平安鎌倉時代の飢饉飢餓天災考

政治と飢饉農と食の歴史平安鎌倉の飢饉気象と飢饉信濃国人身売買中世の飢餓吾妻鏡に見る寛喜の飢饉
天変地異年表
 70080090010001100120013001400150016001700180019002000
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雑学の世界・補考   

   

飢饉・台風・地震・噴火・火災

法然 栄西 道元 親鸞 日蓮 一向 一遍
平安時代                  
1000                
                 
                 
                 
1100 1108年噴火浅間山噴火                
  1112年噴火浅間山噴火?                
                 
  1134年長承の飢饉   1133            
      1141          
1150 1155年久寿の飢饉                
                 
  1179年火災善光寺焼失(第一回目)        1173      
鎌倉時代 1185 1181年養和の大飢饉              
    1199年鎌倉で大地震                
  1200 1201年東国に大暴風雨 1202年鎌倉で大地震     1200        
    1214年鎌倉で大地震 1212 1215          
              1222    
    1231年寛喜の大飢饉
1239年加賀白山噴火し白山権現焼亡
          1239 1239
                 
  1250 1258年正嘉の飢饉       1253        
    1268年火災善光寺焼失         1262      
                   
              1282 1287 1289
    1293年鎌倉大地震                
  1300                
    1313年火災善光寺焼失                
  1333                
                   
平成時代 1988                
    2011年東日本大震災(3/11)              

「鎌倉時代史」政治と飢饉

関東申次の更迭
関東申次の変遷
天皇(後深草 1243-1304/62歳)尚ほ御幼冲なりしかば、上皇(後嵯峨 1220-72/53歳)、院中におはして政務を視給ふ。是より先き後鳥羽上皇(1180-1239/60歳)の院政時代には、坊門信清(1159-1216/58歳)、西園寺公経(1171-1244/74歳)の両卿、関東の申次たりしが、後、道家(1193-1252/60歳)専らこれに当り、事態の重大なるものは親しくこれを幕府に示し、然らざるものは修理大夫高階経雅(初名経時、仁治三年(1242)、北条経時(1224-46/23歳)と同名を諱んで名を改めたりしこと、公卿補任に見えたり)彼れの旨を承けてこれを幕府に伝へたりしが、上皇の院政を開始し給ふに及び、寛元四年(1246)、道家は更にこれを頼経(第4代将軍 1218-56/39歳)に謀り、三月三日附の彼れの回答を得て、上皇に奏し、自後秘事重事は猶ほ旧の如く道家よりこれを示すべく、僧俗の官爵等は摂政に達すべく、雑務は奉行院司、申次を経ずして直に院宣を下すべきことゝなれり(葉黄記寛元四年三月十五日の条)。
道家と頼経との関係
これを以て既往の制に対照すれば、其手続上、多少の変更を認むべきも道家は依然として朝幕間の関鍵を握れるなり。道家既に官を辞し、仏門に帰して、復、世事に意なきが如きも、其敢へて関東申次を辞せざるを見れば、未だ政治上の野心を絶たざりしを知るべし。又頼経も将軍職を罷めて出家し、幾たびか帰京の期日の発表せられし後に於ても、尚ほ幕府の機務を主宰せること此くの如し。故に頼経の帰京を望みたりしは、其真意に出でしや、将た他に営求するところありしやは姑(しばら)くこれを措き、若し道家の立脚地よりこれを観れば、幕府の主権の、永く頼経の手に帰せんこと、寧ろ其期侍すべきところなりしが如し。而して一部の幕僚中にも、彼れの帰京を懌(よろこ)ばざるものありて、極力斡旋しつありしは事実たり。  
三浦氏の乱
三浦泰村に対する嫉視
三浦泰村(1204-47/44歳)は父義村(?-1239)の後を承けて、北条氏の外戚を以て一門の官爵他門に超え、数国の守護を兼ね、数万町の荘園を領し、他の儕輩を凌駕せり。佐々木義清の子政義、幕府の近習たり。泰村が御家人の上首に似たるを見て、平ならず、屡々これと着座の上下を争ひしも、終に勝つこと能はざりしかば、憤怨の余、告げずして出家せり。幕府其法に違へるを責め、所領を没収して弟泰清(?-1287)に給へり。これ適々泰村が、他の嫉視を買ひつゝありしを証すべし。
頼経と三浦氏
頼経の事あるや、三浦氏亦与同の嫌疑を受けたり。然れども泰村は後、許されて幕府の謀議に参画せり。泰村の弟光村(1205-47/43歳)の自白として伝へらるゝところに拠れば、初め道家(1193-1252/60歳)、三浦氏を誘ひし時、光村は直に起つて事を挙げんとせしも、泰村逡巡決せざりしといふ。此内訌に於ける泰村の態度に徴するも、又彼れの知己小山朝光の言に照すも、泰村の初より之れに熱中せざりしは事実に近かるべく思はる。光村は幼より頼経に近侍して寵を得、頼経の京都に帰りし時も護送の員中にあり。後其鎌倉に帰るに当りて、流涕滂沱辞去するに忍びず、異日再び旧主を鎌倉に迎へんと欲するの意を洩らせりといふ。
安達景盛、三浦氏を倒さんと謀る
時頼の外祖安達景盛(覚地/?-1248)深く三浦氏の跋扈を悪み、宝治元年(1247)高野山より帰りて時頼と密議を凝らし、又其子義景(1210-53/44歳)、孫泰盛(1231-85/55歳)の武備なきを見てこれを戒飭せり。皇代暦に三浦氏の乱源を説きて、「事濫觴泰村与義景争権之故云々」といへるに拠れば、これ実に三浦乱の序幕たるなリ。思ふに、三浦氏は常に衆怨の府たりしのみならず、頼経の事ありてより、北条氏の憤怨を買ひ、早晩滅亡を取るべき運命を有せり。景盛は頼経の外祖として、其幸運を祈るの情に切なるもの、彼れの鎌倉に帰りしは、其本意に出でしや、将た時頼の招引に依りしやは姑くこれを措き、彼れが全力を傾けて三浦氏の撃滅に尽くしゝこと、疑ふべくもあらず。
北条氏の挑発運動
五月、泰村の第二子駒石丸は、時頼の養子となるの約成れり。四月(五月十三日の誤り)、将軍頼嗣の夫人北条氏(檜皮姫 1230-47/18歳)病んで没せり。夫人は時頼の妹なるを以て、時頼は其忌に服せんが為め、泰村の邸に移れり。此くの如く一方に於ては、三浦氏に対して、執権の他意なきを装ひつゝありし間に、幕府の三浦氏を誅戮せんとするの意味は或は鶴岡八幡宮社頭の※示(ぼうし)に依り、或は泰村の私第の落書に依りて、一般に告示せられ、挑発煽動至らざるところなし。是を以て人心恟々として其堵に安んぜず、互に兵備をなして、不慮に備へたり。※片へんに「旁」
三浦氏の滅亡
既にして時頼は三浦氏の戦備を修するを見届けて遁れ帰り、近国の御家人来つて其邸を警衛せり。六月五日、時頼、手書を泰村に与へて兵を撤せんことを求めしに、泰村喜んでこれに応ぜり。景盛これを懌(よろこ)ばず。旨を義景、泰盛に授けて急に泰村を伐たしめたり。時頼交戦已に始まれるを以て実時に命じて幕府を守らしめ、時定(時頼の同母弟 ?-1290)をして赴き戦はしむ。泰村等又邀へ撃ち、両軍殊死して戦ふ。時定等火を放つて泰村の邸を焼く。泰村等退いて頼朝の法華堂に保ち、光村等亦永福寺より来り会せり。両軍激戦巳より未に至る。泰村等事の成すべからざるを見て自殺す。一族郎従の死を共にするもの三百余人(葉黄記に拠る。吾妻鏡には五百余人に作る)。毛利季光(西阿/1202-47/46歳)の妻は泰村の妹なり。季光初め時頼の邸に会せんとせしが、其諫に依りて終に三浦氏の軍に投ぜり。彼れ平生念仏に帰依す。故に法華堂にあるや、諸人を勧めて徐に法事讃を行ひ、光村其調声たりしといふ。
三浦氏余党の処分
三浦氏の乱京都に聞えしかば、朝廷は事の重大なるを認めて、御祈を行はれたり。三浦氏の軍敗れて後、時頼は即日、書を六波羅重時に送りてこれを報じ、実氏(1194-1269/76歳)を経て奏聞せしむると共に、普く西国の御家人に告示せしめ、左の事書を示せり。 一、謀叛輩事、 為宗親類兄弟等者、不及子細、可被召取、其外京都雑掌、国々代官等事者、雖不及御沙汰、委尋明、随注申、追可有御計者、 これより後、幕府は一方に於て諸国に於ける三浦氏の余党を処分し、他方には鶴岡八幡宮、及び法華堂に領地を寄附し、又将士の戦功を録賞せり。斯くて景盛は其目的を達せしかば、高野山に還りて退隠せり。  
閑院の焼失
冷泉富小路亭に遷幸
宝治三年(1249)二月一日の夜、閑院、火を失せしかば、天皇は皇后※子内親王(仙華門院/土御門天皇皇女/尊称皇后 ?-1262)と御同車にて、御所を出でさせられ、途より御輿に移り給ひ、剣璽を奉じて西園寺実氏の冷泉富小路亭に遷幸あらせらる。上皇亦御幸あり、内侍所を始め玄象、鈴鹿、御笛筥(水竜を入る)、大刀契、鈴印、御倚子、時簡以下累代の重宝皆免れたり。廃朝三日。三月十八日、天変、及び皇居の焼失に依りて、宝治三年を改めて建長元年といふ。内裏の焼くるや、実氏これを幕府に報ぜしに、四月、幕府の使、入京して自ら造営し奉らんことを奏聞せり。 ※日へんに「羲」
京都の大火
内裏の焼亡は、当時既に放火の説ありしが、三月二十三日午刻、姉小路室町より出火せしに、偶々風大に吹き、北は三条坊門より、南は八条に至り、西は西洞院に至り、東は河原に至りて、六角堂を焼き、余焔河を越えて蓮華王院の塔に災し、三十三間の堂舎に遷り、千体の観音中、類焼を免れしもの僅に二百余体(五代帝王物語に拠る。一代要記には「千体之中百五十六体並二十八部衆取出之」に作る)。上皇御幸あらせられしが、後白河院の法華堂は、幸ひにして類焼を免れたり。此大火に於て新熊野社の鐘楼宝蔵焼け、大外記師兼の文書亦焼失せり。 これより後、京都屡々火あり、京中三分の二は其災に罹れり。(増鏡に拠る。五代帝王物語には、「京中半に過て焼たり」とあり。)
洛中三分の二焼く
依て陰陽師を院御所に召して御占ありしに、御慎みの重きを告げたりしかば、上皇は宸筆告文を白河(1053-1129/77歳)、後白河(1127-92/66歳)、後鳥羽(1180-1239/60歳)後鳥羽の三帝陵に奉りて、天変火災を謝し給ひ(四月廿三日)、又東大、興福、元興、法華、大安、薬師、西大、法隆、新薬師、大后京、法華、超証、招提、宗鏡、弘福、法勝、尊勝、最勝、成勝、延勝、円勝等の諸寺、及び五畿七道諸国の寺院に最勝王経を、延暦、園城等の諸寺に、大般若経を転読せしめ、並びに災を禳はしめられ(四月廿六日)、又詔して服御常膳を減じ給へり(五月廿三日)。
閑院内裏成る
二年(1250)三月、幕府造閑院殿雑掌を定め、執権時頼(1227-63/37歳)以下二百余人に課して、殿舎、築地等の修造を分担せしむることゝし、これを奏聞せり。四月、朝廷亦造閑院行事を定めらる。七月、造営事始あり。十二月、造閑院次第日時上棟を勘へられしが、三年(1251)正月、造閑院棟上あり。紫宸殿以下、大内の制を模し、規模宏壮なり。六月、天皇富小路殿よりこゝに遷幸し給ふ。是日、勧賞除目を行ひ、将軍頼嗣(1239-56/18歳)は造閑院の賞に依りて従三位に、北条時頼は造国司の賞に依りて正五位下に叙せられたり。  
新興仏教の隆盛
念仏の弘通と圧迫
仏教新宗派の興隆すべき機運は此時期に於て弥々熟せり。源空(1133-1212/80歳)の徒弟は旧仏教の迫害益々激甚を加へしにも拘らず、熱心に其宗義の弘宣に努めたりしを以て、貴賤道俗靡然として其風に嚮へり。南都北嶺これを見て何ぞ黙々に付すべけんや。彼等は屡々朝廷に迫りて念仏の神明を軽んじ国土を亡すを論じ、法を設けて禁絶せられんことを請うて已まず。朝廷も亦これを容れて、屡々禁止の宣旨を下されたり。 文暦元年(1234)、その徒に教雅なるものあり。彼れは花山院家経の子、侍従を罷めて、後、出家して弥阿弥陀仏(一に身阿弥陀に作る)といひ、又念仏上人と号す。盛んに男女を教化し、淫蕩風をなす。六月三十日(百練抄には七月二日に作る)、朝廷、教雅を遠流に処し、余党を追放せらる。教雅これを聞きて其跡を晦せり(明月記)。当時の宣旨に、念仏を非難して、「内凝妄執乖仏意、外引哀音蕩人心、遠近併帰専修之一行、緇素殆褊顕密之両教、仏法之衰滅(職脱カ)而由斯」とあるを見れば、其人心を感化すると共に、弊風の多大なりしを想ふべし。幕府も其弊に堪へず、嘉禎元年(1235)七月、念仏者禁止の宣旨屡々下るも、黒衣の徒、都鄙に横行するもの尚ほ其跡を絶たざるを以て、重ねて宣旨を京都に申請せり。 其他日蓮宗の開祖日蓮(1222-82/61歳)が所謂四箇の格言を唱へて諸宗を折破し、時宗の開祖智真(一遍上人/1239-89/51歳)が諸国に遊行して念仏を勧めたりしも、皆此時期に於てすと称せらる。
高弁の渇仰
是時に当りて、旧仏教の中よりも多くの新人物を輩出し、時代の信仰を復興せり。高弁(1173-1232/60歳)の華厳の如き此時期に入りて亦益々盛んなり。彼れは常に栂尾の自坊(即ち高山寺)に居り、毎月二日、十五日を期して、自ら戒師となりて授戒を行へり。藤原定家(1162-1241/80歳)嘗て其明月記、寛喜元年(1229)五月十五日の条に授戒会の盛況を叙して、「天下道俗如仏在世列其場云々」といひ、自家の貧素にして、其教化に漏るゝを悲めり。寛喜二年(1230)正月、高弁は亡父の遺跡に移りて其冥福を修せんが為め、一夏の間、栂尾を去りて籠居せんとしたりしに、信徒はさながら仏滅に遭へるの思をなして悲歎に暮れたりしかば、仁和寺宮懇ろにこれを留め給ひ、彼れも枉げて思ひ止まりしことあり。此一事如何に彼れが時人の渇仰を受けつゝありしかを窺ふに足らん。
覚盛、叡尊、良親
貞慶(1155-1213/59歳)の弟子戒如の門下に覚盛(大悲菩薩)、叡尊(興正菩薩/1201-90/90歳)あり。並びに当時の宗風に鑑みて、戒行の重んずべきを説き、就中後者の如きは西大寺に居りて、盛んに律法を弘通し、公共慈善等の社会事業に貢献せるもの亦尠しとせず。鎌倉極楽寺に住持として慈善の誉れ高かりし良観(忍性菩薩/1217-1303/87歳)は即ち彼れの門弟なり。  
禅宗の勃興
武士的宗教
当時宋にありては、禅宗大に行はれ、就中臨済宗最も盛んなりしかば、此時期に於て我僧徒の支那に遊べるもの亦多く其法を伝へたり。栄西(1241-1215/75歳)は鎌倉を根拠として京都に往来せしも、其説くところは固とより純粋なる禅宗にあらず。又彼れが一生の事業も祈祷僧、勧進上人の上に出づること能はざりしなり。栄西の弟子行勇(1263-1241/79歳)の如き幕府の尊信を受けつゝありしかど、亦均しく師の顰に倣へるのみ。然るに禅宗の直指人心見性成仏の教判は、簡朴なる武人の心性に浸染して、次第に其傾信するところとなれり。
道元
道元(1200-1253/54歳)は貞応元年(1222)渡宋して、天竜山に登り、如浄禅師に従うて曹洞禅を学び、安貞元年(1227)帰朝せり。彼れは当時の狭量なる教界が此純禅宗を容るゝの余地なきを看破せるが為めか、帰来深草の里に隠れ、嘉禎二年(1236)を以て始めて宇治に一寺を建てゝこれに居れり、即ち興聖寺なり。寛元々年(1243)、波多野義重、(大系図に六波羅評定衆となす、)越前に永平寺(もと吉祥寺といへり)を建てゝ彼れを招請せり。彼れは固とより他の一般僧侶の如く名聞を好むものにあらず。故に宇治を去つて越前に赴けり。宝治元年(1247)、時頼(1227-63/37歳)の聘に応じて、一たび鎌倉に赴き、菩薩戒を時頼に授けしことあり。時頼新に一寺を建てゝ荘田を寄せんとせしかども、道元は辞して永平寺に帰れりといふ(永平開山道元和尚行録、本朝高僧伝)。
弁円
僧弁円(1202-80/79歳/円爾、後国師号を賜うて聖一国師といふ、我国国師号これに始まる)嘉禎元年(1235)、宋に赴き、径山に至りて無準に参し、仁治二年(1241)帰朝せり。初め筑前国聖福寺に居り、後、承天寺に移れり。寛元々年(1243)、九条道家(1193-1252/60歳)、東福寺を河東の地に建て、彼を延いて其住持となせり。其子実経(1223-84/62歳)も亦彼れを遇すること甚だ厚し。彼れは又時頼の為めに招かれて鎌倉に到り、寿福寺に住せり。時頼、禅要を聴きて受戒せり。後、後嵯峨上皇(1220-72/53歳)も亦彼れを亀山殿に召して大乗戒を受け給へり。
道隆其他の宋僧
道隆(1213-78/66歳)は宋の西蜀の人にして、法を無明禅師に受く。寛元四年(1246)来朝し、翌宝治元年十二月、亦時頼の聘に応じて、鎌倉に来り、常楽寺に居れり。時頼待遇頗る盛んなり。これより後、支那僧侶の来朝駐錫するもの年を逐うて漸く多く、普寧(兀菴/1197-1276/80歳)、正念(大休/1215-89/75歳)、祖元(仏光/1226-86/61歳)、一寧(一山/1247-1317/71歳)等、其尤なるものなり。彼等は概ね京都及び鎌倉の間に往来し、朝廷、幕府の優遇を受けて、盛んに禅法を宣揚せり。
宗教改革
旧仏教の腐敗せる空気の中に於て新たに此清新なる禅風を交ふ。人心の滔々としてこれに靡けるも宜なりと謂ふべし。台密二教の朝儀に用ゐられしこと、後も猶ほ前の如きも、其能く人心を支配し、宗教の真意義の発揮せるは遠く禅宗其他の新仏教に及ばず。故に此時代に於ける各派の新仏教特に禅宗の勃興は或る意味に於て、宗教改革といふを妨げず。
支那文化輸入の媒介
禅宗の勃興は又彼我僧徒の往来を頻繁ならしめ、期せずして支那文明輸入の媒介となれり。栄西の茶樹を伝へて、其用を弘めたるが如き、建仁寺其他禅刹の宋風の建築を伝へたるが如き、其例枚挙に遑あらず。喫茶の風行はるゝに及んでは又茶壺、茶※等に数奇を凝すこと行はれたり。道元(1200-1253/54歳)の帰朝するや、陶工加藤四郎随つて還り、宋の製陶法を伝へたり。彼れは尾張瀬戸に窯を設け、宋より賚せる土銹を用ゐて陶磁の業を創めしが、晩年に入道して春慶といひ、大に新意を出だせりといふ(弁玉集、陶磁器製抄)。※「怨」の「心」を「皿」に換えた字。ワン。  
建長寺の剏建
時頼と弁円
執権時頼(1227-63/37歳)は深く禅宗を崇信し、一寺を山之内の地に剏めんとし、建長元年(1249)、寺地をトして之を闢かしむ。弁円為めに叢林の礼を行ふ。(東福紀年録)同五年(1253)十一月に至りて工成る。丈六の地蔵を中尊となし、千体の同像を安置す、これを巨福山建長寺となす。幕府、道隆(1213-78/76歳)を導師として供養を行ひ、又五部大乗経を供養す。藤原茂範願文を起草し、時頼これを清書す。道隆を以て第一祖となす。後七年(1255)二月、時頼更に千人に募縁して巨鐘を鋳、道隆其銘を作れり。
建長寺と建仁寺
年号を以て寺号に附すること、延暦寺の如くするは、我国にありては極めて異数の事に属す。是より先き、栄西の建仁寺ありしも、これもと彼れが禅宗以外の旧仏教を併せ置くと共に、延暦寺の末寺として僅に其目的を達せるものなれば、固とより純粋なる禅刹を以て目すべからず。されば我国に於ける禅院にして年号を寺号に冠せるものは、実に建長寺に始まると謂ふべきなり。当時幕府の武威を以てこれを其所在地たる鎌倉に建つ。南都北嶺の嫉視妨害を免れし所以なり。後、五大禅刹の鎌倉に建てらるゝや、建長寺は実に其第一位に置かれたり。  
伏見殿と亀山殿
伏見殿の御伝領
建長七年(1255)八月、上皇伏見殿を伝領あらせられし後、始めて同殿に御幸あらせらる(百練抄)。百錬抄に、同四年六月、宣陽門院(1181-1252/72歳)伏見殿にて薨去の事あれば、其女院の御譲を受け給ひしことと知らる。伏見殿は伏見天皇以後持明院統の皇居となれるものなり。
亀山殿の御造営
十月、上皇、権大納言洞院実雄(1219-73/55歳)に讃岐国を賜ひ、大堰川の北、亀山の麓に仙居を経営せしめられしが、両三年を費して其工成るを告げたり。薬草院、如来寿量院、浄金剛院、多宝院、大多勝院等、寝殿の左右に相並び、結構宏壮にして、輪奐の美を窮極せり。されば皇代暦にも、「頗天下経営歟」といへり、即ち亀山殿なり。上皇尋で大炊御門殿より亀山殿に還御あらせらる。これより常に此に御座あらせられたり。又檀林皇后(橘嘉智子 786-850/65歳)の檀林寺の旧址に浄金剛院を建てられ、康元々年(1256)十月、上皇親臨あらせられ、仁助法親王(後嵯峨院の兄 1214-62/49歳)を導師として供養を行ひ給へり。
亀山院と浄金剛院
亀山殿は一に嵯峨殿ともいふ。五代帝王物語及び増鏡の記事は最も其委曲を悉くせり。五代帝王物語に曰く、 院は西郊亀山の麓に御所を立て、亀山殿と名付、常に渡らせ給ふ。大井河、嵐の山に向て桟敷を造て、向の山にはよしの山の桜を移し植られたり。自然の風流求ざるに眼をやしなふ。まことに昔より名をえたる勝地とみえたり。珠更に梅宮に事由を申されて、橘大后の御願檀林寺の跡に、浄金剛院を建られて、道観上人を長老として、浄土宗を興行せらる。又大御所の乾角に当りて、西には薬草院をたてられ、東には如来寿量院を立て、御幽閑の地に定らる。是法花の本迹二門を表せらる。事に触て叡慮のそこ思食入ずといふことなし。又大御所に大多勝院と云御持仏堂を造て、天台、三井両門の碩学を供僧になされて、春秋の二季、止観の御談義あり。山の経海僧正を御師範として、止観玄文の御稽古、上代にも超てや侍らんと覚き。されば南北の碩徳我も/\と先をあらそふ。ゆゝしき勧学の階となれり と。増鏡は又曰く、 嵯峨の亀山のふもと、大井河の北の岸にあたりてゆゝしき院をぞ造らせ給へる。小倉の山の木ずゑ、戸灘瀬の滝も、さながら御墻のうちに見えて、わざとつくろはぬ前栽もおのづからなさけを加へたる所がら、いみじき絵師といふとも、筆及びがたし。寝殿のならびにいぬゐにあたりて、西に薬草院、東に如来寿量院などいふもあり。橘の大后のむかし建てられたりし檀林寺といひし、今ははゑして、礎ばかりになりたれば、その跡に、浄金剛院といふ御堂を建てさせ給へるに、道覚(観)上人を長老になざれて、浄土宗をおかる。天王寺の金堂うつさせ給ひて、多宝院とかや建てられたり。川に臨みてさじき殿造らる。大多勝院と聞ゆるは、寝殿の続き、御持仏すゑ奉らせ給へり。かやうの引き離れたるみちは、廊、渡殿、そり橋などをはるかにして、すべていかめしう、三葉四葉に磨きたてられたる、いとめでたしと。  
正嘉の飢饉
執権、連署及び六波羅の更迭 / 政村の連署、長時の召還
連署重時(1198-1261/64歳)は執権時頼(1227-63/37歳)に対して、時房(1175-1240/66歳)の泰時(1183-1242/60歳)に於けるが如き態度を執りつゝありしが、康元々年(1256)三月、終に職を辞して遁世の目的を達せり、年五十九、法名を観覚(吾妻鏡に拠る。皇代暦、親覚に作るは誤れり)といふ。尋で重時の弟にして一番引付頭たりし政村(1205-73/69歳)代りて連署となれり。彼れの別業は常葉里にあり。八月、将軍始めて之に臨まる。常葉は大仏の切通を出でしところにあり。重時の出家と同日に、重時の子にして十年間六波羅北方として勤続せる長時(1230-64/35歳)も亦其職を辞して京都を発し、鎌倉に帰れり。思ふに時頼は重時に代へて登庸するところあらんが為め、命じて召還せるにあらざるか。武家年代記に「関東下向依奉執権也」とあるは誤れり。彼れは、帰来引付衆を経ずして評定衆に加へられ、又武蔵守に任ぜられたり。七月、重時の三男時茂(1240-70/31歳)、兄長時に代りて上京し、六波羅北方に居れり。
時頼の出家、長時の執権
是より先き執権時頼も亦出家の志あり、山之内荘に最明寺を剏建し、親王の臨御を請ひしかば、七月、親王は儀従を整へてこれに詣でられ、礼仏の後御遊、和歌会等あり。十一月、時頼赤痢に罹りしを以て、これを機として執権を辞し、其子時宗(1251-84/34歳)尚ほ幼なりしかば、武蔵国務、侍所別当と共にこれを長時に譲れり。然れども吾妻鏡に、「但家督幼稚程之眼代也」といひ、鎌倉大日記に、「時宗幼少之間彼為代官」といひ、又鎌倉武将執権記に、「但時宗年幼少之間為彼代官所加判形也」といへるが如く、彼れの嫡子たる時宗成長の日迄姑く代りて執権たりしに過ぎず。
出家後の時頼
二十三日、時頼、最明寺に於て出家す、年三十、法名覚了房道崇。建長寺道隆(1213-78/76歳)戒師たり。結城朝広、弟時光、同朝村、三浦光盛、弟盛時、同時連、二階堂行泰、弟行綱、同行忠、亦私に出家す。幕府其違法を責めて出仕を停めたり。時頼出家の後も、幕府の政務を視ること猶ほ旧の如し。保暦間記に、「出家の後も凡世の事をば執行はれけり」といへるものこれなり。明年(正嘉元年/1257)四月、彼れ大般若経を神宮に納め、願文に書して曰く、 弟子者、義勇雖欠、治略雖疎、剪長鯨於海表、寤寐攸念者波瀾之永罷、仰仁風於寰中、造次所羨者枝条之不鳴、年来在報国之忠、今已遂遁世之志、清浄在身、雖厭機務於桑門之後、縹眇寄眼、只馳信心於柏城之辺、彼杭州刺史之纏宿痾也、偏誓善因於無量寿之楽邦、零陵大守之慕前事也、遙凝明信於有虞氏之尊廟、愚魯所跂已越旧聞、況畢妙典之為宝偈也、毎字皆営麗水之波色、其諦之餝金書也、遺文於出五源之風吟、其金字六百軸、々々有壮麗之余、此緇襟三十人、々々合哥唄之声、縡是鄭重、福不唐捐、仰願二所太神、受般若花、以増法楽、伏乞三品大王、仍莫耆薬、以保仙齢、凡厥擁護国家者、神之明徳也、我願廼在之、富饒民黎者、経之恵力也、我願又在之、云神云経、盍納受素念、無適無莫必円満宿望、然則百年無恙、年々常遇有年之年、庶事有成、事々只聞無事之事、都鄙懽楽子孫繁昌、乃至功徳之余、幽顕普利 云々と。其偽はらざる告白に依りて彼れが心事の端を窺ふべし。彼れの出家は縦し宗教的動機に出でたるにもせよ、決して塵俗を解脱するの世棄人を以て目すべきにあらず。  
鎌倉の地震
日蓮諫争の説
正嘉元年(1257)八月、鎌倉大地震あり、地裂けて、火噴き、水涌き、山岳頽れて人屋倒る。神社仏閣一としてこれが害を被らざるものなし。九月に至るも地震は猶ほ熄まず。 僧日蓮(1222-82/61歳)の書状と伝ふるものに拠れば、彼れは法華経の文を引いてこれを勘ヘ、幕府が念仏宗と禅宗とに帰依するが為め、日本守護諸天善神の瞋恚を蒙れるものとなし、書を時頼に上つりて其反省を求め、幕府にして若し彼等を処断せずんば、我国が他国の為めに破らるゝに至るべきを諷示せり。 これ日蓮が蒙古の来寇を事前に警告せりと称するものなり。而かも事実の真相に至つて史家これを疑問に付せり。  
将軍上京の中止と飢饉
将軍上洛の予告と中止
正嘉二年(1258)二月、幕府、将軍の明年を以て上京あるべきことを諸国の御家人に予告せり。三月、幕府は、将軍上京の供奉人等を定め、且つ諸国の守護に令して、土民の此課役を免れんが為めに逃亡するを拒がんことを部内の御家人に告示せしめ、五月、又諸国の地頭御家人に課して、新に六波羅の亭を造らしめたり。然るに八月一日、暴風雨の為め田畠の被害多かりしかば、幕府は人民の苛征に苦しむを慮りて、将軍の上京を停めたり。
奥羽其他の地方の強盗取締
これより諸国は一般に飢饉に陥り、到るところ無警察の窮状を呈せり。東北地方は民俗慓悍にして、動もすれば政令行はれず、盗賊猖獗を極む。康元々年(1256)六月、幕府は奥大道即ち奥州街道に群盗の蜂起して旅客を脅すを聞き、所在の地頭に向つて其職務を懈怠せるを責め、速に部内の各駅に兵士を配置して宿衛せしめ、住人にして若し彼等の所在を知れるものは自他領を問はず告発せんことを誓はしめ、地頭の禁察を怠れるものに向つては、相当の処分をなさんことを令せり。 正嘉二年(1258)八月、幕府は又陸奥、出羽二国に、強盗の跋扈を来せるを聞き、所在の地頭が前令に背きて禁察を怠るに依るとして重ねて戒飭するところあり(吾妻鏡、新編追加)。他の地方に於ても、亦夜討、強盗、山賊、海賊の猖獗を極めたれば、九月、幕府は諸国の守護をしてこれを禁察せしめ、縦ひ権門勢家の領地なりと雖ども、守護の命に背き犯人の引渡を肯んぜざるものは、其具申を待つて相当の処分を行ふべきを令せり(吾妻鏡、新編追加)。
飢饉と救恤
正嘉三年(1259)の春より、疫疾流行し、京都にありては餓※河原に横はりて道路を塞げり(五代帝王物語)。地方にありても、窮民、薯蕷、野老を山野に採り、魚鱗海藻を江海に求めて、僅に其生計を維がんとせるを、地頭のこれを禁遏するものありしかば、幕府は令して山野河海の利は国司領家と地頭と均分せしめ、又臨時の課役を廃して人民を給養せり。又続宝簡集正元々年(1259)十月紀伊国阿弖河上荘地頭藤原光信の解状に、「当年者依為諸国平均之飢饉、自関東停止臨時之課役不可禁制山海之由被下御教書於諸国之間、或所者開領家之御倉与粮於百姓、或所者止領家方恒例臨時之公事被成撫民儀」云々とあるは、これをいふなり。 ※草かんむりに「孚」
改元
三月、朝廷に於ても諸国に令して仁王経を転読せしめられたりしが、二十六日、疫疾、飢饉、地震の為めに改元を行はれ、正嘉三年(1258)を改めて正元々年とせられたり。四月、朝廷諸国に令して最勝王経を転読せしめられ、五月、又如法北斗法を禁中に修して並びに疾疫を禳はれたり。
死者算なし
七月の頃より疾疫漸く終熄し、禾穀亦実れりといふ(五代帝王物語)。然るに其後、復猖獗を極め、死者を出だすこと特に多かりしかば、文応元年(1260)、幕府は諸国の守護人に令して、部内の社寺をして、大般若経、最勝、仁王経を転読して、これを禳はしめたり。幕府の制、人を殺せるものは、刑の執行後十年を待つて、罪状の軽重に依りて釈免することありしも、文応元年六月には、世間死亡者の多き為め、十年以内と雖ども特に放免するを得るの規定を設けてこれを実施せり。  
園城寺戒壇の争
円助法親王の園城寺長吏と戒壇勅許の奏請
建長元年(1249)、後嵯峨上皇の第一皇子円助(1236-82/47歳)、円満院に御入室あらせられ、法親王の宣下ありしが、正嘉元年(1257)閏三月、園城寺長吏に補せられ給へり。 長暦(1037-40)以来、園城寺は延暦寺に対して屡々戒壇の独立を試みたりしかど、延暦寺の反対に遭うて常に失敗に終れり。是に於て園城寺は又幕府の後援と、仁助、円助両法親王の御勢力とに依りて、多年の望を達せんとしたりしが、正嘉元年、更に此事につきて奏請するところあり。延暦寺衆徒これを聞きて大に怒り、神輿を擁して嗷訴せんとせしかば、三月、上皇、院宣を延暦寺に下して、園城寺の請を許さゞらんことを衆徒に諭し給へり。園城寺衆徒蜂起して、離散せんとし、延暦寺衆徒、亦神輿を動かさんとす。上皇、六波羅に命じて園城寺衆徒を諭止せしめ給ふ。衆徒これに服して寺に帰れり。朝廷は此事に依りて、最勝講諸社祭を停められたり。十月、幕府は引付衆長井時秀、大曾祢長泰、三浦頼連等を遣して、延暦、園城二寺を調停せしめたり。
四事勅許の奏請
翌二年(1258)、園城寺衆徒又奏状を上つりて戒壇を立つるの勅許を得るか、然らずんば三摩耶戒を以て法臈を定むるを許されんことを請ふ。四月、延暦寺衆徒又園城寺の戒壇、三摩耶戒、新羅明神の官幣、十月会勅使発遣の四事につきて勅許を得んとするを聞き、日吉の神輿を奉じて閑院縫殿の陣頭に詣り、神体を築垣の内に棄てゝ去り、日吉祭を停め、三塔本堂社頭末社末寺の門を閉ぢたり。上皇、座主に令して四事の勅許の事実にあらざるを衆徒に諭し、神輿を帰座せしめんとし給ひしが、衆徒は更に自後永く此事なきの官符を下されんことを望み、座主は已むことを得ずしてこれを内奏せり。是に於て、五月朝廷は園城寺の戒壇建設に関する申請を斥けられ、神輿を帰座せしめられたり。園城寺衆徒、門を閉ぢて退散し、長吏円助法親王は西山に御退隠あらせられたり。 此頃より諸国に蔓延せる飢饉と疾疫とは、甚だしく上下の人心を衝動し、識者すら猶ほ其智証大師(円珍 814-91/78歳)の証文に符合して仏法魔滅の事を現実せんとするを恐れたり。
幕府の斡旋と園城寺の勅許
正元々年(1259)九月、幕府は鶴岡八幡宮寺別当隆弁(1208-83/76歳)を京都に遣して、園城寺の為め大に斡旋せしむるところあり。其冬、武士数百人入京し、円助法親王亦西山を出でゝ、坊城に移り給ひ、一時世人の耳目を聳動せり。果然文応元年(1260)正月四日を以て、園城寺の沙弥が三摩耶戒を以て法臈を定むべしとの口宣は、職事藤原高俊より上卿権大納言藤原師継(花山院 1222-81/60歳)に下されたり。師継は事の重大なるを思うて躊躇せしも、院旨黙止し難く、終に旨を左中弁藤原光国に授けて宣旨を作らしめ、即日左の官符を円助法親王に進めたり。(妙槐記正元二年(1260)正月四日の条) 左弁官下園城寺、 応当寺沙弥以三摩耶戒令寺定法臈事、 右権大納言藤原朝臣師継宣、奉勅、園城寺沙弥以三摩耶戒宜令定法臈者、寺宜承知、依宣行之、 正元二年正月四日大史小槻宿禰在判有家 中弁藤原朝臣在判光国 (華頂要略所収天台座主記)
宣旨の召返
これ朝廷が園城寺の奏請に依り、其沙弥をして得度の道を得せしめられんが為め、折衷法を講ぜられしものなりといふも、其幕府の奏請に出でたりしや疑ふべからず(華頂要略所収天台座主記、吾妻鏡)。延暦寺たるもの、これを見て何ぞ黙々に付すべけんや。彼等は極めて強硬の態度を取つて嗷訴するところあらんとし、武士はこれに応ぜんが為め、禁裏、仙洞を始め各所の警戒を厳にしたりしに、六日、延暦寺衆徒は日吉、祇園、北野等の神輿を擁して、或るものは陣頭に、或るものは院御所に棄て去り、又三塔、諸堂の末寺、末社の諸門を閉ぢ、自他門跡の異論を排し、門跡の制止を用ゐずして、同心協力其目的を達せずんば止まざるべきを誓へり。朝廷依つて幕府に諮り給ふと共に、衆徒の暴挙に出でざらんことを諭し給ひしかど、彼等はこれに応ぜずして益々猖獗を加へしかば、終に幕府の復奏をも待たれずして、十九日、先きに園城寺に下されし官符を召返されたりしかば、延暦寺衆徒これに服し、園城寺衆徒は離散せり。幕府は山門の蜂起に依りて、園城寺の或は火災に罹らんことを慮り、大番衆に令して警備せしめたり。
院御所の落書
当時院御所に落書あり。延暦寺衆徒の悪戯に出でたるが如きも、当時の世態を諷刺し、裏面の事情を暴露せる点に於て趣味の津々たるあるを覚ゆ。依つて其全文を左に掲げん。
年始凶事アリ国土災難アリ
京中武士アリ政ニ僻事アリ
朝議偏頗アリ諸国飢饉アリ
天子二言アリ院中念仏アリ
当世両院アリソゞロニ御幸アリ
女院常御産アリ社頭回禄アリ
内裏焼亡アリ河原白骨アリ
安嘉門白拍子アリ持明院牛アリ
将軍親王アリ諸門跡宮アリ
摂政○摂政は関白の誤にして、兼平ならん二心アリ前摂政○摂政は前関白の誤にして、良実ならん進(追カ)従アリ
左府官運アリ右府果報アリ
内府ニシゝアリ花山○花山院定雅、康元々年に出家すニ出家ノ後悔アリ
四条○権大納言隆親権威アマリアリ按察使ニカシラアリ
大弁ニ院宣定アリ除目僧事ニ非拠アリ
嵯峨殿ニハケ物アリ祇園神輿アリ
五条殿ニ天狗アリ園城寺ニ戒壇アリ
山訴訟ニ道理アリ寺法師ニ方人アリ
前座主冥加アリ当座治山ニ勝事アリ
高橋宮ニ嘉寿アリ綾小路ニシソクアリ
大僧正ニ月蝕アリ正僧正察(密カ)会アリ
円満院乱僧アリ桜井ニ酒宴アリ
聖護院ニ穏便アリ東寺ニ行遍アリ
南都ニ専修アリ大乗院馬アリ
学生ニ宗源俊範アリ武家過差アリ
聖運ステニスエニアリ
四天王寺別当職の勅許
十一月、朝廷は戒壇を園城寺に許されざる代りに、鳥羽、後白河両院の勅裁に任せて、四天王寺別当職を永く園城寺に付せられ、且つ堂舎修造の為め、丹波国を同寺に寄せられたり(五代帝王物語)。四天王寺これに依つて其門を閉ぢ、延暦寺衆徒亦蜂起して訴ふるところあり。既にして衆徒は朝裁の稽留するを憤り、自ら火を放つて山上の諸堂を焼けり。朝廷終に其請を容れられ、四天王寺別当職は、建久、建長の勅裁に任せて時に随ひ、人に依りて恩容あるべしとの院宣を下されたりしが、衆徒、尚ほこれに服せず。進んで其別当職を延暦寺に付せられんことを請うて已まず。然るに園城寺は、延暦寺戒壇の焼失を機として、専寺の戒壇を建てんとし、先づ権僧正仙朝を戒師として、三摩耶戒を金堂に行ひ、其沙弥を度せり。延暦寺衆徒これを聞きて大に怒り、仙朝を流罪に処せられんことを奏請せり。朝廷依つて仙朝の公請を止められたり。五月、衆徒終に園城寺を攻めてこれを焼けり。これより後、両寺の紛争結んで解けず。  
僧良賢の逮捕
三浦氏余党の逮補
弘長元年(1261)五月、鎌倉に於て、密に大倉稲荷社に会合するものあり、夜行番これを発見して逮捕せんとせしも、遁れて行くところを知らず。翌六月、三浦義村(?-1239)の子大夫律師良賢乱を図るに依りて、家村の子駿河八郎入道なるもの、及び泰村(1204-47/44歳)の女野本尼等と共に、諏訪盛重、平盛時の為めに、亀谷石切谷の辺に捕へられたり。既にして幕府、六波羅に令して、良賢の縛に就きたるを報じ、京都及び西国の御家人の、此事に依りて鎌倉に抵るを停めたり。さなきだに幕府の嫌疑を免れざりし三浦氏一党は其絶滅を見ずんば已まざらんとす。  
宗尊親王御上京の中止と暴風
将軍の上洛
弘長三年(1263)六月、幕府は又将軍(宗尊親王 1242-74/33歳)上洛の準備として、諸国に令し、田一段毎に銭百文、五町毎に官駄一疋、匹夫二人を出さしめ、畠は二町を以て田の一町に准ぜしめ、人民の忌避して失踪せるものは、これを其居住地に課せしめ、尋で又供奉人を定めてこれを奏せり。然るに八月十四日、諸国暴風吹き、禾穀の被害少からざりしかば、幕府は民憂を除かんが為め、将軍の上京を延期するに決し、命じて微収せる租税を還付せしめ、又これを仙洞に奏せしめたり。将軍感懐を和歌に寄せ給うて曰く、 今更になれし都ぞしのばるゝまたいつとだに頼みなければ(※玉和歌集) ※王へんに「夐」 文永二年(1265)九月、将軍三品より超えて一品に叙せられ、中務卿に補せられ給へり。  
時頼の卒去と回国の説
重時卒去
弘長元年(1261)十一月、前陸奥守重時(1198-1261/64歳)、極楽寺の山荘に卒す。重時は平生和歌を能くし、念仏に帰依せり。其遺訓に、平重時家訓あり。
時頼の最期
同三年十一月、時頼(1227-63/37歳)亦病に罹りて危篤に陥れり。是を以て祈祷医療至らざるところなく、当時将軍の夫人近衛氏(宰子 1241-?)懐妊ありて、祈祷の命を験者、護持僧、医師等に下されしも、彼等は時頼の為めに皆これを辞せりといふ。文永元年(1264)四月、夫人は男子を分娩せらる、惟康王(1264-1326/63歳)これなり。時頼は自ら起つこと能はざるを察して、最明寺の北亭に移り、武田政綱以下数人の近臣を限りて入侍せしめたり。同月二十二日、彼れは法衣を着し、縄床に上りて、手に印を結び、口に左の頌を唱へ乍ら、泰然として逝けり、年三十七。
業鏡高懸、三十七年、一槌(吾妻鏡に拠る、官公事抄には一杵に作る、)打砕、大道坦然、
時頼の木像はもと禅興寺(最明寺)にありしもの、今建長寺に伝はり、又画像は京都万寿寺に蔵せらる。本書の巻頭に掲ぐるもの即ち是なり。
時頼卒去後の公武
時頼の卒するや、幕府訃を京都に上つり、後嵯峨上皇為めに院評定を停め給ひ、右少弁中御門経任(1233-97/65歳)を遣して弔問せしめ給へり。北条時章(1215-72/58歳)、武藤景頼(1204-67/64歳)以下御家人の髪を薙りて出家するもの相踵ぎしかば、幕府は更に諸国の守護に命じて、制に違ひ出家せるものを調査して、其名を具申せしめたり。
回国伝説と人国記
吾妻鏡は彼れが平生武略を以て君を輔け、仁を施して民を撫でしを揚げ、権化の再来なりとなせり。彼れが出家後、密に諸国を斗藪して民情を察し冤枉を正しゝことは、増鏡、太平記、北条九代記、弘長記、謡曲藤栄、鉢木等に見えて古来人口に膾炙する伝説なり。然れども、此事吾妻鏡を始め古文書、記録に所見なきのみならず、吾妻鏡に拠れば、彼れは出家後も、鎌倉にありて枢機に参与し、斗藪行脚を試みるの暇なかりしに似たり。或は曰く、時頼自ら諸国を巡歴せるにあらずして、これを一遍上人(1239-89/51歳)に託せしものならんと(※唾雑史)。其著と称する人国記は後人の仮託にして、信を取るに足らず。伴信友(1773-1846/74歳)は、此書を評して、大凡足利将軍家の乱世の頃、いさゝか儒学をも心がけたるものゝ、志ありて諸国を巡視し、或は同志の者をかたらひあはせなどして記せるものなるを、態と撰者の名を匿して、最明寺の窃に諸国を巡視せるといへる俗説に託して、その記せる書なりと称し、又貞治元年(1362)の奥書をものしたりしなるべしといへり。※口へんに「民」
青砥藤綱は小説中の人
又時頼が青砥藤綱を得てこれを信任し、諸国遍歴の事の如きも其献策を用ゐ、時頼、時宗(1251-84/34歳)二代の治蹟亦、藤綱の補益するところ多しとなす者あり。(太平記、鎌倉大日記、弘長記)大日本史は是に拠りて、将軍家臣伝に伝を立てたり。鎌倉大日記には、正嘉元年(1257/下文に、同二年の制あれば、二年の誤なるべし)の条に、「十月、青砥左衛門尉藤綱被召出、政道補佐」の文あるも、此記事は頗る異例に属し、藤綱自身は、啻に系図に載せざるところなるのみならず、幕府の評定衆、引付衆にも、其人なし。思ふに、これ唯小説中の人ならんのみ。 泰時(1183-1242/60歳)の死後、経時(1224-46/23歳)早く卒し、幕府は一時内訌の苦しむるところとなれり。当時時頼は年尚ほ壮んなりしも、父祖の遺緒を継ぎて能く難局を料理し、幕府の基礎に向つて些の動揺をも与へざらしめたり。これ其英才の資に依るとはいヘ、母松下禅尼の庭訓、叔父重時等の補益も亦少しとせざりしなるべし。  
朝廷及び幕府の態度
天変疾疫と徳政
文永元年(1264)以来、天変頻りに見はる。同年七月(外記日記、師守記に拠る。五代帝王物語には六月よりとす)、大彗星、東北に見はれ、九月に至るも滅せず。これと略々時を同じくして咳病も亦流行せしかば、朝廷にても種々の修法を行ひ、軽囚を赦し、山陵使を諸国に遣はしてこれを禳はんとせられしが、明二年(1265)十二月に至りて、彗星復た東方に見はれ、尋で西方に見はれしが、朝廷は(幕府も)これを祈禳するに力められし外、院評定に於ては、徳政を修めて其災異を消せんが為め、撫民倹約に関する異見を徴せられたり(外記日記)。翌年正月に至りて、彗星は又西方に見はれ、院評定に於ては重ねて徳政の事を議せられたり。
宸筆宣命と神宮上卿
五年(1268)七月、彗星又北方に見はれたり。是に至つて蒙古の事ありしかば、上下驚擾し、国論沸騰せり。朝廷依つて後嵯峨上皇の五十の御賀を停められ、二月、世仁(後宇多天皇)百日の御養産を院に行はれし時の如きも、上皇は出御あらせられず、御遊をも略せられ、爾来祈禳に、奉幣に国難を攘ひ、敵国を調伏するに忙はしかりき。是時又公卿勅使を神宮に発遣して宸筆宣命を奉らしめられ、大和国楯列池上(神功皇后)以下の七陵に告文使を発遣せられたりしが、五代帝王物語に拠れば、宣命は起草浄写共に天皇の親らし給ひしものなりといふ(但告文の案には、「仏国也、異国事奇怪至極」とありて識者の非難を受けられしこと、吉続記に見えたり)。朝廷は又徳政を施して国難を除かんことを図り給ひ、一条実経、徳大寺実基、花山院師継(1222-81/60歳)等を院御所に召して、屡々徳政の事を議せられしが、其中、神事興行の如きは最も重きを置かれしことにてありき。六月以後、二条良実、一条実経、近衛基平、洞院実雄等を院御所に召され、上皇、及び主上の御前に於て、諸卿の答申せる十二箇条の意見を附議せられ、其決議に基いて、神宮上卿を置き、内大臣一条家経(1248-93/46歳)を以てこれに任ぜられたり。
執権、連署の更迭
三月、執権、連署の更迭は行はれ、連署時宗(1251-84/34歳)執権に転ずると共に、執権政村(1205-73/69歳)は連署となれり。是歳時宗年十八にして、始めて評定に臨むに至りしより、政村は其地位を時宗に譲りて、前職に復せしなり。これ予定の更迭に過ぎざりしとはいへ、幕府が其対外方針を確立せると共に、此更迭を断行せるは、士心を統一して国難に当るの大覚悟に出でたりしものと思考せらる。  
延暦寺と園城寺との争
山門、寺門の反感爆発
山門と寺門との反感は久しく結んで解けず。事に当つて爆発せり。今其著しきものを左に列挙せん。弘長元年(1261)十月、園城寺僧綱仙朝等、鎌倉に至り、評定所に出頭して訴ふるところありしが、彼等は幕府の調停を容れしか、翌二年閏七月、嘗て離散せる衆徒と共に、本寺に帰住せり(興福寺略年代記、皇代暦)。
文永三年(1266)七月、法勝寺の法華八講に際して、延暦寺衆徒は園城寺の聴衆が私に戒を授けて法臈に用ゐ、公請に応ずるの非を鳴らしゝに、園城寺衆徒は其東大寺に於て受戒せることを奏してこれに答へたり(華頂要略所収天台座主記)。
皇代暦に拠るに、文永四年(1267)正月、四天王寺は、其別当職を永く園城寺に付せられしを以て寺門を開けりといふ。然れば文永元年、朝廷が延暦寺衆徒の蜂起に依りて、園城寺に給はりし宣旨を召返されし後、更に四天王寺の別当職を同寺に付せられしならんか。而かも延暦寺のこれに対する抗奏なく、又外記日記等に見えざるは疑ふべし。
然るに五年(1268)八月、園城寺衆徒私に三摩耶戒を執行したりしかば、延暦寺衆徒例に依つて蜂起し、神輿を擁して入京せんとせしより、朝廷は先づ其戒師たりし大阿闍梨実乗の本位を解き、又円満院、聖護院の両門跡を戒飭し、六波羅をして衆徒の巨魁を捕致せしめられたり。延暦寺衆徒更に園城寺三摩耶戒の前後の戒師たる仙朝、寛乗を遠流に処し、説戒所に官使を遣してこれを破却せられんことを請ひしが、寛乗の処刑は其申請に任せられしも、仙朝は既に相当の処分を受け、且つ延暦寺衆徒此事に依りて園城寺を焼きしを以て聴されず。  
南都北嶺の内訌
興福寺別当、天台座主の排斥
南都北嶺の内訌も、亦常に其跡を絶たず。是歳興福寺亦別当、衆徒の争あり。別当大僧正円実(1214-72/59歳/兼実の子(九条道家の子の誤り))は、文永元年(1264)九月、衆徒の為めに逐はれて寺務を罷められしに、是歳、円実復帰を図りしかば、衆徒蜂起して円実を流に処せんことを請ひ、春日神木を移殿に移すに至れり。七月、幕府は奏請して、円実をして屏居せしめたり。五年(1268)八月、興福寺衆徒又円実の流罪を迫れり。
四年六月、延暦寺一部の衆徒にして、現天台座主澄覚(後鳥羽天皇皇子雅成親王の子 1218-89/72歳)に快からざるもの、武装して根本中堂に拠り、又北野社の門を鎖して澄覚を訴へ、彼れをして其職を辞するの已むを得ざるに至らしめ、尋で尊助法親王(後嵯峨院の異母兄 1216-90/75歳)は座主に還補せられ給へり。
是時に当りて、延暦寺衆徒は、座主側なる青蓮院門徒と、其反対なる梶井門徒とに分裂し、五年九月、後者は根本中堂に拠りて座主を訴へ、前者は日吉社頭を警固して後者の襲撃に備へ、宿老等、後嵯峨上皇の御出家近きにあるを以て謹慎の意を表し、嗷訴を撤せんことを諭しゝかども肯んぜず、秋季授戒会は彼等の妨害の為めに停止せられたり。朝廷依りて荘園十箇所を寄せて三塔の興隆に資せしめらる。而かも彼等は猶ほ以て足れりとせず。日吉の社頭に青蓮院の門徒を攻めてこれと闘ひ其神輿を奪へり。日吉臨時祭も亦停止せらる。
朝廷例に依りて其処分を幕府に諮詢し給へり。尋で幕府の復答に依りて座主の更迭を行ひ、尊助法親王の天台座主を罷め、前大僧正慈禅(近衛家実の子 1231-76/46歳)を以てこれに代らしめ、且つこれに梶井、青蓮院の両門跡を管領せしめられたり。東西両塔の衆徒これを見て平かならず。翌六年(1269)正月、蜂起して復旧を請ひ、神輿を擁して入京せしも、武士の為めに遮られて、途に棄て去れり。是を以て朝廷は更に幕府に諮詢あらせられ、二月、幕府の梶井、青蓮院両門跡の復旧を奏するに及び、院宣を下して梶井門跡を前大僧正澄覚に、青蓮院門跡を同道玄(二条良実の子 1236-1304/69歳)に管領せしめられ、神輿始めて帰座せり。九月幕府は使を京都に遣し、此両年間、中堂に拠りて暴行を演ぜる衆徒の巨魁を処罰せんことを求めて已まず、十二月、終に両門徒をして、自後中堂に拠る勿らんことを幕府に誓はしめたり。
高野山検校、衆徒を煽動す
諸寺も亦これに准じ、五年五月には、高野山、其寺領名手荘官と寺領の境界を争ひ検校覚伝、衆徒をして蜂起闘諍せしめたりしより、六波羅は兵を遣してこれを制止し、覚伝は其職を罷められたり。  
日蓮と外寇
立正安国論
日蓮宗記録の伝ふるところに拠れば、日蓮(1222-82/61歳)は頃年の天変飢疫を見て、文応元年(1260)七月、幕吏宿屋光則(法名西信、○吾妻鏡弘長三年(1263)十一月十九日の条に宿屋左衛門尉最信あり、時頼の近臣なり。本化別頭仏祖統記に、「光則者時之寺社職也」と見えたり、)に付して立正安国論を時頼(1227-63/37歳)に上つり、禅宗、念仏等諸宗の蠧害を説きて、其禁止すベきを論じ、若し此諫に従はざれば、将来必ず内患外寇に苦しめらるべきを予言し、時頼の怒に触れ、僧俗の怨を買うて其迫害を受け、尋で伊豆伊東に流されたり。同三年二月、赦されて鎌倉に帰り、常葉谷に居る。
日蓮の配流
然るに蒙古来牒の事ありしより、彼れは其予言の適中せるものとなし、書を幕府に上つりて、念仏、真言、禅、律、諸宗の帰依を停め、速に蒙古を調伏して国難を除かんことを進言し、幕府の帰依せる諸宗の高僧を誹謗せしかば、文永八年(1271)彼れは罪を得て大仏宣時(1238-1323/86歳)に預けられ、尋で佐渡に流されたり(本満寺文書九月十九日日蓮書状)。是時彼れは死罪の宣告を受け竜口の刑場に臨みしも、俄に一等を減じて流罪に改められしといふ。然れども確拠なきを以て、学者或は其徒の作為せるところなりとなすものあり。日蓮の筆蹟は豪宕不羈其人となりを思ふべく、空海(774-835/62歳)以来の能書なりと称せらる。  
田文の編製
田文を徴す
文永九年(1272)十月二十日、幕府は諸国の守護に令して、旨を部内の地頭御家人に伝へ、社寺領荘園及び公領の田文を徴せしめたり。
諸国田文事、為支配公事被召其候之処、令欠失云々、駿河、伊豆、武蔵、若狭、美作国等文書、早速可被致調進、且神社仏寺庄公領等、云田畠員数、云領主之交名、分明可令注申者、依仰執達如件、
文永九年十月廿日左京権大夫在御判
謹上相模守殿 (東寺文書) 此御教書は政村(1205-73/69歳)が、旨を奉じて、時宗(1251-84/34歳)に与へしものなり。これ是等の諸国が、時宗の管理するところなるに依るべし。其他安芸国守護武田信時(五郎次郎/?-1289)に与へられたる御教書は萩藩閥閲録に見えたり。思ふに他の諸国に向つても亦同時に発布せられしなるべし。十年(1273)八月、幕府は又、質券、売買に係る地名員数、領主の交名を注進すべきの命を下せり(萩藩閥閲録文永十一年正月八日施行状)。
太田文の編製と軍国の財政
是等の命令は着々遵行せられ、此後、弘安二年(1279)、常陸の太田文を注進し、同八年(1285)、豊後、但馬二国の図田帳及び太田文を注進せしも亦、是時よりの継続事業と看て可ならん。而して前記の御教書は、幕府が田文の闕失を補ふといふの外、別記するところなきも、其一大決心を以て、外寇に当るの英断に出でし暁に於て此事あるを思へば、幕府が国費の漸く多端なるべきを察し、一面御家人の所領を保護すると共に、他面には土地所有者をして、これが負担に応ぜしむるの準備として、稍々時機を失せるの嫌ひあるも田文の整理に着手せしものなるべし。  
円満院尊助法親王の二品と延暦寺の蜂起
園城寺側二品の初例
亀山上皇の御治世の君と定まり給ふに当りては、円満院宮無品円助法親王(1236-82/47歳)の御斡旋の力亦少からざりしが如し。宮は屡々宮中に出入し給ひ、御祈祷を修し給ふことも多かりしが、十一年(1274)三月、二品に叙せられ給ひ、同時に天台座主澄覚(1218-89/72歳)に親王の宣下ありたり。澄覚は雅成親王(1200-55/56歳)の王子にして、後鳥羽院(1180-1239/60歳)の御孫なり。孫王にして親王たるは澄覚を以て初例とすると共に、園城寺側の二品も亦実に円助法親王に始まる。
山門の蜂起
円助法親王の二品に叙せられ給はんことは、後嵯峨院御在世中よりの御宿望なりしに似たり。而かも是時迄叙品の御沙汰なかりしは、主として延暦寺に憚られし為めなりと察せらる。朝廷が法親王の為めに此初例を開かれしと同時に、天台座主に対しても、他の形式に於て皇恩を均霑せしめられたるは、苦心の痕跡歴々として徴せらる。而かも斯る折衷の手段は、園城寺に対して一刻も監視を怠らざりし延暦寺衆徒の感情を融和するの効なく、彼等は朝廷が円満院宮に此異数の寵遇を与へられしを憤りて蜂起し、日吉祭を妨げんとして、八王子、三宮両社の神輿を破毀するに至れり。  
北条実時と金沢文庫
実時の卒去
建治元年(1275)五月、評定衆北条実時(1224-76/53歳)病に依りて武蔵国六浦荘の別墅に籠居す。彼れは幕府の宿老なり。小侍所別当より評定衆、引付頭に歴任し、文永元年(1264)六月、幕府の始めて越訴奉行を置くや、安達泰盛(1231-85/55歳)と共にこれに補せらる(文永四年(1267)四月これを辞す)。以て幕府に重きをなしたりしを見るべし。されば事情は久しく其籠居を許さず、建治二年(1276)、復評定衆、一番引付頭に補せられたりしが、十月、六浦の別墅に卒せり、年五十九(五十三の誤り)。称名寺と号し、家を金沢といふ。
実時の好学と集書
実時、資性学を好み、清原教隆(1199-1265/67歳)に就きて益を請へり。文応元年(1260)八月、鶴岡放生会に臨み乍ら、桟敷に於て、教隆より令義解の講説を受けたり。されば教隆も其書の跋語に彼れの篤学を賞して曰く、「凡以見物為次、以読書為先給、好学之志有所不暇、蓋以此証而已」と。彼れは又好んで儒仏の図書を蒐集し、教隆をして題署せしめしが、教隆の京都に還るや、彼れ自ら題跋して其文庫に架蔵せり、即ち金沢文庫なり(近藤守重(1771-1829/59歳)の金沢文庫考には、文永七年(1270)に、鎌倉の邸焼け、群書治要の類、災に罹りしを以て、実時これに懲りて僻地に文庫を建られしも知るべからずといへり。或は然らん)。其僚友後藤基政(壱岐守/1214-67/54歳)の、大番として在京せるに託して群書治要を写してこれを送らしめ、藤原茂範に校正を請へるが如き、又宋本を購うてこれを収蔵せるが如き、如何に実時が集書に熱中したりしかをトすべし。彼れの孫顕時(1248-1301/54歳)、曾孫貞顕(1278-1333/56歳)、亦皆父の遺業を継ぎて収儲に力めたり。其地僻在するを以て、幕末の兵燹を免れ、室町時代に至りても、好学の士或は図書を寄せ、或は就きて蔵書を観、文教の維持に与つて力あり、足利学校と並び称せらる(空華集、法然語燈録跋)。
戦闘準備中の僧徒及び縉紳 / 南都北嶺の盲動
山門の峰起と興福寺の嗷訴
元の来襲より時局の艱難を加へたるにも拘らず、南都北嶺の衆徒は例に依つて蝸牛の争に浮身を※しつゝあり。建治二年(1276)、延暦寺衆徒は澄覚法親王(1218-89/72歳)の天台座主を辞し給ふを止めんとして峰起せり。興福寺の学侶も亦事に依つて宗兼(氏闕く。勘仲記建治二年九月一日の条に、西園寺実兼(1249-1322/74歳)の語を記して、「宗兼帯関東御教書参洛奉仙洞門守護事」といへるに拠れば、興福寺の徒にして、慕府に仕ふるを悪むか)を訴ヘ、神事仏事を停めたり。然るに宗兼失踪せしを以て、朝廷は学侶の請に依りて、其縁者三人を流に処せしに、学侶は更に尭弘、順弘二人の処罰を請ひしかば、朝廷は六波羅と数回の交渉を重ねられ、朝裁急に下らず。※にんべんに「肖」
興福寺の勝利
是に於て九月、春日社、興福寺等、七大寺の門を閉ぢたり。六波羅即ち順弘を伊予に流し、朝廷諭して門を開かしめられたり。同三年(1277)七月、幕府は院宣を奉じて宗兼の家人役に関する去年四月十四日の状を召返して、其処分を聖断に委ね奉り、九月又院宣に依りて、宗兼、宗政の両人を伊豆に流し、尋で又其余党尭弘をも流刑に処せられたり。
天台座主の争
同月、梨本の衆徒、座主澄覚親王の命に従はずして堂舎に閉籠するを以て、朝廷は例に依りてこれが処分を幕府に諮詢せられ、座主及び青蓮院衆徒は、梨本衆徒の使と共に鎌倉に赴きしかば幕府はこれを審理して奉答するところあり。一時静謐を保ちしに、十一月、日吉祭の日、両門徒亦兵を交へ、朝廷更に幕府の処分を求められしかば、幕府は其評定の結果、両使を上つりて下手人及び巨魁を鎌倉に護送し、与党を配流し、知行兼備の高僧を座主に補し、且つ将来の争端を絶たんが為め、前年の議に任せて、両門主を座主に補せられんことを復奏せり。弘安元年(1278)四月、朝廷は幕府の議を容れて、先きに澄覚法親王に代りて天台座主となれる道玄(1236-1304/69歳)の座主及び門跡の管領を罷め前大僧正公豪を以れに代へられたり。
延暦寺と園城寺との争
同年五月、園城寺は、勅裁を経て長承の例に任せ、御斎会に准じて其金堂供養を行はんとせしかば、延暦寺衆徒、日吉の神輿を擁して入京し、宣旨を召返して供養を停められんことを請へり。朝廷依つて院宣を下して宣旨を召返し、神輿を帰座せしめられたり(勘仲記五月十二日の条に、「公卿円満院宮令相語給」とあり)。衆徒命を奉ずると共に、園城寺長吏隆弁(1208-83/76歳)の鹿谷の坊を焼けり。同三年(1280)六月、延暦寺は又隆弁が復勅会に推じて金堂の供養を遂行せんとするを聞き、攻めて北院を焼き、守護の武士と闘へり。
興福寺等の嗷訴
弘安元年(1278)七月には、興福寺衆徒事を訴へて神木を移したりしが、尋で参議藤原頼親(1236-1306/71歳)の解官せられて安芸国に流さるゝに及び、神木を帰座せしめたり。 石清水大山崎神人の如きも弘安二年(1279)五月、日吉神人と事を争ひ、神輿を奉じて嗷訴し、彼等の神敵とする鹿島蓮法の縛に就かざるの罪を検非違使別当藤原親朝(1236-81/46歳)の懈怠に帰したりしより、朝廷為めに親朝の別当を停めて、神輿を帰座せしめられたり。尋で蓮法を捕へて薩摩に流せり。 此くの如き華やかなる喜劇は殆んど毎年演出せられたり。  
朝廷の祈祷
敵国隆伏の祈祷
建治元年(1275)十月、幕府が元の国書を上つりてより(師守記貞治六年五月九日の条)、朝廷に於ては、敵国降伏の御祈、御修法等相次いで行はれ、明年閏三月には、仁和寺入道性助親王(1247-82/36歳)、大聖院御所に於て孔雀経法を修せられ、同三年(1277)正月より十二月に至る迄、毎月一社に御祈あり。個人としては、前には正伝寺慧安(宏覚禅師/1225-77/53歳)の如き、後には西大寺叡尊(1201-90/90歳)の如き、皆勅を奉じて異国降伏の祈祷を行へり。慧安は東巌と号す。資性剛直にして気概あり。深く元の※慢を憤り、文永五年(1268)より一条以北今出河辺に地をトして御祈祷所を建て(後賀茂に移る)、悃祷を怠らず。既にして朝議、元第二回の来牒に対して、和親の返牒を与へんとせらるゝを漏聞して悲痛に堪へず、神助を仮りて阻止せんことを祈れりといふ。叡尊も亦気節あり。朝命を奉じて神宮に一切経を転読し、又大蔵経を献じたりしが、当時東寺長者僧正◆助も神宮に詣でゝ同一の祈祷を行へり。弘安三年(1280)には朝廷、又諸国の寺院に令して、異国降伏の祈祷を行はしめられたり。※りっしんべんに「喬」◆「大」の下に「周」
弘安四年の祈祷
同四年(1281)、元の来寇の説盛んに行はれしかば、東寺長者僧正定済(1220-82/63歳)は亦神宮に詣でて祈るところあり。仁和寺入道性助親王(1247-82/36歳)は仁王経法を大聖院に修せられ、東寺長者僧正勝信は、石山寺に参籠し、並びに敵国の降伏を祈りしが、尋で延暦、園城の二寺、及び東寺に三個の大法を修せしめ、二十二社に奉幣せられ、仙洞に於ても五壇法を修せられたり。今左に五月、春日社、及び興福寺に祈祷を命ぜられし院宣を載せて其一斑を示さん。
蒙古之凶賊今年有覬覦之疑云々、御祈事、兼日可有其沙汰、於春日社并興福寺限三七箇日、各抽無弐之懇丹可祈申之由可被仰遣之旨、院宣所候也、以此旨可令申沙汰給、仍執啓如件
五月十四日中宮大進光口(泰カ)奉
謹上左中弁殿
異国御祈事、院宣如此、※可令下知給上之由、長者宣所候也、仍執啓如件、
五月十七日左中弁兼仲奉
別当僧正御房(春日神社文書)※「総」の旁のみの字  
時宗の態度
時宗の信仰
時宗(1251-84/34歳)は又時頼(1227-63/37歳)と同じく、禅宗に帰依して、建長寺道隆(1213-78/66歳)を尊信し、道隆も亦為めに其永く皇家の礎柱たらんことを祝福せり。弘安元年(1278)、道隆示寂の後、彼れは其遺弟を宋国に遣して名僧を聘せしめたりしが、同二年、祖元(仏光禅師/1226-86/61歳)覚円(大日禅師/1244-1308/67歳)と共に其聘に応じて来朝し、八月、鎌倉に入れり。時宗これを建長寺に迎へて自ら弟子の礼を執り、同五年(1282)、円覚寺を建てゝ祖元を以て其一祖となせり。
祖元と元寇
祖元は明州の人、無準(仏鑑禅師)に学び、無学と号す。彼れの能仁寺にあるや、元兵来つて刃を其頸に擬せしに、彼れは声朗らかに「乾坤無地卓孤※、喜得人空法亦空、珍重大元三尺剣、電光影裏斬春風」との一偈を唱へて自若たりしより、殺さずして去れりといふ。弘安四年(1281)、祖元は元の来襲を予知して、時宗に告ぐるに其勝利に帰すべきを以てし、「勿煩悩」の三字を書して呈せりと伝へらる。※「筑」の「凡」を「卩」に換えた字
時宗の経文血書と法談
時宗は幕府の対外方針を決して戦闘準備に忙はしき間にありても、深く国運の安危を顧念し、自ら諸経を血書して敵国の降伏と、国土の安泰とを祈れり。而かも政務の暇には諸僧を延いて法談を試み、危難の将さに迫りつゝあるを覚えざるものに似たり。祖元の時宗を状して、「弘安四年虜兵百万在博多、略不経意、但毎月請老僧与諸僧下語、以法喜禅悦自楽」といへるを見るも、其修養の非凡なりしを証すべし。建治二年(1276)閏三月、時宗は当代に於ける知名の文客三十六人の詩歌屏風を作れり。詩は日野資宣(1224-92/69歳/文章博士、仁部記の記者)、歌は葉室光俊(真観/1203-76/74歳)並にこれを撰し、信実の孫、為継の子伊信、其図を画けり。此一事亦適々彼れの胸中閑日月ありしを徴すべきなり。  
国難と朝野
祈祷修法相次ぐ
「方今頃年以降、蒙古襲来、西海東関、無忘弓矢之芸、万民百姓、殆廃農桑之業」とは弘安四年(1281)六月、大僧正定済(1220-82/63歳)が東寺の講堂に、仁王経法を修せし時の表白文の一節なり。六月一日、敵艦約五百艘、対馬沖に現れしとの飛報太宰府より六波羅に達するや、朝野の驚擾は頓に其度を加へ、幕府は一時両上皇の御東下を奏請すとさへ聞えたり。朝廷に於ては三日、仙洞に評定を行はれ、四日、二十二社御祈以下の祈祷修法を命ぜられ、これより厭禳の命社寺に向つて雨下せられ、祈祷修法、昼夜を分たず、両上皇の御願に任せて、皇族諸臣、一昼夜を点して祈祷を行ひ、東寺長者大僧正定済は、不動法及び仁王経法を修し、尋で石清水宮に不断最勝王経、大般若、仁王講、尊勝陀羅尼を行ひ、法華経を転読し、僧正慈実(1238-1300/63歳)は、如法金輪法を修し、仁和寺法助(1227-84/58歳)は孔雀経法を修し、天台座主前大僧正公豪は七仏薬師法を修せり。石清水八幡は軍神にましませば、僧俗朝野の帰仰も自ら他に超え、一山の社僧の外、座主公豪、西大寺叡尊(1201-90/90歳)等の僧俗参籠して祈祷を励せるも少からず。幕府も亦鶴岡八幡宮に五壇法、尊勝王護摩等を修せり。
天皇、上皇の御親祷
天皇には六月、宸翰を神功皇后の楯列御陵外八陵に奉り給ひしが、閏七月一日、又希代の例なりしにも拘らず、太政官庁より神祇官に行幸あらせられ、翌日、権大納言中御門経任(1233-97/65歳)を神宮に遣されたり。閏七月一日の颶風は、上古以来第三回と称せられし程なるに、勅使発遣の日一天快晴となりしかば、これを見るもの、皆勅願の納受を信ぜりといふ。亀山上皇(1249-1305/57歳)にも、深く軫念あらせられ、六月、日吉社、及び石清水宮に宿祷あらせられ、宸筆の御書を八陵に進め給ひしが、尚ほ般若心経三十万巻読誦の御大願を発させ給ひ、近臣等にも各々千巻許宛を分担せしめられしかば、彼等は家中の男女を始め知人の間に其転読を求め、関白鷹司兼平(1228-94/67歳)の如きも、其持仏堂に於て心経百巻を転読し、又金輪及び不動真言各千度を唱へたり(勘仲記閏七月七日の条)。七月、上皇春日、日吉両社に御幸あらせられ、又臨時に大元帥法を修せしめられたり。是時上皇は、宸筆の御願文を神宮に奉られ、御身を以て国難に殉ぜんことを祈り給ひしかば、大宮院も余りの御事に、これを諫め給へりと伝へらる(増鏡)。  
戦捷と朝野
神明の奇特と御奉賽
閏七月九日、捷報、六波羅に達せり(八幡愚童記)。実に伊勢公卿帰京の前日なり。朝野此奇捷の人力にあらざるを認めて、今更に神明の威力に驚歎し謳歌せり。(勘仲記閏七月十四日の条にも、「今度事神鑒炳焉之至也、天下之大慶何事可過之乎、非直也事也、雖末代猶無止事也、弥可尊崇神明仏陀者歟」といへり。)是に於て祈祷修法の事に当れるもの、各自の効験に帰して多少の奇跡を伝へざるものとてはなかりき。其中最も顕著なるものは、七月二十九日、伊勢風社の神殿より赤雲を生じて忽ち大風を起せりとするものにして、即ち伊勢の神風なり。後、永仁元年(1293)、風社の別宮に列せられ、風宮と称することゝなりしもこれが為めなり。七月二十九日は石清水宮に於ても、大般若経供養を行ひつゝありしに、鏑矢の社殿より出でゝ西方に飛行せるより大風を起せりと称せらる。されば八月、亀山上皇は御宿祷に賽し給はんが為め、叡尊(1201-90/90歳)に諸僧を率ゐて一切経を石清水宮の宝前に転読せしめ給ひ、当日特に赦を行はしめ給ひ、上皇も大宮院(1225-92/68歳)及び新陽明門院(1262-96/35歳)を伴うて、同宮に参籠あらせられたり。
幕府の態度
九月、六波羅北方時村(1242-1305/64歳)は命を鎮西の御家人等に発して、各々要害を修築し、宿衛に当ること猶ほ戦前の如くならしめ、其意に任せて上京し、旅行することを禁じたりしが、彼等の預り居れる俘虜に関しては「異国降人等事、各令預置給分、沙汰未断之間、津泊往来船不謂昼夜、不論大小、毎度加検見、如然之輩、輙浮海上不可出国、云海人漁船、云陸地分内、可有其用意矣」と令して、其処分の決定せざる間は、港津に於ける船舶の出入を厳にして、彼等の遁走を防がしめ、同時に外人の新に来朝する者を排斥せしめたり(野上文書)。
俘虜の待遇
此役敵の俘虜数千人(勘仲記に拠る、弘安四年記には二千余人に作る)我将士これを預りて給養するところあり。然るに元史に、当年我が彼れの俘虜二、三万を博多に護送して、尽く蒙古、高麗、漢人を殺し、独り其新附軍は「唐人」として死を免し奴とするもの、即ち所謂閭輩なりといふは誇張に失せり。正応五年(1292)に、高麗より贈れる国書の中に、「頃在辛巳年(○弘安四年)、因辺将所奏、発兵往征、戦艦因風濤播蕩間、或失水軍、有遺漏不還者、今聞耽羅所送商人言、貴国皆収護処養、似順好生之聖徳此一幸也」との一節の如きは、如何に彼れが我俘虜を給養するの篤きを徳とし居るかを示すものにあらずや。  
興福寺及び延暦寺衆徒の暴状
春日社領大住荘と石清水宮領薪荘との争
京都にてはさしもの南都北嶺も、戦役中の二箇月余は流石に小康を保ち居たりしが、戦捷と聞きて意気大に揚りしか、九月には春日社領大住荘と石清水宮領薪荘との争あり。興福寺衆徒は神木を擁して上京の途に上り、十月、入京して法成寺に入り、朝廷其処分を幕府に諮られたり。これが為め春日祭は停められ、五節を始めとして朝廷の公事は皆行はれず。
明年(1282)正月に至るも天皇はこれに憚り給うて節会に出御あらせられざりしが、氏長者兼平(1228-94/67歳)は、法成寺領大和国稲梁荘を神供料所に寄せて、神木の帰座を祈り、尋で朝廷、石清水八幡宮寺別当法印妙清の社務を停め、幕府も亦衆徒の請を容れて神木の入京を防ぎし六波羅の武士を流さんことを復奏し、更に衆徒の巨魁を赦すに同意せり。されば上皇は氏長者と共に神木の帰座を衆徒に諭されしに、彼等は尚ほ聖断の悉く本訴の如くならざるを以て帰座を肯んぜず。石清水神人はこれに依つて又蜂起せり。七月に至りて東使入京して石清水八幡宮寺社司及び興福寺三綱を六波羅に召してこれを審問し、然る後、東使は長者の使及び興福寺三綱、八幡所司等の立会を求めて両荘の実検を行へり。
既にして十一月、朝廷は幕府と数回の交渉を経て、石清水八幡宮寺別当守清を検校に補し社務を執らしめられ、又源氏の公卿及び武士の此事に関係あるもの各々其処分を了せられしかば、十二月に至つて神木始めて帰座あり。然るに前社務妙清は此裁決を喜ばず、神木の帰座と前後して石清水神人を使嗾し、神輿を奉じて嗷訴せしめたり。幾くもなくして神輿帰座あり。後弘安八年(1285)十一月、守清も亦六波羅の訴に依りて社務を停められ、尋で権別当に下され、妙清、検校に還補せられたり。
延暦寺衆徒の嗷訴と幕府の強硬なる態度
延暦寺たるもの豈独り沈黙を守らんや。彼等は座主の更迭、両門跡の没収処分後、表面無事を装へるも裏面には暗潮の流るゝものありて、五年(1282)、終に天台座主大僧正公豪の辞職となり、僧正最源(1228-?)は幕府の後援に依りて代つて座主に補せられ、梶井門跡は澄覚法親王(1218-89/72歳)に、妙法院門跡は尊教法印(西園寺公相の子 1248-?)に各々還付せられたり。然るに十月に至りて、衆徒は更に四天王寺の別当を本寺に付せられんことを望み、神輿を山上に動して嗷訴し、十二月、最源は座主を辞せり。其後勅裁なきを以て、明年(1283)正月、衆徒は終に日吉、祇園、赤山、京極寺の神輿を擁して皇居(冷泉万里小路殿)に闖入して暴状を極め、天皇、腰輿に召して難を院御所(近衛殿)に避け給ふに至れり。朝廷其処分を幕府に諮り給ひしかば、七月、東使入京して、衆徒の巨魁を捕へんことを奏し、前天台座主最源の無責任を責めて、其門跡管領を停められんことを望み、神輿入京の日、衆徒の狼籍を防止せざりしことに向つては、六波羅及び篝屋守護武士の責任を認むるも、外寇の防禦に必要ある為め、特に其罪を赦されんことを請ひ、延暦、園城両寺の争点たる四天王寺別当職につきては其一門の私すべきものにあらざるを説きて、次の如き断案を下せり。
一、天王寺別当事、聖徳太子草創之歟、為仏法最初地為諸宗之末寺之条、其理不可然候、自今以後被止此儀、殊撰浄行持律之仁可被補其職候歟、
幕府の此強硬なる態度は青蓮院、梨本、妙法院の三門主をして巨魁の人名を東使に与へ、日吉神輿をして聖断を得ずして帰座せしむるの已むを得ざるに至らしめたり。
僧祝の暴状に対する識者の所見
斯く諸社、諸山の僧祝は国難に臨むも猶ほ平素の痴態を改めず、戦前と戦後とに論なく、一意其私をなすに急なりしこと此くの如し。其頑冥不霊真に度し難きものあり。而かも識者は見てこれを怪まず。縦ひ在朝の卿相、藤氏を以て満たされたりとはいヘ、啻に興福寺衆徒の暴状を責めざりしのみならず、却つて彼等が嗷訴の目的を達せるを快として、「神明之御威光雖末代異他者也」といふものあるに至れり(勘仲記弘安五年(1282)十二月十九日の条)。以て他を類推すべし。  
時宗の卒去と幕府の盛衰
連署の新任
建治三年(1277)以来、幕府は連署を闕きたりしが、弘安六年(1283)に至りて、北条重時(1198-1261/64歳)の子業時(1241-87/47歳)入つて連署となれり。
時宗の卒去
然るに時宗(1251-84/34歳)は、同七年(1284)三月より病を獲、四月四日、出家して法名を道杲といひしが、同日遂に卒せり、年三十四、法光寺と号す。一門近習のこれに依りて出家するもの五十余人(一代要記)。七日、早くも急使訃音を上つれり(師守記に拠る、一代要記には八日に作る)。朝野愕然、或は歎じて曰く、「天下之重事何事可如之哉」と(勘仲記四月八日の条)。朝廷依つて除目、評定及び諸社祭を停められ、又特に宣旨を下して、神宮以下諸社の供祭料の外、全国の漁獲を禁ぜられたり(勘仲記四月十三日及び同二十六日の条)。六波羅北方時村(1242-1305/64歳)、訃を聞いて鎌倉に赴かんとせしが、幕府は諭して三河より帰任せしめたり。
時宗の執権時代
時宗の執権時代を以て、時頼(1227-63/37歳)のそれに比すれば、何人も後者の平和的なりしに反して戦闘的なり、内治に専らなりしに反して外交と攻守とに忙はしかりしを見ん。時宗は年漸く而立に達せしのみなるも、執権の期間は前後二十年に近く、其間折衝禦侮の偉功を奏し、永く国民的印象を後葉に与へたり。彼れの人格と修養とに向つては、彼れに親灸せる祖元(1226-86/61歳)の評語、最も肯綮に中れるを覚ゆ。
復云、人生百歳七十者稀、法光寺殿歯不満四十、成就功業卻在七十歳人之上、看他治国平定天下、不見有喜怒之色、不見有矜誇衒耀気象、此天下之人傑也、自如弘安四年虜兵百万在博多、略不経意、但毎月請老僧与諸僧下語、以法喜禅悦自楽(○弘安四年以下第二百六十四節に引用せしも、文連るを以て割かず)、後果仏天響応、家国貼然、奇哉有此力量、此亦仏法中再来人也
(仏光国師語録時宗三周忌法語)
幕府勢力の分水嶺
時宗の在職中は表面幕府の全盛時代なりしが如きも、外寇に対する連続せる防備は、公武の財政上に一大打撃を与へ、御家人及び非御家人をして亦著しく苦境に陥らしめたり。而して論功行賞を始め、戦後経営の重大問題に対する彼れの後継者の弥縫的政策は、失敗に失敗を重ね、幕府は過去に於ける順境より一転直下して逆境に向ひ、其勢滔々として底止するところを知らず。されば彼れの執権時代は、これを称して幕府勢力の分水嶺と謂ふも毫も不可なきなり。  
行賞の着手
幕府の消極的政策
幕府は戦後益々倹約の必要を認め、御家人の服飾、造作、贈遺等の過差を停めて、倹素に従はしめ、又戦後社寺の領地を復し、祭祀仏事を専らにせしめんとせるも、修理は従来存する社寺に止めて其新造を禁じ、祈祷の如きも、これを行ふものを精選して、其人員を減少せしめたりしが如き、幕府の方針の如何に消極的なりしかをト知すべきなり(新式目)。
行賞の資源
外寇の掃蕩後も、幕府は尚ほ戦闘状態を継続するの必要より、論功行賞に専らなるを得ざるの事情あり。加ふるに内地の戦争が、戦後所領の異動を来し、収授に便にすると異りて、有功者に賞賜すべき土地を得るの途なかりしは、其実行をして弥々困難ならしめたりしなり。然れども徒らに其期を緩くするは、幕府の為めに不得策なると共に、亦士気を作興せしむる所以にあらず。故に幕府は一方に於て、元の再挙に対する防備を完了するに努むると同時に、他方に於ては、検地に依りて得たる土地の剰余と、売買質入に依りて失へる社寺領の復旧とを其財源として、論功行賞に着手せり。
社寺奉賽を先きにす
当時上下一般に戦捷の原因が、神仏の威徳に依ると信ぜられ居たりし為め、亦神社寺院に対する奉賽、及び僧祝に対する行賞を先きとし、弘安七年(1284)の初より、幕府は鎮西の重なる社寺に領地を寄せて宿祷に賽し(島津文書、宇佐宮縁起)、且つ鎮西に於ける社領の売貿を禁じ、若しくは取消して、これを其社家に付せり。同九年(1286)、復これを其旧領主に還付し、先例に依りて神役に従はしめたり(新式目、式目新編追加)  
訴願者の続出
鎮西奉行の合議裁判
幕府が行賞に着手せしより、神主、僧侶の、戦時に於ける祈祷の霊験を説き、御家人の戦功を注し、守護に由りて幕府に具申し、これが賞典に預からんことを望むもの、前後相踵(つ)げり。彼等の中には、守護を経て文書を呈するを手緩しとなし、自ら鎌倉に赴きて幕府に訴ふるものあり、幕府は其煩に堪へず、弘安九年(1286)七月、鎮西の地頭御家人、寺社の別当、神主、供僧、名主、荘官等の幕府の命令を待たずして、鎌倉、及び六波羅に来るを禁じ、彼等の訴願は、鎮西奉行の合議を以てこれを裁決せしめ、事の決定を与へ難きものに限り、状を具して幕府に進達せしめ、彼等の越訴の如きも、奉行をして事実を調査して幕府に進達せしめたり。又彼等の中、鎌倉にありて此種の訴訟を提起するものも、皆鎮西に於てすべく、幕府に於てはこれを受理せざることとせり(新編追加、大友文書)。  
行賞の発表と其波瀾
行賞の発表
弘安四年(1281)より五年後の同九年(1286)十月に於て、幕府は大友頼泰(1222-1300/79歳)、少弐経資に左の御教書を発して、勲功の賞を行ふべき人名と、これに支給すべき田地の数額とを発表し、速に検注を行うてこれに賞賜すべきことを令せり。
蒙古合戦勲功賞事、交名并田数注文遣之、早遂検注、守注文可令分付之、屋敷在家畠地等者、追田数分限可令省充、次神社仏寺免田并甲乙人給分、河海野畠山等者、暗難配分、然者所出并所務之故実分明可令注進、彼状到来之時、面々可成御下文也、但於今年所当者、令収納可注申員数状、依仰執達如件、
弘安九年十月十九日相模守
陸奥守
兵庫頭入道殿
大宰少弐入道殿 (大友文書)
其実施方法
これより後、大友、少弐の二氏は、其旨を奉じて賞地の分付に着手せしが、調査報告に年月を要すると、賞賜の土地に制限ありしとに依り、前後二十余年の長きに渉りて、其処分を継続せり(詫磨文書徳治二年(1307)十月二十二日配分状)。是等の配分状に、「就孔事配分如此」と見えたるは、抽籤に依りて其地域を分付せしものなり。
終了の時期
然れども永仁頃には、戦闘員及び非戦闘員共に略々これを終了せしに似たり。されば同二年(1294)六月、幕府は其評定に於て、弘安合戦につきては、自後賞罰共にこれを行はざることを議決し、七月又、弘安七年(1284)四月以前の処分に対する越訴を棄却すべきことを議決せり。
一、弘安七年四月以前成敗事、永仁二、七三評、
同時致越訴給書下之輩者、可有其沙汰歟、弘安七年已前書下内、先下知無相違之由落居并未断事、可被棄置也、但以前成敗依違之由越訴事者、可有沙汰歟、
行賞に漏れたるものゝ越訴若しくは愁訴
然るに幕府の行賞に漏れたるもの全くこれなきにあらず。彼等は或は越訴せるあり、或は愁訴せるあり。今、左に其一例を挙げん。
肥前国御家人黒尾社大宮司藤原資門謹言上
欲早且依合戦忠節、且任傍例、預勲功賞、去弘安四年異賊合戦事、
右異賊襲来之時、於千崎岡、乗移于賊船、資門乍被疵生虜一人、分取一人了、将又攻上鷹島棟原致合戦忠之刻、生虜二人了、此等子細於鎮西談議所被経其沙汰、相尋証人等、被注進之処、相漏平均恩賞之条、愁吟之至、何事如之哉、且如傍例者、致越訴之輩、面々蒙其賞了、且資門自身被疵之条、宰府注進分明也、争可相漏平均軍賞哉、如承及者、防戦警固之輩皆以蒙軍賞了、何自身手負資門不預忠賞空送年月之条、尤可有御哀憐哉、所詮於所々戦場越自身被疵哉、分取生虜之条、証人等状并宰府注進分明之上者、依合戦忠節、任傍例欲預平均軍賞、仍恐々言上如件、
永仁四年八月日  
興福寺と多武峰及び延暦寺との争
寺領の争
弘安六年(1283)、多武峰寺は、興福寺の為めに、寺領の租入を冒占せられ、祭祀仏事の廃弛に至れるを憤り、十月、三綱は院庁を経て、幕府の救済を求めたり(勘仲記)。明年に至りて、多武峰の寺僧は城郭を築きて興福寺に対抗し、且つ延暦寺の衆徒を誘つて興福寺領の近江にあるものを差押へしかば、朝廷は青蓮院、梶井、上野の三門主に命じてこれを停めしめられ、又多武峰をして、城郭を撤せしめられたり。後者は其命を奉ぜしかど、興福寺衆徒は、院の奉行院司にして興福寺と多武峰との争に関する宣旨を書せし蔵人藤原兼仲(1244-1308/65歳)に銜むところあり、評定の結果、氏寺の威を仮りて、放氏の処分を加へたり。是を以て上皇は長者たる鷹司兼平(1228-94/67歳)をしてこれを救解せしめ給ひ、衆徒も尋で其続氏を許せり。これより後、興福寺衆徒は、藤原氏の卿相の、其意に満たざるものに向つては、屡々此私刑を加ふるを例とせり。
尊助法親王の座主還補と叡尊の四天王寺別当
同七年(1284)六月、延暦寺衆徒は悪僧の巨魁の逮捕に関する幕府との交渉未だ解決を告げざるに、不謹慎にも日吉祭の執行を妨げんが為め、神輿二基を破毀せり。既にして九月二十五日、東使入京せしが、其請に依れるか、二十七日、青蓮院尊助法親王(土御門天皇皇子 1216-90/75歳)は、最源(九条良平の子 1228-?)に代つて天台座主に還補せられ給ひ、二十八日、西大寺僧叡尊(1201-90/90歳)は、幕府の推薦に依りて、四天王寺別当職に補せられたり。これ幕府前年の奏議に基き、山門、寺門以外の浄行持律の僧として、此職に擬せられしものなり。勘仲記九月二十八日の条に、「近日東風吹来歟、天王寺別当被仰付思円上人是一向御興隆之至云々」といふに拠れば、亦朝廷の内意に出でたるに似たり。彼れが戒行を以て朝野に尊信せられつゝありしこと此くの如し。後、九年(1286)十月、天台座主尊助法親王、四天王寺別当に補せられ給へり。
叡尊の宗教的社会事業
此役叡専最も祈祷の験あり、朝廷の尊信自ら厚かりき。相伝ふ、朝廷其功労を賞せられんとするに及び、彼れはこれを辞して代ふるに三日間の禁酒を以てせられんことを望み、朝廷其請を容れて、諸国の酒家に命じ酒甕を毀たしめられしかば、三日の間訟なきを得たりと(臥雲日件録)。此事確拠なし。然れども彼れの伝記にも、「酒肉濫吹之処、引経教誡之」と記され、其戒律より酒を好まざりしこと言ふを竢たず。弘安四年(1281)十二月、院宣を東寺に下して、明年正月の後七日法に酒を禁ぜられしことあるも、恐らくは彼れの請に出でたるならんか(勝延法眼記)。
同七年(1284)正月、彼れは又戦時殺生を致すこと多きに対して、放生を修せられんことを請ひ、朝廷これを容れて、宇治、賀茂、松尾、富家殿の網代を破却せしめられしが(勘仲記)、二月、又其請に依りて、永く宇治川の網代を停廃し、且つ彼れをして宇治川の橋を修造せしめられたり(醍醐枝葉抄)。同九年(1286)十一月十九日、宇治橋成り、叡尊導師となりて供養を行ひしに、後深草、亀山両上皇親臨あらせらる。叡尊は又宇治橋の南なる一孤島に、十三重の石塔を建てゝ、網代停止の官符を彫刻し、明日、其供養を行へり。今存するもの即ち是なり。尋で、閏四月廿一日、鴨川の殺生を禁ぜられしも、恐らくは亦彼の請に出でしならん(勘仲記)。これより後、叡尊は屡々参内参院して法を談じ、経を講じ、又戒禁を授け奉れり。正応三年(1290)八月寂す、年九十。或る意味に於て第二の行基菩薩(668-749/82歳)たる彼れは、正安二年(1300)七月、行基の例に逐うて、興正菩薩の号を贈られたり。
延暦寺衆徒の蠢動
延暦寺衆徒は、表面、幕府の処分に雌伏せし如くなりしも、其実、必ずしも然らざりしと見え、弘安八年(1285)四月の日吉祭は、延暦寺衆徒に妨げられて式日に行ふを得ざりしが、七月、延暦寺講堂の供養を行ふに当り、朝廷特に御斎会に准ぜられたり。  
亀山上皇の禅宗御崇信
上皇と弁爾、普門
亀山上皇(1249-1305/57歳)は、夙に禅宗に傾き給ひ、東福寺弁爾(1202-80/79歳)、普門(無関と号す。諡して仏心禅師といひ、又大明国師といふ、/1211-91/81歳)相次で寵遇を蒙り、先きに北条時宗(1251-84/34歳)が円覚寺の為めに勅額を請ひし時の如きも、普門に由りて内奏したりしを見る(勘仲記)。
南禅寺の剏建
弘安十年(1287)、上皇は禅林寺の南に離宮を造り給うて松本殿といひ、七月、これに移徙あらせらる。正応の初、宮中に怪異ありし時、普門、旨を承けて、其徒と共に座禅してこれを禳へり。上皇叡感の余り、宮を抛てゝ寺となし給ふ、南禅寺これなり(もと南禅院といふ)。同四年(1291)十二月叙す。寂するの前、上皇密に東福寺に幸して其病を訪はせ給ふ。異数の御寵遇と謂ふべし(実躬卿記)。
これより後、天皇を始め奉り、上皇の御皇統は概ね皆殊の外禅法を重んじ給へり。禅宗が関東より西漸して、武家的宗教より公家的宗教たるに至りしもの、是等諸高徳の努力以外、上皇の御帰依に依ること亦大なり。  
後深草上皇の御出家
天皇御親政
後深草上皇は亀山法皇に先きだゝれ給ひし後、遉に安からず思召しけん、幕府に諮りて、其協賛を得給ひ、正応三年(1290)二月十一日、文永の例に依り給うて、先づ太上天皇の尊号、及び兵仗を辞し給ひし後、亀山殿に於て御出家あらせられたり。御年四十八、御法諱を素実と申す。亀山法皇これに臨み給ふ。是日より大多勝院に於て逆修を行ひ給ふこと三七日、後宇多上皇これに臨ませらる。幕府、加布施として沙金五百両、絹三百疋を献ぜり。法皇は是日、次の文を留めて、宸記の御筆を絶たせ給ふ。
抑素実於身更無所愁、於事只有所悦、当今践祚已後、未経幾年、万機諮詢之間、纔及四年、嫡孫入竜楼、庶子為柳営、繁昌之運足自愛者歟、然而思今生之栄、弥恐来世之果、忽解太上皇之号、速為尺尊之遺弟、二世之願望成就之条、喜悦銘肝者也、始自正嘉二年毎日記録不怠、卅三年之間及百余巻、今已棄世事帰仏道、記而有何益、仍正応三年二月十一日以後、停而不可記者也、
これより天皇親ら政務を視給ふ(歴代編年集成)。四年(1291)、法皇、南都に幸し、東大寺に於て御受戒あらせられたり。  
南都北嶺の蜂起
延暦寺衆徒の蜂起
正応四年(1291)三月、延暦寺衆徒は又四天王寺別当職の事につきて蜂起せり。朝廷諭すに姑く幕府の復奏を待たんことを以てせられ、天台座主無品慈助法親王(後嵯峨院皇子 1254-95/42歳)為めに職を辞せられたり。
興福寺衆徒、春日神木を移す
同年十二月、興福寺衆徒は、一切経検校、及び竜花院々務の事を訴へて、春日神木を移殿に移し、寺牒を藤氏の公卿に移して出仕を停めしめたりしかば、彼等は衆徒に憚りて、或は所労に託し、或は他行と称して、御召に応ぜず、偶々参仕せしものは、衆勘と称して放氏の処分を受け、籠居するの已むを得ざるに至れり。天皇甚く痛歎あらせられ、「任雅意張行、無所憚歟、所行之企尤奇怪、定神明無納受者歟」とのたまへり。朝廷為めに除目僧事を停められ、翌五年(1292)に至りても、元日の小朝拝、節会等の朝議皆行はれず。御斎会の日には興福、東大両寺の講師、召に応ぜざるを以て、延暦寺の僧徒を以てこれに代へられたり。朝廷、例に依りて幕府に其処分を諮はれ、裁報遷延したりしかば、衆徒は更に神木を金堂に移し、入京の擬勢を示せり。興福寺別当大僧正慈信(一条実経の子 1257-1325/69歳)為めに寺務を辞せり。東大寺、四天王寺、石清水八幡、熊野山等、亦事を以て朝に訴ふ。
事件の解決
二月、大僧正頼助(執権北条経時の子 1245-96/52歳)を東大寺別当に補し、去年其職を罷められし堯順を四天王寺執行に還補し、延暦寺に荘園を寄せられたり。然るに堯順の還補につきては、八幡神人、嗷訴を企てしより、三月、堯順を流刑に処せられ、神人これに服して退散せり。四月、竜花院々務を元の如く大乗院に附せられ、神木も亦本堂に帰座あり、放氏の卿相亦皆其氏を継げり。
東大寺の内訌
永仁元年(1293)十一月、春日若宮祭を行ふに当りて、一乗院衆徒、大乗院衆徒と相闘ひ、翌年、神木動座、藤氏の公卿亦為めに放氏の処分を受けしものあり。東大寺衆徒も寺領の地頭を訴へて鎮守八幡宮の神輿を陣頭に遺棄し去れり。朝廷依つて其処分を幕府に求められ、六波羅は両門主の使を対審して幕府の裁決を仰ぎしが、幕府は神明に優して門主の流刑を宥されんことを請へり。衆徒猶ほ服せず。三年(1295)五月、幕府が、一乗院衆徒の請を容れて、門主及び春日神主の更迭に同意するに及び、漸く神木の帰座を諾せり。尋で東大寺にも亦其荘園を寄せて神輿を帰座せしめたり。
幕府の優柔不断
衆徒、神人等の訴ある毎に、朝廷は幕府の処分を求めらるゝを例とせしが、幕府は常に優柔不断に流れて、或は聖断に任せ奉り、或は裁報当を失ひ、啻に慴伏せしむるに足らざるのみならず、幕府威信の失墜を朝野に暴露するに至れり。  
外寇に対する祈祷
元再挙の計画と朝幕の祈祷
正応元年(1288)二月、元、復、征東行尚書省を置き、高麗王※を其左丞相に任ぜり。同二年正月、元使を高麗に遣して征日本軍の糧食を督せしめ、十月、又合浦の武器を検せしめたり。元が本年を以て来襲せんとするの説我国に伝はり、後深草上皇、顕密の寺院をして其末寺と共に、異国の降伏と天下の静謐とを祈らしめ給ふ。叡尊(1201-90/90歳)は是歳も亦、勅を奉じて百口の伴僧を率ゐ、石清水八幡宮寺に、尊勝陀羅尼を修したり。※貝へんに「春」
幕府も亦鎮西の警戒を厳にすると共に、諸国の社寺をして、異国の降伏を祈らしめたり。その十一月、周防、長門二国の守護に令せしものには、国内の重なる社寺をして、向ふ一箇年を限りて、祈祷を命じたるを見る(長防風土記)。三年(1290)に至りても、公武の祈祷は益々盛んなり。四年(1291)二月、幕府は更に諸国の守護に令して、国分寺、一宮、其他重なる寺社に悃祷を抽んで、毎月、其巻数を進めしめ、又、鎮西の重もなる神社を修造せしめたり。  
鎌倉の地震/関東の大地震
関東の被害
永仁元年(1293)四月十三日卯刻より、関東に大地震あり、激震数回に及び、山崩れ、地裂け、幕府、鶴岡若宮、大慈寺、建長寺を始めとして、堂舎民屋多く倒れ、人畜の死傷頗る夥しく、関東の死者総計二万三千二十四人と注せらる。建長寺は火を失して焼け、開山大覚禅師の影堂の外、一宇をも残さゞりしといふ。
これより後、大小の震動、連日止まず。当時称して治承以来是時に如くものなしといへり。幕府依つて法を修してこれを祈禳せり。  
徳政令の効果
名称及び適用
此新規定は、当時関東御徳政若しくは関東御新制と称せられ、(常陸総社文書永仁五年(1297)四月一日留守所下文、東寺百合文書同年六月十三日譲状、同年十一月十一日売券、志賀文書同年八月五日譲状、大山寺文書永仁六年(1298)二月日充行状、同年四月二十二日寄附状等に拠る。天地根元歴代図南行雑録及び燕石録所収にも、「永仁五年、一天下の御徳政を行はる、是徳政の始也、沽却の田畠其他質物悉帰本主」とあり。歴代編年集成にも亦徳政の目あり、)又立法の目的より売買地取返沙汰とも、質券永地返沙汰ともいはれ、全国一般御家人たると、非御家人たるとを問はずして、遍く適用せられたり。然れども法の主たる目的は、御家人の窮乏を救ふにありしこと言ふ迄もなし。これ文永五年(1268)の二十箇年後元金を以て買戻すの制に比すれば、其効力の強弱、固とより同日の談にあらず。同十年(1273)の元金の弁償を要せざる規定これに近きも、そは質券地に限られたり。されば社会多数の歓迎するところとなりて、最も迅速に、且つ最も猛烈に、全国に通じて実施せられ、其弊や、或は徳政に託して他人の財産を騙取せんとするあり、或は其還付を肯んぜずして恣に秋穫を奪ひ去らんとするあり。争端百出、これが為め、民心の不安を招き、財界の恐慌を来たせり。
徳政令忌避の手段
然れども、経済の理法は、人為の能く左右すべきところにあらず。此規定は縦ひ債権者の利益を蹂躙すること甚しかりしにもせよ、需要供給の減滅せざる限り、売買移転を将来に絶たんこと到底不可能なり。されば徳政令の実施以後僅に数月にして、其適用を免れんが為め、種々の奸策は案出せられ、表面譲与を装ひ、売券の外譲状を与へたること左の如きものあり。
売渡進私領田事、
合壱段者、在山城国紀伊郡佐井佐里廿五坪、自南四反目、
右件私領田者、親父沙弥西妙重代相伝私領二反内也、而依有直要用、直銭拾貫文仁限永代相副本券六通、藤原氏女仁令売渡進処也、但所載券文二反之内、自南二反目五反目等者、西妙存日之時、譲与息女二人了、而於中四反目者、友吉譲得之了、而於譲状者、依有地類不相副之、仍裏書了、若千万一仁違乱相違出来之時者、不過廿ヶ日可令弁納本直銭拾貫文者也、仍為向後亀鏡、新券状如件、
永仁五年六月廿三日売主野部友吉判
口入野部氏女判
譲渡進相伝私領事
合壱段者、在山城国紀伊郡佐井佐里廿五坪、自南四反目、
右田者友吉相伝私領也、爰藤原氏女由緒甚深之間、限永代相副本券六通所奉譲渡実也、但親父西妙於譲状者、依有地類、不相副之、仍裏書了、更不可他妨之状如件、
永仁五年六月廿三日野部友吉判
関東御徳政間、譲状並売券二通ニ給内也。 (東寺百合文書)
此他、是等の証文に於て、売主が、徳政の及ばざるを確保せること、例せば「此地者御トクセイ有トモ、トリカエサルヘカラザル物也」といひ、続宝簡集正安四年(1302)十一月廿三日売券、「向後売買地取返沙汰出来之、於此地者不可取返者也」といひ、御巫文書乾元弐年(1303)三月十九日売券、又「雖有公家武家御式条等、於此田地者、以別儀依如然之事不可有違乱煩」といふが如きあり。勧修寺文書乾元二年二月日売券、これ所謂徳政文言にして、後世売券の通語となれるものなり。故に本令は大体に於て、一時的救済たりし外、充分に所期の目的を達すること能はず、却つて債権者に不安の念を与ふる丈、金融の円滑を闕き、利息の如きも、幾分か騰貴を免れざりしが如し。
徳政令の撤廃
然るに幕府は既に御家人の所領を喪失せるものを回復せしめて、彼等の窮状を救ふの大目的を達せしが為めか、明年二月を以て早くも徳政令の実施を打切り、同時に、越訴奉行を任ぜり(武家年代記、北条九代記、新編追加、薩藩旧記所収入来本田文書正安二年(1300)六月十五日売券、○正安二年十月、幕府又越訴奉行を罷め、貞時の家人五人を以て其事を執らしめたり)、されど二月以前の契約及び係争事件に向つては尚ほ其効力を失はざりしを以て、土地の不正返還及び其更正処分に関する訴訟は全く其跡を絶つに至らざりしなり。
朝廷の徳政と武家の徳政
幕府の徳政令を発するに先きだち、朝廷に於ても、屡々徳政を行はれたり。これ固とより幕府の徳政に異れり。然るに其仏神領興行の名に於て行はれたる沽却地の無償返還は事実上幕府の徳政と同じ。これ後者が其名称を得たりし所以なり。而して幕府の徳政は又本所領家国衙の管内にも行はれたり。  
記録所の刷新と興福寺の紛争 / 記録所庭中
天皇の御励精
伏見天皇(1265-1317/53歳)も亦制符の励行を期し給ひ、永仁元年(1293)六月、これに違犯せるものは、奉行人に付して厳に戒飭せしめられたり。又奉行職の懈怠に依りて、往々訴願の徹底せざるものありしより、記録所に庭中を置かれ、参議、弁、寄人を六番に分ち、日を定めて交替勤務せしめ、月の上旬は神事を、中旬は仏事を、下旬は雑訴を取扱はしむることゝせられたり。藤原兼仲(勘解由小路 1244-1308/65歳)亦これを頌し奉つて、「毎事厳密御沙汰、政道反淳意歟、珍重々々」といへり。天皇の七月、為兼(1254-1332/79歳)を遣して神宮に納め給ひし御願文にも、此事に及び給ひて、「因茲天、近徳政乎興行志、雑訴乎決断須留古止、志之所及呂、無疎簡之思久、理之所推呂無私曲之儀支処仁、妖※猶不絶須、微眇弥可悲之」とのたまへり。以て叡慮の存するところを窺ひ奉るべし。※「薛」の下に「子」
鷹司兼忠の関白
同四年(1296)六月十八日、関白近衛家基(1261-96/36歳)病に依りて其職を辞し、翌日薨去せり。七月、左大臣鷹司兼忠(1262-1301/40歳)、関白となる。兼忠は兼平(1228-94/67歳)の第二子にして、兄基忠(1247-1313/67歳)の養子となれるものなり(興福寺略年代記に拠る)。春日社司祐春記に、「兼平公の嫡子に令立給云々」とあるは誤ならん。  
春日神木の動座
興福寺南北衆徒の訌争
永仁四年(1296)九月、興福寺南北衆徒の分裂を生じ、春日神木又移殿に遷座あり。前権大納言藤原雅言ママ、前参議藤原雅藤(法性寺 1235-1315/81歳)、同子雅俊(1269-1322/54歳)、参議日野俊光(1260-1326/67歳)、氏院弁吉田定房(1274-1338/65歳/十一月免除せらる)これに坐して、両派の衆徒より相次いで放氏処分を受く(春日社司祐春記)。六波羅、兵を遣して寺門を守護せしめたり。
一条院領地頭離の補任と撤回
されば翌年に至りても、朝儀概ね行はれず。幕府の裁決は却つて衆徒の激昂を増すに過ぎざりしかば、六月、幕府は泰時(1283-1242/60歳)の故智を襲ひ、「武家敵対」の罪を鳴らして、断然一乗院領六十三箇所に地頭職を補し、(興福寺略年代記、皇代暦)一乗院の領家たる島津荘の如きは、領家の所務を停めたり(薩藩旧記所収山田文書永仁五年(1297)七月五日幕府御教書)。これが為めか、神木は尋で本社に帰座せられたり。
嘉元二年(1304)六月、興福寺衆徒、生島荘地頭を放逐せしかば、六波羅は兵を南都に進め、其巨魁を捕へてこれを流し、彼等の所領に向つて悉く地頭を補せしが、九月、満寺の請を容れてこれを撤回せり。  
伏見天皇の御祈願
亀山法皇側の活動と天皇の御軫念
天皇御践祚後既に九年に達せられ給ひしかば、亀山法皇(1249-1305/57歳)の皇統に於ては活動を始められ、一面神明に祈祷して登祚を祈り給ふと共に、他面、幕府に営求せらるゝところあり。天皇はこれを聞食して宸襟を悩ませられ、永仁三年(1295)九月十四日、内侍所に願文を奉り給うて曰く、「煕仁以不徳之身受天日嗣天主天下古と既及九年べり、其間随分爾致正直之誠天専安国家之志須、而一方無道之秘計追日繁昌し、諸人乃奔波次第仁添色布、偏奪政道天欲傾天下留企奈利、猥構縦横之不実天恣称政道之不可須、訴之関東天、欲反天下須、如此乃奇謀非翰墨之所可述尽須、縡及火急天、恐怖無窮之」と。依つて其擁護を得て、皇統の一揆と社稷の安全とを全くせんことを祈り給へり。
 
