているか、逆に消しているかは重要なことです。やはり顔の個性を自分の目からも、他人の目からも知り尽くすことが個性的な印象を強く与えるためのメイクアップやヘアースタイリングに通じる訳です。この方法論は今回の美人の科学では触れませんが、今後はメイクアップアーティストの方々との共同研究をするなかで何らかの科学的な法則を見つけ出したいものと考えています。
以上、顔の特徴を個性として引き出して、美人印象を強く与える特長に変える努力は重要だということで、これは視点をちょっと変えるだけで新たな発見が出来るものです。持って生まれた顔の個性、この見直しが美人の印象学では重要なのです。特に目周辺の特長は、自分が好きでないと思っていても、他人から見ると好印象に見えていることもあります。ちょっとした表情の研究やメイクアップによっても変化するでしょう。十人十色というように、それぞれの個性を見つけ出せば、十人十美人ということもありうると私は考えています。もちろんこの場合の「美人」とは1-1で定義しました「美しい人」ということです。
性格の影響
顔の表情は喜怒哀楽という感情が表に出るものですが、その根底には、その人が持つ性格もかなり影響を持っていると考えられます。心の優しい人が時には怒ることがあって、たとえそれが表情として出ても、普段の柔和な表情が多数を占めていれば印象としては柔和な表情のイメージが記憶されるものです。多くの場合は様々な表情の中で一番多くみている表情がその人の印象として固定され、時折見せる表情は特別の場合であると記憶が整理されるはずです。
表情は意識して作ることは可能ですが、意識の集中が途切れたときはその時の心理状態が表情に表れてしまいます。しかも本人の自覚も無く表れるのである意味で自然な反応でしょう。意識して作っている表情と無意識で表れている地の表情のどちらが多いかですが、多くの場合は無意識で表れる地の表情の出方が多いと考えられます。短期間でみれば性格は表情からなかなか読み取れませんが、長い期間でみると性格が表情からも読み取れるようになるでしょう。
ここで初対面における印象とその後の印象の変化を考えてみましょう。ある人に初めて会った時、その人の表情の印象が良ければ美人方向に印象が傾くでしょうが、その後、会う回数が増えれば増えるほど性格要素が出てきて印象が変化することが多いものです。これは、最初あまり印象に残らなくても、性格の良い人は次第に好印象を持たれ、長所もたくさん解かってもらえて、いつの間にか美人度が高まっていたと言う経験則は多いのではないでしょうか。その逆に性格の悪い人や性格が好みと合わない場合はついには顔を見たくなくなるほどになってしまい、かなり美人度が落ちてしまったという経験もあるでしょう。
性格は人生経験のなかで長い時間を経過して作られていきます。そしてその影響は表情の印象にも大きく影響し、それが人に対して好き・嫌いなどの好感度に影響して、結果的に美人度を大きく左右するほどにもなります。美人の印象を与えるには性格も時間をかけてよい方向に修正が必要となってくるのではないでしょうか。ここでは性格と言いましたが、気品、思いやり、前向きなども同じような意味を持つものと考えます。
 
美人・外伝

「美人」という題で書き始めようと思ったが、これは既に旧稿で使ってしまっているので外伝とする。別伝でも余録でも何でもかまわない。この夏異常気象で、熱中症が続発する猛暑だったため、余程の用件が無い限り、動き回らないとハラを決め、陋屋で大人しくしている事にした。しかし1つだけじっとしているわけにいかないほど、気にかかることがあった。7月初めから9月初めまで、東京国立博物館で開催の「誕生!中国文明」という展覧会である。年来東洋文明の中核をなす中国文明の形成と伝播、またその東西交流の姿に、趣味的関心を抱いてきた私としては、見逃すことの出来ない催しなのだが、涼しい期間にはチャンスを逸していた。
催しは英文でThe Birth of Chinese Civilizationとあるように、西暦紀元前2000年ごろから北宋まで約3000年間の、中国文明の生まれ発展した様子を、考古資料で跡付け「王朝の誕生」「技の誕生」「美の誕生」と3つの視野からアレンジしたものだが、地理的視点から見れば河南省の考古博物展とでもいうべき内容である。河南省はその名のとおり黄河中流域の南側にあり、古くから中国の中心に位置するといわれてきた。近年世界的関心の焦点は、従来幻といわれた夏(か)王朝の実在が信じられる機運となり、その考古的拠点がどうやら同省偃師(えんし)市の二里頭(にりとう)遺跡にありとの見方が強くなっている点にある。発掘が始まってからまだ50年ほどにしかならないが、素人判断では中国最初の王朝・夏王朝の実在はほぼ確実と思われる。とすれば続いて同省の安陽、鄭州を都とした商(殷)、洛陽を都とした周、後漢、魏、西晋、北魏、それに開封を都にした北宋まで、この地域が長安と並ぶ天下の政治の中心だったことになる。中国の中心といわれたのも当然かもしれない。
酷暑の一日、その展覧会に足を運んで、珍しい展示物に接し、夫々の時代背景に思いを致し堪能したが、図らずも予て耳にしていた"美人"の墓誌に出くわして、強い印象を受けたので、再度"美人論"を蒸し返してみようかと、思い立った次第である。が、ここで美人というのはいわゆる美女のことでは必ずしもない。旧稿では不勉強で詳述しなかったが、美人という名称の"女官"のことである。まず予備知識として諸橋・漢和大辞典で「美人」の下調べをしておく。それによると、美人には@容貌の美麗な婦女、美女A容貌の美麗な男子、美男子B君主C才徳の優れた人、賢人D漢代女官の名、位は二千石、歴代置き、明代に及ぶE虹の異名F梅の異名G米国人H北京に行われる凧の一種、と色々な意味がある。その中の女官の話なのである。美人は西暦紀元前1世紀に司馬遷が書いた「史記」の中にも幾度か登場する官名だから、17世紀半ばに滅びた明朝末までとすると、1700年間も続いた官職である。その割には人々に知られていない。しかし禄2000石の官位といえばかなりの大官である。美女であればなおさら、美女ではないにしても、どんな面々か、気にかかるところである。
今回の展覧会で出会ったのは、西晋の徐義という美人の墓誌だった。「美の誕生」という展観の中で、"書の美"が生まれ育っていく流れの初期に位置づけられていた。洛陽市の西晋墓から出土したそうだが、縦92センチ、横50センチの将棋の駒のような5角形の黒い石版の表裏に、びっしりと端正な筆運びで、「西晋賈皇后乳母美人徐氏銘・・」で始まる長文の墓誌銘が刻まれている。中に元康9年(299)の記年銘文もある。この墓誌銘は当時の貴族が好んだ書体を、今日に伝えるものとして、書の歴史を研究する上でも貴重な作品だそうだが、後年天下第一の書家とか、書聖といわれた王義之が、会稽山麓の蘭亭に、文雅の士を招いて曲水の宴を催し、その詩賦「蘭亭集」に名筆の誉れ高い「蘭亭序」をつけたのが、東晋の永和9年(353)のことだから、それに半世紀ばかり先立つ時代の作品ということになる。残念ながら美人・徐義氏の事跡については、現存の歴史書に一切記載がないので、この墓誌銘による以外にないようだが、東京国立博物館・研究員の谷豊信氏の解説を借りて紹介すると、概略次のような人物であったらしい。「墓誌によれば、徐義はさほど身分が高くない人物の妻であったが、西晋の重臣の娘の乳母となり、その娘が皇太子(のちの恵帝)の妃になったため、宮中に入って女官になった。永煕元年(290)に恵帝が即位し、皇太子妃は皇后となった。翌年宮中において皇后派と反皇后派との戦いが起こったとき、反皇后派の策略から皇后を守り、その功績により美人の位に昇進した。元興8年(298)4月に78歳で亡くなり、翌年2月に手厚く葬られた。この墓誌が発見されたレンガ造りの墓室は、地下12.2mに築かれ、墓の造営のために掘り出された土は、1000㎥に達したと推定されている。皇后の側近であったことから、特に大規模な墓が造営されたものとみられる」。
徐義氏が若い頃美女であったかどうか、情報は無いが、78歳ともなれば、まぁ美醜を超越した存在であったに違いない。しかしやはり宮廷内の争いで、敵の策略から皇后を守るという、政治的な貢献がなければ、美女という高い官位には、就けなかったのだろうと想像される。
酷暑下の暑さ凌ぎに、浮世離れした美人・外伝の一席を、ご披露したわけだが、浮世離れのついでに、わが国で昔から、言い伝えられてきたほんものの美人についての俗諺も、幾つかご披露しておくとしよう。色々読み解き方があるようだが、解釈はそれぞれご自由に。
◇美人に年なし
◇美人はいわねど隠れなし
◇美人薄命◇美人の終わりは猿になる
◇美女は醜婦の仇
◇美女は生を断つ斧

誰でも言葉に対する思い入れや理解が異なっていて、感応度が違う。食いしん坊の人は美味・珍味と聞くと、自然に注意がその方に向くし、身体の弱い人は妙薬・効能などに敏感に反応する。肥っている人は減量・体脂肪などに気を惹かれやすかろうし、頭の薄い人は毛にこだわるだろう。
そこのところをうまく研究されて、テレビ・コマーシャルのキャッチ・コピーなどには、繰り返し関心を引きそうなキーワードが連発される。自分に係わりない言葉には無反応でも、狙いをつけられた人にはビシャリと利いているのだろう。
もちろん万人に共通の関心事というものもあって、特に狙いを定めなくても人々の気を惹く言葉がある。選挙の際に政治家諸君が"空手形"風に連発する、安全、平和、繁栄、保障などもそれに当るだろうし、市民レベルでは儲け話からみの高給、高利回り、高配当などは感度が高そうだ。
飛躍するが"美人"などという言葉も、広い範囲で感応度の高い言葉に属すると思う。まず女性は例外なく関心をお持ちで、心中密かに「私のこと?」と思っていらっしゃるだろうし、男性もまた「どれどれどこに...」と気持ちを動かすだろうからである。万古不易の魅力的キーワードである。中国では漢代から明代まで、宮廷の女官に"美人"という官職があったそうだが、さぞ務め甲斐のある、満足度の高い地位であったことだろう。
美人はその昔、君主や才徳の優れた男子のことを意味したこともあったが、大筋はみめ麗しい婦人のことで一貫している。佳人、麗人という表現もあるものの、やはり"顔かたちの美しい女性"の美称としては、美人というのが一番ピッタリ来る。
故人だが、私の新聞社時代、論説委員会で親しく薫陶を受けた先輩に、大和勇三さんという人がいた。余技の研究で、人の顔(容貌)について薀蓄が深く、「戦国武将の風貌」についての著作などがあった。女性の美貌についても書き残しておられて、それによると、"美貌の理想は社会の投影図"であって、それはまた時代とともに変わる、ものだそうである。
大和さんによると、日本の場合、上古は豊満な顔立ちで、眉間がせまり眉は太く、目は切れ長、きつい黒目が上瞼について下のあいた三白眼、鼻筋は通り、口は小さい。つまり能動的でりりしい意志的な顔が美人とされた。それが平安時代になると、福福しいが温和でもうろうとした、一種の"おかめ顔"が好まれ、細い目で目の間が広く、幼児のようなしもぶくれ輪郭の顔が美女とされたらしい。
鎌倉時代になると、人間的に鍛えた、理知的な顔が理想となり、頬細く面長の美、室町時代には自然な感情の動きを否定した、いわば"持続的中間表情"に好みが寄せられたという。江戸時代になると、濃い化粧で無表情のいわゆる"白痴美的な美人"が好まれ、額は狭い"富士額"(ふじびたい)、また目を見張らない"目八分"を尊重、口唇も半分はおしろいで塗り隠した。
ただそれは武家社会のことで、元禄・享保以後になって、町人階層が力をつけると、その美醜感を反映した"素顔美"がクローズアップ、浮世絵美人画がその種々相を表現した。武士たちが冷静な印象の瓜実顔を好んだのに対し、町人はやさしくしとやかな自然美を愛し、これを上方の井原西鶴は「当世女は丸顔桜色」(好色一代男)と表現したそうだ。
上方と江戸では好みが違うが、ここでちょっと横道に逸れよう。爺様が乙女の化粧に言い及ぶのも憚られるところだが、江戸ではこの気風の中で、当時の娘さん達は素顔、つまりスッピンで勝負、ただ一点、口紅にだけは金(かね)を惜しまなかったそうだ。男の方もひたすら町娘礼讃ムードで、地女(じおんな=素人)の美女に憧れ、その最高賛辞は何と「じ・ご・く」だったという。すなわち"地女の極上"である。
大和さんの「美人・社会投影」説は、竹久夢二式の大正美人まで続くが、まあこの辺りで打ち止めとしよう。
時代、時代を見てきたわけではないが、彫刻、絵画、文学などの芸術作品から推して、美人スタンダードの時代変化は、やはり肯定せざるを得ないと思う。また美人は親善大使や民族代表の役目もしていると思う。ひと昔前の反対体験だが、ヨルダンの首都アンマンの街角で、アラブ青年と立ち話をした時、「どこから来た」というから「東京から」と答えると、突然「オー、トウキョウ・シブヤ・ガングロ」と肩をすくめていわれ、何か肩身の狭い思いをした経験がある。
しかし美人かどうかは、時代的変化と同時に、主観的評価の尺度差も大きいので、一時流行ったようなマルビ(貧乏人)・マルキン(金持)式に類型的に割り切ったり、決めつけたりすることはできない。また人権・人格尊重の立場はもちろん、個々人の好みもあるので、"美人論"は近い過去であるほど、また身近な具体例であるほど、実は近寄りがたく、難しいものなのである。
そこで再び自由な世界に回帰しよう。私は最近偶然、江戸の錦絵・絵本で有名な「絵本青楼美人合」(えほんせいろうびじんあわせ)を手に入れた。門外漢の人々のために少し解説をすると、この作品は一見何の変哲もない古書のように見えて実は、浮世絵史上、また日本の美術史上、画期的に重要な資料でもあるのである。
作者(絵師)は浮世絵師の鈴木春信、錦絵(多色刷木版画)の元祖とされ、高橋克彦氏などは「真の意味での浮世絵の創始者」(浮世絵鑑賞事典)と評しているぐらいだが、その春信が世を去る明和庚寅年(明和7年、1770)に、青楼、つまり当時江戸社交界の中心だった、吉原遊郭の遊女の中から167人の美女を選び、自らの筆と自らの創意になる錦絵技術を駆使して、刊行したのがこの絵本なのである。
絵本は花、ほととぎす、月、紅葉、雪の季節テーマ別に5冊構成になっているが、これは夫々の画に、美女各人が詠んだ俳句が添えられており、その季語で分類したものである。当時の遊女は、現代の芸能人と同じく虚構の世界の人だが、今と違って高い教養を要求され、歌舞音曲はもちろん、漢詩や和歌・俳句を詠んだり、書や活花などの習い事を、広く身につけていなければ、なれなかったのである。
ともあれこの絵本は、のちの歌麿、春章、重政、栄之、清長、湖龍斎などの一枚刷美人錦絵の源流のような意味合いをもつ作品、吉田暎二氏の「浮世絵事典」にも「春信の傑作絵本中の代表的名作」と絶賛されている。何より当時の"美女の総まくり"をしたのだから、それだけでも大仕事だったと思われる。
しかし美女の総まくりにしては、容貌の個性は描き分けられていない。何れも春信独特の可憐な美女で、それぞれ仕草や衣装、持ち物などは異なるものの、私にはみな同じような顔に見える。それについて有名な江戸文芸研究家の尾崎久弥氏は「明和ごろの花柳美人が初々しく、けだかく、泥中の蓮といった退廃的でない感じを出したかったのだろう」(「江戸軟派雑考」・大正14年刊)と解釈するが、他の研究者によると、当時中国から到来した明時代の画家・仇英(きゅうえい)の作風の影響によるとの指摘もある。
仇英は明代院派の有名画家、多才な画家だが、特に「仕女(女子の召使)図」など、婉麗な風俗美人画では近世第一の名手といわれた人である。仇英の仕女図は私も色々見たり、多少所蔵もしているが、宋代から懐古主義の画題として、伝えられたせいもあるのか、どの画も表情がみな同じように見える。
中国美人の話になったので、もう一つ脱線すると、前漢末の元帝の時(前49-33)に、後宮の肖像画を描く画工に贈賄しなかったために、醜女(しこめ)に描かれ、それが原因で遊牧民族の匈奴に嫁ぐ結果になった美姫・王昭君(明妃)の故事は有名な話である。
女性の容貌の美しさを鑑賞の対象とする絵画を"美人画"と呼んで絵画芸術の一分野とするのは中国と日本、つまり東洋の特色である。日本では江戸期の浮世絵を中心に美人画が特に発達、また最後の浮世絵師といわれた伊東深水画伯などを通じて、近代日本画に受け継がれた。美人のことは昔から「羞花閉月」といって、花も月も及ばない美しさに例えられたが、生身の人間としてはさもありなんと思う。
 
美女の基準

長らく浮世絵の美人画には写実性がほとんどないと思っていた。浮世絵の美人画には時代による変遷がある。鈴木春信の美人画が売れたときには浮世絵版画の美人画はすべて春信風の美人となり、鳥居清長が全盛の時には健康的な美人画、江戸時代後期には国貞や渓斎英泉のような退廃的な美人の絵が流行している。その中にはモデルの名前が明らかにされているものもあるが、その顔も流行の顔で、ほとんど他の絵の美女と区別が付かない。だから、現代の少女漫画に出てくるような登場人物などと同じく、実在の人物をモデルにして描いたものでも、実際の顔からかけ離れた理想像を描いたのではないかと思っていたのだ。
役者絵などは写楽の絵が実際の役者に似せた絵として有名であるが、決して写楽だけが他の絵師に比べて特別に似せて描いているというわけではない。写楽より前の画家である勝川春章や一筆斎文調のころから役者に似せて描くようになっている。だが美人画となると、例えば有名な歌麿の絵などは、ほとんど全部同じ顔に見えるといってもいいくらいである。
この絵は歌麿の「当世三美人」。モデルは下の右が難波屋おきた、その左が高島おひさ、中央が富本豊ひなという寛政期を代表する美女と評判された女性たちである。それぞれの衣服や手に持つ団扇の紋によって区別できるのだが、顔はほとんど同じに見える。歌麿はこの時代の大人気画家である。歌麿風の美人画は人々に支持されていた。しかし、理想化するといってもモデル名を明記している以上、これは少しひどすぎないか。まして絵は無料で配っているものではないのだから。しかし、版元はこの絵で出版し、それを人々は納得して買っている。となると本当に3人はこういう顔だったのではないかとも思えてきた。まさかと思うかもしれないが、そうとでも考えなければ理解できない。いくら歌麿が人気があるといっても浮世絵師は他にたくさんいる。いい加減なことをすればすぐに他の絵師に人気が移ってしまうだろう。
この絵には確かに歌麿流の理想化もいくらか入っている思うが、それを多少考えに入れたとしても、この絵がそれぞれの美女の特徴を捉えて描かれたものだとしたら、なぜこれほどまでにアカの他人である3人の顔が似てしまうものなのか?という疑問は起こる。しかし僕は全くあり得ないとこともないと思う。江戸時代には美人の基準というものがあった。評判の美女であるからその美人の基準に合致していたことは間違いない。輪郭や切れ長の目といったところは元々似ていたはずである。髪型も時代によって流行があった。あとは化粧だ。江戸の女性は眉のおしゃれに気を遣っていたそうである。剃刀と毛抜きを用いて余分な毛を取り除き、眉墨で描いて形を整えていた。唇には口紅。当時は口が小さいのが美人ということだったから、口が小さく見えるように塗ったことだろう。しかし何もここまで同じでなくても・・・と思うのは価値観の多様化した現代の考え方である。
と、ここまで書いて思ったのたが、ひょっとすると現代もそう変わらないのかもしれない。極端な例えだし、化粧というのとは少し違うのかもしれないが、以前ガングロというのが流行ったことがあった。大阪に住んでいてそれほどは意識しなかったのだが、一番流行っていた時期に東京方面に旅行に行った時、たぶん通勤、通学の時間帯だったと思うのだが、電車内のガングロの比率があまりにも高かったことに驚いたことがある。もし現代にビデオやカメラというものがなく、その状況を絵でしか残せないとしたら、後世になってその絵を見た人は、それが実際の人物を描いたものだとは思わないのではないだろうか。女性が流行のおしゃれをしようとするのは今も昔も変わらない。時代によってその表現の仕方が違うとしても。
広重や北斎の風景画や国芳の絵に比べて、僕にとって浮世絵の美人画に描かれた女性はそんなに美人だとも思わなかったし、似たような顔ばかり描いたつまらないものだと、長らく関心がなかった。しかし、美人画の数をある程度見て見慣れたということもあるのだろうが、これはなかなか面白い世界なのではないか。と、今はだんだんとそう思えるようになった。
 
化粧 / なぜ人は粧うのか

そうだ、化粧にしよう!はじめてそう思ったのは、卒論の構想を練り始めてから、程なくしてだった。私はとても化粧が好きだ。化粧には人を魅了してやまない、何か不思議な力がある。この数年、ぼんやりとではあるが、ずっとそう感じてきた。
私は、高校までを非常に地味な学校で過ごしたため、無論化粧はご法度、放課後に華やかな化粧品店に寄り道することもできず、遠くから化粧している他校の生徒や道行く女性を、異次元のものを見るような目で、見つめていたように思う。
しかし、大学に入学し、ようやく自分に解禁された化粧は、思っていた以上に面白いものだった。
自分のコンプレックスを隠し、目を自前のものよりほんの少し大きくしてみる。すると、それまで嫌だった自分の顔の部位に抵抗がなくなり、好きな部位はもっと魅力的にしてみたくなる。
私にとっての化粧の魅力、それはなにより、この「変身」の楽しみにあった。
「変身」の具合によっては、人に会う時に上を向く回数が変わり、表情やしゃべり方さえも違ってくる。
これはいったいなぜなのか。
ふと考えれば、こんな風に外面を飾っているのは地球上でも人間だけのようで、むしろ、動物や昆虫の世界では、オスのほうが美しいらしい。
これはいったい、なぜなのか。
なぜ、人間だけがこんな風に化粧をするようになったのか。
そして、化粧を学問的に見てみたら、どうなるのか。
そんな次々わき起こる小さな疑問をスタート地点に、化粧というものについて少し調べてみると、実に興味深いことがいくつも見えてきた。
化粧には、各社会にそれを支え、受け入れる美意識、文化があり、そして化粧によって発生するさまざまな効用があるようだ。
やはり、化粧はおもしろい。
このようにいくつもの角度から、光を当てて化粧を見てみると、いったいその先には何が見えてくるのだろうか。
いままで何気なしにしていた化粧が、もっと違った風に見えてくるのではないか。
私が化粧を研究テーマに選んだのは、化粧は薄く見えるその外見とは裏腹に、実に多くの角度から切り込みを入れられる文化であると思うからだ。
そして、この論文ではなによりも、テーマ選択のきっかけでもあった「化粧による変身の楽しみ」の部分にスポットを当てたかった。
そのため、第一章・第二章ともに、化粧への批判的な要素はあまり混ぜずに、できるだけ化粧の深み、面白みを伝えられるような論文にした。
化粧における良い面ばかりを挙げた、決してバランスが良いとは言えない論文であるが、その点はこの動機に免じて目をつぶっていただきたい。
この論文で化粧を研究することで、普段女性なら誰もがしている化粧という行為の裾に広がる、大きな力・背景について、自分なりの回答を出していきたいと思う。  
序章 「派手なオス、目立たないメス」

1.オスはなぜ、美しい?
たとえば、クジャクには、美しく大きな飾り羽がある。小鳥たちは、きれいな色の羽を震わせ、あるいは美しい歌声を高らかに奏でる。ライオンにはたてがみがあり、シカには大きく立派な角があり、カブトムシにも同様に美しく大きな角がある。
しかし、このように美しく派手な特徴をもつのは一般にはみなオスで、メスは地味で目立たない。クジャクやカブトムシのメスにそのような美しい特徴は無く、カエルやコオロギ、シジュウカラなどのうち、鳴くのはオスのみである。
長谷川眞理子によれば、このような例はほかにいくらでもあるという。
南米に住むハチドリの一種、オナガラケットハチドリという鳥では、尾の先が長く伸びて、曽於先端にうちわのようなものがついています。繁殖期には雄たちがこのうちわをばたばたと打ち鳴らして求愛するのだそうですが、雌の尾にはこのようなものはついていません。(中略)
まだまだほかにも、例はたくさんあります。アフリカの森林に住んでいるマンドリルというヒヒは、歌舞伎役者のくまどりのように、顔に赤、青、黄色の縞模様をつけています。なにも知らない旅人が森の中でこんな動物に出会ったら、どんなにびっくりしたことでしょう。しかしこれも雄だけのこと。雌は地味な茶色い顔をしています。カエルが鳴くのもコオロギが鳴くのもシジュウカラが鳴くのも、あんな小さなからだであんな大きな声で鳴くのですから、それはたいしたエネルギーを費やしているわけです。しかし、これもみんな雄だけがやっていることです。
2.「自然淘汰」と「性淘汰」
「自然淘汰」とは?
当初、進化論を唱えた生物学者チャールズ・ダーウィンは、自ら提唱した「自然淘汰」に反する、この同種内の性差の事例について、ひどく頭を悩ませていたという。
前述の長谷川によれば、ダーウィンは、クジャクの雌雄間の見た目の差を目の当たりにし、自身の「自然淘汰」の理論では説明の効かないものがあることに苦悩し、「クジャクの尾羽の光景を見るたびに、気分が悪くなる」、という内容の手紙を、1860年の4月3日、ハーヴァード大学の生物学者エイサ・グレイに送っている。
たしかに、ダーウィンの唱えた「自然淘汰」では、このオスとメスの違いは説明できない。
ここでいま一度、ダーウィンの唱えた「自然淘汰」についてみてみるとする。
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によれば、「自然淘汰」は「自然選択説」の項として、以下のように説明がある。
自然選択説
自然選択説(しぜんせんたくせつ、naturalselection)とは、生物進化を説明するうえでの根幹をなす過程を指摘した考えであり、1859年にチャールズ・ダーウィンによってはじめて体系化された。自然淘汰説(しぜんとうたせつ)ともいう。
自然選択説の要約は以下の通り:生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化する。
1、生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異)
2、変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(選択)
3、そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)
上記のメカニズムにより、生存と繁殖に有利な性質をもつ個体が増えていくことで生物進化が起こるとした。
淘汰が起きる原因は、生物が本来備える繁殖力が概して環境の収容力を超えるために、生まれた子ども同士、または他の生物との間で生存競争が起きるためだとした。
これによれば、生物は自身の種の生存・繁殖において有利になるように同種内で淘汰・発展を繰り返し、進化をとげるものだということになるが、これのみでは、同種内の雌雄間差異については、説明がつけられないように見える。
しかし実は、この「ウィキペディア(Wikipedia)」の説明には続きがあり、続けて以下のように記述がある。
なおダーウィンは、生物進化に寄与する別の重要なメカニズムとして、性選択も提唱している。
この「性選択」すなわち「性淘汰」こそが、今日、冒頭で触れたクジャクの雌雄観の差異を説明する重要な考え方として、考えられているものである。
ダーウィンは、「種の起源」を発表した後、自身の唱えた「自然淘汰」と別に、全く違う原理の淘汰である、「性淘汰」が生物には働いていると考え、それを一八七一年に、「人間の進化と性淘汰」の中で発表し、話題を呼んだ。
「性淘汰」とは?
では、この「性淘汰」とは、何なのか。同様に「ウィキペディア(Wikipedia)」に詳しい内容の説明があるので、見ていきたい。
性淘汰(せいとうた)は、異性をめぐる闘いを通じてある形質が進化して行く現象である。クジャクやシカのように雌雄で著しく色彩や形態・生態が異なる動物について、その進化を説明するためにチャールズ・ダーウィンが提唱した。
一つの種に於いて、ある性(殆どの場合は雌)の個体数や交尾の機会はもう一方の性よりも少ない。それゆえ、交尾をめぐる個体間の争いが進化をもたらす。
性淘汰は、自然淘汰(生態系に於けるニッチ獲得をめぐる争い)とは異なる。自然淘汰は性別・年齢を問わず、個体の全体的な状態によってもたらされるからであり、また性淘汰によって進化した形質の多くは装飾的であまり実用的な物ではない。ただし、性淘汰を自然淘汰に含める事もある。
配偶者の選択の理由については、ランナウェイ説やハンディキャップ説などの理論モデルがある。
すなわち、「性淘汰」とは、「環境からの圧力に対抗して生存していく能力に関わる淘汰ではなく、生物にとってもう一つの重要な関心事である繁殖のチャンスに関わる淘汰」であり、「どうやって生き残るかということとはまったく別に、オスの間では、どうやって配偶者を獲得するのかという激しい競争」があるということである。
そして「性淘汰」は、大きく二つにわけられ、それをダーウィンは、「雄間競争」と「雌による選り好み」(femalechoice)と名づけている。
人間とその他の生物の違いをより明確にするために、以下でこの二つの違いを説明しながら、もう少し深く「性淘汰」の内容に触れてみたい。
「雄間競争」と「雌による選り好み」(femalechoice)
先ほどの「ウィキペディア(Wikipedia)」の「性淘汰」の項目の続きを見ていきたい。以下では、「雄間競争」と「雌による選り好み」(femalechoice)がそれぞれ、「同性間淘汰」と「異性間淘汰」の名称で説明されている。
同性間淘汰と異性間淘汰
性淘汰には、
1、同性の間で、異性を巡る競争を行うため、より優れた武器(角や牙など)をもつ方が勝って交尾をし、子孫を残すことによってその武器が進化するような同性間淘汰(雄-雄闘争)
2、配偶者が異性を選ぶ際に選択が起き、配偶者(主として雌)がより顕著な形質を持つ交尾相手(雄)を選択することによって進化する異性間淘汰(配偶者選択)
とがある。
同性間淘汰は多くの場合、雄の間で起きる。個体間の闘争以外にも、混ざり合った精子の競争が含まれる。
しかし多くの場合、性淘汰と言うときには後者の「雌による選択」を指す。ロナルド・フィッシャーは、「雌の嗜好は遺伝的に決まっており、それ以前の代で好まれた形質がより顕在化した個体を後の代の雌はさらに好む」と考えた。
これについて、ダーウィンのこの説を踏まえた上での、長谷川の説明をたどってみる。
長谷川によれば、カブトムシのオスや、シカのオスは、繁殖期に角を突き合わせて闘い、この闘いに勝ったオスは、メスとの配偶の権利を獲得できる。とすればすなわち、これはそのまま配偶のチャンスをめぐる闘いに、置き換えられる。
草食動物であるシカなどには、肉食動物であるライオンやトラと違って、大きな角を持っている生存上の必要性は特に見受けられない。また、カブトムシも樹の樹液を食料としているのだから、やはり同様に、大きな角をもっている必要性は無い。
したがって、シカの角、イノシシの牙、カブトムシの角は、ほとんど配偶者獲得の闘いのためにのみ使われる武器として、オスの間で発達したと考えられる。これが、「雄間競争」である。
それに対して、オスとメスの違いの中には、武器とは全く関係なさそうなものもある。その最たる例がクジャクの飾り羽をはじめとする、鳥のオスに見られる美しい羽であるが、これらは、主としてメスに対する求愛用に用いられている。
メスは、オス同士の闘いの勝者を受け身に受け入れるばかりでなく、メスの側からどのオスがよいか選り好みをしているのである。これが、「雌による選り好み」(femalechoice)である。
学会の反応と今日の見解
この説は、当時の学会では、メスが選り好みをしているという確たる証拠が無かったのと、「強いオス、従順なメス」という社会的な通念のせいで、非常に不人気であった。
しかし、1982年になって、長い尾羽を持ったコクホウジャクという鳥を使っての、「メスが選り好みをしている」ということを示した研究が、アンデルソンという学者から発表されたことで、社会的な一致見解を見た。
ただし、これについては後になって、クジャクの尾羽の目玉の数や尾羽の大きさと、メスの選り好みの因果関係の有無に関する内容について、学会で大いに議論がなされており、まだ「選り好み」の確証については報告されていない。
しかし、クジャクの尾羽が使われるのは繁殖期のみで、その後抜け落ちてしまうこと、そして、オスクジャクの尾羽を使ったダンスを見た上で、メスクジャクが配偶者をなんらかの基準で決めていることなどから、クジャクのオスの飾り羽が、メスの配偶者選びにおいて、なにがしかの因果関係を持っている、という点において、今日共通して認識されている。
さまざまな選り好み
一方、同書で長谷川は、「雌による選り好み」には、「賢い選り好み」および、「「美的センス」による選り好み」の、二つが存在するとして、現在確実に報告されているメスによる配偶相手の選り好みの事例を紹介し、分類・考察している。
これらはそれぞれ、名前の通り、メスが自分の繁殖行動に有利になるようにオスを選ぶ選り好みと、メスの繁殖行動の有利さとは因果関係は一見無いように見えるが、メスが自分のセンスによってオスのある部分を判定する選り好みのことである。
「賢い選り好み」
「賢い選り好み」では、メスが繁殖に際して有利になるようにオスを選んでいる事例がひかれている。
たとえば、オーストラリアに住むカエル(Uperoleialaevigata)は、メスはオスの鳴く声の周波数に従い、自分の体重の70%のオス、すなわち、繁殖の際に大きすぎも小さすぎもしない相手を好んで選ぶ。
これらは主として、繁殖行為や子育てにおいてオスに求められてくる要素を、メスが、雄の鳴き声などを使って査定しているケースである。
「美的センス」による選り好み
これとは別の選り好みなのが、「「美的センス」による選り好み」である。
たとえば、観賞用としても人気なグッピーのメスは、オスの身体のオレンジ色の部分の面積がより多い雄を選ぶことが多いという報告がされている。
また、ソードテイルという尾びれが長く伸びている魚についても、より尾びれの長いオスが好まれる傾向にあるという。
これらの事例について、オレンジ色の身体を持つオスや、長い尾びれを持つオスが好かれる理由は、残念ながらまだわかっていない。
しかしいずれにしても、前述のクジャク同様、やはり、メスの配偶者選びにおいて、こうした装飾がなんらかの因果関係を持っている、という認識はなされている。
潜在的繁殖速度と競争の強さ
少し話がそれたが、「雄間競争」と「雌による選り好み」(femalechoice)、この二つの過程から働く淘汰が「性淘汰」であるのだが、繁殖のチャンスを得るために自ら闘うか、または、メスに選んでもらうことによって繁殖のチャンスを得るか、という二通りの過程はあるものの、いずれにしても、繁殖のチャンスをめぐる、オスの間での激しい競争の末、こうした角や牙、あるいは飾り羽や尻尾は進化をとげてきた。
繁殖行動においては、メスは数の上で少数派であり、性淘汰での勝ち抜きを強いられなかった。
「いわば繁殖相手選びは雌にとっての「買い手市場」であり、こうして性淘汰の主体は雄よりも雌」となっており、したがってメスは、美しくあるということが少なかったのである。
ここに、配偶者獲得競争と「潜在的繁殖速度」を示す、面白い図表がある。
ここで言う「潜在的繁殖速度」とは、繁殖のサイクルの速さ、すなわち、繁殖行動のすべてがうまく終わるまでに必要な、潜在的な最短時間のことである。
その時間は、
@精子や卵などの配偶子を準備するのに要する時間
A配偶に要する時間
B子育てに要する時間
の三つから成っており、図表は次のようになっている。
長谷川は繁殖行為を、上記三つの項目からなる繁殖に必要な時間と、子育ての形態に従って分類している。
そしてこの図を示すことで、自然界においては、全体として雄間競争のほうか雌間競争よりも強くなる傾向にあると結論付けている。
確かに、この図に見ても、動物界においては、ほとんどの配偶相手の獲得をめぐる競争で、確かにオス同士の競争のほうが激しくなると言えそうである。
3.人間におけるその逆転
ここまで人間以外の生き物の配偶行動を見てきたが、しかしここで視点を人間に移してみると、この様子は、人間においては、一見逆転して見える。
無論、人間においても、オスのほうが数の上で多いことに変わりはないため、子孫を残す上ではオスに対して、より寡頭的な競争が強いられていることに変わりはない。
しかし、人間については、オスとメスに肉体的な差異はあるものの、明らかにメスのほうが自身を飾り立てている。
特に現代先進国の人間については、エサの獲得の失敗、あるいは他の生物により捕食されることが原因で死ぬことがほぼ無いため、進化に対する性淘汰の効果・影響度がより大きくなっている、という指摘もある。
また、同性同士による物理的な戦闘などによる同性の個体の物理的な排除がほぼ無くなったこと、および社会制度の変化、法制度の整備などの効果で、一方的に個体が異性の個体を選択できるような状況は少なくなり、相互の意思の確認が必要とされることになった分、同性間選択と比べ、異性選択の影響度が以前よりも増している、という見方もある。
4.「性淘汰」と化粧
そうした指摘の内容の判断はさておくとしても、事実として、人間のメスは、自らを実に多岐に渡る方法で飾り立てる。
化粧、香水、服装をはじめ、アクセサリーなどの装飾品等々、数え上げればきりがない。
また、人間のメスの「美」は、先天的に備わっていたもの以上に、後天的に装飾されたものによる力が大きいという点において、根本的に動物たちの装飾議論と非常に異なっている。
すなわち、人間のメスの行う装飾は、子孫を残すために必要なオスの「派手さ」とはまったく異なる、生物的な必要性の特にない装飾だと言えるのである。
しかし、にもかかわらず、そうした特に必要の無い装飾は、非常に一般的に行われている。
女性は自分自身を飾ることを楽しみ、中には、毎日化粧に二時間を費やしたり、服飾品に収入のほとんどをかけたりする女性もいると聞く。
一方、社会や文化の側も、過度な装飾をこそ嫌うものの、適切な範囲でそうした装飾をする女性のほうが、装飾気の無い女性よりも社会に適合的であると見なし、ある年齢以上になっていながら装飾をしない者については、時に異端視することさえある。
そして、ここで私が特に注目したいのは、女性が自分自身を飾る大きな要因が、社会的に女性たちにその行為が望まれているということ以上に、男性への「セックス・アピール」にあるということである。
この「セックス・アピール」と化粧の関係については、第二章で詳述するが、数の上で少数派なメスが、性的な意味合いも込めて、自身を飾る。これは、生物の原理からすれば、極めて異端な現象である。
というのも、より数の少ないはずのメスが、自身を飾れば、それに引き寄せられるのは数の多いオスということになる。これでは、先ほどまで見てきた生物の進化と「性淘汰」の原理に言う、「多くの中から、より生物的に優秀な配偶者を選ぶ」ということが、叶わなくなる。
むしろ、ただでさえ数の少ないメスの中から、より性的に魅力のあるメスにオスが集中してしまうことで、配偶効率は下がるようにも思える。
やはり、「性淘汰」の原理では、人間の行うこの装飾は、根本的に説明が利かない。
では、人間のメス、すなわち女性は、なぜ自分自身を飾るのだろうか?
こうした、生物的な必要範囲を超え、かつ生物的な「性淘汰」の原理から見ても明らかに異端な装飾は、動物たちの行うそれとはまったく違う、人間独自の意味づけのもとに行われているに違いない。
その意味付けを、私はこの論文で探ってゆきたいと考える。
そして、この問いに対して私は、装飾の中でも、特に一般的であり、女性に独特であると考えられがちな「化粧」を切り口にして、さらには、特に題材を日本のみに絞って、次章以降、検証していこうと思う。
検証の切り口は、「社会」および「心理」とする。
そしてその二つを切り口にし、論文の構成をこのようにしたい。
まず、第一章では、「化粧」という文化を外側から支え、受け入れている「社会」について見てゆく。
ここでは、化粧の歴史的な変遷をたどり、どのような過程で現在の化粧文化が築き上げられていったのかを探ろうと思う。そして、その根底に流れる日本人の美意識を探り、化粧文化を国際的に比較して、日本における化粧文化について、より考察を深めたい。
続く第二章では、「化粧」する側の、いわば内側から「化粧」を支えている「心理」について、考察していきたいと思う。
ここでは、人が人を見る際の評価・判断基準という視点や、化粧の心理的効能について触れ、「化粧」というものが個人に対して、心理的にどのような影響を与え、ゆえにどのような可能性を秘めているのかについて、見ていきたいと思う。
この論文が、なぜ人間のメスは「性淘汰」原理を超えて飾るのか、という問いの、解決の糸口になれば、幸いである。  
第一章 化粧することを望む「社会」

