出目で競馬に勝つ

神様のサイコロ九星気学1九星九星気学2四柱推命1四柱推命2四柱推命3陰陽 
山口瞳ハイセイコーギャンブラーは「ツキ」をどのように読むか・・・
 
「神様のサイコロ」  

雑学の世界・補考   

2017年を目指して「出目で競馬に勝つ・神様のサイコロ」 ソフト開発を進める 
今週の枠連・勝馬占い  神様のサイコロ  
出目に興味がございましたなら、「神様のサイコロ」をクリックしてください。 
   
「神様のサイコロ」理論

万馬券を狙う理論です 
競馬予想でその日の出目・死に目を信じたくなるときはありませんか。 
この10年の枠連の単純な平均配当が約1900円と高額で、JRA(日本中央競馬会)に25%のテラ銭を収め、1レースに出てくる平均頭数が11-12頭であることから何か感じませんか。 
この払い戻し金額から、競馬専門誌、スポーツ新聞・雑誌等の予想も「神様のサイコロ」なみと言えないでしょうか。情報化時代と呼ばれて10年以上になりますが、予想のための情報精度の進歩は感じられ ません。何も情報がなくて皆さんが適当に買ったとしたら平均配当は2300-2400円になります、実際の平均配当約1900円との差額分が専門家の情報効果かもしれません。
遊びと割り切って「出目・死に目」を楽しみましょう 
「出目」も「死に目」も背中合わせですが、この10年を分析し「死に目」に注目しましたら、わずかながら特徴らしきものが見つかりました。 
買目は多くなりますが楽しめそうです、どんなに競馬新聞を読んでもそんなに大きく回収率に差は出ません(失礼をお詫びします)。遊びと割り切って競馬と付き合えば「出目・死に目」も立派な予想です、ご自身の直感とツキに挑戦してください。4才以上のG1レースを除けば、その日の「出目・死に目」の流れを読むことも立派な予想です。畜生の世界に絶対などありません、上手にサイコロを振れば馬を見ずに5点買いで54%の回収率は約束されています(残念ですが儲かりません)。 
「神様のサイコロ」は同じ可能性の中で、万馬券や高額配当馬券を狙うお手伝いをします。 
もちろん万馬券の出ない日は当たりません。

「神様のサイコロ」は「数遊び」です・・・ 
遊びですから、万馬券を狙って楽しみましょう。「死に目」に注目したのは、「死に目」を買わないというものではありません。皆さんが「死に目」と思っている枠番がくるときに万馬券が生まれるのです、いつ「死に目」が生き返るかを分析・研究しました。 
枠番と「死に目」という数遊びのより所を、中国の長い歴史に培われた四柱推命や九星気学にもとめました。べつにまじめな占いではありません、何十年の時々刻々の変化を区分けしたり、定義づけするのに便利という理由からだけです。 
時々刻々の「数」の吉凶を数値化して、最も運の悪い「数」を「死に目」としました。 
したがって、基本的に予想占いの「頭の枠番」は常に最も運の悪い凶の数となります。公開以来、この枠は絶対にないと思われる枠番が多かったたことに気づかれたことと思います。 
当然皆さんに支持された枠番からは万馬券が生まれないからです。

「神様のサイコロ」の弱点 
G1レースと買目の多いことが弱点です、もうしばらくお待ちください。 
4才馬以上のG1レースのように馬の能力がある程度確定したレースでは、占いで当て難いようです。 
紐枠に必ず「5」が入ること。より所が四柱推命や九星気学のため「5」の数の扱いが難しいためです。 
紐枠で必ずぞろ目が入ること。ぞろ目の吉凶が理論化できません、ただ皆さんの思い込みを払拭するために指定しています。ぞろ目の生まれる確立は他の枠連組み合わせと何ら変わりません、それでありながら平均配当は4000円以上です。もし迷ったらぞろ目は買うべきです、元は十分取れます。
「ぞろ目」が万馬券を生む 
1990/1/1-2008/3/23のレース結果から 
¥ 1500以上の配当レースは 23,482R その内ぞろ目は 2,253R 出目として   9.6% 
¥ 5000以上の配当レースは   5,280R その内ぞろ目は   829R 出目として  15.7% 
¥10000以上の配当レースは  1,507R その内ぞろ目は   393R 出目として  26.1% 
¥20000以上の配当レースは     295R その内ぞろ目は   147R 出目として  49.8% 
10頭だてなら6.7%、11頭だてなら9.7%、12頭だてなら12.5%が何も考えなくても出るぞろ目の可能性です。11頭だて9.7%は約10回に1回はぞろ目がくることです。ところが、万馬券では4回に1回、2万以上の馬券では2回に1回がぞろ目です。 
ぞろ目の可能性は他の枠連組み合わせと同一でありながら、この偏りは何でしょうか。 
そうです、皆さんの偏見、思い込み、好き嫌い、迷信、作られた「死に目」に「ぞろ目」はされているのです、不当な扱いをされているのです。ぞろ目が万馬券を生むのです、神様のサイコロを信じる方は「ぞろ目」を買いましょう。
2017年に占いソフト完成を目指す理由 
枠番と「死に目」という数遊びのより所を、中国の長い歴史に培われた四柱推命や九星気学にもとめ、何十年の時々刻々の変化を区分け・定義づけ(クラス分け)に利用しました。 
分析開始の競馬成績データは1990年以降のものです。分析をもとに、勝馬占いを2000年から開始し、占い精度を確かめてきました。 
統計分析のクラス分けの性格上、九星気学では9年が1単位となります。同じ星回りを、最低3回分析しませんと、統計上の特長が確認できません。分析開始が1990年データですので、27年後の、2017年まで分析して、最低限の占いソフトが完成できるかと考えています。 
四柱推命では60年が1単位となります、27年でも不足となります。
 
「神様のサイコロ」の占い実績 
八の目のサイコロを思い浮かべて下さい。6回振ります、最初は「頭」枠、後の5回は「紐」枠とします。上手に振り、枠連5点買いで、1日12レース(全て16頭立て)、60点買えば、54%のお金が返ってきます。46%の損となります、これが統計上の確立です。公平な確立とするなら、JRAに25%のテラ銭を含め、21%の損が正解とも言えます。 
直近の「神様のサイコロ」の占い実績は、60-80%で推移しています。 
多少占い精度が向上してきました。2017年には100%を超えたいものです。 
枠連万馬券の占い実績 
枠連万馬券は、年間平均74.6回(最近12年間)でています。占いの買目5点、全レースを買うことを想定しますと、 確率的には何も考えなくても年間12回前後の万馬券を当てることができます。 
年間13回以上の枠連万馬券を的中させることが「神様のサイコロ」の目標です。
2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 
2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 
2014 2015 2016 2017 
( 的中万馬券フラッグをクリックしますと、その年度の占い実績が、月毎で確認できます。) 
 
枠運指数 
「神様のサイコロ」の占いは、枠運の強さを指数化して、単純な紐枠対象を補強しています。 
以下は、2014/6/28 [函館] の占い例です。
函館    頭枠 紐枠        枠運の強さ指数  1    2    3    4    5    6    7    8    [9] 

1R

×

5

25678 1

5

0

-1

-2

-1

4

3

1

-2

2R

..

1

13456 4

-1

-2

0

9

-3

-1

2

-1

-4

3R

..

1

125678 4 1,600

0

-2

0

9

-5

-1

0

-1

-1

4R

..

4

134567 8 200

3

3

2

3

-3

4

-3

7

-1

5R

..

2

12356 8//3

2

5

6

5

-1

-1

3

11

-6

6R

4

245678 58//26 9,690

3

8

7

-3

10

8

4

10

6

7R

4

1345 7

2

-2

1

0

2

-4

7

-4

-3

8R

1

125678 19 2,380

9

-2

6

7

1

0

-7

-4

9

9R

..

8

25678 17,360

-1

0

-3

-1

-4

3

0

1

2

10R

2

123456 25 610

2

8

0

4

8

-5

-1

-4

-6

11R

..

2

125678 9

-5

0

-3

0

-1

4

3

0

6

12R

2

12345 8//19

7

-1

1

2

5

3

-3

12

7

枠運の強さ指数 
  指数 10 以上 穴枠となります、指数が大きいほど大穴となります。 
  指数 9〜5 実力以上の走りをする強運の枠です。 
  指数 4〜0 実力通りの走りをする枠運です。 
  指数 -1〜-9 実力を発揮しにくい枠運です。 
  指数 -10 以下 不運枠です。
「神様のサイコロ」の利点 
その日の出目・死に目の流れが読めます。 
枠連万馬券を手にすることができるかもしれません。 
レースの発馬時刻が判れば、数ヶ月先のレースも占えます。
枠連も三連単も配当金は同じです 
三連単の配当金は何となく高額のように思いませんか、誤りです。 
確率的に「同じ的中率」を確保しようとしますと、枠連も三連単も配当金は同じです。 
同じ的中率を確保するためには、枠連に対して三連単では100倍ちかい馬券枚数を買わねばなりません。配当金を馬券枚数で割ってみましょう、同じです。 
  馬券の組合わせ数比較 (16頭立ての場合) 
  枠連        36通り     2.78%    (任意の1点の的中確率) 
  馬連      120通り     0.83% 
  ワイド     120通り     2.5% 
  馬単      240通り     0.42% 
  3連複    560通り     0.18% 
  3連単   3360通り       0.03%  
三連単での万馬券らしい万馬券例 
2007年 5月6日(日) 11R 第12回 NHKマイルC  
三連単 \9,739,870円 (4375番人気/4896・18頭) 
ピンクカメオ(17・ブービー)-ローレルゲレイロ(1番人気)-ムラマサノヨートー(18・メーカー)  

「神様のサイコロ」の最終目標
「枠運の強さ指数」と「万馬券」の相関関係を見つけることです。
私の残り時間は僅かですが、チャレンジしています。
 
 
九星気学1

 

生れた年月日の九星と干支、五行を組合わせた占術。方位の吉凶を知るために使われることが多い。九星術を元に明治42年に園田真次郎が気学としてまとめたもので、それ以前の九星術と合わせて九星・気学と総称される。生年月日によって定まる九星と十二支と、方位の吉凶を知りたい日の九星と十二支を元に占う。九星と十二支は年・月・日・時のそれぞれにあるが、このうち年と月が運勢に大きく関係するとされる。また、生年によって定まる九星を本命星、生まれ月によって定まる九星を月命星という。 
九星はある決まった法則で各方位を巡回することになっており、生年月日によって定まる九星と十二支との関係で各方位の吉凶を占う。 
九星とは以下をいう。一白水星/二黒土星/三碧木星/四緑木星/五黄土星/六白金星/七赤金星/八白土星/九紫火星。 
ただし中国占術において「九星」と総称されるものは多岐にわたっており、他の九星と区別する必要がある場合は紫白九星とよぶ。これは園田気学では否定されたが、九星術の古形では三つの白の星である、一白、六白、八白を大吉とし、九紫を中吉としたことにちなんでいる。 
なお五黄は大凶の星であり、五黄と相対する方位も凶とされる。  
九星の循環 
日時の九星の九星の循環には幾つかの異説があるが、年月の九星についてはその循環のさせ方がほぼ固まっている。年については180年を一つの周期としている。180年の最初の干支は甲子で、干支の周期である60年を一つのくくりとして、上元、中元、下元に分けられている。最も近い上元は1864年から始まっており、2008年現在は下元であり、一白の年である。上元の甲子年を一白として、九紫、八白と星についている数字が減るように循環させて行く。この数が減る循環のさせ方を陰遁とよんでいる。 
月の九星の循環のさせ方は、年でいう上元甲子年の九星術における正月である丙寅月を八白として陰遁させる。1年は12ヶ月であり、12と9の最小公倍数が36であるので、月の九星の循環は3年を一つの周期としている。  
方位との関係 
対象とする日の定位盤(年盤、月盤、日盤)を各方位に対応させ、本命星の相性により吉凶を判断するが、特に六大凶方とされる凶方位がある。小児殺を含めて七大凶方ともいう。なお暗剣殺、五黄殺、歳破、月破は全ての人に凶方位となる。 
暗剣殺(あんけんさつ) / その年の五黄土星のある方位の反対側の方位。(五黄土星の年(五黄土星が中央にあるとき)には存在しない。) 
五黄殺(ごおうさつ) / その年の五黄土星のある方位。 
本命殺(ほんめいさつ) / その年にその人の本命星のある方位。(その年がその人の本命星のとき(本命星が中央にあるとき)には存在しない。) 
本命的殺(ほんめいてきさつ) / その年にその人の本命星のある方位の反対側の方位。 
歳破(さいは) / その年の十二支の反対側の方位。 
月破(げっぱ) / その月の十二支の反対側の方位。 
小児殺(しょうにさつ) / 小月建ともいい、子供の健康に影響のあるとされる方位。その年の十二支とその月により方位が定まる。  
九星が象徴するもの 
一白水星〔水〕すべての生命を育(はぐく)む力。 
二黒土星〔大地〕(どっしり)支える。 
三碧木星〔雷〕直感力。 
四緑木星〔風〕伝達力。 
五黄土星〔地震〕帝王 
六白金星〔宇宙〕 
七赤金星〔湖〕 
八白土星〔山〕 
九紫火星〔火〕美しさ。  
 
九星

 

九星(きゅうせい)は、古代中国から伝わる民間信仰で、一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫の9つ。 ただし九星と呼ばれるものは何種類かあり、本項の九星を特に指して呼ぶ場合は、紫白九星や七色星と呼ぶ。 起源 九星は、次の魔方陣が起源となっている。  
縦・横・斜めのいずれの列についても3つの数字の和が15になるというものであり、1から9までの数を1回ずつ使う3×3個の魔方陣は、回転・対称を除けばこの形しかない。上図の配置を後天定位盤という。これらの数字に白・黒・碧・緑・黄・赤・紫の7色と木・火・土・金・水の五行、十干・十二支、易の八卦を配当し、この数字が順次場所を変えた場合を考え、それに解釈を加えて「九星」が作られた。 伝説では、夏王朝を創始した禹が洛水を通りかかった時、川の中から飛び出た神亀の甲羅に描かれた模様からこの魔方陣を思いついたとされている。よってこの魔方陣を、洛水の書「洛書」(河図洛書)という。
九星の各星 
日本の陰陽道では、下表のように木・火・土・金・水の五行や十干・十二支・八卦に割り当てて九星図を作成し、人の生年や方位に当てて運勢や方位の吉凶を占うことが多い。  

九星

五行

方位

八卦

一白水星
二黒土星 西南
三碧木星
四緑木星 東南
五黄土星 中央 黄色
六白金星 西北
七赤金星 西
八白土星 東北
九紫火星
九星には3つの白の星と1つの紫の星がある。これらは本来は吉の星であって三白九紫と総称された。三白九紫は平安時代に代表的な凶神であった、大将軍や金神の凶を抑えることができるとされていた。ただ気学が一般に広まった現代では、この三白九紫を持って吉の星とする考えはほとんど忘れられている。
年の九星 
年の九星は、例えばある年が九紫だとすると、その翌年は八白というように一つずつ数字を減らしていき、一白の翌年はまた九紫になるというように変わっていく。これを「陰遁」という。年の九星は立春をもって切り替わる。立春の前日の節分までは前年の九星となる。2008年(平成20年)の九星は一白水星である。 年の九星には計算法が存在する。 西暦年数を9で割った余りを11から引くという計算法である(余りが0なら、余りを9と置き換える。余りが1なら、余りを10と置き換える)。たとえば2007年は9で割ると割り切れるので、11−9=2となり二黒土星ということになる。 西暦の各位の数を足し、その計算結果の数をさらに各位の数を足し、これを繰り返して1桁になるまで行い、最後に11から引くという計算法を行ってもよい。数学的には上記の方法と同値なのだが、こちらの方が計算が簡単であることが多い(計算結果が1になったら10と置き換えて11−10=1で、一白水星)。たとえば、1997年は1+9+9+7=26、2+6=8となるので、11−8=3、ゆえに三碧木星である。 これらの計算法は紀元後であればすべての年でその年の九星を求められる計算法である。  
月の九星 
月の九星も陰遁する。但し、月の九星で使う月は節月である。例えば、立春から啓蟄の前日までが1月、啓蟄から清明の前日までが2月となる。9と12の最小公倍数は36なので、月の九星は3年周期ということになる。最近では2003年6月(小暑から立秋の前日まで)が九紫だった。  

年の干支

2月

3月

4月

5月

6月

7月

8月

9月

10

11

12

1月

子・卯・午・酉 八白 七赤 六白 五黄 四緑 三碧 二黒 一白 九紫 八白 七赤 六白
丑・辰・未・戌 五黄 四緑 三碧 二黒 一白 九紫 八白 七赤 六白 五黄 四緑 三碧
寅・巳・申・亥 二黒 一白 九紫 八白 七赤 六白 五黄 四緑 三碧 二黒 一白 九紫
日の九星 
日の九星は、冬から夏にかけては数字を増やしていく陽遁となり、夏から冬にかけては数字を減らしていく陰遁となる。流派によって切り替えの日は異なるが、最も一般的なものでは、以下のようにしている。 ·冬至に最も近い甲子の日を一白として陽遁を始める。 ·夏至に最も近い甲子の日を九紫として陰遁を始める。 但し、冬至またはその前後1日に甲午がある場合は、その甲午を七赤として陽遁を始める。また、夏至またはその前後1日に甲午がある場合は、その甲午を三碧として陰遁を始める。これを「九星の閏」という。  
時の九星 
時の九星も日の九星と同様に陽遁・隠遁の別に配される。時は2時間を1刻とする。  

 

子刻

丑刻

寅刻

卯刻

辰刻

巳刻

午刻

未刻

申刻

酉刻

戌刻

亥刻

陽遁 子・卯・午・酉 一白 二黒 三碧 四緑 五黄 六白 七赤 八白 九紫 一白 二黒 三碧
丑・辰・未・戌 四緑 五黄 六白 七赤 八白 九紫 一白 二黒 三碧 四緑 五黄 六白
寅・巳・申・亥 七赤 八白 九紫 一白 二黒 三碧 四緑 五黄 六白 七赤 八白 九紫
陰遁 子・卯・午・酉 九紫 八白 七赤 六白 五黄 四緑 三碧 二黒 一白 九紫 八白 七赤
丑・辰・未・戌 六白 五黄 四緑 三碧 二黒 一白 九紫 八白 七赤 六白 五黄 四緑
寅・巳・申・亥 三碧 二黒 一白 九紫 八白 七赤 六白 五黄 四緑 三碧 二黒 一白
奇門遁甲における九星 
奇門遁甲において九星というと「天蓬星」「天芮星」「天冲星」「天輔星」「天禽星」「天心星」「天柱星」「天任星」「天英星」を指している。これらは天字で始まる名前を持つため、他の九星と区別する場合に九天星や天蓬九星と呼ぶことがある。 一部の流派の奇門遁甲では「一白水星」「二黒土星」…「九紫火星」を奇門遁甲に組み込んで九宮と呼んでいるが、本来の奇門遁甲には紫白九星がなかった。また通常は、八方位に後天八卦を対応させた八宮である、坎宮、艮宮、震宮、巽宮、離宮、坤宮、兌宮、乾宮に中央である中宮を加えたものが九宮であり、紫白九星を九宮と呼ぶのは特殊な呼称である。
 
九星気学2

 

九星術と言うことで、人の誕生の影響を次の九種類に配しており「東洋占星術」と一般に言われ、九星の木星、火星、土星、金星、水星は天体の惑星ではなく易の八卦から来るものです。 
確かに星の字がついていますが、これは九星術を総称した気学の根本である「河図」「洛書」の図から来るものです。 
図には数を白点と黒点で表しているため 、一白水点と表現せずに一白水星という表現をしたわけです。国技の相撲が「金星」など、星取りと表現することによくにています。 
とはいえ宇宙とまったく関係がないわけではなく、私たちはこの大自然の気に触れ生まれ 出てのち産声を上げ、呼吸をし始めた瞬間からその性格や運命に大きな影響を与えられ人それぞれの一生を歩むと言われます。 
「気」は形がありません。気は誰もが持っているエネルギーです。心と精神をつなぐ線という考えもあります。また気は「大気」として宇宙に存在し私たちに命の息吹を与えてくれます。これら気・大気のあり方や方向性を占う運命学が気学です。 
気学では気は大自然に満ち満ちた目に見えないエネルギーであり、宇宙の運行をつかさどりそれぞれの人々が生まれてきた年月日、時間を中心にして占う学術とされます。生まれた年月日の九星と地支(十二支)を基本とし、年月の周期的に廻る九星と地支を比較対照して人の総体的な一切の運命を予測、判断し悪い運命を避け幸運な運命を開く学術なのです。  
九星気学占い 
「河図」 
 