農と食の歴史

英語の辞書などに良く出てくる「ラテン語」は西洋の学芸において非常に関係深い言語で、中世以来、20世紀初頭まで各地のカトリック教会内の公用語として、またはヨーロッパ各地の大学内で使われてきたと言います。
国という範囲を越え、教会内や大学内で頑なに使われてきたというその不思議な言語には「カルトゥーラ」という言葉があります。「カルトゥーラ」とは「耕す」「培う」という意味の単語で、文字通り「農耕する」事を言う言葉でしょう。
「カルトゥーラ」は英語において「CULTURE(文化)」の語源となりました。無論、現代における文化の担い手は都市であって農村では有りませんが、これを単純に理解するならば「農耕は文化の源でもある」と言う事になります。手元の広辞苑を引いてみると、「文化」の意味は「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果」と言いますから、これはあながち間違った考えではないでしょう。
日本人は一体どのようなモノを食べて現代まで生きてきたのか?過去の人々はどのようにして食を確保する努力をしてきたのか?このような事を学び返す事で、人間の食べると言う行為の意味、重み、または環境と人との付き合いのありかたを掘り返す事ができるのではと思うのです。
私自身そうですが、人は時代の最先端という、あまりにか細い先っぽからモノを見てしまうクセがあります。そして「時代の最先端」と言う聞き耳の良い先進性から自信満々に、物事を考え、断定してしまう危うさがあることと思います。
食、農の歴史は、私達の先人達が体験してきた経験。長い長い時を懸けて経験してきた人類の記憶でもあります。小手先の技術や現代あるものだけを見て物を考えるのではなく、経験を活かすことで、よりモノを誤らない選択が可能になるでしょう。
米食悲願
日本の食の歴史を辿って行くと、縄文時代に稲作が日本にポツリポツリと入り始め、弥生時代に本格的な稲作が導入されます。そしてその後は米というものにこだわり、米を中心に法制度を整え、ついには倫理道徳まで駆使して米食文化を作ろうと必死に努力してきました。まさに我々の祖先の多くの人々は全身全霊を持って米にこだわって来たとも言えるわけです。
しかしその努力にもかかわらず、米が主食と言えるほどにまで庶民に浸透したのは、実際には戦後からの数十年だけであると言う事を言われる学者さんも多く居られます。このことから日本人を言い表すならば、「米食民族」などではなく「米食悲願民族」なのだと言われる程です。
どれほど米食を悲願したのかを言い当てるものに「ふり米伝承」といわれる良い例があります。この伝承は日本各地に見られるものですが、特に水耕田の少ない山間部に多いのだそうです。
内容は「瀕死の病人の枕元に竹筒に入れた米を持ってゆき、その音を聞かせる。これによって病人を元気づけた。」と言うもの。耳元でシャカシャカと、現代だったら嫌がらせとしか取られない行為ですが、これが人を元気付ける力を持っていたというのですから、米に対する思いは並大抵の物ではありません。
奈良県の山中には病人が亡くなった時、「米養生もかないませず」と言う慣習が残っていたそうです。米は弱った人を元気付ける為の特効薬であり、「腹一杯の米を食う」事は寿命をも延ばす最高の贅沢でもあったのでしょう。
ところで江戸時代、稲の籾を取った後、残った藁を様々な分野に再利用しております。藁葺き屋根に使われたり、家畜の餌に使われたり、また肥糧にも使われました。また米を運搬する為の入れ物として米俵を作りました。現在では「俵は米を入れる物」と言う感覚もありますが、俵そのものは古く、穀類一般・芋類・食塩・石炭・木炭等を運搬するのにも使われたそうです。俵は海外には見られないことから日本のオリジナルであると言う説もあるそうです。
日本人の藁への態度は、あるものをシッカリと使い切るという知恵と言えますが、実は財の象徴である江戸期の通貨「小判」は米俵を形どった物でした。現在でも相撲取りは優勝すると米俵で米を貰います。
江戸時代以前の武士も給料は米で支払われており、それを他の物や金に換金して使いました。また現在でも祭の力自慢コンテストでは、米俵を持ち上げる事で自らの力を自慢する風習が残っております。
我々にとって米は富の象徴であり、夢でもあったようです。しかし、これはずっと米を食べてきたと言う事ではなく、むしろ中々食べられなかったという歴史の語る悲願の現われであるというのが実態のようです。
当然の如くあるものに執着心は現われないように、たまにしか食べられないものであるから、このような形になって残っているのでしょう。様々な風習や物に祖先たちの思いが込められているものですね。  
コメの名前
コメを表す言葉は過去に色々ありました。ヨネ、クメ、マイ、イニ、とも言いました。昔はシネと呼んだものも(美稲=ウマシネetc.)ありましたが、「死ね」になるので止められたとも言います。有名な話ですが、「八木(ハチボク)」は米を分解した言葉ですし、八十八歳の祝いを米寿というのも、米の字を分解すると「八十八」になるからです。
古くは玄米を「黒米」と呼びました。搗いた米は「しらげのよね」、更に搗いた物を「ましらげのよね」と呼んだそうです。この「ましらげのよね」の異名に「しょうが」と言う呼び方があります。ショウガと言っても、これはジンジャーのことではなく、猿の牙を表す言葉です。猿の牙のように白い事から、この名前がつきました。全く米は恐ろしいほど沢山の名前をもっているものです。
他に、白米を「菩薩」という事があります。菩薩は無論、仏教の菩薩のことです。この菩薩とは仏の種類「如来」「菩薩」「明王」「天部」のうちの1つで、一般に前から位が高いとも言います。
それぞれを簡単に説明しますと如来は宇宙の心理そのものの体現化であり、明王は悪しき方向へ向かおうとする者を懲らしめる憤怒の形相であります。天部は上位の仏達を守る守衛と言った役割でしょうか。
そして、菩薩ですが、これは人を救済する為に現れた仏の姿だと言います。優しいイメージがあり、また現世利益的な存在でもあります。その為、日本史の仲で一番人気があったのはこの菩薩でした。
菩薩は人を救う為に、ある時は人間となり、ある時は物となります。菩薩をその様な存在と考え、過去の人々はコメに菩薩をダブらせた事でしょう。以前触れましたが、日本人はコメ食悲願民族であり、コメに対しては特別な思いを持ってきました。
また、「特に美味しいコメ」の呼び方に「銀シャリ」と言う言い方があるのみ、きっとコメに対する憧れが言わせしめたのではないでしょうか。美味しいコメは、糖分によって綺麗な艶が出来ます。それが銀色に輝いて見えるため、銀シャリと呼ばれるわけです。
銀シャリのシャリとは仏教で言う「舎利(骨)」の事で、釈迦の遺骨のことを「仏舎利」と言います。釈迦が亡くなった時、その弟子達画釈迦の骨を有難い物として、分配しました。これが世界の各地に散りますが、現在世界中にある全ての仏舎利が本物と言うわけではありません。殆どのものは骨ではなく、綺麗な石で出来ているようです。
考えてみれば、人骨を自分の食べるものに例えている訳ですから、気味が悪いようにも感じるのですが、仏舎利は、仏教徒にとってこの上なく大切なものであり、特別な存在なのです。
この銀舎利という言葉は意外と新しく、1940年代の食料不足の時代のもので、単に白米のことを言ったそうです。当時、「金持ちは米を食い、貧乏人は麦を食べろ」と口走った政治家がいたと言いますが、大事な至宝をコメのあだ名にまでしてしまうというのも、中々米に手の届かない人たちの憧れであったに違いありません。  
赤米
平成6年のデータに拠ると、日本で生産される米の品種は半数近くがコシヒカリです。このコシヒカリは3分の2以上の県で栽培されており、日本はまさにコシヒカリだらけともいえます。
しかし過去の日本において、これほど偏った品種の生産をしていた時代は他にありませんでした。日本には様々な種類の米があり、白米だけでも数え切れない程の品種があったようです。田んぼでは一枚一枚にも単独の品種でなく、様々な品種を混在させました。台風では収穫直前の背丈も高く、大きな穂をつけた状態の稲が一番被害を受けます。ここ全て同じ品種になると収穫時期が一つの時期にまとまってしまう為に、一度台風などの被害があれば全てが被害を受けてしまいます。しかし様々な品種がいれば成長のスピードに差が生まれ、仮に一つの品種が台風の被害を受けても、その時まだ小さい状態のものは被害が受けにくくなる訳です。つまりリスク回避の知恵と言えましょう。
白米とは少し異なる米、赤米について紹介してみましょう。
野生の稲と言うものは殆どのものが玄米の表面に赤い色素を含んでおります。これを一般に赤米と呼び、現在は古くからあったものとして、黒米等と共に「古代米」という呼び方もします。
赤米は2000年以上前、日本に米が来た時、白米と共にもたらされたと考えられております。しかし白米が時代を経て愛されるようになり、徐々に赤米の地位は下がります。そして、ついには我々にとって、赤米とは何ぞや?と言う程に、その姿は見られなくなってしまいました。
普通の米(ジャポニカ米)は背丈が低く、成長しても中々籾が落ちません。本来、米が生き残る為には早めに籾が落ちた方が良いような気もしますが、人間が落ちにくいものを選んで育ててきたため、その様な性質のものが残って来ているわけです。
これに対して赤米は丈が普通の稲よりも高く、倒伏(倒れて収穫ができなくなる)の弱点があります。また籾が自然に良く落ちるので、収穫量があまり多くありません。赤米は生命力が強いので、白米よりも寿命が長く、放っておいても生えてきたりします。この点、自分で生きようとしているので、野生種に近い品種と言えます。
こういった特性を考えれば、古代米の役割は自ずと救荒作物的な役割を持つ事になります。白米が高級品だった時代は庶民の腹を満たす為、赤米は重要な役割を担ってきました。現在、赤飯は小豆を入れてモチ米に赤く色をつけて蒸かすことで作りますが、これは赤米を食べていた頃の名残だとも言います。
このような強い品種が何故、消えたのか。原因は味の悪さと言います。赤米の色素にはタンニンが含まれており、渋みがあります。また硬く、粘り気も少ない為、冷えるとボロボロになってしまいます。市場原理が働くようになれば、ただ食べられれば良いと言うわけにはいかなくなる。明治以降、各地で赤米等の「粗悪米」が混じった米は取り扱わないといった方法を取り、赤米は日本から姿を消して行きました。  
黒米・香米
赤米の他に古代米と呼ばれるものには「紫黒米」や「香米」があります。
紫黒米は赤米と似た特徴をもつ野生種。しかし赤米と違い、特殊な地位を確立しました。中国では紫黒米は栄養価が高いと言われ、漢方薬になったり、薬用として山地の妊婦が食べたりしたそうです。
実際、栄養素を見てみると、ビタミンやカルシウム、リン、タンパク質を多く含み、薬用として「滋養強壮」「肝機能向上」「血液増量」「成長促進」「病気回復」「血色を良くする」などなど、たくさんの効用があげられております。また中国では黒色を邪気を払う色として好みますから、その点でも人気が高まったのかもしれません。
この紫黒米は残念ながら現存しておらず、日本における実態は良く分かっておりません。
一方、香米は中国、インド、ジャワ、東南アジアなどで人気があり、炊くと独特の香を発します。こう書くとタイ米を思い出す方もおられるのではないでしょうか。
三国志で有名な曹操の息子である曹丕(186-226在位)が臣に与えた書には「風上でこれを炊けば、5里は香がする」と記されています。この香米の栽培されていた土地は「十里香」と呼ばれたそうです。彼らは香米を好んだようで、低収であることから贅沢品として上流社会や文人墨客に食べられたそうです。
「清朝の皇帝が召し上がった米はみんな匂いがした」という話も残っていますから、ちょっと普通の米とは違う格付けがされております。
日本国内では大分県を中心とする九州で「香子(カバシコ)」と呼び、四国の高知県や和歌山県でもこの種を好んで食べていたようです。きっと太平洋側の海の航路を伝わって和歌山まで行ったのでしょう。
人によっては香米を「煎り大豆のような」「ポップコーンのような」「枝豆のような」味とも表現しますが、こういわれると美味そうな気もしてきます。
しかし日本全般で言うと評判は芳しくありませんでした。香米は「ジャコウ米」「匂い米」「ネズミ米」「有臭米」と呼ばれ、実にマイナスイメージな名前を持っております。
香米は釜の中に数粒だけでも混ざっていても味が他の米に移ってしまうそうで、ある人は「ネズミの尿のような臭い」がすると表現しております。香米を好んで食べる人からすれば、「それを言ったら、納豆こそ足の匂いがするだろう」と反論がきそうです。
少々汚い話ですみませんでした。兎も角、こういう風にとらえると食欲は一気に消え失せてしまいます。好みは人によりますが、最終的に日本人はこれを好みませんでした。
第二次大戦の時、東南アジアに展開していた日本軍の兵士が当地で米を食べたところ、この香米の味に驚き、「古い米」なのかと思った人もいたという話が残っております。やがて香米は明治時代以降、赤米と同じ末路を辿りました。「白米が食べたい」という市場原理により、排除され滅亡してゆきます。  
脚気/国民病の実態
「脚気」とういう病気があります。
膝の下の柔らかい部分をコツンと叩くと、不意のうちに足がビョン!と浮き上がりますが、これが脚気の検査方法でした。奇妙な感覚になり、意外と楽しい検査なのですが、しかし一体あれは何だったのかと言われると、分からない方が多い様です。現在は脚気に苦しむ人も見られなくなったため、脚気とはそもそもどのような病気なのかという記憶も、人々から消えていったのです。
しかし、歴史を覗いていくと多くの人が脚気で苦しんでいることが分かります。神話の中の人物ですが、日本武尊、歌人の藤原定家(1162-1241)、室町幕府将軍の足利義政(1436-1490)、徳川幕府3代将軍の徳川家光(1604-1651)も脚気であったらしいです。家光は脚気死と言われますし、後の徳川将軍では、13代家定(在職1853-1858)、14代家茂(在職1858-1866)も脚気死とされます。まさに脚気は国民病でした。
脚気は「キヤクキ、カツケ、アシノケ」または「江戸病」「江戸患い」とも言われました。関西では「大阪腫れ」ともよんでおります。
辞書を引いてみると、この病気は「末梢神経を冒して下肢の倦怠、知覚麻痺、右心肥大、浮腫を来し、著しい場合は心不全により死亡する(衝心:ショウシン)」と書かれております。どうも分かり難い説明ですが、神経の病気でしょうから「膝がビョンとしないと脚気だ」というのは、何となくわかる気がします。
上に書かれたように、脚気にかかると足がむくんだりするそうですが、脚気はそもそも鶴足(カッケ)と書き、肉が削げ落ちて、鶴の足のように細くなってしまうからだという風にも言います。
脚気の原因はビタミンB1の不足で、白米ばかりを食べる地方に多く見られました。とはいえ、白米に自体に悪いものが入っている訳ではありません。ビタミンB1は米のヌカの部分にあるので、玄米にはしっかりと含まれておりますが、白米は精米されることでヌカが落とされ、更に洗われて炊かれることでビタミンが飛んでしまいます。
つまり、白米ばかりを食べることに問題があるということでしょう。脚気は、豊になった江戸時代の元禄期(1688.9.30-1704.3.13)以降に多く、三都(江戸、大阪、京都)を中心に展開した病気です。特に江戸には患者が多かったようで、江戸を出て箱根を西へ超えると脚気が治るといいました。これより西は玄米食や半搗き食が多くなり、関西の食には粉物(小麦食)も多く、江戸よりも脚気は少なかったようです。
脚気は、日本人の精白米食というご馳走の普及を考える上では、良い題材なのかもしれません。それ以前に脚気は少なく、特に麦飯や五穀、芋ででんぷん質を補っていた一般庶民にはほとんど無縁だったとも思われます。  
脚気/その克服
長い間国民病となってきた脚気ですが、その療法として「脚気に小豆飯、麦飯」という言葉がありました。これらは実は理に叶った言葉でしたが経験的域を脱しておらず、明治初期には科学的に証明されていなかった為に説得力を持ちませんでした。
現在も「前進する」事を善しとして、「古い常識」というものを卑下するような所がありますが、変革期においては古い物は玉石混交で悪とされてしまうところが有るようです。
明治時代の「究理(科学的な説明をつけること)」の風は強力で、これをクリアしない古法は軽んじられました。この時代、昔のものを引きづった者は「開化の邪魔をする未開人」「悪い体制の保守をする人間」と軽蔑されたと言うことも出来るでしょう。
やがて脚気の原因が科学的に究明されます。
明治時代の脚気の有名な話にこのようなものがありました。1883年、軍艦の竜驤(リュウジョウ)が太平洋横断の練習航海中の事。乗り込んでいた乗組員が次々と脚気に犯されました。そしてこの結果、乗組員371人中約半数が脚気にかかり、最終的には25人もの死者を出すに至りました。
当時の海軍軍医でした高木兼寛(カネヒロ/1849-1920)は、日本の長年の課題でした脚気の克服に取り組み、白米でなくビタミンB1を含む麦飯を摂取する事で脚気が予防できるという結論に至ります。とはいえビタミンBは1909年に鈴木梅太郎が米ヌカから抽出した事で発見されたのですから、彼はビタミンB1の事を科学的に知っていた訳ではなく、おそらく古法をヒントに答えを出したのだと思います。
これに対し、陸軍軍医だった森林太郎(1862-1922/有名な森鴎外です)は高木を批判しております。
激しい論争は続きましたが、麦飯を導入した海軍に対し白米食を続けた陸軍を比較すれば、どちらの主張が正しかったかは明らかです。答えは明治期の二つの大戦、日清戦争(1894-95)や日露戦争(1904-05)にあります。
日清戦争においては陸軍の脚気患者は4万名以上(うち死亡者は4000名)もいたと言いますが、海軍の脚気による死亡者はたったの3名。また一方の日露戦争においても陸軍の脚気患者が何と約20万名(うち死亡27000名)に対し、海軍の被害は殆ど報告されなかったと言います。
森林太郎は死ぬまで自分の過ちに気付く事はありませんでした。一方、長年の国民病脚気を克服に導いた高木は後に男爵の地位を得て、人々は彼を「麦飯男爵」と呼びました。
ところで江戸時代に救荒作物のサツマイモを日本中に広めた青木昆陽のあだ名も「甘藷先生」です。私は子供の頃、枝豆が好きで、そればかりを食べていたところ、あだ名が「枝豆大臣」になりました。やたらに直接的なネーミングですが、こういうあだ名の付け方は昔から多かった様で、面白みを感じるものです。  
飢饉の構造/消えた食糧
1980年代後半、1年で穀物は120億人分生産されたと言います。当時の人口50億人を引くと70億人分の余剰が有る訳ですが飢餓は世界各地に転がっておりました。物も食えずに死んでいった人々が沢山いたのです。この70億人分の穀物は一体何処へ消えたというのでしょうか?昔からまるで変わらぬこの飢餓のシステムについて、数回に分けて話を進めたいと思います。
過去の日本の飢饉において、都市民には餓死者があまり出なかったと言います。確かに都市部にも餓死者はおりましたが、それは農村部から都市に食い物を求めて現われたものが行き倒れするとか、またそもそもの貧困層において起きた餓死が多いのだそうです。
更に農村部において20万人30万人という大量の餓死者を出した事実を見れば、都市と言うものは仮に農村部に飢餓を起こす事があろうとも生き残る物である事が分かります。
これは現代の世界に置き換えても同じ。都市化した先進国には飽食現象が起き、一方で農業従事者率の高い発展途上国においては断続的な飢餓現象が起きております。驚く事に日本にある食料の3割が無駄に廃棄されているとも言います。都市民は農村から必要以上に物を集積し、必要以上に食べ、いらなければ捨てるという収奪活動を行っていることになるのです。
こう書くと都市は悪く農村は被害者とも取れますが、一概にそうでもありません。そこには農村の同意もあると言う訳です。現代の飢餓のある国にも食料輸出国は決して珍しくないそうです。
現代は商品経済が世界の隅々にまで流入しており、農村部の人々も自分が食べる為と言うよりも、金を得る為に食料を作っては売りつけようとします。つまり食料は商品であって、食べる為のものではないと言うことです。都市を正当化するつもりは有りませんが、つまり飽食と飢餓は同居しているという訳なのです。
しかし都市にも飢餓が起きる事がありました。その場合多くは戦争によって引き起こされました。戦争は都市の強力な物資の収集能力や流通力、文化的な魅力と言った様々な要素に破綻をきたさせます。言うなれば強力な引力を持って形を維持していた星が引力を失い崩壊すると言う事です。
20世紀、ヨーロッパに起きた飢饉はまさに戦争によるものでした。現在ヨーロッパはこの教訓から食料自給率を維持する様努力しております。食料自給率の低い現在の日本は戦争のない限り、飢餓は遠くの世界のように感じられますが、一旦戦争に巻き込まれた場合、その危険度は一気に加速し高まる危険性があります。
最初の話に戻りましょう。実はあの消えた70億人分の穀物は肉になる家畜のエサの為等、必要以上を欲する先進国へ消えていきました。現在、食料と言うものは食べる為ではなく商品として売るために存在しています。だから美味しい野菜も形が悪いと言った程度で、少しでも商品価値が消えれば捨てられもします。
江戸時代のように倹約令を発せよとは言いませんが、市場が世界レベルで広がっている現在、飢餓民に対しては確実に食料を送り届けられるシステムを世界レベルで考える必要があるのではないでしょうか。  
飢饉概観
実は縄文期、大きな飢饉と言うものは殆どありませんでした。この時代、縄文人は小規模ながら穀物生産を行ってはおりましたが大部分、まだ狩猟社会でした。狩猟採集社会の特徴は自己の増加、過度の採集は生態系を破壊し、自らも滅びるという自然サイクルに制約されている点です。
従って、同一エリア内で許容範囲を越える人口増加はありえません。つまり我々の社会の常識でもある「繁栄」と言う発想自体が、即滅亡に繋がるものだったわけです。彼等にとって生きる事は他と共に生きる事であり、他の領域を侵さないという謙虚なモラルがあったようです。
しかし弥生時代に入り、大陸から本格的な稲作技術がもたらされると人々は水田から繰り出される圧倒的な生産力に惹かれ受け入れるようになります。米は小さなエリア内に多数の人口を養う生産力を持っておりました。より人口が集中をすれば、その集団は他の集団に対して社会的に強くなります。しかし人口の集中は自然災害に対して無防備であるという危険性を含んでいました。人口が多い為、一度の旱魃(カンバツ)でも大量の人が飢える危険。これが「飢饉」であると言えましょう。
古代律令国家は、どれほどの効果を持ったかは分かりませんが「義倉(ギソウ)」と呼ばれる備蓄庫を作り、平時アワを納めさせました。商品経済が徐々に整ってきた奈良時代には米価安定の為の「常平倉(ジョウヘイソウ)」を作り、飢饉で米価が上がった時、それを放出して米価の安定に努めたと言います。
しかし平安時代、京都はより巨大な都市化を進めていたので、飢饉の規模もこれまでないほどの巨大なものに発展していきました。飢饉では赤子が母の乳を吸ったまま死に、老人は道端の草の根を食って死ぬという光景が無造作に目前に広がりました。
鎌倉時代も被害の拡大傾向は変わりません。鎌倉時代の飢饉には人肉食の話が多く、被害は何処までも劣悪化しております。京都で起きた飢饉に仁和寺の坊主が死者の数を数えた所、42300人以上あったと言います。
やがて室町時代以降、飢饉が起きると諸国の貧民層が上洛すると言う現象が起きるようになります。街に行けば何とかなるという考えでしょうが、これによって京都に乞食があふれ、餓死者も更に拡大しました。
江戸時代、各地の富を収奪した都市にはちょっとの飢饉では倒れない体力が備わっていました。その為貧民層は生きる為、各地の城下町に乞食の旅へでました。しかし生き残るのは中々大変だったようです。天明の飢饉では30万を下らない死者が出ております。商品経済の中で単純に農産物を生産する存在になっている農民には食料を求め山野に入っても、何をどう食べれば良いのかも分からない人が多く居ました。この為、飢饉対策本として、江戸時代には山野の物をどう採って食べるかをまとめた本が出版されております。
古代から江戸時代にかけて起きた飢饉の数は分かっているだけでも370件程(3年に1度)と言われますから、人間の生活は飢饉との戦いでもありました。また飢饉の原因が食の不足ではなく社会システムの問題にある以上、これからの時代、飢饉は無いという理屈は成り立たないということに注視すべきでしょう。  
天明飢饉の昔話
江戸時代、天明の大飢饉時に起きた悲劇を地方の民話から紹介したいと思います。
青森県・八戸の近村の話。ある村の家族6人の内、4人までが飢えて死に、父と10歳の息子だけが残った。父は食い物を得る為、ありったけの金目背負い、八戸へ出かけた。
家に残った息子は飢えに耐えかね、縄をかんで飢えを凌ごうとしていたが、やがて自分の指をしゃぶり出し、ついには噛み切ってしまった。
程なく父が帰ってきたが、泣きながら自らの指を喰らう息子の姿に、呆然と立ち尽くし言葉を失った。そして、自分の買ってきた物を息子に腹一杯食べさせた。しかしもうこれ以上食い物は無い。父は絶望した。そして満足して寝入った息子の首を鎌で掻いて殺し、自分自身も首を刎ねて死んだ。
そこへヨソへ嫁入りしていた娘が、家族をあんじて実家へ帰って来た。しかし惨状を見て、家へ戻ると夫にその事を伝えた。夫は野犬に食わさせるのもいけないということで、死体を火にかけようと娘に言った。
娘は先に実家へ向かった。しかし、夫を待っているうちに空腹に耐えかねて、思わず父と息子の死体を炙って食べてしまった。娘の中のタブーは犯された。こうなれば娘は堰を切ったように食べ始めた。そして後から来て、それを目撃してしまった夫と自らの子を殺した。発狂したか、女は夫と子までも喰らった。女はそこを去ると、野山を駆け巡り死体を漁った。ある時は生きている子供に飛び掛って殺して食った。
村の者は、放っておけまいということになり、鎌や鍬を持って女を追いまわしたが、食料をたらふく食べている女は元気で、力の湧かない村の物が逆に殺される始末。しかし何とか山へ追い詰め、やがて猟師の猟銃でもって何とか仕留めた。
以上を持ってこの話は終わりますが、飢餓に陥った者には親も子もただの「肉」と考え出す者が出現すると言うわけです。飢饉民話に、このタイプの話は多く、カニバリズム(人肉食)はカーニバルの語源になったように、人に大きなショックを与える物です。猿の研究においても、ある時、猿がカニバリズム行為を突如として起こし、群れが狂乱的な興奮状態に陥る現象があると言いますが、そういった「怖い物見たさ」と言う面、ストーリーの味付け効果もあるのでしょう。
しかし今生きる世界が、あまりに不安定な土台の上に立っている事を考える時、この恐怖は幻と言い張る事は出来ません。「食う、生きる」という自らの生命の原点を見向きもせず、ただ前のみを見て進む事は現実から乖離した危険行為と言わざるをえません。
民話からは、我々にとって遠くなりすぎた飢饉に対する恐怖の記憶をほのかながら感じる事が出来ます。
原点と言う物は、ものを正しく判断する為の強力な武器となるものです。民話には誇張も多くあるかと思いますが、人間が生きるという事に対する原点が沢山こめられてもいます。我々は民話を通して時にショックもし、その魂を記憶しておく必要があるかと思えてなりません。  
肉食考(ニクジキコウ)
日本料理においては長い間、肉の存在が抹殺されておりました。最近まで日本人は長い歴史の中、全然肉を食べてこなかったと言う方も居られたそうです。
勿論、忌まれて来たところはありますが、肉が一切食べられなかったと言う事はありません。各地に残る肉料理を考えても、日本に肉食が無かったと言うのにはまず無理があります。しかしある時期を境に表向き、日本では肉食は認められなくなりました。つまり、あっても無い物とされてしまったのです。
肉食のタブー化への動きは制度上では675年、天武天皇(在位673-686)が肉食の禁止令を出したあたりから始まります。殺生を禁ずる仏教と絡み表向き肉食は禁止への方向へ向かいます。
殺生をすることは仏教では悪行であり、これを犯す事は酷い来世を送ると言うことでしょうが、「穢れ」の問題とも絡み、肉食を取り巻く状況は複雑化します。そして時代と共に肉食禁の通俗化は進みます。
当初、僧侶界においてだけだった肉食の禁は、平安期に貴族の特別な日における肉食の禁へ広がります。905年に作られた行事などに関する細則「延喜式」には、獣肉を食べたものは3日間は参代(御所へ参上すること)してはいけないと定められております(やっぱり食べている!)。天皇は日本の政を司るトップですから、天皇の近辺は穢れが及ばないように特に神経質に取り締まりました。したがって、この時代の天皇は在位中は殆ど御所から外へ出れず、言わば軟禁状態でもあったのです。
平安末期には貴族の日常においても禁止されました。鎌倉期には関西の都市を中心に庶民へもその影響が出始めます。
この時代は人と自然の関係が決定的に変化した時代であるとも言われます。徐々に自分の思うように自然を扱う事ができるようになってきたと言う自負が人間にあったのでしょう。穢れを恐れ、畏怖するという感覚は、時代の進行と共に遠ざける、汚らわしいと見る感覚へ移行していったと言います。
そして、この時代特に穢れに関する問題がクローズアップされた理由については、都である京都が都市として非常に巨大になったということが挙げられるでしょう。人が充満して―この頃は飢饉もよく起きましたし―温暖湿潤である日本においては、疫病が問題になっておりました。
死骸は疫病を起こす原因になりますし、こう言う環境が穢れに対する過剰な排除感覚を生んだといえます。ですから「殺生の禁」と言いながら、感覚的には、牛肉を食べたりすることは穢れたものを食べると言う感覚だったのでしょう。
浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、時宗といった鎌倉仏教は町を中心として展開した宗教傾向でした。これらの仏教群は穢れ思想が深まる中、町に住み、本来は穢れを扱う「職人」であった人々が迫害を受け始め、それらを救おうと言う考えに進んだという点で重要です。
穢れの問題は単純でなく、様々な要素を含みつつ巨大化したため、全てについて触れる事は出来ませんが、肉食行為に付いて、まずは以上のような展開があったと思われます。  
肉食禁下にて
肉食の禁は穢れの問題と非常に絡み合ったものでしたが、一方、仏教を利用した政治的な意図を持っていた事にも注意しなければなりません。
平安時代の天平13年2月(741)、日本は国力増産、仏教による国家統治に燃えておりましたが、この時、以下の様な法案が通ったと言います。「牛馬は人に代わって勤労し、人を養う物であるから殺してはいけない。今だ百姓には牛馬を殺す者が居るらしいが、今後禁を犯せば杖100の刑とする。」
当時、馬や牛は野や山に野生種がのびのび暮らしていました。源平合戦等で出てくる牛馬も、野生種が多かった様ですが、上の文を読むと民に対して「牛馬を食わずに利用しろ。」という風に命令している訳です。
牛の皮は鎧等に利用価値の高いものでした。また馬の脚力は地方との往来の為にも大事な物ですし、戦にも使われました。まさに畜力は現代の車や飛行機のように中央集権国家建設のために、そうそう食われてしまっては困るものだったのです。その為、肉食の禁と言っても特に魚や鳥はその範疇には入りませんでした。
このように政治的な理由からも政府は、しつこく幾度にも渡って肉食禁を強く民に求めました。しかし上のような法案が存在すると言う事は、民が肉食を止めなかった事の現われでもあります。
実際、戦国時代末期に書かれた「山科言継卿記」と呼ばれる日記帳には、狸汁を食べて大いに盛り上がった記録があります。他にイタチやキツネ、イノシシも珍味として貴族に好まれました。
彼等は面白い理屈を持って肉を食べていたとも言われます。それは「2文字の肉はダメ」というもの。例えばウシやウマは駄目。するとイタチ、キツネ、タヌキ、イノシシはこの条件をクリアする事になります。因みにシカも食べたそうですが「カモシカ」と呼べばクリアになるのだとか。そんな馬鹿な、という話ですが。
禅寺の僧が食べた料理に狸汁という鍋があります。これは肉食の禁のある僧が、せめて名前だけでも、と狸の名前をつけたことからくると言います。僧の食べる狸汁は「油で炒めたコンニャクを大根、ゴボウと共に味噌で煮込んだ鍋物」ですが、昔から日本にあった狸汁に思いを馳せた銘銘でしょう。しかし、そもそも思いを馳せると言う事は、その味を知っている事の裏反しと考えるのが妥当です。
やはり、どうしても肉は美味い。この世で一番肉を食べてはいけない存在であった僧においても、煩悩との戦いは劣勢だった様です。フロイスの残した文書にも「僧は外面では肉も魚も食べないと公言しているが、殆ど誰もが裏で食べている。」とあります。
このように全時代を通じて肉は食べられつづけました。平安時代の貴族階級はかなり真面目に肉食の禁については取り組んだようですが、結局、食事が偏ったため、病気に弱くなり、体力も無くなります。
やがて肉の禁など知らぬ坂東武者が荒々しく政権を奪取してゆきます。彼等は肉という強力なエネルギー資源を吸収し、ギラギラとした覇気を持っておりました。東国のむくつけき猛者どもが京にズカズカと入ってくる様を都人達は戦々恐々と見守りましたが、その裏には食事の問題もあったことでしょう。  
肉食開放へ
江戸初期においては肉食は江戸市中でも行われましたし、「獣肉屋」もありました。また江戸時代後期、大阪で蘭医の緒方洪庵(1810-1863)が牛鍋を食べた話も残っているので す。
ある時、牛鍋屋の爺様がやってきて、「牛を自分では殺せない」ので、洪庵の所にいる書生を使って殺してくれと頼みます。そこで書生が出かけて行き、牛の四足を縛ると水に突っ込んで窒息死させました。その礼として書生は豚の頭を貰い、解剖実験用に利用しております。「解剖的に脳だの目だのを良く調べて、散々いじくった後、煮て食った」と言いますから、しっかり実験後に煮込んで食べていたのです。
そもそも人を殺すのが職業でもある侍は思ったほど肉食にうるさくありませんでした。しかし将軍家が公家化して行くと共に、江戸中期以降、武家社会でも肉食が消えてゆきました。
しかしその間も彦根藩井伊家では代々将軍家と御三家へ、牛肉の味噌漬を献上しておりましたし、江戸末期、長崎から蘭学と共に肉食に効用があることが分かってくると、江戸に獣肉店が再び開きます。
江戸時代、江戸市中の「ももんじい屋」という所ではイノシシ、シカ、クマ、オオカミ、キツネ、タヌキ、サル、カワウソ等が売られていたと言います。肉食が認められていないのにもかかわらず、現在の我々のように牛豚鳥ばかりを食べているよりも、ずっと多種の肉を食べていたことになります。
しかし肉は現代のように、気軽に買うものではなかったようです。大名行列がその店の前を通る事さえもはばかったと言いますし、庶民にとってもやはり肉食は表向き認められた存在ではない訳です。
牛などのように美味しいものを食べないとは妙とも思いますが、当時は牛などはそもそも食べるものではないという感覚が強かったようです。現在我々は犬や猫を見ると食べるものではないと単純に考えますが、これを昔の人々の牛や豚に対する感覚に置き換えてはどうでしょうか。無論、穢れと言う問題を抜いてこの問題は語れませんが、このような感覚の違いと言うものあったはずです。
縄文時代に縄文人はイルカを食べてもおります。猫や犬、ある時期はラッコやオットセイまで日本人は食べて来ました。これこそ現在の我々から考えれば、とんでもない非人道的行為です。あの愛くるしいイルカや犬猫を食べるとは「冷酷」と感じる方も居られるかもしれません。現代ならばペット虐待で非難を浴びるのがオチしょう。
一方、我々は「霜降り和牛」とか「黒豚」と聞いた途端に口の中にヨダレの湧き出すのを感じずにおられません。牛や豚は「食べるもの」だから食べても良いという訳です。
やがて明治維新という新時代の到来と共に肉食解禁がなされました。「西洋人が食べるように我々も肉を食べることが、開明的である!」。時代に遅れまいと必死な人々は牛肉が「薬になる」だとか「肉を食べない者は文明人ではない」とまで言って、肉を大いに食べました。町には牛肉屋が軒を連ね、天皇から肉食を禁じられていた僧侶までもが牛肉を食べるようになったというから極端な話です。  
牛肉は開化の味
明治維新は、爆発的な力をもった肉食化の時代でもありました。これはたんなるブームという以上の意味をもつものでした。
西洋は麦食(パン)・牧畜文化圏にあり、よく肉を食べますが、当時の日本人は、肉食が西洋文明を生む源になったと考えていたようなところがあるからです。 1872年、明治天皇が前例を破り牛肉を食べました。これは、かなり効いたようで日本中に肉食の波が広まり始めます。「士農工商、老若男女、賢愚貧富おしなべて、牛肉食わねば開けぬ奴(文明開化しない奴)」と書く本が出版され、僧侶は肉食妻帯を始めました。
牛は肉の中でも格の高い肉でした。牛肉に馬肉や豚肉を混ぜ込んで販売したりする業者がいたり、何の肉かも分からない肉を牛肉と、いつわる業者も現れているのを見ても、その地位の高さが分かります。
当時、流行したのは牛鍋です。味噌仕立てで「ネギを入れ、味噌を投じ、鉄鍋ジヤジヤ……一度箸をいるれば、嗚呼美なるかな……」という言葉が残っております。牛刺しも人気で、酢味噌をつけて食べました。
牛食推進派だった福沢諭吉らの後援を受け、「万病に効く」というふれこみで、牛乳も売られ始めました。当時の宣伝文句に「西洋では牛乳は我々のカツオブシと同じ扱いをする」というのがあります。
牛乳は固めてチーズになるのがカツオブシに似ており、よく料理するさいに味のベースにもなりますから、そこが似ているということでしょうが、これは強引すぎます。
その他、肉うどんや牛肉飯も生まれ、カツレツもこの頃に登場します。当時のカツレツは牛肉が主体でした。
しかし一方で、肉食には文明の象徴という意味が含まれていたために、肉食をしない人は遅れたやつという見なしかたをする、脅迫に近い風潮もありました。
「肉を食えばヤレ穢れるだのと野暮を言うのは科学を知らぬ野蛮人」という言葉が残っているように、たんに牛肉を食べたいという以上の意志があったのです。
改革というものが、前の時代を根こそぎ否定するものであることを感じさせます。
しかし、この言葉が残っているということは、牛肉に馴染めない人がいたということも意味します。特に女性と老人に、牛肉は嫌われました。牛肉店を開くと言いだした夫に対して、奥さんが離婚すると大喧嘩になった話も残っておりますし、東京の品川に屠殺場ができると、住民の反対運動がおきたりもしました。
また、つき合いで牛鍋屋に行き、いやいや牛肉を食べたが、帰りにはお寺参りに行く気がしなくなったと述べている人の話もあります。
とはいえ、肉食は徐々に日本へ浸透してゆきます。そして狂牛病騒動の前などは、我々は過剰な量の牛肉を胃袋に放りこんでいました。
私は、こういう牛肉にたいして時に恐ろしさも感じます。一時代は過剰に嫌い、また過剰に好み、政治とも絡む。どうも肉は人を狂わせる性質をもっているようです。  
精進料理
鎌倉時代に始まったといわれる精進料理とは禅宗の僧が広めたのが始まりです。この時代、鎌倉幕府は禅に大きく傾倒したので、武士を中心に民間へも精進料理は広まりました。禅僧は殺生をしてはいけない為、肉や魚を食べられません。従って精進料理とは野菜中心に肉や魚までも使わない料理になります。
野菜だって生きているのだから、生き物を殺している事に変わりはないとも思いますが、それはさておき、精進料理はまさに菜食主義者の料理といえましょう。
さて。日本の禅寺では一汁一菜が基本で、朝はお粥と沢庵2切れのみ。沢庵は音を立てないように時間をかけてジックリとかんで食べます。音が隣の人に聞こえる様ではいけない。昼には麦飯と味噌汁。夜は残り物で雑炊。まさに粗食ですが、月に数回のご馳走は油で野菜を炒めて食べます。
精進料理の特徴は食材が限られている為、栄養不足にならないよう、丹念に考えを巡らされているところです。特にタンパク質の問題は大きく、豆腐、納豆、醤油などの植物性タンパク質の食べ物はは禅寺経由で日本にもたらされたようです。醤油による味付けは今や日本料理の顔ですね。
とはいえ、同じ禅寺でも国が違えば内容が少しばかり変わる様です。無論、肉食は絶対にしませんが、例えば韓国では味付けが唐辛子仕立てになります。キムチがお国の味だけにこれは当然か。中国の精進料理は油の味付けとなりますが、これは京都宇治の万福寺から広まったという普茶(赴茶)料理が良い例でしょう。
普茶とは「普(アマネ)く多くの人々とお茶を供する」と言う意味で、中国らしい精進料理です。万福寺を開いた僧の「隠元(1592-1673)」は隠元豆の名の由来になった人物ですが、彼は江戸時代に争乱中だった当時の中国の王朝・明(1368-1644)から逃れるようにして1654年来日しました。隠元は中国の禅宗においてはかなりの大人物で、小国の日本人にとってはかなりのインパクトがあった事でしょう。普茶料理は油を使って揚げたりした料理。また肉や、魚のを形どった「擬製料理」があり、食べ方も大皿から取り分けるなど中国らしさが光ります。私はまだ普茶料理を食べた事がありませんが、現在も寺の近くでは食べる事が出来ますから興味のある方は行って食べてみるのも良いでしょう。
平安時代くらいまで身体を使う庶民は1日3、4食も食べておりましたが、僧は朝の一回だったと言います。しかし鎌倉時代以降、徐々に「非事(ヒジ)」と称して昼や夕にも食事をとる1日3食へ移行して行きます。実はこの習慣の変化が懐石料理を登場させることになります。
本来、僧は正午を過ぎると食事を取らなかったのですが、次第に夜更かしをして、様々な仕事をするようになってきます。暗くなったら寝るというような時代ならまだしも、これでは腹が空いて堪らない。
空腹になると体温も下がり寒気がしてきます。そこで暖めた石を湯たんぽのように腹に忍ばせます。このように夜、腹が空くと石を懐(フトコロ)に抱えたことから、懐石の名が生まれました。そして次第に僧侶も夜に夕食を取るようになると、懐石の習慣が料理名に残ったと言うことです。  
精進料理「五味」「五色」「五法」
食事も修行の一環と考える禅寺の食事係「典座(テンゾ)」は様々な事に気を使いながら食事を作ります。例えば「五味」「五色」「五法」と言う言葉があります。それぞれの意味をを見てみましょう。
「五味」とは「甘味」「辛味」「酸味」「苦味」「塩味」の5つの味覚を言います。料理を作る際にはこの5つの味をバランス良く、上手に配す様に気を付けます。何事も精進料理はバランスを重視しているのです。
「五色」は「赤」「白」「緑」「黄」「黒」のこと。色合い豊かにバランス良く配置する事で、ビタミン、ミネラルと言った物がバランス良く取る事が出来るようになります。
「五法」は「生のまま」「煮る」「焼く」「揚げる」「蒸す」の5つを言います。この方法を駆使する事で、同じ物でも味のバリエーションが広がります。物を無駄にしない為の知恵だと言って良いでしょう。
また鎌倉時代に活躍した曹洞宗の開祖である道元(1200-1253)の書いた書に「典座教訓」という物がありますが、この本には料理を作る際の心得「喜心、老心、大心」の3つが書かれております。
「喜心」は心から喜びを感じながら料理を作ることを言います。現代の我々ならば「作ってやるから感謝しろ」という感覚になりますが、逆に僧侶たちの生きる糧となる食事を作る事を謙虚に喜ぶという事です。
「老心」は自己を忘れ、無私に他に尽くす気持ち。「他人のことばかり思いやる」老婆のような心と考えれば良いでしょう。他人が食べるものを作る以上、人が他人との係わりの中で自分も生きてゆく以上、この気持ちは無くてはならないものでしょう。
「大心」とは大きな心で大きく構え、冷静に料理することです。焦って作っても失敗が多くなります。こういう教えはきっと戦いに身をおく武士の心にも響いた事でしょう。
以上、簡単に精進料理を作るときの基本を見てみましたが、我々も学べる事は多いです。物を無駄にしない、つまりは物を大事にする心。これは人を大事にする心でもあります。これが無ければ人をゾンザイに扱う事にもなります。例えば大豆が1000粒ある時でも、1粒1粒は世界にたった1粒の大豆なのです。人間もそうでしょう。「あんな人間(または女、男)はいくらでも代えがきく(他に居る)」等と思い、人をゾンザイに扱ったり、安易に切り捨てたりする考えはあまりに消費社会的ではないかとも思います。
また「大心」ですが、これは自分の実力に見合ったことをするべき、ということとは言えないでしょうか?自己の実力の範疇を超えた物を作ろうとすれば焦りが生まれます。そして無計画に無理を重ね、自分のサイズの殻を突き破ることを続ける行為は、他人に迷惑をかける悲惨な失敗を招きます。
有るべき姿を見極め、地に足をつけて冷静に事を運ぶ。これが「大心」だと言うのは全く私の妄想かもしれませんが、こう考えるとやはり日常の茶飯事には生きる知恵が隠されていると言えます。道元は、目立つものばかりを求めず、真実に気づく力を養えと言っているのでしょう。  
イモの話
「イモ」と言うと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?私はジャガイモやサツマイモと言ったホクホクした物を思い浮かべますが、昔の日本人にとってイモとはそういうホクホクとした物ではなかったようです。
ジャガイモ(馬鈴薯)は南米が原産地で安土桃山時代に海外からもたらされました。ジャガイモの「ジャガ」とは「ジャガトラ」と言う地名から来たものです。ジャガトラとは現在のインドネシアの首都ジャカルタのこと。全国への普及は明治時代以降ですから、イモとしてはかなりの若輩者と言う訳になります。
サツマイモ(甘藷)も同時期の上陸で、薩摩地方(鹿児島県西部)では琉球イモと呼んでいることから、琉球(沖縄)より薩摩へ入り、そこに定着したと考えられます。
このイモが全国へ広まりを見せたのはジャガイモより少し早く江戸時代でした。サツマイモに目をつけたのは青木文蔵(昆陽)という人物で、飢饉対策の作物としてサツマイモを薩摩から江戸へ取り寄せたところから全国へ広まり始めます。当時はサツマイモには毒があるという噂もあり、新井白石のように「そんな危険な物を食べさせるとは何事か」と主張する人もいましたが、青木は押し切ってサツマイモの栽培に着手します。やがて江戸の街には現在のヤキイモ屋さんにあたるイモ屋さんが開店する様にもなりました。
しかしサツマイモも所詮は江戸時代以降の若輩者です。それ以前、イモといえば何だったのでしょうか?
奈良時代を覗いて見ると「ウモ」と呼び、サトイモやヤマイモがありました。サトイモもヤマイモは「ホクホク」のジャガイモやサツマイモとは異なり、何れも「ネバネバ」「モッチリ」「ヌルヌル」とした食感が特徴です。つまり昔の日本人にとってイモといえばネバネバとしたものを思い浮かべた事になります。
実はこのイモのネバネバ感が非常に日本人の食味を特徴付けていると言う説があります。稲作が広まる前、我々の先祖は非常に長い間イモを中心として、クズ、ワラビ等を食べていました。現在も地方の祭ではイモを潰して食べたり、またイモを土中に埋めて発酵してから食べたりすることがあります。他に海藻類にしてもネバネバとしたものが多く、これらのものが我々の「ネバネバ嗜好」を決定付けたと言うわけです。
やがて縄文時代後期、米という新しい食物が大陸より日本に入ってきます。最初に流入した米は餅米だったという話もありますが、この新しい食べ物はネバネバとしており、祖先達の嗜好にマッチした事でしょう。稲作文化の土壌には芋の文化があったことは見逃せない部分といえます。
麦を作るインド以西の文化圏の人々には、このネバネバが気持ち悪いと言う方もおられるそうです。一方の我々は食べ物に対して「パサパサしている」と言う場合、不味いと言う意味をこめる事が多いですね。また国内に目を移すと、粉物(小麦)の食べ物の伝統の長い関西では納豆のネバネバが嫌いと言う事が多く、米を良く食べた関東では納豆のネバネバが好きという風に言われるのもこれと関係があるのかもしれません。
最後に私は「イモ」ではなく漢字の「芋」に直すと、ネバネバ系のイモの姿が頭に浮かびます。新しいイメージのあるカタカナ語ではなく、古いものを匂わせる漢字でサトイモになるということでなのしょうか?  
仏教と食
「おはぎ」と「ぼたもち」の違い。これを知っている方は意外と少ないようです。私自身、おはぎは粒アンでぼたもちがコシアンなどと決め付けておりましたが、実はこの違いは仏教に由来します。
「おはぎ」と「ぼたもち」は基本的に同じ物で、実は違うのは食べるタイミングだけなのです。「ぼたもち」は漢字にすると「牡丹餅」で、「おはぎ」は「お萩」。こう書いてみるとピンとくる方も居られるかもしれません。「ぼたもち」は牡丹の季節、春のお彼岸に食べるものの事です。一方、「おはぎ」は萩の季節、秋のお彼岸に食べるものなのです。
暑さも寒さも彼岸まで等と言われたそうですが、お彼岸は本来は悟りを開く為の修行期間です。彼岸とは「彼の岸」と言う事で、「此岸」と対になる言葉。彼の岸とは悟りの境地で、苦しみに満ちている此岸とは異なる解脱の境地を言います。だから彼岸中、仏道修行に励む訳ですが、日本では祖霊崇拝の慣習と合わさり、お墓参りに行くようになりました。この時に「おはぎ」や「ぼたもち」を先祖に捧げる事で、先祖を慰め、自分自身も功徳を積むというわけです。ですから自分たちが食べる為のものでもありませんね。
他に食で仏教に由来するものを拾って見ると、例えば「甘露煮」の「甘露」と言う言葉も仏教の言葉です。甘露とは古代インドの神々が飲む不老不死の飲み物を言ったそうで、甘く美味しい物をさします。
喫茶店の「喫茶」も仏教の言葉です。喫茶は禅宗の好む言葉で、単に「茶でも飲んで行け」と言う事を表しますが、禅僧は物事の本質、修行の本質と言う物は日々の普通の生活の普通の行為の中に存在すると言う風に考えます。従って茶を飲む事に関しても無心にその行為を行う事で修行をします。この考えは茶道という形に昇華されますが、現在の「喫茶」店で修行をしている人は見られません。
また良く言う「醍醐味」と言う言葉は醍醐という食べ物を表しますが、これも仏教の言葉です。
奈良平安時代、貴族・僧侶は乳製品を食しました。しかし牛乳は保存が難しいものです。そこで奈良平安期の人々は牛乳の保存をする為に、これを煮詰める方法をとりました。煮詰めた物は「蘇(ソ)」と言います。これは現代のコンデンスミルクの様な状態にあたる物の様で、当時の食べ物としては非常に栄養価が高く、現在の栄養ドリンク的な存在だったと思われます。
蘇の脂肪分を集めると「酪(ラク)」と言う物になります。酪は今の酪農の字に残っておりますが、見た目は固形で、バターのような状態でしょう。
牛乳の状態から何度も精製し、第五が醍醐ということでしょうか、第五番目の最終段階に達するといよいよ醍醐になります。この醍醐は大量の牛乳からほんの少ししか取れない貴重な物です。そして物事の真の素晴らしさや、深い味わいをさす「醍醐味」は仏教では至上の釈迦の言葉、教えをいうものになりました。
因みに醍醐の味は江戸時代の学者・平田篤胤によると「はなはだ美味い」のだそうですが、この醍醐を再現して食べてみたTV番組では、レポーターは残念ながら味がしないという様な事を言っていました。  
おせちの話
おせち料理は日持ちも良く、料理作り担当者も当分はノンビリすることができる料理ですが、漢字に直せば「御節」で、人日[じんじつ](1月7日)、上巳[じょうし](3月3日)、端午[たんご](5月5日)、七夕[たなばた](7月7日)、重陽[ちょうよう](9月9日)の「五節供」の際、朝廷の宴会で出された料理がもとです。
節の行事は中国から伝来しましたが、ひな祭りや端午の節句、七夕は今も残っている風習。
私などはクリスマス、バレンタイン、ホワイトデーまで色々なイベントがゴチャゴチャに混在しているため、上に挙げた5つの祭が同一線上に連なった祭だとは思っておりませんでした。しかし配置を見ると、きれいに奇数の月に配置され、生活が短調にならないように節をつけていることが分かります。
おせち料理は重箱に入って出てきますが、正式には一の重から四の重まであります。
一の重には口取りと言ってオトソを飲むための料理(黒豆、田作り、栗キントン、伊達巻等)を入れます。
二の重には焼き物。三の重には家庭的な祝い煮物。四の重には祝い肴または酢の物を入れます。ちなみに四の重は「しのじゅう」とは読まずに「よのじゅう」と読みます。「し」は「死」に通じるからです。
では料理の中身について見てゆきましょう。
伊達巻は伊達に「お洒落で洗練されている」といった意味があるように、華やかな人になること、または巻いてありますから、巻物をよく読む。つまり勤勉になることを意味すると言います。
考えてみれば伊達という苗字の方は名前からして、「お洒落」ですからプレッシャーがかかりますね。しかし伊達という苗字はもとは「館(たち)」から発生したもので、「館・または城を建てた人」という意味ですから、プレッシャーを感じる必要はございません。
また広辞苑で、伊達巻には「女が着くずれを防ぐため、帯の下に締める幅の狭い帯」とありますが、直接的にはこちらが語源かもしれません。
エビは腰が曲がるまで健康で長生きできるように、という意味。人気の栗キントンは漢字で「栗金団」。金塊をイメージさせるもので、金持ちになることを意味します。
黒豆は、黒という色が邪気を払い不老長寿をもたらす色とされていることから縁起物とされています。豆にはマメに暮らす、という意味があるそうです。マメにはもともと「誠実、勤勉」などの意味があります。
数の子はニシンの卵ですが、ニシンは古語で「カド」と言い、「カドの子」「数の子」に変化したものだそうです。意味は読んだ通り、子孫繁栄でしょう。
昆布巻きは「養老昆布」と書いて、「よろこぶ」と読みます。「養老」ですから意味は不老長寿。
どうも駄洒落が多いと言われそうですが、日本人はこのように言葉に魂が宿ると考え、縁起の良い事にも悪い事にも語呂合せを多用しました。駄洒落は「親父ギャグ」などとよく言われ馬鹿にされていますが、若い人も「今のは親父ギャグ」と言い訳しながら、結局は駄洒落が多いようですね。  
ヒエ、アワ
昔話や教科書で「貧しさの象徴」として聞くことの多いヒエとアワ、実はもともと人間の食事において非常に輝かしい地位を担ってきました。この2つ、専門家でもないと区別が出来ない程似ておりますが、ヒエやアワは小鳥の餌に使われるので、黄色くて小さな粒々の姿を見たことがある方も多いかと思います。
アワはイネ科に属し、東アジアの原産です。日本には古く渡来し、庶民にとって長い間、米よりも主食の座にありました。粟飴(もち米と粟から作られた飴)、粟飯(米に粟をまぜて炊いた飯)、粟おこし(粟と砂糖・水飴等で作る菓子)といったものが残っているのも、過去の栄光をしのばせます。
また、アワの名はそれとなく地名に残っております。広島県東部には出雲(島根県)と備後(広島県)を結ぶ粟石峠という峠道があります。また岡山県北東部には「東粟倉」などの地名が見られます。奈良時代、飢饉の為の蓄えとして倉に一定量の穀物を納める制度「義倉」がありましたが、この穀物はアワでした。岡山県の粟倉と言う地名に関係があるのかもしれません。
また兵庫県の淡路島は「粟路」とも書きます。「淡」の字は「阿波」と道義で、淡路は「阿波への道」を表すと言いますが、「阿波」(現在の四国徳島県)も粟食と関係が深いのかもしれません。
これを考える時、「淡い」「淡々とした」という言葉は粟と関係があるのかもしれないという気がしてきます。意味に「色や味が薄い」「軽々しく軽薄」がありますが、粟の事を言っているのではないでしょうか。
一方、ヒエもイネ科に属し中国原産ですが、日本には古くから渡来したと言われます。縄文期、ヒエは主穀的な役割を長く持っていた言う話もあり、「ヒエは日本が原産」だと主張する方もおられます。
ヒエの名が残っている場所の代表格は、皆さんご存知の「比叡山」でしょう。比叡は「日吉、稗叡、日枝」とも書き、稗の名が残っております。日吉(ヒヨシ)の地名は東京などにも残っておりますが、これは比叡山の麓にある日吉大社の末社がそこにあったことによります。
比叡山は天台宗という一派の総本山ですが、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗といった多くの宗派の起源となった、言わば日本宗教の総本山と言えます。比叡山の延暦寺は788年、最澄が一乗止観院を立てた事がもとになりましたが、これ以前から信仰の対象とされていたようです。今だ神事においてヒエを備える場所もあると言いますし、ひょっとしたら比叡山が信仰の対象になった理由として、ヒエが沢山取れたからだったのかもしれません。
米が広大な平地で作られたのに対し、上記の場所のようにアワやヒエは山や丘のような場所で良く作られました。方法は焼畑農法などの古代的農法で作られたようですが、古くからの食べ物であったことを窺わせます。
しかし米を食べる時代には、昔はよく食べられた筈のヒエが逆に雑草と見られ、忌み嫌われるようになりました。そう考えると一体雑草とは何なのかという疑問も湧いてきますね。  
日本食雑感
人間の歯は一般に32本あるといいますが、そのうち歯を性質ごとに分けると臼歯、前歯、犬歯にという分け方ができます。この3種類の歯、実は面白い割合で生えております。
臼のように物を磨り潰す役割をもつ「臼歯(キュウシ)」は穀物を食べるための歯といえますが、全体の60パーセントを占めています。次に前歯は噛み切るためのもの。野菜を食べるための歯と考えられますが、この前歯は全体の25パーセントです。そして最後に犬歯。言うまでもなくこれは肉を裂くための鋭い歯ですが、これが残る15パーセントとなります。
実は面白いことに、歯の割合と人間が摂取すべき食べ物の理想的バランスは一致します。つまり肉類から見ると、大体、肉の倍は野菜を食べる。そして野菜の倍以上穀類を食べるのが良い食べ方ということになります。
日本食は上の条件を綺麗に満たしているとも言います。我々の食生活は多様化とともに伝統の規範を破壊してきましたが、日本食は他国の食事と比べても実にバランス感覚に優れており、1970年代後半にアメリカ上院特別委員会の出した報告では日本人の食生活が理想的であるとされたほどでした。
日本列島に住んだ我々の先人達は武人、僧侶を中心に医食同源を心がけました。そして、そのきめの細かい国民性からより食を洗練し続けました。時間をかけ熟成された日本食は繊細で美味しく身体にも良い、まさに日本人の英知の財産であると言えます。
ところで現在の日本人には発想力が無いだとか言う批判があります。発想力が全く無いとは言えないと思いますが、一つ素材を与えられると、それをきめ細かく掘り下げる「職人気質的」な部分が日本人には強いと言えるでしょう。
鎌倉期に作られた日本刀は世界最高の剣とも言われておりますし、1543年日本に伝来した鉄砲は新しい発想は生みませんでしたが、幕末の頃、日本産の鉄砲の精巧さは極致まで高められた逸品でした。
その極致に高める過程で「-道」という風に人間の生きる道にまで高めるのは我々の特徴でもあります。「剣道」「柔道」、更には現在では「ラーメン道」「野球道」という使われ方までもします。これは精巧さの上に、単なる技術である事に飽足らず生き方に対して、哲学的美学的な味付けをしたがる日本人の性質です。
私個人は、こういう味付けは重苦しくてあまり好きではないのですが、しかし自分の職や生き方への自負であり、だからこそそれが自分を律するという倫理でもありえたものです。自分の職業、その極めて狭い本分を世界的な視点から捉えなおす行為は人が見苦しく生きないためにも、それぞれの職業をもつ人にもっと有っても良いのではないでしょうか。  
江戸時代の農民像
「農稼録」という書に、幕末の尾張(今の愛知県辺り)農民の姿が描かれております。この書は、特に失敗する民の姿が経営や生き方にも参考になり、読んで面白いものです。
この書の内容を簡単にまとめてみましょう。
○良き民:正直で倹約家。農業に専念して、収入も高い。正直さは、時に損も引き起こします。しかし正直さの引き起こす損は、人に信頼感を呼び起こし、最終的には大きな利が生まれることになることも多いでしょう。
○平らかな民:自己の能力の7割から8割の田畑を作る。農業以外に目を向けず、暮らしは豊か。自分を知り、妄想的な欲望に支配されなければ、豊かな暮らしがおくれるということでしょう。
○むさぼる民:能力以上に、たくさん作ろうとして、結果、手入れが行き届かなくなってしまう。「もう少し、あと少し」という欲望が失敗をもたらす例でしょう。
○いらつく民:いつもイライラして、先走って行動するため、失敗ばかり引き起こし、収入も少ない。
○遅し民:行動がのろく、適時適作が出来ないので、収入が少ない。いらつく民とセットで考えると良い項目です。早すぎてもいけなく、遅すぎてもダメ。これは計画をしっかり練ることで回避できすますね。
○おろそか民:人まねをするが、せっかくのアイデアも、いい加減で形ばかり。結果、失敗して、収入が少ない。これは倒産する会社に多い行為だといいます。すぐれたテクニックも、型ばかり導入すれば、効果は期待できません。それでも人は、効果が出ないと「こんなテクニックは役に立たないじゃないか」と、テクニックのせいにしてしまいがちです。「あれもやったし、これもやった。でも全部ダメだった」と思った時は、要注意かもしれません。
○貧民:人並みに働いているのに、不運などで貧しいまま。不運はどうしようもありません。しかし「自分は運が悪い」と嘆く人の多くは、運が悪いのではなく、実は、その人の行動自体が不運のように見えるものを巻き起こしていることが多いのかもしれません。これに気がつけば、不運と思っていたものの多くは消えてゆくのでしょう。
○癖民:頑固・偏屈なため、一つのやり方にこだわり、より良い方法を受け入れないため、貧しい。「頑固一徹」は魅力でもありますが、それが通じない時は、新しいものに目を向ける柔軟さも必要ということでしょう。私の実家の近くに、頑固一徹なのに、まずいラーメン屋がありました。こういう頑固さは少し笑えますけれども。
○苦民:農業をあまり勉強しないため、働いても働いても収穫がたくさん得られない。経験と、それを裏打ちする知識・理論が成功の秘訣なのは、今も変わりません。時間は「有るもの」でもも「無いもの」でもなく、「作るもの」だと言います。時間を作り、多くの知恵をつけた人は成功への最短距離に立ったといえるでしょう。  
 
平安鎌倉時代の飢饉

 

平安時代の飢饉
「長承(ちょうしょう)の飢饉」(1134)、保元の乱前年の「久寿(きゅうじゅ)の飢饉」(1155)、「方丈記」(鴨長明)に描かれた「養和の飢饉」(1180-81)などである。養和の飢饉について鴨長明が「或は春夏ひでり、或は秋大風、洪水など、よからぬ事どもうちつづきて、五穀悉くならず」と記している。やはり気候変動が飢饉の原因だったのだろう。農耕は安定して食糧を確保でき、人口増加と社会の発展に役立ったが、ちょっとした気候の変動が作物の生育に影響し、大きな被害をもたらすこともある。それを回避するために、古代より早稲、中稲、晩稲などの品種改良に励んで田植えの時期をずらす農法を行ってきたのだが、時に自然の脅威は人間の叡智を超えてしまうのだ。
ちなみに、長承の飢饉の頃に生まれ育った法然や栄西、重源らによって、養和の飢饉の頃から新たな仏教活動が展開されていく。また、保元の乱、平治の乱に象徴されるように、武士の活動もこの時期から盛んになっていき、養和の飢饉の時期はまさに源平の争乱期であった。
度重なる飢饉は、平安時代から鎌倉時代への、社会の大きな転換の原動力となったのかもしれない。  
寛喜の飢饉
(かんきのききん)1231年に発生した大飢饉。鎌倉時代を通じて最大規模。
飢饉が生じた前後の時期は、天候不順な年が続いており、国内が疲弊した状態にあった。既に1229年には、飢饉を理由に安貞から寛喜への改元が行われている。
年号が改まっても1230年も天候不順は続き、旧暦6月に武蔵国で降雪が記録される異常気象に見舞われた。全国的に長雨による冷夏、台風の襲来が続き、農作物の収穫はままならない状態となった。このため翌1231年には「天下の人種三分の一失す」とまで語られる規模の餓死者を出すに至っている。
特に京都、鎌倉には流民が集中し、市中に餓死者が満ちあふれた。幕府は備蓄米を放出すると共に、鶴岡八幡宮で国土豊年の祈祷を行っている。翌1232年、貞永への改元が行われた。  
正嘉の飢饉
(しょうかのききん)正嘉二年(1258)、幕府は来年、将軍宗尊(むねたか)が上洛することを発表し、供奉(ぐぶ)する御家人たちの選定をはじめた。東の統治者と西の父上皇との会見。これはいわば幕府と朝廷、武家と公家の統治者としての一体化を世にしめす行事、いままでになく大がかりの準備が進められた。しかしその負担で土民を苦しめ、逃散(ちょうさん)させることなどがあってはならない、と幕府は厳重に指示していた。あくまでこれは「撫民」の「政道」の偉容をしめすものとして実現されねばならなかった。
五月には京都での御所の建設が六波羅(ろくはら)に指令され、準備は着々と進められていたが、その矢さき、八月一日に荒れ狂った暴風は、この計画をうちくだいた。「諸国の田園、悉(ことごと)く以て損亡」といわれ、将軍上洛は「民間の愁(うれい)あるにより」、延期されたのである。これが正嘉の飢饉のはじまりであった。
翌正元元年(1259)は、天下飢渇(きかつ)、疫病流行といわれ、都では死人を食べる尼があらわれたという。山野河海には、飢えをしのぐため山の幸、海の幸をもとめる人々が群がった。それは山海への自由な立ち入りをおさえようとする地頭の制止をこえるほどのはげしい勢いであった。
もともと山野河海には、だれでも立ち入ることができたはずである。そこに境をたてて制約を加えようとするものに対する人々の根強い反発が、この危機にあたって、にわかに表面化してきた。この動きに対しては、幕府も「過分の儀あるべからず」という条件づきで、自由な立ち入りを認めざるをえなかったのである。
それでも、寛喜(かんぎ)の飢饉のときと同様、事態は惨憺(さんたん)たるものであり、各地の荘園では死亡、逃亡するものが数しれずあった。しかしいまの山海への立ち入りにもみられるように、人々の反応のしかたは、寛喜のときとはだいぶちがっていたようにみえる。かれらは飢えにうちひしがれてはいない。生命のぎりぎりの危険にあたって怒りを爆発させ、生きる道を強くもとめて進もうとする。
「撫民」の破綻
紀伊国の山間部の阿※河(あてがわ)荘でも、飢饉はひどく、逃亡、死亡する百姓たちが多かった。そのなかで、地頭湯浅宗信はつぎのような趣旨の訴状を六波羅にだしている。
飢饉のため、関東では臨時の課役をやめ、山海を禁制すべからずとの御教書(みぎょうしょ)を諸国にくだしており、領家は倉をひらいて百姓に食糧をあたえ、恒例や臨時の公事もやめているというのに、この荘の預所(あずかりどころ)は一塵(いちじん)の食糧もあたえないばかりか、力者(りきしゃ)を放って数千の材木を責めとる。このため、餓死するものは数しれないありさまである。そのうえ「来納」といって、春のうちに多くの米を責めとり、地頭の住宅に押し入って、所従二人をからめとり、京に進めてしまった。そのうちの一人は、懐妊していたので、父母が泣き悲しんだにもかかわらず、強引につれ去った。
飢饉は天災ではなく、人災であるといわんばかりの地頭の口ぶりであるが、じつは、この発言は、領家寂楽寺(じゃくらくじ/京の白川寺喜多院)の預所播磨法橋(はりまほっきょう)が、材木の津おろしとか京上の人夫とかいって百姓を使いまわすので、地頭の召しつかうべき百姓がなく、八条篝屋(かがりや)番役(湯浅氏は在京人)が勤められないという、地頭の口実としていわれており、まえからの預所と地頭とのはげしい対立のなかで発せられたことばであった。
やがてこの地頭自身が「ミミヲキリ、ハナヲソギ……」という乱妨(らんぼう)を百姓たちから訴えられるのであり、乱妨をはたらく点では地頭も預所も、なんら異なるところはなかったのである。
しかしここでは飢饉が地頭の預所に対する攻撃と番役懈怠(けたい)の口実となっている。そしてこの地頭のことばの背後には、百姓たち自身の窮状と預所に対する鬱積した憤懣(ふんまん)があったことはまちがいなく、百姓たちは両者の対立を利用しつつ、当面の圧迫者預所を退けるため、地頭をしてこの発言をなさしめたとすらいいうる。百姓たちも、飢饉を逆手(さかて)にとり、負担を軽減させる機会としたのであった。
瀬戸内海に浮かぶ小島、伊予国弓削島荘(ゆげのしましょう)は、塩を年貢とする荘園であるが、ここでも正嘉の飢饉によって多くの死亡者・逃亡者をだした。
このころ弓削島荘は東寺供僧(とうじぐそう)の支配下にあったが、その供僧を東寺に設けるにあたって貢献し、宣陽院門(後白河法皇の息女)にはたらきかけてこの荘を供僧の供料荘として寄進させた仁和寺菩提院の参河(みかわ)僧正行遍(ぎょうへん)は、供僧の荘園経営に、不満をもっていた。
そこへ飢饉がおこり、百姓たちの年貢未進がめだってくると、行遍はそれをしおに荘務に介入、練達の荘園経営者でかれの腹心の真行房定宴(しんぎょうぼうじょうえん)を現地に派遣した。定宴は地頭と交渉し、和与(わよ/示談)の下ごしらえをするとともに、百姓を招きよせて、荘のたてなおしに努力している。
しかし、荘務権を行遍にうばわれた供僧たちは、この処置に不満をもち、以後、菩提院と東寺供僧との関係はしだいに険悪になってくる。飢饉はここでも荘園支配者たちのあいだにひびを入れ、その対立が顕在化する契機となっている。
寛喜のときとのちがいは、このような点にはっきりあらわれているといえよう。飢饉はそれに耐えきれずに死亡する多くの犠牲者を一方でだしつつも、他方では、潜在し、鬱積していた矛盾・対立を爆発させる導火線となった。
それはある意味では時頼の「撫民」政策自体がもたらした百姓の成長によるものであると同時に、かれがととのえてきた体制の根底におさえられていたものの噴出でもあった。「遊手浮浪」の人々も、百姓も、地頭も、領家も、それぞれにみずからの利害を追求して動きはじめたのである。
幕府の抑制にもかかわらず、これがしばしば「過分の儀」におよぶことはとうぜんありえた。そうした人々をふくめて、「悪党」に対する幕府の禁圧は、しだいにそのきびしさを増してきた。「撫民」の「政道」は早くもここに破綻の様相をあらわしはじめたのである。
正元の落書と山僧の蜂起
飢饉の年が明けて正元二年(1260)、院の御所につぎのような落書があらわれた。
年始凶事アリ国土災難アリ京中武士アリ政(まつりごと)ニ僻事(ひがごと)アリ朝議偏頗(へんぱ)アリ諸国飢饉アリ天子二言アリ院中念仏アリ当世両院アリソソロニ御幸アリ女院常ニ御産アリ社頭回禄アリ内裏焼亡アリ河原白骨アリ…園城寺ニ戒壇アリ山訴訟二道理アリ…東寺ニ行偏アリ南都ニ専修アリ…武家過差アリ聖運ステニスエニアリ
あらゆる意味で、これは時頼の「政道」に対する痛烈な皮肉であった。「武家過差アリ、聖運ステニスエニアリ」。新時代をひらこうとした時頼のすべての努力をあざわらうがごとく、落書はその諷刺(ふうし)をむすんでいる。しかしこれはただたんに一般的な諷刺ではない。「園城寺ニ戒壇アリ、山訴訟ニ道理アリ」の一句は時頼の政治そのものへの直接的批判になっている。
園城寺の僧隆弁(りゅうべん)は文暦元年(1234)に鎌倉に来て以来、「有験無双(うげんむそう)」といわれ、幕府に密着した存在であった。とくに時頼は宝治合戦の勝利ののち、隆弁に懇請して、鶴岡八幡宮の若宮別当(わかみやべっとう)に就任させたほど、深くかれを信任していた。もともと園城寺は幕府との関係が深かったのであるが、隆弁はこの機会をとらえて、園城寺興隆のことを正式に幕府の政策とさせることに成功した。
この強力な背景を得て、園城寺は正嘉元年(1257)、山門の妨害によってはばまれつづけていた独自な戒壇設立を一挙実現すべく、朝廷にはたらきかけた。山徒たちは蜂起し、神輿を動かしてこれをはばもうとしたが、隆弁の奔走によって、ついに正元二年、園城寺にとってはじつに二百年来の希望であった三摩耶(まや)戒壇が、いったん実現したのである。
しかし山門の怒りと嗷訴(ごうそ)は、時頼たちの予想以上にはげしかった。諸堂を閉じ、日吉(ひえ)・祇園・北野の神輿を奉じた山僧は大挙して入洛、六波羅の武士と衝突するにいたった。それはまさしく時頼の政権そのものとの激突であった。さきの落書はこの動きのなかで書かれ、時代の矛盾を鋭くついたのである。
この山門の攻撃のまえに、時頼と後嵯峨上皇は、結局後退せざるをえなかった。いったん園城寺に認めた戒壇勅許の官符を、朝廷は返上させることに決した。「天子ニ二言アリ」。園城寺側も無念の思いをもってこういったに相違ない。  
 
飢饉 / 気象との関連

 

アジアイネの栽培の起源については、アッサムから中国の雲南にかけてであるという説が有力である。またこれが日本に上陸するまでの経路についても諸説があるが、現在では中国南部から対馬海流にのって、九州へやってきたという説がもっとも有力である。
日本列島における最初の稲作、すなわち北九州での縄文晩期の稲作は、1世紀初に近畿に,3ー4世紀の間に関東に達したといわれる。さらに平安時代(9世紀頃)には奥羽地方に拡大し、鎌倉時代には本州最北部まで及んだとされる。イネは日本の風土によくあった。水と太陽の光をことさら好み、とりわけ穂が成長して実を付ける夏の一時期には高い気温を必要とし日照時間にも敏感である。高緯度に位置するがモンスーン地帯属し多雨で夏暑い日本にはよくあった作物といえよう。
米作は生産性が高く、アダムスミスも「米作地は、最も肥沃な小麦畑よりもはるかに多量の食物を生産する」「仮にその耕作により多くの労働を必要とするとしても、このすべての労働を維持した後の残る余剰は,小麦の場合よりはるかに大きい」といっている。
さて、普通,寛永の飢饉,享保の飢饉,天明の飢饉、天保の飢饉が江戸時代の四大飢饉とされる。また東北地方ではこのほか宝暦の飢饉があげられる。このうち徳川中期の享保、天明、天保の三つを取り上げて三大飢饉ともされる。しかし享保の飢饉は、後二者と異なり、発生地域は西日本でありまたウンカの大量発生がその原因であって、次の年は一転豊作となり問題はなくなった。江戸時代中期以降飢饉が特に大きい社会的影響を及ぼすようになったのは江戸が都市として繁栄し食糧の供給を東北地方に求めるようになったことによる。ここではその時代,東北地方をおそった天明、天保の飢饉について主として気象との関係について述べよう。
江戸時代(1600年代)は、地球全体がいわゆる小氷期とよばれる現代より平均気温が2、3度低い状態にあったことが、屋久島の杉の年輪や,グリーンランドの氷床のコア採取から推定されている。そして江戸時代には各藩が日記を付けるようになり、日々の天気の記載が残されいる。南部藩では,天候不順、低温寡照、リン(雨冠に林)雨,リン雨洪水,早冷などの冷夏の記録がある。津軽藩では藩の創設期,1600年頃,冷夏の規模が最も大きく,八月に霜が降ったり、雪が積もって稲の穂が黒くなって枯れた年があったという。天明二年(1782)には四月下旬より風雨の日が続き,土用になっても冷風がやまず大霜が降り綿入れを着るほどであったとも記録されている。今日テレビの気象予報を見ていても東北地方は関東以西と違って明らかに気温が低い。
東北地方に冷害を及ぼす気象条件に二つのタイプがあるとされる。
その第一はヤマセ型冷夏である。
オホーツク海方面に高気圧が発生停滞し、この高気圧から吹き出す低温の風が親潮(寒流)の海面を吹走する過程で霧や層雲を伴うようになる。この気流が東北地方の太平洋岸から内陸へと吹き込む。土地の人はこの気象,夏季にしては低温で霧や層雲を伴った風をヤマセといった。このような冷夏の続く天候を「ヤマセ型冷夏」と呼ぶ。ヤマセの持続日数は一般には5日前後のことが多い。しかし、20日以上、ときには2ヶ月以上に及ぶことがある。ヤマセが吹き始めるのは5月下旬から、オホーツク高気圧の衰退する7月中頃まで吹くのが一般的である。この高気圧の勢力が一方的に強く長期に停滞すると、東北地方はヤマセの状態の天候が続き、一方梅雨前線ははるか本州南方に停滞するため、関西以西の太平洋側で降水量は少なくなる。その結果、北日本は大冷害、西日本は干魃となる。また東北地方南部は高気圧の縁に形成される梅雨前線による長雨で日照不足となる。図−1にヤマセ型の気象の模式図を示す。
奥羽地方の背骨の奥羽山脈にヤマセが遮られ、太平洋側、すなわち東側では、冷風が吹き寄せ、雲や霧に遮られて日照が少なくなるが、山脈を越えた日本海側では、その影響のないことを示す。
その第二は北冷西暑型冷夏である。
ヤマセ型はむしろ初夏の気圧配置としては一般的であるが、これと違って夏としては異常な気圧配置となる場合がある。地上天気図ではオホーツク海に高圧部が認められることが少なく,日本付近は南高北低の気圧配置であるにかかわらず、北日本一帯では冷たい風が吹き,夏でありながらすでに秋の天気模様となる場合である。上空では偏西風が強く北極から寒気が流入している。これを「北冷西暑型冷夏」という。高緯度ほど低温になり地形の影響は少なくヤマセ型のような太平洋側と日本海側と言った地域差は少ない。低温の度合いはヤマセ型より厳しいが、気温は低くても雲による日照のさえぎりは少なく、夏の日照が水田や作物を暖めるので作物の被害は相対的に軽い。江戸時代にお盆の頃に霜が降ったというのはこの型の強烈な場合と考えられている。
このような気圧配置からくる気象の影響をさらに大きくするものに火山の噴火がある。
火山の噴火による大量の灰は、地球全体を覆い日照を遮り日傘状態をもたらす。天明の飢饉はヤマセ型冷害の始まった翌天明3年(1783)浅間山が噴火し事態を悪化させた。天保の飢饉については中米コクゼイナ火山の噴火(1835)の影響があるとされる。
図−2は、古寺の過去帳から死者の数を求めたものである。上図が天明の飢饉の場合で、下図が天保の飢饉の場合である。前者はヤマセ型冷夏によるものであり、後者は北冷西暑型冷夏によるものであることが推測される。
江戸時代中期には、商品生産の発展によって、農民間の貧富の分化が激しくなっており、天明の飢饉では,貧農、小作人、借家人、奉公人、日雇稼ぎの層が厳しい被害にあった。領主や富裕民によって行われた救小屋の施粥,施米に窮民が殺到した。盗難放火、食人の記録も残されている。飢饉を激しくした一因は領主の政策にもある。三都商人から借財していたため、年貢米など備荒の貯米分までが江戸、大阪に回送された。農民一揆や打ち壊しが発生した。天保の飢饉は、天明の飢饉と同様,餓死、疫病,流亡などの惨状を呈したが、天明の飢饉が比較的短期間に集中して死者や被害を出しているのに対して、北陸、四国、九州を除く地域的に広い範囲で長期間にわたり慢性的な状況となった。天保の飢饉では、天明の飢饉の経験が生かされ、施粥や施金を行い、各種の普請を起こし、囲い米の放出にもつとめた。食料使用の諸品(酒など)の製造禁止等の施策も速やかに行われた。しかし全国的な米価騰貴が起こり、飢饉状況が慢性化することになり、一揆や、村役人、穀商質屋に対する打ち毀しや騒動が激発した。大塩平八郎の乱もその最大のものである。荒廃した農村の復興は天保の改革の一つの柱となり、二宮尊徳その他の活動、救荒書,農書の出版が盛んに行われるようになった。また、冷害に強いが収量が少ない早生種、中生種、冷害に弱いが収量の多い晩生種の混植等も行われるようになった。また水温の低下を防ぐために水面に鯨油の幕を張るなどの工夫もされるようになった。  
 
信濃国の大災害

 

信濃国の歴史の中では、幾度となく自然災害が繰り返され、多くの人達が死亡したり困窮したりしている。昔から、災害の種類としては、地震・噴火・火災・疫病・台風・豪雨・土石流・竜巻・夏場の低温(冷害)・霜・大雪・雪崩・土砂崩れ・人間による強盗・一揆など種類は様々だが、6種類に分類した。
飢饉はそれら災害の結果、農作物がダメージを受けて食料不足となったものだったり、財産の破壊によって食料の購入が出来なくなったりして発生した災害である。
江戸時代以降の災害が特に多く記載されているが、偶然にその時代に災害が多かったわけではなく、現存する当時の書物に災害について多く書かれているだけである。その中で、鎌倉時代の寛喜の大飢饉・江戸時代の天明の大飢饉は、その他の災害と比べて群を抜いたレベルの災害であった。寛喜の大飢饉については、文献にそれほど詳しく記載されていないが、天明の大飢饉については、多くの文献に記載され、現在でもその傷跡(浅間山鬼押出し)を見ることができる。
飛鳥時代
 627 異変?蝿が集まり雷音の鳴るように信濃国へいたる
 682 冷害暴風信濃国で降霜による被害/信濃国で大風により作物に被害
 701 蝗害暴風いなごが大発生/暴風で作物に被害
 710 疫病信濃国で疫病発生
奈良時代
 762 地震→飢饉発生地震の被害地(信濃・美濃・飛騨)
 763 飢饉旱魃で全国的に飢饉
 776 飢饉信濃・三河・丹後にて飢饉
平安時代
 815 飢饉信濃国
 817 飢饉信濃国
 838 異変?夏場に天より降灰する(原因不明)
 841 地震信濃中心に大被害
 888 洪水土石流を発端に、千曲川に大洪水発生、流域大打撃
 889 強盗関東の強盗団により、信濃・上野・甲斐・武蔵で被害
 944 暴風雨信濃国府庁舎倒壊。信濃守紀文幹圧死
 975 暴風東山道の御坂道が崩壊
1058 暴風雨東山道の御坂道が崩壊
1108 噴火浅間山噴火
1112 噴火浅間山噴火?
1179 火災善光寺焼失(第一回目)
鎌倉時代
1231 寛喜の大飢饉美濃・信濃・武蔵周辺諸国の異常気象による
1268 火災善光寺焼失(犯人/井上盛長)
1313 火災善光寺焼失
室町時代
1363 飢饉木曽川周辺が日照りにより、小規模な飢饉発生
1370 火災善光寺焼失
1448 飢饉長雨により信濃国が飢饉
1450 噴火浅間山噴火
1482 洪水諏訪にて、長雨により大被害。安国寺流失
1495 火災善光寺焼失(犯人/高梨氏)
1566 洪水諏訪郡において水害
1569 洪水伊那郡において水害
 
日本の人身売買(奴隷制)

 

縄文時代
三内丸山遺跡東北部の墓域には列状に墓がならんでおり、なかには他にくらべてすぐれて大きいものがみられる。また、土器に入れられた者、穴に葬られた者の別がある。その明確な差は社会階層をしめすものであろう。さらに、北側の谷から人骨が発見された。墓に埋葬されず、ごみと一緒に廃棄された人がいたのである。さらに、集落構成の規則性や膨大な労力を必要とする巨大構築物からも、当時の縄文社会が、一般にイメージされているような自由で平等な社会とは異なっていたことが推測される。縄文社会においても奴隷が存在していなかったとは断定できないであろう。
弥生時代
107年に倭国王帥升らは「生口百六十人を」後漢の皇帝に献じており(「後漢書」東夷伝)、239年卑弥呼は「男の生口四人、女の生口六人」を議の皇帝に献じ、台与も「男女の生口三十人」を献じている
「魏志」東夷伝倭人条(魏志倭人伝)。しかし、他のの東アジア諸国から「生口」を献じた例は。四-五世紀からしか見られない。生口とは、本来は捕虜を指し、その多くは広義の奴隷とされたと推定されているものの、当時の邪馬台国には「生口」の他「奴婢」がいたことが記載されているため、生口が果たして奴隷であるどうかについては議論の余地がある。
昭和3年9月に、中山平次郎は「考古学雑誌」に「魏志倭人伝の生口」を発表した。この中で中山は、生口を日本初の留学生であると解釈したが、橋本増吉は同じ雑誌に同じタイトルで論文を発表し中山を批判した。橋本の生口論は、捕虜ではないが女王から贈り物として献上された特殊技能の持ち主達、例えば潜水夫のようなものである、とした。この後、二人の間で生口を巡る論争が行われた。途中、波多野承五郎が生口は捕虜であるとし、沼田頼輔がこれに賛同した。昭和5年3月に、市村讃次郎は生口論争に加わりこれを奴隷である、とした。直ちに橋本はこれを批判し、稲葉岩吉も市村説に反論した。しばらく論戦が続くが、しかしやがて橋本増吉は、生口は捕虜を意味しており奴隷の意味も併せ持っていると宣言する。
近世のアフリカで、輸出用の奴隷を獲得する目的で部族間の戦争が激化したことはよく知れれている。弥生時代の倭においても、交易の品物としての生口を獲得するための戦争がなかったかどうかが課題である。
古墳時代
大和朝廷は東北の未服属民を蝦夷、九州では熊襲、内陸部では土蜘蛛と呼んでいる。自分たちだけが人間で、他は動物という認識なのである。征服戦争の際に捕虜の奴隷化が当然のように行われたであろう。
蘇我馬子と聖徳太子の連合軍に敗れた物部守屋の一族は奴婢とされて四天王寺に施入されたことが「日本書紀」に明記してある。
奈良時代
「日本書紀」によると、大化の改新(645)で良賤の別が定められた。中国の制度を模倣した律令体制の整備により、奴婢の身分が明確になり、良民と奴婢の間の子は奴婢の子とされた。奴婢の数は当時の人口の約10%といわれている。留意すべきは、良と賤の子は必ず賤、つまり両親の身分の低い方に帰属させることが決められたことで、身分制を維持するための施策と考えられる。これは大宝令にも受け継がれている。さらに「日本書紀」には大解除(おおはらえ)の祓柱(はらえつもの)に奴婢があてられたことが記述されている(681)。
律令国家においては、賤民は5つに区分された(五色の賤)。良賤間の通婚の禁止はもとより、同類の身分の相手としか結婚できないという「当色婚」が原則であった。国家権力によって婚姻をはじめ、罪刑、衣服などの面での差別があり、良民と一線を画す支配が行われていたことがわかる。
近江の国司解文(746)に当時稲1000束現代の価格でいえば約100万円程度で奴婢を売買した記録が残っている。当時の牛の価格が稲500から600束、馬が800から1000束程度であった。東大寺の大仏建立工事が進んでいた749(天平勝宝元)年、藤原仲麻呂は容姿端麗な15-30歳の奴婢を、東大寺に貢進するように全国に命じた。翌2年、美濃国司の大伴兄麻呂らは美濃国内から奴3人、婢3人を貢進した。このうち、小勝と豊麻呂は、各稲1,000束の代価で買われている。
奴婢には、国家が所有する公奴婢と個人が所有する私奴婢がある。、私奴婢の場合、主人が虐殺しても、役所に口頭の届け出をすればそれで済み、罪にならなかった。
平安時代
戦乱、飢饉、重税に苦しんで逃亡奴隷が続出し、他方では婦女子を略取・誘拐して売り飛ばす「人さらい」や「人買」が横行した。一般庶民の多くは、払いきれない借金に喘ぎ、人身を抵当にして金銭の貸借が行われて、返済できない場合、人質は奴隷化された。子どもの売買が日常化し、特異な例としては、兄が弟を奴婢として売ってしまったり、自分で自分自身を売ってしまうようなこともあった。
「山椒大夫」は、もともと説教師が、ささらをすりながら町の辻で語ってきた歌物語である「説経節」であるが、全くの荒唐無稽な話ではなく「誘拐や人身売買による奴隷化」という「事実」が存在していたことの反映である。
鎌倉時代
「長者」とはもともと名望家や富豪の旧家の主人をさしていた。この長者の家に貴族や高位の武士が旅をするときに泊まる風習があった。このとき長者は自分の妻に身の回りの世話、さらには夜伽の相手、いわば売春接待をしていた。その後、客の接待のために専属の女性を雇うようになり、鎌倉時代中期以降は、それが営業化して娼家のようになったという。
戦国時代
九州南部の戦国大名島津氏の日記・覚書・軍紀には、戦闘に伴う人の生捕りや牛馬の略奪や田畠の作荒しといった行為が多数記載されている。中には、「人を取ること四百人余り」というものもある。島津氏と隣接した肥後南部の大名である相良氏の年代記には、「いけ取り惣じて二千人に及ぶ」とあり、島津氏の事例は決して特殊なものではなく、戦国時代における大量の「人取り」が決して珍しいものではなかったことが分かる。生捕りにされ連行された人々は、下人や奉公人として働かされた。また、親族のいる者は身代金の支払いで在所に連れ戻されるということもあった。戦場にはこうした生捕りの人々を目当てとした商人とも盗賊・海賊とも言えるような人々がいて、仲介手数料を取ったり売買したりして利益を得ていた。また、ポルトガルなど外国商人により、生捕られた人々が海外へと奴隷または傭兵として売られていくことも珍しくはなかった。こうした「日本国内」の習俗は、朝鮮役の際には朝鮮にも持ち出され、多数の朝鮮住民が生捕りとなり、日本のみならず東・東南アジア各地に売られていった。
人取りや略奪、つまり「濫妨」は戦場で起きる。大名権力も領内での人取りは認めておらず、濫妨の禁止により自らへの支持を取り付けていたところもある。また、敵対勢力の支配下または両勢力の境界にあるような村に対しても、味方に付けば人取りや略奪を禁ずるといった条件を提示して、自らの勢力下に置こうとすることも珍しくはなかった。だから、秀吉による統一が達成され、「国内」の戦場が消滅すると、広域的な人身売買停止令が発布されることになったが、その後も関ヶ原役や大坂陣の際には、やはり人身売買も含めて濫妨が行なわれていた。
では、戦場での濫妨、奴隷狩りはどこまで遡るのだろうか。中世の「公」的行為であった検断・追捕の際の濫妨は凄まじいものがあり、検断者には濫妨に関して大幅な裁量が認められていた。戦場での濫妨の「正当性」はここに由来する。日本では飢饉奴隷(飢饉の時に養った者を下人とすること)と犯罪奴隷(重い罪を犯して死刑になるべき者を許して下人とすること)は正当とされていた。両者に共通するのは、そのままでは失われるべき生命を助けるということであり、これは戦争奴隷にも共通する観念である。
江戸時代
江戸時代になると、幕府は人身売買を禁じたが、年貢上納のための娘の身売りは認め、性奴隷である遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。
街道の旅籠屋(宿屋)で、給仕の女が売春することも多かった。江戸時代に「飯盛り女」と言えば駅妓を指す。また茶屋も売色をすることが目的の「遊び茶屋」が少なからず存在した。
また江戸時代には湯女風呂というものが流行した。これは蒸し風呂があって、女たちが垢を落とし、また当然色を売ったりもしたのである。
公娼制とは幕府や政府といった為政者が売春を公式に管理する制度である。公娼制の存在がはっきりわかっているのは16世紀後半、豊臣秀吉が大阪・京都で認可した遊郭である。その後、徳川家康が江戸城に入城。江戸が繁栄し出すとあちらこちらに遊女の店が出来た。1612年庄司甚内が幕府に提案し、作られた遊郭が吉原である。
近代
明治政府は、1870年(明治3)児童を中国人に売ることを禁止し、「マリア・ルーズ号事件」に関連して、明治5(1872)年に「娼妓解放令」を出した。しかし、本人の意志に基づく売春行為は認めたため、公娼制度は再び発展、「貸座敷」と名称をかえたにとどまった。また、人身売買的な芸娼妓契約や、養子に仮装した人身売買契約などの形で古い慣行が続けられていた。
明治・大正・昭和になっても、たくさんの娘たちが金と引き換えに貸座敷に連れてこられたという。山形県のある地方では9万の人口がいたのだが、そこで2000人もの女が娼妓になって村から消えたという話もある。昭和恐慌と東北を中心とする農村の壊滅的な貧困により、身売りはピークを迎える。
製糸・紡績業が発達するに伴い、農村の年少女子が、わずかの前借金によって奴隷的状態に置かれ、搾取されるようになった。労働時間は10数時間で、牢獄のような寄宿舎での生活を強制され、逃亡者は残虐なリンチを受けた。過酷な労働・生活条件のため、結核などで病死する女工が続出した。このような状態の女子・年少労働者を保護するため、1911年(明治44)工場法が制定されたが、その効果は容易にはあがらなかった。
売春に関連する人身売買=奴隷的拘束問題は解決困難であり、さまざまな対策が講じられたにもかかわらず、今日まで存続している。1946年(昭和21)占領軍は、公娼制度は民主主義に反するとして「日本に於ける公娼廃止に関する覚書」を発したが、日本政府は次官会議によって、私娼取り締まりを名目として旧遊廓と公娼制度を「赤線地帯」に温存する方針を決定した。占領軍は、表面では公娼制度を非難しながら、裏面では占領軍将兵のための売春婦を必要としていた。しかし売春防止法(昭和31年法律118号)が、1956年5月公布され、58年4月全面施行されてのち、売春に関係ある人身売買は激減した。警察庁の統計によれば、売春関連人身売買被害者数は、1955年には13433人であったが63年には4503人に減少している。しかし、暴力団関連、外国女子関連の人身売買的売春は、現在でも後を絶っていない。
北海道のたこ部屋、九州炭鉱地の納屋制度、前借付きの年季奉公など、伝統的な奴隷的拘束制度は、労働関係法制の整備や労働組合運動の発展によって解体された。山形県飛島の南京小僧、山口県大島(屋代島)の梶子など、もらい子制度に隠れた人身売買も、児童福祉法(昭和22年法律164号)違反として取り締まられ消滅した。
日本における奴隷の起源と人身売買  
犯罪に対する刑罰
隋書倭国伝に「盗むものは、贓を計りて、物を酬いしめ、財なき者は身を没して奴となす。」とある。また、「続日本紀」天平宝字四年三月十日の条に「謀反などの罪で朝廷の賤民とされた二百三十三人の奴と二百七十七人の婢を雄勝柵に移して、奴婢の身分から解放し、いずれも良民とした。」との記述がある。さらに、天平神護二年四月二十九日には「大和国の人で高志?登久美唐迴\七人は、諸陵寮に無実の罪を着せられて、公民の身分を奪われ陵戸とされたが、ここで無実であることを訴え出て認められ陵戸の籍を除かれた。」、宝亀元年八月二十九日「初め、天平十二年に左馬寮の馬部の大豆鯛麻呂は、河内国の人、川辺朝臣宅麻呂の息子、杖代や勝麻呂らを偽って告発し、飼馬(左右馬寮に属する雑戸)の名簿につけさせた。宅麻呂らは毎年訴え出て、ここに至って初めて無実の罪の汚名をそそいだ。そこで彼らの名を飼馬の名簿から除いた。」の記述がある。これは、奴隷化が犯罪に対する刑罰として行われたことを示している。
略取・誘拐
「続日本紀」大宝三年四月二十七日「安芸の国の略めとられて奴婢とされた者、二百余人を良民として、本来の戸籍に戻し入れることを許した。」、五月十九日「播磨国揖保郡の大興寺の賤民である若女は、もと讃岐国多度郡藤原郷出身の良民の女であった。ところが、慶雲元年甲辰に、揖保郡の民の佐伯君麻呂が自分の婢と詐って、大興寺に売り与えてしまった。そのことを若女の孫の小庭らが訴えて久しくなる。ここに至ってその訴えが認められ、初めてその誤りを正すことができた。若女の子孫の奴五人と婢十人は、賤民から解放され良民となった。」の記述から、誘拐による奴隷化が行われていた事実が分かる。
戦争捕虜
「続日本紀」神亀二年閏正月四日「陸奥国の蝦夷の捕虜百四十四人を伊予国に、五百七十八人を筑紫に、十五人を和泉監にそれぞれ配置した。」十一月二十九日「出羽国の俘囚三百五十八人を、太宰府の管轄内や讃岐国に分配した。七十八人は諸官吏や参議以上の貴族に分け与えて賤民とした。」とある。これらから、当時、戦争による捕虜の奴隷化が存在していたことも明らかであろう。
人買
人身を買い取り転売して利を得る行為または行為者のこと。実際には誘拐することが多く、その場合も含む。その意味で、人勾引(ヒトカドイ/誘拐者)の「ど」の音が略されて「ひとかい」と発音するようになったとの説もある。しかし、「ひとかい」の語の初期の例では、すべて勾引(コウイン)者とは区別されており、かならずしもこの説を支持できない。
誘拐行為は時代により表現・違法性の度合いも異なるし、また人身売買の語のさす内容も時代により異なる。古代律令制では、誘拐行為を「人ヲ略ス」、そのうえで売ることを「人ヲ略売ス」と称し、遠流(オンル)の刑としている(養老賊盗律)。それが本人の同意のうえならば「和誘」と称し、刑も一等を減じている。
平安後期以降中世には、誘拐は一般的には「勾引」(こういん、かどい、かどわかし)と称するようになり、「子取り」の語も現れてくる。誘拐した人身を売る行為を「人売り」と称し、それを買い取り転売する業に従事する者は一般的には「人商人(ヒトアキビト)」または「売買仲人」とよばれた。中世になってこのことばが定着した背景には、人身売買事業が恒常化し組織的に行われるようになってきたことと、さらに一般的には、諸貢租の重圧や飢饉などにより貧しい庶民の子女の売られる場合が多かったことがある。鎌倉幕府や朝廷は、人身売買・勾引行為を禁制し、ときに「人勾引」を行う者や「人商」の輩に対して顔面火印の刑で臨むこともあった。
しかし14世紀に入ると売買を目的とした勾引行為については、「盗犯に准ず」(追加法)としているように、その盗犯行為のみが問題にされるようになった。中世にあっては下人など奴隷が逃亡することも主人の側からは「人勾引」と称されているが、このことは人間が財産視され、それを不法に奪う場合のみ「人勾引」としてその違法性が問題となったと理解すべきである。「人買」の語は室町期には「人買船」などとして現れるが、一般化するのは近世初頭以降である。江戸時代では、奴隷身分と人身売買が基本的には否定され、幕府は勾引行為を死罪をもって厳禁したため、「人買」の語は一般的にはむしろ合法的な年季奉公人としての遊女に売る者などをさし、貧しい庶民の側からは「女衒(ゼゲン)」などと同一存在とみられた。
近代以降においても、厳密な意味では、人身売買は厳禁されていたが、前借金により労働者の人身に強度の拘束を行う場合があった。もっとも多かったのが、貧しさから女子が娼妓にされる場合であり、その際仲介業者や債権者を「人買」とよぶこともあった。このような行為に対して、政府は1872年(明治5)の太政官布告で禁止の立場を示していたが、実質的にはその後も半合法的に存続し続けることになった。また日本資本主義の底辺を担った紡績・製糸業に従事する女工も貧困な農村から前借金などによって集められることが多く、その募集にあたった業者も「人買」とよばれることがあった。このような労働者の存在は、新憲法で基本的人権の尊重が掲げられ、労働基準法で労働者の権利が確立され初めて一掃された。  
 
中世の飢餓への新しい視点 / 「飢餓と戦争の戦国を行く」

 

書評1 / 「危機の中の中世」に関心を寄せ、「飢餓」と「戦争」をキーワードにして、中世の歴史の追求をしている。冒頭に「「七度の餓死に遇うとも、一度の戦いに遇うな」のことわざを紹介し、相次ぐ飢餓も大変だか、戦争にあうほうがもっと悲惨であることを問題意識としてもち、この飢餓と戦争の中で中世の農民がいかに生き抜いてきたかを鋭く抉り出している。
三つの主題で書き表している。 1.鎌倉期の大飢饉をサバイバル・システム(生き残るための習俗)という角度から切り取ること。2.室町期に首都を戦場として戦われた応仁の乱を村と都市と飢餓の深いつながりに焦点をあてて追究すること。3.戦国期を飢餓と戦争のという角度からていねいに描くこと。
鎌倉期で注目する点は「飢餓奴隷」と「飢餓出挙(すいこ)」の問題である。飢餓奴隷とは「飢饉の際に限って飢えた人を養えば奴隷にしてよい」という鎌倉幕府の時限立法である。農民の中には、餓死よりも奴隷になったほうがよいと思うものが多くいたようだ。これが習俗として江戸時代まで残ったといわれる。また飢餓出挙は富豪農民が飢えた人々に出挙米を貸付け、農民の窮状を救う制度で北条泰時のころは彼が保証人にもなったとも言われている。
飢饉という如何に悲惨かの事実の紹介しかない歴史研究書が多かったが、著者が、鎌倉幕府は事の是非はともかく、飢饉という危機管理に如何に腐心したかを紹介し、農民が「なんとか生きる」ためのぎりぎりのやむをえない幕府の政策であったと肯定的にみている点が注目される。従来硬直的に為政者の農民無視としかとらえていなかったので、これは歴史の見方を代えさせる視点であった。
このことは応仁の乱についても言うことができる。応仁の乱といえば細川と山名の内紛、畠山のお家騒動で、都が荒れた模様しか説明されていないのが普通であるが、著書はもう一歩踏み込んで、その底流に日本各地に起こった大雨、旱魃、凶作、飢饉、疫病、そしてこの戦争がからみ、無数の飢饉難民、戦争難民が生まれ、京の都への殺到したことが社会の混乱を招いたことを指摘している。
特に彼らの多くが足軽という雑兵になり都で略奪を始めるが、著者はこれを単なる略奪者として捉えるのでなく、土一揆の担い手として、厳しい自力救済と飢饉と徳政の時代に生き抜こうとした無数の都市流民たちの必死なサバイバルな生き方として捉えようとしている点は、今までない新鮮な視点である。
このように農民の生きぬくためのしたたかな生き方は、村を捨て渡り歩く者、戦場になれば作付けをしても無駄と拒否する者、村に侵入した兵を撃退する者などいろいろな形態が紹介されている。今まで気がつかなかった新しい村人の姿である。
反面、奴隷狩り、戦火による疫病罹災、飢餓にあうなど戦争の被害は計り知れず、冒頭のことわざのうまれる所以も紹介されている。秀吉の九州征伐で戦国時代はおわり日本は平和の時代を迎えるが、その底流にはこれらの戦火から脱出したいという日本の戦国民衆の痛切な願望が貫いていたという著者の指摘には共感できる。著者は日本中世の旱魃、長雨、飢饉、疫病の詳細な年表を作成し、「飢餓と戦争を」を通して中世史の研究を始めて8年になるという。そして戦争の中世は飢餓の中世でもあったという思いを強くしたという。今まで歴史学者と違う新しい視点で中世の村、村人を描いたこの著書に参考になる点が多く、読み応えがあった。  
書評2 / 中世は概して飢饉が頻発していたという。中世の飢饉は、1181/養和の大飢饉、1231/寛喜の大飢饉、1461/寛正の大飢饉、の三つが有名だが、飢饉自体は平安時代や江戸時代にも頻発しており、取り立てて中世が多かったとは言えない。
人口変化の研究によると、鎌倉期は人口停滞だが、室町期は増加期に当たるという。
増加期に当たるのに飢饉が頻発する、というのも矛盾した話であるが、絶対量が増えていたからこそ、少しの不作で容易に飢饉が発生した、というシナリオも成り立つのだろう。
飢饉に陥った農民は農村を捨て都市を目指した。農村という生産地から、都市という消費地へ移動したのはおかしい、と作者は指摘するが、冷静に考えればおかしいとは言えない。
と言うのは農村は一見生産地のように見えるが、旱魃や水害によって生産不能に陥った場合には、純然たる消費地と化すからである。消費地という点では都市も同等であるが、都市と農村の違いは、食料流通システムの有無にあった。
常に消費する場である都市では、食料を配給するシステムが完備されており、一地方の不作はすぐに他地方からの供給増で補うことができた。そして飢民らはその都市の食を目指して、上京したのである。
さらに飢餓が慢性的であったにも関わらず、この時代に能や茶道などの新しい日本文化が展開したことにも驚いているが、これも飢餓によって人口が攪拌され、社会流動性が高まったことを考えれば、驚くには値しない。何となれば、春秋戦国時代、ルネサンスなど、流動性が高まった時代では、新しい芸術や思想が生まれるものだからである。
しかし、従来の人口増→室町新文化の誕生という図式は確かに単純に過ぎ、そこに飢饉による社会流動性向上を加えて、始めて新文化の胎動が始まったと考えるのが自然だろう。
戦国時代というと戦国大名らの派手な活躍に目を奪われがちだが、民衆らには余りスポットが当てられなかった。当たったとしても、それは惣村のように民衆の独立・自立のように、マルキシズム観点からの民衆史であり、現代のような「難民の観点」からの研究は希少だったと言っていい。
その意味で、この著作は新しいものであり、飢餓と戦乱によって荒廃する戦国の村村を描いたものである。戦国時代の村は飢饉、戦乱だけでなく、人攫いや疫病によっても苦しめられたという。疫病は現在でも難民の間で蔓延る災害であり、当然戦国時代でも頻発していたと言うことは、想像に難くない。
しかし人攫いは教科書にはほとんど出て来ない現象であるが、日本全土、特に島津氏が好んで行っていた事柄であるという。これは「南蛮人」の奴隷貿易に、島津氏も一枚加わっていた、というのが理由らしい。
攫われてきた農民は農奴として他地へ売り飛ばされたり、或いは東南アジアへ輸出されたりしたようで、要するに人間もまた、戦利品として取引されたと言うことである。
この蛮行は朝鮮の役でも遺憾なく遂行され、多くの朝鮮陶工が連行され、日本で有田焼などを創始したのは有名なところである。
この著作の範囲外であるが、人攫いに加え、飢饉や疫病、戦乱などに悲観して、集団自殺も頻繁に行われていたことが、当時日本を訪れていた宣教師らの記録に残っている。それによれば、船に乗り組み、沖合いに出てから火を付け、石を抱いて水底に沈むのだという。これを「フダラク渡海」と呼んで、極楽往生ができるとされていた。
しかし16世紀は全体として見れば、人口増加局面に当たっていた。気候は寒冷化しつつあったが、新しい農耕技術が広がりつつあったからである。むしろ飢饉や戦乱は、人口が増加する際に、必然的に引き起こされる混乱と見るのが正解だろう。
そしてその混乱が収まる江戸時代、人口は飛躍的増加を開始するのである。
 
吾妻鏡に見る「寛喜の飢饉」

 

吾妻鏡・東鑑(あずまかがみ、あづまかがみ)
鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年-文永3年(1180-1266)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。
明月記
鎌倉時代の公家藤原定家の日記。定家が治承4年(1180)から嘉禎元年(1235)までの56年間にわたり克明に記録した日記である。別名照光記。  
百錬抄
公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書。鎌倉時代後期の13世紀末に成立したとされる。編著者は未詳。百練抄とも書く。書名は白楽天の「百練鏡」に由来するとされ、元は「練」の字が用いられていたが、江戸時代以後に「錬」の字が用いられるようになった。
17巻よりなるが完本ではなく、巻1より巻3までが欠けている。安和元年-正元元年(968-1259)12月までを天皇紀の形式をとった漢文の編年体によって記されている。
著者は不明であるが、勧修寺流吉田経房の「吉記」をはじめ同流の出身者の日記が多く引用されていることから、勧修寺流関係者説が有力とされている。後深草天皇が退位する1259年で完結し、かつ本文中には「新院」として登場することから原本が完成した時点では次の亀山天皇は未だ在位していたと考えられている。その後、修正が加えられて遅くても後述の金沢文庫本が作成される前には完成していたと推定されている。
巻3までの内容は不明であるが、巻4の冷泉天皇から巻7途中の近衛天皇までは藤原信西「本朝世紀」の抄出であるが、同書自体の散逸が多いため貴重である。その後は、同じく巻7途中の二条天皇の部分までは現存しない平親範の日記が用いられていたとされ、以後は吉田経房及びその子孫(資経・経俊ら)の日記から引用されたとみられている。巻8の高倉天皇から巻15後嵯峨天皇まで(九条廃帝を除く)は1代1巻で構成され、最後の2巻を後深草天皇にあてる。
京都中心の記録で、武家方の「吾妻鏡」とは対照的である。いま伝わるものとしては、塙保己一が紅葉山文庫本・学問所古本などをもって校訂を加え享和2年(1803)に出版した刊本をはじめ、写本としては 嘉元2年(1304)、金沢貞顕が吉田定房の本をもって校訂した金沢文庫本系のものがある。  
1230年(寛喜2年庚寅) 1-3月  
1月1日甲子天晴、晩に及び雪降る。二寸余り積もる/今日椀飯例の如し。
1月3日丙寅晴、深更雪降る/戌の刻御所の南淡路の前司宗政の宅失火す。他所に及ばず。
1月4日丁卯晴/将軍家御行始め。武州の亭に入御す。巳の刻御出で(御布衣・御車)。越後の守・駿河の守・壱岐の前司・出羽の前司家長・周防の前司親實等供奉す。酉の刻還御の期に及び、御引出物等を進せらる。御劔は大炊の助有時主これを持参す。砂金(裹色々薄様、銀の打敷に置く)は陸奥の四郎政村主、羽櫃(蒔絵)は左近大夫将監佐房なり。
一の御馬(蒔鞍を置き、総鞦を懸く)越後の太郎光時主尾藤太景氏
二の御馬(銀鞍を置く)陸奥の五郎實泰主平三郎左衛門の尉盛綱これを引く
1月5日戊辰夜雨止む[明月記]御前に出候の間、中納言参り、関東両人の書状を進す。時房・泰時各々別の書状なり。共に阿野少将の上洛、この人申せらる事、便宜に付け然るべきの様披露有るべきの由なり。少将實直の事と。
1月7日庚午天晴/将軍家竹の御所に入御す。
1月8日辛未/十四日方違えの為入御有るべきの由、相州に仰せらる。御使は助教師員と。
1月10日癸酉雨降る/将軍家鶴岡八幡宮に御参り。相州・駿河の守・陸奥の四郎・大炊の助・三浦駿河の前司・中條左衛門の尉以下供奉すと。鶴岡より還御の後、先ず椀飯の儀有り。次いで御弓始めなり。
一番結城の七郎本間太郎左衛門の尉
二番岡部左衛門四郎吉良の次郎
三番横溝の五郎内藤左衛門六郎[竹の御所御行始め。武州の第に入御すと。]
1月14日丁丑/将軍家御方違えの為相州の亭に入御すと。
1月15日戊寅/相州の第より還御す。
1月16日己卯/将軍家二所の御精進始めなり。
1月17日庚辰晴/竹の御所御方違えの為駿河入道行阿の宿所に渡御すと。
1月20日癸未/大炊の助有時二所奉幣の御使として進発すと。
1月25日戊子/大炊の助二所より帰参すと。
1月26日己丑/武州公文所に於いて、武蔵の国太田庄内の荒野新開すべき事その沙汰有り。尾藤左近入道(道然)これを奉行すと。
閏1月4日丁酉天晴[明月記]昨日聞き及ぶ所の事、泰時・時房任官の事、口入すべからざるの由、最初より各々これを称す。彼の両人の妻各々中将に挙す。
閏1月7日庚寅/武州祇候人等を以て、去年京都に差し遣わし、多の好氏に対し神楽の秘曲を習わしむ。而るに好氏近日関東に参向すべきの由その聞こえ有り。仍って今日重ねて御書を好氏に遣わさる。下向の儀を止め、閑かに彼の曲を授くべきの旨これを載せらると。
閏1月10日癸卯天晴[明月記]信繁法師また女院の御使として関東に下向すと。前事を積み習うか。
閏1月17日庚子晴/竹の御所の二所奉幣の御使左衛門の尉廣光進発す。去る十三日御精進始めなり。
閏1月19日壬寅/今暁地震。
閏1月20日癸卯/夜に入り雷鳴。
閏1月22日乙巳/酉の刻地震。大慈寺の後山頽れる。[明月記]伯卿の妹(故入道落胤)、言家先年妻と為す。離後この宮に候す。去る冬より籠居す。義村の子在京二人の中の弟か、自愛同宿すと。また通具卿老後の愛物師季(中将妹)、同じく武士の愛物として白河に在りと。能直の子か。
閏1月23日丙午天晴/将軍家年首の御浜出始めなり。由比浦に渡御す。先ず小笠懸、次いで遠笠懸、次いで流鏑馬、次いで犬追物(二十疋)、次いで小山の五郎・三浦の四郎・武田の六郎・小笠原の六郎、別の仰せに随い作物等を射る。御入興他に無しと。
閏1月26日己酉/瀧口無人の間、経歴の輩の子孫に仰せ差し進すべきの旨、院宣を下されすでにをはんぬ。仍って日来その沙汰有り。小山・下河邊・千葉・秩父・三浦・鎌倉・宇都宮・氏家・伊東・波多野、この家々子息一人を進すべきの旨、今日仰せ下さる。その状に云く、瀧口無人の間、御家人の中より召し付けらるる所なり。その内子息一人進せしむべきの状、鎌倉殿の仰せに依って執達件の如し。閏正月二十六日武蔵の守 相模の守 某殿
閏1月29日壬子雨降る/将軍家四十五日の御方違えなり。相州の御亭に入御す。竹の御所駿河入道の家に入御す。今夕旅の御所に於いて、佐々木兵衛太郎信實法師度々の勲功を申し募り本領を返し給うべき由の事、その沙汰有り。功に於いては御感に及ぶと雖も、彼の所々に至りては、当給人有り。便宜を期すべきの旨仰せらると。
2月6日戊午/鶴岡の別当法印御所に参り盃酒を奉る。相州・武州参り給う。駿河の前司已下数輩座に候す。爰に上綱兒童を具し参るの中、芸能抜群の者有り。仰せに依って数度廻雪の袖を翻す。満座その興を催す。将軍家また御感の余り、その父祖を問わしめ給う。法印申して云く、承久兵乱の時、図らずも官軍に召し加えらるるの勝木の七郎則宗が子なり。所領を収公せらるるの間、則宗の息女従悉く以て離散す。その身すでに山林に交ると。武州尤も不便の由申し給う。彼の則宗は、正治の比景時に與すの間召し禁しめられをはんぬ。適々免許を蒙り本所筑前の国に下向するの後、院の西面に候すと。
2月7日己未天晴/将軍家杜戸に渡御す。遠笠懸・流鏑馬・犬追物(二十疋)等なり。例の射手皆参上す。各々射芸を施すと。
2月8日庚申/勝木の七郎則宗の本領筑前の国勝木庄を返し給うなり。この所は中野の太郎助能承久の勲功の賞として拝領せしむと雖も、子息の兒童を賞せらるるに依って、則宗に給いをはんぬ。助能また替わりに筑後の国高津・包行の両名を賜う。武州殊にこれを沙汰し給うと。[明月記]忠弘法師来たり。能州の吏務更に以て棄居すべからず。地頭守護の張行・国務の滅亡、言い足らざる事と。但しその分限に於いては、形の如くこれを行いをはんぬ。
2月17日己卯晴/御所西侍の南縁に於いて千度御祓いを行わる。陰陽師は親職朝臣(束帯)已下十人。陪膳は大炊の助有時(布衣上括り)・常陸大掾政村(同)、手長は隠岐三郎左衛門の尉行義・出羽左衛門家平以下十人なり。後藤判官基綱これを奉行す。
2月19日辛巳天晴/将軍家由比浜に出でしめ給う。これ駿河の守(重時)京都守護として、近日上洛せしむべきに依って、御餞の故なり。相州・武州・駿河の守(各々野矢)等参らる。六十疋の犬追物有り。内の検見は駿河の前司(白の直垂・夏毛の行騰、黒馬)、外の検見は下河邊左衛門の尉(曳柿の直垂・夏毛の行騰、葦毛の馬)。射手、一手 相模の四郎武田の六郎佐々木の四郎 城の太郎結城の五郎三浦の又太郎 一手 相模の五郎小山の五郎下河邊左衛門次郎 佐々木の八郎駿河の四郎小笠原の六郎
2月20日壬午/丑の刻地震。
2月23日乙酉晴/御祈り等を始行す。去る二十一日太白の変有るに依ってなり。
2月30日壬辰陰/丑の刻俄に鎌倉中騒動す。甲冑を着し旗を揚げるの輩、御所並びに武州の門前に競集す。制止を加えらると雖も、数百騎に及ぶの間輙く静謐し難し。すでに時を移す。武州仰せて云く、御所の辺の騒動、太だ穏便ならず。世上の狼唳此の如きの次いでに起らん。尤も慎み思し食すべしと。頃之内々命ぜらるるの旨有るに依ってか、尾藤左近入道・平三郎左衛門の尉・諏方兵衛の尉、郎従を引率し門外に出て、謀叛の輩有りと称し、浜を指し馳せ向かうの間、数百騎の輩忽ち以て彼の三人の後に従う。稲瀬河に到り、道然已下馳せ来たる所の軍士に相逢って云く、叛逆の族無し。ただ御所近々の騒動を鎮めんが為なり。爰に仰せに非ず面々旗を揚げること、何様の事ぞや。もし野心無くば、夜陰の程旗を進すべし。これ武州の仰せなりと。これに依って老軍二十余輩、旗を御使に献ず。各々この所より離散しをはんぬ。
3月1日癸巳晴/去る夜旗を進すの輩を御所に召し聚め、武州対面し給う。各々異儀を存ぜず旗を進すこと、尤も神妙なり。但しその由緒無く騒動すること、向後固く慎むべしと。旗は注文に任せ悉く以てこれを返し下さる。世以て美談とせざると云うこと莫し。彼の輩の名字皆これを注し置かる。その故を知らずと。
3月2日甲午晴/竹の御所に於いて千度御祓いを行わる。その後夜に入り鶴岡八幡宮に御参り。また駿河の守六波羅に候すべきに依って、小侍別当を辞すの間、今日陸奥の五郎實泰を以てその替わりと為すと。
3月5日丁酉晴/天変の御祈りとして、御修法三檀始行す。また本命星供は助法印、歳星供は備中法橋。
3月11日癸卯晴/卯の刻駿河の守重時朝臣六波羅に候ぜんが為上洛す。
3月12日甲辰晴/戌の刻雨降る。西方雷鳴。
3月14日丙午晴/将軍家御方違えの為、相州の亭に入御す。
3月15日丁未晴/永福寺恒例の一切経会、将軍家渡御す。相州・武州供奉し給う。土屋左衛門の尉御劔を持つ。
3月16日戊申/将軍家御方違えの為石山局の許(御所北の対)に入御す。小侍の対屋等御造作有るべきに依ってなり。
3月17日己酉晴/今夜猶石山局の許に御方違え有り。[明月記]宰相昨日時氏に逢わんが為河東に向かう。二十八日一定下向の由これを称すと。
3月18日庚戌天晴/午の刻小侍を他所に曳き移され、対十間これを立てらる。周防の前司親實奉行たりと。
3月19日辛亥晴/将軍家御遊覧の為三崎の磯に出御す。山桜花尤も盛んなり。仍って領主駿河の前司殊なる御儲けを以て案内を申す。相州・武州以下参らる。六浦の津より御船を召す。海上管弦(若宮兒童)有り。連歌有り。両国司並びに廷尉基綱・散位親行・平の胤行等各々秀句を献らると。
3月22日甲寅天晴/三崎より還御すと。
3月28日庚申晴/天変の御祈りを行わる。内外典数座と。[明月記]夕宰相来たり、今朝密々時氏朝臣の下向を見ると。単葛の直垂・夏毛の行騰、征箭を負う。黒作の劔を持ち黒鞍に乗らしむと。然るべき郎従三百騎ばかり、暁より前陣進発す。自身は曙の後出る。七歳の小兒小馬に乗り扈従す。馬の傍ら手戟を持たしむと。
3月29日辛酉/辰の刻御所の両対(十二ヶ間なり)に二ヶ間を造り加えらる。十四ヶ間憚り有るや否や、陰陽道に召し問わるるの処、親職朝臣已下三人は、寝殿の外憚り無きの由これを申す。図書の助晴賢憚るべきの旨を申す。仍って造り継がると雖も二寸下らるべきの由定めらると。
1230年(寛喜2年庚寅) 4-6月  
4月1日壬戌雨降る/仍って日蝕現れず。
4月9日庚午晴/辰の刻越後の守朝直の妻室卒去す。
4月11日壬申晴/六波羅の匠作下着し給う。去る月二十六日駿河の守入洛に依ってなり。
4月13日甲戌[明月記]承久の比、関東の海上網を引くに、魚頸切れ身無きの頭数知れず引かる。人奇を成すの間、その後軍勝ちに乗り公卿以下の頭を斬るの時、これを以て吉祥と為す。而るに近日また網を引くに、同魚頭無きの身多く引かる。前事に懲りこの事を怖ると。
4月17日戊寅晴/弥勒堂に於いて如法経・十種供養。竹の御所並びに武州御参り。導師は大学法眼行慈。
4月27日戊子晴明[明月記]近日法師の兵具禁制す。悪僧多く搦め取る。河東の沙汰として関東に遣わすと。
5月5日丙申雨降る/子の刻盗人常の御所に推参し御劔・御衣等を盗み取る。行方を知らず。武州この事を聞かしめ給うに依って、則ち参らる。金窪左衛門の尉行親・平三郎左衛門の尉盛綱等に仰せ、大番衆をして四方を警固せしめ、人の出入りを止めらると。
5月6日丁酉小雨灑ぐ/武州未だ退出し給わず。去る夜の盗人の事殊に驚き憤らるるが故なり。侍に於いて去る夜参候の輩を召集し糺弾せらる。その中恪勤一人・美女一人、疑胎の分有り。仍って鶴岡八幡宮に参籠し、起請文を書き進すべきの由仰せ含められをはんぬ。
5月14日乙巳晴/先日嫌疑の恪勤・美女、起請文の失有るに依って、子細を糺明せられ、御所中を追放す。件の美女彼の男を引級し盗ましむの條露顕せしむと。
5月21日壬子/加賀の前司遠兼亡父安藝の前司仲兼の遺領を知行せしむ。地頭職の事は先例に違うべからざるの旨、今日仰せを蒙る。彼の仲兼朝臣は、去る元久元年十二月将軍家の室(西八條禅尼これなり)京都より御下向の時供奉す。二年閏七月二十六日一村を拝領せしむの後、父子相続いて関東の奉公すと。
5月22日癸丑/丑の刻将軍家御鼻血出る。これ御咳病の故かと。
5月23日[皇帝紀抄][四條壬生]嘉陽院御所焼亡す。
5月24日乙卯/辰の刻御鼻血出る事度々に及ぶ。仍って御祈り、御所に於いて七座の泰山府君祭を行わる。隠岐三郎左衛門の尉奉行たり。左近大夫将監佐房奉行せしむべきの処、故障有るに依ってこれを改めらると。
5月27日戊午晴/修理の亮(時氏)この間病脳す。今日未の刻より俄に増気す。武州数箇の丹祈を凝らさると。宮内兵衛の尉・周枳兵衛の尉・安藤左近将監・同次郎・雑色兵衛の尉等、御看病の為祇候す。各々敢えてその席を避けずと。
6月5日乙丑晴/巳の刻、幕府小御所の上に白鷺集まると。
6月6日丙寅晴、未以後雨下る/今日助教師員・弾正忠季氏等の奉行として、陰陽師を御所に召さる。七人恩喚に応ず。所謂親職・泰貞・晴賢・晴幸・重宗・宣賢・晴職・国継等なり。各々西廊に着す。相州・武州・隠岐入道行西・出羽の前司家長等評定所に候せらる。昨日の鷺の事、助教の奉行として御占い有り。親職・晴賢申して云く、口舌闘諍の上、慎まるべき由の事御すと。泰貞以下申して云く、御所並びに御親昵の御病事に就いて、御家人中文書及び口舌に依って、闘諍を聞こし食すべしてえり。皆別紙の占形を献る。次いでこの怪に就いて御所を去らしめ給うべきや否や、一二の吉凶を問わる。一吉の由一同せしむ。今度は詞を以てこれを申す。一は去らしめ給うべからざるの由なり。仍って沙汰有り。他所に移らしめ給うに及ばず。
6月7日丁卯/今夜鷺祭を行わる。晴賢これを奉仕す。[明月記]修理の亮時氏関東に於いて病を受け、大略時を待つが如し。京畿馳走すと。この家猶事有るべきか。尤も不便。昏黄また雑人云く、相模の四郎時房朝臣の嫡男事有り終命の由巷説す。物騒と。
6月8日戊辰天晴陰[明月記]昨日の事宰相に問う。修理の事その聞こえ有り。相州の事虚言か。昨夕河東の従等聊か闘諍す。この事に依って走る者有るかと。今日聞く、時房の子に非ず、義村の子駿河の次郎(年来在京、泰時聟)と号す。去る月の比下向し鎌倉に着く。幾程を経ず、今度京(初参か)より相具する従者、天曙夜警の者悉く退出の時刻を相窺い殺害す。自身即ちその傍らに於いて自害すと。時氏また死去の由、夜前閭巷偏に披露すと。大谷斎宮尼戸部来たり。彼の斎宮の女房伯卿妹(言家旧妻)、年来濫吹有るの間、去る冬より件の駿河次郎の従高江の次郎の愛物と為る。去る月その夫に相具し、越後の国に下ると。
6月9日己巳雷雨/酉の四点雷御所御車宿の東母屋の上に落ち、柱・破風等破損しをはんぬ。後藤判官の下部一人悶絶す。則ち筵に纏い北の土門より出しをはんぬ。戌の刻に及び死すと。[明月記]巳の時ばかり宰相来たり。駿河の事去る比狂説流布すと雖も、相門の辺すでに虚言の説たりと。武蔵またすでに獲鱗の由を聞く。未だ事切る由を聞かずと。
6月10日庚午雷雨、戌の刻晴に属く/御所に於いて七座の鬼気御祭を行わる。隠岐三郎左衛門の尉奉行たり。[明月記]掃部の助時盛時氏を訪わんが為馳せ下ると。時氏四月の比重病、減を得るの後ショウ瘧病、存命し難しと。
6月11日辛未微雨灑ぐ/午の刻武蔵の国の在廰等注し申して云く、去る九日辰の刻、当国金子郷雪交りの雨降る。また同時に雷、雹降ると。
6月14日甲戌風雨甚だし/相州・武州御所に参られ、西廊に着き給う。助教師員・隠岐入道行西・駿河の前司義村・民部大夫入道行然・加賀の守康俊・弾正忠季氏等その砌に候す。去る九日の雷の事に依って御所を避けしめ給うべきや否や、将又御占いを行われ、吉凶に就いて宜しく御進退有るべきや否やの事評議に及ぶ。意見区々なり。季氏申して云く、先規に於いては分明ならず。此の如き事、占いの吉凶に依るべきか。人口に有り難し。醍醐の御宇延長八年六月二十六日、清涼殿坤方の柱上霹靂す。大納言(清實卿)・右中弁希世朝臣、忽ち雷火の為薨卒す。これ常途の篇に非ずと雖も、猶遷幸の儀無し。ただ常寧殿に入御すと。行西申して云く、延長の例不吉なり。同八月二十三日御脱シ、同九月二十九日御事有り。また常寧殿に入御の上は、猶遷幸に准うべきかと。助教申して云く、故右大将家奥州を攻めらるるの時軍陣に雷落つ。承久兵乱の時右京兆の釜殿に雷落つ。皆これ吉事なり。然れば怪異たるべからず。吉事に定むべしと。義村・行然・康俊等申して云く、先規はこれを覚悟せず。現量の思う所を以て、ただ御所を去らしむべきか。但し是非に付き御占いを行わるべしと。
仍って一揆するの間、助教陰陽師等七人(去る六日鷺の事を占う同人数)を召す。各々同廊に参候す。将軍家簾中に御坐す。相州・武州・義村・行西等御前に祇候す。師員伝え仰せて云く、去る九日雷落の事、若くは忌むべきの事有りと雖も、関東の先例に於いては還って吉事と謂うべきか。而るに御所を去らしめ給うべきの由申す人々有り。何様たるべきや、各々計り申すべしてえり。泰貞朝臣申して云く、大内以下所処雷落ちること常事なり。御占いはこれを行わると雖も、左右無く御所を去らしむの先例覚悟せず。然かれば御占いに決せらるべしと。晴賢申して云く、雷落ちる所居住すべからずの由、先祖晴道会釈の上、金匱経並びに初学記の文等不快なり。去らしめ給うべしと。彼の経等師員これを披見す。親職・晴幸申して云く、鷺と雷雨と怪異重疉しをはんぬ。尤も避けしめ給うべしと。国継泰貞の儀に同ず。重宗申して云く、京辺雷落ちるの所々、去られざるの上は、この御所に限り、その儀有るべからずと。師員云く、後京極殿は将軍家の御先祖なり。大炊殿に御坐すの時、雷落ちると雖もこれを避けしめ給わず。定めて御存知の旨有るか。彼の御子孫として、当摂録の御繁栄日に新たなり。
佳例に非ずやと。晴賢答えて云く、御子孫の栄貴は左右に能わず。但し大炊殿程無く灰燼と為す。今に於いては、彼の跡荒廃し一宇の御所も無し。凡そ七八十寿算の人無きに非ざるに、僅か三十八にて御頓滅。最上の例に非ざるか。義村晴賢の返答を聞き、頗る甘心の気有りと。泰貞また云く、彼の家の吉事は御所を去るに能わず。また御祭有るべしと。是非に付き御占いを行わるべきの旨仰せらるるの間、泰貞・重宗、去る九日酉の刻の如きは、一切別の御事無し。ほぼ宜しきの由占い申す。親職・晴賢・晴職は不快の由これを申す。晴親・国継は半吉の由を申す。その後陰陽師等退座す。爰に評議有り。去り御うべからざるの由議定しをはんぬ。相州・武州・助教御前に参られ、事の次第を披露せしめ給う。仰せに云く、先度の鷺の事に依って去り御うべきやと。武州また廊に出られ、陰陽師等を召し、本座に於いて御占いを行わる。去らしめ御うの條尤も然るべきの由、一同これを占い申す。仍って武州の亭に入御有るべきの旨各々定め申し、退出せらると。
6月16日丙子晴/美濃の国の飛脚参り申して云く、去る九日辰の刻、当国蒔田庄に白雪降ると。武州太だ怖畏せしめ給う。徳政を行わるべきの由沙汰有りと。濃州と武州と両国の中間、すでに十余日の行程なり。彼の日同時にこの怪異有り。尤も驚くべしと。凡そ六月中雨脚頻りに降る。これ豊年の瑞たりと雖も、涼気法に過ぐ。また穀定めて登らざるか。風雨の不節は、則ち歳飢荒有りと。当時関東政途を廃せず。武州殊に戦々兢々として善を彰し悪を瘴し、身を忘れ世を救い御うの間、天下帰往の処、近日時節の依違、陰陽不同の條、直なる事に非ずや。就中当月白雪降る事、その例少なきか。孝元天皇三十九年六月雪降る。その後二十六代を歴て推古天皇の御宇三十四年六月大雪降る。また二十六代を歴て醍醐天皇の御宇延長八年六月八日大雪降る。皆不吉なり。今また二十六代(但し九條帝を加え奉る)を経て、今月九日雪下る。上古猶以て奇と成す。況や末代に於いてをや。
6月18日戊寅晴/戌の刻修理の亮平朝臣時氏逝去す(年二十八)。去る四月京都より下向す。幾日月を経ず病脳す。内外の祈請を致され、数箇の医療を加うと雖も、皆以てその験を失う。去る嘉禄三年六月十八日次男卒す。四箇年を隔て、今日またこの事有り。すでに兄弟の御早世、愁傷の至り喩えに取るに物無し。寅の刻に及び、大慈寺傍らの山麓に葬ると。葬礼の事、陰陽の大允晴憲門生刑部房を挙げ申すと。
6月22日壬午晴/鷺の変に就いて、将軍家御所を去り御う事、匠作卒去の事に依ってこれを止めらると。
6月23日癸未天晴[明月記]去る十八日修理の亮時氏逝亡の由これを聞くと。一家の磨滅と。夜に入り宰相示し送る。行兼明暁下向す。駿河馳せ下らんと欲す。相門より再三子細を示され止めをはんぬ。
6月24日甲申天晴[明月記]駿河の守重時抑留の詞に拘わらず明暁馳せ下らんと欲すと。河東一人も無くば、天下定めて夜討ちの場たるか。[百錬抄]銭一貫文を以て、米一石に直さるべきの由宣旨を下さる。
6月28日戊子/後藤判官の大倉の宅に於いて評定せらる。日来武州の御亭に於いてこれを行わる。禁忌に依って今この儀に及ぶ。
6月29日己丑天晴[明月記]関東右府の十三年下向招請の気これを聞く。言家已下と。秉燭以後侍従関東出家の輩の異名を送る。すでに以て数十人、古今貴賤の亡者未だ聞かず。この事、頗る直成る事に非ざるか。
1230年(寛喜2年庚寅) 7-9月  
8月1日庚申朝間天陰[明月記]西門より気比社司等参集す。北門甚だ以て喧々す。忠弘を喚び造作の事を示す。但し知家この事に依って使節として関東に向かうと。
8月4日癸亥晴/酉の刻武州の御息女(駿河の次郎妻室)逝す(年二十五)。産前後数十ヶ日悩乱す。遂に以て斯くの如し。
8月6日乙丑朝陰/午の刻甚雨、晩に及び洪水。河辺の民居流失し、人多く溺死す。古老未だこの例を見ずと。
8月8日丁卯申の刻甚雨大風、夜半に及び休止す/草木の葉枯れ、偏に冬気の如し。稼穀損亡す。
8月12日辛未天晴[明月記]有長朝臣示し送る。武蔵の守泰時の息女(時房子息の妻)難産に依って去る四日終命す。今暁園城寺南院、中北両院の衆徒の為地を払い焼失す。すでに天下の大事たり。[皇帝紀抄]園城寺中北両院の衆徒南院を焼く。これ年来相論する所の三別所惣領別領の事、近日南院骨張るの故と。夜に入り南院の衆徒また中北院を焼く。公家より武士を差し遣わさると。
8月13日壬申朝より雨降る[明月記]園城寺の事落居せざるの間、還御明日たるべく候。当時僧綱召集せられ子細を仰せられ候。両院の衆南院を焼くの後、南院の衆また中北院を焼く。火の間合戦し、両方互いに殺害す。武士競向するの間、悪徒退散す。南院の衆少々相残る。両院悉く以て退散す。但し余燼堂塔に及ばず、僧房ばかり焼亡すと。武士留居し猶守護すと。
8月15日甲戌/鶴岡の放生会延引す。この間諸人訪い申すに依って、武州の触穢万方に及ぶ。仍って沙汰有り。元仁・嘉禄等の例に任せこれを延引せらる。
8月21日庚辰陰/六波羅の飛脚到着す。申して云く、去る十二日卯の刻、園城寺中院・南院の衆徒等坊争いに依って、北院の坊舎を焼失しをはんぬ。同日戌の刻、北院の衆徒等多勢を引卒し、中南両院を焼く。すでに一日の中三箇院灰燼と為す。学侶皆分散し、智徳各々山林に隠遁す。公請断絶の基、専ら朝家の重事たりと。
8月28日丁亥雨降る/辰の刻大夫判官信綱使節として上洛す。三井寺衆徒分散の事、尋ね沙汰有るべきが故なり。
9月8日丙申/申の一刻より寅の四点に至り大風殊に甚だし。御所中以下人家多く以て破損顛倒す。[皇帝紀抄]大風雨の間、伊勢太神宮内外の前□並びに殿舎等顛倒す。
9月18日丙午晴/故修理の亮の墳墓堂供養。武州その場に渡御す。
9月27日乙酉/去る四日より天変連々出現するの間、御祈りとして、今日五壇法を始行すと。
1230年(寛喜2年庚寅) 10-12月
10月6日甲子晴/右丞相十三年御追善の三重宝塔、今日巳の刻礎を居えるなり。戌の刻この地に於いて土公を祭らる。親職朝臣これを奉仕す。民部大夫入道行然の沙汰なり。右近大夫将監佐房御使たり。
10月12日庚午朝陽漸晴[明月記]備州云く、山門猶狂乱す。今明大事に及ばんと欲すと(猶下手を出さざるの由なり)。綾宮に於いてこれを聞く。三井寺三別所は南院に付け、讃岐庄(承久以後没官か)は北中院に付すの由関東成敗す。仍って落居無しと。
10月16日甲戌晴/今日武州の御願北條の御堂上棟なり。左近入道道然・齋藤兵衛入道浄圓奉行たり。[明月記]万邦の飢饉、関東の権勢已下常膳を減すの由、閭巷の説耳に満つと。
10月20日戊寅天晴、風静まる[明月記]山法師の下法師四人路人の劔を奪う。叫喚に依って雑人追捕す。二人を搦め二人を射殺すと。悪徒謀反横行し洛中太だ不便の事か。捕え得る者河東に向かうと。
10月24日壬午/去る夜丑の刻より今日子の刻に至り甚雨。午の刻武州御息女の墳墓堂供養なり。百ヶ日の忌景を迎えこの儀を遂げらると。
10月28日丙戌朝天漸晴[明月記]奥州の馬五十疋入洛す。撰び見らると。
10月29日[百錬抄]昨日の夜より客星出見す。養和元年以後この変無きか。
11月1日戊子天晴陰[明月記]二十八日西方に客星出る。甚だ不吉の事と。[皇帝紀抄]去る月二十七日夜、盗人東大寺の勅封倉を焼き開き、累代の宝物を取ると。
11月6日癸巳雨降る/西国の夜討ち・強盗・殺害の如きの与党等の事、守護所より二ヶ度触れ遣わすべし。その上承引無くば、使者を入れ搦め取るべきの由下知を加うべきの旨、六波羅に仰せらるべしと。
11月7日甲午晴/西国庄公の地頭中、領家・領所の訴訟に依って糺断せらるるの時、二ヶ度下知せしむの上、猶叙用せざれば注し申すべきの由、また六波羅に仰せらると。申の刻鶴岡若宮の廻廊中門の西腋に死人有り。而るに八月放生会延引し、今月遂行せらるべきの処、この穢れ出来すと。将軍家御参に云く、放生会猶延引するかの旨、一二を以て七人の御占いを行わる。各々二吉の由これを申す。二は延引なりと。
11月8日乙未晴/大進僧都観基御所に参り申して云く、去る月十六日の夜半、陸奥の国芝田郡、石雨の如く下ると。件の石一つ将軍家に進す。大きさ柚の如く、細長なり。廉石の下る事二十余里有りと。
11月11日戊戌晴/勝長寿院内新造塔婆の上棟。武州監臨すと。また変異の御祈りを行わると。今日巖殿観音堂の礎を居え地を引くと。勧進上人西願と。
11月13日庚子天晴/将軍家殊なる御心願有るに依って、今日霊所御祓いを行わる。由比浜は泰貞、金洗澤は晴茂、多古恵河は国継、森戸は親貞、抽河は大夫、六浦は忠弘、堅瀬河は晴貞と。新民部少輔親實奉行たり。
11月18日乙巳朝晴/午の刻俄に風雨、申の刻雷鳴。夜に入り暴風雷雨甚だし。冬至の雷殊に変異なり。御慎み有るべしと。
11月20日[百錬抄]非常赦を行わる。客星の御祈りに依ってと。
11月22日己酉/天変の御祈りを行わる。大属星供は助法印珍誉、東方清流は法印良算と。
11月25日壬子天晴[明月記]客星暁南方に廻る。公家の御慎み軽からずと。関東笋夏の如く人これを食す。郭公頻りに鳴き、惣て以て天下の人口不安の由、人毎にこれを陳ぶ。
11月28日乙卯天晴/未の刻勝長寿院内の塔婆九輪を上ぐと。
12月4日[皇帝紀抄]興福寺の衆徒、東大寺勅封倉の盗人を搦め取る。御鏡八面皆打ち破りをはんぬ。
12月5日壬戌晴/客星出現すと。親職これを申す。
12月6日[百錬抄]左少弁時兼朝臣東大寺勅封倉を開かんが為南都に下向す。去る月比盗人彼の宝蔵を穿つの間、御物等検知せんが為なり。
12月7日甲子/周防の前司親實の奉書を以て、客星出現か否か、広く天文道に尋ねらると。
12月9日丙寅雨雪降る/将軍家(御年十三)御嫁娶の事内々その沙汰有り。助教師員の奉行として、親職・晴賢等の朝臣を召し日次の事を仰せらる。二人共今明両日を撰び申す。而るに明日は天狗下食なり。然るべからざるの由、季氏これを難じ申す。師員を以て、両日中猶勝と為すべきは何ぞや。且つは明日の事難を加う輩有るの旨重ねて尋ねらる。各々申して云く、皆吉日たりと雖も、今日は先例勝ちなりと。次いで天狗下食の事全く憚らず。今に於いては還って吉例たりと。この上は左右に能わず。今日を以てこれを定めらる。
仍って件の勘文を政所に遣わさるるの間、行然の奉行として、御儲けの如きの事沙汰を致せしむ。また泰貞に仰せ、吉時の勘文を召さる。亥の刻竹の御所(御年二十八)営中に入御す。これ御嫁娶の儀なり。縡楚忽に起こる。密儀たるの間晴儀に非ず。且つは御輿を用いられ、小町大路を経て南門に入御す。雑色二人松明を取り前行す。供奉人は越後の守(期に臨み障る。憚り有るが故なり)・式部大夫政村・大炊の助有時・周防の前司親實・左近大夫将監佐房・上野の介朝光(以上布衣、騎馬)・隠岐三郎左衛門の尉・同四郎左衛門の尉・佐原十郎左衛門太郎・佐々木の八郎(以上白の直垂、歩行)等なり。相州(白襖の狩衣)・武州(香の狩衣)御輿寄せに候せらると。
12月10日丁卯/申の刻雷鳴。
12月11日戊辰/今暁客星猶出現す。京都は去る月二十八日出現す。天文博士惟範朝臣最前に奏聞すと。
12月15日壬申/鶴岡の放生会遂行せらる。
12月16日癸酉/同弓場の儀なり。流鏑馬第十番、二的中たらずと。[明月記]巷説、大夫の尉惟信(惟義嫡男、承久合戦の後逃げ隠る)法師として、日吉八王子の庵室に隠居す。武士この事を聞き、搦め出さるべきの由座主に申す。門徒の悪僧を以て一昨日搦め取らる。武士粟田塔前に向かい、その夕請け取りをはんぬと。戦場を逃げ十年隠居す。奇謀と謂うべし。搦めらるるの時その力強しと雖も抜刀に及ばずと。
12月22日己卯朝天漸晴[明月記]惟信法師搦め取らるるの後、年来同意の輩露顕す。三人召し取らる。山僧の律師・仁和寺の僧一人・掃部の助時盛近習の中、江中務と号す男(本惟義郎等と)一人その内に在り。またこの事を告げる法師猶忠に処せられず。猶召し籠めらる。今朝関東の飛脚を発遣す。
12月25日壬午晴/今日勝長寿院の新造御塔供養なり。巳の刻将軍家御出で(御布衣)。御台所御同車。相州・武州以下数輩供奉す(布衣、騎馬)。午の一点供養の儀有り。これ故右大臣家十三年の御追善なり。行西これを奉行す。正日は明年正月二十七日たりと雖も、沙汰有りこれを引き上げらる。導師は当院の別当卿法印良信、願文は文章博士菅原公良朝臣これを草す。酉の一刻御仏事訖わり、還御す。夜に入り将軍家並びに御台所御方違え、竹の御所に入御す。  
1231年(寛喜3年辛卯) 1-3月  
1月1日戊子/椀飯(相州御沙汰)。御劔は駿河の前司これを持参す。
1月6日癸巳風吹く/二所御奉幣御進発の間の事、その沙汰有り。師員・親實等これを奉行す。
1月8日乙未/心経会。将軍家出御す。
1月9日丙申天晴/将軍家鶴岡八幡宮に御参り。二條侍従御車を寄す。式部大夫政村(布衣)御劔を役す。武州(布衣)供奉し給う。官人は大夫判官基綱・伊東判官祐時。還御の後相州の亭に入御す。この事、御弓始め去る七日たるべきの由その定め有るの処、彼の日は甲午なり。承久元年正月二十七日甲午、右大臣家宮中に於いて御事有り。慎まるべきかの由、傾け申すの輩有るに依って延引す。
1月10日丁酉晴/将軍家御方違えとして竹の御所に入御す。去年立春御方違えの後、四十五日に相当たるに依ってなり。
1月11日戊戌/御弓始め(一五度)。
1月14日辛丑/亥の刻大倉観音堂西の辺下山入道の家失火す。余焔に依って唐橋中将の亭並びに故左京兆の旧宅及び二階堂大路両方の人家等焼きをはんぬ。
1月16日癸卯寅の刻雨降る。巳以後晴に属く/未の刻米町の辺失火す。横町に及び南北六町余災す。出羽の前司の宅この内に在り。
1月18日乙巳朝天陰[明月記]申の時ばかり宰相来たり。(略)二十二日八條朱雀故関東右大臣後家の堂供養、東方より布施取り相国に申せらる。人々催し遣わさる。
1月19日丙午/去る夜子の刻より午の一点に及び白雪降る。積もること三寸。今日二所奉幣の御使式部大夫政村朝臣進発す。御台所の御使は牧右衛門の尉と。同じく進発す。[明月記]夜に入り賢寂門前に来たり。寒夜に依って相逢うこと能わず。宰相奉幣使を勤む。彼の日以前入るべからざるの由示し含む。讃州公文左衛門の尉信綱身病の由を称し、子息の男参らしむの由を申す。相具し来たると。名簿に有り。信綱子息廣綱と。佐々木兄弟同名か。初参の志神妙の由これを答えをはんぬ。この男相門より命ぜらるるの後、弘田の事虚言の未済無し。田舎に於いては存外の事か。
1月20日丁未/卯の刻鶴岡の別当法印御所に申し入れて云く、当宮石階の西の辺梅木有り。山鳩二つ彼の樹に居て、今日まで八箇日未だ立ち去らずと。
1月24日辛亥/御台所鶴岡八幡宮に御参り。左近大夫将監佐房・周防の前司親實・上野の介朝光以下十余人供奉す。
1月25日壬子霽/未の刻名越の辺失火す。越後の四郎時幸・町野加賀の守康俊の宿所等災す。同時に甘縄辺の人家五十余宇焼失す。放火と。[明月記]申の時ばかり家長朝臣来たり談る。巷説月来一定の由悦びを成す。相待つの処、相違の由を承り甚だ遺恨の故来訪す。今日幕下の亭を訪う。関東の聴を憚からるかの由命ぜらると。彼是の説実否驚奇す。
1月27日甲寅天晴陰[明月記]早旦有長朝臣来臨す(御使の由)。季有仰せ含めらるるの旨、昨日この朝臣に付く。遠所の聴を憚からるの説出来す。殊に承り歎くの由これを申す。その條先ず是非に及ばず。思し食し寄らざる事と。(略)宰相適々来るなり。日来の事等少々これを聞く。去る二十二日八條堂供養(ただ本寝殿を以て堂と為し、武士その門に陣列す)。
1月29日丙辰/関東祇候の諸人過差を止むべきの由定めらると。
2月2日己未/御所の台所南方に曳き移さる。周防の前司これを奉行す。
2月6日癸亥天晴[明月記]去る夜北辺毘沙門堂の南群盗入ると(近隣殊に頻りなり)。巳の時ばかり聞書到来す。雑任甚だ多し。従四上頼経(少将元の如し)。
2月9日丙寅霽/勝長寿院内新造の御塔に於いて始めて修正を行わる。導師は良信法印。
2月11日戊辰晴/酉の刻足利左馬の頭の若宮馬場の本宿所失火焼亡す。放火かの由その疑い有りと。
2月12日己巳霽/申の刻京都の使者参る。去る五日、将軍家従四位下(少将元の如し)に叙せしめ給う。[明月記]晩鐘の程御産の御気色を聞く。不審に堪えず西殿に参る。(略)雑人等御座すでに成るの由を称す(巳の二刻か)。侍等走り来たりて云く、皇子降誕。両人重ねて問うに、一定甑すでに南面に落つ。疑い無きの由人毎にこれを称す。これを聞き感涙忽ち催す。来る人毎に重ねてこれを問う。猶々一定の由を称す。
2月21日戊寅/御所侍二ヶ間これを作り継がる。防州同奉行たり。今日京都の飛脚参着す。去る十二日中宮(将軍家御姉)御平産。皇子降誕の由これを申すと。
2月23日庚辰/将軍家の御祈りとして、鶴岡八幡宮の宝前に於いて仁王会を行わる。去る月十三日以後八箇日、山鳩宮寺石階下の梅木に集まり立ち去らざる事、御占いを行わるるの処、上方の御慎みに非ず、宮寺口舌の闘諍を慎むべきの由占い申しをはんぬと。
3月1日丁亥雨降る/女房の局に於いて勝負有り。両国司・同室家等参らると。
3月2日戊子晴/晩景、将軍家御足の大指、刀を以て突き切らしめ給うの間血出づ。諸人群参し、御所中騒動すと。然れども殊なる御事無しと。
3月3日己丑/鶴岡の神事なり。御台所御参宮。今日将軍家始めて春日別宮を拝せしめ給う。これ四品に叙し給うの後、始めてその袍を着け御う。仍って拝賀に准えられ、彼の社に参り御うべしと。四位の袍を着け給う事、日次を撰ばるべきの由その沙汰有りと雖も、公卿の後の直衣始めはその日を撰ぶの例なり。四品の袍始めの事、必ずしもその儀に及ばざるかの由、有識申せしむの間、ただ凡て吉日を用いらると。[明月記]今日聞く。貞暁法印(鎌倉右大将の息、年四十六)逝去す。二十年に及び高野山に籠居す(不食病、臨終正念と)。母の禅尼彼の悲歎に依ってまた時を待つ(行寛扶持、件の禅尼共摂州に在りと)。
3月6日壬辰晴/京都より新調の御車を下さる。これ御台所の御車なり。
3月9日乙未霽/六波羅の飛脚到来す。去る月二十日、仁和寺の法印御房(貞暁、四十六)高野に於いて御入滅と。これ幕下将軍家の御息、御台所の御伯父なり。仍って御軽服の間竹の御所に入御す。
3月10日丙申晴/駿河の三郎光村使節として上洛す。皇子御誕生の事を賀し申さるるに依ってなり。
3月15日辛丑晴/永福寺恒例の舎利会、将軍家渡御す。御台所御同車。相州・武州参らる。
3月16日壬寅霽/武蔵大路の下の民家一宇焼失す。これ或いは青女嫉妬に依って、焼死せんが為自ら放火すと。[皇帝紀抄]童一人清涼殿に登り参り、昼の御座の御劔を盗み取るの間、蔵人一臈判官繁茂、殿上に於いて彼の童を捕え留む。件の盗人は法成寺執行の中童子と。
3月19日乙巳/今年世上飢饉。百姓多く以て餓死せんと欲す。仍って武州伊豆・駿河両国の間、出挙米を施しその飢えを救うべきの由、倉庫を有する輩に仰せ聞かさる。豊前中務の丞これを奉行す。件の奉書御判を載せらるると。今年世間飢饉の間、人民餓死の由風聞す。尤も以て不便なり。爰に伊豆・駿河の両国出挙せしむの輩、始め施さざるに依って、いよいよ計略を失うと。早く出挙を施行せしむべきの由仰せ下さるる所なり。兼ねてまた後日もし対捍有らば、注し申すに随い御沙汰有るべきの由候なり。仍って執達件の如し。寛喜三年三月十九日中務の丞實景(奉る)矢田六郎兵衛の尉殿
3月26日壬子終夜甚雨[明月記]左中将頼経。
1231年(寛喜3年辛卯) 4-6月  
4月2日戊午/河越の三郎重員は武蔵の国惣検校職なり。当職に付いて四箇條の掌事有り。近来悉く廃たれをはんぬ。仍って例に任せ執行すべきの由、武州に愁い申すの間、岩原の源八経直の奉行として、今日留守所に尋ね下さると。
4月4日庚申/天変の御祈り等を行わるべきの旨仰せ下さると。
4月5日辛酉晴/去る月二十五日の除目の聞書到着す。将軍家右近中将に転ぜしめ御うと。
4月11日丁卯/天変御祈りの御修法これを始行す。所謂不動(信濃法印)・降三世(大進法印)・軍茶利(丹後僧都)・大威徳(宰相法印)・金剛夜叉(若宮別当)・一字金輪(卿法印)。
4月14日庚午陰/月蝕、虧初は丑の七刻、復末は寅の一刻。現れずと。
4月15日辛未/未の刻地震。
4月17日癸酉晴/京都の使者参着す。中宮御入内の賞に依って、去る八日将軍家正四位下に叙せしめ御うの由これを申す。
4月19日乙亥/風雨水旱の災難を祈らんが為、諸国国分寺に於いて最勝王経を転読すべきの旨、宣旨状去る夜到着す。仍って今日民部大夫入道行然の奉行として、政所に於いて、関東分国施行すべきの由その沙汰有り。申の刻相模の四郎朝直の室(武州御女)男子平産す。
4月20日丙子/河越の三郎重員の本職四箇條の事、去る二日留守所に尋ね下さる。秩父権の守重綱の時より畠山の次郎重忠に至るまで奉行し来たるの條、重員申状に符号するの由、在廰散位日奉實直・同弘持・物部宗光等の去る十四日の勘状、留守代帰寂の同十五日の副状等到来す。仍って相違無く沙汰致すべきの由と。
4月21日丁丑/承久兵乱の後諸国郡郷庄保の新補地頭所務の事、五ヶ條の率法を定めらる。また六波羅に仰せ遣わさるる條々、先ず洛中諸社の祭日、非職の輩武勇を好む事停止すべし。次いで強盗・殺害人の事、張本に於いては断罪に行われ、与党の者に至りては、鎮西の御家人在京の輩並びに守護人に付け下し遣わすべし。兼ねてまた盗犯人の中、仮令銭百文若くは二百文の程の罪科の事、此の如き小過は、一倍を以てその弁えを致すべし。重科の輩に於いては、その身を召し取ると雖も、同心せざる縁者・親類に至りては、煩費を致すに及ぶべからずと。
4月25日[百錬抄]亥の刻、大炊御門堀川火有り。東風頻りに吹き、郁芳門焼亡す。大炊以後この災無し。額焼失しをはんぬ。
4月27日癸未晴/申の刻地震両度。
4月28日甲申/酉の刻御所北の対の辺怪鳥集まる(水鳥の類か。その鳥黒く翌日死す)。少々見知るの人有りと雖も、その名分明ならずと。
4月29日乙酉/昨日の鳥の事に就いて御占いを行わる。泰貞・晴賢・晴幸・重宗・宣賢・成光等参上す。病事なり。また女房に就いて病事を聞こし食すべきの由これを占い申す。夜に入り御祈り等を行わると。今日新判官光村京都より帰参す。使節の賞に依って、去る十四日使の宣旨を蒙ると。皇子降誕の事賀し申さるるの御使なり。
5月4日己丑/去る月の比、或る僧祇園の示現と称し、夢記を注し洛中に披露す。仍って殿下より将軍家に送り進せらる。仮令人別銭五文若くは三文を充て、心経を読誦すべし。即ち巽方に於いて鬼気祭を修すべし。然れば今年は世上疾疫と云い餓死と云い除かるべきなり。疫癘の事、五月以後六月十八日以前蜂起すべきなりと。仍ってこの封を懸くべし。
□医王源□急々如律令
□□□山柘急々如律令
この事を信ぜしめば、人民安穏・天下太平たるべきの由なり。今夜御所の四角四堺の鬼気御祭等これを行わる。
5月5日庚寅晴、南風烈し/綸旨に任せ、国分寺に於いて最勝王経を転読すべきの由、関東御分の国々に仰せ下さる。行然これを奉行す。
5月7日壬辰/地震。今日大進僧都観基薬師護摩を修す。天変の御祈りなり。晴幸地震祭を奉仕すと。
5月9日甲午晴/今朝、駿河の次郎泰村奉幣の御使として常陸の国鹿嶋社に進発す。これ天下太平の御祈りたるなり。また御所に於いて一万巻の心経(この内一千巻は書写)供養を遂げらる。導師は安楽房法眼行慈。これ同御祈りと。
5月13日戊戌/今日定め下さるる條々有り。先ず諸国守護人は、大犯三箇條の外、過分の沙汰を致すべからず。検非違所は、寛宥の計を廻らし、乃貢の勤めを専らすべきの由と。次いで同守護地頭は、領家の訴訟有るの時、六波羅の召しに応ぜざるの由その聞こえ有るに依って、二箇度は相触るべし。三箇度に及わば関東に注し申すべきの由、先度仰せらるるの処、優恕の儀を成しこれを申さざるか。自今以後穏容無く言上すべきの旨、重ねて仰せ遣わさるべし。次いで竊盗の事、仮令銭百文已下の小犯に於いては、一倍を以て弁償を致せしめ、その身を安堵せしむべし。百文以上の重科に至りては、一身を搦め取り、親類・妻子・所従を煩わすべからず。元の如く居住せしむべし。謀叛・夜討ち等は寛宥に及ばざるの由と。
5月14日己亥霽/巳の刻鳥御所の進物所に飛び入る。女房大盤一前打ち覆うと。仍って卜に及ぶ。病事を慎ましめ給うべきの由占い申すと。
5月17日壬寅霽/申の刻武州御不例と。またこの間炎旱旬を渉り、疾疫国に満つ。仍って天下泰平・国土豊稔の為、今日鶴岡八幡宮に於いて、供僧已下三十口の僧をして、大般若経を読誦せしむ。また十箇日の程、問答講を修すべきの由定め仰せらる。
第一日講師は三位僧都禎兼問者は安楽房法眼重慶
第二日講師は頓覺房律師良喜問座は心房律師圓信
第三日講座は心房律師問は頓覺房律師
第四日講は丹後律師頼暁問は圓爾房
第五日講は圓爾房問は丹後律師
第六日講は備後堅者問は教蓮房
第七日講は教蓮房問は備後堅者
第八日講は肥前阿闍梨問は筑後房
第九日講は圓爾房問は肥前阿闍梨
第十日講は安楽房法眼問は三位僧都
5月21日[皇帝紀抄]風聞、近日飢饉甚だしきの間、京中在地の人等、力を合わせ富家に推し入り飲食の後、銭米等を推し借る。数多分配取るの事、所々に多く聞く。
5月22日[皇帝紀抄]取る事武士に仰せ、これを停止せらる。
6月1日丙辰霽/武州御違例の事復本し給う。午の刻御沐浴と。
6月6日辛酉/海路往反の船、或いは漂倒、或いは難風に遭う。自然吹き寄せらるるの処、所々の地頭等寄船と号し左右無く押領するの由、その聞こえ有るに依って、先例たりと雖も、諸人の歎なり。自今以後停止すべきの由、諸国に仰せ遣わさるべきの旨、今日評議に及ぶと。
6月11日[皇帝紀抄]祇園内常行堂の上に、餓死者出来するの間、築地の上を破らしめ取り棄つ。
6月15日庚午晴/戌の刻由比浦の鳥居の前に於いて風伯祭を行わる。前の大膳の亮泰貞朝臣これを奉仕す。祭文は法橋圓全仰せを奉りこれを草す。これ関東に於いてその例無しと雖も、去る月中旬比より南風頻りに吹き、日夜休止せず。彼の御祈りの為、武州これを申し行わしめ給う。将軍家の御使は式部の進平内と。武州の御使は神山の彌三郎義茂なり。今年京都に於いてこの御祭を行わるるの由その聞こえ有り。在親朝臣勤行すと。
6月16日辛未霽/今日風静まる。去る夜の風伯祭の効験の由その沙汰有り。泰貞朝臣御劔等を賜うと。
6月17日[百錬抄]去る春より天下飢饉。この夏、死骸道に満つ。治承以後未だ此の如きの飢饉有らず。
6月22日丁丑/高野の法印(貞暁)去る二月二十二日入滅せられをはんぬ。その遺跡内府(實氏公)の若公に譲補し奉らるの由、文書等を相副え武州に申し送らるるの間、彼の領掌譲状に任せ相違有るべからざるの旨、今日評定有り。御下知を成さる。これ備中の国多気・巨勢両庄、和泉の国長家庄、伊勢の国三箇山・山田野庄等なり。
1231年(寛喜3年辛卯) 7-9月  
7月2日丙戌天晴[明月記]實持朝臣今夜来たり。五日の御拝賀資雅朝臣供奉すべきの由、殊に示し送るべきの旨仰せらるるの趣を示し送る。御拝賀何事やの由これを奏す。また云く、関白御慶なり。驚きながら馳参す。仰せに云く、今日この事定めをはんぬ。来五日殿下御上表、即日詔書拝賀なり。
7月5日[百錬抄]関白上表。左府(教實)を以て関白と為す。即ち長者の印を渡す。
7月9日癸巳霽/午の刻御台所御新車始めなり。駿河の前司義村の宅に渡御す。将軍家先ず入御す(御布衣・御車)。駿州の経営善を尽くし美を尽くす。伶人並びに舞女等を召し終日御遊興。暁鐘の期に臨み還御す。
7月11日乙未/二位家の御月忌。南小御堂に於いて仏事を修せらる。導師は求佛房なり。御台所渡御す。相州・武州参り給う。
7月15日己亥霽/二位家の御追善。小御堂恒例の一切経会なり。両国司また以て詣で給う。
7月16日庚子晴/今日京都の使者参着す。摂録を左府(御年二十二)に譲り奉らる。去る二日内覧の宣旨。五日夜に入り拝賀。これ知足院殿の例と。今月天下大飢饉、また二月以来洛中・城外疾疫流布し、貴賤多く以て亡卒すと。
8月1日甲寅天晴風静まる/世上漸く豊饒。死骸徐に散失すと。
8月15日戊辰霽/鶴岡の放生会。将軍家御出で。大炊の助有時御劔を役す。近江太郎左衛門の尉重綱御調度。供奉人、大夫判官基綱・宇佐美判官祐政・駿河判官光村なり。
8月16日己巳晴/神事。将軍家御出已下例の如し。御台所御見物の為馬場の桟敷に渡御す。
9月3日丙戌朝陽間晴[明月記]天王寺沙汰し鎮むべきの由関東に仰せらる。武士を遣わし凶徒を召し取る事、悪徒の所行すでに以て至極、藁を積み儲け、藁の上に放火するの條、更に下向の武士の進止に非ず。仏法最初の寺若くは灰燼と為るか。後悔その詮無かるべし。
9月6日己丑漢雲遠晴[明月記]巷説に云く、信綱近江を辞すと(東方存旨有るか、悲しむべし)。
9月13日丙申/今夜御所に於いて和歌御会。基綱・親行・光西等参上すと。
9月23日丙午晴/将軍家馬場殿に出御す。流鏑馬・遠笠懸有り。駿河の前司・武藤の次郎の如きの宿老等、殊なる仰せに依って射芸を施す。還ってその興有りと。
9月24日丁未晴/寅の刻月軒轅第三星を犯すと。
9月25日戊申/御所に於いて御鞠有り。相模の四郎・同三郎入道・周防の前司・小山五郎右衛門の尉・肥田の八郎・備中法橋定尊等その庭に候すと。また来月一日の蝕御祈りの事、今日松殿法印・大進僧都・宰相律師等に仰せらると。三壇の御修法なり。
9月27日庚戌/日中名越の辺騒動す。敵越後の守の第に打ち入るの由その聞こえ有り。武州評定の座より直に向かわしめ給う。相州以下出仕の人々その後に従い同じく駕を馳す。而るに越州は他行す。留守侍等彼の南隣に於いて悪党(他所より逃げ来たり隠居す)を搦め取るの間、賊徒或いは自殺せしめ或いは防戦を致すと。仍って壮士等を遣わし、路次より帰られをはんぬ。盛綱諫め申して云く、重職を帯し給う御身なり。縦え国敵たりと雖も、先ず御使を以て左右を聞こし食し、御計有るべき事か。盛綱等を差し遣わされば、防御の計を廻らしむべし。事を問わず向かわしめ給うの條不可なり。向後もし此の如き儀有るべきに於いては、殆ど乱世の基たるべし。また世の謗りを招くべきかと。
武州答えられて云く、申す所然るべし。但し人の世に在るは、親類を思うが故なり。眼前に於いて兄弟を殺害せらる事、豈人の譏りを招くに非ずや。その時は、定めて重職の詮無きか。武道は爭か人躰に依らんや。只今越州敵に囲まらるの由これを聞く。他人は小事に処すか。兄の思う所、建暦・承久の大敵に違うべからずと。時に駿河の前司義村傍らに候しこれを承り、感涙を拭う。盛綱面を垂れ敬屈すと。義村座を起つの後御所に参る。御台所に於いてこの事を同伺候の男女に語る。これを聞く者感歎の余り、盛綱の諷詞の句・武州の陳謝、その理猶何方に在るやの由、頗る相論に及ぶ。遂にこれを決せずと。越州この事を聞き、いよいよ以て帰往す。即ち潛かに誓状に載せて云く、子孫に至るまで、武州の流れに対し無貳の忠を抽んで、敢えて凶害を挿むべからずと。その状一通は鶴岡別当坊に遣わす。一通は来葉の廃忘に備えんが、家の文書に加うと。
9月29日壬子/変異の御祈りを行わると。
1231年(寛喜3年辛卯) 10-12月  
10月6日戊午霽/御願寺を建てらるべきの由沙汰有り。その地を永福寺・大慈寺等の内に点ぜらる。両国司・駿河の前司・出羽の前司・隠岐入道・信濃民部入道以下、陰陽師三人(泰貞・晴賢・重家)を相具し巡検有り。金蔵房をしてこの地に相せしむ。また当座に於いて宅磨左近将監為行を召しこれを図絵す。摂津の守師員・駿河判官光村等を以て御所に申されをはんぬ。永福寺内の地は、御台所の御願寺料内々これを定めらると。伊賀式部入道光西奉行す。
10月12日甲子/寅の刻地震。今日、安嘉門院の御所並びに神泉苑修理の事その沙汰有り。これ将軍家の御役として、先日御家人等に充てられをはんぬ。西国分に於いては、神泉苑の役所に漏れるの輩、沙汰を致すべきの旨仰せ出さると。[百錬抄]土御門院配所(阿波の国)に崩御す(御年三十七)。
10月16日戊辰霽/二階堂内五大尊堂を建立すべきの地は、本堂の犯土なり。彼の方角を糺すべきの由仰せ下さるるの間、周防の前司親實・式部大夫入道光西(御堂奉行)・籐内左衛門の尉定員等、陰陽師晴賢已下を相伴い、本堂の後山に挙じ上り、方角を校量す。御所より寅と申との間に相当たり、憚り有るべからざるの由一揆せしむ。然れども明年は、王相方たるべし。而るに故二位殿の御時、本所に用いらるる所の僧坊一宇これ在り。御本所たるべし。彼の坊御堂を立てらるべきの地より乾方に当たるか。猶以て戌方分かの由、晴賢これを申す。各々帰参せしめその趣を言上す。戌の刻武州の御第に於いて、尾藤右近入道の奉行として、御堂造営日時の定め有り。その後献盃・羞膳有り。親實・光西等その座に候す。
10月19日辛未雨頻りに降る/二階堂の御堂の地を改め、甘縄城の太郎の南、千葉の介の北、西山の傍らに点定せらる。両国司また巡検し給う。今日橘寺供養の日に相当たり、不吉なりと。仍って陰陽道数輩これを召し決せらる。泰貞・晴茂・長重・文元、一同これを申す。件の寺供養は寛治五年なり。而るに供養と作事とは各々別事なり。甚だ憚り有るべからずと。また齋藤兵衛入道浄圓申して云く、辛未の日不吉の所見有りと。彼と云い是と云い御承引無し。今日を用いらるるなり。法橋圓全申して云く、粗先規を考うに、辛未の例一に非ず。所謂後一條院寛仁四年正月十九日辛未、興福寺阿弥陀堂の御塔柱立て。堀河院康和三年七月六日辛未、春日社に於いて一切経供養。同日日吉社に於いて大般若経供養。鳥羽院元永元年閏九月十九日辛未、熊野山一切経供養(御幸有り)。崇徳院保延二年三月四日辛未、熊野山本宮の五重御塔供養。後鳥羽院元暦元年閏十月十日辛未、法皇御願、蓮花王院に於いて万部四巻の御経供養等なりと。
10月20日壬申/周防の前司親實・伊賀式部入道光西・籐内左衛門の尉定員、泰貞・晴賢等の朝臣を相具し、御堂地の方角を看んが為、甘縄に向かう。これ御所より坤方なり。方角その憚り無し。作事難有るべからざるの由これを申す。[百錬抄]天王寺別当二品親王甲を被る勇士等を遣わし、悪徒を責め召さる。戦うの間、夭亡の輩数有りと。彼の輩去年比より一向法親王の仰せに背き、寺領等寺家使の張行、沙汰人を追い出しをはんぬ。今この狼藉に及ぶ。天下の勝事なり。
10月25日丁丑晴/晩に及び大風吹く。戌の四刻相州・公文所焼亡す。南風頻りに扇き、東は勝長寿院の橋の辺に及び、西は永福寺惣門の内門に至り、烟炎飛ぶが如し。右大将家びに右京兆の法華堂・同本尊等灰燼と為す。凡そ人畜の焼死その員を知らず。これ盗人放火の由その聞こえ有りと。
10月27日己卯晴/相州・武州評定所に参り給う。摂津の守師員・駿河の前司義村・隠岐入道行西・出羽の前司家長・民部大夫入道行然・加賀の守康俊・玄蕃の允康連等出仕す。式部大夫入道光西・相模大掾業時、法華堂並びに本尊の災事を執り申す。縦え理運の火災たりと雖も、関東に於いては尤も怖畏思し食すべきの由、各々意見状を進す。同造営の事評定を経らるるの処、師員・行西・康連が如き、墳墓堂等炎上の時、再興の例無きの由これを申すに依って、御助成有り、寺家に仰すべきの旨議定すと。また両御願寺新造の事、この火災に依って延引す。第一の徳政たるの由世以て謳歌すと。
10月28日庚申晴/去る十二日土御門院阿波の国に於いて崩御(春秋三十七)の由、京都よりこれを申さる。[百錬抄]今上第一親王皇太子(秀仁)と為す。
11月6日戊子/辰の刻大流星。一旦天より東山の西際に入る。人これを怪しむ。
11月9日辛卯霽/御台所の御祈り、御所に於いて千度御祓いを行わる。泰貞・晴賢・長重・晴幸・重宗・宣賢・廣資・経昌・晴秀・文親等これを奉仕す。陪膳は伊賀の助仲能・民部少輔親實(布衣なり)。同年長は六位(布衣)十人。奉行は周防の前司親實と。
11月10日壬辰晴/将軍家の御祈り、千度御祓い御所に於いてこれを行わる。人数昨日に同じ。但し文親・晴秀座次相論に依って、これを除かると。
11月17日己亥/今暁寅の刻海辺鳴動す。その響音雷の如し。
11月18日庚子/将軍家の御願五大尊像これを造り始め奉らる。師員・光西・康連等奉行たりと。今日右大将家の法華堂上棟なり。この事寺家に付けらると。
11月24日丙午/辰の刻鶴岡内の三嶋社壇鳴動す。仍って御占い有り。神事穢気の不浄に依ってなり。御病事を慎まるべきの由これを占い申すと。
11月25日丁未/日来の天変と云い、三嶋社の鳴動と云い、驚き御沙汰有り。御祈り等これを始行す。
11月27日己酉/属星祭これを行わると。泰貞朝臣奉仕す。
12月5日丙辰/卿法印・信濃法印御所に参り盃酒を献る。相州・武州参らる。垂髪等延年に及ぶと。
12月10日辛酉/明春の二所御参詣の事その沙汰有りと。
12月17日[百錬抄]園城寺の衆徒蜂起す。圓宗寺・最勝寺の間、公請出仕の輩制止せしむと。これ天王寺別当の事訴え申すが故なり。
12月26日丁丑晴/五大尊の御衣木、導師は信濃法印道禅。また明年太一定分の御厄の御祈りとして、長日の勤行を始めらる。その上御本尊等(薬師・観音・不動)を造立せられ、同じく道禅を以て開眼供養の儀有り。玄蕃の允康連・隠岐左衛門の尉行義等これを奉行す。
12月28日己卯/今夜三万六千神祭を行わる(廣資)。代厄親貞。
12月30日辛巳/今夜戌亥両時甚雨雷鳴。深更に及び雨休む。大晦夜の雷鳴、殊に重変たるの由と。  
1232年(寛喜4年、4月2日改元貞永元年壬辰) 1-4月  
1月1日壬午晴/将軍家鶴岡八幡宮に御参り。午の一点御出で(御束帯・御車)。駿河判官光村供奉す。和泉の守政景御劔を持つ。佐原五郎左衛門の尉御調度を懸くと。還御の後椀飯の儀有り。相州これを沙汰す。陸奥式部大夫御劔を持参す。
1月4日乙酉/後鳥羽院御時の朝覲行幸の絵、京都よりこれを進せらる。将軍家今日御覧有り。陰陽権の助晴賢朝臣仰せに依って彼の詞を読むと。
1月5日丙戌/未の刻月太白経天を犯す(相去ること四寸の所)。去る貞応三年四月七日この変有り。同六月十三日右京兆卒亡す。凡そ和漢共佳例に非ず。而るに今年始たるに依って、天文道言い出さずと。
1月23日甲辰霽/去る十二日朝覲行幸無為に遂げらるるの由、京都よりこれを申さる。閑院より持明院殿に幸すと。武州仰せられて云く、当年十二日山内に向かわんと欲するの処、或る人道虚日憚り有るの由申すの間延引す。而るに朝覲を遂げらるるの由、今その聞こえ有り。定めてこれ先規を勘がえらるるか。この日を以て吉事に用いらるるの例、尤も不審と。玄蕃の允康連・齋藤兵衛入道浄圓・法橋圓全等折節御前に候す。浄圓・圓全等申して云く、彼の例未だ承り及ばず。ただ古今の際、貴賤忌み来たるの由これを計り存ずと。康連所見有るの由これを申す。武州重ねて尋ね仰せらるるの間、座を起ち即ち一紙を持参しこれを進覧す。武州殊に御自愛、御文書の中に入れらるると。彼の記に云く、
道虚日吉事に用いらるる例
長和五年二月三十日、左大臣(御堂)兵杖を給う事(年月二十四日六條内裏に渡御以後)
延久年月日、宇治殿御賀を行わるる事
寛和元年四月十二日、大殿随身を賜うの後慶びを申し給う事
天喜五年十二月二十四日、但馬の守五位蔵人に補すの後、初めて慶びを申す。
承保元年十月三十日甲午、大甞會御禊ぎを行わるる事(白河院)
永保三年十一月十二日癸丑、宇治泉殿の舎屋等造加せらるの後、殿下京極殿渡御の事
寛治元年六月二十四日甲辰、摂政初度の御上表の事(京極殿先例なり)
同二年二月十八日乙未、除目を行わるる事、少将殿(忠)慶び申さる。
康和元年十月六日甲辰、大将殿朱器を渡さるる事(宇治入道殿)
同十二日庚戌、前の齋院(令子)始めて大殿に渡御する事
同五年四月六日甲寅、阿闍梨寛信慶びを申す事
2月7日戊午/御台所御不例。今日日中以後頗る御辛苦と。仍って御祈り等を行わる。五壇法・北斗供・泰山府君・代厄御祭と。
2月8日己未天霽/戌の刻月天關を犯す。並びに太白婁星を犯す。希代の重変たるの由天文道驚き申すと。
2月13日甲子/御台所御不例の事御少減と。今日御不例の事に依って、小山下野入道・宇都宮修理の亮等、彼の国より参上すと。
2月14日乙丑/甘縄の辺の民居焼亡す。
2月20日辛未/一條殿より新調の車を進せらる。これ将軍家近日御上階有るべきが故なりと。大夫の尉基綱これを請け取ると。
2月23日甲戌/御台所御沐浴と。
2月24日乙亥/武蔵の国六所宮の拝殿破壊す。修造の儀有り。武藤左衛門の尉資頼これを奉行す。
2月26日丁丑/武蔵の国槫沼堤大破するの間、修固せしむべきの由、便宜の地頭に仰せらるべきの旨定めらる。左近入道道然・石原の源八経景等奉行として下向す。彼の国の諸人・領内の百姓一人も漏らさず催し具すべし。在家別に俵二つこれを充つべし。てえれば、三月五日よりこれを始め、自身その所に行き向かい、沙汰を致すべきの旨命を含むと。
3月2日[百錬抄]巳の刻、東大寺並びに元興寺の塔、春日社の塔雷火出来す。一時の間三所の火直事に非ざるなり。各々撲滅すと。
3月3日甲申晴/鶴岡宮恒例の神事たるに依って、午の一点将軍家御参宮有らんと欲す。而るに御祓いの陰陽師遅参するの故、御出を抑えらる。この間京都の飛脚到着す。去る月二十七日御上階(従三位、中将元の如し)の聞書を持参す。仍って両国司参り給う。爰に今日の御参宮を以て、拝賀に准えらるるの由仰せ有り。日次の事條々沙汰を経らる。師員・季氏等申して云く、拝賀は強ち最上吉を撰ばず。今日神事を以て先と為さるるの日なり。何の憚り有らんやと。茲に因って治定しをはんぬ。凡そ上吉は当日慶びを奏す。
中吉は三箇日中の宜日を用ゆ。殊に日次を撰ぶは、近代の法なり。その後御車を改め、先日到着の毛車を寄せらる。当座に御榻役を差さる。対馬蔵人仲尚これを献る。御劔はまたその仁を撰ばる。先の役人を改め、式部大夫政村朝臣に仰す。この儀式に依って時刻推移す。未の二点に及び西廊に御出で。前の大膳の亮泰貞朝臣(衣冠)を召し、故に反閇を勤むべきの旨仰せらる。泰貞無官の由頻りにこれを辞し申すと雖も、用いられをはんぬ。左近大夫将監佐房を以て禄(五衣)を賜う。その後御出で。相州已下供奉人済々焉たり。宮寺に於いて法華経供養、御聴聞。導師は頓覺坊律師良喜なり。供奉の諸大夫等を以て御布施等を曳かる。舞楽例の如し。晩に及び還御す。
3月7日[皇帝紀抄]夜、盗人大学寮の廟倉に入り、御影二十一舗を取り奉ると。
3月9日庚寅/伊豆の国仁科庄の土民等、飢饉に依って餓死に及ぶの間、意ならず農業の計を抛つの由、武州の御方に愁い申す。仍って出挙三十石を下し行うべし。もし彼等弁償せざれば、御沙汰として糺返せらるべきの由、また矢田六郎兵衛の尉に仰せらる。この事すでに数度に及ぶと。
3月13日甲午/天変の御祈り等これを行わる。
3月14日乙未天晴/月蝕正現せず。
3月15日丙申/権大僧都観基入滅す。大宮大進行頼の孫、土佐の守源国基の子なり。去る承久元年将軍家の御持僧として下向すと。
3月19日庚子/御所に於いて、六口の上綱を屈し大般若経を転読せらる。これ将軍家今年太一の御厄に当たらしむの上、世上の御祈念と。
3月25日丙午晴/御所の大般若経結願すと。
4月1日辛亥/今日日蝕有るべきの旨、宿曜備中法橋これを申すに依って、御所を裹まるべきや否や、周防の前司親實を以て暦道に問う。各々日蝕有るべからざるの由これを申す。
4月2日[皇帝紀抄]改元。変異に依ってなり。
4月4日甲寅/京都大番の事その沙汰有り。国中の地頭中、他国に居住せしむと雖も、先々勤め来たるの輩に於いては、代官を催し加え勤めしむべきの由、守護人等に仰せらると。
4月7日丁巳/新補地頭所務の間の事七箇條、その法を定めらると。
4月9日己未/法華堂西の護摩堂、去年十月二十五日焼亡の時回禄しをはんぬ。而るに御台所の御願として造らるべしと。仍って今日政所に於いて、信濃民部大夫入道行然の奉行として、件の堂御所より何方に当たるやの由その沙汰有り。陰陽師(泰貞・晴賢・宣賢)を遣わし方角を糺さる。夜に入り明火御所と法華堂とを往反す。両方これを窺い見る。丑方の分たるの由各々言上すと。
4月11日辛酉霽/将軍家鶴岡八幡宮に御参り。御浄衣・御乗車。大夫判官基綱・祐時・祐政等供奉す。駿河の前司義村御劔を持つ。佐原三郎左衛門の尉御調度を懸く。宮寺に於いて八講を行わると。
4月12日壬戌/同宮に御参り。
4月13日癸亥/今日また御神拝。
4月14日甲子/同御参り。今日改元の詔書到来す。去る二日寛喜四年を改め貞永元年と為す。
4月15日乙丑晴/将軍家去る十一日より今日に至るまで、鶴岡の上下宮に御奉幣。無為に遂げしめ給うと。
4月21日辛未/近日、都鄙に夜討ち・強盗蜂起するの由その聞こえ有るの間、守護人・地頭等の面々に仰せ、[見隠し、聞き隠しすべからざるの旨仰せ下さる。]
4月25日乙亥霽/今暁太白鎮星を犯す(一尺六寸の所)。司天等勘文を献る。摂津の守これを執り申す。
 