1.化粧とは?
化粧について考察していくにあたって、まず、「化粧」というものの定義を見てみたい。
村澤博人は、広義の「化粧」を、以下の三つに分類している。
@身体変工:髪を切る、抜く、縮らす(パーマ)、ヘアスタイルを整える、歯を抜く、削る、指を切る、爪を切る、頭部を変形させる、腰を細くする、足を変形させる(纏足)など
A色調生成:入墨・文身・タトゥーイング(皮膚に色素を入れる)、創痕、瘢痕(皮膚を傷つける)など
B塗彩:皮膚に色や艶を添える、ボディペインティング、メイクアップ、ネイルメイクなど
これらは、人類学的な分類を参考にした、非常に広い意味の「化粧」であるが、これによれば、整形外科・美容整形・口腔外科の施術、あるいは髪の毛の一部を変更することも、「化粧」に含有されることになる。
一方、広辞苑に「化粧」を引いてみると、次のように出ている。
け‐しょう【化粧・仮粧】
@紅・白粉(おしろい)などをつけて顔をよそおい飾ること。美しく見えるよう、表面を磨いたり飾ったりすること。おつくり。けそう。
A(名詞に冠して)美しく飾った、体裁をつくろった、形式的な、などの意を表す語。(以下略)
おそらく、この広辞苑の@にあるような、顔を美しく見せようと飾ること、というのが、化粧の狭義であり、一般的な社会的認識であると言えよう。
本章及び次章で言及するところの「化粧」は、この狭義の「化粧」についてであるとする。
前述の村澤は、化粧とは、基本的に「ある集団=社会がもつ美意識に基づいて顔やからだに意図的に手を加えて、外見的にも内面的にもそれまでの自分とは異なる自分になろうとするための行為」だと定義している。
化粧には、それよって、視覚的に顔やからだのもつメッセージ性を変更、あるいは強調し、それを社会の構成員としての相手に伝える作用があるというのである。
こうした化粧の作用は、しばしば実感をともなって化粧をしている私たちには感じられる。
たとえば、その時代の流行の化粧をすることで、自分は時代の作り出す流行に敏感であり、かつ、各時代・各社会が化粧する女性に対して抱いている「理想」に近づく用意がある、という信号を発している気持ちになったり、社会の側からも、自分は「流行に敏感な女性」として見られているのだと、実感する。
この章では、個人にこのような感情を抱かせるほどに化粧を認容し、あるいは求めてきた「社会」について考察する。
それにあたって、まず次の節では、日本における化粧の歴史を見てゆきたい。
2.日本の化粧の変遷
以下では、前述の村澤博人による、「顔の文化誌」を主な参考に、古代化粧の発祥から、1990年代までの日本における化粧の歴史について、概観していきたい。
古代
化粧の文化は、文字資料の無い縄文・弥生時代においても、埋葬された人骨を資料に化粧を紐解くと、見て取ることができる。
まず、当時は、抜歯や削歯をすることが一般的で、それによって所属する部族の違いや成人か否かの区別をしていた。
そして、人骨に付着した朱や、埴輪の顔面に塗られた赤などから、顔料を顔に塗布=彩色をしていたこともわかっている。顔料を塗布した理由としては、鎮魂や魔除けのため、あるいは種族の表示を意味するため、などと推測される。
その他にも、土偶や埴輪に描かれた線や色などから、この時代にはすでに、顔に入墨が施されていたことも分かっている。
文献として化粧が記述されるのは、漢字が使用されるようになって以降のことで、「日本書紀」の上代にはすでに、顔に赤土を塗る風習があったことが記されている。しかしこれは、しばしばステージメイクアップのはじまりとして引用されるだけあって、後の日常的な口紅とは完全に内容を異にしたものであった。
そして、以後遣唐使が廃止されて国風文化が誕生する平安半ばまで、中国大陸、すなわち当時の隋や唐の影響を受けた美意識が、日本国内に発達してゆく。
その中でも最も多い記述が、眉に関する記述である。眉引きや、三日月眉、柳眉などについては有名な歌の中にも詠まれており、いずれも、弧を描くような細い眉が美しいとされていた。
ここから見ても、眉の形を整える美意識が、大陸文化の影響を受けて根づいてきたことがわかる。
また、白い肌を好む美意識も、「日本書紀」の中に、白粉に関する記述があるなど、大陸文化の影響を受けて、この頃から発達し始めたとされる。しかし、本格的な白粉の登場は、次の時代になってからになる。
古代末〜中世
平安中期以降になると日本では、それまでの唐の影響を脱した、優美な和様が主流になり、いわゆる「国風文化」が発達してくる。
化粧においても、白粉や頬紅、お歯黒、眉化粧が貴族階級で発達し、日本の伝統的な化粧の、第一段階がこの時期に築かれた。特に、お歯黒と眉化粧は、前時代には見られなかったものであった。
眉化粧とは、古代に行われていた眉の形を整えることではなく、本来の眉を消去して、額の上部に描き眉をするという風俗を指し、成人した際にその証として施された。
同様に、歯を黒く染めるお歯黒も、貴族社会で女性が成人になったしるしとして始まった。
このお歯黒は、後に貴族男性も行うようになり、公家の男性の化粧文化として、以後明治になるまで継続された。
そして、肌については、透き通るような美しい白い肌が好まれた。「源氏物語」の中にも、紫の上の描写の一部に、透き通るような肌を絶賛する様子が描かれている。
そして、この時代の特徴として挙げられるのが、「中高」という美の基準と、「顔隠しの文化」の存在であると、村瀬は指摘する。
前者は、正面から見て真ん中、すなわち鼻が高いという意味で、当時はそうした特徴を持つ者が、美人とされた。
後者は、文字通り顔を隠すことを良しとする文化のことで、垂髪の額髪を耳に挟むことははしたないとされ、人前でやたら顔をあらわにするものでない、という美意識の発達を促した。それゆえ、外出時も被り物(被衣や市女笠・虫の垂れ衣などにはじまり、江戸時代の防止や頭巾類を指す)をして、顔を見せないようにするのが、常識であった。
この「顔隠しの文化」については、次節の日本人の美意識の考察の部分で、もう少し詳しく触れたいと思う。
近世
近世に入り、男髷の真似から発生したとされる女性の日本髪が、化粧文化を加速させる。
髪を結い上げたところに露出した額の形を良く見せるために、生え際の化粧が発達し、その際の化粧が、近世後期には衿足をすっきり見せるための衿化粧へと発展し、日本的な化粧美を作り上げていった。
そして、古代末から始まったとされる「顔隠し」の文化が、化粧を通じてさらに普及していった。
たとえば、武家階級の女性は、嫁いだ先の親や夫の前でさえ素顔を見せてはならないとされ、必ず白粉を塗って化粧をすることを、たしなみとして躾られた。
しかし一方で、武家社会は質素を旨としており、化粧はたしなみではあるが、濃い化粧は嫌われ、口紅もほんのり桜色につけるのが良いとされていた。
こうした時代背景に加え、この時代、商工業の発達が加速要因となり、化粧品の製造と消費が増大していった。当時の白粉の三大消費地は、歌舞伎と遊郭と大奥の世界といわれ、歌舞伎役者にちなんだ商品名のものまで登場した。
続いて紅についてであるが、紅は紅花から採ったものがもっぱら口紅として使用された。
しかし、「紅一匁、金一匁」と言われるほど紅は高価で、唇が玉虫色に光るほど濃く塗るのは贅沢だとされ、殊に武家社会では嫌われた。
江戸後期には、墨を下に塗ってから少量の紅を塗ると、紅をたくさん塗ったときと同じ効果が出ることから、笹色紅と呼ばれる化粧法が流行した。
お歯黒も、江戸時代には一般女性にも広まっていった。結婚と同時に婚姻と貞操(黒は他の色に交わらない、貞女は二人の夫に仕えない)というメッセージの表示として行われるようになり、既婚者のしるしとされた。
それまで上流階級の女性の間で行われていた眉を剃り落とす慣習も、この時代には一般女性にまで普及し、結婚して子供ができると眉を剃り落とすようになっていった。
近代
明治に入ると、内面的には武士道という純日本的なものを求めながら、外見は少しずつ欧米化していく。
それまでは当たり前だったお歯黒と眉化粧が野蛮とされ、まず公卿や華族に対して明治初年に「太政官布告」で「歯ヲ染メ眉ヲ掃」ことを止めるように、とする禁止令が出されたことで、西欧の美意識が日本の文化に浸透し始める。
さらには、明治四年に、「散髪…脱刀共勝手たるべし」という、いわゆる断髪令が出され、月代を剃って髷を結うという元来の風習が否定され、散髪が奨励された。
明治六年に、天皇自らが散髪したことで、散髪は急速に広まり、次第に文明開化の象徴になってゆく。
この象徴という意味では、すでに幕末の頃、維新の志士たち、土佐藩の坂本龍馬や長州藩の高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛など、早くから断髪を時代思想として受け入れた者がいたことも、記しておかねばならない。
一方、髪型に比べて顔や化粧などの意識の変化には、時間を要した。
明治の末期から、日本人の目の形が欧米人の目の形よりも劣っているとする記述が見られるようになり、大正から昭和にかけて、目の美の基準が、切れ長の目から二重でぱっちりとした大きな目へと移っていく。
これには、写真、さらには映画などのメディアの普及が大きく影響している。
そして、大正末期には欧米のアイメイクの流行が日本に伝わり、一部の階層の女性に取り入れられるようになるが、まだ当時はそうした欧米のアイメイクは社会に許容されておらず、大衆化されるには到底至っていない。
白粉は、大正時代に入ると、従来使用されていた文字通りの白い粉ではなく、欧米由来の肌色の粉を塗布する習慣となり、自分の肌色に合った粉を顔に塗るようになる。
しかも、江戸時代からずっと使われてきた鉛白粉は、明治二十年代になるとその毒性が社会問題化したため、徐々に使用されることが無くなり、昭和十年には鉛白粉の使用と販売は全面禁止になる。
口紅には、練り紅や水紅が用いられ、頬紅も大正時代に健康美を表す化粧法として使用され始めた。
現在のような棒状の口紅、いわゆるリップスティックが日本にもたらされたのもこの時期、明治末であるといわれ、国産品が発売されたのは大正七年であった。
当時はまだ口紅は点すもので、塗るという意識は無く、この「塗る」という意識が定着するのは、第二次世界大戦後しばらくしてからになる。
日本の化粧品メーカーが急速な成長を遂げたのも、この時代であった。
廣澤榮によれば、明治の初年には薬局と歯磨きを販売するだけのごく小さな企業にすぎなかった資生堂は、明治になり、にわかに有力な化粧品メーカーに成長し、さらに昭和になると、いよいよ勢力を拡大していった。
しかし、とは言ってもこの時代の基本的な化粧やマナーに対する美意識は、まだまだ前の時代に武家社会が持っていた価値観を受け継いでおり、それが大衆化していったことが、特徴的な時代であった。
そして、化粧そのものの大衆化は、次の時代を待ってのこととなる。
現代
続いて、現代の化粧に入る。
現代日本における化粧文化の発展は、化粧の歴史的にも非常に特殊なほど化粧が浸透した時代であり、かつ、その内容についても、変化が著しい。
その様子は、次頁の「戦後の化粧品統計」を見てみても、明らかである。
そのため、現代については、年代を10年ごとに区切って詳しく見てゆこうと思う。
現代 / 1940年代
ここで一度、戦前のメイクアップを総括してみる。戦前一般的だったものとして、村瀬は以下のように記述している。
戦前のメークアップは、一般には、ヴァニシングクリームを化粧下に使い、その上に粉白粉や水白粉をつけ、口紅を差して眉を引く程度であった。一九四〇年に発行された美容書「整容」(小旗恵津子著)にも「最も一般的な粉化粧」として、「これは化粧水と無脂肪性クリーム(バニシングクリーム)を基礎にしてそのうえに粉白粉をはいて仕上げるお化粧の仕方で、最も広く一般に行われています」と、まず最初に記している。したがって、仕上がりは今の尺度で見ると、日本独特の艶の少ないものであった。
そして、戦後の化粧史は、村澤によれば、「従来の日本の美意識からの脱却、および社会的な枠組み(身分や未既婚、職業)としての化粧からの解法」であり、化粧の大衆化、そして若年化していく歴史であったという。
その傾向は、最近では1990年代の茶髪や「ガングロ」の流行などに象徴される。これは、「赤・白・黒」の三色に彩られてきた日本の化粧の歴史から見ても、特殊と言える現象であった。
黒髪は若者の中で「古臭い」「ださい」といったイメージと結びつき、敬遠され、次第に選択肢の一つでしかなくなっていった。
そして「ガングロ」とは、「日焼けサロンなどで黒く焼いた顔、若しくは黒系のファンデーションの上に厚塗りの化粧を施したギャルファッションの一つ」であり、「ガンガン黒い」の略称、あるいは「顔黒」を語源とする、と言われる。これは、皮膚下のメラニン色素が多い地黒の人間は該当せず、意識して自分の肌の色を黒くする化粧法である。これは、一種の「白肌絶対視」へのアンチテーゼであり、白肌からの解法であった。
話がそれたので、終戦直後からの化粧風俗をたどると、まず、戦後日本における化粧文化は、アメリカの進駐軍と直接に接していた女性たちから始まった、いわばアメリカ文化の模倣であったとされる。
具体的には、ベースメイクとして下地に油性のコールドクリークを使い、その上に黄色い粉白粉をたたいて艶を出し、ポイントメイクには、フレームレッドの真紅の口紅と、黒や茶のアイシャドウを使うという特徴のもので、これに、長い髪、ロングスカート、ショルダーバッグ、ネッカチーフ、といった服飾品が加わる。
このベースメイクは、従来の日本にはなかった艶に重点を置いた方法であり、「光る化粧」と呼ばれて、進んで受け入れられていった。
ポイントメイクに関して言えば、特に口紅に重点が置かれており、食事後などに口紅を塗りなおすことはエチケットとされ、そうした内容の雑誌の記事も「主婦之友」など、多くの雑誌に見られたという。
そして、アメリカの模倣として始まったこの化粧法は、やがて一般の女性たちの間にも、流行していった。
現代 / 1950年代
続く1950年代は、1940年代から続くアメリカンスタイルの全盛に始まり、次第にヨーロッパ指向へと移っていく時代であった。
何よりも、映画が時の流行を作った時代であり、その代表的な例として、ヘップバーンカットと呼ばれるショートボブが大流行し、さらには、「ピンク化粧」と呼ばれるベースメイクが隆盛を誇った。
日本で「ヘップバーンカット」と呼ばれたこの髪型は、欧米では「イタリアンボーイ」と呼ばれ、短くてボーイッシュな髪型として認識されていた。
それが、映画「ローマの休日」の中で、オードリー・ヘップバーンの演じる主人公の王女が、美容院で長い髪をばっさり切ることで、王女の立場から解法され、一日のみの休日を味わい、楽しんだというシーンで注目され、話題を呼んだものである。
このスタイルの流行は、戦後の女性の解放期と重なったことも、それに拍車をかけたようである。さらに、当時はもはやロングヘアーのパーマネントは一般化してしまっており、新しいものを求める女性たちの中で、このヘップバーンの軽やかなショートカットは、彼女の魅力的な個性ともあいまって、爆発的に流行していった。
そして、同じく戦後まもなく映画により流行したもう一つの象徴的な化粧風俗が、「ピンク化粧」である。
これは、カラー映画の普及により、ピンク色を基調とするファンデーションが広まったというものであるが、それまで日本では、日本人女性の肌色としてよく見られる、黄の色味が強い「オークル」という色のファンデーションが一般的であった。
しかし、当時のフィルムの関係上、出演する女優の肌の色がピンクがかって見えることから、スクリーンに登場する彼女たちと同じ色にしたいとする要望が高まり、ピンク系のファンデーションが流行を見たのだという。
また、同じ頃蛍光灯が普及したことも、この流行に拍車をかけた。蛍光灯のもとでは、顔色が不健康な土色に見えてしまう。ピンク化粧はそれを補正する働きも有していた。
こうして、白粉、ファンデーションのピンク系の流行が1960年代後半まで続く。このピンク化粧は、健康な血色が表に出ているように見えるため、同じような効果を狙う頬紅は、まだ一般的になってはいなかった。
アイメイクの方法がだんだんと浸透し始めたのも、この頃であった。村澤は以下のように記述している。
その内容は、「若い女性」(一九五七年三月号)によれば、「卒業して初めてお化粧する方のお化粧のA,B,C」として、「第一に大きく見せるためにアイ・ラインを入れます。これは黒の眉鉛筆の先をとがらせ……線を入れ……。次に睫毛の薄い人はマスカラ(睫毛墨)をつけ、アイラッシュカーラー(睫毛上げ器)で上向きにカールさせておきます。なお、上瞼のはれぼったい人は褐色のアイシャドーを淡くぼかして下さい」というようなものが一般的であった。
これによれば、まだこの時代は現在のようにアイシャドウに重点は置かれておらず、あくまでも目の欠点をカバーする目的でのみ、アイシャドウは使われていたようである。
1950年代後半になると、太陽族、ロカビリーなどと若者文化が台頭し始め、音楽が時代を引っ張るようになっていった。
この当時一世を風靡したメイク方法に、カリプソ・メイクというものがある。これは、1957年に歌手浜村三智子の影響を受けて登場したメイク方法で、肌の色を熱帯の女性風にブラウンにし、濃いマスカラと濃く派手な色味のアイシャドウに、アイラインを太く引くことで、目の周辺を強く強調した、とても個性的なものであった。
このメイクは一部の若者の間で、非常に流行を見ており、メイクがさらに一般かする1960年代には、日焼け色の肌が流行し始め、日焼け用化粧品のポスターが盗まれるほどであった。
現代 / 1960年代
前述の流れから、ファンデーションの色は1960年代初めの頃までは、オークル系とピンク系の二系統しかなかった。
しかし、1965年ごろになり、ベージュ系と呼ばれる色味が登場してくる。これは、1963年の貿易の自由化で、外資系の化粧品メーカーが日本に進出してきた際、今までに無い、彩度が低く、明度の高い色調が導入されてから広まったと言われている。このファンデーションは、それまでのカバー力のあるマット・タイプとは異なり、透明感のあるトランスルーセント・タイプであった。
このことは、単に色幅が広がったということのみならず、それまでと違うベースメイクのメイクアップ方法、すなわち、メイクアップの質的な拡大が起こったことを示している。
そして、1960年代後半に入ると、この時代の流行はなんといってもミニスカートであったが、化粧についても、西洋的な顔立ちになるアイテムとして、アイメイクが注目され、一般化し、目の周りを彩る商品が流行してゆく。
これは、現在もなお続く「アイメイク重視」の先駆けであり、大変重要な転機であるといえよう。
具体的には、アイシャドウや、マスカラ、つけまつげ、目の下にまつげのように描きこみを入れる「描きまつげ」なども登場し、とにかく立体感のある、装飾的なメイクが流行した。
しかし、当時のこうしたアイメイクは、アイシャドウを濃く塗った上に、さらに上下にマスカラをたくさん塗り、挙句それが時間が経つと落ちてしまうので、まるでパンダのように目の周辺だけが黒くなってしまいがちだったようで、しばしば「パンダ化粧」などと呼ばれ、批判されていた。
しかし、そうした批判はあるものの、この頃になると化粧というものに対する従来の考え方が、次第に変化していく。
今までであれば、化粧が少しでも濃かったり、多少でも目に化粧を施せば、「水商売の女のよう」だと非難されたり、あるいは社会への反抗の一種と採られることもあったようであるが、1960年代も終わりごろになると、そうした非難が表立って聞かれることは、ほとんど無くなった。
村瀬はこの1960年代をこのように評している。
メークアップが一般に普及しはじめたのはいつごろですかとよく聞かれるが、日本ではこの一九六〇年代後半と考えている。この理由は単に化粧人口が増大したという量的変化のみならず、積極的な化粧への質的変化が生じた点にある。この積極的な化粧とは、女性の化粧が、それまでの消極的な身だしなみレベルから一歩前に出て、より自分を美しくみせるための化粧に変わったことを指している。たとえば、社会からかなり自由なはずの(義務的には化粧する必要がない)女子大生が、このころから目だって化粧するようになったこともそのことを示す。
現代 / 1970年代
1970年代に入る頃になると、ウーマンリブ運動や女性解放運動の影響を受けて、伝統的な化粧観、すなわち、人前では素顔を見せないという江戸時代の武家社会以来の化粧観が、目に見えて崩れ始める。
それまでは、女性が人前に出る時は、たとえ近所にゴミだしに行くときでも、白粉をはたき、紅をさして、素顔をなるべく見せないようにという意識が当然であった。
しかし、この頃になると、そうした化粧観は女性を束縛するだけであり、かつ、男性への不必要な媚にもつながり、体制順応型であるとして、「なぜ、女性だけが化粧をしなくてはならないのか」という批判が発生してきた。
その結果、素顔(ノーメイク)で公の場に出る女性が登場し始め、「素顔も顔」であるという主張がなされ始める。
この「素顔も顔」という考え方の登場によって、若い女性たちの化粧観が、それまでの社会性の強い化粧から、個人的な化粧、あるいは個性的な化粧へと、変わり始めた。
エチケットだからしなくてはならない、というような、社会から強制されているものとしての「化粧」という意識から、本人の意思に任された、自己表現の一手段としての「化粧」へと、化粧が新しく認識し直されていったのである。
それゆえ、「目立つ」だとか「派手」といった狭い意味ではなく、他人とは異なるその人の個人的な特性、という意味で「個性」という単語が化粧において使われ出したのはこの頃からであった。
そしてこの頃の化粧方法のもう一つの特徴として、1960年代の過度に装飾的な化粧ではなく、化粧しているかどうか分からないようなナチュラルなメイクアップ、すなわち「ナチュラルメイク」と呼ばれるような化粧を良しとする風潮が生まれ、ナチュラルメイクが流行する。
これの背景について村瀬は、大気汚染をはじめとする公害が社会問題となって、自然志向が高まっていったことを挙げるが、これについては、私は異論を唱えたい。
おそらく、このナチュラルメイク流行の背景は、そのような社会情勢ではなくて、化粧文化がある一定以上の期間に渡り、社会的定着を見たことが何よりの要因であると思う。
社会的に化粧が認知されていないうちは、化粧する側も化粧に十分馴染んでおらず、試行錯誤を要される。
さらには、ある程度化粧が濃くなくては、目立たないのではないか、あるいは、化粧しているかしていないか、見るものに分からないのではないか、といった類の憂いもあるだろう。
化粧方法が当初アメリカやヨーロッパからもたらされたものであったために、日本人の顔かたちに合うように改良されるのに時間がかかったことも、忘れてはならない。
その結果、化粧は長い熟成期間を経て、日本人の感性に合うように改良を加えられ、さらには、この期間に、化粧に不慣れだった日本社会の中でも、「化粧済みの女性の顔」がある程度認識されるようになり、一見薄いように見える化粧でも、見ている側にはそれが化粧済みの顔だと伝わるようになったのであろう。
こうしたことがある一定期間以上化粧の文化が馴染んだおかげで、女性たちの間で了解されてきて、それにともなって、日本人に合う自然な化粧としての、ナチュラルメイクが登場したのではないか、と私は考える。
ともあれ、この時代には、化粧がある幅・厚みを持って社会に受け入られていったようである。
1970年代は、化粧が、社会の強制ではなくなり、より自由に、本人の意思に基づいて、自分を表現する一つの有効な手段として捉えられていき、顔の表現の幅が、素顔から個性追求の化粧にまで、広がっていった時代であった。
現代 / 1980年代
1980年代になっても、前述のように、化粧が社会的ではなく個人的なものになり、個性追求が行われるようになった流れがそのまま受け継がれた形になっており、全体として流行が不鮮明に終わっている。
また、高齢化社会の到来や化粧の若年化の進行とともに、化粧というものが、一口に言い表せないほど、多様なものになってゆく。
たとえば、世代によって求める化粧後の顔の様子が全く異なってくるし、同じ女性においても、仕事中とアフターファイブでは化粧方法が異なるなど、TPOに応じて化粧方法を変えるようになっていった。
それゆえに、化粧の幅・バリエーションを持つことが、化粧の文化においては最もおしゃれだとされた時代であった。
それだけ、化粧がかつてのような「よそゆき」的な側面を失い、社会に対する自己表現の一種として、さらに一般的にも深く認知されていった、と言えるであろう。
日本の化粧文化におけるこの流れは、いわゆる「フォーディズム」から「ポストフォーディズム」へと以降する流れに、非常にうまく合致する。
化粧品業界においてもまた、1970年代中ごろまでは大量生産・大量消費に支えられた、比較的画一的な商品が好まれ、とにかく「化粧をする」という行為が先に立ち、その内容まで問われることは少なかった。
こうした流れの中で、化粧品は大いに普及・流通し、その影響で化粧行動は十分文化になじんでいった。
しかし、しばらくすると、そうした少品種の化粧品では市場のニーズをまかないきれなくなり、その結果、1980年代ごろから、少量多品種型の化粧品マーケットが出来上がったと考えられる。
唯一、経済界の「フォーディズム」と違うように見受けられるのは、化粧品の世界での「ポスト・フォーディズム」への移行は、経済界の場合のような、「不況」という動機によるものではなかったという点である。
というのも、化粧品の需要はこの時期格段に伸びており、むしろ好況であった。
つまり、化粧品においては、少量多品種への以降は決して不況から来るものではなかったが、そうした経済の動向が大いに影響したことは事実であり、かつ、それに当時の女性たちの化粧品へのニーズの多様化が拍車をかけ、この時期に、バリエーションに富んだ化粧品文化が形成されたことになる。
これ以外の点で1980年代に特徴があるとすれば、それは女性のみならず、男性にも化粧が広まっていったということである。
男性の化粧の歴史については、本来この論文の趣旨ではないが、時代背景をより正確に押さえ、女性の化粧の歴史の補完とするべく、ここに述べていきたいと思う。
男性が化粧をするということは、化粧の文化的歴史的に見ても珍しいことではないが、しかし、ここでおきた変化は、従来とは違う要素を含んでいた。
1980年代に入り、音楽の世界で男性の化粧が流行する。
たとえば、YMOの坂本龍一、ジュリーこと沢田研二、郷ひろみなどであるが、彼らの行った、アイシャドウを塗り、口紅まで塗る化粧は、男性性を否定し、やや女性的な要素を強調する、というものであった。
これらは、男性も女性に見られるような化粧をするものだ、という文化として社会にアピールされ、1984年の秋に、ついに男性用のメイクアップ用品が発売される。
その内容は日焼け色のファンデーションに、眉を太めに描き、「凛々しい男らしさ」を強調しようとしたものであり、当時はマスコミなどもこぞってこの話題を取り上げるなどして、大変話題になったものの、結局はこういった化粧品はそれほどの定着を見ないままに終わってしまった。
今でも、男性用化粧品といえば、こうした装飾を意図したものではなく、パック剤や洗顔、化粧水などの基礎化粧品に重点が置かれている。
では、なぜ男性用のこうした化粧品は流行しなかったのだろうか。
村澤はこう分析する。
当時は、男女雇用機会均等法の施行などの影響もあり、眉毛が太くて胸毛が濃いといった従来の男性像が崩壊していった時代であった。
進歩的な女性からは、いまさら何故古い時代の男性像を化粧で表現しなければならないのか、といった非難を浴び、あるいは、保守的な男性からは、男が化粧することは女々しいことだ、などといった非難を浴びた。
当時のアンケートなどを見ても、ヒゲや体毛の濃い、汗臭い男性像は、若い女性にはもはや支持されなくなっていたことが分かる。
こうした視点で現在の男性用化粧品の動向を見ると、依然として、素肌の手入れに重点を置いた、清潔感重視の様子が見て取れる。
つまり、今なお男性用化粧品としてのニーズは何より、清潔感を主眼とした脱臭、脱毛などであるために、女性の行う「化粧」ほどには、男性の化粧品は定着を見ていないと言えるのだろう。
現代 / 1990年代以降
1990年代に入ると、テレビに出演する若いアーティストの影響を受けて、若い女性の間で、眉を細くする化粧法と、そして「茶髪」が流行り出す。
茶髪に関しては、茶髪が一般的になるにしたがって、女性のみならず男性も染髪を行うようになり、さらには年齢も、下は高校生から上は従来白髪染めで黒く染めていた中高年の女性にまで、幅広く受け入れられてゆく。
「おしゃれ白書2000」によれば、高校生を対象とする調査で、1991年には5%の染髪率だったのが、2000年では41%にまで増加している。
20歳代でも、7割前後の人が自分の髪の毛を染める時代となり、伝統的な「日本人は黒い髪に、黒い瞳」という価値観は完全に崩壊し、黒い髪は一つの選択肢に過ぎないものなり、茶髪は社会に受容されていった。
この頃、前述の「ガングロ」の隆盛もあり、髪の毛においても肌の色においても、ともにボーダーレスになってゆく。
そして最近では、幅広い選択肢の中から、毎日の化粧を、TPOのみならず、気分などに応じても作り変えるようになってきた。
米澤泉はそれを「顔を着替える感覚」と表現するが、まさにその表現がしっくりくる。
1990年代以降は、女性たちの化粧の幅が格段に広がり、それに伴って、社会の求めるものや流行を追うのではなく、各自が自分の顔にもっとも似合う、そんな化粧方法を模索し、追及する、そんな時代になってきたと言えるだろう。
3.化粧文化を支える日本人の美意識
前章までに述べてきた日本の歴史を踏まえた上で、現代日本人にも通ずる、日本人の深層に根づく特有の美意識を探ると、平安時代に発達した貴族社会の中に、そのルーツを見出せる、と村澤は言う。
そして、この美意識のことを、「顔隠しの文化」と呼ぶ。
これについては、前節の「古代末〜中世」の部分で少し触れたが、以下でもう少し詳細に、「顔隠しの文化」について探っていきたい。
平安時代の貴族社会においては、男女でお互いが顔を知り合っているということは、特別な関係であるということを示唆した。
また、外出時には被衣や虫の垂れ衣などで子を被うのが当たり前であるとされた。
こうした社会では、顔をむやみに見せないことが美とされ、たとえば「耳挟み」と呼ばれる、垂髪野女性が動作しやすいように、顔の前髪を耳に挟んで後方に掻きやる動作でさえ、貴族の子女にとってはたしなみに欠けるとして敬遠されていた。
これが、近世に入って髪を結い上げるようになると、顔が露出するようになり、その結果、武家の女性は人前では化粧をして素顔を見せない=「隠す」ことが美とされるようになっていった。
ほかにも、平安時代に貴族の女性の成女式から始まったといわれる眉を落とす化粧は、江戸時代には一般女性が結婚して子供ができると剃る風習へと変化はするが、感情によって動かされる眉の存在の否定、すなわち、感情表出を隠すのに役立ったとも言い換えられる。
また、歯を黒く染めるお歯黒も、白い歯を目立たなくすることで、口元を隠す風習にも通じる行為と解釈できる。
さらに、「顔隠し」が感情表出の否定と言える典型例を、新渡戸稲造の「武士道」から拾うことができる。それが「武士は3年に片頬」という言葉である。
これは、武士が感情を表に出すのは男らしくないという考えから、せいぜい3年に1度、それも片方の頬を動かすくらいでよい、とされたもので、「喜怒色に現わさず」という、偉大な人物を評する際に用いられる表現にも、通じるものを見て取れる。
このような、素顔を見せない、あるいは内面の感情を表に出すのは良くないとした武家の規範的な美意識が、明治以降、政府によって国民文化の中心に位置付けられたことで、国民一般のものとなっていった。
こうした美意識が、後述する化粧文化の日本的な特徴と言える、「隠す」化粧と「見せる」化粧を生んだと考えられる。
4.化粧文化の国際比較
ここでは、前述までの日本における化粧の歴史的変遷、美意識の考察を踏まえて、化粧を国際比較してみようと思う。
それによって、日本の化粧についての考察を、より深めていきたい。
この節でも、引き続き村澤と大坊の考察を中心軸に見ていこうと思う。
@化粧批判の国際比較
化粧文化・化粧観を概観する上で、非常に参考になるのが、「化粧批判」である。
化粧は、歴史的に「身分や階級、あるいは未既婚などの社会性を表現したり、その社会性に対して個人の美意識や嗜好を表現する」こともあった。
そのような化粧に対しては、やはり保守的な立場から数多くの批判が行われてきた。そうした化粧への批判を読み解くことで、化粧というものへの、各文化の捉え方を探ることができる。
以下に、日本と西欧の化粧批判における違いを探ってみたい。
日本における化粧批判
日本において非常に特徴的だといえるのは、化粧行為そのものを全面的に否定するということが、あまりされてこなかったという点である。
全面否定とも取れる記述を探ると、古くは平安時代の「堤中納言物語」の中でのものがある。
この中で、有名な「蟲めづる姫君」が、「人はすべてつくろふところあるはわろし」として「眉さらに抜き給はず、歯ぐろめさらに、うるさし、きたなし、とてつけ給はず」と、白い歯を見せて微笑む場面がある。
当時の貴族の女性は、普通は白粉を塗り、お歯黒をして、眉を抜き、その上に描き眉をし、髪をきちんと梳いていたのだから、この姫君が異様に見えるのも無理からぬことであったろう。
しかし、作者は、姫君はけっして醜くは無く、むしろ個性的な美しさを感じるとして、化粧の否定を暗示する記述をしている。
江戸時代に入ると、女性の往来物や教科書のみならず、随筆や文学作品にまで化粧に関する記載は増えてゆくが、その中で書かれている内容は、化粧法や塗り方に関する記述が主であり、化粧行為それ自体への言及は少ない。
それゆえ、化粧についての批判も、化粧法や塗り方に関しての批判が多く、化粧を強く否定したような記述は徳川光圀による「西山公随筆」に例外的に見られるくらいである。
批判の例をいくつか見ると、たとえば、1650年刊行の女性としてのたしなみを細かく記した「女鏡秘伝書」には、白粉は「ぬりて共おしろいすこしものこり侍れば見ぐるしき物なり。能々のごひとりてよし」とあり、むらにならないように、余分な白粉はぬぐい去るよう教えている。
また、その11年後に出た仮名草子「女郎花物語」には、「よく拭はさる顔に、厚くおしろい志たる、口紅のてりかがける(ほど濃くさす)」ことは、見苦しいと述べられている。
1692年に刊行された女性の教科書「女重宝記」にも、白粉については「女鏡秘伝書」と同様の内容を述べつつ、紅についても「頬さき、口びる、爪さきにぬる事うすうすとあるべし。こくあかきは、いやしく茶屋のかかにたとへたり」と薄化粧を奨励していたという。
そして、以後の化粧本などでは数え切れないくらいに薄化粧を奨励する記述が見られるが、無論、江戸時代に厚化粧が無かったわけではなく、宮中や役者、そして遊女の白粉の消費は非常に多く、江戸よりも京大阪が濃化粧・厚化粧だとされていた。
薄化粧が武家社会で奨励された理由を探ると、当時、化粧品が高価であったということが第一に挙げられるという。
質素を旨として節約令・倹約令などを出している立場からすれば、「紅一匁、金一匁」とまで言われたほど高価な紅を濃く塗ることは、ひと目で浪費しているように見えてしまうため、紅などを濃く塗ることは、戒めざるを得なかったといえる。
髪型に関しても、武家の女性は自分の髪は自分で結い上げるのが基本であるとされ、女髪結などを使うことは許されておらず、そうした背景からも、質素であるということは、高価な化粧品を使用しない、薄化粧であるべきだ、という発想だったようである。
したがって、浮世絵に出てくるような赤く輝くような唇は、もっぱら遊女たちのシンボルであった。
この当時は、化粧品を消費できるような身分は、すなわち経済的に裕福であるということを表現していたのである。
西欧における化粧批判
一方、西欧においては、前述の日本とは違い、化粧行為の全面的な批判という記述が目に付く。以下にその事例を見てみることにする。
西欧における化粧批判のルーツは、古代ギリシア時代にすでにあったという。
たとえば、クセノフォンは「家政論」のなかで「化粧をして私を偽ろうとしているのは、私が自分の財産をおまえに偽ることと同じだ」と妻の化粧を非難している。
スパルタの立法者リュクルゴスは、健全な精神に有害であるとして化粧品を追放し、その使用を禁止した。というのも、白色顔料として鉛白粉が、紅には植物性以外に水銀化合物である辰砂が使用されていたためである。
古代ローマ時代にも、風刺詩人マルティアリスなどが、顔に塗った白亜土が落ちぬよう雨を恐れる女や、鉛白粉が黒くならないように太陽の光を必要以上に避ける女などのことを、皮肉っぽく批判している。
中世以降も、化粧による人口的な美しさは常に批判され、攻撃されてきた。
ただし、そうした批判は主に、作り物である化粧顔ではなく、生まれながらの美しさを賞賛する、といった趣旨であった。
たとえば、修道士であり著述家でもあるイタリアのフィレンツオーラは、他の聖職者と同じく、理想の美をもたらすのは神であるから、化粧による人工的な修正は神に対する冒涜であり、忌まわしい行為であると考えていた。
この種の警告は、たとえばシェイクスピアの劇中でも登場する。
たとえば「ハムレット」の中には、ハムレットが白粉を塗ったオフィーリアに対して「神がつくり給うた顔を、おまえたち女は化粧して別の顔にしてしまう」と責める場面がある。
こうした化粧への批判は挙げればきりが無いが、しかし、多くの化粧批判にもかかわらず、化粧が廃れることは無かった。
むしろ、時代とともに化粧文化は彩り豊かになり、白粉に、頬紅、口紅、アイシャドウなどが加わり、さまざまな形のつけぼくろなども流行した。
こうして18世紀になると、高度な化粧技術が発達してゆくが、19世紀に入ると、青白い肌がもてはやされるようになり、化粧法も全体として薄化粧を良しとする風潮に傾いていった。
同時に、化粧に対する批判も、かつてのようなヒステリックな性格ではなく、ゆるやかなものへと変化してゆく。
そして、20世紀になり、化粧批判論の勢いは非常に弱いものになり、一方では化粧をはじめとする美容関連産業の発展などもあり、古代エジプト以来おそらく初めて、化粧品の自由な使用が、社会的にも道徳的にも認められるようになり、今日に至っている。
日本における薄化粧の奨励
以上の化粧批判に対する違いを見てみると、日本においては、化粧は全面的には否定されることがほとんど無く、反対に西欧においては化粧の全面的な否定が半ば当然と考えられていた。
なぜ、日本では化粧行為そのものに対する批判が弱かったのであろうか。
村澤は以下のように分析する。
当時の儒教的な女性観を見ると、家のため、夫のために身を飾り、化粧をするということはいわば、女性の義務とされており、1692年刊行の「女重宝記」などにも、81日間に渡って化粧をしなかった女性は、女性ではない、という内容の記述があるという。
伝統的な武家の化粧観では、化粧をしなければ親や夫の前に出るべきではないとまで記されているように、化粧をすることが大きな前提であった。
したがって、化粧の全面的な否定がほとんど無く、しかし一方で、武家社会では質素・倹約が何より推奨されていたので、化粧品にお金をかけられず、薄化粧が良しとされたのだという。
これについて、私の見解は多少村澤の説とは異なる。
私は、西欧と日本では、基軸となる精神的なよりどころが違うのではないか、と考えた。
まず、西欧における化粧批判に多く見られる文言を見ると、「神の与えた顔を人工的にいじって化粧をしている」ということに対する批判になっている。
この点を見れば分かるように、当時の西欧では、キリスト教が非常な隆盛を誇っていたために「神」の存在が絶対であり、精神的に帰依するよりどころを、なにより「神」に置いていた。
とすれば、神の創造したものを壊し、顔を強調・修正している女性には非難の眼差しが向くのは、当然であろう。
一方の日本では、知っての通り、宗教信仰はさして盛んではなく、その代わりに、精神的なよりどころを、「社会」あるいは「世間」に置いていたのだと考えられる。
それゆえ、日本人は自分を外側から見つめる「世間」の眼差しに非常に敏感であった。
外側を意識する、ということは、内と外に明確な線を引くということである。
すると、当然、内である「自分」に見せる顔と、外である「世間」に見せる顔は全く異なってきて、最終的には、「世間」に対して「世間」で望まれているような顔を見せる、という文化が発達したのではないか。
とすれば、内で見せるような顔を世間で見せる行為、すなわち、化粧をしないで人前に出るという行為は許されないものであり、恥ずべき行為である。
しかし同時に、質素を旨とする「世間」の望まないような、高価な化粧品で過度な化粧を施すことも、許されないことであったのだろうと推測できる。
そのため、「化粧はしなければならないものであるが、しかし、薄化粧でなければならない」という文化は、この当時は、「世間」という外側のファクターから、女性たちに対して一方的に望まれてできたのだと考えられる。
A美意識の国際比較
続いて、美意識の違いについての文化的な違いを、社会的脈絡の中で国際比較しながら見ていきたいと思う。
【村澤による日韓中比較】
以下の表は、大坊、村澤らが1991年に「日本と韓国の美意識比較研究」として実施した調査結果で、それに後に中国や英国をも比較対象として加えたものであるが、当該表では、日韓中のみの比較としてまとめられている。
刺激人物の選定は、日本と韓国の女子大生の顔を人類学におけるマーチン法に基づいて、左横、左斜、正面から撮影し、その3ポーズのモノクロ写真を1枚のスライド写真に合成して、これを呈示刺激としたものである。
予備調査を経て、最終的には「美しさ」の尺度で偏りがないように配慮して、日韓それぞれに選定した魅力水準(高・中・低)に各3人、計36人(=3人×3(魅力水準)×2(刺激人物の国別)×2(選定者の国別))の選定をしている。
本調査は、この予備調査で選出した36人の顔写真を投影し、集団的に調査項目にしたがって回答を求めている。
調査項目の構成は、対人魅力度やパーソナリティの印象を問う11項目(「感じの良い-感じの悪い」「好きな-嫌いな」「親しみやすい-親しみにくい」「上品な-下品な」「つめたい-あたたかい」「美しい-醜い」「派手な-地味な」「内向的な-外交的な」「かわいい-にくらしい」「セクシーな-清楚な」「女性的-男性的」)と、自国人らしさ(日本人被験者には「日本人らしさ」、韓国人被験者には「韓国人らしさ」)を5段階で評価すること、そして、印象の強いポーズは左横、左斜、正面のいずれであるか、の選択を求める項目の、合計13項目であった。
そして被験者は、日本人大学生(男性247名、女性232名)、韓国人大学生(男性173名、女性238名)、中国人大学生(男性163名、女性170名)であった。
比較結果を、見ていきたい。
a.評定結果と魅力水準、および国籍差
評価項目の代表例として、「好きな-嫌いな」を選び、被験者別に魅力水準の差、国籍の違いを見てみる。
このような結果を含む評定結果と魅力水準、および国籍差の全体を概観して、各評定が魅力水準と関係あるのか、あるいは日韓の国籍との関連はどうかを評定者の国別にまとめたものが、次の表になる。
表中の○印は危険率5%以下で有意であること、△印は危険率10%で有意であること、そして、無印は有意差が無いことを表している。
女性の評定結果
日本人女性の評定結果を見ると、魅力水準では「つめたい」を除いて有意であり、刺激人物の国籍では「内向的」「セクシーな」を除いて有意、という結果であった。
概ね、日本人は高魅力度の人に高い評価をし、国籍による違いがそれぞれの評価に表れている。特に「好き」を見ると、刺激人物の国籍では、日本人は日本人のほうをより好む傾向にあると分かった。
続いて、韓国人女性の評定結果を見ると、日本人ほど有意な差を示す項目はあまリ無く、特に国籍差は明確に表れていない。
つまりこれは、韓国人女性においては、魅力水準とそれぞれの評価が必ずしも一致しないということであり、国籍の違いはさらに関係しないということを意味する。
そして、中国人女性についても、ほぼ同様の結果が得られている。
男性の評定結果
次に、男性の評定結果に移る。
男性についても、ほぼ女性と同じ傾向であるが、日本人男性は日本人女性とほぼ一致するのに対して、韓国人男性は韓国人女性よりも全体にやや有意な傾向を示すという違いが見られた。
日本人男性は刺激人物の魅力水準において有意な評定が多く、直線的に影響された評定を行っている。
国籍差については、日本人は刺激人物の国籍により評定が異なり、日本人の刺激人物を、より高く評価している。
しかし、自国人らしさの評定については、刺激人物の国籍差になんら識別的ではなく、無意識に日本人に親和性を置いているものと思われる。
韓国人男性は、刺激人物の国籍の違いが、ほとんど影響しておらず、「自国人らしさ」が明確に捉えられていた。
特に、高魅力において、韓国人刺激人物との差が大きいことは、重要なポイントであるといえよう。
しかしこれは、刺激人物の魅力水準には影響しない。
中国人男女の評定結果
中国人(男性・女性)における刺激人物の国籍主効果は、12の評定尺度中、「地味」「外交的」の2つを除いて有意であった。
刺激人物の魅力度主効果は「あたたかい」を除いて有意であり、国籍×魅力度では、「上品な」のみで有意であった。
中国人学生の刺激人物の魅力水準が有意な評定が多い傾向は、中国人らしさにおいても同様であった。これは、韓国人回答者よりも、日本人回答者に近いもの(日本人>中国人>韓国人)であり、中国人らしさにおいても、日本人刺激人物を「中国人らしい」とする傾向にあった。
b.印象の強い顔のポーズの比較
続いて、印象の強い顔のポーズの比較を、国別・男女別に見てみる。
日本人女性の場合は、「正面」が58%と一番高く、次に「斜め」の38%、最後に「横顔」の4%となっており、男性についても、58%、37%、5%でほぼ同じ数値であった。
韓国人の場合は、順位は日本人と同じであるが、「正面」「斜め」「横顔」の順に、女性で49%、40%、11%、男性で48%、42%、10%であった。
この傾向は、高中魅力では日本人刺激人物に対して強く、高中魅力の韓国人刺激人物に対しては、「斜め横」に注目する傾向が強かった。
中国人は、日本人よりも立体的な見方をする傾向(韓国人と同程度とされる)があり、この傾向は男女間での差はあまり大きくないが、男性の刺激人物でより強いものであった。
刺激人物の魅力度との関係では、魅力度の低い人ほど、正面>半側面>側面と判断されていた。
以上を簡単にまとめれば、日本人は「横顔」をよく見ないのに対して、韓国人・中国人は「横顔」をよりよく見ているということになる。
すなわち、日本人に比べて韓国人・中国人のほうが「横」や「斜め横」への注目度が高く、韓国人・中国人は顔を立体的に見ているのに対し、日本人は正面から平面的に見る傾向にあるといえるのである。
この立体的な認知傾向は、男女を越えた民族的な違いである。
このことから、顔の印象の強さの違いは、男女差よりも、生まれ育った国の違いによる影響の方が強いと言える。
【大坊による日韓比較】
続いて、このいま述べてきたこの実験調査の結果を踏まえた、大坊の考察を見てみることにする。
大坊によれば、「美人」とされる顔は、民族を超えて必ずしも同じではなく、日本においては、「丸みのある顔で、目が大きく、唇の小さな、鼻の小さな顔」という豊頬が、一般的に魅力的とされるという。
しかし、各部位の配置関係を含めるならば、この基準は文化や時代によって変化しており、最近では、大きな口が受け入れられ、いっそうコミュニケーション力の重視が反映されているのではないかと推測されている。
これを踏まえて、以下に日本と韓国を取り出して、文化的違いを見てみたい。
自国人の魅力
地理的、歴史的に密接な関係をもつ朝鮮半島と日本とは歴史的に多くの共通点がありながら違いも多くあり、その文化と行動様式について比較することの意義は少なくない。
特に、両者の美意識については、対照的だとして取り上げられることがある。
それは、日本では「顔よりこころ」とされるのに対して、韓国では「こころのきれいな人は顔も美しい」といわれることに象徴されるように、「形の美=内面美」という図式があるかないか、ということに強く関連する。
すなわち、韓国では、美を明確に形や外見に表すことを是とし、ひいては形を変えることを厭わないストレートな文化があるが、一方の日本にはそうした美意識は無く、好対照をなしているとされている。
たとえば、その分かりやすい例をひけば、韓国においては、ミス・コンテストへの応募は盛況であるし、しかも、整形手術が日本に比べて遥かにポピュラーであるなどといったことが、よく知られている。
ここで、前述の調査の「自国人らしさ」についてのみの表を見てみたい。
これと前述の議論を踏まえ、結果をここにもう一度まとめると、高魅力の人物は日韓両国ともに一致していて、「美しい」「派手」と認知されるが、韓国人にくらべて日本人のほうが呈示した人物の美的水準に、より鋭敏に反応した回答結果を示している。
また、韓国人被験者は韓国人人物を明確に自国人らしいと識別できているが、日本人被験者はできていない。
しかし、被験者には呈示人物の国籍や魅力水準を伝えていないにも関わらず、日本人は日本人のモデルをより肯定的に認知しており、このような違いが示されている点が興味深い。
これについて大坊は、「日本人は暗黙のうちに民族的な違いに反応し、より身近な特徴をもつ者への親近感をもっていながら、そのことを意識していない」のだと述べている。
また、日本人では美的であれば「好き」「かわいい」というように、認知する意味の重複が大きいのに対して、韓国人では評価次元の意味の独立性が日本人より高いものであった。
このことから見ると、韓国人は多面的な見方ができるのに対して、日本人の見方はより単純といわざるを得ない。
さらに、日本人は正面顔への注目度が高く、それに対して韓国人は顔の奥行きに注目しており、顔の細部に敏感に反応している点について、韓国人は日本人にくらべて、立体的で外顕的な美意識を持っていると、大坊もまた村澤と同様の分析をしている。
そしてこれについて、「韓国が大陸の半島部に位置し、多くの文化と接し、幾度もの民族分断という長い歴史における感情の起伏や文化のヘテロ性に、なんらかの手がかりを求めることができるのではとも考えられ」るとも、述べている。
また、日本人では、大きな目、韓国人では広い顎、中国人では広い額、英国人ではやや上がり目で広い顎の特徴を手がかりに認知していることが知られており、そして、中国人、英国人では男女差はなく、判断枠の一般性の高いこともわかっている。
女性顔の魅力
大坊によれば、女性の顔を呈示して顔の美意識についての調査からは、以下の2つの基準がほぼ共通に用いられていたという。それが、
@一般的な親しみやすさ
A積極性・活動性
である。
ただし、日本人の場合には、積極性・活動性には、外交的という意味あいが主であり、セクシーさの判断はきわめて希薄であること、そして、一般的魅力も他の国にくらべると「感じのよさ」という漠然とした意味あいの強いものであったという。
これに対して、他の国(韓国、中国、英国)では、Aの規準では「セクシーさ」の意味が強く、外向性は評定の積極的な手がかりにはなっていない。
特に、ほかの国に比べて英国では、「セクシーさ」への注目度が最も高く、この要素が美意識の中心的な意味をもっていることが示されている。
【この調査からの考察】
この調査結果を見て、私が考察した日本人の美意識の特徴を以下に述べて、この章のまとめとしたい。
まず第一点目として、日本人は韓国人、中国人に比べて、社会的に魅力的だと認知されている顔をより魅力的であると感じ、反対に、社会的に魅力的で無いと認知されている顔には、あまり魅力を感じていないという点に注目したい。
すなわちこれは、日本人は魅力を感じる基準が、社会全体としてある程度の総意を持ってまとまっているということではないか。
ということは、ある人物について、日本人の評価がばらばらになることは少なく、韓国人や中国人に比べて、個人に対する日本人の意見は一致を見やすいと言える。
このことからも、やはり前節に述べてきたように、日本における美意識は、個人の内部でではなく、社会の側から規定されることが多いと言えそうだ。
江戸時代に見たような「世間」による規定は現在ではもはや廃れたものの、日本人は、現在もなお、無意識にその社会の示す美の基準に従った、比較的ふり幅の少ない価値基準を持っているのである。
第二点目として、日本人は顔を平面的に捉えることが多いのに対して、韓国人や中国人が顔を立体的に捉えているということに注目したい。
これは、日本人は顔を多方面から詳細に至るまで観察するということをせず、初見での感覚を大事にしている、ということではないか。
日本は、歴史的にも、「顔隠しの文化」と称されるような、顔をできるだけ隠すことを美とする意識の中にいた。
そのため、顔の造りを細部まで観察する機会に乏しく、細部まで観察することを嫌う文化ができたのだと思う。
こうした意識のために日本人は、顔を細かに観察した上での判断ではなく、最初に顔を見たときの第一印象を、判断における一番の基準としているのだろう。
第三点目として、大坊の指摘にあった、日本人の重視する、積極性はあくまで「感じのよさ」であり、「セクシーさ」の要素をあまり含まないというところに注目したい。
ここにいう、「感じのよさ」と「セクシーさ」の違いは何であろうか。
これについて私は、「セクシーさ」は、自分に性的な魅力や社交性があるということを積極的にアピールしているのに対して、「感じのよさ」は、自分には社会的に交友関係を上手く築くのに足りないものは特に無いということを表しているのだと分析した。
すなわち、「セクシーさ」はポジティブ・リスト的に、自分に備わっているものを挙げてアピールしており、反対に、「感じのよさ」はネガティブ・リスト的に、自分には特に欠けたところが無い、ということを表現している。
日本と韓国・中国の歴史的・文化的な違いにも一致し、日本では積極的に自分の魅力を人にアピールするのではなく、自分には十分な社会性が備わっているということを、慎ましく薄化粧でアピールしてきた、という解釈ができる。
また、「セクシーさ」には性的な意味あいが含まれるのに対して、「感じのよさ」にはそれが無いように見えることも重要である。
これは、日本における社交性のアピールには、元来性的な意味あいは無く、化粧においても性的な意味は無かった。
そのため、歴史的に自由な化粧が許容されるようになってきた最近ようやく、化粧による性的なアピールが行われるようになったものの、依然として美意識の次元では、他国に比べ、化粧行動にあまり性的な意味あいを求めていないと言えるのであろう。
以上に見てきたように、化粧行動は、各文化によって異なる美意識を下敷きにして、社会的・文化的に望まれて発達してきたものであった。
そして現代に入り、技術的にも進歩を遂げ、価値観の多様化などの影響で、その受け取られ方も様変わりした化粧には、多くの心理的効果の存在が指摘されている。
次章では、そんな化粧の心理的な効果について考察し、化粧の持つ可能性を探ってゆきたい。
第二章 化粧することを望む「心理」