「河図」は地球が太陽から分離して、一個の遊星となる順序を数によって表した といわれ非常に奥が深いのですが、数字配列を簡単に紹介します。 
地球は北極を中心に固まり始たと考え、北に陽の始まりの「一」を起き、南に陰の始まりである「二」を配置し、自転・公転を開始したのは東からで東に「三」を配し 、ついで西に「四」を置き中央に「五」を置いて、ここに一応の完成を見ます。 
一から五までを基数中の基数としてこの五数の中には陽数(奇数)が三つ(一・三・五)陰数(偶数)が二つ(二・四)ありますからこれを「易」では「三天両地説」 と言い易の基(先天定位)になりました。 
また六以上を「老数」とする。「一」の北方に「六」を「二」の南方に「七」を「三」の東方に「八」を「四」の西方に「九」を配し「五」の中央に「十」を集結してここで「修理個成」が成立します。これに五行(木・火・土・金・水)の五精の働きを組み合わせて作成されたのが十干であり陽を表す「兄」陰を表す「弟」で表現しています。   
「洛書」 
 
「洛書」は天地運行の順を数を持って示したもので太陽は東から西に向かって廻り、地球は西から東に向かって自転を続けています。「陽は左遷し陰は右遷す」 といわれ、天を陽とし地を陰とするため「三天・両地」の中央に座する陽の代表数「三」を東を示す左側に配置、基点の北の「一」 を掛け東に「三」を配置。この三に三を掛けて南に「九」を置き、九に三を掛けた「二十七」の盈数を払えば「七」となって西に配置します。 
また陽が極まれば陰に変化するため陽が極まった、南の正位「九」の右側の南西に陰の初数である「二」を配置。二に二を 掛け「四」は南東に、四に二を掛けた「八」は東北に「八」に二を掛けた「十六」の盈数を払い「六」は北西に配し、これに二を掛けた「十二」の盈数を払い「二」に戻ります。「五」は中央に 配置され、『洛書』が完成されました。太古の知識人らが大自然の運行に沿って動けば、国も平和で政治が正しく行われるという思想を反映された と言われます。これら洛書の数字の配置に、九星、易の八卦、天干(十干)、地支(十二支)をあてはめて作ったのが後天定位盤です。 
天干と十二支 
平成18年は暦では丙戌三碧の年廻りです。この丙は十干の一つで戌は十二支の一つです。 
天干(天幹・十幹)の十に対して地支(十二支)を十二としています。 
干支は中国では殷時代殷王国の殷虚卜辞にあり干と支結びついて日を数えるのに用いられています。なお生まれ年の干支は人の性質や運勢を現しています。 
天干(天幹・十幹) 
天は木の幹を例え干は枝を例えます。十干は万物の成長過程を表しています。 
十二支 
十二支は万物化成の順序を表し子は万物の生命を孳むの意味で「孳(じ)」の上部を略したものです。 
一月の「丑」は土中で根のはる様が紐の様子に似たてて「紐」の糸へんを除いたもの。二月の「寅」は「演(のべる)」のさんずいを略したもの。三月の「卯」は芽生えの様の象形文字 といわれます。 
四月の「辰」は万物が震いたつ「震」の雨冠を除いたもの。五月の「巳」は説が二つに別れ祭祀の月の「祀」の示す偏を除いた説と蛇の活動期になり巳の象形文字を引用した説がある。六月の「午」は暦の夏至から炎熱が「忤(さこ)」う時期でその立心偏を除いたもの です。 
七月の「未」は味を楽しむ時期で「味」の口偏を略し八月の「申」は伸びるの「伸」の人偏を略したもの。九月の「酉」は「醸す」の偏を引用した酒甕の象形文字。十月の「戌」は万物の収斂の「滅」の一部を引用したもの です。 
十一月の「亥」は冬篭りの時期に入り生命を「核」に納めるの意味で「核」から木偏を除いたもの。この様に十二支は季節と命の移り変わりを組み合わせて作った文字 なのです。  
吉方位の効果が出る時期 
年盤・月盤・日盤で吉方位を利用して転居などをした場合、4日、7日、10日、に楽しいことが起こったり 、4ヶ月目、7ヶ月目10ヶ月目、11ヶ月目にうれしいニュースが飛び込んで来るなどが考えられます。 
方位により現象が変化しますが、4年目、7年目、10年目、11年目などの数字に開運の時期が期待できるのです。縁談が起こったり、金運がついたり、子供が授かるなど 活用した方位の意味合いにより明るい状況が出てくるでしょう。 
年盤、月盤、日盤を用いて遠方への旅行や長期旅行に関しても4ヶ月、7ヶ月、10ヶ月、11ヶ月目に良い変化が起こります。 
毎日の吉方位に出かけている場合も同様に、出かけた先に楽しいことや思わぬラッキーなこと、感動することや気持ちの良いさわやかな気分で過ごせることが多いでしょう。 
方位を取るときの注意 
方位を取る時は良い方位であっても、たとえば東方位に移転し、また同年内にすぐ西方位にもどる。あるいは南方位に行き 、同年内に北方位にもどる。と言う対角方位の1年以内の行き来は、せっかくの吉方位転居であってもムダ骨になります。 
数回の動きをしたいのであれば違う方位を選んで動きましょう。 
また方位範囲でギリギリのラインの場合、かりに北西が吉方位として北西?西かも北かも? 
といった曖昧さはダメです。必ず北西という場所を選んで取らなければいけません。 
間違いなく吉方位という場所を選びましょう。 
毎日の吉方位(200-300mはほしいですね。)は、例えば、せっかく散歩に出かけたのならその場所で30-40分はゆっくりしてください。公園などでは手を洗ったり軽くうがいをすると良いでしょう。また飲食店があれば入る事もなお良好です。 
幸運を呼ぶ吉方位 
気学での良い方位とは良い本命星、月命星が良い相生関係になる星が廻っている方位を言います。 
九種類の星はすでに紹介したようにそれぞれ五行の木・火・土・金・水のどれかに属しています。 
良い方位の取り方 
では具体的にあなたにとって良い方位を見つけましょう。 
まず簡単に説明しますと例えば昭和55年生まれの人は「二黒土星」で土気の人昭和63年生まれの人は「三碧木星」で木気の人となります。五行の星にはそれぞれに相性があります。 
五行の相性 
下の表を見ると木気の人にとって良い相性の星は水・火・木となっています。このように五行の気にそれぞれ相性の良い気があり、これがわかると九星のそれぞれにどの星が良い相性かがわかります。つまり良い方位とは良い相性の星が廻っている方位を言います。  
五行 よい相性の気  
木気 水・火・木  
火気 木・土・火  
土気 火・金・土  
金気 土・水・金  
水気 金・木・水
仲の良い気と仲の悪い 
木・火・土・金・水の相性の良否 
古代中国では五行思想といわれ五種である地気の構成要素の木・火・土・金・水の相性の良否で吉凶を占う方法は、東洋のあらゆる占術に取り入れられ相生・相剋・比和(和気)の原理があります。 
なおここでは九星の五行関係の相生・相剋の理解が大切です。気学は年・月・日・時刻ごとに星が居宮を移る「動の運命学」ですから必ず道が開け開運ができるのです。 
相生 
木→火→土→金→水の関係を「相生」と言いお互いに助け合うことで木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生じることです。単純明快ですね。これらは漢方医学にも採用されていますが占いなどの方位学にも応用され大きな効果を上げているのです。親が子を生み子が孫を産む子々孫々まで限りなく栄える五行・五気の相互関係の融合を表す意味を持ちます。 
悪い関係 
 
相剋 
木→土、土→水、水→火、火→金、金→木の関係を「相剋」と言いお互いに傷つけ合う事で木は土を剋し、土は水を剋し、水は火を剋し、火は金を剋し、金は木を剋します。 
比和(和気) 
自分と同性の星を言います。木と木、火と火、土と土、金と金、水と水です。たがいに助け合う気です。  
幸せを呼ぶ吉方位 九星の相性 
本命   生気方   退気方   比気方  
      (親星)   (子星)   (兄弟星) 
一白水星 六白・七赤 三碧・四緑  なし  
二黒土星 九紫    六白・七赤 八白  
三碧木星 一白    九紫     四緑  
四緑木星 一白     九紫     三碧  
五黄土星 九紫    六白・七赤 二黒・八白  
六白金星 二黒・八白 一白     七赤  
七赤金星 二黒・八白 一白 六白  
八白土星 九紫    六白・七赤 二黒  
九紫火星 三碧・四緑 二黒・八白 なし  
生気方位 
生気方位とは自分の星を生じてくれる星が廻った方位です。たとえば「木生火」の場合、火は木から生み出されるということで人からの助けや援助が得られます。 
退気方位 
退気方位は自分から生じる星の廻った方位で自身が努力して成功に導かれる方位です。 
「木生火」ですと木は火を生み出すので自分ががんばり運を開くという方位です。他人を助けて助けられるよい現象もあります。 
比気方位 
比気方位は自分と五行が同性の星の廻った方位を言います。 
なお一白水星の人と九紫火星の人は兄弟星が無い為にありません。互いに助け合うと言った良い現象が現れて来ます。 
九星    開運方位となる九星  
一白水星 三碧・四緑・六白・七赤  
二黒土星 六白・七赤・八白・九紫  
三碧木星 一白・四緑・九紫  
四緑木星 一白・三碧・九紫  
五黄土星 二黒・六白・七赤・八白・九紫  
六白金星 一白・二黒・七赤・八白  
七赤金星 一白・二黒・六白・八白  
八白土星 六白・七赤・九紫  
九紫火星 二黒・三碧・四緑・八白 
右の表を見てお気づきのように開運方位となる九星欄に五黄土星はありません。 
人との相性ならば五黄土星は土気ですから五行の相性の表で火・金・土とあるように九紫火星・六白金星・七赤金星・二黒土星・八白土星と自分と同じ星の五黄土星の人々と相性が良いということになりますが、この五黄土星が廻っている方位は五黄殺といい大凶方位です。 
また自分の星が廻っている方位も本命殺や月命殺といい大凶方位です。なお削除すべき大凶方位はまだあります。詳しくは不幸を呼ぶ大凶方位をご覧下さい。 
良い方位の見つけ方に注意することは世の中に良い出来事よりも、悪い出来事の方が多いのと同じで悪い方位を削除して最終的に残ったのが良い方位と言う判断になるのです。 
さらに上記に吉方に三通りの紹介がなされていますが、例えば本命九紫 の人ですと「木生火」の関係で木が「親星」で火が「子星」になり、平成20年ならば三碧木星の回座している西方位や四緑木星が回座している北東方位は吉方位「親星」の関係にあたり良好を得るということになります。また「火生土」の関係で火が「親星」で土が「子星」になり九紫火星の「親星」に対し、二黒土星が回座している北西方位、八白土星が回座している東方位が「子星」の関係になり良好です。(五黄土星は別の考え方を取ります) 
その他の特筆すべきケース 
平成19年の北方位は最強の吉神がズラリと並んでいます。 
他の方位にも並んでいますがこの七赤方位を利用できる人は最高にラッキーです。歳徳・天道・太陽と年盤には記入があります。暦を持っている人は是非見てください。良い神様が在座する方位はとてもラッキーなのです。 
平成20年の南方位は歳徳や月徳合が在座していますが五黄土星が回座しているため吉方位としては活用出来ません。 
ここでは月盤にも多く表示されている天道(吉神)と凶殺方位に記載しなかったので太歳(凶神)について述べておきます。 
天道(吉神)/天道はすべての人にとても良い力を発揮します。 
特に良い方位に天道があればダブルでラッキーパワーがもらえます。月盤に影響が大きい吉神です。方位を見る場合はこの吉神も見ておくと良い現象の現れ方ははんぱではありません。ただし悪い方位に天道があれば残念ですが。ちょっとだけ凶の意味合いが少なくなる程度で、やはり悪い方位には変わりありません。 
太歳/年盤で判断します。 
平成20年は子年です。その歳の十二支が入った方位につきますから北に太歳があります。吉方位として利用できれば倍以上の効果が得られますし逆に悪い方位で用いますと倍以上の悪い現象が現れます。良い方位としての活用はさらに良くなり悪い方位としての活用はさらに悪いということになります。 
その他に天道天徳や月徳などの吉神の事があります。  
不幸を呼ぶ大凶方位 
世の中に良い出来事よりも、悪い出来事の方が多いのと同じで悪い方位はたくさんあります。 
悪い方位を消去して最終的に残ったのが良い方位と言う判断になります。 
気学の基本は何と言っても良い方位をとり開運する学問です。「九大凶殺方位」は五黄殺・暗剣殺・本命殺・本命的殺・月命殺。月命敵殺・歳破・月破・日破を指します。 
なおこのサイトでは九大凶殺方位の中で年齢により本命ではなく月命で鑑定している場合があります。また日盤での情報で鑑定しています。 
8歳以上12歳頃の方であれば、日命と月命 
13歳-50歳頃は本命と月命 
50歳以降でも状況判断で本命と月命で吉方位を算出するのが本来のあり方です。 
以下の1)-5)の項目は全ての人に悪い方位となり6)-9)は各個人で悪い方位です。表中の「小児殺方位」も凶殺で子供に悪い方位です。また今回は記載していませんが「定位対冲」も凶殺で全ての人に悪い方位です。 
五黄殺 
五黄殺(ごおうさつ)とは本来「中宮」にある五黄土星が廻っている方位です。この方位に移転や旅行などをすると最も強烈な殺気が働きやることなすことがうまくいきません。長期に亘る病気が出たり時には一命を失うことがあったりと恐れられている方位です。中には五黄殺に移転して一時的に良好を得た人もいましたが4年後に破綻した例もあり、この方位は絶対に用いてはいけません腐敗、残虐、強奪、醜聞、絶望、自殺などの現象があり病気、貧乏など不幸が起こります。平成19年は東北に五黄土星が廻っており五黄殺になります。 
全ての九星の人にも大凶の方位です。 
暗剣殺 
暗剣殺(あんけんさつ)は五黄殺の反対の方向を言います。この方位も文字が示す如く暗闇から急に剣を切りつけられる様に大変悪い方位です。災難・失敗が起こるとされ五黄殺が自動的に災厄を生ずるのに比べて暗剣殺は他動的に災いを受ける方位です。中には本業以外の事に手を出し大きな損失があるなど、病気にも注意が必要です。平成19年は西南が暗剣殺です。  
全ての九星の人にも大凶の方位です。 
歳破 
歳破(さいは)と言うのはその年の十二支の正反対側にある支の方位を言います。 
平成20年ですと子年ですから北の反対側で午の方位(南)に当たります。 
この方位を犯しますと文字通り「破れる」の意味があり他人との交渉でトラブルがあったり商談などがあと一息までのところで最後に壊れたり、手術や怪我、交通事故などが起こりやすいと言われます。 どの九星の人にも大凶の方位です。 
歳破・日破早見表

年/日

歳日 
破破

南 
西

南 
西

西

西 

西 

北 

北 

東 

東 

月破 
月破(げっぱ)はその月の十二支の正反対側で歳破と同じ様な現象が起こります。例えば平成19年の5月は6日の立夏からが5月の暦となりますが月命乙巳八白土星の月で巳の反対側の亥にあたる北北西が月破にあたります。  
全ての九星の人にも大凶の方位です。 
月破早見表

一月(丑)

二月(寅)

三月(卯)

四月(辰)

五月 
(巳)

六月 
(午)

七月 
(未)

八月 
(申)

九月 
(酉)

十月 
(戌)

十一月 
(亥)

十二月 
(子)

月 

南 
西

南 
西

西

西 

西 

北 

北 

東 

東 

日破 
日破(にっぱ)はその日の十二支が入る方位の正反対の方位が日破にあたります。 
この方位を犯すと文字通り何事も破れるということになります。日盤ですからその日の予定がダメになったり、集金などで当て込んでいたことがダメだったり、思わぬアクシデントが起こったり、留守であったり遅刻するなど良いことがありません。必ず避けて通ることです。  
全ての九星の人にも大凶の方位です。 
本命殺 
本命殺(ほんめいさつ)は自分の生まれ年が廻っている方位になります。例えば平成19年は二黒土星が中宮にあるため二黒土星の人は本命殺がありません。仮に九紫火星の人でしたら東に本命が回座しているので東が本命殺となります。本命殺の方位に移転などをしますと自分の勘違いで大きな損をしたり身体を壊したり病気にかかり易くなります。 
例えば昭和42年8月30日生まれの人なら本命六白金星・月命八白土星で平成19年の年盤では南が本命殺です。 
本命的殺 
本命的殺(ほんめいてきさつ)とは自分の星が廻っている反対の方位(本命殺の反対方向)を言います。例えば自分の本命星が南にあれば北が本命的殺です本命殺が肉体的に影響する方位で、本命的殺は非常に精神的に苦痛を味わう被害者の方位です。悩みや苦労、ストレスと言った形になり現れます。病気や怪我にも注意です。 
例えば昭和45年10月10日生まれなら本命三碧木星・月命六白金星で平成19年の年盤では南東が本命的殺です。 
月命殺 
月命殺(げつめいさつ)は自分の生まれ月が廻っている方位になります。例えば平成19年2月(2月4日の立春以降)は二黒土星が中宮にあるため月命二黒土星の人は月命殺がありません。仮に月命九紫火星の人でしたら東に月命が回座しているので東が月命殺となります。月命殺の方位に移転などをしますと本命殺と同様に自分の勘違いで大きな損をしたり身体を壊したり病気にかかり易くなります。 
例えば昭和54年6月28日生まれなら本命三碧木星・月命一白水星で平成19年の年盤では南東が月命殺です。 
月命的殺 
月命的殺(げつめいてきさつ)とは自分の月命星が廻っている反対の方位(月命殺の反対)を言います。例えば自分の月命星が南にあれば北が月命的殺です本命的殺と同様に月命殺が肉体的に影響する方位で、月命的殺は非常に精神的に苦痛を味わう被害者の方位です。悩みや苦労、ストレスと言った形になり現れます。 
例えば平成2年3月21日生まれなら本命一白水星・月命七赤金星で平成19年の年盤では南が月命的殺になります。 
 
四柱推命1

 

