女のみち「とはずがたり」 諸説

三浦半島記古典の女たち浅草観音解説1解説2後深草院二条わが恋の記録
日記に見る日本人性と愛王朝の残照日記紀行文学頽廃の魅力解説3
古典への招待日記紀行の盛衰醍醐寺尼寺はみだし女性鎌倉極楽寺王権と仏法
時代背景辞書辞典記述鎌倉(解説4)増鏡・・・

「とはずがたり」1 / 巻一巻二巻三巻四巻五・・解説1解説2鎌倉1鎌倉2・・・ 
「とはずがたり」2 / 巻一巻二巻三巻四巻五・・・
 

雑学の世界・補考   

とはずがたり
鎌倉時代の中後期に後深草院二条が綴ったとみられる日記および紀行文。
誰に問われるでもなく自分の人生を語るという自伝形式で、後深草院に仕えた女房二条の14歳(1271)から49歳(1306)ごろまでの境遇、後深草院や恋人との関係、宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録などが綴られている。二条の告白という形だが、ある程度の物語的虚構性も含まれると見る研究者もいる。5巻5冊。1313年ごろまでに成立した模様。
この日記は宮内庁書陵部所蔵の桂宮家蔵書に含まれていた桂宮本(後代―江戸時代前期の写本)5冊のみ現存。1940年(昭和15年)山岸徳平により紹介されるまでは、その存在を知る人も少なかった。天下の孤本といわれる。書陵部(当時は図書寮)で「とはずがたり」を見出した山岸徳平は「蜻蛉日記」にも対等すると直感したという。彼により「国語と国文学」9月号で「とはずがたり覚書」という形で紹介された。一般への公開は1950年(昭和25年)の桂宮本叢書第15巻が初。
「源氏物語」の影響
若紫:/ 深草院は想いを寄せていた自身の乳母であった、大納言典侍(だいなごんのすけ)の娘である二条を引き取るが、これは「源氏物語」の若紫を連想させる。
女楽:/ 菜・下巻にある女楽を模して行うことになったが、紫の上に東の御方、女三宮に祖父・隆親の娘があてられ、二条は一番身分の低い明石の御方として琵琶を弾くこととなる。
「増鏡」との関係
「増鏡」(南北朝時代成立)には「とはずがたり」の文章が数段に渡って用いられている。また、発見以前には後深草天皇の女性関係に関する記録が乏しく、「増鏡」における同天皇の女性関係の記述を創作あるいは弟の亀山天皇のものとの誤認説を唱える学者もいたが、この書の発見以後 「増鏡」の記述に根拠がある事が確認された。
 
「とはずがたり」考1 三浦半島記

日本には、古典文学が多い。その多くが、古いころから筆写されたり板行(はんこう)されたりして、ひとびとになじまれてきた。ところが、「とはずがたり」ばかりは、例外である。戦時中に発見され、戦後に研究された。いわば、古典の新顔である。いまでは、多くの研究者の注釈のおかげで、私ども素人でもなんとか読むことができる。以下、「新潮日本古典集成」のなかの「とはずがたり」(福田秀一氏校注)に多くを負っている。
二条という女性が、作者である。かつ主人公でもある。彼女は、鎌倉後期にうまれ、前半生を京の宮廷ですごした。高位の公卿の娘である。恋が多かった。賢く、かつ性的魅力にも富み、それもひょっとするとある種の男の嗜虐趣味をそそるようなところがあったのかもしれない。恋には、したたかでもあった。ある時期、複数の相手を愛し、当時も罪の意識になやみ、その後、仏門に入ってから、そういう自分の罪障を見すえ、そのことによって菩提を得ようとした。
「とはずがたり」は伝統的な日記文学の形をとりつつも、明治末年から大正期にかけての日本の自然主義文学に偶然ながら似ている。出家したのは、女の盛りをすぎたころである。やがて旅に出た。東(あずま)にくだったのは、西行の故事を慕ったからでもあるという。正応二年(1289)、鎌倉に入るために化粧坂(けわいざか)をのぼり、かつくだった。
以上、十三世紀の美しい(と思いたい)尼僧についてふれたのは、彼女が鎌倉の街の印象を、「とはずがたり」のなかで、ひとことながら、触れてくれているからである。これほど記録好きの民族でありながら、さらには鎌倉と京の往来が繁かったにもかかわらず、当時の鎌倉の景観や幕府の建物、道路、人情についてふれた文章がほとんどのこっていない。その点、「とはずがたり」はありがたい。
彼女は、鎌倉へ入る前夜、江ノ島で一泊した。ときに、陰暦3月である。江ノ島はまわり一里ほどの小島で、陸地とのあいだを、一条の砂洲がつないでいる。干潮時には、徒歩でわたることができる。島には、弁財天(弁天)がまつられている。弁財天は、もとはインドの土俗神だった。ガンジス川など大河を象徴する神で、ひょっとすると蛇への古代信仰の発展したものだったかもしれない。女神である。琵琶を弾いている。元来が河神であるために、日本では琵琶湖の竹生島や厳島など、湖や海の小島にまつられてきた。江ノ島も、いかにも弁財天がよろこびそうな小島である。
さきにふれた文覚という奇僧がこのことに気づいた。文覚は、頼朝がまだ伊豆の流人だったころに訪ねてきて、平家を倒すために拳兵せよ、とすすめた。江ノ島に弁財天をまつれといったのは、そのときだったか、そのつぎの機会だったかどうかはわからない。ともかくも、頼朝は鎌倉に府をさだめて早々、鶴岡八幡宮を造営するとともに、江ノ島に弁財天をまつった。寺ではなく、神社の形式をとった。
頼朝が、「御正体」(おしょうたい)として八(ひ)の弁財天を寄進した。それとはべつに、この神社は、裸形で琵琶を弾く形の弁財天(?)がふるくからつたわっていることで知られる。少女のかたちをし、性器までそなえている。鎌倉のリアリズムのゆきつく果てかとも思えるが、時代はよくわかっていない。江ノ島のこの神は、関東武士の崇敬をうけたという。
当然、伏屋(宿)などもあったかと思われるが、しかし二条とその従者がここにきた正応二年には、建物をそなえた宿はなかった。どうやら岩屋にとまったらしいのである。漫々たる海の上に離れたる島に、岩屋どもいくらもあるに泊る。岩屋が宿というのも、十三世紀末の関東の一風景といえるかもしれない。
二条が泊まった岩屋は、「千手(せんじゅ)の岩屋」という屋号めかしいものがついていた。おそらく千手観音をまつっていたのだろう。この岩屋で修行していたのは、齢のたけた山伏で、後世でいえば、宿の亭主である。「霧の(まがき)、竹の編戸」と、「とはずがたり」のなかで彼女はいう。霧をもって(まがき)とみなし、竹やぶをもって編戸とみなした、というのだから、文学的修辞ではなしに、まことの岩屋だったのかもしれない。
この時代、「経営」ということばがあって、経営(けいめい)とよみ、いろいろ世話をするという意味だった。その山伏が、彼女たちをケイメイしてくれた。その謝礼として彼女は、従者の笈から扇子一つを取り出させ、「これは、都の土産(つと)です」と、山伏に贈った。山伏はむかし都にいたのか、大よろこびし、「このように暮らしていますと、都の便りもありません」といったりした。扇子一つが、ことごとしくも都の文化をしのぶよすがだったのである。のちの室町時代とくらベ、都鄙のちがいは大きかったらしい。
その夜、二条は、旅衣の上にさらに重ね着して臥せたという。夜具は苔筵(こけむしろ)だったというのも、あながち形容ではなく、実際にそうだったのだろう。寝ぐるしくて、岩屋のそとに出て夜の海を見たりした。
明けて、彼女は鎌倉の府をめざした。鎌倉に入る前に、極楽寺という寺に詣でた。極楽寺は武家の寄進などで寺領が多く、従って僧も多かった。彼女は、僧たちの服装やふるまいが都とおなじだというだけで、奇妙なほどに感動した。僧が普遍的な存在である以上、都鄙のちがいがないのは当然なのだが、そのことに心を安らがせるほどに、彼女は鄙に疲れていたのに相違ない。
鎌倉は、三方が山にかこまれていて、外界から入る者は、坂を上下せねばならない。入口は、七つあるとされた。彼女は、西方からくる人の多くがそうするように、極楽寺のそばの切通(きりとおし)を通った。極楽寺坂とよばれてきて、いまもそうよばれる。私も、その坂を上下してみたかった。まず、江ノ電に乗った。江ノ島電鉄長谷駅から乗り、ほどなくトンネルをくぐった。このトンネルの上が、こんにちの極楽寺坂の山である。電車がトンネルからぬけ出ると、極楽寺駅で停車した。私は、そこで降りた。トンネル一つをくぐるために電車に乗ったことになる。駅を出て、線路沿いの道を徒歩でのぼった。
極楽寺坂は、坂の両側に、山の緑がせまっている。車がすくなく、歩道を歩く人もいない。ただの鋪装道路ながら、声をあげてほめたいほどに閑寂である。鎌倉の文化はこの閑寂さにあるといってよく、その原型は頼朝をふくめた代々の鎌倉びとがつくったものながら、明治以後、この地の閑寂を賞でてここに住んだひとたちの功といっていい。
坂の頂点にちかいあたりに、店が一軒、山肌に貼りつくようにして建っている。電車のように紬長い建物で、店内には古時計やら陶器が置かれており、喫茶店でもある。茶をのみつつ、どうも「とはずがたり」の二条尼は、坂の名を取りちがえて記憶していたのではないか、とおもった。坂の名を、化粧坂(けわいざか)だと思っていたようである。
化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)を見れば‥‥とある。彼女はやがて坂の上から鎌倉市街を見おろすのだが、その前に極楽寺を参詣している。当然、彼女が選んだ入口は、極楽寺坂なのである。当の化粧坂は、極楽寺から直線にして二キロ半ほども離れている。途中、山また山で、じつに遠い。さらにいうと、彼女は坂をくだって由比ケ浜に出たという。化粧坂だと、海岸に出ず、いまでいえば鎌倉税務暑の前に出てしまう。おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいない。
彼女は、その前半生を化粧(けわい)のなかですごした。院に寵せられ、五摂家の当主とも思い出があり、それに仏門に入ったはずの法親王にまで愛された。俗体のころは粉黛(ふんたい)にまみれていたなどという感想も、化粧坂という地名に触発されて湧いたかとも思える。
彼女は、坂の上から、市街を見た。袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。筒潔なこのひとことが、十三世紀の鎌倉の市街をよく言いあらわしている。また、「階(きざはし)などのやうに重々(じゅうじゅう)に」ともいう。傾斜地が造成されて、建物が重なるように建っている景観がおもしろかったらしい。さらに重要なのは、京都のような東山があるわけでもない、と比較していることである。城下町がまだ成立していないこの時代、政権の存在する都市は、京都と鎌倉しかなく、つい比較したかったのだろう。
いまの極楽寺坂からは、鎌倉市街の全景は見えない。道路わきの山道まで登れば、十三世紀の彼女の得た跳望を見ることができるはずだが、いまはその労を省く。私も、坂をくだった。由比ケ浜までくだり、浜づたいに歩いた。ゆくほどに、若宮大路の南端に達した。彼女も、そうした。大路を北にむかい、鶴岡八幡宮に至った。「先づ御社(おんやしろ)へ参りぬ」と、彼女はいい、比較都市論のくせが出た。京都の南郊の石清水八幡宮とくらべたのである。海を見はるかしているぶん、鶴岡のほうがまさっている、という。私も同感である。
彼女は、参詣するひとびとの風俗についても比較した。京の神社では、然るべき階層の男子が参詣するとき、浄衣(じょうえ)を着る。鎌倉では、ひとびとは白装していない、という。参詣する武士たちは、武家の礼装である直垂(ひたたれ)を着ているために、色とりどりだったというのである。
私も、二条のように、境内にいる。有名な公孫樹(いちょう)の老樹の前にくると、北欧からの団体旅行客らしい一団がいた。樹に、たくさんのリスがいた。黒ずんで、ふつうのリスよりやや大ぶりなこの小動物が、数ひき、幹を上下している。すばやいために、煙をひいているようにもみえる。公孫樹は、老いている。樹齢千年以上で、むろん源頼朝も知っているし、その子で三代将軍になった実朝が、甥の公暁のためにこの樹の蔭の下で斬殺されたのも見ている。
ただ、頼朝も実朝も、このリスたちを知らない。境内で出会った禰宜の池田正弘氏が、「タイワンリスです」と、教えてくれた。池田さんは、「これは新聞で読んだ知識ですが」とことわって、戦時中、江ノ島で飼われていたタイワンリスが逃げて、鎌倉じゅうに繁殖した、という。
ついでながら、「とはずがたり」が発見されたのは、宮内省図書寮(いまの宮内庁書陵部)で、発見者は、山岸徳平(1893-1987)であった。わが二条も、その鎌倉見聞記も、五百年以上ねむっていたことになる
 
「とはずがたり」考2 私の好きな古典の女たち

「とはずがたり」というやさしい題の、昔物語を御存じでしょうか。同じわが国の古典でも「源氏物語」や「平家物語」のように有名ではないので、御存じなくても不思議ではありません。長い間、幻の物語と呼ばれて、その存在が世に知られなかったのです。たったひとつだけ宮内庁の書陵部(しょりょうぶ)に、江戸時代の写本が残されていましたが、それは深くかくされ世に知らされませんでした。
内容が内容だから、宮内庁で外へ出さなかったのでしょう。つまり、宮廷の、天皇や院の情事のプライバシーに関することが驚くばかりリアルに書かれていたからです。戦後とちがい、戦前は皇室に関してはタブーがきびしく、そんな暴露的なことを世間に流すことは、神聖極りない皇室の体面を傷つけるとし、絶対に許されないことでした。ところが昭和15年、国文学者の山岸徳平氏が、その本について発表され、ようやく幻の物語に陽が当てられるようになりました。それでも尚、戦時中でしたので、内容はあからさまにはされませんでした。戦後も30年頃になって、急に研究がすすみ、その紹介が次々世に出るようになったのです。ですから、私が「とはずがたり」をはじめて読んだのも、今から十四、五年前のことでした。
その時の驚きを忘れることが出来ません。なぜなら、その内容が予想以上にあまりに面白く、かつショッキングだったからです。
「問わず語り」という題が示す通り、それはひとりの女の、ひとりごとめいた打明け話、あるいは、告白といったものでした。「源氏物語」が紫式部の作った平安朝の宮廷を舞台にした完全なフィクションであるのに対し、「とはずがたり」は、中世の宮廷を舞台にした点では似ていますが、書かれたことは、ほとんどが現実にあった実話でした。
作者の後深草院二条(ごふかくさいんにじょう)が、自分の過去を回想して語るという形式で、作中のヒロインでもあります。その点、今でいう私小説というべきもので、「源氏物語」より「蜻蛉日記(かげろうにっき)」などの王朝女流日記文学の系列に入ります。時代は、「源氏物語」の頃からおよそ三百年ほど後のこと、幕府は北條氏の時でした。
紫式部が宮廷の女房だったように、二条もまた院に仕える女房だったと同時に、後深草院の寵(ちょう)を受けた愛人の一人でもありました。二条の父は大納言久我雅忠(くがまさただ)で、久我家は由緒正しい家柄でしたから、ことによれば、二条は院の妃の一人にもなれた筈でしたが、雅忠が早く死んだので後楯もなくなり、女房で終り、しかもある時から、院の寵を失い院の御所から出されてしまいます。そういう生い立ちからしても、二条が当時の貴族の娘として、充分な教育を受けていたことは当然です。特に彼女は文学を好んだらしく、若い時は「源氏物語」を愛読した文学少女であったようです。もちろん、「蜻蛉日記」も読んでいたでしょう。それで晩年、つくづく自分の生涯をふりかえった時、人並よりも数奇で薄倖(はっこう)で、何よりも恋多かった自分の過去が、書き残すに値するものと思ったにちがいありません。つまり「物語」よりも自分の実人生の方が奇なりと考えたのでしょう。それで思いだすままに少しずつ書きつづけていったのが、いつのまにかたまって、「とはずがたり」が出来上ったのだろうと思います。
その最後に、自分の生涯をひとり胸におさめておくのも物足りなく思われるので、つい、
「かやうのいたづら事を続け置き侍(はべ)るこそ。後の形見とまでは、おぽえ侍らぬ」
と書いています。こんなつまらない事を書きつづけておきましたが、別に後世、人に読まれようと残すつもりではありませんという意味ですが、これはあくまで、創作上の修辞で、本心はもちろん、自分の特異な恋の経験と、それからぬけ出た後半生の女西行のような放浪の旅の思い出を、ぜひとも聞いてほしいという執筆動機だったと思われます。では「とはずがたり」によってユニークな中世の女の稀有な運命と愛と性の全貌をみてゆきましょう。
一人称の作品の中で、二条は生涯に四人の男性と深い関係を持ったことを告白しています。彼女をめぐる四人の男とは、後深草院、雪の曙(西園寺実兼〈さいおんじさねかね〉)、有明の月(性助法親王〈しょうじょほっしんのう〉)、近衛大殿(このえのおおいどの)(鷹司兼平〈たかつかさのかねひら〉)です。カッコ内はモデルとされる実在の人で、後深草院は、本名で出ています。この他、後深草院の弟の亀山院、作中では新院とある人物とも、交渉があったと考えられます。あるいはこの他に、作中には書かなかった情事が皆無だったともいいきれないでしょう。男にいい寄られやすい雰囲気と、いい寄られたら断り難い性分の女のように、作品の中では書かれているからです。
後深草院と二条の関係は、宿命的なものがありました。後深草院は二条の母の大納言典侍(だいなごんのすけ)が女房として宮中に仕えていた頃、少年の初恋を感じ、新枕のことを二条の母に教わったという仲でした。典侍は雅忠と結婚して二条を産み、まもなくなくなってしまいます。その遺言に、久我家の娘は代々宮仕えさせないという習慣があるけれど、この子だけは宮仕えさせてくれといいました。院は典侍の死を悲しみ、その形見の娘を4歳から手許に引きとって育てます。そして心ひそかにその成長を待ち、初恋の女の娘と契ろうと待ったのです。後深草院は自分と二条を、心中、「源氏物語」の光源氏と紫上になぞらえていたのかもしれません。たしかにこの時代の宮廷は、政治の実権はほとんど幕府に奪われていて、逸楽と頽廃がみちていたようでした。
遊びはすべて、黄金時代の平安朝をなぞることでした。「源氏物語」が何よりのお手本になりました。そして人々は生活や恋まで「源氏物語」をなぞりたがったのです。音楽の会も、船遊びも、蹴鞠(けまり)の試合もそうでしたが、しまいには、妃たちや女房たちを、それぞれ「源氏物語」の女たちに仕立てて音楽の会をするというような遊びまで考えだすほどでした。
ともあれ、文永八年(1271)の正月、院は、はじめて、里帰りしていた二条の寝所ヘ、男として訪れました。もちろん、父も継母も承知していて、名誉なことに思っています。知らないのは十四の少女だけで、家中が飾られたり自分にいい着物を着せられる理由もわかりません。その夜も暮れて、うたた寝からふとさめると、傍に院が寝ています。二条は愕(おどろ)き、院がどんなにことばをつくして「愛している」とか、「この夜をどんなに長い間待ったことか」とか求愛しても、泣くばかりです。「どうして前もって、話して下さらなかったのです。父にだってよく相談したかったのに」と泣いてばかりいるので、
「あまりに言ふ甲斐(かひ)なげにおぼしめして、うち笑はせ給ふさヘ、心憂く悲し」
という状態でとうとう一晩中すねて身を許しません。院はその夜は少女の抵抗を許しますが、次の夜は情容赦もなく乱暴に彼女の処女を奪ってしまいます。
「今宵はうたて情(なさけ)なくのみ当り給ひて、薄き衣はいたく綻(ほころ)ぴてけるにや、残る方なくなり行くにも…」
というリアルな描写で院のその夜の行為があらわされています。
こうしてこの夜を境に院の寵い者になって後宮では一目おかれて暮すのですが、二条にはそれ以前にすでに恋人がいたのです。文中では雪の曙となっていますが西園寺実兼であることは、今では定説になっています。実兼はその時23歳で名門西園寺家の当主になっていました。ちなみに、後深草院は29歳でした。実兼と二条の仲がプラトニックだったかどうかは不明ですが、「さても、さても新枕とも言ひぬべく、かたみに浅からざりし心ざしの人」という表現があります。言ひぬべくは、言ってよいほど、言いたいほど、ですからどっちにしても、精神的には相当な深い仲だったことは考えられます。あるいは実兼も年齢より老成した男なので、二条の成長を待っていたところを、院にぬけ駆けされたというところかもしれません。実兼は院の近臣でしたから、その後の二条と院の情交の深まりをいやでも目近に見ないでは暮せませんでした。
翌年、思いがけず雅忠が病死してしまいます。そのため里帰りしている二条を実兼が訪れ、二人の仲は急速に進みます。もともと相思相愛だった二人が燃え上るのは時を要しません。院の目を盗んで密会を重ねるうち、二条は実兼の子を妊(みごも)ってしまいます。実兼はそれと知り、益々二条に愛情を感じやさしくなりますが、二条は院に妊娠をニヵ月ごまかして六ヵ月なのに四ヵ月と報告してとうとう産月を迎えてしまいました。実兼はもう里に帰った二条につきっきりで面倒を見ます。表向きは人の嫌がる重い病気にかかったといいふらして、一切見舞いもうけず、誰にもあわず引っこんでいて、お産をしてしまいます。実兼はその枕元に始終つきそい、秘密の出産を扶(たす)けるのです。陣痛に苦しむ二条の腰を抱き起しこうすれば早く生れると聞いたがと励ましたとたん、二条は産気づき、実兼の手にすがったまま、赤子を産み落しました。実兼は自分の太刀で臍の緒を切り、そのまま白い小袖にくるんで走り出てしまいます。
実は実兼の本妻が女の子を産み、産後ほどなく死んでいたのと、二条の赤ん坊をすりかえてしまったのです。このお産の描写をはじめて読んだ時、私は心から愕いてしまいました。
お産の場面を小説に書いたものも多いでしょうが、こんなスリリングな場面と行動を、これほどリアルに書いたものを知りません。凄い小説だと思いました。そしてその時、私は「とはずがたり」と後深草院二条にすっかり魅了されてしまいました。とり憑かれたという方が当っているかもわかりません。なぜなら、私はその後この小説を二度も現代語訳している他「中世炎上」という小説にして書いてもいるからです。
さて院には、子供は死産したと報告します。院からは見舞いの薬などたくさん差し入れられるのを「いと恐し」と、二条は感じます。
そんな実兼がありながら、二条はやがて院の弟で御室(おむろ)の阿闍梨(あじゃり)、有明の月、実は性助法親王とも契ってしまいます。院の病気の祈祷のため御所に来た有明の月は、祈祷と祈祷の間に、道場のすぐそばの局で、泣きながら抱きついてきて想いを遂げてしまうのでした。一度破戒の蜜の甘さを覚えた阿闍梨は、狂的なほど二条に熱中してしまいます。二条はその情熱に引きずられながらも、あまりの妄執が恐しくなり、縁を断とうと冷淡にします。
阿闍梨は、それと知ると恐しい呪詛(じゅそ)の手紙を送ってきます。そんなこともありながら、またしても二条は阿闍梨の情熱と妄執に負け、阿闍梨を再び受けいれてしまいます。阿闍梨は里に帰った二条の許(もと)へ通いつめ、突如として悪疫にかかり、急死してしまい、後には二条が阿闍梨の子を宿していました。
不思議とも奇怪ともいいようがないのは、阿闍梨と二条の仲を知った院が、わざわざ二条に用をいいつけ、阿闍梨の許へゆかせ、仲直りのチャンスを与え、二条にも、阿闍梨との仲を認めるからつづけるようにとそそのかすことでした。その上、院は、近衛大殿、現実には太政大臣鷹司兼平を、二条の後見になるという条件で、取り持つようなこともしています。伏見へ旅行した時、院は自分の寝所の襖の向うで大殿と二条を結ばせてしまうのです。
また、ある時は弟の亀山院との間も、亀山院に二条をくどき易いようにはからうようなところもありました。
この物語に登場する二条の情事、あるいは恋の相手というのは、その時代の超一流の男性ばかりが揃っていますが、一番正体のわからないのが後深草院のような気がします。亀山院とは同母兄弟でありながら、なぜか後深草院は、両親から弟と差別されていました。父帝の後嵯峨院(ごさがいん)は、亀山院の方に対して愛情が強く、後深草院は、わずか4歳で天皇になったものの、即位の間中、後嵯峨院が実際には院政をしいているのであり、17歳になると、もう強制的に亀山院へ譲位させられています。内心面白くないのは当然で、そうした現世的不平不満は内向して、院の性質を屈折の多い女性的で陰険なものとし、しかもあきらかにアブノーマルな性的傾向も持っていたように見受けられます。二条と実兼との関係も、実はすべて承知の上で、二人を泳がしていたのではないかと思われる節(ふし)さえあります。
実の妹の斎院(さいいん)を誘惑する手引を二条にさせたり、町の女を御所に引き入れて一夜の慰みにする世話を二条にさせたりしています。そういう院のもとで、二条が真実幸福だったとは思えません。かといって、二条の次々おこす情事も、あまりに他愛なく男に屈する点で味気なくさえ感じます。ただこういう情事の繰りかえしの筋書だけをのべますと、二条はおよそ自主性も知性もなく白痴的な、ただ性だけに翻弄され、流されていく女のように見えますが、決してそうではないのです。単にセックスだけの魅力なら、これだけの一流の男性たちが、揃いも揃って、こうまで情熱的に二条に惹かれるでしょうか。「とはずがたり」に書かれた二条は、どの男との間でも、決定的に相手を憎んだり恨んだりしてはいません。最初は仕方なく屈した場合も、いやいや従わされてしまった場合でも、事の終った後や、少しつきあった後では、相手に心情的になびいています。
院にはかられて、ほとんど無理矢理に関係を持たされ「死ぬばかり悲しき」と院を恨んだ大殿との仲でも、二夜を共にして、京へ帰る時には別々の車で京まで並んでゆき、京極からは、院と二条と実兼の乗った車は北へゆき、大殿の乗った車が西へ行き、いよいよ別れることになると、
「何となく名残惜しきやうに車の影の見られ侍りしこそ、こはいつよりのならはしぞと、わが心ながらおぼつかなく侍りしか」
といっています。二夜の契りで、早くも大殿に別れ難い一種のなつかしさを感じているのです。しかも自分は、院と実兼と同じ車に乗っている時の心の動きなのです。こういう心の揺れは、先に、院と、実兼の間にも認められました。
「慣れ行けば帰る朝(あした)は名残を慕ひて又寝の床(とこ)に涙を流し、待つ宵には更け行く鐘に音(ね)を添へて、待ちつけて後(のち)はまた世にや聞えんと苦しみ、里に侍る折は君の御面影を恋ひ、かたはらに侍る折はまたよそに積る夜な夜なを恨み、わが身にうとくなりまします事も悲しむ。人間のならひ、苦しくてのみ明け暮るる」
とあります。恋人に馴れると、恋人の朝帰りするのが名残り惜しく、辛く、待つ宵は、こんなことが世間に評判になるのではないかと苦しむ。かといって、里にいると、恋人に逢いながら、院が恋しくなり、院の御所にいる時は、他の女とすごされる夜々を嫉妬して、自分に対して院が冷たくなることが悲しまれる。人間のならいで、苦しんでばかりいる。という意味で、二条が決して、実兼一辺倒に溺れているわけではなく、院にも心が残っていることがなまなましく書き出されています。
こういう心の揺れを正直にみつめて、率直に告白出来るという点で、二条は決して、情に流されるばかりの女でないことが理解出来ます。
男と関わる度に悲しみや苦しみが増すことは、もう経験で承知していても、やはり、男の切実な求愛を受けると、応えるはめになり、そして許してしまえば、男に愛情が生れる。そういう二条は、別の見方をすれば、まるで捨身行をしながら菩薩への道をひたむきに歩んでいるように見えないこともありません。愛を受けいれて、傷つき、現実の場で損をしているのは、いつでも二条です。
一夫多妻(ポリガミー)は男の側だけの特権のように思われていたこの時代に、一妻多夫(ポリアンドリー)も可能なことを二条の心の揺れは示してはいないでしょうか。同様に多くの女性を男が愛しても不思議がられず、女にだけは一夫一婦(モノガミー)の貞操を強いられるのは不自然です。
「蜻蛉日記」の作者、道綱の母は、多情な夫兼家の浮気に死ぬほど苦しみ、その苦しみの中から、「蜻蛉日記」を生みました。
後深草院二条は、男のように、同時に、二人ならず何人も愛することが出来、そのことで苦しみ、「とはずがたり」を生みました。どちらが幸福だったとはいえません。
二人の流した涙の分量は似たようなものでしょう。
ただ、二条は自分の流される煩悩の苦しみの淵から、ある時点で這い上りました。
「とはずがたり」は巻一から巻五までありますが、巻三までが、今までのべてきたような男性との愛憎の渦が描かれ、巻四、巻五は、一転して、出家した二条が、女西行のようになって、諸国を行脚することが書かれています。
二条は、幼い時、西行の絵巻物を見て、自分もこういうふうに旅に暮したいと憧(あこが)れを抱きます。それは思いの外の根強さで、二条の心の底にひそみつづけていました。
また、父の雅忠は死ぬ時、遺言して、
「もし、院にも捨てられて、宮廷で生活していけないようになったら、急いで出家遁世(とんせい)してしまいなさい。そうして自分の後生(ごしょう)も救われ、両親の恩も報い、あの世で一つ蓮に再会出来るよう祈りなさい。世間に見捨てられ、愛も失い頼るべき当てがなくなったからといって、他の君に仕えたり、どんな人の家にも厄介になって暮すようなことをすれば、私の死後でも勘当だと心得ておきなさい。夫妻のことは、この世だけのことでない前世(ぜんせ)からの因縁ずくだから、どうしようもない。それにしても、有髪(うはつ)のままで好色の評判を家系に残すことなどは情けないからしないでおくれ。ただ出家遁世した後ならばどういうくらしをしてもかまわない」
といっています。また、
「世の中いとわづらはしきやうになり行くにつけても、いつまで同じながめをとのみあぢきなければ、山のあなたの住まひのみ願はしけれども、心にまかせぬなど思ふも、なほ捨てがたきにこそ」
というような述懐もしています。男たちとの間が面倒で面白くなくなってくるにつけても早く出家してしまいたいと憧れるのだけれど、それもまだ思うようにはゆかず、やはり、浮き世は捨て難いものだ。というような意味で、捨てる決心はつかないまでも、二条はしきりに出離に憧れる心はきざしていたのでした。「ただ恩愛の境界を別れて仏弟子となりなん」という述懐も見えています。
どうやら二条は29歳から31歳の間の何れかの時に出家しているようです。丁度、この間のことが、「とはずがたり」ですっぽり抜けていますのでわかりません。
巻四に入って、突然、墨染の衣姿の尼僧の二条が、都を出て、東国へ旅をする様子が描き出されてくるのです。そして、巻五の終りまでは、二条が信じられないほど全国を歩いて、漂泊の旅をつづける紀行がつづられています。前篇を愛欲篇、後篇を遍歴篇とする研究家もいるくらいです。
正直いって、私は自分が出家する前、「とはずがたり」の面白さは、巻三までの愛欲篇にあり、紀行文は平板で艶がなくなりつまらないと思っていました。それが自分が思いがけず出家して、最近は特に女西行のように巡礼に憧れ雲水になって歩いてみて、「とはずがたり」の後半にも別な目が開かれるように思いました。二条の足跡は東は武蔵の隅田川まで、北は信濃の善光寺まで、南は四国の足摺岬までも及んでいます。足摺は想像で書かれて、実際は行っていないという研究も発表されていますが、少くとも四国へは渡っています。今とちがい、昔の旅行は命がけでした。旅に出る時は水盃して出たのも永遠の別れを予測したからでした。しかも足弱で深窓育ちの二条が歩くのです。その困難さはどんなものだったでしょう。けれども紀行文の中で、二条はそういう旅の苦しさにはあまりふれていません。淡々とした紀行文の中に、二ヵ所、ドラマティックな場面があらわれ、際立っています。その一つは巡礼の途中、全く思いがけず、石清水八幡宮へ詣でた時、偶然、そこへ参詣していた後深草院の一行と出逢ってしまったのです。その夜、二条と院はひそかに逢い、眠る間もなく語り明かしました。別れぎわに院は自分の小袖を脱いで二条に渡し、
「人には内密の形見だよ。肌身放すなよ」
といわれました。私は出離前、ここを読んで、二人はこの場で旧懐をあたため、誘われれば拒絶出来ない二条は、ここでも院の誘惑に負けただろうと、下司な想像をしていました。けれども自分が出家してみて、それがどんなに浅はかな想像だったかがわかったのです。
出家すると、出家の偈(げ)というものを誰も仏前に誓わされます。私も、それをとなえました。
「流転三界中(るてんさんがいちゅう)
恩愛不能断(おんあいふのうだん)
棄恩入無為(きおんにゅうむい)
真実報恩者(しんじつほうおんしゃ)」
という四句です。「とはずがたり」の研究者たちは、二条が文中にしばしば引用しているこの語がとりもなおさず「とはずがたり」の主題だと筆を揃えていっています。たぶんそうでしょう。けれども私は二条自身の書く動機や姿勢の中には、そんなにはっきりしたテーマとかモチーフとかいうものは考えていなかったのではないかと思うのです。二条は出家して、20年もたち、全国を流浪しつつ、まだ自分の生きてきた過去に対して、きれいさっぱり訣別が出来ていなかったのではないでしょうか。だからこそ、過去をふりかえり、紙に定着させ、自分の生の意味をふりかえり、問いかえしたかったのではないでしょうか。悟りきったところから、文学などは生れません。私自身も悟ってしまえばおそらくペンを折りましょう。悟れないから書くのです。二条は、もう一度、流転三界の中の断ちきれず自分をああまで苦しめたあの恩愛とは何だったのかと問いたかったのではないでしょうか。
もう一度二条は院と伏見で逢い、また一晩二人きりで明かす夜を持ちました。その時院は全く昔と変らない心の丈けで、
「出家してもいいよる者がたくさんいるだろう。いったい愛欲の始末はどうしているのか」
とたずねました。それに対して、二条が怒りもせずしみじみと、修行の旅の孤独さを語り、それでも尚疑い深くせんさくする院に向って、
「この世に存らえていたいとは思いませんが私もまだ四十にならない身ですから、これから先のことはどうなるかわかりません。でも今日という今日までは、一切、院のおっしゃるような色っぽいことはありませんでした」
と淡々と答えています。これから先のことはわからないという二条の素直さがこの時、光り輝いて見えはしないでしょうか。仏にすべてをゆだねきった者のみがいえる自然な声ではないでしょうか。二条はすでに救われていたのだと思います。この世で地獄を見た者だけが、聖化されるということわりを、二条は意識せずにここに来て書き残しました。そうなれば、後深草院の死を聞いた二条が、はだしで葬列を追っていく場面が、事実かフィクションかなどということはどうでもよくなります。
私は、自分の生涯をかえりみる作者の目が女性に珍しくナルシシズムを越えて冷酷なほど自分を突き放し透徹していることに、読み直す度いつでも打たれます。そして作者の書いた二条というヒロインを、実に女らしい可愛い、そしてまっ正直な魂の持主ではないかと、愛さずにいられなくなります。
 
「とはずがたり」考3 浅草観音・隅田川

浅草観音の月
雷門から浅草寺の仲見世通りを本堂へ向かって行くと、宝蔵門の手前左側は店がなく、塀で囲われている。塀の向う側は浅草寺の寺務を取りしきる伝法院で、建物の西側には池を抱いた回遊式庭園がある。ここに入ると、参詣人でごったがえす仲見世の賑わいはまるで遠い彼方の潮騒のような静けさである。
庭には鎌倉時代の年号を刻んだ石碑もある。伝法院庭園はかすかに中世における浅草寺の俤(おもかげ) をとどめているのかもしれない。
文学作品で鎌倉末期の浅草寺の有様を伝える記述が僅(わず)かに見えるのは、後深草院二条の「とはずがたり」である。正応三年(1290)の秋、33歳でもはや尼姿となっている彼女は浅草寺参詣を志す。彼女はその前の年鎌倉に下って来て、暮には鎌倉から武蔵国川口に行き、そこで年を越し、この年2月信濃の善光寺に詣でて、どうやらそこから浅草寺へと向かったらしい。川口での越年の有様が次のように述ぺられている。
かやうの物隔たりたる有様、前には入間川とかや流れたる、むかへには岩淵の宿といひて、遊女どもの住みかあり。山といふ物はこの国内には見えず、はるばるとある武蔵野の萱が下折れ、霜枯れはててあり。中を分け過ぎたる住まひ思ひやる、都の隔たりゆく住まひ、悲しさもあはれさも取り重ねたる年の暮れなり。
「岩淵の宿」というのは、おそらく今の東京都北区岩淵町のあたりであろう。川口市と岩淵町の間には新荒川大橋が架かっている。すると、前に流れている入間川というのは、たとえ流路はひどく変っていても、中世における隅田川の上流の一つで、現在の隅田川の始発の部分であったことになる。
さて、善光寺詣でを果たして浅草寺へと向かった道筋は、こんなふうに描かれている。
八月の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵国へ帰りて、浅草と申す堂あり、十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分けゆくに、萩・女郎花(をみなへし)・荻(をぎ)・薄(すすき)よりほかは、またまじる物もなく、これが高さは馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿などもあれ、はるばる一通りは、来し方行く末野原なり。
西行に仮託された説話集の「撰集抄(せんじゅうしょう)」や、西行の生涯を物語風に潤色して語った「西行物語」には、東国修行中の西行が千草の咲き乱れる秋の武蔵野で、元は郁芳門院に仕える侍であった世捨て人とめぐり逢い、語り合ったという話が語られる。「西行物語絵巻」に描かれているその場面は美しい。九つの時「西行が修行の記といふ絵」を見てその境涯に憧れたという彼女は、あるいはそれらの記述を思い出しながら自らの旅を綴っているのかもしれない。
浅草寺に参詣したのは丁度八月十五夜の晩であった。
観音堂はちと引き上がりて、それも木などはなき草の中におはしますに、まめやかに、「草の原より出づる月影」と思ひ出づれば、今宵は十五夜なりけり。雲の上の御遊びも思ひやらるるに、御形見の御衣(おんぞ)は、如法経(にょほうきょう)の折御布施に大菩薩に参らせて、今ここにありとは覚えねども、鳳闕(ほうけつ)の雲の上忘れたてまつらざれば、余香をば拝する心ざしも、深きに変らずぞ覚えし。
草の原より出でし月影、更けゆくままに澄み昇り、葉末に結ぶ白露は玉かと見ゆる心地して、
雲の上に見しもなかなか月ゆゑの身の思ひ出は今宵なりけり
涙に浮かぶ心地して、
隈もなき月になりゆくながめにもなほ面影は忘れやはする
明けぬれば、さのみ野原に宿るぺきならねば、帰りぬ。
「草の原より出づる月影」というのは、「新古今和歌集」秋上に収める藤原良経(よしつね)の、「行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月影」という歌を引いているのである。この歌は摂政左大臣であった良経が後鳥羽院の主催する五十首歌会で「野径月(やけいのつき)」という題を詠んだものである。摂関家に生れた良経はついに東国に下ることはなかった。これは彼が観念の世界で思い描いた武蔵野の風景であった。が、それから一世紀近く経って関東に下ってきた後深草院二条が見た武蔵野の月は、この歌のままであったのである。
「御形見の御衣」というのは、旧主後深草院から与えられた衣服である。彼女は後深草院の女房であった。しかし、院は彼女にとって単に主君であっただけではない。彼女は4歳の時から院の御所で養われた。9歳の時には院から琵琶を習った(後深草院は今様や琵琶などの音楽に長けていた)。
14歳になった正月、院は彼女の父久我大納言源雅忠の了解のもとに、何も知らずに里に下って寝入っていた彼女をほとんど強引に抱き、自身の少なからぬ後宮の女性の一人に加えた。院はいわば父であり兄であり、そして夫でもあった。
彼女は宮廷において数人の男と深い交渉を持った。それらの中には院が黙認し、いな勧めた場合さえある。院は正妃東二条院の嫉妬にもとづく激しい攻撃からも彼女をかばっててくれた。
が、皇統の継承をめぐって対立関係にある実の弟、亀山院と彼女との間柄が取り沙汰されるや(実際、亀山院はそれ以前にも彼女に強い関心を示している)、後深草院は彼女をかばおうとはしなかった。
26歳の年に彼女はほとんど追放同然に院の御所を退いた。その院から下賜された衣服は写経奉納の布施として今は無いが、かつて宮仕えした折のことは忘れないので、心の裡で「余香」を拝するというのは、「大鏡」に語られている、配所太宰府における菅原道真の行為を思い浮かべているのである。
去年の今夜清涼に侍りき
秋思の詩篇独う腸を断つ
恩賜の御衣は今此に在り
捧げ持ちて毎日余香を拝したてまつる
彼女は罪なくして配所の月を仰ぐ道真に自身を重ね合わせている。しかし、それだけではない。彼女以前に自らを道真に擬した人物に、須磨の浦で十五夜の月を見る源氏がいる。
見るほどぞしばし慰むめぐりあはん月の都は遥かなれども
その夜、上(兄朱雀帝)のいとなつかしう昔物語などし給ひし御さまの、院(なき父桐壺院)に似たてまつり給へりしも、恋しく思ひ出できこえ給ひて、「恩賜の御衣は今ここに在り」と誦しつつ入り給ひぬ。御衣(おんぞ)はまことに身を放たず、傍に置き給へり。(「源氏物語」須磨)
源氏が都の優柔不断な兄朱雀帝を偲(しの)ぶように、今、後深草院二条が「隈もなき月」に見ている「面影」も、都に健在である筈の、やさしくてしかもつらかった後深草院のそれである。彼女は道真とともに「源氏物語」の源氏をも自らに重ねる。しばしば女西行と評される彼女を、女源氏と見る見方もあるのである。
後深草院二条の隅田川
「明けぬれば‥‥帰りぬ」という。通夜をおえた彼女が帰ったのは、おそらく浅草寺かその近くの寺院の宿坊であろう。そして、隅田川のほとりに立つ。
さても、すみだ河原近きほどにやと思ふも、いと大なる橋の清水(きよみづ)・祇園(ぎをん)の橋の体(てい)なるを渡るに、きたなげなき男二人逢ひたり。
「このわたりにすみだ川といふ川の侍るなるは、いづくぞ」と問へば、「これなむその川なり。この橋をばすだの橋と申し侍り。昔は橋なくて、渡し舟にて人を渡しけるも、わづらはしくとて、橋出で来て侍り。すみだ川などはやさしきことに申しおきけるにや、賤(しづ)がことわざには、すだ川の橋とぞ申し侍る。この川のむかへをば、昔はみよしのの里と申しけるが、賤が刈り干す稲と申す物に実の入らぬ所にて侍りけるを、時の国司、里の名を尋ね聞きて、「ことわりなりけり」とて、吉田の里と名を改められてのち、稲うるはしく実も入り侍り」など語れば、業平の中将、都鳥に言問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、
尋ね来(こ)しかひこそなけれすみだ川住みけん鳥の跡だにもなし
川霧寵めて、来(こ)し方(かた)行く先も見えず。涙にくれて行くをりふし、雲居遥かに鳴くかりがねの声も折知りがほに覚え侍りて、
旅の空涙にくれてゆく袖を言問ふ雁の声ぞかなしき
「みよしのの里」を思わせる古い地名として、「伊勢物語」十段に「入間の里、みよし野の里」というのがあり、現在の埼玉県坂戸市横沼かとされている。また、「吉田」は川越市に地名として残る。
両市は境を接し、「伊勢物語」の、「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌語りの世界はここかと伝えられてもいるのだが、しかし彼女は浅草寺に詣でたのち、入間の郡までさまよって行ったのではないであろう。この時代にも隅田川は浅草寺のすぐ東側を流れていたと考えられるのである。
「みよしのの里」や「吉田」は当時の隅田川界隈に実際にあった地名かもしれないし、「伊勢物語」の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為であるかもしれない。
ともかく、この川は大河であった。そこに架けられた橋は、清水詣でに渡った都の五条橋、祇園に参籠した時渡った四条大橋を思い出させた。しかし、業平が呼び掛けたという都鳥は見えない。立ち籠める川霧に視界もきかない。雲の中に初かりがねの声がする。その声は「どうして旅するの、何が悲しいの」と呼び掛けるかのようである。長旅にやつれながらも昔の色香を失っていない尼は、大川のたもとに佇(たたず)んで涙する。
浅草寺の歩み
浅草寺に伝存の「浅草寺縁起」によると、推古天皇三十六年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が江戸浦(隅田川の下流辺りを昔は宮戸川といった)で漁労中、一体の仏像を投網(とあみ)の中に発見した。それを土師中知(はじのなかとも)が拝し、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の尊像であることを知り、自ら出家し、屋敷を寺に改めて深く帰依(きえ)したという。これが浅草寺の草創である。
また観音さまご出現の翌日、十人の草刈り童子が藜(あかざ)で草堂を造ったとも伝える。この経緯からもわかるように当時の浅草は漁村と農村といったような二重構造で地域の開発がすすめられていたといえよう。それに秩序も整っていたと思われるのは、観音信仰を郷土全体で共有の形で受け入れていることである。檜前兄弟と土師中知の三人を祀ったのが「三社権現社(さんじゃごんげんしゃ)」、今の浅草神社である。
このことにより広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江(江戸浦)の一寒村であった浅草は、宗教的集落として発展し、今日の浅草となったのである。なお太平洋戦争で浅草寺は空襲を受け、観音堂を焼失したが、その焼跡から土師(はじ)器の灯明皿(とうみょうざら)や須恵器(すえき)の華瓶(けびょう)や陶鉢(とうはつ)などが出土し、考古学の上から奈良時代末期の姿を偲(しの)ぶことができるようになった。
ご本尊である聖観世昔菩薩のお像を、大化元年(645)勝海上人(しようかいしようにん)という僧が来られ「秘仏」と定められた。やがて九世紀平安時代の初期[天長五年(828)または天安元年(857)とも伝えられる]に慈覚大師(じかくだいし)が比叡山より来られ、ご秘仏の姿に模して「お前立(まえだち)」のご本尊(お開帳仏)を謹刻され、このときに版木(はんぎ)観世音菩薩御影(みえ)(柳御影という)を作られた。
この版木は弘仁期(810-824)ごろの刷仏(すりぶつ)版木と認められているので、ご本尊の御影を所望する者が多かったと推定でき、当時の信仰の普及のほどが偲ばれる。のちに勝海上人は浅草寺の「開基」、慈覚大師は「中興開山」と仰がれるに至っている。
「武蔵野地名考」が「この地、観世音の霊場にて、おのずから聚落(しゅうらく)となり、荒蕪(こうぶ)のひらくること他に先立ちたれぱ、浅草の名はおこりたり」と記しているのは、これらのことを指しているのであろう。ちょうどこのころ、承和二年(835)の「太政官符(だじょうかんぷ)」に隅田川に渡船二艘を増すようにとの記録があるように、隅田川沿いのこの地は早くから房総・奥州地方への交通の要所であったと推定され、このことが浅草寺と浅草の発展に大いに寄与した。
天慶五年(942)平公雅(たいらのきんまさ)が浅草寺に祈願して、武蔵国の国守に任ぜられた報謝のしるしとして七堂伽藍を再建した。その中に法華・常行の二堂が含まれているのは、浅草寺が慈覚大師以来、比叡山延暦寺を祖山とする「天台」の法流に属していたことを示すものであろう。
のちに源義朝が当山に帰依し、承暦三年(1079)観音堂が炎上した折、ご本尊が自ら火焔を逃れ、近くの榎(えのき)の梢に避難されたとの故事を聞き、その榎で観音像を刻み奉納した。このお像は現在「温座秘法陀羅尼会(おんざひほうだらにえ)」の本尊として拝まれている。義朝の子源頼朝も治承四年(1180)下総から武蔵の国に、平家追討の戦陣をすすめて入る時、戦勝祈願のため浅草寺に参詣している。
浅草と浅草寺の文献上での初見は、鎌倉幕府の事跡を記した歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」にある。それには養和元年(1181)源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮造営のため、浅草から「宮大工」を招いたとあるが、頼朝の脳裏にかつて参拝した浅草寺の壮麗な伽藍のことがあったからであろう。また建久三年(1192)後白河法皇の四十九日忌の法要が鎌倉で営まれた際には、浅草寺より寺僧三名が出仕している。
建長三年(1251)には五十人ほどが集まっていた食堂(じきどう)に牛が暴れ入り、怪我人を出したとある。これらの記録は当時の浅草寺の規模を推定させる史科であるぱかりか、為政者が浅草寺を関東切っての古格ある寺として認めていたことがわかる。
さて、平安朝末期に始められた西国三十三観音札所巡礼にならい、鎌倉時代になると坂東札所が制定された。これには頼朝の篤い観音信仰と東国の武士たちが平家追討のために西国に赴いた折、実際に西国札所のいくつかの霊場に詣でたことが、この成立を促したといわれる。
福島県棚倉町の都々古別(つつこわけ)神社の観音像の台座銘に、天福二年(1234)(天福は元年で終わりだが、地方のため文暦と年号が変わっていたことに気付いていない)に僧成弁(じょうべん)が茨城県八溝山日輪寺(坂東二十一番札所)に籠もったあと坂東札所を巡礼したと墨書されているので、少なくともこれ以前に成立していたといえる。浅草寺は十三番の札所として、他の観音霊場と連携を保ちながら多くの巡礼者を迎え今日に至っている。
正応二年(1289)後深草院二条の自伝「とはずがたり」に「霊仏と申すもゆかしくて参る」とあるのは、この時期に浅草寺の霊名が四隣に行き渡っていたとみてよいだろう。室町時代から安土・桃山時代にかけては、足利尊氏が寺領を安堵し、足利持氏が経蔵を建立、応永五年(1398)には定済上人(じょうさいしょうにん)が広く勧進して観音堂を再建することなどが行なわれた。また、文明十八年(1486)ごろ道興准后(どうこうじゅごう)と堯恵法印(ぎょうけいほういん)が当寺に参詣したと「廻国雑記」と「北国紀行」が記している。
室町時代の小田原城主北条氏綱(ほうじょううじつな)によって天文八年(1539)堂塔が再建され、その家臣の江戸城代家老遠山直景(とうやまなおかげ)の子を浅草寺の別当職(住職)にあてた。この人こそ浅草寺中興第一世忠豪(ちゅうごう)上人である。忠豪上人は衆徒十ニヵ寺、寺僧二十二ヵ寺を制定、浅草寺運営の基礎を築いた。
戦国時代末期・江戸時代の初めには、天正十八年(1590)徳川家康が江戸に入府すると、天海大僧正(慈眼大師)の進言もあって浅草寺を祈願所に定め、寺領五百石が与えられた。慶長五年(1600)関ケ原の戦いの出陣に際し、家康が武運を観音堂において祈念し、勝利を得たことで天下に一段とその霊験の著しさが行き渡った。明和八年(1771)の「坂東霊場記」が「天正年中より堂社僧院湧く如く起り、坂東無双の巨藍(こらん)となる」と記すのは、まさしく徳川家の帰依による隆昌のさまを活写しているといえよう。
十一面観音巡礼 湖北の旅
早春の湖北の空はつめたく、澄み切っていた。それでも琵琶湖の面には、もう春の気配がただよっていたが、長浜をすぎるあたりから、再び冬景色となり、雪に埋もれた田圃の中に、点々と稲架(はさ)が立っているのが目につく。その向うに伊吹山が、今日は珍しく雪の被衣(かずき)をぬいで、荒々しい素肌を中天にさらしている。南側から眺めるのとちがって、険しい表情を見せているのは、北国の烈風に堪えているのであろうか。やがて、右手の方に小谷山が見えて来て、高月から山側へ入ると、程なく渡岸寺の村である。
土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。私がはじめて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することも出来なかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。それから四、五へんお参りしたであろうか。その度ごとに境内は少しずつ整備され、案内人もいるようになって、最近は収蔵庫も建った。が、中々本尊を移さなかったのは、村の人々が反対した為と聞いている。
大正時代の写真をみると、茅葺屋根のお堂に祀ってあったようで、その頃はどんなによかったかと想像されるが、時代の推移は如何ともなしがたい。たしかに収蔵庫は火災を防ぐであろうが、人心の荒廃を防げるとは思えない。せめて渡岸寺は、今の程度にとどめて、観光寺院などに発展して貰いたくないものである。
お堂へ入ると、丈高い観音様が、むき出しのまま立っていられた。野菜や果物は供えてあるが、その他の装飾は一切ない。信仰のある村では、とかく本尊を飾りたてたり、金ピカに塗りたがるものだが、そういうことをするには観音様が美しすぎたのであろう。湖水の上を渡るそよ風のように、優しく、なよやかなその姿は、今まで多くの人々に讃えられ、私も何度か書いたことがある。
が、一年以上も十一面観音ばかり拝んで廻っている間に、私はまた新しい魅力を覚えるようになった。正直いって、私が見た中には、きれいに整っているだけで、生気のない観音様が何体かあった。頭上の十一面だけとっても、申しわけのようにのっけているものは少くない。そういうものは省いたので、取材した中の十分の一も書けなかった。
昔、亀井勝一郎氏は、信仰と鑑賞の問題について論じられ、信仰のないものが仏像を美術品のように扱うのは間違っているといわれた。それは確かに正論である。が、昔の人のような心を持てといわれても、私達には無理なので、鑑賞する以外に仏へ近づく道はない。多くの仏像を見、信仰の姿に接している間に、私は次第にそう思うようになった。見ることによって受ける感動が、仏を感得する喜びと、そんなに違う筈はない。いや、違ってはならないのだ、と信ずるに至った。それにつけても、昔の仏師が、一つの仏を造るのに、どれほど骨身をけずったか、それは仏教の儀軌や経典に精通することとは、まったく別の行為であったように思う。
今もいったように、渡岸寺の観音のことは度々書いているので、ここにくり返すつもりはない。それは近江だけでなく、日本の中でもすぐれた仏像の一つであろう。特に頭上の十一面には、細心の工夫が凝らされているが、十一面観音である以上、そこに重きが置かれたのは当り前なことである。にも関わらず、多くの場合、単なる飾物か、宝冠のように扱っているのは、彫刻するのがよほど困難であったに違いない。
十一面というのは、慈悲相、瞋怒相、白牙上出相が各三面、それに暴悪大笑相を一面加え、その上に仏果を現す如来を頂くのがふつうの形であるが、それは十一面観音が経て来た歴史を語っているともいえよう。印度の十一荒神に源を発するこの観音は、血の中を流れるもろもろの悪を滅して、菩薩の位に至ったのである。
仏教の方では、完成したものとして信仰されているが、私のような門外漢には、仏果を志求しつづけている菩薩は、まだ人間の悩みから完全に脱してはいず、それ故に親しみ深い仏のように思われる。十一面のうち、瞋面、牙出面、暴悪大笑面が、七つもあるのに対して、慈悲相が三面しかないのは、そういうことを現しているのではなかろうか。
渡岸寺の観音の作者が、どちらかと云えば、悪の表現の方に重きをおいたのは、注意していいことである。ふつうなら一列に並べておく瞋面と、牙出面を、一つずつ耳の後まで下げ、美しい顔の横から、邪悪の相をのぞかせているばかりか、一番恐しい暴悪大笑面を、頭の真後につけている。見ようによっては、後姿の方が動きがあって美しく、前と後と両面から拝めるようになっているのが、ほかの仏像とはちがう。
暴悪大笑面は、悪を笑って仏道に向わしめる方便ということだが、とてもそんな有がたいものとは思えない。この薄気味わるい笑いは、あきらかに悪魔の相であり、一つしかないのも、同じく一つしかない如来相と対応しているように見える。大きさも同じであり、同じように心をこめて彫ってある。
してみると、十一面観音は、いわぱ天地の中間にあって、衆生を済度する菩薩なのであろうか。そんなことはわかり切っているが、私が感動するのは、そういうことを無言で表現した作者の独創力にある。平安初期の仏師は、後世の職業的な仏師とはちがって、仏像を造ることが修行であり、信仰の証しでもあった。この観音が生き生きとしているのは、作者が誰にも、何にも頼らず、自分の眼で見たものを彫刻したからで、悪魔の笑いも、瞋恚(しんい)の心も、彼自身が体験したものであったに違いない。
一説には、泰澄大師の作ともいわれるが、それは信じられないにしても、泰澄が白山で出会った十一面観音は、正しくこのとおりの姿をしていたであろう。十一面観音は、十一面神呪経から生れたと専門家はいうが、自然に発生したものではあるまい。一人一人の僧侶や芸術家が、各々の気質と才能に応じて、過去の経験の中から造りあげた、精神の結晶に他ならない。
仏法という共通の目的をめざして、これ程多くの表現が行われたのをみると、結局それは一人の方法、一人の完成であったことに気がつく。源信も、法然も、親鸞も、そういう孤独な道を歩んだ。渡岸寺の観音も、深く内面を見つめた仏師の観法の中から生れた。そこに、儀軌の形式にそいながら、儀軌にとらわれない個性的な仏像が出現した。その時彼は、泰澄大師と同じ喜びをわかち合い、十一面観音に開眼したことを得心したであろう。ものを造るとは、ものを知ることであり、それは外部の知識や教養から得ることの不可能な、ある確かな手応えを自覚することだと思う。
 
「とはずがたり」考4 作品解説1

村上源氏と久我家
「とはずがたり」の作者は、持明院統(北朝)の祖である後深草院に二条という名前で仕えた女性である。彼女は村上源氏の嫡流たる久我(こが)家の生まれであることに強い誇りを抱いており、非常に知的レベルが高く、また勝ち気で我儘な性格だった。はっきり言って、ちょっと変な人である。
源氏というと、普通はいわゆる源平合戦の源氏、即ち武士の棟梁となった清和源氏を連想するが、もともと源氏とは皇族を臣籍に降下させるときに与えた姓であり、いずれの天皇の子孫かにより嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏・花山源氏・後三条源氏などに分かれている。そして貴族社会においては、清和源氏の武士など、天皇家との血縁が非常に薄い身分の低いものであって、とうてい源氏の本流だとは考えられていなかったのである。
では、貴族社会での源氏の本流は何かというと、それは第六十二代村上天皇(926-67)の子孫である村上源氏である。この村上源氏の嫡流が久我家であり、久我家は五摂家につぐ清華(せいが)の家柄、即ち近衛大将を経て太政大臣まで昇り得る家柄として高い格式を誇っていたのである。
とはいっても、村上源氏という言葉自体、一般にはあまりなじみがないが、後醍醐天皇の側近で「神皇正統記」の著者である南朝のイデオローグ、北畠親房(1293-1354)や、闘将千種忠顕(?-1336)も村上源氏であり、また明治の元勲岩倉具視(1825-83)も村上源氏である。これらの人々は、みな本姓は源であって、家名が北畠や千種・岩倉となっているだけである。
さらに、女優の久我美子さんも村上源氏に属する。久我美子さんは久我家第三十三代当主、侯爵久我通顕氏の長女であるが、昭和21年、学校(女子学習院)や家族に内緒で東宝の第一期ニューフェースに応募し、合格した時は、侯爵家の令嬢が女優のような下賤な職業につくなんてとんでもないと一族の間で大問題になったそうである。ちなみに久我美子さんは芸名を「くが・よしこ」としているが、結婚前の本名は、字は同じでも「こが・はるこ」である。
さて、村上天皇の孫である源師房(1008-77)から久我美子さんに至る村上源氏一千年の歴史の中で、特筆すべきは、源頼朝に対して、いかにも貴族的な方法で反撃した人物として有名な源通親(みちちか.1149-1202)である。
晩年の頼朝は、娘を後鳥羽天皇の妃として入内させることに固執するなど、次第に本来の貴族的性格を露わにして、御家人との間に疎隔を生じるようになっていったのであるが、この頼朝の弱点を巧みについて、九条兼実らの頼朝シンパの貴族を一挙に失脚させた天才的な政治家が源通親である。
誰が言い始めたのかよく分からないが、いろいろな本に、この人こそ日本史上最も悪辣な陰謀家、マキャベリストと書いてある。思想史に関心がある人には、あの異常に難解で、かつ不思議な魅力に満ちている「正法眼蔵」を書いた道元(1200-53)の父親と言った方がいいかもしれない。
「とはずがたり」の作者、後深草院二条は、このマキャベリスト源通親の曾孫にあたる女性である。マキャベリスト源通親の血を承け、また名女優久我美子さんのご先祖様でもあるこの女性が書いた「とはずがたり」という作品は、昭和13年になってはじめてその存在が確認された、古典としては極めて珍しい作品で、その登場のときから謎めいた事情につつまれているのである。
「とはずがたり」には、持明院統(北朝)の祖である後深草院と、後深草院の同母弟で大覚寺統(南朝)の祖である亀山院などをめぐる、極めて退廃的な男女関係が描かれていたために、戦前は研究が実際上不可能だったが、昭和25年に復刻版が出版されて以来、多くの国文学者・歴史学者・小説家等の知識人の関心を呼び、急速に研究が進んでいる。
しかし、学者たちは極めて多様な、というかてんでんばらばらなことを言っていて、「とはずがたり」をめぐる学説は矛盾にみちており、学者の本を読めば読むほど、作者の統一的な人間像を描き出すことができなくなっている。「とはずがたり」の研究状況は、今なお大変な混乱の中にあるのである。
私は殆どの学者たちの認識に奇妙な違和感を感ぜざるをえない。二条はほんの数行に和漢の典籍を複雑華麗に引用するなど、極めて頭の良い女性であり、芸術的な感性が鋭いとともに論理的思考にも優れ、その性格は大変に勝ち気で我儘である。また、実際に読んでみて驚いたのであるが、「とはずがたり」には機知に富んだ、ひょうきんな、コメディタッチの部分が多いのである。
私は、彼女の知性のタイプは、学者たちが暗黙の前提として想定しているものと全然違うと感じている。そして、二条と学者たちの知性のタイプのずれから、とんでもない誤解が生じているのではないかと思っているのである。
内容
「とはずがたり」に関する歴史学会と国文学会の研究水準を確認するために、以下に「日本史大事典」と「日本古典文学大辞典」を引用してみたい。
平凡社の「日本史大事典」は吉川弘文館の「国史大辞典」と並ぶ日本史関係の代表的辞典であり、また、そこで「とはずがたり」の執筆を担当されている細川涼一氏は、既に数多くの著作を発表されている新進気鋭の歴史学者である。「日本史大事典」における「とはずがたり」の解説は以下の通りである。
とはずがたり
後深草院の女房で愛人でもあった後深草院二条(中院雅忠の女)の日記文学。伝本は宮内庁書陵部に一本のみ伝わる。晩年にその生涯を回顧する形で綴られた自伝的作品で、全五巻から成るが、大きく前編三巻、後編二巻に大別できる。前編三巻は、1271年(文永八)、作者が14歳で後深草院の御所に出仕して以来、後深草院の寵愛を受けながらも、院の近臣の「雪の曙」」(西園寺実兼)、院の護持僧の「有明の月」(仁和寺御室性助・法助の両説がある)とも関係を結ぶなどの愛欲に満ちた宮廷生活が描かれる。後編二巻では、89年(正応二)後深草院のきまぐれな寵愛の果てに御所を追われて出家し、尼となった作者の東国鎌倉への旅、次いで西国への旅などが描かれる。二条はこの旅に流離するみずからを、女西行、あるいは小野小町の落塊した姿になぞらえている。そして、1304年(嘉元二)の後深草院の葬送に際して、その葬送の車を裸足で追った二条は、06年(徳治元)、院の女の遊義門院と再会し、院の三周忌の仏事を聴聞するところで回想は終わっている。鎌倉時代末期の後深草院の持明院統、亀山院の大覚寺統の対立が激しくなっていく時期の公家政権内部の実態を、女性の立場から描いた書物としても貴重である。
「とはずがたり」に虚構が含まれていることは多くの国文学者が指摘しているのであるが、細川涼一氏の記述には、そうした点への配慮は一切伺えず、「とはずがたり」は歴史的事実を記録した日記であるとしか読めない内容になっている。
次に、「日本古典文学大辞典」(岩波書店.1984)での「とはずがたり」の解説を、少し長文にわたるが引用してみたい。
執筆者の松本寧至氏は「とはずがたり」についての多数の著書・論文を発表されており、「とはずがたり」研究に一生を捧げておられると言っても過言ではない国文学者である。
とはずがたり
五巻 日記文学。後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)作。作中の後宇多天皇の注記からの割出しで正和二年(1313)11月17日以前に成立していたことは確かだが、記事最終の嘉元四年(1306)をそう下らずに成ったのであろう。
【作意】鎌倉時代後期、後深草上皇に愛された女性が過去を回想して綴った自伝的作品。「とはずがたり」という題名は作者自身の命名と思われるが、この語が示すように自己の体験・見聞を語らずにいられない衝動に駆られて書いたものである。跋文にも、廃れようとしているわが家の歌道の誉れを再興しようとしたが成功しそうもなく、そのかわりに、華やかだった宮廷生活のこと、西行の跡を慕っての旅の思い出を書いた、といっている。後深草院崩御後の悲しみと孤独感のなかで、自己の存在証明のためには自伝的作品を書く以外になかったであろう。全五巻を大きく前三巻・後二巻に分けると、前編は後深草院御所の生活、後編は東国・西国の旅がおもな内容になっている。宮廷における愛の遍歴、快楽と苦悩と、それを捨てて出家し諸国行脚の仏道修行に新しい生き方を求めて行く女人の生涯を述べたものである。
【梗概】巻一 −二条が後深草院の寵愛をうけた文永八年(1271)14歳の正月から 起筆。翌年、父が死んで孤児となるが、院と並行して「雪の曙」(西園寺実兼)との秘密の関係を続け、罪の呵責に悩む。巻二−高僧「有明の月」(院の異母弟性助法親王、法助とする説もある)の求愛をうけ、また院のはからいによって「近衛大殿」(鷹司兼平)にも身を委ねる。巻三−「有明の月」との関係は院に知られるところとなったが許されて、灼熱の恋として燃えさかる。しかし、かれは流行病にかかって死ぬ。亀山天皇とのことも噂となり、東二条院(後深草院中宮)の排擠にもあって、やがて寵衰えた二条は御所を退出することになる。その後、北山准后貞子九十の賀の盛儀に大宮院女房として出仕する。巻四−かねて念願していた出家を遂げた二条は、西行にならって東国の旅に出る。鎌倉を周遊するうち、将軍惟康親王が廃されて都へ護送されるあわれな様を目撃する。ついで後深草院の皇子久明親王が新将軍として下るその御所の準備などに参画する。ついで小川口(埼王県川口市)に下って越年、善光寺参詣をすませて高岡石見入道の邸に逗留。帰途、武蔵野の秋色をめで、草深い浅草寺に参り、隅田川・堀兼の井などの歌枕をたずねて鎌倉にもどり、帰郷。まもなく奈良路をめぐり、途中石清水で後深草法皇と再会。また伊勢から熱田をまわる。伏見御所に招かれて法皇と往時を語りあう。巻五−それから九年後、正安四年(1302)安芸の厳島をさして旅立つ。厳島からの帰途、足摺岬に行き、帰って西行にならい白峰・松山に崇徳院の旧跡を訪う。またもどって備後の和知に行き、そこで二条の教養が高く評価され、落ちとどまるようすすめられ、豪族間の争いに巻き込まれて、下人にされそうになるが、かつて鎌倉で会ったことのある広沢与三入道に救われて帰ることができた。嘉元二年正月、東二条院崩御、ついで7月に後深草法皇の病悩のことがつたわり、心を悩ますが、ついに7月16日崩御。悲嘆にくれて裸足のまま霊枢車を追う。その後に法皇三回忌までのことがある。
【特色・影響】愛欲編・修行編は霊と肉の相剋であり、混沌と浄化という対照であるが、一体に立体的に構築されているのが特徴である。後深草院と実兼の性格の相違、または院が好色の対象として召した扇の女とささがにの女の対比、東国の旅と西国の旅、陸路と海路もそうで、作者の論理的な思考と知的な創作力を示す一端である。そして各巻にクライマックスの場面を設定している。物語文学の影響も顕著で、「源氏物語」の影響はもっとも濃厚であるが、構成の巧みさは「狭衣物語」からうけ、女性を主人公とし心理描写の詳しいことは「夜の寝覚」に学んでいる。「伊勢物語」からも想を得ている。説話文学や当時流行の絵巻にも関心を示す。「豊明絵草子(とよのあかりえそうし)」はその絵詞の類似性から二条作者説もあるが、「とはずがたり」の影響作であろう。そのほか先蹤作品から多くを吸収して、虚構的な要素もつよい。史実との矛盾は作者の記憶違いという点もあるが、意識的なものも多い。例えば「有明の月」に関する記事と史実との矛盾ははなはだしいが、作者はもちろん事実を書くより人間性を書くことに目的があったのである。地理の上でも不審が多く、足摺岬行きは虚構とみられている。父への思慕と報恩の念から歌道の誉れを再興したいという宿願をもって作歌に執心するが、これは狂言綺語観の展開であり、文学即仏道という考えで、執筆の背景をなす思想である。旅は西行にならったというが、足跡は一遍と重なるところが多く、二条と時衆は近接関係にあったと思われる。歌も作中に一五八首あるが、大部分は作者の創作であろう。「とはずがたり」は「蜻蛉日記」以来の女流日記における自己観照の精神を仏教によって中世的に自己形成という形で達成した作品である。日記文学の伝統と中世の新しいジャンルである紀行文学の要素とを加えた日記文学の総決算としての意義がある。なお、「増鏡」の「あすか川」「草枕」「老の波」「さしぐし」にかなり多量の引用があり、この歴史物語の重要な資料となった。
虚構性
さて、松本寧至氏を始めとする殆どの国文学者は、「とはずがたり」に相当に虚構が含まれていることを認めつつ、しかし全体としては「とはずがたり」は事実の記録であり、作者は真実をあからさまに書くのをためらって、細部を「朧化」しているにすぎないのだと説いている。
しかし、「とはずがたり」の虚構性が、「朧化」などという表現ですまされる程度なのかについて、私は根本的な疑問を抱いている。それを、二条が醍醐寺の尼寺・勝倶胝院に籠もる場面を例として考えてみたい。
細川涼一氏の「洛東山科における寺院の成立と展開−醍醐寺の歴史と真言密教寺院の展開」(後藤靖・田端泰子編「洛東探訪−山科の歴史と文化」.淡交社.平成四年)には、以下のような記述がある。
鎌倉時代には、奈良法華寺が尼寺として復興されたのをはじめ、各地に尼寺が造営されたが、下醍醐にも尼の住む子院として勝倶胝院(しょうぐていいん)という子院があった。この勝倶胝院は平安末期に第一七代座主実運(明海)によって建立されたものであるが、第二四代座主(第二六代座主にも復任)成賢は、寛喜三年(1231)に、この勝倶胝院の堂舎および付属の山林・田畠を尼真阿弥陀仏(真阿)に譲った。この勝倶胝院は成賢の後世菩提のために不断念仏を行う道場であったが、成賢はこの自分自身の遠忌の勤修を尼真阿に託したのである。こうして、醍醐寺において、尼寺勝倶胝院が誕生した。
以後、勝倶胝院は、真阿から嵯峨殿(もとの八条院の女房、八条院高倉。醍醐に一時住んだので、醍醐殿とも呼ばれた。高松院〔二条天皇后〕と安居院澄憲の密通によって生れた女子で、のち奈良法華寺に入って空如と号した。)に譲られたが、後に返されて浄意という尼に譲られ、さらに建長四年(1252)8月20日に、浄意から信願(久我家の縁者の尼か。後深草院二条(久我雅忠の娘)の「とはずがたり」に真願房としてその名がみえる)に譲られた。その際の浄意の譲状によれば、勝倶胝院は無縁の尼たちが立ち宿って、不断念仏を勤修する道場であった(「醍醐寺文書」)。
その後同院は、文永四年(1267)に信願から久我通忠の娘、小坂禅尼(後深草院二条の従姉)に譲与され、応長元年(1311)に小坂禅尼から万里小路姫君に譲与されて、勝倶胝院は九条家の進止権下に入った。このように、鎌倉時代を通じて、勝倶胝院は尼によって相伝されたのである。
浄意の信願への譲状には、勝倶胝院は無縁の尼たちが宿って念仏を勤修する道場であると述べられているが、このような寄る辺のない女性たちが尼となって集う場所としての勝倶胝院は、「とはずがたり」にもうかがうことができる。
すなわち、「とはずがたり」巻一によれば、後深草院二条は、文永九年(1272)の父久我(中院)雅忠の死後、縁故のある真願房(信願)を頼って、年の暮れに勝倶胝院に籠っている。院主の真願房は、二条のもの悲しい無聊を慰めようと、年寄った尼たちを集めて過ぎ去った昔の思い出話などもしているが、そこは庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居であった。晨朝(暁)から初夜まで、尼たちは交代して、交代時には「誰がし房はどうなさいました。何阿弥陀仏は」などと交代者を呼び歩きながら、念仏を勤行したが、その尼たちの勤行に出る際の衣も、粗末な麻の衣に真袈裟(粗末な袈裟)を形ばかり引き掛けたというものであった。
二条は建治三年(1277)にも後深草院の御所を出奔して勝倶胝院に隠れているが、その際の「とはずがたり」巻二によると、院主の真願房は、勝倶胝院は「十念成就の終りに、三尊の来迎をこそ待ち侍る柴の庵」である、と述べている。すなわち、この尼寺は、寄る辺のない尼たちが終焉の折りに、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行をする、賤しい柴の庵だ、というのである。
真願房のこの言葉は、出奔した二条を訪ねてきた愛人の西園寺実兼に対して、謙譲の言葉として述べられているものであり、そこには多少の誇張もみられるものと思われる。しかし、いずれにしても、勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(「とはずがたり」に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである。
細川涼一氏は「とはずがたり」の記述を、歴史的事実として、そのまま鵜呑みにしておられる。しかし、この部分はどう考えても異常な話なのである。
「とはずがたり」によれば、後深草院二条は文永九年(1272)4月に後深草院の皇子を懐妊し、6月頃から体調不良を訴え、8月に父が死亡して将来に不安を感じ、10月に妊娠六か月の身でありながら「雪の曙」と連日同衾し、12月に「庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居」である醍醐の勝倶胝院に、身の回りの世話をする人もないまま一人で籠もり、しかもそこにまず後深草院が、次いで「雪の曙」が吹雪の中を訪問し、「雪の曙」とは終日酒盛りをしたというのである。そして翌年2月には出産である。
細川氏の引用部分に限っても、15歳(満年齢なら14歳)で妊娠八か月の初産の女性が、旧暦12月、吹雪もある厳寒の時期に醍醐のような寂しいところに一人で籠もり、しかも訪ねてきた愛人と終日酒盛りをやっていたというのである。細川涼一氏は本当にこれらに疑いを抱かないのであろうか。これほど不自然な点があるのに、「とはずがたり」を事実の記録として、ここまで安易に引用してよいのだろうか。
ところで二条は醍醐の勝倶胝院に二度籠もるのであるが、二度目は建治三年(1277)、二条が20歳のときに起きた「女楽事件」がきっかけになっている。
二条は女楽(おんながく)という源氏物語を模した音楽の催しにおいて、もともと明石の上という身分の低い役柄に不満であった上に、祖父四条隆親が、自分の晩年の子で、二条にとっては一応叔母にあたる「今参り」をえこひいきして、演奏者の位置について介入してきたことに激怒し、当てつけがましい歌を残して御所を飛び出し、行方不明になってしまうのである。
原文ではもっともらしいことをいっぱい言っているのであるが、素直に考えれば異常なまでの気の強さ、あくのつよさ、不羈奔放ぶりである。いくら頭にきたからといって、少しふてくされる程度ならともかく、勤務先を飛び出して行方不明になってしまうのだから尋常ではない。後深草院や亀山院の口を借りて、自己正当化のための弁明も執拗になされているが、どう考えても二条は変な女である。
細川涼一氏は「勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(「とはずがたり」に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである」などと言われて、二条の言うことを完全に真に受けておられるが、二条のような性格の人間の証言をそのまま信じてよいのであろうか。
「賤しい柴の庵」で、「終焉の折に、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行」をしている「寄る辺のない尼たち」が、二条のような自分勝手な人間を暖かく迎えるということが、人間の自然な心理として本当にありうるのだろうか。
それは、例えば、あくまで仮定の話ではあるが、男とやりたい放題遊び回って野村沙知代に説教された神田うのが、野村沙知代と大喧嘩したあげく、頭にきて仕事をほっぽりだし、世間の目を誤魔化すために修道院に隠れ、しかもその修道院にまで男をひっぱりこんでいるにもかかわらず、そこで静かな信仰生活を送っていた中高年の敬虔な修道尼たちが神田うのを好意的な目で見守り、なにくれとなく親切に世話をしてあげるようなものではないだろうか。つまり人間の自然な心理としては絶対にありえないことではなかろうか。
また、「愛人の西園寺実兼」が、関東申次という極めて重要な職務を放擲して、こんな身勝手な女をあちこち探し歩くようなことが本当にありえたのかも疑問である。
西園寺実兼に関しては、鎌倉・南北朝期の公武間の交渉について緻密な研究を重ねておられる森茂暁氏が、「鎌倉時代の朝幕関係」(思文閣出版)p42において次のように書かれている。
さて、当面の問題はこの西園寺実氏の関東申次としての活動と朝幕関係との係わりである。実氏の執務状況・態度を考えるとき、「公衡公記」(実氏の玄孫公衡の日記)弘安六年(1283)7月21日条にみえる「故入道(実氏)殿御時、故太政大臣(公相、実氏息)殿曾無令申次給事、入道殿毎度老骨令参給」という記事は参考になる。これは当時の関東申次西園寺実兼(公相息)が病気のため東使が院参する日に出仕が困難という状況の中で、余人に代替させようという案も出てきた時、結局これを受け入れなかった実兼が述べた言葉である。すなわち、祖父実氏は関東申次の職務を子息など余人に代替させたことはなく、毎度本人が老骨に鞭うって、これを勤めたし、今更その儀に違ってはならない、というのである。関東よりの申し入れの上奏は関東申次自身がこれを行うのが「御定」だとまで言い切っている点も、この職務が専門職化、家職化した様子を示していて興味深い。このとき実兼は病を押して院参、その任務を果たしている。
実兼は父の公相(1223-67)が祖父実氏(1194-1269)より先に亡くなってしまったため、文永六年(1269)、若干21歳(満年齢なら20歳)で関東申次の職を祖父から承継した。そして、文永十一年(1274)の文永の役当時は26歳、この「公衡公記」の記事の書かれた弘安六年(1283)当時は35歳である。
「とはずがたり」巻一には、二条が後深草院の子を宿すはずのない期間に「雪の曙」の子を妊娠し、その事情を隠すために出産時には人を遠ざけ、後深草院には早産と偽りの報告をしたとの話が出てくるが、そこでは「雪の曙」は、世間には春日神社に籠もったと称して、二条の秘密の出産に付き添っていたことになっている。
国文学会の通説によれば、これは文永十一年(1274)9月のことであって、「雪の曙」こと西園寺実兼は、まだ関東申次としての経験が極めて浅く、しかも初めての元寇(文永の役)という危機的状況の中で、愛人の出産のために実質的に職務を放棄していたとされているのである。
しかし、弘安六年(1283)、即ち弘安の役の二年後の比較的忙しくない時期においてすら、病気を押し切って関東申次の職務を全うした西園寺実兼が、元寇の直前という重大時局に際して、愛人の出産のために職務を放棄したなどということは絶対にありえなかったと私は思う。同様に西園寺実兼が、勝手に御所を飛び出した愛人を捜すために、わざわざ醍醐のようなところに自ら出向いたとは私にはとうてい思えない。
「とはずがたり」のような奇妙な本から離れて、当時のきちんとした史料から伺われる西園寺実兼の姿を素直に見ると、西園寺実兼はびっくりするくらい真面目人間なのである。西園寺家は、実兼の祖父実氏も、実兼も、実兼の息子公衡も、みんな誇りと責任感を持って関東申次の仕事を行っていたのであり、精神の退廃の気配など微塵もないのである。
そして、西園寺実兼のみならず、後深草院も、「有明の月」とされている性助法親王も、変態老人「近衛の大殿」とされている鷹司兼平も、「とはずがたり」や「とはずがたり」を大量に引用している「増鏡」から離れて、当時のきちんとした史料に残された記事を積み重ねて行けば、「とはずがたり」とは全く異なる人物像が描き出されてくるのである。
構造
国文学者たちは「とはずがたり」を整合的に把握しようとして、年表を作ったりして詳細な研究を重ねているのであるが、「とはずがたり」に本当に整合性があるのだろうか、というのが私の基本的な疑問である。これを「粥杖事件」を素材として検討してみたい。
「粥杖事件」というのは二条が18歳のときに起こした騒動で、学者たちが作った年表によれば建治元年(1275)のこととされている。「とはずがたり」の特徴、作者二条の性格を分析するために非常に重用な部分だと思われるので、少し丁寧に紹介してみたい。
@ 1月15日の小正月には粥杖の風習があり、この日、粥を煮た燃えさしの木で作った杖で女性の尻を打つと男児を生むとされ、例年大騒ぎすることになっていたが、この年(建治三年)の小正月に、後深草院は自分自身だけでなく御近習の男たちまで集めて女房たちを打たせた。これが悔しくて、二条と「東の御方」(煕仁親王即ち伏見天皇の母)が申し合わせ、十八日に後深草院をひっぱたこうと計画した。そして他の女房を見張りに立てたうえで、「東の御方」が後深草院をつかまえている間に、二条が粥杖で後深草院を思うさまにひっぱたいた。
A 「しおほせたり」(うまくやった)と思っていたところ、その日の夕方、後深草院が公卿たちを前にして、「わたしは今年33歳になるが、その厄に負けた。こんな目にあったのだ。天子に杖を当てるなんてとんでもないことだ」と言い出した。すると、二条の叔父で、お調子者の善勝寺大納言隆顕がしゃしゃり出てきて、「そんなことをした女房の名前は誰々でございますか。急ぎ承って、罪科の趣を公卿一同で協議いたしましょう」と言う。しめしめと思った後深草院が、「罪の科は親類にも及ぶのであろうか」と問いかけると、隆顕をはじめとする公卿たちは、「申すまでもありません」と答える。すると後深草院は、「私を打ったのは久我大納言雅忠の娘、四条大納言隆親の孫、善勝寺大納言四条隆顕の姪で、隆顕卿の養子でもある二条殿なのだから、まず第一にあなたが責任を負うべきで、ひと事ではないだろう」と隆顕に言う。御前に控えていた公卿たちがいっせいに大声ではやし立て、笑い騒ぐ。結局、四条大納言隆親と息子の善勝寺大納言隆顕が贖(あがない.財物を出して罪を償うこと)をすることになる。
B 二条の母方の親戚である隆親と隆顕は贖のプレゼントを用意して大宴会を開く。隆顕は「自分たちは贖をすませたけれども、二条の父方の親戚にも責任があるので、久我の尼にも贖をさせるべきです」と言い出す。すると久我の尼は、「二条は幼いときから御所に召されていたので、里方で育てるよりも立派に育っていると思っていたのに、こんないたずら者になっているとは知りませんでした。これは後深草院さまの責任です。父親の雅忠が生きていれば、不憫に思って贖をしたかもしれませんが、私は全く関係がないので、勘当せよということでしたらそうします」と反論の手紙を院に提出する。
C 公卿たちは久我の尼の反論はもっともだと言って、後深草院にも責任がある、と言い出す。後深草院は驚いて、「私自身のために贖をさせたのに、まわりまわって私が贖をするなどということがあるものか」と言うのであるが、「主上として科があるとおっしゃるのであれば、臣下の方としても、また御上の科を申し上げるのも理由のないことではございません」ということになって、結局、後深草院も贖をすることになり、中御門経任が用意することになる。二条は「をかしくも堪えがたかりしことどもなり」(おかしくってしかたがなかった)と言って終わりになる。

つまり「粥杖事件」は四幕もののコメディになっているのである。初春の明るい宮中の雰囲気が伝わってきて、文章も極めてスピーディで本当に楽しい場面である。しかし、学者は誰ひとり指摘しないけれども、この場面は極めて異常だと私は思う。いったいどこが異常なのかというと、実にこの明るさが異常なのである。分かりやすくするために、この時点での二条の履歴書を作ってみることとしたい。
履歴書
1275年(建治元年)1月18日現在
氏名 後深草院二条(久我雅忠女二条)
年齢 18歳(満年齢17歳)
生年月日 1258年(正嘉2年)1月
住所 京都市中京区二条富小路殿(後深草院御所)内
学歴 4歳より自宅(久我雅忠邸)と後深草院御所を往復し、宮廷女性としての礼儀作法と一般教養をOJTにて学ぶ。
職歴 14歳にて正式に女房となり、現在に至る。
得意な学科 国語(「源氏物語」や西行の歌を好む。)
特技 音楽、特に琵琶。6歳より叔父久我雅光に習い始め、9歳より後深草院に学ぶ。後嵯峨院より誉められたこともある。また、絵も上手。
健康状態 良好
特にアピールしたい点 とっても明るくお茶目な性格です。
家族 なし
こういう状況を想定していただきたい。あなたがある企業の採用担当者だとする。高校卒業予定者の面接の日にやってきたのは目の覚めるような美少女で、頭の回転が速く、ハキハキとしゃべり、性格も明るくて良さそうだ。履歴書も特に気になる点はないので、あなたはこの子を是非採用したいと思ったとする。ただ、家族の欄が「なし」となっているのが気になったので、あなたは何気なくこう質問するのである。
「立ち入ったことを聞くようだけど、ご家族は何をしていらっしゃるのかな」
すると少女は満面に笑みを浮かべつつ、次のように答えるのである。
「母は私が二歳の時に亡くなり、父は三年前に病死しました。実は四年前にある社会的地位の高い人の愛人になって、二年前に子供が一人生まれましたが、三か月前に死にました。また、その子を妊娠中に別の男性と不倫関係となり、四か月前にその男性の子を生みましたが、赤ちゃんはその人がどこかに連れていってしまい、今は会っていません」
あまりのことに卒倒しかけたあなたは、それでも最後の勇気をふりしぼって、こう聞いてみるのである。
「ええと、ちょっと前に、ほら宗教関係のことがいろいろ話題になったけど、あなたは何か特別な宗教団体に入ったりとかしてないかな」
すると、少女は明るくハキハキと、こう答えるのである。
「不倫の結果生まれた二番目の子どもと別れなければならなかったり、一番目の子どもが死んだり、とても悩み事が多かったので三か月前に出家しようと決意しましたが、都合によりやめました」
二条は「粥杖事件」のわずか三か月前に、「前後相違して、愛児に先立たれた悲しみと、生きて愛児に離別した苦しみと、この二つがただわが身一つに集まった思い」がして、「人間の習いとして苦しんでばかり明け暮れる、一日一夜に生ずる八億四千とかの妄念の悲しみも、ただ私一人に集まっているように思い続けられると、そうだ・・そうだ、いっそただ恩愛に苦悩するこの境涯から離れて、仏弟子になってしまおう」(次田香澄氏「とはずがたり(上)全訳注」p203)と決意しているのである。なんと17歳にして出家したいと思うのである。
ところが、こんな重大な決意をしたにもかかわらず、その三か月後の「粥杖事件」時においては、二条は何の屈託もなく明るい。あまりといえばあまりな明るさである。
私は数年前の紅白歌合戦において、沙也加ちゃんの母である松田聖子が、異常に幼稚な舞台装置のもとに、異常に幼稚なコスチュームを着て、昔のヒット曲をメドレーで歌いまくるのを見て、背筋に悪寒を感じた覚えがあるが、そんな明るさとすら比べようのない、異常な、血も骨も凍る、鬼気迫る明るさである。
このように「とはずがたり」はとても変な話なのである。ひとつひとつの場面は非常に良くできているのであるが、それぞれの場面の関係を真面目に考えようとしたとたん、迷宮に入り込んだような感じになってしまうのである。
学者たちはなんとか「とはずがたり」に整合性を持たせようとして必死になって説明するのであるが、私にはさっぱり理解できない。私は国文学者だけでも百人近い学者の論文を読んでいるが、納得できる説明はただのひとつもないのである。学者たちの説明は、「とはずがたり」から自説に都合のよい部分だけを恣意的に取り上げた、ずいぶん乱暴な議論としか思えないのである。
ここに紹介した例でも明らかなように、「とはずがたり」に普通の日記や自伝、あるいは小説にあるような整合性を求めることは、いくらなんでも無理だと私は思う。むしろ通常の意味での整合性がないことを前提に、なんでこんな変てこな話ができたのかを考えた方がよいと私は思うのである。
このような観点から、改めて「とはずがたり」の構造上の特徴をとらえなおしてみたい。「とはずがたり」、特にその宮廷編においては、後深草院を始めとして亀山院・「有明の月」(性助法親王?)・「近衛の大殿」(鷹司兼平?)などが次から次へと変態的行動をとっている。二条自身の行動も相当変である。
これらを整理すると、「とはずがたり」においては、
@ 異常な設定の下に、
A 異常な人物達が、
B 異常な言動を次から次へとくりひろげ、
C 物語の全体的な構造を合理的・統一的・整合的に把握することが極めて困難ないし不可能であるが、
D しかし、ただ何となくずるずる読んでいると、それなりに納得してしまう。
のである。
これは一見すると極めて特異な構造のように思えるが、実はわれわれが日常見慣れているものと全く同一のパターンを示している。それはテレビドラマである。
ちょっと古いが、現代のテレビドラマの特徴が鮮明に現れていた「家なき子」(1994年.日本テレビ.土曜夜9時.安達祐実主演)を例にとってみたい。
<「家なき子」の主人公、相沢すず(11歳)の母親は難病で入院中。相沢すずは学校では貧乏だといじめられ、家に帰ればアル中の義理の父親に金をせびられる。教室で金を盗んだとクラスメイトからつるしあげられても、絶対にやっていないとシラを切るが、「相沢は絶対に盗んではいないと信じてる」という担任片島には「甘いねぇ。一生青春やってろ」と手厳しい。父親が女を部屋に連れ込むと、夜中に灯油をまいて火をつける。しかも、父親が火をつけたと警察に嘘の証言をして‥>
私はこの続きを良く知らないのであるが、仮に「家なき子」の全シナリオを取り寄せて、全回にわたって登場人物ひとりひとりの言動をいちいち記録し、年表を作って、相互に矛盾がないかを細かく検証してみるとしたら、いったいどうなるであろうか。
考えるだけでもおぞましい作業であるが、その検証作業の結果現れてくるのは、多重人格、それも二重や三重といった生やさしいものではない多重人格の化け物以外ないであろう。
つまり、「家なき子」においては、
@ 異常な設定の下に、
A 異常な人物達が、
B 異常な言動を次から次へとくりひろげ、
C 物語の全体的な構造を合理的・統一的・整合的に把握することが極めて困難ないし不可能であるが、
D しかし、ただ何となくだらだら見ていると、それなりに納得してしまう。
のである。ま、これは別に「家なき子」の独創ではなく、山口百恵の「赤いシリーズ」以来、多かれ少なかれテレビドラマはこんなものである。
このように「家なき子」においては物語の全体を合理的・統一的・整合的に把握することは不可能なのであるが、しかし、だからといって、「家なき子」をみた視聴者から日本テレビに怒りの電話が殺到し、他のマスコミが日本テレビに激烈な批判を加え、日本テレビの特別調査委員会が内部調査を開始し、担当プロデューサーがクビになり、責任を痛感した社長が陳謝の記者会見を行ったうえで辞職した、という話もあまり聞かない。
要するに高視聴率狙いの連続テレビドラマにおいては、物語の全体性・ストーリーの整合性などどうでもいいのである。各回の視聴率が上がりさえすれば何でもあり、である。視聴率を上げるためにはマスタードの上にわさびを塗り、さらに唐辛子をかけて、仕上げにタバスコをふるようなことも平気でやるのである。テレビ局が注意しているのは、せいぜい直前の回までのストーリーとあまりにかけ離れた内容となってしまって、視聴者にバカバカしいと思わせてはならない程度のことである。また視聴者も、テレビというのはそんなものだと許容しているのである。
そして、「家なき子」と殆ど同じことが「とはずがたり」においても言えるのではないかと私は思うのである。作者はそもそも物語の全体性・ストーリーの整合性をあまり重視していないのではないか。作者が力を注いでいるのは、ひとつひとつの場面をどれだけドラマチックに盛り上げるか、その一点だけなのではないか。あとは一応の歴史的事実を背景にして、一話完結の数多くの話を、だらだら読んでいる分にはあまり矛盾が目立たない程度に巧みに編集した物語なのではないか。私にはそんな風に思われるのである。
私は別に奇矯なことを言っている訳ではなく、ひとつひとつの場面を重視し、全体の整合性はあまり考慮していない作品は、テレビでなくたってたくさんあるのである。例えば赤川次郎氏の作品もそうである。
赤川次郎氏の作品は推理小説のような形態をとってはいるが、詰めて考えて行くと、殆ど全ての作品に矛盾や破綻がある。ある場面でAという行動をとった人が、さほど時間的間隔が離れていない別の場面でBという行動をとることは、人間の自然な心理として絶対にあり得ないのに、それが起きてしまう。そうした事象が次々と連続しているのが赤川ワールドである。
整合性のないことは許せないという信念の持ち主からすれば、こういう小説があること自体ミステリーなのかもしれないが、大多数の読者は別にそんなことは気にしない。赤川次郎氏の作品が極めて多くの読者を獲得しているのは、全体の構成がしっかりしているからではなく、ひとつひとつの場面がとても生き生きとしていて、会話が洒落ていて、文章に心地よいスピード感があって、現代人の感覚に適合しているからである。
整合性のない文学作品もあっておかしくはないのであって、すべての文学作品に厳密な整合性を求め、年表を作ったりして詳細に事実関係を調査したりするのは、それ自体が異常な行動の場合もあり得るのである。私は率直に言って、「とはずがたり」の年表を作ったりするのは、「サザエさん」や「水戸黄門」の年表を作るくらい変なことなのではないかと思っている。
「とはずがたり」の構造が私の考えているようなものだとしても、本当の問題はその制作動機であるが、それは後で検討したい。
リアルさ
「とはずがたり」の「リアル」さは、多くの学者から驚異的なものとして受け取られているが、私は全く異なる意見を持っている。「とはずがたり」の原文がどのようなものであるのかの紹介も兼ねて、「とはずがたり」の「リアル」さについて、少し検討したい。
検討の素材としては、巻二の終わり、今様伝授のために伏見殿に後深草院の御幸があり、そこで「近衛の大殿」が後深草院の了解のもとで二条と契る場面をとりあげる。ここは「とはずがたり」の中でも屈指の変態的場面のひとつである。まず、原文を紹介する。(「とはずがたり(上)全訳注」p407以下)
今日は御所の御雑掌(ざしやう)にてあるべきとて、資高(すけたか)承る。御事おびたたしく用意したり。傾城(けいせい)参りて、おびたたしき御酒盛なり。御所の御はしりまひとて、ことさらもてなしひしめかる。沈(ぢん)の折敷(をしき)にかねの盃(さかづき)すゑて、麝香(ざかう)のへそ三つ入れて、姉賜(たま)はる。かねの折敷に、瑠璃(るり)の御器(ごき)にへそ一つ入れて、妹(おとと)賜はる。
後夜(ごや)打つほどまでも遊び給ふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚(さうおうくわしやう)の破(われ)不動」かぞゆるに、「柿の本の紀僧正(きそうじやう)、一旦(いたん)の妄執(まうしふ)や残りけん」といふわたりをいふ折、善勝寺きと見おこせたれば、我も思ひ合はせらるるふしあれば、あはれにも恐ろしくも覚えて、ただ居たり。のちのちは、人々の声、乱舞(らんぶ)にて果てぬ。
御殿(との)ごもりてあるに、御腰打ち参らせて候(さぶら)ふに、筒井の御所のよべの御面影、ここもとにみえて、「ちともの仰せられん」と呼び給へども、いかが立ちあがるべき。動かでゐたるを、「御(お)よるにてあるをりだに」など、さまざま仰せらるるに、「はや立て。苦しかるまじ」と、忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。御あとにあるを、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心の外に立たれぬるに、「御とぎにはこなたにこそ」とて、障子(しやうじ)のあなたにて仰せられゐたることどもを、寝入り給ひたるやうにて聞き給ひけるこそあさましけれ。
とかく泣きさまだれゐたれども、酔(ゑひ)心地やただならざりけん、つひに明けゆくほどに帰し給ひぬ。我過さずとはいひながら、悲しきことを尽して御前に臥したるに、殊にうらうらとおはしますぞ、いと堪へがたき。
今日は還御(くわんぎよ)にてあるべきを、「御名残多きよし傾城(けいせい)申して、いまだ侍る。今日ばかり」と申されて、大殿より御事参るべしとて、また逗留(とうりう)あるも、またいかなることかと悲しくて、局(つぼね)としもなくうち休みたるところヘ、
「みじか夜の夢の面影さめやらで心に残る袖の移り香
近き御隣の御寝覚もやと、今朝はあさましく」などあり。
夢とだになほわきかねて人知れずおさふる袖の色をみせばや
たびたび召しあれば、参りたるに、わびしくや思ふらんと思し召しけるにや、殊にうらうらと当り給ふぞ、なかなかあさましき。
現代語訳
今日は院のお受持ちとしようということで資高(すけたか)が仰せを承る。御酒宴を盛大に用意した。白拍子(しらびょうし)が参って盛んなお酒盛である。院の御馳走だというので、格別に騒ぎ立ってもてなされる。沈香(じんこう)の折敷(おそき)に「かね」の杯を載せて、それに麝香(じゃこう)の固まりを三つ入れて姉が頂戴する。「かね」の折敷に、瑠璃(るり)の器(うつわ)に麝香の固まりを一つ入れて妹が頂戴する。
後夜(ごや)の鐘を打つほどまでもお遊びになったが、また若菊を立たせて舞わせられるときに「相応和尚(かしょう)の破(われ)不動」の今様を(鼓の拍子に合せて)歌うと、柿の本の紀僧正、一旦(いたん)の妄執(まうしふ)や残りけん(柿の本の紀僧正が后を恋い幕い、いったん思い込んだ妄執がさぞ残ったことだろう)という辺りをいう折に、善勝寺(隆顕)がちらっと視線を送ってきた。私も思い合せられることがあるので胸を突かれ、また恐ろしくも思われて、じっと座っていた。後々には、人々の大声や乱舞になって宴は終った。
院がお寝みになっているときに、おそばで御腰を打ってさし上げていると、筒井の御所の昨夜のお方が、すぐそこにみえて、「ちょっと用があります」とお呼びになるが、どうして立ち上がることができよう。動かないでいたところ、「御所がお寝みになっている折なりと」など、さまざまにおっしゃられる。
すると院が、「早く立って行きなさい。差支えあるまい」と、忍びやかにおっしゃられるのは、かえって死ぬほど悲しい。院の御足もとに侍っているのを、私の手を取ってまでお引き立てになるので、心ならずも立ちあがったが、「御所のお相手のときにはこちらに返してあげますよ」と、大殿が襖のあちらでおっしゃっていたことどもを、院が寝入っているようにしてすっかりお聞きになっていたのは、なんともあさましいばかりだった。
あれやこれやと泣きくずれていたのだが、たぶん二人とも酔い心地が普通ではなかったのだろうか、結局明けゆくころにやっとお帰しになった。自分からの過ちではないとはいえ、ありたけの悲しい思いをして院の御前に臥していると、格別に御きげんよくていらっしゃるのは、ほんとうに堪えがたかった。
今日はお帰りのはずだったが、
「傾城(けいせい)がお名残多いと申して、まだおります。今日だけもう一日」と申され、大殿のほうで御酒宴を御用意申しあげようとて、さらに御逗留(とうりゅう)があるのも、またどういうことになるかと悲しくて、局(つぼね)というほどでもないところでちょっと休んでいると(大殿から)、
「みじか夜の夢の面影さめやらで心に残る袖の移り香
(短夜に結んだあなたとの夢の面影が、今もなお覚めやらず、袖に残った移り香とともに心に残っています)
「すぐおそばの方(院)が目を覚まされるのではと、今朝はすべてはばかられて」などとあった。(返し)
夢とだになほわきかねて人知れずおさふる袖の色をみせばや
(ゆうべのことは夢とさえまだ区別しかねて、人知れずおさえている私の袖の涙のほどを見ていただきたいと思います)
たびたび院のお召しがあるので、参ったところ、私がつらく思っているだろうと思われたのだろうか、ことに御きげんのよい御様子でお扱いになるのは、かえって、ひどくつらく、言葉もなかった。
ここは「とはずがたり」の中でも、その異常性で有名な場面であって、次田香澄氏は「解説」で次のように言われている。
大殿が傍若無人にも、院の側にいる彼女を呼び出そうとすると、院が積極的に立たせる。彼女が院の心をはかりかねて、「なかなか死ぬばかり悲し」く思うのも当然である。まして、彼の所から帰って後、「ことにうらうらとおはしますぞ、いと堪えがたき」、さらに「殊にうらうらとあたり給ふぞ、なかなかあさましき」と二度にわたり言っているのは、彼女のつらさのほどがわかる。それにしても院の態度はもはや異常を通り越して不可解である。
確かにここに描かれた「うらうら」している後深草院の姿は極めて不可解で不気味なのであるが、そうかと言って二条の態度も相当に変である。
本当に二条が後深草院と近衛大殿に異常な行為を強要された「被害者」なら、その心理的衝撃は非常に大きくて、まさに「死ぬばかり悲し」いはずであり、普通だったらショックで茫然自失となったり寝込んだりするのが当然だと思われるが、二条は寝込むどころか、「加害者」近衛大殿が贈ってきた歌に対して、のんびり返歌を詠んだりしているのである。
続きがあるので、原文から紹介する。
事ども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに御舟に召されて、伏見殿へ出(い)でさせおはしはします。更けゆくほどに、鵜飼(うかひ)召されて、鵜舟、端(はし)舟につけて、鵜使はせらる。鵜飼三人参りたるに、着たりし単襲(ひとへがさね)賜(た)ぶなどして、還御(くわんぎよ)なりてのち、また酒参りて、酔(ゑ)はせおはしますさまも今宵はなのめならで、更けぬれば、また御(お)よるなる所へ参りて、「あまた重ぬる旅寝こそすさまじく侍(はべ)れ。さらでも伏見の里は寝にくきものを」など仰せられて、「脂燭(しそく)さして給(た)ベ。むつかしき虫などやうのものもあるらん」と、あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」とさへ仰せ言あるぞ、まめやかに悲しき。「かかる老いのひがみは、思(おぼ)し許してんや。いかにぞやみゆることも、御めのとになり侍らん古きためしも多く」など、御枕にて申さるる、いはん方なく悲しともおろかならんや。例のうらうらと、「こなたもひとり寝はすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させ給へば、よべの所に宿りぬるこそ。
今朝は夜のうちに還御(くわんぎよ)とてひしめけば、起き別れぬるも、憂き殻残るといひぬべきに、これは御車の尻(しり)に参りたるに、西園寺(さいをんじ)も御車に参る。清水の橋のうへまでは、みな御車を遣(や)りつづけたりしに、京極より御幸(ごかう)は北へなるに、残りは西へ遣り別れし折は、何となく名残惜しきやうに、車の影のみられ侍りしこそ、こはいつよりの習はしぞと、わが心ながらおぼつかなく侍りしか。
現代語訳
御酒宴が始まって、今日はあまり暮れないうちに御舟に召されて、伏見殿へおいでになられる。夜が更けゆくころに、鵜飼をお呼びになって、鵜舟をお召しの舟の端(はし)舟としてつけて、鵜をお使わせになる。鵜飼が三人参っていたのに対し、私が着ていた単襲(ひとえがさね)を脱がせて賜わるなどして、(下の御所ヘ)お帰りになって後、また酒を召しあがって、お酔いになるさまも今宵はひととおりでなく、夜も更けたころ、またお寝(やす)みのところへ大殿が参って、
「度重なる旅寝はほんとうに味気ないものですよ。そうでなくても伏見の里は寝にくいといわれていますのに」などおっしゃられて、
「脂燭(しそく)をさしてください。いやなむしなどのようなものもいるでしょうから」
と、しつこく申されるのもやり切れないのに、「どうして行かないのか」とまで院の仰せがあるのは、これはほんとうに悲しい。
「こういう老人のひがみは許してくださいませんか。すこし釣合わないようにみえても、お守役になるという古い例も多いことだから」
などと、院のお枕もとで申されるのは、なんと言いようもなく、悲しいどころではない。院は例のように御きげんよく、
「こちらもひとり寝は物寂しいから、あまり遠くない所にいてくれよ」などおっしゃられるので、また昨夜の所に泊ったのは、(なんとも堪えがたいことであった。)
今朝はまだ暗いうちにお帰りとて騒ぎ立つので、起き別れたのも、「憂き殻のこる」というような心地であったが、私は院のお車に同車でお供したが、西園寺も同じお車に御奉仕される。清水の橋の上まではみなお車をひき続けたが、京極通りから院の御一行は北へおいでになるのに、残りの車は西へ行き別れた折には、なんとなく名残おしいようにあちらの車のうしろ影が見送られたのは、これはいったい、いつからそんな気持になったのだろうかと、わが心ながらおぼつかなく思ったことだった。
これで巻二は終わるのであるが、次田香澄氏は「解説」で次のように述べておられる。
初めに、院が彼女の着ている衣を鵜匠に与えさせるところがある。これは、今回の伏見行きに、曙から贈られたものであり、曙はこの様子を傍らでみて、さぞおもしろからず思ったろう。院としては、昨夜の筒井の御所のことも、この件も、彼女と曙との関係を知悉した上で、あえていやがらせをしたことになる。しかし曙としては悔しくてもどうにもならない。そうした彼女をめぐる男たちの卍巴(まんじどもえ)の心理の葛藤が暗黙のうちに想像される部分である。終りの、五条橋を渡って車が遣り別れるときの作者の心理も、これまでの経過と作者の心情からすれば不可思議に思われる。しかし、女性の微妙な心理を理解すれば、女性の内面的な秘密を告白したものだと知るのであり、ここに物語・小説などの創作では求めえない真実の迫力を感じないではいられない。巻二を院・大殿と作者との関係で終ったことは、その関係の異常性が、巻三において院有明と作者との関係、同時に曙との関係の終焉として発展する前表とみることができよう。
私はあまり「女性の微妙な心理を理解」できないので、次田香澄氏の言われることはよく分からない。こんなのんびりした感想を抱くような人が本当に「死ぬばかり悲し」とか「いはん方なく悲し」などと思っていたのか、この人が本当に「被害者」なのかという疑いを深めるばかりである。
また、そもそも「女性の内面的な秘密」がどうのこうのと言う前に、もっと外面的なところで詰めておくべき作業があるように思われる。それはこの伏見御幸が行われた時期についての検討である。
「とはずがたり」を素直に読む限り、この伏見御幸が行われたのは「女楽事件」と同じ年である。二条が「女楽」の配役をめぐって祖父隆親と大喧嘩し、御所を飛び出して行方不明になったのが、国文学者の「年立て」によれば建治三年(1277)3月のことであり、翌4月に善勝寺大納言隆顕が父隆親と対立して籠居、同じ4月末に二条は醍醐で隆顕と会い、また隆顕・雪の曙と三人で語り合い、さらに後深草院に迎えられて御所に戻る。そして8月になって伏見御幸が行われるのであるが、実は二条は「女楽事件」のときには妊娠していたことになっていて、懐妊は前年の12月頃と書かれているのである。
そうだとすれば、伏見御幸が行われた建治三年8月には二条は妊娠九か月であり、出産直前の時期であるが、そういう時期に牛車にガタガタ揺られ、船に乗って伏見くんだりまで行くこと自体が奇怪であり、また近衛大殿が後深草院の了解のもとで妊娠九か月の女と連日同衾したとすれば、それはグロテスクとしか言いようのない光景である。
次田香澄氏、久保田淳氏、三角洋一氏といった錚々たる国文学者の書かれた「とはずがたり」の注釈書には、いずれも詳細な年表が付されていて、そこには女楽事件が建治三年3月、伏見御幸が同年8月と明記されているのであるが、これはいったいどういうことなのだろうか。学者たちは、詳細な年表まで作りながら、何の疑問もいだかないのだろうか。
私は、伏見御幸の時期ひとつとっても、ここで語られていることに「真実の迫力」など全く感じない。伏見御幸の話は確かにその描写が「リアル」で異常な迫力があるが、それは「真実の迫力」ではなくて、特別な才能を持つ作家の手により緻密に構成された濃密な演劇的空間においてのみ生まれる「虚構の迫力」だと考える。それは「物語・小説などの創作で」なくて「は求めえない」リアルさだと考える。
地名の誤り
「とはずがたり」の前三巻(宮廷編)と較べると、後二巻(廻国編)は内容が地味で、虚構性も高くないように見えるのであるが、詳しく検討すると、そうでもないのである。ずいぶん奇妙な記述が多いのである。
例えば巻四で、正応二年(1289)、二条が鎌倉入りする場面には次のような記述がある(「とはずがたり(下)全訳注」p219)。
夜が明けると鎌倉へはいったが、極楽寺という寺へ参ってみると、僧の所作は都と違わないのをなつかしく思ってみた。化粧坂(けわいざか)という山を越えて鎌倉のほうをながめると、東山で京をみるのとはだいぶ違って、家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたようにぎっしりと住まっているのは、ああやりきれない、とだんだん見えてきて、心の惹かれるような気もしない。由比の浜というところへ出てみると、大きな鳥居がある。若宮のお社がはるかにお見えなので、───他の氏よりはとくに源氏を守って下さるとか、お誓いになっているということだが、自分は縁があったればこそ源氏の名門に生れたのだろうに、どういう報いでこうなのであろうと考えてみると、───そうだった、父が来世に極楽に生れ変るようにと(石清水八幡に)祈誓申した折、「おまえの現世の幸福と引替えに、かなえよう」と承ったので、(それを)恨み申すわけではないけれど……たとえ乞食の境涯におちても嘆くことはできない。
原文では「明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)をみれば、東山(ひんがしやま)にて京を見るにはひきたがへて、階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。……」となっていて、この場面は中世都市鎌倉の特徴を極めて鋭く把握したものとして、歴史学者が好んで引用する箇所である。
しかし、この記述は、実は極めて変なのである。鎌倉の地図を見れば明らかなように、極楽寺から化粧坂を経て由比ヶ浜に出るという行程はありえないのであって、二条が通ったのは化粧坂ではなく、極楽寺坂だと考えざるをえないのである。
この点は、もちろん多くの人が気づいていて、例えば司馬遼太郎氏は、「三浦半島記 街道をゆく四十二」(朝日新聞社)において次のように述べておられる。
化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)を見れば‥‥とある。彼女はやがて坂の上から鎌倉市街を見おろすのだが、その前に極楽寺を参詣している。当然、彼女が選んだ入口は、極楽寺坂なのである。当の化粧坂は、極楽寺から直線にして二キロ半ほども離れている。途中、山また山で、じつに遠い。さらにいうと、彼女は坂をくだって由比ケ浜に出たという。化粧坂だと、海岸に出ず、いまでいえば鎌倉税務暑の前に出てしまう。おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいない。彼女は、その前半生を化粧(けわい)のなかですごした。院に寵せられ、五摂家の当主とも思い出があり、それに仏門に入ったはずの法親王にまで愛された。俗体のころは粉黛(ふんたい)にまみれていたなどという感想も、化粧坂という地名に触発されて湧いたかとも思える。
しかし、私には二条が「化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまった」ものだとは思えないのである。二条は、直前の江ノ島の場面で和漢の典籍を複雑華麗に引用していることからも明らかなように、凄まじい博識、恐るべき記憶力の持ち主である。その二条が、極楽寺坂という特別に重要な宗教的・軍事的空間を、弘安八年(1285)の霜月騒動のわずか三年四か月後、平頼綱の恐怖政治の下に人々が怯えて暮らしていた時期に通過していながら、その名前を誤るなどということは絶対にあり得ないと私は思う。
では、なぜここに「化粧坂」が出てくるのかであるが、それを検討する前提として最初に考えなければならないのは、「とはずがたり」においては異常に頻繁に重大な地名の誤りが出てくること、そしてそこで用いられている言葉が喚起するイメージに奇妙な特徴があることである。地名の誤りを列挙すると以下のとおりである。
(1)東海道を鎌倉に下るときに、二条は伊勢物語の「かきつばた」の歌で有名な八橋(愛知県知立市)の次に熱田社・鳴海潟(愛知県名古屋市)を通過したことになっているが、これは順序が逆である。
この点、例えば冨倉徳次郎氏は、「とはずがたり」(筑摩叢書)において、「前段に三河の八橋を記してこの段熱田に至るのは、旅程として倒錯している。結局作者の過失によることと思われるが、その過失の意味するところは、この紀行が旅程の中で書き継がれたのではなく、晩年の一括した回想の中でたどられたものであること、後日に書いたときに正確な旅のメモなどもなかったであろうことを思わせる」と言われている。
しかし、尾張は「故大納言の知る国」即ち父雅忠の知行国であって、しかも熱田詣では「とはずがたり」において合計四回もなされているのである。どんなに物覚えの悪い人であっても、四回も行った場所とその周辺の地名の関係は把握できるであろう。まして八橋と言えば、歌を詠む人間で知らない人はいないほどの有名な歌枕なのであるからなおさらである。それを二条のような博覧強記の人間が過失で間違えるというのは、どう考えても変である。
そこで、この部分は過失ではなく、作者が何らか意図を持って書いているのではないかと考えると、気になるのは「八橋」、即ち幅の狭い橋板を数枚、折れ折れに継ぎつづけて架けた橋、という言葉である。そしてこの言葉が創り出すイメージを素直に考えると、それは不安定さ・複雑さ・繊細さといったものだと思う。
(2)二条は武蔵国川口から信濃の善光寺に行ったことになっているが、その途中で「碓氷坂、木曽の懸路(かけぢ)の丸木橋、げにふみみるからにあやふげなるわたりなり」(なるほど踏んでみただけであぶなげな山路である)という場所を通過したことになっている。
しかし、「木曽の懸路」は長野県木曽郡上松町にある東山道(中山道)の難所であり、武蔵から碓氷峠経由で善光寺に行くのにこんなところを通るはずがないのである。碓氷峠と「木曽の懸路」は直線距離で約100キロ離れており、しかも歩くとすれば、それを遙かに超える距離を、高低差の激しい曲がりくねった道を通って延々進まなければならないほど離れた土地なのである。
学者は「碓氷も険路であり、ここでは慣用的に使う」(次田香澄氏)とか、「善光寺へ行ったとしても、通った筈はないが、信濃路の険阻から慣用的に出したと解される」(福田秀一氏)とか、「難所を連らねた文飾と見られる」(三角洋一氏)とか、適当なことを言っているのであるが、どうにも不自然な説明である。
ここも、「懸路」すなわち「木材で崖に棚のように造り懸けた路」という言葉に着目すると、この言葉から最も素直に導かれるのは、不安定さ・危険さといったイメージだと思う。
(3)二条は善光寺に参詣してから武蔵に戻り、浅草寺に参詣するのであるが、「とはずがたり」では浅草寺の近くの隅田川に「すだの橋」があって、その対岸が「みよしのの里」となっているのである。この「みよしのの里」というのは「伊勢物語」などに出てくる歌枕で、現在の埼玉県川越市付近であり、もう本当に訳のわからない話なのである。
ただ、これは浅草寺の本尊たる聖観音を尼である二条が十一面観音と間違えるという、これまたとんでもない記述と密接に関連すると思われるので、後で述べることにする。
(4)巻五で、西国旅行に出かけた二条は和知(広島県三次市)の豪族の館に滞在するのであるが、この和知は中国山地の山懐に抱かれた土地であるのに、「とはずがたり」では鞆の港(広島県福山市)のすぐ近くのように描かれている。
二条は滞在先の人々が鎌倉にいる親族の広沢入道という人物を迎える準備をしていて、「絹障子を張って、それに絵を描きたがっていたときに、なんという深い考えもなく「絵の具さえあれば描くのですけど」と申したところ、「鞆というところにあります」といって取りに人を走らせる。まったく悔しかったけれど仕方ない。持ってきたので描いた」((「とはずがたり(下)全訳注」p364)などと言っているのである。
ここも素直に考えれば非常に不自然なのであるが、学者たちは「海岸近くにも一族が住んでいたようだから、その地名が落ちたのかもしれない」(次田香澄氏)などと格別の根拠もない説明をするのである。
私は、そんなことよりも「絵を描く」という言葉の創り出すイメージに着目すべきだと思う。「絵を描く」と言えば、やはり想像力をフルに働かせて場面を創り出している、という感じがするのである。
この和知の話は、スリリングな展開と社会派ルポルタージュ風のきびきびした文章で、特に歴史学者の興味を引きつけているところであり、一橋大学名誉教授永原慶二氏をはじめとする錚々たる歴史学者が、地方豪族の生態を「リアル」に記録した貴重な史料として生真面目に引用されているのであるが、どうも話が面白すぎるのである。
私は、二条がさりげなく、なんという深い考えもないようなフリをしつつ「絵を描く」という言葉を出しておいて、ここに描かれていることは事実ではなく適当に作り上げた面白い話なのよ、その点充分注意してちょうだいね、でも私はこれだけ丁寧にヒントを出しているのだから、間違えても私の責任じゃないわよ、と言っているような感じがするのである。

以上のように「とはずがたり」における地名の誤りは大変なものである。それぞれの場面について単純に直線距離を測ると、熱田社と八橋が約30q、碓氷峠と「木曽の懸路」は約100q、浅草と三芳野の里が約40qで、鞆の港と和知が約60q、合計約230q分の誤りがあるのである。
このように、重大な地名の誤りが頻出することと、そこでいわばキーワードになっている「八橋」「木曽の懸路の丸木橋」「絵を描く」という言葉が喚起するイメージを考えると、これらの地名の誤りは決して偶然ではなく、二条という極めて緻密な知性の持ち主が残したサインのように思われるのである。
創作能力が異常に豊かで、極めて高慢で、知的でないもの・下品なものを徹底的に軽蔑し、「心の中を人や知らんといとをかし」(秘密を知っている自分の心の中をだれが知ろうか、とまことにおもしろかった)(「とはずがたり(上)全訳注」p284)と思うような、人をからかうのが大好きな女性が残した、「とはずがたり」は決して素直な事実の記録ではなくて、危険で複雑で不安定な創作物だから、取り扱いには充分注意してちょうだいね、というからかいに満ちたメッセージのような感じがするのである。
さて、浅草を除く三例と比較してみるだけでも、「化粧坂」が単なる勘違いなどとはとても言えないと私は思う。その本当の意味を知るためには、「化粧」という言葉が創り出す最も素直なイメージに着目すべきだと私は考える。即ち、これは決して素顔の私ではなく、お化粧で極めて巧みに装った私なのよ、これから入ろうとする鎌倉についても面白い話をたっぷり用意しましたけれど、化粧した私が話すことだから充分に注意して下さいませ、というからかいに満ちたメッセージなのではないかと思うのである。
二条の宗教意識 浅草寺の十一面観音
先に留保した浅草寺についてであるが、まず、問題の場面を紹介したい(「とはずがたり(下)全訳注」p255)。
八月の初め頃ともなったので、武蔵野の秋の風情の見たさにこそ今までここら辺りにもいたのだと思って、武蔵の国へ帰った。そこには浅草と申す堂がある。十一面観音がいらっしゃる。霊験あるみ仏と聞くのもゆかしくて参ると、野の中をはるばると分けてゆくのに、萩・女郎花(おみなえし)・荻(おぎ)・芒(すすき)よりほかにはまた混じるものもなく、これらの高さは馬に乗った男が見えないほどなので推しはかれよう。三日ぐらいか分けていっても尽きもしない。すこし協へ入った道にこそ宿場などもあるが、はるばると続く道は来し方も行く末も野原である。
浅草の観音堂はちょっと高くなって、それも木などはない原の中にいらっしゃるが、(折からの月の出に)ほんとうに「草の原より出づる月影」と思い出せば、今宵は十五夜であった。宮廷で催される管絃の御遊も思いやられるが、院から賜わった形見の御衣(おんぞ)は、如法経の折に御布施として、八幡大菩薩に奉納したので、「今ここにあり」とは思われないけれど、宮廷のことを忘れ奉ることがないので、余香を拝する志も古人の心深さにかわらないと思った。
原文では「武蔵の国に帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに……」となっていて、浅草寺の本尊が十一面観音だとされているのである。
しかし、浅草寺の正式名称が「聖観音宗総本山金龍山浅草寺」であることからも明らかなように、関東地方きっての古刹である浅草寺の本尊は聖観音であって、十一面観音ではないのである。例えば、金龍山浅草寺が自ら編集している「図説浅草寺−今むかし」(東京美術)という本には、
浅草寺に伝存の「浅草寺縁起」によると、推古天皇三十六年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が江戸浦(隅田川の下流辺りを昔は宮戸川といった)で漁労中、一体の仏像を投網(とあみ)の中に発見した。それを土師中知(はじのなかとも)が拝し、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)の尊像であることを知り、自ら出家し、屋敷を寺に改めて深く帰依(きえ)したという。これが浅草寺の草創である。
と書かれているのであるが、これは鎌倉時代においても、少なくとも関東の人には常識だったはずである。
なぜ聖観音が十一面観音に替わってしまっているのかは後で検討することにして、「みよしのの里」の場面も、一応確認しておきたい。先に紹介した部分のあとに歌が二首あげてあって、それから以下のように続くのである(「とはずがたり(下)全訳注」p259)。
ところで隅田川原近い辺りだろうかと思うが、たいそう大きな橋で清水や祇園の橋ぐらいなのを渡ると、小ざっぱりした男二人と会った。「この辺りに隅田川という川があるそうですがどこでしょう」と問えば、
「これがその川ですよ。この橋をすだの橋と申します。昔は橋がなくて、渡し船で人を渡しましたが、わすらわしいというので橋ができました。隅田川などとはやさしい名を付けておいたものですね。土地の者たちの言いならわしでは、すだ川の橋と申しております。
さてこの川の向うを昔は三芳野(みよしの)の里と申しましたが、百姓たちの刈り乾す稲と申すものに、実の入らぬ所でしたのを、時の国司が里の名を尋ね聞いて、実の入らないのも道理であるとて、吉田の里と名を改められて後、稲はちゃんと実が入るようになりました」
ここで、「伊勢物語」に出てくる都鳥の話を思い出して歌を二首詠んで、鎌倉へ戻ったという展開になっているのである。
さて、「とはずがたり」のこの部分は、直前に描かれた浅草寺の寂れた光景と併せて考えると、ずいぶん奇妙である。浅草寺という聖なる空間があるからこそ、そこに町が生まれ、活発に交易がなされ、清水・祇園に匹敵する巨大な橋が必要となったはずである。中世の町のあり方から言って、浅草寺の興隆と周辺の商業活動・交通の発展は分離できないのであって、一方で巨大な橋が維持され、そこに「きたなげなき男」も存在しているほど町が発展しているのに、浅草寺が寂れているというのはバランスがとれないのである。
ま、それはともかく、前に述べたように、隅田川を渡ると「みよしのの里」だというのは余りに奇妙な話なのであるが、久保田淳氏は「「とはずがたり」−配所の仮託」(「隅田川の文学」岩波新書)というエッセイ風の文章で、次のように言われている。
「みよしのの里」を思わせる古い地名として、「伊勢物語」十段に「入間の里、みよし野の里」というのがあり、現在の埼玉県坂戸市横沼かとされている。また、「吉田」は川越市に地名として残る。両市は境を接し、「伊勢物語」の、「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌語りの世界はここかと伝えられてもいるのだが、しかし彼女は浅草寺に詣でたのち、入間の郡までさまよって行ったのではないであろう。この時代にも隅田川は浅草寺のすぐ東側を流れていたと考えられるのである。
「みよしのの里」や「吉田」は当時の隅田川界隈に実際にあった地名かもしれないし、「伊勢物語」の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為であるかもしれない。ともかく、この川は大河であった。そこに架けられた橋は、清水詣でに渡った都の五条橋、祇園に参籠した時渡った四条大橋を思い出させた。しかし、業平が呼び掛けたという都鳥は見えない。立ち籠める川霧に視界もきかない。雲の中に初かりがねの声がする。その声は「どうして旅するの、何が悲しいの」と呼び掛けるかのようである。長旅にやつれながらも昔の色香を失っていない尼は、大川のたもとに佇んで涙する。
久保田淳氏は、「「みよしのの里」や「吉田」は当時の隅田川界隈に実際にあった地名かもしれない」などと言われているが、ここでの地名の大混乱は大変なものである。原文を素直に読む限り、奇怪なことに、「彼女は浅草寺に詣でたのち、入間の郡までさまよって行った」としか考えられないのである。
また、「「伊勢物語」の世界を持ち込んで在五中将業平への言及を自然にしようとした彼女の作為」があると考えるならば、浅草寺という宗教的聖地に関連して、このような作為を平然と行う後深草院二条の宗教に対する基本的態度について、多少の疑問を感じるのが常識的な感覚だと思うが、久保田淳氏にはそうした感覚は無いようである。
さて、「とはずがたり」において、浅草寺の本尊を聖観音ではなく十一面観音としている点について、私は主要な注釈書を全てチェックしたみたが、国文学者たちは完全に無視するか、せいぜい「廻国雑記」でも十一面観音としている、といった程度のコメントを載せているだけである。
しかし、この部分は極めて奇妙である。二条は尼であり、仏教の専門家である。そして彼女は浅草寺に「霊仏と申すもゆかしくて参」ったはずの人なのであり、あちこち数多くの寺を廻ったついでに浅草寺にも行ったと一言だけ触れている「廻国雑記」とは事情が違うのである。そのような人が訪問先の寺の本尊を間違えるなどということが本当にありうるのだろうか。
現代の観光客なら観音の種類などどうでもよいことであるが、それでも聖観音は顔がひとつだけの最もシンプルな観音であるのに対し、十一面観音は文字通り顔が十一もあるのであって、知っていさえすれば小学生でも区別は簡単である。しかも二条は「とはずがたり」に記された仏教的語彙だけからみても、仏教について該博な知識を持っていることが明らかな仏教の専門家である。その専門家が、参詣のためにわざわざ出向いて行った寺の本尊を間違えるなどということは、ずいぶん仏教を軽んずるものであり、仏罰を蒙ってもおかしくないほどの醜態である。それは国文学者が枕草子の作者を紫式部と誤解したり、仏教学者が日蓮宗の開祖を親鸞だと思い込んだり、鮨屋の親父がイカとタコを間違ったりするくらい変なことだと私は思う。
私は、この「誤記」は単なる間違いとして済ますことは到底できないほど奇妙なものであり、細心の注意を払って分析する必要があると考える。そして、その際には少なくとも以下の点に配慮しなければならないと思う。
第一は、二条が描き出した浅草寺の様子は、他の史料から伺われる当時の浅草寺の状況と較べると貧相に過ぎ、二条が実際に浅草寺を訪問したにしては不自然に思われる点である。
第二に、どこか暗示的なのが「浅草」という地名である。これは「深草」の反対語になっていて、この言葉自体、後深草院を連想させる。しかも「浅草」の対岸が何と埼玉県川越付近の「みよしのの里」であり、この「みよしのの里」という地名が、久保田淳氏も言われるように「伊勢物語」の「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」「わが方によると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れん」という歌を思い出させ、さらにこれらの歌が「とはずがたり」巻一の冒頭、即ち後深草院が二条を後宮に入れようとして、父大納言雅忠に「この春よりはたのむの雁もわが方によ」と言った場面を連想させる、という具合に、複雑かつ優雅な連想をともなって、「浅草」は後深草院を思い起こさせるのである。
「とはずがたり」において最も重要な登場人物は後深草院であるが、同時に後深草院こそ、最も不可解な、最も謎めいた人物である。そして、この浅草寺の場面も随分謎めいているのであり、もしかしたら作者二条にとって必要だったのは、当時現実に存在していたはずの浅草の地や浅草寺ではなく、この「浅草」という言葉自体だったのではないか、作者は「浅草」という言葉をキーワードにして後深草院に関係する何かを表現しようとしているのではないか、という感じがするのである。
第三が問題の十一面観音である。これは「岩波仏教辞典」によると、次のような仏である。
原語は、十一の顔を持つ者という意味。観音信仰の広がりの中で最も早くヒンドゥーの神と接点を持って変化した観音で、頭上に十の小面をつけ本面と併せて十一面を持つ。これは観世音菩薩の別名として、あらゆる方角(十方)に顔を向けたもの、という救済者として持つべき能力を具体化したものといえよう。正面三面が慈悲面、左三面が瞋怒(しんぬ)面、右三面が狗牙上出(くげじょうしゅつ)面、後方暴悪大笑(ぼうあくだいしょう)面、頂上仏面である。陀羅尼集経(だらにじつきょう)や十一面神呪経(じんじゅきょう)の漢訳に伴って中国・日本でも広い信仰を集めた。
この説明で一番気になるのは、「暴悪大笑面」である。十一面観音の穏やかな正面の顔の反対側には、大笑いしている顔が隠されているというのである。私は初めてこの「岩波仏教辞典」の説明を読んだときは、笑う仏像というイメージが全然浮かんでこなくて、実際にどのような顔をしているのか確認しようと思ったのであるが、仏像に関する普通の写真集に出ている十一面観音の姿は正面像ばかりで、背後からとった写真など、なかなか見あたらないのである。
さんざん苦労したあげく、ある図書館でやっと室生寺の十一面観音の「暴悪大笑面」を見つけたのだが、これには意表を突かれた。これを見たときは本当にぞっとした。いくら名前が「暴悪大笑面」とはいえ、観音と言えば慈悲の代名詞、母性の象徴のような仏様なのだから多少は穏やかな顔をしているのではないかと思っていたのだが、実際の「暴悪大笑面」は、笑い顔というよりは凶悪・凶暴な面構えと言った方がいいような凄まじい顔なのである。
で、結論であるが、上記の点を総合的に考慮すると、作者が浅草寺の聖観音を十一面観音と「誤記」したのは、「浅草」が「深草」の反対語なのだから、十一面観音の反対側を御覧なさいよ、そこに本当の私がいるかもね、それが敬虔な尼を演じている私の本当の姿なのかもしれないね、というメッセージを伝えたいためなのではないかと私は考える。後深草院二条は、十一面観音の「暴悪大笑面」に、にんまり笑いながら隠されたメッセージを発信している自分を重ね合わせているのではないかと思うのである。
そして「浅草」の対岸を「みよしのの里」としたのは、十一面観音だけではヒントが少なすぎて、特に関東以外の人には気づいてもらえないおそれがあるから、分かりやすい甘いヒントを付け加えておいて、この浅草の場面には何か特別な意図があることを示したかったからではないかと思う。
以上のような見解は古典の常識を覆すものであって、容易に受け入れられないであろうことは私も十分わきまえている。私も、後深草院二条という女性が誠実で信頼できる人間ならば、いくら地名の誤りが多いからと言って、また、暗示的と受け取られるような表現があるからと言って、こんな技巧的な分析はしないのである。
しかし、後深草院二条という女性が常識ではとても捉えきれない存在であることは、他ならぬ「とはずがたり」が豊富な例証を用意している。学者たちが詳細に分析しているように、彼女は、話を面白くするためには、皇女(遊義門院)の誕生と治天の君(後嵯峨院)の死という、身分秩序の根幹に関わる重要人物の生と死の時期について、史実と逆転させた記述をすることを全くためらわない。また、同じく話を面白くするためには、弘安二年(1279)に死んでいるはずの祖父四条隆親を弘安六年(1283)に生き返らせることもためらわない。さらに、どう見ても行っていないはずの足摺岬という宗教的聖地に行ったと平然と言い張ることもためらわない。
これらのひとつひとつについて、国文学者たちはもっともらしい、とは言っても、何らかの事情で事実を朧化したのであろう、などという、全然理由にもならない説明を重ねるけれども、ごく素直に考えてみれば、後深草院二条は相当に変な女である。
どんな社会においても、ついてよいウソといけないウソがあると思うが、後深草院二条は、基本的な身分秩序より、先祖の生死より、宗教的聖地より、話の面白さを優先させているのである。この女はどう見ても普通の女ではないと私は思う。
もっとも、以上は後深草院二条という女ならとんでもないことをやりかねないと言っているのみで、いわば状況証拠の積み重ねに過ぎないことは私も承知している。「とはずがたり」を使って後深草院二条が何をやろうとしたのか、その動機の部分が正確につかめないと説明としては不十分であることは、もちろん私も自覚している。
ただ、後深草院二条が、出家後も決して敬虔な尼になった訳ではないと疑うに足る理由が充分すぎるほど存在することだけは、ここで確認しておきたい。
 
「とはずがたり」考5 作品解説2

概略
「とはずがたり」という作品は、作者のきわめて波潤に富んだ人生体験、恋愛体験を述べた日記文学ですから、ある部分をポッと取り出して鑑賞するというのも、なかなかむずかしいと思いますので、作品のごく要点を年表風にまとめてみました。味もそっけもないものですが、ひととおり読んで、そのあとで講読に入りたいと思います。
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「とはずがたり」略年表
文永8年(1271)  14歳 後深草院の後宮となる(4歳より御所で育つ)。
      9年           15歳 父を失う。雪の曙と契りをもつ。
    10年        16歳 院の皇子を生む。
    11年           17歳 雪の曙の子を生む。皇子夭折、出家を思う。
〔巻一〕
建治元年(1275) 18歳 粥杖事件。亀山院に知られる。有明の月と逢う。
      3年            20歳 両院の遊宴に奉仕。女楽事件。近衛の大殿と契る。
〔巻二〕
弘安4年(1281)  24歳 有明の月と復交、懐妊。両院の大宮院見舞に奉仕。
                               有明の月との第一子を生む。有明の月、病死。 
     5年            25歳 里居がち。亀山院との噂。有明の月の第二子を生む。
     6年            26歳 東二条院の命により、御所を退出。
     8年            28歳 北山准后九十賀に奉仕。
〔巻三〕
正応元年(1288) 31歳 (永福門院の伏見帝への入内に奉仕。「増鏡」)
     2年           32歳 すでに出家。東国旅行(鎌倉、川口)。
     3年            33歳 同(善光寺、浅草寺)、帰京。奈良旅行。
     4年            34歳 石清水で後深草院と再会。熱田、伊勢旅行。
永仁元年(1293) 36歳 伏見に後深草院を訪問。数年後、二見が浦に旅行。
〔巻四〕
乾元元年(1302) 45歳 西国旅行(厳島、白峰、備後和知)。翌年、帰京。
嘉元二年(1304) 47歳 東二条院崩御。後深草院崩御、葬列を裸足で追う。
                               父の三十三回忌。和歌に精進する。
     3年             48歳 人丸影供を営む。熊野旅行。院の一周忌。
     4年             49歳 石清水で遊義門院の知遇を得る。院の三回忌。
〔巻五〕
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作者は文永八年(1271)14歳の年に、後深草院の寵愛(ちょうあい)を受けることになりました。作者はじつは、すでに4歳から院のもとに上がっています。童殿上(わらわてんじょう)の女性版で、女(め)の童(わらわ)でいいのでしょうか、そういうかたちでお仕えしていましたが、14歳になって成人して、いよいよ後深草院の寵幸を得ることになったのです。その翌年、文永九年に作者は父を失ってしまいます。母は、彼女の2歳の年に亡くなっていまして、その意味では現代風に申しますと、結婚してすぐ親を亡くし、世に出ていきなり後ろ楯を失ったわけです。
父を亡くした同じ年、幼馴染みで、昔から心を通わせていた男性というふうに考えてよいかと思いますが、雪の曙という優雅な愛称−お互いないし限られた人々のあいだでだけ通じる雅称ですね−、その雪の曙という男性と契りを結んでしまいます。翌文永十年に、後深草院の皇子を生みたてまつるのですが、皇子は翌年、数え年わずか2歳で亡くなります。
文永十一年(1274)、後深草院にはいつわって、雪の曙とのあいだに女児を生みますが、これはすぐ雪の曙が引き取って、自分の妻に育てさせることになります。やがて皇子があえなく亡くなったという知らせを聞いて、作者はひそかに出家したいと願うようになりました。ここまでが巻一の内容です。
巻二に入って、文永十二年(建冶元。1275)作者18歳の正月、粥杖(かゆづえ)事件という、おもしろくもまた、作者の後宮における立場をはっきり思い知らされる事件を、作者みずから巻き起こしてしまいます。この年、後深草院の皇弟亀山院から好意を示されるようになります。さらに御室(おむろ)と申しまして、仁和寺(にんなじ)の門跡で、御修法(みずほう)の阿闍梨(あじゃり)であった有明の月−これも雅称ですね−、この有明の月という高僧からも好意を示され、逢って契りをもってしまいます。
一年跳んで、建治三年、20歳の年にあたりますが、作者は後深草院と亀山院の遊宴に奉仕して、そこで、またまた女楽(おんながく)事件という大騒動を引き起こしてしまいます。巻二の最後のところでは、近衛(このえ)の大殿(おおいとの)という男性と契りをもたされてしまいます。これは後深草院が、作者の後見人に大殿を指名して、交換条件として男女の契りを結ばせたのだろうといわれております。
このように作者は後宮にあって、後深草院の寵愛を受けながら、女房のかたちで院のおそばに仕えているうちに、いろいろな男性から注目され、好意を示され、さらには契りをもってしまうというようなことが度重なっていきます。愛欲の渦に巻き込まれ、翻弄されつつ悩み苦しみ抜いたこの体験を、のちに、わが人生の意義を考え、振り返って自伝にまとめあげようとした時、作者はどのような視点から、どのような位置づけを与えようとしたのでしょうか。「とはずがたり」を理解し、評価していくうえで重要なところであろうと思います。
巻三に入って、ここですこし跳びますが、弘安四年(1281)作者24歳の年というlことにしておきます。作品の内部にそれほどひどい矛盾はなく、巻二から巻三へと年次の空白もなくつづいているのですが、史実と重ね合わせて理解しようとすると、年時が噛み合わなくなってしまうのです。さて作者は、再び有明の月と契りをもつにいたって、ついに有明の子を懐妊し、やがて男児を生みます。奇妙なことに、後深草院は有明の愛欲の念を知ると、これを許すだけでなく、作者が有明の子を身籠(みごも)るのを待って、みずから乗り出して引き取り、院の皇子として後宮の女性の一人に育てさせるのです。ところが、有明は流行病にかかって、あっけなく亡くなります。
翌弘安五年には、作者は里居がちとなりますが、折しも亀山院との仲が世の噂となって宮仕えもむずかしい状況になり、おまけに有明とのあいだの第二子を懐妊していたことが分かり、生んでしばらくはわが手で育てます。弘安六年、26歳の年に、後深草院の中宮であった東二条院(とうにじょういん)の命令によって、作者は宮仕えを退かされます。
その翌々年の弘安八年、作者の母方の祖父の姉にあたる北山准后(じゅごう)の90歳の祝賀があり、作者はこの朝家あげての晴れの儀式に出仕して、ここで巻三は終わります。次田香澄先生の表現を一部お借りすると、九十の賀の席には、作者が後深草院にお仕えしているあいだに知り合ったゆかりある人物が勢揃いしている観があって、彼女自身は臨時の出仕でしたが、その宮仕え生活をしのばせる華やかなフィナーレとなっております。以上の前半三巻が前編で、後宮生活編とか愛欲編とか呼ばれているようです。
それから三年後の正応元年(1288)作者31歳の年、西園寺実兼(さいおんじさねかね)の娘※子が伏見天皇のもとに女御として入内(じゅだい)し、のちに永福門院という女院号を賜るのですが、その入内の儀に、作者は三条という召し名で奉仕していることが、歴史物語の「増鏡」の「さしぐし」の記事によって知られます。ですから、作者は31歳の6月2日までは、まだ出家していなかったわけです。
ところがその翌年、正応二年の2月から「とはずがたり」の巻四が書き始められていて、そこではもう作者は尼姿となっており、鎌倉のほうに出家修行の旅に出発しています。作者の出家の時期は正応元年6月以降、翌二年2月以前の約半年間に限られるわけです。正応元年8月3日が父の十七回忌の命日にあたっています。十七回忌というと、三十三回忌までのちょうど中間点になりますが、はたしてこのころ、七回忌や十三回忌などより特別視されていたかどうか、よく分からなくて自信ありませんが、あるいは作者は父の命日の折に、父の遺戒の言葉を思い起こして、出家に踏み切ったのかもしれないと、そう想像をめぐらしております。後半の巻四、巻五が後編で、紀行編とか修行編とか呼ばれています。
作者はたいへん健康に恵まれていて、32歳の年に東海道を下って鎌倉に入り、じつは鎌倉で病臥するのですが、年を越してから信濃の善光寺まで参詣の旅をし、八月十五夜には武蔵の国に戻り、浅草の観音堂に詣でます。鎌倉では、親王将軍の交替させられるさまや御家人(ごけにん)の振舞いを見聞して、批判的な感想を書きとめていました。和歌や続歌(つぎうた)をたしなむ風流な御家人との交際もあったようです。
そののち都に戻り、休む暇もなく奈良のほうに修行の旅に出て、翌正応四年の2月の初めに、氏神である石清水八幡宮に参拝したところ、偶然でしょうか、後深草院も石清水御幸ということで、院のほうから作者を呼びとめ、召し入れて、一晩語り明かすという、うれしい院との再会がありました。その後、作者は熱田神宮に参寵し、さらに伊勢神宮に詣でています。
永仁元年(1293)作者36歳の年でしょうか、後深草院のお召しにより、伏見離宮に院をお訪ねし、その数年後、再び伊勢の二見が浦に行くというところで、巻四は終わっています。
そのあとずいぶん間が空いているように見えまして、このあたり正確なところは分かりませんが、逆算すると乾元元年(1302)45歳の年かそれ以前、今度は安芸(あき)の厳島(いつくしま)社に参拝し、土佐の足摺岬まで足を延ばしたのでしょうか、はっきりしません、それから讃岐の白峰、坂出市の崇徳院(すとくいん)御陵に詣でて、翌年帰京します。
嘉元二年(1304)47歳の年に、作者をたいへん憎み、最後には宮仕えを退かせた東二条院がお亡くなりになる。その年、やがて後深草院もお亡くなりになり、作者は霊柩車を裸足で追ったという、たいへん印象的な挿話が語られます。この年はまた父の三十三回忌にあたっており、作者は墓参して、「新後撰集(しんごせんしゅう)」に父の歌が洩れたことを報告し、「父の歌が勅撰集に再び入集(にっしゅう)するように、またわたしも勅撰歌人となるように、和歌の道に精進します」と、誓いを立てております。
翌年、歌聖柿本人麻呂を讃える人丸影供(ひとまるえいぐ)を営み、歌道精進を志しつつも、熊野に詣でて写経につとめ、後深草院の一周忌には法会(ほうえ)を聴聞(ちょうもん)し、その翌年、嘉元四年(1306)49歳の年、石清水八幡宮でまたも偶然に、院の忘れ形見の女院、遊義門院の御幸に出会い、門院の知遇を得ることとなりました。このあと、後深草院の三回忌の仏事の済んだところで、「とはずがたり」は閉じられております。このような作者の、ほぼ五十年間に及ぷ人生のあゆみを振り返って綴ったのが「とはずがたり」という作品であるということになります。
作者の周辺
「とはずがたり」の作者は、亡き母の縁と父の後ろ楯のもと、後深草院の後宮に入ったのでしたが、そこで多くの男性たちとのあいだに複雑な交渉をもつことになり、男女愛欲の苦悩に生きたということを申しました。いったい彼女は、後宮においてどういう立場に立たされ、どう振舞わねばならなかったのか、彼女を取り巻く状況を正しく理解しておく必要があるのではないかと思います。
そこで次に、作者の家系と後深草院の後宮について、資料2(略)として、簡単な系図を掲げて説明してまいります。作者は4歳の年から後深草院のもとに出仕して、14歳で後宮に列することになりましたが、その経緯については彼女の両親、とりわけ母と院とのあいだに浅からぬ因縁があったからのようです。
作者の母親は大納言四条(藤原)隆親の娘で、後嵯峨院にお仕えする大納言典侍(だいなごんのすけ)という女房でした。この四条家という家は院政期になってから、皇族方、宮様の乳母(めのと)をつとめる家として、勢力を伸張していっておりまして、わが妻ないし娘を宮様の乳母にしたり、内侍司の高級女官に出すというだけでなく、院政政権の実務や儀式行事の有職故実(ゆうそくこじつ)に明るい、しかも管弦ほかの公卿の芸能にも秀でているという、有力な家柄でした。隆親も極官の大納言まで昇り詰めますが、娘を典侍(ないしのすけ)という内裏女房として、宮中の中枢に位置を占めさせるということをしているわけです。
この大納言典侍は、後深草院が東二条院と結婚するにあたって、あらかじめ後深草院に性生活の手ほどきをしてさしあげたということが、のちに院の口ずから作者に語られています。閏房のことを教えてくれた人として、院はその後もずうっと大納言典侍に憧れていた。ところが、典侍大(すけだい)は−院は大納言典侍のことを、親しみを込めた略称で、こう呼んでいます−、作者の父源雅忠と結婚して、作者を生みました。院は典侍大の忘れ形見である作者を、そばに置いて養育したいということで、4歳の年から仙洞に召して鍾愛(しょうあい)してきたということなのです。
このように見てくると、思い合わされることがあります。院の言動は、「源氏物語」の光源氏の君の心理や情動にそっくりだと思うのです。まず「若紫」の巻に描かれる紫の君のことを思い起こしてみましょう。父桐壺帝の妃(ひ)藤壺の宮を慕う源氏は、北山で藤壺そっくりの紫の君を見いだし、わずか十一、二歳の紫の君のお世話をしたいと、祖母の尼君に申し入れます。藤壺と紫の君との間柄は叔母(おば)と姪(めい)でして、血縁関係にあったわけです。祖母君が亡くなると、源氏は誘拐するようにしてわが住まい、二条院に紫の君を迎え入れて、わが趣味と教養を傾けて養育し、自分好みの理想の女性に教育します。のちに北の方である葵(あおい)の上が亡くなると、四十九日を済ませてから、紫の君と契りを込めて妻にすえることになります。
女の子をわが手で自分好みの女性に教育して、妻としたいという男の一つの願望を物語るモチーフは、谷崎潤一郎の「痴人の愛」でも採用されていますが、後深草院のほうが一足早く源氏のひそみに倣い、典侍大に面影の通う作者を幼い時から養育し、成人したら妻にしようと考えていたのです。ただし、大納言典侍と作者とは叔母姪の関係ではなくて、母と娘の親子でした。でも心配いりません。母親との縁から娘の世話をつづけるうち、その娘に恋心を抱いてしまい、娘を悩ませるという話も、「源氏物語」には二つあります。
源氏の通い所の一つであった六条の御息所(みやすどころ)は、「葵」の巻で賀茂の祭りの車争いの時、葵の上のほうの者にたいへんな恥をかかされて、そのため葵の上の出産の場に物の気となってあらわれ、取り殺してしまった。御息所は悩んだすえ、源氏のもとから身を引こうとして、娘が伊勢の斎宮に選ばれた機会に、幼い娘の後見として付き添うということで、都を離れます。御代替わりになって都に戻ると、御息所は思い余ったすえ、源氏に娘の前(さき)の斎宮を託し、「娘の世話をお願いします。でも娘には、わたしを苦しめたような目に遭わせないでください」と、後見を頼む。結局、前の斎宮は冷泉帝のもとに女御として入内し、斎宮の女御と呼ばれ、のちには中宮に昇って秋好(あきこのむ)中宮と称せられます。源氏は御息所の遺言を守って女御のお世話をするのですが、「薄雲」の巻には、恋心を抑えきれずにほのめかしてしまう場面が見られます。
もう一人の女性は、夕顔の忘れ形見の玉鬘(たまかずら)というヒロインです。彼女は頭(とう)の中将と夕顔とのあいだに生まれた女の子なのですが、20歳を過ぎてから上京して、思いがけず源氏に引き取られて、そこでお后(きさき)教育を受けている明石の姫君といっしょに琴を習ったりします。源氏の御落胤で、最近見いだされて大切に扱われている年ごろの姫君がいるということで、噂を聞いた若い男たちが求婚するのです。源氏は玉鬘に恋愛指南みたいなこともするのですが、そのうち自分も心ひかれ、真剣にわがものとする手立てまで案じるようになります。「源氏物語」の第二十二帖から第三十一帖までをまとめて「玉鬘十帖」と呼んでおりまして、玉鬘はそのヒロインです。
というわけで、その母親との恋の思い出を忘れず、娘に恋心を抱くというモチーフも、源氏の君が体現していたわけです。ちなみに、母と娘を犯すことはタブーに触れるという説を、藤井貞和さんが提出しておられますが、ひそかに思いますに、母と娘を同時に愛することはタブーであったかもしれませんが、母の形見として娘を妻とすることまでは罪悪視されなかったのではないか、どうなのでしょう。
もとに戻って、作者は母大納言典侍の縁から、後深草院のもとで育ち、やがて寵幸を受けるべくさだめられていた、それは源氏の君の愛情のあり方にちなむものであった、ということでした。これは、後深草院の心づもりのあらわれであって、事実であったということなのでしょうか、それとも、作者が院との縁を振り返って語り進めようとした時に、なぞらえうる人間関係のモデルとして浮かび上がってきたことなのでしょうか。おそらくどちらも真実であって、作者も院も、それほど「源氏物語」に通じていたのでしょう。このように「とはずがたり」という日記文学作品は、「源氏物語」や「伊勢物語」などの影響を強く受けておりまして、いたるところ、これらの作品を踏まえた表現が出てまいります。作者は古典文学の深く確かな素養にもとづいて、いわば古典に照らして人間関係や現実世界を見すえているのです。
次に作者の父方についてですが、系図をご覧になるとお分かりのように、父親は中院(なかのいん)大納言源雅忠と申します。名門の村上源氏の家系でして、院政期に、摂関家に対抗する勢力として再び台頭した家です。曾祖父は内大臣土御門(つちみかど)通親、祖父は太政大臣久我通光−どうも「ミチテル」と訓んだようです−と申します。大将を経て、太政大臣にまで昇る家柄で、後世の言葉でいいますと、いわゆる五摂家、摂関家に次ぐ清華の家ということになります。作者の家を「久我」家と呼んでも差し支えないと思うのですが、雅忠の場合には「久我」ではなくて、「中院」と称したようです。
この久我家は、天皇のもとには女御を入内させるという格式の高い家でして、娘を女房として宮仕えに出すことはいたしません。ところがご承知のように、「とはずがたり」の作者は後深草院二条と呼ばれた女房です。作者の父雅忠の思わくは、次のようなことだったのではないでしょうか。いずれこの娘が男皇子を生んで、その皇子がもし皇太子、天皇になる道が開けるのなら、あまり形式にはこだわらないでいい、この娘の母親が女房であったという経緯もあることだし、娘が家の誉れとなり、家門の栄華のもといを築いてくれるかもしれないのだから、という期待から、後深草院の内意に応じて宮仕えに出したと思うのです。雅忠の作者に対するこまやかな配慮については、またのちにお話することがあろうかと思います。
作者が後深草院の寵愛人となると、院の中宮であった女院、東二条院という方からたちまち烈しい嫉妬をこうむります。それは結局、作者が実質は上臈女房の待遇に甘んずるほかなかったけれども、肝心なところでは太政大臣の娘として、ということは女御並みに−正確には「御方並みに」というべきかもしれませんが−振舞うことが許されていた、そういうあやふやな立場に由来するのではないかと思われます。女院にしてみれば、女房風情で寵愛をかさにきて、僭越だということだったのでしょう。後深草院の御幸に同車する作者の振舞いが、世に、女院御同車とささやかれたことがあって、東二条院は自分がさしおかれたことと、作者が女院と間違われたこととで、二重にプライドを傷つけられたといいます。
東二条院は作者の僭上を憎んで、わがお方への出入りを差し止めるだけでなく、後深草院や姉の大宮院に抗議文を送っています。もっとも、作者にしてみれば、これは「源氏物語」の「桐壺」の巻の言葉ですが、「はじめより、おしなべての上宮仕(うへみやづか)へしたまふべき際(きは)にはあらざりき……わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びのをりをり、何事にもゆゑあることのふしぶしには、まづまうのぼらせたまふ……あながちに御前さらずもてなさせたまひしほどに、おのづからかろきかたにも見えしを」と、桐壺の更衣を気取っていたように思われます。ご寵愛の余り、おそばを離れずお仕えするので、まるで奉仕する女房の風情に見えるということです。作者が桐壺の更衣(こうい)、東二条院が弘徽殿(こきでん)の女御という構図になります。
大宮院(1225-92.68歳)は後嵯峨天皇の中宮。父は西園寺実氏、母は四条貞子(北山准后)。後深草院・亀山院の母であり、東二条院の姉である。後深草院は母の妹と結婚したのであるが、これは当時の宮廷社会では、それほど珍しいことではない。
さてここで、作者が後深草院の寵幸を得た14歳の文永八年(1271)という年の後宮の状況を見わたすと、東二条院はすでに皇女を三人生んでいますが、皇子はまだ生まれていません。もうかなりの年配で、40歳になりました。太政大臣西園寺実氏の娘で、母は北山准后、姉に後嵯峨院の中宮で、後深草、亀山両帝の母后にあたる大宮院がいて、妹の彼女も姉同様、女御から中宮を経て門院号を得ています。
後宮にはほかに、東の御方と呼ばれる方−この「御方」という呼称はれっきとした後宮の女性のしるしだったようで、作者より重い扱いを受けていました−この東の御方は左大臣洞院実雄(とういんさねお)の娘で、この方がもうすでに二人も皇子を生んでいて、兄の皇子は7歳になっていました。のちの煕仁(ひろひと)親王、伏見天皇です。もう一人、5歳の皇子はのちの性仁法親王(しょうにんほっしんのう)です。ちなみに、翌年の作者の皇子御産の以前に誕生した皇子となると、内大臣三条公親の娘、御匣殿(みくしげどの)の腹の久明親王、算博士三善康衡(やすひら)の娘の腹の深性(しんしょう)法親王もおります。
それから、西の御方もおられて、太政大臣花山院(かざんいん)通雅の娘です。というわけで、作者は順番からいくと、後深草院の後宮の中では四番目か、もうすこし下位に置かれることになったのではないでしょうか。もちろん女房としてなら、ほぼ筆頭として振舞っているようです。しかし、見てきましたとおり、院の皇子を生みたてまつり、あわよくば皇統を嗣がせるという可能性は、きわめて少なかったようです。
作者の後宮入りの問題をめぐっては、ぜひもう一人、西園寺実兼の身辺について知っておく必要があると思います。略年表のほうに出てまいりました雪の曙のことです。この西園寺家は、承久の乱以前から鎌倉幕府の信任厚い名門の家で、乱ののちは関東申次(もうしつぎ)という、朝廷と幕府のあいだの連絡役をつとめ、にわかに権勢の中枢に位置づけられることになりました。久我家と同じく、太政大臣に昇る清華の家です。
ただ、実兼のころは支流の洞院家に勢力を奪われるような状況にあったようで、実兼は父親を早く亡くしており、西園寺家をもり立てるために、たいへん苦労した人物です。皇統が亀山帝のほうに傾いていたころ、実兼は後深草院方に接近して、のちに煕仁親王の立太子に成功すると、東宮大夫(とうぐうだいぶ)となります。実兼の子女について調べてみますと、すでに北の方がいまして、その腹に跡取りの公衡(きんひら)が生まれており、もう8歳になっていました。
北の方は内大臣中院通成の娘、のちの称では従一位顕子(じゅいちいけんし)といい、作者の又従兄弟(またいとこ)にあたります。通成は文永六年(1269)、内大臣に任ぜられると年内に上表し、翌年出家、作者の父雅忠が通成の跡を襲うかたちで、淳和奨学院別当(じゅんなしょうがくいんべっとう)−のちの源氏の氏の長者の称号です−になっています。実兼も大っぴらに作者に求婚しづらく、雅忠も実兼を婿に選びにくかったのではないでしょうか。そういうわけで、作者は実兼とは早くからお互いに心をかよわす親密な仲で、たいへん好意を寄せていたようですが、実兼と結ばれて、北の方におさまるというぐあいにはいかない、そういうめぐり合わせに生まれついていたといわざるを得ません。
「住吉物語」の上巻を見ると、ヒロインの宮腹の姫君の結婚問題をめぐって、薄情な継母は、「なかなか、おぼえ少なき宮仕(みやづか)へよりも、時めかん上達部(かんだちめ)などに、あはせたま給へかし」と入内に反対しまして、すると親身な父中納言が答えて、「なみなみの人には、見せん事もあたらしさに」と、臣下の者と結婚させるのはもったいないといっております。また「源氏物語」の「紅梅」の巻でも、母親の真木柱(まきばしら)は、「人にまさらむと思ふ女を、宮仕へに思ひ絶えては、何の本意かはあらむ」と考えて、大君を春宮のもとに入内させています。父雅忠が後深草院の意向にしたがって作者をすすめたのも、けっして不本意な決断でもなければ、期待が楽観的に過ぎたということでもなかったのだと思います。
ちなみに、後深草院は作者より15歳年長、雪の曙は9歳の年長です。年齢的に見れば、院は親というに近く、曙は頼もしい兄のようであったわけですね。
 