1.人は人の顔のどこを見るのか?
本章では、化粧は人間の心理はどのように影響、作用するのか。
そして、化粧にはどのような可能性があるのかについて見ていきたい。
それにあたって、まず本節では、化粧に限らず、人が人の顔を見る際に、どこをどのように見て魅力を感じるのか、という点について、軽く触れてみたいと思う。
カニンガムの分析
大坊は、女性の多数の容貌部位特徴と魅力の相関関係について調べたカニンガム(Cunningham、1986)の調査を、以下の3つに分類し、まとめている。
@乳幼児的な特徴(大きな目、小さな鼻、小さな顎、目の間の感覚など)
A性的成熟さの特徴(突き出した頬骨、せまい頬など)
B表現力を示す特徴(眉毛の位置の高さ、微笑んだときの唇間の距離、大きな瞳など)
つまり、@のような「幼さ」の特徴は保護の対象として、一方、Aのような「大人」の特徴は、成熟した異性選択の手がかりとして認知されているというのである。
これらの魅力のうちのどれをより重要視するかについては、前章までに見てきたような、時代、文化、社会、美意識などの脈絡の中で考えなくてはならないが、近年になって注目されてきたのが、顔のダイナミックな側面である。
ダイナミックな側面の源泉部位は、コミュニケーションの主要な担い手でもある、口唇の大きさ(発話)と目の大きさ(視線)のことであるが、これらは感情表出の主な担い手であり、その人の持つ形態等の特徴がもたらす影響を増幅ないし緩和するものになる。
たとえば、神経質とみなされやすい顔の構造の人でも、口を大きく開けて笑ったりすれば親しみがわいたりするように、目と口は、そのコミュニケーション上のはたらきの大きさからとりわけ注目されやすい。
こうした議論を踏まえて、次節以降では、本格的に化粧の内容について見ていきたい。
2.化粧品から見る化粧
本節では、視点を化粧品に当ててみたいと思う。
人が化粧をする際、化粧品はその根幹を担うファクターである。
化粧の内容を考察するに当たって、化粧品を通して見てみることで、得られるものは多いはずである。
では、現在、日本で化粧品に積極的な興味を持っているのはどういった層で、化粧品にはどのような種類があり、それらに対して人々はどのような効能を求めているのだろうか。
その考察にあたって私は、「@cosme」という口コミサイトを、現代の化粧について読み解くための大きな手がかりとして、以下に見ていきたい。
@cosmeとは?
「@cosme」とは、株式会社アイスタイルの運営する化粧品の口コミサイトで、ユーザーが自分の使用している化粧品について、★0〜★7までの8段階での評価を投稿し、その平均評価のランキングと口コミ内容などが、常に更新され、掲載されている。
このホームページサイトは、若い女性たちの間での認知度が非常に高く、2007年01月15日現在の口コミの総投稿数は、4,436,641件にも上る。
サイト内で話題になった商品は売り上げが格段に上がるため、化粧品メーカー側も「@cosme」に積極的に情報を載せたり、「@cosme」とのコラボレーションで商品開発をしたり、最近では、化粧品売り場に「@cosmeで人気!」などというポップをしばしば見かけるほどである。
毎年、その年度の口コミを総合して「本当に良かったコスメ」というシリーズで、本も出版されている。
サイトデータ
それでは、「@cosme」公式ページによる、サイトプロファイルを次の頁に見てみたい。
「@cosme会員」とは、実際に会員登録して自ら口コミを行っている人数であるが、「@cosme」には、口コミを行うことはせずにサイトの閲覧のみする女性もとても多い。
そのため、ユニークユーザーの数や、月刊のページビュー数などが非常に多くなっている。
そのデータ推移も、以下に掲載する。
続いて、ユーザーの情報を見てみる。
これを見ると、ユーザーは20代から30代が圧倒的であり、この年代の女性の化粧品への関心の高さがうかがえる。
現在日本では、高校生の化粧はまだまだ一般的に認められていないため、女性が公的に化粧を始めるのは、たいていの場合18歳からになる。
18歳になり、大学や仕事場、あるいはアルバイト先などといった、高校までと違い、化粧するのが当たり前という環境、年齢に置かれると、化粧品への関心がこの年から格段に上がると考えられる。
とすれば、こうした分布図になるのは当然といえる。
化粧品の種類
現在、「化粧品」と一口に言っても、実に多様な種類がある。
化粧品の概要について、前述の「@cosme」の口コミの分類方法を参考にして、以下に種類別に列挙していきたい。
但し、口コミ件数は2007年01月15日現在のものとする。
@クレンジング・洗顔 / 固形石けん(99799件)・洗顔フォーム(85139件)・洗顔パウダー(27541件)・その他洗顔料(47068件)・クレンジングオイル(82228件)・ミルククレンジング(39931件)・クレンジングジェル(34243件)・その他クレンジング(39904件)・ポイントメイク落とし(22064件)
Aデイリーケア / 化粧水(325626件)・ジェル・美容液(227764件)・乳液(105180件)・クリーム(102126件)・オイル(27961件)
Bスペシャルケア / パック(88457件)・マッサージ(22075件)・ゴマージュ・ピーリング(25249件)・アイケア(29678件)・リップケア(101370件)
Cベースメイク / 化粧下地(164652件)・パウダーファンデ(93168件)・リキッドファンデ(69189件)・クリームファンデ(35256件)・スティック・その他ファンデ(15524件)・コンシーラー(43658件)・ルースパウダー(52876件)・プレストパウダー(39155件)
Dメイクアップ / アイブロウペンシル(26797件)・アイブロウパウダー・その他(24955件)・ペンシルアイライナー(35803件)・リキッドアイライナー(48817件)・マスカラ(166966件)・マスカラ下地・まつげ美容液(31999件)・アイシャドウ(152830件)・口紅(106983件)・リップグロス(136976件)・リップライナー(12796件)・チーク(81445件)・ネイルカラー(69459件)・ネイルケア・ネイルグッズ(18958件)・リムーバー(10127件)
Eフレグランス / レディスフレグランス(127065件)・メンズフレグランス(17080件)・その他フレグランス(4950件)
Fヘアケア / シャンプー・リンス(115667件)・ヘアスタイリング(63003件)・ホームカラー・パーマ(15957件)・その他ヘアケア(79195件)
Gボディーケア / 石けん・ボディ洗浄料(54067件)・入浴剤・バスグッズ(43409件)・ボディケア(106853件)・フットケア(12904件)・ハンドケア(45713件)
Hサンケア / 日焼け止め(92774件)
Iメイク小物 / ビューラー(20092件)・コットン(22061件)・あぶらとり紙(22846件)・その他のメイク小物(58749件)
Jキット・セット / キット・セット(39248件)
K美容サプリメント / 美肌サプリメント(24180件)・ボディシェープサプリメント(8020件)・その他サプリメント(20189件)
L美容器具 / 美容器具/フェイス(18898件)・美容器具/ヘア(10106件)・美容器具/ボディ(5861件)・美容器具/その他(1553件)
「スキンケア」と「メイクアップ」
以上のように、さまざまなジャンルに分けられる化粧品であるが、一般的に、顔における化粧行動は「スキンケア」と「メイクアップ」の二つに分けられ、上記の口コミの件数を見ても、特にこれら二つの項目に興味・関心が集中しているのが分かる。
「スキンケア」は、「基礎化粧」とも呼ばれ、素肌を整える目的のもので、素肌の汚れを落として清潔にしたり、肌に何かトラブルがある場合には、それを解決したりするために行うものである。
上の分類の@、A、Bが該当する。
「メイクアップ」とは、顔の線や面、色や形をデザインして美しく容貌を変える目的のもので、大きく「パーツメイク」と「ベースメイク」に分けられる。
「パーツメイク」とは、上記のDが該当し、素肌以外の部分、すなわち眉や目、唇などについて行うもので、個人の特性を補正、強調しながら、こうありたい、こうなりたいと願う顔に近づくものである。
口コミ件数を見てみると、「パーツメイク」の中では特に、まつげ、まぶた、唇への関心が高いことが分かる。
各部位での口コミ件数をまとめてみると、このようになる。
・まつげ(マスカラ+マスカラ下地・まつげ美容液)…198965件
・まぶた(アイシャドウ)…152830件
・唇(口紅+リップグロス+リップライナー)…256755件
一方、「ベースメイク」と呼ばれるものが、上記のCにあたるもので、ファンデーションなどで肌の色むらを整えたり、ツヤを出したりして、素肌を美しく見せるために行うものである。
考察その@〜まつげ
では、特に関心の高い部位について、各項ごとに、もう少し深く各化粧品について考察を加えていき、化粧品の考察から、女性が化粧に望んでいる効果について、探っていきたい。
「@cosme」には、各人が商品に口コミをする際、各アイテムごとに、感じられた「効果・機能」を複数選択式に選ぶ、という項目がある。
それはすなわち、多くの女性がその商品に対して求めている機能であるといえる。
以下に、「マスカラ」の「効果・機能」の部分を抜粋する。
そもそもマスカラとは、上下のまつげに塗布することで、まつげの印象を強め、上下に目を大きく見せる効果がある。語源はイタリア語の「maschera」で、英語の「mask」と同義の、「覆う」という意味の単語である。
「美容コスメ用語健康辞典」には、このように記載されている。
マスカラとはまつげに塗布してまつげを濃く長くみせ、目の印象を強める目的で用いられるアイメイクアップ化粧品のことをいいます。
液状で、繊維の入ったものや、透明タイプ、カラフルなものなどさまざまなものがあります。
マスカラをつける前に、アイラッシュカーラーを使って、まつげをカールさせると、きれいに仕上がります。アイラッシュカーラーがうまく使えない場合は、透明タイプやカール効果の高いマスカラで、まつげを上げるように使うだけでも、目もとの印象はかなりちがってきます。
口コミの意見を見ていても、マスカラに対してはとにかく、濃く長いまつげを作り、そしてしっかりカールをキープし続けること、そして、雨や涙などで濡れた際に汚く落ちたりしないことなどが求められている。
このことから考察するに、現在の目の化粧においては、「ぱっちり大きな目であること」が、大変関心を持って望まれているようである。
さらに、最近の雑誌はしばしば「目力」という単語を使い、目の印象が強くなるようなメイク方法をこぞって掲載している。
このぱっちりした大きな目というのは、前節で述べたカニンガムの分類によれば、「乳幼児的な特徴」にあたり、保護の対象としての「幼さ」を強調するものである。
さらに、私はこれに加えて、目は人と人とのコミュニケーションで最も印象に残りやすい顔の部位であることから、目の大きさを強調することによって、「自分は社交的・積極的な人間である」ということを最も手軽に表現できるのだと考える。
この、目の印象の強調を望む声は、アイシャドウにおいても同様に聞かれる。
考察そのA〜まぶた
先ほどと同様に、「@cosme」の「アイシャドウ」の「効果・機能」を見てみる。
アイシャドウとは、別名をアイカラーともいい、目元に陰影を付けることで目を立体的に、大きく見せたり、あるいは、目元にツヤやラメ、色味を乗せることによって、目元の強調を図る目的のものである。
口コミの「効果・機能」の項目や、実際の口コミの意見を見ると、まぶたは非常に動きが激しいため、よれて取れてしまわないことを、多くの人が望んでいる。
それ以外の点については、各人がアイシャドウに何を求めるかによって変わってきており、色味の濃淡や、ツヤ、ラメの加減など、重視する項目は実に様々である。
しかし、どの意見についても共通しているのは、目元を美しく強調し、目元の印象を強くしたい、というものである。
やはり現在、マスカラ同様、目元を強調しようとする美意識・化粧意識が強いと言えそうだ。
考察そのB〜唇
さらに、口紅とリップグロスについても「@cosme」の「効果・機能」を見てみると、以下のように、アイシャドウと同じラインナップになっている。
実際の口コミを見てみると、まず、機能面で「潤い」と「持ち」を重要視している声が目立つ。
唇は非常にデリケートな部位であるため、カサカサにならない化粧品であるということが、非常に重要であるようだ。
さらには、発話や食事を行う部位でもあるため、どうしても取れやすくなってしまいがちであり、しっかりフィットして取れないものであるということも、重視されている。
その他の嗜好については、しばしば見かける表現が「ぷっくり」や「つやつや」といった言葉であるが、これでよって、目元同様、口元も強調しようとする傾向が強いことが分かる。
口元は、第一印象では目元のインパクトにかなわないが、会話の際には目以上にその存在が目立つ。
そして、カニンガムの分類例には入っていなかったものの、口元の強調は、「幼さ」というよりは「成熟さ」の強調である。
たとえば、唇はキスを連想させるし、また、妖艶な女性の映像や絵などで、その女性が手を口元に持っていっている図も、しばしば見うけられるなど、唇は性的なメッセージのアピールと受け取られやすいものなのである。
ということは、女性はアイシャドウとマスカラで大きな目を強調して「幼さ」をアピールし、一方で口元を強調することで「成熟さ」をアピールしていることになる。
この表現においてはもっぱら男性を対象としているように見えるが、目元と口元の強調は、前述のように、コミュニケーション能力が自分に備わっていることの強調にもなるため、同時に、社交性の主張になっているとも言える。
考察そのC〜肌
続いて肌であるが、ファンデーションにおける「効果・機能」は以下のようになっている。
ベースメイクの基本は何よりも、「肌をきれいに見せる」ということにある。
それゆえ、肌のムラを隠すカバー力は必須であるし、時間が経っても汚く崩れたりせず、そして、カサカサに乾いたりしないファンデーションが望まれる。
それ以外の点は、やはり各人のニーズによって変わってきており、マットな肌を好むか、ツヤ肌を好むか、あるいは美白やアクネケア(ニキビケア)の効用のあるものを選ぶか、といった好み別に、使うファンデーションが変わってくる。
ここで、他のアイテムとは違うベースメイクアイテムの特性として、上の項目で言う「ナチュラル」が挙げられる。
以前は「色白は七難隠す」といわれ、とにかく白い粉を塗る化粧法が良しとされたが、現在は自分の肌の色になるべく合ったものを使用し、肌に関しては、化粧しているという印象を持たれないようにすることが望ましいとされている。
一方、目元や口元については、そうした「ナチュラル」さでアイテムが選ばれることはほとんど無く、「@cosme」の「効果・機能」にも「ナチュラル」の項目は無い。
この理由は明確には分かっていないが、私はこのように分析する。
肌がナチュラルでなく厚く化粧されている様子は、歴史的に日本で行われてきた白粉での化粧を想起させ、非常に古臭いイメージを与えると考えられる。
そして、アイメイクは少し濃くても「化粧が上手」であるというメッセージになりうるが、分厚いベースメイクは、素肌が汚いということの信号になってしまい、ひいては肌の手入れも行き届いていない、「化粧が下手」な女だということになりうる。
これは、日本人のスキンケアへの関心の高さとも通じている。
考察のまとめ
以上を総括すると、日本人は目元と口元は、多少派手でもいいので強調して化粧して、「幼さ」と「成熟さ」をアピールしている。
この目元と口元は、同時に、コミュニケーションの際に最も目立つ部位であることから、社交性アピールの役割も果たしていると考えられる。
反対に、肌に関しては、なるべく厚化粧に見えないように作りこむことで、素肌そのもののきれいさを表現していると考えられる。
次節では、そうした化粧の効能について、述べていこうと思う。
3.化粧の心理的効用
本節では、前節までで見てきた化粧品を使った化粧には、どのような心理的効用があるのかについて見ていきたい。
「隠す」と「見せる」
村澤によれば、化粧は「隠す」と「見せる」という2つの要素から成っている。
「隠す」とは、欠点や弱点をカムフラージュすることであり、「見せる」とは、「隠す」よりも積極的な行為で、新たな自己を表現するということである。
しかし、たとえば「隠す」は、なにもシミやそばかす、ニキビなどを専用のコンシーラーでカバーするというような、単に物理的視覚的に現状のマイナス点を消すことだけを意味するのではない。
前章で述べてきたように、日本にはもともと人前では素顔を隠す、という「顔隠しの文化」が根づいているため、たとえ口紅1本さしただけでも、心理的には、素顔を隠して化粧をしているという意識がある。
一方、「見せる」は、自分の特徴を強調して示すことであり、「見せる」ことで、自分の意図するイメージを他者に方向づけ、自分で自分に期待されるイメージを掲げることでもある。
たとえば、頬紅で血色の良く健康に見せたり、アイシャドウやマスカラで目元を美しく強調することなどが当てはまる。
化粧には、このような「隠す」「見せる」という働きの違いはあるものの、視覚的に両者を厳密に区別するのは難しい。
いずれにせよ、化粧は素顔そのものが伝える情報を人工的に「隠し見せる」試みである。
そして、このようにして自分の魅力を相手にアピールすることは、個人が期待する対人関係を築く場合にも、大変に有効な手段となる。
化粧することによって、自己の満足感を高めて自己回復を促進し、対人的積極性を増し、対人関係を円滑にすることができるのである。
すなわち、化粧は自分のアイデンティティの確認を演出し、そして、対人コミュニケーションを円滑にするための方法であるのだ。
なにを求め、化粧するのか?
では、そもそも女性たちは何を求めて化粧をしているのだろうか。
松井豊らは、都内の美容室に来た673名の女性客に対して質問調査を行い、より化粧に対する意識の高い女性が、意識の低い女性に比べて、化粧にどのような効用を期待しているのか、ということについて検討している。
それによれば、化粧に対する意識の高い女性たちに特徴的な、3つの効用感が指摘できる。
まず第一の効用感は、「化粧行為自体が持つ満足感」である。
これは、化粧による自己愛撫の快感や創造の楽しみ、変身願望の充足など、一人で鏡に向かっている時の自己満足感である。
続いて第二の効用感は「対人的効用」である。
これは、化粧により欠点を隠したり、あるいは美しさを強調して優越感や自己顕示欲求を満足させたり、自己の社会的役割や場の規範に同調したイメージを創ることなどを指し、主として対人場面での効用である。
第三の効用感は「心の健康」である。
化粧は、それによって個人の自信や積極性を高めることができるため、社会的適応や心理的な安定感を得ることができるというものである。
こうした効用は、現代女性の化粧行動に対する大きな動機である。
では以下で、化粧のもたらす具体的な効用を考察してみようと思う。
さまざまな研究を見てみると、化粧にはいくつかの特徴的な効用が見られる。
それらを大きく5つの効用に分けてみたい。
@対人積極性の増大
Aアイデンティティ形成への寄与
B自己実現の可能性
C私的空間の構築と充実
Dセックス・アピールの効果
次に、この5つの効用について、詳細を説明する。
E化粧と対人積極性
ここでは、松井の研究結果のまとめを参照していきたい。
「銀座」実験
まず、1983年9月の日曜日に、銀座4丁目の歩行者天国の路上で行われた実験を示す。
実験に参加した被験者は女子大生約100人で、「メーキャップ化粧品のキャンペーン」の名目で募集された。ただし、有効被験者は31名である。実験会場の見取り図は以下のようである。
被験者は銀座の実験会場に集合し、「キャンペーンの手伝いとアンケートの手伝い」という偽りの目的を教示された。
次に普段の薄い化粧のまま銀座4丁目の街頭に出て、通行人を対象として「アンケート」をとった。
するとその途中、見知らぬ人から道を尋ねられたり、「あなたの写真を撮らせてください」と依頼されたりする。
これらの依頼をする人は被験者と面識の無い実験協力者であり、街頭のあちこちには、被験者の行動を観察して評価を行う観察者が隠れていた。
「アンケート」が終わると被験者は会場に戻り、質問紙に回答して、パーソナルスペースを測定された。
パーソナルスペース(personalspace)とは、個人が自分の身体の周囲に有している、他者の進入を不快に感じる心理空間である。
パーソナルスペースの大きさを測定する場合には、被験者に対して見知らぬ他者を近づけるか、見知らぬ他者に対して被験者が近づいて、「これ以上近づくと気障りだ」と感じるところで接近をやめ、この位置における相手との距離を測る。
見知らぬ人が被験者に近づく条件は被接近条件、被験者が近づく条件は接近条件と、それぞれ呼ばれる。
いずれの条件で測定しても、人に対して積極的で外向性の高い人ほど、この距離が短いことが知られている。
続いて被験者は、プロのメイクアップアーティストによって、彼女たちに「もっとも似合う」メイクアップを施してもらい、化粧後に質問紙に回答した。
回答後その化粧のまま、再び街頭に出て「アンケート」をとり、実験協力者からの依頼を受けた。
ただし、依頼の内容や依頼場所は実験前半とは変えてある。
会場に戻ると、また質問紙に回答し、パーソナルスペースを測定された。
さらに後日電話を通して、実験日の実験後の行動についての調査が行われた。
内向的な人が積極的に
この研究では、化粧の前後について、街頭で観察された被験者の行動、質問紙への回答、パーソナルスペースの大きさ、電話調査の回答結果などが比較されている。
街頭における被験者の行動の観察結果を、実験の前半(化粧前の顔)と、後半(化粧後の顔)で見てみると、いくつかの行動について統計的に有意な評価の差が認められた。
「アンケート」を実施している時の行動は、前半に比べて後半は「自信がありそう」で「エレガント」に振舞っていると評価された。
道を尋ねられた時の反応は、前半よりも後半の方が「自信がありそう」「エレガント」「楽しそう」「積極的」という印象を観察者に与えていた。
「行動が不自然」や「無愛想」という印象は、後半になると逆に減少していた。
次に、被験者全体について、パーソナルスペースの大きさを前半と後半で比べてみると、明確な差は得られなかった。
そこで、被験者の向性に着目して、外交的な人と内向的な人に分け、両者のパーソナルスペースの変化を比較した。
その結果をまとめた表が、次頁である。
図から分かるように、外交的な人は前半から後半にかけて距離を長くしているが、この差は統計的に有意ではなかった。
一方、内向的な人は前半から後半にかけて距離を短くしており、接近条件では有意な差の傾向を示していた。
先に示したように、パーソナルスペースの大きさは、対人的な積極性と関連する。
したがって、上記の図の結果は、化粧が内向的な人の対人的な積極性を増す効果を持っていることを示している。
さらに、被験者が施された化粧にどのくらい満足したかによって、被験者を分け、パーソナルスペースを比較してみると、化粧に満足した人はパーソナルスペースを有意に縮められているということも明らかになった。
電話調査によると、満足した人はパーソナルスペースだけでなく、「自信を持ち」「人目を避け」ない傾向も示された。
この実験では化粧を施さない統制郡を設定していないため、これのみで前半から後半にかけての変化がすべて化粧によるものだとは断定できないが、しかし、向性別の分析や化粧後の満足度の分析結果から見ると、前半から後半にかけての変化の多くは、化粧による効果だろうと推測される。
化粧は、少なくとも内向的な人については、女性としての自信を高め、他者に対する積極性、すなわち対人積極性を増す心理的な効果を持っているのである。
化粧に関する意識調査
この銀座実験とは別に、松井らは1984年に、首都圏に住む18〜44歳の女性500名を対象とする、化粧に関する意識調査を行っている。
この実験で松井らは、使っている化粧品の数が多いなど、より化粧に対して積極的な郡から順番にH郡、M郡、L郡として「化粧度」を分け、それぞれの郡について、化粧意識をまとめている。
それが次頁の表である。
この実験においても、基礎化粧、メイクアップを問わず、化粧度の高い人ほど、化粧後に自分の対人的な積極性が増すことを実感している。
そして、この効用が、女性たちのさらなる化粧行動をかき立てていると推測できる。
そして松井は、この結果から、化粧の心理的な効用を、気分転換や緊張感などのように、化粧すること事態が生み出す満足感の側面と、同姓や異性の目を気にし、周囲の人に合わせて生じる対人的な効用の側面に分けている。
これらを総合し、まとめたものが、先に触れた「化粧行為自体が持つ満足感」や「対人的効用」、そして「心の健康」といった効用感である。
化粧行動は、対人積極性をはじめとするさまざまな効用を女性にもたらし、化粧を通じて現代女性はより生活に充実感を感じ、より生活を楽しんでいる。
つまり、現代女性にとっての化粧は、アイデンティティ形成にも深く関わってくる、そうした存在なのではないか。
以下では、化粧とアイデンティティの関係性について、述べてゆきたい。
F化粧とアイデンティティ
菅原健介は、化粧が対人行動に影響する過程について、2種類の相互に関連したフィードバックグループによって、説明している。
まず、個人は化粧による外見的変化を鏡を通して自ら観察し、他者が自己に対して抱くであろう印象や役割期待を確認する。
つまり、「いまから私は有能な秘書としてふるまうのだ」とか、「周囲から上品な女性として見られるだろう」といった、自己の社会的アイデンティティについての自覚を得る。
「人に会いたくなる」「外に出たくなる」といった積極性の高揚や、「がんばろう」といった緊張感は単なる自己完結的な満足ではなく、自己への社会的期待に応えようとする動機的な高まりと見なすことができるのである。
一方で、化粧による外見の変化は「自分の目」だけではなく、「他者の目」を通しても確認することができる。
外見の変化は他者に与える印象を変化させ、それまでとは違った新たな反応を引き出す。
イブニングドレスとパーティ用の化粧で装った姿に、多くの人々は感嘆の声を上げ、日常と異なった丁重な態度を示すかもしれない。
その反応を受け取って、個人は自分がそうした立場や役割が期待されているとますます強く認識する。
そして、この認識が自己の外見や立ち振る舞いをますますそれらしく変えてゆくことになる。
つまり、一種の「自己成就的予言」の過程であると言えるのである。
「自分の目」と「他人の目」を介した心の循環が成立する時、化粧は女性たちの社会性や積極性を高め、その場面や状況における適応的な行動パターンを作り出すように思われる。
あるいは、もう一歩進んで考えてみると、女性たちは化粧することによってこうした心のプロセスを自己の中に意図的に作り出し、利用しようとしているのかもしれない。
もしそうならば、化粧とは単なる外見的な取り繕いや自己満足の道具ではなく、女性が自己の役柄をつかみ、その世界に入り込んでゆくための「自己暗示的儀式」と見なすことができる。
すなわち化粧は、アイデンティティ形成の根幹にも、関わりうるものなのである。
G化粧と自己実現
続いて、化粧による自己実現の効果について、見てみたい。
これについて、高野ルリ子は先行研究の事例をひいてこのように述べている。
メーキャップの心理的効用には、意識を外側に向けることで起こる効用と、意識を内側に向けることで起こる効用との2側面が指摘されています。
阿部と日比野(1997)はこれらの効用を、意識を内側に向けさせ、気持ちを鎮静化させる「いやし」の効果と、意識を外側に向け、気持ちを高揚させる「はげみ」の効果として整理しました。さらに、化粧において「いやし」と「はげみ」は分けることのできないものであり、相互に影響し合い、良循環を生むことも指摘しています。