中国で陰陽五行説を元にして生まれた人の命運を推察する方法である。 
四柱推命という呼称は、中国の原書に見ることができない。日本独自のものであるが英語圏で"Four Pillars of Destiny"もしくは"Four Pillars Astrology"と呼ばれているように、既に世界的に使用されている。中国では、「子平」「三命」「命学」「命理」「八字(パーツー)」などといわれている。 
1100年代、南宋の徐居易(徐子平)の書が文献考証的に四柱推命の最古となるため、徐子平が命学の祖といわれている(一説には、命理の始まりは、戦国時代(紀元前400年-200年頃)の蘭台御史(天子の秘書官)の珞琭子であるとされている)。続いて1200年代に徐大升により「淵海子平」(えんかいしへい)という書が著わされ、1368年頃、明の軍師・政治家であった劉基(劉伯温)が「滴天髄」(てきてんずい)という書を著わしたとされている。 
近年では、清代末の辛亥革命前後の時代に活躍した徐樂吾の著作がその数において突出しているため、日本にも大きな影響を及ぼしている。ただし、徐樂吾の論が正しいかどうかについては意見が分かれている。 
日本には江戸時代中期に移入された。文政年間、仙台の儒学者桜田虎門が「推命書」という名称で「淵海子平」の訳本を出したのが、考証的に最古の書である。しかし桜田虎門は四柱推命に対する専門知識がなかったとも言われており、翻訳の質の点では疑問も残るとする評価もある。現代では阿部泰山流、高木乗流などがあるようである。粟田泰玄は阿部泰山流である。なお四柱推命に流派などない、という立場で武田考玄という研究者も活躍した。  
基礎理論
十干十二支、暦 
陰陽五行思想や干支の項目と重複するためそちらを参照のこと。十干も十二支も五行を持ち、陰陽を持つ。1年の始まりは立春、月の始まりは二十四節気の中の正節の節入り時刻。ただ1日の始まりについては前日23時とする説と午前0時とする説がある。ただ現状では午前0時とする説の方が優位と考えられる。 
四柱 
四柱推命は生まれた年、月、日、時、の四つ干支を柱とし、その人の生まれ持った可能性を推し量るものである。それぞれ年柱、月柱、日柱、時柱という。出生時間が不明の場合が多いため、特に日本では時柱を除外し、三柱推命という方法が多く見られるが、四柱推命は年月日時の4つが揃うことが絶対条件とされており、中国の原書には三柱推命はまったく見られない。「4つのうち3つわかれば、多少確度が下がるだけ」というのは、四柱推命の構成を無視した暴論と言える。それぞれの柱に来る十干を天干と言い、十二支を地支と言う。さらに、年柱の天干は年干(年柱天干と言う時もある)、月柱の地支は月支といった呼び方をする。そして日干を中心として、他の天干、地支が日干に対してどのような影響を及ぼしているかを統観し、それをもとに具体的な事象を推察する。 
五行図 
日本の一部の流派では、五行の相生相尅を論じる場合の五行図は通常、木を上に書き、そこから右回りに、火、土、金、水の順に正五角形の頂点の位置に書く。右回りに五角形(または円)を描くようにして矢印で結んでいくと、それが生じることを意味する矢印となる。つまり、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生じる。逆に見れば、火は木に生じられ、土は火に生じられという風になる。また、五角形の頂点を、木から土へ向かう矢印を引き、順繰りに五行を結ぶと、剋(こく)することを意味する矢印となる(「剋す」とは攻撃して弱めるというような意味)。つまり、木は土を剋し、土は水を剋し、水は火を剋し、火は金を剋し、金は木を剋する。ただし単純に五行の配置を図示する場合は、火行を南として上に、水行を北として下に、木行を東として左に、金行を西として右に、そして土行を中央に置く。 
この五行図の中で、日干の五行に当たる部分が自分の拠点となり、そこから生じる五行、生じられる五行、剋される五行などの関係を見ていく。例えば日干が丙なら、五行図の火の部分が拠点となり、火が生じる五行は土、火が生じられる五行は木、火が剋される五行は水、となる。火にとって、生じられる木からは気をもらい、生じる土には気を与え(逆に見ると気を奪われる)、剋される水からは気を弱められる。また自分と同じ火は、合わさればより強くなる関係。一般的には、自分(火)を強める火、木がよく、弱められる土、水はよくないということがいえるが、ただし、火が強すぎる場合に限り(これを大過するという)、弱めてくれる土、水が有用となる。四柱推命では、五行が大過することはよくないこととされる(日干の五行以外でも)。 
月律分野蔵干 
同じ月に生まれても、節入りから何日目に生まれたかがそれぞれ違う。これを月律(げつりつ、月のリズム)という。地支となる十二支には、余気、中気、本気という2つないし3つの干が含まれている。これを蔵干(ぞうかん)という。節入りから生日までの日数と時間により、四柱の地支に含まれる蔵干を一つ引き出す。十二支の蔵干については、いくつかの説を見ることができるが、既述の「星平會海全書」に掲載されている以下の蔵干を採用することが多い。 
子=(壬、癸)卯=(甲、乙)午=(丙、己、丁)酉=(庚、辛) 
丑=(癸、辛、己)辰=(乙、癸、戊)未=(丁、乙、己)戌=(辛、丁、戊) 
寅=(戊、丙、甲)巳=(戊、庚、丙)申=(己戊、壬、庚)亥=(戊、甲、壬) 
大まかな日数の区切りをいうと、子、卯の蔵干2つの場合、節入りから10日までとそれ以降、午、酉は、節入りから10日まで、と10日から20日まで、とそれ以降。丑、辰、未、戌は節入りから9日まで、と9日から12日まで、とそれ以降。寅、巳、申、亥は節入りから7日まで、と7日から14日、とそれ以降。月律分野蔵干の配分率については各書物により幾分差違がある。 
なお、子・卯・酉以外の9つの干の蔵干の中気は、十二支に相互関係の三合会局に基づいている。寅−午−戌を例にとると、この三支は火局を構成する。そこでこの三支には火行が含まれるとしているわけである。これは十二運の考え方の基礎ともなっており、孟支である寅において火が生まれて長生となり、仲支である午において旺じて帝旺となり、季支である戌で墓に入る。 
月令、旺相衰 
月令(げつれい)は四柱推命の用語で日干の強弱を見る一つの方法。旺(おう)は旺盛、勢いがあるという意味。相(そう)はやや強いという意味、衰(すい)は弱いという意味。四季には五行があり、春は木、夏は火、秋は金、冬は水、で土は各季節の最後の月(陰陽五行思想の十干十二支を参照)。日干の五行と同じ季節月に生まれていれば、月令を得て旺ず、という。日干が甲、乙で春月生まれ、日干が丙、丁で夏月生まれなどである。次によいのが、日干を生じてくれる五行の季節月生まれで、甲、乙なら水なので冬月生まれ、丙、丁なら木なので春月生まれなどである。これを月令相という。この旺相に該当しない場合、月令を得ず衰という。月令を得ていなくとも、通変、十二運などで強く変化することもある。 
通変(天干星) 
通変(つうへん)は日干に対し、他の天干と蔵干がどういう意味を持つかを表わす用語と言える。比肩、劫財、食神、傷官、偏財、正財、偏官、正官、偏印、印綬の10種類がある。語尾に「星」を付け、比肩星、劫財星のようにも言われる。日本では天干星とも言われるが、中国の原書にはこうした表現は見られない。また、原典の解読の仕方によるのか、通変と語順がさかさまの変通星という呼称も見受けられる。 
比肩は、日干と同じ五行で、陰陽が同じもの。日干甲なら甲、乙なら乙が比肩。 
劫財(ごうざい)は、日干と同じ五行で、陰陽が違うもの。日干甲なら乙、乙なら甲が劫財。 
食神は、日干が生じる五行で、陰陽が同じもの。日干甲なら丙、乙なら丁が食神。 
傷官は、日干が生じる五行で、陰陽が違うもの。日干甲なら丁、乙なら丙が傷官。 
偏財は、日干が剋す五行で、陰陽が同じもの。日干甲なら戊、乙なら己が偏財。 
正財は、日干が剋す五行で、陰陽が違うもの。日干甲なら己、乙なら戊が正財。 
偏官は、日干が剋される五行で、陰陽が同じもの。日干甲なら庚、乙なら辛が偏官。 
正官は、日干が剋される五行で、陰陽が違うもの。日干甲なら辛、乙なら庚が正官。 
偏印は、日干が生じられる五行で、陰陽が同じもの。日干甲なら壬、乙なら癸が偏印。 
印綬は、日干が生じられる五行で、陰陽が違うもの。日干甲なら癸、乙なら壬が印綬。 
通変も五行図の項でも説明した日干を強くするもの、弱めるものという性質がある。日干と同じ比肩、劫財は比(ひ)といい、日干と合わさり強める。日干が生じる食神、傷官は洩(えい)といい、日干の気が漏れ出し弱まる。日干が剋する偏財、正財は分勢(ぶんせい)といい、日干は攻撃する側だが、それによって消耗する。日干が剋される偏官、正官は剋(こく)といい、一番日干を弱める力が強い。日干が生じられる偏印、印綬は助(じょ)といい、日干を強めてくれる。日干を除く天干と蔵干で7つの通変があり、これらに比、洩、分勢、剋、助がそれぞれいくつあるかで、日干の強弱を見る。日干と同じ陰陽の通変は日干への働きが強く、陰陽の異なる通変はやや弱く働く。 
十二運 
十二運(星)は、日干の強さの変化を、地支の十二支から見るもの。人の一生になぞらえて、長生、沐浴、冠帯、建禄、帝旺、衰、病、死、墓、絶、胎、養、の12種類がある。あくまでも強弱を比喩で表わしたものなので、四柱に病があるから病気をするということでは断じてない。日本のほとんどの四柱推命の専門家は十二運を採用しているが、中国の原書に準拠し、一切採用しないという考え方もある。 
日干から日支にひいた十二運とある種の性格分類に相関があるという研究が、心理学者でもあった増永篤彦によって行われており、増永はこれを基に新推命学を提唱した。この研究成果は後に動物占いの基礎となり、動物占いやその多数のエピゴーネンによって流用されている。  
吉凶の判断 
四柱推命では四柱八字の構成から、扶抑、調候、清濁を論じて、扶抑用神、調候用神、病薬用神を見る。そしてこれらの用神から、いかなる状況でも自分にとって吉の作用を持つ用神を出し、用神を軸にして本来の特性や巡ってくる運勢の吉凶を判断する。この用神を特に真用神と呼ぶことがある。 
扶抑用神 
扶抑用神を出すためには、まず日干の強弱と格局を調べる必要がある。日干の強弱は、日干に季節による旺相、四柱八字内の五行が日干の強弱にどう作用しているかから判断する。格局は、普通格局(内格)特別格局(外格)に大きく分類される。日干が強い、弱いと言っても、日干がその存在を保つことができる程度であれば、それは普通格局に分類されるのであるが、中には日干が非常に弱い、逆に非常に強く、普通格局として扱えないような四柱八字もある。それを外格と総称される。 
 ■内格→食神格、傷官格、正財格、偏財格、正官格、偏官格、印綬格、偏印格 
 ■外格 
 従格(従旺格、従強格、従児格、従財格、従殺格)→日干が従う五行の干を格局とする。 
 一行得気格 
 化格 
 ■両神成象格→通関用神という特殊な用神を採用する。そもそも両神成象格という格自  
 体に疑問を呈する研究者もいる。内格の場合、日干が強いにもかかわらず格局が日干を 
 さらに強くしたり、逆に日干が弱いにもかかわらず格局が日干を弱めることがある。 
 ■日干が強い(身強) 
 格局が日干を強める(格局が比劫や印)→格局を尅し日干を強める五行の干を扶抑用神と 
 する。 格局が日干を弱める(格局が食傷、財、官殺)→格局を扶抑用神とする。 
 ■日干が弱い(身弱) 
  格局が日干を強める(格局が比劫や印)→格局を扶抑用神とする。 格局が日干を弱める(格 
 局が食傷、財、官殺)→格局を尅し日干を強める五行の干を扶抑用神とする。 
調候用神 
季節の持つ寒暖燥湿の性質が日干にどう作用するかから、寒暖燥湿を調整する干が決まっており、これを調候用神と呼んでいる。この「調候用神」についての解説がある最も古い文献は「欄江網」である。「滴天髄」にも寒暖燥湿という概念が述べられているが、「欄江網」の調候用神とは内容に異なる面がある。なお調候用神が扶抑用神と一致するとは限らないため、用神という概念にさえ疑問を呈する考え方もある。 
病薬用神 
扶抑用神や調候用神を尅す作用のある干や支が四柱八字内にある場合や、凶の格局を尅す干や支が四柱八字内にない場合、これを濁とする。そしてその原因となっている干や支を病と呼ぶ。病の干や支を尅す干が薬である。薬があれば四柱八字は清となる。薬を病薬用神と呼ぶ。そのおおもとは既述の「神峯通考・命理正宗」の著者・張神峯に始まる。しかし「神峯通考・命理正宗」には、「用神」という概念はみられない。  
 
四柱推命2

 

四柱推命とは、生年・月・日・時を四本の柱とし、そこから導き出される様々な星の組み合わせにより運勢を推察するという占術です。 
古くは中国の皇帝が国の政治の方向性を判断する際にも使用されていたとされます。この占術は一種の統計学のようなものですから、千数百年ものあいだに非常に多くの占術家による研究が進められるうちにより一層驚くべき的中率を誇る占術へと進化を遂げてきたのです。日本へは江戸時代の中期に伝えられたとされ、阿部泰山氏や高木乗氏等の手により全国に広められ現在に至っています。 
具体的にどのような事がわかるのかというと、性格、結婚運、仕事運、金銭運、健康運、子供運、男女の相性、人生全般の運勢、年毎の運勢などです。 
私自身この占術の存在を知ったのは二十歳を過ぎてからで、それまでその存在すら知りませんでした。それまでは星座占い、または姓名判断、タロット占い、水晶占い、血液型占い等の占いが私の中では主流でしたが、この占術を知ってからはもう他の占いには興味が無くなってしまいました。ただ不思議な事はこれだけの優れた占術なのに一般人にはあまり知名度が無いのではないかと感じます。勿論占いに興味を持たれている方なら「こんな有名な占いを知らないなんて・・」と思われるかも知れませんが、私の周りでも特に占いに興味を持っていなかった人達には「四柱推命って何?」とよく聞かれます。事実私自身も知らない時期が永かったわけですから、星占いや姓名判断並に本当のメジャー占いとなるのはまだまだこれから先の事になるのではないかと感じています。 
例えば四柱推命と姓名判断を比べて見ますと、一番大きな違いは姓名判断が後天的な占いであるのに対し、四柱推命は先天的な占いであるという事です。つまり姓名判断とは名前から運命を推察する占術ですが、名前とはこの世に生まれてから両親等に付けてもらうものであって遺伝的なものではありません。ですから都合が悪ければ後に改名して運勢を変えようという発想も出来るわけですが、それに対し四柱推命の場合は生まれた時にはもう運勢の大半は決まっており、運勢が悪いからもう一度生まれ直そうなどという事は不可能なわけです。更に厳密に言うと生まれた日時というのも実は後天的なものであって、さかのぼれば受精の時にはもうすでに運勢は決まっていると言えます。ようするに自分の意思では絶対に変える事の出来ない持って生まれた運勢。言い変えれば天の意思によって与えられた運というものが「四柱推命占いによる推察で判断出来る運勢」と、いう事になるのではないでしょうか。 
自分の存在とは何の原因も無しにいきなりこの世に湧いて出るというものではありません。この世の全てのものに原因と結果があるわけです。例えばこのホームページの作者は私であり、私が製作したからこのホームページがあります。どんな絵や彫刻、または本や歌、建造物に至るまでかならず原因となる作者がいて結果としての作品があるのです。 
自分とはあくまでも結果としての存在ですから、つまり結果として生まれた自分の運勢を変えるという事は皆さんが考えるように容易な事ではありません。正直に言ってしまえばナンセンスな事なのではないかと私は感じます。自分が生まれた原因には両親があり、その両親が生まれた原因にはまたそれぞれの両親の存在があり、ずっとずっと古いご先祖様からの遺伝的要素を受け継いで受け継いで今日の自分が結果として現れているのです。もし持って生まれた運勢を本気で変えたいと思うのならば、自分の先祖の先祖のそのまた先祖の行いを正し、修正しなおさなくてはなりません。そんな事はたして皆さんに出来るものでしょうか?不可能ですね。?そうです。不可能なのです。それが持って生まれた運勢というものであり、それを推察するのが四柱推命です。ですから四柱推命という占術は本来は遊び感覚で使用出来るようなシロモノではなく、本気で自分の人生と向き合い生きて行こうとする人の為の人生の指針となるべきものなのです。 
自分自身というものを知らない人にとってみれば、人生とは暗闇に向かって手探りで進むようなものとなってしまいます。うまく上昇気流に乗れれば良いですが、間違って坂道をころげ落ちてしまうかも知れません。しかし最初から自分の才能や運勢の波を知っておくならば、それを指針としてより良い人生への道筋が構築出来るはずです。四柱推命はまさに一人一人に天から与えられた宝物ですから、それをぜひ生かしてほしいものです。 
まず理解しておいていただきたいことは、鑑定によって出た結果を謙虚に受けとめ、それを今後の人生に役立てていってほしいということです。もし良い運勢だったとしたらより努力してさらに上をめざしてほしいと思いますし、たとえあまり良くない運勢であったとしても決してあきらめることなく、希望を持って努力していっていただきたいと思います。 
人にはそれぞれ個性があり、すべての人に良いところ悪いところがあります。めざす方面によっては発展の望みが薄い場合があるかもしれませんが、別の方面では才能が発揮されて一流になれる要素があるという場合も必ずあります。 
もし出来る事ならば子供のうちに運勢を見ておくと、その分将来めざすべき道が早く見つかる可能性がありますので、お子さんをお持ちの方は特にこの四柱推命に関心をもっていただきたいと思っております。 
持って生まれた運勢が決して変える事の出来ないものならばもうどうしようもないじゃないかと思われる人もいると思います。「ハイそうです。・・。」と言ってしまえばそれで終りですがそうではなく、私は個人的にどんな人でもたった一つ運勢を変える事の出来る方法があると考えています。その唯一無二の方法が「結婚」なのです。結婚とは生まれも育ちも運勢も違う男女が一つになり家庭を持つ事です。結婚式等でよく「二人力を合わせて新しい出発を・・。」と表現されますがまさにその通りで、結婚こそが生きているうちに人生を実際に変化させる事の出来るチャンスなのです。自分には無かった要素が相手にあり、相手の足りない部分を自分が補うという事によって1+1=2ではなく3になるのが理想の結婚なのです。 
さて本来人間は男性も女性もそれぞれ単体では完成体ではありません。勿論人間に限らず森羅万象がそうなっています。男性と女性ではそれぞれ形が違います。なぜ違うかというと二人で一つとなるようになっているからです。昔テレビアニメで「出てこいシャザ〜ン!」と言って二人がそれぞれ持っている二つに割れた指輪を一つにすると魔人が出現するというのがありました。結婚する前の男女はそれぞれその指輪の片割れのようなもので、一緒になって始めて一つの完成品となるのです。つまり実は男女とも結婚するまでは中途半端な存在なのです。女性だけでは子供は作れないし、男性だけでも子供は作れないという事からもその事実がお分かりになると思います。シャザーンを知らない若い人の為の例としては「超人バロム1」というのもありました。これも二人の友達が一つになってバロム1になるというお話です。それも知らないというのなら「ウルトラマンA」というのはご存知でしょう。これも北斗星司と南夕子が一つになって変身するというものです。え?これも知らない? 
話が横道にそれてしまいましたが、要するに男性という中途半端な存在と女性という中途半端な存在が結婚して一つになる事によって始めて完成し、そこでようやく完成品としての出発が出来るのです。ですから独身時代はそれ程自分の運勢が良いとか悪いとか気にしなくとも、結婚するにあたってはお互いの運勢が非常に大きな意味を持って来ます。ですから結婚は大事ですし、結婚する際にお互いの運勢を把握しておく事はその後の人生を左右する重大な事なのです。 
運勢には相性があります。結婚の最大のポイントはいかにお互いの運勢を補い合い発展をしていけるかという点ですが、それが運勢的に言う相性という事になります。よく性格の不一致だとかの理由で簡単に別れる夫婦が後を経ちませんが、そのような低次元の相性とは一線を画してお考え頂きたいと思います。勿論性格面で見た相性も重要な要素である事は確かですが、お互いのそれぞれの運勢の質と強弱、時期、縁の深さ、バランス等さまざまな要素を組み合わせ総合的な判断をしていきます。それが可能なのが四柱推命であり、新しい出発をしていく為には無くてはならないものなのです。 
結婚して独身時代より不幸になったというのでは意味がありません。独身時代より幸福になってこそ結婚する価値があるというものです。私がこのサイトを製作した一番の目的はまさにその事を皆さんに知って頂きたいからなのです。皆さんが幸福になれるよう心から願っています。  
干支と陰陽 
四柱推命とは、生年月日時を干支に置き換えそれを基にして吉凶を判断する占いです。 
干支の「干」とは、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)の10干の事です。これらを陰陽と五行別に表したものが下の図となります。 
十干    陰陽 五行 方位 四季  
甲(きのえ)  陽  木  東  春  
乙(きのと)    陰  木  東  春  
丙(ひのえ)   陽  火  南  夏  
丁(ひのと)  陰  火  南  夏  
戊(つちのえ)陽  土  中央 季節の変わり目  
己(つちのと) 陰  土  中央  季節の変わり目  
庚(かのえ)   陽  金  西  秋  
辛(かのと)    陰  金  西  秋  
壬(みずのえ)陽  水  北  冬  
癸(みずのと) 陰  水  北  冬  
読み方についてですが、五行が同じ「木」である「甲」と「乙」を例に挙げますが甲が木の兄(先)であり乙が木の弟(後)であるところから「きのえ」「きのと」読みならわされて来たものです。すなわち、兄は上(うえ)ですからその(え)を取って(え)「甲(きのえ)」と読むという事で、また弟は後(あと)なので(と)を取って(と)「乙(きのと)」と読むのです。 
またこのように語尾が「え」と「と」になるので、一般に干支の事を「えと」と呼ぶわけです。 
干支の「支」とは、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、午、戌、亥の十二支の事です。 
これらを陰陽と五行別に表したものが下の図となります。 
十二支 陰陽 五行 方位   四季   月 時刻  
子(ね)  陽     水    北         冬      12月 PM11-AM01  
丑(うし) 陰     土    北北東  土用     1月 AM01-AM03  
寅(とら) 陽     木    東北東  春        2月 AM03-AM05  
卯(う)    陰     木    東        春        3月 AM05-AM07  
辰(たつ)陽     土    東南東  土用     4月 AM07-AM09  
巳(み)   陰     火    南南東  夏        5月 AM09-AM11  
午(うま) 陽     火    南         夏       6月 AM11-PM01  
未(ひつじ)陰   土    南南西  土用    7月 PM01-PM03  
申(さる) 陽     金    西南西  秋        8月 PM03-PM05  
酉(とり) 陰     金    西         秋        9月 PM05-PM07  
戌(いぬ)陽     土    西北西  土用   10月 PM07-PM09  
亥(い)   陰     水    北北西   冬      11月 PM09-PM11  
干支の干と支は必ず陰と陽に別れています。そして干と支の結び付きにおいても必ず陽の干には陽の支が、陰の干には陰の支が結び付くのです。干と支が陰陽反対に結び付くという事は決してありえません。 
干支の種類は六十個あります。六十個しか無いという言い方も出来ます。なぜかというと上記の説明の通り干と支が陰陽逆になるという事がないからです。ですから例えば「甲丑」とか「乙寅」等の干支は存在しないのです。 
その六十個の干支は以下の通りです。 
六十干支表  
壬 / 子庚 子戊 子丙 子甲 子陽 
癸 / 丑辛 丑己 丑丁 丑乙 丑陰 
甲 / 寅壬 寅庚 寅戊 寅丙 寅陽 
乙 / 卯癸 卯辛 卯己 卯丁 卯陰 
丙 / 辰甲 辰壬 辰庚 辰戊 辰陽 
丁 / 巳乙 巳癸 巳辛 巳己 巳陰 
戊 / 午丙 午甲 午壬 午庚 午陽 
己 / 未丁 未乙 未癸 未辛 未陰 
庚 / 申戊 申丙 申甲 申壬 申陽 
辛 / 酉己 酉丁 酉乙 酉癸 酉陰 
壬 / 戌庚 戌戊 戌丙 戌甲 戌陽 
癸 / 亥辛 亥己 亥丁 亥乙 亥陰  
五行理論 
干支には必ず五行の働きがあります。四柱推命で運勢を判断する場合にはこの五行というものが重要なポイントになります。 
五行とは自然界に存在する木、火、土、金、水の五つの要素の事です。この五行の数的な組み合せによりその人の持つ運勢が決まってくるのです。 
下図のように干支(十干と十二支)はそれぞれ五行の五つの要素に当てはまります。例えば「甲(きのえ)」を五行で表すと「木」になりますし、「丑(うし)」を五行で表すと「土」となります。 
十干        陰陽 五行  
甲(きのえ)     陽 木  
乙(きのと)     陰 木  
丙(ひのえ)    陽 火  
丁(ひのと)     陰 火  
戊(つちのえ)  陽 土  
己(つちのと)  陰 土  
庚(かのえ)    陽 金  
辛(かのと)     陰 金  
壬(みずのえ) 陽 水  
癸(みずのと)  陰 水  
十二支      陰陽 五行  
子(ね)           陽 水  
丑(うし)         陰 土  
寅(とら)         陽 木  
卯(う)            陰 木  
辰(たつ)        陽 土  
巳(み)           陰 火  
午(うま)         陽 火  
未(ひつじ)      陰 土  
申(さる)         陽 金  
酉(とり)         陰 金  
戌(いぬ)        陽 土  
亥(い)           陰 水  
五行には「相生(そうせい」と「相尅(そうこく)」という相反する2つの作用があります。「相生」というのは次の五行の要素を生み出してその働きを助け増大させていく働きの事です。 
つまり、木は火を生じます。これは木材を燃やせば火が起こるという事です。 
火は土を生じます。これは火が燃えると灰が出来、それが土の養分となるという事です。 
土は金を生じます。これは土(岩)の中から金(鉱石)が生まれるという事です。 
金は水を生じます。岩の裂け目等から自然に水が沸いて出るという事を表しています。 
水は木を生じます。水が木を育てるからです。 
木→火→土→金→水 
「相尅」というのは五行のうちの一つを隔てた要素を打ち負かしたり制したりする働きを表します。 つまり木は土を尅します。つまり木は根を張り土から栄養を吸い取ってしまいます。 
火は金を尅します。金(鉱石)を溶かしてしまうからです。 
土は水を尅します。これは堤防によって水の流れを止めてしまうという事です。 
金は木を尅します。つまり刃物で木を切り倒すという事です。 
水は火を尅します。水が火の勢いを消してしまうからです。 
木→土→水→火→金 
また、五行で運勢を見る場合には「大過(たいか)」と「不足(ふそく)」という現象を見逃せません。大過とは五行の要素のうちの一つに干支が四つ以上集まってしまった場合の事で、不足というのは逆に五行の要素のうちの一つに一つも干支が当てはまらなかった場合の事を表します。この場合どちらも運勢的には波乱が予想されるという事になってしまいます。 
もし五行の五つの要素に均等に干支が当てはまるような場合には運勢的には平穏となりますが、逆にずば抜けた個性というのも無いという事になります。  
干合・支合・三局  
干合とは、十干の陽干と陰干が合わさって五行の星を生じることです。 
例えば甲(きのえ)と己(つちのと)が干合して”土”が生まれます。 
支合とは、十二支の各二つが合わさって五行の星を生じることです。 
例えば子(ね)と丑(うし)が支合して”土”が生まれます。 
三局とは、十二支の各三つが合わさって五行の星を生じることです。 
例えば亥(い)と卯(う)と未(ひつじ)が三局して”木”が生まれます。この場合三つ全部そろえば完全三局と言い最も強い局となりますが、二つある場合でも多少弱いですが星を生じます。 
干合・支合・三局によって生じた星は、五行では△印で表しています。 
干 合 支 合 三 局  
木 壬 丁 寅 亥 亥 卯 未  
火 戊 癸 卯 戌 寅 午 戌  
土 甲 己 子 丑 −−−  
金 乙 庚 辰 酉 巳 酉 丑  
水 丙 辛 巳 申 申 子 辰  
 
