無縁坂感想解説西洋文学の色香が漂う理由「雁」成立の社会的側面殉死安井夫人独逸日記舞姫始末記鷗外と漱石論

雑学の世界・補考   

関連「明治大正の日本」
調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
雁(がん) / 森鴎外

古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云ふことを記憶してゐる。どうして年をはつきり覚えてゐるかと云ふと、其頃僕は東京大学の鉄門の真向ひにあった、上条(かみでう)と云ふ下宿屋に、此話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでゐたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人(いちにん)であつた。その火事のあつた前年の出来事だと云ふことを、僕は覚えてゐるからである。
上条に下宿してゐるものは大抵医科大学の学生ばかりで、其外は大学の附属病院に通ふ患者なんぞであつた。大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせてゐる客があるもので、さう云ふ客は第一金廻りが好く、小気(こぎ)が利いてゐて、お上さんが箱火鉢を控へて据(す)わつてゐる前の廊下を通るときは、きつと声を掛ける。時々は其箱火鉢の向側にしやがんで、世間話の一つもする。部屋で酒盛をして、わざわざ肴を拵へさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘をするやうでゐて、実は帳場に得の附くやうにする。先づざつとかう云ふ性(たち)の男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅(ほしいまゝ)にすると云ふのが常である。然(しか)るに上条で幅を利かせてゐる、僕の壁隣の男は頗る趣を殊にしてゐた。
此男は岡田と云ふ学生で、僕より一学年若いのだから、兎に角もう卒業に手が届いてゐた。岡田がどんな男だと云ふことを説明するには、その手近な、際立つた性質から語り始めなくてはならない。それは美男だと云ふことである。色の蒼い、ひよろひよろした美男ではない。血色が好くて、体格ががつしりしてゐた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。強ひて求めれば、大分あの頃から後になつて、僕は青年時代の川上眉山(かはかみびさん)と心安くなつた。あのとうとう窮境に陥つて悲慘の最期を遂げた文士の川上である。あれの青年時代が一寸岡田に似てゐた。尤も当時競漕の選手になつてゐた岡田は、体格では迥(はる)かに川上なんぞに勝つてゐたのである。
容貌は其持主を何人(なんぴと)にも推薦する。併(しか)しそればかりでは下宿屋で幅を利かすことは出来ない。そこで性行はどうかと云ふと、僕は当時岡田程均衡を保つた書生生活をしてゐる男は少からうと思つてゐた。学期毎に試験の点数を争つて、特待生を狙ふ勉強家ではない。遣る丈(だけ)の事をちやんと遣つて、級の中位より下には下(くだ)らずに進んで来た。遊ぶ時間は極つて遊ぶ。夕食後に必ず散歩に出て、十時前には間違なく帰る。日曜日には舟を漕ぎに行くか、さうでないときは遠足をする。競漕前に選手仲間と向島に泊り込んでゐるとか、暑中休暇に故郷に帰るとかの外は、壁隣の部屋に主人のゐる時刻と、留守になつてゐる時刻とが狂はない。誰でも時計を号砲(どん)に合せることを忘れた時には岡田の部屋へ問ひに行く。上条の帳場の時計も折々岡田の懐中時計に拠(よ)つて匡(ただ)されるのである。周囲の人の心には、久しく此男の行動を見てゐればゐる程、あれは信頼すべき男だと云ふ感じが強くなる。上条のお上さんがお世辞を言はない、破格な金遣ひをしない岡田を褒め始めたのは、此信頼に本づいてゐる。それには月々の勘定をきちんとすると云ふ事実が与かつて力あるのは、ことわるまでもない。「岡田さんを御覽なさい」と云ふ詞が、屡々(しばしば)お上さんの口から出る。「どうせ僕は岡田君のやうなわけには行かないさ」と先を越して云ふ学生がある。此(かく)の如くにして岡田はいつとなく上条の標準的下宿人になつたのである。
岡田の日々(にちにち)の散歩は大抵道筋が極まつてゐた。寂しい無縁坂(むえんざか)を降りて、藍染川(あゐそめがは)のお歯黒(はぐろ)のやうな水の流れ込む不忍(しのばず)の池の北側を廻つて、上野の山をぶらつく。それから松源(まつげん)や雁鍋(がんなべ)のある広小路(ひろこうぢ)、狭い賑やかな仲町(なかちやう)を通つて、湯島天神(ゆしまてんじん)の社内に這入(はひ)つて、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がつて帰る。併し仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。鉄門は早く鎖されるので、患者の出入する長屋門(ながやもん)から這入つて抜けるのである。後に其頃の長屋門が取り払はれたので、今春木町から衝き当る処にある、あの新しい黒い門が出来たのである。赤門を出てから本郷通りを歩いて、粟餅(あはもち)の曲擣(きよくづき)をしてゐる店の前を通つて、神田明神(かんだみやうじん)の境内に這入る。そのころまで目新しかつた目金橋(めがねばし)へ降りて、柳原の片側町(かたかはまち)を少し歩く。それからお成道(なりみち)へ戻つて、狭い西側の横町のどれかを穿(うが)つて、矢張臭橘寺の前に出る。これが一つの道筋である。これより外の道筋はめつたに歩かない。
此散歩の途中で、岡田が何をするかと云ふと、ちよいちよい古本屋の店を覗いて歩く位のものであつた。上野広小路と仲町との古本屋は、その頃のが今も二三軒残つてゐる。お成道にも当時その儘の店がある。柳原のは全く廃絶してしまつた。本郷通のは殆ど皆場所も持主も代つてゐる。岡田が赤門から出て右へ曲ることのめつたにないのは、一体森川町の町幅も狭く、窮屈な処であつたからでもあるが、当時古本屋が西側に一軒しかなかつたのも一つの理由であつた。
岡田が古本屋を覗くのは、今の詞(ことば)で云へば、文学趣味があるからであつた。併しまだ新しい小説や脚本は出てゐぬし、抒情詩では子規の俳句や、鉄幹の歌の生れぬ先であつたから、誰でも唐紙(たうし)に摺つた花月新誌(くわげつしんし)や白紙(はくし)に摺つた桂林一枝(けいりんいつし)のやうな雑誌を読んで、槐南(くわいなん)、夢香(むかう)なんぞの香奩体(かうれんたい)の詩を最も気の利いた物だと思ふ位の事であつた。僕も花月新誌の愛読者であつたから、記憶してゐる。西洋小説の翻訳と云ふものは、あの雑誌が始て出したのである。なんでも西洋の或る大学の学生が、帰省する途中で殺される話で、それを談話体に訳した人は神田孝平さんであつたと思ふ。それが僕の西洋小説と云ふものを読んだ始であつたやうだ。さう云ふ時代だから、岡田の文学趣味も漢学者が新しい世間の出来事を詩文に書いたのを、面白がつて読む位に過ぎなかつたのである。
僕は人附合ひの余り好くない性(たち)であつたから、学校の構内で好く逢ふ人にでも、用事がなくては話をしない。同じ下宿屋にゐる学生なんぞには、帽を脱いで礼をするやうなことも少かつた。それが岡田と少し心安くなつたのは、古本屋が媒(なかだち)をしたのである。僕の散歩に歩く道筋は、岡田のやうに極まつてはゐなかつたが、脚が達者で縦横に本郷から下谷(したや)、神田を掛けて歩いて、古本屋があれば足を止めて見る。さう云ふ時に、度々岡田と店先で落ち合ふ。「好く古本屋で出くはすぢやないか」と云ふやうな事を、どつちからか言ひ出したのが、親しげに物を言つた始である。
其頃神田明神前の坂を降りた曲角に、鉤(かぎ)なりに縁台を出して、古本を曝してゐる店があつた。そこで或る時僕が唐本(たうほん)の金瓶梅を見附けて亭主に値を問ふと、七円だと云つた。五円に負けてくれと云ふと、「先刻岡田さんが六円なら買ふと仰やいましたが、おことわり申したのです」と云ふ。偶然僕は工面が好かつたので言値(いひね)で買つた。二三日立つてから、岡田に逢ふと、向うからかう云ひ出した。
「君はひどい人だね。僕が切角見附けて置いた金瓶梅を買つてしまつたぢやないか」
「さうさう君が値を附けて折り合はなかつたと、本屋が云つてゐたよ。君欲しいのなら譲つて上げよう」
「なに。隣だから君の読んだ跡を貸して貰へば好いさ」
僕は喜んで承諾した。こんな風で、今迄長い間壁隣に住まひながら、交際せずにゐた岡田と僕とは、往つたり来たりするやうになつたのである。  
 

 

その頃から無縁坂の南側は岩崎の邸であつたが、まだ今のやうな巍々(ぎゞ)たる土塀で囲つてはなかつた。きたない石垣が築いてあつて、苔蒸した石と石との間から、歯朶(しだ)や杉菜(すぎな)が覗いてゐた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のやうにでもなつてゐるか、岩崎の邸の中に這入つて見たことのない僕は、今でも知らないが、兎に角当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育つてゐるのが、往来から根まで見えてゐて、その根に茂つてゐる草もめつたに苅られることがなかつた。
坂の北側はけちな家が軒を並べてゐて、一番体裁の好いのが、板塀を繞(めぐら)した、小さいしもた屋、その外は手職をする男なんぞの住ひであつた。店は荒物屋に烟草(たばこ)屋位しかなかつた。中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教へてゐる女の家で、昼間(ひるま)は格子窓の内に大勢の娘が集まつて為事(しごと)をしてゐた。時候が好くて、窓を明けてゐるときは、我々学生が通ると、いつもべちやくちや盛んにしやべつてゐる娘共が、皆(みんな)顔を挙げて往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑つたりする。その隣に一軒格子戸を綺麗に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石を塗り込んだ上へ、折々夕方に通(とほ)つて見ると、打水のしてある家があつた。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾(たけすだれ)が卸してある。そして為立物師(したてものし)の家の賑やかな為めに、此家はいつも際立つてひつそりしてゐるやうに思はれた。
此話の出来事のあつた年の九月頃、岡田は郷里から帰つて間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州(かしう)の御殿の古い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女が彼(か)の為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。もう時候が大ぶ秋らしくなつて、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰つて、戸を明けようとしてゐた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停めて、振り返つて岡田と顔を見合せたのである。
紺縮(こんちゞみ)の単物(ひとへもの)に、黒繻子(くろじゆす)と茶献上(ちやけんじやう)との腹合せの帯を締めて、繊(ほそ)い左の手に手拭やら石鹸(シャボン)箱やら糠袋やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠に入れたのを懈(だる)げに持つて、右の手を格子に掛けた儘振り返つた女の姿が、岡田には別に深い印象をも与へなかつた。しかし結(ゆ)ひ立ての銀杏返(いてふがへし)の鬢(びん)が蝉の羽のやうに薄いのと、鼻の高い、細長い、稍(やゝ)寂しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁(ひら)たいやうな感じをさせるのとが目に留まつた。岡田は只それ丈の刹那の知覚を閲歴したと云ふに過ぎなかつたので、無縁坂を降りてしまふ頃には、もう女の事は綺麗に忘れてゐた。
併し二日ばかり立つてから、岡田は又無縁坂の方へ向いて出掛けて、例の格子戸の家の前近く来た時、先きの日の湯帰りの女の事が、突然記憶の底から意識の表面に浮き出したので、その家の方を一寸見た。堅(たて)に竹を打ち附けて、横に二段ばかり細く削つた木を渡して、それを蔓(かづら)で巻いた肱掛窓がある。その窓の障子が一尺ばかり明いてゐて、卵の殻を伏せた万年青(おもと)の鉢が見えてゐる。こんな事を、幾分かの注意を払つて見た為めに、歩調が少し緩(ゆる)くなつて、家の真ん前に来掛かるまでに、数秒時間の余裕を生じた。
そして丁度真ん前に来た時に、意外にも万年青の鉢の上の、今まで鼠色の闇に鎖されてゐた背景から、白い顔が浮き出した。しかもその顔が岡田を見て微笑(ほゝゑ)んでゐるのであつた。
それからは岡田が散歩に出て、此家の前を通る度に、女の顔を見ぬことは殆ど無い。岡田の空想の領分に折々此女が闖入して来て、次第に我物顔に立ち振舞ふやうになる。女は自分の通るのを待つてゐるのだらうか、それともなんの意味もなく外を見てゐるので、偶然自分と顔を合せることになるのだらうかと云ふ疑問が起る。そこで湯帰りの女を見た日より前に溯つて、あの家の窓から女が顔を出してゐたことがあつたか、どうかと思つて考へて見るが、無縁坂の片側町で一番騒がしい為立物師の家の隣は、いつも綺麗に掃除のしてある、寂しい家であつたと云ふ記念の外には、何物も無い。どんな人が住んでゐるだらうかと疑つたことは慥(たし)かにあるやうだが、それさへなんとも解決が附かなかつた。どうしてもあの窓はいつも障子が締まつてゐたり、簾が降りてゐたりして、その奥はひつそりしてゐたやうである。さうして見ると、あの女は近頃外に気を附けて、窓を開けて自分の通るのを待つてゐることになつたらしいと、岡田はとうとう判断した。
通る度に顔を見合せて、その間々(あひだあひだ)にはこんな事を思つてゐるうちに、岡田は次第に「窓の女」に親しくなつて、二週間も立つた頃であつたか、或る夕方例の窓の前を通る時、無意識に帽を脱いで礼をした。其時微白(ほのじろ)い女の顔がさつと赤く染まつて、寂しい微笑(ほほゑみ)の顔が華やかな笑顔になつた。それからは岡田は極まつて窓の女に礼をして通る。  
 

 

岡田は虞初新誌(ぐしよしんし)が好きで、中にも大鉄椎伝(だいてつつゐでん)は全文を暗誦することが出来る程であつた。それで余程前から武芸がして見たいと云ふ願望を持つてゐたが、つひ機会が無かつたので、何にも手を出さずにゐた。近年競漕をし始めてから、熱心になり、仲間に推されて選手になる程の進歩をしたのは、岡田の此一面の意志が発展したのであつた。
同じ虞初新誌の中に、今一つ岡田の好きな文章がある。それは小青伝(せうせいでん)であつた。あの伝に書いてある女、新しい詞で形容すれば、死の天使を閾(しきゐ)の外に待たせて置いて、徐(しづ)かに脂粉の粧(よそほひ)を凝(こ)らすとでも云ふやうな、美しさを性命にしてゐるあの女が、どんなにか岡田の同情を動かしたであらう。女と云ふものは岡田のためには、只美しい物、愛すべき物であつて、どんな境遇にも安んじて、その美しさ、愛らしさを護持してゐなくてはならぬやうに感ぜられた。それには平生香奩体(かうれんたい)の詩を読んだり、sentimenta(サンチマンタル)な、fatalistique(ファタリスチック=運命論的)な明清(みんしん)の所謂(いはゆる)才人の文章を読んだりして、知らず識らずの間にその影響を受けてゐた為めもあるだらう。
岡田は窓の女に会釈(えしやく)をするやうになつてから余程久しくなつても、其女の身の上を探つて見ようともしなかつた。無論家の様子や、女の身なりで、囲物(かこひもの)だらうとは察した。しかし別段それを不快にも思はない。名も知らぬが、強ひて知らうともしない。標札を見たら、名が分かるだらうと思つたこともあるが、窓に女のゐる時は女に遠慮をする。さうでない時は近処の人や、往来の人の人目を憚(はばか)る。とうとう庇(ひさし)の蔭になつてゐる小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにゐたのである。  
 

 

窓の女の種姓(すじやう)は、実は岡田を主人公にしなくてはならぬ此話の事件が過去に属してから聞いたのであるが、都合上こゝでざつと話すことにする。
まだ大学医学部が下谷(したや)にある時の事であつた。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のやうにした壁の所々に、腕の太さの木を堅に並べて嵌めた窓の明いてゐる、藤堂屋敷(とうだうやしき)の門長屋(もんながや)が寄宿舎になつてゐて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のやうな生活をしてゐた。勿論今はあんな窓を見ようと思つたつて、僅(わづ)かに丸の内の櫓(やぐら)に残つてゐる位のもので、上野の動物園で獅子や虎を飼つて置く檻の格子なんぞは、あれよりは迥(はる)かにきやしやに出来てゐる。
寄宿舎には小使がゐた。それを学生は外使(そとづかひ)に使ふことが出来た。白木綿(しろもめん)の兵古帯(へこおび)に、小倉袴(こくらばかま)を穿いた学生の買物は、大抵極まつてゐる。所謂「羊羹(やうかん)」と「金米糖(こんぺいたう)」とである。羊羹と云ふのは焼芋、金米糖と云ふのははじけ豆であつたと云ふことも、文明史上の参考に書き残して置く価値があるかも知れない。小使は一度の使賃として二銭貰ふことになつてゐた。
この小使の一人に末造(すゑざう)と云ふのがゐた。外のは鬚(ひげ)の栗の殻のやうに伸びた中に、口があんごり開(あ)いてゐるのに、此男はいつも綺麗に剃つた鬚の痕の青い中に、脣(くちびる)が堅く結ばれてゐた。小倉服も外のは汚れてゐるのに、此男のはさつぱりしてゐて、どうかすると唐桟(たうざん)か何かを着て前掛をしてゐるのを見ることがあつた。
僕にいつ誰が始て噂をしたか知らぬが、金がない時は末造が立て替へてくれると云ふことを僕は聞いた。勿論五十銭とか一円とかの金である。それが次第に五円貸す十円貸すと云ふやうになつて、借る人に証文を書かせる、書替をさせる。とうとう一人前の高利貸になつた。一体元手はどうしたのか。まさか二銭の使賃を貯蓄したのでもあるまいが、一匹の人間が持つてゐる丈の精力を一事に傾注すると、実際不可能な事はなくなるかも知れない。
兎に角学校が下谷から本郷に遷(うつ)る頃には、もう末造は小使ではなかつた。併しその頃池の端(いけのはた)へ越して来た末造の家へは、無分別な学生の出入が絶えなかつた。
末造は小使になつた時三十を越してゐたから、貧乏世帯ながら、妻もあれば子もあつたのである。それが高利貸で成功して、池の端へ越してから後に、醜い、口やかましい女房を慊(あきたらな)く思ふやうになつた。
その時末造が或る女を思ひ出した。それは自分が練塀町(ねりべいちやう)の裏からせまい露地を抜けて大学へ通勤する時、折々見たことのある女である。どぶ板のいつもこはれてゐるあたりに、年中戸が半分締めてある、薄暗い家があつて、夜その前を通つて見れば、簷下(のきした)に車の附ゐた屋台が挽き込んであるので、さうでなくても狭い露地を、体を斜にして通らなくてはならない。最初末造の注意を惹いたのは、此家に稽古三味線の音(ね)のすることであつた。それからその三味線の音の主が、十六七の可哀(かはい)らしい娘だと云ふことを知つた。貧しさうな家には似ず、此娘がいつも身綺麗にして、着物も小ざつぱりとした物を着てゐた。戸口にゐても、人が通るとすぐ薄暗い家の中へ引つ込んでしまふ。何事にも注意深い性質の末造は、わざわざ探るともなしに、此娘が玉と云ふ子で、母親がなくて、親爺と二人暮らしでゐると云ふ事、その親爺は秋葉(あきは)の原(はら)に飴細工の床店(とこみせ)を出してゐると云ふ事などを知つた。そのうちに此裏店(うらだな)に革命的変動が起つた。例の簷下に引き入れてあつた屋台が、夜通つて見てもなくなつた。いつもひつそりしてゐた家とその周囲とへ、当時の流行語で言ふと、開化と云ふものが襲つてでも来たのか、半分こはれて、半分はね返つてゐたどぶ板が張り替へられたり、入口の模様替が出来て、新しい格子戸が立てられたりした。或る時入口に靴の脱いであるのを見た。それから間もなく、此家の戸口に新しい標札が打たれたのを見ると、巡査何(なん)の何某(なにがし)と書いてあつた。末造は松永町から、仲徒町(なかおかちまち)へ掛けて、色々な買物をして廻る間に、又探るともなしに、飴屋の爺いさんの内へ壻入(むこいり)のあつた事を慥(たしか)めた。標札にあつた巡査がその壻なのである。お玉を目の球(たま)よりも大切にしてゐた爺いさんは、こはい顔のおまはりさんに娘を渡すのを、天狗にでも撈(さら)はれるやうに思ひ、その壻殿が自分の内へ這入り込んで来るのを、此上もなく窮屈に思つて、平生心安くする誰彼に相談したが、一人もことわつてしまへとはつきり云つてくれるものがなかつた。それ見た事か。こつちとらが宜(い)い所へ世話をしようと云ふのに、一人娘だから出されぬのなんのと、面倒な事を言つてゐて、とうとうそんなことわり憎い壻さんが来るやうになつたと云ふものもある。お前方の方で厭なのなら、遠い所へでも越すより外あるまいが、相手がおまはりさんで見ると、すぐにどこへ越したと云ふことを調べて、その先へ掛け合ふだらうから、どうも逃げ果(おほ)せることは出来まいと、威(おど)すやうに云ふものもある。中にも一番物分かりの好いと云ふ評判のお上さんの話がかうだ。
「あの子はあんな好い器量で、お師匠さんも芸が出来さうだと云つて褒めてお出だから、早く芸者の下地子(したぢつこ)にお出しと、わたしがさう云つたぢやありませんか。一人もののおまはりさんと来た日には、一軒一軒見て廻るのだから、子柄の好いのを内に置くと、いやをうなしに連れて行つてしまひなさる。どうもさう云ふ方に見込まれたのは、不運だとあきらめるより外、為方(しかた)がないね」と云ふやうな事を言つたさうだ。末造が此噂を聞いてから、やつと三月ばかりも立つた頃であつただらう。飴細工屋の爺いさんの家に、或る朝戸が締まつてゐて、戸に「貸屋差配(さはい)松永町西のはづれにあり」と書いて張つてあつた。そこで又近所の噂を、買物の序(ついで)に聞いて見ると、おまはりさんには国に女房も子供もあつたので、それが出し抜けに尋ねて来て、大騒ぎをして、お玉は井戸へ身を投げると云つて飛び出したのを、立聞をしてゐた隣の上さんがやうやう止めたと云ふことであつた。おまはりさんが壻に来ると云ふ時、爺いさんは色々の人に相談したが、その相談相手の中には一人も爺いさんの法律顧問になつてくれるものがなかつたので、爺いさんは戸籍がどうなつてゐるやら、どんな届がしてあるやら、一切無頓着でゐたのである。巡査が髭(ひげ)を拈(ひね)つて、手続は万事己がするから好いと云ふのを、少しも疑はなかつたのである。その頃松永町の北角(きたずみ)と云ふ雑貨店に、色の白い円顔で腮(あご)の短い娘がゐて、学生は「頤(あご)なし」と云つてゐた。この娘が末造にかう云つた。「本当にたあちやんは可哀(かはい)さうでございますわねえ。正直な子だもんですから、全くのお壻さんだと思つてゐたのに、おまはりさんの方では、下宿したやうな積になつてゐたと云ふのですもの」と云つた。坊主頭の北角の親爺が傍から口を出した。「爺いさんも気の毒ですよ。町内のお方にお恥かしくて、此儘にしてはゐられないと云つて、西鳥越の方へ越して行きましたよ。それでも子供衆のお得意のある所でなくては、元の商売が出来ないと云ふので、秋葉の原へは出てゐるさうです。屋台も一度売つてしまつて、佐久間町の古道具屋の店に出てゐたのを、わけを話して取り返したと云ふことです。そんな事やら、引越やらで、随分掛かつた筈ですから、さぞ困つてゐますでせう。おまはりさんが国の女房や子供を干し上げて置いて、大きな顔をして酒を飲んで、上戸でもない爺いさんに相手をさせてゐた間、まあ、一寸楽隠居になつた夢を見たやうなものですな」と、頭をつるりと撫でて云つた。それから後、末造は飴屋のお玉さんの事を忘れてゐたのに、金が出来て段々自由が利くやうになつたので、ふいと又思ひ出したのである。
今では世間の広くなつてゐる末造の事だから、手を廻して西鳥越の方を尋ねさせて見ると、柳盛座(りうせいざ)の裏の車屋の隣に、飴細工屋の爺いさんのゐるのを突き留めた。お玉も娘でゐた。そこで或る大きい商人が妾に欲しいと云ふがどうだと、人を以て掛け合ふと、最初は妾になるのはいやだと云つてゐたが、おとなしい女だけに、とうとう親の為めだと云ふので、松源で檀那(だんな)にお目見えをすると云ふ処まで話が運んだ。  
 

 

金の事より外、何一つ考へたことのない末造も、お玉のありかを突き留めるや否や、まだ先方が承知するかせぬか知れぬうちに、自分で近所の借家を捜して歩いた。何軒も見た中で、末造の気に入つた店(たな)が二軒あつた。一つは同じ池の端で、自分の住まつてゐる福地源一郎の邸宅の隣と、その頃名高かつた蕎麦屋の蓮玉庵(れんぎよくあん)との真ん中位の処で、池の西南の隅から少し蓮玉庵の方へ寄つた、往来から少し引つ込めて立てた家である。四つ目垣の内に、高野槙(かうやまき)が一本とちやぼ檜葉(ひば)が二三本と植ゑてあつて、植木の間から、竹格子を打つた肘懸窓が見えてゐる。貸家の札が張つてあるので這入つて見ると、まだ人が住んでゐて、五十ばかりの婆あさんが案内をして中を見せてくれた。その婆あさんが問はずがたりに云ふには、主人は中国辺の或る大名の家老であつたが、廃藩になつてから、小使取りに大藏省の属官を勤めてゐる。もう六十幾つとかになるが、綺麗好きで、東京中を歩いて、新築の借家を捜して借りるが、少し古びて来ると、すぐ引き越す。勿論子供は別になつてしまつてから久しくなるので、家を荒すやうな事はないが、どうせ住んでゐるうちに古くなるので、障子の張替もしなくてはならず、畳の表も換へなくてはならない。そんな面倒をなる丈せぬやうにして、さつさと引き越すのだと云ふのである。婆あさんはそれが厭でならぬので、知らぬ人にも夫の壁訴訟(かべそしよう)をする。「この内なんぞもまだこんなに綺麗なのに、もう越すと申すのでございますよ」と云つて、内ぢゆうを細かに見せてくれた。どこからどこまで、可なり綺麗に掃除がしてある。末造は一寸好いと思つて、敷金と家賃と差配の名とを、手帳に書き留めて出た。
今一つは無縁坂の中程にある小家(こいへ)である。それは札も何も出てゐなかつたが、売りに出たのを聞いて見に行つた。持主は湯島切通しの質屋で、そこの隠居がつひ此間まで住んでゐたのが亡くなつたので、婆あさんは本店へ引き取られたと云ふのである。隣が裁縫の師匠をしてゐるので、少し騒がしいが、わざわざ隠居所に木なんぞを選んで立てたものゆゑ、どことなく住心地が好ささうである。入口の格子戸から、花崗岩(みかげいし)を塗り込めた敲(たゝき)の庭まで、小ざつぱりと奥床しげに出来てゐる。
末造は一晩床の上に寝転んで、二つの中どれにしようかと考へた。傍には女房が子供を寐かさうと思つて、自分も一しよに寐入つてしまつて、大きな口を開いて、女らしくない鼾をしてゐる。亭主が夜貸金の利廻しを考へて、いつまでも眠らずにゐるのは常の事なので、女房は何時まで亭主が目を開いてゐようが、少しも気になんぞはせぬのである。末造は腹のうちで可笑(をか)しくて溜まらない。考へつつ女房の顔を見て、かう思つた。「まあ、同じ女でもこんな面(つら)をしてゐるのもある。あのお玉は大ぶ久しく見ないが、あの時はまだ子供上がりであつたのに、おとなしい中に意気な処のある、震(ふる)ひ附きたいやうな顔をしてゐた。さぞ此頃は女振(をんなぶり)を上げてゐるだらうな。顔を見るのが楽みだな。かかあ奴(め)。平気で寐てけつかる。己だつて、いつも金のことばかり考へてゐるのだと思ふと、大違ひだぞ。おや。もう蚊が出やがつた。下谷はこれだから厭だ。そろそろ蚊帳(かや)を吊らなくちやあ、かかあは好いが、子供が食はれるだらう」こんな事を思つては、又家の事を考へて見る。どうか、かうか断案に到着したらしく思つたのは、一時過ぎであつた。それはかうである。「あの池の端の家は、人は見晴しがあつて好いなんぞと云ふかも知れないが、見晴しは此家で沢山だ。家賃が安いが、借家となると何やかや手が掛かる。それになんとなく開け広げたやうな場所で、人の目に着きさうだ。うつかり窓でもあけてゐて、子供を連れて仲町(なかちやう)へ出掛けるかかあにでも見られようなものなら面倒だ。無縁坂の方は陰気なやうだが、学生が散歩に出て通る位より外に、人の余り通らない処になつてゐる。一時に金を出して買ふのはおつくうなやうだが、木道具(きだうぐ)の好いのが使つてあるわりに安いから、保険でも附けて置けばいつ売ることになつても元値は取れると思つて安心してゐられる。
無縁坂にしよう、しよう。己が夕方にでもなつて、湯にでも行つて、気の利いた支度をして、かかあに好い加減な事を言つて、だまくらかして出掛けるのだな。そしてあの格子戸を開けて、ずつと這入つて行つたら、どんな塩梅(あんばい)だらう。お玉の奴め。猫か何かを膝にのつけて、さびしがつて待つてゐやがるだらうなあ。勿論お作りをして待つてゐるのだ。着物なんぞはどうでもして遣る。待てよ。馬鹿な銭を使つてはならないぞ。質流れにだつて、立派なものがある。女一人に着物や頭の物の贅沢をさせるには、世間の奴のするやうな、馬鹿を盡さなくても好い。隣の福地さんなんぞは、己の内より大きな構をしてゐて、数寄屋町(すきやまち)の芸者を連れて、池の端をぶら附いて、書生さんを羨ましがらせて、好い気になつてゐなさるが、内証は火の車だ。学者が聞いてあきれらあ。筆尖(ふでさき)で旨い事をすりやあ、お店(たな)ものだつてお払箱にならあ。おう、さうさう。お玉は三味線が弾けたつけ。爪弾で心意気でも聞かせてくれるやうだと好いが、巡査の上さんになつたより外に世間を知らずにゐるのだから、駄目だらうなあ。お笑ひなさるからいやだわとか、なんとか云つて、弾けと云つても、なかなか弾かないだらうて。ほんになんに附けても、はにかみやあがるだらう。顔を赤くしてもぢもぢするに違ひない。己が始て行つた晩には、どうするだらう」空想は縦横に馳騁(ちへい)して、底止(ていし)する所を知らない。彼此(かれこれ)するうち、想像が切れ切れになつて、白い肌がちらつく。さゝやきが聞える。末造は好い心持に寐入つてしまつた。傍に上さんは相変らず鼾をしてゐる。  
 

 

松源の目見えと云ふのは、末造が為めには一のfête(フェエト=祭)であつた。一口に爪に火を点(とも)す抔(など)とは云ふが、金を溜める人にはいろいろある。細かい所に気を附けて、塵紙を二つに切つて置いて使つたり、用事を葉書で済ますために、顕微鏡がなくては読まれぬやうな字を書いたりするのは、どの人にも共通してゐる性質だらうが、それを絶待的(ぜつたいてき)に自己の生活の全範囲に及ぼして、真に爪に火を点(とぼ)す人と、どこかに一つ穴を開けて、息を抜くやうにしてゐる人とがある。これまで小説に書かれたり、芝居に為組(しく)まれたりしてゐる守銭奴は、殆ど絶待的な奴ばかりのやうである。活きた、金を溜める男には、実際さうでないのが多い。吝(けち)な癖に、女には目がないとか、不思議に食奢(くひおごり)だけはするとか云ふのがそれである。前にもちよつと話したやうであつたが、末造は小綺麗な身なりをするのが道楽で、まだ大学の小使をしてゐた時なんぞは、休日になると、お定(さだ)まりの小倉の筒袖を脱ぎ棄てて、気の利いた商人(あきんど)らしい着物に着換へるのであつた。そしてそれを一種の楽みにしてゐた。学生どもが稀に唐桟づくめの末造に邂逅して、びつくりすることのあつたのは、かうしたわけである。そこで末造には、此外にこれと云ふ道楽がない。芸娼妓(げいしやうぎ)なんぞに掛かり合つたこともなければ、料理屋を飲んで歩いたこともない。蓮玉で蕎麦を食ふ位が既に奮発の一つになつてゐて、女房や子供は余程前まで、かう云ふ時連れて行つて貰ふことが出来なかつた。それは女房の身なりを自分の支度に吊り合ふやうにはしてゐなかつたからである。女房が何かねだると、末造はいつも「馬鹿を言ふな、手前なんぞは己とは違ふ、己は附合(つきあひ)があるから、為方(しかた)なしにしてゐるのだ」と云つて撥ね附けたのである。
その後(のち)大ぶ金が子を生んでからは、末造も料理屋へ出這入することがあつたが、これはおほ勢の寄り合ふ時に限つてゐて、自分丈が客になつて行くのではなかつた。それがお玉に目見えをさせると云ふことになつて、ふいと晴がましい、solennel(ソランネル=厳粛)な心持になつて、目見えは松源にしようと云ひ出したのである。
さていよいよ目見えをさせようとなつた時、避くべからざる問題が出来た。それはお玉さんの支度である。お玉さんのばかりなら好いが、爺いさんの支度迄して遣らなくてはならないことになつた。これには中に立つて口を利いた婆あさんも頗(すこぶる)窮したが、爺いさんの云ふことは娘が一も二もなく同意するので、それを強ひて抑へようとすると、根本的に談判が破裂しないにも限らぬと云ふ状況になつたから為方がない。爺いさんの申分はざつとかうであつた。「お玉はわたしの大事な一人娘で、それも余所(よそ)の一人娘とは違つて、わたしの身よりと云ふものは、あれより外には一人もない。わたしは亡くなつた女房一人をたよりにして、寂しい生涯を送つたものだが、其女房が三十を越しての初産(うひざん)でお玉を生んで置いて、とうとうそれが病附やみつきで亡くなつた。貰乳(もらひちゝ)をして育ててゐると、やつと四月ばかりになつた時、江戸中に流行(はや)つた麻疹(はしか)になつて、お医者が見切つてしまつたのを、わたしは商売も何も投遣(なげやり)にして介抱して、やつと命を取り留めた。世間は物騒な最中で、井伊様がお殺されなすつてから二年目、生麦(なまむぎ)で西洋人が斬られたと云ふ年であつた。それからと云ふものは、店も何もなくしてしまつたわたしが、何遍もいつその事死んでしまはうかと思つたのを、小さい手でわたしの胸をいぢつて、大きい目でわたしの顔を見て笑ふ、可哀(かはい)いお玉を一しよに殺す気になられないばつかりに、出来ない我慢をして一日々々と命を繋(つな)いでゐた。お玉が生れた時、わたしはもう四十五で、お負(ま)けに苦労をし続けて年より更ふけてゐたのだが、一人口は食へなくても二人口は食へるなどと云つて、小金を持つた後家さんの所へ、入壻(いりむこ)に世話をしよう、子供は里にでも遣つてしまへと、親切に云つてくれた人もあつたが、わたしはお玉が可哀さに、そつけもなくことわつた。それまでにして育てたお玉を、貧すれば鈍するとやら云ふわけで、飛んだ不実な男の慰物(なぐさみもの)にせられたのが、悔やしくて悔やしくてならないのだ。為合(しあは)せな事には、好い娘だと人も云つて下さるあの子だから、どうか堅気な人に遣りたいと思つても、わたしと云ふ親があるので、誰も貰はうと云つてくれぬ。それでも囲物(かこひもの)や妾には、どんな事があつても出すまいと思つてゐたが、堅い檀那だと、お前さん方が仰おつしやるから、お玉も来年は二十(はたち)になるし、余り薹(たう)の立たないうちに、どうかして遣りたさに、とうとうわたしは折れ合つたのだ。さうした大事なお玉を上げるのだから、是非わたしが一しよに出て、檀那にお目に掛からなくてはならぬ」と云ふのである。
此話を持ち込まれた時、末造は自分の思はくの少し違つて来たのを慊(あきたら)ず思つた。それはお玉を松源へ連れて来て貰つたら、世話をする婆あさんをなるたけ早く帰してしまつて、お玉と差向ひになつて楽まうと思つたあてがはづれさうになつたからである。どうも父親が一しよに来るとなると、意外に晴がましい事になりさうである。末造自身も一種の晴がましい心持はしてゐるが、それはこれまで抑へ抑へて来た慾望の縛(いましめ)を解く第一歩を踏み出さうと云ふ、門出のよろこびの意味で、tête-à-tête(テタテト=差向ひ)はそれには第一要件になつてゐた。ところがそこへ親父が出て来るとなると、その晴がましさの性質がまるで変つて来る。婆あさんの話に聞けば、親子共物堅い人間で、最初は妾奉公は厭だと云つて、二人一しよになつてことわつたのを、婆あさんが或る日娘を外へ呼んで、もう段々稼がれなくなるお父つさんに楽がさせたくはないかと云つて、いろいろに説き勧めて、とうとう合点させて、その上で親父に納得させたと云ふことである。それを聞いた時は、そんな優しい、おとなしい娘を手に入れることが出来るのかと心中窃(ひそ)かに喜んだのだが、それ程物堅い親子が揃つて来るとなると、松源での初対面はなんとなく壻が岳父(しうと)に見参(げんざん)すると云ふ風になりさうなので、その方角の変つた晴がましさは、末造の熱した頭に一杓(いつしやく)の冷水を浴せたのである。
併し末造は飽くまで立派な実業家だと云ふ触込を実にしなくてはならぬと思つてゐるので、先方へはおほ様な処が見せたさに、とうとう二人の支度を引き受けた。それにはお玉を手に入れた上では、どうも親父の身の上も棄てては置かれぬのだから、只後ですることが先になるに過ぎぬと云ふ諦めも手伝つて、末造に決心させたのである。
そこで当前(あたりまへ)なら支度料幾らと云つて、纏まつた金を先方へ渡すのであるが、末造はさうはしない。身なりを立派にする道楽のある末造は、自分だけの為立物(したてもの)をさせる家があるので、そこへ事情を打ち明けて、似附かはしい二人の衣類を誂(あつら)へた。只寸法丈を世話を頼んだ婆あさんの手でお玉さんに問はせたのである。気の毒な事には、この油断のない、吝(けち)な末造の処置を、お玉親子は大そう善意に解釈して、現金を手に渡されぬのを、自分達が尊敬せられてゐるからだと思つた。  
 

 