「とはずがたり」考6 後深草院二条

建礼門院右京大夫より百年ほど後になりますが、「とはずがたり」の後深草院二条の話をします。時代としては鎌倉末期で、室町に入りかけている時代です。王朝が二つに分かれている時代で、彼女は後深草院に仕えたので後深草院二条という名です。北条家の後押しによって大覚寺統と持明院統ができますが、これはあの南北朝よりもちょっと早い時期です。この頃、大覚寺統と持明院統とで交互に天皇を出すわけです。そして、この通称・後深草院二条という人ですが、父親は中院大納言源雅忠、母親は四条大納言隆親女近子という人で、彼女自身は正嘉二年(1258)に生まれています。それ以後、一応49歳までのことは分かっていますが、その後どれぐらい生きたか、いつ死んだかは全然分からない。この父方は村上源氏の出ですが、源というのはもともと天皇家の息子ですから、代々有力な政治家とか勅撰集に歌が載っている歌人が出ています。有力な政治家というと摂関家の権力を削減する一策として後三条天皇に起用されて右大臣、やがて太政大臣にまでなった源師房をはじめ、代々藤原氏と対抗するかたちで政治家を輩出した家だった。しかしお父さんの雅忠のころになると、さすがに力が衰えてくるらしい。ただし歌では、まだ代々有力な歌人が出ているということで、後深草院二条自身も歌道の名門であることを非常に誇りにしていた。彼女も自分の歌が勅撰集に載ることを夢に見ていたけれど、可哀想に結局出なかった。そのかわり、散文作家として、はるか後世、すなわち現代になって急に有名になってしまった。彼女のお母さんの近子は、後深草天皇に仕えていた人です。後深草天皇にとって、母の近子はお気に入りだった。お気に入りの女が源雅忠と結婚して、そしてとてもきれいな子を生んだけれども、母近子は二条が2歳の時に死んでしまう。後深草天皇自身はとても気にかけました。それで宮中に彼女を引き取り、彼女は宮中で育つ。幼年期、少女期は、たいへん美少女だったため、天皇や周りの人にとても可愛がられた。ところが、ある時突然に天皇が寝床に入ってきて変なことをするので、彼女はびっくりして肝をつぶす。けれども結局犯されてしまって、それ以来ずっと後深草院の思いもののひとりとなる。そういう意味では、物心もなにもつかないうちに男と女のことを教えられ、しかも教えた人が主上だから、特殊な女性になってしまったわけです。
その宮中にはいろいろな本がふんだんにありますが、なかでも西行法師の修行の道筋の絵巻物を見て、彼女は非常に西行に憧れていた。西行を慕うあまり、自分も西行のあとを追って諸国を行脚したいとまで思っていた。そういう意味では、やはり中世の女です。わりと幼い少女期から西行に憧れたということは、言ってみればひとつの精神世界に憧れている。それから、外を見て歩くことに憧れている。精神の世界に憧れ、なおかつ外部の世界に憧れるというのは明らかに中世です。平安朝ではそんなことはない。平安朝の女は、精神にも外部にもほとんど興味がない。中世とそれ以前との大きな違いというのは、自立してくるということです。平安朝の小説とかエッセイを書いた人々というのは、もちろん自立した精神を持っていたけれど、ほとんどの場合には男の言いなり、あるいは家の言いなりということがまったく疑うべからざる普通の女の守るべき道だったから、それ以外のことは考えられない。それが平安朝だった。けれど中世になって、独りぼっちになることがあるんだということを女たちが知った。だからこの後深草院二条の場合にも、やはり中世という時代の注目すべき精神的な課題を抱えていたということになると思う。
けれど、いずれにしても後深草院に女にされてしまうわけです。後深草院に寵愛を受けたのは14歳の正月です。そして翌年お父さんが死んで、彼女は孤児になってしまう。母親も父親もいない孤児になってしまうので、ますます後深草院の意に反することは一切できなくなります。彼女自身は後深草院にたえず深い愛情を持っていて、後深草院も彼女をいとしく思っていることはいるけれど、この後深草院という人は非常に不思議な人で、ほかの男たちにも彼女を斡旋する。そういう一種の倒錯した愛情の持ち主だった。それはやはり宮廷という社会のデカダンスのひとつかもしれない。
また彼女は、これは後深草院が全然知らなかったことですが、西園寺実兼というその当時もっとも有力な貴族のひとりに愛され、秘密の関係が生じる。西園寺実兼は「雪の曙」という名前で「とはずがたり」に登場しますが、彼女は非常に罪の呵責に悩んでいる。言い換えると、彼に惚れていたということです。惚れていたから、彼女は悩む。
それから、こともあろうに後深草院の異母弟の性助法親王の求愛を受けて、罪深い女だと畏れおののきながらも男関係が次々続々と広がってきてしまう。性助法親王は「有明の月」という名前で出てきます。これは他の人という説もありますが、だいたいは「有明の月」はすなわち性助法親王ということになっています。結局関係ができて、できてしまうと愛してしまう。つまり多情仏心の女です。
もうひとりは、これも奇妙な話ですが、後深草院自身が仲立ちをして、ひとりの男と彼女との間で恋愛関係を生じさせる。それは近衛大殿といって、鷹司兼平がモデルだという。これがつまり後深草院の倒錯的な愛情です。彼女自身はいつでも後深草院を思っているけれども、その思っていることを分かっているにもかかわらず、平然とほかの男に彼女を世話する。そういう間に、「有明の月」つまり院の異母弟の性助法親王ですが、この人との恋愛がばれてしまう。それまでは密かに愛していたけれど、このとき後深草院は「いいよ」と言っただけでなく、「あれはすばらしい女だ」と男にけしかけた。それで公然と恋愛関係が進行する。このお坊さんと灼熱の恋になって、どうなることかと読者としては思うけれど、運が良くというか悪くというか、この人は流行病で死んでしまう。彼女は非常に悲しむけれど、しようがない。
そのうちに、今度は後深草院にとって耐え難いことが起きます。彼女が亀山天皇とできたのではないか、という噂が生じる。天皇同士ということで、これだけは許せなかった。おそらく大覚寺統と持明院統との関係もあったのではないかと思うけれど、結局二条は宮中にいられなくなる。もうひとつは、いろいろ噂になって後深草院の中宮の東二条院という女性もだんだん事情が分かってきて、あなたはけしからん、ということになる。だからお后にはやられる、天皇にもうとんじられるというわけで、一気に寵愛が衰えた感じになってくる。それで御所を退いた。御所を退いた後にも、宮中で盛大な儀式があるときには出仕したりしているけれど、後深草院とは縁が切れるわけです。けれど、縁が切れた後々も、院を慕っているらしいのですから、不思議なことです。
尼になった後深草院二条
縁が切れて、彼女はいよいよ旅に出ます。それからがまた面白くなってくる。かねての念願どおり出家します。つまり女西行になろうとした。そこで、まず東国に旅します。鎌倉に行って、あたりを周遊していると、将軍の惟康親王という人が幕府の意向で廃止されて都へ護送される時にぶつかった。この時代、天皇の周辺から必ずひとり将軍が送られているわけです。そこのシーンがじつに面白い。その後、後深草院の息子の久明親王が新しい将軍として下る。その御所の準備にも加わっている。故事来歴を知っているから、そういうときには重宝されます。いたるところで彼女は先生となって、結構お礼などももらっていたと思う。田舎の金持ちとか田舎の侍の家などに逗留するとき、そこの家の女どもにいろいろ教えます。絵の先生になるし、礼儀作法の先生になるし、着物の着方から何からすべての先生になる。彼女は非常におもしろい生き方をするようになる。この惟康親王が送られていくところがとくに注目すべきところで、みじめで目も当てられないという状態をじっと見て、書いている。普通の女は「いとも目も当てられぬ」ときは見ない。けれども彼女は「いとも目も当てられぬ」という状況をじっと見ている。それが本当に面白い。凄い女だと思う。その部分を少しくわしく説明します。
鎌倉に彼女が滞在していたときに、将軍の惟康親王が執権の北条貞時に罷免されてしまった。それで真夜中に不吉な風雨のなか、容赦なく都に送還されていく。それまで将軍だった人を、雨のばしゃばしゃ降る嵐の日、しかも真夜中に叩き出すのだからひどい。都に送還されていく様子がじつに哀れで、それを逐一見て「とはずがたり」に記している。例えば将軍が乗るべき御輿が「罪人護送の際の先例に倣うべし」というので、前後逆さまにさせられた。普通は前を向いて座るのに、後ろを向いて座らされる。これは罪人護送のときにそうしたらしい。また、将軍がまだ御輿に乗り込まないうちに、はや将軍が使っていた庭のほうでは、下人がわらじをはいたままずかずかと御殿へ上って御簾を引きむしったりしている。そういうありさまを逐一じっと見て、「いと目も当てられず」と書いている。いとも目も当てられなければ見なければいいと思うけれど、それを逆に克明に書いて記録している。さらに佐介(さすけ)の谷というところにいったんとどまった惟康親王が、いよいよ上洛するために真夜中に御輿に乗って出発するのを、わざわざ付近に宿をとって見送りにいく。本人としては、可哀想に、と見送るつもりなんでしょう。だけど客観的に見ると、むしろ好奇心に満ちている。でなければ、そんな雨の晩にこんなことしません。この親王は、後深草院とも縁がないわけではないから、行為は深い同情から出ているけれど、同時に同情だけでやっているとも思えない。それがよくよく分かるのは、彼女の文章、文体です。
既に発たせおはします。折、節宵(ふしよひ)より降る雨、殊更(ことさら)その程となりてはおびただしく、風吹き添へて、物など渡るにやと覚ゆる様なるに、時違(たが)へじとて、出し参らするに、御輿を筵(むしろ)といふ物にて包みたり。あさましく、目もあてられぬ御様(やう)なり。御輿寄せて、召しぬと覚ゆれども、何かとて、又庭に舁(か)き据ゑ参らせて、程経(ほどふ)れば、御鼻かみ給ふ。いとしのびたる物から、度々聞ゆるにぞ、御袖の涙も推し量られ侍りし。
「物」というのは妖怪変化です。雨が降っているし、お化けなど出そうな時刻なのに、時刻を狂わせるわけにはいかないといって出し参らせると、将軍の乗っている御輿がむしろで包まれている。御輿を寄せて乗り込むかと思っていると、何かとぐずぐずしていて、庭にまた輿をでんと据えた。しばらくすると親王が鼻をかんだ。ひっそりと忍んでやっているのだけれど、たびたびかんでいる、と書いている。しかも、この将軍は同じように将軍職を罷免されて都へ帰った宗尊親王とは違って、都への帰路あるいは都へ帰った後に、歌を詠んで自らの潔白の証とするようなことをしなかった。つまり、この親王は幕府に突っ返されたままだった。宗尊親王の場合は歌を詠んで、「俺は潔白だ、なのに」とやったのに、それができなかった。二条はそれが「いと口惜しかりし」、本当にしゃくにさわった、悔しい、と書いている。だから、ただ同情しているのではなく「残念だわ、ちゃんとした歌を一首や二首作ればいいのに」ということを言っている。単純に「おかわいそうに」とうだけではないことが良く分かる。それと、ここで注目すべきことは、親王が御輿のなかに入って鼻をしばしばかんでいるとあるけれど、このとき雨がじゃあじゃあ降っています。雨が降っていて、輿のなかで鼻をかんだ音が聞こえたということは、彼女はよほど近くに行っていなければならない。本当に夜の闇に紛れて、よほど間近にまで行って見ていた。面識はなかったのだから、これは不思議です。しかし、面識はなかっただろうけれど、彼女にとってはやはりそのままにしておけなかった。そのうえで、観察力のしたたかさは文章で分かります。それに、別に真夜中に行く必要はないのに見送りに行って、しかも「こんな惨めな姿で送られていくなんてかわいそう」「せめて歌でも詠めばいいと思うけれど、ちっとも詠まない」「情けない」と思っているわけだから、かなり勝ち気です。
「とはずがたり」は巻一から巻五までに分かれていますが、巻四と巻五が放浪時代を書いている。巻五では備後の国、広島と岩国のあたりの「和知の里」というところへ行きます。「悪業深重なる武士」と書いてあるので、悪業を重ねた武士のところへしばらく逗留する。そこで見聞したことを書いていますが、そこでも本当に肝っ玉が太いことが分かるようなことを書いている。結局、男どもは彼女に手を出せない。美しい女で威厳があって、尼さんで、というので、相当したたかな男でも一目も二目もおいてしまう。それから、男たちには女が、妻や妾がいる。そういう女どもは彼女の一挙手一投足に注目しているから、男は彼女に近づけない。この女たちは、彼女に都の風習を教えてもらおうという熱望があるから、非常に尊敬している。たぶん、気品から何からまったく違ったから、女たちにしてみれば彼女に対する嫉妬なんてありえない。嫉妬する理由がなかった。彼女のほうでも男どもをまったく問題にしていない。そういう意味で非常に肝が太いところがある。とにかく面白い。
人生を二度生きた女たち
彼女が行った場所というのを見ると、まずはじめに鎌倉へ行って、そこから今の埼玉県の川口へ行くところで年を過ごし、それから善光寺へ行ってお参りして高岡へ行く。そしてまた関東へ戻ってきて、武蔵野で秋が来て、それから草深い浅草寺にお参りへ行く。その当時、浅草のへんは草深かった。それから、隅田川、また鎌倉へ戻り、京都へ戻ってくる。それから、まもなく出発して、今度は奈良へ行く。途中、石清水で偶然後深草院と再会する。再会するけれど、また分かれて伊勢、熱田と回って、伏見の御所へ行く。伏見の御所へ行ったときに、そこで後深草院と会います。会って、いろいろ昔話をする。けれども、そのときはもう男と女の関係はない。それから五年たったときに、備後、安芸、厳島、それから足摺岬へ行った。この足摺岬はフィクションかもしれない。足摺岬というのは四国の末端ですから。そこから有名な西行の話に倣って愛媛県の白峰へ、それから松山に止まる。その昔、悲惨な運命にあった崇徳上皇を、西行が慕ってわざわざ白峰の崇徳院のお墓に詣でて、夢のなかで崇徳院と問答する有名な話があります。「西行物語」や「撰集抄」、また謡曲にもなっていますが、一番知られているのが上田秋成の「雨月物語」のなかの「白峰」です。松山も、崇徳院の血がぽたぽた垂れていたという話が伝わっているところです。愛媛県は崇徳院の足跡がいろいろありますが、そういうところに二条はお参りしている。四国から戻ってきて、次には備後へ行きます。備後の和知へ行って、ここで豪族どもの争いに巻き込まれ、たいへん困った立場に二条は追い込まれる。そのとき鎌倉で出会ったある出家した入道が割って入って、運良く助けてもらう。入道とは男と女の仲ではなくて、鎌倉の連歌の会で知っていた人です。争いあっていた人たちの従兄弟だった。こうして争いから解放された二条は、結局大変な教養を見せて、そこの荒くれ男どもを心服させる。みんながひれ伏してしまう。「悪業深重なる男ども」が、なんとかしてここへとどまってくれと言う。けれど振り払って帰る。
その後、後深草院のお后で、彼女を嫉妬で苦しめた東二条院が病気でお亡くなりになる。その半年後に、今度は後深草院が病気になる。院は結局、真夏にお亡くなりになる。彼女は悲嘆にくれて、裸足で院の柩をずっと追いかけていきます。感動的なシーンです。その後はほとんど物語はなくて、法皇の三回忌があったというところで終わります。だから、後深草院のことを書き終えれば、もう書く気がなくなってしまった。言いかえると、女の一生というものが、最初の男との不思議な運命の糸でつながれてしまったということの、ひとつの典型的なケースです。
そういう意味で、たいへん数奇な運命をたどった人ですけれど、とにかく巻四と巻五を読むと、肝っ玉が据わっている女ということが強く感じられる。そこを読むと、かつては天皇ならびに高位の貴族や僧侶のあいだで性的な人形として、まるでピンポン玉みたいにあっちへやられたりこっちへやられたりしていた時代の彼女とは、まるで違った別の女が誕生していることがよく分かります。貴族ではあるけれど、精神状態としては新しいなにかを求めている女というイメージが非常に強い。求めているものの最たるものは、おそらく自分自身とはなにか、というような一種の哲学的な問題でしょう。そういう哲学的な問題を抱えている女だと思うしかない。そうでなければ、女だてらに西行の後を追って、東だけでなくて西のほうへも行って歩き回ってしまうということはできない。むしろ、これは西行の後を追うということを越えてしまっている。
そういう意味では後深草院二条も、前に話した建礼門院右京大夫、そして北条政子も、それぞれの生き方で、自らの意志をもってひとり立ちした女であったというふうに思います。その場合に建礼門院右京大夫と後深草院二条に共通のものは、人生の道の半ばで両方とも非常に苦しんで、その最後にいったんは世を捨てたという状態を経て、また社会に復活したことです。建礼門院右京大夫の場合には、出家はしなかったけれど引っ込んでしまった。ところがまた復活して、とにかくお婆さんになるまで、なんらかの意味で宮仕えをしていた。だけど、自分の生涯はある時点でぽっきり折れてしまっているということを自覚している。それから、後深草院二条の場合にも、やはり折れてしまったということは、「とはずがたり」が後深草院の崩御というところで終わっているということではっきりしている。だから、言ってみれば人生を二回生きている。それはやはり中世的な現象だと思う。
王朝の女たちというのは、一本線です。もちろん、その間にはいろんなことがある。和泉式部の場合には、恋愛で大変に苦しんだりしているけれども、人生の軌道を飛び出して全然別のところへ行って、またやり直してみるというふうなかたちの生き方ではなかったと思う。相変わらず、ずっと同じところで生活しているわけです。
ところが、この中世の女たちの場合は、世を捨てたということがあります。世捨て人になるということは中世でなければ生じなかった現象です。日本では、世捨て人の、草庵文学というのがあって、「方丈記」とか「徒然草」が非常に有名です。「方丈記」も「徒然草」も、やはりあるところで世を捨てるというところが、はっきりした文学的な、つまり見るに足る現象として生じている。それが新しい文学形式としてのいわゆる「随筆」というものの出発点になっています。そういう点で言うと、女の場合にも、建礼門院右京大夫は、おおざっぱだけれど時代的にいえば鴨長明、西行と一緒で、後深草院二条の場合は兼好法師と一緒です。
中世の時代をそう見ますと、なんらかの意味で男と女は対応しています。それは、男だけが中世を生きたわけではないからです。女もやはり中世を生きていた。そういうところが、面白いと言えば面白い、当たり前と言えば当たり前のことだった。しかし、当たり前のことを我々はあまりに知らないから、当たり前のことを知るとびっくりすることもある。先ほど「方丈記」「徒然草」をあげましたが、ある意味で言うと、兼好法師と後深草院二条の観察眼は接近しているかもしれない。兼好のほうが、やはり男だからさっぱりしている。後深草院二条の場合はしつこいところがあって、そこがなんともいえない魅力であります。
 
「とはずがたり」考7 自作自演わが恋の記録

カザノヴァやドン・ファンには及ぶべくもないが、まず、ちょっとした「わが恋の記録」を書いた二条という女性がいる。西洋のオノコどものそれが、とかく量を誇る趣があるのに比べて、彼女のは量よりも質─―。一つ一つの恋が、それぞれ曰(いわ)くつきであるのも、日本的こまやかさと言うぺきか。
しかも登場人物がソウソウたるもの。天皇あり大臣あり、その他の貴族あり、坊さんあり‥‥。恋のパターンのいろいろを書きわけたのは紫式部だが、式部のがオハナシであるのに比べて、二条の書いた「とはずがたり」は、体験的報告であるところがミソである。
しかもおもしろいことに、彼女の告白を読んでみると、どこかに「源氏物語」との共通点がある。
ひょっとすると、源氏物語の読みすぎではないか‥‥そんな気もしないではない。
たとえば─。二条の初体験は14歳の初春。女のしるしを見て間もなくのことである。邸の中がちょっといつもとは違う、と思っていたら、夜になって、後深草上皇がしのびで姿を見せ、そのまま、彼女を床につれていってしまう。
「ま、何ということを…いや、いや」
彼女は必死に抗(あらが)う。なぜならその日まで彼女は、後深草を父とも慕ってその膝元で育てられて来たのだから……。
彼女の母は大納言典侍(だいなごんのすけ)と呼ばれ、後深草の乳母だった。大納言久我雅忠(こがまさただ)との間に彼女を儲けたが、二年あまりで死んでしまった。だから彼女は、ほとんど母の顔も知らない。後深草は、母に死におくれた彼女をあわれに思ったのが、ずっと手許において、
「あが子(我が子)」
と呼んでかわいがってくれた。だから彼女は父の屋敷よりも、むしろ宮中をわが家のようにして育って来たのである。
その父とも幕うお方が……その夜はとうとう拒みつづけた。周囲は、そんな彼女を、
「思いのほかにねんねなのね」
「今どきの若い人にしてほ珍しいわ」
苦笑の眼でみつめている。そして次の日、
「私はね、そなたが十四になるのを、待っていたんだよ」
という後深草の囁きに、遂に彼女は身をまかせてしまう。
このあたり、「源氏物語」の紫の上の話を地でゆくような感じである。しかも、のちに、後深草は思いがけない告白をする。
「じつはね、自分の新枕は、そなたの母なのだ」
少年が、乳母によって初めての経験をするというのは、よくあることで、珍しい話ではない。
「が、あのときは私はまだ少年だったし、典侍には、そなたの父をはじめ、何人も恋人がいた。気おくれがして、何やら恥ずかしく、思うままに愛しあう勇気もなかった。だからそなたが生まれると知ったとき、いわば母の腹にいる時から、この子が生まれたら、きっと‥‥と思っていたのさ」
上皇の告白に眼を丸くしたり卒倒していただくと、先が書きにくくなる。いや、その前に、現在と当時は愛のモラルが違うのだということを前提にして読んでいただきたい。社会の全部がそうなのではないが、特に宮廷社会は、インモラルな雰囲気に満ちみちていたのである。
ところでこの話も「源氏物語」に何とよく似ていることか。源氏は、自分の母によく似た父帝のおきさき、藤壺を愛してしまったために、その藤壺と血のつながりのある紫の上に関心を持つようになるのだから。
この告白によって、二条は、後深草が今日まで、どんな思いをこめて彼女をみつめていたかを知る。今日の常識では、自分の母とかかわりのあった人なんて!というところだが、むしろその告白を通じて、二条は上皇の愛の深さを知るのである。
そしてこのまま納まってしまえば、二人はさしずめ、源氏と紫の上ということになるのだが、困ったことに、早熟な彼女は、すでに恋文をとり交していた男性がいた。一方の後深草には、父のように甘えていただけに、かえって男性としての魅力を感じなかったのかもしれない。
二条は、この恋人の名を「とはずがたり」の中ではあかしていない。一応文中では「雪の曙」ということになっているが、学者の研究では、西園寺実兼だろうと言われている。実兼とすれば、のちに宮廷で、かなりやり手として活躍する男である。
それから間もなく、二条は後深草の子を身ごもる。
「さては皇子誕生」
と喜んだ実父雅忠は、残念ながら、出産を見ないうちに死んだ。そしてそのころ乳母の家に里下りをしていた彼女は、訪れて来た雪の曙と遂に肉体の交渉を持ってしまう。身ごもっているということも、かえって彼女を大胆にさせたのかもしれない。ともあれ、ここで、彼女は後深草に秘密を作ってしまうのである。
彼女が皇子を産んだのはその翌年、その後も里下りして、ずるずると雪の曙との逢瀬を続けているうち、はっと気がついたときは、彼の子を身ごもっていた‥‥。
さあ大変、悪事露見!
悪知恵のありったけを働かせて、急いで後深草の許へ戻って交渉を持ち、
「また身ごもりました」と披露して御所を退出、こっそり不義の子を産み、上皇には、「流産いたしました」と報告する。このときは言の曙もお産につきそい、生まれた女の子は、その場からつれていってしまう。このときの彼女の告白が面白い。
「親子だから、かわいくない事はないが、まあしかたがない」
と、ごくあっさりしたものだ。のちに彼女は母と名乗らずに、よそながら成長したわが子の姿を見せてもらうが、ここでも母子もののお涙映画を予想した向きは大いにあてがはずれる。彼女の手記には、「もう人の子になっているのだから」としか書いていないのである。
雪の曙との交渉はその後も続いたようだが、今度は新しい男性が現れた。これも「有明の月」ということになっているが、後深草の異母弟の性助法親王の事らしい。後深草の病気平癒の祈祷によばれた有明の月に、二条が何気なく近づくと、思いつめたふうで恋を打明けられ、否やの余裕もなく、抱きすくめられてしまう。二条は、これについて、
「相手は尊いお方だし、声をあげることもできず‥‥」
と言っているが、多少いかもの食い的なアバンチュール精神もあったのかもしれない。が、有明の月は、恋上手な雪の曙とは勝手のちがう相手だった。
「私はこの年まで禁欲していた」
と言うだけあって、真剣すぎて気味が悪い。二条もいささかへきえきした様子である。いい加減逃げ腰になって後深草に告白すると奇妙なことを言いだした。
「あんまり拒むのは、かえって罪造りだよ」
有明の月との情事をすでに知っていたのかもしれない。このとき、さらに後深草は、
「まあ、私にまかせなさい。悪いようにはしない」
薄気味悪いようなものわかりのよさを見せて、積極的にデイトの機会を作ってやり、その結果生まれた子供の処置まで面倒を見てくれる。
彼女を真剣に愛していたはずの後深草が、これはいったい本気なのかと思いたくなるが、これがあの社会の何ともはやおかしな所であって、その代り、後深草も、二条に手引きさせて町の女や、斎宮(いつきのみや)だった異母妹との情事を持ったりしているのだ。そして二条も、それを怒る気配もなく、すぐ言いなりになってしまった相手のことを、
「もうちょっと焦(じ)らせてあげれば、おもしろいのに」
などと評している。
また有明の月の事についても、あれだけ面倒をみてもらっておきながら、その後も、後深草に内緒で交渉をもち、またもや子供を身ごもったりしている。その間に有明の月が急死したので、二条は今度はたった一人で子供を産む羽目(はめ)に陥った(もっともその子をどうしたかは文中には出て来ない)。
そのほか、伏見の離宮で、酔っぱらった関白鷹司兼平に袖をひっぱられて、ついうかうかと─といった、おじいちゃま相手の情事もある。このときも後深草は見て見ぬふりをしているらしい。
いろいろ取りそろえられた情事の手帖を読み進んで蒼くなったり赤くなったりするのは野暮(やぼ)というものであろう。彼らの誰にも、さほど罪の意識はないのだから。そして「源氏」を地でゆくようにみえて、その実大きに違うところはそこなのである。「源氏」はさまざまな恋を描きながら、その底に重く流れる無常観やら人間の本質に迫る罪の意識があるけれども、二条たちは、そういう取りくみ方はしていない。
無責任で軽やか、いやもしかしたらスマートてドライなのかもしれない。情事から情事へとその事だけに没頭しているように見えて底の方では、ふっとシラけている。まあ、現代新しがっているようなことが七百年前のここに、ちゃんとそろっているのだ。もし二条が、冥土からふらりと戻って来て、現代の若者の行状を見たら、
「あんたたち、そんなことで新しがってるの、オホホホホ」
と笑いとばすかもしれない。
たしかにー。性というものの世界にさほど新しい事は生まれないもののようである。
さて、その後二条はどうしたか。自分でははっきり書いていないが、当時皇位継承をめぐってライバル関係にあった亀山上皇(後深草の弟)などからも誘いをかけられることがあったらしく、それが理由かどうかはわからないが、後深草の皇后、東二条院に憎まれて御所を出される。
さてこそ罪の報い─。と見えるが、そうなればなったで、さっぱりと出家し、鎌倉に、信濃に安芸にと放浪の旅に出る。放浪といっても乞食旅行ではないし、行く所で手厚くもてなされたりして、なかなか優雅なものだ。経済的にもかなり余裕があったのだろう。
諸国をひとめぐりして戻って来たとき、二条は偶然後深草に再会する。
「そういう姿をしていても、やっぱり誰か身のまわりにはいるのだろう」
と言われて、
「そんなことはございません」
などと答えているが、後深草がこの世を去るのはそれから間もなくのことだ。御所へ入ることを許されない二条は、葬送の夜、柩を追って泣きながら走り続けるが、いつか行列から取りのこされ、夜明けにやっと火葬の地に辿りついて、わずかに煙の立昇るのを見送る。最後の瞬間に彼女が後深草の淡々とした水のような愛を知るこのあたりはなかなか神妙である。多分後深草は、やんちゃな妹の、手のつけられない、いたずらっ子ぶりを苦笑するような思いで彼女をみつめていたのかもしれない。とすればこれも一つの大人の愛のありかたというぺきだろうか。
ともあれ、女流の書き手の少ないこの時代、彼女はなかなか興味のある恋愛遍歴を残してくれた。特にこれが偽らない体験報告であるという点、日本の女性もなかなかおやりになるのだという強力な証言をしているともいえそうである。
かといって、オミゴト、オミゴトと彼女こそ、性解放のヴィーナスなどとあがめ奉るのはどうだろうか。ここでもう一つの事をつけ加えておくと、彼女が恋愛遊戯に夢中になっているそのときは、蒙古が襲来したその時機なのだ。彼女はかなり長いこの作品の中で、その事には全くといっていいくらい関心をしめしていない。
一方では鎌倉幕府が、蒼くなって対策に苦慮し、九州では合戦も行われている、というその時機に、この政治オンチはどういうわけか。彼女一人を責めるわけではないが、これは当時の宮廷のおかれた位置を如実にしめしているとはいえないだろうか。当時の朝廷は政治的には殆ど無力だった。亀山上皇はこのとき「敵国隆伏」の額を書いて祈念しているが、当時の天皇及び朝廷のできることはそのくらいだったのてある。
政治的に浮上った存在は、必然的に社会に無関心になり無責任になる。それが続けばどうなるか、せいぜい関心を持つのは、セックスくらいになってしまうだろう。「とはずがたり」はそのいい見本でもある。
そして、そのことは、彼女の性のアバンチュールの大胆さ以上に、現代の我々に問題をなげかけてはいないだろうか。
 
「とはずがたり」考8 日記に見る日本人

「中務内侍日記」を読むものは、彼女が生きた時代の京都の宮廷こそ、比類なき美的洗練の場であった、という印象を得るにちがいない。ところがその同じ宮廷の生活を描いたもう一つの日記「とはずがたり」を読むと、(中務内侍といささかも矛盾することなく)その宮廷が、実は手のつけられぬほどの性的放縦と、道徳的腐敗の巣窟であったという印象を、読者は受ける。宮廷の女房によって書かれた数ある日記のうち、この「とはずがたり」ほど、読者の度胆を抜き、衝撃を与える作品は他にないのである。
この日記は、文永八年(1271)の元日の記述から始まっている。まず、藤原定家のライバルだった例の源通親の孫、そしてこの日記の作者の父でもあった大納言で歌人、久我雅忠が、後深草院に新年の屠蘇を差し上げる。院を始め列席したものすべてがすっかり酩酊した頃合に、院が雅忠に向かって言う。「この春よりはたのむ雁(「田の面の雁」。育てている娘)もわが方によ」と。この言葉の意味するところは、「伊勢物語」の言葉に掛けて、この春は、なんじの娘二条(作者)を所望するぞ、というのであった。雅忠はこの申し出に気を悪くするどころか、「ことさらかしこまりて」、院の殊のほかの知遇に感泣するのである(み吉野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる「伊勢物語」)。
二条はその年14歳(現代の算定では13)。後深草院は、二条の幼少の頃から、彼女にさまざまな芸術上の指導を与えていた。そして彼女が「女」になり、性愛の対象となる年頃が来るのを、いまかいまかと待ちかまえていたのだ。そして今やその時節が到来したというわけである。拝賀式のあと、二条が局(つぼね)へ下がると、豪華な衣裳の贈り物が届いている。歌がつけてあり、それには、今後はもっと深く慣れ親しみたいという願いがほのめかしてある。思いがけないことに困惑した二条は、その贈り物を一度返すが、別の歌と共に、また送り返されてくる。他にどうしてよいか分からぬままに、彼女も今度はそれを受け取る。しかし贈り物の裏にある意味は、彼女にはまだよく理解出来ない。そのあと、娘がその衣裳を着ているのを見た父の大納言は、「御所より(院から)賜はりたるか」と彼女にきく。そこで二条は、父の言葉の裏になにか隠された意味があるのを感じ、とっさに「いいえ、これは大伯母の准后から頂いたもの」と嘘をつく。
それから十日経ち、二条は、父の命によって御所から実家へ呼び戻される。帰ってみて驚いたことに、家中が見ちがえるほど晴れがましく飾り立てられているではないか。翌日彼女は、これは方違えのために院がここへ立ち寄られるからだ、と告げられる。しかし自分の部屋まで特別立派に飾りつけてあるのはなぜであろう?二条がそれを糺そうとすると、みなは彼女の無邪気を笑うばかりである。そして父は父で、その夜は、院が御幸になるまで眠ってはならぬ、「女房は、何事もこはごはしからず(強情を張ることなく)、人のままになるがよき事なり」と彼女をさとすのである。
しかし結局彼女は眠り込んでしまうが、目を覚ますと、院が自分のそばに添い臥せっているのに気がつく。院は、「いはけなかりし昔より思し召しそめて、十とて四つの月日(二条が十四歳になる今日まで)を待ちくらしつる」と言う。だが、彼女はただ涙で答えるばかりである。その夜院はそれ以上の無理強いをすることはなかった。しかし次の夜も彼女の部屋に現れ、とうとう彼女の「薄き衣」も「いたく綻(ほころ)んでしまう」ほどに手荒く取り扱うのである。彼女は書いている。「残る方なくなりゆくにも、世にありあけの名さへうらめし(すべてが失われてしまった今、私の存在自体が恨めしい)」。そして自分がすでにゴシップの種になっていることを思い、次の歌を詠む。
心よりほかに解けぬる下紐(したひぼ)のいかなる節(ふし)に憂き名流さん
要するに彼女は、自分が信頼していた男性に犯されたのである。しかもそれを取り持ったのが、他ならぬ自分の父であったとは!しかしそれからしばらく経って、常のようにせめて見送りせよ、と院が命じた時、院に対する彼女の憤りは、明らかに他の感情に変わっている。なぜなら彼女は書いているからだ。
(院の御姿に)いつよりも目とまる心地せしも、誰(た)がならはしにかとおぼつかなくこそ(この気持ちはいったい誰に教えられたのか、まことに不思議である)。
二条は、自分が無理矢理大人の世界に引きずり込まれたこと、それへの反発、そしてその直後に起こった微妙な感情の変化などについて、きわめて率直に書いている。そしてその率直さは、確かに賞讃されてよい。だがやはり現代の読者は、どうしてもそれに衝撃を受けるのである。凌辱という行為そのものは、二条の時代の人々には、おそらく今日の人間にとってほどショッキングではなかったかもしれない。第一、あの比類なき光源氏さえ、彼が後見していた若い紫の上に対して、まさに同じことを行ったではないか。紫の上は、初めは幻滅を味わう。「源氏物語」には次のようにある。「かかる御心おはすらむとはかけても思し寄らざりしかば、などてかう心うかりける御心をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむ、とあさましう思さる」。だがその背信に対して紫が抱いた恨みは、源氏への愛にやがて変わってくる。そして何世紀もの間、「源氏物語」の大抵の読者は、源氏のこの行為を、赦せる行為であるばかりか、やむを得ぬ行為でもあったろうと感じてきた。
日本女性が、地位の高い男性に純潔を奪われて泣き寝入りするというのは、西洋でも実際にあったことと、おそらくあまり変わりはなかったはずである。だがヨーロッパにおいては、自分の娘を自ら進んで取り持つような父親は、事実はともあれ、少なくとも小説では、常に悪者と相場が決まっていた。リチャードソンの小説「パメラ」(1740)の父親は労働者だが、自分の美しい娘パメラに、彼女が奉公している館の主人の親切には気をつけろ、感謝のしるしに純潔を捧げるようなことになっては事だから、とさとすのである。そして彼は言う。「娘よ、最悪に備えて身を固めるがよい。純潔を失うくらいなら、命を失うほうがましと心得よ」。「パメラ」は長大な小説だが、そのテーマはひとつ−主人の猛攻に直面して、いかに女主人公パメラが、自分の純潔を守り抜いたか、という一事である。
凌辱されたことで初めはショックを受けたとしても、おそらく二条なら、このパメラの抵抗は、いささか度が過ぎる、いや、滑稽とさえ考えたにちがいない。そしてその点については、過去の日本人もえらぶところがなかった。北村透谷は、「処女の純潔を論ず」というエッセーの中で、日本人が、処女の純潔への尊重心を欠いている、といって慨歎している。しかしこれは、透谷における西洋の影響が言わせたことかもしれないのである。「とはずがたり」の巻頭に起こる少女二条の凌辱事件は、野蛮と優雅、そしてあたりにたちこめる道徳的退廃の香りをないまぜにして、この作品全体の調子をすでに決めている。
二条をわがものにしたあと、院は、御所まで供をしてくれ、と彼女にせがむ。彼女は書いている。
道すがらも、今しも盗み出で(女を盗み出して)などして行かん人のやうに契り給ふも、をかしとも言ひぬべきを、つらさを添へて行く道は、涙のほかは言問ふ方もなくて、(御所に)おはしまし着きぬ。
しかし、院が二条に示す愛情は、次第に彼女の氷のようなあらがいを溶かしてゆく。そして彼女は、院からの文を、やがて待ち焦がれるようになるのである。
その翌年(1272)の8月、父雅忠が病没、二条は大いに悲しむ。死の床で、父は彼女に訓戒を垂れるが、その中には、主君、すなわち後深草院に対しては、一生決して二心なきよう、というのがある。また、もし主君の御意に背くようなことがあったならば、直ちに出家遁世し、自分の後を祈り、二親の菩提もとむらって、みなが極楽で一緒になれるよう祈るべし。そして「世に捨てられ頼りなしとて、また異君(ことぎみ)にも仕へ、もしは、いかなる人の家にも立ち寄りて(どんな人にもせよ人の家の厄介になって)、世に住むわざをせば、(私の)亡き後なりとも不孝の身(勘当の身)と思ふべし」、というのもあった。結局二条は、これらの訓戒を、本気で心に留めることはなかったようである。彼女のような情熱的な性格では、慣習的な道徳律の中に閉じこもれというほうが、土台無理であった。それに当時の貴族社会の爛熟した退廃も、二条の気まぐれな性格を、より一層助長したのである。
父の死後、毎日のように手紙で二条の安否を尋ねていた男が、ある月明かりの夜、彼女の家を訪ねて来る。そして二人は一夜を語り明かす。二人とも喪服を着ており、その夜彼らが寝所を共にしなかったのは、おそらくそのためであったにちがいない。帰り際に、男は言う。「あらぬさまなる朝帰り(床にも入らずに帰ってゆく)とや、世に聞えん」。それからしばらくして男はまたやってくる。二条は、初めは家の中には入れぬつもりであった。ところが男は、「つゆ御うしろめたき振舞あるまじきを」と誓うのである。だが作者は書いている。
長き夜すがら、(男の)とにかく言ひつづけ給ふさまは、げに唐国の虎も涙落ちぬべき程なれば、岩木ならぬ(木石ならぬ)心には、身を換へんとまでは思はざりしかども、心のほかの新枕(思いがけぬ新しい情交)は、(院の)御夢にや見ゆらんと、いと恐ろし。
二条はその新しい愛人のことを、彼との親密な交情を述べた章句の中では「雪の曙」と呼び、他の個所では、西園寺実兼という実名を用いている。この人物は、数年に亙って二条と愛人関係を続け、彼女が生んだ四人の子の一人の父親であった。この新しい愛人を得たことが、彼女の後深草院との関係を悪化させたかというと、決してそうではなかったのである。それどころか、互いに相手の不実を知りつつ、二人の関係は、さらに親密さを深めていっている。二条と実兼の関係を知った折、院は、とくに思いやりある言葉を連ねた手紙に、次の歌を添えて作者に送っている。
うば玉の夢にぞ見つる小夜衣(さよごろも)あらぬ袂(たもと)を重ねけりとは
(夢に見たぞ、お前が他の男と枕を交わしたのを)
これに対して、彼女は意味をわざとぼかした歌を返して、「われながらつれなくおぼえしかども(厚顔だと思ったけれど)、申しまぎらかし(言い紛らわし)侍りぬ」と書いている。
またある場合には、院が二条を他の男に与えるべくわざわざ計られたことさえある。おそらくこれは日記の中で、最もショッキングな挿話だと思われるが、ある夜、暗がりの中で、男(おそらく関白)が突然二条の袂を捉えて、「年月思ひそめし」などと言ってしきりにかき口説く。この時は、なんとか振りきって難を逃れたけれど、次の日の夜、二条が院の腰を打ち叩いていた時、前夜の男がまたやってきて、院がおやすみの間にぜひ会いたいと言う。彼女は書いている。
「はや立て。苦しかるまじ」と(院が)忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか(かえって)死ぬばかり悲しき。御後(おあと)にあるを(院の足許にいる私を)、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心のほかに立たれぬるに(心ならずも立ち上がったが)…
そこで二条とその男とは、院の御部屋と襖一つ隔てた次の間で情交する。
(院は)寝入り給ひたるやうにて(寝たふりをして)聞き給ひけるこそ、あさましけれ。とかく泣きさまだれゐたれども(私は正体なく泣きくずれていたけれど)、酔心地やただならざりけん‥‥
その次の夜も、同じ男が舞い戻ってくる。そして院は、男のところへ行け、と再び二条に命じる。後深草院の行為からうかがえるのは、院の心の寛さ、というよりは、女としての二条への軽蔑の情である。それにもかかわらず二条は、持ち前の率直さを発揮、巻二の終わりで、前夜自分を襲った男が帰ってゆく時の自分の気持ちを描写して、次のように書いている。
何となく名残惜しきやうに車の影の見られ侍りしこそ、こはいつよりのならはしぞと(いつからわが身についた習性かと)、わが心ながらおぼつかなく(不思議に)侍りしか。
二条のように、同時に一人以上の男を愛する能力に恵まれているような読者ならともかく、普通の読者なら誰しもこれと同じ疑問を、ここで持つはずである。
二条の心は、彼女が「有明の月」と呼ぶ僧によって、最も深く動かされたように思われる。この僧は、後深草院の異母弟に当たり、性助法親王として知られ、仁和寺に住んでいた。二条が記すところによると、建治元年(1275)のある日のこと、後白河院の命日に行われる法華経講義に院が出席していたあいだに、ある人物(彼女は名をあげていない)が御所を訪れる。そこで彼女は、「そぞろき逃ぐべき(あわてて逃げださねばならぬような)御人柄ならねば、候ふに(そのままいると)、(彼は)何となき御昔語リ」をされたという。ところがだしぬけにその男が言い出すのである。「仏も心ぎたなき勤めとやおぼしめすらんと思ふ(どんな汚れた心で私がお勤めをしているかと、仏も思っておられることでしょう)」。そう言って、やにわに彼は二条の袖を掴み、言いつのってくる。「いかなる暇とだに(機会にでも)、せめては頼めよ(頼みに思わせよ。つまり会うと約束してくれ)」。彼女は書いている。「まことに偽りならず見ゆる(本物と見える)御袖の涙もむつかしきに(厄介なところへ)、(院の)「還御」とてひしめけば、(私は袖を)引き放ち参らせぬ」。
有明は、これに続く数か月、あらゆる機会を捉えて、彼女に自分の恋心を伝えようとする。そしてある晩、御所で後深草院の病気治癒の祈祷をしたあと、彼は小部屋へ下がる二条のあとについてくる。そして次のように言うのである。「仏の御しるべ(お導き)は、暗き道(恋の闇路)に入りても(変わりますまい)」。有明は彼女を抱擁して、最後の祈祷のあとで、きっと自分のところへ来てくれと頼む。二条はそのあとのことを思い出して書いている。「(有明を)思ひ焦がるる心はなくて、後夜過ぐる程に、人間(ひとま)をうかがひて(人目を忍んで)参りたれば‥‥。」以後二人は、毎夜のように忍び逢う身となったのである。「このたびの御修法は、心清からぬ御祈誓、仏の御心中もはづかしき(仏の御心中を思い、私も大変恥ずかしかった)」と、さすがの二条も書いている。
ある時期に、二条は、有明との縁を切ろうと決心する。そして口実をもうけて逢い引きを断る。だが叔父の大納言隆顕(たかあき)から手紙がきて、有明にもっとやさしくしてやってくれと頼まれる。「しかるべき御契りにてこそ(前世からの縁あってこそ)、(有明は)かくまでもおぼしめし染み候ひけめに、(あなたが)情なく申され(応対され)」私までが辛く思っています、という主旨である。その上、有明からの文も同封してあり、それには、
夜はよもすがら(あなたの)面影を恋ひて涙に袖を濡らし、本尊に向ひ持経(ぢきやう)を披く折々も、まづ(あなたの)言の葉を偲び、護摩の壇の上には(あなたの)文を置きて持経とし、御灯明(あかし)の光にはまづこれ(あなたの文)を披きて心を養ふ。
とある。有明も、禁慾の誓いを破った罪に対する報いとして、来世自分が、地獄、餓鬼、畜生の三悪道(さんまくどう)に堕(お)とされることを予見している。だがこの恋を捨てるには、彼はあまりにも力弱かったのである。
ある日、後深草院が有明を御所に呼び出したことがあった。その時有明は、院がまだ還御にならぬ機会を捉えて、ここぞとばかりに二条への愛を彼女にかき口説く。二条は書いている。
何と申すべき言の葉もなければ、ただうち聞きゐたるに、程なく(院が)還御なりけるも知らず、同じさまなる口説きごと、御障子のあなたにも(向うにおられる院にも)聞えけるにや、(院が)しばし立ち止り給ひけるも、いかでか知らん。
有明の愛の告白を立ち聞きした院は、不快どころか、二条に向かって、もっと有明にやさしくして、その妄執を晴らしてやるがよい、と言うのである。そこで「(それにつけても)いかでかわびしからざらん」と、二条は歎いている。現代の読者なら、二条のこの気持ちは、まことによく分かるのである。いずれにしても二条は、院の願いに従ったのである。結局彼女は、有明の子を二人生んでいる。
二条の性的放縦は、必ずしも彼女の責任とはいえないようである。例えば、ある夜酒宴が終わったあと、彼女は無理矢理、後深草院と、その弟君亀山新院との間に寝かされている。そして間もなく彼女は、亀山新院によって屏風のかげに引きずり込まれ、不本意ながら院の愛人にならされる。そして次の夜も全く同じことが起こったという。
二条は書いている。「今更憂き世のならひも思ひ知られ侍る」と。
「とはずがたり」巻四の冒頭で読者は、尼になった二条が、初めての巡礼の旅に出るため、都を離れようとしていることを、突然知らされる。どのような事情でこうした行動を取るに至ったのか、彼女は何ら説明を与えていない。過去何度も出家については考えたことがあったのだが、憂き世との絆が、それを許さなかったのだ。出家するに当たって彼女が真剣であったこと、これを疑う余地はなさそうである。だが尼僧の衣を身に着けたあとも、彼女の人柄は、それほど変わったとはいえない。心はまだ過ぎ去ったこと、とくに御所での生活、折々の後深草院の情けなどを、絶えず思い出し、恋しがっている。そこで、そうした思い出を、己の心中にだけしまっておくことがどうしても出来ず、彼女が「いたづら事」と名付けたものを、こうして書き続けておいたのである。明らかに二条は、わが身に起こった事どもを書きつけておくならば、己の人生が無為に過ごされたという感情から、なんとか解放されるのではないか、と期待したのだ。自分の書き物が、長く後世に残るとは考えていない、と彼女は言っている。そしてこの予想は、ほとんど的中していた。ただの一部しかなかった原本は、長い間埋もれ、1940年になって、ようやく発見されたからである。
「とはずがたり」を書く二条の直接の動機は、尼僧となって各地を巡礼、その記録を綴りたい、というのであったかもしれない。だが、実際にそうした巡礼の記録が書かれているのは、日記五巻のうち、最後の二巻の中のみである。初めの三巻は、いわば公の告白記を綴るつもりで書かれたのかとも推測される。とはいえ、自分が犯したいかなる罪も、彼女は悔いているようには見えない。あるとき亡き父が二条の夢枕に立ち、家門に流れる歌の伝燈の火を灯(とも)し続けるように、という歌を詠んで彼女をはげましたという。彼女はあるいはその夢に動かされたのかもしれない。二条の意図は明らかに文学的である。そして昔物語を読んだことが、彼女に影響していることには、疑いの余地がない。遠い記憶、近い記憶を辿りつつ、単に起こった事実のみを記録するだけでは、到底満足出来なかったことであろう。この日記には、勝手に頭の中で作り上げた解釈、あるいは完全な虚構さえたっぷり入っているが、それでもなお日記の大部分は、見まごうことのない真実味を湛えている。
巻末近く、意味深長な逸話が述べられている。後深草院が重い病に患ったことを聞き、二条は北野と平野の両神社に詣でて祈願する。「(院の御命を)わが命に転じ代へ給ヘ」と。しかしこの時、もしその願いが成就して、自分が白露のごとく消えてしまったなら、そのことは院にも知られず、自分が院の代わりに死ぬことになるのだ、ということにも彼女は気がついている。これもまた悲しい。
君故にわれ先立たばおのづから夢には見えよ跡の白露
彼女に対して必ずしも常に親切とはいえなかった一人の男の代わりに、自分が死んでもよいというのである。しかしこの二条の折角の心の寛さも、いかにも自分が心寛き人間だったことを世に認めさせたいという、彼女の欲望が見え透いていて、いささか点が下がるのである。なるほどこれは、どこの国ても通じる普遍的な感情であろう。だが大抵の作家なら−告白的作家ですら−自分の名誉に益することまことに少ないこのような観念を筆にすることは、必ず控えたにちがいない。
二条はこの日記を書くに当たって、何等の隠し立てをしていないように思われる。従って読者は、宮廷生活に関する彼女の記述、とくに上皇を始め、関白、高位にある殿上人、僧侶など、すべてが手を貸した淫蕩な恋のたくらみの記述を、真実として文句なしに受け入れがちである。しかしこのいわば道徳的な放縦を、その時代の風潮に帰してしまっては、事をあまりに単純化してしまうおそれがある。同じようなことは、現代に至るまでのヨーロッパ諸国の宮廷に関しても、確かに書くことが出来たはずである。二条の時代にも厳存した日本の宮廷の最も顕著な特徴は、「とはずがたリ」の中の、読者が一読したあと忘れてしまうような個所に、はっきり述べられている。それはすなわち宮廷人士を「源氏物語」の中の人物にそれぞれ見立てて遊ぶ優雅な催し、和歌のやり取り、管絃の遊び、そして日常生活の最も些細な面にまでおよぶ美の崇拝である。これこそまさに中務内侍が自ら選んで書いた世界であった。いずれの女性も、己が生きた時代の歴史家としては、いささか一面的で、全面的に信を置くことが出来ないかもしれない。だがそのどちらも、その名に値するあらゆる日記作者同様、なによりも作者自身の忘れがたい肖像を、私たちに描いてくれているのである。
 
「とはずがたり」考9 日本古典に見る性と愛

 

政権が完全に鎌倉に移り、安定した北条氏の治世の続いていた頃、京都の宮廷社会は王朝の文化伝統を保持しながら、空洞化していた。彼等は現実のなかで実現すべき、何らの未来像をも持たず、武士階級に対する優越性を保証している貴族文化のなかで、実現可能な唯一の観念である「好色」だけが、極限にまで展開されることになる。
その一例は、十三世紀半ばの蒙古襲来の頃、宮廷に仕えていた一女性の回想録である。「とはずがたり」という、優雅な表題を持つこの回想録は、登場人物も、彼女自身が「たのむの雁」であり、恋人が「雪の曙」だったり「有明の阿闍梨」だったりと呼ばれて、全体が事実の記録というより、「源氏物語」的な生活の再現となっている。ただし人物たちの実名やその経歴は、今日では専門家によって正確に推定が行われているので、この回想録は事実に還元して読むことが容易である。
ここに展開されているのは、好色というものが、ほとんど唯一の目的となった人生であり、すべての人物が愛欲のために生きている。院は少年時代に自分の童貞を与えた女性が忘れられず、その女が結婚して生んだ幼女(この回想録の筆者)を引きとり、やがてその女の成長を待って、恋人とする。それは「源氏物語」の紫の上の挿話の再現と言える。その幼女に対する欲望は、伝統的古典の世界に自ら没入することで、獣欲から美的なものに転化されるのである。
院はやがて、その女を恋人であると同時に、自らの夜毎の恋の仲介役兼立会人にさせる。更には自分の弟の僧侶の恋人ともさせ、その後も政界の実力者に後見役を命じたり、─この時代の後見役というのは、性的関係を伴う保護者である─また別の弟であると同時に、宮廷内の反対派でもある新院とも、その女性を同床内で共有して、快楽の領域を限りなく押し拡げて行く。
ここに見られるのは、恐らく日本文学のなかで空前絶後の、性的関係の奔放さであり、性的感覚の探究の深化であり、またその領域の拡大の冒険である。しかもこの回想録の人物たちは、そうした性的自由を、冷たいシニカルな放蕩者の精神態度で行っているのではなく、過度とも言える官能の遊びのなかに、同時に過度とも言える感情の戯れを混えている。
回想録の筆者自身、少女としてのごく早い時期に院と関係を生じたあとで、幼なじみの男性と、可憐な初恋を経験し、彼との性的交渉のなかに、二度目の処女喪失の喜びを味わっている。
またこうした性的饗宴の組織者である院は、極めて意識的な性哲学の完成者であり、彼はそのフリー・セックスなり、スワッピングなり、乱交パーティーなりを、堂々と人間の本来的に持つ可能性の実現であるとして、自覚的に実験をどこまでも推し進めて行く。
それは単に肉欲の満足のための行為の繰り返しという、カサノヴァ的な日常性の遊戯ではなく、性の領域の肉体的であると同時に精神的なあらゆる辺境への、哲学的な開拓という、サド侯爵風の試みなのである。
彼は従って、どのような度外れな交渉をも、変態であるとは認めない。また人間の本能の実現を規制しようとする、どのような宗教的、あるいは社会的な枠、たとえば獣姦への罪の意識とか、一夫一婦制的道徳とか、そういうものを、一切、否定している。
これがかつて平安朝においては、平衡感覚によって支えられていた、好色という紳士的生き方の、その究極的な到達点であった。かつての支配階級が、生活上の平衡を支える一方の柱である政治というものを失った代償として、もう一方の柱の性だけが無限に拡大して行ったわけである。
しかし、この院の哲学や、またこの回想録の筆者であった女性の、想像を絶する奔放な性生活は、当時の宮廷礼会における例外ではない。それは、その社会全体を風俗として覆っていた。
そして、より素朴で剛健な性道徳の支配する、新しい権力者である武士階級も、京都の文化保待者である旧貴族社会の、この性のモラルを、すぐれた伝統的美学として承認し、憧れてさえいた。
だからこの回想録の筆者も、その性生活の無拘束を何ら非難されることもなく、充分の敬意をもって、北条政府の礼法の指導者として、鎌倉へ迎えられている。礼法のなかには、恋の作法も入っていたことは、勿論である。
 
「とはずがたり」考10 中世の愛と性・王朝の残照

 

将門の乱など小波瀾はあったが、まずは平穏無事に過ぎた四世紀におよぶ平安貴族社会であった。しかし源平の闘争の果てに鎌倉に武家政権が登場し(1192)、政治・経済・文化の主役が交代することになった。それからまたやく四世紀、内憂外患の動乱期を迎えたにもかかわらず、棚上げされた貴族社会は、台風の眼のような静謐の中で、愛欲に関しては信じられないくらい王朝末期的退廃を温存している。その事実を確認するためにも、台風の眼の外の激動の諸相を瞥見しておこう。
十二世紀末に成立した源頼朝の鎌倉幕府は、三代将軍実朝が暗殺されて後、北条氏が執権となったが、執権時宗の文永十一年(1274)と弘安四年(1281)の再度にわたる元・高麗連合艦隊の来襲を撃退した。その蒙古来襲の外患につぐ半世紀後の内憂は、鎌倉幕府を倒して天皇親政を復活した後醍醐天皇の建武中興(1336)であったが、同年足利尊氏の叛によって、後醍醐天皇は神器を奉じて吉野に入り、その後1392年に後亀山天皇が帰京するまでの57年間、吉野の南朝と足利氏が擁立した京都の北朝が対立した南北朝時代に突入した。蒙古来襲の外患につぐ内憂の最たる時代、「太平記」の世界である。
1392年、南北朝は合一し、三代足利将軍義満によって、事実上の室町時代に入った。しかし東山に銀閣寺を建て、能・茶の湯・活花・連歌・造庭などを開花せしめて文化史上の東山時代を演出した、八代義政の跡目相続に瑞を発する応仁の大乱(1467-77)の延長線上に、16世紀末の信長・秀吉・家康の戦国時代を迎えている。まさに疾風怒濤の中世であった。
もちろん泰平から戦乱へと世の中が変っただけではない。それにつれて後に述べるように結婚の様式も百八十度も様変りしているのに、台風圏外の京都の貴族社会では動ずることなく、王朝以来のスワッピングを続行している。そのもてあそばれた上流貴族女性の一人が、あまりのことに聞かれもしないのに、性の深淵をのぞいたみずからの半生を書き綴った自照の文学を、題して「とはずがたり」という。
筆者は文永・弘安の再度の蒙古来襲の時に当たる鎌倉中期の帝王・後深草院(1246年即位)に仕えた二条という高位の女房名の女性である。彼女は名流の村上源氏の家に生まれた。二条が2歳の時に亡くなった母は、藤原氏四条家の出で、後深草院の乳母であっただけでなく、幼い天皇に男女の営みを教えた女性であった。院はその娘の二条を4歳の年から御所に引取って育て、14歳の春を迎えた正月に、否応なく愛人にしてしまった。その夜院は、「そなたの幼なかったころからいとしいと思い続けて、この夜を待っていたのだよ」と、幼い紫の上の成長を待って正妻にした光源氏気取りであった。二条は名門に生まれた誇りと美貌と歌才に自負するところがあったのだが、紫の上のようには扱われず、帝のセックスの相手もつとめる女房に週ぎなかった。
実は二条が後深草院の手活(ていけ)の花になる以前から彼女に懸想(けそう)し、贈り物などしていた縁続きの貴公子、院の側近でもある西園寺実兼(雪の曙と仮名)がいた。二条が院に召された翌年の秋、父が死んだので四条大宮の乳母の家に宿さがりしていると、「雪の曙」が訪れて契りを結ぴ、翌年の9月に「雪の曙」の女子を出産したが、院には死産と報告してすました。
同じ年の12月、伊勢神宮に奉仕していた未婚の前斎宮(さきのさいぐう)が院を訪れた。20歳すぎの斎宮はすっかり成熟して満開の桜のように美しかったので、性的グルメ志向の院はさぞかし思い悩んでおられるだろうと、二条が気の毒に思っていると、夜更けて部屋に戻ってこられた院は思ったとおり、「幼い時から仕えてきたしるしに、あの方を取り持ってくれたら、本当にわしのことを信頼しているのだと思うぞ」とおっしゃるので、二条はさっそく斎宮に渡りをつけて院を導いた。翌朝院は「桜の色つやは美しいが、枝がもろくて手析(たお)りやすい花であった」と、まるで食通の試食感のようにデートの感想を二条に話すのだから、一天万乗(ばんじょう)の君はまことにあっけらかんとしたものである。その二条は院と「雪の曙」(西園寺)との三角関係にあったのみならず、院の後見役や兄弟とも院の勧めでベッドインするのだから、院直属の遊女同様であった。
20歳の二条は、その秋8月、伏見の御所での院の宴会の夜、30歳も年上の院の後見役にあたる近衛の大殿こと鷹司兼平(かねひら)に、強引に抱かれた。院の腰を打っている二条を大殿が呼ぴに来て、手を取って引き立てると、院は「早く立て、さしつかえあるまい」とささやき、障子の向こう側で大殿が二条をもてあそぶ様子を、寝たふりをして聞いていたのだから二条が驚きあきれたのも無理はない。
さらにまた24歳の1月、御祈祷のために御所を訪れた院の異母弟の法親王の阿闍梨(有明の月と仮名)が、院の留守の間に二条を涙ながらにかき口説いているのを、戻ってきた院は立ち聞きする。二条が口説かれたことを告白すると、院は「お相手をして一念の妄執を晴らしてあげるがよい」と同衾を勧める。そして修法の最後の夜、すすめられるままに阿闍梨と契り、同じ年の11月に阿闍梨の男子を生んだが、院の計らいで世間には死産と披露した。その「有明の月」も同月下句にあっけなく病死した。その年、弘安四年の6月、二度目の元・高麗の連合艦隊が北九州に来襲したのだが、その大事件を知るや知らずや、まったく彼女の筆は及んでいない。
さてその阿闍梨の子を生んだのは11月。その前月の臨月も間近な二条は、これまた院の差金によって、院の同母弟の亀山新院に抱かれた。同月、嵯峨の離宮に兄弟の院が会した夜、彼女も召されて宴席に侍った。かねてから二条に目を付けていた新院は、「この人を二人の側に寝かせてください」と、しきりに兄院に頼む。後深草院が「二条はただ今身重な身の上ですから、身軽になりましたら仰せのとおりに致しましょう」と辞退されると新院はなお食い下がり、「わたくし方の女房は、どれにても兄上のお気に召しました者をお好きになされませ、とお約束いたしましたのに、その誓いも甲斐なくなります」と引き下がらない。兄院はやむなく「おそばにいなさい」と二条に言い付け、酔ったふりして寝込んでしまった。すると新院は屏風のうしろに二条を連れ込んでもてあそぴ、次の夜もまた添い臥しさせられたのを、「のがるるすべなき宮仕え」と、二条は今さら憂世のならいを思い知るのであった。
その翌25歳の初夏のころ、亀山院との浮名が噂にのぼり、彼女はまもなく御所を追放され、二条町の祖父の家に退下させられた。そうして彼女は30歳を過ぎてまもなく出家し、浮世の風に当たるとともにたくましい動乱期の女性に変身する。鎌倉を目ざして海道をくだり、しばらく将軍の都に滞在してから武蔵野を訪れて浅草の観音堂で月を賞し、信濃の善光寺に詣でている。帰京してからは大和の春日神社をはじめ法隆寺、当麻寺などの古寺を順礼している。その後も彼女の順礼修行の足跡は、厳島から四国・中国路に及んでいる。49歳の秋7月、後深草院の三回忌法会に参会した叙述でこの自分史は終り、これでもう愚痴をこぼす相手もいなくなったと締めくくり、その後の二条の消息は杳としてわからない。だが彼女が私淑したという西行もどきの大旅行を、宮女上がりの身でやってのけたたくましい二条のことだから、後深草院、亀山院、近衛の大殿、有明の月など、自分をもてあそんだ男どもはすぺてあの世に送り込んで今や光風霽月(せいげつ)、さわやかに長生きしたことであろう。
 
「とはずがたり」考11 日記紀行文学の諸相

 

「とはずがたり」の作者は中院大納言源雅忠の女で通称後深草院二条、作品成立は作者49歳以後間もなくの徳冶元年(1306)頃と考えられる。この作品は作者が14歳の正月、後深草院に迫られて止むを得ず後宮に入るところから始まる。
と言っても、二条は4歳の頃より院に引き取られて養育され、14歳に達したら後宮入りすることが、すでに院と父雅忠との間で約束されていた。というのは、二条の母大納言典侍(四条隆親の女)は、院に新枕のことを教えた女性で、その後雅忠の室となって二条を生むが翌年亡くなってしまったために、初めての女性を忘れられない院は、二条をいわば形代として幼少の頃から自分の手許に置いたのである。
本作品は、このような前世からの因縁ともいうべき後深草院との関係を軸として前半の一−三巻までは宮廷編、後半の四−五巻は紀行編という体裁をとっている。前半では、後深草院の寵愛を受けながら、一方ですでに恋愛中であった初恋の人「雪の曙」(西園寺実兼)とも交渉を持っていた。作者二条は院とこの恋人との同時進行の関係を続ける。
二条は院の子を身籠もるが父親とは死別し、その悲しみの中で皇子を出産する。その後作者は院の精進の間に「雪の曙」の子を妊娠、院の子ということにして出産し、院には流産と報告して生まれた女子は「雪の曙」がその場から連れ去ってしまう。また院との間に生まれた皇子もこの年夭折する。
そうするうちに今度は院の病気の祈祷のため御所に来ていた「有明の月」と呼ばれる院の弟性助(しょうじょ)法親王が現われ、はげしく燃えあがる思いを告げられて夜ごとに契りを結ぷに至る。二条は法親王に口説かれているのを院に見られてしまうが、二条の率直な告白と「有明」の真剣な気持ちに動かされた院はふたりを許す。こうして二条は「有明」の子をふたりまでも生むが、「有明」は流行病にかかってあっけなく他界した。
この間身重の二条は院の弟の亀山院と同席する機会があったが、亀山院は泥酔している兄院の目を盗んで屏風の陰で二条と契りを結んだようである。これはさすがに院の不興を買い、またかねがね二条を快く思っていなかった院の正妃東二条院の激しい嫉妬も重なって、ついに御所を追われることとなる。二条、27歳の時であった。
このような複数の男性との関係を続ける生活が赤裸々に描かれる前編は、しばしば「愛欲編」ともよばれ、文学史上特異な作品だとされる。しかし、この作品の真の特色は作者の大胆奔放な愛欲生活そのものにあるのではない。当然のことながら、その表現のありかたが問われねばならない。試みに特異な表現の例を挙げてみよう。それにはやはり、「雪の曙」との間の子を院に隠れて出産する場面を取り上げるべきであろう。
余り堪えがたくや、起き上がるに、「いでや、腰とかやを抱くなるに、さやうの事がなきゆへに、とゞこほるか。いかに抱くべき事ぞ」とて、かき起こさるゝ袖に取りつきて、事なく生まれ給ぬ。
従来の日記では出産のことは「とかうものしつ」(「蜻蛉日記」)などといった朧化した表現でしか語られなかったことを考えると、それだけでも特筆に値する。わずかに「源氏物語」「葵」巻に「かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ」という場面が描かれているが、これと比べてみても「とはずがたり」の場面の方がずっとリアルで臨場感にあふれている。
「いかに抱くべき事ぞ」という初めての事態に戸惑う男の言葉や、やりかたがわからないままに抱き起こす男の動作、そしてその「袖に取りつきて」出産する作者の姿は、いずれも彼らの肉声や行動がそのまま伝わってくるような生々しい映像を喚起する。
「源氏物語」の場面を意識していることも考えられないではないが、そこでは「かき起こされたまひて」と受身の助動詞が用いられているように、葵上の場合は出産する女のいわば一幅の絵もしくは光景として描かれる。これに対して「とはずがたり」では男も女もそれぞれに行動する人間たちであり、それらの会話と動作は読者の聴覚と視覚にそのまま訴える表現となっている。
さらに男は間を置かず、重湯を持って来させ、女はいったいいつの間にこんなことを覚えたのかと感動しつつ、生まれたばかりの我が子を一目見たかと思うと、次に男はすばやく枕元にあった小刀で臍の緒を切り、赤ん坊をかき抱いて「人にも言はず、外へ出給ぬと見しよりほか、又二度その面影見ざりしこそ」というすばやさで去って行ってしまう。
こうした一連の場面の展開にはスピード感があふれている。秘密裏に出産しなければならないという特殊な状況の中での出来事だという点を差し引いてもなお、ここには映画のシーンのように鮮明に人物たちが動いている。
これに対して二条の感情を示す表現は出産直後の「あなうれし」、その子がいったいどこへ連れ去られるのかと思うと「悲し」く、院に対してはこの早朝流産したと奏上するのだと聞いて「いと恐ろし」という言葉しか書かれていない。ごく単純な「うれし」「悲し」「恐ろし」といった表現に終始するのである。
これを表現力のなさに帰するのは、見当違いというものであろう。これらの単純な言葉はむしろ、異常事態の中で内省するゆとりなど持てなかった二条の精神状態を浮かび上がらせる。そして次から次へと行動していかねばならない緊迫した空気が伝わってくるのである。いわば、複雑な感情や入り組んだ思いといったものを吹き飛ばしてしまう迫力をこの場面は持っており、そこに会話や現実的な行為といった身体性が発露し強調されるという仕組みが見えてくる。
このような身体性を描くことは、自分自身が体験しながら、どこか別の地点で自分を見ているような眼で、行為そのものを形象化するという次元の表現なのだと思われる。最初に述べた「自照」に関連させていうと、平安時代の女流日記は自己の内面を見つめ内省する傾向が強いが、中世の13、14世紀の作品は自己の行為、行動が語られ、その身体性が前面におしだされた形で描かれるという特色がある。
それは個人の感情を切り裂いてしまうような歴史の変化や異常事態に出会った「我」が、それゆえにこそ「我」に固執してその「我」の位置とその存在意義を確かめるかのように刻みつけたものだと考えられる。それは必然的に外側から描く形をとらざるを得ず、だからこそ「我」を強調し「我」で始まる文章が生まれたのではなかったか。
 
「とはずがたり」考12 頽廃の魅力

 

さても、広く尋ね、深く学するにつきては、男女の事こそ罪なき事に侍れ。逃れざらん契りぞ、力なき事なり。されば昔もためし多く侍(はべり)。(中略)この思ひに堪へずして、青き鬼ともなり、望夫石といふ石も恋ゆゑなれる姿なり。もしは畜類、獣(けだもの)に契るも、みな前業の果たす所なり。人ばしすべきにあらず。
後深草院の哲学である。男女の事は罪悪とは関係のない事で、獣姦でさえ辞すに能わない。何故なら、性に関する事は、総て宿命の致す所で人間の意志によっては如何ともし難いからである。「力なき事なり」「人ばしすべきにあらず」と人力の及ばない事が繰り返され、この文脈の中でとらえられると、異類婚姻譚も新たな光を帯びる事になる。
この日記も巻三に至ると、作者の筆はかなりの振幅をみせ物語性が拡がる。フィクション側で真実を求めはじめているのである。この巻冒頭からこの日記独自の世界へ突入する。院は二条と有明との会話を聞いてしまい二条が二人の関係を告白するに至るのである。「例の人よりは早き御心なれば」とあり、この種の事に関して院は勘が鋭いのである。拒否されると思いきや院は二人の関係を慫慂する。
遊義門院の為の如法愛染王法最後の日の院の夢もフロイトを地で行くかのように、有明が五鈷を二条に与えると、二条はそれを院に隠して懐に入れたとする。よく知り合った仲なのにどうして隠すのか聞く院に、涙ながらに見せたのが後嵯峨院の遺品の銀製の品であったので院が貰い受けたという。有明の子を身籠った事を意味し、「源氏物語」の薫のように、生まれる子を院が引き取る事を引歌にて隠喩するのである。
院は二条と有明の密会の手引をする一方、逢引きの床から脱け出して来た二条に向い、嫉妬や皮肉をちらつかせる。窃視性にしてサディズムなのである。二条は院にも有明にも引かれており、自分の心の矛盾に苦しんでいる。人間の本性から言って、確かに二つに引き裂かれる心の矛盾は苦悩なのであるが、やがては人は慣いによって苦悩を欲するようになるのであろう。巻三が最も高揚を見せるのも二条の肉体がこの時最も張りつめているからであって、デカダンス期の宿命観や快楽至上主義から言えば、この苦悩は容易に倒錯した快楽に転ずるものなのである。
有明を写す中でも最後の逢瀬の描写は美しい。二晩の愛の状況が告げられる訳であるが、長い愛に耐えて前の晩は一睡もせず、翌日仮眠した時には有明は鴛鷲になって二条の胎内に入った夢を見る。巻四・五には有明の追憶がないのも、あの有明の恐ろしい程の肉欲が後深草院に転化したからであり、その苦悩の度に於いて院にまさるものはなかったのである。
巻四、二条34歳の2月頃、八幡で院に避遁、一夜語り明かす。この時私は僧体の男女の交情を想定するが、この説には実証面からの岩佐美代子氏の支援がある(「女流日記文学講座」第五巻・勉誠社)。二年程後の9月伏見殿を訪ね、同じく一夜語り明かし、この後、院から生活上の慰問がある。元気な院と会うのもこれが日記の上では最後である。
巻五でも夢を除けば二度院との出会いがある。二条47歳、実兼の取りなしで「夢のやうに」危篤の院を見る。二度目はその二日後、今度は実像ではなく、葬送の車を裸足で追い、火葬の煙を見るのである。
「とはずがたり」を読む時、事実が、事実以外の何者でもなく岩膚のような姿を現す。その意味では宮廷篇も修行篇も同じである。後深草院との出会い、父の死、扇に油壺の夢、出産……これらを情緒的に見ては居るのだが、筆は飽くまで乾いた微細なリアリズムであり、鎌倉期の絵画・仏像のリアリズムと通ずるものである。
(父は)ちと眠りて、左の方へ傾くやうに見ゆるを、猶よくおどろかして、念仏申させたてまつらんと(私は)思て、膝をはたらかしたるに、(父は)きとおどろきて、目を見開くるに、(互いに)あやまたず見合はせたれば、(父)「何とならんずらむは」と言ひも果てず、(中略)年五十にて隠れ給ぬ。
父の死に際であるが、極めて即物的に微細に描かれ、それが印象的な効果を出している。この表現方法は全巻を通していると見てよい。
父の死の描写と似たものとして二条の那智での院の夢がある。父の霊は、院の姿が右に傾いて居るのを次のように説明する。
あの御片端は、いませおはしましたる下に、御腫れ物あり。この腫れ物といふは、我らがやうなる無智の衆生を、多く尻へ持たせ給て、これをあはれみ、はぐゝみおばしめすゆゑなり。またくわが御誤りなし。
父の場合は左の方であったが、院の場合は右である。この片向く姿は仏の端正な姿と比べると如何にもいびつで「とはずがたり」のイメージに相応しいが、院と父は重なり合う性質のものだったのである。
風俗的にも刺戟的で残酷なものを好む時代相である。僧に魚の頭を料理させて喜んだり、女房に男装の蹴鞠装束をつけさせたり、僧体の男女の愛欲図等、通常のものに飽き足らなくなっている。下世話な欲の描写にも長けているのであって、醍醐勝倶胝院で曙から物をもらう尼の描写や、四条傅傅(めのと)の家での乳母の下品さを写す部分等精彩に富んでいる。又、光源氏・藤壺・紫上の関係に、院・母・二条を準えているが、「源氏物語」の中には、親子に渉っての肉体関係は存在しないし、まして、僧体の男女の交情などはない。
「源氏物語」には細部にまで神経が行き渉った独自で確かな人間造型があるが、「とはずがたり」は日記を基にしているだけに体験がそのまま全体の脈絡の中に放置されグロテスクな姿を曝しており二条の感性に於いて統一されているのである。二条の酒好きは日記に記す所であり、逞しく、そして古い言葉で言えばアプレでニヒルである。
一つの作品を一つの方法で割り切る事は困難であってこの作品には、自己の情念を追求したいという、主題に密着した方法と、ルポルタージュ性ともいうべき体験性とがあって、両者は分離できるとともに入り交っても居る。鎌倉で将軍惟康親王が廃される様や、江田・和知の兄弟が作者のことで争う件などは、両者ともに記事の地理上の最端に近く、ルポルタージュ文学以外の心理によって記されているとは考えられない。二つの最端の地を繋ぐ人物として広沢与三入道なる人物が現れるが、それとて偶然で、両地でのかなり荒々しい体験談を記す事に目的があったのであろう。
巻四と巻五は東と西という形でシンメトリカルにできており、そのうえ共に後深草院の記事で結ばれる。当時、川口や厳島まで行く事は大変な大旅行であり、二条としては是非記して置きたかったに違いない。この修行篇は、巻一の西行追慕に繋がるが、最終的にはそれらは置き去りにされ、主題としては院への愛という事で終結する。
巻四と五はシンメトリカルであるといえども、明らかに、巻五の方が宮廷関係の記事は多い。肉体的なレベルで様々な事象を感受する二条ではあったが、一筋主題を通す時、自分の生は院以外の何者でもない事を納得するのである。その愛のあり方を示す言葉が前半巻二の「ささがにの女」の挿話の中に現れている。院を中心とした三角関係の苦悩が作者の描きたがった対象であり、その不幸がまた二条を救う。「憂きは嬉しかりけむ」と言う主張の中にこの書の主題は存するのである。
最後に一言。「古筆学大成」に伝九条兼実筆という「とはずがたり切」が紹介されている。写真で見る限り、南北朝期の筆と推定される雄勁な一葉で、隆遍僧正が鯉の頭を割るくだりである。「頭をばえ割り待らじと申されしを」が「頭をば割らでいだすをなにかはせむ」となっている。江戸初期までにこれほどの相違をきたす、文献学の好例である。

さても、広く尋ね、深く蔵(かく)するにつきては、男女の事こそ、罪なき事に侍(はべ)れ。
後深草院二条(1258-?)鎌倉中期の日記文学作者。中院源雅忠の女。4歳から後深草院御所に育ち、のち院の女房となる。西行に憧れ、1288年出家して諸国を遍歴。晩年、「とはずがたり」を書き、自分の経験した愛欲生活をつぶさに描く。
昭和十五年(1940)、宮内庁書陵部に眠っていた「とはずがたり」が世に紹介された時、まず学者たちを驚かしたのは、そこに表れた当時の貴族たちの愛欲生活の生々しさであった。
この手記の作者は後深草院二条。名門村上源氏の出身である彼女は、母・大納言典侍を2歳にして失った。この母は後深草院に初めて男女の道を知らしめた女性であり、従って院は大納言典侍を慕い、その忘れ形見の二条を4歳の時から宮中で育て、二条は14歳で院の寵を受ける身となる。
これはいわぱ、光源氏が紫上を幼いころより育て、後に妻とするのとよく似ている。「とはずがたり」には、至るところに「源氏物語」を模した場面が見られるが、「源氏物語」とは世界が違うと思う。それはひとことで言えぱ、「とはずがたり」における道徳意識の欠如である。
もとより「源氏物語」においても男女の交わりは自由であり、犯してはならない人を犯す場面も多い。しかし登場人物たちはみなその罪の意識に悩み、それ故(ゆえ)、死に至る人さえいる。「とはずがたり」の世界には、そういう苦悩煩悶(はんもん)というものがほとんどない。
作者・二条もいささかだらしがない。院の寵愛を受けながら西園寺実兼らしい「雪の曙」なる恋人の子を産み、さらに後深草院の実弟の仁和寺の阿闍梨(あじゃり)性助法親王らしい「有明の月」の子を二度にわたって産むのである。
しかしもっと奇妙なのは、後深草院の方である。彼は多くの女漁りの後に、二条その人を他の人と関係させてそれを覗き見したり、また実弟・亀山院との共寝に彼女を誘うのである。
このマルキ・ド・サドの世界のような院の所業の背後にあったのは、実は立川流(たちかわりゅう)の真言密教の思想であった。冒頭の言葉は、巻三「真言の御談義」が果てての宴の席で、院が言った言葉である。
真言密教の教えによれば、男女の愛には罪がない。むしろ男女の性の交わりこそ、最も端的な「即身成仏」であると言うのであろう。後深草院は性助法親王と二条を前にしてこの言葉を語った。二人の罪を許そうとしてであろうが、それ以上にこの言葉は日頃の院の信念を述べたものに違いない。
「とはずがたり」の後半は、宮中を追われた二条が「女西行」となって諸国を遍歴するという話であるが、この物語の中心は、後年、図らずも「石清水八幡宮」で二条が院と出会い、一夜、伏見御所で彼女のその後の身の上について院に語るところにあろう。
その時、院は二条に「この旅の間、あなたは色々男と関係したであろう」と問うたのに対し、二条は「機会はありましたけれど、宮中を出てからは一度たりとも男性と接したことはございません」ときっぱりと答えるのである。
私はこの二条の言葉を、院の奉ずる真言立川流の哲学の否定とみる。彼女は「源氏物語」の浮舟の如く、世を捨て、清浄の身となっている。もはや、男たちのかわいい性の玩具(がんぐ)ではない。彼女は、自分を、その好色哲学の実験の道具とした恋しい男にひとこと言いたかったのである。
伏見の一夜を持つことによって彼女は救われた、と私は思う。
 
「とはずがたり」考13 作品解説3

 

時代
「とはずがたり」は、作者久我雅忠女の、文永八年(1271)、14歳から嘉元四年(1306)49歳まで、30数年間の自伝的日記文学である。作品の背景をなす時代は、ほぼ鎌倉の中期から末期にわたる。後鳥羽院の計画した承久の乱(1221)で公家側が敗北したのち、政治の実権は大きく武家の側に移っていたものの、京都の貴族政権は依然、朝廷としてのいちおうの形態と、伝統文化の継承者としての位置を確保していた。一方幕府もまだ朝廷の権威を完全に無視することはできず、公武の二重政権は、一種の微妙なバランスを保っていた時期である。
作者の父久我雅忠の仕えた後嵯峨院は、承久の乱に関与しなかったといわれる土御門(つちみかど)院の皇子であり、過激派と目された順徳院の皇子をしりぞけて幕府の擁立するところとなった。同院の一代は温和な院の性格もあって、朝幕の間も宮廷の内外も、比較的平穏に過ぎたが、生前にその皇位継承についての意見を明示せぬまま没したため、同院の没後、その遺志をめぐって、作者の後宮として仕えた同院の大宮院所生の長子後深草院と、同母弟亀山院との間に、皇位継承について内紛が起った。後嵯峨院も大宮院も、もともと病弱でやや女性的な後深草院より、活発で才気のある次子亀山院を愛し、その皇子後宇多院も早く東宮に立っていた。幕府の諮問に対する母后大宮院・異母兄円満院等の証言により、皇統は亀山院側に定まろうとし、後深草院は失望から出家の意志を表明した。しかし幕府の斡旋によって、後宇多院の次に後深草院の皇子伏見院の立坊が実現したので、院は出家を取りやめ、ここに両皇統迭立(てつりつ)の端緒がひらけた。
たださえ古来の政治・経済の基盤を失いかけている貴族にとって、皇位のゆくえ、官位の争奪は、一族の死活の問題であった。幕府もまた再度の蒙古の来襲、警備による財政の窮乏、御家人制の行きづまりなど困難な問題をかかえ、社会の各層に矛盾と分化をはらんで、南北朝動乱の前夜へとつづく。その間にも地方の豪族が次第に実力を持ちはじめ、京・鎌倉を中心とする地方交通もひらけてきて、地方の小都市が栄え、各地に小文化圏が生れている。新しい現実的な潮流は武家・民衆の側から容赦なく押し寄せてきていた。
一方自覚のない日常を送る既成階級の内部には、相当ひどい退廃的な風潮が瀰漫(びまん)していた。このことは「増鏡」の記事にも詳しく、それら新旧文化の錯綜、交替してゆく過程は、この「とはずがたり」の作者の体験からも読みとることができる。表面は王朝時代の華麗な夢を追いながらも、実質ははげしく流動する実力競争の時代であった。
その中で作者の生家久我家は村上源氏の嫡流、清華としての家名を誇り、当時土御門院・後嵯峨院の外戚として、一族あげて朝廷に親近していた。しかし同族の中でも限られた官位栄誉をめぐり、暗闘が行われていた。作者の父雅忠は、祖父太政大臣通親、父同通光、兄右大将通忠のあとをうけて首席大納言まで昇り、氏長者、淳和・奨学両院別当を兼ねたが、大臣任官を目前にして世を去る。このことは作者の生涯に大きな暗影をなげかけた。
作品に「雪の曙」の隠名で登場する実兼の西園寺家は、藤氏公李流で幕府と近く、承久の乱後、関東申次(もうしつぎ)という有利な条件のもとに、天皇家の外戚となり、摂関家をしのぐ権勢をもつが、この作品の当初は、実兼はまだ若き当主として雌伏時代であった。実兼の大叔母大宮院は後嵯峨院の后で後深草・亀山両院の母である。作者の母方四条家は院政期に台頭した実力者の家柄で、代々権勢家と姻戚関係を結び、大宮院・東二条院の母、北山准后貞子の実家として、西園寺とも近く、准后の弟にあたる彼女の祖父隆親の勢威は「アマリアリ」とまで評された。作者の周囲は、衰退しつつある宮廷貴族の中でも陽のあたる階級に属していたから、庇護者の健在であった間は、かなりわがままに振舞うことができた。それらに死別し、御所を退出して以後の彼女の経済生活については、詳しいことはわからないが、生家もすでに久我家の嫡流の位置を失い、けっして裕福でなかったことだけは確かである。おそらく亡父の遺産の相続分を乳母(めのと)家にでも管理させて、生活を維持していたものであろう。
作者と作品
作者は中院大納言久我雅忠の女、母は大納言四条隆親の女大納言典侍である。成長した皇子がなかったため、「皇胤紹運録(こういんじょううんろく)」にも、また「尊卑分脈」その他にも記載されておらず、名前は不詳である。幼名はあかこ。宮廷での女房名はいちおう二条と呼ばれていたが、父はこれを不満として異議を申し立て、院も内々には「あかこ」と呼んでいた(「あがこ」ではない)。
さて作者は、生涯をじつに大胆に奔放に生きた女性であった。家柄と容色と才智にめぐまれ、芸術的な天分も豊かで、文学・和歌・音楽とくに琵琶、絵もよくしたようであるし、なによりもきわ立ってみずみずしい、男性を惹きつける魅力を持っていたはずである。
14歳の春、後深草院の後宮となって一皇子を生み、宮廷では花形のように扱われていた時もあった。しかし幼時に母を失い、まだ少女期に彼女の意に反して後宮とされたことが彼女の第一の不幸であり、彼女の身内に激しい情熱と奔放さと強い自我を持ち合わせていたことが第二の、15歳で父を失い、叔父まで早く死んで、親身に保護してくれる人がいなかったことが第三の不幸であった。矜(ほこ)りだけは高く、実質は伴わなかったのである。
院は作者をかつての愛人大納言典侍の形見として、4歳の幼女の時から膝下(しっか)に引取り、長ずるのを待って後宮としたのだが、院はもともと弟亀山院より虚弱で、女性的、やや陰湿な性格だった。時には彼女を溺愛してみせるが、けっして彼女を包みこんで愛してはくれず、親しさに甘えて他の女との情事の手引をさせたり、来訪する貴人たちの接待を命じたりする。父の死後、生れた皇子も夭折し、正妃東二条院や他の女房の嫉妬や中傷の中で、ついに父と約束していたはずの大臣の女としてのふさわしい名も与えられず、終始院の後宮兼上臈女房、高級貴族の接待役として、絶えず誘惑の中に身を置かねばならなかった。
ほかの女性だったら、あるいは賢明に耐えて身を処しただろうが、彼女の美貌と才気は目立ちすぎた。彼女のほうにも鬱積した不満があり、ついつぎつぎと不羈(ふき)の行動に走った。後には院もこれを知って逆に使嗾(しそ)したり、強要したりもしたが、最後には亀山院との噂のひろまったことから、院と正妃との不興をかって、宮廷から追放され、世俗的な女の幸福も名誉も生涯得られずにしまった。愛人の形見として生れた子供たちにも、おそらく公然と名告(なの)ることはできなかったし、女として母として、しみじみ悲哀を感じていたに違いない。
作者はいったんそれをのりこえ、さらに新しい土地、新しい人間への興味を求めて旅立つ。女の身でよくも、と後深草院でなくても思うほどの旅程である。宮廷時代、最高貴族たちと心と体でせいいっぱいの恋愛を経験した作者は、旅でも行ける限りの処までたずねて行って、さまざまな事を経験した。地方の武士や豪族たちとも交わりをもった。遍歴の間も念頭を去らなかった後深草院も東二条院も世を去り、亡父の三十三回忌、院の三回忌も終った。五部の大乗経も、独力で完成間近になった。
ふり返って、我ながらよくぞと思い、この生涯をだれかに語りたい欲求が強く起ってきたものであろう。しかし語るべき相手はもはやだれもいない。だれにも聞いてもらえないとすれば、書き残すほかはない。だれかが読んでくれるであろう。問われないのに語る、いたずらごとのおしゃべり、という謙遜の形をもちながら、内実はもっと切実なとはずがたりである。作者の跋文にいう、「年月の心の信も、さすがむなしからずやと思ひつづけて、身の有様をひとり思ひゐたるも、飽かずおぼえ侍るうヘ、……その思ひをむなしくなさじばかりに」という発想は、いわば自己の存在のあかしを残したいということである。ことに「さすがむなしからずや……飽かずおぼえ侍るうヘ……その思ひをむなしくなさじばかりに」と繰返す表現は、この欲求の強さと、同時にある種のむなしさの背反を痛切に物語っている。
前三巻は作者をめぐる多くの男性との愛欲の葛藤を経として、宮廷に登場する多くの人々の織りなす人間絵巻であり、その中にあって絶えず出離をねがいながら、逆にますます深まってゆく作者自身の人間の苦しみの記録である。後二巻は一転して作者が出家の後、新しい天地を求めて漂泊する意欲的な旅行の記で、その間に培われてゆく作者の心の軌跡がうかがえるが、作者はけっして一定の諦観に達していたとは思えない。
当時の女性の一人として、多くの先行の和歌・文芸・歌謡、ことに源氏物語をはじめとする物語の要素を十分にとり入れているが、作者の体験は具体的事実そのものなのだから、その描写は物語の発想の枠を突き破って、迫真性をもって読者に迫る。
先行のどの日記文学よりも素材もスケールも大きく、多様性があり、思想も表現も自由である。日本古典の豊かな抒情性を踏まえながら、現象の正確な把握、ものごとの核心に迫ってゆく理知的な手法など、近代的な写実性さえ持っているのは特筆に値する。
ことに作者は、自分を中心に多くの人物の錯綜(さくそう)した人間像を見事に再現し、その時点時点で精いっぱいに生きた一人の女性の姿を浮彫りにする。恋愛といっても作者の場合、あまりにも豊かな感受性と肉体を持ちあわせていたために、さまざまの男性との愛情の喜びも、悲しみも、全身で受けとめざるを得なかった。その結果起る妊娠・出産という女だけが負わねばならぬ肉体的負担も、心身の微妙な変化も、あいまいさを残さず克明に描き出して、それがこの作品を女性史上にも稀有(けう)のものとしている。
この作品は、人間記録の文学として、日本文学史上特異の存在であるとともに、東西古今を通じても傑作と称するに恥じない名作であると思う。作者雅忠女は時代的に早く生れ過ぎ、彼女の生れた社会に順応して生きてゆくためには、あまりにも豊かな資質を持ちすぎていたために、女としてはけっして幸福ではなかったのだが、逆にいえば、不幸であったがゆえにこれだけの作品を書き残し、今日まで作品の価値が伝えられたことを思うと、人間の生涯についての深い感慨なきをえない。
制作の動機についての一考察
さて、作者の半生をかけて語りたいと思った真実は何だったのだろうか。ここで筆者らは、この作品全体の一作品としての一貫性とともに、前三巻と後二巻との間に存在するある隔絶した異質なもの、矛盾を指摘しないわけにはいかない。
もちろん作者は作品を完成するまでに、それまで書き誌(しる)してきた細密な日記ふうの覚え書・メモ・歌稿や手紙の控えなどを十二分に生かして、ある時期に整理編集したことはまちがいない。それぞれの箇所での濃密な描写、心理表現などはそれを物語る。しかし前篇と後篇とはその整理の方法・発想が明らかに異なる。
前三巻のいわゆる宮廷生活篇では、ほとんどが本音で書かれている。自分の行動を記述するときの自己顕示と弁解は目立つが、その他の人物─とくに後深草院・東二条院・前斎宮・近衛大殿・祖父隆親らの言動については、仮借ないほどの筆致でその性格や行動を暴露している。有明についても、実名を朧化しただけで、やはり記載どおりの事実があったものと思われる。四回の出産の記事も、その時どきの状況に応じて正確に描き分け、その前後の自分や関係者の心理や人々の動きも克明に叙述している。雪の曙の記事だけには相手に配慮した態度がみえるものの、彼との恋愛事件の記述そのものは三巻の終りまで綿々とつづく。亀山院事件については、よく読めば推察がつくように、むしろ容易に推察できるように、意識して順を追って書いており、これが原因となって御所追放につながったことも、「いかでか知らん」と一言言い放って、何も弁解していない。有明の没後の悲嘆や追善供養は委曲を尽くし、秘密の子への愛情もすべて隠していない。三巻全体を通してみる彼女と院は、けっしてよい関係ではなく、院のわがまま、それに反発する彼女のわがまま、院の劣等感、女院の嫉妬、他の男性との関係、それらが相乗し合い、結局は女性であり一女房に過ぎない彼女の、なんの栄誉も与えられず一方的な破滅に終る経過であり、最後に院は恨めしさの対象であっても、思慕の対象とは程遠かった。それを描く筆致もほとんど遠慮なく、院への敬語さえしばしば省く。とにかく前篇は、相手により潤色はあっても、とくに院との関係に関しては現実そのままである。前三巻は、当時の関係者には少くとも読まれることを憚るものだったろう。
後二巻でまず驚くのは、あれほど哀哭(あいこく)した愛人有明のことが一切出てこないこと、そのほかの関係者も同僚もまったく出てこないこと、そしてただ宮廷への懐旧の情、院への思慕を要所要所で繰返すこと、院への恨めしさをけっしてあらわに書かぬことである。地方の新しい知己や経験にふれてはめざましい清新な記述をするが、こと過去となると、わざとのように院しか思い出さないことにしている。そして院や皇室への最高の敬語が煩瑣(はんさ)なほど繰返される。用語は当時の女房詞で、実際使っていたものであり、持別なものではないが、前篇とのあまりの言語感覚・発想の相違に戸惑いを覚える。二度の院との再会では、一度はことさら卑下してみせるが、二度目は院の執拗な質問に、一々反論して出家後の身の潔白を証明し、ついに院の反省の言葉を引出す。その後数年を経て、院の死去前後はまったく院への追慕と父の家名への執着に終始し、院の遺女遊義門院との再会を一つの山場として後篇を終る。
前篇では多少の曲筆はあっても、かなり事実・素材そのままの迫真力があるのに対し、後篇は、純然たる紀行の部分にはむしろ淡々とした味があるが、宮廷関係になるとにわかに作者の意図的な素材の選択と、無理に院への思慕に統一したごとくに叙述をしぼっているあとがみえる。どうみてもいかにも不自然で、とくに後篇についてはかなり特定の宮廷関係の読者を意識したと思わざるをえない。
では作者は後篇をはたしてだれに読んでもらいたかったか。この二巻は宮廷関係に限っていえば「たてまえ」であり、後深草院の周辺、とくに遊義門院の反応を念頭においているように思えてならない。院のもっとも尊貴な皇女である遊義門院に、事実の一部は切り捨てても、作者と院との関係をできるだけよいものとして印象づけたかったのではないだろうか。
それに反して前篇は、あくまで「ほんね」であり、事実であり、自らの誇り高き出自、得べくして得られなかった名誉、裏返せば自分の苦しい立場、御所追放の経緯、ひいては秘密に生んだ自らの子どもたちの出生の経緯になる。これらは後篇ではまったく触れるのを避けた内容であるが、その子女が成長しているのも事実であれば、母としてこれはいつかは語っておかねはならぬ事であったのではないか。作者は、こちらにはみずから制限を加えることなくすべてを書いた。いつか真実を知ってもらいたいために。雪の曙との間の女児、亀山院妃となって一時は立坊も期待された恒明親王の母である昭訓門院も、当然その意識の中に入っていただろう。当時実兼が依然健在で政界の重鎮であったことを考慮に入れると、前篇における雪の曙の記事への周到な配慮も説明できる。作者は自身の見果てぬ夢を、かつての女児と恒明親王に秘かに託していたかもしれない。
筆者らは前篇と後篇が、同時に公表されたとは思わない。整理の態度に相違があり予想している読者にずれがあると思えるからである。ところが後篇─たてまえのほうを執筆中か執筆後かに、遊義門院はにわかに病んで亡くなった。前篇のほうは内容や記述態度からいって、遊義門院や同院の関係者には読んでもらうつもりはなかった。しかし細心の注意を払って書いた後篇も、はたして予想した人に読んでもらえたかどうかは疑問である。ただこの五つに綴じられた冊子が、いつの日か「とはずがたり」一・二……の名で五巻の作品にまとまって残り、前半と後半の内客や記述態度に明らかな予盾と不統一を残したまま、一つの作品として今日まで伝えられたというほかはないのである。
成立と流伝
この作品がともかくも全体として完成した時期の手懸りは、この作品に記された最後の年時、嘉元四年(1306)7月16日以後であり、「禅定仙院」、および「今の大覚寺の法皇の御ことなり」の古注の存在によって、正和二年(1313)11月(伏見院の出家)以前となる。また新後撰集の次の勅撰集を強く意識していること、「書くべき経はいま一部なほ残り侍れども、今年はかなはぬ」の「今年は」という言い方からすると、嘉元四年(徳治元年)から一両年のうちに写経も完成し、この作品も完成したという感じが強い。
「とはずがたり」の伝本はただ一本、宮内庁書陵部蔵の写本があるのみである。五巻五冊。水色地の表紙に古短冊切を貼って、「とはすかたり」の題名と各巻の番号とを記す。内題も同様に記し、本文は縦約二八センチ、横約二○・四センチの楮紙(ちょし)を袋綴にしたものに、一 頁十一行に書く。和歌は一字乃至三字下げで一行に記す。
答巻別筆で、多少巧拙の差がある。本文の枚数は、
巻一 五五、巻二 四三、巻三 四八、巻四 三七、巻五 三二、計二一五
末尾の跋文のあとなど、本文中、刀で切り取られたむねを記した古注のある箇所が四ヵ所あり、また、巻四の末尾が中断しているほか、文が行の途中でとぎれて、以下その行を空白にしてある所や文章の接続しない所などが数ヵ所あって、本文の欠脱が考えられるが、その他の点はよく保たれていて、虫喰・損傷などもない。巻三の次に一巻の欠巻を考える説には賛成できないことは、すでに述べた通りである(巻四の一段解説参照)。外題が霊元院と推定されることから、この写本は江戸元禄期以前に成るものだろうといわれている。
今日伝わる「とはずがたり」は、何回かの転写を経てゆく間に、誤写・脱落を生じたほか、表現の上で多少原本から離れてきたと推測されるところがあり、種々表記上の不都合や不統一を生じている。しかしひどく原形を損じていると思われるようなことはなく、誤写上のこととともに、「とはずがたり」では代々比較的に良心的な書写が行われてきて、現伝のものは格別性質の悪くない写本である。
この作品は、すくなくも三回は転写を経過して今日に至っている。前記の古注は、すでに嘉元四年(1306)から正和二年(1313)までの間に、誰かによって注記されていたことを証する。しかし作者がいつまで生存していたかは知る由もない。
「増鏡」(1333-1376年)は、「とはずがたり」の巻一から巻五にわたって何段かを計画的に盗用し、その取方は資料としてばかりでなく、露骨に用語・文体等に至るまで用いている。しかも引用した記事において、「増鏡」の著者はこの「とはずがたり」の作者の身分をひたすら隠している。このことは「とはずがたり」がその内容上一般に流布されず、一部の者にだけ秘かに読まれていたことを立証する。「増鏡」の著者(二条良基と推定されている)はその地位上これを所持し得て、編纂の重要な資料としたのである。
その後の流伝をみても、東山御文庫の目録や三条西実隆の「実隆公記」(1497年の条)などに、「とはずがたり」の書名が出ている程度で、現伝の御所本となるのであって、この作品が皇室関係の狭い範囲に秘蔵されていたことが推測される。
それ以後の状況はまったく不明であるが、昭和15年、初めてこの作品の内容と価値が紹介され、昭和25年、桂宮本叢書の一として公刊されるに至ってようやく普及するようになった。そして作品の研究も年とともに進展し、研究論文・注釈書等が輩出した。外国でもはやく注目され、アメリカ・イギリス・ドイツ・ソヴィエトと、相次いで翻訳書が出版されている。
補注 / 恒明親王をめぐる情勢について
すでに政界の第一実力者となっていた西園寺実兼は、正応二年その一女※子(永福門院)を伏見帝の中宮として入内させたが、その前年ごろ妹相子(公相女、のちの土御門准后)を後深草院の後宮に送り、皇女子(陽徳門院)が生れている。永福門院に皇子は生れなかったが、後伏見院を養子とした。
実兼はさらに伏見院治世の終りごろ、二女瑛子(昭訓門院)を亀山法皇の宮に入れて、両皇統への布石を行った。これが「とはずがたり」の作者所生の女子と思われる。
亀山院は晩年に得た瑛子を溺愛(できあい)し、翌年恒明親王が生れるや、これを末子であるにかかわらす莫大な所領を相続させ、それのみならず、次の大覚寺統の皇太子として立てることを熱望し、長子の後宇多院、持明院統の伏見院らの諒解をとりつけ、3歳の恒明親王にも置文をのこすと同時に、後事を実兼の子公衡に託して没した(「宸翰英華」その他)。
公衡は亀山院の遺志を奉じて幕府側にも奔走したようだが、亀山院の没後は後宇多院がこれに従うことは無理で、そのうえ持明院側ではこの状況を奇貸として、幕府に対し花園院の即位の促進と持明院統の正統の主張を行うなどの波瀾があり、公衡は後宇多院から勅勘をうけて一時所領を没収されたことがある。
大覚寺統ではすでに次の東宮候補尊治親王が成人しており、また亀山院の没した翌年、後二条院に皇子邦良が生れ、諸情勢から恒明立坊は不可能になったが、昭訓門院と恒明親王は母方西園寺の縁で持明院統に接近し、その子孫は常盤井宮として南北朝合一後まで残った。
作者としても、みずからが生んだ女子の上に起った微妙な運命の波瀾を、どんな思いでいつまで見守っていたことであろう。亀山院が親王自身にあてた死去直前の置文が、伏見宮の記録の中に残っていたことも、いろいろなことを想像させる。
 
「とはずがたり」考14 日本古典への招待

 

それにしても、いきなり「原文を読め」と言われても、本屋さんに古典文学の作品がずらりと置いてあることはまれだし、「国文学のコーナー」なんて棚をのぞいてみても、むずかしそうな注釈本とか「何々についての研究」とかいう本ばっかりで、いったい私は何を読んだらいいのだろう・…と、途方に暮れる人がいると思う。
何千円もする「岩波新日本古典文学大系」なんて買うのはもったいないような気がするし、かといって文庫で古典の原文が読めるのは、今では講談社学術文庫(学術!)や岩波文庫だけだ。
講談社のには現代語訳がついているけど、文庫とは思えない値段だし、原文と現代語訳と注釈とが交互に並べられている紙面は、慣れていないととても読みにくい。岩波文庫だってなんにも注がなくて、わけがわからないし‥‥と、またしても古典を諦めようとしたあなたの目に、こんな本の名が飛び込んできたとしよう。「田辺聖子の源氏物語」「瀬戸内晴美訳とわずがたり」「安西篤江が語る今昔物語」などなど。
へえ、これなら原文読まなくてもいいじゃん、と、あなたはそうした本に手を伸ばそうとする……。これが、現代作家による古典の「現代語訳」だ。
それに加えて、この日本には歴史小説というジャンルがあるんだよね。戦国武将のドラマが国民的に好まれるというのも、歴史小説を通じて得た知識が、主に中年以上の人の教養になっているせいだ。つまり、日本人は歴史小説好きな民族。最近亡くなった司馬遼太郎さんはもっぱらおじさん御用達だけど、永井路子さんとか杉本苑子さんといった女性作家の書いた歴史小説には、誰でも一度くらい目を通したことがあるんじゃないかな。
とくに古代史とか鎌倉、江戸あたりを題材にした歴史小説に強いお二人だ。もう長老と言っていい風格で、「歴史物の二大女流」として認められている。かくして、あなたは歴史小説や、現代作家の書いた「現代語訳」を通じて古典の世界の扉を開けることになる。そうすると、どうなるか。
歴史小説は、いろいろな資科にもとづいて書かれてはいるけれど、資科そのままじやない。その資料には、当然古典の作品も含まれているはずだ。それらを作家がたんねんに再構築して作り上げたのが歴史小説ということになる。だから、そこには作家の頭の中で作り上げられたイメージによる人物造形がなされているし、ある事件やある場面についての解釈も作家ごとに変わるのが当たり前だ。
たとえば、「万葉集」の額田王は極端に資科の少ない人物として有名だけど、彼女を取り上げた歴史小説は山ほどある。つまり、作家が百人いれば、一つの出来事を題材にして百通りの歴史小説ができるかもしれないんだ。
だから、歴史小説をいくら読んだって、それは現代作家の「作品」を読んだにすぎないのであって、あなた自身が古典を読んだということにはならない。これは、「誰々訳」とあるものでも基本的にはまったくおなじこと。
ためしに「源氏物語」の例をあげようか。「源氏」には、古くは与謝野晶子から谷崎潤一郎、円地文子、未完に終わったけど舟橋聖一、そして最近では瀬戸内寂聴、田辺聖子、橋本治ら各氏の「現代語訳」がある。
でも、もっとも原文の遂語訳に近いとされている「円地源氏」でさえ、原文と対照させると作家の「くせ」みたいなものが浮び上がってくるんだ。その特徴は、たいていの場合登場人物の女の人にどのような性格や役割を与えているかというところに現われるように思う。「源氏」にはたくさんの女性が登場するし、「「源氏物語」の女たち」なんて本はくさるほど出ているから、女性像の造形、これが作家の腕の見せどころになるわけだね。
まあ、女性は男性主導の文学の世界では常に「見られる存在」として描写されてきたから、この現象はしかたないと言えぱしかたない。だから、作家の好みが女性像に反映されるのは言うまでもない。
瀬戸内さんは、「私の好きな古典の女たち」(新潮文庫)で、「源氏」から朧月夜、六条御息所、女三宮、明石君、そして浮舟の五人を取り上げている。もちろん「源氏」には光源氏の永遠の人となる藤壺中宮をはじめ、主要な女性がいっぱい出てくるんだけど、瀬戸内さんがこの五人をとくに取り上げたのは「好み」のせいじゃなかろうか。
文中でも、「藤壺はあまり理想的に書かれ過ぎていて、私にはあまり魅力が感じられません」とか、「「源氏物語」の中で一番好きな女性をひとりあげよと言われたら、私はためらいなく六条御息所をあげます」というような言葉が見える。
こういう人が「源氏」を現代的に訳したら、自分の興味が持てる人物については自分流の解釈をまじえて詳しく書くだろうし、おもしろくないと思った人物についてはさらりと流すんじゃないかな。私は瀬戸内さんを責めているわけじゃなくて、誰でも作家であれば必ず多かれ少なかれこういう傾向はあると言っているんだ。
とすれば、あなたが手に取った「誰誰訳源氏物語」は、作家の誰かさんの作品にすぎないんであって、「源氏」のオリジナルとはかなり違うものを読んでいることになる。このことを充分に認識しておかなければ、古典を読むということなんか一生できやしない。
前の章でも触れたように、ある人物やある事件について私たち現代人が持っている知識は、近現代の作家のフィルターを通したものである可能性がとても高い。だから、額田王(ぬかたのおおきみ)といえば岩下志麻みたいな妖艶な女性を思い浮べてしまうんだろうし、六条御息所といえばじっと思い詰めて内に籠っちゃう「男からすれば苦手なタイプ」だと思い込んでしまうんだ。
そんなフィルターをとっぱらって古典の原文に一歩でも近づこうとするならば、歴史小説や作家の訳本は古典とは別のもの、という気持ちで読むべきなんだ。
さて、これから取り上げるのは、現代作家が描いたある女性と、彼女が実際に書いた本との間にあるギャップの話だ。つまり、作家はある古典を作品の「ネタ本」に使っているわけだが、その「ネタ本」と出来上がった歴史小説との間には、驚くばかりの違いが見える。これがつまり、作家の「古典のとらえ方の差」なんである。
ネタ本は、一般の人にはあまりなじみのない鎌倉中期の「とはずがたり」という本。学校の文学史では、鎌倉時代の「女流日記文学」に分類され、「宮廷内の性愛に関する赤裸々な告白が特徴」なんてレッテルを貼られているやつだ。
もちろん私は、「とはずがたり」は「女流日記文学」という位置づけが適当だとも、「赤裸々な告白」が妥当な表現だとも思っていない。それはこれから述べていくことにして、まずは「とはずがたり」の世界へと入ってゆくことにしよう。
不幸な「とはずがたり」
「とはずがたり」という名前を聞いたことがない、って人を責めるわけにはいかない。この本は、13世紀の半ばに生まれてからほとんど読まれてこなかった本なんだ。たいていの古典は成立以後ある程度の読まれ方をしていて、だから「土佐日記」にもあれだけ写本があるんだけど、「とはずがたり」は宮内庁書寮部にある一本だけしか伝わっていない。それも昭和15年に、山岸徳平さんという国語学者が「地理部」に分類されていたこの本の名を奇妙に思って手にしたことから「発見」された、いわば歴史の新しい本なんだ。
「源氏」が千年近くも読み継がれてきたことに比べると、この世にたった一本しかないなんて驚きだ。この本には天皇や上皇の性に関する記述があるせいで、あまり公にできなかったという理由もあるらしい。
「とはずがたり」は五巻で構成されていて、巻一から三までが宮中を舞台とする「宮廷編」、あとの巻四、五は、主人公が出家して諸国を巡礼する旅がメインだから「出家編」と分けて呼ばれることが多い。書いたのは、後深草院二条という女房。
後に「南北朝の争乱」という宮廷の内部紛争が起こるけど、二条の生きた時代はまさに南北へと宮廷が分裂を始めようとする鎌倉中期だ。後嵯峨天皇の二皇子である後深草と亀山は、それぞれ持明院統(北朝)、大覚寺統(南朝)という二流派のもととなった。
二条はこの後深草院の宮廷で育った女性で、母親は後深草天皇の乳母を勤めたことがある。正式には後深草院の正妻である東二条女院つきの女房だったらしいけど、小さいころから後深草院を父とも兄とも慕って生きてきた。でも14歳の春、二条は無理やり後深草院と関係を持たされ、以後は院の女房と愛人とを兼任することになる。
この二人の関孫に、二条を恋する西園寺実兼や性助法親王といった複数の男性がからんでゆく。そして二条は身も心も翻弄されたあげく、出家して諸国を遍歴する旅に出ることになる。後半部分は、出家後の二条が見た寺社についての記述が多くなるが、後深草院との再会や、院の死などを経て、院や父母の供養をする場面で全巻は終わっている。
さて、今までの文学史では、「とはずがたり」は日記文学という位置に置かれてきたけれど、これを日記だと思って読み進めるとおかしなことがたくさん出てくる。
これまで研究者によって明らかにされているのは、記述された事件が必ずしも実際に起こった順番に配置されているわけではなく、作者は意図的に事件を入れ替えたり、省略したりしているということだ。
だから、日記とはいえここにはフィクションの部分がかなりあって、物語に描かれるようなシーンが何回も登場することから、「とはずがたり」はむしろ物語に近い性格だと考えた方がいいだろう。
ところで、いまだ研究の途中と言っていい「とはずがたり」に目をつけたのは、研究者よりむしろ作家の方だったようだ。とくに1970年代、この本は女性作家によく読まれ、エッセイなんかにしばしば取り上げられている。瀬戸内さんは三度も現代語訳をし、「中世炎上」という歴史小説まで書いているし、永井路子さんや杉本苑子さんも、対談やエッセイで何回もこの本に言及している。
女性作家に比べると、男性作家が「とはずがたり」に関して何か言っているのを、私はほとんどと言っていいくらい知らない。「とはずがたり」は、「鎌倉時代の一女房の性と愛の手記」という触れ込みで紹介されたせいもあって、女性作家がなじみやすかったこともあると私はふんでいる。
げんに、作者であり作品のヒロインである二条を男性は敬遠しがちだという例もある。たとえぱ、国文学者である久保田淳さんと瀬戸内さんは、1975年の対談でこんな会話をしている 。
久保田 私、和泉式部は好きなんですけど、どうも後深草院二条はなかなか好きになれないんですけどね。どうでしょうか。やはり二条にも和泉的なものをお感じになるわけですか。
瀬戸内 はい、私は感じますね。(中略)現代の小説としてもちっともおかしくない。リアリティーがあるし、迫力があるし。(中略)久保田さんは、二条のどこがおきらいですか。
久保田 そうですね、そうなりますとちょっと困るんですけれども、やはり非常に自分自身を凝視しているところがあると思うんですけどね。
瀬戸内 突っぱねてますでしょう、わりあいに。
久保田 だからよほど自意識の強い女性で、強いというか、自意識過剰な女というものは、男から見るとまるでかわい気のない女じやないかという気がするんです。
男から好かれない二条、そして、女に好かれたらとことんまで好かれる二条、という対比が出ていておもしろい。でも、「ジェンダー」とか「フェミニズム批評」とかっていう言葉なんか国文学者は知らない時代の対談だもの、少しくらい考慮してあげるべきかもしれない。
この対談が行なわれた70年代は、瀬戸内さん、杉本さん、永井さんの三人による「とはずがたり」論、いや、正確に言えば「二条像」論があちこちに見られた。そしてそれが、「とはずがたり」の現代における読まれ方の二つの流れを作っていったと私は考えている。
一つは、瀬戸内さんのように「とはずがたり」を我が身に引きつけて「私小説」として読む方向、もう一つは杉本さんや永井さんのように、「政治性がなく男女のことしか頭にない女」としてそのあり方を批判する方向。
いまでもこの二大潮流は変わってはいないと思う。でも、これって、もしかしたら「とはずがたり」の不幸な読まれ方なんじゃないの、と私はげんなりしてしまうのだ。
「恋する女・二条」というイメージ
「女のさが」「女の業」「女の情念」−なんて陳腐な言葉なんだろう。でも、瀬戸内さんの描く二条はこういった言葉がぴったり似合う女性に描かれてしまっている。
瀬戸内さんと「とはずがたり」の関係は、現代語訳、歴史小説のほかに、現代小説の中にも見出せる。自分の出家体験にもとづく「比叡」という小説の骨子には、明らかに「とはずがたり」の影響が認められる。
ごくかいつまんで言えば、今まで数々の恋の遍歴をしてきた女性が、あるとき出家を志し、いろいろ大変な経験をしたすえ立派な尼さんになる、という小説。構成は「とはずがたり」とほとんどそっくりだ。
瀬戸内さんは、「女としての自分」という視点から小説を書くタイプの作家だから、「とはずがたり」にも溺れるほど感情移入できたわけだ。だから、瀬戸内さんの書く二条像は、言うなれば自分の鏡像のようなものと言っていい。
さっき引用した久保田さんとの対談でも言っていたように、彼女がイメージする二条とは、男に対する情はあついけれど、過剰なまでの自意識でもって「突っぱねて」いる女性で、しかもそれは「現代の小説としてもちっともおかしくない」ヒロイン像だったんだ。
瀬戸内さんの「とはずがたり」には、一つの大きな特色がある。それは、現代語訳版でも、「中世炎上」でも、巻四、五の「出家編」を思い切って省略している点だ。「とはずがたり」がなぜ二部に分れているように見えるのか、それはまだよくわからないのだけれど、瀬戸内さんにとって問題になってくるのは前半の「宮廷編」だけであって、「出家編」はあってもなくてもいい、ということだ。その証拠に、現代語訳でも「中世炎上」でも、巻四の石清水八幡宮での後深草院との再会の場面と、巻五の院の死に会う場面を巻三の後に継ぎ足した格好で終わっている。
ほんとうは、後半部は前半部と同じくらいのウエイトを占めており、けっして軽く扱うべきではなく、前半と後半とが照応し合って一つの作品が構成されていると考えるべきなんだけど、でも、瀬戸内さんにとって後半部で重要なのは、院と出家後の二条のかかわりを記した部分だけだったんだ。
というのも、瀬戸内版「とはずがたり」は明確な主題を持っているからだ。それは、後深草院と二条との愛憎半ばした人生、と言えるだろう。オリジナルな「とはずがたり」の主題がどうであれ、瀬戸内さんにとっては自分が「とはずがたり」に見出した主題こそが優先されるべきだったんだ。だから、「中世炎上」では、院の葬式の列を裸足で追いかけるという劇的なシーンでラストが締めくくられている。オリジナルにも、
…事なりぬとて御車の寄りしに、慌てて、履きたりし物もいづ方へか行きぬらん、裸足にて走り下りたるままにて参りしほどに、
という場面がちやんとあるんだけど、この後に続く院の供養をしたりする部分をカットしてここを小説のクライマックスに持ってきたのは小説家の工夫と言える。また、つけ足された巻四の石清水八幡での再会場面には、実は大きな謎がある。互いに出家の身となった院と二条が一夜をともに過ごすのだけれど、単に昔のことを語り明かしただけなのか、それとも禁断の関係を再ぴ結んでしまったのか、意見が分れているのだ。
偶然に石清水に参詣した二条は、一昨日から院が来ていることを知らされ、院からお召しを受ける。
(院)「ゆゆしく見忘られぬにて、年月隔たりぬれども、忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などより始めて、「昔今の事ども、移り変る世のならひ、あぢきなくおぼしめさるる」など、さまざま承りしほどに、寝ぬに明け行く短夜は、程なく明け行く空になれば、
「年月がたっても忘れていなかった私の心を思い知ってくれ」という院の言葉に、音話もはずみ、気がつくと夜は明けていた、という部分だ。「寝ぬに明け行く短夜」は、とうとう関係を持たなかった、というふうにもとれるのだけど、この後二条は退出にあたって院から肌着を三枚もらっている。
旅の尼僧姿の二条に昔のよしみで着物を贈ったとも考えられるのだが、互いの肌着を交換するというのは関係のある男女の風習でもある。だから、ほんとに何もなかったかどうかは、二条にしかわからないことになっている。
瀬戸内さんは、ここで院と二条の間には関係があった、と考えて小説化している。出家後の関係という禁断を犯してもなお恋しい院であったから、二条は裸足で葬列を追うような行為に出たとするんだ。「院との愛こそすべて」、このテーマに沿って、瀬戸内さんは「とはずがたり」の解釈を自分なりに一貫させていることになる。だけど、これには反論もあって、研究者の八嶌正治さんは、
そう解釈する時(注・院と二条の間に肉体関係を想定する)、紀行編は全く不用になり、愛という主題で、この執筆動機不明な一書に、近代的解釈を与えた事になる。
と言っている(「現代語訳とわずがたり」解説新潮文庫)。
ちなみに、八嶌さんが「紀行編」と言っているのが「出家編」にあたるものだ。巻四、五で、二条は、東は浅草寺、西は足摺岬まで旅をしたと書いている(実際に行ったことのない部分も含まれているらしいけど)。
もしオリジナルでも「院との愛」を主題にしていたのなら、後半部のほとんどを占めるこうした参詣の旅の様子はなぜ書かれなければならなかったんだろう、っていう疑問がわいてくる。
だから、くりかえすけど、瀬戸内さんのイメージする「とはずがたり」はあくまで近代的な「愛」っていう主題が先にあって、それに従って構築された、別の新たな瀬戸内版「とはずがたり」と言うべきなんだ。そしてそれは、瀬戸内さんのほかの小説と同じように、作品として一人歩きをしてしまったと言える。
もうわかってもらえたかな、瀬戸内版を読んでもオリジナルな「とはずがたり」を読んだわけにはならないってことを。瀬戸内さんの小説として読むつもりならいいけれど、ほんとうに「とはずがたり」に触れるには、瀬戸内寂聴というフィルターをはずしてしまわなければならないんだ。
二条ってパカなの
では次に、現代におけるもう一つの流れについて触れておこう。ここでは、永井路子さんと杉本苑子さんが二条をどんなふうに把握しているかを問題にしてみたい。二条に関する発言は、圧倒的に永井さんの方が多くて、これは70年代から始まっている。
そして永井さんの二条に対するとらえ方は、それからずっと変わっていない。つまり、中世の爛熟しきった宮廷のなかで、恋愛技巧だけにたけてしまったかわいそうな女、というものだ。1972年に新聞に連載された「歴史のヒロインたち」(文春文庫)から拾ってみようか。
ところが、後深草天皇はこの密事を知って嫉妬に狂うどころか、弟との逢う瀬をとりもつようなことをするわけです。こうなると、恋愛は真剣な心のやりとりではなく、〃遊び〃。寝ることは〃あいさつ〃といったところまでモラルは低下してしまっている。当時の貴族の恋がいかに人間性を失ったものであったかがうかがい知れますね。
この本は、一人の女性をめぐって小説家や歴史家、文学者と永井さんが対談する方式で進められているんだけど、こういう言い方の裏には、「プレイガールニ条」へのひそかな軽蔑の心が含まれているとしか思えない。ほかにも永井さんは、二条が初め後深草院に抵抗して関係を拒み、二度めの機会にようやく結ばれることについて、こういっている。
初夜は天皇の意に従わないんです。そして実兼ともうまく愛をつないでいく。このように恋愛技巧にたけているのは、彼女の天性としか思えないのですが。
でも、この発言が永井さんの先入観に支配されていることは明らかで、対談相手の国文学者・冨倉徳次郎さんには
わたしはそうは思いませんね。第一夜の拒否は、まだ14歳の少女としてはあたりまえのことでしょう。(中略)男との交渉を楽しむ浮気っぽい女性なら、はじめて男性に接したときの気持ちを、悲哀とも愛憐ともいえない切ない感情を込めて〃かなし〃と表現するはずがありません。
と、否定されている。私は冨倉さんの理解の方が正しいと思っている。なぜなら、永井さんの抱く二条像には、奇妙なゆがみがあるからだ。
70年代と言えば、60年代にアメリカで起こった女牲解放運動の波が日本にも及んで、「進歩的な」女性のほとんどはその洗礼を受けている。だから、積極的に「自己実現」に向かおうとせず、恋愛やセックスに溺れている女を見ると「女々しい」と感じる人が多かったと想像される。
おそらく、永井さんや杉本さんの年代の女性は、こうした物の考え方をしたんだと思う。だからたとえば、二人とも「平家物語」に出てくる建礼門院のことをあまり良く書かないけれど、あれは、源氏と潔く戦ったわけでもなく、入水自殺をしてもみすみす敵方に助けられて命を長らえてしまう、というところに「女々しさ」を感じたせいだからなんだ。この二人は、どうも北条政子のような「雄々しい」女性が好みらしい。
永井さんと杉本さんに共通する二条像は、政治性の欠如という言葉でも表わされる。ちょっと日本史を思い返してみよう。
「とはずがたり」の舞台となった13世紀後半は、日本が初めて外国から襲来を受けたというとてつもない事件が起こった時期だった。「蒙古襲来」、つまり中国の征服王朝である元が、大挙して九州に押し寄せてきた事件が二度もあったんだ。
この騒ぎの渦中にあって、「とはずがたり」にはこのことは一行も記されていない。永井さんはこの態度を「政治オンチ」と言い、
政治的に浮上った存在は、必然的に社会に無関心になり無責任になる。それが続けばどうなるか、せいぜい関心を侍つのは、セックスくらいになってしまうだろう。「とはずがたり」はそのいい見本である。(「歴史をさわがせた女たち日本篇」文春文庫)
とまで言い切っている。この状況は、まさに70年代後半の著者の姿と呼応していて、永井さんが二条に彼らの姿を重ね見ていることは明らかなんじゃないか。杉本さんもこの点についてはほとんど同じだ。
政治性は全く欠如していますね。(中略)しかし中央の公家社会の認識は、九州のどこかで何か事が起こったという程度の徴弱なものだったのですよ(笑)。(中略)女性たちはまったく無関心。自分の世界だけにしか心が向かない。女は政治などに関心を持ってはいけないのだというようにしつけられ続けてきましたからね。無理ないといえばいえますけど、それにしてもあまりにのんきすぎる。
この発言にもとづいて、杉本さんは「新とはずがたり」という小説を書いている。ここでは、語り手を、関東申次(宮廷と幕府との連絡役)という重要な役目にあった西園寺実兼に設定し、二条を単なる女房から、当時全国を布教して歩いていた時衆の開祖・一遍上人によって「自立」に目覚めた女として描いている。
もちろん、一遍の存在などは原文にはないし、二条の出家が一遍に触発されたものとも思えない。これは杉本流の解釈による「とはずがたり」にすぎないんだ。
なぜか歴史小説家は「実際にあったこと」にこだわるような気がしてならないんだけど、二条はほんとうに政治オンチでバカみたいな女だったんだろうか。そして、女性はみんな、そうした「頽廃」や「政治性の欠如」から「自立」しなきゃならないんだろうか。
私は、二条が政治オンチであるという点については異論を持っている。二条は、単に「愛欲」に溺れて自分のまわりしか見えなかったんじゃなくて、蒙古襲来なんてものは、いくら世間が大騒ぎしても、自分の作品に書く必然性がなかったから書かなかっただけと思うのだ。
たとえば、世間で大ニュースが起きて、大手新聞はみんなそれを一面に大見出しで掲げていても、スポーッ新聞じゃあ「今年も阪神最下位か」なんて言葉が踊っている、ということがあるだろう。スポーツ新聞という世界は、いくら大ニュースでもそんなことを一面に乗せる必然性がないからしないだけだ。
また、二条の場合、政治についてまったく触れていないとは言えない。たとえば、巻四で、それまで幕府に人質同然の形で将軍として下っていた惟康(これやす)親王が、新しい親王と交代する場面などはちゃんと描いている。それもニュースを聞いてやってきたというんじゃなくて、たまたま自分が鎌倉の八幡の現場に居合わせた、というさりげなさで記しているんだ。
これは、二条が政権というもの、宮廷と幕府というものへ大きな興味を持っていることを示している。だから、声高に叫ばず、さらりと作品に紛れ込ませているんだ。彼女にとって作品に必要だった政治性とは、蒙古襲来なんかじゃなくて、「誰が政権を取るか」という問題だったといえるだろう。
こんなふうに、永井・杉本さんの「とはずがたり」観には、彼女たちが生きた時代の、とくに女性史的なフィルターがかかっていることを忘れてはならない。
もちろん、現代の女性が「とはずがたり」を読んだら現代女性の意識が反映されるだろうけどね。でも、たいていの若い女の子は、古典には永井さんとか杉本さんの歴史小説から入ることが多いようで、「なんか古臭いな」って思いながらも、「えらい先生の書いたものだから間違いないよね」って安心しちゃってるところがある。
私が注意したいのは、そこなんだ。「とはずがたり」をどう読もうと、それはあなたの勝手。でも、あなた自身の目で見た、あなた独自の読み方でないと、ほんとうに古典とつきあったことにはならない。
 
「とはずがたり」考15 日記と紀行の盛衰

 

和文とは、10世紀・11世紀ごろの日記や物語と同じ様式で書かれた文体のことだが、14世紀から15世紀にかけて、そうした文体はすでに遠い過去のものとなっていた。したがって、よほど習練をかさねた人でなければ和文作品は書けなかったはずであり、14世紀よりあと和文作品の数が激減してゆく。しかも、少ない和文作品のなかで、漢語や漢文よみくだしめいた語法が次第に滲透してゆくのであり、やがては和文と和漢混淆文との中間態である準和文へと変質する。
14世紀の和文日記としては、二条の「とはずがたり」と日野名子(めいし)(?−1358)の「竹向(たけむき)が記」だけ現存し、15世紀の作品は見られない。それも、純粋な和文とはいえない点がある。たとえば「とはずがたり」の話主が父大納言の死をいたむ条で、次のように述べられている。
すべて何と思ふばかりもなく、天に仰ぎて見れば、日月(じつげつ)地に落ちけるにや、光も見えぬ心(ここ)ちし、地に伏して泣く涙は、河となりて流るるかと思ひ、母には二つにて後れしかども、心なき昔は覚えずして過ぎぬ。生(しやう)を享(う)けて四十一日といふより、初めて膝の上に居そめけるより、十五の春秋を送り迎ふ。朝(あした)には鏡を見る際(をり)も、誰(た)が蔭ならむと喜び、夕(ゆふべ)に衣(ころも)を着るとても、誰(た)が恩ならむと思ひき。五体身分(しんぶん)を得しことは、その恩、迷廬(めいろ)八万の頂(いただき)よりも高く、養育扶持(ふち)の心ざし、母に代はりて切(せつ)なりしかば、その恩また四大海(しだいかい)の水よりも深し。
場面にふさわしく願文・表白ふうの言いかたを試みたのかもしれないけれど、もし12世紀ごろの作品であれば、女性の筆であることを疑わせるほどである。また「如法(によほふ)」(一一)・「凶害」(二四)・「政務」(三三)・「秘蔵(ひさう)」(三九)・「九献(くこん)」(五五)・「傾城(けいせい)」(六六)・「前後相違」(七二)・「芳心」(七九)・「述懐」(八三)・「領掌」(八五)・「存(ぞん)」(八七)などの漢語や、会話および書簡で助動詞「候」を用いるのは(七七・八五等)、10世紀・11世紀の和文に見られない。程度の差は示すが「竹向が記」も同様である。
とりわけ「とはずがたり」の文体が和文としていくらか不純なことは、この作品を世話物のような作調(トーン)で書こうとした態度の反映だと考えられる。日記であるからには、作者と同じ時期の事を題材とするのが当然であり、わざわざ世話物ふうとことわるのは蛇足だと感じられるかもしれないけれど、この作品には、かなり物語めいた要素が含まれる。何よりも、日記としては、作中事件が異常すぎる。14歳のとき「院」によって女にされた主役女性(ヒロイン)は、作中で「雪の曙」とよばれる高位の貴族とも関係をもち、さらに「院」と親交のある阿闍梨「在明(ありあけ)の月」とも情交する。また「院」は、自分の寝所に侍る主役女性を「近衛大殿(おおいどの)」に連れてゆかせ、隣室で関係させるという事件も出てくる。そのあと「在明の月」は、戒律の許さない性愛に心身が燃え尽き、若くして病没する。主役女性と「在明の月」との関係を「院」は知りながら黙認していたけれども、主役女性と亀山院との間にも醜聞があるという中傷のため、主役女性は宮中から逐われ、出家して諸国をめぐることになった。そのうち「院」はお亡くなりになるが、葬儀に出席できる身分でなくなっている主役女性は、路上で葬列を見送り、裸足(はだし)であとを追う。その三回忌が済んだころ、主役女性は「西行が修行の仕儀(しぎ)」を慕う志こそが本意なのだ──という述懐のことばで全篇を結ぶ。出家廻国の後半二巻はともかく、主役女性が幾重もの愛慾葛藤にとらえられる前半三巻は、題材として異事(あやしごと)に属するものであり、記実日記にはありえない仮構性が含まれると考えたい。
つまり「とはずがたり」は仮構日記なのである。素材としては、二条自身もしくは他作の記実日記も利用されたにちがいない。たとえば、准后の90歳賀宴を述べた条などは、拠り所なしに書けるはずがなく、たぶん「北山准后九十賀記」の類を利用したのであろう〔松本(寧)−1971・三七四−八五〕。しかしながら、これは、記実日記ふうの部分がたまたま紛れこんでいるわけでなくて、局到な配慮のもとでこの所に置かれたものである。宮中に局(つぼね)をもち「院」の愛人として華やかな生活に慣れてきた主役女性は、中傷を受けて退任することになった。出家廻国の件も、すでに決意されていたろう。そうした主役女性の境遇を知る大宮の院は、せめてもの思い出にさせてやりたいと、一世一代の盛儀に主役女性がひっそり出席できる便宜を提供した。この盛儀を、もはや傍観者でしかない女性主役の視点から詳細に描写することは、華やかさを単純な華やかさとして扱うのでなく、哀愁の素地に画いた華やかさが、画いてある以上の華やかさとなることを冷静に計算しているのであり、前半三巻のフィナーレとして、みごとな効果をあげている。
構想における周到な設計は、他にも例が多い。主役女性は、9歳のとき「西行が修行の記(き)といふ絵」を見て、自分も「世を捨てて、足に任(まか)せて行きつつ……かかる修行の記をも書き記(しる)して、亡(な)からむ後(のち)の形見(かたみ)にもせばや」と考えたことを回想する。しかし、9歳の少女がこうした感懐をもつとは考えがたく、廻国修行を題材とする後半二巻への伏線にしたものであり、全篇の終結部で「西行が修行の仕儀(しぎ)」(5・三三〇)に言及しているのと照応させた仮構であろう。これらはわかりやすい例だけれども、作中の重要な事件展開については、もっと複雑かつ隠微な照応が設計されている。主役女性が宮中から追放されることになった経緯が、その代表的な例である。追放の原因をさきに中傷と述べたけれど、中傷は表面的な口実にすぎず、その裏には「院」の屈折した心理と謀略が潜んでいる。それは、この作品をひとわたり見る程度ではとうてい気がつくものではなく、幾度かよみかえすうち、ひとつの事件がもうひとつの事件をひきおこし、そうした過程の複合から陰湿な謀略が生まれて、ついには破局となってゆくように構成された綿密な設計の存在を知ることであろう。
主役の女性が15歳のとき、父大納言は死去する。大納言の息女だから、更衣か尚侍になる資格はあったけれども、有力な後見人がいなくなった主役女性は、妃(きさき)としての体面を維持することができず、公然たる私的の侍妾という不安定な地位に甘んずるほかなかった〔Brazell,1973:ix〕。こうした地位の不安定さが、私文書ひとつで退居を命じられたことの遠因にほかならない。直接には中宮の東二条院を無視したふうの行動が非難され、主役女性の外祖父たる四条兵部卿(隆親)を通し退居命令の中宮書簡が届けられたのだけれど(3・二〇四)、その前に「院」も御承知ずみだったはずである。兵部卿からの連絡を受け不安な主役女性が、たぶん「院」の御意向ではなかろうかと推測し、御所へ参上したところ、ちらりと主役女性のほうを御覧になった「院」は、冷たく「今晩はどうしたのだ。退居するのかね」と仰せられ、奥へ入ってしまわれる(3・二〇三)。もし「院」が主役女性を見限らなかったのならば、中宮がいくら抗議しようとも、相手にされなかったろう。中宮からの抗議は、この時が最初ではない。主役女性が中宮の所へ出入りすることは以前から拒否されており(1・75)、中宮から「院」へ主役女性の傍若無人ぶりを強硬に非難する申し入れがあったけれども、これに対し「院」は長文の書簡で答え、主役女性を懸命に弁護なさった(1・八四−八六)。この時と同じ程度に「院」の愛情が続いていたら、破局はおこらなかったにちがいない。ところが、主役女性は冷然と見捨てられた。なぜ「院」はそのような心変わりをされたのであろうか。
主役女性がその不安定な身分にも拘わらず幾件もの情事をかさねたのは、本人の性格によるだけでなく、裏面において「院」が暗黙の諒解を与えていられたからにほかならない。それは「近衛(このえ)大殿」の所望に任せ、客人の大殿に主役女性を添い臥しとして「院」の提供された件が、いちばん明らかに示していよう。重要な客への接待として自分の愛人に寝所の相手をさせるのは、当時でもありふれた事ではなかったろうけれど、女房たちの情事を大目に見てやる慣わしは「枕冊子」の時代からあまり変わっていなかったらしい。主役女性が多少の浮気をしても、たんなる肉体関係であるかぎり、それは「院」にとって大きな問題でなかった。しかし心まで「院」以外の男に捧げるとなれば、許せない背信行為なのである。主役女性が心を捧げた相手は「雪の曙」だったと考えてよい。はじめて「雪の曙」と関係したときの事を「心のほかの新枕」と述べているのが、その証迹である。このとき主役女性はすでに「院」のものだったから、いまさら新枕もおかしいようだけれど、あとで再び「雪の曙」のことを「さしも新枕とも言ひぬべく互(かたみ)に浅からざりし志の人」と述べる。主役女性にとって「雪の曙」こそ真の愛人であった。ところが「院」は、むしろ「在明の月」が主役女性の心をとらえていると誤解され、それが破局の直接原因になったと認められる。
もともと「在明の月」にあまり好意的でなかった主役女性だが、病中の「院」に平癒祈願を依頼された阿闍梨「在明の月」と、修法場所の近くで、伴僧たちの眼を盗みながら密通するところまで引きこまれてゆく。僧の身として、堕地獄をも覚悟だったろう凄まじい恋情に、主役女性は抵抗できなかった。それは、甘美な陶酔でなく、むしろ愛慾の泥沼であったろう。たまたま「院」が座をはずした間、苦しい心を主役女性に訴えていた「在明の月」は、もどった「院」がそれを立ち聞きされたのに気づかなかった。主役女性の告白を聴取された「院」は、それほどまで「在明の月」が思いこんだのも前世からの因縁だろうから、どうしようもないと語り、かれとの関係が世間に知られずに続いてゆくよう措置される。表面的にはきわめて寛大なはからいだけれども、この時「院」の心は主役女性から去ったのである。それは「院」が主役女性を染殿后に比されたことからわかる。染殿后にとりついた紺青鬼(真済僧正の妄念)が「在明の月」に当たるわけで、后(きさき)のほうは「あまた仏(ぶつ)・菩薩の力尽くしたまふといへども、終(つひ)にはこれに身を捨てたまひにけるにこそ」と言われている。主役女性も染殿后のように身を失うはずだと間接的ながら「院」は予告なさったのである。これは、強調しておく必要があったのだろう、染殿后の事をもういちど「院」から聞かされ、主役女性はひどく衝撃を受ける 。
主役女性が「在明の月」との情交を告白したあと、夢見にかこつけて「院」は妊娠の事をほのめかされる。主役女性はその真意をはかりかねている。その後しばらく「院」からお召しがなかった間に、主役女性は妊娠の徴候を感ずる。やがてお召しになった「院」は、あれから「月を隔てむ」〈一箇月ほど間を置こう〉と思って、わざとおまえを呼ばなかったのだ──と告げられる。生まれてくるのが「在明の月」の子であることを確認させるための手段なのであった。これは「院」の心がすでに主役女性から離れていたことを示す行動にほかならない。しかし、理由なしに追放するわけにゆかず、もし真の理由(「在明の月」と主役女性の情事)を公表するなら、それは「院」にとって重大な不名誉となる。そのため「院」は事が洩れないよう配慮され、主役女性の着帯も宮中でおこなわれた。生まれてくるのが「院」の子だと認知した意思表示なのである。ところが、あまりにも強烈な「在明の月」の執心を拒みかねた主役女性は、しばしば逢瀬をかさね、ついに世間でも噂するようになった。いちばん心配だった事態に直面した「院」は、ひとつの非常手段を案出される。それは、たまたま死産した婦人があったので、こんど生まれてくる子をその婦人が生んだことにし、主役女性は死産した態にする──というのである。この計略はうまく成功し、醜聞めいた噂も消えていった。主役女性は「院」の細かい配慮に対し、公的にも私的にも忝ないことだと、心から感謝している 。
しかしながら、この処置は、主役女性や「在明の月」のためよりも、むしろ「院」自身が「わが濡衣(ぬれぎぬ)さへ、さまざまをかしき節(ふし)に取りなさるると聞くが、よに由(よし)なく思(おぼ)ゆる」ことへの対策であった。こんど生まれるのは「院」の子だ──と認知したのだから、その子が万一にも「在明の月」とよく似ていれば、噂の真実性を裏書きすることになりかねない。それを未然に避けるのが、おそらく「院」の真意だったろう。ところが、11月16日にその子が生まれたあと間もなく、同月25日に、流行病のため「在明の月」は急死する。かれの在世中に追放などの手荒な処置をすれば、どんな盲目的行動に出るかもしれず、その結果、醜聞の再燃する可能性も無いではなかった。しかし、もはや「在明の月」がいない今、主役女性に関わる醜聞で「院」の傷つく心配はなく、主役女性の運命はこの時点で決まったわけだけれども、すぐ実行に移すだけの表面的な理由は見つからず、また「院」が自身の意思で追放するという形も取りたくなかったはずである。
翌年の4月中旬、主役女性に「院」から、わたしなど相手にしないつもりかね──という寓意の和歌が届いた。まだ「在明の月」のことを思っているのがお気に召さないのか──と最初は理解したのだけれど、よく聞くと、亀山院との醜聞を「院」が気にしていられるよしなのである。事は、六箇月ほどさかのぼる。嵯峨御所で「院」と「新院」が興遊なさったあと、兄弟である両院は同じ寝所にやすまれる。ところが「新院」のお望みで、主役女性もその寝所に泊る。ひどくお酔いになった「院」は、すぐ熟睡される。夜明け近く、主役女性が側にいないと気づいた「院」は、わたしのお寝坊が過ぎて、添臥(そいぶし)に逃げられたのかな──とおっしゃる。これに対し「新院」は、さきほどまでお傍(そば)にいましたが──と答えられる。屏風の後で聞いているらしい主役女性は、わたし自身の罪というわけではないわ──と、言訳がましく考える。この場面にいたのは、三人だけである。亀山院(つまり「新院」)のほうから噂を流すはずはない。とすれば情報源は「院」のほかにあるまい。しかも、この噂を、主役女性は「いかでか知らむ」と言う。以前のとき「在明の月」との噂を耳にできた主役女性が、こんどは、まったく知らない。それは、噂が実際に流れたわけでなく、おそらく主役女性にだけ聞かせるよう「院」が仕組まれた架空のものだったことを示すであろう。その伝達は、ごく少数の腹心者を便ってなされたはずである。もし実際にそんな噂が立ったら、両院とも迷惑しごくだからであり、主役女性に「噂あり」と思いこませる以外の波及効果は避けられるべきであった。
その翌年正月、主役女性は「院」が自分に対して「御心の隔てある」ことを明確に感ずる。そして、7月に退居命令がくだる。それも「院」からではなく、東二条院の私信によるものであった。以前から主役女性に悪感情を抱くことの周知されている東二条院が、この際に利用されたのである。こうして「院」は、ゆっくり時間をかけながら、皇室の醜聞になりそうな火種を、ひとつひとつ注意ぶかく消してゆかれたわけだが、この「院」を後深草上皇(1243-1304)の実像と認めることはできない。史上の後深草上皇はこれこれの性格でいられた──といった類の調査に基づき作中における「院」の行動を説明する試みが、これまで少なからずなされた。しかし、それは的はずれである。また、作中における院の行動がすべて事実だと考えるのも、この作品が仮構日記であることを無視している。
この作品は人物がふつう実名で登場し、だいたいの作中事件が史実に合うことから、これを記実日記であるかのごとく扱う向きが少なくない。しかし、作者が「雪の曙」および「在明の月」という雅名で二人の重要人物をよぶことにしたのは、この作品で記実性を放棄した態度の現われなのである。従来の研究によると、作中で「雪の曙」とよばれる人物は、西園寺実兼(さねかぬ)(1249-1322)だという。ところが、作中でしばしば西園寺大納言とか実兼とかのよびかたも出てくる。なぜ実名と雅名を混用するのであろうか。これは、雅名「雪の曙」が主役女性との恋愛場面にだけ使われていることから、その解答を引き出せよう。現実にはありえない名で登場するとき、それらの場面は仮構であることが示されている。実兼が生前にこの作品を見ることがあったとしても、仮構であることを承知のかれは、作中で優雅な色男に造形されている自分を愉しんだはずである。もっとも「在明の月」は、実名で現われることがない。後深草院の異母弟である性助法親王(1247-82)だとか、九条道家の子で性助の前任者だった法助(1227-84)だろうとか、いろいろ推測されているけれど、明証はない。それよりも、実名がまったく出てこないのは、むしろ「在明の月」は仮構人物であり、かれの登場する件もすべて仮構だと考えるほうがよいであろう。また、前三巻の「院」「新院」も、雅名に準ずるものである。時点を示すため「亀山院の御位の頃」と言いながらも、兄院および主役女性と寝所を共にする場面では、すべて「新院」とよばれている。したがって、前三巻に「院」の登場する事件も、やはり仮構ということになろう。
この作品の前三巻を宮廷篇、後二篇を紀行篇とよぶことが、学界では定着しているように見える。それはさしつかえないけれども、後二巻が紀行的な題材を採りあげているにすぎず、内質としては前三巻と同じ仮構日記である点に留意しなくてはなるまい。主役女性の父は、臨終に際して「もし君にも世にも根みもあり、世に住む力なくは、急ぎて真実(まこと)の道に入りて、わが後生(ごしやう)も助かり、両(ふた)つの親の恩をも送り、一つ蓮(はちす)の縁と祈るべし」(1・四〇)と遺言した。主役女性はその教えが身にしみ、早くから「西行が修行の記」に接して、いつかは俗世をのがれ、こうした修行の記を書きたい──と念願している(1・七三)。その「修行の記」に対応するのが後二巻なのであり、前三巻だけの「とはずがたり」は不完全作品でしかない。後二巻は、けっして旅行の記でなく、修行の記として書かれたのである。では、なぜ廻国行脚(あんぎゃ)の記を加えることにより、この作品が完全になれるのか。「法華経」に、
如来已難三界火宅 / 如来は已(すで)に三界の火宅(くわたく)を離れ
寂然閑居安処林野 / 寂然(じやくねん)と閑居(げんこ)し林野(りんや)に安らかに処(い)たまふ
という有名な偈(げ)がある。三界すなわち生者の存在する空間は、火事におそわれた建物と同じく昏迷・苦悩の場だから、覚者(ブッダ)となるためには林野で心を澄まさなくてはならない。その際、ひとつの所に坐って精神集中するのが常坐三昧で、天台でも禅でも重要な修行だけれど、ほかに常行三昧すなわち歩くという行為を通じて精神集中する方法もある。これは堂内で阿弥陀仏像のまわりを歩くのだが、その歩くという行為を林野へ延長してもよいはずであろう。仏像が無くても、心に阿弥陀仏をしっかり画きながら林野を歩げば、堂内での常行三昧と異なるところはない。諸国を歩くのが仏道修行だという考えは、もともとこのような筋あいから出たらしい。だから「とはずがたり」の前三巻は火宅篇、後二篇は林野篇といってもよい。
このように諸国を歩くことがすなわち仏道修行でありうるという考えかたは、べつに「とはずがたり」の作者が案出したわけでなく、遙か以前から存在しており、その代表的なものが「西行が修行の記」だったろう。これがどんな書物なのかはわからない。引用のぐあいから考えると(1・七三)、現存する「西行物語」「西行物語絵巻」ではないようだけれども、たぶんこれらと同類のものであったろう(三〇五−〇六ペイジ)。ところで、十三世紀中葉ごろから西行の新しい人物像が形成されていったことは、以後の紀行作品を考えるうえで注意を要する。たとえば「撰集抄」のなかで西行の自記らしく装(よそお)った章を見ると、それらに出てくる人物像は、いずれも「出家の望みを遂(と)げて、尊(たふと)き所どころをも順礼し、おもしろき所をも見まゆかしく思(おぼ)えて」(7・二二〇)廻国する漂泊の歌僧であって、西行の作歌やその題詞から推定される人物像とかならずしも一致はしない。これは「西行物語」などについても同様であり、当時から西行像の変容が生じたのであろう。西行が漂泊の歌僧というヴィジョンで考えられるようになったのは、その背後に廻国を仏道修行のひとつだとする意識がはたらいていたからで、それは、旅に宗教的な価値を認めることにもなった。十四世紀から十七世紀にかけて、和文ないし準和文の紀行は夥しく現われるが、それらはほとんどすべて宗教的心性の裏づけをもち、たんなる旅行記であるシナの紀行と同じではない。
いま宗教的心性というのは、かならずしも仏教だけに限るわけでなく、ヤマトの昔から日本に生き継いできた地霊との交感もそれに含まれる。漂泊の歌僧は到る所で歌枕を訪う。歌道にたずさわる者として、歌枕の土地に行きついたとき、古歌をなつかしみ、知性的な興趣を愉しむのは当然だけれども、そのほかに、詠み主(ぬし)たる歌人の魂と触れあうこと、さらには、後世まで残るような歌を詠ませた土地の生気に接することが、きわめて重要であった。名歌が生まれた土地の一木一草にも、山にも川にも、それを生まれさせた地霊がいまなお息づいているはずであり、その地霊と無言ながら語りあうためには、自分でそこへ行くことが必要だったのである。それは、かならずしも歌枕だけのことではない。昔からずっと語り伝えられ、いまも人びとの心のなかで生きているような事件がおこった土地には、主役人物の魂が残り、またその魂にはたらきかけた地霊も健在のはずであった。それらと交感することは、訪れた人たちに、訪れる以前には無かった何ものかを与えてくれたのであろう。それは、教義や体制をもった宗教ではなく、宗教以前の原始心性というべきだろうが、当時の日本人にとって、宗教と区別がつかなかったと考えられる。これに仏教の廻国修行が結びつき、著明な寺社や歌枕ないし由緒ある土地、いわゆる名所(などころ)を訪れるのがすなわち紀行だという通念になっていった。
十四世紀よりあと、この意味での紀行が夥しく書かれる。しかし、それらは、現代人にとって、おそろしく退屈な作品の集積にすぎないであろう。仏道修行に共感せず古歌にうとい人たちが興味をもてないのは当然だけれども、あれだけ多数の紀行が書かれたのは、当時の人たちが強くひきつけられたからにちがいない。それらのなかで、いちばん秀れているのは、たぶん宗祇の「筑紫道記(みちのき)」であろう。この紀行は、かれが文明十二年(1480)9月6日から10月12日にかけて筑紫を訪れたときのもので、記事はほとんどすべて寺社の参詣と名所へ立ち寄ったことだけである。それは「撰集抄」のいう「尊き所」と「おもしろき所」に対応するわけだが、宗祇のばあい、名所への評価は格別であった。内浦(うつら)浜という所へ行った条で、かれは、
松原とほく連(つら)なりて、箱崎にもいかで劣りはべらむなど見ゆるは、類(たぐひ)なけれど、名所(などころ)ならねば、しひて心留(と)まらず。やまと言(こと)のはの道も、その家(いへ)の人または大家(たいけ)などにあらずは、効(かひ)なかるべし。
と述べる(筑紫道記・九二)。宗祇個人が内浦浜を箱崎以下でないと認めても、名所(などころ)に登録されていなければ、とくに注意する必要はなかったわけである。和歌において師範家とか高貴な家とかの人が詠じたのでなければ勅撰集などに入る資格が無いのと、同じ筋あいにほかならない。名所として社会的に認知されることは、それだけの由緒があるからで、長い時代にわたり多くの人たちによって形成され保持されてきた由緒は、有能な個人の認識よりも優位に立つのだ──という考えかたは、宗祇だけでなく、当時の人たちに共通していた。
十四世紀以降、名所(などころ)についての関心が増大していったことは、夥しい紀行が書かれたのと表裏をなす事実だと言える。宗祇の撰という「名所方角抄」は、そうした要求に応(こた)えたものである。名所であるか否かの認定は、歌に詠まれているかどうかでなされることが多いから、完備した歌枕集成も必要となって、澄月の「歌枕名寄」が編まれた。これらの名所を訪れる人たちは、古典に通じていたわけだから、その経験を文書にしておくことが容易であったはずで、それが夥しい紀行の生まれた理由である。もっとも、いちいち文章にする気がなく、たんに名所を行脚するだけの人たちもいたらしい。そのことを示すのが、能のワキとして登場する「諸国一見(いつけん)の僧」である。かれらは、作中事件のおこる所に来るまで、どのような道筋をたどったかについて、能の冒頭部分で詳細に謡う。術語で道行(ミチユキ)とよばれるこの部分は、現代の観客にほとんど共感をもたらさない。しかし、それらの能が作られたころ、ワキの旅僧が謡うかずかずの名所は、意義ある土地だということを、享受者たちも知っていた。幾つもの名所でそれぞれの地霊と交感し、その生気を身に受けた旅僧は、もはや普通の状態でない。作中事件のおこる特別な場所は、これも名所のひとつである。そこで旅僧は、亡霊・精霊・神仏などの化身(けしん)に遇い、話をかわす。現世の者ならぬ化身と話しあうことができるのは、旅僧が地霊の生気を受けた特別な状態に在るからで、道行はやはりぜひ必要だったのである。その道行を冗長に感ずる現代人は、宗祇たちの紀行にも退屈するほかない。
 
「とはずがたり」考16 醍醐寺の尼寺・勝倶胝院

 

鎌倉時代には、奈良法華寺が尼寺として復興されたのをはじめ、各地に尼寺が造営されたが、下醍醐にも尼の住む子院として勝倶胝院(しょうぐていいん)という子院があった。
この勝倶胝院は平安末期に第一七代座主実運(明海)によって建立されたものであるが、第二四代座主(第二六代座主にも復任)成賢は、寛喜三年(1231)に、この勝倶胝院の堂舎および付属の山林・田畠を尼真阿弥陀仏(真阿)に譲った。この勝倶胝院は成賢の後世菩提のために不断念仏を行う道場であったが、成賢はこの自分自身の遠忌の勤修を尼真阿に託したのである。こうして、醍醐寺において、尼寺勝倶胝院が誕生した。
以後、勝倶胝院は、真阿から嵯峨殿(もとの八条院の女房、八条院高倉。醍醐に一時住んだので、醍醐殿とも呼ばれた。高松院〔二条天皇后〕と安居院澄憲の密通によって生れた女子で、のち奈良法華寺に入って空如と号した。)に譲られたが、後に返されて浄意という尼に譲られ、さらに建長四年(1252)8月20日に、浄意から信願(久我家の縁者の尼か。後深草院二条(久我雅忠の娘)の「とはずがたり」に真願房としてその名がみえる)に譲られた。その際の浄意の譲状によれば、勝倶胝院は無縁の尼たちが立ち宿って、不断念仏を勤修する道場であった(「醍醐寺文書」)。
その後同院は、文永四年(1267)に信願から久我通忠の娘、小坂禅尼(後深草院二条の従姉)に譲与され、応長元年(1311)に小坂禅尼から万里小路姫君に譲与されて、勝倶胝院は九条家の進止権下に入った。このように、鎌倉時代を通じて、勝倶胝院は尼によって相伝されたのである。
浄意の信願への譲状には、勝倶胝院は無縁の尼たちが宿って念仏を勤修する道場であると述べられているが、このような寄る辺のない女性たちが尼となって集う場所としての勝倶胝院は、「とはずがたり」にもうかがうことができる。
すなわち、「とはずがたり」巻一によれば、後深草院二条は、文永九年(1272)の父久我(中院)雅忠の死後、縁故のある真願房(信願)を頼って、年の暮れに勝倶胝院に籠っている。院主の真願房は、二条のもの悲しい無聊を慰めようと、年寄った尼たちを集めて過ぎ去った昔の思い出話などもしているが、そこは庭先の水槽に入る筧の水も凍りつく佗しい冬の住居であった。晨朝(暁)から初夜まで、尼たちは交代して、交代時には「誰がし房はどうなさいました。何阿弥陀仏は」などと交代者を呼ぴ歩きながら、念仏を勤行したが、その尼たちの勤行に出る際の衣も、粗末な麻の衣に真袈裟(粗末な袈裟)を形ばかり引き掛けたというものであった。
二条は建治三年(1277)にも後深草院の御所を出奔して勝倶胝院に隠れているが、その際の「とはずがたり」巻二によると、院主の真願房は、勝倶胝院は「十念成就の終りに、三尊の来迎をこそ待ち侍る柴の庵」である、と述べている。すなわち、この尼寺は、寄る辺のない尼たちが終焉の折りに、阿弥陀三尊が来迎して極楽浄土へ往生するだけを待って念仏の勤行をする、賤しい柴の庵だ、というのである。
真願房のこの言葉は、出奔した二条を訪ねてきた愛人の西園寺実兼に対して、謙譲の言葉として述べられているものであり、そこには多少の誇張もみられるものと思われる。しかし、いずれにしても、勝倶胝院は、父が死んで後ろ盾を失った二条が一時この寺に籠ったように、寄る辺のない無縁の尼たちが集住して念仏を称えながら終焉を待つ(「とはずがたり」に描かれた勝倶胝院の尼にも、老尼の姿が少なくない)、ホスピタリティー施設としてあったのである。
 
「とはずがたり」考17 宮廷の女房生活からはみだした女性

 

数奇な運命をたどる
「庭のをしへ」に教える女房の生き方の反対を行った人に、「とはずがたり」を書いた後深草院二条(1258−?)がある。彼女は名門の出であるにもかかわらず、そして才知と美貌に恵まれすぎたゆえに、宮廷の女房生活からはみだしてしまった女なのである。彼女は宮廷儀礼の粥杖(かゆづえ)にことよせて、本気で後深草院を杖で打ち、公卿たちから「不敬」として非難をあびるといったところのある人であった。これは幼いときからの院に対する甘えが、そうさせたのであろう。
彼女は村上源氏の久我雅忠を父に、後深草天皇の大納言典侍を母として生まれた。「とはずがたり」は自伝的で日記的要素が強いといわれる。とにかく、彼女のくわしい実像を伝えるのはこれだけである。それによれば、母は典侍大(すけだい)として、院の初体験の添臥(そいぶ)しを勤めたという。
その母の死後、4歳から後深草院の御所に出仕、14歳で上臈女房として後宮に入り、院の子を生みながらその子は夭折、「雪の曙」(西園寺実兼)と「有明の月」(性如法親王か)と密通し、それぞれの子を生むが、東二条院(後深草天皇中宮藤原公子)の嫉妬を受け、院にも見限られて御所を下がり、そののち尼となって地方諸国を行脚した。後深草院の葬送にゆきあい、二条の行く末を心配して死んでいった父の三十三回忌も果たし、また、後深草院の皇女遊義門院に出会い、後深草院三回忌で終わっている。
わたしは「とはずがたり」にみられる女房としての二条と院御所を出てからの尼としての二条の生き方に、「庭のをしヘ」に説く理想像とは反対の女房像をみたい。国母となれなかったら、浮名を流さず出家せよ、という教えにさからって浮名を流した、「庭のをしヘ」とは反対の女房像である。しかし、そのかわりに女房たちの出世地獄にはまりきれなかった、正直な女性の生涯である。はみだしたがゆえに、後宮にうごめく女房たちにみえなかったものがみえてきた。それゆえに、それを書きのこそうとした。「とはずがたり」の創作動機の一つはそこにあると思うのである。
暗黒と救済の物語
「とはずがたり」は、一方で創作的要素があり、とくに「源氏物語」の影響が強く、父のような後深草院におかされる過程は紫上に、父親の遺言の箇所は宇治の八宮の大姫に、対する箇所に、密通については女三宮に似ているといわれている(清水好子「古典としての源氏物語−とはずがたり執筆の意味」)。たしかにそのようである。著者は「源氏」を学び、それをふまえて書いたのであろう。
ただ「源氏物語」では、宮廷の雅(みやび)な男女関係が光源氏をめぐる女たちというかたちで、光源氏を中心に描かれているのに対し、宮廷の隠微な男女関係が、二条をめぐる男たちというように女性中心に描かれている点において、「とはずがたり」は決定的に違うのである。そして、「源氏物語」の王朝文化の謳歌、男女の雅な交際に対する肯定的な明るさに対して、これは何というおどろおどろしい暗さと隠微さにみちみちているのであろうか。
わたしは中世の社会全体が暗黒世界だとは思っていないが、かつて暗黒と描写されたものの実態にふれたような気がする。仏教がつくった中世の暗黒の世界とそこからの救済というものを、自分という一人の女を素材にして描いてみせたところに、この作品の値打ちがある。
中世の仏教的世界は、落ちれば下は地獄というところに、宙吊りになってうごめいているはかない人々の営みを自覚させるところにある。二条の父親は、二条のことが気にかかって成仏できない。それがまず前提としてある。その宙吊りになったこの世の、文字通り雲の上の−これは殿上人であるが、ふわふわとたよりない−世界での男女の、一瞬のあいだの束の間の快楽の記録という感じである。男女は二人で快楽をえるにもかかわらず、たえず相手を蹴落とそうとする。椅子は一つしかないのだ。二条に恋慕した「有明の月」は、僧侶としての罪咎の悩みで自分から落ち込んでいく。
後深草は密通をしている二条を結局は許さなかった。亀山院などとの関係を強要し、一方で、自分の火遊びの手引をさせ、サディスティックな楽しみでもってそれをみていて、あげくのはてに御所から二条を追放する。お釈迦様の蜘珠の糸のように、後宮の女房たちを吊り下げることのできるのは院であり、皇子を生むことによって極楽に上げてもらえるかにみえた二条は、皇子の夭折によってその希望もなくなる。窮屈な宮廷生活では、はみださざるをえない二条の性向であれば、宙吊りから落とされるのもやむをえまい。
だが、まっさかさまに落ちた二条は、そのまま地獄に落ちずに、信仰によって別の世界に落ちつくことをえた。西行がそうであったように、出家・遍歴することによって別の世界を知り、「とはずがたり」を創作することによって、院という他者によって生きる後宮の女ではなくなったのである。
見方を変えれば、院とて絶対ではない。御所の評価とは次元の違う世界があり、それは仏教の教えである。後深草院がすべてではなく、院とて死ねば煙になって地獄に落ちるのだ。院に追放されたおかげで出離の縁をえて、院を、院を取り巻く御所の世界をはじめて超越することができた。
そして中世の芸能・能楽などにあらわれる女神たちが「懺悔」の物語をすることによって罪科から免れ、成仏得脱の身となるように、「とはずがたり」の長い物語を執筆し、表現することによって、この世のしがらみから解き放される機縁になるのだ、二条にはこんな思いがあったであろう。何よりも来し方を追憶し、客観化して(主観的なものであるにもせよ)著述する営みのなかに救いがあったのだ、と考えられる。いまふうにいえば、創作によって「自己実現」をして、解放された自分というものを確立することができたといえようか。
愛憎なかばする表現はなぜか
二条の後深草院に対する叙述は、愛憎なかばするものがあるように思われる。「とはずがたり」における後深草院についての叙述は、優雅で、繊細な心のもちぬしであり、二条に対する心づかいもいきとどいていたように、かなり美化されて書かれている。だから、わたしの以上のような解釈には、反論があるかもしれない。
しかし事実として書かれていることは相当、残酷である。遊ぴの女の仲介をさせたり、亀山院その他の男との関係を命じたり、やはり女房というのは高級召使で、ときには娼婦並みなのである。后妃とはちがうのだ。女房の性も守られていないのだ。
二条がそのことを自覚しているかどうかはわからない。女房のことば、叙述というものは、決してむきつけには書かないのだ。「庭のをしヘ」にも、〃不愉快なことがあって退出するにも、きれいごとにして黙って退け〃と書いてある。まして「とはずがたり」は、天皇家所蔵の秘書であり、発見は戦争中で、発表は戦後の1950(昭和25)年である。
天皇家の奥深く蔵されていたものであれば、書かれた当時に想定された読者層は、宮廷・後宮の人々であろう。院・天皇のことであれば、女房特有のきれいごとで書かれざるをえず、しかもそのなかで、なお書きたいことは書かねばならない。いわば、戦争中の検閲体制下における自己検閲のごときものであろう。そして、誇り高い二条にあっては、自分も大事にされ、けっして蔑(ないがし)ろにされたのではないことも書かねばならないのである。
全体を貫くナルシシズムについては、すでに指摘もあり、わたしもそれを感じる。しかし、ナルシシズムが強いゆえに、後宮にもなじめず、尼寺の安穏な生活もできず、漂泊のなかに自己を確立していかざるをえない、業の深さがあった。作家とはそういうものではあるまいか。
また、「雪の曙」とのあいだの子どものための出生証明書のような役割を本書がもった、という指摘もある。たしかに、どうして「雪の曙」や「有明の月」との情事をことこまかに書きつらねたか。それを出離の縁としての懺悔の物語という意味もあるが、「雪の曙」とのあいだの女子(永福門院※子とも、昭訓門院瑛子とも推定される)や、そのほかに生きている子どもがあり、その出生の秘密を書きのこしておきたかったからではなかったか。そういう事情はそれとして存在すると思うが、それもふくんで、後宮の一女性の魂の遍歴の記録として、その真摯さに打たれるのである。
 
「とはずがたり」考18 鎌倉極楽寺

 

鎌倉に関係のある女流の古典といえば、すぐに阿仏尼の「十六夜(いざよい)日記」が頭に浮ぶのだが、昨今は地味な「十六夜日記」は敬遠されて、代りに後深草院二条の「とはずがたり」が人気を獲得しつつあるようだ。「とはずがたり」が活字になったのは比較的新しいのだが、はじめてこの書に接したときの、奇妙に鮮烈な印象は、いまだに記憶にあたらしい。
だいたい、「宮廷女流文学」といわれる種額のものは、今はすでに失われた優雅艶麗な雰囲気をまとっていて、読者に少なからぬ憧憬を呼び起すのが例である。ところが、この、「とはずがたり」は全く異質で、その退廃的な崩れかたが世紀末風な魅力を伝えてくる。
後深草院は、作中で「わが新枕(にいまくら)は故典侍大(こすけだい)にしも習ひたりしかば」といっているように、昔典侍だった二条の母に性の手ほどきを受けたとみえる。二条が14歳の時、それまで院から「あが子」と呼ばれて可愛がられていた二条は、何の心構えもないまま院に犯されてしまう。そのあたりの描写も「今宵(こよひ)はうたて情なくのみあたりたまひて、薄き衣(ころも)はいたくほころびてけるにや、残る方(かた)なくなりゆくにも‥‥」などと、妙になまなましいのである。
それを手はじめに、「雪の曙」「有明の月」「近衛大殿」それに院の弟「亀山院」と、次々に男が入り乱れつつ物語は展開する。それも絢爛(けんらん)とした恋の絵巻風ならいいのだが、後深草院はわざと二条と他の男との仲をとりもって、暗い嫉妬の炎を燃やすという被虐的な性癖の持主である。二条はまた、父の異なる子を何人か生んでは、秘密裡に処理されるという、何ともやりきれない経過をたどっていく。
これがもし、王朝の和泉式部だったら、たとえ“浮かれ女(め)”などと言われながらも、男心をくすぐる軽やかな風流のなかに、女が中心になっているという主体性が感じられるのだが、後深草院二条の場合には、男たちのいいおもちゃにされている哀しさがある。しかしその哀しみを自ら追いつめることもない。そこがいわば現代風なのかもしれないが、その背景にある男たち女たちの隠微な心象風景には、崩壊寸前の貴族の在りようが透けてみえる。つまりは、「鎌倉時代」でなければ生れなかった女流作品だといえるのだろう。
その二条が、東二条院の不興を買って、追われるように宮廷を出てから、やがて出家、そして以後17年にも及ぶ諸国標遊の旅がはじまる。二条32歳の正応二年(1289)のことである。3月20日すぎ、二条は江の島に一泊。やがて鎌倉に入った。
明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺(ごくらくじ)といふ寺へ参りて見れば、僧のふるまひ都に違(たが)はず。なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて鎌倉の方(かた)を見れば、東山(ひんがしやま)にて京を見るには引き違(たが)へて、階(きざはし)などのやうに重々(ぢゆうぢゆう)に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。あなものわびしと、やうやう見えて、心留(とど)まりぬべき心地もせず。
私自身鎌倉に住んでいるので、今回の文学散歩は勝手知ったるわが家の庭、と思ったのがまちがいだった。江の島方面から極楽寺に入るのは、古くからの順路で、今でも江ノ電(江ノ島電鉄)でコトコトと光る海のそばを走り、山ふところに入るとそこに極楽寺がある。が、そのつづきは「極楽寺坂」であって「化粧坂」ではない。「化粧坂」は源氏山から扇ガ谷(やつ)に下りてくる切通しで、全く方角がちがうのである。作者の思いちがいなのだろうと思う。
鎌倉には入り組んだ丘陵に深く切れ込んだ谷戸(やと)が数多くある。ヤト、又はヤツ、といい、笹目ガ谷(やつ)、比企谷(ひきがやつ)、明月谷(めいげつがやつ)、亀ガ谷(やつ)、獅子ガ谷(やつ)‥‥それぞれ奥深く入って山につき当る。
鎌倉という古い都は、堅固な要塞になっていて三方を山で囲まれ、一方は海である。鎌倉に入るには古来七つしか外部との通路がなかった。いわゆる「鎌倉七ロ(ななくち)」の切通しで、ここを固めれば外敵を容易に防げるように配慮されていたのである。名越(なごえ)、朝比奈、巨福呂(こぶくろ)坂、亀ガ谷、化粧(けはい)坂、極楽寺坂、大仏坂がそれであるが、このうち極楽寺坂は昔くから鎌倉の玄関口とされ、京から来ると、ここを通って鎌倉に入るのである。
昔なつかしいチンチン電車の江ノ電も、このところ新型車がふえてしまったが、いまでも単線で、いかにものんびりと走っている。新装成った鎌倉駅から乗るのもよし、逆に藤沢方面から、七里ケ浜の海を跳めて極楽寺駅に至るのもよい。可愛らしい小駅におり立つと、すぐ目の前に山の崖が迫っていて、日によっては海鳴りも聞えてくる。
私が極楽寺を訪れたのは、咲きはじめた桜に冷たい雨の降りそそぐ四月八日であった。花祭の日を中心に三日間だけ、重文の釈迦像の拝観ができるのである。坂をのぼって、朱塗の桜橋を渡る。下は川ではなく、江ノ電の線路で、線路は古いレンガのトンネルに消えていく。古い避暑地の面影が偲ばれるムードが何となくなつかしい。線路を越えれぱすぐに極楽寺の茅葺(かやぶき)の山門である。参道の上に桜が咲き、どこか砂っぽい土の上に、花びらがはりついて美しい。
極楽寺は鎌倉にはめずらしい真言律宗の寺で、約七百年前北条重時によって創建され、大伽藍が建ち並んでいたという。何度か戦火や火災にあって今はその偉容を偲ぶすべもないが、二条の訪れた時は京の寺院にも劣らぬ盛んな勢いであったとみえる。
開山の忍性(にんしょう)は社会事業にカを入れ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けて貧しい人々を救ったが、当時、日蓮は政治力のある忍性を法敵としてはげしく非難したそうである。
宝物殿に立つ釈迦像(重文)は、驚くほど繊細優雅で、穏やかな表情をたたえていた。いわゆる清涼寺式の、首まで布を巻いた型なのだが、その衣文の襞(ひだ)がじつに美しく、見ていて倦(あ)きることがない。同じく重文の十大弟子像が、これはまたまことにリアルな表情を持っていて、一体ごとの写実的な姿態を見比ぺていると時を忘れてしまう。文永五年(1268)造立とあるから、二条も当然、これらの像を見たことであろう。
裏山に登って忍性の宝篋印塔を拝む。樒(しきみ)の木に、淡黄色半透明の花がびっしり咲いている。一見蝋梅の花のような感じで、樒にこんな花が咲くとは、はじめて知った。
極楽寺坂をゆっくり下ってゆくと、雨が止んで重い曇り空から、鳶(とび)の声が聞えてくる。この道は切通しになっているが、右手の崖の上に成就院(じょうじゅいん)がある。そこへ登る階段が、旧い極楽寺坂である。山門前に海棠(かいどう)が花を開きほじめていた。長い階段を越えて行くと、向こうに由比ヶ浜の海が一望できる。二条が階段状に狭い士地にひしめく家々を見てわびしく思ったのも、このあたりからの景観かもしれない。鎌倉の家々の相を、よく把握しているのがおもしろい。
階段を向こうに下りきって、元の切通しに出るとすぐ、虚空蔵(こくぞう)堂の下に「星月夜の井」(星の井、星月の井とも)がある。昼でも星が映って見えたというのだが、井戸の名は堀河院百首にある「われひとり鎌倉山を越えくれば星月夜こそうれしかりけれ」に因むともいう。鎌倉には十井、五名水、十橋など、水に関わる名所が多いが、多くは江戸時代に観光用として宣伝されたものだとも聞く。井戸の蓋が竹で作られているのがいかにも鎌倉らしい。
坂を下りたあたりが坂ノ下で、突当りまで行けば由比ケ浜、途中左折して長谷に出れば、大仏のある高徳院、十一面観音のある長谷寺、それに海棠をはじめ、花の絶えないので有名な光則寺と、見どころは多いが、長谷は観光客が多いので、休日は避けた方が無難である。
 