四柱推命3

 

陰陽五行説  
陰陽思想 
陰陽思想とは、宇宙新羅万象を「陰と陽」の二つのカテゴリーに分類する思想です。概念的に言えば、受動的な存在・状態を「陰」と呼び、能動的な存在・状態を「陽」と呼びます。具体的に言えば、自然界において「陰」とは、暗・柔・水・冬・夜間・裏などを表し、「陽」とは、明・剛・火・夏・日中、などを表します。生物界で言えば、植物を「陰」に分類し、動物を「陽」に分類します。また、植物・動物のメスを「陰」に分類し、オスを「陽」に分類します。さらに、鉱物及び物質界すべてにおいて「陰と陽」の二つのカテゴリーに分類する事が出来ます。物質の基本単位は原子です。この原子を分解すると、「陰」的存在である電子と「陽」的存在である原子核に分類する事が可能となります。原子をさらに分解すると、物質の基本粒子であるレプトンとクォークに分解出来ます。レプトンとクォークの組み合わせが、物質の基本粒子における「陰と陽」の組み合わせになります。 
すなわち、新羅万象ありとあらゆる存在は、全て「陰と陽」の二つのカテゴリーに分類されるわけです。 
五行思想 
五行思想とは、宇宙新羅万象を「木・火・土・金・水」の五つのカテゴリーに分類する思想です。具体的に言えば、「木・火・土・金・水」を臓器に当てはめた場合、「肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓」の五臓と「胆嚢・小腸・胃・大腸・膀胱」の五腑に分類出来ます。あるいは「目・舌・口・鼻・耳」の五官に分類出来ます。感情に当てはめれば、「怒・喜・思・悲・恐」に分類出来ます。指に当てはめると、「薬指・中指・人差指・親指・小指」に分類出来ます。自然界に当てはめた場合、「春・夏・土用・秋・冬」の四季及び土用に分類出来、「東・南・中央・西・北」の方位に分類出来、「青・赤・黄・白・黒」の五色に分類出来ます。地球規模で考えた場合、五大陸に分類出来、さらに、生物界を厳密に分類すると、動物界と植物界の他、モネラ界・原生生物界・菌界の五つのカテゴリーに分類出来ます。また、動物界を分類すれば、ほ乳類・鳥類・魚類・は虫類・両性類の五つのカテゴリーに分類出来るのです。 
陰陽思想と五行思想の融合 
陰陽思想と五行思想の融合により、宇宙新羅万象の根本理論をより詳しく解明する事が可能となりました。つまり、宇宙を二つのカテゴリーで分類する陰陽思想と、五つのカテゴリーで分類する五行思想を組み合わせる事により、より高度な数理を導き出す事が出来るようになりました。つまり、「2+5=7」のパターンと「2×5=10」のパターンを導き出せるようになったのです。 
実例を挙げてますと、「2+5=7」すなわち7数理の場合、一週間の7曜日がそれに当たります。つまり、日・月曜日が「陽と陰」になり、残りの5曜日が五行に配当されます。「2×5=10」すなわち10数理の場合、十干がそれに当たります。つまり、五行を「陽と陰」に配当し「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干に分類します。 
五行色体表     木 火 土 金 水 
(五行の配当表) 
五臓      肝臓 心臓 脾臓 肺臓 腎臓 
五腑      胆嚢 小腸 胃 大腸 膀胱 
五官      目 舌 口 鼻 耳 
五主      筋肉 血脈 肌肉 皮膚 骨随 
五支      爪 毛 乳 息 髪 
五季      春 夏 土用 秋 冬 
五方      東 南 中央 西 北 
干支      甲乙 丙丁 戊己 庚辛 壬癸 
五色      青 赤 黄 白 黒 
五志      怒 喜 思 悲 恐 
五指      薬指 中指 人差指 親指 小指  
四柱推命の成立 
四柱推命の成立は中国古来、紀元前1世紀以前よりある陰陽五行思想と、カルデアの地におきた星占いとの融合によって、隋唐帝国(西暦600年代)の時代に原型がかたち作られました。つまり、今から約五千年前のカルデアの地(シュメール・アッカド文明)におきた星占いがユーラシア大陸を横断して、中国に入って行き数百年の年月を経て、数々の先人たちの研究と努力によって完成したのです(※宋時代に「淵海子平」を書き著した徐子平、明時代に「滴天髄」を書き著した劉伯温という推命家が有名。これらが、四柱推命の理論体系の原型となっている文献です)。 ちなみに、カルデアの星占いがギリシャに渡って成立したのが西洋占星術です(※伝承によると、カルデア人神官ベロッソスによって紀元前4世紀の終わり頃に、ギリシャ人に伝えられたとの事です。ただ、実際にはそれよりかなり以前から、伝えられていたものと思われます)。ですから、四柱推命も西洋占星術も基本的な根っこの部分では、カルデア人の星占いを基盤としている関係で同じなのです。 ※聖書にシュメール・アッカド文明の記述があります。 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。 旧約聖書・創世記、11章1節-9節(新共同訳聖書・日本聖書協会) シンアルの地に…この町の名はバベルと呼ばれた。 シンアルのバベルとは、シュメールのバビロニア(カルデア)という意味になります。 先程、四柱推命も西洋占星術も基本的な根っこの部分では同じと申しました。この事について、もう少し詳しく説明したいと思います。 四柱推命も西洋占星術も人間の宿命・運勢・吉凶禍福を判断する際には、12数と10数をクロスさせて鑑定いたします。すなわち四柱推命では12支と10干をクロスさせて判断します。これと全く同じで、西洋占星術の場合では12星座と10惑星をクロスさせて判断します。東洋と西洋の二つ占いが、ほとんど同じ基本原理を用いて鑑定するという現実があり、これを専門用語で「命術」と呼びます。 日本には江戸時代に「淵海子平」が渡来し、長崎の医者である桜田虎門によって翻訳され、「推命書」を書き記しました。明治時代に入り、阿部泰山氏や高木乗氏などの活躍により日本全土に四柱推命は広がっていきました。現在、四柱推命占い師として活躍されているほとんどの方は、明治の偉人である阿部・高木両氏の弟子筋にあたる方々です。  
宿命と生年月日時間 
宿命と生年月日時間との因果関係について。 
一般の人達はもとより、占い師の中でさえも間違って認識されている方が結構多くいらっしゃるので、宿命と生年月日時間との因果関係について、ここでお話しさせていただきます。 
よく、四柱推命あるいは西洋占星術に対して否定的な価値観を持たれている人達から、次のような指摘がされます。「生まれた日時で人間の宿命や運勢が何故、決定されるのか?」、と。これに対する答えは、あなたの指摘はトンチンカンですよ。と、答えざるを得ないのです。 
人間の宿命とは生年月日時間によって決まるのでは無く、天から命を授かった赤ちゃんに、元々良い宿命や悪い宿命が与えられているのです。良い宿命を背負って生まれてくる赤ちゃんは理想的な生年月日時間に、逆に悪い宿命を背負って生まれてくる赤ちゃんは、あまりよくない生年月日時間に生まれてくるようになってゆくのです。これが、宿命と生年月日時間との正しい因果関係です。 
誕生する赤ちゃんの宿命は受精した瞬間から決まっているのであって、生まれてくる赤ちゃんの命式にふさわしい生年月日時間に生まれてくるように微調節されるのです。  
10干12支 
10干 
「甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)」を指し、それぞれが「木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)」の陰陽に配当されます。 
木→甲(陽・木の兄)、乙(陰・木の弟) 
火→丙(陽・火の兄)、丁(陰・火の弟) 
土→戊(陽・土の兄)、己(陰・土の弟) 
金→庚(陽・金の兄)、辛(陰・金の弟) 
水→壬(陽・水の兄)、癸(陰・水の弟) 
「木・火・土・金・水」の五行を、陽である兄と陰である弟に分類すると、上記のような10干の配当になります。兄(え)と弟(と)で、「えと」と、言う意味です。 
甲 > 大木と考えます。性質は強く、激しさを伴います。独立心が旺盛です。 
乙 > 草花と考えます。性質は弱さ、柔らかさなど温和で円満を良しとします。 
丙 > 太陽と考えます。性質は激しく、派手で華やかさを伴います。 
丁 > 灯火と考えます。性質は陽気、おとなしく温和です。やや地味です。 
戊 > 堤防と考えます。性質は派手、しかし世話好きなところがあります。 
己 > 田園と考えます。性質は規則正しく、おとなしく温和です。 
庚 > 鉱石と考えます。性質は質実剛健、意思が強く自信家です。 
辛 > 宝石と考えます。性質は苦労性で、辛抱強く現実派です。 
壬 > 大河と考えます。性質は勇気があり、頭脳的才能に恵まれています。 
癸 > 雨露と考えます。性質は正直で、おとなしく実務的才能があります。 
12支 
「子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)」 を、指し、それぞれが「木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)」の陰陽に配当されます。 
12支とは、一般的に動物の象徴と思われているみたいですが、実際はそうではなく、植物の成長過程を時系列ごとに表した象徴です。下記に12支のあらましを簡単に列記します。 
木→寅(陽・木の兄)、卯(陰・木の弟) 
火→午(陽・火の兄)、巳(陰・火の弟) 
土→辰・戌(陽・土の兄)、丑・未(陰・土の弟) 
金→申(陽・金の兄)、酉(陰・金の弟) 
水→子(陽・水の兄)、亥(陰・水の弟) 
「木・火・土・金・水」の五行を、陽である兄と陰である弟に分類すると、上記のような12支の配当になります。兄(え)と弟(と)で、「えと」と、言う意味です。 
子 > 万物が核から顔を出す。そのような状態を表します。 
丑 > 万物がしばられた物を解き、成長を始める状態表します。 
寅 > 万物が伸び始める。そのような状態を表します。 
卯 > 万物が茂り覆う。そのような状態を表します。 
辰 > 万物がふるい伸びる。そのような状態を表します。 
巳 > 万物がすでに成長した状態。そのような状態を表します。 
午 > 万物が盛りを過ぎ、陰陽の交わる状態を表します。 
未 > 万物が成長をしつくし、滋味を持った状態を表します。 
申 > 万物の体が成就した。そのような状態を表します。 
酉 > 万物が熟成した。そのような状態を表します。 
戌 > 万物が土に還る。そのような状態を表します。 
亥 > 万物が核となり、種となる。そのような状態を表します。 
干支・干支番号 
干支とは、10干と12支との組み合わせにより、時系列を60数のサイクルで1回転とする、中国古来よりの紀数法です。 
干支番号とは、各々の干支に1番から60番までの番号をつけたものです。 
干支の組み合わせには規則性があり、各々の天干と地支の組み合わせとして、陽干ならば陽支と、陰干ならば陰支と、この様な規則があります。つまり、陽干と陰支あるいは陰干と陽支との組み合わせは無くなる為、計算式でいえば下記のようになります。 
「陽干陽支(5×6)+陰干陰支(5×6)=干支総合計数(60)」 と、なります。 
*なお、60数で1回転とする概念は時間の中にあり、1分が60秒、1時間が60分というサイクルになります。 
60数で1回転とするサイクルは、年・月・日の全てに当てはまり、年ならば60年で1回転、月ならば60カ月で1回転、日ならば60日で1回転、という具合いになります。 
*なお、四柱推命とは直接関係がありませんが、参考までに説明させていただきます。 
「陰陽道」には、この60年を以て1元と称し、7元を1つの単位と考え、7元が3回転した21元を以て1蔀と称し、1蔀(1260年)毎に時代の大変革があると考えられてきました。 
それでは下記に1番から60番までの干支を記載します。 
01番・金→甲子 02番・金→乙丑 03番・火→丙寅 04番・火→丁卯 05番・木→戊辰  
06番・木→己巳 07番・土→庚午 08番・土→辛未 09番・金→壬申 10番・金→癸酉  
11番・火→甲戌 12番・火→乙亥 13番・水→丙子 14番・水→丁丑 15番・土→戊寅  
16番・土→己卯 17番・金→庚辰 18番・金→辛巳 19番・木→壬午 20番・木→癸未  
21番・水→甲申 22番・水→乙酉 23番・土→丙戌 24番・土→丁亥 25番・火→戊子  
26番・火→己丑 27番・木→庚寅 28番・木→辛卯 29番・水→壬辰 30番・水→癸巳  
31番・金→甲午 32番・金→乙未 33番・火→丙申 34番・火→丁酉 35番・木→戊戌  
36番・木→己亥 37番・土→庚子 38番・土→辛丑 39番・金→壬寅 40番・金→癸卯  
41番・火→甲辰 42番・火→乙巳 43番・水→丙午 44番・水→丁未 45番・土→戊申  
46番・土→己酉 47番・金→庚戌 48番・金→辛亥 49番・木→壬子 50番・木→癸丑  
51番・水→甲寅 52番・水→乙卯 53番・土→丙辰 54番・土→丁巳 55番・火→戊午  
56番・火→己未 57番・木→庚申 58番・木→辛酉 59番・水→壬戌 60番・水→癸亥  
干合・支合・三合会局(三局) 
陰陽五行理論のページでも説明していますが、人間及び宇宙万物は全て陰と陽の二つのカテゴリーの組み合わせによる相対原理を構成しています。 
この原理は10干と12支にも当てはめられ、陽干と陰干および陽支と陰支が合する(交わる)事により、新しい五行の「氣」が生ずると考えられています。 
これはちょうど、宇宙の全ての陽を代表する男性と全ての陰を代表する女性が合する(交わる)事により、新しい生命である赤ちゃんの誕生を見る事と同じ原理だと考えてもらえれば理解出来ると思います。 
干合 
1 甲(きのえ・陽干)と己(つちのと・陰干)が合する事により、「土」を化気する。 
2 乙(きのと・陰干)と庚(かのえ・陽干)が合する事により、「金」を化気する。 
3 丙(ひのえ・陽干)と辛(かのと・陰干)が合する事により、「水」を化気する。 
4 丁(ひのと・陰干)と壬(みずのえ・陽干)が合する事により、「木」を化気する。 
5 戊(つちのえ・陽干)と癸(みずのと・陰干)が合する事により、「火」を化気する。 
考え方として、(上記5パターンの陽干・陰干の組み合わせが、何故それぞれの五行の「氣」を化気させるのかについて考察します。) 
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸  
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9  
上記の表中に甲から癸までの10干すべてに対して番号を振り当てました。 
パターン1(甲と己の干合)の場合をみます。 
二つの天干が合する(交わる)わけですから、二つの天干の数値を加算します。甲の数値が0。己の数値が5ですので、二つの天干を加算した場合数値は5になります。下記に計算式を表します。 
甲(0)+己(5)=5  *5は己になる為、「土」の気に化気する。 
以下にパターン2からパターン5までの計算式を表記します。 
パターン2  乙(1)+庚(6)=7  *7は辛になる為、「金」の気に化気する。 
パターン3  丙(2)+辛(7)=9  *9は癸になる為、「水」の気に化気する。 
パターン4  丁(3)+壬(8)=11 *11の下一桁1は乙になる為、「木」の気に化気する。 
パターン5  戊(4)+癸(9)=13 *13の下一桁3は丁になる為、「火」の気に化気する。 
以上が干合化気の説明です。 
支合 
1 子(ね・陽支)と丑(うし・陰支)が合する事により、「土」を化気する。  
2 寅(とら・陽支)と亥(い・陰支)が合する事により、「木」を化気する。  
3 卯(う・陰支)と戌(いぬ)・陽支が合する事により、「火」を化気する。  
4 辰(たつ・陽支)と酉(とり・陰支)が合する事により、「金」を化気する。  
5 巳(み・陰支)と申(さる・陽支)が合する事により、「水」を化気する。  
干合同様支合においても、二つの陽支と陰支が合する(交わる)事により全く別個の「氣」が化気すると考えられています。  
特に、男女の相性を見る場合は、各々二人の日支同士が支合しているのか、あるいは相剋関係にあるのか、というポイントを最重点にして鑑定します。 
三合会局(三局) 
12支中の陽支同士あるいは陰支同士を規則性に沿って三つずつ集めたグループを三合会局あるいは三局と言います。 
1 亥(い・陰支)と卯(う・陰支)と未(ひつじ・陰支)が合する事により、「木」を化気する。 
2 寅(とら・陽支)と午(うま・陽支)と戌(いぬ・陽支)が合する事により、「火」を化気する。 
3 巳(み・陰支)と酉(とり・陰支)と丑(うし・陰支)が合する事により、「金」を化気する。 
4 申(さる・陽支)と子(ね・陽支)と辰(たつ・陽支)が合する事により、「水」を化気する。 
この三合会局(三局)は、合の中でも最も重要で最も力の強い化気となります。 
また、完全に三つの支が揃った状態(完全三局)でなくとも、二つの支が合した状態を半会あるいは半局といい完全三局に準じた化気の状態とみます。 
考え方として、(上記4パターンの陽支同士あるいは陰支同士の3支の組み合わせが、何故それぞれの五行の「氣」を化気させるのかについて考察します。) 
       生 旺 墓  
木局 亥 卯 未 
火局 寅 午 戌  
金局 巳 酉 丑  
水局 申 子 辰  
       南 
     巳 午 未      
  辰  4  9  2 申    
東 卯 3  5  7 酉 西  
  寅  8  1  6 戌    
     丑 子 亥      
        北        
三合会局(三局)を構成する3つの支は全て「生・旺・墓」の組み合わせによって構成されています。このうち、旺の位置にある支が四正(四方位)になり基準となります。そして、この旺の位置にある支の五行の「氣」が三局の化気となるわけです。 
*なお、完全三局によって化気された五行の「氣」の強さは、干支の星と同程度の強さ・エネルギーとみなします。 
最後に、干合・支合・三合会局(三局)の早見表を掲示します。 
  木 火 土 金 水  
干合 壬丁 戊癸 甲己 乙庚 丙辛  
支合 寅亥 卯戌 子丑 辰酉 巳申  
三局 亥卯未 寅午戌 局せず 巳酉丑 申子辰  
方合・七殺・空亡(天中殺) 
方合(方角の合・あるいは方局とも言う)  

