■太平記 [上] / 巻1・巻2・巻3・巻4・巻5・巻6・巻7・巻8・巻9・巻10・巻11・巻12・巻13・巻14・巻15・巻16・巻17・巻18・巻19・巻20 □太平記 [下] |
|
■太平記 | |
日本の古典文学作品の一つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。
■成立と作者 作者と成立時期は不詳であるが、今川貞世の『難太平記』に法勝寺の恵鎮上人(円観)が足利直義に三十余巻を見せたとの記事があり、14世紀中ごろまでには後醍醐天皇の崩御が描かれる巻21あたりまでの部分が円観、玄慧など室町幕府との密接な関わりを持つ知識人を中心に編纂されたと考えられている。これが小島法師(児島高徳と同一人物か?)などの手によって増補改訂されてゆき、1370年ころまでには現在の40巻からなる太平記が成立したと考えられている。室町幕府3代将軍足利義満や管領細川頼之が修訂に関係していた可能性も指摘されている。 いずれにせよ一人の手で短期間に出来上がったものではないだろうと考えられている。この点については『難太平記』のほか、『太平記評判秘伝理尽鈔』でも、あくまで根拠の乏しい伝説の域を出ないが、実に10人を超える作者を列挙している。 また、玄恵作者説については、古態本の一つである神宮徴古館本の弘治元(1555)年次の奥書に「独清再治之鴻書」とある。(「独清」は玄恵の号である「独清軒」のことか 「再治」は再び編集すること、「鴻書」とは大部の書の意味) 『太平記』の外部の史料で『太平記』の名が確認できる最古のものは、『洞院公定日記』の応安7(1374)年5月3日条である。(『太平記』の作中記事で年代のもっとも新しいものは応安4(1371)年以降の斯波義将追討の件である) 伝へ聞く 去んぬる二十八九日の間 小嶋法師円寂すと 云々 是れ近日 天下に翫(もてあそ)ぶ太平記作者なり 凡(およ)そ卑賤の器なりと雖(いへど)も名匠の聞こえ有り 無念と謂ふべし(原漢文 ただし「天下」と「太平記」の間に改行があり、「近日天下に翫ぶ太平記」は「近日翫ぶ天下太平記」と読むべきだという意見もある なおこの記事と『太平記』との関連が指摘されたのは明治19年に重野安繹によってである) 『難太平記』を別にすれば、同時代、またはそれに近い時代の史料で作者に擬されているのはこの「小嶋法師」だけであるが、この人物が何ものであるかは既述の「児島高徳」説(明治期から)ほか、備前児島に関係のある山伏説(和歌森太郎、角川源義)、近江外嶋の関係者(後藤丹治)など諸説あり、未だに決着を見ていない。 『洞院公定日記』に見える『太平記』の本文は全く不明であるが、後述する永和本の本文が現存『太平記』本文にほぼ一致することを考えると、『太平記』作中最新(最終)記事の事件から10年ほどで現存本文が成立したとも考えられる。 一貫して南朝よりであるのは、南朝側の人物が書いたとも南朝方への鎮魂の意味があったとも推測されている。また、「ばさら」と呼ばれる当時の社会風潮や下剋上に対しても批判的に書かれている。 |
|
■構成
全40巻。現存流布本で全40巻だが、16世紀の時点で巻22は既に欠落しており、前後の巻より素材を抜き出して補完しているものと考えられている。内容は3部構成で、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡を描いた第1部(巻1〜11)、建武の新政の失敗と南北朝分裂から後醍醐天皇の崩御までが描かれる第2部(巻12〜21)、南朝方の怨霊の跋扈による足利幕府内部の混乱を描いた第3部(巻23〜40)からなる。前述の「巻22の欠落」であるが、現在伝わっている伝本の中で巻22を立てているものでも内容そのものは巻23〜24の記事を使用しているので結論的に巻22は欠巻ということになる。その原因としては、天皇や武家方に対して不都合なことが書かれていたので削除したと考えられているが現在のところはっきりしていない。 なお巻数については全40巻とするのが一般的だが、古態本は巻22を欠く実質39巻本、後出本は巻22を編集によって埋めた実質40巻本のほかに、終末部(40巻本の巻38または巻39〜巻40)を2巻または3巻に分割して41巻、または42巻本にした写本も存在する。(米沢本、京大本系統など) そうした本文の分割とは別に、『平家物語』にみられるように、(主に源氏の)宝剣伝承をまとめ、「剣巻」として1巻に仕立てたものを付属する写本(製版本にも少数ある)もある。ただし、この場合「剣巻」は巻数には含まれない。 ■内容 全体の構想にあるのが儒教的な大義名分論と君臣論、仏教的因果応報論が基調に有り、宋学の影響を受けたとされる。この考え方にもとづき、後醍醐天皇は作中で徳を欠いた天皇として描かれるが、水戸光圀は修史事業として編纂していた『大日本史』において天皇親政をめざした後醍醐天皇こそ正統な天皇であると主張した。これにより足利尊氏は逆賊であり南朝側の楠木正成や新田義貞などは忠臣として美化され(徳川将軍家は新田氏の末裔を称していた)、これがのちに水戸学として幕末の尊王攘夷運動、さらに太平洋戦争前の皇国史観へと至る。 中盤の後醍醐天皇の崩御が平清盛の死に相当するなど、随所に『平家物語』からの影響が見られ、また時折本筋を脱線した古典からの引用も多く、脚色も多い。 有名な「呉越合戦」「漢楚合戦」などは巻一つの何分の一かを占める長文のものである。もっともこの二つは『太平記』漢籍由来故事でも他を圧して長大であるのだが。ただし、すでに江戸時代以前の古注釈の頃から指摘されているように、『太平記』の引く故事は時に単純な勘違い以上に漢籍(あるいは『日本書紀』など日本の史書)と相違するものがあり、しばしば不正確とされる。ただし、漢籍については増田欣の研究などによって、いわゆる「変文」と言われる通俗読み物などが素材としてかなりの量、用いられているのも理由の一つとされている。また、巻25の伊勢宝剣説話にはかなり奇妙な(奇怪な)神代説話が載せられているが、これも『日本書紀』本文によったものではなく、中世日本紀を素材としたのであろうと考えられている。 なお、この脱線の多さの理由については大隅和雄の説の様に『太平記』は軍記物語の体裁を取ってはいるものの実際には往来物として作られた物であり、中世の武士達が百科事典として使う事を主目的に作られたからではないかという見解も存在する。 |
|
■太平記 巻第一 | |
序
蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。 |
|
■後醍醐天皇(ごだいごのてんわう)御治世(ごぢせいの)事付(つけたり)武家(ぶけ)繁昌(はんじやうの)事 爰(ここ)に本朝人皇(にんわう)の始(はじめ)、神武天皇(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に当(あたつ)て、武臣(ぶしん)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時と云(いふ)者あり。此(この)時上(かみ)乖君之徳、下(しも)失臣之礼。従之四海大(おほき)に乱(みだれ)て、一日も未安(いまだやすからず)。狼煙(らうえん)翳天、鯢波(げいは)動地、至今四十余年。一人(いちにんとして)而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦(げんりやく)年中に鎌倉の右大将(うだいしやう)頼朝卿(よりとものきやう)、追討平家而有其功之時、後白河(ごしらかはの)院(ゐん)叡感之余(あまり)に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始(はじめ)て諸国に守護(しゆご)を立(たて)、庄園に地頭(ぢとう)を置(おく)。 彼(かの)頼朝の長男左衛門督(さゑもんのかみ)頼家(よりいへ)、次男右大臣実朝公(さねともこう)、相続(あひつい)で皆征夷将軍の武将に備(そなは)る。是(これ)を号三代将軍。然(しかる)を頼家(よりいへの)卿は為実朝討れ、実朝は頼家(よりいへ)の子為悪禅師公暁討れて、父子(ふし)三代僅(わづか)に四十二年にして而尽(つき)ぬ。其後(そののち)頼朝卿の舅(しうと)、遠江守(とほたふみのかみ)平(たひらの)時政(ときまさの)子息、前陸奥守(さきのむつのかみ)義時、自然に執天下権柄勢漸(やうやく)欲覆四海。此(この)時の大上天皇(だじやうてんわう)は、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)也。武威振下、朝憲(てうけん)廃上事歎思召(なげきおぼしめし)て、義時を亡さんとし給(たまひ)しに、承久の乱出来(いできたつ)て、天下暫(しばらく)も静(しづか)ならず。 遂に旌旗(せいき)日に掠(かすめ)て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦(そのたたかひ)未終一日、官軍忽(たちまち)に敗北せしかば、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)は隠岐国(おきのくに)へ遷(うつ)されさせ給(たまひ)て、義時弥(いよいよ)八荒(はつくわう)を掌(たなごころ)に握る。其(それ)より後(のち)武蔵守(むさしのかみ)泰時(やすとき)・修理亮(しゆりのすけ)時氏(ときうぢ)・武蔵守(むさしのかみ)経時(つねとき)・相摸守(さがみのかみ)時頼・左馬権頭(さまのごんのかみ)時宗・相摸守(さがみのかみ)貞時、相続(あひつい)で七代、政(まつりごと)武家より出で、徳窮民を撫(ぶ)するに足(たれ)り、威万人(まんにん)の上に被(かうむる)といへ共(ども)、位(くらゐ)四品(しほん)の際(あひだ)を不越、謙(けん)に居て仁恩(じんおん)を施し、己(おのれ)を責(せめ)て礼義を正(ただ)す。 |
|
是(ここ)を以て高しと云(いへ)ども危(あやふ)からず、盈(みて)りと云(いへ)ども溢れず。承久より以来(このかた)、儲王摂家(ちよわうせつけ)の間(あひだ)に、理世安民(りせいあんみん)の器(き)に相当(あひあた)り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉(まをしくだしたてまつつ)て、征夷将軍と仰(あふい)で、武臣皆拝趨(はいすう)の礼を事とす。同(おなじき)三年に、始(はじめ)て洛中に両人の一族を居(すゑ)て、両六波羅(ろくはら)と号して、西国(さいこく)の沙汰を執行(とりおこなは)せ、京都の警衛に備(そなへ)らる。又永仁(えいにん)元年より、鎮西(ちんぜい)に一人の探題(たんだい)を下(くだ)し、九州の成敗(せいばい)を司(つかさどら)しめ、異賊襲来の守(まもり)を堅(かたう)す。 されば一天下、普(あまねく)彼下知(かのげぢ)に不随と云(いふ)処もなく、四海の外(ほか)も、均(ひとし)く其(その)権勢に服せずと云(いふ)者は無(なか)りけり。朝陽(てうやう)不犯ども、残星(ざんせい)光(ひかり)を奪(うばは)る、習(ならひ)なれば、必(かならず)しも、武家より公家(くげ)を蔑(ないがしろに)し奉(たてまつる)としもは無(なけ)れども、所(ところ)には地頭(ぢとう)強(つよう)して、領家(りやうけ)は弱(よわく)、国には守護(しゆご)重(おもう)して、国司(こくし)は軽(かろし)。此(この)故に朝廷は年々(としどし)に衰(おとろへ)、武家は日々(ひび)に盛(さかん)也。 因茲代々(だいだい)の聖主、遠くは承久の宸襟(しんきん)を休(やす)めんが為、近くは朝議の陵廃(りようはい)を歎き思食(おぼしめし)て、東夷(とうい)を亡さばやと、常に叡慮を回(めぐら)されしかども、或(あるひ)は勢(いきほひ)微(び)にして不叶、或は時未到(いまだいたらず)して、黙止(もくしし)給ひける処に、時政九代(くだい)の後胤(こういん)、前(さきの)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時入道崇鑒(たかときにふだうそうかん)が代(よ)に至(いたつ)て、天地命(めい)を革(あらた)むべき危機云(ここに)顕(あらは)れたり。 倩(つらつら)古(いにしへ)を引(ひい)て今を視(みる)に、行跡(かうせき)甚(はなはだ)軽(かろく)して人の嘲(あざけり)を不顧、政道不正して民の弊(つひえ)を不思、唯(ただ)日夜に逸遊(いついう)を事として、前烈(ぜんれつ)を地下(ちか)に羞(はづか)しめ、朝暮(てうぼ)に奇物(きもつ)を翫(もてあそび)て、傾廃(けいはい)を生前(しやうぜん)に致さんとす。衛(ゑい)の懿公(いこう)が鶴を乗(の)せし楽(たのしみ)早(はや)尽き、秦(しん)の李斯(りし)が犬を牽(ひき)し恨(うらみ)今に来(きたり)なんとす。見(みる)人眉を顰(ひそ)め、聴(きく)人唇(くちびる)を翻(ひるがへ)す。此(この)時の帝(みかど)後醍醐(ごだいごの)天王と申せしは、後宇多院(ごうだのゐん)の第二(だいに)の皇子(わうじ)、談天門院(だつてんもんゐん)の御腹(おんはら)にて御座(おは)せしを、相摸守(さがみのかみ)が計(はからひ)として、御年三十一の時、御位(おんくらゐ)に即(つけ)奉る。 御在位(ございゐ)之間(あひだ)、内(うち)には三綱(さんかう)五常(ごじやう)の儀を正(ただしう)して、周公孔子の道に順(したがひ)、外(ほか)には万機百司(ばんきはくし)の政(まつりごと)不怠給、延喜天暦(えんぎてんりやく)の跡(あと)を追(おは)れしかば、四海風(ふう)を望(のぞん)で悦び、万民(ばんみん)徳に帰(き)して楽(たのし)む。凡(およそ)諸道の廃(すたれ)たるを興し、一事(いちじ)の善(ぜん)をも被賞しかば、寺社禅律(じしやぜんりつ)の繁昌(はんじやう)、爰(ここ)に時を得、顕密儒道(けんみつじゆだう)の碩才(せきさい)も、皆望(のぞみ)を達せり。誠に天に受(うけ)たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其(その)徳を称じ、其化(そのくわ)に誇らぬ者は無(なか)りけり。 |
|
■関所(せきところ)停止(ちやうじの)事
夫(それ)四境(しきやう)七道の関所(せきところ)は、国(くに)の大禁(たいきん)を知(しら)しめ、時の非常を誡(いましめ)んが為也。然(しかる)に今壟断(ろうだん)の利に依(よつ)て、商売(しやうばい)往来(わうらい)の弊(つひえ)、年貢(ねんぐ)運送の煩(わづらひ)ありとて、大津(おほつ)・葛葉(くずは)の外(ほか)は、悉(ことごと)く所々の新関(しんせき)を止(やめ)らる。又元亨(げんかう)元年の夏、大旱(たいかん)地を枯(からし)て、田服(てんぶく)の外(ほか)百里(ひやくり)の間(あひだ)、空(むなし)く赤土(せきど)のみ有(あつ)て、青苗(せいべう)無し。餓■(がへう)野(や)に満(みち)て、飢人(きにん)地に倒る。 此(この)年銭(ぜに)三百を以て、粟(あは)一斗を買(かふ)。君遥(はるか)に天下の飢饉を聞召(きこしめし)て、朕不徳あらば、天予(われ)一人(いちじん)を罪(つみ)すべし。黎民(れいみん)何の咎(とが)有(あり)てか、此災(このわざはひ)に逢(あへ)ると、自(みづから)帝徳(ていとく)の天に背ける事を歎き思召(おぼしめし)て、朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を止(やめ)られて、飢人窮民(きにんきゆうみん)の施行(せぎやう)に引(ひか)れけるこそ難有けれ。是(これ)も猶万民(ばんみん)の飢(うゑ)を助くべきに非ずとて、検非違使(けびゐし)の別当に仰(おほせ)て、当時富祐(ふいう)の輩(ともがら)が、利倍(りばい)の為に畜積(たくはへつめ)る米穀(べいこく)を点検(てんけん)して、二条町(にでうまち)に仮屋(かりや)を建(たて)られ、検使(けんし)自(みづから)断(ことわつ)て、直(あたひ)を定(さだめ)て売(うら)せらる。 されば商買(しやうばい)共(とも)に利を得て、人皆九年(きうねん)の畜(たくはへ)有(ある)が如し。訴訟の人出来(しゆつたい)の時、若(もし)下情(しものじやう)上(かみ)に達(たつ)せざる事もやあらんとて、記録所(きろくところ)へ出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、直(ぢき)に訴(うつたへ)を聞召明(きこしめしあきら)め、理非(りひ)を決断(けつだん)せられしかば、虞■(ぐぜい)の訴(うつたへ)忽(たちまち)に停(とどまつ)て、刑鞭(けいべん)も朽(くち)はて、諌鼓(かんこ)も撃(うつ)人無(なか)りけり。誠に理世安民(りせいあんみん)の政(まつりごと)、若(もし)機巧(きかう)に付(つい)て是(これ)を見(みれ)ば、命世(めいせい)亜聖(あせい)の才とも称じつべし。惟(ただ)恨(うらむ)らくは斉桓(せいかん)覇(は)を行(おこなひ)、楚人(そひと)弓を遺(わすれ)しに、叡慮少(すこし)き似たる事を。是(これ)則(すなはち)所以草創雖合一天守文不越三載也。 |
|
■立后(りつこうの)事付三位殿御局(さんみどのおんつぼねの)事
文保(ぶんぼう)二年八月三日、後西園寺大政大臣(のちのさいをんじのだいじやうだいじん)実兼公(さねかぬこう)の御女(おんむすめ)、后妃(こうひ)の位(くらゐ)に備(そなはつ)て、弘徽殿(こうきでん)に入(いら)せ給ふ。此家(このいへ)に女御(にようご)を立(たて)られたる事已(すで)に五代、是(これ)も承久以後、相摸守代々(だいだい)西園寺の家を尊崇(そんそう)せしかば、一家の繁昌恰(あたかも)天下の耳目(じぼく)を驚(おどろか)せり。君も関東の聞へ可然と思食(おぼしめし)て、取分(とりわけ)立后(りつこう)の御沙汰も有(あり)けるにや。御齢(おんよはひ)已に二八(じはち)にして、金鶏障(きんけいしやう)の下(もと)に傅(かしづか)れて、玉楼殿(ぎよくろうでん)の内に入給(いりたま)へば、夭桃(えうたう)の春を傷(いため)る粧(よそほ)ひ、垂柳(すゐりう)の風を含(ふくめ)る御形(おんかたち)、毛■(まうしやう)・西施(せいし)も面(おもて)を恥(はぢ)、絳樹(がうじゆ)・青琴(せいきん)も鏡を掩(おほ)ふ程なれば、君の御覚(おんおぼえ)も定(さだめ)て類(たぐひ)あらじと覚へしに、君恩(くんおん)葉(は)よりも薄かりしかば、一生(いつしやう)空(むなし)く玉顔(ぎよくがん)に近(ちかづ)かせ給はず。 深宮(しんきゆう)の中(うち)に向(むかつ)て、春の日の暮難(くれかた)き事を歎き、秋の夜(よ)の長恨(ながきうらみ)に沈ませ給ふ。金屋(きんをく)に人無(なう)して、皎々(かうかう)たる残燈(のこんのともしび)の壁(かべ)に背ける影、薫篭(くんろう)に香(か)消(きえ)て、蕭々(せうせう)たる暗雨(よるのあめ)の窓を打声(うつこゑ)、物毎(ごと)に皆御泪(おんなみだ)を添(そふ)る媒(なかだち)と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書(かき)たりしも、理(ことわり)也と覚(おぼえ)たり。其比(そのころ)安野(あのの)中将(ちゆうじやう)公廉(きんかど)の女(むすめ)に、三位殿(さんみどの)の局(つぼね)と申(まうし)ける女房(にようばう)、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に候(さぶらは)れけるを、君(きみ)一度(ひとたび)御覧(ごらん)ぜられて、他に異(こと)なる御覚(おんおぼえ)あり。 |
|
三千の寵愛(ちようあい)一身(いつしん)に在(あり)しかば、六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい)は、顔色無(がんしよくなき)が如(ごとく)也。都(すべ)て三夫人(さんふじん)・九嬪(きうひん)・二十七(の)世婦(せいふ)・八十一(の)女御(にようご)・曁(および)後宮(こうきゆう)の美人・楽府(がふ)の妓女(ぎぢよ)と云へども、天子顧眄(こめん)の御心を付(つけ)られず。只殊艶尤態(しゆえんいうたい)の独(ひとり)能(よく)是(ぜ)を致(いたす)のみに非(あら)ず、蓋(けだ)し善巧便佞(ぜんかうべんねい)叡旨(えいし)に先(さきだつ)て、奇(き)を争(あらそひ)しかば、花(はな)の下(もと)の春の遊(あそび)、月の前(まへ)の秋の宴(えんにも)、駕(が)すれば輦(てぐるま)を共にし、幸(みゆき)すれば席(せき)を専(ほしいまま)にし給ふ。 是(これ)より君王(くんわう)朝政(あさまつりごと)をし給はず。忽(たちまち)に准后(じゆごう)の宣旨(せんじ)を下(くだ)されしかば、人(ひと)皆(みな)皇后元妃(げんひ)の思(おもひ)をなせり。驚(おどろき)見る、光彩(くわうさい)の始(はじめ)て門戸(もんこ)に生(な)ることを。此(この)時天の人、男(なん)を生(う)む事を軽(かろん)じて、女(ぢよ)を生む事を重(おもん)ぜり。されば御前(おんまへ)の評定(ひやうぢやう)、雑訴(ざつそ)の御沙汰までも、准后(じゆごう)の御口入(ごこうじゆ)とだに云(いひ)てげれば、上卿(しやうきやう)も忠なきに賞(しやう)を与(あたへ)、奉行(ぶぎやう)も理(り)有(ある)を非(ひ)とせり。関雎(くわんしよ)は楽而(たのしんで)不淫、哀而(かなしんで)不傷。詩人採(とつ)て后妃(こうひ)の徳とす。奈何(いかん)かせん、傾城傾国(けいせいけいこく)の乱(らん)今に有(あり)ぬと覚(おぼえ)て、浅増(あさまし)かりし事共(ども)也。 |