個々の効用をみていくと、意識の外向による効用には、化粧をすることで積極性の向上や気分の高揚といった情動の変化や(宇野ら、1990)、パーソナルスペースが縮小し対人的積極性が増した(松井、1993)といった事例が指摘されています。また、精神病患者にメーキャップを施すことで、抑鬱的感情を活性化させ、積極的行動が増した、と言う事例もあります(浜ら、1991)。
意識の内向による効果には、リラクゼーションや安心といった感情の変化が指摘されています(宇山ら、1990)。
また、こうした化粧の効用の仕組みに対する解釈として、余語真夫は表情フィードバックに基づいた解釈を取り、このように説明している。
表情フィードバックとは、表情筋の動きが脳にフィードバックされることによって主観的感情が認知される、すなわち、表情が感情の源泉である、とする考え方である。
化粧の過程では、鏡を介して自分の顔を見つめる、自分の顔に触れる、化粧途中や終了後にすまし顔や笑顔を作る、といった動作が生じてくる。
そのため、「鏡を介した自己知覚」「皮膚接触」「表情変化」という3種類のフィードバックが起こることになる。
すると、「鏡を介した自己知覚」と「表情変化」による表情筋の情報や、「皮膚接触」による皮膚感覚が脳にフィードバックされ、感情状態に影響を及ぼし、こうした自己の内面に向かって起こるフィードバックが化粧の効用を生む源になっているというのである。
高野は、別の実験結果から、理想の顔と理想の性格には相関関係が見られるという調査結果を得ている。
そして、この結果と余語の指摘する表情フィードバックによる作用とを考え合わせ、化粧による自己実現の可能性を示唆している。
化粧によって理想の自己イメージを顔に表現する。
すると、そのイメージ情報がフィードバックされることによって、その人の精神なども理想に近づく、という仮説が成り立つのである。
H化粧と私的空間
以上で見てきたように、化粧することが自己の社会的役割意識の自覚を促すのであれば、化粧を落とすことは、反対にそういった社会的規約を忘れさせてくれる作用を持つのであろうか。
ここでは、化粧と私的空間との関係について考えたい。
通常われわれは、評価の目にさらされ、社会的な役割期待にこたえようとする公的な空間と、そうした役割から解放され、他者の目を気にせず自由にふるまえる私的な空間とを往復する生活を送っている。
この公的空間に対する私的空間は、単なる身体的な休憩のためだけではなく、個人の心理的ストレスや抑うつ感を払拭する働きを有している。
これまでの研究から、化粧を落とすことは、公的な空間から私的な空間へと自分を解放する効果を果たしていることが分かっている。
そして、化粧を落とすことに強い開放感を感じる人ほど、化粧したときには気持ちが引き締まり、女性としての自分を意識し、ウキウキして外に出たくなるが、一方で、はりきりすぎてストレスを感じているということ、が分かっている。
こうした女性の性格的な特徴としては、公的自意識が高く、かつ、賞賛されたい欲求が強いことも分かっている。
つまり、化粧を落とすことで開放感を感じている人は、もともと化粧が嫌いであったり無駄だと感じているわけではなく、むしろ化粧によって自己の社会的役割を自覚しやすく、期待に応えようと懸命に取り組む人々なのである。
化粧は、公的空間と私的空間の区別を明確化するので、両空間を往来する上での心理的なスイッチングの作用を担う。
すると、公的空間では化粧によってアイデンティティを形成して、より闊達な社会との接触をし、反対に化粧を落とすことで、社会のしがらみを離れ、より充実した私的空間を、リラックスして楽しめるようになるのである。
I化粧とセックス・アピール
最後に、化粧の効用として忘れてはならないのが、化粧することによる異性への自己顕示、すなわちセックス・アピールの存在である。
これについては、前述の「@cosme」独特の文化である、「恋コスメ」を題材として考察してゆきたい。
「恋コスメ」とは?
「恋コスメ」には厳格な定義は無く、さらには、査定基準なども無いのだが、「@cosme」上で「男性に誉められた」「これをつけていると男性にモテた」などの口コミが増えて話題を呼ぶと、その化粧品が「恋コスメ」になる、というものである。
「恋コスメ」について触れている、「恋コスメデータベース」という個人ブログにその詳細を見てみたい。
以下はその引用である。
【恋コスメとは?】
恋コスメは、クチコミサイト@COSMEが発祥元です。
「これを使うようになったら告白された」「彼氏に褒められた」等々、これのお陰でモテ度アップしました!
と称えられたコスメ製品が「恋を呼ぶコスメ!」と話題に。
いつの間にやら、それらの商品達が「恋コスメ」と呼ばれるようになったようです。
【恋コスメの特徴】
上記の恋コスメムーブメント、学生世代を中心に始まった故でしょう。
恋コスメに認定された商品は、2000円以下の価格帯が大多数。
エテュセ・クレージュなど、若い世代に特に人気のあるブランドが多いのもポイント。(中略)
【恋コスメの支持層】
学生世代が中心ですが、他の層(主婦・会社員等)にも結構支持されているようです。(中略)
【恋コスメの始まりは?】
恋コスメがでてきたのは4年前の2002年頃?でしょうか?(中略)
【恋コスメの現況】
改廃の激しい化粧品業界故、残念ながら現在では幾つかの製品は既に廃盤に。
でも、新しいコスメも毎日の様に誕生していることですし、この先、新恋コスメが誕生することも間違いなくあることでしょう。(中略)
異性への意識
この「恋コスメ」に象徴されるのが、化粧における「セックス・アピール」の役割であると、私は考える。
前述の「幼さ」と「成熟さ」も、現在しばしば「モテ」という概念と一緒に、雑誌などで「モテメイク」として紹介されるが、この「モテ」こそが「セックス・アピール」であり、現代の化粧においては、化粧に「セックス・アピール」を期待する声が少なくない。
たとえば、口コミで「恋コスメ」だと言われると、その直後その商品は完売し、店頭から姿を消してしまう。
しばらくすると、「@cosmeで高評価!恋に効くアイライナー!」などのポップ付きで、その商品のみが店頭で大きく紹介される。
こうした現象や雑誌での「モテメイク」の特集などから見ても、現代女性が、化粧において異性の評価を意識していることがよく分かる。
口コミにその声をたどると、その化粧品で化粧をすると、自分がかわいくなったと実感した、異性からの視線を感じた、あるいは異性の前に出ても気後れしたりせずに自信を持って笑っていられた、などという声が多い。
これは、女性たちが、自分の化粧後の顔に対する異性からの評価、すなわち、自分がしている化粧が異性にどのように評価・判断されているのかということを、多かれ少なかれ気にしているということである。
この異性への意識は、若年層ほど高くなっているが、30代の女性が読む雑誌にも「モテメイク」が登場していることから見ても、30代、40代においても、その意識が皆無ではないことが分かる。
そんな中で、多くの女性の口から「異性から肯定的な評価を得た」と言われている「恋コスメ」を使えば、自分の化粧に自信を持つことができる。
「恋コスメ」はその実効性が目に見えにくいものであるため、一種の願掛けやまじないのようなものであるが、使う化粧品によって、化粧後の心理が大きく変わりうるということの、証明と言えるのではないか。
いずれにしても、前節まで見てきたような「社会的」な化粧の意味あいも今なお継続して指摘されているが、異性を意識した化粧というものも、いまや化粧への大きなモチベーションになっているということが分かる。
考察のまとめ
このように、化粧には、実にさまざまな効用があった。
対人積極性が増したり、アイデンティティや自己実現に関わったり、あるいは、異性へのセックス・アピール効果があるなど、内容は多岐に渡るが、それらは多くの場合、身体的なものに留まらず、精神の安定にも関わる、いわば人間の精神の根幹を形成する材料にもなりうるものであった。
では、これらの効用を踏まえると、化粧にはどのような可能性があるのだろうか。
本節の中でもさわり程度に述べたが、次節では、そんな化粧の可能性、パワーについて、深くその内容を見てゆきたい。
4.化粧の可能性
前節までの流れを総括すると、化粧とは、単に化粧品で自身を飾るというだけの行為ではなく、社会的にも、心理的にも、非常に大きな意味のあるものである。
最後に、こうした心理的効用をもたらす化粧を利用した新たな可能性について、高齢者の化粧をはじめとする、いくつかの事例を探ってみたい。
現在、化粧にはどのような力があると考えられているのだろうか。
可能性その@〜高齢女性と化粧
まず、高齢化に伴ってその有用性が着目されている、高齢女性の化粧について、見てゆきたい。
近年、急速に女性の平均寿命は伸び、厚生労働省によれば、2004年の統計で、日本人女性の平均寿命は85.59歳、日本人男性の平均寿命は78.64歳である。
参考までに、次頁に平均寿命推移のグラフを載せる。
高齢女性は化粧をしない?
この平均寿命の延長より、社会的引退後の後半生の充実は、より一層声高に叫ばれるようになった。
しかし、こうした平均寿命延長の前例が無い上に、高齢者は華美に走らず、ごくつつましく暮らすべきだという、社会からのゆるやかな外圧、あるいは、高齢者はあまり化粧をしないものだという社会の認識などのために、これまで、高齢者と化粧が結びつくことは少なかった。
化粧は、これまで述べてきたように、決して華美に自らを装飾したり、自己主張するというだけのものではない。
肌の衛生や健康維持の作用と同時に、対人積極性を増したり、また、アイデンティティの構築など、心的な安定を図る上で非常に重要な働きをする作用も包含したものなのである。
高齢女性は実際のところ、化粧をどのようなものとして捉えているのだろうか。
過去の化粧習慣とニーズ
伊波和恵は、老人保健施設で高齢女性に対してアンケート調査を行い、彼女たちの過去・現在の化粧習慣やニーズについて考察している。
次頁がその結果をまとめたものである。
これによれば、「過去の化粧経験」があると回答した人は93%、そのうち「過去の化粧習慣」がある人は78%であるのに、「現在の化粧習慣」がある人は、57%にまで落ち込む。
そして、その内容についても、現在は洗顔後の基礎化粧のみであるとする人が多い。
しかし一方で化粧への関心についての項目では、自ら化粧をしたいと望む「積極的な関心」がある人が全体の35%、そして、人にしてもらうのならば化粧してみたいという、「消極的な関心」がある人は全体の23%となっており、実に半数以上の女性が、高齢になった現在もなお、化粧に対する関心を抱いているという結果になった。
同時に、伊波は高齢女性を入所者とデイケア利用者にわけた分析も行っている。
それによれば、入所者については、入所中と在宅時では、有意な差ではないものの、入所時よりも在宅時に、より化粧することが多く、反対に、デイケア利用者においては、入所時により化粧することが多い。
これは、入所者においては、施設内で目立つまいとする意識によって、化粧行動がおのずと制限されるのに比べ、デイケア利用者にとっては、施設に通うことはすなわちよそへ行くことに他ならないので、装いへの気配りがなされた結果であるという。
入所者とデイケア利用者の間では、「内」と「外」の捉え方が違うのである。
しかしいずれの場合も、化粧は高齢女性に自立性と社会性をもたらしうるものであり、化粧によって身体的魅力を増大させることで、美しくなった自分を見て喜びを感じたり、いまの自分に相応しい新たなあり方を模索、発見したり、あるいは社会と自分の間につながりを感じることできる、と言えそうだ。
そうした効用は、高齢女性の後半生を彩る大きな道具となりえるため、現在高齢女性の化粧についての関心は、一層高まってきている。
高まる関心
高齢女性への化粧については、近年多くの新聞などでもその取り組みや効用が紹介されている。
その一例として、少し長いが、2006年8月23日の日経ネット関西版の記事を全文引用する。
お年寄り、化粧で生き生き──自信回復、気も若く(8月23日)
化粧品会社の人からフェースケアやメークを学ぶ参加者(大阪府大阪狭山市のファヴォーレ)
老人ホームなどで高齢者を対象にした化粧やマッサージが人気を集めている。誰しも老いていく自分の姿からは目をそらしがち。「面倒くさい」「誰も見てくれない」といった理由で年とともに身だしなみに気を配ることも減っていく。だが、化粧には失われた自信を取り戻し、気分を明るくするなどの効果がある。衣食住に比べて後回しにされがちな化粧だが、そこには豊かな老後を過ごす手掛かりがありそうだ。
「もう1度お嫁に行けそうやわ」「このままお見合い写真撮らなあかんな」「それにしてもあんた、15歳は若く見える」「そしたら今は86だから……60歳やな!」
大阪狭山市にある特別養護老人ホーム、ファヴォーレ。資生堂が開いた高齢者向けの無料美容講座は、まるで漫才のような冗談が飛び交い、活気に満ちあふれていた。
集まったのは入居者や近隣に住むお年寄りなど25人。講師を務める同社近畿支社大阪南支店の美容部員、東野かをりさん(45)がファンデーションの塗り方を説明すると、お年寄りたちが見よう見まねで顔に色を重ねていく。
「こんな派手にしたら笑われるかも…」。最初は尻込みする人も、ファンデーション、アイシャドーと進むうち表情がやわらぐ。参加した大阪狭山市の岡愛子さん(84)も「一緒に住んでいる息子と嫁に見せたいわ」と満足げ。完成後は鏡で自分の顔を眺めたり、互いに褒め合ったりとにぎやかだ。
資生堂が1975年から始めた高齢者向け美容講座では、同社の現役美容部員やOBらが老人ホームや病院などに出向き、化粧やマッサージの方法などを教える。内容や時間は参加者によって変わるが、およそ2時間程度。手足のまひなどで自分で化粧できない場合は、施設の職員やボランティアらが付き添う。2005年には全国で年間約2000回開催し、3万人以上が参加。今年は大阪南支店だけで月7―8件の引き合いがある。
化粧には失われた自信を取り戻すほか、ストレスを軽減するなどの効果もある。大阪モード学園や大阪医専で化粧を使った心理療法、「セラピー・メーク」の講師を務める平川真知子さん(50)は「高齢者にとってのメークは欠点を隠すためのものではなく、若いころの自分や社会とのかかわりを思い出すための道具になる」と説明する。
平川さん自身も年5回程度、モード学園や大阪医専の生徒を連れて老人ホームなどに足を運ぶ。生徒は10代後半―20代の若者が中心。当初はお年寄りと意思疎通がうまく図れなかったり、期待通りの反応を得られずに落ち込んだりする人もいるが、お年寄りが笑顔を見せると同時に生徒たちも笑顔になる。卒業後も、介護福祉士や理学療法士として、介護や医療の現場で化粧を取り入れる人も増えているという。
化粧やマッサージを手掛けるボランティア活動のすそ野も着実に広がりつつある。1999年から化粧やマッサージのボランティアを続ける大阪府ビューティーケア赤十字奉仕団「麗人会」が今年7月に開催した基礎講習会には約30人のボランティア志願者が参加。顔や手のマッサージ法やお年寄りの肌にファンデーションをなじませる工夫などを経験者から学んだ。
参加者の1人、池葉子さん(57)は高槻市で美容院を営む現役の美容師。地元の常連客が年を取り、自宅まで出張を頼まれる機会が増えたのがきっかけで化粧ボランティアに興味を持った。
講習会への参加直後、全身まひの高齢者の自宅へヘアカットと化粧に出掛けた。作業は3人がかりでお年寄りの体を支えながらの力仕事。「酸素吸入装置や点滴のチューブを踏んだりしないかひやひやものだった」と苦笑するが、数時間かけて無事終了。会話こそできなかったが、目の動きをコンピューターで読み取って文字化する機械で反応があった。「あ・り・が・と・う/き・に・い・っ・た」
麗人会の発起人で副委員長を務める田中啓子さん(58)は「周囲から注目されたり励まされたりしたいというのは、年齢に関係なく人間が持つ根源的な欲求」と説く。老人ホームや自宅にこもりきりの生活はストレスも多く、憂うつな気分になりがち。「化粧を通して孤独感から脱してくれれば」と田中さんは話す。
高齢化の進展で、シニアを対象としたサービスも増えつつあるが、心から満足を得られるものとなると、なかなか見つからないのが現状だ。一方、化粧や美容は手軽に楽しめるだけでなく、高齢者に自信を与え社会とのかかわりを深めるきっかけにもなる。きれいに化粧をした若々しい高齢者が増えれば、社会の活力向上に一役買うことは間違いない。
このほかにも、2007年1月12日の中日新聞には「化粧で美しく高齢者いきいき」として、富山県黒部市で行われた高齢女性を対象とした化粧教室の様子が掲載されたり、2006年11月25日の神戸新聞にも「化粧でボランティア高齢者ら華やぐ三田の男性3人」として、兵庫県三田市でのメイク・ボランティアの様子が紹介されている。
] また、2006年12月22日の岩手日報にも「高齢者に化粧奉仕盛岡の専門学校生」との記事があり、NHK盛岡放送局では、2005年11月2日に「いつまでも輝いて!〜化粧ボランティア〜」として、化粧ボランティアの団体を設立した大学生を紹介する放送をしているなど、関心の高まりがうかがえる。
可能性そのA〜老人性痴呆者と化粧
これまで述べてきた事例は主に健常な高齢女性においてであったが、老人性痴呆の高齢女性においても同様に、化粧による効用が確認されている。
これについて、浜治世、浅井泉らの行った研究事例を見てみよう。
浜、浅井らは化粧を手がかりとした情動活性化に着目し、老人性痴呆者、精神分裂病者、欝病者などに化粧を施すことによる情動の活性化について実験を行っている。
浜らによれば、多弁で落ち着きが無かった被験者の一人は、化粧が仕上がってゆくにつれて口数が減って落ち着き出し、実験回数が進むうち、そうしたおだやかさが定着し、感情のコントロールがきくようになった。
また、気分の変化が激しく、不機嫌になりやすい被験者で、徘徊の癖があるために5分も一箇所に留まっていられなかった女性の事例では、彼女が化粧の最中一度も席を立たず、積極的な協力の姿勢を見せたことに、主治医も非常に驚いたという。
さらにこの被験者は、回数を重ねるごとに我慢強さが増し、実験の最中のみならず、診察中やリハビリの最中にも部屋から出てゆくことがほとんど無くなった。
そして、化粧終了後に「きれいになったね」などと近所の人から声をかけてもらう機会が増えて非常に喜んでいたという。
化粧後に自分が綺麗になったことを実感し、しかもそれを周囲にも誉められたことで、もともと不機嫌になりやすかった性格がおだやかになり、化粧を介して対人関係がとてもスムーズになっていった。
さらに別の被験者は、言葉が上手く話せないことで引き込もりがちであった。
しかも、自分の老いてゆく姿を見るのを嫌がり、家では鏡を見ることも避けていたくらいであった。
しかし、実験の最中、化粧が仕上がるにつれてだんだんと鏡を見るようになり、化粧が終了した時には、非常に関心を持って鏡を覗き込むようになっていた。
その後の実験では鏡に対する抵抗は全く無くなり、置いてある鏡を丹念に見るまでになった。
言葉もスムーズに出てこないまでも、積極的に話そうと身振り手振りでコミュニケーションを図ろうとするようになり、積極的に外出したがるようにもなった。
化粧することで老人性痴呆症そのものを治すことはできないが、化粧が高齢者の感情や意欲の面で非常にプラスに働き、積極的な行動を生んだり、感情のコントロールを可能にするという効果は、確実に期待できそうだ。
これは、これからの高齢者福祉への、非常に大きな貢献になりえる。
可能性そのB〜鬱病者・精神分裂病者と化粧
続いて、化粧は鬱病や精神分裂病を患う女性にも、効果を発揮している。
先ほどと同じく浜らは、鬱病、精神分裂病の女性を対象に化粧を行い、化粧前後の声を録音し、周波数を調べる実験を行っている。
それによれば、どちらの病気の女性も、化粧後は音声のピッチが上がり、情動が活性化、かつ安定するようになっている。同時に、日による情動のばらつきも軽減した。
こうした鬱病、精神分裂病の場合は、自分と社会との間に感じる隔たりを減らし、そして対人積極性の増加が自信にもつながるため、退院後に社会復帰する際にも、化粧が非常に生きてくる。
こうしたケースでは特に、化粧の効能は、長期にわたって継続してのものであるようだ。
可能性そのC〜やけど患者と化粧
化粧の効用はこれだけに留まらない。
化粧は、やけどやアザなどの身体的な疾患においても、それをカバーすることで、リハビリにつながる効果を発揮する。
手島正行は、あるアメリカ人やけど患者の事例を引いて説明する。
その女性は車の追突事故による炎上で上半身に重度のやけどを負い、10週間に及ぶ治療の末、退院した。
しかし、本当の意味での治療は退院後に始まったと彼女は語る。
やけどによる身体的な痛みはもちろん激しいが、それよりも容貌が変化してしまったことに対する精神的、心理的な痛みは、一般人の想像を絶するものがあった。
彼女は最終的に、そうした苦しみを化粧によって軽減させることに成功し、現在、顔にdisfigurement(醜形)を有するようになった患者を相手に、社会復帰を容易にするための化粧品の使用方法などの指導を行っている。
重症のやけどの治療には、皮膚移植をする場合が多いが、手術後数年を経過しても、植皮部位が変色していたり、色調が周囲と異なっていたり、あるいは引きつれが残ったりして、完全な形に再建することが難しい場合も少なくない。
そこで、植皮後の治療にエステティックを取り入れて、傷跡を目立たなくする試みがいくつかの病院で行われている。
これは傷の治療だけでなく、外見上の美しさを回復させて、患者の精神的負担を減らすことを目的とした形成リハビリテーションであり、医療機器として認定を受けた機械を使用し、マッサージやパックを行うもので、移植皮膚の色や縮み、感覚の回復に大きな効果が得られるというものである。
日本でも、現在このようなdisfigurementへの対処法は大きな問題になっている。
たとえば、やけどに起因する瘢痕のために社会生活の制限を余儀なくされている患者に対しては、化粧で傷跡を目立たなくし、容貌を改善する研究が行われており、1991年11月に名古屋に設立されたやけど患者支援組織「熱傷フェニックスの会」では、やけど患者への化粧講習会の開催も行われた。
手島は別に、住宅火災で重度のやけどを負った日本人女性への、化粧の効果の研究を行い、化粧の必要性の研究をまとめている。
それによれば、被験者はやけどの跡を克服する手術を積極的に何度も受け、強い精神力でやけどを克服し、社会的にもやけど患者支援の活動などを行っている人であったが、そうした精神的なダメージの比較的少なそうに見える女性においても、化粧後は非常に気持ちが明るくなったのが実感できたという。
人に化粧してもらうことは想像以上に気持ちが良く、ていねいに優しく触れられると、自分の人間性が尊重されているような心地よさがあり、気持ちまで化粧されているようだったと、女性は語る。
このように、患者の傷は決して外見的なものばかりではない。
化粧は患者の傷を目立たなくすることで、精神の傷を癒し、社会復帰を促進する作用があるのである。
リハビリメイク
それに関連して、医療的に化粧が用いられている事例として、最後に「リハビリメイク」というものを紹介しようと思う。
「リハビリメイク」とは、有名なメイクアップアーティストであるかづきれいこの提唱したもので、その内容をかづきは自身のホームページで以下のように説明する。
リハビリメイクは、QOL(Qualityoflife;生活の質)を高めるためのメイクです。
リハビリメイクという名称は,身体機能に損傷を負った人が社会に戻る前にリハビリテーションを行うのと同様、外観に損傷を負った人が社会に踏み出すために習得する技術という意味があります。(1)隠すことに主眼を置かず、(2)メイクアップを通して最終的に患者さんが自分の外観を受容し、(3)社会に復帰すること、またQOL(QualityofLife)を高めることを目標としています。
外観を整えることで心が元気になり豊かになるのは、顔に悩みのある人もない人も同じこと。メイクアップは自分の中から元気を引き出す最善の手段だと、スタッフ一同考えております。
かづきは、東京女子医大付属・女性生涯健康センターの「リハビリメイク外来」を2004年4月に開設し、毎週、かづき本人か、有限会社かづきれいこの専属講師が来院し、実際に患者にメイクアップを行っている。
2005年6月14日の読売新聞の「リハビリメイク」特集記事によれば、このようにある。
「リハビリメイク」を開発、普及に努力
「おしゃれのための化粧法は、世の中にあふれている。でも、本当に化粧を必要としているのは、傷やアザなど顔のトラブルに悩み、気力を失っている人たちです」
顔も心もメークで救う
「傷のことが頭から離れなくて、人に会うのも苦痛なんです」
「じゃあ、楽になる方法を覚えましょう」
東京女子医大付属・女性生涯健康センターの「リハビリメイク外来」。鼻の脇に腫瘍(しゅよう)摘出の傷あとが残る30代の女性に、手早く化粧をしていく。傷の部分には鮮やかな黄色のファンデーション。厚塗りせずに隠す技だ。まゆを整え、アイラインで目元を強調。鏡の前に立った女性は、「あ、傷に目が行かない」と、笑顔を見せた。
やけど、事故や手術の傷あと、アザなど、顔にトラブルを持つ人のための化粧を「リハビリメイク」と名付け、独自に技術を開発し、普及に努めてきた。この20年間で1万人以上に実施し、指導した。
「リハビリメイクの目的は、傷やアザを隠すことではありません。「隠せる」という自信を持つことで、自分の顔を受け入れ、堂々と元気に生きていく力をつけること。いわば、社会復帰の支援なんです」
生まれつきの心臓病で、寒い季節は極端に血流が悪くなり、顔が真っ赤に腫れ上がった。目が大きかったため、子供のころのあだ名は「赤デメキン」。いじめにもあった。春から夏にかけての顔が白い季節は、活発で成績も上がる。ところが、冬になると、暗く、ひがみっぽくなり、成績も下降。体調まで悪くなる。
「周囲に「顔より心」と言われても、ちっとも楽にならない。顔と心と体はつながっている。そう気づきました」
短大に入り、化粧に救いを求めたが、普通に塗っても赤みは隠せない。雑誌のメーク特集も、化粧品売り場の販売員も、助けにはならなかった。お面のような厚塗りで、始終、化粧直しをする毎日。煩わしく、友人たちには笑われたが、初めて冬に顔を上げて歩けるようになった。
専業主婦だった30歳のとき、心臓手術を受け、赤い顔から解放された。心も体も軽くなった。「新しいことに挑戦したい」。美容学校に入学して、メークを学び始めた。
「それまでの私にとって、化粧は救いであると同時に、最大の負担でした。顔にトラブルを持つ人たちの多くが同様に感じているはず。その負担感を取り除くため、トラブルをしっかりカバーしながら、厚塗りにならず、短時間でできる技術を覚え、発信したいと考えました」
学校ではファッションとしてのメークしか学べなかったため、独自に研究を重ね、トラブルの状態に合わせた色や塗り方などを考案。それは、老化によるシミやシワなどにも応用できた。カルチャーセンターに自ら売り込んで講座を持つと、顔に悩みを持つ人たちが続々と訪れた。その後、メーク教室運営などを行う会社を設立。老人ホームなどでメークのボランティア活動も始めた。
「30歳を超えれば何かしら顔に悩みができる。傷やアザも大差ないことです。誰でも、自分の顔に納得できれば元気になる。だから「顔は大事」なんです」
数年前から、医療機関との連携に力を入れている。治療段階から傷などを隠す方法を知れば、退院後の生活への不安も和らぐ。メークで解消できない心の傷には、精神科医の手助けも必要だ。さらに、2002年、「顔と心」についての理解を一般に広めるためのNPO法人を設立した。
「顔にトラブルがあると就職が困難だったり、日本には外見による差別が根強くある。メークが持つ力を皆に知ってもらい、そんな差別をなくすのが目標です」(以下略)
こうしたリハビリメイクのように、現在化粧は、国内外において、その効用を医療的にも認められてきている。
化粧によって、自己評価が上がって精神的な健康を保ち、対人積極性を増すことによる効用は、やはり決して少なくないものがある。
そして、このような事例では、前節で触れた以上に、化粧による効用がアイデンティティや生きがいにも大きく作用しうるものなのである。
こうした化粧の効用がより社会的にも広く認知され、さまざまな背景のさまざまな人々の人生に対し、より上質のものを提供してくれるようになるのを、願ってやまない。
終章 化粧はどこへ向かうのか?