方位

四季

五行

 

木局

火局

西

金局

水局

       南 
     巳 午 未      
  辰  4  9  2 申    
東 卯 3  5  7 酉 西  
  寅  8  1  6 戌    
     丑 子 亥      
        北        
春夏秋冬、各季節ごとの3支が揃う事により新しく五行の「氣」が化気するとみなします。また、春夏秋冬の各季節はそれぞれ五行に相対し、と同時に東西南北の四方位にも相対する事から「方合」(方角の合)と呼ばれています。 
方合は三合会局とは異なり、2つの支のみの半合・半局は採りません。あくまで、3つの支が完全に合した状態でなければ方合とみなしません。ただし命式中に2つの支があり、大運あるいは流年に残りの支が現れた場合はその期間のみ方合の「氣」が化気されるとみなします。 
*なお、私の場合「方合」はエネルギー・影響力が他の干合・支合・三合会局(三局)に比較した場合かなり弱い為、実際の鑑定に際してはあまり重視していません。 
七殺 
七殺とは、天干および天干変通星において、ある星を基準としてそこから七つ後の星との相関関係を表します。具体的には、下記の表に表した通りとなります。
基準の天干
七殺の天干
基準変通星と七殺変通星の組み合わせによる吉凶判断は下記の表になります。 

基準の変通星

比肩

劫敗財

食神

傷官

偏財

正財

偏官

正官

偏印

印綬

七殺の変通星 
(別名)

偏官 
(匕殺)

正官

偏印 
(倒食)

印綬

比肩

劫敗財

食神 
(制殺)

傷官 
(迫害)

偏財

正財

組み合わせの吉凶

やや凶

大凶

やや吉

やや凶

やや凶

やや凶

やや凶

基本的に七殺は相剋関係となり凶の組み合わせとなるわけですが、食神と偏官の組み合わせだけは食神が偏官の比肩に対する殺気を制する為(剋用の命)、吉の組み合わせとなります。 
次に、偏官は自分自身を表す比肩を剋す為、凶の星となります。偏官の別名である匕殺(ひつさつ)とは殺すと同義語となり、比肩に対する凶害はかなり強いエネルギーを持つと考えられています。 
七殺の組み合わせの中で最も悪い組み合わせは、食神と偏印の組み合わせとなります。衣食住と子供を表す食神に対して偏印が宝を壊す作用をする為、この組み合わせを特別に倒食と呼びます。 
正官と傷官の組み合わせも凶の組み合わせとなります。これは官位を表す正官に対して傷官が迫害の作用を起こす為と考えられています。近年おきた凶悪犯罪の中で印象深い事件として神戸の小学生さらし首事件があります。この事件の被害者の小学生の命式が傷官・正官の組み合わせによる命式なのです。まさに迫害を表す、凶悪犯罪の被害者と言えるでしょう。 
空亡(天中殺)  
干支番号と空亡早見表                                   空亡 
01甲子 02乙丑 03丙寅 04丁卯 05戊辰 06己巳 07庚午 08辛未 09壬申 10癸酉 戌亥  
11甲戌 12乙亥 13丙子 14丁丑 15戊寅 16己卯 17庚辰 18辛巳 19壬午 20癸未 申酉  
21甲申 22乙酉 23丙戌 24丁亥 25戊子 26己丑 27庚寅 28辛卯 29壬辰 30癸巳 午未  
31甲午 32乙未 33丙申 34丁酉 35戊戌 36己亥 37庚子 38辛丑 39壬寅 40癸卯 辰巳  
41甲辰 42乙巳 43丙午 44丁未 45戊申 46己酉 47庚戌 48辛亥 49壬子 50癸丑 寅卯  
51甲寅 52乙卯 53丙辰 54丁巳 55戊午 56己未 57庚申 58辛酉 59壬戌 60癸亥 子丑  
*空亡とは天中殺とも称し、今から二十年ほど前に大流行しました。 
上記の早見表をご覧になればわかると思いますが、干支を組み合わせた場合10個の干に対して12個の支が存在する事から、2つの支が天干の存在しない地支のみの存在となります。つまり「根無し草」のような存在となるわけです。 
空亡は基本的に日柱の支を取ります。一部の流派によっては年柱の支を採る場合もあるみたいですが、年柱より生まれる空亡はエネルギー・影響力がほとんど弱い為、無視しても良いと思います。 
私の場合、空亡は日柱の支のみを採ります。(具体的な例を出しますと、日柱が「甲子」の人の空亡は「戌亥」となります。) 
命式中に空亡があれば運勢的に見た場合、若干弱くなりがちになります。また流年に空亡が現れた場合は、その年に関しては運気的にやや凶現象が現れやすくなります。 大運の空亡に関しては全く無視します。影響力は全く存在しません。 
考え方として、空亡は天気で言えば「しとしと雨」程度の軽度の凶現象だと考えて差し障り無いと思います。「空亡=天中殺」を一時のマスコミを中心としたブームによってすさまじい凶現象だと考えている方がいらっしゃるかもしれませんが、実際にはそれほど強い凶現象ではありません。 
空亡を命式中に持っていらっしゃる方、あるいは流年において空亡が現れる方は、ほんの少し身のまわりに注意しながら生活されれば良いと思います。その程度の凶現象です。  
 
陰陽(いんよう)

 

 
陰陽とは、地球を含めた宇宙の万物は、「陰」と「陽」に分けることができ、これらは互いに相反する性質をもち、それぞれが影響を及ぼし合っているという思想です。 
例えば、「天」と「地」、「太陽」と「月」、「男」と「女」のように一対で存在し、相互に影響し合っている関係です。 
陰陽五行説(いんようごぎょうせつ) 
陰陽五行説は、陰陽説と五行説が発展していく過程で1つに結びついたもので、紀元前四世紀頃に、当時の思想家がまとめ中国初の体系的な哲学(推命学、易学、漢方、針灸)の根本原理ともなっています。 
干合(かんごう)  
干合とは、十干(じゅっかん:甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸)の陽干と陰干が合わさって五行の星を生じることで、例えば、甲(きのえ)と己(つちのと)が干合して「土」が生まれます。 
○甲(陽干) - 己(陰干) → 土 
○乙(陰干) - 庚(陽干) → 木 
○丙(陽干) - 辛(陰干) → 火 
○丁(陰干) - 壬(陽干) → 金 
○戊(陽干) - 癸(陰干) → 水 
干支(かんし) 
十干(じゅっかん)と十二支(じゅうにし)を合わせたものを干支(かんし)といいます。 
この二つの組み合わせが、すべての気運を表しています。 
十干は天から流れる五行の気運を示し、十二支は地で四季が繰り返す五行の気運を表しています。 
空亡(くうぼう) 
空亡は、12年に一度訪れる運勢休息の2年間のことで、天中殺とも呼ばれています。 
空亡は、日柱の干支を組み合わせた場合に、10個の干(天の気運)に対して12個の支(地の気運)が存在することから、2つの支(地の気運)には干(天の気運)が存在しない、つまり、その人にとって、天の気が弱まり加護が得られにくくなるという状態を表しています。 
空亡の時には、結婚や転職、新築や引っ越しなど、何か新しいことを始めるのは避けて、ゆっくり休息しましょう。 
その時期の過ごし方によって、その後の人生に幸運をもたらすことになるともいわれています。 
空亡には「戌亥」「申酉」「午未」「辰巳」「寅卯」「子丑」の6種類があります。 
五行(ごぎょう) 
五行とは、地球を含めた宇宙の万物は、「木」「火」「土」「金」「水」の5つの要素、五行から成り立っているという思想です。 
これら5つの要素は、互いに影響しあっていると考えられており、盛衰関係によって宇宙が循環し発展していくその過程で、人間もその影響を受けているという自然哲学の思想です。「木は燃えて火を生み、火は燃え尽きて土を生み、土は凝って金を生み、金は冷えて水を生み、水は木を育てる」という互いに助け合う関係と、それとは反対に、「木は土の養分を吸収し、土は水を吸い取り、水は火を消し、火は金を溶かし、金は木を切り倒す」という互いを打ち消し合う関係の、大きく2つに分類されます。 
このように、互いに助け合う関係を相生(そうしょう)といい、打ち消し合う関係は相剋(そうこく)といいます。 
三合(さんごう) 
三局とは、十二支の陽支どうし、または、陰支どうしが三ずつ合わさって強力な五行の星を生じることで、例えば、亥(陰支)と卯(陰支)と未(陰支)が三局して「木」が生まれます。 
○亥(陰支) - 卯(陰支) - 未(陰支) → 木 
○寅(陽支) - 午(陽支) - 戌(陽支) → 火 
○巳(陰支) - 酉(陰支) - 丑(陰支) → 金 
○申(陽支) - 子(陽支) - 辰(陽支) → 水 
支合(しごう) 
支合とは、十二支(かんし:子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥)の陽支と陰支が合わさって五行の星を生じることで、例えば、子(ね)と丑(うし)が支合して「土」が生まれます。 
○子(陽支) - 丑(陰支) → 土 
○寅(陽支) - 亥(陰支) → 金 
○卯(陰支) - 戌(陽支) → 水 
○辰(陽支) - 酉(陰支) → 木 
○巳(陰支) - 申(陰支) → 火 
四柱(しちゅう) 
「四柱」とは、年柱、月柱、日柱、時柱の総称で、生年月日と時刻から割り出されており、人生を四分割したそれぞれの時代を表しています。 
○年柱/社交面や外面の運気。人生では初年期(0〜19歳)の運気をみる。 
○月柱/仕事や家庭における運気。人生では初年期(20〜39歳)の運気をみる。 
○日柱/自分自身や恋愛、セックスの運気。人生では晩年期(40歳〜)の運気をみる。 
○時柱/自己の成功・不成功、子供との縁、友人、目下の人、恋人の運気。人生では生涯の運気をみる。 
四柱推命(しちゅうすいめい) 
四柱推命とは、「占いの帝王」と呼ばれているほど的中率の高い運勢鑑定法です。 
四柱推命は、生年・月・日・時を四本の柱とし、 そこから導き出されるさまざまな星の組み合わせによって運勢を鑑定します。 
陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)と干支術(かんしじゅつ)の2つをベースとし、 古くは中国の皇帝が国の政治の方向性を判断する際にも使用していたとされています。 
四柱推命は大変奥が深く難解で、一生かかっても到達するのが難しい学問だともいわれています。 
十二運星(じゅうにうんせい) 
四柱推命占いの中で、性格の傾向や宿命について占うのに適しているのが十二運星です。 
十二運星は運勢エネルギーをあらわすもので、長生・沐浴・冠帯・建禄・帝旺・衰・病・死・墓・絶・胎・養の12種類があり、人間の一生に例えて名前がつけられています。 
ただし、「病」だから病気するとか、「死」だから死ぬ、とかいう意味ではなく、あくまで運勢の強弱や性格の傾向について表しています。 
今も人気のある「動物占い」の動物キャラは、実は四柱推命の十二星運の12種類の言葉を動物に置き換えて簡単に表現したものです。 
○長生(ちょうせい)/人が生まれた時の状態を意味します。基本的に優しく、何事に対しても遠慮がちです。また神経を使いすぎる傾向にあります。 
○沐浴(もくよく)/産湯に浸かった状態意味します。気ぐらいが高く、頭を下げるのが嫌いです。独立心が強いところもあります。 
○冠帯(かんたい)/成人になった状態を意味します。思いやりがありますが、気が強いです。困っても弱みをみせません。 
○建禄(けんろく)/独り立ちした状態を意味します。考え方が細かいです。好きなことは損得抜きに好きになります。 
○帝旺(ていおう)/人生の頂点に達した状態を意味します。プライドが高くワンマンです。しかし人に迷惑をかけることを嫌います。 
○衰(すい)/人生の頂点から衰え始めた状態を意味します。保守的で堅実です。自分を控えめに見積もる傾向があります。 
○病(びょう)/衰えて病気になった状態を意味します。大胆で独立心が強いです。また、直感力にもすぐれています。 
○死(し)/死の時の状態を意味します。表向きは明るいですが、孤独な面も併せ持ちます。真面目で努力家です。 
○墓(ぼ)/死んで墓に入った状態を意味します。気ままな性格です。細かいことに気がつきます。 
○絶(ぜつ)/肉体が土にかえった状態を意味します。人が良く、すぐ人を信用してしまいます。情にもろいです。 
○胎(たい)/新たな生命が宿った状態を意味します。新しいもの好きです。頼まれれば断りませんが実行力に欠けます。 
○養(よう)/胎内で成長している状態を意味します。のんびり型であっさりしています。積極性はあまりありません。 
十二支(じゅうにし) 
十二支は地で四季が繰り返す五行の気運を表しています。おなじみの子(ね) 丑(うし) 寅(とら) 卯(う) 辰(たつ) 巳(み) 午(うま) 未(ひつじ) 申(さる) 酉(とり) 戌(いぬ) 亥(い) の12種類です。 
○子(ね)/全ての物は核の中から顔を出しているという状態を表す。 
○丑(うし)/全ての物は開放されて成長していくという状態を表す。 
○寅(とら)/全ての物が伸び始めるというような状態を表す。 
○卯(う)/全ての物が覆い隠すというような状態を表す。 
○辰(たつ)/全ての物が振るって伸びるような状態を表す。 
○巳(み)/全ての物が成長してしまった状態を表す。 
○午(うま)/全ての物が陰陽と交わろうとしている状態を表す。 
○未(ひつじ)/全ての物が成長している状態を表す。 
○申(さる)/全ての物が成熟したような状態を表す。 
○酉(とり)/全ての物が熟成しているような状態を表す。 
○戌(いぬ)/全ての物が元の土の中に還っていくような状態を表す。 
○亥(い) /全ての物が基本の種となるような状態を表す。 
十干(じゅっかん) 
十干は天から流れる五行の気運を示しています。甲(きのえ) 乙(きのと) 丙(ひのえ) 丁(ひのと) 戊(つちのえ) 己(つちのと) 庚(かのえ) 辛(かのと) 壬(みずのえ) 癸(みずのと)の10種類です。この10種類の10干は、それぞれ陰陽「木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)」に割り当てられるようになっています。 
陰陽の割り当ては以下の通りです。 
○木の陽(木の兄)→甲 
○木の陰(木の弟)→乙 
○火の陽(火の兄)→丙 
○火の陰(火の弟)→丁 
○土の陽(土の兄)→戊 
○土の陰(土の弟)→己 
○金の陽(金の兄)→庚 
○金の陰(金の弟)→辛 
○水の陽(水の兄)→壬 
○水の陰(水の弟)→癸 
この兄と弟に関して、兄は「え」と呼ばれ陽を意味しており、弟は「と」と呼ばれ陰を意味しています。 
ゆえに、十干(じゅっかん)の意味は次のとおりとなります。 
○甲(きのえ)/「大木」を意味する。強くて激しくて独立心が旺盛。 
○乙(きのと)/「草花」を意味する。弱くて柔らかくて円満な感じ。 
○丙(ひのえ)/「太陽」を意味する。激しくて華やかで派手な感じ。 
○丁(ひのと)/「灯火」を意味する。陽気で穏和でおとなしい感じ。 
○戊(つちのえ)/「堤防」を意味する。派手で世話好きな感じです。 
○己(つちのと)/「田園」を意味する。規則正しくて穏和でおとなしい感じ。 
○庚(かのえ)/「鉱石」を意味する。質実剛健、強くて自信がある。 
○辛(かのと)/「宝石」を意味する。辛抱強くて現実を見ている感じ。 
○壬(みずのえ)/「大河」を意味する。勇気、才能がある。 
○癸(みずのと)/「雨露」を意味する。正直で、おとなしい感じ。 
神殺(しんさつ) 
神殺とは変通星や特殊星で、四柱の干支だけでは解釈が難しかった時代に、神殺などを加味して判断してきたものなので、あくまで補助的に見ます。 
大運(だいうん) 
大運とは人生における運気の大きな流れを表しており、周期は10年ごとといわれています。実際の鑑定では、命式よりも大運の流れを重視します。 
大運は、十干と十二支で振っていき、十干が5年間、そして十二支が5年間で合わせて10年の運で一運と呼びます。たいていの場合、大運の出口と入口で運勢が変わる場合が多いです。 
天中殺(てんちゅうさつ) 
天中殺(てんちゅうさつ)とは、12年に一度訪れる運勢休息の2年間で、空亡(くうぼう)とも呼ばれています。 
天中殺は、日柱の干支を組み合わせた場合に、10個の干(天の気運)に対して12個の支(地の気運)が存在することから、2つの支(地の気運)には干(天の気運)が存在しない、つまり、その人にとって、天の気が弱まり加護が得られにくくなるという状態を表しています。 
天中殺の時には、結婚や転職、新築や引っ越しなど、何か新しいことを始めるのは避けて、ゆっくり休息しましょう。 
その時期の過ごし方によって、その後の人生に幸運をもたらすことになるともいわれています。 
通変星(つうへんせい) 
通変星とは、簡単に言うと表面に現れる性格や行動パターンを表す星で、「宿命星」ともいわれています。 
通変星(または宿命星)は、その人の性格、能力、適性、運命などを判断するうえで最も重要な星で、出生日の十干から、ほかの四柱天干を合わせ見たときに出る星を「十干通変星(じゅっかんつうへんせい)」、日干から四柱蔵干を合わせ見たときに出る星を「蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい)」といいます。 
変通星には、比肩(ひけん)、劫財(ごうざい)、食神(しょくじん)、傷官(しょうかん)、偏財(へんざい)、正財(せいざい)、偏官(へんかん)、正官(せいかん)、倒食(とうしょく)、印綬(いんじゅ)の10種類があります。 
○比肩(ひけん)/自立心旺盛 強情で頑固 几帳面 我慢強い 孤独 勝ち負け意識 
○食神(しょくじん)/のんびり屋 純粋 楽天的 優しい 優柔不断 色情問題 美食 
○偏財(へんざい)/保身 投資 資産運用 陽気 金銭 商売 交際上手 事業意欲 
○正財(せいざい)/打算的 安全確実 消極的 保守的 保身 用意周到 
○印綬(いんじゅ)/善良 慈悲 伝統 体裁 堅物 学問教育 欲深い 名誉 
○傷官(しょうかん)/鋭敏 シャープ 美人 芸術的 霊能者 孤独 型破り 嫉妬心 白黒 
○劫財(ごうざい)/独立独行 強情頑固 損得勘定 反抗的 意地汚い 破財破壊 
○偏官(へんかん)/正義感 自惚れ 単純志向 好奇心 冒険心 奇人変人 
○正官(せいかん)/プライド 名誉欲 几帳面 集団性 律儀 気品 
○偏印(へんいん)/常識的 堅物 陰気 要領が悪い 学問 秘密主義 
命式(めいしき) 
命式(四柱推命式)は、占う人の生年月日と時刻を一定の法則にもとづいて表にしたもので、その人自身の骨格と運の流れを表す見取り図のようなものです。 
命式では、天を表す10種類の天干(十干)と、地を表す12種類の地支(十二支)で作られています。 
その天干と地支を合わせて「干支」といいます。 
この命式の解析方法や読み解く知識に流派の違いや個人の実力の差が顕著に現れるといわれています。 
<命式の構成> 
○十干(じゅっかん) 
十干は、「天干(てんかん)」とも呼ばれます。五行(木・火・土・金・水)と「陰」「陽」を組み合わせたもので、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)の10種類があります。 
○十二支(じゅうにし) 
十二支は、「地支(ちし)」とも呼ばれます。「天干」の下に「地支」として表記されるのが普通で、一般的には「干支(えと)」として知られている「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)」の12種類がそれです。  
○蔵干(ぞうかん) 
蔵干とは「地支に含まれるとされている十干」のことです。使用しない流派もあります。 
○十干通変星(じゅっかんつうへんせい) 
出生日の十干(つまり日干)から、ほかの四柱天干を合わせ見たときに表出される星のことです。「比肩(ひけん)・劫財(ごうざい)・食神(しょくじん)・傷官(しょうかん)・偏財(へんざい)・正財(せいざい)・偏官(へんかん)・正官(せいかん)・偏印(へんいん)・印綬(いんじゅ)」の10種類があります。 
○蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい) 
日干から、四柱蔵干を合わせ見たときに表出される星のことです。十干変通星と同じく10種類があります。  
○十二運星(じゅうにうんせい) 
日干から、四柱地支を合わせ見たときに表出される星のことです。 
「長生(ちょうせい)・沐浴(もくよく)・冠帯(かんたい)・建禄(けんろく)・帝旺(ていおう)・衰(すい)・病(びょう)・死(し)・墓(ぼ)・絶(ぜつ)・胎(たい)・養(よう)」の12種類があります。 
「病」だから病気になるとか「死」だから死ぬという意味ではありません。
 