上野広小路は火事の少い所で、松源の焼けたことは記憶にないから、今もその座鋪(ざしき)があるかも知れない。どこか静かな、小さい一間をと誂へて置いたので、南向の玄関から上がつて、真つ直に廊下を少し歩いてから、左へ這入る六畳の間に、末造は案内せられた。
印絆纒(しるしばんてん)を着た男が、渋紙(しぶかみ)の大きな日覆(ひおひ)を巻いてゐる最中であつた。
「どうも暮れてしまひますまでは夕日が入れますので」と、案内をした女中が説明をして置いて下がつた。真偽の分からぬ肉筆の浮世絵の軸物を掛けて、一輪挿に山梔(くちなし)の花を活けた床の間を背にして座を占めた末造は、鋭い目であたりを見廻した。
二階と違つて、その頃からずつと後に、殺風景にも競馬の埒(らち)にせられて、それから再び滄桑(さうさう)を閲(けみ)して、自転車の競走場になつた、あの池の縁の往来から見込まれぬやうにと、切角の不忍の池に向いた座敷の外は籠塀(かごべい)で囲んである。塀と家との間には、帯のやうに狭く長い地面がある切(き)りなので、固(もと)より庭と云ふ程の物は作られない。末造の据わつてゐる所からは、二三本寄せて植ゑた梧桐(あをぎり)の、油雑巾で拭いたやうな幹が見えてゐる。それから春日灯籠が一つ見える。その外には飛び飛びに立つてゐる、小さい側栢(ひのき)があるばかりである。暫く照り続けて、広小路は往来の人の足許から、白い土烟が立つのに、この塀の内は打水をした苔が青々としてゐる。
間もなく女中が蚊遣と茶を持つて来て、注文を聞いた。末造は連れが来てからにしようと云つて、女中を立たせて、ひとり烟草を呑んでゐた。初め据わつた時は少し熱いやうに思つたが、暫く立つと台所や便所の辺(あた)りを通つて、いろいろの物の香を、微かに帯びた風が、廊下の方から折々吹いて来て、傍に女中の置いて行つた、よごれた団扇(うちは)を手に取るには及ばぬ位であつた。
末造は床の間の柱に寄り掛かつて、烟草の烟を輪に吹きつつ、空想に耽つた。好い娘だと思つて見て通つた頃のお玉は、なんと云つてもまだ子供であつた。どんな女になつただらう。どんな様子をして来るだらう。兎に角爺いさんが附いて来ることになつたのは、奈何(いか)にもまづかつた。どうにかして爺いさんを早く帰してしまふことに出来ぬか知らんなんぞと思つてゐる。二階では三味線の調子を合せはじめた。
廊下に二三人の足音がして、「お連様が」と女中が先へ顔を出して云つた。「さあ、ずつとお這入なさいよ。檀那はさばけた方だから、遠慮なんぞなさらないが好い」轡虫(くつわむし)の鳴くやうな調子でかう云ふのは、世話をしてくれた、例の婆あさんの声である。
末造はつと席を起つた。そして廊下に出て見ると、腰を屈めて、曲角の壁際に躊躇してゐる爺いさんの背後(うしろ)に、怯(おく)れた様子もなく、物珍らしさうにあたりを見て立つてゐるのがお玉であつた。ふつくりした円顔の、可哀(かはい)らしい子だと思つてゐたに、いつの間にか細面になつて、体も前よりはすらりとしてゐる。さつぱりした銀杏返(いてふがへし)に結つて、こんな場合に人のする厚化粧なんぞはせず、殆(ほとん)ど素顔と云つても好い。それが想像してゐたとは全く趣が変つてゐて、しかも一層美しい。末造はその姿を目に吸ひ込むやうに見て、心の内に非常な満足を覚えた。お玉の方では、どうせ親の貧苦を救ふために自分を売るのだから、買手はどんな人でも構はぬと、捨身の決心で来たのに、色の浅黒い、鋭い目に愛敬のある末造が、上品な、目立たぬ好みの支度をしてゐるのを見て、捨てた命を拾つたやうに思つて、これも刹那の満足を覚えた。
末造は爺いさんに、「ずつとあつちへお通りなすつて下さい」と丁寧に云つて、座鋪の方を指(さ)しながら、目をお玉さんの方へ移して、「さあ」と促した。そして二人を座鋪へ入れて置いて、世話をする婆あさんを片蔭へ呼んで、紙に包んだ物を手に握らせて、何やらさゝやいた。婆あさんはお歯黒を剥がした痕のきたない歯を見せて、恭しいやうな、人を馬鹿にしたやうな笑いやうをして、頭を二三遍屈めて、其儘跡へ引き返して行つた。
座鋪に帰つて、親子のものの遠慮して這入口に一塊になつてゐるのを見て、末造は愛想好く席を進めさせて、待つてゐた女中に、料理の注文をした。間もなく「おとし」を添へた酒が出たので、先づ爺いさんに杯を侑(すゝ)めて、物を言つて見ると、元は相応な暮しをしただけあつて、遽(にはか)に身なりを拵へて座敷へ通つた人のやうではなかつた。
最初は爺いさんを邪魔にして、苛々したやうな心持になつてゐた末造も、次第に感情を融和させられて、全く予想しなかつた、しんみりした話をすることになつた。そして末造は自分の持つてゐる限のあらゆる善良な性質を表へ出すことを努めながら、心の奥には、おとなしい気立の、お玉に信頼する念を起さしめるには、此上もない、適当な機会が、偶然に生じて来たのを喜んだ。
料理が運ばれた頃には、一座はなんとなく一家のものが遊山(ゆさん)にでも出て、料理屋に立ち寄つたかと思はれるやうな様子になつてゐた。平生妻子に対しては、tyran(チラン)のやうな振舞をしてゐるので、妻からは或るときは反抗を以て、或るときは屈従を以て遇せられてゐる末造は、女中の立つた跡で、恥かしさに赤くした顔に、つつましやかな微笑を湛へて酌をするお玉を見て、これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた。併し末造は此席で幻のやうに浮かんだ幸福の影を、無意識に直覚しつつも、なぜ自分の家庭生活にかう云ふ味が出ないかと反省したり、かう云ふ余所行(よそゆき)の感情を不断に維持するには、どれ丈の要約(=約束を結ぶこと、契約)がいるか、その要約が自分や妻に充たされるものか、充たされないものかと商量したりする程の、緻密な思慮は持つてゐなかつた。
突然塀の外に、かちかちと拍子木を打つ音がした。続いて「へい、何か一枚御贔屓様を」と云つた。二階にしてゐた三味線の音(ね)が止まつて、女中が手摩(てすり)につかまつて何か言つてゐる。下では、「へい、さやうなら成田屋の河内山(かうちやま)と音羽屋の直侍(なほざむらひ)を一つ、最初は河内山」と云つて、声色(こわいろ)を使ひはじめた。
銚子を換へに来てゐた女中が、「おや、今晩のは本当のでございます」と云つた。
末造には分からなかつた。「本当のだの、嘘のだのと云つて、色々ありますかい」
「いえ、近頃は大学の学生さんが遣つてお廻りになります」
「矢つ張鳴物入で」
「ええ。支度から何からそつくりでございます。でもお声で分かります」
「そんなら極まつた人ですね」
「ええ。お一人しか、なさる方はございません」女中は笑つてゐる。
「姉えさん、知つてゐるのだね」
「こちらへもちよいちよい入らつしやつた方だもんですから」
爺いさんが傍から云つた。「学生さんにも、御器用な方があるものですね」
女中は黙つてゐた。
末造が妙に笑つた。「どうせそんなのは、学校では出来ない学生なのですよ」かう云つて、心の中には自分の所へ、いつも来る学生共の事を考へてゐる。中には随分職人の真似をして、小店(こみせ)と云ふ所を冷かすのが面白いなどと云つて、不断も職人のやうな詞遣(ことばづかひ)をしてゐる人がある。併しまさか真面目に声色を遣つて歩く人があろうとは、末造も思つてゐなかつたのである。
一座の話を黙つて聞いてゐるお玉を、末造がちよつと見て云つた。
「お玉さんは誰が贔屓ですか」
「わたくし贔屓なんかございませんの」
爺いさんが詞を添へた。「芝居へ一向まゐりませんのですから。柳盛座(りゆうせいざ)がぢき近所なので、町内の娘さん達がみな覗きにまゐりましても、お玉はちつともまゐりません。好きな娘さん達は、あのどんちやんどんちやんが聞えては内にぢつとしてはゐられませんさうで」
爺いさんの話は、つひ娘自慢になりたがるのである。  
 

 

話が極まつて、お玉は無縁坂へ越して来ることになつた。
所が、末造がひどく簡単に考えてゐた、此引越にも多少の面倒が附き纏つた。それはお玉が父親をなる丈近い所に置いて、ちよいちよい尋ねて行つて、気を附けて上げるやうにしたいと云ひ出したからである。最初からお玉は、自分が貰ふ給金の大部分を割(さ)いて親に送つて、もう六十を越してゐる親に不自由のないやうに、小女(こをんな)の一人位附けて置かうと考へてゐた。さうするには、今まで住まつた鳥越の車屋と隣合せになつてゐる、見苦しい家に親を置かなくても好い。同じ事なら、もつと近い所へ越させたいと云ふことになつた。丁度見合ひに娘ばかり呼ぶ筈の所へ、親爺が来るやうになつたと同じわけで、末造は妾宅の支度をしてお玉を迎へさへすれば好いと思つてゐたのに、実際は親子二人の引越をさせなくてはならぬ事になつたのである。
勿論お玉は親の引越は自分が勝手にさせるのだから、一切檀那に迷惑を掛けないやうにしたいと云つてゐる。併し話を聞せられて見れば、末造も丸で知らぬ顔をしてゐることは出来ない。見合ひをして一層気に入つたお玉に、例の気前を見せて遣りたい心持が手伝つて、とうとうお玉が無縁坂へ越すと同時に、兼て末造が見て置ゐた、今一軒の池の端の家へ親爺も越すといふことになつた。かう相談相手になつて見れば、幾らお玉が自分の貰ふ給金の内で万事済ましたいと云つたと云つて、見す見す苦しい事をするのを知らぬ顔は出来ず、何かにつけて物入がある。それを末造が平気で出すのに、世話を焼いてゐる婆あさんの目を睜(みは)ることが度々であつた。
両方の引越騒ぎが片附いたのは、七月の中頃でもあつたか。うひうひしい詞遣(ことばづかひ)や立居振舞が、ひどく気に入つたと見えて、金貸業の方で、あらゆる峻烈な性分を働かせてゐる末造が、お玉に対しては、柔和な手段の限を盡して、毎晩のやうに無縁坂へ通(かよ)つて来て、お玉の機嫌を取つてゐた。ここにはちよつと歴史家の好く云ふ、英雄の半面と云つたやうな趣がある。
末造は一夜も泊つて行かない。しかし毎晩のやうに来る。例の婆あさんが世話をして、梅と云ふ、十三になる小女(こをんな)を一人置いて、台所で子供の飯事(まゝごと)のやうな真似をさせてゐる丈なので、お玉は次第に話相手のない退屈を感じて、夕方になれば、早く檀那が来てくれれば好いと待つ心になつて、それに気が附いて、自分で自分を笑ふのである。鳥越にゐた時も、お父つさんが商売に出た跡で、お玉は留守に独りで、内職をしてゐたが、もうこれ丈為上(しあ)げれば幾らになる、さうしたらお父つさんが帰つて驚くだらうと励んでゐたので、近所の娘達と親しくしないお玉も、退屈だと思つたことはなかつたのである。それが生活の上の苦労がなくなると同時に、始て退屈と云ふことを知つた。
それでもお玉の退屈は、夕方になると、檀那が来て慰めてくれるから、まだ好い。可笑(をか)しいのは、池の端へ越した爺いさんの身の上で、これも渡世に追はれてゐたのが、急に楽になり過ぎて、自分も狐に撮(つま)まれたやうだと思つてゐる。そして小さいランプの下で、これまでお玉と世間話をして過した水入らずの晩が、過ぎ去つた、美しい夢のやうに恋しくてならない。そしてお玉が尋ねて来さうなものだと、絶えずそればかり待つてゐる。所がもう大分日が立つたのに、お玉は一度も来ない。
最初一日二日の間、爺いさんは綺麗な家に這入つた嬉しさに、田舎出の女中には、水汲や飯炊(めしたき)丈させて、自分で片附けたり、掃除をしたりして、ちよいちよい足らぬ物のあるのを思ひ出しては、女中を仲町(なかちやう)へ走らせて、買つて来させた。それから夕方になると、女中が台所でことこと音をさせてゐるのを聞きながら、肘掛窓の外の高野槙(かうやまき)の植ゑてある所に打水をして、煙草を喫みながら、上野の山で鴉が騒ぎ出して、中島の弁天の森や、蓮の花の咲いた池の上に、次第に夕靄が漂つて来るのを見てゐた。爺いさんは有難(ありがた)い、結構だとは思つてゐた。併しその時から、なんだか物足らぬやうな心持がし始めた。それは赤子の時から、自分一人の手で育てて、殆ど物を言はなくても、互に意志を通じ得られるやうになつてゐたお玉、何事につけても優しくしてくれたお玉、外から帰つて来れば待つてゐてくれたお玉がゐぬからである。窓に据わつてゐて、池の景色を見る。往来の人を見る。今跳ねたのは大きな鯉であつた。今通つた西洋婦人の帽子には、鳥が一羽丸で附けてあつた。その度毎に、「お玉あれを見い」と云ひたい。それがゐないのが物足らぬのである。
三日四日となつた頃には、次第に気が苛々して来て、女中の傍へ来て何かするのが気に障(さは)る。もう何十年か奉公人を使つたことがないのに、原来(ぐあんらい)優しい性分だから、小言は言はない。只女中のする事が一々自分の意志に合はぬので、不平でならない。起居のおとなしい、何をしても物に柔に当るお玉と比べて見られるのだから、田舎から出たばかりの女中こそ好い迷惑である。とうとう四日目の朝飯の給仕をさせてゐる時、汁碗の中へ拇指(おやゆび)を突つ込んだのを見て、「もう給仕はしなくても好いから、あつちへ行つてゐておくれ」と云つてしまつた。
食事をしまつて、窓から外を見てゐると、空は曇つてゐても、雨の降りさうな様子もなく、却つて晴れた日よりは暑くなくて好ささうなので、気を晴さうと思つて、外へ出た。それでも若し留守にお玉が来はすまいかと気遣つて、我家の門口を折々振り返つて見つつ、池の傍を歩いてゐる。そのうち茅町(かやちやう)と七軒町(しちけんちやう)との間から、無縁坂の方へ行く筋に、小さい橋の掛つてゐる処に来た。ちよつと娘の内へ行つて見ようかと思つたが、なんだか改まつたやうな気がして、我ながら不思議な遠慮がある。これが女親であつたら、こんな隔てはどんな場合にも出来まいのに、不思議だ、不思議だと思ひながら、橋を渡らずに、矢張池の傍を歩いてゐる。ふと心附くと、丁度末造の家が溝(どぶ)向うにある。これは口入の婆あさんが、こん度越して来た家の窓から、指さしをして教へてくれたのである。見れば、なる程立派な構で、高い土塀の外廻に、殺竹(そぎだけ)が斜に打ち附けてある。福地さんと云ふ、えらい学者の家だと聞いた、隣の方は、広いことは広いが、建物も古く、こつちの家に比べると、けばけばしい所と厳めしげな所とがない。暫く立ち留まつて、昼も厳重に締め切つてある、白木造の裏門の扉を見てゐたが、あの内へ這入つて見たいと思ふ心は起らなかつた。併し何をどう思ふでもなく、一種のはかない、寂しい感じに襲はれて、暫く茫然としてゐた。詞にあらはして言つたら、落ちぶれて娘を妾に出した親の感じとでも云ふより外あるまい。
とうとう一週間立つても、まだ娘は来なかつた。恋しい、恋しいと思ふ念が、内攻するやうに奥深く潜んで、あいつ楽な身の上になつて、親の事を忘れたのではあるまいかと云ふ疑が頭を擡(もた)げて来る。この疑は仮に故意に起して見て、それを弄(もてあそん)でゐるとでも云ふべき、極めて淡いもので、疑ひは疑ひながら、どうも娘を憎く思はれない。丁度人に対して物を言ふ時に用ゐる反語のやうに、いつそ娘が憎くなつたら好からうと、心の上辺(うはべ)で思つて見るに過ぎない。
それでも爺いさんは此頃になつて、こんな事を思ふことがある。内にばかりゐると、いろんな事を思つてならないから、己はこれから外へ出るが、跡へ娘が来て、己に逢はれないのを残念がるだらう。残念がらないにしたところが、切角来たのが無駄になつたと丈は思ふに違ひない。その位な事は思はせて遣つても好い。こんな事を思つて出て行くやうになつたのである。
上野公園に行つて、丁度日蔭になつてゐる、ろは台(=ベンチ)を尋ねて腰を休めて、公園を通り抜ける、母衣(ほろ)を掛けた人力車を見ながら、今頃留守へ娘が来て、まごまごしていはしないかと想像する。この時の感じは、好い気味だと思つて見たいと云ふ、自分で自分を験(ためし)て見るやうな感じである。此頃は夜も吹抜亭(ふきぬきてい)へ、円朝の話や、駒之助の義太夫を聞きに行くことがある。寄席にゐても、矢張娘が留守に来てゐるだらうかと云ふ想像をする。さうかと思ふと、又ふいと娘が此中に来てゐはせぬかと思つて、銀杏返(いてふがへし)に結(い)つてゐる、若い女を選り出すやうにして見ることなどがある。一度なんぞは、中入が済んだ頃、その時代にまだ珍らしかつた、パナマ帽を目深に被つた、湯帷子掛(ゆかたがけ)の男に連れられて、背後(うしろ)の二階へ来て、手摩(てすり)に攫(つか)まつて据わりしなに、下の客を見卸した、銀杏返しの女を、一刹那の間お玉だと思つた事がある。好く見れば、お玉よりは顔が円くて背が低い。それにパナマ帽の男は、その女ばかりではなく、背後にまだ三人ばかりの島田やら桃割(もゝわれ)やらを連れてゐた。皆芸者やお酌であつた。爺いさんの傍にゐた書生が、「や、吾曹(ごさう)先生が来た」と云つた。寄席がはねて帰る時に見ると、赤く「ふきぬき亭」と斜に書ゐた、大きい柄の長い提灯を一人の女が持つて、芸者やお酌がぞろぞろ附いて、パナマ帽の男を送つて行く。爺いさんは自分の内の前まで、此一行と跡になつたり、先になつたりして帰つた。  
 

 

お玉も小さい時から別れてゐたことのない父親が、どんな暮らしをしてゐるか、往つて見たいとは思つてゐる。併し檀那が毎日のやうに来るので、若し留守を明けてゐて、機嫌を損じてはならないと云ふ心配から、一日一日と、思ひながら父親の所へ尋ねて行かずに過すのである。檀那は朝までゐることはない。早い時は十一時頃に帰つてしまふ。又けふは外へ行かなくてはならぬのだが、ちよいと寄つたと云つて、箱火鉢の向うに据わつて、烟草を呑んで帰ることもある。それでもけふは檀那がきつと来ないと見極めの附いた日といふのがないので、思ひ切つて出ることが出来ない。昼間出れば出られぬことはない筈だが、使つてゐる小女が子供と云つても好い位だから、何一つ任せて置かれない。それになんだか近所のものに顔を見られるやうな気がして、昼間は外へ出たくない。初のうちは坂下の湯に這入りに行くにも、今頃は透いてゐるか見て来ておくれと、小女に様子を見て来させた上で、そつと行つた位である。
何事もなくても、こんな風に怯(おく)れがちなお玉の肝をとりひしいだ事が、越して来てから三日目にあつた。それは越した日に八百屋も、肴屋も通帳(かよひちやう)を持つて来て、出入を頼んだのに、その日には肴屋が来ぬので、小さい梅を坂下へ遣つて、何か切身でも買つて来させようとした時の事である。お玉は毎日肴なんぞが食ひたくはない。酒を飲まぬ父が体に障(さは)らぬお数(かず)でさへあれば、なんでも好いと云ふ性(たち)だから、有り合せの物で御飯を食べる癖が附いてゐた。併し隣の近い貧乏所帯で、あの家では幾日(いくか)立つても生腥気(なまぐさけ)も食べぬと云はれた事があつたので、若し梅なんぞが不満足に思つてはならぬ、それでは手厚くして下さる檀那に済まぬといふやうな心から、わざわざ坂下の肴屋へ見せに遣つたのである。ところが、梅が泣顔をして帰つて来た。どうしたかと問ふと、かう云ふのである。肴屋を見附けて這入つたら、その家はお内へ通(かよひ)を持つて来たのとは違つた家であつた。御亭主がゐないで、上さんが店にゐた。多分御亭主は河岸から帰つて、店に置く丈の物を置いて、得意先きを廻りに出たのであらう。店に新しさうな肴が沢山あつた。梅は小鯵(こあぢ)の色の好いのが一山あるのに目を附けて、値を聞いて見た。すると上さんが、「お前さんは見附けない女中さんだが、どこから買ひにお出だ」と云つたので、これこれの内から来たと話した。上さんは急にひどく不機嫌な顔をして、「おやさう、お前さんお気の毒だが帰つてね、さうお云ひ、ここの内には高利貸の妾なんぞに売る肴はないのだから」と云つて、それ切り横を向いて、烟草を呑んで構ひ附けない。梅は余り悔やしいので、外の肴屋へ行く気もなくなつて、駈けて帰つた。そして主人の前で、気の毒さうに、肴屋の上さんの口上を、きれぎれに繰り返したのである。
お玉は聞いてゐるうちに、顔の色が脣まで蒼くなつた。そして良(やゝ)久しく黙つてゐた。世馴れぬ娘の胸の中で、込み入つた種々の感情がchaos(カオス)をなして、自分でもその織り交ぜられた糸をほぐして見ることは出来ぬが、その感情の入り乱れた儘の全体が、強い圧(あつ)を売られた無垢の処女の心の上に加へて、体ぢゆうの血を心の臓に流れ込ませ、顔は色を失ひ、背中には冷たい汗が出たのである。こんな時には、格別重大でない事が、最初に意識せられるものと見えて、お玉はこんな事があつては梅がもう此内にはゐられぬと云ふだらうかと先づ思つた。
梅はぢつと血色(ちいろ)の亡くなつた主人の顔を見てゐて、主人がひどく困つてゐると云ふこと丈は暁(さと)つたが、何に困つてゐるのか分からない。つひ腹が立つて帰つては来たが、午のお菜がまだないのに、此儘にしてゐては済まぬと云ふことに気が付いた。さつき貰つて出て行つたお足(あし)さへ、まだ帯の間に挿んだ切りで出さずにゐるのであつた。「ほんとにあんな厭なお上さんてありやしないわ。あんな内のお肴を誰が買つて遣るものか。もつと先の、小さいお稲荷さんのある近所に、もう一軒ありますから、すぐに行つて買つて来ませうね」慰めるやうにお玉の顔を見て起ち上がる。お玉は梅が自分の身方になつてくれた、刹那の嬉しさに動されて、反射的に微笑んで頷く。梅はすぐばたばたと出て行つた。
お玉は跡にその儘動かずにゐる。気の張が少し弛んで、次第に涌いて来る涙が溢れさうになるので、袂からハンカチイフを出して押へた。胸の内には只悔やしい、悔やしいと云ふ叫びが聞える。これが彼の混沌とした物の発する声である。肴屋が売つてくれぬのが憎いとか、売つてくれぬやうな身の上だと知つて悔やしいとか、悲しいとか云ふのでないことは勿論であるが、身を任せることになつてゐる末造が高利貸であつたと分かつて、その末造を憎むとか、さう云ふ男に身を任せてゐるのが悔やしいとか、悲しいとか云ふのでもない。お玉も高利貸は厭なもの、こはいもの、世間の人に嫌はれるものとは、仄かに聞き知つてゐるが、父親が質屋の金しか借りたことがなく、それも借りたい金高を番頭が因業で貸してくれぬことがあつても、父親は只困ると云ふ丈で番頭を無理だと云つて怨んだこともない位だから、子供が鬼がこはい、お廻りさんがこはいのと同じやうに、高利貸と云ふ、こはいものの存在を教へられてゐても、別に痛切な感じは持つてゐない。そんなら何が悔やしいのだらう。
一体お玉の持つてゐる悔やしいと云ふ概念には、世を怨み人を恨む意味が甚だ薄い。強ひて何物をか怨む意味があるとするなら、それは我身の運命を怨むのだとでも云はうか。自分が何の悪い事もしてゐぬのに、余所(よそから)迫害を受けなくてはならぬやうになる。それを苦痛として感ずる。悔やしいとは此苦痛を斥(さ)すのである。自分が人に騙されて棄てられたと思つた時、お玉は始て悔やしいと云つた。それからたつた此間妾と云ふものにならなくてはならぬ事になつた時、又悔やしいを繰り返した。今はそれが只妾と云ふ丈でなくて、人の嫌ふ高利貸の妾でさへあつたと知つて、きのふけふ「時間」の歯で咬まれて角(かど)がつぶれ、「あきらめ」の水で洗はれて色の褪めた「悔やしさ」が、再びはつきりした輪郭、強い色彩をして、お玉の心の目に現はれた。お玉が胸に鬱結してゐる物の本体は、強ひて条理を立てて見れば先づこんな物ででもあらうか。
暫くするとお玉は起つて押入を開けて、象皮賽(ざうひまがひ)の鞄から、自分で縫つた白金巾(しろかなきん)の前掛を出して腰に結んで、深い溜息を衝いて台所へ出た。同じ前掛でも、絹のは此女の為めに、一種の晴着になつてゐて、台所へ出る時には掛けぬことにしてある。かれは湯帷子(ゆかた)にさへ領垢(えりあか)の附くのを厭(いと)つて、鬢や髱(たぼ)の障る襟の所へ、手拭を折り掛けて置く位である。
お玉は此時もう余程落ち着いてゐた。あきらめは此女の最も多く経験してゐる心的作用で、かれの精神は此方角へなら、油をさした機関のやうに、滑かに働く習慣になつてゐる。  
 

 

或る日の晩の事であつた。末造が来て箱火鉢の向うに据わつた。始ての晩からお玉はいつも末造の這入つて来るのを見ると、座布団を出して、箱火鉢の向うに敷く。末造はその上に胡坐(あぐら)を掻いて、烟草を飲みながら世間話をする。お玉は手持不沙汰なやうに、不断自分のゐる所にゐて、火鉢の縁(へり)を撫でたり、火箸をいぢつたりしながら、恥かしげに、詞数少く受答をしてゐる。その様子が火鉢から離れて据わらせたら、身の置所に困りはすまいかと思はれるやうである。火鉢と云ふ胸壁に拠つて、僅かに敵に当つてゐると云つても好い位である。暫く話してゐるうちに、お玉はふと調子附いて長い話をする。それが大抵これまで父親と二人で暮してゐた、何年かの間に閲(けみ)して来た、小さい喜怒哀楽に過ぎない。末造はその話の内容を聴くよりは、籠に飼つてある鈴虫の鳴くのをでも聞くやうに、可哀(かは)いらしい囀(さへづ)りの声を聞いて、覚えず微笑む。その時お玉はふいと自分の饒舌(しやべ)つてゐるのに気が附いて、顔を赤くして、急に話を端折(はしよ)つて、元の詞数の少い対話に戻つてしまふ。その総ての言語挙動が、いかにも無邪気で、或る向きには頗る鋭利な観察をすることに慣れてゐる末造の目で見れば、澄み切つた水盤の水を見るやうに、隅々まで隠れる所もなく見渡すことが出来る。かう云ふ差向ひの味は、末造がためには、手足を働かせた跡で、加減の好い湯に這入つて、ぢつとして温まつてゐるやうに愉快である。そして此味を味ふのが、末造がためには全く新しい経験に属するので、末造は此家に通ひ始めてから、猛獣が人に馴れるやうに、意識せずに一種のculture(キュルチュウル)を受けてゐるのである。
それに三四日立つた頃から、自分が例の通りに箱火鉢の向うに胡坐(あぐら)を掻くと、お玉はこれと云ふ用もないに立ち働いたり何かして、兎角落ち着かぬやうになつたのに、末造は段々気が附いて来た。はにかんで目を見合せぬやうにしたり、返事を手間取らせたりすることは最初にもあつたが、今晩なんぞの素振には何か特別な仔細がありさうである。
「おい、お前何か考へてゐるね」と、末造が烟管(きせる)に烟草を詰めつつ云つた。
わざわざ片附けてあるやうな箱火鉢の抽斗を、半分抜いて、捜すものもないのに、中を見込んでゐたお玉は、「いいえ」と云つて、大きい目を末造の顔に注いだ。昔話の神秘は知らず、余り大した秘密なんぞをしまつて置かれさうな目ではない。
末造は覚えず蹙(しか)めてゐた顔を、又覚えず晴やかにせずにはゐられなかつた。「いいえぢやあないぜ。困つちまう。どうしよう。どうしようと、ちやんと顔に書いてあらあ」
お玉の顔はすぐに真つ赤になつた。そして姑(しばら)く黙つてゐる。どう言はうかと考へる。細かい器械の運転が透き通つて見えるやうである。「あの、父の所へ疾うから行つて見よう、行つて見ようと思つてゐながら、もう随分長くなりましたもんですから」
細かい器械がどう動くかは見えても、何をするかは見えない。常に自分より大きい、強い物の迫害を避けなくてはゐられぬ虫は、mimicry(ミミクリイ=擬態)を持つてゐる。女は嘘を衝く。
末造は顔で笑つて、叱るやうな物の言様をした。「なんだ。つひ鼻の先の池の端に越して来てゐるのに、まだ行つて見ないでゐたのか。向ひの岩崎の邸の事なんぞを思へば、同じ内にゐるやうなものだぜ。今からだつて、行かうと思へば行けるのだが、まあ、あすの朝にするが好い」
お玉は火箸で灰をいぢりながら、偸(ぬす)むやうに末造の顔を見てゐる。
「でもいろいろと思つて見ますものですから」
「笑談ぢやないぜ。その位な事を、どう思つて見やうもないぢやないか。いつまでねんねえでゐるのだい」こん度は声も優しかつた。
此話はこれ丈で済んだ。とうとうしまひには末造が、そんなにおつくうがるやうなら、自分が朝出掛けて来て、四五町の道を連れて行つて遣らうかなどとも云つた。
お玉は此頃種々に思つて見た。檀那に逢つて、頼もしげな、気の利いた、優しい様子を目の前に見て、此人がどうしてそんな、厭な商売をするのかと、不思議に思つたり、なんとか話をして、堅気な商売になつて貰ふことは出来まいかと、無理な事を考へたりしてゐた。併しまだ厭な人だとは少しも思はなかつた。
末造はお玉の心の底に、何か隠してゐる物のあるのを微(かす)かに認めて、探りを入れて見たが、子供らしい、なんでもない事だと云ふのであつた。併し十一時過ぎに此家を出て、無縁坂をぶらぶら降りながら考へて見れば、どうもまだその奥に何物かが潜んでゐさうである。末造の物馴れた、鋭い観察は、この何物かを丸で見遁してはをらぬのである。少くも或る気まづい感情を起させるやうな事を、誰かがお玉に話したのではあるまいかとまで、末造は推測を逞(たくまし)うして見た。それでも誰が何を言つたかは、とうとう分からずにしまつた。  
 

 

翌朝お玉が、池の端の父親の家に来た時は、父親は丁度朝飯を食べてしまつた所であつた。化粧の手間を取らないお玉が、ちと早過ぎはせぬかと思ひながら、急いで来たのだが、早起の老人はもう門口を綺麗に掃いて、打水をして、それから手足を洗つて、新しい畳の上に上がつて、いつもの寂しい食事を済ませた所であつた。
二三軒隔てては、近頃待合も出来てゐて、夕方になれば騒がしい時があるが、両隣は同じやうに格子戸の締まつた家で、殊に朝のうちは、あたりがひつそりしてゐる。肱掛窓から外を見れば、高野槙(かうやまき)の枝の間から、爽かな朝風に、微かに揺れてゐる柳の糸と、その向うの池一面に茂つてゐる蓮の葉とが見える。そしてその緑の中に、所所に薄い紅(べに)を点じたやうに、今朝開いた花も見えてゐる。北向の家で寒くはあるまいかと云ふ話はあつたが、夏は求めても住みたい所である。
お玉は物を弁(わきま)へるやうになつてから、若し身に為合(しあは)せが向いて来たら、お父つさんをああもして上げたい、かうもして上げたいと、色々に思つても見たが、今目の前に見るやうに、こんな家にかうして住まはせて上げれば、平生の願がかなつたのだと云つても好いと、嬉しく思はずにはゐられなかつた。併しその嬉しさには一滴の苦い物が交つてゐる。それがなくて、けさお父つさんに逢ふのだつたら、どんなにか嬉しからうと、つくづく世の中の儘ならぬを、じれつたくも思ふのである。
箸を置いて、湯呑に注(つ)いだ茶を飲んでゐた爺いさんは、まだつひぞ人のおとづれたことのない門(かど)の戸の開いた時、はつと思つて、湯呑を下に置いて、上り口の方を見た。二枚折の葭簀(よしず)屏風にまだ姿の遮られてゐるうちに、「お父つさん」と呼んだお玉の声が聞えた時は、すぐに起つて出迎へたいやうな気がしたのを、ぢつとこらへて据わつてゐた。そしてなんと云つて遣らうかと、心の内にせはしい思案をした。「好くお父つさんの事を忘れずにゐたなあ」とでも云はうかと思つたが、そこへ急いで這入つて来て、懐かしげに傍に来た娘を見ては、どうもそんな詞は口に出されなくなつて、自分で自分を不満足に思ひながら、黙つて娘の顔を見てゐた。
まあ、なんと云ふ美しい子だらう。不断から自慢に思つて、貧しい中にも荒い事をさせずに、身綺麗にさせて置いた積ではあつたが、十日ばかり見ずにゐるうちに、丸で生れ替つて来たやうである。どんな忙しい暮らしをしてゐても、本能のやうに、肌に垢の附くやうな事はしてゐなかつた娘ではあるが、意識して体を磨くやうになつてゐるきのふけふに比べて見れば、爺いさんの記憶にあるお玉の姿は、まだ璞(あらたま)の儘であつた。親が子を見ても、老人が若いものを見ても、美しいものは美しい。そして美しいものが人の心を和げる威力の下には、親だつて、老人だつて屈せずにはゐられない。
わざと黙つてゐる爺いさんは、渋い顔をしてゐる積であつたが、不本意ながら、つひ気色(けしき)を和げてしまつた。お玉も新らしい境遇に身を委ねた為めに、これまで小さい時から一日も別れてゐたことのない父親を、逢ひたい逢ひたいと思ひながら、十日も見ずにゐたのだから、話さうと思つて来た事も、暫くは口に出すことが出来ずに、嬉しげに父親の顔を見てゐた。
「もうお膳を下げまして宜(よろし)うございませうか」と、女中が勝手から顔を出して、尻上がりの早言(はやこと)に云つた。馴染のないお玉には、なんと云つたか聞き取れない。髪を櫛巻(くしまき)にした小さい頭の下に太つた顔の附いてゐるのが、いかにも不釣合である。そしてその顔が不遠慮に、さも驚いたやうに、お玉を目守まもつてゐる。
「早くお膳を下げて、お茶を入れ替へて来るのだ。あの棚にある青い分のお茶だ」爺いさんはかう云つて、膳を前に衝き出した。女中は膳を持つて勝手へ這入つた。
「あら。好いお茶なんか戴かなくつても好いのだから」
「馬鹿言へ。お茶受もあるのだ」爺いさんは起つて、押入からブリキの鑵を出して、菓子鉢へ玉子煎餅を盛つてゐる。「これは宝丹(はうたん)のぢき裏の内で拵へてゐるのだ。此辺は便利の好い所で、その側の横町には如燕(じよえん=講釈師)の佃もある」
「まあ。あの柳原の寄席へ、お父つさんと聞きに行つた時、何か御馳走のお話をして、その旨きこと、己の店の佃の如しと云つて、みんなを笑はせましたつけね。本当に福福しいお爺いさんね。高座へ出ると、行きなりお尻をくるつとまくつて据わるのですもの。わたくし可笑(をか)しくつて。お父つさんもあんなにお太りなさるやうだと好いわ」
「如燕のやうに太つて溜まるものか」と云ひながら、爺いさんは煎餅を娘の前へ出した。
そのうち茶が来たので、親子はきのふもおとつひも一しよにゐたもののやうに、取留のない話をしてゐた。爺いさんがふと何か言ひにくい事を言ふやうに、かう云つた。
「どうだい、工合は。檀那は折々お出になるかい」
「ええ」とお玉は云つた切ぎり、ちよいと返事にまごついた。末造の来るのは折々どころではない。毎晩顔を出さないことはない。これがよめに往つたので、折合が好いかと問はれたのなら、大層好いから安心して下さいと、晴れ晴れと返事が出来るのだらう。それがかうした身の上で見れば、どうも檀那が毎晩お出になるとは、気が咎めて言ひにくい。お玉は暫く考へて、「まあ、好い工合のやうですから、お父つさん、お案じなさらなくつても好ござんすわ」と云つた。
「そんなら好いが」と爺いさんは云つたが、娘の答にどこやら物足らぬ所のあるのを感じた。問ふ人も、答へる人も無意識に含糊(がんこ)の態(たい)をなして物を言ふやうになつたのである。これまで何事も打ち明け合つて、お互の間に秘密と云ふものを持つてゐたことのない二人が、厭でも秘密のあるらしい、他人行儀の挨拶をしなくてはならなくなつたのである。前に悪い壻を取つて騙された時なんぞは、近所の人に面目ないとは思つても、親子共胸の底には曲(きよく)彼に在りと云ふ心持があつたので、互に話をし合ふには、少しも遠慮はしなかつた。その時とは違つて、親子は一旦決心して纏めた話が旨く纏まつて、不自由のない身の上になつてゐながら、今は親しい会話の上に、暗い影のさす、悲しい味を知つたのである。暫くして爺いさんは、何か娘の口から具体的な返事が聞きたいやうな気がしたので、「一体どんな方(かた)だい」と、又新しい方角から問ふて見た。
「さうね」と云つて、お玉は首を傾げてゐたが、独語のやうな調子で言い足した。「どうも悪い人だとは思はれませんわ。まだ日も立たないのだけれども、荒い詞なんぞは掛けないのですもの」
「ふん」と云つて、爺いさんは得心の行かぬやうな顔をした。「悪い人の筈はないぢやないか」
お玉は父親と顔を見合せて、急に動悸のするのを覚えた。けふ話さうと思つて来た事を、話せば今が好い折だとは思ひながら、切角暮らしを楽にして、安心をさせようとしてゐる父親に、新しい苦痛を感ぜさせるのがつらいからである。さう思つたので、お玉は父親との隔たりの大きくなるやうな不快を忍んで、日影ものと云ふ秘密の奥に、今一つある秘密を、ここまで持つて来た儘蓋を開けずに、そつくり持つて帰らうと、際どい所で決心して、話を余所よそに逸そらしてしまつた。
「だつて随分いろいろな事をして、一代のうちに身上を拵へた人だと云ふのですから、わたくしどんな気立の人だか分からないと思つて、心配してゐたのですわ。さうですね。なんと云つたら好いでせう。まあ、をとこ気のある人と云ふ風でございますの。真底からそんな人なのだか、それはなかなか分からないのですけれど、人にさう見せようと心掛けて何か言つたりしたりしてゐる人のやうね。ねえ、お父つさん。心掛ばかりだつてそんなのは好いぢやございませんか」かう云つて、父親の顔を見上げた。女はどんな正直な女でも、その時心に持つてゐる事を隠して、外の事を言ふのを、男程苦にはしない。そしてさう云ふ場合に詞数の多くなるのは、女としては余程正直なのだと云つても好いかも知れない。
「さあ。それはそんな物かも知れないな。だが、なんだかお前、檀那を信用してゐないやうな、物の言ひやうをするぢやないか」
お玉はにつこりした。「わたくしこれで段々えらくなつてよ。これからは人に馬鹿にせられてばかりはゐない積なの。豪気でせう」
父親はおとなしい一方の娘が、めづらしく鋒(ほこさき)を自分に向けたやうに感じて、不安らしい顔をして娘を見た。「うん。己は随分人に馬鹿にせられ通しに馬鹿にせられて、世の中を渡つたものだ。だがな、人を騙すよりは、人に騙されてゐる方が、気が安い。なんの商売をしても、人に不義理をしないやうに、恩になつた人を大事にするやうにしなくてはならないぜ」
「大丈夫よ。お父つさんがいつも、たあ坊は正直だからとさう云つたでせう。わたくし全く正直なの。ですけれど、此頃つくづくさう思つてよ。もう人に騙されることだけは、御免を蒙りたいわ。わたくし嘘を衝いたり、人を騙したりなんかしない代(か)はりには、人に騙されもしない積なの」
「そこで檀那の言ふことも、うかとは信用しないと云ふのかい」
「さうなの。あの方はわたくしを丸で赤ん坊のやうに思つてゐますの。それはあんな目から鼻へ抜けるやうな人ですから、さう思ふのも無理はないのですけれど、わたくしこれでもあの人の思ふ程赤ん坊ではない積なの」
「では何かい。何かこれまで檀那の仰やつた事に、本当でなかつた事でもあつたのを、お前が気が附ゐたとでも云ふのかい」
「それはあつてよ。あの婆あさんが度々さう云つたでせう。あの人は奥さんが子供を置いて亡くなつたのだから、あの人の世話になるのは、本妻ではなくつても、本妻も同じ事だ。只世間体があるから裏店(うらだな)にゐたものを内に入れることは出来ないのだと云つたのね。ところが奥さんがちやあんとあるの。自分で平気でさう云ふのですもの。わたくしびつくりしてよ」
爺いさんは目を大きくした。「さうかい。矢つ張媒人口(なかうどぐち)だなあ」
「ですから、わたくしの事を奥さんには極(ごく)の内証にしてゐるのでせう。奥さんに嘘を衝く位ですから、わたくしにだつて本当ばかし云つてゐやしませんわ。わたくし眉毛に唾を附けてゐなくちやあ」
爺いさんは飲んでしまつた烟草の吸殻をはたくのも忘れて、なんだか急にえらくなつたやうな娘の様子をぼんやりと眺めてゐると、娘は急に思ひ出した様に云つた。「わたくしけふはもう帰つてよ。かうして一度来て見れば、もうなんでもなくなつたから、これからはお父つさんとこへ毎日のやうに見に来て上げるわ。実はあの人が往けと云はないうちに来ては悪いかと思つて、遠慮してゐたの。とうとうゆうべさう云つてことわつて置いて、けさ来たのだわ。わたくしの所へ来た女中は、それは子供で、お午の支度だつて、わたくしが帰つて手伝つて遣らなくては出来ないの」
「檀那にことわつて来たのなら、午もこつちで食べて行けば好い」
「いいえ。不用心ですわ。またすぐ出掛けて来てよ。お父つさん。さやうなら」
お玉が立ち上がるとたんに、女中が慌てて履物を直しに出た。気が利かぬやうでも、女は女に遭遇して観察をせずには置かない。道で行き合つても、女は自己の競争者として外の女を見ると、或る哲学者は云つた。汁椀の中へ親指を衝つ込む山出しの女でも、美しいお玉を気にして、立聴をしてゐたものと見える。
「ぢやあ又来るが好い。檀那に宜しく言つてくれ」爺いさんは据わつた儘かう云つた。
お玉は小さい紙入を黒繻子の帯の間から出して、幾らか紙に撚(ひね)つて女中に遣つて置いて、駒下駄を引つ掛けて、格子戸の外へ出た。
たよりに思ふ父親に、苦しい胸を訴へて、一しよに不幸を嘆く積で這入つた門を、我ながら不思議な程、元気好くお玉は出た。切角安心してゐる父親に、余計な苦労を掛けたくない、それよりは自分を強く、丈夫に見せて遣りたいと、努力して話をしてゐるうちに、これまで自分の胸の中に眠つてゐた或る物が醒覚(せいかく)したやうな、これまで人にたよつてゐた自分が、思ひ掛けず独立したやうな気になつて、お玉は不忍の池の畔(ほとり)を、晴やかな顔をして歩いてゐる。
もう上野の山を大ぶはづれた日がくわつと照つて、中島の弁天の社を真つ赤に染めてゐるのに、お玉は持つて来た、小さい蝙蝠をも挿さずに歩いてゐるのである。  
 