化粧から何が見えたか?
ここまで、化粧について、「社会」および「心理」というふたつの側面から考察をしてきた。
「社会」の側からは、化粧の歴史をたどり、その背後に見える日本社会の美意識を考察し、それを国際比較した。
「心理」の側からは、現在指摘される化粧のさまざまな効用を紐解き、それに見る、化粧の可能性を探った。
化粧は、人によってさまざまな顔を持つだろう。
綺麗になりたいから、みんなが化粧をしてるから、コンプレックスをカバーしたいから、異性に注目されたいから…そうした人それぞれ違う動機で、化粧は始められ、続けられている。
化粧文化が一般化するにつれて、女性たちの化粧に対する認識は、どんどん多様になっている。
無論、そうなるうち、化粧の良い面ばかりでなく、化粧の悪い面も指摘されることが多くなるだろう。
不適切な場所、場面での化粧への批判や、ある年齢以上の女性は化粧していなければならないとする社会的イデオロギーの出現など、今後、化粧が注目されればされるほど、女性たちにはさまざまなものが求められ、同時に、女性たちに課される制約も、間違いなく多くなる。
しかしそれでも、化粧の文化は廃れることがないだろう。
これは、本論文で考察してきたように、化粧がさまざまな要素に支えられた文化であり、しかも、なにより当の女性たちに進んで受け入れられている性質のものだからである。
女性が化粧し続ける限り、化粧文化は今後もますます彩り豊かになってゆくに違いない。
化粧のあした
最後に、今までの考察を踏まえ、化粧が今後どのように発展してゆくのか、私なりに化粧の未来について可能性を論じて、本論文のまとめとしたい。
化粧は、現在のように多くの日常が機械化される中で、どうしても自分の手でしかなしえない表現の分野であり、今後もそれは変わらないであろう。
とすれば、どんどん画一化・記号化され、管理されてゆく自らの周辺に対抗して、今後は「自己表現」としての意味合いをより拡大させてゆくだろう。
現在のようなナチュラルメイク志向は、おそらく美意識の部分で需要されているので今後も根強い人気を誇るだろうが、それとは別に、より個性的な化粧方法や化粧品が求められ、発展してゆく。
するとたとえば、今までにはありえなかったような色彩の化粧品や、暗闇でも目立つ原料の化粧品、一日の間に何度も色が変わる化粧品などが出現するかもしれない。
また、この「個」を強調する流れを受けて、より個人のニーズや肌質、顔の造形に合った化粧品開発も行われるだろう。
すると、医療技術をはじめとした各種技術の進歩の風を受けて、各人の情報が個別にデータベース化され、各化粧品メーカー製造による、オーダーメイドの化粧品なども実現するかもしれない。
そうなれば、専門家お墨付きの「自分にもっともに合う」化粧が分かるため、より女性たちの心の充実が図られるだろう。
個人の情報に、各時代の流行を加味して化粧品を変えてゆけば、飽きなどもなく受け入れられそうだ。
あるいは、グローバル化が進むとともに、より「日本人的」に見えるような化粧が流行し、近世までに一般的であったような、日本独特の化粧方法が、今後改めて注目され、流行するかもしれない。
さらに、今後は女性の社会進出が今よりはるかに進むと考えられる。
それに伴い、化粧が女性的な面の強調ばかりではなく、男性的な面を押し出すようなものになるかもしれない。
依然として、日本社会においては「仕事のできる人=男性」という図式が根強いため、あえて男性的に見える化粧をすることで、自分を女性として見てくれるな、というシグナルを発し、仕事のできる自分というものをアピールするのである。
シグナル、という点から言えば、より化粧文化が社会的浸透を見れば、化粧によってある情報を伝えるということができるようになるかもしれない。
たとえば、現在、既婚の女性のみならず未婚の女性でも、交際相手がいるというしるしに左手の薬指に指輪をすることがある。
これは、自分に結婚相手や交際相手がいるということをアピールしたいという女性の心理であるが、こうした心理表現が、化粧にも応用されうるのではないか。
あるメッセージを含む化粧をしている女性には交際相手がいて、その化粧をしていない女性には、交際相手がいない、あるいは、その事実を特にアピールしたいとは思っていない、などと判断できる、シグナルとしての化粧が現れるかもしれない。
これは無論、そのシグナルを受け取る側にもそれを読み解くだけの知識が要されるため、化粧文化のよりいっそうの浸透があって初めて成り立つものであるが、その浸透を見るのは、そう遠い未来のことでもなさそうだ。
とすれば、この文化がさらに発達すれば、次第に女性の化粧済みの顔を見ただけで、その人物の発するいくつかのメッセージを受信でき、ある程度その人物の内情を知るということも、できるようになるかもしれない。
そして何よりも、現在化粧についてもっともその効用が期待されているのが、化粧によるQOLの向上である。
化粧をすることで、高齢者をはじめとするたくさんの人が、心的な安定を得ているという事実が、今以上により社会に深く認知されれば、今のように「綺麗になりたい」という動機ではなく、「化粧による心理的効果を得たい」ということを主な目的として、化粧をしはじめる、そうした女性の姿を見かけるようになるのではないか。
今後、日本社会が抱える「高ストレス」状態には、ますます加速度が付いてくるであろう。
そうした中で、この化粧の効用で、少しでも美しく、幸せに生涯送ろうとする、そんな風にみなが考える時代が来ても、おかしくない。
なぜ、人は粧うのか?
何度も強調するが、化粧には、実にさまざまな効用がある。
第二章などで見たそうした効用は、化粧という行為が、自分で自分を装飾する行為、自分と直に向き合う行為であるからこそ生まれるものであると思う。
時間に追われ、自らとなかなか対面することのない現代女性が、化粧を機会に自己と向き合い、そこで自分の魅力を再発見し、より違う自己を表現し、生活の質を向上させる。
化粧の本当の魅力は、やはり社会の多くのファクターに支えられて成り立つ、この心理的効果であるように思う。
少なくとも、私にとっては、そうであった。
つまり、第一章で見たような社会が土台として化粧文化を支え、女性たちに化粧することを望む。
そして第二章で見たように、女性たちの側は、化粧を通して自己を社会に対してアピールし、化粧を通して心的な安定を得、そして、化粧によって生活の質を向上させることができる。
だからこそ、人は「粧う」のである。
化粧によるこの心理的効果が、今後ますます注目され、化粧行為そのものの重要性や意味合いが、さらに日本社会の中で高まってゆくことを大いに期待して、この論文を終わりたい。
 