山口瞳

 

山口瞳1 
(やまぐちひとみ、本名同じ、1926年(大正15年)11月3日-1995年(平成7年)8月30日)は、日本の男性作家、エッセイスト。妹の日本舞踊家の花柳若奈(本名:栄)はジェリー伊藤の妻。作家で映画評論家の山口正介は息子。 
東京市麻布区に生まれ育つ。父親はアイディアマンの実業家。母親は横須賀の柏木田遊郭の経営者の娘で(ただし、その事実は、終生子供には隠していた)、美人で社交的で粋な女性。非常に雰囲気が明るく、交友関係も広く、派手な家庭であった。長唄三味線家元の杵屋勝東治、その息子である、後の若山富三郎、勝新太郎も出入りしていた。 
父親の事業が一時失敗し、落魄して川崎の尻手付近に「都落ち」したこともあり、山口の中ではその赤貧時代が原風景としていつまでも残り、派手好きでありながら、一方で非常に謹直であるという複雑な性格の元となった。家族の間では「冷血動物」とあだ名されたという。 
小学校時代は、野球に熱中し、同級生に元東急フライヤーズ投手の黒尾重明がいた。旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院を中退。 
兵役の後、1946年に鎌倉アカデミアに入学し、在学中から同人誌に作品を発表。なお、鎌倉アカデミア時代には、歌人吉野秀雄に師事した。 
小出版社・国土社に入社して編集者となる。だが、正式の大学を出ていないことに対するコンプレックスを指摘されたことと、また、師事していた高橋義孝から「正式な大学を出れば、もっと大きな出版社に紹介してあげる」と言われたことから、國學院大學文学部に入り直し、1954年に卒業。河出書房の「知性」編集部に勤務していたが、1957年3月に同社が倒産。同誌の続刊を図る編集長の小石原昭に従って新設の知性社に移るも、同誌は2号で廃刊となったため再び失職。 
1958年、開高健の推薦で壽屋(現・サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍する。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。 
「婦人画報」に連載した「江分利満氏の優雅な生活」で、1963年に第48回直木賞を受賞、同作品は映画化もされた。受賞後しばらくは二足の草鞋を履いたが、「週刊新潮」の伝説的編集者斉藤十一からコラムの連載依頼を受けたことから、文筆業に専念するためにサントリーを退社。 
代表作は、「週刊新潮」に1963年から31年間、延べ1614回、死去まで一度も穴を開けることなく連載を続けたコラム・日記の「男性自身」シリーズ、自らの両親の生い立ちを題材とした「血族」(第27回菊池寛賞受賞)、「家族」など。競馬や将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を踏破した「草競馬流浪記」、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録「山口瞳血涙十番勝負」、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた「草野球必勝法」などの著書もある。 
なお、山口の著書の表紙絵、挿絵は、その多くをサントリー時代からの友人である、柳原良平が担当している。 
糖尿病を患っていたが、克服。晩年は小説の執筆をやめ、「男性自身」に集中して仕事をしていた。死の直前は肺癌が急速に悪化。本人には告知されず、家族がホスピスへ移すことを相談している最中に突然、状態が急変し、死去。死が急であったため、結果的に、「男性自身」は「アナ空き」がないことになった。 
将棋 
将棋には幼少の頃から熱心に打ち込み、専業作家になってからも、原田泰夫の弟子である山口英夫を自宅に呼んで稽古をつけてもらっていた。また、将棋棋士たちの世界のことが一般に知られていないことに義憤をいだき、「将棋界の宣伝マン」と自ら名乗った。「将棋界は大天才の集団」と唱え、著書や観戦記などで、個性的な将棋棋士たちを紹介した。 
また、対局で出会ったプロ棋士山田道美と飛車落ちの新定跡「瞳流6筋位取り戦法(瞳流位取り)」を研究・創案。これを用いて「血涙十番勝負」では、飛車落ちで、当時のトッププロであった米長邦雄、原田泰夫に勝利し、山田道美と引き分け、3勝6敗1分けという結果を残した。なお、将棋では千日手や持将棋などは再試合となるため、純粋な引き分けが記録されることは殆どなく、山口の1分けという棋譜は非常に変わった記録である。しかし、アマチュアの段位を貰うことは頑なに拒んだ。これは山口が子供の頃プロ棋士を志望したが、当時の棋士の収入の低さを不安に思ってやめてしまったという複雑な感情に起因する。 
しかし、その「血涙十番勝負」の企画で、蛸島彰子初段(当時)と平手対局するにあたり、将棋連盟の強い要望によりアマ四段の免状を受けている。これは、万が一プロの二段(当時、女流棋界は発足する前で、蛸島は奨励会の初段としてプロを目指した後、二段ということで対局していた)が無段の人間に負けては示しがつかない、というのが理由である。 
また「子供の頃からの夢」であった、名人戦第1局の観戦記執筆もかなえた。 
だが、晩年には、山口英夫や将棋連盟の渉外担当を務めていた芹澤博文との間にトラブルが起きたことや、将棋界の保守的な体質に対して不信感を抱いた事もあり、将棋界との交流を絶った。 
ただし、1987年に創設された、将棋を愛する作家、ジャーナリスト、観戦記者たちの団体「将棋ペンクラブ」には参加し、「将棋ペンクラブ大賞」の選考委員も、死去するまでつとめた。 
行きつけの店 
東京や、取材で訪れた旅行先等で、お気に入りの店がみつかると、その店に通いつめる性格であった。そうした「行きつけの店」たちのことを、たびたび「男性自身」等に描いている。また、自らの母親の家系が「サービス業」だったせいか、「飲食業の人たちが仲間に思える。大きな顔をして客らしく構えることができず、どうしても従業員の人に気を使ってしまう」とも書いている。 
ただし、執筆のための飲食では、出版社に「接待」されていたため、晩年、デビューしたばかりの田中康夫から「自分は自腹を切って、料理店の批評を書いている。山口のように自分のお金で飲食しないのでは、その店を正しく評価できない」と批判された。 
礼儀作法 
サラリーマン向けの礼儀作法についての作品も多く、「礼儀作法入門」はロングセラーとなっている。サントリーの新聞広告での新成人や新社会人へのメッセージは、毎年成人の日と4月1日の恒例となっていた。 
向田邦子 
晩年の向田邦子の、最も近くにいた作家の一人。その随筆や短編小説に惚れ込み、第83回直木賞では向田を強く推薦して受賞に至らしめた。仕事の上での交友関係も続いたが、向田の突然の事故死には大きなショックを受け、「アル中寸前」にまで陥ったという。こうした向田とのエピソードの多くは、「男性自身木槿の花」に収められている。 
なお、山口は向田の死後、「向田邦子は八方美人的なところがあり、誰もが「自分が一番愛されている」と思わせる天才だった。それゆえ嘘つきだった」と評した。競馬を介して交流があった色川武大が死去した際も、同趣旨の追悼文を書いた。 
国立 
かねがね「山手線の外側には住まない」と発言していたが、サントリー退社当時、息子の山口正介が東京郊外の国立市の中学校に通っていたことから、国立に居を移し、気に入って終生の棲家とした。国立に移住する際、師と仰いだ高橋義孝の紹介による若手女性建築家に自宅の設計をまかせたところ、「コンクリート打ちっぱなし、家の真ん中にある半地下の部屋が食堂」という、非常にモダンで実験的な家ができあがった。山口自身は、和風な家が好みであったが、高橋との義理のため、このうちに我慢して住んだ。大雨の際に地下の食堂が浸水したり、晩年の足が不自由になった際でも、食堂にいくため一々階段を下りなければならない等、「実験的な家」は住むには不自由な家であった。 
「男性自身」でも度々地元・国立のことに触れていて、なかでも谷保天満宮(やぼてんまんぐう)はお気に入りの場所だった。なお、谷保天満宮では、ある朝突然たずねてきた伊丹十三と宮本信子に依頼されて、山口が立会人をつとめて、その日のうちに彼等の結婚式が行われた。気さくな人柄で谷保駅前の焼き鳥屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていた。「居酒屋兆治」はそんな経緯から生まれた作品である。 
近所に住む彫刻家関保寿(ドストエフスキーに容貌が似ていることから、作中では「ドスト氏」と表現)とは特に気が合い、一緒に数多く旅行をした。旅行先では、地方競馬に興じたり、油絵を描くなどして、楽しんだ。 
妻 
妻とは鎌倉アカデミア時代に知り合った。妻の実家は東京向島で皮革業を営んでいた。結婚後、彼女が現在でいうパニック障害(当時はノイローゼと診断)にかかったため、妻は電車に乗れず、共に外出する際は、いつもタクシーを用いた。妻と幼い息子を連れて、銀座のバーにでかけたこともあるという。 
平和主義者 
筋金入りの反戦主義者であり、「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」など、強固な信念に基づく見解を「男性自身」などで述べている。 
競馬 
「馬券師」(「オール読物」1974) / 馬券で生活する男のエピソードである。年に一二回数百万買うだけで、そのほかはずっと競馬新聞を読んで慎ましい生活を送るという。「男性自身」にすでにみえる話柄である。 
「温室の苺」(「週刊小説」1975) / 競馬の話である。随筆と言っていいかもしれない。 
昭和56年(1981) / 「旅」誌上で全国の競馬場を巡る旅を開始。全国二十七の公営競馬場を取材。「酔いどれ紀行」を新潮社より刊行。 
昭和59年(1984) / 「サントリークォータリー」での対談をまとめた「男の風俗・男の酒」(丸谷才一・山口瞳)をTBSブリタニカより刊行。「草競馬流浪記」を新潮社より刊行。  
山口瞳2 
三十代の後半から六十代のはじめにかけて、山口瞳を私はよく読んでいた。雑誌で読み、それが一冊にまとまった単行本で読んだ。それはいまや懐かしくも楽しい思い出だ。 
「男性自身」は「週刊新潮」で欠かさず読んでいた。週刊誌や月刊誌で読んだというのは、貴重な体験だったといま思う。 
もともと私は翻訳者で、そのかたわら頼まれれば日常の些事について雑文を書いていた。翻訳でも雑文でも、山口さんの文章をお手本にした。とくに山口さんの小説に出てくる女の台詞が翻訳の参考になった。 
翻訳の良し悪しは台詞の訳を読めばわかる。私の翻訳が少しはましになったとすれば、それはひとえに山口さんのおかげである。 
サラリーマンをやめたころ、私は東京郊外の小金井市に住んでいて、フリーの文筆業になったから、ひまなときは国立市に出かけて映画を観た。小金井から中央線で国立は三つ目で、十分ほどだ。 
そのころ、国立には映画館が一軒あって、そこで私はときどき洋画を観たのだが、いまはない。学園都市・国立は美しい街で、駅前からつづく大通りをよく歩いた。 
ここに山口さんが住んでおられるのだと思いながら、私は国立の横丁や路地も歩いた。映画のあとで横丁をぶらぶらしていたとき、寿司屋ののれんが目にはいった。古ぼけた店構えで、あまりはやっていないように見えた。 
もしかしたら、これが「男性自身」に出てくる山口さん行きつけの店ではないかという気がした。日をあらためてその「繁寿司」を訪ねた。午後二時に近いころで、人は誰もいなくて店はがらんとしていた。 
やがて不機嫌そうなおじいさんが出てきて、寿司を握ってくれた。そのおじいさん親方は終始無言だったが、そろそろおなかがくちくなってきたとき、「アナゴがうまいよ」と老主人が言ってにやりとした。アナゴを食べた。 
こうして家族で繁寿司へ行くようになった。親方とはだんだん言葉をかわすようになった。出前をしていた息子の岸本高暉さんと親しくなって、休業日の月曜の夜は小金井の拙宅へ遊びに来た。彼を私たちは「おにいちゃん」と呼んだ。 
好きな作家は、その作品を読むだけで十分に満足していたが、山口さんには会ってみたいという気持ちが胸のうちにあったのかもしれない。 
繁寿司に通ううちに、ある夕方、山口さんが競馬の帰りだろうか、何人かのひととやってきた。山口さんは高暉さんから私のことを聞いていたのだろう。気さくに「遊びにいらっしゃい」と声をかけてくださった。 
高暉さんを通じて、山口さんに私は自分を売りこんでいたように思う。仙台市に育った私の、東北人のずるいところだ。正直なところ、いまとても恥ずかしい。 
それから何か月もしないうちに、「結婚しません」という、自立する女たちを描いた短編集の文庫の解説を版元から依頼された。もちろん、山口さんのお声がかりである。 
それで、はじめて国立のお宅に伺った。このとき、懐中時計を頂戴した。あれからもう三十七、八年になるが、鉄道時計といわれるこの時計はなんどか修理に出したものの、いまも元気に動いている。 
元旦には年始に伺うようになった。五、六十人のお客が集まってきて、じつににぎやかで、山口さんは流行作家という感じがした。もっとも、還暦を過ぎてからは少人数の新年宴会になった。 
それもまたごく内輪の、気のおけない集まりだった。人数が多かったころは、山口さんとお酒を飲むどころではなく、客の相手に忙しかった。 
ほんとうによく気のつく方だった。はじめて元旦におじゃましたとき、語る人もない私がひとりで飲んでいると、いつのまにか山口さんが目の前にいて、お酒を注いでくださるのに恐縮した。 
今年は山口さんの十三回忌である。八月三十一日に亡くなられた。九月五日には、山口さんを偲ぶ会がお茶の水の山の上ホテルで開かれた。 
昨年の秋、札幌在住の中野朗さんからお便りをいただいた。山口さんについて私が書いたものを全部集めてあるので、それを一冊にまとめてみないかとの、ありがたいお手紙である。私もいくつかは書いたものを保存しているが、仕事部屋のどこかにまぎれこんでしまったものも多い。 
それで、送っていただいたコピーを通読して、編集を中野さんに一任した。本は札幌の柏艪舎から出た。この出版社の社主、山本光伸さんは旧い知り合いである。 
本のタイトルは「諸君、山口瞳を読もう!」だった。山口さんなら「諸君」でいいが、私の柄ではないので、「国立の先生山口瞳を読もう」にしてもらった。 
いまも山口さんをときどき読んでいる。読んでいる単行本を買ったときのことを思い出す。まだ会社勤めをしていたころのことで、新聞広告を見て書店に行った。書店は銀座、並木通りの地下にあって、山口さんの本は銀座の書店で買わなければいけないと、私は思いこんでいた。 
若い読者には山口さんは「礼儀作法入門」で知られている。これは名著だ。病気見舞いのとき、何が一番いいかということで、山口さんは一番軽いものを挙げている。それはお金だ。 
山口さんはものごとをズバリと言う方だった。タテマエを言うことの多い昨今だが、山口さんはつねにイキがよかった。 
山口さんほど正直に書いた作家はほかにいないだろう。ご自分のことをもっとも正直に書かれた。「男性自身」があんなに長くつづいたのも、作者の正直が文章に出ていたからだ。ときに躍るような文章で、また悲痛この上ない文章で。  
ダービーは儚くも 
「おはようございます」と元気な声を聞けばそこには山口瞳が立っていた。時刻は9時15分、少しのゆがみもなくその声は響いていた。スタンド4階のコーヒーハウス府中の秋の開催初日9時15分、こっそりと山口の声が聞ける楽しみであった。ある日の姿はこうだ。ガンクラブチェックのハンチング、薄茶色のウールシャツ、なめしの良い上等なエルメスのキャメルの革ジャンパー、海老茶にチェックのフランネルにチャッカーブーツはクラークス、首からはご自慢のツァイスの双眼鏡、笑みをたたえた細い眼を太い鼈甲蔓のメガネ。大体は同じような格好をしていて、ジャンパー、双眼鏡はいつもそれと同じものだったような気がする。現れてから15分、仲間と雑談を交わし「行ってきます」と9時30分、パドックへ出勤するのが常だった。朝の1レースから最終レースまでパドック、スタンドの往復を繰り返しそれこそたっぷりと競馬に浸かるのが山口の楽しみだったようだった。昼の休み時間になると5階の(優駿)席に顔を出し挨拶などをし、知人がいれば暫く時間を潰すこともあったがやはり午後のレースが始まる前には「失礼」と席を立ちパドックへと向かって行った。山口にとって府中競馬はもはや仕事、そして健康のためには欠かせないものとなっていたようだ。「朝の1レースから最終レースまでパドックとスタンドの往復を繰り返すのは私にとって貴重な運動時間で」と書き残している。 
山口瞳は1926年、東京府荏原郡入新井町生まれ父・正雄、母・静子の次男、七人兄弟。戦後、三枝博音、吉野秀雄、林達夫、吉田健一、中村光夫、高見順らが教鞭をとっていた鎌倉・材木座の鎌倉アカデミアに入学。妻とは鎌倉アカデミア時代に知り合った。その後、文京区高田豊川町の国土社に入社。哲学雑誌「国土」の編集に携わる。1954年、国土社を退社、河出書房に入社。河出書房が倒産し、寿屋(現・サントリー)に入社。同僚に開高健、柳原良平、坂根進、酒井睦雄らがいた。「洋酒天国」の編集をはじめ、コピーライターとしても活躍する。当時大流行させた(トリスおじさん)は山口らの作り上げたものだ。1963年、「江分利満氏の優雅な生活」により、第四十八回直木賞受賞。1964年、サントリー宣伝部を退社。山崎隆夫、開高健、柳原良平、坂根進、酒井睦雄らと共に、広告制作会社・株式会社サン・アドを設立。取締役に就任。1995年、肺がんのため逝去。享年六十八歳。 
国立に家がありタクシーでちょうど30分で府中競馬場へ着く、「この距離がなんともちょうどいいんです」と語っていて「その間に窓から変わりゆく風景を眺めながら、今日のレースのことを考えている時間がとてもよい」とも述べていた。そんなことからも「私は府中競馬にしか来ないんだ。家も近いしね。それに中山競馬場は一度行った(優駿の招待で有馬記念)ことがあるけれど、どうも性分に合わない。嫌いだね。なんというか汚い感じがするんだ」とも言っていた。その国立の家がちょっとそのころでは変わった家でコンクリートの打ちっぱなし、「家の真ん中にある半地下の部屋が食堂というモダンというか不便というか」であり確かに異を放っていた。しかしとても国立という土地には心を許していたようで気さくな人柄も有り谷保駅前の焼き鳥屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていたようであったし、近所に住む家関保寿(彫刻家)などと一緒に旅打ち(旅行をしながらギャンブルに興じる)などをした記録が残っている。「居酒屋兆治」はそんな経緯から生まれた作品であるし、全国各地に山口が通った店などが多く今でもその店に行くと山口が通っていた痕跡が見られる。それだけ山口は人との交流が多くとてもそれを大切にしていたことが窺われる。 
戦後の名作である(少なくとも私はそう信じる)菊池寛賞受賞作「血族」その最終章、「私は、大正十五年一月十九日に、東京都荏原郡入新井町大字不入斗八百三十六番地で生まれた。しかし、私の誕生日は同年十一月三日である。母が私にそう言ったのである」この記述が「血族」の本質を言い表している。そしてこれを綴った事で神奈川県横須賀市浦賀、岬の付け根にある観音崎に至る谷筋、母に繋がる菩提寺に(文光院法国日瞳居士)として眠ることになるのである。 
「血族」から 
泣き虫で、小心翼々としていて、臆病で、万事につけて退嬰的で、安穏な生活だけを願っているといったことの全てが、遊廓で生まれ育った母の子のためだと思っているわけではない。少年時代に、あまりにもひどい貧乏を経験したためだとも思っていない。冷血動物でありゲジゲジだと言われた、自分ではあまり気のついていなかった性情を、出生と環境のせいにしてしまうつもりもない。しかし、それが、私の血と全く無関係であるとはどうしても考えられないのである。私は、あきらかに、容貌だけでなく、その性情において、丑太郎や勇太郎に似ているのである。すなわち、引込み思案で依頼心が強く、地位を得たときに威張りだすようなところがあるのである。私は、丑太郎や勇太郎に似て、芝居っ気の強いところがある。つくづくと、もし、少年時代に苦労するところがなかったら、もっともっと厭味な人間になっていたろうと思う。お前のような人間は引込んでいろと自分に向って言うことがある。私の息子は正業についていない。妹の子供、弟の子供も同様である。これも血のせいだと思うようなことはないのだけれど、あるとき、突然、出生のことを思い、慄然とするような思いにとらえられることがあるのである。いまになって、母の最大の教育は、隠していたことにあったと思うことがある。 
山口の母親は横須賀の柏木田遊郭の経営者の娘で、交友関係も広く派手な家庭であったらしく、長唄三味線家元の杵屋勝東治、その息子である、後の若山富三郎、勝新太郎も出入りしていた。そんな周囲の環境からか山口が芸事に対しての洞察力が優れていったかがわかる。特に将棋や野球、競馬など勝負事に対してののめり込み方は異常なほどだった。「山口瞳血涙十番勝負」「草野球必勝法」などを読めばまさにその入れ込みようが知れる。中でも「草競馬流浪記」は秀逸のもので、今もよくある競馬場探訪記だが、いまだにこれほどのものは見当たらない。その中に「インチメント」という言葉が多く出てきている。勝負事にはいつでも付きまとうある意味グレーな部分、山口はそれさえも見ているこちらの責任において楽しむべきと言い放っている。つまり勝負事は常にインチメントな部分を抜きには語れないということを(自分に)戒めた山口の勝負哲学に他ならない。競馬関係者との親密な付き合いを極力避けていた節がある。優駿の席などで関係者を紹介される場面があっても軽く頭を下げる程度のもので意に関した様子などなく、作家仲間とも案外そっけなく接していたようだった。競馬に関しての名言も数多く残している。「ダービーが競馬人にとってのお正月だね。この日に皆の顔が見られて楽しいね。でも来週には福島で来年のダービーを目指して戦いが始まるんだ」「結局は馬の能力は1600Mの持ち時計だ」「競馬をすると健康にいいんだ」「空の下、天下公認の「青空博打」が出来る。なんて平和なんだ」と語っていたことがあり、本当に競馬を満喫していたようだった。平和主義者でもあった山口は「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」とも述べている。 
平成7年8月30日死去、翌31日発売「週刊新潮」(男性自身)最終回「仔像を連れて」 
「どうやって死んでいったらいいのだろうか。そればかり考えている。唸って唸って(あれを断末魔というのだろうか)カクンと別の世界に入ってゆくのだろうか。」
 