天変地異年表

 

   この年の特記すべき天変地異
22000年前頃 現鹿児島湾北部で噴火。姶良カルデラが形成。噴火が続いた後、現桜島
   の北側で大爆発を起こし、薩摩・大隅両半島と霧島山周辺の広範囲に火砕流をも
   たらす。灰は1000km離れた場所にも降下。(日本被害地震総覧)
6千数百年前頃 近畿地方で地震により地割れ、液状化あり。(阿久尻遺跡/郡家遺跡)
6400年前頃 鬼界カルデラ噴火に伴い、地震発生か。(原口園遺跡/奥木場遺跡)
5500年前頃 舞鶴付近で地震。液状化。(志高遺跡)
5000年前頃 火山噴火と地震か。(中島ノ下遺跡/第一東海自動車道遺跡群)
3000年前頃 琵琶湖周辺で大地震。湖岸の一部が水没か。
   (北仰西海道遺跡/津田江湖底遺跡)
3000年前頃 箱根神山が爆発崩壊し、堆積物により芦ノ湖が生成される。
   (日本火山総覧)
2千数百年前頃 近畿地方で地震か。(石田遺跡)
B.C.100年頃 近畿地方で大地震。(北白川廃寺遺跡/湯ノ部遺跡/正言寺遺跡/針江浜遺
   跡/津田江湖底遺跡/原川遺跡)
B.C.100年頃 東海地方で地震か。(原川遺跡)
0年頃 近畿から西日本にかけて地震か。(下内膳遺跡)
100年代頃 西日本で地震か。(黒谷川宮ノ前遺跡/黒谷川郡頭遺跡)
100年代頃 東海地方で地震か。(鶴松遺跡)
200年代末 南海大地震か。(志紀遺跡/黒谷川宮ノ前遺跡/下田遺跡)
???(懿徳?)年 開聞岳噴火するという。(日本地震史料/日本火山総覧)
???(垂仁15)年 星降ると後の記録にある。(吾妻鏡52)
416?(允恭5)年7月近畿地方中部で地震(ナヰフル)がある。(日本書紀13)
500頃(清寧3頃)年3〜4月富士山噴火し、黒煙が天に昇る。熱灰が雨のように降る。三農
   は営を絶ち、五穀は実らず。天皇、使を立てて神宝を献じ捧ぐという。
   (走湯山縁起2)
553(欽明14)年 阿蘇山噴火?(日本火山総覧)
568(欽明28)年 郡国大水飢。(日本書紀19)
599(推古7)年 大和で地震があり、地震の神を祭る。(日本書紀22) 
601(推古9)年5月天皇、耳梨行宮へ居を遷す。大雨で河水あふれ、宮庭を浸す。
   (日本書紀22)
628(推古36)年3月2日日蝕あり。(日本書紀22)
  地震により道後温泉がふさがり、3年後にまた出る。(伊予温古録)
634(舒明6)年8月長星南方に現れる。時の人これを彗星という。(日本書紀23)
635(舒明7)年1月彗星東に見える。(日本書紀23)
639(舒明11)年1月長星西北に現れる。時旻師曰く彗星也。(日本書紀23)
664(天智3)年3月京北に星隕あり。(日本書紀27)
676(天武4)年11月地震あり。(日本書紀29)
678(天武6)年6月14日地震あり。(日本書紀29)
679(天武7)年10月筑紫で大地震。幅2丈、長3000余丈の亀裂生じ、家屋多数倒壊。
   (日本書紀29)
680(天武8)年6月1日桃子ほどの氷零(霰)が降る。(日本書紀29)
   10月11日地震。14日にも地震。(日本書紀29)
   11月1日日蝕あり。(日本書紀29)
681(天武9)年6月灰降る。(日本書紀29)
   9月地震あり。(日本書紀29)
682(天武10)年3月地震あり。(日本書紀29)
   6月地震あり。(日本書紀29)
   9月彗星現れる。(日本書紀29)
   11月地震あり。(日本書紀29)
683(天武11)年1月地震あり。(日本書紀29)
   3月地震あり。(日本書紀29)
   7月地震あり。(日本書紀29)
   8月12日地震あり。17日にも地震。(日本書紀29)
684(天武13)年7月西北に彗星現れる。長さ丈余。(日本書紀29)
   10月未だかつてないという大地震。山崩れで洪水。諸国の郡官舎、百姓の倉屋、寺
   塔、神社の多く破壊される。津波で土佐の田苑50余万が海没。伊予の温泉が没し
   出ず。人と六蓄に死傷多数。(日本書紀29)
   11月戊辰に七星、東北に流れる。庚午日没時、東方に星隕。天文悉乱し星隕雨の
   如し。(日本書紀29)
685(天武14)年3月信濃に降灰。草木が皆枯れる。(日本書紀29)
686(朱鳥1)年1月地震あり。(日本書紀29)
   3月1日信濃に降灰。(日本書紀29)
   12月1日西で地震あり。(日本書紀29)

700

 

701(大宝1)年3月26日丹波(当時は丹波と丹後は同じ)で地震。3日間続く。若狭湾凡海郷
   島が沈没し、頂上二つの小島のみになる。現在の冠島・履島。5月12日とも言う。
   (続日本紀2)
703(大宝3)年7月近江で噴火。使を遣わして雨を名山大川に祈る。(続日本紀3)
715(霊亀1)年5月三河・遠江で大地震。正倉47棟が倒壊。麁玉河(天竜川)が土砂でふさ
   がり、氾濫。民家170余戸が水没。(続日本紀6)
   7月地震あり。天皇甕原離宮に行幸す。(続日本紀6)
716(霊亀2)年1月地震あり。(続日本紀8)
718(養老2)年11月彗星、月を守る。(続日本紀8)
719(養老3)年3月地震あり。(続日本紀8)
720(養老4)年2月地震あり。(続日本紀8)
721(養老5)年1月地震あり。(続日本紀8)
   2月地震あり。(続日本紀8)
   12月地震あり。(続日本紀8)
724(神亀1)年行基、山崎橋を作り法会が行われる。俄に洪水となり、橋は流失し死者多
   数。(古事談3)
727(神亀4)年10月上総で山崩れがあり、70人が圧死。賑恤を加える。(続日本紀10)
734(天平6年)4月大地震。百姓の舎倒壊多数。山崩れで川がせき止められ決壊多数。使
   を諸国に派遣し、破壊された神社を調査する。(続日本紀11)
738(天平10)年9月地震あり。
741(天平13)年6月洛中に飯が降ると水鏡にいう。翌年の記録と誤認か。
   (吾妻鏡52/康富記)
742(天平14)年1月陸奥黒川郡以北11郡に赤雪降る。平地で2寸。(続日本紀14)
   3月地震あり。(続日本紀14)
   6月京中往々に飯が降る。(続日本紀14)
   10月23日大隅で大地震あり。28日まで余震続く。(続日本紀14)
   11月陸奥に丹雪が降る。(吾妻鏡52)
   12月16日地震あり。(続日本紀14)
   霧島御鉢で噴火。(日本火山総覧)
744(天平16)年5月肥後で地震。(続日本紀15)
745(天平17)年4月27日美濃で大地震。三日揺れが続く。櫓館、正倉、仏寺、堂塔、百姓
   の廬舎崩壊する。(続日本紀16)
   5月2日地震あり。都の諸寺に17日間経を転読させる。また8日にも地震。大安、薬
   師、元興、興福の4寺で大集経を37日転読。10日にも地震あり、平城宮で大般若経
   を転読。地震で各地に亀裂が生じ、水が湧き出る。(続日本紀16) 
750(天平勝宝2)年5月24日中山の寺振動、塔と歩廊が焼失する。(続日本紀18)
753(天平勝宝5)年12月摂津に津波至り被害大。田租の免除を行う。(続日本紀19)
762(天平宝字6)年5月9日美濃、飛騨、信濃で地震。家ごとに二斛を支給する。
   (続日本紀24)
764(天平宝字8)年9月反乱者恵美押勝の臥屋の上に星が落ちる。(続日本紀25)
   12月これより以前に大隅薩摩の境で奔電があり、信爾村の海に沙石が降って3つの
   島となる。民家62区が埋没し80余人が死亡。(類聚国史11/続日本紀25)
766(天平神護2)年6月5日これより前大隅神造新島で地震。民多く流亡する。桜島噴火。
   (続日本紀27)
771(宝亀2)年5月23日豊後速見郡敵見で山崩れ。川を堰止め、十余日後に決壊。百姓
   47人が漂没し家43区が埋没。調庸の免除と賑救の詔が出される。(続日本紀32)
   11月西南に星隕。その音、雷の如し。(続日本紀31)
772(宝亀3)年6月京師に隕石。大きさ柚子の如し。数日で止まる?(続日本紀32)
   12月彗星南方に現れる。僧100人斎を楊梅宮に設ける。星隕雨の如し。
   (続日本紀32)
773(宝亀4)年2月地動く。(日本書紀22)
   5月南北に各一つずつ星隕あり。(続日本紀32)
776(宝亀7)年7月19日西大寺の塔揺れる。(続日本紀34)
   9月20日?毎夜瓦石や塊が内竪曹司や京中の家屋上に墜ちる。
   (続日本紀34/吾妻鏡52)
777(宝亀8)年2月晦日日蝕あり。(続日本紀34)
   7月14日但馬国分寺の塔揺れる。(続日本紀34)
781(天応1)年3月地震あり。(続日本紀36)
   5月地震あり。(続日本紀36)
   6月地震あり。(続日本紀36)
   7月6日駿河より富士山噴火で降灰があり、木葉彫萎するという。(続日本紀36)
   11月地震あり。(続日本紀36)
782(延暦1)年1月地震あり。(続日本紀37)
   2月地震あり。(続日本紀37)
   6月地震あり。(続日本紀37)
788(延暦7)年3月4日大隅曾乃峯で夜10時頃噴火。2時間ほどで収まり、石や灰が麓
   56里に降る。(続日本紀39)
789(延暦8)年1月1日日蝕あり。(続日本紀40)
797(延暦16)年8月14日京畿に地震暴風あり。(日本逸史6)
799(延暦18)年8月11日常陸国鹿島・那加・久慈・多珂の4郡に津波が15回押し寄せる。
   海面は20余町引いた後、津波が内陸1町まで達するという。(日本被害地震総覧) 

800

 

800(延暦19)年3月14日富士山噴火。煙で暗瞑するという。夜、火光が天を照らし、雷の
   如き音がするという。灰が雨のように降り、河水皆紅色になると言う。4月18日まで
   続く。(日本紀略)
   6月1日日蝕あり。
802(延暦21)年1月1日駿河・相模より、富士山噴火で砂礫が降ってくるので占いを求むと
   言上あり、卜すると、疫になるという。勅して両国に鎮謝を加える。(日本略記)
   5月相模足柄路、富士の焼石によって塞がれたので、これを廃し、筥荷路(箱根路)を
   開く。(日本紀略)
805(延暦24)年1月未刻、大星隕。(日本後紀12)
806(大同1)年8月この月、霖雨やまず、諸国で洪水。(日本後記14)
807(大同2)年5月25日地震あり。(日本逸史15)
810(弘仁1)年6月26日夜地震あり。(日本逸史18)
811(弘仁2)年12月16日地震あり。(日本逸史19)
812(弘仁3)年6月薩摩で蝗害。5日には、逋負稲5000束を免除する。(日本後紀21)
815(弘仁6)年5月14日薩摩で蝗害。調庸田租免除。
816(弘仁7)年1月沙、雨のように降る。(日本紀略)
   7月17日摂津で海が溢れる。死者220人。(日本逸史25/日本後紀26)
   12月13日地震あり。18日と20日にも地震。(日本逸史25/日本後紀26/日本紀略)
818(弘仁9)年7月関東で大地震。死者多数。(日本逸史26)
   8月19日諸国で地震の被害を調査し、救恤を行う。(日本逸史26)
819(弘仁10)年12月3日薩摩での蝗害により、田租免除となる。
827(天長4)年7月12日大地震。舎屋多くが倒壊。1日に大震1回、小動78回。月末まで余
   震続く。(日本逸史35)
   12月14日地震あり。清行の僧百人に大極殿で大般若経を三日間転読させる。
   (日本逸史35)
829(天長6)年3月地震あり。(日本逸史37)
830(天長7)年1月28日出羽で地震あり。駅伝によれば、秋田城郭官舎、四天王寺六仏
   像、四王堂舎など倒壊。死者15人、負傷者100余人。30許丈の裂け目が出来る。
   城辺の秋田川が涸れるという。(日本逸史38)
   4月25日出羽地震の救急勅令がでる。(日本逸史38)
   7月天皇、神泉苑で相撲を見ているとき、申刻雷雨。酉刻に至り内裏西北角曹司に
   落雷。左右近衛騎乗し、内裏に入りて、神火を滅す。賜録あり。(類聚国史73)
832(天長9)年8月河内・摂津で大雨と大風により堤防が決壊し洪水となる。(日本紀略)
   9月洪水の被害を受けた百姓に賑給を行う。(日本紀略)
837(承和4)年3月彗星東南に現れる。その光芒東の天涯に至る。(続日本後紀6)
838(承和5)年7月粉の如きものが天より降る。雨にあっても溶けず。(続日本紀7)
   9月7月以降この月まで、灰が天より降る。河内、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、武
   蔵、上総、美濃、飛騨、信濃、越前、加賀、越中、播磨、紀伊の16国。しかし損害無
   し。逆に畿内七道豊作となり五穀の値が下がる。老農、これを米花と呼ぶ。
   (続日本紀7)
   10月22日彗星東南に見える。その気赤白。長さ数尺。暫く見えなくなった後東方に
   現れる。
   11月17日に至るまで毎夜寅刻東方に見える。長さ7尺。(続日本後紀7)
839(承和6)年1月彗星兌方に見える。長さおよそ1丈。(続日本後紀8)
   2月東西両寺彗星が頻見するので、般若心経を講読。(続日本後紀8)
841(承和8)年2月13日信濃で地震。一夜に14回揺れ、公私の墻屋(墻は垣根)倒壊。
   (続日本後紀10)
   7月1日伊豆で地震。里落完からず。圧死者あり。使を遣わし歴撫。家屋を失った者
   は、当年の租調を免じ、倉を開いて賑救。家屋を修復する。亡くなった者は、埋葬に
   処する。(続日本後紀10)
   11月彗星西方に見える。
   12月勅命により僧100人に八省院にて三日間大般若心経を読ます。内記に命じて
   ○願文を作らせ、五畿七道諸国にこれを読ませ、終わるまで殺生を禁じる。
   (続日本後紀10)
845(承和12)年5月9日山城より虻虫の害はなはだし。(続日本後紀15) 
850(嘉祥3)年10月16日出羽で大地震。山谷形を変え、圧死者多数。(文徳天皇実録2)
852(仁寿2)年2月夕刻西に彗星現る。長さ5丈。(文徳天皇実録4)
853(仁寿3)年3月地震あり。(文徳天皇実録5)
   4月地震あり。(文徳天皇実録5)
   7月地震あり。(文徳天皇実録5)
   10月地震あり。(文徳天皇実録5)
   地震相次ぐため、名僧に読経を読ませ、神官に伊勢神宮で奉幣祈願を行わ
   せる。(文徳天皇実録5)
855(斉衡2)年2月東北に長星あり。(文徳天皇実録7)
   5月地震あり。(文徳天皇実録7)
   9月地震あり。(文徳天皇実録7)
856(斉衡3)年2〜4月地震頻発。(文徳天皇実録8)
   6〜7月地震頻発。(文徳天皇実録8)
   9〜12月地震頻発。(文徳天皇実録8)
857(天安1)年3月3日地震により、大館地方松峰山伝寿院の堂舎が倒壊。山崩れにより
   仏像が谷底に埋まる。(日本被害地震総覧)
858(天安2)年9月22日地震あり。(三代実録1)
   11月9日地震あり。(三代実録1)
   12月13日地震あり。(三代実録1)
859(貞観1)年7月27日地震あり。(三代実録3)
   8月8日地震のため、五畿七道諸国の年貢御鷹一切を停止する。(三代実録3)
   9月14日地震あり。(三代実録3)
   10月29日大きめの地震あり。(三代実録3)
   11月12日地震あり。(三代実録3)
860(貞観2)年4月22日地震あり。(三代実録4)
   5月5日雷電雨雹地震あり。天皇、端午の節を止める。18日にも地震あり。
   (三代実録4)
   6月17日地震。22日にも地震あり。(三代実録4)
   7月14日地震。17日、24日にも地震あり。(三代実録4)
   9月7日地震あり。(三代実録4)
   10月7日地震あり。(三代実録4)
   閏10月23日地震あり。(三代実録4)
   12月4日地震あり。(三代実録4)
861(貞観3)年1月9日地震あり。(三代実録5)
   4月7日地震あり。(三代実録5)
   4月14日空中に声ありて雷の如かりき。
   5月13日地震あり。19日と20日にも地震。(三代実録5)
   6月23日地震あり。(三代実録5)
   8月16日月蝕
   8月17日地震あり。(三代実録5)
   8月27日空中に声有り、雷の如かりき。
   8月29日この月、京邑のところどころに梨すもも花咲き、或は実なりき。
862(貞観4)年1月11日地震。25日にも地震あり。(三代実録6)
   2月27日地震。25日にも地震あり。(三代実録6)
   3月11日地震。28日にも地震あり。(三代実録6)
   3月16日天の東に声有り、雷の如かりき。
   5月16日地震あり。(三代実録6)
   6月16日地震あり。(三代実録6)
   7月21日地震。27日にも地震あり。(三代実録6)
   8月1日日蝕。
   8月9日但馬国言へらく、「慶雲見えき」と。
   9月15日地震。21日、24日、29日にも地震あり。(三代実録6)
   10月9日地震。28日にも地震あり。(三代実録6)
   11月3日地大いに震ひ動きき。
   12月16日地震。27日にも地震あり。(三代実録6)
863(貞観5)年2月4日地震あり。(三代実録7)
   2月19日日月の光に異変有り 16日より18日に至るまで、日初めて昇るに白くして光
   無く、月初めて出づるに、赤きこと丹の如し。
   3月2日空中に声有りて、雷の如かりき。
   4月14日地震あり。(三代実録7)
   越中・越後地震 / 西暦863年7月10日。貞観5年6月17日。越中・越後:山崩れ、
   谷埋まり、水湧き、民家破壊し、圧死多数。直江津付近にあった数個の小島が潰滅
   したという
   6月17日越中、越後で地震。陸谷所を易え、水泉湧出、民の廬舎崩壊し、圧死者多
   数。以後毎日余震。(三代実録7)
   閏6月2日大和国言へらく「石上神社の南に、五色の雲を見き」と。
   閏6月9日地震あり。(三代実録7)
   閏6月19日暁に流星有りて、西に行きき。
   7月1日日蝕。
   7月2日流星の兆により伊勢大神に祷る。勅(みことのり)として伊勢大神に使いを送
   り、祈ったことが書かれています。去月流星有り、神官卜へて云はく、「天照大神祟
   りを成さん」と。故にいのりて以て不祥を防ぎしなり。
   8月8日地震あり。(三代実録7)
   9月8日地震あり。(三代実録7)
   11月13日地震あり。(三代実録7)
864(貞観6)年3月14日彗星東に見ゆ。営室宿にあって長さ4尺ほど。(三代実録8)
   富士山大噴火
   5月25日富士山噴火。方12里の山を焼き、火炎高20丈に達する。地震3回。噴火は
   十余日を経ても収まらず。烟雲鬱蒸して人近づけず。(三代実録8)
   駿河国、富士山の噴火を報ず。駿河国言へらく、「富士郡の正三位浅間大神の大山
   に火あり。その勢いはなはだ盛んにして、山を焼くこと方一二許里、ほのお(光炎)の
   高さ二十許丈、雷有り、地震ること三度、十日あまりをふ(歴)れども火なほ消えず、
   いわ(巌)を焦がし嶺を崩し、沙石雨ふるが如く、煙雲欝蒸して人近づくを得ず。大山
   の西北に本栖水海あり。焼けし巌石、流れて海の中に埋れ、遠さ三十許里、広さ三
   四許里、高さ二三許丈いして、ほのお(火焔)ついに甲斐国の境につく」と。
   7月17日富士山の溶岩流出し、本栖水海に流れ込み30里が埋まり、高さ23丈広さ
   23里に至る。水は熱湯になり魚死滅す。周囲の百姓の居宅も埋まり、そのまま甲斐
   の国境に達する。また河口海にも溶岩が向かう。溶岩台地は青木ヶ原となり、溶岩
   がせの海に流れ込んで精進湖と西湖に分かれる。(三代実録8、9/日本火山総覧)
   甲斐国、富士山の噴火を報ず。甲斐国言ひけらく、「駿河国富士大山にたちまち暴
   火あり。崗巒(かんらん)を焼碎(しょうさい)し、草木を焦殺し土を鑠(とか)し石を流し、
   八代郡の本栖、ならびに剗(せ)のふたつの水海を埋む。水熱くして湯の如く、魚龞
   (ぎょべつ)皆死に、百姓の居宅(いえ)、海と共に埋れ、或は家有りて人無きもの、そ
   の数記し難し。ふたつの海より東にもまた水海有り。名づけて河口海(かわぐちのう
   み)と言ふ。ほのお(火焔)赴きて河口海に向ひき。本栖、剗(せ)等の海のいまだ焼け
   埋れざる前、地大いに震動して雷電暴雨あり、雲霧晦冥(うんむかいめい)して山野
   わかちがたく、しかる後にこの災異有りき」と。
   9月4日地震あり。26日にも地震あり。(三代実録9)
   9月9日流星。この夜、星有り。紫微宮(しびきゅう)より出でて、昴に入り、長さ三丈余
   ばかりなりき。
   10月7日怪光見ゆ。夜、北山に光有り、雷の如かりき。また朱雀門前に赤き光を見
   る。長さ五尺ばかりなりき。
   10月9日地震あり。(三代実録9)
   10月12日地大いに震ひ動きき。
   11月13日夜、熒(けい)惑弖(てい)に入り守りき。
   阿蘇山噴火
   12月26日大宰府、阿蘇山の神霊池の異変を報ず。大宰府言へらく、「肥後国阿蘇郡
   の正二位勲五等健磐龍命神霊池、去る十月三日の夜、声有りて震ひ動き、池の水
   空中に沸き騰(あが)りて東南にそそぎ落つ。その東の方に落ちしは、布の如くにして
   延びひろがり、広さ十許町(じゅうちょうばかり)、水の色漿(しろみづ)の如くにして草
   木に粘着し、旬月を経といえども消え解けず」
865(貞観7)年1月14日地震あり。29日にも地震あり。(三代実録10、11)
   2月1日流星。この日、夜、星有り。東井を出でて軫に入り、色白くして、長さ二丈余
   なりき。
   2月10日阿蘇山神霊池の変により寺社に祈り、孤独者を恵み、未納税を免除す。天
   皇からの詔(みことのり)の文言が記されています(抜粋)。「去冬、大宰府言上す、「肥
   後国阿蘇郡に在る神霊池は、淫雨を経れども増すこと無く、亢陽に在りても減らず。
   しかるに今故なくして沸騰し、他の県に衍溢す」「鰥寡孤独(かんかこどく)の自ら存ふ
   ること能はざる者には、量りて優賑を加へて支濟するを得しめよ。また天安二年以
   追往の租税の未納は、皆詭責することなく一(もは)ら蠲除(けんじょ)に従へ。」この詔
   書を太政官が五畿七道に頒下しました。その中でも詔を受けて、「鰥寡孤独の自ら
   存ふこと能はざる者には、救急の義倉の内をもちい、国司(こくし)相量(あいはか)り
   て給すべし。また天安二年以往の租税の未納の、所司の文簿に載れるは、ことごと
   く原免に従へ」と記しています。阿蘇山の噴火で被災された方達を手厚く助け、税
   の負担を考慮することなどの指示がされている。
   3月22日地震あり。(三代実録10、11)
   4月12日地震あり。(三代実録10、11)
   6月21日月色変ず。夜明けに、月の色正黄なり。赤き雲有りてこれを覆ひき。
   9月9日流星。この夜、星有り、卷舌(けんぜつ)を出でて畢(びつ)の首に入り、長さ三
   尺ばかりなりき。
   9月10日流星。夜、星有り、墳墓(ふんぼ)の下を出でて須女(すじょ)に入り貫(つらぬ)
   きき。
   9月24日地震あり。(三代実録10、11)
   11月1日地震あり。14日にも地震あり。(三代実録10、11)
   12月2日地震あり。(三代実録10、11)
   12月24日流星。夜、星有り、奎婁(けいる)の北に出でて土司空(どしくう)に入りふれ
   き。
866(貞観8)年1月25日地震あり。(三代実録12、13)
   1月27日流星。星有り、織女を出でて女林に入りき。
   閏3月5日地震あり。(三代実録12、13)
   6月7日地震あり。16日にも地震あり。(三代実録12、13)
   6月28日流星。夜、星有り、奎を出でて、大陵に入りき。
   8月15日地震あり。(三代実録12、13)
   10月19日地震あり。(三代実録12、13)
   11月5日流星。夜、星有り、大畢(たいひつ)を出でて、大角(たいかく)にふれ貫(あた)
   り、攝提(せつてい)に入りき。
   11月7日地震あり。(三代実録12、13)
   12月10日地震あり。(三代実録12、13)
867(貞観9)年1月20日豊後鶴見山頂の青泥池、黒池、赤池が震動し硫黄臭が遍満する。
   さらに噴火し、沙泥が数里四方に積もる。泉が沸騰し、川となって山脚の道路を塞
   ぎ、川に至って魚数千万が死ぬ。震動三日続く。(三代実録14)
   1月23日彗星、紫微宮に見ゆ。内階を貫き長さ5尺。(三代実録14)
   1月27日地震あり。2月1日にも地震あり。(三代実録14)
   豊後、鶴見岳噴火
   2月26日豐後の火山爆発。大宰府言しけらく、「從五位上火男神、從五位下火神の
   二社、豊後国速見郡鶴見山の嶺に在り。山の頂に三つの池有り。一つの池は泥(に
   ご)りて水の色青く、一つの池は黒く、一つの池は赤し。去る正月廿日(はつか)に池
   震動し、その声雷の如く、しばらくして臰(におい)流黄の如くにして国内にあまねく満
   ち、磐石の飛び乱るること上下数なく、石の大なるものは方丈、小なるものも甕(か
   め)の如く、昼は黒雲蒸し、夜は炎火熾(も)え、沙泥雪のごとく散りて数里に積りき。
   池中に元温泉出づ。泉の水沸き騰(あが)りて自ら河流を成し、山脚の道路、往還通
   はず、温泉ほ水衆流に入りて、魚の酔ひ死ぬるもの千万数、その震動の声三日に
   わたりき」と。(豊後の鶴見山というのは大分県別府市の鶴見岳のこと)
   5月11日夜、阿蘇山で奇光が見られ、翌日朝震動して長さ250丈、広さ50丈が崩壊
   する。(三代実録14)
   5月13日地震あり。(三代実録14)
   6月30日地震。
   7月24日星、昼あらわれき。
   7月25日地震あり。(三代実録14)
   阿蘇山噴火
   8月6日阿蘇山噴火。大宰府言しけらく、「肥後国阿蘇郡正二位勲五等建磐龍命神、
   正四位下姫神の居せる山嶺、去る5月11日の夜、あやしき光照り輝き、12日の朝、
   振動して崩るること広さ五丈ばかり、長さ二百五十丈ばかりなりき」と。
   8月8日大宰府に下知して、豊後国をして神の山の崩れし怪(かい)を鎮謝せしめき。
   8月14日地震あり。25日にも地震あり。(三代実録14)
   9月6日地震あり。(三代実録14)
   10月15日地震あり。(三代実録14)
   10月17日昼、流星有りて東南に行き、光地を照らしき。
   11月23日彗星、紫微宮の西にあらはれて内階を貫き、長さ五尺ばかりなりき。
   11月29日災難消去のために諸国をして読経せしむ (詔の文言が記されている、抜
   粋)。「さきに天文変を告げ、地理妖をしめす。龜に謀り筮に謀るに、誠に国の慶びに
   あらず。しかのみならず陰陽の書の説に、来年戌子、まさに水旱疾疫の災あるべし
   となり。」
   11月30日日の上に冠有り、左右に珥(じ)をなし、色黄白なりき。
868(貞観10)年4月13日地震。28日にも地震あり。(三代実録15)
   4月15日出羽国神異を報ず。出羽国言しけらく、飽海郡の月山、大物忌両神社の前
   に石の鏃(やじり)6枚降りき」と。
   4月28日地震。
   5月10日歳星房(ぼう)を犯し、右服(うふく)に経歴すること七日なりき。
   5月19日地震あり。(三代実録15)
   播磨・山城地震 / 西暦868年8月3日。貞観10年7月8日。M≧7.0。播磨・山城:播
   磨諸郡の官舎・諸定額寺の堂塔ことごとく頽れ倒れた。京都では垣屋に崩れたもの
   があった。山崎断層の活動によるものか?
   7月8日播磨で地震。諸郡官舎・諸寺堂塔悉く倒壊。この月、度々地震。
   (三代実録15)
   7月9日地震。
   7月12日地震。
   7月13日地震。
   播磨・山城地震
   7月15日播磨国大震を報ず。播磨国言しけらく、「今月八日、地大いに震動りて、諸
   郡の官舎、諸定額寺の堂塔、皆ことごとくくづれ倒れき」と。(播磨国は現在の兵庫県
   南西部。8日の地震が京都〜兵庫で大地震であったことがわかります。「古地震を
   探る」によると震央は姫路、Mは7.0以上とされている)
   7月16日地震。
   7月20日地震。
   7月21日地震。
   8月10日地震。この月度々地震。(三代実録15)
   8月12日地震。
   8月14日地震。
   8月16日地震。
   8月29日地震。
   9月7日地震。(三代実録15)
   9月11日この夜、星有り、軒轅(けんえん)より出でて紫宮(しきゅう)に入りき。
   11月27日地震。(三代実録15)
   12月1日地震。
   12月1日10日、16日にも地震。(三代実録15)
   12月16日地震。
   閏12月10日広田、生田両神に奉幣す。摂津国の広田神社、生田神社に奉幣した時
   の告文が記されています。この告文の中に、摂津国解しけらく、地震の後に小震止
   まずと申す。と、ずっと余震が続いていることが記述されています。ちなみに摂津国
   の広田、生田両社は兵庫県西宮市の広田神社、神戸市の生田神社のことでしょう。
869(貞観11)年5月26日陸奥で大地震。流光が昼の如く目撃された後、大きく揺れる。多
   賀城崩壊し圧死者あり。また地面の裂け目に埋没する者もあり。城下に大津波が押
   し寄せ1000余人が死亡。(三代実録16)
   貞観の大地震 / 西暦869年7月13日。貞観11年5月26日。M8.3。三陸沿岸:城
   郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数。津波が多賀城下を襲い、溺
   死約一千。流光昼のごとく隠映すという。三陸沖の巨大地震とみられる。
   陸奥国、地大いに震動りて、流光昼の如く陰映す。しばらくのあいだに人民叫び、伏
   して起つ能はず、或は屋倒れておされ死に、或は地裂けて埋れ死にき。馬牛は驚き
   奔りて或は相昇り踏む。城郭倉庫、門櫓牆壁のくづれくつがえるものは其の数を知
   らず。海口(みなと)は哮吼えて、声いかづちに似、なみ(驚濤)湧き上がり、くるめ(泝
   )き、みなぎりて忽ちに城下に至り、海を去ること数十百里、浩々としてそのはてを
   わきまえず、原野も道路もすべてうみ(滄溟)となり、船に乗るにいとまあらず、山に
   登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり、たからも苗もほとほと残るもの無かり
   き。9月7日紀春枝を検陸奥国地震使に任命し、判官と主典をそれぞれ一名ずつ随
   伴させて派遣する。
   10月13日詔を発し、死者を埋葬させ、被害の大きい者は租調を免じ、あまねく賑救
   を行う。
   「百姓何の罪ありてか、この禍毒に罹ふ。憮然としてはぢ懼れ、責め深くわれ(予)に
   在り。(中略)。その害を被ることはなはだしき者は、租調をいた(輸)さしむるなかれ。
   鰥寡孤独(かんかこどく=身寄りもなく孤独な人)の、窮して自ら立つ能はざる者は、
   在所に斟量(しんりょう=事情心情をくみ取る)して厚く支えたすくべし。務めてきんじ
   ゅつ(衿恤)の旨を尽くし、朕みづから観るがごとくならしめよ」 12月14日 災害異変
   により伊勢大神宮に奉幣す 「肥後国に地震風水(かぜあめ)の災いありて、家ことご
   とくに倒れ、くつがえり、人民多に流れ亡せたり。かくのごとき災い、いにしへよりい
   まだ聞かずと、おきなたちも申すと言上したり。しかる間に陸奥国また常に異なる地
   震の災い言上したり」
   この告文の最後は「天の下、躁驚なく、国の内平安に鎮め護りたすけ賜ひ、皇御孫
   命の御體を、常磐堅磐に、天地月日と共に、夜の護り昼の護りに、護り幸へめぐみ
   奉り給へと、かしこみかしこみも申し賜はくと申す」
   貞観11年12月14日の記録の中「肥後国に地震風水の災いありて〜」とあります。7
   月14日「肥後国に大風雨あり。瓦を飛ばし樹を抜き、官舎民居の転倒する者多く、
   人畜の圧死するものもあげて計ふべからず、潮水潮溢して六郡を漂没しい。水引き
   し後、官物を捜摭せしに、十に五六を失ひき。海より山に至る、その間田園数百里、
   陥ちて海となりき」
   ただ、建物の倒壊や圧死があったり、浸水してその後も土地が陥没して数百里海に
   なったという記述をみると、ただの暴風雨とは思えないところもあります。10月23日
   の詔の中にも「肥後国」は出てきます。10月23日「如聞(きくならく)、肥後国迅雨暴を
   成し、坎徳災いをなして、田園ゆえに淹傷し、里落それによりて蕩盡しきと。(略)
   壊垣毀屋の下のあらゆる残屍乱骸ははやく收埋を加へて、曝露せしむべからず」坎
   は水を表すので、やはりここでも暴雨風による水害としか説明されていません。が、
   やはり倒壊した家屋で多くの人が亡くなっていることを考えると暴風雨(超大型台風
   だとしても)だけが原因とは思えないような。
870(貞観12)年6月10日夜、白虹東北にあらわれ、首と尾を地につきき。
   7月29日山城国、山地の陥没を報ず。山城国言しけらく、「綴喜郡山本郷の山くづれ
   て裂け陥(お)ちき。長さ二十丈、広さ五丈一尺、深さ八尺、底の広さ四丈八尺なり。
   相ひ去ること七丈にして小山堆起(たいき)し、草木はうごくことなし。時の人、陥地地
   中に入りて、また堆起して山を成すかと疑ふ」と。
   山城綴喜郡山本郷で山が裂け、小山が出来る。(三代実録18)
   肥後で地震、風水害。舎宅悉く倒壊。(日本紀略)
   11月25日地震。
871(貞観13)年1月14日去る10日より太白(たいはく)天(そら)をわたり、今日に至りて見え
   ざりき。
   4月8日鳥海山(大物忌神社所在地)噴火。同山よりの河に青黒い泥水溢
   れ、臭気充満する。死魚河を塞ぐ。泥流大きいもの2つ、小さいもの多数、海に達す
   る。泥水により草木生えず。(三代実録20/日本火山総覧)
   4月15日月、心(しん)の前星に行きとどまり、その中の大星を吞蝕(をか)しき。
   出羽国、鳥海山噴火
   5月16日出羽国骲海郡火山活動、土地の神を鎮謝す(抜粋)。出羽国司言しけらく、
   「從三位勲五等大物忌神社、飽海郡の山上に在り。巌石壁立し、人跡到ること稀
   に、夏冬雪を戴き、禿げて草木無し。去る4月8日、山上に火有りて土石を焼き、また
   声有りて雷の如く、山より出づる河は、泥水泛溢(はんいつ)してその色青黒く、臭気
   充満して人かぐに堪えず。死魚多く浮き、擁塞(ようさい)して流れず。ふたつの大蛇
   (おろち)有り、長さ十丈ばかり、相流れ出でて海の口に入り、小蛇の随(したが)ふも
   の、その数を知らず。河に縁(そ)える苗の、流れそこなふもの多く、或は濁水の臭気
   に染み、朽ちてそだたず。古老に聞くに、いまだかつてかくの如き異(しるまし)有ら
   ず。ただし弘仁年中、山中に火あらはれ、その後いくばくならずして、兵仗の事あり
   きといふ。これを奢龜(しき)に決するに、並びに、彼の国の名神いのりしところにいま
   だ、かへりまなしをせず。また塚墓の骸骨、その山水を汚ししにより、これによりて怒
   を発(な)して山を焼き、この災異をいたす。もし鎮謝せずば、兵役あるべしと云ふ。」
   7月10日地震あり。25日にも地震あり。(三代実録20)
   7月25日地震。
   8月7日地震あり。17日にも地震あり。(三代実録20)
   8月17日地震。
   8月23日この夜、大流星あり、東方より出でて天市の中に入る。その色赤白(せきは
   く)、入りてのちその尾白くしてまがりき。
   閏8月29日夜、流星あり、東南より出でて女林に入りき。星の大きさ柚子の如く、青く
   して光ありき。
   9月1日地震。
   9月14日夜、星あり、文昌の第二第三星と、太陽守星との中より出で、紫微宮(しび
   きゅう)をへて西南を指して行きき。長さ三丈ばかり、その色赤黄、光有りて地を照ら
   しき。
   9月28日地震。太皇太后崩り給ひき。
   9月29日この月、桜、梨、桃、すもも、みな花咲き、諸神に祈る。(三代実録20)
   11月22日地震。大鳥一つ神泉苑の乾臨殿の東の鵄尾(くつがた)の上に集りき。
   11月29日 地震。
   12月3日日(ひ)蝕(か)くること有りき。太白、西より東に貫き、ともに危宿(きしゅく)に
   在りき。
   12月14日陰陽寮言しけらく、「明年まさに天のなすわざはいあるべし」と。また古老
   言はく、「今年衆木冬花咲きき。昔この異有りて、天下に大疫ありき」と。みことのりと
   して五畿七道の諸国をして幣(みてくら)を境内の神々にわかち、国分の二寺に経を
   転じて、冥助を仏神に祈り、凶札を未萠にけさしめ給ひき。
872(貞観14)年1月20日京邑に咳逆病おこる。この月、みやこ(京邑)にしはぶき(咳逆)の
   病おこり、し(死亡)ぬる者多かりき。
   2月21日佐渡国、「紫雲見ゆ」を言しき。
   3月23日内外に怪異多し、諸社に奉幣し、かつ読経す(抜粋)。今春以後、内外にしき
   りに怪異あらはれき。これによりて使者を諸神社に分かち遣りて奉幣。
   3月27日地震。
   5月30日大蛇経を吞む。駿河国国分寺の別堂に大蛇(おろち)あり、般若心経三十一
   巻、あわせて一軸と為ししを吞む。観る者縄を蛇の尾に結び、さかしまに樹上に懸
   く。しばらくして経を吐き、蛇地に落ちてなかば死にしばらくしてまた生きき。
   6月16日地震。
   6月24日地震。
   6月29日地震。
   7月9日昼、大流星ありき。
   7月10日申(さる)の時、白き雲気東北に起こりて西南にわたり、形、布の如くなりき。
   7月15日酉(とりの時の初め、 月蝕くること有り、戌(いぬ)のときに至りてもとにかへ
   りき。輪の下片黒きこと聚墨の如くなりき。
   7月27日地震。
   7月29日駿河国の蛇仏経を飲みし異(しるまし)、神祇官ト(うら)へて、「当年の冬と明
   年の春と、当国に失火疫癘(えきれい)の災あらむ」と申しき。
   9月1日地震。
   9月16日日赤くして光無く、日宿りて氐(てい)に在りき。
   9月30日地震あり。建礼門院前で大祓を行う。(三代実録22)
   10月2日地震。
   11月17日地震。
   11月23日地震。
   11月28日地震。
   11月29日天の南の声あり、雷の如くなりき。
   12月1日地震。
873(貞観15)年1月20日地震。
   2月1日地震。
   2月11日流星出で、七星のあたりより弧に入り、その色白かりき。
   2月18日地震。
   2月23日陰陽寮言しけらく、「ことし天のわざわひを慎むべし(私による中略)仏神の
   冥助を祈り、災疫を未然に消さしめ給ひき」
   2月28日飛騨国司言しけらく、「大野郡愛実山に、貞観13年11月18日と、14年11月
   12日と今月15日と、三度紫雲見えき」と。
   3月16日地震。紫宸殿の東南の隅に虹あらはれき。
   4月9日夜、流星ありて、女林に入り、また天市に入りき。その色皆赤かりき。
   4月14日地大いに震動りき。(三代実録22)
   4月18日地震。
   4月24日地震。
   4月26日流星翼に入り、その色赤かりき。
   5月1日地震。
   5月3日雷電、雹をふらし、その大きさ鶏のたまごの如く、あるいは梅の実のごとくな
   りき。
   5月5日神祇官、陰陽寮、言しけらく、「雹の怪は、賀茂松尾等の神の祟りを成すな
   り」と。
   5月11日地震。
   6月1日地震。
   7月1日日(ひ)蝕(か)けて光なかりき。かくること月の初めて生ずるが如く、午より未に
   至りてすなはち復しき。日蝕あり、光無し。(三代実録24)
   9月13日地震。
   10月6日このごろのあいだ、物怪(もののけ)しきりにあらはることあり。よりて占へ求
   めしめしに、御病のことあるべしと占へ申せり。
   10月20日時辰をすぎて、日暈を重ね、左右に珥(じ)あり、その下の雲気龍の如くなり
   き。
   10月29日地震。
   11月27日酉の時、流星、參の南の辺に入りき。その色青白、かたち大にして尾
   短 入らむとする時、分かれ散り、連なりて入りき。
   12月2日この夜、流星あり、婁と天倉との間より出でて、奎の南の辺に入り、入らむ
   とする時、三連となりて没(かく)れき。
   12月14日陰陽寮言しけらく、「明年まさに天のなす災ひあるべし」と、また古老言は
   く、「今年衆木冬花咲きき。昔この異有りて、天下に大疫ありき」と。
874(貞観16)年2月14日地震。
   3月1日夜流星あり、入りて大微の左執法の第二星を犯しき。大さ李(すもも)の実の
   如く、色赤くして尾短かりき。
   3月4日薩摩開聞岳、夜雷霆が響き一晩中震動。噴火して降灰し禾皆枯
   れ、河水濾濁し魚死滅。死魚を食べる者、或いは死に或いは病気になる。大宰府7
   月にこれを報告す。(三代実録26)
   3月14日地震。
   3月21日地震。
   3月25日地震。
   4月1日地震。
   4月7日日に五のかさ(重暈)有り、白虹日を貫きき。すなわち日は胃宿に在りき。天
   文の書に曰はく、「日月の暈気(うんき)は、三日以内に陰雨あればすなわちその災
   い消えて成らず」と。しかるに8日に暴雨ふりき。しかればその災い消ゆといふべし。
   4月8日暴雨。
   4月18日申の時、日赤くして光無かりき。この夜、月(つき)蝕(か)くること有りき。
   4月24日日、畢宿(ひつしゅく)に在り、薄蝕復せざるが如くにして隠れ没(い)りき。こ
   の日、片雲有り、黒染の紗の如くにして日をおおい、また雲に非ず霞に非ず、黄赤
   色の気、延蔓して天をおほひき。
   閏4月4日日の変により伊勢大神宮に奉幣す。告文「四月の中ごろに、日のかたち常
   に変われり。これによりてうらへしに、申して云へらく、御體の為に驚くこと有るべしと
   申せり、云々」と。
   閏4月18日地震。
   閏4月23日地震。
   5月4日地震。
   6月15日酉の時、日いまだ入らざるに、流星織女の西のほとりより出でて、大陵と巻
   舌(けんぜつ)との間に入りき。色赤くして光有りき。
   6月21日地震。
   6月29日酉の時、流星室より出でて、登の地に入りき、長さ一丈余ばかりにして、そ
   の色黄白なりき。
   7月2日地震。
   薩摩国、開聞岳噴火
   7月2日火山噴火。大宰府言しけらく、「薩摩国從四位上開聞神の山頂に火有りて自
   ら焼け、煙薫りて天に満ち、灰沙雨の如く、震動の声百余里に聞え、社に近き百姓
   震恐して精を失ふ。」
   7月29日 大宰府噴火を報ず。大宰府言しけらく、「去る3月4日夜、雷霆(らいてい)響
   きを発して通宵震動し、遅明に天気陰蒙にして、昼暗きこと夜の如く、時に沙を雨ふ
   らし、色聚墨の如くにして終日止まず、地に積りし厚さ、あるところは五寸、あるとこ
   ろは一寸あまりばかり、昏暮におよぶころ、沙変じて雨となり禾稼のこれを得し者皆
   枯損をいたし、河水沙に和してさらに蘆濁となり、魚鼈の死ぬるもの数無く、人民の
   得て死魚を食する者あれば、或は死に、あるいは病みき」と。
   8月1日 伊勢国に蟲害あり。伊勢国上言しけらく、「蝗蟲ありて稼を食ふ。その頭赤
   きこと丹の如く、背は青黒、腹は斑駮、大なるは一寸五分、小なるは一寸なり。種類
   繁聚して、一日に食ふところ四五町ばかり、その一過するところ、遺穂有ることなし」
   と。
   8月13日 伊勢大神宮に奉幣し蟲害を除く。幣(みてくら)奉(たてまつ)り、災蝗を去ら
   むことを祈りき。これより後、蝗蟲或は蝶と化して飛び去り、或は小蜂のために刺し
   殺されて、一時に消え尽きき。
   8月24日大風雨により紫宸殿前桜、東宮紅梅、侍従局大梨などが倒れ、官舎なども
   倒壊する。京市中で洪水、朱雀大路豊財坊門が倒壊する。家屋多数流失。
   (三代実録11)
   9月17日地震。
   11月13日地震。
   12月5日この夜流星有り。七星より出でて張に入り、長さ一丈余、その色赤かりき。
   12月11日この夜、月、昴星を犯しき。
   12月16日夜、月、輿鬼(よき)を犯しき。
   12月29日酉の時、地大いに震動りき。
875(貞観17)年2月12日地震あり。17日、29日にも地震あり。(三代実録27)
   3月9日地震あり。14日にも地震あり。(三代実録27)
   4月28日卯の時、白彗東北にあらはれ、その色赤くして芒角を成しき。5月2日に至り
   て、その体長丈余ばかり、はじめ五車に出でて稍八穀星を掃い、その気耗減(こうげ
   ん)すといえども、いまだ消えざりき。
   5月2日彗星、長さ丈余。始めて五車に出ず。稍、八穀星を履き、その気耗減といえ
   ども未だ芒滅せず。(三代実録27)
   5月14日太白昼あらはれて天をわたり、すなわち軒轅(けんえん)を経て、少微にとど
   まりき。
   5月16日夜雲気ありて、天にきはまり、形幡(はた)の如く、頭は西山をつきて、尾は
   東山にかかりき。
   5月18日夜星有り、東北をおほひき。 
   5月30日辰の時、流星有りて東南に落ちき。大きさ一尺ばかり、長さ六尺ばかり、そ
   の色純白なりき。
   6月3日日に光少なく、星と月とならびに昼あらはれき。
   6月4日星と月と並びに昼あらはれき。太政官曹司廰の南門に雪花散り落ちき。
   6月5日星と月とならびに昼あらはれき。
876(貞観18)年5月14日翌日にかけて小地震、21日にも小規模の地震。(三代実録28)
   6月18日地震あり。(三代実録28)
   7月7日興福寺の塔、寅の時より震動し、9日に至りても止まざりき。
   7月18日大安寺の塔震動しき。
   7月26日大宰府言しけらく、「肥後国白龜一つを獲き。長さ五寸、ひろさ四寸五分なり
   き」と。
   7月27日(抜粋) 申の一剋、東山の下に五色の雲を見る。山の根にそひて南北にわ
   たり、形虹の如くにして虹にあらず。ひろさ一丈五尺ばかり、長さ四五丈ばかり、二
   剋におよぶころ、横にしてややのぼり、嶺に至りて消えうせき。天文要録の祥瑞図に
   曰はく、「気にあらず煙にあらず、五色の粉縕たるこれを雲(うん)といひ、また景雲
   (けいうん)といふ」と。この夜、戌の時、黒雲同じ山嶺よりおこり西南にわたりて形四
   幅の幔の如く、長さ十丈ばかりなりき。時に四方晴明にして雲気有ることなかりき。
   8月6日日入る時、赤雲八條東方よりおこりてただちに西方を指し、ひろさほとんど竟
   天(きょうてん)に及びき。
   9月23日寅の時、大流星、大微の東の番星のあたりより出でて、大陵星にふれ、閣
   道の典附路星の間に入りき。
877(元慶1)年1月24日ひぐれに、大流星、天中の庚より出でて天中の艮を指して行き、三
   丈ばかりにして没しき。ひかげを以て押すに、天津のあたりに出でて紫微宮の中に
   入る。
   1月25日時、戌をすぎ、客星、辟に在りて西方にあらはれき。含譽の瑞星といふべ
   し。
   3月11日地大いに震りき。
   4月1日日蝕あり。(三代実録31)
   4月19日紫宸殿(ししんでん)前の版木の上に犬屎(くそま)りき。
   7月13日乗縁(じょうえん)という僧が降雨の術を試みて暴雨がおきたことが記されて
   います。
   9月27日出雲国の漁夫奇草を得。出雲国言しけらく、「楯縫郡の白水郎、海部金麻
   呂、同姓黒麻呂等、今月2日扁舟に乗りて海にうかび魚を釣る。二人あみを沈めし
   に、海底にかかりて引くに出でず、いと(絲緡)水にいること五十余丈なり。金麻呂等
   手を下して、緩々に引き釣りしに石一枚を獲たり。その上に木三株、草三茎を生ず。
   その気、一株は高さ二尺六寸、攢柯にして葉無く、初め出でし時その色赤黒にして、
   ねばきこと飴を塗るが如く、そのようやく乾くに及びてさらに浅黒に変ず。一株は高さ
   上に同じく、雙幹聳出して白色貝の如し。一株は高さ三寸、形鹿の津のの如くにし
   て、上頭に檜の葉の如きもの有り。その草、二茎は青色、一茎は赤色、ならびに形
   きのこ(菌)の如し」と。
   10月17日大地震。(三代実録33)
878(元慶2)年5月9日亥の時、大流星有り、氐の南より出でて軫翼の間に入りき。その
   尾、二丈ばかり、色赤くして光有り、衆星随い行き、すぎしところは木の葉声をなし
   き。6月21日夜、流星有りて、斗のあたりより出でて箕星の下に入りき。色白くして
   尾短かりき。
   6月28日夜、流星有り。騰蛇より出でて雷電星に入りき。色赤く、長さ二丈余なりき。
   8月2日夜、光有り、紫宸仁壽両殿の間にあらはれき。あかつきに流星有りて南行
   し、大きさ一丈ばかりなり。京城皆見き。
   9月7日大鳥有りて、肥後国八代郡の蔵の上に集りき。また、宇土郡正六位上蒲智
   比盗_社の前の河水、赤に変じて血の如く、縁辺の山野、草木凋枯してあたかも厳
   冬の如し。
   相模・武蔵地震 / 西暦878年11月1日。元慶2年9月29日。M7.4。関東諸国:相
   模・武蔵が特にひどく、5〜6日震動が止まらなかった。公私の屋舎一つも全きもの
   なく、地陥り往還不通となる。圧死多数。京都で有感
   9月29日関東地方大震。夜地震りき。この日、関東の諸国地大震裂し、相模武蔵を
   特にもっとも甚(はなはだ)しと為す。その後五六日震動止まず、公私の屋舎一として
   全きもの無く、或は地窪陥して往還通ぜず、百姓の圧死はあげて記すべからず。
   夜、相模、武蔵で大地震。揺れは京に達する。5、6日揺れが収まらず。公私の舎屋
   全滅。地面陥没。百姓の圧死多数。(三代実録34)
879(元慶3)年3月7日翌日にかけて地震。(三代実録35)
   3月22日地震。29日にも地震。(三代実録35)
   4月2日地震。7日にも地震あり。(三代実録35)
   8月4日大和国言しけらく、「紫雲、城下郡にあらはれき。長さ十丈ばかり、広さ三丈
   ばかり、地上よりおこりて竟(つい)に天につき、しばらくして消え散りき」と。
   8月19日この月、京邑のときおろどころに梨、すもも、花咲き、あるいは実なりき。
   10月14日地大に震ひき。
880(元慶4)年2月11日卯の時、天の東の空中に声有り、一声にして止みき。
   2月14日地震。28日にも地震。(三代実録37、38)4月2日地震。5日、10日にも地震。
   (三代実録37、38)
   2月23日東方に声有り、雷の如くなりき。
   2月24日地震。
   4月2日地大いに震ひき。
   10月1日地震。2、3日にも地震。
   出雲地震 / 西暦880年11月23日。元慶4年10月14日。M≒7。出雲:社寺・民家
   の破損が多く、余震は10月22日に至るも止まらなかった。この日京都でも強く感じた
   というがこの地震とは無関係で、規模ももっと小さかったとする説がある
   10月14日出雲で大地震。神社、仏寺、官舎、百姓居濾の多くが倒壊。負傷者多数。
   余震相次ぐ。(三代実録37、38)
   10月27日出雲国地震を報ず。出雲国言しけらく、「今月14日、地大震動し、境内の
   神社仏寺官舎、および百姓の居蘆、あるいは転倒し或は傾倚し、損傷せし者多し。
   その後22日まで、昼は一二度、夜は三四度、微々震動してなおいまだ休止せず」
   と。
   11月29日寅の時、大流星有り。角亢の間より出でて、梗河星に入りき。
   12月1日夜、流星有り、東方よりきたりて孤星に入り、その色赤かりき。
   12月4日地大震動。
   12月6日子の時地大震動し、夜より朝にいたるまで十六度震ひき。大極殿の西北隅
   の竪壇長さおのおの八間破裂し、宮城の垣将墻、京師の蘆舎、頽損する者ところど
   ころ甚だ多かりき。(西暦881年1月13日。元慶4年12月6日。M6.4。京都:宮城の垣
   墻・官庁・民家の頽損するものはなはだ多く、余震が翌年まで続いた)
   12月7日この夜、戌より子にいたり、地ふたたび震動しき。
   12月8日辰より丑にいたり、その間地四たび震ひき。
   12月9日夜、地震ること二度なりき。
   12月10日この日、地すべて五たび震ひき。
   12月11日この日、地数度震動しき。
   12月12日子の一刻、地大いに震ひ、寅の四刻少しく震ひき。
   12月13日14日、18日と地震が続いて。
   12月19日戌の時、天に声あること二度、地また震動しき。
   12月21日戌の一刻、空中に声有り、丑の時、地震りき。
   12月22日辰の時、地大に震ひ、ふたたび動きて止みき。
   12月23日、24日、25日、29日と地震あり。
881(元慶5)年1月6日昨年末からの地震に続いて、この日以降、11、12、14、16日にも地
   震。(三代実録39、40)
   3月21日夜、星有り、房より出でて天市に入り、色青かりき。
   5月16日午の時、日に二重の暈有り、内黒くして外赤かりき。
   7月7日星有り、列肆星より出で、入りて心の中央の星を犯しき。色赤く、長さ一丈余
   なり。
   9月19日地震。20、21日にも地震あり。(三代実録39、40)
   10月3日相模国、「国分寺の金色の薬師丈六の像1体、挟侍の菩薩像2体、元慶3年
   9月29日、地震に遇ひて皆ことごとく壊れ、その後失火して焼け損なふ。ねがわく
   は、改造して御願を修せむ」
   12月6日地震。8日にも地震あり。(三代実録39、40)
882(元慶6)年5月2日大和国司言しけらく、「管高市郡從五位下天川俣神社の樹に、烏
   (からす)の巣ごもる有り、産みて四つの雛を得。その一つの雛の毛色純白なり」と。
   11月15日夜、流星有り、西北向ひて去りき。
   12月17日丑にいたりて、天の南にかみなり、地中に声有りき。
883(元慶7)年3月10日昏(いぬ)の時、月に暈有り、大微の西蕃の上将星を行き犯し、亥
   の時、白き雲気北方より来りて暈の中に入り、その数五片、広さ一尺ばかりにして
   長さ一丈、四片はすなはち消え、一片は月を貫きてやや久しくして消えき。
   7月26日申の時、日の右に珥(じ)有り、上下に白雲有り。日はすなはち翼に宿りき。
   7月27日申の時、日の左右に珥有り。その下の雲気、形、龍馬の如くなりき。
884(元慶8)年1月23日日に冠有り。右に珥有りて色黄、左に白虹有りて色白く、すなはち
   日は危に宿りき。夜、天の東南に星の見ゆる有り、長さ一丈ばかりなりき。
   4月10日夜、流星有り、北斗より出でて、紫微宮西蕃の第五星を犯しき。色青白く、
   大きさ柚子の如し。
   4月14日地震あり。16日にも地震あり。(三代実録46)
   5月29日夜、流星有り、北極の大星より出でて三公星に入り、大きさ、すももの実の
   如く、色白くして光有りき。
   6月29日地震あり。(三代実録46)
   8月1日辰の時、天の西南に声有り、雷の如くにして一度なりき。
   8月4日戌より子にいたり、小星四方に流れ散りておつること雨の如くなりき。
   8月5日日没(酉の時)より人定(亥の時)にいたり、流星東西南北に分散し、おつること
   雨の如く、人定より夜分(子の時)にいたり、或は紫微宮に出入して衆星を犯し、或は
   北斗の貫索に出入して内外の宿をおかし、その数あげてかぞふべからざりき。
   9月3日寅の時、大流星有り、長さ一丈ばかり、東南より西北に行きてついに地に落
   ち、その響き雷の如くなりき。
   11月6日地震あり。(三代実録46)
885(仁和1)年1月12日寅の時、塡星(てんせい)月を貫きき。
   1月16日天変。この日、未より申にいたり、日の上に背(はい)有りて外に向かひ、そ
   の体(てい)弓を張るが如くにして、長さ二丈ばかりなりき。
   1月17日この日、はじめて貂(てん)のかわごろもを着用するを禁じき。
   5月22日酉の時、日色、黒に変じ、光の散ること射るが如くなりき。
   7月11日6月より肥前に雨が降らず、国司諸神に奉幣。(三代実録48)
   7月12日薩摩にて、夜、晦冥にして衆星見えず、砂石が雨のように降る。開聞岳の
   噴火と見られる。(三代実録48)
   7月13日肥前で夜陰に粉土屑砂が降り、苗や草木が枯れる。その後雨が降りて枯
   苗再生する。(三代実録48)
   7月30日天に青雲有り、東北よりして西南に竟(をほ)りき。
   8月4日夜、流星有り、南方より来りて、五車の中に入り、その色黄白なりき。
   薩摩国、開聞岳噴火
   8月9日大宰府噴火を報ず。大宰府言上しけらく、「管肥前国、六月より澍雨(じゅう)
   降らず。7月11日国司諸神に奉幣し、僧をまねきて経を転ず。13日夜、陰雲晦合して
   雨声の如きを聞き、遅明に粉土屑砂ふりて、こもごも境内に下るを見る。水陸田の
   苗稼、草木の枝葉、みなことごどく焦枯す。(私による略)薩摩国言しけらく、「同月
   12日の夜、晦冥にして衆星見えず。砂石雨の如し。これを故実に検するに頴娃郡正
   四位下開聞明神怒りを発する時は、かくの如くこと有り。
   8月11日震声雷の如く、焼炎はなはださかりに、雨砂、地に満ち、昼にしてなほ夜の
   ごとし。12日は、辰より子にいたるまで雷電し、砂の降ること止まず、砂石地に積り、
   あるところは一尺以下、あるところは五六寸以上、田野埋瘞(まいえい)して人民騒動
   す」といへり」と。
   8月11日開聞岳噴火する。砂地が降り、昼間に夜の如し。田野が埋没し、人民が騒
   ぎだす。神祇官卜して云うには、来春に薩摩国で疫病あると。陰陽寮は占い、府辺
   東南の神、隣国に遷ろうとしている。よって蚕穀損耗あり。それを受けて府司に下知
   して彼の両国をして部内の衆神に奉幣し以て冥助を祈らせる。
   11月20日この夜、流星、心の前星より出でて、心の大星を貫き、天江に入りき。
   11月26日夜、大流星有り、天中申(ひがし)より出でて天中丙(みなみ)を指し、行くこ
   と三丈にして没しき。
   12月20日巳の時、天の東南に声有り、高楼の壊落するが如くなりき。夜更けて、地
   震り、声有りて雷の如くなりき。
886(仁和2)年2月5日この日、辰の時、日の上に冠有り、左右に珥をなしき。
   2月14日辰の時、日に冠䋝有りて、その色黄白なりき。
   3月21日地震あり。(三代実録49)
   4月13日地震あり。(三代実録49)
   5月10日7日よりの大雨で洪水。(日本紀略)
   5月23日夜、流星有り、鈎陳より出でて内階をへ、文昌の第一二星の間に入り、色
   青くして光有りき。
   5月24日上総、下総、安房で大地震あり。安房方面に黒雲あり、その中で電光ひら
   めき、地震を起こる。一晩中続く。砂石粉土地上に積もる。草木悉く枯れ、馬牛の粉
   草を食して死する者はなはだ多し。新島の噴火か。(三代実録49/日本火山総覧)
   5月26日天の東南に声有りて、雷の如くなりき。石清水八幡に怪異あり / この日、
   山城国石清水八幡大菩薩の宮自ら鳴りて、鼓を撃つ声の如く、南楼鳴りて、風波の
   相激して声を為すが如く、数剋を経てやまざりき。神祇官うらなひて云ひけらく、「大
   菩薩心に願ふところあり」と、陰陽寮占ひて云ひけらく、「兵事をいましむべし」と。
   6月15日地震あり。(三代実録49)
   7月24日夜、流星有り、大陵より出でて傳舎にいたり、華蓋に入る。その色青かり
   き。
   怪物騒ぎ
   7月29日 紫宸殿に近く怪物あり。夜、亥の時、紫宸殿の前に長人有りて、往還徘徊
   しき。内竪のときを伝える者これを見て、惶怖して失神す。右近衛の陳前に炬を燃
   やす者もまた見るを得き。その後、左近衛の陳辺に絞らるる者の如き声有り。世に
   鬼絞(きこう)といふ。
   安房国で地震(新島噴火)
   8月4日 安房国の地震により、同国及び上総下総国をして不虞をいましめむ。安房
   国言上しけらく、「去る5月24日の夕べ、黒雲有りて南海より群起し、その中に電光
   現れ、雷鳴地震して通夜止まず。26日の暁、雷電風雨あり、巳の時天色清朗にして
   砂石粉土地上に遍満し、山野田園降らざるところなし。或るところは厚さ二三寸、或
   るところはわづかに地をおほふ。稼苗草木、皆ことごとく凋枯し、馬牛の粉のつける
   草を食ひて死斃するもの甚だ多し」と。陰陽寮占ひて云ひけらく、「鬼気御霊、忿怒し
   てたたりを成す。かの国疫癘の患をつつしむべし。また国の東南に兵賊の乱有らむ
   とす」と。(地震という見出しがついているが、これは火山の噴火の記述です。5月24
   日の南の海で黒い雲が湧きき起こり、26日に大地の上に砂石が降ってきたという現
   象から。「伊豆諸島、神津島天上山と新島向山の噴火活動」という報告書に、興味
   深い記述があります。この噴火は新島向山の噴火のようです。噴火に関しては、新
   島阿土山の噴火という説もある。)
   9月11日亥より子にいたりて、大なる鈴の声有り、左仗の上にあたりて、空中に鳴
   り、寅の時、また鳴りき。
887(仁和3)年3月14日この夜、戌の一剋より始めて月に冠纓有り、左右に珥を為し、亥の
   時に至りて白暈気と為り、消滅せむとするにおよびてなほ両珥有りき。
   5月20日(嘉祥3年(850年)に起きた出羽地震の影響で国府を移すことが書かれてい
   る。抜粋) 去る嘉祥3年、地大震動して形成変改し、すでに窪泥となる。しかのみなら
   ず、海水漲移して府六里のところに迫り、大川崩壊してほりを去る一町余、両端害を
   受けて隄塞するに力無く、堙没の期旦暮に在り。ねがはくば、最上郡大山郷保実士
   野に遷し建て、その険固によりてかの危殆を避けむ 
   5月29日地震。
   7月2日大地震。6日、30日にも大地震。余震8月に至る。天皇、仁寿殿から紫宸殿の
   南底に移り、大蔵省に命じて7丈の幄二を建て、御在所とする。諸司倉屋、東西京
   師の廬舎多く倒壊し圧死者多数。失神して頓死する者もあり。亥刻また3回震動。
   七道諸国同日大いに震動し、官舎多く倒壊。津波により溺死者多数。摂津国の被
   害は特にはなはだし。
   7月6日虹東宮に降り、その尾天をきはめて内蔵寮に入りき。この日、綾綺、仁壽両
   殿の間に白龜一つを得て、神泉苑に放ちき。この夜、地震りき。
   南海・東南海・東海地震 / 西暦887年8月26日。仁和3年7月30日。M8.0〜8.5。
   五畿・七道:京都で民家・官舎の倒潰多く、圧死多数。津波が沿岸を襲い溺死多
   数。特に摂津で津波の被害が大きかった。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる
   7月30日申の時、地大震動し、数剋を経歴して震ることなほ止まず。天皇、仁壽殿を
   出でて紫宸殿の南庭におはし、大蔵省に命じて七丈の幄二つを立てて御在所と為
   し給ひき。諸司の倉屋及び東西京の蘆舎、ところどころ顛覆(てんぷく)し圧殺せらる
   る者おほく、或は失神して頓死する者有りき。亥の時、また震ること三度。五畿内七
   道の諸国も同日に大震ありて官舎多く損じ、海潮陸に漲りて溺死者あげて計るべか
   らず、そのうち摂津国もっとも甚(はなはだ)しかりき。夜中、東西に声有り、雷の如き
   者二(ふたたび)なりき。
   8月1日昼夜に地震ること二度なりき。
   8月2日昼地震ること三度なりき。
   8月4日地震ること五度なりき。この日、達智門上に気有り、煙の如くにして煙に非
   ず、虹の如くにして虹に非ず、飛び上がりて天につきき。或は人見て、皆曰ひけら
   く、「これ羽蟻なり」と。時人云ひけらく、「古今未だかくの如き異有らず」と。陰陽寮
   占ひて曰ひけらく、「大風洪水失火等の災有るべし」と。
   8月5日昼、地震ること五度、夜大いに震りき。京師の人民、家より出でてみちに居り
   き。
   8月7日地震。
   8月8日羽蟻あり。大蔵の正蔵院より出で、群れ飛びて天をきはめ、船岳につく。そ
   の気、虹の如くなりき。
   8月9日、13日、14日、16日、23日地震。24日二度地震。このあとも余震が続いたと
   推測されるのですが、残念ながら「日本三代実録」は仁和3年8月26日で記述が終
   わっています。
888(仁和4)年11月9日地震あり。(日本紀略前20)
889(寛平1)年2月10日地震あり。(日本紀略前20)
   3月1日地震あり。(日本紀略前20)
   7月2日地震あり。(日本紀略前20)
   8月20日地震あり。(日本紀略前20)
890(寛平2)年6月7日京で地震。(日本紀略前20)
   12月4日京で地震。(日本紀略前20)
892(寛平4)年2月19日地震あり。(日本紀略前20)
   11月10日地震あり。(日本紀略前20)
894(寛平6)年3月24日地震あり。(日本紀略前20)
   11月3日地震あり。(日本紀略前20)
896(寛平8)年1月13日地震あり。(日本紀略前20)
   2月4日地震あり。(日本紀略前20)
897(寛平9)年7月22日地震あり。(日本紀略後1)
898(昌泰1)年7月27日地震あり。(日本紀略後1)
899(昌泰2)年9月7日地震あり。(日本紀略後1) 

900

 

901(延喜1)年1月1日日蝕有りと言うことで、天皇南殿へ御せず。(日本記略後1)
902(延喜2)年7月24日地震あり。(扶桑略記23)
904(延喜4)年11月12日地震あり。(扶桑略記23)
905(延喜5)年4月15日月蝕、乾方に彗星見ゆ。16、18、19日にも見ゆ。24日諸社臨時奉
   幣。乾方の彗星長さ30余丈。光芒巽方へ指す。25日にも見える。長さ天を終わ
   る。29日まで毎夜見える。5月3日になって見えなくなる。(扶桑略記23/日本紀略1)
   6月15日彗星により大赦令の詔出る。(日本紀略1)
906(延喜6)年3月1日地震あり。(扶桑略記23)
907(延喜7)年2月25日彗星、太白星を食す。長さ3丈ばかり。(扶桑略記23)
909(延喜9)年2月7日地震あり。(大日本史32)
911(延喜11)年1月13日地震あり。(扶桑略記23)
912(延喜12)年1月11日地震あり。(大日本史32)
   3月21日地震あり。(大日本史32)
   6月3日戌亥角に彗星現る。9日に至る。12日酉方に再度現る。
   (日本紀略1/扶桑略記23)
915(延喜15)年鳥海山噴火し降灰。農桑枯損す。或いは十和田湖で噴火か?(扶桑略
   記/震災予防調査会報告86/日本火山総覧)
916(延喜16)年6月29日雷鳴地震あり。(日本紀略後編1)
921(延喜21)年6月1日日蝕。但し大雨。廃務す。(日本紀略1)
922(延喜22)年紀伊で津波。(日本被害地震総覧)
924(延長2)年12月17日地震あり。(扶桑略記24)
926(延長4)年1月1日地震あり。(扶桑略記24)
   4月19日地震あり。(扶桑略記24)
928(延長6)年3月8日地震あり。(日本紀略後1/扶桑略記24)
   4月17日地震あり。(日本紀略後1/扶桑略記24)
   6月1日地震あり。(日本紀略後1/扶桑略記24)
930(延長8)年4月15日地震あり。(西宮記)
   6月26日諸卿殿上し各議の時、午三刻に黒雲が現れ清涼殿坤一柱上に落雷。神火
   を発する。大納言兼民部卿藤原清貫、衣焼し胸裂し死亡。右兵衛佐美努忠包も、髪
   焼し死亡。行右中弁兼内蔵頭平希世も、顔焼し死亡。紀蔭連は腹燔悶乱、安曇宗
   仁は膝焼し臥す。(日本紀略1/扶桑略記24/九条殿遺誡)
931(承平1)年1月12日地震あり。(貞信公記)
   3月2日地震あり。(日本紀略後2)
   閏5月3日地震あり。(扶桑略記25)
932(承平2)年1月25日地震あり。(扶桑略記25)
   3月21日地震あり。(扶桑略記25)
   4月1日地震あり。(扶桑略記25)
   6月26日地震あり。(扶桑略記25)
934(承平4)年5月27日大地震。(日本紀略後2/本朝年代記2)
935(承平5)年1月28日地震あり。(扶桑略記25)
   2月19日地震あり。(扶桑略記25)
   3月24日地震あり。(扶桑略記25)
   4月7日地震あり。15日にも地震あり。(扶桑略記25)
937(承平7)年1月2日日蝕で廃務。1日が日蝕で2日に宴会を行うとも云う。(日本紀略2)
   4月15日地震あり。(和漢合運指掌図4)
   4月17日地震あり。(本朝年代記2)
   11月富士山噴火。(日本紀略後2)
938(天慶1)年4月15日亥刻に大地震。東西の京舎屋、諸寺諸山の堂舎仏像多く倒壊。死
   者4人。洪水あり。余震やまず。(日本紀略後2/康富記12/和漢合運4)
   4月15日大地震。天皇は底上に幄舎を建てて御座を遷す。鴨川洪水。
   (改元勘文部類)
   4月18日無事息災祈願の誦経を行い、建礼門前で大祓を行う。賀茂祭を停止する。
   (改元勘文部類)
   5月22日改元し天慶とする。(改元勘文部類)
   5月28日三日間最勝王経を転読し、また賑救を定める。(貞信公記/本朝世紀2)
   6月16日諸社に使をたてて、地震のことを祈る。22日五畿七道の54社に奉幣。
   8月3日地震。6日、28日にもあり。(日本紀略後2/本朝世紀2)
   9月2日地震。11日、15日にも地震あり。(日本紀略後2/本朝世紀2)
   10月9日天皇、宇佐八幡宮に奉幣して地震の災について祈願。(日本紀略後2)
   10月21日地震。24日にも地震あり。(日本紀略後2/本朝世紀2)
   11月12日地震あり。(日本紀略後2/本朝世紀2)
939(天慶2)年4月2日大地震。主上、庭に幄舎を建てて避難。5日にも地震。
   (本朝世紀3/和漢合符)
   5月10日地震あり。(本朝世紀3/和漢合符)
   6月23日地震あり。(本朝世紀3/和漢合符)
   7月1日日蝕で廃務。しかし日蝕は見えず。あるいは食さずと云う。(日本紀略2)
   8月28日地震あり。(本朝世紀3/和漢合符)
   10月15日地震あり。18日にも地震。(本朝世紀3/和漢合符)
941(天慶4)年10月11日地震あり。(本朝世紀4)
942(天慶5)年3月7日地震あり。16、7日にも地震。(外記日記)
   3月19日大中臣頼基を祭主として地震鎮めの祈願を行う。(外記日記)
   閏3月18日地震あり。(外記日記)
943(天慶6)年5月1日地震あり。(日本紀略後2)
944(天慶7)年4月23日地震あり。(日本紀略後2)
945(天慶8)年 霧島山噴火。(震災予防調査会報告86)
946(天慶9)年2月8日京で地震。(日本紀略後3)
   4月6日京で地震。(日本紀略後3)
947(天暦1)年2月3日京で地震。(日本紀略後3)
   4月6日京で地震。(日本紀略後3)
949(天暦3)年2月9日京で地震。(日本紀略後3) 
958(天徳2)年9月13日天変地震等により五社に奉幣する。(日本紀略後4)
   9月17日さらに七社に奉幣する。(日本紀略後4)
959(天徳3)年10月3日京で地震。(日本紀略後4)
961(応和1)年2月27日酉刻、坤方に彗星。野火の気に似る。(扶桑略記26)
965(康保2)年9月21日京で大地震。(日本紀略後4)
   10月1日京で地震。(日本紀略後4)
   11月25日賑恤の詔を発し、当年の半?を免ず。(日本紀略後4)
966(康保3)年閏8月19日洪水により検使を派遣。(日本紀略4)
   9月3日権大納言師尹、勅定により両京水害の巡検使を出す。(日本紀略4)
   9月9日京、畿内の人民に賑給を行う。被害の大きいものには、当年の調庸を停止
   する。(日本紀略4)
967(康保4)年12月30日地震あり。(蜻蛉日記)
968(安和1)年4月7日地震あり。鳥獣が鳴いて騒ぐ。(日本紀略後5)
   8月4日地震あり。(日本紀略後5)
971(天禄2)年4月6日地震あり。(日本紀略後7)
   7月6日地震あり。(日本紀略後7)
972(天禄3)年閏2月14日大地震。(日本紀略後7)
   9月余震未だ止まらず。(本朝年代記2)
973(天延1)年3月7日雹降る。大和では水精玉砕の物が降る。(日本紀略6)
   3月24日京で地震。(日本紀略後7)
   9月27日京で地震。(日本紀略後7)
974(天延2)年1月19日地震あり。(日本紀略後7)
975(天延3)年6月22日暁、彗星艮方に現る。その形団扇の如し。長さ5、6尺。(日本紀
   略6)7月1日日蝕あり。天は黒色の如し。群鳥飛乱し、衆星が見える。(日本紀略6)
976(貞元1)年4月11日大きめの地震あり。(本朝地震記)
   6月18日京で大地震。人家の倒壊による圧死者多数。山城、近江の国で特にはな
   はだし。翌日より月末まで余震81回。天皇幄舎を建て御在所とする。崇徳寺堂谷に
   転落し、僧千聖転落死する。清水寺で圧死する者50人。八省院、豊楽院、東寺、西
   寺、極楽寺、円覚寺等も倒壊。近江国分寺大門倒壊。内裏修理中の30余人死亡
   し、読経請僧童子も圧死。(本朝地震記/日本紀略後7)
   7月13日地震により改元。大赦行われる。(古事類苑/本朝地震記)
   7月20日大地震。前後に余震頻発。(日本紀略後7)
   9月23日大地震。(本朝地震記)
977(貞元2)年2月4日地震あり。9日にも地震あり。(日本紀略後7)
   2月24日戌刻、艮巽両方角に彗星見ゆ。(日本紀略6)
   5月23日半租を命じる。(本朝地震記)
   6月18日大地震。古今未曾有の変異にして余震200余日という。(本朝地震記)
978(天元1)年11月20日地震あり。(日本紀略後7)
979(天元2)年4月21日備中国より言上あり、去1日、都宇郡撫河郷箕島村に、形も味も飯
   の如き物が降り、人民これを食す。(日本紀略7)
982(天元5)年2月27日雷鳴地震あり。(小右記)
   3月1日日蝕あり。(小右記)
984(永観2)年10月13日大地震。(小右記)
   11月8日地震あり。(日本紀略後7)
   11月8日多武峰鳴動する。(小右記)
986(寛和2)年1月28日地震あり。(本朝世紀10)
   3月27日地震あり。(日本紀略後8)
   7月6日地震あり。(日本紀略後8)
989(永祚1)年6月1日彗星、東西天に見ゆ。(日本紀略9)
   7月中旬、毎夜彗星東西天に見ゆ。(日本紀略9) この年、地震により改元か。
   (古事類苑)
   8月13日京と諸国で海が溢れる。(扶桑略記27/百錬抄4)
   8月13日大風。洪水と高潮で畿内の海浜、河辺の人畜田畝に被害。(日本紀略9)
990(正暦1)年 火災風災で改元。(古事類苑)
   10月25日地震あり。(日本紀略後9)
994(正暦5)年10月24日地震あり。(日本紀略後9)
996(長徳2)年4月2日地震あり。(日本紀略後10/外記日記)
   5月22日地震あり。(日本紀略後10/外記日記)
   6月26日地震あり。(日本紀略後10/外記日記)
   10月3日地震あり。(日本紀略後10/外記日記)
997(長徳3)年5月22日大地震。(日本紀略後10)
998(長徳4)年10月3日大地震。(日本紀略後10)
999(長保1)年3月7日富士山噴火の奏あり。(本朝世紀15)
   3月7日大宰府言上によれば、豊前国で米が降るという。(日本紀略10)

1000

 

1000(長保2)年3月1日日蝕により、結政参せず。藤原行成、日蝕の日廃務の例なりと説
   明す。(権記)
1005(寛弘2)年7月17日地震あり。(小右記)
1006(寛弘3)年2月2日地震あり。(日本紀略後11)
1007(寛弘4)年12月21日地震あり。(法成寺摂政記)
   12月22日地震勘文を奏す。(法成寺摂政記)
1010(寛弘7)年8月16日地震あり。(日本紀略後11)
   9月21日地震あり。(日本紀略後11)
1011(寛弘8)年4月8日地震あり。(権記)
1012(長和1)年8月27日地震あり。(日本紀略後12)
1013(長和2)年4月8日地震あり。(法成寺摂政記/小右記/日本紀略後12)
   7月24日地震あり。(法成寺摂政記/小右記/日本紀略後12)
   8月9日地震あり。12日にも地震あり。(法成寺摂政記/小右記/日本紀略後12)
   9月25日地震あり。(法成寺摂政記/小右記/日本紀略後12)
1014(長和3)年1月27日戌刻彗星見ゆ。巻舌南に長さ2尺。(小右記)
   2月9日頭弁資平、天文勘文を写し、焼亡や大地震があるのは旧を除き新を布くた
   めの注であると喚起するため上奏す。(小右記)
   4月11日地震あり。(日本紀略後12)
1015(長和4)年4月20日地震あり。(日本紀略後12)
   5月28日地震あり。(小右記)
   11月6日大地震。(日本紀略後12)
1016(長和5)年3月29日地震あり。(日本紀略後12)
1017(寛仁1)年8月18日地震あり。(日本紀略後13)
   8月丹波で蝗害。諸社に奉幣する。(小右記/百錬抄4/左経記)
1018(寛仁2)年6月18日戌亥角に彗星出現。七星の上第四星の下二當二座に長さ1丈ば
   かり。先例に云う勘文を参じた後に滅すと。よって勘文を奉り、数日後に滅す。
   (左経記)
   8月丹波で蝗害。(小右記)
   9月25日地震あり。(日本紀略後13)
   10月13日地震あり。(日本紀略後13)
1021(治安1)年7月1日日蝕符合し、加茂守道に給録す。(日本紀略13)
1022(治安2)年10月23日地震あり。(小右記)
1023(治安3)年7月4日翌日にかけて地震あり。(日本紀略後13/小右記)
1024(万寿1)年3月17日地震あり。(日本紀略後13/扶桑略記28)
   3月18日地震あり。(扶桑略記28)
   5月17日地震あり。(小右記)
1025(万寿2)年12月5日地震あり。(日本紀略後13)
1026(万寿3)年5月23日亥下刻石見沖の鴨島が海嘯で海没する。(日本被害地震総覧)
1027(万寿4)年3月2日大地震。(日本紀略後13)
1028(長元1)年3月1日日蝕あり。暦家これを注せず、中務省これを申さず、廃務無し。
   (日本紀略14/左経記)
1032(長元5)年3月5日頃年初にあった地震のための大赦を行い、調庸を免じ、老人僧尼
   に穀を給す。(日本紀略後14)
   12月16日富士山噴火する。嶺より山脚まで延焼。(日本紀略後14)
1034(長元7)年8月13日彗星東方に見ゆ。16日、密奏を奉りて或人云うには、この星は大
   風の起こる前兆であると。古伝に云う大風もしくは地震の前に現れると。旧を改める
   徴であると。また多く改元のことを云う。(左経記)
1035(長元8)年12月14日地震あり。(日本紀略後14)
1036(長元9)年9月27日その年発生した京での地震のために、この日まで天災地変祭を
   八省院で行い、この日から三日間地動際を行う。(範国記)
1037(長暦1)年9月3日衆星乱れ墜ちる。四方に飛散し、驚かない者はいないという。
   (百錬抄4)
   12月諸国で地震。高野山で被害。(高野春秋)
1040(長久1)年6月27日大地震。
   9月8日大地震。
   10月29日京で大地震がある。。
1041(長久2)年3月1日翌日にかけて地震あり。(和漢合運)
   7月20日地震あり。(扶桑略記28)
   7月20日地震あり、洛東岡崎法勝寺八角九重塔倒壊する。(本朝地震記)
1042(長久3)年12月22日武蔵で大地震。仏閣堂宇倒壊。
   (豊島郡浅草地名考/浅草寺縁起) 
1050(永承5)年10月7日地震あり。(扶桑略記29)
1055(天喜3)年6月7日地震あり。(皇年代略記)
1056(天喜4)年8月4日彗星東方に見ゆ。(百錬抄4)
   8月17日主計頭兼備中介中原朝臣、天文勘文を奏す。(諸道勘文)
   8月26日陰陽頭安部章親、天文勘文を奏す。(諸道勘文)
1057(天喜5)年8月4日寅刻、彗星東方に見ゆ。長さ丈余。(扶桑略記29)
1060(康平3)年6月18日地震あり。(扶桑略記29)
1061(康平4)年5月6日群鳥警鳴が翌日まで続く。(扶桑略記29)
   5月8日地震があり、恩赦が行われる。(扶桑略記29)
1063(康平6)年2月28日地震あり。同月晦日にも地震あり。(扶桑略記29)
   3月11日地震あり。(扶桑略記29)
1065(治暦1)年3月24日大地震。(扶桑略記29)
   5月7日大地震。(扶桑略記29)
1066(治暦2)年3月6日暁、彗星東方に現る。(扶桑略記29)
   4月1日酉刻、彗星西方に見ゆ。司天奏す、災いの徴である慎むべしと。
   (扶桑略記29)
   4月8日地震あり。(扶桑略記29)
1068(治暦4)年1月1日日蝕あり。翌2日地震、3日大風。(大神宮諸雑事記2)
1070(延久2)年10月20日23日にかけて山城・大和で地震が連続する。堂舎の多くが倒
   壊。(扶桑略記29/百錬抄5/年代記残編)
   11月21日地震あり。(扶桑略記29)
1074(承保1)年1月22日地震あり。(扶桑略記30)
   2月12日地震あり。(扶桑略記30)
1076(承保3)年1月9日地震あり。(扶桑略記30)
   2月20日富士山噴火。(扶桑略記30)
1077(承暦1)年11月27日地震あり。(小右記)
1080(承暦4)年6月18日大雨。19日に洪水。(扶桑略記30)
   7月5日地震あり。(帥記)
1083(永保3)年2月28日富士山噴火。(扶桑略記30)
1085(応徳2)年三宅島噴火。(震災予防調査会報告86)
1088(寛治2)年7月24日この日以降40日間地震が続く。餓死者多数。(立川寺年代記)
1089(寛治3)年1月24日地震あり。(中右記)
1090(寛治4)年6月21日地震あり。(中右記)
1091(寛治5)年1月6日地震あり。(中右記)
   3月5日地震あり。(中右記)
   8月7日大地震。寺社多数倒壊する。(中右記)
1092(寛治6)年3月13日地震あり。(中右記)
   6月8日地震あり。(中右記)
   8月3日大風。諸国に洪水・高潮の被害。伊勢神宮宝殿、四面廊など倒壊。
   (扶桑略記30)
   11月10日京で大地震。越後に大津波が押し寄せ、角田浜飛山砂山古潟が海没す
   る。(越後土産)
1093(寛治7)年2月14日未刻に大地震あり。
   (扶桑略記30/百錬抄5/中右記/後二条師通記)
   3月26日地震あり。(扶桑略記30/百錬抄5/中右記/後二条師通記)
   5月2日地震あり。14日、春日山震動する。
   (扶桑略記30/百錬抄5/中右記/後二条師通記)
   8月18日大雨、洪水。(扶桑略記30)
   10月4日地震あり。(扶桑略記30/百錬抄5/中右記/後二条師通記)
   11月4日地震あり。(扶桑略記30/百錬抄5/中右記/後二条師通記)
   11月20日地震あり。(扶桑略記30/百錬抄5/中右記/後二条師通記)
1094(嘉保1)年6月5日地震あり。(中右記)
   8月5日地震あり。(中右記)
   10月27日地震あり。(中右記)
1095(嘉保2)年8月10日地震あり。(中右記)
1096(永長1)年2月13日地震あり。(後二条師通記/中右記)
   10月20日地震あり。(後二条師通記/中右記)
   11月24日辰刻大地震あり。一時続く。大殿関白以下大内に参ず。28日両殿下にに
   於いて諸卿を集め、改元の是非を問う会議が行われる。大極殿に被害。東大寺の
   鐘が落下。薬師寺回廊、河内小松寺毘沙門堂が倒壊。勢多橋が落下。東寺塔九
   輪が落下。駿河、伊勢阿刀津などで津波。小地震相次ぐ。
   (後二条師通記/中右記/康富記12)
   12月7日地震あり。(後二条師通記/中右記)
   12月15日先月大地震の祈祷を行う。東大寺の僧千人大極殿にて読経。仁王会をを
   延暦寺で行い、大般若経、六観音法を行う。(後二条師通記/中右記/康富記12)
   12月25日地震あり。(後二条師通記/中右記/康富記12)
   12月27日左大臣以下参り、地震により改元を申上げる。強盗等を除く八虐の罪をを
   赦免。(後二条師通記/中右記/康富記12)
   12月29日地震あり。(後二条師通記/中右記)
1097(承徳1)年1月1日地震。12日にも地震あり。(中右記)
   閏1月1日地震あり。(中右記)
   4月9日地震。14日にも地震あり。(中右記)
   7月6日地震あり。(中右記)
   8月6日地震あり。(中右記)
   9月1日彗星西に見ゆ。(百錬抄5)
   地震多く、改元。(古事類苑)
1098(承徳2)年1月13日地震あり。(中右記)
   4月4日地震あり。(中右記)
1099(康和1)年1月24日地震あり。興福寺西金堂・塔が破損。大門と回廊が倒壊する。摂
   津天王寺回廊倒壊。土佐田千余町が海没。(後二条師通記) 地震により、木曽川下
   流鹿取・野代が空変海塵と化す。数十年後陸地となる。(近衛家文書)
   3月22日地震あり。(後二条師通記)
   8月27日地震あり。河内小松寺の講堂倒壊。(日本被害地震総覧)
   9月21日地震あり。(本朝世紀22)
   閏9月12日地震。18日にも地震あり。(本朝世紀22)
   10月26日地震あり。(本朝世紀22)
   12月16日地震あり。(本朝世紀22)
   12月19日大地震。(本朝世紀22)
   地震により改元。(古事類苑)

1100

 

1100(康和2)年10月20日地震あり。(中右記目録)
1101(康和3)年2月2日地震あり、7日にも地震あり。(中右記目録)
1103(康和5)年4月22日京で強震。(百錬抄5/殿暦/少外記重憲記)
   4月24日地震あり。(中右記)
   5月1日地震あり。(中右記)
   7月16日地震あり。(殿暦/中右記/本朝世紀23/少外記重憲記)
   10月26日地震あり。(殿暦/中右記/本朝世紀23/少外記重憲記)
   11月26日地震あり。(殿暦/中右記/本朝世紀23/少外記重憲記)
   12月20日地震あり。(殿暦/中右記/本朝世紀23/少外記重憲記)
1104(長治1)年4月13日翌日にかけて地震。(中右記)
   6月2日北方で紅雪が降る(翌年か?)。(本朝年代記)
1105(長治2)年2月19日地震あり。(中右記/殿暦)
   3月2日地震あり。(中右記/殿暦)
   4月1日地震あり。(中右記/殿暦)
   6月2日北方で紅雪が降る。(和漢合運指掌図)
1106(嘉承1)年1月4日酉刻彗星子坤方に現れる。震方を指し、天倉星と天苑星の間を觸
   す。長さ10丈、色白く15日まで見える。(諸道勘文45/百錬抄5)
   1月12日地震あり。(中右記)
   1月17日彗星変により大外記主計権助中原師建勘文を奏す。(諸道勘文45)
1107(嘉承2)年2月11日地震あり。(中右記)
   4月7日地震あり。10日にも地震あり。(中右記)
1108(天仁1)年7月21日9月にかけて浅間山噴火。火砕流と溶岩流が田圃を埋める。
   (中右記/立川寺年代記)
1109(天仁2)年7月23日京で地震。(殿暦)
1110(天永1)年5月13日彗星東方に現れる。長さ5尺。(百錬抄5)
1111(天永2)年3月27日翌日にかけて地震。(中右記)
1112(天永3)年5月11日地震あり。(中右記)
   7月22日地震あり。(中右記)
   9月2日地震あり。(中右記)
   10月伊豆大島噴火。鳴動雷の如く、京まで聞こえる。。
   (中右記/震災予防調査会報告86)
   霧島山噴火。神社焼失。(日本火山総覧)
1113(永久1)年6月13日地震あり。(中右記)
1114(永久2)年6月7日京で地震。(中右記)
   6月19日地震あり。(中右記)
1117(永久5)年10月14日京で地震。(中右記)
1118(元永1)年3月9日地震あり。(中右記) 
1123(保安4)年8月22日大風洪水。(神宮雑例集2)
1124(天治1)年閏2月1日大地震。余震は8日に至る。(百錬抄6)
   7月以後彗星が見られる。(帝王編年記20)
1126(大治1)年7月1日彗星北方に見ゆ。(百錬抄6)
1127(大治2)年1月29日地震あり。(中右記)
1129(大治4)年9月1日日蝕符合し、陰陽頭に給録。(長秋記)
   11月30日地震あり。(中右記)
1132(長承1)年8月4日天文博士兼時彗星見るという。気頗る天に亘る。7、8夜見える。
   8月25日寅刻、彗星北方に見ゆ。長さ3尺、白色、尾は西を指し觜度にあり。近く敷
   星に入る。27日寅刻、彗星婁第三星と近し。3丈。光芒盛ん。戌亥を指す。28日に
   南行、光芒衰微。1丈。光芒気奎宿に相見える。29日夜同座にあり南行。下司空
   星と並ぶ。芒角減少し2、3尺。以後見えず。(中右記)
   9月8日地震あり。27日にも地震あり。(中右記)
   12月6日大雪、地震あり。(中右記)
1133(長承2)年8月28日地震あり。
   地震多発。(中右記)
1134(長承3)年閏12月1日日蝕。山僧12人。御前で薬師経読経。定海法印祈祷。
   (中右記)
1135(保延1)年3月18日大地震。(中右記)
1136(保延2)年1月28日地震あり。(中右記)
1137(保延3)年7月15日翌日にかけて大地震。余震は12月まで続く。(中右記)
   9月29日地震あり。(実能記)
   草が降る。(本草綱目啓蒙23※)
1138(保延4)年3月19日穀物が降る。形は胡麻の如し。(百錬抄6)
   7月20日戌亥方に彗星見ゆ。(百錬抄6) 
1140(保延6)年3月13日朝より夕まで太陽現れず。雲や霧ではなく、烟に似て、雨のような
   もの降る。形は露に似て、また胡麻の如し。(百錬抄6)
1141(永治1)年9月25日名称不明の物体が京中を飛び交う。形は胡麻の如し。(百錬抄6)
1142(康治1)年3月11日地震あり。(本朝世紀)
   6月1日大雨。2日に洪水。
   9月1日夜大雨。翌朝洪水。大風雨となり朱雀大路など大河の如くなる。築垣などど
   倒壊。(台記)
   10月10日強震あり。(台記2)
1143(康治2)年10月10日地震あり。(台記3/本朝世紀27)
   11月24日地震あり。(台記3/本朝世紀27)
   地震多発。(中右記/台記2/一代要記76)
1144(天養1)年5月13日地震あり。(本朝世紀28/台記4)
   7月6日地震あり。11日にもあり。(本朝世紀28/台記4)
   12月7日地震あり。(本朝世紀28/台記4)
1145(久安1)年4月5日彗星東方に出現。数日見ゆ。15日22社に奉幣するが論議する。陰
   陽師憲栄、先例に覚えずと述べ、奉幣は延引。25日、彗星の変により徳政意見を求
   めるため、公卿8人を召す。内大臣藤原頼長辞して参内せず。(百錬抄7)
   7月22日彗星の変により改元。(百錬抄7/和漢合運指掌図)
   閏10月3日地震あり。(台記5)
1146(久安2)年12月1日彗星坤方に見ゆ。長さ2、3丈。6日に10丈に達する。
   (百錬抄7/台記)
1147(久安3)年1月12日寅刻、彗星東方に見ゆ。長さ1丈。女虚間にあり。22日軽犯者未
   決57人を赦免。26日東大寺千僧読経、長星祈祷す。(本朝世紀)
   2月10日彗星の変による赦の詔書を平清盛に下す。(本朝世紀)
1150(久安6)年11月14日地震あり。(台記9)
1151(仁平1)年4月3日地震あり。(本朝世紀39)
   閏4月22日地震あり。(本朝世紀39)
1152(仁平2)年2月3日地震あり。(山槐記/本朝世紀41)
1153(仁平3)年4月15日地震あり。(兵範記/台記10/本朝世紀46)
   9月21日地震あり。(兵範記/台記10/本朝世紀46)
   閏12月27日地震あり。(兵範記/台記10/本朝世紀46)
1154(久寿1)年10月三宅島噴火。(震災予防調査会報告86)
1155(久寿2)年2月13日地震あり。(山槐記)
   8月5日巳時と夜に大規模な地震。(台記12)
1156(保元1)年7月11日暁、彗星寅方に出現。長さ6尺、白色。東北へ動く。 15日五諸侯
   三公星を犯す。長さ3寸ばかり。(一代要記)
   7月11日彗星出現し、将軍塚鳴動す。(保元物語1)
1157(保元2)年3月13日大地震。(兵範記) 
1163(長寛1)年11月27日地震あり。(大日本史)
1164(長寛2)年2月27日地震あり。(百錬抄7/一代要記78)
1165(永万1)年6月4日地震あり。(山槐記/顕広王記)
1166(仁安1)年2月4日地震あり。10日も地震あり。(泰親朝臣記)
   6月20日地震あり。(泰親朝臣記)
   8月6日地震あり。(泰親朝臣記)
   11月18日地震雷鳴、月軒轅夫人星を掩食す。(泰親朝臣記)
1167(仁安2)年9月26日地震あり。(愚昧記)
   霧島山噴火。西生寺殿堂焼崩。(震災予防調査会報告86/日本火山総覧)
1170(嘉応2)年1月14日地震あり。(愚昧記)
   閏4月20日地震あり。(玉葉5)
1171(承安1)年10月羊病なるもの流行す。(百錬抄8)
1172(承安2)年4月29日地震あり。(玉葉9)
   5月20日洪水で六波羅付近の人家流失。(玉海)
1175(安元1)年1月9日地震あり。(玉葉16、18)
   2月22日地震あり。(玉葉16、18)
   12月24日地震あり。(玉葉16、18)
1176(安元2)年4月8日大地震。(玉葉21)
1177(治承1)年1月27日大地震。東大寺の鐘と大仏螺髪が落ちる。(玉葉25/百錬抄8)
   4月12日加賀白山噴火する。(本朝年代記3)
   12月24日彗星出現。(百錬抄8/山槐記/玉海)
1178(治承2)年1月7日寅刻、彗星巽方に出現。(百錬抄8/山槐記/玉海)
   6月12日大膳権大夫泰親追奏するには坤方に星墜ちる。其體水精の如し。その尾
   2丈ばかり、中絶後7、8尺。光るという。(山槐記)
1179(治承3)年5月28日夜地震。(玉葉30、31/源平盛衰記/山槐記)
   7月7日地震。21日にも地震。(玉葉30、31/源平盛衰記/山槐記)
   11月7日京で大地震。(玉葉30、31/源平盛衰記/山槐記)  
1180(治承4)年8月23日源頼朝、石橋山での合戦を企図するも、大風雨で三浦水軍が動
   けず、暴風雨の中敗走。24、25日に丸子川が洪水となり、和田義盛軍渡河できず。
   (源平盛衰記21)
   9月28日厳島で大地震。(山槐記/玉葉35)
   11月26日紀伊熊野地方で地震。三日間続く。(山槐記/玉葉35)
   12月19日地震。21日にも地震あり。(山槐記/玉葉35)
1181(養和1)年1月8日地震あり。(玉葉36)
   3月7日地震あり。(本朝地震考)
   1182(寿永1)年2月23日地震あり。(吉記)
   3月19日地震あり。(吉記)
1183(寿永2)年10月14日大地震。(玉葉39/百錬抄9)
   12月17日霧島山噴火。(震災予防調査会報告86)
   12月22日地震あり。(玉葉39/百錬抄9)
1184(元暦1)年1月23日地震あり。(百錬抄10)
   4月大地震。(皇年代略記)
   10月15日鎌倉で地震。(吾妻鏡3)
鎌倉時代

 

1185(文治1)年6月20日子刻激震あり。数度震動。余震続く。
   (玉葉42/吾妻鏡4/一代要記82/醍醐寺雑事記/歴代皇紀4)
   7月9日午刻激震あり。宮中の築垣、大内日花門、閑院西辺廊、法勝寺阿弥陀堂が
   倒壊し、九重塔が破損、市中の民家の多くが倒壊する。園庭に幄を設けて御所とす
   る。大般若経転読あり。40余日余震が続き、皆病となる。皇居以下神社仏閣民家倒
   壊、音苑雷の如し。塵埃黒煙の如く日影見えず。山崩れ川埋まり、大地は稲妻の如
   く裂けて水湧き、盤石谷に転び人民六蓄死亡多数。?学宴を停止する。愛染王に
   祈祷し護摩を焚く。山稜使を立て、或いは諸社に奉弊使を遣わし、神仏の加護を祈
   る。(百錬抄10/帝王編年記23/園太歴15/本朝地震記/醍醐寺雑事記/康富記12)
   8月14日地震により文治に改元。(康富記12/吾妻鏡4/本朝年代記2)
1186(文治2)年1月22日地震あり。(玉葉44)
   7月9日大地震(記事の内容は元年と同じなので誤記か)。(歴代編年集成23)
1187(文治3)年8月18日地震あり。(玉葉50)
   10月12日元年7月に匹敵する大地震が起こる。(玉葉51)
1189(文治5)年3月14日大規模な地震、18日にも地震あり。(玉葉55)
1191(建久2)年3月6日鎌倉で地震。(吾妻鏡11)
   9月26日地震あり。(吾妻鏡11)
1194(建久5)年1月大地震。(立川寺年代記)
   閏8月27日地震あり。(玉葉65/本朝地震記)
1195(建久6)年3月12日午後、雨と地震。(吾妻鏡15)
1197(建久8)年5月翌月にかけて心房病なるもの流行す。(一代要記82)
1199(正治1)年1月1日昏に臨み雷電地震あり。(玉葉66/明月記)
   5月16日丑刻、鎌倉で大地震。(吾妻鏡16)
   5月26日夜より大雨となる。
   京市中で洪水が発生し、堀河大路などが海の如くとなる。橋尽く流失。(明月記)

1200

 