「時代の美人」雑説

日本史において「美人」とは一体どんな容姿をしていたのでしょう?その辺を探ってみたいと思います。
まず原始時代ですが、これは難しいですね、美人がどんななのか正直わかりません。赤い粉を顔に塗っていたとも言われておりますが、どうなんでしょうね。ですが、縄文時代の女性は歯並びがすごく良かったみたいですよ。マユゲも濃いし、どっちかというと濃い顔をしてました。弥生時代になって、海の向こうからやってきた人々が弥生人、こちらはのっぺり顔、縄文人と弥生人が交わって、今の日本人があるわけです。あなたの周りにも「縄文系」「弥生系」の人がいるかもね、さてさて、文献がないためこの頃の時代の「美人」ははっきりしません。
飛鳥時代になると、額田王など「美人歌人」と呼ばれるような人が出てきます。2人の男の間を行き来し、恋の歌を読んだ女性ですが、外見はわかんないですね。
奈良時代になると、あごがぽちゃっとしてて豊満で、眉は太く、口は小さい女性が美人と言われるように、この時代の女帝・元正天皇も、すごい美人だったと言われています。
平安時代の美女と言えば、いろんな人が浮かび上がってきますね。が、平安女性のトコでも書きましたが、実際は顔を白く塗りたくったオバケのような感じ。さらに条件としては「髪の毛が長いこと」「顔が大きいこと」「下膨れ」でした。この時代の「美人」で有名なのは小野小町・藤原薬子・藤原高子・和泉式部・藤原璋子・常盤御前などなどが出てきますが、みなさんどんな美人だったんでしょうね。
鎌倉・室町といった武士の時代になると、平安時代のような優雅でミヤビ〜なイメージは一気に吹っ飛び、「武士の時代の女」になっていきますね。美人白拍子などが人気となっていきます。武家社会になると、平安美人のような女性ではなく、人間的に活動的な女性の方が好まれたのではないかと思われます。
戦国時代の美人といえば織田信長の妹・お市の方・秀吉の側室・松の丸殿・細川ガラシャなどなどが出てきていますね。この辺になると肖像画があったりするので、戦国の絶世の美女といわれたお市の顔を見てみましょう。ちょっと顔部分はわかりづらいですが、ヒュっとした顔してますよね。ちなみにお市の方の生んだ淀君も美女と言われていますが、淀君の顔はどっちかとうと、お父さんの浅井長政に似てるような感じ。
江戸時代になると、美人画などが大流行します。鈴木春信の書いた笠森お仙が江戸で大ブレイク!柳腰にうりざね顔、すーっと通った鼻筋におちょぼ口といったのが江戸の美人の条件となります。といっても、江戸時代は長いので笠森お仙は江戸中期の美女の代表格。そのほかにも、高尾太夫といったような代々続く「最高級の遊女」がいたり、大奥内でも美人で有名な側室がいたり・・・化粧もこの頃になると「素顔」に近い化粧になってきました。白粉を塗りたくまくった時代とは違ってきます。
幕末なんかの写真を見てわかると思いますが、そんなにばっちり化粧してないでしょ?  
縄文時代の女性
この頃の人々は、小さな群れを作って暮らしていました。男性は狩や魚を取り、女性は木の実を集めたり、土器を作ったりなど分担して作業をしていました。体力的な労働の分担はありましたが、だからといって男女のどちらかが偉いという考え方はまったくナシ。この時代の統率者というのは「支配者」ではなかったのです。奴隷などもいない、平和なそして平等な時代だったのです。この時代には「土偶」が多く出ていますが、その形は「女性」の形をしたものが多かった。色々な説がありますが、妊娠した女性像が多いため、「安産を祈る種族繁栄」のシンボルとして女性が大事にされていたのであろうと思われます。
結婚について
縄文時代は一妻多夫婚や、一夫多妻婚の両方が行われていたと言われています。現在のように一対一の関係ではなくかったようです。
大切だったこと
この時代は、自然とともに暮らした厳しい時代でした。平均寿命も30歳から40歳くらい。そのため、人々にとって無事な出産、そして子供の成長がとても大事なことでした。女性は繁栄に欠かせない存在だったため、差別なく過ごせたのでしょう。
SEXについて
小さな家に何人もが暮らしていたので、もちろんプライバシーなど一切なし。どうやら野外でSEXしていたと思われます。この時代は「性」については、今のようにあまり重要視されてなかったみたいですね。
弥生・古墳時代の女性
縄文時代は平和で平等でしたが、弥生時代から微妙な変化が出てきます。稲作が始まったことにより、人々の生活に余裕が生まれ、米を蓄えるようになってきました。物を持てば、物を奪う戦いが始まる、自分達の一族が生きていくために、隣の一族の持ち物を奪うという戦いが行われるようになってきたのです。そうすると肉体的に強い男性が戦うこととなる。
縄文時代の「平和な統率者」は、弥生時代になると、「強い支配者」に変わっていくのであります。人間による人間の支配が始まった時、男女差が出てきてしまったのです。ですが、それでもまだ女性の統率者はいました。
戦いによる変化
弥生女性が大きく変わってくるのは、「戦い」のためです。勝った集団は、もちろん負けた集団を率いる。そして勝った戦いを主導した人の地位が高まる。ここで男性が女性より優位に立つこととなるわけです。
お墓の変化
縄文時代は男女分け隔てなく、差別のないお墓でしたが、この時代からお墓が変わってきます。偉い人のお墓の中に、鏡などを入れて埋めたりするようになってきました。
女性首長
戦いが強い=支配者の中でも、女性の支配者がいました。卑弥呼を代表とするシャーマンです。卑弥呼以外にも、シャーマン的女性支配者がかなりいました。特に九州地方に多かったようです。
お祭り大好き
この時代のお祭りは男女全てが参加していました。そして村の社に全員が集まるんですが、注目すべきはその座り順で、普通偉い人が上座に座るんだけど、この頃は男女どころ身分も関係なく好きなトコに座ってお酒を飲んでいました。この頃中国ではすでに家父長制(お父さんが一番偉い)という考えが確立していたので、この様子を見た中国の使者はビックリしたらしいです。
堂々とSEX
弥生時代はSEXを「恥ずかしいコト」とは思っていませんでした。なので、その辺の道で堂々とSEXしていたようです。すごいですね〜  
飛鳥時代の女性
飛鳥時代といえば、初めての女性天皇である推古天皇が誕生する時代であります。とはいえ、古代権力NO1の蘇我氏が出てきた時代であり、推古天皇は蘇我氏に操られる(?)ような感じで天皇になりました。また、この時初めて「摂政」という役職ができました。「摂政」というのは、天皇が女帝・もしくは小さい子供の場合につく役職です。女帝は男性の天皇より能力が劣っている?ということなのでしょうかね。まぁそれは置いといて、飛鳥時代は四人(五代・一人が二回天皇になった)という女帝時代であります。
結婚の状況〜セレブの場合〜
この時代の「結婚」は同じ父・母を持つ兄妹は結婚しちゃダメだけど、叔父・姪とか叔母・甥の結婚は当たり前でした。これは皇室だけではなく、お金持ち豪族にも同じこと。また、男性が女性の家に通うという結婚の形が多かった。子供は母の実家で生まれ育ちました。男性は何人も妻を娶ってOKなので、父は同じでも母が違えば別の家で育つのです。しかも皇室の場合は地位が特殊だったため、結婚相手を一族以外に求めることが難しかった。皇子なら地方とかの娘を招くこともできたんだけど、皇女の場合は他の一族の男性との結婚ができなかったのです。そして由緒正しい血統にするために皇后は皇族でなければならなかったのでした。ということで、天皇の地位が高くなればなるほど、近親婚が濃密だったのです。
女性排除の体制
七世紀以降、日本は中国のマネをして律令制国家となっていくんだけど、五世紀頃から政から女性を排除する動きが出始めてきてました。とはいえ、まだ社会全体は男女平等が多かったと思われます。
セクハラのルーツか?大宝律令
702年に出来た法律「大宝律令」。ここに初めて「女犯」という言葉が書かれています。仏教から関連する女性差別用語ですね。女犯というのは「僧は女性を犯すな」というもの、一見、「ん?女性に優しい法律じゃーないか!」と思いがちですが、これが全然違うもの、「女性ってのは心を惑わす魔物じゃ!ロクなもんじゃない。悟りを開くためには女性と関わるな」ってものです。これが日本で始めての堂々と発表されたセクハラかもしれないですね。  
奈良時代の女性
奈良時代になると律令制度が出来上がり、官職は男性に独占されるようになってきました。正式な官人も男性だけとなり、女性の巫女は重要な役割を任せてもらえなくなってきちゃいました。このようなお偉いさんの動きは男女平等だった庶民にも広まるようになってきました。こういった律令制度のプロデューサーが、蘇我氏を倒した中臣鎌足の息子である藤原不比等です。中央集権国家を目指し、官僚制度を完璧なものにし、女帝までも巧みに操りまくった人であります。こうしてこの時代になると、女性が政から出されてしまう動きが広まってきたのでした。
遊行女婦(うかれめ)
この時代は遊行女婦(うかれめ)という女性達がいました。役人らが参加する宴会に参加し、歌を歌ったりしてお金を稼いでいた女性達です。が、この遊行女婦は「性」を売る女性だったのでしょうか?答えはNO。「性」を売ることはなく、色んな場所に行く芸能人のような女性達でした。ただ、宴会後気の合った男性と寝ちゃうというのはありました。が、それはお互いが気に入ってのことで、相手を選べない売春とは違うものなのです。そしてこの遊行女婦は、次第に変化していき、性を売る「遊女」となっていくのであります。ちなみにこの遊行女婦はとーっても教養のある女性達だったそうです。
庶民はいまだ竪穴式住居
奈良時代の貴族は富を築き、贅沢三昧の暮らしをしていました。が、その一方で庶民はメチャクチャ貧乏でした、いまだ竪穴式住居で家族全員が住むワンルームだったのです。
フリーセックス時代?
万葉集には恋愛のことやお酒のことなどを題材にした歌が数多くあります。歴史学者の人が「万葉の頃は性の結合が盛んに行われていた」と述べております。続日本紀にも「宮中では昼夜関係なく男女がSEXしている」という意味のことが書いてあるほど。皆さん、そこらかしこでSEXしてたんですねぇ。  
平安時代の女性
平安時代というと、華やかな時代というイメージがありますが、それはほーーんの一握り。貴族だけが歌を詠んだり蹴鞠をしたりと贅沢な暮らしをしていましたが、お百姓さんたちは大変でした。イイトコのお嬢さんの化粧品代だけで、何百人もの農民が生きることのできた時代なのです。そして貴族を取り巻くのは藤原氏、平安時代は藤原氏の最盛期を迎える時代となります。また女性執筆家が多く出てきた時代でもあります。紫式部や清少納言など、宮中のことがよくわかる本を書く女性も現れてきました。平安後期になると、武士が出始め、平家などの「武家」が出てきます。
女性のファッション十二単
平安時代の女性ファッションといえば十二単、これはもー、重ね着しまくりです、多いときは20枚にもなったらしい。そして衣装の重さは10Kg、大変だよね。何でこんなに着込んでんの?その理由はさまざまです。まず宮廷内で女性達が他の女に負けまい!と衣装を競い合った結果こんなに膨らんでしまったとか、さらにこの時代は寒い!布団も綿が入ってない!なので男の人がやってきた時に即席ベッドとなったのです。とはいえ平安後期にはさすがに歩きづらいというので、5枚くらいになりました。
お化粧について
この頃になると後継ぎは男!となってきたので女性の地位は低下しまくってました。そのため父や夫に頼って生きてくしかなかったのです。貴族の女性は外に出ちゃいけなくなり男性が通ってくるのを待つだけ。夜の家の中はあかりもあまりない時代なので真っ暗、いかに薄暗い中でいかに自分をキレイに見せるかがポイントとなってきたのです。結果「透き通るような白い肌」が美の基準になってきました。女性たちは顔の白さを強調するためにおしろいを塗りたくり、また白さを強調するためにお歯黒といって歯を黒くした。さらに鼻が低いほど美人とされていたので、鼻の周りには頬紅をつけ鼻の周囲を紅くしました。さらにさらに白塗りのノリを良くするために眉毛も抜いたのです。さらにさらにさらに、白い部分が多く見える方が美人だったため、顔のデカイ人が美人だったようです。さぁ!以上のことをすると、笑うと顔がパキっと割れる平安美人の出来上がり♪というか想像すると怖いよ。
平安美人は笑えない
平安時代の女性は笑えませんでした。ナゼか?というと、上にも書きましたが顔に白粉を塗りまくっているので、笑うとピキっと顔面が割れてしまうからです。
貴族の結婚
この時代は婿取り婚です。しかも男性は複数の奥さんを持つことがOKでした。それでも正式な結婚手続きがあります、まず最初に仲に立つ人が口を聞いて、手紙のやりとりをさせ、そして一晩だけ女性の家に泊まるという「試験」を行います、その日は女性の両親は絶対に顔を出しちゃいけません。男性は翌朝まだ夜が明けないうちに自分のおうちに帰りますが、この日にどっちがか「気に入らないなぁ」と言えばそこでおしまい、それがなければ男性は続けて三日間、夜だけ女性のもとへ通います。そして三日目になると「正式な結婚」が成立。すると三日のモチというのを2人で食べ、女性の家で用意したご馳走でパーティが開かれ、両親は初めてお婿さんと顔を合わせることができるのでした。
男性パラダイス!
さてさて、結婚成立となった貴族の男女ですが、男性は婿としてそのまま女性の家に住みついてもいいし、自分の家に来てもらってもいいし、どっちでもOK。さらに結婚すると、お婿さんの洋服から何から全て女性の家で用意しなければなりません。至れりつくせりの生活が始まります、が、それほどやってあげても一ヶ月くらいで女性の家に寄り付かなくなるコトが!そんな時でも娘を押しかけさせるようなことはしちゃダメ、お婿さんがやってくるのをただひたすらじーっと待つだけ、そのため両親は、婿の足が娘のもとへ来るように、婿の靴を抱いて寝るという習慣があったのです。
妻問婚は大変なのです
上で書いたように、女性の家族は婿を自分の家に引き入れることに必死!何とか男性が女性の家に住み着いてくれるようになるために何でもやってあげちゃいます。めでたくお婿さんが住み着いてくれるようになれば、今度は出産。子供が生まれたら、男の子は婿に出して、女の子はお婿さんを貰う。現代と正反対です、「長男が跡継ぎとなる」というのはまったくなし、そして両親は、孫のためにずーっと面倒を見てあげなければならないのです。
さらに男性パラパラダイス!!
この時代には正直男女間のモラルってのがあまり重要視されてませんでした、もちろん貴族社会だけですけどね。天皇から貴族に至る間まで何人奥さんがいるのかわかんない状態?大勢の妻の中から、家柄や政略的に使えるかどうか・・・などなどを考え、一番自分の出世に見合う女性の家に入ることが多かった。他の妻達はあちこちにいました。藤原道長は「男が妻一人だけなどというのは愚かな人間のすることだ」とまで言い切ってます。
女の出世道!
女性の出世はとにかく宮仕えから始まります。権力者である藤原一族はとにかく娘を天皇と結婚させ、皇子を産ませ、その子を天皇にさせるのに必死、となると、自分の娘を賢くさせるために争うように才媛を雇うようになりました。天皇の後宮は、まさに社交サロンのようだったのです。こうして雇われたの清少納言や紫式部などの女性たち、彼女達のほとんどは中流の出でしたが、頭がいいというだけで宮仕えをし、上流階級の仲間入りとなるのです。ちなみに一番あこがれの職業は「天皇の乳母」でした。
エリート中のエリート「采女(うねめ)」
後宮には「采女」という女官がいました。この人たちは超高級OL!。郡司などの娘の中から容姿端麗な女性だけ66名だけが選ばれるというもので、男性たちの高嶺の花でした。ちなみに「女儒(にょじゅ)」と呼ばれる女官もおり、こちらはまだ半人前扱いでした。
実はあんまりいい意味じゃない?「女房」
自分の妻のことを「女房」とよくいいますよね〜、実はこの言葉、歴史上においてはあ〜んまりいいお言葉ではないのです。「女房」というのは「房」・・・いわゆる部屋を持っている女性で宮仕えの中でも高級OLの部類、つまりは天皇に仕える家臣なのであります。なぜか女房が、今では「妻」=「女房」に変化してしまいましたが、コレには「夫に仕える女房」といった意味合いもあったのかもしれませんねぇ。
平安女性はかなり臭い
さてさて、優雅でミヤビ〜な感じのする平安女性が!実は彼女達はめちゃくちゃ臭かった!まずお風呂なんてほとんど入れない。さらに家から出るのがほとんどNGなため、生活すべてを自分の部屋で行っていた、もちろんトイレもね。そのため香りのきつーいお香をプンプンに炊いていたのです。
貴族は女の子を欲しがった
貴族は初めての子に女の子を欲しがりました。それはナゼかというと、女の子を天皇の奥さんにさせるためです。ちなみに2人目の子は男児を欲しがったようです、2人目も女の子を産んだ場合は、だんなさんは怒ったようです。うまいこと天皇のもとへ嫁がせることに成功した場合は、もちろん男児を産まないとNGでした。
男性の産休があった
平安時代の上流貴族の男性は、子供が生まれると、どんなに忙しくてもお休みを貰った。へぇー!子供の世話するのかな?と、思いきや、実は全然違います。男性の産休は「出産の穢れ」に触れたため、外出禁止となるのでした。
賢い女は嫌われる!?
院政の時代になると「あまり才能のある女はよくない」と批判されるようになります。その辺の男性より漢籍が優れていたといわれている高階貴子も、批判されるように、「漢字=男・平仮名=女」という区別もつけられてきました。
何歳から老いを感じた?
人それぞれですが、道綱母は自分のことを38歳で「私は老けたわ〜」と言っており、清少納言も30歳後半くらい。平均寿命が短かったので、30歳後半で老いを感じちゃっていたんですね。でも、元気であれば老女になっても、今まで生きてきた経験を生かし、周囲に尊敬される人もいました。
平安時代の遊女たち
奈良時代の遊行女婦は「性」を売ることはありませんでしたが、この時代の遊女は「性」を売るようになってきました。遊女は推参(すいさん)と言って、呼ばれなくても貴族のパーティに押しかけることを許されていたので、大規模なパーティになると、船に乗って集団で押しかけていました。それでも「性」を売ることだけではなく、芸能奉仕だけをしたりすることも。気に入った遊女がいた場合は、男性が自分の洋服を脱いで与えるということを行っていました。さて、芸能奉仕した女性にお礼として支払うのは米や絹糸などなど、分配の時になると、遊女たちは恥じらいの気持ちも忘れ、乱闘しつつ自分の持ち前を奪い取ることもありました。そして遊女は代々芸を受け継ぐこととなるので、母から娘・そして孫娘と遊女家業が受け継がれるようになっていくのです。  
鎌倉時代の女性
雅な時代から武士の時代へとなっていく鎌倉時代、平安時代に比べると女性の地位は高くなっていきます。鎌倉時代の女性でひときわ威光を放ってるのは北条政子、「尼将軍」と言われ、政治にも参加した政子の活躍によって、武家社会では女性の地位はそんなに低くなかったのでした。この時代の初めに慈円(じえん)という藤原出身の僧が「愚管抄」という歴史書を書きました。そこに「女人入眼(にょにんじゅげん)」というのを書いています、意味は「日本の歴史では、政治の重要な節目には必ず優れた女性が現れ時代を動かしている。日本の歴史は女性が作る」というものです。この時代に珍しいことを言う人ですね〜さらに「人の生命というのは母のおなかに宿って出てくる。この時の母の苦しみたるや言いようがないほどじゃ。母は苦しみを受けて人を生み出す。これもみな、女人、すなわち母の功なのである。女性は母になる。したがって尊いものである」とも言っております。ってことは、母にならない女性はダメなんかい!?と言いたくなりますが、この時代はこういうような考えもあったんですねぇ。ちなみに慈円が言うような「女性が母となって初めて権力を握る」というのは、平安時代の後期くらいから徐所にありました。
乳母の台頭
この時代、「乳母」というのが権力を持ち始めます。棟梁となる男児を育てるので、乳母の息子達は自然と棟梁と仲が良くなる。こうして乳母の一族は、棟梁に成長した男児の家臣となり、繁栄していくのであります。
白拍子
女性芸能人として生きている女性のことです。平安時代から白拍子は出てきておりましたが、遊女とは違って「性」を売るというより「芸」を売るという色が強い女性達です。後に白拍子は性を売ることを本業とする女性としていっしょくたにされてしまいますが、まだこの頃は芸を売る女性という感じでした。
商業の発達
この時代、平安時代に比べ、経済活動が活発になってきました。そのため、庶民の生活も変化していきます。庶民の女性の活躍も多くあり、女性の役割は平安時代に比べるとかなり大きくなっていきます。
相続税もあった
武家社会においては、女性の地位は悪くありませんでした。政治に参加する女性もいたし、地頭に任命される女性もいたし、そして財産の相続もありました。が、鎌倉時代も終わり頃になると、財産相続は長男一人へと変わっていきます。そのためまたも女性の地位が低くなっていっちゃうのです。ところでナゼ女性の相続税がダメになっちゃったか?というと、先祖代々の土地や遺産を分割相続していたのですが、だんだんと土地が小さくなってきちゃいました。ということで、土地からの収入が少なくなり、武士が貧乏になってきてしまったのです。ということで、武士のビンボー生活を守る為に、女性の相続権利が無くなってしまったのでした。
嫁取り婚へ
鎌倉時代になると、最初から妻を夫の家に迎えるという結婚方式になってきました。それに親夫婦と同居しないというスタイルが増えてきました。が、これは武士の習慣で、貴族なんかは「嫁取り婚なんてよくない!この流行には腹が立つ!」とプリプリ怒っていました。
武士の家はある程度女性に権限がありましたが、フツーの一般庶民は?というと、板だけの簡素な住宅で草葺の家に暮らしていました。妻はダンナと一緒になって生産活動をするかたわらで、子供も育てていました。田植えや稲刈りなどもやるし、蚕の世話をしたりと、毎日が重労働、ダンナも子供をこわきに抱えて世話してました。が、そんな一般庶民でも、農業経営の主導権を握ってくるのはダンナさん。やはり体力の違いからか労働量が違うからです。こうして庶民の間でも自然に「父」が偉くなっていくのでした。
それでもヤッパリ・・・、平安時代に比べ女性の地位は高くなりましたが、それでもやっぱり男性上位、祖先の偉業を受け継ぐ「家」が成立したし、「戦」の多い時代でもあったので、やはり戦闘に参加できない女性は幕府の役職にはつくことはできませんでした。こうしていい役職についた男性は、権力を確保していくので、家の中でも「家長」として権力を強めていたのでした。  
室町時代の女性
室町時代といえば、足利尊氏が幕府を作った時代であります。足利家による将軍家時代が続き、戦国の世へ発展していくワケですが、室町時代の女性といえば真っ先に出てくるのが日野富子ですね。日野家というのは、代々足利将軍の正妻となる家柄でありました、富子のダンナである足利義政があまりにもだらしないため、幕府崩壊の道をたどるようになります。そして朝廷はというと、こちらもイマイチで、幕府の保護なしでは成り立てないようになってきちゃっています。だからこそ、各地の守護大名が戦国大名へと移り変わっていくのです。そしてこの時代から、家父長制度が完璧になっていくのでございます。武士=男が、支配権を持ち女性の地位は下がっていくのであります。
女性が不倫すると・・・
室町幕府はとんでもない法律の解決法を考えました。。それは・・・とある武士が酒屋の妻と密通をしちゃいました。それを知っただんなさんが、その武士を路上で殺しちゃったのです。幕府は調停に乗り出しました、そこで出した答えが「夫は不倫した自分の妻を殺してもOK」というものなのであります。  
戦国時代の女性
この時代はピンからキリまで女性にとっては最悪な時代でした。お姫様は政略結婚の駒にされ、農民の妻は夫が戦いに駆り出され、いつ死んでもおかしくない状態、さらに敗北した領地の女性なんかは、敵に犯されたりと、散々でまさに女性にとっては最悪時代であります。・・・と、思われがちですが、戦国女性はこういう時代だからこそ強くたくましく生きている女性も多くいました。また、戦国女性は江戸時代に教えられる「三従の教え」などはまったくナシ、ルイス・フロイスによると「日本の女性は「日本の女性は処女の純潔をまったく重んじない。処女じゃなくても名誉を失わないし、結婚も出来る」と書いています。戦国は女性でもいつも「死」が隣り合わせ、群雄割拠の時代だからこそ、女性達はたくましく生きていたのかもしれませんね。
お姫様は?
お姫様は「お姫様」として生まれてしまった時から、政略結婚の駒であります。同盟を結ぶ国へ嫁がされるという、いわば人質のようなもの、好いた惚れたなどまーったく関係なし。まれに男性側が女性にヒトメボレして側室に迎えることがあったが、女性側から選ぶ権利はなかった。そして政略結婚し、同盟が結ばれたとします。で、もし同盟が裏切りにより破棄されりした場合、お姫様たちは磔にされたり、串刺しにされたりしちゃいます。
武将の好みは?
ここではざっと武将の好みのタイプを紹介。徳川家康は健康な女性。老後はぴちぴちギャル。織田信長は子供が産める女。豊臣秀吉は、とにかくお嬢様。武田信玄は、かなりの面食い、美女好き。上杉謙信は一生不犯でした。
出陣三日前は禁欲
この時代、「女性は不浄」と言われていたので、出陣三日前には女性とのセックスは禁止、あと、魚や肉を食べたりするのもNG。また、妊娠中の女性が軍衣に触るのもNGです。さらに出産後30日以上たたないと、その女性の手も触っちゃいけませんでした。
御陣女郎
出陣前はNGだったセックスも、出陣したらOK。戦場は男だらけなので、ここで出てきたのが女性の出張サービス、その代表が「御陣女郎」という売春婦達で、集団で仮小屋を作って各地に遠征していました。
鉄砲隊は女性だった?
人手不足の戦国時代は、女性の多くが戦いに加わっていました。ただ、接近戦になるとどうしても弱いので、敵に近づかずに倒せる鉄砲を女鉄砲部隊として持たせることが多かったのです。
女はたくましい
本多忠勝の書き残した書にこのような文が、「オレの若い頃は人手が足りなくって、女も戦場へ狩り出された。男の中には血の匂いを嗅いだだけでメマイを起こすようなヤツもいたというのに、女は毎月血には慣れているのか、いざとなると度胸が据わっている。攻め込まれた時、真っ先に突撃していったのも女だった」。江戸時代になると女性は弱いとみなされるようになりますが、実際この時代の女性は強かったのかもしれないですね。
外国人から見た戦国女性
この頃日本へやってきた外国人はおもにキリスト教を布教する人たちです。そんな人たちが日本の女性について語ったことは、
「日本では中絶が多く行われている!おなかを捻ったり、生まれたとしても踏み殺したりしている!」
「日本の女性は、許可無く一人で自由なところに行ける」
「夫婦それぞれ財産を持っており、場合によっては妻が夫に利子をつけて貸すことがある」
「日本の女性はいっつも腕や胸をあらわにした洋服を着ている!」
「高貴な女性は帯をゆったりと締めて、いつも垂れ下がっている。優雅でもある」
「日本女性は髪の毛を黒くするために努力している。それに頭髪に塗った油のせいでいつも悪臭がする」
「日本女性にはアクセサリーをつけるという習慣がない」
「日本女性はおしろいを塗れば塗るほど美人だと思っている。ただ白くすればいいと思ってる」
「日本では妻と夫が一緒に食事をしない。不思議だ」
「日本の女性はすごい酒を飲む。祭りの日には泥酔するほど飲んでいる」
「ヨーロッパの女性は文字が書けない人が多いけど、日本女性は文字が書ける女性が多い」
「ヨーロッパ女性は来客と直接話すのに、日本の高貴な女性は屏風や簾越しに話す」
「ヨーロッパの女性は頭に数多くの飾りをつけるのに、日本女性は何もつけないし、髪も束ねない」
「日本では尼が売春をしている!!おかしい!考えられない!」
「日本の女性は非常に礼儀正しく、世界中にこれほど善良で忠実な女性はいないんではないか?」
セックス管理も仕事のうち
セックスは健康管理の重要な事でした、出陣前に頑張っちゃって疲れちゃったら困るからです。そのため松永久秀や村上義明のように、わざわざ「性」に関する禁止事項を家訓にした武将もいるほどでした。  
江戸時代の女性
江戸時代において「女性」に代表されるのは「大奥」と「遊女」。徳川三代の間に、徳川にとって邪魔な家のお家取り潰しが進みました。そこで出てきたのが「男児が生まれなければ、その家は跡継ぎがいないということで、お家取り潰しとなる」という法律、そのため、各家の主君は正妻の他に、側室を置くこととなったのです。もちろん、正妻から男児が生まれなければ困るので、側室をおいて子供を産ませるためです。ここで「側室」を持つ男性がかなり増えたのです、なんせ「お家存続」に関わることですから・・・。でも、このようなこだわりを持つのはいわゆる上流階級の人々だけ、江戸の長屋に住むビンボー人にはそのようなことはまったく関係なく、下町では「おっかちゃんパワー」が炸裂しておりました。
和俗童子訓
さてさて、では1710年に貝原益軒(かいばらえきけん)という儒学者が書いた本を紹介しましょう。益軒が書いた「和俗童子訓(わぞくどうじくん)」という教育書は「女とは男より数段劣るものである」というような内容のものでした。今そんなこと言ったら大変なコトになっちゃいますネェ。だけどこの頃は男尊女卑バリバリの時代でしたから、なんてったって女性は昼間ほとんど町を歩けなかったらしいし、さらにこの本、男にとっていい妻・悪い妻を書いてあり、めちゃくちゃ男にとって都合がいいことばかり。
男にとっていい妻はというと・・・
子供を産む女、姑に優しい女、義理の子供を可愛がる女、掃除をきちんとする女、稼業を手助けする女、礼儀正しい女、主人に逆らわない女、自分のお小遣いも節約する女、そして極めつけは「何でも主人の言うことを聞く女」だそうです。
さらに悪い妻はというと
子供を産めない女、亭主を尻にひく女、針仕事ができない女、流行者が大好きな女、ご飯の後片付けをすぐしない女、他の亭主をほめる女、ぺちゃくちゃとよく喋る女、とまぁ、うるさいうるさい今なら「お前は何様だ?」と言いたくなるような内容です。いい妻&悪い妻を100項目くらい書いちゃってるんだからすごいもんです。他に貝原益軒は「養生訓」というのも書いており、年齢によって射精の回数はこんくらいがいいと教えちゃってます。で、年取ってあまりにもやりすぎると死ぬとまで。戦国時代の松永久秀のようなお人ですね〜。ちなみに自分は39才の時に17歳の奥さんを貰いました。他に3人妾がいましたが、子供は生まれなかったそうです。じゃあ益軒の奥さんはみんな「悪い妻」じゃん!というか、益軒がダメで産めなかったんじゃないの?って感じですヨ!!それでも昔は女のせいー。
そして「養生訓」のおかげで益軒は85歳と大往生したのでした。
三行半
今度は江戸時代の最悪の風潮「三行半(みくだりはん)」何かわかりますか?三行半で書かれた離縁状のことです。コレ、女性に落ち度がなくっても、男性側が離婚したいと思ったらいつでも書けた、が、反対はNG。女性から三行半は出せないのです。つまり、女性側から離婚してくれというのはダメということ、でもでも、どーしても離婚したい!という女性だっているはず。そんな時の手段は次に書く駆込寺でございます!
駆込寺(かけこみでら)
幕府公認のお寺(鎌倉にある東慶寺とか)に駆込んで、三年間そこで過ごすと正式に離婚ができるのであります。まったく何たることでしょうねぇ。とにかく、全ての権利は男性側にあったわけですよ。
三従の教え
この時代には三従の教えが蔓延しておりました。女性は「父に従い、結婚してからは夫に従い、老いては子に従え」というもの、江戸時代は「家」が大事だったので、女性は「家」を支える男性に従わなければならないというモノ。では子供が生まれない女性は?、こりゃもう大変なことになります。もちろん離婚されちゃう十分な理由だし、文句も言えない。そのため、夫が他の女性(お妾さん)とかに産ませた子供を引き取ったりして何とか妻の座にいたわけです。
一人前の女とは
ずばり!子供を生み母となる女性のことです。この時代、子供ができないのは女性のせいだった、男性の方に何かしらの原因があっても、子供が産めないのは女性のせいだったのです。そのため、各地に不妊女性を救済する神社が各地にのこっているのです。
流産しちゃった場合は?
めでたく妊娠!となっても、流産しちゃったら大変なことに!当時は「子供を流産した女は血の池地獄に堕ちる」と言われていました。
出産後は?
めでたく子供を出産!が、当時の赤ちゃんの死亡率はめちゃくちゃ高く、5歳までに50%の子供が死んでいました。特に疱瘡とはしかが恐れられており、無事その病気を乗り越えた場合は、盛大なパーティが開かれたのです。ちなみに、女の子しか産んでいない・双子を産んだといったような場合は嫌悪の対象とされました。
中絶ってあったの?
ありました。中条流(ちゅうじょうりゅう)と呼ばれる水銀が入った劇薬を膣に入れたり、ほおずきを膣に入れるといった中絶方法が行われていました。さらに貧乏な家で生まれた子供は、面倒見切れないため生まれた赤ちゃんを殺すというようなことも、そのため、寺社に水子供養の塚などが建てられ、心身ともに疲れきった女性を癒す場となったのです。
結婚は超早婚
跡継ぎがいなければお家断絶となってしまう江戸時代、ということで、男女とも13歳から結婚OKだった。江戸時代中期にもなると「戦」で死ぬということもなくなってきたので、男性はだいたい20歳前後、女性は16歳前後で結婚していました。
武家の結婚は厳しい!
江戸時代に作られた「武家諸法度」に「密かに結婚しちゃいけません」という条約があったため、武家の結婚はとても厳格でした。縁組によって家同士が仲良くなるのを恐れた幕府が「許可制」にしたのです。○万石以上の大名の結婚は将軍が許可しないと結婚できなかった。
女性の夢は「旅」
女性にとって一番大事なことは「家を守ること」でありました。女性達は書物をめくっては、旅への夢を見続けていたのです、特に人気だったのは伊勢参り。が、ほとんどの女性は夢かなわず「いつか男性のように旅に出たい・・」と思いつつ一生を終えたのであります。