 

或る晩末造が無縁坂から帰つて見ると、お上さんがもう子供を寝かして、自分丈起きてゐた。いつも子供が寝ると、自分も一しよに横になつてゐるのが、その晩は据わつて俯向加減になつてゐて、末造が蚊屋の中に這入つて来たのを知つてゐながら、振り向いても見ない。
末造の床は一番奥の壁際に、少し離して取つてある。その枕元には座布団が敷いて、烟草盆と茶道具とが置いてある。末造は座布団の上に据わつて、烟草を吸ひ附けながら、優しい声で云つた。
「どうしたのだ。まだ寐ないでゐるね」
お上さんは黙つてゐる。
末造も再び譲歩しようとはしない。こつちから媾和を持ち出したに、彼が応ぜぬなら、それまでの事だと思つて、わざと平気で烟草を呑んでゐる。
「あなた今までどこにゐたんです」お上さんは突然頭を持ち上げて、末造を見た。奉公人を置くやうになつてから、次第に詞を上品にしたのだが、差向ひになると、ぞんざいになる。やうやう「あなた」丈が維持せられてゐる。
末造は鋭い目で一目女房を見たが、なんとも云はない。何等かの知識を女房が得たらしいとは認めても、其知識の範囲を測り知ることが出来ぬので、なんとも云ふことが出来ない。末造は妄(みだり)に語つて、相手に材料を供給するやうな男ではない。
「もう何もかも分かつてゐます」鋭い声である。そして末の方は泣声になり掛かつてゐる。
「変な事を言ふなあ。何が分かつたのだい」さも意外な事に遭遇したと云ふやうな調子で、声はいたはるやうに優しい。
「ひどいぢやありませんか。好くそんなにしらばつくれてゐられる事ね」夫の落ち着いてゐるのが、却つて強い刺戟のやうに利くので、上さんは声が切れ切れになつて、湧いて来る涙を襦袢の袖でふいてゐる。
「困るなあ。まあ、なんだかさう云つて見ねえ。丸つきり見当が附かない」
「あら。そんな事を。今夜どこにゐたのだか、わたしにさう云つて下さいと云つてゐるのに。あなた好くそんな真似が出来た事ね。わたしには商用があるのなんのと云つて置いて、囲物(かこひもの)なんぞを拵へて」鼻の低い赤ら顔が、涙でゆでたやうになつたのに、こはれた丸髷の鬢の毛が一握へばり附いてゐる。潤んだ細い目を、無理に大きくみはつて、末造の顔を見てゐたが、ずつと傍へいざり寄つて、金天狗(きんてんぐ=紙巻たばこ)の燃えさしを撮んでゐた末造の手に、力一ぱいしがみ附いた。
「廃(よ)せ」と云つて、末造はその手を振り放して、畳の上に散つた烟草の燃えさしを揉み消した。
お上さんはしやくり上げながら、又末造の手にしがみ附いた。「どこにだつて、あなたのやうな人があるでせうか。いくらお金が出来たつて、自分ばかり檀那顔をして、女房には着物一つ拵へてはくれずに、子供の世話をさせて置いて、好い気になつて妾狂(めかけぐるひ)をするなんて」
「廃せと云へば」末造は再び女房の手を振り放した。「子供が目を覚すぢやないか。それに女中部屋にも聞える」翳(かす)めた声に力を入れて云つたのである。
末の子が寝返りをして、何か夢中で言つたので、お上さんも覚えず声を低うして、「一体わたしどうすれば好いのでせう」と云つて、今度は末造の胸の所に顔を押し附けて、しくしく泣いてゐる。
「どうするにも及ばないのだ。お前が人が好いもんだから、人に焚き附けられたのだ。妾だの、囲物だのつて、誰がそんな事を言つたのだい」かう云ひながら、末造はこはれた丸髷のぶるぶる震えてゐるのを見て、醜い女はなぜ似合はない丸髷を結(ゆ)ひたがるものだらうと、気楽な問題を考へた。そして丸髷の震動が次第に細かく刻むやうになると同時に、どの子供にも十分の食料を供給した、大きい乳房が、懐炉を抱いたやうに水落(みづおち)の辺に押し附けられるのを末造は感じながら、「誰が言つたのだ」と繰り返した。
「誰だつて好いぢやありませんか。本当なんだから」乳房の圧はいよいよ加はつて来る。
「本当でないから、誰でも好くはないのだ。誰だかさう云へ」
「それは言つたつてかまひませんとも。魚金(うをきん)のお上さんなの」
「なに丸で狸が物を言ふやうで、分かりやあしない。むにやむにやのむにやむにやさんなのとはなんだい」
お上さんは顔を末造の胸から離して、悔やしさうに笑つた。「魚金のお上さんだと、さう云つてゐるぢやありませんか」
「うん。あいつか。おほ方そんな事だらうと思つた」末造は優しい目をして、女房の逆上したやうな顔を見ながら、徐(しづ)かに金天狗に火を附けた。「新聞屋なんかが好く社会の制裁だのなんのと云ふが、己はその社会の制裁と云ふ奴を見た事がねえ。どうかしたら、あの金棒引(かなぼうひき)なんかが、その制裁と云ふ奴かも知れねえ。近所中のおせつかいをしやがる。あんな奴の言ふ事を真に受けて溜まるものか。己が今本当の事を云つて聞して遣るから、好く聞いてゐろ」
お上さんの頭は霧が掛かつたやうに、ぼうつとしてゐるが、もしや騙されるのではあるまいかと云ふ猜疑だけは醒めてゐる。それでも熱心に末造の顔を見て謹聴してゐる。今社会の制裁と云ふことを言はれた時もさうであるが、いつでも末造が新聞で読んだ、むづかしい詞を使つて何か言ふと、お上さんは気おくれがして、分からぬなりに屈服してしまふのである。
末造は折々烟草を呑んで烟を吹きながら、矢張女房の顔を暗示するやうにぢつと見て、こんな事を言つてゐる。「それ、お前も知つてゐるだらう。まだ大学があつちにあつた頃、好く内に来た吉田さんと云ふのがゐたなあ。あの金縁目金を掛けて、べらべらした着物を着てゐる人よ。あれが千葉の病院へ行つてゐるが、まだ己の方の勘定が二年や三年ぢやあ埒(らち)が明かねえんだ。あの吉田さんが寄宿舎にゐた時から出来てゐた女で、こなひだまで七曲(なゝまがり)の店(たな)を借りて入れてあつたのだ。最初は月々極まつて為送りをしてゐたところが、今年になつてから手紙もよこさなけりや、金もよこさねえ。そこで女が先方へ掛け合つてくれろと云つて己に頼んだのだ。どうして己を知つてゐるかと思ふだらうが、吉田さんは度々己の内へ来ると人の目に附いて困るからと云つて、己を七曲の内へ呼んで書換の話なんぞをした事がある。その時から女が己を知つてゐたのだ。己も随分迷惑な話だが、序(ついで)だから掛け合つて遣つたよ。ところがなかなか埒は明かねえ。女はしつつこく頼む。己は飛んだ奴に引つ掛かつたと思つて持て扱つてゐるのだ。お負に小綺麗な所で店賃(たなちん)の安い所へ越したいから、世話をしてくれろと云ふので、切通しの質屋の隠居のゐた跡へ、面倒を見て越させて遣つた。それやこれやで、こなひだからちよいちよい寄つて、烟草を二三服呑んだ事があるもんだから、近所の奴が彼此言やあがるのだらう。隣は女の子を集めて、為立物(したてもの)の師匠をしてゐると云ふのだから、口はうるさいやな。あんな所に女を囲つて置く馬鹿があるものか」こんな事を言つて、末造はさげすんだやうに笑つた。
お上さんは小さい目を赫かして、熱心に聞いてゐたが、此時甘えたやうな調子でかう云つた。「それはお前さんの云ふ通りかも知れないけれど、そんな女の所へ度々行くうちには、どうなるか知れたものぢやありやしない。どうせお金で自由になるやうな女だもの」お上さんはいつか「あなた」を忘れてゐる。
「馬鹿言へ。己がお前と云ふものがあるのに、外の女に手を出すやうな人間かい。これまでだつて、女をどうしたと云ふことが、只の一度でもあつたかい。もうお互に焼餅喧嘩をする年でもあるめえ。好い加減にしろ」末造は存外容易に弁解が功を奏したと思つて、心中に凱歌を歌つてゐる。
「だつてお前さんのやうにしてゐる人を、女は好くものだから、わたしやあ心配さ」
「へん。あが仏尊しと云ふ奴だ」
「どう云ふわけなの」
「己のやうな男を好いてくれるのは、お前ばかりだと云ふことよ。なんだ。もう一時を過ぎてゐる。寝よう寝よう」  
 

 

真実と作為とを綯交(なひまぜ)にした末造の言分けが、一時お上さんの嫉妬の火を消したやうでも、その効果は勿論palliatif(パリアチイフ=一時しのぎ)なのだから、無縁坂上(うへ)に実在してゐる物が、依然実在してゐる限は、蔭口やら壁訴訟やらの絶えることはない。それが女中の口から、「今日も何某(なにがし)が檀那様の格子戸にお這入になるのを見たさうでございます」と云ふやうな詞になつて、お上さんの耳に届く。しかし末造は言分けには窮せない。商用とやらが、さう極まつて晩方にあるものではあるまいと云へば、「金を借る相談を朝つぱらからする奴があるものか」と云ふ。なぜこれまでは今のやうでなかつたかと云へば、「それは商売を手広に遣り出さない前の事だ」と云ふ。末造は池の端へ越すまでは、何もかも一人でしてゐたのに、今は住まひの近所に事務所めいたものが置いてある外に、龍泉寺町(りゆうせんじまち)にまで出張所とでも云ふやうな家があつて、学生が所謂金策のために、遠道(とほみち)を踏まなくても済むやうにしてある。根津(ねづ)で金のいるものは事務所に駈け附ける。吉原でいるものは出張所に駈け附ける。後には吉原の西の宮と云ふ引手茶屋と、末造の出張所とは気脈を通じてゐて、出張所で承知してゐれば、金がなくても遊ばれるやうになつてゐた。宛然(ゑんぜん)たる遊蕩の兵站が編成せられてゐたのである。
末造夫婦は新に不調和の階級を進める程の衝突をせずに、一月ばかりを暮してゐた。詰まりその間は末造の詭弁が功を奏してゐたのである。然るに或る日意外な辺から破綻が生じた。
さいはひ夫が内にゐるので、朝の涼しいうちに買物をして来ると云つて、お常は女中を連れて広小路まで行つた。その帰りに仲町を通り掛かると、背後(うしろ)から女中が袂をそつと引く。「なんだい」と叱るやうに云つて、女中の顔を見る。女中は黙つて左側の店に立つてゐる女を指さす。お常はしぶしぶその方を見て、覚えず足を駐(と)める。そのとたんに女は振り返る。お常とその女とは顔を見合せたのである。
お常は最初芸者かと思つた。若し芸者なら、数寄屋町に此女程どこもかしこも揃つて美しいのは、外にあるまいと、せはしい暇に判断した。併し次の瞬間には、此女が芸者の持つてゐる何物かを持つてゐないのに気が附いた。その何物かはお常には名状することは出来ない。それを説明しようとすれば、態度の誇張とでも云はうか。芸者は着物を好い恰好に着る。その好い恰好は必ず幾分か誇張せられる。誇張せられるから、おとなしいと云ふ所が失はれる。お常の目に何物かが無いと感ぜられたのは、此誇張である。
店の前の女は、傍を通り過ぎる誰やらが足を駐めたのを、殆ど意識せずに感じて、振り返つて見たが、その通り過ぎる人の上に、なんの注意すべき点をも見出さなかつたので、蝙蝠傘を少し内廻転(ないくわいてん)をさせた膝の間に寄せ掛けて、帯の間から出して持つてゐた、小さい蝦蟇口の中を、項(うなじ)を屈めて覗き込んだ。小さい銀貨を捜してゐるのである。
店は仲町の南側の「たしがらや」であつた。「たしがらや倒(さか)さに読めばやらかした」と、何者かの言ひ出した、珍らしい屋号の此店には、金字を印刷した、赤い紙袋に入れた、歯磨を売つてゐた。まだ練歯磨なんぞの舶来してゐなかつたその頃、上等のざら附かない製品は、牡丹の香(にほひ)のする、岸田の花王散と、このたしがらやの歯磨とであつた。店の前の女は別人でない。朝早く父親の所を訪ねた帰りに、歯磨を買ひに寄つたお玉であつた。
お常が四五歩通り過ぎた時、女中がさゝやいた。「奥さん。あれですよ。無縁坂の女は」
黙つて頷いたお常には、此詞が格別の効果を与へないので、女中は意外に思つた。あの女は芸者ではないと思ふと同時に、お常は本能的に無縁坂の女だと云ふことを暁(さと)つてゐたのである。それには女中が只美しい女がゐると云ふ丈で、袖を引いて教へはしない筈だと云ふ判断も手伝つてゐるが、今一つ意外な事が影響してゐる。それはお玉が膝の所に寄せ掛けてゐた蝙蝠傘である。
もう一月余り前の事であつた。夫が或る日横浜から帰つて、みやげに蝙蝠の日傘を買つて来た。柄がひどく長くて、張つてある切れが割合に小さい。背の高い西洋の女が手に持つておもちやにするには好からうが、ずんぐりむつくりしたお常が持つて見ると、極端に言へば、物干竿の尖へおむつを引つ掛けて持つたやうである。それでその儘差さずにしまつて置いた。その傘は白地に細かい弁慶縞(べんけいじま)のやうな形(かた)が、藍で染め出してあつた。たしがらやの店にゐた女の蝙蝠傘がそれと同じだと云ふことを、お常ははつきり認めた。
酒屋の角を池の方へ曲がる時、女中が機嫌を取るやうに云つた。
「ねえ、奥さん。そんなに好い女ぢやありませんでせう。顔が平べつたくて、いやに背が高くて」
「そんな事を言ふものぢやないよ」と云つた切、相手にならずにずんずん歩く。女中は当がはづれて、不平らしい顔をして附いて行く。
お常は只胸の中が湧き返るやうで、何事をもはつきり考へることが出来ない。夫に対してどうしよう、なんと云はうと云ふ思案も無い。その癖早く夫に打(ぶ)つ附つかつて、なんとか云はなくてはゐられぬやうな気がする。そしてこんな事を思ふ。あの蝙蝠傘を買つて来て貰つた時、わたしはどんなにか喜んだだらう。これ迄こつちから頼まぬのに、物なんぞ買つて来てくれたことはない。どうして今度に限つて、みやげを買つて来てくれたのだらうと、不思議には思つたが、その不思議と云ふのも、どうして夫が急に親切になつたかと思つたのであつた。今考へれば、おほ方あの女が頼んで買つて貰つた時、ついでにわたしのを買つたのだらう。きつとさうに違ひない。さうとは知らずに、わたしは有難く思つたのだ。わたしには差されもしない、あんな傘を貰つて、有難く思つたのだ。傘ばかりでは無い。あの女の着物や髪の物も、内で買つて遣つたのかも知れない。丁度わたしの差してゐる、毛繻子張(けじゆすばり)の此の傘と、あの舶来の蝙蝠とが違ふやうに、わたしとあの女とは、身に着けてゐる程の物が皆違つてゐる。それにわたしばかりではない。子供に着物を着せたいと思つても、なかなか拵へてくれはしない。男の子には筒つぽが一枚あれば好いものだと云ふ。女の子だと、小さいうちに着物を拵へるのは損だと云ふ。何万と云ふ金を持つた人の女房や子供に、わたし達親子のやうななりをしてゐるものがあるだらうか。今から思つて見れば、あの女がゐたお蔭で、わたし達に構つてくれなかつたかも知れない。吉田さんの持物だつたなんと云ふのも、本当だかどうだか当にはならない。七曲りとかにゐた時分から、内で囲つて置いたかも知れない。いや。きつとさうに違ない。金廻りが好くなつて、自分の着物や持物に贅沢をするやうになつたのを、附合があるからだのなんのと云つたが、あの女がゐたからだらう。わたしをどこへでも連れて行かずに、あの女を連れて行つたに違ない。えゝ、悔やしい。こんな事を思つてゐると、突然女中が叫んだ。
「あら、奥さん。どこへ入らつしやるのです」
お常はびつくりして立ち留まつた。下を向いてずんずん歩いてゐて、我家の門(かど)を通り過ぎようとしたのである。
女中が無遠慮に笑つた。  
 

 

朝の食事の跡始末をして置いて、お常が買物に出掛ける時、末造は烟草を呑みつつ新聞を読んでゐたが、帰つて見れば、もう留守になつてゐた。若し内にゐたら、なんと云つて好いかは知らぬが、兎に角打つ附かつて、むしやぶり附いて、なんとでも云つて遣りたいやうな心持で帰つたお常は拍子抜けがした。午食(ひるしよく)の支度もしなくてはならない。もう間もなく入用になる子供の袷の縫ひ掛けてあるのも縫はなくてはならない。お常は器械的に、いつものやうに働いてゐるうちに、夫に打つ附からうと思つた鋭鋒は次第に挫けて来た。これまでもひどい勢で、石垣に頭を打ち附ける積りで、夫に衝突したことは、度々ある。併しいつも頭にあらがふ筈の石垣が、腕を避ける暖簾(のれん)であるのに驚かされる。そして夫が滑かな舌で、道理らしい事を言ふのを聞いてゐると、いつかその道理に服するのではなくて、只何がなしに萎(な)やされてしまふのである。けふはなんだか、その第一の襲撃も旨く出来さうには思はれなくなつて来る。お常は子供を相手に午食を食べる。喧嘩をする子供の裁判をする。袷を縫ふ。又夕食の支度をする。子供に行水を遣はせて、自分も使ふ。蚊遣をしながら夕食を食べる。食後に遊びに出た子供が遊び草臥(くたびれ)て帰る。女中が勝手から出て来て、極まつた所に床を取つたり、蚊帳を弔(つ)つたりする。手水(てうづ)をさせて子供を寝かす。夫の夕食の膳に蠅除を被せて、火鉢に鉄瓶を掛けて、次の間に置く。夫が夕食に帰らなかつた時は、いつでもかうして置くのである。
お常はこれ丈の事を器械的にしてしまつた。そして団扇(うちは)を一本持つて蚊屋の中へ這入つて据わつた。その時けさ途で逢つた、あの女の所に、今時分夫が往つてゐるだらうと云ふことが、今更のやうにはつきりと想像せられた。どうも体を落ち着けて、据わつてはゐられぬやうな気持がする。どうしよう、どうしようと思ふうちに、ふらふらと無縁坂の家の所まで往つて見たくなる。いつか藤村(ふぢむら)へ、子供の一番好きな田舎饅頭を買ひに往つた時、したて物の師匠の内の隣と云ふのは此家だなと思つて、見て通つたので、それらしい格子戸の家は分かつてゐる。つひあそこまで往つて見たい。火影(ほかげ)が外へ差してゐるか。話声が微かにでも聞えてゐるか。それ丈でも見て来たい。いやいや、そんな事は出来ない。外へ出るには女中部屋の傍の廊下を通らぬわけには行かない。この頃はあの廊下の所の障子がはづしてある。松はまだ起きて縫物をしてゐる筈である。今時分どこへ往くのだと聞かれた時、なんとも返事のしやうがない。何か買ひに出ると云つたら、松が自分で行かうと云ふだらう。して見れば、どんなに往つて見たくても、そつと往つて見ることは出来ない。ええ、どうしたら好からう。けさ内へ帰る時は、ちつとも早くあの人に逢ひたいと思つたが、あの時逢つたら、わたしはなんと云つただらう。逢つたら、わたしの事だから、取留のない事ばかり言つたに違いない。さうしたらあの人が又好い加減の事を言つて、わたしを騙してしまつただらう。あんな利口な人だから、どうせ喧嘩をしてはかなはない。いつそ黙つてゐようか。併し黙つてゐてどうなるだらうか。あんな女が附いてゐては、わたしなんぞはどうなつても構はぬ気になつてゐるだらう。どうしよう。どうしよう。
こんな事を繰り返し繰り返し思つては、何遍か思想が初の発足点に跡戻をする。そのうちに頭がぼんやりして来て、何がなんだか分からなくなる。併し兎に角烈しく夫に打つ附かつたつて駄目だから、よさうと云ふこと丈は極めることが出来た。
そこへ末造が這入つて来た。お常はわざとらしく取り上げた団扇の柄をいぢつて黙つてゐる。
「おや。又変な様子をしてゐるな。どうしたのだい」上さんがいつもする「お帰りなさい」と云ふ挨拶をしないでゐても、別に腹は立てない。機嫌が好いからである。
お常は黙つてゐる。衝突を避けようとは思つたが、夫の帰つたのを見ると、悔やしさが込み上げて来て、まるで反抗せずにはゐられさうになくなつた。
「又何か下だらない事を考へてゐるな。よせよせ」上さんの肩の所に手を掛けて、二三遍ゆさぶつて置いて、自分の床に据わつた。
「わたしどうしようかと思つてゐますの。帰らうと云つたつて、帰る内は無し、子供もあるし」
「なんだと。どうしようかと思つてゐる。どうもしなくたつて好いぢやないか。天下は太平無事だ」
「それはあなたは太平楽を言つてゐられますでせう。わたしさへどうにかなつてしまへば好いのだから」
「をかしいなあ。どうにかなるなんて。どうなるにも及ばない。その儘でゐれば好い」
「たんと茶にしてお出なさい。ゐてもゐなくつても好い人間だから、相手にはならないでせう。さうね。ゐてもゐなくつてもぢやない。ゐない方が好いに極まつてゐるのだつけ」
「いやにひねくれた物の言ひやうをするなあ。ゐない方が好いのだつて。大違だ。ゐなくては困る。子供の面倒を見て貰ふばかりでも、大役だからな」
「それは跡へ綺麗なおつ母さんが来て、面倒を見てくれますでせう。継子(まゝこ)になるのだけど」
「分からねえ。二親揃つて附いてゐるから、継子なんぞにはならない筈だ」
「さう。きつとさうなの。まあ、好い気な物ね。ではいつまでも今のやうにしてゐる積なのね」
「知れた事よ」
「さう。別品とおたふくとに、お揃の蝙蝠を差させて」
「おや。なんだい、それは。お茶番の趣向見たいな事を言つてゐるぢやないか」
「えゝ。どうせわたしなんぞは真面目な狂言には出られませんからね」
「狂言より話が少し真面目にして貰ひたいなあ。一体その蝙蝠てえのはなんだい」
「分かつてゐるでせう」
「分かるものか。まるつ切見当が附かねえ」
「そんなら言ひませう。あの、いつか横浜から蝙蝠買つて来たでせう」
「それがどうした」
「あれはわたしばかしに買つて下すつたのぢやなかつたのね」
「お前ばかしでなくて、誰に買つて遣るものかい」
「いいえ。さうぢやないでせう。あれは無縁坂の女のを買つた序に、ふいと思ひ附いて、わたしのをも買つて来たのでせう」さつきから蝙蝠の話はしてゐても、かう具体的に云ふと同時に、お常は悔やしさが込み上げて来るやうに感ずるのである。
「お手の筋」だとでも云ひたい程適中したので、末造はぎくりとしたが、反対に呆れたやうな顔をして見せた。「べらばうな話だなあ。何かい。その、お前に買つた傘と同じ傘を、吉田さんの女が持つてゐるとでも云ふわけかい」
「それは同じのを買つて遣つたのだから、同じのを持つてゐるに極まつてゐます」声が際立つて鋭くなつてゐる。
「なんの事だ。呆れたものだぜ。好い加減にしろい。なる程お前に横浜で買つて遣つた時は、サンプルで来たのだと云ふことだつたが、もう今頃は銀座辺でざらに売つてゐるに違ない。芝居なんぞに好くある奴で、これがほんとの無実の罪と云ふのだ。そして何かい。お前、あの吉田さんの女に、どこかで逢つたとでも云ふのかい。好く分かつたなあ」
「それは分かりますとも。ここいらで知らないものはないのです。別品だから」にくにくしい声である。これまでは末造がしらばつくれると、つひさうかと思つてしまつたが、今度は余り強烈な直覚をして、その出来事を目前に見たやうに感じてゐるので、末造の詞を、なる程さうでもあらうかとは、どうしても思はれなかつた。
末造はどうして逢つたか、話でもしたのかと、種々に考へてゐながら、此場合に根掘り葉掘り問ふのは不利だと思つて、わざと追窮しない。「別品だつて。あんなのが別品と云ふのかなあ。妙に顔の平べつたいやうな女だが」
お常は黙つてゐた。併し憎い女の顔に難癖を附けた夫の詞に幾分か感情を融和させられた。
此晩にも物を言ひ合つて興奮した跡の夫婦の中直りがあつた。併しお常の心には、刺されたとげの抜けないやうな痛みが残つてゐた。  
 

 

末造の家の空気は次第に沈んだ、重くろしい方へ傾いて来た。お常は折々只ぼうつとして空を見ていて、何事も手に附かぬことがある。そんな時には子供の世話も何も出来なくなつて、子供が何か欲しいと云へば、すぐにあらあらしく叱る。叱つて置いて気が附いて、子供にあやまつたり、独りで泣いたりする。女中が飯の菜(さい)を何にしようかと問ふても、返事をしなかつたり、「お前の好いやうにおし」と云つたりする。末造の子供は学校では、高利貸の子だと云つて、友達に擯斥(ひんせき)せられても、末造が綺麗好で、女房に世話をさせるので、目立つて清潔になつてゐたのが、今は五味(ごみ)だらけの頭をして、綻びた儘の着物を着て往来で遊んでゐることがあるやうになつた。下女はお上さんがあんなでは困ると、口小言を言ひながら、下手の乗つてゐる馬がなまけて道草を食ふやうに、物事を投遣にして、鼠入らず(=戸棚)の中で肴が腐つたり、野菜が干物(ひもの)になつたりする。
家の中の事を生帳面にしたがる末造には、こんな不始末を見てゐるのが苦痛でならない。併しかうなつた元は分かつてゐて、自分が悪いのだと思ふので、小言を言ふわけにも行かない。それに末造は平生小言を言ふ場合にも、笑談のやうに手軽に言つて、相手に反省させるのを得意としてゐるのに、その笑談らしい態度が却つて女房の機嫌を損ずるやうに見える。
末造は黙つて女房を観察し出した。そして意外な事を発見した。それはお常の変な素振が、亭主の内にゐる時殊に甚しくて、留守になると、却つて醒覚したやうになつて働いてゐることが多いと云ふ事である。子供や下女の話を聞いて、此関係を知つた時、末造は最初は驚いたが、怜悧な頭で色々に考へて見た。これはする事の気に食はぬ己の顔を見てゐる間、此頃の病気を出すのだ。己は女房にどうかして夫が冷澹だと思はせまい、疎(うと)まれるやうに感ぜさせまいとしてゐるのに、却つて己が内にゐる時の方が不機嫌だとすると、丁度薬を飲ませて病気を悪くするやうなものである。こんな詰まらぬ事はない。これからは一つ反対にして見ようと末造は思つた。
末造はいつもより早く内を出たり、いつもより遅く内へ帰つたりするやうになつた。併しその結果は非常に悪かつた。早く出た時は、女房が最初は只驚いて黙つて見てゐた。遅く帰つた時は、最初の度(たび)にいつもの拗ねて見せる消極的手段と違つて、もう我慢がし切れない、堪忍袋の緒が切れたと云ふ風で、「あなた今までどこにゐましたの」と詰め寄つて来た。そして爆発的に泣き出した。その次の度からは早く出ようとすると、「あなた今からどこへ行くのです」と云つて、無理に留めようとする。行先を言へば嘘だと云ふ。構はずに出ようとすると、是非聞きたい事があるから、ちよいとでも好い、待つて貰ひたいと云ふ。着物を掴(つか)まへて放さなかつたり、玄関に立ち塞がつたり、女中の見る目も厭はずに、出て行くのを妨げようとする。末造は気に食はぬ事をも笑談のやうにして荒立てずに済ます流儀なのに、むしやぶり附くのを振り放す、女房が倒れると云ふ不体裁を女中に見られた事もある。そんな時に末造がおとなしく留められて内にゐて、さあ、用事を聞かうと云ふと、「あなたわたしをどうしてくれる気なの」とか、「かうしてゐて、わたしの行末はどうなるでせう」とか、なかなか一朝一夕に解決の出来ぬ難問題を提出する。要するに末造が女房の病気に試みた、早出遅帰の対症療法は全く功を奏せなかつたのである。
末造は又考へて見た。女房は己の内にゐる時の方が機嫌が悪い。そこで内にゐまいとすれば、強ひて内にゐさせようとする。さうして見れば、求めて己を内にゐさせて、求めて自分の機嫌を悪くしてゐるのである。それに就いて思ひ出した事がある。和泉橋(いづみばし)時代に金を貸して遣つた学生に猪飼(いかひ)と云ふのがゐた。身なりに少しも構はないと云ふ風をして、素足に足駄を穿いて、左の肩を二三寸高くして歩いてゐた。そいつがどうしても金を返さず、書換もせずに逃げ廻つてゐたのに、或日青石横町(あおいしよこちやう)の角で出くはした。「どこへ行くのです」と云ふと、「ぢきそこの柔術の先生の所へ行くのだよ。例のはいづれそのうち」と云つて摩(す)り抜けて行つた。己はその儘別れて歩き出す真似をして、そつと跡へ戻つて、角に立つて見てゐた。猪飼は伊予紋(いよもん)に這入つた。己はそれを突き留めて置いて、広小路で用を達たして、暫く立つてから伊予紋へ押し掛けて行つた。猪飼奴(め)流石さすがに驚いたが、持前の豪傑気取で、芸者を二人呼んで馬鹿騒ぎをしてゐる席へ、己を無理に引き摩り上げて、「野暮を言はずにけふは一杯飲んでくれ」と云つて、己に酒を飲ませやがつた。あの時己は始て芸者と云ふものを座敷で見たが、その中に凄いやうな意気な女がゐた。おしゆんと云つたつけ。そいつが酔つ払つて猪飼の前に据わつて、何が癪に障つてゐたのだか、毒づき始めた。その時の詞を、己は黙つて聞いてゐたが、いまだに忘れない。「猪飼さん。あなたきつさうな風をしてゐても、まるでいく地のない方ね。あなたに言つて聞かせて置くのですが、女と云ふものは時々ぶんなぐつてくれる男にでなくつては惚れません。好く覚えて入らつしやい」と云つたつけ。芸者には限らない。女と云ふものはさうしたものかも知れない。此頃のお常奴は、己を傍に引き附けて置いてふくれ面をして抗(あらが)つてばかしゐようとしやがる。己にどうかして貰ひたいと云ふ様子が見えてゐる。打(う)たれたいのだ。さうだ。打たれたいのだ。それに相違ない。お常奴は己がこれまで食ふ物もろくに食はせないで、牛馬(うしうま)のやうに働かせてゐたものだから、獣のやうになつてゐて、女らしい性質が出ずにゐたのだ。それが今の家に引き越した頃から、女中を使つて、奥さんと云はれて、大ぶ人間らしい暮らしをして、少し世間並の女になり掛かつて来たのだ。そこでおしゆんの云つたやうにぶんなぐつて貰ひたくなつたのだ。
そこで己はどうだ。金の出来るまでは、人になんと云はれても構はない。乳臭い青二才にも、旦那と云つてお辞儀をする。踏まれても蹴られても、損さへしなければ好いと云ふ気になつて、世間を渡つて来た。毎日毎日どこへ往つても、誰の前でも、平蜘蛛のやうになつて這ひつくばつて通つた。世間の奴等に附き合つて見るに、目上に腰の低い奴は、目下にはつらく当つて、弱いものいぢめをする。酔つて女や子供をなぐる。己には目上も目下もない。己に金を儲けさせてくれるものの前には這ひつくばふ。さうでない奴は、誰でも彼でも一切ゐるもゐないも同じ事だ。てんで相手にならない。打ち遣つて置く。なぐるなんと云ふ余計な手数は掛けない。そんな無駄をする程なら、己は利足の勘定でもする。女房をもその扱ひにしてゐたのだ。
お常奴己になぐつて貰ひたくなつたのだ。当人には気の毒だが、こればかりはお生憎様だ。債務者の脂を柚子(ゆず)なら苦い汁が出るまで絞ることは己に出来る。誰をも打つことは出来ない。末造はこんな事を考へたのである。  
 

 