|
■儲王(ちよわうの)御事(おんこと)
螽斯(しゆうし)の化(くわ)行(おこなは)れて、皇后元妃(げんひ)の外(ほか)、君恩に誇る官女(くわんぢよ)、甚(はなはだ)多かりければ、宮々(みやみや)次第に御誕生(ごたんじやう)有(あつ)て、十六人までぞ御座(おはしま)しける。中(なか)にも第一(だいいちの)宮尊良親王(そんりやうしんわう)は、御子左(みこひだりの)大納言為世(ためよの)卿(きやうの)女(むすめ)、贈従三位(ぞうじゆざんみ)為子(ためこ)の御腹(おんはら)にて御坐(おはせ)しを、吉田(よしだの)内大臣定房公(さだふさこう)養君(やうくん)にし奉(たてまつり)しかば、志学(しがく)の歳(とし)の始(はじめ)より、六義(りくぎ)の道(みち)に長じさせ給へり。されば富緒河(とみのをがは)の清き流(ながれ)を汲(くみ)、浅香山(あさかやま)の故(ふる)き跡を蹈(ふん)で、嘯風弄月(せうふうろうげつ)に御心(こころ)を傷(いたまし)め給ふ。 第二(だいにの)宮も同御腹(おなじきおんはら)にてぞ御坐(おはしま)しける。総角(あげまき)の御時(おんとき)より妙法院の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、釈氏(しやくし)の教(をしへ)を受(うけ)させ給ふ。是(これ)も瑜伽三密(ゆがさんみつ)の間(あひだ)には、歌道(かだう)数奇(すき)の御翫(おんもてあそび)有(あり)しかば、高祖大師(かうそだいし)の旧業(きうげふ)にも不恥、慈鎮和尚(じちんくわしやう)の風雅にも越(こえ)たり。第三(だいさんの)宮は民部卿(みんぶきやう)三位殿(さんみどの)の御腹(おんはら)也。御幼稚(ごえうち)の時より、利根聡明(りこんそうめい)に御坐(おは)せしかば、君(きみ)御位(おんくらゐ)をば此宮(このみや)に社(こそ)と思食(おぼしめ)したりしかども、御治世(ごぢせい)は大覚寺殿(だいかくじどの)と持明院殿(ぢみやうゐんどの)と、代々(かはるがはる)持(もた)せ給(たまふ)べしと、後嵯峨院(ごさがのゐん)の御時(おんとき)より被定しかば、今度(こんど)の春宮(とうぐう)をば持明院殿(ぢみやうゐんどのの)御方(おんかた)に立進(たてまゐら)せらる。 |
|
天下(てんか)の事(こと)小大(なに)となく、関東の計(はからひ)として、叡慮にも任(まかせ)られざりしかば、御元服(げんぶく)の義を改(あらため)られ、梨本(なしもと)の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、承鎮親王(じようちんしんわう)の御門弟(もんてい)と成(なら)せ給ひて、一(いつ)を聞(きい)て十(じふ)を悟(さと)る御器量(きりやう)、世に又類(たぐひ)も無(なか)りしかば、一実円頓(いちじつゑんどん)の花匂(はなのにほひ)を、荊渓(けいけい)の風に薫(くん)じ、三諦即是(さんたいそくぜ)の月の光を、玉泉(ぎよくせん)の流(ながれ)に浸(ひた)せり。 されば消(きえ)なんとする法燈(ほつとう)を挑(かか)げ、絶(たえ)なんとする恵命(ゑみやう)を継(つが)んこと、只此門主(このもんしゆ)の御時(おんとき)なるべしと、一山(いつさん)掌(たなごころ)を合(あは)せて悦(よろこび)、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶけ)て仰(あふぎ)奉る。第四の宮も同(おなじき)御腹にてぞをはしける。是(これ)は聖護院二品親王(しやうごゐんにほんしんわう)の御附弟(ふてい)にてをはせしかば、法水(ほつすゐ)を三井(みゐ)の流(ながれ)に汲(くみ)、記■(きべつ)を慈尊(じそん)の暁(あかつき)に期(ご)し給ふ。此外(このほか)儲君(ちよくん)儲王の選(えらび)、竹苑椒庭(ちくゑんせうてい)の備(そなへ)、誠に王業(わうげふ)再興の運(うん)、福祚(ふくそ)長久(ちやうきうの)基(もとゐ)、時を得たりとぞ見へたりける。 |
|
■中宮御産(ちゆうぐうごさん)御祈(おんいのり)之事付俊基(としもと)偽(いつはつて)篭居(ろうきよの)事
元亨(げんかう)二年の春の比(ころ)より、中宮懐姙(くわいにん)の御祈(おんいのり)とて、諸寺(しよじ)・諸山(しよさん)の貴僧・高僧に仰(おほせ)て様々(さまざま)の大法(だいほふ)・秘法を行はせらる。中にも法勝寺(ほつしようじ)の円観上人(ゑんくわんしやうにん)、小野文観僧正(をののもんくわんそうじやう)二人は、別勅(べつちよく)を承(うけ)て、金闕(きんけつ)に壇を構(かまへ)、玉体(ぎよくたい)に近(ちかづ)き奉(たてまつつ)て、肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈られける。仏眼(ぶつげん)、金輪(こんりん)、五壇(ごだん)の法・一宿(いつしゆく)五反孔雀経(ごへんくじやくきやう)・七仏薬師熾盛光(しちぶつやくししじやうくわう)・烏蒭沙摩(うすさま)、変成男子(へんじやうなんし)の法・五大虚空蔵(こくうざう)・六観音・六字訶臨(ろくじかりん)、訶利帝母(かりていも)・八字文殊(はちじもんじゆ)、普賢延命(ふげんえんみやう)、金剛童子(こんがうどうじ)の法、護摩(ごまの)煙は内苑(だいゑん)に満(みち)、振鈴(しんれい)の声(おと)は掖殿(えきでん)に響(ひびき)て、何(いか)なる悪魔怨霊(をんりやう)なりとも、障碍(しやうげ)を難成とぞ見へたりける。 加様(かやう)に功を積(つみ)、日を重(かさね)て、御祈(おんいのり)の精誠(せいぜい)を尽(つく)されけれども、三年まで曾(かつ)て御産(ごさん)の御事(おんこと)は無(なか)りけり。後(のち)に子細(しさい)を尋(たづぬ)れば、関東調伏(てうぶく)の為に、事を中宮の御産(ごさん)に寄(よせ)て、加様(かやう)に秘法を修(しゆ)せられけると也。是(これ)程の重事(ちようじ)を思食立(おぼしめしたつ)事なれば、諸臣の異見をも窺(うかが)ひ度(たく)思召(おぼしめし)けれども、事多聞(たぶん)に及ばゝ、武家に漏れ聞(きこゆ)る事や有(あら)んと、憚(はばか)り思召(おぼしめさ)れける間(あひだ)、深慮智化(しんりよちくわ)の老臣、近侍(きんじ)の人々にも仰合(おほせあはせ)らるゝ事もなし。 |
|
只日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・平(へい)宰相(さいしやう)成輔計(なりすけばかり)に、潛(ひそか)に仰合(おほせあはせ)られて、さりぬべき兵(つはもの)を召(めされ)けるに、錦織(にしこり)の判官代(はんぐわんだい)、足助(あすけの)次郎重成(しげなり)、南都北嶺(なんとほくれい)の衆徒(しゆと)、少々勅定(ちよくぢやう)に応じてげり。彼(かの)俊基は累葉(るゐえふ)の儒業を継(つい)で、才学(さいかく)優長成(なり)しかば、顕職(けんしよく)に召仕(めしつかは)れて、官蘭台(らんたい)に至り、職(しよく)々事(しきじ)を司(つかさど)れり。然る間出仕(しゆつし)事繁(ことしげう)して、籌策(ちうさく)に隙(ひま)無(なか)りければ、何(いか)にもして暫(しばらく)篭居して、謀叛(むほん)の計畧を回(めぐら)さんと思(おもひ)ける処に、山門横川(よかは)の衆徒(しゆと)、款状(くわじやう)を捧(ささげ)て、禁庭に訴(うつたふ)る事あり。 俊基彼(かの)奏状を披(ひらい)て読申(よみまうさ)れけるが、読誤(よみあやま)りたる体(てい)にて、楞厳院(れうごんゐん)を慢厳院(まんごんゐん)とぞ読(よみ)たりける。座中の諸卿(しよきやう)是(これ)を聞(きい)て目を合(あはせ)て、「相(さう)の字をば、篇(へん)に付(つけ)ても作(つくり)に付(つけ)ても、もくとこそ読(よむ)べかりける。」と、掌(たなごころ)を拍(うつ)てぞ笑はれける。俊基大(おほき)に恥(はぢ)たる気色(きしよく)にて、面(おもて)を赤(あかめ)て退出す。夫(それ)より恥辱に逢(あひ)て、篭居すと披露(ひろう)して、半年計(ばかり)出仕を止(やめ)、山臥(やまぶし)の形に身を易(かへ)て、大和(やまと)・河内(かはち)に行(ゆい)て、城郭(じやうくわく)に成(なり)ぬべき処々を見置(みおきて)、東国(とうごく)・西国(さいこく)に下(くだつ)て、国の風俗、人(ひと)の分限(ぶんげん)をぞ窺(うかがひ)見られける。 |
|
■無礼講(ぶれいかうの)事付玄恵(げんゑ)文談(ぶんだんの)事
爰(ここ)に美濃国(みののくにの)住人、土岐伯耆(ときはうきの)十郎頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)と云(いふ)者あり。共に清和源氏(せいわげんじ)の後胤(こういん)として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々(さまざま)の縁(えん)を尋(たづね)て、眤(むつ)び近(ちかづ)かれ、朋友の交(まじはり)已(すで)に浅からざりけれども、是(これ)程の一大事を無左右知(しら)せん事、如何(いかん)か有(ある)べからんと思はれければ、猶も能々(よくよく)其(その)心を窺(うかがひ)見ん為に、無礼講(ぶれいかう)と云(いふ)事をぞ始(はじめ)られける。 其(その)人数(にんじゆ)には、尹(ゐんの)大納言師賢(もろたか)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・伊達(だての)三位房(さんみばう)游雅(いうが)・聖護院庁(しやうごゐんちやう)の法眼(ほふげん)玄基(げんき)・足助(あすけの)次郎重成(しげなり)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)等也。其交会遊宴(そのかうぐわいいうえん)の体(てい)、見聞耳目(けんもんじぼく)を驚(おどろか)せり。献盃(けんはい)の次第、上下を云はず、男(をのこ)は烏帽子(ゑぼし)を脱(ぬい)で髻(もとどり)を放ち、法師は衣(ころも)を不着して白衣(びやくえ)になり、年十七八なる女(をんな)の、盻形(みめかたち)優(いう)に、膚(はだへ)殊に清らかなるをに十余人(じふよにん)、褊(すずし)の単(ひと)へ計(ばかり)を着せて、酌(しやく)を取(とら)せければ、雪の膚(はだへ)すき通(とほり)て、大液(たいえき)の芙蓉(ふよう)新(あらた)に水を出(いで)たるに異(こと)ならず。 山海(さんかい)の珍物(ちんぶつ)を尽(つく)し、旨酒(ししゆ)泉(いづみ)の如くに湛(たたへ)て、遊戯舞(あそびたはぶれまひ)歌ふ。其間(そのあひだ)には只東夷(とうい)を可亡企(くはだて)の外(ほか)は他事(たじ)なし。其(その)事と無く、常に会交(くわいがう)せば、人の思咎(おもひとが)むる事もや有(あら)んとて、事を文談(ぶんだん)に寄(よせ)んが為に、其比(そのころ)才覚無双(さいかくぶさう)の聞へありける玄恵法印(げんゑほふいん)と云(いふ)文者(ぶんじや)を請(しやう)じて、昌黎文集(しやうれいぶんじふ)の談義(だんぎ)をぞ行(おこなは)せける。彼(かの)法印謀叛(むほん)の企(くはだて)とは夢にも不知、会合の日毎(ひごと)に、其(その)席に臨(のぞん)で玄(げん)を談じ理(り)を折(ひらく)。 |
|
彼文集(かのぶんじふ)の中に、「昌黎赴潮州」と云(いふ)長篇有り。此処(このところ)に至(いたつ)て、談義を聞(きく)人々、「是(これ)皆不吉(ふきつ)の書(しよ)なりけり。呉子(ごし)・孫子・六韜(りくたう)・三略(さんりやく)なんど社(こそ)、可然当用(たうよう)の文(ぶん)なれ。」とて、昌黎文集の談義を止(やめ)てげり。此韓昌黎(このかんしやうれい)と申(まうす)は、晩唐(ばんたう)の季(すゑ)に出(いで)て、文才(ぶんさい)優長(いうちやう)の人なりけり。詩は杜子美(としみ)・李太白(りたいはく)に肩を双(なら)べ、文章は漢・魏(ぎ)・晋(しん)・宋の間(あひだ)に傑出せり。昌黎が猶子(いうし)韓湘(かんしやう)と云(いふ)者あり。是(これ)は文字をも嗜(たしなま)ず、詩篇にも携(たづさは)らず、只道士(たうじ)の術(じゆつ)を学(まなん)で、無為(ぶゐ)を業(げふ)とし、無事を事(こと)とす。或時(あるとき)昌黎韓湘に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「汝(なんぢ)天地の中(うち)に化生(くわせい)して、仁義の外(ほか)に逍遥(せうえう)す。 是(これ)君子の恥(はづる)処、小人の専(もつぱら)とする処也。我(われ)常に汝が為に是(これ)を悲(かなし)むこと切(せつ)也。と教訓しければ、韓湘大(おほき)にあざ笑(わらう)て、「仁義は大道(たいだう)の廃(すたれ)たる処に出(いで)、学教(がつけう)は大偽(たいぎ)の起(おこる)時に盛(さかん)也。吾(われ)無為(ぶゐ)の境(さかひ)に優遊(いういう)して、是非(ぜひ)の外(ほか)に自得(じとく)す。されば真宰(しんさい)の臂(ひぢ)を掣(さい)て、壷中(こちゆう)に天地を蔵(かく)し、造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばう)て、橘裡(きつり)に山川(さんせん)を峙(そばだ)つ。却(かへつ)て悲(かなしむ)らくは、公(こう)の只古人(こじん)の糟粕(さうはく)を甘(あまなつ)て、空(むなし)く一生(いつしやう)を区々(くく)の中(うち)に誤る事を。」と答(こたへ)ければ、昌黎重(かさねて)曰(いはく)、「汝が所言我(われ)未信(いまだしんぜず)、今則(すなはち)造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばふ)事を得てんや。」と問(とふ)に、韓湘答(こたふる)事無(なく)して、前(まへ)に置(おい)たる瑠璃(るり)の盆を打覆(うちうつぶせ)て、軈(やが)て又引仰向(ひきあふの)けたるを見れば、忽(たちまち)に碧玉(へきぎよく)の牡丹(ぼたん)の花(はな)の嬋娟(せんげん)たる一枝(いつし)あり。 |
|
昌黎(しやうれい)驚(おどろい)て是(これ)を見(みる)に、花(はなの)中に金字(きんじ)に書(かけ)る一聯(いちれん)の句有り。「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思(おもひ)を成して、是(これ)を読(よう)で一唱(いつしやう)三嘆(さんたん)するに、句の優美遠長(ゑんちやう)なる体製(ていせい)のみ有(あつ)て、其(その)趣向落着(らくぢやく)の所を難知。手に採(とつ)て是(これ)を見んとすれば、忽然(こつぜん)として消失(きえうせ)ぬ。是(これ)よりしてこそ、韓湘(かんしやうは)仙術(せんじゆつ)の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後(そののち)昌黎仏法(ぶつぽふ)を破(やぶつ)て、儒教(じゆけう)を貴(たつとむ)べき由(よし)、奏状(そうじやう)を奉(たてまつり)ける咎(とが)に依(よつ)て、潮州(てうじう)へ流さる。 日暮(くれ)馬泥(なづん)で前途(ぜんと)程(ほど)遠し。遥(はるか)に故郷(こきやう)の方(かた)を顧(かへりみれ)ば、秦嶺に雲横(よこたはつ)て、来(き)つらん方も不覚。悼(いたん)で万仞(ばんじん)の嶮(けはしき)に登らんとすれば、藍関に雪満(みち)て行(ゆく)べき末(すゑ)の路も無し。進退歩(ほ)を失(うしなう)て、頭(かうべ)を回(めぐら)す処に、何(いづく)より来(きた)れるともなく、韓湘悖然(ぼつぜん)として傍(かたはら)にあり。昌黎悦(よろこん)で馬より下(おり)、韓湘が袖を引(ひい)て、泪(なみだ)の中(うち)に申(まうし)けるは、「先年碧玉(へきぎよく)の花(はな)の中に見へたりし一聯(いちれん)の句は、汝我(われ)に予(あらかじめ)左遷(させん)の愁(うれへ)を告知(つげしら)せるなり。今又汝爰(ここ)に来れり。料(はか)り知(しん)ぬ、我(われ)遂(つひ)に謫居(だつきよ)に愁死(しうし)して、帰(かへる)事を得じと。再会期(ご)無(なく)して、遠別(ゑんべつ)今にあり。豈(あに)悲(かなしみ)に堪(たへ)んや。」とて、前(さき)の一聯(いちれん)に句(く)を続(つい)で、八句一首(いつしゆ)と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此(この)詩を袖に入(いれ)て、泣々(なくなく)東西(とうざい)に別(わかれ)にけり。誠(まことなる)哉(かな)、「痴人(ちにんの)面前(めんぜん)に不説夢」云(いふ)事を。此(この)談義を聞(きき)ける人々の忌思(いみおもひ)けるこそ愚(おろか)なれ。 |
|
■頼員(よりかず)回忠(かへりちゆうの)事
謀反人(むほんにん)の与党(よたう)、土岐(とき)左近蔵人(さこんくらうど)頼員(よりかず)は、六波羅(ろくはら)の奉行(ぶぎやう)斉藤太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)利行(としゆき)が女(むすめ)と嫁(か)して、最愛(さいあい)したりけるが、世中(よのなか)已に乱(みだれ)て、合戦出来(いできた)りなば、千に一(ひとつ)も討死せずと云(いふ)事有(ある)まじと思(おもひ)ける間、兼(かね)て余波(なごり)や惜(をし)かりけん、或夜(あるよ)の寝覚(ねざめ)の物語に、「一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り、同流(おなじながれ)を汲(くむ)も、皆是(これ)多生(たしやう)の縁(えん)不浅、況(いはん)や相馴奉(あひなれたてまつつ)て已(すでに)三年(みとせ)に余(あま)れり。等閑(なほざり)ならぬ志(こころざし)の程をば、気色(けしき)に付け、折に触(ふれ)ても思(おもひ)知り給ふらん。去(さ)ても定(さだめ)なきは人間の習(ならひ)、相逢中(あひあふなか)の契(ちぎり)なれば、今若(もし)我(わが)身はかなく成(なり)ぬと聞(きき)給ふ事有(あら)ば、無(なか)らん跡(あと)までも貞女の心を失はで、我後世(わがごせ)を問(とひ)給へ。 人間(にんげん)に帰らば、再び夫婦の契(ちぎり)を結び、浄土(じやうど)に生(うま)れば、同蓮(おなじはちす)の台(うてな)に半座(はんざ)を分(わけ)て待(まつ)べし。」と、其(その)事と無くかきくどき、泪(なみだ)を流(ながし)てぞ申(まうし)ける。女つく/゛\と聞(きい)て、「怪(あやし)や何事(なにごと)の侍(はんべる)ぞや。明日(あす)までの契(ちぎり)の程も知らぬ世に、後世(ごせ)までの荒増(あらまし)は、忘(わすれ)んとての情(なさけ)にてこそ侍(はんべ)らめ。さらでは、かゝるべしとも覚(おぼえ)ず。」と、泣恨(なきうらみ)て問(とひ)ければ、男(をとこ)は心(こころ)浅(あさう)して、「さればよ、我(われ)不慮(ふりよ)の勅命を蒙(かうむつ)て、君に憑(たのま)れ奉る間、辞するに道無(なく)して、御謀反(ごむほん)に与(くみ)しぬる間、千に一(ひとつ)も命(いのち)の生(いき)んずる事難(かた)し。 |
|
無端存(ぞんず)る程に、近づく別(わかれ)の悲(かなし)さに、兼(かねて)加様(かやう)に申(まうす)也。此(この)事穴(あな)賢(かしこ)人に知(しら)させ給ふな。」と、能々(よくよく)口をぞ堅めける。彼女性(かのによしやう)心の賢き者也ければ、夙(つと)にをきて、つく/゛\と此(この)事を思ふに、君の御謀叛(ごむほん)事(こと)ならずば、憑(たのみ)たる男(をとこ)忽(たちまち)に誅せらるべし。若(もし)又武家亡(ほろび)なば、我(わが)親類誰かは一人も残るべき。さらば是(これ)を父利行(としゆき)に語(かたつ)て、左近蔵人(さこんくらうど)を回忠(かへりちゆう)の者に成し、是(これ)をも助け、親類をも扶(たす)けばやと思(おもう)て、急ぎ父が許(もと)に行(ゆき)、忍(しのび)やかに此(この)事を有(あり)の侭(まま)にぞ語りける。 斉藤大(おほき)に驚き、軈(やが)て左近蔵人を呼寄(よびよ)せ、「卦(かか)る不思議を承(うけたまは)る、誠にて候やらん。今の世に加様(かやう)の事、思企(おもひくはだて)給はんは、偏(ひとへ)に石(いし)を抱(いだい)て淵(ふち)に入(い)る者にて候べし。若(もし)他人の口より漏(もれ)なば、我等に至(いたる)まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急(いそぎ)御辺(ごへん)の告知(つげしら)せたる由を、六波羅殿(ろくはらどの)に申(まうし)て、共に其咎(そのとが)を遁(のがれ)んと思ふは、何(いかん)か計(はからひ)給ふぞ。」と、問(とひ)ければ、是(これ)程の一大事を、女性(によしやう)に知らする程の心にて、なじかは仰天(ぎやうてん)せざるべき、「此(この)事は同名(どうみやう)頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎二郎が勧(すすめ)に依(よつ)て、同意仕(つかまつり)て候。只兎(と)も角(かく)も、身の咎(とが)を助(たすか)る様(やう)に御計(はからひ)候へ。」とぞ申(まうし)ける。 |
|