コレだけを読むと「江戸時代の女性って虐げられてたのね・・・」と悲しくなってしまいますが、全部が全部虐げられていたワケではないですからネ。ちなみに江戸は女性の数が圧倒的に少なかった。そのため男性は結婚相手を探すのに一苦労、せっかくゲットした奥さんを手放しちゃったら、お次はなかなか見つからないので、庶民は意外とカカァ天下だったのかもしれないですね。  
明治・大正時代の女性
この時代はまさに女性の目が開かれる時代となっていきます。
明治維新によって成立した明治新政府は、富国強兵(軍事力を大きくして国を豊かにし、勢力を強めること)とポリシーに西欧文化をがんがん取り入れます。そして欧米に負けない国づくりを目指していくのです。が、それは中央だけ。明治時代は文明開化の華が咲きまくりましたが、農村は「ブンメイカイカってなんじゃ?」と言った感じで、まだまだでした。さてさて、この時代は自由民権運動(国民の自由を主張する運動)が始まり、男女の同権も主張されていくようになりました。ですがこの運動は新政府により弾圧されてしまいました、新たに出来た明治民法は「男系長子相続」をいまだ続行しており、女性を無能力扱いし、そして一夫一妻制を説きつつも、それは建前だけのものだったのです。ちなみに、新政府の作った教科書についてヒトコト言わせてくれ〜「男子と女子の務め」というトコなんですが、「男子も女子もどちらかが偉いというものではありません。男子は成長したら家の主人となり職業を務め、女子は妻となって一家の世話をしなさい」、さらに「女子が家にいて一家の世話をし、家庭の団欒をはかるということは、やがて国の美徳を作るものです。きちんと子供を育てることが、国家の発展になります」だと。教科書が女性の役割について、「家」を守れ!というのを書いているんですね、この考えを強く教えたため、女は結婚したら夫と家の為に貞操を守り、尽くしなさいというのが美徳となっていったのであります。
女性は政治に関わるな
この時代になると、女性解放が叫ばれるようになってきました。そして楠瀬喜多(くすのせきた)という女性が「女性に投票権がないのはおかしい」と言ったのです。これの答えは「婦女はもっぱら内を勤めるべきで、女子が政治に関わるという事は女性の本分に背いている。家事に不都合をきたす」というものでした。
死んでも貞操を守れ
明治になると「士族」となった武士達ですが、士族の妻子達は自害してでも貞操を守るように教育されました。貞操を守るように懐刀を渡され、貞操の美徳を幼い頃から叩き込まれたのです。が、妻には厳しい貞操を要求する一方で、男性側はというとやりたい放題、貧乏になったら娘を売るなど、家長の一言で女性は物のように扱われていたのであります。
中絶の禁止
明治元年に「中絶禁止」という法律がでました。これは富国強兵・繁殖興行の発展のためでした、今まで出産は産婆さんに頼り、衛星状態も悪く、中絶や生まれたばかりの赤ちゃんを殺すということが数多く行われていました。農村では生まれた子供をすぐ売ったりというようなこともあったので、そういうのをひっくるめて全て禁止となったのです。
散髪令が出た
明治になると、男性はちょんまげをやめてザンギリ頭になるようになりました、西洋の風習が流れてきたのであります。「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われたほど、ところで女性はというと、文明開化の流行に乗って髪の毛を切る女性が多く現れました。こうなってくると世論は「女性が男性の真似をするなど何事か!」というムードに、新聞にも「女子は髪を長くし飾りをつけることこそがいいのだ」とか「男性の真似をするなど片腹痛い業である」など書かれてちゃいました。そして結果は「女性は今までどおりにすること。髪を切るな」という条例が出来たのでした。
四民平等・・・だよね?
新政府は四民平等を唱え、身分の違う者たちでも結婚することがOKとなりました。さらに外国人と結婚することもOKに。が、実際問題、それはなかなか難しいものだったようです。
妾の存在
この時代の女性の地位を象徴するものの一つが「妾(めかけ)」が公認されていたというもの、現代では考えられませんが、戸籍の「配偶者(妻のこと)」の次に「妾」ってのが書いてありました。さらに妾は二等親として認められていたのです。
女性だけにある姦通罪
明治の法律には妻のみに姦通罪が規定されておりました。姦通罪ってのは、他の男性とエッチしちゃだめですよってもん、これは女性のみ罰せられ、男性は未婚の女性とエッチしても姦通罪には問われないという、すごい不平等なものでした。
日清・日露戦争の影響
明治では日本と清の間で戦争が始まりました。そして日本とロシアの間でも戦争が、この戦争は、今までの英雄像を変える戦争でもありました。まず、武士でも士族でもない、一般人が英雄として新聞などに紹介されるようになったのです(死んでも喇叭を放さなかった木口小平など)。このような話が美談として新聞などで取り上げられたため、「お国の為に」という考えが出てくるように。
嫁VS姑
いつの時代にも嫁VS姑のバトルってのはあるもんです。現代は嫁も強くなってますが、昔はほとんどが嫁が姑にいじめられるってもんでした。1914年の読売新聞に「身の上相談室」というのが始まると、なんとここに嫁が姑との対立に困っているという投書が殺到したのであります。同じ頃に創刊された「主婦の友」でも、この問題はかなり取り上げられたのでしたが、世論はどっちかというと嫁より姑を贔屓していました。それに異論を唱えたのが与謝野晶子、与謝野晶子は「嫁姑問題は夫にも責任がある」という考えで、この時代には考えられない意見を発表したのでありました。
キリスト教の教え「一夫一妻制」
日本の男女のあり方に批判を出し始めたのがキリスト教でありました。明治二十年ごろになると、矢島楫子(かじこ)がキリスト教夫人矯風(きょうふう)会を創立し、一夫一妻制を唱え始めたのです。そして売春を社会悪として、廃娼運動に取り組むこととなったのです。
公娼とは?
売春婦を斡旋しているというものです。1924年の時点で、娼妓の数は全国で52000人。ちなみに遊びに来る男性客は32000万人ほど、これにプラスし、芸妓や酌婦などを合わせると全国で17万人以上の売春をする女性がいました。ほとんどが農村から連れて来られた娘だったり、口減らしのために売られたりする娘でした。妻には姦通罪など貞操を守る法律がある反面で、男性はこのような公娼制度をフル活用して遊んでいたのであります。
廃娼運動の始まり
このような公娼はやめるべきだ!と唱え始めたのがキリスト教の人たち、湯浅治郎らが娼妓廃止を県会で訴え始めました。が、業者側が大反対!激しい攻防が繰り広げられました。その動きは各地に及び、さまざまな意見が出されるように、福沢諭吉なんかも「一夫一妻制は大賛成です。だけど、普通の女性達の安全を守るには公娼は必要悪なのではないか?」という意見を出してます。さらに巌本善治は「娼妓がいなくなったら、世の中全ての夫婦がダメになる!」とまで言ってました。
廃娼運動ヒートアップ
激しい攻防を続けていた廃娼運動ですが、なんと超有名な娼婦の町・吉原が火事に全焼するという事件が、これを機会にさらにヒートアップ。この頃になると、キリスト教以外の人々も加わってきました、さらに時代は大正デモクラシーを迎え、娼婦達も立ち上がってきたのです。さらに国際世論も女性の売春について禁止する動きが、こうして世論は廃娼の動きがヒートアップし、めでたく公娼廃止となったのです。籠の鳥と呼ばれていた遊郭の女性達は、はじめて外の世界へ出ることができるようになったのです。
結婚が女性の唯一の生きる道
女性にとって「結婚」は生きていくために必要なものでした。女性が働くなんてまず考えられなかったからです。そのため、両親が決めた相手と好き嫌い云々ナシで、結婚させられていました。恋愛結婚できる女性なんてほとんどいない、でもそれは男性も同じこと、お互い好きでもない相手と、家柄や地位などで見合った結婚をするので、男性が浮気をするのは当然のことと思われていました。大正時代の女性の一番の悩みは「夫の浮気」、1918年に雑誌「主婦の友」が「不幸な結婚に嘆く女性の告白」というのを募集したところ、数多くの投書が集まりました。みんな「夫は浮気ばかりで寂しい生活。私は生きている価値がない。でも子供のことは気になる」といった内容、これに対する主婦の友の回答は「ほとんどすべての女性が同じような経験をしている。あなただけではない」というものでした。こうして女性は浮気する夫に尽くしながら、家庭を守っていたのです。
原始女性は太陽であった
が、押し付けられた良妻賢母の生き方に疑問を感じ始めた女性も数多くいました。新しい女性達の雑誌「青鞜(せいとう)」が発刊されたのであります。青鞜の代表者が平塚らいてう、女性の自己を主張しはじめる「新しい女たち」が登場したのです。さらに与謝野晶子、与謝野晶子も青鞜に様々な意見を主張しました。
処女の大事さ
女性は結婚するまで絶対に処女でなければなりませんでした。結婚前に男性とエッチしたら、その血液が胎内に残り、子供を出産する時にその時の血液が混じってしまうと信じられていたからです。強姦されてしまったら、「自分は傷物になってしまった」と自殺する女性もいました。とにかく何が何でも貞操を守り、処女でなければならなかったのです。そんな処女性に意義を唱えたのも「青鞜」でした、青鞜は「処女を捨てるかどうかは女性が決めること」と発表、これには大ブーイングが。「貞操は女の命だっ!」といった意見が殺到したのでありました。ちなみにコレに対抗して「処女会」というのができました。青鞜の新しい女たちに危機感を抱き、女子は絶対に処女でならなければいけない!といった考えの会です、ちなみに会員数はピーク時131万人もいました。
政治に参加したい!
平塚らいてうは、青鞜に代わる新しい運動をするべく考えていました。そこに現れたのが婦人問題に関心を深めていた市川房枝、房枝は「これが噂の新しい女ってやつね。でも目的のためなら一緒にやっていけるわ!」と、2人は1919年に新婦人会を作ったのです。そして日本で始めて女性の権利の実現を掲げた婦人参政権運動団体が誕生しました。新婦人会はさまざまな運動を起こし、マスコミから非難されまくり、が、頑張ってなんとか政治集会に参加してもいいという権利を獲得したのであります。ですがまだ政党加入の権利はなく、さらに頑張って運動していくこととなります。が、らいてうは病気になり活動停止、そして次第に新婦人会のやり方に不満を感じるようになり、新婦人会は解散してしまうのでした。
セクハラ告発第一号
記者として働いていた生田花世は、職場の上司に従わないとクビにするぞと言われ、処女を喪失しました。そして処女喪失が自分をひどく苦しめたため、その体験を雑誌に書いたのです。大正三年のことでした、時代はまさに職業婦人がじょじょに現れだしていた時なので、多くの女性が同じような経験をしていたのでした。
着物を脱いだ女性達
明治32年に、ベルツ博士という人が、「日本女性の体格が貧弱なのは着物のせいだ」といいました。これがきっかけとなり、女子高では袴(はかま)を着るように、そして大正時代になると山脇学園が全国初の洋服の制服を採用したのです。
モガ登場
関東大震災後、銀幕を通して「モダン」が大流行、そこで登場したのが「モダン」と「女性」が結びついた「モダンガール」通称「モガ」です。ちなみに男性はモダンボーイから「モボ」、さらに「アッパッパ」という服装が流行、薄手のサマードレスのようなお洋服です。  
昭和時代の女性
大正デモクラシーなどで大忙しだった時代を終え、昭和がやってまいりました。昭和のポイントは「戦前と戦後」でございます。
昭和6年の満州事変から日本は太平洋戦争へと突き進んでいきます。この戦争は国民の参加と協力ナシでは継続できませんでした。そのため日本全国が国民精神総動員運動をスタートさせたのです。国民の言論や運動を規制する様々な法律が作られはじめました、婦人雑誌も「戦いに出た夫が、憂いなく戦えるように」と自殺した妻を賛美したりしました。また、教育も「お国の為に命を捧げる」というものとなり、軍や政府の考えを批判する人を「非国民」と呼ぶように、戦争反対を叫んだら捕らえられる時代となってきたのです。「非国民」という言葉は国民の間でも大流行しました。こうして「天皇の為に死ぬ」ということが、日本国民の最大の忠義であり、そしてそれが当たり前のようになっていくのです。さて、女性はというと女学生は軍事工場で働くようになりました。1943年には働いていない14歳から40歳の未婚女子に挺身隊を結成し働くことが呼びかけられました。挺身隊は政府の指定する工場で働かねばなりませんでした。さらに挺身隊といして連行された朝鮮人の女性の多くは従軍慰安婦という、兵を慰める性の相手としされてしまったのです。この時代で一番嫌なのは「従軍慰安婦」のことです、ホントに、女性の権利を全て剥奪したものです、が、戦争というのはそういうものだと多くの方が述べています。確かにそれが戦争なのかもしれませんが、やはり同じ女性として従軍慰安婦については考えさせられます。こうして天皇の為に死ぬことが最大の美徳のとなり、そして日本は敗戦し幕を閉じることとなります。
大戦後に国際連合が誕生しました。国際連合はファシズムを許さず、大きな国も小さな国も平等な国際関係を結び、男女を含め全ての人々を平等な関係にするとして生まれたのです。
そして日本も大きく変わりました、国の主権は天皇ではなく国民にあるとなったのです。そして戦争放棄という条項ができました。さらに今までの「家」制度や、女性の無能力規定を廃止し、恋愛や結婚・離婚も自由にできるように、そして婦人参政権も実現したのです。つまり、人間として生きる生活が保障される国へとなっていくのです。ですが、まだまだ「夫は仕事。女性は家庭」という役割分業は消えませんでした。妻は無料で家庭内の仕事をし、夫や子供のために生きるという社会構造は、女性の労働を社会的にも低くし、まだまだ性差別が続くこととなるのです。
生めよ増やせよ
政府は戦時中人口政策として「生めよ増やせよ」と呼びかけていました。兵の人数が足りないので、とにかく子供を生めというものです。
堕胎罪
軍事力を増大させるために「生めよ増やせよ」の風潮が高まりまくった、そのため妊娠が奨励され、中絶をすると堕胎罪として逮捕されたのです。堕胎罪で有名な犠牲者は志賀暁子などの有名女優、中絶・出産と、どちらが正しいとかそういうのは置いといて、選ぶ権利が女性に与えられていなかったのです。男の勝手で妊娠し、一人で育てる事ができないため中絶する、そして女性は逮捕され、女性を妊娠させた男性はなんのお咎めもなし、今思うと、ホントすごい時代ですよね。
間引き
昭和初期、東北地方は大凶作に見舞われました。農家の女性達は生んだ子を育てる事が出来ないため、間引きが盛んに行われたのです。間引きとは口減らし(食べるものがないから、食べる口を減らすこと)のために、生まれた子供を殺すことです。生まれたばかりの子供をぼろ布に包み、押しつぶすのです、この方法だと、中絶をして堕胎罪で捕まらないし、母体にも影響がない、死産ということにして、警察の目をごまかすことができたのです。
しゃぼん玉
間引きが頻繁に行われていた時によく歌われたわらべ歌です。作曲した人は、自分の子が早く死んでしまった為に作ったということですが、この歌が色んな人に歌い継がれるようになったのは時代背景も絡んでいるのではないでしょうか?
しゃぼん玉飛んだ屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで壊れて消えた
風風吹くなしゃぼん玉飛ばそ
しゃぼん玉消えた飛ばそに消えた
生まれてすぐにこわれて消えた
風風吹くなしゃぼん玉飛ばそ
なんとなーくわかりますか?しゃぼん玉は赤ちゃんに例えているんですね、よくよく聞くと哀しい歌です。
避妊を推奨する人は非国民
中絶は女性の体を傷つけます。そのため一部では避妊をした方がいいという人々がいました。堕胎罪を廃止するべく立ち上がった人たちもいたのですが、その人たちは非国民として弾圧されていたのです。
トラック一杯の女に男一人
戦争は数多くの兵士を死なせました。そのため男性の人数がとても少なくなり、「トラック一杯の女に男が一人」の割合となっていました。また、戦争未亡人が多く、幼い子供を抱えて生活苦となる女性が大量に発生しました。
離婚の自由
離婚の自由が認められたことに一番喜んだのは女性でした。家からの解放を求めて離婚率が急上昇したのです。戦後になってようやく離婚ができ、初めて私は人間になれたと喜ぶ女性が数多くいました。
女性の参政権
1946年に初めて婦人参政権が行使されました。が、今まで政治にタッチできなかった女性達の関心は低かったそうです。それでも第一回目の衆議院選挙では女性だけで67%の投票率となりました、そして、39人の女性議員が誕生したのです。が、次の選挙の時の女性当選者は15人、どうやら男性社会の壁は厚かったようで、とある男性議院は「首相への質問演説に女など出すなんてだめだ!」とまで言ったほどでした。
電化元年
1953年、この年を電化元年といいます。スイッチ一つでご飯が炊ける電子ジャーが登場したのであります。そして次々と新しい電化製品が出てくるのでした、ちなみにこの時代、大学卒の初任給は1万円ほど。で、洗濯機は2万円ほど、給料二か月分でした。
三種の神器
1950年代の終わりごろになると、洗濯機・冷蔵庫・テレビの3つが「三種の神器」として庶民の憧れに、主婦にとってとっても欲しい商品となりました。この3つが各家庭にいきわたるようになったのが1965年ごろ、この頃の三種の神器は「カラーテレビ・クーラー・カー(車)」の3つで3Cと呼ばれました。
アンネナプキンの登場
1961年11月に「アンネナプキン」という生理用品が発売されました。このナプキンの出現は、女性の生理の歴史にとって、まさに大衝撃を受けたのです。今まで生理というのは「穢れ」の対象としてくらーいイメージだったのが、このネーミングと、堂々とテレビで宣伝したことによって、暗いイメージが払拭されたのです。その二年後にタンポンが発売され、女性の生理は新時代を迎えたのであります。
技術・家庭の授業
1958年から中学校では「技術・家庭」の授業がスタートしました。が、技術は男子・家庭科は女子と区切っていました。こうした「男女の特性に応じた授業」は性的役割意識を助長するものとなりました。まだまだ「女の子はお料理ができるようになりなさい」という考えのものです、また、どこの学校も出席簿や名簿は男子が先にくる「あいうえお順」でした。
男女雇用機会均等法
長い長い女性差別の中、とうとうここまできました。1985年に出来た男女雇用機会均等法です、職場での募集・採用・昇進など、男性と女性に差をつけてはいけなったのです。この法律ができるまで、どれだけ女性が苦労したことでしょう、女性管理職が出るようになり、女性でも総合職として働けるようになり、男性だけが配置されていた部署に女性がつけるようになったのです。さらにお茶くみなど、「女性がやるもの」と思われていたものを見直す会社も多くありましたが、果たしてこの男女雇用機会均等法はホントに女性の地位の向上になったのでしょうか?それはこれからを生きる皆様が体験してください。
三つ子の魂百まで
ことわざです。3歳までに培われた性格は、一生変わらないというもの。だから母親は3歳まではしっかりと子供の面倒をみなさいという教えです。コレはどうなんでしょうかね〜現代の働く母親にとっては嫌なことわざでありますね。  
 
化粧の文化

化粧とは、生きていく力
先生は化粧文化を専門にご研究をされていると伺っております。化粧は昔から、私達人間の生活に密接なものですが、学問の対象となったのは、意外にも最近のことだったようですね。
そうなんです。化粧は、--ごまかす−∞−化ける−≠ニいうように、実態がないにもかかわらず、粉飾して、中身があるように見せる悪いイメージがあったせいか、長い間、学問の対象とはなりませんでした。皮膚や毛髪、化粧品などに関する自然科学研究も、始まったのは1960年代からで、わずか50年程と、歴史の浅い分野です。
先生は大学で哲学を専攻されていたそうですが、なぜ化粧文化について研究されるようになったのですか?
縁があって化粧品会社の資生堂に就職したことがきっかけです。哲学で学んだ、物の見方や考え方を活かし、世の中にどんな「美」を発信していけばいいのかなどを研究しています。
改めて化粧の意義について伺いたいのですが、現代の人間にとって化粧の本質とは、一体何なのでしょうか?
私のいう化粧とは、単に白粉や口紅をつけるというメーキャップに限られたものではありません。顔、体、髪を洗うこと、歯を磨くこと、ヒゲや爪の手入れも含みます。
つまり、人間が自分の体に手を加えることすべてを、化粧として捉えているわけですね。
そうです。化粧は社会生活を営む上で欠かせないものであり、自分が自分であるという、アイデンティティと深く関わっています。
人間が化粧をするのは、「異性を惹き付けるため」だけではないのですね。
そうです。人はキレイになると自分に自信が持てるようになります。「キレイになる」というのは、実は人から評価される以前に、自分の思い込みに効いてくるのです。自分に自信を持つと、人との接し方が変り、人間関係も変ります。それが明るい方向に循環していくと、人間関係がどんどん開けていくのです。
これをメンタルケアや介護など、医療に応用したのが化粧療法なのですね。
はい。高齢者や認知症患者、うつ病患者、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の方などは、自分で化粧をできるような環境にすると、症状が改善するのです。精神的にまいり、自分を見失いそうになった時にも、化粧は大きな力を発揮します。
化粧は心の傷をも癒す力がある…?
内面は外見に反映するといいますが、外見も内面を形成していく上で大切な要素なんですね。
人は、化粧やヘアスタイル、服装など、個人を特定する要素が奪われると、自分が自分であることを保つことができなくなり、洗脳されやすくなってしまいます。囚人や捕虜に同一の服装、髪型を強要することの意味もここにあります。
人間のアイデンティティを保つ上でも、外見は重要な要素なのですね。
自分がどういう行動をしたらふさわしいのか、自分づくりに大きな力を与えるのです。
美しさの要件
先生は大学の講義などで、若い学生に接する機会も多いと思いますが、昔と比べて現代人の化粧観はいかがでしょうか?
私の学生時代に比べると、みんなプロポーションもファッションセンスもとても良くなっていると思います。にもかかわらず、なぜか、キレイじゃないな、と違和感を感じてしまうんです。
それはどういうことでしょう?
どんなにすばらしい外見でも、言葉遣いや立ち居振る舞い、教養の3要件が伴っていないと美しくは見えない、ということに気が付きました。
なるほど、確かにキレイな人でも動作や話し方でガッカリしてしまうことがありますね。最近は、電車で化粧をする女性が増えていますが、新しい文化と捉えてはいるものの、やはり違和感を感じます。
あの行為は、周りにも人間がいるのに、自分達仲間だけが理解できればいいという、これから会う人のことしか考えていない行為です。とても世界が狭く、可哀想に思えてきます。
周りを景色としてしか捉えていないでしょうね。何か授業で心掛けていらっしゃることはありますか?
はい、学生達の世界観が深まるよう、立ち居振る舞いを身に付けられるような授業を試みています。
どのような方法で教えられているのですか?
和服を使っています。和服は立ち居振る舞いを教える上で、とても便利な道具です。和服を着ると、しぐさが上品になる効果があり、着慣れない人が着ると、手をどこに置いたらいいのか、足をどう動かしたらいいか分らずに戸惑い、全身のあり方を意識します。これが美しさの上でとても重要です。
自分がどういう姿なのか、身体のあり方を考え直す、いいきっかけになるのですね。
私がお手本となって、学生達に着方、立ち方、歩き方、座り方、さらに日本舞踊も教えています。小さい頃から習っていた日本舞踊が、今になって授業に役立つとは思いもしませんでした(笑)。
スロービューティーとは
ところで、先生は「スロービューティー」という美のあり方を提唱されているそうですね。
はい、スロービューティーとは、価値の多様化でして、人それぞれが持っている美しさを引き出すことです。
クマやシワを消すといった美容整形などのような、慌てて対処して即効的に美を手に入れる、「ファーストビューティー」と対極にある考え方です。
じっくり時間を掛けて自分本来の美しさを引き出す…。
人間、若い時だけが美しいわけではなく、その歳でしか表せない美しさもあります。美容の本来の姿、毎日少しずつケアを積み重ねることで、美しく歳を重ねることが重要だと思うのです。
言葉遣い、立ち居振る舞い、教養の3要件は、いつでも誰でも身に付けられる上に、歳を重ねるごとに磨きがかかるものですよね。
老いを恐れて若返りばかりを求めないで、10年先、20年先を楽しみにして毎日が過ごせたら素敵ではないかと思います。老化対策が何でもできる今だからこそ、スロービューティーを提唱していきたいと思います。
スロービューティーが広まり、美しい女性が増えていくことを願っています。
男性も、ですね(笑)。
 
お多福美人のこと

お多福は白隠の仮名法語、絵画などに出る重要なキャラクターである。
お多福は、おかめ、お福ともいう。丸顔で鼻が低くおでこで、両頬が高い醜女であるが、愛敬のある顔だちをしている。「宮比神御伝記」一九には「或説に、足利の末頃とか、ある神社の巫子に亀女とて、その見目ハかの面のごとくなるが、宇受売命(うずめのみこと)を信仰し、愛敬こぼるゝ計にて、……見目よりも心の実ありて、何なる渋つら悪玉も、この亀女が貌をみしほどハ、其の悪心のやみし故に、其のかほを面につくり、お多福と名づけて弘めしが始めなりと云ひ、また一説にハ、直に宇受売命の御かほに擬へたる物なりとも云ふは、何れかまことの説ならむ…」という。
天鈿女命(あまのうずめのみこと)は、天の岩戸で踊りを踊った女神であるが、古代では必ずしも醜女ではなく、むしろ美女のイメージである。近世芸能の中では、「ひょっとこ」とともに道化役をしたりするが、その愛敬ぶりが強調され、福相として尊ばれる一方、逆に醜女の蔑称として使われることも多い。元禄期の狂言「毘沙門長者」に出るお福は醜女の典型である。また文楽浄瑠璃でのお福も醜女の道化役である。白隠より少し後になるが、朋成堂喜三二作、恋川春町画の「桃太郎後日噺」という黄表紙では、醜女でいていささか好色なわき役として描かれている。
お多福のイメージの特徴は、このように両義性があることである。
ところで、白隠禅師の「おたふく女郎粉引歌」の冒頭には次のようにある。
あの下もの町の新べさんのゝおふくは
鼻はひしやげたれど、ほうさきが高ふて
   よひおなごじやの
なんのかのてゝ、いつかひおせわでござんす
天じや天じやと皆様おしやる
  てんのとがめもいやでそろ
文(フ)みの数文みの数恋(コ)ひ焦(コガ)れても
  わしは当座の花はいや
数ずの男の思ひもこわひ
  みめの好(ヨ)ひのも気(キ)の毒(ドク)じや
器量(キリヤフ)好しめと誉(ホ)めそやされて
  男ぎらひの独(ヒト)りねを
命(イノチ)取りめと皆様おしやる
  わしは命はとらぬもの
那須(ナス)の与市(イチ)は箭(ヤ)さきで殺(コロ)す
  おふが目本で人殺ろす
数ずの殿子(トノご)は限りもないが
  わしがいとしは只独(ヒト)り
婆々(バば)が粉歌(コウタ)は面白かろが
  ふくがしらべは知りやるまい
知音(チイン)どしなら歌ふもよいが
  やぼな御客(ヲキヤク)にや遠慮しや
「おふくは鼻はひしやげたれど、ほうさきが高ふて、よひおなごじやの」とは、醜女の条件を備えた美人だ、という意である。白隠は「さし藻草」巻一の十五丁で、大名が美しい側室などを多くかかえることを批判するくだりでも「随分長(たけ)低くて色黒く、鼻ひしげ、ほう先き高く、見苦るしきお多福と云へる美人」と言っている。「醜女の美人」「見苦るしき美人」というのである。一見すると醜いが、よくよく見れば個性的で、なかなかの美人ではないか、などという具体的な審美観を表明しているのではない。醜即美だというのである。対立した矛盾概念を一挙同時に言うのを、禅的修辞では「抑揚」というが、ここもその伝であろう。いかなる審美観もすべて俗に堕すのである。
俗世の大方の男にとって、女性の美醜はあるいは重大関心事であり、このぬぐい去りがたい執着のために、一生を区々として終えることもある。また、女性にしても、美しく見えるように、その装いの工夫にただならぬ情熱を傾けるものである。
右に引いた「粉引歌」の冒頭の歌を見ると、おふくは、恋い焦れる多くの男から恋文を寄せられる「みめの好ひ」女で、「器量好しめ」「命取りめ」といわれ、「目もとで人を殺す」ほどの美人である。すなわち、世間の美醜の判断からすれば、とびきりの美人である。
ところが、その飛びきりの美人を白隠は醜女の「お多福」に描き表現するのだ。かつて美人の皮を剥ぎししむらを破って見せたのは九想詩の絵(美女が死に、体が膨れ腐り、鳥獣につつかれ白骨になり、最後に土に帰っていくさまを、九段階の絵で示したもの)であり、美をひんむいて醜を曝して見せたのは一休の「骸骨」であった。けれども、いま白隠禅師には美もなければ醜もない、美醜一如、美は醜であり、醜は美である。そんな世俗の美醜の判断を超越し、人々に福をもたらすお多福美人、それが白隠の描くおふくさんである。
「粉引歌」のおふくは、また女郎でもある。伊勢・尾張辺では、宿場女郎や飯盛女のことを「おかめ」と称したという。「殿々奴節根元集」に「宮の宿のはたご屋なる飯盛女をおかめと呼事は、寛政十二申のとしの秋、熱田の…町はづれに大なる茶屋有て、蜆汁をうりたり。…此うちの下女をおかめといふ。此女かの茶屋の庭に、床台を出して茶菓子抔売しが、いつとなくおかめが店とて流行出せり。…是より呼初て、当所の飯盛女の惣名とはなれり」という。寛政は白隠没後のことであるが、同じようなイメージが白隠の時代にもあったかも知れない。
以上を念頭に、「おたふく女郎粉引歌」の図を観察してみる。おふくが何やらを石臼で挽いているが、その前には、茶碗と茶筅が置かれているから、茶を挽いていると分る。「お茶を挽く」という語があり、女郎などが客がつかず暇なことをいう。その語源説はいくつかあり、「日本国語大辞典」では七項目をあげている。「お茶挽き」「お茶挽き女郎」の言葉もあり、客がつかず売れないので暇な女郎のことをいう。おふくが、下積みの不遇な境遇に置かれていることが暗示されていよう。
また、おふくの着物には梅鉢の模様がついている。梅鉢は北野天神の象徴である。天神信仰は古くからあるが、禅林での天神は「渡唐(宋)天神」である。これは詩禅一致を目指す五山僧によって創作された話で、日本の詩神である菅原道真が、夢で径山の無準禅師に参じて、一夜にして印可を得、梅一枝をもって帰った、というものである(「国史大辞典」の「渡唐天神」項に、その概要、研究文献などが要領よくまとめられている)。かかる話が創作された背景には、日本を代表する学問(文学)神である菅公が、中国伝来の思想である禅に参じたという形をとることによって、外来の禅を日本に普及させ根づかせようという意図もあったと思われる。五山以降、「渡唐天神」図は多くの禅僧によって描かれて来たが、白隠禅師もまたいくつかの「渡唐天神」図を残している。
一方、白隠禅師は、貞享二年乙丑の十二月二十五日夜丑の刻(丑年丑月丑日丑刻)に生まれたという(「年譜草稿」)。自伝である「壁生草(いつまでぐさ)」には「熟(つ)らつら指を屈して 処ンが誕日を考うるに、貞享第二丁丑の歳の臘月廿五鶏鳴丑(ケイメイチウ)なり。年月日時共に是れ丑。往往に言う、二十五日は忝くも丑天神の御縁日なりと。然れば北野に因由有るに非らずや」とある。白隠の天神信仰の原点でもある。
これによって見れば、梅鉢の紋所は単に北野天神の象徴というだけではなく、日本に伝承された禅の正統を受け継いだ白隠自身である。さらに言うならば、外国の文字である漢文を至上とした五山とは異なって、日本語である仮名法語や和賛を附した禅画などによって禅の立場を宣揚し、定着させようとした白隠禅師は、江戸の時代にふさわしく、装いあらたに生まれかわった「渡唐天神」でもあった。梅鉢の紋所は、これらを象徴したものであろう。
さらに観察すれば、おふくの前には、煙草道具(煙管と煙袋)が配置されており、煙袋にも梅鉢の紋がついている。これは、おふくが白隠禅師の化身であることの隠喩である。白隠禅師が愛煙家であったことは「荊叢毒蕊」などで判明している。梅鉢紋の煙草セットは白隠のものである。筑摩書房の図録「白隠」一四〇に「布袋吹於福図(布袋、於福を吹く図)」がある。賛語は次のとおりである。
善導吐三尊弥陀(善導は三尊の弥陀を吐く)
布袋吹二八於福(布袋は二八の於福を吹く)
吐弥陀依称名功(弥陀を吐くは称名の功に依る)
吹於福将其何力(於福を吹くは将た其れ何の力ぞ)
随分とおもへどお福ばかりは
吹にくひものでござる
布袋が煙管を右手にし、深く吸い込んだ紫煙とともに十六歳(二八)のお福を吹き出しているところである。布袋はすなわち白隠である。おふくの着物には天神の紋所である梅鉢が印されている。
いま、お茶を挽くおふくの前に、梅鉢の紋がついた煙管・煙袋が置かれているのは、おふくを我が(白隠禅師)化身として、この煙管から吹き出し了ったものであるぞよ、との暗示である。
お婆々どの粉引歌
白隠禅師による仮名法語の代表作というべきお婆々どの粉引歌(こひきうた)は、七・七・七・五の都々逸節(どどいつぶし)の形式で書かれた法語であり、主心お婆々の名で本文中に登場する「お婆々どの」は、私たちの本心本性を擬人化した人物である。
粉引歌は石臼を引くときに歌われる仕事歌で、原作には石臼で抹茶を引くお婆々とお多福女郎の絵が載っている。女郎がお茶を引くのは客が付かずに売れ残っていることを意味し、この絵にお多福女郎が登場するのは法語の導入部にお多福女郎の歌が添えてあるからである。
それではなぜお多福女郎の歌が添えてあるのかというと、この仮名法語は世阿弥(ぜあみ)の作といわれる謡曲・山姥(やまんば)を踏まえて書かれており、この謡曲の導入部で「百ま」という遊女が山姥の話の糸口を引き出すように、お多福女郎の歌が本編を引き出す役を受けもっているからである。山姥は一休禅師の作ではないかといわれるほど大乗仏教的な性格を持つ謡曲であり、白隠禅師はそれをふまえて粉引歌を書いたのである。
江戸時代初期の沢庵(たくあん)禅師にも、山姥の物語を大乗仏教の立場から解き明かした「山姥五十首和歌」という道歌集がある。その中のつぎの二首からわかるように山姥は心そのものを表している。
「さだまりて、山姥といふものはなし、心の変化これをいふなり」
「山姥といふはこゝろの名なりけり、心のゆかぬおくやまもなし」
白隠禅師は謡曲山姥と山姥五十首和歌を参考にしながら、名を山姥から主心お婆々に替えてこの仮名法語を書いたのだろう。
この法語は前後二つに分けることができる。「堕(だ)して苦しむ地獄もないが、往(ゆ)ひて楽しむ浄土もないぞ」までが前半部分で、そこまでは一般むけの分かりやすい内容になっているのに、そのあとはなぜか禅の修行者向けの辛口の言葉が並んでいる。仮名法語は本来、一般の人に向けて分かりやすく仏法を説くものの筈なのに、後半は修行者向けのお説教になっているだけでなく、最後の方には一般の人には理解できない公案の名前までずらりと並んでいるのである。
そのあたりのことを、白隠禅師法語全集の訳注者である吉沢氏はこう説明している。この歌が巷に広がり田婦野老(でんぷやろう)まで歌い出すようになれば、布教する側の禅僧も自分の足もとを点検せざるを得なくなる。それが白隠禅師の狙いではないかと。後半の辛口部分で白隠禅師が言っているのは次のことである。
悟るだけでは不十分。悟後(ごご)の修行が大切である。
悟後の修行とは菩提心である。
菩提心とは上求菩提(じょうぐぼだい)と下化衆生(げけしゅじょう)である。
下化衆生は法施(ほっせ)が主である。
法施を実践するには、まず見性し、公案でもって見性の体験を深め、そらからさらに広く学んで法財を身につけなければならない。
お婆々どの粉引歌
あのゝ下もの町の 新べさんのゝおふくは
鼻はひしやげたれどほうさきが高ふて よひおなごじやの
なんのかのてゝ いつかひおせわでござんす
天じや天じやと皆様おしやる てんのとがめもいやでそろ
文(ふみ)の数々恋ひ焦がれても わしは当座の花はいや
数の男の思ひもこわひ みめの好ひのも気の毒じや
器量好しめと誉めそやされて 男ぎらひの独りねを
命取りめと皆様おしやる わしは命はとらぬもの
那須の与市は矢さきで殺す おふ(お福)が目本で人殺す
数の殿子(とのご)は限りもないが わしがいとしは只独り
婆々が粉歌は面白かろが ふくがしらべは知りやるまい
知音どしなら歌ふもよいが やぼな御客にや遠慮しや
お婆々どの粉引き歌
所望 所望

有り難ひぞや天地の御恩 あつささむさの程までも
夜と昼ともなふてはならぬ ひるは働く夜分は休む
雨露(うろ)の御恩で五穀もみのる すへの野山の草木まで
君(きみ)の御恩は山より高ひ 賎(しず)がわら屋の果て迄も
繁盛召されよ萬代(よろずよ)までも 風に草木のなびく様に
忘れまいぞよ御主(ごしゅう)の御恩 遠きあの世の後(のち)迄も
親の御恩は海より深ひ 恩を知らぬは犬猫じや
孝行する程子孫もはんじやう おやは浮き世の福田(ふくでん)じや
心短気な殿子のくせに 主(しゅう)の専途(せんど。大事)にや遁(に)げ走る
 
五尺余りのからだは持てど 主心なければ小童(こわらわ)じや
武芸武術も第二のさたよ とかく主心(しゅしん)がおもじやもの
主心なければ空き家も同じ きつね狸も入り代わる
周の文武の太公望が 云ふておかれた名言がござる
武家の大事の三略の書に 驚悲(きょうひ)乱りに起こるはどふじや
武士に主心の定まらぬ故 主心定まる修行しや 
弓は鎮西(ちんぜい)八郎殿よ 槍は真田よ太刀打ちや九郎
たとひこれ等を欺く人も 主のここわの(いざという時の)専途の時に
主心なければ腰ぬける
主心、至善(しいぜん)二つはないぞ 常に正しき此の心
唐の大和の物知りよりも 主心定まる人が好ひ
 
武士を絹布で食わせておくは 主の専途の一小口(ひとこぐち。要所)
多芸多能も先ずさしおいて 主心定まる場所を知れ
主心、至善定まる時は 持斎持戒も外(ほか)にやない
有り難ひぞや主心の徳は 太刀(たち)や剣(つるぎ)の刃も立たぬ
弓も鉄砲も届かぬからに 敵と云ふ字は更にない  
空も月日も海山かけて 土も草木もみな主心
神とまります高天が原も 五欲三毒ないところ
民を新たにするとは云へど 至善定まる迄の事
出家沙門も高位も智者も 主心なければ皆民じや
宮もわら屋よ、わら屋も宮よ 主心一つが潮ざかひ