無縁坂の人通りが繁くなつた。九月になつて、大学の課程が始まるので、国々へ帰つてゐた学生が、一時に本郷界隈の下宿屋に戻つたのである。
朝晩はもう涼しくても、昼中はまだ暑い日がある。お玉の家では、越して来た時掛け替へた青簾の、色の褪める隙(ひま)のないのが、肱掛窓の竹格子の内側を、上から下迄透間(すきま)なく深く鎖してゐる。無聊に苦んでゐるお玉は、その窓の内で、暁斎(げうさい)や是真(ぜしん)の画のある団扇(うちは)を幾つも挿した団扇挿しの下の柱にもたれて、ぼんやり往来を眺めてゐる。三時が過ぎると、学生が三四人ずつの群をなして通る。その度毎に、隣の裁縫の師匠の家で、小雀の囀るやうな娘達の声が一際喧(やかま)しくなる。それに促されてお玉もどんな人が通るかと、覚えず気を附けて見ることがある。
その頃の学生は、七八分通りは後に云ふ壮士肌で、稀に紳士風なのがあると、それは卒業直前の人達であつた。色の白い、目鼻立の好い男は、兎角軽薄らしく、利いた風で、懐かしくない。さうでないのは、学問の出来る人が其中にあるのかは知れぬが、女の目には荒々しく見えて厭である。それでもお玉は毎日見るともなしに、窓の外を通る学生を見てゐる。そして或る日自分の胸に何物かが芽ざして来てゐるらしく感じて、はつと驚いた。意識の閾の下で胎(たい)を結んで、形が出来てから、突然躍り出したやうな想像の塊に驚かされたのである。
お玉は父親を幸福にしようと云ふ目的以外に、何の目的も有してゐなかつたので、無理に堅い父親を口説き落すやうにして人の妾になつた。そしてそれを堕落せられるだけ堕落するのだと見て、その利他的行為の中に一種の安心を求めてゐた。併しその檀那と頼んだ人が、人もあらうに高利貸であつたと知つた時は、余りの事に途方に暮れた。そこでどうも自分一人で胸のうやもやを排し去ることが出来なくなつて、その心持を父親に打ち明けて、一しよに苦み悶えて貰はうと思つた。さうは思つたものの、池の端の父親を尋ねてその平穏な生活を目(ま)のあたり見ては、どうも老人の手にしてゐる杯の裡に、一滴の毒を注ぐに忍びない。よしやせつない思をしても、その思を我胸一つに畳んで置かうと決心した。そして此決心と同時に、これまで人にたよることしか知らなかつたお玉が、始て独立したやうな心持になつた。
此時からお玉は自分で自分の言つたり為したりする事を窃(ひそ)かに観察するやうになつて、末造が来てもこれまでのやうに蟠(わだか)まりのない直情で接せずに、意識してもてなすやうになつた。その間別に本心があつて、体を離れて傍(わき)へ退(の)いて見てゐる。そしてその本心は末造をも、末造の自由になつてゐる自分をも嘲笑(あざわら)つてゐる。お玉はそれに始て気が附いた時ぞつとした。併し時が立つと共に、お玉は慣れて、自分の心はさうなくてはならぬもののやうに感じて来た。
それからお玉が末造を遇することは愈厚くなつて、お玉の心は愈末造に疎(うと)くなつた。そして末造に世話になつてゐるのが有難くもなく、自分が末造の為向けてくれる事を恩に被ないでも、それを末造に対して気の毒がるには及ばぬやうに感ずる。それと同時に又なんの躾をも受けてゐない芸なしの自分ではあるが、その自分が末造の持物になつて果てるのは惜しいやうに思ふ。とうとう往来を通る学生を見てゐて、あの中に若し頼もしい人がゐて、自分を今の境界から救つてくれるやうにはなるまいかとまで考へた。そしてさう云ふ想像に耽る自分を、忽然意識した時、はつと驚いたのである。
此時お玉と顔を識り合つたのが岡田であつた。お玉のためには岡田も只窓の外を通る学生の一人に過ぎない。併し際立つて立派な紅顔の美少年でありながら、己惚(うぬぼれ)らしい、気障(きざ)な態度がないのにお玉は気が附いて、何とはなしに懐かしい人柄だと思ひ初(そ)めた。それから毎日窓から外を見てゐるにも、又あの人が通りはしないかと待つやうになつた。
まだ名前も知らず、どこに住まつてゐる人か知らぬうちに、度々顔を見合はすので、お玉はいつか自然に親しい心持になつた。そしてふと自分の方から笑ひ掛けたが、それは気の弛んだ、抑制作用の麻痺した刹那の出来事で、おとなしい質のお玉にはこちらから恋をし掛けようと、はつきり意識して、故意にそんな事をする心はなかつた。
岡田が始て帽子を取つて会釈した時、お玉は胸を躍らせて、自分で自分の顔の赤くなるのを感じた。女は直覚が鋭い。お玉には岡田の帽子を取つたのが発作的行為で、故意にしたのでないことが明白に知れてゐた。そこで窓の格子を隔てた覚束ない不言の交際が爰(ここ)に新しいepoque(エポック)に入つたのを、此上もなく嬉しく思つて、幾度も繰り返しては、その時の岡田の様子を想像に画いて見るのであつた。
妾も檀那の家にゐると、世間並の保護の下に立つてゐるが、囲物には人の知らぬ苦労がある。お玉の内へも或る日印絆纒を裏返して着た三十前後の男が来て、下総のもので国へ帰るのだが、足を傷めて歩かれぬから、合力をしてくれと云つた。十銭銀貨を紙に包んで、梅に持たせて出すと紙を明けて見て、「十銭ですかい」と云つて、にやりと笑つて、「おほ方間違だらうから、聞いて見てくんねえ」と云いつつ投げ出した。
梅が真つ赤になつて、それを拾つて這入る跡から、男は無遠慮に上がつて来て、お玉の炭をついでゐる箱火鉢の向うに据わつた。なんだか色々な事を云ふが、取り留めた話ではない。監獄にゐた時どうだとか云ふことを幾度も云つて、息張(いば)るかと思へば、泣言を言つてゐる。酒の匂が胸の悪い程するのである。
お玉はこはくて泣き出したいのを我慢して、その頃通用してゐた骨牌(かるた)のやうな形の青い五十銭札を二枚、見てゐる前で出して紙に包んで、黙つて男の手に渡した。男は存外造作なく満足して、「半助(はんすけ=五十銭)でも二枚ありやあ結構だ、姉えさん、お前さんは分りの好い人だ、きつと出世しますよ」と云つて、覚束ない足を踏み締めて帰つた。
こんな出来事があつたので、お玉は心細くてならぬ所から、「隣を買ふ」と云ふことをも覚えて、変つた菜でも拵へた時は、一人暮らしでゐる右隣の裁縫のお師匠さんの所へ、梅に持たせて遣るやうになつた。
師匠はお貞(てい)と云つて、四十を越してゐるのに、まだどこやら若く見える所のある、色の白い女である。前田家の奧で、三十になるまで勤めて、夫を持つたが間もなく死なれてしまつたと云ふ。詞遣が上品で、お家流の手を好く書く。お玉が手習がしたいと云つた時、手本などを貸してくれた。
或る日の朝お貞が裏口から、前日にお玉の遣つた何やらの礼を言ひに来た。暫く立話をしてゐるうちに、お貞が「あなた岡田さんがお近づきですね」と云つた。
お玉はまだ岡田と云ふ名を知らない。それでゐて、お師匠さんの云ふのはあの学生さんの事だと云ふこと、かう聞かれるのは自分に辞儀をした所を見られたのだと云ふこと、此場合では厭でも知つた振をしなくてはならぬと云ふことなどが、稲妻のやうに心頭を掠めて過ぎた。そして遅疑した跡をお貞が認め得ぬ程速かに、「えゝ」と答へた。
「あんなお立派な方でゐて、大層品行が好くてお出なさるのですつてね」とお貞が云つた。
「あなた好く御存じね」と大膽にお玉が云つた。
「上条のお上さんも、大勢学生さん達が下宿してゐなすつても、あんな方は外にないと云つてゐますの」かう云つて置いて、お貞は帰つた。
お玉は自分が褒められたやうな気がした。そして「上条、岡田」と口の内で繰り返した。  
 

 

お玉の所へ末造の来る度数は、時の立つに連れて少くはならないで、却つて多くなつた。それはこれまでのやうに極まつて晩に来る外に、不規則な時間にちよいちよい来るやうになつたのである。なぜさうなつたかと云ふに、女房のお常がうるさく附き纏つて、どうかしてくれ、どうかしてくれと云ふので、ふいと逃げ出して無縁坂へ来るからである。いつも末造がそんな時、どうもすることはない、これまで通りにしてゐれば好いのだと云ふと、どうにかしなくてはゐられぬと云つて、里へ帰られぬ事や、子供の手放されぬ事や、自分の年を取つた事や、詰まり生活状態の変更に対するあらゆる障碍を並べて口説き立てる。それでも末造はどうもすることはない、どうもしなくても好いと繰り返す。そのうちにお常は次第に腹を立てて来て、手が附けられぬやうになる。そこで飛び出すことになつてゐる。何事も理窟つぽく、数学的に物を考へる末造が為めには、お常の言つてゐる事が不思議でならない。丁度一方が開け放されて、三方が壁で塞がれてゐる間の、その開け放された戸口を背にして立つてゐて、どちらへも往かれぬと云つて、悶え苦む人を見るやうな気がする。戸口は開け放されてゐるではないか。なぜ振り返つて見ないのだと云ふより外に、その人に対して言ふべき詞はない。お常の身の上はこれまでより楽にこそなつてゐるが、少しも圧制だの窘迫(きんぱく)だの掣肘(せいちう)だのを受けてはゐない。なるほど無縁坂と云ふものが新に出来たには相違ない。併し世間の男のやうに、自分はその為めに、女房に冷澹になつたとか、苛酷になつたとか云ふことはない。寧ろこれまでよりは親切に、寛大に取り扱つてゐる。戸口は依然として開け放されてゐるではないかと思ふのである。
無論末造のかう云ふ考には、身勝手が交つてゐる。なぜと云ふに、物質的に女房に為向(しむ)ける事がこれ迄と変らぬにしても、又自分が女房に対する詞や態度が変らぬにしても、お玉と云ふものがゐる今を、ゐなかつた昔と同じやうに思へと云ふのは、無理な要求である。お常がために目の内の刺(とげ)になつてゐるお玉ではないか。それを抜いて安心させて遣らうと云ふ意志が自分には無いではないか。固よりお常は物事に筋道を立てて考へるやうな女ではないから、そんな事をはつきり意識してはゐぬが、末造の謂ふ戸口が依然として開け放されてはゐない。お常が現在の安心や未来の希望を覗く戸口には、重くろしい、黒い影が落ちてゐるのである。
或る日末造は喧嘩をして、内をひよいと飛び出した。時刻は午前十時過ぎでもあつただらう。直ぐに無縁坂へ往かうかとも思つたが、生憎(あいにく)女中が小さい子を連れて、七軒町の通にゐたので、わざと切通(きりどうし)の方へ抜けて、どこへ往くと云ふ気もなしに、天神町から五軒町へと、忙がしさうに歩いて行つた。折々「糞」「畜生」などと云ふ、いかがはしい単語を口の内でつぶやいてゐるのである。昌平橋に掛かる時、向うから芸者が来た。どこかお玉に似てゐると思つて、傍(わき)を摩れ違ふのを見れば、顔は雀斑(そばかす)だらけであつた。矢つ張お玉の方が別品だなと思ふと同時に、心に愉快と満足とを覚えて、暫く足を橋の上に駐(と)めて、芸者の後影を見送つた。多分買物にでも出たのだらう、雀斑芸者は講武所の横町へ姿を隠してしまつた。
その頃まだ珍らしい見物(みもの)になつてゐた眼鏡橋の袂を、柳原の方へ向いてぶらぶら歩いて行く。川岸の柳の下に大きい傘を張つて、其下で十二三の娘にかつぽれを踊らせてゐる男がある。その周囲にはいつものやうに人が集まつて見てゐる。末造がちよいと足を駐めて踊を見てゐると、印半纒を着た男が打(ぶ)つ附かりさうにして、避けて行つた。目ざとく振り返つた末造と、その男は目を見合せて直ぐに背中を向けて通り過ぎた。「なんだ、目先の見えねえ」とつぶやきながら、末造は袖に入れてゐた手で懐中を捜つた。無論何も取られてはゐなかつた。この攫徒(すり)は実際目先が見えぬのであつた。なぜと云ふに、末造は夫婦喧嘩をした日には、神経が緊張してゐて、不断気の附かぬ程の事にも気が附く。鋭敏な感覚が一層鋭敏になつてゐる。攫徒の方ですらうと云ふ意志が生ずるに先だつて、末造はそれを感ずる位である。こんな時には自己を抑制することの出来るのを誇つてゐる末造も、多少その抑制力が弛んでゐる。併し大抵の人にはそれが分からない。若し非常に感覚の鋭敏な人がゐて、細かに末造を観察したら、彼が常より稍(やや)能弁になつてゐるのに気が附くだらう。そして彼の人の世話を焼いたり、人に親切らしい事を言つたりする言語挙動の間に、どこか慌ただしいやうな、稍不自然な処のあるのを認めるだらう。
もう内を飛び出してから余程時間が立つたやうに思つて、川岸を跡へ引き返しつつ懐時計を出して見た。まだやつと十一時である。内を出てから三十分も立つてはゐぬのである。
末造は又どこを当ともなしに、淡路町から神保町へ、何か急な用事でもありさうな様子をして歩いて行く。今川小路の少し手前に御茶漬と云ふ看板を出した家が其頃あつた。二十銭ばかりでお膳を据ゑて、香の物に茶まで出す。末造は此家を知つてゐるので、午を食べに寄らうかと思つたが、それにはまだ少し早かつた。そこを通り過ぎると、右へ廻つて俎橋(まないたばし)の手前の広い町に出る。此町は今のやうに駿河台の下まで広々と附いてゐたのではない。殆ど袋町のやうに、今末造の来た方角へ曲がる処で終つて、それから医学生が虫様突起と名づけた狭い横町が、あの山岡鉄舟の字を柱に掘り附けた社の前を通つてゐた。これは袋町めいた、俎橋の手前の広い町を盲腸に譬へたものである。
末造は俎橋を渡つた。右側に飼鳥を売る店があつて、いろいろな鳥の賑やかな囀りが聞える。末造は今でも残つてゐる此店の前に立ち留まつて、檐(のき)に高く弔つてある鸚鵡や秦吉了(いんこ)の籠、下に置き並べてある白鳩や朝鮮鳩の籠抔を眺めて、それから奥の方に幾段にも積み畳ねてある小鳥の籠に目を移した。啼くにも飛び廻るにも、この小さい連中が最も声高で最も活発であるが、中にも目立つて籠の数が多く、賑やかなのは、明るい黄いろな外国種のカナリア共であつた。併し猶好く見てゐるうちに、沈んだ強い色で小さい体を彩られてゐる紅雀が末造の目を引いた。末造はふいとあれを買つて持つて往つて、お玉に飼はせて置いたら、さぞふさはしからうと感じた。そこで余り売りたがりもしなささうな様子をしてゐる爺いさんに値を問ふて、一つがひの紅雀を買つた。代を払つてしまつた時、爺いさんはどうして持つて行くかと問ふた。籠に入れて売るのではないかと云へば、さうでないと云ふ。やうやう籠を一つ頼むやうにして売つて貰つて、それに紅雀を入れさせた。幾羽もゐる籠へ、萎びた手をあらあらしく差し込んで、二羽攫み出して、空籠に移し入れるのである。それで雌雄が分かるかと云へば、しぶしぶ「へえ」と返事をした。
末造は紅雀の籠を提げて俎橋の方へ引き返した。こん度は歩き方が緩やかになつて、折々籠を持ち上げては、中の鳥を覗いて見た。喧嘩をして内を飛び出した気分が、拭ひ去つたやうに消えてしまつて、不断此男のどこかに潜んでゐる、優しい心が表面に浮び出てゐる。籠の中の鳥は、籠の揺れるのを怯(おそ)れてか、止まり木をしつかり攫んで、羽をすぼめるやうにして、身動きもしない。末造は覗いて見る度に、早く無縁坂の家に持つて往つて、窓の所に弔るして遣りたいと思つた。
今川小路を通る時、末造は茶漬屋に寄つて午食(ひるしよく)をした。女中の据ゑた黒塗の膳の向うに、紅雀の籠を置いて、目に可哀(かはい)らしい小鳥を見、心に可哀らしいお玉の事を思ひつつ、末造は余り御馳走でもない茶漬屋の飯を旨さうに食つた。  
 

 

末造がお玉に買つて遣つた紅雀は、図らずもお玉と岡田とが詞を交す媒(なかだち)となつた。
此話をし掛けたので、僕はあの年の気候の事を思ひ出した。あの頃は亡くなつた父が秋草を北千住の家の裏庭に作つてゐたので、土曜日に上条から父の所へ帰つて見ると、もう二百十日が近いからと云つて、篠竹を沢山買つて来て、女郎花(おみなへし)やら藤袴やらに一本一本それを立て副(そ)へて縛つてゐた。しかし二百十日は無事に過ぎてしまつた。それから二百二十日があぶないと云つてゐたが、それも無事に過ぎた。併しその頃から毎日毎日雲のたたずまひが不穏になつて、暴模様(あれもやう)が見える。折々又夏に戻つたかと思ふやうな蒸暑いことがある。巽(たつみ)から吹く風が強くなりさうになつては又歇(や)む。父は二百十日が「なしくづし」になつたのだと云つてゐた。
僕は或る日曜日の夕方に、北千住から上条へ帰つて来た。書生は皆外へ出てゐて、下宿屋はひつそりしてゐた。自分の部屋へ這入つて、暫くぼんやりしてゐると、今まで誰もゐないと思つてゐた隣の部屋でマッチを磨る音がする。僕は寂しく思つてゐた時だから、直ぐに声を掛けた。
「岡田君。ゐたのか」
「うん」返事だか、なんだか分からぬやうな声である。僕と岡田とは随分心安くなつて、他人行儀はしなくなつてゐたが、それにしても此時の返事はいつもとは違つてゐた。
僕は腹の中で思つた。こつちもぼんやりしてゐたが、岡田も矢つ張ぼんやりしてゐたやうだ。何か考へ込んでゐたのではあるまいか。かう思ふと同時に、岡田がどんな顔をしてゐるか見たいやうな気がした。そこで重ねて声を掛けて見た。「君、邪魔をしに往つても好いかい」
「好いどころぢやない。実はさつき帰つてからぼんやりしてゐた所へ、君が隣へ帰つて来てがたがた云はせたので、奮(ふる)つて明りでも附けようと云ふ気になつたのだ」こん度は声がはつきりしてゐる。
僕は廊下に出て、岡田の部屋の障子を開けた。岡田は丁度鉄門の真向ひになつてゐる窓を開けて、机に肘を衝いて、暗い外の方を見てゐる。竪(たて)に鉄の棒を打ち附けた窓で、その外には犬走りに植ゑた側柏(ひのき)が二三本埃を浴びて立つてゐるのである。
岡田は僕の方へ振り向いて云つた。「けふも又妙にむしむしするぢやないか。僕の所には蚊が二三疋ゐてうるさくてしやうがない」
僕は岡田の机の横の方に胡坐あぐらを掻いた。「そうだねえ。僕の親父は二百十日のなし崩しと称してゐる」
「ふん。二百十日のなし崩しとは面白いねえ。なる程さうかも知れないよ。僕は空が曇つたり晴れたりしてゐるもんだから、出ようかどうしようかと思つて、とうとう午前の間中寝転んで、君に借りた金瓶梅を読んでゐたのだ。それから頭がぼうつとして来たので、午飯(ひるめし)を食つてからぶらぶら出掛けると、妙な事に出逢つてねえ」岡田は僕の顔を見ずに、窓の方へ向いてかう云つた。
「どんな事だい」
「蛇退治を遣つたのだ」岡田は僕の方へ顔を向けた。
「美人をでも助けたのぢやないか」
「いや。助けたのは鳥だがね、美人にも関係してゐるのだよ」
「それは面白い。話して聞かせ給へ」  
 

 

岡田はこんな話をした。
雲が慌ただしく飛んで、物狂ほしい風が一吹二吹衝突的に起つて、街(ちまた)の塵を捲き上げては又息(や)む午過ぎに、半日読んだ支那小説に頭を痛めた岡田は、どこへ往くと云ふ当てもなしに、上条の家を出て、習慣に任せて無縁坂の方へ曲がつた。頭はぼんやりしてゐた。一体支那小説はどれでもさうだが、中にも金瓶梅は平穏な叙事が十枚か二十枚かあると思ふと、約束したやうに怪(け)しからん事が書いてある。
「あんな本を読んだ跡だからねえ、僕はさぞ馬鹿げた顔をして歩いてゐただらうと思ふよ」と、岡田は云つた。
暫くして右側が岩崎の屋敷の石垣になつて、道が爪先下りになつた頃、左側に人立ちのしてゐるのに気が附ゐた。それが丁度いつも自分の殊更に見て通る家の前であつたが、その事丈は岡田が話す時打ち明けずにしまつた。集まつてゐるのは女ばかりで、十人ばかりもゐただらう。大半は小娘だから、小鳥の囀るやうに何やら言つて噪(さわ)いでゐる。岡田は何事も弁へず、又それを知らうと云ふ好奇心を起す暇もなく、今まで道の真ん中を歩いてゐた足を二三歩その方へ向けた。
大勢の女の目が只一つの物に集注してゐるので、岡田はその視線を辿つてこの騒ぎの元を見附けた。それはそこの格子窓の上に吊るしてある鳥籠である。女共の騒ぐのも無理は無い。岡田もその籠の中の様子を見て驚いた。鳥はばたばた羽ばたきをして、啼きながら狭い籠の中を飛び廻つてゐる。何物が鳥に不安を与へてゐるのかと思つて好く見れば、大きい青大将が首を籠の中に入れてゐるのである。頭を楔(くさび)のやうに細い竹と竹との間に押し込んだものと見えて、籠は一寸見た所では破れてはゐない。蛇は自分の体の大さの入口を開けて首を入れたのである。岡田は好く見ようと思つて二三歩進んだ。小娘共の肩を並べてゐる背後(うしろ)に立つやうになつたのである。小娘共は言ひ合せたやうに岡田を救助者として迎へる気になつたらしく、道を開いて岡田を前へ出した。岡田は此時又新しい事実を発見した。それは鳥が一羽ではないと云ふ事である。羽ばたきをして逃げ廻つてゐる鳥の外に、同じ羽色の鳥が今一羽もう蛇に銜(くは)へられてゐる。片方の羽を全部を口に含まれてゐるに過ぎないのに、恐怖のためか死んだやうになつて、一方の羽をぐたりと垂れて、体が綿のやうになつてゐる。
此時家の主人らしい稍(やゝ)年上の女が、慌ただしげに、しかも遠慮らしく岡田に物を言つた。蛇をどうかしてくれるわけには行くまいかと云ふのである。「お隣へお為事(しごと)のお稽古に来て入らつしやる皆さんが、すぐに大勢で入らつしやつて下すつたのですが、どうも女の手ではどうする事も出来ませんでございます」と女は言ひ足した。小娘の中の一人が、「この方が鳥の騒ぐのを聞いて、障子を開けて見て、蛇を見附けなすつた時、きやつと声を立てなすつたもんですから、わたし共はお為事を置いて、皆出て来ましたが、本当にどうもいたすことが出来ませんの、お師匠さんはお留守ですが、入らつしやつたつてお婆あさんの方ですから駄目ですわ」と云つた。師匠は日曜日に休まずに一六(いちろく)に休むので、弟子が集まつてゐたのである。
此話をする時岡田は、「その主人の女と云ふのがなかなか別品なのだよ」と云つた。併し前から顔を見知つてゐて、通る度に挨拶をする女だとは云はなかつた。
岡田は返辞をするより先きに、籠の下へ近寄つて蛇の様子を見た。籠は隣の裁縫の師匠の家の方に寄せて、窓に吊るしてあつた、蛇は此家と隣家との間から、庇の下をつたつて籠にねらひ寄つて首を挿し込んだのである。蛇の体は縄を掛けたやうに、庇の腕木を横切つてゐて、尾はまだ隅の柱のさきに隠れてゐる。随分長い蛇である。いづれ草木の茂つた加賀屋敷のどこかに住んでゐたのが此頃の気圧の変調を感じてさまよひ出て、途中で此籠の鳥を見附けたものだらう。岡田もどうしようかとちよいと迷つた。女達がどうもすることの出来なかつたのは無理も無いのである。
「何か刃物はありませんか」と岡田は云つた。主人の女が一人の小娘に、「あの台所にある出刃を持つてお出で」と言ひ附けた。その娘は女中だつたと見えて、稽古に隣へ来てゐると云ふ外の娘達と同じやうな湯帷子(ゆかた)を着た上に紫のメリンスでくけた襷(たすき)を掛けてゐた。肴を切る庖丁で蛇を切られては困るとでも思つたか、娘は抗議をするやうな目附きをして主人の顔を見た。「好いよ、お前の使ふのは新らしく買つて遣るから」と主人が云つた。娘は合点が行つたと見えて、駆けて内へ這入つて出刃庖刀を取つて来た。
岡田は待ち兼ねたやうにそれを受け取つて、穿いてゐた下駄を脱ぎ棄てて、肱掛窓へ片足を掛けた。体操は彼の長技である。左の手はもう庇の腕木を握つてゐる。岡田は庖刀が新しくはあつても余り鋭利でないことを知つてゐたので、初から一撃に切らうとはしない。庖刀で蛇の体を腕木に押し附けるやうにして、ぐりぐりと刃を二三度前後に動かした。蛇の鱗の切れる時、硝子(がらす)を砕くやうな手ごたへがした。此時蛇はもう羽を銜(くは)へてゐた鳥の頭を頬のうちに手繰り込んでゐたが、体に重傷を負つて、波の起伏のやうな運動をしながら、獲物を口から吐かうともせず、首を籠から抜かうともしなかつた。岡田は手を弛めずに庖刀を五六度も前後に動かしたかと思ふ時、鋭くもない刃がとうとう蛇を俎上(そじやう)の肉の如くに両断した。絶えず体に波を打たせてゐた蛇の下半身が、先づばたりと麦門冬(りゆうのひげ)の植ゑてある雨垂落(あまだれおち)の上に落ちた。続いて上半身が這つてゐた窓の鴨居の上をはづれて、首を籠に挿し込んだ儘ぶらりと下がつた。鳥を半分銜へてふくらんだ頭が、弓なりに撓(た)められて折れずにゐた籠の竹に支(つか)へて抜けずにゐるので、上半身の重みが籠に加はつて、籠は四十五度に傾いた。その中では生き残つた一羽の鳥が、不思議に精力を消耗し盡さずに、また羽ばたきをして飛び廻つてゐるのである。
岡田は腕木に搦(から)んでゐた手を放して飛び降りた。女達は此時まで一同息を屏(つ)めて見てゐたが、二三人はここまで見て裁縫の師匠の家に這入つた。「あの籠を卸(おろ)して蛇の首を取らなくては」と云つて、岡田は女主人の顔を見た。しかし蛇の半身がぶらりと下がつて、切口から黒ずんだ血がぽたぽた窓板の上に垂れてゐるので、主人も女中も内に這入つて吊るしてある麻糸をはづす勇気がなかつた。
その時「籠を卸して上げませうか」と、とんきやうな声で云つたものがある。集まつてゐる一同の目はその声の方に向いた。声の主は酒屋の小僧であつた。岡田が蛇退治をしてゐる間、寂しい日曜日の午後に無縁坂を通るものはなかつたが、此小僧がひとり通り掛つて、括縄(くぐなは)で縛つた徳利と通帳(かよひちやう)とをぶら下げた儘、蛇退治を見物してゐた。そのうち蛇の下半身が麦門冬(りゆうのひげ)の上に落ちたので小僧は徳利も帳面も棄てて置いて、すぐに小石を拾つて蛇の創口を叩いて、叩く度にまだ死に切らない下半身が波を打つやうに動くのを眺めてゐたのである。
「そんなら小僧さん済みませんが」と女主人が頼んだ。小さい女中が格子戸から小僧を連れて内へ這入つた。間もなく窓に現れた小僧は万年青(おもと)の鉢の置いてある窓板の上に登つて、一しよう懸命背伸びをして籠を吊るしてある麻糸を釘からはづした。そして女中が受け取つてくれぬので、小僧は籠を持つた儘窓板から降りて、戸口に廻つて外へ出た。
小僧は一しよに附いて来た女中に、「籠はわたしが持つてゐるから、あの血を掃除しなくちや行けませんぜ、畳にも落ちましたからね」と、高慢らしく忠告した。「本当に早く血をふいておしまひよ」と、女主人が云つた。女中は格子戸の中へ引き返した。
岡田は小僧の持つて出た籠をのぞいて見た。一羽の鳥は止まり木に止まつて、ぶるぶる顫えてゐる。蛇に銜へられた鳥の体は半分以上口の中に這入つてゐる。蛇は体を截(き)られつつも、最期の瞬間まで鳥を呑まうとしてゐたのである。
小僧は岡田の顔を見て、「蛇を取りませうか」と云つた。「うん、取るのは好いが、首を籠の真ん中の所まで持ち上げて抜くやうにしないと、まだ折れてゐない竹が折れるよ」と、岡田は笑ひながら云つた。小僧は旨く首を抜き出して、指尖で鳥の尻を引つ張つて見て、「死んでも放しやあがらない」と云つた。
此時まで残つてゐた裁縫の弟子達は、もう見る物が無いと思つたか、揃つて隣の家の格子戸の内に這入つた。
「さあ僕もそろそろお暇をしませう」と云つて、岡田があたりを見廻した。
女主人はうつとりと何か物を考へてゐるらしく見えてゐたが、此詞を聞いて、岡田の方を見た。そして何か言ひさうにして躊躇して、目を脇へそらした。それと同時に女は岡田の手に少し血の附いてゐるのを見附けた。「あら、あなたお手がよごれてゐますわ」と云つて、女中を呼んで上り口へ手水盥(てうずだらひ)を持つて来させた。岡田は此話をする時女の態度を細かには言はなかつたが、「ほんの少しばかり小指の所に血の附いてゐたのを、よく女が見附けたと、僕は思つたよ」と云つた。
岡田が手を洗つてゐる最中に、それまで蛇の吭(のど)から鳥の死骸を引き出さうとしてゐた小僧が、「やあ大変」と叫んだ。
新しい手拭の畳んだのを持つて、岡田の側に立つてゐる女主人が開けた儘にしてある格子戸に片手を掛けて外を覗いて、「小僧さん、何」と云つた。
小僧は手をひろげて鳥籠を押さへてゐながら、「も少しで蛇が首を入れた穴から、生きてゐる分の鳥が逃げる所でした」と云つた。
岡田は手を洗つてしまつて、女のわたした手拭でふきつつ、「その手を放さずにゐるのだぞ」と小僧に言つた。そして何かしつかりした糸のやうな物があるなら貰ひたい、鳥が籠の穴から出ないやうにするのだと云つた。
女はちよつと考へて、「あの元結ではいかがでございませう」と云つた。
「結構です」と岡田が云つた。
女主人は女中に言ひ附けて、鏡台の抽斗(ひきだし)から元結を出して来させた。岡田はそれを受け取つて、鳥籠の竹の折れた跡に縦横に結び附けた。
「先づ僕の為事(しごと)は此位でおしまひでせうね」と云つて、岡田は戸口を出た。
女主人は「どうもまことに」と、さも詞に窮したやうに云つて、跡から附いて出た。
岡田は小僧に声を掛けた。「小僧さん。御苦労序に其蛇を棄ててくれないか」
「ええ。坂下のどぶの深い処へ棄てませう。どこかに縄は無いかなあ」かう云つて小僧はあたりを見廻した。
「縄はあるから上げますよ。それにちよつと待つてゐて下さいな」女主人は女中に何か言ひ附けてゐる。
その隙(ひま)に岡田は「さやうなら」と云つて、跡を見ずに坂を降りた。
ここまで話してしまつた岡田は僕の顔を見て、「ねえ、君、美人の為めとは云ひながら、僕は随分働いただらう」と云つた。
「うん。女のために蛇を殺すと云ふのは、神話めいてゐて面白いが、どうもその話はそれ切りでは済みさうにないね」僕は正直に心に思ふ通りを言つた。
「馬鹿を言ひ給へ、未完の物なら、発表しはしないよ」岡田がかう云つたのも、矯飾して言つたわけではなかつたらしい。併し仮にそれ切りで済む物として、幾らか残惜しく思ふ位の事はあつたのだらう。
僕は岡田の話を聞いて、単に神話らしいと云つたが、実は今一つすぐに胸に浮んだ事のあるのを隠してゐた。それは金瓶梅を読みさして出た岡田が、金蓮(きんれん=金瓶梅の女主人公)に逢つたのではないかと思つたのである。
大学の小使上がりで今金貸しをしてゐる末造の名は、学生中に知らぬものが無い。金を借らぬまでも、名丈は知つてゐる。併し無縁坂の女が末造の妾だと云ふことは、知らぬ人もあつた。岡田はその一人(いちにん)である。僕は其頃まだ女の種性(すじやう)を好くも知らなかつたが、それを裁縫の師匠の隣に囲つて置くのが末造だと云ふこと丈は知つてゐた。僕の智識には岡田に比べて一日の長があつた。  
 

 