夜(よ)未明(いまだあけざる)に、斉藤急ぎ六波羅(ろくはら)へ参(さんじ)て、事の子細(しさい)を委(くはし)く告げ申(まうし)ければ、則(すなはち)時(とき)をかへず鎌倉へ早馬(はやむま)を立て、京中(きやうぢゆう)・洛外(らくぐわい)の武士(ぶし)どもを六波羅(ろくはら)へ召集(めしあつめ)て、先(まづ)着到(ちやくたう)をぞ付(つけ)られける。其比(そのころ)摂津国(つのくに)葛葉(くずは)と云(いふ)処に、地下人(ぢげにん)代官(だいくわん)を背(そむき)て合戦(かつせん)に及(およぶ)事あり。彼本所(かのほんじよ)の雑掌(ざつしやう)を、六波羅(ろくはら)の沙汰(さた)として、庄家(しやうけ)にしすへん為に、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならびに)在京人(ざいきやうにん)を催さるゝ由を被披露。是(これ)は謀叛の輩(ともがら)を落さじが為の謀(はかりごと)也。土岐(とき)も多治見も、吾(わが)身の上とは思(おもひ)も寄らず、明日(みやうにち)は葛葉へ向ふべき用意して、皆己(おのれ)が宿所(しゆくしよ)にぞ居たりける。 去程(さるほど)に、明(あく)れば元徳(げんとく)元年九月十九日の卯刻(うのこく)に、軍勢雲霞(うんか)の如(ごとく)に六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)参る。小串(こぐし)三郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)範行(のりゆき)・山本九郎時綱(ときつな)、御紋(ごもん)の旗を給(たまはり)て、打手(うつて)の大将を承(うけたまはつ)て、六条河原(かはら)へ打出(ぶちいで)、三千余騎を二手(ふたて)に分(わけ)て、多治見が宿所(しゆくしよ)錦小路高倉(にしきのこうぢたかくら)、土岐(とき)十郎が宿所、三条堀河(ほりかわ)へ寄(よせ)けるが、時綱かくては如何様(いかさま)大事(だいじ)の敵(てき)を打漏(うちもらし)ぬと思(おもひ)けるにや、大勢(おほぜい)をば態(わざ)と三条河原(かはら)に留(とどめ)て、時綱只一騎、中間(ちゆうげん)二人に長刀(なぎなた)持(もた)せて、忍(しのび)やかに土岐が宿所へ馳(はせ)て行き、門前(もんぜん)に馬をば乗捨(のりすて)て、小門(こもん)より内へつと入(いつ)て、中門(ちゆうもん)の方(かた)を見れば、宿直(とのゐ)しける者よと覚(おぼえ)て、物具(もののぐ)・太刀(たち)・々(かたな)、枕に取散(とりちら)し、高鼾(たかいびき)かきて寝入(ねいり)たり。 |
|
廐(むやま)の後(うしろ)を回(まはつ)て、何(いづく)にか匿地(くけち)の有(ある)と見れば、後(うしろ)は皆築地(ついぢ)にて、門(もん)より外(ほか)は路も無し。さては心安(こころやす)しと思(おもう)て、客殿(きやくでん)の奥なる二間(ふたま)を颯(さつ)と引(ひき)あけたれば、土岐十郎只今起(おき)あがりたりと覚(おぼえ)て、鬢髪(びんのかみ)を撫揚(なであげ)て結(ゆひ)けるが、山本九郎を屹(きつ)と見て、「心得(こころえ)たり。」と云侭(いふまま)に、立(たて)たる大刀(たち)を取(とり)、傍(そば)なる障子(しやうじ)を一間(ひとま)蹈破(ふみやぶ)り、六間(むま)の客殿(きやくでん)へ跳出(をどりいで)、天井(てんじやう)に大刀(たち)を打付(うちつけ)じと、払切(はらひぎり)にぞ切(きつ)たりける。 時綱は態(わざと)敵を広庭(ひろには)へ帯出(おびきいだ)し、透間(すきま)も有らば生虜(いけどら)んと志(こころざし)て、打払(うちはらひ)ては退(しりぞき)、打流(うちなが)しては飛(とび)のき、人交(ひとまぜ)もせず戦(たたかう)て、後(うしろ)を屹(きつ)と見たれば、後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)二千余騎、二(に)の関(きど)よりこみ入(いつ)て、同音(どうおん)に時(とき)を作る。土岐十郎久(ひさし)く戦(たたかう)ては、中々(なかなか)生捕(いけどら)れんとや思(おもひ)けん、本(もと)の寝所(ねどころ)へ走帰(はしりかへつ)て、腹(はら)十文字(もんじ)にかき切(きつ)て、北枕(きたまくら)にこそ臥(ふし)たりけれ。中間(なかのま)に寝たりける若党(わかたう)どもゝ、思々(おもひおもひ)に討死(うちじに)して、遁(のが)るゝ者一人も無(なか)りけり。首(くび)を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、山本九郎は是(これ)より六波羅(ろくはら)へ馳参(はせまゐ)る。多治見が宿所へは、小串(こぐし)三郎左衛門範行(のりゆき)を先(さき)として、三千余騎にて推寄(おしよせ)たり。 |
|
多治見は終夜(よもすがら)の酒に飲酔(のみゑひ)て、前後(ぜんご)も不知臥(ふし)たりけるが、時(とき)の声に驚(おどろい)て、是(これ)は何事ぞと周障(あわて)騒ぐ。傍(そば)に臥(ふし)たる遊君(いうくん)、物馴(ものなれ)たる女(をんな)也ければ、枕なる鎧(よろひ)取(とつ)て打着(うちき)せ、上帯(うはおび)強く縮(しめ)させて、猶寝入(ねいり)たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六(をがさはらまごろく)、傾城(けいせい)に驚(おどろか)されて、太刀計(ばかり)を取(とつ)て、中門(ちゆうもん)に走出(はしりい)で、目を磨々(すりすり)四方(しはう)を岐(きつ)と見ければ、車の輪(わ)の旗一流(ひとながれ)、築地(ついぢ)の上(うへ)より見へたり。 孫六内へ入(いつ)て、「六波羅(ろくはら)より打手(うつて)の向(むかう)て候(さふらひ)ける。此間(このあひだ)の御謀反(ごむほん)早(はや)顕(あらはれ)たりと覚(おぼえ)候。早(はや)面々(めんめん)太刀の目貫(めぬき)の堪(こら)ゑん程は切合(きりあう)て、腹を切れ。」と呼(よばはつ)て、腹巻(はらまき)取(とつ)て肩になげかけ、廾四差(さい)たる胡■(えびら)と、繁藤(しげどう)の弓とを提(ひつさげ)て、門(もん)の上なる櫓(やぐら)へ走上(はしりあが)り、中差(なかざし)取(とつ)て打番(うちつが)ひ、狭間(さま)の板(いた)八文字(もんじ)に排(ひらい)て、「あらこと/゛\しの大勢(おほぜい)や。我等が手柄のほどこそ顕(あらはれ)たれ。抑(そもそも)討手(うつて)の大将は誰(たれ)と申(まうす)人の向(むかは)れて候やらん。近付(ちかづい)て箭(や)一(ひとつ)請(うけ)て御覧候へ。」と云侭(いふまま)に、十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、忘るゝ計(ばかり)引(ひき)しぼりて、切(きつ)て放つ。真前(まつさき)に進(すすん)だる狩野下野前司(かののしもづけのぜんじ)が若党に、衣摺(きぬずりの)助房(すけふさ)が胄(かぶと)のまつかう、鉢付(はちつけ)の板(いた)まで、矢先(やさき)白く射通(いとほ)して、馬より倒(さかさま)に射落(いおと)す。 |
|
是(これ)を始(はじめ)として、鎧(よろひ)の袖・草摺(くさずり)・胄鉢(かぶとのはち)とも不言、指詰(さしつめ)て思様(おもふさま)に射けるに、面(おもて)に立(たつ)たる兵(つはもの)廾四人、矢の下(した)に射て落す。今一筋(ひとすぢ)胡■(えびら)に残(のこり)たる矢を抜(ぬい)て、胡■(えびら)をば櫓の下(した)へからりと投落(なげおと)し、「此(この)矢一(ひとつ)をば冥途(めいど)の旅の用心に持(もつ)べし。」と云(いつ)て腰にさし、「日本一(につぽんいち)の剛者(がうのもの)、謀叛に与(くみ)し自害(じがい)する有様見置(おい)て人に語れ。」と高声(かうじやう)に呼(よばはつ)て、太刀の鋒(きつさき)を口に呀(くはへ)て、櫓より倒(さかさま)に飛落(とびおち)て、貫(つらぬかれ)てこそ死(し)にけれ。 此間(このあひだ)に多治見を始(はじめ)として、一族若党廾余人物具(もののぐ)ひし/\と堅め、大庭(おほには)に跳出(をどりい)で、門(もん)の関(くわん)の木(き)差(さし)て待懸(まちかけ)たり。寄手(よせて)雲霞(うんか)の如しと云へども、思切(おもひきつ)たる者どもが、死狂(しにぐるひ)をせんと引篭(ひつこもつ)たるがこはさに、内へ切(きつ)て入(いら)んとする者も無(なか)りける処に、伊藤彦次郎(ひこじらう)父子兄弟(ふしきやうだい)四人(よつたり)、門の扉(とびら)の少し破(やぶれ)たる処より、這(はう)て内へぞ入(いり)たりける。志の程は武(たけ)けれども、待請(まちうけ)たる敵(てき)の中へ、這(はう)て入(いつ)たる事なれば、敵に打違(うちちがふ)るまでも無(なく)て、皆門(もん)の脇(わき)にて討(うた)れにけり。寄手(よせて)是(これ)を見て、弥(いよいよ)近(ちかづ)く者も無(なか)りける間(あひだ)、内より門(もん)の扉(とびら)を推開(おしひらい)て、「討手(うつて)を承(うけたまは)るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉(かな)。 |
|
早(はや)是(これ)へ御入(いり)候へ。我等(われら)が頭共(くびども)引出物(ひきでもの)に進(まゐら)せん。」と、恥(はぢ)しめてこそ立(たち)たりけれ。寄手共(よせてども)敵にあくまで欺(あざむか)れて、先陣(せんぢん)五百余人(ごひやくよにん)馬を乗放(のりはな)して、歩立(かちだち)に成(なり)、喚(をめい)て庭へこみ入(いる)。楯篭(たてこも)る所の兵(つはもの)ども、とても遁(のがれ)じと思切(おもひきつ)たる事なれば、何(いづく)へか一足(ひとあし)も引(ひく)べき。二十余人(にじふよにん)の者ども、大勢(おほぜい)の中へ乱入(みだれいつ)て、面(おもて)もふらず切(きつ)て廻(まは)る。先駈(さきがけ)の寄手(よせて)五百余人(ごひやくよにん)、散々(さんざん)に切立(きりたて)られて、門(もん)より外(ほか)へ颯(さつ)と引く。 されども寄手は大勢(おほぜい)なれば、先陣引けば二陣喚(をめい)て懸入(かけいる)。々々(かけいれ)ば追出(おひいだし)、々々(おひいだ)せば懸入(かけい)り、辰刻(たつのこく)の始(はじめ)より午刻(うまのこく)の終(をはり)まで、火出(いづ)る程こそ戦(たたかひ)けれ。加様(かやう)に大手(おほて)の軍(いくさ)強(つよ)ければ、佐々木判官(はうぐわん)が手者(てのもの)千余人、後(うしろ)へ廻(まはつ)て錦小路(にしきのこうぢ)より、在家(ざいけ)を打破(うちやぶつ)て乱入(みだれい)る。多治見今は是(これ)までとや思(おもひ)けん、中門(ちゆうもん)に並居(なみゐ)て、二十二人の者ども、互に差違(さしちがへ)々々、算(さん)を散(ちら)せる如く臥(ふし)たりける。追手(おふて)の寄手共(よせてども)が、門(もん)を破(やぶ)りける其間(そのあひだ)に、搦手(からめで)の勢共(せいども)乱入(みだれい)り、首(くび)を取(とつ)て六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)帰る。二時計(ふたときばかり)の合戦に、手負死人(ておひしにん)を数(かぞふ)るに、二百七十三人也。 |
|
■資朝俊基(すけともとしもと)関東下向(げかうの)事付御告文(ごかうぶんの)事 土岐(とき)・多治見(たぢみ)討(うた)れて後(のち)、君の御謀叛(ごむほん)次第に隠(かく)れ無(なか)りければ、東使(とうし)長崎四郎左衛門泰光(やすみつ)、南条(なんでうの)次郎左衛門宗直(むねなほ)二人(ににん)上洛(しやうらく)して、五月十日資朝・俊基両人(りやうにん)を召取(めしとり)奉る。土岐が討(うた)れし時、生虜(いけどり)の者一人も無(なか)りしかば、白状(はくじやう)はよも有らじ、さりとも我等が事は顕(あらは)れじと、無墓憑(たのみ)に油断して、曾(かつ)て其(その)用意も無(なか)りければ、妻子(さいし)東西(とうざい)に逃迷(にげまよ)ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝(ざいはう)は大路(おほち)に引散(ひきちら)されて、馬蹄(ばてい)の塵(ちり)と成(なり)にけり。 彼(かの)資朝卿(すけとものきやう)は日野(ひの)の一門にて、職(しよく)大理(だいり)を経(へ)、官(くわんは)中納言に至りしかば、君の御覚(おんおぼ)へも他に異(ことに)して、家の繁昌時(とき)を得たりき。俊基朝臣(あそん)は身(み)儒雅(じゆが)の下(もと)より出(い)で、望(のぞみ)勲業(くんげふ)の上(うへ)に達(たつ)せしかば、同官(どうくわん)も肥馬(ひば)の塵を望み、長者(ちやうじや)も残盃(ざんばい)の冷(れい)に随ふ。宜(むべなる)哉(かな)「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是(これ)孔子の善言(ぜんげん)、魯論(ろろん)に記(き)する処なれば、なじかは違(たがふ)べき。夢の中に楽(たのしみ)尽(つき)て、眼前(がんぜん)の悲(かなしみ)云(ここ)に来れり。彼(かれ)を見是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(り)を知らでも、袖をしぼりゑず。 |
|
同(おなじき)二十七日、東使(とうし)両人(りやうにん)、資朝・俊基を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、鎌倉へ下着(げちやく)す。此(この)人々は殊更謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、軈(やが)て誅せられぬと覚(おぼえ)しかども、倶(とも)に朝廷の近臣として、才覚(さいかく)優長の人たりしかば、世の譏(そし)り君の御憤(いきどほり)を憚(はばかつ)て、嗷問(がうもん)の沙汰にも不及、只尋常(よのつね)の放召人(はなしめしうど)の如(ごとく)にて、侍所(さぶらひどころ)にぞ預置(あづけおか)れける。七月七日、今夜(こんや)は牽牛(けんぎう)・織女(しよくぢよ)の二星(じせい)、烏鵲橋(うじやくのはし)を渡して、一年の懐抱(くわいばう)を解(とく)夜(よ)なれば、宮人(きゆうじん)の風俗(ならはし)、竹竿(ちくかん)に願糸(ねがひのいと)を懸(か)け、庭前(ていぜん)に嘉菓(かくわ)を列(つらね)て、乞巧奠(きつかうでん)を修(しゆす)る夜(よ)なれ共(ども)、世上(せじやう)騒(さわが)しき時節(をりふし)なれば、詩歌(しいか)を奉る騒人(さうじん)も無く、絃管(げんくわん)を調(しらぶ)る伶倫(れいりん)もなし。 適(たまたま)上臥(うへぶし)したる月卿雲客(げつけいうんかく)も、何(なに)と無く世中(よのなか)の乱(みだれ)、又誰身上(たがみのうへ)にか来(きたら)んずらんと、魂(たましひ)を消し肝(きも)を冷(ひや)す時分(をりふし)なれば、皆眉を顰(ひそ)め面(おもて)を低(たれ)てぞ候(さふらひ)ける。夜痛(いたく)深(ふけ)て、「誰か候。」と召(めさ)れければ、「吉田(よしだの)中納言冬房(ふゆふさ)候。」とて御前(おんまへ)に候(こう)す。主上席(せき)を近(ちかづけ)て仰(おほせ)有(あり)けるは、「資朝・俊基が囚(とらは)れし後(のち)、東風(とうふう)猶未静(いまだしづかならず)、中夏(ちゆうか)常に危(あやふき)を蹈(ふ)む。 |
|
此(この)上に又何(いか)なる沙汰をか致(いたさ)んずらんと、叡慮更に不穏。如何(いかん)して先(まづ)東夷(とうい)を定(しづむ)べき謀(はかりごと)有(あら)ん。」と、勅問(ちよくもん)有(あり)ければ、冬房謹(つつしん)で申(まうし)けるは、「資朝・俊基が白状(はくじやう)有りとも承(うけたまはり)候はねば、武臣此(この)上の沙汰には及ばじと存(ぞんじ)候へども、近日(このごろ)東夷(とうい)の行事(ふるまひ)、楚忽(そこつ)の義(ぎ)多(おほく)候へば、御油断(ごゆだん)有(ある)まじきにて候。先(まづ)告文(かうぶん)一紙(いつし)を下(くだ)されて、相摸入道(さがみにふだう)が忿(いかり)を静め候(さふらは)ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食(おぼしめさ)れけん、「さらば軈(やが)て冬房書(かけ)。」と仰(おほせ)有(あり)ければ、則(すなはち)御前(おんまへ)にして草案(さうあん)をして、是(これ)を奏覧(そうらん)す。君且(しばらく)叡覧有(あつ)て、御泪(おんなみだ)の告文(かうぶん)にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭(おしのご)はせ給へば、御前(おんまへ)に候(さふらひ)ける老臣、皆悲啼(ひてい)を含まぬは無(なか)りけり。 頓(やが)て万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさのきやう)を勅使として、此告文(このかうぶん)を関東へ下さる。相摸入道、秋田城介(あいたのじやうのすけ)を以て告文(かうぶん)を請取(うけとつ)て、則(すなはち)披見(ひけん)せんとしけるを、二階堂(にかいだうの)出羽(ではの)入道々蘊(だううん)、堅く諌めて申(まうし)けるは、「天子武臣に対して直(ぢき)に告文(かうぶん)を被下たる事、異国にも我(わが)朝にも未(いまだ)其(その)例を承(うけたまはら)ず。然(しかる)を等閑(なほざり)に披見せられん事、冥見(みやうけん)に付(つい)て其恐(そのおそれ)あり。只文箱(ふんばこ)を啓(ひらか)ずして、勅使に返進(かへしまゐら)せらるべきか。」と、再往(さいわう)申(まうし)けるを、相摸入道、「何(なに)か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行(としゆき)に読進(よみまゐら)せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読(よみ)ける時に、利行俄(にはか)に眩(めくるめき)衄(はなぢ)たりければ、読(よみ)はてずして退出(たいしゆつ)す。 |
|
其(その)日より喉下(のどのした)に悪瘡(あくさう)出(いで)て、七日(なぬか)が中(うち)に血を吐(はい)て死(し)にけり。時(とき)澆季(げうき)に及(およん)で、道(みち)塗炭(どたん)に落(おち)ぬと云(いへ)ども、君臣(くんしん)上下の礼違(たがふ)則(とき)は、さすが仏神(ぶつじん)の罰も有(あり)けりと、是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、懼恐(おぢおそれ)ぬは無(なか)りけり。「何様(なにさま)資朝・俊基の隠謀(いんぼう)、叡慮より出(いで)し事なれば、縦(たとひ)告文(かうぶん)を下されたりと云(いへ)ども、其(それ)に依るべからず。主上をば遠国(をんごく)へ遷(うつ)し奉(たてまつる)べし。」と、初(はじめ)は評定(ひやうぢやう)一決(いつけつ)してけれども、勅使宣房卿(のぶふさのきやう)の被申趣(おもむき)げにもと覚(おぼゆ)る上、告文(かうぶん)読(よみ)たりし利行、俄に血を吐(はい)て死(しに)たりけるに、諸人(しよにん)皆舌を巻き、口を閉づ。 相摸入道(さがみにふだう)も、さすが天慮其憚(そのはばかり)有りけるにや、「御治世(ごぢせい)の御事(おんこと)は朝議(てうぎ)に任(まか)せ奉る上は、武家綺(いろ)ひ申(まうす)べきに非(あら)ず。」と、勅答を申(まうし)て、告文(かうぶん)を返進(へんしん)せらる。宣房卿(のぶふさのきやう)則(すなはち)帰洛(きらく)して、此(この)由を奏し申(まうさ)れけるにこそ、宸襟(しんきん)始(はじめ)て解(とけ)て、群臣(ぐんしん)色をば直(なほ)されけれ。去程(さるほど)に俊基朝臣は罪の疑(うたがは)しきを軽(かろん)じて赦免(しやめん)せられ、資朝卿(すけとものきやう)は死罪(しざい)一等を宥(なだ)められて、佐渡国(さどのくに)へぞ流されける。 |
|
■太平記 巻第二 | |
■南都北嶺(なんとほくれい)行幸(ぎやうがうの)事(こと)
元徳(げんとく)二年二月四日、行事(ぎやうじ)の弁別当(べんのべつたう)、万里小路(までのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)藤房卿(ふぢふさのきやう)を召(めさ)れて、「来月八日東大寺興福寺(こうふくじ)行幸(ぎやうがう)有(ある)べし、早(はやく)供奉(ぐぶ)の輩(ともがら)に触仰(ふれおほ)すべし。」と仰出(おほせいだ)されければ、藤房(ふぢふさ)古(ふるき)を尋(たづね)、例(れい)を考(かんがへ)て、供奉(ぐぶ)の行装(かうさう)、路次(ろし)の行列(かうれつ)を定(さだめ)らる。佐々木(ささきの)備中守(びつちゆうのかみ)廷尉(ていゐ)に成(なつ)て橋を渡(わた)し、四十八箇所(しじふはちかしよの)篝(かがり)、甲胄(かつちう)を帯(たい)し、辻(つじ)々を堅(かた)む。三公(さんこう)九卿(きうけい)相従(あひしたが)ひ、百司千官(はくしせんくわん)列(れつ)を引(ひく)、言語道断(ごんごだうだん)の厳儀(げんぎ)也。 東大寺と申(まうす)は聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、閻浮(えんぶ)第一(だいいち)の盧舎那仏(るしやなぶつ)、興福寺と申(まうす)は淡海公(たんかいこう)の御願、藤氏(とうし)尊崇(そんそう)の大伽藍(だいがらん)なれば、代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)も、皆結縁(けちえん)の御志(おんこころざし)は御坐(おは)せども、一人(いちじん)出給(いでたまふ)事(こと)容易(たやす)からざれば、多年臨幸の儀(ぎ)もなし。此御代(このみよ)に至(いたつ)て、絶(たえ)たるを継(つぎ)、廃(すたれ)たるを興(おこ)して、鳳輦(ほうれん)を廻(めぐら)し給(たまひ)しかば、衆徒(しゆと)歓喜(くわんぎ)の掌(たなごころ)を合(あは)せ、霊仏(れいぶつ)威徳(ゐとく)の光をそふ。されば春日山(かすがやま)の嵐の音も、今日(けふ)よりは万歳(ばんぜい)を呼(よば)ふかと怪(あやし)まれ、北の藤波(ふじなみ)千代(ちよ)かけて、花(はな)咲(さく)春の陰(かげ)深し。 |