「とはずがたり」考19 王権と仏法

 

「とはずがたり」とは何か
「とはずがたり」は、奇跡的な作品である。
このような言挙げは、いささか奇矯に過ぎるだろうか。しかし、これを読むごとに見いだされるものの豊かさは、あえてそう評したくなるような、深いうながしに満ちている。たとえば、その、書物としての伝来と発見の経緯からして、この言のあながちでないことを示すもののようである。
宮内庁図書寮の一隅に納められた唯一の伝本は、霊元天皇筆の外題を付された五冊の写本である。宮廷に伝来した日記・物語類を後世に遺すための書写事業の一環として写されたものという。遡ればその底本は、さらに室町期に書写された、いわゆる禁裡本にもとづくものらしい。
山岸徳平によって、昭和13年に見いだされたその本は、どうした訳か、地理・紀行の部に収められていた。記された事柄が、あまりにもあからさまに皇室の内々にわたるものであったがため、その本文が公にされたのは戦後になってからのことであった。
一読した人々は驚倒した。そこには、中世宮廷の奥深い帳(とばり)のなかで、当代の貴顕たちのなまなましい姿が、主人公である作者との性のかかわりのうちに、あざやかに描き出されているではないか。中世宮廷の秘事というべきものをふかく籠めたこの書物を、他に流布させることもなく、当の宮廷自身が、かろうじて細い糸の続くように一本を伝えていた。それは皮肉な偶然というばかりではすまない、或る何らかの意志を感じさせる。
そのうえ、鎌倉時代の宮廷史を叙(しる)した「増鏡」が、これから相当な量の記事を転用しながら、その名を挙げるどころか、至るところに登場する作者の存在までほとんど抹消していることが明らかになった。当世流にいえば剽窃というところであろうが、そのような根の浅い現象では決してない。
「増鏡」の作者は、「とはずがたり」という作品とその作者の存在を悉知し、この作品の意味するものを充分に承知しながら、その上で、確信犯的に、あえてその名を秘匿し、紛らかして、よそごとのように書き改めている。両者を較べてみると、それが周到で意図的な操作によるものであることがあきらかとなる。それでいながら、ただ一箇処、「とはずがたり」の作者を登場させるところがある。それは、「とはずがたり」には存さない部分、作者が宮廷を追放されたあと、伏見天皇の中宮として西園寺実兼の娘※子が入内する儀式においてである。作中では北山准后九十賀の儀をもって宮廷生活の最後を飾ろうとする作者にとって、この出仕が心に染まぬものであったことはいうまでもない。それが「増鏡」「さしぐし」では、(本来の二条という名より品下れる)「三条」なる女房名しか与えられずいたく嘆く、という点景として添えられ、暗にこの作者の存在をうかびあがらせている。持明院統の復活、すなわち後深草による院政の開始と、伏見帝と永福門院(しょう)子の許での、京極派歌壇の栄光の舞台ともなった華やかな宮廷の幕開けというべき盛儀の最中に、それは不似合に割り込んでいる。それは、「とはずがたり」に描かれたこととその作者を知ってみれば、謂くありげな、目くばせでもしているような一節であった。
「とはずがたり」は何を描こうとしたものなのか。その世界とはどのようなものか。中世文学史には名こそ挙げられるが、とうてい教科書では扱うべくもなく避けられていることが、ある意味でその本質をよく物語っているようである。いま、試みに語ってみようとすると、それは大層難しく、危ういことのように思われる。その内容が皇室の秘事を暴露したものであるからというのなら、もはや禁忌にはばかり遠慮すべき時世でもなかろう。むしろ困難や危うさは、それをどのような“作品”として把えるか、というわれわれの側の認識にあるだろう。
たとえば、作者は若くして上皇の想い者となり、正妃たる女院の嫉視のもとで皇子までなしながら、幾人もの貴顕とひそかに交渉を重ね、あまつさえ皇弟の法親王と道ならぬ恋におち、やがて破局を迎え、宮廷を追放され、尼となって諸国を西行に倣って修行し、ついに院の崩御と葬送を見おくる、というような要約をしてみるとする。そうした語り口が思わずみちびき、設定してしまうような枠組が、いつかわれわれを縛っているということはないだろうか。それは一方で国文学という学問の領域の枠組でもある。そのなかで、この作品は、いささかならず扇情的な告白としての自伝−つまりは“異色の”中世女流日記として位置づけられてしまう。はたして、そうした分類におさまるものなのだろうか。
あるいは、こうした把え方もできるかも知れない。やがて南北朝の動乱という破局を、そして古代的王権の決定的な没落を迎える、その種子が蒔かれ、育っていった時代を「とはずがたり」は描く。王朝の栄華が幻想された後嵯峨院政の末にはじまる作者の宮廷生活は、その治天の君たる院の死とともに暗転し、夫というより仕えるべき主君であった後深草院が抱く皇統奪回の執念のもとに、敵手亀山院に対抗するための性的な貢ぎ物として、作者は翻弄された。その数奇な運命の叙述は、かく利用された作者の告発である−そのように見るのもまた、ことの一面でしかなかろう。宮廷秘史、裏面の稗史趣味ばかりでは、やはり、この作品がもつ振幅や深さを測りえない。
いまだなお、そうした言説ではとらえきれぬ何かを感じてやまない、「とはずがたり」じたいが、強いうながしを私に与えるのである。
ここには、たしかに何かが実現されている。中世の一人の女性が、虚実をとり交ぜながら、一箇の作品として表現しようとする、その紛れもない主体的な意志が、「とはずがたり」にはつらぬかれている。それは、さきだつ豊かな古典の伝統や物語伝承をふまえており、また当代の物語や絵巻そして説話とも密接なつながりがある。それら多層の次元を重ね合わせながら、そのうえに立ちあがり、語りかけてくるのは、既にして、それらには還元できない何か決然とした骨太な訴求である。それをかたち造っているのは、もはや平安の仮名文学ではない、さまざまな領域から拉し来たった文体や修辞によって構成された、豊かな中世の散文の精神である。
すでに、「とはずがたり」について、これを広く中世の女流日記−とりわけ天皇に仕える内侍の日記と対比しつつ、それらに共通する主題としての“中世の王権”のすがたを論じようと試みたことがある。(※)そこに、中世の王(天皇と院と)に奉仕する女房(とそのエクリチュール)が、いかにその“王権”をあらしめるか、という視点を設定してみた。さらに、内侍ならぬ、院の「女官風情」でしかなく、しかもその社会から逸出してしまった者の残したテクストにそれを求めてみようとしたのである。院という、きわめて中世的な王権のありかたが、作者−主人公の“性”を通して、そこに露わに照らし出される。
“王権”を注視したその考察において、あえて省いたのは“宗教”であり、とりわけて仏教であった。中世のことばに置き換えるなら、「王法」に対して「仏法」と称してもよい。中世国家がその組織体系を欠いては存在が成り立たなかったように、その一種の縮図である「とはずがたり」の世界もまた、宗教の主題が一方の重い極をなしている。たとえば、作中の主人公による出家や遁世など仏道への想いを告げる表現をとってみても、仏教の唱導・教化に由来する経典・聖句などの多さは驚くばかりである。そうした表現の彼方に潜んでいるものがある。それは、中世にあって、すべて世界が冥と顕とにおいて認識されていたことと等しく、秘かな、隠されたものである。この作品のなかに、容易にその貌をあらわさぬ主題があるのではないだろうか。いま、ここに探ろうとするのは、それをあきらかに照らし出そうとする試みにほかならない。
「とはずがたり」の宗教世界
「とはずがたり」は、全篇が濃厚な宗教色に覆われている。主人公たる作者の、一貫した出世間へのあくがれと願い、そして思いを遂げ出家し修行の道を辿るありさま、その道程の至るところに宗教性が満ちている。しかしそれは、単彩の求道一色に塗りつぶされた絵柄ではない。その逆縁としての世間すなわち宮廷における恋愛の種々相と当代の王権をめぐるせめぎ合いが、作者を巻き込んで渦巻いていた。その渦中にあって悩み苦しんだ彼女の生々流転が、むしろその求道をあらしむる。
「とはずがたり」における宗教性、それがいかなるものであるかを把えようとする。そのように方向を定めてみても、またこの宗教の諸相も多重にして複雑なすがたを呈していることに、ただちに気付く。これを平面的に羅列してみても、さして意味はない。あるいは、それを作者の立場や視点のみに限定して一元的に論ずるような先入主も、この作品における宗教性をかたち造る過程を一面のみで把えることにしかならないだろう。そこに、作者を−そして作品を−かく在らしめ、導くにいたる契機や媒(なかだ)ちとなるべき何者かが注視されなければならない。それは作品世界のなかで、登場人物であったり、場であったり、説話・伝承であったりするであろう。いま、そのなかの或る人物を中心にして、ひとつの場を視座として、「とはずがたり」の世界−その宗教性の意味するもの−を考察してみようとする。
そのとき、「とはずがたり」の宗教牲を体現するような人物として、作者自身と深いかかわりをもった「有明の月」という隠名で呼ばれる高貴な僧侶が浮かび上がってくる。作者と有明との関係のすべてが、「とはずがたり」のなかで宗教なかんずく仏教の占めている位置とその意味を象徴的に集約している、と言ってよかろう。作者だけに注目して読むのでなく、むしろ有明の存在に着目し、かれとの関わりのなかでこの作品がどう読めてくるか、ひいては、その宗教的なるものがどのように立ちあらわれてくるか、ということを眺めてみようと思う。
有明は、作品中においては、前半の巻三までしか登場せず、後半の四・五巻には全く言及されない。とくに巻二と巻三における強烈な存在感からして、この落差は奇妙なほど大きい。一般に「とはずがたり」は、前半と後半とに分かたれるが、それは描かれた世界や作者の境遇の違いばかりでなく、文体の面でも、執筆の姿勢の点でも、質的な位相の差異が指摘されている。有明のこともその要素のひとつに挙げられている。前半にあって尋常ならぬ情熱の昂まりをみせて悲劇的な結末を迎えたのとは打って変わり、後半は後深草院が作者にとってただ一人の男性として思いを捧げられており、これに対置し回想されるべき存在としてさえ、有明は全く伏せられてしまっているのである。この現象をいかに理解するかという点でも、これまでの研究では説得的な解釈を提示していないようである。
これについて、ひとつの試案を提出してみよう。有明をめぐるそうした“現象”が、「とはずがたり」のなかで、どのような宗教世界の許に、いかなる深層の構造に支えられ在らしめられているのかを、解読してみようとするのである。
宿願の行く末
「とはずがたり」の跋文は、作者が、院の崩御の後、「かこつべき御事ども跡絶え果てたる心地して侍り」もっとも聞いて載きたかった院が亡くなられてしまって、内心に抱き続けた「御事ども」を伝うべき道はもはや無くなったものと思い切っていた、という。それこそは、例の宿願のことであり、また、その発起の由来となった纏末、すなわち前半における院との関わりと有明との間の秘密に他ならない。後半に有明の名が一切あらわされないのは不思議ではない。院にもついに告げずにしまった秘められた宿願−祈りの対象であったのであるから、むしろ、あらわさぬことに意味があった。「かこつべき」とは、それを一人抱き続けたまま歩んでいかねばならぬ作者の修行の遙かな道程をさすのである。
むろん、それは完全に果たされた訳ではなかった。
五部大乗経の書写・供養にしても、いまだ涅槃経の一部を残している。跋文のなかの「宿願の行く末いかがなり行かんとおぼつかなく」は、直接にはそれを指すものだろう。しかし、一人ひそかに抱いていた「年月の心の信」も、人丸影供にはじまる夢想と感得、そして女院との邂逅により、「さすが空しからずや、と思」われた。そうした吾が身の過ぎ越し行末を一人限り胸の内に秘め続けているのも「飽かず覚え」、その上に己が「修行の心ざしも、西行が修行の式」を羨しく覚えてこそ思い立ったものなので、「その思ひを空しくなさじばかりに」この記を書きしるしたのだ、と結ぶのである。
その跋文のなかでも、やはり「宿願」と「修行」が執筆の動機と分ちがたく言われるように、「とはずがたり」の成立−叙述をうながし、つらぬいているのは、作者の生と一体となった仏法にもとづくところの願いであり、行(おこな)いであった。それは、作者の関わったすべての仏事の営みでもある。たとえば有明との宿縁の発端となる修法も含め、その何れもが無意味な後景や記録ではない。あるいは、作者が私に主体的に始め、やがては修行として営み続けた仏事は、結縁も含めて、それらが互いに機縁をなし、不思議な冥合や照応、または夢想や感得などと重なりあって織りなされ、それらは総じて「宿願」の成就をめざしているのである。
それは、“王の生と死”を祈り司(つかさど)るべき高僧を、却って魔縁−悪道に誘(いざな)うことになってしまった“王と契りを結びし女”が、その生に課せられ、また自ら誓って負うたのでもある、重いつとめではなかったか。跋文中の「西行が修行の式」に西行に託して告げているのも、その己れの修行の隠された真の意図なのであろう。さまざまな位相のなかに連ねられる種々の仏事は、そこで、何より作者の引き受けたひそかな願いと祈りを、しだいに実現し成就を期す過程としてあらわされる。そこに、「とはずがたり」がすぐれて中世の宗教文学であるゆえんがあろう。
 
「とはずがたり」考20 時代背景

 

宮廷の左義長
正月15日は小正月、いまでも民間でさまざまな行事が行なわれる日である。甲信地方では道祖神祭がこの日に行われる。ドンド焼といって、さまざまなものを焼くのである。宮廷でも清涼殿(せいりょうでん)の東庭に青竹をたばねて立て、毬杖(ぎっちょう)三個をむすび、短冊や天皇の吉書を焼くのが古くからの年中行事であり、これを左義長(さぎちょう)といった。この日小豆粥(あずきがゆ)を食べる風習はいまものこっているが、その炊事に用いた薪(たきぎ)で女の腰を打ちあい、男子誕生を祈ることも行なわれた。粥杖(かゆづえ)打ちという。
この年(文永一二年)、後深草の御所での粥杖打ちはたいへんにぎやかであった。上皇自身が近習(きんじゅ)の男を召しあつめ、逃げる女房たちを追いかけ、打ってまわる。これをくやしく思った二条をはじめとする女房たちは、18日、こんどは上皇を待ち伏せして、さんざんに打ちすえた。
「あやまった」といった上皇はさらに悪ふざけをはじめ、タ方の食事のとき、公卿たちにこのことを話して恨みごとをいい、とうとう、二条が発頭人(ほっとうにん)として罪のつぐないをさせられることになった。二条の後見人や近親たちは、みなぎょうさんな贈物をつぐないとして、上皇や公卿にとどける。二条の外祖父四条隆親(たかちか)は上皇へは直衣(のうし)、楓(かえで)の小袖(こそで)一〇、太刀一振(ひとふり)を、公卿たちには太刀一振ずつ、女房たちには檀紙(だんし)一○○帖というたくさんなものをさしだし、西園寺実兼もたいへんな贈物をする。そしてこのことをいいだした上皇自身もまた、二条の父がわりなのだから、ということになり、自分の放言を自分でつぐなわなければならぬはめにおちいってしまった。いたずらの発頭人、18歳の二条はおかしくてたまらなかったと記している。
祈祷のかげで
しかしこのような、はなやかなにぎわしさの裏には、人々のさまざまな情念が渦を巻いていた。二条は久我雅忠の娘。二条の幼いころに死んだ母の大納言典侍(だいなごんないしのすけ)は、幼少の後深草に新枕(にいまくら)を教えたといわれ、二条を通じて、この典侍のおもかげを追いもとめたのか、上皇は二条の14歳のとき以来、彼女を「あこ」とよび、溺愛したのである。それは中宮東二条院公子のはげしい嫉妬をかきたてるほど、異常なものがあり、二条は上皇の皇子(2歳で夭折)まで生んだ。
こうした寵愛をうけて上皇と深くむすぱれながら、二条は権勢ある関東申次(もうしつぎ)、西園寺家の当主実兼の愛にもこたえ、皇子出産後、ただちに実兼の子をみごもっている(文永一○年)。この実兼との交渉はすべて上皇にかくれて行なわれた。二条が女子を出産すると、実兼はすぐにその子を、死産に終わった正妻の子とすりかえ、上皇には二条流産と報告させて、いっさいを密のうちに葬ってしまう。この女子は、成長して、伏見天皇の妃永福門院(えいふくもんいん)か、あるいは亀山法皇の妃昭訓門院(しょうくんもんいん)になった人であろうという。
そうした二条のまえに、この年、第三の男性があらわれた。例年ならば六条殿にある長講堂で行なわれる後白河院国忌(こき)の法華八講は、一昨年、六条殿が焼けたので正親町(おおぎまち)の長講堂で行なわれたが、その法会(ほうえ)に参じた高貴の僧から、二条はひたむきな愛をうち明けられる。その僧は後深草の異母弟、仁和寺御室(おむろ)の性助(しょうじょ)法親王であった。
8月、上皇は病にかかり、延命供(えんみょうく)の祈祷に性助が参院してきた。それまでも、何度か情のこもる手紙を二条のもとによこしていた性助に対し、迷惑に思いつつも、二条の心も動いてはいた。しかしこの祈祷のとき、上皇の用事で聴聞所(ちょうもんどころ)に行った二条は、ただ一人そこにいる性助に出会い、道場の側の局(つぼね)にみちびかれ、とつぜん性助に手をとられる。「仏のお心の中も恥ずかしいこと」というのもおよばず、二条はそこで性助と、あわただしいときをすごすことになってしまった。それからのち、性助の想いはつのる一方、「悪道に墜(お)ちるのは覚悟のうえ」とまでいって、激情を訴え、はなれようとする二条に、はげしい恨みを述べてくる。しばらくのち(弘安四年)、このことを知った後深草は、ふしぎにも二人のあいだを仲立ちし、後深草の公認のもとで、性助と二条との交渉はつづいたのであった。
上皇、高位の公卿、御室の法親王と女房二条との、このさまざまな交渉は、二条の作品「とはずがたり」のなかにえがかれている。
両統対立の萌芽
男女のこうした葛藤もからみつつ、宮廷のなかには、このころ深刻な政治上のもつれが生まれようとしていた。後嵯峨法皇の死後、後深草上皇と亀山天皇とのあいだに、しだいに溝が深まりつつあったのである。
それはすでに後嵯峨在世中からきざしていた。後嵯峨は、後深草が幼少から虚弱であり、性格的にも陰湿なところがあったのに対し、健康で闊達な皇子恒仁(つねひと)を早くから愛していたという。恒仁が亀山天皇として即位して以後、すでに出生している後深草の皇子をさしおき、文永五年(1268)、わずか2歳の亀山の皇子世仁(よひと)を立太子させたことに、その意思は露骨にあらわれているといってよい。
しかし崩ずるにあたって、後嵯峨は自己の遺志の明言を避けた。所領について、後深草・亀山への配分を処分状でしめしたのみで、「治天の君」については白紙のまま世を去ったのである。「治天下」の実権をにぎるのが上皇か、天皇かは、まったく幕府の決定にゆだねられた。これは承久の乱後、後嵯峨自身の即位にあたり、幕府が駆使した権限であり、後嵯峨はみずからのときの例にならったのである。
だが、二月騒動の直後の収拾に追われる幕府は、それを決定するのを避け、後深草・亀山の生母大宮院(きつ)子に、後嵯峨の遺志を聞き、それに従う態度をとった。大宮院の答えは亀山であった。かくて亀山天皇の親政が実現、やがて皇太子世仁は文永十一年、8歳で即位して後宇多天皇となり、亀山院政がひらかれたのであった。
それは天皇家の周辺にも大きな波紋をひろげた。関東申次として天皇家の外戚となって権勢をふるっていた西園寺家は、公経(きんつね)のあと、実氏(さねうじ)と洞院実雄(とういんさねお)の二流にわかれ、実氏流が関東申次の地位をたもっていた。しかし実氏の子公相(きんすけ)が早世したのに対し、実雄の娘※子(亀山皇后・京極院)の生んだ皇子世仁が皇太子に立つにおよんで、実雄の力は強く、年若な実氏の孫実兼は、関東申次の地位にありながら、実雄に圧倒されぎみであった。こうした実雄との対抗上、西園寺実兼は後深草上皇に接近し、とくに実雄が文永一○年に没するや、後深草をもり立てて、その権勢を張ろうと画策していた。二条はそうした後深草と実兼とのあいだに介在していたのであった。
しかし後深草にとって、前年(文永十一年)の後宇多即位は、決定的な事態のように思われた。皇位が完全に亀山流に継承されていく可能性は、これできわめて強くなったことはまちがいない。この年のはじめの、にぎやかな粥杖打ちの騒ぎのかげには、こうしたどうにもならぬ上皇のむなしさが隠されていたのであった。そして4月、上皇はついに尊号・随身・兵杖(ひょうじょう)を辞して、出家する意志を固めた。何人かの身近なものに出家の伴が命ぜられ、二条もまたそのうちにあった。しかし幕府はこれをしきりになだめ、両上皇の仲をとりもとうとしたので、後深草も思いとどまり、9月、仲なおりのために、亀山が後深草の御所富小路殿を訪れることとなった。二条もその席に侍っていたが、両上皇はたがいにうちとけて、酒宴や鞠(まり)などに一日をすごし、亀山は灯をともすころに帰った。ところがその翌日、二条のもとに亀山の使いが来り、想いを伝えてくる。そしてそれはこののちもたびたび重なったのである。
やがて11月、おそらくは実兼の運動が効を奏したのであろう。後深草の皇子煕仁(ひろひと)が皇太子に立つこととなり、後深草の前には、ふたたび大きな希望がひらけてきた。後深草と亀山は、その後も表面、兄弟仲むつまじく、たがいに訪問しあってはいるが、心中の溝がしだいに深まっていくのを、おさえることはできなかった。
建治元年(1275)の日本は、このようなさまざまな動きにいろどられつつ暮れていく。元軍再襲にそなえてあわただしく動く幕府、必死で恩賞をもとめる武士、寺社での祈祷、叡尊・日蓮・一遍などの思想家たちの動き、そこにわれわれははげしく動く時代をじかにみることができる。そして紀伊国の有田川の谷々での、百姓・地頭・預所の争いをとおして、この動揺の一つのみなもとをうかがうことも可能である。しかし前年の襲来は、この人々にとってはまだ遠い世界でのできごとだった。ましてやこの「とはずがたり」の世界にはいれば、前の年の襲来には一言半句の言及もない。そこでは、北九州での激闘も、まったくよそごとでしかないようにみえる。日常というのは、そういうものかもしれぬ。
しかし、二条に対する後深草の溺愛、行ないすました御室の法親王の心中に燃える、おそるべき呪詛(じゅそ)すらともなった情念を通じて、われわれは、鬱してなお爆発しきれぬ力の一端をみることができるのかもしれぬ。そして、後深草と権勢家実兼との二条をめぐる深いかかわり、さりげない遊びのかげに隠された、性格をまったく異にした二人の上皇の微妙な対立のなかには、やがてきたるべき分裂の萌芽をはっきりみてとることができる。それはまだ細い裂け目ということができるかもしれない。しかし前述したような社会の深部から発する矛盾は、貴族間の、権臣たちの大小の争いを通じてそこにくい入り、回復しがたい大分裂をみちびきだしてゆくのである。
 
「とはずがたり」考21 辞書辞典記述

 

「広辞苑」
とわず・がたりトハズ‥【問わず語り】人が問わないのに、自分から語り出すこと。源葵「あさましかりしほどの─も心憂く」。「─に語る」
とわずがたりトハズ‥【とはずがたり】鎌倉時代の日記文学。作者は中院源雅忠の女(むすめ)二条。五巻。1306年(徳治一)49歳ごろの執筆か。作者が1271年(文永八)正月14歳で後深草上皇と結ばれてからの宮廷生活の体験・感懐を記した三巻と、31歳で出家した後に諸国を遍歴した旅の見聞・感想を記した二巻とから成る。愛欲の記録としても注目される。
「日本国語大辞典」
とわず・がたりとはず‥【不問語】(1)〔名〕他人から事情をきかれたりしないのに、自分から話し出すこと。また、相手なしに一人でものをいうこと。ひとりごと。とわずがたらい。とわずものがたり。*蜻蛉(974頃)中・天禄二年「「身をしかへねば」とぞいふめれど、前わたりせさせ給はぬ世界もやあるとて、今日なん。これもあやしきとはすかたりにこそなりにけれ」*宇津保(970−999頃)蔵開中「いで、あやしのとはずがたりや」*天理本狂言・酒講式(室町末−近世初)「惣じてそちのむすこは、口のまめな者で手習はせいで人ごと云てとはずがたり斗する」*信長記(1622)一三・佐久間右衛門尉信盛父子御折檻の事「うちしはぶきつつ、問(トハ)ずかたリをしけるは」*読本「南総里見八犬伝(1814−42)六・六〇回「茶店のあるじが売弄問話(トハズガタリ)は、只世渡りの方便のみ」*雁(1911−13)〈森鴎外〉五「その婆さんが問(ト)はずがたりに云ふには」(2)(とはずがたり)鎌倉時代の日記。五巻。後深草院の二条(中院大納言源雅忠の女)作。前三巻は後深草院御所を中心に、文永八年(1271)14歳で院の寵愛を受けて以来のさまざまの愛欲遍歴とその感想を、後二巻は出家後、西行の跡を慕い、諸国行脚によって、懺悔修行の生活を送る次第とその心境、後深草院三回忌の感概などをしるす。愛欲生活と、それを超克してゆく魂の遍歴を直叙している。[方言]@問いもしないのにべらべらしゃべる人。饒舌家(じょうぜつか)。島根県鹿足郡725◇とろじかたり青森県北津軽郡073A訳の分からないことを言うこと。島根県出雲725[発音]トワズガタリ〈なまり〉トッパジカダリ〔岩手〕〈標準ア〉※〈京ア〉ガ[辞書]言海[表記]不問語(言)
「岩波日本史辞典」
とはずがたり とわずがたり 鎌倉後期の仮名日記。5巻。後深草院二条の作。14歳の年、後深草院の寵愛を得るが、産んだ皇子の夭折に遭う。西園寺実兼や仁和寺御室性助法親王とも逢瀬をもち、御所を退いてから31歳頃出家し、西行に倣って鎌倉・伊勢・奈良・厳島・坂出などを訪ね、院と再会して復交、のち院の3回忌を迎える。前3巻には華やかな後宮生活と愛欲の苦悩が、後2巻には出家後の修行生活が回想される。特異な体験や見聞は貴重な史料であり、構成・文体ともに優れ、一貫する人生史を構築したところが高く評価されている。〔新古典〕
後深草院二条 ごふかくさいんにじょう 1258(正嘉2)−? 鎌倉後期の日記文学作者。父は中院雅忠、母は後嵯峨院大納言典侍(四条隆親女)。後深草院の寵愛を得たが、上臈女房に終り、出家後、諸国修行の旅を試み、また自伝「とはずがたり」を執筆した。
「朝日 日本歴史人物事典」
後深草院二条/ごふかくさいんのにじょう/正嘉2(1258)-徳治1(1306)以後
鎌倉時代の日記文学作者。二条とも。大納言源雅忠と後嵯峨院大納言典侍(四条隆親の娘)の子。2歳で母を亡くし,4歳から後深草上皇の御所で育ち,14歳の年,上皇の寵愛を受けるが.15歳で父に先立たれ,生んだ皇子の夭折に遭う。幼なじみの西園寺実兼に言い寄られ,ひそかに契り秘密裡に出産。仁和寺御室(11代)の性助法親王(一説に10代御室の法助法親王)にも恋を告白され,上皇の許しにより逢瀬を持ったが,法親王は病没,その後御所を退いた。31歳ごろ出家し,西行に倣って鎌倉,伊勢,奈良,厳島,坂出などへ修行の旅に出る。旅先で上皇(のち法皇)と再会して旧交を温めあったが,やがてその死に遭い,三回忌までを迎えたことが自伝「とはずがたり」にある。この自伝全5巻の前3巻には華やかな後宮生活と愛欲の苦悩が,後2巻には出家後の修行生活が回想される。特異な体験が興味をひくが,それだけでなく,構成,文体ともにすぐれ,一貫する人生史を構築したところが高く評価されよう。
「鎌倉・室町人名事典コンパクト版」
にじょう 二条 1258-?(正嘉二-?)
鎌倉中期の貴族の女性。後深草上皇に仕え後深草院二条ともいわれる。二条は女房名で実名は不詳。大納言中院雅忠と父とし、四条隆親女を母として生れる。2歳のとき母に死別し、4歳から後深草院御所で育てられ、長じて院の女房となった。性助法親王・西園寺実兼などとも交際があった。正応元年(1288)出家し、翌年から全国を旅して歩いた。自分の一生を記した「とはずがたり」は当時の宮廷生活、地方の実情などが生き生きと描かれていて名高い。
「日本史大事典」
後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう/1258(正嘉二)−?
後深草院の女房で愛妾。日記「とはずがたり」の著者。後深草院の近臣久我雅忠の女として1258年(正嘉二)に生まれた。母の大納言典侍近子(四条隆親女)は、後深草院に新枕を教えた人であったが、二条が2歳のときに死んでいる。71年(文永八)14歳で後深草院の寵を得て御所に女房として出仕、翌72年には父の雅忠が死んで孤児となり、以後、後深草院のきまぐれな愛情に翻弄される宮廷生活を送った。一方で、院の近臣西園寺実兼や仁和寺の高僧(法助とする説と性助とする説がある)とも関係を結んでいる。これらの男性との間に少なくとも四人の子を生んでいるが、いずれも夭折したり生別したりして、晩年は孤独な単身者としての生涯を送った。後深草院は弟の亀山院と不和になり、これが持明院統と大覚寺統の対立という王家(天皇家)の分裂の危機にもつながっていくが、こうしたなかで二条は、後深草院の命令で、後深草と亀山の不和・緊張をほぐすため、亀山とも関係を結ぶ。しかし、これが後深草院の嫉妬となり、88年(正応元)二条は御所を追放されて出家、翌9年以後、みずからを女西行になぞらえて熱田・鎌倉・奈良・瀬戸内と旅の生涯を送る。1304年(嘉元二)の後深草院の死に際しては、後深草の葬送の車を裸足で追った。1306年(徳冶元)以後の消息は不明。
[参]「とはずがたり」新潮日本古典集成、新潮社。松本寧至「中世宮廷女性の日記」中公新書、1986年。
とはずがたり とわずがたり
後深草院の女房で愛人でもあった後深草院二条(中院雅忠の女)の日記文学。伝本は宮内庁書陵部に一本のみ伝わる。晩年にその生涯を回顧する形で綴られた自伝的作品で、全五巻から成るが、大きく前編三巻、後編二巻に大別できる。前編三巻は、1271年(文永八)、作者が14歳で後深草院の御所に出仕して以来、後深草院の寵愛を受けながらも、院の近臣の「雪の曙」」(西園寺実兼)、院の護持僧の「有明の月」(仁和寺御室性助・法助の両説がある)とも関係を結ぶなどの愛欲に満ちた宮廷生活が描かれる。後編二巻では、89年(正応二)後深草院のきまぐれな寵愛の果てに御所を追われて出家し、尼となった作者の東国鎌倉への旅、次いで西国への旅などが描かれる。二条はこの旅に流離するみずからを、女西行、あるいは小野小町の落塊した姿になぞらえている。そして、1304年(嘉元二)の後深草院の葬送に際して、その葬送の車を裸足で追った二条は、06年(徳治元)、院の女の遊義門院と再会し、院の三周忌の仏事を聴聞するところで回想は終わっている。鎌倉時代末期の後深草院の持明院統、亀山院の大覚寺統の対立が激しくなっていく時期の公家政権内部の実態を、女性の立場から描いた書物としても貴重である。
「新編日本史辞典」
とはずがたり とわずがたり 5巻.鎌倉時代の日記風自伝文学.筆者は大納言中院雅忠の娘で,後深草上皇御所の女房となり,上皇の愛人でもあった後深草院二条(実名末詳).巻1-3は,宮廷生活と,上皇はじめ西園寺実兼・仁和寺性助法親王らとの愛欲が中心.巻4,5は出家後,関東や中国地方などの旅と修行の記録で,1306年(徳治1)まで.この年からまもなくの成立と推定され,日記の体裁をとりつつ往時を回想したもの.一部虚構もあり,日記文学の伝統の上に,紀行文学を加味している.したがって文字通りの日記ではないが,すでに「増鏡」にも引用がみられ,宮廷生活や地方の事情について,注目すべき史料を含む.古写本は宮内庁書陵部蔵本が唯一.刊本は「岩波文庫」ほか.
「日本歴史大事典」
とはずがたり とわずがたり
後深草院の女房で院の寵人だった後深草院二条(久我雅忠女)が、晩年に己が人生を回顧して書き綴った作品。普通は日記文学に分類されるが、前代・同時代の物語文学の影響も強い。五巻。前半三巻では、院の寵愛を受けた14歳の春から御所を退出するまでの間の宮廷生活の苦悩が、「雪の曙」(西園寺実兼)、「有明の月」(通説では性助法親王)ら複数の男性との密通などを交えて描かれる。後半二巻は西行に倣って出家した作者の旅と修行の記で、後深草院への忠節と家門再興の願いとが仏道修行を通じて強調される。王朝文学のさまざまな分野の手法を集大成した作品であると同時に、同時代に多くいたと思われる天皇・院の寵愛を受けた女房が自ら書き残した記録としても貴重である。通説では作品の最後の記述がある1306年(徳治元)から13年(正和二)まての成立とされている。伝兼実(かねざね)筆という古筆切が存在するほかは宮内庁書陵部本が天下の孤本である。
「国史大辞典」
とわずがたり とはずがたり 鎌倉時代末期、徳治元年(1306)ごろ成立の女流日記。五巻。作者は村上源氏の名門久我(中院)大納言雅忠の女で、母は四条隆親の女大納言典侍。正嘉二年(1258)誕生。没年不詳。後深草院後宮時代の女房名は二条。一皇子を生んだが翌年夭折した。ほかに愛人との間に一女二男を生む。前三巻が宮廷生活篇、後二巻が御所退出出家後の紀行篇にあたる。作者の波瀾に富んだ一生を、みずから語らずにはいられぬという内発的な欲求から発想した特異な自伝文学で、文学史上また女性史上も高く語価されるが、記録文学としても多面的な資料を提供する。本書は鎌倉時代中期から末期ヘ、作者14歳、後嵯峨院の院政時代の終期あたりから始まる。朝廷では皇位経承の問題をめぐって後深草院と同母弟亀山院との間に対立が起り、対幕府の関係もからみ、持明院・大覚寺両統の迭立期を経て、のちの南北朝動乱の端緒となるが、この紛争の遠因をなす両院の対立の始まった時期の微妙な状況を、その一方の上臈女房であった作者の眼でとらえた貴重な記録である。前篇は後嵯峨院死没前後の状況、大宮院・弟院と兄院の不和、兄院の出家表明から一転して幕府の慰留と東宮決定、両院の交遊、廷臣間の官位の争奪、西園寺家の繁栄、准后貞子の九十の賀の盛儀など、後篇では将軍の交替、幕府要人平入道一門の動静などが、必要な時点で作者の見聞として正確に記述され、ことにつぎつぎ計画される両統の宴遊では、親睦の間にもみられる両院の性格の差と激しい対抗意識が、時には作者自身を中にして生々しく活写される。
社会的な事象としては六波羅北方北条時輔の伏誅、神木入京の騒擾、流行病の猖獗などに触れ、紀行篇では東国から近畿・中国・四国まで、各地で実際に見聞した熱田社炎上ほか地方史的な事象や人間交流を具体的に記録している。風俗史・精神史方面では、政治の実権を失った宮廷の頽廃漁色をはじめ、亀山院・鷹司兼平や西園寺実兼ら最高貴族と作者との関係、また作者との愛欲に身を滅ぼした有明の月(性助法親王とみられる)など、それぞれの人間像や宮廷の裏面史が、事件の当事者である作者の体験を通して鮮明に描き出されている。宮廷の内外でも、伝統の文化や宗教、新興の勢カや思潮が相交錯し浸潤してゆく状態がうかがえ、遊女の中にも、個我を自覚し自立しようとしていた事例を見出す。後篇では地方の武士や豪族、神官らとの文芸的交遊の記事が生彩をそえる一方、後深草院や亡父への追慕とともに、大覚寺統の後宇多院の皇后となっている院の皇女遊義門院への接近を力をこめて記述して筆を擱いているが、その直後に女院は急逝しているから、その後の作者の動静はわからない。自己の恋愛事件などを語る部分には、自己弁護や、文学的修辞がみられるが、全体としてきわめて大胆率直で文章も洗練されており、古典文学を完全に自分のものとして活用するほか、中世語や漢語も駆使し、今様や説話を紹介するなど、文学・国語史上にも貴重な資料である。「増鏡」もこの作品の各巻を材料として露骨に引用しており、これが秘本として一般に流布されなかったことを示す。本書は少なくも三回の転写を経ており、宮内庁書陵部蔵の江戸時代初期の写本五冊が、現在唯一の伝本である。翻刻本文は「校注古典叢書」などに所収。
「日本史広辞典」
とわずがたり〔とはずがたり〕 鎌倉後期の女流日記文学。五巻。作者の後深草院二条は源通親の曾孫で、源(久我)雅忠の女。4歳で後深草の院御所に迎えられ、やがて上皇をはじめ西園寺実兼・性助法親王・鷹司兼平、さらには亀山上皇などと次々に関係をもち、少なくとも四人の子供を生む 。30歳をすぎて出家し、鎌倉・善光寺・奈良・厳島から、四国・中国地方へと修行の旅を続けた。これは9歳のときにみた「西行が修行の記」に深く影響された結果という。「源氏物語」などの影響が強く、細部のすべてを事実とみるのはためらわれる。「増鏡」に材料として利用される。「完訳日本の古典」「新日本古典文学大糸」所収。
「日本女性人名辞典」
後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう 正嘉二年(1258)-没年不詳
鎌倉期の日記文学作者。父は中宮大納言源(久我)雅忠、母は大納言四条隆親の娘近子。母が大納言典侍として後深草天皇に仕え寵愛をうけた関係で、幼時から後深草上皇に近侍し、二条と呼ばれ、文永八年(1271)上皇の寵を得る。その一方で上皇の謀臣西園寺実兼と恋愛、また関白鷹司兼平、上皇の弟性助法親王と交渉を持ち、亀山天皇とも噂を立てられた。上皇の子、実兼の娘、法親王の子二人などを生むが、いずれものちに死別または生別している。のち宮廷を辞し、正応元年(1288)伏見天皇の中宮永福門院(実兼の娘)の入内に伴い再出仕して三条と呼ばれる。翌二年出家し、鎌倉を中心に東国を、乾元元年(1302)厳島から四国、中国を巡る。帰京後、後深草上皇の死没にあい、一代記「とはずがたり」五巻の執筆をはじめる。「とはずがたり」は、後深草上皇(持明院統)と亀山上皇(大覚寺統)との対立、政治の実権を失った宮廷の退廃と漁色などを、自己をも客観化した率直な筆致で描き出し、さらに女西行とも評される自己形成の旅は、朧化と自己観照を主とした平安期の女流日記文学とは一線を画している。文学史上、女性史上高く評価されているばかりでなく、「増鏡」に多量に引用されているように、記録文学としての価値も高い。嘉元四年(1306)作者49歳の記事で終っているので、この年をそう下らずに完成したと推定される。
「和歌大辞典」
とはずがたリ 〔鎌倉期日記〕作者は源雅忠女、二条。現存写本は宮内庁書陵部蔵禁裏本(桂宮本叢書15)一本のみ。成立は嘉元四1306年から徳治二1307年7月の間か。品高き久我家の女でありながら、後深草院後宮に出仕し己が愛欲体験に基づき、在鎌倉政権下の京都宮廷内部の退嬰ぶりを活写すること空前絶後(一-三巻)。忽然として尼僧の姿を現す四・五巻にあって、東は長野善光寺、西は厳島、足摺押へと行脚した記は紀行文学として秀逸、女西行といわれるのも故なしとしない。同じ女流日記文学とはいえ、平安朝のそれとは朧化しない筆致において格段の差があり、異色な作品。他人の歌五○首を含み、一五○余首の詠を含む。
【参考文献】「とはずがたりの研究」松本寧至(昭46桜楓社)「問はず語り研究大成」玉井幸助(昭46明治書院)*「とはずがたりの構想」和田英道(立教大学日本文学昭51・12)
(参考)
後深草天皇 ごふかくさてんわう 〔鎌倉期歌人〕名は久仁。寛元元年(1243)6月10日−嘉元二年(1304)7月16日、62歳。第89代天皇。寛元四年から正元元年(1259)まで在位。父後嵯峨院は後深草院(持明院)より同母弟亀山院(大覚寺)を鍾愛、のみならず亀山院皇子世仁親王(後宇多院)を春宮とし、後深草院を疎外する。後深草院の愁訴により幕府が調停に入り、皇子煕仁親王(伏見院)を後宇多院の春宮とし、以後両統交互の皇位継承となるが、時と共に両統の対立は沈澱しつつ南北朝への因を形作って行く。後深草院の人となりの一種独特の異常性は「とはずがたり」に活写されてあますところがない。玉葉集に一首入集。
「増補改訂 新潮日本古典文学辞典」
後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう 正嘉二−?(1258-?) 鎌倉後期の日記作者。村上源氏、中院大納言雅忠の女。後深草院に仕えて二条と称した。正応元年(1288)、伏見天皇の中宮永福門院※子の入内の際に再び宮仕えし、三条とよばれたこともある。※金へんに「章」
その日記「とはずがたり」は、自身の生涯を顧みて問われずとも語らずにはいられぬ衝動からつづった自伝的作品。混沌たる愛欲世界を超克して宗教に浄化されていく過程を叙した懺悔修行の記録で、ここにみられる鋭い人間観察と真摯な宗教心とは、いずれも中世的精神の現れであるが、かくまで大胆に赤裸々に自己を暴露し、現実を果断に描写しきった作品は他にまったく類例がない。まさに女流日記文学中最高級に属する傑作である。「とはずがたり」中の行事などに関する部分を、「増鏡」が資料として、「飛鳥川」「草枕」「老の波」「さし櫛」などの巻々に採用している。
【とはずがたり】とわずがたり 日記。五巻。正和二年(1313)までには成立した徴証があるが、おそらく嘉元四年(1306)以後そう距らず成ったであろう。初めて後深草院の寵を受けた文永八年、作者14歳のときから起筆、翌年、後嵯峨法皇崩御のあとを追うように父が死んで孤児となる。院と並行的に「雪の曙」(西園寺実兼)との秘密の交渉を続け、罪の呵責に悩む(巻一)。高僧「有明の月」(後深草皇弟、仁和寺性助法親王説と藤原道家子、准后法助説とがある)から執拗な求愛を受け、心ならずも身をゆだね、また、院の慫慂で「近衛大殿」(摂政鷹司兼平)にも許す(巻二)。「有明の月」とのことはついに院に知られ、許されて一段と熾烈な恋に陥ったが、「有明の月」は悪疫に罹ってあえなくこの世を去る。以前より二条に愛情を示していた亀山院とも遂に関係をもつに至ったが、その噂、東二条女院(後深草中宮)の嫉妬などもあり、後深草院の寵愛の衰えた作者は、御所を追われるに至る。その後は弘安八年北山准后九十賀に出仕した(巻三)。出家を遂げた作者は西行に倣って正応二年東国の旅に出る。鎌倉で将軍惟康親王の罷免、新将軍久明親王の下向などに際会。翌年善光寺参りを果したという。浅草観音を拝み、隅田川その他の歌枕をたずねて帰京。また奈良路におもむき、諸社寺を巡礼、翌年は石清水八幡宮で後深草法皇と再会、ついで伊勢大神宮に詣で、翌年招かれて法皇と往時を語りあう(巻四)。乾元元年西国厳島に参拝。ついで四国足摺岬にもおもむいたとしるし、崇徳院旧跡をも訪れた。帰途備後の土豪の許に立ち寄って思わぬ難儀にあい、修行の辛さをつぶさに味わって帰京。嘉元二年後深草法皇崩御にあい、悲嘆にくれる。記事は法皇三回忌の嘉元四年作者49歳までで擱筆(巻五)。
「日本古典文学大辞典」
後深草院二条 ごふかくさいんのにじょう 鎌倉時代の日記文学作者。後深草院に仕えて二条とよばれ、伏見天皇中宮※子(西園寺実兼の女。永福門院)入内の折には、三条とよばれた〈増鏡・第十一さしぐし〉。中院大納言源雅忠の女。母は四条大納言隆親の女近子。正嘉二年(1258)の誕生。「とはずがたり」により、嘉元四年(1306)49歳までのことがわかるが没年未詳。
【家系】父方は村上源氏で、代々有力な政治家や勅撰歌人が出ている。曾祖父は土御門内大臣源通親、祖父は後久我太政大臣通光である。雅忠は具平親王から八代にあたり、二条自身歌道の名門であることを「竹園八代の古風」と誇っている。母の近子は、後深草天皇に仕え、大納言典侍、略して「すけ大」とよばれ寵をうけたが雅忠と結婚、二条を生んだ翌年に死去。二条は近子の忘れ形見として後深草院に愛された。
【閲歴】弘長元年(1261)9月、4歳で院御所に参り、9歳の時、絵巻「西行が修行の記」をみて西行を慕い諸国行脚にあこがれる。文永八年(1271)後深草院の寵をうける一方、西園寺実兼の求愛もうけ入れる。当時は後嵯峨法皇の院政下にあり、後深草院は院政を行えない不満から、実兼と結んで、皇子(伏見天皇)即位への運動を進めていた。同九年父の死で孤児となり身辺の不安定さから実兼のほか鷹司兼平・性助法親王(法助とする説もある)と交渉をもつ。
これらの男性達との間に少なくとも四人の子を生んだが、夭折したり生別したりして、その後半生は孤独であった。二条を永福門院の実母とする説もあるが、疑わしい。また亀山天皇とも噂を立てられ、それらも一因となって後深草院の愛情も冷え、宮仕えを退く。弘安八年(1285)北山准后九十賀に連なり、正応元年(1289)永福門院入内に出仕したが、その後出家し、同二年2月鎌倉を中心に東国をまわる。乾元元年(1302)厳島から四国・備後等を旅する。帰京ののち後深草院の崩御にあう。そこで生涯の意味を求めて「とはずがたり」五巻を書いた。二条は伝統の世界に育ちながら、それを捨てて旅と信仰に新しい生き方を見出したところが中世的人間であるが、作家としては王朝的なものと中世的なものを統合した散文作品を残した点が注目される。しかし、和歌界に名をとどめることを望みながら、ついに勅撰集に入集することはできなかった。[生没]1258−?
【参考文献】次田香澄「とはずがたり」(日本古典全書)昭和41年。○松本寧至「とはずがたりの研究」昭和46年。○玉井幸助「問はず語り研究大成」昭和46年。○宮内三二郎「とはずがたり・徒然草・増鏡新見」昭和52年。
とはずがたり とわずがたり 五巻 日記文学。後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)作。作中の後宇多天皇の注記からの割出しで正和二年(1313)11月17日以前に成立していたことは確かだが、記事最終の嘉元四年(1306)をそう下らずに成ったのであろう。
【作意】鎌倉時代後期、後深草上皇に愛された女性が過去を回想して綴った自伝的作品。「とはずがたり」という題名は作者自身の命名と思われるが、この語が示すように自己の体験・見聞を語らずにいられない衝動に駆られて書いたものである。跋文にも、廃れようとしているわが家の歌道の誉れを再興しようとしたが成功しそうもなく、そのかわりに、華やかだった宮廷生活のこと、西行の跡を慕っての旅の思い出を書いた、といっている。後深草院崩御後の悲しみと孤独感のなかで、自己の存在証明のためには自伝的作品を書く以外になかったであろう。全五巻を大きく前三巻・後二巻に分けると、前編は後深草院御所の生活、後編は東国・西国の旅がおもな内容になっている。宮廷における愛の遍歴、快楽と苦悩と、それを捨てて出家し諸国行脚の仏道修行に新しい生き方を求めて行く女人の生涯を述べたものである。
【梗概】巻一 −二条が後深草院の寵愛をうけた文永八年(1271)14歳の正月から起筆。翌年、父が死んで孤児となるが、院と並行して「雪の曙」(西園寺実兼)との秘密の関係を続け、罪の呵責に悩む。巻二−高僧「有明の月」(院の異母弟性助法親王、法助とする説もある)の求愛をうけ、また院のはからいによって「近衛大殿」(鷹司兼平)にも身を委ねる。巻三−「有明の月」との関係は院に知られるところとなったが許されて、灼熱の恋として燃えさかる。しかし、かれは流行病にかかって死ぬ。亀山天皇とのことも噂となり、東二条院(後深草院中宮)の排擠にもあって、やがて寵衰えた二条は御所を退出することになる。その後、北山准后貞子九十の賀の盛儀に大宮院女房として出仕する。巻四−かねて念願していた出家を遂げた二条は、西行にならって東国の旅に出る。鎌倉を周遊するうち、将軍惟康親王が廃されて都へ護送されるあわれな様を目撃する。ついで後深草院の皇子久明親王が新将軍として下るその御所の準備などに参画する。
ついで小川口(埼王県川口市)に下って越年、善光寺参詣をすませて高岡石見入道の邸に逗留。帰途、武蔵野の秋色をめで、草深い浅草寺に参り、隅田川・堀兼の井などの歌枕をたずねて鎌倉にもどり、帰郷。まもなく奈良路をめぐり、途中石清水で後深草法皇と再会。また伊勢から熱田をまわる。伏見御所に招かれて法皇と往時を語りあう。巻五−それから九年後、正安四年(1302)安芸の厳島をさして旅立つ。厳島からの帰途、足摺岬に行き、帰って西行にならい白峰・松山に崇徳院の旧跡を訪う。またもどって備後の和知に行き、そこで二条の教養が高く評価され、落ちとどまるようすすめられ、豪族間の争いに巻き込まれて、下人にされそうになるが、かつて鎌倉で会ったことのある広沢与三入道に救われて帰ることができた。嘉元二年正月、東二条院崩御、ついで7月に後深草法皇の病悩のことがつたわり、心を悩ますが、ついに7月16日崩御。悲嘆にくれて裸足のまま霊枢車を追う。その後に法皇三回忌までのことがある。
【特色・影響】愛欲編・修行編は霊と肉の相剋であり、混沌と浄化という対照であるが、一体に立体的に構築されているのが特徴である。後深草院と実兼の性格の相違、または院が好色の対象として召した扇の女とささがにの女の対比、東国の旅と西国の旅、陸路と海路もそうで、作者の論理的な思考と知的な創作力を示す一端である。そして各巻にクライマックスの場面を設定している。物語文学の影響も顕著で、「源氏物語」の影響はもっとも濃厚であるが、構成の巧みさは「狭衣物語」からうけ、女性を主人公とし心理描写の詳しいことは「夜の寝覚」に学んでいる。「伊勢物語」からも想を得ている。説話文学や当時流行の絵巻にも関心を示す。「豊明絵草子(とよのあかりえそうし)」はその絵詞の類似性から二条作者説もあるが、「とはずがたり」の影響作であろう。そのほか先蹤作品から多くを吸収して、虚構的な要素もつよい。史実との矛盾は作者の記憶違いという点もあるが、意識的なものも多い。
例えば「有明の月」に関する記事と史実との矛盾ははなはだしいが、作者はもちろん事実を書くより人間性を書くことに目的があったのである。地理の上でも不審が多く、足摺岬行きは虚構とみられている。父への思慕と報恩の念から歌道の誉れを再興したいという宿願をもって作歌に執心するが、これは狂言綺語観の展開であり、文学即仏道という考えで、執筆の背景をなす思想である。旅は西行にならったというが、足跡は一遍と重なるところが多く、二条と時衆は近接関係にあったと思われる。歌も作中に一五八首あるが、大部分は作者の創作であろう。「とはずがたり」は「蜻蛉日記」以来の女流日記における自己観照の精神を仏教によって中世的に自己形成という形で達成した作品である。日記文学の伝統と中世の新しいジャンルである紀行文学の要素とを加えた日記文学の総決算としての意義がある。なお、「増鏡」の「あすか川」「草枕」「老の波」「さしぐし」にかなり多量の引用があり、この歴史物語の重要な資料となった。
 
「とはずがたり」考22 鎌倉 作品解説4

 

後深草院二条
霜月騒動の女房であった後深草院二条(父は中院大納言・久我雅忠、母は大納言典侍〜四条隆親の娘。)がその人で、「正法眼蔵」を記した曹洞宗の開祖・道元の父・源通親の曾孫にあたる人でもある。
彼女の手になるとされる日記文学「とはずがたり」の伝本は、「宮内庁書陵部」に一部のみが伝わるという非常に珍しいもので、昭和13年になってはじめてその存在が確認された、という来歴もなかなか謎めいているが、鎌倉時代末期、後深草院(持明院統)と亀山院(大覚寺統)の対立が激しくなっていく時期の公家政権内部の様子を女性の観点で描いた作品として、貴重な文献とされる。
後深草院二条が晩年に自らの生涯を回顧する形で綴った「とはずがたり(問われもせぬのに語る)」は、全五巻から成り、前編三巻と後編二巻に大別される。
前編三巻は、文永八年(1271)に作者が14歳で後深草院の御所に出仕して以後、院の寵愛を受けながらも、院の近臣「雪の曙(関東申次の西園寺実兼)」や、院の護持僧「有明の月(仁和寺御室性助入道親王、或は法助法親王とされる)」とも関係を結ぶという宮廷生活が描かれる(二条は後深草院の皇子を生むが、皇子は早世。「雪の曙」とのあいだには女児を、「有明の月」とのあいだには男児を生む。)。そして26歳のとき、後深草院の中宮・東二条院の排斥にあい一旦御所を退くが、その2年後には大宮院(後嵯峨中宮で、後深草・亀山両天皇の母。)の女房として再出仕する様子も記される。ちょうど「元寇(1274年・1281年)」の頃の話であるが、「元寇(→【霜月騒動(5)「元寇」前夜】)」についての記述は全くない。
後編二巻は、正応二年(1289)に後深草院のきまぐれな愛の果てに御所を追われ、出家して尼となった作者の東国鎌倉への旅、次いで西国への旅などが描かれる(ここで二条は、旅に流離する自らの姿を「女西行」あるいは「小野小町」の姿になぞらえている)。そして嘉元二年(1304)、後深草院の葬送に際して、その葬列の御車を裸足で追った二条は、徳治元年(1306)に那智熊野への参詣の際、院の娘・遊義門院と再会し、院の三周忌の仏事を聴聞するところで回想は終わる。
その彼女が、正応二年(1289)3月下旬、諸国遍歴の旅の途中に、鎌倉を訪れた。32歳のときのことだ
化粧坂
前項の「とはずがたり」によれば、正応二年(1289/「霜月騒動」の3年後)3月下旬、後深草院が鎌倉入りした際のルートは以下の通りだ。
@極楽寺/僧侶たちの振舞いが京風で、親しみを感じる。(極楽寺の西の谷は「大庭御厨」の飛地で、「聖福寺鎮守の十二社の神殿」があった。)
A化粧坂/近江と京都の境界にある東山から京市内を見る(伸びやかな)風景とは違って、家々が階段状に重なるように並ぶ「袋の中に物を入れたるやう」な(建て込んだ)様子に興ざめする。
(「鶴見寺尾図」の域内にも、すり鉢状の盆地のような地形に家々が張り付くように建ち並ぶ場所がある。この景色を見るのに絶好のポイントは、綱島街道沿いの「神奈川ロイヤルゴルフクラブ」から横浜火力北線の送電線を西に辿りながら2分ほど進んだ6号鉄塔の手前〜「ダイアパレス」と「シティクレスト」という集合住宅の間〜か、綱島街道沿いのバス停「神奈川中学校下」あたりである。
B由比浜/大鳥居がある。遥か遠くに若宮の社を眺めると、父(中院大納言・久我雅忠)の死の翌年(文永十年・1273)正月に、男山八幡(久我家の氏神)へ参拝し、父の生所を知りたいと祈った時のことが思い出され、わが身の来し方や行く末を思って(落涙しそうになり)着物の袖を広げるが、泣くまいと思う。伝説の美女・小野小町も、「古事記」や「日本書紀」にある「衣通姫(そとほりひめ/「日本書紀」では允恭天皇天皇の妃とされる。名は「弟姫(おとひめ)」。)」のご嫡流だというのに、後年は身をやつしてもの思いにふけった、と書物にあったことなどを、とめどなく考える。
C若宮の御社/京の男山(岩清水八幡宮がある。木津川・桂川・宇治川の合流地点で、京〜難波間の交通の要衝。)に比べて、遥か遠くまで海を見渡すことが出来ることに好感を持つが、大名たちが「浄衣(じょうえ/狩衣に似る。潔斎の服として神事の時に用いられる。)」ではなく、さまざまな「直垂姿(ひたたれ/武士の幕府出仕用の平服)」で参拝する様子には違和感を覚える。
「化粧坂(けはいざか)」の地名は、鎌倉以外の場所にも見られ、その多くは中世の国府や守護所の近辺にあるという。伝承などによれば、上代や中世には、境界で「身だしなみを整える」という風習があったようで、「けはいざか」とは「境界の場」の通称であった、ともされている。
鎌倉七口のひとつ「化粧坂」は、「仮粧坂」とも記され、鎌倉時代には武蔵国・国府(現在の東京都府中市・国分寺市あたり)から上野国(現在の群馬県)へ向かう「上道」の出入口であり、鎌倉時代初期には武蔵国の東へ向かう「中道」や「下道」も、ここを通った可能性があるとされる場所だ。
つまり「化粧坂」は、鎌倉市中から武蔵国府へ向かう道の途中で、鎌倉の内・外を眺めるられる境界に位置し、建長三年(1251)頃には、「亀谷辻」と同様、坂上に物流拠点(市場・商店街)が設けられ、おおいに賑わっていた場所ということになる。
そして鎌倉幕府滅亡の2年前には、「元弘の変(1331)」で捕らえられた日野俊基がこの坂上で斬首され(明治時代に日野俊基を祀る「葛原岡神社」が建てられ、現在は日野俊基の墓もある。)、幕府滅亡の1333年には、(化粧坂山上の北側にあたる)「葛原」が戦場となり(「梅松論(南北朝時代の歴史軍記物語。1349年頃に成立。)」)、また新田義貞はこの坂を突破できず、稲村ヶ崎へ迂回して鎌倉市中に攻め入ったという場所でもある。
現在の鎌倉では、「化粧坂(扇ガ谷4丁目)」は「源氏山公園」や「寿福寺」の一帯と、その北側の「葛原神社」の中間に位置するが、そうなると「とはずがたり」で二条が(鎌倉市中の西境の)「極楽寺」から(市中北境の)「化粧坂」を通って(市中南境の)「由比浜」へ出た、というルートには、かなりの無理が生じてしまう(仮に、市中西境の「極楽寺坂」から「由比浜」へ出たとあれば、矛盾はないが。)。
このことは、多くの人が指摘するところで、例えば司馬遼太郎氏は、「街道をゆく/三浦半島記」で次のように記している。
化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)を見れば‥‥とある。彼女はやがて坂の上から鎌倉市街を見おろすのだが、その前に極楽寺を参詣している。当然、彼女が選んだ入口は、極楽寺坂なのである。当の化粧坂は、極楽寺から直線にして二キロ半ほども離れている。途中、山また山で、じつに遠い。さらにいうと、彼女は坂をくだって由比ケ浜に出たという。化粧坂だと、海岸に出ず、いまでいえば鎌倉税務暑の前に出てしまう。おそらく彼女は極楽寺坂を上下しながら、化粧坂という地名のよさが気に入って、ついとりちがえてしまったのにちがいない。彼女は、その前半生を化粧(けわい)のなかですごした。院に寵せられ、五摂家の当主とも思い出があり、それに仏門に入ったはずの法親王にまで愛された。俗体のころは粉黛(ふんたい)にまみれていたなどという感想も、化粧坂という地名に触発されて湧いたかとも思える。
果たしてそうなのだろうか。「極楽寺」という寺は、その由緒を見ても、来歴や所在に大きな揺らぎのある寺である。だとすれば、「とはずがたり」の作者・後深草院二条が正応二年(1289)に訪れた「極楽寺」は、現在の鎌倉西境の位置にはなかったとか、また或いは「極楽寺新造山庄」のほうだった、という可能性もあるかもしれない。
貧相な貴族と居丈高な武士
正応二年(1289)3月下旬に鎌倉へやって来た後深草院二条は、土御門定実(つちみかどのさだかね/源氏長者で淳和院〜淳和天皇の離宮のこと〜の別当を経て、1301年に太政大臣となる。)の縁故者で、「大蔵谷」というところで第7代将軍・惟康親王(これやすしんのう。父は第6代将軍・宗尊親王、母は近衛兼経の娘・宰子。)に仕えている「小町殿」に文を送る。すると「小町殿」から、「これは思いがけないこと。私のところへいらして下さい。」と返事がある。が、それもめんどうなので「大蔵谷」の近くに宿泊し、長野の善光寺へ行く予定をたてていた。
しかし4月末になって、ガイドに頼んだ人も二条自身も病気にかかり、善光寺行きは中止となる。6月になって、やっと気分は良くなるが、体調が戻らないため、ぼんやりと過ごすうちに8月となった。
8月15日の朝、小町殿から「今日は京都・岩清水八幡の放生会(捕獲した魚鳥を野に放し、殺生を戒める宗教儀式。現在の中秋祭の原型。)の日ですから、懐かしく思い出していらっしゃることでしょうね」と問われて、歌を贈り合い、鎌倉でも「新八幡」で放生会が行われるというので、見物に出かける。
そして「新八幡宮」の「赤橋」で、将軍・惟康親王が車から降りる様子を目撃した二条は、将軍のお供をする公卿や殿上人の様子があまりに貧相であることや、平頼綱の嫡男・平宗綱(或は、次男・飯沼資宗。本文に「二郎」左衛門とあるので、こちらの説が順当か。)が、将軍侍所の次官のくせに関白のように豪奢であることに憤慨し、流鏑馬や祭事などは見る価値もないといって、宿に戻る。
新八幡
「とはずがたり(小町殿)」によれば、後深草院二条が鎌倉を訪れた正応二年(1289)、鎌倉幕府の重要儀式である「鶴岡八幡宮放生会」は、「新八幡」で行われたことがわかる。「極楽寺」には(おそらくは本寺以外に)「新造山庄」があったことは【化粧坂】で述べたが、どうやら「鶴岡八幡宮」にも「新」と「旧」があったようだ。
正応二年(1289)といえば、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてより、既に100年が経過している。まして1279年には、中国大陸で宋王朝(北宋960年-南宋1127年-1279年)がモンゴルによって滅ぼされるという政治・経済・外交上の一大転換があった。日本列島においても都市整備・法制度・建造物のどれをとっても、かつてと同じ、という訳にはいかなかったであろう。寺社とて、それは同じである。
ここで、「鶴岡八幡宮」に関する記述を時系列に取り出してみよう。
康平六年(1063)、源頼義が鎌倉の「由比郷鶴岡」に京都の岩清水八幡宮護国寺を勧請し、永保元年(1081)に八幡太郎義家が修復を加えたものを、治承四年(1180)10月12日に源頼朝が「小林郷北山」に遷して、若宮大路や源平池を造営。これが鎌倉において、源氏の氏神としてのみならず、武家の守護神として広く尊崇される「鶴岡八幡宮」の起源となる。
治承四年(1180)10月7日、鎌倉入りの翌日、頼朝は「鶴岡八幡宮」を遥拝し、亡父(源義朝)ゆかりの「亀谷」の旧跡を臨検、そこに御亭を建てようとしたが、地形が狭く、また岡崎四郎義實が寺堂を建立していたために、取り止め。つまり頼朝がこのとき「遥拝した」のは、いわゆる「本(元)八幡宮」のほう、ということになる。
1180年から1183年10月17日までの3年間、源義経が鎌倉に寄宿。「大蔵幕府跡(頼朝が「鶴岡八幡宮」の東に置いた鎌倉幕府政庁の中心地)」あたりの館に住んでいた、との伝承がある。
1186年、西行が砂金勧請で奥州へ行く途中、「鶴岡八幡宮」で源頼朝に出会う。
建久二年(1191)3月4日の大火で焼失した八幡宮を、社殿を「大臣山の中腹」に移して造営し、上宮・下宮(若宮)を整え、11月21日、新たに石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を創建。
建久三年(1192)9月、武蔵国太知波奈郡鈴木村の鎮守として、「鶴岡八幡宮」より勧請された「鶴崎八幡」が、「同村字会下谷」に鎮斉される。
建久五年(1194)12月、安達盛長が「鶴岡八幡宮」の造営奉行となる。
(源頼朝は、1189年に奥州藤原氏を討滅し、1192年に征夷大将軍に任ぜられ、1199年に死去。)
承元二年(1208)、神宮寺が創建され、神仏習合の寺社となる。
1219年(建保七年〜4月12日改元〜承久元年)1月27日、源実朝が「鶴岡八幡宮」を拝賀の際、甥の公暁により殺される。
1221年「承久の乱」
承久の乱(1221)の頃、現在の横浜市鶴見周辺は「鶴見郷」或は「大山郷」と呼ばれ、「鶴見郷」は「鶴岡八幡宮」の社領であり、安達義景の別荘があった。
貞応二年(1223)4月、白河の隠士が鎌倉へ到着、「@腰越→A稲村→B湯井濱→C御霊の鳥居→D若宮大路(鶴岡八幡宮への参道)→E宿」の順路を歩く。
宝治元年(1247)6月27日に鶴岡別当に補任された隆弁が、7月4日、別当坊に移る。
建長三年(1251)11月15日、八幡宮大菩薩の御影を別当坊に祀る。この御影については、元亨元年(1321)8月25日付の「廻御影縁起(みえいまわりえんぎ)(「神道大系」神社編鶴岡)」に、正嘉年中(1257年-1258)に八幡宮に遷し奉った、とある(貫達人著「鶴岡八幡宮寺−鎌倉の廃寺」)。
建長四年(1252)正月11日、「鶴岡若宮」の御供飯・餅などに異変あり。また若宮と舞殿をむすぶ樋に一羽の鶴が死んでいるのがみつかる。
建長四年(1252)4月14日、宗尊親王が鶴岡八幡宮に初参詣。8月1日、宗尊親王は鶴岡参詣の予定を、体調不良により中止。12月17日、病後新亭に移った宗尊親王が、新亭より鶴岡に初参詣。
建長五年(1253)正月21日、宗尊親王が鶴岡に参詣。このときの供奉人の人選は、親王の意向に沿って行われたが、人選担当者である小侍所別当・北条実時を差し置いておこなわれたようで、佐々木泰綱らが参加することを実時は知らなかったという。
建長五年2月30日、鶴岡の桜が盛りというので、宗尊親王は急遽、夜桜見物に出かける。5月23日、鶴岡の社殿が破損。修理のため、仮殿の事始をおこなう。6月2日、仮殿上棟立柱。6月8日に仮殿遷宮の予定であったが(「吾妻鏡」)、6月3日に安達義景が亡くなったために「三十日延引」され、7月6日、仮殿遷宮がおこなわれる(社務記録」)。7月8日、来る8月の放生会に宗尊親王が参詣されるというので、供奉人を布衣・直垂帯剣・随兵の3種にわけて催促。8月14日、修理終了、上下宮とも正殿に遷す。またこのとき、はじめて西門脇に三郎大明神を勧請(北条時頼が参詣して神楽を奏したというから、時頼の発願か)。この年の8月15日の放生会は、宗尊親王が征夷大将軍となってより初めて参詣するものだったが、供奉人のうち名越時章らは所労で不参加。
建長六年(1254)正月28日、隆弁が「鶴岡八幡宮」の御正体や正宝などを「聖福寺新熊野」に移す(→【聖福寺殿〜鶴岡八幡宮別当・隆弁】)。
康元元年(1256)正月11日、将軍(宗尊親王)年始の鶴岡参詣。3月9日、仁王会。8月15日の放生会に将軍参拝。16日の流鏑馬にも将軍臨席。この頃になると、将軍の鶴岡参拝は、正月と8月ぐらいとなるが、毎度供奉人の名簿をつくり、将軍が選定して点を加えるので、点にもれた、もれないで、御家人が大騒ぎをするようなる。それだけ鶴岡参詣は晴れの場と考えられたのであろうが、敬神崇祖の精神は衰弱し、儀式は形骸化していったようだ。
正嘉元年(1257)閏3月18日、北条時頼が鶴岡で金泥大般若経を供養(「社務記録」・「社務職次第」)。さらに時頼の発願で今後は毎年大仁王会をおこなうことが決まる(「社務次第」)。7月13日、浜の大鳥居のあたりで、寛喜三年(1231)6月の例に倣い「風伯祭」をおこなう。天文博士・安倍為親が束帯姿で奉仕。天下豊稔の祈祷という。(安倍為親は後の1261年、宗尊親王の病脳に際し、道教の祭祀である泰山府君祭を勤める。
正嘉元年5月・8月・11月と巨大地震が三度も鎌倉を襲う。8月23日の「吾妻鏡鏡」には「戊の刻、大地震あり。神社仏閣一宇として全きものなし。」とあるが、鶴岡以下、鎌倉の社寺に関する記述はない。
正嘉二年(1258)正月17日、安達泰盛の甘縄の屋敷が火事。「寿福寺」の惣門・仏殿・庫裏・方丈以下郭内は全焼、「若宮宝蔵」・「鶴岡別当坊」なども延焼。正月22日、若宮御影堂と雪下別当坊などを上棟。2月8日、若宮御影御正体などを遷坐。そして5月14日の「吾妻鏡」に、「又鶴岡寳藏 造畢之間 今日被奉納神寳〈云云〉」とある(鶴岡宝藏が竣工するまでの間、神宝が奉納される、という意味か?)。12月9日、「鶴岡八幡宮」で諸神供養の音楽を修する。
弘長元年(1261)正月7日、宗尊親王が「鶴岡八幡宮」を参詣。2月7日、前年3月に結婚した御息所(近衛宰子。父は近衛兼経、母は九条道家の娘・仁子。北条時頼の養女。)がはじめて鶴岡を参詣。このときの供奉人は京風の浄衣で務める。(4月24日、極楽寺新造山庄で笠懸。)8月13日、鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬の供奉人着座の場所を定める。放生会では、随兵は従前通り西の廻廊の東方にひかえ、狩衣の者は東の廻廊に着座。流鏑馬では、随兵は西側の埒門(らちもん)の南左右にひかえる。東の座席は腋門(わきもん)の前から東方に布衣の人少々、その東に先陣の随兵の席、西は廻廊より西方に布衣の人少々、その西方に後陣の随兵の席とする。これも京風ということか。8月14日、放生会の件で沙汰あり。將軍が決めた座席順を評定が変えてしまう。8月15日、御息所は舞楽を観覧のため、輿で鶴岡にお渡り。その後、宗尊親王も御出まし。
文永二年(1265)3月3日、鶴岡八幡宮で年中行事の法会がおこなわれ、そのときの童舞を御所の「鞠の坪」で再演させる。土御門大納言通行・花山院大納言通雅たちは御簾の中で、公卿で従二位の紙屋河顕氏、従三位の坊門基輔の2人と殿上人6人らは出居で観覧。この晴れの舞台で、近衛将監(このえしょうげん)中原光氏が巧みに舞い、また賀殿の曲を奏したとして、褒美の禄を与えられた。
文永二年(1265)3月7日から7日間、御息所が鶴岡に参籠することになり、これに先だち、隆弁が60人余の大工をあつめて、一ヶ月のうちに下宮の廻廊を区切って、御息所の御局・御寝所・御念誦所・女房三人の局・台所・湯殿を造営する。3月9日には下宮で管弦講と神楽、11日には上宮で法華経供養。13日、隆弁はこれらの功により、砂金十両などを与えられる。
文永二年8月15日、放生会。宗尊親王は御息所懐妊により参拝せず、奉幣使も出さずに、すべてを宮寺に任せた。16日の流鏑馬にも親王は参拝せず、密かに執権・時宗の桟敷で見物。「吾妻鏡」によれば、親王は建長五年以後、病気であった文応元年(1260)を除き、正月と8月の鶴岡参詣を欠かしていない。
文永三年(1266)7月4日、宗尊親王は京都に更迭されることになり、佐介にある北条時盛入道勝円の亭に行く途中、「赤橋」の前で「鶴岡」を望み、和歌を詠じた。このときに詠まれた歌はわかっていない。以下は「増鏡」にみえる宗尊親王の歌である。
虎とのみもちゐられしはむかしにて いまは鼠のあなう世の中
なをたのむ北野の雪の朝ぼらけ あとなきことにうづもるゝ身は
文永六年(1269)2月16日、幕府は八幡宮の谷々に在家人が居住することを禁じる(「神田孝平氏所蔵文書」)。谷々とはいわゆる二十五坊の谷のことか。僧俗混在を禁じたことは、鶴岡の環境が整備されたことを示す、と貫達人氏の「鶴岡八幡宮寺 鎌倉の廃寺」にはある。 1279年「南宋滅亡」
弘安三年(1280)10月28日、鎌倉で大火。中下馬橋から火が起き、神宮寺と千体堂が焼失。11月14日、「鶴岡八幡宮」の上宮・末社・楼門・八足門・廻廊・脇門・鐘楼・竈神殿・五大堂・北斗堂・中鳥居が焼失。「社務記録」には上下宮の御正体は御殿司であった宝蔵坊の頼澄が取出し、別当坊の御影堂に遷すとある(が、「遷宮記」には異説もあり)。翌15日、仮殿造立の沙汰あり。27日、仮殿上棟。29日竣工。12月2日、掃除、仮神輿三基作成。12月3日、上下の神殿内陣を洗い清め、隆弁の代理として佐々目法印・頼助が真言呪を唱えながら、散杖で如持香水をまいて、結界。仮殿へ移る際の道順は、「別当坊」から「岩屋堂の辻」まで南行、「辻」から「若宮小路」を東行、「赤橋」から境内に入り、「馬場」から「仮殿」までは筵道(えんどう/貴人が通行の際、裾が汚れないように、門から母屋まで通路に筵を敷く)をしいた、という。
弘安四年(1281)2月7日、鶴岡八幡宮正殿の造営開始。造営奉行は安達泰盛。この年、二度目の元寇がある。建治元年(1275)9月に、元使・杜世忠ら5人を鎌倉「竜ノ口」で斬った北条時宗は、次の元寇があることを覚悟していたとされる。5月21日、高麗軍などの東路軍2万5千の兵が対馬を侵し、ついで7月、10万の江南軍も東路軍と合流し、27日、肥前国(長崎県)鷹の島に寄航するが、閏7月1日の大暴風雨で元軍は潰滅。このとき鎌倉では八幡宮が再建中であったためであろうか、異国降伏の祈祷は幕府小御所で、4月20日夜から26日まで如法尊勝法を頼助がおこなっている(明王院文書「異国降伏御祈祷記」・「市史」史料編一ノ六二六・「弘安四年異国御祈祷記」続群書類従二六上)。また閏7月3日から下宮下経所で、異国降伏の祈祷をした。文永十一年と同じく、不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉の五壇法で、結願の13日に元軍覆没の早馬が鎌倉に着く。8月14日、遷宮を予定していたが、8月9日に時宗の弟・宗政が死去したために延期となり、11月29日、別当隆弁が御正体をあつかって、復興した神殿に遷宮がおこなわれた。行列・奏楽などは、仮殿のときより一層荘重であったという。
弘安六年(1283)8月15日、鶴岡八幡宮別当・隆弁が76歳で入滅。
弘安八年(1285)、安達氏滅亡。
正応二年(1289)8月15日の放生会の日、後深草院二条は鎌倉「新八幡」の「赤橋」で、将軍・惟康親王が御車から降りる様子に憤慨する。
惟康親王の追放
正応二年(1289)3月下旬、鎌倉を訪れた後深草院二条は、その年の9月に、第7代将軍・惟康親王が執権・北条貞時によって将軍職を剥奪され、京に追放される様子を目撃する。
この惟康親王の罷免は、名目上は「親王に異図(謀叛の心)あり」とのことであったが、実際は鎌倉における得宗勢力と御家人勢力の軋轢が、京都における持明院統と大覚寺統の対立とからみ合い、親王もそのあおりを受けたものと考えられている。
鎌倉では、1285年に得宗家執事・平頼綱の讒言を契機として御家人の雄・安達氏が滅ぼされて以来、頼綱が恐怖政治を敷いていたが、その頃、京都では立太子問題に関して、(後嵯峨天皇の第四皇子である)後深草院と(後嵯峨天皇の第七皇子である)亀山院の間に不和が生じていた。そして二条が鎌倉を訪れた正応二年(1289)の4月には西園寺実兼が幕府と結託して、(後深草天皇の第二皇子である)伏見天皇の第一皇子・胤仁親王を東宮に立てると、失意の亀山院は9月7日にご出家、さらに同月14日には惟康親王の罷職が決められた。(もしかすると、二条は西園寺実兼の動向を知っており、その顛末を調査するため鎌倉に来たのかもしれない。仮に、後深草院の近臣「雪の曙」が関東申次の西園寺実兼であるなら、二条とは一女をもうけたほどの深い関係にある。
新たに第8代将軍となった久明親王は後深草天皇の第六皇子だから、京で皇統が持明院統に確定すると同時に、鎌倉の将軍職も持明院統に移された、ということになる。
「とはずがたり」では、将軍職を奪われた惟康親王が、罪人のようなひどい待遇で、京へ送還される様子が語られている。
それによると、鎌倉で何かありそうだと噂がたって間もなく、二条は、親王が帰洛のために御所を退出される様子を目撃する。親王の輿は、粗末な張輿(はりごし/畳表で屋形と両側を張った略式の輿)で、それを対の屋(たいのや/寝殿造りの建築で正殿の東・西と北に造られた別棟の建物)の端へ寄せ、丹後の二郎判官(二階堂行貞)とかいう者が、親王を輿に乗せようとすると、相模守(北条貞時)の使者だという平二郎左衛門という賤しい者が、藁沓(わらぐつ)を履いたまま御殿へ上り、御簾を引落しはじめる様子に、二条は「目も当てられない」と憤慨する。
その後、親王は「佐介の谷(さすけのやつ)」という所に滞在され、あと5日ばかりで上洛というので、二条は「佐介の谷」近くの「押手の聖天(おしでのしょうてん)」という霊仏が祀られる場所へと出かけてゆくと、出立(しゅったつ)の時刻は真夜中の二時頃であると知らされる。
その日は、日暮れから隆り始めた雨が激しさを増し、強い風も吹いて、魔物が通るのでは思われるほどの天候であったが、(役人たちは)出立時刻の変更はないとして、御輿を筵(むしろ)というもので包んでいる。その様子はあまり惨く、正視に堪えないものであった。
惟康親王は、将軍といっても、野蛮な田舎武士が自力で天下を討ち取って将軍になるのとは違って、父君の宗尊親王は後嵯峨天皇の第二の皇子(事実上の長子)であり、しかも後深草天皇よりも少し先に生まれているのだから、仮に(宗尊親王が)十善の天子であったなら、惟康親王も皇位を継ぐご身分であるのに、宗尊親王の母・准后の身分が低いばかりに、それもかなわず、将軍として鎌倉に下られ、皇族の身分はそのままに、「中務(なかつかさ)の親王」と呼ばれた方である。
その後嗣である惟康親王が、高貴なことは勿論で、「御子といえども、後嵯峨天皇の数多い側室の子の一人ではないか」という人もいるが、惟康親王の母は藤原摂関家の嫡流にある近衛兼経の娘(宰子)だし、両親のどちらをとっても、少しも権成のゆらぐ方ではないのに、と思った二条は、涙ながらに
「親王が同じ皇室のご嫡流であるということを忘れなければ、伊勢の神もきっと気の毒に思って下さるでしょう」という歌を詠む。(これは、小町殿と贈り合った「おもひいづるかひこそなけれ石清水 おなじながれのすゑもなき身は」「ただたのめ心のしめのひくかたに 神もあはれはさこそかくらめ」に重ねているのだろう。
そして父君の宗尊親王が、「猶(なほ)たのむ北野の雪の朝ぼらけ あとなきことにうづもるる身も」などの歌を残されているのに対し、御子の惟康親王に、つらい道中を詠んた歌が無かったことは残念だ、とも記している。
惟康親王
1264年鎌倉生まれ。文永三年(1266)7月に父・宗尊親王が京に送還されたため、3歳で征夷大将軍に就任。初めは親王宣下がなされないまま「惟康王」と呼ばれたが、征夷大将軍に就任すると臣籍降下して源姓を賜り、「源惟康」と名乗った(後嵯峨源氏)。正応二年(1289)9月、将軍の長期在任を嫌った北条氏が後深草上皇の皇子・久明親王の就任を望んだことから、将軍を解任され京へ送還される。その際、幕府の要請で皇籍復帰を果たし、朝廷より親王宣下がなされて「惟康親王」と名乗った。
「おなじながれ」
「とわずがたり〜惟康親王上洛」で後深草院二条は、惟康親王の父君で、初の皇族将軍となって鎌倉へ下った宗尊親王に対して〜いすず川おなじながれをわすれずは いかにあはれと神もみるらん〜という歌を詠んでいる。
「日本書紀」や「新古今集」にもその名がみえる「いすず川(五十鈴川)」は、現・三重県伊勢市を流れる長さ16kmの川のことで、伊勢の「皇大神宮(内宮のこと。5世紀末頃に畿内から移された、とも考えられている。)」の境内を通る。この「皇大神宮(内宮)」と「豊受大神宮(外宮)」をあわせた「伊勢神宮(正式名称は「神宮」)」は、皇室の祭祀する最高の存在として、社格を超越するものとされ、古くは私幣が禁止されていた。
二条が宗尊親王に対して、「おなじながれ」と詠んだのは、親王が伊勢の「五十鈴川」が流れる「皇大神宮」を祀る皇室の嫡流であることを示すとともに、異母弟の久仁親王や、同じく異母弟の恒仁親王と違って、皇位につくこともなく、親王将軍となって東へ西への流浪の身となったことを、自らの境遇に重ね合わせて嘆息したものかもしれない。
しかし、天皇となった弟君たちも、所詮は政争の道具として利用されたに過ぎなかった。
ことの発端は、第87代天皇となった四条天皇(1232‐1242年。2歳で天皇に即位し、12歳で崩御。父・後堀川天皇の院政下にあり、父の死後は九条道家・近衛兼経が摂政として政務を執った。)が、皇子女の無いままに、事故で崩御されたことに始まる。
このとき、幕府と朝廷の利害を調整し、邦仁王(のちの後嵯峨天皇)擁立に尽力したのが、「鶴見」に別荘を有した安達義景である。そして幕府の強い後押しで、1242年、邦仁王が天皇に即位するが、後嵯峨天皇は在位わずか4年で後深草天皇に譲位して院政を敷くと、1259年には後深草天皇に対して、弟の亀山天皇へ譲位を促すなどした。
しかしこの後嵯峨上皇(法皇)も、次の「治天の君」の決定を幕府に委ねたまま1272年に崩御すると、久仁親王(後深草天皇)系の持明院統と恒仁親王(亀山天皇系)の大覚寺統の間で権力闘争が激化し、それがやがては南北朝時代、更には後南朝まで続く大乱の源となってゆく。
このような構図は、万葉時代の天武・天智朝の混乱を思い出させるに充分であるが、そんな時代の幕開けを、第三者的な立場で過ごすこととなった宗尊親王は、1252年に第6代征夷大将軍として鎌倉へ下向して後、1266年に謀叛の疑いで京へ追われるまでの14年間を、生家から遠く離れた東国に暮らした。
この宗尊親王が、11歳で鎌倉へ下向された折、「近江蒲生郡鏡宿」で饗応したのが、(鳥山の開発を行った)佐々木泰綱である。そして同じ年、親王が亀谷の御所へ移られる際、御輿の護衛をしたのも、この佐々木泰綱と安達泰盛たちだ。またその翌年に開催された宗尊親王邸での蹴鞠にも、佐々木泰綱が参加している。
1261年の春には、19歳で婚姻の儀を済ませた宗尊親王が、北条重時の「極楽寺新造山庄」へ馬で入られ、親王妃や相州禅門らとともに笠懸を御覧になったこともあった。また多くの歌会を主催して鎌倉歌壇の興隆をリードし、「続古今集」の最多入選歌人となったほか、「柳葉和歌集」・「瓊玉和歌集」・「初心愚草」を残されたりもした。
宗尊親王の目に、当時の世相はどのように映っていたのだろう。
平頼綱と北条貞時邸
宗尊親王の後を継いで第7代将軍となった惟康親王(これやすしんのう/父は宗尊親王。母は太政大臣・源氏長者・関東申次などを歴任した近衛兼経の娘・宰子。)だったが、鎌倉で御家人の雄・安達氏が得宗被官の平頼綱によって滅ぼされ、それに連動する格好で、京でも持明院統と大覚寺統の対立が深まると、惟康親王も執権・北条貞時により将軍職を剥奪され、京に追放されることとなった。
後深草院二条は、正応二年(1289)9月に、この惟康親王帰京の様子を目撃し、幕府のあまりの対応に憤慨するが、その後ほどなく、「小町殿」に頼まれて、平左衛門入道(平頼綱)のもとに趣くことになる。京都の伝統に詳しい人に、頼綱の奥方と新将軍の衣服などについて相談して欲しい、というのである。
「とはずがたり」によれば、後深草院の御子(久明親王)が将軍として下向されることが決まると、御所も改装され、先代将軍に比して何事も殊更に華やかにしようということで、7人もの大名が京に迎えに参上することになったという。そしてそのメンバーには、平左衛門入道(平頼綱)の次男で「飯沼の判官」と呼ばれながら、まだ「検非違使尉(けびいしのじょう)」を正式に任命されていない新左衛門(飯沼助宗)がいた。
一行は、流人となった先代将軍(惟康親王)が帰洛の際に使った道を避けて「足柄山」を越えるといい、それはあまりにひどいことだ、と人々は噂をしていた。そして世間が慌しくなり、久明親王の到着もあと2・3日という頃になって、早朝に「小町殿」より二条へ手紙がくる。
何ごとかと思って見ると、平頼綱の奥方(北条貞時の乳母)で、「御方」と呼ばれている人のところへ、「東二条院」から「五衣(いつつぎぬ/十二単のこと。未婚の姫君が着用する十二単の裾のハギ枚数が5枚であることから、このように呼ぶ。既婚者の裾ハギは6枚。)」が遺わされたのだが、生地が取り揃えてあるだけで縫製もなされていないので、相談にのってやって欲しい、とある。
一旦は断わったものの、小町殿は「あなたは出家して自由な身分ですし、(二条の素性についても)ただ京の人といっただけで、先方に誰とは知らせていませんから。」となかなかに強引で、遂には相模守(さがみのかみ/第9代執権・北条貞時)の手紙まで添えてくるので、事が大きくなって、面倒だなと思いながらも、二条は平頼綱のところへ行く。
二条が、相模守(北条貞時)の邸内であろうと思われる場所に到着すると、そこには「角殿(すみどの)」と呼ばれる将軍の御所があった。御所のしつらいは一般的で、これといったところもなかったが、貞時邸のほうは、金・銀・金玉がちりばめられ、「中国の想像上の鳥である鸞鳥(らんちょう)を刻んだ鏡を磨いたよう」とはかくの如し、という眩さである。邸内は、インドの極楽浄土の装身具のように、美しく豪華な薄絹や唐織物で装飾され、几帳(きちょう)に垂らされた布帛や部屋の間仕切りまでもが、目にも艶やかに輝いている。
二条が貞時邸の調度に感嘆していると、平頼綱の奥方と思われる人物が入って来る。この婦人は、薄青の地に紫の濃淡の糸で紅葉を大きな木の模様に織り込んだ唐織りの二枚重ねの着物を着て、腰から下には白い裳(も)を纏っている。容貌も態度も誇らしげな様子なら、上背もあって恰幅も良い。これは並みの人物ではないと思っていると、向こうから平頼綱が小走りにやって来て、袖が寸足らずの白い直垂(ひたたれ)姿で、馴れ馴れしく婦人の側に座るので、二条はつい、なんだか貧相な男だこと、と心の中で独り言つ。
乳母
「とはずがたり〜新将軍・久明親王の東下」で後深草院二条は、平頼綱とその奥方で「(貴人でもないのに)御方とか呼ばれている人」に面会するのだが、その人物評がなかなかに振るっている。
まず奥方について、表面上は「態度も体格もすごい人」と賞賛するようでありながら、実際は「紅葉は葉が美しいのに、着物に大きな木の文様を刺繍するのは悪趣味だし、体躯も大柄なら態度も横柄で、京風の細やかさに欠ける。」と揶揄するかのようでもある。文中に「かくいみじとみゆるほどに」とあるが、古語「いみじ」はもともと「忌む」と同根の形容詞とされ、良しにつけ悪しきにつけ程度が不吉なほどにはなはだしいさまをいう。つまりこの婦人が、京の貴族好みの「奥ゆかしさ」から遠く離れていることを言いたいのだろう。
次に平頼綱については、あからさまに「落ち着きが無く、服もダサくて、デリカシーに欠ける、みすぼらしい人物。」と手厳しい。文中の「やつるる心ちし侍りし」の「やつる」は、「地味で目立たない様子」や「みすぼらしい様子」をいう。1285年の霜月騒動で安達泰盛を滅ぼした平頼綱は、この頃より幕政を専断して恐怖政治を行ったとされるが、二条の手にかかっては、全くの形なしである。
平頼綱の奥方は、執権・北条貞時(父は北条時宗、母は安達泰盛の娘「堀内殿」)の乳母を務めた人物(自出について調べてみたが、詳細はわからなかった。)だから、貞時邸でも相当の力があったのだろう。貞時の邸内に「異国趣味あふれる派手なしつらえの部屋を有し、唐物の高価な衣装を纏っている」という二条の記述からも、その権勢のほどが伺える。
「乳母(めのと)」は「うば」とも呼ばれ、生母に代わって乳児の授乳・養育する人である。古来より貴人は乳母に養われる習慣があり、8世紀までの皇子女の多くは、養育者の氏族の名で呼ばれたほどに幼君と養育者との結合は強く、近親に似た扱いを受けていた。乳母は時に一族ぐるみで幼君に仕え、乳母の夫も「乳母夫」や「傅」の字をあてて「めのと」と呼ばれ、貴人の子弟教育にあたったり、経済的援助を行うことさえあった。
そして院政期には、上皇の乳母や乳母夫が院近親として権力を持つようになり、鎌倉幕府でも乳母一族が有力後家人化するなど、政治的に重要な役割を担うようになっていた。
もしかすると平頼綱は、表向きは「安達氏を滅ぼした強面」ということになっているが、実際には執権・北条貞時(1271年-1311)の乳母として得宗家で采配を振るう女傑にぶら下がる、単なる「逆玉男」に過ぎなかったのかもしれない。
そしてこの平頼綱の奥方のところへ、京の「東二条院」から未婚の姫君が着用する「五衣(十二単)」が届いたということは、おそらくは彼女が、久明親王のお妃選定についてかなりの実権を握っていたか、また或は、平頼綱とともに、やがて生まれてくるであろう久明親王嫡子の乳母・乳母夫にもなろうとする目論見があった、ということだろう。(久明親王は1295年に惟康親王の娘と結婚し、1301年に守邦親王を得るが、親王妃は1306年に没している。また将軍退位後、京に戻ってより冷泉為相の娘との間に、久良という子を得ている。
ところで後深草院二条は、平頼綱とその奥方に会った場所について「相模の守の宿所(すくしよ)のうちにや〜執権・北条貞時の邸内だろうか(古語「や」は疑問の終助詞。)〜」と記しているから、屋敷には「何某の家」などという表札は、掲げられていなかったことがわかる。
戦乱の世の中である。人と人との面会も身分を明かさずに行うほどに、「疑心暗鬼を生ずる」世相である。まして「親王御所」を併設する有力者の屋敷となれば、警備上の観点からも、その場所は周囲からも秘密にされていたはずである。
そしてこの場所で二条は、親王御所のしつらいは一般的であるのに、貞時邸やその執事の部屋がやたらに豪華であることにも、強い印象を受けていた。

後深草院二条は関東武士に対して、よほどのアレルギーがあったことがわかる。
二条の父である中院大納言・久我雅忠(久我家第7代当主・久我通忠の弟)は、源通親の孫にあたる人物で、当時ですら300年以上も遠い昔の話ではあるが、8代前は村上天皇につながる家系である。
「とわずがたり」で二条が、父の死の翌年(文永十年・1273)正月に、男山八幡(岩清水八幡宮のこと。源氏の氏神。)へ参拝し、父の生所を知りたいと祈願したのも、この辺りに由縁があると思われるが、おそらくは二条に言わせれば、自身は「男山八幡宮(源氏)のながれ」であるだけでなく、遠い祖先は「いすず川(皇室)のながれ」にもつながるのだから、村上天皇の子孫である「後嵯峨天皇」から生まれた「亀山天皇」・「後深草天皇」・「宗尊親王」も、その子孫の「惟康親王(宗尊親王の子)」や「久明親王(後深草天皇の子)」も、広義でみれば一族関係にある、という矜持があったのではないだろうか。
ともあれ彼女は、村上源氏の総本家である久我(こが)家に生まれた。久我家は「堂上家」と呼ばれ、清涼殿の殿上間に昇殿できる資格を世襲された家柄だから、鎌倉幕府の創立で勢い名を馳せることとなった源頼朝の河内源氏などは、源氏の末流だと考えていたに違いない。まして二条は後深草院の御所に仕えた女房で、文永10年(1273)には院の皇子を設けたほどの女性だから(皇子は2年後に早世。)、「世が世なら、私だって次期天皇の生母となるかもしれない身であったのに。」という気持ちがあったであろう。
貴族中の貴族、公家中の公家であり、またそのことが自らのアイデンティティでもあった二条である。財力と武力にまかせ、東国で幅を利かすのみならず、京の天皇後継問題にまで口を挟むほどに強大化した鎌倉の御家人層や北条得宗家に、蔑視と羨望の入り混じる複雑な感情を抱いていたことは想像に難くない。
そうした背景の中、二条は鎌倉の執権・北条貞時の豪奢な屋敷で、平頼綱とその奥方(北条貞時の乳母)に会い、京都から送られてきた「五衣」の仕立てや「久明親王御所」のしつらいについて、助言をすることになった。「とはずがたり」には、そのときの様子も綴られている。
二条が「東二条院」から平頼綱の奥方へ遣わされた衣を取り出してみると、蘇芳色(紫がかった赤色。表は薄く、裏は濃く重ねる。)の気品ある艶やかな生地で、内へむかってしだいに濃くなっている五衣に、青い単(ひとえ)が重ねてあった。
一番上に着る上着(うわぎ)は、地が薄い赤紫色で、濃い紫と青色の格子を片身替り(衣服の右半分と左半分をぶつの布地で仕立てること。「大身替(おおみがわり)」とも。)に織られた生地であったが、これをあちこちに取り違えて裁断し、縫製してしまっている。また五衣の重なりは、内側を濃くするべきなのに、外側(表側)を濃くしたものだから、上着は白いのに、その下は濃い紫になるなど、はなはだ珍妙な様子である。
二条が「どうしてこんなふうに」と問うと、奥方は「京の御服所の人もお暇がないということで、よく知らないまま、こちらでいたしましたので。」などと答える。こういう稚拙な感じもご愛嬌だとは思ったが、やはり重ね方だけは直させたりするうちに、相模守殿(執権・北条貞時)から使いが来る。
その者によれば、相模守殿は「将軍御所の設備で、外様(とざま/公用の場。)の方は、ひき(*「秘記(秘録)」、或は「比企(比企能員の乱→【佐々木信綱と北条氏】)」か?)の指示通りに男たちが手配したが、久明親王が普段に使用される御所の室内装飾は、京の人にみせるように。」と言われたとか。全くどういうことだろう、と二条はわずらわしく思ったが、ゆきがかり上、いやとも言えないので、御所へ参上してみると、こちらのほうは五衣の一件ほどひどいということはなく、一応は正式に出来ている。御所のしつらいについては、目下のところとやかく言うこともない、と思った二条は、「家具の置き場所や御衣裳の掛け方はこんなふうがよろしいでしょう。」などと言って、帰って来る。
比企氏
俵藤太藤原秀郷の末裔を称する関東の豪族。系譜は明らかではないが、平安時代末期に武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡)を領したことから比企を名乗った。一族である比企尼が源頼朝の乳母(→【前項】)を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。これにより源頼朝以来、鎌倉で将軍御所のしつらいを担当したのであろうか?
比企氏の家督を継いだ能員も、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となった頼家の乳母父を務めたことから、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚・北条氏との対立が激化し、1203年に比企能員の変(比企の乱)が起こると、一族は滅亡。このとき比企能員の娘婿・川崎為重(中山五郎)の本領「武蔵国川崎荘」を、佐々木信綱が継承している。
御服所
律令時代に宮中用衣服製造の監督と後宮女官の人事を主な職掌とした縫殿寮(ぬいどのりょう)が前身。11世紀後半には天皇の衣服を生産する御服所が内蔵寮頭邸に創設され、次いで貴族や院のところにも御服所が設置されるに及び、縫殿寮はほぼ有名無実化した。
久明親王の東下
正応二年(1289)9月14日、第7代将軍・惟康親王が罷免されると、同年10月1日には、後深草天皇の第六皇子が親王宣下を受けて久明親王(1276年-1328年。母は藤原公親の娘・房子)となり、6日に後深草院御所で元服の儀を済ませて、9日には14歳で征夷大将軍に任命された。
あくる日の10月10日、親王一行は早くも鎌倉へ向けて出発し、同月25日に鎌倉へ到着(つまりこのとき、京から足柄山を越えて鎌倉へ辿りつくに、15日間が必要だったことがわかる。
惟康親王の罷免から、久明親王の「立親王」・「元服」・「将軍任命」・「鎌倉下向」までの日程が余りに慌しいのは、裏返してみれば、非常に迅速な手配に則って進められた結果とも見えるから、もしかするとこれも、事前に周到な計画があってのことかもしれない。
「とはずがたり」のなかで、「相模殿(執権・北条貞時)」の屋敷とおぼしき場所で、平頼綱やその奥方と面会し、また新将軍となる久明親王の御所のしつらいを検分した後深草院二条は、親王の鎌倉到着の日の様子もかなり詳細に記している。
それによれば、ついに将軍が到着されるという日、若宮小路には、ぎっしりと人だかりができている。関所まで出迎えに参上した人々のうち、先陣はもう戻っていて、二三十騎、四五十騎と、ものすごい数が通り過ぎてゆく。
まもなく親王の行列がお見えになるというので、召次(めしつぎ/従者)のようなものだろうか、直垂(ひたたれ)を着た小舎人(ことねり)と呼ばれる者たちが、20人ばかり走って来る。そしてその後には、思い思いの直垂(武士の幕府出仕用の平服)に身を包んだ大名たちが群れをなしてそぞろ歩き、それが5・6町(約500〜600m)はあろうかというほどに続いてゆく。
御輿の中の新将軍は、女郎花(おみなえし/襲の色目。表は黄、裏は萌黄色。秋に用いる。)の色に染めた膨れ織りの下衣(したぎぬ)をお召しになられているようなのが、御輿(みこし)の御簾(みす)が上げられているのでわかる。
御輿の後方には、「飯沼の新左衛門(平頼綱の次男・飯沼資宗。このとき23歳。そうなると「とはずがたり(巻四・八五〜小町殿」)」に見える「平二郎左衛門」は、やはり長男の平宗綱だろうか。)」が、木賊色(とくさいろ/青黒い萌黄色)の狩衣(かりぎぬ/公家・武家の礼服。)姿でお供をしていて、こちらも(親王の下衣や秋の風情と調和しているのは)なかなかたいしたものだ。
御所では当国司(北条貞時)や足利貞氏(室町幕府初代将軍・足利尊氏の父)をはじめとして、然るべき人々が皆、布衣(ほうい/布製の狩衣。礼服。)を着た姿で新将軍をお迎えし、また「御馬御覧」の儀式で馬が引かれたりして、祝賀ムードを盛り上げている。
新将軍は、三日間は「山の内」と呼ばれる「相模殿(執権・北条貞時)の山荘」へ入られるということで、華やかな行事を見聞きするうち、二条は、自身がかつて後深草院の御所で過ごした日々を思い出し、感慨もひとしおとなる。
 
「増鏡」

 

いわゆる「四鏡」と称される歴史物語に、「大鏡」・「今鏡」・「水鏡」・「増鏡」というのがある。いずれも仙人というほどに高齢な老人が、「昔、こんな事があった」と語る事象を、対話形式で記したものだ。
「四鏡」のなかで最も新しい「増鏡(ますかがみ)」は、嵯峨の清凉寺へ詣でた100歳の老尼が昔話を語るという格好で、寿永三年(1183)の後鳥羽天皇の即位から、元弘三年(1333)の後醍醐天皇の隠岐流罪と京都帰還までの、15代150年を編年体で記している。「源氏物語」や「栄花物語」の影響を受けた典雅な擬古文体で、公家の生活を描いているが、武士や鎌倉幕府に関する記述が極めて少ないことも特徴である。
「増鏡」の書名は、序の部分で老尼が詠んだ「愚かなる心や見えん ます鏡」という歌と、筆者の「いまもまた昔をかけばます鏡 振りぬる代々の跡にかさねん」という歌に拠るというから、歴史が「増す」という意味だけでなく、「真澄鏡(ますかがみ・まそかがみ/曇りのない澄んだ鏡)」の意味も含むのだろう。
現存のものは二十巻で、文中には「弥世継(いやよつぎ/藤原隆信の作という「今鏡」と「増鏡」の間の時代を記した歴史物語。現在は亡失。)を継承した」とも記されている。
作者は、二条良其(にじょうよしもと/父は二条道平、母は西園寺公顕の娘・婉子。北朝4代の天皇の下で摂政・関白を務めた。)とも、洞院公賢(とういんきんかた/藤原公賢のこと。藤原氏北家閑院流西園寺家の庶流。)とも、四条家(藤原北家魚名流)関係者ともされるが、未詳である。
この「増鏡」の「あすか川」「草枕」「老の波」「さしぐし」の項には、後深草院二条の「とはずがたり」から相当量の引用があり、「とはずがたり」が「増鏡」の重要な資料とされていたことがわかっている。
例えば、以下は「増鏡・巻十一・さしぐし(惟康親王の帰洛)」からの抜粋であるが、「とはずがたり」に比べて、優美な筆致ではあるものの、その内容はほぼ同じとなっている。
其の後いく程なく 鎌倉中(うち)騒がしき事出(い)できて みな人きもをつぶし ささめくといふ程こそあれ 将軍都(みやこ)へ流され給ふとぞ聞ゆる めづらしき言の葉なりかし 近く仕(つか)まつる男女いと心細く思ひ嘆く たとへば御位などのかはる気色(けしき)に異ならず
さて上らせ給ふ有様 いとあやしげなる網代(あじろ)の御輿(みこし)を さかさまに寄せて乗せ奉るも げにいとまがまがしきことのさまなる うちまかせては都へ御上(のぼ)りこそ いとおもしろくもめでたかるべきわざなれど かくあやしきは めづらかなり
母御息所(みやすどころ)も 近衛大殿(このゑのおほとの/近衛兼経)と聞えし御女(むすめ)なり 父皇子(みこ)の将軍にておはしましし時の御息所なり さきに聞えつる禅林寺殿(ぜんりんじどの)の宮の御方(かた)も 同じ御腹なるべし
文永三年より今年まで廿四年 将軍にて天下のかためといつかれ給へれば 日(ひ)の本(もと)の兵(つはもの)をしたがへてぞおはしましつるに 今日は彼らにくつがへされて かくいとあさましき御有様にて上り給ふ いといとほしうあはれなり 道すがらも思(おぼ)し乱るるにや 御たたう紙の音しげうもれ聞ゆるに たけき武士(もののふ)も涙落しけり
「とはずがたり」は、自尊心が高く奔放な元・宮廷女官のスキャンダラスな流浪譚のようにみえるが、一方で「増鏡」に引用されるほどに資料性の高い日記でもあり、その伝本は「宮内庁書陵部」に一部のみ残るという稀少なものでもある。
もしかすると、後深草院二条は「曙の君」の肝煎りで、善光寺詣でを口実に鎌倉をはじめとする諸国の検分に派遣された、一種の時事調査員であった、ということも考えられるかもしれない。
僧や尼僧の旅日記は、西行、芭蕉など多くあるが、そうした私的な記録も、時にしかるべき権力によって国家や王朝の歴史に引用された。また或は、古人たちも「王朝に引用されることを望んで」、日々の記録を綴ったのかもしれない。
歴史とは、為政者の手で「作成」され、記録・伝承されるものである。そして記録から零れ落ちた歴史は、文楽・能・狂言などを含む「歌謡」や「物語」のなかに掬われてゆく。さらにささやかな歴史の記憶は、「科学技術」や神社仏閣の「祭り」に継承される。そしてもっと密やかな記憶は、風や雲や「富士の高峰の煙」となり、空に還って霧散してゆく。
風の音にふと、自分の中にあるはずもない太古の記憶が蘇るような気がするのは、こうした人たちのあえかな声が、私たちに何かを語ろうとしているからではないだろうか。
   
 
「とはずがたり」 1  後深草院二条

 

■巻1―1 〜10
巻1―1
呉竹(くれたけ)の一夜に春の立つ霞、今朝しも待ち出で顔に花を折り、匂ひを争ひて並み居たれば、われも人なみなみにさし出でたり。莟(つぼみ)紅梅にやあらむ七つに、紅(くれなゐ)の袿(うちぎ)、萌黄(もよぎ)の表着(うはぎ)、赤色の唐衣(からぎぬ)などにてありしやらん。梅唐草を浮き織りたるに、小袖に唐垣(からかき)に梅を縫ひて侍りしをぞ着たりし。
今日の御薬には、大納言1)、陪膳(ばいぜむ)に参らる。外様の式果てて、また内へ召し入れられて、台盤所の女房たちなど召されて、如法折れこだれたる九献の式あるに2)、大納言、三々九とて、外様にても九返(ここのかへり)の献杯にてありけるに、「また内々(うちうち)の御ことにも、その数にてこそ」と申されけれど、も、「このたびは九三にてあるべし」と仰せ3)ありて、如法、上下酔(ゑ)ひ過ぎさせおはしましたる後、御所の御土器(かはらけ)を大納言に給はすとて、「この春よりは、たのむの雁もわが方(かた)によ」とて給ふ。
ことさらかしこまりて、九三返し給ひて、まかり出づるに、何とやらん、忍びやかに仰せらるることありとは見れど、何事とはいかでか知らむ。
拝礼など果てて後、局(つぼね)へすべりたるに、「昨日の雪も今日よりは跡踏み付けん行く末」など書きて御文あり。紅の薄様八つ・濃き単(ひとへ)・萌黄の表着・唐衣・袴三つ、小袖二つ、小袖など、平包みにてあり。いと思はずにむつかしければ、返しつかはすに、袖の上に薄様の札にてありけり。見れば、
翼こそ重ぬることのかなはずと着てだになれよ鶴の毛衣(けごろも)
心ざしありて、したため賜びたるを返すも情けなき心地しながら、
「よそながらなれてはよしや小夜衣いとど袂の朽ちもこそすれ
思ふ心の末、むなしからずは」など書きて返しぬ。
上臥(うへぶ)しに参りたるに、夜中ばかりに、下口(しもくち)の遣戸4)」をうち叩く人あり。何心なく、小さき女の童開けたれば、「さし入れて、使はやがて見えず」とて、また、ありつるままのものあり。
契りをきし心の末の変らずは一人片敷け夜半の狭衣
いづくへまた返しやるべきならねば、とどめぬ。
三日、法皇5)の御幸、この御所へなるに、この衣(きぬ)を着たれば、大納言、「なべてならず、色も匂ひも見ゆるは。御所より賜はりたるか」と言ふも、胸騒がしく思えながら、「常磐井(ときはい)の准后(じゆごう)6)より」とぞ、つれなくいらへ侍りし。
1) 父、久我雅忠 / 2) 「あるに」は底本「あきに」。文脈により訂正。 / 3) 御深草院 / 4) 「遣戸」は底本「やりき。文脈により訂正。 / 5) 後嵯峨法皇 / 6) 西園寺実氏室、貞子
巻1―2
十五日の夕つ方、「河崎より迎へに」とて、人尋ぬ。「いつしか」とむつかしけれども、「否(いな)」と言ふべきならねば、出でぬ。見れば、なにとやらむ、「常の年々(としどし)よりも、はへばへしく、屏風・畳も、几帳1)・引き物まで、心ことに見ゆるは」と思へども、「年の始めのことなればにや」など思ひて、その日は暮れぬ。
明くれば供御の何かとひしめく。「殿上人の馬、公卿の牛」など言ふ。母の尼上2)など来集まりてそそめく時に、「何事ぞ」と言へば、大納言3)、うち笑ひて、「いさ、今宵、『御方違へに御幸なるべし』と仰せらるる時に、年の始めなれば、ことさらひきつくろふなり。その御陪膳(ばいぜむ)の料にこそ迎へたれ」と言はるるに、「節分(せちぶん)にてもなし、何の御方違へぞ」と言へば、「あら、いふかひなや」とて、みな人笑ふ。
されども、いかでか知らむに、わが常に居たる方にも、なべてならぬ屏風立て、小几帳立てなどしたり。「ここさへ晴(はれ)にあふべきか。かくしつらはれたるは」など言へば、みな人笑ひて、とかくのこと言ふ人なし。
夕方になりて、「白き三つ単(ひとへ)、濃き袴を着るべき」とて、おこせたり。空薫(そらだき)などするさまも、なべてならず、ことごとしきさまなり。
火ともして後、大納言の北方、あざやかなる小袖を持ちて来て、「これ着よ」と言ふ。また、しばしありて、大納言おはして、御棹(おんさほ)に御衣(おんぞ)かけなどして、「御幸まで寝入らで、宮仕へ。女房は何事もこはごはしからず、人のままなるがよきことなり」など言はるるも、何の物教へとも心得やりたる方なし。何とやらん、うるさきやうにて、炭櫃(すびつ)のもとに寄り臥して、寝入りぬ。
1) 底本表記、「木丁」。以下同じ / 2) 父、雅忠の義母。 / 3) 父、久我雅忠
巻1―3
その後のこと、いかがありけん、知らぬほどに、すでに御幸なりにけり。大納言1)、御車寄せ、何かひしめきて、供御参りにける折に、「いふかひなく寝入りにけり。起こせ」など、言ひ騒ぎけるを、聞かせおはしまして、「よし、ただ寝させよ」と言ふ御気色なりけるほどに、起こす人もなかりけり。
これは、障子の内の口に置きたる炭櫃(すびつ)に、しばしは寄りかかりてありしが、衣(きぬ)引きかづきて、寝ぬる後の何事も思ひ分かであるほどに、いつのほどにか、寝おどろきたれば、灯し火もかすかになり、引き物も下してけるにや、障子の奥に寝たるそばに、馴れ顔に寝たる人あり。
「こは何事ぞ」と思ふより、起き出でて去(い)なむとす。起し給はで2)、「いとけなかりし昔より、思し召し初(そ)めて、十とて四つの月日を待ち暮らしつる」。何くれ、すべて書き続くべき言の葉もなきほどに、仰せらるれども、耳にも入らず、ただ泣くよりほかのことなくて、人の御袂(たもと)まで、乾く所なく泣き濡らしぬれば3)、なぐさめわび給ひつつ、さすが情けなくももてなし給はねども4)、あまりにつれなくて、年も隔て行くを、かかる便りにてだになど思ひ立ちて。今は人もさとこそ知りぬらめに、かくつれなくては、いかがやむべき」と仰せらるれば、「さればよ、人知らぬ夢にてだになくて、人にも知られて、一夜の夢の覚むる間もなく、ものをや思はん」など案ぜらるるは、「なほ、心のありけるにや5)」とあさまし。
さらば、「などや、『かかるべきぞ』とも承はりて、大納言をも、よく見せさせ給はざりける」と、「今は人に顔を見すべきかは」と、くどきて泣き居たれば、あまりにいふかひなげに思し召して6)、うち笑はせ7)給ふさへ、心憂く悲し。
夜もすがら、つひに一言葉の御返事だに申さで、明けぬる音して、「還御は今朝にてはあるまじきにや」など言ふ音すれば、「ことあり顔なる朝帰りかな」と独りごち給ひて、起きて出で給ふとて、「あさましく、思はずなるもてなしこそ、振り分け髪の昔の契りも、かひなき心地すれ。いたく人目あやしからぬやうにもてなしてこそ、よかるべけれ。あまりに埋(うづ)もれたらば、人、いかが思はむ」など、かつは恨み、またなぐさめ給へども、つひにいらへ申さざりしかば、「あな力なのさまや」とて、起き給ひて、御直衣など召して、「御車寄せよ」など言へば、大納言の音して、「御粥参らせらるるにや」と聞くも、また見るまじき人のやうに、昨日は恋しき心地ぞする。
1) 父、久我雅忠 / 2) 「給はで」は底本「給はん」 / 3) 「濡らしぬれば」は底本「ぬらくぬれは」 / 4) 「もてなし給はねども」は底本「もてなく給はねとも」 / 5) 雪の曙・西園寺実兼に対する思い。 / 6) 「思し召して」は底本「おほくめして」 / 7) 底本「うちわたせ」。
巻1―4
「還御なりぬ」と聞けども、同じさまにて、引きかづきて寝たるに、いつのほどにか、「御文」といふもあさまし。大納言1)の北の方、尼上(あまうへ)など来て、「いかに。などか起きぬ」など言ふも悲しければ、「夜より心地わびしくて」と言へば、新枕(にゐまくら)の名残かな」と、人、思ひたるさまもわびしきに、この御文を持ち騒げども、誰かは見む。「御使、立ちわづらふ。いかに、いかに」と言ひわびて、「大納言に申せ」など言ふも耐へがたきに、「心地わぶらむは」とておはしたり。「この御文を持て騒ぐに、いかなるいふかひなさぞ。御返事は、また申さじにや」とて、来る音す。
あまた年さすがになれし小夜衣(さよごろも)重ねぬ袖に残る移り香(が) 紫の薄様に書かれたり。
この御歌を見て、面々に、「このごろの若き人には違(たが)ひたり」など言ふに、いとむつかしくて、起きも上がらぬに、「さのみ宣旨書きも、なかなか便なかりぬべし」など言ひわびて、御使の禄(ろく)などばかりにて、「いふかひなく、同じさまに臥して侍るほどに、かかるかしこき御文をも、いまだ見侍らで」などや申されけん。
1) 父、久我雅忠
巻1―5
昼つかた、思ひよらぬ人1)の文あり。見れば、
「今よりや思ひ消えなん一方に煙の末のなびき果てなば これまでこそ2)つれなき命も長らへて侍りつれ。今は何事をか」などあり。「かかる心の跡のなきまで3)」と、だみ付けにしたる縹(はなだ)4)の薄様に書きたり。
「忍の山の」とある所を、いささか破りて、
知られじな思ひ乱れれて夕煙なびきもやらぬ下の心は
とばかり書きてつかはししも、「とは何事ぞ」と、われながら思え侍りき。
1) 雪の曙・西園寺実兼 / 2) 「これまでこそ」は底本、「これにてこそ」で、「に」に「ま歟」と傍書。傍書に従う。 / 3) 『新古今和歌集』恋二 藤原雅経「消えねただ忍ぶの山の峰の雲かかる心のあとのなきまで」 / 4) 「縹」は底本「はなと」。
巻1―6
かくて、日暮らし侍りて、湯などをだに見入れ侍らざりしかば、「別(べち)の病にや」など申しあひて、暮れぬと思ひしほどに、「御幸」と言ふ音すなり。
「また、いかならむ」と思ふほどもなく、引き開けつつ、いと馴れ顔に入りおはしまして、「悩ましくすらんは何事にかあらん」など、御尋ねあれども、御いらへ申すべき心地もせず。ただうち臥したるままにてあるに、添ひ臥し給ひて、「さまざま承はりつくすも、今やいかが」とのみ思ゆれば、「なき世なりせば1)」と言ひぬべきにうち添へて、「思ひ消えなん夕煙、一方にいつしかなびきぬ2)と知られんも、あまり色なくや」など、思ひわづらひて、つゆの御いらへも聞こえさせぬほどに、今宵はうたて情けなくのみあたり給ひて、薄き衣はいたくほころびてけるにや、残るかたなくなり行くにも、世に有明の名さへ恨めしき心地して、
心よりほかにとけぬる下紐(したひぼ)のいかなる節に憂き名流さん
など、思ひ続けしも、心はなほありけると、われながらいと不思議なり。
「形は世々(よよ)に変るとも、契は絶えじ。あひ見る夜半(よは)は隔つとも、心の隔てはあらじな」と、数々承はるほどに、結ぶほどなき短か夜は、明けゆく鐘の音すれば、「さのみ明け過ぎて、もて悩まるるも所狭(ところせ)し」とて、起き出で給ふが、「明かぬ名残などはなくとも、見だに送れ」と、せちにいざなひ給ひしかば、これさへ、さのみつれなかるべきにもあらねば、夜もすがら泣き濡らしぬる袖の上に、薄き単(ひとへ)ばかりを引きかけて、立ち出でたれば、十七日の月、西に傾(かたぶ)きて、東は横雲わたるほどなるに、桜萌黄(さくらもよぎ)3)の甘(かん)の御衣(おんぞ)に、薄色の御衣、固文(かたもん)の御指貫、いつよりも目止まる心地せしも、「誰(た)が習はしにか」と、おぼつかなくこそ。
1) 『古今和歌集』恋四 よみ人しらず「いつはりのなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし」 / 2) 前ページの雪の曙の歌をふまえる。 / 3) 「桜」は底本「まくら」
巻1―7
隆顕(たかあき)の大納言1)、縹(はなだ)の狩衣にて、御車寄せたり。為方の卿2)、勘解由(かげゆ)の次官(すけ)と申しし、殿上人には一人侍りし。さらでは、北面の下臈二・三人、召次3)などにて、御車さし寄せたるに、折り知り顔なる鳥の音も、しきりに驚かし顔なるに、観音堂の鐘の音(おと)、ただわが袖に響く心地して、「『左右(ひだりみぎ)にも4)』とは、かかることをやな」と思ふに、なほ出でやり給はで、「一人行かん道の御送りも」など、いざなひ給ふも、「心も知らで5)」など思ふべき御ことにてはなけれども、思ひ乱れて立ちたるに、くまなかりつる有明の影、白むほどになりゆけば、「あな心苦しのやうや」とて6)、引き乗せ給ひて、御車引き出でぬれば、「かくとだに言ひ置かで、昔物語めきて、何となり行くにか」など思えて、
鐘の音に驚くとしもなき夢の名残も悲し有明の空
道すがらも、今しも盗み出でなどして行かん人のやうに契り給ふも、をかしとも言ひぬべきを、つらさをそへて行く道は、涙のほかは言問ふ方もなくて、おはしましつきぬ。
角(すみ)の御所の中門に御車引き入れて、下りさせ給ひて、善勝寺大納言7)に、「あまりにいふかひなき嬰児(みどりご)のやうなる時に、うち捨てがたくて、ともなひつる。しばし人に知らせじと思ふ。後見(うしろみ)せよ」と言ひ置き給ひて、常の御所へ入らせ給ひぬ。
1) , 7) 四条隆顕 / 2) 中御門為方 / 3) 「召次」は底本「召仕」 / 4) 『源氏物語』須磨「憂しとのみひとへにものは思ほえで左右にも濡るる袖かな」。 / 5) 『源氏物語』夕顔「山の端の心も知らで行く月はうはの空にて影や絶えなむ』 / 6) 「とて」は底本「かて」
巻1―8
幼くよりさぶらひなれたる御所とも思えず、恐しくつつましき心地して、立ち出づらんことも悔しく、「何となるべきことにか」と思ひ続けられて、また涙のみいとまなきに、「大納言の音(をと)するは、おぼつかなく思ひてか」とあはれなり。
善勝寺1)仰せのやう伝ふれば、「今さら、かくなかなかにては悪しくこそ。ただ日ごろのさまにて召し置かれてこそ、忍ぶにつけて洩れん名も、なかなかにや」とて、出でられぬる音(をと)するも、「げにいかなるべきことにか」と、いまさら身の置き所なき心地するも悲しきに、入らせ給ひて、尽きせぬことをのみ承はるを、さすが次第に慰まるるこそ、「これや逃れぬ御契りならむ」と思ゆれ。
十日ばかり、かくて侍りしほどに、夜離(よが)れなく見奉るにも、「煙の末2)いかが」と、なほも心にかかるぞ、うたてある心なりし。
1) 四条隆顕 / 2) 雪の曙・西園寺実兼を指す。
巻1―9
「さてしも、かくてはなかなか悪しかるべき」よし、大納言1)しきりに申して、出でぬ。
人に見ゆるも耐へがたく悲しければ、「なほも心地の例ならぬ」などもてなして、わが方にのみ居たるに、「このほどにならひて、積もりぬる心地するを、とくこそ参らめ」など、また御文細やかにて、
かくまでは思ひおこせじ人知れず見せばや袖にかかる涙を
あながちにいとはしく思えし御文も、今日は待ち見るかひある心地して、御返事も黒み過ぎしやらむ。
われゆゑの思ひならねど小夜衣涙の聞けば濡るる袖かな
いくほどの日数も隔てて、このたびは常のやうにて参りたれども、何とやらむ、そぞろはしきやうなることもある上、いつしか人の物いひさがなさは、「大納言の秘蔵(ひさう)して、女御参りの儀式にもてなし参らせたる」など言ふ凶害(けうがい)ども出で来て、いつしか女院2)の御方ざま、心よからぬ御気色(きそく)になりもて行くより、いとどものすさまじき心地しながら、まがよひゐたり。
御夜離れと言ふべきにしあらねど、積もる日数もすさまじく、また参る人の出だし入れ3)も、人のやうに子細がましく申すべきならねば、その道芝をするにつけても、「世に従ふは憂き習ひかな」とのみ思えつつ、とにかくに、「またこのごろやしのばれん4)」とのみ思えて、明け暮れつつ、秋にもなりぬ。
1) 父、久我雅忠 / 2) 東二条院・後深草院中宮西園寺公子 / 3) 「入れ」は底本「いね」 / 4) 『新古今和歌集』雑下 藤原清輔「長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」
巻1―10
八月にや、東二条院1)の御産、角(すみ)の御所にてなるべきにてあれば、御年も少し高くならせ給ひたる上、先々の御産もわづらはしき御ことなれば、みな肝をつぶして、大法・秘法残りなく行なはる。
七仏薬師・五壇の御修法・普賢延命・金剛童子・如法愛染王などぞ聞こえし。五壇の軍荼利の法は尾張の国にいつも勤むるに、「このたびは、ことさら御心ざしをそへて」とて、金剛童子のことも、大納言2)、申し沙汰しき。御験者には常住院3)の僧正4)参らる。
二十日あまりにや、「その御気(け)おはします」とて、ひしめく。「今、今」とて、二・三日過ぎさせおはしましぬれば、誰も誰も肝・心をつぶしたるに、いかにとかや、「変はる御気色見ゆる」とて、御所へ申したれば、入らせおはしましたるに、いと弱げなる御気色なれば、御験者近く召されて、御几帳5)ばかり隔てたり。
如法愛染の大阿闍梨にて、大御室6)、御伺候(しこう)ありしを、近く入り参らせて7)、「かなふまじき御気色に見えさせ給ふ。いかがし侍るべき」と申されしかば、「定業亦能転(ぢやうごうやくのうてん)は仏菩薩の誓ひなり。さらに御大事あるべからず」とて、御念誦あるにうちそへて、御験者、証空が命に代はりける本尊にや8)、絵像の不動御前にかけて、「奉仕修行者、猶如薄伽梵、一持秘密呪9)、生々而加護」とて、数珠(ずず)押しすりて、「われ、幼少10)の昔は、念誦の床(ゆか)に夜を明かし、長大(ちやうだい)の今は難行苦行に日11)を重ぬ。玄応擁護の利益むなしからんや」ともみふするに、すでにと見ゆる御気色あるに、力を得て、いとど煙(けぶり)もたつるほどなる。
女房たちの単襲(ひとへがさね)、正絹(すずし)の衣(きぬ)、面々に押し出だせば、御産奉行取りて、殿上人に賜ぶ。上下の北面、面々に御誦経の僧に参る。階下には、公卿着座して、皇子御誕生を待つ気色なり。陰陽師12)は庭に八脚(やつあし)を立てて、千度(せんど)の御祓へを勤む。殿上人、これを取り次ぐ。女房たちの袖口を出だして、これを取り渡す。御随身・北面の下臈、神馬(じんめ)を引く。御拝 ありて、二十一社へ引かせらる。「人間に生を受けて、女の身を得るほどにては、かくてこそあらめ」と、めでたくぞ見給ひし。
七仏薬師大阿闍梨13)、召されて、伴僧(ばんそう)三人、声すぐれたるかぎりにて、薬師経を読ませらる。「見者歓喜」といふわたりを読む折、御産なりぬ。
まづ内外(うちと)、「あなめでた」と申すほどに、内へ転ばししこそ、本意なく思えさせおはしまししかども、御験者の禄いしいしは常のことなり。
1) 後深草院中宮西園寺公子 / 2) 父、久我雅忠 / 3) 園城寺三門跡の一つ / 4) 良尊 / 5) 「几帳」は底本「木丁」 / 6) 法助・性助法親王などの説がある。 / 7) 「参らせて」は底本「まいらせむ」 / 8) 『発心集』6-1参照。 / 9) 「一」は底本「つ」。 / 10) 「幼少」は底本「ようしやうしやう」。 / 11) 底本「日」なし。 / 12) 底本「御陽師」の「御」に「陰歟」と傍書。傍書に従う。 / 13) 天台座主慈禅 
■巻1―11 〜20

 

巻1―11
このたびは姫宮1)にてはわたらせ給へども、法皇2)、ことにもてなしまいらせて、五夜・七夜などことに侍りしに、七夜の夜(よ)、ことども果てて、院の御方の常の御所にて御物語あるに、丑の時ばかりに、橘の御局(つぼね)に、大風の吹く折りに、荒き磯に波の立つやうなる音、おびたたしくするを、「何事ぞ、見よ」と仰せあり。
見れば、頭(かしら)はかいふ3)と言ふ物のせいにて、次第に盃(さかづき)ほど、陶器(すへき)ほどなるものの、青めに白きが、続きて十ばかりして、尾は細長にて、おびたたしく光りて、飛び上り飛び上りする。「あな悲し」とて逃げ入る。
廂(ひさし)に候ふ公卿たち、何か見騒ぐ。「人魂(ひとだま)なり」と言ふ。「大柳の下に、布海苔(ふのり)といふ物を溶きて、うち散らしたるやうなる物あり」などののしる。
やがて御占(おんうら)あり。法皇の御方の御魂(たま)のよし4)、奏し申す。今宵より、やがて招魂(せうこ)の御祭、泰山府君(たいざむふく)など祭らる。
かくて、長月のころにや、法皇御悩みと言ふ。腫るる御ことにて、御灸いしいしとひしめきけれども、さしたる御験(しるし)もなく、日々に重る御気色のみありとて、年も暮れぬ。
1) 後の遊義門院・姈子内親王 / 2) 後嵯峨法皇 / 3) 「土器(かはらけ)」・「匙(かひ)」・「卵(かひご)」「海賦」などの説がある。 / 4) 「よし」は底本「はし」
巻1―12
あらたまの年どもにも、なほ御わづらはしければ、何事もはへなき御ことなり。正月の末になりぬれば、「かなふまじき御さまなり」とて、嵯峨御幸なる。御輿(こし)にて入らせ給ふ。
新院1)、やがて御幸。御車の後(しり)に参る。両女院2)、御同車にて、御匣殿(みくしげどの)3)、御後に参り給ふ。
道に参るべき御煎じ物を、胤成4)・師成5)二人して、御前にて御水瓶(みづがめ)二つにしたため入れて、経任(つねたう)6)、北面の下臈信友に仰せて持たせられたるを、内野(うちの)にて参らせむとするに、二つながらつゆばかりもなし。いと不思議なりしことなり。それより、いとど臆させさせ給ひてやらん、「御心地も重らせ給ひて見えさせおはします」などぞ、聞き参らせし。
この御所は、大井殿の御所に渡らせ給ひて、暇なく、男・女房、上臈・下臈をきらはず、「ただ今のほど、いかに、いかに」と申さるる御使、夜昼暇なきに、中廊(なからう)を渡るほど、大井河の波の音、いとすさまじくぞ覚え侍りし。
1) 後深草院 / 2) 大宮院・東二条院 / 3) 藤原房子 / 4) 侍医、和気胤成 / 5) 侍医、和気師成 / 6) 中御門経任
巻1―13
二月(きさらぎ)の初めつかたになりぬれば、今は時を待つ御さまなり。九日にや、両六波羅1)、御とぶらひに参る。面々に歎き申すよし、西園寺の大納言2)披露せらる。
十一日は行幸、十二日は御逗留、十三日還御などはひしめけども、御所の内はしめじめとして、いと取り分きたるものの音(ね)もなく、新院御3)対面ありて、かたみに御涙ところ狭(せ)き御気色も、「よそさへ露の」と申しぬべき心地ぞせし。
さるほどに、十五日の酉の時ばかりに、都の方に、おびたたしく煙(けぶり)立つ。「いかなる人の住まひ所、跡(あと)なくなるにか」と聞くほどに、「六波羅の南方式部大輔4)、討たれにけり。その跡の煙なり」と申す。あへなさ申すばかりなし。
九日は君の御病の御とぶらひに参り、今日とも知らぬ御身に先立ちて、また失せにける。東岱前後の習ひ、はじめぬことながら、いとあはれなり。十三日の夜よりは、ものなと仰せらるることも、いたくなかりしかば、かやうの無常も知らせおはしますまでもなし。
1) 南方の北条時輔と北方の北条義宗 / 2) 西園寺実兼 / 3) 後深草院 / 4) 北条時輔
巻1―14
さるほどに、十七日の朝(あした)より御気色変るとてひしめく。御善知識には経海僧正、また往生院の長老参りて、さまざま御念仏も勧め申され、「今生にても十善の床(ゆか)を踏んで、百官にいつかれましませば、黄泉路(よみぢ)未来も頼みあり。早く上品上生の台(うてな)に移りましまして、かへりて娑婆の旧里にとどめ給ひし衆生も導きましませ」など、さまざま、かつはこしらへ、かつは教化(けうげ)し申しかども、三種の愛に心をとどめ、懺悔の言葉に道を惑はして、つひに教化の言葉に翻し給ふ御気色なくて、文永九年二月十七日酉の時、御年五十三にて崩御なりぬ。一天かきくれて、万民愁へに静み、花の衣手おしなべてみな黒み渡りぬ。
十八日、薬草院殿へ送り参らせらる。内裏よりも、頭中将1)御使に参る。御室・円満院・聖護院・菩提院・青蓮院、みなみな御供に参らせ給ふ。その夜の御あはれさ、筆にもあまりぬべし。
「経任2)、さしも御あはれみ深き人なり。出家ぞせんずらむ」と、みな人申し思ひたりしに、御骨の折、なよらかなるしじら3)の狩衣にて、瓶子(へいじ)に入らせ給ひたる御骨を持たれたりしぞ、いと思はずなりし。
新院4)、御歎きなべてには過ぎて、夜昼(よるひる)御涙の暇(ひま)なく見えさせ給へば、さぶらふ人々も、よその袖さへ絞りぬべきころなり。天下諒闇(りやうあん)にて音奏(おんそう)・警蹕(けいひつ)とどまりなとしぬれば、「花もこの山の墨染にや開(さ)くらん5)」とぞ思ゆる。
大納言6)は、人より黒き御色を給はりて、この身にも御素服(そふく)を着るべきよしを申されしを、「いまだ幼きほどなれば、ただおしなべたる色にてありなん。とりわき染めずとも」と、院の御方、御気色あり。
1) 滋野井実冬 / 2) 中御門経任 / 3) 「しじら」は底本「ししう」 / 4) 後深草院 / 5) 『古今和歌集』哀傷 上野岑雄「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」 / 6) 父、久我雅忠
巻1―15
さても大納言1)、たびたび大宮院・新院の御方へ、出家のいとまを申さるるに、「思し召す子細あり」とて、御許されなし。人よりことに侍る歎きのあまりにや、日ごとに御墓に参りなどしつつ、重ねて実定2)の大納言をもちて、新院3)へ申さる。
「九歳して初めて君に知られ奉りて、朝廷にひざまづきしよりこのかた、時に従ひ折りに触れ、恵みならずといふことなし。ことに父におくれ、母の不孝(ふけう)をかうぶりても、なほ君の恩分を重くして、奉公の忠をいたす。されば、官位昇進、理運を過ぎて、なほ面目(めんぼく)をほどこししかば、叙位・除目の朝(あした)には、聞き書きを開きて笑みをふくみ、内外に恨みなければ、公事(くじ)に仕ふるに物憂からず。蓬莱宮の月をもてあそんで4)、豊明(とよのあかり)の夜な夜なは、淵酔(ゑんずい)・舞楽に袖を連ねて、あまた年、臨時調楽(りむひてうがく)の折り折りは、小忌(をみ)の衣に立ち馴れて、御手洗河(みたらしがは)に影を映す。すでに身正二位、大納言一臈5)、氏の長者を兼(けむ)ず。すでに大臣の位を授け給ひしを、近衛大将を経(ふ)べきよしを、通忠右大将6)書き置く状を申し入れて、この位を辞退申すところに、君すでに隠れましましぬ。われ、世にありとも、頼む陰(かげ)枯れ果てて、立ち宿るべき方なく、何の職に居ても、そのかひなく思え侍り。齢(よはひ)すでに五十(いそぢ)に満ちぬ。残り幾年(いくとせ)か侍らん。恩を捨てて無為に入るは、真実(しんじち)の報恩なり。御許されをかうぶりて、本意をとげ、聖霊(しやうりやう)の御跡をもとぶらひ申すべき」よし、ねんごろに申されしを、重ねて、かなうまじきよし仰せられ、また、直(ぢき)にもさまざま仰せらるることもありしかば、一日二日過ぎ行くほどに、忘るる草の種を得けるにはあらねども、自然7)に過ぎつつ、御仏事何かの営みに明かし暮らしつつ、御四十九日にもなりぬれば、御仏事など果てて、みな都へ帰り入らせおはしますほどより、御政務のことに、関東へ御使(つかひ)下されなどすることもわづらはしくなり行くほどに、あはれはつきに8)なりぬ。
1) 父、久我雅忠 / 2) 土御門実定。底本、「さね(た)さた(ね歟)」で、「ね」に「た」、「た」に「ね歟」と傍書。 / 3) 後深草院 / 4) 「もてあそんで」は底本「もてあか(そ歟)んて」、「か」に「そ歟」と傍書。 / 5) 「一臈」は底本「つらう」 / 6) 久我通忠。底本、「道□右大将」。一字空白。 / 7) 「自然」は底本「しせ(を)む」。「せ」に「を」と傍書。 / 8) 「あはれは次に」「あはれ五月(さつき)に」などの解釈がある。
巻1―16
五月1)はなべて袖にも露のかかるころなればにや、大納言2)の歎き、秋にも過ぎて露けく見ゆるに、さしも一夜もあだには寝じとするに、さやうのこともかけてもなく、酒などの遊びもかき絶えなきゆゑにや、「如法、痩せ衰へたる」など申すほどに、五月十四日の夜、大谷になる所にて念仏のありし、聴聞して帰る車にて、御前どもありしに、「あまりに色の黄に見え給ふ。いかなることぞ」など、申し出だしたりしを、「あやし」とて、医師(くすし)に見せたれば、「黄病(きやまひ)といふことなり。余りに物を思ひて付く病なり」と申して、灸治あまたするほどに、「いかなるべきことにか」とあさましきに、次第に重り行くさまなれば、思ふばかりなく思ゆるに、わが身さへ六月のころよりは心地も例ならず3)、いとわびしけれども、かかる中なれば、何とかは言ひ出づべき。
大納言は、「いかにも、かなうましきことと思ゆれば、『御所の御供に、いま一日もとく』と思ふ」とて、祈りなどもせず、しばしは六角櫛笥(ろつかくくしげ)4)の屋にてありしが、七月十四日の夜、河崎の宿所へ移ろひしに、幼き子どもは留め置きて、静かに臨終(りむじゆ)のことどもなど、思ひしたためたる5)心ちにて、おとなしき子の心地にて、ひとりまかりて侍りしに、心地例ざまならぬを、しばしは、「わがことを歎きて、物なども食はぬ」と思ひて、とかくなぐさめられしほどに、しるきことのありけるにや、「ただならずなりにけり」とて、いつしか、「わが命をも、このたびばかりは」と思ひなりて、初めて、中堂にて如法泰山府君(たいさんぶく)といふこと七日祭らせ、日吉にて七社(やしろ)の七番の芝田楽(しばでんがく)、八幡にて一日の大般若、河原6)にて石の塔、何くれと沙汰せらるるこそ、「わが命の惜しさにはあらで、この身のことの行く末の見たさにこそ」と思えしさま、罪深くこそ思え侍れ。
1) 「五月」は底本「正(五歟)月」で「正」に「五歟」と傍書。 / 2) 父、久我雅忠 / 3) 妊娠の兆候 / 4) 「六角櫛笥」は底本「候いかかくしけ」 / 5) 「たる」は底本「たり」。 / 6) 鴨川の河原
巻1―17
二十日ごろには、さのみいつとなきことなれば、御所へ参りぬ。ただにもなきほとに思し召されて後は、ことにあはれどもかけさせおはしますさまなるも1)、「いつまで草の」とのみ2)思ゆるに、御匣殿(みくしげどの)3)さへ、この六月に産(さむ)するとて失せ給ひにしも、「人の上かは」と恐しきに、大納言4)の病のやう、つひにはかばかしからじと見ゆれば、「何となる身の5)」との歎きつつ、七月も末になるに、二十七日の夜にや、常よりも御人少なにてありしに、「寝殿の方へ、いざ」と仰せありしかば、御供に参りたるに、人の気配もなき所なれば、静かに昔今の御物語ありて、「無常の習ひもあぢきなく思し召さるる」など、さまざま仰せありて、「大納言も、つひにはよもと思ゆる。いかにもなりなば6)、いとど頼む方なくならんずるこそ。われよりほかは、誰かあはれもかけんとする」とて、御涙もこぼれぬれば、問ふにつらさもいと悲し。
月なきころなれば、灯籠(とうろ)の火かすかにて、内も暗きに、人知れぬ御物語、小夜(さよ)更くるまでになりぬるに、うち騒ぎたる人音して尋ぬ。「誰ならむ」と言ふに、河崎より、「今と見ゆる」とて告げたるなりけり。
とかくのこともなく、やがて出づる道すがらも、「はや果てぬやと聞かむ」と思ひ行くに、急ぎ行くと思へども、道のはるけさ東路(あづまぢ)なとを分けん心地するに、行き着きて見れば、「なほ長らへておはしけり」と。いと嬉しきに、「風待つ露も消えやらず7)、心苦しく思ふに、ただにもなしとさへ見置きて行かん道の空なく」など、いと弱げに泣かるるほどに、更け行く鐘の声、ただ今聞こゆるほどに、「御幸」と言ふ。いと思はずに、病人(やまひびと)も思ひ騒ぎたり。
御車さし寄する音すれば、急ぎ出でたるに、北面の下臈二人、殿上人一人にて、いとやつして入らせ給ひたり。二十七日の月、ただ今山の端(は)分け出づる光もすごきに、吾亦紅(われもかう)織りたる薄色の御小直衣にて、とりあへず思し召し立ちたるさまも、いと面立(おもだ)たし。「今は狩りの衣をひきかくるほどの力も侍らねば、見え奉るまでは思ひより侍らず。かく入りおはしましたると承るなん、今はこの世の思ひ出でなる」よしを奏し申さるるほどなく、やがて引き開けて入らせ給ふほどに、起き上がらむとするもかなはねば、「ただ、さてあれ」とて、枕に御座を敷きて、ついゐさせ給ふより、袖の外まて漏る御涙も所狭(せ)く、「御幼くより馴れつかうまつりしに、今はと聞かせおはしましつるも悲しく、今一度と思し召し立ちつる」など仰せあれば、「かかる御幸の嬉しさも置き所なきに、この者が心苦しさなむ、思ひやる方なく侍る。母には二葉にておくれにしに、『われのみ』と思ひ育み侍りつるに、ただにさへ侍らぬを見置き侍るなん、あまたの愁へにまさりて、悲しさも、あはれさも、言はん方なく侍る」よし、泣く泣く奏せらるれば、「ほどなき袖を、われのみこそ8)。まことの道の障りなく」など、細やかに仰せありて、「ちと、休ませおはしますべし」とて、立たせ給ひぬ。
明け過ぐるほどに、「いたくやつれたる御さまもそら恐し」とて、急ぎ出で給ふに、「久我太政大臣9)の琵琶とて持たれたりしと、後鳥羽院の御太刀をはるかに移され給ひけるころとにや、太政大臣に給はせたりけるとてありしを、御車10)に参らす」とて、縹(はなだ)の薄様の札にて、御太刀の緒(を)に結び付けられき。
別れても三世(みよ)の契のありときけばなほ行末をたのむばかりぞ
「あはれに御覧ぜられぬる。何事も心やすく思ひ置け」など、かへすがへす仰せられつつ、還御なりて、いつしか御みづからの御手にて、
このたびは憂き世のほかにめくり会はむ待つ暁の有明の空
「何となく御心に入りたるも嬉しく」など、思ひ置かれたるも、あはれに悲し。
1) 「なるも」は底本「なにも」。 / 2) 「とのみ」は底本「とのと(み歟)」。「と」に「み歟」と傍書。 / 3) 藤原房子。底本「さ(御)くら(し歟)け殿」で、「さ」に「御」、「ら」に「し歟」と傍注。 / 4) 父、久我雅忠 / 5) 『続古今和歌集』羇旅 藤原光俊「哀れなり何となるみの果てなればまたあくがれて浦伝ふらむ」 / 6) 「なりなば」は底本「なりなむ」。 / 7) 『新古今和歌集』雑下 藤原俊成「小笹原風待つ露の消えやらでこの一節を思ひおくかな」 / 8) 『源氏物語』浮舟「涙をもほどなき袖にせきかねていかに別れをとどむべき身ぞ」 / 9) 久我通光。雅忠父、作者の祖父。 / 10) 後深草院の乗った車。
巻1―18
八月二日、いつしか善勝寺大納言1)、「御帯」とて、持ちて来たり。「『諒闇ならぬ姿にてあれ』と、仰せ下されたる」とて、直衣にて前駆(せむくう)・侍、ことごとしく引きつくろひたるも、「『見る折り』と思し召し急ぎけるにや」と思ゆ。
病人(やまひびと)2)もいと喜びて、勧杯(けんぱい)など言ひ営まるるぞ、「これやかぎり」と、あはれに思え侍りし。
御室より賜りて秘蔵(ひさう)せられたりし塩竈(しほがま)といふ牛をぞ引かれたりし。
1) 四条隆顕 / 2) 父、久我雅忠
巻1―19
今日などは、心地も少しおこたるやうなれば、「もしや」など思ひゐたるに、更けぬれば、傍らにうち休むと思ふほどに、寝入りにけり。
おどろかされて起きたるに、「あなはかなや。今日明日とも知らぬ道に出で立つ歎きをも忘れて、ただ心苦しきことをのみ思ひゐたるに、はかなく寝たるを見るさへ、悲しう思ゆる。さても、二つにて母に別れしより、われのみ心苦しく、あまた子どもありといへども、おのれ一人に三千の寵愛もみな尽したる心地を思ふ。笑めるを見ては、百の媚(こび)ありと思ふ。愁へたる気色を見ては、ともに歎く心ありて、十五年の春秋を送り迎へて、今すでに別れなんとす。君に仕へ、世に恨みなくは、慎みて怠ることなかるべし。思ふによらぬ世の習ひ、もし君にも世にも恨みもあり、世に住む力なくは、急ぎてまことの道に入りて、わが後生をも助かり、二つの親の恩をも送り、一つ蓮(はちす)の縁と祈るべし。世に捨てられ、頼りなしとて、また異君(こときみ)にも仕へ、もしは、いかなる人の家にも立ち寄りて、世に住むわざをせば、亡き後(あと)なりとも、不孝(ふけう)の身と思ふべし。夫妻(ふさい)のことにおきては、この世のみならぬことなれば、力なし。それも、髪を付けて好色の家に名を残しなどせむことは、かへすがへす憂かるべし。ただ、世を捨てて後は、いかなるわざも苦しからぬことなり」など、いつよりも細やかに言はるるも、「これや教へのかぎりならむ」と悲しきに、明け行く鐘の声聞こゆるに、例の下に敷く車前草(おほばこ)の蒸したるを、仲光1)、持ちて参りて、「敷き替へん」と言ふに、「今は近付きて思ゆれば、何もよしなし。何まれ、まづこれに食はせよ」と言はる。
「ただ今は何をか」と思へども、しきりにわれ見る折り、「とくとく」と言はるるより、「今ばかりこそ見られたりとも、後はいかに」と、あはれに思えしか。芋巻(いもまき)といふ物を土器(かはらけ)に入れて、持ちて来たれば、「かかるほどには、食はせぬ物を」とて、世に悪(わろ)げに思ひたるもむつかしくて、まぎらかして取りのけぬ。
1) 「仲光」は底本「なりみつ」
巻1―20
明けはなるるほどに、「聖呼びにつかはせ」など言ふ。七月のころ、八坂の寺の長老呼び奉りて、頂(いただき)剃り、五戒受けて、「れんせう」と名付けられて、やがて善知識と思はれたりしを、などいふことにか、三条の尼上1)、「河原院の長老浄光房といふ者に沙汰させよ」と、しきりに言ひなして、それになりぬ。「変はる気色あり」と告げたれども、急ぎも見えず。
さるほどに、「すでにと思ゆるに、起こせ」とて、仲光といふは仲綱が嫡子にてあるを、幼なくより生(おほ)し立てて、身放たず使はれしを呼びて、起こされて、やがて後ろに置きて、寄りかかりの前に、女房一人よりほかは人なし。
これはそばに居たれば、「手の首取らせよ」と言はる。取らへて居たるに、「聖の賜びたりし袈裟は2)」とて、乞ひ出でて、長絹(ちやうけん)の直垂の上ばかり着て、その上に袈裟かけて、「念仏、仲光も申せ」とて、二人して、時の半(なか)らばかり申さる。
日のちとさし出づるほどに、ちと眠(ねぶ)りて、左の方へ傾(かたぶ)くやうに見ゆるを、なほよくおどろかして、「念仏させ奉らん」と思ひて、膝をはたらかしたるに、きとおどろきて、目を見開くるに、あやまたず見合せたれば、「何とならんずらむは」と言ひも果てず、文永九年八月三日、辰の初めに、年五十にて隠れ給ひぬ。
念仏のままにて終らましかば、行く末も頼もしかるべきに、よしなくおどろかして、あらぬ言の葉にて息絶えぬるも心憂く、すべて、何と思ふばかりもなく、天に仰(あふ)ぎて見れば、日月地に落ちたるにや、光も見えぬ心地し、地に伏して泣く涙は、河となりて流るるかと思ひ、母には二つにておくれにしかども、心なき昔は覚えずして過ぎぬ。生をうけて四十一日といふより、初めて膝の上に居そめけるより、十五年の春秋を送り3)迎ふ。朝(あした)には鏡を見る折りも、「誰(た)が影ならむ」と喜び、夕には衣を着るとても、「誰が恩4)ならむ」と思ふき。五体身分を得しことは5)、その恩、迷廬八万(めいろはちまん)6)の頂(いただき)よりも高く、養育扶持(やういくふぢ)の心ざし、母に代はりて切(せつ)なりしかば、その恩、また四大海(しだいかい)の水よりも深し。「何と報じ、いかに報ひてか、あまりあらむ」と思ふより、折々の言の葉は、思ひ出づるも忘れがたく、今を限りの名残は、身に代へてもなほ残りありぬべし。
「ただそのままにて、なり果てむさまをも見るわざもがな」と思へども、かぎりあれば、四日の夜ん、神楽岡7)といふ山へ送り侍りし。「むなしき煙(けぶり)にたぐひても、伴ふ道ならば」と、思ふもかひなき袖の涙ばかりを形見にてぞ帰り侍りし。
むなしき跡を見るにも、「夢ならでは8)」と悲しく、昨日の面影を思ふ。今とてしも勧められしことさへ、かへすがへす何と言ひ尽すべき言の葉なし。
わが袖の涙の海よ三瀬河に流れてかよへ影をだに見む
1) 父、雅忠の義母。巻1 2 十五日の夕つ方河崎より迎へにとて人尋ぬ・・・参照。 / 2) 「袈裟は」は底本「けさい」。 / 3) 「送り」は底本「お(を歟)くり」。「お」に「を歟」と傍書。 / 4) 「恩」は底本「お(を歟)ん」。「お」に「を歟」と傍書。 / 5) 「ことは」は底本「か(こ歟)とは」。「か」に「こ歟」と傍書。 / 6) 須弥山 / 7) 吉田山 / 8) 『古今和歌集』哀傷 上東門院「逢ふことも今はなき寝の夢ならでいつかは君をまたは見るべき」 
■巻1―21〜30

 