岡田に蛇を殺して貰つた日の事である。お玉はこれまで目で会釈をした事しか無い岡田と親しく話をした為めに、自分の心持が、我ながら驚く程急劇に変化して来たのを感じた。女には欲しいとは思ひつつも買はうとまでは思はぬ品物がある。さう云ふ時計だとか指環だとかが、硝子窓の裏に飾つてある店を、女はそこを通る度に覗いて行く。わざわざその店の前に往かうとまではしない。何か外の用事でそこの前を通り過ぎることになると、きつと覗いて見るのである。欲しいと云ふ望みと、それを買ふことは所詮企て及ばぬと云ふ諦めとが一つになつて、或る痛切で無い、微かな、甘い哀傷的情緒が生じてゐる。女はそれを味ふことを楽みにしてゐる。それとは違つて、女が買はうと思ふ品物は其女に強烈な苦痛を感ぜさせる。女は落ち着いてゐられぬ程その品物に悩まされる。縦(たと)ひ幾日か待てば容易(たやす)く手に入ると知つても、それを待つ余裕が無い。女は暑さをも寒さをも夜闇(よやみ)をも雨雪(うせつ)をも厭はずに、衝動的に思ひ立つて、それを買ひに往くことがある。万引なんと云ふことをする女も、別に変つた木で刻まれたものでは無い。只この欲しい物と買ひたい物との境界がぼやけてしまつた女たるに過ぎない。岡田はお玉のためには、これまで只欲しい物であつたが、今や忽ち変じて買ひたい物になつたのである。
お玉は小鳥を助けて貰つたのを縁に、どうにかして岡田に近寄りたいと思つた。最初に考へたのは、何か品物を梅に持たせて礼に遣らうかと云ふ事である。さて品物は何にしようか、藤村の田舎饅頭でも買つて遣らうか。それでは余り智慧が無さ過ぎる。世間並の事、誰でもしさうな事になつてしまふ。そんならと云つて、小切(こぎれ)で肘衝(ひぢつき)でも縫つて上げたら、岡田さんにはおぼこ娘の恋のやうで可笑(をか)しいと思はれよう。どうも好い思附きが無い。さて品物は何か工夫が附いたとして、それをつひ梅に持たせて遣つたものだらうか。名刺はこなひだ仲町で拵へさせたのがあるが、それを添へた丈では、物足らない。ちよつと一筆(ひとふで)書いて遣りたい。さあ困つた。学校は尋常科が済むと下がつてしまつて、それからは手習をする暇も無かつたので、自分には満足な手紙は書けない。無論あの御殿奉公をしたと云ふお隣のお師匠さんに頼めばわけは無い。併しそれは厭だ。手紙には何も人に言はれぬやうな事を書く積りではないが、兎に角岡田さんに手紙を遣ると云ふことを、誰にも知らせたくない。まあ、どうしたものだらう。
丁度同じ道を往つたり来たりするやうに、お玉はこれ丈の事を順に考へ逆に考へ、お化粧や台所の指図に一旦まぎれて忘れては又思ひ出してゐた。そのうち末造が来た。お玉は酌をしつつも思ひ出して、「何をそんなに考へ込んでゐるのだい」と咎められた。「あら、わたくしなんにも考へてなんぞゐはしませんわ」と、意味の無い笑顔をして見せて、私(ひそ)かに胸をどき附かせた。併し此頃は大ぶ修行が詰んで来たので、何物かを隠してゐると云ふことを、鋭い末造の目にも、容易に見抜かれるやうな事は無かつた。末造が帰つた跡で見た夢に、お玉はとうとう菓子折を買つて来て、急いで梅に持たせて出した。その跡で名刺も添へず手紙も附けずに遣つたのに気が附いて、はつと思ふと、夢が醒めた。
翌日になつた。此日は岡田が散歩に出なかつたか、それともこつちで見はづしたか、お玉は恋しい顔を見ることが出来なかつた。その次の日は岡田が又いつものやうに窓の外を通つた。窓の方をちよいと見て通り過ぎたが、内が暗いのでお玉と顔を見合せることは出来なかつた。その又次の日は、いつも岡田の通る時刻になると、お玉は草箒を持ち出して、格別五味も無い格子戸の内を丁寧に掃除して、自分の穿いてゐる雪踏(せつた)の外、只一足しか出して無い駒下駄を、右に置いたり、左に置いたりしてゐた。「あら、わたくしが掃きますわ」と云つて、台所から出た梅を、「好いよ、お前は物を見てゐておくれ、わたし用が無いからしてゐるのだよ」と云つて追ひ返した。そこへ丁度岡田が通り掛かつて、帽を脱いで会釈をした。お玉は箒を持つた儘顔を真つ赤にして棒立に立つてゐたが、何も言ふことが出来ずに、岡田を行き過ぎさせてしまつた。お玉は手を焼いた火箸をはふり出すやうに箒を棄てて、雪踏を脱いで急いで上がつた。
お玉は箱火鉢の傍へすわつて、火をいぢりながら思つた。まあ、私はなんと云ふ馬鹿だらう。けふのやうな涼しい日には、もう窓を開けて覗いてゐては可笑しいと思つて、余計な掃除の真似なんぞをして、切角待つてゐた癖に、いざと云ふ場になると、なんにも言ふことが出来なかつた。檀那の前では間の悪いやうな風はしてゐても、言はうとさへ思へば、どんな事でも言はれぬことは無い。それに岡田さんにはなぜ声が掛けられなかつたのだらう。あんなにお世話になつたのだから、お礼を言ふのは当前だ。それがけふ言はれぬやうでは、あの方に物を言ふ折は無くなつてしまふかも知れない。梅を使にして何か持たせて上げようと思つても、それは出来ず、お目に掛かつても、物を言ふことが出来なくては、どうにも為様(しやう)がなくなつてしまふ。一体わたしはあの時なぜ声が出なかつたのだらう。さう、さう。あの時わたしは慥かに物を言はうとした。唯何と云つて好いか分からなかつたのだ。「岡田さん」と馴々しく呼び掛けることは出来ない。そんならと云つて、顔を見合せて「もしもし」とも云ひにくい。ほんにかう思つて見ると、あの時まごまごしたのも無理はない。かうしてゆつくり考へて見てさへ、なんと云つて好いか分からないのだもの。いやいや。こんな事を思ふのは矢つ張わたしが馬鹿なのだ。声なんぞを掛けるには及ばない。すぐに外へ駆け出せば好かつたのだ。さうしたら岡田さんが足を駐(と)めたに違ひない。足さへ駐めて貰へば、「あの、こなひだは飛んだ事でお世話様になりまして」とでも、なんとでも云ふことが出来たのだ。お玉はこんな事を考へて火をいぢつてゐるうちに、鉄瓶の蓋が跳り出したので、湯気を洩らすやうに蓋を切つた。
それからはお玉は自分で物を言はうか、使を遣らうかと二様に工夫を凝らしはじめた。そのうち夕方は次第に涼しくなつて、窓の障子は開けてゐにくい。庭の掃除はこれまで朝一度に極まつてゐたのに、こなひだの事があつてからは、梅が朝晩に掃除をするので、これも手が出しにくい。お玉は湯に往く時刻を遅くして、途中で岡田に逢はうとしたが、坂下の湯屋までの道は余り近いので、なかなか逢ふことが出来なかつた。又使を遣ると云ふことも、日数が立てば立つ程出来にくくなつた。
そこでお玉は一時こんな事を思つて、無理に諦めを附けてゐた。わたしはあれ切り岡田さんにお礼を言はないでゐる。言はなくては済まぬお礼が言はずにあつて見れば、わたしは岡田さんのしてくれた事を恩に被(き)てゐる。このわたしが恩に被てゐると云ふことは岡田さんには分かつてゐる筈である。かうなつてゐるのが、却つて下手にお礼をしてしまつたより好いかも知れぬと思つたのである。
併しお玉はその恩に被てゐると云ふことを端緒にして、一刻も早く岡田に近づいて見たい。唯その方法手段が得られぬので、日々にちにち人知れず腐心してゐる。
お玉は気の勝つた女で、末造に囲はれることになつてから、短い月日の間に、周囲から陽に貶(おとし)められ、陰に羨まれる妾と云ふものの苦しさを味つて、そのお蔭で一種の世間を馬鹿にしたやうな気象を養成してはゐるが、根が善人で、まだ人に揉まれてゐぬので、下宿屋に住まつてゐる書生の岡田に近づくのをひどくおつくうに思つてゐたのである。
そのうち秋日和(あきびより)に窓を開けてゐて、又岡田と会釈を交す日があつても、切角親しく物を言つて、手拭を手渡ししたのが、少しも接近の階段を形づくらずにしまつて、それ程の事のあつた後が、何事もなかつた前と、なんの異なる所もなくなつてゐた。お玉はそれをひどくじれつたく思つた。
末造が来てゐても、箱火鉢を中に置いて、向き合つて話をしてゐる間に、これが岡田さんだつたらと思ふ。最初はさう思ふ度に、自分で自分の横着を責めてゐたが、次第に平気で岡田の事ばかり思ひつつも、話の調子を合せてゐるやうになつた。それから末造の自由になつてゐて、目を瞑(つぶ)つて岡田の事を思ふやうになつた。折々は夢の中で岡田と一しよになる。煩はしい順序も運びもなく一しよになる。そして「ああ、嬉しい」と思ふとたんに、相手が岡田ではなくて末造になつてゐる。はつと驚いて目を醒まして、それから神経が興奮して寐られぬので、じれて泣くこともある。
いつの間にか十一月になつた。小春日和が続いて、窓を開けて置いても目立たぬので、お玉は又岡田の顔を毎日のやうに見ることが出来た。これまで薄ら寒い雨の日などが続いて、二三日も岡田の顔の見られぬことがあると、お玉は塞いでゐた。それでも飽くまで素直な性(たち)なので、梅に無理を言つて迷惑させるやうな事はない。ましてや末造に不機嫌な顔を見せなんぞはしない。唯そんな時は箱火鉢の縁に肘を衝いて、ぼんやりして黙つてゐるので、梅が「どこかお悪いのですか」と云つたことがある丈である。それが岡田の顔が此頃続いて見られるので、珍らしく浮き浮きして来て、或る朝いつもよりも気軽に内を出て、池の端の父親の所へ遊びに往つた。
お玉は父親を一週間に一度宛(づゝ)位はきつと尋ねることにしてゐるが、まだ一度も一時間以上腰を落ち着けてゐたことは無い。それは父親が許さぬからである。父親は往く度に優しくしてくれる。何か旨い物でもあると、それを出して茶を飲ませる。併しそれ丈の事をしてしまふと、すぐに帰れと云ふ。これは老人の気の短い為めばかりでは無い。奉公に出したからには、勝手に自分の所に引き留めて置いては済まぬと思ふのである。お玉が二度目か三度目に父親の所に来た時、午前のうちは檀那の見えることは決して無いから、少しはゆつくりしてゐても好いと云つたことがある。父親は承知しなかつた。「なる程これまではお出がなかつたかも知れない。それでもいつ何の御用事があつてお出なさるかも知れぬではないか。檀那に申し上げておひまを戴いた日は別だが、お前のやうに買物に出て寄つて、ゆつくりしてゐてはならない。それではどこをうろついてゐるかと、檀那がお思なされても為方(しかた)が無い」と云ふのであつた。
若し父親が末造の職業を聞いて心持を悪くしはすまいかと、お玉は始終心配して、尋ねて往く度に様子を見るが、父親は全く知らずにゐるらしい。それはその筈である。父親は池の端に越して来てから、暫く立つうちに貸本を読むことを始めて、昼間はいつも眼鏡を掛けて貸本を読んでゐる。それも実録物とか講談物とか云ふ「書き本」に限つてゐる。此頃読んでゐるのは三河後風土記である。これは大ぶ冊数が多いから、当分此本丈で楽めると云つてゐる。貸本屋が「読み本」を見せて勧めると、それはうその書いてある本だらうと云つて、手に取つて見ようともしない。夜は目が草臥(くたびれ)ると云つて本を読まずに、寄せへ往く。寄せで聞くものなら、本当か嘘かなどとは云はずに、落語も聞けば義太夫も聴く。主に講釈ばかりで掛かる広小路の席へは、余程気に入つた人が出なくては往かぬのである。道楽は只それ丈で、人と無駄話をすると云ふことが無いから、友達も出来ない。そこで末造の身の上なぞを聞き出す因縁は生じて来ぬのである。
それでも近所には、あの隠居の内へ尋ねて来る好い女はなんだらうと穿鑿して、とうとう高利貸の妾ださうだと突き留めたものもある。若し両隣に口のうるさい人でもゐると、爺いさんがどんなに心安立をせずにゐても、無理にも厭な噂を聞せられるのだが、為合(しあは)せな事には一方の隣が博物館の属官で、法帖(はふでう)なんぞをいぢつて手習ばかりしてゐる男、一方の隣がもう珍らしいものになつてゐる版木師で、篆刻なんぞには手を出さぬ男だから、どちらも爺いさんの心の平和を破るやうな虞(おそれ)はない。まだ並んでゐる家の中で、店を開けて商売をしてゐるのは蕎麦屋の蓮玉庵と煎餅屋と、その先きのもう広小路の角に近い処の十三屋(じふさんや)と云ふ櫛屋との外には無かつた時代である。
爺いさんは格子戸を開けて這入る人のけはひ、軽げな駒下駄の音だけで、まだ優しい声のおとなひを聞かぬうちに、もうお玉が来たのだと云ふことを知つて、読みさしの後風土記を下に置いて待つてゐる。掛けてゐた目金を脱して、可哀(かはい)い娘の顔を見る日は、爺いさんのためには祭日である。娘が来れば、きつと目金を脱す。目金で見た方が好く見える筈だが、どうしても目金越しでは隔てがあるやうで気が済まぬのである。娘に話したい事はいつも溜まつてゐて、その一部を忘れて残したのに、いつも娘の帰つた跡で気が附く。しかし「檀那は御機嫌好くてお出になるかい」と末造の安否を問ふこと丈は忘れない。
お玉はけふ機嫌の好い父親の顔を見て、阿茶の局(あちやのつぼね=家康の側室)の話を聞せて貰ひ、広小路に出来た大千住の出店で買つたと云ふ、一尺四方もある軽焼の馳走になつた。そして父親が「まだ帰らなくても好いかい」と度々聞くのに、「大丈夫よ」と笑ひながら云つて、とうとう正午近くまで遊んでゐた。そして此頃のやうに末造が不意に来ることのあるのを父親に話したら、あの帰らなくても好いかと云ふ催促が一層劇しくなるだらうと、心の中で思つた。自分はいつか横着になつて、末造に留守の間に来られてはならぬと云ふやうな心遣をせぬやうになつてゐるのである。  
 

 

時候が次第に寒くなつて、お玉の家の流しの前に、下駄で踏む処だけ板が土に填めてある、其板の上には朝霜が真つ白に置く。深い井戸の長い弔瓶縄(つるべなは)が冷たいから、梅に気の毒だと云つて、お玉は手袋を買つて遣つたが、それを一々嵌めたり脱いだりして、台所の用が出来るものでは無いと思つた梅は、貰つた手袋を大切にしまつて置いて、矢張素手で水を汲む。洗物をさせるにも、雑巾掛をさせるにも、湯を涌かして使はせるのに、梅の手がそろそろ荒れて来る。お玉はそれを気にして、こんな事を言つた。「なんでも手を濡らした跡を其儘にして置くのが悪いのだよ。水から手を出したら、すぐに好く拭いて乾かしてお置。用が片附いたら、忘れないでシャボンで手を洗ふのだよ」かう云つてシャボンまで買つて渡した。それでも梅の手が次第に荒れるのを、お玉は気の毒がつてゐる。そしてあの位の事は自分もしたが、梅のやうに手の荒れたことは無かつたのにと、不思議にも思ふのである。
朝目を醒まして起きずにはゐられなかつたお玉も、此頃は梅が、「けさは流しに氷が張つてゐます、も少しお休になつて入らつしやいまし」なぞと云ふと、つひ布団にくるまつてゐる様になつた。教育家は妄想を起させぬために青年に床に入つてから寐附かずにゐるな、目が醒めてから起きずにゐるなと戒める。少壮な身を暖い衾(ふすま)の裡に置けば、毒草の花を火の中に咲かせたやうな写象が萌(きざ)すからである。お玉の想像もこんな時には随分放恣になつて来ることがある。さう云ふ時には目に一種の光が生じて、酒に酔つたやうに瞼(まぶた)から頬に掛けて紅(くれなゐ)が漲るのである。
前晩に空が晴れ渡つて、星がきらめいて、暁に霜の置いた或る日の事であつた。お玉は大ぶ久しく布団の中で、近頃覚えた不精をしてゐて、梅が疾(と)つくに雨戸を繰り開けた表の窓から、朝日のさし入るのを見て、やつと起きた。そして細帯一つでねんねこ半纏を羽織つて、縁側に出て楊枝を使つてゐた。すると格子戸をがらりと開ける音がする。「入らつしやいまし」と愛想好く云ふ梅の声がする。其儘上がつて来る足音がする。
「やあ。寐坊だなあ」かう云つて箱火鉢の前に据わつたのは末造である。
「おや。御免なさいましよ。大そうお早いぢやございませんか」銜(くは)へてゐた楊枝を急いで出して、唾(つばき)をバケツの中に吐いてかう云つたお玉の、少しのぼせたやうな笑顔が、末造の目にはこれまでになく美しく見えた。一体お玉は無縁坂に越して来てから、一日一日と美しくなるばかりである。最初は娘らしい可哀(かはい)さが気に入つてゐたのだが、此頃はそれが一種の人を魅するやうな態度に変じて来た。末造は此変化を見て、お玉に情愛が分かつて来たのだ、自分が分からせて遣つたのだと思つて、得意になつてゐる。併しこれは何事をも鋭く看破する末造の目が、笑止にも愛する女の精神状態を錯(あやま)り認めてゐるのである。お玉は最初主人大事に奉公をする女であつたのが、急劇な身の上の変化のために、煩悶して見たり省察して見たりした挙句、横着と云つても好いやうな自覚に到達して、世間の女が多くの男に触れた後に纔(わづ)かに贏(か)ち得る冷静な心と同じやうな心になつた。此心に翻弄せられるのを、末造は愉快な刺戟として感ずるのである。それにお玉は横着になると共に、次第に少しづつじだらくになる。末造はこのじだらくに情慾を煽られて、一層お玉に引き附けられるやうに感ずる。この一切の変化が末造には分からない。魅せられるやうな感じはそこから生れるのである。
お玉はしやがんで金盥を引き寄せながら云つた。「あなた一寸あちらへ向いてゐて下さいましな」
「なぜ」と云いつつ、末造は金天狗に火を附けた。
「だつて顔を洗はなくちや」
「好いぢやないか。さつさと洗へ」
「だつて見て入らつしやつちや、洗へませんわ」
「むづかしいなあ。これで好いか」末造は烟を吹きつつ縁側に背中を向けた。そして心中になんと云ふあどけない奴だらうと思つた。
お玉は肌も脱がずに、只領(えり)だけくつろげて、忙がしげに顔を洗ふ。いつもより余程手を抜いてはゐるが、化粧の秘密を藉りて、疵を蔽ひ美を粧ふと云ふ弱点も無いので、別に見られてゐて困ることは無い。
末造は最初背中を向けてゐたが、暫くするとお玉の方へ向き直つた。顔を洗ふ間末造に背中を向けてゐたお玉はこれを知らずにゐたが、洗つてしまつて鏡台を引き寄せると、それに末造の紙巻を銜へた顔がうつつた。
「あらひどい方ね」とお玉は云つたが、その儘髪を撫で附けてゐる。くつろげた領の下に項(うなじ)から背へ掛けて三角形に見える白い肌、手を高く挙げてゐるので、肘の上二三寸の所まで見えるふつくりした臂(ひぢ)が、末造のためにはいつまでも厭きない見ものである。そこで自分が黙つて待つてゐたら、お玉が無理に急ぐかも知れぬと思つて、わざと気楽げにゆつくりした調子で話し出した。
「おい急ぐには及ばないよ。何も用があつてこんなに早く出掛けて来たのではないのだ。実はこなひだお前に聞かれて、今晩あたり来るやうに云つて置いたが、ちよいと千葉へ往かなくてはならない事になつたのだ。話が旨く運べば、あすのうちに帰つて来られるのだが、どうかするとあさつてになるかも知れない」
櫛をふいてゐたお玉は「あら」と云つて振り返つた。顔に不安らしい表情が見えた。
「おとなしくして待つてゐるのだよ」と、笑談らしく云つて、末造は巻烟草入をしまつた。そしてついと立つて戸口へ出た。
「まあお茶も上げないうちに」と云ひさして、投げるやうに櫛を櫛箱に入れたお玉が、見送りに起つて出た時には、末造はもう格子戸を開けてゐた。
朝飯の膳を台所から運んで来た梅が、膳を下に置いて、「どうも済みません」と云つて手を衝いた。
箱火鉢の傍に据わつて、火の上に被(か)ぶさつた灰を火箸で掻き落してゐたお玉は、「おや、何をあやまるのだい」と云つて、につこりした。
「でもつひお茶を上げるのが遅くなりまして」
「あゝ。その事かい。あれはわたしが御挨拶に云つたのだよ。檀那はなんとも思つてはお出なさらないよ」かう云つて、お玉は箸を取つた。
けさ御膳を食べてゐる主人の顔を梅が見ると、めつたに機嫌を悪くせぬ性分ではあるが、特別に嬉しさうに見える。さつき「何をあやまるのだい」と云つて笑つた時から、ほんのりと赤く匂つた頬のあたりをまだ微笑(ほゝゑみ)の影が去らずにゐる。なぜだらうかと云ふ問題が梅の頭にも生ぜずには済まなかつたが、飽くまで単純な梅の頭にはそれが根を卸しもしない。只好い気持が伝染して、自分も好い気持になつた丈である。
お玉はぢつと梅の顔を見て、機嫌の好い顔を一層機嫌を好くして云つた。「あの、お前お内へ往きたかなくつて」
梅は怪訝(くわいが)の目をみはつた。まだ明治十何年と云ふ頃には江戸の町家の習慣律が惰力を持つてゐたので、市中から市中へ奉公に上がつてゐても、藪入の日の外には容易に内へは帰られぬことに極まつてゐた。
「あの今晩は檀那様が入らつしやらないだらうと思ふから、お前内へ往つて泊つて来たけりやあ泊つて来ても好いよ」お玉は重ねてかう云つた。
「あの本当でございますの」梅は疑つて問ひ返したのでは無い。過分の恩恵だと感じて、此詞を発したのである。
「嘘なんぞ言ふものかね。わたしはそんな罪な事をして、お前をからかつたり何かしやしないわ。御飯の跡は片附けなくつても好いから、すぐに往つても好いよ。そしてけふはゆつくり遊んで、晩には泊つてお出。その代りあしたは早く帰るのだよ」
「はい」と云つてお梅は嬉しさに顔を真つ赤にしてゐる。そして父が車夫をしてゐるので、車の二三台並べてある入口の土間や、箪笥と箱火鉢との間に、やつと座布団が一枚布しかれる様になつてゐて、そこに為事(しごと)に出ない間は父親が据わつてをり、留守には母親の据わつてゐる所や、鬢の毛がいつも片頬に垂れ掛かつてゐて、肩から襷(たすき)を脱(はづ)したことのめつたに無い母親の姿などが、非常な速度を以て入り替りつつ、小さい頭の中に影絵のやうに浮かんで来るのである。
食事が済んだので、お梅は膳を下げた。片附けなくても好いとは云はれても、洗ふ物丈は洗つて置かなくてはと思つて、小桶に湯を取つて茶碗や皿をちやらちやら言はせてゐると、そこへお玉は紙に包んだ物を持つて出て来た。「あら、矢つ張り片附けてゐるのね。それんばかりの物を洗ふのはわけは無いから、わたしがするよ。お前髪はゆうべ結(い)つたのだからそれで好いわね。早く着物をお着替よ。そしてなんにもお土産が無いから、これを持つてお出」かう云つて紙包をわたした。中には例の骨牌(かるた)のやうな恰好をした半円の青い札がはいつてゐたのである。
梅をせき立てゝ出して置いて、お玉は甲斐甲斐しく襷を掛け褄(つま)を端折はしよつて台所に出た。そしてさも面白い事をするやうに、梅が洗ひ掛けて置いた茶碗や皿を洗ひ始めた。こんな為事は昔取つた杵柄で、梅なんぞが企て及ばぬ程迅速に、しかも周密に出来る筈のお玉が、けふは子供がおもちやを持つて遊ぶより手ぬるい洗ひやうをしてゐる。取り上げた皿一枚が五分間も手を離れない。そしてお玉の顔は活気のある淡紅色に赫いて、目は空(くう)を見てゐる。
そしてその頭の中には、極めて楽観的な写象が往来してゐる。一体女は何事によらず決心するまでには気の毒な程迷つて、とつおいつする癖に、既に決心したとなると、男のやうに左顧右眄しないで、oeilleres(オヨイエエル=目隠し)を装(よそほ)はれた馬のやうに、向うばかり見て猛進するものである。思慮のある男には疑懼(ぎく)を懐かしむる程の障礙物が前途に横はつてゐても、女はそれをものの屑(くづ)ともしない。それでどうかすると男の敢てせぬ事を敢てして、おもひの外に成功することもある。お玉は岡田に接近しようとするのに、若し第三者がゐて観察したら、もどかしさに堪へまいと思はれる程、逡巡してゐたが、けさ末造が千葉へ立つと云つて暇乞に来てから、追手を帆に孕ませた舟のやうに、志す岸に向つて走る気になつた。それで梅をせき立てて、親許に返して遣つたのである。邪魔になる末造は千葉へ往つて泊る。女中の梅も親の家に帰つて泊る。これからあすの朝までは、誰にも掣肘せられることの無い身の上だと感ずるのが、お玉のためには先づ愉快で溜まらない。そしてかうとんとん拍子に事が運んで行くのが、終局の目的の容易に達せられる前兆でなくてはならぬやうに思はれる。けふに限つて岡田さんが内の前をお通なさらぬことは決して無い。往反(ゆきかへり)に二度お通なさる日もあるのだから、どうかして一度逢はれずにしまふにしても、二度共見のがすやうなことは無い。けふはどんな犠牲を払つても物を言ひ掛けずには置かない。思ひ切つて物を言ひ掛けるからは、あの方の足が留められぬ筈が無い。わたしは卑しい妾に身を堕(おと)してゐる。しかも高利貸の妾になつてゐる。だけれど生娘(きむすめ)でゐた時より美しくはなつても、醜くはなつてゐない。其上どうしたのが男に気に入ると云ふことは、不為合(ふしあは)せな目に逢つた物怪(もつけ)の幸に、次第に分かつて来てゐるのである。して見れば、まさか岡田さんに一も二もなく厭な女だと思はれることはあるまい。いや。そんな事は確かに無い。若し厭な女だと思つてお出なら、顔を見合せる度に礼をして下さる筈が無い。いつか蛇を殺して下すつたのだつてさうだ。あれがどこの内の出来事でも、きつと手を藉して下すつたのだと云ふわけではあるまい。若しわたしの内でなかつたら、知らぬ顔をして通り過ぎておしまひなすつたかも知れない。それにこつちでこれ丈思つてゐるのだから、皆までとは行かぬにしても、此心が幾らか向うに通つてゐないことはない筈だ。なに。案じるよりは生むが易いかも知れない。こんな事を思ひ続けてゐるうちに、小桶の湯がすつかり冷えてしまつたのを、お玉はつめたいとも思はずにゐた。
膳を膳棚にしまつて箱火鉢の所に帰つて据わつたお玉は、なんだか気がそはそはしてぢつとしてはゐられぬと云ふ様子をしてゐた。そしてけさ梅が綺麗に篩(ふる)つた灰を、火箸で二三度掻き廻したかと思ふと、つと立つて着物を着換へはじめた。同朋町の女髪結の所へ往くのである。これは不断来る髪結が人の好い女で、余所行(よそゆき)の時に結(ゆ)ひに往けと云つて、紹介して置いてくれたのに、これまでまだ一度も往かなかつた内なのである。  
 

 

西洋の子供の読む本に、釘一本と云ふ話がある。僕は好くは記憶してゐぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けてゐたために、それに乗つて出た百姓の息子が種々の難儀に出会ふと云ふ筋であつた。僕のし掛けた此話では、青魚(さば)の未醤煮(みそに)が丁度釘一本と同じ効果をなすのである。
僕は下宿屋や学校の寄宿舎の「まかなひ」に饑(うゑ)を凌いでゐるうちに、身の毛の弥立(よだ)つ程厭な菜が出来た。どんな風通しの好い座敷で、どんな清潔な膳の上に載せて出されようとも、僕の目が一たび其菜を見ると、僕の鼻は名状すべからざる寄宿舎の食堂の臭気を嗅ぐ。肴に羊栖菜(ひじき)や相良麩(さがらぶ)が附けてあると、もうそろそろ此嗅覚のhallucination(アリュシナション=錯覚)が起り掛かる。そしてそれが青魚の未醤煮に至つて窮極の程度に達する。
然るにその青魚の未醤煮が或日上条の晩飯の膳に上つた。いつも膳が出ると直ぐに箸を取る僕が躊躇してゐるので、女中が僕の顔を見て云つた。
「あなた青魚お嫌(いや)」
「さあ青魚は嫌ぢやない。焼いたのなら随分食ふが、未醤煮は閉口だ」
「まあ。お上さんが存じませんもんですから。なんなら玉子でも持つてまゐりませうか」かう云つて立ちさうにした。
「待て」と僕は云つた。「実はまだ腹も透(す)いてゐないから、散歩をして来よう。お上さんにはなんとでも云つて置いてくれ。菜が気に入らなかつたなんて云ふなよ。余計な心配をさせなくても好いから」
「それでもなんだかお気の毒様で」
「馬鹿を言へ」
僕が立つて袴を穿き掛けたので、女中は膳を持つて廊下へ出た。僕は隣の部屋へ声を掛けた。
「おい。岡田君ゐるか」
「ゐる。何か用かい」
「用ではないがね、散歩に出て、帰りに豊国屋へでも往かうかと思ふのだ。一しよに来ないか」
「行かう。丁度君に話したい事もあるのだ」
僕は釘に掛けてあつた帽を取つて被つて、岡田と一しよに上条を出た。午後四時過であつたかと思ふ。どこへ往かうと云ふ相談もせずに上条の格子戸を出たのだが、二人は門口から右へ曲つた。
無縁坂を降り掛かる時、僕は「おい、ゐるぜ」と云つて、肘で岡田を衝いた。
「何が」と口には云つたが、岡田は僕の詞の意味を解してゐたので、左側の格子戸のある家を見た。
家の前にはお玉が立つてゐた。お玉は窶(やつ)れてゐても美しい女であつた。しかし若い健康な美人の常として、粧映(つくりばえ)もした。僕の目には、いつも見た時と、どこがどう変つてゐるか、わからなかつたが、兎に角いつもと丸で違つた美しさであつた。女の顔が照り赫いてゐるやうなので、僕は一種の羞明(まぶしさ)を感じた。
お玉の目はうつとりとしたやうに、岡田の顔に注がれてゐた。岡田は慌てたやうに帽を取つて礼をして、無意識に足の運を早めた。
僕は第三者に有勝(ありがち)な無遠慮を以て、度々背後(うしろ)を振り向いて見たが、お玉の注視は頗る長く継続せられてゐた。
岡田は俯向き加減になつて、早めた足の運を緩めずに坂を降りる。僕も黙つて附いて降りる。僕の胸の中では種々の感情が戦つてゐた。此感情には自分を岡田の地位に置きたいと云ふことが根調をなしてゐる。しかし僕の意識はそれを認識することを嫌つてゐる。僕は心の内で、「なに、己がそんな卑怯な男なものか」と叫んで、それを打ち消さうとしてゐる。そして此抑制が功を奏せぬのを、僕は憤(いきどほ)つてゐる。自分を岡田の地位に置きたいと云ふのは、彼女(かのをんな)の誘惑に身を任せたいと思ふのではない。只岡田のやうに、あんな美しい女に慕はれたら、さぞ愉快だらうと思ふに過ぎない。そんなら慕はれてどうするか、僕はそこに意志の自由を保留して置きたい。僕は岡田のやうに逃げはしない。僕は逢つて話をする。自分の清潔な身は汚さぬが、逢つて話だけはする。そして彼女を妹の如くに愛する。彼女の力になつて遣る。彼女を淤泥(おでい)の中から救抜する。僕の想像はこんな取留のない処に帰着してしまつた。
坂下の四辻まで岡田と僕とは黙つて歩いた。真つ直に巡査派出所の前を通り過ぎる時、僕はやうやう物を言ふことが出来た。「おい。凄い状況になつてゐるぢやないか」
「ええ。何が」
「何がも何も無いぢやないか。君だつてさつきからあの女の事を思つて歩いてゐたに違ない。僕は度々振り返つて見たが、あの女はいつまでも君の後影を見てゐた。おほかたまだこつちの方角を見て立つてゐるだらう。あの左伝の、目迎(めむか)へて而(しかう)してこれを送ると云ふ文句だねえ。あれをあべこべに女の方で遣つてゐるのだ」
「其話はもうよしてくれ給へ。君にだけは顛末を打ち明けて話してあるのだから、此上僕をいぢめなくても好いぢやないか」
かう云つてゐるうちに、池の縁に出たので、二人共ちよいと足を停めた。
「あつちを廻らうか」と、岡田が池の北の方を指ざした。
「うん」と云つて、僕は左へ池に沿ふて曲つた。そして十歩ばかりも歩いた時、僕は左手に並んでゐる二階造の家を見て、「ここが桜痴(あうち)先生と末造君との第宅(ていたく)だ」と独語のやうに云つた。
「妙な対照のやうだが、桜痴居士も余り廉潔ぢやないと云ふぢやないか」と、岡田が云つた。
僕は別に思慮もなく、弁駁らしい事を言つた。「そりやあ政治家になると、どんなにしてゐたつて、難癖を附けられるさ」恐らくは福地さんと末造との距離を、なる丈大きく考へたかつたのであらう。
福地の邸の板塀のはづれから、北へ二三軒目の小家(こいへ)に、つひ此頃「川魚」と云ふ看板を掛けたのがある。僕はそれを見て云つた。「此看板を見ると、なんだか不忍の池の肴を食はせさうに見えるなあ」
「僕もさう思つた。しかしまさか梁山泊(=水滸伝の英雄の砦)の豪傑が店を出したと云ふわけでもあるまい」
こんな話をして、池の北の方へ往く小橋を渡つた。すると、岸の上に立つて何か見てゐる学生らしい青年がゐた。それが二人の近づくのを見て、「やあ」と声を掛けた。柔術に凝つてゐて、学科の外の本は一切読まぬと云ふ性だから、岡田も僕も親しくはせぬが、さうかと云つて嫌つてもゐぬ石原と云ふ男である。
「こんな所に立つて何を見てゐたのだ」と、僕が問ふた。
石原は黙つて池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁つた夕(ゆふべ)の空気を透かして、指ざす方角を見た。其頃は根津に通ずる小溝から、今三人の立つてゐる汀(みぎは)まで、一面に葦が茂つてゐた。其葦の枯葉が池の中心に向つて次第に疎(まばら)になつて、只枯蓮(かれはす)の襤褸(ぼろ)のやうな葉、海綿のやうな房(ばう)が碁布(きふ)せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳えて、景物に荒涼な趣を添へてゐる。此bitume(ビチュウム=瀝青)色の茎の間を縫つて、黒ずんだ上に鈍い反射を見せてゐる水の面おもてを、十羽ばかりの雁が緩やかに往来してゐる。中には停止して動かぬのもある。
「あれまで石が届くか」と、石原が岡田の顔を見て云つた。
「届くことは届くが、中あたるか中らぬかが疑問だ」と、岡田は答へた。
「遣つて見給へ」
岡田は躊躇した。「あれはもう寐るのだらう。石を投げ附けるのは可哀(かはい)さうだ」
石原は笑つた。「さう物の哀を知り過ぎては困るなあ。君が投げんと云ふなら、僕が投げる」
岡田は不精らしく石を拾つた。「そんなら僕が逃がして遣る」つぶてはひゆうと云ふ微かな響をさせて飛んだ。僕が其行方(ゆくへ)をぢつと見てゐると、一羽の雁が擡(もた)げてゐた頸をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつゝ羽たたきをして、水面を滑つて散つた。しかし飛び起ちはしなかつた。頸を垂れた雁は動かずに故(もと)の所にゐる。
「中つた」と、石原が云つた。そして暫く池の面(おもて)を見てゐて、詞を継いだ。「あの雁は僕が取つて来るから、其時は君達も少し手伝つてくれ給へ」
「どうして取る」と、岡田が問ふた。僕も覚えず耳を欹(そばだ)てた。
「先づ今は時が悪い。もう三十分立つと暗くなる。暗くさへなれば、僕がわけなく取つて見せる。君達は手を出してくれなくても好いが、其時居合せて、僕の頼むことを聴いてくれ給へ。雁は御馳走するから」と、石原は云つた。
「面白いな」と、岡田が云つた。「しかし三十分立つまでどうしてゐるのかい」
「僕は此辺をぶらついてゐる。君達はどこへでも往つて来給え。三人ここにゐると目立つから」
僕は岡田に言つた。「そんなら二人で池を一周して来ようか」
「好からう」と云つて岡田はすぐに歩き出した。  
 

 

僕は岡田と一しよに花園町の端(はな)を横切つて、東照宮の石段の方へ往つた。二人の間には暫く詞が絶えてゐる。「不しあはせな雁もあるものだ」と、岡田が独言の様に云ふ。僕の写象には、何の論理的連繋もなく、無縁坂の女が浮ぶ。「僕は只雁のゐる所を狙つて投げたのだがなあ」と、今度は僕に対して岡田が云ふ。「うん」と云ひつつも、僕は矢張女の事を思つてゐる。「でも石原のあれを取りに往くのが見たいよ」と、僕が暫く立つてから云ふ。こん度は岡田が「うん」と云つて、何やら考へつつ歩いてゐる。多分雁が気になつてゐるのであらう。
石段の下を南へ、弁天の方へ向いて歩く二人の心には、兎に角雁の死が暗い影を印してゐて、話がきれぎれになり勝であつた。弁天の鳥居の前を通る時、岡田は強ひて思想を外の方角に転ぜようとするらしく、「僕は君に話す事があるのだつた」と言ひ出した。そして僕は全く思ひも掛けぬ事を聞せられた。
其話はかうである。岡田は今夜己の部屋へ来て話さうと思つてゐたが、丁度己にさそはれたので、一しよに外へ出た。出てからは、食事をする時話さうと思つてゐたが、それもどうやら駄目になりさうである。そこで歩きながら掻い撮まんで話すことにする。岡田は卒業の期を待たずに洋行することに極まつて、もう外務省から旅行券を受け取り、大学へ退学届を出してしまつた。それは東洋の風土病を研究しに来たドイツのProfessor(プロフェッソル)W.(ウヱエ)が、往復旅費四千マルクと、月給二百マルクを給して岡田を傭つたからである。ドイツ語を話す学生の中で、漢文を楽に読むものと云ふ注文を受けて、Baelz(ベルツ)教授が岡田を紹介した。岡田は築地にWさんを尋ねて、試験を受けた。素問(そもん)と難経(なんきやう)とを二三行づつ、傷寒論(しやうかんろん)と病源候論(びやうげんこうろん)とを五六行づつ訳させられたのである。難経は生憎あいにく「三焦(さんせう)」の一節が出て、何と訳して好いかとまごついたが、これはchiao(チャオ)と音訳して済ませた。兎に角試験に合格して、即座に契約が出来た。WさんはBaelzさんの現に籍を置いてゐるライプチヒ大学の教授だから、岡田をライプチヒへ連れて往つて、ドクトルの試験はWさんの手で引き受けてさせる。卒業論文にはWさんのために訳した東洋の文献を使用しても好いと云ふことである。岡田はあす上条を出て、築地のWさんの所へ越して往つて、Wさんが支那と日本とで買い集めた装物の荷造をする。それからWさんに附いて九州を視察して、九州からすぐにMessagerieMaritime(メッサジュリイマルチイム)会社の舟に乗るのである。
僕は折々立ち留まつて、「驚いたね」とか、「君は果断だよ」とか云つて、随分ゆるゆる歩きつつ此話を聞ゐた積であつた。しかし聞いてしまつて時計を見れば、石原に分れてからまだ十分しか立たない。それにもう池の周囲の殆ど三分の二を通り過ぎて、仲町裏の池の端をはづれ掛かつてゐる。
「此儘往つては早過ぎるね」と、僕は云つた。
「蓮玉へ寄つて蕎麦を一杯食つて行かうか」と、岡田が提議した。
僕はすぐに同意して、一しよに蓮玉庵へ引き返した。其頃下谷から本郷へ掛けて一番名高かつた蕎麦屋である。
蕎麦を食ひつつ岡田は云つた。「切角今まで遣つて来て、卒業しないのは残念だが、所詮官費留学生になれない僕が此機会を失すると、ヨオロッパが見られないからね」
「そうだとも。機逸すべからずだ。卒業がなんだ。向うでドクトルになれば同じ事だし、又其ドクトルをしなくたつて、それも憂ふるに足りないぢやないか」
「僕もさう思ふ。只資格を拵へると云ふだけだ。俗に随つて聊(いさゝか)復(また)爾(しか)りだ」
「支度はどうだい。随分慌ただしい旅立になりさうだが」
「なに。僕は此儘で往く。Wさんの云ふには、日本で洋服を拵へて行つたつて、向うでは着られないさうだ」
「さうかなあ、いつか花月新誌で読んだが、成島柳北も横浜でふいと思ひ立つて、即坐に決心して舟に乗つたと云ふことだつた」
「うん。僕も読んだ。柳北は内へ手紙も出さずに立つたさうだが、僕は内の方へは精(くは)しく言つて遣つた」
「さうか。羨ましいな。Wさんに附いて行くのだから、途中でまごつくことはあるまいが、旅行はどんな塩梅だらう。僕には想像も出来ない」
「僕もどんな物だか分からないが、きのふ柴田承桂(しようけい)さんに逢つて、これまで世話になつた人だから、今度の一件を話したら、先生の書いた洋行案内をくれたよ」
「はあ。そんな本があるかねえ」
「うん。非売品だ。椋鳥(むくどり=洋行者)連中に配るのださうだ」
こんな話をしてゐるうちに、時計を見れば、もう三十分までに五分しかなかつた。僕は岡田と急いで蓮玉庵を出て、石原の待つてゐる所へ往つた。もう池は闇に鎖されて、弁天の朱塗の祠(ほこら)が模糊として靄の中に見える頃であつた。
待ち受けてゐた石原は、岡田と僕とを引つ張つて、池の縁に出て云つた。「時刻は丁度好い。達者な雁は皆塒(ねぐら)を変へてしまつた。僕はすぐに為事(しごと)に掛かる。それには君達がここにゐて、号令を掛けてくれなくてはならないのだ。見給へ。そこの間ばかり前の所に蓮の茎の右へ折れたのがある。其延線に少し低い茎の左へ折れたのがある。僕はあの延線を前へ前へと行かなくてはならないのだ。そこで僕がそれをはづれさうになつたら、君達がここから右とか左とか云つて修正してくれるのだ」
「なる程。Parallaxe(パラックセ=視差)のやうな理窟だな。しかし深くはないだらうか」と岡田が云つた。
「なに。背の立たない気遣は無い」かう云つて、石原は素早く裸になつた。
石原の踏み込んだ処を見ると、泥は膝の上までしか無い。鷺(さぎ)のやうに足をあげては踏み込んで、ごぼりごぼりと遣つて行く。少し深くなるかと思ふと、又浅くなる。見る見る二本の蓮の茎より前に出た。暫くすると、岡田が「右」と云つた。石原は右へ寄つて歩く。岡田が又「左」と云つた。石原が余り右へ寄り過ぎたのである。忽ち石原は足を停めて身を屈(かゞ)めた。そしてすぐに跡へ引き返して来た。遠い方の蓮の茎の辺を過ぎた頃には、もう右の手に提げてゐる獲ものが見えた。
石原は太股を半分泥に汚しただけで、岸に着いた。獲ものは思ひ掛けぬ大さの雁であつた。石原はざつと足を洗つて、着物を着た。此辺は其頃まだ人の往来(ゆきき)が少くて、石原が池に這入つてから又上がつて来るまで、一人も通り掛かつたものが無かつた。
「どうして持つて行かう」と僕が云ふと、石原が袴を穿きつつ云つた。
「岡田君の外套が一番大きいから、あの下に入れて持つて貰ふのだ。料理は僕の所でさせる」
石原は素人家(しろうとや)の一間を借りてゐた。主人の婆あさんは、余り人の好くないのが取柄で、獲ものを分けて遣れば、口を噤ませることも出来さうである。其家は湯島切通しから、岩崎邸の裏手へ出る横町で、曲りくねつた奧にある。石原はそこへ雁を持ち込む道筋を手短に説明した。先づここから石原の所へ往くには、由るべき道が二条(ふたすぢ)ある。即ち南から切通しを経る道と、北から無縁坂を経る道とで、此二条は岩崎邸の内に中心を有した圏を画いてゐる。遠近の差は少い。又此場合に問ふ所でも無い。障礙物は巡査派出所だが、これはどちらにも一箇所づつある。そこで利害を比較すれば、只賑かな切通しを避けて、寂しい無縁坂を取ると云ふことに帰着する。雁は岡田に、外套の下に入れて持たせ、跡の二人が左右に並んで、岡田の体を隠蔽して行くが最良の策だと云ふのである。
岡田は苦笑しつつも雁を持つた。どんなにして持つて見ても、外套の裾から下へ、羽が二三寸出る。其上外套の裾が不恰好に拡がつて、岡田の姿は円錐形に見える。石原と僕とは、それを目立たせぬやうにしなくてはならぬのである。  
 