1201(建仁1)年3月10日卯刻地震あり。若宮大路西頬焼失。(吾妻鏡17)
   8月11日下総葛西郡で海嘯。1000余人が死ぬ。(吾妻鏡17)
1202(建仁2)年1月28日鎌倉で大地震。(吾妻鏡17/本朝年代記8)
   12月24日卯刻地震降雪雷鳴あり。(吾妻鏡17)
1204(元久1)年10月6日亥刻大地震。(吾妻鏡18)
   12月27日地震あり。(明月記)
   12月29日亥刻大地震あり。(明月記/大日本史55)
1207(承元1)年4月9日夜中過ぎに大地震あり。(明月記)
1208(承元2)年1月6日地震あり。(吾妻鏡19)
   7月20日地震あり。(吾妻鏡19)
1210(承元4)年9月30日戌刻西方天市垣第三星付近に彗星出現。
   光は東を指し、長さ3尺余り。芒気盛長1丈ばかり。主計頭資元勘文を奏し、祈祷・
   改元を上奏する。祈祷あり。慈円僧正熾盛光法を行う。(吾妻鏡19/愚管抄6)
   10月3日地震あり。(吾妻鏡19)
   11月10日彗星再度出現。土御門天皇祈祷を行い、夢告ありて順徳天皇に譲位を行
   い25日受禅。(愚管抄6)
1211(建暦1)年1月27日大地震。(吾妻鏡19)
   5月15日大地震。(吾妻鏡19)
   7月3日大地震。(吾妻鏡19)
1213(建保1)年1月1日鎌倉で大地震。堂舎倒壊。(本朝年代記2)
   5月21日午刻大地震。音があり、舎屋破壊、山崩れ地裂く。
   (吾妻鏡21/皇帝紀抄8/本朝年代記2/和漢合運指掌図)
   地震のために改元。(古事類苑)
1214(建保2)年2月7日鎌倉で大地震。(吾妻鏡22/皇帝紀抄8/百錬抄12)
   4月3日亥刻に地震。(吾妻鏡22/皇帝紀抄8/百錬抄12)
   9月22日大地震。(吾妻鏡22/皇帝紀抄8/百錬抄12)
   10月6日亥刻に大地震。(吾妻鏡22/皇帝紀抄8/百錬抄12)
1215(建保3)年8月19日地震あり。21日未刻、22日にも地震あり。(吾妻鏡22)
   9月6日丑刻に地震、8日寅刻に地震あり。(吾妻鏡22)
   9月11日寅刻に大地震あり。未刻に小地震あり。17日まで余震。(吾妻鏡22)
   9月21日祈祷を行い、3万6千神を親職、地震祭を行う。江能範使いとなる。
   10月2日寅刻地震あり。(吾妻鏡22)
   12月15日亥刻地震。(吾妻鏡22)
   12月16日「将軍家殊に御謹慎あるべき変なり」と司天勘文を捧げる。(吾妻鏡22)
   12月30日御前南庭で祈祷。(吾妻鏡22)
1216(建保4)年閏6月11日大地震。(吾妻鏡22)
1219(承久1)年2月6日地震あり。(皇帝紀抄8)
1220(承久2)年1月12日地震あり。(吾妻鏡24)
   12月2日地震あり。(吾妻鏡24)
1221(承久3)年1月29日地震あり。(吾妻鏡25)
   12月2日地震あり。(吾妻鏡25)
1222(貞応1)年5月4日地震あり。(吾妻鏡26)
   7月23日未刻地震あり。(吾妻鏡26)
   8月2日彗星戌方に見ゆ。軸星大きく半月の如し白色、光芒赤い。1丈7尺余。
   13日今暁に百日泰山府君御祭を始める。(吾妻鏡26)
   10月5日申刻地震あり。(吾妻鏡26)
   11月1日子刻大地震。4日酉刻にも地震あり。(吾妻鏡26)
1223(貞応2)年2月1日地震あり。(吾妻鏡26)
   5月12日地震あり。(吾妻鏡26)
   10月26日地震あり。(吾妻鏡26)
1224(元仁1)年2月3日申刻地震あり。(吾妻鏡26)
   4月25日子刻地震あり。(吾妻鏡26)
   5月8日寅刻大地震あり。卯刻に余震。(百錬抄13)
   6月1日子刻地震あり。(吾妻鏡26)
   9月17日卯刻祈祷を行う。(吾妻鏡26)
   11月9日亥刻地震あり。(吾妻鏡26)
1225(嘉録1)年1月15日地震あり。(吾妻鏡脱漏)
   3月11日地震あり。(吾妻鏡脱漏)
   5月17日地震あり。(吾妻鏡脱漏)
   10月11日地震あり。(吾妻鏡脱漏)
1226(嘉録2)年3月29日辰刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
   4月27日未刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
   6月26日申刻地震、28日にかけて地震続く。(吾妻鏡脱漏)
   7月1日亥刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
   7月17日暑熱。未刻小地震あり。30日にも地震2回。(明月記)
   8月7日亥刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
   10月6日子刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
   12月24日鳴動の後大地震。建造物破損は少ない。
   25、28日にも鳴動余震。(明月記)
1227(安貞1)年1月14日午刻地震、15日2回地震。(吾妻鏡脱漏)
   2月3日大風、さらに鳴動し地震。18日夜半地震。(明月記)
   3月7日戌刻大地震。門扉築地倒壊多数、地割れ生ず。15日余震。24日祈祷。
   4月13日戌刻、26日亥刻地震。29日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
   5月11日未刻地震。(吾妻鏡脱漏)
   8月13日祈祷行われる。(吾妻鏡脱漏)
   9月3日丑刻大地震。9日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
   11月6日酉刻大地震。15日、16日、24日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
   12月1日戊刻地震。13日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
   12月10日天変により改元。(一代要記85)
1228(安貞2)年4月7日地震あり。(吾妻鏡27)
   5月15日地震あり。(吾妻鏡27)
   9月8日地震あり。(吾妻鏡27)
   12月6日地震あり。(吾妻鏡27)
1229(寛喜1)年2月5日申刻地震。17日戊刻大地震。(吾妻鏡27)
   3月5日天災飢饉により改元。(一代要記85)
   3月8日寅刻地震。28日酉刻地震。(吾妻鏡27)
   6月14日未刻地震。26日未刻地震あり。(吾妻鏡27)
   8月12日酉刻地震あり。(明月記)
   9月20日地震あり。(吾妻鏡27)
   10月25日未刻地震あり。(吾妻鏡27)
   11月30日子刻地震あり。(吾妻鏡27)
   12月19日亥刻地震。21日、26日祈祷。(吾妻鏡27)
1230(寛喜2)年閏1月13日地震、19日暁地震。22日にも地震あり、大慈寺の後山崩れる。
   (明月記/吾妻鏡27)
   2月20日丑刻地震あり。(吾妻鏡27)
   7月29日早旦小地震あり。(明月記)
   11月8日大進僧都観基、御所に参内して云う。去月16日夜半陸奥国芝田郡に石が
   雨のように振る。内ひとつは、将軍家に進呈する。大きさ柚子の如く、細長い。
1231(寛喜3)年4月15日未刻地震。27日申刻にも地震あり。(吾妻鏡28)
   5月7日地震あり。(吾妻鏡28)
   7月15日日出頃地震あり。室宿の火神動くという。(明月記)
   8月8日冬の如く寒し。(本朝年代記22)
   11月6日地震あり。(立川寺年代記)
1232(貞永1)年1月2日大地震。(立川寺年代記)
   9月18日地震あり。(吾妻鏡28)
   閏9月8日彗星東方に出現。2丈余。(百錬抄13)
   10月4日後堀河天皇、彗星の変により四条天皇に譲位。(百錬抄13)
1233(天福1)年 地震により改元。(古事類苑)
   2月8日小地震。(明月記)
   9月27日夜半に地震あり。(明月記)
1234(文暦1)年2月8日大地震。(歴代皇紀4/皇年代略記)
   9月16日暁月前大地震。(明月記)
   11月5日天変地震により文暦に改元。(一代要記86)
   12月28日霧島山噴火、霊泉「天の井」涸れる。(震災予防調査会報告86)
1235(嘉禎1)年3月1日京で地震。星宿龍神動くという。14日にも地震。(明月記)
   3月13日小地震の後、16日大地震あり。(吾妻鏡30)
   4月13日地震、28日、29日、30日にも地震あり。(吾妻鏡30)
   5月1日地震、3日から5日にかけてと7日にも地震あり。(吾妻鏡30)
   5月8日天変地妖のため祈祷・徳政を行う。(吾妻鏡30)
   閏6月22日地震あり。(吾妻鏡30)
   9月1日大地震。文治以後最大という。(帝王編年記24)
   9月19日改元。地震頻発のためか。(一代要記86)
   9月29日地震あり。(吾妻鏡30)
   10月20日地震あり。(明月記/歴代皇紀4)
1236(嘉禎2)年2月28日地震あり。(吾妻鏡31)
   4月1日地震あり。(吾妻鏡31)
   6月11日地震。22日と27日にも地震あり。(吾妻鏡31)
1237(嘉禎3)年2月1日大地震。(皇年代私記)
   3月11日大地震。(歴代皇紀4)
   4月7日酉刻地震あり。(吾妻鏡31)
   6月1日卯刻大地震。元暦以後最大という。(百錬抄14)
   8月4日辰刻大地震あり。(吾妻鏡31)
   9月11日地震。23日から24日にかけても地震あり。(吾妻鏡31)
1238(暦仁1)年11月23日天変により改元。(百錬抄14)
   11月29日地震あり。(吾妻鏡32)
   12月9日地震あり。(吾妻鏡32)
   12月26日阿蘇山噴火。黒煙昇り、大小の石が降る。(阿蘇郡誌)
1239(延応1)年1月2日戌刻、彗星申方に出現。芒気3尺、辰巳を指す。色白赤。
   前年末から見えたとも云う。(吾妻鏡33)
   1月4日彗星の芒気4尺。色赤弱くなる。7日歳星の傍らに出現。
   芒気は艮方を指し5尺。軸星は大きく太白に似る。(吾妻鏡33)
   1月8日天変御祈祷護摩を行う。9、10日天候不順で目撃されず。
   11日戌刻、彗星辟一星を犯す。(吾妻鏡33)
   1月15日評定始、彗星について論じる。
   17日鶴岡宮で僧100人に仁王百講を行わせ、将軍も参す。
   祈祷筥根本地護摩(圓親法印)、伊豆山本地護摩(賢長法印)を行う。
   1月18日彗星奎近に出現。変異祈祷。20日祈祷と護摩を行う。
   17日より20日にかけて光芒盛ん。(吾妻鏡33)
   1月26日戌刻彗星王艮第五星を犯す。光芒薄くなる。
   27日将軍上洛を思召すが、窮民慰撫のために延引。(吾妻鏡33)
   2月6日夜になって彗星出現。14日に天文道等終夜彗星観測。
   彗変内天に入るという。(吾妻鏡33)
   2月7日天変が相次ぐため、改元。(一代要記86)
   4月16日大地震。(吾妻鏡33)
   8月17日加賀白山噴火し、白山権現焼亡。(百錬抄14/本朝年代記2)
   11月12日大地震。(吾妻鏡33)
1240(仁治1)年1月13日地震あり。(吾妻鏡33/平戸記)
   2月22日地震あり。(吾妻鏡33/平戸記)
   4月18日地震あり。(吾妻鏡33/平戸記)
   8月21日地震あり。(吾妻鏡33/平戸記)
   阿蘇山噴火。池水45丈逆上する。(震災予防調査会報告86)
1241(仁治2)年1月14日戊刻地震あり。(吾妻鏡34)
   2月7日巳刻大地震。建暦年中の地震の如き。
   和田義盛謀反の前兆といわれるようになる。余震続く。(吾妻鏡34)
   3月6日辰刻地震あり。15日にも地震あり。(吾妻鏡34)
   4月3日鎌倉で地震。大津波で由比浜大鳥居内拝殿が流出。船十余艘が破損。
   7月4日地震。(吾妻鏡34)
   10月13日亥刻地震。(吾妻鏡34)
1242(仁治3)年2月地震あり。(皇年代略記)
   6月8日寒気冬の如し。(平戸記9)
1243(寛元1)年5月23日大地震。(吾妻鏡35)
1244(寛元2)年1月5日大地震。(如是院年代記)
   7月2日地震あり。(百錬抄15/歴代皇紀4/皇年代略記)
   9月11日地震あり。(吾妻鏡36)
1245(寛元3)年1月18日地震。20日にも地震あり。(吾妻鏡36)
   2月1日地震あり。(平戸記14)
   3月1日申・子両刻に地震。9日にも地震。(吾妻鏡36/百錬抄15)
   3月1日寅刻彗星室壁の間に現れる。長さ2尺。京からも使者が来て同様の事を伝え
   る。11日と16日に祈祷。天地災変祭を行う。19日にも祈祷。七座泰山府君祭を行う。
   5月この月地震多発。(百錬抄15/平戸記16)
   6月8日地震あり。(平戸記16)
   7月19日雹が降る。(平戸記17)
   7月26日丑刻大地震。家屋多く破損。27日記録もあり。
   (百錬抄15/平戸記16/興福寺略年代記)
   8月11日地震あり。(百錬抄15)
   11月大地震。(立川寺年代記)
   12月13日地震。20日、21日にも地震。(吾妻鏡36/立川寺年代記)
1246(寛元4)年1月2日地震あり。(立川寺年代記)
   1月5日地震あり。(葉黄記)
   1月6日大地震。(百錬抄15)
   4月2日地震3回あり。(百錬抄15)
   4月7日霜、霰が降る。(百錬抄15/葉黄記)
   4月12日気象異変により、二社に奉幣する。(百錬抄15/葉黄記)
   5月7日地震。24日にも地震あり。(吾妻鏡37)
   7月2日地震。5日にも地震あり。(吾妻鏡37)
   11月地震あり。(百錬抄15/吾妻鏡37)
   12月地震あり。(百錬抄15/吾妻鏡37)
1247(宝治1)年3月13日地震あり。(百錬抄16)
   6月5日鎌倉と常陸に雪が降る(あるいは翌年か)。(本朝年代記26)
   6月9日地震あり。(編年記25)
   6月10日地震、19日にも地震あり。(百錬抄16)
   10月28日大地震。(吾妻鏡38)
   11月26日大地震。(吾妻鏡38)
1250(建長2)年5月涼気のため、人多く綿を着る。(岡屋関白記3)
   7月18日大地震あり。余震数十回。(吾妻鏡40)
1251(建長3)年1月19日2回地震あり。(百錬抄16)
   6月26日氷雨が降り、冷気冬の如し。(吾妻鏡41)
   7月18日鎌倉に雪が降る。26日、翌8月3日にも雪。(本朝年代記)
   9月17日地震あり。(岡屋関白記2)
   10月23日鎌倉で地震あり。(吾妻鏡41)
1252(建長4)年5月7日鎌倉で地震あり。(吾妻鏡42)
   7月23日鎌倉で大地震。(吾妻鏡42)
1253(建長5)年2月25日午刻地震あり。(吾妻鏡43)
   4月3日申刻雷雨、地震あり。(吾妻鏡43)
   6月3日大地震あり。10日にも大地震があり、余震2回。(武家年代記下/吾妻鏡43)
   9月16日地震あり。17日とも言う。(百錬抄16)
1254(建長6)年2月19日地震あり。(百錬抄17)
   閏5月11日地震。19日にも地震あり。(歴代皇紀4)
   12月12日地震あり。(歴代皇紀4)
1255(建長7)年12月12日地震あり。6年とも言われる。(皇年代略記)
1257(正嘉1)年2月23日大地震あり。社、舎、堂倒壊。火災により焼死者あり。
   地割れで涌水あり。(和漢合運指掌図/本朝年代記2)
   5月18日子刻大地震あり。(吾妻鏡47)
   8月23日戌刻大地震あり。神社仏閣破損多数。
   山崩れ、家屋倒壊、地割れ涌水あり。
   中下馬橋辺の地面が割れ青い炎が上がる。祈祷を行う。
   (吾妻鏡47/本朝地震記/24日説:如是院年代記)
   9月4日地震あり。先月の地震の余震か。(吾妻鏡47)
   11月8日鎌倉で大地震。(吾妻鏡47)
1258(正嘉2)年4月22日地震あり。(吾妻鏡48)
   6月24日寒気、冬の如し。(吾妻鏡48/暦仁以来年代記)
   12月16日地震あり。(吾妻鏡48)
1259(正元1)年3月12日地震あり。(一代要記88)
1260(文応1)年3月25日地震あり。(吾妻鏡49)
   8月5日地震あり。(吾妻鏡49)
1263(弘長3)年6月16日冷気秋天の如し。諸人綿衣を纏う。(吾妻鏡51)
1265(文永2)年1月15日鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
   3月9日鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
   10月15日阿蘇山噴火する。(阿蘇郡誌)
   12月14日今暁彗星東方に見ゆ。国継、晴平、晴成彗星勘文を献ず。
   16日将軍変異を問う。
   18日彗星2尺余。27日夕彗星西方室宿に見ゆ。2尺色白。(吾妻鏡52)
1266(文永3)年1月1日西方に彗星見ゆ。(吾妻鏡52)
   2月1日泥、雨のように降る。(本朝年代記1)
   6月24日鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
1268(文永5)年5月4日翌日にかけて地震。(吉続記/本朝年代記2/編年記26)
1269(文永6)年7月阿蘇山御池煙を発す。(阿蘇郡誌)
   11月16日吉二宮3回振動する。(一代要記89)
1270(文永7)年11月15日阿蘇山噴火。(阿蘇郡誌)
1272(文永9)年3月10日阿蘇山噴火。砂礫四方に散り、池水湧出す。(阿蘇郡誌)
   11月1日阿蘇山噴火し、火石降下する。(震災予防調査会報告86)
1273(文永10)年7月下旬、阿蘇山噴火。(阿蘇郡誌)
   夏より地震数回。(増鏡10)
1274(文永11)年
   ■
阿蘇山噴火し、寶池が涸れ、田野が荒廃する。(阿蘇郡誌)
1281(弘安4)年7月30日九州地方北部で暴風雨。
   日本遠征中のモンゴル軍は、被害を出して退却。
   閏7月阿蘇山噴火し、寶池鳴動。火石が降る。(阿蘇郡誌)
1286(弘安9)年3月27日雷電雹降る。大きさ橘子の如し。(大日本史63)
   8月3日阿蘇山噴火し、鉈型の黒雲が寶池より噴出する。(阿蘇郡誌)
1288(正応1)年1月24日地震あり。(続史愚抄8)
   6月24日大地震。(園太暦15/勘仲32)
   7月24日大地震。(園太暦15/勘仲32)
1289(正応2)年2月14日地震あり。(伏見院御記)
1292(正応5)年1月23日地震音がある。(伏見院御記)
1293(永仁1)年1月1日大地震。(続史愚抄)
   4月13日鎌倉で大地震。神社仏閣その他倒壊多数。
   死者2万余とも23034人とも3万余ともいう。津波あり。
   (興福寺略年代記/如是院年代記/本朝年代記2/一代要記91/本朝地震記)
1296(永仁4)年10月9日南都で地震。(続史愚抄10)
1299(正安1)年4月25日畿内地方で地震。死者一万余。(本朝年代記2)  

1300

 

1305(嘉元3)年3月9日大地震。(一代要記93)
   3月晦日阿蘇山噴火し、池中より日輪の如きものが3度昇る。(阿蘇郡誌)
   4月6日鎌倉で地震。(武家年代記下)
1307(徳治2)年3月2日関東で大地震。(一代要記93)
1313(正和2)年3月6日地震あり。(花園院宸記)
   10月23日地震あり。(花園院宸記)
1314(正和3)年3月15日地震音がする。(続史愚抄16)
   6月26日地震声あり。(花園院宸記)
1316(正和5)年6月20日翌日にかけて地震。28日にも地震。(武家年代記下)
   7月4日地震。23日にも地震。(武家年代記下)
1317(文保1)年1月3日9日までに地震数十度。(歴代皇記5/園太暦)
   1月3日大地震。東寺塔倒壊。余震5回。(東寺長者補任4)
   1月3日未曾有の大地震、終日余震。(花園院宸記)
   1月4日丑刻大地震。前日の余震か。人家倒壊で、白河辺で5人死亡。
   その月余震頻発。(花園院宸記)
   1月30日二回大地震。(花園院宸記)
   2月この月も余震頻発。(花園院宸記)
   3月1日翌日にかけて地震声。(花園院宸記)
   4月16日翌日にかけて鳴動。(花園院宸記)
   5月6日辰刻大地震。(花園院宸記)
   5月15日地震あり。(歴代皇紀5)
   7月4日地震。22日にも地震あり。(歴代皇紀5)
   10月23日地震あり。(歴代皇紀5)
1318(文保2)年2月26日地震あり。翌3月6・7日にも地震あり。(歴代皇紀5)
   4月7日地震あり。(歴代皇紀5)
1321(元享1)年3月24日地震あり。(花園院宸記)
1322(元享2)年6月20日天の寒さ秋の如し。病悩者街に満ちる。(花園院宸記)
1323(元享3)年5月3日大地震。(武家年代記下)
   10月25日大地震。(花園院宸記)
1324(正中1)年8月10日阿蘇山噴火。寶池より黒煙火石上る。(阿蘇郡誌)
   11月21日近江大地震。竹生島が崩れ半分湖に入る。(本朝年代記2/本朝地震記)
1325(正中2)年10月21日地震。29日、翌11月1日にも地震あり。(花園院宸記)
   12月19日地震あり。(花園院宸記)
1331(元弘1)年7月2日諸国で大地震。(和漢合運指掌図)
   7月3日諸国で大地震。(太平記2)
   7月7日諸国で大地震。(本朝年代記25)
   11月阿蘇山噴火。(震災予防調査会報告86)
1334(建武1)年8月27日大地震。(皇年代略記)
   12月13日大地震。(皇年代略記)
1335(建武2)年1月5日阿蘇山噴火。翌日にかけて砂礫を降らし、堂舎を壊す。
   2月23日阿蘇山噴火。黒煙天を覆う。(阿蘇郡誌)
   8月3日鎌倉大風。大仏殿が倒壊し、圧死者500余人。(太平記13)
1338(暦応1)年7月19日大地震。22日にも地震あり。(皇年代略記)
   10月9日大地震。(御深心院関白記)
1339(暦応2)年12月京師四条大路に水銀を降らす。(如是院年代記)
1340(暦応3)年1月4日阿蘇山噴火し、大石碧天に吹き上げる。(阿蘇郡誌)
   1月19日阿蘇山で、北池より砂山が出現し、高さが山頂に出づ。
1341(暦応4)年9月16日大地震。(武家年代記下)
1345(貞和1)年8月17日地震あり。(皇年代略記/皇年代私記)
   10月22日彗星出現し、天下に赦す。(本朝通鑑134)
1346(貞和2)年8月4日大地震。(続史愚抄22)
   8月4日京に羽蟻群飛して、人、行き来するを得ず。(続史愚抄22/大日本史70)
   11月23日地震あり。(続史愚抄22)
   12月2日地震あり。(皇年代私記)
1347(貞和3)年1月15日地震あり。(続史愚抄22)
   5月6日京で地震。(皇年代略記/皇年代私記)
   12月8日地震あり。(続史愚抄22)
1348(貞和4)年1月10日地震あり。(本朝通鑑135)
1349(貞和5)年6月19日地震あり。(皇年代略記/皇年代私記)
   7月19日地震あり。(続史愚抄)  
1350(観応1)年5月23日大地震。(本朝通鑑136/康富記12)
   5月23日大地震により大路の石堂の塔九輪が落ち砕ける。(祇園執行日記)
   5月25日地震。29日にも地震。(皇年代略記/祇園執行日記/皇年代私記)
   6月10日翌日にかけて地震。20日、22日にも地震。(祇園執行日記)
   6月23日大地震。25日にも地震。(康富記12/本朝通鑑136/祇園執行日記)
   7月2日二度大地震。(本朝通鑑136/皇年代略記/皇年代私記)
   7月12日地震あり、釈尊宴を停止する。(園太歴15)
   7月30日七仏薬師法を行う。(康富記12)
   8月24日10社に読経。(康富記12)
1351(観応2)年2月19日地震あり。(皇年代略記/皇年代私記)
   3月17日地震あり。(皇年代略記/皇年代私記)
   4月11日地震あり。(皇年代略記/皇年代私記)
   11月19日地震1日で45回あり。(続史愚抄23/大日本史70)
1352(文和1)年1月1日地震あり。(園太暦19)
   1月15日地震あり。(続史愚抄23)
1354(文和3)年閏10月地震あり。(続史愚抄24)
1355(文和4)年11月18日地震あり。(園太暦24)
1356(延文1)年7月3日京で大地震。(本朝通鑑140)
   7月11日大地震。(続史愚抄24)
1357(延文2)年閏7月17日地震あり。(続史愚抄24)
   9月11日地震あり。(続史愚抄24)
1358(延文3)年5月24日大地震。(歴代皇紀5)
   9月4日大地震。(続史愚抄25/大日本史70)
1359(延文4)年6月3日大地震。(延文四年記)
   9月21日大地震。翌10月1日、同17日にも地震あり。(延文四年記)
1360(延文5)年4月12日住吉神社鳴動し、楠樹が故なく倒れる。
1361(康安1)年6月16日大地震。18日、20日、21日、22日と大地震が頻発。山崩れや海が
   陸地になるところあり。人民牛馬死傷万を越す。阿波雪の湊1700余戸すべて津波で
   消失。以降も大小の地震続き、25日には天王寺金堂倒壊、26日には奈良で堂舎倒
   壊多数。(太平記36/太平記年表4/後愚昧記6/本朝通鑑138/皇年代略記/康富記
   12/武家年代記下/如是院年代記/興福寺略年代記)
   7月4日地震あり。8、9日にも地震。(後愚昧記6)
   7月24日再び大地震。摂津難波浦が干上がり、魚が打ち上げられる。数百人がこれ
   を捕りに行くが、直後に大津波が押し寄せ全滅するという。(太平記36)
   8月1日地震あり。13日夜にも地震。熾盛光法を修める。(後愚昧記6)
   8月24日大地震。山王寺をはじめ畿内の伽藍多く倒壊。紀伊で山が裂ける。
   (本朝通鑑142/太平記36)
   9月8日尊星王法を修める。(康富記12)
   9月14日熾盛光法を修める。(康富記12)
   11月14日酉刻大地震。(後愚昧記6)
1362(貞治1)年5月17日去年の如き大規模な地震が起こる。翌日まで余震。(康富記12)
   6月この月連日地震が相次ぐ。(歴代皇紀5/本朝通鑑143)
   6月4日内裏で五壇法を行う。(康富記12)
1363(貞治2)年7月14日大地震。(東寺執行日記)
   8月4日大地震。(東寺執行日記)
   11月9日大地震。(東寺執行日記)
1364(貞治3)年8月5日地震あり。(続史愚抄26)
   9月11日地震あり。(続史愚抄26)
1368(応安1)年2月19日西方に彗星出現。以後連日雨天。(鳩嶺雑事記)
   3月22日乾方に彗星あり。23日、4月2日、3日にもあり。(後深心院関白記)
   5月11日石清水に桃子の如き大きさの雹が降る。(続史愚抄26)
1369(応安2)年7月27日京で大地震。(後深心院関白記)
1371(応安4)年3月19日京で大地震。23日にも地震。(後深心院関白記/後愚昧記4)
1372(応安5)年6月27日京で大地震。(後深心院関白記)
   12月24日地震あり。(後深心院関白記)
1373(応安6)年2月2日京で大地震。(後深心院関白記)
   4月1日京で大地震。12日にも地震。(後深心院関白記)
   5月11日橘子の如き大きさの雹が降る。(本朝通鑑/後深心院関白記/南方紀伝3)
   8月20日京で大地震。(後深心院関白記)
   閏10月22日京で大地震。(後深心院関白記)
1374(応安7)年6月15日地震あり。(後深心院関白記)  
1375(永和1)年6月11日地震。23日にも地震あり。(後深心院関白記)
   11月19日阿蘇山噴火し、大石上がり、霊水沸騰する。(阿蘇郡誌)
1376(永和2)年4月25日大地震。家屋倒壊多数。(康富記12/本朝通鑑147/本朝地震記)
   6月21日地震祈祷を行う。(康富記12)
   6月22日寅刻、彗星丑方に見ゆ。3尺、色白。27日戌刻、亥方に現る。1丈余。
   暁に丑方に見ゆ。(鳩嶺雑事記)
1377(永和3)年3月20日阿蘇山噴火する。(震災予防調査会報告86)
   3月28日諸国で山崩れる。(南方紀伝3)
   8月20日諸国で山崩れる。(和漢合運指掌図/本朝通鑑147)
1378(永和4)年9月9日前夜彗星あり。御会中殿已然の儀停否。(後深心院関白記)
   10月9日大地震。(後深心院関白記)
1379(康暦1)年10月9日京で地震。(愚管記/続史愚抄28)
   10月19日京で地震。(愚管記)
1380(康暦2)年4月17日京で地震。(康暦二年愚記)
1381(永徳1)年2月16日京で地震。(愚管記)
   4月20日京で地震。(愚管記)
   5月29日京で地震。(愚管記)
   9月22日彗星東方に出現。長さ1丈5、6尺計り。27日暁彗星。(後深心院関白記)
1383(永徳3)年4月19日京で地震。(後愚昧記11)
   4月24日寅刻京で大地震。音は鼓の如く、動は載車の如し。
   為仏眼法を室町第に修める。26日にも地震。(後愚昧記11)
   4月28日戌刻大地震。翌日小震。(後愚昧記11)
   5月8日申刻大地震。右大臣義満出雲路社に於いて奉弊する。(後愚昧記11)
1387(嘉慶1)年閏5月3日阿蘇山噴火する。(阿蘇家譜)
   12月19日会津で地震。(会津四家合考)
1391(明徳2)年10月16日午刻京師で大地震。歩行困難という。殿舎倒壊して死傷者無
   数。刑部卿土御門、乱兆であると義満に報告。(明徳記/康富記12/本朝地震考)
1395(応永2)年2月25日京で地震。(東寺王代記)
1397(応永4)年1月11日那須地獄噴火。茶臼岳爆発して、諸国に被害。

1400

 

1402(応永9)年冬、各地で地震。(本朝地震記/南方紀伝4/和漢合運指掌図)
1404(応永11)年1月11日那須野地獄噴火。(続史愚抄31)
1406(応永13)年11月1日京で2度地震。(教言卿記/假名年代記/和漢合運指掌図)
1407(応永14)年1月5日申刻京師他諸国で大地震。数日続く。
   山崩れ、宮殿、寺社、民屋倒壊多し。人民為に業を廃す。(和漢合運指掌図)
   12月14日京師で再び地震。津波あり。(教言卿記/南方紀伝4)
1408(応永15)年1月18日那須山噴火。灰や硫黄が降る。
   常陸国那珂川硫黄を流すこと5、6年。(神明鏡)
   10月16日京で地震。29日、11月1、2日にも地震。(教言卿記)
   12月13日京で地震。(教言卿記)
1409(応永16)年6月26日地震あり。(教言卿記)
1410(応永17)年1月21日那須山噴火し、180余人埋没。牛馬の死多数。
   天鳴ること雷声の如し。(神明鏡/野史/和漢合運指掌図/日本火山総覧)
   12月14日天地動く。(野史/和漢合運指掌図)
1411(応永18)年5月6日夜、大地震。(野史)
   7月24日地震あり。(続史愚抄32)
   10月9日地震あり。(続史愚抄32)
1412(応永19)年2月29日地震。占文に云う、疫病飢饉の兆し。(教言卿記/続史愚抄)
1416(応永23)年8月2日伊豆大島噴火響雷の如し。(野史/南方紀伝4/神明鏡)
   9月9日伊豆大島再度噴火。(野史)
1419(応永26)年8月24日京で地震。(看聞日記)
   10月関東で大地震。(喜連川判鑑/野史)
1420(応永27)年6月27日京で地震。(看聞日記)
1421(応永28)年4月4日伊豆大島噴火。海水熱湯の如く、魚多く死す。
   (鎌倉大日記/伊豆海島誌)
   10月13日京で地震。(看聞日記)
   12月3日京で地震。(看聞日記)
   12月13日去夜、星地に落ちる。陰陽道国主御慎あり、勘進するという。
   また夜光物あり、北より南へ飛ぶ。(看聞日記)
1424(応永31)年4月25日地震あり。(看聞日記)
   10月1日地震あり。幕府、諸社をして祈らしむ。(看聞日記)
   12月5日地震あり。(看聞日記)
1425(応永32)年閏6月17日地震あり。(薩戒記/看聞日記/兼昌公記/南方紀伝4)
   8月4日地震あり。(薩戒記/看聞日記/兼昌公記/南方紀伝4)
   9月地震あり。(薩戒記/看聞日記/兼昌公記/南方紀伝4)
   10月24日地震あり。(薩戒記/看聞日記/兼昌公記/南方紀伝4)
   11月5日地震。10日にも地震。(薩戒記/看聞日記/兼昌公記/南方紀伝4)
   12月11日地震あり。(薩戒記/看聞日記/兼昌公記/南方紀伝4)
1426(応永33)年2月22日地震あり。(薩戒記)
   5月4日地震あり。(薩戒記)
   6月18日地震あり。(薩戒記)
   6月祈祷を行う。(兼昌公記)
   9月22日地震あり。(薩戒記)
   10月9日地震。19日にも地震。(薩戒記)
   11月11日地震あり。(薩戒記)
   12月20日地震あり。(薩戒記)
1427(応永34)年6月2日大洪水。(南方紀伝下)
   8月27日洪水。(塔寺長帳)
   9月3日大洪水。(南方紀伝下)
   9月4日洪水。人民多く死す。(塔寺長帳)
1428(正長1)年5月2日洪水。(南方紀伝下)
   6月1日洪水。(南方紀伝下)
1430(永享2)年2月20日地震あり。(薩戒記)
   9月2日大洪水。(南方紀伝下)
1431(永享3)年1月18日酉刻、地震あり。(公名公記)
1432(永享4)年9月16日鎌倉山振動し崩壊する。(野史/和漢合運指掌図)
1433(永享5)年1月24日地震あり。
   3月17日地震あり。
   5月21日地震あり。
   (南方紀伝5/看聞日記/薩戒記/公名公記/神明鏡/如是院/鎌倉大日記/本朝記伝)
   8月25日彗星出現。室町殿驚くという。9月1日西方戌間に尾あり。色白。
   3日占文賀茂在方より注進。(看聞日記)
   9月16日大地震。30余回揺れ、以後20日間余震が続く。
   (南方紀伝5/看聞日記/薩戒記/公名公記/神明鏡/如是院/鎌倉大日記/本朝記伝)
   10月27日地震あり。
   (南方紀伝5/看聞日記/薩戒記/公名公記/神明鏡/如是院/鎌倉大日記/本朝記伝)
1434(永享6)年1月16日地震あり。(薩戒記/神明鏡/看聞日記/満済准后日記)
   3月7日地震あり。(薩戒記/神明鏡/看聞日記/満済准后日記)
   3月22日阿蘇山中池より黒煙。泥溢れ流れる。4月1日にも泥溢れる。
   5月29日地震あり。(薩戒記/神明鏡/看聞日記/満済准后日記)
   12月1日地震。13、14日にも地震。(薩戒記/神明鏡/看聞日記/満済准后日記)
1435(永享7)年1月27日地震あり。(満済准后日記/看聞日記)
   7月6日地震。13日にも地震。余震三ヶ年続く。(満済准后日記/看聞日記)
1436(永享8)年7月9日地震あり。三日で16回揺れる。(会津四家合考/会津長帳)
   12月9日地震あり。(看聞日記)
1437(永享9)年3月20日地震あり。(看聞日記/東大寺別当次第)
   6月4日東大寺八幡宮振動する。(看聞日記/東大寺別当次第)
1438(永享10)年2月9日地震あり。(看聞日記)
   3月15日地震あり。(看聞日記)
   12月5日阿蘇山噴火する。(肥後国史)
   12月18日地震、28日にも地震。(看聞日記)
1440(永享12)年9月18日大地震。(野史/南方紀伝5)
1442(嘉吉2)年1月21日地震あり、幕府祈祷をさせる。(管見記)
   2月14日地震あり。(南方紀伝5)
   10月20日地震あり。(南方紀伝5)
   12月伊豆大島噴火する。(新撰和漢合図)
1443(嘉吉3)年6月20日大地震。禁裏御修法を行う。(康富記5/看聞日記/管見記)
   11月8日地震あり。(康富記5/看聞日記/管見記)
1444(文安1)年3月4日洛中に大豆小豆の如き物が降る。大豆の如き物は、大豆にあら
   ず、木ノ実なり。昔、飯降る事ありという。又火化鳥出現の時にも五穀降るという。
   近江には飯降山なる地名あり。これら豊年嘉瑞の表れという。(康富記/本草綱
   目啓蒙23)4月地震頻発する。祈祷を行う。(康富記6/建内記/東寺執行日記/年
   代記残編)11月22日大地震。(康富記6/建内記/東寺執行日記/年代記残編)
1446(文安3)年2月29日地震あり。(師郷記)
1447(文安4)年6月24日地震あり。(南方紀伝5)
1448(文安5)年4月〜6月地震頻発。(如是院年代記/和漢合運指掌図)
1449(宝徳1)年4月10日山城で大地震。以後15日に亘り連日余震。嵯峨釈迦堂、五大尊
   倒壊。築地倒壊多数。山崩涌水あり。淀大橋と桂橋も崩れる。将軍、使者を各地に
   派遣する。神苑築地東寺など破損。長門入道、誉田入道を検視として派遣。(如是
   院年代記/立川寺年代記/南方紀伝5/東寺執行日記/続史愚抄37)
   4月27日大神宮に奉弊し祈祷する。(氏経記)
   6月28日未刻豊受大神宮正殿鳴動、西宝殿の千木鰹木覆板落下。(康富記13)
   8月12日地震。19日にも地震。(康富記13/文正年代記/立川寺年代記)
   9月11日地震。18日にも地震。(康富記13/文正年代記/立川寺年代記)
   11月15日地震あり。(康富記13/文正年代記/立川寺年代記)
1450(宝徳2)年4月12日数日大地震が続く。(南方紀伝5)
   7月5日地震、27、28日にも地震。(康富記16/野史)
   浅間山噴火。(新撰和漢合図)
1451(宝徳3)年7月3日京で地震。(康富記17)
   9月3日京で地震。(康富記17)
1452(享徳1)年8月13日大地震。(東寺執行日記)
1454(享徳3)年11月23日地震あり。(南方紀伝5/新撰和漢図/鎌倉大日記)
   12月10日地震あり。(南方紀伝5/新撰和漢図/鎌倉大日記)
1455(康正1)年12月晦日夜、地震あり。(南方紀伝5/和漢合運指掌図)
1456(康正2)年11月26日翌日にかけて京で地震。(師卿記)
1458(長禄2)年閏1月3日京で地震。(長禄二年記/在盛卿記)
   2月15日京で地震。(長禄二年記/在盛卿記)
   7月24日京で地震。(長禄二年記/在盛卿記)
1459(長禄3)年1月13日京で地震。(碧山日録)
1460(寛正1)年2月9日翌日にかけて畿内で地震。(碧山日録/大乗院寺社雑事記)
   7月18日京で地震。相国寺西明楼崩れる。長禄記には8月とする。
   (長禄四年記/臥雲日件録)
   閏9月23日26日にかけて京で地震。(長禄四年記/野史)
   10月6日京で地震。(長禄四年記/野史)
1465(寛正6)年3月27日大和で地震。(大乗院日記目録)
   6月2日大和で地震。(大乗院日記目録)
1466(文正1)年閏2月12日京で地震。(後知足院関白記)
   4月6日京で地震。26日にも地震。(大乗院寺社雑事記/後法興院政家記)
   9月22日京で地震。(後法興院政家記)
   12月29日春日山鳴動する。京でも震動する。
   (後法興院政家記/和漢合運指掌図/新撰和漢/宗賢卿記/執筆抄)
1468(応仁2)年 桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
1471(文明3)年1月7日同日と翌日、京や各地で祈祷が行われる。(親長卿記)
   5月14日京や各地で祈祷が行われる。(親長卿記)
   9月12日桜島噴火し、人多く死ぬ。以降5年間度々噴火。
1473(文明5)年4月11日桜島噴火。(震災予防調査会報告86/肥後国史)
1474(文明6)年閏5月3日朝卯刻、殊の外の地震が起こる。(言国卿記)
1475(文明7)年2月8日夜、大地震。(如是院年代記)
   8月6日摂津難波浦、尼崎に大潮。死者4000人余。(鎌倉大日記)
   8月6日京都で大風が起こり、両陣(応仁の乱か?)破損す。同日、和泉堺に高潮が
   押し寄せる。家屋数千、船数百が流されて跡形もなくなり、数百人が死ぬ。ここ数百
   年先例のない事という。天王寺は在家1、2を残し尽く引き潮に流される。しかし大和
   では何も起こらず、希有の事という。(大乗院寺社雑事記/大乗院日記目録3)
1476(文明8)年6月16日京で地震。大神宮に祈らせる。(親長記)
   9月12日桜島噴火。人家埋没し、人畜死亡多数。降灰数日続く。(島津国史)
1477(文明9)年7月北国に紅雪が降る。(本朝年代記6)
   11月6日暁、天地大震。(長興宿彌記)
1484(文明16)年12月10日翌年にかけて阿蘇山噴火。北池中に砂石出来る。
   大宮司惟忠薨す。僧ら大半山を去る。(肥後国史)
1487(長享1)年8月6日地震あり。(親長卿記)
   11月13日夜八丈島噴火。島内飢饉となる。(八丈年代記)
1489(延徳1)年1月10日地震あり。23日、24日にも地震。(宣胤卿記)
   4月20日会津で地震。(会津長帳)
   7月22日山城、大和、大坂で大地震。(親長卿記/お湯殿上日記)
   8月7日京で地震。(宣胤卿記/お湯殿上日記)
   10月地震あり。(親長卿記)
   12月地震あり。(親長卿記)
1491(延徳3)年2月2日京と奈良で地震。(後法興院政家記)
1492(明応1)年5月26日夜明け頃大地震。(蔭涼軒日録)
   6月16日陸奥で地震。(会津長帳)
1493(明応2)年5月26日会津で地震。(会津長帳)
   10月30日畿内で地震。(親長卿記)
1494(明応3)年1月7日陸奥で地震。(会津長帳)
   5月7日大和で大地震。東大寺、興福寺、薬師寺、法華寺、西大寺、矢田庄在所
   など破損損亡。倒壊多数。祈祷を行うが、翌年2月まで余震続く。
   (後法興院政家記/大乗院寺社雑事記/大乗院日記目録/和漢合運指掌図)
1495(明応4)年1月6日地震。13日にも地震。(お湯殿上日記/後法興院政家記)
   5月29日地震あり。(お湯殿上日記/後法興院政家記)
   8月15日鎌倉で大地震。津波由比ヶ浜に押し寄せ、鎌倉大仏殿も破壊される。
   溺死者200余人。(野史/和漢合運指掌図)
1496(明応5)年閏2月10日京師で地震。(後法興院政家記)
   8月17日大雨。八幡、山崎などで洪水。(晴富宿禰記)
1497(明応6)年5月13日地震あり。(高台寺日記/後法興院政家記)
   10月18日地震あり。(高台寺日記/後法興院政家記)
1498(明応7)年1月大和で大地震あり。(大乗院寺社雑事記)
   2月25日地震あり。(お湯殿上日記)
   6月11日遠江で大地震。山崩れ、地割れあり。浜名湖が海とつながる。
   今切渡と呼ばれる。(後法興院政家記/太平記/高台寺日記/お湯殿上日記)
   7月25日夜、京で地震。(後法興院政家記)
   8月25日大地震。日本国中の堂塔諸家倒壊多数という。大津波で伊豆浦全滅、
   また伊勢大湊壊滅し、他三河、紀伊などで津波により多く死者を出す。
   閏10月まで余震続く。死者3万人以上という。(妙法寺記/親長卿記/言国卿記)
1499(明応8)年1月4日夜、怪光あり地震が起こる。翌日も地震。(お湯殿上日記)
   2月26日地震あり。(後法興院政家記/実隆公記)
   4月8日京で地震。15日にも地震あり。(後法興院政家記/実隆公記)
   5月5日甲斐で地震。(妙法寺記)
   6月4日大和、奈良で地震。(大乗院寺社雑事記)
   7月10日大和で地震。16日にも地震あり。(大乗院寺社雑事記)
   9月22日京で地震。(後法興院政家記)
   12月2日地震あり。(後法興院政家記)

1500

 

1500(明応9)年2月26日地震あり。(妙法寺記)
   4月23日地震あり。(妙法寺記)
   6月4日大地震。25日にも地震あり。(妙法寺記)
   9月1日地震あり。(後法興院政家記)
1501(文亀1)年11月6日京師で地震。(後法興院政家記)
   12月10日大地震。(会津長帳)
1503(文亀3)年8月27日京師で地震。(実隆公記)
1504(永正1)年7月6日越前で地震。(後法興院政家記)
   8月6日地震あり。
1505(永正2)年8月25日京師で地震。(実隆公記)
   阿蘇山噴火。(肥後国史)
1506(永正3)年10月17日地震あり。(実隆公記)
   11月21日地震。29日にも地震あり。(宣胤卿記)
   阿蘇山噴火。
1507(永正4)年2月8日地震あり。(宣胤卿記/実隆公記)
   4月7日京師で地震。(尚通公記)
1508(永正5)年春、地震頻発。(本朝通鑑178)
   8月7日地震あり。(尚通公記)
1509(永正6)年3月7日地震あり。(実隆公記)
   4月9日地震あり。(実隆公記)
1510(永正7)年8月8日摂津・河内で大地震。余震75日続く。所々で山崩れあり。
   8月27日遠江で大津波。数千の家屋、陸地30町余が呑み込まれ海となる。
   死者一万余人。今切という。(実隆公記/尚通公記/拾芥記/応仁記/信越地震記)
   12月30日地震。(実隆公記/応仁記)
1511(永正8)年1月1日京師で地震。(実隆公記)
   2月21日京師で地震。(実隆公記)
   4月17日京師で地震。(実隆公記)
   7月4日京師で地震。(実隆公記)
   8月7日京師で地震。(実隆公記)
   8月陸奥・会津で蝗害。作物不実。(会津長帳)
   11月2日京師で地震。(実隆公記)
   富士山鎌岩噴火。(妙法寺記)
1512(永正9)年2月8日地震あり。(本朝通鑑178)
   6月9日地震あり。18日に大地震。宮中で豊受大神宮に祈願。被害は少なし。
   (拾芥記/実隆公記/請符集/本朝通鑑178)
1513(永正10)年4月11日梅子の大きさの雹が降る。(本朝年代記6)
   12月8日地震あり。(本朝通鑑179)
1514(永正11)年4月24日地震あり。(補任)
   8月25日地震あり。(補任)
1516(永正13)年7月12日翌日にかけて甲斐で地震。(妙法寺記)
1517(永正14)年5月19日地震あり。(本朝通鑑180)
1518(永正15)年8月25日大雪により、諸国に蝿無し。また禾穀不実、薬草枯れる。
   (妙法寺記) 八丈島噴火。以後5年続く。(八丈島年表/八丈島年代記)
1519(永正16)年3月18日京師で大地震あり。被害は少なし。土御門有春、卜し兵乱か疫
   病の兆しと上奏。(尚通公記)
1520(永正17)年3月7日京で地震。(尚通公記/二水記/会津長帳)
   6月10日陸奥で地震。(尚通公記/二水記/会津長帳)
   6月15日大雨、洪水。(永正17年記)
   10月11日京で地震。(尚通公記/二水記/会津長帳)
1521(大永1)年9月11日大地震。(興福寺略年代記)
1522(大永2)年8月17日大雨、高潮。雲津川洪水。(宗長手記)
   八丈島噴火。噴煙人里に及ぶ。(八丈島年代記)
   阿蘇山噴火。(肥後国史)
1524(大永4)年9月26日地震あり。(実隆公記)
   霧島山噴火。(地学雑誌)
1525(大永5)年5月2日地震あり。(実隆公記)
1526(大永6)年10月12日京師で地震。(実隆公記)
1527(大永8)年2月13日地震あり。(野史)
   4月浅間山噴火。(浅間山)
1529(享禄2)年11月8日摂津で地震。(高台寺日記)
1531(享禄4)年閏5月25日地震あり。(二水記/実隆公記)
1532(天文1)年1月20日讃岐で地震。(讃岐国大日記)
   5月29日地震。清水・大津・相坂・関屋で水が溢れ、田園多くが亡ぶ。
   (野史/厳助往年記)
1533(天文2)年1月16日京師で地震。(言継卿記)
   2月29日京師で地震。(言継卿記)
   9月27日京師で地震。(言継卿記)
   阿蘇山噴火。(肥後国史)
1535(天文4)年2月14日美濃で大洪水。枝広・井口間で死者2万余。
   家屋数万が失われる。(厳助往年記)
1537(天文6)年5月11日鎌倉で地震。(快元僧都記)
   12月6日地震あり。(地震東栄鑑)
1539(天文8)年9月6日日向で大雪。五穀が熟さず、餓死するもの多し。(日向記)
1542(天文11)年2月28日地震あり。(惟房記)
   3月6日地震あり。(大館常興日記)
   閏3月5日阿蘇山鳴動し火石を飛ばす。(八代日記)
1544(天文13)年4月22日薩摩で地震。(薩藩旧記雑録)
   7月9日大洪水で京市中の人馬の多くが流される。町々の釘抜門戸のことごとくが流
   失。四条・五条の橋と、祇園大鳥居も流失。御所西方の築地も失われる。東寺南大
   門から四塚にかけて船が多数流れるという。日吉大宮橋も流失し、比叡山諸坊数
   宇も失われ、数十人が死亡する。淀・鳥羽でも洪水で死者多数という。(厳助往年記)
1545(天文14)年3月薩摩で地震。(薩藩旧記雑録)
1547(天文16)年2月3日加賀白山噴火。(続史愚抄48/震災予防調査会報告86)
1548(天文17)年加賀白山噴火。(震災予防調査会報告86)
1549(天文18)年4月14日甲斐で地震が数回起こる。(妙法寺記)
1550(天文19)年6月22日大地震。(言継卿記)
1553(天文22)年8月24日鎌倉で風雨地震。(本朝通鑑189)
1554(天文23)年5月加賀白山噴火。(野史/国花万葉記)
   翌年にかけて霧島噴火。(三国名勝図会)
1555(弘治1)年8月19日会津で地震。(会津長帳)
1556(弘治2)年2月13日地震あり。(補任/言継卿記)
1557(弘治3)年6月この月、地震数回。(東寺執行日記)
   6月20日地震あり。(お湯殿上日記)
   7月20日大地震。(野史)
   8月26日朝、東風が起こり、夕方南風となる。大雨となって各国で洪水が発生する。
   尼崎、別所、鳴尾、今津、西宮、兵庫、前波、須磨、明石に高潮が押し寄せる。死者
   多数。文明7年8月の洪水に並ぶ被害という。(続応仁後記)
1558(永禄1)年9月29日京師で地震。(言継卿記)
   阿蘇山に新穴出来る。(八代日記)
1559(永禄2)年阿蘇山に新穴出来る。(八代日記)
1562(永禄5)年2月阿蘇山噴火。(八代日記)
   3月9日地震あり。(お湯殿上日記/野史)
   10月15日地震あり。(お湯殿上日記/野史)
1563(永禄6)年1月26日地震あり。(会津長帳/お湯殿上日記)
   4月1日阿蘇山噴火。(八代日記)
   8月25日地震あり。(会津長帳/お湯殿上日記)
   12月2日地震あり。(会津長帳/お湯殿上日記)
1564(永禄7)年3月7日地震あり。(言継卿記)
   4月3日地震あり。(言継卿記)
   阿蘇山噴火。(八代日記)
1565(永禄8)年7月19日地震あり。(お湯殿上日記)
1566(永禄9)年9月9日霧島山噴火。人多く死す。(三国名勝図会)
   10月17日地震あり。(お湯殿上日記)
1567(永禄10)年7月24日地震あり。(野史/お湯殿上日記)
1568(永禄11)年5月8日地震、28日にも地震あり。(言継卿記/お湯殿上日記)
   9月7日地震あり。(言継卿記/お湯殿上日記)
   10月15日地震、28日にも地震あり。(言継卿記/お湯殿上日記)
1570(元亀1)年2月11日地震あり。(言継卿記/お湯殿上日記)
   3月7日地震あり。(言継卿記/お湯殿上日記)
   5月9日地震あり。(言継卿記/お湯殿上日記)
1572(元亀3)年閏1月20日大地震。死者多数。(多聞院日記)
   5月13日地震あり。(多聞院日記/要記)
   6月1日地震あり。(多聞院日記/要記)
   11月18日地震あり。(多聞院日記/要記)
1574(天正2)年1月霧島山噴火。天地震動す。(震災予防調査会報告86)
1576(天正4)年1月12日伊豆初島が震動する。(年代記配合抄)
1578(天正6)年5月13日11日よりの大雨で洪水。鴨川・白川・桂川が氾濫し、京市中に水
   があふれる。溺死者多数。四条橋も流失。先に織田信長公、出陣の触れを出す。そ
   の期日相違なく船でも御動座あるべしとて、淀、鳥目、宇治、真木島、山崎の住人
   ら、船数百艘を五条油小路まで持ってきて言上する。信長公、これを祝す。
   (信長公記)
1579(天正7)年1月20日地震あり。四天王寺鳥居崩壊。三日揺り返し。(天文日記)
   8月28日加賀白山地獄谷噴火。神社焼失。翌年織田氏三社を再建する。
   (越前国誌)
1582(天正10)年1月14日浅間山噴火。(晴豊記/多聞院日記/蓮成院日記)
   9月12日震災あり。興福寺に祈祷させる。(蓮成院記録)
   阿蘇山噴火。(八代日記)
1583(天正11)年6月26日三河で地震。(家忠日記)
   阿蘇山噴火。(八代日記)
1584(天正12)年7月阿蘇山噴火。砂石硬黄降る。南郷色見邑荒蕪す。(八代日記)
   11月29日大地震。翌年まで余震が続く。(享保以来年代記/讃岐国大日記/豊鑑)
1585(天正13)年7月5日地震あり。(お湯殿上日記)
   10月29日地震あり。(和漢合運指掌図)
   11月26日加賀で地震あり。(北藩年標掌覧)
   11月29日京、越中、飛騨、美濃、尾張で大地震。東寺金堂など一部崩壊。三十三
   間堂を始め多くの仏像が倒れる。壬生堂も倒壊。潅頂院も大懐し築地門傾く。飛騨
   白川谷沿い山崩れで帰雲山城が埋没。内ヶ島氏理以下300人が圧死。白川が堰止
   められ300余戸が水没。越中木船城が倒壊し前田秀継以下多数圧死。大垣城、長
   浜城も破損。大津波で死者多数。(梵舜記/補任/続史愚抄50)
   霧島山噴火。(震災予防調査会報告86)
1586(天正14)年昨年11月からこの年2月まで地震相次ぐ。(東寺執行日記/続史愚抄50)
   4月9日地震あり。(お湯殿上日記)
   6月23日翌日にかけて地震あり。(お湯殿上日記)
1587(天正15)年4月17日霧島山噴火。黒煙と白煙が1日3回上がる。(鹿児島県噴火書類)
   阿蘇山噴火。(八代日記)
1588(天正16)年3月12日霧島大噴火、申酉の間大地震がある。(鹿児島噴火書類)
1589(天正17)年2月5日遠江・駿河で地震。屋舎倒壊多数。
   (家忠日記/本朝通鑑217/武徳大成記)
1590(天正18)年1月10日地震あり。(多聞院日記)
   春、浅間山噴火。(年代記)
   10月2日江戸で地震。16日にも地震。(家忠日記)
   11月22日江戸で地震。(家忠日記)
1591(天正19)年10月14日浅間山噴火。(家忠日記)
1592(文禄1)年阿蘇山噴火。(八代日記)
1593(文禄2)年1月24日京師で地震。(時慶記)
   4月14日京師で地震。(時慶記)
1594(文禄3)年9月25日地震あり。(お湯殿上日記)
1595(文禄4)1月4日地震あり。(続史愚抄51)
1596(慶長1)年4月4日浅間山噴火。大石降落により死者多数、近隣諸国でも死者。
   6月27日土器の粉の如き物降り草木の葉に積もる。四方曇となる。(義演准后日記)
   閏7月9日豊後、薩摩で大地震。畿内にも及ぶ。(薩藩旧記雑録)
   閏7月12日子刻再度大地震あり。伏見城が崩壊し約600人が圧死、加藤清正足軽
   200人を率い秀吉を護衛。地割湧水あり、京の大仏も壊れる。宮中南庭に莫座が敷
   かれ天皇御座を遷す。堺などでも被害。(細川家記/義演准后日記/言経卿記/本朝
   通鑑223/考亮記/親綱記/青蓮院文書/文禄大地震記)
   閏7月14日毛が降る。馬尾に似て、1、2尺或いは5、6寸。色は白、黒、赤。醍醐でも
   降る。(義演准后日記/本草綱目啓蒙)
1597(慶長2)年3月岩木山が崩れ、土石が降ること昼夜を弁えず。(津軽藩史)
1598(慶長3)年12月翌年にかけて霧島山噴火。黒煙昇り、砂礫降る。(三国名勝図会)  

1600

 

1600(慶長5)年6月13日津軽地方で地震あり、小石、灰など降り昼なお暗くなる。15日に
   なり岩木山噴火が目撃される。人馬の被害無し。(震災予防調査会報告86)
1601(慶長6)年6月14日地震あり。(義演准后日記)
   12月16日上総・安房で大地震、山崩れあり。海が干上がった後、明日大津波あり。
   人畜死亡多数。(房総治乱記/武江年表)
1602(慶長7)年3月19日京で地震。(言継卿記/時慶記)
   5月2日京で地震。(言継卿記/時慶記)
1603(慶長8)年2月19日酉刻日蝕。赤色。亥刻月蝕。両蝕同日にあり。(当代記)
   12月21日翌日にかけて地震あり。(お湯殿上日記)
1604(慶長9)年1月8日岩木山西方の鳥海が破裂し、湖水が流出。
   (地震調査会/日本火山総覧)
   11月紀州、四国、西国で地震と津波。上総で大津波があり、人馬多数死す。
   (当代記3)
   12月6日紀州、四国、西国で地震と津波。遠州舞坂で津波により80戸流出。八丈島
   では民家悉く流出。50余人が死亡。上総では人馬数百が死す。
   (東照宮9/地震資料2-1/日本災異誌)
   12月16日東海、南海、西海道諸国に地震と津波。死者多数。(地震資料2-1)
1605(慶長10)年1月関東で大地震。死者多数。伊勢、筑紫でも大地震。(孝亮記1)
   9月15日八丈島が噴火。三ツ根田畑損失多し。(震災調査会)
   11月15日八丈島噴火。(談海)
   11月下旬、浅間山が噴火する。(御日記44)
   12月18日八丈島噴火。一夜にして大山が出現する。
   (慶長日記1/御日記44)(台徳院御実記2/柳営年表)
1606(慶長11)年6月1日江戸で地震が3回ある。(慶長日記2)
1607(慶長12)年1月6日江戸で大地震。(当代記2)
   1月20日江戸で大地震。(台徳院御実記5)
   2月6日江戸で大地震。(当代記2)
   3月28日地震あり。(日本災異誌)
   4月6日浦和に大雹降り、鳥多数死亡。(慶長日記3)
   6月13日駿府で地震。(当代記4/台徳院御実記5)
1609(慶長14)年3月1日浅間山噴火。(当代記5/台徳院御実記9)
1610(慶長15)年4月9日三河国日近という所に石が降る。大きさ4、5寸。数は5つ。天震動
   し、雷の如し。(当代記)
1611(慶長16)年2月22日江戸で地震。(台徳院御実記15)
   8月13日会津で大地震。若松城が倒壊する。4万石が地陥りし、湖水が湧出して
   2700余人が死す。(続史愚抄53/台徳院御実記16)
   8月21日会津で地震。(当代記6) 激しい揺れで城の石垣と塀が崩壊。殿守は破壊し
   て傾く。死者三千数百人。越後街道消失。
   10月28日仙台で大地震。三陸地方に大津波が襲い、1783人が死亡する。(台徳院 
   御実記17) 三陸沖でM8クラス。地震動に比べ津波の規模が大きい津波地震。伊
   達藩死者1783名牛馬85頭。南部津軽藩死者3000余。
1612(慶長17)年2月20日江戸で地震。(台徳院御実記18)
   9月2日大風雨で各地で洪水。美作津山で吉井川が氾濫、500余人が死亡。また伊
   賀上野城天守の工事をしていた180人が死亡する。
   11月13日江戸で地震。(台徳院御実記20)
   阿蘇山噴火。(日本災異誌)
1613(慶長18)年6月佐賀領で虫損。実盛虫田に入りて喰い枯らす。(鍋島勝茂譜)
   8月3日暴風雨で長崎からの貿易船15隻が沈没。生糸相場が暴騰。
   阿蘇山寶池から砂石が噴き出し、郡中に降る。(震災予防調査会報告86)
1614(慶長19)年9月2日江戸で地震。(慶長日記10?)
   10月15日諸国で大地震。(大地震暦年考/御日記54/孝亮記2/和漢合運指掌図4)
1615(元和1)年1月16日京で地震。(孝亮記2)
   1月17日京で地震。(続史愚抄53)
   1月30日京で地震。(続史愚抄53)
   2月24日京で地震。(続史愚抄53)
   3月4日京で地震。(孝亮記2)
   3月25日京で地震。(孝亮記2)
   6月1日江戸で大地震。家屋多く倒壊。(玉露叢5/続史愚抄53)
   7月14日京で地震。(孝亮記2)
   7月27日台風による被害のため、佐渡の年貢を3年間半減する。
   11月25日大地震。(日本災異誌)翌年にかけて諸国大飢饉。(津軽信枚公御代日記/
   続史愚抄53)(歴史地理4-3/凶荒史考/青森県史1)
1616(元和2)年1月18日江戸で地震。(孝亮記2)
   7月28日仙台で大地震。城壁楼櫓悉く倒壊。(台徳院御実記43)
   9月16日江戸で地震。(孝亮記2)
   10月10日京で地震。(続史愚抄53)
1618(元和4)年4月27日京で地震。(孝亮記3)
   8月11日京で地震。(続史愚抄53)
   8月12日京で地震。(孝亮記3)
1619(元和5)年5月8日京で地震。(孝亮記3)
1620(元和6)年1月3日京で地震。(孝亮記4)
   3月7日浦和で大雹降り、鳥多く死す。(台徳院52)
   4月5日京で地震。(孝亮記4)
   5月21日大雨で賀茂川・大和川などが氾濫。(孝亮記4)
   7月12日京で地震2回。(孝亮記4)
   7月14日京で地震。(孝亮記4)
   9月21日京で地震。(孝亮記4)
   霧島山噴火。(日向郷土史年表)
1621(元和7)年1月27日京で地震。(孝亮記4)
1622(元和8)年冷気秋の如し。(台徳院御実記54)
   10月16日京で地震2回。(資勝卿記)
   11月18日京で地震。(孝亮記5)
1624(寛永1)年9月29日京で地震。(孝亮記6/元和日記)
   蔵王昼夜鳴動し、火炎輝く。(震災予防調査会報告86)
1625(寛永2)年9月2日翌日にかけて地震あり。(日本災異誌)
   9月23日京で地震。(孝亮記6)白根山が噴火する。(震災予防調査会報告86)
1626(寛永3)年夏から秋にかけて旱魃。(続皇年代略記/武江年表1/萬年記)
   (御日記61/十三朝記聞1/年代著聞集2/談海4/玉露叢6/石川県史2)
   9月15日江戸で地震。(時雨迺袖)
1627(寛永4)年1月21日諸国で大地震。
   (続日本王代一覧/年代著聞集2/和漢合運指掌図4/時雨迺袖/続史愚抄54)
   1月21日江戸で大地震。(萬年記)
   2月23日京で地震。(続史愚抄54)
   6月1日京で地震。(孝亮記7)
   8月6日京で洪水。(年代著聞集2/和漢合運指掌図4)
   11月23日富士山が噴火し、江戸にも灰が降る。(折焚芝之記1/時雨迺袖)
   豊前飢饉により細川忠利、茶器を売却して窮民救済にあてる。(細川家譜)
1628(寛永5)年1月17日京で地震。(孝亮記8)
   1月前年の富士噴火で焼失した須走村等に合計で金8075両を下賜。
   (徳川理財会要)
   5月16日京で地震。(孝亮記8)
   5月18日江戸で地震。城塁多く崩れる。(大猷院殿御実記11・12)
   7月11日江戸で大地震。江戸城の石垣破損。
   9月29日霧島山噴火する。社寺宝物烏有に帰す。(日向郷土史年表)
   京で地震。(和漢合運指掌図4)
1629(寛永6)年5月16日長雨で鴨川・高野川が氾濫し、三条大橋が壊れる。(孝亮記8)
   6月18日京で地震。(続史愚抄54)
   10月21日京で地震。(孝亮記8)
   10月22日京で地震。(続史愚抄54)
1630(寛永7)年5月14日越前で暴風雨により洪水が起こり、二百数十人が死亡。
   (孝亮記9)
   6月19日京で洪水。淀門まで水が溢れる。(孝亮記9)
   6月23日江戸で大地震が起こり、江戸城西の丸門口石垣が崩れる。(武江年表1)
   12月23日江戸で大地震。(武江年表1/時雨迺袖)
1631(寛永8)年2月23日江戸で地震。(寛明日記5)
   3月13日浅間山が噴火し、江戸にも灰が降り草木が変化する。
   3月21日江戸で地震。(人見私記/大猷院殿御実記17)
   4月8日江戸で地震。(寛明日記6)
   9月27日江戸で地震2回。(大猷院殿御実記18)
   11月阿蘇山が噴火する。寺川湯の如し(震災予防調査会報告86)
   去年より癬瘡流行、肥前瘡と呼ばれる。鹿島で神輿を出して病を祈ったため、世
   俗では鹿島踊りと呼ばれる。(武江年表1/続史愚抄55/年代著聞集2)
1632(寛永9)年1月20日江戸で地震。(寛明日記8〜13)
   3月13日地震あり。(日本災異誌)
   6月7日江戸で地震。(寛明日記8〜13)
   8月29日江戸で地震。(寛明日記8〜13)
   9月2日江戸で地震。(寛明日記8〜13)
   10月2日江戸で地震。(人見私記/寛明日記??)
   10月6日江戸で地震。(人見私記/寛明日記??)
   10月9日江戸で地震。(寛明日記8〜13)
   10月27日江戸で地震。(寛明日記8〜13)
   12月晦日江戸で地震。(寛明日記8〜13)
1633(寛永10)年1月21日関東で大地震。小田原城内破損。民家多数倒壊し死者150人と
   も237人とも言う。箱根で崖崩れ。三島で地裂。熱海で津波。(御日記75/寛明日記
   15/続日本王代一覧2/続史愚抄55/時雨迺袖)(武江年表1/柳営年表/萬年記1/和
   漢合運指掌図4/玉露叢8/年代著聞集2)
   2月7日小田原で大地震。家屋倒壊多数、死者150人余。(孝亮記10)
   8月10日摂津・近江で暴風雨のために水害。琵琶湖の水位が上がる。
   (続史愚抄55/滋賀県史3)
   9月阿賀野川が決壊し、信濃川と合流する。
1634(寛永11)年4月9日京で地震。(孝亮記10)
   5月15日京で地震。(孝亮記10)
1635(寛永12)年1月21日蝦夷で大地震。(日本災異誌)
   1月23日江戸で大地震。(続史愚抄55/萬年記1)
   1月25日江戸で大地震2回。(武江年表1/時雨迺袖)
   5月20日京で洪水。三条大橋流出。(続史愚抄55)
   6月13日伊豆・遠江で暴風雨。死者5000人、船800隻が破損。(武江年表1)
   6月18日江戸で地震。(大猷院殿御実記28)
1636(寛永13)年1月15日江戸で地震3回。翌日にも地震2回。(大猷院殿御実記30)
   1月20日暴風雨で江戸城の石垣が壊れる。
   3月15日江戸で地震。(大猷院殿御実記33)
   9月晦日江戸で地震。(大猷院殿御実記33)
   10月1日江戸で地震。(大猷院殿御実記33)
1637(寛永14)年8月11日阿蘇山が噴火。砂石硫黄が降る。(震災予防調査会報告86)
   8月25日諸国が大風雨に見舞われ幕府は巡検司派遣を決定する。
1638(寛永15)年1月1日江戸などで100年に一度という暴風があり民家多数が倒壊。
   (寛明日記19/御日記80/続日本王代一覧2)
   1月24日江戸で暴風雨。(御日記80/寛明日記19)
1639(寛永16)年5月20日洪水により斐伊川が東流し宍道湖に流れ込む。
   11月越前で大地震があり、福井城が倒壊。(野史纂略3)
   琉球で旱魃。(琉球藩史)
1640(寛永17)年6月17日蝦夷内浦岳(間山岳?)が噴火、大津波により船100余艘が被
   害、内陸10里に至り700人が溺死。牛馬魚貝鳥傷亡無数。灰が一丈を埋め、また
   飛翔して松前、陸奥の空昼夜暗きこと2日。焦土海に入り島を生ず。
   (北海道志/弘賢覚書/歴史地理4-3)
   7月31日蝦夷駒ヶ岳爆発。山頂が崩壊し噴火湾に流れ込み、津波を発生する。沿岸
   の住民700人以上が死亡。津波は有珠善光寺御堂の後山まで達するという。
   (松前年々記/日本災異誌/新羅之記録/日本火山総覧)
   10月3日諸国で牛疫が流行し、伊賀で6511頭が死ぬ。(続日本王代一覧2/玉露叢
   13/年代著聞集3)(寛明日記21/武江年表2/続史愚抄56/日本全史)
   10月加賀で地震。
   江戸で地震頻発。
1641(寛永18)年1月5日江戸で地震。(大猷院殿御実記46〜48)
   3月15日18日にかけて江戸で地震。(大猷院殿御実記46〜48)
   8月24日江戸で地震。(大猷院殿御実記46〜48)
   12月14日江戸で地震。(大猷院殿御実記46〜48)
1642(寛永19)年2月5月にかけて大飢饉。(玉露叢13/談海7/武江年表2/和漢合運指掌
   図4)(年代著聞集3/徳川十五代史5/泰平年表/石川県史2/青森県史2)
   2月2日江戸で地震。16日にも地震。(大猷院殿御実記49)
   3月1日三宅島噴火。(日本災異誌)
   3月6日江戸で地震。(大猷院殿御実記49)
   3月7日桜島噴火。(震災予防調査会報告86)春、疫病流行する。(本朝年代記)
   5月26日幕府、飢饉対策を策定し6月28日には郷村対策を示す。
   (寛明日記22/徳川理財会要)
   6月11日京師で地震。
   7月8日幕府米買い占めの首謀者を処罰。(徳川実紀)蔵王苅田岳噴火。(山形県史)
1643(寛永20)年2月12日夜、三宅島雄山噴火。溶岩が流出し阿古村が焼失。死者無し。
   (伊豆七島志上/日本火山総覧)
   6月20日江戸で地震。23日にも地震あり。(大猷院殿御実記53)
1644(正保1)年1月13日浅間山噴火。(日本災異誌)
   2月9日日光地震。石壁が崩れる。(野史纂略3)
   3月6日京で地震。(続史愚抄57)
   7月3日京で地震。(続史愚抄57)
   7月暴風雨で伊勢神宮雨社殿が倒壊。(続史愚抄57/続皇年代略記)
   8月1日京で地震。(続史愚抄57)
1645(正保2)年1月26日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   4月26日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
1646(正保3)年4月26日陸奥地方で大地震。青葉城や日光東照宮の石垣が崩壊する。家
   屋倒壊多数。(御日記89/会津年表/続史愚抄57) 仙台城大手門の櫓下の石垣、大
   手門東脇石垣、西裏門石垣など崩壊。死者多数。
   6月21日京で地震。(続史愚抄57)
   7月27日京で地震。(続史愚抄57)
   10月5日江戸で地震。16、19日にも地震あり。(大猷院殿御実記65)
1647(正保4)年1月14日浅間山噴火。(日本災異誌)
   2月19日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   4月13日江戸で地震2回。(寛明日記29)
   5月13日江戸で大地震。倒壊家屋多数。上野大仏破損。数日にわたって余震。(大
   地震歴年考/泰平年表)(続日本王代一覧3/寛明日記29/武江年表2/時雨迺袖/御
   日記90/野史纂略3)
   8月4日翌日にかけて地震あり。(野史纂略/大猷院殿御実記67)
1648(慶安1)年2月21日京師で地震。
   3月3日翌日にかけて京師で地震。
   3月27日江戸で地震。
   4月22日京と江戸で地震。
   6月20日京と江戸で地震。
1649(慶安2)年2月5日伊予で大地震。
   5月13日八王子・川越などで大雪、雹などが降り、人馬多数死傷。(玉露叢14)
   6月20日江戸で大地震。倒壊家屋多数。
   6月阿蘇山噴火。(震災予防調査会報告86)
   8月19日河内大和川氾濫で赤井堤が決壊、28000石が損害。
   10月宇和島藩で暴風雨により城の塀が崩れ、倒壊家屋多数。
1650(慶安3)年3月23日関東地方で大地震。家屋に被害、死者多数。日光でも被害。翌
   日も地震。(武江年表2/十三朝記聞2)(泰平年表/御日記99/時雨迺袖/寛明日記
   38/野史纂略3/大猷院殿御実記77)
   6月20日江戸で大地震。城櫓倒壊。大名町家も破損。1日に4、50回も揺れる。
   (御日記100/寛明日記39)
   7月16日江戸で地震。(大猷院殿御実記78)
   7月27日淀川決壊し、大坂洪水。大坂城に被害。
   (御日記100/寛明日記39/野史纂略3)
   8月7日秩父で氷降。鳥多く打殺される。(武江年表2/御日記100)
   8月29日唐津で長雨により洪水。25000石損。城・民家などに被害。
   (御日記101/年代著聞集4)
   12月7日京で地震。(続史愚抄58)
   毛が降る。(本草綱目啓蒙23)
1651(慶安4)年2月22日浅間山噴火。(日本災異誌)
   7月12日京で地震。(続史愚抄58)
   10月4日京で地震。(続史愚抄58)
1652(承応1)年3月3日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   3月4日浅間山噴火。
   青ヶ島噴火。(伊豆七島志)
1653(承応2)年8月2日暴風雨により安芸で洪水が起こり広島城郭破損、9橋、5140軒が
   流出。(御日記113)
   8月5日三備・安芸・長門・肥後で大風雨。芸備で500余戸、長門で750余戸、肥後で
   2457戸と84160石が被害。
   (御日記113/和漢合運指掌図4/徳川実紀6/天享東鑑/野史纂略4/広島市史1)
1654(承応3)年1月26日京で地震。(続史愚抄58)
   5月28日江戸で地震。(厳有院殿御実記8)
   7月21日京で地震。(続史愚抄58)
   8月6日江戸で6回地震。(厳有院殿御実記8)
   11月7日京で地震。(続史愚抄58)
   12月9日京で地震。(続史愚抄58)
1655(明暦1)年6月9日江戸で地震。(厳有院殿御実記9)
   10月28日浅間山噴火。(日本災異誌)
1656(明暦2)年4月8日江戸・上総で大地震。(厳有院殿御実記11/寛明日記62)
   10月25日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
1657(明暦3)年10月20日浅間山大噴火。(震災予防調査会報告86)
   島原温泉岳噴火し、深江村、中木満村氾濫で家屋流出。死者30余人。(震
   災予防調査会報告86)
1658(万治1)年4月3日日光山で地震。各所で被害。(厳有院15)
   6月24日浅間山噴火。(日本災異誌)
1659(万治2)年2月晦日日光山で地震。(野史纂略4) 強い地震が田島宿を襲った。197軒
   倒壊。街道一の難所“山王峠”が大きく崩れた。塩原温泉では元湯温泉の一部が地
   滑りで埋った。その後田島宿は水路の両側に旅籠が並ぶ整然とした宿場となった。
   二ヵ月後に通行可能となる。
   6月5日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   6月6日常陸に柿実大の雹が降る。(続日本王代一覧3/和漢合運指掌図4)
   7月2日大雨による洪水で、深川・両国・浅草などで被害。
   霧島山噴火する。(日向郷土史年表) 
1660(万治3)年2月28日浅間山噴火。(日本災異誌)
1661(寛文1)年3月15日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   3月28日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   5月29日江戸で地震。(野史纂略4)
   閏8月28日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   11月28日江戸で地震。(一話一言32)
1662(寛文2)年1月18日京などで大地震。
   1月長崎で天然痘が流行。2ヶ月で2300人が死亡。
   3月京で地震が起こり、方広寺の大仏が倒壊する。
   5月1日近畿地方で大地震。亀山・篠山・尼崎・膳所の城が倒壊する。(続史愚抄59/
   玉露叢5/萬年記3/浮世の有様2/野史纂略4/泰平年表/続日本王代一覧3)(談海
   17/和漢合運4/十三朝記聞2/歴朝坤徳録/御日記134/萬天日録2/滋賀県史) 
   雨の中、午前十一時頃、地鳴りと共に地面が激しく揺れ始めた。直後、葛川谷(かつ
   らがわ・たに)の山腹土砂崩れ。約300人が生き埋め。火事が出てあたり一面消失。
   琵琶湖西岸一帯、壊滅状態。現・彦根市で城が歪み石垣600間ほど崩壊。千軒あま
   りの町屋崩壊。水害が甚大。
   夏、江戸で疫病流行。(野史纂略4)
   9月19日日向・大隅で大地震。(玉露叢15/御日記134/続日本王代一覧3/一話一言
   11)(日向郷土史年表/萬天日録2/和漢合運4) 午前零時頃激しい揺れ。佐土原藩
   では場内で30件の長屋が崩れる。地面が幅三尺(約1m)ほど割れる。田畑も少なか
   らず損なわれ山が崩れた。800軒余り崩壊。津波が襲う。海岸付近の低地、広い部
   分が海となる。延岡藩の『延陵世鑑(えんりょうよかがみ)』には、「海辺の田畑、海と
   なる事およそ七・八千石余。地震後は、三・四尺海底となる」日向灘の海底を震源と
   するM7クラスの大地震と推定。この地震を忘れぬため50年ごとに碑が建て加えら
   れ続ける。2007年九月、七番目の碑、供養祭。
1663(寛文3)年5月1日京で地震。行宮・法室新院皆壊れる。
   (年代著聞集4/徳川十五代史7)
   7月14日有珠山噴火。死者5人。(震災予防調査会報告86/日本火山総覧)
   7月25日蝦夷松前で地震。山中より火炎出現し焼く。(地歴/泰平年表)
   (続日本王代一覧4/十三朝記聞3/一話一言)
   12月6日京で大地震。所々壊れる。(地歴/続日本王代一覧4/泰平年表)
   松前で大山崩れる。(談海17)
   松前で海上3700(2700?)間陸地になる。(玉露叢17/萬天日録4)
1664(寛文4)年1月18日雲仙普賢岳泥土湯煙を噴出。大石砂利焼崩れる。
   (柳営年表/日本火山総覧)
   4月雲仙前山が崩壊、津波発生。溺死者100余人。田畑大損す。(柳営年表)
   6月12日京師で地震。(続史愚抄60)
   琉球で大地震。海嘯で家屋多く覆没。死者多数。(日本災異誌)
1665(寛文5)年1月2日京で地震。(続史愚抄60)
   3月1日京で地震。(続史愚抄60)
   5月6日京で地震。12日にも地震。(続史愚抄60)
   5月13日京で地震。(続日本王代一覧)
   8月6日京で地震。(続史愚抄60)
   12月27日越後で大地震。高田城が倒壊し、圧死者多数。
   (泰平年表/年代著聞集4/地歴/和漢合運指掌図4/玉露叢18)
   12月27日越後で大地震、死者120余あるいは千4〜500余人。
   (続日本王代一覧4/続史愚抄60)蝦夷宇須嶽噴火。震動津軽に及ぶ。(北海道志) 
   『殿中日記』には城の門や櫓が残らず潰れ、残った家もことごとく大破。侍の家は
   700軒が潰れ、夜中には火事となり侍三十余名が死亡。町屋での死者は数え切れ   
   ず。犠牲者数は、千数百人。『慶安元禄間記』には、城が残らず壊滅、「大手一の
   門」など崩壊。炬燵や台所から出火し燃え広がり、人の背丈の三倍近い高さに積も
   った雪の壁が逃げ道を遮った。長く延びた「つらら」がとがった刃物となって落下、多
   数が体を貫かれて死去。噴砂、墳泥が雪の上に流れ出し、家を失った人々は雪の
   上に建てた小屋で寒さに震えた。この後、お家騒動あり。
1666(寛文6)年3月14日京で地震。(続史愚抄60)
   6月1日但馬蛇山噴火。5、6間裂け、民家倒壊し死者多数。(続日本王代一覧4)
   8月4日出雲富田の城下町が洪水で水没。以後300年間川底の土砂に埋没する。
   閏10月12日京で大地震。(続史愚抄60)
1668(寛文8)年1月阿蘇山噴火。火石上り、苦水溢れる。(震災予防調査会報告86)
   11月阿蘇山噴火。(震災予防調査会報告86)
1669(寛文9)年6月12日22日にかけて加賀・越中・能登で風水害により48600石が損亡。
   (御日記/野史纂略4)
   8月11日熊本・日向・豊後・豊前中津・佐賀、島原・久留米などで暴風雨が襲い、各
   地で洪水。(萬天日録7/徳川実紀5/玉露叢20/続日本王代一覧14/御日記)
   浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   大飢饉。京の北野・四条河原で100日間救恤を行う。
   (日本災異誌/厳有院殿御実記/続日本王代一覧4/泰平年表)
1670(寛文10)年1月29日大豆蕎麦の如き物降る。大小五色あり。(本草綱目啓蒙23)
   6月5日越後で大地震。村上城、民屋600余が倒壊。田200余町が損失。(厳有院40)
   8月15日対馬で大地震。(日本災異誌)
   11月8日江戸で地震。(厳有院41)
1671(寛文11)年5月晦日江戸で地震。(厳有院42)
   7月4日長岡藩で水害により33000石が損亡。
   8月27日数日大風雨により江戸などで洪水。30日、東海道六郷橋が流失。
   (野史纂略4/続日本王代一覧4/武江年表2/御日記143/萬天日録2)
1672(寛文12)年1月13日各地で地震頻発。19日、2月1日にも地震数回。(厳有院45)
   閏6月5日岩木山の頂が崩壊する。(震災予防調査会報告86/青森県史1)
   9月26日各地で地震。(厳有院45)
   9月周防・長門で牛48900余頭が死ぬ。
   11月13日地震あり。27日にも地震。(厳有院45)
1673(延宝1)年5月4日江戸で地震2回。(厳有院46)
   5月晦日江戸で地震。(時雨迺袖)
   6月15日江戸で地震。(続史愚抄61)
   7月23日京で地震。(続史愚抄61)
   9月3日京で地震。(続史愚抄61)
   備後芦田川が氾濫し、被害を抑えるため、川中の草戸千軒町の堤防を壊
   し、同町は水没する。(広島県地名事典)
1674(延宝2)年3月10日八戸で強震。家屋倒壊多数。(青森県史4)
   5月28日周防錦帯橋が洪水で流出。
   6月14日暴風雨により淀川・大和川が氾濫。天満橋・京橋・天神橋が流出。
   (萬天日録18/続日本王代一覧14/御日記/厳有院48/続史愚抄61)
   7月8日江戸で地震。(厳有院49)
   8月1日美濃加納藩で洪水により27000石が被害。(厳有院49)
   8月11日佐渡で大風雨により洪水。
   秋、大風雨・洪水があり、77000余石が損失し、7527軒が流出する。
   11月11日京で地震。(続史愚抄61)
1675(延宝3)年1月22日阿蘇山鳴動、大石上る。(震災予防調査会報告86)
   3月10日八戸で強震。人家多数被害。(青森県史4)
   5月28日八戸で強震。人家多数被害。(青森県史4)
   6月越後長岡領内で大雨により3万石が損亡。
   前年からの大飢饉。大和で18600人に、摂津河内で3000余人に米を配給。
   また江戸柳原土手でも米を配給する。(大阪市史/日本凶荒史考/三貸図彙/十三朝
   記聞3)(続日本王代一覧4/和漢合運指掌図4/年代著聞集6/泰平年表/近世風俗見
   聞集1)
1676(延宝4)年1月24日京で地震、30日にも地震。(続史愚抄61)
   4月京で疫病が流行する。
   5月5日8日にかけて京で洪水。五条・三条両大橋流出。
   (萬天日録24/続史愚抄61/年代著聞集6/御日記156/和漢合運指掌図4)
   5月7日安芸で洪水により田畑37000石が失われ、1122軒が流出する。(広島市史2)
   6月2日石見で大地震。津和野城に被害が出る。家屋133戸倒壊、海土手936間が
   崩れる。(御日記156/満天日録24)
   7月4日東海道各地で洪水。尾張では田142634石、畑2023町が冠水。
   家屋2417軒が流出、男女18人、馬30頭が溺死。(厳有院53)
   7月26日連日江戸で地震。(厳有院53)
   10月13日江戸で地震。(厳有院53)
   12月4日京で地震。(続史愚抄61)
1677(延宝5)年2月9日京で地震。15日にも地震あり。
   3月10日京で地震。
   3月12日陸奥南部で地震。15日にも再震。
   4月25日京で地震。
   6月8日京で地震。
   10月9日陸奥から常陸にかけて大地震。津波が襲い、500人以上が死亡する。
1678(延宝6)年1月9日霧島山噴火。(震災予防調査会報告86)
   7月18日大風雨が四国を襲い、土佐では家屋3000余戸、堤防800間、船20艘に被
   害が出る。(続日本王代一覧4/萬天日録26/御日記158/厳有院57/十三朝記聞3/
   泰平年表)
   8月4日尾張、岡山、筑前柳川、熊本などで大雨洪水。
   (厳有院57/御日記158/萬天日録26/野史纂略4/岡山水害史)
   8月17日東日本で大地震。花巻、白石城などが破損。上野東照宮なども破損する。
   江戸で30年ぶりという。(萬天日録26/厳有院57)
   水戸藩領に氷降。田畑34000石余が存亡。(萬天日録27/御日記159)
1679(延宝7)年7月15日京で地震。(続史愚抄62)
   7月22日水戸藩領で大風雨58100余石が損失。(厳有院59)  
1680(延宝8)年1月9日江戸で地震。(厳有院60)
   2月16日江戸で地震。(厳有院60)
   7月富山藩領で大雨と洪水で12000石が損害。
   8月6日江戸で風雨洪水。(武江年表3/和漢合運指掌図4/御当代記)
   8月東海道で洪浪。陸で死者多数。(続史愚抄62)
   閏8月6日暴風雨、地震、高潮が重なり、家屋3420余戸が倒壊。溺死者700余人、
   20万石が濡れ米となる。(談海続1/常憲院殿御実記2/山鹿素行日記/日本凶荒史
   考/萬天日録40/御日記174)
1681(天和1)年4月5日日光で大地震。山崩れ。(日本災異誌)
   8月2日江戸で地震。(常憲院殿御実記4)
   9月1日地震あり。(日本災異誌)
   10月大隅で地震があり、海が陸になる。(日本災異誌)
1682(天和2)年1月2日地震あり。(続史愚抄63)
   10月13日地震あり。(続史愚抄63)
   11月15日奥羽で強い地震。(青森県史4)
1683(天和3)年4月5日日光で大地震。(地歴/続日本王代一覧4/風俗見聞集1/泰平年
   表/和漢合運指掌図4)(年代著聞集7/甲子夜話続編58)
   5月24日日光で大地震。東照宮や輪王寺が破損。17日から120余回に達する。
   (萬年記4/常憲院殿御実記7/野史纂略5) 日光東照宮付近の宝塔、石灯籠など文
   化財の大半が崩れる。10月20日午前9時頃(九月一日)は特に激しく、日光からおよ
   そ20km北北東にそびえる戸板山(現・葛老山、標高1123m)が大音響と共に崩れ落
   ちた。滑り落ちた岩塊は牡鹿川と湯西川の合流地点を埋めた。出口を失った水は巨
   大な湖として膨れ上がり、会津西街道の五十里宿を水没させた。五十里村の家々
   は残らず水上に浮かんだ。湖の水位を下げるため、のべ7000人の人足動因。修復
   を試みたが効果なし(江戸の業者が請け負ったが断念)。
   5月阿蘇山噴火。(震災予防調査会報告86)
   7月日光で地震。(柳営年表)
   9月1日翌日にかけて南会津・日光・江戸で地震。(萬年記4/御当代記/続史愚抄63)
   10月大隅で地震。(甲子夜話続編58)
1684(貞享1)年2月14日伊豆大島噴火。(御当代記32)
   2月16日伊豆大島が噴火。以後7年間噴火を繰り返す。
   (十三朝記聞3/続日本王代一覧/常憲院殿御実記9)(伊豆七島志上/萬年記4/慶政
   年表/柳営年表/泰平年表/日本火山総覧)
   4月8日越前阿胡山鳴動し、山崩れ。一里泥水となる。(日本災異誌)
   8月津波、新島村で60余戸流出。4人死亡。(伊豆七島志上)
   9月1日日光地震。堂塔倒壊あり、山崩れで川埋まる。(萬年記4)
   11月16日日向飫肥で地震。城本丸裂ける。(日向郷土史年表)
   12月10日安芸地震。(広島県史2)
1685(貞享2)年10月26日江戸で大地震。(萬年記4/常憲院殿御実記12)
   12月21日江戸で地震。(常憲院殿御実記12)
1686(貞享3)年閏3月3日岩手山噴火。人畜に被害。(震災予防調査会報告86)
1687(貞享4)年2月20日京で地震。(続史愚抄64)
1688(元禄1)年11月7日京で地震。13日にも地震。(続史愚抄64)
1689(元禄2)年1月2日京で地震。(続史愚抄64)
   3月28日京で大地震。(続史愚抄64)
   6月10日京で地震。(続史愚抄64)
1690(元禄3)年1月7日京で大地震。(続史愚抄64)
1691(元禄4)年5月27日4月より異変の続いていた阿蘇山が噴火。
   (震災予防調査会報告86)
   6月17日阿蘇山噴火。(続日本王代一覧5/続史愚抄64)
   7月6日日光で地震。(野史纂略5)
1692(元禄5)年4月16日京で地震。(続史愚抄64)
1693(元禄6)年1月21日京で地震。(続史愚抄64)
1694(元禄7)年5月27日秋田で大地震。2760戸が倒壊、394人が死亡。岩木山の硫黄孔
   が発火。(続日本王代一覧5/御日記242/十三朝記聞3/地震歴年考/年代著聞集
   8/日本火山総覧)
   閏5月25日伊予で大地震。(続日本王代一覧5/御当代)
   7月2日小田原で津波。人家多数水没。(続史愚抄65)
   7月10日蔵王噴火。宮城方へも硫黄水が流出し被害多数。(山形県史2)
1695(元禄8)年2月21日京で地震。(続史愚抄65)
   3月2日伊豆大島噴火。(続史愚抄65)
1696(元禄9)年1月津軽藩領で伝染病が流行し、数万人の死者を出す。(青森県史2)
   6月19日22日にかけて江戸で大地震。(年代著聞集8/武江年表3/十三朝記聞3)
   (和漢合運指掌図4/時雨迺袖/続史愚抄65)
   6月30日江戸で地震。(日本災異誌)
   6月磐城小名浜で地震。津波などにより2450人が死亡。
1697(元禄10)年8月1日京暴寒。人厚衣を着る。(続史愚抄65)
   10月7日江戸で地震。(続史愚抄)
   10月12日関東で地震。鎌倉八幡鳥居など多数倒壊。日光へ使者を出す。
   (元和日記/萬年記5/徳川十五代史9/常憲院殿御実記34)
   10月13日江戸で地震。(和漢合運指掌図)
1698(元禄11)年1月4日京で地震。(続史愚抄65)
   6月23日京で地震。(続史愚抄65)
1699(元禄12)年2月肥前で海嘯。300余戸流出し、千余人が死亡。(日本災異誌)
   9月11日京で大地震。(続史愚抄66)
   12月25日青森で地震。(青森県史4)  

1700

 

1700(元禄13)年2月12日肥前いざないで大波。山崩れなどで600戸損壊。千余人が死
   亡。(年代著聞集8)
   2月27日対馬で大地震。(日本災異誌)
   富士山が噴火する。(日本災異誌)
1701(元禄14)年5月21日京で地震。26日にも地震あり。(続史愚抄66)
   冬、東国大飢饉。数年続く。(徳川十五代史9/十三朝記聞3/徳川理財会要)
   (北海道志/青森県史4/八戸藩史稿/御日記267)
1702(元禄15)年4月10日京で地震2回。(続史愚抄66)
   6月1日八戸で強震。(青森県史4)
   8月30日西日本で風水害。土佐では16万石の被害。讃岐ではその後蝗害に。
1703(元禄16)年4月22日関東で大地震。
   7月22日関東で大地震。
   11月23日関東で大地震。武蔵、相模、阿波、上総で津波。房総南部などでは震度7
   に達したとみられ、東海道宿場も壊滅。各地で数千人が死亡。伊豆大島の波浮池
   は決壊して海につながり波浮入江になる。28日にも地震。(折たく芝の記/常憲院御
   日記48/柳営年表/萬年記5/徳川十五代史9/続日本王代一覧5)(大地震暦年考/
   和漢合運4/泰平年表/十三朝記聞3/近世風俗見聞集/時雨迺袖/武江年表)(談海
   続編1/土佐群書類従88,89/窓の須佐美2/続史愚抄66/御日記279/伊豆七島志
   上)(甲子夜話続編58/野史纂略6/一話一言補遺1)
   関東地方南部の広い地域が揺れた。土地は二三寸、所によっては五六尺も割れ、
   石垣は崩落、塀は崩れ家蔵は潰れ、死者けが人が一時にでき、老若男女の泣き叫
   ぶ声は大風のごとく。所々から火事起きる。品川の海(東京湾)から大津波打ち上
   げ、浜へ逃げたもの、ことごとく波に巻き取られる。房総半島東端の犬吠崎から、伊
   豆半島南端の下田にいたる範囲は津浪に襲わる。安房小湊(あわこみなと)で570
   軒、御宿で440軒、下田で500軒流される。特に被害が著しかったのは震源となった
   相模湾周辺。小田原では地震によって家屋倒壊の後に焼失し、多人数亡くなる。小
   田原から箱根までの道筋には大石が転び落ちた。川崎から箱根宿まで潰家多数。
   宿場は残らず破損。江戸では地盤が強い大名屋敷は被害少なし。沖積低地(下町)
   被害甚大。この地震は相模湾(相模トラフ)に沿ってのプレート境界から。1923年の
   「大正関東大地震」に対し、「元禄関東地震」と呼ばれる。相模湾北部発生の大正関
   東地震規模はM7.9程度。元禄関東地震はM8.2程度で、元禄期のものがはるかに
   大きいという。このような地震がおおむね2300年前後の周期で繰り返されて房総半
   島の波食台を形成しているという。
1704(宝永1)年1月1日浅間山が噴火。(震災予防調査会報告86)
   1月5月にかけて地震相次ぐ。(徳川十五代史)
   4月24日秋田で大地震。(秋田県史2/続日本王代一覧5:25日)
   7月8日幕府は、諸国の洪水や江戸の地震により8寺に祈祷させる。
   11月19日京で地震。(続史愚抄66)
   前年より浅間山噴火続く。降灰あり。(徳川十五代史9)
1705(宝永2)年8月5日京で地震。(続史愚抄67)
   12月桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
   12月15日霧島山が噴火する。堂塔寺家焦土と化す。(震災予防調査会報告86)
1706(宝永3)年1月7日京で地震。21日にも地震。(続史愚抄67)
   4月7日京で地震。19日、26日にも地震。(続史愚抄67)
   9月15日関東で大地震。江戸城内石塁多数倒壊。
   (続日本王代一覧5/年代著聞集9/武江年表3/地歴/萬年記8)
   10月16日浅間山噴火。(日本災異誌)
   10月大坂で地震。(年代著聞集9)
1707(宝永4)年10月4日東海から九州にかけて大地震。太平洋沿岸で11回の大津波。土
   佐、大坂で被害甚大。死者42500人とも言う。(柳営年表/徳川十五代9/続日本王代
   一覧5/泰平年表/近世風俗/野史纂略6/十三朝記聞3)(和漢合運指掌図4/続史愚
   抄67/年代著聞集9/常憲院殿御実記56/大地震暦年考/弘列筆記)(甲子夜話続
   58/浮世の有様/談海続1/土佐群書類従88,89/広島市史2)
   「元禄関東地震」の四年後、南海トラフの全域で、プレートが一気に破壊された。「東
   海地震と南海地震が同時に発生」した。「宝永地震」と呼ばれる。太平洋に接した浜
   松城下では、潰家71軒、半壊28軒、大破52軒、小破48軒の被害。「明応東海地震」
   のとき浜名湖と海がつながった今切では渡船が被害を受け通行不能。四国では高
   知城下の被害が、流家一万一千百七十戸、潰家千七百四十二戸、死人1844人。太
   平洋沿岸の集落は大津波に流され、古文書には全滅を意味する「亡所」の二文字
   がある。この地震で、城下の周囲六・七里の大地が七尺ほど低くなった。反対に津
   呂・室津のあたりは七・八尺高くなった。(『土佐古今大地震記』)神社の階段全42段
   のうち下から39段までが津波に浸かった。愛媛の道後温泉は145日間湯が出なくな
   った。讃岐(香川県)では五剣山の東端が大音響と共に崩れ落ちた。火事が発生し
   ほとんどが焼けた。この地震では、大阪湾にも津波が押し寄せ、市街の川や堀をさ
   かのぼり、道頓堀の日本橋(にっぽんばし)まで、迎船六・七十隻が沈没、50石、70
   石の舟は大船に押し倒されたが数は無数。日本橋(にっぽんばし)西の橋が落ち堀
   江川で橋が落ちた。安治川筋では堂島田蓑橋まで落ちた。鰹座は死人が夥しかっ
   た。尾張藩御たたみ奉行・朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』
   に詳しい体験談が記されている。「揺れが収まらないので裸足で庭に飛び降りたと
   ころ、地震が倍の強さになり、書院の鳴動が夥しくなった。木々はざわめいて大風
   が吹くようで、大地は揺れて歩くことができない」、などとある。「ようやく鎮まり座敷
   に上がると、三の丸が火事になっていた。手酌で三杯酒を飲んで、急いで帰宅し両
   親と家内の安否を確認してから城に向かった」、という。地面が割れ、泥水が噴出し
   た。寛文二年の地震(近江・若狭地震)より激しく長かった。「他の資料」土佐の国で
   は高潮が城下まで侵入、紀州の尾鷲町では家、千軒余が流れ男女が残らず死ん
   だ。大阪では川口にあった数百隻の大船が津波で道頓堀芝居下や日本橋の下ま
   で押し寄せた。
   10月28日周防・長門で大地震。
   11月23日富士山大噴火。麓の須走村は焼滅し他の村も作物などの被害で飢餓状
   態となる。江戸でも大量の灰が降る。(日本編年大事記/徳川十五代史9/武江年表
   3/萬年記8,9/御日記289/大地震暦年考)(続日本王代一覧5/和漢合運4/談海続編
   1/泰平年表/年代著聞集9/野史纂略6/柳営年表)(十三朝記聞3/土佐群書類従
   88,89/鳥取県郷土史/平光某旧記/震災予防調査会報告86) 富士山の山頂から南 
   東方面に下った位置にある宝永火口から噴火、すべての村々が火山灰に埋もれ
   た。新井白石の『折たく柴の木』に詳しい。江戸でもすべてが火山灰で白くなった。
1708(宝永5)年1月12日京で地震。22日にも地震。(続史愚抄67)
   閏1月27日京で地震。(続史愚抄67)
   1月富士山噴火で、相模・駿河に灰が降る。(武江年表3)
   2月26日京で地震。(続史愚抄67)
   3月20日京で地震。(続史愚抄67)
   4月3日京で地震。(続史愚抄67)
   5月18日京で地震。(続史愚抄67)
   7月2日京で地震。(風俗見聞集1)
   11月5日翌日にかけて京で地震。(続史愚抄67)
   11月28日浅間山噴火。灰が周辺の国に降る。(十三朝記聞3/年代著聞集9)
1709(宝永6)年1月4日阿蘇山噴火。泥逆上す。三日続く。(震災予防調査会報告86)
   2月3日京で地震。10日にも地震。(続史愚抄68)
   3月14日三宅島噴火。(日本災異誌)
   4月6日京で地震。23日にも地震。(続史愚抄68)
   6月25日京で地震。(続史愚抄68)
   8月5日北国で大地震。津軽、信州、秋田等で強く震動。(風俗見聞集1)
   10月9日京で地震。(続史愚抄68)
   翌年にかけて琉球で大飢饉。2000人余餓死。島津吉貴、銀200貫匁を送る。
   (西藩野史19/琉球藩史)
1710(宝永7)年3月15日浅間山、三宅島噴火。(日本災異誌)
   4月14日京で地震。(続史愚抄68)
   8月20日会津地震。舎屋倒壊多数。(萬年記9)
   8月23日地震あり。(野史纂略7)
   閏8月11日京で地震。(続史愚抄68)
1711(正徳1)年1月7日京で地震。(続史愚抄68)
   2月1日京で地震。(続史愚抄68)
   2月16日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   6月16日京で地震。(続史愚抄68)
   9月18日京で地震。(続史愚抄68)
   11月2日播磨姫路で大地震。山崩地裂あり。津波で人家多く流出。(年代著聞集10
   上)
   12月28日三宅島棣棠の沢噴火する。阿古村が泥水で被害を受ける。(伊豆七島志
   上/日本火山総覧)
1712(正徳2)年3月越前勝山が崩壊。洪水で村里流壊し、人多く死す。(日本災異誌)
   5月17日京で地震。(続史愚抄68)
1713(正徳3)年5月23日京で地震。(月堂見聞集6/続史愚抄68)
   6月11日京で地震。(月堂見聞集6/続史愚抄68)
1714(正徳4)年3月15日信州で大地震。松本が特に激震。潰家33、死者57人。上州堺津
   で津波あり。(談海続編/月堂見聞集7)
   12月27日京で地震。(続史愚抄69)
1715(正徳5)年7月1日京で地震。(続史愚抄69)
1716(享保1)年2月18日霧島山が噴火。八重川増水し、死魚が流れる。
   (震災予防調査会報告86)
   9月26日霧島山西岳大爆発。大被害をもたらす。(西藩野史19)
   12月6日京阪で地震。(続史愚抄69/月堂見聞集9)
   12月26日霧島山噴火。(西藩野史19)
   霧島山噴火し、災地積136300坪に。翌4月まで続く。(日向郷土史年表)
1717(享保2)年1月3日霧島山噴火。134戸が倒壊し、死傷31人。
   (震災予防調査会報告86/萬年記11)
   1月7日江戸で地震(月堂では8日)。(萬年記11/月堂見聞集9)
   4月27日京で地震。(続史愚抄69)
   6月1日京で地震。(続史愚抄69)
   8月16日京で地震。(続史愚抄69)
   8月15日霧島噴火で近郷の田畑数十里が埋没。(西藩野史19)
   8月19日浅間山噴火。(日本災異誌)
   12月8日数日にかけて江戸で地震。(月堂見聞集9/萬年記11)
1718(享保3)年2月10日江戸で地震。(日本災異誌)
   7月26日飯田、伊那、伏見、淀で地震。(月堂見聞集10/萬年記11/続史愚抄69) 長
   野県南部の天竜川沿いを強い地震が襲った。下伊那郡南信濃村(現・飯田市)と天
   竜村に大被害が生じ、石垣や建物は倒れ、直後に山崩れに襲われた。和田宿で
   は、背後の盛平山(せいへいやま)の西端が崩れ落ち川をせき止めた。上流側に生
   じた湖は、しばらくして決壊、濁流が下流地域を襲った。家々の損傷が酷かった。
   9月3日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   9月12日信濃で大地震。飯山城大破。民家多く倒壊。(月堂見聞集10/談海続2)
1719(享保4)年1月岩手山噴火。北麓へ溶岩流出。(震災予防調査会報告86/地学349)
   12月1日江戸で大地震。(萬年記11)  
1720(享保5)年2月26日京師で地震。(続史愚抄69)
   5月1日浅間山噴火。(日本災異誌)
   6月4日京師で地震。(続史愚抄69)
1721(享保6)年5月28日浅間山噴火。関東の者16人、石に当たり15人が死亡。
   (震災予防調査会報告86/日本火山総覧)
   8月29日京暴寒。鞍馬や貴船で雪が降る。(続史愚抄70)
1722(享保7)年2月17日京で地震。(続史愚抄70)
   7月佐渡で疫病が流行。死者600人を越える。
   8月14日東海道で海嘯。(日本災異誌)
   浅間山噴火。(日本災異誌)
1723(享保8)年1月1日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   2月3日京で地震。(続史愚抄70)
   7月20日浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
   8月10日五十里湖が決壊し、鬼怒川流域で181人が死亡。 (大雨で湖の出口が大
   音響と共に崩れ落ちる。40年の間人々を悩ませた湖水は、怒涛の勢いで流れ下り、
   鬼怒川周辺の村々を押し流した。この「五十里大洪水」では千数百人の命が失われ
   る。200年ほど後の1956年、日本最大の人造湖「五十里湖」が難工事の末完成。)
   11月20日九州で大地震。
   (続日本王代一覧6/大地震歴年考/十三朝記聞4/泰平年表/編年大事記)
   12月10日京で地震。(続史愚抄70)
1724(享保9)年6月20日京で地震。(続史愚抄70)
1725(享保10)年3月6日京で地震。(続史愚抄70)
   4月18日江戸で地震。(萬年記12)
   7月7日江戸・信州で大地震。(萬年記12)
   9月25日長崎で大地震。昼夜に80余回起こる。
   (大地震歴年考/十三朝記聞4)(泰平年表/続日本王代一覧6/編年大事記)
1726(享保11)年2月29日越前勝山で津波大風。人畜溺死多数。
   (続日本王代一覧6/十三朝記聞4)(地歴/泰平年表)
   3月10日江戸で地震。(萬年記12)
   3月14日越前で大地震。470余人死亡。(徳川十五代史12)
   3月19日越前弁慶ヶ岳で地震。大河が堰止められ洪水。(浮世の有様2)
   4月15日江戸で地震。(萬年記12)
   8月16日京で地震。(続史愚抄70)
   11月27日江戸で地震。(萬年記12)
1727(享保12)年1月3日京で地震。23日にも地震。(続史愚抄70)
   3月4日江戸で地震。(萬年記12)
   9月13日江戸で地震。(萬年記12)
1728(享保13)年9月2日関東で大洪水。両国橋等が流され、3500人が死傷(死者1万余と
   も)。(萬年記12/泰平年表/柳営年表/有徳院殿御実記28/日本凶荒史考)(談海続
   2/窓の須佐美2/十三朝記聞4/一話一言3/続日本王代一覧6)
   10月9日浅間山噴火。(日本災異誌)
   12月25日江戸で地震。(萬年記??)
1729(享保14)年1月22日江戸で地震。(萬年記12)
   2月9日江戸で地震。(萬年記12)
   7月7日能登鳳至郡で大地震。輪島で300余戸損壊。(石川県史2)
   7月広島城下で疱瘡と麻疹が流行する。
   秋、東国で疫病流行。(有徳院殿御実記30)
   10月浅間山噴火。(震災予防調査会報告86)
1730(享保15)年1月24日対馬で大地震。(日本災異誌)
   3月7日江戸で地震。24日にも地震。(萬年記12)
   7月17日江戸で地震。(萬年記12)
   10月1日江戸で地震。4日にも地震。(萬年記12)
1731(享保16)年2月3日江戸で地震。(萬年記12)
   7月11日江戸で地震。(萬年記12)
   9月7日福島県北東端から宮城・山形両県にかけ強い地震が発生。激しく揺れた桑
   折(こおり)では、仙台・山形方面に向かう84の橋が落ち300余の家屋が倒壊した。小
   原温泉が土砂に埋った。
   12月25日岩手山噴火。溶岩流出。(日本火山総覧)
1732(享保17)年1月3日江戸で地震。(萬年記13)
   1月13日江戸で地震。(日本災異誌)
   夏から秋にかけて西国・四国・中国で蝗害。公私46藩236万石中収穫は628000余
   石のみ。(泰平年表/続日本王代一覧6/続史愚抄71/広島市史2/有徳院36/大阪市
   史1)
   9月26日長崎で地震。昼夜80余回震動。(甲子夜話続58)
   西日本で蝗害が多発し、飢饉となる。(浮世の有様2)
1733(享保18)年4月16日京で地震。(続史愚抄71)
   6月20日浅間山が大噴火。前掛山残らず割れる。(震災予防調査会報告86)
   8月11日広島で大地震。奥郡で被害多数。(広島市史2)
   夏、西日本で疫病が大流行。(萬年記13)
1734(享保19)年10月27日江戸で地震。(続史愚抄71)
   11月7日京で地震。
   12月5日赤小豆の如き物降る。みな空穀なり。(本草綱目啓蒙23)
1735(享保20)年閏3月14日江戸で地震。(萬年記13)
   9月中国九州で犬の疫病流行し、多数死す。風犬と呼ばれる。病犬、人を咬殺する
   事多し。(続日本王代一覧7/泰平年表/続史愚抄72)
   12月江戸で疱瘡が流行し、幕府は直参に丸薬を配る。
1736(元文1)年3月仙台で大地震。(日本災異誌)
1737(元文2)年4月1日江戸で地震。(萬年記13)
   9月2日広島で高潮。竹屋町の下堤を越え、堀川町・古月町浸出す。(広島市史2)
1738(元文3)年2月16日江戸で地震。(萬年記13)
   10月18日江戸で地震。(萬年記13)
1739(元文4)年1月18日江戸で地震。(萬年記13)
   7月5日中国地方で大風雨。出雲では民家2223戸、稲4万石が損害。
   7月12日八戸で地震。(青森県史4)
   7月14日蝦夷松前で山崩れ。震動は津軽に及ぶ。(震災予防調査会報告86)
   9月11日江戸で地震。(萬年記13)  
1740(元文5)年2月1日江戸で大地震。(萬年記13)
   5月鳥海山が噴火。硫黄明礬の気が渓流に混入し、田地作物が損失。4、5年間河
   水に魚見ず。(震災予防調査会報告86/日本火山総覧)
   6月27日京で地震。(続史愚抄72)
   7月19日松前海嘯。人家多数流出。死者多し。(青森県史4)
   閏7月16日集中豪雨により鴨川が洪水。三条大橋が損壊。
   閏7月17日洪水により大和御所町で659軒が流出、218人が死亡。
   9月1日江戸で大地震。(萬年記13)
   11月28日伊勢国紀州藩領で108村が蝗害のための減免を強訴。
   1730〜1740この頃、近江野洲郡橘村に一石が落ちる。掌の大きさで、甚だ硬く重く
   して、金色文理(筋目?)あり。(雲根志前3)
1741(寛保1)年7月19日蝦夷渡島大島の江良岳が早朝爆発。大津波が発生し、松前藩領
   などで死者1467人以上。791戸が流出し、152隻が破損する。津波は佐渡にいたり、
   東北地方で8人が死亡し82戸が流出する。(福山秘府/津軽藩歴代記類/佐渡年代
   記/続史愚抄73/続日本王代一覧7/十三朝記聞4)(談海続3/北海道志/青森県史
   2/日本火山総覧)
   9月3日江戸で地震。(談海)
1742(寛保2)年1月彗星河鼓南及河鼓に現る。(紫芝園漫筆8)
   3月2日8日にかけて桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
   4月17日江戸で地震。(萬年記13)
   7月26日江戸で地震。(萬年記13)
   7月28日中部から近畿地方で、大風雨により洪水多発。小諸、松代等の城が破損。
   三条大橋が流出。
   8月3日大風雨で利根川や荒川が洪水。80万余石が水没。3900人が溺死(18000余
   とも)。(萬年記13/年代著聞集下/柳営年表/談海続3/紫芝園漫筆8)
1743(寛保3)年5月10日京師で地震。(続史愚抄73)
   10月6日長州藩領内で風雨・洪水で13万石余が被害、家屋3484戸が倒壊。
   11月彗星東壁に出現。光芒斜め、奎指にあり。二旬稍衰。
   12月28日彗星再度明るく輝く。11月以来稍が西北、営室下星へ向かい、近営室下
   星で切れる。(紫芝園漫筆8)
1744(延享1)年8月10日西日本大荒れ。(広島市史2/日向郷土史年表)
   8月長州藩領で風雨洪水。12万石が被害、5080戸が倒壊。
   8月江戸芝で海嘯。家屋多数倒壊。死者多数。(日本災異誌)
1745(延享2)年1月30日京師で地震。(続史愚抄73)
   5月21日京師で地震。(続史愚抄73)
1746(延享3)年2月17日京師で地震。(続史愚抄73)
   4月24日江戸で強震。家屋多数破損。(談海続4)
   8月23日土佐で大風雨。(日本災異誌)
   8月長州藩領で風雨洪水。13万石が被害、3670戸が倒壊。
   10月29日京師で地震。(続史愚抄73)
1747(延享4)年4月24日京師で大地震。(続史愚抄73)
1748(寛延1)年9月中国地方で風雨洪水。安芸で死者132人、6421戸が流出。広島・三原
   両城破損。周防・長門では6830戸が流出。(広島市史2)
1749(寛延2)年4月10日広島で大地震。(広島市史2)
   10月17日京師で地震。(続史愚抄74)
   11月19日京師で地震。(続史愚抄74)
   桜島噴火。(日本災異誌) 冷害と蝗害により東北大飢饉。
   (青森県史2/山形県史2/津軽凶歉記録1班/津軽旧記類)
1750(寛延3)年4月武蔵で雹が降り、人馬作物に被害。
   7月30日京師で地震。(続史愚抄74)
   8月23日日向大風。高鍋藩領1300余石損。佐土原藩領200余戸倒壊。(日向郷土)
   8月26日洛中大風雨。二条城天守閣落雷で焼失。
   (続日本王代一覧8/泰平風也集上/泰平年表)
1751(宝暦1)年2月29日京で大地震。余震続く。人家土蔵多数破損。余震7月まで続く。
   (十三朝記聞5/泰平風也集/地歴/続日本王代一覧6/年代著聞集10下/続史愚
   抄74/浮世の有様)
   4月25日越後高田で大地震。1日30余回。城下で大被害。死者千とも16300ともい
   う。(地歴/続日本王代一覧8/泰平風也集)
   閏6月19日讃岐で洪水。
1752(宝暦2)年2月25日会津で地震。(石川県史2)
   8月3日因幡で暴風雨により洪水。
1753(宝暦3)年1月9日京師で地震甚だし。洛中築地破損多数。(続史愚抄75)
   2月16日江戸で地震。(武江年表5)
1754(宝暦4)年6月19日浅間山噴火。煙、地に這い作物を害する。秋過ぎまで度々噴火。
   (震災予防調査会報告86)
1755(宝暦5)年4月10日地震により日光山奥院が崩壊。
   7月13日津軽大雪。3尺余積もる。(十三朝記聞5)
   翌年にかけて諸国大飢饉。
   (山形県史2/秋田県史2/青森県史4/凶荒史2/日向郷土史年表)
1756(宝暦6)年7月晦日近江・大坂などで大地震。
   (日本災異誌/十三朝記聞5/泰平年表/編年大事記)
   8月3日大坂で大地震、火災。(日本災異誌)
   9月16日翌日にかけて近畿、濃尾地方で暴風雨。淀川や紀ノ川が氾濫。
   (続日本王代一覧8/続史愚抄75/泰平年表/十三朝記聞5)
   桜島噴火。(震災予防調査会報告86)
1757(宝暦7)年5月4日常陸で洪水。
   5月29日加賀で大雨により金沢城下で被害。(泰平年表)
   5月大雨で尾張等で洪水。322300余石が被害。(続史愚抄76/十三朝記聞5)
   6月19日幕府、氾濫河川の普請のための検分に人を派遣する。
   6月26日安芸で洪水と高潮。27118戸が被害。
   7月26日出雲、讃岐、土佐で洪水。死者多数。
   8月20日但馬出石で洪水。14000石が浸水。
   9月5日讃岐高松再度洪水。
   12月21日幕府、信越、伊勢などの洪水被害諸藩に拝借金を貸与。
   12月幕府、節倹令を出す。(徳川理財会要)
1758(宝暦8)年2月19日京師で地震。(続史愚抄76)  
1760(宝暦10)年4月5日京師で地震。(続史愚抄76)
1761(宝暦11)年1月24日京師で地震。(続史愚抄76)
   11月10日京師で地震。(続史愚抄76)
1762(宝暦12)年4月18日京師で地震。(続史愚抄76)
   7月16日伯耆大山爆発。激水湧出し、100余人が死亡。(続史愚抄76)
   12月16日八戸で大地震。被害多数。(青森県史4)
1763(宝暦13)年1月27日八戸で強震。家屋土蔵破損多数。(青森県史4)
   2月2日京師で地震。(続史愚抄77)
   2月27日京師で地震。(続史愚抄77)
   7月9日以降1769年にかけて三宅島噴火続く。(伊豆七島志)
1764(明和1)年2月2日京師で地震。(続史愚抄77)
   5月28日京師で地震。(続史愚抄77)
   10月5日京師で地震。(続史愚抄77)
   阿蘇山噴火。(日本災異誌)
1765(明和2)年3月30日京師で地震。(続史愚抄77)
   7月3日近畿一帯で大風雨。(続日本王代一覧9/泰平年表)
   8月3日近畿一帯で大風雨。(続日本王代一覧9/十三朝記聞5/続史愚抄77:5日)
1766(明和3)年1月18日陸奥で地震。(続史愚抄9)
   1月28日陸奥北部で大雪のなか大地震。翌日までに17回。津軽藩領内の死者1240
   余人。津波で7500戸流出、1335人が死亡とも言う。(柳営年表/泰平年表/浚明院殿
   御実記13/甲子夜話続編58/浮世の有様)
   酉刻 青森県弘前付近から津軽半島一帯を巻き込む地域が激しく揺れた。倒壊した
   人家は5490余、圧死者は千余人、火事で焼死したものは300余人、死んだ馬は440
   頭と『津軽藩史』に記録がある。弘前藩の『封内事実秘苑』には、雪が深い寒い時期
   だが、此日は寒さが和らぎ春めいていた。六つ時、北西の方向から鳴動し、百千の
   雷のようで、大地が動揺し、しばらく止まなかった。怪我で死傷したものが夥しく、家
   ことに幼少の女童たちの悲鳴や号泣する声がかまびすしく、鶏犬猫の類までが東西
   に駆け走った。そのうち潰屋から出火、四方に火の手が上がった。地面が割れて砂
   が押しあがった。地面の割れ目に子供が埋り込んだことを聞いた。沖積低地では、
   液状化現象が顕著だった。津軽平野の東縁に沿って南北に延びる津軽山地西縁断
   層帯から生じた可能性が高い。
   2月8日弘前で地震。家屋破損多数。人馬死傷多数。
   (柳営年表/浚明院殿御実記13)
   3月19日京師で地震。(続史愚抄77)
   松前で大地震。(北海道志)
1767(明和4)年5月18日江戸で地震。所々で破損。(談海続8)
   7月19日尾張・三河で洪水と山津波。
   7月23日京師で地震。(続史愚抄78)
   閏9月21日京師で地震。(続史愚抄78)
   10月2日京師で地震。20日にも地震あり。(続史愚抄78)
   12月幕府、洪水被害の尾張藩に3万両を貸与。
1768(明和5)年8月5日京師で地震。(続史愚抄78)
   12月蝦夷宇須岳噴火。(北海道志)
1769(明和6)年4月2日京師で地震。(続史愚抄78)
   7月28日豊後と日向で大地震。日向高鍋城と延岡城が破損。
   (大分市史/日向郷土史年表)
   8月26日江戸で午後2時頃から大風が起こり、家屋多数が倒壊。
   (泰平年表/談海続編8/武江年表5/続日本王代一覧9/十三朝記聞5)
   9月18日京師で地震。(続史愚抄78)
   10月14日京師で地震。(続史愚抄78)
   11月25日京師で地震。(続史愚抄78)
1770(明和7)年7月23日京師で地震。(続史愚抄78)
   夏、ほぼ全国で大旱魃。関東では蝗害。神奈川で鯛3000余匹が死ぬ、また海水に
   苦塩なるもの出て魚悉く死す。(武江年表6/浚明院21/続日本王代一覧9/続史愚抄
   78/泰平年表/十三朝記聞5)
   10月25日京師で地震。30日にも地震。(続史愚抄78)
1771(明和8)年3月10日琉球諸島で地震。揺れに比べ巨大な津波が八重山諸島を襲う。
   石垣島は島の4割が洗われ、また水納島は全滅。死者総数2548人とも。その後、
   飢餓疫病が頻発し、八重山地方の人口は激減、回復に150年間かかる。波高は記
   録によれば最高85.4mに達する。(日本被害地震総覧) 沖縄県の石垣島を中心とす
   る八重山諸島に大津波が押し寄せ、死者・不明者が一万二千人に達した。地震動
   による被害はなく、東方沖海底で発生したM7クラスの津波地震と考えられる。
   5月2日江戸で大地震。(十三朝記聞6/地歴/続王9)
   6月2日江戸で大地震。(十三朝記聞6/地歴/続王9)
1772(明和9・安永1)年2月20日京師で地震。(続史愚抄79)
   5月3日京師で地震。(続史愚抄79)
   7月肥前・肥後・筑後で大風雨。長崎で清の3船破損。
   (泰平年表/十三朝記聞6/続史愚抄79)
   8月初旬関東から東海地方で大風雨。三河特に甚大。永代橋流出。(続史愚抄79/
   徳川十五代史14/談海続編9)(泰平年表/十三朝記聞5/続日本王代一覧9/浚明院
   殿御実記26)
   8月下旬瀬戸内から近畿にかけて大風雨。祇園悪王子社倒壊。
   (続日本王代一覧9/十三朝記聞5/続史愚抄79)
   11月16日風水害と江戸大火などの天災人災は「明和九(迷惑)年」だという俗説が広
   まり、また幕府も改元を実施。
   徳之島で翌年にかけて疫病流行。
   霧島山噴火。被害多数。(日本災異誌)
1773(安永2)年1月11日京師で地震。(続史愚抄79)
   3月22日京師で地震。27日にも地震。(続史愚抄79)
   5月14日京師で地震。(続史愚抄79)
   6月初旬、越後高田で地震。(談海9)
   11月28日江戸で地震2回。(続史愚抄79)
   12月11日京師で地震。(続史愚抄79)
   12月江戸で地震あり、人家損壊。(続史愚抄79)
   越後高田に小豆が降る。後に伝え栽培する物あり。小豆に似た蔓生という。
   (本草綱目啓蒙23)
1774(安永3)年2月3日京師で地震。(続史愚抄80)
   3月4日京師で地震。23日にも地震。(続史愚抄80)
   5月17日京師で地震。(続史愚抄80)
   9月29日江戸で地震。以後余震数回。(談海9)
1775(安永4)年5月5日宇治川が洪水。(続史愚抄80/続日本王代一覧9)
1777(安永6)年2月10日12日にかけて京師で地震相次ぐ。(続史愚抄81)
   7月29日三原山噴火。積灰4、5尺。
   (伊豆七島志/武江年表6/続日本王代一覧9/日本火山総覧)
   9月10日安房・相模・伊豆で海が溢れ、民家破損多数。溺死者多数。(十三朝記聞6)
   徳之島たびたび大風。食糧が不足する。
1778(安永7)年1月18日三備地方で地震。余震数十回。(日本災異誌)
   3月17日三原山噴火。
   (十三朝記聞6/浚明院殿御実記38/泰平年表/柳営年表/日本火山総覧)
   6月4日京師で地震。(続史愚抄81)
   6月肥後で大津波。船舶家屋多数破損。(続日本王代一覧9/十三朝記聞6/泰平)
   6月大坂で落雷多発。
   7月1日翌日にかけて京で雷雨。洪水となり、御所にも被害。17橋が流出。死者670
   人。(十三朝記聞6/続史愚抄81/続日本王代一覧9/泰平年表/続皇年代/談海続編
   11/浚明院殿御実記39)
   8月8日筑前で大風により、作物に被害。
   10月三原山大噴火。溶岩流出。(日本火山総覧)
   10月7日京師で地震。(続史愚抄81)
   10月11日安芸で暴風雨により洪水。流失倒壊1871戸。
1779(安永8)年2月5日丸薬の如き物降る。(本草綱目啓蒙23)
   2月阿蘇山御池が噴火。降灰。
   4月5日江戸で地震。(続日本王代一覧9)
   4月10日京師で地震。(続史愚抄81)
   4月全国で寒波。大雪。
   夏、各地で大洪水。(泰平年表/続日本王代一覧9)
   7月各地で洪水。(続日本王代一覧9/続皇年代略記)
   8月24日尾張荘内川洪水。(泰平年表/続日本王代一覧9)
   8月東日本で洪水。(続日本王代一覧9/十三朝記聞6/続史愚抄81/泰平年表)
   9月29日大隅で地震。桜島噴火する。
   10月1日桜島大爆発。9つの島が生成する。大坂でも降灰。薩摩藩内で死者150余
   人、全半壊500戸。2万石が被害を受け、牛馬2000頭が死ぬ。(日本火山総覧)
   11月10日魚沼地方で大地震。  
1780(安永9)年3月23日江戸で強震。(談海12)
   4月ウルップ島で地震津波。(北海道志)
   6月19日秋田で地震。(秋田県史2)
   7月青ヶ島噴火。島民避難する。(伊豆七島志)
   夏、蝦夷で疱瘡が流行。647人死亡。(北海道志)
   出雲松江藩で蝗害と水害。
1781(天明1)年4月青ヶ島池ノ沢より噴火。焦砂耕地を埋没す。(伊豆七島志)
   5月讃岐で暴風雨。
1782(天明2)年7月14日江戸で翌日にかけて大地震。被害甚大。(続日本王代一覧10/浚
   明院殿御実記47/談海12)(十三朝記聞6/武江年表6/泰平年表/大地震暦年考)
   西日本で洪水多発。飢饉が始まる。
1783(天明3)年2月2日江戸で地震。
   3月9日伊豆青ヶ島噴火。
   6月8日八丈島噴火。
   7月8日浅間山大爆発。溶岩と火砕流で麓の鎌原村が壊滅し、土石流が川をせき止
   めて後に決壊洪水。利根川・江戸川に瓦礫や死体が流れる。降灰は10余国に及
   び、また泥雨が降る。江戸も大量の降灰。成層圏への噴出物により北半球全土で
   異常気象。この影響で天明の大飢饉が拡大する。溶岩は後に「鬼押出し」と呼ば
   れる。(日本編年大事記/一話一言44/大地震暦年考/泰平年表/泰平風也集/武江
   年表/十三朝記聞6)(浮世の有様2/続日本王代一覧10/大阪市史)
   草津白根山麓の草津温泉で温度が急上昇し、浴客が死亡する事故があ
   る。(日本火山総覧)
1784(天明4)年1月19日蝦夷渡島駒ヶ岳噴火。(北海道志)
   9月1日琉球で大風雨。凶作。
   諸国大飢饉。津軽藩で102000余人餓死。(天明凶歳日記)
1785(天明5)年3月10日青ヶ島噴火。島民327人の内130〜140人が焼死し、島は焦土と化
   す。残りの島民は八丈島へ移り、以後50年間無人島となる。(伊豆七島志/日本火
   山総覧)
   9月1日琉球飢饉。幕府、米1万石と金1万両を貸す。
   (浚明院殿御実記53/十三朝記聞6)
   諸国大飢饉続く。
   桜島噴火。(日本災異誌)
1786(天明6)年2月21日箱根山で大地震。二子の山崩れ、温泉破れて人畜死傷。数日余
   震。(浚明院殿御実記54/武江年表6)
   7月14日関東大雨で大洪水。印旛沼、手賀沼干拓事業が甚大な被害を受ける。
   11月17日金沢で60年来の激震。(石川県史2)
1787(天明7)年大飢饉続く。ここ数年で200万人余が餓死するという。(経世秘策)
1789(寛政1)年 伊豆大島噴火。(日本災異誌)
1790(寛政2)年6月23日翌日にかけて松本で地震。破損数カ所。(文恭院殿御実記9)
   11月28日江戸で地震。(文恭院殿御実記9)
   12月江戸で地震頻発す。(泰平年表)
   桜島震動し噴火。(日本災異誌)
1791(寛政3)年8月6日関東で大風雨。高波、山崩れの被害が相次ぐ。
   8月14日桜島噴火。(日本災異誌)
   8月20日尾張沿岸で海嘯。(日本災異誌)
   9月4日関東で大風雨。(武江年表7)
   9月幕府、高波の犠牲者の施餓鬼供養を行う。
1792(寛政4)年1月18日島原温泉山噴火。以後噴火続く。(日本火山総覧)
   4月1日雲仙で地震。前山が崩壊し津波で島原一帯と対岸の熊本、天草藩領に大被
   害。死者15433人。(大変一件/見聞雑記/泰国院様御年譜地取/寛政四年四月朔
   日高波記/日本火山総覧)
   雲仙普賢岳が不気味な活動を始めた。前年10月頃から地震が続き、頂が崩れ、年
   が明けた寛政四年(1792)深夜、轟音と共に噴煙が立ち昇った。
   2月になると、中腹から赤茶けた溶岩が流れ出し、炎が空を焦がした。3月1日(旧
   暦)深夜に大きな地震によって前山の斜面が崩れ、城内でも地割れが生じ、領民た
   ちの間に動揺が広がり、近隣の各村へ避難する者が相次いだ。5月21日午後6
   時頃(旧暦4月1日酉刻)はるかに大きな地震(M6.4程度)が二回続き、大音響と共
   に前山が大きく崩れ落ちた。海より波が打ち寄せ、城の下の数千の町屋、神社、仏
   閣がひとつも残らず、つかの間に押し流し、人はみな波に溺れて死する。標高700m
   におよぶ前山の南東部(天狗山)で、幅1kmの範囲が崩れ落ち、土塊が島原城下
   町を巻き込みながら有明海に流れ込んだ。島原湾は地中に埋り、海面には九十九
   (つくも)島とよばれる流山が点々と頭を出した。城下は目を覆うばかりで、人々は家
   屋や木材に挟まれ、あるいは土に埋った。怪我人が多く手のうちようもなくやがて息
   を引き取ったという。有明海に流れ込んだ土塊は海水を圧迫し、対岸にあたる肥後
   藩の海岸を襲う大津波となった。犠牲者数は4653人とある。島原藩で一万余、肥後
   藩で四千数百の命を奪った大惨事は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた。なお、二百
   年の歳月を経た1991年に普賢岳が活動、同年6月3日の大規模火砕流により、報
   道関係者など40余名が犠牲となった。
   4月24日蝦夷後志で地震。津波がある。
   5月17日幕府、寛永寺・比叡山・出雲大社ほか複数社に五穀豊穣の祈願を行う。
   7月26日讃岐大風洪水。
1793(寛政5)年1月7日江戸で地震。(十三朝記聞6/武江年表7/文恭公実録/続皇略)
   2月22日岩木山噴火。(日本災異誌)
   5月20日石見高津川が氾濫し、益田川と合流。大被害をもたらす。
1794(寛政6)年11月3日江戸で地震。(武江年表7/泰平年表/地歴/文恭院殿御実記17)
1796(寛政8)年4月28日但馬豊岡地方で雷風雨。
   6月5日安芸で大洪水。1770戸、658橋が流出、堤43700余間決壊、169人死亡。
   (広島市史2)
   6月肥後白川で洪水。(熊本市史)
1797(寛政9)年 桜島噴火。(日本災異誌)
1798(寛政10)年4月8日美濃で大洪水。(十三朝記聞6)
   5月25日加賀で地震多発。圧死者多数。(日本災異誌)
   7月美濃で再度大洪水。(十三朝記聞6)
1799(寛政11)年2月22日桜島噴火。(日本災異誌)
   5月26日加賀で大地震。城内外の石塁、塀、墻、家屋倒壊多数。(石川県史2)
   金沢城下が地震に直撃された。加賀藩の町奉行の日記『政隣記(せいりんき)』によ
   ると、大山が崩れるように鳴動し樹木は幣を振るようになり、家はさまざまな方向へ
   傾き、屋根に重石としておいた「屋根石」は一尺(30cm)ほど飛び上がり、地面は大
   波のようにうねった。煙草を三服吸い込むくらいの短い時間だった。築山の石灯籠
   は六尺ほど飛び上がり、落ちるときは四方に飛び跳ねた。上下動が顕著だった。そ
   の他多くの記録があり、丈夫な金沢城の石垣は堀へ崩れ落ち、残った石もはみ出し
   て無残な姿をさらした。地滑りに伴う地割れが続き、門から下へ通じる坂道は亀甲
   (きっこう)のように、ひび割れた。この他多くの場内にあった長屋(下級武士の住居)
   が残らず倒れた。城下では数々の沖積層に建つ家々が倒壊、多くの土蔵が水路に
   落下した。金沢城のある台地では崖側の家々が犠牲となり、多くの家が崖下に落
   ちた。崖下では幅三尺余りの地割れから噴き上げた水が一丈(約3m)もの高さに及
   んだ。郊外では多くの集落が、地滑りや液状化現象による被害をこうむった。黒津
   船神社では一家が全滅したが、幼い子を抱いて逃げ出した妻は九死に一生を得
   た。石川県埋蔵文化財センターが調査した金石の普正高畠(ふじょうたかばたけ)、
   遺跡では最大幅30cmの砂脈が発見されたという。当時の地面からの深さ約1mに
   堆積していた砂礫層が流れ出し、江戸時代中期の地層を引き裂き、江戸時代末期
   の地層に覆われていたという。 

1800

 