巻1―21
五日夕方、仲綱、濃き墨染の袂になりて参りたるを見るにも、大臣の位にゐ給はば、四品の家司(けいし)などにてあるべき心地をこそ思ひつるに、思はずに、「ただ今、かかる袂を見るべくとは」と、いと悲しきに、「御墓へ参り侍り。御言付けや」と言ひて、彼も墨染の袂乾く所なきを見て、涙落さぬ人なし。
九日は、初めの七日に、北の方・女房二人・侍二人、出家し侍りぬ。八坂の聖を呼びつつ、「流転三界中」とて、剃り捨てられしを見る心地、うらやましさを添へて、あはれも言はむ方なし。
「同じ道に」とのみ思へども、かかる折節なれば、思ひよるべきことならねば、かひなき音(ね)のみ泣きゐたるに、三七日をばことさら取り営みしに、御所よりも、まことしく、さまざまの御弔(とぶら)ひもあり。
御使は、一・二日に隔てず承るにも、「見給はましかば」とのみ悲しきに、京極の女院1)と申すは、実雄の大臣2)の御女(むすめ)、当代3)の后、皇后宮とて、御おぼえも人にはことにて、春宮4)の御母にておはします上は、御身柄(みがら)といひ、御年といひ、惜しかるべき人なりしに、常は物の怪にわづらひ給へば、「また、このたびもさにや」など、みな思ひたるに、「はや御こときれぬ」と言ひ騒ぐを聞くにも、大臣(おとど)の歎き、内の御思ひ、身に知れていと悲し。
五七日にもなりぬれば、水晶の数珠(すず)に5)、女郎花の打ち枝に付けて、「風誦(ふじゆ)6)に7)」とて給ふ。同じ札に、
さらでだに秋は露けき袖の上に昔を恋ふる涙添ふらん
かやうの文をも、「いかにせん」と、もてなし喜ばれしに、「苔の下にもさこそと、置き所なくこそ」とて、
思へたださらでも濡るる袖の上にかかる別れの秋の白露(しらつゆ)
頃しも秋の長き寝覚めは、ものごとに悲しからずといふことなきに、千声万声の砧(きぬた)の音8)を聞くにも、袖にくだくる涙の露を片敷きて9)、むなしき面影をのみ慕ふ。
露消えにし朝(あした)は、御所御所の御使より始め、雲の上人おしなべて訪ね来ぬ人もなく、使をおこせぬ人なかりし中に、基具(もととも)の大納言10)、一人訪れざりしも、世の常ならぬことなり。
1) 洞院佶子 / 2) 洞院実雄 / 3) 亀山天皇 / 4) 後宇多天皇 / 5) 「数珠(すず)に」は底本「すすに(二歟)」。「に」に「二歟」と傍書。傍書を採用する説(新大系)・衍字とみて削除する説(集成)などがあるが、「をみなへし」と続くことから、「をゝ」の誤写とする説(角川文庫)を採った。 / 6) 「風誦」は底本「ふしや」 / 7) 後深草院の言葉 / 8) 「千声万声」は底本「千万声」。白居易『聞夜砧』「八月九月正長夜、千声万声無了時」による。 / 9) 『新古今和歌集』秋下 式子内親王「千たびうつ砧の音に夢覚めて物思ふ袖の露ぞくだくる」 / 10) 堀川基具
巻1―22
その折り1)のその暁より、日を隔てず、「心の内は、いかに、いかに」ととぶらひし人2)の、長月の十日あまりの月をしるべに、訪ね入りたり。
なべて黒みたるころなれば、無紋の直衣姿なるさへ3)、わが色にまがふ心地して、人づてに言ふべきにしあらねば、寝殿の南向きにて会ひたり。「昔今(むかしいま)のあはれ取り添へて、今年は常の年にも過ぎて、あはれ多かる、袖の暇(ひま)なき一年の、雪の夜の九献(くこん)の式、『常に逢ひ見よ4)』とかやも、せめての心ざしと思えし」など、泣きみ笑ひみ、夜もすがら言ふほどに、明け行く鐘の声聞こゆるこそ、げに逢ふ人からの秋の夜は5)、言葉残りて鳥鳴きにけり6)。
「『あらぬさまなる朝帰り』とや世に聞こえん」など言ひて帰るさの名残りも多き心地して、
別れしも今朝の7)名残を取りそへて置き重ねぬる袖の露かな
はした者して、車へ使はし侍りしかば、
名残とはいかが思はん別れにし袖の露こそ暇(ひま)なかるらめ
夜もすがらの名残も、「誰(た)が手枕(たまくら)にか」と、われながらゆかしきほどに、今日は思ひ出でらるる折節、檜皮(ひはだ)の狩衣着たる侍8)、文の箱を持ちて、中門のほどにたたずむ。彼よりの使(つかひ)なりけり。いと細やかにて、
忍びあまりただうたたねの手枕に露かかりきと人やとがむる
よろづあはれなるころなれば、かやうのすさみごとまでも名残りある心地して、われもこまごまと書きて、
秋の露はなべて草木に置くものを袖にのみとは誰(たれ)かとがめん
1) 父、久我雅忠の死 / 2) 雪の曙・西園寺実兼 / 3) 「なるさへ」は底本「なりさへ」 / 4) 雅忠の雪の曙に対する言葉。 / 5) 『古今和歌集』恋三 凡河内躬恒「長しとも思ひぞはてぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば」 / 6) 『伊勢物語』22段「秋の夜の千夜を一夜になせりとも言葉残りて鳥や鳴きなむ」 / 7) 「今朝の」は底本「ふ(け歟)さの」。「ふ」に「け歟」と傍書。 / 8) 「侍」は底本「さふらは」。
巻1―23
四十九日には、雅顕(まさあき)の少将1)が仏事。河原院の聖、例の「鴛鴦の衾の下、比翼の契」とかや、これにさへ言ひ古しぬること果てて後、憲実法印導師にて、文どもの裏に身づから法華経を書きたりし、供養せさせなどせしに、三条の坊門の大納言2)、万里小路(までのこうぢ)3)、善勝寺の大納言4)など、「聴聞に」とておはして、面々に弔ひつつ帰る名残も悲しきに、今日は行き違ひなれば、乳母(めのと)が宿所、四条大宮なるにまかりぬ。帰る袂の袖の露は、かこつ方なきに、何となく集ひ居て、歎かしさをも言ひ合はせつる人々にさへ離れて、一人居たる心の内、言はん方なし。
さても、いぶせかりつる日数のほどにだに、忍びつつ入らせおはしまして、「なべてやつれたるころなれば、色の袂も苦しかるまじければ、五十日忌5)五旬過ぎなば、参るべき」よし、仰せあれども、よろづもの憂き心地して、こもり居たるに、四十九日は九月二十三日なれば、鳴き弱りたる虫の音も、袖の露を言問ひて、いと悲し。御所よりは、「さのみ里住(さとず)みも、いかに、いかに」と仰せらるるにも、動かれねば、いつさし出づべき心地もせで、神無月にもなりぬ。
1) 久我雅顕。久我雅忠の子。作者の異母兄弟。 / 2) 中院通頼 / 3) 北畠師親 / 4) 四条隆顕 / 5) 「五十日忌」は底本「いかき」。集成・新大系・筑摩叢書の説に従う。
巻1―24
十日あまりのころにや、また使(つかひ)あり1)。「日を隔てずも申したきに、御所の御使など見合ひつつ、ころとも知らでや思し召されんと、心のほかなる日数積る」など言はるるに、この住まひは四条大宮の隅(すみ)なるが、四条面(おもて)と大宮との隅の築地(ついぢ)いたう崩れのきたる所に、猿捕(さるとり)といふ茨(うばら)を植ゑたるが、築地の上へ這ひ行きて、本(もと)の太きがただ二本(もと)あるばかりなるを、この使見て、「『ここには番の人侍る』など言ふに、『さもなし』と人言へば、『さては、ゆゆしき御通ひ路になりぬべし』と言ひて、この茨のもとを刀して切りてまかりぬ」と言へば、「とは何事ぞ」と思へども、必ずさしも思ひよらぬほどに、子一つばかりにもやと思ふ月影に、妻戸を忍びて叩く人あり。
中将といふ童(わらは)、「水鶏(くゐな)にや。思ひよらぬ音かな」と言ひて、開くると聞くほどに、いと騒ぎたる声にて、「ここもとに立ち給ひたるが、『立ちながら対面せん』と仰せらるる」と言ふ。思ひよらぬほどのことなれば、何といらへ言ふべき言の葉もなく、あきれゐたるほどに、かく言ふ声をしるべに、やがてここもとへ入り給ひたり。
紅葉(もみぢ)を浮き織りたる狩衣に、紫苑にや、指貫の、ことにいづれもなよらかなる姿にて、まことに忍びけるさまもしるきに、思ひよらぬ身のほどにもあれば、「御心ざしあらば、後瀬の山の後には」など言ひつつ、今宵は逃れぬべく、あながちに言へば、「かかる御身のほどなれば、つゆ御後ろめたき振舞ひあるまじきを、年月の心の色を、ただのどかに言ひ聞かせん。よその仮り臥しは御裳濯河(みもすそがは)の神も許し給ひてん」など、心清く誓ひ給へば、例の心弱さは否(いな)とも言ひ強(つよ)り得でゐたれば、夜の御座(おまし)にさへ入り給ひぬ。
長き夜すがら、とにかくに言ひつづけ給ふさまは、げに唐国の虎2)も涙落ちぬべきほどなれば、岩木(いはき)ならぬ心には、「身に代へん」とまでは思はざりしかども、心のほかの新枕は、「御夢にや見ゆらん」と、いと恐し。
鳥の音(ね)におどろかされて、夜深く出で給ふも、名残を残す心地して、「また寝にや」とまでは思はねども、そのままにて臥したるに、まだ東雲(しののめ)も明けやらぬに、文あり。
「帰るさは涙にくれてありあけの月さへつらき東雲の空
いつのほどに積りぬるにか、暮れまでの心づくし、消えかへりぬべきを、なべてつつましき世の憂さも」などあり。
御返事には、
帰るさの袂(たもと)は知らず面影は袖の涙にありあけの空
かかるほどには、しひて逃れつるかひなくなりぬる身の式(しき)もかこつ方なく、「いかにも、はかばかしからじ」と思ゆる行く末も推し量られて、人知らぬ泣く音(ね)も露けき昼つ方、文あり3)。
「いかなる方に思ひなりて、かくのみ里住み久し4)かるらん。このごろは、なべて御所ざまもまぎるる方なく、御人少ななるに」など、常よりも細やかなるも、いとあさまし。
1) 雪の曙からの使。 / 2) 「虎」は底本「とゝ(ら歟)」。「ゝ」に「ら歟」と傍注。 / 3) 後深草院の文 / 4) 「久し」は底本「く(久歟)し」。「く」に久歟」と傍書。
巻1―25
暮るれば、今宵はいたく更(ふ)かさで1)おはしたるさへ、そら恐しく、はじめたることのやうに覚えて、ものだに言はれずながら、傅(めのと)の入道2)なども、出家の後は千本の聖のもとにのみ住まひたれば、いとど立ちまじる男子(おのこご)もなきに、今宵しも、「珍しく里居(さとゐ)したるに」など言ひて来たり。乳母子(めのとご)どもも集ひ居てひしめくも、いとどむつかしきに。御姆(はは)にてありし者は、さしもの古宮3)の御所にて生ひ出でたるものともなく、無下に用意なく、ひた騒ぎに、今姫君が母代体(ははしろてい)なるがわびしくて、「いかなることか」と思へども、「かかる人の」など、言ひ知らすべきならねば、火なども灯さで、月影見るよしして、寝所(ねどころ)にこの人をば置きて、障子の口なる炭櫃(すびつ)に寄りかかりて居たる所へ、御姆こそ出で来たれ。
「あな悲し」と思ふほどに、「『秋の夜長く侍り。弾碁(たぎ)しなどして遊ばせ侍らむ』と、御父(てて)申す。入らせ給へ」と訴訟顔(そしようがほ)になりかへりて言ふさまだに、いとむつかしきに、「何事かせまし。誰かし候ふ、かれも候ふ」など、継子・実(じち)の子が名乗り言ひ続け、九献(くこん)4)の式行なふべきこといしいし、伊予の湯桁(ゆげた)とかや、数へゐたるも悲しさに、「心地わびしき」などもてなしてゐたれば、「例の、わらはが申すことをば、御耳に入らず」とて立ちぬ。なまさかしく、「女子をば近くを」にや、言ひならはして、常の居所も庭続きなるに、さまざまのことども聞こゆるありさまは、「夕顔の宿りに踏みとどろかしけん唐臼(からうす)の音をこそ聞かめ5)」と思えて、いと口惜し。
「とかくのあらましごとも、まねばむもなかなかにて、もらしぬるも念なく」とさへ思え侍れども、事柄もむつかしければ、「とくだに静まりなん」と思ひて寝たるに、門(かど)いみじく叩きて来る人あり。「誰ならん」と思へば、仲頼6)なり。「陪膳(ばいぜん)遅くて」など言ひて、「さてもこの太宮の隅に、ゆゑある八葉の車が立ちたるを、うち寄りて見れば、車の中に供の人は一はた寝たり。とうに牛は繋ぎてありつる。いづくへ行きたる人の車ぞ」と言ふ。「あな、あさまし」と聞くほどに、例の御姆、「いかなる人ぞと、人して見せよ」と言ふ。御父(てて)が声にて、「何しにか見せける。人の上ならむに。よしなし。また、御里居の暇をうかがひて、忍びつつ入りおはしたる人もあらば、築地(ついぢ)の崩れより、『うちも寝ななむ』とてもやあるらん。懐(ふところ)の内なるだに、高きも賤しきも、女は後ろめたなし7)」など言へば、また御姆、「あな、まがまがし。誰か参り候はん。御幸ならば、またなにゆゑか忍び給はん」など言ふも、ここもとに聞こゆ。「『六位宿世8)』とや、とがめられん」と、御姆なる人言はるるぞわびしき。
子さへ今一人添ひてひしめくほどに、寝ぬべきほどもなきに、聞こゆる者ども出で来たりとおぼしくて、「こなたへと申せ」とささめく人来て、案内(あんない)すなり9)。前なる人、「御心地を損じて」と言ふに、内の障子荒らかに打ち叩きて、御姆来たり。
今さら知らぬ者の来ん心地して、胸騒ぎ恐しきに、「御心地は何事ぞ。ここなるもの御覧ぜよ。なうなう」と、枕の障子を叩く。さてしも、あるべきならねば、「心地のわびしくて」と言へば、「御好みの白物なればこそ申せ。無き折は御尋ねある人の申すとなれば、例のこと。さらば、さてよ」とつぶやきて去ぬ。「をかしくもありぬべき言の葉ども言ひぬべき」と思ゆるを、死ぬばかりに覚えてゐたるに、「御尋ねの白物は何にか侍る」と尋ねらる。「霜・雪・霰(あられ)」とやさばむとも、まことしく思ふべきならねば、ありのままに、「世の常ならず。白き色なる九献(くこん)を、時々願ふことの侍るを、かく名立たしく10)申すなり」といらふ。「かしこく今宵参りてけり。御渡りの折は、唐土(もろこし)までも白き色を尋ね侍らむ」とて、うち笑はれぬるぞ、忘れがたきや。
憂き節には、これほどなる思ひ出で、過ぎにし方も行く末も、またあるべしとも覚えず11)。
1) 「更かさで」は底本「ふる(か歟)さて」。「る」に「か歟」と傍書。 / 2) 藤原仲綱 / 3) 後白河院皇女覲子内親王・宣陽門院 / 4) 「九献」は底本「しこん」 / 5) 『源氏物語』夕顔「鳴神よりもおどろおどろしく、踏みとどろかす唐臼の音も、枕上と覚ゆ。あな耳かしがましと、これにぞ思さる」 / 6) 藤原仲頼。作者の乳母子。亀山院近習。 / 7) 「後ろめたなし」は底本「うしろめためし」 / 8) 『源氏物語』少女「『めでたくとも、もののはじめの六位宿世よ』とつぶやくも、ほの聞こゆ」 / 9) 「すなり」は底本「すな□(り歟)」。一字空白に「り歟」と傍書。 / 10) 「名立たしく」は底本「石(名歟)たたしく」。「石」に「名歟」と傍書。 / 11) 「思えず」は底本「覚えはてよ」。
巻1―26
かくしつつ、あまた夜1)も重なれば、心に染む節々(ふしぶし)も覚えて、いとど思ひ立たれぬほどに、神無月二十日ごろより、母方の祖母(うば)権大納言2)、わづらふことありといへども、今しも露の消ゆべしとも、見る見る驚かで侍るほどに、いくほどの日数も積もらで、「はや果てぬ」と告げたり。
東(ひんがし)山禅林寺3)、綾戸といふわたりに家居して、年ごろになりぬるを、今日なん、「今は」と聞き果てぬるも、「夢のゆかりの枯れ果てぬるさまの心細き、うち続きぬる」など思えて、
秋の露冬の時雨にうちそへてしぼり重ぬるわが袂(たもと)かな
このほどは、御訪れのなきも、「わが過(あやま)ちのそらに知られぬるにや」と案ぜらるる折節、「このほどの絶え間をいかに」となど、常よりも細やかにて、「この暮れに迎へに給ふべき」よし見ゆれば、「一昨日にや、祖母(むば)にて侍りし老い人、むなしくなりぬと申すほどに、近き穢れも過ぐしてこそ」など申して、
思ひやれ過ぎにし秋の露にまた涙時雨れて濡るる袂を
立ち返り
重ねける露のあはれもまだ知らで今こそよその袖もしをるれ
1) 雪の曙の来訪 / 2) 作者の母の実母。権大納言は女房名。 / 3) 永観堂
巻1―27
十一月の初めつ方に参りたれば、いつしか世の中もひき変へたる心地して、大納言1)の面影も、あそこここにと忘られず、身も何とやらん、振舞ひにくきやうに覚え、女院2)の御方ざまも、うらうらともおはしまさず、とにかくにもの憂きやうに思ゆるに、兵部卿3)・善勝寺4)などに、「大納言がありつる折のやうに、見沙汰して候はせよ。装束などは上(かみ)へ参るべきものにて」など仰せ下さるるは、かしこき仰せごとなれども、「ただとくして世の常の身になりて、静かなる住まひをして、父母(ちちはは)の後生をもとぶらひ、六趣を出づる身ともがな」とのみ思えて、またこの月の末には出で侍りぬ。
1) 父、久我雅忠 / 2) 東二条院・後深草院中宮西園寺公子 / 3) 四条隆親 / 4) 四条隆顕
巻1―28
勝倶胝院(せうくていゐん)の真願房は、ゆかりある人なれば、「まかりて法文をも聞きて」など思ひて侍れば、「煙(けぶり)をだにも1)」とて、柴折りくべたる冬の住まひ、懸樋(かけひ)の水の訪れも途絶えがちなるに、年暮るる営みもあらぬさまなる急ぎにて過ぎ行くに、二十日あまりの月の出づるころ、いと忍びて御幸あり。網代車(あじろぐるま)のうちやつれ給へるものから、御車の後(しり)に善勝寺2)ぞ参りたる。
「伏見の御所の御ほどなるが、ただ今しも思し召し出づることありて」と聞くも、「いつあらはれて」と思ゆるに、今宵はことさら細やかに語らひ給ひつつ、明け行く鐘に催されて、立ち出でさせおはします。
有明は西に残り、東(ひむがし)の山の端にぞ横雲渡るに、むら消えたる雪の上に、また散りかかる花の白雪(しらゆき)も折り知り顔なるに、無紋の御直衣に同じ色の御指貫の御姿も、わが鈍(にぶ)める色にかよひて、あはれに悲しく見奉るに、暁の行ひに出づる尼どもの、何としも思ひ分かぬが、あやしげなる衣(ころも)に真袈裟(まげさ)なとやうのもの、気色はかり引き掛けて、「晨朝(じんでう)下(さが)り侍りぬ。誰(たれ)がし房は。何阿弥陀仏」など呼び歩(あり)くも、うらやましく見ゐたるに、北面の下臈どもも、みな鈍める3)狩衣にて、御車さし寄するを見付けて、今しもことあり顔に逃げ隠るる尼どももあるべし。
「またよ」とて、出で給ひぬる御名残は、袖の涙に残り、うちかはし給へる御移り香は、わが衣手に染みかへる心地して、行ひの音をつくづくと聞き居たれば、「輪王、位高けれど、つひには三途4)に従ひぬ」といふ文(もん)を唱ふるさへ耳に付き、廻向(ゑかう)して果つるさへ名残惜しくて、明けぬれば文(ふみ)あり。「今朝の有明の名残は、わがまだ知らぬ心地して5)」などあれば、御返しには、
君だにもならはさりける有明の面影残る袖をみせばや
1) 『後拾遺和歌集』冬 和泉式部「さびしさに煙をだにも絶たじとて柴折りくぶる冬の山里」 / 2) 四条隆顕 / 3) 「鈍める」は底本「わぶめる」 / 4) 「三途」は底本「みつ」 / 5) 『源氏物語』夕顔「いにしへもかくやは人のまどひけむわがまだ知らぬしののめの道」
巻1―29
「年の残りも今三日ばかりや」と思ふ夕つ方、常よりも物悲しくて、主(あるじ)の前に居たれば、「かくほどのどかなるここと、またはいつかは」など言ひて、「心ばかりは、つれづれをもなぐさめん」など思ひたる気色にて、物語して、年寄たる尼たち呼び集めて、過ぎにし方の物語などするに、前なる槽(ふね)に入る懸樋(かけひ)の水も凍り閉ぢつつ物悲しきに、向ひの山に薪樵(たきぎこ)る斧の音の聞こゆるも、昔物語の心地してあはれなるに、暮れ果てぬれば、御灯明(みあかし)の光どもも面々に見ゆ。「初夜行ひ、今宵はとくこそ」など言ふほどに、そばなる妻戸を忍びて打ち叩く人あり。「あやし。誰(た)そ」と言ふに、おはしたる1)なりけり。
「あなわびし。これにては、かかるしどけなき振舞も、目も耳も恥かしく覚ゆる上、かかる思ひのほどなれば、心清くてこそ、仏の行ひもしるきに、御幸などいふはさる方にいがかはせん、すさみごとに心汚なくさへは、いかかぞや。帰り給ひね」など、けしからぬほどに言ふ折節、雪いみじく降りて、風さへ激しく、吹雪とかやいふべき気色なれば、「あな、耐へがたや。せめては内へ入れ給へ。この雪やめてこそ」など言ひしろふ。
主の尼御前(あまごせん)たち聞きけるにや、「いかなるけしからず、情けなさぞ。誰(たれ)にてもおはしますべき御心ざしにてこそ、ふりはへ訪ね給ふらめ。山おろしの風の寒きに何事ぞ」とて、妻戸はづし、火なとおこしたるにかこちて、やがて入り給ひぬ。
雪はかこち顔に、峰も軒端(のきば)も一つに積もりつつ、夜もすがら吹荒るる音もすさまじとて、明け行けども起きも上がられず、馴れ顔なるも、なべてそら恐しけれども、何とすべき方なくて案じゐたるに、日高くなるほどに、さまざまのことども用意して、伺候(しこう)の者二人ばかり来たり。「あなむつかし」と見るほどに、主の尼たちの取り散らすべき物など、分かちやる。「年の暮れの風の寒けさも忘れぬべく」など言ふほどに、念仏の尼たちの袈裟・衣、仏の手向けになど思ひ寄らるるに、いよいよ、「山賤(やまがつ)の垣穂(かきほ)も光出で来て」など、面々に言ひ合ひたるこそ、聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいがう)よりほかは、君の御幸に過ぎたるやあるべきに、いとかすかに見送り奉りたるばかりにて、「ゆゆし」、「めでたし」など言ふ人もなかりき。
「言ふにや及ぶ、かかることやは」とも言ふべきことは、ただいまのにぎははしさに2)、誰も誰もめでまどふさま、世の習ひもむつかし。春待つべき装束、華やかならねど、縹(はなだ)にや、あまた重なりたるに、白き三つ小袖取り添へなどせられたるも、「よろづ聞く人やあらむ」とわびしきに、今日は日暮し九献(くこん)にて暮れぬ。
明くれば、「さのみも」とて帰られしに、「立ち出でてだに見送り給へかし」とそそのかされて、起き出でたるに、ほのぼのと明くる空に、峰の白雪光あひて、すさまじげに見ゆるに、色なき狩衣着たる者二・三人見えて、帰り給ひぬる名残も、また忍びがたき心地するこそ、われながらうたて思え侍りしか。
1) 雪の曙・西園寺実兼が / 2) 「にぎははしさに」は底本「わ(に歟)きははしさに」。「わ」に「に歟」と傍注。
巻1―30
晦日(つごもり)には、あながちに乳母(めのと)ども、「かかる折節、山深き住まひもいまいまし」など言ひて、迎へに来たれば、心のほかに都へ帰りて、年も立ちぬ。
よろづ世の中も、栄えなき年なれば、元日・元三の雲の上もあひなく、私(わたくし)の袖の涙も改まり、やるかたもなき年なり。春の初めには、いつしか参りつる神の社も、今年はかなはぬことなれば、門の外(と)まで参りて祈誓申しつる心ざしより、むば玉の面影は別(べち)に記し侍れば、これにはもらしぬ。  
■巻1―31〜40

 

巻1―31
二月(きさらぎ)の十日宵のほどに、その気色出で来たれば、御所ざまも御心むつかしき折から、私(わたくし)もかかる思ひのほどなれば、よろづ栄えなき折なれど、隆顕の大納言1)とり沙汰して、とかく言ひ騒ぐ。御所よりも御室2)へ申されて、御本坊にて愛染王(あいぜんわう)の法、鳴滝3)、延命供(ゑんめいく)とかや、毘沙門堂(びさもんだう)の僧正4)、薬師の法、いづれも本坊にて行なはる。わが方ざまにて、親源法印、聖観音の法行なはせなど、心ばかりは営む。七条の道朝僧正、折節峰5)より出でられたりしが、「故大納言6)、心苦しきことに言ひ置かれしも忘れがたし」とておはしたり。
夜中ばかりより、ことにわづらはしくなりたり。叔母の京極殿、使ひとておはしなど、心ばかりはひしめく。兵部卿7)もおはしなどしたるも、「あらましかば」と思ふ涙は、人 に寄りかかりて、ちとまどろみたるに、昔ながらに変らぬ姿にて、心苦しげにて、後ろの方へ立ち寄るやうにすと思ふほどに、「皇子誕生」と申すべきにや、事故(ことゆへ)なくなりぬるはめでたけれども、それにつけても、「わがあやまちの行く末いかかならん」と、今始めたることのやうに、いとあさましきに、御佩刀(はかせ)など忍びたるさまながら、御験者(げんじや)の禄(ろく)など、ことごとしからぬさまに、隆顕ぞ沙汰し侍りし。
「昔ながらにてあらましかば、河崎の宿所などにてこそあらましか」など、よろづ思ひつづけらるるに、御乳(ち)の人が装束など、いつしか隆顕沙汰して、御弦打(つるう)ち、いしいしのことまで、数々見ゆるにつけても、あはれ、今年は夢沙汰にて年も暮れぬるにこそ。晴れがましく、わびしかりしは8)、ゆめのきすゆつち9)。よろづの人に身を出だして見せしことぞ。
1) 四条隆顕 / 2) 仁和寺の性助法親王 / 3) 隆助 / 4) 経海 / 5) 大峰山 / 6) 作者父、久我雅忠 / 7) 四条隆親 / 8) 「びびしかりしは」(角川)とする説もある。 / 9) 「夢の疵、乳付(ちつ)け」(新大系)・「夢の疵、弓弦討(ゆづち)」(集成)・「夢の事ゆへに」(角川)などの説がある。
巻1―32
神の利益(りやう)もさしあたりては、はしなきほどに思え侍しが、師走には、常は神事何かとて、御所ざまはなべて御暇(ひま)なきころなり。
私(わたくし)にも、「年の暮れは何となく行ひをも」など、思ひて居たるに、あひなく言ひ慣らはしたる師走の月をしるべに、また思ひ立ちて、夜もすがら語らふほどに、「やもめ烏のうかれ声など思ふほどに、明け過ぎぬるもはしたなし1)」とて、とどまりゐ給ふも、そら恐しき心地ながら、向ひゐたるに文あり2)。いつよりもむつまじき御言の葉多くて、
「むば玉の夢にぞ見つる小夜衣(さよごろも)あらぬ袂(たもと)を重ねけりとは
定かに見つる夢もがな」とあるも、いとあさましく、「何をいかに見給ふらん」と、おぼつかなくも思ゆれども、思ひ入顔にも、何とかは申すべき。
一人のみ片敷きかぬる袂には月の光ぞ宿り重ぬる
われながらつれなく思えしかども、申しまぎらかし侍りぬ。
今日はのどかにうち向ひたれば、さすが里の者どもも、女のかぎりは知り果てぬれども、「かく」など言ふべきならねば、思ひむせびて過ぎ行くにこそ。
さても、今宵、塗り骨に松を蒔きたる扇(あふぎ)に、銀(しろかね)の油壺を入れて、この人3)の賜ぶを、人に隠して懐(ふところ)に入れぬと夢に見て、うちおどろきたれば、暁の鐘聞こゆ。「いと思ひかけぬ夢をも見つるかな」と思ひてゐたるに、そばなる人、同じさまに見たるよしを語るこそ、「いかなるべきことにか」と不思議なれ。
1) 『遊仙窟』「可憎病鵲半夜驚人」 / 2) 後深草院の文 / 3) 雪の曙・西園寺実兼
巻1―33
年返りぬれば、いつしか六条殿の御所にて、経手(きやうしゆ)十二人にて、如法経書かせらる。去年(こぞ)の夢、名残思し召し出でられて、人のわづらひなくてとて、塗籠(ぬりごめ)の物どもにて行なはせらる。
正月より、御指の血を出だして、御手の裏を翻して、法華経をあそばすとて、今年は正月より二月十七日までは御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰、絶えてなし。
巻1―34
さるほどに、二月の末つ方より、心地例ならず覚えて、物も食はず。しばしは風邪など思ふほどに、やうやう「見し夢の名残にや」と思ひ合はせらるるも、何とまぎらはすべきやうもなきことなれば、せめての罪の報ひも思ひ知られて、心の内の物思ひ、やる方なけれども、かくともいかが言ひ出でん1)、神わざにことづけて、里がちにのみ居たれば、常に来つつ2)、見知ることもありけるにや、「さにこそ」など言ふより、いとどねんごろなるさまに言ひ通ひつつ、「君3)に知られ奉らぬわざもがな」と言ふ。
祈りいしいし心を尽くすも、「誰(た)が咎(とが)とか言はむ」と思ひ続けられてあるほどに、二月の末よりは御所ざまへも参り通ひしかば、五月のころは四月(よつき)ばかりのよしを思し召させたれども、まことには六月(むつき)なれば、違(ちが)ひざまも行末いとあさましきに、六月七日、「里へ出でよ」としきりに言はるれば4)、「何事ぞ」と思ひて出でたれば、帯を手づから用意して、「ことさらと思ひて、四月にてあるべかりしを、世の恐しさに、今日までになりぬるを、御所より十二日は着帯(ちやくたい)のよし聞くを、ことに思ふやうありて」と言はるるぞ、心ざしもなほざりならす思ゆれども、身のなり行かむ果てぞ悲しく覚え侍りし。
三日は、ことさら例の隠れゐられたりしかば、十日には5)参り侍るべきにてありしを、その夜(よ)より、にはかにわづらふことありしほどに、参ることもかなはざりしかば、十二日の夕方、善勝寺6)、「先の例に」とて、御帯を持ちて来たりたるを見るにも、故大納言の7)、「いかにか」など思ひ騒がれし夜(よ)のこと思ひ出でられて8)、袖には露の暇(ひま)なさは9)、「必ず秋の習ひ10)ならねど」と思えても、「一月(ひとつき)などにてもなき違(ちが)ひもいかに」と、はかりなすべき心地せず。
さればとて、水の底まで思ひ入るべきにしあらねば、つれなく過ぐるにつけても、「いかにせん」と言ひ思ふよりほかのことなきに、九月にもなりぬ。
1) 「言ひ出でん」は底本「いひけん」 / 2) , 4) 主語は雪の曙 / 3) 後深草院 / 5) 「には」は底本「そい」 / 6) 四条隆顕 / 7) 父、久我雅忠 / 8) 「思ひ出でられて」は底本「思ひてられて」 / 9) 「は」は底本「い」 / 10) 「習ひ」は底本「ならひならひ」
巻1―35
世の中も恐しければ1)、二日にや、急ぎ何かと申しごとつけて出でぬ。
その夜やがて彼2)にもおはしつつ、「いかがすべき」と言ふほどに、「まづ大事に病むよしを申せ。さて、『人の忌ませ給ふべき病(やまひ)なり』と陰陽師(おんやうじ)か言ふよし、披露せよ」などと、そろひゐて言はるれば、そのままに言ひて、昼はひめもすに臥し暮らし、うとき人も近付けず、心知る人二人ばかりにて、「湯水も飲まず」など言へども、とりわきとめ来る人のなきにつけても、「あらましかば」と、いと悲し。
御所ざまへも、「御いたはしければ、御使(つかひ)な給ひそ」と申したれば、時などとりて御訪れ、かかる心構へ、つひに漏りやせむと、行末いと恐しながら、今日・明日は、みな人、さと思ひて、善勝寺ぞ3)、「さてしもあるべきかは。医師(くすし)はいかが申す」など申して、たびたび詣で来たれども、ことさら広ごるべきことと申せば、わざと」など言ひて、見参(げざむ)もせず、しひて、「おぼつかなく」などいふ折は、暗きやうにて衣(きぬ)の下にて、いとものも言はねば、まことしく思ひて立ち帰るも、いと恐し。
さらでの人は、誰問ひ来る人もなければ、添ひゐたるに、その人はまた、「春日にこもりたり」と披露して、代官をこめて、「人の文などをば、あらましとて、返事をばする」などささめくも、いと心苦し。
1) 「恐しければ」は底本「をろ(そ歟)ろしけれは」。「ろ」に「そ歟」と傍書。 / 2) 雪の曙 / 3) 四条隆顕
巻1―36
かかるほどに、二十日あまりの曙より、その心地出で来たり。人に、「かく」とも言はねば、ただ心知りたる人、一・二人ばかりにて、とかく心ばかりは言ひ騒ぐも、「亡き後(あと)までも、いかなる名にか留まらむ」と思ふより、なほざりならぬ心ざしを見るにも、いと悲し。
いたく取りたることなくて、日も暮れぬ。火灯すほどよりは、ことのほかに近付きて覚ゆれども、ことさら弦打(つるうち)などもせず、ただ衣(きぬ)の下ばかりにて、一人悲しみゐたるに、深き鐘の聞こゆるほどにや、あまり耐へがたくや、起き上がるに、「いでや、腰とかやを抱(いだ)くなるに、さやうのことがなきゆゑに滞るか。いかに抱くべきことぞ1)とて、かき起こさるる袖に取り付きて、ことなく生まれ給ひぬ。まづ、「あな、嬉し」とて、「重湯、とく」など言はるるこそ、「いつ習ひけることぞ」と、心知るどちはあはれがり侍りしか。
さても、「何ぞ」と、火灯して見給へば、生髪(うぶがみ)黒々として、今より見開け給ひたるを、ただ一目見れば、恩愛(をんなひ)のよしみなれば、あはれならずしもなきを、そばなる白き小袖に押し包みて、枕なる刀の小刀にて、臍(ほぞ)の緒うち切りつつ、かき抱(いだ)きて、人にも言はず、外(と)へ出で給ひぬと見しよりほか、また二度(ふたたび)その面影見ざりしこそ。「さらば、などや今一目も」と言はまほしけれども、なかなかなれば、ものは言はねど、袖の涙はしるかりけるにや、「よしや、よも。長らへてあらば、見ることのみこそあらめ」など、なぐさめらるれど、一目見合はせられつる面影忘れがたく、女にてさへものし給ひつるを、いかなる方へとだに知らずなりぬると思ふも悲しけれども、「いかにして」と言ふに、さもなければ、人しれぬ音(ね)をのみ袖に包みて、夜も明けぬれば、あまりに心地わびしくて、「この暁、はやおろし給ひぬ。女にてなどは見え分くほどに侍りつるを」なと奏しける。「『温気(ぬるけ)などおびたたしきには、みなさること』と医師(くすし)も申すぞ。かまへていたはれ」とて、薬どもあまた給はせなどするも、いと恐し。
ことなるわづらひもなくて、日数過ぎぬれば、ここなりつる人も帰りなどしたれども、「百日過ぎて、御所ざまへは参るべし」とてあれば、つくづくとこもり居たれば、夜な夜なは隔てなくといふばかり通ひ給ふも2)、いつとなく世の聞こえやとのみ、われも人も思ひたるも、心の暇なし。
1) 「抱くべきことぞ」は底本「たとへき事そ」。 / 2) 雪の曙・西園寺実兼
巻1―37
さても、去年(こぞ)出で来給ひし御方1)、人知れず、隆顕2)の営みぐさ3)にておはせしが、このほど御悩みと聞くも、身の過ちの行く末はかばかし4)からじと思ひもあへず、神無月の初めの八日にや、時雨の雨のあまそそき、露とともに消え果て給ひぬと聞けば、かねて思ひまうけにしことなれども、あへなくあさましき心の内、おろかならむや。
前後相違の別れ、愛別離苦(あいべちりく)の悲しみ、ただ身一つにとどまる。幼稚にて母におくれ、盛りにて父を失なひしのみならず、今またかかる思ひの袖の涙、かこつかたなきばかりかは。
馴れゆけば、帰る朝(あした)は名残を慕ひて、また寝の床に涙を流し、待つ宵には更け行く鐘に音を添へて、待ちつけて後は、「また世にや聞こえん」と苦しみ、里に侍る折は、君の御面影を恋ひ、かたはらに侍る折は、またよそに積まる夜な夜なを恨み、わが身にうとくなりましますことも悲しむ。人間(にんげん)の習ひ、苦しくてのみ明け暮るる、一日一夜に八億四千5)とかやの悲しみも、ただわれ一人に思ひつづくれば、しかじ、ただ恩愛の境界(きやうがい)を別れて、仏弟子となりなん。
九つの年にや、西行が修行の記といふ絵を見しに、かたがたに深き山を描きて、前には河の流れを描きて、花の散りかかるに居て、ながむるとて、
風吹けば花の白波岩越えて渡りわづらふ山川の水
と詠みたるを描きたるを見しより、うらやましく、「難行苦行はかなはずとも、われも世を捨てて、足にまかせて行きつつ、花のもと露の情けをも慕ひ6)、紅葉の秋の散る恨みをも述べて、かかる修行の記を書き記して、亡からん後の形見にもせばや」と思ひしを、三従(みしよう)の憂へ逃れざれば、親に従ひて日を重ね、君に仕へても、今日まで憂き世に過ぎつるも、「心のほかに」など思ふより、憂き世を厭ふ心のみ深くなり行くに、この秋ごろにや御所ざまにも世の中すさまじく、「後院の別当(べたう)なと置かるるも、御面目なし」とて、太上天皇の宣旨を天下へ返し参らせて、御随身ども召し集めて、みな禄(ろく)ども給はせて、暇(いとま)賜びて、「久則一人、後しに侍るべし」とありしかば、面々に袂(たもと)を絞りてまかり出で、「御出家あるべし」とて、人数定められしにも、「女房には東の御方7)、二条8)」とあそばされしかば、「憂きは嬉しきたよりにもや」と思ひしに、鎌倉9)よりなだめ申して、東の御方の御腹の若宮10)、位にゐ給ひぬれば、御所ざまもはなやかに、角(すみ)の御所は御影御わたりありしを、正親町殿へ移し参らせられて、角の御所、春宮(とうぐう)の御所になりなどして、京極殿とて院の御方に候ふは、昔の新典侍殿 なれば、何となくこの人は過ごさねど、憂かりし夢のゆかりに覚えしを、立ち返り大納言のすけとて、春宮の御方に候ひなどするにつけても、よろづ世の中物憂ければ、ただ山のあなたにのみ心は通へども、いかなる宿執なほ逃れがたきやらん。
歎きつつ、また旧年(ふるとし)も暮れなんとするころ、いといたう召しあれば、さすかに捨て果てぬ世なれば参りぬ。
1) 作者の子で後深草院皇子 / 2) 四条隆顕 / 3) 「営みぐさ」は底本「いとなみくま」。 / 4) 「はかばかし」は底本「はるはるし」 / 5) 「八億四千」は底本「いとと四千」。 / 6) 『新古今和歌集』釈教 寂然「花のもと露の情けはほどもあらじ酔ひなすすめそ春の山風」 / 7) 洞院愔子 / 8) 作者 / 9) 北条時宗 / 10) 熈仁親王・伏見天皇
巻1―38
兵部卿1)の沙汰にて装束などいふも、ただ例の正体なきことなるにも、よろづ見後ろまるるは、嬉しとも言ふべきにやなれども、露消え果て給ひしおんことの後は、人の咎(とが)、身の誤りも心憂く、何心なくうち笑み給ひし御面影の、違(たが)ふ所なくおはせしを、忍びつつ出で給ひて、『「いとこそ鏡の影に違はざりけれ」など、申し承りしものを」など思ゆるより、悲しきことのみ思ひ続けられて、慰むかたなくて、明け暮れ侍りしほどに、女院2)の御方ざまは、何とやらん、犯せる罪はそれとなければ3)、さしてその節といふことはなけれども、御入り立ちも放たれ、御簡(ふだ)も削られなどしぬれば、いとど世の中も物憂けれども、この御方ざまは、「さればとて、われさへは」など言ふ御ことにてはあれども、とにかくにわづらはしきことあるも、あぢきなきやうにて、よろづのことには引き入りがちにのみなりながら、さる方に、この御方ざまには、なかなかあはれなることに思し召されたるに命をかけて、立ち出でて侍るに、まことや、斎宮(さいくう)4)は後嵯峨院の姫宮にてものし給ひしが、御服(ぶく)にて下り給ひながら、なほ御暇を許され奉り給はで、伊勢に三年(みとせ)まて御渡りありしが、この秋のころにや、御上りありし後は、仁和寺に衣笠といふわありに住み給ひしかば、故大納言5)、さるべきゆかりおはしまししほどに、つかうまつりつつ、御裳濯川(みもすそがは)の御下りをも、ことに取り沙汰し参らせなどせしもなつかしく、人目まれなる御住まひも、何となくあはれなるやうに覚えさせおはしまして、常に参りて、御つれづれもなぐさめ奉りなどせしほどに、十一月の十日あまりにや、大宮院に御対面のために、嵯峨へ入らせ給ふべきに、「われ一人は、あまりにあいなく侍るべきに、御渡りあれかし」と東二条へ申されたりしかば、御政務のこと、御立ちのひしめきの ころは、女院の御方ざまもうちとけ申さるることもなかりしを、このごろは常に申させおはしましなどするに、「また、とかく申されんも」とて、入らせ給ふに、「あの御方ざまも、御入り立ちなれば」とて、一人、御車の後(しり)に参る。枯れ野の三衣(みつぎぬ)に紅梅の薄衣(うすぎぬ)を襲(かさ)ぬ。春宮に立たせ給ひて後は、みな唐衣(からぎぬ)を襲ねしほどに、赤色6)の唐衣をぞ襲ねて侍りし。台所も渡されず、ただ一人参り侍りき。
女院の御方へ入らせおはしまして、のどかに御物語ありしついでに、「あのあが子が幼なくより生(お)ほし立てて候ふほどに、さるかたに宮仕ひも、もの慣れたるさまなるにつきて、具し歩(あり)き侍るに、あらぬさまに取りなして、女院の御方ざまにも御簡(ふだ)削られなどして侍れども、我さへ捨つべきやうもなく、故典侍大(こすけだい)7)と申し、雅忠8)と申し、心ざし9)深く候ひし10)。『形見にも』、など申置きしほどに」など申されしかば、「まことに、いかが御覧じ放ち候ふべき。宮仕ひは、またし慣れたる人こそ、しばしも候はぬは、たよりなきことにてこそ」など申させ給ひて、「何事も心置かず、われにこそ」など、情けあるさまに承るも、「いつまで草の」とのみ思ゆ。
今宵はのどかに御物語などありて、供御も女院の御方にて参りて、更けて、「御休みあるべし」とて、かかりの御壺の方に入らせおはしましたれども、人もなし。西園寺の大納言11)、善勝寺の大納言12)、長相(ながすけ)13)・為方(ためかた)14)・兼行(かねゆき)15)・資行(すけゆき)16)なとぞ侍りける。
1) 四条隆親 / 2) 東二条院・後深草院中宮西園寺公子 / 3) 『源氏物語』須磨「八百万神もあはれと思ふらむ犯せる罪のそれとなければ」 / 4) ト子内親王 / 5) 父、久我雅忠 / 6) 「赤色」は底本「ある(か歟)色」。「る」に「か歟」と傍書。 / 7) 作者母 / 8) 作者父・久我雅忠 / 9) 「心ざし」は底本「心う(さ歟)し」。「う」に「さ歟」と傍書。 / 10) 「候ひし」は底本「はし」 / 11) 西園寺実兼 / 12) 四条隆顕 / 13) 持明院長相 / 14) 中御門為方 / 15) 楊梅兼行 / 16) 山科資行
巻1―39
明けぬれば、「今日、斎宮へ御迎へに人参るべし」とて、女院の御方より、御牛飼・召次(めしぎ)・北面の下臈など参る。心ことに出でさせおはしまして、「御見参あるべし」とて、吾亦紅(われもかう)織りたる枯野の甘(かん)の御衣(おんぞ)に、竜胆(りんだう)織りたる薄色の御衣(ぞ)、紫苑色1)の御指貫、いといたう薫きしめ給ふ。
夕方になりて、「入らせ給ふ」とてあり。寝殿の南面(みなみおもて)取り払ひて、鈍色(にぶいろ)の几帳取り出だされ、小几帳など立てられたり。御対面ありと聞こえしほどに、女房を御使ひにて、「前斎宮(ぜんさいくう)の御渡り、あまりにあひなく寂しきやうに侍るに、入らせ給ひて、御物語候へかし」と申されたりしかば、やがて入らせ給ひぬ。御太刀持て、例の御供に参る。
大宮院、顕紋紗(けんもしや)の薄墨の御衣(ころも)、鈍色(にぶいろ)の御衣(ぞ)引きかけさせ給ひて、同じ色の小几帳立てられたり。斎宮、紅梅の三御衣(みつおんぞ)に青き御単(ひとへ)ぞ、なかなかむつかしかりし。御傍親(ばうしん)とてさぶらひ給ふ女房、紫の匂ひ五つにて、物の具などもなし。斎宮は二十(はたち)に余り給ふ。ねび整ひたる御さま、神も名残を慕ひ給ひけるもことわりに、花と言はば桜に喩へても、よそ目はいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬる暇も、いかにせましと思ひぬべき御ありさまなれば、まして隈(くま)なき御心の内は、いつしか、いかなる御物思ひの種にかと、よそも御心苦しくぞ思えさせ給ひし。
御物語ありて、神路(かみぢ)の山2)の御物語など、絶え絶え聞こえ給ひて、「今宵はいたう更け侍りぬ。のどかに明日は嵐の山の禿(かぶろ)なる木末(こずゑ)どもも御覧じて、御帰りあれ」など申させ給ひて、我御方へ入らせ給ひて、いつしか、「いかがすべき、いかがすべき」と仰せあり。「思ひつることよ」と、をかしくてあれば、「幼くより参りししるしに、このこと申しかなへたらむ、まめやかに心ざしありと思はむ」など仰せありて、やがて御使に参る。
ただおほかたなるやうに、「御対面嬉しく。御旅寝すさまじくや」などにて、忍びつつ文あり。氷襲(こほりがさね)の薄様にや、
知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは
1) 「紫苑色」は底本「しけん色」 / 2) 神路山
巻1―40
更けぬれば、御前なる人も、みな寄り臥したる。御主(ぬし)1)も小几帳引き寄せて、御殿籠りたるなりけり。近く参りて、ことのやう奏すれば、御顔うち赤めて、いとものものたまはず、文も見るとしもなくて、うち置き給ひぬ。「何とか申すべきと」と申せば、「思ひよらぬ御言の葉は、何と申すべきかたもなくて」とばかりにて2)、また寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りて、このよしを申す。「ただ寝給ふらん所へ導け、導け」と責めさせ給ふもむつかしければ、御供に参らむことはやすくこそ、しるべして参る。甘(かん)の御衣(おんぞ)などはことごとしければ、御大口ばかりにて、忍びつつ入らせ給ふ。
まづ先に参りて、御障子をやをら開けたれば、ありつるままにて、御殿籠りたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかに這ひ入らせ給ひぬる後、いかなる御ことどもかありけん。うち捨て参らすべきならねば、御上臥(うへぶし)したる人のそばに寝(ぬ)れば、いまぞおどろきて、「こは誰(た)そ」と言ふ。御人少ななるも御いたはしくて、御宿直(とのゐ」し侍る」といらへば、まことと3)思ひて物語するも、「用意なきことや」とわびしければ、「眠(ねぶ)たしや。更け侍りぬ」と言ひて、そら眠(ねぶ)りして居たれば、御几帳の内も遠からぬに、いたく御心も尽さず、はやうちとけ給ひにけりと覚ゆるぞ、あまりに念なかりし。
「心強くて明かし給はば、いかにおもしろからむ」と思えしに、明過ぎぬ前(さき)に帰り入らせ給ひて、「桜は匂ひは美しけれども、枝もろく、折りやすき花にてある」など仰せありしぞ、「さればよ」と思え侍りし。
日高くなるまで御殿籠りて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして、「けしからず。今朝しも寝(ゐ)ぎたなかりける」などとて、今ぞ文ある。御返事にはただ、「夢の面影は、覚むる方なく」などばかりにてありけるとかや。
1) 斎宮 / 2) 「ばかりにて」は底本「はかりて」 / 3) 「まことと」は底本「まこと」。 
■巻1―41〜44

 

巻1―41
「今日はめづらしき御方1)の御なぐさめに、何事か」など、女院の御方へ申されたれば、「ことさらなることも侍らず」と返事あり。隆顕の卿2)に九献の式あるべき御気色ある。
夕方になりて、したためたるよし申す。女院の御方へ、ことのよし申して、入れ参らせらる。いづ方にも御入り立ちなりとて、御酌(しやく)に参る。三献(さんこん)までは、御空盃(からさかづき)、その後、「あまりに念なく侍るに」とて、女院、御盃を斎宮へ申されて、御所に参る。御几帳を隔てて長押(なげし)の下(しも)へ、実兼(さねかぬ)3)・隆顕召さる。御所の御盃を給はりて、実兼にさす。「雑掌(ざしやう)なる」とて、隆顕に譲る。「思ひざしは力なし」とて、実兼、その後隆顕。
女院の御方、「故院4)の御ことの後は、めづらしき御遊びなどもなかりつるに、今宵なん、御心落ちて御遊びあれ」と申さる。女院の女房召して、琴弾かせられ、御所へ御琵琶召さる。西園寺5)も給はる。兼行、篳篥(ひちりき)吹きなどして、更け行くままに、いとおもしろし。公卿二人して、神楽歌ひなどす。また善勝寺6)、例のせれうの里、数(かず)へなどす。
いかに申せども、斎宮、九献を参らぬよし申すに、御所、「御酌に参るべし」とて、御銚子を取らせおはします折、女院の御方、「御酌を御勤め候はば7)こゆるぎの磯ならぬ御肴(さかな)の候へかし」と申されしかば、
売炭(ばいたん)の翁はあはれなり
おのれが衣は薄けれど
薪を取りて
冬を待つこそ悲しけれ
といふ今様を歌はせおはします。いとおもしろく聞こゆるに、「この御盃を、われわれ給はるべし」と、女院の御方申させ給ふ。三度(さんど)参りて、斎宮へ申さる。また御所、持ちて入らせ給ひたるに、「『天子には父母なし』とは申せども、十善の床(ゆか)を踏み給ひしも、卑しき身の恩にましまさずや」など、御述懐(すくわい)ありて、御肴を申させ給へば、「生をうけてよりこの方(かた)、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるにいたるまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか、御命(めい)を軽(かろ)くせむ」とて、
御前(おまへ)の前なる亀岡に
鶴こそ群れゐて遊ぶなれ
齢(よはひ)は君がためなれば
天(あめ)の下こそのどかなれ
といふ今様を三返ばかり歌はせ給ひて、三度(さんど)申させ給ひて、「この御盃は給ふべし」とて、御所に参りて、「実兼は傾城の思ひざししつる、うらやましくや」とて、隆顕に給ふ。その後、殿上人の方へ下(おろ)されて、ことども果てぬ。
「今宵はさだめて入らせおはしまさむずらん」と思ふほどに、「九献過ぎて、いとわびし。御腰打て」とて、御殿籠りて明けぬ。斎宮も今日は御帰りあり。
この御所の還御、今日は今林殿へなる。准后(じゆごう)8)、御風の気おはしますとて、今宵はまたこれに御とどまりあり。次の日ぞ、京の御所へ入らせおはしましぬる。
1) 斎宮 / 2) , 6) 四条隆顕 / 3) , 5) 西園寺実兼 / 4) 後嵯峨院 / 7) 「候はば」は底本「御いい」。 / 8) 四条貞子
巻1―42
還御の夕方、女院1)の御方より、御使ひに中納言殿2)参らる。「何事ぞ」と聞けば、
「二条殿が振舞のやう、心得ぬことのみ候ふ時に、この御方の御伺候(しこう)をとどめて候へば、ことさらもてなされて、三衣(みつぎぬ)を着て、御車に参り候へば、人のみな、『女院の御同車(どうしや)」と申し候ふなり。これ、詮なく覚え候ふ。よろづ面目なきことのみ候へば、暇(いとま)を給ひて、伏見などに引きこもりて、出家して候はんと思ひ候ふ」。
といふ御使なり。御返事には、
「承り候ひぬ。二条がこと、今さら承るべきやうも候はず。故大納言典侍3)あり。このほど、夜昼奉公し候へば、人よりすくれて不憫(ふびん)に覚え候ひしかば、『いかほども』と思ひしに、『あへなく失せ候ひし形見には、いかにも』と申し置き候ひしに、了承(りやうしやう)申しき。故大納言4)、また最期に申す子細候ひき。君(きみ)の君たるは臣下の心ざしにより、臣下の臣たることは君の恩によることに候ふ。最期終焉に申し置き候ひしを、心よく了承し候き。したがひて、後の世の障りなく、思ひ置くよしを申して、まかり候ひぬ。二度(ふたたび)返らざるは言の葉に候5)。さだめて草の陰にても見候ふらん。何事の身の咎(とが)も候はで、いかが御所をも出だし、行方も知らずも候ふべき。また、三衣を着候ふこと、今始めたることならず候ふ。四歳の年、初参(しよさむ)の折、『わが身6)、位浅く候ふ。祖父(おほぢ)久我太政大臣7)が子にて参らせ候はん』と申して、五つ緒の車・数袙(かずあこめ)8)・二重織物、ゆり候ひぬ。そのほか9)、また大納言の典侍は北山の入道太政大臣10)の猶子(いうし)とて候ひしかば、ついでこれも准后御猶子の儀にて、袴(はかま)を着初め候ひし折、腰を結(い)はせられ候ひし時、いづ方につけても、数衣(かずきぬ)11)、白き袴などは許すべしといふこと、古り候ひぬ。車寄などまでもゆり候ひて、年月になり候ふが、今さらかやうに承はり候ふ、心得ず候ふ。いふかひなき北面の下臈風情の者などに、「一つなる振舞などばし候ふ」など言ふことの候ふやらん。さやうにも候はば、細かに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりと言ふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官風情にても召し使ひ候はんずるに候ふ。大納言、二条といふ名を付きて候ひしを、返し参らせ候ひしことは、世隠れなく候ふ。されば、呼ぶ人候はず、呼ばせ候はず。『われ、位浅く候ふゆゑに、祖父(おほぢ)か子にて参り候ひぬる上は、小路名(こうぢな)を付くべきにあらず候ふ。詮じ候ふところ、ただしばしは、あが子にて候へかし。何さまにも、大臣は定まれる位に候へば、その折一度(いちど)に付け候はん』と申し候ひき。太政大臣の女(むすめ)にて、数衣は定まれることに候ふ上、家々面々に、『われも、われも』と申し候へども、花山・閑院ともに、淡海公12)の末より次々、また申すに及ばず候ふ。久我は村上の前帝(ぜんてい)13)の御子、冷泉(れんぜい)14)・円融院15)の御弟(おとと)、第七皇子具平親王よりこの方、家久しからず。されば、今までも、かの家、女子(をんなご)は宮仕ひなどは望まぬことにて候ふを、母、奉公の者なりとて、『その形見に』など、ねんごろに申して、幼少の昔より召し置きて侍るなり。『さだめて、そのやうは御心得候ふらむ』とこそ思え候ふに、今さらなる仰せごと、存(ぞむ)のほかに候ふ。御出家のことは、宿善内にもよほし、時至るばかりに候へば、何とよそよりはからひ申すによるまじきことに候ふ」
とばかり、御返事に申さる。
その後は、いとどこと悪しきやうなるもむつかしながら、ただ御一所(ひとところ)16)の御心ざし、なほざりならずさに、なぐさめてぞ侍る。
1) 東二条院・後深草院中宮西園寺公子 / 2) 東二条院女房 / 3) 作者母 / 4) , 6) 作者父、久我雅忠。 / 5) 「候」は底本「は(候歟)」。 / 7) 久我通光 / 8) 「薄袙(うすあこめ)」の誤写という説(角川文庫)もある。 / 9) 「ほか」は底本「ゆか」。 / 10) 西園寺実氏 / 11) 「数衣」は底本「か(う歟)すきぬ」。「か」に「う歟」と傍書。傍書を採用し、薄衣とする説もある。 / 12) 藤原不比等 / 13) 村上天皇 / 14) 冷泉天皇 / 15) 円融天皇 / 16) 「御一所」は底本「か(御歟)ひところ」。「か」に「御歟」と傍書。
巻1―43
まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢の後は御訪れもなければ、御心の内も御心苦しく、「わが道芝(みちしば)も、かれがれならずなど思ふに」とわびしくて、「さても、年をさへ隔て給ふべきか」と申したれば、「げに」とて文あり。「いかなる暇(ひま)にても思し召し立て」など申されたりしを、御養ひ母と聞こえし尼御前、やがて聞かれたりけるとて、参りたれば、いつしかかこち顔なる袖のしがらみせきあへず1)、「『神よりほかの御よすがなくて』と思ひしに、よしなき夢の迷ひより、御もの思ひのいしいし」と、口説きかけらるるも、わづらはしけれども、「暇しあらばの御使にて参りたる」と答ふれば、「これの御暇は、いつもなにの葦分けかあらむ」など聞こゆるよしを伝へ申せば、「端山(はやま)繁山(しげやま)の中を分けん2)などならば、さもあやにくなる心いられもあるべきに、越え3)過ぎたる心地して」と仰せありて、公卿の車を召されて、師走の月のころにや、忍びつつ参らせらる。
道もほど遠ければ、更け過ぐるほどに御渡り、京極面(おもて)の御忍び所も、このごろは春宮の御方になりぬれば、大柳殿の渡殿(わたどの)へ御車を寄せて、昼(ひ)の御座(おまし)のそばの四間へ入れ参らせ、例の御屏風隔てて御伽(とぎ)に侍れば、見し世の夢の後、かき絶えたる御日数の御恨みなども、ことわりに聞こえしほどに、明け行く鐘に音(ね)を添へて、まかり出で給ひし後朝(きぬぎぬ)の御袖は、よそも露けくぞ見え給ひし。
1) 『拾遺和歌集』恋四 紀貫之「涙川落つる水上早ければせきぞかねつる袖のしがらみ」 / 2) 『新古今和歌集』恋一 源重之「筑波山端山繁山しげけれど思ひ入るには障らざりけり」 / 3) 「越え」は底本「こゑ(え歟)」。「ゑ」に「え歟」と傍書。
巻1―44
年も暮れ果てぬれば、心の内のもの思はしさは、いとどなぐさむ方なきに、里へだにえ出でぬに、今宵は東(ひむがし)の御方1)、参り給ふべき気色の見ゆれば、夜さりの供御果つるほどに、「腹の痛く侍り」とて、局へすべりたりしほどに、「如法(によほふ)夜深し2)」とて、上口(うへくち)にたたずむ。「世中の恐しさいかが」とは思へども、このほどはとにかくに積りぬる日数言はるるも、ことわりならずしも覚ゆれば、忍びつつ局へ入れて、明けぬ先に起き別れしは、今日を限りの年の名残には、ややたちまさりて覚え侍りしぞ、われながら、よしなきもの思ひなりける。
思ひ出づるさへ、袖濡れ侍りて。
1) 洞院愔子 / 2) 雪の曙の言葉 
■巻2―1 〜10

 

巻2―1
隙(ひま)行く駒の早瀬川、越えて返らぬ年波の、わが身に積るを数ふれば、今年は十八になり侍るにこそ。百千鳥(ももちどり)さへづる春の日影、のどかなるを見るにも、何となき心の中のもの思はしさ、忘るる時もなければ、華やかなるも、嬉しからぬ心地ぞし侍る。
今年の御薬には、花山院太政大臣1)参らる。去年、後院別当(ごゐんのべつたう)とかやになりておはせしかば、何とやらん、この御所ざまには心よからぬ御ことなりしかども、春宮2)に立たせおはしましぬれば、世の恨みもをさをさなぐさみ給ひぬれば、また後まで思し召しとがむべきにあらねば、御薬に参り給ふなるべし。ことさら女房の袖口も引き繕(つくろ)ひなどして、台盤所(だいばむどころ)ざまも人々心ことに衣(きぬ)の色をも尽し侍るやらん。一年(ひととせ)中院大納言3)、御薬に参りたりしことなど、改まる年ともいはず思ひ出でられて、古りぬる涙ぞ4)、なほ袖濡らし侍りし。
1) 花山院通雅 / 2) のちの伏見天皇 / 3) 父、久我雅忠 / 4) 『源氏物語』葵「新しき年ともいはずふるものはふりぬる人の涙なりけり」
巻2―2
春宮1)の御方、いつしか、「御方分かちあるべし」とて、十五日の内とひしめく。例の院の御方・春宮、両方にならせ給うて、男(おとこ)・女房、面々に籤(くじ)に従ひて分かたる。
相手、みな男に女房合はせらる。春宮の御方には、傅(ふ)の大臣(おとど)2)を始めて、みな男、院の御方は、御所よりほかはみな女房にて、相手を籤に取らる。傅の大臣の相手に取り当たる。「面々、引出物(ひきいでもの)、思ひ思ひに一人づつして、さまざま能(のう)を尽くして、しいよ」と言ふ仰せこそ。
女房の方には、いと耐へがたかりしことは、あまりに、わが御身一つならず、近習(きむじゆ)の男たちを召し集めて、女房たちを打たせさせおはしましたるを、「ねたきことなり」とて、東(ひむがし)の御方3)と申し合はせて、「十八日には御所を打ち参らせん」といふことを談議して、十八日に、つとめての供御果つるほどに、台盤所(だいばんどころ)に女房たち寄り合ひて、御湯殿の上の口には新大納言殿4)・権中納言、あらはに別当九五、常の御所の中には中納言殿、馬道(めむだう)に真清水(ましみづ)さぶらふなどを立て置きて、東の御方と二人、末の一間にて、何となき物語して、「一定、御所はここへ出でさせおはしましなむ」と言ひて待ち参らするに、案にもたがはず、思し召しよらぬ御ことなれば、御大口ばかりにて、「など、これほど常の御所には、人影もせぬぞ。ここには誰(たれ)か候ふぞ」とて、入らせおはしましたるを、東の御方、かき抱き参らす。「あな悲しや。人やある、人やある」と仰せらるれども、きと参る人もなし。からうじて廂(ひさし)に師親の大納言5)が参らんとするをば、馬道に候ふ真清水、「子細候ふ。通し参らすまじ」とて、杖6)を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ち参らせぬ。「これより後、長く人して打たせじ」と、よくよく御怠状(たいじやう)せさせ給ひぬ。
さて、「しおほせたり」と思ひて居たるほどに、夕供御参る折、公卿たち、常の御所に候ふに、仰せられ出だして、「わが御身、三十三にならせおはします。御厄に負けたると思ゆる。かかる目にこそあひたりつれ。十善の床を踏んで、万乗の主(あるじ)となる身に、杖を当てられし、いまだ昔もその例なくやあらん。などかまた、おのおの見継がざりつるぞ。一同せられけるにや」と、面々に恨み仰せらるるほどに、おのおの、とかく陳じ申さるるほどに、「さても、君を打ち参らするほどのことは、女房なりと申すとも、罪科軽(かろ)かるまじきことに候ふ。昔の朝敵の人にも、これほどの不思議は現ぜず候ふ。御影をだに踏まぬことにて候ふに、まさしく杖を参らせ候ひける不思議、軽からず候ふ」よし、二条左大臣7)・三条坊門大納言8)・善勝寺の大納言9)・西園寺の新大納言10)・万里小路の大納言11)、一同に申さる。
ことに善勝寺の大納言、いつものことなれば、われ一人と申して、「さても、この女房の名字は誰々ぞ。急ぎ承りて、罪科のやうをも、公卿一同にはからひ申すべし」と申さるる折、御所、「一人ならぬ罪科は、親類かかるべしや」と、御尋ねあり。「申すに及ばず候ふ。六親と申して、みなかかり候ふ」など、面々に申さるる折、「まさしく、われを打ちたるは、中院大納言が女(むすめ)、四条大納言隆親が孫、善勝寺の大納言隆顕の卿が姪と申すやらん。また、随分養子と聞こゆれば、御女と申すべきにや。二条殿の御局の御しごとなれば、まづ一番に、人の上ならずやあらん」と仰せ出だされたれば、御前に候ふ公卿、みな一声に笑ひののしる。
「年の始めに女房流罪せられんも、そのわづらひなり。ゆかりまてその咎(とが)あらんも、なほわづらひなり。昔もさることあり。急ぎ贖(あが)ひ申さるべし」と、ひしめかる。その折申す、「これ、身として思ひよらず候ふ。十五日に、あまりに御所強く打たせおはしまし候ふのみならず、公卿・殿上人を召し集めて打たせられ候ひしこと、本意(ほい)なく思ひ参らせ候ひしかども、身、数ならず候へば、思ひよる方なく候ひしを、東の御方、『この恨み、思ひ返し参らせん。同心せよ』と候ひしかば、『さ承はり候ひぬ』と申して、うち参らせて候ひし時に、われ一人罪に当たるべきに候はず」と申せども、「何ともあれ、まさしく君の御身を杖を当て参らせたるものに過ぎたることあるまじ」とて、御贖ひに定まる。
1) 後の伏見天皇 / 2) , 7) 二条師忠 / 3) 春宮の母、洞院愔子 / 4) 女房の名。以下同じく続く。 / 5) , 11) 北畠師親 / 6) 粥杖 / 8) 中院通頼 / 9) 四条隆顕 / 10) 西園寺実兼
巻2―3
善勝寺大納言1)、御使(つかひ)にて、隆親卿2)のもとへ、ことのよしを仰せらる。「かへすがへす、尾籠(びろう)のしわざに候ひけり。急ぎ贖(あが)ひ申さるべし」と申さる。「日数延び候へば、悪しかるべし。急ぎ、急ぎ」と責められて、二十日ぞ参られたる。
御ことゆゆしくして、院の御方へ、御直衣(なほし)皆具(かいぐ)3)、御小袖十、御太刀一つ参る。二条左大臣4)より公卿六人に、太刀一つづつ、女房たちの中へ檀紙(だむし)百帖参らせらる。
二十一日、やがて善勝寺の大納言、御事常のごとく、御所へは、綾練貫(ねりぬき)、紫にて琴・琵琶を作りて参らせらる。また、銀(しろかね)の柳筥(やないばこ)に瑠璃の御盃参る。公卿に馬・牛、女房たちの中へ染物にて行器(ほかい)を作りて、糸にて瓜を作りて、十合参らせらる。
御酒盛り、いつよりもおびただしきに、折節、隆遍僧正5)参らる。やがて御前へ召されて、御酒盛りのみぎりへ参る。鯉を取り出だしたるを、「宇治の僧正の例あり。その家より生まれて、いかがもだすべき。切るべき」よし、僧正に御気色あり。固く辞退申す。仰せたびたびになる折、隆顕、まな板を取りて、僧正の前に置く。懐(ふところ)より庖丁刀(はうちやうがたな)・まな箸を取り出でて、このそばに置く。「この上は」としきりに仰せらる。御所の御前に御盃あり。力なくて、香染めの袂(たもと)にて切られたりし、いとめづらかなりき。少々切りて、「頭(かしら)をばえ割り侍らじ」と申されしを、「さるやう、いかが」とて、なほ仰せられしかば、いとさはやかに割りて、急ぎ御前を立つを、いたく6)御感ありて、今の瑠璃の盃を柳筥にすゑながら、門前へ送らる。
1) 四条隆顕 / 2) 四条隆親 / 3) 「皆具」は底本「かいて」 / 4) 二条師忠 / 5) 四条隆親の子「隆遍」と冷泉隆房の子「隆弁」の二説がある。 / 6) 「いたく」は底本「いて」
巻2―4
さるほどに、隆顕1)申すやう、「祖父(おほぢ)・叔父(おぢ)などとて、咎(とが)を行なはれ候ふ、みな外戚(げしやく)に侍る。伝へ聞く、いまだ内戚の祖母(むば)侍るなり。叔母、また同じく侍る。これに、いかが仰せなからん」と申さる。「さることなれども、筋2)の人などにてもなし。それらまで仰せられ候はんこと、あまりに候ふ。うるはしく、苦りぬべきことなり」と仰せあるに、「さるべきやう候はず。主(ぬし)3)を御使にてこそ仰せ候はめ。また、北山の准后こそ、幼くより御芳心にて、典侍大も侍りしか」と申す折に、「准后よりも罪かかりぬべくや」と西園寺4)に仰せらる。「あまりにかすかなる仰せにも候ふかな」と、しきりに申されしを、「いはれなし」とて、また責め落されて、それも勤められき。
御こと、常のごとく、沈(ぢん)の船に麝香(じやかう)の臍(へそ)三つにて、船差(ふなざ)し作りて乗せてと、御衣と、御前へ参る。二条左大臣5)に牛・太刀、残りの公卿には、牛、女房たちの中へは箔(はく)・洲流し・名したへ・紅梅なとの檀紙(だんし)百。
1) 四条隆顕 / 2) 「筋」(角川・集成)、「出仕」(新大系)。 / 3) 作者 / 4) 西園寺実兼 / 5) 二条師忠
巻2―5
さても、「さて、あるべきことならず」とて、隆顕1)のもとより、「かかる不思議のことありて、おのおの咎(とが)贖(あが)ひ申して候ふ2)。いかが候ふべき」と、言ひつかはしたる返事に、
「さること候ふ。二葉(ふたば)にて母には離れ候ひぬ。父大納言3)、不憫(ふびむ)にし候ひしを、いまだ襁褓(むつき)の中と申すほどより、御所に召し置かれて候へば、『私(わたくし)に育ち候はんよりも、ゆゑあるやうにも候ふか』と思ひて候へば、さほどに物おぼえぬいたづら者に、御前にて生ひ立ち候ひけること、つゆ知らず候ふ。君の御不覚とこそ思えさせおはしまし候へ。上下を分かぬ習ひ、また御目をも見せられ、参らせ候ふにつきて、甘へ候ひけるか。それも私(わたくし)には知り候はず。恐れ恐れも、咎は上つ方より御使(つかひ)を下され候はばやとこそ思ひて候へ。全(また)くかかり候ふまじ。雅忠などや候はば4)、不憫のあまりにも贖ひ申し候はん。わが身には不憫にも候はねば、『不孝(ふけう)せよ』の御気色ばし候はば、仰せに従ひ候ふべく候ふ」
よしを申さる。
この御文を持ちて参りて、御前にて披露するに、「久我の尼上が申状(まうしじやう)、一旦(いたん)そのいはれなきにあらず。御所にて生ひ立ち候ひぬる、出で所をこそ申して候ふといふこと、申すに及ばず候ふ。また、三瀬川5)をだに負ひ越し候なるものを」など申さるるほどに、「とは何事ぞ。わが御身の訴訟にて贖はせられて、また御前に御贖ひあるべきか」と仰せあるに、「上(かみ)として咎ありと仰せあれば、下(しも)としてまた申すも、いはれなきにあらず」と、さまざま申して、また御所に御つとめあるべきになりぬ。御事は経任6)承る。御太刀一つづつ公卿たち賜はり、経衣一具づつ女房たち賜はる。
をかしくも、たへがたかりしことどもなり。
1) 四条隆顕 / 2) 「候ふ」は底本「は」。 / 3) 久我雅忠 / 4) 「候はば」は底本「候つつ」。 / 5) 三途の川 / 6) 中御門経任
巻2―6
かくて、三月(やよひ)のころにもなりぬるに、例の後白河院御八講にてあるに、六条殿長講堂(ちやかうだう)は無ければ、正親町(おほぎまち)の長講堂にて行なはる。結願(けちぐわん)十三日に、御幸(ごかう)なりぬる間に、御参りある人1)あり。
「還御待ち参らすべし」とて、候はせ給ふ。二棟(ふたむね)の廊(らう)に御渡りあり。参りて見参(けざん)に入りて、「還御はよくなり侍らん」など申して、帰らんとすれば、「しばし、それに候へ」と仰せらるれば、何の御用とも思えねども、そぞろき逃ぐべき御人柄ならねば、候ふに、何となき御昔語り、「故大納言2)が常に申し侍りしことも、忘れず思し召さるる」など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどうち向ひ参らせたるに、何とやらむ、思ひのほかなることを仰せられ出だして、「仏も心汚なき勤めとや思し召すらんと思ふ」とかや承るも、思はずに不思議なれば、何となく紛らかして、立ち退かんとする袖をさへひかへて、「いかなる暇(ひま)とだに、せめては頼めよ」とて、まことに偽りならず見ゆる御袖の涙もむつかしきに、「還御」とてひしめけば、引き放ち参らせぬ。
思はずながら、「不思議なりつる夢とや言はん」など思えてゐたるに、御対面(たいめん)ありて、「久しかりけるに」などとて、九献(くこん)勧め申さるる。御陪膳をつとむるに、「心の中を人や知らん」と、いとをかし。
1) 後の「有明の月」 / 2) 筆者父、久我雅忠
巻2―7
さるほどに、両院1)、御仲心良からぬこと、悪しく東ざま2)に思ひ参らせたるといふこと聞こえて、この御所へ新院3)御幸(ごかう)あるべしと申さる。
かかり御覧ぜらるべしとて、御鞠あるべしとてあれば、「いかで、いかなるべき式ぞ」と、近衛の大殿4)へ申さる。「いたくこと過ぎぬほどに、九献(くこん)御鞠の中に御装束直さるる折、御柿ひたし参ることあり。女房して参らせらるべし」と申さる。「女房は誰にてか」と御沙汰あるに、「御年ごろなり。さるべき人柄なれば」とて、この役を承る。樺桜(かばざくら)七つ・裏山吹(うらやまぶき)の表着(うはぎ)・青色唐衣5)・紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)・生絹(すずし)の袴にてあり。浮き織物の紅梅の匂ひの三つ小袖、唐綾の二つ小袖なり。
御幸なりぬるに、御座を対座(たいざ)にまうけたりしを、新院御覧ぜられて、「前院6)の御時、定めおかれにしに、御座のまうけやう悪(わろ)し」とて、長押の下へ下ろさるる所に、主(あるじ)の院7)、出でさせ給ひて、「朱雀院の行幸には、主の座を対座にこそなされしに、今日の出御には御座を下ろさるる、異様(ことやう)に侍り」と申されしこそ、「優(いう)に聞こゆ」など、人々申し侍りしか。
ことさら式の供御参り、三献果てなどして後、東宮入らせおはしまして、御鞠ある。半ば過ぐるほどに、二棟(ふたむね)の東(ひむがし)の妻戸へ入らせおはします所へ、柳筥(やないばこ)に御土器(かはらけ)をすゑて、金(かね)の御提子(ひさげ)に御柿浸し入れて、別当殿、松襲(まつかさね)の五衣(いつつぎぬ)に紅の打衣(うちぎぬ)、柳の表着、裏山吹の唐衣にてありしに、持たせて参りて、取りて参らす。「まづ飲め」と御言葉かけさせ給ふ。暮れかかるまで御鞠ありて、松明(せうめい)取りて還御。
次の日、仲頼8)して御文あり。
いかにせんうつつともなき面影を夢と思へば覚むる間もなし
紅の薄様にて柳の枝に付けらる。「さのみ御返しをだに申さぬも、かつは便なきやうにや」とて、縹(はなだ)の薄様に書きて、桜の枝に付けて、
うつつとも夢ともよしや桜花咲き散るほどと常ならぬ世に
その後も、たびたびうちしきり承りしかども、師親の大納言9)住む所へ、車乞ひて帰りぬ。
1) 後深草院と亀山院 / 2) 鎌倉幕府 / 3) 亀山院。底本、「せんりんし殿(禅林寺殿)」と傍注。 / 4) 鷹司兼平 / 5) 「唐衣」は底本「から花」 / 6) 後嵯峨院 / 7) 後深草院 / 8) 作者乳母子。亀山院近習。 / 9) 北畠師親
巻2―8
まことや、六条殿の長講堂(ちやうかうだう)造り立てて、四月に御移徙(わたまし)、御堂供養は曼荼羅供、御導師は公豪(こうがう)僧正、讃衆(さむじゆ)二十人にてありし後、憲実(けんじち)御導師にて定朝堂(ぢやうちようだう)供養、御移徙の後なり。御移徙には、出だし車五両ありし、一の車の左に参る。右に京極殿。撫子の七衣(ななつぎぬ)、若菖蒲の表着(うはぎ)なり。京極殿は藤の五衣なり。御移徙三日は白衣(しろぎぬ)にて、濃き物の具・袴なり。
「御壺合せあるべし」とて、公卿・殿上人・上臈・小上臈、御壺を分け給はる。常の御所の東(ひむがし)向きの二間の御壺を給はる。とりつくる定朝堂の前二間か通りを給ひて、反橋(そりはし)を遣水に小さく美しく渡したるを、善勝寺の大納言1)、夜の間に盗み渡して、わが御壺に置かれたりしこそ、いとをかしかりしか。
1) 四条隆顕
巻2―9
かくしつつ、八月のころにや、御所に、さしたる御心地にてはなく、そこはかとなく悩みわたり給ふことありて、供御を参らで、御汗垂りなどしつつ、日数重なれば、「いかなることにか」と思ひ騒ぎ、医師(くすし)参りなどして、御灸(やいとう)始めて、十所(ところ)ばかりせさせおはしましなどすれども、同じさまに渡らせおはしませば、九月の八日よりにや、延命供(ゑんめいく)始められて、七日過ぎぬるに、なほ同じさまなる御ことなれば、「いかなるべき御ことにか」と歎くに、さてもこの阿闍梨1)に御参りあるは、この春、袖の涙の色を見せ給しかば2)、御使に参る折々も言ひ出だしなどし給へども、まぎらはしつつ過ぎ行くに、このほど、細やかなる御文を給はりて、返事を責めわたり給ふ。いとむつかしくて、薄様の元結ひのそばを破りて、「夢」といふ文字を一つ書きて、参らするとしもなくて、うち置きて帰りぬ。
また参りたるに、樒(しきみ)の枝を一つ投げ給ふ。取りて、かたがたに行きて見れば、葉にもの書かれたり。
樒摘む暁起きに袖濡れて見果てぬ夢の末ぞゆかしき
優(いう)におもしろく覚えて、この後、少し心にかかり給ふ心地して、御使に参るもすすましくて、御物語の返事もうちのどまりて申すに、御所へ入らせ給うて、御対面ありて、「かくいつとなく渡らせ給ふこと」など歎き申されて、「御撫物(なでもの)を持たせて、御時始まらんほど、聴聞所へ人を給はり候へ」と申させ給ふ。
「初夜の時始まるほどに、御衣(おんぞ)を持ちて聴聞所に参れ」と仰せあるほどに、参りたれば、人もみな、伴僧(ばむそう)に参るべき装束しに、おのおの部屋部屋へ出でたるほどにや、人もなし。ただ一人おはします所へ参りぬ。「御撫物、いづくに候ふべきぞ」と申す。「道場のそばの局(つぼね)へ」と仰せごとあれば、参りて見るに、げんてうげ3)に御灯明(あかし)の火に輝(かかや)きたるに、思はずに萎えたる衣にて、ふとおはしたり。
「こはいかに」と思ふほどに、「仏の御しるべは、暗き道に入りても」など仰せられて、泣く泣く抱(いだ)きつき給ふも、あまりうたてく思ゆれども、人の御ため、「こは何事ぞ」など言ふべき御人柄にもあらねば、忍びつつ、「仏の御心の内も」など申せども、かなはず。見つる夢の名残も、うつつともなきほどなるに、「時よくなりぬ」とて、伴僧ども参れば、後ろの方より逃げ帰り給ひて、「後夜のほどに今一度(いちど)、必ず」と仰せありて、やがて始まるさまは何となきに4)、参り給ふらんとも思えねば、いと恐し。
1) 有明の月 / 2) 2-06参照。 / 3) 「顕証(けそう)」(角川文庫・集成、「厳重(げんでう)」新大系。 / 4) 「なきに」は底本「なきよ」。
巻2―10
御灯明(あかし)の光さへ、くもりなく差し入りたりつる火影(ほかげ)は、来む世の闇も悲しきに、思ひ焦がるる心はなくて、後夜過ぐるほどに、人間(ひとま)をうかがひて参りたれば、このたびは御時果てて後なれば、少しのどかに見奉るにつけても、むせかへり給ふ気色、心苦しきものから、明け行く音するに、肌に着たる小袖に、わが御肌なる御小袖を、しひて「形見に」とて着替へ給ひつつ、起き別れぬる御名残も、かたほなるものから、なつかしく、あはれとも言ひぬべき御さまも忘れがたき心地して、局(つぼね)にすべりて、うち寝たるに、今の御小袖のつまに物あり。取りて見れば、陸奥紙(みちのくにがみ)をいささか破(や)りて、
うつつとも夢ともいまだ分きかねて悲しさ残る秋の夜の月
とあるも、「いかなる暇に書き給ひけむ」など、なほざりならぬ御心ざしも、そらに知られて、このほどは暇をうかがひつつ、夜を経てと言ふばかり見奉れば、このたびの御修法は心清からぬ御祈誓、仏の御心中も恥かしきに、二七日の末つかたよりよろしくなり給ひて、三七日にて御結願ありて、出で給ふ。
明日とての夜、「また、いかなる便りをか待ち見む。念誦(ねんじゆ)の床(ゆか)にも塵積り、護摩の道場も煙(けぶり)絶えぬべくこそ。同じ心にだにもあらば、濃き墨染の袂(たもと)になりつつ、深き山にこもりゐて、いくほどなきこの世に、物思はでも」など仰せらるるぞ、あまりにむくつけき心地する。明け行く鐘に音をそへて、起き別れ給ふさま、「いつ習ひ給ふ御言の葉にか」と、いとあはれなるほどに見え給ふ。御袖のしがらみも、「もりて憂き名や1)」と心苦しきほどなり。
かくしつつ結願ありぬれば、御出でありぬるも、さすが心にかかるこそ、よしなき思ひも数々色そふ心地し侍れ。
1) 『新続古今和歌集』恋四 よみ人しらず「柏木のもりて憂き名に立ちぬるや燃えし煙のはじめなりけむ」 
■巻2―11〜20

 

巻2―11
九月には御花1)、六条殿の御所の新しきにて、栄え栄えしきに、新院2)の御幸(ごかう)さへなりて、「女房たち、あいしに給はらん」など申させ給ふほどに、面々に心ことに出で立ち、ひしめきあはるれども、よろづ物思はしき心地のみして、常はひき入りがちにてのみ侍りしほどに、御花果てて、松取りに伏見の御所へ両院御幸なるに、「近衛大殿3)も御参りあるべし」とてありしに、いかなる御障りにか、御参りなくて、御文あり。
伏見山いく万代(よろづよ)か栄ふべき緑の小松今日をはじめに
御返し。後の深草の院の御歌。
栄ふべきほどぞ久しき伏見山生ひそふ松の4)千世を重ねて
中二日の御逗留にて、伏見殿へ御幸なとありて、おもしろき九献(くこん)の御式どもありて、還御。
1) 長講堂の供花 / 2) 亀山院 / 3) 鷹司兼平 / 4) 「生ひそふ松の」は底本「おいその松の」。
巻2―12
さても、一昨年(おととし)の七月に、しばし里に侍りて、参るとて、うらうへ1)に小さき洲流しをして、中縹(はなだ)なる紙に水を描きて、異物(こともの)は何もなくて、水の上に白き泥(でい)にて、「くゆる煙(けぶり)よ2)」とばかり書きたる扇紙(あふぎがみ)を、上木(じやうぎ)の骨に具して、張らせに、ある人のもとへ遣はしたれば、その女(むすめ)のこれを見て、それも絵を美しう描く人にて、ひた水に秋の野を描きて、「異浦(ことうら)に澄む月は見るとも3)」と書きたるをおこせて、扇(あふぎ)かへにしたりしを、持ちて参りたるを、先々の筆とも見えねば、「いかなる人の形見ぞ」など、ねんごろに御尋ねあるもむつかしくて、ありのままに申すほどに、絵の美しきより始め、うはのそらなる恋路に迷ひ初めさせ給ひて、三年(みとせ)がほど、とかくその道芝4)はいしいしと、御心のいとまなく言ひ渡り給へるを、いかにし給ひけるにや、神無月十日宵のほどに参るべきになりて、御心の置き所なく、心ことに出で立ち給ふところへ資行の中将5)参りて、「承り候ひし御傾城、具して参りつる」よし6)、案内(あむない)すれば、「しばし、車ながら、京極面(おもて)の南の端の釣殿の辺(へん)に置け」と仰せありぬ。
初夜打つほどに、三年の人、参りたり。青格子(あをがうし)の二衣に、紫の糸にて蔦(つた)を縫ひたりしに、蘇芳の薄衣重ねて、赤色の唐衣(からきぬ)ぞ着て侍りし。例の、「導け」とてありしかば、車寄せへ行きたるに、降るる音なひなど、衣(きぬ)の音よりけしからず、おびたたしく鳴りひそめくさまも思はずなるに、具して参りつつ、例の昼(ひ)の御座(おまし)のそばの四間、心ことにしつらひ、薫物(たきもの)の香(か)も心ことにて入りたるに、一尺ばかりなる檜扇を浮き織りたる衣(きぬ)に、青裏(あをうら)の二衣に紅の袴、いづれもなべてならず強(こは)きを、いと着しつけざりけるにや、かうこ聖がかうこ7)などのやうに、後ろに多く高々と見えて、顔のやうもいとたはやかに、目も鼻もあざやかにて、「ひびしげなる人かな」と見ゆれども、姫君などは言ひぬべくもなし。肥へらかに高く太く、色白くなどありて、内裏などの女房にて、大極殿の行幸の儀式などに、一の内侍などにて、髪上げて、御剣の役などを勤めさせたくぞ見え侍りし。
「はや参りぬ」と奏せしかば、御所は、菊を織りたる薄色の御直衣に、御大口にて入らせ給ふ。百歩(ひやくぶ)の外(ほか)と言ふほどなる御匂ひ、御屏風のこなたまで、いとこちたし。御物語などあるに、いと御いらへがちなるも、「御心に合はずや」と思ひやられてをかしきに、御夜(よる)になりぬ。
例のほど近く、上臥(うへぶ)ししたるに、西園寺の大納言8)、明かり障子の外(と)、長押の下に御宿直したるに、いたく更けぬ先に、はや何事も果てぬるにや、いとあさましきほどのことなり。さて、いづくかあらはへ出でさせおはしまして召すに、参りたれば、「玉川の里9)」と承はるぞ、よそも悲しき。
深き鐘だに打たぬさきに帰されぬ。御心地わびしくて、御衣(おんぞ)召し替へなどして、小供御(こくご)だに参らで、「ここ、あそこ、打て」などて、御夜になりぬ。雨おびたたしく降れば、帰るさの袖の上も思ひやられて。
1) 「うらうへ」は底本「うらかへ」 / 2) 『源氏物語』須磨「浦にたくあまだにつつむ恋なればくゆる煙よ行くかたぞなき」 / 3) 『新古今和歌集』秋上 宜秋門院丹後「忘れじな難波の秋の夜半の空異浦に澄む月は見るとも」 / 4) 「道芝」は底本「道々」 / 5) 山科資行 / 6) 「つるよし」は底本「つつよし」 / 7) 「高野聖・空也聖が皮籠・紙子」、「僧綱聖が僧綱」、「紙子、聖が紙子」などの説がある。 / 8) 雪の曙・西園寺実兼 / 9) 卯の花の名所。「憂」の意。
巻2―13
まことや、明け行くほどに、「資行1)が申し入れし人は、何と候ひしそら」と申す。「げに、つやつや忘れて。見て参れ」と仰せあり。起き出でて見れば、はや日ざし出づるほどなり。
角(すみ)の御所の釣殿の前に、いと破れたる車、夜もすがら雨に濡れにけるもしるく、濡れしほたれて見ゆ。「あなあさまし」と思えて、「寄せよ」と言ふに、供の人、門の下よりただ今出でてさし寄す。見れば、練貫(ねりぬき)の柳の二つ衣2)の絵描きそそきたりけるとおぼしきが、車漏りて、水にみな濡れて、裏の花、表へ通り、練貫の二つ小袖へ移り、さま悪しきほどなり。夜もすがら泣き明かしける袖の涙も、髪は、漏りにやあらん、また涙にや、洗ひたるさまなり。
「このありさま、なかなかに侍り」とて降りず。まことに苦々しき心地して、「わがもとに、いまだ新しき衣(きぬ)の侍るを着て参り給へ。今宵しも大事のことありて」など言へども、泣くよりほかのことなくて、手をすりて、「帰せ」と言ふさまもわびし。夜もはや昼になれば、まことにまた何とかはせんにて、帰しぬ。
このよしを申すに、「いとあさましかりけることかな」とて、やがて文つかはす。御返事はなくて、「浅茅(あさぢ)が末にまどふささがに3)」と書きたり。硯の蓋(ふた)に縹(はなだ)の薄様に包みたる物ばかりすゑて参る。御覧ぜらるれば、「君にぞまどふ4)」と、彩(だ)みたる薄様に、髪をいささか切りて包みて、
数ならぬ身の世語りを思ふにもなほくやしきは夢の通ひ路(ぢ)
かくばかりにて、ことなることなし。「出家(しゆけ)などしけるにや。いとあへなきことなり」とて、たびたび尋ね仰せられしかども、つひに行き方知らずなり侍りき。
年多く積りて後、河内の国、更荒寺(さらじ)といふ寺に、五百戒の尼衆(にしゆ)にておはしけるよし、聞き伝へしこそ、まことの道の御しべ、憂きは嬉しかりけむと推し量られしか。
1) 山科資行 / 2) 「二つ衣」は底本「二花」。衣の脱字とみて「二衣の花」と読む説もある。 / 3) 『源氏物語』賢木「風吹けばまづぞ乱るる色変はる浅茅が露にかかるささがに」 / 4) 『源氏物語』浮舟「峰の雪みぎはの氷踏み分けて君にぞまどふ道はまどはず」
巻2―14
さても、有明の月の御もとより、思ひかけぬ伺候の稚児のゆかりを尋ねて、御文あり。
思はずに、まことしき御心ざしさへあれば、なかなかむつかしき心地して、御文にては時々申せども、みづからの御ついではかき絶えたるも、いぶせからずと思はぬとしもなくて、また年も返りぬ。
巻2―15
新院1)・本院2)、御花合(はなあはせ)の勝負といふことありて、知らぬ山の奥まで尋ね求めなど、この春は暇(いとま)惜しきほどなれば、うちかくろへたる忍びごと3)どももかなはで、おぼつかなさをのみ書き尽す。今年は御所にのみつと候ひて、秋にもなりぬ。
1) 亀山院 / 2) 後深草院 / 3) 雪の曙との密会
巻2―16
長月の中の十日あまりにや、善勝寺の大納言1)のもとより、文2)、細やかに書きて、「申したきことあり。出で給へ。出雲路といふわたりに侍るが、女どもの見参(げざん)したるが侍るに、いかがして、みづからの便りは身に代へても」など申ししを、「まめやかに同じ心に思ふべきこと」と思ひて、「この大納言は幼くより御心ざしあるさまなれば、これもまた、身親しき人なれば」など、思し召しめぐらしけるは、なほざりならずとも申しぬべき。
例のけしからずさは、恨めしくうとましく思ひ参らせて、恐しきやうにさへ覚えて、つゆの御いらへも申されで、床中に起きゐたるありさまは、「『あとより恋の3)』と言ひたるさまやしたるらん」と、われながらをかしくもありぬべし。
夜もすがら泣く泣く契り給ふも、身のよそに覚えて、「今宵ぞ限り」と心に誓ひゐたるは、誰(たれ)かは知らん。鳥の音ももよほし顔に聞こゆるも、人は悲しきことを尽して言はるれども、わが心には嬉しきぞ情けなき。大納言、声(こは)作りて、何とやらん言ふ音して帰りたるが4)、などするか、また立ち返り、さまざま仰せられて、「せめては、見だに送れ」とありしかども、「心地わびし」とて、起き上がらず、泣く泣く出で給ひぬる気色は、げに袖にや残し置き給ふらんと見ゆるも、罪深きほどなり。
大納言の心の内もわびしければ、いたく白々しくならぬ先にと、公事(おほやけごと)にことづけて、急ぎ参りて、局にうち臥したれば、まめやかに、ありつるままの面影の、そばに見え給ひぬるも恐しきに、その昼つ方、書き続けて給ひたる御言の葉は、偽りあらじと思えし中に、
悲しとも憂しとも言はむ方ぞなきかばかり見つる人の面影
今さら変はるとしはなけれども、あまりに憂くつらく覚えて、「言の葉もなかりつる物を」と思えて、
変はるらん心はいざや白菊のうつろふ色はよそにこそ見れ
あまりに多きことどもも、何と申すべき言の葉もなければ、ただかくばかりにてぞ侍りし。
1) 四条隆顕 / 2) 作者宛て・有明の月宛ての二説がある。 / 3) 『古今和歌集』雑体・俳諧歌 よみ人しらず「枕よりあとより恋のせめくればせむかたなみに床中にをる」 / 4) 「帰りたるが」は底本「帰たるひ」。
巻2―17
その後、とかく仰せらるれども、御返事も申さず。まして参らんこと、思ひ寄るべきことならず。とにかくに言ひなして、つひに見参(げざむ)に入らぬに、暮れ行く年に驚きてにや、文あり。善勝寺1)の文に、
「御文2)参らす。このやう、かへすがへす詮(せん)なくこそ候へ。あながちに厭ひ申さるることにても候はず。しるべ御契にてこそ、かくまても思し召し染み候ひけめに、情けなく申され、かやうに苦々しくなりぬること、身一つの歎きに思え候ふ。これへも、同じさまには、かへすがへす恐れ覚え候ふ」
よし、細々とあり。
文を見れば、立文(たてぶみ)、こはごはしげに続飯(そくい)にて上下に付け、書かれたり。開けたれば、熊野の、またいづくのやらん、本寺のとかや、牛王(ごわう)といふ物の裏に、まづ日本国六十ヶ神仏、梵天王、帝釈より始め、書き尽し給ひて後、
「われ、七歳よりして、勤求等覚(こんぐとうがく)の沙門の形(かたち)を汚(けが)してよりこの方、炉壇(ろたん)に手を結びて、難行苦行の日を重ね、近くは天長地久を祈り奉り、遠くは一切衆生もろともに滅罪生善を祈誓す。心の中、『さだめて護法天童(こおうてんどう)、証明知見3)垂れ給ふらん』と思ひしに、いかなる魔縁にか、よしなきことゆゑ、今年二年、夜は夜もすがら面影を恋ひて涙に袖を濡らし、本尊に向ひ持経を開く折々も、まづ言の葉をしのび、護摩の壇の上には文を置きて持経とし、御灯明(あかし)の光には、まづこれを開きて心を養ふ。この思ひ、忍びがたきによりて、『かの大納言に言ひ合はせば、見参(げさむ)の便りも心やすくや』など思ふ。また、『さりとも、同じ心なるらむ』と思ひつること、みなむなし。この上は、文をもつかはし、言葉をも交はさんと思ふこと、今生にはこの思ひを断つ。さりながら、心の中に忘るることは、生々世々あべからざれば、われ、さだめて悪道に落つべし。されば、この恨み尽くる世あるべからず。両界(りやうかい)の加行(けぎやう)よりこの方、灌頂に至るまで、一々4)の行法、読誦大乗5)、四威儀6)の行、一期の間(あひだ)修(しゆ)するところ、みな三悪道に廻向す。この力をもちて、今生長くむなしくて、後生には悪趣に生まれ合はむ。そもそも7)生を受けてこの方、幼少の昔、襁褓(むつき)の中にありけむことは覚えずして過ぎぬ。七歳にて髪を剃り、衣を染めて後、一つ床(ゆか)にもゐ、もしは愛念の思ひなど、思ひ寄りたることなし。この後、またあるべからず。『われにも言ふ言の葉は、なべて人にもや』と思ふらんと思ひ、大納言が心中、かへすがへす悔しきなり」
と書きて、天照大神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)いしいし、おびたたしく賜はりたるを見れば、身の毛も立ち、心もわびしきほどなれど、さればとて、何とかはせん。これをみな巻き集めて、返し参らする包み紙に、
今よりは絶えぬと見ゆる水茎の跡を見るには袖ぞしをるる
とばかり書きて、同じさまに封じて返し参らせたりし後は、かき絶え御訪れもなし。何とまた申すべきことならねば、むなしく年も帰りぬ。
1) 四条隆顕 / 2) 有明の月からの手紙。 / 3) 「証明知見」は底本「しよみやちけん」。 / 4) 「一々」は底本「一こ」 / 5) 「読誦大乗」は底本「こんしゆ大乗」 / 6) 「四威儀」は底本「しにき」 / 7) 「そもそも」は底本「又もし」
巻2―18
春はいつしか御参り1)あることなれば、入らせ給ひたるに、九献(くこん)参る。ことさら外様(とざま)なる人もなく、しめやかなる御ことどもにて、例の常の御所にての御ことどもなれば、逃げ隠れ参らすべきやうもなくて、御前に候ひし。御所、「御酌に参れ」と仰せありしに、「参る」とて、立ちざまに鼻血垂りて、目も暗くなりなどせしほどに、御前を立ちぬ。
その後十日ばかり、如法大事に病みて侍りしも、「いかなりけることぞ」と恐しくぞ侍りし。
1) 有明の月の参上
巻2―19
かくて如月のころにや、新院1)入らせおはしまして、ただ御差し向ひ2)小弓(こゆみ)を遊ばして、「御負けあらば、御所の女房たちを、上下みな見せ給へ。われ負け参らせたらば、またそのやうに」と3)言ふことあり。この御所4)、御負けあり。
「これより申すべし」とて、還御の後、資季(すけすゑ)の大納言入道5)を召されて、「いかが、この式あるべき。珍しき風情、何事ありなん」など仰せられあはするに、正月の儀式にて、大盤所に並べ据ゑられたらんも、余りに珍しからずや侍らん。また一人づつ占相人(うらさうにん)などに会ふ人のやうにて出でむも、異様(ことやう)にあるべし」など、公卿たち面々に申さるるに、御所、「竜頭鷁首(りようとうげきしゆ)の舟を造りて、水瓶を持たせて、春待つ宿の返しにてや6)」と御気色(けしよく)あるを、「舟いしいし、わづらはし」とて、それも定まらず。
資季入道、「上臈八人、小上臈・中臈八人づつを、上中下の鞠足(まりあし)の童(わらは)になして、橘の御壺に木立(きだて)をして、鞠の景気をあらんや、珍しからむ」と申す。「さるべし」と、みな人々申し定めて、面々に上臈には公卿、小上臈には殿上人、中臈には上北面、傅(めのと)に付きて出だし立つ。「水干袴に刀差して、沓(くつ)・襪(したうづ)など履きて、出で立つべし」とてあり7)。いと堪へがたし。「さらば、夜などにてもなくて、昼のことなるべし」とてあり。誰かわびざらん。されども、力なきことにて、おのおの出で立つべし。
西園寺の大納言8)、傅(めのと)に付く。縹裏(はなだうら)の水干袴に、紅(くれなゐ)の袿(うちき)重ぬ。左の袖に沈(ぢん)の岩を付けて、白き糸にして滝を落し、右に桜を結びて付けて、ひしと散らす。袴には岩・堰(いせき)などして、花をひしと散らす。「涙もよほす滝の音かな9)」の心なるべし。権大納言殿10)、資季入道沙汰す。萌黄裏(もよぎうら)の水干袴、袖には11)、左に西楼(せいろう)、右に桜、袴12)左に竹結びて付け、右に灯台一つ付けたり。紅の単衣を重ぬ。面々にこの式なり。中の御所の広所(ひろどころ)を、屏風にて隔て分けて、二十四人出で立つさま、思ひ思ひにをかし。
さて、「風流(ふりう)の鞠を作りて、ただ新院の御前ばかりに置かむずるを、ことさら懸(かか)りの上へ上ぐるよしをして、落つる所を袖に受けて、沓を脱ぎて、新院の御前に置くべし」とてありし。みな人、この上げ鞠を泣く泣く辞退申ししほどに、「器量の人なり」とて、女院13)の御方の新衛門督殿を上八人に召し入れて、勤められたりし、これも時にとりてはひびしかりしかとも申してん。さりながら、うらやましからずぞ。袖に受けて御所に置くことは、その日の八人14)、上首(じやうしゆ)につきて、勤め侍りき。いと晴れがましかりしことどもなり。
南庭(なんてい)の御簾上げて、両院・春宮、階下(かいか)に公卿、両方に着座す。殿上人は、ここかしこにたたずむ。塀の下を過ぎて、南庭を渡る時、みな傅(めのと)ども、色々の狩衣にて、かしづきに具す。新院、「交名(けうみやう)を承はらん」と申さる。御幸、昼よりなりて、九献(くこん)もとく始まりて、「遅し。御鞠、とくとく」と奉行為方15)責むれども、「今、今」と申して、松明(しようめい)を取る。やがて、面々のかしづき、紙燭(しそく)を持ちて、「誰がし、御達(ごたち)の局(つぼね)と申して、ことさら御前へ向きて、袖かき合はせて過ぎしほど、なかなか言の葉なく侍り16)。
下八人より、次第に懸りの下へ参りて、面々の木の本(もと)にゐるありさま、われながら珍らかなりき。まして、上下男(おとこ)たちの興に入りしさまは、ことわりにや侍らん。
御鞠を御前に置きて、急ぎまかり出でんとせしを、しばし召し置かれて、その姿にて御酌に参りたりし、いみじく堪へがたかりしことなり。二・三日かねてより、局々(つぼねつぼね)に伺候して、髪結ひ、水干・沓など着ならはししほど、傅(めのと)たち経営いして、「養ひ君もてなす」とて、かたよりにことどものありしさま、推し量るべし。
1) 亀山院 / 2) 「御差し向ひ」は底本「御さしりむかひ」。「はしりむかひ」(角川文庫)とする説もある。 / 3) 底本「と」なし。 / 4) 後深草院 / 5) 二条資季・藤原資季 / 6) 『源氏物語』胡蝶の船遊びを模す。 / 7) 「あり」は底本「ある」 / 8) 西園寺実兼 / 9) 『源氏物語』若紫「吹き迷ふ深山おろしに夢覚めて涙もよほす滝の音かな」 / 10) 女房名 / 11) 「袖には」は底本「袖」なし。 / 12) 「袴」は底本「はる(か歟)ま」。「る」に「か歟」と傍書。 / 13) 東二条院・後深草院中宮西園寺公子 / 14) 「八人」は底本「父」 / 15) 中御門為方 / 16) 「侍り」は底本「侍/侍」。衍字とみて削除。
巻2―20
さるほどに、御妬みには御勝ちあり。嵯峨殿の御所へ申されて、按察使(あぜち)の二品1)のもとに渡らせ給ふ、今御所2)とかや申す姫宮、十三にならせ給ふを、舞姫に出だし立て参らせて、上臈女房たち、童(わらは)、下仕(しもづかへ)になりて、帳台(ちやうだい)のこころみあり。また、公卿厚褄(あつづま)にて、殿上人・六位肩脱ぎ、北の陣を渡る。便女(びてう)・雑仕(ざうし)がけ景気など残るなく、露台(ろだい)の乱舞、御前の召し、おもしろくともいふばかりなかりしを、「なほ、名残惜し」とて、いや妬みまであそばして、またこの御所負け、「伏見殿にてあるべし」とて、六条院の女楽3)をまねばる。
1) 藤原永子 / 2) 「今御所」は底本「と御所」 / 3) 『源氏物語』若菜 
■巻2―21〜30

 

巻2―21
紫の上には東の御方1)、女三の宮の琴(きん)の代はりに、箏(しやう)の琴(こと)を隆親2)の女(むすめ)3)の今参りに弾かせんに、隆親ことさら所望ありと聞くより、などやらん、むつかしくて、参りたくもなきに、「御鞠の折に、ことさら御言葉かかりなどして、御覧じ知りたるに」とて、「明石の上にて、琵琶に参るべし」とてあり。
琵琶は七つの年より、雅光の中納言4)に初めて楽(がく)二・三習ひて侍りしを、いたく心にも入らでありしを、九つの年より、またしばし御所に教へさせおはしまして、三曲5)まではなかりしかども、蘇合(そがう)・万秋楽(まんじゆらく)などはみな弾きて、御賀の折、白河殿、くわいそ6)とかやいひしことにも、「十にて御琵琶を頼りて、いたいけして弾きたり」とて、花梨木(くわりぼく)の直甲(ひたこう)の琵琶の、紫檀の転手(てんじゆ)したるを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨の院7)より給はりなどして、折々は弾きしかども、いたく心にも入らでありしを、弾けとてあるもむつかしく、などやらん、ものくさながら出で立ちて、「柳の衣(きぬ)に紅(くれなゐ)の袿(うちき)、萌黄(もよぎ)の表着(うはぎ)、裏山吹(うらやまぶき)の小袿(こうちき)を着るべし」とてあるが、なぞしも必ず人よりことに落ち離る明石になることは。
東(ひむがし)の御方の和琴(わごん)とても、日ごろしつけたることならねども、ただこのほどの御習ひなり。琴(きむ)の琴(こと)の代りの、今参りの琴(こと)ばかりぞ、しつけたることならめ8)。
女御の君は、花山院太政大臣9)の女、西の御方なれば、紫の上に並び給へり。これ10)は、対座(たいざ)に敷かれたる畳の右の上臈に据ゑらるべし。「御鞠の折にたがふべからず」とてあれば、などやらん、さるべしとも思えず。「今参りは女三宮とて、一定(いちぢやう)上にこそあらめ」と思ひながら、「御気色の上は」と思ひて、まづ伏見殿へは御供に参りぬ。
今参りは、当日に紋の車にて、侍(さぶらひ)具しなどして参りたるを見るも、わが身の昔思ひ出でられて、あはれなるに、新院11)御幸なりぬ。
1) 洞院愔子 / 2) 四条隆親 / 3) 四条識子 / 4) 久我雅光。作者の叔父。 / 5) 流泉・啄木・楊真操の三秘曲。 / 6) 「会所」・「楽所」の誤写(角川文庫)、秘曲「荒序」(集成)などの説がある。 / 7) 後嵯峨院 / 8) 「琴ならめ」は底本「琴ならね」 / 9) 花山院通雅 / 10) 筆者 / 11) 亀山院
巻2―22
すでに九献(くこん)始まりなどして、こなたに女房、次第に出で、心々の楽器(がくき)前に置き、思ひ思ひの褥(しとね)など、若菜の巻にや、記し文(ぶみ)のままに定め置かれて、時なりて、主(あるじ)の院1)は六条院2)に代はり、新院3)は大将4)に代はり、殿の中納言中将5)、洞院の三位中将にや、笛・篳篥(ひちりき)に階下へ召さるべきとて、まづ女房の座、みなしたためて並び居て、あなた裏にて御酒盛りありて、半ばになりて、こなたへ入らせ給ふべきにてある所へ、兵部卿6)参りて、女房の座いかに」とて見らるるが、「このやう悪(わろ)し。まねばるる女三宮、文台(ぶんだい)の御前なり。今まねぶ人の、これは叔母なり。あれは姪(めい)なり。上に居るべき人なり。隆親、故大納言には上首(じやうしゆ)なりき。何事に下に居るべきぞ7)。居直れ、居直れ」と声高(こゑだか)に言ひければ、善勝寺8)・西園寺9)参りて、「これは別勅にて候ふものを」と言へども、「何とてあれ、さるべきことかは」と言はるる上は、一旦こそあれ、さのみ言ふ人もなければ、御前はあなたに渡らせ給ふに、誰か告げ参らせんもせんなければ、座を下(しも)へ降ろされぬ。出だし車のこと、今さら思ひ出だされて、いと悲し。
姪・叔母には、なじか依るべき。あやしの者の腹に宿る人も多かり。それも、叔母は祖母(むば)はとて、捧げ置くべきか。こは何事ぞ。すべて、すさまじかりつることなり。
「これほど面目なからむことにまじろひて、せんなし」と思ひて、この座を立つ。局へすべりて、「御尋ねあらば、消息(しやうそく)を参らせよ」と言ひ置きて、小林といふは御姆(はは)が母、宣陽門院10)に伊予殿といひける女房、おくれ参らせて、さま変へて、即成院(そくじやうゐん)の御墓近く候ふ所へ尋ね行く。
参らせ置く消息に、白き薄様に琵琶の一の緒を二つに切りて包みて、
数ならぬ憂き身を知れば四つの緒もこの世のほかに思ひ切りつつ
と書き置きて、「御尋ねあらば、『都へ出で侍りぬ』と申せ」と申し置きて、出で侍りぬ。
1) 後深草院 / 2) 光源氏 / 3) 亀山院 / 4) 夕霧 / 5) 鷹司兼忠 / 6) 四条隆親 / 7) 「べきぞ」は底本「人きそ」。 / 8) 四条隆顕 / 9) 西園寺実兼 / 10) 後白河院皇女覲子内親王
巻2―23
さるほどに、九献半ば過ぎて、御約束のままに入らせ給ふに、明石の上の代りの琵琶なし。ことのやうを御尋ねあるに、東(ひむがし)の御方1)、ありのままに申さる。聞かせ おはしまして、「ことわりや、あが子が立ちけること。そのいはれあり」とて、局を尋ねらるるに、「これを参らせて、はや都へ出でぬ。『さだめて召しあらば参らせよ』とて、消息こそ候へ」と申しけるほどに、「あへなく不思議なり」とて、よろづに苦々しくなりて、今の歌を新院2)も御覧ぜられて、「いとやさしくこそ侍れ。今宵の女楽は、あいなく侍るべし。この歌を給はりて帰るべし」とて、申させ給ひて、還御なりにけり。
この上は、今参り琴弾くに及ばず。面々に「兵部卿3)、うつつなし。老いの僻みか。あが子4)がしやう、やさしく」など申して過ぎぬ。
朝(あした)は、またとく四条大宮の御姆(はは)がもと、六角櫛笥(ろつかくくしげ)の祖母(むば)のもとなど、人を給りて御尋ねあれども、「行方知らず」と申しけり。さるほどに、あちこち尋ねらるれども、いづくよりか、ありと申すべき。「よきついでに、憂き世を遁れん」と思ふに、師走のころより、ただならずなりにけりと思ふ折からなれば、それしもむつかしくて、「しばしさらば隠ろへ居て、この程過ぐして、身二つとなりなば」と思ひてぞ居たる。
これよりして、「長く琵琶の撥(ばち)を取らじ5)」と誓ひて、後嵯峨の院6)より賜はりてし琵琶の八幡(やはた)へ参らせしに、大納言7)の書きて給びたりし文の裏に、法華経を書きて参らするとて、経の包み紙8)に、
この世にも思ひきりぬる四つの緒の形見や法(のり)の水茎の跡
1) 洞院愔子 / 2) 亀山院 / 3) 四条隆親 / 4) 「あが子」は底本「あるこ」。 / 5) 「取らじ」は底本「とゝし」。 / 6) 後嵯峨院 / 7) 父、久我雅忠 / 8) 「包み紙」は底本「つみかみ」。
巻2―24
つくづくと案ずれば、一昨年(おととし)の春、三月十三日1)に、初めて、「折らでは過ぎじ」とかや承り初めしに、去年(こぞ)の師走にや、おびたたしき誓ひの文を給はりて2)、いくほども過ぎぬに、今年の三月十三日に、年月さぶらひ慣れぬる御所の内をも住みうかれ、琵琶をも長く思ひ捨て、大納言3)かくれて後は親ざまに思ひつる兵部卿4)も心よからず思ひて、「わが申したることを咎めて出づるほどの者は、わが一期には、よも参り侍らじ」など申さるると聞けば、道閉ぢめぬる心地して、「いかなりけることぞ」と、いと恐しくぞ思えし。
如法、御所よりも、あなたこなたを尋ねられ、雪の曙5)も、山々寺々までも、思ひ残すくまなく尋ねらるるよし聞けども、つゆも動かれず隠れゐて、聞法の結縁も頼りありぬべく思えて、真願房の室(むろ)にぞ、また隠れ出で侍りし。
1) 巻2-6参照。 / 2) 巻2-17参照。 / 3) 父、久我雅忠 / 4) 四条隆親 / 5) 西園寺実兼。「雪の曙」の初出。
巻2―25
さるほどに、四月の祭1)の御桟敷のこと、兵部卿2)用意して、両院御幸(ごかう)なすなどひしめくよしも、耳のよそに伝へ聞きしほどに、おなじ四月のころにや、内3)・春宮4)の御元服に、大納言の年のたけたるが入るべきに、前官悪(わろ)し」とて、あまりの奉公の忠のよしにや、善勝寺が大納言5)を一日借り渡して参るべきよし申す。「神妙(しんべう)なり」とて参りて、振舞ひ参りて、返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、引き違(ちが)へ、経任6)になされぬ。
さるほどに、善勝寺の大納言、ゆゑなく剥れぬること、さながら父の大納言がしごとやと思ひて、深く恨む。当腹(たうぶく)隆良の中将7)に宰相を申すころなれば、「この大納言を参らせ上げて、われを超越(てうをつ)せさせんとする」と思ひて、「同宿もせんなし」とて、北の方が父九条中納言家8)に籠居しぬるよし聞く。
いとあさましければ、行きてもとぶらひたけれども、世の聞こえむつかしくて、文にて、「かかる所に侍るを、立ち寄り給へかし」など申したれば、「跡なく聞きなして後、よろづ言はん方なく思えつるに、嬉しくこそ。やかて、夜さり参りて、いぶせかりつる日数も」など言ひて、暮るるほどにぞ立ち寄りたる。
1) 賀茂祭 / 2) 四条隆親 / 3) 後宇多天皇 / 4) 後の伏見天皇 / 5) 四条隆顕 / 6) 中御門経任 / 7) 四条隆良 / 8) 九条忠高
巻2―26
卯月の末つかたのことなるに、なべて青みわたる梢(こずゑ)の中に、遅き桜の、ことさらけぢめ見えて、白く残りたるに、月いと明かくさし出でたるものから、木陰は暗き中に、鹿のたたずみ歩(あり)きたるなど、絵に描きとめまほしきに、寺々の初夜の鐘、ただ今打ち続きたるに、ここは三昧堂続きたる廊(らう)なれば、これにも初夜の念仏近きほどに聞こゆ。廻向して果てぬれば、尼どもの麻の衣(ころも)の姿、いとあはれげなるを見出だして、大納言1)も、さしも思ふことなく誇りたる人の、ことさらうちしめりて、長絹(ちやうけん)の狩衣の袂(たもと)もしぼりぬ。「今は恩愛の家を出でて、真実(しんじち)の道に思ひ立つに、故大納言2)の心苦しく申し置きしこと、われさへまたと思ふこそ、思ひの絆(ほだし)なれ」など申せば、「われもげに、いとど何をか」と、名残惜しさも悲しきに、薄き単(ひとへ)の袂は、乾く所なくぞ侍りける。
「かかるほどを過ぐして、山深く思ひ立つべければ、同じ御姿にや」など申しつつ、かたみにあはれなること言ひ尽し侍りし中に、「さても、いつぞや、恐しかりし文3)を見し。われ過ごさぬことながら、いかなるべきことにてかと、身の毛もよだちしが、いつしか、御身といひ、身といひ、かかることの出で来ぬるも、まめやかに報ひにやと思ゆる。さても、『いづくにもおはしまさず』とて、あちこち尋ね申されし折節、御参り4)ありて、御帰りありし御道にて、『まことにや、かくと聞くは』と御尋ねありしに、『行方なく、今日までは承る』と申したりしに、いかか思しけん、中門のほどに立ちやすらひつつ、とばかりものも仰せられで、御涙のこぼれしを、檜扇にまぎらはしつつ、『三界無安、猶如火宅(さんがいむあん、ゆによくわたく)』と口ずさみて出で給ひし気色こそ、常ならん人の、恋し・悲し・あさまし・あはれと申し続けんあはれにも、なほまさりて見え侍りしかば、本尊に向ひ給ふらん念誦も推し量られて」など語るを聞けば、「悲しさ残る5)」とありし月影も、今さら思ひ出でられて、「などあながちに、かうしも情けなく申しけむ」と悔しき心地さへして、わが袂さへ露けくなり侍りしにや。
「夜明けぬれば、世の中も、かたがたつつまし」とて帰らるるも、「ことあり顔なる朝帰りめきて」など言ひて、いつしか、「今宵のあはれ、今朝の名残、まことの道には捨て給ふな」などあり。
はかなくも世のことわりは忘られてつらさに堪へぬわが袂かな
と申したりし。
「げに、憂きはなべての習ひとも知りながら、歎かるるはかやうのことにやと、悲しさ添ひて」など申して、
よしさらばこれもなべての習ひぞと思ひなすべき世のつらさかは
1) 四条隆顕 / 2) 作者父、久我雅忠 / 3) 有明の月からの手紙。2-17参照。 / 4) 主語は有明の月 / 5) 有明の月の歌。2-10参照。
巻2―27
雪の曙1)は、跡なきことを歎きて、春日に二七日こもられたりけるが、十一日と申しける夜、二の御殿の御前に、昔に変はらぬ姿にて侍ると見て、急ぎ下向しけるに、藤森(ふぢのもり)といふほどにてとかや、善勝寺2)が中間(ちゆうげん)、細き文の箱を持ちて会ひたる。
などやらん、ふと思ひ寄る心地して、人に言はするまでもなくて、「勝倶胝院より帰るな。二条殿の御出家(すけ)はいつ。一定(いちぢやう)とか聞く」と言はれたりければ、よく知りたる人とや思ひけむ、「夜べ、九条より大納言殿3)入らせ給ひて候ひしが、今朝また御使ひに参りて帰り候ふが、御出家のことは、いつとまではえ承り候はず。いかさまにも、御出家は一定げに候ふ」と申しけるに、「さればよ」と嬉しくて、供なる侍(さぶらひ)が乗りたる馬を取りて、これより神馬に参らせて、わが身は昼は世の聞こえむつかしくて、上(かみ)の醍醐に知るゆかりある僧房へぞ立ち入りける。
それも知らで、夏木立ながめ出でて、坊主(ばうず)の尼御前の前にて、せん道4)の御ことを習ひなどしてゐたる暮れほどに、何のやうもなく縁にのぼる人あり。「尼達にや」と思ふほどに、「さやさやと鳴るは装束の音から」と見返りたるに、そばなる明り障子を細めて、「心強くも隠れ給へども、神の御しるべは、かくこそ尋ね参りたれ」と言ふを見れば、雪の曙なり。
「こはいかに」と、今さら胸も騒げども何かはせん。「なべて世の恨めしく侍りて、思ひ出でぬる上は、いづれを分きてか」とばかり言ひて、立ち出でたり。例の、「いづくより出づる言の葉にか」と思ふことどもを言ひ続けゐたるも、げに悲しからぬにしもなけれども、思ひ切りにし道なれば、二度(ふたたび)帰り参るべき心地もせぬを、かかる身のほどにてもあり、誰かはあはれとも言ふべき。「御心ざしのおろかなるにてもなし。兵部卿5)が老いの僻みゆゑに、かかるべきことかは。ただ、このたびばかりは、仰せに従ひてこそ」など、しきりに言ひつつ、次の日はとどまりぬ。
善勝寺のとぶらひ言ひて、「これに侍りけるに、思ひがけす尋ね参りたり。見参(げざん)せん」と言ひたり。「かまへて、これへ」と、ねんごろに言はれて、この暮れにまた立ち寄りたれば、「つれづれの慰めに」などとて、九献夜もすがらにて、明け行くほどに帰るに、「ただこのたびは、それに聞き出だしたるよしにて、御所へ申してよかるべし」など、面々に言ひ定めて、雪の曙も今朝立ち帰りぬ。
面々の名残もいと忍びがたくて、「見だに送らん」とて、立ち出でたれば、善勝寺は檜垣に夕顔を織りたる縬(しじら)の狩衣にて、「道こちなくや」などためらひて、夜深く帰りぬ。
今一人6)は、入り方の月くまなさに、薄香(うすかう)の狩衣、車したたむるほど、端つ方に出で、主(あるじ)の方へも、「思ひ寄らざる見参も嬉しく」などあれば、「十念成就の終りに、三尊の来迎(らいかう)をこそ待ち侍る柴の庵に、思ひかけぬ人ゆゑ、折々かやうなる御袂にて尋ね入り給ふも、山賤(やまがつ)の光にや思ひ侍らん」などあり。「さても残る山の端(は)もなく尋ねかねて、『三笠の神のしるべにや』と参りて、見しむば玉の夢の面影」など語らるるぞ、住吉の少将7)が心地し侍る。
明け行く鐘も催し顔なれば、出でざまに口ずさみしを、しひて言へれば、
世の憂さも思ひつきぬる鐘の音(おと)を月にかこちて有明の空
とやらん、口ずさみて出でぬるあとも悲しくて、
鐘の音(おと)に憂さもつらさもうちそへて名残を残す有明の月
1) 西園寺実兼 / 2) , 3) 四条隆顕 / 4) 善導・善道・禅道などの説がある。 / 5) 四条隆親 / 6) 雪の曙 / 7) 『住吉物語』の主人公。
巻2―28
今日は一筋に思ひ立ちぬる道も、また障り出で来ぬる心地するを、主(あるじ)の尼御前、「いかにも、この人々は申されぬと思ゆるに、たびたびの御使(つかひ)に心清くあらがひ申したりつるも憚りある心地するに、小林の方へ出でよかし」と言はる。さもありぬべきなれば、車のこと、善勝寺1)へ申すなどして、伏見の小林といふ所へまかりぬ。
今宵は何となく日も暮れぬ。御姆(はは)が母伊予殿、「あなめづらし。御所よりこそ、『これにや』とて、たびたび御尋ねありしか。清長(きよなが)2)も、たびたび詣で来し」など語るを聞くにも、「三界無安、猶如火宅(さんがいむあん、ゆによくわたく)」と言ひ給ひける人3)の面影浮かむ心地して、「とにかくに、さもぞもの思ふ身にてありける」と、われながらいと悲し。卯月の空の村雨がちなるに、音羽の山の青葉の梢に宿りけるにや4)、時鳥(ほととぎす)の初音を今聞き初むるにも、
わが袖の涙言問へ時鳥かかる思ひのあり明の空
いまだ夜深きに、尼たちの起き出でて後夜行ふに、即成院(そくじやうゐん)の鐘の音もうちおどろかすに、われも起き出でて経など読みて、日高くなるに、また雪の曙のより、茨(むばら)切りたりし人の文あり。
名残など書きて後、さても夢のやうなりし人5)、その後は面影も知らぬことにて、あれは何とかはと思ひて過ぐるに、「この春のころよりわづらひつるが、なのめならず大事なるを、道の者6)どもに尋ぬなれば、『御心にかかりたるゆゑ』など申す。まことに恩愛尽きぬことなれば、さもや侍らん。都のついでに見せ奉らん」とあり。
いざや、必ずしも、恋し、かなしとまではなけれども、「思はぬ山の峰にだに7)」といふことなれば、今年はいくらほどなど思ひ出づる折々は、一目見し夜半の面影をふたたび忍ぶ心も、などか無からん。さればまた、「逢はぬ思ひの片糸(かたいと)は、憂き節(ふし)にもや」と、われながらことはらるれば、「何よりもあさましくこそ。また、さりぬべき便りも侍らば」など言ひて、これさへ今日は心にかかりつつ、いかが聞きなさんと悲し。
1) 四条隆顕 / 2) 菅原清長 / 3) 有明の月。2-26参照。 / 4) 『古今和歌集』夏 紀友則「音羽山今朝越え暮ればほととぎす梢はるかに今ぞ鳴くなる」 / 5) 作者と雪の曙との間の女児。1-36参照。 / 6) 陰陽師 / 7) 『詞花和歌集』雑 和泉式部「あしかれと思はぬ山の峰にだに生ふなるものを人の歎きは」
巻2―29
暮れぬれば、例の初夜行ふついでに、常座(ぜやうざ)などせんとて、持仏堂にさし入りたれば、いと齢(よはひ)かたぶきたる尼の、もとよりゐて、経読むなるべし。遠くで「菩提の縁」など言ふも頼もしきに、折戸開く音して、人の気配ひしひしとす。思ひあへず、誰なるべしとも思えず、仏の御前の明障子(あかりしやうじ)をちと開けたれば、御手輿(たごし)にて北面の下臈一・二人召し次ぎなとばかりにて御幸(ごかう)あり。
いと思はずにあさましけれども、目をさへふとみ見合せ奉りぬる上は、逃げ帰るべきにあらねば、つれなくゐたる所へ、やかて御輿(みこし)を寄す。降りさせおはしまして、「ゆゆしく尋ね来にける」など仰せあれども、ものも申さでゐたるに、「御輿をばかき帰して、御車したためて参れ」と仰せあり。御車待ち給ふほど、「この世のほかに思ひ切ると見えしより、尋ね来るに」と、いくらも仰せられて、「兵部卿1)が恨みに、われさへ」など承るもことわりなれども、「なべて憂き世を、かかるついでに思ひ遁れたく侍る」よし申すに、「嵯峨どのへなりつるが、思ひがけず、かくと聞きつるほどに、例の人づてには、またいかがと思ひて、『伏見殿へ入らせおはします』とて、立ち入らせ給ひたり。何と思はむにつけても、このほどのいぶせさも、静かに」と、さまざま承はれば、例の心弱さは、御車に参りぬ。
夜もすがら、「われ知らせ給はぬ御事、またこの後も、いかなることありとも、人に思し召し落さじ」など、内侍所、大菩薩ひきかけ承るもかしこければ、参り侍るべきよしを申しぬるも、「なほ憂き世出づべき限りの遠かりけるにや」と、心憂きに、明け離るるほどに還御なる。
「『御供にやがて、やがて』と仰せあれば、つひに参るべからんものゆゑへは」と思ひて参りぬ。局(つぼね)もみな里へ移してければ、京極殿の局へぞまかり侍りし。世に従ふ習ひも今さらすさまじきに、晦日(つごもり)ごろにや、御所にて帯をしぬるにも、思ひ出づる数々多かり。
1) 四条隆親
巻2―30
さても、夢の面影の人1)、わづらひ2)なほ所せしとて、思ひがけぬ人の宿所(しゆくしよ)へ呼びて見せらる。
「五月五日は、たらちめの跡弔(と)ひにまかるべきついでに」と申ししを、「五月は憚る上、苔の跡弔はむたよりもいまいまし」と、しひて言はれしかば、卯月の晦日(つごもり)の日、しるべある所へまかりたりしかば、紅梅の浮織物の小袖にや、二月より生ふされけるとて、いこいことある髪姿、夜目に変はらずあはれなり。北の方3)、折節産(さん)したりけるが、亡くなりにかる代りに、取り出でてあれば、人はみな、ただたそれとのみ思ひてぞありける。天子に心をかけ、禁中に交じらはせんことを思ひ、かしづくよし聞くも、「人の宝の玉なれば」と思ふぞ、心悪(わろ)き。
かやうの二心(ふたこころ)ありとも、つゆ知らせおはしまさねば、心より外(ほか)にはと思し召すぞ、いと恐ろしき。
1) 作者が生んだ雪の曙の子。 / 2) 「わづらひ」は底本「につらひ」。 / 3) 雪の曙(西園寺実兼)の正妻、源顕子。 
■巻2―31〜36

 

巻2―31
八月のころにや、近衛大殿1)、御参りあり。後嵯峨の院2)御隠れの折、「かまへて御覧じ育み参らせられよ」と申されたりけるとて、つねに御参りもあり。
また、もてもなし参らせられしほどに、常の御所にて、内々(うちうち)九献(くこん)など参り候ふほどに、御覧じて、「いかに行方(ゆくゑ)なく聞きしに3)、いかなる山にこもりゐてけるぞ」と申さる。「おほかた、方士が術ならでは尋ね出でがたく候ひしを、蓬莱の山にてこそ」など仰せありしついでに、「地体(ぢたい)、兵部卿4)が老いの僻み、ことのほかに候ふ。隆顕5)が籠居もあさましきこと。『いかにかかる御政(まつりごと)も候ふやらん』と思え候ふ。さても、琵琶は捨て果てられて候ひけるか」と仰せられしかども、ことさらものも申さで候ひしかば、「身一代ならず子孫までと、深く八幡宮に誓ひ申して候ふなる」と、御所に仰せられしかば、「無下に若きほとにて候ふに、苦々しく思ひ切られ候ひける。地体、あの家6)の人々は、なのめならず家を重くせられ候ふ。経任7)、大納言申し置きたる子細などぞ候ふらん。村上天皇より家久しくして廃れぬは、ただ久我ばかりににて候ふ8)。あの傅(めのと)仲綱9)は、久我重代の家人(けにん)にて候ふを、岡の屋の殿下10)、不憫に思はるる子細候ひて、『兼参(げざん)せよ』と候ひけるに、『久我の家人なり。いかがあるべき』と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家には準ずべからざれば、兼参子細あるまじ』とみづからの文にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候ふ。隆親の卿、『女(むすめ)、叔母なれば上にこそ』と申し候ひけるやうも、けしからず候ひつる。前(さき)の関白11)、新院12)へ参られて候ひけるに、やや久しく御物語ども候ひけるついでに、『傾城の能には、歌ほどのことなし。かかる苦々しかりし中にも、この歌13)こそ耳に留まりしか。梁園八代の古風と言ひながら、いまだ若きほどに、ありがたき心遣ひなり。仲頼14)と申して、この御所に候ふは、その人が家人なるが、行方なしとて、山々寺々尋ね歩(あり)くと聞きしかば、いかなる方に聞きなさむと、われさへしづ心なくこそ』など御物語候ひけるよし、承りき」など、申させ給ひき。
1) 鷹司兼平 / 2) 後嵯峨院 / 3) 「聞きしに」は底本「きはしに」 / 4) 四条隆親 / 5) 四条隆顕 / 6) 隆親・隆顕の四条家 / 7) 中御門経任 / 8) 「にて候」は底本「もれ候」。 / 9) 藤原仲綱 / 10) 近衛兼経 / 11) 鷹司基忠 / 12) 亀山院 / 13) 2-22参照。 / 14) 藤原仲頼。仲綱の子。
巻2―32
「さても中納言中将1)、今様器量に侍る。同じくは、その秘事を御許され候へ」と申さる。「さうに及ばず。京の御所はむつかし。伏見2)にて」と御約束あり。
明後日(あさて)ばかりとて、にはかに御幸あり。披露なきことなれば、人あまたも参らず。供御は臨時の供御を召さる。台所の別当一人などにてありしやらん。あちこちの歩(あり)きいしいしに、姿もことのほかになえばみたりし折節なるに、「参るべし」とてあれば、兵部卿3)も、ありしことの後は、いと申すこともなければ、何とすべきかたもなきやうに案じゐたるに、女郎花(をみなへし)の単襲(ひとへがさね)に、袖に秋の野を縫ひて、露置きたる赤色の唐衣(からぎぬ)重ねて、生絹(すずし)の小袖・袴など色々に、雪の曙の賜びたるぞ、いつよりも嬉しかりし。
大殿4)・前の殿5)・中納言中将殿、この御所には、西園寺6)・三条坊門7)・師親8)よりほかは人なし。「善勝寺9)、九条の宿所は近きほどなり。この御所には、はばかり申すべきやうなし」とて、たびたび申されしかども、「籠居の折節なれば、はばかりある」よしを申して参らざりしを、清長10)をつかはして召しあれば、参る。思ひがけぬ白拍子(しらびやうし)を二人、召し具せられたりける、誰かは知らん。
下(しも)の御所の広所(ひろどころ)にて御事(おんこと)はあり。上の御所の方に、車ながら置かる。ことども始まりて、案内を申さる。興に入らせ給ひて召さる。姉妹(おととい)と言ふ。姉二十余り、蘇芳(すわう)の単襲(ひとへがさね)に袴、妹(おとと)は女郎花(をみなへし)、素地(すぢ)の水干に萩を袖に縫ひたる大口を着たり。姉は春菊、妹若菊と言ひき。白拍子、少々申して、立ち姿御覧ぜられんといふ御気色あり。「鼓打ちを用意せず」と申す。
そのわたりにて、鼓を尋ねて、善勝寺これを打つ。まづ若菊舞ふ。その後、「姉を」と御気色あり。捨てて久しくなりぬるよし、たびたび辞退申ししを、ねんごろに仰せありて、袴の上に妹が水干を着て舞ひたりし、異様(ことやう)におもしろく侍りき。「いたく短かからず」とて、祝言(しゆげむ)の白拍子をぞ舞ひ侍りし。
御所、如法酔(ゑ)はせおはしまして後、夜更けて、やがて出だされぬ。それも知らせおはしまさず。人々は、今宵はみな御伺候、明日一度に還御などいふ沙汰なり。
1) 鷹司兼忠 / 2) 「伏見」は底本「ひ見」。 / 3) 四条隆親 / 4) 鷹司兼平 / 5) 鷹司基忠 / 6) 雪の曙・西園寺実兼 / 7) 中院通頼 / 8) 北畠師親 / 9) 四条隆顕 / 10) 菅原清長
巻2―33
御所御寝(ぎよしん)の間に、筒井の御所の方へ、ちと用ありて出でたるに、松の嵐も身にしみ、人まつ虫の声も、袖の涙に音(ね)を添ふるかと覚えて、待たるる月も澄みのぼりぬるほどなるに、思ひつるよりも、ものあはれなる心地して、「御所へ帰り参らん」とて、山里の御所の夜(よ)なれば、みな人静まりぬる心地して、掛湯巻(かけゆまき)にて通るに、筒井の御所の前なる御簾の中より、袖をひかゆる人あり。まめやかに化物の心地して、荒らかに、「あな、かなし」と言ふ。「夜声には木霊(こだま)といふ物のおとづるなるに。いとまがまがしや」と言ふ御声1)は、「さにや」と思ふも恐しくて、何とはなく引き過ぎむとするに、袂はさながらほころびぬれども、放ち給はず。
人の気配もなければ、御簾の中に取り入れられぬ。御所にも人もなし。「こはいかに、こはいかに」と申せども、かなはず。「年月思ひそめし」などは、なべて聞き古りぬることなれば、「あな、むつかし」と思ゆるに、とかく言ひ契り給ふも、なべてのことと耳にも入らねば、ただ急ぎ参らむとするに、「夜の長きとて、御目覚まして御尋ねある」と言ふにことづけて、立ち出でんとするに、「『いかなる暇をも作り出でて帰り来む』と誓へ」と言はるるも、逃るることなければ、四方(よも)の社(やしろ)にかけぬるも、誓ひの末恐しき心地して、立ち出でぬ。
また九献まいるとて、人々参りてひしめく。なのめならず酔(ゑ)はせおはしまして、若菊をとく帰されたるが念なければ、明日、御逗留ありて、今一度召さるべしと御気色あり。承りぬるよしにて後、御心行きて、九献ことに参りて、御夜(よる)になりぬるにも、うたた寝にもあらぬ夢の名残は、うつつとしもなき心地して、まどろまで明けぬ。
1) 鷹司兼平の声
巻2―34
今日は御所の御雑掌(ざしやう)にてあるべきとて、資高(すけたか)1)承る。御ことおびたたしく用意したり。傾城参りて、おびたたしき御酒盛りや。御所の御走り舞ひとて、ことさらもてなしひしめかる。沈(ぢん)の折敷に金(かね)の盃据ゑて、麝香(じやかう)の臍三つ入れて、姉賜はる。金の折敷に瑠璃の御器(ごき)に臍一つ入れて、妹(おとと)賜はる。
後夜打つほどまでの遊び給ふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚の割れ不動2)」数ふるに、「柿の本の紀僧正3)、一旦(いたん)の妄執や残りけん」といふわたりを言ふ折、善勝寺、きと見おこせたれば、われも思ひ合はせらるる節あれば、あはれにも恐しくも覚えて、ただゐたり。後々は、人々の声、乱舞にて果てぬ。
御とのごもりてあるに、御腰打ち参らせて候ふに、筒井の御所の夜べの御面影4)、ここもとに見えて、「ちと物仰せられん」と呼び給へども、いかが立ち上がるべき、動かでゐたるを、「御夜(よる)にてある折だに5)」など、さまざま仰せらるるに、「はや立て。苦しかるまじ」と忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。
御後(あと)にあるを、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心のほかに立たれぬるに、「御伽には、こなたにこそ」とて、障子のあなたにて仰せられゐたることどもを、寝入り給ひたるやうにて聞き給ひけるこそ、あさましけれ。とかく泣きさまたれゐたれども、酔心地(ゑひごこち)やただならざりけむ、ついに明け行くほどに帰し給ひぬ。
われ過ごさずとは言ひながら、悲しきことを尽して御前に伏したるに、ことにうらうらとおはしますぞ、いと堪へがたき。
1) 二条資高 / 2) 「不動」は底本「ふとく」。 / 3) 真済 / 4) 鷹司兼平 / 5) 「折だに」は底本「をかたに」。
巻2―35
今日は還御にてあるべきを、「御名残多きよし傾城申して、いまだ侍り。今日ばかり」と申されて、大殿1)より、「御事参るべし」とて、また逗留あるも、またいかなることかと悲しくて、局としもなくうち休みたる所へ、
「短夜の夢の面影さめやらで心に残る袖の移り香
近き御隣の御寝覚めもやと、今朝はあさましく」などあり。
夢とだになほ分きかねて人知れずおさふる袖の色を見せばや
たびたび召しあれば参りたるに、「わびしくや思ふらん」と思し召しけるにや、ことにうらうらとあたり給ふぞ、なかなかあさましき。
ことども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに御舟に召されて、伏見殿へ出でさせおはします。更け行くほどに鵜飼(うかひ)召されて、鵜舟(うふね)、端舟(はしふね)に付けて、鵜使はせらる。鵜飼三人参りたるに、着たりし単襲賜ぶなどして、還御なりて後、また酒参りて酔(ゑ)はせおはしますさまも今宵はなのめならで、更けぬれば、また御夜なる所へ参りて、あまた重ぬる旅寝こそ、すさまじく侍れ。
「さらでも伏見の里は寝にくきものを」など仰せられて、「紙燭さして賜べ。むつかしき虫などやうの物もあるらん」と、あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」とさへ仰せごとあるに、まめやかに悲しき。「かかる老いのひがみは、思し許してんや。いかにぞや見ゆることも、御傅(めのと)になり侍らん古き例(ためし)も多く」など、御枕にて申さるる、言はん方なく悲しともおろかならむや。
例のうらうらと、「こなたも独り寝はすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させ給へば、夜べの所に宿りぬるこそ。
1) 鷹司兼平
巻2―36
今朝は、夜の中に還御とてひしめけば、起き別れぬるも、「憂きから残る」と言ひぬべきに、これは御車の尻に参りたるに、西園寺1)も御車に参る。清水の橋の上までは、みな御車をやり続けたりしに、京極より御幸(ぎよかう)は北へなるに、残りは西へやり別れし折は、何となく名残惜しきやうに車の影の見られ侍りしこそ、「こは、いつよりの習はしぞ」と、わが心ながらおぼつかなく侍りしか。
1) 西園寺実兼 
■巻3―1 〜10

 

巻3―1
世の中いとわづらはしきやうになり行くにつけても、「いつまで同じながめを」とのみあぢきなければ、「山のあなたの住まひのみ願はしけれども、心にまかせぬ」など思ふも、「なほ捨てがたきにこそ」と、我ながら身を恨み寝の夢にさへ、遠ざかり奉るべきことの見えつるも、「いかに1)違(ちが)へむと思ふもかひなくて、如月も半ばになれば、おほかたの花もやうやう気色づきて、梅が香(か)匂ふ風訪れたるも、飽かぬ心地して、いつよりも心細さも悲しさも、かこつ方なき。
1) 「いかに」は底本「いに」。
巻3―2
人召す音1)の聞こゆれば、「何事にか」と思ひて参りたるに、御前には人もなし。御湯殿の上に一人立たせ給ひたるほどなり。「このほどは人々の里住みにて、あま りに寂しき心地するに、常に局(つぼね)がちなるは、いづれの方ざまに引く心にか」など仰せらるるも、「例の」とむつかしきに、有明の月、御参りのよし奏す。
やがて局の御所へ入れ参らせらるれば2)、いかがはせむ。つれなく御前に候ふに、そのころ今御所と申すは、遊義門院3)いまだ姫宮におはしまししころの御ことなり。御悩みわづらはしくて、ほど経給ひける御祈りに、如法愛染王行なはるべきこと申させ給ふ。また、そのほかも、わが御祈りに北斗の法、それは鳴滝(なるたき)にや承る。
いつよりも、のどやかなる御物語のほどさぶらふも、「御心の中いかが」と恐しきに、「宮の御方の御心地わづらはしく見えさせ給ふ」よし申されたれば、きと入らせ給ふとて、「還御待ち奉り給へ」と申したる。
その折しも、御前に人もなくて、向ひ参らせたるに、憂かりし月日の積りつるよりうち始め、ただ今までのこと、御袖の涙はよその人目もつつみあへぬほどなり。何と申すべき言の葉もなければ、ただうち聞きいたるに、ほどなく還御なりけるも知らず、同じさまなる口説きごと、御障子のあなたにも聞こえけるにや、しばし立ち止まり給ひけるも、いかでか知らむ。さるほどに、例の人よりは早き御心なれば、「さにこそありけれ」と推(すい)し給ひけるぞあさましきや。
入らせ給ひぬれば、さりげなきよしにもてなし給へれども、絞りもあへざりつる御涙は、包む袂に残りあれば、「いかが御覧じとがむらん」とあさましきに、火灯すほどに還御なりぬる後、ことさらしめやかに、人なき宵のことなるに、御足など参りて、御とのごもりつつ、「さて、思ひのほかなりつることを聞きつるかな。されば、いかなりけることにか。いわけなかりし御ほどより、かたみにおろかならぬ御ことに思ひ参らせ、かやうの道には思ひかけぬことと思ふに」と4)、うち口説き仰せらるれば、「さることなし」と申すとも、かひあるべきことしあらねば、あひ見しことの始めより、別れし月の影まで、つゆ曇りなく申したりしかば、「まことに不思議なりける御契りかな。さりながら、さほどに思し召し余りて、隆顕5)に道芝(みちしば)せさせられけるを、情けなく申したりけるも、御恨みの末も、かへすがへすよしなかるべし。昔の例(ためし)にも、かかる思ひは人を分かぬことなり。柿の本僧正6)、染殿の后7)の物の怪にて、あまた仏菩薩の力尽し給ふといへども、つひにはこれに身を捨て給ひにけるにこそ。志賀寺の聖には、『ゆらぐ玉の緒』と情けを残し給ひしかば、すなはち一念の妄執(まうしゆ)を改めたりき。この御気色なほざりならぬことなり。心得てあひしらひ申せ。われこころみたらば、つゆ人は知るまじ。このほど伺候し給ふべきに、さやうのついであらば、日ごろの恨みを忘れ給ふやうにはからふべし。さやうの勤めの折からは、悪(あ)しかるべきに似たれども、われ深く思ふ子細あり。苦しかるまじきことなり」と、ねむごろに仰せられて、「何事にも、われに隔つる心のなきにより、かやうにはからひ言ふぞ。いかがなどは、かへすがへす心の恨みも晴る」など承るにつけても、いかでかわびしからざらむ。
「人より先に見そめて、あまたの年を過ぎぬれば、何事につけても、なほざりならず思ゆれども、何とやらむ、わが心にもかなはぬことのみにて、心の色の見えぬこそ、いと口惜しけれ。わが新枕(にひまくら)は、故典侍大(こすけだい)8)にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れず覚えしを、いまだいふかひなきほどの心地して、よろづ世の中つつましくて明け暮れしほどに、冬忠9)・雅忠10)などに主(ぬし)づかれて、暇をこそ人悪(わろ)くうかがひしか。腹の中にありし折も、心もとなく、『いつか、いつか』と、手の内なりしよりさばくりつけてありし」など、昔の旧事(ふること)さへ言ひ知らせ給へば、人やりならず、あはれも忍びがたくて、明けぬるに、「今日より御修法始まるべし」とて、御壇所いしいしひしめくにも、人知れず心中にはもの思はしき心地すれば、顔の色もいかがと、われながらよその人目もわびしきに、すでに、「御参り」と言ふにも、つれなく御前に侍るにも、御心のうちいとわびし。
1) 主語は後深草院 / 2) 「らるれば」は底本「か(ら歟)るれは」。「か」に「ら歟」と傍書。 / 3) 後深草院皇女姈子内親王 / 4) 「と」は底本「そ」。 / 5) 四条隆顕。底本表記、「たか秋」 / 6) 真済 / 7) 文徳天皇后、藤原明子。 / 8) 作者母 / 9) 大炊御門冬忠 / 10) 大炊御門雅忠
巻3―3
常に御使(つかひ)に参らせらるるにも1)、日ごろよりも、心の鬼とかやも、せんかたなき心地するに、いまだ初夜もまだしきほどに、真言のことにつけて御不審どもを記し申さるる折紙を持ちて参りたるに、いつよりも人もなくて、面影に澄む春の月2)、おぼろにさし入りたるに、脇息(けふそく)に寄りかかりて、念誦し給ふほどなり。「憂かりし秋の月影は、ただそのままにとこそ、仏にも申したりつれども、かくてもいと耐へがたく思ゆるは、なほ身に替ふべきにや。同じ世になき身になし給へとのみ申すも、神も受けぬ禊(みそぎ)なれば、いかがはせん」とて、しばし引き止め給ふも、「いかに漏るべき憂き名にか」と恐しながら、見る夢のいまだ結びも果てぬに、「時(じ)なりぬ」とてひしめけば、後ろの障子より出でぬるも、隔つる関の心地して、「後夜果つるほど3)」と、かへすがへす契り給へども、さのみ憂き節のみ止まるべきにしあらねば、また立ち帰りたるにも、「悲しさ残る4)」とありし夜半よりも、今宵はわが身に残る面影も、袖の涙に残る心地するは、「これや逃れぬ契りならむ」と、われながら5)前(さき)の世ゆかしき心地して、うち臥したれども、また寝に見ゆる夢もなくて明け果てぬれば、さてしもあらねば、参りて御膳の役に従ふに、折しも人少ななる御ほどにて、「夜べは心ありて振舞ひたりしを、思ひ知り給はじな。われ知り顔にばしあるな。包み給はむも心苦し」など仰せらるるぞ、なかなか言の葉なき。
御修法の心汚さも御心のうちわびしきに、六月と申しし夜は如月の十八日にて侍りしに、広御所の前の紅梅、常の年よりも色も匂ひもなべてならぬを御覧ぜられて、更くるまてありしほどに、後夜果つる音すれば、「今宵ばかりの夜半も更けぬべし。暇作り、出でよかし」ほど仰せらるるもあさましきに6)、深き鐘の声の後、東(ひむがし)の御方7)召され給ひて、橘の御壺の二の間に御夜になりぬれば、仰せに従ふにしあらねども、今宵ばかりもさすが御名残なきにしあらねば、例の方ざまへ立ち出でたれば、「もしや」と待ち給ひけるもしるければ、「思ひ絶えずは本意なかるべし」とかや思えても、ただ今までさまざま承りつる御言の葉、耳の底にとどまり、うちかはし給ひつる御匂ひも、袂に余る心地するを、あらず8)重ぬる袖の涙は、誰(たれ)にかこつべしとも覚えぬに、今宵閉ぢめぬる別れのやうに泣き悲しみ給ふも、なかなかよしなき心地するに、「憂かりしままの別れよりも9)止みなましかば」と、かへすがへす思はるれども、かひなくて、短夜(みじかよ)の空の今宵よりのほどなさは、露の光など言ひぬべき心地して、明け行けば後朝(きぬぎぬ)になる別れは、いつの暮をかとその期(ご)遥かなれば10)、
つらしとて別れしままの面影をあらぬ涙にまた宿しつる
1) 「せらるるにも」は底本「せらるたにも」。 / 2) 『新古今和歌集』恋二 藤原俊成女「面影の霞める月ぞ宿りける春や昔の袖の涙に」・『新後撰和歌集』雑下 源兼孝「別れにし後の三年の春の月面影霞む夜半ぞ悲しき」 / 3) 2-09参照。 / 4) 2-10参照。 / 5) 「われながら」は底本「我なら」。 / 6) 「あさましきに」は底本「あさましきと」。 / 7) 洞院愔子 / 8) 「飽かず」の誤写と読む説もある。 / 9) 「よりも」は底本「よるも」。 / 10) 『和漢朗詠集』餞別 江相公(大江朝綱)「前途程遠。馳思於鴈山之暮雲。後會期遥。霑纓於鴻臚之曉涙。」
巻3―4
とかく思ふもかひなくて、御心地もおこたりぬれば、初夜にてまかり出で給ふにも、さすがに残る面影は、いと忍びがたきに、いと不思議なりしは、また夜も明けぬ先に起き出でて、局(つぼね)にうち臥したるに、右京の権大夫清長1)を御使(つかひ)にて、「きときと」と召しあり。「夜べは東(ひむがし)の御方2)参り給ひき。などしも急がるらん。ただ今の御使ならん」と、心騒ぎして参りたるに、夜べは3)更け過ぎしも、待つらむ方4)の心づくしをなど思ひてありしも、ただ世の常のことならば、かくまで心あり顔にもあるまじきに、主柄(ぬしがら)のなほざりならずさに、思ひ許してこそ。さても、今宵不思議なる夢をこそ見つれ。今の五鈷を賜びつるを、われにちと引き隠して懐(ふところ)に入れつるを、袖を引かへて、『これほど心知りてあるに、などかくは』と言はれて、わびしけに思ひて、涙のこぼれつるを払ひて、取り出でたりつるを見れば、銀(しろかね)にてありける。故法皇5)の御物なれば、『わがにせん』と言ひて、立ちながら見ると思ひて、夢覚めぬ。今宵、必ずしるしあることあるらむと思ゆるぞ。もし、さもあらば、疑ふ所なき岩根の松をこそ」など仰せられしかども、まことと頼むべきにしあらぬに、その後は、月立つまでことさら御言葉にもかからねば、とにかくにわが過ちのみあれば、人を憂しと申すべきことならで明け暮るるに、思ひ合はせらるることさへあれば、何となるべき世の式とも思えぬに、弥生の始めつかたにや、常よりも御人少なにて、夜の供御などいふこともなくて、二棟(ふたむね)の方へ入らせおはします、御供に召さる。
「いかなることをか」なんど思へども、尽きせずなだらかなる御言葉、言ひ契り給ふも、「『嬉し』とや言はむ、また『わびし』とや言はまし」など思ふに、「ありし夢の後は、わざとこそ言はざりつれ。月を隔てむと待ちつるも、いと心細しや」と仰せらるるにこそ、「されば思し召すやうありけるにこそ」と、あさましかりしか。
違(たが)はず、その月よりただならねば、疑ひ紛るべきことにしなきにつけては、見し夢の名残も、今さら心にかかるぞ、はかなき。
1) 菅原清長 / 2) 洞院愔子 / 3) 「夜べは」は底本「夜そは」。「夜るは」とする説もある。 / 4) 有明の月 / 5) 後嵯峨院
巻3―5
さても、さしも新枕とも言ひぬべく、かた身に浅からざりし心ざしの人1)、ありし伏見の夢の恨みより後は、間遠(まどほ)にのみなり行くにつけても、ことわりながら、絶えせぬ物思ひなるに、五月の始め、例の昔の跡弔(と)ふ日なれば2)、菖蒲(あやめ)の草のかりそめに里住みしたるに、彼より、
憂しと思ふ心に似たる根やあると尋ぬるほどに濡るる袖かな
細やかに書き書きして、「里居のほどの関守なくは、みづから立ちながら」とあり。
返事には、ただ、
「うきねをば心のほかにかけそへていつも袂の乾く間ぞなき
いかなる世にもと思ひそめしものを」など書きつつも、げによしなき心地せしかど、いたう更かしておはしたり。
憂かりしことの節々を、いまだうち出でぬほどに、世の中ひしめく。「二条京極富小路のほどに、火出で来たり」と言ふほどに、かくてあるべきことならで、急ぎ参りぬ。さるほどに、短夜(みじかよ)はほどなく明け行けば、立ち返るにも及ばず。
明けはなるるほどに、「浅くなり行く契り、知らるる今宵の葦分け、ゆく末知られて心憂くこそ」とて、
絶えぬるか人の心の忘れ水あひも思はぬ中の契りに
「げに、今宵しもの障りは、ただ事にはあらじ」と思ひ知ることありて、
契りこそさても絶えけめ涙川心の末はいつも乾かじ
かくて、しばしも里住みせば、今宵に限るべきことにしあらざりしに、この暮れに、「とみのことあり」とて車を賜はせたりしかば、参りぬ。
1) 雪の曙・西園寺実兼 / 2) 作者母の命日
巻3―6
秋の初めになりては、いつとなかりし心地もおこたりぬるに、「標(しめ)結ふほどにもなりぬらんな。かくとは知り給ひたりや」と仰せらるれども、「さも侍らず。いつの1)便りにか」など申せば、「何事なりとも、われにはつゆはばかり給ふまじ。しばしこそつつましく思し召すとも、力なき御宿世、逃れざりけることなれば、なかなか何かそれによるべきことならずなど、申し知らせんと思ふぞ」と仰せらるれば、何申しやる方なく、「人の御心の中もさこそ」と思へども、「いな、かなはじ」と申さむにつけても、「なほも心を持ち顔ならむと、われながら憎きやうにや」と思へば、「何とも、よきやうに御はからひ」と申しぬるよりほかは、また言の葉もなし。
1) 「いつの」は底本「いへの」。
巻3―7
そのころ、真言の御談議といふこと始まりて、人々に御尋ねなどありしついでに、御参りありて1)、四・五日御伺候あることあり。法文の御談議ども果てて、九献ちと参る。御陪膳(ばいぜん)に候ふに、「さても、広く尋ね深く学するにつきては、男女(をとこをんな)のことこそ罪なきことに侍れ。逃れがたからさらむ契りぞ、力なきことなり。されば、昔も例(ためし)多く侍り。浄蔵2)といひし行者は、陸奥国(みちのくに)なる女に契りあることを聞き得て、害せんとせしかども、かなはでそれに落ちにき。染殿后3)は、志賀寺の聖に、『われをいざなへ』とも言ひき。この思ひに耐へずして、青き鬼ともなり、望夫石といふ石4)も恋ゆゑなれる姿なり。もしは、畜類・獣(けだもの)に契るも、みな善業の果たす所なり。人はしすべきにあらず5)。」など仰せらるるも、われ一人聞き咎めらるる心地して、汗も涙も流れ添ふ心地するに、いたくことごとしからぬ式にて、誰もまかり出でぬ。
有明の月も出でなんとし給ふを、「深き夜(よ)の静かなるにこそ、心のどかなる法文をも」など申して、とどめ参らせらるるが、何となくむつかしくて、御前を立ちぬ。その後(のち)の御言の葉は知らで、すべりぬ。
夜中過ぐるほどに召しありて、参りたれば、「ありしあらましごとを、ついで作り出でて、よくこそ言ひ知らせたれ。いかなる父(たらちを)・母(たらちね)の心の闇と言ふとも、これほど心ざしあらじ」とて、まづうち涙ぐみ給へば、何と申しやるべき6)言葉もなきに、まづ先立つ袖の涙ぞ抑へがたく侍りし。いつよりも細やかに語らひ給ひて、「さても、人の契り逃れがたきことなど、かねて申ししは、聞きしぞかし。その後、『さても、思ひかけぬ立ち聞きをして侍りし。さだめて憚り思し召すらむとは思へども、命をかけて誓ひてしことなれば、かたみに隔てあるべきことならず。なべて世に漏れむことは、うたてあるべき御身なり。忍びがたき御思ひ、前業(ぜんごふ)の感ずる所と思へば、つゆいかにと思ひ奉ることなし。過ぎぬる春のころより、ただには侍らず見ゆるにつけて、ありし夢7)のこと、ただのことならず思えて、御契りのほどもゆかしく、見しむば玉の夢をも思ひ合はせむために、弥生になるまで待ち暮らして侍るも、なほざりならず推し量り給へ。かつは、伊勢・石清水・賀茂・春日、国を守る神々の擁護(おうご)に漏れ侍らん。御心の隔てあるべからず。かかればとて、われ、つゆも変る心なし』と申したれば、とばかりものも仰せられで、涙のひまなかりしを払ひ隠しつつ、『この仰せの上は、残りあるべきに侍らず。まことに前業の所感こそ口惜しく侍れ。かくまでの仰せ、今生一世の御恩にあらず。世々生々に忘れ奉るべきにあらず。かかる悪縁にあひける恨み忍びがたく、三年過ぎ行くに、思ひ絶えなんと思ふ念誦(ねんじゆ)・持経の祈念にも、これよりほかのこと侍らで、せめて思ひのあまりに誓ひを起こして、願書(ぐわんしよ)をかの人のもとへ送り遣はしなとせしかども、この心なほ止まずして、また巡り会ふ小車(をぐるま)の、憂しと思はぬ身を恨み侍るに、さやうにしるき節さへ侍るなれば、若宮を一所渡し参らせて、われは深き山にこもりゐて、濃き墨染の袂になりて侍らん。なほなほ年ごろの御心ざしも浅からざりつれども、この一節の嬉しさは、多生(たせん)の喜びにて侍る』とて、泣く泣くこそ立たれぬれ。深く思ひそめぬるさまも、げにあはれに覚えつるぞ」など、御物語あるを聞くにも、「『左右(ひだりみぎ)にも8)』とはかかることをや言はまし」と、涙はまづこぼれつつ。
1) 有明の月の御参り / 2) 底本「上さう」。ただし、以下説話の主人公は湛慶。『今昔物語集』31-3参照。 / 3) 藤原明子。ただし、ここでは京極御息所と混同。 / 4) 『唐物語』12・『十訓抄』6-22参照。 / 5) 底本ママ。「人はたすべきにあらず」(角川文庫)・「人よくすべきにあらず」(集成)・「人ばしすべきにあらず」(新大系)などの解釈がある。 / 6) 「やるべき」は底本「やるるへき」。 / 7) 3-4参照 / 8) 『源氏物語』須磨「憂しとのみひとへにものは思ほえで左右にも濡るる袖かな」。1-7に既出。
巻3―8
さても、ことがらもゆかしく、御出でも近くなれば、更くるほどに、御使のよしにもてなして参りたれば、幼(をさあ)い稚児一人、御前に寝入りたり。さらでは人もなし。
例の方ざまへ立ち出で給ひつつ、「『憂きは嬉しき方もや』と思ふこそ、せめて思ひ余る心の中、われながらあはれに」など仰せらるるも、憂かりしままの月影は、なほなほ逃るる心ざしながら1)、明日はこの御談議、結願(けちぐわん)なれば、今宵ばかりの御名残、さすがに思はぬにしもなき習ひなれば、夜もすがらかかる御袖の涙も所せければ、何となりゆくべき身の果てとも思えぬに、かかる仰せごとを、つゆ違(たが)はず語りつつ、「『なかなかかくては便りも』と思ふこそ、げになべてならぬ心の色も知らるれ。不思議なることさへあるなれば、この世一つならぬ契りも、いかでかおろかなるべき。『一筋にわれ撫で生(おほ)さん』と承りつる嬉しさも、あはれさもかぎりなく、さるから、いつしか心もとなき心地するこそ」など、泣きみ笑ひみ語らひ給ふほどに、「明けぬるにや」と聞こゆれば、起き別れつつ出づるに、「また、いつの暮れをか」と思ひむせび給ひたるさま、われもげにと思ひ奉るこそ、
わが袖の涙に宿る有明の明けても同じ面影もがな
など思えしは、われも通ふ心の出で来けるにや。
1) 底本「なをなをのかるる心さしなから」。「なをしのばるる」・「なほし逃るる」などの説もある。
巻3―9
「これ、逃れぬ契りとかやならん」など思ひ続け、さながらうち臥したるに、御使あり。「今宵待つ心地して、むなしき床に臥し明かしつる」とて、いまだ夜の御座(おまし)におはしますなりけり。「ただ今しも、明かぬ名残も、後朝(きぬぎぬ)の空は心なく」など仰せ1)あるも、何と申すべき言の葉なきにつけても、「しからぬ人のみこそ世には多きに、いかなれば」など思ふに、涙のこぼれぬるを、いかなる方に思し召しなすにか、心づきなく、「『また寝の夢をだに、心やすくも』など思ふにや」など、あらぬ筋に思し召したりげにて、常よりも、よにわづらはしげなることどもを承るにぞ、「さればよ、思ひつることなり、つひにはかばかしかるまじき身の行く末を」など、いとど涙のこぼるるに添へては、「ただ一筋に御名残を慕ひつつ、わが御使を心づきなく思ひたる」と言ふ御腹にて、起き給ひぬるもむつかしければ、局へすべりぬ。
1) 「仰せ」は底本「いるせ」。
巻3―10
心地さへわびしければ、「暮るるまで参らぬも、またいかなる仰せをか」と思えて悲しければ、さし出づるにつけても、「憂き世に住まぬ身にもがな」など、今さら山のあなたに急がるる心地のみするに、御果てなるべければ、参り給ひて、常よりのどやかなる御物語もそぞろはしき1)やうにて、御湯殿の上の方ざまに立ち出でたるに、「このほどは上日(じやうにち)なれば、伺候して侍れども、おのづから御言の葉にだにかからぬこそ」など言はるるも、とにかくに身の置き所なくて、聞きゐたるに、御前より召しあり。
「何事にか」とて参りたれば、九献参るべきなりけり。内々(うちうち)に静かなる座敷にて、「御前女房一・二人ばかりにてあるも、あまりにあひなし」とて、「広御所に師親2)・実兼3)など音しつる」とて召されて、うち乱れたる御遊び、名残あるほどにて果てぬれば、宮4)の御方にて初夜勤めてまかり出で給ひぬる名残の空も、なべて雲居もかこつ方なきに、ことごとしからぬさまにて、御所にて帯をしつるこそ、御心のうち、いと耐へがたけれ。
今宵は上臥(うへぶし)をさへしたれば、夜もすがら語らひ明かし給ふも、つゆうらなき御もてなしにつけても、いかでかわびしからむ。
1) 「そぞろはしき」は底本「こころはしき」。 / 2) 北畠師親 / 3) 西園寺実兼 / 4) 遊義門院・姈子内親王 
■巻3―11〜20

 