|
又同(おなじき)月二十七日に、比叡山(ひえいさん)に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、大講堂(だいかうだう)供養(くやう)あり。彼(かの)堂と申(まうす)は、深草天皇(ふかくさのてんわう)の御願(ごぐわん)、大日遍照(だいにちへんぜう)の尊像(そんざう)也。中比(なかごろ)造営(ざうえい)の後(のち)、未(いまだ)供養を遂(とげ)ずして、星霜(せいざう)已(すでに)積(つも)りければ、甍(いらか)破(やぶれ)ては霧(きり)不断(ふだん)の香(かう)を焼(たき)、扉(とぼそ)落(おち)ては月常住(じやうぢゆ)の燈(ともしび)を挑(かか)ぐ。されば満山(まんさん)歎(なげい)て年を経(ふ)る処に、忽(たちまち)に修造(しゆざう)の大功を遂(とげ)られ、速(すみやか)に供養の儀式を調(ととの)へ給(たまひ)しかば、一山(いつさん)眉(まゆ)を開(ひら)き、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶ)けり。 御導師(おんだうし)は妙法院(めうほふゐんの)尊澄(そんちよう)法親王(ほふしんわう)、咒願(じゆぐわん)は時の座主(ざす)大塔(おほたふの)尊雲(そんうん)法親王(ほふしんわう)にてぞ御座(おは)しける。称揚讚仏(しようやうさんぶつ)の砌(みぎり)には、鷲峯(じゆほう)の花(はな)薫(にほひ)を譲り、歌唄頌徳(かばいじゆとく)の所には、魚山(ぎよさん)の嵐(あらし)響(ひびき)を添(そふ)。伶倫(れいりん)遏雲(あつうん)の曲を奏し、舞童(ぶどう)回雪(くわいせつ)の袖を翻(ひるがへ)せば、百獣も率舞(そつしまひ)、鳳鳥(ほうてう)も来儀(らいぎ)する計(ばかり)也。 |
|
住吉の神主(かんぬし)、津守(つもり)の国夏(くになつ)大皷(たいこ)の役(やく)にて登山(とうさん)したりけるが、宿坊(しゆくばう)の柱に一首(いつしゆ)の歌をぞ書付(かきつけ)たる。契(ちぎり)あれば此山(このやま)もみつ阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の種(たね)や植剣(うゑけん)是(これ)は伝教大師(でんげうたいし)当山(たうざん)草創(さうさう)の古(いにしへ)、「我(わが)立(たつ)杣(そま)に冥加(みやうが)あらせ給へ。」と、三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の仏達(ほとけたち)に祈給(いのりたまひ)し故事(こじ)を思(おもう)て、読(よめ)る歌なるべし。抑(そもそも)元亨(げんかう)以後、主(しゆ)愁(うれへ)臣(しん)辱(はづかしめ)られて、天下更(さらに)安(やすき)時なし。折節(をりふし)こそ多かるに、今南都北嶺(なんとほくれい)の行幸、叡願(えいぐわん)何事(なにこと)やらんと尋(たづぬ)れば、近年(きんねん)相摸入道(さがみにふだうの)振舞、日来(ひごろ)の不儀に超過(てうくわ)せり。 蛮夷(ばんい)の輩(ともがら)は、武命(ぶめい)に順(したが)ふ者なれば、召(めす)とも勅(ちよく)に応ずべからず。只山門南都の大衆(だいしゆ)を語(かたらひ)て、東夷(とうい)を征罰(せいばつ)せられん為の御謀叛(ごむほん)とぞ聞(きこ)へし。依之大塔(おほたふ)の二品(にほん)親王(しんわう)は、時の貫主(くわんじゆ)にて御坐(おは)せしか共(ども)、今は行学(かうがく)共(とも)に捨(すて)はてさせ給(たまひ)て、朝暮(てうぼ)只武勇の御嗜(たしなみ)の外(ほか)は他事なし。御好(おんこのみ)有故(あるゆゑ)にや依(より)けん、早業(はやわざ)は江都(かうと)が軽捷(けいせふ)にも超(こえ)たれば、七尺(しつせき)の屏風(びやうぶ)未(いまだ)必(かならず)しも高しともせず。打物(うちもの)は子房(しばう)が兵法(ひやうはふ)を得玉(えたま)へば、一巻(いつくわん)の秘書尽(つく)されずと云(いふ)事(こと)なし。天台座主(てんだいのざす)始(はじまつ)て、義真和尚(ぎしんくわしやう)より以来(このかた)一百余代、未(いまだ)懸(かか)る不思議の門主(もんしゆ)は御坐(おはしま)さず。後(のち)に思合(おもひあは)するにこそ、東夷征罰(とういせいばつ)の為に、御身(おんみ)を習(ならは)されける武芸の道とは知られたれ。 |
|
■僧徒(そうと)六波羅(ろくはらへ)召捕(めしとる)事(こと)付為明(ためあきら)詠歌(えいかの)事(こと)
事の漏安(もれやす)きは、禍(わざはひ)を招く媒(なかだち)なれば、大塔宮(おほたふのみや)の御行事(おんふるまひ)、禁裡(きんり)に調伏(てうぶく)の法被行事共(ども)、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道(さがみにふだう)大(おほき)に怒(いかつ)て、「いや/\此君(このきみの)御在位(ございゐ)の程は天下静まるまじ。所詮(しよせん)君をば承久(しようきう)の例(れい)に任(まかせ)て、遠国(をんごく)へ移し奉(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に所(しよ)し奉るべき也。先(まづ)近日(このころ)殊に竜顔(りようがん)に咫尺奉(しせきしたてまつつ)て、当家(たうけ)を調伏(てうぶく)し給ふなる、法勝寺(ほつしようじ)の円観(ゑんくわん)上人・小野(をの)の文観(もんくわん)僧正・南都の知教(ちけう)・教円(けうゑん)・浄土寺(じやうどじ)の忠円(ちゆうゑん)僧正を召取(めしとり)て、子細(しさい)を相尋(あひたづぬ)べし。」と、已(すで)に武命を含(ふくん)で、二階堂下野判官(にかいだうしもつけのはうぐわん)・長井遠江守(ながゐとほたふみのかみ)二人(ににん)、関東より上洛(しやうらく)す。 両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)せしかば、「又何(いか)なる荒き沙汰(さた)をか致さんずらん。」と、主上宸襟(しんきん)を悩(なやま)されける所に、五月十一日の暁(あかつき)、雑賀隼人佐(さいがはやとのすけ)を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人(さんにん)を六波羅(ろくはら)へ召取(めしとり)奉る。此(この)中に忠円僧正は、顕宗(けんしゆう)の碩徳(せきとく)也しかば、調伏の法行(おこなう)たりと云(いふ)、其人数(そのにんじゆ)には入(い)らざりしかども、是(これ)も此(この)君に近付き奉(たてまつつ)て、山門(さんもん)の講堂(かうだう)供養(くやう)以下(いげ)の事(こと)、万(よろづ)直(ぢき)に申沙汰(まうしさた)せられしかば、衆徒(しゆと)与力(よりき)の事(こと)、此(この)僧正よも存(ぞん)ぜられぬ事は非じとて、同(おなじく)召取(めしとら)れ給(たまひ)にけり。 |
|
是(これ)のみならず、智教・教円二人(ににん)も、南都より召出(めしいだ)されて、同(おなじく)六波羅(ろくはら)へ出(いで)給ふ。又二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきらの)卿(きやう)は、歌道(かだう)の達者(たつしや)にて、月の夜(よ)雪の朝(あした)、褒貶(はうへん)の歌合(うたあはせ)の御会(ごくわい)に召(めさ)れて、宴(えん)に侍(はんべ)る事隙(ひま)無(なか)りしかば、指(さし)たる嫌疑(けんぎ)の人にては無(なか)りしかども、叡慮の趣を尋問(たづねとは)ん為に召取(めしとら)れて、斉藤某(なにがし)に是(これ)を預(あづけ)らる。五人の僧達(そうたち)の事は、元来(もとより)関東へ召下(めしくだ)して、沙汰有(ある)べき事なれば、六波羅(ろくはら)にて尋窮(たづねきはむる)に及ばず。為明(ためあきらの)卿(きやう)の事に於ては、先(まづ)京都にて尋沙汰(たづねさた)有(あつ)て、白状(はくじやう)あらば、関東へ註進(ちゆうしん)すべしとて、検断(けんだん)に仰(おほせ)て、已(すでに)嗷問(がうもん)の沙汰に及(およば)んとす。 六波羅(ろくはら)の北の坪(つぼ)に炭をゝこす事(こと)、■湯炉壇(くわくたうろだん)の如(ごとく)にして、其(その)上に青竹を破(わ)りて敷双(しきなら)べ、少(すこし)隙(ひま)をあけゝれば、猛火(みやうくわ)炎(ほのほ)を吐(はい)て、烈(れつ)々たり。朝夕雑色(でうじやくざふしき)左右(さいう)に立双(たちならん)で、両方(りやうばう)の手を引張(ひつばつ)て、其(その)上を歩(あゆま)せ奉(たてまつら)んと、支度(したく)したる有様は、只四重(しぢゆう)五逆(ごぎやく)の罪人(ざいにん)の、焦熱大焦熱(せうねつだいせうねつ)の炎(ほのほ)に身を焦(こが)し、牛頭馬頭(ごづめづ)の呵責(かしやく)に逢(あふ)らんも、角社(かくこそ)有(あ)らめと覚(おぼ)へて、見(みる)にも肝(きも)は消(きえ)ぬべし。 |
|
為明(ためあきら)卿(きやう)是(これ)を見給て、「硯(すずり)や有(ある)。」と尋(たづね)られければ、白状(はくじやう)の為かとて、硯(すずり)に料紙(れうし)を取添(とりそへ)て奉りければ、白状(はくじやう)にはあらで、一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かか)れける。
思(おもひ)きや我敷嶋(わがしきしま)の道ならで浮世の事を問(とは)るべしとは常葉駿河守(ときはするがのかみ)、此(この)歌を見て感歎(かんたん)肝(きも)に銘(めい)じければ、泪(なみだ)を流して理(り)に伏(ふく)す。東使(とうし)両人も是(これ)を読(よみ)て、諸共(もろとも)に袖を浸(ひた)しければ、為明(ためあきら)は水火(すゐくわ)の責(せめ)を遁(のが)れて、咎(とが)なき人に成(なり)にけり。 詩歌(しいか)は朝廷の翫(もてあそぶ)処、弓馬(きゆうば)は武家の嗜(たしな)む道なれば、其慣(そのならはし)未(いまだ)必(かならず)しも、六義(りくぎ)数奇(すき)の道に携(たづさは)らねども、物(ものの)相感(あひかん)ずる事(こと)、皆(みな)自然なれば、此(この)歌一首(いつしゆ)の感(かん)に依(よつ)て、嗷問(がうもん)の責(せめ)を止(や)めける、東夷(とうい)の心中(こころのうち)こそやさしけれ。力をも入(いれ)ずして、天地(あめつち)を動(うごか)し、目にみへぬ鬼神(おにがみ)をも哀(あはれ)と思はせ、男女(をとこをんな)の中(なか)をも和(やはら)げ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰(なぐさむ)るは歌也と、紀貫之(きのつらゆき)が古今(こきん)の序(じよ)に書(かき)たりしも、理(ことわり)なりと覚(おぼえ)たり。 |
|
■三人(さんにんの)僧徒(そうと)関東下向(げかうの)事(こと)
同年(おなじきとしの)六月八日、東使(とうし)三人(さんにん)の僧達(そうたち)を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、関東に下向す。彼(かの)忠円僧正と申(まうす)は、浄土寺慈勝(じしよう)僧正の門弟として、十題判断(じふだいはんだん)の登科(とうくわ)、一山(いつさん)無双(ぶさう)の碩学(せきがく)也。文観(もんくわん)僧正と申(まうす)は、元(もと)は播磨国(はりまのくに)法華寺(ほつけじ)の住侶(ぢゆりよ)たりしが、壮年(さうねん)の比(ころ)より醍醐寺(だいごじ)に移住(いぢゆう)して、真言(しんごん)の大阿闍梨(だいあじやり)たりしかば、東寺(とうじ)の長者(ちやうじや)、醍醐の座主(ざす)に補(ふ)せられて、四種三密(ししゆさんみつ)の棟梁(とうりやう)たり。円観上人と申(まうす)は、元(もと)は山徒(さんと)にて御坐(おはし)けるが、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)の才(さい)、一山(いつさん)に光(ひかり)有(ある)かと疑はれ、智行兼備(ちぎやうけんび)の誉(ほま)れ、諸寺(しよじ)に人無(なき)が如し。 然(しかれ)ども久(ひさしく)山門澆漓(げうり)の風(ふう)に随はゞ、情慢(じやうまん)の幢(はたほこ)高(たかう)して、遂に天魔(てんま)の掌握(しやうあく)の中(うち)に落(おち)ぬべし。不如、公請論場(くしやうろんぢやう)の声誉(せいよ)を捨(すて)て、高祖大師(かうそたいし)の旧規(きうき)に帰(かへら)んにはと、一度(ひとたび)名利(みやうり)の轡(くつばみ)を返して、永く寂寞(じやくまく)の苔(こけ)の扉(とぼそ)を閉(とぢ)給ふ。初(はじめ)の程は西塔(さいたふ)の黒谷(くろたに)と云(いふ)所に居(きよ)を卜(しめ)て、三衣(さんえ)を荷葉(かえふ)の秋(あき)の霜に重(かさ)ね、一鉢(いつばち)を松華(しようくわ)の朝(あした)の風(かぜ)に任(まかせ)給ひけるが、徳不孤必(かならず)有隣、大明(だいみやう)光(ひかり)を蔵(かくさ)ざりければ、遂に五代聖主の国師(こくし)として、三聚浄戒(さんじゆじやうかい)の太祖(たいそ)たり。かゝる有智高行(うちかうぎやう)の尊宿(そんしゆく)たりと云へども、時の横災(わうさい)をば遁(のがれ)給はぬにや、又前世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)にや依(より)けん。 |
|
遠蛮(ゑんばん)の囚(とらはれ)と成(なつ)て、逆旅(げきりよ)の月にさすらひ給(たまふ)、不思議なりし事ども也。円観上人計(ばかり)こそ、宗印(そういん)・円照(ゑんせう)・道勝(だうしよう)とて、如影随形(によやうずゐぎやう)の御弟子(おんでし)三人(さんにん)、随逐(ずゐちく)して輿(こし)の前後(ぜんご)に供奉(ぐぶ)しけれ。其外(そのほか)文観僧正・忠円僧正には相随(あひしたがふ)者一人も無(なく)て、怪(あやしげ)なる店馬(てんま)に乗(の)せられて、見馴(みなれ)ぬ武士(ぶし)に打囲(うちかこま)れ、まだ夜(よ)深きに鳥が鳴(なく)東(あづま)の旅に出(いで)給ふ、心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。 鎌倉(かまくら)までも下(くだ)し着(つ)けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼(かしこ)の宿(しゆく)に着(つい)ても今や限り、此(ここ)の山に休(やす)めば是(これ)や限りと、露の命(いのち)のある程も、心は先(さき)に消(きえ)つべし。昨日(きのふ)も過(すぎ)今日(けふ)も暮(くれ)ぬと行程(ゆくほど)に、我(われ)とは急(いそ)がぬ道なれど、日数(ひかず)積(つも)れば、六月二十四日に鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。円観上人をば佐介(さすけ)越前守(ゑちぜんのかみ)、文観僧正をば佐介遠江守(とほたふみのかみ)、忠円僧正をば足利(あしかが)讚岐守(さぬきのかみ)にぞ預(あづけ)らる。両使帰参(きさん)して、彼(かの)僧達(そうたち)の本尊の形(かたち)、炉壇(ろだん)の様(やう)、画図(ゑづ)に写(うつし)て註進す。 |
|
俗人(ぞくじん)の見知(みし)るべき事ならねば、佐々目(ささめ)の頼禅(らいぜん)僧正を請(しやう)じ奉(たてまつつ)て、是(これ)を被見せに、「子細(しさい)なき調伏(てうぶく)の法也。」と申されければ、「去(さら)ば此(この)僧達(そうたち)を嗷問(がうもん)せよ。」とて、侍所(さふらひどころ)に渡して、水火(すゐくわ)の責(せめ)をぞ致しける。文観房(もんくわんばう)暫(しばし)が程はいかに問(とは)れけれ共(ども)、落(おち)玉はざりけるが、水問(みづもん)重(かさな)りければ、身も疲(つかれ)心も弱(よわく)なりけるにや、「勅定(ちよくじやう)に依(よつ)て、調伏の法行(おこなう)たりし条子細なし。」と、白状(はくじやう)せられけり。其後(そののち)忠円房を嗷問せんとす。此(この)僧正天性(てんせい)臆病(おくびやう)の人にて、未責(いまだせめざる)先(さき)に、主上(しゆしやう)山門を御語(おんかたら)ひありし事(こと)、大塔(おほたふ)の宮(みや)の御振舞、俊基(としもと)の隠謀(いんぼう)なんど、有(あり)もあらぬ事までも、残所(のこるところ)なく白状(はくじやう)一巻(いつくわん)に載(のせ)られたり。 此(この)上は何(なん)の疑(うたがひ)か有(ある)べきなれ共(ども)、同罪(どうざい)の人なれば、閣(さしおく)べきに非(あら)ず。円観上人をも明日(みやうにち)問(とひ)奉るべき評定(ひやうぢやう)ありける。其夜(そのよ)相摸入道(さがみにふだう)の夢に、比叡山の東坂本(ひがしさかもと)より、猿共(さるども)二三千群来(むらがりきたつ)て、此(この)上人を守護(しゆご)し奉る体(てい)にて、並居(なみゐ)たりと見給ふ。夢の告(つげ)只事(ただごと)ならずと思はれければ、未明(びめい)に預人(あづかりうど)の許(もと)へ使者(ししや)を遣(つかは)し、「上人嗷問(がうもん)の事暫く閣(さしおく)べし。」と被下知処に、預人遮(さへぎつ)て相摸入道(さがみにふだう)の方(かた)に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「上人嗷問の事(こと)、此暁(このあかつき)既(すでに)其(その)沙汰を致(いたし)候はん為に、上人の御方(おんかた)へ参(まゐつ)て候へば、燭(ともしび)を挑(かかげ)て観法定坐(くわんぽふぢやうざ)せられて候。 |
|
其(その)御影(おんかげ)後(うしろ)の障子(しやうじ)に移(うつつ)て、不動明王(ふどうみやうわう)の貌(かたち)に見(みえ)させ給(たまひ)候つる間(あひだ)、驚き存(そんじ)て、先(まづ)事(こと)の子細(しさい)を申入(まうしいれ)ん為に、参て候也。」とぞ申(まうし)ける。夢想(むさう)と云(いひ)、示現(じげん)と云(いひ)、只人(ただひと)にあらずとて、嗷問の沙汰を止(やめ)られけり。同(おなじき)七月十三日に、三人(さんにん)の僧達(そうたち)遠流(をんる)の在所(ざいしよ)定(さだまつ)て、文観僧正をば硫黄(いわう)が嶋、忠円僧正をば越後国(ゑちごのくに)へ流さる。円観上人計(ばかり)をば遠流一等を宥(なだめ)て、結城上野(ゆふきかうづけ)入道に預(あづけ)られければ、奥州(あうしう)へ具足(ぐそく)し奉(たてまつり)、長途(ちやうど)の旅にさすらひ給(たまふ)。 左遷遠流(させんをんる)と云(いは)ぬ計(ばかり)也。遠蛮(ゑんばん)の外(ほか)に遷(うつ)されさせ給へば、是(これ)も只同じ旅程(りよてい)の思(おもひ)にて、肇法師(でうほふし)が刑戮(けいりく)の中(うち)に苦(くるし)み、一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)の火羅国(くわらこく)に流されし、水宿山行(すゐしゆくさんぎやう)の悲(かなしみ)もかくやと思知(おもひしら)れたり。名取川(なとりがは)を過(すぎ)させ給(たまふ)とて上人一首(いつしゆ)の歌を読(よみ)給ふ。陸奥(みちのく)のうき名取川流来(ながれき)て沈(しづみ)やはてん瀬々(せぜ)の埋木(うもれぎ)時の天災(てんさい)をば、大権(だいごん)の聖者(しやうじや)も遁(のが)れ給はざるにや。昔天竺(てんぢく)の波羅奈国(はらないこく)に、戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を兼備(けんび)し給へる独(ひとり)の沙門(しやもん)をはしけり。 |
|