1800(寛政12)年6月因幡で疫病が流行。
1801(享和1)年春から夏、安芸で麻疹が流行。
   8月19日備前・備中・因幡大風雨。(岡山県水害史)
   8月30日新発田藩領でつつが虫病が流行。
   8月備前・備中で風雨洪水。岡山城下で850戸が浸水。
1802(享和2)年3月16日江戸で風邪が流行。通称お七風邪。幕府、御家人に医薬品を、
   困窮町人に米と銭を与える。288000余人、総額10990両。(武江年表7/十三朝記
   聞6/徳川理財会要)
   7月1日摂津・河内で長雨。淀川堤防が決壊し、大坂をはじめ、237か村が洪水に襲
   われ、12万石が被害。また同日関東でも洪水。箱根温泉で大被害。(浮世の有様2/
   和漢年契/日本野史/続皇年代略記)
   11月15日佐渡で地震。(三災録)
   11月山城で地震。(十三朝記聞6)
1803(享和3)年3月4日江戸で大地震。(武江年表7)
   5月江戸で麻疹が流行。(文恭院殿御実記34/武江年表7/泰平年表)
   10月1日伊豆大島噴火。翌日江戸に降灰。
   (泰平年表/十三朝記聞6/武江年表7/文恭院殿御実記35)
   11月15日佐渡で地震。(日本災異誌)
1804(文化1)年6月4日出羽で大地震。硫黄臭の泥が吹き出す。山崩れと堂舎崩壊多数。
   西の松島と呼ばれた景勝地象潟湖が隆起し陸上に。死者400人、家屋8000戸が倒
   壊する。(文恭公実録上/十三朝記聞6)(6日説:文恭院殿御実記36/浮世の有様)
   ふと大地が二三尺持ち上がったように感じた。地震かな?と思う間もなく激しい揺れ
   が襲ったが、前の揺れより百倍を超す激しさ、前後を忘れ、まるで夢の中にいるよう
   だった。町中の多くの人が寝入っている頃で、多くの家が潰れた。外へ逃げようとし
   ても一歩も動けず、酒に酔ったようだったという。そばに居る子供や親を助けること
   もできず、多くは潰れたい絵の下敷きになり、家から逃げたものは稀だった(『金浦
   年代記』)。太陽が東の空を明るくするころ、人々の目の前に信じられない情景が広
   がった。象潟に浮かんだ無数の島々が一気に持ち上がり、一面の泥沼と、その中
   に点在する丘と化していた。村々の新田開発による造成地では砂が吹き上がって
   地面を埋めた。また半潰れとなった。川を遡って津波が入り込んで一面水浸しとな
   った。広大な田んぼが傷み、地盤が裂けて悪臭を放つ泥土が噴きだした。後世、東
   北大学の研究者は、この地の南北25km以上の範囲が隆起、象潟付近の海岸も
   1.8m持ち上がったことを証明した。海岸に沿う活断層が活動し、M7.1程の地震(象
   潟地震)を引き起こした。
   11月29日出羽に2000両を恩貸。(文恭院殿御実記37)
1805(文化2)年夏、江戸で旱魃。(文恭院殿御実記39/武江年表)
   出羽で大地震。(地歴/歴代大事記)
1806(文化3)年7月17日阿蘇山噴火。(日本災異誌)
1809(文化6)年2月21日24日にかけて松本山中鳴動。南北500余間、東西900余間の地裂
   あり、家屋田畑窪み落ちる。(地歴/歴代大事記/泰平年表/文恭院殿御実記44)
   8月23日関東で暴風雨。廻船多数漂没、死者多数。
   (武江年表7/泰平年表/十三朝記聞6)
   8月24日富士山崩れる。(日本災異誌)
1810(文化7)年1月1日佐渡大地震。連日やまず。(泰平年表/十三朝記聞6/地歴)
   8月27日出羽で大地震。男鹿郡内189戸が倒壊し、61人が死亡す。
   (一話一言遺補5/地震資料1-3)
1811(文化8)年1月3日伊豆山噴火。(伊豆七島志)
   7月この頃より西北北斗の上大尊と大陽守の間に彗星が出現する。当初光芒は短
   い。その後暁に東西に現れ、光芒は長くなる。立冬に向けてさらに南東に昇り、尾も
   長くなり、天頂を過ぎる。大雪に至り河鞁の少し上に留まり、尾も短くなり、光芒も薄
   くなる。(春波楼単記/続視聴草2ー2)
1812(文化9)年11月4日関東で大地震。神奈川−程谷2駅で被害甚大。家屋多数倒壊。
   (十三朝記聞6/武江年表7/地歴/泰平年表)
1813(文化10)年 薩摩諏訪瀬噴火。島民全員避難し、1883年まで無人島となる。
   (日本災異誌/日本火山総覧)
1814(文化11)年11月12日越後で大地震。家屋破壊無数。火災あり。死者3万余。牛馬
   6000余死亡。(甲子夜話続)
1815(文化12)年1月22日加賀で大地震。小松城大破。(石川県史2)
   5月阿蘇山噴火。
   6月28日尾張海東・海西両郡と美濃南部で洪水。(文恭公実録上)
   7月9日美濃で大洪水。大垣領、高須領で被害。12日にも洪水。(泰平年表)
1816(文化13)年11月2日伊豆松崎津波。民家漂失多数、死者多数。
   (泰平年表/文恭公実録上)
   伊豆で嶺水湧出。(十三朝記聞6)
1817(文化14)年2月蝦夷石狩で天然痘が流行。アイヌ人833人が死亡。
1819(文政2)年6月12日伊勢・美濃・近江・加賀・山城で大地震。(十五代史17/地歴/泰平  
   年表/石川県史2) 濃尾平野から琵琶湖周辺を含めた広い地域が大きく揺れた。被
   害が大きかったのは、木曽川・長良川・揖斐川(いびがわ)に沿う輪中地域(わじゅう
   ちいき)だった。『文化秘筆』の記述によると、桑名に近い香取村(現・桑名市)の40軒
   ほどの家がすべて微塵となった。海寿寺ではちょうど法談を聞くため数万の人出が
   あったが、寺の建物が崩れ、75人が即死。怪我人は数え切れぬほどであった。
   土蔵や建屋の破損はもちろん、大地には泥土が噴出した。伊勢湾沿岸の四日市
   では、中町、河原町、西町の土蔵の瓦が落ち、地中から泥水が三・四尺ほど噴き上
   がった。彦根では、105軒の家があり、そのうち70余軒が崩壊した。
   夏、俗称コロリが流行。(武江年表8)  
1821(文政4)年2月30日江戸で風邪が大流行。タンボ風邪と称す。施薬・米・銭下賜。
   (泰平年表/武江年表8/文恭院殿御実記56)
   3月29日蔵王山が噴火する。
   11月19日奥州で大地震。家600余戸倒壊。人馬死傷多数。翌月12日には収まる。
   (甲子夜話4)
   12月20日霧島山が噴火する。
1822(文政5)年1月4日奥州で地震。去冬よりも甚し。(甲子夜話4)
   閏1月16日19日にかけて奥州で地震150余回。(地歴/十三7/泰平年表)
   閏1月19日有珠山が噴火する。火砕流で虻田集落が全滅し、死者50人負傷53人。
   (日本火山総覧)
   2月16日奥州で地震。(文恭公実録下)
   6月12日畿内で地震。江川八幡被害。(浮世の有様2)
   8月山陰山陽で10月にかけてコレラが流行する。
   (大阪市史2/内務省衛生局雑誌14/古列亞沒爾蒲斯説)
   天然痘が流行。11月27日4歳にして文才を発揮した松平露姫も死す。
1823(文政6)年10月8日天を光物が通過し、早稲田の御家人の住居玄関の所に石が落ち
   る。屋根を破壊、破片が飛散する。これより7、8年前にも八王子の農家の畑に大石
   が落下。焼石の如し。4尺大で、赤く黒く、雲の如く火炎の如く、鳴動回転して中天を
   東北より西方へ飛ぶ。飛行の跡は火光の如く、余響を曳くという。
1824(文政7)年1月1日土佐で大地震。(文恭公実録下)
   6月諸国で風と麻疹流行。薩摩風と呼ばれる。(日本の医の歴史)
   7月15日陸奥安達郡で、3日よりの大雨によって鉄山と呼ばれる山が中途から崩
   落。温泉小屋など13軒が押し潰され、21軒が大破。湯治客など男45人、女20人
   が死亡。51人が負傷する。(視聴草2)
   8月14日関東から東北にかけて大風雨。江戸で洪水。
   (文恭院殿御実記59/泰平年表/十三朝記聞7/武江年表8)
1825(文政8)年3月安房朝夷郡大井村五反目の百姓丈助、早朝に石が落ちるのを目撃。
   見に行くと穴があり、掘ると赤く輝く鶏卵の如き玉が現れる。「かね玉」なるべしと持
   ち帰り、人に見せると「かね玉」という。追々富貴になられんとて、見る人これを羨み
   ける。(兎園小説7)
   10月琉球大飢饉。(泰平年表/十三朝記聞)
1826(文政9)年春と秋に江戸で地震頻発。
   (地歴/武江年表8/十三朝記聞7/泰平年表/文恭公実録下)
   9月2日阿蘇山噴火。(日本災異誌)
1827(文政10)年5月諸国で感冒流行。津軽風と呼ばれる。(日本の医の歴史)
   阿蘇山噴火。(日本災異誌)
1828(文政11)年6月30日翌1日にかけて大風雨により全国で洪水。被害563万石。
   (続徳川実紀/文恭院殿御実記63/徳川十五代史17/泰平年表/十三朝記聞7)
   7月九州、安芸で洪水。(日向郷土史年表/文恭公実録下/浮世の有様1/広島市史)
   11月12日越後で大地震。三条・見付が壊滅し、少なくとも1443人が死亡(3万余と
   も)。(大地震暦年考/徳川十五代史17/文恭院殿御実記実記下/越後地震口説/浮
   世の有様) 越後の出雲崎出身の良寛和尚は、そのとき71歳だったが、突然の地震
   に遭遇し、被害が酷かった三条まで足を運んだ。言語に絶する惨状を眼にし、「かに
   かくにとまらぬものは涙なり人の見る目もじのぶばかりに」と詠んだ。このときに作っ
   た漢詩では、この40年間、人倫の道を軽く見て、太平を頼んで人の心がゆるんだこ
   とが天災を招いた、としている。雪の降り積もる中で、突然、雷のような地響きと共
   に大地が激しく揺れた。家並みが将棋のコマのようになぎ倒された。良寛も体験し
   た三条地震である。ちょうど年の瀬を前にした「市」の日に当たり、三条では、早朝
   から煮物をして火を使っていた。煮売り店の五ヶ所をはじめ、十三ヶ所から燃え広が
   った炎は、町全体を一気に覆った。仏閣なども残らず消失し、迫り来る猛火は三里
   四方に広がった。民家や蔵など約500軒が全潰、1062軒が消失、205名が命を落と
   した。周辺の「燕市」でも全潰269軒、死者221人、「見付(みつけ)」では全潰545軒、
   死者127人、与板(よいた・現・長岡市)では全潰263軒、死者34人、長岡で潰屋三千
   数百、死者442人、という大災禍となった。活断層から発生した内陸地震だったが、
   活動した断層は特定されていない。信濃川に沿う沖積低地では、広く液状化現象
   が起き、畑に生じた三四尺、一丈の割れ目から黒砂混じりの水が噴出、畑は水面と
   なった。信濃川流域をはじめ、この地域では平安時代から液状化現象の記録や、
   遺跡が多いという。
1830(天保1)年7月2日京と山城で地震。倒壊多数、京で死者280人。8月20日まで昼夜余
   震続く。(日本編年大事記/徳川十五代史17/浮世の有様2/文恭公実記下/信越地
   震記/甲子夜話続49)(泰平年表/大地震暦年考/十三朝記聞7) 京都北西部で、中
   規模(M6.5)程度の地震が発生した。石垣、塀、築地などが多く倒れ、京都の死者は
   約280人だった。この年は不作が続き、「天保の大飢饉」で多くの人が餓死した。
   7月2日阿蘇山崩壊し、人家田畑壊滅す。津波あり。
   諸国大飢饉。(日本凶荒史考/歴朝坤徳録/文恭公実録下)
1831(天保2)年2月1日京大坂亀山で地震。8日、16日にも地震。(浮世の有様)
   5月8日畿内で地震。16日にも地震あり。(浮世の有様)
   7月浅間山噴火。頂上が崩壊。熱湯が噴出し、3、40里を浸し、流出家屋、死傷者多
   数。(歴史地理43)
1832(天保3)年9月江戸で感冒流行。琉球風と呼ばれる。(日本の医の歴史)
   11月22日江戸で大地震。(文恭公実録下)
   11月江戸で風邪が流行。町会所が貧民に米を与える。
1833(天保4)年4月9日江戸で地震。15日にも地震あり。(浮世の有様2)
   8月1日関東から東北にかけて大風雨。(泰平年表/日本災異誌)
   東日本で飢饉続く。(天保飢饉奥羽武蔵聞書)
   10月26日出羽・越後・佐渡で大地震。庄内地方で被害甚大。死者約100人。
   (日本被害地震総覧)
1834(天保5)年1月1日西蝦夷石狩で地震。81戸全半壊。(談海続15) 北海道の石狩平野
   が激しく揺れた。『天保雑記』によると、「西蝦夷地の内イシカリと申すところ、当正月
   朔日(1日のこと)巳の刻過ぎより地震強、2月22日(旧暦)」迄、日々地震にて、地割れ
   泥、噴き出、(中略)破損。との報告があり、蝦夷人の家を含む多くの建屋が損壊し
   た。
   4月8日富士山大荒、近国震動す。(泰平年表/十三朝記聞7/地歴)
   12月28日4月より出羽で疫病が流行。秋田藩では52464人が死亡。
   この頃、京師にハゼ、ウルシの実が降る。(本草綱目啓蒙23)
1835(天保6)年6月26日仙台で大地震。津波あり。流出家屋、死者多数。
   (地歴/25日説:十三朝記聞7/泰平年表)
   8月中旬奥羽大雪。(浮世の有様2)
   9月21日雄山噴火。(伊豆七島志上)
   諸国で風疹流行。三日はしかと呼ばれる。(日本の医の歴史)
1836(天保7)年6月19日深夜から翌早朝頃、毛が降る。長さ5、6寸から6、7寸。白く、黄色
   を帯びる。(遊芸園随筆)
   8月諸国大洪水。米価が高騰。(堂島旧記)
   大飢饉深刻化。(十三朝記聞7/曲亭雑記)
1837(天保8)年 東日本で大飢饉続く。(津軽藩日記/津軽藩歴代記類/八戸藩史稿
   /東藩史稿/天保飢饉録/飢歳懐覚録/天保集成)
1841(天保12)年口永良部島で噴火。村落焼亡し死者多数。(日本火山総覧)
1843(天保14)年2月7日西南に彗星出現。(百草露10/息軒遺稿1)
   3月26日明け六つ頃 北海道南東部の海岸へ大津波が押し寄せた。『松前家記』に
   は「国後、根室、厚岸・釧路地方が大いに揺れ、海水が陸に溢れ、溺死するもの四
   六人。家を壊さる75戸。船を破る61艘。番所や蝦夷人の家は津波によって一軒残ら
   ず流れ去った、と、強い揺れと津波が記録されている。十勝沖のプレート境界から
   発生した巨大地震。その後に近代の調査により、17世紀にも十勝沖から根室沖に
   いたるプレート境界で大きな地震が発生、最大波高10mを超える津波が押し寄せた
   ことが明らかになっている。
1844(弘化1)年2月2日越後今町で海嘯。(日本災異誌)
   2月20日岩木山噴火。(日本災異誌)
1846(弘化3)年3月24日信州で地震。家屋倒壊火災多数。飯山で死者多数。(地歴)
   6月9月にかけて諸国で長雨。畿内・四国で洪水。
   (徳川十五代史19/慎徳院殿御実記10/続泰平年表)
   12月8日江戸で大地震。(続泰平年表)
1847(弘化4)年3月24日善光寺大地震。参拝者などを含め死者16000人、家屋倒壊34000
   戸。山崩れで犀川、土尻川、裾花川堰止められる。(慎徳院殿御実記11/十三朝記
   聞7/今日抄/徳川十五代史19)(続泰平年表/地震1-8/談海続19/歴史地理4-3) 
   善光寺で地震。浅間山も噴火。焼死者数千とも3万とも言う。(武江年表/続泰平年 
   表) 亥の刻(午前10時)少し過ぎに大きな地震があり、月番家老の河原綱徳(かは
   ら・つなのり)は急いで登城しようとしたが、非常服を取り出すどころではなく、行燈の
   灯が揺り消えて、よろけ出る間に三度も転んだ。『むしくら日記』。町方では多くの潰
   屋があり、死者も多く、家に埋もれた人が多かった。西の空が赤いので土手から眺
   めると、西山手から東山手までの七ヶ所くらいが猛火につつまれていた。北方で善
   光寺付近と、清野山(きよのやま)を越えて稲荷山付近は火事が強烈だった。信濃の
   有名な善光寺はちょうど数年に一度の、ご本尊ご開帳の年、数万人の善男善女が
   全国から集まっていた。善光寺の中にあった宿坊(宿泊施設)46のうち、44が焼失し
   た。町方の宿泊施設は殆どが焼け落ちた。(『信州地震実記』)。焼死・圧死が千人ほ
   どとされるが、実際には何千人か分からない。逃れた人も多いが、およそ七割が死
   亡したと思われる。すなわち死者は一万人を超すと考えられる。長野盆地の被害は
   凄まじく、川中島周辺の民家はすべて揺り倒れた。また筑摩山地では地滑りが生じ
   た。山崩れで流れが堰きとめられ、二週間後の5月22日午後2時過ぎ、20mの高さの
   水が一気に流れ落ち、四軒だけ残しすべての家々が流された。予測可能な出来事
   だったから犠牲者は100人余りに留まった。長野県埋蔵文化財センターの発掘調査
   では、弥生時代後期から古墳時代、奈良時代に多くの断層激震の跡が見られると
   いう。
   4月10日土尻川決壊。(日本被害地震総覧)
   4月13日犀川決壊、大洪水が起こる。流出810戸、浸泥2135戸、死者100余人。
   (日本被害地震総覧)
   7月20日裾花川決壊。(日本被害地震総覧)
1848(嘉永1)年5月2日信州大雪2尺。9日今日に雪、18日にも雪が降る。(今日抄1)
   5月8日江戸で大地震。(続泰平年表)
   6月5日大雨により鴨川・宇治川氾濫。(今日抄1/続泰平年表/慎徳院殿御実記12)
   8月12日翌日にかけて京阪で洪水。(今日抄1/大阪市史3)
   9月越前で地震。損失多数。(地歴/歴代大事記)
1850(嘉永3)年7月21日尾張で暴風雨。
   8月3日尾張で暴風雨。
   9月3日尾張で暴風雨。
1852(嘉永5)年12月17日信州で大地震。(続泰平年表)
1853(嘉永6)年2月3日江戸と東海道で大地震。小田原被害甚大で2200余戸、土蔵1148
   棟倒壊。死傷700余人。温泉破裂、岩石樹木倒壊多数。(近代月表/嘉永明治年間
   録)
   3月13日江戸などで地震。(嘉永明治年間録1)
   6月2日相模大山・浦賀に氷降。(嘉永明治年間録2)
   7月17日彗星酉上刻に出現。長さ3尺。24日の後に見えなくなる。(嘉永明治年間録)
1854(安政1)年6月15日伊賀を中心に大地震。倒壊多数で圧死800余人など。(地震1-6/
   十三朝記聞2/今日抄)(徳川十五代史20上/泰平年表/続泰平年表/地災撮要/嘉永
   明治年間録/温恭院実記) 正午過ぎに大きく揺れ、二十数回小さく揺れた後、翌日
   は穏やかになり、安心して寝入った7月9日の午前2時頃(15日丑刻)に「古今無双」
   の大地震に見舞われた。『見舞到来並雑記』によると、7日の地震では石灯籠を損
   ねる程度だったが、9日の地震では、家々で死人や怪我人が多く、まったくのパニッ
   ク状態となった。この地震は「伊賀上野」を狙いうったようだった。死者900、潰れた
   戸数2250戸、怪我人や半壊家屋は何千とも分からない。朝野(ちょうや)、長田、東
   村あたりでは、地面が七、八尺(2-2.5m)下がり、服部川と佐那具(さなぐ)川の合流
   部は湖のような淵となり、青田の底から白砂が吹き出し、地割れの中から乳のよう
   な白水が流れ出した。一方、伊勢湾沿岸では、多くの寺社が火災により焼失した。
   奈良盆地の沖積低地の被害も夥しいものがあった。2400ほどの家々が崩れ、死者
   はおよそ200人、全体では相当数になったと思われるがはっきりしない。安土桃山
   時代に地震となった断層跡があり、この断層が江戸時代に動いたものと見られる。
   11月4日東海道を中心に関東以西の広範囲にかけて大地震。M8.4。掛川城、福井
   城が大破、駿府城破損。佐夜中山、袋井、三島、沼津、甲府、鍬沢など家屋壊滅。
   倒壊家屋8300戸、死者1万余。津波で下田が壊滅し、停泊していたロシア軍艦ディ
   アナ号も大破し後沈没。津波はサンフランシスコに至る。翌日の南海大地震との区
   別が出来てない史料が多い。(大地震暦年考/温恭院実記/続泰平年表/嘉永明治
   年間録/近代月表/維新日誌)(十三記聞/今日抄/土佐群書類従88,89/三災録上/
   大阪市史2/地震1-6)
   ロシア大使のプチャーチンが乗った「ディアナ号(英語=ダイアナ)」は幕府の指示で
   伊豆下田港にいた。福泉寺で川路聖謨(かわじ・としあきら)らと厳しい交渉が始まっ
   た。翌日、1854年12月23日午前9時過ぎ(嘉永7年11月4日五ッ半過ぎ)大地が激しく
   揺れ、東海地域を中心とした太平洋沿岸が大津波に襲われた。高台の長楽寺に滞
   在していた村上淡路守の『下田記行』によると,市中の人家の中に四、五百石の船
   が二,三艘流れ込み、門前町まで水が来ていた。秋葉神社の山へ登ってみると、い
   ったん水が引いた後に、まもなく二度目の津波が押し寄せた。勢いが凄まじく、たち
   まち防波堤を押し崩し、千軒余りある人家を片端から将棋倒しにした。黒煙を立てて
   船を押し込み、家が崩れ、人々は泣き叫び、地獄とはこんなものかと思った。引き波
   になり家々のすべてをすべて押し流し、また津波が七、八回押し寄せた。二度目の
   津波で下田の町は野原になった。一方、ディアナ号は地震で一分間ほどひどい揺
   れを感じ、午前10時にひどい大波が襲い、二度目の波が湾内にうねり込むと、浮い
   ていたボート類をすべて岸へ運び去った。波が引くときには、下田の町のすべての
   家屋が湾内に洗い落とされた(『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)。ディアナ号
   は島のほうや岸のほうへ激しい勢いで引き寄せられ、30分間に42回も回転した。船
   は左に傾き、海水が浸入、舵機が破損し下頭部と船尾の大半が破壊された。この
   間、艦の側を生存者たちが流れていった。乗組員は救命綱を降ろすなどの救助を
   行った。修羅場に足を踏み入れたプチャーチンは医師らを連れ、負傷者の治療に協
   力したいと申し出た。
   川路聖謨の『下田日記』には「ロシア船も三人まで助けたり。魯人の話では,同船脇
   を百人も、通りたりと也。ロ人は死せんとする人を助け、厚く治療の上、あんままで
   する也。助けらるる人々、泣きて拝む也。恐るべし。心得べき事也」と、ロシア人の
   献身的な救護活動に感銘を受けている。地震から二、三日後、ディアナ号は修理の
   ため、伊豆半島南端を回って、北西岸の戸田(へだ)に向かった。このとき住民が総
   出で小船を出して手伝ったが、嵐が来ることを予感し浜へ逃げ去った。この嵐でディ
   アナ号は沈没したが、乗組員は助かった。艦を失った五百人ほどの将兵に対し、川
   路聖謨らは迅速な救援活動を行った。2月7日に長楽寺で「日露和親条約書」が締
   結された。幕府が費用を負担して、戸田湾(へだわん)で小型の西洋艦が作られるこ
   とになり、全国から船大工が戸田に集まり、西洋船の作り方を実地に学んでいる。
   日本初の西洋式帆船は戸田の知名にちなんで「ヘダ号」と名づけられた。後に娘の
   オルガ・プチャーチナが戸田を訪れ、住民たちに感謝の気持ちを伝えた。地震から
   13日後に元号が変わったため、この地震は「安政東海地震」と呼ばれる。
   11月5日西日本で前日の32時間後に別の大地震が発生。M8.4。大津波などで8万
   余戸が被害、死者3000余人か。特に土佐では高知城が大破したほか、城下壊滅。
   津波は北米に達する。史料は前日の地震と混同が多い。(地震予知連絡会会報35/
   日本被害地震総覧)
   紀伊半島南端(串本)では、前日に起きた東海地震に驚いた人々が山へ逃げ込み夜
   を明かしていた。翌日、荷物を持って家に帰ると、夕方になってさらに激しい揺れに
   襲われ、家屋がきしみ、屋根瓦が落ち、軒は傾き人々の泣き叫ぶ声が響いた。やが
   て、潮が引いて海底が赤く見え、津波を恐れた人々はいっせいに山へ戻った。その
   直後、高さ3丈(約9m)近い津波が襲った。80軒の家が呑み込まれたが、死者はな
   く、浦神(うらかみ)では死者7名。一方、尾鷲では、すべての家が流され350人が犠
   牲となった。四国南東部では東海地震の揺れや津波は小さかったが、突然襲った
   南海地震によって大被害が発生した。個人日記によると東海地震については大した
   ことがなかったが、翌日の安政南海地震については、「浜は一面荒磯のごとくなり、
   数隻の小船が畑に打ち上げられ、八十石積みの船が二艘、浜へ錨を引きながら打
   上げられた。大半の人々が海へ流された」と書いている。高知県のある神社では42
   段の石段があり、「宝永地震」のときは舌から39段までが波に浸かったが、今回の
   地震では下から7段までだった。ちなみに、1946年(昭和21年)の「昭和南海地震」で
   は石段まで到達していない。室戸岬は南ほど高くなるように隆起した。室津港は四
   尺(約1.2m)ほど上昇したから、大きな船の出入りが困難となった。吉野川下流の徳
   島県板野郡では、村々の土地が、一面に裂けて土砂を含んだ水を吹き出し、あたか
   も鯨が潮を吹くような光景があちこちに見られ、白い砂の海のようになったと『大地
   震実録記』に記録されている。淡路市教育委員会の調査により、著名な寺院の敷
   地が中世以降の地震により、何度も滑り動いたことが明らかになった。また幕末の
   滑り跡があり、「安政南海地震」の痕跡と考えられている。
   大阪市外では「ふと大地震ゆり、その長きこと甚しくして、家めりめりいう音おそろし
   き。人々外へ出、右往左往にてんでんす。先夏(伊賀上野地震)」よりはまたまたひど
   しという。」(『近来年代記』)大きな横揺れが2分以上続いた。家々は壊れ、土蔵が崩
   壊した。大阪湾に進入した津波は、地震から約2時間後に大坂の沿岸に達し、天保
   山付近では2mに近い高さになった。多くの水路には、「地震のときは船が安全」と誤
   解した人々が避難していた。河口に達した津波は海岸に停泊していた千石船を押し
   流しながら河川や水路を遡り、橋を打ち壊しながら大船が無数の小舟の上に乗りか
   かり、折り重なりながら上流に向かって流された。(河田恵昭『都市大災害』近未来
   社)。大船も小舟もすべて津波に打上げられ、あるいは打ち払われ、微塵となり、ま
   た内川へ押し込まれ、大船の帆柱にて橋橋を打ち落とし、道頓堀川の大黒橋まで、
   1400艘の大船押し登り、船の上に船、二重三重にかさなり、亀の甲羅を干すがごと
   く」とあるそうだ。多くの人々があっという間に水底に沈んだ。地震の翌年、木津川の
   渡し(現・大阪市浪速区の大正橋東詰)に、犠牲者の霊を弔う石碑が建立され、惨劇
   の様子が記録されているという。宝永四年にも同じようなことがあり、悲劇が繰り返
   されたことを嘆いているという。
   11月7日伊予、豊後、日向北部で地震。先の2大地震とは別の震源。被害は記録上
   2大地震と正確な区別ができず。先の地震で残っていた家屋が倒壊したという。(日
   本被害地震総覧)
   11月24日増上寺で地震津波祈願。(続泰平年表)
   江戸で風邪が流行。あめりか風邪と呼ばれる。(日本の医の歴史)
1855(安政2)年1月2日土佐で地震。
   9月28日東海地方で地震。掛塚、下前野、袋井、掛川辺などで被害甚大。山形から
   山口に掛けての広範囲で揺れを観測。前年大地震の余震か。(日本被害地震総覧)
   10月2日江戸で、夜直下型の大地震。M6.9。死者7468人以上(10万余という史料
   もある)、重傷2000余人。家屋倒壊15294戸。下町は倒壊と火災で壊滅。山手、多摩
   の被害は軽度。地震前に発光物体が飛行する、湧水、地鳴り、磁石から釘が落ちる
   などの現象あり。佐久間象山はこの事を元に磁石を使った地震予知機を作る。材木
   などが急騰。(続泰平年表/震災予防調査会報告86)
   下から突き上げられるような衝撃が江戸の町を襲った。歌舞伎役者の中村仲蔵(な
   かぞう)は、弟子の踊りの稽古から帰ろうと身ごしらえをしていると、地がドドドと持ち
   上がった感じがしたから、すぐに地震と気づいたが、立って歩こうとすると揺れが凄
   く、足をとられて思うように歩けなかった。(『手前味噌』)。また当時16歳の佐久間長
   敬(江戸町奉行与力)は、寝床に入ったばかりだったが、西の方角からゴウゴウとい
   う響きが耳に入り、頭を上げたが、夜具ごと三・四尺ほど投げられたように感じた。
   障子、襖はガラガラと崩れ、壁は落ちた。枕元で裁縫していた姉二人は、泣き叫び
   ながら長敬の上に重なり、その重みで起き上がれなかった。そのうち、近所の茅場
   町あたりの町屋から、「火事だ、助けてくれ」という女の叫び声を聞いた。忽ち火の
   粉が舞ったが、いつもの火事と異なり警鐘・版木・太鼓も鳴らなかったので、江戸全
   体が大変なことに成ったと思った。ドロドロと雷が鳴り響くような音がして地面が揺れ
   始めた。往来の人はうずくまり家では畳にひれ伏し、棟や梁で圧死するかと生きた
   心地がしなかった。穏やかになった頃、八方から出火し、我先にと逃げ出した。家に
   残る人はまれで、老若・男女・貴賎の差別もなく往来にひざを連ねたという。(『安政
   大地震実験談』)本所・深川・浅草・下谷・神田小川町・小石川では震度六と推測さ
   れる。死者は一万人ほど、多くは圧死で、裏通りの密集した棟割長屋(むねわりな
   がや)の住人が多数犠牲となった。火事は翌日の昼頃までに、2.2km2が焼け落ち
   た。火災の被害が著しかったは新吉原。周囲を「おはぐろどぶ」に囲まれ、出入り口
   は大門だけ。火の海となった遊郭で、客と遊女の千人余が犠牲となった。このとき
   「尊皇攘夷」を言い出した水戸学の大物、藤田東湖が江戸の水戸藩邸で圧死した。   
   このため水戸藩は衰退の一途をたどっている。
   10月4日幕府、窮民救済のための小屋を建てる。(震災動揺集)
   11月16日江戸で地震。
1856(安政3)年7月23日奥州南部で大地震。東北から函館にかけて津波あり630余戸流
   出倒壊破損。南部藩で26人、八戸藩で5人死亡。(続泰平年表/嘉永明治年間録4/
   今日抄2/青森県史5/北海道志)
   8月25日江戸で大風雨。地震以上の被害を出すという。
   8月26日蝦夷駒ヶ岳噴火。石が降り、廬舎焼失あり。死者20数人。
   (北海道志/27日説:嘉永明治年間録4/日本火山総覧)
1857(安政4)年5月23日駿河大地震。(続泰平年表)
   閏5月23日駿河大地震。津波で興津隣村が被害。(今日抄2)
   7月23日京で地震。(続泰平年表)
   8月25日伊予、安芸で地震。今治城内、松山城内破損。大洲でも地震。倒壊家屋若
   干。5人死亡。(広島市史3/今日抄2/日本被害地震総覧)
1858(安政5)年2月26日飛騨、越中、加賀、越前で大地震。富山城、金沢城、勝山城など
   で被害。山崩れが多発し常願寺川支流の各所が堰止められ、3月10日と4月26日
   に決壊洪水。死者426人、負傷646人。(地震1-2/石川県史3)
   富山・岐阜両県が激しい揺れに襲われた。現・飛騨市の元田(げんだ)小学校の校庭
   に置かれた碑文には、飛騨・越中・越前に起きた大地震は、飛騨では小島・小鷹利
   (こたかり)・下高原・下白川の四郷七十箇村に被害を与え、全壊寺院9、全壊民家
   312、半壊寺院7、半壊民家370、即死203人、負傷45人、死んだ牛馬87。さらに、山
   の一角が欠け落ちて、9戸の53人が家と共に地底深く埋もれ、荒町清蔵のむすめだ
   けが奇跡的に死を免れたことなどが記されているとのこと。河合村から跡津川(あと
   つがわ)断層が西南西方向に延びているが、この断層の活動によって「飛越地震」
   が発生した。跡津川(あとつがわ)断層の東端では、立山連峰にそびえる大鳶(おおと
   んび)山と、小鳶(ことんび)山が激しい振動で崩れ落ち、立山温泉を埋めるとともに、
   常願寺川最上流の湯川(ゆかわ)や真川(まかわ)を塞き止めた。日本の河川工学に
   影響を与えたオランダ人技師デレーケが「滝のようだ」と驚いたほど急峻な常願寺
   川。下流の人々は大洪水の恐怖におびえる日々を過ごすことになった。2週間後の
   4月23日の午後十時頃。長野県の大町付近でM7.5程度の中規模地震が発生し、
   これを引き金にして湯川の堰が崩れ、巨礫や大木を巻き呑んだ「泥洪水」が常願寺
   沿いの村々を襲った。正午ころになって、常願寺川の川筋一面に黒煙が立ち上り、
   大岩や大木などの森羅万象を一気に押し流し、水は一滴残らず流れ落ちた。大岩
   と小さな岩がぶつかり合って黒煙が立ち上った。川下のほうは常願寺川の川幅が
   広くなり、泥・砂・大岩・大木などが一丈もたまり、一面が平らになった。4月26日に
   は真川の堰が崩れて泥洪水が押し寄せた。今度は西岸地域を押し流して、加賀・
   富山両藩の三万三千石余りの田畑が壊滅した。
   3月10日信濃大町で地震。倒壊71戸、蔵7棟。家屋破損多数。(日本被害地震総覧)
   7月長崎で発生したコレラ(暴瀉病)の流行が江戸に至る。
   (頃痢流行記/古呂利考/武江年表)
   8月10日彗星乾方出現。16日夜に至り見えなくなる。(嘉永明治年間録2)
1859(安政6)年9月9日広島で大地震。11日にも大きな余震。厳島神社に万民安泰の祈
   願を行う。(広島市史3)  
1860(万延1)年2月桜島噴火。(日本災異誌)
1861(文久1)年5月22日亥方異星あり。光芒長し。(武江年表10/嘉永明治年間録10)
1862(文久2)年7月15日戌刻、星隕雨の如し。
1865(慶應1)年1月28日播磨・丹波で大地震。杉原谷で被害。(日本災異誌)
1867(慶應3)年2月8日信州で地震。11日まで続く。(嘉永明治年間録16)
   秋、蔵王山噴火。硫黄混じりの泥水が溢れ、洪水となる。死者3人。(日本火山総覧)
1872(明治5)年2月6日石見、出雲で大地震。揺れは西日本の広範囲に至る。液状化と小
   津波あり。三原城で被害。浜田県で倒壊4049軒、死者536人。出雲県で倒壊457
   軒、死者15人。(日本被害地震総覧) 浜田県・出雲県(両方とも現・島根県)では、ご
   く小さな地震が一週間前から続いていた。この日も午前11時頃に小さな地震があ
   り、午後3時過ぎに比較的大きな地震があった。その後、小さな地震が起き、海水が
   沖に向かって移動し始めた。そして、午後4時40分頃、異様な地鳴りと共に大地が激
   しく揺れ動いた。浜田から大田(おおだ)にいたる海岸沿いの数十キロの範囲では、
   半分以上の家屋が全壊し、死者五百数十人、全壊家屋四千数百軒、焼失家屋二三
   ○軒という大災禍となった。浜田地震(M7.1)と呼ばれる。地震学者、今村明恒の調
   査によると、浜田付近と川波(かわなみ:現・江津市)〜唐鐘(とうがね:現・浜田市)間
   で地面が最大1.5m隆起し、浜田から唐鐘までの間で約1m沈降していた。海岸に沿
   う海底の活断層が、南側が隆起するような活動を行ったためと考えられている。地
   元の国学者、藤井宗雄は「すさまじき音と共に天地も崩れるがごとく震い出るに、家
   々片端より倒れ、親を助け、妻を救う術(すべ)なく、兄弟は在所を異にし、児孫は行
   方を失い、ただ、めいめいの身命を助からむと、慌てて走るうちに、そこここより火い
   出て焼け上がり、鬢髪(びんぱつ)を焦がし、手足を爛し、息も絶えぬに火炎に悶え
   苦しみ、棟梁に腰を打ちくじきて、泣き叫ぶなど、眼も当てられぬ有様なり」と筆を走
   らせている。
1882(明治15)年5月29日秋にかけてコレラ流行。全国で死者33784人
   (東京だけで5076人)。
   7月25日那覇、首里一帯で強い地震。石垣の破損多し。余震42回。8月11日にも大
   きな余震。(日本被害地震総覧)
   8月6日草津白根山湯釜が噴火。泥土により弓池が埋没。(日本火山総覧)
1883(明治16)年8月16日渇水により和歌山で分水騒動。他にも各地で発生する。
1884(明治17)年 諏訪之瀬島大噴火。溶岩流出する。(日本火山総覧)
1885(明治18)年 コレラ、赤痢、腸チフスが流行。
1886(明治19)年6月8月にかけて渇水。水騒擾が各地で起こる。
   天然痘、腸チフスが流行し、死者3万人を越える。
1888(明治21)年7月15日磐梯山が噴火。小磐梯山が爆発完全崩壊し、大規模な岩屑流
   で麓の秋元、細野、雄子沢の3村は全滅。死者461人。新聞の写真掲載が始まる。
   桧原湖、秋元湖が生じる。(日本火山総覧)
1889(明治22)年7月28日熊本市を中心に大地震。倒壊家屋239軒、半壊236軒。死者20
   人、負傷者54人。
   8月3日熊本で大余震。この地震で遠地地震観測が始まる。
   (震災予防調査会報告92/日本被害地震総覧)
1890(明治23)年2月インフルエンザが流行する。
   6月コレラが流行。年末までに死者35227人。
1891(明治24)年10月28日早朝濃尾地方で大地震。仙台から九州までの広範囲で揺れを
   観測。震度6。岐阜、大垣、名古屋などで被害甚大。死者7273人、負傷者17175人、
   家屋全壊142177戸、半壊80324戸。橋10392、堤防7177ヶ所が破損、10224ヶ所で
   山崩れ。3日間で烈震4回、強震40回を観測する。9月7日、翌年1月3日、同10日に
   余震で被害。(日本被害地震総覧)
1892(明治25)年 震災予防調査会が発足。
   天然痘流行。死者33779人。
1893(明治26)年5月19日吾妻山燕沢で爆発。噴石降灰あり。調査員2名が死亡。
   (日本火山総覧)
   天然痘、赤痢が流行。天然痘死者11852人、赤痢死者41283人。
1894(明治27)年6月20日東京、神奈川で大きな地震。東京府内で死者24人、全壊22軒。
   神奈川で死者7人、全半壊40軒。鹿鳴館にも被害。詳細な調査が行われた初の地
   震。(日本被害地震総覧)
   10月22日庄内平野で大地震。全壊3858軒、半壊2397軒、全焼2148軒。死者726人
   など。土地の隆起沈下、山崩れなど多数。(日本被害地震総覧)
1895(明治28)年2月15日蔵王山爆発。御釜が沸騰し川魚多数死す。有毒ガス発生。3月
   22日白石川で洪水。(日本火山総覧)
   3月4日流星多数出現。愛媛県に隕石が落下。
1896(明治29)年6月15日三陸地方に弱い地震。およそ40分後に大津波が襲来。9879軒
   が流出、倒壊1844軒。船6930艘に被害。死者26360人、負傷者4398人。村落集団
   移転を行った集落は1933年の津波で被害は軽微だったが、移転しなかった集落は
   再度甚大な被害を受ける。
   8月31日秋田、岩手県境山間部で大地震。揺れは広範囲で観測するが、強い揺れ
   は山間部の極狭い範囲に集中。死者209人、負傷者779人、全壊5792軒、半壊
   3045軒、山崩れ9899ヶ所。梅ノ湯温泉などで量と温度に変化。(日本被害地震総覧)
   赤痢、腸チフスが流行。赤痢死者22356人、腸チフス死者9174人。
1897(明治30)年7月8日草津白根山爆発。硫黄採掘所全壊。31日にも爆発し、噴石と泥
   土が発生。(日本火山総覧)
1899(明治32)年3月7日紀伊半島南東内陸で地震。死者7人。山崩れ多数。太平洋郵船
   のタコマ号が海震を観測。(日本被害地震総覧)  

1900

 

1900(明治33)年7月17日安達太良山噴火、噴石。硫黄採掘所が全壊し、死者72人、負傷
   者10人。(日本火山総覧)
1901(明治34)年8月9日青森東方沖で地震。死傷者18人。家屋破損多数、小坂鉱山の大
   煙突が倒壊する。
1902(明治35)年8月7日頃伊豆鳥島数カ所で大爆発があり、島民125人全員が死亡する。
   10月6日横浜でペスト患者発生し、交通閉鎖、家屋取り壊し、ネズミ買上げを行う。
1903(明治36)年3月硫黄鳥島噴火。全島民が久米島に避難。(日本火山総覧)
1904(明治37)年11月14日漁民が福徳岡ノ場と呼ぶ海域で海底爆発。
   12月5日新島が生成。(日本火山総覧)
1905(明治38)年6月2日芸予地震。1903年以降地震が頻発。死者11人、負傷者177人。
   鉄道などに被害。埋め立て地で被害。(日本被害地震総覧)
1907(明治40)年8月24日関東で大暴風雨。流出家屋187000余戸、死者460人。
1909(明治42)年8月14日江濃地震。死者41人、負傷者784人、全壊978軒、半壊2444軒。
   (日本被害地震総覧)
1910(明治43)年5月19日ハレー彗星最接近。噂が先行しパニックとなる。
   7月25日有珠山噴火。45個ほどの爆裂火口が生じ泥流が発生。明治新山を生じる。
   死者1人。噴火前に地震。(日本火山総覧)
1911(明治44)年6月15日喜界島付近で地震。死者7人、負傷者26人、全壊418軒、半壊
   565軒。石垣の崩壊多数。西日本全域でかなり強い有感を感じる。
   (日本被害地震総覧)
1914(大正3)年1月12日桜島大爆発。地震も伴う。溶岩が大量に流出し、3集落を呑み込
   み、大隅半島に達し陸続きとなる。噴火と地震で死者35人、行方不明23人、負傷者
   112人。全壊120軒、半壊195軒、焼失2148軒。小津波あり。灰は仙台に至る。
   (日本火山総覧)
   3月15日秋田で大地震。被害は仙北郡に集中し、死者94人、負傷者324人。全壊
   640軒、半壊575軒。(日本被害地震総覧)
   福徳岡ノ場の岩礁が噴火、溶岩を流出し島となる。後消滅。(日本火山総覧)
1915(大正4)年6月6日焼岳噴火。長さ1kmの亀裂が生じ、数十個の火口が形成。泥流で
   梓川がせき止められ、洪水。大正池を生成する。(日本火山総覧)
1917(大正6)年9月30日大暴風雨が関東を襲い、死者行方不明1300人。
1918(大正7)年 インフルエンザ「スペイン風邪」が全世界で流行。終結までに2500万人
   が死亡。
1919(大正8)年スペイン風邪流行続く。同年、死者15万人を突破。最終的に国内の総死
   者は38万人。  
1923(大正12)年9月1日関東・東海・甲信地方に大地震発生。M7.9。揺れは本州のほぼ
   全域と四国で観測。被害は東京と横浜で特に甚大。浅草凌雲閣12階は8階から折
   れて崩壊。300人以上が下敷きに。東京では下町を中心に大火災。本所被服廠跡
   では、避難民のほとんどである44030人が焼死。根府川で山津波により流域170軒
   が埋没、停車中の列車を呑み込む。死者99331人、行方不明43476人、負傷者
   103733人。家屋全壊128266、半壊126233、焼失家屋447128、流出家屋868。1日
   に余震114回。流言飛語により朝鮮人、中国人、一部日本人に犠牲者。
   (日本被害地震総覧)
1925(大正14)年5月23日北但馬地震。豊岡、城崎を中心に大被害。全壊1733軒、半壊
   815軒、焼失2328軒。死者465人、負傷1016人。葛野川河口付近で10haが陥没し
   て海となる。
1926(大正15・昭和元)年5月24日十勝岳噴火。水蒸気爆発により、泥流が発生し、北西
   の畠山温泉に達する。その後、山の半分が爆発して崩壊。火砕流が北西の硫黄鉱
   山事務所を瞬時に呑み込み、更に泥流となって上富良野と美瑛の2村に達する。
   114人が死亡し21人が行方不明。(日本火山総覧)
1927(昭和2)年3月7日北丹後地震。西日本全体で揺れ。死者2925人、負傷者7806人。全
   壊約5000、半壊約4700、焼失約7400。地震研究所が初めて調査を行う。
   (日本被害地震総覧)
   10月27日新潟県関原地域の極狭域で地震。宮本村で田の中から石油ガス噴出孔
   が生じ、青砂と石油が出る。(日本被害地震総覧)
1929(昭和4)年6月17日19日にかけて北海道駒ヶ岳大噴火。火砕流と火山ガスが発生。
   焼失、全半壊、埋没など1915余。死者2人、負傷4人、牛馬136頭死亡。
   (日本火山総覧)
1930(昭和5)年11月26日北伊豆地震。死者272人、負傷者572人。全壊2165軒、半壊
   5516軒。発光、怪音現象あり。(日本被害地震総覧)
1931(昭和6)年9月21日埼玉県西部で地震。死者16人、負傷者146人。全壊76、半壊
   124。青や黒い色をした土砂が地面から噴出したという。(日本被害地震総覧)
1932(昭和7)年7月21日秋田駒ヶ岳噴火。泥流とガスが発生。(日本火山総覧)
1933(昭和8)年3月3日三陸地方でやや強い地震、大津波が襲い、死者1522人、負傷
   1092人、行方不明1542人。船舶7000隻以上が被害。波高最大23m。海震の観測
   多数。津波はカリフォルニアやチリにも到達。発光、怪音、潮位・井水の変化などが
   前兆現象として観測される。(日本被害地震総覧)
   12月24日翌年1月11日にかけて口永良部島で噴火多発。七釜集落全焼し死者8
   人、負傷者26人。(日本火山総覧)
1934(昭和9)年9月21日室戸台風上陸。最大風速60mに達する。四天王寺の塔が倒壊し
   たほか、校舎の倒壊、列車の転覆などが相次ぐ。小学生676人の死者を含め死傷
   者3246人、家屋全半壊88046戸。
1935(昭和10)年7月11日静岡地震。静岡、清水などに被害集中。死傷者9299人。全壊
   367、半壊1830。(日本被害地震総覧)
1939(昭和14)年5月1日男鹿地震。男鹿半島に被害が集中し、死者27人、負傷者52人。
   全壊479、半壊858。(日本被害地震総覧)
   5月6日長雨により、渡良瀬川で洪水。鉱毒が流域に拡大する。  
1940(昭和15)年7月12日夜、三宅島が噴火する。死者11人、負傷20人。全壊焼失24戸。
   (日本火山総覧)
1943(昭和18)年9月10日鳥取地震。揺れは西日本の全域で観測されるが、被害のほとん
   どは鳥取市内に集中。死者1083人、負傷者3259人。全壊7485、半壊6158。
   (日本被害地震総覧)
1944(昭和19)年11月20日栗駒山噴火。泥土が噴出、磐井川が濁り魚が多く死ぬ。昭和
   湖が出来る。(日本火山総覧)
   12月7日東海地方で大地震と津波。被害は戦時中のため若干記録に違いがある
   が、死者998人、負傷3059人、不明253人といわれる。全壊26130、半壊46950、流
   出3059。津波はカリフォルニアに達する。(日本被害地震総覧)
1945(昭和20)年1月13日三河地震。揺れは本州、四国の広範囲で観測されるが、被害は
   渥美半島付近に集中。中でも幡豆郡の被害が大半を占め、被害は総合で死者1961
   人、負傷896人、全壊5539、半壊11706。戦争末期で士気低下につながるとして全く
   報道されず。(日本被害地震総覧)
1946(昭和21)年12月21日南海大地震。西日本の大半で大小の被害が出る。死者1330
   人、負傷者3842人、不明113人。全壊9070、半壊19204他。津波が東京から大隅半
   島に至る太平洋沿岸各地を襲い、流出家屋1451、船舶2349隻が被害。津波は更に
   カリフォルニアに至り、また海震が観測される。(日本被害地震総覧)
1947(昭和22)年9月14日キャスリーン台風が関東を襲い、大洪水が発生。死者1077人、
   行方不明853人。
1948(昭和23)年6月28日福井地震。震度第7階級の設定を決めるに至った大地震。福井
   平野に被害が集中した。家屋全壊36184、半壊11816。大火が発生し3851戸が焼
   失。死者3769人、負傷22203人。地割れが多数発生し、挟まれて死亡した例もあっ
   た。3本の列車が転覆。GHQが公安条例命令を出す。(日本被害地震総覧)
1950(昭和25)年7月16日伊豆大島噴火。溶岩流出。(日本火山総覧)
   9月3日ジェーン台風上陸。死者・行方不明508人。被害家屋5万6131戸。
   9月14日キジア台風で西日本に被害。死者・行方不明43人。山口県岩国市の錦帯
   橋が流失。
   9月23日浅間山噴火。関東各地に降灰。
1951(昭和26)年4月16日伊豆大島噴火。溶岩湖が出現。(日本火山総覧)
   10月14日ルース台風が上陸。死者行方不明1200人。
   赤痢流行で死者14000人。
1952(昭和27)年3月4日十勝沖地震。震害は北海道に集中したが、津波は太平洋沿岸の
   広範囲に達する。死者28人、負傷者287〜621人、不明者5人。全壊815〜1614、半
   壊1324〜5449戸。(被害数値は国警と北海道旬刊弘報の両方による)新冠の泥火
   山8つの内1つも活動。前日が三陸津波記念日で、津波避難訓練をしていたため、
   津波による被害は小さかった。(日本被害地震総覧)
   9月17日ベヨネーズ列岩付近の海底が大爆発。発見した漁船にちなみ明神礁と名
   付けられる。
   9月24日明神礁調査に出ていた海上保安庁の調査船第五海洋丸が海底噴火で遭
   難、31名が殉職する。(日本火山総覧)
1953(昭和28)年4月27日阿蘇山噴火。死者6人、負傷90余人。(日本火山総覧)
1954(昭和29)年9月26日台風通過の中、青函連絡船洞爺丸が転覆。1155人が死亡。
1957(昭和32)年 夏、流感が流行し、学童505000人が感染し、1200校が休校。
1958(昭和33)年6月24日夜、阿蘇山噴火。死者12人、負傷28人。(日本火山総覧)
1959(昭和34)年6月8日硫黄鳥島噴火。泥流、硫黄が流出。島民86人は島外へ移住す
   る。(日本火山総覧)
   9月26日台風15号が上陸。伊勢湾で高潮が発生し、死者行方不明5101人、家屋倒
   壊流出50万戸に達する。  
 
1960(昭和35)年5月23日チリ地震津波。全国で津波の被害あり。死者122人、負傷872
   人、不明20人。全壊1571、半壊2183、流出1259。他に沖縄で死者3人、負傷者2人
   。全壊28、半壊109。全国で船舶3000隻以上が被害。太平洋広域津波警報システ
   ムが作られる。(日本被害地震総覧)
1961(昭和36)年9月16日台風18号が上陸。死者202人、家屋被害98万戸。
1962(昭和37)年6月29日十勝岳噴火。硫黄鉱山事務所が破壊され、死者5人、負傷者11
   人。噴石と降灰。(日本火山総覧)
   流感が大流行。死者5868人、患者数47万人。
1964(昭和39)年6月16日新潟で大地震。液状化と津波で、鉄筋アパートやコンクリート橋
   が倒壊、石油タンクが爆発炎上する。死者26人、負傷447人、家屋全壊1960、全焼
   290、半壊6640、浸水15000戸。(日本被害地震総覧)
1965(昭和40)年8月3日70年まで松代群発地震。有感総数62821、全地震数711341回。
   発光現象あり。(日本被害地震総覧)
1967(昭和42)年11月25日頃硫黄鳥島で噴火。硫黄採掘関係者が撤退し、以後無人島と
   なる。(日本火山総覧)
1968(昭和43)年2月21日えびの地震。九州で揺れを観測。25日までに震度5の地震が4
   回。被害は宮崎県えびの京町付近10kmに集中。死者3人、負傷42人。全壊368、
   半壊636。(日本被害地震総覧)
   5月16日十勝沖地震。北海道南部から東北地方北部で大地震。大雨の後に発生し
   たため地滑り崖崩れが発生。死者行方不明52人、負傷330人。全壊673、半壊
   3004。津波あり。(日本被害地震総覧)
1970(昭和45)年9月18日秋田駒ヶ岳噴火。溶岩が流出。(日本火山総覧)
1971(昭和46)年12月27日草津白根山で温泉造成のボーリング孔からガスが漏れ6人が
   死亡。(日本火山総覧)
1974(昭和49)年5月9日伊豆半島で地震。地滑りなどで死者30人、負傷102人。全壊134、
   半壊240。潜水艦が海中で震動を観測。(日本被害地震総覧)
   7月28日新潟焼山で水蒸気爆発。降灰65万t。泥流と噴石あり。死者3人。
   (日本火山総覧)
1977(昭和52)年8月7日有珠山が爆発。噴石降灰大量。(日本火山総覧)
   12月7日吾妻山小噴火。酸性の泥水が発生し、塩川の魚が死ぬ。養魚場に被害。
   (日本火山総覧)
1978(昭和53)年1月14日伊豆半島、大島などで地震。小津波あり。前震が相次いだ為、
   気象庁は本震の前に予報を出す。死者25人、負傷211人。全壊96、半壊616。鉱滓
   貯蔵所が決壊し、液状化したシアン化ナトリウムが持越川、狩野川に流出する。
   (日本被害地震総覧)
   6月12日宮城県で地震。死者28人(内18人がブロック塀、石壁などの倒壊圧死者)。
   全壊1183、半壊5574戸。小津波あり。(日本被害地震総覧)
1979(昭和54)年9月6日阿蘇山が爆発。死者3人、負傷11人。火口東駅舎などが被害。中
   九州一帯に降灰。(日本火山総覧)  
1982(昭和57)年3月2日北海道日高地方で地震。重軽傷者147人。(日本被害地震総覧)
1983(昭和58)年5月26日日本海中部地震。液状化、大津波が発生。死者104人(内津波
   で100人)、負傷163人。全壊934、半壊2115、流出52。沈没255隻、流出451隻。津
   波警報発令が遅れたことが問題となる。(日本被害地震総覧)
   10月3日夜、三宅島噴火。溶岩が流出し、阿古地区が埋没。400棟が焼失する。死
   傷者無し。(日本火山総覧)
1984(昭和59)年9月14日長野県西部地震。御岳山頂付近が崩壊し、大土石流となって王
   滝村に至る。死者11人、行方不明18人、負傷10人。(日本被害地震総覧)
1985(昭和60)年7月26日長野市内地附山が大規模に地滑りを起こし、住宅街や老人
   ホームを押しつぶして26人が死亡。
1986(昭和61)年4月11日ハレー彗星接近。各国が探査衛星を打ち上げる。
   11月15日三原山噴火。溶岩が流出、溶岩湖が出現する。
   11月21日三原山で割れ目噴火が発生し、溶岩が流出し、保安要員を除いて島民1
   万人全員が島外へ脱出。(日本火山総覧)
1987(昭和62)年3月8日日向灘地震。死者1、負傷6、354戸損傷。(日本被害地震総覧)
   12月17日千葉東方沖地震。死者5、負傷123、全壊10戸、半壊93戸、破損63692
   戸。(日本被害地震総覧)
1989(昭和64・平成元)年7月9日伊豆東方沖で地震。負傷22、92戸が破損。
   7月13日伊豆半島沖で海丘が爆発噴火する。(日本被害地震総覧)
1990(平成2)年11月17日雲仙岳が小規模の噴火を開始。徐々に規模が大きくなる。
1991(平成3)年6月3日雲仙普賢岳火口の溶岩円頂丘が崩壊、火砕流となり北上木場地
   区に達する。住民、消防団員、マスコミ関係者、火山学者など43人が死亡、9人が
   負傷、179棟が焼失。
   6月8日雲仙普賢岳で火砕流。207棟が焼失。
   6月23日雲仙普賢岳で火砕流。千本木地区に達し、住民1人が死亡する。
   9月15日雲仙普賢岳で火砕流。218棟が焼失。
1993(平成5)年1月15日釧路沖地震。死者1、負傷932、3518戸破損。
   (日本被害地震総覧)
   7月12日夜、北海道南西沖地震。M7.8。山崩れ、液状化の他、大津波と火災で奥
   尻島を中心に大被害。死者202、不明29、負傷323。7690戸以上破損、1514隻以上
   被害。ほかロシアなどでも死傷者。(日本被害地震総覧)
   夏冷害。東北地方を中心に全国的に米が実らず、外国から輸入することに。
   雲仙噴火による島原の避難人口約3600人。(日本火山総覧)
1994(平成6)年7月10月にかけて雨が降らず渇水。
   10月4日夜、北海道東方沖地震。M8.1。負傷436。北方4島の大津波。
   12月28日夜、三陸はるか沖地震。M7.2。死者2、負傷29、78戸被害。
   (日本被害地震総覧)
1995(平成7)年1月17日早朝神戸を中心とした近畿地方で大地震。震度は最大7。建物倒
   壊と火災で、当時の公式報告では死者6308人、負傷41527人、不明2人。34万人が
   避難。全壊100282、半壊108402。鉄道、高架道の倒壊多数。交通と流通及び各ラ
   イフライン網が各所で寸断。液状化で港湾施設が壊滅するなど間接的な経済損害
   は全国規模に。火災は数日続く。ビルの中間階圧潰が多数。数日間、余震あり。耐
   震問題、避難救助問題の検討が全国的に盛んになる。地震直前怪光が多く目撃さ
   れる。動物の異常行動、発光などの現象の研究も本格化。ボランティア活動が大き
   く取り上げられるきっかけとなった。
1997(平成9)年 夏頃から翌年にかけ大規模なエルニーニョ現象が発生、異常気象。
1998(平成10)年1月8日全国で暴風雨雪。関東地方で大雪により交通機関マヒ。
   1月15日関東地方でかなりの大雪。
   8月27日早朝、福島県南部栃木県北部の山間部集中豪雨。土砂崩れなど相次ぐ。
   8月28日全国で大雨。前日に続き、茨城県などで河川が氾濫。2日間だけで死者13
   人、行方不明3人、家屋全半壊48、家屋23棟と19橋が流失。堤防31ヶ所が決壊す
   る。大雨は30日まで続く。
   8月国内で異常な長期間の梅雨となる。
   9月24日高知県南部で集中豪雨。高知市全域が浸水。
   9月この年、ほとんど台風が発生せず。
   11月18日獅子座流星群が出現するとして、天文観測ブームになるが、予測が半日
   ずれて日本ではほとんど見られず。
1999(平成11)年6月29日福岡市で集中豪雨。博多駅周辺が浸水し、地下街やビルの地
   下室が水没。1名が死亡。30日まで連日大雨が続き、5県で死者12人、十数人が行
   方不明。広島などで土砂崩れが相次ぐ。
   7月21日東京都心で集中豪雨。新宿区の住宅街で地下室水害により1名が死亡す
   る。福岡の事件と合わせて、地下での水害が問題になる。
   8月14日関東地方で集中豪雨。神奈川県山北町で中洲にキャンプしていた18人が
   流され、14人が死亡。各地のキャンプ場で100人以上が孤立状態に。
   8月17日トルコ西部で大地震。日本からも救援隊が向かう。死者15000人以上。11
   月12日にも大きな地震。
   9月21日台湾中央で大地震。死者・行方不明4800人。日本人にも被害。日本から過
   去最大の救助隊が派遣される。民間レベルでも様々な支援が行われる。10月22日
   にも大きな地震。
   9月25日台風18号通過。熊本県不知火町で高潮が沿岸を襲い、集落が水没するな
   どして、全国で死者24人。愛知県では大規模な竜巻が学校を直撃し負傷者200人以
   上。西日本で高潮の被害が続出。
   11月再度、獅子座流星群の出現の予測が立てられるが、天候悪化で全く見られ
   ず。

2000

 

2000(平成12)年1月17日阪神大震災で設置された仮設住宅をすべて解体することを決
   定。2月29日この日は、4年、100年、400年のうるうが3つ重なる400年に一度の珍
   しい日。ATMや気象予報システムなどのコンピュータがプログラム上日付を想定し
   ておらず停止する。
   3月29日気象庁、有珠山噴火の危険性が高まったことを発表。
   3月31日有珠山が噴火する。予報が出されていたため、住民は既に避難済みで人
   災は無し。
   6月26日気象庁、三宅島噴火の可能性を発表。
   6月27日三宅島沖で小規模の火山活動。
   6月29日三宅島の火山活動は収まるが、新島・神津島付近で群発地震が始まる。
   7月1日神津島で震度6弱の地震。以後も震度3、4の地震が頻発。
   7月8日三宅島で小規模の噴火。
   8月28日三宅島の噴火に伴い、東京都、神奈川県で硫黄臭が漂う。
   8月29日三宅島で規模の大きな噴火。
   9月5日火山性ガスが噴出しているため、三宅島から対策関係者をのぞき住民避
   難。
   9月11日全国で大雨。東海地方で河川が氾濫し6万軒以上が浸水。交通が麻痺。走
   行中の多数の新幹線が立ち往生し数万人が閉じこめられる。
   10月6日鳥取県西部地震。最大で震度6。死者はなかったが、建造物に被害多数。
   11月3日国際天文学連合が、2030年9月21日に直径30〜70m程の小惑星が地球
   に激突する可能性があると発表。
   11月5日国際天文学連合は、先の小惑星激突の発表を訂正。観測を続けた結果に
   より激突の可能性はないと。
   11月15日伊豆諸島噴火・地震災害復興支援の寄付金付き切手が発売される。  
2001(平成13)年1月26日インド西部で大地震。死者行方不明者は2万人以上。日本から
   も援助部隊派遣決定。
   1月27日東日本で大雪。
   1月この月、有明海の海苔がプランクトンの増殖により大凶作。諫早湾閉鎖に対す
   る疑問が生じる。
   2月5日海苔凶作により、入札で値が高騰。
   2月11日茨城県波崎町(現神栖市)でカズハゴンドウイルカ約50頭が砂浜に乗り上
   げる。
   3月23日ロシアの宇宙ステーション「ミール」を落下処分。大気圏で大半が焼失。一
   部が南太平洋に落下。
   3月24日安芸灘を震源とするM6.4の地震。芸予地震。最大震度6。死者2名、負
   傷120名以上。建造物や道路鉄道に被害多数。芸予地震。
   3月27日農水省で、有明海の調査結果が発表される。自然環境は悪化しており、調
   査のため、条件付きで水門開放を決定。
   4月3日早朝、東北・北海道でやや強い地震。最大震度4。深夜、静岡県を中心とし
   た東海地方でやや大きな地震。静岡市で震度5強。
   11月19日未明にしし座流星群出現。大流星雨となる。
2002(平成14)年2月25日天理市櫟本町の赤土山古墳で、大規模な地震による地滑り
   の痕跡があることが判明。同古墳は国史跡で、左右非対称で変形しており前方
   後円墳か前方後方墳かで意見が分かれる。
   2月25日茨城県波崎町(現神栖市)でカズハゴンドウイルカ約85頭が砂浜に打ち上
   げられる。
   3月19日同月8日に直径100m程の小惑星2002EM7が地球から46万3000kmのと
   ころを通過していたことが判明。
   8月20日香川県丸亀市本島で山火事が発生。15日間にわたって燃える。
   8月27日868(貞観10)年、播磨地方を襲った大地震が起こしたとみられる噴砂の痕
   跡が姫路市内の遺跡で発見される。
   8月31日台風15号が、九州西方を北上し、朝鮮半島南部に上陸。大きな被害を残
   す。日本政府支援を表明。同台風の雨雲による豪雨で、高知県で土砂崩れなどが
   多発。
   9月3日経済産業省、ヒートアイランド現象対策の省庁にまたがる連絡会議を設置。
2003(平成15)年3月13日文部科学省の科学技術・学術審議会は、今後5年間に取り組
   むべき防災分野の研究課題をまとめる。地震や噴火、水害といった自然災害以外
   に、テロ行為による都市災害も視野に含めてある。
   3月15日WHO、東アジアでの原因不明の肺炎の流行に注意を勧告。
   3月18日政府の中央防災会議は、東海地震が発生した場合の被害想定を発表。
   死者は最悪約1万人に達し、経済的損失は約37兆円。避難者は約200万人、500
   万人以上がライフラインに被害。
   3月24日地震調査委員会は、北海道の東側の千島海溝沿いを震源とする地震発
   生確率を発表。十勝沖でM8.1前後の大地震が今後30年以内に起きる確率が
   60%程度と高く、根室沖でも、M7.7程度の大地震が起きる確率が20〜30%に
   達した。
   3月24日三宅島の火山ガスによる健康影響を調べていた政府と東京都の検討会
   は、ガス警報システム、避難所の整備などを条件とした上で、「ある程度の健康
   被害をこうむるリスクはある」としつつ「地区によっては帰島が可能」と報告。
   3月25日西日本で黄砂が飛来し始める。中国・蒙古地域の状況から、この黄砂は
   中東から飛来したものと推定。
   4月1日WHOは、新型肺炎の原因をコロナウィルスと発表。
   4月3日政府、新型肺炎の流行している香港への渡航自粛勧告を決定。
   4月14日新型肺炎の感染者が全世界で3000人を越える。
   4月16日WHO、新型肺炎の原因をSARSウィルスと命名。
   4月20日中国政府、SARS感染者の数を約8倍に上方修正。張文康衛生相と孟学
   農北京市長を更迭。
   4月22日政府、SARSが流行している北京への渡航延期勧告を決定。
   4月27日全世界のSARSの感染者が5000人を突破し、死者も300人を突破する。
   5月26日東北地方で規模の大きな地震。死者はなし。負傷者100人を超える。新
   幹線の一部橋脚が破損。
   5月30日台風4号が本土に上陸。5月の台風上陸は1965年以来38年ぶり。
   6月16日夜、関東東部で怪光と爆発音が響き渡る。火球か隕石が上空を通過した
   ものとみられる。
   7月5日WHO、SARSの感染地域として最後まで残っていた台湾の指定を解除。
   世界的流行は一旦終息。世界32カ国・地域で8439人が感染発症し、812人が死亡
   (3日時点)。
   7月26日宮城県を中心に、一日で3度も震度6級の地震が起こる。0時13分M5.5、
   震度6弱。7時13分M6.2、震度6強。16時56分M5.4、震度6弱。重軽傷約650人。
   8月10日6日にから10日にかけて、台風10号が沖縄から九州南部をかすめて四国
   に上陸、近畿、北陸、東北、北海道と縦断。特に北海道では、洪水など予想以上
   の被害を出す。
   8月お盆前後に、東日本で異常低温。関東でも最高気温が20度程度という状況が
   数日続き、稲や野菜の生育に問題が生じる。一方、ヨーロッパでは異常高温が続
   き、フランスでは死者が1万5千人、ヨーロッパ全域では3万人が死亡。スペインなど
   では山火事、スイスでは氷河が溶ける事態となる。
   8月19日気象庁は、8月2日に出した関東甲信・東北南部地方の梅雨明け宣言を
   撤回。
   11月20日産業技術総合研究所は米国とカナダの地質調査所との共同研究で、日
   本の古文書に残る津波の被害を調べた結果、1700(元禄12)年に北米西海岸沖で
   発生した地震の規模は、モーメントマグニチュード(Mw)で9と推定でき、襲来した津
   波の規模は、1960年のチリ地震と同レベルであると発表。
   11月25日2003年のエイズウイルス(HIV)の感染について、全世界での感染者は
   約4000万人(250万人は15歳以下)、2003年の新たな感染者は500万人、死者は
   300万人を超え、その多くはサハラ以南のアフリカ諸国となっている(国連エイズ合
   同計画(UNAIDS)報告)。
   12月1日英王立天文台の研究チームは、織姫星として知られる、こと座の恒星ベ
   ガが、地球に似た惑星を持っている可能性があるとの分析結果を発表。電波望遠
   鏡で観測した結果、海王星ほどの惑星が海王星と同様の軌道で回っていることを
   発見し、その内側に地球型惑星がある可能性を指摘している。地球型惑星は小さ
   すぎるため、恒星間では直接観測するのは困難だが、観測可能な大型ガス惑星の
   軌道を計算することで推測出来ると言われる。
   12月18日南極近くから北極域までの大西洋で過去40年ほどの間に、海水中の塩
   分濃度の分布が大きく変化したとの解析結果を、米ウッズホール海洋学研究所や
   英国の研究グループがネイチャーに発表。高緯度域から中緯度域で海水表面の塩
   分濃度が減少する一方、赤道をはさんだ海域では、濃度が高くなっているという。
   地球温暖化によって降水量や、水分の蒸発量が原因とみられ、海中の塩分分布の
   変化は、深刻な異常気象を招くと言う指摘もある。
   12月26日イランで大地震。年内までに2万8000人以上の死亡を確認。死者5万人と
   の推定も。各国が救援。
2004(平成16)年2月20日米カリフォルニア工科大などのグループが地球から約70億キロ
   離れた太陽系外縁部カイパーベルトに、直径が冥王星の6〜7割ほどもある小惑
   星を発見。同グループは2002年にも小惑星クワオアーを発見している。
   2月25日1888(明治21)年7月に大噴火を起こした磐梯山の噴火直後の被災地を
   撮影した写真21枚が、中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の
   「1888年磐梯山噴火分科会」の調査により宮内庁で発見される。当時の新聞に
   磐梯山噴火の写真を宮内庁の侍従が明治天皇と皇后に献上したという記事があ
   ったのを発見したのがきっかけで調査となった。
   2月29日京都丹波町の養鶏業者が鳥インフルエンザに感染しているのを隠して鶏
   を出荷していたことが判明。
   3月19日イギリスの研究チームが、イングランド、ウェールズ、スコットランド地方で
   調査した結果、鳥類、蝶、植物の数が大幅に減少していることが判明したと発表。
   この40年間でイギリスの鳥類種の54%、在来種の植物の28%が減少していると            
   いう。現在の生物種の絶滅速度は、過去数度の大絶滅期よりも速いと言われてい
   る。過去の絶滅は天体衝突や、地球内部の活動などが原因と指摘されているが、
   現在の絶滅は人間の活動に原因がある。
   3月京都の感染事件により鳥インフルエンザが近畿中国地方各地に拡大。感染を
   恐れた人が鶏を捨てたり殺す例が相次ぎ、鶏の処分に自衛隊を投入したり、政府
   が対処法を全国へ配布するなどの騒ぎに。
   4月3日富士山の構造が3層ではなく4層であることが、東大地震研究所のボーリン
   グ調査で判明。従来、富士山は、小御岳、古富士という二つの火山の上に出来た
   と言われていたが、小御岳より前にもう一つ火山があったことが明らかになった。
   4月23日国の天然記念物に指定されている京都の深泥池で、絶滅の危機にある
   貴重な植物5種が最近20年余りの間に絶滅したとみられることが、光田重幸・同
   志社大工学部助教授の調査で判明。富栄養化などが原因と見られる。
   4月30日長崎県・国営諫早湾干拓事業で、亀井農相が潮受け堤防排水門の中・長
   期開門調査を実施しない意向を表明したことにより、調査を求める佐賀県有明海漁
   協水産振興研究連絡協議会のメンバーらが長崎県諫早市沖の堤防排水門前で漁
   船約200隻による抗議の海上デモを実施。有明海では海の環境悪化が急速に進ん
   でいるが、干拓事業が原因という説が有力で、各方面から開門調査が求められて
   いる。
   5月9日最近5年間の日本の平均海面水位は過去100年で最も高いレベルとなって
   いることが気象庁の調べで判明。海面上昇は1985年以降の日本近海の水温上昇
   と関係があると見られ、各地で浸水が発生している。
   5月9日高松市の地下にある直径4kmの「高松クレーター」について、カナダの地球
   衝突データベース管理委員会は、隕石衝突の証拠不足を理由に隕石クレーター国
   際リストへの登録を見送ったことが明らかになる。同クレーターは火山の噴火による
   陥没説が有力だが、隕石衝突を唱える学者もいる。
   5月14日米カリフォルニア大サンタバーバラ校などの研究チームがオーストラリア北
   西沖約200キロの海底で、約2億5000万年前の古生代末期に地球に衝突した巨大
   隕石の跡と見られる直径190kmの地質構造を発見。同時期に生物の9割が滅ぶ大
   異変が起こっているが原因は諸説あって不明。
   5月18日三宅島の噴火活動で放出された火山ガス中のアンモニアが海に溶け、栄
   養分となって植物プランクトンが繁殖していることを、東京大や東海大などの研究チ
   ームが突き止める。三宅島近海は、海流の位置から栄養分には乏しいと言われて
   いる。
   5月18日WHO(世界保健機関)の年次総会が17日にジュネーブで始まったが、台湾
   のオブザーバー参加をめぐって紛糾、初日に予定されていた李鍾郁WHO事務局
   長と金大中・前韓国大統領の演説が18日に延期される異例の事態となる。台湾の
   参加については、中国が猛反対し各国が同調しているが、感染症流行は各国の政
   治主張とは関係なく拡がるため、関係の深い日本やアメリカは台湾の参加に賛成し
   ている。
   7月5日トカラ列島の諏訪之瀬島で爆発的噴火。
   7月13日新潟県と福島県で集中豪雨となり、新潟では死者15人。道路損壊・崖崩れ
   など多数。
   7月24日福井県で豪雨。堤防の決壊で福井市・鯖江市などで洪水。
   8月30日台風16号により高松市などで高潮被害。1万戸以上が浸水。
   9月1日浅間山が噴火。
   9月5日紀伊半島沖を震源とする地震が発生。三重県庁では地震速報システム「ナ
   ウキャスト地震計」が振動を観測して揺れが到達する前に地震警報を出す。14万人
   に津波避難勧告が出されたが、その後の調査で、実際に避難をしたのは6%たらず
   の8600人にとどまっていたことが明らかになる。
   9月29日小惑星トータチスが、時速3万5000kmのスピードで、地球から155万キロ
   まで接近通過。1353年以来の大接近となる。
   9月30日台風21号が日本列島を縦断。同日だけで死者18人、行方不明7人。
   10月1日アメリカ・セントヘレンズ山が噴火。4日には水蒸気爆発。同山は1980年に
   山頂が吹き飛ぶ大爆発で57人が死亡している。
   10月8日海上保安庁は、宮城県沖100キロの海底が年間8センチの速度で西北西
   に移動している実態を初めて測定したと発表。同地域は近い将来に大地震が発生
   する可能性が高いと言われている。
   10月14日国際自然保護連合(IUCN)などの専門家チームによって、初めて両生類
   の包括的な調査が行われ、その結果、約5700種の両生類のうち、約2500種で数
   が減っており、1980年以降、少なくとも9種が絶滅し、113種が生息地が確認できず
   絶滅した可能性が高いことが明らかになる。
   10月16日ロシア極東地方で発生した森林火災が拡大し、煙は中国や北海道にも
   達する。
   10月20日大型で強い台風23号が、高知県土佐清水市付近に上陸。上陸は今年10
   個目で、観測史上最多記録を更新。京都府舞鶴市では由良川が決壊し、観光バス
   やトラックなどが濁流に取り残されるなど洪水が多発。富山港では帆船海王丸が
   座礁。22日の時点で、全壊37、半壊62、一部破損1088、床上浸水8201、床下浸
   水16581。23日までに死者80人、行方不明者12人。
   10月22日ロシア下院、京都議定書を批准。
   10月22日沿岸の比較的浅いところで起こる地震は、月の引力の向きに合わせて
   増減する可能性が高いことが、防災科学技術研究所とカリフォルニア大学ロサン
   ゼルス校の研究で明らかになる。1977年から2000年までに起こったマグニチュード
   5・5以上の地震のうち、深さ40キロ・メートル以内で起こった、断層の上の面がずり
   上がる「逆断層」型の2027地震を解析した結果、約12時間周期でピークを迎える月
   の引力の、ピーク前後に地震が集中。地形のひずみがたまっているところへ、月の
   引力が引き金となり、誘発される地震の割合が増えるという。
   10月23日新潟県中越地方を中心とする断層型の大地震が発生。震度6級の地震
   が短時間に3連続して起こり、川口町では震度7に達する。11月11日までに死者
   40人。負傷者は少なくとも2500人以上。死亡者の中には、避難先でのエコノミー
   クラス症候群などが含まれる。上越新幹線が脱線して運行停止になったほか、中
   越各地で建造物少なくとも2500戸以上が全壊、多数が損壊。道路が寸断し土砂
   崩れで川がせき止められてダム化が各所で起こった山古志村は全村避難へ。避
   難者数は10万人を超す。
   10月23日トカラ列島の諏訪之瀬島で7月に続き爆発的噴火。
   10月25日新潟県中越地震を激甚災害に指定。
   10月26日土星探査機カッシーニが土星に最接近。衛星タイタンなどの調査に当
   たる。
   10月26日豪雨による不作で野菜が高騰しているため、農林水産省は価格安定策
   を実施すると発表。大都市圏では品不足が続いているため、不揃いの野菜の販売
   や、短期生育できる野菜の生産促進を行う。野菜の他、鳥インフルエンザの影響で
   卵も不足し高騰。
   10月26日国土交通省は、中越地震の救援物資輸送車両に対しては、有料道路の
   料金を徴収しないよう通達。
   10月26日総務省は、地上デジタル放送を活用して、災害発生時に個人の携帯電
   話に避難命令を送信するシステムの開発や実証実験に2005年度から乗り出すこと
   を決定。06年度の実用化を目指す。
   10月27日中越地震の長岡市の土砂崩れ現場から2歳の男の子が発見され生き
   埋めから92時間ぶりに無事救助される。母親、姉とともに車で移動中に地震に遭
   遇し生き埋めとなったもので、母親と姉は死亡。
   10月27日中越地方で震度6弱の余震が発生。
   11月5日防衛庁は、南関東直下型地震に備えて策定した自衛隊の災害派遣計画
   案を公表。地震発生から24時間以内に練馬の第一師団など1万9100人を、72時間
   以内に7万3300人の自衛官を投入し、最終的に約8万5000人で対応する。各都県
   別では、東京都に約3万4000人、神奈川県に1万5000人、静岡県に8000人、埼玉
   、千葉、栃木、茨城の各県にそれぞれ7000人。このほか、海上自衛隊は人員約
   5000人、航空機約50機、艦艇約50隻、航空自衛隊は人員約5000人、航空機約75
   機を投入する。
   11月9日欧米の環北極8カ国の科学者らが実施した調査の結果がアイスランドで
   発表され、温暖化により平均気温は4−7度も上昇、氷河の溶解などで海面は
   10cm以上上がり、2100年までにホッキョクグマなどの動物は絶滅の恐れがあると
   の予測が示される。
   11月14日浅間山が中規模の噴火。
   11月17日海上保安庁は、東海地方から九州沖にかけての海底で発生が予想され
   ている「東海・東南海・南海地震」の津波災害について予想した「防災情報図」を
   発表。発生する津波の高さは、条件によっては、中央防災会議の予測(3m)よりも
   高い最大8mと試算。
   11月25日新潟県山古志村で、ヘリから電磁波を送って反射する波で軟弱地盤を
   探査する実験が行われる。農業工学研究所が考案したシステムで、地中の水分   
   の量で異なる電気抵抗により、反射される波の違いから地盤が軟弱かどうかを判定
   する。
   11月29日北海道東部で地震。釧路町、弟子屈町、別海町で震度5強。小規模の
   津波を観測。12月6日にも震度5強の地震。
   11月30日三宅島が2年ぶりに小規模の噴火。
   12月3日フィリピン国軍の南ルソン司令部は、11月末から連続してルソン島東部を
   襲った熱帯低気圧と台風27号による死者が753人、行方不明者は345人に達した
   と発表。ケソン州で特に被害が大きく、その多くが土砂崩れと洪水で、違法伐採が
   原因と言われる。
   12月5日台風級の低気圧が日本列島を移動。各地で暴風となり、交通機関に混
   乱。四国から東海では豪雨、北海道では大雪となる一方、関東地方では真夏日に。
   9〜12月主に東北北陸で食されるスギヒラタケによるとみられる急性脳症で死亡者
   が相次ぐ。スギヒラタケは常食の無毒のキノコで、原因は特定できず。
   12月15日中央防災会議は専門調査会で、首都直下で地震が発生した場合の被害
   想定をまとめ公表。最悪のケースで死者は東京、神奈川、埼玉の1都2県で
   約1万2000人。建物被害は8都県で約85万棟、帰宅困難者は、日中で650万人に
   上るとしている。
   12月18日厚生労働省と国立感染症研究所は、京都府丹波町の浅田農産船井農
   場で発生した鳥インフルエンザで、従業員らのウイルス感染の陽性反応が出た5人
   のうち、1人の感染をほぼ確認。
   12月23日ドイツ・ベルリン自由大などのチームが、火星の赤道に近い地域に、約
   240万年前に火山活動があったことを突き止め、英科学誌ネイチャーに発表。将来
   噴火する可能性も考えられると言う。
   12月26日スマトラ島沖で大規模な地震が発生。モーメントマグニチュード9.3とい
   う規模で、大津波が発生し、インドネシア、タイ、マレーシア、スリランカ、インドで
   大きな被害を出す。未確認ながら、ミャンマー、ソマリアでも大きな被害が出たと
   言われる。津波はアフリカ東岸を襲い、南極にも到達した。死者・行方不明者は判
   明しているだけで、翌年までに22万6500人以上。現地の住民以外にも、クリスマ
   ス休暇のためにタイやマレーシアのリゾートを訪れていた欧米人観光客が多く犠牲
   になった。日本人も少なくとも40人が死亡している。この大災害の中心地となった
   アチェでは独立運動による紛争が相次いでいたが、災害を受けて和平合意した。
   地震直後、日本でも地下水位が変動し、断層に影響を与えたとする説もある。地
   震波は翌年になっても地球を回り続け各地で観測、地球の地軸が2cm移動したと
   言われる他、1日の長さが100万分の3秒短くなるなど、地球規模の大変動となっ
   た。前後にオセアニアや東南アジアでM7〜8クラスの地震が頻発したほか、インド
   ネシアでは火山の噴火が相次ぐなど、関連性を疑われる現象も観測。津波報道が
   まったく為されなかったことが被害を大きくしたことから、日本主導でインド洋津波早
   期警戒・警報システムの構築が進められている。
   12月28日地球から2万−3万光年離れた、いて座の方向にある中性子星とみられ
   る天体で巨大な爆発現象が発生し、これまでで最大強度のガンマ線が地球に飛
   来。放出されたエネルギーは、銀河系のすべての星の光を合わせた数百倍に達す
   ると推定されるという。
   12月28日日本政府は、スマトラ島沖の巨大地震による大津波災害をうけ、インド
   洋で津波の緊急警報システムと、各国の防災対策を共有する「災害データベース」
   の構築のための技術的支援を決定。同日、災害地域に海上自衛艦「きりしま」「た
   かなみ」「はまな」の派遣を決定。
   12月28日気象庁の生物季節観測で、ホタルが光る姿を初めて観測した「初見日」
   やアブラゼミの「初鳴き」が平年より早まり、秋にソメイヨシノが開花するなど、温暖
   化の影響と見られる異変が相次いで観測されていたことが明らかになる。
   12月28日野生パンダが生息する中国四川省の保護区で、餌となる竹が花を咲か
   せ、枯死する60年に一度の自然現象が広範囲に発生。餌不足によるパンダの減
   少が懸念されるため、パトロールを強化。
   12月30日世界保健機関(WHO)は、スマトラ沖地震と津波による被害で「300万人
   から500万人の被災者が清浄な水、適切な避難場所、食料、衛生施設、医療を必
   要としている」と指摘、最大で500万人が下痢やマラリアなど感染症の危険にさら
   されていると警告。
2005(平成17)年1月1日2004年の出生数が、1899年(明治32年)の集計開始以来、最
   低の110万7000人で、前年比約1万7000人減となる見通しであることが、厚生労
   働省の人口動態統計の年間推計で判明。4年連続の減少となる。
   1月6日ジャカルタで開かれたスマトラ大津波の被災国支援緊急首脳会議で、国
   連主導で各国が結束して支援体制を作ることや、津波の早期警戒システム構築
   などをうたった共同宣言を採択。
   1月6日マックホルツ彗星が地球に再接近。3.6等級まで明るくなる。
   1月8日自民党の武部勤幹事長は、ベトナムのハノイ市内でノン・ドク・マイン共産
   党書記長、ファン・バン・カイ首相らと個別に会談し、鳥インフルエンザなど感染症
   予防を研究するアジアの中核センターをベトナムに設置する構想で一致。
   1月11日世界最大の再保険会社ミュンヘン再保険は、津波や地震などが起きた
   場合の被害が世界で最も大きい大都市は東京・横浜圏だと警告する報告書「大
   都市・大リスク」を公表。東京・横浜圏は、3500万人が住み、火山噴火、地震、台
   風、津波、洪水の危険が極めて高いとして、リスク指数は710となり、2位のサンフ
   ランシスコの167と比べても圧倒的高リスクと判断。
   1月12日気象学者のエド・オレニック氏が、米西海岸で多数の死者を出している嵐
   について、原因はエルニーニョ現象ではなく、インド洋で発生する「マッデン・ジュリ
   アン振動」と呼ばれる気象現象とする研究報告を発表。
   1月12日独立行政法人・防災科学技術研究所は、スマトラ大地震のあと、四国西
   部の地下で非常にゆっくりとした地震が6日間にわたって起こっていたと地震調査
   委員会で報告。誘発されたものと考えられる。
   1月13日地震学者でもある尾池和夫京都大学長は、関西プレスクラブ主催の講
   演会で、日本には気象庁しかないが、火山噴火や地震、津波の情報を集め広報
   する地震火山庁の設置が必要であると主張。
   1月14日米航空宇宙局(NASA)と欧州宇宙機関(ESA)が共同で土星の軌道に送
   った無人探査機カッシーニから、年末に分離した小型探査機ホイヘンスが土星最
   大の衛星タイタンの大気圏内に突入。タイタンの地表に着陸。
   1月17日チリ中南部の港町コンセプシオンで、「津波が来る」とのデマが広がり、
   周辺住民約1万2000人がパニックを起こし高台に避難する騒ぎが発生。1人が死亡
   し50人以上が負傷。実際には津波はなし。
   1月17日NASAの衛星による観測で世界最大の氷山B15Aが大氷岬の手前の浅
   瀬で座礁したことが確認される。この氷山は最大160kmもあり、水面上にある面
   積だけで3000平方キロメートル以上になる巨大なもの。
   1月18日神戸市で第二回国連防災世界会議が開催。年末のスマトラ大津波などを
   受けて、特に津波警報システムについて討議され、国際復興支援データベースの
   設置が決まる。
   1月19日NASAは、火星で活動中の無人探査車オポチュニティーが、着陸地点の
   メリディアニ平原でバスケットボール大の隕石を発見したと発表。地球以外の惑星
   で初めて。
   1月20日米ノースカロライナ州立大などの研究チームが、1992年に南極半島先端
   に近いベガ島で見つけた化石から、カルガモやオシドリなどカモ類の祖先は、約
   6800万−6600万年前の白亜紀後期から既に生息していたことが分かったと、英科
   学誌ネイチャーに発表。6400万年前の大絶滅を生き延びたということになる。
   1月21日大量の花粉の発生が予測されたことを受け、厚生労働省がはじめて緊
   急の花粉症対策に乗り出すことを決定。
   1月22日気象庁は、火山の活動の程度を6段階で分かりやすく示す「火山活動度レ
   ベル」の制度を、新たに九州や関東、東北の7火山にも導入する方針を決定。「火
   山活動度レベル」は2003年に導入され、観測態勢の整っている浅間山、伊豆大島
   、雲仙岳、阿蘇山、桜島の5火山で始まった。新たに導入されるのは、吾妻山、草
   津白根山、九重山、霧島山、薩摩硫黄島、口永良部島、諏訪之瀬島の7火山。
   1月年末年始にかけてノロウィルスによると見られる感染性胃腸炎が全国的に流
   行。年末から含めると8000人以上が感染発症、5300人以上がノロウィルスと判明。
   広島県福山市の特別養護老人ホーム「福山福寿園」で入所者7人が死亡。他にも
   特別養護老人ホーム、介護保険施設、社員食堂などを中心に被害が拡がる。
   2月1日本州各地で19年ぶりの大雪。特急電車の脱線や交通事故が多発。
   2月1日三宅島の避難指示を解除。4年5ヶ月ぶりに島民が島に戻る。三宅村役場
   も再開。
   2月4日前年12月になくなった男性が「変異型クロイツフェルト・ヤコブ病」の日本
   人初の感染者であることが確認される。移植や遺伝による発病ではないことが確
   認されたことと、渡英歴があることから、BSE(牛海綿状脳症)を食べたことによる
   発症ではないかと見られる。
   2月4日例年より3週間ほど遅れてインフルエンザの流行が始まる。
   2月6日国土交通省は、スマトラ沖地震による巨大津波被害を受け、日本の津波対
   策の在り方を検証する津波対策検討委員会の初会合を省内で開催。
   2月10日地震のメカニズムなどを調査する地球深部探査船「ちきゅう」が報道関係
   に初公開される。
   2月14日気象庁は、大地震の際に発表する余震の可能性について、対策を取りに
   くい、との意見が相次いだことから、地震規模を示すマグニチュードを使った表現か
   ら、震度を中心とする表現に切り替えると発表。
   2月16日地球温暖化防止のための京都議定書が発効。日本は温室効果ガスを
   08〜12年の間に、90年比6%削減することを義務付けられる。
   2月22日政府は、温室効果ガス排出量に関する報告書をまとめ、自民党地球環
   境特別委員会に報告。これによると、現行対策のままだと2010年の温室効果ガス
   排出量が京都議定書の基準年の90年に比べ6%増加するとの推計をまとめ、議
   定書に定められた削減目標を守るには合わせて12%を減らさなければならない
   が、二酸化炭素やメタンなどの追加抑制策や他国から得た排出枠を自国分として
   活用する「京都メカニズム」を組み合わせることで、達成できるとしている。
   2月25日東京直下でマグニチュード7級の大地震が起きた場合、経済被害は最悪
   の場合、112兆円に達する恐れがあることが政府の中央防災会議「首都直下地震
   対策専門調査会」が公表した被害想定報告で明らかになる。想定した地震18例の
   うち、「東京湾北部地震」の被害想定額112兆円は、建物やライフラインの破壊など
   「直接被害」が67兆円(うち建築物・家財の被害が55・2兆円)、企業資産が6・7兆
   円、交通施設が3・1兆円。交通・流通の途絶による経済的間接被害として地震発
   生後1年間で45兆円(東京都内分が13・2兆円、東京都外への波及は海外経済を
   含めて25・8兆円)に達するとしている。
   2月25日第一管区海上保安本部と札幌管区気象台は、航空機で陸上火山の熱画
   像を撮影する業務協定を結ぶと発表。島嶼部の火山や海底火山での観測協力は
   すでに行われている例があるが、陸上火山では初。
   2月26日H−UAロケット7号機でMTSAT−1R衛星を打ち上げに成功。3月8日に
   軌道に乗り、ひまわり6号と名付けられる。
   3月4日核実験全面禁止条約機構(CTBTO)準備委員会の特別会合がウィーンで
   開かれ、同準備委が世界で整備を進めている監視網を津波警報にも役立てること
   で合意。
   3月13日警視庁は、13、19日の両日に、大規模震災に備えて、警察官や事務職
   員ら約4万2000人を、それぞれ自宅から徒歩などで同庁本部や各警察署に集まる
   「総員参集訓練」を実施。
   3月15日沖縄県で例年より遅い3月になってインフルエンザが流行する。
   3月18日米大気研究センターの2チームが、大気中の温室効果ガスの濃度を2000
   年レベルですぐに安定化させても、21世紀末までに海面が10センチかそれ以上上
   昇することは避けられないとする推計を、コンピューターモデルを使ってまとめ、科
   学雑誌サイエンスに発表。
   3月20日午前10時53分、福岡県西方沖玄海島付近でM7.0の地震が発生。福岡
   県福岡市・前原市と佐賀県みやき町で震度6弱。福岡市中心部でビルの窓や外壁
   が割れて地上に落下した他、海岸部では液状化現象が発生。玄海島では173棟が
   全半壊し、島民の大半が避難。韓国全土でも揺れを観測し、南部で被害が出たほ
   か、中国の上海でも有感地震を観測。死者1名、重軽傷者1000名以上。国土地理
   院は、長さ約30キロ、幅約20キロの断層が平均で約60センチずれたとする解析結
   果を発表。
   3月22日米国雪氷データセンターの衛星観測で、2004〜05年にかけて、夏場に縮
   小する北極海の氷が、観測史上初めて、冬季にも十分に回復できなかったことが
   判明。
   3月23日政府の地震調査委員会は、10の活断層について、地震発生確率を発表。
   全国主要98活断層の地震確率データが出そろう。
   3月24日福岡沖地震の発生直後、災害発生時に優先して回線を利用できる「優先
   携帯電話」が九州全域で約二時間にわたり、一般の携帯電話と同じようにつながり
   にくくなっていたことが明らかになる。NTTドコモ九州は「地震の振動で、一般の
   携帯電話の利用を規制する通話コントロール装置が故障したのが原因」と説明。
   3月24日厚生労働省は、皮下注射する現在のインフルエンザワクチンを約50年ぶ
   りに見直し、ウイルスの変異への対応力が高く、感染の場となる気管支やのどの
   粘膜に達して直接作用する鼻に噴霧する経鼻ワクチンの開発に乗り出すことを決
   定。
   3月24日2003年に当局によるSARS(新型肺炎)の患者隠蔽を告発したが、その後
   自宅軟禁となっていた中国の軍医、蒋彦永氏が共同通信の取材に対し「2日前に
   自宅軟禁を解かれた」ことを明らかにする。
   3月25日2005年日本国際博覧会(愛知万博/愛・地球博)が愛知県長久手町、豊
   田市、瀬戸市の会場で開催。開催前に会場の環境問題が出たため、環境重視の
   博覧会へ変更された。
   3月28日気象庁は、国境を越えた地震・津波災害の監視を強化するため、世界各
   地でマグニチュード7以上の大地震が起きた場合、独自に解析し、速報を開始。国
   際的な津波監視拠点となる「北西太平洋津波情報センター」も同日、庁内に新設さ
   れる。
   3月28日スマトラ島西岸沖で大きな地震が発生。ニアス島を中心に少なくとも430人
   が死亡。小規模の津波も発生。先の大地震の余震という説と、先の大地震によって
   別の地震が起きやすくなったという説に分かれる。
   3月29日政府の地球温暖化対策推進本部は「京都議定書目標達成計画案」を決
   定。自然エネルギーの利用などを謳う一方で、環境税の導入などは先送りとなる。
   3月30日米オレゴン州立大学の研究者アンドレアス・シュミットナー氏は、地球温暖
   化によって、極地方の氷が溶け、北極海に流れ込むことで海水濃度が薄くなると、
   大西洋北部地域を温暖にしている主要海流が同地域に到達しなくなり、深層の栄
   養豊富な海水が供給されなくなって、プランクトンが半減、漁獲に多大な影響が出
   る恐れがある、との研究を発表。
   4月2日全国的にソメイヨシノの開花が大幅に遅れる。冬が暖かかったために、つぼ
   みの生育が遅れたためと考えられる。
   4月8日北朝鮮の国家獣医非常防疫委員会は、韓国の国立獣医科学検疫院に書
   簡を送り、平壌の大規模養鶏場などで発生した鳥インフルエンザへの対策に必要
   な装備、薬品の支援を要請。2月25日に発生したもので、アジアでは初のH7型で
   あると見られている。
   4月10日2月に、京都市山科区の洛和会音羽病院の入院患者から、ほとんどの抗
   生物質が効かないバンコマイシン耐性腸球菌(VRE)が検出された問題で、保菌者
   は計63人に上っていることが調査で明らかになる。
   4月11日国内では沖縄以南の熱帯海域にしか生息しないとされてきた「フサヘリイ
   ソギンチャク」が、和歌山県串本町沿岸で初めて確認。温暖化の影響と見られる。
   4月11日政府の都市再生本部は、地球温暖化・ヒートアイランド対策を推進するモ
   デル地域として、雪冷熱エネルギー活用を図る札幌市都心地域、既存工場のエ
   ネルギーを活用した環境配慮型住宅の整備などの温暖化対策を実施する北九州
   市の小倉・黒崎・洞海湾臨海地域など全国13地域の10都市を選定。
   4月11日佐賀県は、3月20日の福岡沖地震に職員がどう行動したかなどを調べた
   アンケート結果を発表。県内で震度6弱以上の地震が発生した場合に災害対策本
   部が自動的に設置されることを約7割が知らず、三人に一人は県庁と連絡を取って
   いなかったことが判明。
   4月11日国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、強力な温室効果をも
   つ代替フロン類の大気中への放出が、2015年には世界全体で現在の2・5倍に増
   え、地球温暖化を加速する恐れがあると指摘する報告書を公表。代替フロンは冷
   蔵庫やエアコンの冷媒などに広く用いられている。
   4月15日国立感染症研究所の調査で、全国約4700か所の医療機関を選んでイン
   フルエンザ患者の報告を調べたところ、1月から4月3日までの統計では、これらの
   医療機関の患者は約141万2000人となり、過去11年で最悪のペースと判明。
   4月17日国土交通省の国土交通技術会議は、地震や洪水の被害予測やリサイク
   ル技術など防災や安全、環境面から社会に役立つ技術の開発を第3期科学技術
   基本計画(2006−10年度)に盛り込むよう求める報告をまとめる。
   4月20日福岡県西方沖地震の余震と強い地震が発生。福岡市や同県春日市で震
   度5強、福岡市の玄界島や佐賀県みやき町などで震度5弱を観測。震源の深さは約
   14キロ、マグニチュードは5・8。みている。震度5強の余震はこれまでで最大。56人
   が重軽傷。
   4月27日環境省は「省エネルック」に代わる夏の新ビジネススタイルの愛称を
   「COOLBIZ(クールビズ)」に決定。
   4月30日東京大学と高知大学などの研究グループが、博多湾から福岡市の中心
   部を通る長さ約22キロの活断層「警固断層」が、海側にさらに3−2・5キロ延びて
   おり、福岡県西方沖地震の余震域にまで達していることを音波探査で突き止める。
   4月本州各地で前年より7倍〜13倍もの花粉が飛散。
   5月12日環境省は、地球温暖化による気温上昇の長期的な抑制目標を、19世紀
   半ばに比べ全地球平均で最大2度にすべきとする基本方針を決定し、中央環境
   審議会の専門委員会が中間報告として合意。
   5月12日北海道稚内市の宗谷岬などで、沖合に帯状の流氷が肉眼で確認される
   5月の観測は非常に珍しい。
   5月31日1人の女性が生涯に産む平均子供数である合計特殊出生率が2004年
   は1・29となることが、厚生労働省の04年人口動態統計で判明。
   6月1日英科学誌ニュー・サイエンティストは、地球に2085年に衝突する可能性の
   ある彗星が発見されたと報道。衝突の確率は約30万分の1。
   6月3日米カリフォルニア大などの研究チームは、衛星画像による調査で、北極圏
   に位置するシベリア西部の永久凍土地帯に広がる大型湖の数が1970年代以降、
   1000個も減少していることが明らかになったと、米科学誌サイエンスに発表。地球
   温暖化の影響と考えられる。
   6月8日7月に英国グレンイーグルズで開かれるG8主要国首脳会議(サミット)で、
   日米欧の8カ国は主要議題の地球温暖化対策について、国際エネルギー機関
   (IEA)との連携を表明する方向で最終調整に入ったと政府筋が明らかにする。
   6月23日北海道各地で30度を超える気温を観測。23年ぶりに東京より早く真夏日
   を迎える。
   6月24日秋田県鹿角市と田沢湖町の境にある焼山(1366m)の中腹で水蒸気が噴
   出しているのが見つかり、仙台管区気象台や秋田県の職員らが調査。
   6月26日茨城県水海道市の養鶏場で鳥インフルエンザが発生。日本で始めての
   「H5N2型」。5km圏内の鶏肉と鶏卵の移動を禁止し、2万5千羽を処分。
   6月27日直下型地震を引き起こす恐れがあるとして、政府の地震調査研究推進
   本部が指定している全国98か所の「主要活断層」に、新たに12か所が加わること
   になった。調査技術の進歩によるもので、福岡県西方沖地震との関連が指摘され
   ている警固断層帯等が含まれる。
   6月29日高知県の早明浦ダムの貯水率が3分の1を割り込む深刻な水不足を受け
   て、四国電力は17日から順次水力発電所を停止していたが、この日、6カ所すべて
   停止となる。
   6月30日環境省は、庁舎で使う電力の調達先の入札を、従来の価格を重視する姿
   勢から、CO2排出が少ない発電方式を採用する電力事業者を優遇する新たな審
   査基準を設ける事を決定。
   7月1日渇水により給水制限や農業への被害が広がっていた島根県で、一転して
   集中豪雨となり、18棟の床下浸水や、道路の冠水、のり面の崩壊などの被害が
   多発。
   7月1日6月の西日本は、1946年の統計開始以来の記録的な少雨、高温となった
   ことが気象庁の統計で明らかになる。降水量は平年の34%しかなく、29ヶ所で最
   小値を記録。特に福岡県では平年のわずか6%しかなかった。
   7月2日南硫黄島から北北東約6キロの福徳岡ノ場と呼ばれる海底火山付近で、
   高さ約1000メートルにわたって水蒸気が上がっているのを、海上自衛隊硫黄島航
   空基地の隊員が発見。
   7月4日米航空宇宙局(NASA)は、テンペル第一彗星の核に、無人探査機「ディープ
   インパクト」から放出した直径約1メートルの銅製の衝突体を命中させることに成功。
   7月6日英王立協会の研究チームが、化石燃料の消費が盛んになった過去約200
   年間に大気中に放出された二酸化炭素が原因で、海水のアルカリ度が低くなって
   おり、このまま大気中のCO2濃度が増え続ければ海の生態系に大きな悪影響が
   出て、人間の生活環境にも影響する、という内容の報告書を発表。
   7月13日沖縄県健康増進課は、県内各地で発生しているインフルエンザの患者数
   が注意報レベルを超えたとして、県内全域にインフルエンザ流行注意報を出した。
   インフルエンザは冬に流行するため、夏場の発令は非常に異例。
   7月20日愛知県東部で20〜23日にかけ、ゆっくりとした揺れの低周波地震が100回
   発生。震源は深さ30kmでM1未満。
   7月22日中央防災会議の「首都直下地震対策専門調査会」は、首都直下地震が発
   生した際に、行政、経済の中枢機能を自力で維持するため、中央省庁や日銀など
   が3日間分の非常用電源や食料などを自前で用意するよう求めた報告書を防災
   担当相に提出。
   7月23日千葉県北西部を震源とする地震が発生。東京都足立区で震度5強。足立
   区の震度計のデータが気象庁に届くまで、発生から22分かかっていたことが判明。
   その後の調査で回線処理能力の問題から、東京、山梨、埼玉で情報伝達が遅れる
   ことが明らかになる。さらに都の職員で災害対策住宅に住みながら地震直後に登庁
   しなかった職員がいたことが明らかになる。
   7月8月末にかけて西ヨーロッパで異常乾燥。フランス、スペイン、ポルトガルで山火
   事が頻発。消防士などに犠牲者が相次ぐ。
   8月12日米アイダホ州でクロイツフェルト・ヤコブ病の症例が2月以降に計6件発生、
   5人が死亡していることが判明。牛海綿状脳症(BSE)とは別の種別で、州当局は狂
   牛病と関係はないとしているが、発生率が異常に高い。
   8月12日東京都足立区で最大震度5強の揺れが起きた7月23日の地震で、都庁近
   くの災害対策住宅に住みながら都庁防災センターに駆け付けなかった都の職員20
   人を、都要綱に基づきこの住宅から退去するように命じる。災害対策住宅は震度5
   強以上の地震の際に登庁するかわりに家賃を低く抑えた職員住宅。
   8月15日牛海綿状脳症(BSE)の人間への感染を防ぐため、米政府が食肉処理業
   者に特定危険部位の除去を義務付けた規制について、2004年1月から今年5月ま
   での間に1036件の違反があったと報道。
   8月16日午前11時46分、宮城県沖地震発生。1978年、2003年の宮城県沖地震と
   区別するため宮城県南部地震とも言う。M7.2、最大震度は宮城県川崎町で震度
   6弱。東日本のほぼ全域と、西日本の一部で揺れを観測。重軽症者100人。小規
   模の津波を観測。緊急地震速報システムが作動。S波が到達する前に速報が出さ
   れる。
   8月17日米ウィスコンシン大などのグループが銀河系の中心に2万7000光年の棒状
   の構造があることを確認。
   8月29日25日にフロリダ半島を横断したハリケーン「カトリーナ」がアメリカルイジアナ
   州に上陸。ニューオーリンズ市では湖と河川が相次いで決壊、市内の8割方が水
   没。少なくとも死者行方不明者1858人。行政の対応が遅れたうえに、イラク派兵
   の影響もあって9月はじめまで軍が本格的な救助に出動できず、水没地域に取り
   残される人が相次ぎ、市内で食料を求める暴動が起こるなど治安が極度に悪化。
   さらに赤痢が蔓延し警察官が任務を拒否する事態に。治安維持のために州兵が投
   入されることになり、連邦政府への批判が高まる。世界中から支援が寄せられる。
   8月30日和歌山県の調査で紀伊水道でエチゼンクラゲが大量発生しているのを確
   認。日本海での大量発生は数年前から続いているが、西日本太平洋岸での大量
   発生は初めて。
   8月31日米海洋大気局(NOAA)とウィスコンシン大などのチームが、1996年ごろか
   ら南北両半球で中高緯度地域の成層圏のオゾン層の減少に歯止めがかかったこ
   とを示す分析結果を発表。
   8月31日日本木造住宅耐震補強事業者協同組合が、耐震診断した木造住宅約
   5万3000棟のうち、震度5強程度の揺れに対し、「倒壊または大破壊の危険」「やや
   危険」と判定された「不適格住宅」が76%に上ることが判明。1981年以降に建てら
   れた比較的新しい住宅でも6割が不適格住宅と判定される。
   9月2日「世界氷河モニタリングサービス」が、日本や欧米などの研究者と国連の支
   援で26カ国約780カ所の氷河について調査し、温暖化の影響を受けて、いくつかの
   氷河は縮小のペースが加速しており、数十年後には消滅する可能性があることを
   発表。
   9月5日4日の夜から、埼玉県川口市や、東京都杉並区や中野区、三鷹市、神奈川
   県川崎市宮前区、多摩区などの地域で1時間当たり100mmという記録的な集中豪
   雨が発生。神田川の支流などがあふれ都内だけでも100棟以上で床上浸水。
   9月5日国が2003年12月に定めた東海地震応急対策活動要領で、救援部隊など
   の活動計画について事前に策定すると決めながら1年半以上すぎた現在も策定して
   いないことが明らかになる。
   9月6日台風14号、列島を縦断。死者18人。集中豪雨により宮崎県下の大淀川、
   五ヶ瀬川などが氾濫。宮崎市から高岡町(現宮崎市高岡町)にかけての大淀川南
   岸で大きな被害を出す。高千穂鉄道の第一五ヶ瀬川橋梁、第二五ヶ瀬川橋梁が流
   失し、同鉄道は運行停止を余儀なくされ、2007年に事実上廃止(復活計画はある)。
   9月10日香港大学の研究グループは、中国などで猛威をふるった重症急性呼吸器
   症候群(SARS)ウイルスの主な感染源は、食肉用のハクビシンではなく、野生の
   キクガシラコウモリである可能性が高いとする研究結果を発表。
   9月20日気象庁気象研究所や国立環境研究所のスーパーコンピューターなどを使
   った解析で、地球温暖化の進行により、台風が巨大化し、集中豪雨も強くなる詳し
   いメカニズムが明らかになる。
   9月24日大型のハリケーン「リタ」がテキサス州とルイジアナ州の境界付近に上陸
   。カトリーナの被害を受けたニューオーリンズなどでも再び冠水。高架道路が崩落
   するなど大きな被害を出す。
   9月25日2005年日本国際博覧会(愛知万博/愛・地球博)が終了。当初の計画を
   変更して市民参加による環境博覧会へシフトしたことと、キャラクターの人気なども
   あり、目標をはるかに上回る約2205万人が来場。この種のイベントとしては珍しく
   100億円もの黒字を出した。
   9月26日6月に発見された、1991年6月の雲仙普賢岳大火砕流発生時に巻き込ま
   れた日本テレビの撮影カメラに残されていた映像記録が378秒ほどにわたって復
   元される。この火砕流では火山学者、警官、報道陣ら43人が死亡した。
   9月26日政府の地震調査委員会は、日向灘を震源とするM7クラスの地震が発生
   した場合、宮崎県と高知県の一部で、震度6弱の揺れが予想されることを公表。
   10月3日厚生労働省は、8月末から9月初旬にかけて米国に滞在していた川崎市
   内の30歳代の男性会社員が、米国で流行中のウイルス感染症「西ナイル熱」に感
   染発症したと発表。蚊によって媒介し、人から人への感染はないという。
   10月5日国際赤十字社・赤新月社連盟は、2005年版の「世界災害報告」を発表し
   た。昨年1年間に世界中で発生した自然災害と大事故は合計719件。死者数は過
   去10年間で最も多い24万9896人となる。そのうちスマトラ沖地震と津波による死者
   が22万4495人(4月末時点)に達する。
   10月5日ハリケーン「スタン」に伴う豪雨により、グアテマラのパナバフ村では大規
   模な土砂崩れで村落が埋没。死者行方不明1400人を出す惨事に。
   10月6日宇宙航空研究開発機構(JAXA)の研究者らは、探査機「はやぶさ」を使っ
   て調査中の小惑星イトカワについて、100万年に1回の平均確率で地球に衝突する
   という計算結果を発表。衝突した場合、広島型原爆65万個分に相当するエネルギ
   ーを出すと言われている。
   10月6日理化学研究所や米航空宇宙局(NASA)などの国際チームは、7月9日に観
   測された「ガンマ線バースト」が、中性子星同士か、または中性子星とブラックホー
   ルの合体で発生したとする研究結果を、英科学誌ネイチャーに発表。
   10月8日パキスタン支配域のカシミール地方で大規模な地震が発生。M7.6。9万
   人が死亡し重軽症者10万人以上の大惨事となる。首都イスラマバードも被害があり
   日本人も2人死亡。インド側支配域のカシミール地方でも1300人が死亡。
   10月19日内閣府は、地震の際に地質の違いによる揺れ方の差を7段階で表す
   1キロ単位のメッシュマップ「表層地盤のゆれやすさ全国マップ」を公表。
   10月31日米航空宇宙局(NASA)は、5月にハッブル宇宙望遠鏡によって行った観
   測結果として、冥王星にこれまで発見されていない2つの衛星が存在する可能性
   があると発表。後にニクスとヒドラと名づけられる。46kmと61kmという小さな衛星。
   10月20日東京大地震研究所や東北大などの研究グループは、8月に発生した
   M7・2の宮城県沖地震の震源近くの深さ20〜35kmで、太平洋プレートが屈曲して
   いることを、大規模な構造探査で確認。地震を発生させた地下の破壊現象が、ここ
   で止まった可能性があるという。
   10月28日厚生労働省は、発生すれば国内だけで10万7千人が死亡すると予想され
   ている新型インフルエンザについて、予防や治療、発生動向の把握など総合的な
   健康危機対策に取り組む推進本部を設置。
   11月12日8月に茨城県小川町の養鶏場で高病原性鳥インフルエンザが検出され
   た問題で、養鶏場側が県の調査を拒否し自ら調査したとして提出したデータに虚
   偽報告があったことが判明し、家畜伝染病予防法違反(検査妨害)の疑いで県警が
   捜査。
   11月17日国土交通省は、東京、千葉、神奈川の3都県のマンションとホテル計
   21棟で、設計事務所が偽造した構造計算書が使われていたと発表。14棟は既に
   完成しており、震度5強で倒壊の危険があるという。
   11月20日宇宙科学研究所が打ち上げた「はやぶさ(MUSES-C)」が小惑星イトカワ
   に着陸。世界で始めて小惑星着陸に成功する。26日にも再度着陸。離陸後、トラブ
   ルで行方不明となるが、翌年確認。イオンエンジンの再始動に成功し、地球への
   帰還の途につく。地球到着は2010年以降の予定。
   11月25日スイス・ベルン大などの研究チームが、南極東部で氷床から採取した氷
   柱を使って昔の大気中のCO2濃度を分析したところ、現在のCO2濃度は約65万年
   前までさかのぼっても過去最高であることが明らかになったと、米科学雑誌サイエ
   ンスに発表。
   11月25日米疾病対策センター(CDC)が、新型インフルエンザの対策を研究すると
   いう理由で、1918年に猛威を振るったスペイン風邪ウイルスを遺伝子工学を用いて
   再現し、生物兵器に転用の恐れがある「指定病原体リスト」に登録していたことが
   明らかになる。人インフルエンザの登録は初めて。
   11月25日台湾の知的財産局(TIPO)は、インフルエンザ治療薬タミフルの供給が
   尽きた場合、「強制実施権」に基づいたタミフル製造が容認されるとして、製造元の
   スイス製薬大手ロシュの許諾なしに台湾がタミフルを製造できる、との見方を示す。
   12月2日米海洋大気局(NOAA)は、大西洋中部で発生した熱帯暴風雨イプシロン
   がハリケーンに発達したと発表。これで今季14個目のハリケーンとなり、1969年の
   記録を抜き、史上最多となる。熱帯暴風雨も過去最多の26個。温暖化の影響と考
   えられる。
   12月3日オーストラリア西部の広い地域で、隕石の落下が観測される。ウエスタン
   オーストラリア州を南西に横切るように大気圏に突入し、南の海上に落ちた可能
   性が高いとみられる。
   12月12日パキスタン北部カシミール地方で、10月8日に発生したパキスタン大地
   震で被災した40歳代の女性が2か月ぶりにがれきの下から救出される。食料とと
   もに瓦礫に閉じ込められたため生き延びたと見られる。
   12月29日ペルー北部のアマゾンのジャングル地帯に住む先住民アグアルナ族の
   人々の間で、12月初めから吐血などの疾病症状があらわれている。正体不明。。
   12月29日秋田県湯沢市高松の泥湯温泉の共同駐車場で、硫化水素ガスが発生
   し、宿泊に来ていた一家4人が死亡。31日には住民に避難勧告が出される。現場
   検証で致死量に近い118〜130ppmほどが観測される。
   12月翌年2月まで全国的に豪雪。平成18年豪雪と命名。昭和38年1月豪雪(いわ
   ゆる三八豪雪)以来の命名となる。全国で死者152人、重軽症者2100人。雪崩93
   件など。名古屋市や鹿児島市で積雪の記録を更新し、通常積雪のない八丈島や
   宮崎市でも積雪を観測。暴風雪が多発し、各地で大規模停電が発生。12月25日に
   は羽越本線砂越駅〜北余目駅間で特急「いなほ14号」が暴風によって脱線転覆し
   養豚場に激突。死者5人、負傷者33人を出す事故も発生。
2006(平成18)年1月1日世界標準時の元日午前0時00分00秒(日本時間同日午前9時
   00分00秒)の前に、31日午後11時59分60秒(同1日午前8時59分60秒)という「うる
   う秒」が挿入される。地球の自転がわずかずつ遅くなっているので調整のため。
   1月1日真夏の南半球オーストラリアのシドニー近郊にあるキングスフォード・スミス
   国際空港で最高気温が45度を突破する。
   1月8日長野、新潟県で大雪。山間部では孤立する集落が続出。
   1月12日ロシアのウラルから西シベリアにかけて100年に一度と言う寒波が襲来。
   各地でマイナス50度以下になる。
   1月15日彗星のちりや星間物質を採集した米航空宇宙局(NASA)の無人探査機
   「スターダスト」の試料カプセルが、米国ユタ州内の米軍基地に着陸。
   1月15日各地で3月なみに気温が上昇。1月はじめからの大雪もあって融雪が進み
   雪崩が相次ぐ。沖縄県宮古島では例年より2ヶ月以上も早くイワサキクサゼミが鳴
   き始める。
   1月17日放射線医学総合研究所や東北大学などの研究で、阪神大震災の1ヶ月
   前から、震源地の北東約25キロにある神戸薬科大で測定していた大気中のラドン
   濃度データが急上昇していたことが明らかになる。ラドンは地中に含まれる放射性
   物質。
   1月17日大規模災害に備えて国や東京都が食糧などを備蓄している都内の倉庫19
   か所のうち、過半数の10か所(備蓄量にして7割以上)が大規模水害時の浸水想定
   区域内にあることが、政府の中央防災会議の調査で明らかになる。
   1月18日東大医科学研究所の研究チームが、1918年に大流行したインフルエンザ
   「スペイン風邪」のウイルスを、遺伝子配列情報を元に人工的に作り出し、サルに
   感染させると、異常な免疫反応が起きて致死性の肺炎になることを発見。英科学
   誌ネイチャーに発表。
   1月20日BSE(牛海綿状脳症)対策でアメリカからの輸入が禁止されていた危険部
   位の脊柱が付いた牛肉が成田空港で発見される。米政府の検査官が、特定危険
   部位である脊柱が付いた肉を日本に輸出できないことを知らなかったという非常に
   御粗末な原因による。このため、日本側は輸入を中断、吉野家などでも牛丼の再
   開を延期するなど波及。
   1月21日22日にかけて、関東南部、東海地方、西日本で大雪。東京都心でも8年
   ぶりの大雪となり、交通が麻痺。1都3県でこの日だけで200人近くが負傷。
   1月23日アメリカ・ブッシュ大統領の一般教書演説で、はじめて地球温暖化防止対
   策の必要性について言及がなされる。これまでは経済活動に影響があるとして、
   温暖化については人間の活動を原因とする説に否定的だったが、環境の悪化や、
   排出権取引などの活発化に伴い、財界から対策の実施を求める動きが出たためと
   思われる。
   2月6日ロシアのアブドサマトフ天体観測研究所研究員は、太陽活動の停滞から、
   6〜7年後に世界の気温が次第に低下し始め、17〜18世紀に続く「ミニ氷河期」に
   入る可能性があるとロシア通信のインタビューに対し答える。
   2月8日米農務省の監察官事務所によるBSE(牛海綿状脳症)対策監査で、米国
   内の食肉処理施設がBSE感染の兆候とされる歩行困難牛20頭を原因不明のま
   ま食肉処理していたことが判明。
   2月8日アフリカ大陸ではじめてのH5N1型鳥インフルエンザが確認される。
   2月10日秋田県仙北市の乳頭温泉郷にある温泉旅館付近で雪崩が発生し、露天
   風呂に入浴していた客や近くで除雪作業中だった作業員ら十数人が巻き込まれ、
   1人が死亡、16人が怪我。
   2月11日イタリア、ギリシャの両国で、H5N1型鳥インフルエンザが確認される。欧
   州では初めて。
   2月12日将来懸念される富士山の噴火による被害軽減のため、避難の時期や対
   象地域、臨時火山情報を気象庁が出した段階で、火口付近への立ち入り自粛を
   求めるなどを方針に盛り込んだ富士山火山広域防災対策基本方針がまとまる。
   2月16日ドイツでもH5N1型鳥インフルエンザが確認される。渡り鳥によるものと考
   えられる。
   2月17日フィリピン中部の南レイテ州のギンサウゴンで豪雨による土砂崩れが起こ
   り、約1平方キロにわたって村が埋没。少なくとも200人が死亡、約1500人が行方
   不明になる。
   2月28日千葉県一宮町周辺でカズハゴンドウイルカ約70頭が砂浜に打ち上げられ
   る。
   3月4日インド洋に浮かぶ仏領レユニオン、仏領マヨット、マダガスカル、モーリシャ
   ス、セイシェルなどでアジア・タイガー蚊によるチクングンヤ熱と呼ばれる感染症が
   大発生し、仏領レユニオンでは、人口78万人のほぼ4分の1に当たる18万6000人
   が感染し、これまでに93人が死亡したと発表。
   3月29日アフリカや中央アジアで皆既日食。
   3月21日北海道釧路市阿寒町の雌阿寒岳がごく小規模の噴火。火口が二つ出現。
   4月14日大地震にも強いといわれる五重塔の耐震性の謎を調べる実験が、防災科
   学技術研究所で行われる。強い理由の有力な説の一つとされてきた「心柱振動吸
   収説」について、心柱の有無で試したところ、結果に差がなかったことから、この説
   には疑問符がつく結果となる。
   4月16日モナコ公国元首のアルベール2世が、地球温暖化問題の啓発キャンペーン
   のため、探検家や登山家ら7人と犬ぞりで北極点に到達。北極点に到達した初の国
   家元首という。北極点周辺でも氷が溶け始めている現象を確認したと言う。
   4月21日午前2時50分。伊豆半島東方沖地震発生。M5.8。静岡県伊東市で最大
   震度6弱。はじめ震度7と速報され、その後震度4と発表されるなど地震情報で混乱
   が生じる。軽傷者3人。関東平野で長周期振動が観測される。
   4月17日水産庁がまとめた平成17年度の資源評価で、クロマグロとミナミマグロの
   資源状態の世界的な悪化に改善の兆しがみられず、資源回復のためには漁獲量
   削減が必要なことが判明。さらに安定していたメバチマグロも減少し始めていること
   が明らかになる。
   4月29日農林水産省は、英国政府から鳥インフルエンザH7N3型が発生したという
   連絡を受け、英国からの生きた鳥と鳥肉の輸入を一時停止。
   5月6日米航空宇宙局(NASA)のハッブル宇宙望遠鏡が、木星の南半球にある大
   赤斑の横に現れたに赤い目玉模様の観測に成功。巨大な嵐の渦と考えられる。
   5月12日シュバスマン・ワハマン第3彗星が地球に接近。1200万kmを通過。接近
   中に核が分裂しているのが観測される。この彗星は、太陽系を5.4年周期で一周
   する。1930年に発見後、1979年に再発見されるまで半世紀にわたり行方がわか
   らなくなっていたなぞの彗星で、国立天文台が各地に観測情報を求める。
   5月13日インドネシアのメラピ山の火山活動が活発化。火砕流の危険があるとして
   、住民に避難指示。
   5月19日世界保健機関(WHO)によると、西アフリカのアンゴラでコレラの感染が
   拡大し、死者数は19日までに約1300人を突破、1991年のペルーでの大流行以
   来最大規模の感染被害となっていることが判明。
   5月25日海洋研究開発機構と米海洋大気局(NOAA)などが、マリアナ諸島のロタ
   島北西60キロに位置する海底火山「NWロタ―1」に、無人探査機で接近し、激しく
   噴煙を上げる海底火山の撮影に初めて成功した様子が英科学誌ネイチャーに掲載
   される。2005年10月、海洋調査船「なつしま」とケーブルで接続されたテレビカメラ
   搭載の無人探査機「ハイパードルフィン」が、水深533メートルの噴火口に約3mま
   で近づき撮影。岩石を採集した。
   5月27日インドネシア、ジャワ島中部でM6.2の大きな地震が発生。5000人以上
   が死亡、3万5000棟が崩壊。ジョグジャカルタの世界遺産ロロ・ジョングラン寺院も
   崩壊。
   5月28日パプアニューギニアのニューブリテン島付近で、マグニチュード6・2の強い
   地震が発生。前日のジャワ島中部の地震との関連は不明だが、この付近からイラ
   ンにかけてのプレート境界線付近で地下の活動が活発になっていると言う説があ
   り、スマトラ大津波を引き起こした大地震や、イラン、パキスタンでの大規模地震、
   インドネシアの火山活動などが相次いでいる。
   5月28日農林水産省水産総合研究センターが中心となって、ノロウィルスがどのよ
   うにして牡蠣に蓄積されるのか、3年がかりで調査することを決定。ノロウィルスは
   人間の体内で増殖後、排泄物とともに下水に流され、下水管を経て海に至り、プラ
   ンクトンなどの体内を経て、牡蠣に蓄積されると考えられている。
   5月4月から5月にかけて、岩手県内で季節はずれのインフルエンザが流行。学校
   閉鎖が相次ぐ。北海道や沖縄でも季節はずれの流行。
   6月1日厚生労働省の人口動態統計(概数)で、2005年の、1人の女性が生涯に産
   む子供数の推定値である合計特殊出生率が1・25と判明し、5年連続で過去最低
   を更新しなったことが明らかとなる。さらに出生数から死亡数を引いた「自然増加
   数」は、統計を取り始めた1899(明治32)年以来、初の減少となるマイナス2万1000
   人で、「人口減少元年」と称されることになる。
   6月3日米オハイオ州立大とロシアや韓国の研究者グループは、南極で上空からレ
   ーダーで測定した地形と、衛星による重力データを重ね合わせた結果、直径約500
   キロのクレーターがあることを発見。2億5000万年前の大絶滅期のものとも考えら
   れるという。
   6月7日桜島の昭和火口付近で小規模の噴火。噴煙の高さは約1000メートルに
   達する。同火口付近の噴火は1946年に溶岩を流出した大噴火以来60年ぶり。
   6月8日海洋研究開発機構などの研究グループの分析で、1997年から98年にか
   けて北極海で氷が大幅に減少し、その後も回復していないのは、太平洋から暖か
   い水が流れ込んで北極海が温暖化したためだとの結果が明らかになる。
   6月8日滋賀県の調査で、琵琶湖周辺に生息する固有種など多くの生物が、2000
   年時と比べて、絶滅の恐れが高まっているという結果が明らかになる。生息数の
   減少が懸念され調査対象となった動植物は、約190種増えて1270種に。琵琶湖
   では温暖化により酸素濃度が変化していると言われている。
   6月12日大分県中部を震源とするやや強い地震が発生。大分県佐伯市と広島県
   呉市、愛媛県今治市などで震度5弱。震源の深さは146キロ、マグニチュードは6.2。
   大分、宮崎両県などで計8人が重軽傷。
   6月13日沖縄本島で、8日から始まった集中豪雨により土砂崩れが相次ぐ。那覇市
   首里鳥堀町では、地上3階・地下2階の賃貸マンションが、地盤の流出などで傾き
   始め、住民が避難。
   6月16日5月から全国で続いている日照不足で、気象庁が注意を呼びかける。北陸
   地方などでは過去最低に。天候不順が原因。野菜などが高騰。低いところでは平
   年の10%程度、比較的日照のあった場所でも5〜6割程度しかない状態。
   6月18日鳥取県衛生環境研究所が2005年4月15・16日に調査したデータから、黄
   砂を含む大気中から通常平均値の10倍以上のマンガンやヒ素などが含まれてい
   ることが判明。中国の大気汚染が原因と考えられる。
   6月19日秋田県横手市で、腸管出血性大腸菌O157の感染者が相次ぐ。県健康
   推進課では、感染者の多くが、横手市の「秋田ふるさと村」で開かれた動物と触れ
   合うイベントの参加者だったため、経口感染したのではないかという。
   6月21日英ニューカッスル大は、地球温暖化がきっかけで起こると考えられている
   ヨーロッパ北部などの急激な寒冷化について、日本など東アジア地域は、欧米ほど
   深刻な影響を受けないとの研究結果を発表。
   6月22日埼玉医大病院で2005末までの約2年間に、入院患者約100人から複数の
   抗生物質が効かない多剤耐性緑膿菌が検出され、うち男女6人が死亡していたこ
   とが判明。
   6月24日英ロンドン大などの研究チームは、牛海綿状脳症(BSE)の牛を食べて発
   病するとされる変異型クロイツフェルト・ヤコブ病は、感染から発病までの潜伏期間
   が、長い人で50年を超す可能性があるとの推定をたて、英医学誌ランセットに発
   表。
   7月1日産業技術総合研究所が仙台平野の240箇所で調査した結果、869年に東北
   から関東を襲った貞観津波は、仙台平野で当時の海岸線から約3キロ内陸にまで
   達していたことが判明。
   7月3日6月の降水量が、九州や沖縄で平年を上回る量だったのに対し、東北・北陸
   地方では場所によって平年の20%に満たない記録的な少雨だったことが判明。
   また梅雨のない北海道でも低気圧の影響で大雨だったことがわかる。
   7月7日スペインでもH5N1型鳥インフルエンザを確認。
   7月15日国立感染症研究所の調査で、アデノウィルスによる咽頭結膜熱(プール熱)
   が大流行していることが明らかとなる。小児科などからの報告では1月から6月下旬
   までで約4万1500人が感染。実際にはその約10倍に達しているという推測もある。
   7月15日同月24日にかけて、長野県、福井県、京都府、岡山県、島根県、宮崎県、
   鹿児島県などで非常に局地的に豪雨が連続。平成18年7月豪雨と命名。死者26
   人、行方不明1人。
   7月15日海洋研究開発機構の無人深海巡航探査機「うらしま」が、三重県南方沖約
   40kmの深海底で、海底下の地層から大量の泥が火山のように噴出した地形を詳
   細に観測。
   7月17日インドネシアジャワ島の南岸に津波が襲来。死者行方不明者700人以上。
   7月20日ドイツのマックスプランク研究所と米バイオ企業の454ライフサイエンシズ
   が、約3万年前に絶滅したネアンデルタール人の遺骨から、遺伝子を抽出し、全遺
   伝情報(ゲノム)解読に取り組むと発表。
   7月22日台風4号に直撃された中国南部でこの日までに518人が死亡したことが
   明らかになる。湖南、広東両省などで2645万人が被災。家屋倒壊は約21万2000
   棟。295万人が緊急避難。一部では死者数をごまかす動きもあり当局が指導。
   8月1日研究機関や事業者、公共施設向けの、気象庁の「緊急地震速報」の提供が
   スタート。
   8月3日沖縄県の石垣島北西約50キロの海底火山「鳩間海丘」(水深1470m)から
   噴出する青い熱水を海洋研究開発機構の潜水調査船「しんかい6500」が撮影。
   青い熱水は初めて。火山ガス中の硫黄分と海底の銅や鉄が反応したためと考えら
   れる。
   8月7日フィリピンのルソン島にあるマヨン火山の活動が活発化。一日で6回噴煙を
   上げ、溶岩がふもとに到達。
   8月12日上空に寒気が入ったため、本州各地で落雷。都心で落雷により電車が停
   止したほか、全国で38万戸が停電。北陸から甲信越にかけて集中豪雨となり、
   富士山では「氷あられ」が降り積もる。
   8月17日米航空宇宙局(NASA)は、太陽の爆発現象を探るための「SolarTerrestrial
   RelationsObservatory(略称:STEREO)」計画を発表。2基の観測用人工惑星(
   太陽に対して公転軌道を回る人工衛星)を使い、太陽を3次元観測するというもの。
   8月18日世界気象機関(WMO)と国連環境計画(UNEP)は、南北両半球の緯度
   30〜60度の地域で大気中のオゾン層の回復に関する予測を発表。それによると、
   オゾン層が1980年以前の水準に回復するのは2049年。2002年の予測に比べ、
   回復が5年遅くなる。
   8月21日厚生労働省は今年上半期(1〜6月)の人口動態統計速報をまとめ、出生
   数は前年同期比1万1618人増の54万9255人となり、上半期ベースで2000年以来
   6年ぶりに前年を上回った。これは経済状況がやや改善したため、結婚する人が
   増加したこともあるが、中絶件数が減ったのも理由のひとつと考えられている。
   8月24日チェコのプラハで総会を開いている国際天文学連合(IAU)は、冥王星を
   惑星から除外することを賛成多数で決定。太陽系の外縁部に同規模の小惑星が
   多数発見され、また他の8個の惑星と比べても大きさや軌道が異なるのが主な理
   由。同様の小惑星3個を惑星に昇格させる動きもあったが、結局冥王星を降格させ
   ることでまとまった。冥王星が惑星と定められていたのは1930年の発見から76年
   間となる。天文学者の大半が賛成する一方で、文化人の多くが反対する声明を出
   した。その後、冥王星は準惑星と呼ばれるようになり、同様の外縁天体を冥王星
   型とするようになる。
   8月28日鹿児島市の最低気温は24・2度まで下がり、7月7日以来52日ぶりに25
   度を下回った。51日間続いた25度以上の「熱帯夜」の記録は観測史上最長。
   8月31日警視庁が実施した意識調査で、都内の約5000か所について震災時の危
   険性を5段階で予測した都の「危険度ランク」について、81・9%の住民が「知らな
   い」と回答したことが判明。
   9月2日文部科学省は、首都直下型地震への対策として、2007年度から5年計画
   で地下構造の詳細な調査を実施することを決定。震度2〜3の揺れを感知できる
   地震計を1都8県に5km間隔で800箇所に設置し、震度1以下の小さな揺れが観
   測可能な高感度地震計も3か所増設して23箇所として、20km間隔で観測できる
   ようにする。
   9月9日ウイルス性の熱帯病「デング熱」がマニラ首都圏を中心にフィリピン各地で
   流行。同保健省のまとめで、1月から9月9日までの患者総数は1万4915人、死者
   数は188人。
   9月17日台風13号が九州を縦断。8人が死亡1人が行方不明。宮崎県延岡市では
   竜巻が市街地を縦断し、特急列車「にちりん」が横転。
   10月3日国連の世界気象機関(WMO)は、米航空宇宙局(NASA)と欧州宇宙機関
   (ESA)のデータから、南極上空に今年発生したオゾンホールが過去最大だった
   2000年の水準に並ぶ規模に発達したと発表。
   10月15日ハワイ州のハワイ島やオアフ島でM6.6の大きな地震。家屋の破壊、
   がけ崩れなどが起こる。オアフ島は全島がほぼ停電に。マウナケア山頂にある
   「すばる望遠鏡」にも被害。
   10月30日英国政府は、気候変動の影響を包括的にまとめた報告書を発表。それ
   によると、温暖化対策を取らなかった場合、今後50年間で地球の平均気温が
   2〜3度上昇すると予測。海面上昇で1億人が移住を余儀なくされ、2億人が自宅を
   失い、最多で種の4割が絶滅に瀕し、世界経済が2割縮小すると指摘。
   11月7日北海道佐呂間町若佐地区は、距離で1キロ、最大で幅200メートルの細
   長い帯状に竜巻が通過。作業員宿舎などが大破し、9人が死亡。
   11月15日午後8時15分頃、千島列島シムシル島東方沖で地震発生。M7.9。国
   内での最大震度は2。津波警報が出されたが、予想ほど大きい波は観測されず。
   一方、警報も注意報も出なかった西日本や沖縄でも津波が観測される。ハワイや
   アメリカ西海岸でもかなり大きな津波が観測された。また、警報が出ているのに避
   難した住民が非常に少なかったことが問題になった。和歌山県太地町の太地湾に
   あるいけすでは、いけすが揺さぶられて中のイルカが死亡。
   11月15日韓国の通信社・聯合ニュースは北朝鮮で11月初めから、伝染病のしょう
   こう熱の感染が急速に広がっていると報道。
   11月16日米航空宇宙局(NASA)のエックス線天文衛星「チャンドラ」は、超新星爆
   発後の残骸の周囲で猛烈に加速しながら電子が飛び散る現象をとらえた。超新星
   爆発は、地球に降り注ぐ高エネルギー粒子の発生起源と考えられる。
   11月19日大西洋横断クルーズ中の米客船「カーニバル・リバティー号」で、乗員
   140と乗客530人以上がノロウイルスに集団感染したとみられることが判明。乗客
   14人と乗員5人の症状が改善せず隔離される。
   11月20日土木学会と日本建築学会による合同研究により、巨大地震で発生する
   「長周期地震動」によって、名古屋市や大阪市では超高層ビルが大きく損傷する
   可能性があることが明らかになる。
   11月21日京都市の60歳代の男性がフィリピンで狂犬病に感染し、帰国後に発症
   して死亡。日本人の海外での感染は36年ぶり。国内での感染例は1956年を最後
   に例はないが、海外では一般的な病気で、ワクチン接種がないまま感染すると、
   発症後はほぼ100%死亡する。
   11月30日アテネ考古学博物館や英カーディフ大などの研究チーム、ギリシャのア
   ンティキテラ島沖の海底に沈んだ難破船から、1901年にばらばらの状態で発見さ
   れた紀元前150−100年の謎の青銅製機械が、日食や月食のほか、惑星の動き
   まで分かる精巧な手動暦計算機である可能性が高まったと英科学誌ネイチャーに
   発表。
   12月1日米航空宇宙局(NASA)ジョンソン宇宙センターの研究者らが、2000年1月
   にカナダ西部の湖に落下した隕石から、46億年前の太陽系創成期にできた有機
   物が含まれていたことを突き止める。
   12月8日国立感染症研究所感染症情報センターの調査で、ノロウイルスを主な原
   因とする感染性胃腸炎が、過去25年で最大の流行となったことが明らかになる。
   12月8日独マックスプランク研究所などの調査で、アフリカ中西部のコンゴ共和国
   で、エボラ出血熱のためニシローランドゴリラが大量死し、ロッシ保護区西部では、
   5000頭以上が最近5年間でほぼ全滅したと推定されることが判明したと、米科学
   誌サイエンスに発表。
   12月11日米国立大気研究センターなどの研究チームは、二酸化炭素(CO2)など
   の温室効果ガスが現在のペースで排出され続ければ、北極の氷の解けるスピー
   ドが加速し、2040年の夏には小規模の氷が残る程度になってしまうという研究結
   果を、米国地球物理学連合の学会誌「地球物理学研究レター」に発表。
   12月18日読売新聞の全国調査で、本州各地で4月から11月末までに、ツキノワグ
   マ4737頭が捕獲され、うち9割の4250頭を殺処分されていたことが判明。異常気
   象による餌不足で里に下りてくる例が増加し、殺害されているものと見られ、熊の
   絶滅の可能性も取りざたされることに。
   12月21日三菱総合研究所の試算で、首都圏で大地震が起きたとき、都心部にい
   る約2000万人が一斉に歩いて自宅に帰ろうとすると、6時間以上混雑する地点が
   複数生じ、全員が帰宅するまでには約40時間かかり、初日だけでトイレ約1500万
   回分が必要となることが明らかになる。
   12月ヨーロッパで異常暖冬。雪が降らず、スキー場など多くが閉鎖。オーストリアの
   研究者が、樹木の年輪などから過去の天候を推測したところ、アルプス地方では
   西暦755年以降で最も暖かい冬になったという。
2007(平成19)年1月7日鳥取県は、災害時に届く救援物資について、個人の物品提供
   を原則として断る方針を決める。新潟県中越地震で、自治体職員が大量の物資
   の仕分けなどに追われて本来の活動に支障が生じたこと、無償で配られる物資
   が地元経済の復興を妨げること、などを検討した結果。
   1月7日日本の南極観測隊医療班の調査で、無菌状態に近い雪や氷を解かした
   水を使っている南極の浴槽にも、重い肺炎を引き起こすレジオネラ菌が繁殖してい
   ることが判明。南極に来た人間が持ち込んだものと考えられる。
   1月8日7日から8日にかけて、東日本を中心に20〜40mの暴風が吹き荒れる。急
   速に発達した低気圧によるもの。
   1月11日宮崎県清武町の養鶏場で鶏が多数死亡しているのが発見される。その後
   の調査で高病原性鳥インフルエンザウイルスH5N1型であることを確認。
   1月12日カエルの感染症であるツボカビ症を国内で初確認。中米やオーストラリア
   などで蔓延しており、感染力が強いことから、地域の両生類が絶滅する可能性もあ
   り、生態系にとって脅威と言われている。
   1月12日硫黄島で、前年11月中旬から6週間で中央部の元山一帯が20cmも隆起
   する現象が確認される。もともと隆起の速い島だが、今回はそれに加えて火山活
   動に伴うものとみられている。
   1月13日千島列島シムシル島東方約200キロ付近でマグニチュードM8.2の地震
   が発生。北海道から紀伊半島までの太平洋岸と、伊豆・小笠原諸島に津波注意報。
   各地に数十cmの津波が観測される。注意報の出ていなかった鹿児島県などでも
   津波を観測。注意報の出た地域でもほとんどの人が避難しなかったことが問題に
   なる。
   1月22日宮崎県日向市でも鶏が多数死亡しているのが発見され、その後、高病原
   性鳥インフルエンザウイルスH5N1型であることを確認。各地で風評被害が出るな
   どの騒ぎに。
   1月26日岡山県高梁市の養鶏場で採卵用鶏が死亡しているのが発見される。その
   後の検査で、H5亜型と判明。
   1月30日宮崎県新富町の養鶏場で、鶏が死亡しているのが発見される。その後の
   検査で岡山県と同様のタイプと判明。
   2月8日独米などの国際研究グループは、胃がんの原因になるピロリ菌の遺伝子を
   調べた結果、人類がアフリカから世界中に広がり始めた約6万年前頃に感染し、
   共に進化しながら世界に広まったことを突き止め、英科学誌ネイチャーに発表。
   2月28日気象庁が定義する冬としては、気象庁が1876年(明治9年)に観測を開始
   して以来初めて東京で雪が一日も降らず。
   3月25日午前9時41分、能登半島地震発生。M6.9で、最大震度は、石川県七尾
   市、輪島市、穴水町で震度6強。小規模の津波あり。死者1人、重軽傷者358人。
   家屋全半壊2416戸。その他一部被害は2万棟以上。
   4月5月にかけて南関東をはじめ全国ではしかが流行。特にワクチン接種経験がな
   い10代後半〜20代にかけて拡大し、大学の閉鎖などが相次ぐ。
   5月13日国の感染症発生動向調査で、「アメーバ赤痢」の患者が大幅に増え、
   2003年から4年間に届け出のあった患者のうち、70%が国内で感染し、10人が死
   亡していたことが判明。男女間の性交渉による感染が増加。
   5月24日海洋研究開発機構と東京大学のグループが、巨大噴火で大量の火山
   灰や火山ガスが広がる様子をコンピューターで再現することに成功し、日本地球
   惑星科学連合大会で発表。
   7月16日午前10時13分、新潟県中越沖地震発生。M6.8で、最大震度は新潟県
   柏崎市・長岡市・刈羽村、長野県飯綱町で6強。死者15人、重軽傷者2345人。家
   屋全半壊6940戸。数十cm〜1mほどの津波が発生。東京電力柏崎刈羽原子力
   発電所で火災や放射性物質の含まれた水が流出するなどの被害があり、対応や
   事前調査などの問題が指摘される。同日午後3時には震度6弱の最大余震も発生
   している。
   7月16日大阪府堺市、和泉市、富田林市などで集中豪雨。
   8月23日兵庫県尼崎市付近で集中豪雨。400戸以上が浸水。
   9月高知県大月町の柏島周辺の海域で、海水温の上昇で起きるサンゴの白化現
   象が確認される。
   10月1日午前、神奈川県西部で地震。同日9時に一般向け緊急地震速報システム
   が起動するも、その運用開始直前だったために速報されず。また、観測機器は、
   P波を捉えてきちんと分析し速報を出したが、震源地に近い小田原市や箱根町で
   は地震速報が出る前にS波が到達したため、運用後でも揺れには間に合わなか
   ったと考えられる。
   10月1日米航空宇宙局(NASA)は、クイックスキャット衛星を使って観測した結果
   、北極海を1年以上にわたって覆う多年氷の面積が、2005年より23%も激減し観
   測史上最低になったと発表。
   10月2日中央防災会議は、東京湾北部を震源とするM7・3の首都直下型地震が
   起きた場合、最大で162万世帯373万人が家を失い、各自治体が最大限住宅対策
   をとっても、半年後の時点でまだ27万世帯以上が住宅を失ったままになるとの試
   算を発表。
   10月2日国土地理院は、柏崎市内を通る西山丘陵で、長さ約15キロ、幅約1.5キロ
   にわたり、最大で高さ15センチ盛り上がる「褶曲現象」が確認されたと発表した。
   中越沖地震の影響と考えられる。
   10月6日本来はしかの流行シーズンを過ぎた9月以降も、九州や関西などで10代
   後半を中心に患者が続出していることが、国立感染症研究所のまとめで明らかに
   なる。
   10月6日大型で猛烈な台風15号による影響で、与那国島では午前10時54分に
   最大瞬間風速60・2メートルを記録、午前11時40分には最低気圧929・2ヘクト・パ
   スカルを観測し、観測史上1位の値を更新。
   10月6日京都議定書で義務づけられた温室効果ガス削減目標の達成に向け、
   2008〜12年に国内企業が途上国に技術や資金を持ち込むことで排出量削減とす
   る「クリーン開発メカニズム(CDM)事業」235件を国が承認し、排出権として換算す
   ると年平均1億14万トンに達することが経済産業省のまとめで明らかになる。政府
   はこの排出権を購入して目標達成のひとつに加える。
   10月11日平安時代に東北地方の太平洋沿岸を襲った「貞観津波」の新たな痕跡
   を、大阪市立大、東北大、東京大地震研究所などのチームが岩手県内で発見し、
   日本応用地質学会で発表。被害の広さから、M9クラスの地震だった可能性も指
   摘される。
   10月12日ノルウェーのノーベル賞委員会は2007年のノーベル平和賞に、地球温
   暖化問題に取り組んでいるアル・ゴア前米副大統領と国連の気候変動に関する
   政府間パネル(IPCC)の両者に授与すると発表。
   10月13日台湾のニュースサイト「中国台湾網」などは、台湾南部でデング熱が流
   行し、台南市では同日までに市内で511人の感染者を確認。高雄市でも集団感
   染が発生しており、過去最大規模となる。
   10月15日日本経団連は、温室効果ガス削減に関する2013年以降の新たな国際
   協定の枠組みについて、電力や鉄鋼、石炭鉱業など世界の産業分野別に削減目
   標を定めることを盛り込んだ提言を発表。
   10月25日ペルセウス座の方角に見えていたホームズ彗星が、23日には約17等
   だった明るさが、25日には40万倍の2.9等まで明るくなる。彗星の核から塵やガ
   スが一気に噴出すアウトバースト現象と見られる。
   10月27日地震発生時の地盤の液状化が空港施設に与える影響を調べるため、
   北海道小樽市の石狩湾新港埋め立て地に作られた実物大の空港施設(滑走路
   や駐機場)を使って、爆薬で人工的に地震を発生させる世界初の実験が行われ
   る。583箇所に仕掛けられた合計1.8tの爆薬により、施設に液状化現象が起こる
   のを確認。
   10月31日旱魃が続くオーストラリアのシドニー郊外で、庭の水撒きをしていた住人
   を注意した通行人と住人が喧嘩となり、住人が死亡する事件が発生。
   11月9日米科学誌サイエンスに、地球に飛来する最高エネルギー宇宙線が、地球
   から比較的近い巨大ブラックホールから飛来していることを、17か国の科学者で
   構成される国際研究チームの観測で明らかになったことが発表される。
   11月13日米国の13の連邦機関が参加する「米国気候変動科学プログラム」がま
   とめた報告書が発表される。これによれば、北米地域が2003年に排出した温室
   効果ガスはCO2換算で推定約18億5600万トンに達し、全世界の27%。国別では
   85%が米国、9%がカナダ、6%がメキシコ。一方で、同地域の森林などの吸収量
   は推定約5億トンで、排出量の3割を切っているという。
   11月15日バングラデシュにサイクロン「シドル」が上陸。1〜6mもの高潮による大
   水害が発生し、3000人以上が死亡。300万人近くが避難。
   11月16日国立感染症研究所が全国約5000か所の定点医療機関の集計により、
   例年よりも1ヶ月早くインフルエンザの流行が始まったことを確認。
   11月17日「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」は、統合報告書を発表し、
   温暖化対策のシナリオ別コスト一覧表を示し、排出抑制策を厳しくすればGDP成
   長率を押し下げるが、対策が後手になれば、影響も大きくなり、結果的にコストは
   増加することを示す。
   11月18日風邪の原因のひとつでもあるアデノウィルスの変異型ウィルスで、過去
   1年半の間に、アメリカ国内で10人が死亡したことが、米国疾病予防センターの発
   表で明らかになる。
   11月22日北海道、東北、新潟県などで記録的な大雪。少なくとも23地点で記録
   を更新。
   11月24日北海道十勝岳上ホロカメットク山の安政火口付近で、大規模な雪崩が
   発生。日本山岳会北海道支部のパーティーが巻き込まれる。
   11月27日国連開発計画(UNDP)は、2007年版の「人間開発報告書」を発表し、
   地球温暖化がもたらす干ばつや気温上昇、降雨の不順による農業体制の崩壊で
   、水や食料が不足し、アフリカ大陸南部を中心に最大6億人が栄養失調になると
   指摘、また、洪水や台風で最大3億3000万人が移住する可能性があるとしている。
   12月1日気象庁は、火山活動や防災を元に、新たな「噴火警戒レベル」を導入。5
   段階で活動状況、規制適用範囲、住民非難レベルなどを指定する。
   12月17日米ローレンス・バークレー国立研究所などの研究チームが、アラスカや
   シベリアで発掘された約3万〜3万5000年前のマンモスの牙とバイソンの頭骨の
   化石にある、焦げた跡を調査した結果、微細な隕石の破片を発見したと発表。隕
   石の衝突に巻き込まれた動物の化石例として初めての発見。
2008(平成20)年1月5日大災害時に必要な「緊急輸送道路」に架かる橋のうち、3割に
   当たる約1万5000本が、阪神大震災や新潟県中越地震クラスの大規模地震で
   損傷・倒壊し、車両が通行できなくなる可能性が高いことが、国土交通省の調べ
   で判明。
   1月10日中国衛生省は記者会見で、江蘇省南京市で、鳥インフルエンザウイルス
   (H5N1型)に感染した子供からその父親に感染する「人から人への感染」を確認し
   たと発表。
   1月10日米航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所、1月30日に予想されてい
   た火星への小惑星「2007WD5」の接近について、観測データを再分析した結果、
   75分の1と比較的高い確率で衝突があり得るとしていた予測をあらため、確率を1
   万分の1に引き下げ、最接近した場合でも火星から約4000キロ圏内に近づくことは
   ないと訂正した。衝突した場合広島型原爆200個分のエネルギーが放出されると
   考えられていた。
   1月16日温暖化で氷床が融ける現象が起こっているグリーンランドに寒波が襲
   来。西部のディスコ湾は10年ぶりに凍結。温暖化でグリーンランドでは氷床が融
   けて、その下の地下資源に注目が集まっている。
   1月18日温暖化による降水量の増加で、シベリアの永久凍土が急速に溶けてい
   ることが、海洋研究開発機構とロシア科学アカデミーの共同研究で明らかになる。
   永久凍土が溶けると、道路などのインフラの損害や、牧草地の水没のほか、地中
   のメタンガスが放出され温暖化が加速する懸念がある。
   1月24日北京で開かれていた「砂漠化防止に関する国際会議」の閉幕式で、中
   国国家林業局の祝克列副局長は、中国では土地の荒廃(荒漠化)面積が国土の
   3分の1を占める263万6200平方キロメートル、砂漠化は5分の1の173万9700平方
   kmと、砂漠化の被害が世界で最も深刻であると発表。
   1月26日能登半島で震度5弱の地震が発生。緊急地震速報一般運用後初の事例
   となったが、震度4と予測されたため速報はされず。
   1月27日福井県の外郭団体、財団法人若狭湾エネルギー研究センターが、太陽
   光を集めて高温状態をつくる「太陽炉」を利用して、二酸化炭素を分解消滅させる
   ことに成功。一日当たり2キログラムのCO2を分解できるため、温暖化対策に期待
   される。
   1月28日横浜市で同じ学校や医療機関の共通性を持つ5人が耐性インフルエンザ
   ウィルスに感染。患者はいずれも治療薬を飲む前であったため、薬による耐性化
   ではなく、耐性化していたウィルスに小規模集団感染したものと考えられる。
   1月28日福田首相は、衆議院予算委員会で日本の長期的な温室効果ガス削減
   目標について、「我が国として2050年に半減する。20年もしくは30年の間にピーク
   アウトする(排出量をマイナスにする)」と述べる。
   2月4日米サンディア国立研究所の研究チームが、1908年6月にシベリア中部ツン
   グースカで起こった大爆発について、これまで考えられた規模の3分の1以下の天
   体爆発が空中で起きたのが原因とする新説を発表。従来考えられていたより小規
   模の天体でも十分な被害を出す可能性が指摘される。
   2月4日厚生労働省の西山正徳健康局長は、参院予算委員会で質問に答えて、
   新型インフルエンザが国内で流行した場合、「1日あたりの最大入院患者数は、8
   週間続くとした場合、約10万人となる」という推計を明らかにする。厚生労働省の
   試算では最悪の場合、2500万人が感染し、うち200万人が入院、死者は約64万
   人に上るとしている。
   2月9日高村外相とロシアのイワノフ第1副首相がドイツミュンヘン市内で会談し、
   日本がロシアから温室効果ガスの排出量を獲得することについて話し合う日露政
   府間協議を始めることで合意。
   2月14日国連の気候変動枠組み条約事務局のイボ・デ・ブア事務局長が来日し、
   7月の北海道洞爺湖サミットで、議長国の日本自らが具体的数値目標を掲げ、会
   議を主導するよう求める促し、排出権取引についても導入を求める。
   2月16日日本、韓国、中国、モンゴルの4カ国の情報を元に黄砂の飛来状況を研
   究する予定が、中国が国家機密を盾に情報開示を拒否していたことが明らかにな
   る。中国はその後も、黄砂の原因を、韓国や日本で発生している可能性もあると
   報道するなど問題をそらす動きを見せる。
   2月18日政府の中央防災会議は、中部・近畿地方で内陸地震が起きた場合に
   震度6強以上の揺れや火災の被害を受ける恐れがある国宝・重要文化財(建造物)
   をまとめる。京都市直下の地震では被災の可能性がある建造物は250件以上に上
   るという。
   2月20日山階鳥類研究所は、環境省や米国魚類野生生物局と共同で、希少動物
   のアホウドリの雛10羽を、繁殖地の鳥島から350km南の小笠原諸島聟島へ移送
   し人工繁殖実験に入る。これはアホウドリ最大の繁殖地である鳥島が活動中の火
   山で、繁殖地が壊滅してしまう危険があるため。アホウドリはかつて500万羽以上
   いたと言われるが、20世紀前半に大量に殺され、鳥島に残るわずか500羽を残し
   絶滅寸前まで追い込まれた大型の海鳥。
   2月23日25日にかけて三陸沖に発達した低気圧により、関東甲信越・東北・北陸
   地方を中心に20〜30mの暴風。停電、鉄道の運休、事故、火災が相次ぎ、24日に
   は東京で砂塵が舞い上がって都市を覆う風塵を観測。富山湾で高波が発生し、
   入善町を中心に3棟が全半壊、200棟以上が浸水し、2人が死亡。
   2月28日神戸大学大学院理学研究科のパトリック・リカフィカ特別研究員と向井正
   教授が、太陽系の海王星以遠天体の軌道が傾いていたりゆがんでいる原因とし
   て、地球から100天文単位ほどの太陽系の外縁に地球に近い質量を持つ惑星が
   存在する可能性があることを発表。冥王星が惑星から準惑星へ格下げされたた
   め、新たな第9番惑星として注目される。
   2月前年に続き、南関東、北海道、九州北部などではしかの感染が拡大。年齢層
   もほぼ同じ10代後半〜20代。
   3月1日厚生労働省は、インフルエンザ治療薬「タミフル」の副作用について、劇症
   肝炎の報告例があったことを医師などに向けた医薬品・医療機器等安全性情報
   に掲載し、注意を喚起。
   3月3日大規模な黄砂が到来。中国側が情報提供を拒否するなどの問題も発生。
   3月7日阿蘇山測候所が、阿蘇中岳第1火口の南側火口壁で、1993年以来15年
   ぶりに火炎現象を確認。噴出した火山ガスが熱せられて炎が上がるように見える
   現象。
   3月10日内閣府のアンケート調査で、首都直下型の大地震の際に、政府が混乱
   を避けるために都心での一時収容を想定している「帰宅困難者」の多くが、地震直
   後に自宅に帰ろうとする考えであることが判明。内閣府では、交通網の寸断など
   により、自宅までの距離が10kmを超えた場合、1km遠ざかるごとに1割の人が
   帰宅不能となり、20kmを超える人は全員帰宅できないとしているが、自宅まで
   20kmの人でも7割が帰宅を目指すとみられる。
   3月14日平成5年9月の東海豪雨で浸水被害を受けた名古屋市西区と愛知県西
   枇杷島町(現清須市)の住民37人が、河川を管理する国と県に計約1億4800万円
   の損害賠償を求めた訴訟について、名古屋地裁は、国と県の河川管理に落ち度
   はなかったとして住民側の請求を棄却。住民側は「行政が早期に洗堰(あらいぜき
   ・江戸時代に作られた堰)のかさ上げや閉鎖をせずに放置した」として国や県の管
   理に落ち度があったと主張し、国側は「新川や洗堰に比べて庄内川下流域の方
   が安全度が低く、この流域を先に強化する当時の改修計画は合理的だった」と反
   論していた。
   3月25日中央防災会議は、1947年のカスリーン台風と同規模で利根川が氾濫を
   起こした場合の、6パターンの決壊で被害を試算し公表。茨城県古河市の堤防が
   決壊した場合、住民の4割が避難しても死者は近隣の3800人に達するという。
   3月25日愛媛大と東北大、米カリフォルニア工科大などの研究チームが、地球から
   ろくぶんぎ座の方向に125億光年も離れた17個の銀河を、欧米のハッブル宇宙望
   遠鏡で観測したところ、直径が約4000光年と銀河の十分の一もない小さく、宇宙
   誕生から10億年程度しか経っていない頃の生まれたて銀河であることが判明。
   3月26日230万光年離れたアンドロメダ銀河から延びる星の川「アンドロメダの涙」
   が、8億年前に同銀河と衝突した、重さがアンドロメダより400分の1ほどしかない
   小さな銀河の残骸が広がった結果であることが、専修大と筑波大の研究で明らか
   になる。
   4月1日京都議定書の温室効果ガス削減に関する第一約束期間が始まる。日本
   の公約は、排出量を1990年と比べてで6%減らすことなので、その後の増加分を
   プラスすると、実際には13%ほどの削減が必要となる。
   4月5日甘利経済産業省は、電力消費が多い白熱電球を4年後の2012年までに
   国内での製造・販売を中止し、電球形蛍光灯への全面切り替えを完了させる方針
   を正式に表明。消費電力を元にすると、全世帯が交換した場合の温室効果ガス
   削減量は、家庭の排出量の1・3%に当たる約200万トンといわれる。
   4月9日百日ぜき患者の報告が急増し、過去10年で最も多かった2000年の水準を
   大きく上回っていることが国立感染症研究所の調査で明らかになる。成人の感染
   者が増加。
   4月9日海外で新型インフルエンザが発生した場合の対応法が、関係省庁対策会
   議で決定される。発生地域の日本人に速やかな帰国を促すとともに、入国できる
   場所を成田、中部、関西、福岡の4空港と、横浜、神戸、関門の3港に制限。航空
   会社などに、インフルエンザ特有の症状が疑われる人を搭乗させないよう協力を求
   め、発生国に残された日本人には、在外公館で備蓄しているタミフルなどの抗イン
   フルエンザ薬の配布を検討する。また自衛隊機による邦人輸送、航空機の運行自
   粛要請、外国人へのビザ発給停止なども含まれる。
   4月11日宇宙航空研究開発機構は、月周回軌道上の「かぐや」がハイビジョンカメ
   ラによる「満地球の出」の動画撮影に成功したと発表。満地球が撮影できるチャン
   スは年に2回しかない。
   4月14日3月に帰国した第48次南極観測隊越冬隊の宮岡宏隊長(国立極地研究
   所准教授)が会見し、昭和基地で観測を続けている温室効果ガスのメタンの濃度
   が、2000年から2006年までは、ほぼ横ばいだったのに対し、2007年に上昇に転じ
   たと発表した。昭和基地で観測している二酸化炭素濃度は、上昇し続けていて、
   2007年に380ppmを超えた。温室効果によって気温が上がると、凍土中や海底の
   メタンが放出されやすくなり、さらに温暖化を加速して、さらに放出されると言う悪
   循環を招くと言われている。
   4月14日東芝ライテックは14日、一般白熱電球の製造を2010年をめどに中止する
   と発表。経済産業省が温室効果ガス排出削減のため、白熱電球から電球型蛍光
   灯に切り替える方針を示したのを受けての措置とみられる。
   4月18日関東地方各地で強風が吹き、千葉県市原市の三井造船千葉事業所
   では、資材運搬用の70mクレーンが強風で倒壊。
   4月24日政府の地震調査研究推進本部は、各地で地震による強い揺れが起きる
   確率を示した2008年版「地震動予測地図」を発表。
   4月27日サイクロン・ナルギスがミャンマーに上陸。暴風雨、高潮、洪水により、死
   者行方不明者13万8000人。ミャンマー政府は当初、一部を除き各国の支援を拒否
   。さらに軍政に有利な憲法改正の国民投票も強行した。
   4月28日沖縄県・先島諸島でマグニチュード5.2の地震があり、宮古島市で震度4
   を観測。気象庁は地震発生から10.6秒後に、一般向けの緊急地震速報を初め
   て発表したが、震源地に近い宮古島では揺れが到達して約5秒後であった。地震
   速報は初期のP波と揺れの大きいS波という異なる振動のタイムラグを利用して警
   報を出す仕組みなので、震源地に近いところでは揺れるまでに間に合わない。逆
   に一定以上離れた場所では、予報として効果がある。
   4月29日秋田県と環境省は、十和田湖畔で死んでいた白鳥から検出された鳥イン
   フルエンザウイルスが強毒性のH5N1亜型だったと発表。
   4月30厚生労働省が、生活保護受給者は特許が切れて安価で製造できるジェネリ
   ック(後発)医薬品を使うよう、自治体に指導を指示していた問題で、従わない場合
   の手当打ち切りなどの対応を撤回する通知を都道府県などに出す。
   5月9日中国の新華社は、中国各地で流行している手足口病の感染者数が8日ま
   でに、計2万4934人に上ったと報道。各地方当局の新たな報告を集計した結果で
   、うち32人が死亡。
   5月11日文部科学省は、近い時期に発生が予測される東海・東南海・南海地震
   の被害を極力抑えるために、新しい発生予測システムの開発に乗り出すことを
   決定。15〜20年後の完成を目指す。海洋研究開発機構や東京大学などが地震計
   などを多数設置し、プレートの広い範囲の異変を地下深くまでデータを集め、高性
   能コンピュータで計算することで、数週間から数ヶ月先の予測まで立てられるよう
   にする。
   5月11日宇宙航空研究開発機構が行った衛星の画像分析をした結果、北極海の
   多年氷が減り、その結果、今夏は北極海の温度が上がり、全体の氷面積が過去
   最も縮小する可能性の高いことが、明らかになる。
   5月12日独立行政法人海洋研究開発機構の超高速計算システム「地球シミュレー
   タ次期システム」をNECが落札。同システムは、気象変動などを予測するシステム
   として重要視されている。
   5月12日中国四川省でマグニチュード8.0の大地震。死者推定約7万人、重軽症者
   37万人。415万棟が被害を受け、1500万人が避難。死者の1割が学校倒壊による
   教師と生徒で、公共事業の手抜き工事が問題となったが、被災者の追及活動に
   対し、警察が弾圧。地方政府庁舎などの被害は比較的少なかったと言われる。震
   源地近くでは核兵器関連施設やパンダ繁殖施設などにも被害があったとされる。
   都江堰や西安にある兵馬俑坑等の世界遺産にも被害。龍門山断層の一部、長さ
   120kmほどがずれ動いたのが原因と考えられる。
   5月16日NASAは、超新星爆発からわずか140年しか経っていない超新星残骸を
   発見したと発表。射手座の方向に地球から約2万5千光年離れた星で140年前に
   地球に爆発光が届いたものと思われる。
   5月27日来日中のサックス国連事務総長特別顧問(米コロンビア大教授)は、都内
   で記者団と懇談し、米政府がトウモロコシを原料としたバイオ燃料の増産を奨励し
   ていることについて、大きな過ちで世界の食糧危機を悪化させていると批判。途
   上国での食糧増産を支援するための基金設置を急ぎ、温暖化対策は、太陽光発
   電などの代替エネルギーを追求すべきだとの考えを示す。
   6月5日政府は、福田首相が月内にまとめる地球温暖化対策の「福田ビジョン」に、
   太陽光発電設備を住宅などに普及させるための補助金制度の復活を盛り込む方
   針を固める。太陽光発電は2005年まで補助金制度があったが、世界の流れとは
   逆行する形で廃止されていた。
   6月9日福田康夫首相は日本記者クラブでの会見で「福田ビジョン」を発表。これま
   で慎重だった、温室効果ガスの排出枠を売買する排出量取引制度の導入や、
   CO2削減の中期目標を発表。同時にマネーゲームを排除する市場ルールが必要
   と、欧州での排出量取引制度を批判し、2050年までの長期目標は、「現状」から
   CO2を60〜80%削減すること、具体的にはセクター別アプローチ手法を提示する
   などとしている。
   6月9日国連は、世界のエイズ感染に関する報告書を公表。エイズウイルスの新
   規感染者は1998年の推定320万人から2007年は同250万人と減少傾向にあるこ
   とが判明。同年12月時点の感染者数は推定3320万人。途上国では生活苦のた
   めに売春などによって感染が広がるケースも多いが、先進国で唯一、増加傾向に
   ある日本では、性モラルの低下による感染も多い。
   6月12日国際天文学連合は、冥王星のような海王星より遠くにあり惑星の定義を
   満たさない天体を「プルートイド」(冥王星型天体)と決定。冥王星が惑星から降格さ
   れた後は、冥王星や、それに近い天体を準惑星(ドワーフ・プラネット)と呼んでいた。
   6月14日岩手県南部内陸部を震源とするマグニチュード7.2の地震が発生。岩手
   県奥州市と宮城県栗原市で震度6強を観測。死者13人、行方不明者10人、負傷
   者448人。がけ崩れや土石流が相次ぎ、震源付近で大規模な山体崩壊が観測さ
   れるなどして道路や橋が多数壊れたが、揺れそのものによる建造物への被害は
   比較的少なく、死者・行方不明者はほとんどが山中での土砂崩れなどのよるもの
   だった。断層のずれによるもので、気象庁の地震発生率の高い箇所には想定され
   ていなかったが、50年ほど前の地質図に当該地域の断層が載っており、まったく未
   知の断層ではなかったと言う意見もある。
   6月26日マサチューセッツ工科大とNASA米航空宇宙局の研究チームが、火星の
   北半球の滑らかな部分は、1万600km×8500kmの巨大な楕円クレーターで、40
   億年以上前に冥王星ほどの大きさの天体が衝突した跡であると、英科学誌ネイチ
   ャーに発表。
   6月28日横浜の中田市長は、テレビの情報番組に出演した際に、仮に新型インフ
   ルエンザによる流行が始まった場合、横浜市内でパニックを起こさないように、市
   営地下鉄を止め、学校は休校にする覚悟でいる、と方針を示す。
   7月1日中国海南省地震局は、ネット上で広まっているブラジル人教師ジュセリー
   ノの予言とされる「海南島の近くで9月にマグニチュード9.1の大地震が起き、津波
   で数百万人が死亡して、被害は日本にまで及ぶ」という説について、これを否定し
   、デマを信じないように、と呼び掛ける声明を出す。
   7月4日NASAの研究チームは、水星の広範囲に見られる平原が、火山から流れ
   た溶岩で形成されたものであることを、1月に探査機メッセンジャーが噴火の痕跡
   を発見したことから確認。米科学誌サイエンスで発表。
   7月5日気象衛星ひまわりの後継機種の開発・打ち上げが、国土交通省の参加が
   見合わされたことから、予算不足のために危機的状況にあることが報道される。
   現行機の寿命は2015年で、開発にかかる時間約5年を考慮すると、2010年には
   開発に着手しないと間に合わなくなる。
   7月8日洞爺湖サミットで、地球温暖化防止についての交渉の結果、世界の温室
   効果ガスの排出量を2050年に半減させるという、長期目標を共有することで妥結。
   国別数値目標は盛り込めず。
   7月11日厚生労働省の2つの疫学研究班は、投与後の異常行動が指摘されてい
   たタミフルについて、異常との因果関係は認められないとの見解を正式に発表。
   使用制限を解除する方向へと進むと見られる。ただし、各地の医大研究者などの
   間では、タミフル投与による異常行動は非投与の5割高い、と言う説も強く、厚生
   労働省の見解を批判している。
   7月13日政府の地震調査研究推進本部は、国内で確認されている約2000の活断
   層について、正確な位置と想定される地震の規模を調査し、地域防災意識を高め
   るために、公表する方針を決定。
   7月14日千葉県銚子市で震度2の地震が観測された際、気象庁が誤って「最大震
   度5弱以上」との一報を一部事業者に発信。愛知県岡崎市の小中学校などに設置
   された「高度利用者向け緊急地震速報」の端末に誤情報が伝わり、マグニチュー
   ド12・7、震度6弱の地震が起きるなどの情報が流れる。一部の学校で避難騒ぎに。
   7月14日海洋研究開発機構は、インド洋で起こる海水温の異常「ダイポールモード
   現象(ジャワ沖で海水温が下がり、アフリカ沖で海水温が上がる現象)」が5月下旬
   から発生していると発表した。1950年代以降の観測体制で初めて3年連続の発生
   となる。ダイポールモード現象が起こると、地球規模で異常気象が発生することが
   知られている。
   7月24日岩手県北部沿岸を震源とするマグニチュード6.8の地震が発生。岩手県
   洋野町で震度6強。死者1名負傷者207名。エネルギーの大きさの割りに、家屋の
   被害はほとんどなし。東日本の広い範囲で揺れを観測したほか、震源からの距離
   と揺れの大きさが一致しない異常震域も観測される。家屋に被害が少なかったの
   は、揺れの周期が短かったためと考えられる。
   7月25日原油高による船舶用燃料の価格高騰の影響で、「海洋研究開発機構」が
   研究船7隻の年間航海日数を約26%削減することを決定。同機構は、地球規模で
   海洋調査を行っており、地震予知や地球温暖化研究への影響は必至。
   7月28日北陸と近畿地方で局所的集中豪雨。神戸市灘区の都賀川では、わずか
   10分間で水位が1.3m上昇し、水遊びに来ていた11人が流され、大人と子供の計
   5人が死亡。濁流はその数十分後には平常の水量に戻ると言う異常な状況に。
   また同日午前8時頃、金沢市でも市内を流れる浅野川・高橋川が氾濫。2万世帯
   5万人に避難命令。500棟以上が浸水。しかしこちらも昼前には完全に水が引く。
   7月28日神戸大学国維寮の敷地にある正体不明の「頌徳碑」が、1938年の神戸
   大水害で犠牲になった当時の湊川高等実業女学校の教員・生徒の慰霊碑である
   ことが判明。同校系列の湊川相野学園に移すことが決定する。
   7月29日厚生労働省は、新型インフルエンザ流行における社会的影響についての
   データを発表。それによると、1:国外発生時、2:国内発生時、3:大規模な集団発
   生、4:大流行、5:流行後の小康状態で、企業の従業員が、自身の感染や家族の
   看病で欠勤する割合は、大流行時に最大40%に及び、欠勤日数は10日間程度と
   試算。その場合、企業活動への影響により、電気、ガソリンなどの一時的供給停
   止、輸入の停止や原材料・物資の供給中断、資金調達や決済業務で混乱が生じ
   るとしている。これを元に、各企業に対し、新型インフルエンザが発生することを想
   定した必要物資の確保などの準備を実施すること、流行発生後は、感染拡大の抑
   制の観点から不要不急の事業の自粛を求めている。
   7月30日韓国で4月29日に放送され、6月10日にはソウルなどで大規模な暴動にま
   で発展したMBCテレビのBSE問題番組が、BSEで死亡者が出たかのような捏造
   を含めた危険性を強調したものであったことが判明し、韓国検察当局が調査に乗り
   出す。同局は前政権よりであるため、政治的意図があったと言う疑いも強い。
   7月31日国土交通省が、2008年版の水資源白書を公表。この中で、地球温暖化の
   影響によって雪解けが早まると、農業用水に雪解け水を使える期間が限られ、あと
   はダムの水に頼らざるを得なくなるため、水が不足がちとなり、50年後には、利根川
   上流の8つのダムなどでダムの渇水の発生日数が3〜4倍に増える可能性があると
   指摘。
   8月1日名古屋大学、国立天文台、ハーバード大学の研究者が、スーパーコンピュー
   タを使い、宇宙で最初の「星」の生成をシミュレーション。宇宙誕生から3億年後に
   暗黒物質の中で小さな原始星が出現する様子を再現。
   8月4日厚生労働省研究班は、新型インフルエンザの世界的流行に備えて、医療
   関係者と検疫関係者にワクチン事前接種を開始。新型インフルエンザに対応した
   事前摂取は世界初の試み。今後、警察関係者、自衛隊員、電気・水道事業者ら
   計1000万人にまで増やしていく方針。
   8月5日関東各地で局所的集中豪雨が多発。東京都豊島区雑司が谷では、下水
   道工事を行っていた作業員6人のうち5人がわずか数分の間に急上昇した水に押し
   流され、2人が死亡、3人が行方不明。大雨警報の発令1時間前だった。都は下水
   道工事を全面停止。千代田区、文京区、渋谷区などでも冠水。
   8月16日栃木県鹿沼市茂呂の東北自動車道高架下の市道で、豪雨によってたま
   った水に乗用車が水没しているのが発見され、運転していた女性が死亡。目撃し
   た市民や本人が消防・警察に通報したにもかかわらず、現場に確認に行かず。消
   防・警察とも、通報が多くて混乱していたと会見で説明。
   8月24日アラスカ大学などの調査で、北米大陸の北極圏の凍土などの土壌に、平
   均1平方メートル当たり約35キロ、全地球の大気中の6分の1に匹敵する膨大な量
   の炭素(約980億トン)が存在しているという分析結果が発表される。これらはメタン
   などの形で存在するため、地球温暖化により凍土が溶解すれば、大量の二酸化炭
   素やメタンが放出し、さらに温暖化が加速するのではないかと懸念されている。
   8月30日中国四川省南部でマグニチュード6.1の地震が発生。翌日夜までに、死者
   32人、負傷者467人。家屋損壊は25万8000戸、被災者80万人以上。15万2000人
   余が避難。5月の四川大地震とは別の地震という説もある。
   9月3日ウェザーニューズの調査で、クマゼミの生息域が、これまでの関東南部以
   西から、関東北部・北陸にまで広がっていることが明らかになる。温暖化の影響と
   考えられる。
   9月8日政府の中央防災会議の専門調査会は、超大型台風によって埼玉県内か
   ら東京都内にかけて流れる荒川が氾濫した場合の試算を公表。最悪で3500人が
   死亡、さいたま市内で最大6mの浸水になり、排水ポンプが作動しなければ、116万
   人が被災するとしている。
   9月26日アメリカとカナダの研究者らが、カナダ東部のケベック州ハドソン湾東岸地
   域で、42億8000万年前にできたとみられる岩石を発見したと「サイエンス」に発表。
   これまでに発見された最も古い岩石となる。地球の地殻は、誕生直後の高温のマ
   グマが冷えて固まって出来たと考えられている。
   9月29日欧州環境庁や世界保健機関(WHO)などは、ヨーロッパの平均気温が、
   産業革命以後、1度ほど上昇しており、世界の平均気温0.8度よりも上回っている
   ことが明らかになったと発表。
   10月2日アリゾナ大学などの国際研究チームが、エイズウイルスHIV1型の主系統
   (M群)の遺伝情報を解析した結果、ヒトの間で広まったのは、従来の1930年代説
   より早く、1908年ごろにアフリカ中部のベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)の
   首都レオポルドビル(現キンシャサ)で起きた可能性が高いことがわかり、英科学誌
   ネイチャーに発表。アフリカ中西部に生息するサル免疫不全ウイルス(SIV)に罹った
   チンパンジーを、ヒトが捕獲して食べたことで感染が始まり、当時、交易で都市化が
   進んでいたレオポルドビルでヒト間の接触が増えたことで、HIV1型が生まれ感染が
   拡大したとみられる。
   10月4日日米欧の研究機関の衛星観測で、北極海の海氷面積が今年9月半ばに、
   1979年以来、2番目に小さくなったことが確認された。また、薄い1年氷が増えたた
   め、体積では観測史上最小だった可能性があるという。
   10月6日国際自然保護連合(IUCN)は、絶滅危惧種の調査見直し結果を発表。世
   界130カ国の専門家約1800人が協力し、世界の哺乳類5487種の分布や保護の状
   況を、5年間かけて調査。1500年以降、最低でも76種の哺乳類が絶滅。少なくと
   も1141種が絶滅の危機にあり、海洋哺乳類120種については、約3分の1が、南・
   東南アジアで霊長類の79%が絶滅の危機に瀕しているとする。最も危険度の高い
   1A類は188種にのぼり、このうち中国のヨウスコウカワイルカなど29種は、すでに
   絶滅した恐れがあるという。保護活動によって絶滅危惧種の5%で野生個体数の
   回復の兆しが見えると分析。最大の絶滅原因は、人間活動の影響による生息地
   の消失や環境の悪化と指摘。
   10月6日産業技術総合研究所などによる過去の地震の解析により、関東地方で
   地震が多発するのは、栃木県南部から神奈川県北部までの深さ40〜100kmに
   ある100km四方、厚さ25kmの巨大な岩盤が原因であることが判明。この岩盤は
   、太平洋プレートの上面部分がはがれたものとみられ、岩盤とプレートの教会付近
   で大きな地震が起きていると考えられる。
   10月9日大阪府堺市で、例年より2ヶ月も早く、インフルエンザの流行が始まり、
   学級閉鎖が実施される。
   10月16日米海洋大気局(NOAA)などは、海氷の消失などで太陽光が吸収される
   ようになったため、北極圏の気温が通常より5度上昇しているという報告書を発表。
   北極や南極の白い氷が太陽光を反射するため、地球の気温上昇をある程度抑えて
   いるが、温暖化が進むと、氷が融け、反射率が下がり、気温上昇を加速させるとい
   われる。
   10月17日地球からケフェウス座の方向に約4600光年離れた超新星残骸の中に、
   ガンマ線を放射するパルサー(中性子星)が存在することを、日米欧6カ国の「フェル
   ミ・ガンマ線宇宙望遠鏡」の観測で判明。ガンマ線パルサーは初めての観測。
   10月21日世界自然保護基金(WWF)は、このままでは、北極海の海氷が2013−
   2040年までに、夏には完全に消失する可能性があるとの報告を公表。国連の「気
   候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の試算より30年も早くなると予想。
   11月4日宇宙航空研究開発機構は、茨城県つくば市の筑波宇宙センターで、温
   室効果ガス観測技術衛星「いぶき」と小型実証衛星「SDS−1」を報道陣に公
   開。2009年1月に鹿児島・種子島宇宙センターからH2Aロケット15号機で打ち上げ
   る予定。
   11月5日北海道雪崩研究会が「北海道雪崩ウェブデータベース」を開設。道内にあ
   る105山の333の雪崩事故の詳細な情報を掲載。
   11月7日宇宙航空研究開発機構(JAXA)などが月探査衛星「かぐや」の精細な観
   測機器を使って小さなクレーターを調べた結果、月の裏側では、30億年前に終息
   したと考えられていた火山活動が、約25億年前までは続いていたことが明らかに
   なる。なお、月の表側では、十数億年前まで火山活動が続いていたと考えられて
   いる。
   11月20日米航空宇宙局(NASA)は、火星周回探査機マーズ・リコネサンス・オー
   ビターの観測結果から、火星の南半球の地下に最大で厚さ800mの巨大な氷河
   があることが分かったと発表。火星の氷河期時代に出来たものの名残と考えられ
   るという。
   11月25日電力をイタリアから購入しているバチカン市国の主要な施設の屋根に、
   太陽光発電パネルが設置される。総面積は5000平方メートルで、年間に約225ト
   ンの二酸化炭素排出量の削減効果が見込まれるという。バチカンでは2020年まで
   に、使用電力の20%を再生可能なエネルギーに切り替える予定。
   11月28日新型インフルエンザに関する関係省庁対策会議は新たな行動計画案を
   策定。発生段階を第一段階(海外発生期)、第二段階(国内発生早期)、第三段階(
   感染拡大、蔓延、回復期)、第四段階(小康期)の4段階に分けて対策を示し、検疫、
   医療体制、情報提供など10分野について、具体的な指針案を策定。
   11月ここ数年、漁業に大きな被害を与えている巨大なエチゼンクラゲが、今シーズ
   ンは日本海でほとんど目撃されず。エチゼンクラゲの発生する中国沿岸で、発生数
   が非常に少ないためだが、原因は不明。例年は5億匹も日本に流れてきて、一回
   の漁で数千匹が網にかかるなどの被害が出ているが、今年は数匹程度しか見られ
   ないという。
   12月2日中部電力は、愛知県武豊町の武豊火力発電所の5号機(建設中止)の
   場所に、約12万平方メートルにわたって太陽光パネルを設置し、年間発電量約
   730万キロワット時の「メガソーラーたけとよ発電所」(仮称)を建設することを決定。
   12月4日アフリカ南部のジンバブエで、コレラが流行し、ジンバブエ政府は非常事
   態を宣言。各国に支援を要請。同国は長期独裁政権の影響もあって2億%を超える
   ハイパーインフレになっており、経済は壊滅状態。国内の衛生・防疫環境は最悪と
   なっている。
   12月4日デンマークの天文学者ティコ・ブラーエが1572年に観測した超新星爆発
   の光が、宇宙塵などに反射して遅れて届く「光のこだま」を、国立天文台や東京大
   学などの研究チームが観測。その結果、爆発したのは白色矮星で、地球からの距
   離は約1万2000光年と突き止めたことを、英科学誌ネイチャーに発表。
   12月8日物質・材料研究機構と東北大の研究チームが、初期の地球で、隕石が海
   に落下することによって、生命を作るアミノ酸が誕生したという説を実験で確認。隕
   石に含まれる炭素、鉄、ニッケル、初期地球の大気にあった窒素、それに水をカプ
   セルに入れて、秒速1kmの超高速で衝突させた結果、アミノ酸、カルボン酸、アミ
   ンの3種類の生物有機分子が生成されたという。英科学誌「ネイチャー・ジオサイエ
   ンス」電子版に掲載。
   12月9日国立感染症研究所の調査でインフルエンザ患者の報告が千葉県や栃木
   県などで急増し、関東地方でも流行が始まったことが判明。すでに関西では大阪な
   どで10月前半から流行が始まっている。
   12月9日国連食糧農業機関(FAO)は、2008年の世界飢餓人口が昨年比約4000
   万人増の9億6300万人に達するとの見通しを発表。穀物・肥料・種子の価格高騰
   によるもので、金融投資と結びついたバイオエタノール生産も大きな影響を与えて
   いると考えられる。
   12月9日世界保健機関(WHO)は、ジンバブエで流行しているコレラの感染者が、
   最大で6万人に達するとの推計を発表。
   12月10日ドイツのマックスプランク研究所などの研究チームが、16年間にわたる
   観測をした結果、銀河系の中心にある超巨大ブラックホールの質量は、太陽の約
   400万倍であることが明らかになったと、欧州南天天文台が発表。
   12月12日宮崎県南郷町沖に生息するテーブル状のオオスリバチサンゴに、これ
   まで知られていなかった病気が広がっていることを、沖縄高専の山城秀之教授が
   確認。
   12月19日甲板に328枚の太陽光パネルを搭載し、必要な電力の最大6.9%に当
   たる40キロワットを太陽光発電でまかなう世界初の船で自動車運搬船の「アウリ
   ガ・リーダー」(6万213トン)が完成し、神戸市兵庫区の三菱重工業神戸造船所で
   公開。2年間の実証実験のため、中東へ向けて出航。二酸化炭素の排出量は、
   エンジンの起動にかかる分を除くと、一般の船に比べて1〜2%抑えることができる
   という。
   12月21日夜半に、関東地方で最高気温が20度を超え、最低気温も18度前後と、
   9月下旬並みの、この時期にしては異常な高温になる。日本海上の低気圧に、南
   から風が吹き込んだためと見られる。
   12月22日国土交通政策研究所は、新型インフルエンザ流行時に鉄道がどの程
   度の輸送力を保てるかなどの調査を、東京都足立区にある東京地下鉄の車両基
   地で、実際の車両をつかって実験。社会、経済、インフラの機能を維持するために
   は交通機関の輸送能力は残しておきたいが、交通機関によって感染爆発が起こる
   可能性もあり、ジレンマとなっている。
2009(平成21)年1月4日午前4時44分にニューギニア島でM7.6の地震が発生。日本に
   も小規模の津波が到達。注意報発表前の午前9時55分に父島で40cmの津波が、
   注意報解除後1時間25分してから、到達した津波で最大の50cmの津波を和歌山
   県串本町で観測するなど、警報や注意報の発表の難しさが露呈。
   1月5日北京でH5N1型の鳥インフルエンザに感染した女性が死亡。感染が徐々に
   拡大。
   1月11日英日曜紙サンデー・タイムズが、ハーバード大学で物理学を研究するアレ
   ックス・ウィスナーグロス氏が実施した「検索エンジン大手グーグルでの2回のネッ
   ト検索で、データセンターに使われる電力から、やかんでお湯を沸かした際と同量
   の二酸化炭素が排出される」という計算結果を掲載。グーグルは、検索1回当たり
   の二酸化炭素排出量は約0.2グラムとし、「ネット検索は外出しなくても有用な情
   報を一瞬にして大量に取得できる。自動車で1キロ運転すれば、グーグル検索の
   1000回分の温室効果ガスを排出する」と反論。
   1月14日経済産業省は、2009年度から始める家庭向け燃料電池の導入補助金
   の上限を1件当たり140万円にすることを決定。補助金を最大限利用できる販売
   価格は310万円に設定。ただ、燃料電池そのものが高価で、発電による減額率も
   小さいことから、現時点では導入は限られると考えられる。
   1月15日文部科学省は今春から、震度6弱以上の地震を引き起こす危険性が指
   摘されている海底活断層の初めての全国調査を実施することを決定。対象は陸か
   ら30km以内、全長20km以上の活断層。
   1月22日ワシントン大学などが、南極観測が始まった1957年以降の気象データと、
   観測衛星のデータを調べ、測候所の無い内陸部の気温の変動も類推した結果、
   南極大陸西部で気温上昇が顕著で、南極全体での平均気温が10年で0・1度ず
   つ上昇していることが判明。温暖化が進んでいることが明らかになる。
   1月23日大阪府東大阪市の中小企業がJAXAと協力して製作した小型雷観測
   衛星「SOHLA-1(まいど1号)」が、H2Aロケットに便乗して打ち上げられる。同ロケ
   ットには、他に企業や学生などが作った、オーロラ観測衛星、スプライト観測衛星、
   各種技術実証実験衛星を搭載。
   1月27日ジンバブエで猛威を振るっているコレラの死者が3000人を超えたことを
   WHOが発表。
   1月29日国立感染症研究所、北海道大、埼玉医科大、化学メーカーの日油は、
   複数の種類のインフルエンザウイルスに効くワクチンを共同開発。変化の少ないウ
   ィルスの内部たんぱく質を合成してワクチンを作り、ウィルスの表面が変異しても対
   応できて免疫細胞が攻撃できるようにする仕組み。動物実験では効果が確認でき
   たが、人間に対する副作用が無いかは不明。
   2月1日日本気象協会北海道支社は、道内22地点の1月の平均気温が氷点下2.1
   度で、記録的な暖冬だった1991年(氷点下1.8度)に次ぐ暖かさだったと発表。降
   雪量も道内全体で例年より少ないことが明らかに。
   2月2日浅間山が噴火。東京都心でも降灰を観測。
   2月9日国立天文台と大阪産業大、東北大などの研究チームが、宇宙がビッグバ
   ンで誕生してから10億年程度たって起きた水素の再電離現象で発生する強い光
   を、すばる望遠鏡で観測。再電離現象により、それより前の宇宙の姿を直接捉える
   ことが出来ないため、「暗黒時代」と呼ばれている。
   2月16日小型雷観測衛星「まいど1号」が、搭載した雷の観測機器で地上の雷活動
   の観測に成功したことが発表される。雷を観測したのはオーストラリアとアフリカの
   上空。
   2月18日厚生労働省のまとめで、2008年の1年間に国内で新たに報告されたHIV
   感染者は1113人、発症患者は432人、男性1442人、女性103人で、いずれも過去
   最多だったことが判明。感染者は6年連続で最多を更新。年代別では10代19人、
   20代329人、30代424人、40代201人、50代以上138人、不明2人。1113人の感染
   経路は、同性間の性的接触が69.4%、異性間の性的接触が19.7%で例年とほ
   ぼ同様の傾向。
   2月24日ルーリン彗星が地球に再接近。地球との角度と方向の関係から尾が二
   つあるように見える。
   2月25日世界気象機関(WMO)は、北極と南極の氷床が予想を上回るペースと規
   模で縮小しており、海面水位が上昇するとともに気候変動に拍車をかけているとの
   調査報告書を発表。
   2月25日24日深夜から25日朝にかけて、九州沿岸から奄美大島一帯で短時間に
   海水の上下変動が起こる「副振動」が観測される。8棟が浸水、漁船30隻が沈没
   する。
   2月26日熊本大などの国際チームによる8か国2000人の感染者調査で人間の免
   疫が効きにくいエイズウイルス(HIV)が広がっていることが確認される。遺伝子変
   異と考えられる。
   2月27日愛知県豊橋市の養鶏場のウズラから、H7N6型の鳥インフルエンザが発
   見される。全羽処分。
   2月この頃から、メキシコ東部のベラクルス州でインフルエンザに似た症状を訴える
   人が相次ぐ。
   3月1日2日にかけて桜島で爆発的噴火が相次ぐ。入山規制のレベルを2から3に上
   げる。
   3月2日小惑星2009DD45が地球上空6万kmをかすめて通過。直径36.5m。2月
   27日に地球に接近するところを発見された小惑星で、衝突すれば相応の被害が出
   ていたと言われる。
   3月2日愛知県豊橋市で発生したH7N6型の鳥インフルエンザが別の養鶏農家にも
   広がる。
   3月9日愛知県豊橋市のH7N6型の鳥インフルエンザの3件目の感染が確認される。
   3月10日桜島南岳昭和火口でやや大きな噴火。噴石が2合目に達する。
   3月28日EarthHour2009に合わせて世界各地で、著名な建造物やモニュメントの消
   灯を行う。
   3月30日アメリカ・サンディエゴでもインフルエンザに似た症状を訴える人(少年)が現
   れる。
   3月31日破傷風患者の94%が40歳以上の中高年齢者であることが、国立感染症
   研究所感染症情報センターの調べで判明。1968年の三種混合ワクチン定期予防
   接種より前に生まれた人は、抗体を持っていないのではないか、と考えられる。
   4月2日国土交通省は、今世紀末に地球温暖化の影響で海面が上昇した東京湾
   を、室戸台風級の超大型台風が直撃した場合、高潮で約3億2000万m3の海水が
   陸地へ流れ込み、最悪のケースで千葉、東京、神奈川の3都県約2万7630hの浸
   水被害を受けるとの試算を公表。
   4月6日イタリア中部ラクイラ地方で大規模な地震が発生。深夜だったこと、古い都
   市で建物の耐震性が弱かったことなどから倒壊が相次ぎ、270人以上が死亡。3万
   人以上が住むところを失った。この地域は、1月頃から地震が頻発しており、大規模
   な地震が起こると予想する学者もいたが、対策は採られなかった。地震後、古い建
   築の多いこともあって、イタリアのメディアでは虚実交えた日本の災害事情・防災政
   策・耐震技術が紹介される。一連の地震でローマなどでも若干の被害が出ている。
   4月6日女性お笑い芸人の結核入院が判明し、急遽、ファンなどに対して連絡先の
   注意喚起が行われる。
   4月6日米航空宇宙局(NASA)の研究チームによる衛星からの観測データ解析で、
   北極の氷が、急速に薄くなっていることが判明。北極の海氷のうち、薄氷部分の割
   合が北極全体の約70%となり、1980─90年代の40%─50%に比べ割合が急速に
   多くなっていることが判明。ふた夏以上融けることなく残った氷の割合は、冬季にお
   ける北極全体の氷の10%にも満たず、同30%─40%から減少していると言う。
   4月13日メキシコで発症した女性のウィルス検査を行うがわからず、カナダの保健機
   関へ検体が送られる。。
   4月14日アメリカ疾病対策予防センター、サンディエゴの少年が豚インフルエンザに
   感染していると断定。。
   4月23日カナダ保健機関からメキシコ政府へ、先の検体を調べた結果、新型のイン
   フルエンザウィルスを確認したことが伝えられる。メキシコ政府、急遽会見を開き、メ
   キシコ国内で豚由来の新型のインフルエンザが流行していることを公表。
   4月24日WHO、H1N1型ウィルスの遺伝子を持つインフルエンザであることを公表。
   4月25日WHO、新しいインフルエンザを「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急
   事態」に該当すると決定。
   4月26日アメリカ合衆国政府、「公衆衛生に関する緊急事態」を宣言。
   4月26日カナダで新型インフルエンザ感染者確認。
   4月27日スペイン、イギリス(スコットランド)で新型インフルエンザ感染者確認。
   WHO、緊急会議を開催し、フェーズ4へ移行を決定。ニュージーランド、韓国でも感
   染疑い例が出る。
   4月28日日本政府、成田、中部、関空の3国際空港で、アメリカ、カナダ、メキシコか
   らの便の機内検疫を開始。
   4月29日ドイツ、オーストリア、イスラエル、コスタリカで新型インフルエンザ感染を
   確認。アメリカで初の死亡例。WHO、フェーズ5へ移行。
   4月30日オランダ、スイスで新型インフルエンザ感染を確認。WHO、豚インフルエン
   ザの呼称を新型インフルエンザに変更。食肉業界への影響や、イスラム教国での
   豚全頭殺処分の動きなどを受けて。
   5月1日フランス、デンマークで新型インフルエンザ感染を確認。香港でメキシコから
   の乗客の新型インフルエンザ感染を確認。同乗していた乗客、宿泊先のホテルの
   関係者などを強制隔離。
   5月2日イタリアと韓国、コスタリカで新型インフルエンザ感染を確認。
   5月3日アイルランドで新型インフルエンザ感染を確認。
   5月4日ポルトガル、コロンビア、エルサルバドルで新型インフルエンザ感染を確認。
   5月6日グアテマラで新型インフルエンザ感染を確認。新型インフルエンザで、東京
   都が独自に検査した奨励を国に報告していなかったことが判明。
   5月7日ポーランドで新型インフルエンザ感染を確認。アメリカ、カナダ、メキシコの貿
   易担当の閣僚は、中国などが新型インフルエンザ発生地の豚肉を禁輸していること
   について、「豚肉の輸入制限措置を懸念する。重大な経済的打撃につながる」と批
   判する共同声明を発表。WTO提訴も視野に。
   5月8日ブラジルで新型インフルエンザ感染を確認。シカゴ在住の日本人児童の新
   型インフルエンザ感染が判明。
   5月9日成田空港での検疫で、カナダでの研修から帰国した高校生3人が新型インフ
   ルエンザに感染していることが判明。カナダで初の死亡例。オーストラリア、パナマ
   でも新型インフルエンザ感染を確認。
   5月9日この頃、オーストラリアの研究者が、新型インフルエンザは、ワクチン製造の
   過程で偶然生まれもれたとする可能性を指摘し、WHOに調査を依頼する。
   5月10日コスタリカで新型インフルエンザによる初の死亡例。
   5月11日中国本土、キューバ、ノルウェーでも新型インフルエンザ感染が判明。
   5月12日フィンランド、タイでも新型インフルエンザ感染が判明。
   5月12日海洋研究開発機構の地球深部探査船「ちきゅう」が、東南海・南海地震な
   ど津波を伴う巨大地震の発生メカニズムを解明するための掘削作業のため、新宮
   港を出港。新宮港の南東約60kmの地点で、海底下1600mまで掘削し。約20基の
   地震計を設置。別の船からの音波で、地震発生帯の正確な位置を調べる。
   5月14日WHOは、オーストラリアの学者が調査を依頼していた新型インフルエンザ
   の人為的発生について、世界5箇所の協力センターやいくつかの機関の調査の結
   果、そのような事実は無いと公表。
   5月15日地球温暖化によって西南極の氷床が溶解すると、内陸の氷が海へ流れ落
   ちて溶け、海面が現在より約3.3m上昇するとの試算を、英国とオランダの研究
   チームがまとめ、科学誌サイエンスに発表。場所によってはさらに上昇するという。
   5月15日ベルギーでも新型インフルエンザ感染が判明。
   5月16日兵庫県内の海外渡航歴の無い高校生が新型インフルエンザに感染してい
   ることが判明。すでに多くの生徒が同様の症状を発していたが、季節性インフルエ
   ンザなどとして対応しておらず、診断した医者の判断で報告があり、検査の結果
   明らかになる。日本国内の初のヒトヒト感染。エクアドル、ペルーでも新型インフル
   エンザ感染を確認。
   5月17日兵庫県と大阪府で次々と新型インフルエンザの患者が確認される。インド、
   マレーシア、トルコでも新型インフルエンザ感染を確認。
   5月18日経済同友会は、地球環境問題に関する提言書で、2020年の日本の温室
   効果ガス削減中期目標について、政府が示す6案(90年比で、4%増、1%増〜5%減、
   7%減、8〜17%減、15%減、25%減)のうち、90年比で7%減が妥当とする考えを示す。
   経済3団体では最も高い数値を表明した理由として、持続的な成長を維持するため
   には必要な投資である、としている。なお、日本商工会議所は1%増〜5%減を、日本
   経団連に至っては、経済活動に影響があるとして最も低い4%増を支持すると表明し
   ている。
   5月18日兵庫県、大阪府の各学校に休校の措置がとられる。マスクが品不足に。兵
   庫県は、感染者急拡大のため入院措置は重傷者に限定する。
   5月18日WHO総会開催。初めて台湾のオブザーバー資格による参加が認められ
   る。新型インフルエンザへの対応策が主題に。チリでも新型インフルエンザ感染を
   確認。
   5月19日日本政府は、現行の新型インフルエンザ対策行動計画が強毒性に基づい
   ているので、今回の弱毒性新型インフルエンザにあった対応策に柔軟に変更するこ
   とを決定。日本の感染者数が一気に増加し、世界第4位へ浮上。WHO、日本の感
   染の動きを注視。ギリシャで新型インフルエンザ感染を確認。イギリスと日本は、規
   制強化による経済的影響などを恐れてWHOのフェーズ引き上げに反対を表明。中
   国などもこれに賛同。
   5月19日米マサチューセッツ工科大学の研究者らが、地球温暖化による2100年の
   気温上昇が、6年前の予想に比べおよそ2倍の5.2度になる可能性があるとの研究
   結果を科学誌「JournalofClimate」に発表。増えた理由として、前回と異なり最新の
   経済データと経済モデルを導入したためとしている。
   5月20日気象庁は、ホームページに、「20日13時06分頃地震がありました。震源地
   は日向灘で震源の深さは約10km、規模(マグニチュード)は7・6と推定」、という実際
   には起こっていない地震情報を掲載。30分後に気づいて削除したが、宮崎県外の
   人から同県庁などに問い合わせが殺到する。気象庁では訓練情報が誤って載せら
   れたと説明。
   5月20日台湾で新型インフルエンザ感染者を確認。
   5月21日フィリピンで新型インフルエンザ感染者を確認。
   5月21日JAXA宇宙航空研究開発機構は、予定の観測を終えた月探査衛星「かぐ
   や」を6月11日に、月の表側の南緯63度、東経80度にあるギルクレーター付近に落
   下させると発表。
   5月21日JAXA宇宙航空研究開発機構の内閣府への移管問題が、文部科学省の
   官僚と自民党の文教族議員の反対で頓挫。宇宙開発推進による経済効果などを期
   待して、省庁横断的に調整できる内閣府に移管する計画だったが、ロケット開発な
   どの予算が多くを占める文部科学省が反発。官僚の要請で首相経験者など有力議
   員の多い自民党文教族が抵抗していた。
   5月21日東京大学の研究者が、メタン生成菌「メタノサーモバクター」を使い、主要な
   温室効果ガスである二酸化炭素からメタンを生成する方法に成功したと日本地球惑
   星科学連合大会で発表。
   5月21日宮城県栗原市災害対策本部は、前年6月の岩手・宮城内陸地震で土石流
   に流された旅館「駒の湯温泉」付近で、行方不明になっている旅館従業員2人の捜
   索を再開した。土石流による軟弱な泥で覆われていたが、排水工事により地盤が強
   化されて捜索が可能になったため。
   5月22日京都府は、府内の47の大学・短大のうち43校が、府の要請を受けて27日
   まで休校となったことを発表。最近市外へ出ていない児童の新型インフルエンザ感
   染が判明したことを受けての措置。
   5月22日日本政府は、新型インフルエンザの行動計画の運用方針を修正。感染者
   の国内侵入防止から、重篤化防止、感染拡大防止にシフトし、機内検疫や停留措
   置も中止する。未感染地域と蔓延地域で対応を柔軟に変えられるようにすることも
   決定。
   