巻3―11
「九月の御花1)は、常よりもひきつくろはるべし」とて、かねてよりひしめけば、身もはばかりあるやうなれば、暇を申せども、「さしも目に立たねば、人数(ひとかず)に参るべき」よし仰せあれば、薄色2)の衣(きぬ)に赤色の唐衣(からぎぬ)、朽ち葉の単襲(ひとへがさね)に青葉の唐衣にて、夜の番勤めて候ふに、「有明の月、御参り」と言ふ音すれば、何となく胸騒ぎて、聞きゐたるに、御花御結縁とて、御堂に御参りある。
ここにありともいかでか聞き給ふべきに、承仕(しようじ)がここもとにて、「御所よりにて候ふ。『御扇や御堂に落ちて侍ると御覧じて、参らせ給へと申せ』と候ふ」と言ふ。心得ぬやうに思えながら、中の障子を開けて見れどもなし。さて引き立てて、「候はず」と申して、承仕は返りぬる後、ちと障子を細め給ひて、「さのみ積もるいぶせさも、かやうのほどはことに驚かるるに、苦しからぬ人して、里へおとづれむ。つゆ人には漏らすまじきものなれば」など仰せらるるも、「いかなる方にか世に漏れむ」と、人の御名もいたはしければ、さのみ否(いな)ともいかがなれば、「なべて世にだに漏れ候はずは」とべかりにて、引き立てぬ。
御帰りの後、時過ぎぬれば、御前へ参りたるに、「扇の使はいかに」とて笑はせおはしますをこそ、例の心あるよしの御使なりけると知り侍りしか。
1) 長講堂の供花。2-11参照。 / 2) 「薄色」は底本「かす色」。
巻3―12
神無月のころになりぬれば、なべて時雨がちなる空の気色も、袖の涙に争ひて、よろづ常の年々よりも、心細さもあぢきなければ、まことならぬ母の、嵯峨に住まひたるがもとへまかりて、法輪1)にこもりて侍れば、嵐の山の紅葉も、憂き世を払ふ風に誘はれて、大井川の瀬々に波寄る錦2)と思ゆるにも、いにしへのことも公私(おほやけわたくし)忘れがたき中に、後嵯峨の院3)の宸筆(しんぴつ)の御経の折、面々の姿・捧げ物などまで、数々思ひ出でられて、「うらやましくも返る波かな4)」と思ゆるに、ただここもとに鳴く鹿の音(ね)は、誰(た)が諸声(もろごゑ)にかと悲しくて。
わが身こそいつも涙の暇なきに何をしのびて鹿のなくらん
1) 法輪寺 / 2) 『新古今和歌集』秋下 藤原長方「飛鳥川瀬々に波寄る紅や葛城山の木枯しの風」。 / 3) 後嵯峨院 / 4) 『伊勢物語』7段・『後撰和歌集』羇旅「いとどしく過ぎ行く方の恋しきにうらやましくも返る波かな」
巻3―13
いつよりも物悲しき夕暮れに、ゆゑある殿上人の参るあり。「誰ならん」と見れば、楊梅中将(やまもものちゆうじやう)兼行1)なり。局のわたりに立ち寄りて、案内(あんない)すれば、いつよりも思ひ寄らぬ心地するに、「にはかに大宮院2)、心よからぬ御事とて、今朝よりこの御所へ御幸ありけるほどに、里を御尋ねありけるが、『これに』とて、また仰せらるるぞ。女房も御参りなくて、にはかに御幸あり。宿願ならば、またこもるべし。先づ参れ」と言ふ御使なり。
こもりて五日になる日なれば、今二日果てぬも心やましけれども、車をさへ賜はせたる上、嵯峨に候ふを御頼みにて、人も参らせ給はぬよし、中将物語すれば、とかく申すべきことならねば、やかて大井殿の御所へ参りたれば、みな人々、里へ出でなんどして、はかばかしき人も候はざりつる上、これにあるを御頼みにて、両院3)御同車にてなりつるほどに、人もなし。御車の尻に西園寺の大納言4)参られたりけるなり。大御所5)より、ただ今ぞ供御参るほどなる。
1) 楊梅兼行 / 2) 後嵯峨院后 / 3) 後深草院・亀山院 / 4) 西園寺実兼 / 5) 「大御所」は底本「大か所」。
巻3―14
女院1)御悩み、御脚の気にて、いたくの御事なければ、めでたき御事にて、両院2)、「御喜びのことあるべし」とて、まづ一院の御分(ぶん)、春宮大夫3)承る。
彩絵(だみゑ)描きたる破子(わりご)十合に、供御(くご)・御肴(みさかな)を入れて、面々の御前に置かる。次々もこの定(ぢやう)なり。これにて三献参りて後、まかり出だして、また白き供御、その後色々の御肴にて、九献参る。大宮の院の御方へ、紅梅・紫、腹は練貫(ねりぬき)にて琵琶、染め物にて琴、作りて参る。新院の御方へ、方磬(ほうきやう)の台を作りて、紫を巻きて、色々の村濃(むらご)の染め物を四方に作りて、守りの緒にて下げて、金(かね)にして、沈(ぢん)の柄(つか)に水晶を入れて、撥(ばち)にして参る。女房たちの中へ、檀紙百、染め物などにて、やうやうの作り物をして置かれ、男の中にも鞦(しりがひ)・色革(いろがは)とかや積み置きなどして、おびたたしき御事にて、夜もすがら御遊びあり。例の御酌に召されて参る。
一院4)御琵琶、新院5)御笛、洞院6)琴、大宮の院姫宮御琴、春宮大夫7)琵琶、公衡8)笙の笛、兼行9)篳篥(ひちりき)、夜更け行くままに、嵐の山の松風、雲居に響く音すごきに、浄金剛院の鐘ここもとに聞こゆる折節、一院、「都府楼(とふろう)はおのづから10)」とかや仰せ出だされたりしに、よろづのことみな尽きて、おもしろくあはれなるに、女院の御方より、「ただ今の御盃(さかづき)はいづくに候ふぞ」と尋ね申されたるに、「新院の御前に候ふ」よし、申されたれば、この御声にて参るべきよし、御気色あれば、新院はかしこまりて候ひ給ふを、一院、御盃と御銚子とを持ちて、母屋(もや)の御簾の中に入り給ひて、一度申させ給ひて後、「嘉辰令月歓無極(かしんれいげつくわんぶきよく)」とうち出で給ひしに、新院、御声加へ給ひしを、「老いのあやにく申し侍らん。われ濁世末の代に生まれたるは悲しみなりといへども、かたじけなく后妃(こうひ)11)の位にそなはりて、両上皇の父母(ぶも)として、二代の国母たり。齢(よはひ)すでに六旬(りくじゆん)に余り、この世に残る所なし。たた九品の上なき位を望むばかりなるに、『今宵の御楽(おんがく)は上品蓮台の暁(あかつき)の楽(がく)もかくや』と思え、今の御声は、『迦陵頻伽(かりやうびんが)の御声も、これには過ぎ侍らじ』と思ふに、同じくは今様を一返承りて、今一度聞こし召すべし」と申されて、新院をも内へ申さる。春宮大夫、御簾の際(きは)へ召されて、小几帳引き寄せて、御簾半(はん)に上げらる。
あはれに忘れず身にしむは
忍びし折々待ちし宵
頼めし言の葉もろともに
二人有明の月の影
思へばいとこそ悲しけれ
両上皇歌ひ給ひしに、似るものなくおもしろし。果ては酔(ゑ)ひ泣きにや、古き世々の御物語など出で来て、みなうちしをれつつ立ち給ふに、大井殿の御所へ参らせおはします。御送りとて、新院御幸なり。春宮大夫は心地を感じてまかり出でぬ。若き殿上人二・三人は、御供にて入らせおはします。
1) 大宮院・後嵯峨院后 / 2) 後深草院・亀山院 / 3) , 7) 西園寺実兼 / 4) 後深草院 / 5) 亀山院 / 6) 洞院公守 / 8) 西園寺公衡 / 9) 楊梅兼行 / 10) 『和漢朗詠集』閑居 菅原道真「都府楼纔看瓦色 観音寺唯聴鐘声」。「おのづから」を「纔(わづか)に」の誤写とみる説もある。 / 11) 「后妃」は底本「こよひ」
巻3―15
「いと御人少なに侍るに、御宿直(とのゐ)つかうまつるべし」とて、二所1)御夜(よる)になる。ただ一人候へば、「御足に参れ」など承るもむつかしけれども、誰に譲るべしとも思えねば、候ふに、「この両所の御そばに寝させ給へ」と、しきりに新院2)申さる。「ただしは、『所狭(せ)き身のほどにて候ふ』とて里に候ふを、『にはかに人もなし』とて、参りて候ふに召し出でて候へば、あたりも苦しげに候ふ。かからざらむ折は」など申さるれども、「御そばにて候はんずれば3)、過ち候はじ。女三の御方4)をだに御許されあるに、なぞしも、これに限り候ふべき。『わが身は、いづれにても、御心にかかり候はんをば』と申し置き侍りし、その誓ひもかひなく」など申させ給ふに、折節按察使の二品5)のもとに御わたりありし前(さき)の斎宮6)へ、「入らせ給ふべし」など申す。宮をやうやう申さるるほどなりしかばにや、「御そばに候へ」と仰せらるるともなく、いたく酔(ゑ)ひ過ぐさせ給ひたるほどに、御夜になりぬ。御前にもさしたる人もなければ、「ほかへはいかが」とて、御屏風後ろに具し歩(あり)きなどせさせ給ふも、つゆ知り給はぬぞ、あさましきや。
明け方近くなれば、御そばへ返り入らせ給ひて、おどろかし聞こえ給ふにぞ、はじめておどろき給ひぬる。「御寝(い)ぎたなさに7)御添臥(そへぶし)も逃げにけり」など申させ給へば、「ただ今まで、ここに侍りつ」など申さるるも8)、なかなか恐しけれど、犯せる罪もそれとなければ、頼みをかけて侍るに、とかくの9)御沙汰もなくて、また夕方になれば、「今日は新院の御分とて、景房が御事したり。
「昨日10)西園寺の御雑掌(ざしやう)に、今日景房が御所の御代官ながら、並び参らせたる、雑掌がら悪(わろ)し」など、人々つぶやき申すもありしかども、御事はうちまかせたる式の供御・九献など、常のことなり。
女院の御方へ、染め物にて岩を作りて、地盤(ぢばん)に水の紋(もん)をして、沈(ぢん)の船に丁子を積みて参らす。一院11)へ、銀(しろがね)の柳筥(やないばこ)に沈の御枕をすゑて参る。女房たちの中に、糸・綿にて山滝の景色などして参らす。男たちの中へ、色革・染物にてかき作りて参らせなどしたるに、「ことに一人、この御方に候ふに」など仰せられたりけるにや、唐綾・紫村濃(むらさきむらご)十づつを、五十四帖の草子に作りて、源氏の名12)を書きて賜びたり。
御酒盛は夜べ13)にみなことども尽きて、今宵はさしたることなくて果てぬ。春宮の大夫14)は、風の気とて、今日は出仕(すし)なし。「わざとならんかし」、「まことに」など沙汰あり。今宵も座敷殿に両院御わたりありて、供御もこれにて参る。御陪膳、両方を勤む。夜も一所(ひとところ)に御夜になる。御添臥(そへぶし)に候ふも、などやらん、むつかしく思ゆれども、逃るる所なくて、宮仕ひゐたるも、今さら憂き世の習ひも思ひ知られ侍り。
1) 後深草院と亀山院 / 2) 亀山院 / 3) 「候はんずれば」は底本「こんすれは」。 / 4) 『源氏物語』の女三宮 / 5) 藤原永子 / 6) ト子内親王 / 7) 「寝いぎたなさに」は底本「いきもなさに」。 / 8) 「など申さるるも」は底本「な申さるるも」。 / 9) 「とかくの」は底本「かくの」。 / 10) 「昨日」は底本「けふ」 / 11) 後深草院 / 12) 『源氏物語の巻名。 / 13) 「夜べ」は底本「夜そ」。 / 14) 西園寺実兼
巻3―16
かくて還御なれば、「これは法輪の宿願も残りて侍る上、今は身もむつかしきほどなれば」と申して、とどまりて里へ出でんとするに、両院御幸、同じやうに還御あり。一院1)には春宮大夫2)、新院3)には洞院の大納言4)ぞ、後々に参り給ふ。
ひしひしとして還御なりぬる御あとも寂しきに、「今日はこれに候へかし」と大宮の院5)の御気色あれば、この御所に候ふに、東二条院6)よりこそ御文あり。何とも思ひ分かぬほどに、女院御覧ぜられて後、「とは何事ぞ。うつつなや」と仰せごとあり。「何事ならむ」と尋ね申せば、「『その身7)をこれにて、女院もてなして、露見の気色ありて、御遊(ぎよゆう)さまざまの御事どもあると聞くこそ、うらやましけれ。古りぬる身なりとも、思し召し放つまじき御事とこそ思ひ参らするに』と、かへすがへす申されたり」とて、笑はせたまふ8)もむつかしければ、四条大宮なる傅(めのと)がもとへ出でぬ。
1) 後深草院 / 2) 西園寺実兼 / 3) 亀山院 / 4) 洞院公守か。 / 5) 後嵯峨院后 / 6) 後深草院中宮西園寺公子 / 7) 作者 / 8) 「笑はせたまふ」は底本「わたせたまふ」。「渡せ給ふ」と読む説もある。
巻3―17
いつしか有明1)の御文あり。ほど近き所に御愛弟(あひてい)する稚児のもとへ入らせ給ひて2)、それへ忍びつつ参りなどするも3)、度重(たびかさ)なれば、人の物言ひさがなさは、やうやう天の下のあつかひぐさになると聞くもあさましけれど、「身のいたづらにならむもいかがせむ。さらば、片山里の柴の庵の住処(すみか)にこそ」なと仰せられつつ通ひ歩(あり)き給ふぞ、いとあさましき。
かかるほどに、神無月の末になれば、常よりも心地も悩ましく、わづらはしければ、心細く悲しきに、御所よりの御沙汰にて、兵部卿4)その沙汰したるも、「露のわが身の置き所いかが」と思ひたるに、いといたう更くるほどに、忍びたる車の音して、門叩く。「富小路殿より、京極殿の御局の御わたりぞ」と言ふ。いと心得ぬ心地すれど、開けたるに、網代車(あじろぐるま)にいたうやつしつつ、入らせおはしましたり5)。
思ひ寄らぬことなれば、あさましく、あきれたる心地するに、「さして言ふべきことありて」とて、細やかに語らひ給ひつつ、「さても、この有明のこと、世に隠れなくこそなりぬれ。わが濡れ衣さへ、さまざまをかしき節に取りなさるると聞くが、よによしなく思ゆる時に、このほど異方(ことかた)に心もとなかりつる人、かの今宵、亡くて生まれたると聞くを、『あなかま』とて、いまださなきよしにてあるぞ。ただ今も、これより出で来たらむをあれへやりて、ここのを亡きになせ。さて、そこの名は、少し人の物言ひぐさも静まらむずる。すさまじく聞くことのわびしさに、かくはからひたるぞ」とて、明けゆく鳥の声におどろかされて6)、返り給ひぬるも、浅からぬ7)心ざしは嬉しきものから、昔物語めきて、よそに聞かん契りも、憂かりし節のただにてもなくて、度重なる契りも悲しく思ひゐたるに、いつしか文あり。
「今宵の式は珍らかなりつるも、忘れがたくて」と細やかにて、
荒れにける葎(むぐら)の宿の板廂(いたびさし)さすが離れぬ心地こそすれ
とあるも、「いつまで」と心細くて、
あはれとて問はるることもいつまでと思へば悲し庭の蓬生(よもぎふ)
1) 有明の月 / 2) 主語は有明の月 / 3) 主語は作者 / 4) 四条隆親 / 5) 主語は後深草院 / 6) 「おどろかされて」は底本「をとろかれ○て」で○に「され」と傍書。すなわち「をとろかれされて」。 / 7) 「浅からぬ」は底本「あさからぬか」
巻3―18
この暮れには有明1)の光2)も近きほどと聞けども、その気にや、昼より心地も例ならねば、思ひ立たぬに、更け過ぎて後おはしたるも、思ひ寄らずあさましけれど、心知るどち二・三人よりほかは立ちまじる人もなくて、入り奉りたるに、夜べのおもむきを申せば、「とても身に添ふべきにはあらねども、ここさへいぶせからむこそ口惜しけれ。かからぬ例(ためし)も世に多きものを」とて、「いと口惜し」と思したれども、「御はからひの前は、いかがはせむ」など言ふほどに明け行く鐘とともに、男子(をのこご)にてさへおはするを、何の人形(ひとがた)とも見え分かず、かはゆげなるを、膝にすゑて、「昔の契り浅からでこそ、かかるらめ」など、涙もせきあへず、大人にものを言ふやうに口説き給ふほどに、よもはしたなく明け行けば、名残を残して出で給ひぬ。
この人をば、仰せのままに渡し奉りて、ここには何の沙汰もなければ、「露消え給ひにけるにこそ」など言ひて後は、いたく世の沙汰も、けしからざりし物言ひもとどまりぬるは、思し寄らぬくまなき御心ざしは、公私(おほやけわたくし)ありがたき御ことなり。
御心知る人のもとより、沙汰し送ることども、「いかにも隠れなくや」と、いとわびし。
1) 有明の月 / 2) 子供。「児」の誤写とする説もある。
巻3―19
十一月六日のことなりしに、あまりになるほどに、御訪れのうちしきるもそら恐しきに、十三日の夜更くるほどに、例の立ち入り給ひたるも1)、なべて世の中つつましきに、一昨年(おととし)より春日の御榊2)京に渡らせ給ふが、「このほど、御帰座あるべし」とひしめくに、いかなることにか、かたはら病(やみ)といふことはやりて、いくほどの日数も隔てず人々隠ること聞くが、「ことに身に近き無常どもを聞けば、『いつかわが身も、なき人数(ひとかず)に』と、心細きままに、思ひ立ちつる」とて、常よりも心細く、あぢきなきさまに言ひ契りつつ、「形は世々に変るとも、あひ見ることだに絶えせずは、いかなる上品上生の台(うてな)にも、共に住まずはもの憂かるべきに、いかなる藁屋の床(とこ)なりとも3)、もろともにだにあらばと思ふ」など、夜もすがらまどろまず、語らひ明かし給ふほどに、明け過ぎにけり。
出で給ふべき所さへ、垣根続きの主(あるじ)が方ざまに人目しげければ、つつむにつけたる御有様もしるかるべければ、今日は留まり給ぬるそら恐しけれども、心知る稚児一人よりほかは知らぬを、「わが宿所にても、いかが聞こえなすらむ」と思ふも、胸騒がしけれども、主(ぬし)はさしも思されぬぞ、言の葉なき心地する。
今日は日暮らしのどかに、「憂かりし有明の別れより、にはかに雲隠れぬと聞きしにも、かこつ方なかりしままに、五部の大乗経を手づから書きて、おのづから水茎の跡を一巻(ひとまき)に一文字づつを加へて書きたるは、必ず下界にて今一度契りを結ばんの大願なり。いとうたてある心なり。この経、書写は終りたる。供養を遂げぬは、このたび一所に生まれて供養をせむとなり。竜宮の法蔵に預け奉らば、二百余巻(よくわん)の経、必ずこのたびの生まれに供養を延ぶべきなり。されば、われ北邙(ほくばう)の露と消えなん後の煙(けぶり)に、この経を薪に積み具せんと思ふなり」など仰せらるる。よしなき妄念もむつかしく、「ただ一仏の蓮(はちす)の縁をこそ」と申せば、「いさや、なほこの道の名残惜しきにより、『今一度、人間に生を受けばや』と思ひ定め、世の習ひいかにもならば、むなしき空に立ち昇らむ煙(けぶり)もなほあたりは去らじ」など、まめやかにかはゆきほどに仰せらせて、うちおどろきて、汗おびたたしく垂り給ふを、「いかに」と申せば、「わが身が鴛鴦(をし)といふ鳥となりて、御身の中(うち)へ入ると思ひつるが、かく汗のおびたたしく垂るは、あながちなる思ひに、わが魂や袖の中(なか)留まりけん4)」など仰せられて、「今日さへいかが」とて立ち出で給ふに、月の入るさの山の端(は)に横雲白(しら)みつつ、東の山はほのぼのと明くるほどなり。明け行く鐘に音(ね)を添へて、帰り給ひぬる名残、いつよりも残り多きに、近きほどより、かの稚児してまた文あり。
あくがるるわが魂は留め置きぬ何の残りて物思ふらん
いつよりも、悲しさもあはれさも置き所なくて
物思ふ涙の色をくらべばやげに誰が袖かしをれまさると
心に、きと思ひ続くるままなるなり。
1) 「給ひたるも」は底本「給さるも」 / 2) 「榊」は底本「木枝(さかき)」。「木枝」に「さかき」と傍書。 / 3) 『新古今和歌集』雑下 蝉丸「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ」。 / 4) 『古今和歌集』雑下 みちのく「あかざりし袖の中(なか)にや入りにけむわが魂のなき心地する」
巻3―20
やがてその日に御所へ入らせ給ふ1)と聞きしほどに、十八日よりにや、「世の中はやりたるかたはら病みの気おはします」とて、医師(くすし)召さるるなど聞きしほどに、「次第に御わづらはし」など申すを聞き参らせしほどに、思ふ方なき心地するに、二十一日にや、文あり。
「この世にて対面(たいめん)ありしを、限りとも思はざりしに、かかる病(やまひ)に取りこめられて、はかなくなりなん命よりも、思ひ置くことどもこそ罪深けれ。見しむば玉の夢も、いかなることにか」と書き書きて、奥に、
身はかくて思ひ消えなむ煙だにそなたの空になびきだにせば
とあるを見る心地、いかでかおろかならむ。「げにありし暁(あかつき)を限りにや」と思ふも悲しければ、
思ひ消えむ煙の末をそれとだにながらへばこそ跡をだに見め
「ことしげき御中は、なかなかにや」とて、思ふほどの言の葉もさながら残し侍りしも、さすが、これを限りとは思はざりしほどに、十一月二十五日にや、「はかなくなり給ひぬ」と聞きしは、夢に夢見るよりもなほたどられ、すべて何と言ふべき方もなきぞ、われながら罪深き。
「『見はてぬ夢2)』とかこち給ひし、『悲しさ残る3)』とありし面影よりうち始め、憂かりしままの別れなりせば、かくは物は思はざらまし」と思ふに、今宵しも村雨うちそそきて、雲の気色さへただならねば、なべて4)雲居もあはれに悲し。「そなたの空に」とありし御水茎は、むなしく箱の底に残り、ありしままの御移り香は、ただ手枕(たまくら)に名残り多く覚ゆれば、「まことの道に入りても、常の願ひなれば」と思ふさへ、人の物言ひも恐ろしければ、「亡き御影のあとまでも、よしなき名にや留め給はん」と思へば、それさへかなはぬぞ口惜しき。
1) 主語は有明の月 / 2) 2-9参照 / 3) 2-10参照 / 4) 「なべて」は底本「なへは」 
■巻3―21〜30

 

巻3―21
明けはなるるほどに、「かの稚児来たり」と聞くも夢の心地して、みづから急ぎ出でて聞けば、枯野(かれの)の直垂の雉(きじ)を縫ひたりしが、なへなへとなりたるに、夜もすがら露にしをれける袂もしるくて、泣く泣く語ることどもぞ、げに筆の海にも渡りがたく、言葉にも余る心地し侍る。
「かの、『悲しさ残る1)』とありし夜、着換へ給ひし小袖を、細かに畳み給ひて、いつも念誦の床(ゆか)に置かれたりけるを、二十四日の夕になりて、肌に着るとて、『つひの煙(けぶり)にも、かくながらなせ』と仰せられつるぞ、言はむ方なく悲しく侍る。『参らせよ』とて候ひし」とて、榊を蒔きたる大きなる文箱一つあり。御文と思しき物あり。鳥の跡のやうにて、文字形(もじかた)もなし。「一夜の」とぞ始めある。「この世ながらにては」など、心あてに見続くれども、それとなきを見るにぞ、同じ水脈(みを)にも流れ出でぬべく侍りし。
浮き沈み三瀬川(みつせがは)にも逢ふ瀬あらば身を捨ててもや尋ね行かまし
など思ひ続くるは、なほも心のありけるにや。かの箱の中は、包みたる金(かね)を一はた入れられたりけるなり。
さても、御形見の御小袖をさなから灰になされし、また五部の大乗経を薪に積み具せられしことなど、数々語りつつ、直垂の左右の袂を乾く間もなく泣き濡らしつつ、出でし後ろを見るも、かきくらす心地していと悲し。
1) 2-10参照
巻3―22
御所ざまにも、ことにおろかならぬ御仲なりつれば、御歎きもなほざりならぬ御ことなるべし。「さても、心のうちいかに」とて文あるも、なかなか物思ひにぞ侍りし。
「面影も名残もさこそ残るらめ雲隠れぬる有明の月
憂きは世の習ひながら、ことさらなる御心ざしも深かりつる御歎きも惜しけれ」などありしも、なかなか何と申すべき言の葉もなければ、
数ならぬ身の憂きことも面影も一方にやは有明の月
とばかり申し侍りしやらむ。心も言葉も及ばぬ心地して、涙にくれて明かし暮らし侍りしほどに、今年は春の行方(ゆくへ)も知らで1)、年の暮れにもなりぬ。
御使は絶えせず、「など参らぬに」などばかりにて、さきざきのやうに、「きときと」と言ふ御使もなし。何とやらむ、このほどより、ことに仰せらるる節はなけれど、「色変り行く御ことにや」と思ゆるも、わが咎(とが)ならぬ誤りも、度重(たびかさ)なれば、御ことわりに思えて、参りも進まれず、今日明日ばかりの年の暮れにつけても、「年もわが身も」といと悲し。ありし文どもを返して法華経を書きゐたるも、「讃仏乗の縁」とは仰せられざりしことの罪深さも悲しく案ぜられて、年も返りぬ。
1) 『古今和歌集』春 藤原因香「たれこめて春のゆくへも知らぬ間に待ちし桜も移ろひにけり」
巻3―23
改まる年ともいはぬ袖の涙に浮き沈みつつ、正月十五日にや、御四十九日1)なりしかば、ことさら頼みたる聖のもとへまかりて、布薩(ふさつ)のついでに、かの御心ざしありし金(かね)を少し取り分けて、諷誦(ふじゆ)の御布施に奉りし包み紙に、
このたびは待つ暁のしるべせよさても絶えぬる契りなりとも
能説(のうぜつ)の聞こえある聖なればにや、ことさら聞く所ありしも、袖のひまなき中に、また有明の古事(ふるごと)ぞ、ことに耳に立ち侍りし。
つくづくとこもりゐて、如月の十五日にもなりぬ。釈尊円寂の昔も、今日始めたることならねども、わが物思ふ折からは、ことに悲しくて、このほどは例の聖の室(むろ)に法華講讃(ほけかうさん)、彼岸より続きて、二七日ある折節も嬉しくて、日々に諷誦を参らせつるも、誰としあらはすべきならねば、「忘れぬ契り」とばかり書き続くるにつけても、いと悲し。
今日、講讃2)も結願なれば、例の諷誦の奥に、
月を待つ暁までのはるかさに今入りし日の影ぞ悲しき
1) 有明の月の四十九日 / 2) 「講讃」は底本「かうさつ」
巻3―24
東(ひむがし)の山住まひのほどにも、かき絶え御訪れもなければ、「さればよ」と心細くて、「明日は都の方へ」など思ふに、よろづにすごきやうにて、四座(しざ)の講いしいしにて、聖たちも夜もすがら寝で明かす夜なれば、聴聞所に袖片敷きて、まどろみたる暁、ありしに変はらぬ面影にて、
「憂き世の夢は長き闇路(やみぢ)ぞ」
とて、抱(いだ)きつき給ふと見て、おびたたしく大事に病み出だしつつ、心地もなきほどなれば、聖の方より、「今日はこれにてもこころみよかし」とあれども、車などしたためたるもわづらはしければ、都へ帰るに、清水の橋の西の橋のほどにて、夢の面影、うつつに車の中(うち)にぞ入らせ給ひたる心地して、絶え入りにけり。そばなる人、とかく見助けて、傅(めのと)が宿所へまかりぬるより、水をだに見入れず。
限りのさまにて、弥生の空も半ば過ぐるほどになれば、ただにもあらぬさまなり。ありし暁より後は、心清く目を見かはしたる人だになければ、「疑ふべき方もなきことなりけり」と、憂かりける契りながら、人知れぬ契もなつかしき心地して、いつしか心もとなくゆかしきぞ、あながちなるや。
巻3―25
卯月の中の十日ごろにや、さしたることとて召しあるも、かたがた身もはばからはしく、物憂ければ、かかる病に取りこめられたるよし申したる御返事に、
「面影をさのみもいかが恋ひ渡る憂き世を出でし有明の月
一方(ひとかた)ならぬ袖の暇(いとま)なさも推し量りて。古りぬる身には」など承るも、「ただ一筋に有明の御ことをかく思ひたるも心づきなしにや」など思ひたるほどに、さにはあらで、「亀山院の御位のころ、乳母子1)にて侍りし者、六位に参りて、やがて御すべりに叙爵して、大夫将監(たいふのしやうげん)といふ者伺候したるが、道芝して、夜昼たぐひなき御心ざしにて、この御所ざまのことはかけ離れ行くべきあらましなり」と申さるることともありけり。いかでか知らん。
心地も暇あれば、「いとどはばかりなきほどに」と思ひ立ちて、五月の始めつ方参りたれば、何とやらむ、仰せらるることもなく、また、さして例に変りたることはなけれども、心のうちばかりは物憂きやうにて明け暮るるもあぢきなけれども、水無月のころまで候ひしほどに、ゆかりある人の隠れにしはばかりにこと寄せて、まかり出でぬ。
1) 作者乳母子の藤原仲頼。底本「めのと」。
巻3―26
このたびの有様は、ことに忍びたきままに、東山の辺(へん)にゆかりある人のもとにこもりゐたれども、とりわき訪(と)め来る人1)もなく、身を変へたる心地せしほどに、八月二十日のころ、その気色ありしかども、先のたびまては、忍ぶとすれども言問(ことと)ふ人もありしに、峰の鹿の音を友として明かし暮らすばかりにてあれども、ことなく男(をのこ)にてあるを見るにも、いかでかあはれならざらむ。
「鴛鴦(をし)といふ鳥になると見つる2)」と聞きし夢のままなるも、「げにいいかなる事にか」と悲しく、「わが身こそ、二つにて母に別れ、面影をだにも知らぬことを悲しむに、これはまた、父に腹の中にて先立てぬるこそ、いかばかりか思はん」など思ひ続けて、傍ら去らず置きたるに、折節、乳(ち)など持ちたる人だになしとて、尋ねかねつつ、わがそばに臥せたるさへあはれなるに、この寝たる下のいたう濡れにければ、いたはしく、急ぎて3)抱(いだ)きのけて、わが寝たる方に臥せしにこそ、げに深かりける心ざしも、初めて思ひ知れしか。
しばしも手を放たんことは名残惜しくて、四十日あまりにや、みづからもてあつかひ侍りしに、山崎といふ所より、さりぬべき人を語らひ寄せて後も、ただ床(ゆか)を並べて臥せ侍りしかば、いとど御所4)ざまのまじろひも物憂き心地して、冬にもなりぬるを、「さのみもいかに」と召しあれば、神無月の初めつかたよりまたさし出でつつ、年も返りぬ。
1) 「人」は底本「心」。 / 2) 3-19参照 / 3) 「急ぎて」は底本「いるゝて」 / 4) 「御所」は底本「か所」
巻3―27
今年は元三に候ふにつけても、あはれなることのみ数知らず、何事を悪しとも承ることはなけれども、何とやらむ、御心の隔てある心地すれば、世の中もいとど物憂く心細きに、今は昔とも言ひぬべき人1)のみぞ、「恨みは末も2)」とて、絶えず言問ふ人にてはありける。
1) 雪の曙・西園寺実兼 / 2) 『千載和歌集』恋四 俊恵「思ひかねなほ恋路にぞ帰りぬる恨みは末も通らざりけり」
巻3―28
如月のころは、彼岸の御説法1)、両院2)、嵯峨殿の御所にてあるにも、去年(こぞ)の御面影3)身を離れず、あぢきなきままには、生身二転の釈迦を申せば、「唯我一人の誓ひあやまたず、迷ひ給ふらむ道のしるべし給へ」とのみぞ思ひ続け侍りし。
恋ひ忍ぶ袖の涙や大井川逢ふ瀬ありせば身をや捨てまし
とにかくに思ふもあぢきなく、世のみ恨めしければ、「底の水屑(みくづ)となりやしなまし」と思ひつつ、何となき古反故(ふるほうご)など取りしたたむるほどに、「さても、二葉なる嬰児(みどりご)の行く末を、われさへ捨てなば、誰かはあはれをもかけむ」と思ふにぞ、「道のほだしはこれにや」と思ひ続けられて、面影もいつしか恋ひしく侍りし。
尋ぬべき人もなぎさに生ひそめし松はいかなる契りなるらん
1) 「説法(せつぽう)」を「懺法(せんぼう)」の誤写とする説もある。 / 2) 後深草院・亀山院 / 3) 有明の月
巻3―29
還御の後、あからさまに出でて見侍れば、ことのほかに大人びれて、物語り、笑み、笑ひみなどするを見るにも、あはれなることのみ多ければ、なかなかなる心地して、参り侍りつつ、秋の初めになるに、四条兵部卿1)のもとより、「局など、あからさまならずしたためて、出でよ。夜さり、迎へにやるべし」といふ文あり。
心得ず思えて、御所へ持ちて参りて、「かく申して候ふ。何事ぞ」と申せば、ともかくも御返事なし。何とあることも思えで、玄輝門院2)、三位殿と申す御ころのことにや、「何とあることどもの候やらん3)、かく候ふを、御所にて案内(あんない)し候へども、御返事候はぬ」と申せば、「われも知らず」とてあり。さればとて、「出でじ」と言ふべきにあらねば、出でなんとするしたためをするに、四つといひける長月のころより参り初めて、時々の里居のほどだに心もとなく思えつる御所のうち、今日や限りと思へば、よろづの草木も目とどまらぬもなく、涙にくれて侍るに、折節恨みの人4)参る音して、「下のほどか」と言はるるも、あはれに悲しければ、ちとさし出でたるに、泣き濡らしたる袖の色も、よそにしるかりけるにや、「いかなることぞ」など尋ねらるるも、問ふにつらさとかや思えて、物も言はれねば、今朝の文取り出でて、「これが心細くて」とばかりにて、こなたへ入れて泣き居たるに、「されば、何としたることぞ」と、誰も心得ず。
大人しき女房たちなども、とぶらひ仰せらるれども、知りたりけることがなきままには、ただ泣くよりほかのことなくて、暮れ行けば、御所ざまの御気色なればこそかかるらめに、またさし出でむも恐れある心地すれども、「今より後は、いかにしてか」と思へば、「今は限りの御面影も、今一度(ひとたび)見参らせむ」と思ふばかりに迷ひ出でて、御前に参りたれば、御前は公卿二・三人ばかりして、何となき御物語のほどなり。
練薄物(ねりうすもの)の生絹(すずし)の衣(きぬ)に、薄(すすき)に葛(つづら)を青き糸にて縫物にしたるに、赤色の唐衣(からぎぬ)を着たりしに、きと御覧じおこせて、「今宵はいかに。御出でか」と仰せごとあり5)。何と申すべき言の葉なくて候ふに、「来る山人のたよりには、訪れんとにや。青葛(あをつづら)こそ、うれしくもなけれ」とばかり御口ずさみつつ、女院6)の御方へなりぬるにや、立たせおはしましぬるは、いかでか御恨めしくも思ひ参らせざらむ。
「いかばかり思し召すことなりとも、『隔てあらじ』とこそ、あまたの年々(としどし)契り給ひしに、などしもかかるらん」と思へば、「時の間に、世になき身にもなりなばや」と心一つに思ふかひなくて、車さへ待ちつけたれば、「これよりいづ方へも行き隠れなばや」と思へども、事がらもゆかしくて、二条町の兵部卿の宿所へ行きぬ。
みづから対面して、「いつとなき老いの病と思ふ。このほどになりては、ことにわづらはしく頼みなければ、御身のやう、故大納言7)もなければ、心苦しく、善勝寺8)ほどの者だに亡くなりて、さらでも心苦しきに、東二条院よりかく仰せられたるを、しひて候はんも、はばかりありぬべきなり」とて、文を取り出で給ひたるを見れば、「院の御方奉公して、この御方9)をば、なきがしろに振舞ふが、本意(ほい)なく思し召さるるに、すみやかにそれに呼び出だして置け。故典侍大10)もなければ、そこにはからふべき人なれば」など、御みづからさまざまに書かせ給ひたる文なり。
まことに、この上をしひて候ふべきにしあらずなど、なかなか出でて後は思ひ慰むよしはすれども、まさに長き夜の寝覚めは、千声万声(せんせいばんせい)の砧(きぬた)の音も11)))、わが手枕(たまくら)に言問ふかと悲しく、雲居を渡る雁の涙も、物思ふ宿の萩の上葉(うはば)を尋ねけるかとあやまたれ、明かし暮らして年の末にもなれば、送り迎ふる営みも、何のいさみにすべきにしあらねば、年ごろの宿願にて、祇園の社12)に千日こもるべきにてあるを、よろづに障り多くて、こもらざりつるを、思ひ立ちて、十一月の二日、初めの卯の日にて、八幡宮御神楽なるに、まづ参りたるに、「神に心を13)」と詠みける人も思ひ出でられて、
いつもただ神に頼みを木綿襷(ゆふだすき)かくるかひなき身をぞ恨むる
七日の参籠果てぬれば、やがて祇園に参りぬ。
1) 四条隆親。ただし史実では既に死去している。 / 2) 洞院愔子 / 3) 「とあることどもの候やらん」は底本「とめることもの候やらん」。 / 4) 雪の曙・西園寺実兼 / 5) 「仰せごとあり」は底本「いることあり」。 / 6) 東二条院・後深草院中宮西園寺公子 / 7) 作者父、久我雅忠 / 8) 四条隆顕 / 9) 東二条院 / 10) 作者母。「故典侍大」は底本「とすけたい」。 / 11) 白居易『聞夜砧』「八月九月正長夜、千声万声無了時」による。 / 12) 八坂神社 / 13) 『新古今和歌集』神祇 法印成清「榊葉にそのいふかひはなけれども神に心をかけぬ間ぞなき」
巻3―30
今はこの世には残る思ひもあるべきにあらねば、「三界の家を出でて、解脱の門(かど)に入れ給へ」と申すに、今年は有明1)の三年(みとせ)に当たり給へば、東山の聖のもとにて七日法華講讃を五種の行に行なはせ奉るに、昼は聴聞に参り、夜は祇園2)へ参りなどして、結願には、露消え給ひし日なれば、ことさらうち添ゆる鐘も、涙もよほす心地して、
折々の鐘の響きに音を添へて何と憂き世になほ残るらん
1) 有明の月 / 2) 八坂神社 
■巻3―31〜36

 

巻3―31
ありし赤子、引き隠したるもつつましながら、物思ひのなぐさめにもとて、手も返りぬれば、走り歩(あり)き、物言ひなどして、何の憂きもつらさも知らぬも、いと悲し1)。
さても、兵部卿2)さへ憂かりし秋の露に消えにしかば、あはれもなどか深からざらむなりしを、思ひあへざりし世のつらさを歎く暇なさに、思ひ分かざりしにや、菅(すが)の根の長き日暮らし、まぎるることなき行ひのついでに思ひ続くれば、「『母の名残は一人とどまりしに』など、今ぞあはれに思ゆるは、心のどまるにや」と思ゆる。
やうやうの神垣(かみがき)の花ども盛りに見ゆるに、文永のころ、天王3)の御歌とて、
神垣に千本(ちもと)の桜花咲かば植ゑおく人の身も栄へなむ
といふ示現ありとて、祇園の社(しや)4)におびたたしく木ども植ゆることありしに、まことに神の託し給ふことにてもあり、また、「わが身も神恩をかうぶるべき身ならば、枝にも根にもよるべきかは」と思ひて、檀那院の公誉僧正5)、阿弥陀院の別当にておはするに、親源法印といふは大納言の子にて、申しかよはし侍るに、かの御堂の桜の枝を一つ乞ひて、如月の初午の日、執行権長吏法印ゑんやうに、紅梅の単文(ひとへもん)・薄衣(うすぎぬ)、祝詞(のと)の布施に賜びて、祝詞申させて、東の経所の前にささげ侍りしに、縹(はなだ)の薄様の札にて、かの枝に付け侍りし。
根なくとも色には出でよ桜花契る心は神ぞ知るらん
この枝生ひ付きて、花咲きたるを見るにも、「心の末はむなしからじ」と頼もしきに、千部の経を初めて詠み侍るに、さのみ局ばかりはさしあひ、何かのためもはばかりあれば、宝塔院の後ろに二つある庵室(あんじち)の東(ひんがし)なるを点じてこもりつつ、今年も暮れぬ。
1) 「いと悲し」は底本「いにかなし」。「げに悲し」(集成)とする説もある。 / 2) 四条隆親 / 3) 八坂神社の祭神、牛頭天王 / 4) 「社」は底本「しよ」 / 5) 「公誉僧正」は底本「二よ僧正」
巻3―32
またの年の睦月の末に、大宮の院1)より文あり。「准后(ずこう)2)の九十の御賀のこと、この春思ひ急ぐ。里住みもはるかになりぬるを、何か苦しからむ。打出(うちいで)の人数(ひとかず)にと思ふ。准后の御方に候へ」と仰せあり。「さるべき御事にては候へども、御所ざま悪しざまなる御気色にて里住みし候ふに3)、何の嬉しさにか、打出のみぎりに参り侍るべき」と申したるに4)、「すべて苦しかるまじき上、准后の御事は、ことさら幼くより、故大納言の典侍5)といひ、その身といひ、他(た)に異ならざりしことなれば、かかる一期(いちご)の御大事見沙汰せん、何かは」など、御みづからさまざま承るを、さのみ申すもことあり顔なれば、参るべきよし申しぬ。
籠りの日数は四百日に余るを、帰り参らんほどは代官(だいくわん)6)を候はせて、西園寺7)の承りにて、車など給はせたれば、いまは山賤(やまがつ)になり果てたる心地して、晴れ晴れしさもそぞろはしながら、紅梅の三つ衣(みつぎぬ)に桜萌黄(さくらもよぎ)の薄衣(うすぎぬ)重ねて、参りて見れば、思ひつるもしるく晴れ晴れしげなり。
両院8)・東二条院9)、遊義門院10)、いまだ姫宮にておはしませしも、かねて入らせ給ひけるなるべし。新陽明門院11)も忍びて御行あり。如月の晦日(つごもり)のことなるべしとて、二十九日、行幸・行啓あり。まづ行幸、丑三つばかりになる。門の前に御輿をすゑて12)神司(かんづかさ)、幣(ぬさ)を奉り、雅楽司(うたのつかさ)、楽を奏す。院司左衛門督13)参りて、このよしを申して後、御輿を中門(ちゆうもん)へ寄す。二条の三位中将14)、中門のうちより、剣璽(けんじ)の役勤むべきに、春宮行啓。まづ門の下まて筵道(えんだう)を敷く。設けの御所、奉行顕家15)・関白16)・左大将17)・三位中将18)など参り設く。傅(ふ)の大臣19)、御車に参らる。
1) 後嵯峨院后 / 2) 北山准后。四条貞子。大宮院・東二条院母 / 3) 「候ふに」は底本「いかかに」。 / 4) 「申したるに」は底本「申さるに」。 / 5) 作者母 / 6) 「代願」と読む説もある。 / 7) 雪の曙・西園寺実兼 / 8) 後深草院・亀山院 / 9) 後深草院中宮西園寺公子 / 10) 後深草院皇女姈子内親王 / 11) 亀山院后。近衛位子 / 12) 「すゑて」は底本「さへて」。 / 13) 西園寺公衡 / 14) , 18) 二条兼基 / 15) 藤原顕家 / 16) 鷹司兼平 / 17) 鷹司兼忠 / 19) 二条師忠
巻3―33
その日になりぬれば、御所のしつらひ、南面(みなみおもて)の母屋(もや)三間(さんげん)、中に当たりて、北の御簾に添へて仏台(ぶつだい)を立てて、釈迦如来の像一幅かけらる。その前に香華(かうげ)の机を立つ。左右に灯台を立てたり。前に高座を置く。その南に礼盤あり。同じ間の南の簀子(すのこ)に机を立てて、その上に御経箱二合置かる。寿命経(ずみやうきやう)1)・法華経入らる。御願文、草(さう)、茂範2)、清書、関白殿3)と聞こえしやらむ。母屋の柱ごとに、幡(はた)・華鬘(けまん)をかけらる。母屋の西の一の間に、御簾の中に繧繝(うげん)二畳の上に唐錦(からにしき)の褥(しとね)を敷きて、内4)の御座とす。同じ御座の北に、大紋二畳を敷きて、一院5)の御座、二の間に同じ畳を敷きて、新院6)の御座、その東(ひんがし)の間に屏風を立てて大宮の院7)の御座、南面の御簾に几帳の帷(かたびら)出だして、一院の女房候ふ所をよそに見侍りし。あはれ少なからん8)。同じき西の廂(ひさし)に屏風を立てて、繧繝二畳敷きて、その上に東京(とうぎやう)の錦の褥を敷きて、准后(ずごう)9)の御座なり。
かの准后と聞こゆるは、西園寺の太政大臣実氏公10)の家、大宮院・東二条院御母、一院・新院御祖母、内・春宮御曾祖母なれば、世こぞりてもてなし奉るもことわりなり。俗姓(ぞくしやう)鷲尾(わしのを)の大納言隆房11)の孫、隆衡の卿12)の女(むすめ)なれば、母方は離れぬゆかりにおはします上、ことさら幼くより、母にて侍りし者もこれにて生ひ立ち、わが身もその名残変はらざりしかば、召し出ださるるに、褻形(けなり)にてはいかがとて、大宮院御沙汰にて、「紫の匂ひにて、准后の御方に候ふべきか」と定めありしを、「なほいかが」と思し召しけむ13)、「大宮の御方に候ふべき」とて、紅梅の匂ひ、まさりたる単(ひとへ)、紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)、赤色の唐衣(からぎぬ)、大宮院の女房はみな侍りしに、西園寺14)の沙汰にて、上紅梅の梅襲(むめがさね)八つ、濃き単、裏山吹の表着(うはぎ)、青色の唐衣、紅の袿(うちぎ)、彩物(だみもの)置きなど、心ことにしたるをぞ賜はりて候ひしかども、「さやは思ひし」と、よろづあぢきなきほどにぞ侍りし。
こと始まりぬるにや、両院・春宮・両女院・今出川の院15)・姫宮16)・春宮の大夫17)、うち続く。誦経(じゆきやう)の鐘の響きもことさらに聞こえき。階(はし)より18)東(ひんがし)には、関白19)・左大臣20)・右大臣21)・花山院大納言22)・土御門の大納言23)・源大納言24)・大炊御門の大納言25)・右大将26)。春宮大夫27)、ほどなく座を立つ。左大将28)・三条中納言29)・花山院中納言30)、家奉行の院司左衛門督31)。階より西に、四条前大納言32)・春宮権大夫33)・権大納言34)・四条宰相35)・右衛門督36)などぞ候ひし37)。主上、御引直衣(ひきなほし)、正絹(すずし)の御袴。一院、御直衣、青鈍(あをにび)38)の御指貫。新院、御直衣、綾の御指貫。春宮、御直衣、浮織物(うきおりもの)の紫の御指貫なり。みな御簾の内におはします。左右大将・右衛門督、弓を持ち矢を負ひたり。
楽人(がくにん)・舞人(まひびと)、鳥向楽(てうかうらく)を奏す。一、鶏婁(けいろう)先立つ。乱声39)、左右桙(ほこ)を振る。この後、壱越調(いちこつてう)の調子を吹きて、楽人・舞人、衆僧集会(しゆゑ)の所へ向ひて、左右に分かれて参る。中門を入りて、舞台の左右を過ぎて、階(はし)の間より昇りて、座に着く。講師(こうじ)法印憲実・読師僧正守助40)・呪願僧正、座に昇りぬれば、堂達(だうたつ)、磬(けい)を打つ。堂童子(だうどじ)重経41)・顕範42)・仲兼43)・顕世44)・兼仲45)・親氏46)など、左右に分けて候ふ。唄師(ばいし)、声出でて後、堂童子、花筥(はなばこ)を分かつ。楽人、渋河鳥(しんがてう)を奏して、散華行道(さんげぎやうだう)一返、楽人鶏婁、御前にひざまづく。一は久資47)なり。院司為方48)、禄を取る。
後に杖を退けて49)舞ひを奏す。気色ばかりうちそそく春の雨、糸帯びたるほどなるを、いとふ50)気色もなく、このもかのもに並みゐたる有様、いつまで草のあぢきなく見渡さる。左、万歳楽(まんざいらく)、楽・拍子、賀殿(かてん)・陵王(れうわう)。右、地久・延喜楽・納曽利。二の者にて、多久忠51)、勅禄(ちよくろ)の手とかや舞ふ。このほど右の大臣(おとど)座を立ちて、左の舞人近保52)を召して勧賞(けんじやう)仰せらる。承りて、再び拝み奉るべきに、右の舞人久資、楽人政秋53)、同じく勧賞を承る。「政秋、笙の笛を持ちながら起き伏すさま、つきづきし」など御沙汰あり。講師、座を下りて、楽人、楽を奏す。
その後、御布施を引かる。頭中将公敦(きんあつ)54)・左中将為兼55)・少将康仲56)など、闕腋(わきあけ)に平胡籙(ひらやなぐい)負へり。縫腋(もとほし)に革緒の太刀57)、多くは細太刀なりしに58)、衆僧59)どもまかり出づるほどに、廻忽(くわいこつ)・長慶子(ちやうけいし)を奏して、楽人・舞人まかり出づ。大宮・東二条・准后の御膳参る。准后の陪膳四条宰相、役送左衛門督なり。
1) 一切如来金剛寿命陀羅尼経 / 2) 藤原茂範 / 3) , 19) 近衛兼平 / 4) 後宇多天皇 / 5) 後深草院 / 6) 亀山院 / 7) 後嵯峨院后 / 8) 「少なからん」は底本「すくなからん」。 / 9) 北山准后。四条貞子。大宮院・東二条院母。 / 10) 西園寺実氏 / 11) 藤原隆房 / 12) 四条隆衡 / 13) 「思し召しけむ」は底本「思ひしめしけむ」。 / 14) 雪の曙・西園寺実兼 / 15) 亀山院中宮、西園寺嬉子 / 16) 遊義門院・姈子内親王 / 17) , 27) 西園寺実兼 / 18) 「階(はし)より」は底本「つゝへより」。 / 20) 二条師忠 / 21) 九条忠教 / 22) 花山院長雅 / 23) 土御門定実 / 24) 源通頼 / 25) 大炊御門信嗣 / 26) 源通基 / 28) 鷹司兼忠。「左大将」は底本「右大将」。 / 29) 三条実重 / 30) 花山院家教 / 31) 西園寺公衡 / 32) 四条隆行 / 33) 堀川具守 / 34) 洞院公守 / 35) 四条隆康 / 36) 園基顕 / 37) 「候ひし」は底本「く(候歟)し」。 / 38) 「青鈍」は底本「あをにほひ」。 / 39) 底本「声」なし。『増鏡』により補う。 / 40) 「守助(しうじよ)」は底本「ゑうしよ」。 / 41) 高階重経 / 42) 藤原顕範 / 43) 平仲兼 / 44) 堀川顕世 / 45) 勘解由小路兼仲 / 46) 五辻親氏 / 47) 多久資 / 48) 中御門為方 / 49) 「杖を退けて」は底本「つくゑをしりかけて」。 / 50) 「いとふ」は底本「いとま」。 / 51) 「久忠」は底本「ひさすけ」。 / 52) 狛近保 / 53) 豊原政秋 / 54) 藤原公敦 / 55) 京極為兼 / 56) 源康仲 / 57) 「太刀」は底本「うち」。 / 58) 以下欠文あるか。 / 59) 「衆僧」は底本「こにそう」。
巻3―34
次の日は弥生の一日なり。内1)・春宮2)・両院3)、御膳参る。舞台取りのけて、母屋(もや)の四面に壁代(かべしろ)をかけたる。西の隅に御屏風を立てて、中の間に繧繝(うげん)二畳敷きて、唐錦(からにしき)の褥(しとね)を敷きて、公(おほやけ)の御座。両院の御座、母屋に設けたり。東の対(たい)一間に繧繝を敷きて、東京(とうきやう)の錦の褥を敷きて、春宮の御座と見えたり。内・両院、御簾(ぎよれん)関白殿4)。春宮には傅の大臣(おとど)5)遅参にて、大夫6)御簾に参り給ふなりけり。主上、常の御直衣、紅(くれなゐ)の打御衣(うちおんぞ)、綿入れて出ださる。一院、固織物の薄色御指貫、新院、浮織物の御直衣、同じ御指貫、これも紅の打御衣、綿入りたるを出ださる。春宮、浮線綾(ふせんりよう)の御指貫、打御衣、綿入らぬを出ださる。御膳参る。内の御方、陪膳花山院大納言7)、役送(やくそう)四条宰相8)・三条の宰相中将9)。一院陪膳、大炊御門の大納言10)。新院、春宮大夫11)。春宮、三条宰相中将。春宮の役送隆良12)桜の直衣、薄色の衣(きぬ)、同じ指貫、紅の単(ひとへ)、壺・緌(おいかけ)までも今日を晴(はれ)と見ゆ。
御膳果てて後、御遊。内の御笛、柯亭(かてい)といふ御笛、箱に入れて忠世13)参る。関白、取りて御前に置かる。春宮御琵琶、玄象なり。権の亮(すけ)親定14)持ちて参るを、大夫、御前に置かる。臣下の笛の箱、別(べち)にあり。笙、土御門の大納言15)。笙、左衛門督16)。篳篥(ひちりき)、兼行17)。和琴、大炊御門の大納言18)。琴、左大将19)。琵琶、春宮大夫20)・権大納言21)。拍子、徳大寺の大納言22)。洞院三位中将23)、琴。宗冬24)、付歌(つけうた)25)。呂(りよ)の歌、安名尊(あなたと)・席田(むしろだ)26)。楽、鳥の破急27)。律、青柳28)。万歳楽、これにて侍りしやらむ。三台の急。
御遊(ぎよいう)果てぬれば29)、和歌の御会(くわい)あり。六位・殿上人、文台・円座(ゑんざ)を置く。下臈より懐紙を置く。為道30)、縫腋(もとほし)の袍(はう)に革緒の太刀・壺なり。弓に懐紙を取り具して、昇りて文台に置く。残りの殿上人のをば取り集めて、信輔31)、文台に置く。為道より先に、春宮権大進顕家32)、春宮の御円座を文台の東に敷きて、披講のほど御座ありし。古き例(ためし)も今めかしくぞ、人々申し侍りし。
公卿、関白・左右大臣・儀同三司33)・兵部卿34)・前藤大納言35)・花山院大納言36)・右大将37)・土御門大納言38)・春宮大夫39)・大炊御門の大納言40)・徳大寺大納言41)・前藤中納言42)・三条中納言43)・花山院中納言44)・左衛門督45)・四条宰相46)・右兵衛督47)・九条侍従三位48)とぞ聞こえし。
みな公卿直衣なる中に、右大将通基表着(おもてぎ)、魚綾(ぎよれよう)の山吹の衣(きぬ)を出だして、太刀をはきたり。笏に懐紙を持ち具したり。このほかの衛府49)の公卿は、弓に矢を負へり。花山院中納言、講師(かうじ)を召す。公敦参る。読師、左の大臣(おとど)に仰せらるる。故障にて右大臣参り給ふ。兵部卿・藤中納言など召しにて参る。
権中納言の局の歌、紅の薄様に書きて、簾(れん)中より出ださるるに、新院、「雅忠卿女(むすめ)50)の歌は、など見え候はぬぞ」と申されけるに、「いたはりなどにて候ふやらん、すんしうて」と御返事ある。「など歌をだに参らせぬぞ」と、春宮大夫言はるれば、「東二条院より、『歌ばし召さるな』と准后へ申されけるよし、承りし」など申して、
かねてより数に漏れぬと聞きしかば思ひも寄らぬ和歌の浦波
なとぞ、心一つに思ひ続けて侍りし。
内・新院の御歌は、殿下賜はり給ふ。春宮のは、なほ臣下の列(つら)にて、同じ講師読み奉る。内・院のをば、左衛門督読師、殿下たびたび講ぜらる51)
披講果てぬれば、まづ春宮入らせ給ふ。そのほども、公卿禄あり。
内の御製は、殿書き給ひける。(今の大覚寺の法皇の御ことなり52)。)禅定仙院53)。
「従一位藤原の朝臣貞子九十の齢(よはひ)を賀(が)する歌、
行く末をなほ長き世と契るかな54)弥生に移る今日の春日に」
新院の御歌は、内大臣(うちのおとど)55)書き給ふ。端書(はしがき)同じさまながら、「貞子(ていし)」の二字(ふたじ)を留めらる。
百色(ももいろ)と今や鳴くらむ鶯の九返(ここのかへり)の君が春経て
春宮のは、左大将56)書き給ふ。「春の日、北山の邸(てい)にて行幸するに侍りて、従一位藤原の朝臣九十の算(さん)を賀して、制(せい)に応ずる歌」とて、なほ57)「上」の文字を添へられたるは、古き例(ためし)にや。
限りなき齢(よはひ)は今は九十(ここのそぢ)なほ千世(ちよ)遠き春にもあるかな
このほかのをば、別(べち)に記し置く。
さても、春宮の大夫の、
代々の跡になほ立ちのぼる老いの波寄りけん年は今日のためかも
「まことに」とおもしろきよし、公私(おほやけわたくし)申しけるとかや。「実氏58)の大臣(おとど)の一切経の供養の折の御会に、後嵯峨の院59)、『花もわが身も今日盛りかも』とあそばし、大臣の『わが宿々の千代のかざしに』と詠まれたりしは、ことわりにおもしろく聞こえしに劣らず」など、沙汰ありしにや。
この後、御鞠とて、色々の袖を出だせる、内・春宮・新院・関白殿・内の大臣より、思ひ思ひの御姿、見所多かりき。後鳥羽の院60)建仁 のころの例とて、新院、御上鞠(あげまり)なり。
御鞠果てぬれば、御幸は今宵還御なり。飽かず思し召さるる御旅なれども、「春の司召(つかさめし)あるべし」とて、急がるるとぞ聞こえ侍りし。
1) 後宇多天皇 / 2) 後の伏見天皇 / 3) 後深草院・亀山院 / 4) 鷹司兼平 / 5) 二条師忠 / 6) , 11) , 20) , 39) 西園寺実兼 / 7) , 36) 花山院長雅 / 8) , 46) 四条隆康 / 9) 正親町三条公貫 / 10) , 18) , 40) 大炊御門信嗣 / 12) 四条隆良。底本「たるよし」。 / 13) 平忠世 / 14) 土御門親定。春宮権亮 / 15) , 38) 土御門定実 / 16) , 45) 西園寺公衡 / 17) 楊梅兼行 / 19) , 56) 鷹司兼忠 / 21) 洞院公守 / 22) , 41) 徳大寺公孝 / 23) 洞院実泰。「洞院」は底本「かん院」。 / 24) 中御門宗冬 / 25) 「つけうた」も続き「むね冬」と続くが、衍字とみて削除。 / 26) 底本、「りよの歌」に続き「あなたと/むしろた」と二行書き。 / 27) 「鳥」底本「と舟」。 / 28) 楽以下、底本表記は「かくと舟のは(きうりつ/あをやなき)」。 / 29) 「御遊果てぬれば」は底本「きよいう御遊はてぬれは」。 / 30) 二条為道 / 31) 平信輔 / 32) 藤原顕家 / 33) 堀川基具 / 34) 二条良教 / 35) 二条為氏 / 37) 源通基 / 42) 洞院公泰。「中納言」は底本「大納言」。 / 43) 三条実重 / 44) 花山院家教 / 47) 二条為世 / 48) 九条隆博 / 49) 「衛府」は底本「よう」。 / 50) 作者を指す。 / 51) 「講ぜらる」は底本「かたせらる」。 / 52) 括弧内、「内(後宇多天皇)に伏した注で底本では割注。 / 53) 後宇多天皇を指す注。 / 54) 「契るかな」は底本「よするかな」。 / 55) 近衛家基 / 57) 「なほ」は底本「堂」。「尚」の誤写とみる。 / 58) 西園寺実氏 / 59) 後嵯峨院 / 60) 後鳥羽院。「後鳥羽の院」は底本「とはの院」。
巻3―35
またの日は、行幸還御の後なれば、衛府1)の姿もいとなく、うち解けたるさまなり。午の時ばかりに、北殿より西園寺へ筵道(えんだう)を敷く。両院2)、御烏帽子・直衣、春宮3)、御直衣に括り上げさせおはします。
堂々御巡礼ありて、妙音堂に御参りあり。今日の御幸を待ち顔なる花の、ただ一木見ゆるも、「ほかの散りなん後」とは誰か教へけんとゆかしきに、御遊あるべしとてひしめけば、衣被(きぬかづ)きにまじりつつ、人々あまた参るに、誰も誘はれつつ見参らすれば、両院・春宮、内に渡らせ給ふ。廂(ひさし)に、笛、花山院大納言4)。笙、左衛門督5)。篳篥(ひちりき)、兼行6)。琵琶、春宮御方、大夫7)、琴。太鼓、具顕(ともあ き)8)。羯鼓(かこ)、範藤9)、調子盤渉調(ばんしきてう)にて、採桑老(さいしやうらう)・蘇合(そがう)三の帖・破・急・白柱(はくちゆう)・千秋楽。兼行、「花上苑に明きらかなり」と詠ず。ことさら物の音ととのほりておもしろきに、二返終りて後、「情けなきことを機婦に妬む」と、一院10)詠ぜさせおはしましたるに、新院・春宮御声加へたるは、なべてにや聞こえん。楽終りぬれば、還御あるも、飽かず御名残多くぞ、人々申し侍りし。
何となく世の中の華やかにおもしろきを見るにつけても、かきくらす心の中(うち)は、さし出でつらむも悔しき心地して、妙音堂の御声名残り悲しきままに、御鞠など聞こゆれども、さしも出でぬに、隆良11)、「文」とて持ちて来たり。「所違(たが)へにや」と言へども、しひて賜はすれば、開けたるに、
「かき絶えてあられやするとこころみに積もる月日をなどか恨みぬ
なほ忘れぬは、かなふまじきにや。年月のいぶせさも今宵こそ12)」などあり。
御返事には、
かくて世にありと聞かるる身の憂さを恨みてのみぞ年は経にける
とばかり申したりしに、御鞠果てて、酉の終りばかりに、うち休みてゐたる所へ、ふと入らせおはします。「ただ今、御舟に召さるるに、参れ」と仰せらるるに、「何のいさましさにか」と思ひて、立ちも上がらぬを、「ただ、褻(け)なるにて」とて、袴の腰結ひ何かせさせ給ふも、「いつよりまたかくもなり行く御心にか」と二年(ふたとせ)の御恨めしさの慰むには13)あらねども、さのみすまひ申すべきにあらねば、涙の落つるをうち払ひて、さし出でたるに、暮れかかるほどに、釣殿(つりどの)より御舟に召さる。
まづ春宮の御方、女房、大納言殿・右衛門督殿・かうの内侍殿、これらは物具(もののぐ)なり。小さき御舟に両院召さるるに、これは三つ衣(きぬ)に薄衣(うすぎぬ)・唐衣(からぎぬ)ばかりにて参る。東宮の御舟に召し移る。管絃の具入れらる。小さき舟に公卿たち、端舟(はしぶね)に付けられたり。花山院大納言、笛。左衛門督、笙。兼行、篳篥。春宮御方、琵琶。女房衛門督殿、琴。具顕、太鼓。大夫、羯鼓。
飽かず思し召されつる妙音堂の昼の調子を移されて、盤渉調なれば、蘇合の五の帖、輪台(りんだい)・青海波(せいがいは)・竹林楽(ちくりんらく)・越天楽(ゑてんらく)など、いく返といふ数知らず。兼行、「山また山14)」とうち出だしたるに、「変態繽紛(へんたいひんぷん)たり」と、両院の付け給ひしかば、「水の下にも耳驚くものや」とまで思え侍りし。
釣殿遠く漕ぎ出でて見れば、旧苔(きうたい)年経たる松の枝さしかはしたるありさま、庭の池水、言ふべくもあらず。漫々たる海の上に漕ぎ出でたらむ心地して、「二千里の外(ほか)に来にけるにや15)」など仰せありて、新院、御歌、
雲の波煙の波を分けてけり
「管絃にこそ誓ひありとて、心強からめ。これをば付けよ」と当てられしも、うるさながら、
行く末遠き君の御代とて
春宮大夫16)、
昔にもなほ立ち越えて貢ぎ物
具顕、
曇らぬ影も神のまにまに
春宮の御方、
九十(ここのそぢ)になほも重ぬる老いの波
新院、
立居苦しき世の習ひかな
17)憂きことを心一つに忍ぶれば
「と、申され候ふ心の中の思ひは、われぞしり侍る」とて、富小路殿の御所18)、
絶えず涙に有明の月
「この有明の子細、おぼつかなく」など御沙汰あり。
暮れぬれば、行啓けいに参りたる掃部寮(かもんれう)、所々に立明(たてあかし)して、還御急がし奉る気色見ゆるも、やう変りておもしろし。ほどなく釣殿に19)御舟付けぬれば、降りさせおはしますも、飽かぬ御ことどもなりけん。
からき20)憂き寝の床(とこ)に浮き沈みたる身の思ひは、よそにも推し量られぬべきを、安の河原にもあらねばにや、言問ふ方のなきぞ悲しき。
1) 「衛府」は底本「よう」。3-34注49参照。 / 2) 後深草院・亀山院 / 3) 後の伏見天皇 / 4) 花山院長雅 / 5) 西園寺公衡。「左衛門督」は底本「厄衛門督」。 / 6) 楊梅兼行 / 7) , 16) 西園寺実兼 / 8) 源具顕 / 9) 藤原範藤 / 10) , 18) 後深草院 / 11) 四条隆良 / 12) 後深草院の手紙 / 13) 「には」は底本「もは」 / 14) 『和漢朗詠集』雑 山水 大江澄明「山復山 何工削成青巌之形 水復水 誰家染出碧澗之色」 / 15) 『白氏文集』四 新楽府 / 17) 以下作者の歌 / 19) 「釣殿に」は底本「つりとのゝ」。 / 20) 「からき」は底本「かしき」。
巻3―36
まことや、今日の昼は春宮の御方より、帯刀清景、二藍打(ふたあいうち)上下、松に藤縫ひたり。「うち振舞ひ、緌(おいかけ)のかかりもよしあり」など沙汰ありし、内へ御使参らせられしに、違(ちが)ひて、内裏よりは、頭の大蔵卿忠世1)参りたりとぞ聞こえし。
このたび御贈り物は、内の御方へ御琵琶、春宮へ和琴(わごん)と聞こえしやらむ。勧賞(けんじやう)どもあるべしとて、一院御給(きう)、俊定2)四位正下、春宮、惟輔3)五位正下。春宮の大夫4)の琵琶の賞は為道5)に譲りて、四位の従上など、あまた聞こえ侍りしかども、さのみは記すに及ばず。
行啓も還御なりぬれば、おほかたしめやかに名残多かるに、西園寺の方ざまへ御幸なるとて、たびたび御使あれども、「憂き身はいつも」と思えて、さし出でむ空なき心地して侍るも、あはれなる心の中(うち)ならむかし。
1) 平忠世 / 2) 坊城俊定 / 3) 平惟輔。「惟輔」は底本「これはすけ」。 / 4) 西園寺実兼 / 5) 二条為道 
■巻4―1 〜10

 

巻4―1
如月の二十日あまりの月とともに都を出で侍れば、何となく捨て果てにし住処(すみか)ながらも、「またと思ふべき世の習ひかは」と思ふより、「袖の涙も今さら、宿る月さへ濡るる顔にや1)」とまで思ゆるに、われながら心弱く思えつつ、逢坂の関と聞けば、「宮も藁屋も果てしなく2)」と、ながめ過ぐしけん蝉丸の住処も跡だにもなく、せきの清水に宿るわが面影は、出で立つ足元よりうち始め、ならはぬ旅の装ひいとあはれにて、やすらはるるに、いと盛りと見ゆる桜のただ一木あるも、これさへ見捨てがたきに、田舎人と見ゆるが、馬の上四・五人、汚なげならぬが、「またこの花のもとにやすらふも、同じ心にや」と思えて、
行く人の心をとむる桜かな花や関守逢坂の山
など思ひ続けて、鏡の宿といふ所にも着きぬ。
暮るるほどなれば、遊女ども契り求めて歩(あり)くさま、「憂かりける世の習ひかな」と思えて、いと悲し。
明け行く鐘の音に勧められて出で立つも、あはれに悲しきに、
立ち寄りて見るとも知らじ鏡山心のうちに残る面影
1) 『古今和歌集』恋五 伊勢「あひにあひて物思ふころのわが袖に宿る月さへ濡るる顔なる」。 / 2) 『新古今和歌集』雑下 蝉丸「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ」。
巻4―2
やうやう日数経るほどに、美濃の国赤坂の宿といふ所に着きぬ。ならはぬ旅の日数も、さすが重なれば、苦しくもわびしければ、これに今日は留まりぬるに、宿(やど)の主(あるじ)に、若き遊女姉妹(おととひ)あり。琴・琵琶など弾きて、情けあるさまなれば、昔思ひ出でらるる心地して、九献(くこん)など取らせて遊ばするに、二人ある遊女の姉とおぼしきが、いみじく物思ふさまにて、琵琶の撥(ばち)にて紛らかせども、涙がちなるも、身のたぐひに思えて、目とどまるに、これもまた、墨染の色にはあらぬ袖の涙を怪しく思ひけるにや、盃(さかづき)すゑたる小折敷(こをしき)に書きて、差しおこせたる。
思ひ立つ心は何の色ぞとも富士の煙(けぶり)の末ぞゆかしき
いと思はずに、情けある心地して、
富士の嶺(ね)は恋をするがの山なれば思ひありとぞ煙立つらん
慣れぬる名残はこれまでも引き捨てがたき心地しながら、さのみあるべきならねば、また立ち出でぬ。
八橋といふ所に着きたれども、水行く川もなし。橋も見えぬさへ、友もなき心地して、
われはなほ蜘蛛手(くもで)に物を思へどもその八橋は跡だにもなし
巻4―3
尾張の国熱田の社1)に参りぬ。御垣を拝むより、故大納言2)の知るる国にて、この社(やしろ)には、「わが祈りのため」とて、八月の御祭(まつり)には必ず神馬を奉る使(つかひ)を立てられしに、最後の病の折、神馬を参らせられしに、生絹(すずし)の衣を一つ添へて参らせしに、萱津の宿といふ所にて、俄にこの馬死ににけり。驚きて、在庁(ざいちやう)が中より馬は尋ねて参らせたりけると聞きしも、「神は受けぬ祈りなりけり」と思えしことまで、数々思ひ出でられて、あはれさも悲しさもやる方なき心地して、この御社に今宵はとどまりぬ。
都を出でしことは、如月の二十日あまりなりしかども、さすがならはぬ道なれば、心は進めども、はかもゆかで、弥生の始めになりぬ。夕月夜(ゆふづくよ)華やかにさし出でて、都の空も一つ眺めに思ひ出でられて、いまさらなる御面影も立ち添ふ心地するに、御垣(みかき)の内の桜は今日盛りと見せ顔なるも、「誰(た)がため匂ふ梢なるらむ」と思えて、
春の色も弥生の空になるみがた今いくほどか花もすぎむら
社の前なる杉の木に、札(ふだ)にて打たせ侍りき。
思ふ心ありしかば、これに七日こもりて、また立ち出で侍りしかば、鳴海の潮干潟をはるばる行きつつぞ、社を返り見れば、霞の間(ま)よりほの見えたる朱(あけ)の玉垣神さびて、昔を思ふ涙は忍びがたくて、
神はなほあはれをかけよ御注連縄(みしめなは)引き違(たが)へたる憂き身なりとも
1) 熱田神宮 / 2) 父、久我雅忠
巻4―4
清見が関を月に越え行くにも、思ふことのみ多かる心の内、来し方行く先たどられて、あはれに悲し。みな白妙に見え渡りたる浜の真砂の数よりも、思ふことのみ限りなきに、富士の裾、浮島が原に行きつつ、高嶺にはなほ雪深く見ゆれば、五月のころだにも鹿の子斑(まだら)には残りけるに1)と、ことわりに見やらるるにも、跡なき身の思ひぞ、積もるかひなかりける。煙も今は絶え果てて見えねば、「風にも何かなびくべき2)」と思ゆ。
さても、宇津の山を越えしにも、蔦(つた)・楓(かへで)も見えざりしほどに、それとだにも知らず、思ひ分かざりしを、ここにて聞けば、はや過ぎにけり。
言の葉もしげしと聞きし蔦はいづら夢にだに見ず宇津の山越え
1) 『伊勢物語』九段による。 / 2) 『新古今和歌集』雑中 西行「風になびく富士の煙の空に消えて行くへも知らぬわが思ひかな」。
巻4―5
伊豆の国三島の社(やしろ)に参りたれば、奉幣(ほうへい)の儀式は熊野参りに違(たが)はず、長筵(ながむしろ)1)などしたるありさまも、いと神々しげなり。
故頼朝の大将2)し始められたりける浜の一万とかやとて、ゆゑある女房の、壺装束にて行き帰るが苦しげなるを見るにも、「わればかり物思ふ人にはあらじ3)。」とぞ思えし。
月は宵過ぐるほどに待たれて出づるころなれば、短夜(みじかよ)の空もかねてもの憂きに、神楽とて、少女子(おとめご)が舞の手づかひも、見馴れぬさまなり。千早(ちはや)とて、袙(あこめ)のやうなる物を着て、八少女舞(やをとめまひ)4)とて、三・四人立ちて入り違(ちが)ひて舞ふさまも、興ありておもしろければ、夜もすがら居明かして、鳥の音にも催されて出で侍りき。
1) 「長筵」は底本「なかむし」。「長虫(蛇の意)」・「長橋(ながはし)」とする説もある。 / 2) 源頼朝 / 3) 『伊勢物語』27段「わればかり物思ふ人はまたもあらじと思へば水の下にもありけり」 / 4) 「八少女舞」は底本「はれなまい」。
巻4―6
二十日あまりのほどに江の島といふ所へ着きぬ。所のさま、おもしろしとも、なかなか言の葉ぞなき。漫々たる海の上に離れたる島に、岩屋どもいくらもあるに泊まる。これは千手の岩屋といふとて、薫修練行(くんじゆれんぎやう)も年たけたりと見ゆる山伏一人、行なひてあり。霧1)の籬(まがき)、竹の網戸、おろそかなる物から、艶なる2)住まひなる。かく3)山伏経営(けいめい)して、所につけたる貝つ物など取り出でたる。こなたよりも、供とする人の笈(おひ)の中より、都のつととて、扇(あふぎ)など取らすれば、「かやうの住まひには、都の方も言伝(ことづて)なければ、風の便りにも見ず侍るを、今宵なむ昔の友に会ひたる」など言ふも、「さこそ」と思ふ。ことは4)何となく、みな人も静まりぬ。
夜も更けぬれども、はるばるきぬる旅衣(たびごろも)5)、思ひ重ぬる苔筵(こけむしろ)は夢結ぶほどもまどろまれず。人には言はぬ忍び音も、袂(たもと)をうるほし侍りて、岩屋のあらはに立ち出でて見れば、雲の波、煙の波も見え分かず。夜の雲おさまり尽きぬれば、月も行く方なきにや、空澄みのぼりて、「まことに6)二千里の外(ほか)まで尋ね来にけり7)」と思ゆるに、後ろの山にや、猿の声の聞こゆるも、腸(はらわた)を断つ心地して、心の中(うち)の物悲しさも、ただ今始めたるやうに思ひ続けられて、「一人思ひ一人歎く涙をも干す便りにや」と、都の外(ほか)まで尋ね来しに、「世の憂きことは忍び来にけり8)」と悲しくて、
杉の庵(いほ)松の柱に篠簾(しのすだれ)憂き世の中をかけ離ればや
1) 「霧」は底本「きか」。 / 2) 「物から、艶なる」は底本「物かからんなる」。 / 3) 「かく」は底本「かゝ」。 / 4) 「言葉」と読む説もある。 / 5) 『伊勢物語』九段「唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」。 / 6) 「まことに」は底本「さ(まこ歟)とに」。「さ」に「まこ歟」と傍書。 / 7) 『白氏文集』八月十五日夜禁中独直対月憶元九「三五夜中新月色 二千里外故人心」。 / 8) 『源氏物語』総角「鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを世の憂き事は尋ね来にけり」。
巻4―7
明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りて見れば、僧の振舞ひ都に違(たが)はず、なつかしく覚えて見つつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて、鎌倉の方を見れば、東山(ひんがしやま)にて京(きやう)を見るには引き違(たが)へて、階(きざはし)などのやうに、重々(ぢゆうぢゆう)に袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。「あなものわびし」と、やうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。
由比の浜といふ所へ出でて見れば、大きなる鳥居あり。若宮の御社(やしろ)はるかに見え給へば、「『他(た)の氏よりは』とかや誓ひ給ふなるに、契りありてこそさるべき家にと生まれけめに、いかなる報いならん」と思ふほどに、まことや、父の生所(しやうじよ)を祈誓申したりし折、「今生の果報に替ゆる」と承りしかば、恨み申すにてはなけれども、袖を広げんをも歎くべからず。また、小野小町も衣通姫(そとほりひめ)が流れといへども、簣(あじか)を肘(ひぢ)にかけ、蓑を腰に巻きても、身の果てはありしかども、「わればかり物思ふ1)」とや書き置きしなど思ひ続けても、まづ御社へ参りぬ。
所のさまは男山(をとこやま)の景色よりも海見(うみみ)遥かしたるは見所ありとも言ひぬべし。大名ども、浄衣(しやうえ)などにはあらで、色々の直垂にて参り2)出づるも、やう変はりたる。
1) 『伊勢物語』27段「わればかり物思ふ人はまたもあらじと思へば水の下にもありけり」。ただし、小野小町とは無関係。4-05にも見られる。 / 2) 「参り」は底本「まいる」
巻4―8
かくて荏柄(えがら)1)・二階堂2)・大御堂(おほみだう)3)などいふ所ども拝みつつ、大蔵の谷(やつ)といふ所に、小町殿4)とて将軍5)に候ふは、土御門の定実6)のゆかりなれば、文つかはしたりしかば、「いと思ひ寄らず」と言ひつつ、「わがもとへ」とてありしかども、なかなかむつかしくて、近きほどに宿を取りて侍りしかば、「頼りなくや」など、さまざまとぶらひおこせたるに、道のほどの苦しさも、しばしいたはるほどに、善光寺の先達(せんだち)に頼みたる人、卯月の末つかたより大事に病み出だして、前後を知らず。あさましとも言ふばかりなきほどに、少しおこたるにやと見ゆるほどに、わが身、またうち臥しぬ。
二人になりぬれば、人も、「いかなることにか」と言へども、「ことさらなることにてはなし。ならはぬ旅の苦しさに、持病の起こりたるなり」とて、医師(くすし)などは申ししかども、今はといふほどなれば、心細さも言はん方なし。さほどなき病だにも、風の気、鼻垂りといへども、少しも煩はしく7)、二・三日にも過ぎぬれば、陰陽(おんやう)・医道の漏るるはなく、家に伝へたる宝、世に聞こえある名馬まで、霊社・霊仏に奉る。南嶺(なんれい)の橘、玄圃(げんぽ)の梨、わがためにとのみこそ騒がれしに、病の床(ゆか)に臥して、あまた日数は積もれども、神にも祈らず、仏にも申さず、何を食ひ、何を用ゐるべき沙汰にも及ばで、たたうち臥したるままにて明かし暮らすありさま、生(しやう)を変へたる心地すれども、命は限りあるものなれば、水無月のころよりは心地もおこたりぬれども、なほ物参り思ひ立つほどの心地はせで、ただよひ歩(あり)きて、月日むなしく過ぐしつつ、八月にもなりぬ。
1) 荏柄天神社。底本「えかう」。 / 2) 永福寺 / 3) 勝長寿院 / 4) 女房名。 / 5) 惟康親王。「将軍」は底本「ゐくん」。 / 6) 土御門定実。作者又従兄弟。 / 7) 「煩はしく」は底本「につらはしく」。
巻4―9
十五日の朝(あした)、小町殿もとより、「今日は京の放生会(はうじやうゑ)の日にて侍り。いかが思ひ出づる」と申したりしかば、
思ひ出づるかひこそなけれ石清水同じ流れの末もなき身は
返し、
ただ頼め心の注連(しめ)の引く方に神もあはれはさこそかくらめ
また、鎌倉の新八幡(やわた)の放生会といふことあれば、ことのありさまもゆかしくて、立ち出でて見れば、将軍1)御出仕のありさま、所につけてはこれもゆゆしげなり。大名ども、みな狩衣にて出仕したる、直垂着たる帯刀(たちはき)とやらんなど、思ひ思ひの姿ども珍しきに、赤橋といふ所より、将軍、車より下りさせおはします折、公卿・殿上人少々御供したるありさまぞ、あまりに賤しげにも物わびしげにも侍りし。
平左衛門入道2)と申す者が嫡子、平二郎左衛門3)が将軍の侍所(さぶらひどころ)の所司とて参りしありさまなどは、物に比べば関白などの御振舞ひと見えき。ゆゆしかりしことなり。
流鏑馬いしいしの祭事(まつりごと)の作法有様は、「見ても何かはせむ」と思えしかば、帰り侍りにき。
1) 惟康親王 / 2) 平頼綱・杲円 / 3) 平宗綱か。
巻4―10
さるほどに、いくほどの日数も隔たらぬに、「鎌倉に事(こと)出で来べし」とささやく。「誰(た)が上ならむ」と言ふほどに、「将軍1)、京へ上り給ふべし」と言ふほどこそあれ、「ただ今、御所を出で給ふ」と言ふを見れば、いとあやしげなる張輿(はりごし)を対(たい)の屋のつまへ寄す。丹後の二郎判官2)と言ひしやらん、奉行して渡し奉る所へ、相模守3)の使とて、平二郎左衛門4)出で来たり。その後、先例なりとて、「御輿、逆様に寄すべし」と言ふ。また、ここにはいまだ御輿にだに召さぬ先に、寝殿には小舎人と5)いふ者の賤しげなるが、藁沓(わらうづ)履きながら上へ上りて、御簾引き落しなどするも、いと目も当てられず。
さるほどに、御輿出でさせ給ひぬれば、面々に女房たちは、輿などいふこともなく、物をうちかづくまでもなく、「御所はいづくへ入らせおはしましぬるぞ」など言ひて、泣く泣く出づるもあり。大名など、心寄せあると見ゆるは、若党など具せさせて、暮れ行くほどに送り奉るにやと見ゆるもあり。思ひ思ひ、心々に別れ6)行くありさまは、言はん方なし。
佐助の谷(やつ)といふ所へまづおはしまして、五日ばかりにて京へ御上りなれば、御出でのありさまも見参らせたくて、その御あたり近き所に推手(おして)の聖天(しやうてん)と申す霊仏(れいぶつ)おはしますへ参りて、聞き参らすれば、「御立ち、丑の時と時を取られたる」とて、すでに立たせおはします折節、宵より降る雨、ことさらそのほどとなりてはおびたたしく、風吹き添へて、「物など渡るにや」と覚ゆるさまなるに、時違(たが)へじとて出だし参らするに、御輿を筵(むしろ)といふ物にて包みたり。あさましく、目も当てられぬ御やうなり。
御輿寄せて召しぬと思ゆれども、何かとて、また庭にかきすゑ参らせて、ほど経れば、御鼻かみ給ふ。いと忍びたるものから、たびたび聞こゆるにぞ、御袖の涙も推し量られ侍りし。
さても、将軍と申すも、夷(えびす)などが7)おのれと世をうち取りて、かくなりたるなどにてもおはしまさず。後嵯峨(のちのさがの)天王8)第二の皇子と9)申すべきにや、後深草の御門には御歳とやらん、ほどやらん10)、御まさりにて、まづ出で来給ひにしかば、十善の主(あるじ)にもなり給はば、これも位をもつぎ給ふべき御身なりしかども、母准后(じゆごう)11)の御ことゆゑ、かなはでやみ給ひしを、将軍にて下り給ひしかども、ただ人にてはおはしまさで、中務の親王と申し侍りしぞかし。その御あと12)なれば、申すにや及ぶ。何となき御思ひ腹など申すことも13)あれども、藤門執柄(とうもんしつぺい)の流れよりも出で給ひき。いづ方につけてか、少しもいるがせなるべき御ことにはおはしますと、思ひ続くるにも、まづ先立つものは涙なりけり。
五十鈴川同じ流れを忘れずはいかにあはれと神も見るらん
「御道のほども、さこそ露けき御ことにて侍らめ」と推し量られ奉りしに、御歌などいふことの一つも聞こえざりしぞ、前将軍14)の、「北野の雪のあさぼらけ15)」などあそばされたりし御後(あと)にと、いと口惜しかりし。
1) 惟康親王 / 2) 二階堂行貞 / 3) 北条貞時 / 4) 4-9既出。平宗綱か。 / 5) 「と」は底本「○(と歟)」。○に「と歟」と傍書。 / 6) 「別れ」は底本「わか(れ歟)」。「か」に「れ歟」と傍書。 / 7) 「などが」は底本「なりなとか」。 / 8) 後嵯峨天皇 / 9) 底本「と」なし。 / 10) 「ほどやらん」は「月とやらん」の誤写とみる説もある。 / 11) 宗尊親王の母、平棟子。 / 12) 宗尊親王のあとの惟康親王 / 13) 「申すことも」は底本「申とも」。 / 14) 宗尊親王 / 15) 『増鏡』北野の雪「なほ頼む北野の雪の朝ぼらけ跡なきことにうづもるる身は」 
■巻4―11〜20

 

巻4―11
かかるほどに、「後深草の院1)の皇子2)、将軍に下り給ふべし」とて、御所作り改め、ことさら華やかに、世の中、大名七人御迎へに参ると聞きし中に、平左衛門入道平左衛門入道3)が二郎飯沼の判官4)、いまだ使の宣旨もかうぶらで新左衛門と申し候ふが、その中に上るに、「流され人5)の上り給ひし跡をば通らじ」とて、足柄山とかやいふ所へ越え行くと聞こえしをぞ、みな人、「あまりなること」とは申し侍りし。
御下り近くなるとて、世の中ひしめくさま6)、ことあり顔なるに、今二・三日になりて、朝(あした)とく、「小町殿より」とて文あり。「何事か」とて見るに、思ひかけぬことなれども、平入道が御前、御方といふがもとへ、東二条院より五つ衣(きぬ)を下しつかはされたるが、調(てう)ぜられたるままにて、縫ひなどもせられぬを、申し合はせんとて、さりがたく申すに、「出家(しゆけ)の習ひ苦しからじ。その上、誰とも知るまじ。ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたびかなふましきよしを申ししかども、果ては相模の守7)の文などいふものさへ取り添へて、何かと言はれし上、これにては何とも見沙汰する心地にてあるに、やすかりぬべきことゆゑ、何かとは言はれんもむつかしくて、まかりぬ。
相模の守の宿所の内にや、角殿(すみどの)とかやとぞ申しし。御所ざまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉(こんごんきんぎよく)をちりばめ、「光耀鸞鏡(くわうえうらんけい)を磨いて8)とはこれにや」と思え、解脱の瓔珞(やうらく)にはあらねども、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、几帳の帷(かたびら)・引き物まで、目も輝き、あたりも光るさまなり。
御方とかや出でたり。地は薄青に紫の濃き薄き糸にて紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物の二つ衣に、白き裳(も)を着たり。見目・ことがら誇りかに、たけ高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道、あなたより走り来て、袖短かなる白き直垂姿にて、慣れ顔に添ひゐたりしぞ、やつるる心地し侍りし。
御所9)よりの衣(きぬ)とて、取り出だしたるを見れば、蘇芳(すはう)の匂ひの内へまさりたる五つ衣に、青き単(ひとへ)重なりたり。上は地は薄々(うすうす)と赤紫に、濃き紫、青き10)格子とを、片身(かたみ)替りに織られたるを、さまざまに取り違(ちが)へて、裁(た)ち縫ひぬ。重なりは内へまさりたるを11)、上へまさらせたれば、上は白く、二番は濃き紫などにて、いと珍(めづら)かなり。
「などかくは」と言へば、「御服所の人々も、『御暇なし』とて、知らずしに、これにてして侍るほどに」など言ふ。をかしけれども、重なりばかり取り直させなどするほどに、守(かう)の殿12)より使あり。「将軍の御所の御しつらひ、外様(とざま)のことはひき13)にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人に見せよ」と言はれたる。「とは何事ぞ」と、むつかしけれども、行きかかるほどにては、憎いげして言ふべきならねば、参りぬ。
これは、さほどに目当てられぬほどのことにてもなく、うちまかせておほやけびたる御事どもなり。御しつらひのこと、ただ今とかく下知し言ふべきことなければ、御厨子の立て所暗く、御衣のかけやう、かくやあるべき」などにて帰りぬ。
1) 後深草院 / 2) 久明親王 / 3) 平頼綱・杲円 / 4) 平資宗・飯沼資宗 / 5) 惟康親王を指す。 / 6) 「ひしめくさま」は底本「ひしめてさま」。 / 7) 北条貞時 / 8) 『往生講式』による。「磨いて」は底本「みて」。 / 9) 東二条院 / 10) 「青き」は底本「あきき」。 / 11) 「まさりたるを」は底本「まいりたるを」。 / 12) 相模守北条貞時 / 13) 「比企」・「日記」の誤写などの説がある。
巻4―12
すでに将軍1)御着きの日になりぬれば、若宮小路は所もなく立ち重なりたり。御関迎への人々、はや先陣は進みたりとて、二・三十、四・五十騎、ゆゆしげにて過ぐるほどに、はやこれへとて、召し次ぎなど体(てい)なる姿に、直垂着たる者、小舎人(こどねり)2)とぞいふなる、二十人ばかり走り立ち、その後、大名ども、思ひ思ひの直垂に、うち群れうち群れ、五・六町にも続きぬと覚えて過ぎぬる後、女郎花(をみなへし)の浮織物(うきおりもの)の御下衣にや召して、御輿の御簾開けられたり。
後に飯沼の新左衛門3)、木賊(とくさ)の狩衣にて供奉したり。ゆゆしかりしことどもなり。御所には、当国司4)・足利5)より、みなさるべき人々 は布衣(ほうい)なり。御馬引かれなどする儀式、めでたく見ゆ。
三日に当たる日は、山内(やまのうち)といふ相模殿6)の山荘へ御入りなどとて、めでたく聞こゆることどもを見聞くにも、雲居の昔の御ことも思ひ出でられてあはれなり。
1) 久明親王 / 2) 「小舎人」は底本「こてのり」 / 3) 平資宗・飯沼資宗 / 4) , 6) 北条貞時 / 5) 足利貞氏
巻4―13
やうやう年の暮れにもなりゆけば、「今年は善光寺のあらましもかなはでやみぬ」と口惜しきに、小町殿1)の・・・
これより残りをば刀にて破(や)られて候ふ2)。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしく候ふ。3)。4)
のほるにのみおぼえて5)、過ぎ行くに、飯沼の新左衛門6)は歌をも詠み、数寄者(すきもの)といふ名ありしゆゑにや、若林の二郎左衛門といふ者を使にて、たびたび呼びて、続歌(つぎうた)などすべきよし、ねんごろに申ししかば、まかりたりしかば、思ひしよりも情けあるさまにて、たびたび寄り合ひて、連歌・歌など詠みて遊び侍りしほどに、師走になりて川越の入道と申す者の跡なる尼の、「武蔵の国小川口7)といふ所へ下る。あれより年返らば善光寺へ参るべし」と言ふも、便り嬉しき心地して、まかりしかば、雪降り積もりて、分け行く道も見えぬに、鎌倉より二日にまかり着きぬ。
かやうのもの隔たり8)たるありさま、前には入間川(いるまがは)9)とかや流れたる、向へには岩淵(いはぶち)の宿といひて、遊女どもの住みかあり。山といふものはこの国中(くにうち)には見えず。はるばるとある武蔵野の、萱(かや)が下折れ、霜枯れ果ててあり。中を分け過ぎたる住まひ、思ひやる都の隔たり行く住まひ、悲しさもあはれさも、取り重ねたる年の暮れなり。
つらつらいにしへをかへりみれば、二歳の年、母には別れければ、その面影も知らず、やうやう人となりて、四つになりし長月二十日余りにや、仙洞(せんとう)10)に知られ奉りて、御簡(ふだ)の列(れち)に連なりてよりこのかた、かたじけなく11)君の恩眷(おんけん)12)を承りて、身を立つるはかりごとをも知り、朝恩をもかぶりて、あまたの年月(としつき)を経しかば、一門の光ともなりもやすると、心の内のあらましも、などか思ひ寄らざるべきなれども、捨てて無為に入る習ひ、定まれる世のことわりなれば、「妻子珍宝及王位(さいしちんぽうきふわうゐ)、臨命終時不随者(りんみやうしふしふずいしや)13)、思ひ捨てにし憂き世ぞかし」と思へども、慣れ来し宮の中(うち)も恋ひしく、折々の御情けも忘られ奉らねば、ことの便りには、まづ言問ふ袖の涙のみぞ、色深く侍る。
雪さへかきくらし降り積もれば、ながめの末さへ道絶え果つる心地して、ながめゐたるに、主(あるじ)の尼君が方より、「雪の中(うち)いかに」と申したりしかば、
思ひやれ憂きこと積る白雪の跡なき庭に消えかへる身を
問ふにつらさの涙もろさも、人目あやしければ、忍びて、また年も返りぬ。
1) 「小町殿」は底本「こも(ま歟)ち殿」。「も」に「ま歟」と傍書。 / 2) 「候ふ」は底本「し」。 / 3) 「候ふ」は底本「て」 / 4) 「これより」以下ここまで、親本の注記が本文化したもの。 / 5) 底本ママ。「心のほかにのみ覚えて」と試読される。 / 6) 平資宗・飯沼資宗 / 7) 「小川口」は底本「こかいくち」。「こ」を「ニ」と読んで「に川口」とする説もある。 / 8) 「もの隔たり」は底本「物(本)へり」。「物」の右下に「本」と傍書。 / 9) 「入間川」は底本「いかま川」。現在の荒川。 / 10) 後深草院 / 11) 「かたじけなく」は底本「かた」なし。 / 12) 「恩眷」は底本「せんけん」。「恩言」とする説もある。 / 13) 『大集経』による。
巻4―14
軒端(のきば)の梅に木伝(こづたふ)ふ鶯1)の音(ね)におどろかされても、あひ見返らざる恨み忍びがたく、昔を思ふ涙は、改まる年ともいはず、ふるものなり。
如月の十日あまりのほどにや、善光寺へ思ひ立つ。碓氷坂(うすひざか)2)、木曽の懸路(かけぢ)の丸木橋(まろきばし)、げに踏み見るからに危ふげなる渡りなり。道のほどの名所なども、やすらひ見たかりしかども、大勢に引き具せられて、ことしげかりしかば、何となく過ぎにしを、思ひのほかにむつかしければ、宿願の心ざしありて、しばしこもるべきよしを言ひつつ、帰(かへ)さには留まりぬ。
一人留め起くことを心苦しがり言ひしかば、「中有(ちゆうう)の旅の空には誰か伴ふべき。生ぜし折も一人来たりき。去りて行かん折も、またしかなり。あひ会ふ者は必ず別れ、生ずる者は死に必ず至る。桃花(たうくわ)装ひいみじといへども、ついには根に帰る。紅葉(こうえふ)は千入(ちしほ)の色を尽して盛りありといへども、風を待ちて秋の色久しからず。名残を慕ふは一旦(いたん)の情けなり」など言ひて、一人留まりぬ。
所のさまは、眺望などはなけれども、生身(しやうじん)の如来3)と聞き参らすれば、頼もしく覚えて、百万遍の念仏など申して、明かし暮らすほどに、高岡の石見の入道4)といふ者あり。いと情けある者にて、歌常に詠み、管絃(くわげん)などして遊ぶとて、かたへなる修行者・尼に誘はれてまかりたりしかば、まことにゆゑある住まひ、辺土分際(へんどぶんざい)には過ぎたり。かれと言ひこれと言ひて、慰む便りもあれば、秋までは留まりぬ。
1) 「鶯」は底本「うくひ」。 / 2) 碓氷峠 / 3) 「如来」は底本「女らい」。 / 4) 和田石見入道仏阿か。
巻4―15
八月の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ、「今までこれらにも侍りつれ」と思ひて、武蔵国へ帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします。霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分け行くに、萩(はぎ)・女郎花(をみなへし)・荻(をぎ)・薄(すすき)よりほかは、また混じるものもなく、これが高さは馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、推し量るべし。
三日にや、分け行けども尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿(しゆく)などもあれ、はるばる一通りは来し方行く末野原なり。
観音堂は、ちと引き上がりて、それも木などは無き原の中におはしますに、まめやかに、「草の原より出づる月影1)」と思ひ出づれば、今宵は十五夜なりけり。雲の上の御遊びも思ひやらるるに2)、御形見の御衣(おんぞ)は、如法経(によほふきやう)の折、御布施に大菩薩に参らせて、「今ここにあり」とは思えねども、鳳闕(ほうけつ)の雲の上、忘れ奉らざれば、余香(よきやう)をば拝する心ざしも深きに変はらずぞ思えし。草の原より出でし月影、更け行くままに澄みのぼり、葉末に結ぶ白露は、珠(たま)かと見ゆる心地して、
雲の上に見しもなかなか月ゆゑの身の思ひ出は今宵なりけり
涙に浮かぶ心地して
隈(くま)もなき月になり行くながめにもなほ面影は忘れやはする
明けぬれば、さのみ野原に宿るべきならねば、帰りぬ。
1) 『新古今和歌集』秋上 藤原良経「行く末は空も一つの武蔵野に草の原より出づる月影」 / 2) 『源氏物語』須磨「「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊び恋しく」
巻4―16
さても、隅田川原近きほどにやと思ふも、いと大きなる橋の清水・祇園の橋の体(てい)なるを渡るに、汚なげなき男(おとこ)二人会ひたり。「このわたりに隅田川といふ川の侍るなるはいづくぞ」と問へば、「これなんその川なり。この橋をば『須田の橋』と申し侍り。昔は橋なくて、渡舟(わたしぶね)にて人を渡しけるも、わづらはしくとて、橋出で来て侍り。隅田川などはやさしきことに申し置きけるにや。賤(しづ)がことわざには、須田川(すだかは)の橋とぞ申し侍り。この川の向へをば、昔は三芳野(みよしの)の里と申しけるが、賤が刈り干す稲と申すものに、身の入らぬ所にて侍りけるを、時の国司、里の名を尋ね聞きて、「ことわりなりけり」とて、『吉田の里』と名を改められて後、稲うるはしく、身も入り1)侍り」など語れば、業平の中将2)、都鳥3)に言問ひける4)も思ひ出でられて、鳥だに見えねば、
尋ね来しかひこそなけれ隅田川住みけん鳥の跡だにもなし
川霧こめて、来し方行く先も見えず、涙にくれてゆく折節、雲居遥かに鳴く雁(かりがね)の声もおり知り顔に覚え侍りて、
旅の空涙しぐれて5)行く袖を言問ふ雁の声ぞ悲しき
掘兼の井は跡もなくて、ただ枯れたる木の一つ残りたるばかりなり。これより奥ざままでも行きたけれども、恋路の末にはなほ関守も許しがたき世なれば、「よしや、なかなか」と思ひ返して、また、「都の方へ帰り上りなん」と思ひて、鎌倉へ帰りぬ。
1) 「入り」は底本「いる」。 / 2) 在原業平。 / 3) 「都鳥」は底本「宮ことも」。 / 4) 『伊勢物語』九段。 / 5) 「しくれて」は底本「なみたに(し)くれて」。「に」に「し」と傍書。
巻4―17
とかく過ぐるほどに、長月の十日余りのほどに、都へ帰り上らんとするほどに、さきに慣れたる人々、面々に名残り惜しみなどせし中に、暁とての暮れ方、飯沼の左衛門尉1)、さまざまの物ども用意して、「いま一度、続歌(つぎうた)すべし」とて来たり。情(なさけ)もなほざりならず思えしかば、夜もすがら歌詠みなどするに、「涙川と申す川はいづくに侍るぞ」といふことを、さきの度尋ね申ししかども、知らぬよし申して侍りしを、夜もすがら遊びて、「明けば、まことに立ち給ふやは」と言へば、「止まるべき道ならず」と言ひしかば、帰るとて、盃(さかづき)すゑたる折敷に書き付けて行く。
我袖にありけるものを涙川しばし止まれと言はぬ契りに
「返しつかはしやする」など思ふほどに、また立ち帰り、旅の衣(ころも)など賜はせて、
着てだにも身をば放つな旅衣(たびごろも)さこそよそなる契りなりとも
鎌倉のほどは、常にかやうに寄り合ふとて、「あやしく、いかなる契りなどぞ」と申す人もあるなど聞きしも、取り添へ思ひ出でられて、返しに、
干さざりしその濡れ衣も今はいとど恋ひん涙に朽ちぬべきかな
都を急ぐとしはなけれども、さてしも留まるべきならねば、朝日とともに明け過ぎてこそ立ち侍りしか。
面々に宿々へ次第に輿にて送りなどして、ほどなく小夜(さや)の中山に至りぬ。西行が、「命なりけり2)」と詠みける、思ひ出でられて、
越え行くも苦しかりけり命ありとまた問はましや小夜の中山
1) 平資宗・飯沼資宗 / 2) 『新古今和歌集』羇旅 西行「年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜中山」。
巻4―18
熱田の宮1)に参りぬ。
通夜したるほどに、修行者どもの侍る、「大神宮2)より」と申す。「近く侍るか」と言へば、「津島の渡りといふ渡りをして参る」よし申せば、いと嬉しくて、参らんと思ふほどに、宿願にて侍れば、「まづこの社(やしろ)にて、華厳経の残り今三十巻を書き果て参らせん」と思ひて、何となく鎌倉にてちと人の賜びたりし旅衣(たびごろも)など、みな取り集めて、またこれにて経を始むべき心地せしほどに、熱田の大宮司とかやいふ者、わづらはしくとかく申すことどもありて、かなふまじかりしほどに、とかくためらひしほどに、例の大事に病(やまひ)おこり、わびしくて、何の勤めもかなひがたければ、都へ帰り上りぬ。
1) 熱田神宮 / 2) 伊勢神宮
巻4―19
十月の末にや、都にちと立ち帰りたるも1)、なかなかむつかしければ、「奈良の方(かた)は藤の末葉2)にあらねば」とて、いたく参らざりしかども、「都遠からぬも、遠き道にくたびれたる折からはよし」など思ひて、参りぬ。
誰を知るといふこともなければ、ただ一人参りて、まづ大宮3)を拝み奉れば、二階の楼門の景気、四社甍(いらか)を並べ給ふさまいと貴く、峰の嵐の激しきにも、煩悩の眠(ねぶ)りをおどろかすかと聞こえ、麓(ふもと)に流るる水の音、生死(しやうじ)の垢をすすがるらんなど思ひ続けられて、また若宮へ参りたれば、少女子(おとめご)が姿もよしありて見ゆ。夕日は御殿の上にさして、峰の梢(こずゑ)に映ろひたるに、若き御子二人、御あひにて、たびたびする気色なり。
今宵は若宮の馬道(めんだう)の通夜して聞けば、夜もすがら面々に物数ふるにも、狂言綺語(きやうげんきぎよ)を便りとして導き給はんの御心ざし深くて、和光の塵にまじはり給ひける御心、いまさら申すべきにあらねども、いと頼もしきに、「喜多院住僧林懐僧正4)の弟子真喜僧正とかやの、鼓の音・鈴(すず)の声に行ひを紛らかされて、『われ、もし六宗の長官ともなるならば、鼓の音・鈴の声、長く聞かじ』と誓ひて、宿願相違なく寺務をせられけるに、いつしか思ひしことなれば、拝殿の神楽を長くとどめられにけり。朱(あけ)の玉垣も物寂しく、巫覡(きね)は歎きも深けれども、神慮に任せて過ぎけるに、僧正、『今生の望みは残る所なし。臨終正念こそ今は望む所なれ』とて、またこもり給ひつつ、わが得る所の法味を心のままに手向けしに、明神、夢のうちに現はれて、『法性(ほつしやう)の山を動かして、生死の塵に身を捨て、無智の男子(なんし)の後生菩提をあはれみ思ふ所に、鼓の声・鈴の音をとどめて結縁を遠ざからしむる恨み、やるかたもなければ、なんぢか法味をわれ受けず』と示し給ひけるにより、いかなる訴訟・歎きにも、これをとどむることなし」と申すを聞くにも、いよいよ頼もしく、貴くこそ覚え侍りしか。
1) 「帰りたるも」は底本「かへれたるも」。「隠れたるも」と読む説もある。 / 2) 藤原氏の子孫。 / 3) 春日大社 / 4) 「喜多院住僧林懐僧正」は底本「北院ちうりう印外僧正」。「ちうりう」は「住侶」とする説もある。
巻4―20
明けぬれば、法華寺へ尋ね行きたるに、冬忠の大臣(おとど)1)の女、寂円房と申して、一の室(むろ)といふ所に住まるるに会ひて、生死無常(しやうじむじやう)の情けなきことわりなど申して、「しばしかやうのてらにも住まひぬべきか」と思へども、心のどかに学問などしてありぬべき身の思ひとも、われながら思えねば、ただいつとなき心の闇に誘はれ出でて、また奈良の寺2)へ行くほどに、春日の正の預(あづかり)祐家3)といふ者が家に行きぬ。
誰かもととも知らで過ぎ行くに、棟門(むねかど)のゆゑゆゑしきが見ゆれば、「堂などにや」と思ひて立ち入りたるに、さにてはなくて、よしある人の住まひと見ゆ。庭に菊の籬(まがき)、ゆゑあるさまして、移ろひたる匂ひも九重(ここのへ)に変る色ありとも見えぬに、若き男一・二人出で来て、「いづくより通る人ぞ」など言ふに、「都の方(かた)より」と言へば、「かたはらいたき菊の籬も目恥しく」など言ふもよしありて、祐家が子、権の預祐永4)などぞ、この男は言ふなる。祐敏美濃権守5)、兄弟(おととい)なり。
九重のほかに移ろふ身にしあれば都はよそにきくの白露
と札に書きて、菊に付けて出でぬるを、見付けにけるにや、人を走らかして、やうやうに呼び返して、さまざまもてなしなどして、「しばし休みてこそ」など言へば、例のこれにもまたとどまりぬ。
1) 大炊御門冬忠 / 2) 興福寺 / 3) 中臣祐家 / 4) 中臣祐永 / 5) 中臣祐敏 
■巻4―21〜30

 

巻4―21
中宮寺といふ寺は聖徳太子の御旧跡、その妃(きさき)1)の御願など聞くもゆかしくて、参りぬ。長老は信如房2)とて、昔3)御所ざまにては見し人なれども、年の積もるにや、いたく見知りたるともなければ、名乗るにも及ばで、ただかりそめなるやうにて申ししかども4)、いかに思ひてやらん、いとほしく当たられしかば、またしばしこもりぬ。
1) 橘大郎女 / 2) 僧璋円女。「信如房」は底本「しん女房」。 / 3) 「昔」は底本「むむかし」。 / 4) 「申ししかども」は底本「よしかとも」。「よりしかども」の誤写とする説もある。
巻4―22
法隆寺より当麻(たへま)1)へ参りたれば、「横佩(よこはき)の大臣(おとど)2)の女(むすめ)3)、生身(しやうじん)の如来を拝み参らせんと誓ひてけるに、尼一人来たりて、『十たん4)の蓮の茎を賜はりて、極楽の荘厳(しやうごん)織りて見せ参らせん』とて、乞ひて、糸を引きて、染井(そめのゐ)5)の水にすすげば、この糸五色(ごしき)に染まりけるをぞしたためたる所へ、女房一人来たりて、油を乞ひつつ、亥の時より寅の時に織り出だして帰り給ふを、坊主6)、『さても、いかにしてかまた会ひ奉るべき』と言ふに、
『往昔迦葉説法所 (わうじやくかせふせつぽうじよ)
今来法基作仏事 (こんらいほふきさくぶつじ)7)
卿懇西方故我来 (きやうこんさいはうこがらい)
一入是場永離苦 (いちにふぜぢやうやうりく)』
とて、西方を指して飛び去り給ひぬ」と、書き伝へたるも、ありがたく貴し。
太子の御墓8)は、石のたたずまひも、まことにさる御陵(みささぎ)と思えて、心とどまる折節、如法経を行ふも結縁(けちえん)嬉しくて、小袖を一つ参らせて帰り侍りぬ。
かやうにしつつ、年も返りぬ。
1) 二上山禅林寺・当麻寺 / 2) 藤原豊成 / 3) , 6) 中将姫 / 4) 「十駄」か。 / 5) 「染井」は底本「そめのとゐ」。「染殿井(そめどのゐ)」と読む説もある。 / 7) 「さくぶつじ」は底本「さんふつし」 / 8) 聖徳太子の墓
巻4―23
二月のころにや、都へ帰り上るついでに、八幡(やはた)1)へ参りぬ。奈良より八幡へは道のほど遠くて、日の入るほどに参り着きて、猪鼻(ゐのはな)を上りて宝前(ほうぜん)へ参るに、石見の国の者とて低人(ひきうど)の参るを行き連れて、「いかなる宿縁にて、かかる片輪人となりけんなど思ひ知らずや」と言ひつつ行くに、馬場殿の御所開きたり。
検校(けんぎやう)などがこもりたる2)折も開けば、「必ず御幸」など言ひ聞かする人も、道のほどにてもなかりつれば、思ひも寄り参らせで過ぎ行くほどに、楼門を登る所へ、召次(めしつぎ)などにやと思ゆる者出で来て、「馬場殿3)の御所へ参れ」と言ふ。「誰(たれ)か渡らせ給ふぞ。誰と知りて、さることを承るべきこと覚えず。あの低人などがことか」と言へば、「さも候はず。まがふべきことならず。御事にて候ふ。一昨日(おととひ)より富小路殿の一院4)、御幸にて候ふ」と言ふ。
ともかくも物も申されず。年月は心の中(うち)5)に忘るる御事はなかりしかども、一年(ひととせ)、「今は」と思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、「この世の限り」とは思ひしに、「苔の袂(たもと)・苔の衣(ころも)、霜・雪霰(あられ)にしをれ果てたる身のありさまは、誰かは見知らんと思ひつるに、誰か見知りけん」など思ひて、なほ御所よりの御事とは思ひ寄り参らせで、「女房たちの中に、『怪し』と見る人などのありて、『僻目(ひがめ)にや』とて問はるるにこそ」など案じゐたるほどに、北面の下臈一人走りて、「とく」と言ふなり。
何と逃るべきやうもなければ、北の端(はし)なる御妻戸の縁(ゑん)に候へば6)、「なかなか人の見るも目立たし。内へ入れ」と仰せある御声は、さすが昔ながらに変らせおはしまさねば、「こは、いかなるつることぞ」と思ふより、胸つぶれて少しも動かれぬを、「とくとく」と承れば、なかなかにて参りぬ。
「ゆゆしく見忘られぬにて、年月隔りぬれども、忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などより始めて、昔今(むかしいま)のことども、移り変る世の習ひ、あぢきなく思し召さるるなど、さまざま承りしほどに、寝ぬに明け行く短夜(みじかよ)は、ほどなく明け行く空になれば、「御こもりのほどは必ずこもりて、またも心静かに」など承りて、立ち給ふ7)とて、御肌に召されたる御小袖を三つ脱がせおはしまして、「人知れぬ形見ぞ。身を放つなよ」とて賜はせし心の中(うち)は、来し方行く末のことも、来ん世の闇も、よろづ思ひ忘れて、悲しさもあはれさも、何と申しやる方なきに、はしたなく明けぬれば、「さらばよ」とて引き立てさせおはしましぬる御名残りは、御跡なつかしく匂ひ、近きほどの御移り香も、墨染の袂に留まりぬる心地して、人目あやしく目立たしければ、御形見の御小袖を墨染の衣の下に重ぬるも、びんなく悲しきものから、
重ねしも昔になりぬ恋衣今は涙に墨染の袖
むなしく残る御面影を、袖の涙に残して立ち侍るも、夢に夢見る心地して、「今日ばかりも候ひて8)、今一度(ひとたび)ものどかなる御ついでもや」など思ひ参らせながら、「憂き面影も、思ひ寄らずながらは、『力なき身のあやまり』とも思し召されぬべし。あまりにうちつけに留まりて、またの御言の葉を待ち参らせ顔ならんも、思ふ所なきにもなりぬべし」など、心に心を戒めて、都へ出づる心の中、さながら推し量るべし。
「御宮巡りをまれ、今一度(ひとたび)よそながら見参らせん」と思ひて、「墨染の袂は御覧じもぞ付けらるる」と思ひて、賜はりたりし御小袖を上に着て、女房の中にまじりて見参らするに、御裘代(きうたい)の姿も昔には変はりたるも、あはれに覚えさせおはしますに、階(きざはし)登らせおはしますとては、資高の中納言9)、侍従の宰相と申ししころにや、御てを引き参らせて入らせおはします。
「同じ袂なつかしく」など、さまざま承りて、いはけなかりし世のことまで、数々仰せありつるさへ、さながら耳の底にとどまり、御面影は袖の涙に宿りて、御山(おやま)を出で侍りて、都へと北へはうち向けども、わが魂はさながら御山に留まりぬる心地して帰りぬ。
1) 石清水八幡宮 / 2) 「などがこもりたる」は底本「なとる(か歟)こもか(り歟)たる」。「る」に「か歟」、「か」に「り歟」と傍書。 / 3) 「馬場殿」は底本「はうとの」。 / 4) 後深草院 / 5) 「心の中」は底本「心○(の歟)うち」。 / 6) 「候へば」は底本「うへは」。 / 7) 「立ち給ふ」は底本「たり給」。 / 8) 「候ひて」は底本「かて」。 / 9) 二条資高
巻4―24
さても都にとどまるべきならねば、「去年(こぞ)思ひ立ちし宿願も果たしやする1)」と、こころみにまた熱田の宮2)へ参りつつ、通夜をしたりし夜中ばかりに、御殿の上に火燃え上がりたり。宮人、騒ぎののしるさま、推し量るべし。神火なれば、凡夫(ほんぶ)の消つべきことならざりけるにや、時のほどにむなしき煙(けぶり)と立ち上り給ふに、明け行けば、「むなしき灰を造り返し参らせん」とて、匠(たくみ)ども参る。
大宮司、祝詞(のと)の師など申す者どもまはりたるに、開けずの御殿とて、神代の昔、みづから造り籠り給ひける御殿の礎(いしずゑ)のそばに、大物(だいもつ)どもなほ燃ゆる炎のそばなる礎にある漆なる箱の、表一尺ばかり、長さ四尺ばかりなる、添へ立ちたり。みな人、不思議の思ひをなして見参らするに、祝詞の師といふは神にことさら御むつまじく宮仕ふ者なりといふが参りて、取り上げ奉りて、そばを3)ちと開け参らせて、見参らするに、「赤地(あかぢ)の錦の袋に入らせ給ひたりと思ゆるは、御剣(つるぎ)なるらむ」と申して、八剣宮(やつるぎのみや)の御社を開きて、納め奉る。
さても不思議なりしことには、この御神は景行天皇即位(しよくゐ)十年生まれましましけるに、東(あづま)の夷(えびす)を降伏(がうぶく)のために、勅を承りて下り給ひけるに、伊勢大神宮4)にまかり申しに参り給ひけるに、『前(さき)の生まれ、素盞嗚尊(そさのをのみこと)たりし時、出雲の国にて八岐大蛇の尾の中より取り出でて、われに与へし剣(つるぎ)なり。錦5)の袋あり。これを敵(かたき)のために攻められて、命限りと思はん折、開けて見るべし』とて賜ひしを、駿河国御狩野(みかりの)にして、野火の難にあふ時に、はき給ふ剣おのれと抜けて、御あたりの草を切り捨つ。その折、錦の袋なる火打ちにて、火を打ち出で給ひしかば、炎、仇(あた)6)の顔へ7)覆ひ、眼(まなこ)を暗(くら)かして、ここにて滅びぬ。そのゆゑ、この野を焼津野(やきつの)とも言ひき。御剣をば草薙剣(くさなぎのつるぎ)と申すなり」といふ御記文(きもん)の焼け残り給ひたるを、ちと聞き参らせしこそ、見しむばたまの夢の言葉思ひ合はせられて、不思議にも貴くも覚え侍りしか。
1) 4-18参照 / 2) 熱田神宮 / 3) 「そばを」は底本「ういを」。 / 4) 伊勢神宮 / 5) 「錦」は底本「ふしき」。 / 6) 「仇」は底本「あさ」。 / 7) 「顔へ」は底本「かなへ」。「方へ」と読む説が一般的。
巻4―25
かかる騒ぎのほどなれば、経沙汰もいよいよ機嫌悪しき心地して、津島の渡り1)といふことをして、大神宮2)に参りぬ。卯月の初めつ方のことなれば、何となく青みわたりたる梢(こずゑ)も、やう変りておもしろし。
まづ新宮に参りたれば、山田の原の杉の群立(むらだ)ち、時鳥(ほととぎす)の初音を待たん便りも、「ここを瀬にせん」と語らは3)まほしげなり。神館(かんだち)といふ所に、一・二の禰宜(ねぎ)より宮人ども伺候したる。「墨染の袂は憚りあること」と聞けば、いづくにていかにと参るべきこととも知らねば、「二の御鳥居4)御庭(みには)所といふ辺(へん)までは苦しからじ」と言ふ5)。
所のさま、いと神々しげなり。館(たち)の辺にたたずみたるに、男二・三人、宮人とおぼしくて、出で来て、「いづくよりぞ」と尋ぬ。「都の方より、結縁しに参りたる」と言へば、「うちまかせては、その御姿は憚り申せども、くたびれ給ひたる気色も、神も許し給ふらん」とて、内へ入れて、やうやうにもてなして、「しるべし奉るべし。宮の内へはかなふまじければ、よそより」など言ふ。千枝(ちえだ)の杉の下、御池の端(はた)まで参りて、宮人、祓へ神々しくして、幣(ぬさ)をさして出づるにも、「心の中(うち)の濁り深さは、かかる祓へにも清くはいかが」とあさまし。
帰(かへ)さには、そのわたり近き小家(こいへ)を借りて宿るに、「さても、情けありてしるべさへしつる人、誰ならん」と聞けば、三の禰宜行忠6)といふ者なり。これは館の主(あるじ)なり。「しるべしつるは、当時の一の禰宜が7)二郎、七郎大夫常良8)といふ」など語り申せば、さまざまの情けも忘れがたくて、
おしなべて塵にまじはる末とてや苔の袂に情けかくらん
木綿四手(ゆふしで)の切れに書きて榊(さかき)の枝に付けてつかはし侍りしかば、
影宿す山田の杉の末葉さへ人をも分かぬ誓ひとを知れ
これにまづ七日こもりて、「生死(しやうじ)の一大事をも祈誓申さん」と思ひて侍るほど、面々に宮人とも歌詠みておこせ、連歌いしいしにて明かし暮らすも、情けある心地するに、うちまかせての社などのやうに経を読むことは、宮の中にてはなくて、法楽舎(ほふらくしや)といひて、宮の中(うち)より四・五町のきたる所なれば、日暮らし念誦などして暮るるほどに、それ近く、観音堂と申して尼の行ひたる所へまかりて、宿を借れば、「かなはじ」と固く申して、情けなく追ひ出で侍りしかば、
世を厭ふ同じ袂の墨染をいかなる色と思ひ捨つらん
前なる南天竺の枝を折りて、四手(しで)に書きてつかはし侍りしかば、返しなどはせで、宿を貸して、それより知る人になりて侍りき。
七日も過ぎぬれば、内宮へ参らんとするに、初めの先達(せんだち)せし常良、
いまぞ思ふ道行く人は慣れぬるも悔しかりける和歌の浦浪
返しには
何か思ふ道行く人にあらずとも止まり果つべき世の習ひかは
1) 4-18参照 / 2) 伊勢神宮 / 3) 「語らは」は底本「かたらひ(か歟)」。「ひ」に「か歟」と傍書だが、意味が通じない。 / 4) 「鳥居」は底本「とりゐ(本)」。「ゐ」に「本」と傍書。 / 5) 「言ふ」は底本「はふ」。 / 6) 度会行忠 / 7) 度会貞尚。「禰宜が」は底本「ねきは」。 / 8) 度会常良
巻4―26
内宮には、ことさら数寄者どももありて、「かかる人1)の、外宮にこもりたる」と聞きて、「いつか内宮の神拝(じんぱい)に参るべき」など待たると聞くも、そぞろはしけれども、さてあるべきならねば参りぬ。
岡田といふ所に宿りて侍る隣に、ゆゑある女房の住処(すみか)あり。いつしか、若き女の童、文を持ちて来たり。
何となく都と聞けばなつかしみそぞろに袖をまた濡らすかな
二の禰宜延成2)が後家といふ者なりけり。「かまへて、みづから申さん」など書きたる返事には、
忘られぬ昔を問へば悲しさも答へやるべき言の葉ぞなき
待たれて出づる短夜(みじかよ)の、月なきほどに宮中へ参るに、これもはばかる姿なれば、御裳濯川(みもすそがは)3)の川上より御殿を拝み奉れば。八重榊(やへさかき)もことしげく立ち重ね、水垣・玉垣、遠く隔りたる心地するに、「この御社の千木は、上一人(かみいちにん)を守(まぼ)らんとて、上へそがれたる」と聞けば、何となく、「玉体安穏」と申されぬるぞ、われながらいとあはれなる。
思ひそめし心の色の変らねば千代とぞ君をなほ祈りつる
神風すごくおとづれて、御裳濯川の流れものどかなるに、神路の山4)を分け出づる月影、ここに光を増すらんと覚えて、わが国の外(ほか)まで思ひやらるる心地して侍り。
神拝事故(ことゆゑ)なく遂げて、下向し侍るとて、神館(かんだち)の前を通るに、一の禰宜尚良(ひさよし)5)が館、ことさらに月さし出でてすごく見ゆるに、みなおろしこめて侍りしかば、「外宮をは月宮と申すか」とて、
月をなど外(ほか)の光と隔つらんさこそ朝日の影にすむとも
榊の枝に四手に書きて結び付けて、神館の縁に置かせて帰り侍りしかば、開けて見けるにや、宿所へ6)また榊に付けて、
すむ月をいかが隔てん槙(まき)の戸を開けぬは老いの眠りなりけり
1) 作者 / 2) 荒木田延成 / 3) 五十鈴川 / 4) 神路山 / 5) 荒木田尚良 / 6) 「宿所へ」は底本「へ」なし。
巻4―27
これにも七日こもりて、出で侍るに、「さても、二見浦(ふたみのうら)はいづくのほどにか。御神、心をとどめ給ひけるもなつかしく」など申すに、しるべ給ふべきよし申して1)、宗信神主2)といふ者を付けたり。具して行くに、清き渚、蒔絵3)の松、雷(いかづち)の蹴裂き給ひける石など見るより、佐美(さび)の明神と申す社は渚におはします。それより舟に乗りて、答志(たうし)の島4)・御饌(ごせん)の島・通る島など見に行く。
御饌の島とは海松(みる)の多く生ゆるを、この宮の禰宜参りて、摘みて、御神の御饌供ふる所なり。通る島とは、上に屋の棟のやうなる石、うつろに覆ひたる中海(なかうみ)にて、舟をさし通すなり。
海漫々(かいまんまん)たる気色、いと見所多く侍りき。
1) 「よし申して」は底本「にし申」。 / 2) 荒木田宗信 / 3) 「蒔絵」は底本「さきゑ」。 / 4) 「答志の島」は底本「たかしのしま」。
巻4―28
まことや、「小朝熊(こあさくま)の宮1)と申すは、鏡造(かがみつくり)の明神2)の天照大神(てうせうだいじん)の御姿を写されたりける御鏡を、人が盗み奉りてとかや、淵に沈め置き参らせけるを取り奉りて、宝前に納め奉りければ、『われ苦海3)の鱗(いろくづ)4)を救はんと思ふ願あり』とて、みづから宝前より出でて、岩の上に現はれまします。岩のそばに桜の木一本あり。高潮満つ折は、この木の梢(こずゑ)に宿り、さらぬ折は、岩の上におはします」と申せば、あまねき御誓ひも頼もしく覚え給ひて、一・二日のどかに参るべき心地して、汐合(しほあひ)といふ所に、大宮司(おほみやづかさ)5)といふ者の宿所に宿を借る。
いと情けあるさまに、ありよき心地して、またこれにも二・三日経るほどに、「二見浦(ふたうみのうら)は月の夜こそおもしろく侍れ」とて、女房ざまも引き具してまかりぬ。まことに心とどまりて、おもしろくもあはれにも言はん方なきに、夜もすがら渚にて遊びて、明くれば帰り侍るとて、
忘れじな清き渚に澄む月の明け行く空にの残る面影
照月(てるづき)といふ得選(とくせん)は、伊勢の祭主がゆかりあるに、何としてこの浦にあるとは聞こえけるにか、「院の御前にゆかりある女房のもとより」とて文あり。思はずに不思議なる心地しながら、開けて見れば、二見浦の月に慣れて、雲居の面影は忘れ果てにけるにや。思ひ寄らざりし御物語も、今一度(ひとたび)」など、細やかに御気色あるよし、申したりしを6)見し心の中(うち)、われながらいかばかりとも分きがたくこそ。
御返しには、
思へただなれし雲居の夜半の月ほかにすむにも忘れやはする
1) 朝熊神社 / 2) イシコリドメ / 3) 「苦海」は底本「九かい」 / 4) 「鱗」は底本「色くつ」 / 5) 大中臣康雄 / 6) 「申したりしを」は底本「申さりしを」。「申されしを」と読む説もある。
巻4―29
さのみあるべきならねば、外宮へ帰り参りて、今は世の中も静まりぬれば、経の願をも果たしに、熱田の宮へ帰り参らんとするに、御名残も惜しければ、宮中に侍りて、
あり果てん身の行く末のしるべせよ憂き世の中を度会(わたらひ)の宮
暁立たんとする所へ、内宮の一の禰宜尚良1)がもとより、「このほどの名残、思ひ出でられ侍り。九月の御斎会(ごさいゑ)に必ず参れ」など言ひたりしも、情けありしかば、
行く末も久しかるべき君か代にまた帰りこん長月のころ
「心の内の祝ひは人知り侍らじ。君をも、われをも、祝はれたる返りごとは、いかが申さざるべき」とて、夜中ばかりに絹(きぬ)を二巻包みて、「伊勢島2)の土産(とさん)なり」とて、
神垣にまつも久しき契りかな千年(ちとせ)の秋の長月のころ
その暁の出潮3)の舟に乗りに、宵より大湊と4)いふ所へまかりて、賤しき浦人が塩屋(しほや)のそばに5)旅寝したるにも、鵜のいる岩の間(はざま)、鯨の寄る磯なりと、思ふ人だに契りあらば」とこそ、古き言の葉にも言ひ置きたるに、「こは何事の身の行くへぞ。待つとてもまた憂き思ひの慰むにもあらず、越え行く山の末にも逢坂(あふさか)もなし」など思ひ続けて、また出でんとする暁、夜深く外宮の宮人常良6)がもとより、「本宮へつぐべき便り文を取り忘れたる、つかはす」とて、
たち帰る波路(なみぢ)と聞けば袖濡れてよそになるみの浦の名ぞ憂き
返し、
かねてよりよそのなるみの契りなれど帰る波には濡るる袖かな
熱田の宮には、造営のいしいしとて、ことしげかりけれども、宿願のさのみほど経るも本意(ほい)なければ、また道場したためなどして、華厳経の残り三千巻をこれにて書き奉りて、供養し侍りしに、導師などもはかばかしからぬ田舎法師なれば、何のあやめ知るべきにもあらねども、十羅刹の法楽(ほふらく)なれな、さまざま供養して、また京へ上り侍りぬ。
1) 荒木田尚良 / 2) 伊勢志摩 / 3) 「出潮」は底本「ちしを」。 / 4) 「大湊と」は底本「おほみなと○(と歟)」。○に「と歟」と傍書。 / 5) 「そばに」は底本「そいに」。 / 6) 度会常良
巻4―30
さても、思ひかけざりし男山の御ついで1)は、この世の外(ほか)まで忘れ奉るべしとも思えぬに、一つゆかりある2)人して、たひたび古き住処(すみか)をも御尋ねあれども、何と思ひ立つべきにてもなければ、あはれにかたじけなく思えさせおはしませども、むなしく月日を重ねて、またの年の長月のころにもなりぬ。
伏見の御所に御渡りのついで、おほかたも御心の静かにて、人知るべき便宜(びんぎ)ならぬよしをたびたび言はるれば、思ひそめ参らせし心悪(わろ)さは、げにとや思ひけん、忍びつつ下(しも)の御所の御あたりち近く参りぬ。
しるべせし人出で来て案内(あんない)するも、ことさらびたる心地してをかしけれども、出御(しゆつぎよ)待ち参らするほど、九体堂(くたいだう)の高欄に出でて見渡せば、世を宇治川の川波も、袖の湊(みなと)に寄る3)心地して、「月ばかりこそ夜と見えしか4)」と言ひけん旧事(ふること)まで思ひ続くるに、初夜過ぐるほどに出でさせおはしましたり。
隈なき月の影に、見しにもあらぬ御面影は、映るも曇る心地して、いまだ二葉にて明け暮れ御膝のもとにありし昔より、今はと思ひ果てし世のことまで、数々承る。出づるもわが旧事ながら、などかあはれも深からざらん。
「憂き世の中(なか)に住まん限りは、さすがに愁ふることのみこそあるらんに、などや、かくとも言はで、月日を過ぐす」など承るにも、「かくて世に経る恨みのほかは、何事か思ひ侍らん。その歎き、この思ひは、誰に愁へてかなぐさむべき」と思へども、申し表すべき言の葉ならねば、つくづくと承り5)ゐたるに、音羽の山の鹿の音は、涙を勧め顔に聞こえ、即成院(そくじやうゐん)の暁の鐘は、明け行く空を知らせ顔なり。
鹿の音(ね)にまたうち添へて鐘の音(おと)の涙言問ふ暁の空
心の中(うち)ばかりにてやみ侍りぬ。
1) 石清水八幡宮で後深草院に会ったこと。4-23参照。 / 2) 「ゆかりある」は底本「ゆかりあり」。 / 3) 『後撰和歌集』恋二 式子内親王「影なれて宿る月かな人知れずよるよる騒ぐ袖の湊に」・『伊勢物語』26段「思ほえず袖に涙のさわぐかな唐土舟の寄りしばかりに」。 / 4) 『金葉和歌集』秋 平忠盛「有明の月も明石の浦風に波ばかりこそよると見えしか」。 / 5) 「承り」は底本「うけたまはる」 
■巻4―31〜32

 

巻4―31
さても、夜もはしたなく明け侍りしかば、涙は袖に残り、御面影はさながら心の底に残して出で侍りしに、「さても、この世ながらのほど、かやうの月影は、『おのづからの便りには必ず』と思ふに、はるかに竜華(りゆうげ)の暁と頼むるは、いかなる心の中(うち)の誓ひぞ。また、東(あづま)・唐土(もろこし)まで尋ね行くも、男(おのこ)は常の習ひなり。女は障り多くて、さやうの修行かなはずとこそ聞け。いかなる者に契りを結びて、憂き世を厭ふ友としけるぞ。一人尋ねては、さりともいかがあらん。涙川袖にありと知り1)、菊の籬を三笠の山に尋ね2)、長月の空を御裳濯川に頼めけるも3)、みなこれ、ただかりそめの言の葉にはあらじ。深く頼め、久しく契るよすがありけむ。そのほか、またかやうの所々具し歩(あり)く人も、なきにしもあらじ」など、ねんごろに御尋ねありしかば、「九重(ここのへ)の霞の内を出でて、八重立つ霧に踏み迷ひしよりこの方、三界無安猶如火宅(さんがいむあんゆによくわたく)4)、一夜留まるべき身にしあらねども、欲知過去因(よくちくわこいん)つたなければ、かかる憂き身を思ひ知る。一度(ひとたび)絶えにし契り、二度(ふたたび)結ぶべきにあらず。石清水の流れより出づといへども、今生の果報頼む所なしと言ひながら、東(あづま)へ下りはじめにも、まづ社壇を拝し奉りしは、八幡大菩薩のみなり。近くは心の中(うち)の所願を思ひ、遠くは滅罪生善を祈誓す。正直の頂(いただき)を照らし5)給ふ御誓ひ、これあらたなり。東(ひんがし)は武蔵国隅田川を限りに尋ね見しかども、一夜の契りをも結びたること侍らば、本地弥陀三尊の本願に漏れて、長く無間の底に沈み侍るべし。御裳濯川の清き流れを尋ね見て、もしまた心を留むる契りあらば、伝へ聞く胎金両部(たいこんりやうぶ)の教主も、その罰(ばち)あらたに侍らん。三笠の山の秋の菊、思ひを述ぶる便りなり。もしまた、奈良坂より南に契りを結び、頼みたる人ありて、春日の社へも参り出でば、四所大明神の擁護(おうご)に漏れて、むなしく三途の八難苦を受けん。
幼少の昔は二歳にして母に別れて、面影を知らざる恨みを悲しみ、十五歳にして父を先立てし後は、その心ざしを忍び、恋慕懐旧の涙はいまだ袂(たもと)をうるほし侍る中に、わづかにいとけなく侍りし心は6)、かたじけなう御まなじりをめぐらして憐愍(れんみん)の心ざし深くましましき。その御蔭(かげ)に隠されて、父母(ちちはは)に別れし恨みも、をさをさ慰み侍りき。やうやう人となりて、初めて恩眷(おんけん)を承りしかば、いかでかこれを重く思ひ奉らざるべき。つたなき心の愚かなるは畜生なり。それなほ四恩をば重くし侍り。いはむや、人倫(じんりん)の身として、いかでか御情けを忘れ奉るべき。いはけなかりし昔は、月日の光にも過ぎて、かたじけなく、盛りになりしいにしへは、父母のむつびよりもなつかしく覚えましましき。思はざるほかに別れ奉りて、いたづらに多くの年月を送り向かふるにも、御幸(みゆき)・臨幸(りんかう)に参りあふ折々は、いにしへを思ふ涙も袂をうるほし、叙位・除目を聞く、他(た)の家の繁昌、傍輩の昇進を聞くたびに、心をいたましめずといふことなければ、さやうの妄念静まれば、涙をすすむるもよしなく侍るゆゑ、思ひをもやさましる侍とて、あちこちさまよひ侍れば、ある時は僧房7)にとどまり、ある時は男(おとこ)の中にまじはる。三十一字の言の葉を述べ、情けを慕ふ所には、あまたの夜を重ね、日数(ひかず)を重ねて侍れば、怪しみ申す人、都にも田舎にもその数侍りしかども、修行者といひ、梵論梵論(ぼろぼろ)8)など申す風情の者に行きあひなどして、心のほかなる契りを結ぶ例(ためし)も侍るとかや聞けども、さるべき契りもなきにや、いたづらに一人片敷き侍るなり。都のうちにもかかる契りも侍らば、重ぬる袖も二つにならば、冴ゆる霜夜の山風も防ぎ侍るべきに、それもまたさやうの友も侍らねば、待つらんと思ふ人しなきにつけては、花のもとにていたづらに日を暮らし、紅葉(もみぢ)の秋は、野もせの虫の霜に枯れ行く声を、わが身の上と悲しみつつ、むなしき野辺に草の枕をして明かす夜な夜なあり」など申せば、「修行の折のことどともは、心清く千々(ちぢ)の社(やしろ)に誓ひぬるが、都のことには誓ひがなきは、古き契りの中にも改めたるがあるにこそ」と、また承る。
「長らへじとこそ思ひ侍れども、いまだ四十(よそぢ)にだに満ち侍らねば、行く末は知り侍らず。今日の月日のただ今までは、古き9)にも新しきにも、さやうのこと侍らず。もし偽りにても申し侍らば、わが頼む一乗法華の転読二千日に及び、如法写経の勤めみづから筆を取りてあまたたび、これさながら三途の苞(つと)ぞとなりて、望む所むなしく、なほし竜華の雲の暁の空を見ずして、生涯無間の住みか消えせぬ身となり侍るべし」と申す折、いかが思し召しけむ、しばしものも仰せらるることもなくて、ややありて、「何にも、人の思ひしむる心はよしなきものなり。まことに、母におくれ父に別れにし後は、われのみ育むべき心地せしに、ことの違ひもて行きしことも、『げに浅かりける契りにこそ』と思ふに、かくまで深く思ひそめけるを知らず顔にて過ぐしけるを、大菩薩10)知らせそめ給ひにけるにこそ。御山にてしも見出でけめ」など、仰せあるほどに、西に傾(かたぶ)く月は、山の端をかけて入る。東(ひんがし)に出づる朝日影は、やうやう光さし出づるまでになりにけり。
異様(ことやう)なる姿もなべてつつましければ、急ぎ出で侍りしにも、「必ず近きほどに、今一度(いちど)よ」と承りし御声、「あらざらん道のしるべにや」と思えて、帰り侍りしに、還御の後、思ひかけぬあたりより御尋ねありて、まことしき御とぶらひ思し召し寄りける、いとかたじけなし。思ひかけぬ御言の葉にかかるだに、露の御情(なさけ)もいかでか嬉しからざらむ。いはんや、まことしく思し召し寄りける御心の色、人知るべきことならぬさへ、置き所なくぞ覚え侍りし。
昔より、何ごともうち絶えて、人目にも、「こはいかに」など思ゆる御もてなしもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出では侍らざりしかども11)、御心一つには、何とやらん、「あはれはかかる御気のせさせをはしましたりしぞかし」など、過ぎにし方も今さらにて、何となく忘れがたくぞ侍る。
1) 4-17参照。 / 2) 4-20参照。 / 3) 4-29参照。 / 4) 『法華経』譬喩品 / 5) 「照らし」は底本「へてらし」。 / 6) 「心は」を「ころは」の誤写とみる説もある。 / 7) 「僧房」は底本「そらはう」。 / 8) 『徒然草』115段参照。 / 9) 「古き」は底本「ふか(る歟)き」。「か」に「る歟」と傍書。 / 10) 石清水八幡宮の八幡大菩薩。 / 11) 「しかども」は底本「しかはも」。
巻4―32
かくて年を経るほどに、「さても、二見の浦1)は御神も二度(ふたたび)見そなはしてこそ二見とも申すなれば、今一度(いちど)参りもし、また生死(しやうじ)のことをも祈誓し申さむ」と思ひ立ちて、奈良より伊賀路(いがぢ)2)と申す所よりまかり侍りしに、まづ笠置寺(かさおきでら)と申す所を過ぎ行く3)。
1) 二見浦 / 2) 「伊賀路」は底本「いかほ」。 / 3) 諸説、以下に脱文の存在を想定。 
■巻5―1 〜10

 

巻5―1
さても、安芸の国厳島の社1)は、高倉の先帝(せんてい)2)も御幸(みゆき)し給ひける跡の白波もゆかしくて、思ひ立ち侍りしに、例の鳥羽より舟に乗りつつ、河尻より海のに乗り移れば、波の上の住まひも心細きに、「ここは須磨の浦」と聞けば、「行平の中納言3)、藻塩(もしほ)垂れつつわびける住まひもいづくのほどにか」と、吹き越す風にも問はまほし。
長月の初めのことなれば、霜枯れの草むらに、鳴き尽したる虫の声、絶え絶え聞こえて、岸に船付けて泊まりぬるに、千声万声の砧(きぬた)の音は、夜寒(よさむ)の里にやとおとづれて、波の枕をそばだてて、聞くも悲しきころなり。
明石の浦の朝霧に、島隠れ行く船どもも、「いかなる方へ」とあはれなり。光源氏の月毛の駒にかこちけむ心の中(うち)まで、残る方なく推し量られて、とかく漕ぎ行くほどに、備後の国鞆(とも)といふ所に至りぬ。
1) 厳島神社 / 2) 高倉天皇 / 3) 在原行平
巻5―2
何となく賑(にぎ)ははしき宿(やど)と見ゆるに、大可島(たいがしま)とて、離れたる小島あり。遊女の、世を遁れて、庵(おほり)並べて住まひたる所なり。さしも濁り深く、六の道にめぐるべき営みをのみする家に生まれて、衣裳に薫物(たきもの)しては、まづ語らひ深からむことを思ひ、わが黒髪を撫でても、誰(た)が手枕(たまくら)にか乱れんと思ひ、暮るれば1)契りを待ち、明くれば名残を慕ひなどしてこそ過ぎ来しに、思ひ捨ててこもりゐたるもありがたく思えて、「勤めには何事かする。いかなる便りにか発心(ほつしん)2)せし」など申せば、ある尼申すやう、「われはこの島の遊女の長者なり。あまた傾城を置きて、面々の顔ばせを営み、道行く人を頼みて、とどまるを喜び、漕ぎ行くを歎く。また、知らざる人に向ひても、千秋万歳を契り、花のもと露の情けに酔(ゑ)ひを勧め3)などして、五十(いそぢ)に余り侍しほどに、宿縁や催しけん、有為(うゐ)の眠(ねぶ)り、一度(ひとたび)醒めて、二度(ふたたび)故郷へ帰らず、この島に行きて、朝な朝な花を摘みにこの山に登るわざをして、三世(みよ)の仏に手向け奉る」など言ふも、うらやまし。
これに一・二日とどまりて、また漕ぎ出でしかば、遊女ども名残惜しみて、「いつほどにか、都へ漕ぎ帰るべき」など言へば、「いさや、これや限りの4)」など思えて、
いさやその幾夜(いくよ)あかしの泊りともかねてはえこそ思ひ定めね
1) 「暮るれば」は底本「つるれは」。 / 2) 「発心」は底本「ほんしむ」。 / 3) 『新古今和歌集』釈教 寂蓮法師「花のもと露の情はほどもあらじ酔ひな勧めそ春の山風」 / 4) 『新古今和歌集』別離 道命法師「別れ路はこれや限りの旅ならむさらにいくべき心地こそせね」
巻5―3
かの島1)に着きぬ。漫々たる波の上に、鳥居遥かにそばだち、百八十間(けん)の廻廊、さながら浦の上に立ちたれば、おびたたしく船どももこの廊に着けたり。
大法会あるべきとて、内侍といふ者、面々になど住めり。九月十二日、試楽(しがく)とて、廻廊めく海の上に舞台を立てて、御前の廊より上る。内侍八人、みな色々の小袖に白き湯巻を着たり。うちまかせての楽どもなり。唐の玄宗の楊貴妃が奏しける、霓裳羽衣(げいしやううい)の舞の姿とかや、聞くもなつかし。
会の日は、左右の舞、青く赤き錦の装束、菩薩の姿に異ならず。天冠をして簪(かんざし)をさせる、これや楊妃2)の姿ならむと見えたる。暮れ行くままに、楽の声まさり、秋風楽(しうふうらく)ことさらに耳に立ちて覚え侍る。
暮るるほどに果てしかば、多く集ひたりし人、みな家々に帰りぬ。御前ももの寂しくなりぬ。通夜したる人も少々見ゆ。十三夜の月、御殿の後ろの深山より出づる気色、宝前(ほうぜん)の中より出で給ふに似たり。御殿の下まで潮さし上りて、空に澄む月の影、また水の底にも宿るかと疑はる。
法性無漏(ほつしやうむろ)3)の大海に、随縁真如(ずいえんしんによ)の風をしのぎて、住まひはじめ給ひける御心ざしも頼もしく、本地弥陀如来4)と申せば、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨、漏らさず導き給へ」と思ふにも、「濁りなき心の中ならばいかに」と、われながらもどかしくぞ思ゆる。
1) 宮島・厳島神社 / 2) 「楊妃」は底本「そ(や歟)うひ」。「そ」に「や歟」と傍書。 / 3) 「法性無漏」は底本「法性うろ」。 / 4) 阿弥陀如来
巻5―4
これにはいくほどの逗留もなくて、上り侍りし船のうちに、よしある女あり。「われは備後の国和知(わち)といふ所の者にて侍る。宿願によりて、これへ参りて候ひつる。住まひも御覧ぜよかし」など誘へども、「土佐の足摺の岬1)と申す所がゆかしくて侍る時に、それへ参るなり。帰(かへ)さに尋ね申さむ」と契りぬ。
かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく、また坊主もなし。ただ、修行者・行きかかる人のみ集りて、上もなく下もなし。
いかなるやうぞと言へば2)、「昔、一人の僧ありき。この所に行ひてゐたりき。小法師(こぼうし)一人使ひき。かの小法師、慈悲を先とする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人来て、時(とき)・非時(ひじ)を食ふ。小法師、必ずわが分(ぶん)を分けて食はす。坊主、いさめていはく、『一度二度にあらず。さのみ、かくすべからず』と言ふ。また朝(あした)の刻限に来たり。『心ざしはかく思へども、坊主叱り給ふ。これより後は、なおはしそ。今ばかりぞよ』とて、また分けて食はす。今の小法師いはく、『このほどの情け忘れがたし。さらば、わが住処(すみか)へ、いざ給へ、見に』と言ふ。小法師、語らはれて行く。坊主、怪しくて忍びて見送るに、岬に至りぬ。一葉の船に棹(さを)さして、南を指して行く。坊主、泣く泣く、『われを捨てていづくへ行くぞ』と言ふ。小法師、『補陀落世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて船の艫舳(ともへ)に立ちたり。心憂く悲しくて、泣く泣く足摺りをしたりけるより、足摺の岬と言ふなり。岩に足跡(あしあと)とどまるといへども、坊主はむなしく帰りぬ。それより隔つる心あるによりてこそ、かかる憂きことあれとて、かやうに住まひたり」と言ふ。三十三身の垂戒化現(すいかいけげん)これにやと、いと頼もし。
安芸の佐東の社3)は牛頭天王4)と申せば、祇園5)の御事思ひ出でられさせおはしまして、なつかしくて、これには一夜とどまりて、のどかに手向けをもし侍りき。
1) 足摺岬 / 2) 以下の足摺起源説話は、同船した女の言葉とみる説(二条は足摺岬に行っていない)と、二条が実際に訪れて語っているとみる説がある。 / 3) 「佐東の社」は底本「さとゝの社」。安芸(広島県)の佐東社(祇園天王社)とする説と、安芸郡(高知県)の「里の社」とする説がある。 / 4) 「牛頭天王」は底本「午頭てんわう」。 / 5) 八坂神社
巻5―5
讃岐の白峰・松山などは、崇徳院1)の御跡もゆかしく覚え侍りしに、とふべきゆかりもあれば、漕ぎ寄せて下りぬ。
松山の法華堂は、如法行ふ景気見ゆれば、「沈み給ふとも、などか」と頼もしげなり。「かからむ後は2)」と西行が詠みけるも思ひ出でられて、「かかれとてこそ生まれけめ3)」とあそばされけるいにしへの御事まで、あはれに思ひ出で参らせしにつけても、
もの思ふ身の憂きことを思ひ出でば苔の下にもあはれとは見よ
さても、五部の大乗経の宿願、残り多く侍るを、この国にてまた少し書き参らせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに、小さき庵室を尋ね出だして、道場に定め、懺法(せんぽふ)・正懺悔4)など始む。
長月の末のことなれば、虫の音(ね)も弱り果てて、何を友なふべしとも思えず。三時の懺法を詠みて、「慚愧懺悔六根罪障」と唱へても、まづ忘られぬ御言の葉は、心の底に残りつつ、さてもいまだ幼かりしころ、琵琶の曲を習ひ奉りしに賜はりたりし御撥(ばち)を、四つの緒をば思ひ切りにしかども、御手慣れ給ひしも忘られねば、法座の傍らに置きたるも、
手に慣れし昔の影は残らねど形見と見れば濡るる袖かな
このたびは、大集経四十巻を二十巻書き奉りて、松山に奉納し奉る。経のほどのことは、とかくこの国の知る人に言ひなとしぬ。供養には、一年(ひととせ)、「御形見ぞ」とて三つ賜はりたりし御衣5)、一は熱田の宮の経の時、修行の布施に参らせぬ。このたびは供養の御布施なれば、これを一つ持ちて布施に奉りしにつけても、
月出でむ暁までの形見ぞとなど同じくは契らざりけむ
御肌なりしは、「いかならむ世まで」と思ひて残し置き奉るも、罪深き心ならむかし。
1) 崇徳天皇 / 2) 『山家集』「よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせむ」。 / 3) 『続古今和歌集』雑下 土御門院「憂き世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬわが涙かな」。 / 4) 「正懺悔」は底本「正さむ花」。 / 5) 4-23参照。
巻5―6
とかくするほどに霜月の末になりにけり。京への船の便宜(びんぎ)あるも、何となく嬉しくて、行くほどに、波風悪(あ)しく、雪・霰(あられ)しげくて、船も行きやらず、肝をのみつぶすもあぢきなくて、備後の国といふ所を尋ぬるに、ここにとどまりたる岸よりほど近く聞けば、下り。
船のうちなりし女房1)、書き付けて賜びたりし所を尋ぬるに、ほど近く尋ねあひたり。何となく嬉しくて、二・三日経るほどに、主(あるじ)がありさまを見れば、日ごとに男・女を四・五人具し持て来て、うちさいなむありさま、目も当てられず。「こはいかに」と思ふほどに、鷹狩とかやとて、鳥ども多く殺し集む。狩(かり)とて、獣(しし)持て来るめり。おほかた悪業深重(あくごふじんぢゆう)なるべし2)。
鎌倉にある親しき者とて、広沢の与三(よざう)入道3)といふ者、熊野参りのついでに下るとて、家の中騒ぎ、村郡(むらこほり)の営みなり。絹障子を張り、絵を描きたがりし時に、何と思ひ分くこともなく、「絵の具だにあらば描きなまし」と申したりしかば、「鞆(とも)といふ所にあり」とて、取りに走らかす。よに悔しけれども力なし。
持て来たれば描きぬ。喜びて、「今はこれに落ちとどまり給へ」などいふも、をかしく聞くほどに、この入道とかや来たり。おほかた何とかなどもてなすに、障子の絵を見て、「田舎にあるべしとも覚えぬ筆なり。いかなる人の描きたるぞ」と言ふに、「これにおはしますなり」と言へば、「さだめて歌など詠み給ふらん。修行のならひ、さこそあれ。見参(げさむ)に入らん」など言ふもむつかしくて、熊野参りと聞けば、「のどかに、このたびの下向に」など、言ひまぎらかして立ちぬ。
このついでに、女房二・三人来たり。江田といふ所に、この主(あるじ)の兄のあるが、女(むすめ)よすが4)などありとて、「あなたざまをも御覧ぜよ。絵の美しき」など言へば、この住まひもあまりにむつかしく、「都へは、この雪にかなはじ」と言へば、「年の内もありぬべくや」とて、何なく行きたるに、この和知の主、思ふにも過ぎて腹立ちて5)、「わが年ごろの下人を逃したりつるを、厳島にて見付けてあるを、また江田へかどはれたるなり。うち殺さむ」などひしめく。
「とは何事ぞ」と思へども、ものおぼえぬ者は、「さる中夭(ちうえう)にもこそあれ。なはたらきそ」など言ふ。この江田といふ所は、若き娘どもあまたありて、情けあるさまなれば、「何となく心とどまるまではなけれども、さきの住まひよりは心延ぶる心地するに、いかなることぞ」と、いとあさましきに、熊野参りしつる入道、帰さにまた下りたり。これに、かかる不思議ありて、わが下人を取られたるよし、わが兄を訴(うた)へけり6)。
この入道は、これらが叔父ながら、所の地頭とかやいふ者なり。「とは何事ぞ。心得ぬ下人沙汰かな。いかなる人ぞ。物参りなどすることは常のことなり。都にいかなる人にておはすらん。恥づかしく、かやうに情けなく言ふらんことよ」など言ふと聞くほどに、これへまた下るとてひしめく。この主、ことのやう言ひて、「はしなき物参り人ゆゑに、兄弟(おととい)仲違ひぬ」と言ふを聞きて、「いと不思議なることなり」と言ひて、「備中(びちゆう)の国へ人を付けて送れ」など言ふもありがたければ、見参(げさん)して、ことのやう語れば、「能(のう)はあだなる方もありけり。御能ゆゑに、欲しく思ひ参らせて、申しけるにこそ」と言ひて、連歌し、続歌(つぎうた)など詠みて遊ぶほどに、よくよく見れば、鎌倉にて飯沼の左衛門7)が連歌にありし者なり。そのこと言ひ出だして、ことさらあさましがりなどして、井田といふ所へ帰りぬ。雪いと降りて、竹簀垣(たかすがき)といふものしたる所のさまも習はぬ心地して、
世を厭ふ習ひながらも竹簀垣憂き節々は冬ぞ悲しき
1) 5-4参照。 / 2) 「べし」は底本「ふし」。節・武士・らしなどと読む説もある / 3) 広沢行実 / 4) 「よすが」は底本「よする」。 / 5) 「腹立ちて」は底本「はしたちて」。 / 6) 「訴へけり」は底本「こたへけり」。 / 7) 平資宗・飯沼資宗。4-13参照。
巻5―7
年も返りぬれば、やうやう都の方へ思ひ立たむとするに、余寒(よかん)なほはげしく、「船もいかが」と面々に申せば、心もとなくかくゐたるに、如月の末にもなりぬれば、「このほど」と思ひ立つよし聞きて、この入道1)、江田といふ所より来て、続歌(つぎうた)など詠みて、帰るとて、はなむけなどさまざまの心ざしをさへしたり。「これは、小町殿2)のもとにおはします中務の宮3)の姫宮の御傅(めのと)なるゆゑに、さやうのあたりをも思ひけるにや」とぞ思え侍りし。
これより備中荏原といふ所へまかりたれば、盛りと見ゆる桜あり。一枝折りて送りの者につけて、広沢の入道につかはし侍りし。
霞こそ立ち隔つとも桜花風のつてには思ひおこせよ
二日の道を、わざと人して返したり。
花のみか忘るる間なき言の葉を心は行きて語らざりけり
吉備津宮4)は都の方なれば、参りたるに、御殿のしつらひも、社などは思えず、様(やう)変りたる宮ばら体(てい)5)に几帳などの見ゆるぞめづらしき。日も長く、風おさまりたるころなれば、ほどなく都へ帰り侍りぬ。
さても不思議なりしことはありしぞかし。この入道下り会はざらましかば、いかなる目にかあはまし。「主(しゆう)にてなし」と言ふとも、誰(たれ)か方人(かたうど)をせまし。さるほどには、何とかあらましと思ふより、修行も物憂くなり侍りて、奈良住み6)して時々侍り。
1) 広沢与三・広沢行実 / 2) 4-8参照。 / 3) 宗尊親王 / 4) 吉備津神社 / 5) 「宮ばら体」は底本「宮はらてい」。「宮寺体」の誤写とする説もある。 / 6) 「奈良住み」は底本「ならすみ」だが、「なかすみ」と読んで「永住み(自宅にこもる)」とする説や、「なかやすみ(中休み)」の誤写とする説がある。
巻5―8
都の方のことなど聞くほどに、睦月の初めつ方にや、「東二条院1)御悩み」と言ふ。「いかなる御事にか」と、人知れずおぼつかなく思ひ参らすれども、言問ふべき方もなければ、よそに承るほどに、今はかなふまじき御事になりて、御所を出でさせおはしますよし、承りしかば、無常は常の習ひなれども、「住み慣れさせおはしましつる御住処(すみか)をさへ出でさせおはしますこそ、いかなる御事なるらん」と、「十善の床(ゆか)に並びましまして、朝政(あさまつりごと)をも助け奉り、夜はともに夜(よ)を治め給ひし御身なれば、今はの御事も変はるまじき御事かとこそ思ひ参らするに、などや」など、御おぼつかなく覚えさせおはしまししほどに、「はや御事切れさせ給ひぬ」とて、ひしめく。
折節、近き都の住まひに侍れば、何となく御所ざまの御やうも御ゆかしくて、見参らに参りたれば、「まづ、遊義門院2)))御幸なるべし」とて、北面の下臈一・二人、御車さし寄す。今出川の右の大臣(おとど)3)も候ひ給ひけるが、「御出で」など言ひ合ひたるに、「遊義門院、御幸まづ急がるる」とて、御車寄すると見参らすれば、またまづしばしとて、引きのけて帰り入らせおはしますかと覚ゆること、二・三度(ど)になれば、「今はの御姿、またはいつか」と御名残惜しく思し召さるるほども、あはれにかなしく覚させおはしまして、あまた物見る人どももあれば、御車近く参りて承れば、「すでに召されぬと思ふほどに、また立ち帰らせおはしましぬるにや」と聞こゆ。召されて後も、例(ためし)なき御心まどひ、よその袂も所狭(せ)きほどに聞こえさせおはしませば、心あるも心なきも、袂をしぼらぬ人なし。
宮々わたらせおはしまししかども、みな先立ち参らせおはしまして、ただ御一所わたらせおはしまししかば、形見の御心ざし、さこそと思ひやり参らするも、しるく見えさせおはしまししこそ、数ならぬ身の思ひにも、比べられさせおはします心地し侍りしか。
今はの御幸を見参らするにも、「昔ながらの身ならましかば、いかばかりか」など覚えさせおはしまして、
さてもかく数ならぬ身はながらへて今はと見つる夢ぞ悲しき
1) 後深草院中宮西園寺公子 / 2) 姈子内親王 / 3) 西園寺公衡
巻5―9
御葬送は伏見殿の御所とて、「法皇1)の御方も遊義門院2)の御方も入らせおはしましぬ」と承れば、「御歎きもさこそ」と推し量り参らせしかども、伝へし風も跡絶え果てて後は、何として申し出づべき方もなければ、むなしく心に歎きて明かし暮らし侍りしほどに、同じ年水無月のころにや、法皇御悩みと聞こゆ。
御瘧(おこり)心地など申せば、人知れず、「『今や落ちさせおはしましぬ』と承る」と思ふほどに、「御わづらはしうならせおはします」とて、「閻魔天供(ゑんまてんぐ)とかや行なはるる」など承りしかば、ことがらもゆかしくて、参りて承りしかども、誰(たれ)に言問ひ申すべきやうもなければ、むなしくかへり侍るとて、
夢ならでいかでか知らんかくばかりわれのみ袖にかくる涙を
「御日瘧(ひおこり)にならせたまふ、いしいし」と申す、「御大事出で来べき」など申すを聞くに、思ひやる方もなく、今一度(ひとたび)この世ながらの御面影を見参らせずなりなんことの悲しさなど、思ひ寄る。
あまりに悲しくて、七月一日より八幡(やはた)3)にこもりて、武内4)の御千度をして、このたび別(べち)の御事なからんことを申すに、五日の夢に、日蝕と言ひて、「あらはへ出でじ」と言ふ。5)めす6)。
1) 後深草院 / 2) 姈子内親王 / 3) 石清水八幡宮 / 4) 武内社 / 5) 以下、底本、「本のまま。これより紙を切られて候ふ。おぼつかなし。紙の切れたる所より写す」と二行に分けて注記あり。 / 6) この「めす」は注記の次の行に書かれている。
巻5―10
また、「御病(やまひ)の御やうも承る」など思ひ続けて、西園寺1)へまかりて、「昔、御所ざまに侍りし者なり、ちと見参(げさむ)に入り侍らん」と案内(あんない)すれば、墨染の袂を嫌ふにや、きと申し入るる人もなし。せめてのことに文を書きて持ちたりしを、「見参に入れよ」と言ふだにも、きとは取り上ぐる人もなし。
夜更くるほどになりて、春王といふ侍(さぶらひ)一人出で来て、文取り上げぬ。「年の積りにや、きとも覚え侍らず。明後日(あさて)ばかり、必ず立ち寄れ2)」と仰せらる。
何となく嬉しくて、十日の夜、また立ち寄りたれば、「『法皇御悩み、すでにておはします』とて、京へ出で給ひぬ」と言へば、今さらなる心地もかき暗す心地して、右近の馬場を過ぎ行くとても、北野・平野を伏し拝みても、「わが命に転じ代へ給へ」とぞ申し侍りし。「この願、もし成就して、われもし露と消えなば、御ゆゑかくなりぬとも知られ奉るまじきこそ」など、あはれに思ひ続けられて、
君ゆゑにわれ先立たばおのづから夢には見えよ跡の白露
昼は日暮し思ひ暮し、夜は夜もすがら歎き明かすほどに、十四日夜、また北山へ思ひ立ちて侍れば、今宵は入道殿3)、出で会ひ給ひたる。昔のこと、何くれ仰せられて、「御悩みのさま、むげに頼みなくおはします」など語り給ふを聞けば、いかでかおろかに覚えさせ給はむ。今一度(いちど)いかがしてとや申すと思ひては、参りたりつれども、何とあるべしとも思えず侍るに、「仰せられ出だしたりしこと語りて、参れかし」と言はるるにつけても、袖 の涙も人目あやしければ、立ち帰り侍れば、鳥辺野のむなしき跡問ふ人、内野(うちの)には所もなく行き違(ちが)ふさま、「いつかわが身も」とあはれなり。
あだし野の草葉の露の跡問ふと行きかふ人もあはれいつまで
十五夜、二条京極より参りて、入道殿を尋ね申して、夢やうに見参らする。
1) 北山第。西園寺実兼が隠棲。 / 2) 西園寺実兼の言葉を侍が取り付いだもの。 / 3) 西園寺実兼 
■巻5―11〜20

 