一朝(いつてう)の国師(こくし)として四海(しかい)の倚頼(いらい)たりしかば、天下の人帰依偈仰(きえかつがう)せる事(こと)、恰(あたかも)大聖世尊(だいしやうせそん)の出世成道(しゆつせじやうだう)の如(ごとく)也。或時(あるとき)其国(そのくに)の大王法会(ほふゑ)を行ふべき事有(あつ)て説戒(せつかい)の導師(だうし)に此(この)沙門(しやもん)をぞ請(しやう)ぜられける。沙門(しやもん)則(すなはち)勅命に随(したがつ)て鳳闕(ほうけつ)に参(さん)ぜらる。帝(みかど)折節(をりふし)碁(ご)を被遊ける砌(みぎり)へ、伝奏(てんそう)参(まゐつ)て、沙門(しやもん)参内(さんだい)の由を奏し申(まうし)けるを、遊(あそば)しける碁(ご)に御心(おんこころ)を入(いれ)られて、是(これ)を聞食(きこしめさ)れず、碁(ご)の手(て)に付(つい)て、「截(き)れ。」と仰(おほせ)られけるを、伝奏聞誤(ききあやま)りて、此(この)沙門(しやもん)を刎(きれ)との勅定(ちよくぢやう)ぞと心得て、禁門(きんもん)の外(ほか)に出(いだ)し、則(すなはち)沙門(しやもん)の首(くび)を刎(はね)てけり。 帝(みかど)碁をあそばしはてゝ、沙門(しやもん)を御前(おんまへ)へ召(めされ)ければ、典獄(てんごく)の官(くわん)、「勅定に随(したがつ)て首(くび)を刎(はね)たり。」と申す。帝(みかど)大(おほき)に逆鱗(げきりん)ありて、「「行死(かうし)定(さだまつ)て後(のち)三奏(さんそう)す」と云へり。而(しかる)を一言(いちげん)の下(した)に誤(あやまり)を行(おこなう)て、朕(ちん)が不徳(ふとく)をかさぬ。罪大逆(たいぎやく)に同じ。」とて、則(すなはち)伝奏を召出(めしいだ)して三族の罪に行(おこなは)れけり。さて此(この)沙門(しやもん)罪なくして死刑に逢ひ給(たまひ)ぬる事只事(ただごと)にあらず、前生(ぜんじやう)の宿業(しゆくごふ)にてをはすらんと思食(おぼしめさ)れければ、帝其故(そのゆゑ)を阿羅漢(あらかん)に問(とひ)給ふ。 阿羅漢(あらかん)七日が間(あひだ)、定(ぢやう)に入(いつ)て宿命通(しゆくみやうつう)を得て過現(くわげん)を見給ふに、沙門(しやもん)の前生(ぜんじやう)は耕作(かうさく)を業(げふ)とする田夫(でんぶ)也。帝の前生は水にすむ蛙(かはづ)にてぞ有(あり)ける。此(この)田夫鋤(すき)を取(とり)て春の山田(やまだ)をかへしける時、誤(あやまつ)て鋤のさきにて、蛙(かはづ)の頚をぞ切(きり)たりける。此因果(このいんぐわ)に依(よつ)て、田夫は沙門(しやもん)と生(うま)れ、蛙(かいる)は波羅奈国(はらないこく)の大王と生れ、誤(あやまつ)て又死罪(しざい)を行(おこなは)れけるこそ哀(あはれ)なれ。されば此(この)上人も、何(いか)なる修因感果(しゆいんかんくわ)の理(り)に依(よつて)か、卦(かか)る不慮(ふりよ)の罪に沈給(しづみたまひ)ぬらんと、不思議也し事共(ども)也。 |
|
■俊基朝臣(としもとあそん)再(ふたたび)関東下向(げかうの)事(こと)
俊基(としもと)朝臣は、先年(せんねん)土岐(とき)十郎頼貞(よりさだ)が討(うた)れし後、召取(めしとら)れて、鎌倉(かまくら)まで下給(くだりたまひ)しかども、様々(さまざま)に陳(ちん)じ申されし趣(おもむき)、げにもとて赦免(しやめん)せられたりけるが、又今度(このたび)の白状共(はくじやうども)に、専(もつぱら)隠謀の企(くはだて)、彼(かの)朝臣にありと載(のせ)たりければ、七月十一日に又六波羅(ろくはら)へ召取(めしとら)れて関東へ送られ給ふ。再犯(さいほん)不赦法令(はふれい)の定(さだま)る所なれば、何(なに)と陳(ちんず)る共(とも)許されじ、路次(ろし)にて失(うしなは)るゝか鎌倉(かまくら)にて斬(きら)るゝか、二(ふたつ)の間(あひだ)をば離れじと、思儲(おもひまうけ)てぞ出(いで)られける。落花(らくくわ)の雪に蹈(ふみ)迷ふ、片野(かたの)の春の桜がり、紅葉(もみぢ)の錦を衣(き)て帰(かへる)、嵐の山の秋の暮、一夜(ひとよ)を明(あか)す程だにも、旅宿(たびね)となれば懶(ものうき)に、恩愛(おんあい)の契(ちぎ)り浅からぬ、我(わが)故郷(ふるさと)の妻子(さいし)をば、行末(ゆくへ)も知(しら)ず思置(おもひおき)、年久(としひさしく)も住馴(すみなれ)し、九重(ここのへ)の帝都(ていと)をば、今を限(かぎり)と顧(かへりみ)て、思はぬ旅に出(いで)玉ふ、心の中(うち)ぞ哀(あはれ)なる。 憂(うき)をば留(とめ)ぬ相坂(あふさか)の、関の清水(しみづ)に袖濡(ぬれ)て、末(すゑ)は山路(やまぢ)を打出(うちで)の浜、沖を遥(はるかに)見渡せば、塩(しほ)ならぬ海にこがれ行(ゆく)、身(み)を浮舟(うきふね)の浮沈(うきしづ)み、駒も轟(とどろ)と踏鳴(ふみなら)す、勢多(せた)の長橋(ながはし)打(うち)渡り、行向(ゆきかふ)人に近江路(あふみぢ)や、世のうねの野に鳴(なく)鶴(つる)も、子を思(おもふ)かと哀(あはれ)也。時雨(しぐれ)もいたく森山(もりやま)の、木下露(このしたつゆ)に袖ぬれて、風に露(つゆ)散(ち)る篠原(しのはら)や、篠(しの)分(わく)る道を過行(すぎゆけ)ば、鏡(かがみ)の山は有(あり)とても、泪(なみだ)に曇(くもり)て見へ分(わか)ず。 |
|
物を思へば夜間(よのま)にも、老蘇森(おいそのもり)の下草(したくさ)に、駒を止(とどめ)て顧(かへりみ)る、古郷(ふるさと)を雲や隔つらん。番馬(ばんば)、醒井(さめがゐ)、柏原(かしはばら)、不破(ふは)の関屋(せきや)は荒果(あれはて)て、猶(なほ)もる物は秋の雨の、いつか我身(わがみ)の尾張(をはり)なる、熱田(あつた)の八剣(やつるぎ)伏拝(ふしをが)み、塩干(しほひ)に今や鳴海潟(なるみがた)、傾(かたぶ)く月に道見へて、明(あけ)ぬ暮(くれ)ぬと行(ゆく)道の、末(すゑ)はいづくと遠江(とほたふみ)、浜名(はまな)の橋の夕塩(ゆふしほ)に、引人(ひくひと)も無き捨小船(すてをぶね)、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀(あはれ)と夕暮の、入逢(いりあひ)鳴(なれ)ば今はとて、池田(いけだ)の宿(しゆく)に着(つき)給ふ。 元暦(げんりやく)元年(ぐわんねん)の比(ころ)かとよ、重衡(しげひらの)中将(ちゆうじやう)の、東夷(とうい)の為に囚(とらは)れて、此宿(このしゆく)に付給(つきたまひ)しに、「東路(あづまぢ)の丹生(はにふ)の小屋(こや)のいぶせきに、古郷(ふるさと)いかに恋(こひ)しかるらん。」と、長者(ちやうじや)の女(むすめ)が読(よみ)たりし、其古(そのいにしへ)の哀迄(あはれまで)も、思残(おもひのこ)さぬ泪(なみだ)也。旅館(りよくわん)の燈(ともしび)幽(かすか)にして、鶏鳴(けいめい)暁(あかつき)を催(もよほ)せば、疋馬(ひつば)風に嘶(いば)へて、天竜河を打渡り、小夜(さよ)の中山(なかやま)越行(こえゆけ)ば、白雲(はくうん)路(みち)を埋来(うづみき)て、そことも知(しら)ぬ夕暮に、家郷(かけい)の天(そら)を望(のぞみ)ても、昔(むかし)西行法師(さいぎやうほふし)が、「命(いのち)也けり。」と詠(えいじ)つゝ、二度(ふたたび)越(こえ)し跡(あと)までも、浦山敷(うらやましく)ぞ思はれける。 |
|
隙(ひま)行(ゆく)駒(こま)の足はやみ、日(ひ)已(すでに)亭午(ていご)に昇(のぼ)れば、餉(かれひ)進(まゐらす)る程とて、輿(こし)を庭前(ていぜん)に舁止(かきとど)む。轅(ながえ)を叩(たたい)て警固(けいご)の武士(ぶし)を近付(ちかづ)け、宿(しゆく)の名を問(とひ)給ふに、「菊川(きくかは)と申(まうす)也。」と答へければ、承久(しようきう)の合戦の時、院宣(ゐんぜん)書(かき)たりし咎(とが)に依(よつ)て、光親(みつちかの)卿(きやう)関東へ召下(めしくだ)されしが、此宿(このしゆく)にて誅(ちゆう)せられし時、昔南陽懸菊水。汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。と書(かき)たりし、遠き昔の筆の跡、今は我(わが)身の上になり。哀(あはれ)やいとゞ増(まさ)りけん、一首(いつしゆ)の歌を詠(えいじ)て、宿(やど)の柱にぞ書(かか)れける。 古(いにしへ)もかゝるためしを菊川の同じ流(ながれ)に身をや沈めん大井河(おほゐがは)を過(すぎ)給へば、都にありし名を聞(きき)て、亀山殿(かめやまどの)の行幸(ぎやうがう)の、嵐の山の花盛(はなざか)り、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)の舟に乗り、詩歌管絃(しいかくわんげん)の宴(えん)に侍(はんべり)し事も、今は二度(ふたたび)見ぬ夜(よ)の夢と成(なり)ぬと思(おもひ)つゞけ給ふ。嶋田(しまだ)、藤枝(ふぢえだ)に懸(かか)りて、岡辺(をかべ)の真葛(まくず)裡枯(うらがれ)て、物かなしき夕暮に、宇都(うつ)の山辺を越行(こえゆけ)ば、蔦楓(つたかへで)いと茂りて道もなし。昔業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)の住所(すみところ)を求(もとむ)とて、東(あづま)の方(かた)に下(くだる)とて、「夢にも人に逢(あは)ぬなりけり。」と読(よみ)たりしも、かくやと思知(おもひしら)れたり。 清見潟(きよみがた)を過(すぎ)給へば、都に帰る夢をさへ、通(とほ)さぬ波の関守(せきもり)に、いとゞ涙を催(もよほ)され、向(むかひ)はいづこ三穂(みほ)が崎・奥津(おきつ)・神原(かんばら)打過(うちすぎ)て、富士の高峯(たかね)を見給へば、雪の中より立(たつ)煙(けぶり)、上(うへ)なき思(おもひ)に比(くら)べつゝ、明(あく)る霞に松見へて、浮嶋が原を過行(すぎゆけ)ば、塩干(しほひ)や浅き船浮(うき)て、をり立(たつ)田子(たご)の自(みづから)も、浮世を遶(めぐ)る車返(くるまがへ)し、竹の下道(したみち)行(ゆき)なやむ、足柄山(あしがらやま)の巓(たうげ)より、大磯小磯(おほいそこいそを)直下(みおろし)て、袖にも波はこゆるぎの、急(いそぐ)としもはなけれども、日数(ひかず)つもれば、七月二十六日の暮(くれ)程に、鎌倉(かまくら)にこそ着玉(つきたまひ)けれ。其(その)日軈(やが)て、南条(なんでう)左衛門高直(たかなほ)請取奉(うけとりたてまつつ)て、諏防(すは)左衛門に預(あづけ)らる。一間(ひとま)なる処に蜘手(くもで)きびしく結(ゆう)て、押篭(おしこめ)奉る有様、只地獄(ぢごく)の罪人(ざいにん)の十王(じふわふ)の庁(ちやう)に渡されて、頚械(くびかせ)手械(てかせ)を入(いれ)られ、罪の軽重(きやうぢゆう)を糺(ただ)すらんも、右(かく)やと思知(おもひしら)れたり。 |
|
■長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)意見(いけんの)事(こと)付阿新殿(くまわかどのの)事(こと)
当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の事露顕(ろけん)の後(のち)御位(おんくらゐ)は軈(やが)て持明院殿(ぢみやうゐんどの)へぞ進(まゐ)らんずらんと、近習(きんじふ)の人々青女房(あをにようばう)に至(いたる)まで悦(よろこび)あへる処(ところ)に、土岐(とき)が討れし後(のち)も曾(かつ)て其(その)沙汰もなし。今又俊基(としもと)召下(めしくだ)されぬれ共(ども)、御位(おんくらゐ)の事に付(つけ)ては何(いか)なる沙汰あり共(とも)聞(きこえ)ざりければ、持明院殿(ぢみやうゐんどの)方(かた)の人々案(あん)に相違して五噫(ごい)を謳(うたふ)者のみ多かりけり。さればとかく申進(まうしすすむ)る人のありけるにや、持明院殿(ぢみやうゐんどの)より内々(ないない)関東へ御使(つかひ)を下され、「当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の企(くはだて)近日(きんじつ)事(こと)已(すで)に急(きふ)なり。武家速(すみやか)に糾明(きうめい)の沙汰なくば天下の乱(らん)近(ちかき)に有(ある)べし。」と仰(おほせ)られたりければ、相摸入道(さがみにふだう)、「げにも。」と驚(おどろい)て、宗徒(むねと)の一門(いちもん)・並(ならびに)頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)を集(あつめ)て、「此(この)事(こと)如何(いかん)有(ある)べき。」と各(おのおの)所存(しよぞん)を問(とは)る。 然(しかれ)ども或(あるひ)は他に譲(ゆづり)て口を閉(とぢ)、或(あるひ)は己(おのれ)を顧(かへりみ)て言(ことば)を出(いだ)さゞる処(ところ)に、執事(しつじ)長崎入道が子息(しそく)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)高資(たかすけ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「先年(せんねん)土岐十郎が討(うた)れし時、当今(たうぎん)の御位(おんくらゐ)を改(あらため)申さるべかりしを、朝憲(てうけん)に憚(はばかつ)て御沙汰(ごさた)緩(ゆる)かりしに依(よつ)て此(この)事(こと)猶(なほ)未休(いまだやまず)。 |
|
乱(らん)を撥(はらう)て治(ち)を致(いたす)は武の一徳也。速(すみやか)に当今を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を不返(ふへん)の遠流(をんる)に所(しよ)し奉り、俊基(としもと)・資朝以下(すけともいげ)の乱臣を、一々に誅せらるゝより外(ほか)は、別儀(べちぎ)あるべしとも存(ぞんじ)候はず。」と、憚る処なく申(まうし)けるを、二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道道蘊(だううん)暫(しばらく)思案(しあん)して申(まうし)けるは、「此儀(このぎ)尤(もつとも)然(しか)るべく聞へ候へ共(ども)、退(しりぞい)て愚案(ぐあん)を廻(めぐら)すに、武家権(けん)を執(とつ)て已(すで)に百六十余年、威四海(しかい)に及(および)、運累葉(るゐえふ)を耀(かかやか)すこと更に他事(たじ)なし。 唯(ただ)上(かみ)一人(いちじん)を仰奉(あふぎたてまつつ)て、忠貞(ちゆうてい)に私(わたくし)なく、下(しもは)百姓(はくせい)を撫(なで)て仁政(じんせい)に施(ほどこし)ある故(ゆゑ)也。然(しかる)に今(いま)君(きみ)の寵臣(ちようしん)一両人召置(めしおか)れ、御帰衣(ごきえ)の高僧両三人(さんにん)流罪(るざい)に処(しよ)せらるゝ事も、武臣(ぶしん)悪行(あくぎやう)の専一(せんいち)と云(いひ)つべし。此上(このうへ)に又主上を遠所(ゑんしよ)へ遷(うつ)し進(まゐら)せ、天台(てんだいの)座主(ざす)を流罪に行(おこなは)れん事(こと)、天道奢(おごり)を悪(にく)むのみならず、山門争(いかで)か憤(いきどほり)を含まざるべき。神怒(いかり)人背(そむ)かば、武運の危(あやふき)に近(ちかか)るべし。「君雖不君、不可臣以不臣」と云へり。御謀反(ごむほん)の事君(きみ)縦(たとひ)思食立(おぼしめしたつ)とも、武威盛(さかん)ならん程は与(くみ)し申(まうす)者有(ある)べからず。是(これ)に付(つけ)ても武家弥(いよい)よ慎(つつしん)で勅命に応ぜば、君もなどか思食直(おぼしめしなほ)す事無(なか)らん。 |
|
かくてぞ国家の泰平(たいへい)、武運の長久にて候はんと存(ぞんず)るは、面々(めんめん)如何(いかん)思食(おぼしめし)候。」と申(まうし)けるを、長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)又自余(じよ)の意見をも不待、以(もつて)の外(ほか)に気色(きしよく)を損じて、重(かさね)て申(まうし)けるは、「文武(ぶんぶの)揆(おもむき)一(ひとつ)也と云へ共(ども)、用捨(ようしや)時(とき)異(ことな)るべし。静(しづか)なる世には文を以て弥(いよいよ)治(をさ)め、乱(みだれ)たる時には武を以(もつて)急に静む。故(ゆゑに)戦国の時には孔盂不足用、太平の世には干戈(かんくわ)似無用。事已(すで)に急に当(あた)りたり。 武を以て治むべき也。異朝(いてう)には文王・武王、臣として、無道(ぶだう)の君を討(うち)し例(れい)あり。吾朝(わがてう)には義時(よしとき)・泰時(やすとき)、下(しも)として不善(ふぜん)の主(しゆ)を流す例あり。世みな是(これ)を以て当(あた)れりとす。されば古典(こてん)にも、「君視臣如土芥則臣視君如冦讎。」と云へり。事(こと)停滞(ていたい)して武家追罰(つゐばつ)の宣旨(せんじ)を下されなば、後悔(こうくわい)すとも益(えき)有(ある)べからず。只(ただ)速(すみやか)に君を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔(おほたふ)の宮(みや)を硫黄(いわう)が嶋へ流(ながし)奉り、隠謀(いんぼう)の逆臣(げきしん)、資朝(すけとも)・俊基(としもと)を誅せらるゝより外(ほか)の事有(ある)べからず。武家の安泰(あんたい)万世(ばんせい)に及(およぶ)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。」と、居長高(ゐだけだか)に成(なつ)て申(まうし)ける間、当座(たうざ)の頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)、権勢(けんせい)にや阿(おもねり)けん、又愚案(ぐあん)にや落(おち)けん、皆此義(このぎ)に同(どう)じければ、道蘊(だううん)再往(さいわう)の忠言に及ばず眉(まゆ)を顰(ひそめ)て退出(たいしゆつ)す。 さる程に、「君の御謀反(ごむほん)を申勧(まうしすすめ)けるは、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆき)・右少弁(うせうべん)俊基(としもと)・日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)也、各(おのおの)死罪(しざい)に行(おこなは)るべし。」と評定(ひやうぢやう)一途(いちづ)に定(さだまつ)て、「先(まづ)去年(きよねん)より佐渡国(さどのくに)へ流されてをはする資朝卿(すけとものきやう)を斬奉(きりたてまつる)べし。」と、其(その)国(くに)の守護(しゆご)本間山城(ほんまやましろ)入道に被下知。 |
|
此(この)事(こと)京都に聞へければ、此(この)資朝(すけとも)の子息(しそく)国光(くにみつ)の中納言、其比(そのころ)は阿新殿(くまわかどの)とて歳(とし)十三にてをはしけ〔る〕が、父の卿(きやう)召人(めしうど)に成玉(なりたまひ)しより、仁和寺辺(にんわじへん)に隠(かくれ)て居(ゐ)られけるが、父誅(ちゆう)せられ給(たまふ)べき由(よし)を聞(きい)て、「今は何事にか命(いのち)を惜(をし)むべき。父と共に斬(きら)れて冥途(めいど)の旅の伴(とも)をもし、又最後(さいご)の御(おん)有様をも見奉るべし。」とて母に御暇(おんいとま)をぞ乞(こは)れける。母御(ははご)頻(しきり)に諌(いさめ)て、「佐渡とやらんは、人も通(かよ)はぬ怖(おそろ)しき嶋とこそ聞(きこゆ)れ。日数(ひかず)を経(ふ)る道なればいかんとしてか下(くだる)べき。其上(そのうへ)汝(なんぢ)にさへ離(はなれ)ては、一日片時(へんし)も命(いのち)存(ながらふ)べしとも覚(おぼ)へず。」と、泣悲(なきかなしみ)て止(とめ)ければ、「よしや伴(ともな)ひ行(ゆく)人(ひと)なくば、何(いか)なる淵瀬(ふちせ)にも身を投(なげ)て死(し)なん。」と申(まうし)ける間、母痛(いたく)止(とめ)ば、又目(め)の前(まへ)に憂別(うきわかれ)も有(あり)ぬべしと思侘(おもひわび)て、力なく今迄只(ただ)一人付副(つきそひ)たる中間(ちゆうげん)を相(あひ)そへられて、遥々(はるばる)と佐渡(さどの)国(くに)へぞ下(くだし)ける。路(みち)遠けれども乗(のる)べき馬(むま)もなければ、はきも習(ならは)ぬ草鞋(わらぢ)に、菅(すげ)の小笠(をがさ)を傾(かたぶけ)て、露(つゆ)分(わけ)わくる越路(こしぢ)の旅(たび)、思(おもひ)やるこそ哀(あはれ)なれ。 | |
都を出(いで)て十三日と申(まうす)に、越前の敦賀(つるが)の津(つ)に着(つき)にけり。是(これ)より商人船(あきんどぶね)に乗(のり)て、程なく佐渡(さどの)国(くに)へぞ着(つき)にける。人して右(かう)と云(いふ)べき便(たより)もなければ、自(みづから)本間が館(たち)に致(いたつ)て中門(ちゆうもん)の前(まへ)にぞ立(たつ)たりける。境節(をりふし)僧の有(あり)けるが立出(たちいで)て、「此(この)内への御用(ごよう)にて御立(おんたち)候か。又何(いか)なる用にて候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新殿(くまわかどの)、「是(これ)は日野(ひのの)中納言の一子(いつし)にて候が、近来(このごろ)切られさせ給(たまふ)べしと承(うけたまはつ)て、其(その)最後の様(やう)をも見候はんために都より遥々(はるばる)と尋下(たづねくだり)て候。」と云(いひ)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流しければ、此(この)僧心(こころ)有(あり)ける人也ければ、急(いそ)ぎ此由(このよし)を本間に語るに、本間も岩木(いはき)ならねば、さすが哀(あはれ)にや思(おもひ)けん、軈(やが)て此(この)僧を以(もつて)持仏堂(ぢぶつだう)へいざなひ入(いれ)て、蹈皮行纒(たびはばき)解(ぬが)せ足洗(あらう)て、疎(おろそか)ならぬ体(てい)にてぞ置(おき)たりける。 阿新殿(くまわかどの)是(これ)をうれしと思(おもふ)に付(つけ)ても、同(おなじく)は父の卿(きやう)を疾(とく)見奉(たてまつら)ばやと云(いひ)けれ共(ども)、今日明日(けふあす)斬らるべき人に是(これ)を見せては、中々(なかなか)よみ路(ぢ)の障(さはり)とも成(なり)ぬべし。又関東(くわんとう)の聞(きこ)へもいかゞ有らんずらんとて、父子(ふし)の対面(たいめん)を許さず、四五町隔(へだたつ)たる処(ところ)に置(おき)たれば、父の卿(きやう)は是(これ)を聞(きき)て、行末(ゆくへ)も知(しら)ぬ都にいかゞ有らんと、思(おもひ)やるよりも尚(なほ)悲し。子は其方(そなた)を見遣(やり)て、浪路(なみぢ)遥(はるか)に隔(へだ)たりし鄙(ひな)のすまゐを想像(おもひやつ)て、心苦(くるし)く思(おもひ)つる泪(なみだ)は更に数(かず)ならずと、袂(たもと)の乾(かわ)くひまもなし。 |