日本災害史 1

 

■飢饉
「日本書記」の欽明天皇の巻に、「郡国大水となり、飢えて人互いに食べる」という記事がある。飢餓の原因として干害(ひでり)、冷害、風水害があるが、戦国時代までは干害が最も恐ろしいとされた。
1181年養和の大飢饉
前年来の天変続きで、西国は大飢饉に襲われる。死骸は道端にあふれ、餓死する者は数知れない。仁和寺の僧隆暁は、死者の額に「阿」の字を書いて死者の冥福を祈って回った。「京都の死者の数四万二千三百人」と鴨長明の「方丈記」のなかに記されている。「源平盛衰記」によると、天下大変な飢饉となり、人民の多数が死んだ。わずかに生き残った者も土地を捨てて境を出てここかしこに行き、あるいは妻子を忘れて山野に流浪し、巷にさまよい憂いの声が耳に付くほどである。その年も暮れ、今年は疫れいが流行し、飢え死しなかった人でも病で死んでいった。…街頭には死人が多く倒れており、馬車も死人の上を通る有様である。遺体の臭いが京中に満ちて、道を行く人も大変であった。」
1231年寛喜の大飢饉
前年秋の凶作、この年の麦の減収により、飢饉が全国的に広がった。京都では春頃から餓死者が増え、7月に入ると死人を抱いた通行人があとを絶たず、道路には死骸がみちあふれたという。このため「天下の人種三分の一失す」と言われた。鎌倉幕府は、この年の5月、鶴岡八幡宮で国土豊年のための祈とうを行っている。
鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に、寛喜2年6月16日(新暦1230年8月3日)、関東各地は大雪に見舞われたとあります。当時、季節外れの大雪は種モミどころか人肉を食む大飢饉を意味しました。
翌年の寛喜3年、親鸞は大飢饉の関東のただなかにあって、以前に一度もった確信を再びもちました。建保2年(1214)、「破戒僧」親鸞が妻子を連れて関東に移り住むための道中にて、小説「楢山節考」の楢山(姨捨山)がある信州の山路にて得た救民の確信でした。
詩集で有名な藤原定家の日記「明月記」に、寛喜3年(1231)の京都でも街路に流民の餓死者があふれだし、死臭は家の中まで臭ったと書かれています。
同じころ、只管(しかん、ひたすら)打坐(たざ、坐に徹する)の道元は、京都四条大橋近くの建仁寺を離れ、京都南の伏見にある草深い小さな院に移り住み、95巻からなる「正法眼蔵」の劈頭巻、すなわち「弁道話」を書きました。その奥書に、「寛喜3年中秋の日、道元(32歳)記す」とあります。大飢饉の寛喜3年、草深い小院にて「眼蔵」の世界を確信した道元は、以下の「生死可憐」を作りました。
生死可憐雲変更迷途覚路夢中行
唯留一事醒猶記深草閑居夜雨声
1428年鎌倉の飢饉
鎌倉では2万人の餓死者が出たと「神明鏡」に記されている。
1461年寛正の大飢饉
数年来の異常気象で全国に飢饉が拡大し、京都では死者は1月から8万2千人に達した。死体は市中にあふれ、鴨川は水もながれず死臭がおおった。禅僧雲泉大極の「碧山日録」に、「洛北の一僧が木片の卒搭婆を8万4千作り、死体に一つ一つ置いていったところ、2ケ月で残り2千になった」とある。つまり8万2千という死亡者の数字はここから来ているのである。3月には餓死者は1日300人から700人で、五条の橋の下には1千から2千人の死体が埋められた。
1642年寛永の大飢饉
冬から春にかけて、全国で飢饉となる。飢饉は8年前から断続的に起きており、幕府は農業再建策を発表する。
1732年亨保の飢饉
ウンカの大群が西日本各地を襲い、作物は大打撃をこうむった。被害は「徳川実紀」によると「すべて山陽、西国、四国等にて餓死するもの96万9千人」という。この飢饉で半作以下に落ち込んだ藩が46藩。小倉の開善寺の大宙禅師が、餓死者の遺体を収集し、それぞれに法名をつけて記録した過去帳が残されている。そこに記された死者の数は何と40,600人という。
1756年宝暦の飢饉
近世の四大飢餓の一つであるこの飢饉では、岩手と宮城の両県で合計約5万人の死者を出している。死者の葬送で、枕団子を持って行くと、流民たちがかけよって、それを奪い合うことも見られたという。
1783年天明の大飢饉
1783年から5年間、東北地方を中心にして大飢饉が発生した。雪の奥州路には、行き倒れた死体が重なり、人々は草の根はもちろん、猫や犬、なかには人肉を食う者も珍しくなかった。もっとも被害が多かったのは津軽藩で餓死者8万人、領内の人口の3分の1を失った。1784年の津軽藩の記録「天明凶歳日記」には、「餓死老若男女10万2千余人、死に絶え空家になった家3万5千余軒、他に3万余人疫れい(伝染病)にて果てる。他国に行った者8万余人」とある。
南部藩では餓死者4万8千人、疫死者2万4千人、他領への流亡者を加えると、人口の2割を失う。仙台藩の餓死者は40万人といわれるが、この数字は少し多きすぎるかもしれない。
蘭医の杉田玄白は、1787年にこの飢饉を記録している。「飢饉のあとはいつも疫れいが流行するという。今年もまたこの病気にかかって死亡した人が多かった。陸奥国松前から帰った人の話によると、南部の5戸6戸より東の村里は飢饉疫れいの災いで人の種も尽きたようだという。田畑は皆荒れ果てて原野のようになり、里は行き交う人もなく、民屋は立ち並んでいるが人の声もせず、天災で亡くなった人を葬る者もいない。筋肉がただれさせ臥せる者。あるいは白骨になって夜着のまま転がっている者。また道々の草の間には餓死した人の骸骨が累々と重なりあい、幾つもあるのを見た」。飢饉により必ず起る現象に米価の高騰である。そしてそれに不満を持つ群衆により、1783年5月には大坂・江戸で米屋・豪商の打ち壊しが相次いだ。江戸で打ち壊しに参加したのは約5千人、980軒もの被害があった。
1836年天保の大飢饉
1833年に始まった大飢饉は、年ごとに深刻さを増大、陸奥では作物が全滅、九州も6割が不作という全国的な規模のものである。陸奥の牡鹿郡では、18ケ村で5万9千人が餓死。仙台藩では道端の死体に、犬や鳥がつついていたという。  
■台風
台風も日本の災害の歴史では欠かせないもので、古くから歴史に顔を覗かせている。989年8月の台風は、「今昔物語」の中に紹介され、比叡山の大鐘がころがり落ち、いく先々の房を壊して南の谷底に落ちて行ったという。朝廷ではケガレを払うために、放生会を行ったり、翌年は改元するほどの念の入れかただった。
1201年東国に大暴風雨
関東地方に大暴風雨が襲い、船の転覆があいついだ。下総国葛西郡(東京都江戸川区)の海岸部では、押し寄せた津波に千余名がのみこまれた。
1828年子年の台風
8月8日深夜から北九州を襲った暴風雨は、九州気象災害のなかでも特筆すべきものである。以下各藩の死亡者状況である。肥前佐賀藩8,550人、肥前大村藩3,107人、肥前長崎45人、筑後柳川藩3,000人、筑後久留米藩208人、筑前福岡藩2,353人、計1万7千人という。この台風でシーボルトが乗っていたオランダ船が難破し、シーボルトが国禁を犯したことが暴露した。  
■地震
1293年鎌倉大地震
4月13日、関東一円に大地震が発生。社寺仏閣が倒壊し、死者は2万3千以上に達する。鶴岡八万宮の鳥居のあたりには140体の遺体があった。このあと余震が1週間にわたって続いた。13世紀の鎌倉では6回の地震が記録されている。
1586年中部から近畿にかけて大地震が発生。この地震で大垣城が全壊した上、出火。長浜城も潰れ、城主山内一豊の息女も圧死した。飛騨白川谷では山崩れが起り、帰雲城が城主以下500人とともに埋没した。
1596年近畿地方に大地震
7月13日夜半。近畿地方に大地震が発生。この地震で豊臣秀吉の居城、伏見城が被害にあい、城郭は倒壊、秀吉は難をのがれたものの女房侍女570人余が圧死した。
1611年会津大地震
8月13日会津地方に大地震が襲い、死者2,700人、家屋や田畑に多くの被害をもたらした。
1677年関東・磐城地震
10月9日陸奥・常陸地方で地震があり、磐城地方では死者500人、常陸でも36人が死亡する。
1703年元禄大地震
11月23日午前2時頃、関東地方にマグニチュード8.2の大地震が襲った。江戸の町では、家々の戸がたちまち倒れ、人々は寝床から飛び起きた。新井白石の「折たく柴の記」にもこの記事がある。この地震では小田原の破壊が多く、城下の死者男女651人、士人152人、旅人40人。津波による死者は房総半島だけで4千人に近く、外房海岸の茂原では2,500人の死者が出、総数6,700人といわれる。
1707年宝永大地震
10月4日、日本全土を揺るがす地震が起こった。この地震では土佐の被害が大きく、潰れた家4,800軒、大津波で1万1千軒が流出し、死者は総計1,844人に達した。この津波は東は相模湾から西は九州まで襲来した。紀伊半島、大坂湾にも被害を出し、大坂全体の死亡者は3千人以上、水死1万人といわれる。
1751年越後高田で大地震
4月26日深夜、高田(新潟県上越市)で大地震が発生。いたるところから泥水が発生。高田城および侍屋敷に被害が出、死者は1千人から2千人といわれる。
1828年越後三条地震
11月12日早朝新潟平野で地震が発生、信濃川下流にある三条等の町はほとんど全壊し、死者は1,500人に達した。この地震は瓦版や瞽女口説によって全国に伝えられた。
1847年上信越大地震
3月24日午後10時頃、上信越地方に地震が襲った。善光寺領8千人のうち3千人が死亡、また善光寺では、3月10日から御開帳が始まり、宿坊・町宿には泊まり客が溢れていた。地震により善光寺の諸堂は倒壊、火は門前町の大半を焼きつくした。しかし本堂は地震に耐え、お篭りの信者780人は助かったが、旅宿人2千人が死亡した。
1854年安政東海地震
この年は地震が続発し、6月14日に伊賀・伊勢の地を襲った。伊賀上野では、死者600人近く出た。11月4日、午前8時から10時にかけて駿河・遠江・伊豆・相模を中心にマグニチュード8.4の地震が襲った。地震とそれによる津波や火災が原因で、死者1万人余りが出た。
1855年安政江戸大地震
10月2日午後10時頃、江戸湾の荒川河口付近を震源とするマグニチュード6.9の直下型地震が発生。出火の被害を含め、市中の大半が被災した。市内で災害のもっとも激しかったのは深川、本所、下谷、浅草等で、届け出によると変死者は深川で868人、本所で385人、下谷で372人、浅草で566人であった。この震災の死者は武家を除いた変死人3,895人、潰れた家は14,346軒であるから、潰れた家2軒に死者1人の割となる。武家の死者を合計すると死者7千人となる。
火災は翌3日の明け方に鎮火するが、その日から町会所で炊き出しを始め、その他各所で避難民に握り飯が配られた。物価は8日に暴利取締令を発して、強制的に地震前の値段で日用品を売らした。
1891年濃尾大地震
明治22年10月28日午前6時38分、美濃・尾張一帯をマグニチュード8.4の地震が襲った。被害は死者7,466人で、岐阜市は家屋の4分の1が倒壊した。名古屋では名古屋駅をはじめ多数の公共建物が倒壊した。圧死者の数からいえば関東大震災と同じ規模で、一見頑丈そうに見える煉瓦建築の被害が激しかった。
1896年三陸沖大地震
6月15日岩手県三陸沖の海底でマグニチュード7.6の地震が発生。地震による津波が岩手、宮城、青森の海岸を襲い、3県で約2万7千人の死者を出した。この日、日清戦争凱旋の花火大会が海辺で行なわれ、見物客6〜700人が波にのみこまれた。
1923年 関東大震災
9月1日午前11時58分、伊豆沖の海底でマグニチュード7.9の激震が関東一円を襲った。この地震で死者約9万9千人、行方不明4万3千人を出す史上最大の地震災害となった。最も被害がひどかったのは旧陸軍の被服廠跡地内での焼死・窒息死者で、3万2千人という。
1948年 福井地震
6月28日午後4時すぎ、福井平野で地震が発生。福井市内の建築のほとんどが倒壊した。劇場・映画館のなかで焼死した人は数百人に達した。死者は福井市内で930人、福井県では3,700人が死亡した。福井市の東南部で田の草取りをしていた女性が地割れに挾まれて圧死した。地割れに挾まれて死亡する記録は、まことに少ないという。
1983年 日本海中部地震
5月26日正午すぎ、秋田沖を震源地とするマグニチュード7.7の地震が発生。地震の被害は津波による被害によってもたらされた。死者・行方不明は秋田・青森・北海道で104人。
■噴火
1640年北海道駒ケ岳噴火
6月13日、松前領内の駒ケ岳(浦岳)が噴火、津波により船100隻が被害にあい、700人が溺死する。
1707年富士山大噴火
11月23日、富士山が大噴火。登山口に位置する須走村75戸が倒壊する。降灰の影響は大きく、2年後でも富士山南東麓の御殿場付近の7カ村の住人55%が「飢人」と記録されている。富士山はこの他2回の大噴火を起こしている。
1779年桜島の噴火
10月1日桜島が300年ぶりに大噴火を起こした。薩摩藩領内では死者150人、死んだ牛馬2,000頭という被害をもたらした。
1783年浅間山の噴火
4月9日から始まった浅間山の噴火が、甚大な被害をもたらしたのは、それから4カ月後の7月8日午前10時。浅間山は大爆発し溶岩は秒速百メートルの火砕流となって、5分後には鎌原村を埋め尽くし、村人597人のうち、466人が死亡した。被害は55カ村に及び、子を抱いた死体や、手足のない死体が利根川下流に流れついたという記録がある。
1792年島原大変・肥後迷惑
1月18日夜、雲仙の普賢岳が噴火した。噴火見物の登山者があとをたたないため、島原城主は見物禁止を布告した。4月1日夕暮れ、強い地震が2度起こり、すぐにものすごい鳴動が聞こえた。海に流れ込んだ岩石が有明海一帯に津波を引き起こした。一連の異変で島原では1万人の死者が出、津波を予想していなかった対岸の肥後領でも5千人の溺死者が出た。
1888年磐梯山大爆発
明治21年7月15日午前7時30分、福島県にある磐梯山が爆発、2時間にわたって鳴動と地震を繰り返した。崩壊した山は時速77キロで北方山麓を襲い、3集落を全滅させた。これにより死者461人にのぼった。死者のうち、死体の発見されたものは87人である。  
■火災
1641年桶町の大火
1月29日午前零時頃、江戸京橋桶町より出火。江戸最初の大火で、焼失家屋2千戸、死者380人を数える。このとき消火ににあたった大目付が煙に巻かれて死亡。公職での殉職第1号という。
1657年明暦の大火(振袖火事)
1月18日、本郷丸山町の本妙寺から出火、湯島、駿河台一帯に瞬く間に広がった。霊巌寺に避難していた人々は逃げ場を失い9,600人が死亡。また日本橋から浅草方面に逃げる2万3千人は浅草橋前で圧死または溺死した。翌19日江戸城本丸を焼いた。火事は20日午前に鎮火するが、江戸の6割が灰となる。この火事で江戸城が全焼、日本橋にあった吉原も、この火事で浅草の北に移転した。死者10万7000人で、史上、関東大震災につぐ災害であるとともに、西暦64年のローマの大火、1666年のロンドンの大火とともに三大火災と言われる。
会津藩主保科正之は、焼死者の埋葬をすることにした。幕府はその費用として300両を給付し、増上寺に命じて本所に埋葬地を設け、死骸を船で運んで供養を行なった。これが今両国の回向院として残っている。
黒木喬の「明暦の大火」によると、江戸の堀や川、あるいは近国の沿岸に流れついた死骸は、鳶や烏についばまれて、目もあてられるありさまになっていた。死体は船で牛島に運ばれ、そこに掘られた20間四方の大穴に埋められた。「本所回向院記」には死者10万8000人とある。
また幕府は、寺社奉行を増上寺に派遣して、犠牲者の法要を命じた。死体を埋葬する地は92メートル四方があてられ、念仏堂や庫裏が作られた。死者の宗派はさまざまであるから、最初諸宗院回向院無縁寺と称したが、のちに増上寺の末寺に組込まれた。回向院にはそれ以来毎月18、19日の両日、江戸市中から追悼の者がおとづれるようになった。
1682年お七火事
12月28日江戸市外駒込の大円寺から出た火事は、南の市内に向かい、本郷・上野を襲い、隅田川を越えて深川まで延焼。焼死者3,500人を出す。有名な八百屋お七の「お七火事」である。お七は放火の犯人として市中引き回しのうえ、鈴ケ森で火刑となった。
1772年江戸明和の大火
2月29日目黒の大円寺から火災が発生。翌午後2時に鎮火したが、死者14,700人の犠牲者を出した。火元の大円寺の境内に、焼死者慰霊の500体の石像が建立された。この火事が明和9年に起きたので(メイワク)のせいだとして、11月に改元される。
1788年天明の大火
1月30日午前5時頃、団栗図子(どんぐりずし)より出火、内裏・二条城をはじめ、寺社を焼いて2月2日朝鎮火する。焼失戸数3万7千軒、焼死者1,800人を超えた。応仁の乱(1467〜77)以来の京都空前の大火で、幕府は罹災民に対して米銀の貸与を行なった他、米価の高騰を禁じた。
1806年江戸丙寅の大火
3月4日午前10時、江戸・芝車町に発生した火災は、死者1,200人を出した。奉行所では15カ所に御救小屋を建て、5万7千人を収容。一人当たり白米3合・握り飯3つが配られる。
1829年江戸・己丑の大火
3月21日午前11時、神田の材木屋から出火、翌朝鎮火するまでに類焼した屋敷・町家は37万軒、焼死者、溺死者は2,800人に及ぶ。  
 
日本災害史 2

 

1000年代以前
白鳳地震(東海地震・南海地震):684年11月29日に発生したM8.4(くらい)の地震。
貞観地震:869年7月9日に発生したM8.3〜8.6(くらい)の地震。
仁和地震(東海地震・南海地震):887年8月26日に発生したM8.0~8.6の地震。
十和田湖の大噴火:915年に発生した十和田湖の噴火。日本における過去2000年間での最大の噴火。
1000〜1500年代
永長東海地震:1096年1月24日に発生したM8.3(くらい)の地震。
康和南海地震:1099年2月22日に発生したM8.0~8.3の地震。
正嘉大地震:1257年10月2日に発生したM7.0~M7.5の地震。
弘安の役台風:1281年7月30日に大きな被害を出した台風。その名の通り弘安の役中に襲い、東路軍・江南軍で死者10万人余り。通称"神風"。
鎌倉大地震:1293年5月20日に発生したM7.1(くらい)の地震。
正平南海地震:1361年8月3日に発生したM8.2~8.5の地震。
文明大噴火:1471年9月12日に発生した桜島の噴火。
日向灘地震:1498年7月9日に発生したM7.0〜7.5の地震。南海地震の可能性がある。
明応東海地震:1498年8月25日に発生したM8.4(くらい)の地震。
1500年代
天正大地震:1586年11月29日に発生したM7.9〜8.4の地震。日本では歴史上最大の直下型地震で、近畿・東海・北陸で大きな被害をもたらした。若狭湾や伊勢湾では津波も発生したと言われている。
慶長伊予地震:1596年9月1日に発生したM7.0の地震。それ以上とする説もある。
慶長豊後地震(大分地震):1596年9月4日に発生したM7.0〜7.8の地震。瓜生島が津波で沈んだとされる瓜生島伝説といわれるものがある。[1]
慶長伏見地震:1596年9月5日に発生したM7.1の地震。築城されたばかりの伏見城が倒壊した。
1600年代
慶長地震:1605年2月3日に発生したM7.9の地震。南海トラフの地震と考えられているが、詳細は不明。
慶長会津地震:1611年9月27日に発生したM6.9の地震。死者約3700人。
慶長三陸地震:1611年12月2日に発生したM8.1の地震。
北海道駒ケ岳の大噴火:1640年に発生した北海道駒ケ岳の噴火。大規模な山体崩壊を起こし、大量の土砂が近くの噴火湾に流れ、大津波を発生させた。また寛永の大飢饉をもたらしたとされてる。
外所地震:1662年10月31日に発生したM7.6の地震。死者約200人。
寛文の有珠山の噴火:1663年に発生した有珠山の噴火。この噴火以降有珠山の火山活動が活発になる。
樽前山の噴火:1667年に発生した支笏カルデラの噴火。
延宝房総沖地震:1677年11月4日に発生したM8.0の地震。死者約600人。
1700年代
元禄関東地震:1703年12月31日に発生したM8.1の地震。
宝永地震(東海地震・南海地震):1707年10月28日に発生したM8.6の地震。国内史上二番目に大きかった地震とされる。
宝永大噴火:1707年12月16日に発生した富士山の噴火。この噴火で宝永山が形成される。
北海道南西部の津波:死者1467人。発生要因が地震説と渡島大島の山体崩壊説に分かれてる。
戌の満水:1742年8月30日に大きな被害をもたらしたした台風。
津軽地震:1766年3月28日に発生したM6.9の地震。死者約1500人。
八重島地震:1771年4月24日に発生したM8.0の地震。死者約12,000人。
安永大噴火:1779年11月7日に発生した桜島の噴火。江戸や長崎にも降灰。
島原大変肥後迷惑:1892年5月21日に発生したM6.4の地震や噴火。眉山が地震によって山体崩壊を起こし、それが有明海に雪崩れ込み大津波を発生させた。死者約15,000人。
寛政宮城県沖地震:1793年2月17日に発生したM8.2の地震。死者12名。
1800年代
象潟地震:1804年7月10日に発生したM7.1の地震。死者約500人。
シーボルト台風:1828年9月17日に大きな被害をもたらした台風。九州上陸時に900hPaだったとされている。死者二万人以上。
十勝沖地震:1843年4月25日に発生したM8.0の地震。
善光寺地震:1847年5月8日に発生したM7.4の地震。死者約1万人。
伊賀上野地震:1854年7月9日に発生したM7.6の地震。死者995人。
安政東海地震:1854年11月4日に発生したM8.4の地震。
安政南海地震:1854年12月24日に発生したM8.4の地震。
豊予地震:1854年12月26日に発生したM7.4の地震。
安政江戸地震:1855年11月11日に発生したM6.9の地震。死者約4000人。
飛越地震:1858年4月9日に発生したM7.1の地震。死者426人。
浜田地震:1872年3月14日に発生したM7.1の地震。死者552人。
磐梯山の噴火:1888年7月15日に発生した噴火。大規模な山体崩壊を起こし、堰止湖を形成した。
濃尾地震:1891年10月28日に発生したM8.0の地震。死者7000人超。内陸部で起きた地震の中で最大の地震。
明治東京地震:1894年6月20日に発生したM7.0の地震。死者31人。
庄内地震:1894年10月22日にM.0の地震。死者739人。
明治三陸地震:1896年6月15日に発生したM8.2-8.5(くらい)の地震。死者行方不明者約22,000人。
陸羽地震:1896年8月31日に発生したM7.2の地震。死者209人。
宮城県沖地震:1897年8月5日に発生したM7.7の地震。
1900年代
芸予地震:1905年6月2日に発生したM7.2の地震。死者11名。
姉川地震:1909年8月14日に発生したM6.8の地震。死者43人。
1910年代
喜界島地震:1911年6月15日に発生したM8.0の地震。死者12人。
大正大噴火:1914年1月12日に発生した桜島の噴火。この噴火で大隈半島と陸続きになる
関東大水害:1910年8月11日に大きな被害をもたらした台風。死者行方不明者1379人。
関東大水害:1917年9月30日に大きな被害をもたらした台風。死者行方不明者1324人。
択捉島沖地震:1918年9月8日に発生したM8.0の地震。死者24人。
1920年代
関東大震災:1923年9月1日に発生したM7.9の地震。死者数10万人。関東全域に大きな被害をもたらした。
北丹馬地震:1925年5月23日に発生したM6.8の地震。死者428人。
北丹後地震:1927年3月7日に発生したM7.3の地震。死者2925人。
1930年代
北伊豆地震:1930年11月26日に発生したM7.1の地震。死者272人。
昭和三陸地震:1933年3月3日に発生したM8.1の地震。
室戸台風:1934年9月21日に大きな被害をもたらした台風。死者行方不明者3066人。
静岡地震:1935(昭和10)年7月11日静岡、清水などに被害集中。死傷者9299人。全壊367、半壊1830。
1940年代
茨城県沖地震:1943年5月23日に発生したM7.0の地震。
鳥取地震:1943年9月10日に発生したM7.2の地震。死者1083人。
昭和東南海地震:1944年12月7日に発生したM7.9の地震。死者・行方不明者1223人。
三河地震:1945年1月13日に発生したM6.8の地震。死者1180人。
枕崎台風:1945年9月17日に大きな被害をもたらした台風。死者行方不明者3756人。
昭和南海地震:1946年12月21日に発生したM8.0の地震。死者1330人。
カスリーン台風:1947年9月に大きな被害をもたらした台風。死者行方不明者1930人。
福井地震:1948年6月28日に発生したM7.1の地震。死者3769人。
アイオン台風:1948年9月16日に大きな被害をもたらした台風。死者行方不明者838人。
1950年代
十勝沖地震:1952年3月4日に発生したM8.2の地震。死者28人、行方不明者5人。
西日本水害:1953年6月25に発生した集中豪雨。死者759人、行方不明者242人。
南紀豪雨:1953年7月16日に発生した集中豪雨。死者713人、行方不明者411人。
洞爺丸台風:1954年9月21日に発生した台風。九州から北海道にかけて被害をもたらした。死者数は1361人。
諫早豪雨:1957年7月15日に発生した集中豪雨。死者行方不明者992人。
狩野川台風:1958年9月27日に大きな被害をもたらした台風。海上での中心気圧877hPaという記録を出す。死者行方不明者1269人。
択捉島沖地震:1958年11月7日に発生したM8.3の地震。
伊勢湾台風:1959年9月に発生した台風。紀伊半島や東海地方に多大な被害をもたらした。死者数は4697人。
1960年代
チリ地震:1960年5月22日に発生したM9.5の地震。地震発生22時間半後に津波が日本の沿岸部を襲った。日本国内での死者行方不明者142人。
豪雪:1963年1月に発生した豪雪。世界的な異常気象で、日本国内で死者228人、行方不明者3人。
択捉島沖地震:1963年10月13日に発生したM8.3の地震。死者2人。
新潟地震:1964年6月16日に発生したM7.5の地震。死者26人。
日向灘地震:1968年4月1日に発生したM7.5の地震。
十勝沖地震:1968年5月16日に発生したM7.9の地震。死者52人。また、約10時間後にM7.5の余震が発生した。厳密には十勝沖ではなく、三陸沖北部の地震とされている。
北海道東方沖地震:1969年8月12日に発生したM7.8の地震。
1970年代
根室半島沖地震:1973年6月17日に発生したM7.8の地震。
長良川大水害:1976年台風16号の風水害によって発生した大規模な水害。死者行方不明者169人。
伊豆大島近海地震:1978年1月14日に発生したM7.0の地震。死者25人。
宮城県沖地震:1978年6月12日に発生したM7.4の地震。死者27人。
1980年代
長崎豪雨:1982年7月に発生した集中豪雨。死者行方不明者345人。
日本海中部地震:1983年5月26日に発生したM7.7の地震。秋田県を中心に大津波の被害。死者104人。
三宅島噴火:1983年10月3日に噴火した。犠牲者はいなかった。
日向灘地震:1984年8月7日に発生したM7.1の地震。
長野県西部地震:1984年9月14日に発生したM6.8の地震。死者29人。御岳山の一部が崩落した。
千葉県東方沖地震:1987年12月17日に発生したM6.7の地震。死者2人。
1990年代
雲仙普賢岳火砕流 :1991年6月3日に発生。死者43名、負傷者9名。
釧路沖地震:1993年1月15日に発生したM7.5の地震。
北海道南西沖地震:1993年7月12日に発生したM7.8の地震。主に奥尻島などで津波被害を受けた。
北海道東方沖地震:1994年10月4日に発生したM8.2の地震。死者9人。
兵庫県南部地震・阪神淡路大震災:1995年1月17日に発生したM7.3の地震。最大震度は7、死者数は6433名。
2000年代
三宅島噴火:2000年6月26日に噴火した。この噴火以降火山性地震が相次ぐ。死傷者はいなかった。
鳥取県西部地震:2000年10月6日に発生したM7.3の地震。兵庫県南部地震と同規模であった。
芸予地震:2001年3月24日に発生したM6.7の地震。特に広島県西部で被害が顕著であった。
十勝沖地震:2003年9月26日に発生したM8.0の巨大地震。
台風:台風16号が2003年8月30日〜31日、18号が9月7日、23号が2003年10月19〜21日にかけて日本全国に暴風・大雨・高潮の被害をもたらした。3つ合計で死者不明者160人。23号は2000年以降では最悪の台風被害である。この年は台風上陸がとても多く、これ以外の台風でも各地で被害が出ている。
新潟県中越地震:2004年10月23日に発生したM6.8の地震。21世紀に入って初めて震度7を記録した地震である。
福岡県西方沖地震:2005年3月20日に発生したM7.0の地震。阪神大震災以降に政令市で震度6以上を観測した地震。
台風14号:2005年9月5日〜8日にかけ台風とそれに連なる前線の影響によって各地で大雨となった。渇水に陥っていた高知県の早明浦ダムなどでは貯水率が1日で0%から100%へ回復した。
豪雪:2005年11月から2006年2月にかけて発生した豪雪。死者行方不明者150人以上。
能登半島地震:2007年3月25日に発生したM6.9の地震。
新潟県中越沖地震:2007年7月16日に発生したM6.8の地震。
平成20年茨城県沖地震:2008年5月8日に発生したM7.0の地震。
岩手・宮城内陸地震:2008年6月14日に発生したM7.2の地震。土砂災害が多発した。
岩手県沿岸北部地震:2008年7月24日に発生したM6.8の地震。
駿河湾地震:2009年8月11日に発生したM6.5の地震。東名高速道路が路肩崩落により通行止となり、お盆の帰省ラッシュに大きな影響が出た。
2010年代
豪雪:前年12月31日から2010年1月2日にかけて北陸地方・山陰地方において大雪。特急列車が30時間以上立ち往生し、Uターンラッシュにも影響。
チリ地震:2010年、1960年と同じく日本に津波が襲来。予想された津波よりは小さいものであったため、翌年の東日本大震災における津波からの避難遅れに繋がったと言われている。
新燃岳噴火:2011年1月26日から噴火、その後噴火の規模が大きくなった。4月18日19時22分の噴火以降、際立った噴火は起こっていないが、[2]依然として爆発的噴火に警戒が必要である。
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災):2011年3月11日に発生したM9.0の巨大地震。国内観測史上最大の地震、最大震度7。東日本の太平洋沿岸部に多大な被害を与えた。
長野県北部地震(栄村大震災):2011年3月12日に発生したM6.7の地震。長野県栄村では震度6強を記録しており、家屋の倒壊や土砂崩れなどの被害を受けた。
福島県浜通り地震:2011年4月11日に発生したM7.0の地震。東北地方太平洋沖地震で誘発された余震。福島県いわき市で震度6弱を記録。また同市で土砂崩れにより3人が死亡した。またこの地震で復旧中の電力が途絶し最大約21万戸が停電した。翌日、同じような場所と深さでM6.4、最大震度6弱の地震が発生したが、この地震で誘発されたと思われるもので、厳密には別の地震である。
平成23年台風12号:9月2日〜3日にかけて、西日本各地に大雨を降らせた。特に紀伊半島の奈良県南部・和歌山県で被害が大きかった。死者・不明者92人。
台風26号:平成25年、東京都の伊豆大島にて記録的な大雨による土石流が発生。集落を飲み込み死者行方不明者39人。
猛暑:2013年8月上旬から中旬にかけて全国的に猛暑となり、高知県四万十市江川崎で歴代1位となる最高気温41.0℃を観測した。各地で熱中症による救急搬送も多数あった。
豪雪:平成26年、普段は雪の少ない太平洋側でも大雪となり、首都圏などでスリップ事故が相次いだ。特に岐阜県・山梨県・長野県では大雪で孤立する集落が相次いだ。特に鉄道の立ち往生が相次ぎ、中央本線では丸2日以上止まっていた列車もあった。
広島市土砂災害:2014年8月20日に広島市北部の安佐北区・安佐南区の複数箇所にて大規模な土砂災害が発生。土石流などで死者74人・家屋の全半壊255軒。広島市内の地質が影響し被害が拡大した。
御嶽山噴火:2014年9月27日11:52、登山客が山頂に多数居る時間に突然噴火。多くの登山客が巻き込まれた。死者57人。
熊本地震:2016年4月14日21:26に前震(M6.5)が発生し、最大震度7を益城町で観測。その後、4月16日に本震(M7.3)が発生し、熊本県益城町(2回目)、西原村で最大震度7を観測したほか、熊本県と大分県の広範囲で震度6強〜6弱を観測。なお、本震の際には大分県中部でも誘発地震が同時発生していた。
熊本県阿蘇地震:2016年4月16日3:55に発生したM5.8の地震。平成28年熊本地震に誘発された地震。熊本県産山村で最大震度6強を観測。熊本地震の本震で震度6強の揺れに見舞われた南阿蘇村などでは、被害の拡大を招いた。
大分県中部地震:2016年4月16日7:11に発生したM5.3の地震。平成28年熊本地震に誘発された地震。大分県由布市で最大震度5弱を観測。熊本地震の本震(ほぼ同時発生した大分県中部の誘発地震)で震度6弱の揺れに見舞われた由布市・別府市などでは、被害の拡大を招いた。  
 
「方丈記」五大災厄

 

「方丈記」といえば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし。」云々という、冒頭の名文は有名ですが、この短い古典の全文を読まれた方は少ないのではないでしょうか。
この冒頭の文からは、無常観を説いた抹香くさい内容を想像してしまいますが、少なくとも「方丈記」の前半部分は、平安末期の混乱期の京都・平安京の生々しいドキュメントとなっています。
そういう意味で作者の鴨長明は、12世紀の優れたドキュメンタリ記者ということができるでしょう。現代に暮らしている私たち(特に京都に暮らしている私)にも、このような記録には関心をもたざるを得ません。
長明は、「方丈記」の前半で五つの災厄を語っていますが、その中の四つは自然災害で、一つは人災(清盛による福原遷都とその失敗)です。これらは1180年から1185年の間に立て続けに起こり、長明は廿代の若い時期に体験しているのです。自らが目撃・体験した同時代の災害や政治の大変化を、それを蒙った人々と京都・平安京の有り様を、その時代を生きた目から生々しく記録しています。この記述は非常に具体的で、そこに登場する地名は今日の京都の地名とも共通するものがあり、読んでいるとその状況が彷彿としてきます。特に自然災害とそこに住む人々の描写はその正確さにおいて特筆すべきものだと思います。
特に飢饉の極限的な状況は、まさに地獄絵巻と言っても過言ではありません。死者の数の統計を客観的に記述しようという人間の理性的な営みにも感嘆しますが、その数の語る悲惨さに(特に京都に住んでいる私としては、地名が具体的に解る関係もあり)、驚嘆します。
また大地震の記述は、京都も大地震に襲われうるのだということを、我々に喚起させてくれるのです(実際に京都の東北には花折断層が走り、これは吉田山の東を通過し、聖護院にまで至っているということです)。
ここで、長明の時代がどんなものだったのかを考えてみます。同じ時代に生きた人としては、平清盛、源頼朝・義経、木曽義仲、藤原俊成・定家、西行、法然上人などがいます。平家の全盛の時代から、源平合戦を通じて、壇ノ浦での平家の滅亡(1185)、源氏の政権・鎌倉幕府の確立へと、続きます。この動乱の時代に、自然も歯車を狂わせたのか、次々と苛酷な災害をもたらすのです。
・大火(1177年、長明23才)
・竜巻(1180年、長明26才)
・遷都(1180年、長明26才)
・飢饉(1181-2年、長明27才)
・地震(1183年、長明29才)
長明は50才ごろに隠遁したとされています。それまで歌人として活躍していたのが、以降の隠棲の様子は、「方丈記」の後半に詳しく描かれます。大原から日野(山科方面)に移り、そして長明58才(1212)ごろに、「方丈記」が完成しているのです。健保4年(1216)、62才で長明死去します。
このように見てくると、長明の生きたこのころは、まさに貴族の世の中から武士の世への転換期、激動の時代であったと言えます。このような時代についての貴重な証言を、この「方丈記」は語っているのです。
大火
およそ物心ついてよりこの方、四十年あまりの年月を生きてきたが、その間にこに世界の不思議な出来事を見ることが、やや度々になってきた。
さる安元三年(1177年、長明23才)四月二十八日だったろうか。風が激しく吹き、騒々しい夜、戌(いぬ)の時(午後7−9時)のころ、都の辰巳(東南)の方向から出火し、戌亥(いぬい、北西)に広がった。最後には朱雀門、大極殿、大学寮、民部の省まで燃え広がって、一晩のうちにすべて灰になってしまった。
火元は樋口富小路であったそうだ。病人を寝かせていた仮の家屋から火が出たそうなのだ。強く吹く風に火勢は増し、燃え広がる様子は、扇を広げたように、末になるほど広がっていった。遠い家でも煙にまかれ、近い家ではただ炎を地面に吹き付けるばかりだ。
空は灰が吹き上げられるので、炎の光が照り映え、一帯が紅いに染まる。その中を、風に吹き切られた炎が一・二町を越えて飛び火していく。それに巻き込まれた人々は正気でいられいただろうか。あるものは煙りにまかれて倒れ伏し、あるものは炎に包まれてたちまち絶命してしまった。
身体一つでかろうじて逃れたものは、家財を運び出すことはできなかった。貴重な財宝も塵となってしまった。その損害はどれほど莫大だったろうか。この大火で公卿の十六の館が焼けた。その外の焼けた家は数知れない。すべて都のうち三分の二にもおよんだということだ。男女死んだ者、数千、牛馬のたぐいは数知れない。
人がなす営みはみな愚かなものだが、これほど危険な京のなかに家を作ろうと財を費やし、心を悩ますことは、大層愚かしいことなのだ。
竜巻
また治承四年(1180)四月二十九日のころ、中の御門京極の辺りから大きな辻風が起こって、六条辺まで、きつく吹いたことがあった。
三四町にわたって吹きまくったが、その範囲にあたった家などは、大きいものも小さなものも、ことごとく壊れてしまった。さながらぺちゃんこになってしまったものもある。桁と柱だけが残ったものもある。また門の上を吹き払って、四五町ほどもさきに飛ばされたものもある。また垣根が吹き飛ばされ隣と一続きになってしまったものもある。
ましてや家の中の財宝はことごとく空に舞い上げられ、桧はだ葺きの板のたぐいは、冬の木の葉が風に吹き乱れるのと同じだ。塵を煙りのように吹きたてるので、なにも見えなくなる。はげしく鳴り響く音に、声はかき消され聞こえない。あの地獄の業風であったとしても、これほどのものだろうかと思われる。
家が破壊されるばかりでなく、これを修理するあいだに怪我をして、身体が不自由になってしまったものは数知れない。この風は未申(ひつじさる、南西)の方角へ移動して、多くの人の嘆きをうみ出した。辻風は普通に見られるものだが、こんなひどいのは初めてだ。ただ事ではない。さるべきものの予兆かなどと疑ったものだ。
遷都
また同じ年(1180)の六月のころ、にわかに遷都が行われた。これはたいそう意外なことであった。そもそもこの都の始まりを聞くと、嵯峨天皇の御代に、都と定められて以来、既に数百年を経過している。さしたる理由なく安易に変えるべきものではないので、これを世間の人々が難儀なこっちゃと嘆きあっているのも当然すぎるほどだ。
しかしとやかく言ってもしかたなく、帝をはじめとして大臣・公卿はことごとく摂津の国浪速の京(福原京、現在の神戸)にお移りになった。公に仕える人は誰一人として京に残る者はいない。自分の地位を守ることに懸命で、主君の覚えを頼りにする人は、一日でも早く移ろうと汲々とした。タイミングを失いあぶれてしまった者は、嘆きながら京にとどまった。
かつては軒を競った家々は、日がたつにつれて荒れていく。家は壊されて淀川に浮かび、見る間に土地は畑にされていく。人の心はすっかり変わってしまって、馬に乗るためにただ鞍を重宝し、牛車を必要とする貴人はいなくなった。だれもかれも西南海の方面の領地を望み、東北方面の荘園は嫌がる。このころたまたま機会があり、津の国の新都に参った。その地勢を見ると、土地は狭く条理制とするには足りない。北は山に向かって高くなり、南は海に面して低くなっている。波の音はいつもうるさく、潮風はとりわけはげしい。内裏は山の中なので、あの木の丸殿もこんな様子だったのではと思わせるばかりで、なかなかな珍しい光景で、風情を感じる点もある。
日々に壊して川面も混雑するくらい運び下る家はどこに作るのだろうか。さらに空き地は多くなり、作る家は少ない。旧都は既に荒れて、新都はいまだ形をなさない。
あらゆる人がみな、覚束ない不安を感じていた。もともとこの土地に住んでいた人々は、土地を奪われ憂い嘆き、新たに移り住んだ人々は、建設の苦労を嘆く。往来をみると車に乗るべき人々が馬に乗り、衣冠の盛装を着用すべき人々は普段のひたたれを着ている。都の風俗はたちまちに変わって、ただ田舎びた武士風になってしまった。これは世の中が乱れる兆しだとものの本に書いてあるが、まさにその通りだ。
人心も治まらず、民衆の不満がいや増してきたので、同じ年の冬に、帝はまた京に帰ってこられた。しかしながら壊してしまった家などはどうなっただろうか。隅々まで元のように復元したわけではない。
かすかに伝え聞くに、昔の賢帝の時代には、慈悲の心ろをもって国を統治された。つまり宮廷に茅を葺いて、軒さえ整えなかった。都に煙りの上がり方が少ないとご覧になる時には、多くないみつぎものさえお許しになった。これは民が潤い、世の中を救済されるためであった。今の世のありさま、昔と比較し知るべきである。
飢饉
また養和のころ(1181)だったろうか、だいぶ昔になって定かには覚えていない。
二年間ほど、世の中に飢饉が続いて、表現できぬほどひどいことがあった。春夏の日照り・干ばつ、秋冬の大嵐・洪水など、悪天候が続いて、五穀がことごとく実らなかった。春に田を耕し、また夏に植え付けの作業をするが、秋に収穫し、冬に貯蔵するものがなにもない。
こんな有りさまなので諸国の民は、あるものは国を捨て、国境いを越え、あるものは自分の家を忘れ山の中に住む。さまざまの祈祷がはじめられ、とびきりの修法も行われたがその兆候も出ない。京の都の日常では田舎の産物をたのみにしているのに、それもすっかり絶えた。京に上る者もなくなり、食料が欠乏してきたので、取り澄まして生活することはできなくなってしまった。耐え切れなくなって、さまざまな財産を片っ端から捨てるように売ろうとするが、てんで興味を示す人もいない。まれに売れたとしても、金の価値は軽く、粟は重く評価される。物乞いが道ばたに多く、憂い悲しむ声は耳にあふれる。
前の年はこのようにしてようやくのことで暮れた。翌年こそは立ち直るはずと期待したのだが、あまつさえ疫病が発生し蔓延したので、事態はいっそうひどく、混乱を極めた。
世間のひとびとが日毎に飢えて困窮し、死んでいく有さまは、さながら水のひからびていく中の魚のたとえのよう。しまいには笠をかぶり足を包んで、そこそこのいで立ちをしている者が、ひたすらに家ごとに物乞いをして歩く。衰弱しきってしまった者たちは、歩いているかと思うまに、路傍に倒れ伏しているというありさま。屋敷の土塀のわきや、道ばたに飢えて死んだ者は数知れぬばかりだ。遺体を埋葬処理することもできぬまま、鼻をつく臭気はあたりに満ち、腐敗してその姿を変えていく様子は、見るに耐えないことが多い。ましてや、鴨の河原などには、打ち捨てられた遺体で馬車の行き交う道もないほどだ。
賤しいきこりや山の民も力つきて、薪にさえも乏しくなってしまったので、頼るべき人もいないものは、自分の家を打ち壊して、市に出して売るのだが、一人が持ち出して売った対価は、それでも一日の露命を保つのにも足りないということだ。
いぶかしいことには、こういった薪のなかには、丹塗りの赤色や、金や銀の箔が所々に付いているのが見られる木っ端が交じっていることだ。これを問い糺すと、困窮した者が古寺に忍び込んで仏像を盗みだし、お堂の中のものを壊しているのだった。
濁り切ったこの世界に生まれあわせ、こんな心うき目をみるはめになったことだ。
またたいそうあわれなことがあった。愛する相手をもつ男女が、その想う心が深い方が必ず先に死ぬのだ。その理由は、自分のことを後にして、男であれ女であれ、ごくまれに手に入れた食べ物を、思う相手に譲ってしまうからなのだ。従って親と子供では決まって、親が先に死ぬ。また母親が死んでしまっているのに、それとも知らないでいとけない子供が母親の乳房に吸いついているのもいる。
仁和寺に慈尊院の大蔵卿暁法印という方が、このように人々が数しれず死んで行くのを悲しんで、僧侶たちを大勢使って、死体を見る度に、その額に成仏できるようにと阿(あ)の字を書いて仏縁を結ばせることを行った。死者の数を知るために、四月と五月の二月の間その数を数えさせた。すると京のなか一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀大路よりは東の区画(都の中心部)で、路傍にあった死体の頭は、総計四万二千三百あまりあったという。ましてやその前後に死んだ者も多く、鴨川の河原や、白川あたり、西の京、その他の周辺地域を加えて言うと際限がないはずだ。いわんや全国七街道を合わせたら限りがない。最近では崇徳院のご在位の時代、長承のころにこういった例があったとは聞くが、当時の様子は私は知らない。まことに希有なことで、悲惨なことであった。
天候不良による飢饉が京の都に与えた悲惨な状況を、長明は同時代の目でビビッドに報告しています。特に、ここで注目したいのは、死者の数の統計をとって具体的に記述していること。これは二カ月間という期間を限定し、また地域を限定しており、かなりの科学性をもって信頼性は高いとも思われます。
ここで限定された地域は、北を一条通り、南を九条通り、そして東は京極通り(現在の新京極あたり)、西は朱雀通り(現在の千本通り)で囲まれた長方形の区画で、現代の京都の中心部分(ただし河原町通りは含まれない)であり、また当時としては都の範囲を示しているのではないでしょうか。そこに四万二千三百もの遺体が、転がって腐敗していくという様子は、想像を絶しています。しかも鴨河原などには、それを超えるような数が打ち捨てられていたというのです。まさに800年前の京都には地獄が存在したと言えるでしょう。
地震
また元暦二年(1185)のころ、大地震が襲った。その有り様は尋常ではなかった。山は崩れて川を埋め、海では津波が発生して陸を襲った。地面は裂け水が湧き上がり、岩は割れて谷に落ち、渚をこぐ舟は波に漂い、道を行く馬は足元が定まらない。
まして都の内外では、至るところあらゆる建物は一つとしてまともなものはない。あるものは崩れさり、あるものは倒壊する際に塵が舞い上がり煙りのようだ。地が揺れ家が壊れる音は雷のようだ。家の中に居たならたちまち押しつぶされかねない。走って飛び出せばまた地面は割れてしまう。人は羽をもたず空を飛ぶことはできない。また龍でないので雲に上るわけにもいかない。恐ろしいもののなかでとりわけ恐るべきものは地震なのだと実感したことだ。
そういった中に、ある侍の六、七才の一人息子が、築地塀の蔽いの下で小さな家を作ったりして、他愛もない遊びをしていたのだが、この地震で急に塀が崩れて埋められ、無残に押し潰され、二つの目は一寸(3cm)ばかりも飛び出してしまった。その子供の遺体を父母が抱えて、声も惜しまず嘆き悲しんでいるのは、まことに哀れであった。子供を亡くす悲しみには、勇猛な武者も恥じを忘れてしまうのだと改めて気づいた。これは気の毒だが当然のことだと思われる。
このような激しい揺れは短時間で止んだのだったが、その名残りの余震はその後絶えず続いた。普通にびっくりするほどの強い地震が、一日に二三十度は下らない日はない。十日、二十日と経過していくと、だんだん間遠になって、一日に四五度となり、二三度、あるいは一日おき、さらに二三日に一度など、おおよそ余震は、三カ月ばかり続いただろうか。
四大災害の中では、水火風は常に害をなすのだけれど、大地震は(大地に至りては殊なる変をなさず)
むかし、齋衡(854-857)のころとかに大地震があり、東大寺の大仏の頭部が落ちたりといったひどい被害があったが、それでも今回の地震ほどではなかったという。その当時は人々は互いにどうしようもないことを嘆きあって、心の憂さを晴らしているように見えたのだが、年月が経過してくると、このような災厄を日常の話題にのせる人もなくなってしまった。
とかくこの世は・・・
すべてこの世の中は、住みにくく、我が身と我が家がはかなく、かりそめの存在であることは、こういったことを見てもわかる。
ましてや、その身分や地位によって相応の悩みをもつことは、数え上げればきりがない。もし自分の地位が取り立てていうほどのものなく、権力者に仕える身分であったならば、たしかにいい目はできるかも知れないが、真に楽しむことはできない。思いきり泣きたいような時でも、声をあげて泣くことはできないかもしれない。ちょっとした行動にも遠慮をして、主人の顔色を窺わなければならないさまは、あたかもスズメがタカの巣に近づいた時のようだ。
もし自分が貧しくて、金持ちの家の隣りに住んでいたなら、朝夕みすぼらしい身なりを恥じて、へつらいながら出入りすることになる。妻や子供、それに召し使いたちが隣りをうらやんでいる様子を見るにつけ、また金持ちの家の者が横柄な態度をするのを見るにつけ、そのたびに心が動き、少しも平静でいられない。もし狭苦しい土地に居るのなら、近くの火事にも、類焼を免れない。もし片田舎に住んでいるなら、町にでるのも大変で、また盗賊が出没する心配も多い。
また成功して勢いのある者は貪欲で、頼るべき人をもたない孤独な者は他人に軽んじられる。財産を多くもてば、心配ごとが多く、貧しければ恨みごとは切実である。他人を頼りにすれば、自分の身は他人の所有物になってしまう。子供を作れば心は子供に対する愛着で振り回される。世の論理に従えば窮屈だが、従わなければ、つまはじきにされる。この世でどんな位置を占め、どんななりわいをすれば、少しの間でも、心安らかに日を送ることができるというのだろうか。
この部分は、五つの災厄を述べてきたすぐあとに続いています。
こんなに悲惨ではかなく無常な世の中に対する厭世観を述べています。この部分には、下敷きにした先行文学の影響が顕著であるといいます。
 
三陸海岸・田老町1

 

東北関東大震災
日本一の防潮堤無残 想定外の大津波に住民ぼうぜん
「日本一の防潮堤」「万里の長城」住民たちは、そう呼んで信頼を寄せていた。岩手県宮古市田老地区にあった全国最大規模の津波防潮堤。だが、東日本大震災の未曽有の大津波にはなすすべもなく、多数の死者と行方不明者が出た。「今後、どうやって津波を防いだらいいのか」。住民たちはぼうぜんとしている。
「津波は堤防の倍くらい高かった」。防潮堤の近くに住んでいた漁師小林義一さん(76)は顔をこわばらせて振り返った。11日の地震直後、いったん堤防に避難した。だが、山のような津波が海の向こうから押し寄せてくるのが見えたため、急いで丘に駆け上り、難を逃れた。自宅は押し流されて跡形もない。
小林さんは「防潮堤は安心のよりどころだった。防潮堤があるからと逃げ遅れた人も多かったのではないか。堤をもっと高くしないと、これでは暮らしていけない」。
約4400人が暮らす田老地区は「津波太郎」との異名がある。1896(明治29)年の明治三陸津波で1859人が、1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた。
防潮堤は、昭和三陸津波襲来の翌34年に整備が始まった。地元の漁師らによると、当時の田老村は、高所移転か防潮堤建設を検討。結局、海に近い所に住みたいとの村民の要望や代替地の不足から防潮堤建設を決断し、当初は村単独で整備を始めた。工事は中断を挟みながら段階的に進み、半世紀近く後の78年に完成。総工事費は80年の貨幣価値に換算して約50億円に上る。
こうして出来上がった防潮堤は、海寄りと内寄りの二重の構造。高さは約10メートル、上辺の幅約3メートル、総延長約2.4キロと、まるで城壁のようだ。岩手県によると、二重に張り巡らされた防潮堤は世界にも類はない。総延長も全国最大規模という。60年のチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たが、田老地区では死者はいなかった。日本一の防潮堤として、海外からも研究者が視察に訪れるほどだった。
しかし、今回の津波は二つの防潮堤をやすやすと乗り越えた。海寄りの防潮堤は約500メートルにわたって倒壊し、所々にコンクリートの残骸が転がっていた。隣近所の多数の知人が行方不明になったという男性(45)は「津波の前では、頼みの防潮堤がおもちゃのように見えた。こんな津波を経験して、このまま田老で暮らせるのかどうか分からない」と泣きながら話した。
今後の津波対策をどうするのか。漁師の川戸治男さん(69)は「漁師なら海の近くに住みたいと考えるだろうが、やはり高台の方に移住すべきではないか」と話す。
宮古市は津波防災都市を宣言している。地域振興課長の鳥居利夫さん(59)は「防潮堤は、これまで経験した大津波を想定して整備された。だが、今回は想定外だった。今後、どう津波対策を立てるのか。今のところ思いつかない」と肩を落とす。  
三陸海岸・田老町における「津波防災の町宣言」と大防潮堤の略史 (2003/10)
はじめに
三陸海岸・田老町(岩手県)では昭和三陸津波(1933・3・3)の70周年に当たる2003年(平成15)3月、記念の資料展や講演会(都司嘉宣「津波研究の近況」)などを催すとともに、犠牲者追悼式の後「津波防災の町宣言」を発表した。全国的には勿論、世界でも初めてのことであろう。同町では1995年(平成7)9月、本歴史地震研究会の第12回研究発表会と町民を対象にした講演ならびにパネルディスカッションが行われており、会員一同はその際、同町沿岸部を走る総延長2433mの津波防潮堤を見学している。同町が「津波防災の町宣言」をしたこの機会に、あらためてその建造についての歩みを振り返り、略史をここに紹介しておきたい。今、津波から田老町を護っているこの大防潮堤には、同町と町民による長い苦闘の歴史が刻まれているからである。
挫折した明治の津波後の防浪計画
当時は村であった田老における明治三陸津波(1896年=明治29)による被害は、岩手県の記録によると、全村345戸が残らず全滅、被害地人口2248人中、1867人、実にその83.1%が死亡したとある(山下,1982)。別に、同村の畠山長之助が残した記録によると、宇田老と字乙部を合わせて生存者わずかに36人に過ぎず、130戸が一家全滅したとある。文字通りの壊滅的な被害であり、当時の新聞(「東京日日新聞」)にも「生存せるは漁のために沖に出おりし者、牛追いて山にありし者のみ」と表現されているほど、それは惨憺たるものであった。
なお、この津波の波高は田老で14.6mとある。が、遡ること285年前の慶長の大津波(1611年=慶長16)は波高15〜20m(羽鳥,1977))で、この時も田老はほとんど全滅したとあるから、田老にとって明治の津波が史上最大のものではなく、歴史的には更に大きな津波体験があったことを示している。遠い昔のことは別としても、全村の家も人もが文字どおり烏有に帰す大被害であるから、どのような方法で、どのように村を再興するかの問題が当然のこととして浮上した。名著「津浪と村」(恒春閣,1943)で知られる山口弥一郎が、昭和の津波後に現地で聴き取り調査したところによると(同書・「山口弥一郎選集」第6巻収録,1972)、明治の津波後における田老村の再興計画は次のようなものであった。
村当局では、津波後、他村から集落移動の経験者を招くなどして永久的な「防浪工事」を計画し、山麓に約6尺(2m弱)ほどの土盛りをして、津波の危険地帯にある全集落を移動することにした。そのため村民が喉から手が出るように欲しがっていた義援金の分配を我慢してもらい、まずはその3000円を投じて第1期工事にかかった。当初は村の世論も前向きで、実際にも5〜6戸が計画に沿って高所に移転した。だが、義援金だけでは工事の完成が到底見込めない。そのうち一部の村民から、@困窮者救助のための義援金を村民に分配しないで防浪工事に当てることの是非、A些少の土盛りによって果して将来の津波被害が防げるか?等々の意見が続出し、ようやく1尺5〜6寸(50cm弱)程度の土盛りをしたところで工事は挫折を余儀なくされた。そして、折角移動した5〜6戸も盛岡から来ていた医者の家を除いて全て元屋敷に戻り、結局は全体として元の津波危険地帯に集落を再興した。
山口弥一郎は、その根本原因について、生存者はわずかに36名と云われるほどであったから、家々の再興に当たった人たちの中には、津波を実際に体験しなかった者や、余所からの移住者も少なくなく「惨害当夜の恐怖と体験は到底、見聞きしたのみでは真に味わい得るものではなかろうから、この機会を掴んで田老を復興させようとする人々の中には、利を見、先を急ぐ者も多かったのではないかとも考えられる」(「津浪と村」)と、批判的に述べている。しかし、この点では田老村のみならず唐丹村、綾里村など、三陸沿岸の村々はほんどが同様のことであって、むしろ、最も重要な問題点は、津波、特に大津波はそうたびたび襲来するものではないとの思い込みと油断にあった。たしかに過去の歴史に照らして考えると、それは一面の真実ではあるが絶対的なものではなく、短い周期で襲来することもありうることに人々は思い及ばなかったのである。
例えば地震は、忘れる間もないほど日常的である。しかし津波は一度襲来すると、その時は数分ないしは数十分等々の間隔で反復襲来するが、後は、歴史的にみてもそう頻繁には襲来していない。取り分け大津波は、概ね何百年に1度のこととされ、この前の大津波(慶長16年〔1611〕)も、前記のように285年も昔のことであった。問わず語らずのうちにこう考えるから自然と風化も早い。
津波直後は、沖から聞こえてくるちょっとした物音にもみんな戦々恐々として神経質になり、ある村で実際にあった話だが、沖を走る蒸気船の汽笛を津波の襲来と間違えて大騒ぎし、避難したりもする。だから、当初はとても流失跡の元屋敷に戻る気になれない。が、日を経るにしたがって落ちつきを取り戻すと「思えば、津波はそうたびたびは来るものではない」と振り返るようになる。別のある村では「一生に一度、来るか来ないかの津波を恐れて漁師が丘に上がってしまうとは何事ぞ!」と、大家の婆に叱られて高所移転の相談が取り止めになったとの話もある。だから田老村のように挫折に終わったとはいえ一度は高所移転に取り掛かったというのは前向きの方で、この大津波で38.2mという最高の波高を記録した綾里村などは、田老村同様、壊滅に近い被害(死亡1269人・死亡率56.4%)を受けながら、高所移転など問題にもならずに、当然のようにして流失跡にそのまま集落を再興している。こうして三陸沿岸の村々は、明治の津波で大きな被害を受けながら、全体としては元の集落に戻ってしまい、結局、無防備のまま、歴史的に見れば非常に短い、わずか37年後の1933年(昭和8)3月3日、またもや大津波に襲われ(昭和三陸津波)、惨害を繰り返すことになった。中でも田老村は、再び壊滅的な被害で「津波田老(太郎)」とさえ云われるようになる。
村の借金で始まった防潮堤の建造
1933年(昭和8)の津波による田老村の被害は、559戸中、500戸が流失・倒壊し、死亡・行方不明者数は被害地人口2773人中、911人(32%)、一家全滅が66戸と、このたびもまた死者数、死亡率ともに三陸沿岸の村々の中で、最悪の事態であった。当然、こうした全滅の歴史に終止符を打つためにも、今度こそ末永く安住できる田老村にするための津波対策を考えようとなった。
当時、政府の外郭団体であった震災予防協議会の幹事であり、かつ地震学会の会長であった今村明恒博士(元・東大地震学科主任教授)ら、学者の進言に基づいて内務省と岩手県当局が一致して勧めた復興策の基本は、集落をあげての高所移転であった。すなわち「将来津波の際に於ける人命並びに住宅の安全を期する為、今次並びに明治二十九年に於ける津波襲来の浸水線を標準として其れ以上の高所に住宅を移転せしむる」こと、その際、倒壊家屋が少なく多額の工費を要しない部落については資金を供給せず、各戸に分散移転するよう勧めるが、被害の大きい20カ町村45部落については、預金部から低利の宅地造成資金(5カ年据え置きの15年償還)を融通し、町村を事業主体として宅地を造成、集団的に高所に移転させる。ただし例えば釜石、大槌、山田などは諸般の事情(主に市街地を移転させることの困難)により高所移転が不可能であるから、原地に復旧することを認めるというものであった(「岩手県昭和震災誌」岩手県知事官房,1934)。
そして、その予算配分表を見ると、田老村は、県南の気仙町(現・陸前高田市内)とともに、防浪堤(今日で云う防潮堤=以下、防潮堤)の建造をも考慮に入れるべき町村になっているが、気仙町には初めからそれへの予算配分が示されているのに対して、田老村の場合は、内容が「未定」となっており、村からの強い要望があるから防潮堤建造も一応は考慮するが、県当局としては、あくまでも高所移転を推進すべき村と見なしていたことを示している。
しかし田老は、村とは云っても移転を要する該当戸数は500余戸にも及ぶ。その集団的な移転はただでさえ難事業であるだけでなく、田老にはその宅地造成を可能とするような適当な高台も見当たらない。居住地が海岸から遠く離れては漁業が難しいという問題もある。更に田老村の集落の大部分は、川を挟んだデルタ地帯の海抜せいぜい1m余の低地に形成されているから、明治の津波後における挫折の経験が示すように、集落の土盛りも容易の業でない。そこで当時の村長、すなわち田老町史上の名村長と回想されている関口松太郎のイニシヤチブの下で村当局が考え出した田老自らの復興案は、集団的高所移転ではなく、津波の襲撃から集落を護るための防潮堤の建造を中心に据えた総合的な計画であった。防潮堤の建造、護岸の建設、防潮林の植林、避難道路の整備、宅地の区画化と割り当て、耕地整理組合の組織とそれによる必要な敷地の整理と確保などを内容とする「田老村災害復旧工事計画」である。
村当局の防潮堤建造計画は、当初、全長1000mに及ぶ工費20数万円を要するものであった。だが「満州事変」以来、軍事予算が年々膨張している中でのことであるから、これは途方もない工事費用だというので、やはり県は認可してくれず、計画は中止ということになった。初めから国も県も、学者の意見にしたがってあくまでも集団的高所移転を推奨し、前記のように、防潮堤の建造計画には冷淡だったのである。だが、このままでは悔いを後世に残すことになりかねない。既に一部では、茫然自失して村そのものの移転を云々する者もいれば、実際にも見切りをつけて村を出て行く者もあるなど事態は暗く、深刻であった。が、圧倒的多数の村民にとって「この生誕の地、先祖の墳墓の地は去り難い」(「田老再建の祖・関口松太郎翁の遺徳をしのぶ」(実行委員会,1987)収録、鈴木喜代治「偉大な村長・関口翁」)。こうして、村そのものの存続のためにも、やむを得ない、この際は国や県をあてにせず、村独自で防潮堤を建造しようという決断になった。
その資金を一体どう工面するのか?当時は、世界大恐慌の影響による1930年(昭和5)以来の大不況に加えて、31年(昭和6)の東北・北海道の凶作、32年(昭和7)の不作とつづき、東北地方では欠食児童や娘の身売り問題が続出していた他、山形県や岩手県では、教員に対する町村役場の俸給の遅配問題が起こるなど、自治体財政は何処でも火の車の状態にあった。沿岸町村では、そのうえに押し寄せた大津波の惨禍であるから、最大の被害を受けた田老村などはなおさらのことで、国や県、更には民間からの救援金や義援金はあったものの、村財政に防潮堤を建造する資金の余裕などあるはずもない。けれども、事は急がなければ悲惨の記憶は日増しに冷めて、挫折に終わった明治の折の復興計画と同様になりかねない。その二の舞だけは絶対に繰り返すまいとして、村当局が思案をかさねた未の知恵は、大蔵省預金部から、集団的高所移転の条件で融資が内示されている宅地造成資金6万円を借入し、その中の5万円を投入して防潮堤工事に充てることであった。もともと「事業主体」は「町村」となっているし、田老では、防潮堤の建造なくして500戸もの敷地を確保する宅地の造成は不可能である。こうして粘り強く交渉を重ねた結果、国や県も、村の存続に関わると云うのであれば止むを得ないということになった。
事情を反映して、計画は、当初の全長1000mから500mへと縮小されたが、曲折を経てどうにか工事が始まった。第1期工事は、1934年(昭和9)3月、後に云うところの昭和東北大凶作の年であった。ところで、借金による村費を投じて始まった田老村の防潮堤工事は、村の熱意に負かされた形で、2年目からは、全面的に国と県が工費を負担する公共事業になる。
如何なる事情からこのように急転したのか?経過の詳細を示す公文書は見当たらないが、前掲の冊子「田老再建の祖・関口松太郎翁の遺徳をしのぶ」に収録されている、元県議会議員・山本徳太郎の「気骨と精鋭の偉人」によると、岩手県知事(石黒英彦)が「関口(当時の田老村長)には負けた」ということで「県の工事になった」ものとされている。2度にわたる恐怖の津波体験に基づく田老村民の強い防災意識が、知事と県当局の理解を生み、動かしたものと見るべきであろう。
村独自の決断と借金で始まった田老の防潮堤工事は、こうして2年目からは国や県による工事費の全面的な助けを得て順調に進むかと思われたが、日中戦争の戦況悪化に伴って、資金の他、セメントなどの建設資材が枯渇して工事の続行が不可能に陥ってしまう。そのため1940年(昭和15)の12月、曲がりなりにも960mにまで工事が伸びたところで中断し、打ち切られてしまった。
戦争による中断の後、14年ぶりに工事再開
太平洋戦争と直後の混乱期を挟んだ10余年後の1952年(昭和27)3月、小規模ながら十勝沖地震による津波が襲来したのを機に、田老では戦争のために中断していた防潮堤工事再開の機運が盛り上がった。村はこの間1944年(昭和19)3月の町制施行により田老町となっていた。今回の津波は小さくてさしたる被害には至らなかった。しかし、町民にとっては、明治29年や昭和8年の恐怖の大津波を想起させることになった。戦中、戦後の災禍と激動のなかで、ともすれば忘れがちになっていたが、あの恐ろしい津波はまた必ず来るだろう。防潮堤を完成して備えを充分にしておかなければならない。こうして町をあげて関係官庁への陳情を繰り返した結果、1954年(昭和29)、14年ぶりに工事が再開される運びになった。第2期工事である。そして4年後の1958年(昭和33)には工事が終了し、全長1350m、上幅3m、根幅最大25m、地上よりの高さ7.7m、海面よりの高さ10mという世界に類のない大津波防潮堤が完成するに至った。田老町民の長年の夢が、24年の歳月を経てようやく実現した訳である。
1960年(昭和35)に襲来したチリ津波の際にも、田老町では幸い被害はなかったが、これを機会に津波防潮堤への関心が全国的に高まり、チリ大学教授の一行が見学に訪れるなどもあって、田老町の津波防潮堤は、国内のみならず、世界の津波研究者の間でも注目される存在になった。その中で田老町では、戦前からの第1期工事、戦後における第2期工事につづいて防潮堤の増築工事が2度にわたって行われ、1961年(昭和36)から始まったチリ津波対策・海岸保全・高潮対策関連事業によって582mが、更に、三陸高潮対策として501mが、いずれも国(農林省・建設省)の事業として実施され、1966年(昭和41)にその全体が完成を見るに至った。その結果、総延長2433mにまで伸びた巨大な防潮堤が、城壁のような形で田老の集落を包み込み、今では「万里の長城」などとも呼ばれている。
なお、昭和の津波の後、和歌山県広村にある防潮林の教訓に学び、林学の本田静六博士らの指導の下で、村の青年たちが7町歩の面積に植え付けた黒松もすくすくと成長し、今では見事な防潮林になって津波対策の一翼を担うたのもしい存在になっている。田老町ではこの他にも、防潮堤、防波堤、護岸などの補修や強化工事、避難道路の整備、遠隔操作による田代川水門の完成、防災無線の完備、防潮林の松くい虫対策、東京大学地震研究所都司研究室の協力による津波潮位監視システムの試験的導入、避難訓練の重視等々、総合的な津波対策が、その後も、ほとんど毎年、間断なく進められている。
田老の防潮堤と津波防災史上の意義
顧みると、結果として挫折を余儀なくはされたが、明治の津波後、義援金を投入して土盛りを行い、一度は高所移転を成し遂げようとした前史に加え、昭和の津波の後、村独自の決断と借金による自前で建造に踏み切ったことでも分かるように、今日ある田老町のあの壮大な防潮堤は、津波から人々の命と財産を護るためのいわば要塞として、町を挙げての苦闘の末に結実したものであった。
津波防潮堤の元祖として名高い和歌山県広川町(元・広村)にある防波堤(防潮堤=高さ4.5m、全長650m)は、戦前、小学校の教科書(5年生)に掲載されていた津波防災教育の名作「稲むらの火」にも、庄屋の「五兵衛」として登場する濱口儀兵衛が、村人たちを津波から護ろうとのヒューマンな発想から、私財を投じ、4年もの歳月をかけて建造したものであった。紀州・和歌山藩時代のその昔のことである。津波防災の歴史的な偉業として後世に伝えなければならないが、田老町の防潮堤も、それとはまた別の意味で津波防災史上の記念碑的な大事業であった。村指導者に有能な人物を得たこともさることながら「私たちの町は私たちで護る」という町と住民自らの高い防災意識が原点、源泉となって着工、完成したという点である。その後1960年代以降、上からの半ば「お仕着せ」的な事業として各地で始まった防潮堤工事などとは、この点まことに対照的であった。
更に付け加えると、防潮堤や防潮林、はたまた避難道路を整備するには、そのための膨大な公用地が必要であり、私有地が入り組んだままでは不可能であった。それが出来たのも、土地を所有する人たちが耕地整理組合に残らず結集し、それぞれが利害を超えて私有地から2割ずつの土地を提供したからで、これもまた「私たちの町は私たちで護る」という防災意識と「津波対策」としての理解がなければ不可能な事であった。
「私たちは、津波災害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、津波災害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、文明とともに移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます」という今回の「津波防災の町宣言」にある言葉が、付け焼き刃的ではない重みを感じさせるのも、こうした歴史的な背景によるものであろう。
ハードとソフトの両面にわたる津波対策
田老町における津波対策の特徴の一つは、これらの対策と平行して、昭和の津波以降、住民に対する、子どもの時分からの防災教育と津波知識の普及を重視し、特に、体験と教訓の正しい語り継ぎのために格段の努力をはらって来たことである。防潮堤はたのもしいが、津波の時、最後に決定的なのは、それぞれの機敏な身の処し方と対応である。明治の津波の体験が、実際に体験した生存者が少なかったこともあって、十分には語り継がれていなかったり、一部俗説まじりで語り継がれていたために、昭和の津波の際に避難が遅れ、あるいは不手際を生じて被害を大きくしたという苦い教訓による。
ここでは二つの事例を紹介しておく。昭和の津波後「津波誌」を刊行したり、町村誌にその状況や教訓を書き込んだりした例は他の町村にも見られるが、一般に難解なものが多く、とても住民には理解しがたいものが少なくなかった。最近、沿岸部の自治体が発行している「津波誌」なども同様で、誰に読んでもらおうとしているのか?依然として難しいものが少なくない。しかし、昭和の津波の一周年に際して当時の田老小学校が編集・発行した「田老村津浪誌」は、住民に対する防災教育の観点と平易な叙述を重視する名著であった。すなわち、津波の歴史と発生の原理などの他、「津波に対する心得」のために特別の章を設けて諄々と説き聞かせるようにつづられており、@地震の心得、A津波の心得、B津波の防止方法、C避難上の注意などでは測候所や県からのアドバイスなども活かされている。小学生などによる体験記の数々も貴重なもので、当時の情況と教訓を後世に伝えるものとなっており、今日でも様々な出版物に再録されている。
津波体験者の一人(田畑ヨシさん)による、体験を子どもたちに語り聞かせるための紙芝居の制作と小・中学校などでの公演は、津波防災に対する住民の熱意とアイデアを示すものとしてたびたび新聞やテレビで取り上げられている。実際にも田老町の若者たちは、子ども時分にほとんどがこの田畑のおばちゃんによる津波の紙芝居を見て育っており、津波体験の風化を防ぐうえで他に得難い貴重な役割を担っている。
むすび
以上、田老町における津波防潮堤建造の歩みと津波対策について概略を述べたが、この防潮堤と田老町の津波対策に、解決を迫られている問題がない訳ではない。しかし、自戒の念を込めた今回の「津波防災の町」宣言にあるように、苦難の歴史に学んで努力すれば、それらも必ずや前向きに解決されるだろうことを筆者は確信している。
津波防災の町宣言
田老町は、明治29年、昭和8年など幾多の大津波により壊滅的な被害を受け、多くの尊い生命と財産を失ってきました。しかし、ここに住む先人の不屈の精神と大きな郷土愛でこれを乗り越え、今日の礎となる奇跡に近い復興を成し遂げました。
生まれ変わった田老は、昭和19年、津波復興記念として村から町へと移行、現在まで津波避難訓練を続け、また、世界に類をみない津波防潮堤を築き、さらには最新の防災情報施設を整備するに至りました。
私たちは、津波災害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、津波災害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、文明とともに移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます。
御霊の鎮魂を祈り、災禍を繰り返さないと誓い、必ずや襲うであろう津波に町民一丸となって挑戦する勇気の発信地となるためにも、昭和三陸大津波から70年の今日、ここに「津波防災の町」を宣言します。
平成15年3月3日 田 老 町
三陸海岸・田老町2
田老町 / 被害の記録と防潮堤
リアス式海岸の特長は、複雑な海岸線です。岩手県から宮城県にかけて南北180Kmにわたって広り、小さな半島と入り江が入り組んで複雑な形状をしています。起伏の多い陸地に地殻運動や海水面の変化などのために海水が浸入してでたものであり、谷が入り江となり、山は半島となりました。
リアス式海岸は、天然の良港としても有名です。天然の良港としてだけではなく、三陸海岸の沖合いは、寒流である親潮と暖流である黒潮がぶつかり、魚が豊富に集まることから、よい漁場として知られています。
ところが・・・津波になると話は違ってきます。普通津波は入り江に入ってきたり水深の浅いところに来たりすると波高が非常に大きくなるのです。地震が海底の底の浅い所で発生し、その地盤の上下変動が海底にまで伝わると、海底が瞬間的に持ち上がったり、へこんだりします。これにともない、海水が持ち上げられたり、引きこまれたりして波が立ちます。この波が津波です。津波は四方八方に広がり、はるか遠くまで伝わることがあります。例えば、南アメリカのチリ沖で起きた地震で発生した津波が、太平洋を渡って日本の海岸にまでやって来ることもあります。
津波の進む速さはとても速く、しかも海の深さが深いほど速くなります。例えば5000mの深さの海の上では、時速720km(秒速200m)という速さで進み(これはほとんど飛行機並です)、陸に近づいても新幹線ほどの速さをたもっています。そのため、太平洋のはるかかなたで発生した地震でも、一日かけずに日本にやって来るわけです(昭和35年、南米のチリ沖で起きた地震によって発生した津波が東北の三陸海岸に押しよせ、大きな被害をもたらしました)。
津波とは呼ばれるが、一般的な感覚では「波」より、むしろ異常な潮の満ち引きで、海岸地域では海面の上昇、下降が数回から10回程度起こるのが普通です。海面の上昇が起きてから次の上昇が起こるまでの時間(周期)は、通常10分から20分くらいでしょう。津波が引くときには、あらゆるものを根こそぎにするほどで、家屋の倒壊などの被害は引きの時が多いようです。繰り返し高下するうちで、2、3回目の時に、最大の上げ、下げとなる場合が多いのです。ですから、最初の上下で事態を甘くみると、とりかえしのつかないことになりかねないというわけです。
チリ地震
昭和35年5月23日午前4時11分(日本時間)、南米チリ南部沿岸で起きたM8.5という20世紀最大の巨大地震は(11/25/1999現在)、チリ沿岸で10〜20mの大津波を発生させました。この津波は環太平洋全域に波及し、中でもハワイと日本沿岸に大きな被害をもたらしたのです。津波は一昼夜をかけて翌24日に震源から約1万7000キロ離れた日本に到着し北海道から沖縄に至りました。太平洋沿岸で4m前後の波高になり、高いところでは6mに達し、日本海側でも観測されたのです。
ひとつの津波で日本全域にわたる影響を及ぼしたものは、日本近海で起きた津波にはこのほかにありません。これによって日本国内では北海道南岸、三陸沿岸、志摩半島沿岸を中心に、死者122人行方不明者17人、負傷者872人の被害を出し、また家屋被害は全壊6943棟、半壊2,136棟におよんだのです。特に岩手県大船渡市(死者50人)、宮城県志津川町(同37人)北海道浜中村(同11人)と被害が大きかったのです。
津波は英語でもTUNAMIで通じます
三陸南部沿岸はリアス式海岸で大小の湾が入り組み集落が湾奥の平地に発達してきたところで、非常に多くの大きな津波に襲われ、被害を受けてきたのです。田老町では明治29年6月15日(最大波高15m/死者・不明者859人)と昭和8年3月3日(最大波高10m/死者・不明者911人)の大津波の被害は特に大きく、昭和8年の三陸津波では惨状が世界に伝えられ「津波」は【Tunami】という国際用語となったのです。
特に田老湾は入口部分の水深が深く、周囲が絶壁であるため津波が起こった場合、湾口で回し波の現象が起こって岬の内側に大きな被害をもたらす事が多かったのです。
三王閣の崖下にこの2度の津波の高さを印した岩があり、規模・被害の様子を記す資料がその場所に建てられています。
しかし、その二つの津波の被害を受けた田老町ではこれを教訓とし、町全体を包むかたちで防潮堤を築き、津波対策に万全を期していたため、チリ地震津波では被害がまったくなかったのです。
防潮堤
1933年の津波により壊滅的な打撃を受けた町民は、防潮堤の建設にのり出したのです。その計画はまず村費だけで着工し、戦争で一時中断しましたが、1954年関係官庁に陳情してついに町民の願いはかなえられ、工事が再開、1958年延長1350m、海面からの高さ10mという他に類を見ない防潮堤が完成したのです。その後、第2・3期工事が行われ、現在総延長2433mに達しこの防潮堤は町を2重に守っているのです。
 