巻5―11
十六日の昼つかたにや、「はや御こと切れ給ひぬ」といふ。思ひまうけたりつる心地ながら、今はと聞き果て参らせぬる心地はかこつ方なく、悲しさもあはれさも思ひやる方なくて、御所へ参りたれば、かたへには御修法の壇こぼちて出づる方もあり、あなたこなたに人は行き違(ちが)へども、しめじめとことさら音もなく、南殿(なんでん)の灯籠(「灯籠」は底本「ところ」))も消たれにけり。
春宮1)の行啓は、いまだ明かきほどにや、二条殿へ2)なりぬれば、次第に人の気配もなくなりゆくに、初夜過ぐるほどに、六波羅3)御弔(とぶら)ひに参りたり。北4)は富小路面(おもて)に、人の家の軒に松明(たいまつ)灯させて並みゐたり。南5)は京極面の篝(かがり)の前に、床子(しやうじ)に尻かけて、手の者二行(にぎやう)に並みゐたる6)さまなど、なほゆゆしく侍りき。
夜もやうやう更け行けども、帰らむ空も覚えねば、むなしき庭に一人ゐて、昔を思ひ継くれば、折々の御面影ただ今の心地して、何と申し尽すべき言の葉もなく、悲しくて、月を見れば、さやかに澄みのぼりて見えしかば、
隈(くま)もなき月さへつらき今宵かな曇らばいかに嬉しからまし
「釈尊入滅の昔は、日月も光を失ひ、心なき鳥・獣(けだもの)までも憂へたる色に沈みけるに」と、げにすずろに月に向ふながめさへつらく思えしこそ、「われながら、せめてのこと」と思ひ知られ侍りしか。
1) 富仁親王。後の花園天皇。後深草院の孫。 / 2) 「二条殿へ」は底本「二条とのゝ」。 / 3) 六波羅探題。南北二名いた。 / 4) 北条時範 / 5) 北条貞顕 / 6) 「並みゐたる」は底本「なみゐたり」
巻5―12
夜も明けぬれば、立ち帰りても、なほのどまるべき心地もせねば、平中納言1)のゆかりある人、御葬送奉行と聞きしに、ゆかりある女房を知りたること侍りしを尋ね行きて、「御棺(くわん)を、遠(とほ)なりとも、今一度見せ給へ」と申ししかども、かなひがたきよし、申ししかば、思ひやる方なくて、「いかなる隙(ひま)にても、さりぬべきことや」と思ふ。
試みに女房の衣(きぬ)をかづきて、日暮らし御所にたたずめども、かなはぬに、すでに御格子参るほどになりて、御棺の入らせ給ひしやらん、御簾の透りより、やはらたたずみ寄りて、火の光ばかり、「さにや」と思えさせおはしまししも、目もくれ、心も惑ひて侍りしほどに、「ことなりぬ」とて、御車寄せ参らせて、すでに出でさせおはしますに、持明院殿の御所、門まで出でさせおはしまして、帰り入らせおはしますとて、御直衣の御袖にて御涙を払はせおはしましし御気色、「さこそ」と悲しく見参らせて、やがて京極面(おもて)より出でて、御車の尻に参るに、日暮らし御所に候ひつるが、ことなりぬとて御車の寄りしに、慌てて履きたりし物もいづ方へか行きぬらん、裸足にて走り下りたるままにて参りしほどに、五条京極を西へやり回すに、大路(おほぢ)に立てたる竹2)に御車をやりかけて、「御車の簾(すだれ)、片方(かたかた)落ちぬべし」とて、御車ぞい上(のぼ)りて3)直し参らする4)ほど、つくづくと見れば、山科の中将入道5)、そばに立たれたり。墨染の袖もしぼるばかりなる気色、「さこそ」と悲し。
「ここよりや、止まる止まる」と思へども立ち帰るべき心地せねば、次第に参るほどに、物は履かず、足は痛くて、やはらづつ行くほどに、みな人には追ひ遅れぬ。藤の森といふほどにや、男(おとこ)一人会ひたるに、「御幸、先立たせおはしましぬるにか」と言へば、稲荷6)の御前をば御通りあるまじきほどに、いづ方へとやらん参らせおはしましてしかば7)、こなたは人も候ふまじ。夜ははや寅になりぬ。いかにして行き給ふべきぞ。いづくへ行き給ふ人ぞ。あやまちすな。送らん」と言ふ。むなしく帰らんことの悲しさに、泣く泣く一人なほ参るほどに、夜の明けしほどにや、こと果てて、むなしき煙(けぶり)の末ばかりを見参らせし心の中(うち)、今まで世に長らふるべしとや思ひけん。
伏見殿の御所ざまを見参らすれば、この春、女院8)の御方、御かくれの折は、二御方9)こそ御わたりありしに、このたびは女院10)の御方ばかりわたらせおはしますらん御心の中、いかばかりかと推し量り参らするにも、
露消えし後の御幸の悲しさに昔に帰るわが袂(たもと)かな
語らふべき戸口もさしこめて、いかにと言ふべき方もなし。さのみ迷ふべきにもあらねば、その夕方帰り侍りぬ。
御素服(そふく)召さるるよし承りしかば、昔ながらならましかば、いかに深く染めまし。後嵯峨院御隠れの折は、御所に奉公せしころなりし上、故大納言11)、「思ふやうありて」とて、御素服の中に申し入れしを、「いまだ幼きに、おほかたのはえなき色にてあれかし」などまで承りしに12)、そのやがて八月に、私(わたくし)の色を着て侍りしなど、数々思ひ出でられて、
墨染の袖は染むべき色ぞなき思ひは一つ思ひなれども
1) 平仲兼 / 2) 「立てたる竹」は底本「たてたりたけ」。 / 3) 「上(のぼ)りて」は底本「のほるて」。 / 4) 「直し参らする」は底本「なをなをまいらゝする」。 / 5) 山科資行 / 6) 伏見稲荷 / 7) 「しかば」は底本「しからん」。 / 8) 東二条院・後深草院中宮西園寺公子 / 9) 後深草院と遊義門院(姈子内親王)。 / 10) 遊義門院 / 11) 作者父、久我雅忠 / 12) 1-14参照。
巻5―13
かこつ方なき思ひの慰めにもやとて、天王寺へ参りぬ。「釈迦如来、転法輪所(てんぽうりんしよ)」など聞くもなつかしく覚えて、「のどかに経をも読みて、しばしはまぎるる方なくて候はん」など思ひて、一人思ひ続くるも悲しきにつけても、女院1)の御方の御思ひ、推し量り奉りて、
春着てし2)霞の袖に秋霧のたち重ぬらん色ぞ悲しき
1) 遊義門院・姈子内親王 / 2) 「着てし」は底本「きせし」
巻5―14
御四十九日も近くなりぬれば、また都に帰り上りつつ、その日は伏見の御所に参るに、御仏事始まりつつ、多く聴聞せし中に、「わればかりなる心の中(うち)はあらじ」と思ゆるにも悲し。こと果てぬれば、面々の御布施どものやうも、今日閉ぢめぬる心地して、いと悲しきに、頃しも長月の初めにや、「露も涙もさこそ争ふ御事なるらめ1)」と、御簾の内も悲しきに、「持明院の御所、このたびはまた同じ御所」と承るも、春宮に立ち給ひて角殿(すみどの)の御所に御わたりのころまでは見奉りしいにしへも、とにかくに、あはれに悲しきことのみ色添ひて、「秋しもなどか」と公私(おほやけわたくし)思えさせ給ひて、「数ならぬ身なりとも」と、さしも思ひ侍りしことのかなはで、今まで憂き世にとどまりて七つの七日にもあひ参らする、われながらいとつれなくて、三井寺の常住院の不動2)は、智興内供が限りの病(やまひ)には、証空阿闍梨といひけるが、「受法恩重し。数ならぬ身なりとも」と言ひつつ、晴明3)祀り代へられければ、明王、命に代はりて、「なんぢは師に代はる。われは行者に代はらん」とて、智興も病やみ、証空も命延びけるに4)、君の御恩、受法の恩よりも深かりき。申し受けし心ざし、などしもむなしかりけん。苦(く)の衆生に代はらんために、御名を八幡大菩薩と号すとこそ、申し伝へたれ。数ならぬ身にはよるべからず。「御心ざしのなほざりなるにもあらざりしに、まことの定業(ぢやうごう)はいかなることもかなはぬ御事なりけり」など思ひつづけて、帰りて侍りしかども、つゆまどろまれざりしかば、
悲しさのたぐひとぞきく虫の音(ね)も老いの寝覚(ねざめ)の長月のころ
古きを忍び涙は、片敷く袖にもあまりて、父の大納言5)身まかりしことも、秋の露に争ひ侍りき。かかる御あはれも、また秋の霧と立ち上らせ給ひしかば、なべて雲居もあはれ にて6)、雨とやなり給ひけむ、雲とやなり給ひけん7)、いとおぼつかなき御旅なりしか。
いづ方の雲路ぞとだに尋ね行くなど幻のなき世なるらん8)
1) 『新古今和歌集』哀傷 藤原定家「たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風」。 / 2) 不動明王 / 3) 安倍晴明 / 4) 『今昔物語集』19-24・『発心集』6-1参照。 / 5) 久我雅忠 / 6) 『源氏物語』葵「のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな」。 / 7) 『源氏物語』葵「雨となり雲とやなりにけむ」。 / 8) 『源氏物語』桐壺「尋ね行く幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく」。
巻5―15
さても、「大集経、今二十巻いまだ書き奉らぬを1)、いかがして、この御百日の中に」と思へども、身の上の衣なければ、これを脱ぐにも及ばず、命を継ぐばかりのこと持たざれば、「これを去りて」とも思ひ立たず。
思ふばかりなく歎きゐたるに、わが二人の親の形見に持つ、母におくれける折、「これに取らせよ」とて、平手箱(ひらてばこ)の、鴛鴦(をし)の丸(まろ)を蒔きて、具足・鏡まで同じ紋にてし入れたりしと、また梨地に仙禽菱(せんきびし)を高蒔(たかまき)に蒔きたる硯蓋(すずりぶた)の、中(なか)には、「嘉辰令月」と手づから故大納言2)の文字を書きて、金(かね)にて彫らせたりし硯となり。「一期は尽くるとも、これをば失はじ」と思ひ、「今はの煙にも友にこそ」と思ひて、修行に出で立つ折も、心苦しき嬰児(みどりご)を跡に残す心地して人に預け、帰りては、まづ取り寄せて、二人の親に会ふ心地して、手箱は四十六年の年を隔て、硯は三十三年の年月を送る。名残いかでかおろかなるべきを、つくづくと案じ続くるに、「人の身に、命に過ぎたる宝、何かはあるべきを、君の御ためには捨つべきよしを思ひき。いはんや、有漏(うろ)の宝、伝ゆべき子もなきに似たり。わが宿願成就せましかば、むなしくこの形見は人の家の宝となるべかりき。しかじ、三宝に供養して、君3)の御菩提にも廻向し、二親(ふたおや)のためにも」など思ひなりて、これを取り出でて見るに、年月慣れし名残は、物言ひ笑ふことなかりしかども、いかでか悲しからざらむ。
折節、東(あづま)の方へよすが4)さだめて行く人、「かかる物を尋ぬ」とて、三宝の御あはれみにや、思ふほどよりもいと多くに、人取らむと言ふ。思ひ立ちぬる宿願、成就しぬることは嬉しけれども、手箱をつかはすとて、
二親の形見と見つる玉櫛笥(たまくしげ)今日別れ行くことぞ悲しき
1) 5-05参照。 / 2) 作者父、久我雅忠 / 3) 後深草院 / 4) 「よすが」は底本「よする」。
巻5―16
九月十五日より東山(ひんがしやま)双林寺といふあたりにて懺法(せんぽう)を始む。さきの二十巻の大集経まで1)、折々も昔をしのび、今を恋ふる思ひ、忘れ参らせざりしに、今は一筋に、「過去聖霊成等正覚(くわこしやうりやうじやうとうしやうがく)」とのみ、寝ても覚めても申さるるこそ、宿縁もあはれに、われながら思え侍りしか。清水山2)の鹿の音は、わが身の友と聞きなされ、籬(まがき)の虫の声々は、涙言問ふと悲しくて、後夜の懺法に夜深く起きて侍れば、東より出づる月影の、西に傾(かたぶ)くほどになりにけり。寺々の後夜も行ひ果てにけると思ゆるに、双林寺の峰にただ一人行ひゐたる聖の念仏の声すごく聞こえて。
いかにして死出の山路を尋ね見むもし亡き魂(たま)の影やとまると
借り聖3)雇ひて、料紙・水迎へさせに横川へつかはすに、東坂本(ひんがしさかもと)へ行きて、われは日吉(ひよし)へ参りしかば、祖母(むば)にて侍りし者は、この御社にて神御をかうぶりけるとて、常に参りしに具せられて、4)
「いかなる人にか」など申されしを聞くにも、あはれは少からんや。深草の御墓5)へ奉納し奉らむも、人目あやしければ、ことさら御心ざし深かりし御事思ひ出でられて、春日の御社6)へ参りて、本宮の峰に納め奉りしにも、峰の鹿の音もことさら折知り顔に聞こえて侍りて、
峰の鹿野原の虫の声までも同じ涙の友とこそ聞け
1) 底本、以下行末まで数文字空白。 / 2) 音羽山 / 3) 「借り聖」は底本「か(本)りひしり」。「か」に「本」と傍書。 / 4) 以下、「ここよりまた刀にて切りて取られ候ふ。返す返すおぼつかなし」と二行で注記。 / 5) 深草法華堂。 / 6) 春日大社
巻5―17
さても、故大納言1)身まかりて、今年三十三年になり侍りしかば、形(かた)のごとく仏事など営みて、例の聖のもとへつかはしし諷誦(ふじゆ)に、
つれなくぞめくりあひぬる別つつ十(とを)つづ三(み)つに三つ余るまで
神楽岡といふ所にて煙(けぶり)となりし跡を尋ねてまかりたりしかば、旧苔(きうたい)露深く、道を埋(うづ)みたる木の葉が下(した)を分け過ぎたれば、石の卒都婆、形見顔に残りたるもいと悲しきに、さても、このたびの勅撰2)には漏れ給ひけるこそ悲しけれ。われ世にあらましかば、などか申し入れざらむ。続古今3)よりこの方、代々の作者なりき。また、わが身の昔を思ふにも、「竹園(ちくゑん)八代の古風、むなしく絶えなむするにや」と悲しく、最期終焉の言葉など、数々思ひ続けて、
古りにける名こそ惜しけれ和歌の浦に身はいたづらに海人(あま)の捨て舟
かやうにくどき申して帰りたりし夜、昔ながらの姿、われもいにしへの心地にて、あひ向ひて、この恨みを延ぶるに、「祖父久我の大相国4)は、落葉が峰の露の色づく5)言葉を述べ、われは『おのが越路も春の外(ほか)かは6)と言ひしより、代々の作者なり。外祖父兵部卿隆親7)は鷲の尾の臨幸に、『今日こそ花の色は添へつれ8)』と詠み給ひき。いづ方につけても、捨てらるべき身ならず。具平親王よりこの方、家久しくなるといへども、和歌の浦波絶えせず」など言ひて、立ちざまに、
なほもただかきとめてみよ藻塩草人をも分かず情(なさけ)ある世に
とうちながめて、立ちのきぬと思ひて、うちおどろきしかば、むなしき面影は袖の涙に残り、言の葉はなほ夢の枕にとどまる。
1) 作者父、久我雅忠 / 2) 新後撰和歌集 / 3) 『続古今和歌集』だが、雅忠は『続後撰和歌集』ですでに入集している。 / 4) 久我通光 / 5) 『新古今和歌集』恋二 久我通光「限りあればしのぶの山の麓にも落葉が上の露ぞ色づく」。 / 6) 「おのが越路も春の外かは」は、底本「をのる心ちもはるのわかれかは」。『続後撰和歌集』春中 久我雅忠「何ゆゑか霞めば雁の帰るらんおのが越路も春の外かは」。 / 7) 四条隆親 / 8) 『続古今和歌集』雑上 四条隆親「ふりにける代々の御幸の跡なれど今日こそ花の色は添へつれ」。
巻5―18
これより、ことさらこの道をたしなむ心も深くなりつつ、このついでに人丸1)の墓に七日参りて、七日といふ夜、通夜して侍りしに、
契りありて竹の末葉にかけし名のむなしき節にさて残れとや
この時、一人の老翁、夢に示し給ふことありき。この面影を写しとどめ、この言の葉を記し置く。人丸講の式と名付く。先師の心にかなふ所あらば、この宿願成就せん。宿願成就せば、この式を用ゐて、かの写しとどむる御影の前にして行ふべしと思ひて、箱の底に入れて、むなしく過し侍るに、またの年の三月八日、この御影を供養して、御影供といふことをとり行ふ。
1) 柿本人麻呂
巻5―19
かくて、五月のころにもなりしかば、故御所1)の御果てのほどにもなりぬれば、五部の大乗経の宿願、すでに三部は果たしとげぬ。今二部になりぬ。
明日を待つべき世にもあらず。二つの形見を一つ供養し奉りて、「父のを残しても何かはせむ。いく世残しても中有(ちゆうう)の旅に伴ふべきことならず」など思ひ切りて、またこれをつかはすとて思ふ。「ただの人の物になさむよりも、わがあたりへや申さまし」と思ひしかども、よくよく案ずれば、「心の中の祈誓、その心ざしをば人知らで、世に住む力尽き果てて、『今は亡き跡の形見まで、飛鳥川に流し捨つるにや』と思はれんこともよしなし」と思ひしほどに、折節筑紫の少卿(せうきやう)2)といふ者が、「鎌倉より筑紫へ下る」とて京に侍りしが、聞き伝へて取り侍りしかば、母の形見は東(あづま)へ下り、父のは西の海を指してまかりしぞ、いと悲しく侍りし。
磨る墨は涙の海に入りぬとも流れむ末に逢ふ瀬あらせよ
など思ひ続けて、つかはし侍りき。
さて、かの経を五月の十日余りのころより思ひ立ち侍るに、このたびは河内の国太子の御墓3)近き所に、ちとたち入りぬべき所ありしにて、また大品般若経二十巻を書き侍りて、御墓へ奉納し侍りき。七月の初めには都へ帰り上りぬ。
1) 後深草院 / 2) 「筑紫の少卿」は底本「つくしのしよきやう」。 / 3) 聖徳太子の墓
巻5―20
御果ての日1)にもなりぬれば、深草の御墓へ参りて、伏見殿の御所へ参りたれば、御仏事始まりたり。石泉(しやくぜん)の僧正2)御導師にて、院3)の御方の御仏事あり。昔の御手をひるがへして、御みづからあそばされける御経といふことを聞き奉りしにも、「一つ御思ひにや」と、かたじけなきことの思えさせおはしまして、いと悲し。次に遊義門院4)の御布施とて、憲基法印の弟(おとと)、御導師にて、それも御手の裏にと聞こえし御経こそ、あまたの御ことの中に、耳に立ち侍りしか。
悲しさも今日閉ぢむべき心地して、さしも暑く侍りし日影も、いと苦しからず覚えて、むなしき庭に残りゐて候ひしかども、御仏事果てしかば、還御いしいしとひしめき侍りしかば、誰(たれ)にかこつべき心地もせで、
いつとなく乾く間もなき袂(たもと)かな涙も今日を果てとこそ聞け
持明院御所5)・新院6)、御聴聞所に渡らせおはします。御透影(すきかげ)見えさせおはしまししに、持明院殿は御色7)の御直衣、ことに黒く見えさせおはしまししも、「今日を限りにや」と悲しく思え給ひて、また院御幸ならせおはしまして、一つ御聴聞所へ入らせおはしますを見参らせるにも、「御後(あと)まで御栄え久しく、ゆゆしかりける御事かな」と思えさせおはします。
1) 後深草院の命日。 / 2) 忠源 / 3) , 5) 伏見院 / 4) 姈子内親王 / 6) 後伏見院 / 7) 「御色」は底本「御宮」。 
■巻5―21〜28

 

巻5―21
このほどよりや、また法皇1)、御悩みといふことあり。さのみうち続かせおはしますべきにもあらず、御悩(ごなう)は常のことなれば、「これを限り」と思ひ参らすべきにもあらぬに、「かなふまじき御事に侍る」とて、すでに嵯峨殿の御幸と聞こゆ。「去年(こぞ)・今年の御あはれ、いかなる御事にか」と、及ばぬ御事ながら、あはれに思えさせおはします。
般若経の残り二十巻を、今年書き終るべき宿願、年ごろ、「熊野にて」と思ひ侍りしが、「いたく水凍らぬさきに」と思ひ立ちて、長月の十日ごろに熊野へ立ち侍りしにも、御所の御事はいまだ同じさまに承るも、「つひにいかが聞こえさせおはしまさむ」などは思ひ参らせしかども、去年(こぞ)の御あはればかりは歎かれさせおはしまささりしぞ、うたてき愛別(あいべち)なるや。
1) 亀山院
巻5―22
例の宵暁の垢離(こり)の水をせむ方便になずらへて、那智の御山にて、この経を書く。長月の 二十日余りのことなれば、峰の嵐もやや激しく、滝の音も涙争ふ心地して、あはれを尽したるに、
物思ふ袖の涙をいくしほとせめてはよそに人の問へかし
形見の残りを尽くして、唱衣(しやうえ)いしいしと営む心ざしを、権現も納受し給ひにけるにや、写経の日数も残り少なくなりしかば、御山を出づべきほども近くなりぬれば、御名残も惜しくて、夜もすがら拝みなど参らせて、うちまどろみたる暁方の夢に、故大納言1)のそばにありけるが、「出御の半ば」と告ぐ。
見参らすれば、鳥襷(とりだすき)を浮織物に織りたる柿の御衣(おんぞ)を召して、右の方へちと傾(かたぶ)かせおはしましたるさまにて、われは左の方なる御簾より出でて、向ひ参らせたる。証誠殿(しようじやうでん)の御社に入り給ひて、御簾を少し開けさせおはしまして、うち笑みて、よに御心よげなる御さまなり。また、「遊義門院2)の御方も出でさせおはしましたるぞ」と告げらる。見参らすれば、白き御袴に御小袖ばかりにて、西の御前と申す社の中に、御簾、それも半(はん)に開けて、白き衣二つ、うらうへより取り出でさせおはしまして、「二人の親の形見を、うらうへへやりし心ざし、忍びがたく思し召す。取り合はせて賜ぶぞ」と仰せあるを賜はりて、本座に帰りて、父大納言に向かひて、「十善の床(ゆか)を踏みましましながら、いかなる御宿縁にて、御片端(かたは)は渡らせおはしますぞ」と申す。「あの御片端は、いませおはしましたる下に、御腫れ物あり。この腫れ物といふは、われらがやうなる無知の衆生を多く後(しり)へ持たせ給ひて、これをあはれみ、はぐくみ思し召すゆゑなり。全(また)くわが御誤りなし」と言はる。また見やり3)参らせたれば、なほ同じさまに、心よき御顔にて、「近く参れ」と思し召したるさまなり。立ちて、御殿の前にひざまづく。白き箸のやうに、本(もと)は白々と削りて、末には梛(なぎ)の葉二つづつある枝を、二つ取り揃へて賜はると思ひて、うちおどろきたれば、如意輪堂4)の懺法始まる。
何となくそばを探りたれば、白き扇の檜(ひ)の木の骨なる、一本あり。夏などにてもなきに、いと不思議にありがたく覚えて、取りて道場に置く。このよしを語るに、那智の御山の師、備後律師かくだうといふ者、扇は千手の御体といふやうなり。必ず利生あるべし」といふ。
夢の御面影も覚むる袂(たもと)に残りて、写経終り侍りしかば、「ことさら残し持ち参らせたりつる御衣(おんぞ)、いつまでかは」と思ひ参らせて、御布施に、泣く泣く取り出で侍りしに、
あまた年慣れし形見の小夜衣(さよごろも)今日を限りと見るぞ悲しき
那智の御山にみな納めつつ、帰り侍りしに、
夢覚むる枕に残る有明に涙ともなふ滝の音かな
かの夢の枕なりし扇を、「今は御形見とも」と慰めて帰り侍りぬるに、はや5)法皇崩御なりにけるよし、承りしかば、うち続かせおはしましぬる世のあはれも、有為無常の情けなき習ひと申しながら、心憂く侍りて、われのみ消(け)たぬむなしき煙(けぶり)は、立ち去る方なきに、年も返りぬ。
1) 作者父、久我雅忠。 / 2) 姈子内親王 / 3) 「見やり」は底本「見やる」。 / 4) 「如意輪堂」は底本「女はりんたう」。 / 5) 「はや」は底本「よや」。
巻5―23
弥生初めつ方、いつも年の初めには参り習ひたるも忘られねば、八幡(やはた)1)に参りぬ。睦月のころより奈良に侍り。鹿のほか便りなかりしかば2)、御幸とも 誰(たれ)かは知らん。例の猪鼻(ゐのはな)より参れば、馬場殿3)開きたるにも、過ぎにしこと4)思ひ出でられて、宝前を見参らすれば、御幸の御しつらひあり。「いづれの御幸にか」と尋ね聞き参らすれば、「遊義門院5)の御幸」と言ふ。
いとあはれに参り会ひ参らせぬる御契りも、去年(こぞ)見し夢6)の御面影さへ思ひ出で参らせて、今宵は通夜して、朝(あした)もいまだ夜に、官(くわん)めきたる女房の大人しきが、所作するあり。「誰(たれ)ならん」と、あひしらふ。得選(とくせん)おとらぬ7)といふ者なり。いとあはれにて、何となく御所ざまのこと尋ね聞けば、「みな昔の人は亡くなり果てて、若き人々のみ」と言へば、「いかにしてか、誰とも知られ奉らん」とて、「御宮めぐりばかりをなりとも、よそながらも見参らせん」とて、したためにだにも宿へも行かぬに、「ことなりぬ8)」と言へば、方々に忍びつつ、よに御輿のさま気高くて、宝前へ入らせおはします。
御幣(ごへい)の役を、西園寺の春宮権大夫9)勤めらるるにも、太政入道殿10)の左衛門督など申ししころの面影も通ひ給ふ心地して、それさへあはれなるに、今日は八日とて、「狩尾(とがのお)11)へ、如法御参り」と言ふ。網代輿(あじろごし)二つばかりにて、ことさらやつれたる御さまなれども、「もし忍びたる御参りにてあらば、誰とかは知られ奉らん。よそながらも、ちと御姿をもや見参らする」と思ひて参るに、また徒歩(かち)より参る若き人、二・三人行きつれたる。御社に参りたれば、「さにや」と思えさせおはします御後ろを、見参らするより12)、袖の涙は包まれず。立ち退くべき心地もせで侍るに、御所作果てぬるにや、立たせおはしまして、「いづくより参りたる者ぞ」と仰せあれば、過ぎにし昔より語り申さまほしけれども、「奈良の方よりにて候13)と申す。「法華寺よりか」など仰せあれども、涙のみこぼるるも、「『あやし』とや思し召されん」と思ひて、言葉少なにて立ち帰り侍らんとするも、なほ悲しく覚えて候ふに、すでに還御なる。
御名残りもせんかたなきに、下りさせおはします所の高きとて、え下りさせおはしまさざりしついでにて、「肩を踏ませおはしまして、下りさせおはしませ」とて、御そば近く参りたるを、あやしげに御覧ぜられしかば、「いまだ御幼く侍りし昔は、慣れつかうまつりしに、御覧じ忘れにけるにや」と申し出でしかば、いとど涙も所狭(せ)く侍りしかば、御所ざまにもねんころに御尋ねありて、「今は常に申せ」など仰せありしかば、見し夢も思ひ合はせられ14)、「過ぎにし御所に参りあひ申ししも15)この御社ぞかし」と思ひ出づれば、隠れたる信(しん)のむなしからぬを喜びても、ただ心を知るものは涙ばかりなり。
1) 石清水八幡宮 / 2) 「奈良に侍り。鹿のほか便りなかりしかば」は底本「ならに侍しかのほかたよりなりしかは」。「侍りしが、ほかの便りなかりしかば」・「侍りし。かのほか便りなかりしかば」と読む説もある。 / 3) 「馬場殿」は底本「はし殿」。 / 4) 4-23参照。 / 5) 姈子内親王 / 6) , 14) 5-22参照。 / 7) 「おとらぬ」が女房名。 / 8) 「ことなりぬ」は底本「ことありぬ」。 / 9) 今出川兼季。西園寺実兼の四男。 / 10) 西園寺実兼 / 11) 石清水八幡宮の狩尾社。 / 12) 「見参らするより」は底本「まいらするより」。 / 13) 「候」は底本「し」。 / 15) 「申ししも」は底本「ましも」。
巻5―24
徒歩(かち)なる女房の中に、ことに初めより物など申すあり。問へば兵衛佐(ひやうゑのすけ)といふ人なり。
次の日還御とて、その夜は御神楽・御手遊び、さまざまありしに、暮るるほどに、桜の枝を折りて、兵衛佐のもとへ、「この花散らさむ先に、都の御所へ尋ね申すべし」と申して、つとめては還御より先に出で侍るべき心地せしを、「かかる御幸に参り合ふも、大菩薩の御心ざしなり」と思ひしかば、「喜びも申さむ」など思ひて、三日とどまりて、御社に候ひて後、京へ上りて、御文を参らすとて、「さても、花はいかがなりぬらん」とて、
花はさてもあだにや風の誘ひけむ契りしほどの日数ならねば
御返し、
その花は風にもいかが誘はせん契りしほどは隔て行くとも
巻5―25
その後、いぶせからぬ1)ほどに、申し承りけるも、昔ながらの心地するに、七月の初めのころより、過ぎにし御所2)の御三めぐりにならせおはしますとて、伏見の御所に渡らせおはしませば、何となく御あはれも承りたく、今は残る形見もなければ、書くべき経は今一部なほ残り侍れども、今年はかなはぬも心憂ければ、御所の御あたり近く候ひて、「よそながらも見参らせん」など候ひしに、十五日のつとめては、深草の法華堂3)へ参りたるに、「御影の新しく作られさせおはします」とて、据ゑ参らせたるを拝み参らするにも、いかでか浅く思えさせおはしまさむ。袖の涙も包みあへぬさまなりしを、供僧(ぐそう)などにや、並びたる人々、あやしく思ひけるにや、「近く寄りて見奉れ」と言ふも嬉しくて、参りて拝み参らするにつけても、「涙の残りはなほありけり」と思えて、
露消えし後(のち)の形見の面影にまたあらたまる袖の露かな
十五日の月いと隈(くま)なきに、兵衛佐4)の局に立ち入りて、昔今(むかしいま)のこと思ひ続くるも、なほ飽かぬ心地して、立ち出でて、明静院殿(みやうじやうゐんどの)の方ざまにたたずむほどに、「すでに入らせおはします」など言ふを、「何事ぞ」と思ふほどに、今朝、深草の御所にて見参らせつる御影、入らせおはしますなりけり。案(あん)とかやいふものに据ゑ参らせて、召次(めしつぎ)めきたる者四人してかき参らせたり。仏師にや、墨染の衣(ころも)着たる者、奉行して二人あり。また、預(あづかり)一人、御所侍一・二人ばかりにて、継紙(つぎがみ)覆ひ参らせて、入らせおはしましたるさま、夢の心地して侍りき。
「十善万乗(じふぜんばんじよう)の主(あるじ)として、百官にいつかれましましける昔は、覚えずして過ぎぬ。太上天皇の尊号をかうぶりましまして後、仕へ奉りしいにしへを思へば、忍びたる御歩(あり)きと申すにも、御車寄せの公卿・供奉の殿上人などはありしぞかし」と思ふにも、「まして、いかなる道に、一人迷ひおはしますらん」など思ひやり奉るも、今初めたるさまに、悲しく思え侍るに、つとめて万里小路の大納言師重5)のもとより、「近きほどにこそ。夜べの御あはれ、いかが聞きし」と申したりし返事に、
虫の音(ね)も月も一つに悲しさの残る隈なき夜半の面影
1) 「いぶせからぬ」は底本「いませからぬ」。 / 2) 後深草院 / 3) 深草法華堂。後深草院の墓所。 / 4) 女房名。5-24参照。 / 5) 北畠師重
巻5―26
十六日には、御仏事とて、法華の讃嘆(さんだん)とかやとて、釈迦・多宝二仏、一つ蓮台におはします。御堂いしいし御供養あり。
かねてより、院1)、御幸もならせおはしまして、ことに厳しく、庭も上も雑人(ざふにん)払はれしかば、「墨染の袂は、ことに忌む2)」といさめらるるも悲しけれど、とかくうかがひて、雨垂りの石の辺にて聴聞するにも、「昔ながらの身なからましかば」と、厭ひ捨てしいにしへさへ恋しきに、御願文終るより、懺法(せんぽふ)すでに終るまで、すべて涙はえとどめ侍らざりしかば、そばにことよろしき僧の侍りしが、「いかなる人にて、かくまて歎き給ふぞ」と申ししも、亡き御影の跡までも、はばかりある心地して、「親にて侍りし者におくれて、このほど忌み明きて侍るほどに、ことにあはれに思ひ参らせて」など申しなして、立ち退き侍りぬ。
1) 後宇多院 / 2) 「忌む」は底本「いや」。「や」を「也」と読み「む」の脱字とし「忌むなり」とする説や、「嫌(きらふ)」を「いや」と誤読して書写されたとする説もある。
巻5―27
御幸の還御は今宵ならせおはしましぬ。御所ざまも御人少なに、しめやかに見えさせおはしまししも、そぞろにもの悲しく覚えて、帰らん空も覚え侍らねば、御所近きほどに、なほ休みてゐたるに、久我の前の大臣(おとど)1)は、同じ草葉のゆかりなるも、忘れがたき心地して、時々申し通ひ侍るに、文つかはしたりしついでに、彼より、
都だに秋の気色は知らるるをいく夜ふしみの有明の月
問ふにつらさのあはれも、忍びがたく思えて、
秋を経て過ぎにしみよも伏見山またあはれ添ふ在明の空
また立ち返り、
さぞなげに昔を今と忍ぶらむ伏見の里の秋のあはれに
まことや、十五日は、「もし僧などに賜びたき御事や」とて、扇を参らせし包み紙に、
思ひきや君が三年(みとせ)の秋の露また干ぬ袖にかけんものとは
1) 作者従兄、久我通基。またはその子、久我通雄。
巻5―28
深草の御門1)は御隠れの後、かこつべき御事どもも跡絶え果てたる心地して侍りしに、去年(こぞ)の三月八日、人丸2)の御影供(みえいぐ)を勤めたりしに3)、今年の同じ月日、御幸に参り合ひたるも4)不思議に、見しむば玉の御面影も5)、うつつに思ひ合はせられて、「さても、宿願の行く末、いかがなり行かん」とおぼつかなく、「年月(としつき)の心の信(しん)もさすがむなしからずや」と思ひ続けて、身のありさまを一人思ひゐたるも飽かず思え侍る上、修行の心ざしも、西行が修行の式6)、うらやましく思えてこそ思ひ立ちしかば、その思ひをむなしくなさじばかりに、かやうのいたづらごとを続け置き侍るこそ、後の形見とまでは思え侍らぬ。
本云
ここよりまた刀して切られて候ふ。おぼつかなう、いかなることにかと思えて候ふ7)。
1) 後深草院 / 2) 柿本人麻呂 / 3) 5-18参照。 / 4) 5-23参照。 / 5) 5-22参照。 / 6) 底本「修行のしき」。1-37に、「西行が修行の記」がでてくることから、ここも「修行の記」の誤りとする説もある。 / 7) 「本云」以下、切り取り注記。底本、下の方にやや小さく書かれている。なお、内容は注記以前で完結している。 
 

 

 
後深草院二条『とはずがたり』

 

後深草院二条の熊野詣
『とはずがたり』は、後深草院(1243〜1304。第89代天皇)の女房で愛人でもあった後深草院二条(中院大納言源雅忠の娘。1258〜?)がその生涯を回想して綴った日記文学作品。昭和十三年になってはじめてその存在が確認されたというとても珍しい古典作品ですが、中世の女流日記文学の代表作品として高い評価を得ています。
全五巻から成りますが、大きく前編三巻、後編二巻に大別できます。前編三巻は、文永八年(1271)、二条が十四歳で後深草院の寵愛を得たことから始まります。後深草院の寵愛を受けながらも、院の近臣の「雪の曙」(西園寺実兼)、院の護持僧の「有明の月」(仁和寺御室性助・法助の両説がある)らとも関係を結ぶ乱れた愛欲生活。後深草院の中宮であった東二条院(1232〜1304)の嫉妬と憎悪。東二条院の排斥にあって、弘安六年(1283)二十六歳の年、御所を退出。弘安八年(1285)二十八歳の年、北山准后(きたやまじゅこう。藤原貞子。太政大臣西園寺実氏室、二条の母方の祖父四条隆親の姉)九十歳の御賀に大宮院(後嵯峨中宮、後深草・亀山両天皇の母、東二条院の同母姉。1225〜1292)の女房として出仕。そこまでが前編の内容。『とはずがたり』に記述はありませんが、蒙古襲来(元寇)の時期と重なります(文永の役(1274)・弘安の役(1282))。
後編二巻では、前編から足掛け五年の空白を置いて、二条が出家を遂げてからのことが語られます。正応二年(1289)三十二歳の年の東国鎌倉への旅や後深草院との再会。正安四年(1302)四十五歳の年の西国への旅。嘉元二年(1304)四十七歳の年の院の崩御、嘉元三年(1305)の那智参詣などが語られ、嘉元四年(1306)四十九歳の年の院の三回忌の記述でこの自伝的作品は終わります。
簡単に取り急ぎ内容をご紹介しましたが、後深草院二条の生涯はじつに凄まじいです。二条は後深草院の皇子を生みますが、皇子は早世。「雪の曙」とあいだに女児を生み、「有明の月」とのあいだには男児を生む。後深草院は変態っぽいし。それから東二条院の嫉妬と憎悪。結局、後深草院には捨てられて、そして、出家。仏道修行に励む。
出家後の二条の仏道修行は並々ならぬもので、五部の大乗経を書写する宿願を立て、西行にならって修行の旅に出て、各地の寺社を詣で、縁起を聞いて結縁し、歌を詠み、写経しました。一口に五部の大乗経といっても、『華厳経』六十巻、『大集経』五十巻、『大品般若経』三十巻、『法華経』十巻、『大般若涅槃経』四十巻、計百九十巻。この全てを書写するというのは、並々の決意ではできないことだと思います。
それでは、後深草院の一周忌の後に行われた那智参詣の場面を現代語訳をしてご紹介します。 後深草院二条、四十八歳。
『とはずがたり』現代語訳
このころからか、また法皇(※亀山院)が御病気ということがあった。そのようなことばかりがそうそうお続きになるはずでもない。法皇の御病気はいつものことなので、これを限りと思い申し上げることでもないのに、御回復の見込みがおありにならないということで、すでに嵯峨殿へ御幸したと耳に入る。去年、今年と続いたお悲しみはどうした御事なのかと、及ばぬ御事ながら、しみじみとあわれに思い申し上げる。
般若経の残り二十巻を、今年書き終えようという宿願を、数年このかた、熊野で果たしたいと思っておりましたので、ひどく水が凍らぬ前にと思い立って、長月(※陰暦九月)の十日頃に熊野へ立ちましたときにも、法皇のご病状はまだ同じご様子とお聞きするも、結局どういう給果をお聞き申しあげるだろうか、などとは思い申し上げたけれども、去年の後深草院の崩御の折のお悲しみほどにはお嘆き申しあげにならなかったのは、情けない愛別離苦(※愛する人と生別、死別しなければならない苦しみ)の思いであることよ。
例の宵・暁の垢離(※こり:冷水を浴びて、心身を清めることと)の水を前方便になずらえて、那智の御山にて、この経を書く。長月の二十日過ぎのことなので、峰の嵐もやや激しく、滝の音も涙の声と争ようで、悲しみを尽くした心地がするので、
物思ふ袖の涙をいくしほとせめてはよそに人の問へかし
(訳)悲しい物思いをして袖を幾度濡らしたことかと、せめて余所事のように誰か尋ねておくれ。
父母の形見の品の残りをことごとく売却して、写経をつぎつぎと営む心ざしを、熊野権現も納受されたのであろうか、写経の日数も残り少なくなって、御山を出る予定の日も近くなったので、お名残も惜しくて夜通し拝み申し上げなどして、ちょっとまどろんだ暁方の夢に、
故大納言(※亡父、源雅忠)のそばに私はいたが、故大納言は「後深草院のお出ましの途中」と告げる。
見申し上げると、鳥襷(※とりだすき:甘の御衣の浮き織物の文様。尾長鳥を唐花のまわりに配して輪違えとした模様)の模様を浮き織物に織った甘の御衣(※かんのおんぞ:上皇の平服として着用する直衣)を召して、右の方にちょっとお傾きになっている様子で、私は左のほうにある御簾(みす)から出て、院にお向い申し上げた。
院は証誠殿(※しょうじょうでん:ここでは本宮の主祭神を勧請した那智社の第二殿)の御社にお入りになって、御簾をすこしお上げになられて、微笑んで、じつに心地よさげなご様子である。
また、父大納言に「遊義門院(※ゆうぎもんいん:後深草院の娘(1270〜1307)。この時点では存命中。母は東二条院)の御方もお出ましになったぞ」と告げられる。
見申しあげると、遊義門院は白いお袴(はかま)に御小袖(※こそで:袖口を狭くした肌着)ばかりを召して、西の御前(※にしのごぜん:那智社の主祭神を祀る第四殿)と申し上げる社の中に御簾、それも半分に上げて、白い衣を二つ、左右からお取り出しになって、「二人の親の形見を東西へとやった志は、気の毒に思う。取り合せて遣わすぞ」と仰せになるのを、私はたまわった。
それから私はもとの座に帰り、父大納言に向って、「善因善果で、天子の位に即いておいでになりながら、どのような御宿縁で御かたわでおいでになられるのですか」と申し上げる。
父は、「あの御かたわは、座っていらっしゃる下に御腫れ物がある。この腫れ物というのは、我々のような無智の衆生を大ぜい後ろにお従えになって、これをあわれみ育もうとお思いになられるためである。まったく御自身に御過ちはない」と言われる。
また後深草院を見申し上げると、なお同じ様子で心地よさげなお顔で「近くに参れ」とお思いになっている様子である。私は立って御殿の前にひざまずく。白い箸のように、元のほうは白々と削って末のほうには梛(※なぎ:熊野の神木)の葉が二枚ずつある枝を、院は二つとりそろえて下された。
と思って、ふと目が覚めると、如意輪堂(※今の那智山青岸渡寺)の懺法が始まるところである。なにげなく側をさぐったところ、白い扇で檜の骨の(※檜扇のこと)が一本あった。夏などでもないのに、とても不思議で有難く思われて、手に取って道場に置く。このことを語ると、那智の御山の御師(※おし:熊野に迎えた参詣者の祈祷や宿泊、山内の案内を行う僧)、備後(※今の広島県東部)の律師かくたうという者が、「扇は千手観音の御体というようである。必ずご利益があるだろう」と言う。
夢のなかの院の御面影も、覚めて後の袖に涙として残って、写経も終わりましたので、最後まで大切に残し持っていた御衣を、いつまで残し持っていられようと思い申し上げて、御布施に、泣く泣く取り出しました折に、
あまた年馴れし形見の小夜衣(さよごろも)けふを限りとみるぞ悲しき
(訳)長年、身につけて慣れ親しんできた形見の御衣を、今日を最後と思って見るのは悲しいことだ。
那智の御山にみな奉納して帰りましたときに、
夢さむる枕に残る有明に涙ともなふ滝の音かな
(訳)夢から覚めると、枕に有明の光が残り、涙を誘う滝の音が聞える。
かの夢の枕もとにあった扇を、今は院の御形見ともしようと自ら慰めて帰ってきましたが、はや亀山法皇が崩御されたことを承ったので、うち続かれた世のお悲しみも、有為無常の情けない習いとは申しながら、心につらく思われて、私だけが命尽きずにむなしく生きながらえ、この世を立ち去ることもないうちに、年も改まった。
二条の見た夢
これにて現代語訳終了。二条が那智に籠って見た夢について。那智に籠って通夜した暁にまどろんで二条が見た夢には、亡父と、後深草院と後深草院の娘・遊義門院が登場しました。
後深草院は証誠殿に入り、地よさげな様子。証誠殿は阿弥陀如来の権現(垂迹神)が祀られる社殿であり、後深草院の極楽往生を願った二条の思いがそのような夢を見させたのでしょうか。「右の方にちょっとお傾きになっている様子」の後深草院。『増鏡』には、後深草院は幼少時、腰が普通の状態でなく、きちんと立てなかったというような記述があります。なぜ後深草院は御かたわであったのかを二条は思い、それは院が衆生をあわれみ育む存在である証であり、院は阿弥陀如来の化身であったのだと、そのような考えに至ったのでしょう。二条のなかで、後深草院は理想化され、阿弥陀如来と同一化します。
遊義門院は後深草院の忘れ形見。西の御前に入る遊義門院。西の御前は千手観音の権現を祀る社。後深草院が阿弥陀如来なら、その娘の遊義門院は千手観音。遊義門院の母親は、二条に嫉妬と憎悪の目を向けた後深草院中宮の東二条院。しかし、東二条院も後深草院崩御の年に後深草院に先立って亡くなっていましたし、尼となって気持ちの整理もついていたのか、そういった因縁も超えて、遊義門院は後深草院の娘ということで、二条のなかでは千手観音と同一化したのでしょうか。
二条が得た白い檜扇
扇は那智にとって重要なアイテムです。熊野那智大社の例大祭は神霊を扇神輿(おうぎみこし)に移して那智の滝前に運ぶ神事で、扇祭(おうぎまつり)または扇会式法会(おうぎえしきほうえ)といわれます。
この那智参詣の翌年、二条は石清水八幡宮で遊義門院の御幸に出会って、門院との面識を得、後深草院の三回忌の折には、那智で得た白い檜扇を門前に奉りました。『とはずがたり』の記述はこの後深草院の三回忌で終わりますが、そのおよそ一年後、遊義門院は三十八歳で死去してしまいました。  
 
とはずがたり

 

大傑作。ただし、これは事実をしるした日記のようなものなので、はたして傑作とか作品などと言ってよいかとなると、困る。けれどもやはり大傑作。とにかく、すさまじい。ぼくが何を言おうとしているかを掴んでもらうには、まずもって作者の後深草院二条という女性がどんな人生をおくったのかを、おおまかでも先に知ったほうがいい。いや、作者というべきかどうかも微妙であって、日記ならば作者とは言わないほうがいいのだが、しかしやはり二条は作者なのである。ざっと出来事の経過を案内する。それがこの“作品”の構成にもあたる。このあらましだけで何かが理解できるようならば、かなりの人生のエキスパートか、日本の貴族文化に詳しいか、それとも異常に異性好きだといっていいだろう。
とりあえず作者と言っておくことにするが、作者は14歳のときの文永8年(1271)に後深草院の寵愛を受けた。すでに4歳から院の後宮に上がっていた。翌年、作者は父親を失う。母親は2歳のときに死んでいた。両親を失った悲しみと寂しさからなのか、その年、作者は以前から慕っていたらしい「雪の曙」という男性と交わってしまう。ところがその翌年の文永10年、後深草院の皇子を生んだ。それだけではなかった。作者は後深草院にはいつわって、雪の曙とのあいだの女児も生んだ。雪の曙は理解を示して、この子を引き取って自分の妻に育てさせる。けれどもそこに悲報が届いた。皇子がわずか2歳で死んでしまうのである。作者はもはや出家するまでと覚悟するが、その決断がなかなかできないでいる。ここまでが巻1の出来事になる。
ついで巻2に入って、文永12年のこと、作者は18歳になっているのだが、その正月に粥杖事件というものが宮中でおこる。これで作者は後宮におけ自分の身の位置を知らされて、恐ろしくなる。一方、この年に後深草院の弟の亀山院から好意を示され、さらに、御室の仁和寺の門跡の「有明の月」という阿闍梨からも迫られて、契りを結んでしまう。1年がたって建治3年、20歳の作者は後深草院と亀山院の遊宴に奉っているとき、またまた女楽(おんながく)事件という失踪騒動をおこしてしまう。もはや何がなんだかわからなくなった作者に、よほど魅力があったのであろう、ここでまた近衛の大殿という男性と交わることになる。これは後深草院が作者の後見人に大殿を指名したことの奇妙な交換条件だったようで、その運命に巻こまれていったらしかった。
巻3では、弘安4年(1281)になっていて、作者はふたたび有明の阿闍梨と交情して懐妊、男児を生む。この噂は広まるのだが、おかしなことに後深草院は有明との関係を咎めない。そればかりか、懐妊を知るとその子を院の皇子として引き取って、後宮の女房の一人に育てさせようと言う。ところがここで、有明が流行病に罹ってあっけなく死んでしまう。そこに亀山院との仲が世の噂となってきて、宮仕えがしにくくなり、作者は里居がちになる。おまけに有明とのあいだの第二子も懐妊していることがわかって、作者としてはこれは自分が育てるしかないと悟る。弘安6年、26歳のとき、後深草院の中宮であった東二条院がついに怒り、作者は後宮を退かされる。2年後、作者の母方の祖父の姉にあたる北山准后の90歳の祝賀会に出席、これまでの栄華を飾る人々との列席のなか、感興ひとしおになる。ここまでが前半で、しばしば「愛欲篇」とか「後宮篇」とかよばれてきた。
作者は31歳になっている。正応元年(1288)、「雪の曙」の娘が伏見天皇に女御として入内(のちの永福門院)したとき、ここに奉仕する。が、この時期のことは日記の記述がなく、巻4ではすでに尼になっているところから再開される。鎌倉に出家修行の旅に出ている場面である。このあと作者は健脚というのか壮健というのか、32歳で東海道を下って鎌倉に入り、年を越してからは信濃の善光寺に参詣、八月十五夜には武蔵に入って浅草の観音堂を詣で、ふたたび鎌倉に戻っては多くの御家人たちと和歌や続歌(つぎうた)を交わしている。そのあといったん都に帰るのだが、休むまもなく奈良へ修行を試み、さらに石清水八幡に参拝したところで、偶然なのか、誰かが図ったのか、後深草院の御幸とめぐりあう。ここは院が声をかけて一晩を語りあうというふうになっているのだが、むろん語りあっただけではなかった。けれども作者の意志はすでに出家におかれ、その後も熱田神宮や伊勢神宮に赴いている。永仁元年(1293)、36歳の作者は後深草院からお召しがかかって伏見離宮を訪れる。何がおこったのかはわからないのだが、この数年後には伊勢の二見浦に行っている。
巻5は、おそらく45歳からのこと、安芸の厳島神社、讃岐の白峰から坂出の崇徳院御陵、さらには土佐の足摺岬をも訪れている。その2年後の嘉元2年(1304)、それまで作者をずうっと憎んでいた東二条院が亡くなるのだが、やがて後深草院も亡くなる。作者は霊柩車を裸足で追った。ここは現代小説か映画を見ているような劇的で印象深い場面で、これまで抑えに押さえてきた作者の心情が起爆するところである。この年はまた父親の33回忌にもあたっていて、作者は墓参して、父の歌が『新後撰集』に洩れたことを報告、いつか父の歌が入集することを祈りつつ、自分も敷島の道に精進することを誓う。翌年、柿本人麻呂を讃える人丸影供をみずから営み、熊野に参って写経にも向かった。そしてその翌年の49歳のとき、石清水八幡宮でまたもや偶然なのか、後深草院の忘れ形見の女院である遊義門院の御幸に出会って、門院の知遇を得る。それでどうなるかというと、後深草院の3回忌の仏事をおえるところで、『とはずがたり』の記述は閉じられる。
さて、これだけで二条の人生のすさまじさは伝わるだろうが、それにしてもどうしてこんなに波乱に富んだのか、それを補わければならない。これがまた入りくんでいる。そればかりかここにはどうも『源氏物語』(1569夜)が見え隠れする。
そもそも作者が後宮に入って寵愛されたのには、母親の縁がある。作者の母親は大納言四条隆親の娘で、後嵯峨院に仕える女房だった。四条家は皇族乳母を出仕する家で、院政期に勢力を伸ばしていた。この家柄では、娘を典侍(ないしのすけ)として内裏女房の重要な位置を占めるのが家の仕事だったのである。したがって有職故実にあかるく、かつ性生活にもくわしくなければなかった。それゆえ母親(大納言典侍)も、後深草院が東二条院と結婚するにあたっては、あらかじめ後深草院に性の手ほどきをしていた。こういうことをされれば少年王はその女性を憧れるのは当然なのだが、後深草も母親を慕い続けた。その大納言典侍が源雅忠(作者の父親)と結婚して、作者を生んだので、忘れ形見として作者をそばにおいておきたいと言い出したのだった。父親については簡単にするが、中院大納言だ。やはり院政期に力を増してきた一門で、曾祖父が内大臣土御門通親、祖父が太政大臣久我通光、しかも天皇のもとに女御を入内させるのを“仕事”としていたというのだから、だいたい二条の出自の輝きがだいたい見える。
後深草院についても、この時代のことに疎い読者には、おそらく意外な印象があるだろう。そもそも父親の後嵯峨院の譲位をうけて践祚したのが4歳である。おまけに17歳で弟の亀山天皇に譲位してしまった。イケメンかどうかは知らないが、めちゃくちゃ若い。4歳の二条が後宮に入ったときで19歳。こんな青年帝王が院となってロリコンまがいに少女を寵愛するのだから、二条のほうに何がおこっても当然なのである。実際にも「有明」と二条の関係を容認して、かえって二条の恋情を有明に向けさせるような、この青年帝王にはいささか倒錯的な感覚もあったと思われる。マイケル・ジャクソンの比ではない。
ところで、後深草院が幼い二条を是非にと手元におきたがったという話は、『源氏物語』「若紫」(1570夜)で、父親の桐壺の帝の妃の藤壷を慕っていた光源氏が、藤壷そっくりの紫の君に出会って、これを引き取りたいと言っているのに、どこか似ている。光源氏はそのあとも、玉鬘を自分のものにしたいと思ったりしている。いちいち書かないが、こうした源氏と似た出来事の自分の身への照射が『とはずがたり』にはしばしば出てくるのだが、それを思うと、いったい作者は事実を書いたのか、『源氏』を下敷きにしたのか、わからなくなるようなところも少なくないのである。さらに勘ぐれば、その両方の意図をもってそうとうに高度な“作品”に仕立てたというふうにも読める。さあ、本当はどうなのか。
いま少し、説明を補っておく。一番気になるだろう「雪の曙」だが、これは西園寺実兼のことである。『とはずがたり』の冒頭から贈り物の主として登場する。家門としては関東申次(もうしつぎ)の役職にある。二条の9歳の年上になる。「有明の月」が誰であるかは研究者によって若干の特定が異なっているのだが、真言密教の阿闍梨であること、おそらくは仁和寺の法親王の地位にいたもの、皇室のかなりの血縁者であろうことは推定できる。ようするに高僧で、それで猟色なのだ。本文を読むかぎりは、そうとうに強引で執拗、それなのに最初は反発していた二条はその密通が公然となるにしがって、恋情へと走っている。いやいや、恋情などというものではない。愛欲のかぎりを尽くして燃えているというふうに読める。おそらく二条の15歳か30歳ほどの年上。もう一人、東二条院がつねに隠然たる圧力をもって二条に迫っている。後深草院の中宮、つまり奥さんの嫉妬と憎悪である。二条はつねにその目を気にし、男たちがそれを素知らぬふりをして自分を犯してくるのに、振り回されていく。が、『とはずがたり』を自伝文学あるいは物語として読むのなら、この東二条院の設定こそは『源氏』の六条御息所の役割に似て、この“作品”を迫真させてもいる。
というようなことを書いているうちに、これ以上の人間関係のことを説明する気分ではなくなってきた。それより、ぼくはこれを都合3度くらいに分けて、やや重なりながら読んだのだが、そのときの印象ではやはり出家をしてからの二条に心惹かれるものがあったので、そのことを少し書いておく。
二条は出家するにあたって発願をした。五部の大乗経を写経しようと決意する。淡々とそう綴っているのだが、これは実は大変な作業でなのある。なにしろ『華厳経』60巻、『大集経』26巻、『大品般若経』27巻、『涅槃経』36巻、『法華経』8巻、この全部を写経する。有職故実書を見ると、都合190巻、料紙4220枚となっている。厖大だ。さすがに『とはずがたり』を綴じた49歳までには全部を書写しきれなかったようなのだが、どうやらいろいろの文献を照合すると、二条はこれをやりきっている。『大品般若経』の初めの20巻は河内の磯長の聖徳太子の廟で奉納して残りは熊野詣で写経し、『華厳経』の残りは熱田神宮で書写して収め、『大集経』は前半は讃岐で、後半は奈良の春日神社で泊まりこんで書き写すというふうに。
まことに不屈の意思ともいうべきだが、ここには、霊仏霊社に参拝しては寺社の縁起を聞いて、そのたびに結縁(けちえん)をくりかえすという、二条の遊行の方法に対する確信こそが大きかったのだと思う。それは尼になりきった二条が“女西行”となったということなのである。きっと二条は、そもそも少女のころからして、誰との出会いも結縁だったのだろう。愛された、犯された、好きになった、恋しくて苦しかった、邪険にされた、軽くあしらわれた、でも惚れた、というようなことすべてを結縁と思えたはずなのだ。ということは、そう言ってよければこの“作品”は、あたかも霊仏霊社のいちいちと出会うようにも、一から五までを読めるということなのである。やはり大傑作である。
では、そのような二条に肖(あやか)って、以下は、ぼくが綴ってみた「とはずがたり」な一節だ。
いま、因縁などというものはまことに古くさく、まことに怪しいかぎりのものだと思われているが、二条のこうした因縁の結び方を読んでいると、われわれのほうこそ勝手で短気で、神仏にもあっさりなりすぎて、では、それで人との出会いの結縁を大切にしているかというと、何を恐れるのか、ちょっとでも不利なことや気になることがあると、たちまち疎遠になって、それで平気でいられるのならともかくも、案外、心中ではそのことをぐずぐす気にしていたりする。第947夜にも岡潔に似せて書いたことであるけれど、人のつながりなんて、ある、と思う以外につながりはないもの、それが一度でもつながれば、それをもっと大切、切実にするしかないはずなのに、そこが最近はごっそり抜けていて、ああ、ああ、口惜しい。そういえば、縁を結ぶということで思い出したけれど、我が身に近い数々の人たちは、近ごろは何かで会ったときに何かの結びをすこしでも残すということをしなくなっていて、すぐに次に会うことばかりをものぐるほしく思ったり、それが叶わないとみるやすぐに、ああ自分はなんだか自分が嫌になったと思うようで、そういう人にこそ、次は春日の灯籠のもとで会いましょうかと言ってみたくなるものだ。
君ゆえに我先立たばおのづから時には含め夜の白露 
「とはずがたり」と鎌倉

 

『とはずがたり』後深草院二条
『とはずがたり』の著者として知られる後深草院二条は、久我大納言雅忠の娘で本名は不明です。正嘉二年(1258)の生まれで没年は伝わっていませんが、少なくとも50歳頃まで『とはずがたり』を記していた事がわかっています。『とはずがたり』の前半は著者である後深草院二条が宮中における男性遍歴をあますことなく書き記した日記文学です。後半は32歳で出家した後に日本各地へと旅に出た体験が記されています。したがって著書は、日記文学とも紀行文学ともとらえられますが、一方で『増鏡』が彼女の文章を多量に引用していることから、記録文学としても専門家から注目されています。14歳で後深草天皇の寵愛を受けながら、同時に西園寺実兼、性助法親王、亀山院などとも情事を重ねる自由奔放な彼女の行動と、『とはずがたり』における彼女の文学的表現に現代では多くの人が魅了されているようです。二条は少なくとも4人の子供を出産していますが、その子供らと親子として関わることはなかったと云われています。
後深草院二条の鎌倉下向
後深草院二条は、正応二年(1289 )の32歳の時に鎌倉に訪れています。鎌倉では北条貞時の治世で、七代将軍の座を廃された惟康親王が鎌倉を追放されるちょうどその時でした。そして『とはずがたり』に記されていた鎌倉の字名を抽出してみたところ、江ノ島・極楽寺・化粧坂・荏柄・二階堂・大御堂・大蔵谷・新八幡・御所・佐介谷・若宮小路・山ノ内山荘とありました。そして下地図画像は、彼女が行ったであろう鎌倉の地を示したものです。抽出した字名にある「山ノ内山荘」ですが、正確には「山ノ内という相模殿の山荘」とあります。ちょっとこの山荘位置がよく分かりません。初耳です。得宗家の別業でしょうか。明月谷にあった北条時頼の最明寺北亭を指すのかもしれないと個人的には思いましたが、もちろん確証はありません。また、新八幡(鶴岡八幡宮)・大御堂・二階堂(永福寺)と頼朝が建立した寺社全てに訪れています。二条の父で久我大納言雅忠は村上源氏なので、自分の血統と関連する源氏を祀る寺社に参詣したようです。それから鎌倉滞在中は大蔵谷と佐介に泊まっています。大蔵谷にいた小町殿という縁者から「私のところへいらっしゃい」というお誘いに「かえってわずらわしい」と二条は近くに宿をとっています。
後深草院二条の云う化粧坂?
「明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方をみれば、東山にて京を見るにはひきたがへて、階などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。 」
文章は二条が鎌倉に入ったその時を伝えたものです。「化粧坂という山を越え、鎌倉の方を眺めると、家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたようだ」と伝えています。「家々が階段のように幾重にも重なって」というのは、鎌倉名物のひな壇状地形を表現しています。昔からそうだったのだろうと誰もが考える鎌倉の景観を改めて二条が証言してくれています。そして問題となるのが、「化粧坂という山を越え〜」という点です。これは彼女のその後の行動からも、どうやら化粧坂ではなく極楽寺坂の間違いではないかと云われています。彼女の行動を整理すると、極楽寺に参詣後、化粧坂を超え鎌倉の街並みを眺め、由比ヶ浜に出ています。大きな鳥居があって、遠くに若宮の御社が見えると記しています。鎌倉の地理上の観点から考えれば確かに、極楽寺から極楽寺坂を下り由比ヶ浜に出たと考えるのが妥当かと思われます。「とはずがたり」は、リアルタイムで記されたものではなく、二条が49歳になった嘉元四年(1306)に執筆されたものなので、どこか記憶が曖昧になったと考えてもおかしくないのかもしれません。
極楽寺坂は近現代で掘り下げられています。成就院前が本来の切通し頂部だと『鎌倉市史 考古編』にありました。ということで下画像は上のタイトル画像でも使った極楽寺坂成就院前からの展望で、二条が見たかもしれない景色です。坂の向こうに由比ヶ浜が見える鎌倉指折りの絶景ポイントです。
しかしながらよくよく考えると、この極楽寺坂からの景色では、二条の云う「家々が階段のように幾重にも重なって、袋の中に物を入れたよう」という景観が伝わってこないような気がします。当時とは地形なども変わっているので、現代から二条が見た景色を検証するには多少無理があるのかもしれませんが、それにしてもあの二条が記した鎌倉の「景色感」がいまいち伝わってこないのは私だけでしょうか。一応、木々が邪魔になりますが、坂を下ると少しだけ鎌倉の街並みが見渡せます。下画像です。ん〜それでも何かしっくりこない気がします。
念のため、極楽寺坂が開削される前まで使用されていたと云われる稲村道、市史で云うところの稲村ヶ崎海岸道はどうでしょう。新田義貞の鎌倉攻めの際、大激戦区となった五合枡(仏法寺跡)辺りにその道が通っていたと思われます。極楽寺坂のある丘陵頂部になります。
直下に成就院、奥に甘縄辺りの削平された平地が眺められます。こちらの方が二条の記した鎌倉の「景色感」が伝わってくるようです。さらに、二条は「海をはるかに見わたすのは見どころがある」とも記しています。このいかにも高台から遠景を眺めたような表現から、旧道が近くを通っていたとされる仏法寺跡平場からの景色を私は思い出しました。そこからは下画像をご覧のように、鎌倉の海岸に三浦半島を一望できます。
「二条の云う化粧坂は極楽寺坂ではないか」説を考えていたら、いやいや「二条は旧道の稲村ヶ崎海岸道を通っているのではないか」疑惑が浮上してきてしまいました。考えるときりがありませんね。ちなみに化粧坂ですが、いまいちその景観ポイントが判然としません。一応、下画像は扇谷から大仏裏ハイキングコースに向かう途中から見える景色です。直下に佐介の谷戸、そして光明寺などの飯島方面を特に見渡せます。ただ、ここだと鎌倉の街並みが遠く感じますね。二条は何処から鎌倉の街並みを見たのでしょう。
後深草院二条の人間像
『とはずがたり』に記されていましたが、二条は多くの男性から言い寄られているので、美人であった可能性が高いと思われます。もしくは、強く押せば何とかなる都合のイイ女性だったのかもしれません。まぁこの辺りはどちらであっても、どちらにしろ男性からすれば魅力的な女性であることには変わりないでしょうか。また、著書に記された出来事から、気丈でやや突飛な行動に出る人間性がうかがえます。そもそも院で生まれ育ったような上層階級の女性が突然出家して日本全国の旅に出ること自体が突飛な行動なのかもしれません。大河ドラマなどでも有名な作家の永井路子先生によれば、「女性は自分の事を書くと、非常なナルシシズムに陥るか、自己弁護的になりがちなものですが、二条は自分というものを客観的にとらえて書いている」「こういう形での文学を書いた女性はこれまでありません」などとありました。二条は鎌倉滞在後、善光寺へ向かうため関東を離れます。文章を読みながら少し寂しい気持ちになりました。いつのまにか私も二条に惹かれてしまったようです。 
 
「とはずがたり」の鎌倉

 

「とはずがたり」の二条が鎌倉に滞在した日々の見聞について拾い読みしていて、ふと先頃読んだ、近世も末に無宿人として捕えられた衛門姫のことを思い出した。江戸について書かれた随筆集の中でも、衛門姫が起こした珍事?は異彩を放って、読み手の心をわしづかみにした。
歴史の大いなる流れに浮沈する個人を、いかにリアルに想像できるかが、歴史理解の鍵となるだろう。為政者による年代記を読むだけでは、当然のことながら歴史は見えてこない。権力者の抗争をよそに、心身ともに過酷な状況を生き延びようと試み、実際に生き伸び或いは力尽きた無数の人々がいる。そんなことをつらつら考えながらも一方、権力という魅惑する力からも離れることができない。源頼朝にしろ、足利尊氏にしろ、最初から最高権力奪取の野望に導かれて生きたのではあるまい。そのように見ることはあと知恵に過ぎず、予定調和的な歴史記述を容認することになる。社会にも個人の心の内にも決定的な転回点が訪れて、その時個人は後戻りのできない決断を余儀なくされ、社会は大きく変わる。頼朝も尊氏もそのようにして「その時」権力を手中にしたに違いない。
しかしまた庶民にとっては、権力は到底、近づき難いものである。一説に権力は死に触れる、ともいう。禁忌に触れることなく権力の座に上ることはできないということか。最高権力者という稀有な人間だからこそ訪れるドラマに、人は心揺り動かされる。そのドラマは人間の可能性の極北に位置する感情の沸騰点だ。(だから未だに、天皇の交代を縦軸に据える歴史記述はあり得るのだと思う)
そこで再び衛門姫であるが、彼女は長い間続いた武家政権の圧迫の下に生きた公家の姫君であった。歌枕の地に惹かれ、京都を出奔する。文化3(1806)年正月、上州にて無宿の故をもって召捕られる。この話が何故驚愕をもって迎えられるのかというと、公家の息女が流浪のあげくに捕縛されたという事実もさることながら、江戸時代公卿の一族がどのような意識を持って暮らしたかについて考えが及ばなかったこちらの間隙を衝くからなのだ。零落した階級の、さらに弱い立場の人間が、押しとどめようのない感情に突き動かされて旅に出る。その行動は無宿人として召捕られた顛末からして違法であったのだが。
近世末の公卿の姫君のエピソードを、それよりはるかに自由だったはずの尼姿の二条に重ねてふと思い出したのだった。
二条という女性は、後深草院の寵姫となり、奔放な恋愛遍歴の末に出家し、西行に憧れて諸国を行脚している。その自伝的記録が「とはずがたり」だ。戦中に宮内庁の書陵部にて、地理の部から発見されたという。少なからぬ文飾があるとも言われているが、その赤裸々な記述は、鎌倉中期の雲上人が、東夷の鎌倉をどのように見ていたかという、貴重な資料ともなっている。つまり、零落した階級に属する女性が、興隆する武家の社会を、いかに皮肉な目をもって眺めていたかという・・・(それは仏法を求める出家者の目では決してない)
明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りて見れば、僧の振舞都に違はず、なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂といふ山を越えて、鎌倉の方を見れば、東山にて京を見るには引き違へて、階などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。
この二条の記述に見えるのは、いくえにも切り込まれた谷筋に、勃興する都市に流入する細民たちの住まいが重なっている様のことではなかろうか。
旅することは時間を遡ることにほかならない。西行に憧れた後深草院二条も、歌枕の磁場にひかれた衛門姫も、過去のどこかに見果てぬユートピアを見ていたのかもしれない。 
 

 

 
「とはずがたり」 2  後深草院二条

 

■問はず語り 巻一
一 十四の春
文永八年(1271)元旦、作者十四歳、後深草院二十九歳。院の御所で元旦の祝酒が行われ、作者の父大納言源雅忠は御薬の役を勤める。院から雅忠に、「今年からお前の女を我が側室に納れるように」とのお言葉があり、雅忠、はかしこまって退出した。

くれ竹のひとよに春の立つ霞、けさしも待ちいで顔に花を折り匂ひをあらそひてなみゐたれば、我も人なみなみにさしいでたり。つぼみ紅梅(こうばい)にやあらむ七つに、紅のうちき、もよぎのうはぎ、赤色の唐衣などにてありしやらん。梅からくさを浮き織りたる二つ小袖に、からかきに梅をぬひて侍りしをぞ着たりし。
今日の御くすりには、大納言陪膳(はいぜん)に参らる。とざまのしきはてて、また内へ召し入れられて、台盤所の女房たちなど召されて、如法、をれこだれたるくこんのしきあるに、大納言、三々九とて、とざまにても、ここの返りの勧盃(けんぱい)にてありけるに、またうちうちの御事にも、「その数にてこそ」と申されけれども、「このたびは九三にてあるべし」とおほせありて、如法、上下ゑひすぎさせおはしましたるのち、御所の御かはらけを大納言に給はすとて、「この春よりは、たのむのかりも我がかたによ」とて給ふ。ことさらかしこまりて、九三返し給うててまかりいづるに、なにとやらん、しのびやかにおほせらるる事ありとはみれど、なにごととはいかでか知らむ。
二 鶴の毛衣
思いがけずも、その夜ある人から恋歌を添えて着物が贈られた。作者はその人を誰とも書いていないが、初恋の人「雪の曙」すなわち西園寺実兼(二十三歳。当時権中納言)であった事は、しぜんに分かるように次々記されてゆく。実兼は院が作者を側室とせられる事を知って、いち早く、こういう手を打ったのであろう。作者はこれを一度返したが、再び届けられたので受取り、翌日後嵯峨院御幸の時にこれを着て出仕し、父に問われ、偽って常磐井の准后からいただいたと答える。

拝礼など果てて後、つぼねへすべりたるに、「昨日(きのふ)の雪も今日よりは、あとふみつけん行くすゑ」など書きて、御文(おんふみ)あり。紅のうすやう八つ、こきひとへ、もよぎのうはぎ、からぎぬ、はかま、三つ小袖、二つ小袖など、ひらづつみにてあり。いと思はずにむつかしければ、返しつかはすに、袖の上に、うすやうのふだにてありけり。見れば、
つばさこそ重ぬることのかなはずと 着てだになれよ鶴の毛ごろも
心ざしありてしたためたびたるを、返すもなさけなきここちしながら、
「よそながらなれてはよしやさよごろもいとどたもとの朽ちもこそすれ。思ふ心の末むなしからずは」など書きて返しぬ。
うへぶしに参りたるに、夜中ばかりに、下口(しもくち)の遣戸(やりど)をうちたたく人あり。なに心なく、小さき女(め)の童(わらは)あけたれば、さしいれて、使(つかひ)はやがて見えずとて、またありつるままの物あり。
契りおきし心の末のかはらずは ひとりかたしけ夜半(よは)のさごろも
いづくへまた返しやるべきならねばとどめぬ。
三日、法皇の御幸この御所へなるに、このきぬを着たれば、大納言、「なべてならず色も匂ひも見ゆるは、御所より給はりたるか」といふも胸さわがしくおぼえながら、「常磐井の准后(じゆごう)より」とぞ、つれなくいらへ侍りし。
三 つれなき一夜
正月十五日、院と結婚のため、河崎なる父の邸に呼ばれる。作者には実情が知らされていないので不審に思う。十六日、院の御幸があり、作者の寝所に入って来られた。作者が目をさまして見ると、院が馴れ顔い寝ていられる。驚いて逃げようとしたが放されず、今日まで恋いつづけて来た事をくどかれる。しかし拒み通して、その夜はあけた。

十五日の夕つかた、河崎より迎へにとて人たづぬ。いつしかとむつかしけれども、いなといふべきならねば出でぬ。見れば、何とやらむ、常のとしどしよりも、はえばえしく、屏風・畳も、几帳・ひきものまで、心ことに見ゆるはと思へども、年の始めのことなればにやなど思ひて、その日はくれぬ。
あくれば供御(くご)のなにかとひしめく。殿上人の馬、公卿の牛などいふ。ばばの尼上など来集まりてそそめく時に、「何事ぞ」といへば、大納言うち笑ひて、「いさ、こよひ御方違へに御幸なるべしとおほせらるる時に、年の始めなれば、ことさらひきつくろふなり。その御陪膳(ごはいぜん)のれうにこそ迎へたれ」といはるるに、「節分(せちぶん)にてもなし、何の御方違へぞ」といへば、「あらいふかひなや」とてみな人笑ふ。されどもいかでか知らむに、我が常に居たるかたにも、なべてならぬ屏風たて、小几帳たてなどしたり。「ここさへ晴れにあふべきか。かくしつらはれたるは」などいへば、みな人笑ひて、とかくの事いふ人なし。
タがたになりて、白き三つひとへ、こき袴を着るべきとておこせたり。空(そら)だきなどするかたさまも、なべてならず、ことごとしきさまなり。火ともして後、大納言の北の方、あざやかなる小袖をもちて来て、「これ着よ」といふ。またしばしありて大納言おはして、御棹(おんさを)に御ぞかけなどして、「御幸までねいらで宮つかヘ。女房は何事もこはごはしからず、人のままなるがよき事なり」などいはるるも、何の物教へとも心得やりたる方なし。なにとやらんうるさきやうにて、すびつのもとによりふしてねいりぬ。
そののちの事いかがありけん知らぬ程に、すでに御幸なりにけり。大納言、御車寄せ、なにかひしめきて、供御(くご)まゐりにけるをりに、いふかひなくねいりにけり。「起せ」などいひさわぎけるを聞かせおはしまして、「よし、ただ寝させよ」といふ御気色なりける程に、起す人もなかりけり。
これは障子のうちのくちに置きたるすびつに、しばしばかり、かかりてありしが、きぬひきかづきて寝ぬるのちの、何事も思ひわかである程に、いつのほどにか寝おどろきたれば、ともし火もかすかになり、ひきものもおろしてけるにや、障子の奥に寝たるそばに、馴れ顔に寝たる人あり。こは何事ぞと思ふより、起き出でていなんとす。おこしし給はず。いはけなかりし昔よりおぼしめしそめて、十(とお)とて四つの月日を待ちくらしつる、何くれ、すべて書きつづくべき言の葉もなき程におほせらるれども耳にも入らず、ただ泣くよりほかの事なくて、人の御たもとまでかはく所なく泣きぬらしぬれば、なぐさめわび給ひつつ、さすが、なさけなくももてなし給はねども、「あまりにつれなくて年もへだて行くを、かかるたよりにてだになど思ひ立ちて、今は人もさとこそ知りぬらめに、かくつれなくてはいかがやむべき」とおほせらるれば、「さればよ、人知らぬ夢にてだになくて、人にも知られて、一夜の夢のさむるまもなく物をや思はん」など案ぜらるるは、なほ心のありけるにやとあさまし。「さらば、などや、かかるべきぞともうけたまはりて、大納言をもよく見せさせ給はざりける」と、「今は人に顔を見すべきかは」と、くどきて泣きゐたれば、あまりにいふかひなげにおぼしめして、うちわらはせ給ふさへ心うくかなし。夜もすがら、つひに一言葉(ひとことば)の御返事だに申さで、明けぬる音して、「還御はけさにてはあるまじきにや」などいふ音すれば、「ことありがほなる朝がへりかな」とひとりごち給ひて、起きいで給ふとて、「あさましく思はずなるもてなしこそ、振分髪の昔のちぎりもかひなきここちすれ、いたく人めあやしからぬやうにもてなしてこそよかるべけれ。あまりにうづもれたらば、人いかが思はむ」など、かつは恨み、また慰め給へども、つひにいらへ申さざりしかば、「あな力なのさまや」とて起き給ひて、御直衣などめして、「御車よせよ」などいへば、大納言の音して「御かゆ参らせらるるにや」と聞くも、また見るまじき人のやうに、昨日は恋しきここちぞする。
四 しのぶの山
十七日、院から後朝の文が来た。作者は臥しつづけていて御返事をしない。ひるごろ、思いよらぬ人(実兼)から恋文が来る。それには返事をする。作者は自らの仕打ちに対して自責を感じる。

還御なりぬときけども、おなじさまにて、ひきかづきてねたるに、いつの程にか御ふみといふもあさまし。大納言の北の方、尼上など来て、「いかに」「などか起きぬ」などいふも、かなしければ、「夜より心ちわびしくて」といへば、「にひ枕のなごりか」など、人思ひたるさまもわびしきに、この御ふみをもちさわげども、誰かは見む。御つかひ、立ちわづらふ。「いかにいかに」といひわびて、「大納言に申せ」などいふも、たへがたきに、「心ちわぶらんは」とておはしたり。この御文をもてさわぐに、「いかなるいふかひなさぞ。御返事は又申さじにや」とて、来る音す。
あまたとしさすがになれしさよ衣 かさねぬ袖にのこるうつりが
むらさきのうすやうにかかれたり。この御歌をみて、めむめむに、「このごろの若き人にはたがひたり」などいふ。いとむつかしくて、おきもあがらぬに、「さのみせむじがきも、中々びんなかりぬべし」などいひわびて、御つかひのろくなどばかりにて、「いふかひなく同じさまにふして侍るほどに、かかるかしこき御ふみをもいまだみ侍らで」などや申されけん。
ひるつかた思ひよらぬ人のふみあり。見れば、
「今よりや思ひきえなん一かたに煙のすゑのなびきはてなば。これまでこそ、つれなきいのちもながらへて侍りつれ。いまは何事をか」などあり。「かかる心のあとのなきまで」とだみつけにしたる、はなだのうすやうにかきたり。「忍の山の」とある所をいささかやりて、
しられじな思ひみだれて夕煙 なびきもやらぬ下のこころは
とばかりかきて、つかはししも、こはなにごとぞと、我ながら覚え侍りき。
五 にひまくら
十七日の夕刻から夜あけまで。作者ついに院と新枕をかわす。しかし実兼に対しても心がひかれる。ここに愛欲の苦悩が始まるのである。そして十八日の暁、院と共に御所に入る。

かくて日ぐらし侍りて、湯などをだにみ入れ侍らざりしかば、「べちのやまひにや」など申しあひて、暮れぬとおもひし程に、御幸といふ音すなり。又いかならむと思ふほどもなく、ひきあけつつ、いとなれがほに入りおはしまして、「なやましくすらんは、なに事にかあらん」など御たづねあれども、御いらへ申すべき心ちもせず、ただうちふしたるままにてあるに、そひふし給ひて、さまざまうけたまはりつくすも、いまやいかがとのみおぼゆれば、「なき世なりせば」といひぬべき、にうちそへて、思ひきえなん夕煙、一かたにいつしか、なびきぬ」としられんも、あまり色なくやなど思ひわづらひて、つゆの御いらへもきこえさせぬ程に、こよひは、うたてなさけなくのみ、あたり給ひて、うすき衣は、いたくほころびてけるにや、のこるかたなくなり行くにも、世にありあけの名さへうらめしき心地して、
心よりほかにとけぬる下ひぼの いかなるふしにうき名ながさん
など思ひつづけしも、心は猶ありけると、我ながらいとふしぎなり。
「かたちはよよにかはるとも契はたえじ、あひみる夜半(よは)はへだつとも、心のへだてはあらじ」など数々うけたまはるほどに、むすぶ程なきみじか夜は、明けゆく鐘のおとすれば、さのみ明けすぎて、もてなやまるるも所せしとておきいで給ふが、「あかぬなごりなどはなくとも、見だにおくれ」と、せちにいざなひ給ひしかば、これさへさのみつれなかるべきにもあらねば、夜もすがらなきぬらしぬる袖のうへに、うすきひとへばかりをひきかけて、立ちいでたれば、十七日の月、西にかたぶきて、東は横雲わたるほど程なるに、さくらもよぎのかんの御ぞに、うす色の御ぞ、かたもんの御さしぬき、いつよりも目とまる心ちせしも、たがならはしにかとおぼつかなくこそ。隆顕の大納言、はなだのかりぎぬにて、御車よせたり。為方(ためかた)の卿、かげゆの次官と申しし、殿上人には一人侍りし。さらでは、ほくめんの下らふ二三人、召仕などにて、御車さしよせたるに、をりしりがほなる鳥の音も、しきりにおどろかしがほなるに、観音堂の鐘のおと、ただ我が袖にひびく心ちして、左右(ひだりみぎ)にもとは、かかる事をや、など思ふに、なほいでやり給はで、「ひとりゆかんみちの御おくりも」など、いざなひ給ふも、「心もしらで」などおもふべき御事にてはなけれども、思ひみだれて立ちたるに、くまなかりつる有明の影、しらむほどになりゆけば、「あな心ぐるしのやうや」とて、やがてひきのせ給ひて、御車ひきいでぬれば、かくとだにいひおかで、昔物がたりめきて、なにとなり行くにかなどおぼえて、
鐘のおとにおどろくとしもなき夢の 名残もかなしあり明の空
みちすがらも、いましもぬすみ出でなどしてゆかん人のやうにちぎり給ふも、をかしともいひぬべきを、つらさをそへて行く道は、涙のほかは、こととふ方もなくて、おはしましつきぬ。
六 のがれぬ契
作者は院と結ばれて後、改めて御所に入った。そこは幼少の昔から住み馴れた所であるが、今は作者の位置が全く変わったので、しかもその位置は日蔭の位置であるから、気がねが多く不安である。十日ばかり御所にいて里に帰り、しばらく里住みしてまた御所に帰る。しかし周囲の者に中傷せられ、東二条院(後深草院后妃)の御機嫌も悪く、物思いの多い日々を送る。

すみの御所の中門に御車ひきいれて、おりさせ給ひて、善勝寺大納言に、「あまりにいふかひなきみどり子のやうなる時に、うちすてがたくてともなひつる。しばし人にしらせじと思ふ。うしろみせよ」といひおき給ひて、つねの御所へ入らせ給ひぬ。をさなくよりさぶらひなれたる御所ともおぼえず、おそろしくつつましき心ちして、たち出でつらんこともくやしく、なにとなるべき事にかと思ひつづけられて、また涙のみいとまなきに、大納言の音するは、おぼつかなく思ひてかとあはれなり。善勝寺、おほせのやうつたふれば、「いまさら、かく中々にてはあしくこそ。ただ日ごろのさまにて、めしおかれてこそ。忍ぶにつけて、もれん名も中々にや」とて出でられぬる音するも、げにいかなるべき事にかと、いまさら身のおき所なき心ちするもかなしきに、いらせ給ひて、つきせぬ事をのみうけたまはるを、さすが、しだいになぐさまるるこそ、これやのがれぬ御契ならむとおぼゆれ。
十日ばかり、かくて侍りし程に、よがれなくみたてまつるにも、けぶりのすゑ、いかがとなほも心にかかるぞ、うたてある心なりし。さてしもかくては中々あしかるべきよし、大納言しきりに申して出でぬ。人にみゆるもたへがたくかなしければ、なほも心ちの例ならぬなど、もてなして、我がかたにのみゐたるに、「この程にならひて、つもりぬる心ちするを。とくこそまゐらめ」など、又御ふみこまやかにて、
かくまでは思ひおこせじ人しれず みせばや袖にかかる涙を
あながちにいとはしくおぼえし御ふみも、けふはまちみるかひある心地して、御返事も、くろみすぎしやらむ、
我ゆゑの思ひならねどさよ衣 なみだのきけばぬるる袖かな
いく程の日数もへだてで、このたびはつねのやうにてまゐりたれども、なにとやらむそぞろはしきやうなる事もあるうへ、いつしか人の物いひさがなさは、「大納言のひさうして女御まゐりのぎしきに、もてなしまゐらせたる」などいふ凶害どもいできて、いつしか女院の御方さま、心よからぬ御(ご)きそくに、なりもて行くより、いとど物すさまじき心ちしながら、まかよひゐたり。
御夜がれといふべきにしもあらねど、つもる日数もすさまじく、又まゐる人のいだしいれも、人のやうにしさいがましく申すべきならねば、その道しばをするにつけても、世にしたがふはうきならひかな、とのみおぼえつつ、とにかくに、又此のごろやしのばれん、とのみおぼえて、あけくれつつ、秋にもなりぬ。
七 東二条院の御産
この御産は後に「宮」「姫宮」「今御所」「女院」「遊義門院」など記される怜子内親王の御誕生と見なければならぬ。しかし史実によれば、それは昨年、文永七年九月十八日であり、ここに文永八年八月二十余日として記されたのは不審である。作者記憶の誤りか。それとも構想上、わざとこのように仕組んだものか。

八月にや、東二条院の御産、すみの御所にてあるべきにてあれば、御としもすこしたかくならせ給ひたるうへ、さきざきの御産も、わづらはしき御ことなれば、みな、きもをつぶして、大法秘法のこりなく行はる。七仏薬師、五だんの御修法、普賢延命、金剛童子、如法愛染王などぞきこえし。五だんの軍荼利(ぐんだり)の法は、尾張の国に、いつもつとむるに、このたびは、ことさら御心ざしをそへてとて、金剛童子の事も、大納言申しざたしき。御験者には、成就院の僧正まゐらる。
廿日あまりにや、その御けおはしますとて、ひしめく。いまいまとて、二三日過ぎさせおはしましぬれば、たれだれも、きも心をつぶしたるに、いかにとかや、かはる御気色みゆるとて、御所へ申したれば、いらせおはしましたるに、いとよわげなる御けしきなれば、御験者ちかくめされて、御几帳ばかりへだてたり。如法愛染の大阿闍梨にて、大御室(おむろ)、御伺候(ごしこう)ありしを、ちかく入れまゐらせ、「かなふまじき御けしきに見えさせ給ふ、いかがし侍るべき」と申されしかば、「定業亦能転(ぢやうごふやくのうてん)は、仏(ぶつ)ぼさつのちかひなり、さらに御大事あるべからず」とて、御念誦あるにうちそへて、御験者、証空が命にかはりける本尊にや、絵像(ゑざう)の不動、御前にかけて、「奉仕修行者猶薄伽梵(ぶじしゆぎやうじやゆによばかぼん)、一持秘密呪生々而加護(いつぢひみつじゆしやうしやうにかご)」とて、ずずおしすりて、「我、幼少の昔は、念誦のゆかに夜をあかし、長大の今は、難行苦行に日をかさぬ、玄応擁護(げんおうおうご)のりやく、むなしからんや」と、もみふするに、すでにとみゆる御けしきあるに、ちからをえて、いとどけぶりもたつ程なる。女房たちの、ひとへがさね、すずしのきぬ、めむめむに、おしいだせば、御産奉行とりて、殿上人にたぶ。上下のほくめん、めむめむに、御誦経の僧にまゐる。階下(かいか)には、公卿着座して、皇子御たんじやうを、まつけしきなり。陰陽師は、庭に八脚(やつあし)をたてて、千度(せんど)の御はらへをつとむ。殿上人これをとりつぐ。女房たちの、袖ぐちを出だして、これをとりわたす。御随身、北面の下臈、神馬(じんめ)をひく。御拝ありて、廿一社へひかせらる。人間に生をうけて、女の身をうる程にては、かくてこそあらめと、めでたくぞみえ給ひし。七仏薬師の大阿闍梨召されて、伴僧三人、声すぐれたるかぎりにて、薬師経をよませらる。「見者歓喜(けんじやくわんぎ)」といふわたりを読むをり、御産なりぬ。まづ、うちと「あなめでた」と申す程に、うちへころばししこそ、ほいなくおぼえさせおはしまししかども、御験者のろくいしいしはつねの事なり。
八 後嵯峨院御悩
御産七夜の御祝の後、夜半頃に怪異があり、それより後嵯峨法皇御発病。

このたびは、ひめ宮にては、わたらせ給へども、法皇ことにもてなしまゐらせて、五夜七夜など、ことに侍りしに、七夜のよ、ことどもはてて、院の御かたの常の御所にて、御物がたりあるに、丑の時ばかりに、たちばなの御つぼに、大風の吹くをりに、あらきいそに浪のたつやうなる音、おびたたしくするを、「なに事ぞ、見よ」と、おほせあり。見れば、かしらは、匙(かい)などいふもののせいにて、しだいに、さかづきほど、すつき程なるものの、あをめにしろきが、つづきて十ばかりして、尾はほそながにて、おびたたしくひかりて、とびあがりとびあがりする。「あなかなし」とて、にげ入る。ひさしに候ふ公卿たち、「なにか、みさわぐ、人だまなり」といふ。「大やなぎの下に、ふのりといふ物をときて、うちちらしたるやうなる物あり」などののしる。やがて御うらあり。法皇の御かたの御たまのよし、奏し申す。こよひよりやがて、招魂の御まつり、泰山府君など祭らる。かくて長月の頃にや、法皇御なやみといふ。はるる御ことにて、御きういしいしと、ひしめきけれども、さしたる御しるしもなく、日々に、おもる御けしきのみありとて、年もくれぬ。
九 天下諒闇
文永九年正月末、後嵯峨上皇御危篤、嵯峨殿に遷り給う。後深草院(新院)は作者を共として嵯峨院に御幸せられ、大宮院(後嵯峨上皇后妃)・東二条院(大宮院妹、後深草院后妃)は御同車で御匣殿(後深草院侍妾)を共として同じく嵯峨殿へ御幸。二月九日、両六波羅探題、お見舞いに参る。二月十一日亀山天皇行幸、十二日御滞在、御兄後深草院に御対面、共に父院の御悩を悲しみ給う。二月十五日、ついに先日お見舞いに参った南六波羅の北条時輔が討たれ、邸宅が焼かれる煙を遠望して作者は世の無常を痛感する。二月十七日、後嵯峨院崩御。十八日御葬送。

あらたまの年どもにも、猶御わづらはしければ、何事もはえなき御事なり。正月のすゑになりぬれば、かなふまじき御さまなりとて、嵯峨御幸なる。御輿(みこし)にていらせ給ふ。新院やがて御幸、御車のしりにまゐる。両女院同車にて、御くしげ殿、御しりにまゐり給ふ。みちにてまゐるべき御煎(せん)じ物を、種成(たねなり)・師成(もろなり)二人して、御前にて御みづがめ二つに、したため入れて、経任(つねたふ)、北面の下らふ信友におほせて持たせられたるを、内野にて、まゐらせむとするに、二つながら露ばかりもなし。いとふしぎなりし事なり。それより、いとど臆(おく)せさせ給ひてやらん、御心(みここ)ちも重らせ給ひてみえさせおはしますなどぞ聞きまゐらせし。
この御所は、大井どのの御所にわたらせ給ひて、ひまなく、男(をとこ)・女房・上臈・下臈をきらはず、「ただいまの程いかにいかに」と申さるる御つかひ、よるひる、ひまなきに、ながらうをわたるほど、大井河のなみの音、いとすさまじくぞおぼえ侍りし。
きさらぎのはじめめつかたになりぬれば、今は時をまつ御さまなり。九日にや、両六波羅、御とぶらひにまゐる。面々(めん/\)になげき申すよし、西園寺の大納言、披露(ひろう)せらる。十一日は行幸、十二日は御逗留(ごとうりう)、十三日還御などは、ひしめけども、御所のうちは、しめじめとして、いととりわきたる物(もの)の音(ね)もなく、新院、御対面ありて、かたみに、御涙所せき御(み)けしきも、よそさへ露のと申しぬべき心ちぞせし。
さる程に、十五日の酉のときばかりに、都のかたに、おびたたしくけぶりたつ。いかなる人のすまひ所、あとなくなるにかと聞く程に、「六波羅の南方(みなみかた)、式部大輔討たれにけり。そのあとのけぶりなり」と申す。あへなさ、申すばかりなし。九日、は君の御病の御とぶらひにまゐり、けふともしらぬ御身に、さきだちて、またうせにける。東岱(とうたい)前後(ぜんご)のならひ、はじめぬ事ながら、いとあはれなり。十三日の夜よりは、物などおほせらるる事も、いたく、なかりしかば、かやうの無常も知らせおはしますまでもなし。
さるほどに、十七日のあしたより、御気色(みけしき)かはるとてひしめく。御善知識(おんぜんぢしき)には、経海僧正(けいかい)、又往生院の長老まゐりて、さまざま御念仏もすすめ申され、「今生にても十善のゆかをふんで、百官にいつかれましませば、よみぢ、未来もたのみあり。はやく上品上生のうてなにうつりましまして、かへりて、娑婆の旧里にとどめ給ひし衆生も、みちびきましませ」など、さまざま、かつはこしらへ、かつは教化(けうげ)し申ししかども、三趣(さんしゆ)の愛に心をとどめ、さむげの言葉に道をまどはして、つひに教化(けうげ)の言葉に、ひるがへし給ふ御(み)けしきなくて、文永九年二月十七日、酉の時、御年五十三にて、崩御なりぬ。一天かきくれて万民うれへにしづみ、花のころもで、おしなべて、みな黒みわたりぬ。
十八日、薬草院殿へ、おくりまゐらせらる。内裏(だいり)よりも、頭の中将、御使にまゐる。御室・円満院・聖護院・菩提院・青蓮院、みなみな、御ともにまゐらせ給ふ。その夜の御あはれさ、筆にもあまりぬべし。経任、さしも御あはれみふかき人なり、出家ぞせんずらんと、みな人申し思ひたりしに、御骨(おんこつ)のをり、なよらかなるしじらのかりぎぬにて、へいしにいらせ給ひたる御骨(おんこつ)を持たれたりしぞ、いと思はずなりし。新院、御なげきなべてにはすぎて、よるひる、御涙のひまなくみえさせ給へば、さぶらふ人々も、よその袖さへしほりぬべきころなり。天下りやうあんにて、音奏警蹕(おんそうけいひつ)とどまりなどしぬれば、花もこの山のは、すみぞめにや開(さ)くらんとぞおぼゆる。大納言は人より黒き御色を給はりて、この身にも、御素服(おんそふく)をきるべき由を申されしを、「いまだ幼なきほどなれば、ただおしなべたる色にてありなん、とりわき染めずとも」と、院の御かた御けしきあり。
一〇 大納言の嘆き
作者の父雅忠は後嵯峨院の崩御を嘆き、出家を願い出たが御許しがない。とかくするうちに亀山天皇(大覚寺統)と後深草上皇(持明院統)との不和が生じ、鎌倉幕府へ御使いが下るという煩わしい事件が生じて五月になった。

さても大納言、たびたび大宮院、新院のかたへ、出家のいとまを申さるるに、おぼしめすしさいありとて、御ゆるされなし。人より、ことに侍るなげきのあまりにや、日ごとに御墓にまゐりなどしつつ、かさねて、実定の大納言をもちて、新院へ申さる。「九さいにして、はじめて君にしられたてまつりて、朝廷にひざまづきしより、このかた、時にしたがひ、をりにふれ、御めぐみならずといふ事なし。ことに、父におくれ、母のふけうをかうぶりても、なほ君の恩分(おんぶん)を重くして、奉公の忠をいたす。されば、官位昇進(くわんゐしようしん)、理運(りうん)をすぎて、猶めんぼくをほどこししかば、叙位、除目の朝(あした)には、ききがきをひらきて、ゑみをふくみ、内外にうらみなければ、公事(くじ)につかふるに物うからず。ほうらいきうの月をもてあそんで、豊の明りの夜な夜なは、淵酔舞楽(ゑんすゐぶがく)に袖をつらねて、あまたとし、臨時調楽(りんじてうがく)のをりをりは、小忌(をみ)の衣(ころも)にたちなれて、みたらし河にかげをうつす。すでに、身正二位大納言、一らう、氏の長者をけむす。すでに大臣のくらゐを、さづけ給ひしを、近衛大将をふべきよしを、道右大将かきおく状を申し入れて、この位を辞退申すところに、君すでにかくれましぬ。我、世にありとも、たのむかげかくれはてて、立ちやどるべきかたなく、なにの職にゐても、そのかひなくおぼえ侍る。よはひすでにいそぢにみちぬ、のこりいくとせか侍らん。恩をすてて無為に入るは、しんじちの報恩なり。恩ゆるされをかうぶりて、本意をとげ、聖霊の御跡をもとぶらひ申すべき」よし、ねんごろに申されしを、かさねてかなふまじきよしおほせられ、又ぢきにも、さまざまおほせらるることもありしかば、一日二日すぎ行く程に、あかしくらしつつ、御四十九日にもなりぬれば、御仏事などはてて、みな都へかへりいらせおはしますほどより、御政務(ごせいむ)のことに、関東へ御使下されなどすることも、わづらはしくなり行くほどに、あはれ、さつきになりぬ。 
 

 

一一 大納言発病
五月十四日、父雅忠発病。七月十四日、雅忠は六角櫛笥の家から河崎邸に移り、すでに死を観念して作者を呼ぶ。しかし作者の妊娠を知ると、皇子御誕生に希望をかけ、再起を祈願する。

五月はなべて、袖にも露のかかる頃なればにや、大納言のなげき、秋にもすぎて露けくみゆるに、さしも一夜も、あだにはねじとするに、さやうの事も、かけてもなく、さけなどのあそびもかきたえ、なきゆゑにや、如法、やせおとろへたるなど申す程に、五月十四日の夜、おほたになる所にて、念仏のありし、聴聞(ちやうもん)して帰る車にて、御せむなどもありしに、「あまりに色の黄にみえ給ふ、いかなる事ぞ」など申しいだしたりしを、あやしとて、くすしにみせたれば、「きやまひといふことなり、あまりに物を思うて、つくやまひなり」と申して、灸治(きうぢ)あまたする程に、いかなるべき事にかと、あさましきに、しだいにおもり行くさまなれば、思ふはかりなくおぼゆるに、わが身さへ六月のころよりは、心ちもれいならず、いとわびしけれども、かかる中なれば、なにとかはいひ出づべき。
大納言は、「いかにもかなふまじき事とおぼゆれば、御所の御ともにいま一日もとくと思ふ」とて、いのりなどもせず、しばしは六角櫛笥(ろくかくくしげ)の家(や)にてありしが、七月十四日のよ、かはさきの宿所へうつろひしにも、をさなきこどもはとどめおきて、しづかに臨終(りんじゆう)のことどもなど思ひしたためたき心ちにて、おとなしき子の心ちにて、ひとりまかりて侍りしに、ここちれいざまならぬを、しばしは、我がことをなげきて物などもくはぬと思ひて、とかくなぐめられし程に、しるき事のありけるにや、「ただならずなりにけり」とて、いつしかわが命をも、此のたびばかりはと思ひなりて、はじめて中堂にて如法、泰山府君(たいざんぶくん)といふ事、七日まつらせ、日吉にて七やしろの七ばんのしばでんがく、八幡にて、一日の大般若(はんにや)、河原にて、石の塔、なにくれとさたせらるるこそ、我が命のをしさにはあらで、この身の事の行末の見たさにこそと覚えしさま、つみふかくこそおぼえ侍れ。
一二 風待つ露
七月二十日頃、作者はまず河崎邸から御所に帰る。院は作者の妊娠を聞いて、一しお憐れをかけられるが、作者には、それもいつまでつづくことかと思われ、又御匣殿が先月お産で死なれたこと、父の病気が次第に重くなってゆくことなどが心細い。七月二十七日の夜、院は作者を寝殿に連れ出して、心からやさしく慰めて下さる。その夜ふけに河崎から急の使いがあり、作者は取りあえず河崎へ行く。あとを追うように院が河崎へ御幸なされ、雅忠をいたわり、互に悲しい対話をかわされる。

二十日ごろには、さのみいつとなき事なれば、御所へまゐりぬ。ただにもなきなど、おぼしめされて後は、ことにあはれども、かけさせおはしますさま、なにも、いつまで草のとのみおぼゆるに、みくしげ殿さへ、この六月に、産するとて失せ給ひにしも、人の上かはと恐ろしきに、大納言のやまひのやう、つひにはかばかしからじとみゆれば、なにとなるみの、とのみなげきつつ、七月もすゑになるに、廿七日の夜にや、つねよりも御人すくなにたありしに、「寝殿のかたへいざ」とおほせありしかば、御ともにまゐりたるに、人のけはひもなき所なれば、しづかにむかしいまの御物がたりありて、「無常のならひも、あぢきなくおぼしめさるる」など、さまざま、おほせありて、「大納言もつひには、よもとおぼゆる。いかにもなりなむ。いとどたのむかたなくならんずるこそ。我よりほかは誰かあはれもかけんとする」とて、御涙もこぼれぬれば、とふにつらさもいとかなし。月なきころなれば、とうろの火かすかにて、うちもくらきに、人しれぬ御物がたり、さ夜ふくるまでになりぬるに、うちさわぎたる人音してたづぬ。たれならむといふに、河崎より、いまと見ゆるとて、つげたるなりけり。
とかくの事もなく、やがていづるみちすがらも、はや、はてぬとやきかむと思ひ行くに、いそぎ行くと思へども、みちのはるけさ、あづまぢなどを、わけん心ちするに、行きつきてみれば、猶、ながらへておはしけりと、いとうれしきに、「風まつ露もきえやらず、心ぐるしく思ふに、ただにもなしとさへ見おきて、ゆかんみちの空なく」など、いとよわげに、なかるる程に、ふけゆく鐘のこゑ、ただいまきこゆる程に御幸といふ。いと思はずに、やまひ人も思ひさわぎたり。御車さしよする音すれば、いそぎ出でたるに、北面の下らふ二人、殿上人一人にて、いとやつして、いらせ給ひたり。廿七日の月、ただいま山のはわけいづる光もすごきに、われもかう織りたるうす色の御小直衣にて、とりあへず、おぼしめしたちたるさまも、いとおもだたし。「いまは、狩の衣を、ひきかくる程のちからも侍らねば、みえたてまつるまでは思ひより侍らず。かくいりおはしましたると、うけたまはるなん、いまはこの世の思ひ出なる」よしを奏し申さるる程なく、やがてひきあけて、いらせ給ふほどに、おきあがらむとするも、かなはねば、「たださてあれ」とて、まくらに御座(ござ)をしきて、ついゐさせ給ふより、袖の外(ほか)までもる御涙も所せく、「御をさなくよりなれつかうまつりしに、いまはときかせおはしましつるも悲しく、いま一(いち)どとおぼしめし立ちつる」などおほせあれば、「かかる御(み)ゆきのうれしさもおき所なきに、この者が、心ぐるしさなん思ひやる方なく侍る。ははには、二葉にておくれにしに、我のみとおもひはぐくみはべりつるに、ただにさへ侍らぬを見おき侍るなん、あまたのうれへにまさりて、かなしさも、あはれさも、いはんかたなく侍る」よし、なくなく奏せらるれば、「程なき袖を。我のみこそ。まことのみちのさはりなく」などこまやかにおほせありて、「ちとやすませおはしますべし」とて、たたせ給ひぬ。
明けすぐる程に、いたくやつれたる御さまも、そらおそろしとて、いそぎいで給ふに、久我太政大臣の琵琶とて持たれたりしと、後鳥羽院の御太刀を、はるかにうつされ給ひけるころとかや、太政大臣に給はせたりけるとてありしを、御車にまゐらすとて、はなだのうすやうのふだにて、御太刀の緒に結びつけられき。
わかれてもみよの契のありときけば なほ行末をたのむばかりぞ
「あはれに御らんぜられぬる。なに事も心やすく思ひおけ」など、返す返すおほせられつつ、還御なりて、いつしか御身づからの御てにて、
このたびはうき世のほかにめぐりあはん まつ暁の有明の空
なにとなく御心に入りたるも、うれしくなど思ひおかれたるも、あはれにかなし。
一三 最後の教訓
八月二日、善勝寺大納言隆顕(作者母方の叔父)、帝の御使として河崎邸に来る。雅忠喜んで饗応する。その夜、死を覚悟した雅忠は、作者に最後の教訓を与える。

八月二日、いつしか善勝寺大納言、御帯(おんおび)とてもちてきたり。「『諒闇(りやうあん)ならぬ姿にてあれ』と、おほせ下されたる」とて、直衣にて、ぜむくう・さぶらひ、ごとごとしくひきつくろひたるも、見るをりとおぼしめしいそぎけるにやとおぼゆ。まひ人もいとよろこびて、勧盃(けんぱい)などいひ、いとなまるるぞ、これやかぎりとあはれにおぼえ侍りし。御室(おむろ)より給はりて秘蔵せられたりし、しほがまといふ牛をぞ、ひかれたりし。
今日などは、心ちも少しおこたるやうなれば、もしやなど思ひゐたるに、ふけぬれば、かたはらにうちやすむと思ふほどに、ね入りにけり。おどろかされて起きたるに、「あなはかなや、けふあすとも知らぬみちに出でたつなげきをも、わすられて、ただ心ぐるしきことをのみ、思ひゐたるに、はかなくねたるを見るさへかなしうおぼゆる。さても二つにて母にわかれしより、我のみ心ぐるしく、あまた子どもありといへども、おのれ一人に三千の寵愛も、みなつくしたるここちを思ふ。ゑめるを見ては、百(もも)のこびありと思ふ、うれへたるけしきを見ては、ともになげく心ありて、十五年の春秋を送りむかへて、いますでにわかれなんとす。君につかへ、世にうらみなくは、つつしみておこたる事なかるべし。思ふによらぬ世のならひ、もし君にも世にも恨もあり、世にすむ力なくば、いそぎてまことのみちに入りて、我が後生をも助かり、ふたりの親の恩をもおくり、ひとつはちすのえんといのるべし。世にすてられ、たよりなしとて、また異君(こときみ)にもつかへ、もしはいかなる人の家にもたちよりて、よにすむわざをせば、なきあとなりとも、不孝(ふけう)の身(み)と思ふべし。ふさひのことにおきては、この世のみならぬ事なればちからなし。それもかみをつけて、かうしよくの家に名をのこしなどせんことは、返す返すうかるべし。ただ世をすててのちは、いかなるわざもくるしからぬ事なり」など、いつよりも、こまやかにいはるるも、これやをしへのかぎりならんとかなしきに、あけ行く鐘のこゑきこゆるに、れいの、したにしく、おほばこのむしたるを、仲光もちてまゐりて、しきかへんといふに、「いまはちかづきておぼゆれば、なにもよしなし。なにまれ、まづこれに食はせよ」といはる。ただいまはなにをかと思へども、しきりに「我が見るをり、とくとく」といはるるより、いまばかりこそ見られたりとも、後はいかにと、あはれにおぼえしか。いもまきといふ物を、かはらけにいれて、もちてきたれば、かかる程にはくはせぬ物をとて、よにわろげに思ひたるもむつかしくて、まぎらかしてとりのけぬ。
一四 涙の海
文永九年八月三日朝、雅忠五十歳にて薨去。四日夜、神楽岡にて火葬。

あけはなるるほどに、「ひじりよびにつかはせ」などいふ。七月のころ、八坂の寺の長老よびたてまつりて、いただきそり、五戒受けて、れんせうとなづけられて、やがて、善知識と思はれたりしを、などいふ事にか、三条の尼上、「河原の院の長老しやう光房といふものに沙汰せさせよ」と、しきりにいひなして、それになりぬ。かはるけしきありとつげたれども、いそぎもみえず。さる程にすでにとおぼゆるに、「起せ」とて、仲光といふは、仲綱が、ちやくしにてあるを、幼なくよりおほしたてて身はなたず使はれしをよびて、起されて、やがて、うしろに置きて、よりかかりのまへに、女房ひとりよりほかは人なし。これはそばにゐたれば、「手のくびとらへよ」といはる。とらへて居たるに、「ひじりのたびたりし、袈裟は」とて、こひいでて、ちやうけんのひたたれの、上(かみ)ばかり着て、その上(うへ)にけさかけて、「念仏、仲光も申せ」とて、二人して時のなからばかり申さる。日の、ちとさしいづる程に、ちとねぶりて、左のかたへ、かたぶくやうにみゆるを、猶よくおどろかして、念仏申させたてまつらんと思ひて、ひざをはたらかしたるに、きとおどろきて目を見あぐるに、あやまたず見あはせたれば、「なにとならんずらんは」といひもはてず、文永九年八月三日、辰のはじめに、とし五十にてかくれ給ひぬ。念仏のままにて終らましかば、行未もたのもしかるべきに、よしなくおどろかして、あらぬ言(こと)の葉(は)にて、いきたえぬるも心うく、すべてなにと思ふはかりもなく、天にあふぎてみれば、日月地におちけるにや光もみえぬ心地し、地にふしてなくなみだは河となりて流るるかと思ひ、母には、二つにておくれにしかども、心なき昔は、覚えずしてすぎぬ。生をうけて四十一日といふより、はじめて、ひざのうへにゐそめけるより、十五年の春秋をおくりむかふ。朝には、かがみをみるをりも、たが影ならむとよろこび、夕に、衣を着るとても、たが恩ならんと思ひき。こたいみふんをえしことは、その恩、迷蘆八万(めいろはちまん)のいただきよりもたかく、養育扶持(やういくふち)の心ざし、母にかはりてせつなりしかば、その恩、又四大海の水よりもふかし。何と報じ、いかにむくいてか、あまりあらむと思ふより、をりをりの言(こと)の葉(は)は、思ひいづるも、わすれがたく、いまをかぎりのなごりは、身にかへても、猶のこりありぬべし。ただそのままにて、なりはてむさまをもみるわざもがなと思へども、かぎりあれば、四日のよ、神楽岡(かぐらをか)といふ山へ送り侍りし。むなしきけぶりにたぐひてもともなふみちならばと、思ふもかひなき袖の涙ばかりを、かたみにてぞかへり侍りし。むなしきあとを見るにも、夢ならではと悲しく、昨日(きのふ)のおもかげをおもふ。いまとてしもすすめられし事さヘ、返すがへすなにといひつくすべき言(こと)の葉(は)もなし。
わが袖の涙のうみよみつせ河に ながれてかよへかげをだにみん
一五 人のなきあと
八月五日、家司仲綱出家。九日、北の方・女房二人・侍二人出家。三七日忌に後深草院から御弔問。かかる折から京極女院(亀山院后)崩。作者はここに、源基具(雅忠のいとこの子)が父の死を弔問せぬことを非常識だと附記している。

五日夕がた、仲綱こきすみぞめのたもとになりて参りたるを見るにも、大臣のくらゐにゐ給はば、四品(しほん)の家司(けいし)などにてあるべき心ちをこそ思ひつるに、おもはずに、ただいま、かかるたもとを見るべくとはと、いとかなしきに、「御墓へまゐり侍る。御ことづけや」といひて、かれもすみぞめの袂、かわく所なきを見て、涙おとさぬ人なし。
九日は、はじめの七日に、北の方、女房二人、さぶらひ二人出家し侍りぬ。八坂のひじりをよびつつ、流転三界中(るてんさんがいちう)とて、そりすてられしを見るここち、うらやましさをそへて、あはれもいはむかたなし。おなじ道にとのみ思へども、かかるをりふしなれば、思ひよるべき事ならねば、かひなきねのみなきゐたるに、三七日をば、ことさらとりいとなみしに、御所よりも、まことしく、さまざまの御とぶらひどもあり。御使は一二日に、へだてずうけたまはるにも、見給はましかばとのみ悲しきに、京極の女院と申すは、実雄のおとどの御むすめ、当代のきさき、皇后宮とて御おぼえも人にはことにて、春宮の御母にておはしますうへは、御身がらといひ、御としといひ、惜しかるべき人なりしに、つねはもののけに、わづらひ給へば、又このたびも、さにやなどみな思ひたるに、はや御こときれぬといひさわぐをきくにも、おとどのなげき、うちの御おもひ、身にしられていと悲し。
五七日にもなりぬれば、水晶のずず、をみなへしのうち枝につけて、ふしやにとて給ふ。おなじふだに、
さらでだに秋は露けき袖の上に 昔をこふる涙そふらん
かやうの文をも、いかにせんと、もてなしよろこばれしに、「こけのしたにも、さこそと、置所(おきどころ)なくこそ」とて、
思へたださらでもぬるる袖の上に かかるわかれの秋のしら露
ころしも秋のながきねざめは、物ごとに悲しからずといふ事なきに、千万声のきぬたの音をきくにも、袖にくだくる涙の露をかたしきて、むなしき面影(おもかげ)をのみしたふ。
露きえにし朝は、御所御所の御つかひよりはじめ、雲(くも)の上人(うへびと)おしなべて、たづねこぬ人もなく、つかひをおこせぬ人なかりし中に、基具の大納言ひとりおとづれざりしも、よのつねならぬ事なり。
一六 すさみごと
九月十余日、作者が中陰に籠もっている河崎邸を実兼(雪の曙)が訪問して一夜語り明かした事。作者はこの会見をここに「すさみごと」と記している。「すさみごと」とは、心の進むにまかせて感興に耽ることを言い、軽く見れば「慰みごと」、重く見れば「耽溺」である。「問はず語り」では、後の二一段で実兼との密会を記して同じく「すさみごと」と言っている。ここのは「慰みごと」であり、二一段のは「耽溺」である。要するに作者と実兼の関係は、友情的保護者的愛情と、性的恋愛の交錯を以てこの作品を貫いている。とにかく第二段で作者に衣服を贈った事を初め、この段でも後の段でも人物を明らかに示さず、四七段から「雪の曙」という称を用い始める。

そのをりの、そのあかつきより日をへだてず、「心のうちはいかに」ととぶらひし人の、なが月の十日あまりの月をしるべに、たづね入りたり。なべてくろみたるころなれば、無文の直衣姿なるさへ、我が色にまがふここちして、人づてにいふべきにしあらねば、寝殿の南向にてあひたり。むかしいまのあはれとりそへて、「ことしはつねの年にもすぎて、あはれおおかる、袖のひまなき、一とせの雪の夜のくこんのしき、つねに逢見よとかやも、せめての心ざしとおぼえし」など、泣きみ、笑ひみ、よもすがらいふ程に、あけ行くかねのこゑきこゆるこそ、げに逢ふ人からの秋のよは、言葉(ことば)のこりて鳥なきにけり。「あらぬさまなる朝がへりとや、世にきこえん」などいひて、かへるさのなごりも多き心ちして。
わかれしもけさの名残をとりそへて おきかさねぬる袖の露かな
はしたものして、東へつかはし侍りしかば、
名残とはいかが思はん別れにし 袖の露こそひまなかるらめ
夜もすがらの名残も、たがたまくらにかと、我ながらゆかしき程に、けふは思ひ出でらるるをりふし、ひわだの狩衣きたるさぶらひ、文のはこをもちて中門のほどにたたずむ。かれよりのつかひなりけり。いとこまやかに、
忍びあまりただうたたねの手枕に 露かかりきと人やとがむる
よろずあはれなるころなれば、かやうのすさみごとまでも、なごりある心ちして、我もこまごまとかきて、
秋の露はなべて草木におく物を 袖にのみとは誰かとがめん
一七 ゆきちがひ
作者の異母弟雅顕が願主で四十九日の法要が河崎邸で行われた。今まで中陰で河崎邸に籠もっていた人々が、それぞれの家に帰る。作者は四条大宮のめのとの家に移った。

四十九日には、雅顕の少将が仏事、河原の院のひじり、例の「鴛鴦(ゑんあう)のふすまのした、比翼の契」とかや、これにさへいひふるしぬる事のはてしのち、憲実(けんじち)法印導師にて、文どものうらに、身づから法花経をかきたりし、供養させなどせしに、三条の坊門の大納言、万里の小路、善勝寺の大納言など、聴聞にとておはして、めむめむにとぶらひつつ、かへるなごりもかなしきに、今日はゆきちがひなれば、めのとが宿所、四条大宮なるにまかりぬ。帰るたもとの袖の露は、かこつ方なきに、なにとなくつどひて、なげかしさをも、いひあはせつる人々にさへはなれて、ひとりゐたる心のうち、いはん方なし。
一八 心のほかの新枕
作者が中陰に籠もっている間にも院は忍んで河崎邸に御幸なされ、「五十日祭が過ぎたら出仕するように」と仰せられたが、作者は気が進まない。そのうちに中陰も過ぎて作者は四条大宮のめのとの家に移る。そこへ院から「余り長く里住みをするのもどうか。早く出仕せよ」との仰せがある。しかしなお里住みをつづけて十月になった。十月十余日、実兼からの使で、「毎日にも逢いたく思うが遠慮をしている」との事。その使が、四条大宮の家の築地のくずれに植えてある荊を切って帰る。その夜実兼は、そこから忍び入って作者と枕をかわす。作者はそれを「御夢にや見ゆらんといと恐ろし」と書いている。源氏物語における空蝉の心である。翌日の昼頃、院から作者の不出仕を恨む御文が来る。

さても、いぶせかりつる日数の程だに、しのびつついらせおはしまして、「なべてやつれたる頃なれば、色のたもともくるしかるまじければ、いかき五旬すぎなばまゐるべき」よしおほせあれども、よろづ物うき心ちしてこもりゐたるに、四十九日は九月廿三日なれば、なきよわりたるむしの音も、袖の露をこととひていとかなし。御所よりは、「さのみさとずみも、いかにいかに」とおほせらるるにも、うごかれねば、いつさし出づべき心ちもせで、神無月にもなりぬ。
十日あまりの頃にや、又つかひあり。「日をへだてずも申したきに、御所の御使など見あひつつ、ころともしらでとや、おぼしめされんと、心のほかなる日かずつもる」などいはるるに、このすまひは四条大宮のすみかなるが、四条おもてと大宮とのすみのついぢ、いたうくづれのきたる所に、さるとりといふばらを植ゑたるが、ついぢのうへへはひ行きて、もとのふときが、ただ二もとあるばかりなるを、「このつかひみて、『ここには番の人侍るな』といふに、『さもなし』と人いへば、『さてはゆゆしき御かよひぢになりぬべし』といひて、このむばらのもとをかたなして、きりてまかりぬ」といへば、とはなに事ぞと思へども、かならずさしも思ひよらぬほどに子一つばかりにもやと思う月かげに、つまどを忍びてたたく人あり。中将といふわらは、「くひなにや、思ひよらぬ音かな」といひて、あくるときく程に、いとさわぎたるこゑにて、「ここもとにたち給ひたるが、立ちながら対面せんとおほせらるる」といふ。思ひよらぬ程の事なれば、なにと、いらへいふべき言(こと)の葉(は)もなく、あきれゐたるほどに、かくいふこゑをしるべにや、やがてここもとへいり給ひたり。もみぢをうき織りたる狩衣に、紫苑にや、指貫の、ことにいづれもなよらかなる姿にて、まことにしのびけるさましるきに、「思ひもよらぬ身の程にもあれば、御心ざしあらば、のちせの山の後には」などいひつつ、こよひはのがれぬべく、あながちにいへば、「かかる御身のほどなれば、つゆ御うしろめたきふるまひあるまじきを、年月の心の色を、ただのどかに、いひきかせん、よそのかりふしは、みもすそ河の神もゆるして給ひてん」など、心きよくちかひ給へば、例の心よわさは、いなともいひつよりえでゐたれば、よるのおましにさへいり給ひぬ。ながき夜すがら、とにかくに、いひつづけ給ふさまは、げにから国のとらも涙おちぬべき程なれば、石木(いはき)ならぬ心には、身にかへんとまでは思はざりしかども、心の外の新枕は、御夢にやみゆらんと、いとおそろし。鳥の音におどろかされて、夜ふかくいで給ふも、名残をのこすここちして、又ねにやとまでは思はねども、そのままにてふしたるに、まだしののめもあけやらぬに、文あり。
「かへるさは涙にくれて有明の月さへつらきしののめの空。いつの程につもりぬるにか、くれまでの心づくし、さえかへりぬべきを、なべてつつましき世のうさも」などあり。御返事には、
帰るさのたもとはしらずおもかげは 袖の涙にありあけのそら
かかる程には、しひてのがれつるかひなくなりぬる身のしきも、かこつ方なく、いかにもはかばかしからじとおぼゆる行くすゑも、おしはかられて、人しらぬなくねも、露けきひるつかた、文あり。「いかなるかたに思ひなりて、かくのみさとずみ久しかるらん、この頃はなべて御所さまもまぎるるかたなく、御人すくななるに」など、つねよりもこまやかなるも、いとあさまし。
一九 お好みの白物
翌日の事。まだ宵の間に実兼が訪ねて来た。あいにく平素は不在がちな主人の入道が帰って来て、子息たちも大勢集まって来る。ここに「おばば」と記されているのは作者の乳母で、主人仲綱入道の妻で、これが又、お人よしなのだが、たしなみのない老女で、作者の情事を推察するような頭はとんと働かない。作者を家族の仲間に呼出して酒を飲んで遊ぼうと呼びに来る。作者は実兼を寝所に隠しておいて、気分が悪いからとことわる。家族たちの部屋は作者の部屋と庭つづきの近い所だから、話し声が筒抜けに聞こえて来る。あたかも源氏物語の夕顔の宿のおもむきである。作者は男の手前、穴にでも入りたい思いをしたが、又それは、一生に一度とでもいうべきおかしい夜でもあった。作者はこの夜の事を思い出すと、どんな悲しい時にも、吹き出しそうになるのであった。

くるれば、こよひはいたくふかさでおはしたるさへ、そらおそろしく、はじめたる事のやうに覚えて、物だにいはれずながら、めのとの入道なども、出家ののちは、千本のひぢりのもとにのみすまひたれば、いとどたちまじるをのこごもなきに、こよひしも、「めづらしくさとゐしたるに」などいひてきたり。めのとごどももつどひゐて、ひしめくも、いとどむつかしきに、御ばばにてありしものは、さしものふる宮の御所にて、おひいでたる者ともなく、むげに用意なく、ひたさわぎに、今姫君がははしろていなるが、わびしくて、いかなる事かと思へども、「かかる人の」などいひしらすべきならねば、火などもともさで、月影みるよしして、ね所に、この人をば置きて、障子のくちなるすびつに、よりかかりてゐたる所へ、御ばばこそいできたれ。あなかなしと思ふほどに、「秋の夜ながく侍る。たきぎなどして、あそばせ侍らむと、御てて申す。いらせ給へ」と訴訟(そしよう)がほになりかへりていふさまだに、いとむつかしきに、「なに事かせまし。たれがしさぶらふ。かれも候ふ」など、ままこ、じちのこがなのりいひつづけ、くこんのしき、行ふべきこと、いしいし、いよのゆげたとかや、かぞへゐたるもかなしさに、「心ちわびしき」などもてなしてゐたれば、「れいのわらはが申す事をば、御みみにいらず」とてたちぬ。
なまさかしく、女ごをば、ちかくをにや、いひならはして、つねのゐ所も、にはつづきなるに、さまざまの事ども、きこゆるありさまは、夕顔のやどりに、ふみとどろかしけんからうすの音をこそ聞かめりおぼえて、いとくちをし。とかくのあらましごとも、まねばむも、中々にて、もらしぬるも、ねんなくとさへおぼえ侍れども、ことがらもむつかしければ、とくにだにしづまりなんと思ひて、ねたるに、かどいみじくたたきてくる人あり。誰ならんとおもへば、仲頼なり。「はいぜんおそくて」などいひて、「さてもこの大宮のすみに、ゆゑある八葉(あちえふ)の車(くるま)たちたるを、うちよりてみれば、車の中にともの人は、一はねたり。とうに牛はつなぎてありつる。いづくへ行きたる人の車ぞ」といふ。あなあさましときく程に、れいの御ばば、「いかなる人ぞと人して見せよ」といふ。御ててがこゑにて、「なにしにか見せける、人のうへならむに、よしなし。又、御さとゐのひまをうかがひて、忍びつつ入りおはしたる人もあらば、ついぢのくづれよりうちもねななむとてもやあるらん。ふtころのうちなるだに、たかきもいやしきも、女はうしろめたなし」などいへば、又御ばば、「あなまがまがし。たれかまゐり候はん。御幸ならば、又なに故か、しのび給はん」などいふも、ここもとにきこゆ。「六位しゆくせとy、とがめられん」と、御ばばなる人いはるるぞ、わびしき。こさへ、いま一人そひてひしめく程に、ねぬべきほどもなきに、きこゆる物どもいできたりとおぼしくて、「こなたへと申せ」と、さざめく。人きてあんないすなり。まへなる人、「御心ちをそむじて」といふに、うちの障子あららかにうちたたきて御ばばきたり。いまさら、知らぬもののこん心ちして、むねさわぎ、おそろしきに、「御心ちはなに事ぞ。ここなるもの御らんぜよ。なうなう」と、枕の障子をたたく。さてしもあるべきならねば、「心ちのわびしくて」といへば、「御このみのしろ物なればこそ申せ。無きをりは御たづねある人の、申すとなれば、れいのこと。さらば、さてよ」とつぶやきていぬ。をかしくもありぬべき言(こと)の葉(は)とも、いひぬべきとおぼゆるを、しぬばかりにおぼえてゐたるに、「御たづねのしろ物は、なににか侍る」とたづねらるる。霜・雪・霰と、やさばむとも、まことしく思ふべきならねば、ありのままに、「世のつねならず白き色なるくこんを、ときどきねがふ事の侍るを、かく名だたしく申すなる」といらふ。「かしこくこよひまゐりてけり。御わたりのをりは、もろこしまでも白き色をたづね侍らむ」とて、うち笑はれぬるぞ、わすれがたきや。うきふしには、これ程なる思ひいで、過ぎにしかたも行くすゑも、又あるべしとも覚えばとよ。
二〇 六趣出づる志
実兼と逢う日が重なるにつれて、御所へ出る気になれなくなる。そのうちに母方の祖母の喪にこもることになった。院から出仕をうながして夕方迎えの車をやると仰せになったので、祖母の死を申しあげると弔問の御歌を下さった。十一月の初めに出仕したが、何となくつらい思いがする。院は親切にして下さるけど、自分はただもう出家をしたいとばかり思うて、月の末には又里へかえった。

かくしつつ、あまた夜もかさなれば、心にしむふしぶしもおぼえて、いとど思ひたたれぬほどに、神無月廿日ころより、ははかたのうば、権大納言わづらふ事ありといへども、いましも露のきゆべしとも、みるみるおどろかで侍るほどに、いく程の日かずもつもらで、はやはてぬとつげたり。ひんがし山禅林寺あやとといふわたりに、家居して、としごろになりぬるを、けふなんいまはとききはてぬるも、夢のゆかりの、かれはてぬるさまの心ぼそき、うちつづきぬるなど覚えて、
秋の露ふゆのしぐれにうちそへて しぼりかさぬるわが袂かな
この程は御おとづれのなきも、我があやまちのそらにしられぬるにやと、あむぜらるるおりふし、「このほどのたえまをいかにと」など、つねよりもこまやかにて、この暮にむかへに給ふべきよしみゆれば、「一昨日にや、むばにて侍りしおい人、むなしくなるぬと申す程に、ちかきけがれもすぐしてこそ」など申して、
思ひやれすぎにし秋の露に又 涙しぐれてぬるるたもとを
たちかへり、
かさねける露のあはれもまだしらで 今こそよその袖もしほるれ
十一月のはじめつかたにまゐりたれば、いつしか世の中もひきかへたき心ちして、大納言の面影(おもかげ)も、あそこここにとわすられず、身もなにとやらん、ふるまひにくきやうにおぼえ、女院の御方さまもうらうらとおはしまさず、とにかくに物うきやうにおぼゆるに、兵部卿、善勝寺などに、「大納言がありつるをりのやうに見さたして候はせよ。しやうぞくなどは、かみへまゐるべき物にて」など、おほせ下さるるは、かしこきおほせごとなれども、ただ、とくして、世のつねの身になりて、しづかなるすまひして、ちちははの後生をもとひ、六趣(ろくしゆ)をいづる身ともがなとのみおぼえて、又この月のすゑにはいで侍りぬ。 
 

 

二一 醍醐の山寺
文永九年十二月。作者は醍醐の尼寺勝倶胝院に籠もる。そこへ院が御幸せられて一夜を明かされる。数日を隔てて二十七日の頃、実兼が二夜いつづけて帰る。作者は三十日に四条大宮のめのとの家に帰る。

醍醐(だいご)の勝倶胝(しようくてい)院の真願房は、ゆかりある人なれば、まかりて法文をもききてなど思ひて侍れば、けぶりをだにもとて、しばをりくべたる冬のすまひ、かけひの水のおとづれも、とだえがちなるに、年くるるいとなみも、あらぬさまなるいそぎにてすぎ行くに、廿日あまりの月のいづるころ、いとしのびて御幸(ごかう)あり。あじろぐるまの、うちやつれ給へるものから、御車のしりに善勝寺ぞまゐりたる。「伏見の御所の御程なるが、ただいましも、おぼしめしいづる事ありて」ときくも、いつあらはれてとおぼゆるに、こよひは、ことさらこまやかにかたらひ給ひつつ、あけ行くかねにもよほされて、たち出でさせおはします。有明(ありあけ)は西にのこり、ひむがしの山のはにぞ横雲わたるに、むらぎえたる雪のうへに、又ちりかかる花のしら雪も、をりしりがほなるに、無文(むもん)の御直衣に、おなじ色の御さしぬきの御すがたも、我がにぶめる色にかよひて、あはれにかなしく見たてまつるに、あかつきのおこなひに出づるあまどもの、なにとしも思ひわかぬが、あやしげなるころもに、まげさなどやうの物、けしきばかりひきかけて、「晨朝(しんてう)さがり侍りぬ。たれがし房は、なにあみだ仏」などよびありくも、うらやましく見ゐたるに、北面の下らふどもも、みなにぶめるかり衣にて、御くるまさしよするをみつけて、いましもことありがほに、にげかくるるあまどももあるべし。「又よ」とていで給ひぬる御なごりは、袖の涙にのこり、うちかはし給へる御うつりがは、わが衣(ころも)でにしみかへる心ちして、おこなひのおとを、つくづくとききゐたれば、「輪王くらゐたかけれど、つひには三途にしたがひぬ」といふもんを唱(とな)ふるさへ耳につき、ゑかうして、はつるさへ、なごりをしくて明けぬれば文(ふみ)あり。「けさの有明のなごりは、わがまだしらぬ心ちして」などあれば、御返(おかえり)には、
君だにもならはざりける有明の おもかげのこる袖をみせばや
としののこりも、いま三日ばかりやとおもふ夕つかた、つねよりも物がなしくて、あるじのまへにゐたれば、「かく程のどかなる事、又はいつかは」などいひて、心ばかりは、つれづれをも、なぐさめん、など思ひたるけしきにて、物がたりして、年よりたるあまたちよびあつめて、過ぎにしかたの物がたりなどするに、まへなるふねに入るかけひの水も、こほりとぢつつ物がなしきに、むかひの山にたきぎこる斧(をの)のおとのきこゆるも、むかしものがたりの心ちして、あはれなるに、暮れはてぬれば、御あかしの光どもも、めむめむに見ゆ。初夜(しよや)おこなひ、「こよひはとくこそ」などいふ程に、そばなるつまどを、忍びてうちたたく人あり。「あやし、たそ」といふに、おはしたるなりけり。「あなわびし。これにては、かかるしどけなきふるまひも、目も耳もはずかしくおぼゆるうへ、かかる思ひのほどなれば、心きよくてこそ、仏のおこなひも、しるきに、御幸(ごかう)などいふは、さるかたにいかがはせん、すさみごとに、心きたなくさへは、いかがぞや、帰り給ひね」など、けしからぬ程にいふ。をりふし、雪いみじくふりて風さへはげしく、ふぶきとかやいふべきけしきなれば、「あなたへがたや。せめてはうちへ入れ給ヘ。この雪やめてこそ」などいひしろふ。あるじの尼ごぜんたち聞きけるにや、「いかなるけしからず、なさけなさぞ。誰にても、おはしますべき御心ざしにてこそ、ふりはへたづね給ふらめ。山おろしの風の寒きに、なに事ぞ」とて、つまどはづし、火などおこしたるに、かこちて、やがて入り給ひぬ。
雪はかこちがほに、みねも、のきばも、一つにつもりつつ、夜もすがら吹きあるる音もすさまじとて、あけ行けども、おきもあががられず、なれがおなるも、なべてそらおそろしけれども、なにとすべきかたなくて、案(あん)じゐたるに、日たかくなる程に、さまざまの事ども、用意して、しこうの者二人ばかりきたり。あなむつかしとみるほどに、あるじのあまたちの、とりちらすべき物など、わかちやる。「としのくれの風の寒けさも、わすれぬべく」などいふ程に、念仏のあまたちのけさころも、仏のたむけになど思ひ寄らるるに、いよいよ、「山がつの垣ほも光いできて」など、めむめむにいひあひたるこそ、聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいがう)よりほかは、君の御幸(みゆき)に、すぎたるやあるべきに、いとかすかに見おくりたてまつりたるばかりにて、ゆゆし、めでたしなどいふ人もなかりき。いふにや及ぶ、かかる事やはとも、いふべきことは、ただいまのにぎははしさに、誰も誰も、めでまどふさま、世のならひもむつかし。春まつべきしやうぞく、花やかならねど、はなだにや、あまたかさなりたるに、しろき三小袖(みつこそで)、とりそへなどせられたるも、よろづきく人やあらんと、わびしきに、けふはひぐらし、くこんにてくれぬ。あくればさのみもとて、かへられしに、「立ちいでてだにみおくり給へかし」とそそのかされて、おきいでたるに、ほのぼのとあくる空に、みねの白雪光りあひて、すさまじげに見ゆるに、色なきかりぎぬきたる者二三人みえて、かへり給ひぬるなごりも、また忍びがたき心ちするこそ、我ながらうたておぼえ侍りしか。
つごもりには、あながちに、めのとども、かかるをりふし、山ふかきすまひも、いまいましなどいひて、むかへにきたれば、心のほかにみやこへ帰りて、年もたちぬ。
二二 皇子誕生
文永十年、作者十六歳。正月、今まで例年行って来た石清水八幡宮への初詣では、喪中であるから社壇までは参らず、門前で祈誓をした。その時霊夢を蒙ったが、その祈誓の内容も霊夢の内容も別記に記し、ここには省略してある。(第八四段に、これに触れた記が見える)二月十日夜、皇子誕生。産所がどこであったか記してないが、亡父の河崎邸でなかった事を作者は悲しんでいる。末に脱文があるらしく、正解を得ない。

よろづ世の中もはえなき年なれば、元旦・元三の雲の上もあいなく、わたくしの袖の涙もあらたまり、やるかたもなき年なり。春のはじめには、いつしかまゐりつる神のやしろも、ことしはかなはぬ事なれば、もんのとまでまゐりて、きせい申しつる心ざしより、むば王の面影は、べちにしるし侍ればこれにはもらしぬ。
きさらぎの十日、よひの程に、その気色いできたれば、御所さまも、御心むつかしきをりから、わたくしもかかる思の程なれば、よろずはえなきをりなれど、隆顕の大納言、とりざたして、とかくいひさわぐ。御所よりも御室(おむろ)へ申されて、御本坊にて、愛染王(あいぜんわう)の法、なるたき、延命供(えんめいく)とかや、毘沙門堂(びさもんだう)の僧正、薬師の法、いづれも本坊にて行はる。我がかたざまにて、親源法印、請観音(しやうくわんおん)の法おこなはせなど、心ばかりはいとなむ。七条の道朝僧正、をりふしみねより出でられたりしが、「故大納言、心ぐるしきことにいひおかれしも忘れがたく」とて、おはしたり。
夜中ばかりより、ことに、わづらはしくなりたり。をばの京極殿、御つかひとて、おはしなど、心ばかりはひしめく。兵部卿もおはしなどしたるも、あらましかばと思ふ涙は、人によりかかりて、ちとまどろみたるに、むかしながらに、かはらぬすがたにて、心ぐるしげにて、うしろのかたへ立ちよるやうにすと思ふほどに、皇子たんじやうと申すべきにや、ことゆゑなくなりぬるは、めでたけれど、それにつけても、我があやまちの行くすゑ、いかがならんと、いまはじめたる事のやうに、いとあさましきに、御(み)はかせなど忍びたるさまながら、御験者(ごけんじや)のろくなど、ことごとしからぬさまに、隆顕ぞさたし侍る。むかしながらにてあらましかば、河崎の宿所などにてこそあらましかなど、よろづ思ひつづけらるるに、御乳(おち)の人がしやうぞくなど、いつしか、隆顕さたして、御(おん)つるうち、いしいしの事まで、かずかずみゆるにつけても、あはれ、ことしは夢ざたにて年もくれぬるにこそ。はれがましく、わびしかりしは、ゆめのきす、ゆつち、よろづの人に、身をいたして、見せしことこそ、神のりやうも、さしあたりては、よしなき程に、おごえ侍りしか。
二三 白銀の油壺
文永十年十二月、月のある頃、実兼と密会二泊。場所は四条大宮のめのとの家と思われる。家の女たちは皆、作者と実兼の関係を知ってしまったが、しかし作者から改めて打ち明けるべき事でないから、ひとり心の中にこめておく。さて第一夜が明けた翌日、院から作者へ意味ありげな文が来る。作者はまぎらかして返事をする。第二夜には、作者と実兼が、共に同じような夢を見る。それは、この夜妊娠した兆であった。

しはすには、つねは神事なにかとて、御所さまは、なべて御ひまなきころなり。わたくしにも、としのくれは、なにとなくおこなひをもなど思ひてゐたるに、あいなくいひならはしたる、しはすの月をしるべに、又思ひたちて、夜もすがらかたらふほどに、やもめがらすのうかれこゑなど、おもふ程にあけすぎぬるも、はしたなしとて、とどまりゐ給ふも、そらおそろしきここちしながら、むかひゐたるに、文あり。いつよりもむつましき御言(おんこと)の葉(は)多くて、
「むば玉の夢にぞみつるさ夜衣あらぬ袂をかさねけりとは。さだかにみつるゆめもがな」とあるも、いとあさましく、なにをいかに見給ふらんと、おぼつかなくもおぼゆれども、思ひ入りがほにも、なにとかは申すべき。
ひとりのみかたしきかぬる袂には 月の光ぞやどりかさぬる
我ながらつ、れなくおぼえしかども、申しまぎらかし侍りぬ。今日はのどかにうちむかひたれば、さすがさとの者どもも、女のかぎりは、しりはてぬれども、かくなどいふべきならねば、おもひむせびて、すぎ行くにこそ。
さてもこよひ、ぬりぼねに松をまきたるあふぎに、しろがねのあぶらつぼを入れて、この人のたぶを、人にかくして、ふところに入れぬと、夢にみて、うちおどろきたれば、暁のかねきこゆ。いと思ひかけぬ夢をもみつるかなと思ひてゐたるに、そばなる人、おなじさまに見たるよしをかたるこそ、いかなるべき事にかとふしぎなれ。
二四 二つの帯
文永十一年、作者十七歳。正月から九月に入るまでの記。後深草院は正月から二月十七日まで写経精進、しかるに作者は二月末に妊娠二箇月の兆を見て、実兼の胤をやどした事を知り煩悶する。六月七日に実兼はいはた帯を持って作者を訪ね、三日滞在する。その十二日には前例に従って善勝寺隆顕が御所から帯の御使に来た。作者は二つの帯に思いなやみながら九月になる。

としかへりぬれば、いつしか六条殿の御所にて、経衆(きゃうしゆ)十二人にて、如法経かかせらる。こぞの夢、なごりおぼしめし出でられて、人のわづらひなくてとて、ぬりごめの物どもにて、おこなはせらる。正月より、御ゆびの血をいだして、御手のうらをひるがへして、法花経をあそばすとて、ことしは、正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御けいせいなどいふ御さた、たえてなし。
さる程に、二月の末つかたより、心ち例ならず覚えて物もくはず。しばしは、かぜなど思ふ程に、やうやう見し夢のなごりにやと、思ひあはせらるるも、なにとまぎらはすべきやうもなき事なれば、せめてのつみのむくいも思ひしられて、心のうちの物おもひ、やるかたなけれども、かくともいかがいひけん、神わざにことつけて、さとがちにのみいたれば、つねに来つつ、見しることもありけるにや、「さにこそ」などいふより、いとどねんごろなるさまに、いひかよひつつ、「君にしられたてまつらぬわざもがな」といふ。いのりいしいし心をつくすも、たがとがとか、いはむと、思ひつづけられてある程に、二月のすゑよりは、御所さまへもまゐりかよひしかば、五月の頃は、四月(よつき)ばかりのよしを、おぼしめされたれども、まことには、六月(むつき)なれば、ちがひざまも、行くすゑいとあさましきに、六月七日、「さとへいでよ」と、しきりにいはるれば、なに事ぞと思ひて出でたれば、帯をてづから用意して、「ことさらと思ひて、四月にてあるべかりしを、世のおそろしさに、けふまでに、なりぬるを、御所より
十二日は、着帯(ちやくたい)のよしきくを、ことに思ふやうありて」といはるるぞ、心ざしも、なほざりならずおぼゆれども、身のなりゆかむはてぞ悲しく覚え侍りし。
三日は、ことさら、れいのかくれゐたりしかば、十日にはまゐり侍るべきにてありしを、その夜より、にはかにわづらふ事ありし程に、まゐることもかなはざりしかば、十二日の夕がた、善勝寺、さきの例にとて、御おびをもちてきたりたるを見るにも、故大納言のいかにがなと思ひさわがれし夜の事、思ひいでられて、袖には露のひおまなさは、かならず秋のならひならねどとおぼえても、ひと月(つき)などにておなきちがひも、いかにとばかり、なすべき心ちせず。さればとて、水のそこまで思ひ入るべきにしあらねば、つれなくすぐるにつけても、いかにせんといひおもふよりほかの事なきに、九月にもなりぬ。
二五 女児出産
文永十一年九月二日頃、作者は出産が近づいたので、病気と偽って里に下る。里は四条大宮のめのとの家と思われる。実兼は春日籠もりと披露して作者の許に隠れ住む。九月二十日女児出産。生児は実兼が何処かへ連れ去り、死産と疲労する。作者はその後永く里に籠もり、実兼は連夜通って来る。

世の中もおそろしければ、二日にや、いそぎ、なにかと申しことづけていでぬ。その夜やがて、かれにもおはしつつ、いかがすべきといふ程に、「まづ大事にやむよしを申せ。さて人のいませ給ふべきやまひなりと、陰陽師がいふよしをひろうせよ」などと、そひゐていはるれば、そのままにいひて、ひるはひめもすに臥しくらし、うとき人もちかづけず、心しる人二人ばかりにて、ゆみづものまずなどいへども、とりわきとめくる人のなきにつけても、あらましかばといとかなし。
御所さまへも、「御いたはしければ、御つかひな給ひそ」と申したれば、時などとりて、御おとづれ、かかる心がまへ、つひにもりやせんと、行くすゑいとおそろしながら、けふあすはみな人、さと思ひて、善勝寺ぞ、「さてしもあるべきかは。くすしはいかが申す」など申して、たびたびまうできたれども、「ことさらひろごるべき事と申せば、わざと」などいひて、見参(げざん)もせず。しひておぼつかなくなどいふをりは、くらきやうにて、きぬのしたにていと物もいはねば、まことしく思ひて、たち帰るもいとおそろし。さらでの人は、たれ訪ひくる人もなければ、そひゐたるに、その人はまた、春日(かすが)にこもりたりと、披露して、代願(だいぐわん)をこめて、人の文などをば、あらましとて、返事をばするなど、ささめくも、いと心ぐるし。
かかる程に、廿日あまりのあけぼのより、その心ちいできたり。人にかくともいはねば、ただ心しりたる人、一二人(ひとりふたり)ばかりにて、とかく心ばかりはいひさわぐも、なきあとまでも、いかなる名にかとどまらんと思ふより、なほざりならぬ心ざしをみるにもいとかなし。いたくとりたる事なくて、日も暮れぬ。火ともすほどよりは、ことのほかに、ちかづきておぼゆれども、ことさらつるうちなどもせず、ただ、きぬのいたばかりにて、ひとりかなしみゐたるに、ふかき鐘のきこゆるほどにや、あまりたへがたくや、おきあがるに、「いでや、腰とかやを抱(いだ)くなるに、さやうの事がなきゆゑにとどこほるか。いかに、だくべき事ぞ」とて、かきおこさるる袖にとりつきて、ことなくむまれ給ひぬ。まづあなうれしとて、「おもゆ、とく」などいはるるこそ、いつならひけることぞと、心しるどちは、あはれがり侍りしか。
さてもなにぞと、火ともして見給へば、うぶかみくろぐろとして、いまより、みあけ給ひたるを、ただ一目みれば、恩愛(おんない)のよしみなれば、あはれならずしもなきを、そばなる白き小袖におしつつみて、まくらなるかたなの小刀(こがたな)にて、ほぞのをうちきりつつ、かきいだきて、人にもいはず、とへいで給ひぬと見しよりほか、又二たびその面(おも)かげ見ざりしこそ、「さらばなどや、いま一目(ひとめ)も」と、いはまほしけれども、中々なれば、物はいはねど、袖の涙はしるかりけるにや、「よしや、よも。長らへてあらば、見ることのみこそあらめ」など、なぐさめらるれど、一目(ひとめ)みあはせられつるおもかげ、わすられがたく、女にてさへものし給ひつるを、いかなるかたへとだに知らずなりぬると思ふもかなしけれども、いかにしてといふわざもなければ、人しれぬねをのみ袖につつみて、夜も明けぬれば、「あまりにここちわびしくて、このあかつき、はやおろし給ひぬ。女にてなどはみえわく程に侍りつるを」など奏しける。「ぬるけなどおびたたしきには、みなさる事と、くすしも申すぞ。かまへていたはれ」とて、くすりどもあまた給はせなどするも、いとおそろし。ことなるわづらひもなくて、日かず過ぎぬれば、ここなりつる人もかへりなどしたれども、百日過ぎて御所さまへはまゐるべしとてあれば、つくづくとこもりゐたれば、夜な夜なは、へだてなくといふばかりかよひ給ふも、いつとなく世のきこえやとのみ、我も人も思ひたるも心のひまなし。
二六 花の白浪
去年誕生の皇子夭折の悲しみ。実兼との関係についての自責。両親の無い自分の運命の悲嘆。二人の男性の愛にからまる悩み。世を捨てて西行の例に習おうと思うが女の身でそれも叶わぬ。折から後深草院が出家を思い立たれ、院に従って出家する女房二人の中に加えられて喜んでいると、院は出家を思い止まられたので自分も出家を遂げられなくなる。又今まで院の御所に仕えていた叔母の京極殿が東宮御所へ移ることになったので、いよいよ便りなくなり、遁世の志は一段つのるけれど、年末になって御所からしきりに召されるので出仕する。

さても、こぞいでき給ひし御かた、人しれず、隆顕のいとなみぐさにておはせしが、この程、御なやみみときくも、身のあやまちの行すゑ、はかばかしからじと思ひもあへず、神無月のはじめの八日にや、しぐれの雨のあまそそき、露とともに消えはて給ひぬときけば、かねて思ひまうけにし事なれども、あへなくあさましき心のうち、おろかならむや。前後さうゐのわかれ、愛別離苦(あいべちりく)のかなしみ、ただ身一つにとどまる。幼稚(えうち)にて母におくれ、さかりにて父をうしなひしのみならず、いま又かかる思の袖のなみだ、かこつかたなきばかりかは。なれゆけば、かへる朝はなごりをしたひて、又寝(またね)のとこに涙をながし、まつよひにはふけ行く鐘にねをそへて、まちつけて後はまた、世にやきこえんと苦しみ、さとに侍るをりは、君の御おもかげをこひ、かたはらに侍るをりは、又よそにつもる夜な夜なをうらみ、我が身にうとくなりましますことも悲しむ。人間のならひ苦しくてのみ、あけくるる一日一夜に、八万四千とかやのかなしみも、ただ我一人に思ひつづくれば、しかじ、ただ恩愛(おんあい)の境界(きやうがい)をわかれて、仏弟子となりなん、九つのとしにや、西行が修行の記といふ絵を見しに、かたかたに深き山をかきて、まへには河のながれをかきて、花のちりかかるに居てながむるとて、
風吹けば花のしらなみ岩こえて わたりわづらふ山川の水
とよみたるを、かきたるを見しより、うらやましく、難行苦行(なんぎやうくぎやう)は、かなはずとも、我も世をすてて、あしにまかせて行きつつ、花のもと、露のなさけをもしたひ、もみぢの秋のちるうらみをものべて、かかる修行の記を書きしるして、なからん後のかたみにもせばやと思ひしを、三従のうれへ、のがれざれば、親にしたがひて日をかさね、君につかへても、けふまでうき世にすぎつるも、心のほかになど思ふより、うき世をいとふ心のみ深くなり行くに、この秋のころにや、御所さまにも、世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太上天皇のせんじを天下へ返しまゐらせて、御随身(みずいじん)ども召しあつめて、みな禄ども給はせて、いとまたびて、久則(ひさのり)一人、後しに侍ふべしとありしかば、面々にたもとをしぼりてまかりいで、御出家あるべしとて、人数にもやと思ひしに。鎌倉よりなだめ申して、東の御かたの御はらの若宮、位にゐ給ひぬれば、御所さまも、はなやかに、すみの御所には、御影(みえい)御わたりありしを、正親町殿(おほぎまちどの)へうつしまゐらせられて、すみの御所、春宮の御所になりなどして、京極殿とて、院の御かたに候ふは、むかしの新すけ殿なれば、なにとなく、この人はすごさねど、うかりし夢のゆかりに覚えしを、たち返り大納言のすけとて、春宮の御かたに候ひなどするにつけても、よろづ世の中物うければ、ただ山のあなたにのみ心はかよへども、いかなる宿執(しゆくしふ)なほ遁(のが)れがたきやらん、なげきつつ、又ふる年もくれなんとする頃、いたいたう召しあれば、さすがにすてはてぬ世なれば参りぬ。
二七 嵯峨殿へ御幸
前段に「ふる年も暮れなむとする頃、御所へ参った」とあるが、それは年末おしつまっての事ではなく、十一月頃の事であったと見なければならぬ。この段は文永十一年十一月、後深草院が御母大宮院の御所嵯峨殿へ御幸の時、作者が御供をした事を記す。この御幸は、前斎宮が大宮院を御訪問なさるので、大宮院から、前斎宮の御話相手として後深院をお招きになったからである。この段には皇子夭折の悲しみ、東二条院の不興によって女院方の出仕を止められた憂鬱、前斎宮と作者とのゆかり、大宮院の作者に対する同情など、さまざまに記してある。

兵部卿のさたにて装束(しゃうぞく)などいふも、ただ例の正体(しやうたい)なき事なるにも、よろづみうしろまるるは、嬉しともいふべきにやなれども、つゆきえはて給ひし御事ののちは、人のとが、身のあやまりも心うく、なに心なくうちゑみ給ひし御面影(おんおもかげ)の、たがふ所なくおはせしを、忍びつつ出で給ひて、「いとこそ、かがみのかげに、たがはざりけれ」など申しうけたまはりしものをなどおぼゆるより、かなしき事のみ思ひつづけられて、なぐさむかたなくて、あけくれ侍りし程に、女院の御方さまは、なにとやらん、をかせるつみは、それとなければ、さしてその節と畏怖事はなけれども、御いりたちもはなたれ、御ふだもけづられなどしぬれば、いとど世の中も物うけれども、この御かたさまは、「さればとて我さへは」などいふ御事にてはあれど、とにかくに、わづらわしき事あるも、あぢけなきやうにて、よろづの事いは、ひき入りがちにのみなりながら、さるかたに、この御かたさまには、中々あはれなることに、おぼしめされたるに、いのちをかけて、たちいでて侍るに、まことや、斎宮は、後嵯峨院の姫宮にて物し給ひしが、御服(おんぶく)にており給ひながら、なほ御いとまをゆるされたてまつり給はで、伊勢に三とせまで御わたりありしが、この秋の頃にや、御のぼりありしのちは、仁和寺に衣笠といふわたりに住み給ひしかば、故大納言、さるぺきゆかりおはしましし程に、つかうまつりつつ、みもすそ河の御くだりをも、ことにとりさたしまゐらせなどせしもなつかしく、人めまれなる御すまひも、なにとなくあはれなるやうにおぼえさせおはしまして、つねにまゐりて御つれづれも慰さめたてまつりなどせし程に、十一月の十日あまりにや、大宮院に御対面のために、嵯峨へいらせ給ふべきに、「我ひとりはあまりにあいなく侍るべきに、御わたりあれかし」と、東二条へ申されたりしかば、御政務の事、御たちのひしめきのころは、女院の御かたさまも、うちとけ申さるる事もなかりしを、このごろは常に申させおはしましなどするに、又とかく申されんもとて、いらせ給ふに、あの御かたさまも、御いりたちなればとて、一人御車のしりにまゐる。枯野の三(み)つぬに、紅梅のうすぎぬをかさぬ。春宮にたたせ給ひてのちは、みなからぎぬをかさねし程に、あか色のかたぎぬをぞかさねて侍りし。だい所もわたされず、ただひとりまゐり侍り。
女院の御かたへいらせおはしまして、のどかに御物がたりありしついでに、「あのあがこが幼なくよりおほしたてて候ふほどに、さるかたに、宮づかひも物なれたるさまなるにつきて、ぐしありき侍るに、あらぬさまにとりなして、女院の御かたさまにも、御(み)ふだけづられなどして侍れども、我さへすつべきやうもなく、こすけだいと申し、雅忠と申し、心ざしふかく候ひし、かたみにもなど申しおきし程に」など申されしかば、「まことに、いかが、御覧じはなち候ふべき。宮づかひは、また、しなれたる人こそ、しばしも候はぬは、たよりなき事にてこそ」など申させ給ひて、「なに事も心おかず、我にこそ」など、なさけあるさまにうけたまはるも、いつまで草のとのみおぼゆ。
こよひはのどかに御物がたりなどありて、供御(くご)も女院の御かたにてまゐりて、ふけて御やすみあるべしとて、かかりの御つぼのかたにいらせおはしましたれども人もなし。西園寺の大納言、善勝寺の大納言、長輔(ながすけ)、為方、兼行、資行(すけゆき)などぞ侍りける。
二八 折りやすき花
後深草院が嵯峨院へ到着された翌日の事。大宮院から前斎宮をお迎えになる。前斎宮到着、しばらく大宮院と御対面。やがて後深草院も出座せられ、作者は御太刀を捧持して側に侍る。前斎宮の成熟せられた御容姿、作者は後深草院が心を動かされるであろうと懸念する。院は我が部屋に帰られた後、恋情に堪えず、作者に手引きをさせて前斎宮と密会。

明けぬれば、けふ斎宮へ御むかへに人まゐるべしとて、女院の御かたより、御うしかひ、めしつぎ、北面の下臈などまゐる。心ことにいでたたせおはしまして、御見参あるべしとて、われもかう織りたる枯野の甘(かん)の御(おん)ぞに、りんだう織りたる薄色(うすいろ)の御ぞ、しをん色の御さしぬき、いといたうたきしめ給ふ。 夕がたになりて、いらせ給ふとてあり。寝殿のみなみおもてとりはらひて、にぶ色(いろ)の几帳とり出だされ、小几帳などたてられたり。御対面ありときこえし程に、女房を御つかひにて、「前斎宮(ぜんさいぐう)の御わたり、あまりにあいなくさびしきやうに侍るに、いらせ給ひて御物がたり候へかし」と申されたりしかば、やがていらせ給ひぬ。御太刀(おんたち)もて、例の御ともにまゐる。大宮院、けんもしやのうすずみの御ころも、にぶ色の御ぞ、ひきかけさせ給ひて、おなじ色の小几帳たてられたり。斎宮、紅梅の三御(みつおん)ぞに、あをき御ひとえぞ、中々むつかしかりし。御はうしんとて、さぶらひ給ふ女房、紫のにほひ五(いつつ)にて、もののぐなどもなし。斎宮は二十(はたち)にあまり給ふ。ねびととのひたる御さま、神も名残をしたひ給ひけるもことわりに、花といはば、桜にたとへても、よそめはいかがとあやまたれ、かすみの袖をかさぬるひまも、いかにせましと思ひぬべき御ありさまなれば、まして、くまなき御心のうちは、いつしか、いかなる御物おもひのたねにかと、よそも御心ぐるしくぞおぼえさせ給ひし。
御物がたりありて、神路(かみぢ)の山の御物がたりなど、たえだえきこえ給ひて、「こよひはいたうふけ侍りぬ、のどかに、あすはあらしの山の、かぶろなる木ずゑどもも、御覧じて、御帰りあれ」など申させ給ひて、わが御かたへいらせ給ひて、いつしか、「いかがすべき、いかがすべき」とおほせあり。思ひつる事よと、をかしくてあれば、「幼なくより、まゐりししるしに、この事申しかなへたらむ、まめやかに心ざしありとおもはむ」など、おほせありて、やがて御つかひにまゐる。ただ大かたなるやうに、「御対面うれしく、御たびねすさまじくや」などにて、忍びつつ文あり。こほりがさねのうすはうにや、
しられじないましもみつる面影の やがて心にかかりけりとは
ふけぬれば、御まへなる人も、みなよりふしたる、御ぬしも、小几帳ひきよせて御殿とのごもりたるなりけり。ちかくまゐりて、事のやう、そうすれば、御かほうちあかめて、いと物ものたまはず。文も見るとしもなくて、うちおき給ひぬ。「なにとか申すべき」と申せば、「思ひよらぬ御言(おんこと)の葉(は)は、なにと申すべきかたもなくて」とばかりにて、また寝たまひぬるも心やましければ、帰りまゐりて、このよしを申す。「ただ、寝たまふらん所へみちびけ、みちびけ」と、せめさせ給ふもむつかしければ、御ともにまゐらんことは、やすくこそ、しるべしてまゐる。甘(かん)の御(おん)ぞなどは、ことごとしければ、御大口(おんおほくち)ばかりにて、しのびつついらせ給ふ。
まづさきにまゐりて、御(おん)しやうじを、やをらあけたれば、ありつるままにて、御とのごもりたる。御まへなる人もねいりぬるにや、音する人もなく、ちひさらかにはひいらせ給ひぬるのち、いかなる御ことどもかありけん。うちすてまゐらすべきならねば、御(おん)うえぶししたる人のそばにぬれば、いまぞおどろきて、「こはたそ」といふ。「御人すくななるも御いたはしくて、御とのゐし侍る」といらへば、まことと思ひて、物がたりするも、用意(ようい)なきことやとわびしければ、「ねぶたしや、ふけ侍りぬ」といひて、そらねぶりしてゐたれば、御几帳(みきちやう)のうちも遠からぬに、いたく御心もつくさず、はやうちとけ給ひにけりとおぼゆるぞ、あまりにねんなかりし。心づよくて明かし給はば、いかにおもしろからむと覚えしに、明けすぎぬさきに帰りいらせ給ひて、「桜は、にほひはうつくしけれども、枝もろく折りやすき花にてある」など、おほせありしぞ、さればよと覚え侍りし。日たかくなるまで御とのごもりて、ひるといふばかりになりて、おどろかせおはしまして、「けしからず、けさしもいぎたなかりける」などとて、いまぞ文ある。御返事には、ただ「夢のおもかげは、さむるかたなく」などばかりにてありけるとかや。
二九 売炭の翁
前斎宮と密会の翌日の夜の事。後深草院方へ大宮院と前斎宮とをお招きして、くつろいだ酒宴が設けられた。

「けふはめづらしき御かたの御なぐさめに、なに事か」など、女院の御かたへ申されたれば、「ことさらなることも侍らず」と返事あり。隆顕の卿に、くこんのしきあるべき御けしきある、夕がたになりて、したためたるよし申す。女院の御方へ事のよし申して、いれまゐらせらる。いづかたにも御いりたちなりとて、御酌(おしやく)にまゐる。三こんまでは御からさかづき、その後、「あまりにねんなく侍るに」とて、女院、御さかづきを斎宮へ申されて、御所にまゐる。御几帳(みきちやう)をへだてて、なげしのしもへ、実兼(さねかぬ)・隆顕召さる。御所の御さかづきを給はりて、実兼(さねかぬ)にさす。さしやうなるとて隆顕にゆづる。思ひざしはちからなしとて実兼(さねかぬ)、そののち隆顕。女院の御かた、「故院の御ことののちは、めづらしき御あそびなどもなかりつるに、こよひなん御心おちて御あそびあれ」と申さる。女院の女房めして、ことひかせられ、御所へ御びはめさる。西園寺も給はる。兼行、ひちりき吹きなどして、ふけ行くままに、いとおもしろし。公卿二人してかぐら、うたひなどす。また善勝寺、れいの、せれうのさとかずへなどす。いかに申せども、斎宮、くこんをまゐらぬよし申すに、御所御酌(おしやく)にまゐるべしとて、御てうしをとらせおはしますをり、女院のかた、「御酌(おしやく)を御つとめ候はば、こゆるぎのいそならぬ御さかなの候へかし」と申されしかば、
ばいたんのおきなはあはれなり。おのれが衣はうすけれど、たきぎをとりて冬をまつこそ、悲しけれ。
といふ今様をうたはせおはします、いとおもしろくきこゆるに、「この御さかづきを我々給はるべし」と、女院の御かた申させ給ふ。三度(さんど)まゐりて斎宮へ申さる。又御所もちていらせ給ひたるに、「天子には父母なしとは申せども、十善のゆかをふみ給ひしも、いやしき身の恩にましまさずや」など御述懐(ずくわい)ありて、御さかなを申させ給へば、「生(しやう)をうけてよりこのかた、天子(てんし)の位をふみ、太上天皇の尊号をかうぶるにいたるるまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命(ごめい)をかろくせむ」とて、
おまへのまへなる、かめをかに、つるこそむれゐて、あそぶなれ。よはひは君がためなれば、あめの下(した)こそのどかなれ。
といふ今様を、三返(さんべん)ばかりうたはせ給ひて、三度(さんど)申させ給ひて、「この御さかづきは給ふべし」とて、御所にまゐりて、「実兼(さねかぬ)は傾城(けいせい)のおもひざししつる、うらやましくや」とて隆顕に給ふ。そののち殿上人のかたへおろされて事ども果てぬ。
こよひはさだめて、いらせおはしまさんずらんと思ふほどに、くこんすぎて、「いとわびし。御腰(おこし)うて」とて、御とのごもりてあけぬ。
斎宮も、けふは御帰りあり。この御所の還御、けふは今林殿(いまばやしどの)へなる。准后(じゆごう)御風(おかぜ)の気(け)おはしますとて、こよひは又これに御とどまりあり。つぎの日ぞ京の御所へいらせおはしましぬる。
三〇 東二条院の不満
前段の末に、後深草院は嵯峨殿から帰られる途中、今林殿に准后の風邪をお見舞いなされ、一泊してその翌日京の御所へ還御されたと記してある。この段の記は、京の御所へ還御の夕方、東二条院から後深草院へ、作者を寵愛される事について恨みの文があり、それに対して後深草院から細かに御返事なされた事を記す。東二条院の嫉妬によって作者の地位が不安であった事は前にも記され、この後にも記されるが、ここにはそれが最も明らかに記してある。

還御の夕がた、女院の御かたより、御つかひに中納言殿まゐらる。なに事ぞときけば、「二条殿がふるまひのやう心えぬ事のみ候ふときに、この御かたの御祗候(ごしこう)をとどめて候ヘば、ことさらもてなされて、三(みつ)ぎぬをきて、御車にまゐり候へば、人のみな女院の御同車(ごどうしや)と申し候ふなり。これ、せんなく覚え候。よろづ、めんぼくなき事のみ候へば、いとまを給はりて伏見などにひきこもりて出家して候はんと思ひ候」といふ御つかひなり。
御返事には、「うけたまはり候ひぬ。二条が事、いまさらうけたまはるべきやうも候はず。故大納言典侍(こだいなごんのすけ)、ありし日の程、よるひる、ほうこうし候へば、人よりすぐれてふびんにおぼえ候ひしかば、いか程もと思ひしに、あへなくうせ候ひしかたみには、いかにもと申しおき候ひしに、領掌(りやうじやう)申しき。故大納言、また最期(さいご)に申すしさい候ひき。君の君たるは、臣下の心ざしにより、臣下の臣たることは、君の恩による事に候。最期終焉(さいごしゆうえん)に、申しおき候ひしを、心よく領掌(りやうじやう)し候ひき。したがひて、のちの世のさはりなく思ひおくよしを申してまかり候ひぬ。二たびかへらざるは言(こと)の葉(は)に候ふ。さだめて草のかげにても見候ふらん。なに事の身のとがも候はで、いかが御所をもいだし、行くへもしらずも候ふべき。又三(みつ)ぎぬを着候ふ事、いまはじめたることならず候ふ。四歳(しさい)のとし、初参(しよさん)のをり、『わが身位あさく候。おほぢ、久我の太政大臣が子にてまゐらせ候はん』と申して、五緒(いつつを)の車、かずあこめ、ふたへ織物(おりもの)ゆり候ひぬ。そのほかまた大納言典侍(だいなごんのすけ)は、北山の入道太政大臣の猶子(いうし)とて候ひしかば、ついでこれも准后(じゆごう)御猶子(ごいうし)の儀(ぎ)にて、はかまを着そめ候ひしをり、腰をいはせられ候ひし時、いづかたにつけても、かずぎぬ、白きはかまなどはゆるすべしといふことふり候ひぬ。くるまよせなどまでもゆり候うて、年月になり候ふが、いまさらかやうにうけたまはり候ふ、心えず候ふ。いふかひなき北面の下臈らふふぜいの者などに、一(ひとつ)なるふるまひなどばし候ふなどいふ事の候ふやらん、さやうにも候はば、こまかにうけたまはりて、はからひさたし候べく候ふ。さりといふとも、御所をいだし、行くへしらずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、めしつかひ候はんずるに候ふ。大納言、二条といふ名をつきて候ひしを、返しまゐらせ候ひしことは、世かくれなく候。されば、よぶ人々さは呼ばせ候はず。『我が位あさく候ふゆゑに、おほぢが子にて参り候ひぬるうへは、小路名(こうぢな)をつくべきにあらず候。詮(せん)じ候ふところ、ただ、しばしは、あがこにて候へかし。なにさまにも、大臣はさだまれる位に候へば、そのをり、一度(いちど)につけ候はん』と申し候ひき。太政大臣のむすめにて、かずぎぬはさだまれる事に候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山、閑院ともに、淡海公(たんかいこう)のすゑより、つぎつぎ又申すにおよばず候ふ。久我は村上の前帝(せんてい)の御子、冷泉(れいぜい)、円融院(ゑんゆうゐん)の御おとと、第七皇子具平親王よりこのかた家ひさしからず。されば、いままでも、かの家、女子(をんなご)は、宮づかひなどはのぞまぬ事にて候ふを、はは、ほうこうのものなりとて、そのかたみになど、ねんごろに申して、幼少のむかしより召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心え候ふらむとこそおぼえ候ふに、いまさらなるおほせ事、存(ぞん)のほかに候ふ。御出家の事は、宿善(しゆくぜん)うちにもよほし、時いたる事に候へば、なにとよそよりはからひ申すによるまじきことに候」とばかり御返事に申さる。そののちは、いとどことあしきやうなるもむつかしながら、ただ御一所(おんひとところ)の御心ざし、なほざりならずさになぐさめてぞ侍る。 
 

 

三一 越えすぎし関
後深草院、前斎宮と再び密会の事。この段は対話と文の混雑。文脈のもつれなどが多く、すっきりせぬ。まず筋を記して見よう。作者は前斎宮の心中を同情して院にあいびきを勧める。院は作者を使として前斎宮に文を贈られる。前斎宮の養母が急ぎ取次に出て作者に面会し、前斎宮がその後思い悩んでいられる事を告げる。作者が帰ってこの事を院に告げると、院は車をやって前斎宮を迎えられる。

まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢ののちは御おとづれもなければ、御心のうちも、御心ぐるしく、我がみちしばも、かれがれならずなど思ふにとわびしくて、「さても年をさへへだて給ふべきか」と申したれば、げにとて文あり。「いかなるひまにても、おぼしめしたて」など申されたりしを、御やしなひははときこえしあまごぜん、やがてきかれたりけるとて、まゐりたれば、いつしか、かこちかほなる袖のしがらみせきあへず。「神よりほかの、御よすがなくてと思ひしに、よしなき夢のまよひより、御物おもひの」いしいしと、くどきかけらるるも、わづらわしけれども、「ひましあらばの御つかひにて参りたる」と、こたふれば、「これの御ひまは、いつもなにのあしわけかあらむ」などきこゆるよしを、つたへ申せば、「は山しげ山のなかを、わけんなどならば、さも、あやにくなる心いらへもあるべきに、こえすぎたる心
して」とおほせありて、公卿の車をめされて、しはすの月のころにや、忍びつつまゐらせらる。道もほど遠ければ、ふけすぐるほどに御わたり、京極おもての御しのび所も、このごろは、春宮の御かたになりぬれば、大柳殿の渡殿へ御車をよせて、日(ひ)の御座(ござ)のそばの四間(よま)へいらせまゐらせ、れいの御びやうぶ、へだてて、御とぎに侍れば、見し夜の夢ののち、かきたえたる御日かずの御うらみなども、ことわりにきこえし程に、あけいく鐘のねをそへて、まかり出で給ひしきぬぎぬの御そでは、よそもつけゆくぞみえ給ひし。
三二 年の名残
文永十一年十二月三十日の夜、実兼と密会の事。作者十七歳、罪の意識に苦しみ、発覚を恐れながら、しかも愛人とのほだしを絶ち切る事のできなかった若き日の思い出である。「思い出づるさへ袖ぬれ侍りて」と結んだところに、切なる思い出が籠もっている。

年も暮れはてぬれば、心のうちの物おもはしさは、いとどなぐさむかたなきに、さとへだに、えいでぬに、こよひは、東(ひんがし)の御方(おかた)まゐり給ふべきけしきの見ゆれば、よさりの供御(くご)はつる程に、腹のいたく侍るとて、局へすべりたりしほどに、如法、夜深しとて、うへぐちにたたずむ。世の中のおそろしさ、いかがとは思へども、この程はとにかくにつもりぬる日かずいはるるも、ことわりならずしもおぼゆれば、しのびつつ、つぼねへいれて、あけぬさきに、おきわかれしは、けふをかぎりの年の名残にはややたちまさりておぼえ侍りしぞ、我ながらよしなき物おもひなりける。思ひいづるさへ袖ぬれ侍りて。 
■問はず語り 巻二

 

三三 十八の春
文永十二年(建次元年)、作者十八歳。後深草院の御所における元旦の記である。世の中の花やかなのを見るいつけても作者は物思いの涙にぬれる。

ひま行く駒のはやせ川、こえてかへらぬとしなみの、わが身につもるをかぞふれば、今年は十八になり侍るにこそ。ももちどりさへづる春の日影のどかなるを見るにも、なにとなき心の中のものおもはしさ、忘るる時もなければ、花やかなるもうれしからぬここちぞし侍る。
ことしの御くすりは花山院太政大臣まゐらる。去年、後院別当(こうゐんのべつたう)とかやになりておはせしかば、なにとやらん、この御所さまには心よからぬ御事なりしかども、春宮にたたせおはしましぬれば、世の御うらみも、をさをさなぐさみ給ひぬれば、又のちまでおぼしめしとがむべきにあらねば、御くすりに参り給ふなるべし。ことさら、女房の袖ぐちもひきつくろひなどして、台盤所(だいばんどころ)さまも、人々こころことに、きぬの色をもつくし侍るやらん。一とせ、中院大納言、御くすりに参りたりし事など、あらたまる年ともいはず、おもひ出でられて、ふりぬる涙ぞ、なは袖ぬらし侍りし。
三四 御かたわかち
院方と東宮方と組を分けて粥杖の競技が行われた。院方の選手は院以外はすべて女房、東宮方は全部男である。それ故この分けかたは二重分類であるが、対抗意識は男性と女性の勝負であった。さてこの段は前後二段筋になっている。前節は十五日の勝負であるが、記事が簡単で或は脱文があるかと思われ、どんな状態であったものか明らかでない。ただ女性方の負けであった事が後筋によって知られる。後節は十八日に作者と東の御方が共謀して大いに院を打ちすくめ、凱歌をあげた記事である。