|
是(これ)こそ中納言のをはします楼(ろう)の中(うち)よとて見やれば、竹の一村(ひとむら)茂(しげ)りたる処に、堀(ほり)ほり廻(まは)し屏(へい)塗(ぬつ)て、行通(ゆきか)ふ人も稀(まれ)也。情(なさけ)なの本間が心や。父は禁篭(きんろう)せられ子は未(いまだ)稚(をさ)なし。縦(たと)ひ一所(いつしよ)に置(おき)たりとも、何程(なにほど)の怖畏(ふゐ)か有(ある)べきに、対面(たいめん)をだに許さで、まだ同(おなじ)世の中(なか)ながら生(しやう)を隔(へだて)たる如(ごとく)にて、なからん後(のち)の苔の下(した)、思寝(おもひね)に見ん夢ならでは、相看(あひみ)ん事も有(あり)がたしと、互に悲(かなし)む恩愛(おんあい)の、父子(ふし)の道こそ哀(あはれ)なれ。五月二十九日の暮程(くれほど)に、資朝卿(すけとものきやう)を篭(ろう)より出(いだ)し奉(たてまつつ)て、「遥(はるか)に御湯(おんゆ)も召(めさ)れ候はぬに、御行水(おんぎやうずゐ)候へ。」と申せば、早(はや)斬らるべき時に成(なり)けりと思給(おもひたまひ)て、「嗚呼(ああ)うたてしき事かな、我(わが)最後の様(やう)を見ん為に、遥々(はるばる)と尋下(たづねくだつ)たる少者(をさなきもの)を一目(ひとめ)も見ずして、終(はて)ぬる事よ。」と計(ばか)り宣(のたまひ)て、其後(そののち)は曾(かつ)て諸事(しよじ)に付(つけ)て言(ことば)をも出(いだし)給はず。今朝(けさ)迄は気色(きしよく)しほれて、常には泪(なみだ)を押拭(おしのご)ひ給(たまひ)けるが、人間(にんげん)の事に於ては頭燃(づねん)を払ふ如(ごとく)に成(なり)ぬと覚(さとつ)て、只綿密(めんみつ)の工夫(くふう)の外(ほか)は、余念(よねん)有りとも見へ給はず。 | |
夜(よ)に入れば輿(こし)さし寄(よせ)て乗(の)せ奉り、爰(ここ)より十町許(ちやうばかり)ある河原(かはら)へ出(いだ)し奉り、輿舁居(かきすゑ)たれば、少(すこし)も臆(おく)したる気色(けしき)もなく、敷皮(しきかは)の上に居直(ゐなほつ)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。五蘊仮成形。四大今帰空。将首当白刃。截断一陣風。年号月日(ねんがうつきひ)の下(した)に名字(みやうじ)を書付(かきつけ)て、筆を閣(さしお)き給へば、切手(きりて)後(うしろ)へ回(まは)るとぞ見へし、御首(おんくび)は敷皮(しきかは)の上に落(おち)て質(むくろ)は尚(なほ)坐(ざ)せるが如し。此程(このほど)常(つね)に法談(ほふだん)なんどし給ひける僧来(きたつ)て、葬礼(さうれい)如形取営(とりいとな)み、空(むなし)き骨(こつ)を拾(ひろう)て阿新に奉りければ、阿新是(これ)を一目(ひとめ)見て、取手(とるて)も撓(たゆく)倒伏(たふれふし)、「今生(こんじやう)の対面遂に叶(かなは)ずして、替(かは)れる白骨(はつこつ)を見る事よ。」と泣悲(なきかなしむ)も理(ことわり)也。 阿新未(いまだ)幼稚(えうち)なれ共(ども)、けなげなる所存(しよぞん)有(あり)ければ、父の遺骨(ゆゐこつ)をば只一人召仕(めしつかひ)ける中間(ちゆうげん)に持(もた)せて、「先(まづ)我よりさきに高野山(かうやさん)に参(まゐり)て奥の院とかやに収(をさめ)よ。」とて都へ帰(かへ)し上(のぼ)せ、我身(わがみ)は労(いたは)る事有る由にて尚(なほ)本間が館(たち)にぞ留(とどま)りける。是(これ)は本間が情(なさけ)なく、父を今生(こんじやう)にて我(われ)に見せざりつる鬱憤(うつぷん)を散(さん)ぜんと思ふ故(ゆゑ)也。角(かく)て四五日経(へ)ける程に、阿新昼(ひる)は病(やむ)由(よし)にて終日(ひねもす)に臥(ふ)し、夜(よる)は忍(しのび)やかにぬけ出(いで)て、本間が寝処(ねところ)なんど細々(こまごま)に伺(うかがう)て、隙(ひま)あらば彼(かの)入道父子(ふし)が間(あひだ)に一人さし殺して、腹切らんずる物をと思定(おもひさだめ)てぞねらいける。 或夜(あるよ)雨風(あめかぜ)烈(はげ)しく吹(ふい)て、番(とのゐ)する郎等共(らうどうども)も皆遠侍(とほさぶらひ)に臥(ふし)たりければ、今こそ待処(まつところ)の幸(さいはひ)よと思(おもう)て、本間が寝処(ねところ)の方(かた)を忍(しのび)て伺(うかがう)に、本間が運やつよかりけん、今夜(こんや)は常の寝処を替(かへ)て、何(いづ)くに有(あり)とも見へず。又二間(ふたま)なる処に燈(とぼしび)の影の見へけるを、是(これ)は若(もし)本間入道が子息(しそく)にてや有(ある)らん。其(それ)なりとも討(うつ)て恨(うらみ)を散(さん)ぜんと、ぬけ入(いつ)て是(これ)を見るに、其(それ)さへ爰(ここ)には無(なく)して、中納言殿(どの)を斬奉(きりたてまつり)し本間(ほんま)三郎と云(いふ)者ぞ只一人臥(ふし)たりける。よしや是(これ)も時に取(とつ)ては親の敵(かたき)也。山城(やましろ)入道に劣(おと)るまじと思(おもう)て走りかゝらんとするに、我は元来(もとより)太刀(たち)も刀(かたな)も持(もた)ず、只(ただ)人(ひと)の太刀を我物(わがもの)と憑(たのみ)たるに、燈(ともしび)殊に明(あきらか)なれば、立寄(たちよら)ば軈(やが)て驚合(おどろきあ)ふ事もや有(あら)んずらんと危(あやぶん)で、左右(さう)なく寄(より)ゑず。 |
|
何(いか)がせんと案じ煩(わづらう)て立(たち)たるに、折節(をりふし)夏なれば灯(ともしび)の影を見て、蛾(が)と云(いふ)虫のあまた明障子(あかりしやうじ)に取付(とりつき)たるを、すはや究竟(くつきやう)の事こそ有れと思(おもう)て障子(しやうじ)を少(すこし)引(ひき)あけたれば、此(この)虫あまた内(うち)へ入(いつ)て軈(やが)て灯(ともしび)を打(うち)けしぬ。今は右(かう)とうれしくて、本間三郎が枕に立寄(たちよつ)て探(さぐ)るに、太刀も刀(かたな)も枕に有(あつ)て、主(ぬし)はいたく寝入(ねいり)たり。先(まづ)刀を取(とつ)て腰にさし、太刀を抜(ぬい)て心(むな)もとに指当(さしあて)て、寝(ね)たる者を殺(ころす)は死人(しにん)に同(おな)じければ、驚(おどろか)さんと思(おもつ)て、先(まづ)足にて枕をはたとぞ蹴(け)たりける。 けられて驚く処を、一(いち)の太刀に臍(ほぞ)の上(うへ)を畳(たたみ)までつとつきとをし、返(かへ)す太刀に喉(のど)ぶゑ指切(さしきつ)て、心閑(しづか)に後(うしろ)の竹原(ささはら)の中(なか)へぞかくれける。本間三郎が一の太刀に胸を通(とほ)されてあつと云(いふ)声に、番衆(ばんしゆ)ども驚騒(おどろきさわい)で、火を燃(とぼ)して是(これ)を見るに、血の付(つき)たるちいさき足跡(あしあと)あり。「さては阿新殿(くまわかどの)のしわざ也。堀の水深ければ、木戸(きど)より外(ほか)へはよも出(いで)じ。さがし出(いだつ)て打殺(うちころ)せ。」とて、手々(てにてに)松明(たいまつ)をとぼし、木の下、草の陰(かげ)まで残処(のこるところ)無(なく)ぞさがしける。阿新は竹原(ささはら)の中に隠れながら、今は何(いづ)くへか遁(のが)るべき。人手(ひとで)に懸(かか)らんよりは、自害(じがい)をせばやと思はれけるが、悪(にく)しと思(おもふ)親の敵(かたき)をば討(うつ)つ、今は何(いかに)もして命(いのち)を全(まつたう)して、君の御用(ごよう)にも立(たち)、父の素意(そい)をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ、若(もし)やと一(ひと)まど落(おち)て見ばやと思返(おもひかへ)して、堀を飛越(とびこえ)んとしけるが、口(くち)二丈深さ一丈に余(あま)りたる堀なれば、越(こゆ)べき様(やう)も無(なか)りけり。 さらば是(これ)を橋にして渡(はたら)んよと思(おもつ)て、堀の上に末(すゑ)なびきたる呉竹(くれたけ)の梢(こずゑ)へさら/\と登(のぼり)たれば、竹の末(すゑ)堀の向(むかひ)へなびき伏(ふし)て、やす/\と堀をば越(こえ)てげり。夜(よ)は未(いまだ)深(ふか)し、湊(みなと)の方(かた)へ行(ゆい)て、舟に乗(のつ)てこそ陸(くが)へは着(つか)めと思(おもう)て、たどるたどる浦の方(かた)へ行程(ゆくほど)に、夜(よ)もはや次第に明離(あけはなれ)て忍(しのぶ)べき道もなければ、身を隠(かく)さんとて日(ひ)を暮(くら)し、麻(あさ)や蓬(よもぎ)の生茂(おひしげり)たる中(なか)に隠れ居たれば、追手共(おひてども)と覚(おぼ)しき者共(ものども)百四五十騎馳散(はせちつ)て、「若(もし)十二三計(ばかり)なる児(ちご)や通りつる。」と、道に行合人毎(ゆきあふひとごと)に問音(とふおと)してぞ過行(すぎゆき)ける。阿新其(その)日は麻の中(なか)にて日を暮(くら)し、夜(よる)になれば湊(みなと)へと心ざして、そことも知(しら)ず行(ゆく)程に、孝行の志(こころざし)を感じて、仏神(ぶつじん)擁護(おうご)の眸(まなじり)をや回(めぐ)らされけん、年(とし)老(おい)たる山臥(やまぶし)一人行合(ゆきあひ)たり。 |
|
此児(このちご)の有様を見て痛(いたは)しくや思(おもひ)けん、「是(これ)は何(いづ)くより何(いづく)をさして御渡(おんわた)り候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新事の様(やう)をありの侭(まま)にぞ語りける。山臥(やまぶし)是(これ)を聞(きい)て、我(われ)此(この)人を助けずば、只今の程にかはゆき目を見るべしと思(おもひ)ければ、「御心(おんこころ)安く思食(おぼしめさ)れ候へ。湊(みなと)に商人舟共(あきんどぶねども)多(おほく)候へば、乗(の)せ奉(たてまつつ)て越後・越中の方(かた)まで送付(おくりつけ)まいらすべし。」と云(いひ)て、足たゆめば、此児(このちご)を肩に乗(の)せ背(せなか)に負(おう)て、程なく湊にぞ行着(ゆきつき)ける。夜明(よあけ)て便船(びんせん)やあると尋(たづね)けるに、折節(をりふし)湊の内(うち)に舟一艘(いつさう)も無(なか)りけり。如何(いかん)せんと求(もとむ)る処に、遥(はるか)の澳(おき)に乗(のり)うかべたる大船(たいせん)、順風(じゆんぷう)に成(なり)ぬと見て檣(ほばしら)を立(たて)篷(とま)をまく。 山臥手を上(あげ)て、「其(その)船是(これ)へ寄(よせ)てたび給へ、便船申さん。」と呼(よばは)りけれ共(ども)、曾(かつ)て耳にも聞入(ききいれ)ず、舟人(ふなうど)声を帆(ほ)に上(あげ)て湊の外(ほか)に漕出(こぎいだ)す。山臥大(おほき)に腹を立(た)て柿(かき)の衣(ころも)の露(つゆ)を結(むすん)で肩にかけ、澳(おき)行(ゆく)舟に立向(たちむかつ)て、いらたか誦珠(じゆず)をさら/\と押揉(おしもみ)て、「一持秘密咒(いちぢひみつじゆ)、生々而加護(しやうしやうにかご)、奉仕修行者(ぶじしゆぎやうじや)、猶如薄伽梵(いうによばがぼん)と云へり。況(いはんや)多年(たねん)の勤行(ごんぎやう)に於てをや。明王(みやうわう)の本誓(ほんせい)あやまらずば、権現(ごんげん)金剛童子(こんがうどうじ)・天竜夜叉(てんりゆうやしや)・八大龍王(はちだいりゆうわう)、其(その)船此方(こなた)へ漕返(こぎもどし)てたばせ給へ。」と、跳上(をどりあがり)々々肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈りける。 行者(ぎやうじや)の祈り神(しん)に通(つう)じて、明王(みやうわう)擁護(おうご)やしたまひけん、澳(おき)の方(かた)より俄(にはか)に悪風(あくふう)吹来(ふききたつ)て、此(この)舟忽(たちまちに)覆(くつかへ)らんとしける間(あひだ)、舟人共(ふなうどども)あはてゝ、「山臥の御房(ごばう)、先(まづ)我等を御助(おんたす)け候へ。」と手を合(あはせ)膝(ひざ)をかゞめ、手々(てにて)に舟を漕(こぎ)もどす。汀(みぎは)近く成(なり)ければ、船頭(せんどう)舟より飛下(とびおり)て、児(ちご)を肩にのせ、山臥の手を引(ひい)て、屋形(やかた)の内(うち)に入(いり)たれば、風は又元(もと)の如(ごとく)に直(なほ)りて、舟は湊を出(いで)にけり。其後(そののち)追手共(おひてども)百四五十騎馳来(はせきた)り、遠浅(とほあさ)に馬を叩(ひかへ)て、「あの舟止(とま)れ。」と招共(まねけども)、舟人(ふなうど)是(これ)を見ぬ由にて、順風(じゆんぷう)に帆を揚(あげ)たれば、舟は其日(そのひ)の暮程(くれほど)に、越後の府(こう)にぞ着(つき)にける。阿新山臥に助(たすけ)られて、鰐口(わにのくち)の死を遁(のがれ)しも、明王加護(かご)の御誓(おんちかひ)掲焉(けつえん)なりける験(しるし)也。 |
|
■俊基(としもと)被誅事並(ならびに)助光(すけみつが)事(こと)
俊基(としもと)朝臣(あそん)は殊更(ことさら)謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、遠国(をんごく)に流すまでも有(ある)べからず、近日(きんじつ)に鎌倉中(かまくらぢゆう)にて斬(きり)奉るべしとぞ被定たる。此(この)人多年の所願(しよぐわん)有(あつ)て、法華経(ほけきやう)を六百部自(みづか)ら読誦(どくじゆ)し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満(みつ)る程の命(いのち)を被相待候て、其後(そののち)兎(と)も角(かく)も被成候へと、頻(しきり)に所望(しよまう)有(あり)ければ、げにも其(それ)程の大願(だいぐわん)を果(はた)させ奉らざらんも罪也とて、今二百部の終(をふ)る程(ほど)僅(わづか)の日数(ひかず)を待暮(まちくら)す、命の程こそ哀(あはれ)なれ。此(この)朝臣の多年(たねん)召仕(めしつかひ)ける青侍(あをさぶらひ)に後藤左衛門(さゑもんの)尉(じよう)助光(すけみつ)と云(いふ)者あり。主(しゆう)の俊基(としもと)召取(めしと)られ給(たまひ)し後(のち)、北方(きたのかた)に付進(つきまゐら)せ嵯峨(さが)の奥に忍(しのび)て候(さふらひ)けるが、俊基(としもと)関東へ被召下給ふ由を聞給(ききたまひ)て、北方(きたのかた)は堪(たへ)ぬ思(おもひ)に伏沈(ふししづみ)て歎悲給(なげきかなしみたまひ)けるを見奉(たてまつる)に、不堪悲して、北(きた)の方(かた)の御文(おんふみ)を給(たまはつ)て、助光忍(しのび)て鎌倉(かまくら)へぞ下(くだり)ける。 今日明日(けふあす)の程と聞へしかば、今は早(はや)斬(きら)れもやし給ひつらんと、行逢(ゆきあふ)人に事の由を問々(とひとひ)、程なく鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。右少弁(うせうべん)俊基(としもと)のをはする傍(あたり)に宿(やど)を借(かり)て、何(いか)なる便(たより)もがな、事の子細(しさい)を申入(まうしいれ)んと伺(うかがひ)けれども、不叶して日を過(すご)しける処に、今日(けふ)こそ京都よりの召人(めしうど)は斬(きら)れ給(たまふ)べきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こは如何(いか)がせんと肝(きも)を消し、此彼(ここかしこ)に立(たち)て見聞(けんもん)しければ、俊基(としもと)已(すで)に張輿(はりごし)に乗(の)せられて粧坂(けはひざか)へ出(いで)給ふ。 |
|
爰(ここ)にて工藤(くどう)二郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)請取(うけとり)て、葛原岡(くずはらがをか)に大幕(おほまく)引(ひい)て、敷皮(しきかは)の上に坐(ざ)し給へり。是(これ)を見ける助光が心中(こころのうち)譬(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。目くれ足もなへて、絶入(たえい)る計(ばかり)に有(あり)けれども、泣々(なくなく)工藤殿(どの)が前(まへ)に進出(すすみいで)て、「是(これ)は右少弁殿(どの)の伺候(しこう)の者にて候が、最後(さいご)の様(やう)見奉(たてまつり)候はん為に遥々(はるばる)と参(まゐり)候。可然は御免(ごめん)を蒙(かうぶつ)て御前(おんまへ)に参り、北方(きたのかた)の御文(おんふみ)をも見参(けんざん)に入(いれ)候はん。」と申(まうし)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流(ながし)ければ、工藤も見るに哀(あはれ)を催(もよほ)されて、不覚(ふかく)の泪(なみだ)せきあへず。 「子細候まじ、早(はや)幕の内(うち)へ御参(おんまゐり)候へ。」とぞ許しける。助光幕の内に入(いつ)て御前(おんまへ)に跪(ひざまづ)く。俊基(としもと)は助光を打見て、「いかにや。」と計(ばかり)宣(のたまひ)て、軈(やが)て泪に咽(むせ)び給ふ。助光も、「北方(きたのかた)の御文(おんふみ)にて候。」とて、御前(おんまへ)に差置(さしおき)たる計(ばかり)にて、是(これ)も涙にくれて、顔をも持(もち)あげず泣(なき)居たり。良(やや)暫(しばら)く有(あつ)て、俊基(としもと)涙を押拭(おしのご)ひ、文を見給へば、「消懸(きえかか)る露の身の置所(おきどころ)なきに付(つけ)ても、何(いか)なる暮(くれ)にか、無世(なきよ)の別(わかれ)と承(うけたまは)り候はんずらんと、心を摧(くだ)く涙の程、御推量(おしはか)りも尚(なほ)浅くなん。」と、詞(ことば)に余(あまり)て思(おもひ)の色深く、黒(くろ)み過(すぐ)るまで書(かか)れたり。 |
|
俊基(としもと)いとゞ涙にくれて、読(よみ)かね給へる気色(けしき)、見人(みるひと)袖をぬらさぬは無(なか)りけり。「硯(すずり)やある。」と宣(のたま)へば、矢立(やたて)を御前(おんまへ)に指置(さしおけ)ば、硯の中(なか)なる小刀(こがたな)にて鬢(びん)の髪(かみ)を少し押切(おしきつ)て、北方(きたのかた)の文に巻(まき)そへ、引返(ひきかへ)し一筆(ひとふで)書(かい)て助光が手に渡し給へば、助光懐(ふところ)に入(いれ)て泣沈(なきしづみ)たる有様、理(ことわ)りにも過(すぎ)て哀(あはれ)也。工藤左衛門幕(まく)の内に入(いつ)て、「余(あま)りに時の移り候。」と勧(すすむ)れば、俊基(としもと)畳紙(たたうがみ)を取出(とりいだ)し、頚(くび)の回(まは)り押拭(おしのご)ひ、其(その)紙を推開(おしひらい)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。筆を閣(さしおい)て、鬢(びん)の髪(かみ)を摩(なで)給ふ程こそあれ、太刀(たち)かげ後(うしろ)に光れば、頚は前(まへ)に落(おち)けるを、自(みづか)ら抱(かかへ)て伏(ふし)給ふ。 是(これ)を見奉る助光が心の中(うち)、謦(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。さて泣々(なくなく)死骸(しがい)を葬(さう)し奉り、空(むなし)き遺骨(ゆゐこつ)を頚に懸(かけ)、形見(かたみ)の御文(おんふみ)身に副(そへ)て、泣々(なくなく)京(きやう)へぞ上(のぼ)りける。北方(きたのかた)は助光を待付(まちつけ)て、弁殿(べんどの)の行末(ゆくへ)を聞(きか)ん事の喜(うれ)しさに、人目(ひとめ)も憚(はばから)ず、簾(みす)より外(ほか)に出迎(いでむか)ひ、「いかにや弁殿(どの)は、何比(いつごろ)に御上(おんのぼり)可有との御返事(おんへんじ)ぞ。」と問(とひ)給へば、助光はら/\と泪(なみだ)をこぼして、「はや斬(きら)れさせ給(たまひ)て候。是(これ)こそ今はのきはの御返事(おんへんじ)にて候へ。」とて、鬢(びん)の髪(かみ)と消息(せうそく)とを差(さし)あげて声も惜(をし)まず泣(なき)ければ、北方(きたのかた)は形見(かたみ)の文(ふみ)と白骨(はつこつ)を見給(たまひ)て、内へも入給(いりたまは)ず、縁(えん)に倒伏(たふれふ)し、消入給(きえいりたまひ)ぬと驚く程に見へ給ふ。 理(ことわり)なる哉(かな)、一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り一河(いちが)の流(ながれ)を汲む程も、知(しら)れず知らぬ人にだに、別れとなれば名残(なごり)を惜(をしむ)習(ならひ)なるに、況(いはん)や連理(れんり)の契(ちぎり)不浅して、十年余(ととせあま)りに成(なり)ぬるに夢より外(ほか)は又も相(あひ)見ぬ、此世(このよ)の外(ほか)の別(わかれ)と聞(きい)て、絶(たえ)入り悲(かなし)み玉ふぞ理(ことわ)りなる。四十九日と申(まうす)に形(かた)の如(ごとく)の仏事(ぶつじ)営(いとなみ)て、北(きた)の方(かた)様(さま)をかへ、こき墨染(すみぞめ)に身をやつし、柴の扉(とぼそ)の明(あけ)くれは、亡夫(ばうふ)の菩提(ぼだい)をぞ訪(とぶら)ひ玉(たまひ)ける。助光も髻(もとどり)切(きり)て、永く高野山(かうやさん)に閉篭(とぢこもつ)て、偏(ひとへ)に亡君(ばうくん)の後生菩提(ごしやうぼだい)をぞ訪奉(とぶらひたてまつり)ける。夫婦の契(ちぎり)、君臣の儀、無跡(なきあと)迄も留(とどまり)て哀(あはれ)なりし事共(ども)也。 |