 

「さあ、かう云ふ風にして歩くのだ」と云つて、石原と僕と二人で、岡田を中に挟んで歩き出した。三人で初から気に掛けてゐるのは、無縁坂下の四辻にある交番である。そこを通り抜ける時の心得だと云つて、石原が盛んな講釈をし出した。なんでも、僕の聴き取つた所では、心が動いてはならぬ、動けば隙を生ずる、隙を生ずれば乗ぜられると云ふやうな事であつた。石原は虎が酔人をくはぬと云ふ譬を引いた。多分此講釈は柔術の先生に聞いた事を其儘繰り返したものかと思はれた。
「して見ると、巡査が虎で、我々三人が酔人だね」と、岡田が冷かした。
「Silentium(シレンチウム=静粛に)!」と石原が叫んだ。もう無縁坂の方角へ曲る角に近くなつたからである。
角を曲れば、茅町(かやちやう)の町家と池に沿ふた屋敷とが背中合せになつた横町で、其頃は両側に荷車や何かが置いてあつた。四辻に立つてゐる巡査の姿は、もう角から見えてゐた。
突然岡田の左に引き添つて歩いてゐた石原が、岡田に言つた。「君円錐の立方積を出す公式を知つてゐるか。なに。知らない。あれは造做(ざうさ)はないさ。基底面に高さを乗じたものの三分の一だから、若し基底面が圏になつてゐれば、1/3r2πhが立方積だ。π=3.1416だと云ふことを記憶してゐれば、わけなく出来るのだ。僕はπを小数点下八位まで記憶してゐる。π=3.14159265になるのだ。実際それ以上の数(すう)は不必要だよ」
かう云つてゐるうちに、三人は四辻を通り過ぎた。巡査は我々の通る横町の左側、交番の前に立つて、茅町を根津の方へ走る人力車を見てゐたが、我々には只無意味な一瞥を投じたに過ぎなかつた。
「なんだつて円錐の立方積なんぞを計算し出したのだ」と、僕は石原に言つたが、それと同時に僕の目は坂の中程に立つて、こつちを見てゐる女の姿を認めて、僕の心は一種異様な激動を感じた。僕は池の北の端から引き返す途すがら、交番の巡査の事を思ふよりは、此女の事を思つてゐた。なぜだか知らぬが、僕には此女が岡田を待ち受けてゐさうに思はれたのである。果して僕の想像は僕を欺かなかつた。女は自分の家よりは二三軒先へ出迎へてゐた。
僕は石原の目を掠めるやうに、女の顔と岡田の顔とを見較べた。いつも薄紅(うすくれなゐ)に匂つてゐる岡田の顔は、確に一入(ひとしほ)赤く染まつた。そして彼は偶然帽を動かすらしく粧(よそほ)つて、帽の庇に手を掛けた。女の顔は石のやうに凝つてゐた。そして美しくみはつた目の底には、無限の残惜しさが含まれてゐるやうであつた。
此時石原の僕に答へた詞は、其響が耳に入つただけで、其意は心に通ぜなかつた。多分岡田の外套が下ぶくれになつてゐて、円錐形に見える処から思ひ附いて、円錐の立方積と云ふことを言ひ出したのだと、弁明したのであらう。
石原も女を見ることは見たが、只美しい女だと思つただけで意に介せずにしまつたらしかつた。石原はまだ饒舌(しやべ)り続けてゐる。「僕は君達に不動の秘訣を説いて聞かせたが、君達は修養が無いから、急場に臨んでそれを実行することが出来さうでなかつた。そこで僕は君達の心を外へ転ぜさせる工夫をしたのだ。問題は何を出しても好かつたのだが、今云つたやうなわけで円錐の公式が出たのさ。兎に角僕の工夫は好かつたね。君達は円錐の公式のお蔭で、unbefangen(ウンベファンゲン=無邪気な)な態度を保つて巡査の前を通過することが出来たのだ」
三人は岩崎邸に附いて東へ曲る処に来た。一人乗(いちにんのり)の人力車が行き違ふことの出来ぬ横町に這入るのだから、危険はもう全く無いと云つても好い。石原は岡田の側を離れて、案内者のやうに前に立つた。僕は今一度振り返つて見たが、もう女の姿は見えなかつた。
僕と岡田とは、其晩石原の所に夜の更(ふ)けるまでゐた。雁を肴に酒を飲む石原の相伴(しやうばん)をしたと云つても好い。岡田が洋行の事を噫気(おくび)にも出さぬので、僕は色々話したい事のあるのをこらへて、石原と岡田との間に交換せられる競漕の経歴談などに耳を傾けてゐた。
上条へ帰つた時は、僕は草臥(くたびれ)と酒の酔とのために、岡田と話すことも出来ずに、別れて寝た。翌日大学から帰つて見ればもう岡田はゐなかつた。
一本の釘から大事件が生ずるやうに、青魚(さば)の肴が上条の夕食の饌(せん)に上つたために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまつた。そればかりでは無い。しかしそれより以上の事は雁と云ふ物語の範囲外にある。
僕は今此物語を書いてしまつて、指を折つて数へて見ると、もう其時から三十五年を経過してゐる。物語の一半は、親しく岡田に交つてゐて見たのだが、他の一半は岡田が去つた後に、図(はか)らずもお玉と相識になつて聞いたのである。譬へば実体鏡の下にある左右二枚の図を、一の影像として視るやうに、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合せて作つたのが此物語である。読者は僕に問ふかも知れない。「お玉とはどうして相識になつて、どんな場合にそれを聞いたか」と問ふかも知れない。しかしこれに対する答も、前に云つた通り、物語の範囲外にある。只僕にお玉の情人になる要約の備はつてゐぬことは論を須(ま)たぬから、読者は無用の憶測をせぬが好い。(了)
 
「雁」の無縁坂

 

「さばの味噌煮嫌い」がキーワードになっている森鴎外著「雁」は、「僕」という鴎外の化身と、「岡田」という同じ下宿に住む同級生と、囲われ者の「お玉」という女性のはかない恋を描いた作品である。場所は本郷の東大と、その裏を通る「無縁坂」という緩やかな坂が舞台になっている。そこで恩師である前田愛著「幻影の街」より「雁」のあらすじを拝借する。
あらすじ
薄幸の女性お玉の儚い憧れと挫折を、周囲の人物や情景描写も絡めて味わい深く描き出した作品。
時は明治十三年。東大の学生であった「僕」の友人に、岡田という、たいそう美男で、そのうえ品行のよい学生がいた。岡田は散歩の道順まで正確であったが、無縁坂の一軒のひっそりとした佇まいの家の窓から、いつも通りをながめているひとりの女がいた。
女はお玉といい、煉塀町裏で飴細工売りをしている父親の愛娘だったが、巡査に欺かれ浅草鳥越に移り住んだのを、東大の小使から高利貸に成り上がった末造という男が目をつけ、口説かれてめかけに囲われたのであった。
当初お玉は、手厚く遇する末造を有難いと感じていたが、彼が高利貸だと知り、気持ちが一変する。従順で善良なお玉も、この時から分け隔てをすることを覚え、同時に自分自身の欲望にも気づく。散歩中の岡田を心待ちするようになったのもこのような経緯からであった。           
岡田の蛇退治をきっかけに二人は言葉を交わすが、いっこうに事態は進展しない。考えあまったお玉は末造の留守に岡田と親しもうと決心するが、はからずも「釘一本」の狂いで計画は未遂に終わり、翌日岡田は洋行の途に就く。 
鴎外の女性観
「雁」は明治44年から大正2年まで雑誌「昴」(すばる)に連載された。鴎外の作品に出てくる女性は、同時代の作家たちが描くいわゆる"目覚めて自立した"女性とは程遠い感がある。「雁」のお玉にしても囲われもので従順な封建社会の中の女性である。これは鴎外自身の考えや置かれていた環境に起因している。
軍医だった鴎外は漱石と同時期に国から西洋の学問を吸収するためドイツに送られた。ドイツで体験したことを綴った「舞姫」も有名な作品だが、ヒロインのエリスも、ある種いわば囲われ者である。エリスのモデルは実在していて、鴎外が帰国するとすぐに日本まで追いかけてきている。鴎外はこの女性をはらませ結婚の約束までしていたらしい。しかし小説同様に簡単に捨ててしまう。
鴎外は元来女遊びは明治の男の特権とでも思っていたのだろう。軍内部でも鴎外の遊び好きは知れ渡っていたという。
こんな時代と環境から鴎外の作品の女性は従属的で二次産品のような扱いを受けている。
マザコンらしい鴎外は最初の妻と離縁したあと、母の命令で家の近くに妾を囲いしげしげと通っていた。そのあと、かの有名な「美術品」のような美人で若い妻を娶る。が母との確執すさまじく大変なおもいをしている。ふつうであれば母親とうまくいかない嫁とは別れていただろうが、鴎外この「美術品」をたいそう大事にし生涯離縁はしなかった。
「雁」のなかのお玉の扱い
さて「雁」の岡田だがこの主人公の中にも鴎外が棲みついている。
毎日決まったコースを取る岡田の散歩を、お玉ははじめのうち格子戸の中から見ている。やがて時間が来ると岡田が通るのを待つようになる。
しかし、お玉は末造と言う高利貸しの囲われ者、所詮「籠の中の鳥」格子の外へとは出れない身の上。ここに鴎外のズルさと言うか巧妙さが置かれている。
岡田と「僕」はエリートである帝大の学生、お玉とは棲む世界が違うことを、この格子の中と外で暗示している。しかも散歩するコースのお玉の囲われている家の名まで「無縁坂」の途中としている。鴎外は最初からこのお玉と岡田がすれ違うだけに終わることをこれらの道具立てで構成した。お玉と言う女性の感情など、はなから無視した。真面目な岡田が鴎外の「僕」に近づくかどうか試しているに過ぎない。
その証拠に当時の下宿の定番メニュー、週3回ほど出ただろう「さばの味噌煮」が出たから食いたくない「僕」が岡田の散歩について行き、末造との関係を清算する覚悟をして格子の外に出て岡田を待っていた、お玉の感情を無視して二人の逢瀬を妨害する。
しかもその次の日岡田は洋行する。そんなバカな事があるだろうか。今の世でもパスポートを取り、航空券を予約しなければ外国には出れない。遊びならば現在は当日でもそれは可能かもしれないが、明治十年代の日本では数ヶ月乃至数年前から手続きしなければ外国へは出れない。
それが都合よく、お玉が末造と縁を切り岡田に傾いた翌日、本人が洋行してしまうなど、お玉の感情は全く以って問題にもされていない。
これが鴎外の「雁」に描かれた女性だ。
しかも最後には、駄目を押して、不忍池に浮かぶ雁を岡田が投げた石によって殺させる。籠から出て自由に飛び立とうとしているお玉の意思をこのシーンで抹殺してしまう。鴎外は小説の中で「偶然にも石が当たり」と書いているが、これは鴎外が必然的にこしらえたものだ。お玉の生きてきた過酷な人生を哀れむ情など岡田にも「僕」にも微塵も起こさせない。お玉と言う女性をただ性の対象としか描いていない。
確かに封建制度の残る明治10年代の鴎外のような地位にいた男の感情はこんなものだったのだろう。それにしてもお玉が抱いた岡田への恋心は悲しいまでに打ち砕かれている作品である。
無縁坂
坂を下る右側は旧高田藩の江戸屋敷を岩崎弥太郎が購入し、戦後国に接収され裁判所書記官研修所として使われていたが、平成13年より東京都の旧岩崎邸庭園として公開されている。明治中期の豪壮な西洋建築と日本庭園が鑑賞できる。
「雁」の中では現在残る塀ではなく「汚い石垣が築」いてあり苔むした石と石との間には雑草がはびこっていたらしい。さらに「坂の北側はけちな家が軒を並べ」ていてその中の一軒の格子のはまった家がお玉の妾宅だった。今ではマンションが立ち並び当時を偲ぶすべもないが、坂の中途にある講安寺が幾分かその面影をとどめている。
坂を下りきると不忍池に突き当たる。今でもたくさんの雁が無心に餌をついばんでいる。
 
「雁」の感想

 

文豪ということばがあるが、鴎外ほど、この表現にぴったりの文学者はいないだろう。
売文をこととして市井に生きる三文文士ではなく、軍医総監・医務局長を長く勤め、その後、帝室博物館総長、帝国美術院院長という、明治・大正の官僚として、いわば最高位を極めた人物。鴎外は「二足のわらじ」を履きとおしたのであった。
しかも、明治文学の指導的人物で、同時代ばかりでなく、後世に大きな影響をあたえている。永井荷風も、生涯にわたって鴎外を畏敬しつづけたし、中野重治、石川淳、松本清張、山崎正和などに、すぐれた「鴎外論」を書かせてもいる。
しかし、わたしの場合、鴎外論を語るようには、鴎外を愛読してきたとはいえない。
岩波書店からは、全38巻という大部な全著作集が刊行されていて、神田神保町の古書店などで、たまに見かけるが、いま、鴎外の全集を買って読むのは、どういった人であろう。Netで検索したら、ちくま文庫から「鴎外全集」全14巻が出ている。
わたしはこれなら、手許においておくにはいいかも知れないな〜、という程度の鴎外ファンである。
「ヰタ・セクスアリス」「青年」「渋江抽斎」といった長編もそれぞれファンがいるだろうが、「雁」の人気にはおよばないだろう。
客観的な、三人称の小説としての魅力を十分に備えているし、ロマンの香りただよう恋愛小説的な味わいを持っているから、若いころ、そういった興味で読むのではないかと思われる。
視点がゆれているため、小説の終わりちかくなって「ん、あれれ・・・」と戸惑う場面がある。「ぼく」という語り手をもうけず、いっそのこと、神の視点で押し切ってしまったほうがすっきりした。
「雁」は、1911〜13年にわたって「スバル」に連載されている。年譜をみると、1910〜15年は、鴎外がもっとも旺盛に執筆活動をおこない、いまよく読まれている作品の多くが、この時期に集中しているのがわかる。
その中心に「雁」があると、わたしはみている。
現代の小説の水準からいえば、けっしてうまい作品とはいえないが、読みどころは、まず第一に、明治十年代の町の風物や、一般庶民の生活習慣の描写である。
長くなるので、引用はひかえるが、「拾」「拾壱」「拾参」の章を読む者は、当時の本郷、池之端、湯島を幻灯のように頭に思い浮かべるに違いない。
なかでも、ヒロインが住む無縁坂界隈は、鴎外が筆を惜しまず、丹念に描いているので、読者は「明治の無縁坂」を、作者といっしょに辿ることができる。これが、現代の読者にとっては、この小説の、いわば第一の効用である。
お玉は高利貸し末造の「囲い者」となるが、その境涯に満足できない女として登場する。岡田は帝大の学生。この三者の、すれ違いと幻滅を、鴎外は見事にこの小説のなかに封じ込めている。こんど読み返して気がついたのは、末造という高利貸しの描写。
こういった人物を、作者は、じつに的確に、ありありと掴みだして、読者のまえに差し出す。末造・お常の夫婦関係が、じつに巧みなサブストーリーになっているため、作品の奥行きというか、陰影がぐっと深くなっている。
嫉妬の象徴として使われる傘や、お玉のアナロジーとも読める紅雀、外部から襲ってくるある種の「暴力」として登場する蛇。鴎外は小道具を配し、ささやかなエピソードを積み重ねながら、読者を「雁」という小説世界に向き合わせる。
鴎外はおそらく「フィクション」があまり得意ではなかったのであろう。
明治の終焉を見届け、乃木大将の殉死を聞いて、即座に「興津弥五右衛門の遺書」を書き上げ、以後史伝に沈潜していく鴎外が、小説家としての才能のきらめきをこの一編のなかに残してくれたのである。
友人とのあいだに、東京散歩の話が持ち上がったとき、わたしは無縁坂を歩いてみたいと、すぐに思った。
東大構内の三四郎池のほとりに立ち、鉄門をくぐって、無縁坂を降り、池之端へ出てみたかったのであった。
それは、2008年4月16日に実現した。
無縁坂の途中あたりから、不忍池の枯れ蓮が見えた。雁がいたが、カモメもかなりの数が棲息している。
「雁」と「三四郎」のトポスを訪ねる小さな旅。
小説はフィクションでもいいが、背景は現実の「場所」をなるべく忠実に再現したもののほうがいい。「ある日、ある場所」など、われわれの記憶にはとどまらない。「あの日、あの場所」は、いこうとすれば、その場に立って、そのテクスチャーにふれることができる。それがまた、わたしの、ひいては読者の想像力をいききと活気づかせるのだと、信じているのである。
 
「雁」

 

森 鴎外(もり・おうがい)明治44〜大正2年発表
この小説の時代は、明治十三年のことである。語り手の「僕」と同じ下宿屋には、この話の主人公の医科大学生の岡田が居る。彼は体のがっしりした美男子で、毎日夕食後散歩に出かけるのが日課のようになっている。いつしか無縁坂のある家の一人の若く美しい女性「お玉」と顔見知りになる。彼女はいわゆるおめかけさんで、その妾宅に住んでいる。彼女はある時、且那の末造の商売が高利貸しであることを知り、それを悔しいと思い、途方に暮れる。そんなところに、知的な美男が毎日、わが家の前を通り、ひょんな切っ掛けから会話を交わすようになったものだから、それ以来、だんだん自分というものにも目覚めて来て、岡田が、自分を今の境遇から救ってくれないかと想像にふけるようになる。末造が千葉に出張して留守になる夜、お玉はそれをよい機会とみて、岡田を招き入れようとして待ち構える。ところが、そんなこととは露知らない「僕」は、その日の下宿の夕食が青魚(さば)の味噌煮と知って、それが大嫌いな「僕」は珍しく岡田と食事をしようと誘って散歩に出た。それに、岡田にとってのこの夜は、ドイツ留学を面前にして下宿を引き払う最後の夜でもあったから、こちらの誘いにも喜んで乗ってくれたのだ。そんなことが起こったとは知らないお玉は、招き入れる予定の岡田を待ち構えていたが、彼が自分の家の前を「僕」と往き帰りとも通り過ぎたものだから、ただ空しく見送るしかなく、万感の恨みをこめて坂の中途に立ちつくす。その日、不忍池で岡田の投げた石がたまたま雁に命中して、その命を奪ってしまうという小さな事件が起こっていたのだが、そのように「運命のいたずら」というべき「偶然」が作用して、お玉が頼りとする「救い」への夢は、永遠に失われてしまった。
この作品は、作者が東大医学部を卒業する前年の「明治十三年の出来事」として語られている。くすんだ哀愁味を漂わせている点が私の心をとらえる。この小説の主人公お玉のモデルについては、「ヰタ・セクスアリス」に出てくる古道具屋秋貞の娘であろうと言われてきた−−その娘は近所の寺の住職の仕送りを受けていたが、そのことにからめて、この説は有力であったが、戦後、森於莵(おと)が〈鴎外の隠し妻)児玉せき女のことを公表してからこのせき女こそお玉のモデルである、と考える説が有力になっている。語り手「僕」は鴎外自身と考えられるから、お玉のモデルを詮索することは鴎外の理想的な女性像との関連において大さな意味をもつものである。  
 
「雁」 鴎外作品に西洋文学の色香が漂う理由

 

この作品で、作者が描いた運命のはかなさを誰もが読み取ることだろう。
一つは、救うはずで不本意に殺してしまった「雁」の存在で、これは「鯖の味噌煮」と関係する。鯖の味噌煮も偶然に出てきたもので、これがなければ「私」は岡田を誘って外出しなかった。
偶然通りすがった岡田が瀕死の紅雀に遭遇し、それを救出したのことを、お玉はヘビ(末造)に食われる紅雀(お玉)に自分の姿を重ね合わせ、一気に情熱の炎が燃え上がった。
そうした情熱の炎を、鯖の味噌煮が一気にかき消してしまった、というのである。
これは作者が意図した仕掛けであるが、なんだかどうも、私が読むに、違和感がある。
なにごとにも、当時(明治時代)の読者の神経を鑑みなければいけないが、それにしても、鯖の味噌煮ごときで女(人間)の運命が決定してしまうなんて、あまりにも切なくはないか(この切なさが、この作品の売りでもあるのだが)。
しかしどうも、この作品を冷静に読むと違和感が残る。
最後まで首をひねったのは、あれだけ情熱的になったお玉が、どうして最後になって身を引くような仕草を取ったのか、ということだ。
お玉は、父親のために高利貸しの妾になる決意をしたり、岡田への告白まで男のことをひたすら思い続け、
用意周到にその準備までする情熱家だ。
そんなお玉ならば、無縁坂を岡田と「私」の二人が通り過ぎようが、岡田だけを捕まえて「ちょっと」と声をかけてもいいだろう。
もしくは雁を捕まえて帰宅するあとにも、遠巻きに眺めていずに、「私が料理するからうちで雁を食べましょう」と声をかけたっていいだろう。
それだけでも関係に一歩前進が見込まれる。
その際に渡欧先の住所を聞いたっていい。
お玉ほどの情熱と積極性があれば、そのぐらいはできまいか。
しかしふと思うのは、岡田の渡欧である。いまとはまったく感覚が異なるから、当時のドイツとは、いまでいう火星とか金星ぐらいの、「まず行けないところ」と考えてよい。
それゆえに岡田とお玉の別れは永遠なのだ。
この作品にはいろいろと考えるところがあるが、明治の文学に一律に感じることは、"不自由"や"制約"である。
人間に向けた制約が異様に多い。
つねに明治の文学がはらむ制約は、「西洋」と感じる。
明治人の西欧への物理的・精神的コンプレックスは、数多くの制約を生んでいた。
漱石は西洋的なエゴイズムに対して呵責ない攻撃を加え、江戸文化への淡い憧憬を抱いた。二葉亭四迷は西洋から入ってきた官僚社会を、アイロニカルに取り上げた。
そう考えると、鴎外には、西洋文化に対する呵責なき攻撃という、漱石のような激烈な姿勢が見られないのは特徴的だ。
それを踏まえて鴎外の『雁』を読んでみても、西洋へのコンプレックスというものをあまり感じさせられない。
文体は主語述語が明晰で、外国語への翻訳も容易にできるはずだ。
その意味で「世界文学」になる素質も十分にある。
読後感もどことなく西洋文学の雰囲気が香っており(舞台はどう考えても江戸なんだけど)、ウィーンの世紀末文学を思いこさせる。
そういった、鴎外の西欧臭さを読み解く鍵は、鴎外の留学時代の経験にある。漱石と対比してみるとそれがよくわかる。
二人が過ごした留学生活のレベルに天地ほどの差があったのは、有名な話だ。
軍医として1884年(明治17年)からの4年間、ドイツに国費留学した鴎外は、ベルリン、ライプツィッヒ、ドレスデン、ミュンヘンと各都市を歴訪し、細菌学者コッホのもとで研究を行い、学外では社交界と交流し、豪華絢爛な海外生活をおくる。
その間、軍医としても、陸軍一等軍医に昇進したり、プロイセン軍に召還されるなどと業績が認められ、おまけにドイツ人からはモテまくり、ベルリンで妊娠させた女性に日本まで追いかけてこられ、その体験を小説(『舞姫』)にしてベストセラーにまで仕立て上げてしまう。
対する漱石はというと、鴎外が留学した16年後の1900年(明治33年)からの2年間、ロンドンに国費留学したが、鴎外とは打って変わり、生活には華やかさの一片もなかった。
本を買うにも衣食住を倹約するほどの貧困生活が続き、帰国時には心労がたたってノイローゼを発症する。
これだけの海外での貧富の格差が開いたことは、評論家の江藤淳によると、当時の為替レートにヒントが隠されているという。
1895年(明治28年)に日清戦争で日本が勝ち、下関条約により日本は賠償金を手にする。1897年(明治30年)、大金を手にした政府は金本位制の導入に踏み切るのだが、このとき政府は為替レートを、1ドル1円から、1ドル2円という超円安に設定した(いまでいえば1ドル90円のレートを急に1ドル180円に切り下げるようなもの)。
ちなみに、円安であれば輸出がしやすくなり日本の国力が高まる、というのがその論拠なのだが、円安を異様に歓迎する日本の政財界の意識が、100年以上も昔から綿々と流れ続いているのがよくわかる。
さて、ここでなにが言いたいのかというと、同じ国費で留学していた鴎外と漱石とでは、明治30年に実施された為替レートの切り下げで、海外での貨幣価値に2倍の開きが生じ、これにより、方や貴族のように華々しく、方や極貧、という、極端な経済格差(生活レベルの違い)が発生した。
こうした状況で二人の目に映った西欧像に大きな隔たりがあるのは当然だ、ということである。漱石にしてみればロンドンで人種差別まで体験しているというのだから、なおさらである。
ドイツの各都市で貴族や大学者と交流し、仕事は認められ、白人女性からは引く手あまたで、鴎外はもうなんにもいうことはない。
漱石のように西欧に対する激しい嫌悪感を抱く理由など一つもなく、まさに西欧は鴎外にとってのふるさとであり、あこがれでもある。
そういった鴎外の思いを、作品を読みながらひしひしと感じる。
こうしてみてみると、天才たちの運命は、国家の思惑一つと、それに本人が遭遇してしまう歴史的タイミングですべて変わってしまう、ということがわかる。
仮に鴎外がドイツで極貧生活をおくっていたら、帰国後にどんな作品を書いていただろう。完全フィクションだったとしても、『舞姫』を書くことはまず無理だったろう。
そう考えると、ウイーン世紀末文学を想起させる、耽美的な色香が漂うこの『雁』も、鴎外の西欧での「イイ思い」なくして、書くことはできなかったはずである。 
 
「雁」成立の社会的側面に関する一考察

 

森鴎外における明治十三年の意味
「雁」は反覆して読むに堪へない。石川淳
「雁」は、先生一代の傑作である。小島政二郎 
1 同時代史としての「今」、心理的「今」   
「その頃」と「今」とをくり返して対照させていることは「雁」の特徴である。
「その頃から無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のやうな嶺々たる土塀で囲つてはなかった」。
三菱商会設立は廃藩置県と同年(1871・明治4)、太陽暦実施の一年以上前のことである。日清、日露両戦争を経て軍需資本家としてもその基礎を不動のものとした岩崎家は、「嶺々たる」初期三菱コンツェルンの総帥として「今」存在するのであるが「その頃」(1880・明治22)には、未だ「きたない石垣が築いて」 ある程度の構え方で東京の一角にとりついたところなのだ。四十三字の中に日本資本主義発達史の側面を圧縮するものは、森鴎外自身における近代史的「その頃」と同時代史的「今」との対応の眼である。
「今」が執筆の歴史的時点(1911・明治44-1915・大正4)から、時間的なずれを見せ、むしろ作者の同時代史観の或る主観的時点を暗示することは、「其時から三十五年を経過してゐる」〈弐拾障〉という表現の、起筆時から逆算した場合の誤差約四年が、欄筆時すなわち、1915年(大正4)における有意の設定であろうことからも想像できる。
1911年(明治44)9月1日発行の「昂」第三巻第九号より掲載を開始した「雁」は、前月号に完結した「青年」との関連性について当然多くの論議を招いた。青年との有機的な関連性については既に論じ尽されたものとして、ここでは触れない。
大逆事件判決はこの年の1月である。事件の弁護人平出修は「昂」同人でもあったが、輿謝野鉄幹にともなわれ鴎外を訪問、三日四晩にわたり無政府主義、社会主義などの歴史とヨーロッパにおける運動に関し鴎外の講説を聴いた。後、法廷で平出の弁論が群を抜いて見事であったことは知られている。
ウィルヘルム二世の社会党鎮圧政策下に「喘ぎ悶えてゐた」ドイツ社会党の非合法集会にも、留学中の鴎外は出席し、翌日同地の新聞にその事実を報道されたくらいであって、社会思想への関心は深く、講演「混沌」(1909・明治42) の中で「Authorityを弁護しておっても駄目である。ある物は崩れて行く。いろいろの物が崩れて行く」と述べ、「巡査の力や何かを借りて取り締って行けるものではない」と語っている。
晩年の「多少血を流す位のことがあって始てまじめになるかと被存候」(賀古鶴所宛書簡、1920年1月・大正8)に始まる国際労働会議の八時間労働制可決に対する見解「八時間の効果の方が大なる事心理学上実験にて証せられ」云々。(やがては山県有朋との国家社会主義的革命の画策にまで発展したと一部の学者によって、推測される鴎外の傾向なのであるが。)
石川啄木が平出修から大逆事件裁判の内容を聴いたのが1911年(明治44)1月3目。平出のところで一件書類、特に管野須賀に関する分を抜き読みしたのは彼女の死刑執行の翌日26日である。啄木の「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」よりつ所調今度の事」にいたる一連の作業の二、三か月前、鴎外は思想、芸術への国家権力による断圧を批判して「沈黙の塔」(1911年11月・明治44)、「食堂」(同・12月)を執筆した。陸軍省医務局長、陸軍々医総監森林太郎としては、事件に対してなし得たこれが限界であろう。この年五十才。師団補充令改正中の条項に関し、強く自説を主張し、辞意を表明した。第二回目の辞意表明(10月21日)は、「雁」掲載第二回と第三回との中間頃にあたる。大逆事件と微妙な関係をもつ恩賜財団済生会病院建設に努力するのもこの頃である。
「昂」掲載第十一回(第四巻第十号、1912年10月1日・大正元)分執筆と前後して、乃木希典夫妻の殉死に衝撃を受け、「興津噸五右衛門の遺書」(9月18日脱稿、10月1日発表)を一気に書きあげた。要するに大逆事件や、乃木夫妻殉死の影響は前記三つの短篇ならびに「かのやうに」(1912明治45)などをうんだが、「雁」には直接の影は落さなかったかのごとくである。
「雁」は1922年2月1日(大正2)発行の「昂」まで連載された。1912年(大正元)11月(岩波文庫版)、1913年5月(「森鴎外」〔「近代作家研究アルバム」〕筑摩書房の「年譜」他)など、〈試拾牽〉「昂」掲載終了日付は諸本により異る。〈或拾試〉以降は、1915年(大正4)5月、単行本出版(籾山書庖)の前に再び筆をとったのである。「雁」発表開始の前月以降、〈武拾堂〉完結の翌月までの他の発表作品は次の通りである。(訳書の原著者名は訳者の表記のまま。)
1911年(明治44)9月、戯曲「なのりそ」、「かげ草」出版10月、「百物語」「灰儲」発表開始。11月、ピヨルンソン「手袋」訳発表開始。12月、イブセン「幽霊」訳出版。
1912年(明治45-大正元)1月、「かのやうに」「不思議な鏡」、「俳句といふもの」、イイベルス「己の葬」訳、キイゼル「汽車火事」訳、リルケ「祭日」「駈落」訳、リリエンクロン「老曹長」訳、ラント「冬の王」訳、コロレンコ「樺太脱獄記」訳、ベルハアレン「僧院」訳発表開始、シュニッツレル「みれん」訳発表開始。四月、「鼠坂」、シェエフエル「父と妹」訳、シュミットボン「ヂオゲネスの誘惑」訳、シュニッツレル「恋愛三味」訳発表開始。5月、「吃逆」レエジユニエ「不可説」訳、ドストエウスキイ「鰐」訳発表開始、フォルミヨルレル「正館」訳発表開始。6月「藤棚」。7月、シュニツツレル「みれん」訳出版。8月、「羽鳥千尋」、モルネル「破落戸の昇天」、「我一幕物」出版。9月、「田楽豆腐」。10月「興津弥五右衛門の遺書」、プレボオ「田舎」訳発表開始、戯曲「ギヨツツ」発表開始、12月、「常盤会詠草第三篇」
1913年(大正2)1月、「阿部一族」、リルケ「老人」訳、イイベルス「請願」訳、シュニッツレル「一人者の死」訳、ステエンホオフ「夜の二場」訳、レエジユニエ「復讐」 翻訳開始、トルストイ「馬丁」翻訳開始、「ファウスト」第一部訳出版。2月、シュニッツレル「恋愛三味」出版、「青年」出版。3月、「猿」、「新一幕物」 出版、「ファウスト」第二部訳出版。
軍務のかたわらの文業とはとうてい信じられぬ精進である。この活動期を縫って「雁」は筆を進められた。森於菟の「人間の力のレコードをなしはすまいか」と語った学芸への献身の中の、「あそび」というならばこれはひたむきな「あそび」である。
「雁」とこの小説を名づけた時、すなわち起稿の前、既にクライマックスの力点までを含めてすべての結構が成立していたことは明らかだ。〈弐〉の「窓の女」の「肱掛窓」も「万年青の鉢」も、〈拾玖〉の蛇退治の舞台装置であり、小道具である。この章の岡田が「肱掛窓へ片足を掛け」るが早いか、「左の手はもう庇の腕木を握ってゐる」のも、既に〈士宮〉で暗示された彼の運動家らしい敏捷性の故である。季節の移り変りも、すべて前後照応し、「秋日和」から「小春日和」にかけての気温の変化と窓の開閉との関係も微妙である。全篇、巧微な副線をはりめぐらせ、大契点、小契点、それぞれ占めるべき位置に誤またず配置されているのだ。
確かに「青年」にくらべて「雁」は「うまくしか書けなかった筈である。」(石川淳「森鴎外」角川文庫、八七頁)緊密なプロット、副プロットの展開とその効果の測定は、起筆後、当初のプロットの変更の痕跡を少しも見せていない。一見、公私のできごとをよそにこの作品のみ「ここでは作者からも独立して存在している」(唐木順三「森鴎外の人と作品」学習研究社、二二三頁)かのようだ。従って、社会的背景や歴史的潮流にこだわらず、「ヰタ・セクスアリス」以来の、そして「青年」につながる文脈にゆったりとこれをのせて鑑賞する方が無難であるとさえ見える。「自然主義直後」の影響をいささかは免れぬ伝奇的小説―――ロマンテイックを浪漫的と当て字した夏目漱石に対し、鴎外は伝奇的の訳語を用いた、―――としてのみ扱うべきかも知れぬ。
しかし、それにしても、なぜ作者は「古い話である」 この物語に、ことごとく「今」を以て「その頃」を対照、強調したのであろうか。
平塚雷鳥の青轄社発起人会は1911年(明治44)6月、「青鞜」創刊は9月。この間、3月にはオーストリア、ドイツ、デンマークなどで最初の国際婦人デーが挙行され、スイスに婦人参政権問盟大会が開催された。日本でも4月、婦人矯風会、救世軍などの廃娼講演会が聞かれる。
管野須賀処刑の1月、キュリー夫妻はノーベル化学賞を受ける。3月29日工場法が施行されるが、その日、鐘紡岡山花畑工場女工はストに入った。(8月には東京亀戸の日清紡女工ストがある。)そして文芸協会の「人形の家」の公演はこの年9月22日である。「雁」〈或拾萱〉終了の同月(1912年2月)「青鞜」発売禁止、(ロシアの第一回国際婦人デーはこの翌月。)同年末、官吏の地位を犠牲にして石原修は「衛生学上より見たる女工の現況」を公刊した。衛生学者であり「衛生新誌」主宰者でもあり、二十八才にして「女子の衛生」を発表した漱石が、石原修の壮挙に無関心であり得るはずはなかったに違いない。
「三十五年を経過してゐる」と結末に明示した、起筆時の「今」における約四年の時間差設定の真意は何か、をかさねて想う。
「人形の家」を訳了した鴎外が、これを近代劇協会の上山草人にわたしたのは1913年(大正2)10月16日「明治十三年の日本のノラは、こうして青魚のみそ煮のおかげで、人形の家をとび出すこともなかったであろう」と片岡良一氏(「雁」新潮文庫、二二三頁)は述べたが、前述「昂」連載第十回と第十一回との間で、既にこれは文芸協会の舞台にかかっている戯曲だ。にもかかわらず、彼は改めて自分の手になる訳稿を近代劇協会にわたす。こうした鴎外が、ノラの運命にまさか「青魚の味噌煮」をもって改訂を加える意図のあろうはずもない。医師になり損ねた五十三才のノルウェーの劇作家の手によって「人形の家」が世に問われた、その翌年を舞台に、五十才の日本の陸軍々医総監は、あえてこの国のお玉の運命、ノラが意識し、自力により開拓しようとしたものを、半ば無意識裡に岡田という他力の助けを得て開拓してもらおうとする女性の運命を描いたのだ。
高利貸末造が妾宅をかまえた頃にくらべれば、「今」の開化はめざましい。しかも、その開化の趨勢は婦人解放運動をも、ゆるやかではあるが確実に押し進め始めている。こうした状況を巨視的にも微視的にも見逃す作者ではない。これは執筆時という歴史的事実としての「今」でなく、加速度をともないつつある同時代の潮流の中に、心理的に自覚される文明の「今」なのではあるまいか。四年のずれをそう読みとりたい。
現実の「雁」完結の翌年(1928・大正5)の1月、寸婦人公論」創刊、婦人問題研究会設立(麻生正蔵、高野重三ら)、労働問題研究会設立(友愛会)、吉野作造の民本主義提唱などのことがあり、彼自身3月には願いによって予備役に編入されている。
なお「雁」の単行本出版すなわち〈武拾或〉以降執筆は、1915年(大正4)であり、この時点では「三十五年」となっていることはいうまでもない。『語り手の「僕」だけは、いつの間にやら四歳ほど老けこんでしまっている』(竹盛天雄「雁」〔「森鴎外必携己一四一頁)わけだ。 
2 作者における近代としての「その頃」 