上下万民主心があらば 治めざれども世は万歳
嬉れしめでたや主心の徳で うたぬ隻手(かたて)の声をきく
悟り迷ひを口には説けど 主心居(すわ)らにや、なんじややら
袈裟や衣で見かけは好ひが 主心すわらにや、ひよんなもの
四国西国めぐるも好ひが 主心なければむだ道よ 
主心、丹田気海にみつりや 仙家(せんか)長寿の丹薬(たんやく)よ
丹を錬(ね)るには鍋釜いらぬ 元気丹田に居(すわ)るまで
不死の丹薬望みな人は つねに気海に心おけ
虚空界より長寿な者は 気海丹田に住む主心
気海丹田に主心が住めば 四百四病もみな消ゆる
 
主心お婆々はいくつになりやる わしは虚空とおないどし
虚空おやぢは死にやろと儘(まま)よ わたしやいつでも此の通り
山河大地を我が子に持てば わしにや不足な事はない
武士の身の上や覚悟がおもじや 生きて一度(ひとたび)死ぬが好ひ
生きて死ぬるは最易(もやす)ひ事よ 主心お婆々に出逢ふて問へ 
主の御恩で仕立てたからだ 喧嘩などする不覚者
武士は臆病も忠義の一つ 一度主君に上げおくからだ
我が身ながらも自由にやならぬ 大事大事と守りましよ
内証づき合ひ傍輩(ほうばい)どしにや 狗(犬)と云ふとも腹立つな
主の為なら無間(むげん地獄)の底も 修羅も紅蓮(ぐれん地獄)も辞退せぬ
命限りに切り込む所存 是れが勇士の常の住(じゅう)

主心お婆々はどこらにござる 気海丹田の裏店(うらだな)かりて
気海丹田はどこらの程ぞ 臍(ほぞ)の辻から二町下(しも)
臍のぐるわ(まわり)に気が聚(あつ)まれば とりも直さぬ大還丹(だいげんたん。長生の仙薬)よ
いともとふとや還丹の徳は 須弥も虚空も砕けて微塵
十方法界、実相無相 見られてもなく見てもない
生死涅槃もきのふの夢よ 煩悩菩提の迹(あと)もない
堕(だ)して苦しむ地獄もないが 往(ゆ)ひて楽しむ浄土もないぞ 
 
ここに一期(いちご)の大事がござる 真正得悟(しんしょうとくご)の知識に逢わにや
世間多少の修行者どもが 三二十年難行苦行
思ひ計らずこの場に到りや もはや悟った大隙(おおびま)あいた
おらはこれから心の儘じや 殺生偸盗(せっしょうちゅうとう)も気遣(きづか)いないぞ
五逆十悪、好ひなぐさみよ 因果むくひも無ひからと
邪見断無のわがまま悟り よその見る目も恐ろしや
励み求めし見性の法は いまは地獄の種となる
もとの主心は皆消へ失せて 魔縁天狗が入り代わる
過去の縁因(えんいん)拙ない故に ついに真正の明師(めいし)に逢わにや
悟後の修行の奥義(おうぎ)も知らぬ もとの凡夫がいつそ増し

今は澆末(ぎょうまつ。末世)法滅の時 邪見邪法の起こるも道理
支竺扶桑(しちくふそう。中国、インド、日本)の三国ともに 真の禅宗は地に落ち果てゝ
ことに怪しき邪法がござる 曹洞黄檗、済家(さいか)もともに
善知識じやと呼ばるるわろ(奴)も 人に対する説法を聞けば
真正向上の禅法と云ふは 坐禅観法に用事もないが
仏経祖録もさらさら入らぬ 木地の儘ながまことの仏
仏求むりや仏に迷い 法を求むりや法縛(ほうばく)を受く
仏果菩提も夢中の夢よ 生死涅槃も飛ぶ鳥のあと
好きも悪しきも皆打ちすてて 木地の白地で月日を送れ
障りや濁るぞ渓河(たにがわ)の水 問ふな学ぶな手出しをするな
これがまことの禅法だ程に 見ぬが仏ぞ知らぬが神よ 
これを聞くより彼の大勢の 無智や懶惰の役坐(やくざ。役に立たぬ)のやから
扨(さ)てもとうとひ教化でござる もはや是れから我々どもは
おもひ寄らざる生き仏じやぞ くふてはこして寝るばかりじやと
並び睡(ねむ)るを脇より見れば 大勢並んで櫓(ろ)をおす如く
いかが成り行く身の果てやらん 仏法破滅の大前表(ぜんぴょう。前ぶれ)よ

悟後の修行とはどの様な事ぞ おばゝ知てなら歌ふて見やれ
これは大事をお尋ねそふ(そうろふ)よ 五百年来すたれた法じや
諸善知識も知らぬが多ひ 悟後の大事はすなわち菩提
昔、春日の大神君(たいしんくん)の 解脱上人にお告げがござる
およそ倶盧孫仏(くるそんぶつ)より以来 たとひ天下の智者高僧も
菩提心なきや皆々魔道 菩提心とはどうした事ぞ
やまん婆女郎も歌ふておいた 上求菩提(じょうぐぼだい)と下化衆生(げけしゅじょう)なり
四弘(しぐ)の願輪に鞭打ち当てて 人を助くる業(わざ)をのみ
 
人を助くにや法施(ほっせ)がおもじや 法施や万行のうわもり(積み重ね)よ
有り難ひぞや法施の徳は たとひ仏口(ぶっく)も尽くされぬ
法施するには見性が干要 見性ばかでは乳房(ちぶさ)が細ひ
細ひちぶさじや好ひ子は出来ぬ よい子なければ跡絶へる
隻手音声(せきしゅおんじょう。公案の名)もとめ得ておいて ここで休すりや断見外道
次に千重の荊棘叢(けいきょくそう。いばらの草むら)を 残る事なく透過せよ 
お婆々死んでは何国(いずく)えござる とめて給(た)もれよ帆かけ舟
四十九曲がり細(ほ)そ山道を 直ぐに通らにや一分(いちぶん)立たぬ
風の色香はどの様な物ぞ 次に夢中の祖師西来意(そしせいらいい)
最後万重の関鎖(かんさ。公案)がござる これが禅者のむなふく病(びょう)ぞ
関鎖なければ禅宗は絶へる 命かけても皆透過せよ
 
昔、黄檗運(おうばくうん)禅師 常に嗟悼(さとう。嘆き悼む)し惜しませたまふ
さても牛頭山(ごずさん)宗融(そうゆう)大師 常に横説竪説(おうせつじゅせつ。自由自在に説く)はすれど
未だ向上の関鎖を知らぬ 関鎖なければ禅じやない
鯉魚(りぎょ)も龍門万重を越へる 野狐も稲荷の鳥井は越すぞ
さすが禅宗のめしやくひながら 関鎖とおらにや分立たぬ 
祖山寿塔(そざんじゅとう)に五祖牛窓櫺(ごそうしそうれい) 乾峯三種(けんぽうさんじゅ)に犀牛(さいぎゅう)の扇子
白雲未在(はくうんみざい)に南泉遷化(なんせんせんげ) 倩女離魂(せいじょりこん)に婆子焼庵(ばすしょうあん)よ
これを法窟(ほっくつ)の爪牙(そうげ)と名づけ 又は奪命(だつめい)の神符とも云う 
これら逐一透過の後に 広く内典外典(ないてんげてん)を探り
無量の法財集めておいて 三つの根機を救わにやならぬ
三つの根機の其の中ゝに 真の種草(しゅそう)を求むるがおも
真の種草が真実欲しか 法窟の牙(げ)と奪命の符と
鳥の両羽(りょうは)を挟(はさ)むが如く これがなければ種草は出来ぬ

これが即ち仏国の因 とりも直さず菩薩の大行
たとひ虚空は尽きやろと儘よ こちの弘願(ぐがん)は果てしやない
頼み入るぞよ千歳(ちとせ)の後も ひとりなり共、当家の種草
婆女(ばじょ)が心をよく参究せば 祖師の真風は地におやせまい(落ちやせまい)
油断召さるな、おまめでござれ ばゝは是からおいとま申す
主心御婆々粉引き歌終り
寶暦庚辰冬仏成道日(一七六〇年十二月八日。白隠禅師七十六歳)
沙羅樹下老衲書
解説
最初に出てくる「あのゝ」とか、「新べさんのゝ」の「のゝ」は他では見たことのない言葉であるが、意味としては「の」一字と同じと思う。語調をよくするため二字にしたのだろう。
「鼻はひしやげたれどほうさきが高ふて」の「ほうさき」は「頬の先」らしい。お多福だから丸顔で鼻はぺしゃんこ、おでこと頬が出っ張っている。
「並び睡(ねむ)るを脇より見れば、大勢並んで櫓(ろ)をおす如く」は、坐禅をしながら居眠りをしている様子。
「やまん婆女郎も歌ふておいた、上求菩提と下化衆生なり」は、世阿弥作の謡曲・山姥に登場する遊女の歌、「法性峰そびえては、上求菩提をあらはし、無明谷深きよそほひは、下化衆生を表して、金輪際に及べり」を指している。
「四弘(しぐ)の願輪」は「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」の四弘誓願文(しぐせいがんもん)。
「隻手音声(せきしゅおんじょう)」は二つの公案を一つにまとめたもの。隻手は「両手を打てば丁々(ちょうちょう)と音がする。打たぬ片手の声を聞いてこい」という公案。音声は「隻手の音声を止めてみよ」という公案。
「お婆々死んでは何国(いずく)えござる」は、南泉遷化(なんせんせんげ)か兜率三関(とそつさんかん)の公案から来ているらしい。いずれも死んだらどこへ行くのかという公案。
「とめてたもれよ帆かけ舟」は「沖の帆掛け舟を止めてみよ」という公案からきている。私が修行した道場は港を見下ろす高台にあったのでこの公案はピッタリだった。
「四十九曲がり細(ほ)そ山道を、直ぐに通らにや一分(いちぶん)立たぬ」は、「曲がりくねった道をまっすぐに通ってみよ」という公案の言い換え。
「祖山寿塔、五祖牛窓櫺、乾峯三種、犀牛の扇子、白雲未在、南泉遷化、倩女離魂、婆子焼庵」、これらは八難透(はちなんとう)と呼ばれる公案。
なお段落とカッコの中の説明は私がつけたものである。
 
お多福

【意味】 おたふくとは、顔立ちが丸く額が前方に出ていて、頬が膨れた鼻の低い女の顔の面。醜い顔の女性を罵っていう語。お多福風邪の略。阿多福面。おかめ。
【おたふくの語源・由来】 多くの福を呼ぶ顔の女性という意味から、「多福」になったとする説が有力とされる。おたふくの頬が膨れているため、「河豚」や「膨れる」と関連付ける説も多いが、「福」と「膨れる」を洒落ただけと考えられる。昔は、おたふくのような顔立ちは、福を呼ぶ好ましい顔立ちとされていたが、美意識の変化から不細工な女性を罵る語としても用いられるようになった。お多福面に似ていることから名付けられたものには、「おたふく風邪」や「お多福豆」がある。  
お多福1
お多福は日本的女性美の極致
最近は、「おかめ・おたふく」が醜女(しこめ)の代名詞のようになっているのは、甚だしい誤解で、実に残念です。「お多福」さんは美しいのです。おたふくさんは、下ぶくれのお顔で頬がふっくらとしているのが特徴です。平安朝の昔から、これが日本美人の典型とされてきたのです。日本語の世界に「お多福」の一語があって、日本的女性美の極致を表現していることをおわかりいただかねばなりません。
「お多福」さんは、女性の美しさのみならず、女性の徳分をも表している言葉であります。
お多福さんは生物学的に可愛い
おたふく顔が美しいのは、生物学的に、DNAの観点からも確認できます。人間を始め、犬や猫に至るまで、ほ乳類というものは、ふっくらしたものを可愛いと感じるというDNAを持ち合わせているのです。
ほ乳類は赤ちゃんを生みます。赤ちゃんは狭い産道を通ってこの世に誕生しますので、ぎざぎざでは差し障りがあります。ほ乳類の赤ちゃんは、ふっくらと丸みを帯びているのです。
その丸みを帯びたふっくらとした赤ちゃんを、ほ乳類の親は可愛いと思うようになっているのです。そのように創られているのです。
だから、仮にほっそりとやせ細った赤ちゃんがいたとしたら、栄養不良でかわいそうだとは思いますが、可愛いとは思えないのです。
今の若い女性たちは、どうしてそんなにやせたがるのでしょうか。やせてガリガリになってしまっては、ふっくらとしたかわいらしさが失せてしまいます。
男たちも、ふっくら美人こそが日本美人であり、生物学的にも美しいと知るべきです。お多福さんは、男性の目から見ても可愛いのですが、ワンちゃんや猫ちゃんの目からみても可愛いはずです。ほ乳類は、ふっくら顔を可愛いと思うようにできているのです。
お多福さんの徳分を人相学から説く
お多福さんは、美しくって可愛いだけではありません。おたふく顔には、女性としての徳分が豊かに備わっているのです。お多福さんの人相 まず、お多福さんは頬がふっくらとして豊かです。
この部位は人相学では、世間宮(せけんきゅう)あるいは名誉宮と称し、社会との交流のあり方が現れるとされています。お多福さんをお嫁さんにもらうと、その家は人付き合いがスラスラとうまくいくことでしょう。
唇の下を居宅宮(きょたくきゅう)と称し、家・土地の有様が現れる部位です。お多福さんのように下ぶくれの女性をお嫁さんにもらうと、マイホームが安定して幸せに暮らせます。
やせたい、やせたい、ほっそりしたい、と強迫観念のようにお考えの女性たちは、考え方を改めていただきたいものです。甚だしきに至っては、整形などというまことに荒っぽい野蛮なる方法を採る人たちもいます。豊かな下ぶくれを、骨を削って細顔にするなど、清少納言や紫式部が聞いたら、卒倒してしまいますよ。
韓国では整形手術が盛んです。韓国整形美人の画一的な見せかけの美には、心あたたまるような可愛らしさはありません。
身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。(【孝経】 人の身体はすべて父母からの恵みとして下されたものであるから、それを傷つけないようにするのが親孝行の始めである。)
韓国は、昔は、儒教の国と言われたものですが、孝経の訓えがどこへすっ飛んでしまったのか、親たちが子どもの整形の面倒を見ることも多いとか。やれやれ。せめて日本女性たちは、お多福さんの美しさと徳分に心を致して、孝経の一文に想いを致して、清少納言や紫式部が讃えるような美しさを保持して戴きたいものです。
オタフク(お多福)の言霊の有り難さ
お多福さんが、生物学的に、また人相学的に、女性の美しさと徳分を表すものであることを述べました。それに加えて、お多福さんという言葉は、言葉自体がありがたい。
「おたふく」を「お多福」とは、よくぞ言いけり。お多福さんは、そのお顔の徳分によって、多くの福をもたらすのです。「多福」と漢字と相まって、「オタフク」という日本語の言霊が働きます。
「オ」はすべてを覆う。
「タ」は水であり、物を生み出す田(た)でもある。
水気が枯れては女性の潤いは消えてしまい、物を生み出す力も果てる。水は方円の器に従いつつ、万物の内部に染みこんで内部からそれを支えます。まことに順徳そのもの。時に大洪水を起こしてすべてを流し去るほどの力を振るう。怒らせると怖い。水の徳分は、女性の徳分ではありませんか。
「フ」は虚空から吹き起こる風を表し、「ク」で組み立てる。
つまり、オタフクとは、万物にしみ通り内部からそれを支え、水の力で物を生み出し、人生の福徳を組み立てていくとなる。お多福さんは、日本的女性美の極致であると申し上げる所以です。西洋流の感覚に毒されずに、お多福美人が増えることを切に願うものであります。 
お多福2
お多福の生き方〜「五徳美人」
「お多福」といえば、丸いほっぺに細い目と低い鼻、小さなおちょぼ口を三角おにぎりに配したような愛嬌のある顔が思い浮かびます。古くは美人の代名詞として使われ、その愛嬌ぶりと福相(時に寿老人に代わって七福神に加えられたりもします)を愛された「お多福」ですが、最近では「お多福のようだね」と言われて「嬉しい!」と喜ぶ人はほとんどいないかもしれません。
大きな目や高い鼻、すっきりした小顔全盛の現代では、いささか分が悪い「お多福」ですが、皆さんは「お多福」が「五徳の美人」と呼ばれていることをご存じでしょうか。
柔らかに半分閉じたような目は、自分自身を深く見つめる内省の心。
低い鼻は低い心。すなわち驕(おご)り高ぶらない謙虚な心持ちです。
小さな口は、愚痴や不足、悪口を言わない慎み深さを表します。
豊かな耳は福耳とも称し、お金に困らない印(しるし)とも言われますが、本来は人の言うことをよく聞き、苦しんでいる人たちの声に進んで耳を傾ける姿を示します。
そして優しさと穏やかな心に満ちた柔和な顔。これは「和顔施(わげんせ)※」に他なりません。
このように「お多福」の「五徳」とは、顔の造作になぞらえて“美しい生き方”を表しています。
念法ではお多福のような生き方が、自分だけでなく家族や社会の多くの幸せ―― 「多福」につながるとして大切にしていますが、大きな災害に見舞われて、不安が渦巻き、人心や社会が消沈している今の日本にこそ、お多福の生き方が必要だと思います。
お父さん、「五徳美人」というのは女性だけのことではありませんよ。えっ、ボクは「男前」に生きているって!?何か心配だな・・・  
 
明治の美女たち

明治20年3月20日付けの朝日新聞。
「天保弘化の時代には顔の長うて目の張りがようて生下(はえさがり)の毛が長うて背の高い女で無ては美と云ず、女房を迎へるにも芸娼妓を抱るにも多く右の標準に依り、夫より降つて明治の初年にありては、顔は丸く眼は常体で少し眥(まなじり)の釣上り、髪は黒くて背の小柄でなくては当世でないとて、所謂丸ポチヤ顔の流行せしが、此頃に至りては時好大に一変し、今にも一般に束髪洋服の世界にならんとするの勢なれば、芸娼妓を抱える親方は元より判人の如きも、束髪洋服の似合べき背の高い眼の張りのよい鼻の高い女でさへあれば、髪は少々赤ふても縮んで居ても一向頓着なく、其内ABC位の横文字を心得て居る女は猶更足の早きよし。時の勢と云へハテ妙なもの。」
江戸から明治にかけて、うりざね顔→丸ポチャ→洋風という風に、美人の定義が変わってきた…ということのようだ。確かに、「大衆の好み」という大きな変遷はあるかもしれない。だが、俗に「昔はお多福顔が美人とされ」みたいな話があるが、それは拡大解釈というもので、いわゆる「美人」はいつでも「美人」なのであって、時代によってコロコロ定義が変わるもんではないのではないか…と思う。 
 
佐瑠女神社

「佐瑠女(サルメ)」は猿田彦の奥さん
猿田彦神社の境内に「佐瑠女(サルメ)神社」があります。実は「佐瑠女(サルメ)」という言葉からお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが猿田彦と関連があり、「佐瑠女(サルメ)」に奉られる神様はその奥さんといわれている方です。ちなみに、「佐瑠女」はと嫁いだ後のお名前で、もともとの彼女のお名前は「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」といいます。
二人の馴れ初めは?
昔々、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫であった瓊瓊杵尊(ににぎ)という神様が、天界から地上を治めるためにやってきたときのことです。地上には天界から地上までを明るく照らす一人の神様がいました。それは道案内の神様である「猿田彦」でした。しかし、彼はすごく赤い目を輝かせたなんともいえない独特な感じの男性でした。そんな時、孫を心配した天照大神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)をつかわせました。天照大神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)を「やさいしけれど、だれと顔を合わせても気後れしない女性」であると思っていたのでした。天宇受売命(あめのうずめのみこと)は「猿田彦」に「あなたは何で照らしているの?」と聞きました。すると「猿田彦」は「道案内をするために迎えに来たのだ。」といったのでした。その後、瓊瓊杵尊たちは「猿田彦」に道案内を行うことに…。
とこんな一説が古事記に登場します。
この縁があって、「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」は「猿田彦」に使えることなり、妻となったと一説には言われています。
「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」は日本最初のコメディエンヌ??
みなさんコメディエンヌという職業をご存知ですか? 女性版のコメディアン。そう、喜劇役者です。「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」は天の岩戸に隠れた天照大御神を呼び出すために神楽を舞った伝説から日本最初の役者(女優)といわれています。その時はほぼ裸に近い服装で妖艶に踊り、他の神々を「笑わせた」というのですからなかなかいい女優だったといえるのではないでしょうか?このことから、芸能関係の人があやかろうと多く参拝しにくる神社ともなっています。
佐瑠女神社にあのソースメーカーが??
佐瑠女神社の御神体は八角形の社に収められています。ふと、柱の下に目をやると「オタフクソース株式会社」の名前を発見。勘の良い人は理由がわかりましたか? そうです、「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」はオタフクのモデルとなった女性の神様といわれています。オタフクの別名である「おかめ」は、古くから存在する日本の面(仮面)の一つで狂言などに使用されています。この「おかめ」の起源が「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」といわれています。
オタフクソースのサイトでは以下のようにオタフクが紹介されています。
『お多福』に込める思い / 日本古来のユニークな顔として“ひょっとこ”と並び称される“お多福”の顔は、決して美人の相ではありません。しかしいつも笑顔を絶やさない(細い目)、謙虚な姿勢(低い鼻)、 ひかえめで無駄口を言わない(小さな口)、聞く耳を持つ(大きな耳)、心身ともに健康(ふくよかな頬)、聡明で賢い(広い額)は心の美人の象徴を表しています。味は基本味(甘酸塩苦旨。中国では甘酸鹹辛苦)からなり、社名は人生の甘いも酸いも苦いも知り尽くした女性に広く愛されることを願ったものです。
「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」と聞くと神様の名前は難しくて親しみづらいと感じてしまいますが、こうしてイメージするとぜひ会ってみたいなんて思わせる魅力的な女性に感じます。 
 
五徳 1

土・木・金・火・水の五つの徳。中国、戦国時代に斉の騶衍(すうえん)は、王朝の交替、歴史の変遷を五徳の循環によって説明する、いわゆる五徳終始説をとなえた。それによると、循環は五行相勝(ごぎようそうしよう)の原理、すなわち〈木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に勝ち、水は火に勝ち、土は水に勝つ〉とされる。それゆえ土徳に当たる黄帝の次には木徳に当たる夏王朝が興り、夏王朝の次には金徳に当たる殷王朝が興り、殷王朝の次には火徳に当たる周王朝が興り、周に代わって天下を統一するのは水徳の王朝(秦)である、と説かれた。

五つの徳目。仁・義・礼・智・信。あるいは温・良・恭・倹・譲。また、五行(ごぎよう)(木・火・土・金・水)の徳など。〔孫子 始計〕 武将が意を用いるべき五つの徳目。知・信・仁・勇・厳。火鉢の灰の中に据えて、鉄瓶(てつびん)や釜(かま)などをのせる、三本脚の輪形の台。普通、足を上にして輪を灰中に埋めて用いる。家紋の一、かなわ(金輪)。

火鉢や炉などで炭火の上に立て、鉄瓶ややかんなどを置く、輪に3本または4本の脚のついた鉄製・陶製の道具。輪の方を下にして灰の中に据え、脚の先が爪になっていてその上に鉄瓶などを置く。また、ガスこんろのバーナーの上に鍋などを置くための、爪のついた枠もいう。

いろりや土間(どま)の炉、火鉢の中に置き、鉄瓶や湯釜(ゆがま)などをかける道具。かなわ、かなご(鉄輪)ともよばれ、大きさには大小がある。直径7、8ミリメートル程度の鉄の棒を輪にし、それに同じく鉄の棒で3本の脚(あし)をつけたものが多い。3本の脚はそれぞれ先端を平たく打ち、内側に鉤(かぎ)状に曲げ、これを爪(つめ)とよぶ。使い方は、輪を上にして置く方法と、逆に爪を上にして輪を灰の中に埋めて使う方法がある。後者は茶道に始まった使用法といわれている。五徳には真鍮(しんちゅう)製、砲金(ほうきん)製、陶製、土製のものもあり、またテッキ、テッキュウ、吉原五徳、まむし五徳などといって長方形の四隅に脚をつけたものもある。これは渡し鉄が左右に動き、餅(もち)をのせて焼いたりもした。 
 
五徳 2

発熱体の上部に設置して加熱用容器を支持するために用いられる日本の器具。具体的には炉(囲炉裏、火鉢、七輪、焜炉、等々)の熱源上に置いて、鍋、やかん、土瓶、鉄瓶、焼き網などを乗せるために用いられる支持具をいう。金属製のものは鉄輪(かなわ)とも呼び、呪詛に用いる道具としての五徳は、伝説(橋姫など)や能の演目『鉄輪』を通してこの名でも広く知られている。
「五徳」という文字から儒教における「五常の徳」を挙げる向きもあるが、語源は次のとおりである。
古来、日本では、囲炉裏において鍋や釜で煮炊きをするときは自在鉤と五徳のいずれかを用いた。初期の五徳は三本足であり、環を上にして用いた。これは古くは竈子(くどこ)と呼ばれたもので、古代の鼎に由来するものである。現代でもよく知られる形状の五徳は、桃山時代、千利休の指導下で茶釜などの開発に当たった釜師たちによって生み出された。すなわち、茶道の始まりと共に室内で用いる小型の炉「茶炉」または「風炉」が現れ、このとき、竈子を従来とは逆向きに設置し、爪を上にして使うようになった。この過程で「くどこ」の読みも逆さまにされ「ごとく」と呼ばれるようになった。「五徳」は当て字である。
開発されて間もないころは、様々な形のものがあり、釜師・辻与次郎の手によって「まむし頭」「長爪」「牛爪」「方爪」などといった爪を持つ五徳が作られた。
種類
弥生時代の後半には足が付いた形の土器としてすでに存在し、鎌倉時代には、現在も見られる三本足または四本足の鉄製の五徳が作られていた。
材質は基本的に金属(主に鉄、稀に真鍮や銅)であるが、太平洋戦争中など金属の不足が深刻であった時代には陶器製も多く作られた。囲炉裏では鍋や鉄瓶を火にかける際、五徳と自在鈎のいずれかが必須である。
近世以前の普及型の場合、基本的形状は環に3本または4本の足が付いた架台で、この型を上輪五徳、あるいは丸五徳(まるごとく)と言い、3本足の上輪五徳を三本足五徳、4本足の上輪五徳を四本足五徳と言うが、他にも次のような様々なタイプがある。
一本足五徳 上輪五徳に似るが、一本足で、足の接地面は2つもしくは1つの弧になっている。
金輪 上輪五徳によく似た形状ながら、ひと回り以上大きなもので、環の直径は鍋などより大きい。環で受ける上輪五徳とは違って、大きな環の内側に付いている3本の爪(つめ、もしくは、かえし)で受ける。囲炉裏専用として、白川郷が特によく知られる飛騨地方で使われ続けているものである。
三ツ爪五徳 環状の足から3本の長い爪が伸びる形の五徳。“上輪”に対して“下輪”と言ってもよい天地逆転したような形で、環の面ではなく爪の3点で器具を受ける。鬼爪五徳、蕨五徳(わらび五徳)、猫足五徳、等々、爪の形状の違いで呼び分けられることもある。後述する「丑の刻参り」の道具として欠かせない鉄輪(かなわ、五徳)の一般的形状に近い。
吉原五徳 長方形に格子組みされた4本足の枠の上で鉄瓶などを乗せる五徳本体が左右にスライドする機構を持つ、長火鉢用の五徳。
仙台五徳 長方形に格子組みされた枠と円筒状の五徳が一体化したもので、火鉢や囲炉裏で用いられる。
そのほか、竈専用にしつらえられた様々な形の特に名の無い五徳もある。また、五徳と一体化した呂金は呂金五徳付(ろがねごとくつき)と呼ばれる(五徳を主体とした場合の呼称は呂金五徳で、形状によって「丸呂金五徳」「角呂金五徳」と呼び分けられる)。 形状ではなく可動式という特徴による分類では自在五徳(じざいごとく)があり、これにあたる吉原五徳や可動式の一本足五徳(一本足自在五徳)は、全く異なるタイプでありながらそれぞれが「自在五徳」とも呼ばれている。
日本のガス焜炉の五徳
近現代以降に登場してきたタイプの五徳は、ガス焜炉(据え置き式ガス焜炉、据え付け式ガス焜炉[ビルトインコンロ]、および、カートリッジ式ガス焜炉[カセットこんろ])に使われるが、近世以前からあったタイプとは異なる部分が多く、足の無いものが多数を占める。焜炉として昭和時代からの普及型と言えるガステーブル焜炉に備え付けの五徳は、足が無く、正方形、6本の爪を持つのが一般的で、平五徳(ひらごとく)と呼ばれることもある。また、業務用や家庭用の高級なガス焜炉では、上部全面を覆う全面五徳や、それに近い形で使える補助部品としての「全面補助五徳」がある。業務用の全面五徳の中には、熱源以外の上部全面を線ではなく面で覆ってしまう天板を兼ねたタイプもあるが、これのみを指す特別な名称は確認できない。なお、全面五徳や全面補助五徳に対しての従来の五徳の呼び名としては、個別五徳がある。カートリッジ式ガス焜炉の五徳などでは、本体と一体化して取り外せないものも少なくない。
中華五徳
中華鍋を一般家庭の調理場や時に料理店の厨房で使う際に用いられる環状の金属製器具は、日本では中華五徳、中華鍋用補助五徳などと呼ばれる。中華五徳は、鍋の丸底が環の中に嵌りこむことで安定性が確保できるようになっており、鍋を振った後に五徳の環の内側に戻すと一定の位置まで自然に滑り落ちてゆく構造になっている。よく普及しているタイプの中華五徳の場合、基本構造は金属板の環であるため、燃焼に不可欠な通気のための孔や切れ込みが付いている。そのほか、波打つ環の形をとるタイプもある。
日本で中華鍋を使う場合、丸底の中華鍋と日本に一般的な平五徳(ガステーブル焜炉に付いている五徳)は少々相性が悪く、使えば、接点が少ないために左右へのグラつきが大きい。これを改善するための日本特有の中華五徳も作られており、6本爪や4本爪の平五徳に対応した、噛み合わせて固定するタイプなどがある。
欧米の器具との相性
欧米文化圏の調理場に五徳はなく、平面的な構造の鉄格子状の補助器具が用いられている。そのため、例えばコーヒーの抽出器であるモカエキスプレスをガス焜炉で火に掛ける場合、本来必要なガスセーフティを用意できない上に五徳が設置されている日本の調理場では使いづらい。特に、一般的なガステーブル焜炉で使われている平五徳とは形状的に極めて相性が悪く、座りが安定しないどころか転倒の恐れがある。これは五徳の立体的形状が招く不都合であるため、五徳の上に焼き網を乗せて平面を作ることで解消できる。
家紋
五徳紋(ごとくもん)は、五徳を図案化した家紋である。使用については、儒教の「仁・義・礼・智・信」の五徳にかけたともされ、また「温・良・恭・倹・譲」にも通じるという。徳川幕府の旗本であった疋田氏や鎌田氏、平野氏などが用いた。
図案には「丸五徳(まるごとく)」「真向い五徳・五徳(まむかいごとく・ごとく)」「五徳菱(ごとくびし)」「据え五徳(すえごとく)」などがある。
五徳と妖怪
鎌倉時代の『土蜘蛛草紙』には、付喪神(妖怪の一種)の原型ともいえる描写があり、その様々な妖怪の描写の中には「五徳と牛が合体したもの」が描かれ、以降も室町時代や江戸時代において、絵巻物や浮世絵などで、五徳の妖怪や、五徳と牛が一体になった妖怪が描かれた。五徳の足の爪(かえし)の形状の種類にも牛という言葉が使われており、五徳を牛の頭部や角に見立てたことが窺える。
また、五徳猫は、江戸時代中期の浮世絵師・鳥山石燕の手になる妖怪画集『百器徒然袋』に見られる詳細不明の妖怪で、三ツ爪五徳(鬼爪五徳)を頭に被って囲炉裏の火を起こす姿で描かれる猫又の一種である。
呪詛の道具
平安時代にはすでに行われていたといわれる「丑の刻参り」(恨みを抱く対象者に災禍を与えるために行う呪詛の一つ)において、鉄輪(かなわ、五徳)は儀式の上で用いられる道具である。施術者(呪詛を行う者)は白装束を身に纏い、冠のように頭に被った鉄輪に蝋燭(ろうそく)を立てた姿となって、丑の刻(午前1時から午前3時頃)に神木のある場所に出向き、結界を破るため、呪詛対象者に見立てた藁人形に五寸釘を打ち込んで、牛などの姿をした妖怪を呼び出したといわれる。 
 
お多福の眼差し  

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

  
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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