|
■天下(てんか)怪異(けいの)事(こと)
嘉暦(かりやく)二年の春の比(ころ)南都大乗院(だいじようゐん)禅師房(ぜんじばう)と六方(ろくばう)の大衆(だいしゆ)と、確執(かくしつ)の事有(あつ)て合戦(かつせん)に及ぶ。金堂(こんだう)、講堂(かうだう)、南円(なんゑん)堂(だう)、西金(さいこん)堂(だう)、忽(たちまち)に兵火(ひやうくわ)の余煙(よえん)に焼失(せうしつ)す。又元弘(げんこう)元年、山門東塔(さんもんとうだふ)の北谷(きたたに)より兵火出来(いでき)て、四王院(しわうゐん)、延命(えんめい)院(ゐん)、大講堂(だいかうだう)、法華(ほつけ)堂、常行(じやうぎやう)堂(だう)、一時(じ)に灰燼(くわいじん)と成(なり)ぬ。是等(これら)をこそ、天下の災難(さいなん)を兼(かね)て知(しら)する処の前相(ぜんさう)かと人皆魂(たましひ)を冷(ひや)しけるに、同(おなじき)年の七月三日大地震(ぢしん)有(あつ)て、紀伊(きの)国(くに)千里浜(せんりばま)の遠干潟(とほひがた)、俄に陸地(りくち)になる事二十余町也。又同(おなじき)七日の酉(とり)の刻(こく)に地震有(あつ)て、富士の絶頂(ぜつちやう)崩(くづ)るゝ事数(す)百丈(ひやくぢやう)也と。卜部(うらべ)の宿祢(すくね)、大亀(だいき)を焼(やい)て占(うらな)ひ、陰陽(おんやう)の博士(はかせ)、占文(せんもん)を啓(ひらい)て見(みる)に、「国王位(くらゐ)を易(かへ)、大臣遭災。」とあり。 「勘文(かんぶん)の表(おもて)不穏、尤(もつとも)御慎(おんつつしみ)可有。」と密奏(みつそう)す。寺々(てらでら)の火災所々(しよしよ)の地震只事(ただごと)に非ず。今や不思義出来(いでくる)と人々心を驚(おどろか)しける処に、果して其年(そのとし)の八月二十二日、東使(とうし)両人三千余騎にて上洛(しやうらく)すと聞へしかば、何事(なにこと)とは知(しら)ず京(みやこ)に又何(いか)なる事や有(あら)んずらんと、近国(きんごく)の軍勢(ぐんぜい)我(われ)も我(われ)もと馳集(はせあつま)る。 |
|
京中(きやうぢゆう)何(なに)となく、以外(もつてのほか)に騒動(さうどう)す。両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)して未(いまだ)文箱(ふばこ)をも開(ひらか)ぬ先(さき)に、何(なに)とかして聞へけん。「今度(このたび)東使(とうし)の上洛(しやうらく)は主上(しゆしやう)を遠国(をんごく)へ遷進(うつしまゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に行奉(おこなひたてまつら)ん為也。」と、山門に披露(ひろう)有(あり)ければ、八月二十四日の夜(よ)に入(いつ)て、大塔宮(おほたふのみや)より潛(ひそか)に御使(おんつかひ)を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度(こんど)東使上洛の事内々承(うけたまはり)候へば、皇居(くわうきよ)を遠国(をんごく)へ遷(うつし)奉り、尊雲(そんうん)を死罪に行(おこなは)ん為にて候なる。 今夜(こんや)急(いそ)ぎ南都(なんと)の方(かた)へ御忍(おんしの)び候べし。城郭未調(いまだととのはず)、官軍(くわんぐん)馳参(はせさん)ぜざる先(さき)に、凶徒(きようと)若(もし)皇居(くわうきよ)に寄来(よせきたら)ば、御方(みかた)防戦(ふせぎたたかふ)に利(り)を失(うしな)ひ候はんか。且(かつう)は京都の敵(てき)を遮(さへぎ)り止(とめ)んが為、又は衆徒(しゆと)の心を見んが為に、近臣(きんしん)を一人、天子の号(がう)を許(ゆるさ)れて山門へ被上せ、臨幸(りんかう)の由を披露(ひろう)候はゞ、敵軍(てきぐん)定(さだめ)て叡山(えいさん)に向(むかつ)て合戦(かつせん)を致し候はん歟(か)。去程(さるほど)ならば衆徒(しゆと)吾山(わがやま)を思故(おもふゆゑ)に、防戦(ふせぎたたかふ)に身命(しんみやう)を軽(かろん)じ候べし。凶徒(きようと)力(ちから)疲(つか)れ合戦数日(すじつ)に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和(やまと)・河内(かはち)の官軍(くわんぐん)を以て却(かへつ)て京都を被攻んに、凶徒の誅戮(ちゆうりく)踵(くびす)を回(めぐら)すべからず。 |
|
国家の安危(あんき)只(ただ)此(この)一挙(きよ)に可有候也。」と被申たりける間、主上(しゆしやう)只(ただ)あきれさせ玉へる計(ばかり)にて何(なに)の御沙汰(ごさた)にも及(および)玉はず。尹(ゐんの)大納言(だいなごん)師賢(もろかた)・万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)・同(おなじき)舎弟(しやてい)季房(すゑふさ)三四人(さんしにん)上臥(うへふし)したるを御前(おんまへ)に召(めさ)れて、「此(この)事(こと)如何(いかん)可有。」と被仰出ければ、藤房(ふぢふさの)卿(きやう)進(すすん)で被申けるは、「逆臣(ぎやくしん)君を犯(をか)し奉らんとする時、暫(しばらく)其難(そのなん)を避(さけ)て還(かへつ)て国家を保(たもつ)は、前蹤(ぜんじよう)皆佳例(かれい)にて候。所謂(いはゆる)重耳(ちようじ)は■(てき)に奔(はし)り、大王(だいわう)■(ひん)に行く。 共に王業(わうげふ)をなして子孫無窮(しそんぶきゆう)に光(ひかり)を栄(かかやか)し候き。兔角(とかく)の御思案(ごしあん)に及(および)候はゞ、夜(よ)も深候(ふけさふらひ)なん。早(はや)御忍(おんしのび)候へ。」とて、御車(おんくるま)を差寄(さしよせ)、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を乗(のせ)奉り、下簾(したすだれ)より出絹(だしぎぬを)出(いだ)して女房車(にようばうぐるま)の体(てい)に見せ、主上を扶乗進(たすけのせまゐらせ)て、陽明門(やうめいもん)より成(なし)奉る。御門(ごもん)守護(しゆご)の武士共(ぶしども)御車(おんくるま)を押(おさ)へて、「誰にて御渡(おんわた)り候ぞ。」と問申(とひまうし)ければ、藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)御車(おんくるま)に随(したがつ)て供奉(ぐぶ)したりけるが、「是(これ)は中宮(ちゆうぐう)の夜(よ)に紛(まぎれ)て北山殿(きたやまどの)へ行啓(ぎやうけい)ならせ給ふぞ。」と宣(のたまひ)たりければ、「さては子細(しさい)候はじ。」とて御車(おんくるま)をぞ通(とほ)しける。兼(かね)て用意(ようい)やしたりけん、源(げん)中納言(ちゆうなごん)具行(ともゆき)・按察(あぜち)大納言公敏(きんとし)・六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、三条河原(さんでうがはら)にて追付(おつつき)奉る。 |
|
此(ここ)より御車(おんくるま)をば被止、怪(あやし)げなる張輿(はりごし)に召替(めしかへ)させ進(まゐら)せたれども、俄(にはか)の事にて駕輿丁(かよちやう)も無(なか)りければ、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)重康(しげやす)・楽人(がくにん)豊原兼秋(とよはらのかねあき)・随身(ずゐじん)秦久武(はだのひさたけ)なんどぞ御輿(おんこし)をば舁(かき)奉りける。供奉の諸卿(しよきやう)皆衣冠(いくわん)を解(ぬい)で折烏帽子(をりゑぼし)に直垂(ひたたれ)を着(ちやく)し、七大寺詣(まうで)する京家(きやうけ)の青侍(あをさぶらひ)なんどの、女性(によしやう)を具足(ぐそく)したる体(てい)に見せて、御輿(おんこし)の前後(ぜんご)にぞ供奉したりける。古津(こづの)石地蔵(いしぢざう)を過(すぎ)させ玉ひける時、夜(よ)は早(はや)若々(ほのぼの)と明(あけ)にけり。 此(ここ)にて朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を進め申(まうし)て、先づ南都(なんと)の東南院(とうなんゐん)へ入(いら)せ玉ふ。彼僧正(かのそうじやう)元(もと)より弐(ふたごこ)ろなき忠義を存(そん)ぜしかば、先づ臨幸(りんかう)なりたるをば披露(ひろう)せで衆徒(しゆと)の心を伺聞(うかがひきく)に、西室(にしむろの)顕実(けんじつ)僧正は関東(くわんとう)の一族にて、権勢(けんせい)の門主(もんじゆ)たる間、皆其(その)威にや恐れたりけん、与力(よりき)する衆徒(しゆと)も無(なか)りけり。かくては南都の皇居(くわうきよ)叶(かなふ)まじとて、翌日(よくじつ)二十六日、和束(わつか)の鷲峯山(じゆぶうせん)へ入(いら)せ玉ふ。此(ここ)は又余(あま)りに山深く里(さと)遠(とほう)して、何事(なにこと)の計畧も叶(かなふ)まじき処なれば、要害(えうがい)に御陣(ごぢん)を召(めさ)るべしとて、同(おなじき)二十七日潛幸(せんかう)の儀式を引(ひき)つくろひ、南都の衆徒(しゆと)少々(せうせう)召具(めしぐ)せられて、笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ臨幸(りんかう)なる。 |
|
■師賢(もろかた)登山(とうさんの)事(こと)付唐崎浜(からさきはま)合戦(かつせんの)事(こと)
尹(ゐんの)大納言師賢(もろかたの)卿(きやう)は、主上の内裏(だいり)を御出有(ぎよしゆつあり)し夜(よ)、三条河原(さんでうがはら)迄被供奉たりしを、大塔宮(おほたふのみや)より様々(さまざま)被仰つる子細(しさい)あれば、臨幸(りんかうの)由(よし)にて山門へ登り、衆徒(しゆと)の心をも伺ひ、又勢(せい)をも付(つけ)て合戦を致せと被仰ければ、師賢(もろかた)法勝寺(ほつしやうじ)の前より、袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)を着(ちやくし)て、腰輿(えうよ)に乗替(のりかへ)て山門の西塔院(さいたふゐん)へ登(のぼり)玉ふ。 四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきら)・中院(なかのゐんの)左中将(さちゆうじやう)貞平(さだひら)、皆衣冠(いくわん)正(ただしう)して、供奉(ぐぶ)の体(てい)に相順(あひしたが)ふ。事の儀式誠敷(まことしく)ぞ見へたりける。西塔(さいたふ)の釈迦堂(しやかだう)を皇居(くわうきよ)と被成、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸(りんかう)成(なり)たる由(よし)披露(ひろう)有(あり)ければ、山上(さんじやう)・坂本は申(まうす)に及ばず、大津(おほつ)・松本(まつもと)・戸津(とづ)・比叡辻(ひえつじ)・仰木(あふぎ)・絹河(きぬがは)・和仁(わに)・堅田(かただ)の者迄も、我前(われさき)にと馳参(はせまゐる)。其勢(そのせい)東西両塔(とうざいりやうたふ)に充満して、雲霞(うんか)の如(ごとく)にぞ見へたりける。懸(かか)りけれども、六波羅(ろくはら)には未(いまだ)曾(かつて)是(これ)を知らず。 |
|
夜(よ)明(あけ)ければ東使両人(とうしりやうにん)内裏(だいり)へ参(さんじ)て、先づ行幸(ぎやうがう)を六波羅(ろくはら)へ成奉(なしたてまつら)んとて打立(うちたち)ける処に、浄林房(じやうりんばうの)阿闍梨(あじやり)豪誉(がうよ)が許(もと)より、六波羅(ろくはら)へ使者(ししや)を立(た)て、「今夜(こんや)の寅(とら)の刻(こく)に、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸成りたる間、三千の衆徒(しゆと)悉(ことごと)く馳(はせ)参り候。近江(あふみ)・越前(ゑちぜん)の御勢(おんせい)を待(まち)て、明日(みやうにち)は六波羅(ろくはら)へ被寄べき由評定(ひやうじやう)あり。事の大(おほき)に成り候はぬ先(さき)に、急ぎ東坂本(ひがしさかもと)へ御勢(おんせい)を被向候へ。豪誉後攻仕(ごづめつかまつり)て、主上をば取(とり)奉るべし。」とぞ申(まうし)たりける。 両六波羅(りやうろくはら)大(おほき)に驚(おどろい)て先(まづ)内裡(だいり)へ参(さんじ)て見奉るに、主上は御坐無(ござなく)て、只局町(つぼねまちの)女房達(にようばうたち)此彼(ここかしこ)にさしつどひて、鳴(なく)声のみぞしたりける。「さては山門へ落(おち)させ玉(たまひ)たる事子細(しさい)なし。勢(せい)つかぬ前(さき)に山門を攻(せめ)よ。」とて、四十八箇所(しじふはつかしよ)の篝(かがり)に畿内(きない)五箇国(ごかこく)の勢(せい)を差添(さしそへ)て、五千余騎追手(おふて)の寄手(よせて)として、赤山(せきさん)の麓(ふもと)、下松(さがりまつ)の辺(へん)へ指向(さしむけ)らる。搦手(からめて)へは佐々木(ささきの)三郎判官(はんぐわん)時信(ときのぶ)・海東左近将監(かいとうさこんのしやうげん)・長井丹後(たんごの)守(かみ)宗衡(むねひら)・筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)貞知(さだとも)・波多野(はだの)上野前司(かうづけのぜんじ)宣道(のぶみち)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時朝(ときとも)に、美濃(みの)・尾張(をはり)・丹波(たんば)・但馬(たじま)の勢(せい)をさしそへて七千余騎、大津、松本を経(へ)て、唐崎(からさき)の松の辺(へん)まで寄懸(よせかけ)たり。 |
|
坂本には兼(かね)てより相図(あひづ)を指(さし)たる事なれば、妙法院(めうほふゐん)・大塔宮(おほたふのみや)両門主(もんじゆ)、宵(よひ)より八王子(はちわうじ)へ御上(おんあがり)あ(つ)て、御旗(おんはた)を被揚たるに、御門徒(ごもんと)の護正院(ごしやうゐん)の僧都(そうづ)祐全(いうぜん)・妙光坊(めうくわうばう)の阿闍梨(あじやり)玄尊(げんそん)を始(はじめ)として、三百騎五百騎此彼(ここかしこ)より馳(はせ)参りける程に、一夜(いちや)の間(あひだ)に御勢(おんせい)六千余騎に成(なり)にけり。天台座主(てんだいのざす)を始(はじめ)て解脱同相(げだつどうさう)の御衣(おんころも)を脱給(ぬぎたまひ)て、堅甲利兵(けんかふりへい)の御貌(おんかたち)に替(かは)る。垂跡和光(すゐじやくわくわう)の砌(みぎ)り忽(たちまち)に変(へんじ)て、勇士守禦(しゆぎよ)の場(ば)と成(なり)ぬれば、神慮(しんりよ)も何(いか)が有(あ)らんと計(はか)り難(かたく)ぞ覚(おぼえ)たる。 去程(さるほど)に、六波羅(ろくはら)勢(ぜい)已(すで)に戸津(とづ)の宿辺(しゆくのへん)まで寄(よせ)たりと坂本の内(うち)騒動(さうだう)しければ、南岸(なんがんの)円宗院(ゑんしゆうゐん)・中坊(なかのばうの)勝行房(しようぎやうばう)・早雄(はやりを)の同宿共(どうしゆくども)、取(とる)物も取(とり)あへず唐崎(からさき)の浜へ出合(いであひ)げる。其(その)勢皆かち立(だち)にて而(しか)も三百人には過(すぎ)ざりけり。海東(かいとう)是(これ)を見て、「敵(てき)は小勢也(こぜいなり)けるぞ、後陣(ごぢん)の勢(せい)の重(かさ)ならぬ前(さき)に懸散(かけちら)さでは叶(かなふ)まじ。つゞけや者共(ものども)。」と云侭(いふまま)に、三尺四寸の太刀(たち)を抜(ぬい)て、鎧(よろひ)の射向(いむけ)の袖をさしかざし、敵のうず巻(まい)て扣(ひか)へたる真中(まんなか)へ懸入(かけいり)、敵三人(さんにん)切(きり)ふせ、波打際(なみうちぎは)に扣(ひか)へて続(つづ)く御方(みかた)をぞ待(まち)たりける。岡本房(をかもとばう)の幡磨(はりまの)竪者(りつしや)快実(くわいじつ)遥(はるか)に是(これ)を見て、前(まへ)につき双(ならべ)たる持楯(もちだて)一帖(でふ)岸破(かつぱ)と蹈倒(ふみたふ)し、に尺八寸の小長刀(こなぎなた)水車(みづぐるま)に回(まは)して躍(をど)り懸(かか)る。 |
|
海東(かいとう)是(これ)を弓手(ゆんで)にうけ、胄(かぶと)の鉢(はち)を真二(まつぷたつ)に打破(うちわら)んと、隻手打(かたてうち)に打(うち)けるが、打外(うちはづ)して、袖の冠板(かふりいた)より菱縫(ひしぬひ)の板まで、片筋(かたすぢ)かいに懸(かけ)ず切(きつ)て落(おと)す。二(に)の太刀(たち)を余(あま)りに強く切(きら)んとて弓手(ゆんで)の鐙(あぶみ)を踏(ふみ)をり、已(すで)に馬より落(おち)んとしけるが、乗直(のりなほ)りける処を、快実(くわいじつ)長刀(なぎなた)の柄(え)を取延(とりのべ)、内甲(うちかぶと)へ鋒(きつさ)き上(あがり)に、二(ふた)つ三(み)つすき間(ま)もなく入(いれ)たりけるに、海東あやまたず喉(のど)ぶゑを突(つか)れて馬より真倒(まつさかさま)に落(おち)にけり。快実軈(やが)て海東が上巻(あげまき)に乗懸(のりかか)り、鬢(びん)の髪(かみ)を掴(つかん)で引懸(ひきかけ)て、頚かき切(きつ)て長刀に貫(つらぬ)き、武家の太将一人討取(うちと)りたり、物始(ものはじめ)よし、と悦(こころう)で、あざ笑(わらう)てぞ立(たつ)たりける。 爰(ここ)に何者とは知(しら)ず見物衆(けんぶつしゆ)の中(なか)より、年十五六計(ばかり)なる小児(こちご)の髪(かみ)唐輪(からわ)に上(あげ)たるが、麹塵(きぢん)の筒丸(どうまろ)に、大口(おほくち)のそば高く取り、金作(こがねづくり)の小太刀(こだち)を抜(ぬい)て快実に走懸(はしりかか)り、甲(かぶと)の鉢をしたゝかに三打四打(みうちようち)ぞ打(うち)たりける。快実屹(きつ)と振帰(ふりかへつ)て是(これ)を見るに、齢(よはひ)二八計(じはちばかり)なる小児(こちご)の、大眉(おほまゆ)に鉄漿黒(かねくろ)也。是程(これほど)の小児(こちご)を討留(うちとめ)たらんは、法師(ほつし)の身に取(とつ)ては情無(なさけな)し。打(う)たじとすれば、走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)手繁(てしげ)く切回(きりまは)りける間、よし/\さらば長刀(なぎなた)の柄(え)にて太刀を打落(うちおとし)て、組止(くみとど)めんとしける処を、比叡辻(へいつぢ)の者共(ものども)が田(た)の畔(くろ)に立渡(たちわたつ)て射ける横矢(よこや)に、此児(このちご)胸板(むないた)をつと被射抜て、矢庭(やには)に伏(ふし)て死(し)にけり。 |
|
後(のち)に誰(たれ)ぞと尋(たづぬ)れば、海東が嫡子(ちやくし)幸若丸(かうわかまろ)と云(いひ)ける小児、父が留置(とどめおき)けるに依(よつ)て軍(いくさ)の伴(とも)をばせざりけるが、猶も覚束(おぼつか)なくや思(おもひ)けん、見物衆(けんぶつしゆ)に紛(まぎれ)て跡に付(つい)て来(きたり)ける也。幸若稚(をさな)しと云へ共(ども)武士(ぶし)の家に生(うまれ)たる故(ゆゑ)にや、父が討(うた)れけるを見て、同(おなじ)く戦場(せんぢやう)に打死(うちじに)して名を残(のこし)けるこそ哀(あはれ)なれ。海東が郎等(らうとう)是(これ)を見て、「二人(ににん)の主(しゆう)を目の前(まへ)に討(うた)せ、剰(あまつさ)へ頚を敵(てき)に取(とら)せて、生(いき)て帰る者や可有。」とて、三十六騎の者共(ものども)轡(くつばみ)を双(ならべ)て懸入(かけいり)、主(しゆう)の死骸(しがい)を枕にして討死(うちじに)せんと相争(あひあらそ)ふ。快実是(これ)を見てから/\と打笑(うちわらう)て、「心得(こころえ)ぬ物(もの)哉(かな)。 御辺達(ごへんたち)は敵(てき)の首(くび)をこそ取らんずるに、御方(みかた)の首(くび)をほしがるは武家(ぶけ)自滅(じめつ)の瑞相(ずゐさう)顕(あらは)れたり。ほしからば、すは取らせん。」と云侭(いふまま)に、持(もち)たる海東が首(くび)を敵(てき)の中(なか)へがはと投懸(なげかけ)、坂本様(さかもとやう)の拝(をが)み切(きり)、八方を払(はらう)て火を散(ちら)す。三十六騎の者共(ものども)、快実一人に被切立て、馬の足をぞ立(たて)かねたる。佐々木(ささきの)三郎判官時信後(うしろ)に引(ひか)へて、「御方(みかた)討(うた)すな、つゞけや。」と下知(げぢ)しければ、伊庭(いば)・目賀多(めかだ)・木村・馬淵(まぶち)、三百余騎呼(をめい)て懸(かか)る。快実既(すで)に討(うた)れぬと見へける処に、桂林房(けいりんばう)の悪讚岐(あくさぬき)・中房(なかのばう)の小相摸(こさがみ)・勝行房(しようぎやうばう)の侍従(じじゆう)竪者(りつしや)定快(ぢやうくわい)・金蓮房(こんれんばう)の伯耆(はうき)直源(ぢきげん)、四人左右より渡合(わたりあう)て、鋒(きつさき)を指合(さしあはせ)て切(きつ)て回(まは)る。 |