地震の日本史

 

地震考古学とは
地震学と考古学。一見、何の関係もなさそうな研究分野ですが、これを結びつけて誕生したのが「地震考古学」です。
私たちの住む日本列島では、いろんな場所で考古学の遺跡発掘調査が行われています。住居跡などの遺構や、茶碗・皿などの遺物が掘り出されており、現地見学会には多くの人たちが訪れて、歴史のロマンを満喫しています。
1986年の春、私は、琵琶湖の北西岸にある滋賀県高島市で行われていた遺跡発掘調査の現場で、偶然、大地震の証拠に出会いました。それは、地下に堆積した砂が、上を覆う地層を引き裂いて地面に流れ出した「噴砂」の痕跡でした。この遺跡は縄文時代から弥生時代にかけての集団墓地なので、噴砂に引き裂かれた墓と、噴砂が流れ出した後に置かれた墓の年代を比べることで、地震が起きた年代がわかりました。縄文時代の出来事ですから、もちろん、この地震に関する文字記録はありません。考古学の世界から、過去の地震を探ることに魅力を感じた私は、各地の遺跡で地震の痕跡を調べる研究を始めました。そして、1988年5月には「地震考古学」という名前を付けました。
遺跡の調査で最も多く見つかるのは「液状化現象」の痕跡です。この現象は1964年の新潟地震で鉄筋のビルが大きく傾いたことで注目を集めましたが、1978年の宮城県沖地震などでも大きな被害を与えています。そして、液状化現象が発生した時に、地下水と一緒に地面に流れ出す砂を噴砂といいます。地下に堆積した柔らかい砂の層では、砂粒の間に隙間があり、人が立っておれないくらい強く揺れると、隙間を小さくするように砂粒が動きます。この時に砂層が縮んで、隙間を満たしていた地下水が圧縮されます。水圧の高まった地下水は、天然の水鉄砲となって、上を覆う地層を引き裂きながら、砂を含んだまま地面に流れ出すのです(図参照)。
遺跡で噴砂などの地震痕跡が見つかると、年代のわかる遺構や遺物を基準にして地震の時期を絞り込むことができます。図では、噴砂に引き裂かれた地層の上部に「7世紀」、噴砂を覆う地層の下部に「8世紀」と書いています。仮に、このように、地層の年代がわかると、7世紀から8世紀にかけての年代に生じた大地震となります。
6月14日の岩手・宮城内陸地震では、多くの人たちが被害に遭われて、尊い命が失われました。地震から逃れられない宿命にある私たちの国土において、次週からは、「文字記録」と「地震痕跡」をもとにして、これまでに発生した様々な地震を振り返ってみます。 
縄文・弥生時代の地震
琵琶湖は、日本で最も大きな湖ですが、楽器の琵琶に似た形をしていると言われています。湖の西岸に沿って琵琶湖西岸断層帯という活断層のグループがあり、背後に比良山地がそびえています。少し西に花折断層があり、湖の北部には柳ヶ瀬断層・敦賀断層などの活断層が分布しています(図参照)。
琵琶湖西岸断層帯は、山地側が隆起して湖側が沈降する活動を繰り返しています。断層が活動して大地震を引き起こすと、琵琶湖が沈んで湖水が増えます。その後、河川が運ぶ堆積物で埋めきらないうちに、再び断層が活動して沈降します。このように、琵琶湖は地震が造り出した永遠の水瓶なのです。
湖の周辺には地盤の軟らかい低地が広がっており、遺跡の発掘調査をすると、よく地震の痕跡が見つかります。高島市新旭町の湖岸から約250m沖で、滋賀県文化財保護協会が湖底遺跡(針江浜遺跡)の発掘調査を行いました。湖底を1mほど掘り下げると、弥生時代中頃の人たちが暮らしていた地面が見つかり、地下からは噴砂が流れ出していました。琵琶湖の周辺の遺跡では、弥生時代中頃の噴砂跡がたくさん見つかっており、この時の断層活動で大地震が発生して、湖岸が水没したようです。
縄文時代や弥生時代の地震痕跡は、全国各地で発見されています。宮城県でも、仙台市教育委員会が調査した太白区の北目城跡や王ノ壇遺跡で液状化現象の痕跡が顔を出しており、仙台平野が激しく揺れたことがわかります。北目城跡では、最大幅が20cmを越える割れ目(砂脈)から噴砂が流れ出した痕跡が見つかり、地震の年代は縄文時代の終わり頃と推定されています。
当時の人々が、地震に対してどのような思いを抱いたかを考えるヒントも得られています。神奈川県大井町の遺跡では、縄文時代前期の人たちが、幅が1m前後の地割れに、浅鉢型土器を2枚重ねで置いていました。香川県高松市の松林遺跡では、地震で流れ出した砂(噴砂)や小石(噴礫)の上に、弥生時代中頃の人たちが壺と甕(かめ)を置いていました。福井市内では、弥生時代後期の人たちが大きな石を運んで、噴砂・噴礫の上に垂直に立てていました。地震の理由がわからないままに、土器で封じ込めたり、大きな石で威圧して、「二度と来ないで!」と願ったようです。 
「日本書紀」の地震
我が国で最初の本格的な歴史書である「日本書紀」は、西暦720年に完成しました。この中に「地震」という言葉が出てきますが、679年(天武天皇7年12月)に九州北部で発生した地震については、被害などが具体的に記述されています。それによると、地面が引き裂かれて、その広さが二丈(約6m)、長さが三千余丈(約10km)にも達し、どの村でも多くの民家が倒れました。丘の上にあった家が、周りの地面と一緒に滑り落ち、夜が明けてから、家の人がこれを知って驚いたとも書かれています。
福岡県久留米市の東には耳納(みのう)山地がそびえ、その北縁に沿って水縄断層帯が発達しています。この断層帯の活動で上昇した南側が山地となり、低下した北側に筑後平野が広がりました。久留米市教育委員会による発掘調査で、筑後国府跡などの遺跡から地震の痕跡が多く見つかりましたが、679年を含む7世紀後半頃の年代でした。さらに、断層帯が通過する山川前田遺跡では、断層活動による地層の食い違い(変位)が見つかりました。つまり、水縄断層帯が679年に活動して大地震を引き起こし、これが「日本書紀」に記録され、地下には地震の爪痕が刻まれたのです。
684年(天武天皇13年10月14日)については、“夜の10時頃に大地震があり、国中の男も女も叫び合って逃げまどった。山は崩れ、河はあふれ、諸国の郡の官舎や民家・倉庫・寺社が壊れ、多くの人や家畜が死傷した”と、「日本書紀」に書かれています。さらに、“伊予の道後温泉の湯が出なくなった。土佐国(高知県)では田畑五十余万頃(約一千町歩)が没して海となった。波が押し寄せて、調(税)を運ぶ舟がたくさん流失した”とあります。日本列島の駿河湾から四国沖にかけての太平洋海底には、南海トラフという細長い凹地があり、海のプレート(フィリピン海プレート)が、陸のプレートの下に潜り込んでいます。プレートの境界からM8クラスの巨大地震が発生しますが、トラフの西半分から生じるのが南海地震です。
南海地震によって近畿〜四国を中心にした広い地域が揺れ、道後温泉の湯が止まり、高知平野が沈んで室戸半島などが隆起し、太平洋沿岸に津波が押し寄せることが知られています。ですから、「日本書紀」の記述によって、684年にも南海地震が発生したことがわかります。 
記録にない巨大地震
「日本書紀」に書かれた684年の地震は「白鳳南海地震」と呼ばれています。和歌山市で紀ノ川沿いの低地にある川辺(かわなべ)遺跡では、この地震に対応する7世紀後半頃の液状化跡が見つかりました。また、同じ頃、奈良県明日香村の酒船石(さかふねいし)遺跡では、斉明天皇が築いた石垣が地割れを伴いながら崩れ落ちていました。
一方、静岡県の浜名湖から20数km東にある袋井市の坂尻遺跡では、7世紀中頃の住居跡が砂脈に引き裂かれていました。8世紀初めになると、砂脈の上に新しい建物群(郡衙(ぐんが))が建築されるので、684年頃に東海地域も激しく揺れたことがわかります。同じ頃の液状化跡が、濃尾平野の田所遺跡や、駿河湾に面する静岡市内の川合遺跡で見つかりました。これらの地震痕跡から考えて、白鳳南海地震と同じ頃に東海地震も発生したと思います。
南海トラフから発生する巨大地震の年表を示しました(図参照)。南海トラフを西からA〜Eと5区分していますが、A・Bから南海地震、C〜Eから東海地震が発生します。C・Dから東南海地震、Eから東海地震という区分もよく使われるので、下側に示しています。西暦で示したのは文字記録からわかる発生の年です。は遺跡で見つかった地震痕跡です。684年について5つの遺跡を紹介しましたが、図上の地図では遺跡の位置、図下の年表では地震痕跡の年代をで示しています。
明応7年(1498)に明応東海地震が発生したことが記録されていますが、この頃の南海地震を示す史料は見つかっていません。しかし、四国の高知県四万十市や徳島県板野町の遺跡で15世紀末頃の液状化現象の痕跡が発見されました。この頃に四国が激しく揺れたことを示しており、1498年頃にも両方の巨大地震が発生したと思います。また、南海地震は1099年と1361年に記録されており、262年の間隔になりますが、和歌山県那智勝浦町や堺市の遺跡では、1200年前後の液状化跡が見つかっています。
このように、文字記録の他に、遺跡で見つかった地震痕跡を加えると、南海トラフからの巨大地震が、かなり一定した間隔で、ほぼ同時、あるいは連続して発生しているように思います。 
消えた城
羽柴秀吉によって、天下がほぼ統一された頃の1586年1月18日(天正13年11月29日)、中部地域から近畿東部までの広い地域が激しく揺れました。岐阜県の南東端から北西に向かって真っ直ぐにのびる阿寺断層帯と、その延長で石川県に達する庄川断層帯が活動しました。それだけではありません。養老山地の東縁から伊勢湾西岸にかけて南北に連なる養老―桑名―四日市断層帯。これらの断層帯が活動して、M8近い、内陸地震としては最大級の地震を引き起こしたと考えられています。天正年間の出来事なので、天正地震と呼ばれています。
奥飛騨の白川郷は「合掌(がっしょう)造り」で知られる世界遺産の地です。山間を流れる庄川のほとりに、帰雲城(かえりぐもじょう)と呼ばれる戦国時代の城がありました。城主の内ヶ嶋氏理(うじまさ)は、越中(富山県)の佐々成政とは盟友として助け合う間柄でした。しかし、成政が秀吉に反抗し、やがて、あえなく降伏したため、氏理は孤立し、秀吉側の金森長近が内ヶ嶋の領内に攻め込みました。勝ち目がないと悟った彼は降伏しましたが、2ヶ月余り後に許されて、やっとの思いで城へ帰りました。
領主の無事な姿を見た帰雲城の城下は喜びにあふれ、1月19日に祝賀会が開かれることになりました。猿楽(さるがく)の芸人も到着して宴の準備が整った前日の夜、午後10時過ぎに天正地震が発生したのです。大地が激しく揺れ、城の東にそびえる帰雲山の中腹が大きく崩れました。滑り落ちた岩と土の塊は、一気に流れ下って、帰雲城、そして300軒余の家々が並ぶ城下町を呑み込みました。城主も領民も、皆、様々な思いを抱きながら、瞬時に、地上から姿を消したのです。
この地から60kmほど北で、砺波平野西部の沖積低地に築かれた木舟城(きぶねじょう)。この城は激しい揺れで倒壊し、城主の前田秀継夫妻が圧死しました。城下の家々も大きな被害を受け、近隣の今石動(いまいするぎ)や高岡へ引っ越したので、数年後には、誰もいない廃墟となりました。最近、富山県文化振興財団の発掘調査によって、かつての木舟城の城下町の痕跡が姿を現しましたが、住居などの遺構は液状化による砂脈に引き裂かれていました。福岡町教育委員会が発掘した木舟城の推定地では、地滑りの痕跡が見つかっています。 
秀吉と地震
天正地震の時、羽柴秀吉は琵琶湖の南西岸で、現在の滋賀県大津市にあった坂本城にいました。イエズス会宣教師の記録によると、地震の強い揺れに肝をつぶした彼は一目散に大坂城へ逃げ帰ったそうです。しばらくして、秀吉は京都の伏見に城を築きはじめました。文禄元年(1592)末に九州の名護屋にいた彼が、普請を担当した前田玄以(げんい)に出した手紙の中で「ふしみのふしんなまつ(鯰)大事にて候」と書いてあります。伏見城の普請では地震に備えることが大切だという意味です。日本人は地震と鯰を結びつけるユニークな文化を持っていますが、実は、この手紙が地震を鯰と表現した最古の史料なのです。
秀吉の不安は的中しました。1596年9月5日(文禄5・慶長元年閏7月13日)、真夜中の子刻(午前零時頃)に、暗やみの中で大地が激しく揺れました。伏見城の天守閣はもろくも崩れ落ち、城内では多くの人が圧死しました。この時、伏見城下の自宅で謹慎していた加藤清正が城へ駆け付けて、喜んだ秀吉が後に処分を解いたという逸話が、歌舞伎の「地震加藤」などで広く知られるようになりました。
京都では東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺などの有名な寺院が倒壊しましたが、激しい被害は京阪神・淡路島の広い地域に及んでいます。大坂や堺では低地に並んだ家々が倒壊して、多くの人が命を失いました。兵庫(現在の神戸)でも、町並みが倒れた直後に火事が発生して燃えてしまったことが記録されています。
これらの地域で行われた考古学の遺跡発掘調査でも、伏見地震の痕跡が顔を出しています。京都盆地の南部で、この当時に存在していた巨椋池(おぐらいけ)の周辺では、八幡(やわた)市の木津川河床遺跡・内里八丁遺跡などで顕著な液状化跡が見つかりました。この他、神戸市の住吉宮町遺跡では、当時の地面から約1.5mの深さを境にして、上側の地盤が横に2m近く滑り動いて、井戸の上半分が折れ曲がった痕跡が見つかっています。神戸市の玉津田中遺跡や尼崎市の田能高田遺跡などでは、小石を多く含んだ地層(砂礫(されき)層)で液状化現象が発生していました。
地質調査所(現・産業技術総合研究所地質調査総合センター)による、大阪平野北縁の有馬―高槻断層帯や淡路島の東浦断層・野田尾断層・先山(せんざん)断層の活断層発掘(トレンチ)調査などから、これらの活断層の活動によって伏見地震が発生したことがわかりました。 
会津が揺れた
蒲生氏郷は40歳で急死し、当時13歳の鶴千代(秀行)が後を継ぎました。会津から宇都宮へ移された秀行は、関ヶ原の戦の後に返り咲き、会津60万石の領主となりました。1611年9月27日(慶長16年8月21日)に会津盆地を激しい地震が襲いました。若松城の天守閣は傾き、石垣・塀・櫓(やぐら)のほとんどが崩れ落ちました。喜多方(きたかた)市の新宮熊野神社にある180畳の巨大な拝殿である長床(ながとこ)も倒れ、会津坂下(あいずばんげ)町の立木観音堂や心清水八幡神社、柳津町の円蔵寺などの建物も倒壊しました。
この地震によって、会津盆地の西側にある飯谷山が崩れ、大杉山村の家屋が埋まって93名が圧死しました。地滑りで生じた円弧状の崖地形が、長さ約1kmにわたって残されています。盆地の北端にある大平(おおだいら)では、濁川の上流が地滑りでせき止められて、大平沼が生まれました。この地震は、南北にのびる会津盆地西縁断層帯から発生したと考えられます。熊野神社の「新宮雑葉記(ざつようき)」や会津藩の歴史書「家世(かせい)実紀」には、活断層が通過する位置にある喜多方市慶徳町山崎(やまざき)で、大川・日橋川(にっぱしがわ)の川底が持ち上がって川をせき止め、山崎新湖が生まれたと書かれています。水没した集落の移転記録から湖の範囲を復元すると、幅2〜2.5kmで長さ約4kmになります。
会津坂下町教育委員会による大豆田(だいずだ)遺跡の発掘調査で、この地震の激しい揺れによる地割れの痕跡が見つかりました。また、古墳時代はじめの前方後円墳として知られる杵ガ森(きねがもり)古墳では、墳丘を囲む掘と、その堤が地滑りによって数10cm食い違っていました。
地震のすぐ後に、イスパニア使節のビスカイノが会津を訪れました。秀行が地震の起きる理由を尋ねると、“天に在る神が、空気によって地を振動させ、王(秀行)や地上の住民に造物主を思い出させ、悪行をした者を改悛させるため”と答えました。翌年、秀行は衰弱してこの世を去りました。秀行と会った後、ビスカイノは仙台で伊達政宗と面会しました。その後、太平洋沿岸を北上して越喜来(おきらい:大船渡市)沖に達した12月2日に、地震が発生して津波が押し寄せました。この時、彼の舟に続いていた伊達藩の舟2艘が波に飲まれ、沿岸では多くの人たちが犠牲になりました。
その後、1616年9月9日と1646年6月9日の地震によって宮城県が強く揺れ、仙台城の石垣が崩れるなどの被害が生じました。 
湖底の街道
1611年の会津地震によって、大川(日橋川)が塞き止められて山崎新湖が生まれました。当時は、会津若松から阿賀(野)川に沿って新潟に向かう越後街道が、佐渡の金や米・塩を運ぶ重要なルートでした。ところが、会津盆地の東河原から上宇内にいたる約3kmの区間で、街道が湖水に覆われたのです。仕方なく、街道を4kmほど南に移転させることになりました(図参照)。街道沿いに集落が生まれましたが、用水路を中心とした整然とした町割りが実施された会津坂下(ばんげ)は新しい越後街道を代表する宿場町になりました。
72年後の1683年10月20日(天和3年9月1日)には、栃木県で日光地震が発生して、日光東照宮・大猷院(だいゆういん)・霊廟・奥院などが被害を受けました。この時、日光から北北東に20kmの位置にある戸板山(現在の葛老(かつろう)山)の一部が、大音響と共に崩れ落ちたのです。大量の岩塊は男鹿(おじか)川と湯西(ゆにし)川の合流地点を埋め、出口を失った水が膨れあがって巨大な湖になりました。今度は、会津若松から江戸に向かう会津西街道の一部が水没し、街道の要所にあった五十里(いかり)宿も湖底に沈みました。五十里湖と呼ばれる湖の出現によって、当時の交通体系は大混乱に陥りました。このため、大急ぎで塩原街道などの脇街道が整備され、応急対策として湖上輸送も始まりました。
地震の直後から、せき止めた岩塊を掘り抜く作業が行われましたが、効果は無く、最後に会津藩士が責任を取って切腹したと伝えられています。この直後の1723年9月9日、4日間降り続いた大雨によって水位が上がり、突如として湖の出口が崩れ落ちました。40年間も人々を悩ませ続けた湖水は、怒濤のごとくに流れ下って、鬼怒川周辺の村々を押し流したのです。この五十里大洪水によって千数百人が命を失いました。
日光地震の原因として、栃木・福島県境の那須岳から始まって南へ30数kmの長さをもつ関谷断層が考えられます。産業技術総合研究所活断層研究センターによる関谷断層のトレンチ調査では、低い角度で乗り上げた逆断層が見つかり、14世紀以降に活動を行ったことが確認されました。 
綱吉の時代と地震
「生類憐れみの令」で知られる江戸幕府の第5代将軍徳川綱吉ですが、彼の時代に巨大な鯰が大暴れしました。1703年12月31日(元禄16年11月23日)午前2時頃には、相模トラフのプレート境界から元禄関東地震が発生して、関東地方南部の広い範囲が激しく揺れました。被害が著しかったのは相模湾沿岸地域で、房総半島の南端は4〜5mも隆起しました。東京都港区の汐留(しおどめ)遺跡などでは、この地震によると考えられる液状化現象の痕跡が見つかっています。
4年後の1707年10月28日(宝永4年10月4日)午後2時頃には南海トラフのほぼ全域から特大の地震が発生して、太平洋沿岸の広い範囲に大津波が押し寄せました。この時、東海(東南海)地震と南海地震が同時に発生したのです。さらに、地震から49日後には、富士山の宝永火口から噴煙が立ち昇りました。
元禄文化が花開いた1689年春に、松尾芭蕉は、みちのくに向かって「奥の細道」の旅に出ました。松島を絶賛した彼は、東北地方を横断して、夏の盛りには秋田県南西端の象潟(現・にかほ市)に至りました。鳥海山の麓に展開する美しい潟湖。この八十八潟・九十九(くじゅうく)島を堪能して「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」という句を詠みました。西施は、中国の春秋時代、越国の美しい女性です。
1731年10月7日(享保16年9月7日)には、福島県北部から宮城県にかけて強い地震が起こり、桑折(こおり:福島県桑折町)では300余の家が倒れ、多くの橋が崩れました。1766年3月8日(明和3年1月28日)には、弘前市から津軽半島一帯が激しく揺れました。この時、5千数百の家が倒れ、千余人が圧死して300余人が焼死したと記録されています。
1804年7月10日(文化元年6月4日)夜の10時頃、現・にかほ市の「金浦年代記」には“ふと大地が持ち上がったと感じた直後に激しく揺れ、まるで夢の中にいるようだった。外へ逃げ出そうと思っても一歩も歩けず、多くは潰れた家の下敷きになった”と書かれています。そして、夜が明けた時、人々の眼前には信じられない情景が展開しました。芭蕉も訪れた象潟の島々が干上がって、陸地に点在する丘の群れとなっていたのです 。
断層活動によって隆起した象潟周辺の海岸。偶然、通りがかった相撲の雷電(らいでん)為右衛門も、首のあたりまで海水につかっていた景勝の地が、瞬時に姿を変えたことに息をのみました。 
激動の幕末
1853年の夏、ペリー艦隊の黒船が浦賀沖に来航して、江戸の町は大騒ぎになりました。翌年の7月9日(嘉永7年6月15日)には、伊賀上野(現・三重県伊賀市)で大地震が発生して、周辺の奈良・四日市なども大きな被害を受けました。伊賀上野盆地北縁に位置する木津川断層帯が活動したのです。
もう一つの黒船。それは、ロシアから来たプチャーチン提督の乗船(ディアナ号)でした。安治川河口に姿を現して、大坂版の黒船騒ぎを起こした後、伊豆半島南東部の下田に向かい、幕府から派遣された川路聖謨(としあきら)たちと開国交渉を始めました。
交渉が始まった翌日の1854年12月23日(嘉永7・安政元年11月4日)午前9時過ぎ、南海トラフの東半分から安政東海地震が発生しました。千軒以上の家々が並ぶ下田は、津波に襲われて一面の野原となりました。ディアナ号も、波に浮かぶ木の葉のように何度も回転して破損しました。そして、修理のために半島北西端の戸田(へだ)へ向かう途中、現在の富士市沖で海底に没しました。その後、日露和親条約が結ばれましたが、大願成就のプチャーチンたちは故郷に帰る手だてを失っていたのです。
やがて、川路や韮山(にらやま)代官の江川英龍(ひでたつ)の尽力で、船大工たちが戸田に集まりました。彼らが協力し合って、日本初の西洋式帆船(ヘダ号)を造り、プチャーチンたちは帰国しました。
東海地震の翌日、12月24日午後4時頃、今度は南海トラフの西半分から安政南海地震が発生しました。紀伊半島や四国の沿岸に押し寄せた大津波は、地震から2時間近く後に大坂の天保山付近に達しました。そこから、川をさかのぼったため、道頓堀などの水路では大小の船が重なり合いました。泣き叫ぶ声が響き渡る中で、数百人が命を失ったのです。
翌年の11月11日(安政2年10月2日)午後10時頃、江戸の直下で大地震が発生しました。地盤の軟弱な低地で多くの建物が倒れ、約1万人が圧死しました。直後から、瓦版に「鯰絵」が描かれ、地震で富を得た人たちがナマズに感謝している絵など、社会を風刺した自由奔放な作風が爆発的な人気を得ました。今日の日本人が、ナマズを地震と結びつける文化を持つ原因となりましたが、このルーツは秀吉の手紙(第6回参照)までさかのぼります。 
古墳は地震計
1927(昭和2)年3月7日に、京都府の北端で北丹後地震が発生しました。そして、この地震を引き起こした郷村(ごうむら)断層に沿って、地面が、左横ずれ方向に最大2.7m、上下方向に最大80cm変位しました。
郷村断層の周囲の丘陵には多くの古墳がありますが、発掘調査の過程で、地震で傷ついた痕跡が見つかりました。スガ町・通り・遠所(えんじょ)・谷奥などの古墳群は、地割れで口を開き、地滑りで階段状に食い違うなど、81年前の激しい揺れを証言しています。
古墳を代表するのが「前方後円墳」。多くの人たちが長い年月をかけて築いた、堅固で壮大な建造物ですが、これも地震で姿を変えていました。大阪平野北部の高槻市にある今城塚(いましろづか)古墳は、墳丘の長さ約190mの巨大古墳で、継体大王を埋葬したと考えられています。偶然にも、有馬―高槻断層帯を構成する安威(あい)断層の上に築造されました。そして、この断層帯が1596年に活動して伏見地震を引き起こした時に(第6回参照)、激しく揺れて、墳丘の大部分が地滑りの被害を蒙ったのです。
この古墳から1kmほど西には、大田茶臼山(おおたちゃうすやま)古墳があります。大きな前方後円墳ですが、断層から南に数10m離れた位置で、しかも、固い地盤に築造されたので被害は軽微でした。活断層との位置関係と地盤の善し悪しが、二つの前方後円墳の明暗を分けたのです。
奈良盆地の南端に位置する「飛鳥」。この地に分布する古墳にも、地震の爪痕が残されていることが、発掘調査で明らかになりました。飛鳥美人の壁画で知られる高松塚古墳の墳丘には、多くの亀裂が刻まれ、石室の石材も少し割れていました。繰り返し発生した南海トラフの巨大地震によって傷ついたのでしょう。
高松塚古墳から1kmほど西の丘陵斜面に築かれたカヅマヤマ古墳は、真ん中で切断されて、南半分が滑り落ちていました。盗掘によって副葬品(ふくそうひん)と石材の一部が持ち去られ、その後の激しい揺れで変形したのです。盗掘者たちが残した遺物の年代から14世紀頃の地震とわかり、1361年の南海地震(第4回参照)が該当します。古墳には、過去の激しい地震動が記録されています。あたかも、古代人たちが、私たちのために残した「地震計」であるかのように。 
21世紀の地震
1891年には、主に岐阜県内を北西―南東方向にのびる濃尾断層帯が活動して、濃尾地震が発生しました。規模は内陸地震として最大級(M8.0)で、根尾村水鳥(みどり)の断層を横切る道路が、上下に約6m、左横ずれ方向に約3mも食い違いました。1896年には三陸沖の海底で巨大地震が発生しました。そして、わずかな揺れに続いて押し寄せた津波によって、1万軒近い家屋が流失しました(明治三陸地震津波)。1923年の関東地震では、首都圏が旋風(つむじかぜ)を伴う猛火に包まれて10万数千人が犠牲となりました。1944年には東南海地震(M7.9)、2年後に南海地震(M8.0)が発生しましたが、1707年や1854年に南海トラフから発生した地震と比べて、かなり小さな規模でした。
南海トラフから発生する巨大地震については、文字記録や地震痕跡から発生年代が把握できます(第4回参照)。昭和は太平洋戦争の終り、1854年は江戸幕府の滅亡と開国、1707年は幕府の衰退、1605年が天下統一、1498年は応仁の乱に続く戦国時代、1361年は南北朝争乱と、歴史が移り変わる時期と重なっています。そして、次は21世紀の中ごろまでに発生すると考えられています。
1978年6月12日の宮城県沖地震(M7.4)では、ブロック塀などが倒れて尊い命が失われました。沖積平野は液状化現象による被害、丘陵の造成地では盛土の地滑りなどが顕著でした。この地震は、太平洋海底のプレート境界で発生しましたが、過去の地震記録から、40年弱の間隔で繰り返すと考えられています。先日の岩手・宮城内陸地震はじめ、内陸の活断層からの地震も宮城県周辺を襲っています。
プレートの運動によって細長く盛り上がった日本列島。断層活動で上昇する側に山地がそびえ、低下する側は、山地からの堆積物で埋積されて平野や盆地になります。私たちは、地殻変動で生まれた、起伏に富んだ美しい国土で暮らしています。しかし、生活の基盤となる大地は、突然、牙をむいて襲いかかります。しばらくの間の静寂と瞬時の激動。これを繰り返す大地と共存することが、私たちの宿命です。これから、地震の場所や規模や時期を予測する研究は勿論ですが、地震の被害を軽減するための対策も、さらに重要になります。それぞれの場所で被害の性質が異なりますから、地域に応じた、きめ細かな検討が求められます。その基礎として、過去に発生した地震について詳しく知っておくことが肝要です。歴史に学ぶことの大切さは、地震についても言えると思います。 
宮城県沖地震とは?
宮城県の沖合から日本海溝までの海域では、ここを震源域とする大地震が繰り返し発生していることが知られています。宮城県沖地震は、1978年に宮城県沖で発生したM7.4の地震に代表される、陸寄りの海域を震源域として繰り返し発生する大地震をいいます。東北地方の陸側のプレートの下へ太平洋プレートが沈み込むことに伴なって、これら2つのプレートの境界面の、牡鹿半島沿岸からその東側で発生していると考えられています。
宮城県沖地震は、有効なデータとして残っている1793年以降現在までの200年間余りに6回活動したと考えられ、活動間隔は26.3年から42.4年までの範囲で、平均活動間隔は37.1年となります。地震の規模は、陸寄りの海域に想定される震源域の中だけが破壊した単独の地震の場合は、M7.3〜7.5の範囲にあったと考えられていますが、1793年に発生した地震は、陸寄りと日本海溝寄りの震源域が連動して破壊したため、その規模は他の地震より大きいM8.2程度であったと考えられています。
前回1978年6月12日午後5時14分に発生した宮城県沖地震(M7.4)は仙台市を中心に宮城県とその周辺に大きな被害をもたらしました。この地震による被害総額はおよそ2,700億円と当時の宮城県の年間予算(約3,000億円)に匹敵する甚大なものでした。当時の人口50万人以上の都市が初めて経験した都市型地震の典型といわれ、ブロック塀の倒壊による死者が多かったことや、屋外への急な飛び出しによるガラス片や落下物による受傷者が目立ったこと、ライフラインの大規模な機能障害や復旧に長期間を要したことなどの課題が浮き彫りになりました。
政府の地震調査研究推進本部が計算し公表した次の宮城県沖地震の発生確率は、2007年から10年以内に発生する確率は60%程度、20年以内には90%程度、30年以内には99%となっており、過去6回の宮城県沖地震の発生間隔のうち、最も短い発生間隔の26.3年は、前回の宮城県沖地震から計算すると2004年となり、既に経過していることになります。
地震調査研究推進本部では、「地震発生の可能性は、年々高まっており、今後20年程度以内(2020年頃まで)に次の地震が起こる可能性が高いと考えられる。地震の規模は、単独の場合にはM7.5前後、連動した場合にはM8.0前後となると考えられる。但し、次の活動が単独の場合となるか連動した場合となるかは、現状では判断できない」と発表しています。 
■地震史
1世紀頃、 高知県土佐市で高知大学が超大型津波の50cm堆積層を2000年前の地層で発見。M9級の東南海地震によるものと思われる。
416年8月23日 遠飛鳥宮(大和国/現・奈良県明日香村)で地震。日本書紀に「地震」の記述。日本史上最初の地震の記録。
599年5月28日 大和国(奈良県)で地震。M7.0、家屋倒壊。日本書紀に記述。日本の地震被害の最初の記録。
679年 筑紫国(福岡県)で地震。M6.5-7.5、幅二丈、長さ三千余丈の地割れ。
684年11月29日 白鳳地震(南海地震) M8.0-8.3、死者多数。土佐で津波により大きな被害。田園(約12km²)が海面下へ沈下。地質調査によればほぼ同時期に東南海・東海地震も発生。
701年5月12日 丹波で地震、若狭湾の冠島と沓島が海没したと伝えられる。
715年7月4・5日 三河国・ 遠江国(静岡・愛知)で地震 M6.5-7.5、正倉47棟が倒壊。天竜川が塞き止められ、数十日後に決壊して洪水。
734年5月18日 天平地震(五畿七道地震) M7.0、死者多数。
745年6月5日 岐阜県美濃地方で地震 M7.9。
762年6月9日 岐阜・長野で地震。
818年 北関東で地震 M7.9、死者多数。
841年 伊豆地震 M7.0、死者多数。
850年 出羽地震 M7.0、死者多数。
863年7月10日 越中・越後地震 死者多数、直江津付近にあった数個の小島が壊滅したと伝えられる。
868年8月3日 播磨・山城地震 M7台。
869年7月9日 貞観三陸地震 M8.3-8.6、地震に伴う津波(貞観津波)の被害が甚大で死者約1,000人。多賀城損壊。津波堆積物調査から震源域が岩手県沖-福島県沖、または茨城県沖の連動型超巨大地震の可能性も指摘される。
878年10月28日 相模・武蔵地震 M7.4、死者多数。京都でも揺れが感じられる。
887年8月26日 仁和地震(南海地震) M8.0-8.5、京都・摂津を中心に死者多数。津波あり。地質調査によればほぼ同時期に東南海・東海地震も発生。
938年5月22日 京都などで地震 M7.0、死者あり。高野山でも建物損壊。その後も余震が多く、8月6日に大きな余震。
976年7月22日 山城・近江地震 M6.7以上、死者50人以上。
1096年12月17日 永長地震(東海地震) M8.0-8.5、死者1万人以上と推定。東大寺の鐘が落下、伊勢・駿河で津波による大きな被害など。東南海地震の発生は不明。
1099年2月22日 康和地震(南海地震) M8.0-8.5、死者数万と推定。土佐で津波により大きな被害。興福寺、天王寺も被害。
1154年9月25日 富山付近で地震。新川郡で陥没、死傷者多数。
1185年8月13日 文治京都地震 M7.4、死者多数。法勝寺や宇治川の橋など損壊。余震が2か月ほど続く。鴨長明が『方丈記』で詳述。
1200年頃 地質調査によれば南海・東南海・東海地震が発生。
1257年10月9日 正嘉地震 M7.0-7.5、関東南部に大きな被害。
1293年5月27日 鎌倉大地震 M7.1、建長寺などで火災発生、死者2万3,000人あまり、余震多発。
1331年12月15日 元弘地震 M7
1360年11月21日・22日 紀伊・摂津地震(東南海地震?) M7.5-8.0、死者多数。津波あり。
1361年8月3日 正平・康安地震(南海地震) M8.0-8.5、死者多数。摂津・阿波・土佐で津波により大きな被害。
1433年11月7日 相模地震 M6.7、死者多数。津波により利根川が逆流。
1449年5月13日 山城・大和地震 M6.5、死者多数。
1498年 6月30日 南海地震 日向地震との混同との意見も有る。
 7月9日 日向地震 M7.0-7.5、死者多数。
 9月20日 明応地震(東南海・東海地震) M8.2-8.4、死者3万-4万人以上と推定。伊勢・駿河などで津波により大きな被害、浜名湖が海と繋がる、鎌倉高徳院の大仏殿が押し流されるなど。地質調査によればほぼ同時期に南海地震も発生。
1502年1月28日 越後地震 M6.5-7.0、死者多数。
1510年9月21日 摂津・河内地震 M6.5-7.0、死者多数。余震が2か月あまり続く。
1586年1月18日 天正大地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震) M7.8-8.1、死者多数。飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まる。内ヶ島氏、帰雲城もろとも滅亡。余震が1か月以上続く。
1596年 9月1日 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の内陸地震のさきがけとなる。
 9月4日 慶長豊後地震(大分地震) M7.0-7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされている。
 9月5日 慶長伏見地震(慶長伏見大地震) M7.0-7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。
17世紀前半 津波堆積物の分析から、この時期に千島海溝南部(十勝沖から根室沖まで)を震源とするM8.6クラスの地震が発生したと推定されている。
1605年2月3日 慶長地震(東海・南海・東南海連動型地震) M7.9-8、関東から九州までの太平洋岸に津波、紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。八丈島でも津波による死者数十人。死者1万-2万人と推定されるが、津波以外の被害はほとんどなかった。
1611年 9月27日 会津地震 M6.9、死者3,700人。
 12月2日 慶長三陸地震 M8.1、死者約2,000-5,000人。
1615年6月26日 江戸地震 M6、死者多数。
1616年9月9日 宮城県沖地震 M7.0、仙台城が破損。
1619年5月1日 熊本県八代で地震 M6.0
1625年7月21日 熊本で地震 M5-6、死者約50人。
1627年10月22日 松代地震 M6、死者多数。
1633年3月1日 相模・駿河・伊豆地震 M7.1、死者110-150人。駿河・熱海に津波。
1640年11月23日 大聖寺地震 M6、死者多数。
1649年7月30日 武蔵・下野地震 M7.1、死者多数。
1662年 6月16日 近江・山城地震(畿内・丹後・東海西部地震、寛文の琵琶湖西岸地震) M7.4-7.8、死者数千人。
 10月31日 日向・大隅地震 M7.6、死者多数。
1666年2月1日 越後高田地震 M6.4、死者1,400-1,500人。
1670年6月22日 越後村上地震 死者13人。
1677年11月4日 房総沖地震(延宝房総沖地震) M7.4 、死者500-600人。福島県-千葉県に津波。
1678年10月2日 宮城県北部沖で地震 M7.5、死者1人、東北地方の広範囲で被害。
1686年10月3日 遠江・三河地震 M6.5-7、死者多数。
1694年6月19日 能代地震 M7.0、陸奥で山崩れなど。死者394人。 
1703年12月31日 元禄地震(元禄関東地震) M8.1、死者5,200人(20万人とも)。関東南部に津波。
1707年10月28日 宝永地震(東海・南海・東南海連動型地震) M8.4-8.7、死者2,800-2万人以上、倒潰・流出家屋6万-8万軒。関東から九州までの太平洋岸に津波、伊豆・伊勢・紀伊・阿波・土佐などで大きな被害。地震から49日後に富士山の宝永大噴火。道後温泉の湧出が数ヶ月間止まる。
1710年10月3日 因伯美地震 M6.6、山崩れなど。死者多数。
1714年4月28日 糸魚川地震 M6.4、山崩れなど。死者約100人。
1717年5月13日 宮城県沖で地震 M7.5、陸前、陸中で津波や液状化により被害。
1729年 能登半島で地震 M6.6-7、死者少なくとも5人。
1731年10月7日 宮城県南部で地震 M6.5、死者数名、家屋が倒壊。
1741年8月28日 北海道西南沖の大島で火山性地震 M6.9、死者2,033人。大津波発生。
1751年5月21日 越後・越中地震 M7.0-7.4、死者1,541人。高田で火災など。
1762年10月31日 佐渡島北方沖で地震 M7.0、死者あり。液状化現象、津波による家屋流出など。
1766年3月8日 津軽地震 M6.9、弘前城損壊など。死者約1,500人。
1771年4月24日 八重山地震(明和の大津波) M7.4-8.0、死者約12,000人。最大波高85m。
1782年8月23日 天明小田原地震 M7.0、住宅約800破損、小田原城損壊など。
1792年5月21日 島原半島で土砂崩れによる大津波(島原大変肥後迷惑) M6.4、死者約15,000人。
1793年 2月8日 西津軽・鰺ヶ沢で地震 M6.8-7.1。津軽山地西縁断層帯が震源で、地震発生よりも前に海水が引く前兆現象があった。津波による死者3人。
 2月17日 三陸沖で地震(連動型宮城県沖地震) M8.0-8.4、死者100人程度、陸中から常陸にかけて津波。
1799年6月29日 石川県などで地震 M6。金沢で640人死亡、その他の地域でも死傷者あり。 
1802年12月9日 佐渡、小木地震 M6.8、死者37人。
1804年7月10日 象潟地震 M7.1、死者500-550人。象潟で2mの地盤隆起と3-4mの津波。
1810年9月25日 男鹿半島で地震 M6.5、死者60人
1812年12月7日 武蔵・相模地震 M6、死者多数。
1819年8月2日 伊勢・美濃・近江地震 M7.3、死者多数。
1828年12月18日 越後三条地震 M6.9、死者1,681人。
1830年12月19日 京都地震 M6.4、死者280人。二条城など損壊。
1833年12月7日 出羽・越後・佐渡地震 M7.4、死者40-130人。東北・北陸の日本海沿岸に津波。 1964年新潟地震の津波よりも規模が大きい。
1835年7月20日 仙台地震 M7、死者多数。仙台城損壊、津波あり。
1843年4月25日 十勝沖地震 M8.0、死者46人。厚岸に津波。
1847年5月8日 善光寺地震 M7.4。山崩れと洪水、死者約1万-1万3,000人。
1853年3月11日 小田原地震 M6.7、死者約20-100人。
1854年 7月9日 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) M7.6、死者約1,800人。
 12月23日 安政東海地震(東海・東南海地震) M8.4、死者2,000-3,000人。房総半島から四国に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号沈没。
 12月24日 安政南海地震 M8.4、死者1,000-3,000人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が数ヶ月間止まる。 安政東海・南海地震は32時間の時間差で発生した。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で3,000回近く。
 12月26日 豊予海峡で地震 M7.4。東海・南海と併せ、4日間で3つの巨大地震発生。
1855年 3月18日 飛騨地震 M6.5、死者少なくとも203人。金沢などでも被害。
 11月11日 安政江戸地震 M6.9、死者4,700-1万1,000人。
1857年10月12日 伊予、安芸、今治で城内破損。死者5人。
1858年 4月9日 飛越地震 M7.0 7.1。地震による直接の死者数百人、常願寺川がせき止められ後日決壊、それによる死者140人。
 7月8日 東北地方太平洋側で地震。M7.0 7.5。
1861年10月21日 宮城県沖地震 M7.4、津波、家屋倒壊、死者あり。
1872年3月14日 浜田地震 M7.1、死者552人。
1881年10月25日 国後島で地震 M7.0、津軽でも揺れる。
1889年7月28日 熊本地震 M6.3、死者20人。
1891年10月28日 濃尾地震 M8.0、死者・行方不明者7,273人。根尾谷断層の発生。
1892年12月9日・11日 石川県・富山県で地震 M6.4(9日)、弱い津波。死者計2人。
1893年6月4日 色丹島、択捉島で地震 M7.0。色丹島 津波2.5m。
1894年 3月22日 根室半島沖地震 M7.9、死者1人。北海道・東北に津波。
 6月20日 明治東京地震 M7.0、死者31人。
 10月22日 庄内地震 M7.0、死者726人。
1895年1月18日 茨城県南部で地震 M7.2、死者6人。
1896年 6月15日 明治三陸地震 M8.2-8.5、死者・行方不明者2万1,959人。
 8月31日 陸羽地震 M7.2、死者209人
1897年 2月20日 宮城県沖地震 M7.4、地割れや液状化、家屋に被害。
 8月5日 三陸沖で地震 M7.7、宮城県や岩手県で津波により浸水被害。
1898年4月23日 宮城県沖で地震 M7.2、北海道から近畿にかけて有感、岩手県と宮城県の県境付近で被害。
1899年 3月7日 紀和地震 M7.0、死者7名、三重県を中心に近畿地方南部で被害。
 11月25日 宮崎県沖で地震 3時34分 M7.1 / 3時55分 M6.9。
1900年5月12日 宮城県北部で地震 M7.0、死傷者17人、家屋などに被害。 
 
越後地震口説き

 

1828(文政11)年11月12日越後で大地震。三条・見付が壊滅し、少なくとも1443人が死亡(3万余とも)。(大地震暦年考/徳川十五代史17/文恭院殿御実記実記下/越後地震口説/浮世の有様)
越後地震は、マグニチュード6.9の直下型地震であった。震源地は栄町(現三条市)芹山付近とみられる。被害地域は、信濃川に沿った長さ25qに及ぶ楕円形の地域で、三条・燕・見附・今町・与板などの家屋はほとんど全壊した。被災地域全般で全壊1万2859軒、半壊8275軒、焼失1204軒、死者1559人、怪我人2666人、堤防の欠壊4万1913軒という大きな被害であった。三条市八幡町にある真言宗泉薬寺境内には、地震供養塔、東裏館の真言宗宝塔院境内には地震亡霊塔(市指定文化財)がある。また、地震から4年後の天保3(1832)年8月には、地震による多数の物故者を菩提のため、浄土真宗本願寺派の三条別院が建立された。 
天地開いて不思議なことは 近江湖駿河の富士は
たった一夜に出来たときくが これは見もせぬ昔のことよ
ここに不思議は越後の地震 言うも語るも身の毛がよだつ
頃は文政十一年の 時は霜月半ばの二日
朝の五つと思ひし頃に どんとゆりくる地震の騒ぎ
煙草一服 くよさぬ内に 上は長岡新潟かけて
下は三条今町見付け つぶすあとより一度のけぶり
それにつづいて余坂やつばめ ざいご 村々その数しれず
潰す家数千万余戸や たる木うつぼり柱やケタに
脊骨肩骨頭をうたれ 目口鼻より血をはき流す
のがれ出で人狂気の如く もがき苦しみ息絶えはてる
手負い死人は書きつくされず 数も限りもあらましばかり
親は子をすて子は親をすて あかぬ夫婦の仲ともいわず
すてて逃げ出すその行先は 炎もえたち大地がわれて
砂を吹きたて水もみあげて 行くに行かれずたたずむ中に
風ははげしく後ろをみれば 火の子吹きたち焔がふりて
あつやせつなや若しやこわや 中にあわれや手足をはさみ
肉をひしがれ骨打ちくだき 泣きつ叫べば助けてくれと
呼べど 叫べど 逃るる人は 命大事と見向きもやらず
覚悟覚悟と呼はわりながら 西よ東よ北南よと
思い思いに逃げゆく人は げにも叫喚大叫喚の
責めも之にはまさりはすまい 見るも中々骨身にとおる
今はこの世がほろびてしまい 弥勒出世の時なるらんや
又は奈落へ沈むかしらん いうも恐ろし語るも涙
急ぎ祈祷の湯の花なぞと せつな念仏唱えてみても
何の印もあら恐ろしや 昼夜動きは少しもやまず
凡そ七十五日が間 肝も心もどうなることか
親子兄弟顔見合わせて ともにため息つき入るばかり
御大名にも村上柴田 興阪長岡邑松桑名
今津高岡又そのほかに 御陵御陣屋旗本衆も
思い思いに手当てはあれど 時が時なら空かきくもり
雪はちらつき寒さはつもる 外に居られぬ涙の中に
一家親類より集まりて 大工いらずの掘立小屋に
つららかぷりてしのごとすれば 吹雪立ちこみ目面はあかず
殊に今年は大凶年で 米は高値に諸式は高し
それに米代未聞の変事 これをつらつら考えみるに
士農工商儒仏も神も 道を忘れて私慾に迷い
上下別たず驕りを極わめ 武士は武をすて算盤枕
それにならんで下役人は 下をしいたげ己れを奢る
昔困窮の時節をきくに ナズナ掘ったり磯茶をひろい
己己が命をつなぎ 収納作得立てたときくに
今の百姓はそれとはちがい 少し不作な年柄にても
検見鹸ごうて拝借などと たくみ苦労をかけたる上に
有るのないのとお館前で 無勘定にて内をば奢る
米の黒いは大損などと 味噌は三年たたねばくわず
在郷村々髪結い風呂屋 前売小店の店前見れば
胡弓三味線太鼓をかざり 紋日紋日のその時々に
若い者共寄り集りて 踊り芸子や地芝芸居なぞと
遣い散らして出すことおごる 袷一つに縄帯かけて
終に仕まうて他国にはしる 馬子や水汲奉公人も
羽織傘足袋塗駒下駄で 下女や.丁稚の盆正月も
もっとも悪いが縮緬帯で 開帳参りの風俗見れば
旦那様よりお供が派手な それにまだしも大工の風儀
結城綿入れ博多の帯で 小倉袴に白足袋はいて
朝は遅くて煙草は長し 作料増さねば行くことなさぬ
酒、は一日二度だせなぞと 天を恐れぬわがままばかり
日傭人迄道理を忘れ 普請作事のはやるに任せ
出入り旦那に御無沙汰計り 下は十日も先からたのむ
やっと一日顔出しさへも 機嫌とらねば日中は遊び
それに準じて町家の普請 互美々しくせり合う故に
二重たるきに赤金まかせ 屋根はのし葺柱や桁は
丁度昔の二本の長さ すかやケヤキの造作普請
御殿まつりか宮拝殿か 下賎の家作にあられぬ仕方
前を通るも肩身がすくむ なれど心は獣におとる
如何な困窮な年柄にても 主納家賃の用捨はあらず
少し下がると店追ったてる 田をば上げよと小前をせめる
慈悲の心はケシ粒程も 無いはことわり浮世の道理
深く考え知らざる故ぞ 世間高家の家風をみるに
旧い家持勘弁あつく にわか富源は万事がひどい
悪い心も見習いやすく 裏家店借ほてふり迄も
米が安いと元気が高い 在郷者をば足下に見なし
言うにいわれぬ高言はいて きだやめりやす正夫などと
チヨットしゃれにも江戸物ばかり それはさておき此近年は
寺社の風俗つらつらみるに 黒い羽織に大小差して
寺社の文字の講釈ばかり 鼻の高いが天狗にまさる
銭のないのは乞食におとる 昼夜大酒道楽づくし
おのればかりか下子供まで 金を使うは風流人よ
道を守るは俗物なぞと 冥利知らずに銭金まいて
書物よむよむ身上つぶす 別けて近年諸宗の風儀
和尚さんじゃともったいらしく 赤い衣は白粉臭い
光る輪ゲサは刺身の香り 尼のさんやは子持ちの香
朝の御勤め御小僧ばかり 夜のお勤め鐘打つ計り
昼夜まわりし御布施をむいで 遊女遊びに自役を忘れ
居間柱の状差しみれば さまへ参るや御存知よりと
紅のついたる仮名文ばかり 法華坊主が猫飼ひくろうて
猫にやるとてカツオを買やる 人がおらねばケモノのかわり
鳥の毛をひくウロコをおこす 頭ばかりは坊主でござる
真宗坊主の有様みれば 門徒かすめる手だてが仕事
勧化一度に奉加四五度 祖師の法事や主坊の法事
畳屋根替造作普請 娘仕つけるつぎ目をすると
後生二の手に先その事を 門徒集めて身勝手ばかり
法座仕舞の話を聞けば 今度の法座は時分が悪い
参り不足で儲けがないと 供養仏事を商にして
後生知らずの邪見な者よ 金をあげれ′ば信心者と
住寺坊主待遇がちがう なんぼ信心了解の人も
金をあげねば外道者なぞと 死人おさへる焼香とめる
後で己がねじ事ぬかす 寺が寺なりや同行迄も
御講戻りの話をきけば 金はあげたが御馳走がないと
酒はどぶ酒にがたらしいと 澄んだ酒をばかやらぬなどと
茶屋にゆきたる心をもちい 新庄坊主をでつちに致し
仏様をば足下にみなし 俗も坊主も只一とまくり
姑小姑娘をそしり 娘やむすこは舅のざんそ
そして近年法談さえも いたこ長唄新内などと
まぜて言わねば参りがないと ねてもおきても慾心ばかり
仏任せのジイババまでも あちらこちらで教へがちがう
どれが誠か迷がはれぬ 後生大事はたのまぬことと
勤めながらも門徒をよせて 金の無心は御頼みごとよ
わけてつまらぬ法華の教 蓮花住生でしくじりながら
まだ迷の目がさめやらぬやら 他宗そしりて我宗の自慢
余り教が片よる故に 広い世界を小狭くくらす
仏嫌いの神道掌司 和学神学六根清浄
払い給えと家財をはらい 清め給えと身上をあらう
国の不浄はよごれたものを 食はず飲まずは言分ただす
胸と心は只もろもろの 慾と悪との不浄の染り
祢宜の社人の神主なぞと 神の御未と身は高ぶれど
富をするやら操り歌舞伎 末社集めて山事ばかり
祈頑神楽も銭からきわめ それが神慮にかなうかしらん
又も悪いが御医者でござる 隣村へも馬籠なぞと
知らぬ病ものみ込み顔で やがて治ると薬をのませ
上にいる人下あわれみて 下にいる人上敬いて
常に倹約慈悲心ふかく 邪見心をつつしむならば
かかる稀代の変事はあらじ 神も仏も御天とさまも
めぐみ給うて唯世の中を 末世末代浪風たたず
四海大平諸色もやすく 米も下値に五穀もみのり
地震どころか在町共に 子孫栄える末繁昌の
もととなるペきためしをあげて かかる此身の罪深きやら
地震つぶれの掘立小屋に しばしこもりて世の人々の
あなあな地上を書印度 筆の雫もあら恐ろしや
地震句説はこれ限りなり
 
「言経卿記」に見る文禄五年伏見地震での震災対応
  「和歌を押す」行為について

 

はじめに
文禄五年閏七月十三日(1596)に発生した文禄五年伏見地震(以下、伏見地震)は、京都・伏見を中心に畿内に大きな被害を与えた。
宇佐美(2003)によると、推定マグニチュードは7.5±0.25 といい、全体での死者は1500 人余、余震は翌年四月まで続いたとされる。西山(1994・1995)は、伏見地震時に朝廷(公家)・寺社・武家・民衆がそれぞれどのような行動をしていたのかを確認しているが、特に民衆の行動について、洛中洛外の被害・死者数についての記述を確認した上で、復旧事業は町や町組の協力(下京)・豊臣秀吉の援助(伏見)のもとに行われていたことを想定している。しかしこれ以降伏見地震での人々の対応について検討された研究はない。
本論では「言経卿記」に注目し、伏見地震直後の人々の対応について見ていく。それは、記主である山科言経が天正十三年六月十九日(1585 年7月16 日)に勅勘を蒙り京都を出奔してから慶長三年(1598)に勅免となるまでの13 年半の間、市井で生活しており、庶民と接触を持つという点で、ほかの公家の日記と比べて幅の広い記録を有し、重要であるからだ。
また「言経卿記」の伏見地震に関する記述の中でも特に注目されるものとして、地震後に町々で三種類の和歌が門に押されているというものが挙げられる。この行為について西山(1994・1995)は特に触れていない。また各和歌についての解釈もこれまで特に行われてこなかった。但し三種類の和歌のうち、三番目の歌は「要石の歌」と呼ばれよく知られており、要石に関する研究自体も比較的多い状況にある。その中でも鹿島神と地震の関係について検討している都司・山本(1993)、中世の要石に注目した黒田(2003)は注目される。
都司・山本(1993)は、鹿島神がどのように信仰されているのか(場所・地震信仰の有無・分詞の時期)を確認し、鹿島神がいつ、どのようにして地震信仰を得たのかを考察している。その結果として、鹿島神宮が地震神としての性格を備えたのは貞観六年(864)あるいは安和二年(969)以後保元二年(1157)までの間と推察している。
しかしこの検討は全国の鹿島社の伝承に注目してのものであり、その伝承の真偽まで確認されていない点においては不備なものと言えるだろう。黒田(2003)は「大日本国地震図」より、龍(図中では魚といっている)の頭を押さえている「鹿島の要石」に注目し、同図中に「要石の歌」が載っており、この「呪い歌」が少なくとも文禄五年(「言経卿記」中のもの)まで遡りうることを確認している。その上で、中世の要石について各史料を用い検討を加えている。その結果として、「鹿島の要石」は中世<日本>(地図に描かれた、国土としての日本)にいくつもあった中心軸(と主張する聖地)の一つであること、また<国土>が漂い出さないよう繋ぎとめ、あるいは地震で揺れないよう押さえる役割を持った長大な石であることを読み取り、要石は13 世紀に生み出され、鹿島動石・石御座と呼ばれていたものが、室町時代を通じて要石といわれるようになったとしている。この研究は要石が中世を通じて生み出されたもの歴史地震であることを明らかにしたという点において重要である。
要石についてはよく研究されており、「要石の歌」自体もその中で触れられてきたが、他の歌についての検討は管見の限り全く見られない。「和歌を押す」ことについての検討は、三種類全てについて検討されなければならないのではなかろうか。
「和歌を押す」ことについては、西山(2001)で文政十三年(1830)京都地震の際に見られる「地震治めの落首」の事例として紹介されている。これは、「落首(戯歌)」を民衆が紙に書き、戸口・大黒柱に貼っているというもので、西山は「一種の呪符として用いられていた」とし、この「地震治めの落首」・呪符が広まった背景として地震による破壊や混乱に起因した民衆の社会不安を想定している。さらに「落首」の書かれている史料に「地震も納まり世なをしとかや」とある点に注目、この「世直し」観念を社会不安の激化に伴って表出したものとし、当時の政権に対する批判が内包されていたと推察している。西山の論では、これらの和歌が「呪符」として用いられていたとし、注目される。しかし西山は「要石の歌」の解釈として「地震によっていくら地面が揺れようとも、地中の鯰が暴れないように押さえつけている要石は、鹿島大明神がその要石を押さえている限り、万が一にも抜けることはない」としているが、黒田(2003)がいうように、要石は<国土>を繋ぎとめ、地震で揺れないよう押さえる役割を持つものであり、この歌からはいわゆる地震鯰を読みとることは不可能である。またここでは「和歌を押す」ことの震災対応としての位置付けも曖昧であると言える。
そこで本論では、「言経卿記」に記述された伏見地震に関する記事を分析し、織豊期の民衆の震災対応がどのようなものであったかを明らかにする。特に地震直後より見られる「和歌を門に押す」ことについて、その内容と意味を考察し、震災対応としての位置付けを検討する。 
山科言経と「言経卿記」について
今回考察に用いた「言経卿記」とはどのような史料か。山科言経の半生については今谷(2002)で若干触れられているほか、「言経卿記」については花田(1970)や飯倉(1998)によくまとめられている。それら先行研究の成果と「大日本古記録」に所収されている「言経卿記」を利用し、簡単ではあるが山科言経・「言経卿記」について確認しておこう。
記主である山科言経は天文十二年(1543)に生まれた。父は権大納言で「言継卿記」の記主・山科言継、母は右大弁葉室頼経女である。天文二十二年(1553)に元服して以降、順調に昇進を重ねていたが、天正十三年六月十九日(1586 年7月16 日)に勅勘を蒙り、以後慶長三年十一月三日(1598 年12 月1 日)に勅免されるまでの十三年半の間浪人生活を送った。その後慶長七年(1602)に正二位に叙され、慶長十六年二月二十七日(1611 年4 月10 日)六十九歳で亡くなっている。言経自身は家業である衣紋道や音楽の笙に堪能で、また妻の実家が和歌の家である冷泉家であることもあり、和歌・漢詩にも熱心であったようだ。さらに医薬関係も詳しく、自分で薬草を採集・栽培し、薬を精製して周囲の人々に与えている。衣紋道と医薬関係は、浪人中の山科言経家の重要な収入源の一つであったようである。
一つ書きが山科家歴代の記録の特徴ということができるが、「言経卿記」も当然一つ書きで書かれている。言経は織豊期から江戸初期という時代に生きていたこともあり、「言経卿記」には織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の動向が記されている。また有職故実や古典の書写・和歌や連歌といった学芸関係の記事がよく見られるが、もっとも特徴的なのは医薬関係の記事の多さであろう。薬を用いた治療の記事から、薬の配布といった診療簿としての側面も持っている日記であると評価できるであろう。
このような特徴を持つ「言経卿記」には、もちろん伏見地震に関する記述も多く見られる。まずは、どのような震災対応がとられていたのかを日記中の記述から見ていこう。 
山科言経周辺における被害
「言経卿記」中にどのような震災対応が記されているのか見ていく前に、地震発生直後以降の記述から山科言経の行動を読み取り、彼がどのようにして震災情報を得ていたのかを確認しておきたいと思う(下記【史料1】参照)。
まず、地震直後より西御方を見舞うということがある。ここからは、言経の屋敷があった堀川末から西御方の住む興正寺へ向かう途中に本願寺寺内町の被害の様子を実見していること、また興正寺を訪れた際に寺内町についての情報を得たということが考えられる。次に、各地より見舞いなどの人々が訪れていたことがある。ここからは、言経邸に来た者から各地の情報を聞き出していたことが想像されよう。最後に、伏見の徳川家康邸へ地震見舞いに伺っていることがある(閏七月二十四日)。ここから、伏見の様子や伏見へ向かう途中の各所の様子を実見したことが考えられる。
伏見地震発生時、山科言経は本願寺寺内町内に住んでいた。言経周辺での地震被害がどのようなものであったかを、「言経卿記」より拾ってみよう。地震被害についての記述は閏七月十三日条に集中してみられる。少々長いがすべて引用しよう。
【史料1】
十三日、戊申、 天晴、大地震、子刻、ヨリ小
一、去夜子刻大地震、近代是程事無之、古老之仁語也、小動不止、晝夜不知數了、
一、地動ニ付而方々ヨリ見舞ニ人々來了、
一、冷早朝ニ堺ヘ下向了、
一、西御方ヘ見舞ニ罷向診脉了、異無之、
一、快気散方々ヨリ所望了、遣了、八包也、香薷散二包同方々ヘ遣了、
一、地動ニ相損所々、先私宅ユカミ了、庭上ニ出テ夜ヲ明了、當町ニハ川那卩宗兵衛・大野伊兵衛等家顛倒了、其外大破ニ及了、
一、寺内ニハ門跡御堂・興門御堂等顛倒了、両所ニテ人二三人死去了、其外寺内家悉大略崩了、死人三百人ニ相及了、全キ家一間モ無之、
一、上京ハ少損了、下京ハ四条町事外相損了、以上二百八十余人死也云々、東之寺共瓦フキハ崩了、
一、禁中ハ少々相損也云々、
一、伏見御城ハテンシユ崩了、大名衆家共事外崩了、江戸内府ニハナカクラ崩了、加々爪隼人佑死去了、雑人ハ十余人相果了、同中納言殿ニハ侍共ハケカトモ有之、死者無之、但雑人ハ六七十人死也云々、其外町々衆家崩之間、死人千ニアマリ了、
一、東寺ハ塔・鎮守八幡社・大師堂、此外七ツ崩了、但坊々不苦也了、
一、大佛ハ堂ハ不苦、但柱ヲ二寸程土ヘ入了、御佛ハ御胸ヨリ下少々損了、樓門ハ戌亥方ヘ柱ユカミ了、
一、三十三間ハ少ユカミ了、
一、東福寺ハ本堂年來東ヘユカミ了、此度地動ニ西へ相直也云々、奇特了、伽藍トモ不苦了、但常楽寺相損也云々、
一、山崎事外相損家悉崩了、死人不知數了、
一、八幡在所是又悉家崩了、
一、兵庫在所崩了、折節火事出來了、悉焼了、死人不知數了、
一、近江國ヨリ関東ハ地動無之云々、
一、アタコ坊々六有之、悉顛倒了、少々小座敷相殘了、權現相殘了、少々人相損了、
一、和泉堺事外相損、死人余多有之、
一、大坂ニハ御城不苦了、町屋共大略崩了、死人不知數了、
まず言経の住んでいた本願寺寺内町内では、御堂が顛倒し2、3 人が死去、また各家が大破・崩壊し無事な家は「一間」もなかったという。寺内町での死者数は300 人とされている。言経邸も被害を受けており、崩壊には到らなかったものの歪んでしまったために、その日からしばらく庭で夜を明かすことになったという。
京都市中も大きな被害を受けており、「一、上京ハ少損了、下京ハ四条町事外相損了、以上二百八十余人死云々」とあるように、上京よりも下京の方が大きな被害を受けていることが分かる。言経は勅勘中、徳川家康から扶持を受け生活していた。その関係から、たびたび伏見を訪れていたことが日記に記述されている。伏見地震後にも地震見舞いのために家康邸を訪れた。伏見の被害については「一、伏見御城ハテンシユ崩了、大名衆家共事外崩了、江戸内府ニハナカクラ崩了、加々爪隼人佑死去了、雑人ハ十余人相果了、(中略)其外町々衆家崩之間、死人千ニアマリ了、」と記述されており、伏見城の被害よりも家康邸の被害についての方が詳細である。また伏見城下の死者数の多さが他所の被害と比較して目を引くところである。 
震災対応の検討
山科言経や彼の周辺の人々・民衆は、伏見地震の際にどのような対応をとったのか。以下で考察していこう。「言経卿記」に記述されている震災対応は、主に直後(閏七月十三日、【史料1】)から十六日までに集中して見ることができる。
【史料2】
十四日、己酉、 天晴、地動晝夜及度々、
一、方々見舞ニ使來了、(中略)
一、興門ヘ柱十本・竹十五本借用、フルキ道具也、十五日、庚戌、 小雨、小地動晝夜及度々、
一、方々ヨリ見舞ニ使來了、(中略)
一、地震ニ付而、毎日雑説有之、又大地震可有之間沙汰有之、各女子・ワラヘトモ也、夜ハ盗人用心トモ、寺内ニハ夜眠トモ稀也云々、
一、地震ニ付而、去十三日ヨリ哥トモ有之、門ニ押之也、誰人ノ所意不知之トモ町々押之、松竹ノ葉ヲ同サシ了、ム子は八ツ門ハ九ツ戸ハ一ツ身ハイザナミノ門ニコソスメチハヤフル神ノイカキモ三日月ノユリヤナヲサン我身成ケリユルクトモヨモヤヌケシトカナメ石ノカシマノ神ノアランカキリハ十六日、辛亥、 小動晝夜及度々、晴、
一、地動又有之由雑説之間、大野伊兵衛尉後園茶屋竹ノ邊也、其ヘ予・北向・阿茶丸・御春・家中衆悉罷向了、無何事了、後刻チマキ同妻持來了、(中略)
一、岩鶴雇之、夜番ヲサセ了、(中略)
一、下女ツル父堺ヨリ上洛了、一昨日下也云々、來了、冷泉女中十二日夜大地動ニ家顛倒ニ付而死去也云々、廿四才也、絶言語了、子息二人ハ無事儀也云々、
以上より読み取ることのできる震災対応としては、以下のものが挙げられる。
1。避難
2。盗人用心
3。和歌を押す
4。地震再来の噂への対応
以上の震災対応について、個別に検討していく。なお、3 については後に詳述する。
1 避難
言経は地震直後(閏七月十三日)より邸宅が歪んでしまったために庭で夜を明かすという避難生活を送った。邸宅の修理は八月中に終わったらしく、この状況は約一ヶ月半の間続いたことになる。この避難生活はどのようなものだったのだろうか。八月二日(1596 年9 月23 日)条を見ると、「一、雨フル間座敷ニ始而各臥了、」とあり、雨のため一時的に座敷で寝たことが日記中から読み取れる。しかし八月二日以前にも雨が降っており、その際には座敷で寝たことは書かれていない。では言経はどのようにして雨を防いだのだろうか。
地震の翌日(閏七月十四日)条を見ると、「興門ヘ柱十本・竹十五本借用、フルキ道具也」とあり、古い柱・竹を興正寺より借りてきたことが分かる。返却したのは十二月二日(1597 年1 月19 日)で、「一、花恩院殿ヘ古キ材木十一・古竹十三・打ヒ二ツ等返了」と書かれている。借りてきた時と返却時の数が若干違っているのだが、これは言経の誤記によるかあるいは数え間違いかと思われる。また「打ヒ(打樋)」は竹で作られるものであることから、借りてきた竹の中に「打ヒ」も含まれていたのだろう。
古柱・竹(打樋を含む)を借用し、何に利用したのか。邸宅の修理には別に材木を用いている(八月二十五日(1596 年10 月16 日)条に「一、上京ヘ四・阿罷向了、ヤ子ノ木取ニ被行了、」とある)ことから違うと思われる。柱・竹は借用され、返却していることから、言経は地震小屋を設けるために柱・竹を必要としたのだと考えられる。山科言経家では庭に地震小屋を設けて避難生活を送ったのである。安政元年(嘉永七年・1854)伊賀上野地震について記述された「地震の記」という史料には次のような記述がある。
【史料3】
何れも仮屋の難儀なる、竹・しふかみ・桐油紙も小雨にハよけれと、大雨打続てハふせきかたく、藪・畑中等にて床とてハなく、古木・古竹にてゆひ合せし家根に、土間に板敷きもあり舗ぬもありて、こも・むしろ舗のふしと雨にぬれて湿気甚しく、(後略)ここからは地震小屋が、大雨を避けることはできないけれども、小雨程度ならば避けうることを読み取ることができる。言経の地震小屋は同じようなものではなかったかもしれないが、少なくとも言経の地震小屋も小雨を避けるには十分なものだったのだろうと考えられる。
地震小屋を設けるために使われた柱・竹は「フルキ道具」だと書かれているが、これはどういうことか。【史料3】には「古木・古竹」で地震小屋が設けられていることを記しており、同様に伏見地震の際にも返却の際に「古キ材木」「古竹」との表現がなされている。こういった事例から考えると、どうも地震小屋には古い柱や竹が使われていたようである。更にいえば、そのような古い柱・竹を再利用していることから、地震小屋のための道具はあらかじめ用意されており、このような際に用いられていたことが想定される。以上のことから考えると「フルキ道具」とは、興正寺であらかじめ用意されていた地震小屋の道具(古柱・竹)の中でも、特に古いもののことを意味するのだと思われる。
なお醍醐寺三宝院の座主・義演の日記「義演准后日記」には次のような記述が見られる。
【史料4】
十四日、霽、地震未休、諸人不安堵、家ヲ去テ道路ニ臥也(以下略)(下線は筆者による、以下同じ)これによれば、人々は止むことのない地震に安心できず、家を出て道路で寝ている様子が書かれている。しかし「言経卿記」に描かれる山科言経の避難生活から、「諸人」も地震小屋を営んでいたのではないかと考えられる。雨ざらしの野宿というわけではなかったのだろう。
2 盗人用心
地震後の本願寺寺内町内では火事場泥棒が現れることが懸念されていたようで、盗人用心として寝ずの番が置かれたことが閏七月十五日条の「夜ハ盗人用心トモ、寺内ニハ夜眠トモ稀也云々」という箇所から分かる。これが山科言経家では河原者の「岩鶴」なる者を雇って夜番をさせた。この「岩鶴」について川嶋(1996)は、山科家ときわめて親しい関係にあり、未進年貢の徴収といった所務に関わっていることから、単なる従者以上の存在であったと評している。「岩鶴」による夜番は八月初めまで続けられており、言経はこれに対して、十月八日に「一、岩ニ百疋・木綿二タン遣了、地動已後ニ番ニヤトイ見舞了」と礼物を遣わしていたことが分かる。
3 地震再来の噂
伏見地震発生の翌々日から、また地震が起きるという噂・流言のあったことが「言経卿記」には書かれている。閏七月十五日条では「地震ニ付而、毎日雑説有之、又大地震可有之間沙汰有之、各女子・ワラヘトモ也」とあり、十六日条には「地動又有之由雑説之間、大野伊兵衛尉後園茶屋竹ノ邊也、其ヘ予・北向・阿茶丸・御春・家中衆悉罷向了、無何事了」と記述されている。特に十六日には実際に言経一家は避難までしている。これについて西山(1994)は「当時の人々が「地震の際には竹林に逃げ込んだ方が良い」という、或る種の地震対策の知識を持っていた」としている。この様な行動は「源平盛衰記」の中にも見ることができる。
【史料5】
同十四日に弥益弥益に震ひけり。堂舎の崩るる音、雷の鳴るが如し。塵灰の揚る事は煙を立てたるに似たり。(中略)公卿僉議ありて、祈祷あるべきの由、諸寺諸山に仰す。「今夜亥子丑寅の時は、大地打返すべし」と占ひ申したりといひて、家の中に居たる者は上下一人もなし。蔀・遣戸を放ちて大庭に敷き、竹の中、木の本にぞ居ける。(以下略)これは元暦二年(1185)京都地震について記述された部分であるが、ここを見ても「竹の中、木の本」に逃げ込んだ者がいたことが分かる。竹林に逃げ込むというのは、古い言い伝えのようなものだったのかもしれない。しかし一方で、また違った対応がなされたのではないかと考えさせる史料がある。舟橋宣賢の「慶長日件録」慶長九年七月二十一日(1604 年8 月16 日)条並びに同二十二日条には、以下の記述がある。
【史料6】
廿一日、晴、竹田宰相來、堯曰篇講之、論吾一部終功者也、(中略)今夜大地震廿一日可催來之由風説、洛中洛外専なる間、京中町人不寝云々、内裏ニモ乍風説被驚、鶏鳴時分より上格子也、少も不地震、一犬吠虚万犬吠ト可謂者也廿二日、晴、町人來云、夜前丑寅刻可地震由雑説故、世間騒動以外也云々、(以下略)地震が来るとの噂・流言に対して、京都の町人は寝ずにおり、また内裏では早朝から格子を上げていたというのだ。ここからは、実際には避難することがなくとも、地震が来ればいつでも避難できるような態勢をとっていたということを読み取ることができる。つまり、実際に避難した人々もいた一方で、避難はせずにいつでも避難できる態勢をとっていた人々もいたであろうと考えられるのである。
重要なのは、噂・流言があったことで迅速に避難する(あるいはその態勢をとる)ことが可能であったという点である。もちろん、それによって人々の不安感が増幅され「世間騒動」という問題点もあるわけだが、それとともに噂によって避難へつながるという良い面もあったのである。 
「和歌を押す」行為の検討
震災対応の一つに「和歌を町々の門に押す」ことがあった。ここからは具体的にこの行為について検討していこう。一見すると、三種類の和歌は落首のように見える。実際、「言経卿記」の刊本の脚注では「落首」とされている。三谷(1981)は、和歌は古来からの「言葉はそのまま実現する」という言霊信仰に基づいており、「まじない」も多く短歌の形式を取ることが多いとしており、今回のように地震の後に押される和歌というものも、そのような呪い歌の一種と考えるのが妥当ではないだろうか。「言経卿記」に書かれている三種類の和歌は「呪い歌」であると思う。このような一見落首のような呪い歌は、平安末期の歌学書「袋草子」(藤原清輔・著)にも「誦文歌」として十七首書かれている。
【史料7】
一、誦文歌
吉備大臣夢違誦文歌 / あらちをのかるやのさきにたつしかもち かへをすれはちかふとそきく (中略)
見人魂歌 / たまはみつぬしはたれともしらねとも結 ひとゝめつしたかひのつま
三返誦之、男左女右ノツマヲ結ヒテ。三日経テ解之云々、(中略)
造酒歌 家持如萬葉集。なかとみのふとのりことゝいひはらへあ かふいのちもたかためにする
已上各三返誦之云々、(以下略)
十七首書かれているうち、使用方法まで書かれてあるのは「見人魂歌」「造酒歌」の二つしかない。「見人魂歌」では男は左、女は右の端を結び、三日後に解くように、「造酒歌」では三回繰り返して唱えるように書かれている。以上のように門に押して用いるものは残念ながらなかったが、呪歌は古くから伝えられてきたものだということが確認できようかと思う。
伏見地震時の「和歌を押す」行為と同じ事例は、寛文二年(1662)近江・若狭地震の際にも見ることができる。
【史料8】当時書かれた仮名草子「かなめいし」(浅井了意・著)である。
(前略)何ものの仕いだしけん、禁中よりいだされて、此哥を札に書きて、家々の門柱に押しぬれば、大なゐふり止むとて、棟は八つ門は九つ戸はひとつ身はいざなぎの内にこそすめ
諸人、写し伝へて、札に書き、家々の門柱に押しぬれども、地震は止まず。(中略)「この哥は、むかし慶長の地震に、其時の人となへ侍べりし」と、ふるき人は語られ侍べり。(以下略)
また同年に成立した「太極地震記」(著者不明)には伏見地震についての記述があり、その中で「和歌を押す」行為も書かれている。
【史料9】
○後陽成院慶長元年丙申七月十二日夜子丑時大地震、諸国以テノ外ト雖モ、別シテ五畿内甚シクシテ、死人ノ数四万五千。其時御門ヨリ御詠
二首出テ、比屋門戸ニ之ヲ張ル。
○むねは八ツ門ハ九ツ戸は一ツ身はいざなぎのかどにこそすめ
○千はやふる神のいがきも三日月のゆりやなをさんわが身なりけり
上記2 史料は共通して、禁中から御詠が出たとしている。つまり、地震後に出た和歌(寛文二年の事例では一ないし二種類)は天皇の詠んだ歌であるというのだ。しかし「言経卿記」からそのようなことを確認することはできず、実際に伏見地震時に御詠が出たのかは分からない。しかし古橋(2003)によれば天皇の言葉には呪的な力があり、宣命や和歌は呪的な天皇の言葉をみせるものだと考えていいだろうという。仮にこれらの和歌が御詠ではなかったとしても、天皇の詠歌がみせる呪的な力への期待から御詠であるという伝承が生まれたのではないだろうか。
以下より、具体的に「和歌を押す」という行為について考察を加えていくことにしよう。
1 「和歌を押す」ことの意味
「言経卿記」に書かれている三種類の和歌は、(紙あるいは木の)札に書かれ、呪符(護符)のように利用されている。呪符の使い方としては、例えば鎌倉期に描かれた「春日権現験記絵」に牛王宝印を貼り付けているものがあり(図1)、またルイス・フロイス著「日欧文化比較」中の「第五章 寺院、聖像およびその宗教の信仰に関すること」の一つとして、次のような項目がある。
【史料10】
われわれは聖像と護符を部屋の中に置く。日本人はこれらを道路に面した門に貼り付ける。
このような呪符は、押す(貼る)という形で用いられることがある。「言経卿記」の他の個所にも呪符を押して用いている事例がある。それは慶長九年正月十八日(1604 年2 月17 日)条の記事で「一、如例年牛玉札トモカホニテ押之、」とある。「牛玉札」とは牛王宝印のことであり、やはり押している。保立(1986)は「松崎天神縁起」「春日権現験記絵」中の牛王宝印の使い方に注目し、全て扉の前に押されていることから、「鎮宅の呪符として、そこに神を勧請し納戸を火災や盗難から守るために」使用されたとする。場所は違っているものの、呪符(護符)を押して使用するというのは、しばしば見ることのできるものであるとこれらの事例から言える。
「言経卿記」中の地震後に押された呪符や【史料10】の事例は、門に押しているが、なぜこれらの呪符(護符)は門に押すのであろうか。中野(1988)は門口(戸口)に札を押すことは、境界における呪的儀礼の一つと見ることができるとしている。この場合の境界は、実際にある家の敷地の境界というよりは、むしろ精神的に家内を聖域化し安定を求めるために想定された境界と考える方がよいだろう。「春日権現験記絵」には家の門口における呪的儀礼の様子を描いた部分がある(図2)が、これも境界での儀礼だ。つまり門口は一種の境界と見立てられていたのだ。そして門口で呪的儀礼(境界儀礼)を行うことにより、家内における災難除けの役割を期待したわけである。
以上のことより、伏見地震後に町々で呪符を門に押したのは、地震再来の際にも無事であることへの祈りが込められており、地震除けの役割が期待されていたと考えられる。
2 松竹の葉を挿すことの意味
さて、この札を押す際に一緒に松竹の葉を挿していると書かれているが、これはどういうことだろう。松に限って言えば、永久不変・長寿・若さのシンボルと見られており、和歌の中でも長寿の願いとして詠み込まれていることを瀬田(2000)は指摘する。しかしそれでは竹を挿した説明にはならない。松と竹がセットになっているところに意味があるのではないだろうか。すると、これは門松の表象と見ることはできないか。吉川(1976)によれば、門松には歳の神を迎えるという松迎えの意味があるという。正月でもないのに門松(の表象)が出てくるのはおかしいようにも思えるが、この場合には流行正月としての門松が出てくると考えるのが妥当である。流行正月とは、世の中の悪い年に、正月でもないのに門松などを立て、早くその年を終わらせ翌年にしようとする呪術的行事のことである。つまり、呪符と共に松竹の葉を挿すことによって門松を立てる代わりとし、流行正月であることを表そうとしたと考えられる。和歌に込められた祈り伏見地震の際に現れた「言経卿記」中にある三種類の和歌は、地震に対しての呪歌であった。そしてそれらの和歌を呪符として門に押し、地震除けを期待しているわけだが、各歌についてもやはり地震除けの祈りが込められているのだろうか。
まず、あらためて「言経卿記」に記述されている和歌を見てみよう。
【史料2・抜粋】
一、地震ニ付而、去十三日ヨリ哥トモ有之、門ニ押之也、誰人ノ所意不知之トモ町々押之、松竹ノ葉ヲ同サシ了、ム子は八ツ門ハ九ツ戸ハ一ツ身ハイザナミノ門ニコソスメチハヤフル神ノイカキモ三日月ノユリヤナヲサン我身成ケリ
ユルクトモヨモヤヌケシトカナメ石ノカシマノ神ノアランカキリハ
各歌の意味をとっていくと、最初の歌は「棟は八つ、門は九つ、戸は一つの建物で、自分自身はイザナミの門に住む」、また二番目の歌は「三日月が揺れて(満月に)直るように、私も神(の住む場所の)齋垣を結い直したい」となる。三番目の歌は有名な「要石の歌」と呼ばれるもので、「鹿島の神がいる限りは、揺れたとしても要石が抜けることはないだろう」という意味である。
黒田(2003)によれば、地震と要石が関連性を持つようになるのは中世(13 世紀)であるという。そうすると、他の2 つの歌についても中世に生み出されたものと想定することが可能ではないだろうか。そこで以下において、各歌の内容について解釈し、人々が「和歌(呪歌)を押す」行為に期待したことは何だったのかを考察してみようと思う。なお、三番目の「要石の歌」については黒田(2003)の詳細な検討があり、またこの歌が地震鎮めのものであることは疑うべくもないと思われるので、今回の考察からは省くこととする。 
1 ム子ハ八ツ…
この歌では何らかの建造物を想像させる内容が詠み込まれている。ではその建造物とは何か。結論からいえば、それは具体的に現在あるような建物ではなく、架空の建造物であろうと思われる。「棟は八つ」とは八棟造という神社の本殿づくりの一つを指し、「門は九つ」は九門、すなわち皇居の門の表象としての言葉である。つまり、その建造物とは神の住む建物であり、そこは聖なる場所であることが詠み込まれているのである。聖域が詠み込まれているのと同時に、この歌では「イザナミ」という神の名が詠み込まれているが、なぜ「イザナミ」なのだろうか。これについては、「イザナミ」の持つ様々なイメージを検証することによってその理由が明らかとなる。
先に、黒田(2003)が地震と要石が関連性を持つようになるのが中世であることを指摘しているのを受け、「要石の歌」以外の歌も中世に生み出されたものが関連しているのではないかと想定した。その点から考えると、「イザナミ」のイメージとして2つのものが浮かび上がる。一つは「イザナミ=皇祖神」というものである。伊藤1986)は天皇には「戦乱・災害を防ぐという国土安穏、病気や怨霊を阻止するというような生命保全、現世利益をまねく福の招来」をもたらす呪術的権威が期待されていたとする。つまり「イザナミ」にも天皇の持つこのような呪術的権威が期待されたのではないかと考えられるのだ。
もう一つは「イザナミ=魔王」というイメージである。彌永(1998)によれば、中世の神話解釈(中世神話)における「イザナミ(イザナキ)」には魔王のイメージがあるという。それは次の史料から読み取ることのできるものである。
【史料11】
一。俗ノ云ク。此事實ニノカレカタキ難也。但シ又。或人ノ申シ侍シハ。第六天ノ魔王トハ伊舍那天ノ事也。伊舍那ト申ハ、即伊佐奈岐尊ノ御事也。其讀同キ也。不可疑ト申侍リキ。これは鎌倉期の僧・通海の「太神宮参詣記」という史料である。ここでは第六天魔王とは伊舎那天のことであり、「イザナキ」のことだとする。また、伊舎那天が「イザナキ」のこととする史料として、北畠親房の「神皇正統記」がある。
【史料12】
(前略)或説に伊弉諾伊弉冊は梵語なり。伊舍那天伊舍那后なりともいふ。以上の史料より、「イザナミ(イザナキ)」は中世には魔王というイメージを持たれていたということになる。
以上2 つのイメージから考えると、この歌では聖なる場所があり、その中でも「イザナミ」のいる場所にいるので、地震を起こす何者かが寄りつかない、地震を避けることができるというように解釈することができる。「イザナミ」の持つイメージとして、皇祖神と魔王というのは一見すると相反するものなのだが、どちらであっても「イザナミ」のいる場所にいるので地震を避けうるということになり、結論としては同じことになる。つまり人々はこの歌に地震除けの祈りを込めていたのである。
寛文二年以降の事例では、【史料8・9】のように「イザナミ」は「イザナキ」に変わっている。どちらが正しく、あるいは「イザナミ」から「イザナキ」に変化したとは軽々に言うことはできないが、上記の2 つのイメージからはどちらであっても問題はないように思われる。
2 チハヤフル…
「千早ふる」というのは枕詞で神にかかる言葉であり、例えば伏見宮貞成親王の日記である「看聞日記」(「看聞御記」)応永二十八年七月十一日(1421 年8 月9 日)条に、次のような和歌がある。
【史料13】
十一日。晴。伊勢宮人一人來。去六月七日伊勢有御託宣云々。去々年蒙古襲來之時神明依治罰異賊若干滅亡了、其怨霊成疫病万人可死亡云 々。神歌四首有之。如此事いたく申歟之間不及信仰。然而神歌記之。
千はやふる神も居墻はこえぬへしむかふ箭さきにあくまきたらす
ちはやふる神のまへなるやくふさめ
引とはみれとはなつ箭もなし
風ふくと梢うこかし花ちらし
あらふる神のあらんかきりは
千はやふる神のしき地に松うへて
松もろともに我もさかへん
ここでは疫病に対して、伊勢神宮の御託宣としての「神歌」四首が見られる。「言経卿記」の「チハヤフル…」もそうだが、このような「神歌」では神の「イカキ(齋垣)」というのが、大変意味を持っているように思われる。神の住む場所(聖域)との境界としての「イカキ」の存在、それは結界の役割を持つ。「看聞日記」中の「千はやふる…」では神が「居墻」を越えただろうといい、「言経卿記」中の「チハヤフル…」では神の住む地の「イカキ」を結い直そうというのである。神のいる聖域を区切る齊垣は、どちらの場合にも象徴的に用いられているわけだが、「言経卿記」中の歌で「イカキ」が詠み込まれていることには、重要な意味があるように思われる。「和歌を押す」という行為は、家内を一種の聖域化しようということを目的としており、門口がその境界となる。そして和歌中の「イカキ」は正に聖域との境界を示すものである。ここから、「イカキ」を詠み込むことは、「ここは聖域なのだ」ということを改めて確認することになり、「和歌を押す」ことの目的を強める意味 を持っていると考えられる。
さて、この和歌で注目されるのは「揺りや直さん我が身」という箇所である。この歌が地震に対しての呪歌である以上、地震と何らかの関わりのある内容を詠んでいるのだろうと考えられる。私は、ここに二つの意味が詠み込まれているのではないかと考えている。まず「揺りや直さん」は「揺り直し」ということであり、地震の際に唱えられた呪文に通じる言葉であるということが挙げられる。謡曲「道成寺」には、鐘が落ちた場面の後の間狂言として次のような台詞がある。
【史料14】
さてもさてもしたたかな鳴りやうであつた。某は地震かと思うて揺り直せ揺り直せと云うて這ひ廻うて遁げた。今一人の者は何としてかしらぬ。(中略)いやいや神鳴ではあるまい。ことのほか地響がしたに依つて地震かと思うて揺り直せ揺り直せというたことぢや。
この「道成寺」の間狂言で地震に対しての呪文として「揺り直せ」という語を見ることができる。「揺りや直さん」とは、地震に対しての呪文を詠み込んだものなのである。もう一つは、私自身を「揺り直」したいという歌の解釈からは、自分自身を立て直したい・やり直したいとの意味が考えられる。この場合の「我身」とは、「和歌を押」した人のことであり、特定の人物を指す語ではないと思われる。「和歌を押す」という行為は、個人(広くともその家の者)だけを対象とした祈りであるが、これが世間に広く流布することによって、個人の立て直し(やり直し)は世間の立て直しになり、「世直り」へと変化していくのだと思われる。アウエハント・他(1979)は地震を「世直し(世直り)」と表現するのは室町時代頃からあったと推測しており、網野(2000)はその推測が十分にありうるものだと評価している。しかしこの和歌からは「世直り」の意味を見出すことは難しい。地震のことを「世直り」と表現することが室町期まで遡りうるのかは分からないが、少なくともこの事例でそこまでいうことはできないだろう。
松竹の葉を挿すことは、流行正月を表そうとしているのだと想定したが、これは世の中のやり直しを意味している。一方この「チハヤフル…」の和歌からは地震鎮めなどと同時に、自分自身のやり直しの意味が詠み込められていると考えられる。「押」された和歌が個人(家内)の立て直しを、挿された松竹の葉が世間のやり直しを表しており、役割の分担が成り立っているのである。 
おわりに
以上、「言経卿記」から伏見地震時の震災対応を見てきた。山科言経は伏見地震時には、勅勘中で市井で生活していた。そのため市井の様子をつぶさに観察・聞き出し・記録することが可能であった。そのように市井を観察した結果として「言経卿記」には、民衆の震災対応として四つのものを見出すことができた。まず避難があり、地震小屋を設けたのだが、これは地震発生以前から道具を用意していたことを想定することができた。現代でいうならば、仮設住宅が地震に備えて準備されているようなものかと思われる。次に盗人用心のために夜番が置かれ、そして地震再来の噂が流れた。地震後の流言飛語というとあまりいい印象を与えないが、噂が流れることによって迅速な避難が可能となり、噂・流言というのも一種の対応であったということができよう。四つの対応を挙げたわけだが、まず避難があり、次に盗人用心、地震再来の噂があって、最後に「和歌を門に押す」という順番で行われたと考えられる。この順に行われたこともまた、意味のあることであったかと思われる。
四つある民衆の震災対応の中でも、「和歌を門に押す」という行為は大変注目される。これは、門口という一種の境界を守ることによって、家内における災難除け(地震除け)を期待したものであった。伏見地震直後より、巷には地震再来の噂が流れた。人々はその噂に対して不安感を抱いていたはずであるが、この和歌を書いた呪符を門口に「押す」ことによって安心を得ようとしたのである。現代から見ればおまじないの類にしか過ぎないが、当時の人々にとって「和歌を押す」ということは非常に現実的な対応だったのだ。
「言経卿記」には三種類の和歌が書かれていたわけだが、それはただ地震除けの祈りが込められているだけではなかった。地震をきっかけにして、自分自身を立て直そうという人々の意思を見出すことができた。そこには地震の恐怖に打ち震えるだけではなく、地震後の立ち直り、震災復興への人々の強い意志が現れているように思われる。
「ム子ハ八ツ…」の和歌で地震を除け、「チハヤフル…」で自分自身を立て直し、「ユルクトモ…」の和歌で地震が起きても安心だといっている。地震後に現れた和歌は三つがそれぞれ役割分担されており、うまい具合に組み合わさっていると言える。これらの和歌は三種類あることに意味があったのだ。 
参考文献
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「新定 源平盛衰記 第六巻」水原一1991、新人物往来社、83-118p。
「史料纂集 慶長日件録 第一」山本武夫1981、続群書類従完成会、230p。
「袋草子」塙保己一(編)1957、 「続群書類従 第十五輯下 和歌部」、761-818p。
「かなめいし」谷脇理史1999、「新編日本古典文学全集64 仮名草子集」11-83p。
「太極地震記」、青木国夫1979、「太極地震記・安政見聞録」、恒和出版、5-92p。
「日欧文化比較」岡田章雄1965、「大航海時代叢書11日本王国記・日欧文化比較」495p。
「太神宮参詣記」塙保己一(編)1957、「続群書類従 第三輯下 神祇部」781-785p。
「神皇正統記」塙保己一(編)1933、「群書類従 第3 輯 帝王部」1-127p。
「続群書類従 補遺二 看聞御記(上)」塙保己一(編)1958、続群書類従完成会、626p。
「道成寺」、野上豊一郎(編)、1984、「解註 謡曲全集 巻四」、中央公論社、415-432p。
「続日本の絵巻 13 春日権現験記絵(上)」、小松茂美(編)、1991、中央公論社、103p。
図1 奥の部屋(少年が病で伏せっている部屋)の壁に、牛王宝印の護符が貼り付けられている図2 家の出入り口での、疫病の侵入除けの呪い(戸口に魚を串刺しにすること、家の前で火を焚いたり髪の毛を挿したりすることで悪鬼の侵入を防ごうとする) 図1・2:「春日権現験記絵」(「続日本の絵巻」13 より)  
 
河越氏とその館跡

 

一 河越館跡研究のあゆみ
文献にみる河越館跡
入間川の左岸で、川越市の中心部より西方約3kmに位置する上戸周辺は、川越の旧地だと言われている。
川越藩主・秋元涼朝(すみとも)の家臣である大陽寺盛胤が、宝暦三年(1753)に著した川越の地誌である「多濃武之雁」によれば、
「上戸城跡 上戸村。昔川越の城地のよし天神縁起にもあり世人みないふ事也。上戸の城といへる事いづれの書にも見えず。思ふに上戸村鯨井村と隣にて一所の域也。今上戸の城跡といへるには旧記に鯨井の城成べし。鯨井の城は北条家持国の時宮城美作守好居之、御領国となり、戸田左門一西在城す。其後廃城となり、此城に有竹林の類、みな川越に寄たりと云。此言を以て世俗に移せりと云成べし」とある。
また、川越城下鍛冶町の町名主、中島孝昌が、享和元年(1801)に著した「武蔵三芳野名勝図会」には、「川越の名の起りは、入間川を越る謂か。河越の事(中略)は国書(中略)に所見ありと聞えず。漸やく東鑑に初て河越の名見ゆ。亦河越太郎重頼以下の一族居住の地、今いづくにや不詳。一説に大仙波村に河越太郎が館の堀跡ありといへども、甚非ならんか。すでに東鑑五に仙波次郎と云者有。然は其時代より仙波と河越と別なる事知るべし。河越の館の旧地は河越の内なるべし猶末の條下に辨すべし」
とあり、河越氏の館については不明であるが、川越の内にあることを示唆している。
ところが、幕府によって文化文政期(1804〜1830)に編纂された「新編武蔵風土記稿」になると、上戸地域を川越の旧地とする説をとっている。
「本城ハ山ニヨリ外郭ハ池ヲ背ニシテ西南ノ二面ノミ平地ナリ(中略)当城ハ長禄元年(1457)四月太田備中守入道道真上杉修理大夫持朝ノ命ヲウケテ仙波ニアリシ城ヲ引移シテ要害ノ縄張アリシ処ナリト
河越城ハ古ヘ今ノ高麗郡上戸村ニアリシトイヘリ ヨリテ今其地ニツキテ捜窮スルニ證跡トヲボシキ事少ナカラス モトヨリ上戸ノ辺昔ハ当郡ニ隷シテ河越ノ内ナリシコトハ既ニ庄名ノ條ニ辨セシ如クナレハソノ理ナシトセス 然ラバ当城始ハ上戸ニアリシヲ後又今ノ所ヘ移セシナラン 小田原記ニ仙波ヨリ移リシトイヘトイカゝアルヘキ東鑑ニノセタル河越太郎重頼等ノ事跡及ヒ南方紀伝桜雲記等ニ正平二十二年(北朝貞治六年)(1367)関東宮方一揆兵ヲ起シテ武州河越ノ城ニ楯籠ルトイヒ武家日記ニ応安元年(1368)六月武州平一揆河越ノ館ニ引籠ルトミユ
又鎌倉大草紙ニ上杉修理大夫持朝宝徳ノ頃出家シテ道朝ト号シ河越城ニ居リシナト云コトハスヘテ高麗郡上戸村旧蹟ノ條ニ出セリ 又長禄元年コゝヘ移セシ頃ハ城塁ワツカニ今ノ本丸ノアタリノミニテ後世掻上城ト云類ナリシト云云・・・」
以上の如く「新編武蔵風土記稿」では「東鑑」にある河越太郎重頼の事項をもとに平安末期から、南方紀伝や桜雲記を引用して、関東宮方および平一揆のあった上戸の館こそ河越館であり、上杉持朝が太田道真・道灌に命じて長禄元年(1457)に川越城を築城し移転するが、これまで続いた上戸の城館跡の地は、川越の旧地であるとしている。
江戸幕府直撰・昌平坂学問所編による地誌であり、「多濃武之雁」「武蔵三芳野名勝図会」よりも、川越の城館跡と旧地の経過について、豊富な文献資料を検討した上で実証的に明らかにしている。この点が従来のものと明確に異なり特に注目に値するところである。
河越館跡の研究のあゆみ
八代国治博士は、「武蔵野」の皇室御領より見たる川越≠ナ河越庄の中心について、注目すべき説を述べており、その主要な部分について紹介しておくことにしよう。
「河越庄の中心について・・・・・・入間川を渡った所のあの上戸の土地が河越荘の本拠であろうと思はれます。此の上戸村付近は、古来より三芳野と称せられ、伊勢物語に出て居る通り、風流者の業平が彼処で有名な歌を詠まれた程で、どうも早くから開けた所であったろうと思ふ。
河越氏が川に臨んで河越城を開いたのであります。隨って新日吉社も亦同じく彼処に祀られたものであると思はれる。上戸の畑の真中に大きな神社があります。―中略―渡辺(世祐)博士と共に―大正二年一月三日と記憶して居るが―彼処を踏査したことがあります。その踏査のことを述べますと、字山王原に神社があります。松と杉の林の中に寂然として祀られて頗る荒廃して居るが即新日吉社であります。
其の時の土地の人から聞いた話には、それより四、五年前までは厳然として堀が残って居った。それを心なき人が埋めて桑畑にして、私達の往った時には、毫も堀の跡を留めず、昔の面影を偲ぶよすがも無かったのであります。其の上十四、五年前まで、非常に森が茂って、朱欄苔滑かに、荘厳の気人を襲ふものがあったそうであるが、今やその森は濫伐せられて、僅かに松と杉の若木が点点と残って居るだけである。―中略―
此の河肥の庄も、恐らく彼の山王様を中心として、順次発展したものであろうと思はれます。凡て地名に八幡とある所には必ず八幡神社があり、神社の社領のある所には必ず伊勢神宮の神明が祀られてある。それと同じやうに、河肥の庄も新日吉の社領であるから、新日吉神社が祀られたものと思はれます」
八代国治氏は上戸を河越氏の本拠の地であり、自分の邸内に新日吉神社の大きな建物をたてて、河越荘の総鎮守とした見解を述べらている。
この説にもとづき、私も現地を何回も訪れ踏査をしたが、よく観ると、「新編武蔵風土記稿」にみられる様に若干の土塁と堀跡の痕跡が今も認められる。
この上戸の新日吉神社の境内から、昭和二十年の台風の際、神木が倒れ、その根元のえぐられた土層中から、剣菱文のある布目の軒瓦が検出された。現在そのうちの二枚が吉田長治氏宅に保管されている。その瓦は鎌倉時代ごろの遺物であり、同神社が、河越荘の総鎮守で、養寿院の銅鐘の銘文にある、「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」であることを補強する有力な物的資料である。
また「大日本地名辞典」の編著者吉田東伍氏は、同書で「河越又川越、河肥に作り、旧庄名たり。近世には領名に呼び、すべて川越四附の村里を籠絡せしが、境界明白せず。或は河越の本拠を論じて、入間川の西岸、上戸村なりと言ふを以て、河越の言義に協合せしむる者あれども、未確徴を得ず」と論じている。
同氏は河越の本拠を河越氏の本拠と理解するのがその点明確でないが、あえてこのように理解した場合、未確徴を得ずとしているが、それを昭和四十六年(1971)から九次にわたる発掘調査による遺構遺物をとおして、確認することができた。その詳細を後述するが、ニ・三の例証を挙げて、課題に答えることとする。
発掘調査はかたる
九次にわたる発掘調査は、領域確定のための確認調査であり、したがって周辺部に主力が注がれ、字地名で言えば竜光・古屋敷・花見堂・天王と新田屋敷の一部である。
このうち特に新田屋敷は、館の主要部分を占め、常楽寺の寺域でも発掘調査は、土塁の外側の堀の確認調査のみにとどまっている。主要部分は今後の発掘調査にまつところである。
しかし新田屋敷なる地名は、平一揆で河越氏が衰退し、その後江戸時代になってつけられた名称で、字に古い名称がないからと言って、あたかも河越館でないようなことを言う人もいるが、これはおかしなことであり、また古屋敷の地名のところと、さらに竜光・花見堂からは、弥生や古墳時代の住居址や井戸址なども若干検出されているが、圧倒的に多いのは、平安時代の竪穴住居址や同時代から鎌倉・南北朝期にかけての掘立柱建築址・井戸址や其の他の諸遺構であり、川越市教育委員会の発掘調査報告書をみれば明確である。
しかも館跡の北東部(第三次調査区)を発掘したところ、真間期から国分期(七世紀〜十一世紀)に至る竪穴住居址・井戸遺構が多数検出されており、館の築造以前にこの地に集落が営まれており、この地に河越氏が館の縄張りをするに当って、農民をはじめ地域住民を立ち退かせていることがわかる。したがって、平安末期の竪穴住居址が検出されたのは一軒のみで、他のはすべてそれ以前のものであった。さらには、この館には入間川に通じる運河が開設されていたことが、七次・九次の発掘調査によって検出されている。この運河の堀は上幅11m、底幅5.5m、深さ3mの大規模なもので、岸辺にもやい柱や、北側に倉庫址も確認されている。しかも、緑釉陶器の坏や、青磁・白磁片や木器・馬の歯・ホラ貝など、鎌倉時代から南北朝期頃の貴重な諸遺物が検出されている。
入間川は急流の砂利川で、江戸時代筏が下ることはあっても、船の遡行は不可能な川であると言う人がいるが、現在の入間川の川道をみて判断するのは早計である。なぜならば、入間川の沿岸地区にあたる大東地区の増形や大袋新田・大袋・豊田本・小室・上寺山・山内一・寺山・的場・鯨井・府川・北田島などの水田地帯は、かつて入間川が運んできた土砂であり、砂利川ということ事態、変な表現であるが、砂礫を運ぶ急流であったならば、これらの地域では水田はできないはずであり、砂や礫の層で水田が経営され稲ができるであろうか。あったらそれこそ大変である。
前述した諸字の地域の美田は、肥沃な有機質の土が入間川によって運ばれ堆積したからこそ可能なのである。明治以前には、入間川は古谷地区の蔵根・石田本郷・鴨田・菅間・府川・山田・上寺山などの地区を、しばしば川道を変えて曲流していた。大洪水の時には砂礫を上流から押し流し堆積したこともあったが、普段は豊かな流であったことが考えられる。
古尾谷氏の館跡である「全中寺」にも運河があり舟だまり≠ェある。しかも、入間川の残した旧河川の一部である伊佐沼からは、老袋と共に、縄文時代の丸木船が出土している。
上戸地区の現在の入間川の流域に砂礫層が多いのは、砂利取りを営業として日夜採取したためであり、現在もブロック製造のため河川敷が掘られていることをみれば明瞭である。伊佐沼から西へ直線距離で僅か5kmであり、曲流する河道にしても10km弱である。
江戸幕府が、寛政六年(1794)に荒川を入間川とに瀬替して、荒川筋の舟運を行った時には、川越では老袋と蔵根に河岸場がもうけられている。しかもこの時には秩父の武鼻にまで河岸場が設けられたほどであり、砂礫があろうと、江戸への廻米など必要物資を運搬する重要度があれば、かなりな困難を克服して舟運ができるよう改修しているのである。
入間川へ江戸時代に舟が入らないというのは、江戸幕府が河岸場開設の認可権を有していたので、容易に開設することができなかったのである。
しかしそれだからと言って、入間川に鎌倉時代から室町時代にかけて舟運が無かったと言う理由にはならないし、同じ時期の古尾谷氏の館に船が入るのに、河越氏の館には船の出入がないということ自体、誠に奇妙なことである。
かつて、静岡県浜松市の伊場遺跡で、郡衛であると調査団側は遺構遺物から主張したのに対し、確証はないという学者もいたのと全くよく似ており、河越とでもいう文字のある遺物が出なければ信じないという人がいるから、全く困るのである。さも無ければ河越氏の亡霊でも出て証明しなければだめだと、思っているのであろうか。
それより今後の研究調査の中で河越氏から上杉―北条へと同館跡がどのように変化して行くかで、もっと協力研讃した方が建設的であろう。
二 館跡の構造と規模
2号堀遺構/3号堀遺構/掘立柱建物遺構(A柱穴群/B井戸遺構)/館跡の大手の構造/北東部の構え堀と諸施設について/建築遺構/井戸遺構/運河について/運河とその機能/掘立柱の倉庫址について/運河の遺物/常楽寺東側の地域の遺構について/中世の住居規模/井戸遺構の分類/八次の井戸出土品
三 河越館跡と入間川洪水伝説
河越館跡は、入間川の左岸の台地上に築かれ、その荘園の耕地は、この館の周辺の沃野があてられた。この荘園の領主と荘民は、入間川の氾濫にたびたび遭遇している。「発心集」に入間川氾濫の情景が記るされている。
「発心集」の作者は鴨長明(1153〜1216)である。長明は賀茂神社の禰宜、長継の子として生まれ、後鳥羽上皇にその歌才を認められ、和歌所の寄人になったが、父祖の後継者として禰宜を望んだが果たせず、五十歳で出家した。建暦元年(1211)歌人として鎌倉に下り、将軍実朝と会見し、鎌倉初期のはげしい政治的変革や、大地震・飢饉・風水害・火災などを体験し、自己の不遇な生いたちと、貴族社会の没落を重ねあわせ、世の無常と人生の敗北的いとなみを痛切に感じて、やがて日野の外山に方丈の庵をたて、「方丈記」を著した。
また、晩年に「発心集」を著している。その内容は、百余話の仏教説話に、随想、評論、説教などの文を添えたもので、鎌倉に赴いた折の伝聞の中に、入間川の洪水伝説が記るされている。その部分について次に原文で示す。
「発心集(慶安四年中野小左衛門刊行本)」
武州入間河沈水事
武蔵国入間河のほとりに、大きなるつゝみをつき、水をふせぎて、そのうちに田畠をつくりつゝ@在家おほくむらがり居たる処ありけり、A官首と言ふ男なんそこにB宗とある物にて、年ごろすみける、ある時、五月雨日比になりて、水いかめしう出でたりける、されど、未だ年比此の堤の切れたる事なければ、さりともと驚かず、かゝる程に、雨いこぼす如くふりて、おびただしかりける夜中ばかり、俄にいかづちの如くよにおそろしくなりどよむ声あり、此の官首と家にねたる者ども皆驚きあやしみて、こは何物の声ぞとおそれあへり、官首郎等をよびて、堤のきれぬると覚ゆるぞ、出でて見よと言ふ、即ちひきあけて見るに、二三町ばかりしらみわたりて、海の面とことならず、こはいかがせんと言う程こそあれ、水ただ増りにまさりて、天井までつきぬ、官首が妻子を初めて、あるかぎり天井にのぼりて、けたうつばりにとり付きてさけぶ、この中に官首と郎等とは、ふき板をかきあげて、むねにのぼり居て、いかさまにせんと思ひめぐらす程に、此の家ゆるゆるとゆるぎて、つひにはしらの根ぬけぬ、堤なからうきて湊の方へ流れゆく、その時、郎等をとこの云ふやう、今はかうにこそ侍るめれ、海はちかくなりぬ、湊に出でなば、此やはみな浪にうちくだかれぬべし、若しやと飛入りておよぎて心み給へ、かく広く流れちりたる水なれば、自ら浅き所も侍らんと云ふをきゝて、おさなき子女房なんど、我をすてゝいづちへいまするぞと、おめく声最も悲しけれど、とても角ても助くべき力なし、我等ひとりだにもしやと思ひて、郎等男と共に水へ飛び入る程の心のうち、いけるにもあらず、しばしはふたり云合せつゝおよぎ行けど、水は早くて、はては行末しらずなりぬ、官首ただひとり、いづちとも無くゆかるゝにまかせておよぎ行く、力はすでに尽きなんとす、水は何くをきはとも見えず、今ぞおぼれしぬると心ぼそくかなしきまゝに、かこつかきには仏神をぞ念じ奉りける、いかなる罪のむくひにかゝる目を見るらんと、思はぬ事なく思ひゆく程に、白波の中にいさゝかくろみたる処の見ゆるを、若し地かとて、からうじておよぎつきて見れば、流れ残りたるあしの末葉なりけり、かばかりのあさりも無かりつ、こゝにてしばし力やすめんと思ふ間に、次第に悉くまとひつくを、驚きてさぐれば、皆大くちなは也、水に流れ行くくちなはどもの此蘆にわづかに流れかゝりて、次第にくさりつらなりつゝ、いくらともなくわだかまりゐたりけるが、物のさはるを悦びて、まきつくなりけり、むくつけく、けうとき事たとへん方なし、空はすみをぬりたらんやうにて、星一つも見えず、地はさながら白浪にて、いさゝかのあさりだになし、身には隙なくくちなはまきつきて、身も重くはたらくべき力もなし、地獄の苦しみもかばかりにこそはと夢を見る心地して、心うくかなしきこと限なし、かゝる間に、さるべき神仏の助にや、思ひの外に浅き所にかきつきて、そこにてくちなはをば、かたはしより取放ちてける、とばかり力やすむる程に、東しらみぬれば、山をしるべにて、からうじて地に著きにけり、船求めて先づ浜の方へ行きて見るに、すべて目もあてられず、浪に打破られたる家ども、算を打散らせるが如し、汀にうち寄せられたる男女馬牛の類数も知らず、其の中に官首が妻子どもを初として、我家の者ども十七人ひとり失せでありけり、泣く泣く家の方へ行きて見れば、三十余町白川原になつて、跡だになし、多かりし在家、たくはへ置きたる物、朝夕よびつかひし奴、一夜の中にほろび失せぬ、此の郎等男ひとり水心ある者にて、わづかに寿いきて、明る日尋ね来りける、かやうの事をきゝても、厭離の心をば発すべし、是を人の上とて、我かゝる事にあふまじとは、なにの故にかもて放るべき、身はあだに破れやすき身なり、世はくるしみを集めたる世なり、身はあやうけれども、争でか海山をかよはざらん、海賊おそるべしとて、すずろに宝をすつべきに非ず、況やつかへて罪をつくり、妻子の故に身をほろぼすにつけても、難にあふ事数も教らず、害にあへる故まちまちなり、只不退の国に生まれぬるばかりなん、諸の苦しみにあはざりける」
@在家の家々があって集落を形成していた所があった。
A冠首・貫首ともいう。任官して人の上に立つ者。また冠者は六位に叙せらても無官の者。秩父の冠者とは、秩父氏一門の惣領で葛貫別当能隆の子孫河越氏を指す。
B重要な人物。
この入間川洪水の情景は、河越庄とこれを支配する在地領主河越氏の姿を示したものに間違いないと思われる。
五月雨(さみだれ)ごろに大水が出て堤防が切れ、三十余町歩ほどが全部水没して、領主の妻子をはじめ一家七人が溺死し、多数の「在家」「朝夕よびつかひし奴」が一夜にして滅び、郎党一人だけが残ったのである。この「発心集」の入間川洪水の話は、何年頃の事であろうか。鴨長明は建保四年(1216)に没しており、また貞永元年(1232)には、武蔵入間郡榑(くれ)沼堤を北条泰時が、武蔵の地頭らに命じて修築している。(この榑沼は、横沼の誤記であるとされ、入間川と越辺川の合流点である坂戸市横沼付近を指しているのであろう)
これらのことからして入間川大洪水のこの話は、十三世紀初頭ごろのことと思われる。
「吾妻鏡」に、建仁元年(1201)八月、関東が大暴風雨となり、倒壊する家屋多数で「十一日、下総国葛西郡海辺の潮人屋を牽き千余人が漂没」したとあり、また、建保元年の八月七日に「甚雨洪水」とある。これらは旧暦の八月は台風シーズンで、入間川洪水説話の五月雨とは合わないが、この説話の洪水も台風シーズンであったのではなかろうか。
それにしても、入間川の氾濫にしばしば襲われた地域に、在地領主河越氏は居館を構え、私的な郎党をはじめ、下人、所従が館の一画の堀之内に、二間四方の掘立柱の家に住み、これらを包括した構えこそ機能的な館であり、本来の姿である。しかも、文字どおり、河肥≠ニいわれる肥沃な地を切り開いていった痕跡が、遺構から歴然とうかがい知ることができる。館跡一帯には、入間川の氾濫土が厚く堆積しており、こうした水覆の地に進出して困難な条件とたたかい、生産活動に勤しんでいたのである。 
 
史料に書かれた浅間山の噴火と災害

 

1 はじめに
火山はそれぞれ固有のくせをもっている。火山災害を防いだり軽減するためには、評価対象となる火山で過去に起こった災害実績を正しく把握することが基本となる。浅間山は日本の代表的活火山のひとつであり、その噴火と災害を書いた史料は多数ある。とくに、1400人余の死者を出した1783年の噴火災害の記録は大量にあり、地元では「天明三年の浅間押し」伝承がいまも語り継がれている。
浅間山の噴火記録は、これまで小鹿島(1893)・大森(1918)・武者(1941)・村山(1989)らによって研究された。しかしこれらの研究はどれも、史料の記述を批判的に読むというスタンスから遠い。史料の記述を鵜呑みにしてそれを事実として扱っているものもある。史料を書いたのは生身の人間だから、書かれていることすべてが事実であるという保証はない。筆者の過誤もあるだろうし、意図的な情報操作もあろう。また、転記の際のミスもあるかもしれない。
私たちは、史料に書かれた浅間山の噴火と災害の歴史を正しく理解するために史料原文にあたり、噴火と記録の同時代性、史料が執筆された場所、などに留意して、それらを批判的に読んだ。ただし、原文献が入手困難ないくつかの史料については武者史料(武者、1941)に引用されたものを読むにとどめた。
史料記述の真偽を確かめる手段のひとつとして私たちは噴火堆積物を積極的に用いた。地震史料の場合も野外の断層変位や液状化跡によって史料記述の信憑性を確かめることができるが、噴火堆積物からは噴火のダイナミクス・規模・強度・年代・推移など格段に豊富な情報が解読できる(早川、1990)。史料を批判的に読むときの試金石として噴火堆積物はたいへん有効である。
ただし、明治以降の噴火災害はどれも強い爆発によるものだが規模が小さいために、個々の爆発による堆積物を特定することができない。これらについては、気象庁(1991)のまとめを当時の新聞記事および気象庁が明治以来毎月発行している「気象要覧」によって確認する作業を行った。
史料中の年月日を和暦から西暦へ換算する際には、早川・小山(1997)の勧告に沿って、1582年以前はユリウス暦へ、それ以降は現行のグレゴリオ暦へ換算した。 
2 江戸時代以前の噴火
13世紀までは、浅間山の噴火について書いたのではないかと疑われるすべての史料を取り上げる。14世紀以降は、注目すべき噴火または議論の余地がある史料のみを取り上げる。
685年(天武天皇十四年)
『日本書紀』に、「十四年春・・・三月・・・是月灰零於信濃国草木皆枯焉」とある。この降灰記事は、小鹿島果(おがしまはたす)(1893)によって「天武天皇十三年三月、信濃浅間山噴火、雨灰草木皆枯(日本書紀)」と紹介された。つまり、彼は原文には書かれていない「浅間山」という三文字をそこに挿入したのである。信濃国(いまの長野県)にこの降灰をもたらした火山が浅間山である可能性はもちろん否定できない。しかし、草木を枯らすほどの顕著な降灰はおそらく高い噴煙柱が立ったことを意味するだろうから、浅間山から噴火したのならその灰は早春のつよい西風に吹かれて信濃国ではなく上野国(いまの群馬県)により多く降ったはずである。主に信濃国に降灰がみられたのであれば、その給源火山はより西方に求めるほうが自然ではなかろうか。たとえば新潟焼山・焼岳・乗鞍岳・御岳からの降灰であった可能性も検討されるべきである。
大森(1918)もこの降灰記事を浅間山噴火の項の冒頭におき、「天武天皇十三年三月(685年4月)是月灰零於信濃国、草木枯焉(日本書紀)」と、注釈なしで、書いている。以後この見解は定着したらしく、浅間山の最古の噴火を685年とみなした文献は多数ある。
なお、小鹿島(1893)と大森(1918)が天武天皇十三年と書いているのは、彼らが壬申の乱のときの弘文天皇即位を認めて、『日本書紀』に書かれた年数から一減じて年紀を表記する方法をとったからである。現在の日本史学界では、日本書紀の記載の通り天武天皇十四年と表記するのがふつうである。西暦では685年に相当する。
887年(仁和三年)
仁和三年(887年)に浅間山が噴火したという主張が、かつてあったらしい。村山(1989)が指摘したとおり、その根拠としてあげられた仁和三年の記述(『越後年代記』など)は新潟焼山の噴火を書いたものと解釈するのが妥当である。新潟焼山の噴火堆積物の分布と特徴およびその放射性炭素年代も、この解釈を裏付けている(早津、1994)。
1108年(嘉承三年/天仁元年)
浅間山のBスコリアの噴火は、『古史伝』などの記述を根拠として、1281年に起こったと考えられたことがあった(荒牧、1968)。しかし新井(1979)は、『中右記』の記述と噴火堆積物の放射性炭素年代を理由に、Bスコリアの噴火は1108年に起こったと考えた。
Bスコリアは、浅間山の東50kmの前橋市で15cmの厚さをもつ。火山近傍では、その中間に追分火砕流堆積物を挟んでいる。追分火砕流は山頂火口から南北両方向に流下し、軽井沢町追分・小諸市石峠・嬬恋村大笹・長野原町北軽井沢に達した。多数の死者があっただろうが、火砕流による被害状況は記録に書かれていない。この噴火のマグニチュード(早川、1993)は5.1で、過去1万年間に浅間山で起こった噴火の中で最大である。
『中右記』の天仁元年の条に、次のようにある。
天仁元年八月二十日(1108.9.28)「近曽天下頻鳴動、若依何祟所致哉」(この項、榎原雅治さんからの2006.7.17教示による。)
同年八月二十五日(1108.10.3)「寅卯時許、東方天色甚赤」
同年九月三日(1108.10.11)「天晴、早旦東方天甚赤、此七八日許如此、誠為奇、可尋知歟」
同年九月五日(1108.10.13)「近日上野國司進解状云、国中有高山、稱麻間峯、而從治暦間(1065-1069)峯中細煙出來。其後微々成、從今年七月二十一日(1108.8.29)猛火燒山峯、其煙屬天沙礫滿國、【火畏】燼積庭、國内田畠依之已以滅亡、一國之災未有如此事、依希有之怪所記置也。」
同年九月二十三日(1108.10.31)「今日午時許有軒廊御卜、上卿源大納言、俊、上野國言上麻間山峯事」
『中右記』は権中納言藤原宗忠の日記である。京都で書かれた。嘉承三年八月三日(1108年9月9日)の鳥羽天皇即位によって改元されて天仁元年になったのだから、この噴火の報告が京都に上がったのは天仁元年九月五日だが、この噴火が始まった七月二十一日はまだ嘉承年間である。
上野の国で発生したこの事件が京都に伝わるのに一か月半もかかったという事実は、当時の交通事情を考慮しても遅すぎるように思われる。上野の国がいちじるしく混乱して京都への報告が遅れたのだろうか。
浅間山の噴火を記述した部分を口語訳してみよう。1108年8月29日、前橋にあった国庁の庭に火山灰が厚く降り積もった。そのため上野国の田畑の多くが使用不能になった。これ以前の浅間山は、治暦年間(1065-1069)に噴煙を細く上げていたが、その後、かすかになっていた。9月28日に、京都で何度も鳴動があった。そして10月3日から11日まで、東方の空が甚だしく赤かった。
『中右記』と同じく京都で書かれた摂政藤原忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』の嘉承三年八月条にも次の記述がみつかる。
「十八日(1108.9.26)、乙未、天晴、丑剋許東北方有大鳴、其聲如大鼓、夘時従院左衛門尉頼、来云、御使、此鳴如何、余申奇由了、午剋許聲又同」
「廿日(1108.9.28)、丁酉、天晴、(中略)天下鳴事有御卜」
八月廿日の鳴動だけでなく、その二日前、十八日未明にも、北東の方角から太鼓のような大きな音が聞こえたという。白河院が「この音は何か」と忠実に問い合わせたほどだった。『神皇正統録』に「天仁元年戊子八月十七日(1108.9.25)、虚空ニ聲有テ鼓ノ如シ。数日断マス」とあるのは、日付の切り替わりを当時の常識的な寅の刻で考えて、丑はまだ前日だから十七日としたのだろう。
『中右記』と『殿暦』の記述を浅間山麓の地質調査結果と照合すると、噴火経緯を次のように組み立てることができる。8月29日、Bスコリア下部の噴火が起こった。それは一日ほどで終わった。追分火砕流からのサーマル火山灰はBスコリア下部を整合に覆い、Bスコリア上部に浸食不整合で覆われているから、この噴火の最後の段階で追分火砕流が山頂火口から南北2方向に流れ下ったと考えられる。それは、おそらく8月30日だったろう。噴火はいったん収まったが、4週間後の9月26日未明からBスコリア上部の噴火が始まった。これは数日継続したらしい。Bスコリア上部の分布軸は北東に伸びていて、東南東に伸びるBスコリア下部と方向が違う(中村・荒牧、1966;宮原、1991)。4週間の時間差は、この風向きの違いをうまく説明する。上野国の田畑の多くは浅間山の南東に当たるから、初めの噴火で使用不能になった。上の舞台溶岩の流出時期は史料から推定することができない。
九月二十三日に行われた軒廊御卜(こんろうのみうら)は、宮中の渡り廊下で行われた占いのことである。彗星の出現や自然災害が国家に吉であるか凶であるかを判定して、もし凶とでた場合には改元などでそれを予防した。浅間山のこの噴火の場合は、改元には至らなかったが軒廊御卜の対象となった。辺境で起こった噴火であるにもかかわらず当時の中央政府にこのように注目された事実は、その規模がかなり大きかったことを示していると考えてよいだろう。
このあとまもなく東国には再開発ブームが起こり、12世紀中葉に荘園造立ラッシュが訪れた。浅間山の1108年噴火が、北関東地域が古代から中世へ転換するきっかけになったと峰岸(1992)は指摘している。
他の古記録では、『立川寺年代記』に「天仁元、此年信州浅間峰震動」とあり、『興福寺年代記』に「天仁元年、天ニ聲アテ鼓ノ如ク鳴ルコト数日不断」とある。
Stuiver and Pearson(1993)によると、1108年に対応する放射性炭素年代は950yBPである。Bスコリアから980±100yBP(GaK505;荒牧・中村、1969)と1010±90yBP(GaK506;荒牧・中村、1969)、追分火砕流堆積物から870±80yBP(TK21;Satoetal、1968)が報告されている。
この地域で通常7月下旬に行われる「土用干し」のあとの状態の水田を、群馬町同道遺跡でBスコリアが覆っていることは、それが1108年8月下旬に降灰したと考えることと矛盾しない(能登、1988)。一方『古史伝』に書かれた1281年6月26日は、覆われた水田の状態が示す降灰の季節と矛盾する。
1281年(弘安四年)
弘安四年六月九日(1281年6月26日)に浅間が噴火したという記事は、天明三年(1783年)の噴火記録を書いた『浅間大変記』とその類書の冒頭に書かれている。すなわち、それは噴火から500年も後になって書かれたものである。平田篤胤(1776-1843)の『古史伝』に書かれている記事もたいへんよく似ているから、これも『浅間大変記』を元に書かれたにちがいない。
「浅間山ハ此度初て焼出し候にてもなし。昔弘安四年六月九日の暮方、山より西に黄色之光り移り、同夜四ツ時焼出し、信州追分、小諸より南へ四り余の間灰砂降り、西に海野え続き田中之辺迄今に田地火石おし出し置、北に山麓迄おし出し、其所を石とまりと言習いせり。人生百歳をたもつ者なけれは知らす。」(浅間焼出山津波大変記)
「追分・小諸より南四里余りの間砂灰ふり、大石今にあり、北は山の麓まで押出して、今に此所を石どまりと云う」(古史伝)
これら史料がいうところの場所のいずれにも、そのような噴火堆積物をいま見つけることができない。「石とまり」という地名も特定することができない。この噴火史料はまったく信頼がおけないものか、あるいは事実に基づいているとしても、M2以下の小さな噴火を記録したものであろう。
1532年(享禄四年)
井出道貞(1756-1839)による『天明信上変異記』に以下の記述がある。
「享禄四年辛卯十一月二十二日大雪にて、降り積る事六尺又は七尺の所もあり、二十三日二十四日晴天に而、二十五日より二十七日迄時々降りける、然るに二十七日浅間山大に焼出し、大石小石麓二里程の内雨の降る如く、中にも大原といふ所へ七間餘の岩石ふりける、是を七尋石と名づけて、今に有。灰砂の降る事三十里に及べりとぞ、無間谷といへるは浅間を引まはし、巌石峨々として恐しき大谷なり、前掛山といふは、焼山を隠して佐久郡に向、鬼の牙山黒生山の間谷に右の大雪降り積もりし処に、焼石のほのほにて一時に消えたり、又二十七日七ツ時より大雨となり、二十九日まで昼夜の別ちなく降りければ、山々の焼石谷々より押し出し、麓の村々多く跡方なく流れしとそ、其後街道不通路になりしを、其時の領主近郷へ申付、小ともかたよせ、四年が間にて街道普請成就せり、今に至り山の半腹街道筋皆焼石のみなり、是降りたるにはあらず、其時押し出せし石なり。」
『天明信上変異記』も天明三年(1783年)の噴火のあとに書かれた記録である。享禄四年十一月大雪のあと、二十七日(1532.1.4)に浅間山が噴火して泥流が発生し、多数の村が流された。街道を修復するのに四年かかったという。八木(1936)は蛇堀川の中流に「七尋石」を図示している。しかしこの記録がどこまで事実を忠実に書き残しているかは、同時代に書かれた原史料がみつからないかぎり判断できない。16世紀は、日本各地で洪水の被害記録が多い時代である。
1596年(文禄五年/慶長元年)
同じく『天明信上変異記』に次の記述がある。
「慶長元年四月四日(1596.5.1)より八日迄山鳴大焼、八日午刻大石降、七月八日大焼、石近邊へ降、人死」
この年は、『武江年表』に「六月十二日、京都・畿内・関東諸国大ニ土降ル、マタ毛ヲ降ラス」とあり、『当代記』に「前ノ七月ノ如、浅間焼上、西ノ方ヘ焔コロフ、此故カ近江・京・伏見、其比灰細々降、其故ニヤ秋モ少々凶と云々、信濃ナトハ此灰一寸計ウマル、関東ハ不降、但是モ同秋凶云々」とある。この他、『続史愚抄』『アジアの記録』などにも降灰降毛の記事が認められる(武者、1941;村山、1989など)。これらの史料の多くは18世紀に書かれたものだが、国立公文書館に保存されている『当代記』写本4種類のうちひとつは江戸時代前期に書かれたものだという。
小山(1996)は、『義演准后日記』『舜旧記』『孝亮宿【示すへんに禰のつくり】日次記』などの同時代史料に1596年の畿内降灰の記述があることを指摘した。したがって、少なくとも畿内に降灰・降毛があったことは事実だとみてよい。1596年の畿内降灰・降毛事件の給源を浅間山とする村山(1989)の解釈には議論の余地があり、白山・九州の火山・大陸の火山などが給源である可能性を検討するべきだと、小山(1996)は述べた。しかしその検討はまだ結論をみていない。ここでは『当代記』の記述を信用して、浅間山が給源火山だったと考えることにする。史料がいう季節は夏である。夏期における日本上空の風向きを考えると(早川、1996、p101)、浅間山の噴火によって京都に降灰・降毛があったと考えてもさほどおかしくない。ただし『天明信上変異記』の「七月八日大焼、石近邊へ降、人死」という記述は、1783年噴火のクライマックスとまったく同じ月日なので、創作の疑いがある。
浅間山東麓でBスコリア(1108年)とA軽石(1783年)の間にみつかるA'軽石は、この年前後の噴火の堆積物かもしれない。
1598年(慶長三年)
『当代記』に、「慶長三年....四月八日(1598.5.13)、浅間山江参詣衆八百人程焼死云々、昨日大小之違ニテ、今日ハ不縁日之由、山巓ニテ呼ルト云へ共、只人間ノ所謂也ト心得、不用之、参詣之処、如此、」とある。
『当代記』は、著者や成立年代がよくわからない記録である。800人ほど焼死したと書いているが、「云々」と締めくくっていることから、伝聞情報をもとに書かれた記事であると思われる。
たしかに四月八日は浅間山の山開きの日であるから(田村・早川、1995)、その日に大勢の信者が登山したかもしれない。しかし800人という数は、登山中に火口周辺で爆発に遭遇して亡くなる人の数として現実的でない。
1721年(享保六年)
『浅間山大焼無二物語』に以下の記述がある。
「享保六年五月二十八日(1721.6.22)昼大焼け。此の年閏は七月に有る。当日関東の者拾六人嶺上ぼる皆打殺し死す。右之内漸々壱人命助り然レ共是迄来ル分も不知と云へり」
これと似た記事が『月堂見聞集』にあるが、その噴火日は六月二十八日になっている。どちらも18世紀に書かれた史料だから記録の同時代性は心配しなくてよい。1721年6月22日の爆発で、登山中の16人のうち15人が絶命したのは事実と認めてよいだろう。
1783年(天明三年)
天明三年の浅間山噴火を書いた古記録は大量にある。郷土史家である萩原進は、県史や村史などに分散して収録されていたそれらを整理して、全5巻からなる史料集として刊行した(萩原史料:萩原、1986、1987、1988、1993、1995)。この噴火のマグニチュードMは4.8であり、1108年のM5.1に次ぐ規模である。
最近、荒牧(1993a)と田村・早川(1995)は萩原史料などを火山学的視点から再検討し、1783年噴火の経時変化を考察した。両者の結論は本質的なところでかなり異なる。荒牧(1993a)は、鬼押出し溶岩が最後に流出したと考えているが、田村・早川(1995)は、鬼押出し溶岩は8月4日深夜の軽石噴火のさなかに流れ出し、翌日その先端から鎌原岩なだれと熱雲が発生したと考えている。
この噴火による死者は、8月4日に軽井沢宿にいて降ってきた軽石にあたった2人(田村・早川、1995)と、翌5日に発生した鎌原岩なだれとそれから転化して吾妻川を下った熱泥流に巻き込まれた1400人余であるという。1400余という死者数は、たとえば荒牧(1993a)にも引用されているが、その内訳はよくわかっていない。幕府勘定吟味役だった根岸九郎左衛門の『浅間山焼に付見分覚書』(萩原2.332)を集計すると1124人が得られる。大笹村名主だった黒岩長左衛門の『浅間山焼荒一件』によると、翌天明四年七月、善光寺から受け取った経木を吾妻川の各村に死者の数ずつ配ったという。それを集計すると、1490人になる(萩原2.99-105)。根岸の集計とおおむね一致するが、根岸の集計にはない村が合計数を増やしている。黒岩の集計を信用して、これに軽井沢宿の死者2人を足して、合計1492人を天明三年噴火の犠牲者数と考えるのが妥当である。 
3 明治以降の噴火災害
明治以降の浅間山噴火記録は多数ある。村山(1989)は、それらを発生順に整理している。以下では、死者が出た噴火(爆発)だけを取り上げる。1800年代に浅間山での死者は知られていない。
1911年(明治四十四年)
1911年5月9・11日の上毛新聞および10日の朝日新聞によると、5月8日15時30分に浅間山が爆発し榛名山方向に灰が降った。5月8日は山開きだったため午前中は多くの登山者がいたが、ほとんど爆発の前に下山した。山頂ちかくにいた22歳の男性が、「着物焼けて丸裸になって手足髪の毛焼けて」死んでいるのが発見された。負傷者も数名あった。また、ひとりの女性が行方不明になったという。
大森(1918)は、この爆発による死者を1名としている。この行方不明の女性は、その後、無事であることが確認されたのだろう。「気象要覧」に死者の記述はない。
同年8月16・17日の毎日新聞および17日の上毛新聞によると、浅間山は8月15日4時30分に爆発した。爆発はそれほど強くなかったが、お盆の15日だったため、山頂ちかくに80人余の登山者がいて、2名が死亡、36名が負傷した。山上には、さらに十数名の死傷者がいたという。
8月18日の毎日新聞は、さらに数体の遺体を発見したと伝えているが、「今回の噴火による死者かどうかは確定できない」と書いている。投身自殺者との区別がむずかしいことを言っているのだと思われる。8月15日の爆発による死者が何人だったかを私たちは確認することができなかった。「気象要覧」にこの爆発は書かれていない。
1913年(大正二年)
1913年6月2日の上毛新聞によると、「...佐十郎(二二)と...三一郎(二六)の両名五月二十九日浅間山に登山せんと...大爆発あり雨霰と砂礫の飛び散る中を逃げ出さんとし佐十郎は溶岩の為めに大火傷を負ひ命からがら下山したるも三一郎は行方不明となりたり急報により多数登山して捜索中の処一昨日に至り土砂中に埋没せる三一郎の屍体を発見して引取りたりといふ時恰も登山の好季節に入り日々登山する者も少なからざる由なるが注意せざれば不測の難を被るべし」
5月29日の爆発で登山者が一人死亡・一人負傷した。大森(1918)によると、この爆発は10時44分12秒に起こり、愛知県まで爆発音が聞こえ、長野原と越後中部の数カ所で降灰がみられた。「気象要覧」には爆発の時刻が10時48分とあり、死者の記述はない。
1930年(昭和五年)
1930年8月21日の上毛新聞によると、「浅間山は二十日午前八時五分大音響と共に爆発した。当日登山者は数十名あり内男子四名、女子二名計六名は無理に頂上に登ったため〓ヶ峰の上に三名、噴火口より三百間離れた剣ヶ峰の下に三名何れも溶岩に打たれて無惨な死を遂げているのが発見された」
亡くなった六人が「無理に頂上に登った」と書いた新聞記者は何を言おうとしたのだろうか。制止勧告を振り切って登山したことを言ったのか、それとも悪天候にもかかわらず登山を決行したことを言ったのか。「気象要覧」には爆発の時刻が8時14分とあり、前橋・足尾に降灰があったと書かれているが、死者については書かれていない。
1931年(昭和六年)
1931年8月21日の上毛新聞によると、「十九日の早朝の爆発以来全山黒煙に包まれて不安な鳴動を続けていた浅間山は廿日午前三時二十分大爆発をなし更に十数回に亘る連続的の小爆発続いて午前九時四十五分物凄い唸りを生じたと思ふ瞬間又々大音響と共に黒煙猛然と噴き出して大爆発し噴煙は大小岩石と共に冲天して山麓一帯に落下した軽井沢沓掛付近は相当の被害を見たらしく本県も松井田長野原方面の西上州一円は時計の振子の止まるほどの震動を見、数分間に亘って降灰があった。」
「近年稀に見る被害を被った軽井沢署では登山者の有無を捜索中であるから東京...店員...三名は同日午前一時頃峰の茶屋より登山した為め爆発当時は八合目か頂上に達する時間にあり余程の地物を利用して避難せぬ以上惨死したものと見られて居る。」
二年続けて8月20日に死者が出たらしい。3人が死亡したという。
「気象要覧」には、3時21分の爆発で福島県西部まで降灰がみられ、9時44分のやや強い爆発では長野・前橋・甲府・熊谷・松本で降灰がみられたとあるが、死者の記述はない。
1936年(昭和十一年)
気象庁(1991)は、7月29日に登山者一人が死亡したと書いているが、私たちは当時の新聞記事でそれを確認することができなかった。「気象要覧」には、7月29日9時10分に爆発し、銚子に0.3g/m2の降灰があったとあるが死者の記述はない。
1936年10月18日の毎日新聞によると、「浅間山は十七日午前九時三十四分大爆発したが折柄頂上にあった中央大学専門部経済科...の三名は〓〓降る溶岩の中を命からがら血の池方面へ逃げ下ったが、大窪澤地籍で三名中羽生君の右足に溶岩落下して打倒れ、...午後八時頃出血が甚だしく遂に絶命」
10月17日9時34分の爆発によって登山者一人が亡くなったことが確かである。
1938年(昭和十三年)
気象庁(1991)は、「7月16日登山者遭難若干名」と書いているが、私たちは当時の新聞記事でそれを確認することができなかった。「気象要覧」には、7月16日13時01分の爆発でとくに多量の降灰があり、浅間山の正南方20kmで400g/m2以上、甲府に降灰したとあるが、死者の記述はない。
1941年(昭和十六年)
気象庁(1991)は、「7月9日死者1名、負傷者1名」と書いているが、私たちは当時の新聞記事でそれを確認することができなかった。戦争に突き進んでいた当時の社会状況下では、浅間山の爆発による遭難は新聞に書かれにくかったのかもしれない。
「気象要覧」をみると、7月9日の爆発は23時32分に起こったとあるが、死者の記述はない。そのかわり、7月13日13時05分の爆発で死者1名、重傷者2名とある。
軽井沢測候所が1956年にガリ版刷りで発行した『浅間山爆発史集685-1955』(気象庁本庁所蔵)には、7月9日23時32分の爆発爆発に関する5行の記述の後に続けて、「13時06分「ドーン」と云ふ底力のある音と共に障子が稍々強く震動を感ぜり」とある。軽井沢測候所に所蔵されている原稿を西脇誠さんが確認したところ、そこには刊本にない一行があり、「七月十三日」と書かれていることがわかった。
13時06分の爆発の様子がそこにはたいへん具体的に書かれている。「尚この爆発当時山頂にありし4名中3名は追分に大笹に下山せしも他の1名は火口近くにて死体となり焼石のため「クシャクシャ」となって居った尚ほ追分に下山した遭難者酒井氏(新潟鉄道局員)も焼石のため数個所負傷せり此の語るところによると爆発前少々鳴動を感じたりと云ふ当時は霧のためにて火口全く望み得ざりしも爆発后大分霧が晴れたる如く感じた火口附近は西風にて噴煙は東に流れた如く煙にあわざりしは不幸中の幸いなりと附近一帯焼石落下盛なりしも降灰なし...」
霧が晴れて噴煙の様子が見えたという記述は、これが7月9日夜間23時32分の爆発ではなく7月13日昼間13時06分の爆発の記述であることを証明している。したがって、死者が出た爆発は7月13日13時06分だったことが確実である。負傷者が1名か2名かは確定しがたい。
1947年(昭和二十二年)
気象庁(1991)は、「8月14日12時17分の噴火では噴石、降灰、山火事、噴煙高度12、000m、登山者11名死亡」と書いている。「気象要覧」には、前橋・山田温泉降灰、湯の平で山火事、登山者9名死亡とある。8月16日の毎日新聞に、「黒こげ四死体浅間山の遭難」の見出しで記事がある。総計で11名が死亡したのだろう。
1950年(昭和二十五年)
気象庁(1991)は、「9月23日04時37分の噴火で登山者1名死亡、6名負傷、山麓でガラス破損、爆発音の外聴域出現」と書いている。「気象要覧」には、前橋(88g/m2)・水戸・東京(1.2g/m2)降灰、死者1名、負傷者6名とある。
これを裏付ける記事が9月24日の毎日新聞にある:「登山者四十三名中賽の河原で長野工高二年生YA君(一七)が火山弾で死んだほか重傷一、軽傷男四、女三を出し他は命カラガラ下山した。」(注:氏名をイニシャルに置き換えた)
この爆発によって、大きな岩塊が投げ出されて釜山火口縁に上にちょうどのった。これを千トン岩という。千トン岩は釜山火口の真北に着地しているので、よいランドマークとなっている。
1958年(昭和三十三年)
11月10日22時50分の爆発で、火口から3.8キロの血ノ池付近に直径90センチの火山弾が落下したと、軽井沢測候所が1971年に作成した「火山噴火にともなう噴出物の飛距離について(浅間山の噴火と4Km制限に関連して)」に書いてある。
1961年(昭和三十六年)
気象庁(1991)は、「8月18日に23か月ぶりに噴火、かなりの範囲に噴石、降灰、行方不明1名」と書いている。「気象要覧」には、8月18日14時41分の爆発で1名死亡、三島・網代に降灰があったとある。
8月19日の毎日新聞によると、爆発が起きたのは18日午後2時41分らしい。同日の朝日新聞夕刊によると、「十九日の朝なお行方のわからないのは神奈川県平塚市...KYさん(四一)...だけで、同日小諸、軽井沢両署員が捜査に向かった」とある。(注:氏名をイニシャルに置き換えた)
このあと浅間山は静かになり、1973年2月1日に爆発するまで11年3ヶ月間静穏だった。そのあとしばらく、ごく小さな火砕流を発生させるなどして5月24日まで断続的に爆発を繰り返したが(荒牧、1973)、再び静かになり、1982年4月26日東京降灰(荒牧・早川、1982;M1.0)、1983年4月8日前橋・宇都宮・小名浜降灰(「気象要覧」;M1.2)、1990年7月20日東麓8kmまで降灰(「気象要覧」)だけを経験して現在に至っている。 
4 史料に書かれた浅間山噴火史のまとめ
685年の噴火記録も887年の噴火記録も、浅間山のものであることが否定されるから、もっとも古い浅間山の噴火記録は、『中右記』に書かれた1108年8月29日前橋降灰の記述となる。1108年噴火(M5.1)は過去1万年間における浅間山最大の噴火だったことが堆積物の調査からわかっている。『中右記』の記述には、それを裏付けるように、この噴火が国家的大事として扱われたことが書かれている。
1783年噴火の規模(M4.8)がこれに次ぐ。これら二つの大噴火の間、浅間山がどのような状態だったかを文字史料から知ることはむずかしい。北東山麓の1108年スコリアと1783年軽石の間には薄い軽石層(A')が一枚挟まれている。この軽石の分布の全貌はまだわかっていないが、M3級であると思われる。この軽石の噴火年代は、京都に降灰降毛があった1596年夏あるいはその前後だった可能性がつよい。1598年に800人が死亡したという『当代記』の記述は信頼できない。『天明信上変異記』に書かれている1532年の大洪水の記録も事実である保証はない。17世紀になると「噴火」あるいは「大焼」の文字が書かれた記録が残る年が増えて、その傾向は1783年直前まで継続するが、噴火あるいは災害の具体的記述はほとんど書かれていない。ただし、1721年に登山中の15名が爆発にあって死亡したという『浅間山大焼無二物語』の記録は、目を引く。17世紀以降の噴火記録数の増加が浅間山の火山活動の活発化を示しているかどうかは疑わしい。近世になって、単に記録が残りやすくなったことによるみかけの現象である可能性がある。
1783年以降は、1803、1815、1869、1875、1879、1889、1894、1899、1900年に山頂で爆発があったが(村山、1989)、死者は報告されていない。
観測記録がよく残っている明治元年(1868年)以降をみると、1890年代から徐々に爆発回数が増え、1941年に年間爆発回数398回のピークを記録した(気象庁、1991)。その後、数年おきに年間200回以上の爆発を記録したが、1958年(263回)を最後に衰えた。88回の爆発を数えた1973年だけを例外として、浅間山は現在まで、明治初年当時と同じくらい静穏な状態を長く続けている。
明治元年から現在までの爆発総回数は約3000回である(気象庁、1991)。一回の爆発の規模は、最大でM1.5、平均的にはM0.5程度だから、全部合わせるとM4.0に相当する。これは1783年噴火の噴出量(M4.8)の約1/6である。 
5 浅間山噴火災害の形態
史料に記述はないが、追分火砕流堆積物の分布(荒牧、1993b)をみると、1108年噴火によって多数の住民が死亡しただろうことはほぼ確実である。追分火砕流堆積物の上ではいま、長野県側で5000人、群馬県側で3000人が生活している。
1532年1月に蛇堀川を熱泥流が下って多数の村が流されたと書いた18世紀の史料があるが、同時代史料がみつかっていないため真偽のほどはわからない。ただ蛇堀川の源流である湯の平は、積雪期に山頂火口で噴火が起こったらそのような災害を発生させてもおかしくない地形をしている。
1783年噴火の死者1400人余のうち、軽井沢で軽石にあたって死んだ2人以外は、岩なだれと熱泥流による北側(群馬県側)での被害である。山頂火口はいまも北側が低いから、火砕流・岩なだれ・泥流などの流れによる災害の脅威は群馬県側に大きい。
上に述べた災害以外はどれも、突然のブルカノ式爆発に遭遇した登山者が噴石にあたって命を落とした事例である。1596年に数人が死んだというのは事実だと思っていいだろうが、1598年に800人が死んだというのは、すでに述べたように、創作である可能性が高い。1721年には、15人とやや大きな数の死者が出た。19世紀には死者がなく、20世紀になって12回の爆発で約30人が命を落としている。事故は登山者が多い夏期に集中している。ただし雨天が続きやすい6月の犠牲者はゼロである。 
6 浅間山防災対策の現状
浅間山の防災対策がいまどうなっているかを以下で論じよう。
軽井沢町追分にある気象庁軽井沢測候所と峰ノ茶屋にある東京大学浅間火山観測所が、浅間山の火山活動を常時監視している。また地元自治体が、山頂火口縁の東西二ヶ所にテレビカメラを設置している。この映像は長野原町立火山博物館で観光客にも公開されている。こうした監視で異常が認められたときは、軽井沢測候所が臨時火山情報を出して住民と観光客に注意を促すことになっている。
過去の噴火事例をもとに将来の噴火災害を予測したハザードマップが関係六市町村によって1995年につくられた。住民啓発用のマップは山麓の一般家庭に配布されたという。この試みは評価できるが、マップを配布しただけで住民を啓発できたと行政がもし考えているとしたら、それは誤りである。火山の知識の普及活動を継続的に行って住民の火山意識を常に高めておく努力を怠ると、いざというときにせっかくつくったマップが有効に使われるかどうか疑わしい。またハザードマップは、研究の進展によって次々に書き替えられるべき性質のものである。一度つくったハザードマップは簡単には変更できないという硬直した態度を、行政はとるべきでない。
災害対策基本法63条の規定によって地元市町村長は、浅間山頂火口から4km以内を警戒区域に指定して立ち入りを禁止している。ただし最近の活動静穏化を受けて、1995年7月より、小浅間山・石尊山・湯の平までの登山道に限り入山できるよう規制が緩和された。登山を通して浅間山に親しむことは、結果として住民と観光客の防災意識を高めることにつながる。静かないまのうちに、多くの人が浅間山に登って山のことをよく知ってほしい。 
 