 

「僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云ふことを記憶してゐるし〈壱〉という冒頭の一行にこだわる。土たして「偶然じであったのだろうか。無論、登場人物としての「僕」は説話者であるわけであり、説話者を作者と同一人格と仮定して見た場合のこだわりである。
作者にとってはおのが精神史ないし生活史上の一種の歴史的必然性によって、「明治十三年」にこの物語を設定しなければならなかったのではあるまいか。「上条が明治十四年に自火で焼け」〈壱〉なかったとしても、作者がこの年を記憶から喪失することはあり得なかったのではないか。
「釘一本」〈弐拾弐〉の話をきっかけに、クライマックスの舞台を展開し始めたのは、しだいに間隔をせばめつつ、いわば黄金律をもって反覆される偶然性から、読者の限をそれさせるための、作者の「アルチザンの至芸」(唐木順三、前掲書、二二三頁)的な詐術に他ならない。
まず「青魚の味噌煮」、石原との出会い、岡田の石の命中、そして末造の千葉行きの晩が、岡田にとって上条最後の夜になっていたことは最大の偶然であろう。
「十三夜」の樋口二某はお関の運命を狂わせるために追羽根をそらせたが、上条の夕食もこれを連想させる。
片岡良一氏の指摘の通りである。すなわち『「雁」の悲劇は要するに近代日本を通じての問題であったのであることが、知られるのでなければならない。そういう主題を置いて見せた舞台が、明治十三年という時代の世界であり、またその世界がいかにも如実に描かれているために、どうかすると此作全体が旧めかしいものであるかに錯覚する人もあるようだけれども、そう思えば、此作が、明治十三年とか自然主義直後の時代とかいうものを越えて、明治大正期を通じての重要な題目に触れた、すぐれて注意さるべき作品の一つになるのであること。』(前掲書、一三八頁)
有島武郎の「或る女のグリンプス」(「或る女」の前篇)は「雁」〈或拾萱〉と同月号の「白樺」に、終っている。
挫折というなら葉子もまた同様ではないか。背景とする時代の前進分だけの前進しか、「或る女」に見られぬとお玉より葉子の方が「果敢な闘い」を人生にいどんだとはいい得まい。妻子ある巡査の堵にだまされて「井戸へ身を投げると云って飛び出した」 〈堕〉のは当然としても、いえば苛酷であろうか。
「自分の家よりは二三軒先へ出迎へてゐた」〈弐拾嘩〉時のお玉は、彼女なりに精一杯「果敢」ではなかったのか。
「人形の家」のヒロインは、お玉が「妾奉公」を決心する前年家を捨てているではないかというならば、明治十三年に葉子が「或る女」たり得なかったであろうごとく、ノルウェーのノラはこの時点では「日本のノラ」たり得ないのである。
1912年(明治45)1月、「雁」第四回と第五回の掲載との間で、「かのやうに」が発表された。大逆事件そして山県有朋との隠湿な脈絡を否定し得ぬ短篇である。(これが「幽霊」鱗訳出版の翌月にあたる。)「義務が事実として証拠立てられるものでないということだけ分かって、怪物扱い、幽霊扱いにするイブセンの芝居なんぞを見るたびに、僕は憤惑に堪えない。破壊は免るべからざる破壊かもしれない。しかしその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微かなやうな外観のものではあるが、底にはかのやうにが儼乎として存在している。」五条秀麿をしてプラグマテイズムの立場をとらしめた作者、「雁」の中に存在する「かのやうに」描かれたものは何か。描かれていないものは何か。
1880年(明治22)イブセンは「民衆の敵」を、ゾラは「ナナ」を、世に送った。日本では4月、集会条令公布、6月、印刷局女工の出入時身体検査を女子係員に変更する要求が出される。寸松源の目見え」〈陸〉はそろそろ近づく。後に「蛇が気圧の変調を感じてさまよひ出て」来る重要な前提として、『二百十日が「なしくづし」になった』のは、「雁」 の9月であるが、東京神田区会の婦人傍聴もこの月実現した。(デンマークでは妻の財産権が承認された。)そして十九才の医学生鴎外は上条に下宿し、「花月新誌」「桂林一枝」などを愛読し、寄席に通っていたはずである。
向島から千住北組一丁目に転居し、明治13年尻町上条の下宿生活に入ったとされていたが、「恐らく頃を省いても誤つてはゐないであろう」と考証したのは岸田美子氏(『「雁」偶感』〔「国文学解釈と鑑賞」〕1946年6月号)であり、今日ほとんどの年譜が明治13年上条下宿と記載している。本稿もこれに従う。
東京女師幼稚園保栂練習科設置はその前々年、教育令公布は小学校の裁縫科設置などと共に前年のこと。(お玉の隣の「裁縫を教へてゐる女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって」〈弐〉いたことを想い出そう。)
「僕」は〈壱〉の登場人物であり、兼ねて説話者であるが、次章で早くも姿を消す。以下の各章は一種の the omniscientpoint of view に近い the external point of viewにより展開される。ところが〈拾捌〉で忽然と「僕」が再登場するや、「実体鏡の下にある左右二枚の図を、一の影像として視るやうに」〈弐拾埠〉しだいに一人称話者の地位を回復しつつ、登場人物としてはワキを演じ、結末にいたって完全な「僕」すなわち the point of view of the leading actorの立場でみずから幕を閉じる。(花道七三に「僕」のみ残り、ト宜敷見得の趣ではあるが)
視点の移動は絶妙だが、「僕」は「お玉とはどうして相識になって、どんな場合にそれを聞いたか」〈弐拾韓〉「相識」になり得た時と所と、何よりも或る種の自由とがあたえられていたことを暗示する。
「そればかりでは無い」の余韻は幾様にも味わわねばならぬ。お玉が「掛泥の中から救抜」〈弐拾弐〉される可能性は、否定されていないのだ。ただ『「雁」と云ふ物語の範囲外にある』〈弐拾睦〉だけなのだ。
「明治十三年」を少しでも「今」より遠く、鴎外はながめたかった。(意識して一歩退いた。四年の計画的誤差がそれである。)何としても、これは「古い話である」 〈壱〉ことを自他共に認めねばならぬ。
『帰って行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少くも「まだ」無い。その萌芽も徒らに枯れてしまいはすまいかと気遣はれる』とは「妄想」の中に回想する1888年(明治21)の自分である。「雁」 発表開始ないがしろの約半年前の心境は「妄想」の結びだ。「未来の幻影を逐うて、現在の事実を蔑にする自分の心」に、「過去の記憶が、稀に長い鎖のやうに、利那の間に何十年かの跡を見渡させることがある。」「目が大きく降られて、遠い遠い海と空とに注がれている。」
「末造の自由になってゐて、目を槙って岡田の事を思ふやうになった」お玉が、「折々は夢の中で岡田と一しょになる」〈弐拾〉のは10月頃であろう。(この月、世界廃娼連盟会から政府へ「婦女を侮辱する」ものとして公娼廃止の勧告およびイタリーに開催する第二回大会出席招請状が届く。)
時代の潮は岸田俊子や、景山英子らの心情をゆさぶり始めた頃ではあるが、「手習をする暇も無かったので、自分には満足な手紙は書けない」〈弐拾〉ようなお玉の胸にまで、解放の海鳴りを響かせるのは困難である。当時の婦人解放思想は、海外の新知識として渡来した危険な文明に他ならなかった。
「古い話」 の構成をそのままに作者の家父長的女性蔑視観とその階級性とを批判することは滑稽であろう。彼が「嫡男意識」を保持しつつ封建遺制を否定しなかったことは事実であるが、少なくとも「雁」にあって非難されるべきはその時代そのものなのである。そして、ほとんどの論者がお玉をのみ問題にして、末造の解放を黙殺しているのもふしぎだ。「小使」から身を起した末造の「債務者の脂を柚子なら苦い汁が出るまで絞ることは己に出来る。誰をも打つことは出来ない」〈拾伍〉という独白は、初期資本主義体制下にあって、鮮やかにみずから解放をかちとった人間の、モーパッサンが健康であるという場合と等質に健康な市民宣言ではないか。女房お常を軽蔑する。しかし「当人には気の毒だが」「なぐるなんと云ふ余計な手数は掛けない」という末造は、封建制下の町人ではない。
「羊葵と云ふのは焼芋、金米糖と云ふのははじけ一旦であったと云ふことも、文明史上の参考に書き残して置く価値があるかも知れない」 〈睦〉としるされた通り、当時の文化史、風俗史的側面をこの小説は持つ。花月新誌、福地源一郎、円朝、駒之助、如燕の佃煮、金天狗、「岸田の花王散」、「たしがらやの歯磨」、「暁斉や是真の画のある団扇」、「骨牌のやうな形の青い五十銭札」〈拾参〉(〈弐拾壱〉にも「骨牌のやうな恰好をした半円の青い札」)福地に対する榔検のくどさは、これを愉しむために末造の本宅をわざわざ桜痴の隣に設定したのではないか、との疑念さえ湧く程だが、往年の幕臣、草紙」の主宰者の面目を残している。松源での声色の成田屋と音羽屋にしても、九代目と五代目とが、当時既に在野ジャーナリスト兼売文業者に対する彼らしい文明批評であり、「柵若手の人気役者であったことを読者に教示する。
しかし、作者にとって最大の「書き残して置く価値がある」ものは「焼芋」でも、「はじけ豆」でもなく、お玉その人なのだ。いわば明治13年を擬人化した女性がお玉なのである。それは日本女性史上にかくあるばかりでなく、鴎外の精神史、生活史においてもまた。
「おやそう、お前さんお気の毒だが帰ってね。さうお云ひ、ここの家には高利貸の妾なんぞに売る肴はないのだから」〈玖〉のたんかにしても、金融資本確立期以前(日本銀行条例公布、1822・明治15)「高利貸は厭なもの、こはいもの、世間の人に嫌はれるものし八玖〉であり、江戸魚河岸の気風は、魚金の上さんに残されて、末造と同格の市民権獲得には未だ程遠い距離を示すο ぺ江戸の町家の習慣律が惰力を持ってゐたので、市中から市中へ奉公に上がってゐても、薮入の日の外には容易に内へは帰られぬことに極まってゐた」〈弐拾壱〉から、「梅は怪訟の目を跨った」のと同様。
お玉の冒険の朝、何よりも「十羽ばかりの雁」〈弐拾瞳〉こそ、明治13年の故に、「文学へのノスタルジイが黄昏の水の上に浮んでゐるけしき」(石川淳「森鴎外」角川文庫、八六頁)で不忍の池に羽根を休めていたのではなかったかわそればかりではない。 
3 十九才という設定とその精神史的背景 

 

鴎外はこの年十九才。
作中に明示されてはいないが、お玉も同じ十九才であるυ これは「爺さん」の語る「生麦で西洋人が斬られたと云ふ年」 〈陸〉により、1862年(文久2)生まれとすることができる。
この設定は、鴎外にとってある必然性を持つのではないかと推測し、ここに「雁」 の成立過程を論じたのは岸田美子氏(前掲書)だ。「ヰタ・セクスアリス」 十七才の条で、初恋の対象として描いた古道具屋秋貞の娘の話は、現実には鴎外十九才の体験ではないかという推定。これは今日、ほとんどゆるがぬ定説となっている。
『「ヰタ・セクスアリス」の「僕」のドイツ留学は二十一才の8月24日、鴎外の実際の出発は二十三才の同吋ここに小説と事実の聞に、年令の上で二才のズレが見出されるわけである。すでに留学出立の年月に二才のズレがあるならば、「ヰタ・セクスアリス」に十七才の事件として措かれてゐる初恋の端緒は、事実は鴎外十九才の折の体験ではなかったかといふ疑ひが、ふと心をかすめるのであるυ』(岸田美子、前掲書)1874年(明治7)十三才で東京医学校予科に入学した鴎外が、規定年令に満たないため二才増して万延元年(1860)生まれとして願書を提出、以後公的にはこの履歴詐称を通したことは、公認の事実であるから、岸田氏の説は、正確と4認めてきしっかえないのだ。
実は、そして、実在の秋貞の娘がお玉と同型の人物であるという説も、木下杢太郎(岩波日本文学講座「森鴎外」)の指摘以来のことである。十九才の鴎外が上条に在ったとすれば、実家との往復途上、秋貞の古道具屋の屈の前を通過したであろうと岸田氏は説く。ここに「十九といふ年令、明治十三年といふ年は、鴎外の脳裡に何等か或る深い、忘れ難い感銘を刻んだ年ではなかったか。その或る深い、忘れ難い感銘といふのが、彼の初恋ではなかったか。」(前掲書)本稿もこの説に同調する。
モデルの本名もしくは、容易に推定可能な人名を作中に使用するのは、エリス(「舞姫」)以来鴎外の慣習的なものである。従って、玉という名前についての考証は数多い。玉が作者好みの名であることは「半日」の中で娘を「玉ちゃん」と呼んでいるし、「ヰタ・セクスアリス」の「あなた私の名はボオルよ、忘れちゃ嫌よ」の芸者お玉がある。(舞台も「雁」と同じ松源。)
渋川暁氏(「森鴎外」筑摩書房、一一八頁)は、「雁」と「ヰタ・セクスアリス」の相関々係を論じ、お玉を『「ヰタ」の「秋貞」の娘と、芸者のお玉の混合したものと考えることができる』と断定した。さらに児玉せきの存在を「雁」に結びつけたのも同氏である。鴎外の前妻、於菟の母赤松登志子との離婚と、後妻荒木しげとの再婚(「小倉左遷」の末期) との聞は、十一年を距てるが、母峯子にすすめられて自宅の近くに隠し妻(妾)を置いた。
これが児玉せきである。森於藁の言によれば彼女には雀斑があった。(彼女の宅への鶴外の往来は、末造の妾宅へのそれに似通っていたかのごとくである。)
渋川暁氏の説を要約すると次の通りになる。
「ヰタ・セクスアリス」
秋貞の娘(実在人物)=住職の妾Ⓑ(「余程年が立ってから」その事実を知る。)
芸者お玉Ⓐ(実在人物?)(松源で「僕」と会う)
「雁」
お玉Ⓐ=末造の妾Ⓑ(松源で目見得)
「どこかお玉に似てゐる」芸者〈拾漆〉―――雀斑Ⓒ
児玉せきⒶ(実在人物)=鴎外の隠し妻(妾) Ⓑ―――雀斑Ⓒ
右の要約中の共通項を列挙する。
Ⓐ玉の名前は、「芸者お玉」、「お玉」、児玉せきの玉。(他に、「半日」の「玉ちゃん」)
Ⓑ妾であるのは、「秋貞の娘」、「お玉」、児玉せき。
Ⓒ雀斑があるのは、「雁」〈拾漆〉の芸者。(末造が「昌平橋に掛る時」すれ違う) と児玉せき。
なお、「芸者お玉」と「僕」、「お玉」と末造は、共に松源で会う。
また、岡田のモデルは緒方収二郎、石原は江口裏、末造にもモデルがある。(彼とは永井荷風の父も交渉があった。)「僕ヘ岡田、末造、爺さんのそれぞれに鴎外の気質ないしは性行が投射されている。いわば「勝手のよくわかった持駒」(渋川暁「森鴎外ー一二二頁)を揃えたのであって、雁の事件も実際にあったことは森潤三郎により伝えられた通りだ。
渋川氏はっ雁のお玉が、彼の生涯のいく多の経験と観察との断片から、複雑な過程をもって、創造されていることが考えられる」にもかかわらず、三」の作品の扱っている世界の古さ」が、「なにか反援させるものが」あり「この作品にたいする作者の批判が、強く感ぜられない。」「むしろそれを4認容しているような印象をあたえているほどだ。」「知性の豊かだった鴎外の作としては、よく納得のゆかないところだ」として、その理由を、児玉せきを隠し妻とした鴎外が、ご」れを批判することは、自己を批判することに通ずることだった」(前掲書、二一〇としているのには、やや同意し難い感じがする。末造に自己の気質、態度を断片的にせよ移入するー一二二頁)」と自体、自己批判ではないか。
片岡良一氏のいうように「自然主義直後」には、「人間の自我を、従って人間の力を、弱々しくはかないものと思う気もちが時代一般に傍薄していたのである」(前掲書、一三六頁)ことは確かであるが。鴎外において、その影響がそれ程の濃度を高めたとは思えないロマンティックな身辺小説的作品―――「妄想」のいわゆる『少なくも「まだ」無い』時代、「fatalistisch な鈍い、陰気な感じ」 の中に、何ものかを、「利那の聞に何十年かの跡を」「遠い初恋と幻滅との同時代史的裏打ち、遠い」何かを、とらえようとした小説と考えても良い。
『人間の悲劇の根本が、「青魚の味噌煮!一などの関知する以外のところにあることは、今日の知性にはもう明
瞭すぎるくらいのものではないか』(片岡良一、前掲書、一三九頁)ということ位は、他ならぬ鴎外の知り抜いて
いたことで、あえて「今日」をまつまでもない。
岸田美子氏によれば、「運命に圧迫せられて負ける運命論者ではなく、運命を正しい限界において見極はめる
人であった。そして運命と人間とのかかわりには、並々ならぬ興味を持ってゐたのであろう。」『しかも「不しあはせな雁」といふ概念の枠を逸脱したのは、お玉自身であったのである。産みの親鴎外といへども、それは如何ともし難い事であった』のだ。
だが、「不しあはせな雁」〈弐拾捧〉とつぶやいた岡田も「三十五年を経過し」た「今」、この世には既にないと
いう作中の現実が、なぜ従来論議の外に置かれて来たのだろうか。 「岡田とお玉とは、水速に相見ることを得ずにしまった。」〈弐拾障〉(傍点筆者)ことを看過すべきではない。
同田の死によって、お玉は岡田による解放の機会を遂にあたえられなかった。だからといって「人形の家をとび出すこともなかったのであろう」(片岡良一、前掲書、一三三頁)と断定することは性急に過ぎる。岡田の助力にすがって「とび出すこと」ができなかったというだけではないか。
お玉は「妾奉公」の境涯から自分を解放する可能性を、未だ完全にはとざされていなかったのだ。「読者は無用の臆測をせぬが好い」という最後の一句こそ、臆測の可能性の翼の無限の飛朔力を肯定するための反語的表現ではあるまいか。
岡田のドイツ洋行と、末造の一夜の留守を唯一の好機とするお玉の状況とを対比する時、この最大の偶然こそ、実は深刻な必然であることがわかる。お玉と岡田との帰属する階級の隔絶ll必らずしも、岡田がブルジョワジーに所属するというような意味ではないーーーからよって来るところの必然性なのであるG ベルリンの若き鴎外が私費で買い求めた顕微鏡の価格の何分の一かの報酬を、教師として得るために激石はどれだけの苦労を払ったか。日露戦争の凱旋将軍の馬車の一台に乗っていた鴎外と、見物人のひとりであった激石ll中野重治氏らの指摘したその懸隔どころのものではない隔絶が、お玉と岡田との聞には必然的に存在した。「不しあはせな雁」の悲劇の偶然は必然的に発生したのである。
「僕」を鴎外の額縁におさめて見るなら、「あなた青魚お嫌。」つまあ、お上さんが存じませんもんですから。なんなら玉子でも持ってまゐりませうか」八弐拾弐〉の上条の女中を、二十九年後のつローマ字日記」の啄木が下宿の女中から受けた待遇と、対照せざるを得ない。「顔を洗って来ても火鉢に火もない。」「飯を持って来た。シヤモジがない。ベルを押した。来ない。叉押した)来ない。余程経ってからおつねがそれを持って来て、ものも言わずに投げるように置いて行った。」(「ローマ字日記」1909年4月19日、明治42、岩波版「啄木全集」、原文ローマ字)
「歴史其偉と歴史離れ」(一九一五年、大正四)のひそみにならって、唐木順三氏(前掲書、二二二頁)は、「雁」の「あそび」を、すなわち「生涯離れ」 と規定した。「腕の仕事」、同時に作者の「内面的真実とは離れたところで構成された、こしらえられた作品」だというのだ。
だが、「歴史離れがしたさに山淑太夫を書いたのだが、さて書き上げたところを見れば、なんだか歴史離れがし足りないやうである」(「歴史其儲と歴史離れ」)という鴎外の述懐を玩味したわたくしの考察は、いくらか異ったところに結論を導きたくなる。
「雁」においては、作者生涯其俸の重みが、その人工の妙を極めた虚構にもかかわらず、否、むしろ虚構の故に、「生涯離れ」を妨げたのではあるまいか。
l無用の臆測をせぬが好い」の一句こそ、完壁な虚構の最後の仕上げを意図して、実は作者の無意識に洩らした「内面の真実」ではあるまいか。なぜなら、この一句さえ存在しなければ、わたくしもここに「無用の臆測」を綴る必要はなかったであろうから」。 
 
森鴎外と「殉死」

 