ハイセイコー

 

日本の競走馬である。競馬ファンのみならず国民的な人気を集め、「第一次競馬ブーム」「ハイセイコーブーム」と呼ばれる一大社会現象を巻き起こした。1984年、JRA顕彰馬に選出。 
1970年、北海道日高支庁新冠町の武田牧場で誕生。誕生したとき見るからに丈夫そうな体つきをしており、牧場関係者が赤飯を炊いて祝ったほどであったという。間も無く日高の競走馬生産者の間でも高い評判を得るようになった。 
父のチャイナロックはハイセイコーの誕生までにもタケシバオー(1969年天皇賞(春)優勝)、メジロタイヨウ(1969年天皇賞(秋)優勝)、アカネテンリュウ(1969年菊花賞優勝)と3頭の八大競走優勝馬を輩出し、1973年には中央競馬のリーディングサイアーを獲得した種牡馬である。 
母のハイユウは競走馬時代に地方競馬(南関東)で16勝を挙げ、内3回はレコードタイムを記録した快速馬であった。祖母ダルモーガンは大井競馬場が競走馬用に輸入した「豪サラ」の1頭である。 
ハイセイコーの競走馬としての生き様は、地方競馬出身の野武士が単身で中央競馬のエリート集団に挑んだという構図で語られることが多いが、中央競馬の馬と同様に、血統的にはハイセイコーもまた当時の良血(エリート)であった。母の弟にオオクラ(春の天皇賞2着)も居る。 
ハイセイコーは父母から高い能力や特徴を受け継いでいるが、これは相性が悪いとされているハイペリオンとネアルコの組み合わせである。
3歳(1972年) 
1972年7月12日大井競馬場でデビューし、6連勝。その内容は、常に2着馬に7馬身以上の着差をつける圧勝で、初戦と4戦目はレコード勝ち。いずれのレースにおいても騎手が本気で追うことは無かったという。青雲賞というレースに勝った(1600m)ことから、現在は同馬を顕彰しハイセイコー記念という名称に替わっている。
4歳(1973年) 
1973年1月12日、ホースマンクラブに5000万円で購入され、中央競馬への移籍が決定。同月16日に鈴木勝太郎厩舎へ入厩した。移籍の経緯については諸説あり、日刊競馬は初めから予定されていたものであったとする。また作家の赤木駿介は、ホースマンクラブの代表者が大井競馬の関係者から、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけとなったとしている。 
陣営は、移籍初戦として東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走出来るものならしたかったが、当時の中央競馬には「地方から移籍した競走馬は移籍後1ヶ月間レースに出走する事が出来ない」というルールがあった為に出走は不可能であり、弥生賞への出走を決定した。 
弥生賞・スプリングステークス・皐月賞 
弥生賞では1番人気に応える形で勝ったものの、レース内容は地方在籍時のような圧倒的なものではなく、後位からじりじりと伸びるというものであった。レース中の反応も悪く、騎手の増沢末夫は敗戦を覚悟したと言う。弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、中2週で3月25日のスプリングステークスに出走させた。しかし、ここでも勝ちはしたものの、期待するほどのパフォーマンスを見せる事は出来なかった。2走とも上がり3ハロンが39秒台という事が落胆させる材料ともなった。 
厩舎関係者によると、弥生賞・スプリングステークスおいてハイセイコーが苦戦した原因は、馬場(ダートと芝)の違いに適応しきれていなかった事。そしてハイセイコーの「ハミ受け」(ハミのくわえかた)が悪かった事だという。しかし皐月賞前までにハミ受けの矯正に成功し、4月15日の皐月賞に臨んだ。レースでは序盤は好位を進み、第3コーナーで早くも先頭に並びかける積極的な戦法をとりクラシック初戦に勝った。 
NHK杯・東京優駿 
皐月賞勝利後は5月27日の東京優駿(日本ダービー)が目標となった。しかしその前に東京競馬場で行われるトライアルのNHK杯に出走する事となった。ハイセイコーには日本ダービーが行われる東京競馬場での出走経験が無く、後述のように初めての場所で物見をする癖があったため、スクーリングのためにNHK杯に出走しておこうと考えたからである。前述のルールにより、東京競馬場を経験出来なかった事がここに来て響いてきたのである。 
レースでは終始インコースに閉じ込められて中々抜け出す事が出来なかったが、ゴールまで200mを切った地点から鋭い伸びを見せ、ゴール手前でアタマ差抜け出してカネイコマ(皐月賞2着)、ディクタボーイ、サンポウらをまとめて交わし、かろうじて勝利を収めた。 
しかし、苦戦しながらも「並みの馬なら負ける所を勝った」と専門家によって高く評価され、日本ダービーでは圧倒的な1番人気に支持された。レースでは第3コーナーで早くも前方への進出を開始し、直線で一時は先頭に立ったものの、タケホープ、更にはイチフジイサミに相次いで差され、勝ったタケホープから0.9秒離された3着に敗れた。「レースに使われ続けたことで疲労が蓄積していた」「増沢騎手が早くスパートさせすぎた」「人気があり過ぎて大胆な追い込み作戦がとれなかった」等(増沢自身は一番後者の説を自著で主張している。)敗因について様々な推測を生んだ。また、血統論者からは、母の父が短距離血統のカリムだから距離適応の限界が露呈したという見方が多く示された。 
なお、調教師の鈴木は厳しいローテーション、血統による距離の限界の可能性を認めた上で「左回りが苦手だった」ことを敗因の1つに挙げている。また、優勝したタケホープに騎乗した嶋田功は「単にローテーションが詰まっていただけでなく、無敗で来ていたので出るレースすべて勝つつもりで仕上げなければならなかったはず。それが疲労につながったのでは」と語っている。 
鈴木康弘調教師(当時は調教助手)はダービーの3週間前に鈴木勝太郎調教師の自宅にダービー当日にハイセイコーにいたずらをしてやるという脅迫文が届いていたことを明らかにした 、しかし鈴木氏ははハイセイコーは万全の体調で出走させたことに悔いはなかったとコメントしている。 
京都新聞杯・菊花賞・有馬記念 
夏場は北海道へ移送せず、東京競馬場で調整されることとなった。北海道の調教コースは半径が小さかったため大型馬のハイセイコーが足を痛める危険があり、また涼しい北海道から本州へ移送する際に暑さで参ってしまう可能性もあったからである。 
9月18日、クラシック最後の一冠である菊花賞を目指し、前哨戦である京都新聞杯に出走させることが決定し、関西へ向けて出発。輸送中、調教師、調教助手、厩務員の3人がともに馬運車に乗り込むという異例の体勢で輸送された。 
10月21日に行われた京都新聞杯では1番人気に支持されたがトーヨーチカラの2着。陣営はハイセイコーの道悪馬場適性に出走前まで疑問を持っていたため、道悪であったが馬場の外目を通って差すことを選択したが勝ち馬には届かない格好となってしまった。敗れたものの休養明けで久々のレースであったため陣営はこの結果を悲観しておらず、11月11日の菊花賞に出走。先行して直線入り口で最内を走り、馬場の中央を伸びたタケホープと内外大きく分かれて殆ど同時のゴールインだった。結果、ハナ差の2着に惜敗した。その差は僅か13cmという。敗戦を惜しんで「2分の1ハナ差負け」と言った者もいた。 
12月16日の有馬記念にはタケホープが出走せず、ハイセイコーは古馬を差し置いて1番人気に支持された。レースはハイセイコーとタニノチカラが互いを牽制しあう展開となったために2頭よりも前方でレースを進めたストロングエイトとニットウチドリ(同年の桜花賞、ヴィクトリアカップ優勝馬)に有利な展開となり、ハイセイコーは2頭を捉えることができず、3着に敗れた。 
この年、ハイセイコーは競馬ファンのみならず一般社会をも巻き込んだブームの立役者となったことが評価され、優駿賞(現在のJRA賞)の「大衆賞」(現在のJRA賞特別賞に相当)を受賞した。ちなみにこの年の年度代表馬はタケホープが獲得した。
5歳(1974年) 
1974年1月20日、アメリカジョッキークラブカップに出走。タケホープに2.1秒引き離され、生涯最低着順の9着に敗れた。タケホープ出走を聞きつけて、急遽参戦したとも言われている。 
3月10日、中山記念に出走。不良馬場の中、トーヨーアサヒに2.0秒、タケホープに2.2秒差をつけ優勝した。 
5月5日、天皇賞(春)に出走。同競走に備えてハイセイコーは4月初頭に栗東トレーニングセンターへ輸送され、体調は非常に良好であったが、レースが行われる予定の週に厩務員がストライキを起こし、レースの施行日が一週間延期された。その間に体調を崩してしまい、結局レースはタケホープが勝ち、ハイセイコーは1.0秒差の6着に敗れた。 
6月2日、宝塚記念に出走。デビュー以来始めて単勝1番人気をストロングエイトに明け渡したものの、レコードタイム(2分12秒9)を記録して2着に5馬身差で圧勝した。陣営はこのレースにタケホープが出走していなかった事を悔しがり、「タケホープには出せないレコードタイムだ!」と、テレビインタビューで豪語していた。なお、このレコードはメジロライアンが1990年に更新するまで保持されていた。 
同月23日、高松宮杯に出走。管理調教師・鈴木勝太郎の息子で当時調教助手であった鈴木康弘(現・調教師)によると、当初は東京競馬場へ帰り休養に入る予定であったが、体調が良かったため名古屋のファンへ顔見せをするために出走に踏み切ったという。61キロの斤量を克服し、アイテイエタン以下に快勝した。 
高松宮杯出走後は東京競馬場で休養に入り、秋初戦は10月13日の京都大賞典に出走。2番人気の4着に終わった(1着はタニノチカラ)。続いて天皇賞(秋)に出走予定であったが、11月9日のオープン戦でヤマブキオーの2着した後に鼻出血を発症したために1ヵ月の出走停止処分が下され、出走を断念した。この事はNHKのニュースでも報じられている。このオープン戦ではタケホープ(3着)に先着している。 
12月15日、引退レースの有馬記念に出走し2着。調教助手が認める程の調整の失敗があり、最も重い540キロの太め残りで参戦し、辛うじて連対を果たした。優勝馬はタニノチカラ。なおこの時、八大競走の中では初めてタケホープにクビ差で先着。史上初の生涯獲得賞金2億円馬となった。レースはタニノチカラの独走だったが、フジテレビはハイセイコーをずっと追い続け、増沢の歌う「さらばハイセイコー」を挿入歌として放送するなど、レース放送としては極めて特殊な構成となっていた。
 
ギャンブラーは「ツキ」をどのように読むか
 

 