「稲むらの火」のものがたりと安政南海地震の津波の真実

 

小学生の頃だったと思うが、「稲むらの火」という物語を読んだ。この物語のあらすじは、概ね次のようなものである。
五兵衛という人物が激しい地震の後の潮の動きを見て津波を確信し、高台にあった自宅から松明を片手に飛び出し、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々に火を着けはじめた。稲むらの火は天を焦がし、山寺ではこの火を見て早鐘をつきだして、海の近くにいた村人たちが、火を消そうとして高台に集まって来た。そこに津波がやってきて、村の家々を瞬く間に飲み込み、村人たちは五兵衛の着けた「稲むらの火」によって助けられたことを知った、という物語である。
この物語は、ラフカディオ・ハーンが書いた「A Living God」という作品を読んで感激した和歌山の小学校教員・中井常蔵氏が児童向けに翻訳・再構成したものだが、わが国では昭和12年から昭和22年までの国定教科書に掲載されていたほか、アメリカのコロラド州の小学校でも1993年ごろに英訳されたものが教材として使われたことがあるそうだ。
いずれも主人公は「五兵衛」と書かれているが、モデルとなった人物が濱口梧陵 (儀兵衛)で、場所は今の和歌山県の湯浅港に近い有田郡広川町で、安政元年(1854)の安政南海地震の時の出来事と言われている。
私の子供の時は素直にこの話を和歌山で実際に起こった話と信じていたのだが、数年前に何年振りかに読んだ時にちょっと話が出来過ぎているように思えた。そして、今回の東日本大震災の津波の映像を見て津波の早さや破壊力に驚いて、この「稲むらの火」で、地震からわずかの時間でやってくる津波の被害から村民全員が助かったということがどこまで真実なのか、ちょっと調べてみたくなった。
もし真実をそのまま書くのであれば、地震の起こった時期や場所を特定し、登場人物は実名を用いると思うのだが、ハーンの文章は地震の場所を特定せず日本の「海岸地方」とし、時期も「明治よりずっと以前」としか書いていない。主人公であるはずの濱口儀兵衛を「五兵衛」と書き、年齢は当時34歳であったにもかかわらず「老人」としている。
ハーンのこの作品は安政南海地震の史実を参考に書かれたものであるとしても、創作部分が相当含まれていることはこの物語の場面設定から推測されるが、ではどこまでが事実でどこまでが創作なのだろうか。
ハーンの作品をもとに書かれた「稲むらの火」をそのまま実話だと考えている人が多いのだが、濱口儀兵衛が書いた手記を読むと、「稲むらの火」の物語はほとんどが作り話だということがわかる。
安政南海地震は、嘉永7年11月4日と5日の二日連続で起こった。儀兵衛は4日の地震で、2m程度の津波を目撃する。そして、翌日の午後4時頃に前日よりもはるかに大きな地震が起こる。地震を警戒して家族に避難を勧め、儀兵衛が村内を見に行くところから手記の一部を引用させていただく。
「…心ひそかに自分の正しさを信じ、覚悟を決め、人々を励まし、逃げ遅れるものを助け、難を避けようとした瞬間、波が早くも民家を襲ったと叫ぶ声が聞こえた。私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、激しい浪はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が流され崩れ落ちる音がして肝を冷やした。その瞬間、潮の流れが我が半身に及び、沈み浮かびして流されたが、かろうじて一丘陵に漂着した。背後を眺めてみれば、波に押し流されるものがあり、あるいは流材に身を任せ命拾いしているものもあり、悲惨な様子は見るに忍びなかった。そうではあったがあわただしくて救い出す良い方法は見いだせず、一旦八幡境内に避難した。幸いにここに避難している老若男女が、いまや悲鳴の声を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合い、そのありさまはあたかも鍋が沸き立っているかのようであった。…」
と、手記にはどこにも地震を村人に伝えた場面がなく、自らも津波に流されているのは意外であった。つづいて「稲むらの火」が登場する。
「…しばらくして再び八幡鳥居際に来る頃は日が全く暮れてきていた。ここにおいて松明を焚き、しっかりしたもの十数名にそれを持たせ、田野の往路を下り、流れた家屋の梁や柱が散乱している中を越え、行く道の途中で助けを求めている数名に出会った。なお進もうとしたが流材が道をふさいでいたので、歩くことも自由に出来ないので、従者に退却を命じ、路傍の稲むら十数余に火をつけて、助けを求めているものに、安全を得るための道しるべを指し示した。この方法は効果があり、これによって万死に一生を得た者は少なくなかった。このようにして(八幡近くの)一本松に引き上げてきた頃、激浪がとどろき襲い、前に火をつけた稲むらを流し去るようすをみて、ますます天災の恐ろしさを感じた。…」
というように、「稲むらの火」は津波の前に人を救うために点されたのではなくて、津波の後で、安全な避難場所に繋がる道を指し示すために用いられたのである。
当時は電気がなく、まして地震の後なので家の明かりもなかったのであれば、夜はほとんど何も見えない暗闇の世界であったはずであり、儀兵衛が点した「稲むらの火」が「安全を得るための道しるべ」となって多くの人の命を救ったことは間違いないだろう。
ところで、この時の地震は「安政南海地震」と命名されているのに、濱口儀兵衛の手記では嘉永7年と書いている。実は嘉永7年も安政元年もともに西暦の1854年で、地震の23日後の11月27日に「嘉永」から「安政」に改元されているので、本来ならば正しい年号で「嘉永南海地震」とでも名付けるべきであったろう。
最初に命名した学者が誤ったために、未だに「安政南海地震」と呼び続けられているのはおかしな話だ。
この地震は駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という規模の地震とされ、この地震で被害が最も多かったのは沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地で、町全体が全滅した場所も多数あったそうだ。
甲府では町の7割の家屋が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど広範囲に災害をもたらせ、伊豆下田では折から停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」が津波により大破沈没して乗組員が帰国できなくなった。そこで、伊豆下田の大工を集めて船を建造して帰国させたという記録まで残っているらしい。
いろいろ調べると濱口儀兵衛はすごい人物である。彼の実話の方がはるかに私には魅力的だ。
濱口儀兵衛は、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業(現在のヤマサ醤油)を営む濱口家の分家の長男として紀州廣村(現在の和歌山県広町)に生まれ、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉とも親交があったそうだ。
濱口家の本家を相続する前年の嘉永五年(1852年)に、外国と対抗するには教育が大切と、私財を投じて広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いたが、これが現在の耐久中学、耐久高等学校の前身である。
その2年後に安政南海地震が起こり廣村は多くの家屋や田畑が流されてしまう。
濱口儀兵衛はこの津波の後に村人の救済活動に奔走し、自分の家の米を供出しただけでなく、隣村から米を借りるなど食糧確保に努め、道路や橋の復旧など献身的な活動をし、さらに将来のための津波対策と、災害で職を失った人たちの失業対策のために、紀州藩の許可をとって堤防の建設に着手し、5年後に高さ5m、幅20m、長さ670mの大堤防を完成させている。その廣村堤防の建設費の銀94貫のほとんどを自分の私財で賄ったとのことである。
この堤防は昭和19年の東南海地震、昭和21年の南海津波地震でも見事にその役割を果たし、多くの広町の住民を津波から救うことになるのである。
儀兵衛は幕末に梧陵と名を改め、紀州藩の勘定奉行や藩校教授や権大参事を歴任し、明治4年には大久保利通の要請で明治政府の初代駅逓頭(後の郵政大臣に相当)になり、前島密が創設した郵便制度の前身を作っている。その後、再び和歌山に戻って明治13年(1880)に初代の和歌山県議会議長を務め、隠居後に念願の海外旅行の途中で体調を崩しニューヨークで明治18年(1885)に客死してしまう。
濱口梧陵が津波から多くの人々を救ったことは今も地元の人々から感謝されおり、広川町では毎年11月3日に感恩祭・津波祭りが行われ去年は108回目を迎えたとのことだ。ラフカディオ・ハーンが「生ける神」と書いた人物のモデルは、この物語の世界以上に「生ける神」と呼ぶべきすごい人物だ。
今回の東日本大地震の混乱が一段落すれば、災害に強い町づくりはどうあるべきかを考え、被災地が立ち直るための投資と工事が進められねばならない。その時に地震や津波で職場を失い仕事を失った人々にその工事に参加して頂き、それぞれの家族の生活が出来るだけの収入が得られるようにすることまで考えたのが濱口梧陵という人物である。
今の政治家や経営者の中から、100年経っても、地元の人々から神様のように語り継がれる人物が何人か出てこないものか。 
 
濱口儀兵衛の手記 / 「稲むらの火」

 

七代目・濱口儀兵衛(文政三[1820]年〜明治十八[1885]年)が安政元[1854]年に起きた、安政南海大地震の際に残した逸話とされている、『稲むらの火』(昭和十二[1937]年から昭和二十二[1947]年まで、小学校の国語教科書の教材として使われた)の真実を記したとされる、その七代目の『手記』を紐解いてみたいと思います。

「果たして七つ時頃(午後四時)に至り大震動あり、その激烈なること前日の比にあらず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を覆う。遥かに西南の天を望めば黒白の妖雲片片たるの間、金光を吐き、恰も異類の者飛行するかと疑はる。暫くにして震動静りたれば、直ちに家族の避難を促し、自ら村内を巡視するの際、西南洋に当たりて巨砲の連発するが如き響きをなす、数回。依って歩を海浜に進め、沖を望めば、潮勢未だ何等の異変を認めず。只西北の天特に暗黒の色を帯び、恰も長堤を築きたるが如し。僅かに心気の安んずるの遑なく、見る見る天容暗澹、陰々粛殺の気天を襲圧するを覚ゆ。是に於いて心ひそかに唯我独尊の覚悟を定め、壮者を励まし、逃げ後るる者を助け、興に難を避けしむる一刹那、怒濤早くも民屋を襲うと呼ぶ者あり。予も疾走の中左の方広川筋を顧みれば、激浪は既に数町の川上に遡り、右方を見れば人家の崩れ流るる音棲然として膽を寒からしむ。瞬時にして潮流半身を没し、且沈み且浮かび、辛うじて一丘陵に漂着し、背後を眺むれば潮勢に押し流される者あり、或いは流材に身を憑せ命を全うする者あり、悲惨の状見るに忍びず。然れども倉卒の間救助の良策を得ず。一旦八幡境内に退き見れば、幸いに難を避けて茲に集まる老若男女、今や悲鳴の声を揚げて親を尋ね子を探し、兄弟相呼び、宛も鼎の沸くが如し、各自に就き之を慰むるの遑なく、只「我れ助かりて茲にあり、衆みな応に心を安んずべし」と大声に連呼し、去って家族の避難所に至り身の全きを告ぐ。匆々[そうそう]辞して再び八幡鳥居際に来る頃日全く暮れたり。是に於いて松火を焚き壮者十余人に之を持たしめ、田野の往路を下り、流屋の梁柱散乱の中を越え、行々助命者数名に遇えり。尚進まんとするに流材道を塞ぎ、歩行自由ならず。依って従者に退却を命じ、路傍の稲むらに火を放たしむるもの十余以て漂流者にその身を寄せ安全を得るの地を表示す。この計空しからず、之によりて万死に一生を得たる者少なからず。斯くて一本松に引き取りし頃轟然として激浪来たり。前に火を点ぜし稲むら波に漂い流るるの状観るものをして転た[うたた]天災の恐るべきを感ぜしむ。波濤の襲来前後四回に及ぶと雖も、蓋し此の時を以て最とす。」と。

夕刻の午後四時になって、大地震が発生しました。その激しい揺れは昨日をはるかに上回るものでした。瓦は飛ぶし、壁も崩れるし、塀も倒れるし、土埃で空が覆われるし、遥かに西南の方の空を眺めれば、黒と白との妖雲の切れ切れから、黄金の色の発光が生じ、まるでこの世のものでない何かが飛んでいるのではないかと疑われました。
しばらくしてから揺れは収まりましたが、すぐに家族の者たちに避難するようにすすめ、己自身は村内を見回りにいきますと、西南の方の海面から大筒を連続して放つような大音響が数度聞こえてきました。それで浜の方に往き、沖の方を見てみると、潮流に変わりはありませんでしたが、只西北の方の空が暗黒色を帯び、まるで長大な堤防を築いているかのようでした。
ほっとする暇もなく、その内に空の模様はますます暗くなり、陰鬱を極める如き殺気を感じ、災害が近づいていることを直観しました。ここに至って、心の内で己の想いの正しさを確信し、決意を固めて、人々を激励し、逃げ遅れがちな者を援助し、避難しようとした瞬間、早くも、津波が民家を襲っていると叫ぶ者の声が聞こえました。己も全力で走りましたが、左の方の広川の川筋を見てみると、激しい津波はすでに数百メートルも川を遡っており、右の方を見てみると、民家が流されて崩落する音がしており、肝が縮み上がりました。そのとき、潮流が己の半身に及んで、己が身が沈みつつ浮かびつつして流されてしまいましたが、何とかして一つの丘に漂着することができました。
背後を見てみると、津波に押し流されている者や、また流木に身を寄せて、命拾いしつつある者もいて、地獄絵図のような有様は見るに忍びありませんでした。そのような有様ではありましたが、直ちに救出するためのうまい方法は思い浮かびませんでした。そこで、一旦、広八幡宮の境内に避難しました。幸いにしてそこに避難できている老若男女も、今や、悲鳴の声を上げつつ、親を尋ねたり、子を探したり、兄弟も互いに呼び合ったり、その様子はまるで鍋が沸騰しているかのようでした。その人々をなだめる手立てもなく、只々、「わしは何とか助かってここにおります。皆々、安心して下さい」と大きな声で叫び続け、そこを去ってからは、家族の避難した所に行って、身の安全を知らせました。その内、広八幡宮の鳥居の近くにもどった頃には日暮が迫ってきていました。そこで、たいまつをつけて、屈強な者十数名にそれを持たせ、田の中の路を下って、流れついた家の柱などが散らばっている中をこえ、往く道の途中で救助を求めている数名の者に出会いました。さらに浜の方へ進もうとしたが、流木が路を塞いでいました。そこで、歩くこともままならないので、従者たちに退却を命じつつ、路の両側の稲むら十数か所に火をつけて、救助を求めている者たちに、助かるための道標を指し示しました。この火は効果を上げ、このため、九死に一生を得た者は少なくありませんでした。このように処置してから、鳥居近くの一本松に引き上げた頃、大津波が轟をあげつつ、再度、来襲し、稲むらの火を消し去っていくのをみて、一層、大津波の恐ろしさを感じました。大津波の襲来は前後四回に及んだが、このときの二回目の来襲が最大でした。 
大津波(Tunami)の脅威
七代目・濱口儀兵衛が安政南海大地震の発災時に残した逸話をもとに、昭和九[1934]年、当時、小学校五年生の担任だった中井常蔵(明治四十[1907]年〜平成六[1994]年)が、文部省国定国語教科書の教材公募に応募した際に、小泉八雲(嘉永三[1850]年〜明治三十七[1904]年)がこの逸話に基づいて、明治三十[1897]年に書き上げた、「A Living God」(なお、この『生き神様』の中のキーターム・Tunamiが津波を表す英単語となって、日本の大津波の脅威を世界に知らしめることになったという)を児童向けに和訳し、『燃える稲むら』と題し、応募しました。それが小学五年生用の小学国語読本・巻十に『稲むらの火』として掲載され、昭和十二[1937]年から昭和二十二[1947]年までの十年間、小学校の国語教科書の教材として使われたのですが、その真実を深く探っていくためにも、改めて、それを紐解いてみたいと思います。

『これは、たゞ事でない』とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無氣味なものであつた。五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では、豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向氣がつかないもののやうである。村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた。風とは反對に沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。
『大變だ。津波がやつて来るに違ひない』と、五兵衛は思つた。此のまゝにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出未ない。
『よし』と叫んで家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持つて飛出して来た。そこには、取入るばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。『もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ』と、五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上つた。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまゝ、沖の方を眺めてゐた。
日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。『火事だ。荘屋さんの家だ』と、村の若い者は急いで山手へかけ出した。續いて、老人も女も子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。高臺から見下してゐる五兵衝の目にはそれが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者が、かけ上つて来た。彼等は、すぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大声に言つた。『うつちやつておけ。─大變だ。村中の人に来てもらふんだ』。村中の人は、追々集つて来た。五兵衛は、後から後から上つて来る老幼男女を一人々々數へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。其の時、五兵衝は力一ぱいの声で叫んだ。『見ろ。やつて来たぞ』。たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで押寄せて来た。『津波だ』と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかゝつて来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高臺では、しばらく何の話し声もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たゞあきれて見下してゐた。稲むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと氣がつくと、無言のまゝ五兵衛の前にひざまづいてしまつた。

『これは、ただごとでない』とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいという程のものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無気味なものであった。五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見おろした。村では、豊年を祝うよい祭の支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気がつかないもののようである。村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。 『大変だ。津波がやって来るに違いない』と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろともひとのみにやられてしまう。もう一刻も猶予は出来ない。『よし』と叫んで家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明[たいまつ]を持って飛出して来た。そこには、取入るばかりになっているたくさんの稲束が積んである。『もったいないが、これで村中の命が救えるのだ』と、五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上った。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。『火事だ。荘屋さんの家だ』と、村の若い者は急いで山手へかけ出した。続いて、老人も女も子供も、若者の後を追うようにかけ出した。高台から見おろしている五兵衝の目にはそれが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上って来た。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言った。『うつちゃっておけ。一大事だ。村中の人に来てもらうんだ』。村中の人は、追々集って来た。五兵衛は、後から後から上って来る老幼男女を一人ひとり数えた。集って来た人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。その時五兵衝は力一杯の声で叫んだ。『見ろ。やって来たぞ』。たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなつた。広くなった。非常な速さで押寄せて来た。『津波だ』と、誰かが叫んだ。海水が絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかった。人々は自分等の村の上を荒狂って通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見おろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。 
生き神様「A Living God」
七代目・濱口儀兵衛が安政南海大地震の発災時に残した逸話をもとに、小泉八雲が、明治三十[1897]年に書き上げた、「A Living God」が、後年、中井常蔵によって児童向けに和訳され、『稲むらの火』として、小学国語読本に掲載されたのですが、その逸話をめぐる真実を深く探っていくためにも、改めて、『生き神様』を紐解いてみたいと思います。

The story of Hamaguchi Gohei is the story of a like calamity which happened long before the era of Meiji, on another part of the Japanese coast.
He was an old man at the time of the occurrence that made him famous. He was the most influential resident of the village to which he belonged : he had been for many years its muraosa, or headman; and he was not less liked than respected. The people usually called him Ojiisan, which means Grandfather; but, being the richest member of the community, he was sometimes officially referred to as the Choja. He used to advise the smaller farmers about their interests, to arbitrate their disputes, to advance them money at need, and to dispose of their rice for them on the best terms possible.
Hamaguchi's big thatched farmhouse stood at the verge of a small plateau overlooking a bay. The plateau, mostly devoted to rice culture, was hemmed in on three sides by thickly wooded summits. From its outer verge the land sloped down in a huge green concavity, as if scooped out, to the edge of the water; and the whole of this slope, some three quarters of a mile long, was so terraced as to look, when viewed from the open sea, like an enormous flight of green steps, divided in the centre by a narrow white zigzag,−a streak of mountain road. Ninety thatched dwellings and a Shinto temple, composing the village proper, stood along the curve of the bay; and other houses climbed straggling up the slope for some distance on either side of the narrow road leading to the Choja's home.
One autumn evening Hamaguchi Gohei was looking down from the balcony of his house at some preparations for a merry - making in the village below. There had been a very fine rice-crop, and the peasants were going to celebrate their harvest by a dance in the court of the ujigami. The old man could see the festival banners (nobori) fluttering above the roofs of the solitary street, the strings of paper lanterns festooned between bamboo poles, the decorations of the shrine, and the brightly colored gathering of the young people. He had nobody with him that evening but his little grandson, a lad of ten; the rest of the household having gone early to the village. He would have accompanied them had he not been feeling less strong than usual.
The day had been oppressive; and in spite of a rising breeze, there was still in the air that sort of heavy heat which, according to the experience of the Japanese peasant, at certain seasons precedes an earthquake. And presently an earthquake came. It was not strong enough to frighten anybody; but Hamaguchi, who had felt hundreds of shocks in his time, thought it was queer,−a long, slow, spongy motion. Probably it was but the after-tremor of some immense seismic action very far away. The house crackled and rocked gently several times; then all became still again.
As the quaking ceased Hamaguchi's keen old eyes were anxiously turned toward the village. It often happens that the attention of a person gazing fixedly at a particular spot or object is suddenly diverted by the sense of something not knowingly seen at all,−by a mere vague feeling of the unfamiliar in that dim outer circle of unconscious perception which lies beyond the field of clear vision. Thus it chanced that Hamaguchi became aware of something unusual in the offing. He rose to his feet, and looked at the sea. It had darkened quite suddenly, and it was acting strangely.It seemed to be moving against the wind. It was running away from the land.
Within a very little time the whole village had noticed the phenomenon. Apparently no one had felt the previous motion of the ground, but all were evidently astounded by the movement of the water. They were running to the beach, and even beyond the beach, to watch it. No such ebb had been witnessed on that coast within the memory of living man. Things never seen before were
unfamiliar spaces of ribbed sand and reaches of weed-hung rock were left bare even as Hamaguchi gazed. And one of the people below appeared to guess what that monstrous ebb signified.
Hamaguchi Gohei himself had never seen such a thing before; but he remembered things told him in his childhood by his father's father, and he knew all the traditions of the coast. He understood what the sea was going to do. Perhaps he thought of the time needed to send a message to the village, or to get the priests of the Buddhist temple on the hill to sound their big bell. But it would take very much longer to tell what he might have thought than it took him to think. He simply called to his grandson:−" Tada !−quick,−very quick! Light me a torch.."
Taimatsu, or pine-torches, are kept in many coast dwellings for use on stormy nights, and also for use at certain Shinto festivals. The child kindled a torch at once; and the old man hurried with it to the fields, where hundreds of rice-stacks, representing most of his invested capital, stood awaiting transportation. Approaching those nearest the verge of the slope, he began to apply the torch to them,−hurrying from one to another as quickly as his aged limbs could carry him.  The sun-dried stalks caught like tinder; the strengthening sea - breeze blew the blaze landward and presently, rank behind rank, the stacks burst into flame, sending skyward columns of smoke that met and mingled into one enormous cloudy whirl. Tada, astonished and terrified, ran after his grandfather, crying,−
"Ojiisan! why? Ojiisan!−why?"
But Hamaguchi did not answer: he had no time to explain; he was thinking only of the four hundred lives in peril. For a while the child stared wildly at the blazing rice; then burst into tears, and an back to the house, feeling sure that his grandfather had gone mad. Hamaguchi went on firing stack after stack, till he had reached the limit of his field; then he threw down his torch, and. waited. The acolyte of the hill-temple, observing the blaze, set the big bell booming; and the people responded to the double appeal. Hamaguchi watched them hurrying in from the sands and over the beach and up from the village, like a swarming of ants, and, to his anxious eyes, scarcely faster; for the moments seemed terribly long to him. The sun was going down; the wrinkled bed of the bay, and a vast sallow speckled expanse beyond it, lay naked to the last orange glow; and still the sea was fleeing toward the horizon.
Really, however, Hamaguchi did not have very long to wait before the first party of succor arrived,−a score of agile young peasants, who wanted to attack the fire at once. But the Choja, holding out both arms, stopped them.
"Let it barn, lads! " he commanded,−"let it be! I want the whole mura here. There is a great danger,−taihen da!"
The whole village was coming; and Hamaguchi counted. All the young men and boys were soon on the spot, and not a few of the more active women and girls; then came most of the older folk, and mothers with babies at their backs, and even children,−for children could help to pass water; and the elders too feeble to keep up with the first rush could be seen well on their way up the steep ascent. The growing multitude, still knowing nothing, looked alternately, in sorrowful wonder, at the flaming fields and at the impassive face of their Choja. And the sun went down.
"Grandfather is mad,−I am afraid of him!"sobbed Tada, in answer to a number of questions. "He is mad. He set fire to the rice on purpose: I saw him do it!"
"As for the rice," cried Hamaguchi, "the child tells the truth. I set fire to the rice. Are all the people here?"
The Kumi-cho and the heads of families looked about them, and down the hill, and made reply: "All are here, or very soon will be. We cannot understand this thing."
"Kita!" shouted the old man at the top of his voice, pointing to the open. "Say now if I be mad!"
Through the twilight eastward all looked, and saw at the edge of the dusky horizon a long, lean, dim line like the shadowing of a coast where no coast ever was,−a line that thickened as they gazed, that broadened as a coast-line broadens to the eyes of one approaching it, yet incomparably more quickly. For that long darkness was the returning sea, towering like a cliff, and coursing more swiftly than the kite flies .
"Tsunami!" shrieked the people; and then all shrieks and all sounds and all power to hear sounds were annihilated by a nameless shock heavier than any thunder, as the colossal swell smote the shore with a weight that sent a shudder through all the hills, and a foam-burst like a blaze of sheet-lightning. Then for an instant nothing was visible but a storm of spray rushing up the slope like a cloud; and the people scattered back in panic from the mere menace of it. When they looked again, they saw a white horror of sea raving over the place of their homes. It drew back roaring, and tearing out the bowels of the land as it went. Twice, thrice, five times the sea struck and ebbed, but each time with lesser surges; then it returned to its ancient bed and stayed,−still raging, as after a typhoon.
On the plateau for a time there was no word spoken. All stared speechlessly at the desolation beneath,−the ghastliness of hurled rock and naked riven cliff, the bewilderment of scooped-up deep-sea wrack and shingle shot over the empty site of dwelling and temple. The village was not; the greater part of the fields were not; even the terraces had ceased to exist; and of all the homes that had been about the bay there remained nothing recognizable except two straw roofs tossing, madly in the offing. The after - terror of the death escaped and the stupefaction of the general loss kept all lips dumb, until the voice of Harnaguchi was heard again, observing gently,−
"That was why I set fire to the rice."
He, their Choja, now stood among them almost as poor as the poorest; for his wealth was gone−but he had saved four hundred lives by the sacrifice. Little Tada ran to him, and caught his hand, and asked forgiveness for having said naughty things. Whereupon the people woke up to the knowledge of why they were alive, and began to wonder at the simple, unselfish foresight that had saved them; and the headmen prostrated themselves in the dust before Hamaguchi Gohei, and the people after them.
Then the old man wept a little, partly because he was happy, and partly because he was aged and weak and had been sorely tried.
"My house remains," he said, as soon as he could find words, automatically caressing Tada's brown cheeks; "and there is room for many. Also the temple on the hill stands; and there is shelter there for the others."
Then he led the way to his house; and the people cried and shouted. 
The period of distress was long, because in those days there were no means of quick communication between district and district, and the help needed had to be sent from far away. But when better times came, the people did not forget their debt to Hamaguchi Gohei. They could not make him rich; nor would he have suffered them to do so, even had it been possible. Moreover, gifts would never have sufficed as an expression of their reverential feeling towards him; for they believed that the ghost within him was divine. So they declared him a god, and thereafter called him Hamaguchi Daimyojin, thinking they could give him no greater honor;−and truly no greater honor in any country could be given to mortal man. And when they rebuilt the village, they built a temple to the spirit of him, and fixed above the front of it a tablet bearing his name in Chinese text of gold; and they worshiped him there, with prayer and with offerings. How he felt about it I cannot say;−I know only that he continued to live in his old thatched home upon the hill, with his children and his children's children, just as humanly and simply as before, while his soul was being worshiped in the shrine below. A hundred years and more lie has been dead; but his temple, they tell me, still stands, and the people still pray to the ghost of the good old farmer to help them in time of fear or trouble."

濱口五兵衛の物語は明治より大分前に日本の別の方の海岸地方で起きた同様の震災の話です。五兵衛の名を有名にした大災害が起こったとき、彼は相当の高齢者でした。彼は長年にわたって村の頭、すなわち村長でした。このように彼は村民たちから尊敬されていましたが、加えるに、それに勝っても劣らない位、好感を持たれ慕われてもいました。村民たちは普段は彼のことを「おじいさん」と呼んでいました。なお、この言葉は祖父を意味します。しかし、彼は村内一の大金持でもありましたので、公の場では「長者」と言いならされていました。彼は常々大百姓でない者たちに対して、利益が上がるように助言してあげたり、もめごとの仲裁をしてあげたりしていました。さらに、彼らがお金がいる時には前貸しもしてあげたり、彼らの作米を出来る限り高値で売ってあげたりもしていました。濱口家のわらぶきの豪邸は海辺を見おろす小さな高台の片隅に建っていました。周囲のの土地はほとんど田んぼにあてられ、松の木がうっそうと茂った林で海側を除いた三方は取り囲まれていました。そういう訳で、唯一、海側に開かれている高台の端から海辺に向かって、緩やかな斜面を描きながら、あたかも、刃でえぐられたかのように、緑色の大きなへこみとなって海辺まで達していました。千二百メートルほど続いている、このなだらかな傾斜に刻まれたひな段はそのあまりの美しさに思わず見とれずにはいられないほどでした。また、海辺の方から見上げるとちょうど真ん中で、かつ、細白い、鋸の歯のような山道が通っているところで、二分されているためか、まるで緑色の大きな階段が次から次と連続しているように見えるのです。正確に言うと海辺沿いに建てられた、九十戸のわらぶきの民家と神社とが立ち並んで、主な村落を形づくっており,その他に何戸かの家が、上に述べた斜面をわずかに這い登ったところの豪邸へ通じる細道の両側にまばらに建てられいるのでした。ある秋の日の夕暮、五兵衛は我が家の窓から下の村で行なわれている、お祭りの前準備の様子を眺めていました。たまたま、その年は稲作が大豊作で農民達は氏神様の境内で盛大な踊りを奉納して、豊作を祝そうとしていたのでした。長者には村で唯一の通りに沿った屋根やねの上にはためく、お祭りののぼり、竹の棒と棒との間に吊り下げられたちょうちんの行列、神社の飾りつけ、さらには若者たちが賑やかに参集して来るのが見えました。その夜長者は十歳になる孫の少年と二人きりでした。その他の家族はもう大分前に村祭りの方へと出かけてしまっていました。その夜はことのほか、長者の体の調子がいつもよりすぐれず、そうでなければ、家族の皆々と一緒に長者も出かけていたことでしょう。その日はとても蒸し暑く、海風がわずかに吹き上げてはくるのですが,それでもあたりの空気には重苦しい熱気が盛じられました。日本の百姓は、その経験からして、ある時に至っては地震の前兆となると信じるにたるという程の熱気だったのでした。何と、すると間もなくして地震が起こったのです。それは誰もがびっくりする程の強いものではありませんでしたが、これまでの人生で何百という、数えきれない程の地震を経験してきた長者には、その揺れ方がどうしても奇妙なものに思われました。その不思議さは、長くゆったりした、柔らかでしなうような揺れ方なのでした。恐らくごく遠く離れた所で起こった大きな地震の単なる余震に過ぎないのでしょう。家はきしんで、何度かゆるやかに、揺れ動いたと思うと、再び、すべてが静まりかえったのです。その揺れがおさまると、すぐ長者の年とった鋭い目が心細げに村の方へと向けられました。このことはしばしば生ずることなのですが、人は何か特別な場所や物体にじっと眼をこらしている時、その注意力が突如として、意識して見ているものでない、何かを感じとって、そちらの方に意識が転じられることがあります。つまり、現実のはっきりした視野の範囲を超えて、その外側を取り巻いている、ほの暗い無意識下の知的能力でもって、その未知なるものを、ただぼんやりと推知してしまうと、何故か、注意力がそちらに向けられてしまうのです。このとき長者も、たまたま沖合の異状に気付いたのです。長者は立ち上ると海の方を見ました。海の方はふいに暗くなり、波も奇妙な動き方をしていました。風の向きと反対方向にそれが動いているかのように見えるのでした。何と海面が岸からどんどん沖の方へと引いていくではありませんか。その内すぐに村中の者がこの現象に気づいたのです。その前の地面の揺れは誰も感じなかったようでしたが、この海面の動きには皆が明らかに肝をつぶしているかのように見えました。村民たちは一体何事が起こったのかを見ようとして浜へとかけ出し、さらに浜を超えた場所にまで走り出しました。そのとき生ある者の記憶が及ぶ限りでは、この海辺でこれ程の引き潮が目撃されたことなどはありませんでした。そして、この見たこともないような現象に出会って様々なものが現われ出てしまったのです。いつもは見ることもない波打った砂浜や、そして、下の方にいる村民のうちの一人がその巨大な引き潮が一体何を意味するかに思い当ったかのように見えました。長者たる濱口五兵衛自身これまでにこんなものは見た事がありませんでした。しかし、長者が子供の頃、祖父から聞かされた話を憶えていましたし、この海辺の歴史についてはすべて心得ていました。だからこそ、長者はこのあと海がどうなるかがわかったのでした。そして、村まで知らせをやったり、または山寺の住職の所に行ってあの大鐘を鳴らしてもらうのには一体どれ位の時間がかかるかなどと長者は考えてみたことでしょう。しかし、そうして己の考えていることを誰かに伝えるには己が今までにこのことを思いつくのに要としたよりもずっと長い時間が必要になるだろうと長者は思いました。そして、孫を呼んで,「ただ。早く、大急ぎだ。松明に火をつけて、おじいさんに持ってきてくれ」と。松明とは松の木をもやしてともすあかりのことですが、多くの海岸地方で嵐の夜に使うため準備しておくものなのです。又、同時にある儀式に用いられたりもするのです。孫の少年がすぐに一本の松明に火をつけると長者はそれを持って田へとびだしました。そこには長者が今までに注ぎこんだ元手の大部分を意味する何百もの稲むらが、納屋に運びこまれるばかりになって並んでいました。長者は斜面の端に一番近い所にある稲むらに近づくと、それに松明で火をつけ始めました。その年老いた手足で精一杯素早く体を動かしながら次から次へと火をつけて走りました。日光で乾燥し切った稲は勢いよく燃えあがりました。勢いを増してきた海風がその炎を手前の田の方へあおりたて、程なく後の列、そのまた後へといった具合に稲むらが次から次へと燃え上がっていきました。何本もの煙の柱が空に立ちのぼり上空で入り混じると一つの巨大でもくもくとした雲の渦となりました。ただは驚ろき、同時に恐ろしくなって祖父のあとを追って走りながら叫びました。「おじいさん。どうして。おじいさん−ねえどうしてそんなことするのですか。」しかし、長者たる五兵衛は答えようとはしませんでした。長者には説明している暇などなかったのです。長者はまだ危険にさらされている四百人に及ぶ人々の命のことだけ考えていたのでした。しばらくの間夢中で燃えあがる稲を見つめていた孫たる少年は急に泣き出すと家にかけもどりました。祖父はきっと気が狂ったのに違いないと思ったのでした。長者たる五兵衛は次々と稲むらに火をつけて行き、田んぼの端まで来ると松明を投げ捨てて待ちました。山寺の小僧がこの火の手を見て寺の大鐘を打ち鳴らしました。こうして村民は高台の炎と鐘という二重の警告に気付きました。むき出しになった砂浜にまで出むいていた村民が浜辺を超えて村から山へと急いで登ってくるのを長者は見ていました。しかし、不安にかられる長者の目に、それはまるで蟻が這うかのようで、とても急いでいるふうにはとても見えませんでした。その間の時間が長者にはひどく長く感じられました。日がまさに沈むところで海辺の波打った砂浜やその向こうに広がる、あちらこちらに岩の突き出た、だだ広く黒々とした海底がむき出しになったまま、オレンジ色の名残りの日の光に輝いていました。そして、海は、一層、水平線の方向へとどんどん逃げ去って行くのでした。しかし、長者は決して実際には最初の救援者の一団が到着するまでにそうは待たされたわけではありませんでした。彼らは二十歳位の若くて機敏な百姓たちで、すぐさま火を消しにかかろうとしました。しかし、長者たる五兵衛は両腕を拡げて、彼らを押し止めました。「お前たち、そのままにしておくんだ」と長者は命じました。「ほっておけ、わしは村中のものに集まってほしいんのだ。大きな危険が追っている。大変なのだ」と。やがて村中の者が集まって来て長者はその人数を数えました。若者や少年たちなど、男たち全員が高台までやってくるのに、そう時間はかかりませんでした。次に来たのは比較的身のこなしの軽い女や少女たちのかなりの数、そして、その後には老人や赤ん坊を背負った母親たち、それに子供たちの姿もありました。子供というのは道すがら小便をがまんしたりするわけにいかなかったのでした。そして、最初に一同が駆け出した途端に、体が弱っていて、ついて行くことの出来なかった年寄り連中が漸く険しい上り坂を登ってくる姿がはっきり見てとれるようになりました。どんどんと数を増す群衆は未だに何も知らないまま悲しみに満ちた驚き顔の中、燃えさかる田んぼと、長者の平然とした顔とをかわるがわる見つめていました。そうこうするうちに日は沈みました。「おじいさんは頭がおかしくなってしまった。俺、おじいさんが、こわいよ」と、ただはすすり泣きながら数多く発せられる質問に答えてそう言いました。「頭が変になってしまった。わざと稲に火をつけてしまった。俺、みていましたから」と。「稲のことなら」と長者は大声で言いました。「その子の言っていることは本当です。わしが稲に火をつけました。みんな集まったかな」と。各組長と各家の家長が囲りを見廻わしたり、ちょっと下の方を見おろしたりしてから答えました。「皆います。すぐに皆集まりますが。それにしてもわしらには一体何事なのかさっぱり判らないのですが」と。「来た」と。人は精一杯の大声を張り上げ、海の方向を指さして叫びました。「わしが狂っているか、どうかはさあ、今言いなさい」と。たそがれの薄明かりを通して村民たちが東の方に眼をやると、ぼんやりとした水平線の端に長くて細い暗い一筋の線が見えました。それはまるであろうはずもない場所に写し出された海岸線の影のようでした。そして、見る見るうちにその線は太くなるし、広くなっていきました。どんどんと海岸線が目の前に追って来るかのようでした。しかし、そのスピードときたら比較しようもない位にすさまじかったのでした。それというのも海面がこの長く暗い線となって戻って来たわけで、絶壁のようにそびえ立ちながら、かのすばしっこい鳶ですら追いつけない位の速さで押し寄せて来たのでした。「津波だ」と。人々は口ぐちに叫びました。しかし、その後すぐに、どんな雷も及ばない程の強烈で言い表わしようもない衝撃で、かつ、どんな叫び声も物音もかき消され、耳まで聞こえなくなった位でした。巨大なうねりが怒濤のように陸に押しよせ、その海水の重みで山々はとどろき、一面、稲光のような白い泡で包まれていました。そして、一瞬、斜面を雲みたいに這い上がってくる嵐のような水煙りの他には何も見えなくなりました。村民たちはこれを見ただけでもう我を忘れて、散り散りになって後ろへとびのきました。再び彼らが下をのぞくと、己たちの家があった場所で群れ狂う白く波立つ恐ろしい海の姿を見ました。やがて、その波は轟音を立てながら沖へと引いていく時にはそのところにあるすべてのものを目茶目茶に破壊しつくしました。海は押し寄せては引くということ、二度、三度。そして、五度も繰り返したのですが、その度ごとに徐々にうねりはおさまり、ついには大昔からの場所に落ち着きましたが、それでもなお台風の後のように波は高かったのでした。高台では、しばらく話声一つしなかったのでした。誰もかれも押し黙ったまま眼下の惨状をじっと見つめていました。彼らは津波で投げとばされた岩やむき出しになっている裂けた岩肌を見てぞっとし、又、根こぎにされた海草や己たちの家と神社がもはやすっかりなくなってしまった場所に散らばる岸の小石にとまどうばかりでした。かっての村の姿はもはやありませんでした。田畑もほとんど全部が消え去り、斜面に刻まれた階段さえも削りとられてあとかたもありませんでした。海辺に沿って立並んでいた家々は何一つそれとわかるものなど残されておらず、ただ沖の方で藁葺の屋根が二つ激しく波間にゆれているばかりでした。死をまぬがれた時にあとから感じるぞっとするような恐ろしさと何もかもすべてを失ってしまったという打ちのめされた思いとで、誰一人口がきけなかったのですが、ついに長者たる濱口五兵衛が再び口を開きました。長者は穏やかな調子でこう言いました。「だからわしは稲むらに火をつけました」と。長者であった、この老人は今や村民たちの間に立ち尽くし、もはや、村で一番の貧乏人と同じ位にこの老人もまた文無しになっていました。財産をすっかりなくしてしまったのだから。しかし、老人はその犠牲によって四百人の命を救ったのでした。小さな、ただという名の少年は祖父のもとに駆け寄り、その手をつかむと先程の暴言の許しを乞いました。この時、漸くのことで己たちがこうして生きていられる理由を悟った村民たちは、彼等の命を救った、五兵衛の素朴で、私利私欲に把われることのない先見の明に感銘を覚え始め、組頭たちが五兵衛の前の地面にひざまづくと他の村民たちもそれにならいました。老人はそれを見て少しばかり涙ぐみました。嬉しかったせいもあるのですが、彼はもはや年老いて体も弱って居り、相当疲れていたのでした。「わしの家は助かった」と。老人はいうべき言葉が見つかるとすぐに言いました。彼は無意識のうちに孫のただの陽にやけた両頬を撫でていました。「かなりの人間がおるだけの余裕があります。それに山寺もちゃんとと残っているし、あそこも他の者たちが身を寄せる避難場所になりましょう」と。そう言って老人が家へ向かうと村民たちからは大変な歓声が湧き起こりました。苦難の日々は長く続きました。その当時は地域と地域の間で簡単に連絡をとり合うすべなどなかったし、なくてはならない救援の手もはるか遠い所から差しのべられるのを待つしかなかったのでした。しかし、漸くのことで少しばかりましな暮らしが出来るようになっても、人々は自分たちが蒙った濱口五兵衛の恩義を忘れはしませんでした。彼らは老人を再び金持ちには出来ませんでしたが、又、五兵衛自身たとえ可能なことでもそんなことで村民を苦しめたりは決してしませんでした。さらに又どんな贈り物をした所で村民たちの老人に対する尊敬の念を表すには十分ではありませんでした。というのも村民たちは五兵衛の内なる霊は神聖なものと信じていたからでした。だから、彼らは老人を神と宣言し、それより以後、彼のことを濱口大明神と呼んだのでした。彼に与える事の出来る名誉に、これ以上のものはないと村民たちは考えたわけですが、事実、どこの国に行っても生きた人間に対してこれ以上の名誉など与えられるべくもありません。やがて、彼らは村を復興させると、五兵衛の御霊を祀る神社を建立し、その正面に金文字で彼の名前を書いた小さな額を掲げました。村民はその神社で祈りや供物と共に彼への礼讃を捧げるのでした。彼自身がこの事について一体どの様に感じていたのか、はわかりません。ただ、知られていることは彼が子供や孫たちと一緒に高台のあの藁葺屋根の豪邸にずっと住みつづけ、又、人間的で素朴な人柄は以前とちっとも変わることはなかったのですが、ただ同時に下の村の神社でその霊があがめられていたという事実だけでした。五兵衛が死んで百年以上にもなりますが,彼を祀った神社は今でもそのまま在って、人々は未だに心配事や困難にぶつかった時、その助けを得んとてこの善良なる老人の御霊に祈りを捧げているということです。 
 
1854 安政東海地震・安政南海地震

 

第1章 序論 
第1節 はじめに
東海地震・南海地震は、引き続いて起きる巨大地震のペアとして著名である。幕末の嘉永7年(安政元年、1854)11月4日の午前9時頃に東海・熊野海岸沖を震源として起きた安政東海地震と、その約31時間後の、翌日11月5日の午後4時頃に、紀伊水道・四国南方沖の海域を震源として起きた安政南海地震については、非常に広範囲に古文書、石碑文、口頭伝承などの記録が残っている。この2大地震とそれらによって引き起こされた津波による被害は詳細に記録されている。
それらの記録の中には、当時の人々が命がけで危機を切り抜けた体験談が生々しく語られている事例も数多い。ことに、人口の密集した沿岸市街地で、しかも当時の政治的な有力者や豪商、漁業有力者などのいた場所では、災害にあった自分の集落や町の人に対しての一種の責任感から情景が描写されている事例も見いだされる。例えば、伊豆の下田のような、幕末期の外交の舞台となった場所や、和歌山県田辺、広(現在広川町)、大坂、土佐国須崎などのような当時の商工業の中心地では、このような有力者の手による冷静詳細な記録が残されている。これらの記録によってわれわれは、南海地震という1世紀に1度の大地震津波災害に際してこれらの地点で起きたころ、その災害に遭遇した人間の行動や復旧活動を知ることができる。そのなかには現代のわれわれが教訓とすべき事例も数多く含まれているであろう。
またこれらの場所をはじめとして、被災地の海岸線上の集落では単に情景を詳細に述べるだけではなく、さらに一歩踏み込んで、後世にも同じようなことが起きるであろうと予想して、子孫へと書き残した教訓を語るものも少なくない。このような先人の語った「災害教訓」には、時代の背景を越えて、現代の我々への地震津波災害の教訓として生かせるものも数多い。そこには、たった今、自分たちが体験したばかりの大災害で、「こうしたからかろうじて死を免れた」という偶然の幸運から得られた教訓もあるし、その反対に家族縁故者のなかに大勢の被害者を出したため、深い悔顧の念とともに後代の子孫に向けて「子孫たちよ、俺たちと同じ誤りを繰り返すな」という情念を吐露した文章もある。
いずれにしろ、このような大災害を体験した先人たちの体験から生み出された教訓には、現代に生きる我々も拝聴に値するものが多い。しかしながら、現実には現代の家庭に中で、一家団欒にテレビの視聴が普及した今日、先人から伝えられた昔語りが、家の長老から少壮の家族へと語り伝えられることは少なくなった。せっかく先人が遺してくれた貴重な災害教訓もまた急速に後世には伝わらなくなってしまった。
そこでこの調査では、ひとまず安政東海地震、安政南海地震の膨大な史料群の中から、あるいは各地に残る石碑碑文、伝承や民俗の一形態の形などに現代に伝えられた多数の記録・伝承物のなかから、先人が子孫へと伝える意志で語られた教訓を収集記録し、この貴重な先人の遺産を現代の我々、さらに将来に生きる我々自身の子孫に受け継ぎ、それらを活かし、その成果を学校教材や市民講座、防災の実務訓練の現場などの有効な資料として供することを目標としたい。
本分科会では「教訓」を広義にとらえれば、先人自体には子孫への教訓を伝承させる意志はなく、ただ事実の記録を行ったにすぎないものでも、そこに記載された事実から我々が教訓として読み取ることができるものがある。また、先人自身が意識的に子孫、後世生きる人に向かって意識的に後代の子孫へ教訓を残そうとして生み出されたものもある。本調査では、この両者を共に取り上げることとし、先人の知恵を改めて検証することとしたい。 
第2節 安政東海・南海地震(1854)と宝永地震(1707)
安政東海地震、安政南海地震の記録を実際に読んでみると、しばしばその147年前の宝永4年(1707)10月4日に起きた、宝永地震のことに言及するものに出会う。この両者の年代的隔たりは147年であるため、安政東海・南海地震の体験者の中には宝永地震の実体験者はいなかったはずである。一世代三十年とすればおよそ五世代。祖父母が幼年時代にその祖父母から聞いた話の中に出てくるか?という年代の隔たりである。西暦2003年に生きる現代の我々がちょうど149年前の安政東海・南海地震( 1854)を語るほどの年代の隔たりということになる。
宝永地震は、地震学的には東海地震と南海地震が同時に起きた事例と見なすことができる。すなわち、安政東海地震・安政南海地震のペアの1つ前のペア地震である。四国南岸や紀伊半島南西海岸の古文献によれば、宝永地震による津波の規模は明らかに安政のペアを上回るものであった。
安政東海・南海地震の体験者たちのなかには、祖父母の幼年時代にそのまた祖父母から聞いた話として宝永地震のことをかなり詳しく知識を持っているものもいた。このような人たちにとって、たった今体験した地震と津波は、前代未聞の出来事ではなかった。
宝永と安政の二回地震津波の事例を比較し、その類似性、法則性、あるいは差異について言及する文献が少なからず存在する。安政東海・南海地震の実体験者がとくに子孫への教訓を遺す動機となったものに、この複数の例から見た法則性に気づいたということがあるにちがいない。
逆に、前代未聞の災害では災害の法則が気づかれにくく、教訓は残りにくいのである。たとえば、約1万五千人の死者を出した、寛政5年(1792)島原大変肥後迷惑と語り継がれる有明海の大津波の古記録は量としては膨大に残っているが、実体験した先人の災害教訓は極めて乏しい。また宝永地震(1707)について言っても、その記録の中に1周期前にあったはずの慶長南海地震津波(1605)のことに言及するものがほとんどない。したがってこれも膨大に残っている記録のなかに、災害教訓を含む記載がほとんど見られない。これはつまり、慶長南海地震津波の記憶が、なぜか宝永地震の時代までほとんど残らなかったことを反映しているのであろう。
安政東海、安政南海地震の記録に先人が遺した災害教訓を数多く拾い上げることができるのも、宝永地震の記憶が安政の時代までよく伝承されたたまものである、ということができるであろう。 
第3節 安政南海地震の災害教訓の背景
安政南海地震は、安政東海地震(安政元年11月4日)の翌日5日の夕刻に起きた。このため、大阪や紀伊半島、四国の海岸地方に住む人には、前日4日の朝に、東海地震によるかなり強い揺れと、その1、2時間後に東海地方・熊野地方の沖合から、紀伊半島西部や四国の海岸にやってきた津波の余波を経験した。幸い、この揺れも小津波も紀伊半島西部、四国海岸に住む人にとっては大きな被害を生ずるほどではなかった。
この前日の体験が、翌日の安政南海地震を迎えたとき、すでにこれらの海岸に住む多くの人に「地震のあとには津波が来る」という教訓を与え、あるいは呼び起こした。安政南海地震が起きた5日の夕刻、紀伊半島や四国の海岸に住む人々はいち早く大きな津波の来襲を予測し、多くの人々は高所に家財を移動し、また彼ら自身高所へ避難したのである。このため、安政南海地震では、紀伊半島や四国の海岸の集落の多くの場所で、津波による家屋の流失倒壊の被害は大きかったのに死傷者の人身被害は非常に少なかった。前日の体験をいち早く災害教訓として次の日に活用したのである。この過程のなかで当時の人のたくましいしたたかさを物語る文献もまた、数多く存在する。われわれは本調査において、このような例も先人の災害教訓の例として調査の対象としたい。 
第4節 地震津波の災害教訓の古い例−「平家物語」
ここでは、安政東海・安政南海地震だけにこだわらず、大きな地震津波の災害を経験したとき、それを後世の人に教訓として意識的に伝える、という行為は、日本人はいったいいつのころから始めたのであろうか、ということを述べてみよう。
じつは、津波の時には高いところへ避難せよという教訓を一番早く記録した文献は、意外なことに「平家物語」である。「祇園精舎の鐘の声」にはじまり、高校生必須の古典として名高い、あの平家物語である。その最後の方、平家の滅亡が記された直後、文治元年(元暦二年、1185)7月9日に、京都、大津、奈良で諸寺の建物に被害を及ぼしたかなり大きな地震があった。「長門本・平家物語」によると、京都で白川の六勝寺九重の塔の倒壊はじめ「神社仏閣皇居人家全き(無事)は一宇もなし」などと記したあと、「近国遠国もまたかくのごとし、山は崩れて河を埋み、海かたぶきて浜をひたし、岩われて谷に転び入り、洪水漲り来たらば、をかにあがりてなどかたすからざるべき」と述べられている。京都と同じような地震の被害は、遠国(をんごく)にまで及んだ。讃岐・安房は遠国ではない。土佐になって初めて遠国ということができる。「海かたぶきて浜をひたし」はまさに津波の浜への来襲の表現であろう。当時津波という言葉は生なかった。このあとに現れる「洪水」も当然津波のことを指していると見られる。「洪水漲り来たらば、をかにあがりてなどかたすからざるべき」。この文の文意は「もし津波によって海水が満ちてきたら、どうして丘にあがって助からないでおられようか?津波の時は当然、丘の高所にあがって避難すべきだ」である。ここには、津波という現象に対する避難教訓が見事に述べられている。
「長門本・平家物語」のこの文によってわれわれは知る。地震が起き、津波が襲ってきたときは、丘の高所に避難すべきだ、という災害教訓を初めて記した文献は「平家物語」であるということを。またさらに、「理科年表」などの地震表には、近畿地方の内陸地震とされているこの1185年の地震は、じつは南海地震の一つであった可能性があることを。
ちなみに、理科年表では、康和南海地震(1099)の次の南海地震は、正平南海地震(1361)であって、この間262年もの間隔があいている。後世の南海地震が100年〜150年ほどの間隔で起きているのに比べて間隔が開きすぎていて不自然である。文治元年(1185年)の地震が南海地震であれば、この前が86年間隔、あとが176年間隔となって、「南海地震は100年〜150年間隔」という法則性に乗ってくる。 
第5節 中世の東海地震による集落の高所移転の例
−明応7年(1498)東海地震による志摩国大津集落の高所移転−
鳥羽市国崎(くざき)は志摩半島先端部海岸の鎧崎の基部に位置している小集落である。東海沖の海域に面しているため、歴代の東海地震の津波による被災を繰り返してきた。国崎は平安時代を通じて伊勢神宮の神戸として存続し続けたことが文献的に証明されている(都司、1999)。平安時代の末期、国崎の集落は、平野部の大津集落と、丘の上の国崎の2つの「神戸」、すなわち伊勢神宮の直轄領集落に分離した。この分離した「大津神戸」が、鎌倉時代を経て、南北朝時代にまで存続したことは、正中元年(1324)12月の「二所太神宮神人解案」および「制止状」(「市史」、上巻、p731)に「大津国崎神戸」とあること等から明らかである。この国崎から分離して平野部にあった大津が明応東海地震の津波によって壊滅する。すなわち、「鳥羽誌」(明治44年(1911)、曽我部市太編)の宝剣山常福寺の説明文に「旧時大津国崎の二神戸に分かれし時、此の寺大津に属し天通山と号す。明応七年八月海嘯のため、大津の地流失せしを以て字里谷に移す」とある通りである。さらに「増補・国崎神戸誌」には、「大津は(中略)明応七年八月津浪の為に荒廃し更に国崎と合併せりとの口碑を存す」と記されている。
大津にあった月読神社については、「旧月読ノ宮社、(中略)口碑に云。この社は往古大津神戸の氏神として奉祈せしが明応七年八月津浪の災後、大津神戸は移転して国崎神戸に合したるも当社はその境内社稀人神社と共に字大津の田圃の間に残存せしなり」と記されている。すなわち、神社だけは移転せず、田畑地に戻った旧大津の場所にそのまま存在している、というのである。
以上、明応津波(1498)によって大津神戸の集落が壊滅し、生存者たちは寺とともに国崎に合併移転し、もとの大津の市街地は放棄され田畑地に帰したことが判明する。
国崎は古来耕作地の面積が少なく、伊勢神宮への貢納物がアワビ、塩、鯛などの水産物であったことからも分かるように、海からの産物の採取を主たる産業とする集落であった。にもかかわらず、居住地の標高が高いということは、日々の生業の不便を忍んで生活してきたことを意味する。
大津の集落は失われて500年あまりを経過したが、そのあった場所は、江戸時代の絵図(「市史」所載)、地元伝承、月読神社の故地、小字名などから現代の地図上にその位置をほぼ推定しうる。国崎の集落を海岸に下り、海岸道路を西に進むと小さな川にかかった「大津橋」に出る。この川にそっては西に向かう小平野が開けている。この小平野が大津の故地である。地図で分かるように現在もこの小平野にはわずか一、二軒の家屋が点在するのみである。
この小平野は現在の国崎漁港をすぐ眼の前に見る位置に広がっている。大津の原義は、「大きな港」である。国崎漁港は鎧岬の背後に位置し、岩礁群によって沖の荒波が防がれ天然の良港をなしている。この港のことを讃えて大津の名を生じたと考えて差し支えあるまい。当然、この小平野に居住地をおいた方が漁業を主産業とする生活には有利である。すなわち、この小平野のほうが標高が低く漁港に近く、住居の敷地に供することのできるゆったりとした土地が得やすい。さらに、生活水を得やすく、背後地での農業にも便利である。しかるに、国崎の人々は明応地震津波(1498)以来500年間余りにもわたって、大津の故地の小平野部に居住家屋を造らなかった。土地の狭い、標高の高い国崎に不便を忍んで住み続けたのである。これはなぜであろうか?
その答えは自明であろう。明応津波の被災を体験した大津の人々は、平野部に居住地を作れば、将来大きな津波が起きれば集落が壊滅してしまう、という教訓を得た。その教訓を人々は500年あまりの年月、決して忘れなかった。明応地震津波( 1498)の生存者たちは、不便を承知で、高地居住して残った隣の国崎の本神戸の集落に合併し、ぎっしりと家を並べて住み始めた。寺もまた大津の故地をすて、岩の台地の上に移転した。こうして住民たちは、日常の不便と引き替えに、津波からの永遠の安全を得たのだ、と推定される。
明応地震から209年たった宝永4年(1707)10月4日の午後4時頃、国崎は宝永地震の津波に襲われた。この津波による被害は、国崎では漁具と漁船、および田畑の被害のみにとどまり、家屋、人身の被害を生じなかった(「市史」)。
幕末の安政東海地震(1854)の津波では、国崎は「津波の特異点」となり、潮の高さは城山、坂森山を打ち越えて「彦間にて七丈五尺」(22.7m)であったと、「常福寺津波流失塔」の碑文に記されている。しかるに、その被害は、わずかに「家四軒、宮二軒」にとどまり、溺死者も六名にとどまった。20m以上という大きな津波浸水高さに比して、非常に小さな被害にとどまった、ということができる。
以上のように、 国崎の集落の高地移転は、江戸時代の二大津波に対しても、ともに大きな効果を発揮していたことが判明する。また、江戸時代のこれら2度の津波の経験がさらに大津の低地へ住居を建ててはいけないという教訓への確信をかためさせたと推定される。
三陸海岸地方では明治三陸津波(1898)、あるいは昭和三陸津波(1933)のあと、多数の集落が高地移転を実施している。漁業を主体とする日常生活の不便を忍んで現在まで高所居住を堅持している集落もあるが、なかには永年のうちに不便に抗しきれず、あるいは防災意識が希薄化して低所に再移転し、海辺に集落を戻してしまった例もある。
いま、ここに取り上げた志摩国の国崎は、500年も昔に津波対策としての高地移転を実施し、現代まで守り通して、江戸時代には2度の大きな津波にさいしてきわめて有効に災害軽減を達成した。鳥羽市国崎は、高所集落移転の非常に古い成功事例として、津波防災対策の見地から大きな賞賛に値するものであろう。
以上、平安時代と中世の先人の津波教訓例をあげて、本報告の序論とする。 
第2章 安政東海地震・南海地震の災害教訓例 
第1節 はじめに
本分科会では、平成15年度の仕事として、安政東海地震、南海地震に被災した体表的地点として、大坂(現在大阪市)、紀伊広村(和歌山県広川町)、および、江戸幕府の外交の表舞台であった伊豆下田(静岡県下田市)を、事例研究の地点とし、第2章第2節で論じた。またこのほかに、当時の交通、流通路の態勢を中心とした社会背景と、その被災による影響、当時なりの短期的な緊急避難と、やや長期にわたる復興について考察した。これらは第2章第3節で論じた。
さらに、安政東海地震、南海地震に被災した先人自身が書き残した後世の子孫へ伝えた教訓をいくつか集めた。
この研究では、武者(1951)による「日本地震史料」(Mと略す)、都司(1982、1984)による「紀伊半島地震津波史料」(T1)、「高知県地震津波史料」(T2)、地震研究所から刊行された「新収・日本地震史料、第5巻別巻5-1」(H5-1)および「同別巻5-2」(H5-2)、「同補遺編別巻」(HZ1)および「同続補遺編別巻」(HZ2)も参考とした。さらに最近、木村ら(2003)によって刊行された「南海地震の碑を訪ねて」(K)も大変参考になった。
参考とした。これらの地震津波史料を紹介した史料はおのおの数百ページから1000ページにも達する大部の書物であるので、本報告書で引用するときには、その文献の掲載されている各冊のページ数もローマ字のあとにハイフンをつけページの数字を表記することとした。 
第2節 地点別事例研究
1. 伊豆下田について (北原)
(1) 津波被害の実態と浸水域など (都司)
(2) ディアナ号の遭難、及びその幕府対応と地元対応のあり方
2. 大坂について (西山)
(1) はじめに
安政南海地震は、嘉永7年(安政元年)11月5日(グレゴリオ暦では1854年12月24日)の申中刻頃(午後4時前後)に紀伊半島沖で発生した巨大地震であり、直後に発生した津波によって紀伊半島沿岸〜四国太平洋沿岸は甚大な被害を蒙った。
津波は、紀伊水道から大坂湾へと浸入し、地震発生から約2時間後の酉中刻(午後6時前後)には大坂へも来襲しており、安治川や木津川の河口から堀川に沿って遡上した津波によって、大坂の市街地は多大な被害を受けていた。
(2) 大坂での被害状況
地震発生時、人口約32万の大都市であった大坂市中では、前日の11月4日の辰中刻過ぎ(午前8時前後)に発生した安政東海地震によって、家屋や土蔵などに破損・倒壊といった被害が生じていた。地震による被害は全体として小規模であったが、それよりも5日夕刻の安政南海地震に伴う津波被害の方が大規模であった。
安治川・木津川両河口付近に碇泊していた数百艘の大船(千石船など)が、来襲した津波によって押し上げられ、道頓堀川・長堀川などの堀川に沿って遡行していた。この大船群の遡行によって、堀川に架かる橋々は破損・崩壊し、諸堀川周辺の家屋や土蔵にも破損・倒壊などの被害を及ぼした。
大坂市中の大勢の人々は、堀川上に浮かぶ船(上荷船・茶船など)に乗って避難していたが、それら数多くの船は津波によって遡行してきた大船群によって押し潰され、多数の溺死者が生じていた。
(3) 幕府の震災対応 ―大坂町奉行の対応―
当時、大坂市中の施政を担っていた江戸幕府の政務機関は大坂町奉行であった。大坂町奉行は、11月4日朝の地震発生直後から火の元の注意を町々に命じていた。これは単に、市中の防火体制の強化を目的としたものではなく、市中全体の治安維持を主眼に置いた対応であったと考える。震災直後、大坂市中の道頓堀川・長堀川などは、遡行した大船や押し潰された船の残骸などによって、舟運が途絶した状態にあった。そこで大坂町奉行は、速やかにそれらの撤去作業を実施しており、11月中頃には市中の舟運は一応回復していた。
(4) 民衆の震災対応
11月4日の安政東海地震の発生以後、市中の人々は、相次ぐ余震や建物の倒壊を恐れて、大路や空地などに仮小屋を構えて避難していた。11月5日の安政南海地震の発生以降は、多数の人々が打ち続く余震を恐れて、市中を縦横に廻る堀川上の船に乗って避難していた。このような堀川上の船への避難は、約6ヶ月前に発生した嘉永7年6月15日の伊賀上野地震の際にも実施されていた。また、5日夕刻の津波発生直後、高台の上町付近を目指し、走って逃げる人々が大勢いた。それとは別に、地震発生直後から堀川上の船へと避難していた人々も数多くおり、それらの人々は、津波に押し上げられて堀川を遡行してきた大船群によって、乗り込んだ船と共に押し潰された。
(5) 震災対応の特徴 ―宝永地震との比較―
安政東海・南海地震(1854)における大坂での被災状況は、約150年前の宝永地震(1707)の場合とほぼ同じ様相を呈しており、震害よりも津波被害の方が大きかった。また、避難先であった市中の堀川上では、宝永地震の場合と同様に多大な人的被害が生じていた。
このことから、安政南海地震の発生当時、大坂の民衆が、過去に発生した宝永地震における被災経験を教訓として、それに基づいて堀川上に浮かぶ船に乗り込む避難方法を、積極的に取りやめていた様子は見受けられない。そのため、約150年前の宝永地震における大坂での被災経験は、幕末期に至っては殆ど伝承されてなかったと考える。それよりも、むしろ安政南海地震の約6ヶ月前に発生していた伊賀上野地震の被災経験の方が、人々の記憶に新しかったために、打ち続く余震からの有効な避難方法として、多くの民衆に認識されていたように思う。
また、大坂では、宝永地震以後約150年の間に、文政京都地震(1830)、伊賀上野地震(1854)など津波を伴わない内陸地震を経験したことによって、「地震の後には津波が来る」といった、地震と津波とを関連させた災害像が希薄化していた状況も想定できる。
3. 紀伊広村について (柄谷)
(1) 地震津波災害と防災対策の概要
慶長地震から得られた教訓が安政南海地震にどのように伝わったのか、また、安政の教訓が昭和南海地震にどのように伝わったのか、への理解を深めるために、ここでは慶長から昭和の時代にかけて、広村に来襲した地震津波被害の概要と各時代に講じた防災対策の概要について整理する。
(2) 安政南海地震災害後の応急対応
安政南海地震津波による被害、広村村民の避難対応、濱口梧陵による避難対応と応急対策(被災後1週間)について、当時の村民の生活状況を踏まえながら整理する。
(3) 安政南海地震災害後の復旧・復興過程
濱口梧陵のハードおよびソフト対策(物質・精神両方面からの対策)を中心に、当時の生活の描写とともに、復旧・復興施策と広村村民のその対応状況について整理する。
ハード対策:広村大防波堤の築造、防潮林の植栽、村民への救済措置(家屋、漁村漁具、食料、家賃、商人への資本などの提供)
ソフト対策:村民への雇用対策(日当の配給)、租税の免除など(4) 濱口梧陵の残した教訓「稲むらの火」(小泉八雲;ラフカディオ・ハーン著)に残る教訓を、物語と実話の相違を解説しながら、将来に残そうとした災害からの教訓を解釈する。
「稲むらの火」には、上記(2)、(3)に記載した内容が凝縮されており、実話をいかに「教訓」として残していくかが描かれている。したがって、教訓の整理として使用するに十分な文献である。
尋常小学第五学年用国語読本巻十第十課に掲載された「稲むらの火」の教え方について、今村明恒氏の残した解釈と、現在広川町民センター長館長が抱える「現在の小中学校での災害教育の問題」を対比させながら説明する。
まとめ
・広川町(現代)において、過去の教訓がどのように伝わっているのか
・将来の災害に備えて過去の教訓(防波堤や石碑、教材など)を活かすためのポイントは何か
上記の2点に焦点をあて、住民へのヒアリング調査を通じて整理する。 
第3節 地震災害が当時の社会システムに与えた影響とその復興 (北原)
1. 交通・情報について
(1) 南海地方での交通分断状況 (西山)
嘉永7年11月5日の安政南海地震の発生によって、四国太平洋沿岸や紀伊半島沿岸は、地震と津波による甚大な被害を蒙っていた。それによって沿岸地域での交通路が寸断され、人・物・情報の途絶状態が生じた。その交通の途絶状態に、当時の藩や民衆はどのように対応したのか、また、どのような仕法で交通路を回復していったのかを明らかにする。
(2) 東海道の分断状況、それに伴う情報の停滞
2. 社会システムへの影響
・幕府の救済金支給など 
第4節 当時の先人自身が残した教訓
の節では安政東海地震、南海地震の被災直後に、当時の人自身が後世の子孫のために教訓を残した例を書いておこう。
1. 大阪府
(1) 大阪・大正橋の碑文「大地震両川口津浪記」(M-347)
大阪市大正区のJR大正駅近く、安治川と木津川の合流点付近に大正橋がかかっている。その橋のたもとに、「大地震両川口津浪記」と題する石碑が建っている。安政南海地震の翌年、安政2年7月に幸町五丁目船場によって建てられたものである。その文には安政元年(1854)6月14日の伊賀上野地震による大阪の様子、11月4日の安政東海地震の大阪での震度4程度のかなり大きな揺れを感じて、多くの人が小舟に避難したことが書かれている。これに続いて翌5日の南海地震の記事が現れる。すなわち、申刻(16時)の本震の揺れによって、大阪では家の崩れ、出火も生じた。本震から2時間ほど経過した日暮れごろ、大津波が押し寄せ、安治川、木津川に山のような大波が入ってきた。地震の避難で大勢の人が乗りこんだ多数の船が川の上流に押し流され、橋にうち当たって転覆し、橋は落ち、さらに後から流されてきた船が折り重なった。この津波のために大阪全体で死者341人と伝えられる。石碑の文はさらに続く。
「今より百四十八ケ年前、宝永八丁年十月四日の大地震の節も、小船に乗り津浪にて溺死人多しとかや。年月へだては伝へ聞く人稀なる故、今亦所かはらず夥しき人損し、いたましきこと限なし」
すなわち、「148年前の宝永4年(1707)の南海地震でも、地震からの避難のために船に乗った人が大勢いて津波で溺れ死んだ。長い年月がたったので、この言い伝えを知る人が少なくなり、今またむざむざと同じように船に乗って同じ理由で死者を多く出すことになってしまった」、というのである。先人の残した教訓を生かすことができなかった悔しさがにじみ出ている。
このあと石碑には後世の人へ教訓を残す文章が続く。
「後年又はかりがたし。すべて大地震の節は津浪起こらんことを兼ねて心得、必ず船に乗るべからず」
すなわち、「将来又同じように地震が起きるかも知れない。大地震の時はいつでも津波が起きることをあらかじめ知っておいて、決して船に乗ってはいけない」、というのである。大阪に住むわれわれは、2度同じ間違いをした、そこで我らの子孫たちよ、将来再びやってくるであろう地震のときには、また3度目の同じ間違いを繰り返すな、と強く戒めているのである。
さらに碑文には、「火の用心肝要なり」、「川内滞船は水勢おだやかなる所をえらび繋ぎ換え、囲い船は素早く高いところへ移せ」と現代にも通用する地震津波の緊急対策が書かれている。
碑文の末尾はこう締めくくられている。
「願わくば心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れ給ふべし」、とかかれている。つまり、「この石碑の意義を理解してくれる人がいましたら、この石碑の文字がいつまでも人々が読みやすいように、どうぞ毎年墨を入れてほしい」、というのである。この先人の残した用意周到な配慮に驚くほかはない。
われわれはこの石碑の建立者の子孫にたいする深い配慮と、周到な用意に深く敬意を表するべきであろう。21世紀にはいった現代、大阪に住む人は、148年前にこの石碑を建立した先人の教訓と重い意志に答えることができるであろうか?
(2) 堺市大浜公園石碑文(M-348)
大阪市の南に隣接する堺市の大浜公園にも、安政地震の記念石碑がある。こんどはこの石碑の碑文をみておこう。やはり、安政元年(1854)6月の伊賀地震、11月4日朝の安政東海地震の揺れと、翌5日の安政南海地震による揺れを記したあと、次のような趣旨の文章が続く。
すなわち、「暮れごろにわかに津波が川筋に激しく入り、また激しく潮が引いて川岸につないだ船のとも綱、錨綱が切れ船が漂い始めた。船は橋にぶつかり、八ヶ所の橋が落ち、船も破損した。しかし、堺の住民は地震津波に壊された家もあったが、みな神社の庭に集まって避難したためにけが人1人出すことがなかった。これは昔宝永年間に、このたびと同じように地震津波があったととき、船で避難して、多くの人が津波で死んだということを、はっきり知っていたために、今われわれは助かったのである。堺の人がこのように助かったのは誠にありがたいことと、産神神明宮三村宮、天満宮に感謝し、幣をささげ、後の世の子孫も同じように災害を免れるようにとお祈りをした」、というのである。
堺の人は実に賢明であった。宝永地震津波の伝承をちゃんと生かし切り、地震の揺れに対しても船に乗って避難しようとはせず、集落の小高い土地にある鎮守の神社に避難してけが人1人も出さず、この災害を乗り切ったのである。この石碑は、当時の堺の人の誇りをにじませて、現代にまで碑文の文面として語り伝えている。
以上、大阪の大正橋の石碑と、堺市大浜公園の石碑は、災害に昔の教訓を生かせなかった人々の悔しさと、生かし切って住民を守りきった誇りを、それぞれ対照的に語りつつ、子孫に教訓を示し続けていることが理解できる。 
2. 和歌山県
(1) 「湯浅町津波記念碑」
和歌山県湯浅町の安政南海津波の記念碑には「大地震津なみ心え之記」(M−354)と題された文章が刻まれている。そこには、安政元年(1854)6月14日の安政伊賀地震の揺れ、11月4日の安政東海地震の揺れと、それによる小さな津波を「川口よたくることおびただし」と表現している。「よた」というのは海水面の異常な小変動、すなわち小さな津波を意味する。そのあとで、11月5日の安政南海地震の津波について、こう描写している。すなわち、「大木大石をさかまき、家蔵みじんに砕き高波押し来るの勢いはすさまじく、おそろしなんといわんかたなし。」と書かれているのである。そのあとに、地震の揺れに船に避難しようと乗りこんだ人が、地震のあとにしばらく時間をおいてやってきた津波に船もろとも流され、転覆や破船によって流れに放り出されて、溺死の人も少なくなかったと記されている。
そうして、碑文では、さらに次のように文章が続いている。
「宝永四年の地震にも浜辺へ逃げて津浪に死せし人のあまた有りしとなん。聞きつたふ人もまれまれになり行ものなれば、この碑を建置ものぞかし」と、書かれている。すなわち、147年前の宝永地震のときにも、浜辺へ地震の避難をして、そこで津波にあって死んだ人が多かったということである。このような伝承も時がたって知っている人が少なくなったものだから、子孫へ伝承を伝えるためにこの石碑を建立することにしたのである、というのである。
大坂大正橋の石碑文と全く同じ教訓を得て、この石碑が建てられたことを物語っている。
(2) 和歌山県日高郡美浜町(旧松原村)「津浪警告碑」(M-354)
和歌山県日高郡美浜町の旧松原村に「津浪警告碑」がある。文久2年(1862年)5月に建立されたもので、その碑文は次の通りである。
「後世もし大なる地震の時は必ず津浪起きると心得て、浜中の人々は大松原の小高きところへ集り居るべし。さあれば高波の患へ、はた地震の恐れなかるべし。船などにては遁(のがれ)んとすべからず。諸人此事をゆるがせに思ましきもの也」
現代語に近いので、意味は容易に理解できるであろう。大地震の時には必ず津波が来ると考えて、大松原のなかの高台に避難せよ、地震の避難に船は使うな、というのである。この文の後ろに次の文が続く
「因(ちなみ)に曰(いはく)、嘉永七寅霜月五日の大地震、続いて津浪起り来れり。初め地震を避んとして舟に乗り、川内に浮び居し輩(やから)沈没せし事誠に嘆はし。よって後世の為にそのあらましを録しおわりぬ。」
地震の被害を避けようとして舟に乗ったところ、川の中で津浪にあって溺れたことはまことに残念である。だから、後世の子孫のためにここにおよその事情を記録しておくのである、というのである。ここにも、子孫への教訓を残そうとする先人の強固な意志を読み取ることができる。 
3. 徳島県
徳島県の太平洋に面した海岸は和歌山県の海岸とは違って、東南の向きに面している。このため、安政元年(1854)11月4日の安政東海地震による津波がかなり大きな現れ方をした。このことがかえって翌日の安政南海地震のトレーニングとなり、人的な被害の発生をへらした面がある。前日の地震のあとに津波が来たという経験・教訓が、翌日に直ちに役立ったのである。由岐町志和岐浦の石碑の碑文を見ておこう。
(1) 徳島県徳島市南沖洲、「蛭子神社百度石」
徳島県徳島市南沖洲の蛭子(えびす)神社の境内にあった「百度石」には、安政南海地震の記事と、その経験から得られた教訓の記事がある。文久元年(1860)の建立である。
「嘉永七寅年十一月五日、大に地震ふ。人々うろたえへ、木竹の根からみせし中へかけ込み、津波来ると騒ぐ声におどろき、舟に乗しはおし流され、危(あやう)きを助かり、又舟覆(くつがえ)りて命を失うも有り」
「必ずふねには乗べからず。家潰、炬燵竈より火起こり家蔵多くやけぬ。かかる折はこころを沈め、火の元に用心肝要なり。百年経ぬる程には、かやうの震」
「濤有りと聞く。故(ゆえ)こたび氏神の広前にもも(百)度石を建る」
この碑文を現代語訳すると次のようになる。すなわち、「地震の直後は根のしっかりした木や竹の林に避難していたが、津波が来たという声に驚いてあわてて舟に乗って、助かった人もあるが命を落としたものもいる。だから、地震津波の時は船に乗ってはいけない。また火事を生じ家倉を焼失した。(地震の時には)火の用心が重要である。今後百年ほど年代が過ぎた頃また地震津波があると言われる。このため此の百度石を建てるのである」、というのである。せっかく安全な木や竹の林に避難していながら、津波が来るという声を聞いてかえって林を飛び出し、船に飛び乗って、助かった人もいたが、かえって死んだ人もいた。船に乗るな、火事に気をつけよ、の教訓と、大きな地震は百年ほど後に来ると気が付いていた先人が、徳島にいたのである。
(2) 徳島県由岐町志和岐浦、「安政津浪ノ碑」
徳島県由岐町志和岐浦の「安政津浪ノ碑」の碑文の文面にも、子孫に向けた教訓が含まれている。その本文は次の通りである。
「去る嘉永七年霜月四日朝五ツ時(8時)大地震。不時に潮高満有。この時浦中家財を寺或は高き人家へ持運び、翌五日七ツ時(16時)亦々大地震。たちまち津浪押来り、船綱残らず沖中へ流れ失(う)。浦人漸く寺又は山などへ遁(にげ)登り、それぞれ無難に一命助かりし事、すべて氏神、諸仏の加護なり。これにより、又々後年におよび大地震の節、潮高満これあるのときは、定めて津なみ押来るべし。その期のおよび少も油断無きため、荒々この石に彫記す。長く子孫へ知らせ置度のみ」現代語に近いため意味は容易に読み取れるであろうが、いちおう訳しておく。「4日の朝の東海地震の揺れを強く感じ、そのあと突然、(東海沖から伝わってきた津波のために)潮が高くなった。浦中の人は家財道具を寺や高台に運び上げた。翌5日16時、今度は安政南海地震の本震が起き、すぐ津浪がやってきて船や漁具が流出したが、人々はいち早く寺や高台に逃げて、みな一命を取り留めた、というのである。この経験にてらして、将来も地震が起きたら津波がきっと来るのだ、長く子孫にこの事を伝えるためこの石に刻み記録したのである」、と言うのである。
この例では、大阪や堺の例とは異なり、宝永地震のことを対比していない。安政東海地震、南海地震というわずか2日間に起きた2回の出来事から、地震の後には津波が来るという法則を知り、子孫への教訓としているのである。 
4. 高知県
南海地震の震源に最も近かった高知県にも、後世の子孫への教訓を残そうとして建てられた石碑を3例あげることができる。いずれも高知県西部の海岸に建てられたもので、大方町入野、同町伊田、および土佐清水市中浜の石碑である。
(1) 大方町の2つの石碑文
a. 入野松原賀茂神社石碑
大方町の入野松原は、大方町の中心部の全面の砂丘を覆う、見事な赤松の松林である。この砂丘と松林によって、津波の正面からの来襲を防ぎ、たとえ津波がこの砂丘を越えても、流れのエネルギーを殺して大きな効果があったことは容易に了解することができる。この松林の中に賀茂神社の社殿があり、その前に大きな石碑が建っている。碑文のある石碑の正面は縦170センチ、横180センチである。安政南海地震の3年後の安政4年(1857)6月1日に「入野村浦の若連中」によって建てられたもので、野並晴という郷土の名士の文が刻まれている。野並晴という郷士はかなり漢学の素養があった人物と見え、大型の漢和辞典で調べなければ意味のわからない漢字が随所にちりばめられている。
文面の意味はおよそ次の通り。
すなわち、「嘉永七年(=安政元年、1854)十一月四日の昼、かすかな地震があった。潮がなぎさに満ちてきた。俗に鈴波と呼んでいる。これは津波の前兆である。翌日は何事もなく日常生活に復したが、申刻(16時)頃大地震があり瓦葺きの家も茅葺きの家も倒壊し、見渡す限り建っている家は一軒もなかった。土煙が立ちこめるなか人は争って山の頂上目指して登った。牡蛎瀬川(かきせがわ)、吹上川に潮が漲(みなぎ)った。津波の来襲である。津波は第四波が最大で、夜になるまでに七回波が襲ってきた。庭も水田も海になった。かって宝永四年(1707)十月四日にも同じ事があったと聞いているが、それ以来百四十八年目に当たる。牡蛎瀬川の石を取りこの石碑をつくって後人に警告を残すことにした。鈴波は津波の前兆である。今後百年あまりの後の世に生きる人は、この警告を知っておくべきである」とある。
この文面によると、前日の安政東海地震による小津波を「鈴波」と呼んで、本格的な津波の前兆ととらえている。また宝永四年(1707)から147年の時間間隔に注目し、将来百年余り年代が経過すれば再び同じ事が起きるであろうと予測して、そのころの子孫に教訓警告を残しているのである。
「鈴波は津波の前兆」は鈴波(小さな津波)を大津波の前兆と警告している点で、現代のわれわれの眼から見れば正しいとはいえないが、子孫に対する愛情から発せられた石碑の建造を行った先人に敬意を表すべきである。
b. 伊田海岸石碑
大方町の東部、旧国道沿いの金比羅神社の入り口にある。もとこの付近には松山寺という寺院があり、その住職・文瑞が作った文章が刻まれている。その文面は次の通りである。
「すすなみきたるときは、ふね十丁ばかりおきへかけとも申事甚よし(以上小文字)安政元甲寅十一月四日、すずなみ来。同五日七つ頃大ぢしん大しお入。浦一同リウしつ。是よりさき百四十年より百五十年まで用心すべし
為後世 記之   松山寺住 行年六十四 文瑞   自作」
高知県では安政元年の11月4日の昼間、東海地震による揺れを感じ、そのあと紀伊半島の向こうからやってきた東海地震による津波の余波が観察された。この小さい津波は、ここでも「すずなみ」と呼ばれている。この石碑の冒頭、この小津波への対策として、港から漁船を沖合十丁、すなわち海岸から1キロメートルほど沖合にこぎ出し、そこで錨で固定するのがよいと述べている。これは、震源がやや遠くて津波の来襲までに時間がある海岸での津波対策として現在でも通用する教訓である。震源から遠い海岸では、津波第一波は「すずなみ」と呼ばれたように比較的小さく、第一波から相当時間を経過して最大波高の波を経験することが多い。したがって、すずなみに気がついたなら、それから漁船を沖だししても間に合う。漁船を沖だしすることによって、漁船は海岸や海底に打ち付けられる事による損傷を免れることができる。また漁船が居住地に打ち上げられ、居住地での被害が拡大するのを防ぐことができる。
碑文で「安政・・」からは、文字の大きさが大きくなって本文が始まる。4日に「すずなみ」が来たあと、5日に安政南海地震の本震による大地震を感じ大津波がおそった。伊田の海岸は「一同流失」つまり、すべて流失した。こう記したあとに「今後、百四十年、百五十年の後まで用心せよ」と書き残している。文面には明記していないが、この僧・文瑞は明らかに147年前の宝永地震・津波(1707)を知っていて、将来もこの年代を経過すれば次の南海地震が来ることを予測し、この地に将来生まれて来るであろう子孫に向かって教訓を与えているのである。
碑文の最後は「後世のために、之を記す」と意志を明記して締めくくられている。
原石碑の文字は、ほとんど崩し字が使われておらず、現代人にすら容易に判読可能である。またぢしん(地震)、しお(潮)、リウしつ(流失)、など漢字を使わず仮名で書いてある。これらのことは、なるべく大勢の人に理解できるようとの配慮が伺われる。先人のやさしさを知ることができる石碑である。
(2) 土佐清水市中浜峠・池家墓碑
津波石碑は、四国の海岸に数多く見られるが、ここに紹介する土佐清水市の中浜峠の墓碑は、地震前兆の記載のある珍しい碑文が刻んである。現在碑文はかなり摩耗損傷して読めないところもあるが、同地の池家の「今昔大変記」に碑文の全文の写しが記載されており、碑文の全体を知ることができる。まず墓碑の正面には中央に「南無阿弥陀仏」と大きな文字で記されており、その両側に細字で「嘉永七寅十一月五日申ノコク大地震。静否浦々大潮入流家死人夥シ」と書かれている。「静否」の二文字に注目したい。地震がおさまるやいなや、津波がやってきた、というのである。この土佐清水市中浜の近くまで海底地変を起こした震源域が迫っていたことを示している。この墓石の向かって左面の文章は次のようである。
「前日ヨリ潮色にごり津波入、並ニ井ノ水にごる。或は干かれる所も有、兼ねて心得べし。是時諸人之悲歎難尽言語。よって為後世、謹建之。 中浜浦池道之助清澄」
すなわち、「5日の南海地震の前日に海水の色が変わり、津波が入った。また井戸水がにごり、あるいは涸れる井戸もあった。ふだんから知っておくべき事である」、というのである。現在のわれわれは、前日の海の色の変化と津波は、5日の安政南海地震の前兆ではなく、東海地震によるものであることは知っているが、井戸水のにごり、あるいは涸れはこの場所での南海地震の前兆を記したものであろう。南海地震の直前予知を考える上で現代のわれわれにもヒントを与えてくれる貴重な碑文である。
この墓碑の右面には、宝永地震の記載がある。
「宝永四亥十月四日未ノ刻(14時)大地震。静否浦々大潮入コト三度流家死人夥シ。翌年子ノ年中少々ノ地震タエズ。大地震ノ時、火ヲケシ家ヲ出ルコト第一ナリ。家ニシカレ焼死者多」
宝永地震のときには余震が一年以上続き、火事が起きた。地震の時は火を消すことを第一に心得よ、と子孫に教訓を残している。 
第3章 むすび 
以上、安政東海地震と翌日に起きた安政南海地震とそれぞれの大津波の大災害を経験した先人たちが残した教訓のうち、初年度調査で見つかったものを紹介した。教訓の大部分は石碑の碑文の上に見いだされ、紙に書かれた文書文献記録にはあまり多くは見い出されなかった。これには、(1)紙では百年過疎霊場の長年月の保存が心もとない。(2)多くの住民の目に触れるようするには紙や木に書くより、石に刻むのが確実である、との判断が働いたものと理解される。
各地に刻まれた石碑の文を残してくれた先人たちの意志に深い敬意を表したい。 
 
日本天変地異記

 

田中貢太郎
序記 国土成生の伝説
大正十二年九月一日の大地震及び地震のために発したる大火災に遭遇して、吾吾日本人は世界の地震帯に縁取ふちどられ、その上火山系の上に眠っているわが国土の危険に想到して、今さらながら闇黒な未来に恐怖しているが、しかし考えてみれば、吾吾は小学校へ入った時から、わが国土が地震と火山とに終始していて、吾吾国民の上には遁のがれることのできない宿命的な危険が口を開いて待っているということを教えられていたように思われる。それは日本歴史の初歩として学ぶ国作りの伝説である。
国作りの伝説は、「古事記」や「日本書紀」によって伝えられたもので、荒唐無稽な神話のように思われるが、わが国土が地震帯に縁取られ火山脈の上にいるということから考え合わすと、決して仮作的な伝説でないということが判る。「日本書紀」には、「伊弉諾尊いざなぎのみこと、伊弉冉尊いざなみのみこと、天の浮橋の上に立たして、共に計りて、底つ下に国や無からんとのり給ひて、廼すなはち天あめの瓊矛ぬぼこを指しおろして、滄海を探ぐりしかば是ここに獲き。その矛の鋒さきより滴したたる潮凝こりて一つの島と成れり。※(「石+殷」、第3水準1-89-11)馭盧おのころ島と曰ふ。二神是に彼の島に降居まして、夫婦して洲国を産まんとす。便ち※(「石+殷」、第3水準1-89-11)馭盧島をもて国の中の柱として、(略)産みます時になりて、先づ淡路洲を胞となす。(略)廼ち大日本豊秋津洲を生む。次に伊予の二名洲を生む。次に筑紫洲を生む。次に億岐おき洲と佐渡洲を双子に生む。(略)次に越洲を生む。次に大洲を生む。次に吉備子洲を生む。是に由りて大八洲国と曰ふ名は起れり。即ち対馬島、壱岐島及び処処の小島は皆潮沫の凝りて成れるなり。亦また水沫の凝りて成れりと曰ふ。次に海を生む。次に川を生む。次に山を生む。次に木祖句句廼馳を生む。次に草祖葺野姫を生む」としてあって、歴史家はこれを日本民族が日本島国発見の擬人化神話としているが、私はそれを地震と火山の活動による土地の隆起成生とするのである。
今回の地震には、房総半島の南部から三浦半島、湘南沿岸、鎌倉から馬入ばにゅう川の間、伊豆の東部などは、土地が二尺乃至三四尺も隆起したということであるが、それはアメリカの西海岸からアラスカ群島、千島群島をかすめて、表日本の海岸に沿うて走っている世界最大の地球の亀裂線、専門家のいわゆる外測[#「外測」はママ]地震帯の陥没から起ったもので、元禄十六年の地震は、その地震帯の活動の結果であると言われている。要するにわが国は、こういうふうに外側地震帯及び日本海を走っている内側地震帯の幹線に地方的な小地震帯がたくさんの支線を結びつけているうえに、火山脈が網の目のようになっているから、その爆発に因る地震も非常に多く、従って土地の隆起陥没もまた多い。天武天皇の時大地震があって、一夜にして近江の地が陥没して琵琶湖が出来ると共に、駿河に富士山が湧出したという伝説も、その間の消息を語るものである。安永八年の桜島の爆裂には、その付近に数個の新島嶼とうしょを湧出した。「地理纂考」によると、「安永八年己亥十月朔日、桜島火を発し、地大に震ひ、黒烟天を覆ひ、忽たちまち暗夜の如し、五日経て後、烟消え天晴る、十四日一島湧出す、其翌年七月朔日水中に没す、是を一番島と言ふ、同十五日又一島湧出す、是を二番島と言ふ、俗に猪子島と称す、己亥十月化生の故なり、同十一月六日の夜、又一島湧出す、是を三番島と言ふ、同十二月九日夜、又一島湧出す、是を四番島と言ふ、三四の両島は硫黄の気あり、因て俗に硫黄島と称す、同九年庚子四月八日、二島相並び又湧出す、五月朔日に至つて自ら合して一島となる、是を五番島と言ふ、今俗に安永島と称す、同六月十一日又一島湧出す、是を六番島と言ふ、同九月二日又一島湧出す、是を七番島と言ふ、同十月十三日又一島湧出す、是を八番島と言ふ、後七八の両島合して一島となれり、因て併せ称して六番島と言ふ、(略)炎気稍退き、五島全く其形を成す、即ち其二番三番四番五番六番の五島、併せて新島と名づく、其中五番島最大にして其周廻二十町、高さ六丈なり、草木発生し、水泉迸出す、於是ここに寛政十二年閏四月、島(桜島)民六口を此島に移す」としてあって、大小こそあれ八島の湧出したことは、大八洲成生の伝説を髣髴ほうふつさすものではないか。
こうしてシナ朝鮮の大陸を根の国として、遊ぶ魚の水の上に浮ける如きわが日本の国土は成生したのであるが、それと共にこうした伝説の下に成生した国土には、一番島と背中合せの運命を担っているという不安さを感ぜずにはいられない。天武天皇十二年、俗に白鳳の地震と言っている地震に、土佐の田苑五十万頃けいが陥没して海となったという伝説のあるなども、それを裏書してあまりあるように思われる。
一 斉衡元暦の地震、安元の火事
日本の地震で最初に文献にあらわれているのは、「日本書紀」の允恭天皇の五年七月、河内国の地震で、次が推古天皇の七年四月の大和国の地震である。西紀は河内の地震が四百十六年で、大和の地震が五百九十九年である。そのうちで大和の地震はかなり大きかったと見えて、「書紀」にも「七年夏四月乙未朔、辛酉、地動き、舎屋悉く破る、即ち四方に令し、地震の神を祭らしむ」と言ってある。
日本の地震は允恭天皇の五年から今日に至るまで約千五百年間の歴史を有し、回数約千四百回をかぞえることができる。そのうちで上代の地震は、後鳥羽天皇の元暦文治のころにかけて三百七八十回の地震の記録があるが、その十分の九は山城地方、わけて京都がそれを占有している。それは文化の中心地として記録の筆が備わっていたためであろう。
その京都の地震で天長四年七月に起った地震は、余震が翌年まで続いた。斉衡三年三月八日の大和地方もひどかったと見えて、「方丈記」にも「むかし斉衡の比かとよ、大地震おほなゐふりて、東大寺の仏のみぐし落ちなどして、いみじきことども侍りけれ」と奈良の大仏の頭の落ちたことを記載してある。貞観十年七月の地震は、京都というよりは山城一円と播磨とに跨っていた。元慶四年十月の地震は、京都と出雲が震い、同年十二月には、京都付近が震うた。仁和三年七月の地震は山城、摂津をはじめ五畿七道にわたった大地震で、海に近い所は海嘯つなみの難を被ったが、そのうちでも摂津の被害は最も甚だしかった。元慶元年四月の地震には、京中を垣墻悉く破壊し、宮中の内膳司屋顛倒して、圧死者を出した。陰陽寮で占わすと東西に兵乱の兆があると奏した。天慶は将門純友の東西に蜂起した年である。貞元元年六月の地震は、山城と近江がひどく、余震が九月まで続いた。延久二年十月の地震は、山城、大和の両国が強く、奈良では東大寺の巨鐘が落ちた。山城、大和の強震は、その後寛治五年にも永長元年にも治承元年にもあって、東大寺に災してまた巨鐘を落した。
元暦二年七月の地震は「平家物語」に「せきけんの内、白川の辺、六せう寺皆破れくづる、九重の塔も、上六重を落し、得長寺院の三十三間の御堂も、十七間までゆり倒す、皇居をはじめて、在在所所の神社仏閣、あやしの民屋、さながら皆破れくづるる音はいかづちの如く、あがる塵は煙の如し、天暗くして日の光りも見えず、老少共に魂を失ひ、調咒ことごとく心をつくす」と言ってある。「大日本地震史料」にこれを文治元年七月九日と改めてある。この地震は九月まで余震が続いた。区域は、山城、近江、美濃、伯耆の諸国に跨っていた。これには宇治橋が墜落し、近江の琵琶湖では湖縁の土地が陥落し、湖の水が減じたらしい。
近畿以外の地では、天武天皇の六年十二月に筑紫に大地震があって、大地が裂け、民舎が多く壊れた。同十二年十月には諸国に地震があって、土佐が激烈を極めた。これがいわゆる白鳳の地震で、土佐では黒田郡の一郡が陥没したと言い伝えられている。霊亀元年五月には、遠江国に大地震があって、山が崩れて※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)玉河を壅いだが、続いてそれが決潰したので、敷智、長下、石田の三郡の民家百七十余区を没した。天平六年四月には、畿内七道皆地震がし、同じく十七年四月には、美濃、摂津両国に地震があった。この両国の地震は美濃がひどく、多く人家を壊ったが、これは明治二十七年の濃尾の地震を思い合わせるものがある。天平宝字六年五月になって、また美濃をはじめ、飛騨、信濃の諸国に地震があった。天平神護二年六月には、大隅国神造新島、弘仁九年七月には、相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野の諸国、天長七年一月には、出羽に地震があった。その他、三河、丹波、伊豆、信濃、出羽、越中、越後、出雲にも大きな地震があったらしい。
貞観六年七月には富士山の噴火に伴うて大地震があって、噴出した鑠石は本栖、※(「(戈/戈)+りっとう」、第3水準1-14-63)の両湖をはじめ、民家を埋没した。富士山は既に延暦二十年三月にも噴火し、その後長元五年にも噴火したが、この噴火とは比べものにならなかった。貞観六年十月には、肥後の阿蘇山が鳴動して、池の水が空中に沸きあがったが、その九年五月になって噴火した。豊後の鶴見山もその年の一月に噴火した。貞観は天変地異の多い年であった。十一年五月には、陸奥に地震があって海嘯が起り、無数の溺死人を出したが、これは明治二十九年の三陸海嘯の先駆をなす記録であろう。元慶二年九月に相模、武蔵をはじめ関東一円に地震があった。仁和二年五月二十四日の夜には、安房国の沖に黒雲が起って、雷鳴震動が徹宵止まなかったが、朝になってみると小石や泥土が野や山に二三寸の厚さに積んでいた。この現象は海中の噴火か、それとも三原山の噴火か、その原因は判らない。
この不可思議にしてはかられざる自然の脅威に面して、王朝時代の人はいかに恐怖したことであろう。いかに無智の輩でも地震がどうして起るかぐらいのことを知らない者のない現代においてさえ、一朝今回のような大地震に遭遇すると、大半は周章狼狽為なすところを知らなかった。世の終りを思わすような激動が突如として起り、住屋を倒し、神社仏閣を破り、大地を裂き、その裂いた大地からは水を吹き、火を吐き、海辺の国には潮が怒って無数の人畜の生命を奪うのに対して、茫然自失、僅かに地震の神を祭ってその禍を免れようとしたのは無理もないことである。後世からは、和歌連歌に男女想思の情を通わして、日もこれ足りないように当時の文華に酔うていたと思われる王朝時代の人人も、そうした地震に脅かされる傍、火に脅かされ、風に脅かされた。「方丈記」にも、「去にし安元三年四月二十八日かとよ、風烈しく吹きて静かならざりし夜、亥の時ばかり、都の巽より火出で来りて、乾に至る。はては朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで移りて、一夜の程に塵灰となりにき。火本は樋口富小路とかや、病人を宿せる仮家より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き辺はひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹きたれば、火の光を映じて普く紅なる中に、風に堪へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして、一二町を越えつつ移り行く、その中の人現心あらんや。或は烟にむせび倒れ伏し、或は焔にまかれて忽ちに死に、或は又僅かに身一つ辛くして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝、さながら灰燼となりにき」と書いてある。火は時時皇居も焼いた。その火は失火もあるが盗賊が掠奪のための放火もあった。その盗賊は綱紀の緩んだのに乗じて京都の内外に横行した。袴垂、鬼童、茨木、一条戻橋の鬼なども、その盗賊の一人であろう。
二 地震海嘯の呪いある鎌倉
地震の記録をあさってみると、地震は政権に従って移動しているような観がある。藤原氏の手から政権を収めていた平氏が破れて、源氏が鎌倉に拠ると、元暦元年十月を初発として鎌倉に地震が頻発した。それは王朝時代には僻遠の地として、武蔵、相模の名で大掴みに記されていたものが、文化の発生と共に細かなことまで記される余裕ができたためか、それとも武蔵、相模方面の活動期になっていたのに偶然に遭遇したためであるか。その鎌倉には幕政時代の終りごろまで百四五十回の地震があって、骨肉相食あいはんだ鎌倉史の背景となって、陰惨な色彩をいやがうえにも陰惨にして見せた。
その鎌倉の地震のうちで大きかった地震は、建保元年五月の地震で、それには大地が裂け、舎屋が破壊した。この建保年間には、元年から二年三年と続けて十数回の強震があった。安貞元年三月にも大地震があって、地が裂け、所所の門扉築地ついじが倒れた。古老はこれを見て、去る建暦三年和田佐衛門尉義盛が叛逆を起したころにも、こんな大地震があったと噂しあったということである。仁治元年四月の地震には海嘯つなみがあって、由比ヶ浜の八幡宮の拝殿が流れた。建長二年七月の地震は余震が十六度に及んだ。
正嘉元年八月の地震は、最もひどい地震で、関東の諸国にも影響を及ぼしている。それには神社仏閣、人家はもとより立っている建物の一軒もないように潰れ、山が崩れ、地が裂け、地の裂け目からは、泥水を吹き、青い火を吹いて、余震は月を越えた。そしてその翌年の八月に大風があり、三年に大飢饉があり、正元に入ってから二年続けて疫病があったので、日本全国の同胞は大半死につくしたように思われた。日蓮の立正安国論はこの際に出たものである。
永仁元年四月の地震も、正嘉の地震に劣らない地震であった。そのころは怪しく空が曇っていて、陽の光も月の光もはっきり見えなかったが、その日は墨の色をした雲が覆いかかるようになっていた。そして榎島の方が時時震い、沖の方がひどく鳴りだした。これはただごとではない、また兵乱の前兆か、饑饉疫癘の凶相かと、人人が不思議がっていると、午の刻になって俄かに大地震となり、海嘯が起った。倒壊した主なものは政庁、鶴岡若宮、大慈寺、建長寺であったが、建長寺からは火が起った。その時の死者は二万三千余であったと言われている。王朝時代のことは判らないが、これによって見ても鎌倉は昔から地震の呪いのある土地であるらしい。
三 天正の災変、慶長の地震
鎌倉幕政時代の末期、即ち後醍醐天皇の即位の前後から吉野時代、室町時代、安土桃山時代にかけては、戦乱に次ぐに戦乱を以てして、日本全国戦争の惨禍に脅かされて、地震の記録も閑却せられていたかの観があるが、それでも慶長のはじめにかけて約六百回の地震の記録がある。
正中二年十月と言えば、後醍醐天皇が、藤原資朝、藤原俊基等の近臣と王政の復古を謀はかって、その謀はかりごとの泄もれたいわゆる正中の変の起った翌月のことであるが、その二十一日に、山城、近江の二箇国に強震があって、日吉八王子の神体が墜ち、竹生島が崩れた。そして元弘元年七月には、紀伊に大地震があって、千里浜の干潟が隆起して陸地となり、その七日には駿河に大地震があって、富士山の絶頂が数百丈崩れた。この七月は藤原俊基が関東を押送せられた月で、「参考太平記」には、「七月七日の酉の刻に地震有りて、富士の絶頂崩ること数百丈なり、卜部宿禰うらべのすくね大亀を焼いて卜うらなひ、陰陽博士占文を開いて見るに、国王位を易かへ、大臣災に遇ふとあり、勘文の面穏かならず、尤も御慎み有るべしと密奏す」とあって、地震にも心があるように見える。
正平年間は非常に地震の多い年で、約百回も地震の記録があるが、そのうちで大きかったのは、五年五月の京都の地震で、祇園神社の石塔の九輪が墜ちて砕けた。十六年六月には山城をはじめ、摂津、大和、紀伊、阿波の諸国に大地震があって、摂津、阿波には海嘯つなみがあった。そして最後の二十四年七月にも京都に大地震があって、東寺の講堂が傾いた。それから応永年間も地震の多い年で、約八十回にわたる記録が見える。そのうちで七年十月には伊勢国に大地震があって、京都の地も震うた。三十二年十一月には京都ばかりの大地震があった。
永享五年一月には、伊勢、近江、山城に、同年九月には相模、陸奥、甲斐に、宝徳元年四月には山城、大和に、文正元年四月には山城、大和に、明応三年五月にはやはり大和、山城に大地震があったが、明応三年五月の地震は大和が最も強く、奈良の東大寺、興福寺、薬師寺、法花寺、西大寺の諸寺に被害があった。同七年八月には、伊勢、遠江、駿河、甲斐、相模、伊豆の諸国に大地震があって、海に臨んだ国には海嘯があった。この海嘯には伊勢の大湊が潰れて千軒の人家を流し、五千の溺死人を出したが、鎌倉の由比ヶ浜にも二百人の犠牲者があった。また遠江の地が陥没して浜名湖が海と通じた。この月は京都にも奈良にも、陸奥にも会津にも強震があって、余震が月を重ねた。その明応には九年六月にも甲斐の大地震があった。文亀になってその元年十二月越後に、永正になってその七年八月に、摂津、河内、山城、大和に大地震があって、摂津には海嘯の難があった。
大永五年八月には鎌倉に、弘治元年八月には会津に、天正六年十月には三河に、同十三年十一月には、山城、大和、和泉、河内、摂津、三河、伊勢、尾張、美濃、飛騨、近江、越前、加賀、讃岐の諸国に大地震があって、海に瀕した国には海嘯があった。
「豊鑑」には「天正十二年霜月廿九日子の刻ばかりにやおびただしくなゐふりけり、その様いはん限りなし、いにしへもたびたび大なゐふりけると記しをれども、眼あたりかかることなんめづらかなる。伊勢、尾張、美濃、近江、北陸、道分てありけりとなん、浦里などは、さながら海へゆり入り、犬※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)などの類まで跡なくなりし所所ありとなん、家などひしげし内にありながら、さすが死にもやらざりしに、火もえつきて焼死、さけぶこゑ哀など思ひやるさへたへがたくなん、此のわざはひにあひて、国国里里、命を失ふ者際限なかるべし、常のなゐなどのふる事、明る春二月まで、そのなごりたえざりけり」としてある。
その天正十三年は秀吉が内大臣となった年で、国内の紛乱がやや収まって桃山時代の文化が生れたところであった。その十七年二月にも、駿河、遠江、三河にまた大地震があった。慶長に入るとその元年閏七月になって、二回の大地震が起った。はじめの地震は、豊後、薩摩の二箇国がひどく、豊後の府内の土地が陥没して海嘯が起った。その日は京都にも地震があった。「梅園拾遺」には、「ちかく慶長元年七月、大地震速見高崎山なども石崩れ落ち、火出たるよし、府内の記事に見えたり。この時かのあたり人七百余も損じたりとあり」と書いてある。つぎの地震は、山城、摂津、和泉の諸国の大地震で、伏見城の天守が崩壊して圧死者が多かった。この伏見の地震は、河竹黙阿弥の地震加藤の史劇で有名な地震で、石田三成等の纔者ざんしゃのために斥しりぞけられて蟄居ちっきょしていた加藤清正は、地震と見るや足軽を伴れて伏見城にかけつけ、城の内外の警衛に当ったので、秀吉の勘気も解けたのであった。
慶長も非常に地震の多い年であった。十九箇年間に約八十もあった。そのうちで大きかったのは元年の二回の地震の他に、九年十二月と十六年十月と十九年十月の大地震である。九年の地震は、薩摩、大隅、土佐、遠江、伊勢、紀伊、伊豆、上総、八丈島などで、海には海嘯つなみが吼えた。
「土佐国群書類従」に載せた「谷陵記」には、「崎浜談議所の住僧権大僧都阿闍利暁印が記録略に曰く、慶長九年災多し、先づ一に七月十三日大風洪水、二に八月四日大風洪水、三に閏八月二十八日又大洪水、四に十二月十六日夜地震、同夜半に大潮入つて、南向の国は尽く破損す、西北向の国は地震計りと言ふ、当所(崎浜)には五十人溺死、西寺東寺の麓には四百人、甲浦には三百五十余人、宍喰(阿波領)には三千八百六人溺死す、野根浦へは潮入らず、不思議と言ふべしと」。土佐の東部と阿波の一箇所の被害を記してあるが、関係諸国の溺死人は夥しい数にのぼったことであろう。十六年の地震は、三陸の地震で、仙台、南部、津軽及び松前の諸領にまで海嘯があった。十九年の地震は、越後、相模、紀伊、山城で、越後に海嘯があった。
四 元禄大地震、振袖火事、安政大地震
慶長五年の関ヶ原の役で、天下の権勢が徳川氏に帰すると共に、江戸時代三百年の平和期が来たが、その間慶長五年から慶応二年に至るまで、全国にわたって四百七八十回の大小の地震があり、地震に伴う海嘯があり、火事があって、市民にかなり深刻な脅威を刻みつけている。
慶長年間の地震のことは既に言った。元和二年七月には、仙台に大地震があって城壁楼櫓が破損した。寛永七年六月には江戸に大きな地震があり、同十年一月には、江戸をはじめ、相模、駿河、伊豆に大地震があったが、わけて小田原は城が破損して、町は一里の間一軒の家もないように潰れてしまった。そして熱海に海嘯があった。その寛永には十六年十一月に越前にも大きな地震があった。
正保元年三月には日光山、同年九月には羽後の本荘、同三年四月には陸前、磐城、武蔵、同四年五月には、また武蔵、相模に大きな地震があった。慶安には元年四月に相模、武蔵、山城、同二年二月に伊予、安芸、山城、その六月に武蔵、下野、この翌月に武蔵の大地震があったが、六月の地震には江戸城の石垣が崩れ、諸大名の屋敷町屋が潰れたので、江戸の人心に動揺の兆があった。由比正雪の隠謀の露われたのは、それから中一年を置いた四年の七月であった。
万治二年二月には、岩代、下野、武蔵に大きな地震があった。寛文年間も大きな地震の多い年であった。元年十月には土佐、同二年三月には京都、江戸、同年五月には山城、大和、伊賀、伊勢、近江、摂津、和泉、丹波、丹後、若狭、美濃、信濃、肥前、同年九月には日向、大隅、同三年七月には胆振いぶり、同年十二月には山城、同四年六月には紀伊の新宮、京都、同五年五月には京都、同年十一月には越後、同八年七月には仙台、同十年六月には相模の大住、というように大きな地震があったが、そのうち日向、大隅の地震には海嘯があり、胆振の地震には有珠岳が噴火した。温泉岳も寛永三年に噴火し、阿蘇山は王朝時代から思いだしたように時時噴火している。
延宝四年六月には石見、同五年三月には陸中の南部に地震と海嘯があった。元和三年五月には江戸と日光山、同年九月には日光山、貞保元年二月には伊豆の大島に地震があって、三原山が噴火した。貞保二年九月には周防、長門、同三年八月には遠江、三河、山城、元禄七年五月には羽後の能代、同十年十月には相模、武蔵に、それぞれ地震があった。そして元禄十六年十一月二十三日には、武蔵、相模、安房、上総に大地震があったが、その地震には江戸と小田原がひどく、江戸には火事があり、小田原、鎌倉、安房は長狭、朝夷の両郡、上総は夷隅郡に海嘯があった。新井白石もこの地震に逢ったので、「折り焼く柴の記」の中には、その夜の江戸の地震の光景を精細に叙述してある。この地震は安政の地震に匹敵する大地震で、その数日前即ち十一月十四日の外には、その前ぶれのように四谷塩町から出た火が、青山、赤坂、麻布、品川を焼いて、元禄の豪奢に酔うていた江戸市民に警告を与えたが、地震の後でもまた火事があって、怯えている市民の心をいやが上にも怯えさした。それは地震のあった月の二十九日で、本郷追分から出火して、谷中まで焼き、一方は小石川の水戸邸から出火して、上野湯島天神、聖堂筋違橋、向柳原、浅草茅町、南は神田から伝馬町、小舟町掘留、小網町、それから本所へ飛火して、回向院の辺、深川。そして永代橋の西半分を焼いて翌朝になって鎮まった。それには千三百の焼死者があった。
江戸ではその火事を地震火事と言った。江戸の火事のことを言うと、その以前寛永十八年正月にも大火があり、明暦三年正月十八、十九の両日にも大火があった。わけて明暦の大火は江戸未曽有の大火であったから、市民は由比丸橋の残当の放火であろうと言って恐れ戦おののいた。それは明暦三年正月十八日の未の刻で、本郷丸山の本妙寺の法華宗の寺から出火して、折りからの北風に幾派にも分れた火は、下谷の方は神田明神から駿河台へ飛火し、鷹匠町の辺、神田橋の内へ入って、神田橋、常盤橋、呉服橋などの橋も門も番所も焼き払い、西河岸から呉服町、南大工町、檜物町、上槇町、それから横に切れて大鋸町、本材木町へ移り、金六町、水谷町、紀国橋の辺から木挽町を焼き、芝の網場まで往った。下町の方は、須田町、鍛冶町、白銀町、石町、伝馬町、小田原町、小船町、伊勢町を焼き、川を越えて、茅場町、同心町、八丁堀に及んだ。その火が伝馬町に移った時、伝馬町の獄では囚徒を放った。その囚徒は東へ走って浅草門を出た。浅草門の門番は囚徒を逃がしてはならんと思って門を締めたので、火に追われて逃げて来た市民はそこで無数に焼け死んだ。東の方の火は、佐久間町から柳原を一嘗めにして、浜町、霊岸島、新堀から鉄砲洲てっぽうずに移って、百余艘の舟を焼いたがために、佃島、石川島に燃え移り、それから深川に移り、牛島、新田にまで往った。その火は翌日の辰の刻になって止んだが、その日の午の刻になって、昨日から吹き止まない大風に吹き煽られて小石川伝通院前の鷹匠町から発火した。そしてその火は北は駒込から南は外曲輪に及んだが、日暮ごろから風が変ったために曲輪内の諸大名の邸宅を焼き、数寄屋橋の内外、日本橋、京橋、新橋を焼いて鎮まった。しかしその一方、未の刻に麹町から出た火があって、雉子橋、一つ橋、神田橋に及び、また北風になった風に煽られて、八重洲河岸、大名小路を嘗め、西丸下桜田に至って二つに別れ、一方は通町に出で、一方は愛宕下から芝浦まで往った。この火に江戸城の本丸並びに二三の丸も焼けたので、将軍家綱は西の丸に避難した。この火には諸大名の邸宅五百軒、神社仏閣三百余、橋梁六十、坊街八百を焼失したが、市民の屋舎の焼失した数は判らない。その時の死人は、「本庄に二町四方の地を賜ひ、非人をして死骸を船にて運ばしめ、塚を築きて寺院を建て、国豊山無縁寺回向院と名づけしめ給ふ」と武江年表に書いてあるが、これが回向院の起りである。その明暦の大火は俗に振袖火事という名があって、奇怪な因縁話がまつわっている。
寛永四年十月には、山城、大和、河内、摂津、紀伊、土佐、讃岐、伊予、阿波、伊勢、尾張、美濃、近江、遠江、三河、相模、駿河、甲斐、伊豆、豊後の諸国にわたって大地震があって、人畜の死傷するもの無数。そして土佐、阿波、摂津、伊豆、遠江、伊勢、長門、日向、豊後、紀伊などの海に面した国には海嘯があったが、そのうちでも土佐などは海岸の平地という平地は海水が溢れて被害が大きかった。「基※(「熈」の「ノ」の左側に「冫」、第3水準1-14-55)公記」などには、「四国土佐大震国中十に七つ破損、人民四十万人死」としてあるが、実際は二千人ぐらいであったらしい。その大地震の恐怖のまだ生生している十一月に、駿河、甲斐、相模、武蔵に地震が起ると共に、富士山が爆発して噴火口の傍に一つの山を湧出した。これがいわゆる宝永山である。山麓の須走村は熔岩の下に埋没し、降灰は武相駿三箇国の田圃を埋めた。その宝永の五年十一月に浅間山が噴火し、享保二年一月三日には日向の鶴鳴山が噴火した。
正徳元年二月には美作、因幡、伯耆、山城、同四年三月には信濃、享保三年七月には信濃、三河、遠江、山城、同年九月には信濃の飯山、同十年九月と十月には長崎、同十四年七月には能登、佐渡、同年九月には岩代の桑折こおり、宝暦元年四月には越後、同五年三月には日光、同十二年九月には佐渡、明和三年一月には陸奥の弘前、明和三年二月にも弘前、同六年七月には日向、豊後に大きな地震があり、安永七年七月には伊豆大島の三原山の噴火があった。安永八年十月には桜島の大噴火があって、山麓の村落に火石熱土を流して、死亡者一万六千余人、牛馬二千余頭を斃たおした。この噴火のために島の付近に新島嶼が湧出したことは序記に言ってある。
天明二年七月には、相模、江戸に大きな地震があった。三年七月には、浅間山の大噴火があった。寛政四年一月には、肥前温泉岳の普智山の噴火があった。同十一年五月には、加賀の金沢に地震があって、宮城浦に海嘯。享和二年十一月には、佐渡に地震があって、小木湊に海嘯。文化元年六月には、羽前、羽後に地震があって象潟きさがたに海嘯。また文化九年十一月には、武蔵に地震があった。文政四年十一月には、岩代の地震。同五年閏一月には胆振いぶりにあって、それには有珠嶽が噴火した。文政にはまた十一年十一月に越後の地震があった。
天保元年七月には、山城、摂津、丹波、丹後、近江、若狭、同二年十月には肥前、同四年十月には佐渡、同五年一月には石狩、同七年七月には仙台、同十年三月には釧路、同十二年には駿河、同十四年三月には釧路、根室、渡島、弘化四年三月には信濃、越後、嘉永六年二月には相模、駿河、伊豆、三河、遠江に大きな地震やそれに伴う海嘯があって、次に来る安政大変災の前駆をなしている。
有名な安政の地震は、元年十一月四日と二年十一月二日の二回あって、江戸に大被害を蒙らしたのは二年の地震であった。安政には既に元年六月十五日になって、山城、大和、河内、和泉、摂津、近江、丹波、紀伊、尾張、伊賀、伊勢、越前の諸国にわたって大きな地震があった。
十一月四日の地震は、その日に東海、東山の両道が震い、翌日になって、南海、西海、山陽、山陰の四道が震うたが、海に沿うた国には海嘯があった。この地震は豊後海峡の海底の破裂に原因があって、四国と九州が大災害を被っている。
二年の地震は、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、豊前、豊後、筑前、筑後、壱岐、出雲、石見、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、摂津、河内、若狭、越前、近江、美濃、伊勢、尾張、伊豆一帯が震うて、摂津、紀伊、播磨、阿波、土佐、伊豆の諸国には海嘯があったが、この地震は江戸の地震と言われるだけに江戸が非常にひどかった。武江年表には「十二月細雨時時降る、夜に至りて雨なく天色朦朧たりしが、亥の二点大地俄に震ふこと甚しく須臾にして大厦高牆を顛倒し倉廩を破壊せしめ、剰さへその頽れたる家家より火起り熾に燃えあがりて、黒煙天を翳め、多くの家屋資財を焼却せり」と言って、地震と共に二十四箇所から火が起って惨害をほしいままにしたことを書いてある。その焼け跡は長さ二里十九町で幅が二町余であった。変死人は七千人。この地震に水戸の藤田東湖と戸田忠太夫の二名士が斃れた。
火事は江戸の花と言われるくらい、江戸時代には地震以外にもたくさんの火事があった。享保五年三月にも同九年二月にも、寛政四年七月にも安永元年十二月にも、文化三年三月にも同十二年三月にも、天保九年四月にも弘化元年正月にも、同三年十二月にも慶応二年にも恐ろしい火事があった。
五 維新以後の災変
安政元年二月の大地震後、大きな地震はその年の十月と三年の十月に江戸にあった。そして安政三年七月には渡島、胆振にあって、それには海嘯つなみがあった。同四年閏五月に駿河、相模、武蔵、同年七月に伊予、同五年二月に越中、越前、同年三月に信濃、松代、同六年に武蔵の槻にあって、それが江戸時代のしんがりをしている。
明治では五年二月に浜田、二十二年七月に熊本、二十四年十月に濃尾、二十七年六月に東京、同年十月に庄内、二十九年六月に三陸、同年八月に陸羽、三十九年三月に台湾の嘉義、四十二年八月江州に大地震があったが、その内で濃尾の地震には七千余人の死人を出し、三陸の海嘯には二万余の死人を出した。大正になって三年三月に秋田の仙北、それから今回の十二年九月一日の関東の大地震で、それには約十万の犠牲者と約五十万の家屋とを失った。允恭天皇以来平均三年半に一回の大地震に逢うことになっている地震国に、七千万の人間がいて年年人口の過剰に苦しんでいるとは嘘のようである。 
 

 

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