森鴎外晩年の歴史小説
森鴎外の晩年における創作活動は、今日歴史小説といわれているものに収束していく。彼は大正元年51歳のときに、明治天皇の死に対してなされた将軍乃木希典の殉死に触発され、「興津弥五右衛門の遺書」を書くのであるが、これがきっかけになって、殉死に象徴される権力と個我との緊張について思いをいたすようになった。阿部一族以下次々と書き継いだ歴史小説は、その思いを深化させ、検証していく過程ともいえる。
鴎外がこれらの作品を通じて訴えかけようとしたものとは何か。なかなか難しい問であり、それについての文学史的な研究もそう進んでいるとはいえない。
鴎外は長い間、漱石と並んで近代文学の偉大な開拓者としての地位を与えられてきた。だがその生き方や作風には自すから違いがある。漱石が在野の一作家として、生涯を通じほぼ同一の問題意識を追及し、年を経るごとにそれを深化させたといえるに対して、鴎外の場合には、軍医という職業柄ながら、高級官僚としての道を歩み、その傍ら創作活動を続けた。また軍務の多忙によって中断された長い時期を挟んで、前期と後期とでは創作上の著しい違いがある。
「舞姫」によって代表される前期の作品が文語体をもって書かれ、「半日」以後の後期の作品が口語を以て書かれているといった、外形的な違いのみにとどまらない。
前期の鴎外は、ドイツ留学を通じて育くんだ西洋文学の知識を以て、日本文学に清新な空気を送り込んだ功績はあるといえ、それらの作品に今日にも通じるような普遍的な文学性があるとはいえない。まして深い思想性があるともいえない。鴎外が前期の延長線上で創作を続けていたなら、漱石ほどに評価されることはなかっただろう。
だが鴎外は晩年とも言うべき時期を迎えて、ものに付かれたように創作活動を再開した。明治42年(48歳)に雑誌「スバル」に発表した「半日」は、自分の身辺に題材をとった小品で、内容については、大したものを見ることもできぬが、鴎外にとっては、創作活動を再開するための準備運動に相当したのであろう。
鴎外は「半日」に続いて、「ウィタ・セクスアリス」、「青年」、「雁」と、立て続けに作品を発表した。それらの作品群は、今日でも鴎外の代表作といわれている。それらに共通して流れているのは、封建社会から近代社会へと移り変わりつつあった、過渡期の日本社会の中で、個我というものが、現実に生きる人間にとってどのように可能であるか、といった問題意識であったように思われる。
この点では、鴎外はあるところで、漱石と共通な問題意識にたっていたともいってよい。
作家としてやっと地歩が確かなものとなりつつあったそんな鴎外にとって、衝撃的な事件がおきた。乃木将軍の殉死である。鴎外はこの事件に触発されて、「興津弥五右衛門の遺書」という小品を書いた。乃木希典の殉死については、発狂説とか自殺説が流れてもおり、世間の論調はかならずしも乃木の殉死の意味に関して好意的だったわけではなかった。鴎外はこうした風潮に対して、抗議の意を表わすために、この小品を書いたのだとも言われている。とにかく、乃木の死を知った数日後には脱稿したという早さであった。
鴎外はこの小品の中で、殉死というものがもっている美徳のようなものを描き出すことで、乃木の殉死に意味を持たせようとしたのだと考えられる。個人的な事情をいえば、鴎外は陸軍において、乃木とは親しい間柄であった。鴎外が軍医総監まで出世できたのは、山県有朋はじめ長州閥の贔屓があったからだといわれるが、乃木はその長州閥のチャンピオンのような人物であった。(鴎外は長州の隣国石見の出身である。)そんなところから、鴎外は乃木に対して個人的な感情も持っていたのである。
鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」を書いた後、やはり殉死をテーマにした作品「阿部一族」を書いた。だが同じく殉死といっても、興津弥五右衛門の場合には主君から認可され、したがって祝福された殉死であったのに、阿部一族の場合には、殉死は犬死に終ったばかりか、その一族たちはことごとく滅び去らなければならなかった。
この相違を考えるうちに、鴎外は殉死というものを通じて、主君と家臣、権力と個我との緊張関係について、思いをいたさないではいられなくなった。
殉死を選び、またそれにこだわらざるを得なかった鴎外の小説の主人公たちは、
体制にがんじがらめに縛られ、そこに自分の存在意義を置きながら、なおも個我としての自分自身にこだわる人間たちであった。鴎外はそんな人間たちを描くうちに、一人の人間としてのあり方をぎりぎりのところで支える、普遍的な感情を見出すようになっていった。
鴎外はそれを「意地」と名付けている。「意地」とは鴎外にとって、人間としての尊厳を支えるぎりぎりの感情であり、しかもそれは時代を超えて、人びとがよりどころにしてきた普遍的な感情なのであった。
「阿部一族」の後、鴎外は「佐橋甚五郎」、「語寺院原の敵討」、「大塩平八郎」といった作品を次々と書いていくが、それらはみな、人間としての「意地」をテーマにしたものだったといってよい。
鴎外は意地を前面に押し出すことによって、人間の人間としての尊さを考え直してみたいと思ったのではなかったか。人は意地のためには許されない殉死もするし、また途方もない権力と戦うこともできる。その権力を前にしては、小さな個人の「意地」などは、容易につぶされてしまうものではあるが、しかしいかなる権力といえども、個人の「意地」に体現したその人の人間としての尊厳までつぶすことはできぬ。これが鴎外のいいたかったとこだろう。
鴎外は「意地」を書くことと平行して、献身の美しさについても書くようになった。「山椒大夫」に現れた安寿の献身について考えてもらいたい。鴎外はこの安寿の献身を、説教節のテクストの中から発掘してきたのだった。説経では安寿の献身と並んで、厨子王丸による復讐が大きなテーマになっているのだが、原作と鴎外の翻案とを読み比べればわかるとおり、鴎外は復讐のテーマはさっぱり切り取って、献身というものに焦点を集中している。
意地にしろ、献身にしろ、日本人が古来身につけてきた尊い美徳である。それが鴎外の生きていた明治の社会においては、衰えつつあったのではないか。鴎外はそのような危機意識を感ずるようになったのではないか。
このような問題意識にもとづいて歴史小説を書き続けるうちに、鴎外はついに「史伝」と称されるものに手をつけるに至る。「渋江抽齋」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」の三部作である。従来は小説として必ずしも高い評価があったわけではないこれらの諸作は、今日では鴎外の到達した最高の作品群だとされるようにもなった。
これらの史伝においては、歴史小説のテーマであったものは、表向きは出てこない。史伝と称されるように、文章は考証学的な厳密さを追求し、文学的な装飾はできうる限り排されている。
この三部作の主人公たちはいづれも医者である。鴎外は自身が医者であることにこだわり、自身のアイデンティティを見直す意図のもとにこれらの作品を書いたとする見方も成り立ちうるだろう。だがこれらの作品を通読すると、そこには単なる歴史的事実の羅列にとどまらない雰囲気のようなものが伝わってくる。
それが何なのかは、読者が自分自身の心で捉える必要があろう。筆者はそれを友情がかもし出す暖かい雰囲気だと感知している。鴎外は、人間にとって意地は無論必要なものではあるが、しかしそれだけが大切なものなのではないと感ずるようになった。たとえば友情や愛やそれらを支えるものとして献身というものがある。献身とは他者のために自己を犠牲にすることである。それは利害を重んじる今日的な感覚からすれば、あるいは理解しがたい感情かも知れぬ。だが人間の生き方という面からこれをとらえなおしてみれば、これほど尊いものはほかにありえない。
鴎外はこの献身や愛や友情というものを追及するうちに、人間にはせせこましい利害を超越した尊い感情が宿っているのだと感得した。人間には、互いに人間として支えあうような感情が備わっており、それゆえにこそ人間はどんな辛いことにも耐えて生きていくことができる。
こうして鴎外は、友情や、家族の愛や、ひいては人のために自分を犠牲にして悔いない献身というものに、人間が人間として生きていくうえでの普遍的な徳性というべきものを見出した。鴎外の最晩年の創作活動は、こうした想念を展開して見せるための営為であったということもできる。
鴎外の最高傑作ともいえる「渋江抽齋」以下の史伝三部作は、これを一言でいえば、愛と友情と献身の文学なのである。 
「興津弥五右衛門の遺書」
森鴎外の晩年を飾る一連の歴史小説のさきがけともなった「興津弥五右衛門の遺書」は乃木希典の明治天皇への殉死を直接のきっかけとして書かれたものである。この殉死については、鴎外は日記の中で次のように記している。
大正元年九月十三日、晴、轜車に扈随して宮城より青山に至る、午後八時宮城を発し、十一時青山に至る、翌日午後二時青山を出でて帰る、途上乃木希典夫妻の死を説くものあり、予半信半疑す
十五日、雨、午後乃木の納棺式に臨む
十八日、午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る、興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す
鴎外は明治天皇の棺を載せた車に従って青山の斎場に行き、深夜家に帰る途上、乃木希典殉死の噂を聞いて半信半疑になった。しかしそのうわさが真実であったことがわかり、愕然としたのだった。乃木の納棺式に臨んだ上、十八日には告別式に参列し、そしてその告別式の催された当の日に、「興津弥五右衛門の遺書」を中央公論史上に寄せているのである。
鴎外が五日という短い間に、乃木の殉死をテーマにした文を草したのは、どういう事情によってなのか、さまざまな臆説がなされている。単に中央公論社から感想を求められたのに対して応えたのだという、割り切った見方もある。
だが鴎外には、乃木希典の殉死が、当時の日本人に忘れかけられていた、ある尊い感情を思い起こさせたのではなかったか。当時の一般の論調は、乃木に同情するものもあったが、否定的な見方をするものが、大新聞をはじめ多かった。中には、乃木は発狂したのだとか、別の事情があって自殺したのだといった解釈まで横行した。鴎外はそうした論調を眼にするたびに、忘れられつつある古来の美徳が、改めて足蹴にされるのを見るようで、腹立たしくなったのではないか。
この作品は、熊本藩で起きた古い殉死事件について、本人の遺書という形をとって、その経緯や意味するところを、鴎外なりに再構成したものであるが、それは鴎外が乃木にかわって、殉死の真理を弁蔬したものといえるのである。。
今日鴎外の全集類に載っているものは、殆どが後になって手を加えた再稿版であるが、初版の文は、この弁蔬という色彩が非常に強いものであった。
この文は、まず死後の名聞のために遺書をしたためておくのだという言葉から始まり、主君忠興の13回忌に当たって忠孝を尽くすために死ぬのであること、その忠孝は生前に忠興から賜った恩義からすれば当然の義なのであり、自分はこれまで延引して果たせなかった主君への殉死をこうして晴れやかになすのだと、宣言することで終っている。
興津弥五右衛門自身の弁蔬という形をとった文であるから、そこには鴎外自身の意見はあからさまには出ていないが、この文が鴎外の乃木の殉死に対する弁蔬となっていることは明らかである。つまり乃木は世間で言われているように、自分の事情によって死んだのではなく、明治天皇への忠孝のあかしとして殉死したのであると、鴎外はいっているのである。
鴎外はこのように、乃木の殉死を美化することによって、封建道徳の水準に己を立たせたのだろうか。
鴎外はこの文を、京都町奉行所与力神沢貞観の著「翁草」によって書いた。翁草は忠興と弥五右衛門との主従関係について触れた後に、弥五右衛門が忠興の三回忌にあたって、船岡山の西麓で潔く殉死したということを簡単に書いているに過ぎない。鴎外はこれを遺書の形に書き換えるに際し、弥五右衛門の忠孝とその結果としての殉死の必然性を強調したのであった。
だが何故殉死が弥五右衛門にとって必然となり、それが人倫に照らして賞賛すべきものとなるのか、その辺の事情については、遺書という形式の制約上必ずしも明らかにはなっていない。鴎外はただ、この文を通じて、乃木の殉死の持つ意味を、世間に投げかけてみたといえるのかもしれない。
この作品を書いたことで鴎外は殉死というものについて、改めて考察を加え、その結果を「阿部一族」という作品に投入した。阿部一族については稿を改めて述べたいが、鴎外はそこで、殉死にはただに忠孝という側面のみではなく、打算的な部分もあるのだということに気づいた。そこから殉死をめぐって複雑な議論を展開するようにもなる。
鴎外は、阿部一族を書き上げた後で、「興津弥五右衛門の遺書」をほぼ全面的に書き換えた。初版をいろどっていた弁蔬の色彩はやや後退し、殉死に向きあう弥五右衛門の思いを、淡々と述べさせている。鴎外自身の言葉をそこに介在させ、物語に脚色を加えることもしていない。弥五右衛門の子孫たちのその後について、簡単に触れているのみである。
こうした執筆の経緯をたどってみると、殉死という問題について、鴎外がいかに複雑な感情をもっていたか、伺われよう。
ともあれ、この作品が、殉死という古い封建的な行為に改めて光を当てたことは間違いない。しかし、鴎外がそこでとまっていたとしたら、大した文学的な意味は持ち得なかっただろう。鴎外は殉死を突き詰めて考えていくうち、そこに単なる義理や忠孝を超えた、もっと大事な人間の感情が介在しているのではないかと考えるようになった。
「阿部一族」以降に現れる一連の歴史小説は、こうした人間の普遍的感情とは何か、それに答えていくための、営為であったともいえる。 
「阿部一族」
森鴎外は乃木希典の殉死に衝撃を受け、乃木の心情を弁蔬するために、「興津弥五右衛門の遺書」を書いた。というのも、当時の世論は乃木の行為に対してとかく批判的であり、その意義を理解しようとしないばかりか、笑いものしようとする風潮まであったので、鴎外はこのまま見捨てては置けないと考えたのである。だが鴎外は、乃木の殉死を弁蔬しながらも、古来武士の美風とされてきた殉死というものには、単に個人の真情の範囲にとどまらない、複雑な背景があったのだということに気づくに至った。
森鴎外は殉死というものを、単に主君の恩愛に応える家臣の一方的な献身行為だとするのは、いささか短絡的だと思うようになった。そうした視点から「興津弥五右衛門の遺書」を書き換えるとともに、殉死というものについて一歩踏み込んだ作品「阿部一族」を書いてみることにしたのである。
「阿部一族」は許されなかった殉死をきっかけにして、主君の罰を蒙り、ひいては一族もろともに滅びなければならなかった悲劇を描いた作品である。事件の舞台は興津弥五右衛門の場合と同様肥後細川藩であるが、弥五右衛門が殉死した万治元年(1658)より一世代遡る寛永18年(1641)におきたことである。
殉死が幕府によって法度とされるのは二十年も後のことである。阿部一族の悲劇が生じた時代にあっては、殉死は武家社会の中にまだ確固とした慣習として根強く残っていた。
鴎外は藩主細川忠利の死から筆を起こす。忠利の荼毘に付される間、忠利が生前可愛がっていた二羽の鷹が井戸に落ちて死んだ。これを誰言うともなく殉死だという噂が広まった。ここから、家臣たちの殉死の話が展開する。
興津弥五右衛門の場合には、殉死は弥五右衛門個人の真情から自然に起きたという具合に語られていたが、ここでは殉死はそう簡単にできるものではなく、一定の掟があるのだということが述べられる。それを鴎外は次のように書いている。
「殉死にはいつどうして極まったともなく、自然に掟ができている。どれ程殿様を大切に思へばといって、誰でも勝手に殉死が出来るものではない。太平の世の江戸参勤のお供、いざ戦争といふ時の陣中へのお供と同じことで、死出の山三途の川のお供をするにも是非殿様のお許しを得なくてはならない。その許もないのに死んでは、それは犬死である。」
この後鴎外は、忠利の後を追って殉死したもの18人について言及しているが、彼らは皆忠利の生前に殉死を許されていた者たちなのである。その一人内藤長十郎に即して、鴎外は殉死をめぐる当人の心情について、その内実をあぶりだしている。
長十郎は、病床の忠利を介護しながら、殿様の日頃の愛顧に感謝し、殿様が死んだら是非殉死することを許して欲しいと願い出る。長十郎の心理には無論、興津弥五右衛門の場合と同じような真情も働いているのだろうが、しかしそれのみにはとどまらない。自分の殉死は自分の子孫にとっては、末代まで恩恵となるだろうという打算も働いていたのである。
長十郎は一方では、「人は自分が殉死する筈のものだと思ってゐるに違ひないから、自分は殉死を余儀なくせられてゐる、、、若し自分が殉死せずにゐたら、恐ろしい屈辱を受けるに違ひない」と思っている。長十郎はまた、殉死が個人の内面に発する問題としてのみにとどまらず、世間の目に促されて余儀なくさせられるような、対面上のことなのだともいっている。
長十郎は、「旬死者の遺族が主家の優待を受けると云ふことを考えて、それで己は家族を安泰な地位に置いて、安んじて死ぬことができる」とも思う。これは殉死のもつ打算的な側面を語ったものだ。
ほかの17人が殉死を願い出た動機も似たようなもので、そのなかには打算のほうが先に立っているようなケースも見られたのである。
これに対して忠利のほうは、有為な人材をむざむざ死なせるのは本意ではないと思いながら、家臣の心にほだされて許してしまう。だが忠利は誰であっても殉死を許したのではなかった。そこには生前の自分との関係で、自ずから選択が働いていたのである。
阿部弥一右衛門は殉死を許されなかった一人だった。弥一右衛門は家格の高い家臣であったが、融通が利かず、忠利は日頃から煙たがっていた。殉死を許されなかったことを不服に思った弥一右衛門は、同輩から殉死もできない卑怯者と後ろ指を差されるのが悔しくて、自分勝手な判断で、子孫たちを集めるとその前で腹を切って死んだのだった。自分では殉死したつもりだった。
だが細川家はこれを殉死とは認めず、お仕置きとして阿部の家督を分割してしまった。これを不満とした弥一右衛門の嫡子権兵衛が、忠利の一周忌の席上、髻を切って霊前に供えるという暴挙に出た。それに対して細川家は、権兵衛を縛首にして見せしめた。武士としては耐え難い屈辱であった。ここから阿部一族の悲劇が展開する。
阿部一族は結束して屋敷に立てこもり、女子どもを自分たちの手で殺した上、細川家に対して徹底抗戦の姿勢をみせた。これに対して、細川家の使わした者の中には、殉死をめぐって苦々しい思いをさせられていた者もいた。竹内数馬がそれで、生前の忠利の恩顧に応え殉死を願い出たがゆるされなかったことを深く不名誉に受け止めていた。数馬はこれ以上生き恥をさらし続けるのは耐えられぬことと考え、この戦をいい機会にして、そこで討ち死にしたいと考えているのである。
殉死をめぐって、因縁を持つもの同士が、凄惨な戦いを繰り広げる。その戦いの場面を読むと、そこには封建時代に生きた武士たちの、やりきれない気持ちが伝わってくる。
阿部一族の悲劇を通じて、鴎外が言いたかったことは何か。
鴎外は、殉死には自然の掟があるといっている。殉死はまず主君の許しを得た者でなければすることができない。そうでなければただの犬死なのである。他方殉死を願う者の心の中には、単に真情だけにとどまらず、打算的な思惑もある。殉死は子孫に恩恵を与えるという面だけではなく、それから漏れた者たちには、耐え難い屈辱を与えるものでもあった。個人の抜き差しならぬ体面にかかわることでもあった。
鴎外は、徳川時代の初期に生きていたこうした武士たちの生き方を辿るうちに、彼らがいかに体面にこだわっていたかを思い知った。体面を失することは、武士として生きていくうえで、致命的なことだったのである。
しかしその体面は、自分自身の努力だけでは如何ともしがたいものがある。体面を保とうともだえ苦しむ武士たちの姿の中に、鴎外は人間の悲しさを見たのではないか。
鴎外が生きた明治の日本も、この体面がまだ大きくものをいう時代だった。日本は近代国家になったとはいえ、人々は封建時代の遺制に縛られながら生きていたのである。なるほど封建的な幕藩体制はなくなったが、それに代わって天皇制が前近代的な忠誠の対象となっていた。個人は自立した近代人というには余りにも情けなく、周囲の目を絶えず意識しながら、体面にこだわった生き方をすることにおいては、徳川時代とそうかけ離れてはいなかった。
鴎外は軍隊という組織に生きることで、自分もやはり体面にこだわった生き方をしていることにおいては、阿部一族の場合とあまり異ならないと反省したのではないか。鴎外は組織人としては、出世する才能には恵まれていたほうだと思うが、それでも軍人社会を支配する封建的な人間関係にうんざりしていた節がある。
鴎外はこの小説を通じて、封建社会における個人の生き方を追求しながら、そこに権威と個人を巡るある緊張関係を、自分の体験にことよせながら、抉り出してみたかったのかもしれない。 
「佐橋甚五郎」
「興津弥五右衛門の遺書」と「阿部一族」を書き上げた森鴎外は、続いて「佐橋甚五郎」を書いた。その上で、この三作を一本にまとめ、「意地」という表題を付して出版した。当初「軼事篇」という表題を考えていたが、書店のアドバイスを容れて改めたのだという。三作の内容を的確に言い当てていると自身考えたのであろう。
前二作においては、「殉死」を巡って男の意地や体面を追及した鴎外だったが、ここではずばり男の意地そのものを取り上げている。そんなに長い作品ではないが、記述は濃密を極め、読むものをして緊張せしめるほどである。
舞台は徳川家康が生きていた頃。家督を譲って駿府に引退していた家康のもとを、朝鮮からの使節団が拝謁に来った。家康は翠色の装束をしてうやうやしく使節の一行を迎えたが、面前に控えた三人の特使のうちに一人、顔を見知っていたものがあった。かつて自分の家来だった佐橋甚五郎である。使節団が退出すると、家康は側近に次のように言葉をかけ、俄かに警戒の色を見せた。
「誰も覚えてはをらぬか。わしは六十六になるが、まだめったに目くらがしは食はぬ。あれは天正十一年に浜松を逐電した時二十三歳であったから、今年は四十七になってをる。太い奴、好うも朝鮮人になりすましをった。あれは佐橋甚五郎じゃぞ。」
佐橋甚五郎は、家康の嫡男信康の小姓を勤めていたものであった。ある刃傷沙汰がもとで逐電していたところを、当時武田と戦っていた家康が、小山城に陣取っていた武田方の武将甘利の首を取ってくれば許してやろうといったので、それを信じて、偽って甘利の懐に入り込み、その首を取って家康にさしだした。家康は表向きは褒美をとらして家臣に戻してやったが、目見えの際甘利のことについては全く触れようとしなかった。それのみか甚五郎を警戒して、陰でつぎのようにいうのだった。
「あれは手放しては使ひたう無い。此頃味方に付いた甲州方の者に聞けば、甘利はあれを我が子のやうに可愛がってをったげな。それにむごい奴が寝首を掻きをった。」
甚五郎はこの言葉を聞くと、「ふん」といって逐電してしまったのである。身には生活するための費用として、多数の金貨をまとっていった。
その甚五郎が、約二十年の後、朝鮮使節団の中にまぎれて家康のところにやってきた。甚五郎は何も言葉は発しなかったが、驚いた家康の表情をみて、満足しただろう。鴎外はそこまでは詳しく書いていないが、行間からして甚五郎の意趣返しの意図が読み取れるように細工している。
鴎外はこの短編小説を書くにあたって、前二作のときと同様、典拠となる書物にあたってはいるが、しかし前二作に比べると、鴎外自身の創造になるところが多いとされる。鴎外は自分の創造をもって、この小説に何を盛り込もうとしたのだろうか。
鴎外はこの小説の構成を大きく四つの部分に分けて展開している。朝鮮使節団が家康に面会する最初の場面、甚五郎が小姓の仲間を殺害して逐電する第二の場面、甚五郎が家康との約束を果たすために甘利を殺害する第三の場面、そして甚五郎が家康の自分を責める言葉を聞いて家康と訣別する最後の場面である。現在の出来事から、その伏線となる過去の出来事へと遡るフラッシュバックの手法を用いており、あたかも映画を見るようである。
第二の場面において、甚五郎が小姓仲間蜂谷を殺害したのにはそれなりのわけがあった。或る時鷺が沼のはるか向こうに飛び降りているのを見て、あれが撃てるものがあるだろうかと誰かが言った。甚五郎は自分なら撃てると独り言をいったのに対して、仲間の蜂谷は無理だと逆らった。甚五郎は若し自分が撃てたなら、蜂谷の身に着けているものを貰い受けるとの賭けをして、鷺を撃ち殺した。甚五郎は蜂谷に対して約束どおり、蜂谷の身につけているもののうち、腰に挿している大小を貰いたいと申し出たが、蜂谷は言を左右にして約束を守ろうとはしなかった。そこで甚五郎は蜂谷を殺害した上で約束の品である大小を奪い、そのかわりに自分の大小を残して逐電したのだった。
鴎外が用いた資料には、この事件は甚五郎の欲心のためには手段を選ばぬ破廉恥な行為と非難してあった。鴎外はそれを、甚五郎は蜂谷との間で交わした約束、つまり契約を履行させるためにこの行為に及んだのだと解釈しなおしたのである。
第三の場面で展開される甘利殺害の描写は、まことに淡々としたものである。甘利は篭城の合間に望月を眺めながら宴を催し、甚五郎に心をゆるして甚五郎の膝を枕に居眠りをする。その油断に付け入って甚五郎は甘利を殺す。その描写するところは、あたかも一遍の詩を読むが如くである。
甚五郎が甘利の恩愛を受けながらも、無慈悲に殺したのは、家康との約束を果たすためであった。甚五郎はあくまでも家康との契約を果たすために、私情を殺したのだ、そう鴎外は書く。
ところが、第四の場面に至って、甚五郎は家康から思わぬ裏切りを蒙る。裏切りというのは、甚五郎が身命を賭してなした行為に対し、家康がそれに相当すべき返礼をしなかったことをさす。あまつさえ、家康は甚五郎を警戒してそれを遠ざけようともした。
甚五郎は、この家康の豹変振りに接して、家康に対する忠義の心を放擲し、訣別を決意するのである。
こう読み進んでくると、鴎外がその淡々とした筆使いのうちに、真に言いたかったことが浮かび上がってくるようである。
鴎外は甚五郎の逐電の経緯を詳しくたどることによって、それが単なる物取り目的の卑劣な行為であるとした資料の記述を反駁し、実は甚五郎は、戦国間もない世に悲観として生きながら、己の能力に深い信頼を置き、その能力を以て正直に生きたいと願った、そう鴎外は主張したのである。
一方家康については、甚五郎を警戒しつつも、その能力を自己の目的のために役立てることを忘れない老獪な人間として描いている。甚五郎が自分の言いつけを果たしたことについては、それなりの恩賞を与えているが、それを超えた人間的な触れ合いは拒絶している。つまり家康にとって、甚五郎は単なる手足に過ぎない。
家康は、甚五郎を責めるのに、「甘利はあれを我が子のやうに可愛がってをったげな。それにむごい奴が寝首を掻きをった。」という言葉を吐く。それは一見、人間的な感情に訴えることで、甚五郎の非人間性を非難しているようにも写る。しかいそれを命じたのは他ならぬ家康だったのである。
鴎外が甚五郎と家康を対比させることで浮かび上がらせようとしたのは、この両者の間に横たわる考えの相違あるいは断絶であった。甚五郎は、自分の能力を以て家康から命じられたことを果たした、彼はそのことに対して正統な評価を求めた。これに対して家康のほうは、甚五郎の能力を認めつつも、そこに不気味なものを感じた。家康が甚五郎に対して求めたのは臣従の儀礼である。ところが甚五郎はそれを超えて自己の存在を主張するところがある。そこが家康には危険に写った。
そこには家康の支配者としての驕りがあった。それに対して甚五郎には、ひとりの人間としての誇りがあった。
長い戦国時代が終って、世の中が泰平になっていくのに従い、かつて個人の力を頼りに生きてきた武士たちのあり方は、次第に権力によって絡めとられるようになっていった。家康はそうした権力者の象徴だった。それに対して、甚五郎が主張したものは、戦国時代をまだそう去りやらぬ時代に生きた個人としての武士の意地であった。甚五郎は己の意地を通すために、約束を果たさぬ同輩を殺し、家康を見限って朝鮮に去り、二十年の後家康に対して意趣返しに及んだのだ。
鴎外は甚五郎のうちに、封建的な呪縛に逆らって生きようとする人間を見たのだろう。鴎外の時代にも、封建的な人間関系は消滅しておらず、さまざまな組織をつうじて、日常を律するべき規範となっていた。鴎外の生きた軍隊の組織にあっても、個我というものは尊重されず、組織に埋没して生きることが美徳とされた。そこに生きる人間は、周囲に気を使い、上司にへつらい、出世することだけを生きがいにしていた。そんなところには、甚五郎のような自主独立の人間は育たない。
甚五郎は封建体制が確立する以前の人間であった。しかし、あるいはそれ故にこそ、今日に生きる自分たち現代人以上に、自分の能力に自身を持ち、それを恃んで自主独立を貫く男であった。そこに鴎外は甚五郎の、人間としてあるべき姿にこだわる高貴な姿勢を感じたのではないか。 
「護持院原の敵討」
森鴎外は「意地」に収められた三篇の作品の後、「護持院原の敵討」という短編小説を書いた。先の三篇が殉死あるいはそれに象徴される封建時代における武士の体面とか意地をテーマにしていたのに対し、これは敵討というものをテーマに取り上げることによって、封建道徳の内実と、それに呪縛され翻弄される者の運命を描いたものである。
「興津弥五右衛門の遺書」を書くきっかけになったのが、乃木希典の殉死だったように、この作品にも鴎外を執筆に駆り立てた動機があった。
尾形仂によれば、鴎外がこの作品を書いた大正のはじめ頃は、日露戦争勝利をきっかけにして忠君愛国の機運が非常に高まっていた時代であった。そして忠臣の鑑としての赤穂義士の物語が大いにもてはやされ、浪曲師の語る忠臣蔵の物語は人びとの感激を誘っていた。滝沢馬琴の小説「南総里見八犬伝」もそうした流れの中で再評価され、単に勧善懲悪にとどまらず、敬神を体現した道徳的な読み物だといわれるまでになった。
鴎外はこのような風潮を苦々しく思っていたらしい。鴎外は「馬琴日誌抄」の後書に寄せて次のように書いている。
「僕はこの頃の馬琴熱を見て、却って馬琴の為に気の毒なことだと思ふ。なぜといふに、若しこの熱が持続していくと、馬琴は又三度葬られなくてはならないかも知れないからである。」
鴎外は馬琴をもっぱら忠君愛国教育のために利用しようとしていた当時の世調に苦言を呈し、馬琴に対して同情しているのである。
鴎外はだから、「護持院原の敵討」の物語を、敵討を評価する視点から書いたのではない。さりとてそれを封建的な蛮挙であるともみていない。この事件が起きた天保時代は、箍が緩んできていたとはいえ、封建道徳が人びとの体面はもとより、内面までをも律していた時代であった。そんな時代にあって、血族を殺された人間には、敵を討つという行為が、当然のこととして課されていたし、また当人にもそれを自然のこととして遂行せねばならない倫理的な理由があった。
鴎外はそうした人々の内面に立ち入ることによって、人は何故辛い思いに耐えて敵を探し出し、それを打たねばならぬ理由があるのか、その心理の必然性を追おうとした。そしてそこに人間として、時代を超えた普遍的な感情の存在することに思い当たった。
忠義とか恩愛とか当代の道徳家たちが吹聴するようなものは薄っぺらなものに過ぎない。敵を打たんとする者は、己に課された義務を己に内面化し、それを遂行することによって、人間としての己に言い訳ができる。それは忠君愛国といったような外面的な動機にもとづくのではなくて、人間としてありたいという内面的な衝動にもとづく行為なのだ。
鴎外はこのような思いを込めて、この小説を書いたのだろうと忖度されるのである。
鴎外は「史実をして語らしめる」という彼一流の方法意識を以て、この作品も、ある覧本を下敷きにして書いている。「山本復讐記」と題するその本は、幕府の下級役人が聞き書きとしてまとめたある復讐事件の物語であるが、鴎外はそれをもとに忠実に事件を再現し、敵討の意味について考えている。
この敵討は、姫路城主酒井家の江戸上屋敷において起きた殺人事件に関連して、殺された山本三右衛門の遺族が行なったものである。遺族たちは公儀に敵討を願い出て許されると、嫡子宇平、その姉りよを敵討の当事者とし、叔父山本九郎右衛門を助太刀とし、下手人亀蔵の顔見知り文吉をお供に敵討の旅に出る。ただし、りよは女であることから同行を差し止められ、敵が見つかったときに加わるということに定められた。
一行の三人は上州を皮切りに日本中を探し回るが、敵の亀像の行方は杳として知れない。何せ広い日本を、大した手がかりもなしに探すのであるから、それは広大な砂浜に一粒の砂を探すに等しい。翌年春には大阪で路銀がつき、また一行は次々に病に倒れる。ここで嫡子の宇平はついに一行から離脱してしまう。
離脱に当たって宇平が漏らす言葉を、鴎外は淡々と記している。宇平は自分たちのなそうとしている行為について、それが果たして己の全存在を賭するに値するものなのか、人は何を支えにしてこの過酷な試練に耐えねばならぬのか、そのことについて、疑問を呈する。
宇平はいう、「をじさん、あなたはいつ敵に会へると思ってゐますか、、、わたしは変な気持ちがしてなりません」これは敵討の成功に対する疑問である。「をじさん、あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思ってゐますか」これは神仏の加護に対する疑問である。「亀蔵はにくい奴ですから、若し出会ったら、ひどい目に会はせてやります。だが探すのも待つのも駄目ですから、出会ふまではあいつのことなんか考へずにゐます。わたしは晴れがましい敵討をしようとは思ひませんから、助太刀もいりません」これは敵討制度そのものに対する疑問である。
宇平がいうように、敵討は成功の見込みに乏しい反面、己の存在をかけてなさねばならぬ過酷な義務だ。そんなことに生涯を捧げるのはつまらない、宇平はそういうのだが、それに対して作者鴎外はなんら容喙する所がない。
だが宇平の言い分とは裏腹に、稲荷様が機縁になって亀蔵のありかが判明し、ここに一同は晴れて、護持院原において敵討に成功する。護持院原は今の神田錦町一帯に当たるところで、享保の火災で焼けるまで、護国寺の前身たる護持院のあった場所だ。移転後は火除地として残され、広大な敷地を要していたために、度々敵討の舞台ともなった。
この敵討には、りよも加わり、華々しく行なわれたために、女の敵討として江戸市中の評判にもなった。そんなところから鴎外の資料のもとになった「山本復讐記」のようなものが作られるに至ったのだろう。
「山本復讐記」にはこの敵討を賛美するような記述もあり、またそのほかにも、当時の瓦版や落書もこれを取り上げ、大いにもてはやしたという。だが鴎外は、この敵討について、それを賛美する言葉は一言も書き加えていない。むしろ空しい目的に向かって黙々といそしむ人びとの、苦難にみちた毎日を、淡々と描いている。
鴎外がこの作品を書いた時代は、先述したように、忠臣蔵がもてはやされ、敵討が美徳と受け取られていた時代である。それに対して鴎外は、批判的ともいえる姿勢をとった。鴎外が主人公たちについて評価するのは、敵討というものの美徳についてなのではなかった。大事なのは、仇討それ自体ではなく、それにかける人々のひたむきな生き方そのものだった。鴎外はそこに献身の美をみたのだろう。
献身とはある意味で、封建的な道徳かもしれない。しかしそれは、ただ単に特殊時代的な特殊な道徳にとどまるものではあるまい、こうとらえるのが鴎外の立場だったようだ。彼は後に、山椒大夫において、この献身というものをテーマにして、もう一度その意味を考えるようになる。
この小説の結末を鴎外は次のように書いている。
―この敵討のあった時、屋代太郎賢は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。「又もあらじ魂祭るてふ折にあひて父兄の仇討ちしたぐひは。」幸いに大田七左衛門が死んで十二年程立っていたので、もうパロディを作って八代をからかふものもなかった。」
大田七左衛門とは大田南畝つまり蜀山人のことである。彼なら、敵討を何の反省もなく賛美するような輩は、きっとパロディの種にしてしまうだろうというのである。
  
「安井夫人」

 

森鴎外の小説「安井夫人」は、幕末の漢学者安井息軒とその妻佐代を描いたものである。「興津弥五右衛門の遺書」を皮切りに歴史小説を書き綴ってきた鴎外にとって、その延長上での執筆であるが、それまでの小説とはやや趣を異にしている。テーマというほどのものがなく、息軒とその妻佐代の生涯を手短に淡々と綴ったこの小説は、小説というより、歴史上の人物に関する簡単な史伝といった趣を呈しているのである。
安井息軒は松崎慊堂の後の世代を代表する儒学者であるばかりか、日本の漢学を集大成させた人物である。そうした意味で時代を画した偉大な学者であった。だが安井息軒がその学問の体系を整えた丁度その直後に、日本の漢学は洋学に押されて凋落してしまった。そうしたことを考えると、彼の残した事蹟は歴史の流れのほとりに咲いた一輪のあだ花だったということもできよう。
この安井息軒について、鴎外が知るようになったのはいつごろのことだったか、明確ではない。鴎外は若年の頃の漢学の師匠依田学海を通じて、幕末の漢学者の事情について多少知るところもあったに違いないが、それらについて深い関心を抱くようになったのは、歴史小説に手を染めるようになった晩年のことではないか。
鴎外がこの小説を書いたのは大正三年のことである。執筆の直接のきっかけを作ったのは、前年の暮に出版されたばかりの若山甲蔵著「安井息軒先生」という書物であった。これは息軒の生地宮崎で刊行されたもので、息軒の学業よりもむしろ生前の生き方に焦点をあてたものだった。
著者の若山甲蔵は「善作者、不若善改者、善改者、不若善削者」という言葉を巻頭に掲げ、叙述の緩慢なることを恥じていた。鴎外はそれに答えるような形で、原作を改削し、自分なりの息軒伝を書き上げたのである。ただし息軒その人より、佐代夫人に多くの紙面をあてた。
佐代夫人は16歳の若さで安井息軒に嫁いできた。それも当時の慣行どおり親や周囲の取り計らいによってではなく、自分の意思にもとづいて息軒を夫に選び嫁いできたのだった。
息軒は子どもの頃にかかった疱瘡がもとでひどいあばた面になり、しかも方目がつぶれていた。その上背が低く色黒で、どう見ても醜男であった。そんな男を佐代は16歳の若さで、しかも評判の美しさにかかわらず、あえて自らの意思で夫に選んで嫁いで来た。それも、もともとは姉の縁談として持ち込まれたものを、姉が息軒の醜悪振りを嫌って拒絶したのを受けて、自分が息軒の嫁になりたいと母親に申し出たのがきっかけだったのである。
息軒に嫁いできた後の佐代が、幸福であったかどうか、鴎外は多く筆を弄していない。佐代は終生夫に仕え、4人の女の子と2人の男の子を生んだ。そして51歳で死んだ。そんな佐代について、鴎外は次のように言うのみである。
「お佐代さんがどう云ふ女であったか。美しい肌に粗服を纏って、質素な忠平に仕へつつ一生を終った。
「お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと云ってしまふだろう。これを書く私もそれを否定することはできない。併し若し商人が資本を御し財利を謀るやうに、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだといふなら、私は不敏にしてそれに同意することができない。
「お佐代さんは必ずや未来に何者をか望んでゐただらう。そして冥目するまで、美しい目の視線は遠い、遠いところに注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕を有せなかったのではあるまいか。其望の対象をば、或は何者とも弁識してゐなかったのではあるまいか。」
かくいう鴎外の筆致には突き放したような冷たさもあるが、その筆の合間にはお佐代さんこと安井夫人に対する深い共感も感じられる。
鴎外が安井夫人佐代を通して、女の生き方について一石を投じたのには、それなりの時代背景もあった。平塚らいてうが中心となって女性のための雑誌「青鞜」を発刊したのは明治44年のことであるが、これが刺激となって大正の初め頃には、女の自立やその生き方についてかまびすしい議論が展開されていた。鴎外のこの小説は、そうした風潮に対する鴎外なりの反応だったと見ることもできる。
鴎外は平塚らいてうとは個人的にも付き合いがあり、その運動の趣旨のよき理解者でもあった。彼女らの合言葉たる「新しい女」を鴎外がどう受け取っていたか、それを理解するきっかけがこの小説の中にあるかもしれない。
平塚らいてうらのいう「新しい女」とは、封建的な束縛を振り切り、自分の意思で生きる女をさしていた。こういえば格好よく聞こえるが、自分の意思で選び取ったその生き方を、果たしてどう生きたらよいのかは、また別の問題である。らいてう自身は複数の男たちとの婚外性交(今日で言う不倫)を始め、かなり型破りな生き方をするのだが、それが新しい女の行き方のすべてではあるまい。
鴎外は安井夫人佐代の生き方の中に、女としての生き方のひとつの規範的なあり方を見出して、それに深く共鳴したのではないか。佐代は自分の意思で夫を選んだ限りにおいては、「新しい女」であった。だがその後の生き方は夫のために己を尽くしたというその限りで、従来の女と異なるところはなかった。従来の女と違うところは、それが強いられた忍従ではなく、己の意思にもとづいたものだったということだ。
鴎外は佐代の生き方の中に、自分の意思で自分の運命を受け止める強さを見て取ったのではないか。その結果は結果としてうけながそう、大事なのは、自分の意思で自分の人生を選び生きたという、その一事にある、そう鴎外は言いたかったのではないか。
安井夫人佐代に対する鴎外の同情は、やがて女性の美徳である献身ということについてのこだわりに発展していく。鴎外はこの献身をテーマにして「山椒大夫」を書き、また女の生き方を追求することから「渋江抽齋」を書き、その発展上に史伝三部作を完成させていくのである。 
 
「独逸日記」

 

森鴎外は明治15年2月に起稿した「北遊日乗」に始まり死の年(大正7年11月)まで書き続けた「委蛇録」に至るまで、生涯の大半について日記をつけていた。そのうちドイツ留学中及びその前後に書いたものが四種ある。ドイツへと向かう船旅の様子を記録した「航西日乗」、ドイツ留学中の生活を記録した「独逸日記」、ドイツでの生活のうちベルリンでの最後の日々を記録した「隊務日記」、そして日本へ帰る船旅を記録した「還東日乗」である。
「独逸日記」はベルリンに到着した翌日の明治17年10月12日に書き始められ、明治21年5月14日の記事を以て終っている。ドイツ留学中の大部分をカバーしているわけである。鴎外は最初これを漢文で記し「在徳記」と題していた。(徳とは漢語でドイツを意味する。)
帰国後他の三部については漢文のまま発表したが、どういうわけか鴎外はドイツでの日記の本体をなすこの「独逸日記」については、生前ついに発表することがなかった。だが発表する意思はあったらしい。それも原文の漢文のままではなく、日本文に置き換えた上で発表するつもりだったようである。今日残されているのは、この日本文に書き下されたもののみであり、原文のほうは永久に失われた。
鴎外のドイツでの生活は主に四つの部分に分けられる。明治17年10月22日から同18年10月11日までのライプチッヒ時代、18年10月12日から19年3月7日までのドレスデン時代、20年4月15日までのミュンヘン大学時代、そして最後のベルリンでの生活である。
これは鴎外がベルリン到着早々相談した上官の橋本軍医監の指示に従い、衛生学の研究を深めるために、まずライプチッヒ大学のホフマン教授の指導を受け、ついでミュンヘン大学に学び、最後はベルリン大学でローベルト・コッホの指導を受けるというメニューに忠実に従った結果である。途中ドレスデンで数ヶ月過ごしているのは、ザクセン軍団の軍医講習に特別参加を許されたからであった。
鴎外はまた、在ドイツ公使青木某にもドイツでの生活のコツを聞いているが、こちらは勉強も大事だが、それより欧州人の生活ぶりや文化をよく観察するようにとの忠告をくれた。
鴎外はこの二人の忠告に良く従って、勉強に精を出す傍ら、ドイツでの生活を思う存分楽しんだようである。
明治初期には多くの日本人が西欧に留学したり旅行したりしているが、そのなかで成島柳北を除けば鴎外ほど西欧に溶け込み、その生活を楽しんだ者はなかった。彼はドイツ人社会に速やかに溶け込み、彼らと親しく交わる一方、劇場に足を運んだり、パーティを楽しんだりしている。この点、明治33年からイギリスに留学した夏目漱石が、うつ状態に悩まされて留学生活を楽しむどころでなかったのとは、大きな違いがある。
鴎外が気を許して最も楽しんだのはミュンヘン時代であった。ドイツの地域の中でもミュンヘンは一種明るい開放感があったのだろう。鴎外はその空気を楽しんでいる。
ミュンヘンについて間もない3月8日の記事には、カーニバルの行列を見、また仮面舞踏会に参加する光景が描かれている。
「八日。・・・此日街上を見るに、仮面を戴き、奇怪なる装をなしたる男女、絡繹織るが如し。蓋し一月七日より今月九日 Aschermittwoch に至る間はいわゆる謝肉祭 Carneval なり。「カルネ、ワレ」は伊太利の語、肉よりさらばといふ義なり。我旧時の盆踊に伯仲す。・・・後中央会堂に至る。仮面舞盛を極む。余もまた大鼻の仮面を購ひ、被りて場に臨む。一少女の白地に縁紋ある衣装を着、黒き仮面を蒙りたるありて余に舞踏を勧む。余の曰く。余は外国人なり。舞踏すること能はず。女の曰く。然らば請ふ来りて供に一杯を傾けんことをと。余女を拉いて一卓に就き、酒を呼びて興を尽くす。帰途女を導いて其家の戸外に至る。」
ゆきずりの少女とかかるアヴァンチュールを楽しむなど、隅に置けないところだ。だが鴎外は、ドイツ滞在中に女との間で交渉があったことは、外には全く記していない。柳北がパリで娼婦を買ったことを正直に告白しているのに比較すれば、歯痒いところだ。鴎外が都合の悪いことを隠しているのか、あるいは額面どおり慎重居士で過ごしたのか、その辺のところは「独逸日記」からは伝わってこない。だが帰国後ドイツから女が追いかけてきた事実を考えると、彼が謹厳な日々を過ごして終ったとは、とても思えないのである。
ミュンヘン時代には鴎外にとって重要な出来事が二つ起こった。ひとつはバイエルン国王ルードヴィッヒ二世の入水自殺であり、もうひとつはナウマンとの論争であった。
ルードヴィッヒ二世は歴史上個性のある君主として知られている。作曲家ワーグナーの熱心なパトロンであり、ワーグナーの数々の樂曲はこの王に捧げられた。またノイシュヴァンシュタイン城をはじめ、豪華な居城を次々と造営し、そのために国家の財政を破綻に導いたとされる。しかし彼の残した遺産は今でも、バイエルンの貴重な観光資源となっているのである。
鴎外はこの国王の自殺を背景にして小説「うたかたの記」を書き上げるが、「独逸日記」の中ではもっぱら、王がその侍医グッデンを道連れに死んだということが彼の関心を呼んだ。鴎外は同じく医者としての立場から、グッデンに同情している。グッデンは入水した王を助けあげようとして必死の努力をするのであるが、たくましい王の腕力に引きずられて、一緒に水死したのである。
ナウマンは東京帝国大学の初代地学教授として、明治8年から18年間日本にいた人物である。この男がどういうわけか日本嫌いになったらしく、或る時講演の中で日本をけなす発言をした。鴎外はその場に居合わせて、非常に驚いたのだった。
それは明治19年3月6日に行われたドレスデン地学教会での講演であった。そのなかでナウマンは、日本を誹謗するような言辞を吐き、鴎外を怒らせた。鴎外の日記には次のとおりその模様が記されている。
「日本の地勢風俗政治技芸を説く。其間不穏の言少なからず。例えば曰く。諸君よ。日本の開明の域に進む状あるを見て、日本人其開明の度欧州人に劣れるを知り、自ら憤激して進取の気象を呈はしたる物と思ひ玉ふな。是れ外人の為に逼迫せられて、止むことを得ず、此状を成せるなりと。」
これに対して鴎外はその場で反撃した。ナウマンは仏教は女を軽視するから信じられないといったのをとらえ、仏も女人成仏を教えているから、あなたのいうことは当らないといったのである。
鴎外はナウマンに対してよほど立腹したらしく、ミュンヘンにいた明治19年の暮に、ナウマンに対して新聞紙上で公開論争を挑んだ。その結果がどうなったかについては、はっきりとしたことはいえぬが、ただ日本人森鴎外の気迫だけは伝わってくるのである。 
 
森鴎外の舞姫始末記

 

森鴎外がドイツ留学から帰国したのは明治21年9月8日である。ところがそれから幾許もたたぬ9月12日に、ドイツ人の女性が鴎外の後を追って日本にやってきて、築地の精養軒に泊まっているという知らせが鴎外を驚愕せしめた。この女性が果たして何者かについて、鴎外自身は殆ど語る所がないが、これこそ彼の初期の傑作「舞姫」のモデルになった女性ではないかとの憶測が、文学史上かまびすしく語られてきた。
この女性の名はエリーゼ・ヴィーゲルトといった。舞姫の女主人公エリスと名前に似たところがある。これが先の憶測にいよいよ信憑性のようなものを付け加える結果になったのである。
この女性の登場にびっくりしたのは、鴎外は無論、彼の出世を祈る家族や友人たちも同様であった。鴎外の弟篤次郎と妹婿の小金井良精が代理人になり、エリーゼを早期に帰国させるように説得しにかかった。鴎外自身も何度かエリーゼのもとに出向いて、説得したらしい。
エリーゼが何故日本に来たのか、残された関係者の記録からは、はっきりとしたイメージが伝わってこないのだが、エリーゼが鴎外と結ばれることを目的に来たことは、前後の事情から判断して、どうも確実らしい。そんな彼女を鴎外とその係累たちは、あっさりと追い払おうとしたのである。
説得は困難だったようで、弟の篤次郎などは数日間エリーゼにかかりきりになった。内輪だけの努力では拉致があかないので、陸軍関係者まで動員してエリーゼの説得を重ねた結果、10月17日、エリーゼはついに折れて、来日したときと同じ船「ゼネラル・ヴィーダー号」に乗って、ドイツに帰っていった。片道40日もかけてはるばる日本にまでやってきたのに、恋人と頼んだ男に冷たい仕打ちをされ、在日することわずか一月ばかりで日本を去ったのである。
このエリーゼがどんな女性であったか、鴎外の妹小金井喜美子が回想記の中で書いている。
「エリスはおだやかに帰りました。人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けている、哀れな女の行末をつくづく考えさせられました。」
妹喜美子に限らず、エリーゼに接した人の印象は、お人よしだが無思慮で、少し足りないところがあるというものだった。鴎外が「舞姫」のなかで描いているエリスのイメージとは一致しないのである。
鴎外はエリーゼがドイツに帰った後、半年もたたぬ翌年2月24日に赤松登美子と結婚した。エリーゼの事件に驚愕した家族が、鴎外に早く嫁を持たして、身を固めさせようと計ったのである。
赤松登美子との結婚は、鴎外の恩人である西周の斡旋によるものだった。登美子の父赤松則良は旧幕臣で西とは若い頃から仲がよく、上野戦争の最中オランダにともに留学していた仲だった。薩長がはびこる世にあって、榎本武揚や津田真道ら旧幕臣グループの連中と助け合いながら生きてきた、戦友のような間柄だった。
だが登美子との関係は長く続かなかった。彼らは上野の不忍池近くの赤松の所有になる屋敷に住んだが、とかくすれ違うことが多かったようだ。鴎外はこの屋敷で初期の創作活動を開始し、舞姫もここで書いている。(この屋敷は現在「水月ホテル鴎外荘」になっている)
鴎外の文名を慕って多くの文人たちが集まるようになった。鴎外は彼らと協力して雑誌「しがらみ草紙」を発行し、いよいよ文名をあげていく。しかし登美子はその輪に入ることがなかった。鴎外はそんな登美子を煙たく思っていたようだ。
翌年の九月には長男の於兎が生まれるが、鴎外はその直後家を出て登美子を離縁し、生まれたばかりの長男を登美子から引き離してしまった。
まだ20代の青年がしたことではあるが、鴎外は自分を慕ってはるばるドイツからやってきたエリーゼに対しても、また結婚して子を産んだばかりの妻に対しても、あまり人間的な態度を示したとはいえない。
ところで舞姫エリスのモデルになったと思われるエリーゼについて、鴎外が「独逸日記」の中で全く言及していないのは不思議なことだ。そもそも漢文で書かれた原本の中には、あるいはあったのかもしれない。鴎外はそれを、発表を前提として和文に書き換える際、ことごとく排除したとも考えられる。何せ官僚として前途洋洋たる身である、そんな身にとって旅先での恥のかき捨てとはいえ、色恋や浮気沙汰は瑕となる、そんな打算が働いたと考えられぬでもない。
鴎外は独逸日記を生前ついに発表せずに終ったのだが、そこには舞姫のモデルを憚るのと同じような事情が、発表をためらわせたのかもしれない。  
 
加藤周一の鷗外と漱石論

 

加藤周一も鷗外と漱石とを日本の近代文学の偉大な先駆者として位置付けているようであるが、どちらかというと鷗外の方を高く評価しているようだ。鴎外についてより長い文章を書いているという外的な理由からだけではない。二人の人間としてのあり方において、鴎外の方をより大きな人間と捉えているフシがある。
加藤は、鴎外の傑作は晩年の史伝三部作であるとした。一方漱石の傑作は「明暗」だとする。史伝三部作は、所謂小説とはいえないし、文学作品だというにも抵抗があるかもしれない。ひとつ確かなことは、高い知性にして初めて書くことのできた作品であるということだ。文学とは知性の活動の一つといえるから、これは広い意味での文学作品ということはできる。しかしそう言いたくなければ言わないでもよい。とにかく偉大な知性が生み出した偉大な作品だという評価だけは覆らない。このように加藤は言って、鴎外の作品を狭い意味における文学の枠組に囚われずに、大きな意味での知性の産物としてとらえる。
ところが加藤が「明暗」を漱石の傑作と言う場合、それは漱石の書いた小説の中で最も優れた小説であるばかりではない、日本の近代文学にとっても、最初に書かれた最も本格的な小説であるという評価をしている。これは漱石でなければ書けなかった小説だ。何故なら一人漱石だけが欧米の小説の本質を理解していた。それは市民生活を舞台にした心理描写というもので、日本の自然主義文学とは似てもつかぬものだ。その似てもつかぬものを日本と言う文学的な土壌の上で開花せしめた。こういうわけで、加藤は漱石を本格的な小説家として捉えている。そこが鷗外を捉える視点とは異なっている。
鷗外は自分の知性を傾けて史伝三部作を書き上げた。一方小説家としての漱石は、小説の執筆に知性を働かせる必要はなかった。無論小説を書くのに聊かの知性は必要だろうが、知性がなければ小説が書けないものでもない。実際「明暗」という作品には、知性の働きは見当たらない。そこに見当たるのは漱石の実体験に支えられた厳しい自己認識と反省の態度だ、と加藤はいうのである。一般的には漱石の知性が溢れているとされる「猫」や「虞美人草」などは、加藤の目には読むに堪えない代物にうつるようだ。
つまり加藤は、鴎外を知性の人として位置付ける一方、漱石を反省の人として位置付けるのである。そして知性と反省とこの二つの能力のうち、加藤が尊重するのは知性の方だったというわけなのだろう。 
 

 

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