春宮の御方、いつしか、御かたわかち有るべしとて、十五日のうちとひしめく。れいの、院の御方、春宮、両方にならせたまうて、をとこ、女房、めむめむに、くじにしたがひてわかたる。あひて、みな男に、女房あはせらる。春宮の御かたには、傅(ふ)の大臣(おとど)をはじめて、みな男、院の御方は、御所より外は、みな女房にて、あひてをくじにとらる。傅(ふ)の大臣(おとど)のあひてにとりあたる。めむめむにひきいで物、思ひ思ひに、一人づつして、さまざま能(のう)をつくして強ひよといふおほせこそ。
女房のかたにはいとたへがたかりし事は、あまりに、我が御身ひとつならず、近習(きんじゆ)の男たちを召しあつめて、女房たちをうたせさせおはしましたるを、ねたき事なりとて、東(ひんがし)の御方(おかた)と申しあはせて、十八日には御所をうちまゐらせんといふ事を談議(だんぎ)して、十八日に、つとめての供御(くご)はつるほどに、台盤所(だいばんどころ)に女房たちよりあひて、御湯殿のうへのくちには、新大納言殿、権中納言、あらはに、別当、九五、常の御所の中には中納言どの、馬道(めんだう)に、ましみづ、さふらふ、などをたておきて、東(ひんがし)の御方(おかた)と二人、すゑの一間(ひとま)にて、なにとなき物がたりして、「一(いち)ぢやう、御所はここへいでさせおはしましなむ」といひて、待ちまゐらするに、案(あん)にもたがはず、おぼしめしよらぬ御事なれば、御大口(おんおほくち)ばかりにて、「など、これほど常の御所には人かげもせぬぞ。ここには誰か候ふぞ」とて、いらせおはしましたるを、東(ひんがし)の御方(おかた)、かきいだきまゐらす。「あなかなしや、人やある、人やある」とおほせらるれども、きと参る人もなし。からうじて、ひさしに師親の大納言が参らんとするをば、馬道(めんだう)に候ふまし水、「しさい候ふ。通しまゐらずまじ」とて、つゑをもちたるを見て、にげなどするほどに、思ふさまに打ちまゐらせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状(ごたいじやう)せさせ給ひぬ。
三五 罪科の評定
十八日の夕の御食事の時、院から伺候の公卿一同に、今日女房から打たれた事のお話があり、打った女房を罪科に処すべきかの御下問があった。一同、処罰すべしと答える。中にも善勝寺大納言は強硬論者であったが、「その女房は誰でございますか」と伺うと、「お前の姪であり、養女でもある二条の局だ」と仰せになったので公卿一同大笑する。もちろん院は本気で処罰を考えられたのではなく、又一つの遊びを思いつかれたのである。さて新年早々女房を流罪に処するも不吉であるからというので「あがひ」をさせることに定まった。

さて、しおほせたりと思ひてゐたるほどに、夕供御(ゆふくご)まゐるをり、公卿たち常の御所に候ふに仰せられいだして、「わが御身三十三にならせおはします、御やくにまけたるとおぼゆる。かかるめにこそあひたりつれ。十善の床ゆかをふんで万乗のあるじとなる身に、つゑをあてられし、いまだ昔もその例なくやあらん。などか又、おのおのみつがざりつるぞ。一同せられけるにや」と、面々にうらみおほせらるるほどに、おのおの、とかくちんじ申さるるほどに、「さても、君をうちまゐらするほどの事は、女房なりと申すとも、罪科(ざいくわ)かろかるまじき事に候。むかしの朝敵の人々も、これ程のふしぎは顕(げん)ぜず候ふ。御かげをだにふまぬ事にて候ふに、まさしくつゑをまゐらせ候ひけるふしぎ、かろからず候ふ」よし、二条左大臣、三条坊門大納言、善勝寺の大納言、西園寺の新大納言、万里(まで)の小路(こうぢ)の大納言、一同に申さる。ことに善勝寺の大納言、いつもの事なれば、我ひとりと申して、「さてもこの女房の名字はたれたれぞ。いそぎうけたまはりて、罪科のやうをも、公卿一同にはからひ申すべし」と申さるるをり、御所、「一人ならぬ罪科は、親類かかるべしや」と御たづねあり。「申すにおよばず候。六親(ろくしん)と申して、みなかかり候ふ」など、面々に申さるるをり、「まさしくわれをうちたるは、中院大納言がむすめ、四条大納言隆親がまご、善勝寺の大納言隆顕の卿がめひと申すやらん、又ずいぶん養子ときこゆれば、御むすめと申すべきにや、二条殿の御つぼねの御しごとなれば、まづ一番に人のうへならずやあらん」とおほせいだされたれば、御まへに候ふ公卿、みな一(ひと)こゑに笑ひののしる。
年のはじめに女房を流罪(るざい)せられんも、そのわづらひなり。ゆかりまで、そのとがあらんも、なほわづらひなり。むかしもさる事あり。いそぎあがひ申さるべしとひしめかる。そのをり申す、「これ身として思ひよらず候ふ。十五日に、あまりに御所つよく打たせおはしまし候ふのみならず、公卿殿上人を召しあつめて打たせられ候ひし事、ほいなく思ひまゐらせ候ひしかども、身、かずならず候へば、思ひよるかたなく候ひしを、東(ひんがし)の御方(おかた)、『このうらみ思ひかへしまゐらせん、同心せよ』と候ひしかば、『さ、うけたまはり候ひぬ』と申して打ちまゐらせて候ひし時に、我一人つみにあたるべきに候はず」と申せども、「なにともあれ、まさしく君の御身に、つゑをあてまゐらせたる者にすぎたる事あるまじ」とて、御あがひにさだまる。
三六 家々のあがひ
先ず二十日には作者の祖父隆親のあがひがあり、二十一日には叔父隆顕のあがひがあって同時に酒宴が行われ、席上隆遍僧正が鯉を料理した。次に隆顕から意見が出た。このたびの「あがひ」が、二条の母方の親戚にのみかかるのは片手落ちだ、父方の親戚に祖母と叔母がいるから、それにもかけるべきだという。院は不賛成であったが、隆顕は強く主張し、更に北山准后にも、かけるべきだという。これに対して院は准后よりも実兼(雪の曙)に罪がかかるであろうと言われ、実兼があがひをする。さて隆顕から作者の父方の祖母(久我尼上)の許へ、あがひをするようにと勧めてやると、手きびしい拒絶の書面が送られ、その結果、かえって院御自身にあがひがかかるという滑稽な結果になった。

善勝寺大納言、御つkひにて、隆親卿のもとへ事のよしをおほせらる。「返す返すびろうのしわざに候ひけり。いそぎあがひ申さるべし」と申さる。「日数のび候へばあしかるべし。いそぎいそぎ」とせめられて、廿日ぞ参られたる。御こと、ゆゆしくして、院の御かたへ、御なほし、かいで御小袖十、御たち一つまゐる。二条左大臣より公卿六人に、たち一つづつ、女房たちの中へ檀紙(だんし)百帖まゐらせらる。
廿一日、やがて善勝寺の大納言、御事(おこと)つねのごとく、御所へは、あやねりぬき、むらさきにて、こと・びはをつくりて参らせらる。又しろがねのやないばこに、るりの御さかづきまゐる。公卿に、むま・うし、女房たちの中へ、そめ物にて行居(ほかゐ)をつくりて、糸にて瓜をつくりて、十合まゐらせらる。御さかもり、いつよりもおびたたしきに、をりふし隆遍僧正まゐらる。やがて御前(おんまへ)へめされて、御さかもりのみぎりへまゐる。
鯉を取りいだしたるを、「宇治の僧正の例あり、その家よりむれて、いかがもだすべき、きるべき」よし、僧正に御(み)けしきあり。かたくじたい申す。おほせ、たびたびになるをり、隆顕まないたをとりて僧正の前におく。ふところより庖丁刀(はうちやうがたな)・まなばしを取りいでて、このそばにおく。このうへはと、しきりにおほせらる。御所の御まへに御さかづきあり。ちからなくて香染(かうぞめ)のたもとにてきられたりし、いとめづらかなりき。せうせうきりて、「かしらをば、えわり侍らじ」と申されしを、「さるやういかが」とて、なほおほせられしかば、いとさわやかにわりて、いそぎ御まへをたつを、いたく御感(ぎよかん)ありて、今のるりのさかづきを、やないばこにすゑながら、門前へおくらる。
さるほどに隆顕申すやう、「祖父(おほぢ)叔父(をぢ)などとて、とがをおこなはれ候ふ、みな外戚(げしやく)に侍る。つたへきく、いまだ内戚(ないしやく)の祖母(むば)侍るなり。おば又おなじく侍る。これにいかがおはせなからん」と申さる。「さる事なれども、すぢの人などにてもなし。それらまで仰せられん候はん事、あまりに候ふ。うるはしく、にがりぬべき事なり」と仰せあるに、「さるべきやう候はず。ぬしを御つかひにてこそ、おほせ候はめ。又北山の准后(じゆごう)こそ、をさなくより御芳心(ごはうしん)にて、典侍大も(すけだい)も侍りしか」と申すをりに、「准后よりも罪かかりぬべくや」と西園寺におほせらる。「あまりに、かすかなる仰せにも候かな」と、しきりに申されしを、「いはれなし」とて、又せめおとされて、それもつとめられき。「御事(おこと)つねのごとく、沈(ぢん)のふねに、麝香(じやかう)のへそ三つにて、ふさなしつくりてのせてと、御衣(おんぞ)と御所へまゐる。二条左大臣にうし・たち。のこりの公卿にはうし。女房たちの中へは、はく・すながし・名したへ・こうばいなどの檀紙(だんし)百。
さても、さてあるべき事ならずとて、隆顕のもとより、「かかるふしぎの事ありて、おのおの、とが、あがひ申してば、いかが候ふべき」と、いひつかはしたる返事に、「さる事候ふ。ふた葉にて母には離れ候ひぬ。父大納言、ふびんにし給ひしを、いまだむつきのなかと申すほどより、御所に召しおかれて候へば、わたくしにそだち候はんよりも、ゆゑあるやうにもそうらふかと思ひて候へば、さほどに物おぼえぬいたづら者に、御前にておひたち候ひける事、つゆしらず候ふ。君の御ふかくとこそおぼえさせおはしまし候へ。上下をわかちならひ、又御目をもみせられまゐらせ候ふにつきて、あまえ申し候ひけるか。それもわたくしにはしり候はず。おそれおそれも、とがは、かみつかたより、御つかひをくだされ候はばやとこそ思ひて候へ。またくかかり候ふまじ。雅忠などや候はば、ふびんのあまりにも、あがひ申し候はん。我が身にはふびんにも候はねば、ふけうせよの御気色(みけしき)ばし候はば、おほせにしたがひ候ふべく候ふ」よしを申さる。この御ふみをもちてまゐりて、御前にて披露するに、「久我(こが)あまうへが申状、いたん、そのいはれなきにあらず。御前にておひたち候ひぬるいで所をこそ、申して候ふといふ事、申すにおよばず候ふ。又みつせ河をだにおひこし候ふなるものを」など申さるるほどに、「とは、なに事ぞ。我が御身の訴訟(そしよう)にて、あがはせられて、又御所に、御あがひ有るべきか」と、さまざま申して、又御所に御つとめあるべきになりぬ。御事(おこと)は、経任うけたまはる。御太刀一つづつ公卿たちたまはり給ふ。衣(きぬ)一具(いちぐ)づつ女房たち給はる。をかしくも、たへがたかりし事どもなり。
三七 三月十三日
建治元年三月十三日の記。後に作者と深い関係を結ぶ「有明の月」が初めてここに登場する。この男性が後深草院の弟、仁和寺御室性助法親王であろうことは、次々の記事によって推察せられる。作者十八歳、性助法親王二十九歳。

かくてやよひのころにもなりぬるに、例の後白河院御の八講にてあるに、六条殿長講堂はなければ、正親町(おほぎまち)の長講堂にておこなはる。けちぐわん十三日に御幸なりぬるまに、御まゐりある人あり。還御待ち参らすべしとて候はせ給ひ、二棟の廊に、御わたりあり。まゐりて見参(げざん)に入りて、「還御はよくなり侍らん」など申してかへらんとすれば、「しばし、それに候へ」と仰せらるれば、なにの御用とも覚えねども、そぞろき、にぐべき御人がらならねば、候ふに、なにとなき御むかしがたり、「故大納言が常に申し侍りし事も忘れずおぼしめさるる」など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどとうちむかひまゐらせたるに、なにとやらむ、おもひのほかなる事を仰せられいだして、「仏も心きたなきつとめとやおぼしめすらんと思ふ」とかやうけたまはるも、思はずにふしぎなれば、何となくまぎらかして、たちのかんとする袖をさへひかへて、「いかなるひまとだに、せめては、たのめよ」とて、まことに、いつはりならず見ゆる御袖のなみだも、むつかしきに、還御とてひしめけば、ひきはなちまゐらせぬ。思はずながら、ふしぎなりつる夢とやいはんなどおぼえてゐたるに、御対面ありて、「久しかりけるに」などとて九こんすすめ申さるる、御陪膳(はいぜん)をつとむるにも、心の中を人やしらんといとをかし。
三八 両院の御鞠
亀山院が御深草院を訪問なされ蹴鞠の御遊が行われる。作者は亀山院の給仕を勤める。この折亀山院から恋歌が送られ、単なる儀礼的返歌をする。この後しばしば亀山院が心ある態度を示される記事が見える。これが作者の境遇を転落せしめる大きな因となる。

さるほどに、両院御なか、心よからぬ事、あしく、東ざまに思ひまゐらせたるといふ事きこえて、この御所へ、新院御幸あるべしと申さる。かかり御らんぜるべしとて、御まりあるべしとてあれば、「いかで、いかなるべきしきぞ」と、近衛の大殿へ申さる。「いたく事過ぎぬほどに、九こん、御まりの中に、御装束なほさるるをり、御(おん)かきひたしまゐる事あり。女房してまゐらせらるべし」と申さる。「女房はたれにか」と御さたあるに、「御としごろなり、さるべき人がらなれば」とて、この役をうけたまはる。かばざくら七つ、うら山ぶきのうはぎ、あを色から衣、くれなゐのうちぎぬ、すずしのはかまにてあり。浮織物の紅梅のにほひの三小袖(みつこそで)、からあやの二小袖(ふたつこそで)なり。御幸なりぬるに、御座を、対座(たいざ)にまうけたりしを、新院御覧ぜられて、「前(さき)の院(ゐん)の御時さだめおかれしにしに、御座のまうけやうわろし」とて、なげしの下へおろさるる所に、あるじの院いでさせ給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座を対座にこそなされしに、今日の出御には御座をおろさるる、ことやうに侍り」と申されしこそ、「いうにきこゆ」など、人々申し侍りしか。
ことさら、しきの供御(くご)まゐり、三こんはてなどして後、東宮いらせおはしまして御まりあり。なかば過ぐるほどに、二棟の、東(ひんがし)のつまどへいらせおはします所へ、やないばこに御かはらけをすゑて、かねの御ひさげに、御かきひたし入れて、別当殿、松がさね五(いつつ)ぎぬに、くれなゐのうちぎぬ、やなぎのうはぎ、うたやまぶきのからぎぬにてありしに、もたせてまゐりて、とりてまゐらす。「まづのめ」と、御ことばかけさせ給ふ。くれかかるまで御まりありて、松明(しようめい)とりて還御。つぎの日、仲頼して御ふみあり。
いかにせんうつつともなき面影を 夢とおもへばさむるまもなし
くれなゐのうすやうにて、柳の枝につけらる。さのみ、御返(おんかへし)をだに申さぬも、かつは、びんなきやうにやとて、はなだの薄様(うすやう)にかきて、桜の枝につけて、
うつつとも夢ともよしやさくらばな さきちる程とつねならぬよに
そののちも、たびたび、うちしきりうけたまはりしかども、師親の大納言、すむ所へ、車こひてかへりぬ。
三九 御壺合せ
建治元年四月、新造の六条院へ後深草院が移りなされた事。長講堂および定朝堂の落成供養が行われた事。侍臣女房たちが御壺合をして興じた事。

まことや、六条殿の長講堂つくりたてて、四月に御わたまし、御堂供養は曼陀羅供(まんだらく)、御導師は公豪(こうがう)僧正、讃衆(さんしゆ)二十人にてありしのち、憲実(けんじち)、御導師にて、定朝堂(ぢやうてうだう)供養、御わたましの後なり。御わたましには、いだし車五輛ありし一の車の左にまゐる、右に京極殿。なでしこの七衣(ななつぎぬ)、若菖蒲(わかしやうぶ)のうはぎなり。京極殿は藤の五(いつつ)ぎぬなり。御わたまし三日は白ぎぬにて、こき物のぐ、はかまなり。
御つぼあはせあるべしとて、公卿、殿上人、上臈、小上臈、御つぼをわけ給はる。常の御所の東向(ひんがしむ)きの二間(ふたま)の御つぼを給はる。とりつくる定朝堂のまへ、二間(ふたま)がとほりを給はりて、そりはしを、やり水にちひさく、うつくしくわたしたるを、善勝寺の大納言、夜のまにぬすみわたして、我が御つぼに置かれたりしこそ、いとをかしかりしか。
四〇 見はてぬ夢
この段の内容は三七段に接続する。三七段は建治元年三月十三日に有明の月が、初めて作者に意中を打明けた記であり、この段は同年九月八日頃から月末まで、有明の月が延命供を修する為に院の御所に滞在し、遂に作者と関係を結ぶに至った次第を記す。

かくしつつ八月のころにや、御所に、さしたる御心地にてはなく、そこはかとなく、なくやみわたり給ふ事ありて、供御(くご)をまゐらで、御あせたりなどしつつ、日数かさなれば、いかなる事にかと思ひさわぎ、くすし参りなどして、御やいとうはじめて、十(とを)ところばかり、せさせおはしましなどすれども、同じさまにわたらせおはしませば、九月の八日よりにや、延命供(えんめいく)はじめられて、七日すぎぎぬるに、なほ同じさまなる御事なれば、いかなるべき御事にかとなげくに、さても、この阿闍梨に御参りあるは、この春、袖の涙の色をみせ給ひしかば、御つかひに参るをりをりも、いひいだしなどしたまへども、まぎらはしつつ過ぎゆくに、このほど、こまやかなる御ふみを給はりて、返事をせめわたり給ふ。いとむつかしくて、うすやうのもとゆひのそばをやりて、夢といふ文字(もじ)を一つかきて、まゐらするとしもなくて、うちおきてかへりぬ。又まゐりたるに、しきみの枝を一つなげ給ふ。とりて、かたかたにゆきてみれば、葉に、ものかれたり。
しきみつむあかつきおきに袖ぬれて みはてぬ夢の末ぞゆかしき
いうにおもしろくおぼえて、この後、すこし心にかかり給ふここちして、御つかひにまゐるも、すすましくて、御物がたりの返事も、うちのどまりて申すに、御所へいらせたまうて、御対面ありて、「かくいつとなく、わたらせたまふ事」などなげき申されて、「御なで物を持たせて、御時、はじまらんほど、聴聞(ちやうもん)所へ人を給はり候へ」と申させ給ふ。
初夜の時、はじまるほどに、「御衣(おんぞ)をもちて、ちやうもん所にまゐれ」と仰せあるほどに、まゐりたれば、人もみな、伴僧(ばんそう)にまゐるべき装束しに、おのおの、へやへやへ出でたるほどにや、人もなし。ただひとりおはします所へまゐりぬ。「御なで物、いづくに候ふべきぞ」と申す。「道場のそばのつぼねへ」とおほせごとあれば、まゐりてみるに、けんそうげに、御あかしの火にかがやきたるに、おもはずに、なえたる衣にて、ふとおはしたり。こはいかにと思ふほどに、「仏の御しるべは、くらき道にいりても」など、おほせられて、なくなくいだきつき給ふも、あまりうたてくおぼゆれども、人の御ため、「こはなに事ぞ」などいふべき御人がらにもあらねば、しのびつつ「ほとけの御心のうちも」など申せどもかなはず、みつる夢のまごりも、うつつともなきほどなるに、「時よくなりぬ」とて伴僧(ばんそう)どもまゐれば、うしろのかたより逃げかへり給ひて、「後夜の程にいま一度かならず」と仰せありて、やがてはじまるさまは、なにとなきよ。まゐり給ふらんともおぼえねば、いとおそろし。
御(み)あかしの光さへ、くもりなくさし入りたりつるほかげは、こむ世のやみも悲しきに、おもひこがるる心はなくて、後夜過ぐるほどに、人まをうかがひて参りたれば、このたびは、御時はててのちなれば、すこし、のどかにみたてまつるにつけても、むせかへり給ふけしき、心ぐるしき物から、あけ行く音するに、はだに着たる小袖に、我が御はだなる御小袖を、しひて、かたみにとて、着かへ給ひつつ、おきわかれぬる御なごりも、かたほなる物から、なつかしくあはれともいひぬべき御さまも、忘れがたき心ちして、つぼねにすべりて、うちねたるに、いまの御小袖のつまに物あり。とりてみれば、みちのくにがみを、いささかやりて、
うつつとも夢ともいまだわきかねて かなしさのこる秋のよの月
とあるも、いかなるひまに書き給ひけむなど、なほざりならぬ御心ざしも、そらにしられて、このほどは、ひまをうかがひつつ、よをへでと、いふばかりみたてまつれば、このたびの御修法は、心きよからぬ御きせい、仏の御心中も、はづかしきに、二七日(にしちにち)のすゑつかたより、よろしくなり給ひて、三七日(さんしちにち)にて、御結願(けちぐわん)ありて出でたまふ。あすとての夜、「又いかなるたよりをか待ちみむ。念誦のゆかにも塵つもり、護摩(ごま)の道場(だうぢやう)も、けぶりたえぬべくこそ。おなじ心にだにもあらば、こきすみぞめの袂(たもと)になりつつ、ふかき山にこもりゐて、いくほどなきこの世に、ものおもはでも」など仰せらるるぞ、あまりに、むくつけき心ちする。あけ行くかねに音(ね)をそへて、おきわかれ給ふさま、いつならひ給ふ御ことのはにかと、いとあはれなるほどに見え給ふ。御袖のしがらみも、もりてうきなやと、心ぐるしきほどなり。かくしつつ、結願(けちぐわん)ありぬれば、御いでありぬるも、さすが心にかかるこそ、よしなきおもひも、かずかず色そふ心ちし侍れ。
四一 両院伏見御幸
新造六条院で九月の御花が行われ、引きつづき両院が伏見へ御幸なされた事。前段によれば後深草院は九月八日から月末まで病床にあられたから、この段に記されたような供花の式や伏見御幸の行われるわけはない。この段の九月は前段の翌年、建治二年の九月であろうか。

九月には御花、六条殿の御所のあたらしきにて、はえばえしきに、新院の、御幸(ごかう)さへなりて、「女房たちあいしにたまはらん」など、申させ給ふほどに、むめむめに、心事に出でたちひしめきあはるれども、よろづ、ものおもはしき心ちのみして、つねは、ひき入りがちにてのみ侍りしほどに、御花(おんはな)はてて、松とりに伏見の御所へ、両院御幸なるに、近衛大殿も、御参りあるべしとてありしに、いかなる御さはりにか、御まゐりなくて、御ふみあり、
ふしみ山いく万代かさふべき みどりの小松今日をはじめに
御返し、後の深草の院の御歌、
さかふべきほどぞひさしきふしみ山 おいその松の千世をかさねて
なか二日の、御とうりうにて、ふしみ殿へ、御幸など有りて、おもしろき九献(くこん)の御しきども有りて、還御。
四二 玉川の里
建治元年(前段が建治二年ならばこの段も二年)十月十日、後深草院が三年間見ぬ恋にあこがれて居られた絵かきの女を召され、一夜にして幻滅を感じて帰される。この夜、あいにくにも資行に命じて呼び寄せられた傾城が参る。院は傾城を車のまま釣殿のあたりに待たせて置かれたが、その事をすっかり忘れて居られ、夜があけてしまった。

さても、をととしの七月に、しばしさとに侍りて参るとて、うらうへに、小さきすながしをして、中はなだなるかみに、水をかきて、事ものは何もなくて、水のうへに白き泥(でい)にて、「くゆるけぶりよ」とばかりかきたるあふぎがみを、しやう木のほねにぐして、はらせに、ある人のもとへつかはしたれば、そのむすめのこれを見て、それも絵をうつくしうかく人にて、ひた水に秋の野をかきて、「事うらにすむ月はみるとも」とかきたるをおこせて、あふぎかへにしたりしを、もちてまゐりたるを、さきざきのふでともみえねば、「いかなる人のかたみぞ」など、ねんごろに御たづねあるも、むつかしくて、ありのままに申すほどに、ゑのうつくしきよりはじめ、うはのそらなる恋ぢにまよひそめさせ給ひて、三とせがほど、とかくその道しば、いしいしと御心のいとまなくいひわたり給ひけるにや、神無月十日、よひのほどに、参るべきになりて、御心のおき所なく、こころ事にいでたち給ふところへ、資行の中将まゐりて、「うけたまはり候ひし、御傾城(おんけいせい)ぐしてまゐりつる」よし案内すれば、「しばし、車ながら、京極おもての南のはじの釣殿のへんにおけ」とおほせありぬ。
初夜(しよや)うつほどに、みとせの人のまゐりたり。あをかうじの二(ふたつ)ぎぬに、むらさきのいとにて、つたをぬひたりしに、すはうのうすぎぬかさねて、あか色のからぎぬぞ着て侍りし。例のみちびけとてありしかば、くるまよせへ行きたるに、おるるおとなひなど、きぬのおとより、けしからず、おびただしくなりそめくさまも、思はずなるに、具してまゐりつつ、例の昼(ひ)の御座(ござ)のそばの四間(よま)、心事にしつらひ、薫物(たきもの)のかも、心事にて入れたるに、一尺ばかりなる檜扇(ひあふぎ)を、うきおりたるきぬに、あをうらの二(ふたつ)ぎぬに、紅のはかま、いづれもなべてならずこはきを、いと着しつけざりけるにや、かうこひじりがかうこなどのやうに、うしろに多く高々とみえて、かほのやうも、いとたはやかに、目も鼻もあざやかにて、びびしげなる人かなとみゆれども、姫ぎみなどはいひぬべくもなし。肥えらかに、たかく、ふとく、色しろくなどありて、内裏(だいり)などの女房にて、大極殿の行幸の儀式などに、一(いち)の内侍(ないし)などにて、かみあげて、御劔(ぎよけん)のやくなどをつとめさせたくぞみえ侍りし。
「はや参りぬ」と奏せしかば、御所は、菊を織りたるうす色の御直衣(おんなほし)に、御大口(おんおほくち)にていらせ給ふ。百歩のほかといふほどなる御にほひ、御びやうぶのこなたまでいとこちたし。御物がたりなどあるに、いと御いらへがちなるも、御心にあはずやと思ひやられてをかしきに、御よるになりぬ。れいの、ほどちかくうへぶししたるに、西園寺の大納言、あかりしやうじのと、なげしのしたに御とのゐしたるに、いたくふけぬさきに、はやなに事もはてぬるにや、いとあさましきほどの事なり。さていつしかあらはへいでさせおはしまして、召すに参りたれば、「たま川のさと」とうけたまはるぞ、よそもかなしき。ふかきかねだにうたぬさきにかへされぬ。御こ事ちわびしくて、御ぞめしかへなどして、ご供御(くご)だにまゐらで、「ここあそこうて」などとて御よるになりぬ。雨おびただしくふれば、かへるさの袖も思ひやられて。 
 

 

四三 五百戒の尼衆
昨夜から車のまま釣殿の辺に待たされていた傾城の事。院は、すっかり忘れて居られたが、作者に注意されて気がつき、様子を見させなさる。車は雨が漏り、衣裳はぬれてさんざんな有様。作者は自分の新しい衣裳に着せかえて院に逢わせようとしたが、傾城は拒絶して帰る。院から文を遣わされたが、それには答えず、別に歌を詠み、切り捨てた髪を贈ってよこした。後年聞くところによると河内の国の土師寺(はじでら)で五百戒の尼衆になっていたという話。

ま事や、明けゆくほどに、資行が申し入れし人は、なにと候ひしそら」と申す。「げにつやつや忘れて。見てまゐれ」とおほせあり。おきいでてみれば、はや日さしいづるほどなり。すみの御所の釣殿のまへに、いとやぶれたるくるま、夜もすがら雨にぬれにけるもしるく、ぬれ、しほたれてみゆ。あなあさましとおぼえて、「寄せよ」といふに、ともの人、もんのしたより、ただいまいでてさしよす。みれば、ねりぬきのやなぎの二衣(ふたつぎぬ)、絵かきそそきたりけるとおぼしきが、車もりて、水にみなぬれて、うらのはな、おもてへとほり、ねりぬきの二小袖(ふたつこそで)へうつり、さまあしきほどなり。よもすがらなきあかしけるそでのなみだも、髪は、もりにやあらん、又なみだにや、あらひたるさまなり。「この有様(ありさま)なかなかに侍る」とておりず。ま事ににがにがしき心ちして、「我がもとに、いまだあたらしききぬの侍るを、着てまゐり給へ。こよひしも大事の事ありて」などいへども、なくよりほかの事なくて、手をすりて「かへせ」といふさまもわびし。夜もはやひるになれば、ま事に又なにとかはせんにてかへしぬ。このよしを申すに、「いとあさましかりける事かな」とて、やがて文つかはす。御返事はなくて、「あさぢが末にまどふささがに」とかきたり。硯のふたに。はなだのうすやうに、つつみたる物ばかりすゑてまゐる。御らんぜらるれば、「きみにぞまどふ」と、だみたるうすやうに、髪をいささかきりてつつみて、
数ならぬ身の世がたりをおもふにも なほくやしきは夢のかよひぢ
かくばかりにて、事なる事なし。出家などしけるにや、いとあへなき事なりとて、たびたび尋ねおひせられしかども、つひにゆきがたしらずなり侍りき。年おほくつもりてのち、河内のくに、はしといふ寺に、五百戒の尼衆(にしゆ)にておはしけるよし聞きつたへしこそ、ま事の道の御しるべ、うきはうれしかりけむと、おそはかられしか。
四四 牛王の誓紙
建治元年九月に有明の月と契を結んで別れた事は四〇段に記してあった。この段はその後の事。有明の月は稚児を手引きとしてしなしば文を通わせる。作者も時々返事はしたが、逢う事はなかった。年が改まって建治二年、春から御所に忙しい事があって、雪の曙に逢う機会もなく、おぼつかない思いの中に九月になった。一夜隆顕に呼び出され、出雲路という所で有明に逢わされたが、固く拒絶して別れる。年末になって、有明の月から激しい文が、隆顕を介して贈られた。それには深刻な恋情が述べられてあったが、作者は堅く決心して拒絶し、一首の和歌を添えてその文を突き返してしまった。

さても有明の月の御もとより、思ひかけぬ祗候のちごのゆかりをたづねて御ふみあり。おもはずにまことしき御心ざしさへあれば、なかなかむつかしきここちして、御ふみにては時々申せども、身づからの御ついではかきたえたるも、いぶせからずと思はぬとしもなくて、また年もかへりぬ。
新院・本院、御はなあはせの勝負(しようぶ)といふ事ありて、しらぬ山のおくまでやづねもとめなど、この春はいとまをしきほどなれば、うちかくろへたるしのび事どももかなはで、おぼつかなさをのみかきつくす。
ことしは御所にのみ、つと候ひて秋にもなりぬ。なが月の中の十日あまりにや、善勝寺(ぜんしようじ)の大納言のもとより、文こまやかにかきて、「申したき事あり、いでたまヘ。出雲路(いづもぢ)といふわたりに侍るが、女どもの見参(げざん)したがるが侍るに、いかがして、みづからのたよりは、身にかへても」など申ししを、まめやかにおなじ心におもふべき事とおもひて、この大納言はをさなくより御心ざしあるさまなれば、これも又、身したしき人なればなどおぼしめしめぐらしけるは、なほざりならずとも申しぬべき、れいの、けしからずさは、うらめしく、うとましく、思ひまゐらせて、おそろしき様にさへおぼえて、つゆの御いらへも申されで、床中(とこなか)に起きゐたるありさまは、「あとより恋の」といひたるさまやしたるらんと、我ながらをかしくもありぬべし。夜もすがら泣く泣くちぎり給ふも、身のよそにおぼえて、こよひぞかぎりと心にちかひゐたるは、誰かは知らん。鳥の音ももよほしがほにきこゆるも、人は悲しき事をつくしていはるれども、我が心にはうれしきぞなさけなき。大納言、こわづくりて、何とやらんいふ音して帰り給ひなどするが、又立ちかへり、さまざまおほせられて、「せめては見だにおくれ」とありしかども、心ちわびしとておきあがらず。なくなく出で給ひぬるけしきは、げに、袖にやのこしおき給ふらんと見ゆるも、つみふかきほどなり。大納言の心のうちもわびしければ、いたくしらじらしくならぬさきにと、おほやけごとにことつけて、いそぎ参りて、つぼねにうちふしたれば、まめやかに、有りつるままのおもかげの、そばに見え給ひぬるもおそろしきに、そのひるつかた、かきつづけて給ひたる御言(おんこと)の葉(は)は、いつはりあらじとおぼえし中に、
かなしともうしともいはんかたぞなき かばかりみつる人のおもかげ
今さら、かはるとしはなけれども、あまりに、うくつらく覚えて、ことのはも、なかりつる物をとおぼえて、
かはるらん心はいさやしらぎくの うつろふ色はよそにこそみれ
あまりにおほき事どもも、なにと申すべきことのはもなければ、ただかくばかりにてぞ侍りし。そののち、とかくおほせらるれども、御返事も申さず。まして参らん事、おもひよるべき事ならず。とにかくにいひなして、つひに見参(げざん)にいらぬに、くれ行く年におどろきてにや文あり。善勝寺の文に、「御ふみまゐらす。このやう、返す返すせんなくこそ候らヘ。あながちにいとひ申さるる事にても候はず、しかるべき御契にてこそかくまでもおぼしめし染(し)み候ひけめに、なさけなく申され、かやうに、にがにがしくなりぬる事、身ひとつのなげきにおぼえ候ふ。これへも同じさまには、返す返すおそれ覚え候ふ」よし、こまごまとあり。文を見れば、たてぶみ、こはごはしげに、そくひにて上下につけかかれたり。あけたれば、熊野の、又いづくのやらん、本寺のとかや、牛王(ごわう)といふ物のうらに、まづ日本国六十個神仏、梵天王(ぼんてんわう)、帝釈(たいしやく)よりはじめ書きつくし給ひて後、「我、七歳よりして、勤求等覚(ごんくとうがく)の沙門(しやもん)のかたちをけがしてよりこのかた、炉壇(ろだん)に手をむすびて難行苦行の日をかさね、ちかくは、天長地久をいのりたてまつり、とほくは一切衆生もろともに滅罪生善(めつざいしやうぜん)を祈誓(きせい)す。心の中、さだめて、牛王・天道・諸明(しよみやう)、知見(ちけん)たれ給ふらんとおもひしに、いかなる魔縁(まえん)にか、よしなき事ゆゑ、ことし二年、夜はよもすがら面影を恋ひて涙に袖をぬらし、本尊にむかひ持経をひらくをりをりも、まづ言(こと)の葉(は)をしのび、護摩(ごま)の壇(だん)のうへには、ふみを置きて持経とし、御(み)あかしの光にはまづこれをひらきて心をやしなふ。このおもひ、しのびがたきによりて、かの大納言に言ひあはせば、見参(げざん)のたよりも心やすくやなどおもふ。又さりとも同じ心なるらむと思ひつる事みなむなし。この上は、ふみをもつかはし、ことばをもかはさんとおもふ事、今生には、このおもひをたつ。さりながら、心の中にわするる事は、生々世々(しやうじやうせぜ)、あべからざれば、我(われ)さだめて悪道(あくだう)におつべし。さればこのうらみ、つくる世あるべからず。両界の加行(けぎやう)よりこのかた、灌頂(くわんぢやう)にいたるまで、一期(いちご)の行法(ぎやうほう)、こんしゆ大乗しにきの行、一期のあひだ修(しゆ)するところ、みな三悪道に、回向(えかう)す。この力をもちて、今生(こんじやう)ながくむなしくて、後生には悪趣(あくしゆ)に生れあはむ。そもそも生をうけてこのかた、幼少のむかし、むつきの中にありけむ事はおぼえずして過ぎぬ。七歳にて髪をそり、衣をそめてのち、ひとつゆかにもゐ、もしは愛念(あいねん)のおもひなど、思ひよりたる事なし。この後又あるべからず。我(われ)にもいふことのはは、なべて人にもやと思ふらんとおもひ、大納言が心の中、返す返すくやしきなり」と書きて、天照大神・正八幡宮、いしいしおびたたしく、たまはりたるをみれば、身の毛もたち、心もわびしきほどなれど、さればとて、なにとかはせん。これをみな巻きあつめて返しまゐらする包紙(つつみがみ)に、
今よりはたえぬとみゆる水くきの 跡をみるには袖ぞしほるる
とばかり書きて、おなじさまに封じて返しまゐらせたりし後は、かきたえ御おとづれもなし。
なにとまた申すべき事ならねば、むなしく年もかへりぬ。
四五 小弓の負けわざ
建治三年、年頭の挨拶に、有明の月は後深草院の御所に参る。作者は給仕に出ようとして鼻血を垂れ、その後十日間ほど病臥。二月後深草院と亀山院と小弓の競技があり、その負けわざとして、後深草院の女房全部を鞠足のわらはに仕立てて亀山院に謁見させる行事が行われる。

春はいつしか御まゐりある事なれば、いらせ給ひたるに、九こんまゐる。ことさら、とざまなる人もなく、しめやかなる御事どもにて、れいの常の御所にての御事どもなれば、にげかくれまゐらすべきやうもなくて、御前(おまへ)に候ふに、御所、「御しやくにまゐれ」とおほせありしに、まゐるとて立ちさまに、鼻血(はなぢ)たりて、目もくらくなりなどせしほどに、御前をたちぬ。そののち十日ばかり、如法、大事にやみて侍りしも、いかなりける事ぞとおそろしくぞ侍りし。
かくて、きさらぎの頃にや新院いらせおはしまして、ただ御さしむかひ、小弓(こゆみ)をあそばして、「御まけあらば、御所の女房たちを上下みな見せたまへ。我まけまゐらせたらば又そのやうに」といふ事あり。この御所御まけあり。「これより申すべし」とて、還御ののち、資李の大納言入道をめされて、「いかが、この式あるべき。めづらしきふぜい、なに事ありなん」など、仰せられあはするに、「正月の儀式にて、台盤所にならべすゑられたらんも、あまりにめづしからずや侍らん。又一人づつ、占相人(うらさうにん)などにあふ人のやうにて出でむもことやうにあるべし」など、公卿たち面々に申さるるに、御所、「龍頭鷁首(りようとうげきしゆ)の舟をつくりて、水がめをもたせて、春まつやどのかへしにてや」と御気色(きしよく)あるを、ふね、いしいしわづらはしとて、それもさだまらず。資季入道、「上臈八人、小上臈・中上臈八人づつを、上中下の鞠足(まりあし)のわらはになして、橘(たちばな)の御つぼに、きたてをして、まりのけいきをあらんや、めづしからむ」と申す。さるべしと、みな人人申しさだめて、面々に、上臈には公卿、小上臈には殿上人、中臈には上北面、めのとにつきて出(いだ)したつ。水干袴に刀さして、くつ・したうづなどはきて出でたつべしとてある、いとたへがたし。さらば、よるなどにてもなくて、ひるの事なるべしとてあり。たれかわびざらん。されどもちからなき事にて、おのおの出でたつべし。
西園寺の大納言、めのとにつく。はなだうらの水干袴に、くれなゐのうちきかさぬ。左の袖にぢんのいはをつけて、白きいとにして滝をおとし、右に桜をむすびてつけて、ひしとちらす。はかまには、は・ゐせきなどして、花をひしとちらす。「涙もよほすたきの音かな」の心なるべし。権大納言殿、資季入道さたす。もよぎうらの水干袴には、左にせいろう、右に桜。はかま、ひだりに、たけ、むすびてつけ、右に、とうだい一つつけたり。紅のひとゑをかさぬ。面々にこの式なり。
中の御所の広所(ひろどころ)を、びやうぶにてへだてわけて、廿四人出でたつさま、思ひ思ひにをかし。さて風流(ふりう)のまりをつくりて、ただ新院の御前(おまへ)ばかりに置かむずるを、ことさら、かかりのうへへ、あぐるよしをして、おつる所を袖にうけて、くつをぬぎて新院の御前に置くべしとてありし。みな人、このあげまりを、なくなくじたい申ししほどに、器量(きちやう)の人なりとて、女院の御かたの新衛門督殿を、上八人に召し入れて、つとめられたりし。これも時にとりては美々しかりしかとも申してん。さりながら、うらやましからずぞ。袖にうけて、御前に置く事は、その日の八人、上衆(じやうしゆ)につきてつとめ侍りき。いとはれがましかし事どもなり。
南庭(なんてい)の御簾(みす)あげて、両院・春宮、階下(かいか)に公卿両方に着座(ちやくざ)す。殿上人は、ここかしこにたたずむ。へいのしたを過ぎて南庭をわたる時、みな、めのとども、色々の狩衣にてかしづきに具す。新院、「交名(けいみやう)をうけたまはらん」と申さる。御幸(ごかう)、ひるよりなりて、九献(くこん)も、とくはじまりて、「おそし、御まりとくとく」と、奉行為方せむれども、「いまいま」と申して松明(しようめい)を取る。やがて面々のかしづき、脂燭(しそく)をもちて、「たれがし、ごたちのつぼね」と申して、ことさら御前へむきて、袖かきあせて過ぎしほど、なかなか、ことのはなく侍る。下八人より、しだいにかかりの下へまゐりて、面々の木の本にゐるありさま、われながらめづらかなりき。まして上下男(をとこ)たちの、興に入りしさまは、ことわりにや侍らん。御まりを御前に置きて、いそぎまかり出でんとせしを、しばし召しおかれて、そのすがたにて御酌にまゐりたりし、いみじくたへがたかりし事なり。
二三日かねてより、つぼねつぼねに伺候(しこう)して、髪ゆひ、すいかん、くつなど、きならはし候ふほど、めのとたち、けいえいして、「やしなひぎみ、もてなす」とて、かたよりに、事どものありしさま、おしはかるべし。
四六 六条院の女楽
復讐戦が行われて今度は後深草院の勝ち、そこで亀山院が負けわざを嵯峨殿で催された。更に又再復讐戦が行われて後深草院の負、その負けわざとして伏見殿で音楽会が開かれる事になった。会の趣向は源氏物語若菜巻にある六条院の女楽の形で演じようというのである。さて当日になって演奏が始まろうする時、作者の祖父隆親が、我が子「今参り」の席を作者の上席に移させたので、作者は立腹して脱走し、演奏会は中止になった。脱走して身を隠した所を、小林の伊予殿の許と書いてあるが、それは初めからのことではなく、初めは真願房の室であったことが次の段で知られる。

さるほどに、御ねたみには御かちあり。嵯峨殿(さがどの)の御所へ申されて、按察使(あぜち)の二品(にほん)のもとに、わたらせ給ふと御所とかや申す姫宮、十三にならせ給ふを舞姫に出だしたてまゐらせて、上臈女房たち、わらは・しもづかへになりて帳台のこころみあり。また公卿あつづまにて、殿上人・六位かたぬぎ北の陣をわたる。びんだたらのけいきなど、のこるなく、露台(ろだい)の乱舞(らんぶ)、御前のめし、おもしろしともいふばかりなかりしを、猶なごりをしとて、いやねたみまであそばして、又この御所、御まけ、伏見殿にてあるべしとて、六条院の女楽(をんながく)をまねばる。紫の上には東の御方、女三の宮の琴(きん)のかはりに、箏(しやう)のことを隆親の女(むすめ)の今参りにひかせんに、隆親ことさら所望(しよもう)ありときくより、などやらん、むつかしくて、参りたくもなきに、御まりのをりに、ことさら、御ことばかかりなどして、御覧じ知りたるにとて、明石の上にて琵琶にまゐるべしとてあり。琵琶は七つのとしより、雅光の中納言に、はじめて、がく二つ三つならひて侍りしを、いたく心にも入れでありしを、九つのとしより、又しばし御所に教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合(そがふ)、万秋楽(まんじゆらく)などはみなひきて、御賀のをり、白河殿の荒序(くわうそ)とかやいひし事にも、十にて御琵琶をたまはりて、いたいけしてひきたりとて、花梨木(くわりぼく)の直甲(ひたかふ)の琵琶の、紫檀(したん)の転手(てんじゆ)したるを、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の袋に入れて、後嵯峨(ごさが)の院より給はりなどして、をりをりはひきしかども、いたく心にもいらでありしを、ひけとてあるも、むつかしく、などやらん物ぐさながら出でたちて、やなぎのきぬに、くれなゐのうちぎぬ、もよぎのうはぎ、うら山吹の小袿(こうちき)を着るべしとてあるが、なぞしも、かならず、人よりことに落ちばなる明石になる事は。東(ひんがし)の御方(おかた)の和琴(わごん)とても、日頃しつけたる事ならねども、ただこのほどの御ならひなり。琴(きん)のことのかはりの今参りの箏(こと)ばかりこぞ、しつけたる事ならね。女御の君は、花山院太政大臣の女、西の御方(おかた)なれば、紫の上にならび給へり。これは、対座(たいざ)にしかれたる畳の右の上臈にすゑらるべし、御まりのをりにたがふべからずとてあれば、などやらん、さるべしともおぼえず、今参りは、女三宮とて、一でううへにこそあらめと思ひながら、御気色(みけしき)のうへはと思ひて、まづ伏見殿へは御ともにまゐりぬ。
今参りは、当日に、もんの車にて、さぶらひ具しなどして参りたるを見るにも、我が身のむかし思ひいでられてあはれなるに、新院御幸(ごかう)なりぬ。すでに九献(くこん)はじまりなどして、こなたに、女房、しだいにいで、心々の楽器まへに置き、思ひ思ひのしとねなど、若菜の巻にや、しるしぶみのままに、さだめおかれて、時なりて、あるじの院は六条院にかはり、新院は大将にかはり、殿の中納言中将、洞院の三位中将にや、ふえ、ひちりきに階下(かいか)へ召さるべきとて、まづ女房の座、みなしたためて、ならびゐて、あなたうらにて、御さかもりありて、なかばになりて、こなたへ入らせ給ふべきにてある所へ、兵部卿まゐりて、女房の座いかにとて見らるるが、「このやうわろし。まねばるる女三宮、本妻(ほんだい)の御前なり。いままねぶ人の、これは叔母(をば)なり、あれは姪(めひ)なり。うへにゐるべき人なり。隆親、故大納言には上衆(じやうしゆ)なりき。何事に下にゐるべきぞ。ゐなほれ、ゐなほれ」と、こゑだかにいひければ、善勝寺、西園寺まゐりて、「これは別勅(べつちよく)にて候ふものを」といへども、「なにとてあれ、さるべき事かは」と、いはるるうへは、一たんこそあれ、さのみいふ人もなければ、御所はあなたにわたらせ給ふに、たれか告げまゐらせんも詮(せん)なければ、座をしもへおろされぬ。いだし車の事、今さら思ひ出だされていとかなし。姪、叔母には、なじかよるべき。あやしのものの腹にやどる人もおほかり。それも、おばは、むばばとて、ささげおくべきか。こはなに事ぞ。すべて、すさまじかりつる事なり。これほど面目(めんぼく)なからん事にまじろひてせんなしと思ひて、この座をたつ。つぼねへすべりて、「御たづねあらば消息(せうそく)をまゐらせよ」といひおきて、小林(こばやし)といふは、御ばばがはは、宣陽門院(せんやうもんゐん)に伊予殿といひける女房、おくれまゐらせさまかへて、即成院(そくじやうゐん)の御墓ちかく候ふ所へたづねゆく。まゐらせおく消息(せうそく)に、白きうすやうに琵琶の一の緒をニつにきりて包みて、
数ならぬうきみをしれば四つのをも この世の外におもひきりつつ
とかきおきて、「御たづねあらば、都へ出で侍りぬと申せ」と申しおきて出で侍りぬ。
さるほどに、九献(くこん)なかば過ぎて、御やくそくのままにいらせ給ふに、明石の上のかはりの琵琶なし。事のやうを御たづねあるに、東(ひんがし)の御方(おかた)、有りのままに申さる。きかせおはしまして、「ことわりや、あがこがたちける事、そのいはれあり」とて、つぼねをたづねらるるに、「これをまゐらせて、はや都へ出でぬ。さだめて召しあらばまゐらせよとて、消息こそ候へ」と申しけるほどに、あへなく、ふしぎなりとて、よろづに、にがにがしくなりて、いまの歌を、新院も御覧ぜられて、「いとやさしくこそ侍れ。こよひの女楽はあいなく侍るべし。この歌を給はりて、かへるべし」とて、申させ給ひて、還御なりにけり。このうへは、今参り、ことひくにおよばず。めむめむに、「兵部卿うつつなし。おいのひがみか。あがこがしやう、やさしく」など申してすぎぬ。
四七 雲がくれ
この段に初めて「雪の曙」という呼び名が出る。これは第二段に「昨日の雪よりも今日のは云々」の文を送ってよこした初恋の人西園寺実兼で、今までは「この人」「その人」などと書かれていた。またこの段の記によって作者の御所脱出が建治三年の三月十三日であった事、「有明の月」が初めて作者に意中を打明けたのが建治元年三月十三日であった事が知られる。この段は御所脱出以後、およそ一個月余りにわたる作者の動静と述懐を記したものであるが、その間隠れていた所が、最初から真願房の室であったか、諸方を隠れ廻って終りに真願房の室に入ったのか明らかでない。

あしたは、またとく、四条大宮の御ばばがもと、六角櫛笥(ろくかくくしげ)のむばのもとなど、人を給はりて御たづねあれども、行くへしらずと申しけり。さるほどに、あちこちたづねらるれども、いづくよりか、ありと申すべき。よきついでに、うき世をのがれんと思ふに、しはすのころより、ただならずなりにけりと思ふをりからなれば、それしもむつかしくて、しばし、さらば、かくろへゐて、このほどすぐして、身二つとなりなばと思ひてぞゐたる。これよりして、ながく琵琶のばちをとらじとちかひて、後嵯峨の院よりたまはりてし琵琶の八幡(やわた)へまゐらせしに、大納言(父雅忠)のかきてたびたりしふみのうらに、法花経をかきてまゐらするとて、経のつつみがみに、
この世には思ひきりぬる四つのをの かたみやのりの水くきのあと
つくづくと案ずれば、をととしの春、三月十三日に、はじめて、「をらではすぎじ」とかやうけたまはりそめしに、こぞのしはすにや、おびたたしきちかひの文をたまはりて、いくほどもすぎぬに、ことしの三月十三日に、年月さぶらひなれぬる御所のうちをも住みうかれ、琵琶をも永く思ひすて、大納言かくれて後は、おやさまに思ひつる兵部卿も、心よからず思ひて、「我が申したる事をとがめて出づるほどの者は我が一期(いちご)にはよもまゐり侍らじ」など申さるるときけば、道とぢめぬる心ちして、いかなりける事ぞと、いとおそろしくぞおぼえし。如法(によほふ)、御所よりも、あなたこなたをたづねられ、雪のあけぼのも、山々寺々までも思ひのこすくまなく、たづねらるるよしきけども、つゆもうごかれず隠れゐて、聞法(もんぽふ)の結縁(けちえん)も、たよりありぬべくおぼえて、真願房のむろにぞ、又かくれ出で侍りし。
四八 三界無安
この段が建治三年四月の事であるのは前からの連絡上知られるが、史実も一致する。その頃隆顕は父隆親と不和になり、今まで同宿していた父の邸を去り、妻の父九条中納言の家に籠居した。作者はその噂を聞いて隆顕へ慰問の手紙を贈る。それによって隠れがが分かったので隆顕は作者を訪問する。隆顕は醍醐の勝倶胝院なる真願房の庵室に作者を訪ねて一夜物語をする。その物語の中で、作者は「有明の月」が嘆いている様子を聞いて悲しい思いをする。

さるほどに、四月のまつりの御桟敷(おんさじき)の事、兵部卿、用意して、両院御幸(ごかう)なすなど、ひしめくよしも、耳のよそに伝へききしほどに、おなじ四月のころにや、内・春宮の御元服(ごげんぷく)に、大納言の年のたけたるが入るべきに、前官わろしとて、あまりの奉公の忠のよしにや、善勝寺が大納言を一日かりわたして参るべきよし申す。神妙(しんべう)なりとて、まゐりて、ふるまひまゐりて、返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、ひきちがへ、経任になされぬ。
さるほどに、善勝寺の大納言、ゆゑなくはがれぬる事、さながら、父の大納言がしごとやと思ひて深くうらむ。当腹(たうふく)隆良(たかよし)の中将に宰相を申すころなれば、この大納言をまゐらせあげて、我を超越(てうをつ)せさせんとすると思ひて、同宿もせんなしとて、北の方が父、九条中納言家に籠居(ろうきよ)しぬるよし聞く。いとあさましければ、行きてもとぶらひたけれども、世のきこえむつかしくて、ふみにて、「かかる所に侍るを、たちよりたまへかし」など申したれば、「あとなく聞きなして後、よろづいはんかたなくおぼえつるに、うれしくこそ。やがてよさり参りて、いぶせかりつる日数も」などいひて、暮るるほどにぞたちよりたる。
卯月(うづき)のすゑつかたの事なるに、なべて青みわたる木ずゑの中に、おそき桜の、ことさらけぢめ見えて白くのこりたるに、月いとあかくさし出でたるものから、木かげは暗き中に、鹿のたたずみありきたるなど、絵にかきとめまほしきに、てらでらの初夜(しよや)のかね、ただいまうちつづきたるに、ここは三昧堂(さんまいだう)つづきたる廊なれば、これにも、初夜(しよや)のねんぶつ、ちかきほどにきこゆ。回向(えかう)してはてぬれば、尼どもの麻のころもすがた、いとあはれげなるを見いだして、大納言も、さしも思ふ事なくふとりたる人の、ことさらうちしめりて、長絹(ちやうけん)の狩衣のたもともしほりぬ。「今は恩愛の家を出でて、真実(しんじち)の道に思ひたつに、故大納言の心ぐるしく申し置きし事、われさへ又と思ふこそ、思ひのほだしなれ」など申せば、我も、げにいとど、なにをかと、なごりをしさも悲しきに、うすきひとへの袂は、かわく所なくぞ侍りける。「かかるほどをすごして、山ふかく思ひたつべければ、おなじ御すがたにや」など申しつつ、かたみにあはれなる事いひつくし侍りしなかに、「さても、いつぞや、おそろしかりしふみを見し、我がすごさぬ事ながら、いかなるべき事にてかと、身の毛もよだちしか。いつしか、御身といひ、身といひ、かかる事のいできぬるも、まめやかに、むくいにやとおぼゆる。さても、いづくにもおはしまさずとて、あちこちたづね申されしをりふし、御まゐりありて、御帰りありし御道にて、『まことにや、かくときくは』と御尋ねありしに、『行くへなく今日までは承(うけたま)はる』と申したりしに、いかがおぼおぼしけん、中門のほどにたちやすらひつつ、とばかり物もおほせられで、御涙のこぼれしを、檜扇(ひあふぎ)にまぎらはしつつ、『三界無安(さんがいむあん)、猶如火宅(ゆによくわたく)』と、くちずさみて出で給ひしけしきこそ、つねならん人の、恋ひし、かなし、あさまし、あはれと、申しつづけんあはれにも、猶まさりて見え侍りしかば、本尊にむかひ給ふらん念誦(ねんじゆ)もおしはかられて」など語るを聞けば、「かなしさのこる」とありし月影も、今さら思ひ出でられて、などあながちに、かうしも情なく申しけむと、くやしき心ちさへして、我がたもとさへ露けくなり侍りしにや。夜あけぬれば、世の中も、かたがたつつましとて帰らるるも、「事ありがほなる朝がへりめきて」などいひて、「いつしか、こよひのあはれ、けさのなごり、まことの道には、すて給ふな」などあり。
はかなくも世のことわりは忘られて つらさにたへぬわがたもとかな
と申したりし。「げにうきはなべてのならひとも知りながら、なげかるるは、かやうの事にやと、かなしさそひて」など申して、
よしさらばこれもなべてのならひぞと 思ひなすべき世のつらさかは
四九 春日の夢想
雪の曙(西園寺実兼)は作者の行くえを知りたくて春日神社に籠り夢想に導かれて京に帰る途中、隆顕の中間男に出逢い、作者の隠れがが勝倶胝院であることを知る。その夕暮、実兼は作者を訪問し、翌日もそこに滞在する。そして隆顕へ手紙を送り来訪を求める。隆顕来訪。実兼・隆顕相談の上、実兼が作者のありかを聞きつけたことにして院に申上げようと定め、おのおの帰る。

雪のあけぼのは、跡なき事をなげきて、春日に二七日こもられたりけるが、十一日と申しける夜、二の御殿の御前に昔にかはらぬすがたにて侍ると見て、いそぎ下向(げかう)しけるに、藤の森といほどにてとかや、善勝寺が中間(ちゆうげん)、細きふみのはこをもちてあひたる、などやらん、ふと思ひよる心ちして、人にいはするまでもなくて、「勝倶胝院(しようくていゐん)よりかへるな、二条殿の御出家(おんすけ)はいつ一定(いちぢやう)とか聞く」と、いはれたりければ、よく知りたる人とや思ひけむ、「よべ九条より大納言殿いらせ給ひて候ひしが、けさ又御つかひにまゐりて帰り候ふが、御出家(おんすけ)の事は、いつとまではえうけたまはり候はず。いかさまにも御出家(おんすけ)は一定(いちぢやう)げに候ふ」と申しけるに、さればよと、うれしくて、供なるさぶらひが乗りたる馬をとりて、これより神馬(しんめ)にまゐらせて、我が身は、ひるは世の聞えむつかしくて、上(かみ)の醍醐(だいご)に知るゆかりある僧坊へぞたちいりける。
それもしらで、夏木だち眺めいでて、坊主(ばうず)の尼御前(あまごぜん)のまへにて、せん道の御ことを習ひなどしてゐたる暮(くれ)ほどに、なにのやうもなく縁(えん)にのぼる人あり。尼たちにやと思ふほどに、さやさやとなるは、装束(しやうぞく)のおとからと、見かへりたるに、そばなるあかりしやうじをほそめて、「心づよくもかくれたまへども、神の御しるべは、かくこそたづねまゐりたれ」といふを見れば、雪の明けぼのなり。こはいかにと、今さら胸もさわげども、なにかはせん。「なベて世のうらめしく侍りて、思ひ出でぬるうへは、いづれをわきてか」とばかりいひてたち出でたり。例の、いづくより出づることのはにかと思ふ事どもをいひつづけゐたるも、げにかなしからぬにしもなけれども、思ひきりにし道なれば、二たびかへり参るべき心ちもせぬを、かかる身のほどにてもあり、たれかはあはれともいふべき。
「御心ざしのおろかなるにてもなし、兵部卿が老(おい)のひがみゆゑに、かかるべき事かは。ただこのたびばかりは、おほせにしたがひてこそ」など、しきりにいひつつ、つぎの日はとどまりぬ。
善勝寺のとぶらひいひて、「これに侍りけるに思ひかけずたづねまゐりたり。げざんせん」といひたり。「かまへて、これへ」と、ねんごろにいはれて、このくれに、又たちよりたれば、つれづれのなぐさめになどとて、九献(くこん)よもすがらにて、あけ行くほどにかへるに、「ただこのたびは、それに聞き出だしたるよしにて、御所へ申してよかるべし」など、面々(めん/\)にいひさだめて、雪のあけぼのも今朝(けさ)たちかへりぬ。面々(めん/\)のなごりも、いとしのびがたくて、見だにおくらんとて立ち出でたれば、善勝寺は、檜垣(ひがき)に夕顔を織りたるしじらの狩衣にて、道こちなくやなどためらひて夜ふかくかへりぬ。いま一人は、入りがたの月くまなさに、うすかうの狩衣。車したたむるほど、はしつかたにいで、あるじのかたへも、「思ひよらざる見参(げざん)もうれしく」などあれば、「十念しやうじゆのをはりに、三尊の来迎(らいかふ)をこそ待ち侍る柴のいほりに、おもひがけぬ人ゆゑ、をりをり、かやうなる御たもとにてたづね入り給ふも、山がつのひかりにや思ひ侍らん」などあり。「さても、のこる山のはもなくたづねかねて、三笠の神のしるべにやとまゐりて見しむば玉の夢のおもかげ」など語らるるぞ、住吉の少将が心ちし侍る。あけゆくかねも、もよほしがほなれば、出でさまに、くちずさみしを、しひていへれば、
世のうさも思ひつきぬるかねのおとを 月にかこちて有明のそら
とやらん、くちずさみて、出でぬるあとも悲しくて、
かねのおとにうさもつらさもたちそへて 名残をのこす有明の月
五〇 小林の伊予殿
作者が伏見の小林なる伊予殿の家に移った事。これについては四六段に、御所を脱走してすぐ小林へ行ったような書き方をしているが、初め諸所に身を隠し、最後に小林へ行き、小林から院に連れもどされたので、このように書かれたのである。四七段以下の文によってその事が知られる。さて作者は伊予殿の家に移って、四八段で隆顕から聞かされた有明の月の嘆きを思い出して悲しんでいると、雪の曙から手紙があり、二人の中に生まれた秘密の女児に面会させようという。それにつけても恩愛の情に心が砕ける事。後深草院が突然に伊予殿の家に御幸なされ、言葉をつくして帰参をすすめなさるので、作者は心弱くもお供をして、御所に帰った事。

けふは、一すぢに思ひ立ちぬる道も又さわり出できぬる心ちするを、あるじの尼御前(あまごぜん)、「いかにも、この人々は申されぬとおぼゆるに、たびたびの御つかひに、心きよく、あらがひ申したりつるも、はばかりある心ちするに、小林のかたへ出でよかし」といはる。さもありぬべきなれば、車の事、善勝寺へ申しなどして、伏見の小林といふ所へまかりぬ。こよひは、なにともなく日もくれぬ。御ばばがはは伊予殿、「あなめづらし。御所よりこそ、これにやとて、、たびたび御尋ねありしか。清長もたびたびもうでこし」などかたるをきくにも、三界無安(さんがいむあん)、猶如火宅(ゆによくわたく)と言ひ給ひける人のおもかげ、うかむ心ちして、とにかくに、さもぞ物おもふ身にてありけると、我ながらいとかなし。卯月のそらのむらさめがちなるに、音羽(おとは)の山の青葉の木ずゑにやどりけるにや、時鳥のはつねをいまききそむるにも、
我が袖の涙事とへほととぎす かかるおもひの有明のそら
いまだ夜ふかきに、尼たちの起き出でて、後夜おこなふに、即成院(そくじやういん)のかねのおとも、うちおどろかすに、われも起き出でて、経などよみて、日たかくなるに、又雪のあけぼのより(むばらきりたりし人)の文あり。なごりなどかきてのち、「さても、夢のやうなりし人、そののちは面影(おもかげ)も知らぬ事にてあれば、なにとかはと思ひて過ぐるに、この春のころよりわづらひつるが、なのめならず大事なるを、道のものどもにたづぬなれば、御心にかかりたるゆゑなど申す。ま事に恩愛(おんあい)つきぬ事なれば、さもや侍らん」とあり。いさや、かならずしも、恋し、かなしとまではなけれども、思はぬ山のみねにだにといふ事なれば、事しはいくらほどなど、思ひ出づるをりをりは、一目みし夜半(よは)の面影を、二たびしのぶ心もなどかなからん。されば又、あはぬ思ひの片糸(かたいと)は、うきふしにもやと、我ながら事わらるれば、「なによりもあさましくこそ、又さりぬべきたよりも侍らば」などいひて、これさへけふは心にかかりつつ、いかがききなさんとかなし。
くれぬれば、例の初夜おこなふついでに、せうさなどせんとて、持仏堂にさし入りたれば、いと、よはひかたぶきたる尼の。もとよりゐて経よむなるべし。「遠くて菩提の因」などいふもたのもしきに、折戸(をりど)あくおとして、人のけはひ、ひしひしとす。思ひあへず、たれなるべしとも覚えず、ほとけの御前の明障子(あかりしやうじ)を、ちとあけたれば、御手輿(おんたごし)にて、北面(ほくめん)の下らう一二人、めしつぎなどばかりにて、御幸あり。いと思はずにあさましけれども、目をさへふと見あはせたてまつりぬうへは、にげかくるべきにあらねば、つれなくゐたる所へ、やがて御輿(みこし)をよす。おりさせおはしまして、「ゆゆしくたづね来にけるな」と、おほせあれども、物も申さでゐたるに、「御輿(みこし)をばかきかへして、御車(みくるま)したためてまゐれ」と、おほせあり。御車待ちたまふほど、「この世のほかに思ひきるとみえしより、たづねくるに」と、いくらもおほせられて、「兵部卿がうらみに我さへ」などうけたまはるも、ことわりなれども、「なべてうき世を、かかるついでに思ひのがれたく侍る」よし申すに、「嵯峨殿(さがどの)へなりつるが、思ひかけず、かくとききつるほどに、例の人づてには、又いかがかと思ひて、伏見殿へいらせおはしますとて、たちいらせ給ひたり。なにと思はむにつけても、このほどのいぶせさも心しづかに」と、さまざまうけたまはれば、例の心弱さは御車にまゐりぬ。夜もすがら、我がしらせたまはぬ御事、又この後もいかなる事ありとも、人におぼしめしおとさじなど、内侍所(ないしどころ)、大菩薩(だいぼさつ)ひきかけうけたまはるも、かしこければ、参り侍るべきよしを申しむるも、なほうき世出づべきかぎりの遠かりけるにやと心うきに、あけはなるるほどに還御なる。「御ともに、やがて、やがて」とおほせあれば、つひにまゐるべからん物ゆゑはと思ひてまゐりぬ。つぼね、みなさとへうつしてければ、京極殿のつぼねへぞ参り侍りし。
五一 人の宝の玉
建治三年四月下旬の頃、御所で岩田帯をした事。同月三十日某所で、実兼との間に生れた女児に対面した事。さてここに岩田帯をした胎児の出産の記は欠けているので事がらは不明であるが、御所で帯をしたのであるから院の御子と認められていたのであろうが、作者は「思ひいづるかずかず多かり」と記しているので何か秘密が感じられる。次に実兼との間の女児は文永十一年九月の誕生であるから今年四歳であった。実母との対面ということを承知していながら、心にこめて現さぬ利発さが、ここの文で察しられる。

世にしたがふならひも今更(いまさら)すさまじきに、つもごり頃にや、御所にて帯をしぬるにも、思ひいづるかずかず多かり。
さても夢の面影の人、わづらひなほ所せしとて、思ひかけぬ人の宿所(しゆくしよ)へよびて見せらる。「五月五日は、たらちめの跡とひにまひるべきついでに」と申ししを、「五月ははばかるうへ、こけの跡とはむたよりもいまいまし」と、しひていはれしかば、卯月のつもごりの日、しるべある所へまかりたりしかば、こうばいの浮織物(うきおりもの)の小袖にや、二月よりおふされけるとて、いこい事ある髪すがた、夜目にかはらずあはれなり。北の方をりふし、産したりけるが、なくなりにけるかはりに、とり出でてあれば、人はみな、ただそれとのみ思ひてぞありける。天子に心をかけ、禁中にまじらはせん事をお思ひかしづくよしきくも、人の宝の玉なればと思ふこころわろき。かやうのふたごころありとも、つゆしらせおはしまさねば、心より外にはと思しめすぞいとおそろしき。
五二 梁園八代の古風
建治三年八月頃、関白兼平、後深草院に参り院と閑談。作者その席に侍す。関白は作者にも親しく話しかけ音楽会における隆親の所為を非難し作者に同情する。また作者の生家である久我家が名門であることをほめたたえる。

八月のころにや、近衛大殿御参りあり。後嵯峨の院御かくれのをり、「かまへて御覧じはぐくみまゐらせられよ」と申されたりけるとて、つねに御まゐりもあり、又もてもなしまゐらせられしほどに、常の御所にて、うちうち九献(くこん)などまゐり候ふほどに、御覧じて、「いかに、行くへなくききしに、いかなる山にこもりゐて候ひけるぞ」と申さる。「大かた、方士が術ならでは、たづねいでがたく候ひしを、蓬莱の山にてこそ」など仰せありしついでに、「ぢたい、兵部卿が老(おい)のひがみ、事の外に候ふ。さても、琵琶はすてはてられて候ひけるか」と仰せられしかども、ことさらものも申さで候ひしかば、「身一代ならず、子孫までと、ふかく八幡宮にちかひ申して候ふなる」と、御所におほせられしかば、「むげに、若きほどにて候ふに、にがにがしく思ひきられ候ひける。ぢたいあの家の人々は、なのめならず家をおもくせられ候。経任大納言申しおきたるしさいなどぞ候ふらん。村上天皇より、家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりに言はれ候ふ。あのめのと仲綱は久我重代の家人(けにん)にて候ふを、岡屋(をかのや)の殿下、ふびむに思はるるしさい候うて、兼参(けさん)せよと候ひけるに、『久我の家人なり、いかがあるべき』と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家(しよけ)には準(じゆん)ずべからざれば、見参(げざん)しさいあるまじ』と、みづからのふみにて仰せられ候ひけるなど申しつたへ候ふ。隆親の卿、むすめ、をばなれば、うへにこそと申し候ひけるやうもけしからず候ひつる。さきの関白、新院へまゐられて候ひけるに、やや久しく御物がたりども候ひけるついでに、『傾城(けいせい)の能(のう)には歌ほどの事なし。かかるにがにがしかりし中にも、この歌こそ耳にとどまりしか。梁園(りやうゑん)八代の古風といひながら、いまだ若きほどに、ありがたき心づかひなり。仲頼と申して、この御所に候ふは、その人が家人なるが、ゆくへなしとて、山々寺々たづねありくとききしかば、いかなるかたに聞きなさむと、われさへ、しづごころなくこそ』など御物がたり候ひけるよし、うけたまはりき」など申させ給ひき。 
 

 

五三 今様秘事御伝授
関白兼平は院と閑談の席上、次男兼忠に今様秘事御伝授の事を乞う。院はこれを聴許せられ、早速明後日伏見に御幸して伝授しようと約束される。院は西園寺実兼・源師親を伴われ、作者はお供する。籠居中の善勝寺隆顕も召し出される。兼平は長男基忠、次男兼忠と共に伏見御所に参る。秘事御伝授は下の御所で行われ、その後、白拍子の舞を御覧になる。この段から次段にかけて、上の御所・伏見殿・筒井の御所などの名が見えるが、伏見殿と上の御所は同じで伏見の御所の本殿と思われ、その位置は今の大光明寺綾の辺で南に近く宇治川が流れている。下の御所はそれから約千メートル西、今の京橋辺にあった。筒井の御所の所在は不明であるが、下の御所の近くにあったと思われる。院はこの時下の御所に滞在せられ、伏見殿へは鵜舟をつかわせに出かけられた。

「さても中納言中将、今様(いまやう)きりやうに侍る。おなじくは、その秘事を御ゆるされ候へ」と申さる。「さうにおよばず。京の御所はむつかし。ひみにて」と御約束(おんやくそく)あり。あさてばかりとて、にはかに御幸あり。披露(ひろう)なき事なれば人あまたも参らず。供御(くご)は臨時(りんじ)の供御(くご)をめさる。台所の別当一人などにてありしやらん。あちこちのありき、いしいしに、姿も事のほかに、なえばみたりしをりふしなるに、まゐるべしとてあれば、兵部卿もありし事の後は、いと申す事もなければ、なにとすべきかたもなきやうに案じゐたるに、をみなへしのひとへがさねに、袖に秋の野をぬひて露おきたる赤色のからぎぬかさねて、すずしの小袖、はかまなど色々に、雪のあけぼののたびたるぞ、いつよりもうれしかりし。
大殿・さきの殿・中納言中将殿、この御所には、西園寺・三条坊門帥親より外は人なし。善勝寺九条の宿所(しゆくしよ)は近きほどなり、この御所にははばかり申すべきやうなしとて、たびたび申されしかども、籠居のをりふしなれば、はばかりあるよしを申して参らざりしを、清長をつかはして召しあれば参る。思ひかけぬ白拍子(しらびやうし)を二人めしぐせられたりける誰かは知らん。下の御所の広所(ひろどころ)にて御ことはあり。うへの御所のかたに車ながらおかる。事どもはじまりて、案内を申さる。興にいらせ給ひて召さる。おとといといふ。あね廿(はたち)あまり、すはうのひとへがさねに袴、おととは、をみなへし、すぢのすいかんに萩を袖にぬひたる大口を着たり。あねは春菊、おとと若菊といひき。白拍子せうせう申して、たちすがた御覧ぜられんといふ御気色(みけしき)あり。つづみうちを用意せずと申す。そのわたりにて、つづみをたづねて、善勝寺これをうつ。まづ若菊まふ。そののち、あねをと御気色(みけしき)あり。すてて久しくなりぬるよし、たびたびじたい申ししを、ねんごろに仰せありて、はかまのうへに、おととが水干(すゐかん)を着て舞ひたりし、ことやうにおもしろく侍りき。いたくみじかからずとて、しゆげむの白拍子をぞ舞ひ侍りし。御所、如法、ゑはせおはしましてのち、夜ふけてやがて出だされぬ。それも知らせおはしまさず。人々は、こよひはみな御しこう、あす一度(いちど)に還御などいふさたなり。
五四 筒井の御所の化物
今様御伝授のあった夜ふけて後、作者は筒井の御所に用をたしに行って帰ろうとする時、何者かに袖を引かれる。この人が関白兼平であった事は次段の記によっても察せられる。さて作者が下の御所に帰って見ると、院はお目ざめで再び酒を召しあがる。酔うて御寝になったが、作者は袖を引いた人の事が心にかかって眠ることができなかった。

御所、御寝(ぎよしん)のまに、筒井の御所のかたへ、ちと用ありて出でたるに、松のあらしも身にしみ、人まつむしのこゑも、そでの涙にねをそふるかと覚えて、待たるる月もすみのぼりぬるほどなるに、思ひつるよりも物あはれなるここちして、御所へかへりまゐらんとて、山ざとの御所の夜なれば、みな人しづまりぬる心ちして、掛湯巻(かけゆまき)にて通るに、筒井の御所の前なる御簾(みす)の中より袖をひかゆる人あり。まめやかに、ばけ物のここちして、あららかに「あなかなし」といふ。「夜ごゑには、こたまといふ物の、おとづるなるに、いとまがまがしや」といふ御声は、さにやと思ふもおそろしくて、なにとはなく、ひき過ぎんとするに、たもとは、さながらほころびぬれども、はなちたまはず。人のけはひもなければ、御簾(みす)の中にとりいれられぬ。御所にも人もなし。「こはいかに、こはいかに」と申せども、かなはず。「年月(としつき)おもひそめし」などは、なべて聞きふりぬる事なれば、あなむつかしとおぼゆるに、とかくいひちぎり給ふも、なべての事と耳にもいらねば、ただいそぎまゐらむとするに、夜のながきとて、御目さまして、御たづねあるといふにことつけて、たちいでんとするに、「いかなるひまをも作り出でて、かへりこむとちかヘ」といはるるも、のがるる事なければ、よものやしろにかけぬるも、ちかひの末おそろしき心ちして、立ちいでぬ。
また九献(くこん)まゐるとて、人々まゐりてひしめく。なのめならず、ゑはせおはしまして、若菊をとくかへされたるが念なければ、あす御逗留(ごとうりう)ありて、いま一(いち)ど召さるべしと御気色(みけしき)あり。うけたまはりぬるよしにて後、御心(みこころ)ゆきて、九献ことにまゐりて、御よるになりぬるにも、うたたねにもあらぬ夢のなごりは、うつつとしもなき心ちして、まどろまであけぬ。
五五 酔ひごこち
伏見滞在の第二日目の記。院御主催の宴が開かれ、終って院御寝の室へ兼平が作者を誘いに来る。作者は院にすすめられ、兼平に隣室へ連れ出されてその意に従う。

けふは御所の御ざしやうにてあるべきとて、資高、承(うけたま)はる。御ことおびたたしく用意したり。傾城(けいせい)まゐりて、おびたたしき御さかもりなり。御所の御はしりまひとて、ことさらもてなしひしめかる。沈(ぢん)の折敷(をしき)にかねのさかづきすゑて、麝香(ざかう)のへそ三つ入れて、あね給(たま)はる。かねの折敷(をしき)に、瑠璃(るり)の御器(ごき)にへそ一つ入れて、おとと給はる。後夜(ごや)うつほどまでもあそび給ふに、また若菊をたたせらるるに、「相応和尚(さうおうくわしやう)の割不動(われふどう)」かぞゆるに、「柿の本の紀僧正、いたんのまうしふや残りけん」といふわたりをいふをり、善勝寺、きと見おこせたれば、われも思ひあはせらるるふしあれば、あはれにもおそろしくもおぼえて、ただゐたり。のちのちは、人々のこゑ、乱舞(らんぶ)にてはてぬ。
御とのごもりてあるに、御腰(おんこし)うちまゐらせて候ふに、筒井の御所のよべの御(おん)おもかげ、ここもとに見えて、「ちと物おほせられん」と、よび給へども、いかがたちあがるべき、うごかでゐたるを、「御よるにてあるを、かたに」など、さまざまおほせらるるに、「はやたて、くるしかるまじ」と、しのびやかにおほせらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。御あとにあるを、手をさへとりてひきたてさせたまへば、心の外にたたれぬるに、「御とぎには、こなたにこそ」とて、障子のあなたにて、おほせられゐたる事どもを、ねいり給ひたるやうにて聞きたまひけるこそあさましけれ。とかく、泣きさまだれゐたれども、酔ひ心ちやただならざりけむ、つひにあけ行くほどにかへし給ひぬ。われすごさずとはいひながら、かなしき事をつくして、御前にふしたるに、ことにうらうらとおはしますぞ、いとたへがたき。
五六 うきからのこる
伏見滞在の第三日の記。今日は兼平の主催で宴が設けられ、夜は上の御所で鵜飼を御覧になって下の御所に帰還。院が深酔御寝の所へ昨夜の如く兼平が参り作者を所望して隣室に宿る。翌朝一同揃って京都へ還る。

けふは還御にてあるべきを、「御なごり多きよし傾城(けいせい)申していまだ侍り。けふばかり」と申されて、大殿より御ことまゐるべしとて、また逗留あるも、又いかなる事かとかなしくて、つぼねとしもなく、うちやすみたる所ヘ、
「みじか夜の夢のおもかげさめやらで心にのこる袖のうつりが。ちかき御となりの御ねざめもやと、けさはあさましく」などあり。
夢とだに猶わきかねて人しれず おさふる袖の色をみせばや
たびたび召しあれば参りたるに、わびしくや思ふらんとおぼしめしけるにや、ことにうらうらとあたり給ふぞ、なかなかあさましき。
ことどもはじまりて、けふはいたく暮れぬほどに御船にめされて伏見殿へ出でさせおはしはします。ふけゆくほどに、鵜飼めされて、鵜舟(うぶね)、はしぶねにつけて、鵜、つかはせらる。鵜飼(うがひ)三人まゐりたるに、着たりしひとへがさねたぶなどして、還御なりてのち、また酒まゐりて、ゑはせおはしますさまも、こよひはなのめならで、ふけぬれば、また御よるなる所へまゐりて、「あまたかさぬるたびねこそ、すさまじく侍れ。さらでも、伏見のさとは、ねにくきものを」などおほせられて、「脂燭(しそく)さしてたベ。むつかしきむしなどやうの物もあるらん」と、あまりにおほせらるるも、わびしきを、「などや」とさへ仰せ事あるぞ、まめやかにかなしき。「かかる老(おい)のひがみは、おぼしゆるしてんや。いかにぞや見ゆる事も、御めのとになり侍らんふるきためしも多く」など、御まくらにて申さるる。いはん方なく悲しともおろかならんや。例のうらうらと、「こなたもひとりねはすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させ給へば、よべの所にやどりぬるこそ。
けさは夜のうちに還御とてひしめけば、おきわかれぬるも、うきからのこるといひぬべきに、これは御車のしりに参まゐりたるに、西園寺も御車にまゐる。清水(きよみづ)の橋(はし)のうへまでは、みな御車をやりつづけたりしに、京極より、御幸は北へなるに、のこりは西へやりわかれしをりは、なにとなくなごりをしきやうに、車のかげの見られ侍りしこそ、こはいつよりのならはしぞと、わがこころながらおぼつかなく侍りしか。 
■問はず語り 巻三

 

五七 告白
巻三は五年間にわたる記事を含んでいる。最後の年は北山准后九十賀の記であるから弘安八年であるが、他は明らかでない。ここにはこれを逆算して、この段を弘安四年と仮定する。この仮定を採れば前巻との間に、弘安元・二・三年が欠けている事になる。これについて考えられる事は、四七段に「(建治二年)しはすの頃よりただならずなりにけりと思ふ」とあり、五一段に「(建治三年四月)つもごりの頃にや、御所にて帯をしぬる」とある胎児の出産についての記事が無い事である。この出産は建治三年十月頃にあるべきであるから、その頃以後弘安三年までが欠けているのであろう。さてこの段の梗概は、弘安四年二月中旬、作者が世を煩わしく思いなやんでいる頃、有明の月が院参して激しく言い寄る。それを院に発見せられて作者は全部告白する。院は作者の正直な告白と有明の月の熱情に感動して二人の関係を許し、又、院自身が遠い昔に作者の母を恋した秘密を語られる。

世の中いとわづらはしきやうになりゆくにつけても、いつまでおなじながめをとのみ、あぢきなければ、山のあなたのすまひのみ願はしけれども、心にまかせぬなど思ふも、なほすてがたきにこそと、我ながら身をうらみねの夢にさへ、遠ざかりたてまつるべき事の見えつるも、いかに違(ちが)へむと思ふもかひなくて、きさらぎもなかばになれば、おほかたの花もやうやうけしきづきて、梅が香にほふ風おとづれたるもあかぬ心ちして、いつよりも心ぼそさも悲しさもかこつかたなき。
人召す音のきこゆれば、なにごとにかと思ひてまゐりたるに、御前には人もなし。御湯殿の上に、ひとりたたせ給ひたる程なり。
「このほどは人々のさとずみにて、あまりにさびしき心ちするに、つねにつぼねがちなるは、いづれのかたざまに引く心にか」
など仰せらるるも、例のとむつかしきに、有明の月御参りのよし奏す。
やがて常の御所へいれまゐらせらるれば、いかがはせん。つれなく御前に候ふに、そのころ今御所と申すは、遊義門院、いまだ姫宮におはしまししころの御ことなり。御なやみわづらはしくてほどへ給ひける御祈(おんいのり)に、如法、愛染王行はるべき事申させ給ふ。またその外も、我が御祈りに北斗の法、それは鳴滝(なるたき)にや、うけたまはる。いつよりものどやかなる御物がたりのほど、さぶらふも、御心の中いかがとおそろしきに、宮の御かたの御心地(みここち)、わづらはしく見えさせ給ふよし申されたれば、きといらせ給ふとて、「還御まちたてまつりたまヘ」と申さる。
そのをりしも、御前に人もなくて向ひまゐらせたるに、うかりし月日の積(つも)りつるよりうちはじめ、ただいままでのこと、御袖の涙は、よその人目もつつみあへぬほどなり。なにと申すべき言(こと)の葉(は)もなければ、ただうちきこきゐたるに、ほどなく還御なりけるも知らず、おなじさまなるくどきごと、御障子(おしやうじ)のあなたにも聞えけるにや、しばしたちとまりたまひけるも、いかでか知らむ。さる程に、例の、人よりははやき御心(みこころ)なれば、さにこそありけれと推(すゐ)し給ひけるぞあさましきや。
いらせたまひぬれば、さりげなきよしにもてなし給へれども、しぼりもあへざりつる御涙は、つつむたもとにのこりあれば、いかが御覧じとがむらんとあさましきに、火ともすほどに還御なりぬるのち、ことさらしめやかに人なきよひのことなるに、御足(みあし)などまゐりて御(おほ)とのごもりつつ、「さておもひのほかなりつることを聞きつるかな。さればいかなりけることにか。いはけなかりし御ほどより、かたみにおろかならぬ御ことにおもひまゐらせ、かやうの道にはおもひかけぬことと思ふに」と、うちくどきおほせらるれば、さる事なしと申すとも、かひあるべきことしあらねば、あひみしことのはじめより、別れし月のかげまで、つゆくもりなく申したりしかば、「まことにふしぎなりける御契(おんちぎり)かな。さりながらさほどにおぼしめしあまりて、隆顕にみちしばせさせられけるを、なさけなく申したりけるも、御うらみの末も、返す返すよしなかるべし。昔のためしにも、かかるおもひは人をわかぬことなり。柿の本の僧正、染殿の后の、もののけにて、あまた仏菩薩の、ちからつくしたまふといへども、つひには、これに身を捨て給ひにけるにこそ。志賀寺(しがでら)のひじりには、ゆらぐ玉のをと、なさけをのこしたまひしかば、すなはち一念の妄執(まうしゆ)をあらためたりき。この御気色(みけしき)、なほざりならぬことなり。心えてあひしらひ申せ。我心みたらば、つゆ人は知るまじ。このほど祗候(しこう)し給ふべきに、さやうのついであらば、日ごろのうらみを忘れ給ふやうに、はからふべし。さやうの勤(つとめ)のをりからは、悪しかるべきに似(に)たれども、我(われ)ふかく思ふしさいあり。苦しかるまじきことなり」と、ねむごろにおほせられて、「なにごとにも、我にへだつる心のなきにより、かやうにはからひいふぞ。いかがなどは返す返す。心のうらみもはる」など、うけたまはるにつけても、いかでかわびしからざらむ。
「人よりさきに見そめて、あまたの年をすぎぬれば、なにごとにつけても、なほざりならずおぼゆれども、なにとやらむ、我が心にもかなはぬ事のみにて、心の色のみえぬこそいとくちをしけれ。我が新枕(にひまくら)は、故典侍大(こすけだい)にしも習ひたりしかば、とにかくに、人しれずおぼえしを、いまだいふかひなきほどの心ちして、よろづ世の中つつましくて明け暮れし程に、冬忠・雅忠などにぬしづかれて、ひまをこそ人わろくうかがひしか。腹の中にありしをりも、心もとなく、いつかいつかと、手のうちなりしより、さばくりつけてありし」など、昔のふるごとさへ言ひしらせたまへば、人やりならず、あはれもしのびがたくてあけぬるに、けふより御修法はじまるべしとて、御壇所(ごだんしよ)いしいしひしめくにも、人しれず心の中には物思はしき心ちすれば、顔の色もいかがと、我ながらよその人目もわびしきに、すでに御参りといふにも、つれなく御前(おまへ)に侍るにも、御心のうちいとわびし。
五八 白銀の五鈷
御修法のため、有明の月は七日間御所に滞在する。院はつとめて二人に逢引の機会を与え、特に有明の月退出の前夜は作者をすすめて有明に逢わせられる。それは弘安四年二月十八日の事であった。院は夢想によって作者が有明の胤を宿した事を知り、それを確かめる為、月を隔てるまで作者を遠ざけられた。それで有明の胤を宿した事は明らかになった。

つねに、御つかひにまゐらせらるるにも、日ごろよりも、心の鬼とかやも、せむかたなき心地するに、いまだ初夜もまだしきほどに、真言(しんごん)のことにつけて御不審(ごふしん)どもを記(しる)し申さるる折紙(をりがみ)をもちてまゐりたるに、いつよりも人もなくて、おもかげかすむ春の月、おぼろにさし入りたるに、脇息(けふそく)によりかかりて念誦(ねんじゆ)し給ふほどなり。「うかりし秋の月かげは、ただそのままにとこそ仏にも申したりつれども、かくても、いとたへがたくおぼゆるは、なほ身にかふべきにや。おなじ世になき身になしたまへとのみ申すも、神もうけぬみそぎなれば、いかがはせむ」とて、しばしひきとめたまふも、いかにもるべきうき名にかとおそろしながら、みる夢のいまだむすびもはてぬに、時なりぬとてひしめけば、うしろのさうじよりいでぬるも、へだつる関の心ちして、「後夜(ごや)はつるほど」と、返す返すちぎりたまへども、さのみうきふしのみ、とまるべきにしあらねば、又たちかへりたるにも、「悲しさのこる」とありし夜半(よは)よりも、こよひは我が身にのこるおもかげも袖の涙にのこる心ちするは、これやのがれぬちぎりならむと、我ながら前(さき)の世(よ)ゆかしき心ちしてうちふしたれども、又ねに見ゆる夢もなくて、あけはてぬれば、さてしもあらねばまゐりて御前(ごぜん)のやくにしたがふに、をりしも人少ななる御ほどにて、「夜べは心ありてふるまひたりしを、おもひしりたまはじな。我しりがほにばしあるな。つつみたまはむも心苦し」などおほせらるるぞなかなか言(こと)の葉(は)なき。
御修法の心ぎたなさも、御心のうち、わびしきに、六日と申しし夜は、きさらぎの十八日にて侍りしに、広御所(ひろごしよ)のまへの紅梅、つねのとしよりも色もにほひもなべてならぬを、御覧ぜられて、ふくるまでありし程に、後夜(ごや)はつる音すれば、「こよひばかりの夜半(よは)もふけぬべし。ひまつくり、いでよかし」など仰せらるるも、あさましきに、ふかきかねのこゑののち、東(ひんがし)の御方(おかた)めされたまひて、橘(たちばな)の御壺(おつぼ)の二の間に御よるになりぬれば、おほせにしたがふにしあらねども、こよひばかりも、さすが、御なごりなきにしあらねば、れいのかたざまへたちいでたれば、もしやと待ち給ひけるもしるければ、思ひたえずはほいなかるべしとかやおぼえても、ただいままで、さまざまうけたまはりつる御言(おんこと)の葉(は)、耳のそこにとどまり、うちかはしたまひつる御にほひも、たもとにあまる心ちするを、あかずかさぬる袖のなみだは、たれにかこつべしともおぼえぬに、こよひとぢめぬるわかれのやうに、なきかなしみたまふも、なかなかよしなき心ちするに、うかりしままのわかれよりも、やみなましかばと、返す返すおもはるれども、かひなくて、みじかよの空の、こよひよりのほどなさは、露の光などいひぬべ心ちして、あけ行けばきぬぎぬになるわかれは、いつのくれをかと、その期(ご)はるかなれば、
つらしとてわかれしままのおもかげを あらぬ涙にまたやどしつる
とかく思ふもかひなくて、御心地(みここち)もおこたりぬれば、初夜にてまかりいで給ふにも、さすがにのこるおもかげは、いとしのびがたきに、いと不思議なりしは、まだ夜もあけぬさきにおきいでて局(つぼね)にうちふしたるに、右京の権大夫清長を御つかひにて、「きときと」と召しあり。
よべは東(ひんがし)の御方(おかた)まゐり給ひき、などしもいそがるらんただ今の御つかひならんと、心さわぎしてまゐりたるに、「よるはふけすぎしも、まつらむかたの心づしをなど思ひてありしも、ただ世のつねの事ならば、かくまで心ありがほにもあるまじきに、ぬしがらの、なほざりならずさに思ひゆるしてこそ。さてもこよひ、ふしぎなる夢をこそ見つれ。いまの五鈷(ごこ)をたびつるを、我にちとひきかくしてふところに入れつるを、袖をひかへて、『これほど心しりてあるに、などかくは』といはれて、わびしげに思ひて涙のこぼれつるをはらひて、とりいでたりつるをみれば、しろがねにてありける。『故法皇の御物なれば、我がにせん』といひて、たちながら見ると思ひて夢さめぬ。こよひかならず、しるしある事あるらむとおぼゆるぞ。もしさもあらば、うたがふ所なきいわねの松をこそ」など仰せられしかども、まこととたのむべきにしあらぬに、そののちは月たつまで、ことさら御言葉にもかからねば、とにかくに、我があやまちのみあれば、人をうしと申すべきことならで、あけくるるに、思ひあはせらるることさへあれば、何となるべき世のしきともおぼえぬに、やよひのはじめつかたにや、つねよりも御人(おひと)すくなにて、よるの供御(くご)などいふこともなくて、二棟(ふたむね)のかたへいらせおはします。御ともに召さる。いかなることをかなんと思へども、つきせずなだらかなる御言葉、いひちぎり給ふもうれしとやいはむ、又わびしとやいはましなど思ふに、「ありし夢の後は、わざとこそいはざりつれ。月をへだてむと待ちつるも、いと心ぼそしや」とおほせらるるにこそ、さればおぼしめすやうありけるにこそ、とあさましかりしか。たがはずその月よりただならねば、うたがひまぎるべきことにしなきにつけては、みし夢のなごりも、いまさら、心にかかるぞはかなき。
五九 こよひの葦分
作者が先年(建治三年八月頃)伏見の御所で心ならずも兼平に身を許して以来、実兼は次第に作者から離れるようになったが、今年(弘安四年)五月、里住みの作者を久しぶりで訪ねた。ところがあいにく、その夜院の御所で火事があって、すぐに帰ってしまう。

さても、さしも新枕(にひまくら)ともいひぬべく、かたみに浅(あさ)からざりし心ざしの人、ありし伏見の夢のうらみより後は、まどほにのみなり行くにつけても、ことわりながら、たえせぬ物おもひなるに、五月のはじめ、例の昔の跡とふ日なれば、あやめの草のかりそめにさとずみしたるに、かれより、
うしとおもふ心ににたるねやあると たづぬるほどにぬるる袖かな
こまやかに書き書きて、「さとゐのほどの関守(せきもり)なくば、みすからたちながら」とあり。返事にはただ、
「うきねをば心の外にかけそへていつもたもとのかわくまぞなき。いかなる世にもとおもひそめしものを」などかきつつも、げによしなきここちせしかど、いたうふかしておはしたり。うかりしことのふしぶしを、いまだうちいでほどに世の中ひしめく。三条京極富の小路のほどに、火いできたりといふほどに、かくてあるべきことならで、いそぎまゐりぬ。さるほどに、みじか夜は程なくあけゆけば、たちかへるにもおよばず、あけはなるる程に、「あさくなりゆく契(ちぎり)しらるるこよひのあしわけ、ゆく末しられて心うくこそ」とて、
たえぬるか人の心のわすれ水 あひもおもはぬ中のちぎりに
げにこよひしもの障(さわり)は、ただごとにはあらじとおもひしらるることありて、
ちぎりこそさてもたえけめなみだ河 心のすゑはいつもかわかじ
かくてしなしも里ずみせば、こよひにかぎるべき事にしあらざりしに、この暮に、とみの事ありとて車をたまはせたりしかばまゐりぬ。
六〇 真言の御談義
院は作者に、二人の関係を許している事を有明の月にも打明けて聞かせよう、と言われた。そして真言の御談義という会を催され、有明も四五日院中に祇候する。ある日、談義の席で酒宴があり、その席で院から「男女の愛慾前業の果たすところで人の罪ではない」とのお話があり、作者は自分の事を言われているような思いがして汗を流す。この酒宴の後、院は有明をとどめて、作者との関係を知っている事、夢想によって作者が有明の胤を宿した事を知った事、その子をわが子として育ててやろうという事を告げられる。妊娠は院の子として公表せられ、御所で岩田帯をした事。

秋のはじめになりては、いつとなかりしここちもおこたりぬるに、「しめゆふほどにもなりぬらんな、かくとはしり給ひたりや」と仰せらるれども、「さも侍らず、いつのたよりにか」など申せば、「何事なりとも、我にはつゆはばかり給ふまじ。しばしこそつつましくおぼしめすとも、ちからなき御宿世(おんしゆくせ)、のがれざりけることなれば、なかなか何か、それによるべき事ならずなど申し知らせんと思ふぞ」と仰せらるれば、何申しやるかたなく、人の御心の中も、さこそとおもへども、いなかなはじと申さむにつけても、なほも心をもちがほならむと、我ながらにくきやうにやと思へば、「なにともよきやうに御はからひ」と申しぬるよりほかは、また言の葉もなし。
その頃、真言の御談義(おだんぎ)といふ事はじまりて、人々に御たづねなどありしついでに、御まゐりありて、四五日御祗候(ごしこう)あることあり。法問(ほふもん)の御談義(おだんぎ)どもはてて、九献ちとまゐる御陪膳(はいぜん)に候ふに、「さても広くたづね、深(ふか)く学(がく)するにつきては、をとこをんなのことこそ、罪なきことに侍れ。のがれがたからむちぎりぞ力なきことなり。されば、むかしもためしおほく侍り。浄蔵といひし行者は、みち国なる女に、ちぎりあることをきこきえて、がいせんとせしかども、かなはで、それにおちにき。染殿のきさきは、志賀寺のひじりに、『我をいざなヘ』ともいひき。このおもひにたへずして青き鬼ともなり、望夫石(ばうふせき)といふ石も、恋ゆゑなれるすがたなり。もしは畜類(ちくるゐ)けだものにちぎるも、みな前業(ぜんごふ)のはたす所なり。人ばし、すべきにあらず」など仰せらるるも、我ひとり聞きとがめらるる心ちして、汗も涙もながれそふ心地するに、いたくことごとしからぬしきにて、たれもまかり出でぬ。
有明の月も出でなんとしたまふを、「深き夜のしづかなるにこそ、心のどかなる法問をも」など申して、とどめまゐらせらるるが、何となくむつかしくて、御前(おまへ)をたちぬ。そののちの御言の葉は知らですべりぬ。
夜中すぐるほどに召しありてまゐりたれば、「ありしあらましごとを、ついでつくりいでて、よくこそいひしらせたれ。いかなるたらちを・たらちねの心のやみといふとも、これほど心ざしあらじ」とて、まづうちなみだぐみ給へば、何と申しやるべき言葉もなきに、まづさきだつ袖の泪ぞおさへがたく侍りし。いつよりもこまやかにかたらひたまひて、「『さても人のちぎり、のがれがたき事など、かねて申ししは、きこきしぞかし。そののち、さてもおもひかけぬたちぎきをして侍りし。さだめて、はばかりおぼしめすらむとはおもへども、いのちをかけてちかひてし事なれば、かたみにへだてあるべきことならず。なべて世にもれむことは、うたてあるべき御身なり。しのびがたき御おもひ、前業(ぜんごふ)の感ずる所とおもへば、つゆいかにとおもひたてまつることなし。すぎぬる春の頃より、ただには侍らず見ゆるにつけて、ありし夢の事、ただのことならずおぼえて、御ちぎりのほどもゆかしく、見しむば玉の夢をも思ひあせむために、やよひになるまで待ちくらして侍るも、なほざりならず、おしはかりたまへ。かつは、伊勢・石清水・賀茂・春日、国を守る神々の擁護(おうご)にもれ侍らん。御心のへだてあるべからず。かかればとて、我つゆもかはる心なし』と申したれば、とばかりものもおほせられで、涙のひまなかりしを、はらひかくしつつ、『このおほせのうへは、のこりあるべきに侍らず。まことに前業(ぜんごふ)の所感(しよかん)こそ口をしく侍れ。かくまでのおほせ、今生一世(こんじやういつせ)の御恩(ごおん)にあらず。世々(せせ)生々(しやうじやう)にわすれたてまつるべきにあらず。かかる悪縁にあひけるうらみしのびがたく、三年過ぎ行くに、おもひたえなんと思ふ念誦持経の祈念にも、これより外のこと侍らで、せめて思ひのあまりにちかひをおこして、願書(ぐわんしよ)をかの人のもとへ送りつかはしなどせしかども、この心なほやまずして、又めぐりあふ小車(をぐるま)の、うしとおもはぬ身をうらみ侍るに、さやうにしるきふしさへ侍るなれば、若宮を一所(ひとところ)わたしまゐらせて、我は深き山にこもりゐて、こきすみぞめのたもとになりて侍らん。
なほなほ年ごろの御心ざしも浅からざりつれども、この一ふしのうれしさは、多千(たせん)の喜びにて侍る』とて、なくなくこそたたれぬれ。ふかく思ひそめぬるさまも、げにあはれにおぼえつるぞ」など、御物がたりあるをきくにも、左右(ひだりみぎ)にもとは、かかることをやいはましと、なみだは先づこぼれつつ、さてもことがらもゆかしく、御いでもちかくなれば、ふくるほどに、御つかひのよしにもてなしてまゐりたれば、をさあいちご一人、御前(おまへ)にね入りたり、さらでは人もなし。例のかたざまへたちいでたまひつつ、「うきはうれしきかたもやと思ふこそ、せめておもひあまる心の中、我ながらあはれに」など仰せらるるも、うかりしままの月かげは、なほのがるる心ざしながら、あすはこの御談義(おだんぎ)けちぐわんなれば、こよひばかりの御なごり、さすがに思はぬにしもなきならひなれば、よもすがらかかる御袖のなみだも所せければ、なにとなりゆくべき身のはてともおぼえぬに、かかるおほせごとを、つゆたがはず語りつつ、中々、かくてはたよりもと思ふこそ、げになべてならぬ心の色もしらるれ。「ふしぎなることさへあるなれば、この世ひとつならぬちぎりも、いかでかおろかなるべき。一すぢに我なでおほさんとうけたまはりつるうれしさも、あはれさも、かぎりなく、さるから、いつしか心もとなき心ちするこそ」など、泣きみ笑ひみ語らひたまふほどに、あけぬるにやときこゆれば、おき別れつついづるに、又いつのくれをかと、思ひむせびたまひたるさま、我もげにと思ひたてまつるこそ、
わが袖のなみだにやどる有明の あけてもおなじ面影もがな
などおぼえしは、我もかよふ心の出できけるにや、これ、のがれぬちぎりとかやならんなど思ひつづけ、さながらうちふしたるに、御つかひあり。「こよひまつ心ちして、むなしきとこにふし明かしつる」とて、いまだ夜のおましに、おはしますなりけり。「ただいましも、あかぬなごりも、きぬぎぬの空は心なく」など仰せあるも、何と申すべき言(こと)の葉(は)なきにつけても、しからぬ人のみこそ世にはおほきに、いかなればなど思ふに、なみだのこぼれぬるを、いかなるかたにおぼしめしなすにか、心づきなく、「またねの夢をだに心やすくもなど思ふにや」など、あらぬすぢにおぼしめしたりげにて、つねよりも、よにわづらはしげなることどもをうけたまはるにぞ、さればよ、思ひつる事なり、つひに、はかばかしかるまじき身の行末をなど、いとど涙のみこぼるるにそへては、「ただ一すぢに御なごりをしたひつつ、我が御つかひを心づきなく思ひたる」といふ御はらにて、おき給ひぬるもむつかしければ、つぼねへすべりぬ。
心ちさへわびしければ、くるるまでまゐらぬも、又いかなる仰(おほ)せをかとおぼえて悲しければ、さしいづるにつけても、浮世(うきよ)にすまぬ身にもがななど、いまさら山のあなたにいそがるる心ちのみするに、御はてなるべければ、まゐりたまひて、つねよりのどやかなる御物がたりも、そぞろはしきやうにて、御湯殿のうへのかたざまにたち出でたるに、「このほどは上日なれば祗候して侍れども、おのづから御言の葉にだにかからぬこそ」などいはるるも、とにかくに、身のおき所なくてきこきゐたるに、御ぜんより召しあり。なにごとにかとて参りたれば、九献(くこん)まゐるべきなりけり。うちうちに、しづかなるざしきにて、御まへ、女ばう一二人ばかりにてあるも、あまりにあいなしとて、広御所(ひろごしよ)に、師親・実兼(さねかぬ)など音しつるとて召されて、うちみだれたる御あそび、なごりあるほどにてはてぬれば、宮の御かたにて、初夜(しよや)つとめてまかり出でたまひぬるなごりの空も、なべて雲くもゐもかこつかたなきに、ことごとしからぬさまにて、御所にて帯をしつるこそ、御心のうち、いとたへがたけれ。こよひは上臥(うへぶし)をさへしたれば、よもすがらかたらひあかし給ふも、つゆうらなき御もてなしにつけても、いかでかわびしからざらむ。
六一 扇の使
弘安四年九月、院が機会を作って、有明の月に作者を逢わせられた事。

九月の御花は、つねよりもひきつくろはるべしとて、かねてよりひしめけば、身もはばかりあるやうなればいとまを申せども、さしも目に立たねば、人かずにまゐるべきよしおほせあれば、うす色ぎぬに、あか色のからぎぬ、くち葉のひとへがさねに、あをばのからぎぬにて、夜のばんつとめて候ふに、有明の月御まゐりといふおとすれば、何となくむねさわぎてききゐたるに、御花御結縁とて御堂(みだう)に御まゐりあり。ここにありともいかでか聞き給ふべきに、承仕(しようじ)がここもとにて、「御所よりにて候。『御扇(あふぎ)や御堂(みだう)におちて侍ると御らんじて、まゐらさせ給へと申せ』と候ふ」といふ。心えぬやうにおぼえながら、中のさうじをあけて見れどもなし。さてひきたてて、「候はず」と申して、承仕(しようじ)は帰りぬるのち、ちとさうじをほそめたまひて、「さのみつもるいぶせさも、かやうの程は、ことにおどろかるるに、くるしからぬ人して、さとへおとづれむ、つゆ、人にはもらすまじきものなれば」など仰せらるるも、いかなるかたにか世にもれむと、人の御名もいたはしければ、さのみ、いなともいかがなれば、「なべて世にだにもれ候はずは」とばかりにて、ひきたてぬ。御かへりののち、時すぎぬれば、御前へまゐりたるに、「扇のつかひはいかに」とて笑はせおはしますをこそ、例の心あるよしの御つかひなりけると知り侍りしか。
六二 嵯峨殿の祝宴
弘安四年十月、作者法輪寺に籠る。後深草・亀山両院、大宮院の御病気見舞に嵯峨殿へ御幸。作者召されて出仕。大宮院の御病が軽いので御喜びの祝膳、第一夜は後深草院、第二夜は亀山院が設けなされた。第一夜の酒宴の後、両院の寝所について亀山院の行動を記した部分は明解を得ない。作者はかかる煩わしい宮仕えをのがれ得ない浮世の習わしを嘆く。両院還御の後、作者は大宮院の許に止る。そこへ東二条院から大宮院に当てて作者に対する嫉妬の手紙が来る。作者は四条大宮の乳母の家に行く。

神無月の頃になりぬれば、なべて時雨(しぐれ)がちなる空のけしきも、袖のなみだにあらそひて、よろづ、つねの年々よりも、心ぼそさもあぢきなければ、まことならぬははの嵯峨にすまひたるがもとへまかりて、法輪(ほふりん)にこもりて侍れば、あらしの山の紅葉も、うき世をはらふ風にさそはれて、大井川の瀬々に浪よる錦とおぼゆるにも、いにしへのことも、おほやけ・わたくし忘れがたき中に、後嵯峨の院の宸筆(しんぴつ)の御経(おきやう)のをり、面々のすがた、ささげげ物などまで、かずかず思ひいでられて、うらやましくもかへる波かなと、おぼゆるに、ただここもとになく鹿のねは、たがもろごゑにかと悲しくて、
我が身こそいつもなみだのひまなきに 何をしのびて鹿のなくらん
いつよりも物がなしき夕ぐれに、ゆゑある殿上人のまゐるあり。たれならんとみれば、楊梅(やまもも)の中将兼行なり。つぼねのわたりに立ちよりて案内すれば、いつよりも思ひよらぬ心ちするに、「にはかに大宮院こころよからぬ御事とて、けさよりこの御所へ御幸(ごかう)ありけるほどに、さとを御たづねありけるが、これにとて、又仰せらるるぞ。女房も御参りなくて、にはかに御幸あり。宿願(しゆくぐわん)ならば、又こもるべし。まづまゐれ」といふ御つかひなり。こもりて五日になる日なれば、いま二日はてぬも心やましけれども、車をさへたまはせたるうヘ、嵯峨に候ふを御たのみにて人もまゐらせたまはぬよし、中将物がたりすれば、とかく申すべき事ならねば、やがて大井殿の御所へまゐりたれば、みな人々さとへいでなんどして、はかばかしき人も候(さぶら)はざりつるうへ、これにあるを御たのみにて、両院御同車にてなりつるほどに人もなし。御車(おくるま)のしりに、西園寺の大納言まゐられたりけるなり。大御所より、ただいまぞ供御(くご)まゐるほどなり。
女院御なやみ、御あしのけにて、いたくの御事なければ、めでたき御事とて、両院御よろこびの事あるべしとて、まづ一院の御(ご)ぶん、春宮大夫うけたまはる。だみゑかきたるわりご十合(じふがう)に、供御(くご)、みさかなを入れて、面々の御前(おまへ)に置かる。つぎつぎもこの定(ぢやう)なり。これにて三こんまゐりてのち、まかりいだして、また白き供御(くご)、そののち色々の御さかなにて九こんまゐる。大宮の院の御かたへ、こうばい・むらさき、はらはねりぬきにて琵琶、そめ物にてこと作りてまゐる。新院の御かたへ、はうきやうのだいを作りて、むらさきをまきて、いろいろのむらごのそめ物を、四方に作りて、まぼりのをにて、さげて、かねにして、ぢんのつかにすいしやうを入れて、ばちにしてまゐる。女房たちのなかへ、檀紙(だんし)百、そめ物などにて、やうやうの作り物をして置かれ、男(をとこ)のなかにもしりがい、いろかはとかや、積み置きなどして、おびたたしき御事にて、夜もすがら御あそびあり。例の御酌(おんしやく)にめされてまゐる。
一院御琵琶、新院御ふえ、洞院こと、大宮の院の姫宮御こと、春宮大夫琵琶、公衡しやうのふえ、兼行ひちりき。夜ふけゆくままに、嵐の山の松風、雲井にひびくおとすごきに、浄金剛院(じやうこんがうゐん)のかね、ここもとにきこゆるをりふし、一院、「都府楼は、おのづから」とかやおほせいだされたりしに、よろづの事みなつきて、おもしろくあはれなるに、女院の御かたより、「ただいまの御さかづきはいづくに候ふぞ」とたづね申されたるに、新院の御前(おまへ)に候ふよし申されたれば、この御こゑにてまゐるべきよし御けしきあれば、新院は、かしこまりて候ひ給ふを、一院、御さかづきと御銚子とをもちて、もやのみすの中に入り給ひて、一ど申させ給ひてのち、「嘉辰令月(かしんれいぐゑつ)、歓無極(くわんぶきよく)」と、うちいでたまひしに、新院、御こゑくはへ給ひしを、「老いのあやにく申し侍らん。我、濁世末(ぢよくせすゑ)の代(よ)に生れたるは悲しみなりといへども、かたじけなく、后妃(こうひ)の位にそなはりて、両上皇の父母(ふも)として二代の国母たり。よはひ、すでに六旬(りくじゆん)にあまり、この世にのこる所なし。ただ九品(くほん)のうへなき位をのぞむばかりなるに、こよひの御楽(おんがく)は、上品蓮台(じやうぼんれんだい)のあかつきのがくもかくやとおぼえ、今の御こゑは、迦陵頻伽(かりようびんが)の御こゑもこれにはすぎ侍らじと思ふに、おなじくは今様を一ぺんうけたまはりて、いま一度きこし召すべし」と申されて、新院をもうちへ申さる。春宮大夫御簾(みす)のきはへめされて、小几帳ひきよせて、御簾(みす)、はんにあげらる。
あはれにわすれず身にしむは、しのびしをりをり待ちしよひ、たのめしことのはもろともに、ふたり有明の月のかげ、おもへばいとこそかなしけれ
両上皇うたひたまひしに、にる物なくおもしろし。はてはゑひなきにや、ふるき世々の御物語など出できて、みなうちしほれつつたち給ふに、大井殿の御所へ参らせおはします。御おくりとて新院御幸なり。春宮大夫は心ちをかんじてまかりいでぬ。わかき殿上人二三人は御ともにていらせおはします。「いと御人すくなに侍るに、御宿直(おんとのゐ)つかうまつるべし」とて、二所御よるになる。ただ一人候へば、「御あしにまゐれ」などうけたまはるも、むつかしけれども、たれにゆづるべしともおぼえねば候ふに、「この両所の御そばに寝させさせたまへ」と、しきりに新院申さる。「ただしは所せき身のほどにて候とて、さとに候ふを、にはかに、人もなしとて、まゐりて候ふに、召しいでて候へば、あたりもくるしげに候ふ。かからざらむをりは」など申さるれども、「御そばにて候はんずれば、あやまち候はじ。女三の御かたをだに御ゆるされあるに、なぞしもこれにかぎり候ふべき。我が身はいづれにても、御心にかかり候はんをばと、申しおき侍りし。そのちかひもかひなく」など申させ給ふに、をりふし、按察(あぜち)の二品(にほん)のもとに、御わたりありしさきの斎宮へ、「いらせ給ふべし」など申し、宮をやうやう申さるるほどなりしかばにや、御そばに候へと仰せらるるともなく、いたくゑひすぐさせ給ひたるほどに、御よるになりぬ。御まへにも、さしたる人もなければ、ほかへはいかがとて、御びやうぶ、うしろに、ぐしありきなどせさせ給ふも、つゆ知りたまはぬぞあさましきや。あけがたちかくなれば、御そばへ返り入らせ給ひて、おどろかしきこえ給ふにぞ、はじめておどろきたまひぬる。
「御いきもなさに、御そへぶしも逃げにけり」など申させたまへば、「ただいままで、ここに侍りつ」など申さるるも、中々おそろしけれど、犯(をか)せる罪もそれとなければ、たのみをかけて侍るに、とかくの御さたもなくて、また夕がたになれば、けふは新院の御ぶんとて、景房が御ことしたり。きのふ西園寺の御ざしやうに、けふ景房が御所の御だいくわんながら、ならびまゐらせたる、さつしやうがらわろしなど、人々つぶやき申すもありしかども、御ことはうちまかせたる、しきのく御、九献(くこん)などつねの事なり。女院の御かたへ、そめ物にていはをつくりて、ちはんに水のもんをして、沈(ぢん)の船に丁子を積みてまゐらす。一院へ、しろがねのやないばこに、沈(ぢん)の御まくらをすゑてまゐる。女房たちのなかに、いと・わたにて、山・たきのけしきなどしてまゐらす。男たちの中ヘ、色かわ・そめ物にてかきつくりて、まゐらせなどしたるに、「ことに一人この御かたに候(さぶら)ふに」などおほせられたりけるにや、からあや・むらさきむらご、十づつを、五十四帖の草子につくりて、源氏の名をかきてたびたり。御さかもりは、よべにみなことどもつきて、こよひはさしたることなくてはてぬ。春宮の大夫は、風の気とて、けふはすしなし。「わざとならんかし、まことに」などさたあり。こよひも桟敷殿(さじきどの)に、両院御わたりありて、供御(くご)もこれにてまゐる。御陪膳(ごはいぜん)両方をつとむ。夜もひとところに御よるになる。御そへぶしに候ふも、などやらん、むつかしくおぼゆれども、のがるる所なくて宮づかひゐたるも、いまさら、うき世のならひも思ひしられ侍り。
かくて還御なれば、これは法輪の宿願ものこりて侍るうへ、いまは身もむつかしきほどなればと申して、とどまりてさとへいでんとするに、両院御幸、おなじやうに還御あり。一院には春宮大夫、新院には洞院の大納言ぞ、のちのちにまゐり給ふ。ひしひしとして、還御なりぬる御あともさびしきに、「けふはこれに候へかし」と、大宮の院の御気色(みけしき)あれば、この御所に候ふに、東二条院よりとて御ふみあり。何ともおもひわかぬほどに、女院御覧ぜられてのち、「とは何事ぞ、うつつなや」とおほせごとあり。何事ならむとたづね申せば、「『その身をこれにて、女院もてなして、ろけんのけしきありて、御遊さまざまの御事どもあるときこくこそ、うらやましけれ。ふりぬる身なりとも、おぼしめしはなつまじき御こととこそ思ひまゐらするに』と、返す返す申されたり」とて、わらはせたまふもむつかしければ、四条大宮なるめのとがもとへいでぬ。
六三 京極殿の御局
作者が里住みしている四条大宮のめのとの家の近くに有明の月の稚児の家があり、有明の月はそこに来て作者としばしば密会する。二人の関係が世の噂にのぼる。そこで後深草院は、自ら京極局と見せかけて、或夜ひそかに作者を訪ね、「そなたの出産を我が児として披露することができなくなったから、ちょうど或女房が死産したのを披露させずにおいた、そなたの産した児をそちらへやって、そなたのを死産と披露せよ」と計られる。作者は院の心づかいを有難く思うものの、いつまでこの親切が続くであろうかと心細く思う。

いつしか有明の御文あり。程ちかき所に、御あひていするちごのもとへいらせ給ひて、それへしのびつつまゐりなどするも、たびかさなれば、人のものいひさがなさは、やうやう天のしたのあつかひぐさになるときくもあさましけれど、「身のいたづらにならんもいかがせむ。さらば片山里のしばの庵のすみかにこそ」など仰せられつつ、かよひありき給ふぞいとあさましき。
かかる程に、神無月のすゑになれば、つねよりも心ちもなやましくわづらはしければ、心ぼそくかなしきに、御所よりの御さたにて、兵部卿そのさたしたるも、露の我が身のおき所、いかがと思ひたるに、いといたうふくるほどに、しのびたる車のおとして門(かど)たたく。富の小路殿(こうぢどの)より、京極殿の御つぼねの御わたりぞといふ。いと心えぬ心地すれど、あけたるに、網代車(あじろぐるま)に、いたうやつしつついらせおはしましたり。思ひよらぬことなれば、あさましくあきれたる心地するに、「さしていふべきことありて」とて、こまやかにかたらひ給ひつつ、「さてもこの有明のこと、世にかくれなくこそなりぬれ。我がぬれぎぬさへ、さまざまをかしきふしにとりなさるるときくが、よによしなくおぼゆる時に、このほど、ことかたに、こころもとなかりつる人がり、こよひなくて生れたるときくを、あなかまとて、いまだ、さなきよしにてあるぞ。ただいまも、これよりいできたらむを、あれへやりて、ここのをなきになせ。さてそこの名は、すこし人の物いひぐさも、しづまらんずる。すさまじく、きくことのわびしさに、かくはからひたるぞ」とて、あけゆく鳥のこゑにおどろかされて返り給ひぬるも、あさからぬ御心ざしはうれしき物から、むかし物がたりめきて、よそにきかんちぎりも、うかりしふしの、ただにてもなくて、たぴかさなるちぎりも悲しくおもひゐたるに、いつしか文あり。「こよひのしきは、めづらかなりつるも忘れがたくて」とこまやかにて、
あれにけるむぐらの宿の板びさし さすがはなれぬ心地こそすれ
とあるも、いつまでと心ぼそくて、
あはれとてとはるることもいつまでと おもへばかなし庭のよもぎふ
六四 男児出生
弘安四年十一月六日、作者は四条大宮のめのとの家で出産する。有明の月も来ている。作者は昨夜の院の仰せを有明に語り、共に嘆きながら、生児を知らぬ所へ渡してやる。

このくれには、有明の光もちかきほどときけども、そのけにや、ひるより心ちも例ならねば思ひたたぬに、ふけすぎてのちおはしたるも、思ひよらずあさましけれど、心しるどち二三人よりほかはたちまじる人もなくて入れたてまつりたるに、よべのおもむきを申せば、「とても身にそふべきにはあらねども、ここさへいぶせからむこそくちをしけれ。かからぬためしも、世に多きものを」とて、いとくちをしとおぼしたれども、「御はからひのまへは、いかがはせむ」などいふほどに、あけ行く鐘とともに、をのこごにてさへおはするを、なにの人かたとも見えわかず、かはゆげなるを膝にすゑて、「むかしの契あさからでこそかかるらめ」など涙もせきあへず、おとなに物をいふやうにくどき給ふほどに、夜もはしたなくあけ行けば、なごりをのこしていでたまひぬ。
この人をば、おほせのままにわたしたてまつりて、ここには何のさたもなければ、露きえ給ひにけるにこそなどいひて、後(のち)はいたく世のさたもけしからざりし物いひもとどまりぬるは、おぼしよらぬくまなき御心ざしは、おほやけ、わたくし、ありがたき御ことなり。御心しる人のもとより、さたしおくることども、いかにもかくれなくやと、いとわびし。
六五 鴛鴦といふ鳥
出産は十一月六日であったが、有明の月はその後しきりに作者をおとずれ、特に十三日の夜には、自分の死を予感したような心細い物語をして、もし死んだらいま一度この世に生まれ出て、そなたと契りを結びたい、その為に書写の大乗経は供養を遂げず、死んでもの世へ持って行くため、暫く竜宮の宝蔵に預けて置く(火葬の薪に加えて焼く)などという。その夜、有明の月は自分が鴛鴦になって作者の身の内に飛びこんだ夢を見る。これはその夜妊娠したことの夢知らせであった。〔備考〕出産後わずか七日で妊娠という事は珍しい例ではあるが、これを産科医に質したところ、在り得ることだという。

十一月六日のことなりしに、あまりになるほどに、御おとづれのうちしきるも、そらおそろしきに、十三日の夜ふくるほどに例のたち入り給ふ。「さるも、なべて世の中つつましきに、をととしより春日の御神木(おんさかき)、京にわたらせ給ふが、このほど御帰座あるべしとひしめくに、いかなることにか、かたはらやみといふことはやりて、いくほどの日かずもへだてず、人々かくるるときくが、ことに身にちかき無常どもをきけば、いつか我が身もなき人かずにと心ぼそきままに思ひたちつる」とて、つねよりも心ぼそくあぢきなきさまにいひちぎりつつ、「かたちは世々にかはるとも、あひ見ることだにたえせずは、いかなる上品上生のうてなにも、共に住まずは物うかるべきに、いかなるわらやのとこなりとも、もろともにだにあらばと思ふ」など、よもすがらまどろまず語らひあかし給ふほどに、明けすぎにけり。いでたまふべき所さへ、かきねつづきのあるじがかたざまに、人目しげければ、つつむにつけたる御ありさまもしるかるべければ、けふはとどまり給ひぬる、そらおそろしけれども、心しるちご一人よりほかはしらぬを、我が宿所にても、いかがききなすらんと思ふも胸さわがしけれども、ぬしはさしもおぼされぬぞ、言(こと)の葉(は)なき心地する。
けふは、ひぐらしのどかに、「うかりし有明のわかれより、にはかに雲がくれぬとききしにも、かこつかたなかりしままに、五部の大乗経を手づから書きて、おのづからみづぐきのあとを、一まきに一文字(ひともじ)づつをくはへて書きたるは、かならず下界(げかい)にて、いま一度(いちど)ちぎりをむすばんの大願なり。いとうたてある心なり。この経、書写(しよしや)は終りたる、供養(くやう)をとげぬは、このたび一つ所にうまれて供養をせむとなり。竜宮の宝蔵にあづけたてまつらば、二百余巻(よくわん)の経、かならずこのたびのむまれに供養(くやう)をのぶべきなり。されば、われ北※(ほくばう)の露ときえなんのちのけぶりに、この経をたきぎに積みぐせんと思ふなり」などおほせらるる、よしなき妄念(まうねん)もむつかしく、「ただ一つ仏のはちすの縁をこそ」と申せば、「いさや、なほこの道のなごりをしきにより、いま一度(いちど)、人間に生(しやう)を受けばやと思ひさだめ、世のならひ、いかにもならば、むなしき空にたちのぼらんけぶりも、なほあたりはさらじ」など、まめやかに、かはゆきほどに仰せられて、うちおどろきて、あせおびたたしくたりたまふを、「いかに」と申せば、「我が身が、をしといふ鳥となりて、御身のうちへ入ると思ひつるが、かくあせのおびたたしくたるは、あながちなるおもひに、我がたましひや袖の中にとどまりけん」などおほせられて、「けふさへいかが」とて、たちいで給ふに、月の入るさの山のはに、横雲しらみつつ、東の山は、ほのぼのとあくるほどなり。あけ行くかねにねをそへて、かへり給ひぬるなごり、いつよりものこりおほきに、ちかきほどより、かのちごして、また文あり。
あくがるる我がたましひはとどめおきぬ 何の残りて物おもふらん
いつよりも、かなしさもあはれさもおき所なくて、
物おもふなみだの色をくらべばや げにたが袖かしほれまさると
心にきと思ひつづくるままなるなり。
六六 煙の末
有明の月の発病から死に至るまでの事。死後、有明の稚児が作者を訪うて遺言を伝え、悲しい物語をする事。後深草院から弔問の和歌があり、御返事をした事。年末になって里に籠もっているが、院から今までの様な烈しいお召しもないので、御情が薄くなってゆくように思われ、進んで出仕する気になれない事。有明の月の文を、うら返して法花経を書いて年を送った事。以上で今年が終る。今年を弘安八年から逆算して弘安四年と仮定したが、有明の月が性助法親王ならば、今年は弘安五年でなければならない。要するに巻三の年立ては、弘安八年以外は確実でない。

やがてその日に御所へいらせ給ふとききしほどに、十八日よりにや、世の中はやりたるかたはらやみのけ、おはしますとて、くすしめさるるなどききしほどに、しだいに御わづらはしなど申すを、ききまゐらせしほどに、思ふかたなき心ちするに、廿一日にや文あり。「この世にてたいめんありしを、かぎりとも思はざりしに、かかるやまひにとりこめられて、はかなくなりなんいのちよりも、おもひ置く事どもこそ罪ふかけれ。見しむば玉の夢も、いかなる事にか」と書き書きておくに、
身はかくておもひきえなむ煙だに そなたの空になびきだにせば
とあるを見る心ち、いかでかおろかならむ。げにありしあかつきをかぎりにやと思ふもかなしければ、
おもひきえむ煙の末をそれとだに ながらへばこそ跡をだにみめ
事しげき御中はなかなかにやとて、思ふほどの言(事)の葉(は)もさながらのこし侍りしも、さすがにこれをかぎりとは思はざりしほどに、十一月廿五日にや、はかなくなり給ひぬとききしは、夢に夢みるよりもなほたどられ、すべてなにといふべきかたもなきぞ、我ながら罪ふかき。
見はてぬ夢とかこちたまひし、かなしさのこるとありしおもかげより、うちはじめ、うかりしままのわかれなりせば、かくは物は思はざらましと思ふに、こよひしも、村雨うちそそぎて、雲のけしきさへただならねば、なべて雲井もあはれに悲し。そなたの空にとありし御水くきは、むなしく箱の底にのこり、ありしままの御うつりがは、ただ手枕になごり多くおぼゆれば、ま事の道に入りても、つねのねがひなればと思ふさへ、人の物いひもおそろしければ、なき御かげのあとまでも、よしなき名にやとどめたまはんと思へば、それさへかなはぬぞくちおしき。
あけはなるるほどに、かのちご来たりときくも、夢の心ちして、みづからいそぎいでてきけば、枯野の直垂(ひたたれ)の、雉子をぬひたりしが、なえなえよなりたるに、よもすがら露にしほれたるたもともしるくて、なくなく語る事どもぞ、げにふでのうみにもわたりがたく、詞にもあまる心ちし侍る。かの「悲しさのこる」とありし夜、着かへたまひし小袖を、こまかにたたみたまひて、いつもねんじゆのゆかに置かれたりけるを、廿四日の夕になりて、はだに着るとて、「つひのけぶりにも、かくながらなせ」と仰せられつるぞ、いはむかたなく悲しく侍る。「まゐらせよとて候ひし」とて、さかきをまきたる大きなる文箱(ふみばこ)一つあり。御ふみとおぼしき物あり。とりのあとのやうにて文字(もじ)形(かた)もなし。「一夜の」とぞ、はじめある。「この世ながらにては」など心あてに見つづくれども、それとなきをみるにぞ、おなじみをにもながれいでぬべく侍りし。
うきしづみみつせ川にもあふせあらば 身をすててもやたづねゆかまし
などおもひつづくるは、なほも心のありけるにや。かのはこの中は、つつみたるかねを、一はた入れられたりけるなり。さても御かたみの御小袖を、さながら灰(はひ)になされし、また五部の大乗経を、たきぎにつみぐせられし事など、かずかず語りつつ、直垂(ひたたれ)の左右(さう)のたもとを、かわくまもなくなきぬらしつつ出でしうしろを見るも、かきくらす心ちしていと悲し。
御所さまにも、事におろかならぬ御中なりつれば、御なげきもなほざりならぬ御事なるべし、さても、心のうちにいかにとて、文あるも、なかなか物おもひにぞ侍りし。
「おもかげもなごりもさこそのこるらめ雲がくれぬる有明の月。うきは世のならひながら、事さらなる御心ざしも、ふかかりつる御なげきも、をしけれ」などありしも、なかなかなにと申すべき事のはもなければ、
かずならぬ身のうき事もおもかげも 一かたにやは有明の月
とばかり申し侍りしやらむ。
心も事ばも及ばぬ心ちして、なみだにくれてあかしくらし侍りしほどに、事しは春のゆくへもしらで年のくれにもなりぬ。御つかひは、たへせず「などまゐらぬに」などばかりにて、さきざきのやうに、きときとといふ御つかひもなし。なにとやらむ、このほどより、事に仰せらるるふしはなけれど、色かはりゆく御事にやとおぼゆるも、我がとがならぬあやまりも、たびかさなれば、御事わりにおぼえて、まゐりも、すすまれず、けふあすばかりの年のくれにつけても、年も我が身もと、いと悲し。ありし文どもをかへして、法華経を書きゐたるも、讃仏乗(さんぶつじよう)の縁とはおはせられざりし事の罪のふかさもかなしく案(あん)ぜられて年もかへりぬ。 
 

 

六七 永き闇路
弘安五年正月十五日、東山の聖の許で有明の月の四十九日の諷誦を捧げる、二月十五日同じく諷誦。この間は東山に籠もる。明日は都へと思う前夜、有明の月に抱きつかれた夢を見て病気になり、翌日都へ入ろうとして清水の西の橋で、前夜の夢の人が車に飛びこんだと思うと失神し、めのとの家に落ちついて静養する。三月も半ばを過ぎると妊娠の兆候が明らかになる。去年十一月十三日の夜、有明の月と交会した後は、男に接した事はないから明らかにその胤と知る。

あらたまる年ともいはぬ袖のなみだに浮き沈みつつ、、正月十五日にや、御四十九日なりしかば、事さらたのみたるひじりのもとへまかりて、布薩(ふさつ)のついでに、かの御心ざしありしかねを、すこしとりわけて、諷誦(ふじゆ)の御布施(おふせ)にたてまつりし包紙(つつみかみ)に、
このたびはまつ暁のしるべせよ さてもたへぬる契なりとも
能舌(のうぜつ)のきこえあるひじりなればにや、事さらきく所ありしも、袖のひむまなき中に、まだあり明のふるごとぞ、事に耳にたち侍りし。
つくづくとこもりゐて、きさらぎの十五日にもなりぬ。釈尊(しやくそん)円寂(ゑんじゃく)のむかしも、けふはじめたる事ならねども、我が物思ふをりからは、事に悲しくて、このほどは例のひじりのむろに、法花講讃(ほけかうさん)、彼岸よりつづきて、二七日あるをりふしもうれしくて、日々に諷誦(ふじゆ)をまゐらせつるも、たれとしあらはすべきならねば、「忘れぬちぎり」とばかり書きつづくるにつけてもいと悲し。けふ、講讃(かうさん)も結願(けちぐわん)なれば、例の諷誦(ふじゆ)のおくに、
月を待つあかつきまでのはるけさに いまは入る日の影ぞかなしき
東山(ひんがしやま)のすまひほどにも、かきたえ御おとづれもなければ、さればよと心ぼそくて、あすはみやこのかたへなど思ふに、よろづすごきやうにて、しざのかういしいしにて、ひじりたちも、よもすがら寝であかす夜なれば、聴問所(ちやうもんどころ)に袖かたしきてまどろみたるあかつき、ありしに変らぬおもかげにて、「うき世のゆめはながきやみぢぞ」とて、いだきつきたまふと見て、おびただしく大事に病(や)みいだしつつ、心ちもなきほどなれば、ひじりのかたより、「けふは、これにても心みよかし」とあれども、車などしたためたるも、わづらわしければ都へかへるに、清水(きよみづ)の橋の、西の橋のほどにて、夢のおもかげ、うつつに、車のうちにぞいらせたまひたる心ちして絶え入りにけり。そばなる人、とかく見たすけて、めのとが宿所(しゆくしょ)へまかりぬるより、水をだに見入れず、かぎりのさまにて、やよひのそらも、なかばすぐる程になれば、ただにもあらぬさまなり。ありしあかつきよりのちは、心きよく、目を見かはしたる人だになければ、うたがふべきかたもなき事なりけりと、うかりける契ながら、人しれぬ契もなつかしき心ちして、いつしか、心もとなくゆかしきぞ、あながちなるや。
六八 父をしらぬ子
四月十日頃、後深草院から特にお召しがあったけれど、気分がすぐれない折であったから、病気のよしを申して不参していると、院から「老人には逢いたくないというのだね」という恨みの文が来た。作者はそれを有明の月の事を思いつづけている事と思っていると、そうではなく、亀山院と親しくしていると疑っていられるのだと知った。そこで作者は、妊娠の状態が人目に立たぬうちにと思って、五月初めに急ぎ出仕し、六月頃まで御所にいたが、何となく居にくいので縁者の死に事よせて退出した。そして東山辺の縁者の許に隠り、八月二十日頃、ひそかに出産する。男児であった。我が身が二歳で母を失ったことを思うと、この児が父を知らぬ事が憐れに思われ、四十日余り自ら世話をしたが、十月初めから御所に参って今年も暮れた。

卯月の中の十日頃にや、さしたる事とて召しあるも、かたがた身もはばからはしく、ものうければ、かかるやまひにとりこめらえrたるよし申したる御返事に、
「おもかげをさのみもいかが恋ひわたるうき世を出でし有明の月。一かたならぬ袖のいとまなさもおしはかりて、ふりぬる身には」など承はるも、ただ一すぢに有明の御事を、かくおもひたるも心づきなしにやなどおもひたる程に、さにはあらで、亀山院の御位の頃、めのとにて侍りし者、六位にまゐりて、やがて御すべりに、叙爵(じよしやく)して大夫の将監(しやうげん)といふもの伺候したるが、みちしばして、よるひるたぐひなき御心ざしにて、この御所さまの事は、かけはなれ行くべきあらましなりと申さるる事どもありけり。いかでかしらん、心ちもひまあれば、いとどはばかりなき程にとおもひたちて、五月のはじめつかたまゐりたれば、なにとやらん、仰せらるる事もなく、又さして例に変りたる事はなけれども、心のうちばかりは、ものうきやうにて、あけくるるもあぢきなけれども、みな月の頃まで候ひしほどに、ゆかりある人のかくれにしはばかりに事よせて、まかりいでぬ。
このたびのありさまは、事にしのびたきままに、東山の辺(へん)に、ゆかりある人のもとにこもりゐたれども、とりわきとめくる人もなく、身をかへたる心ちせしほどに、八月廿日の頃、そのけしきありしかども、さきのたびまでは、しのぶとすれども、事とふ人もありしに、峰の鹿のねを友として、あかしくらすばかりにてあれども、事なく、をのこにてあるをみるにも、いかでかあはれならざらむ。をしといふ鳥になると見つるとききし夢のままなるも、げにいかなる事にかと悲しく、我が身こそ、二つにて母にわかれ、おもかげをだにもしらぬ事を悲しむに、これはまた、父に、腹の中にてさきだてぬるこそ、いかばかりか思はんなどおもひつづけて、かたはらさらず置きたるに、をりふし、乳(ち)などもちたる人だになしとて、たづねかねつつ我がそばにふせたるさへあはれなるに、この寝たる下の、いたうぬれにければ、いやはしく、いかかりていだきのけて、我が寝たるかたにふせしにこそ、げにふかかりける心ざしも、はじめておもひしられしか。しばしも手をはなたん事はなごりをしくて、四十日あまりにや、みづからもてあつかひ侍りしに、山崎といふ所より、さりぬべき人をかたらひよせてのちも、ただゆかをならべてふせ侍りしかば、いとど御所さまのまじろひも物うき心ちして、冬にもなりぬるを、「さのみもいかに」と召しあれば、神無月のはじめつかたより、又さし出でつつ年もかへりぬ。
六九 道のほだし
弘安六年正月元日から二月にかけての記。後深草院の心が隔てあるように思われて心細い。遠ざかった西園寺実兼だけは、絶えず親切に世話をしてくれる。二月、両院が嵯峨殿で彼岸の説法会を聴聞せられ、作者もそこに出仕し、清涼寺に参って菩提を弔う。有明の後を追うて身を投げたいとも思うが、父を知らぬ嬰児に心引かれて、それも叶わなぬ。

今年は元三(ぐわんさん)に候ふにつけても、あはれなる事のみかずしらず。なに事を、あしとも、うけたまはる事はなけれども、なにとやらむ御こころのへだてある心ちすれば、世の中もいとど物うく、心ぼそきに、今は昔ともいふぬべき人のみぞ。恨はすゑもとて、たえず事とふ人にてはありける。
きさらぎの頃は、彼岸の御説法、両院、嵯峨殿の御所にてあるにも、こどの御おもかげ身をはなれず。あぢきなきままには、生身二伝の釈迦を申せば、「ゆいか一人のちかひあやまたず、まよひたまふらむみちのしるべしたまへ」とのみぞおもひつづけ侍りし。
恋ひしのぶ袖のなみだや大井川 あふせありせば身をやすてまし
とにかくに思ふもあじきなく、世のみうらめしければ、そこのみくづとなりやしなましとおもひつつ、なにとなき、ふるほうごなど、とりしたたむる程に、さても二葉なるみどりごの行くすゑを、我さへすてなば、たれかあはれをかけむと思ふにぞ、道のほだしはこれにやとおもひつづけられて、おもかげも、いつしか恋しく侍りし。
たづぬべき人もなぎさにおひそめし 松はいかなる契なるらん
七〇 御所退出
弘安六年三月頃から年末までの記。去年生まれた嬰児が智慧づき初めた事。秋の初めに祖父隆親から手紙が来て、「局を整理し、御所を引上げてこちらへ出て来い」との事。事情が分からぬので院にうかがったけれど御返事がない。三位殿を初め上臈女房や雪の曙などに聞いて見るが分からない。再び院にうかがうと、甚だ不機嫌な御様子で、「見たくもない」といって座を立ってしまわれた。作者は突き落された悲しみを胸に抱いて隆親の家に行き、初めて事情が分かる。この段は作者の境遇が一転する所である。  御所退出の後は、むしろ心も晴れやかになったが、さすがに淋しい。十一月末から年来の宿願であった祇園千日ごもりを始める。

還御ののち、あからさまにいでて見侍れば、事の外に、おとなびれて、物がたり、ゑみ、わらひみなどするを見るにも、あはれなる事のみ多ければ、なかなかなる心ちして、まゐり侍りつつ、秋のはじめになるに、四条兵部卿のもとより、「つぼねなど、あからさまならずしたためて出でよ。よさり、むかへにやるべし」という文あり。心おぼえずおぼえて、御所へもちてまゐりて、「かく申して候ふ。なに事ぞ」と申せば、ともかくも御返事なし。なにとある事ともおぼえで、玄輝門院(げんきもんゐん)、三位殿と申す御頃の事にや、「なにとある事どもの候ふやらん、かく候ふを、御所にて案内(あんない)し候へども、御返事候はぬ」と申せば、「我もしらず」とてあり。さればとて、出でじといふべきにあらねば、出でなんとするしたためをするに、四つといひけるなが月の頃よりまゐりそめて、時々のさとゐのほどだに、心もとなくおぼえつる御所のうち、けふやかぎりと思へば、よろづの草木も目とどまらぬもなく、なみだにくれて侍るに、をりふし、うらみ人のまゐるおとして、「下のほどか」といはるるも、あはれに悲しければ、ちとさしいでたるに、なきぬらしたる袖の色も、よそにしるかりけるにや、「いかなる事ぞ」などたづねらるるも、問ふにつらさとかやおぼえて、物もいはれねば、けさの文とりいでて、「これが心ぼそくて」とばかりにて、こなたへいれて、なきゐたるに、さればなにとしたる事ぞと、たれも心えず、おとなしき女房たちなども、とぶらひおほせらるれども、しりたりける事がなきままには、ただなくよりほかの事もなくてくれ行けば、御所さまの御けしきなればこそかかるらめに、又さしいでむもおそれある心ちすれども、いまより後はいかにしてかと思へば、いまは限りの御おもかげも、今一たび見まゐらせむと思ふばかりに、まよひいでて、御まへにまゐりたれば、御まへには、公卿(くぎやう)二三人ばかりして、なにとなき御物がたりのほどなり。
ねりうすものの生絹(すずし)のきぬに、すすきにつづらを青きいとにてぬひ物にしたるに、赤色のからぎぬを着たりしに、きと御覧じおこせて、「こよひは、いかに。御いでか」と仰せごとあり。なにと申すべき言(こと)の葉(は)なくて候ふに、「くる山人のたよりには、おとづれんとにや。あをつづらこそ嬉(うれ)しくもなけれ」とばかり御くちずさみつつ、女院の御かたへなりぬるにや、たたせおはしましぬるは、いかでか御うらめしくもおもひまゐらせざらむ。いかばかりおぼしめす事なりとも、へだてあらじとこそ、あまたの年々(としどし)ちぎりたまひしに、などしもかかるらんと思へば、時の間に世になき身になりなばやと、心ひとつに思ふかひなくて、車さへ待ちつけたれば、これよりいづかたへも行きかくればやと思へども、事がらもゆかしくて、二条町の兵部卿の宿所(すくしよ)へ行きぬ。みづから対面して、「いつとなき老(おい)のやまひと思ふ。このほどになりては、事にわづらはしく、たのみなければ、御身のやう、故大納言もなければ、心ぐるしく、善勝寺ほどのものだになくなりて、さらでも心ぐるしきに、東二条の院より、かくおほせられたるを、しひて候はんも、はばかりありぬべきなり」とて、文をとり出でたまひたるを見れば、「院の御かた、ほうこうして、この御かたをば無きがしろにふるまふが本意(ほい)なくおぼしめさるるに、すみやかに、それをよび出だしておけ。故典侍大(こすけだい)もなければ、そこにはからふべき人なれば」など、御みづから、さまざまに書かせたまひたる文なり。ま事に、此のうへをしひて候ふべきにしもあらずなど。
中々、、出でてのちは、おもひなぐさむよしはすれども、まさに長き夜のねざめは、千声万声(せんせいばんせい)のきぬたの音も、我が手枕(たまくら)に事とふかと悲しく、雲井をわたるかりのなみだも、物おもふ宿の萩のうは葉をたづねけるかとあやまたれ、あかしくらして、年のすゑにもなれば、おくりむかふるいとなみも、なにのいさみに、すべきにしあらねば、年頃の宿願(しゆくぐわん)にて、祇園(ぎをん)の社(やしろ)に、千日こもるべきにてあるを、よろづにさはり多くて籠ざりつるを、おもひたちて、十一月の二日、はじめの卯の日にて、八幡宮(はちまんぐう)御神楽なるに、まづまゐりたるに、神に心をとよみける人もおもひいでられて、
いつもただ神にたのみをゆふだすき かくるかひなき身をぞうらむる
七日の参籠(さんろう)はてぬれば、やがて祇園にまゐりぬ。いまはこの世には、のこるおもひあるべきにあらねば、「三界(さんがい)の家を出でて解脱(げだつ)の門(かど)に入れたまへ」と申すに、事しは有明の三年(みとせ)にあたり給へば、東山のひじりのもとにて、七日法花講讃を、五しゆのきやうに行(おこな)はせたてまつるに、ひるは聴きこ(ちやうもん)にまゐり、夜は祇園へまゐりなどして、結願(けちぐわん)には、露きえ給ひし日なれば、事さら、うちそゆるかねも、なみだもよほす心ちして、
をりをりのかねのひびきに音をそへて なにとうき世になほのこるらん
七一 千日ごもり
この段は、初めに「年もかへりぬれば」とあり、末に「今年も暮れぬ」とあるから。この一段で弘安七年を全部含めている。  嬰児が走り歩くようになった事。亡祖父隆親が懐かしく思い出される事。昔祇園社に植えた桜が生いついた事。去年の末から始めた千日ごもりがこの一年つづいていたのである。

ありしあかご、ひきかくしたるも、つつましながら、物おもひのなぐさめにもとて、年もかへりぬれば、はしりありき、物いひなどして、なにのうさも、つらさも、しらぬもいと悲し。
さても兵部卿さへ、うかりし秋の露にきえにしかば、あはれもなどか深からざらむなりしを、おもひあへざりし世のつらさをなげくひまさなさにおもひわかざりしにや、すがのねのながきひぐらし、まぎるる事なき行ひのついでにおもひつづくれば、母のなごりには、ひとりとどまりしになど、いまぞあはれにおぼゆるは、心のとまるにやとおぼゆる。
やうやうの神垣(かみがき)の花ども、さかりに見ゆるに、文永のころ、天王の御歌とて、
神がきに千本のさくら花さかば うゑおく人の身もさかえなむ
といふ示顕(じげん)ありとて、祇園の社(しや)に、おびただしく木どもうゆる事ありしに、ま事に、神の托(たく)し給ふ事にてもあり、又我が身も、神恩(しんおん)をかうぶるべき身ならば、枝にも根にもよるべきかはとおもひて、檀那院(だんなゐん)の公与僧正、阿弥陀院の別当にておはするに、しん源法印といふは、大納言の子にて申しかよはし侍るに、かの御堂(みだう)の桜の枝を一つこひて、きさらぎの初午(はつむま)の日、執行権長吏(しゆぎやうごんちやうり)、法印(はうゐん)ゑんやうに、紅梅(こうばい)のひとへもん、うすぎぬ、祝詞(のと)のふせにたびて、のと申させて、東の経所(きやうしよ)のまへに、ささげ侍りしに、はなだのうすやうのふだにて、かの枝につけ侍りし、
ねなくとも色にはいでよさくら花 ちぎる心は神ぞしるらん
この枝おひつきて、花さきたるを見るにも、心のすゑはむなしからじと頼もしきに、千部の経をはじめて読み侍るに、さのみつぼねばかりは、さしあひ、なにかのためにも、はばかりあれば、宝塔院(はうたうゐん)のうしろに、二つある庵室(あんじち)の、ひんがしなるを点(てん)じて籠りつつ、事しもくれぬ。
七二 打出の人数
弘安八年正月の末、大宮院にすすめられて北山准后九十の賀に出仕した事。この段は先ず賀の前日、二月二十九日の記である。

又の年のむつきのすゑに、大宮の院より文あり。「准后(すごう)の九十の御賀の事、此の春おもひいそぐ。さとずみもはるかになりぬるを、なにか苦しからむ。うちいでの人かずにと思ふ。准后(すごう)の御かたに候へ」とおほせあり。「さるべき御事にては候へども、御所さまあしざまなる御けしきにて、さとずみし、いかがに、なにのうれしさにか、うちいでのみぎりに、まゐり侍るべき」と申さるるに、「すべてくるしかるまじきうへ、准后(すごう)の御事は、事さらをさなくより、故大納言(こだいなごん)の典侍(すけ)といひ、その身といひ、子に事ならざりし事なれば、かかるいちごの御大事見さたせん、なにかは」など、御みづからさまざまうけ給はるを、さのみ申すも事ありがほなれば、まゐるべきよし申しぬ。
こもりの日かずは四百日にあまるを、かへりまゐらんほどは代願(だいぐわん)を候はせて、西園寺のうけたまはりにて車などたまはせたれば、今は山がつになりはてたる心ちして、はればれしさも、そぞろはしながら、紅梅の三つぎぬに、さくらもよぎのうすぎぬかさねて、まゐりてみれば、おもひつるもしるく、はればれしげなり。両院、東二条院、遊義門院いまだ姫宮にておはしませしも、かねて入らせたまひけるなるべし。新陽明門院も、しのびて御幸(ごかう)あり。きさらぎのつもごりの事なるべしとて、廿九日行幸・行啓あり。まづ行幸、丑(うし)三つばかりになる。もんのまへに御輿(みこし)をすゑて、神(かん)づかさ、ぬさをたてまつり、うたのつかさ、楽(がく)をそうす。院司(ゐんし)左衛門督まゐりて、此のよしを申してのち、御輿(みこし)を中門へよす。二条の三位中将、中門のうちより剣璽(けんじ)の役つとむべきに、春宮行啓、まず門の下まで筵道(えんだう)をしく。まうけの御所、奉行(ぶぎやう)顕家、関白・左大将・三位中将まどまゐりまうく。傅(ふ)の大臣(おとど)、御車にまゐらる。
七三 准后九十の御賀
准后九十賀の当日、弘安八年二月三十日の記である。主催者は大宮院、場所は北山の西園寺邸。まず式場の設備を記し、次に主賓である准后の身分および准后と作者との血縁関係を記す。作者は准后方の女房として出仕するはずになっていたが、大宮院が考えなおされて御自分方の女房中に加えられた事を記し、更に式の進行の次第を記す。式は准后の息災を仏に祈願し、長寿を祝福して音楽を奏する法会である。

その日になりぬれば、御所のしつらひ、みなみおもてのもや三げん、中にあたりて、北の御すにそへて、仏台をたてて、釈迦如来の像一幅(いつぷく)かけらる。その前に香華(かうげ)のつくゑをたつ。左右に燈台をたてたり。前に高座(かうざ)を置く。その南に礼盤(らいばん)あり。同じ間(ま)の南のすのこに机をたてて、そのうへに御経箱二合おかる。寿命経(ずみやうきやう)・法花経入れらる。御願文(ごぐわんもん)、草(さう)、茂範(もちのり)、清書、関白殿ときこえしやらむ。もやの柱ごとに、幡(はた)、華鬘(けまん)をかけらる。もやの西の一(いち)の間(ま)に、御簾(みす)の中に、繧繝(うげん)二畳(にでう)のうへに、からにしきのしとねをしきて、内(うち)の御座(ぎよざ)とす。おなじ御座(ぎよざ)の北に、大文(だいもん)二畳(にでう)をしきて一院の御座、二の間に、おなじたたみをしきて新院の御座、そのひんがしの間に屏風(びやうぶ)をたてて大宮の院の御座、みなみおもての御簾(みす)に几帳(きちやう)のかたびらいだして、一院の女房さぶらふところを、よそに見侍りし、あはれすくなからんや。おなじき西のひさしに、屏風をたてて、うげん二畳しきて、そのうへに東京(とうぎやう)の錦のしとねをしきて准后(ずごう)の御座なり。
かの准后ときこゆるは、西園寺の太政大臣実氏公のいへ、大宮院・東二条院御母、一院・新院御祖母、内・春宮御曾祖母(おんそうそぼ)なれば、世をこぞりてもてなした奉るもことわりなり。俗姓(ぞくしやう)は鷲の尾の大納言隆房の孫、隆衡の卿の女むすめなれば、母かたは離れぬゆかりにおはしますうへ、ことさらをさなくより、母にて侍りし者も、これにて生ひたち、我が身もそのなごりかはらざりしかば、召しいださるるに、けなりにてはいかがとて、大宮院御沙汰(おんさた)にて、むらさきの匂ひにて准后(すごう)の御かたに候ふべきかと定めありしを、なほいかがとおぼしめしけむ、大宮の御かたに候ふべきとて、紅梅のにほひまさりたるひとへ、くれなゐのうちぎぬ、赤色のからぎぬ、大宮院の女房は、みな侍りしに、西園寺の沙汰にて、うゑこうばいのむめがさね八つ、こきひとへ、うら山吹のうはぎ、青色のからぎぬ、くれなゐのうちき、だみ物おきなど、心ことにしたるをぞたまはりて候ひしかども、さやはおもひしと、よろづあぢきなき程にぞ侍りし。
ことはじまりぬるにや、両院、春宮、両女院、今出川の院・姫宮、春宮の大夫うちつづく。誦経(じゆきやう)のかねのひびきも、ことさらにきこえき。机よりひんがしには、関白、左大臣、右大臣、花山院大納言、土御門の大納言、源大納言、大炊(おほひ)の御門(みかど)の大納言、右大将、春宮大夫・程なく席をたつ。右大将、三条中納言、花山院中納言、家ぶぎやうの院司左衛門督、はしより西に、四条前大納言、春宮権大夫、権大納言、四条宰相、右衛門督などぞ候ひし。
主上御引直衣(おんひきなほし)、すずしの御はかま、一院御直衣、あをにほひの御さしぬき、新院御直衣、あやの御さしぬき、春宮御直衣、うきおり物のむらさきの御さしぬきなり。みな、みすの内におはします。左右大将、右衛門督、弓をもち、矢をおひたり。楽人(がくにん)舞人(まひびと)、鳥向楽(でうかうらく)を奏す。一けいろう、さきだつらむ。左右ほこをふる。こののち、壱越調(いちこつてう)の調子をふきて、楽人舞人、しゆそう、しゆゑの所へむかひて、左右にわかれてまゐる。中門をいりて舞台(ぶたい)の左右過ぎて、階(はし)の間よりのぼりて座につく。講師、法印憲実(けんじち)、読師(とくし)、僧正守助(しゆうじよ)、呪願(じゆぐわん)、僧正座にのぼりぬれば、堂達(だうたつ)、磬(けい)をうつ。堂童子、しげつね、あきのり、仲兼(なかかぬ)・顕世・兼仲・ちかうぢなど、左右にわけて候ふ。唄子(ばいし)、こゑいでてのち、堂童子、花かごをわかつ。楽人、しんがてうを奏して散華行道(さんげぎやうだう)一ぺん、楽人けいろう御前(ごぜん)にひざまづく。一は久助(ひさすけ)なり。院司為かた禄をとる。のちにつくゑをしりぞけて、舞をそうす。
けしきばかりうちそそぐ春の雨、糸をひいたるほどなるを、いとふけしきもなく、このもかのもに、なみゐたるありさま、いつまでぐさのあぢきなく見わたさる。左、まんざいらく、がくびやうし、かてん・りようわう。右、ちきう・えんぎらく・なそり。二の物にて、多久助(おほのひさすけ)、ちよくろのてとかや舞ふ。このほど右のおとど、座をたちて、左の舞人近康(ちかやす)を召して、勧賞(けんじやう)仰せらる。受けたまはりて、ふたたび拝みたてまつるべきに、右の舞人久助、楽人政秋同じく勧賞をうけたまはる。政秋、笙(しやう)のふえをもちながら起きふすさま、つきづきしなど御沙汰あり。
講師、座をおりて、楽人、楽(がく)をそうす。そののち、御布施(おふせ)をひかる。頭中将公敦(きんあつ)、左中将為兼(ためかぬ)、少将やすなかなど、わきあけに平胡※(ひらやなぐひ)を負へり。もとほしに革緒のたち、おほくは細太刀(ほそだち)なりしに。
衆僧どもまかりいづるほどに、廻忽(くわいこつ)・長慶子を奏して楽人(がくにん)・舞人(まひびと)まかりいづ。大宮、東二条、准后の御ぜんまゐる。准后(じゆごう)の陪膳(はいぜん)四条宰相、やくそう左衛門督なり。
七四 今日の春日
式の翌日、三月一日の記で、御祝の饗膳、音楽、祝歌の披露、御鞠の興が行われた事。

次の日は、やよひのついたちなり。内・春宮・両院、御ぜんまゐる。舞台(ぶたい)とりのけて、もやの四めんに壁代(かべしろ)をかけたる、西のすみに御屏風をたてて、中の間に、繧繝(うげん)二畳(にでう)しきて、からにしきのしとねをしきて、おほやけの御座、両院の御座、もやにまうけたり。東(ひんがし)の対(たい)一間(ひとま)にうげんをしきて、東京(とうぎやう)のにしきのしとねをしきて、春宮の御座とみえたり。内・両院、御簾(ぎよれん)、関白殿、春宮には傅(ふ)のおとど遅参(ちさん)にて、大夫(だいぶ)御簾(ぎよれん)に参りたまふなりけり。主上つねの御直衣(おんなほし)、くれなゐのうち御ぞ、わたいれていださる。一院、かたおり物のうす色御さしぬき、新院、うきおり物の御直衣(おんなほし)、おなじ御さしぬき、これも紅のうち御ぞ、わたいりたるをいださる。春宮、ふせんりようの御指貫、うち御ぞ、綿いらぬをいださる。御ぜんまゐる。うちの御方、陪膳(はいぜん)花山院大納言、役送(やくそう)四条宰相・三条の宰相中将、一院、陪謄(はいぜん)、大炊御門の大納言、新院、春宮大夫。春宮、三条宰相中将。春宮のやくそう隆良、さくらのなほし、うす色のきぬ、おなじ指ぬき、くれなゐのひとへ、つぼ・おいかけまでも、けふをはれとみゆ。
御ぜんはててのち御遊、うちの御ふえ、かていといふ御ふえ、はこに入れて、忠世まゐる。関白とりて、御前(ごぜん)に置かる。春宮御琵琶、玄象(げんじやう)なり。権亮(ごんのすけ)親定持ちてまゐるを、大夫御まへに置かる。臣下のふえのはこ、べちにあり。しやう、土御門の大納言、しやう、左衛門督。ひちりき、兼行。わごん、大炊御門の大納言。こと、左大将。びわ、春宮大夫、権大納言。ひやうし、徳大寺の大納言、洞院三位中将。こと、宗冬。つけうた、宗冬。
りよの歌 あなたふと・むしろだ がく 鳥(とり)の破(は) 急、律(りつ)青柳(あをやなぎ) まんざいらく、これにて侍りしやらむ。三台(さんだい)の急(きふ)。
御遊(ぎよいう)はてぬれば和歌の御会(おんくわい)あり。六位殿上人、ぶんだい、ゑんざを置く。下臈より懐紙(くわいし)を置く。為道、もとほしの袍に革緒のたち、つぼなり。弓にくわいしをとりぐして、のぼりて、ぶんだいに置く。のこりの殿上人のをば取り集めて、信輔(のぶすけ)ぶんだいに置く。為道よりさきに、春宮権大進顕家、春宮の御ゑんざを、ぶんだいの東にしきて、披講(ひかう)のほど御座ありし、ふるきためしも今めかしくぞ人々申し侍りし。公卿、関白・左右大臣・儀同三司・兵部卿・前藤大納言・花山院大納言・右大将・土御門大納言・春宮大夫・大炊御門の大納言・徳大寺大納言・前藤中納言・三条中納言・花山院中納言・左衛門督・四条宰相・右兵衛督・九条侍従三位とぞきこえし。みな公卿(くぎやう)直衣(なほし)なる中に、右大将通もとおもて黄、ぎよりようの山ぶきのきぬをいだして太刀(たち)をはきたり。笏(しやく)に懐紙(くわいし)をもちぐしたり。此のほかのよその公卿は、弓に矢を負へり。花山院中納言講師を召す。公敦(きんあつ)まゐる。読師(どくし)、左のおとどに仰せらるる、故障(こしやう)にて右大臣まゐり給ふ。兵部卿、藤中納言など召しにてまゐる。権中納言の局のうた、くれなゐのうすやうに書きて簾中(れんちゆう)よりいださるるに、新院、
「雅忠卿むすめの歌はなど見え候はぬぞ」と申されけるに、「いたはりなどにて候ふやらん。すんしうて」と御返事ある。「など歌をだにまゐらせぬぞ」と春宮大夫いはるれば、「東二条院より、歌ばし召さるなと、准后(ずごう)へ申されけるよし、うけたまはりし」など申して、
かねてより数にもれぬとききしかば 思ひもよらぬ和歌のうら波
などぞ心ひとつに思ひつづけて侍りし。
うち・新院の御歌(おんうた)は、殿下たまはりたまふ。春宮のは、なほ臣下のつらにて、おなじ講師よみたてまつる。うち・院のをば、左衛門督読師(とくし)、殿下たびたび講ぜらる。披講(ひかう)はてぬれば、まづ春宮いらせたまふ。そのほども公卿禄ろくあり。うちの御製(ぎよせい)は殿(との)かき給ひける。
先朝(せんてう)禅定(ぜんぢやう)仙院(せんゐん)〔今の大覚寺の法皇の御事なり〕、従一位藤原のあそん貞子(ていし)九十のよはひを賀するうた
行末をなほながきよとよするかなや よひにうつるけふの春日に
新院の御歌(おんうた)は、内大臣(うちのおとど)かき給ふ。はしがきおなじさまながら、貞子(ていし)の二字をとどめらる。
ももとせといまやなくらむ鶯の ここのかへりの君が春へて
春宮のは左大将書きたまふ。
春の日北山の第(てい)にて、行幸するに侍りて、従一位藤原のあそん、九十の算(さん)を賀して制に応ずる歌
とて、尚、上のもじをそへられたるは古きためしにや。
かぎりなきよはひはいまは九(ここの)そぢ なほ千世とほき春にもあるかな
このほかのをば、べちにしるし置く。さても春宮の大夫の、
よよのあとになほ立ちのぼる老のなみ よりけん年はけふのためかも
まことに、おもしろきよし、おほやけ・わたくし申しけるとかや。実氏のおとどの、一切経の供養のをりの御会に、後嵯峨(ごさが)の院(ゐん)、「花も我が身もけふさかりかも」とあそばし、おとどの「我が宿々のちよのかざしに」とよまれたりしは、ことわりにおもしろくきこえしにおとらずなど沙汰ありしにや。
こののち、御まりとて、色々の袖をいだせる、内、春宮、新院、関白殿、内のおとどより、思ひ思ひの御すがた、見どころおほかりき。鳥羽(とば)の院(ゐん)、建仁の頃のためしとて、新院御あげまりなり。御まりはてぬれば、行幸はこよひ還御なり。あかずおぼしめさるる御たびなれども、春のつかさめしあるべしとて、いそがるるとぞきこえ侍りし。
七五 妙音院の音楽
九十の賀の後の御遊、三月二日の記で、妙音堂における音楽会の事。