レース後のコメント分類から探る 
事象の結果が説明される際には、一般的に「ツイている」もしくは「ツイていない」状態があるように語られることがある。このような「ツキ」のよしあしが説明される現象の背後要因について、一定期間のベッティング行動(競馬)を測定し、その結果に関する記述を分析することで探索的な検討を行った。内容の特徴に着目して、記述は「自分−非自分」及び「レース前−レース後」の要因に関する語りという2 軸に基づいて解釈された。ベッティングの実際の結果(的中/不的中)からは、記述内容に違いは見られなかったが、「ツキの流れ」を肯定する者は否定する者よりも「自分」の「レース前」のことを多く語っていた。しかし肯定する者であっても、「ツイていない」状況では、「ツイている」状況に比べて「レース後」に関する記述が増えていた。この結果からは、ある期間「ツキ」が連続するように説明される要因として、実際に生起した事象の結果だけではなく、状態としての統制感の変化を加味した判断がなされている点が考えられる。このような形で統制感を捉える背景には、結果に対する視点の違いを作り出すような、「ツキ」に関する先入観の影響があるのではないかと推測される。 
問題  
ギャンブラーと迷信行動  
かねてよりギャンブラーには多くの迷信行動が見られることが報告されており、その行動はしばしば指摘される(例えばHenslin, 1967)。この理由を考えてみれば、ギャンブルは不確実性が高く、行う必要性が非常に低いとされる行動である点が挙げられる。いわゆるギャンブラーは、本人の楽しみや自我の維持(谷岡,1996)といった面を除けば、リスクを含んだ選択の機会を自ら増やしていると言える。さらには選択した事象の結果は、日常生活より速くかつ明確に示されることが多い。例えば、結婚という選択は数年たっても成功・失敗といった明確な「結果」が分かるとは限らない。  
迷信行動を取りやすい社会集団の例として、Vyse(1997)がギャンブラーや運動選手や試験を受ける学生などを挙げているように、このような特定の不確実事象に対する選択の機会が多く、成功・失敗の結果が明確な状況ほど、迷信行動は生み出されやすいと考えられる。日常生活の中にも、丙午の年に女性を産むことに対するものなど、行動に大きな影響力を持つ可能性がある迷信はあるが、特にギャンブラーは迷信の真偽を測ることができる機会が多いと言えるだろう。  
迷信と「ツキ」 / 迷信行動の背景  
このように選択の機会が多く、事象の結果が明確な状況における迷信行動の1つとして、Gilovichら(1985)は予想以上に成功が「連続するように見える」現象を説明している。プロバスケットボールの試合で、ある期間シュートの成功率が高くなったように「見える」選手の状態は、一般には“hot hand”や“streak shooting”という現象として捉えられているが、この現象は観察者の錯覚に過ぎないことをGilovich らは示している。“hot hand”の状態にある選手に、わざわざシュートのチャンスを回したりする例からは、迷信行動に直結していると言えるかもしれない。  
この“hot hand”や“streak shooting”は、いわゆる「ツイている」と説明される概念に近いと考えられる。「ツキ」によって説明される現象の時間的な範囲は、単一の事象からある期間の事象群まで様々であるが、このような説明を行うベースに共通してあるのは、ある期間内におけるポジティブな事象(あるいはネガティブな)事象の結果を一連の固まりとして捉えていることであり、これは事象間における独立性を無視した認知的な錯誤であると考えられる。  
「ツキ」に関する個人差  
しかしながら、Gilovich らはこのようなデータを観察者や行為者自身に示しても、考え方自体はほとんど変容しないことも同時に指摘している。この原因として、一般的に事象が生起するランダムさへの誤解が堅固であることに加えて、状態の捉え方について先入観があることが挙げられている。例えばGilovich らが挙げているのは、惜しいシュートを外した場合でも「ツイている」選手の結果は入ったも同然だったと判断されるのに対して、そうでない選手の結果は「ツイていない」と見なされるなど、いわば都合のよい見方がなされやすいというような、選手の状態に関する観察者の視点の違いである。  
Figure1 は説明される文脈によって類型化した「運」を示したものであるが、この意味で「ツキ」という概念は「幸運」あるいは「不運」な状態の説明であると考えられる(本研究では「運」の下位概念として「ツキ」を捉えることにする)。しかしながら、このように「ツキ」という概念を用いて、事象の連続性を説明するかどうかについても、この先入観から生じる個人差があると考えられる。  
必ずしもポジティブな事象が連続していない場合にも、「ツイていた」と判断されているシュートの例からも、もし認知的な錯誤が生じる原因が、「ツキ」の捉え方における個人差にあるならば、「ツキ」によって事象を説明している者は、結果そのもの以外の要因にも着目した判断をしているのではないかと考えられる。  
この要因については、観察者は“hot hand”の状態を説明するのに、事象の結果だけではなく、行為者である選手が持つ自信のような付加的要因を推測しやすいことが挙げられている。このような自信はLanger(1975)が示した、全く偶然の事象であっても生じる統制の錯覚(illusion of control)に類似している。Hill&Williamson(1998)などによっても、(状態としての)luck と統制の感覚の関連性が指摘されているように、おそらく「ツキ」の背後にも、この統制感の強弱によって説明されている部分があるだろう。しかしながら、どのような背景で統制感から「ツキ」の説明がなされやすいのか、またどのような場合に「ツキ」のよしあしが連続するものとして説明されるのかは分かっていない。そこで、この背後要因を探ることが「ツキ」に関する先入観をひもとく鍵になるのではないかと考えられる。  
先述したように、ギャンブル場面においてベッティング(賭け)結果の的中・不的中に関わり続けることで、ギャンブラーは「ツキ」の連続性を確認する機会を持つと考えられる。そこで本研究では、一定の期間を決めて継続したギャンブルにおけるベッティング行動の測定を行うことにした。その結果に関して記述されたものを質的に分析することによって、具体的にどのような状態を「ツイている」あるいは「ツイていない」とギャンブラーが捉えているのかという認知的な側面について探索的に検討した。 
方法  
本研究ではギャンブル状況として競馬を採用した。これは、1.参加者を幅広く集めるため知名度が高く、2.インターネット上でもできるだけ現実に即した擬似的な場面を作りやすいもの、3.一定の間隔(1週間に1 度)で測定が可能なもの、という基準を満たしている点から選択された。  
手続き  
予備研究として、インターネットのWeb ページ上で、馬券の買い方や頻度などの「競馬スタイル」に関する質問紙調査を実施した。この回答者の中から、Web ページ上でのベッティングゲーム(擬似的な馬券投票行動によるポイントの合計勝負のゲーム、以下コンテストと呼ぶ)への参加者を募った。このゲームでは全参加者が一定の持ち点を与えられ、期間を決めたゲーム形式であることや、毎週ベッティングを行うことなどいくつかのルールを設定したが、実際の行動にほぼ準じた形でベッティングを行ってもらった。  
コンテストの実施時期は1998 年10 月〜12 月である。参加者は45 名。コンテストの対象期間は10週間に設定した。この期間は時間的な長さだけでなく、メディアへの露出度も大きく、一般的なファンにも注目度が高いと考えられる「GTレース(賞金が高く設定されており、最も価値の高いレース。年に約20 レースほどある)」のみが対象とされた。ベット(賭け)の対象は馬2 頭をペアで選ぶ「馬番連勝方式」とした。これはJRA(日本中央競馬会)が発売する全売上の7 割程度を占める最もメジャーなベッティング方式であり、馬2 頭を選択して、そのペアごとに賭ける金額を決める。レースの結果、選択したペアの2 頭の馬が1 着と2 着(どちらの馬の着順が1 着かは問わない)を占めた場合に的中となる。参加者のほとんどは実際にこの方式でJRA にベッティングを行っていた。  
コンテストでは、この実際に行われた JRA のレースに基づいてポイントを賭け、的中した場合には実際のレースで発表されたオッズ(賭け率)に基づいて、[的中したペアに賭けていたポイント×実際のレースによるオッズ]を計算したポイントが加算された。逆に、そのペア以外に賭けた(つまり不的中の)ポイントは全て減算された。最終的にコンテスト対象期間の終了後に、所有するポイントの多い上位3 名が賞品を獲得できるルールとした。この賞品が金銭的動機づけの代わりに、参加者に対する一つの動機づけとなっている。  
測定項目  
「競馬スタイル」を測定した際には、参加者の「ツキ」に対する態度についても同時に測定している。項目内容は「『ツキの流れ』はあると思う」、「『ツキ』は何かをきっかけにして切り替わると思う」、「ギャンブルに関して『運の流れ』や『ツキ』を意識することがある」、「ギャンブルにおける『ツキ』と日常生活における『ツキ』は違うものだと思う」の4 項目である。各項目に対して、参加者は「全くそうだ」から「全くちがう」までの5 段階で回答した。  
ベッティングの的中・不的中の結果については1 レース終了ごとにフィードバックを行った。その際には、予想が的中(あるいは不的中)だった理由を自由記述で回答してもらった。以下の分析では、主にこのコメントに記述されたものを用いている。その他に、的中(あるいは不的中)から生じる感情の度合いなどについても判断してもらったが、本研究とは直接関係がないので省略する。  
さらに、コンテストの終了後にも、「ツキ」に関するいくつかの質問項目に回答してもらった。その中でも、コンテスト期間中に「ツイている」と感じた期間及び「ツイていない」と感じた期間を、振り返る形で具体的に尋ねた。回答はレース名(例: A のレースからBのレース)で記述した。さらに普段行っているベッティング行動において、「ツキ」がギャンブルの結果や自分の行動に関与していると思う程度について自由記述で尋ねた。記述内容は、「ツイている」あるいは「ツイていない」状態に対する意識の有無、「ツキ」が変化するきっかけ、「ツイているとき」及び「ツイていないとき」が持続すると思う期間、「ツイているとき」及び「ツイていないとき」に取る特別な行動などである。  
以上の回答及びフィードバックにはE-mail を用いた。参加者の性別や年齢などの属性については測定しなかった。性別については、インターネット人口とギャンブルに関する参与度を考えた場合に、女性の参加者は性差を比較するには少ないため要因から外した。年齢の代わりには、競馬に関わっている年数(平均7.65 年、SD=5.19)を測定しているが、測定した「ツキ」に関する項目の肯定/否定と年数との間に関連は見られなかったので、以下の分析要因としては加えなかった。 
結果  
参加者の分類  
コンテストの終了後に尋ねた「ツイている」と感じた期間、及び「ツイていない」と感じた期間に関する質問に回答した32 名のうち、連続した状態として「ツキ」のよしあしを何らかの形で感じたと回答した参加者は12 名だった。なお、この参加者は「ツキの流れはあると思う」の項目に全員肯定的に回答していた。そこで本研究では、この項目に肯定的に回答した者を、「ツキ」の連続性についても肯定している者とみなした。回答者の人数、カテゴリーは以下の通りである。  
・「ツキの流れはある」という信念の肯定群(以下「ツキの流れ」肯定群): 25 名  
(内訳)「ツイていた」と感じた期間のみがあったと報告した者(2名)/「ツイていなかった」と感じた期間のみがあったと報告した者(5 名)/両方の期間があったと報告した者(5 名)/「ツキの流れ」については肯定したが、コンテスト期間中にはなかったと回答した群(13名)  
・「ツキの流れはある」という信念の否定群(以下「ツキの流れ」否定群): 7 名  
カテゴリーの分類  
参加者には、各レース後に自分の予想が的中(あるいは不的中)だった理由を書いてもらった。このコメントは、コンテストの参加者がどのような観点を持ってレースを捉えているかの判断材料になると考えられる。  
このコメントについて、KJ 法を用いて分類を行った。1 レース分の参加者のコメントは、内容によって1〜5 個のコメントに分割した。コメントののべ総数は、的中時のものが62 個、不的中時のものが228個の計290 個である。  
的中した場合と不的中だった場合のコメントは別々に分類が行われたが、結果的には同じ象限を用いて分類された。大カテゴリーに分類された後に、内容の特徴に着目して、最終的なカテゴリーの象限は「自分−非自分」、及び「レース前−レース後」の2 軸に基づいて解釈された。  
「自分−非自分」の軸は、コメントの内容が自分に関する状態や判断などについて述べられているのか、それとも自分以外のことについて述べられているのかによって区分された。代表的なものを挙げれば、「高配当を狙いすぎた」というコメントは自分の、「レース中の事故」というコメントは自分以外の語りとして分類されている。その他、「ユタカ(騎手の名前)が嫌いだから」のように騎手の好みに関するコメントも見られたが、騎手という対象自体は自分以外の要因ではあっても、「騎手のミス」といったコメントとは違い騎手との関係から自分の感情に注目したものと考え、自分についての語りとして分類された。  
また「レース前−レース後」の軸は、コメントの内容がレース前にあたかも予想がついていたように捉えられていることか、あるいはレース後の結果として初めて分かったとされているかによって区分された。代表的なものを挙げれば、「やる前から勝ち馬が見えていたこと」というコメントは「レース前」の、「まぐれ当たり」というコメントは「レース後」の語りとして分類されている。  
これらの2 軸を組み合わせて、例えば「データをよく検討しなかった」というコメントは「自分−レース前」の象限に、「馬が故障したから」というのは「非自分−レース後」の側に分類された。以下、「自分−レース後」に属するコメントを第T象限のコメント、「自分−レース前」に属するコメントを第U象限のコメント、「非自分−レース前」に属するコメントを第V象限のコメント、「非自分−レース後」に属するコメントを第W象限のコメントと呼ぶことにする。分類したカテゴリーの項目はTable1とTable2 に、分類したカテゴリーの内容についてはFigure2 とFigure3 に示した。なお以上の分類は著者が行い、その後で訓練された者(大学院生)が確認することで一部を修正した。  
「ツキ」に関する信念による差  
まず、各象限にコメントが占める割合について、ベッティングの結果が的中の場合と不的中だった場合を比較した。1 つのレースに対して複数のコメントがある場合には、その割合に重み付け(例えば2 つのコメントに分割された場合には、0.5ずつカウント)を付けている。  
その結果、的中時には不的中時に比べて、第V象限に含まれるコメントの割合が増加し、第W象限に含まれるコメントの割合が多少減少していることが分かった(Figure4)。しかしながら、「自分−非自分」及び「レース前−レース後」の象限におけるコメントの比率はほとんど変化していないことから、どちらかといえば的中時と不的中時で、結果に対する視点はあまり変化しないと考えられる。そこで的中・不的中の両方のコメントをまとめて、「ツキの流れはある」という信念について「ツキの流れ」肯定群と否定群に分けて、コメントが各象限に占める割合の比較を行った。  
その結果、「ツキの流れ」肯定群には第U象限、つまり「自分−レース前」のコメントが多いのに対して、「ツキの流れ」否定群には第W象限、つまり「非自分−レース後」のコメントが多いことが分かった(Figure4)。さらに第U象限に含まれる「ツキの流れ」否定群のコメント内容を分析してみると、「予想する時間がなかった」のような、「レース前」における自分の状態について述べていると考えられるコメントが全く見られないことが分かった。実際のレースにおける的中率は、多少「ツキの流れ」肯定群の方が高かった(肯定群19%vs 否定群13%)が、大きな差ではなかった。  
「ツイている」状態と「ツイていない」状態における差異  
さらに「ツキの流れ」肯定群の中でも、「ツイている」と感じた状況・「ツイていない」と感じた状況・どちらでもない状況の3 つの状況に分けて、コメントが各象限に占める割合を同様に比較した(Figure4 の矢印部)。  
このうち「ツイている」と判断された状況におけるコメントの中には「第六感(ひらめき・予感)みたいなものが的中した」や「やる前から勝ち馬が見えていた」のように、前もって結果が予想できたかのように判断していると考えられるようなコメントも見られた。このように「ツイている」と感じた状況では、第U象限と第V象限を加えた「レース前」の象限のコメントが8 割強を占めていたのに対して、「ツイていない」と感じた状況では「レース前」の象限に含まれるコメントは逆に5 割強に減少していた。つまり「見当もつかない」や「あれじゃしょうがない」といったコメントに代表されると考えられるような、「レース後」の側に含まれるコメントがかなり増加していた。「ツイている」と感じた期間で示された、コンテスト中の実際の状況下における的中率は39.3%に対して、「ツイていない」と感じた状況では12.2%であった。  
状態の変化 / 「ツキ」に関する捉え方 
レース後に尋ねた質問から、ギャンブラーが「ツキ」をどのように捉えているのかについて簡単にまとめた。  
本研究では、コンテストが終わってから振り返る形で「ツイていた」あるいは「ツイていなかった」という期間を具体的に尋ねたが、現時点の状態として実際に「ツキ」を意識することがあると答えた者は、「ツキの流れ」肯定群のうち約70%(16 名; 2 名無回答)であった。  
「ツキ」に関する態度項目の中では、「『ツキ』は何かをきっかけにして切り替わると思う」という項目を測定している。「ツキの流れ」肯定群の中で、この項目にも肯定的に回答している者は75.0%(18 名;1 名無回答)だった。このきっかけとは具体的に何を指しているのかを考えるに当たって、今回のコンテスト中に意識した「ツキ」の切り替わりの契機に関して具体的な記述を行った者が7 名いた。その内容を見ると、好転した方の記述には「予想外の的中があった」、「大きく勝ってふっきれた」、逆に悪くなった方の記述には「そこそこの的中をした」、「馬券を買わなかった」、「絶対に逆らった」、「おっちょこちょい」という記述が見られた。  
これらの記述内容は、行為や状態、ベッティングの結果と様々であるが、特徴として自分に関する語りが大半を占めていると考えられる。つまり「ツキ」は自然に変化するというよりも、むしろ自分の行為のような人為的な影響の方が大きいものと捉えられており、それがベッティングの結果につながっていると捉えられているのではないかと推測される。  
このように自分の行為が影響力のあるものとして捉えられている点については、普段のベッティング行動に関する記述においても、「ツイてるときミスをすると、ツキがなくなる」や「事前予想と違う馬券を購入して、事前予想が的中していたような場合には、ツキが下降する」、「切った(予想で消した)有力馬が勝った場合にツイていない状態が来る」のような形で、特に「ツキ」の低下を招く契機になると判断していると考えられる記述が多く見られた。  
このような事象の結果は記憶として利用可能性が高く、「あの時のミスによってツキが変化した」のように、「ツキ」の期間を区切る判断基準を与えているとも考えられるが、先述したシュートに対する解釈のように、実際に得られる事象の結果に何らかの要因を結びつけて、「ツキ」が連続しているという期間は自ら作り出している部分があるのではないかと考えられる。 
考察  
本研究では、連続性のある現象として「ツキ」のよしあしを認知することについて、レース後のコメントを分析し検討した。その結果、事象に対する捉え方に関して、いくつかの視点の違いがあるのではないかという知見が得られた。この違いは「ツキの流れ」を肯定する者と否定する者の間に見られたことから、「ツキ」を自分の状態に対する判断として考えた場合には、事象に対する視点の違いが、「ツキ」を用いて事象の連続性を説明する背景要因の一つになっている可能性が示唆された。  
もう少し詳しく述べれば、Figure5(各象限に占める面積はコメント量を示している)に示すように、「ツキの流れ」を否定する者は、「非自分」かつ「レース後」の象限(第W象限)に「注視の方向」が向きやすいことが考えられる。この「注視の方向」とは、事象に対してどのような点に注目しやすいかという視点の方向のことである。  
この結果は「ツキの流れ」を否定する者にとって、他者が行うレースを予想することはあくまで生起する事象(レースの結果)に判断を下すことであって、レースの結果と自分の予想は無関連と捉えていることにあるのではないかと推測される。そこで視点の中心はベッティングの的中・不的中という結果に関わらず、生起したレースの結果(例えば「馬が好走した」)にあると考えられる。  
これに対して「ツキの流れ」を肯定する者には、「自分」かつ「レース前」の象限(第U象限)に「注視の方向」が置かれていると考えられる。このことは「自分」かつ「レース前」の象限に含まれる、状態(つまり自分が予想を行う時点での状態)に関するコメントが、「ツキの流れ」を肯定する者のみに見られたことからも言えるだろう。例えば、自分が行った判断も「判断を下せるような〜の状態だった」とか、「ツキがあったから的中した」のような形で捉えやすいのではないかと考えられる。  
さらにその「ツキの流れ」を肯定する者のコメントの比重は、「ツイているとき」と「ツイていないとき」の間では「レース前」から「レース後」の象限へ変化していた。「レース前」や「レース後」という時間軸の違いが、この統制感の上昇・下降の状態の表出と考えれば、今回の結果は統制感が高い状態から低い状態への移行を示していると考えられ、「ツキ」のよしあしという形で、統制感の高低は「ツキ」の状態によって変化する指標として捉えられていると推測される(Figure5 の点線の軸)。  
つまり「ツキの流れ」を肯定する者は、自分の「ツキ」の状態に応じてベッティングに対する統制感が変化する、逆に言えば統制可能性を判断する基準として、現時点における自分の「ツキ」の状態を判断しているのではないかと考えられる。このように「注視の方向」の置かれ方は、自分の状態や行動をベッティングの結果を左右する要因として、どの程度扱うかどうかという、結果に対する統制感の持ち方の大小に左右されているのではないかと推測される。  
原因の帰属としては成功した理由を自分に、失敗は自分以外のものに求めやすいというself-serving biasの傾向が示されている。例えばLau& Russell(1980)は、スポーツを行っている選手やコーチが試合の結果をどのように語っているかを新聞の記事から調べたところ、勝った場合には負けた場合よりも自分のチームの要因について語る割合が多いことを示している(ただし、どちらも自分のチームについて語る割合の方が多い)。しかし、本研究ではベッティング結果の的中・不的中の間で、コメントの割合にこのような傾向はほとんど見られなかった。  
ただし、自分がレースに直接携わっていない観察者であるという側面や、自分の的中を自慢することを、回答の際に避けた可能性も考えられるため、これを否定するものではない。むしろ、どちらの観点から語りやすいかには個人差があって、事象の結果以外の面も合わせて「ツキ」の状態が判断されているとすれば、「ツキ」に関しての先入観がもともと「注視の方向」の向きやすさを決めていたり、事象を捉える視点を変化させたりしているのではないかと考えられる。  
この視点の変化についてもう少し説明すれば、「ツキの流れ」を持って事象を捉える者は、ひらめきなどの自分の感覚といった直感的な部分や、好みや選択の基準、「調子が出ない」などの予想する時点での自分の状態など、「レース前」に認知できる要因に対して、もともと「注視の方向」が向いているのではないかと考えられる。このことは「ツキ」の変化を決定する要因の一つとして、自分の行為が語られていたことからも推測される。そして自分の判断や予想する時点での状態が、ベッティングの結果はおろか、場合によってはレースの結果をも左右しているように捉えられているのではないかと考えられる。  
特に「ツイている」状態では、錯覚であったとしても、現象を説明する際に何かしらの手がかり(例えば「自分」の手応えやひらめき、「自分以外」では狙い目の馬や予想しやすいレースがちょうど用意されていたかのような認知など)が、レースやベッティングの結果と結び付けられやすいのではないかと考えられる。実際にレースの結果として表れるものは一つなのに対して、「レース前」には複数のパターンの結果について予想が立てられることが多い。そこで「ツイている」状態では、予想外の結果が生起した場合でも、何らかの形で予想がついていたかのように説明されるのではないかと推測される。  
つまり、あらかじめ「ツイている」状態にあるという視点から語られることで、レース前の時点でベッティングの結果に対して、漠然としたものであっても手応えや根拠のない自信を持ったり、的中することが決まっているかのように捉えられるので、結果論で語られることは少ない。結果的に不的中だった場合でも「選び方が悪かった」のように、自分のどの行為や選択が誤った結果を導いたかという「改善策」も見えているように捉えられているのではないかと推測される。  
ところが逆に「ツイていない」状態では、統制感が低下しているために、自分の判断が結果に及ぼす影響力は小さいと捉えやすく、直接的な結果を左右する原因としては結び付けられない。さらに的中するという結果を得ることが最優先にあるような、暗中模索の状態にあると推測される。そのため、予測できない「レース後」の要因に視点が向きやすく、得られた結果に対しても後付け的な説明をしやすいと考えられる。もちろん「レース後」の要因に視点が向きやすいだけで、「イヤな予感がしていた」のように説明されることもあるだろうし、ギャンブルの中でも競馬はスキルの割合が高いと認知されやすい(楠見,1994)こともあり、「レース前」の要因が語られることがゼロになることはないだろう。  
この「ツイている」状態と「ツイていない」状態の違いは、例えば同じ不的中というベッティングの結果に対しても、「ツイている」場合にはどの程度手応えがあったかという過程が語られるのに対して、「ツイていない」状態には最終的に得たネガティブな結果が語られるという点に顕著に表れるのではないかと考えられる。これは、ポジティブな結果を得ることに対する「余裕」の差とも言えるかもしれない。  
最も本研究で判断された結果は、コンテストが終わった後から振り返る形で「ツイている」あるいは「ツイていない」期間を尋ねている。このような判断には、既に生起した事象の結果(特にベッティングの的中・不的中)だけを回想してまとめ直した部分も含まれていると考えられる。しかしながら、現時点における状態として、「ツイている」あるいは「ツイていない」ことを意識している者が7 割近くもいることから、生起した結果に対する単なる後付け的な解釈がなされているだけではないと考えられる。  
このように過去ではなく、現時点の状態として「ツキ」が捉えられることについては、始めは事象の結果に対して「ツキ」と呼んでいただけかもしれないが、何らかのポジティブな結果を得た(あるいは成功した)ことから、統制感が上昇した状態を「ツイている」と呼ぶように転じて、ある期間の連続した状態として捉えられている、いわば「ツキ」が「フレーム化」して捉えられているのではないかと考えられる。  
同様に、何らかの失敗やネガティブな結果を得ることで統制感が低下した状態も、「ツイていない」状態として「フレーム化」されていると考えられる。このような「フレーム化」のされやすさは、「ツキ」に関する信念の違いから来ていると考えられ、事象間における独立性が無視されたり、迷信行動の取られやすさにもつながっているのではないかと推測される。「フレーム化」された状態では錯覚であれ、何らかの手がかり(例えば直感など)を伴った現象として語られやすいだろう。  
最もこの「ツキ」の状態が、どのような条件で「フレーム化」されやすいのかについては、実際に得られた事象の結果以外の面も含めて、「ツイている」状態や「ツイていない」状態が判断されていることから考えると、他にも直感的な要因や過去の記憶の利用などとの関連性についても検討する必要があるだろう。また本研究では予想を立てて行うギャンブルを扱ったが、あらかじめ予想を立てないギャンブルやギャンブル以外における判断にも同様の傾向があてはまるのかなど、具体的な事象に対してさらなる検討が必要であると考えられる。 
 

 

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