またの日は、行幸還御ののちなれば、ようのすがたもいとなく、うちとけたるさまなり。午の時ばかりに、北殿より西園寺へ筵道をしく。両院御烏帽子(おんえぼし)直衣(なほし)、春宮御直衣(おんなほし)にくくりあげさせおはします。堂々御巡礼(ごじゆんれい)ありて、妙音堂に御まゐりあり。けふの御(み)ゆきを待ちがほなる花の、ただ一木みゆるも、ほかの散りなんのちとは、たれかをしへけんとゆかしきに、御遊あるべしとてひしめけば、きぬかづきにまじりつつ、人々あまたまゐるに、たれもさそはれつつ見まゐらすれば、両院・春宮うちにわたらせ給ひ、ひさしに、ふえ、花山院大納言、しやう、左衛門督、ひちりき、兼行、びは、春宮の御かた。大夫、こと。太鼓(たいこ)、具顕、羯鼓(かこ)、範藤。調子盤渉調(ばんしきてう)にて、さいしやうらう・そがふ、三のてふはきう、はくちう・千秋らく。兼行、「花上苑にあきらかなり」と詠ず。ことさら物のねととのほりておもしろきに、二へんをはりてのち、「なさけなきことを機婦(きふ)にねたむ」と一院詠ぜさせおはしましたるに、新院・東宮御こゑくはへたるは、なべてにやはきこえん。楽(がく)をはりぬれば、還御あるも、あかず御なごり多くぞ人々申し侍りし。
七六 舟中の連歌
前段と同じく三月二日の記。昼の妙音堂の音楽に引き続いて、夕刻舟中で音楽の遊びが催され、後深草院が、心の進まぬ作者を強いて舟中に召された事。後深草院・亀山院・東宮・東宮大夫実兼・源具顕・作者の六人、舟中にて連歌の事。

何となく世の中の花やかに面白きを見るにつけても、かきくらす心の中は、さしいでつらむもくやしき心ちして、妙音堂の御こゑ、なごりかなしきままに、御まりなどきこゆれども、さしもいでぬに、隆良、又とて持ちきたり。所たがへにやといへども、しひてたまはすれば、あけたるに、
「かきたへてあかれやすると心みにつもる月日をなどかうらみぬ。なほわすれられぬは、かなふまじきにや。とし月のいぶせさも、こよひこそ」などあり。御返事には、
かくて世にありときかるる身のうさを うらみてのみぞ年はへにける
とばかり申したりしに、御まりはてて、酉のをはりばかりに、うちやすみてゐたる所へ、ふといらせおはします。「ただ今御ふねにめさるるに、まゐれ」とおほせらるるに、なにのいさましさにかとおもひて、たちもあがらぬを、「ただけなるにて」とて、はかまの腰ゆひなにかさせたまふも、いつより又かくもなり行く御心にかと、ふたとせの御うらめしさの、なぐさむとはあらねども、さのみすまひ申すべきにあらねば、なみだのおつるをうちはらひてさしいでたるに、くれかかるほどに、釣殿より御ふねにめさる。まづ春宮の御かた、女房大納言殿、右衛門督殿、かうのないし殿、これらは物の具なり。小さき御ふねに両院めさるるに、これは三ぎぬに、うすぎぬ、からぎぬばかりにてまゐる。東宮の御ふねにめしうつる。管弦の具入れらる。ちひさきふねに公卿たち、はしぶねにつけられたり。笛、花山院大納言、笙、左衛門。ひちりき、兼行。びわ、春宮の御かた。事、女房衛門督殿。太鼓、具顕。かこ、大夫。
あかずおぼしめされつる妙院堂のひるの調子をうつされて、盤渉調(ばんしきえう)なれば、蘇香の五の帖、りんだい、せいがいは、ちくりんらく、ゑてんらくなど、いく返りといふかしらず。兼行、「山又山」とうちいだしたるに、「変態繽粉(へんたいひんぷん)たり」と両院のつけたまひしかば、水のしたにも耳おどろく物やとまでおぼえ侍りし、
釣殿とほくこぎいでて見れば、旧苔(きうたい)とし経たる松の、枝さしかはしたるありさま、庭の池水いふべくもあらず。漫々たる海のうへにこぎ出でたらむ心ちして、「二千里の外に来にけるにや」など仰せありて、新院御歌、
「くものなみけぶりのなみをわけてけり 管弦にこそ誓ひありとて心強からめ。これをばつけよ」とあてられしも、うるさながら、
行くすゑ遠き君が御代とて(作者)
春宮台布
むかしにも猶たちこへてみつぎ物
具顕
くもらぬかげも神のまにまに
春宮の御かた
九そぢになほもkさぬるおいのなみ
新院
たちゐくるしきよのならひかな
うき事を心ひとつにしのぶれば(作者)
「と申され候ふ心の中のおもひは、我ぞしり侍る」とて富(とみ)の小路殿(こうぢどの)の御所、
たへずなみだの有明の月
「この有明のしさい、おぼつかなく」など御沙汰あり。 
 

 

七七 うき身はいつも
九十の賀の名残の御遊も全部終った三月二日の夕刻から夜にかけての記。さまざまの事が雑然と並べてあるが、それを通じて、世に望みを失った作者のさびしい心境がうかがわれる。

くれぬれば行啓(ぎやうけい)にまゐわたる掃部寮(かもんれう)、所々にたてあかしして、還御いそがしたてまつるけしきみゆるも、やうかはりておもしろし。程なく釣殿に御ふねつけぬれば、おりさせおはしますも、あかぬ御事どもなりけん。からきうきねのとこにいきしづみたる身のおもひは、よそにもおしはかられぬべきを、やすのかはらにもあらねばにや、事とふかたのなげきぞ悲しき。
ま事や、けふのひるは東宮の御かたより、たちはききよかげ、ふたあゐ、うち、上下、松に藤ぬひたり。うちふるまひ、おいかけのかかりもよしありなど沙汰ありし。
うちへ御つかひまゐらせられしにちがひて、内裏(だいり)よりは、頭(とう)の大蔵卿忠世まゐりたりとぞきこえし。このたび御贈物(おんおくりもの)は、うちの御かたへ御琵琶、春宮へ和琴(わごん)ときこえいやらむ。勧賞(げんじやう)どもあるべしとて、一院御給(ごきふ)、としさだ四位正下、東宮、これすけ五位正下。春宮の大夫の琵琶の賞は為道にゆづりて四位の従上など、あまたきこえ侍りしかども、さのみはしるすおよばう。行啓も還御なりぬれば、大かたしめやかに、なごりおほかるに、西園寺のかたざまへ御幸なるとて、たびたび御つかひあれども、うき身はいつもとおぼえて、さしいでむ空なき心ちして侍るも、あはれなる心の中ならむかし。 
■問はず語り 巻四

 

七八 鏡の宿
前巻との間に三年の空白がある。正応二年二月二十余日京都を出発して鎌くらに向い、まず第一日、鏡の宿に泊る。今年が正応二年であった事は、将軍惟康親王上洛の年(八六段)であった事によって知られる。作者三十二歳。

きさらぎの廿日あまりの月とともに都をいで侍れば、なにとなく、すてはてにしすみかながらも、又と思ふべき世のならひかはと思ふより、袖の涙もいまさら、宿る月さへぬるる顔にやとまでおぼゆるに、我ながら心よわくおぼえつつ、逢坂の関ときけば、宮もわらやもはてしなくと、ながめすぐしけん蝉丸のすみかも、あとだにもなく、関の清水にやどる我がおもかげは、いでたつあしもとよりうちはじめ、ならはぬ旅のよそほひ、いとあはれにて、やすらはるるに、いとさかりと見ゆる桜の、ただ一木あるも、これさへ見すてがたきに、ゐなか人と見ゆるが、馬のうへ四五人、きたなげならぬが、またこの花のもとにやすらふも、おなじ心にやとおぼえて、
ゆく人の心をとむるさくらかな 花やせきもりあふさかの山
など思ひつづけて、鏡の宿(しゆく)といふ所にもつきぬ。くるるほどなれば、遊女ども、ちぎりもとめてありくさま、うかりける世のならひかなとおぼえていと悲し。
あけ行く鐘のおとにすすめられて、いでたつも、あはれに悲しきに、
たちよりてみるともしらじかがみ山 心のうちにのこる面影
七九 赤坂の遊女
鏡の宿から数日を経て赤坂の宿に泊る。やどの遊女と和歌の贈答をする。

やうやう日かずふるほどに、美濃の国赤坂の宿(しゆく)といふ所につきぬ。ならはぬ旅の日かずも、さすがかさなれば、くるしくもわびしければ、これに今日はとどまりぬるに、やどのあるじに、若き遊女おとといあり。琴・琵琶などひきてなさけあるさまなれば、むかし思ひいでらる心ちして、くこんなどとらせて遊ばするに、二人ある遊女の姉とおぼしきが、いみじく物おもふさまにて、琵琶のばちにてまぎらかせども、なみだがちなるも、身のたぐひにおぼえて目とどまるに、これもまた、すみぞめの色にはあらぬ袖のなみだを、あやしく思ひけるにや、さかづきすゑたる小折敷(こをしき)に書きてさしおこせたる、
おもひたつ心はなにの色ぞとも 富士のけぶりのすゑぞゆかしき
いと思はずに、なさけある心ちして、
ふじのねは恋をするがの山なれば おもひありとぞ煙たつらん
なれぬるなごりは、これまでも、ひきすてがたき心ちしながら、さのみあるべきならねば又たちいでぬ。
八〇 八橋・熱田
八橋で業平の昔をしのび、熱田の社では亡き父の思い出に袖をしぼり、又遠ざかる都の空を眺めて後深草院の面影を慕うのであるが、折から匂う桜の花の、はかない盛りを思うにつけても、短い恋が思われる。こうして作者は熱田の社をかえり見ながら東をさして下って行く。さて八橋から熱田へつづけた道順は逆である。後年の思い出を記したのだから、記憶の誤かも知れないが、しかし作者は道中案内記を書くのが目的でないから、道順など、それほど気にとめず、所々で詠んだ歌を中心にして、その所々の思い出を書き留めたもの、これを記憶の誤などと取りあげるべきではなかろう。

八橋といふ所につきたれども、水行く川もなし。橋も見えぬさへ、とももなき心ちして、
我はなほくもでに物を思へども その八橋はあとだにもなし
尾張の国熱田のやしろにまゐりぬ。御垣(みかき)ををがむより、故大納言のしる国にて、このやしろには、我がいのりのためとて、八月の御祭には、かならず神馬をたてまつるつかひをたてられしに、最期(さいご)のやまひのをり、神馬をまゐらせられしに、すずしのきぬを一つそへてまゐらせしに、萱津(かやつ)の宿(しゆく)といふ所にて、にはかにこの馬死ににけり。おどろきて、在庁(ざいちやう)が中より、馬はたづねてまゐらせたりけると聞きしも、神はうけぬいのりなりけりとおぼえしことまで、かずかず思ひいでられて、あはれさも悲しさも、やるかたなき心ちして、この御やしろに今宵(こよひ)はとどまりぬ。都をいでしことは、きさらぎの廿日あまりなりしかども、さすがならはぬ道なれば、心はすすめども、はかもゆかで、やよひのはじめになりぬ。ゆふづくよ、はなやかにさしいでて、都の空もひとつながめに思ひいでられて、いまさらなる御おもかげもたちそふ心ちするに、御垣(みかき)のうちの桜は、けふさかりとみせがほなるも、たがため匂ふ木すゑなるらんとおぼえて、
春の色もやよひの空になるみがた いまいくほどか花もすぎむら
やしろの前なる杉の木に札(ふだ)にてうたせ侍りき。思ふ心ありしかば、これに七日こもりて、又たちいで侍りしかば、鳴海(なるみ)のしほひがたを、はるばる行きつつぞ、やしろをかへりみれば、かすみのまよりほの見えたるあけの玉垣神さびて、昔を思ふ涙はしのびがたくて、
神はなほあはれをかけよみしめなは ひきたがへたるうき身なりとも
八一 清見が関・浮島
清見が席・浮島が原を通過した記であるが、途中の名所宇津の山に気がつかず通り過ぎ、浮島が原に来て気がつき、そのことを歌に詠んでいる。文章は伊勢物語や西行の旅の情趣を心に置いて書かれている。

清見が關を月にこえゆくにも、思ふことのみ多かる心のうち、こしかたゆくさきたどられて、あはれにかなし。みなしろたへに見えわたりたる浜のまさごのかずよりも、思ふことのみ限りなきに、富士のすそ、浮島が原にゆきつつ、たかねには、なほ雪ふかく見ゆれば、五月のころだにも、かのこまだらには殘りけるにと、ことわりに見やらるるにも、あとなき身の思ひぞ、つもるかひなかりける。煙もいまは絶えはてて見えねば、風にもなにかなびくべきとおぼゆ。さても宇津の山をこえしにも、つたかへでも見えざりしほどに、それとだに知らず、思ひわかざりしを、ここにて聞けば、はやすぎにけり。
ことの葉もしげしとききしつたはいづら ゆめにだに見ずうつの山こえ
八二 三島の社
三島神社に奉幣し、そこにつ通夜して、なかむし・浜の一万・はれな舞などの神事を見る。

伊豆の国三島のやしろにまゐりたれば、奉幣(ほうへい)の儀式は熊野まゐりにたがはず、なかむしなどしたるありさまも、いとかうがうしげなり。故頼朝の大將、しはじめられたりける浜の一万とかやとて、故ある女房の、壺装束(つぼしやうぞく)にて行きかへるが、苦しげなるを見るにも、我ばかり物おもふ人にはあらじとぞおぼえし。月はよひすぐるほどに待たれて出づるころなれば、みじか夜の空も、かねて物うきに、神樂とて、をとめごが舞の手づかひも見なれぬさまなり。ちはやとて、あこめのやうなる物を着て、はれなまひとて、三四人たちて、入りちがひて舞ふさまも興ありておもしろければ、よもすがらゐあかして、とりのねにもおよほされて出で侍りき。
八三 江の島
三月二十日すぎの一夜、江の島の岩屋に住む山伏の所に泊る。この山伏は修行に年を経た者と思われるが、もとは都の者であったらしく、作者から扇を贈られて、昔の友に逢った気がすると喜ぶ。ここに供とする者の笈から扇を出して与えたとあるから、作者が従者をつれていた事が知られるが、これ以後の長い旅において、作者が供をつれていたと思われる記事はない。

廿日あまりのほどに江の島といふ所へ着きぬ。所のさまおもしろしとも、なかなか言(こと)の葉(は)ぞなき。漫々たる海のうへに離れたる島に、岩屋どもいくらもあるにとまる。これは千手(せんじゆ)のいはやといふとて、薫修練行(くんじゆれんぎやう)も年たけたりと見ゆる山ぶし一人、おこなひてあり。きりのまがき、たけのあみど、おろそかなる物から艶(ゑん)なるすまひなるが、とかく山ぶしけいめいして、所につけたるかひつ物などとりいでたる、こなたよりも、ともとする人の笈(おひ)のなかより、都のつととて、あふぎなどとらすれば、「かやうのすまひには都のかたもことづてなければ、風のたよりにも見ず侍るを、こよひなむ昔の友にあひたる」などいふも、さこそと思ふ。ことはなにとなく、みな人もしづまりぬ。夜もふけぬれども、はるばるきぬる旅ごろも、思ひかさぬるこけむしろは、夢をむすぶほどもまどろまれず。人にはいはぬしのびねも、たもとをうるほし侍りて、岩屋のあらはにたちいでて見れば、雲のなみ、煙のなみも見えわかず。夜の雲をさまりつきぬれば、月もゆくかたなきにや、空すみのぼりて、まことに二千里のほかまで、たづね來にけりとおぼゆるに、うしろの山にや、猿(さる)のこゑのきこゆるも、はらわたをたつ心ちして、心のうちの物がなしさも、ただいまはじめたるやうに思ひつづけられて、ひとり思ひ、ひとりなげく涙をも、ほすたよりりにやと、都のほかまでたづねこしに、世のうき事はしのび來にけりと悲しくて、
杉のいほ松のはしらにしのすだれ うき世の中をかけはなればや
八四 鎌倉到着
鎌倉に到着。極楽寺に参り、僧の動作が都風であるのに好意をよせる。しかし化粧坂から見おろした町の有様は、袋の中の生活のように思われて、都に生活した作者には、ごみごみしたものに感じられた。由比の浜の大鳥居から遙かに八幡宮を拝して、我が家の氏神であり、かつて父の薨去した翌年(文永十年)の正月に男山八幡に参拝し、父の生所を示して戴きたいと祈誓した時の事を回想して無量の感慨に打たれる。次いで八幡宮に参り、その地形が男山に比べて遙かに海の眺められる事に好意を持つ。

あくれば鎌倉へいるに、極楽寺といふ寺へまゐりてみれば、僧のふるまひ都にたがはず、なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂(けはひざか)といふ山をこえて鎌倉のかたを見れば、東山(ひんがしやま)にて京を見るにはひきたがへて、きざはしなどのやうに、重々(ぢうぢう)に、ふくろの中に物を入れたるやうにすまひたる、あな物わびしと、やうやうみえて、心とどまりぬべき心ちもせず。由比(ゆひ)の浜といふ所へ出でてみれば、大きなる鳥居あり。若宮の御やしろ、はるかに見え給へば、他(た)の氏(うぢ)よりはとかや、ちかひ給ふなるに、ちぎりありてこそ、さるべき家にと生れけめに、いかなるむくいならんと思ふほどに、まことや、父の生所(しやうじよ)を祈誓(きせい)申したりしをり、「今生(こんじやう)の果報(くわはう)にかゆる」と、うけたまはりしかば、うらみ申すにてはなけれども、「そでをひろげんをも、なげくべからず。またをののこまちも、そとほりひめがながれといへども、あじかをひじにかけ、みのをこしにまきても、身のはてはありしかども我ばかり物おもふ」とや書き置きしなど思ひつづけても、まづ御やしろへまゐりぬ。所のさまは男山のけしきよりも、海見はるかしたるは見どころありともいひぬべし。大名ども浄衣などにはあらで、いろいろのひたたれにてまゐりつるもやう変りたり。
八五 小町殿
小町殿と音信を通じ世話になる。善光寺へ行く予定であったが、先達に頼んだ人も自分も病気をしたので中止となる。八月十五日、小町殿から、都の放生会を思い出されるでしょうと言われて歌を贈答する。次いで鎌倉八幡宮の放生会を見る。

かくて、荏柄(えがら)、二階堂、大御堂(おほみだう)などいふ所ども拝みつつ、大倉(おほくら)の谷(やつ)といふ所に小町殿とて将軍に候ふは、土御門の定実(さださね)のゆかりなれば、ふみつかはしたりしかば、「いと思ひよらず」といひつつ、「我がもとヘ」とてありしかども、中々むつかしくて、ちかきほどに宿(やど)をとりて侍りしかば、「たよりなくや」など、さまざまとぶらひおこせたるに、道のほどの苦しさも、しばしいたはるほどに、善光寺のせんだちに頼みたる人、卯月のすゑつかたより大事にやまひみいだして前後(ぜんご)をしらず、あさましともいふばかりなきほどに、すこしおこたるにやと見ゆるほどに、我が身又うちふしぬ。ふたりになりぬれば、人も「いかなることにか」といへども、「ことさらなることにてはなし。ならはぬ旅のくるしさに持病(じびやう)のおこりたるなり」とて、くすしなどは申ししかども、いまはといふほどなれば、心ぼそさもいはんかたなし。さほどなきやまひにだにも、風のけ、はなたりといへども、すこしもわづらはしく二三日にもすぎぬれば、陰陽(おんやう)医道(いだう)のもるるはなく、家につたへたるたから、世にきこえある名馬まで、霊杜霊仏にたてまつる。南嶺(なんれい)のたちばな、玄圃(けんぽ)のなし、我がためにとのみこそさわがれしに、やまひのゆかにふして、あまた日かずはつもれども、神にもいのらず、ほとけにも申さず、なにをくひ、なにを用ゐるべき沙汰にもおよばで、ただうちふしたるままにて、あかしくらすありさま、生(しやう)をかへたる心ちすれども、いのちは限りある物なれば、みなづきのころよりは、心ちもおこたりぬれども、なほ物まゐり思ひたつほどの心ちはせで、ただよひありきて、月日むなしくすぐしつつ八月にもなりぬ。十五日のあした、小町殿のもとより、「けふは都の放生会(はうじやうゑ)の日にて侍る。いかが思ひいづる」と申したりしかば、
おもひいづるかひこそなけれ石清水 おなじながれのすゑもなき身は
返し、
ただたのめ心のしめのひくかたに 神もあはれはさこそかくらめ
また鎌倉の新八幡(やはた)の放生会といふ事あれば、ことのありさまもゆかしくて、たちいでて見れば、将軍御出仕(ごしゆつし)のありさま、所につけては、これもゆゆしげなり。大名どもみな狩衣にて出仕したる、直垂(ひたたれ)きたるたちはきとやらんなど、思ひ思ひのすがたども、めづらしきに、赤橋(あかはし)といふ所より、将軍、車よりおりさせおはしますをり、公卿(くぎやう)、殿上人せうせう御供(おとも)したるありさまぞ、あまりに、いやしげにも、物わびしげにも侍りし。平左衛門入道と申す者が嫡子(ちやくし)平二郎左衛門が、将軍の侍所(さぶらいどころ)の所司(しよし)とて参りしありさまなどは、物にくらべば、関白などの御ふるまひと見えき。ゆゆしかりしことなり。やぶさめ、いしいしのまつりごとの作法(さはふ)ありさまは、見てもなにかはせむとおぼえしかば、帰りはべりにき。
八六 惟康親王上洛
将軍惟康親王が職を奪われ、罪人の取扱いを受けて京都へ送還せられる事件を目撃した事を記す。惟康親王罷職の名目は、親王に異図ありという事になっているが、実は鎌倉における御家人勢力と得宗勢力の軋轢が、京都における持明院統(後深草統)と大覚寺統(亀山統)の対立激化にからみ合った結果、惟康親王はその犠牲になられたものであると思われる。御家人とは頼朝の事業を助けた有力な武士たちで頼朝以来幕府に勢力を有した人々、得宗(トクソウ)とは執権北条氏の一族およびその近臣たちである。御家人と得宗の反目は遂に鎌倉幕府滅亡の要因ともなったのであるが、惟康親王は御家人の尊崇を受けていられたので、これが禍したのである。又一方京都では立太子問題で、後深草・亀山両院の間で不和が生じていたが、作者が鎌倉へ下った年、正応二年四月、西園寺実兼は幕府と結んで、二十一日立太子定めの儀を行い、二十一日に伏見天皇第一皇子胤仁親王を東宮とした。失意の亀山院は九月七日に御出家、そしてその十四日に惟康親王の罷職となるのである。代って将軍になられる久明親王は後深草院の皇子であるから、つまり皇統が持明院統に確定した時期に将軍職も同統にという公武合体政策が惟康親王罷職という事件を起したものと思われる。惟康親王は将軍邸を追放せられ、佐介の谷の某所に五日間ほど御滞在、いよいよ都へ御出発の時刻は深夜の丑の刻と定められた。折からひどい風雨であった。惟康親王の御父宗尊親王は後深草院の兄で皇族として尊貴な御身であり、その御子である惟康親王は、特に御生母が藤原氏中でも執柄家の出であるから、世の尊敬が厚かった。ただ父親王が歌人であって名歌をのこしていられるのに、惟康親王い、それが欠けているのは惜しい。

さるほどに、いくほどの日かずもへだたらぬに、鎌倉に事いでくべしとささやく。たがうへならむといふほどに、将軍都へのぼり給ふべしといふほどこそあれ、ただいま御所を出で給ふといふを見れば、いとあやしげなる張輿(はりこし)を、対の屋のつまへよす。丹後の二郎判官(はうぐわん)といひしやらん、奉行して渡したてまつる所ヘ、相模の守のつかひとて、平二郎左衛門いできたり。そののち、先例なりとて、御輿さかさまによすべしといふ。又ここには、いまだ御輿だに召さぬさきに、寝殿には、小舎人(ことねり)といふ者のいやしげなるが、わらうづはきながら、上へのぼりて、御簾(みす)ひきおとしなどするも、いと目もあてられず。
さるほどに、御輿(みこし)出でさせ給ひぬれば、めんめんに女房たちは、輿(こし)などいふこともなく、物をうちかづくまでもなく、「御所はいづくへいらせおはしましぬるぞ」などいひて、泣く泣くいづるもあり。大名など心よせあると見ゆるは、若党(わかたう)など具せさせて、暮れゆくほどに、送りたてまつるにやとみゆるもあり。思ひ思ひ心々にわかれ行くありさまは、いはんかたなし。
佐介(さすけ)の谷(やつ)といふ所へ、まづおはしまして、五日ばかりにて京へ御のぼりなれば、御出(おんい)でのありさまも見まゐらせたくて、その御あたりちかき所に、おしての聖しやうでんと申す霊仏おはしますへまゐりて聞きまゐらすれば、御たち、丑の時と時をとられたるとて、すでにたたせおはしますをりふし、よひより降る雨、ことさら、そのほどとなりては、おびたたしく、風ふきそへて、物などわたるにやとおぼゆるさまなるに、時たがへじとて、出だしまゐらするに、御輿(みこし)をむしろといふ物にてつつみたり。あさましく目もあてられぬ御やうなり。御輿よせて、召しぬとおぼゆれども、なにかとて、又、にはにかきすゑまゐらせて、ほどふれば、御鼻かみ給ふ。いとしのびたる物から、たびたびきこゆるにぞ、御袖の涙もおしはかられ侍りし。
さても将軍と申すも、ゑびすなどが、おのれと世をうちとりて、かくなりたるなどにてもおはしまさず。後(のち)の嵯峨の天皇の第二の皇子、申すべきにや、後深草のみかどには、御年とやらん月とやらん御まさりにて、まづいでき給ひにしかば、十善のあるじにもなりたまはば、これも位をもつぎ給ふべき御身なりしかども、はは准后(じゆごう)の御ことゆゑ、かなはでやみ給ひしを、将軍にてくだり給ひしかども、ただ人にてはおはしまさで、中務の親王と申し侍りしぞかし。その御あとなれば、申すにやおよぶ、なにとなき御思ひばらなど申すこともあれども、藤門執柄(とうもんしつぺい)のながれよりも出で給ひき。いづかたにつけてか、すこしもいるがせなるべき御ことにはおはします、と思ひつづくるにも、まづさきたつ物は涙なりけり。
いすず川おなじながれをわすれずは いかにあはれと神もみるらん
御道のほども、さこそ露けき御ことにて侍らめとおしはかられたてまつりしに、御歌などいふことの一つもきこえざりしぞ、前将軍の、「北野の雪のあさぼらけ」などあそばされたりし御あとにと、いとくちをしかりし。
八七 新将軍下向
作者は小町殿に頼まれ、平入道の妻の衣服裁縫のことについて入道の邸に趣く。また執権貞時の依頼で新将軍邸のしつらいを見分する。正応二年十月二十五日、新将軍久明親王鎌倉到着の有様。三日目に執権貞時の山の内邸へ御成りの事。それらの盛儀を見るにつけ、昔の御所生活が思い出され、あわれを感じた事。

かかるほどに、後深草の院の皇子、将軍にくだり給ふべしとて、御所造りあらため、ことさらはなやかに、世の中、大名七人、御むかへにまゐるとききしなかに、平左衛門入道が二郎、飯沼(いひぬま)の判官(はうぐわん)、いまだ使(つかひ)の宣旨もかうぶらで、新左衛門と申し候ふが、その中にのぼるほどに、「流され人ののぼり給ひしあとをば通らじ」とて、足柄山(あしがらやま)とかやいふ所へ越え行くときこえしをぞ、みな人あまりなることとは申し侍りし。
御下りちかくなるとて、世の中ひしめくさま、ことありがほなるに、いま二三日になりて、あしたとく、小町殿よりとてふみあり。なに事かとて見るに、「思ひかけぬことなれども、平入道が御ごぜん、御かたといふがもとへ、東二条院より五(いつつ)ぎぬをくだしつかはされたるが、調(てう)ぜられたるままにて、ぬひなどもせられぬを、申しあはせんとて、さりがたく申すに、出家のならひくるしからじ、そのうへたれともしるまじ、ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたび、かなふまじきよしを申ししかども、はては相模の守のふみなどいふ物さへとりそへて、なにかといはれしうヘ、これにては、なにとも見沙汰する心ちにてあるに、やすかりぬべきことゆゑ、なにかといはれんもむつかしくて、まかりぬ。
相模の守の宿所(すくしよ)のうちにや、すみどのとかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひはつねのことなり。これは、金銀金玉(こんごんきんぎよく)をちりばめ、光耀鸞鏡(くわうえうらんけい)をみがいてとは、これにやとおぼえ、解脱(げだつ)の瓔珞(やうらく)にはあらねども、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、几帳のかたびら、ひき物まで、目もかがやき、あたりも光るさまなり。御かたとかや出でたり。地は薄青(うすあを)に、むらさきの濃きうすき糸にて、もみじを大きなる木におりうかかしたる唐織物(からおりもの)の二(ふたつ)ぎぬに、白き裳を着たり。みめことがら、ほこりかに、たけたかくおほきなり。かくいみじとみゆるほどに、入道、あなたより、はしりきて、そでみじかなるしろきひたたれすがたにて、なれがほに添ひゐたりしぞ、やつるる心ちし侍りし。
御所よりのきぬとて取りいだしたるを見れば、すはうのにほひの、うちへまさりたる五(いつつ)ぎぬに、あをきひとへかさなりたり。うへは、地は、うすうすとあかむらさきに、こきむらさき、あをきかうしとを、かたみがはりにおられたるを、さまざまにとりちがへてたちぬひぬ。かさなりはうちへまさりたるを、うへへまさらせたれば、うへはしろく、二番はこきみらさきなどにて、いとめづらかなり。「などかくは」といへば、「御服所(ごふくしよ)の人々も御ひまなしとて、知らずしに、これにてして侍るほどに」などいふ。をかしけれども、かさなりばかりは、とりなほさせなどするほどに、守(かう)の殿(との)より使(つかひ)あり。「将軍の御所の御しつらひ、とさまの事は日記にて、男たち沙汰しまゐらするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよといはれたる」とは、なにごとぞとむつかしけれども、行きかかるほどにては、にくいけしていふべきならねば参りぬ。これは、さほどに目あてられぬほどのことにてもなく、うちまかせて、おほやけびたる御ことどもなり。御しつらひのこと、ただいまとかく下知しいふべきことなければ、御厨子のたて所、所がら御きぬのかけやう、かくやあるべきなどにて帰りぬ。
すでに将軍御着きの日になりぬれば、若宮小路は、所もなくたちかさなりたり。御せきむかへの人々、はや先陣はすすみたりとて、二三十、四五十騎、ゆゆしげにてすぐるほどに、はやこれへとて、召次(めしつぎ)などていなるすがたにひたたれきたる者、小舎人(ことねり)とぞいふなる二十人ばかりはしりたり。そののち大名ども、思ひ思ひのひたたれに、うちむれうちむれ、五六丁にもつづきぬとおぼえて過ぎぬるのち、をみなへしの浮織物(うきおりもの)の御下ぎぬにやめして、御輿の御すだれあげられたり。のちに飯沼の新左衛門、とくさの狩衣にて供たて供奉(ぐぶ)したり、ゆゆしかりしことどもなり。御所には、当国司、足利より、みなさるべき人々は布衣(ほうい)なり。御馬引かれなどする儀式めでたく見ゆ。三日にあたる日は、山の内といふ相模殿(さがみどの)の山荘(さんさう)へ御入りなどとて、めでたくきこゆることどもを見きくにも、雲井のむかしの御ことも思ひいでられて、あはれなり。 
 

 

八八 武蔵野の冬
正応二年、年末の記。飯沼の判官に招かれて歌会に列した事。川越の後家の尼の住む小川口の家に身を寄せ、武蔵野の淋しい生活に旅愁を感じ、母の顔も知らぬ我が身の薄命、過ぎ去った院の寵愛など思いつづけて涙に沈み、尼君に述懐の歌を贈る。

やうやう年のくれにもなりゆけば、ことしは善光寺(ぜんくわうじ)のあらましもかなはでやみぬと、くちをしきに、小町殿の 〔これよりのこりをば、かたなにてやれし、おぼつかなう。いかなる事にてかとゆかしくて〕 のぼるにのみおぼえてすぎ行くに、の新左衛門は歌をもよみ、すき者といふ名ありしゆゑにや、若林の二郎左衛門といふものをつかひにて、たびたびよびて、続つぎ歌などすべきよし、ねんごろに申ししかば、まかりたりしかば、思ひしよりもなさけあるさまにて、たびたびよりあひて、連歌・歌などよみて遊び侍りしほどに、しはすになりて、川越の入道と申す者の跡なるあまの、武蔵の国小川口(こかはぐち)といふ所へくだる。あれより、年かへらば善光寺へまゐるべしといふも、たよりうれしき心ちして、まかりしかば、雪ふりつもりて、わけゆく道もみえぬに、鎌倉より二日にまかりつきぬ。かやうの、物へだたりたるありさま、まへには入間川(いるまがは)とかや流れたる、むかへには岩淵の宿(しゆく)といひて、遊女どものすみかあり。山といふ物は、この国内(くにうち)には見えず。はるばるとある武蔵野の茅(かや)が下をれ、霜がれはててあり。なかを分けすぎたるすまひ思ひやる。都のへだたり行くすまひ、悲しさもあはれさも、とりかさねたる年のくれなり。
つらつらいにしへをかへりみれば、二さいのとし母にはわかれければ、そのおもかげも知らず。やうやう人となりて、四つになりしながつき廿日(はつか)あまりにや、仙洞(せんとう)に知られたてまつりて、御簡(おふだ)のれちにつらなりてよりこのかた、かたじけなく君の善言(ぜんげん)をうけたまはりて、身をたつるはかりごとをも知り、朝恩をもかふりて、あまたの年月をへしかば、一門の光ともなりもやすると、心のうちのあらましも、などか思ひよらざるべきなれども、すてて無為にいるならひ、さだまれる世のことわりなれば、妻子珍宝王位(さいしちんぱうわうゐ)、臨命終時不随者(りんみやうしゆじふずゐしや)、おもひすてにしうき世ぞかしと思へども、なれこし宮のうちも恋しく、をり々の御なさけも忘られたてまつらねば、ことのたよりには、まづ、こととふ袖の涙のみぞ色ふかく侍る。雪さへかきくらしふりつもれば、眺(なが)めのすゑさへ、道たえはつる心ちして眺めゐたるに、あるじの尼君がかたより、「雪のうちいかに」と申したりしかば、
おもひやれうきことつもるしら雪の あとなき庭にきえかへる身を
問ふにつらさの涙もろさも、人目あやしければ、しのびて又としもかへりぬ。
八九 善光寺
正応三年二月十余日に、おおぜいの同行と小川口を出発して善光寺に詣で、一同の帰る時、一人とどまり、高岡の石見入道と知り合いになり、秋まで善光寺に滞在した事。

のきばの梅に木つたふ鶯のねにおどろかされても、あひみかへらざるうらみしのびがたく、昔をおもふ涙は、あらたまる年ともいはず、ふる物なり。きさらぎの十日あまりのほどにや、善光寺へ思ひたつ。碓氷坂(うすひざか)、木曾のかけぢのまろきばし、げにふみみるからに、あやふげなるわたりなり。道のほどの名所なども、やすらひ見たかりしかども、大ぜいにひき具せられて、ことしげかりしかば、なにとなくすぎにしを、思ひのほかにむつかしければ、宿願(しゆくぐわん)の心ざしありて、しばしこもるべきよしをいひつつ、かへさにはとどまりぬ。ひとりとどめ置くことを心ぐるしがり、いひしかば、「中有(ちうう)の旅(たび)の空(そら)には、たれかともなふべき。生(しやう)ぜしをりも一人きたりき、去りてゆかんをりも、又しかなり。あひあふ者はかならずわかれ、生ずる者は、死(しに)かならずいたる。桃花(たうくわ)よそほひいみじといへども、つひには根にかへる。紅葉(こうえふ)は千(ち)しほの色をつくして盛(さかり)ありといへども、風をまちて秋の色ひさしからず。なごりをしたふは一旦(いつたん)のなさけなり」などいひて、一人とどまりぬ。
所のさまは、眺望(てうばう)などはなけれども、生身(しやうじん)の如来とききまゐらすれば、たのもしくおぼえて、百万べんの念仏など申して、あかしくらすほどに、高岡の石見(いわみ)の入道といふ者あり。いとなさけある者にて、歌つねによみ、管弦(くわんげん)などしてあそぶとて、かたへなる修行者あまにさそはれて、まかりたりしかば、まことにゆゑあるすまひ、辺土分際(ぶんざい)にはすぎたり。かれといひ、これといひて、なぐさむたよりもあれば、秋まではとどまりぬ。
九〇 武蔵野の秋
正応三年秋八月、武蔵野の秋を探る。八月十五夜、浅草観音堂に参籠。隅田川・堀兼の井を訪ね、鎌倉に帰る。

八月のはじめつかたにもなりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ今までこれらにも侍りつれ、と思ひて、武蔵の国へかへりて、浅草と申す堂あり、十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野のなかをはるばるとわけゆくに、はぎ、をみなへし、をぎ、すすきよりほかは、またまじる物もなく、これが高さは、馬にのりたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや、わけゆけども尽きもせず、ちとそばへ行く道にこそ宿(しゆく)などもあれ、はるばる一通(ひととほ)りは、こしかたゆくすゑ野原なり。観音堂は、ちとひきあがりて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに、草の原よりいづる月かげと思ひいづれば、こよひは十五夜なりけり。雲のうへの御あそびも思ひやらるるに、御かたみの御衣は、如法経のをり、御布施に大菩薩にまゐらせて、いまここにありとはおぼえねども、鳳闕(ほうけつ)の雲のうへ忘れたてまつらざれば、余香(よきやう)をば拝する心ざしも、ふかきにかはらずぞおぼえし。草の原よりいでし月かげ、ふけ行くままにすみのぼり、葉ずゑにむすぶ白露は、玉かと見ゆる心ちして、
雲のうへにみしも中々月ゆゑの 身の思ひではこよひなりけり
涙にうかぶ心ちして、
くまもなき月になりゆくながめにも なほおもかげは忘れやはする
あけぬれば、さのみ野原にやどるべきならねばかへりぬ。
さても、隅田川原ちかきほどにやと思ふも、いと大きなる橋の、きよみづ、ぎをんの橋のていなるをわたるに、きたなげなき男、二人あひたり。「このわたりに隅田川といふ川の侍るなるは、いづくぞ」と問へば、「これなんその川なり。この橋をば、すだのはしと申し侍る。むかしは橋なくて渡しぶねにて人をわたしけるも、わづらはしくとて橋いできて侍る。隅田川(すみだがは)などは、やさしきことに申し置きけるにや、しづがことわざには、すだがはのはしとぞ申し侍る。この川のむかへをば、むかしはみよしののさとと申しけるが、しづがかりほす稲と申す物に実のいらぬ所にて侍りけるを、時の国司、里の名をたづねききて、ことわりなりけりとて、よしだのさとと名をらためられてのち、稲うるはしく実もいり侍る」など語れば、業平の中将、都鳥にこととひけるも思ひいでられて、鳥だに見えねば、
たづねこしかひこそなけれすみだ川 すみけんとりのあとだにもなし
川ぎりこめて、こしかたゆくさきも見えず、なみだにくれてゆくをりふし、くもゐはるかに鳴くかりがねのこゑも、をり知りがほにおぼえ侍りて、
旅の空なみだにくれて行く袖を こととふかりのこゑぞかなしき
堀兼の井は跡もなくて、ただ枯れたる木の一つのこりたるばかりなり。これより奥さままでも行きたけれども、恋路のすゑにはなほ関守(せきもり)も許しがたき世なれば、よしや中々と思ひかへして、又都のかたへかへりのぼりなんと思ひて、鎌倉へかへりぬ。
九一 なみだ川
正応三年九月十余日。帰京のため鎌倉を出発する前夜、飯沼の左衛門の尉が訪ねて来て、終夜継歌をした事。

とかくすぐるほどに、なが月の十日余りのほどに、都へ返りのぼらんとするほどに、さきになれたる人々、めんめんになごりをしみなどせし中に、あかつきとてのくれかた、飯沼の左衛門の尉、さまざまの物ども用意して、いま一度(いちど)つぎ歌すべしとてきたり。なさけもなほざりならずおぼえしかば、よもすがら歌よみなどするに、「なみだ川と申す川は、いづくに侍るぞ」といふことを、さきのたび、たづね申ししかども、知らぬよし申して侍りしを、よもすがらあそびて、「あけばまことにたち給ふやは」といへば、「とまるべきみちならず」といひしかば、かへるとて、さかづきすゑたる折敷(をしき)に書きつけて行く。
我が袖にありけるものを涙川 しばしとまれといはぬちぎりに
返しつかはしやするなど思ふほどに、又たちかへり、たびのころもなどたまはせて、
きてだにも身をばはなつなたび衣 さこそよそなる契りなりとも
鎌倉のほどは、常にかやうによりあふとて、あやしく「いかなる契などぞ」と申す人もあるなど聞きしも、とりそへ思ひいでられて、返しに、
ほさざりしそのぬれ衣もいまはいとど 恋ひん涙にくちぬべきかな
都をいそぐとしはなけれども、さてしもとどまるべきならねば、朝日とともに、あけすぎてこそたち侍りしか。
九二 帰京
九月十余日に鎌倉を立って、月末、京都に到着。途中、さやの中山で西行の歌を思うて詠歌。熱田社で写経をしようと思ったが、大宮司が、とかく故障を申すので着手せぬうちに病にかかったので、そのまま帰京した事。

めんめんにしゆくじゆくヘ、しだいに輿にて送りなどして、ほどなく小夜(さや)の中山(なかやま)にいたりぬ。西行が、「いのちなりけり」とよみける思ひいでられて、
こえゆくもくるしかりけりいのちありと 又とはましやさやのなか山
熱田の宮にまゐりぬ。通夜(つや)したるほどに、修行者どもの侍る、「大神宮より」と申す。「ちかく侍るか」といへば、津島のわたりといふわたりをしてまゐるよし申せば、いとうれしくてまゐらんと思ふほどに、宿願(しゆくぐわん)にて侍れば、まづこのやしろにて華厳経ののこり、いま三十巻(くわん)を書きはてまゐらせんと思ひて、なにとなく鎌倉にてちと人のたびたりし旅衣(たびごろも)など、みなとりあつめて、又これにて、経をはじむべき心ちせしほどに、熱田の大宮司とかやいふ者、わづらはしく、とかく申すことどもありて、かなふまじかりしほどに、とかくためらひしほどに、例の大事にやまひおこり、わびしくて、なにのつとめも、かなひがたければ、都へ返りのぼりぬ。
九三 和光同塵
九月の末に都に帰ったが、何となく落ちつかず、むしろ煩わしい気がしたので、十月末頃奈良の方へ出かける。春日神社に参籠して真喜僧正(実は林懐僧都)の説話を思い浮べる。この説話は春日権現霊験記第十巻、及び漸入仏道集に大略次の如きものである。一条院の御時に興福寺の別当真喜僧正の弟子に林懐僧都という人があった。春日社に参詣して、自分の到達した法味を心静かに捧げていると、折から宮人が鼓を鳴らし鈴を振り、我が念誦を妨げたので、心のうちに誓った事は、我もし立身して、興福寺の別当とならば、社頭の音楽を停止しようと。その後林懐は興福寺別当となった。そこで春日社の音楽を停めたところ、夢に春日明神が現れ給うて、ひどく林懐をお叱りになった。林懐は恐縮して、もとの如く音楽を奏する事にした。  これによると「問はず語り」は林懐と真喜を取りちがえて居るのである。

十月のすゑにや、都にちとたちかくれたるも、中々むつかしければ、奈良のかたは藤の末葉にあらねばとて、いたくまゐらざりしかども、都とほからぬも、遠きみちにくたびれたるをりからはよしなど思ひてまゐりぬ。たれを知るといふこともなければ、ただ一人まゐりて、まづ大宮を拝みたてまつれば、二階の楼門のけいき、四社、いらかをならべ給ふさま、いとたふとく、みねのあらしのはげしきにも、煩惱(ぼんなう)のねぶりを、おどろかすかときこえ、ふもとに流るる水のおと、生死(しやうじ)のあかをすすがるらんなど思ひつづけられて、また若宮へまゐりたれば、をとめごがすがたも、よしありて見ゆ。夕日は御殿の上にさして、みねのこずゑにうつろひたるに、若きみこ二人、御あひにて、たびたびする氣色なり。こよひは若宮のめんだうの通夜して聞けば、夜もすがら、めんめんに物かぞふるにも、狂言綺語(きやうげんきぎよ)をたよりとして導き給はんの御心ざしふかくて、和光のちりにまじはり給ひける御心、いまさら申すべきにあらねども、いとたのもしきに、「喜多院住侶(きたゐんぢゆうりよ)林懷僧正の弟子(でし)眞喜僧正とかやの、鼓(つづみ)の音、すずのこゑに、行(おこなひ)をまぎらかされて、「我もし六宗の長官ともなるならば、つづみの音、すずのこゑ長くきかじ」と誓ひて、宿願相違なく寺務(じむ)をせられけるに、いつしか思ひしことなれば、拝殿の神樂を長くとどめられにけり。あけのたまがきも物さびしく、きねはなげきもふかけれども、神慮(しんりよ)にまかせてすぎけるに、僧正、「今生(こんじやう)の望(のぞ)みは殘る所なし。薫修正念(くんじゆしやうねん)こそ今は望む所なれ」とて、又こもり給ひつつ、我が得る所の法味を心のままに手向けしに、明神、ゆめのうちにあらはれて、「法性(ほつしやう)の山をうごかして、生死(しやうじ)のちりに身をすて、むちのなんしの後生菩提をあはれみ思ふ所に、つづみのこゑ、すずのおとをとどめて、結縁(けちえん)を遠ざからしむるうらみ、やるかたもなければ、汝が法味を我うけず」と示し給ひけるにより、いかなる訴訟(そしやう)なげきにも、これをとどむることなしと申すをきくにも、いよいよたのもしく尊くこそおぼえ侍りしか。
九四 菊の籬
法華寺を訪ねて、藤原冬忠公の女で今は尼となっている寂円坊と人生を語り合い、自分もこうう所に暫く住んでみようと思ったが、思いかえして興福寺へ引きかえす途中、春日神社の神官中臣祐家の家の前を通り、籬の菊に歌を結びつけたのが縁で、暫くそこに滞在する。

あけぬれば、法花寺へたづね行きたるに、冬忠のおとどの女、寂円房と申して一のむろといふ所に住まるるにあひて、生死無常(しやうじむじやう)のなさけなきことわりなど申して、しばしかやうの寺にも住まひぬべきかと思へども、心のどかに学問などしてありぬべき身の思ひとも、我ながらおぼえねば、ただいつとなき心のやみにさそはれいでて、また奈良の寺へゆくほどに、春日の正のあづかり、祐家(すけいへ)といふ者が家に行きぬ。たれがもととも知らですぎ行くに、むねかどのゆゑゆゑしきが見ゆれば、堂などにやと思ひて、たち入りたるに、さにてはなくて、よしある人のすまひとみゆ。庭に菊のまがき、ゆゑあるさまして、うつろひたるにほひも、ここのへにかはる色ありともみえぬに、若き男一二人いできて、「いづくより通る人ぞ」などいふに、「都のかたより」といへば、「かたはらいたき菊のまがきも、めはづかしく」などいふもよしありて、「祐家(すけいへ)が子、權のあづかり祐永(すけなが)などぞ、この男はいふなる。祐敏(すけとし)美濃の權の守おとといなり。
ここのへのほかにうつろふ身にしあれば 都はよそにきくのしら露
と、ふだに書きて菊につけて出でぬるを、見つけにけるにや、人をはしらかして、やうやうに呼びかへして、さまざまもてなしなどして、「しばしやすみてこそ」などいへば、れいの、これにも又とどまりぬ。
九五 当麻の曼荼羅
聖徳太子にゆかりの深い、中宮寺・当麻寺・磯長の太子綾などを巡拝する。中宮寺では、昔院の御所で顔見知りの信如坊が寺主である。信如坊は作者を忘れている様子だから、あえて名乗りはしなかったが、親切にもてなされて暫く滞在する。当麻寺は、そこに伝わる蓮糸の曼荼羅が名高い。作者はその由来をここに記している。太子綾では折もよくその寺で如法経書写が行われていた。ちょうどよい所へ参り合わせて仏縁を結ぶことのできたのが嬉しく、小袖を一つ布施して帰る。

中宮寺といふ寺は聖徳太子の御旧蹟、そのきさきの御願(ごぐわん)などきくもゆかしくて参りぬ。長老は、信如房(しんによぼう)とて、むかし御所さまにては見し人なれども、年のつもるにや、いたく見知りたるともなければ名のるにもおよばで、ただかりそめなるやうにてよりしかども、いかに思ひてやらん、いとほしくあたられしかば、またしばしこもりぬ。
法隆寺より当麻(たいま)へ参りたれば、横佩(よこはき)大臣(おとど)のむすめ、生身(しやうじん)の如來を拝みまゐらせんとちかひてけるに、あま一人きたりて、「十たんのはすのくきをたまはりて、極樂の荘厳(しやうごん)織りて見せまゐらせん」とて、乞ひて、糸をひきて、染の井戸の水にすすげば、このいと五色(ごしき)にそまりけるをぞ、したためたる所へ、女房一人きたりで、あぶらをこひつつ、亥の時より寅の時に織りいだしてかへり給ふを、坊主(ぼうず)、『さても、いかにしてか又あひたてまつるべき』といふに、
往昔迦葉説法所(わうじやくかせふせつぱふしよ) 今來法基作佛事(こんらいほふきさんぶつし) 卿懇西方故我來(きやうこんさいはうこがらい) 一入是場永離苦(いちじゆぜぢやうえうりく)
とて西方(さいはう)をさしてとびさり給ひぬと書きつたへたるも、ありがたくたふとし。
太子の御墓は、石のたたずまひも、まことに、さるみささぎとおぼえて心とどまる。をりふし、如法経(によほふきやう)を行ふも、結縁(けちえん)うれしくて、小袖を一つまゐらせて帰り侍りぬ。
九六 めぐりあひ
この段から一〇四段までの九段はすべて正応四年中の事である。その内容を表示すれば、
(1) 八幡で後深草院にめぐり逢った事。(本段)
(2) 熱田神宮に通夜している時、社殿が炎上した事。(九七段)
(3) 伊勢に行き外宮を参拝し、その宮人たちと和歌の交りを結ぶ。(九八・九九段)
(4) 内宮を参拝し、その宮人たちと和歌の交りを結ぶ。(一〇〇段)
(5) 二見の浦に遊ぶ。(一〇一段)
(6) 伊勢の祭主にゆかりある得選「照る月」という者が、作者が二見に滞在している事を院に申しあげたので、院から、今一度逢いたいとの御文が来る。(一〇二段)
(7) 伊勢から帰り、熱田で写経の宿願を遂げる。(一〇三・一〇四段)
右の通りであるが、この記述の順序には史実と一致せぬところがある。即ち熱田社炎上は正応四年二月二日で、後深草院八幡御幸は四月廿六日から七日間であった。これは続史愚抄に記すところであり、二月二日以前に院が八幡へ御幸される暇はなかった。それ故前掲の (1) (1) は逆にしなければ史実に合わない。思うに、作者は先年から周遊していた奈良を引上げ、四月末に京都へ帰る途中八幡で院にめぐり逢い、京都へ帰ると直ぐ熱田へ行って見たが、去る二月炎上した跡が生々しい状態で、写経などできそうもないから、津島の渡りをして伊勢に行き大神宮を参拝する。伊勢には一個月ほど居たであろう。伊勢に居る事を聞かれた院は、今一度会いたいとの御文をつかわされたが、作者は御返事を差しあげただけで、心は動かさなかった。その後伊勢を引上げ、熱田で写経をとげ、京に帰る。これが事実であろう。ところがここには、「二月の頃にや、都へ帰りのぼるついでに八幡に参りぬ」と書いてある。これでは八幡で院に邂逅したのが二月であるという事になる。しかし史実では院の八幡行幸は前記の如く四月末である。思うに「二月の頃にや」は次段に書く熱田炎上が二月の大事件であったので、それに引かれたのであろう。しかも作者はこの事件を目撃したかの如く記して文に生彩あらしめようとの創作意識から、実際には四月末院に邂逅した直後熱田に参って、なまなましい焼跡を見、炎上当時の話を聞かされ、それを実見の如くに書いたものであろう。事実として、昨年から奈良にいた作者が、奈良から帰途、四月末に八幡へ立寄ったのだから、二月に熱田にいたはずはない。

かやうにしつつ年もかへりぬ。二月のころにや、都へかへりのぼるついでに八幡へ参りぬ。奈良より八幡へは道のほど遠くて、日のいるほどにまゐりつきて、猪(ゐ)の鼻(はな)をのぼりて宝前(はうぜん)へまゐるに、石見(いはみ)の国の者とて、ひきうどの参るを行きつれて、「いかなる宿縁(しゆくえん)にてかかるかたは人(びと)となりけんなど思ひ知らずや」といひつつゆくに、馬場殿の御所あきたり。検校(けんげう)などが、こもりたるをりも、「あけばかならず御幸(ごかう)」など言ひきかする人も、道の程にてもなかりつれば、思ひもよりまゐらせで過ぎ行くほどに、楼門をのぼる所へ、召次(めしつぎ)などにやとおぼゆる者いできて、「馬場殿の御所へまゐれ」といふ。「たれかわたらせ給ふぞ。たれと知りて、さることをうけたまはるべきことおぼえず。あのひきうどなどがことか」といへば、「さも候はず、まがふべきことならず、おことにて候ふ。をととひより、富小路殿(とみのこうぢどの)の一院、御幸にて候ふ」といふ。ともかくも物も申されず。年月は心のうちに忘るる御ことはなかりしかども、一とせ、今はと思ひすてしをり、京極殿のつぼねより参りたりしをこそ、この世のかぎりとは思ひしに、こけのたもと、こけのころも、しも雪あられにしほれはてたる身のありさまは、たれかは見しらんと思ひつるに、たれか見知りけんなど思ひて、なほ御所よりの御こととは思ひよりまゐらせで、女房たちの中に、あやしと見る人などのありて、ひがめにやとて問はるるにこそなど案じゐたるほどに、北面の下臈一人、はしりて、とくといふなり。なにとのがるべきやうもなければ、北のはしなる御妻戸(おんつまど)の縁(えん)に候へば、「中々人の見るも目だたし、うちへいれ」とおほせある御こゑは、さすが昔ながらに変らせおはしまさねば、こはいかなりつることぞと思ふより、むねつぶれて、すこしもうごかれぬを、「とくとく」とうけたまはれば、中々にてまゐりぬ。
「ゆゆしく見わすられぬにて、年月へだたりぬれども忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などよりはじめて、むかしいまの事ども、うつり変かは世のならひ、あぢきなくおぼしめさるるなど、さまざまうけたまはりしほどに、寝ぬにあけゆくみじかよは、ほどなくあけゆく空になれば、「御こもりのほどは、かならずこもりて、又も心しづかに」などうけたまはりて、たち給ふとて、御はだにめされたる御小袖を三つぬがせおはしまして、「人しれぬかたみぞ、身をはなつなよ」とて賜はせし心のうちは、こしかた行くすゑのことも、来ん世のやみも、よろづ思ひわすれて、かなしさもあはれさも、なにと申しやるかたなきに、はしたなくあけぬれば、「さらばよ」とて、ひきたてさせおはしましぬる御なごりは、御あとなつかしく、にほひちかきほどの御うつりがも、すみぞめのたもとにとどまりぬる心ちして、人目あやしく目だたしければ、御かたみの御小袖、をすみぞめのころものしたにかさぬるも、びんなくかなしきものから、
かさねしもむかしになりぬ恋衣 いまは涙にすみぞめの袖
むなしく残る御おもかげを、袖のなみだにのこしてたち侍るも、夢に夢みる心ちして、けふばかりも候ひて、いま一(ひと)たびも、のどかなる御ついでもやなど思ひまゐらせながら、うきおもかげも、おもひよらずながらは、ちからなき身のあやまりともおぼしめされぬべし。あまりにうちつけにとどまりて、又の御言(おんこと)の葉(は)をまちまゐらせがほならんも、思ふ所なきにもなりぬべしなど、心に心をいましめて、都へいづる心の中、さながらおしはかるべし。
御宮めぐりをまれ、いま一(ひと)たびよそながら見まゐらせんと思ひて、すみぞめのたもとは、御覧じもぞつけらるると思ひて、たまはりたりし御小袖を上に着て、女房の中にまじりて見まゐらするに、御裘代(おんきうたい)のすがたも、昔にはかはりたるも、あはれにおぼえさせおはしますに、きざはし、のぼらせおはしますとては、資高(すけたか)の中納言、侍従の宰相と申ししころにや、御手をひきまゐらせていらせおはします。「おなじたもとなつかしく」など、さまざまうけたまはりて、いはけなかりし世のことまで、かずかずおほせありつるさへ、さながら耳のそこにとどまり、御おもかげは袖のなみだにやどりて、御山を出で侍りて都へと北へはうちむけども、我がたましひは、さながら御山にとどまりぬる心ちしてかへりぬ。
九七 熱田宮炎上
この段を二節に分けて見る。前節は作者が熱田社に通夜していた夜半頃、社殿が炎上した事。後節は焼け残った御記文に記されてあった熱田神宮縁起のあらましを聞き書きしたもの。この後節の文章はまぎらわしいから、次の事を心において読むがよい。「 」の中は御記文のあらまし、その中の『 』は天照大神の霊が倭姫命(やまとひめのみこと)にのりうつって仰せられた言葉である。さてこの段は前段の〔大意〕で考証した如く作為的なもので、二月に熱田へ行って炎上を実見した記ではなく、四月末に八幡で院に邂逅した後熱田へ行って炎上の跡を見たのを、実見の如くに記したものである。

さても都にとどまるべきならねば、こぞ思ひたちし宿願(しゆくぐわん)をも、はたしやすると、こころみに、また熱田の宮へまゐりつつ通夜をしたりし夜中ばかりに、御殿のうへに火もえあがりたり。宮人さわぎののしるさま、おしはかるべし。神火なれば凡夫(ぼんぷ)のけつべきことならざりけるにや、時のほどにむなしきけぶりとたちのぼり給ふに、あけゆけば、むなしき灰を、つくりかへしまゐらせんとて、たくみどもまゐる。大宮司、祝詞(のと)の師(し)など申す者どもまゐりたるに、あけずの御殿とて、神代のむかし、みづからつくりこもり給ひける御殿の、いしずゑのそばに、大物(だいもつ)ども、なほ燃ゆる炎(ほのほ)の、そばなるいいずゑにある漆(うるし)なるはこの、おもて一尺ばかり、長さ四尺ばかりなる、そへたちたり。みな人、不思議のおもひをなして見まゐらするに、祝詞(のと)の師(し)といふは、神にことさら御むつまじくみやづかふ者なりといふがまゐりて、とりあげたてまつりて、そばをちとあけまゐらせて見まゐらするに、赤地の錦のふくろに入らせ給ひたりとおぼゆるは、御つるぎなるらむと申して、八剣宮(はちけんぐう)の御やしろをひらきて納めたてまつる。
さても不思議なりしことには、「この御神は景行天皇即位(しよくゐ)十年、むれましましけるに、あづまのゑびすを降伏(かうふく)のために、勅(ちよく)をうけたまはりてくだり給ひけるに、伊勢大神宮にまかり申しに参り給ひけるに、『さきのむまれ、そさのをのみことたりし時、出雲の国にて八(や)またのをろちの尾のなかよりとりいでて、我にあたへしつるぎなり。不思議のふくろあり、これをかたきのためにせめられて、いのちかぎりと思はんをり、あけてみるべし』とて給ひしを、駿河の国、みかりのにして、野火の難にあふ時に、はき給ふつるぎ、おのれとぬけて、御あたりの草をきりすつ。そのをり、錦のふくろなる火うちにて火をうちいで給ひしかば、ほのほ、あだのかたへおほひ、まなこを暗がして、ここにてほろびぬ。そのゆゑ、この野を燒津野(やきつの)ともいひき。御つるぎをば草薙つるぎと申すなり」といふ御記文(ごきもん)のやけのこり給ひたるを、ちと聞きまゐらせしこそ、見しむばたまの夢の言葉、おもひあはせられて、不思議にも尊くもおぼえ侍りしか。 
 

 

九八 外宮参拝
熱田の写経を一先ず断念して伊勢に渡り、まず最初に外宮に参拝する。

かかるさわぎのほどなれば、経沙汰(きやうざた)もいよいよきげんあしき心ちして、津島のわたりといふことをして、大神宮にまゐりぬ。卯月の初めつかたの事なれば、なにとなく青みわたりたる木すゑも、やうかはりておもしろし。まづ新宮にまゐりたれば、山田の原の杉のむらだち、ほととぎすのはつねを待たんたよりも、ここをせにせんと、かたらひまほしげなり。
神だちといふ所に、一・二禰宜(ねぎ)より宮人ども祇候したる、すみぞめのたもとは憚りあることと聞けば、いづくにていかにと參るべきこととも知らねば、「二の御鳥居三には所といふへんまでは苦しからじ」といふ。
所のさま、いと神々(かうがう)しげなり。館(たち)のへんにたたずみたるに、男二三人、宮人とおぼしくて出できて、「いづくよりぞ」とたづぬ。「都のかたより結縁(けちえん)しにまゐりたる」といへぱ、「うちまかせては、その御すがたは、はばかり申せども、くたびれ給ひたる気色も、神もゆるし給ふらん」とて、うちへ入れて、やうやうにもてなして、「しるべしたてまつるべし。宮のうちへは、かなふまじければ、よそより」などいふ。
千枝(ちゑだ)の杉の下、御池(おいけ)のはたまでまゐりて、宮人、はらへかうがうしくして、ぬさをさして出づるにも、心のうちのにごりふかさは、かかるはらへにも清くはいかがと、あさまし。
かへさには、そのわたりちかき小家をかりてやどるに、「さてもなさけありて、しるべさへしつる人、たれならん」と聞けば、三の禰宜、行忠(ゆきただ)といふ者なり。これは館(たち)のあるじなり。しるべしつるは、当時の一禰宜の二郎、七郎大夫常良(つねよし)といふ」など語り申せば、さまざまのなさけも忘れがたくて、
おしなべてちりにまじはるすゑとてや こけのたもとになさけかくらん
ゆふしでのきれに書きて、さかきの枝につけてつかはし侍りしかば、
かげやどす山田の杉のすゑ葉さへ 人をもわかぬちかひとをしれ
九九 法楽舎
外宮に隠って経を読み仏道修行をしようと思って滞在する。その間に宮人たちと和歌・連歌の交りを結ぶ。別れに臨んで宮人度会常良と贈答する。この段の文章はやや複雑であるが、外宮に「七日こもりて生死の一大事をも祈誓申さん」と思ったのは作者の初めからの考えなのである。ただし外宮では経を読むことは宮の中ではなく、宮から離れた法楽舎という所と定められているので、毎日そこで読経し、夜は近くの観音堂に泊めてもらった。その七日間、仏道修行の傍ら、宮人たちと和歌・連歌の交りを結んだのも情あるここちがした、というのである。

これにまづ七日こもりて、生死(しやうじ)の一大事をも祈誓(きせい)申さんと思ひて侍るほど、めんめんに宮人ども歌よみておこせ、連歌いしいしにて明かしくらすも、なさけある心ちするに、うちまかせてのやしろなどのやうに、経をよむことは宮の中にてはなくて、法楽舎(ほうらくしや)といひて、宮のうちより四五丁のきたる所なれば、日ぐらし念誦(ねんじゆ)などして、暮るるほどに、それちかく、観音堂と申して、あまのおこなひたる所へまかりて、やどをかれば、かなはじとかたく申して、なさけなく追ひ出で侍りしかば、
世をいとふおなしたもとのすみぞめを いかなる色と思ひすつらん
前なる南天竹(なんてんちく)の枝を折りて、しでに書きて、つかはし侍りしかば、返しなどはせで、やどをかして、それより知る人になりて侍りき。七日もすぎぬれば、内宮へまゐらんとするに、はじめの先達(せんだち)せし常良(つねよし)、
いまぞ思ふみち行く人はなれぬるも くやしかりけるわかのうら浪
返しには、
なにか思ふみち行き人にあらずとも とまりはつべき世のならひかは
一〇〇 内宮参拝
内宮に参拝して七日間こもる。二の禰宜荒木田延成の後家から、わざわざ手紙があり、和歌の贈答をする。内宮を拝むにつけて、おのずから後深草院のことが思われ、玉体安穏を祈る。それにつけても、片時も院を忘れることのできない自分が、あわれに思われる。一の禰宜荒木田尚良と和歌を贈答する。

内宮には、ことさらすきものどももありて、かかる人の外宮にこもりたると聞きて、いつか内宮の神拝(しんぱい)に參るべきなど待たると聞くも、そぞろはしけれども、さてあるべきならねば参りぬ。岡田といふ所にやどりて侍るとなりに、ゆゑある女房のすみかあり。いつしか、わかきめのわらは、ふみを持ちて來たり。
なにとなく都ときけばなつかしみ そぞろに袖を又ぬらすかな
二のねぎ延成(のぶなり)が後家といふ者なりけり。「かまへて、みづから申さん」など書きたる、返事には、
わすられぬむかしをとへばかなしさも こたへやるべきことの葉ぞなき
またれて出づるみじかよの、月なきほどに、宮中へまゐるに、これもはばかるすがたなれば、みもすそ川のかは上より御殿(ごてん)を拝みたてまつれば、やへさかきも、ことしげくたちかさね、瑞垣(みづがき)玉垣、とほくへだたりたる心ちするに、この御やしろの千木(ちぎ)は、上一人(かみいちにん)をまぼらんとて、うへへそがれたるときけば、なにとなく玉体安穏(ぎよくたいあんのん)と申されぬるぞ、我ながらいとあはれなる。
おもひそめし心の色のかはらねば 千代とぞ君を猶いのりつる
神風すごく音(おと)づれて、みもすそ川のながれも、のどかなるに、かみぢ山を、わけ出づる月かげ、ここに光をますらんとおぼえて、我が国のほかまで思ひやらるる心ちして侍る。
神拝(しんぱい)ことゆゑなくとげて、下向(げかう)し侍るとて、神館(かんだち)の前を通るに、一(いち)のねぎ、尚良(ひさよし)がたち、ことさらに月さしいでてすごく見ゆるに、みなおろしこめて侍りしかば、「外宮をば月宮と申すが」とて、
月をなどほかのひかりとへだつらん さこそあさ日のかげにすむとも
さかきの枝に、しでに書きてむすびつけて、神館(かんだち)の縁(えん)に置かせて帰り侍りしかば、あけて見けるにや、宿所(しゆくしよ)へ又、さかきにつけて、
すむ月をいかがへだてんまきの戸を あけぬはおいのねぶりなりけり
一〇一 二見の浦
二見の浦歴覧の事。小朝熊宮の伝説の事。

これにも七日こもりて出で侍るに、「さても二見の浦はいづくのほどにか。御神、心をとどめ給ひけるも、なつかしく」など申すに、しるべ給ふべきよし申して、宗信(むねのぶ)神主(かんぬし)といふ者をつけたり。具してゆくに、清きなぎさ、まきゑの松、いかづちの蹴裂(けさ)き給ひける石など見るより、佐美(さみ)の明神と申すやしろは、なぎさにおはします。それより舟にのりて、答志(たふし)のしま、御饌(ごせん)の島、通るしまなど見に行く。御饌(ごせん)のしまとは、みるの多くおゆるを、この宮の禰宜まゐりてつみて、御神の御饌(ごせん)そなふる所なり。通るしまとは、うへに家(や)のむねのやうなる石、うつろにおほひたるなか、うみにて、舟をさしとほすなり。海漫々(かいまんまん)たる氣色(けしき)、いと見どころ多く侍りき。
まことや、小朝熊の宮と申すは、かがみつくりの明神の、天照大神(てんせうだいじん)の御すがたをうつされたりける御鏡を、人がぬすみたてまつりてとかや、ふちにしづめ置きまゐらせけるを、とりたてまつりて宝前に納めたてまつりければ、「我、苦海(くかい)のいろくづを、すくはんと思ふ願(ぐわん)あり」とて、みづから宝前より出でて岩の上に現はれまします。岩のそばに桜の木一ぽんあり。高潮(たかしほ)満つをりは、この木のこすずゑにやどり、さらぬをりは岩の上におはしますと申せば、あまねき御ちかひもたのもしくおぼえ給へて、一二日、のどかにまゐるべき心ちして、しほあひといふ所に、大宮司(おおみやづかさ)といふ者の宿所(しゆくしよ)にやどをかる。いとなさけあるさまに、ありよき心ちして又これにも二三日ふるほどに、「二見の浦は月の夜こそおもしろく侍れ」とて、女房さまもひきぐしてまかりぬ。まことに心とどまりて、おもしろくもあ、はれにも、いはんかたなきに、夜もすがらなぎさにてあそびて、明くればかへり侍るとて、
わすれじな清きなぎさにすむ月の あけゆく空にのこる面かげ
一〇二 得選照る月
伊勢出身の得選照る月という者が、作者が二見にいる事をどうして知ったのか、後深草院のお耳に入れた。すると院から「院の御所にゆかりのある女房から」という名儀で作者に文を遣わされた。作者は和歌を以てお返事する。

照る月といふ得選(とくせん)は、伊勢の祭主(さいしゆ)がゆかりあるに、なにとして、この浦にあるとはきこえけるにか、「院の御所に、ゆかりある女房のもとより」とてふみあり。思はずに不思議なる心ちしながらあけて見れば、「二見の浦の月になれて、雲井のおもかげは忘れはてにけるにや、思ひよらざりし御物がたりも、いま一たび」など、こまやかに御気色あるよし、申されしを、見し心のうち、我ながら、いかばかりともわきがたくこそ。御返しには、
おもへただなれし雲井の夜半の月 ほかにすむにもわすれやはする
一〇三 かへる浪路
熱田神宮も火災後の整理がついたであろうと思われるので、いよいよ写経の願を果しに行こうと思う。それで二見から一先ず外宮に帰り、暇乞いの参拝をして歌を捧げる。明日は出発というところへ、内宮の禰宜尚良から惜別の歌が送られ、更にその夜半ごろ、土産の絹と歌が贈られて来た。作者は早朝の船に乗るため、前夜大湊に行き、賤しい者の家に一宿して身の落魄を述懐する。その朝外宮の禰宜常良から歌が贈られ、返歌をする。

さのみあるべきならねば、外宮へかへりまゐりて、いまは世の中もしづまりぬれば、経(きやう)の願(ぐわん)をもはたしに、熱田の宮へ、かへりまゐらんとするに、御なごりも惜しければ、宮中に侍りて、
ありはてん身の行くすゑのしるべせよ うき世の中をわたらひの宮
あかつき、たたんとする所へ、内宮の一の禰宜尚良(ひさよし)がもとより、「このほどのなごり、思ひいでられ侍る。九月の御さいゑに、かならずまゐれ」などいひたりしも、なさけありしかば、
ゆくすゑもひさしかるべき君が代に 又かへりこんなが月のころ
心のうちのいはひは、人しり侍らじ。「君をも我をも祝はれたる返りごとは、いかが申さざるべき」とて、夜中ばかりに、きぬを二(ふた)まきつつみて、「伊勢しまの土産(どさん)なり」とて、
神かきにまつもひさしきちぎりかな 千とせの秋のなが月の頃
そのあかつきの、出潮のふねにのりに、よひより大湊(おほみなと)といふ所へまかりて、いやしき浦人が塩屋のそばに旅寢したるにも、「鵜のゐる岩のはざま、くじらのよるいそなりと、思ふ人だにちぎりあらば」とこそ、ふるきことの葉にもいひおきたるに、こはなにごとの身のゆくへぞ、まつとても又、うき思ひのなぐさむにもあらず、こえゆく山のすゑにも、あふさかもなし、など思ひつづけて、また出でんとするあかつき、夜ふかく、外宮の宮人常良(つねよし)がもとより、本宮へつくべきたよりぶみを、とりわすれたる、つかはすとて、
たちかへるなみぢときけば袖ぬれて よそになるみのうらのなぞうき
返し、
かねてよりよそになるみのちぎりなれど かへるなみにはぬるる袖かな
一〇四 熱田の写経
熱田で宿願の写経を果し京都に帰る。

熱田の宮には、造營のいしいしとて事しげかりけれども、宿願(しゆくぐわん)の、さのみほどふるもほいなければ、また道場したためなどして、華厳経の殘り三十卷を、これにて書きたてまつりて供養し侍りしに、導師なども、はかばかしからぬ田舎法師なれば、なにのあやめしるべきにもあらねども、十羅刹(じふらせつ)の法楽なれば、さまざま供養して、また京へのぼり侍りぬ。
一〇五 なみだこととふ暁
伏見の御所に召されて一夜院と語り明かした事。前段を正応四年と見たので。ここに「又の年の九月の頃」とあるから、この段は正応五年のわけであるが、五年九月九日には後深草院の生母大宮院の崩御があったから、後深草院が作者を伏見に召される事は考えられぬ。おそらくこれは永仁元年(正応六年)のことで、前段とすぐ続くのではあるまい。ただしこの辺の年立いついては、前々段から疑問があり、決定しかねる。

さても、思ひかけざりし男山の御ついでは、この世のほかまで忘れたてまつるべしともおぼえぬに、ひとつゆかりある人して、たびたびふるきすみかをも御たづねあれども、なにと思ひたつべきにてもなければ、あはれにかたじけなくおぼえさせおはしませども、むなしく月日をかさねて、又の年のなが月のころにもなりぬ。
伏見の御所に御わたりのついで、大かたも御心しづかにて、人知るべき便宜(びんぎ)ならぬよしを、たびたびいはるれば、思ひそめまゐらせし心わろさは、げにとや思ひけん、しのびつつ、しもの御所の御あたり近くまゐりぬ。しるべせし人いできて案内するも、ことさらびたる心ちしてをかしけれども、出御(しゆつぎよ)まちまゐらするほど、九体堂(くたいだう)のかうらんに、いでて見わたせば、世を宇治河の川浪も、袖のみなとによる心ちして、「浪ばかりこそよると見えしか」と、いひけんふるごとまで、思ひつづくるに、初夜すぐるほどに出でさせおはしましたり。くまなき月のかげに、見しにもあらぬ御おもかげは、うつるもくもる心ちして、いまだ二葉にて、あけくれ御ひざのもとにありし昔より、いまはと思ひはてし世のことまで、かずかずうけたまはりいづるも、我がふつごとながら、などかあはれもふかからざらん。「うき世のなかに住まんかぎりは、さすがにうれふることのみこそあるらんに、などやかくとも、いはで月日をすぐす」などうけたまはるにも、かくて世にふるうらみのほかは、なにごとか思ひ侍らん。そのなげき、この思ひは、たれにうれへてか慰むべきと思へども、申しあらはすべき言(こと)の葉(は)ならねば、つくづくとうけたまはりゐたるに、音羽の山の鹿のねは、涙をすすめがほにきこえ、即成院(そくじやうゐん)のあかつきの鐘は、あけ行く空を知らせがほなり。
鹿のねに又うちそへてかねのおとの 涙こととふあか月の空
心のうちばかりにてやみ侍りぬ。
一〇六 御心の色
前段では、伏見の御所で終夜院と語り明かした事を述べた。この段では、まず、夜も明けたので退出したことを言って、改めて筆を起し、昨夜の物語の主要な一節を取上げて細かに記す。ここに記された対話は、いかにも劇的で、院の作者に対する現世的愛着と、作者の院に対する永遠の思慕とがうかがわれる。

さても、夜もはしたなくあけ侍りしかば、なみだは袖にのこり、御おもかげは、さながら心のそこにのこしていで侍りしに、「さても、この世ながらのほど、かやうの月かげは、おのづからのたよりには必ずと思ふに、はるかに竜華(りゆうげ)のあかつきとたのむるは、いかなる心のうちのちかひぞ。又あづま・もろこしまでたづね行くも、おのこは常のならひなり、女はさはりり多くて、さやうの修行かなはずとこそきけ。いかなる者に、ちぎりをむすびてうき世を厭ふ友としけるぞ。ひとりたづねては、さりともいかがあらん。なみだがは袖にありと知り、菊のまがきを三笠の山にたづね、なが月の空を、みもすそ川にたのめけるも、みなこれ、ただかりそめの言(こと)の葉(は)にはあらじ。ふかくたのめ、ひさしくちぎるよすがありけむ。そのほか、又かやうの所々、具しありく人も無きにしもあらじ」など、ねんごろに御たづねありしかば、「ここのへの霞のうちを出でて、八重たつ霧にふみまよひしよりこのかた、三界無安猶如火宅(さんがいむあんゆによくわたく)、一夜とどまるべき身にしあらねども、欲知過去因(よくちくわこいん)つたなければ、かかるうき身を思ひしる。ひとたびたえにしちぎり、二たびむすぶべきにあらず。石清水(いはしみづ)のながれより出づといへども、今生(こんじやう)の果報たのむ所なしといひながら、あづまへくだり、はじめにも、まづ社壇を拝したてまつりしは八幡大菩薩のみなり。ちかくは心のうちの所願(しよぐわん)を思ひ、とほくは滅罪生善(めつざいしやうぜん)を祈誓す。正直のいただきをば照し給ふ御ちかひ、これあらたなり。
ひんがしは武蔵の国隅田川をかぎりにたづね見しかども、一夜のちぎりをも結びたること侍らば、本地弥陀三尊の本願にもれて、ながく無間(むげん)のそこにしづみ侍るべし。みもすそ川の清きながれをたづね見て、もし又、心をとどむるちぎりあらば、つたへきく胎金兩部(たいこんりやうぶ)の教主(けうしゆ)も、そのばち、あらたに侍らん。三笠の山の秋の菊おもひをのぶるたよりなり。もし又、奈良坂よりみなみに、ちぎりをむすび、たのみたる人ありて、春日のやしろへも参り出でば、四所大明神の擁護(おうご)にもれて、むなしく三途(さんづ)の八難苦をうけん。幼少のむかしは、二歳にして、母はわにわかれて、おもかげを知らざるうらみを悲しみ、十五歳にして父をさきだてしのちは、その心ざしをしのび、恋慕懐旧(れんぼくわいきう)の涙はいまだ袂(たもと)をうるほし侍る中に、わづかに、いとけなく侍りし心は、かたじけなう御(おん)まなじりをめぐらして、れんみんの心ざしふかくましましき。その御かげにかくされて、ちちははにわかれしうらみも、をさをさなぐさみ侍りき。やうやう人となりて、はじめて恩言(おんげん)をうけたまはりしかば、いかでか、これをおもく思ひたてまつらざるべき。つたなき心のおろかかなるは畜生なり。それなほ四恩をばおもくし侍る。いはむや人倫の身として、いかでか御なさけを忘れたてまつるべき。いはけなかりし昔は、月日のひかりにもすぎて、かたじけなく、さかりになりしいにしへは、ちちははのむつびよりも、なつかしくおぼえましましき。思はざるほかにわかれたてまつりて、いたづらに多くの年月を送りむかふるにも、御(み)ゆき臨幸(りんかう)に参りあふをりをりは、いにしへを思ふ涙も袂(たもと)をうるほし、叙位除目(じよゐぢもく)を聞きて、他の家の繁昌、朋輩の昇進を聞くたびに、心をいたましめずといふ事なければ、さやうの妄念(まうねん)しづまれば、涙をすすむるもよしなく侍るゆゑえ、思ひをもやさまし侍るとて、あちこちさまよひ侍れば、ある時は僧坊にとどまり、ある時は男の中にまじはる。
三十一字の言(こと)の葉(は)をのべ、なさけをしたふ所には、あまたの夜をかさね、日かずをかさねて侍れば、あやしみ申す人、都にも田舎(ゐなか)にもそのかず侍りしかども、修行者(しゆぎやうじや)と言ひ、ぼろぼろなど申すふぜいの者に行きあひなどして、心のほかなるちぎりを結ぶためしも侍るとかや聞けども、さるべきちぎりもなきにや、いたづらにひとりかたしき侍るなり。都のうちにもかかるちぎりも侍らば、かさぬる袖も二つにならば、さゆる霜夜の山かぜも、ふせぎ侍るべきに、それも又、さやうの友も侍らねば、待つらんと思ふ人しなきにつけては、花のもとにていたづらに日をくらし、もみじの秋は、野もせの虫の霜にかれゆくこゑを、わが身のうへと悲しみつつ、むなしき野べに草を枕としてあかす夜な夜なあり」など申せば、「修行のをりの事どもは、心きよく、千々のやしろにちかひぬるが、都のことには、ちかひがなきは、ふるきちぎりのなかにも、あらためたるがあるにこそ」と、又うけたまはる。「ながらへじとこそ思ひ侍れども、いまだ四(よ)そぢにだにみち侍らねば、行くすゑは知り侍らず。けふの月日のただいままでは、ふるきにも、あたらしきにも、さやうの事侍らず。もしいつはりにても申し侍らば、我がたのむ一乘法花の転読(てんどく)二千日におよび、如法写経のつとめ、みづから筆をとりてあまたたび、これさながら三途(さんづ)の津とぞとなりて、のぞむ所むなしく、なほし、竜花(りゆうげ)の雲のあかつきの空を見ずして、生涯(しやうがい)無間(むげん)のすみか消えせぬ身となり侍るべし」と申すをり、いかがおぼしめしけむ、しばし物もおほせらるることもなくて、ややありて、「なににも、人の思ひしむる心はよしなきものなり。
まことに、ははにおくれ、ちちにわかれにしのちは、我のみはぐくむべき心ちせしに、ことのちがひもてゆきしことも、げにあさかりけるちぎりにこそと思ふに、かくまでふかく思ひそめけるを知らずがほにてすぐしけるを、大菩薩、知らせそめ給ひにけるにこそ御山にてしも見いでけめ」など仰せあるほどに、西にかたぶく月は、山のはをかけている。ひんがしに出づる朝日かげは、やうやう、ひかり、さしいづるまでになりにけり。ことやうなるすがたも、なべてつつましければ、いそぎ出で侍りしにも、「かならず近きほどに今一度(いまいちど)よ」とうけたまはりし御こゑ、あらざらん道のしるべにやとおぼえて帰り侍りしに、還御(くわんぎよ)ののち、思ひかけぬあたりより御たづねありて、まことしき御とぶらひ、おぼしめしよりける、いとかたじけなし。思ひかけぬ御言(おんこと)の葉(は)にかかるだに、露の御なさけもいかでかうれしからざらん。いはんや、まことしくおぼしめしよりける御心の色、人しるべきことならぬさへ、置き所なくぞおぼえ侍りし。むかしより、なにごとも、うちたへて、人目にもこはいかになど、おぼゆる御もてなしもなく、これこそなどいふべき思ひいでは侍らざりしかども、御心ひとつには、なにとやらん、あはれはかかる御気のせさせおはしましたりしぞかしなど、すぎにしかたも、今さらにて、なにとなく忘れがたくぞ侍る。
一〇七 笠置寺
これで巻四は終るのであるが、巻五の初めは乾元元年(一二九三)と見たから、この段は、その八年間のある年に旅をした記である。その年をいつと知る事はできないが、「かくて年を経るほどに」とあるから、前段以後数年を経ての事と推測される。ただし起筆と同時に本文が脱落しているので一切不明である。脱落の理由も不明である。原本では巻四の第三十七枚目の紙のウラ三行まで書いて、しかもその行を満たさずにぽつりと切れ、そこに何の注記もない。あたかも巻四の書写を受持った人が、ここまで写して来て、ちょっと一服という形でそのままになっている。

かくて年をふるほどに、さても二見の浦は、御神もふたたびみそなはしてこそ、ふたみとも申すなれば、いま一度(いちど)まゐりもし、又、生死(しやうじ)のことをも祈誓(きせい)し申さむと思ひたちて、奈良より、いかほと申す所より、まかり侍りしに、まづ、かさおき寺と申す所をすぎ行 
■問はず語り 巻五

 

一〇八 須磨・明石・鞆の津
厳島参拝を思い立って都を出で、瀬戸内海を舟で行く。須磨に泊り、明石を経て鞆の津に泊る。その地の遊女が世を捨てて草庵生活をしているのが羨ましく、そこに一日二日滞在し、別れを惜しんでまた舟に乗る。さてこの旅は何年の事であったか。後に記される東二条院崩御(嘉元二年一月)、後深草院崩御(同年七月)から逆算して乾元元年九月と推定しておく。

さても安芸(あき)の国厳島(いつくしま)のやしろは、高倉の先帝(せんてい)も御幸(みゆき)し給ひけるあとのしらなみもゆかしくて思ひたち侍りしに、例の鳥羽(とば)より船にのりつつ、河尻(かはじり)より海のに乗りうつれば、浪のうへのすまひも心ぼそきに、ここは須磨の浦ときけば、行平の中納言、もしほたれつつわびけるすまひも、いづくのほどにかと、吹き越す風にも問はまほし。
なが月のはじめのことなれば、霜がれの草むらに、なきつくしたる虫の声、たへだへきこえて、岸にふねつけて泊りぬるに、千声万声(せんせいばんせい)の砧(きぬた)のおとは、夜寒(よざむ)の里にやとおとづれて、浪の枕をそばだてて聞くもかなしきころなり。明石の浦の朝霧に、島がくれゆくふねどもも、いかなるかたへとあはれなり。光源氏(ひかるげんじ)の、月毛の駒にかこちけむ心のうちまで、のこるかたなくおしはかられて、とかく漕ぎゆくほどに、備後(びんご)の国鞆(とも)といふ所にいたりぬ。なにとなく賑(にぎ)ははしきやどと見ゆるに、たいかしまとて、はなれたる小島あり。遊女の世をのがれて、いほりならべてすまひたる所なり。さしもにごりふかく、六つの道にめぐるべきいとなみをのみする家に生れて、衣裳に薫物(たきもの)しては、まづ語らひふかからむことを思ひ、わが黒髮をなでても、たが手枕(てまくら)にかみだれんと思ひ、暮るれば契(ちぎり)をまち、明くればなごりをしたひなどしてこそ過ぎこしに、思ひすてて籠りゐたるも、ありがたくおぼえて、「つとめにはなにごとかする。いかなるたよりにか発心せし」など申せば、ある尼申すやう、「われはこの島の遊女の長者(ちやうじや)なり。あまた傾城(けいせい)を置きて、めんめんのかほばせをいとなみ、道行人(みちゆきびと)をたのみて、とどまるをよろこび、漕ぎゆくをなげく。まだ知らざる人にむかひても、千秋万歳を契り、花のもと露のなさけに酔ひをすすめなどして、いそぢにあまり侍りしほどに、宿縁(しゆくえん)やもよほしけん、有為(うゐ)のねぶりひとたびさめて、二たびふるさとへかへらず。此の島にゆきて、朝な朝な花をつみにこの山にのぼるわざをして、三世(みよ)の仏(ほとけ)にたむけたてまつる」など言ふもうらやまし。これに一二日とどまりて、又こぎいでしかば、遊女どもなごりをしみて、「いつほどにか都へこぎかへるべき」などいへば、「いさや、これやかぎりの」などおぼえて、
いさやそのいくよあかしのとまりとも かねてはえこそおもひさだめね
一〇九 厳島参籠
厳島神社に参拝して、九月十二日の試楽、十四日の大法会を見る。厳島の神の本体は阿弥陀如来であると聞くにつけ、弥陀の本願に乗じて救われたいと願うのであるが、心中に濁りをもちながら願っている自分が、自分ながらもどかしく思われる。

かの島につきぬ。漫々たる波の上に、鳥居はるかにそばだち、百八十間の廻廊(くわいらう)、さながら浦の上にたちたれば、おびたたしく船どもも、この廊につけたり。大法会(だいほふゑ)あるべきとて、内侍といふ者、めんめんになどすめり。九月十二日、試楽(しがく)とて、廻廊めく海のうへに舞台(ぶたい)をたてて、御前の廊よりのぼる。内侍八人、みな色々の小袖に白き湯巻(ゆまき)をきたり。うちまかせての楽どもなり。唐の玄宗の楊貴妃が奏しける霓裳羽衣(けいしやううい)の舞のすがたとかや、聞くもなつかし。
会の日は、左右の舞、青く赤き錦の装束、菩薩のすがたにことならず。天冠をして、かんざしをさせる、これや楊妃(やうひ)のすがたならむと見えたる。くれゆくままに楽の声まさり、秋風楽(しうふうらく)、ことさらに耳にたちておぼえ侍りき。くるるほどに、はてしかば、多くつどひたりし人、みな家々にかへりぬ。御前(おんまへ)も物さびしくなりぬ。通夜したる人もせうせう見ゆ。十三夜の月、御殿のうしろの深山より出づる気色、宝前(はうぜん)の中より出でたまふに似たり。御殿(ごてん)の下まで潮(しほ)さしのぼりて、空にすむ月の影、又水の底にもやどるかと疑はる。法性有漏(ほつしやううろ)の大海に、随縁真如(ずゐえんしんによ)の風をしのぎて住まひはじめ給ひける御心ざしもたのもしく、本地(ほんぢ)阿弥陀如来と申せば、光明遍照(くわうみやうへんぜう)、十方世界(じつぱうせかい)、念仏衆生(ねんぶつしゆじやう)、摂取不捨(せつしゆふしや)、もらさずみちびき給へと思ふにも、にごりなきこころの中ならば如何(いか)にと、われながらもどかしくぞおぼゆる。
一一〇 足摺の観音
この段の内容は足摺観音の伝説が主となっている。この伝説を記すきっかけとして、まず船中で知り合った女に、我が家に立ち寄れと誘われ、自分はこれから足摺へ行きたいのだから、その帰途にと約束する。そして足摺への紀行は何も記さず、伝説だけを記しているおで、果して足摺へ行ったのか、希望だけで実行しなかったのかは確実でない。しかし以下、佐東の祇園社・白峰・松山などの巡歴を書いているから、それも紀行文として順路の光景などを詳しく記したものでなく、ただ事がらを羅列したものであるから、足摺旅行もその例であろう。

これにはいくほどの逗留もなくて、上り侍りし船のうちに、よしある女あり。「我は備後の国、和知(わち)といふ所の者にて侍る。宿願(しゆくぐわん)によりて、これへまゐりて候ひつる。すまひも御覧ぜよかし」などさそへども、「土佐の蹉※(あしずり)の岬と申す所がゆかしくて侍るときに、それへまゐるなり。かへさにたづね申さん」と契りぬ。
かの岬には、堂ひとつあり。本尊は観音におはします。へだてもなく、また坊主(ぼうず)もなし。ただ、修行者、ゆきかかる人のみ集まりて、上(うへ)もなく下(した)もなし。いかなるやうぞといへば、昔一人の僧ありき。この所に、おこなひてゐたりき。小法師一人つかひき。かの小法師、慈悲をさきとする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人来て、時(とき)・非時(ひじ)を食ふ。小法師、かならず我がぶんをわけてくはす。坊主いさめていはく、「一度二度にあらず。さのみ、かく、すべからず」といふ。又あしたの刻限(こくげん)に来たり。「心ざしは、かく思へども、坊主しかり給ふ。これより後は、なおはしそ。いまばかりぞよ」とて、また分けてくはす。いまの小法師いはく、「此のほどのなさけ忘れがたし。さらば我がすみかへいざ給へ。見に」といふ。小法師、かたらはれてゆく。坊主あやしくて、しのびて見送るに、岬にいたりぬ。一葉の船に棹(さを)さして南をさしてゆく。坊主泣く泣く、「われをすてて、いづくへゆくぞ」といふ。小法師、「補陀落世界(ふだらくせかい)へまかりぬ」と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、船の艦舳(ともへ)に立ちたり。心うく悲しくて、なくなくあしずりをしたりけるより、あしずりのみさきといふなり。岩に足跡とどまるといへども、坊主はむなしく帰りぬ。それより、へだつる心あるによりてこそ、かかるうきことあれとて、かやうにすまひたり、といふ。三十三身の垂戒化現(すゐかいけげん)、これにやといとたのもし。
一一一 松山・白峰
安芸のさとと(佐東か)の社に一夜泊り、次に讃岐の松山で写経した事を記す。厳島では九月十四日の大法会を見、その後、さととへ行って一泊し、そこから松山へ渡り、松山では九月末に写経をしていた。そして次段には十一月末に京への船の便宜あるに乗ったとある。十月・十一月の二個月は記事がない。この間に足摺の旅行があったのではなかろうか。

安芸のさととの社は牛頭天王(ごづてんわう)と申せば、祇園の御こと思ひ出でられさせおはしまして、なつかしくて、これには一夜とどまりて、のどかに、たむけをもし侍りき。
讃岐(さぬき)の白峰(しろみね)、松山などは、崇徳院の御跡もゆかしくおぼえ侍りしに、とふべきゆかりもあれば、こぎよせておりぬ。松山の法花堂は、如法おこなふけいき見ゆれば、沈み給ふともなどかとたのもしげなり。「かからむ後は」と、西行がよみけるも思ひ出でられて、「かかれとてこそむまれけめ」と、あそばされけるいにしへの御ことまで、あはれに思ひいでまゐらせしにつけても、
物おもふ身のうきことを思ひ出でば 苔の下にもあはれとはみよ
さても五部の大乗経の宿願(しゅくぐわん)、のこりおほく侍るを、この国にて又すこし書きまゐらせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに、ちいさき庵室をたづねいだして、道場にさだめ、懺法(せんぽふ)、正懺悔(しやうさんげ)などはじむ。長月のすゑのことなれば、虫のねもよわりはてて、なにを伴なふべしともおぼえず。三時の懺法(せんぽふ)を読みて、「慙愧懺悔六根罪障(ざんぎざんげろくこんざいしやう)」と唱へても、まづわすられぬ御言(おんこと)の葉(は)は、心の底にのこりつつ、さても、いまだをさなかりしころ、琵琶の曲を習ひたてまつりしに、給はりたりし御ばちを、四(よつ)の緒(を)をば思ひきりにしかども、御手なれ給ひしも忘られねば、法座のかたはらに置きたるも、
手になれし昔のかげはのこらねど かたみとみればぬるる袖かな
このたびは、大集経四十巻を、二十巻かきたてまつりて、松山に奉納したてまつる。経の程の事は、とかく、この国のしる人に言ひなどしぬ。供養には、一とせ御形見ぞとて、三つ給はりたりし御衣、一つは熱田の宮の経の時、しゆ行の布施にまゐらせぬ。このたびは供養の御布施なれば、これを一つ持ちて、布施にたてまつりしにつけても、
月出でん暁までの形見ぞと などおなじくは契らざりけむ
御はだなりしは、いかならむ世までもと思ひて残しおきたてまつるも、罪ふかき心ならむかし。
一一二 備後の国和知
帰京の船に乗ったが、海が荒れたので、先般、船中で知り合った備後の国の女の家を訪ねる。そこは地方の豪家であったが主人は情を解せぬ荒くれ者であった。折から、この主人の伯父である広沢与三入道が熊野詣でのついでに立寄る。

とかくするほどに、霜月のすゑになりにけり。京への船の便宜(びんぎ)あるも何となくうれしくて行くほどに、波風荒く雪あられしげくて、船も行きやらず、きもをのみつぶすもあぢきなくて、備後の国といふ所をたづぬるに、ここにとどまりたる岸より程近くきけば下りぬ。船のうちなりし女房、書きつけてたびたりし所をたづぬるに、ほど近く尋ねあひたり。何となくうれしくて、二三日ふるほどに、あるじがありさまを見れば、日ごとに男女(をとこをんな)を四五人具しもてきて、うちさいなむありさま、目もあてられず。こはいかにと思ふ程に、鷹狩とかやとて、鳥ども多くころしあつむ。狩(かり)とてししもてくるめり。おほかた、悪行深重(あくごふしんぢゆう)なる者なり。をりふし、鎌倉にある親しきものとて、広沢(ひろさわ)の与三(よさん)入道(にふだう)といふ者、熊野まゐりのついでに下るとて、家の中(うち)さわぎ、村郡(むらこほり)のいとなみなり。絹障子(きぬしやうじ)を張りて、絵をかきたがりし時に、なにと思ひわくこともなく、「絵の具だにあらば、かきなまし」と申したりしかば、鞆(とも)といふ所にありとて取りにはしらかす。よにくやしけれども力なし。持てきたれば書きぬ。よろこびて、「いまはこれにおちとどまり給へ」などいふも、をかしくきくほどに、この入道とかや来たり。大かた、何とかなどもてなすに、障子の絵を見て、「田舎(ゐなか)にあるべしともおぼえぬふでなり。いかなる人のかきたるぞ」といふに、「これにおはしますなり」といへば、「さだめて歌などよみ給ふらん。修行のならひ、さこそあれ。見参(げざん)にいらん」などいふもむつかしくて、熊野まゐりときけば、「のどかに、このたびの下向に」など、いひまぎらかしてたちぬ。
一一三 江田の里
作者が最初に訪ねたのは和知の家であったが、その家の主人の兄が江田に住んでいる。作者は江田へ招かれてそこに滞在することになった。和知の主人がそれを怒って大事件になり、作者の身が危険になった。そこへ熊野から広沢入道が下向して来た。作者が入道に逢って見ると、それは先年鎌倉滞在中、連歌の席に一座した者であった。奇遇というべきであるが、作者はこれによって難をのがれることができた。

このついでに、女房二三人きたり。江田(えだ)といふ所に、此のあるじの兄のあるが、むすめよするなどありとて、「あなたさまをも御覧ぜよ」「絵のうつくしき」などいへば、このすまひも、あまりにむつかしく、都へは、この雪に叶はじといへば、年のうちもありぬべくやとて、何となく行きたるに、この和知のあるじ、思ふにもすぎてはらだちて、「我、としごろの下人を逃したりつるを、厳島にて見つけてあるを、また江田へかどはれたるなり。うちころさむ」などひしめく。こはなにごとぞと思へども、「物おぼえぬ者は、さるちうようにもこそあれ。なはたらきそ」などいふ。
この江田といふ所は、若きむすめどもあまたありて、なさけあるさまなれば、何となく、心とどまるまではなけれども、さきのすまひよりは心のぶる心ちするに、いかなることぞと、いとあさましきに、熊野まゐりしつる入道、かへさに又下りたり。これに、かかる不思議ありて、我が下人をとられたるよし、わが兄を訴(うた)へけり。此の入道はこれらがをぢながら、所の地頭とかやいふものなり。「とは、なにごとぞ。心えぬ下人沙汰(げにんざた)かな。いかなる人ぞ。物まゐりなどすることは常の事なり。都にいかなる人にておはすらん。はづかしく、かやうになさけなくいふらんことよ」など言ふときくほどに、これへ又くだるとてひしめく。このあるじ、ことのやういひて、「よしなき物まゐり人ゆゑに、兄弟(おととい)なかたがひぬ」といふをききて、「いと不思議なることなり」といひて、「備中の国へ人をつけて送れ」などいふもありがたければ、見参(げざん)して事のやうかたれば、「能(のう)はあだなるかたもありけり。御能(ごのう)ゆゑに、ほしく思ひまゐらせて申しけるにこそ」といひて、連歌し、続歌(つぎうた)などよみてあそぶほどに、よくよく見れば、鎌倉にて飯沼の左衞門が連歌にありし者なり。その事いひいだして、ことさらあさましがりなどして、井田(ゐた)といふ所へ帰りぬ。雪いとふりて、竹簀垣(たけすがき)といふ物したる所のさまも、ならはぬ心ちして、
世をいとふならひながらもたけすがき うきひしぶしはふゆぞかなしき
一一四 広沢の入道
乾元元年は備後の江田で年を越し、翌嘉元元年二月の末に江田を立って帰京の途につく。出発に当り広沢の与三入道と和歌を贈答し、都に着いたのは三月中の事と思われる。この段の末に「修行も物うくなり侍りて、なかすみして、時々侍り」とある文章は不明瞭であるが、「旅行もいやけがさして、じっと都に落ちつき、時々ちょっと出かけるくらいであった」の意に解しておく。

年もかへりぬれば、やうやう都のかたへ思ひたたむとするに、余寒なほはげしく、船もいかがと面々に申せば、心もとなく、かくゐたるに、きさらぎの末にもなりぬれば、このほどと思ひたつよしききて、この入道、井田といふ所より来て、続歌(つぎうた)などよみて、帰るとて、はなむけなど、さまざまの心ざしをさへしたり。これは、小町殿のもとにおはします中務宮の姫宮の御めのとなるゆゑに、さやうのあたりをも思ひけるにやとぞ、おぼえ侍りし。
これより、備中荏原(えはら)といふ所へまかりたれば、さかりと見ゆる桜あり。一枝をりて、おくりの者につけて、広沢の入道につかはし侍りし、
かすみこそたちへだつともさくら花 かぜのつてにはおもひおこせよ
二日の道を、わざと人してかへしたり。
花のみかわするるまなきことの葉を 心は行きてかたらざりけり
吉備津宮は都のかたなれば参りたるに、御殿のしつらひも社(やしろ)などはおぼえず、やうかはりたる宮ばらていに几帳などの見ゆるぞめづらしき。日もながく、風をさまりたる頃なれば、ほどなく都へかへり侍りぬ。
さても不思議なりしことはありしぞかし。この入道くだりあはざらましかば、いかなるめにかあはまし。主(しう)にてなしといふとも、たれか方人(かたうど)もせまし。さるほどには何とかあらましと思ふより、修行も物うくなり侍りて、なかすみして、時々侍る。
一一五 東二条院崩御
嘉元二年一月、東二条院の崩御を聞き、富小路御所に集まる人々の中に混って御様子をうかがう。遊義門院の御悲嘆が特に作者の心を打つ。前段で作者は、旅行も物うくなり、しばらく落ちつく事にしたと書いているが、どこに落ちついたのか明らかでない。この段で「都の方の事を聞くほどに」とあり、「折ふし近き都の住まひに侍れば」とあるから、京に近い所にいたのであろう。

都のかたのことなど聞く程に、むつきのはじめつかたにや、東二条院、御なやみといふ。いかなる御ことにかと、人しれずおぼつかなく思ひまゐらすれども、こととふべきかたもなければ、よそにうけたまはるほどに、いまはかなふまじき御ことになりて御所をいでさせおはしますよし、うけたまはりしかば、無常はつねのならひなれども、すみなれさせおはしましつる御すみかをさへ出でさせおはしますこそ、いかなる御事なるらんと、十善のゆかにならびましまして、あさまつりごとをも助けたてまつり、夜はともに世ををさめたまひし御身なれば、今はの御こともかはるまじき御事かとこそ思ひまゐらするに、などやなど、御おぼつかなく覚えさせおはしましし程に、はや、御事きれさせ給ひぬとてひしめく。
をりふし近き都の住まひに侍れば、何となく御所(ごしよ)さまの御様(おんやう)も御ゆかしくて、見まゐらせにまゐりたれば、まづ遊義門院、御幸(ごかう)なるべしとて、北面の下臈一二人、御車さしよす。今出川の右のおとども候ひ給ひけるが、御出でなどいひあひたるに、遊義門院、御幸(ごかう)まづいそがるるとて、御車よすると見まゐらすれば、又まづしばしとて、ひきのけてかへり入らせおはしますかとおぼゆること、二三度になれば、今はの御すがた、又はいつかと、御名残(おんなごり)をしくおぼしめさるる程もあはれに悲しく覚えさせおはしまして、あまた、物見る人どももあれば、御くるま近くまゐりて、うけたまはれば、「すでに召されぬと思ふほどに、又たちかへらせおはしましぬるにや」ときこゆ。召されて後も、ためしなき御心まどひ、よその袂もところせきほどにきこえさせおはしませば、心あるも心なきも袂をしぼらぬ人なし。
みやみや、わたらせおはしまししかども、みなさきだちまゐらさせおはしまして、ただ御一所わたらせおはしまししかば、かたみの御心ざし、さこそと思ひやりまゐらするも、しるく見えさせおはしまししこそ、かずならぬ身の思ひにもくらべられさせおはします心ちし侍りしか。
いまはの御幸(ごかう)を見まゐらするにも、昔ながらの身ならましかば、いかばかりかなど覚えさせおはしまして、
さてもかくかずならぬ身はながらへて いまはと見つる夢ぞかなしき
一一六 後深草法皇御悩
東二条院の崩御を悲しんでいるうちに同じ年の六月、後深草法皇御病気の噂が伝わり、次第に御重態との事。心配のあまり八幡に隠って武内の社の御千度を踏んで法皇の延命を祈る。

御葬送(ごそうそう)は伏見殿の御所とて、法皇の御方も、遊義門院の御方も入らせおはしましぬとうけたまはれば、御なげきもさこそとおしはかりまゐらせしかども、つたへし風も跡たへはてて後は、何として申し出づべきかたもなければ、むなしく心になげきて明かしくらし侍りしほどに、同じ年水無月(みなづき)のころにや、法皇、御なやみときこゆ。御おこり心ちなど申せば、人しれず、いまや、おちさせおはしましぬと、うけたまはると思ふほどに、御わづらはしうならせおはしますとて、閻魔天供(えんまてんく)とかや行はるるなど、うけたまはりしかば、ことがらもゆかしくて、まゐりて、うけたまはりしかども、たれに事とひ申すべきやうもなければ、むなしくかへり侍るとて、
夢ならでいかでかしらんかくばかり われのみ袖にかくる涙を
御日(おんひ)おこりにならせたまふ、いしいしと申す、御大事いでくべきなど申すをきくに、思ひやるかたもなく、いま一たび、この世ながらの御面影(おんおもかげ)を見まゐらせずなりなんことの悲しさなど思ひよる。あまりに悲しくて、七月一日より八幡(やはた)に籠りて武内(たけうち)の御千度(おせんど)をして、このたび、べちの御事なからんことを申すに、五日の夢に、日しよくといひて、あらはへいでじといふ、〔本のまま。ここより紙をきられて候。おぼつかなし。紙のきれたる所よりうつす。〕
一一七 西園寺邸訪問
西園寺邸に実兼を訪ねて面会を得ず。空しく帰る帰途、北野神社・平野神社に御身代りにならん事を祈る。再び西園寺邸を訪なう。今回は面会を得、院参の方策を授けられて帰る。

……めす。又御やまひの御様(おんやう)もうけたまはるなど思ひつづけて、西園寺へまかりて、「むかし御所さまに侍りし者なり。ちと見参(げざん)にいり侍らん」と案内すれば、墨染の袂をきらふにや、きと申し入るる人もなし。せめての事に、ふみを書きて持ちたりしを、「見参(げざん)に入れよ」といふだにも、きとは取りあぐる人もなし。夜ふくる程になりて、春王といふさぶらひ、一人出で来て、ふみとりあげぬ。年のつもりにや、きともおぼえ侍らず。「あさてばかり、かならずたちよれ」と仰せらる。なにとなくうれしくて、十日の夜、またたちよりたれば、「法皇御なやみ、すでにておはしますとて、京へ出で給ひぬ」といへば、いまさらなる心ちもかきくらす心ちして、右近の馬場をすぎゆくとても、北野(きたの)・平野(ひらの)をふしをがみても、「わが命に転じかへ給へ」とぞ申し侍りし。この願もし成就して、我もし露ときえなば、御(ご)ゆゑかくなりぬとも知られたてまつるまじきこそなど、あはれに思ひつづけられて、
君ゆゑにわれさきだたばおのづから 夢には見えよ跡のしらつゆ
ひるは日ぐらし思ひくらし、夜は夜もすがらなげきあかす程に、十四日夜、又北山へ思ひたちて侍れば、こよひは入道殿出であひ給ひたる。むかしの事なにくれおほせられて、「御なやみのさま、むげに頼みなくおはします」など語り給ふをきけば、いかでかおろかに覚えさせたまはむ。いま一度(いちど)、いかがしてとや申すと思ひては、まゐりたりつれども、何とあるべしともおぼえず侍るに、おほせられ出だしたりしこと、かたりて、「まゐれかし」と、いはるるにつけても、袖の涙も人目あやしければ、たちかへり侍れば、鳥辺野(とりべの)のむなしき跡とふ人、内野には所もなく行きちがふさま、いつかわが身もとあはれなり。
あだしのの草葉の露の跡とふと 行きかふ人もあはれいつまで 
 

 

一一八 後深草法皇崩御
七月十五日の夜、実兼をたよって院の御所に参り、わずかに院にお目にかかる。十六日のひるころ崩御。その夜、両六波羅の武士たちが御弔いに参る。作者は終夜庭にいて、月を眺めて悲しみ明かす。

十五夜、二条京極よりまゐりて、入道殿をたづね申して、夢のやうに見まゐらする。十六日のひるつかたにや、はや御こときれ給ひぬといふ。思ひまうけたりつる心ちながら、今はと聞きはてまゐらせぬる心ちは、かこつかたなく、かなしさもあ、はれさも、思ひやるかたなくて、御所へまゐりたれば、かたへには、御修法の壇(だん)こぼちて出づるかたもあり。あなたこなたに人はゆ行きちがへども、しめじめと、ことさら音もなく、南殿(なんでん)の灯籠(とうろ)も消たれにけり。春宮(とうぐう)の行啓は、いまだあかきほどにや、二条殿へなりぬれば、しだいに人の気はいもなくなりゆくに、初夜すぐる程に、六波羅、御とぶらひに参りたり。北は富小路おもてに、人の家の軒に松明(たいまつ)ともさせて並(な)みゐたり。南は京極おもての篝(かがり)の前に、床子(しやうじ)に尻(しり)かけて、手のもの二行にならみゐたるさまなど、なほゆゆしく侍りき。
夜もやうやうふけゆけども、かへらむ空もおぼえねば、むなしき庭にひとりゐて、むかしを思ひつづくれば、をりをりの御面影(おんおもかげ)ただいまのここちして、何と申しつくすべき言(こと)の葉(は)もなく悲しくて、月を見れば、さやかにすみのぼりて見えしかば、
くまもなき月さへつらきこよひかな くもらばいかにうれしからまし
釈尊入滅のむかしは、日月も光をうしなひ、心なき鳥獣(とりけだもの)までも、うれへたる色にしづみけるにと、げにすずろに、月にむかふながめさへ、つらくおぼえしこそ、われながら、せめての事と、思ひしられ侍りしか。
一一九 むなしき煙
七月十七日、終日御所にたたずみ、遠くからでも御棺を拝みたく思うたが叶わず、夜に入って御出棺、はだしで御葬送のあとを追い、遂に追いおくれて、夜明けがた、遙かに火葬の煙を拝す。十八日、伏見の御所に参り、遊義門院の御悲嘆を思いやりながらも、お目にかかるつてはなく、そのまま帰る。

夜もあけぬれば、たちかへりても、なほのどまるべき心ちもせねば、平中納言のゆかりある人、御葬送奉行と聞きしに、ゆかりある女房を知りたる事侍りしをたづねゆきて、「御棺(おくわん)を、遠(とほ)なりとも、いま一度(いちど)みせ給へ」と申ししかども、かなひがたきよし申ししかば、思ひやるかたなくて、いかなるひまにても、さりぬべきことやと思ふ。こころみに、女房のきぬをかづきて、日くらし御所にたたずめども、かなはぬに、すでに、御格子(みかうし)まゐる程になりて、御棺(おくわん)のいらせ給ひしやらん、御簾(みす)のとほりより、やはらたたずみよりて、火の光ばかり、さにやとおぼえさせおはしまししも、目もくれ心もまどひて侍りしほどに、ことなりぬとて、御車よせまゐらせて、すでに出でさせおはしますに、持明院殿の御所、門(もん)まで出でさせおはしまして、かへりいらせおはしますとて、御直衣(おんなほし)の御袖にて、御涙を払はせおはしましし御気色、さこそと悲しく見まゐらせて、やがて京極おもてより出でて、御車のしりにまゐるに、ひぐらし御所に候ひつるが、事なりぬとて御車のよりしに、あわてて、はきたりし物も、いづ方へかゆきぬらん、はだしにて、はしりおりたるままにて参りしほどに、五条京極を西へやりまはすに、大路(おほぢ)にたてたりしたけに御車をやりかけて、御車のすだれ、かたかたおちぬべしとて、御車副(みくるまぞひ)のぼりて、なほしまゐらするほど、つくづくと見れば、山科の中将入道そばにたたれたり。すみぞめの袖もしぼるばかりなる気色、さこそと悲し。ここよりやとまる、ここよりやとまると思へども、立ち帰るべき心ちもせねば、しだいにまゐるほどに、物ははかず、足はいたくて、やはらづつゆく程に、みな人には追ひおくれぬ。藤の森といふほどにや、男ひとりあひたるに、「御幸さきだたせおはしましぬるにか」といへば、「稲荷の御まへをば御通りあるまじき程に、いづかたへとやらん、まはらせおはしましてしやらん。こなたは人も候ふまじ。夜ははや寅になりぬ。いかにしてゆき給ふべきぞ。いづくへゆき給ふ人ぞ。あやまちすな、送らん」といふ。むなしく帰らんことの悲しさに、なくなく、ひとりなほまゐる程に、夜のあけしほどにや、ことはてて、むなしきけぶりのすゑばかりを見まゐらせし心の中、今まで世にながらふべしとや思ひけん。伏見殿の御所さまを見まゐらすれば、この春、女院の御かた御かくれのをりは、二御方(ふたおんかた)こそ御わたりありしに、このたびは女院の御かたばかりわたらせおはしますらん御心の中、いかばかりかと、おしはかりまゐらするにも、
露消えし後のみゆきのかなしさに むかしにかへるわがたもとかな
かたらふべきとぐちもさしこめて、いかにといふべきかたもなし。さのみ、まよふべきにもあらねば、その夕がたかへり侍りぬ。
一二〇 天王寺参籠
遊義門院が素服を召された事を聞くにつけても、昔嵯峨院崩御の時の自分が思い出されてたまらなく悲しいので、心をまぎらそうと、天王寺に参る。そこでは又、遊義門院の御悲しみが思い出される。

御素服(おんそふく)めさるるよし、うけたまはりしかば、むかしながらならましかばいかにふかくそめまし、後嵯峨院御かくれのをりは、御所に奉公せしころなりしうへ、故大納言おもふやうありてとて、御素服の中に申しいれしを、「いまだをさなきに、大かたのはえなき色にてあれかし」などまで、うけたまはりしに、そのやがて八月に、わたくしの色を着て侍りしなど、かずかず思ひ出でられて、
墨染の袖はそむべき色ぞなき おもひはひとつおもひなれども
かこつかたなき思ひのなぐさめにもやとて天王寺へ参りぬ。釈迦如来転法輪処など聞くもなつかしくおぼえて、のどかに経をも読みて、しばしは、まぎるるかたなくて候はんなど思ひて、ひとり思ひつづくるも悲しきにつけても、女院の御かたの御思ひ、おしはかりたてまつりて、
春きせしかすみの袖に秋ぎりの たちかさぬらん色ぞかなしき
一二一 御四十九日
御四十九日に伏見の御所に参る。伏見上皇もおいでになっていると聞いて、上皇がまだ東宮であられた昔の事などが思い出される。後深草院の御病中、御身代りに立ちたいと祈願したのに叶わなかった。それにつけて、三井寺の証空の昔話が思い出され、定業は神仏の力も叶わぬものと思いつづけながら伏見の御所から帰る。父の死が秋であったのに、また院の崩御が同じく秋であるにつけても、冥途の御旅が思いやられる。

御四十九日も近くなりぬれば、また都にかへりのぼりつつ、その日は、伏見の御所にまゐるに、御仏事はじまりつつ、おほく聽聞せし中に、わればかりなる心のうちはあらじとおぼゆるにも悲し。ことはてぬれば、めんめんの御布施どものやうも、けふとぢめぬる心ちして、いと悲しきに、ころしも長月のはじめにや、露も涙も、さこそあらそふ御事なるらめと、御簾(みす)のうちも悲しきに、持明院の御所、このたびは又おなじ御所とうけたまはるも、春宮にたち給ひて、角殿(すみどの)の御所に御わたりのころまでは見たてまつりし古(いに)しへも、とにかくに、あはれに、かなしきことのみ色そひて、「秋しもなどか」と、おほやけ、わたくし、おぼえさせ給ひて、かずならぬ身なりともと、さしもおもひ侍りしことのかなはで、いままで浮世(うきよ)にとどまりて、七つの七日(なぬか)にあひまゐらする、われながら、いとつれなくて、三井寺の常住院の不動は、智興内供(ちこうないぐ)が限りのやまひには、証空阿闍梨(しやうくうあざり)といひけるが、「主坊(しゆぼう)恩おもし、かずならぬ身なりとも」といひつつ、晴明(せいめい)にまつりかへられければ、明王(みやうわう)、命(いのち)にかはりて、「汝は師にかはる、われは行者(ぎやうじや)に代らん」とて、智興もやまひやみ証空も命(いのち)のびけるに、君の御恩、主坊(しゆぼう)の恩よりも深(ふか)かりき。申しうけし心ざしなどしも、むなしかりけん。苦(く)の衆生(しゆじやう)にかはらんために、御名(おんな)を八幡大菩薩と号すとこそ申しつたへたれ。かずならぬ身にはよるべからず。御心ざしの、なほざりなるにもあらざりしに、まことの定業(ぢやうごふ)は、いかなることも、かなはぬ御事なりけり、など思ひつづけて、かへりて侍りしかども、つゆまどろまれざりしかば、
かなしさのたぐひとぞきく虫のねも おいのねざめの長月の頃
ふるきをしのぶ涙はかたしく袖にもあまりて、父の大納言身まかりしことも、秋のつゆにあらそひ侍りき、かかる御あはれも又秋のきりとたちのぼらせ給ひしかば、なべて雲井もあはれにて、雨とやなり給ひけむ、雲とやなり給ひけん、いとおぼつかなき御たびなりしか。
いづかたの雲ぢぞとだに尋ねゆく などまぼろしのなき世なるらん
一二二 母の形見
大集経書写の費用を弁ずるため、まず母の形見の手箱を売る。

さても大集経、いま二十巻、いまだ書きたてまつらぬを、いかがして、この御百日の中にと思へども、身のうへの衣なければ、これをぬぐにもおよばず、命をつぐばかりのこと、もたざれば、これをさりてとも思ひたたず、思ふばかりなく、なげきゐたるに、我が二人の親のかたみにもつ、母におくれけるをり、「これにとらせよ」とて、平手箱(ひらてばこ)の、鴛鴦の丸(まる)をまきて、具足金(ぐぞくがね)まで同じもんにてし入れたりしと、又梨地(なしぢ)にせんきひしを高蒔(たかまき)にまきたるすずりぶたの、中には嘉辰令月(かしんれいげつ)と、手づから故大納言の文字(もじ)を書きて、かねにてほらせたりし硯となり。一期(いちご)はつくるとも、これをば、失はじと思ひ、いまはの煙にも共(とも)にこそと思ひて、修行に出でたつをりも、心ぐるしきみどり子を跡にのこす心ちして人にあづけ、かへりては、まづとりよせて、二人の親に逢ふ心ちして、手箱は、四十六年の年をへだて、硯は三十三年の年月をおくる。名残いかでかおろかなるべきを、つくづくと案じつづくるに、人の身に命にすぎたるたから何かはあるべきを、君の御ためにはすつべきよしを思ひき。いはんや有漏(うろ)のたから、つたゆべき子もなきに似たり。我が宿願(しゆくぐわん)成就せましかば、むなしくこの形見は人の家のたからとなるべかりき。しかじ、三宝に供養して君の御菩提にも回向し、二親のためにもなど思ひなりて、これをとり出でて見るに、年月なれし名残は、物言ひ笑ふことなかりしかども、いかでか、かなしからざらむ。をりふし、あづまのかたへよすがさだめてゆく人、かかる物をたづぬとて、三宝の御あはれみにや、思ふほどよりも、いと多くに、人とらむといふ、思ひたちぬる宿願(しゆくぐわん)、成就しぬる事はうれしけれども、手箱をつかはすとて、
ふたおやの形見と見つる玉くしげ けふわかれゆくことぞかなしき
一二三 大集経たてまつ納
この段には欠文があり、精しく解し得ないが、大集経の残り二十巻を東山双林寺のあたりで書写し、これを春日神社本宮の峰に納めた事が主文である。

九月十五日より東山(ひんがしやま)双林寺(さうりんじ)といふあたりにて、懺法(せんぽふ)をはじむ。さきの二十卷の大集経まで、〔以下脱落ト思ハル〕
をりをりも昔をしのび今をこふる思ひ、忘れまゐらせざりしに、今は一すぢに過去聖霊成等正覚(くわこしやうりやうじやうとうしやうかく)とのみ、ねてもさめても申さるるこそ、宿縁もあはれに、われながらおぼえ侍りしか。清水山(きよみづやま)の鹿のねは、わが身の友と聞きなされ、まがきの虫の声々は、涙こととふと悲しくて、う後夜(ごや)の懺法(せんぽふ)に、夜ふかくおきて侍れば、東よりいづる月影の西にかたぶくほどになりにけり。てらでらの後夜(ごや)も行ひはてにけるとおぼゆるに、双林寺のみねに、ただひとり行ひゐたるひじりの念仏のこゑすごくきこえて、
いかにしてしでの山路を尋ねみむ もしなきたまのかげやとまると
かのひじりやとひて、れうし水むかへさせに横川(よかは)へつかはすに、東坂本(ひんがしさかもと)へゆきて、我は日吉(ひよし)へまゐりしかば、むばにて侍りしものは、この御社にて神恩をかうぶりけるとて、つねにまゐりしに具せられては、〔ここより又かたなにてきりてとられ侯。返す返すおぼつかなし。〕
いかなる人にかなど申されしを聞くにもあはれはすくなからんや。深草の御墓へ奉納したてまつらむも、人目あやしければ、ことさら、御心ざしふかかりし御事、思ひいでられて、春日の御社へまゐりて、本宮のみねに納めたてまつりしにも、嶺の鹿のねも、ことさらをりしりがほにきこえ侍りて、
みねの鹿野原のむしの声までも おなじ涙の友とこそきけ
一二四 父の三十三回忌
嘉元二年、父の三十三回忌を営む。(父の忌日は八月の三日であるから、103段後深草院七七忌――九月五日――の前に置くべきであるが、文章の構成上ここに置いたのであろう)このたびの勅撰、新後撰集に亡父の歌が採られなかったことを悲しむ。亡父が夢にあらわれて歌道に精進せよと激励する。

さても、故大納言身まかりて今年(ことし)は三十三年になり侍りしかば、かたのごとく仏事などいとなみて、れいのひじりのもとへつかはしし諷誦(ふじゆ)に、
つれなくぞめぐりあひぬる別れつつ 十(とを)づつみつに三つあまるまで
神楽岡(かぐらをか)といふ所にて、けぶりとなりし跡を、たづねて、まかりたりしかば、旧苔(きうたい)露深(つゆふか)く道をうづみたる木の葉が下を分けすぎたれば、石の卒塔婆(そとば)、形見がほにのこりたるもいとかなしきに、さてもこのたびの勅撰には、もれ給ひけるこそかなしけれ。我(われ)世にあらましかば、などか申しいれざらむ。続古今よりこのかた、代々の作者(さくしや)なりき。また我が身のむかしを思ふにも、竹園(ちくゑん)八代の古風、むなしくたへなむずるにやと、かなしく、最期終焉(さいごしゆうえん)の言葉など、かずかず思ひつづけて、
ふりにけるなこそをしけれ和歌の浦に 身はいたづらにあまのすて舟
かやうにくどき申して帰りたりし夜、むかしながらのすがた、我(われ)もいいにしへのここちにて、あひむかひて、このうらみをのぶるに、「祖父久我の大相国は『落葉がうへのつゆの色づく』言葉をのべ、我(われ)は、『おのが越路も春のほかかは』と、いひしより代々の作者(さくしや)なり。外祖父兵部卿隆親は、鷲の尾の臨幸(りんかう)に、『けふこそ花の色はそへつれ』と詠み給ひき。いづかたにつけても、すてらるべき身ならず。具平親王よりこのかた家ひさしくなるといへども、わかのうらなみたえせず」などいひて、たちざまに、
なほもただかきとめてみよ藻鹽草 人をもわかずなさけあるよに
とうちながめて、たちのきぬとおもひて、うちおどろきしかば、むなしきおもかげは、袖のなみだにのこり、言の葉は、なほ夢のなくらにとどまる。
一二五 人丸御影供
人丸の墓に七日間通夜して夢想を蒙る。それは嘉元二年十月頃の事であろうが月日は不明。嘉元三年三月八日、人丸御影供を行う。

これよりことさらこの道をたしなむ心もふかくなりつつ、このついでに、人丸のはかに七日まゐりて、七日といふ夜、通夜(つや)して侍りしに、
契りありて竹の末葉にかけし名の むなしきふしにさてのこれとや
このとき一人の老翁、夢にしめし給ふ事ありき。この面影をうつしとどめ、このことの葉を記し置く。人丸講(ひとまろかう)の式(しき)と名づく。
先師の心にかなふ所あらば、この宿願成就せん、宿願成就せば、この式を用ゐて、かのうつしとどむる御影(みえい)のまへにしておこなふべしとおもひて、はこの底に入れて、むなしくすぐし侍るに、又のとしの三月八日、この御影(みえい)を供養して、御影供(みえいぐ)といふ事をとりおこなふ。
一二六 父のかたみ
嘉元三年五月、後深草院の一周忌の近づくにつけ、大乗経五部の写経の残り二部を思い立ち、その費用に当てるため、父の形見の硯を売る。

かくて五月のころにもなりしかば、故御所(こごしよ)の御(おん)はてのほどにもなりぬれば、五部の大乘経の宿願すでに三部は果(はた)しとげぬ。今二部になりぬ。あすをまつべき世にもあらず。二つの形見を一つ供養したてまつりて、父のを殘しても、なにかはせむ。いく世のこしても、中有(ちうう)のたびに伴なふべきことならずなど思ひよりて、又これをつかはすとて思ふ、ただの人の物になさむよりも、わがあたりへや申さましと思ひしかども、よくよく案ずれば、心の中の祈請(きせい)、その心ざしをば人しらで、世にすむちからつきはてて、今はなき跡のかたみまで、あすか河にながしすつるにやと思はれんことも、よしなしとおもひしほどに、をりふし、筑紫(つくし)のしよきやうといふ者が、鎌倉より筑紫(つくし)へくだるとて、京に侍りしが、聞きつたへて、とり侍りしかば、母の形見はあづまへくだり、ちちのは、にしの海をさしてまかりしぞ、いとかなしく侍りし。
するすみは涙のうみに入りぬとも ながれむすゑにあふせあらせよ
などおもひつづけて、つかはし侍りき。
一二七 御一周忌
嘉元三年五月に大品般若経の写経を始め、これを聖徳太子の御墓に参納して七月の初めに帰京。七月十六日、後深草院の御墓に参り、更に伏見の御所で行われた御一周忌に参る。

さてかの経を、五月の十日あまりのころより思ひたち侍るに、このたびは、河内のくに、太子(たいし)の御墓(おんはか)近き所に、ちとたち入りぬべき所ありしにて、また、大品般若経(だいぼんはんにやきやう)廿卷を書き侍りて、御墓へ奉納し侍りき。七月のはじめには、みやこへかへりのぼりぬ。御(おん)はての日にもなりぬれば、深草の御はかへまゐりて、伏見殿の御所へまゐりたれば、御仏事はじまりたり。しやくせんの僧正、御導師にて、院の御かたの御仏事あり。むかしの御手をひるがへして御身づかららあそばされける御経といふことをききたてまつりしにも、ひとつ御思ひにやと、かたじけなきことの、おぼえさせおはしまして、いとかなし。つぎに遊義門院の御布施(おんふせ)とて、憲基法印(けんきほふゐん)の弟、御導師にて、それも御手のうらにと、きこえし御経こそ、あまたの御事の中に、みみにたち侍りしか。かなしさも今日(けふ)とぢむべき心ちして、さしもあつく侍りし日影も、いと苦しからずおぼえて、むなしき庭にのこりゐて候ひしかども、御仏事はてしかば、還御(くわんぎよ)いしいしとひしめき侍りしかば、たれにかこつべき心ちもせで、
いつとなく乾くまもなき袂かな 涙もけふをはとこそきけ
持明院の御所、新院、御聽聞所(みちやうもんどころ)にわたらせおはします、御透影(おんすきかげ)見えさせおはしまししに、持明院殿は、御色(おんいろ)の御直衣ことに黒く見えさせおはしまししも、今日(けふ)をかぎりにやと悲しくおぼえ給ひて。又、院御幸ならせおはしまして一つ御聽聞所(みちやうもんどころ)へいらせおはしますを見まゐらするにも、御あとまで、御栄えひさしく、ゆゆしかりける御事かなとおぼえさせおはします。 
 

 

一二八 亀山院御悩
嘉元三年七月二十一日亀山法皇御病気重きにより嵯峨殿へ御幸。作者は般若経の残り二十巻を書写のため九月十日頃熊野に出立。

この程よりや、又法皇御なやみといふ事あり。さのみ、うちつづかせおはしますべきにもあらず。御悩(ごなう)は常のことなれば、これをかぎりと思ひまゐらすべきにもあらぬに、かなふまじき御ことに侍るとて、すでに嵯峨殿の御幸と聞ゆ。こぞ、ことしの御あはれ、いかなる御事にかと、およばぬ御ことながら、あはれにおぼえさせおはします。
般若経の残り廿巻を今年かきをはるべき宿願、年ごろ熊野にてと思ひ侍りしが、いたく水こほこほらぬさきにと思ひたちて、なが月の十日頃に熊野へたち侍りしにも、御所の御ことは、いまだおなじさまに承(うけたまは)るも、つひにいかがきこえさせおはしまさむなどは思ひまゐらせしかども、こぞの御あはればかりは嘆かれさせおはしまさざりしぞ、うたてき愛別(あいべち)なるや。
一二九 那智の写経
九月二十余日の頃、那智の御山で写経をする。写経も終りに近づいた頃、夢を見る。亡き父が傍にいて夢の中の事を一々説明してくれる。夢には去年崩御せられた後深草院、現存の遊義門院が姿を現わされなさって作者に好意を御示しになる。夢想の扇が枕に残っている。帰京して亀山院の崩御を聞く。やがて年が改まり嘉元四年(徳治元年)となる。

例(れい)のよひあかつきの垢離(こり)の水をせむ方便になずらへて、那智の御山にて、この経をかく。なが月の廿日あまりのことなれば、みねのあらしも、ややはげしく、滝のおとも涙あらそふ心ちして、あはれをつくしたるに、
物おもふ袖の涙をいくしほと せめてはよそに人のとへかし
かたみののこりをつくして、しやうゑ、いしいしと営(いとな)む心ざしを、権現も納受し給ひにけるにや、写経の日かずも残りすくなりしかば、御山をいづべきほども近くなりぬれば、御名残もをしくて、夜もすがら拝みなどまゐらせて、うちまどろみたるあかつきがたのゆめに、故大納言のそばにありけるが、「出御(しゆつぎよ)のなかば」と告ぐ。見まゐらすれば、鳥襷(とりだすき)を、浮織物(うきおりもの)に織りたる柿の御衣をめして、右のかたへちとかたぶかせおはしましたるさまにて、我は左のかたなる御簾よりいでて向ひまゐらせたる。証誠殿(しようじやうでん)の御社に入りたまひて、御簾(みす)をすこしあげさせおはしまして、うちゑみて、よに御心よげなる御さまなり。又「遊義門院の御方も出でさせおはしましたるぞ」と告げらる。見まゐらすれば、白き御はかまに、御小袖ばかりにて、西(にし)の御前(ごぜん)と申すやしろの中に、御簾(みす)それも半(はん)にあげて、白き衣(きぬ)二つ、うらうへよりとりいでさせおはしまして、「二人のおやのかたみを、うらうヘヘやりし心ざし、しのびがたくおぼしめす、とりあせて賜ぶぞ」とおほせあるを、賜はりて、本座にかへりて、父大納言にむかひて、「十善のゆかをふみましましながら、いかなる御宿縁(ごしゆくえん)にて、御不具(おんかたは)はわたらせおはしますぞ」と申す。
「あの御不具(おんかたは)は、いませおはしましたる下に御腫物(はれもの)あり。この腫物(はれもの)といふは、われらがやうなる無知の衆生を、多くしりへ持たせ給ひて、これをあはれみ、はぐくみおぼしめす故なり。またくわが御あやまりなし」と言はる。また見やりまゐらせたれば、なほおなじさまに、心よき御顔にて、「ちかくまゐれ」とおぼしめしたるさまなり。たちて御殿のまへにひざまづく。白き箸(はし)のやうに、もとは白々(しろじろ)とけづりて、すゑには竹柏(なぎ)の葉、二つある枝を、二つ取りそろへて賜はるとおもひて、うちおどろきたれば、如意輪堂(によいりんだう)の懺法(せんぽふ)始まる。何となくそばをさぐりたれば、白き扇の、檜(ひ)の木(き)の骨(ほね)なる一本あり。夏などにてもなきに、いと不思議に、ありがたくおぼえて、とりて道場に置く。このよしを語るに、那智の御山の師、備後(びんご)の律師(りし)かくたうといふもの、「扇(あふぎ)は、千手(せんじゆ)の御体(おんたい)といふやうなり、かならず利生(りしやう)あるべし」といふ。夢の御おもかげも、さむるたもとに残りて、写経、をはり侍りしかば、ことさら残しもちまゐらせたりつる御衣(おんぞ)、いつまでかはと思ひまゐらせて、御布施(ふせ)に、泣く泣くとりいで侍りしに、
あまたとしなれしかたみのさよ衣 けふをかぎりとみるぞかなしき
那智の御山に、みな納めつつ帰り侍りしに、
夢さむる枕に残る在明に 涙ともなふたきのおとかな
かの夢の枕なりし扇を、いまは御かたみともと、なぐさめてかへり侍りぬるに、はや法皇崩御なりにけるよし、うけたまはりしかば、うちつづかせおはしましぬる世の、御あはれも、有為(うゐ)無常(むじやう)の、なさけなきならひと申しながら、こころうく侍りて、我のみ消(け)たぬむなしきけぶりは、立ちさるかたなきに、年もかへりぬ。
一三〇 大菩薩の御心ざし
徳治元年三月初旬、奈良から京都へ上る途中、石清水八幡宮に参拝して遊義門院の御幸にめぐりあう。文中の記事によれば、作者は三月七日に八幡宮に通夜、翌八日、門院は八幡宮に奉幣し更に狩尾神社に御参拝あり、作者はその折、門院からお言葉をかけられて感泣し、翌九日門院京都へ還御と聞き、女房兵衛佐を介して門院に桜を献じ、帰京せば直ちに御所へ参らんと申す。九日門院還御。作者はなお三日間参籠し、十二日頃帰京して兵衛佐に歌を贈る。

やよひはじめつかた、いつも年のはじめには、まゐりならひたるも忘られねば八幡(やはた)にまゐりぬ。むつきのころより奈良に侍りしが上(のぼ)るたよりなかりしかば、御幸とも誰かはしらん。れいの猪(ゐ)の鼻(はな)よりまゐれば、馬場殿あきたるにも、すぎにしことおもひいでられて、宝前(ほうぜん)を見まゐらすれば、御幸の御しつらひあり。「いづれの御幸にか」と、たづねききまゐらすれば、遊義門院の御幸といふ。いとあはれに、まゐりあひまゐらせぬる御契(おんちぎり)も、こぞみし夢の御面影(おんおもかげ)さへ思ひいでまゐらせて、こよひは通夜して、あしたも、いまだよに、(によ)くわんめきたる女ばうの、おとなしきが所作するあり。たれならんとあひしらふ。得選(とくせん)おとらぬといふ者なり。いとあはれにて、何となく御所さまの事、たづねきけば、「みな昔の人はなくなりはてて、わかき人々のみ」といへば、いかにしてか、たれともしられたてまつらんとて、御宮めぐりばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせんとて、したためにだにも宿(やど)へも行かぬに、「ことありぬ」といへば、かたかたにしのびつつ、よに御輿(みこし)のさまけだかくて宝前(はうぜん)へ入らせおはします。御幣(ごへい)のやくを、西園寺の春宮権大夫(とうぐうごんのだいぶ)つとめらるるにも、太上入道殿の左衛門督(さゑもんのかみ)など申しし頃のおもかげも通ひ給ふ心ちして、それさへあはれなるに、けふは八日とて、狩尾(とがのを)へ如法(によほふ)御参りといふ。あじろこし二つばかりにて、ことさらやつれたる御さまなれども、もし忍びたる御参りにてあらば、誰とかは知られたてまつらん、よそながらも、ちと御姿(おんすがた)をもや見まゐらすると思ひてまゐるに、又かちよりまゐるわき人二三人ゆきつれたる。
御やしろに参りたれば、さにやとおぼえさせおはします御うしろを見まゐらするより、袖の涙はつつまれず、たちのくべき心ちもせで侍るに、御所作、はてぬるにや、たたせおはしまして、「いづくよりまゐりたるものぞ」と仰(おほ)せあれば、すぎにしむかしより語り申さまほしけれども、「奈良のかたよりにて候」と申す。「法花寺よりか」など仰(おほ)せあれども、なみだのみこぼるるも、あやしとやおぼしめされんと思ひて、言葉すくなにてたち帰り侍らんとするも、なほ悲しくおぼえて候(さぶら)ふに、すでに還御(くわんぎよ)なる。御なごりもせんかたなきに、おりさせおはします所のたかきとて、えおりさせおはしまさざりしついでにて、「肩をふませおはしましておりさせおはしませ」とて、御そばちかくまゐりたるを、あやしげに御覧(ごらん)ぜられしかば、「いまだ御幼(おんおさ)なく侍りし昔は馴れつかうまつりしに、御覧(ごらん)じわすれにけるにや」と申しいでしかば、いとど涙も所せく侍りしかば、御所さまにも、ねんごろに御たづねありて、「今はつねに申せ」など仰(おほ)せありしかば、見し夢も思ひあせられ、すぎにし御所(ごしよ)にまゐりあひまゐらせしもこの御社ぞかしと思ひいづれば、かくれたる信(しん)のむなしからぬをよろこびても、ただ心をしる物は涙ばかりなり。かちなる女房の中に、ことに初めより物など申すあり。問へば、兵衛佐(ひやうゑのすけ)といふ人なり。つぎの日、還御(くわんぎよ)とて、その夜は、御神楽・御てあそび、さまざまありしに、くるるほどに、桜の枝を折りて、兵衛の佐のもとへ、「この花ちらさむさきに、都の御所へたづね申すべし」と申して、つとめては、還御(くわんぎよ)よりさきに、いで侍るべき心ちせしを、かかるみゆきにまゐり会ふも、大菩薩の御心ざしなりと思ひしかば、よろこびも申さんなど思ひて、三日とどまりて、御やしろに候(さぶら)ひてのち京へのぼりて、御ふみをまゐらすとて、「さても花はいかがなりぬらん」とて、
花はさてもあだにやかぜのさそひけむ 契りし程の日かずならねば
御返し、
その花はかぜにもいかがさそはせん 契りしほどはへだてゆくとも
一三一 かたみの面影
後深草院の御三周忌が近づき遊義門院は伏見の御所に御幸なされた。七月十五日早朝、作者は深草の法花堂に参り、新しく描かれた後深草院の御映像を拝む。その夜、御映像は伏見の御所に移され給う。

そののち、いぶせからぬほどに申しうけたまはりけるも、昔ながらの心ちするに、七月のはじめのころより、すぎにし御所の御三(おんみ)めぐりにならせおはしますとて、伏見の御所にわたらせおはしませば、何となく、御あはれもうけたまはりたく、いまは残る御形見もなければ、書くべき経はいま一部なほ残り侍れども、ことしはかなはぬも心うければ、御所の御あたり近く候(さぶら)ひて、よそながらも見まゐらせんなど候ひしに、十五日のつとめては、深草の法花堂へまゐりたるに、御影(みえい)の新しく作られさせおはしますとて、すゑまゐらせたるを拝みまゐらするにも、いかでか浅くおぼえさせおはしまさむ、袖の涙もつつみあへぬさまなりしを、供僧(ぐそう)などにや、ならびたる人々、あやしくおもひけるにや、「ちかくよりて、みたてまつれ」といふもうれしくて、まゐりてをがみまゐらするにつけても、涙の残りはなほありけりとおぼえて、
露消えしのちのかたみのおもかげに 又あらたまる袖の露かな
十五日の月、いとくまなきに、兵衛の佐のつぼねにたち入りて、むかしいまのこと思ひつづくるも、なほあかぬ心ちして、たちいでて、みやうじやう院どののかたざまに、たたずむほどに、「すでにいらせおはします」などいふを、何事ぞと思ふほどに、けさ深草の御所にて見まゐらせつる御影(みえい)入らせおはしますなりけり。案(あん)とかやいふ物にすゑまゐらせて、召次(めしつぎ)めきたるもの四人して、かきまゐらせたり。仏師にや、墨染のころもきたるもの奉行して二人あり。又あづかり一人、御所侍(さぶらひ)一二人ばかりにてつき、かみおほひまゐらせて入らせおはしましたるさま、夢のここちして侍りき。十善万乗(じふぜんばんじよう)のあるじとして、百官にいつかれましましける昔はおぼえずしてすぎぬ。太上天皇の尊号をかうぶりましましてのち、つかへたてまつりしいにしへをおもへば、しのびたる御ありきと申すにも、御車寄せの公卿、供奉(ぐぶ)の殿上人などはありしぞかしと思ふにも、まして、いかなる道に独り迷ひおはしますらんなど思ひやりたてまつるも、今はじめたるさまに悲しくおぼえ侍るに、つとめて、万里(まで)の小路(こうぢ)の大納言師重のもとより、「ちかきほどにこそ、よべの御あはれいかがききし」と申したりし返事に、
虫のねも月も一つにかなしさの 残るくまなき夜半の面かげ
一三二 御三周忌法要
徳治元年七月十六日、後深草院御三周忌が伏見の御所で営まれ、伏見上皇はかねてから御幸になっている。上皇は十六日夕還御。作者はしばらく御所近いところにとどまり、久我前内大臣と和歌の贈答をする。追記として遊義門院に扇を献上した事を記す。

十六日には御仏事とて、法花の讃嘆(さんだん)とかやとて、釈迦・多宝二仏、ひとつ蓮台におはします。御堂(みだう)いしいし御供養あり。かねてより、院御幸もならせおはしまして、ことにきびしく、庭もうへも雑人(ざふにん)はらはれしかば、墨染のたもとは、ことにいやと、いさめらるるも悲しけれど、とかくうかがひて、あまだりの石のへんにて聴聞(ちやうもん)するにも、むかしながらの身ならましかばと、いとひすてし古(いに)しへさへ恋しきに、御願文(ごぐわんもん)終るより、懺法(せんぽふ)すでに終るまで、すべて涙はえとどめ侍らざりしかば、そばに、ことよろしき僧の侍りしが、「いかなる人にて、かくまでなげき給ふぞ」と申ししも、なき御かげの跡までも、はばかりある心ちして、「おやにて侍りしものにおくれて、このほど忌(いみ)あきて侍るほどに、ことにあはれにおもひまゐらせて」など申しなして、たちのき侍りぬ。
御幸の還御(くわんぎよ)は、こよひならせおはしましぬ。御所さまも御人すくなに、しめやかに見えさせおはしまししも、そぞろにものかなしくおぼえて、かへらん空も覚え侍らねば、御所ちかき程になほやすみてゐたるに、久我のさきのおとどは、同じ草葉(くさば)のゆかりなるも、わすれがたき心ちして、時々申しかよひ侍るに、ふみつかはしたりしついでに、かれより、
都だに秋のけしきはしらるるを いくよふしみの有明の月
問ふにつらさのあはれも、しのびがたくおぼえて、
秋をへてすぎにしみよもふしみ山 またあはれそふ有明のそら
又たちかへり、
さぞなげに昔をいまと忍ぶらむ ふしみのさとの秋のあはれに
まことや、十五日は、もし僧などにたびたき御ことやとて、あふぎをまゐらせし包み紙に、
おもひきや君が三とせの秋の露 まだひぬ袖にかけん物とは
一三三 結び
「問はず語り」全五巻を結ぶ文である。作者はここに、「問はず語り」が書かれたのは、自分の思いを空しく散らしてしまうに忍びず、せめて書き纏めて見たい情にせまられて書いたのだ。もとより形見として後の世に遺そうなどとは思わない、と言っている。その思いというのは、後深草院に対する思慕の情と、それにまつわる数奇な愛欲関係の体験、それから生じた我が身の沈淪、引いては久我家の没落を嘆く思いが一つ、いま一つは巻四以下の諸国修行の思いである。

深草の御(み)かどは、御かくれの後、かこつべき御事どもも、あとたへはてたる心ちして侍りしに、こぞの三月八日、人丸の御影供(みえいぐ)をつとめたりしに、ことしのおなじ月日、御幸にまゐりあひたるもふしぎに、見しむば玉の御面影(おんおもかげ)も現(うつつ)におもひあせられて、さても宿願のゆく末、いかがなりゆかんとおぼつかなく、年月(としつき)の心(こころ)の信(しん)も、さすがむなしからずやとおもひつづけて、身のありさまをひとりおもひゐたるも、あかずおぼえ侍るうへ、修行の心ざしも、西行が修行のしき、うらやましくおぼえてこそおもひたちしかば、そのおもひをむなしくなさじばかりに、かやうのいたづらごとを、つづけ置き侍るこそ。のちのかたみまではおぼえ侍らぬ。
〔本云。ここより又かたなして、きられて候。おぼつかなういかなることにかとおぼえて候〕 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

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西紀・年号・作者年齢

『とはずがたり』 記事

参考事項

1242(仁治3)     正月 四条院死去(12歳)。
3月 後嵯峨院即位(23歳)。
6月 大宮院※子入内(18歳)。
この年、宗尊親王生れる(母准后棟子)。
1243(寛元元)     6月 後深草院生れる(母大宮院)。
1246(寛元4)     正月 後深草院即位(4歳)。
1247(宝治元)     性助法親王生れる(母公房女)。
1248(宝治2)     正月 太政大臣通光死去。
1249(建長元)     5月 亀山院生れる(母大宮院)。
1251(建長3)     10月(一説に12月) 続後撰集撰進(撰者藤原為家)。
1252(建長4)     4月 宗尊親王将軍となる。
弁内侍日記(寛元4年より本年までの記事を収む)。
1253(建長5)     3月 後深草院元服(11歳)。
1256(康元元)     12月 東二条院入内(25歳、院14歳)。
1257(正嘉元)     10月 性助法親王出家(11歳)。
1258(正嘉2) 1 『とはずがたり』作者久我雅忠女生まれる。(母四条隆親女) 8月 亀山院東宮となる。
1259(正元元) 2 5月5日 母死去。 11月 後深草院譲位
12月 亀山院即位(11歳)。
1260(文応元) 3    
1261(弘長元) 4 9月 作者後深草院御所に上る。  
1262(弘長2) 5   11月 親鸞死去。
1263(弘長3) 6    
1264(文永元) 7 叔父雅光に琵琶を習う。  
1265(文永2) 8   4月 伏見院生れる(母東の御方)。
12月 続古今集撰進(撰者、藤原為家ほか4名)。
1266(文永3) 9 この頃、西行の修行の記を見る。 7月 将軍宗尊親王を廃す。
1267(文永4) 10 白河殿試楽に琵琶を弾く。 12月 後宇多院生れる(母京極院)。
1268(文永5) 11   2月 後嵯峨院五十賀、蒙古の事により停止。
3月 時宗執権となる。
8月 後宇多院東宮となる(2歳)。
1269(文永6) 12   嵯峨のかよひ路(飛鳥井雅有)成る。
1270(文永7) 13   9月 遊義門院生れる(母東二条院)。
1271(文永8) 14 巻一
元日 御所新年の儀で院と父雅忠密約。その夕、恋人雪の曙(実兼)から文と贈物。
1月15日院雅忠邸に御幸。作者意に従わず。雪の曙から文がある。
同16日院再訪。ついに意に従う。
東二条院作者を憎む。
[注 実際は前年である。]
8月頃か、東二条院御産、姫宮誕生。七夜の夜御所に人魂の怪異がある。後嵯峨院発病。




3月 実兼権大納言となる(23歳)。
9月 蒙古使者来る。
12月 蒙古の難を伊勢に報告。
この年、永福門院(実兼一女)生れる。風葉和歌集成る。
蒙古、国号を元と改む。
1272(文永9) 15 正月 後嵯峨院重態、嵯峨へ御幸。後深草院の御幸に作者供をする。
2月15日 六波羅南方時輔討たれる。
同17日 後嵯峨院死去。
同18日葬送。
父雅忠出家を頼い許されず。
5月 雅忠発病。
6月 作者懐妊の兆、父にわかに作者のため祈祷。
7月 院雅忠の病を見舞う。
8月2日 作者着帯の儀。雅忠作者に遺誡。
同3日 雅忠死去(五十歳)。
8月 父の葬送・弔問。北の方・家人仲綱出家。
9月 雪の曙と語り明かす。
10月 四条大宮の乳母の家で雪の曙と契る。
同20日 母方の老女死去。
11月 醍醐の勝倶胝院に籠る。院御幸、雪の曙来訪。

2月 後嵯峨院死去(53歳)。
[注 父雅忠の死去の時の年齢は『公卿補任』と異なる。]





8月 雅忠死去、45歳。(公卿補任)
同 京極院死去。
 
1273(文永10) 16 正月 石清水八幡の門外まで参る。
2月10日 作者院の皇子を生む。
12月 雪の曙の子懐妊の兆の夢。
この年、昭訓門院(実兼二女)生れる。
1274(文永11) 17 正月より後深草院、如法経書写のため精進。
2月 作者曙の子の懐妊を知る、その処置に心を砕く。
5月 里で着帯、御所からも着帯の使。
9月 重病と称して雪の曙の女子を出産、流産と称して他へ遣る。
10月8日 昨年出生の皇子死去。作者悩み出家行脚を思う。
この頃、院皇位継承の不満から出家の意を示す。伏見院の立坊定まり、出家中止。
11月 前斎宮嵯峨の大宮院訪問に、院も同席。院斎宮と契る。
同 東二条院作者を非難、院作者を弁護。作者の出自・来歴と待遇を述べる。
12月 院再び斎宮と逢う、作者曙と逢う。
正月 亀山院譲位、後宇多院即位。



10月 元軍、九州に来寇(文永の役)。幕府軍防戦する。敵船大風に漂没。幕府、西国・九州・山陰の防備を厳にするよう命令。
1275(建治元) 18 巻二
正月 東宮・院、方分ちして遊戯。
正月18日 作者東の御方と申合せ院を打つ。院の訴訟により贖いと定まる。作者の縁者の贖い、久我尼の反論により院の贖い。
3月 後白河院御八講。
同13日 結願の日有明(性助法親王)作者に恋を打明く。
3月 亀山院、御所を訪問。蹴鞠の酌に出る。のち亀山院から文を贈られる。
4月 六条殿長講堂新造成る。御堂供養に供をする。壺合せ。
8月 院発病。
9月8日より延命供、御所で作者有明と契る。
同 六条殿御供花。伏見へ松取りの御幸。
10月10日 院「扇の女」と逢う。資行の連れて来た傾城、泣き帰り出家。有明と文通。









9月 執権時宗、元の使者を鎌倉に斬る。

11月 伏見院東宮に立つ。
同 実兼、東宮大夫。
1276(建治2) 19 院・亀山院花合せなどで多忙。
9月10余日 隆顕のはからいにより出雲路で有明と違う。作者絶交を決意。
12月 有明から起請文を送られる。


12月 隆親大納言に復す。隆顕の官を罷む。
1277(建治3) 20 正月 有明院参、作者酌に出てにわかに発病。
2月 両院小弓。院の負態の女房の蹴鞠、作者も出で立つ。亀山院の負態に嵯峨殿で帳台の試みの催し。
3月13日ふたたび院の負け、伏見殿で源氏六条院の女楽を模す。作者琵琶を分担。祖父隆親と衝突して出奔、醍醐に隠れる。作者懐妊中。
4月 賀茂祭の御幸の桟敷を隆親用意。隆親、帝・東宮の元服の上寿に隆顕の大納言を借り返さず。隆顕父を恨み籠居。
同 末 作者醍醐で隆顕と会う、有明の月の噂。雪の曙、作者を尋ね出す。隆顕・曙・作者三人語り明かす。
院に迎えられ御所に戻る。着帯。
同 末日 曙との女児に再会。
8月 近衡大殿(鷹司兼平)院参。伏見で今様秘事伝授、作者大殿と契る。
1月 後宇多院元服の上寿に隆親奉仕。
同 経任大納言に任ぜられる。
2月 隆親大納言を辞す。

[注 隆顕の出家を『公卿補任』では五月とする。]
5月 隆顕出家(公卿補任、父との不和不調による)。
同 春日神木動座。
10月 阿仏、訴訟のため鎌倉に下り、弘安3年春まで滞在。


12月 東宮(伏見院)元服。
同 春日神木帰座。 この年、春より病事流布。
1278(弘安元) 21   7月 院の第四皇子満仁親王(12歳)仁和寺の室に入る。法名性仁、戒師性助法親王。
12月 続拾遺集撰進(撰者二条為氏)
この年も病事流布。
1279(弘安2) 22   7月 元の牒状到る。
9月6日 隆親死去、77歳(公卿補任)
1280(弘安3) 23   11月21日 円満院浄助法親王死去(28歳)。
この年、春の深山路(飛鳥井雅有)成る。
弘安源氏論議。
この年項、十六夜日記成る。
1281(弘安4) 24 巻三
2月中旬 遊義門院病気のため有明院参。院作者と有明の関係を知る。院これを許す。
2月18日 院、作者の有明の子懐妊を予言。
5月 雪の曙と逢う。
初秋 院、有明に作者の懐妊を語る。
10月 嵯峨法輪寺に籠る。両院の大宮院見舞いに呼び出される。亀山院から贈物。四条大宮の乳母の家に下る。有明通う。院訪問、生児の処置を指示。
11月6日 有明の男子出生、他へ遣る。
同13日 最後の契り、鴛鴦の夢。
同18日 かたはら病み流行、有明発病。
同25日 有明死去。稚児形見を持参。
[注 この巻の有明関係の年立は、史料と若干のずれがある。有明を朧化するために意識的にした点もあると思われるが、この作品の内部では前後矛盾を起こさないので、特に改めず、作品の年立に従う。ただし有明との関係復活は、もう少し前からであろう。]
 
6月 元の大軍博多に迫る、防戦。朝廷各所にて異国降伏の祈祷。
閏7月1日 元軍の兵船大風により覆滅。
10月春日神木入京。
1282(弘安5) 25 正月15日 有明の四十九日を行う。
2月15日 東山で法華講讃、夢に有明を見て発病。
3月 有明の第二子の懐妊を知る。
4月 御所よりの召しに参らず。亀山院との仲を疑われる。
8月20日 東山でひそかに男子出産、自ら世話する。  
この年、神木在京のため公事行事等停止。
夏以来病事流布。

7月 日触正現。
8月12日 円助法親王死去(47歳)。
10月 日蓮死去。
12月19日 性助法親王死去、36歳(仁和寺御伝)。
同21日 神木帰座。
1283(弘安6) 26 2月 嵯峨殿の彼岸の説法に供をする。時時出て幼児を見る。
初秋 東二条院の命により御所を退出、隆親の邸に行く。
[注 『公卿補任』では四年前の弘安二年とする。]
この秋、隆親死去(隆顕もすでに死去)
11月八幡に籠る。祇園千日参籠を始める。
同 東山で有明三回忌を営む。
この年も病事流布。
正月 日吉神輿皇居に入る。
 


12月 仁和寺性仁法親王灌頂、17歳。大阿闍梨准后法助。
1284(弘安7) 27 2月 祇園社に桜の枝を奉納。 2月 前斎宮※子内親王死去。後嵯峨院十三回忌供養。
4月 執権時宗死去(34歳)
11月 開田准后法助死去(58歳)
1285(弘安8) 28 正月 大宮院から北山准后九十賀出仕を勧められる。
2月29日・30日、3月1日 北山西園寺邸で准后の賀の盛儀に参会。
3月2日 管絃の遊び、舟中の連歌。
3月 後二条院生れる。
[注 この時は資格としての皇后で、実際に後宇多院の後宮となったのは永仁五年である。]
8月 遊義門院、皇后となる(後二条院准母)。
隆良、当時東宮亮。
1286(弘安9) 29   この年、太神宮参詣記(通海)成る。
1287(弘安10) 30   10月 後宇多院譲位、後深草院院政。
1288(正応元) 31   3月 伏見院即位。後伏見院生れる。
6月 実兼女※子入内、雅忠女三条の名で出仕(『増鏡』)
7月 隆良従三位。
11月 後醍醐院生れる。
12月 東の御方(※子)准后、同日院号(玄輝門院)。
1289(正応2) 32 巻四
(この前すでに出家している)
2月20余日 作者都を出立。東海道の旅。
3月 熱田社に参籠。三島に参る。
同 20余日 江島に宿る。
鎌倉に入る。七月まで病臥。
8月 新八幡放生会を見る。
将軍惟康親王の廃されて上京するのを見る。
10月 久明親王着任の準備指導のため、管領平入道頼網邸及び将軍御所に赴く。
飯沼新左衛門邸の連歌に招かれる。
12月 河越入道の後室に誘われ武蔵国川口へ下る。越年。
 
 
 
4月 後伏見院東宮となる。
 

8月 基具太政大臣に任ぜられる。一遍摂津で死去(51歳)。
9月7日 亀山院出家(41歳)。師親出家(49歳)。
9月 将軍惟康親王廃せられる。
10月 久明親王将軍となる。実兼内大臣。
この年、病事流布。
1290(正応3) 33 2月10余日 善光寺へ出立。
高岡の石見入道仏阿の邸に滞在。
8月15日 浅草観音に詣でる。
武蔵野の歌枕を訪ねる。
9月10余日 飯沼判官と別れの歌を贈答、帰途熱田に寄る。
10月 一旦帰京、奈良の社寺を巡拝する。春日神社・法華寺・春日正預宅・中宮寺・当麻寺・太子墓。
2月11日 後深草院出家。
3月 浅原為頼禁中に乱入。伏見院難をのがれる。
 
8月 久明親王母房子、従三位となる。  
1291(正応4) 34 2月初 八幡で後深草法皇の御幸に違う。一夜語り明かす。
同 熱田参籠の夜、炎上。
4月 伊勢の外宮・内宮に参り二見に遊ぶ。神官らと贈答、連歌。
熱田に詣で写経を営む、経巻供養。
熱田炎上、2月2日(歴代編年集成他) 2月13日 (熱田社神官田島氏文書)。
4月 久子、内親王・准后となる。
8月 皇后※子院号(遊義門院)。
12月 実兼太政大臣(43歳)。
1292(正応5) 35   4月23日 飯沼判官上京、一行の出で立ち等を賞賛される。
9月6日 大宮院死去(68歳)。
12月 隆良参議に任ず。
中務内侍日記、弘安三年よりこの年までの記事を収む。
1293(永仁元) 36 [注 作品では「またの年」であるが、正応五年九月は、院の母后大宮院の死去葬送の月にあたるので、いちおう次の年とした。]
9月 伏見殿で一夜後深草院と語る。作者の誓言。
この後、院から生活上の慰問がある。

4月 平管領頼綱、次男飯沼判官誅せられる。
8月 伏見院勅撰集撰進の命、中断。  
1294(永仁2) 37 (数年のうちに)二見へ再び赴く、記事中断。 6月 遊義門院、後宇多後官に入る(25歳)。
8月 鷹司兼平死去(66歳)。
1295(永仁3) 38   5月 春日神木帰座。
12月 東大寺・八幡宮神輿帰座。
同 大神宮一の禰宜尚良死去。
1296(永仁4) 39    
1297(永仁5) 40   正月 前権大納言経任死去(65歳)。
7月 花園院生れる(母顕親門院)。
1298(永仁6) 41   3月 京極為兼佐渡に配流。
7月 伏見院譲位、後伏見院即位(11歳)。
8月 後二条院東宮となる(14歳)。
この年、一遍聖絵成る。
1299(正安元) 42   6月 西園寺実兼出家(51歳)。
1300(正安2) 43    
1301(正安3) 44   1月 実兼二女瑛子、亀山院妃となる(昭訓門院、29歳)。
3月 後伏見院譲位、後二条院即位。
8月 花園院東宮となる(5歳)。
1302(乾元元) 45 巻五
9月初 厳島へ出立。内海の旅。
9月13日 厳島の大法会を見る画。
土佐足摺岬の堂の由来、補陀落渡海信仰の伝説。
土佐安芸の牛頭天王に参る。
讃岐の白峰、松山の旧跡にとどまり写経。大集経二十巻供養。
11月 女房を訪ね、備後の和知一族の邸に滞在。
広沢与三入道、鎌倉から下向。
江田に移る。江田・和知の兄弟争う。入道との奇遇に驚く。
[注 この年立も確定はできないが、東二条院・後深草院の死去の年から逆算して、これよりは下れないところである。]
 
10月 北山准后貞子死去(107歳)。
 



12月 後深草院六十賀。
1303(嘉元元) 46 2月末 入道来訪、続歌をする。作者送られて出立。
備中荏原から入道と歌の贈答。
吉備津宮に詣でる。帰京。

5月 恒明親王生れる(母昭訓門院)。
12月 新後撰集撰進(撰者、二条為世)。
1304(嘉元2) 47 正月 東二条院の死去の報に感慨。
6月 後深草院の病をきく。
7月1日 八幡に籠り、平癒を祈る。
同15日 西園寺入道(実兼)に頼み夢のように院を見る。
同16日 後深草院死去。
同17日 葬送の車を追い、火葬の煙を見て帰る。天王寺に参籠する。
9月 伏見殿に院の四十九日の仏事を聴問する。
写経の資に、母の形見を売る。
9月15日 東山双林寺で懺法を行う。
大集経二十巻を春日の本宮に納める。
父雅忠の三十三回忌。和歌の夢想を得る。
人麿の墓に詣で、夢想がある。
正月21日 東二条院死去(73歳)。
1305(嘉元3) 48 3月8日 人麿影供を行なう。
父の形見を売り、大品般若経二十巻を太子の墓に納める。
7月16日 後深草院一周忌に伏見殿の仏事聴聞。
この頃亀山院の病を聞く。
9月10日頃 熊野へ写経のため出立。
9月20余日 那智神社で夢想に父・院・遊義門院を見る。
大品般若経二十巻を那智神社に納める。
帰京して亀山院の死去を聞く。





9月15日 亀山院死去(57歳)。
1306(徳治元) 49 3月 八幡に詣で、遊義門院の御幸に逢い、言葉をかわす。
7月15日 深草法華堂に院の肖像を見る。
同16日 院の三回忌の仏事を聴聞。師重・通基と歌の贈答。
跋文
 
1307(徳治2) 50   7月24日 遊義門院死去(38歳)