|
讚岐と直源と同じ処にて打(うた)れにければ、後陣(ごぢん)の衆徒(しゆと)五十(ごじふ)余人(よにん)連(つれ)て又討(うつ)て懸(かか)る。唐崎(からさき)の浜と申(まうす)は東は湖(みづうみ)にて、其汀(そのみぎは)崩(くづれ)たり。西は深田(ふけた)にて馬の足も立(たた)ず、平沙(へいさ)渺々(べうべう)として道せばし。後(うしろ)へ取(とり)まはさんとするも叶(かなは)ず、中(なか)に取篭(とりこめ)んとするも叶ず。されば衆徒(しゆと)も寄手(よせて)も互に面(おもて)に立(たつ)たる者計(ばかり)戦(たたかう)て、後陣の勢(せい)はいたづらに見物(けんぶつ)してぞ磬(ひか)へたる。 已(すで)に唐崎(からさき)に軍(いくさ)始(はじま)りたりと聞へければ、御門徒(ごもんと)の勢(せい)三千余騎、白井(しろゐ)の前(まへ)を今路(いまみち)へ向ふ。本院(ほんゐん)の衆徒(しゆと)七千余人(よにん)、三宮(さんのみや)林(はやし)を下降(おりくだ)る。和仁(わに)・堅田(かただ)の者共(ものども)は、小舟(こぶね)三百余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、敵(てき)の後(うしろ)を遮(さへぎら)んと、大津をさして漕回(こぎまは)す。六波羅勢(ろくはらぜい)是(これ)を見て、叶はじとや思(おもひ)けん、志賀の炎魔堂(えんまだう)の前(まへ)を横切(よこきり)に、今路に懸(かかつ)て引帰(ひきかへ)す。衆徒(しゆと)は案内者(あんないしや)なれば、此彼(ここかしこ)の逼々(つまりつまり)に落合(おちあう)て散々(さんざん)に射る。武士(ぶし)は皆無案内(ぶあんない)なれば、堀峪(ほりがけ)とも云(いは)ず馬を馳倒(はせたふ)して引(ひき)かねける間(あひだ)、後陣(ごじん)に引(ひき)ける海東(かいとう)が若党(わかたう)八騎・波多野(はたの)が郎等(らうとう)十三騎・真野(まのの)入道父子(ふし)二人(ににん)・平井(ひらゐ)九郎主従(しゆうじゆう)二騎谷底(たにそこ)にして討(うた)れにけり。 佐々木(ささきの)判官も馬を射させて乗(のり)がへを待程(まつほど)に、大敵(たいてき)左右(さいう)より取巻(とりまい)て既(すで)に討(うた)れぬとみへけるを、名を惜(をし)み命(いのち)を軽(かろ)んずる若党共(わかたうども)、帰合(かへしあはせ)々々所々(しよしよ)にて討死(うちじに)しける其間(そのあひだ)に、万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に合(あ)ひ、白昼(はくちう)に京(きやう)へ引帰(ひきかへ)す。此比(このころ)迄は天下久(ひさしく)静(しづか)にして、軍(いくさ)と云(いふ)事(こと)は敢(あへ)て耳にも触(ふれ)ざりしに、俄(にわか)なる不思議出来(いでき)ぬれば、人皆あはて騒(さわい)で、天地(てんち)も只今打返(うちかへ)す様(やう)に、沙汰せぬ処も無(なか)りけり。 |
|
■持明院殿(ぢみやうゐんどの)御幸六波羅(ろくはらにごかうの)事(こと)
世上(せじやう)乱(みだれ)たる時節(をりふし)なれば、野心(やしん)の者共(ものども)の取進(とりまゐら)する事もやとて、昨日(きのふ)二十七日の巳刻(みのこく)に、持明院本院(ぢみやうゐんほんゐん)・春宮(とうぐう)両御所(りやうごしよ)、六条(ろくでう)殿(どの)より、六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)へ御幸(ごかう)なる。供奉(ぐぶ)の人人には、今出川(いまでがはの)前右大臣(さきのうだいじん)兼季公(かねすゑこう)・三条(さんでうの)大納言通顕(みちあき)・西園寺(さいをんじの)大納言公宗(きんむね)・日野(ひのの)前(さきの)中納言資名(すけな)・防城(ばうじやうの)宰相(さいしやう)経顕(つねあき)・日野(ひのの)宰相資明(すけあきら)、皆衣冠(いくわん)にて御車(おんくるま)の前後(ぜんご)に相順(あひしたが)ふ。其外(そのほか)の北面(ほくめん)・諸司(しよし)・格勤(かくご)は、大略(たいりやく)狩衣(かりぎぬ)の下(した)に腹巻(はらまき)を着映(きかかやか)したるもあり。洛中(らくちゆう)須臾(しゆゆ)に反化(へんくわ)して、六軍(りくぐん)翠花(すゐくわ)を警固(けいご)し奉る。見聞耳目(けんもんじぼく)を驚かせり。 |
|
■主上(しゆしやう)臨幸(りんかう)依非実事山門変儀(へんぎの)事(こと)付紀信(きしんが)事(こと)
山門の大衆(だいしゆ)唐崎の合戦に打勝(うちかつ)て、事始(ことはじめ)よしと喜合(よろこびあへ)る事斜(なのめ)ならず。爰(ここ)に西塔(さいたふ)を皇居(くわうきよ)に被定る条、本院面目無(めんぼくなき)に似(にた)り。寿永(じゆえい)の古(いにし)へ、後白川院(ごしらかはのゐん)山門を御憑有(おんたのみあり)し時も、先(まづ)横川(よかは)へ御登山(ごとうざん)有(あり)しか共(ども)、軈(やが)て東塔(とうたふ)の南谷(みなみたに)、円融坊(ゑんゆうばう)へこそ御移(おんうつり)有(あり)しか。且(かつう)は先蹤(ぜんじよう)也、且(かつう)は吉例(きちれい)也。早く臨幸(りんかう)を本院へ可成奉と、西塔院(さいたふゐん)へ触(ふれ)送る。西塔(さいたふ)の衆徒(しゆと)理(り)にをれて、仙蹕(せんびつ)を促(うながさ)ん為に皇居(くわうきよ)に参列(さんれつ)す。折節(をりふし)深山(みやま)をろし烈(はげしう)して、御簾(ぎよれん)を吹上(ふきあげ)たるより、竜顔(りようがん)を拝(はい)し奉(たてまつり)たれば、主上にてはをわしまさず、尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)の、天子(てんし)の袞衣(こんえ)を着(ちやく)し給へるにてぞ有(あり)ける。 大衆(だいしゆ)是(これ)を見て、「こは何(いか)なる天狗(てんぐ)の所行(しよぎやう)ぞや。」と興(きよう)をさます。其後よりは、参る大衆(だいしゆ)一人もなし。角(かく)ては山門何(いか)なる野心(やしん)をか存(そん)ぜんずらんと学(おぼ)へければ、其夜(そのよ)の夜半計(やはんばかり)に、尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきら)、忍(しのん)で山門を落(おち)て笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ被参る。去程(さるほど)に上林房阿闍梨(じやうりんばうあじやり)豪誉(がうよ)は、元来(もとより)武家へ心を寄(よせ)しかば、大塔宮(おほたふのみや)の執事(しつじ)、安居院(あぐゐ)の中納言法印(ほふいん)澄俊(ちようしゆん)を生捕(いけどり)て六波羅(ろくはら)へ是(これ)を出(いだ)す。 |
|
護正院僧都(ごしやうゐんそうづ)猷全(いうぜん)は、御門徒(ごもんと)の中(なか)の大名(だいみやう)にて八王子(はちわうじ)の一の木戸(きど)を堅(かため)たりしかば、角(かく)ては叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、同宿(どうじゆく)手(て)の者引(ひき)つれて、六波羅(ろくはら)へ降参(かうさん)す。是(これ)を始(はじめ)として、独(ひと)り落(おち)二人(ふたり)落(おち)、々行(おちゆき)ける間、今は光林房(くわうりんばうの)律師(りつし)源存(げんそん)・妙光房(めうくわうばう)の小相摸(こさがみ)・中坊(なかのばう)の悪律師(あくりつし)、三四人(さんしにん)より外(ほか)は落止(おちとどま)る衆徒(しゆと)も無(なか)りけり。妙法院(めうほふゐん)と大塔宮(おほたふのみや)とは、其夜(そのよ)迄尚(なほ)八王子に御坐(ござ)ありけるが、角(かく)ては悪(あしか)りぬべしと、一(ひと)まども落延(おちのび)て、君の御行末(おんゆくへ)をも承(うけたまは)らばやと思召(おぼしめさ)れければ、二十九日の夜半計(やはんばかり)に、八王子に篝火(かがりび)をあまた所(ところ)に焼(たい)て、未(いまだ)大勢(おほぜい)篭(こもり)たる由を見せ、戸津浜(とづのはま)より小舟(をぶね)に召(めさ)れ、落止(おちとま)る所の衆徒(しゆと)三百人計(ばかり)を被召具て、先(まづ)石山(いしやま)へ落(おち)させ給ふ。 此(ここ)にて両門主(もんじゆ)一所(いつしよ)へ落(おち)させ給はん事は、計略(けいりやく)遠(とほ)からぬに似たる上(うへ)、妙法院(めうほふゐん)は御行歩(おんぎやうぶ)もかひ/゛\しからねば、只暫(しばらく)此辺(このへん)に御座(ござ)有(ある)べしとて、石山(いしやま)より二人(ににん)引別(ひきわかれ)させ給(たまひ)て、妙法院(めうほふゐん)は笠置(かさぎ)へ超(こえ)させ給へば、大塔宮(おほたふのみや)は十津河(とつがわ)の奥へと志(こころざし)て、先(まづ)南都(なんと)の方(かた)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。 |
|
さしもやごとなき一山(いつさん)の貫首(くわんじゆ)の位(くらゐ)を捨(すて)て、未(いまだ)習(ならは)せ給はぬ万里漂泊(ばんりへうはく)の旅(たび)に浮(うか)れさせ給へば、医王山王(いわうさんわう)の結縁(けちえん)も是(これ)や限りと名残惜(なごりをし)く、竹園連枝(ちくゑんれんし)の再会(さいくわい)も今は何(いつ)をか可期と、御心細(おんこころぼそく)被思召ければ、互に隔(へだ)たる御影(おんかげ)の隠るゝまでに顧(かへりみ)て、泣々(なくなく)東西(とうざい)へ別(わかれ)させ給ふ、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲(かなし)けれ。抑(そもそも)今度(こんど)主上(しゆしやう)、誠(まこと)に山門へ臨幸不成に依(よつ)て、衆徒(しゆと)の意(こころ)忽(たちまち)に変(へん)ずること、一旦(いつたん)事(こと)ならずと云へ共(ども)、倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あんず)るに、是(これ)叡智(えいち)の不浅る処に出(いで)たり。 昔強秦(きやうしん)亡(ほろび)て後、楚(そ)の項羽(かうう)と漢(かんの)高祖(かうそ)と国を争(あらそふ)事(こと)八箇年(はちかねん)、軍(いくさ)を挑(いどむ)事(こと)七十余箇度也。其戦(そのたたかひ)の度毎(たびごと)に、項羽(かうう)常に勝(かつ)に乗(のつ)て、高祖(かうそ)甚(はなはだ)苦(くるし)める事多し。或時(あるとき)高祖(かうそ)■陽城(けいやうじやう)に篭(こも)る。項羽(かうう)兵(つはもの)を以て城(じやう)を囲(かこむ)事(こと)数百重(すひやくへ)也。日を経(へ)て城中(じやうちゆう)に粮(かて)尽(つき)て兵(つはもの)疲れければ、高祖(かうそ)戦(たたかは)んとするに力なく、遁(のがれ)んとするに道なし。此(ここ)に高祖(かうそ)の臣(しん)に紀信(きしん)と云(いひ)ける兵(つはもの)、高祖(かうそ)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「項羽(かうう)今城(じやう)を囲(かこみ)ぬる事数百重(すひやくへ)、漢已(すで)に食(かて)尽(つき)て士卒(しそつ)又疲(つかれ)たり。若(もし)兵(つはもの)を出(いだ)して戦はゞ、漢必(かならず)楚の為に擒(とりこ)とならん。只敵(てき)を欺(あざむい)て潛(ひそか)に城(じやう)を逃出(のがれいで)んにはしかじ。願(ねがは)くは臣今漢王(かんわう)の諱(いみな)を犯(をか)して楚の陣に降(かう)せん。 |
|
楚此(ここ)に囲(かこみ)を解(とい)て臣を得ば、漢王(かんわう)速(すみやか)に城(じやう)を出(いで)て重(かさね)て大軍(たいぐん)を起し、却(かへつ)て楚を亡(ほろぼ)し給へ。」と申(まうし)ければ、紀信が忽(たちまち)に楚に降(くだつ)て殺(ころさ)れん事悲しけれ共(ども)、高祖(かうそ)社稷(しやしよく)の為に身を軽(かる)くすべきに非ざれば、力無く涙ををさへ、別(わかれ)を慕(したひ)ながら紀信が謀(はかりごと)に随(したがひ)給ふ。紀信大(おほき)に悦(よろこう)で、自(みづから)漢王の御衣(ぎよい)を着(ちやく)し、黄屋(くわうをく)の車(くるま)に乗り、左纛(さたう)をつけて、「高祖(かうその)罪(つみ)を謝(しや)して、楚の大王(だいわう)に降(かう)す。」と呼(よばはり)て、城(じやう)の東門(とうもん)より出(いで)たりけり。楚の兵(つはもの)是(これ)を聞(きい)て、四面(しめん)の囲(かこみ)を解(とい)て一所(いつしよ)に集(あつま)る。 軍勢(ぐんぜい)皆万歳(ばんぜい)を唱(となふ)。此間(このあひだ)に高祖(かうそ)三十余騎を従(したが)へて、城(じやう)の西門(さいもん)より出(いで)て成皐(せいかう)へぞ落給(おちたまひ)ける。夜(よ)明(あけ)て後(のち)楚(そ)に降(くだ)る漢王を見れば、高祖(かうそ)には非ず。其臣(そのしん)に紀信(きしん)と云(いふ)者なりけり。項羽(かうう)大(おほき)に忿(いかつ)て、遂(つひ)に紀信を指(さし)殺す。高祖(かうそ)頓(やが)て成皐の兵(つはもの)を率(そつ)して、却(かへつ)て項羽(かうう)を攻む。項羽(かうう)が勢(いきほひ)尽(つき)て後遂に烏江(をうかう)にして討(うた)れしかば、高祖(かうそ)長く漢の王業(わうげふ)を起して天下の主(あるじ)と成(なり)にけり。今主上(しゆしやう)も懸(かかり)し佳例(かれい)を思召(おぼしめし)、師賢(もろかた)も加様(かやう)の忠節(ちゆうせつ)を被存けるにや。彼(かれ)は敵(てき)の囲(かこみ)を解(とか)せん為に偽(いつは)り、是(これ)は敵(てき)の兵(つはもの)を遮(さへぎ)らん為に謀(はか)れり。和漢(わかん)時(とき)異(ことな)れども、君臣(くんしん)体(てい)を合(あはせ)たる、誠(まこと)に千載(せんざい)一遇(ぐう)の忠貞(ちゆうてい)、頃刻変化(きやうこくへんくわ)の智謀(ちぼう)也。 |
|
■太平記 巻第三 | |
■主上(しゆしやう)御夢(おんゆめの)事(こと)付楠(くすのきが)事(こと)
元弘(げんこう)元年八月二十七日、主上笠置(かさぎ)へ臨幸成(なつ)て本堂を皇居(くわうきよ)となさる。始(はじめ)一両日(いちりやうにち)の程は武威に恐れて、参り任(つかふ)る人独(ひとり)も無(なか)りけるが、叡山(えいざん)東坂本(ひがしさかもと)の合戦(かつせん)に、六波羅勢(ろくはらぜい)打負(うちまけ)ぬと聞へければ、当寺(たうじ)の衆徒(しゆと)を始(はじめ)て、近国の兵共(つはものども)此彼(ここかしこ)より馳参(はせまゐ)る。されども未(いまだ)名ある武士(ぶし)、手勢(てぜい)百騎とも二百騎とも、打(うた)せたる大名は一人(いちにん)も不参。此勢許(このせいばかり)にては、皇居(くわうきよ)の警固(けいご)如何(いかん)有(ある)べからんと、主上思食煩(おぼしめしわづら)はせ給(たまひ)て、少し御(おん)まどろみ有(あり)ける御夢(おんゆめ)に、所(ところ)は紫宸殿(ししんでん)の庭前(ていぜん)と覚へたる地に、大(おほき)なる常盤木(ときはぎ)あり。 緑の陰(かげ)茂(しげり)て、南へ指(さし)たる枝(えだ)殊に栄へ蔓(はびこ)れり。其下(そのした)に三公百官位(くらゐ)に依(よつ)て列坐(れつざ)す。南へ向(むき)たる上座(しやうざ)に御坐(ござ)の畳を高く敷(しき)、未(いまだ)坐(ざ)したる人はなし。主上御夢心地(おんゆめここち)に、「誰を設(まう)けん為の座席やらん。」と怪(あや)しく思食(おぼしめし)て、立(たた)せ給ひたる処に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子(どうじ)二人(ににん)忽然(こつぜん)として来(きたつ)て、主上の御前(おんまへ)に跪(ひざまづ)き、涙を袖に掛(かけ)て、「一天下の間(あひだ)に、暫(しばらく)も御身(おんみ)を可被隠所なし。但しあの樹の陰(かげ)に南へ向へる座席あり。是(これ)御為(おんため)に設(まうけ)たる玉■(ぎよくい)にて候へば、暫く此(これ)に御座(ござ)候へ。」と申(まうし)て、童子は遥(はるか)の天に上(あが)り去(さん)ぬと御覧(ごらん)じて、御夢(おんゆめ)はやがて覚(さめ)にけり。 |
|
主上是(これ)は天の朕(ちん)に告(つげたまへ)る所(ところ)の夢也と思食(おぼしめし)て、文字(もんじ)に付(つけ)て御料簡(ごれうけん)あるに、木(き)に南(みなみ)と書(かき)たるは楠(くすのき)と云(いふ)字也。其陰(そのかげ)に南に向ふて坐(ざ)せよと、二人(ににん)の童子(どうじ)の教へつるは、朕再び南面(なんめん)の徳を治(をさめ)て、天下の士(し)を朝(てう)せしめんずる処(ところ)を、日光月光(につくわうぐわつくわう)の被示けるよと、自(みづか)ら御夢(おんゆめ)を被合て、憑敷(たのもしく)こそ被思食けれ。夜(よ)明(あけ)ければ当寺(たうじ)の衆徒(しゆと)、成就房(じやうじゆばうの)律師(りつし)を被召、「若(もし)此辺(このへん)に楠と被云武士(ぶし)や有(ある)。」と、御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「近き傍(あた)りに、左様(さやう)の名字(みやうじ)付(つき)たる者ありとも、未(いまだ)承(うけたまはり)及(およばず)候。 河内国(かはちのくに)金剛山(こんがうせん)の西にこそ、楠多門兵衛(たもんひやうゑ)正成(まさしげ)とて、弓矢取(とつ)て名を得たる者は候なれ。是(これ)は敏達天王(びたつてんわう)四代の孫(そん)、井手左大臣(ゐでのさだいじん)橘諸兄公(たちばなのもろえこう)の後胤(こういん)たりと云へども、民間(みんかん)に下(くだつ)て年久し。其母(そのはは)若かりし時、志貴(しぎ)の毘沙門(びしやもん)に百日詣(まうで)て、夢想(むさう)を感じて設(まうけ)たる子にて候とて、稚名(をさなな)を多門(たもん)とは申(まうし)候也。」とぞ答へ申(まうし)ける。主上、さては今夜(こんや)の夢の告(つげ)是(これ)也と思食(おぼしめし)て、「頓(やが)て是(これ)を召せ。」と被仰下ければ、藤房卿(ふぢふさのきやう)勅(ちよく)を奉(うけたまはつ)て、急ぎ楠正成をぞ被召ける。 |
|
勅使宣旨(せんじ)を帯(たい)して、楠が館(たち)へ行向(ゆきむかつ)て、事の子細(しさい)を演(のべ)られければ、正成弓矢取る身の面目(めんぼく)、何事(なにこと)か是(これ)に過(すぎ)んと思(おもひ)ければ、是非(ぜひ)の思案にも不及、先(まづ)忍(しのび)て笠置(かさぎ)へぞ参(さんじ)ける。主上万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさの)卿(きやう)を以て被仰けるは、「東夷征罰(とういせいばつ)の事(こと)、正成(まさしげ)を被憑思食子細(しさい)有(あつ)て、勅使を被立処に、時刻を不移馳参(はせまゐ)る条(でう)、叡感(えいかん)不浅処也。抑(そもそも)天下草創(さうさう)の事(こと)、如何(いか)なる謀(はかりごと)を廻(めぐら)してか、勝(かつ)事(こと)を一時(いちじ)に決して太平(たいへい)を四海(しかい)に可被致、所存(しよぞん)を不残可申。」と勅定(ちよくぢやう)有(あり)ければ、正成畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「東夷近日(きんじつ)の大逆(だいぎやく)、只(ただ)天(てん)の譴(せめ)を招(まねき)候上(うへ)は、衰乱の弊(つひ)へに乗(のつ)て天誅(てんちゆう)を被致に、何(なん)の子細か候べき。 但(ただし)天下草創(さうさう)の功(こう)は、武略と智謀(ちぼう)とに二(ふたつ)にて候。若(もし)勢(せい)を合(あはせ)て戦はゞ、六十余州の兵(つはもの)を集(あつめ)て武蔵相摸(むさしさがみ)の両国(りやうこく)に対(たい)すとも、勝(かつ)事(こと)を得がたし。若(もし)謀(はかりごと)を以て争はゞ、東夷の武力(ぶりき)只利(り)を摧(くだ)き、堅(かたき)を破る内(うち)を不出。是(これ)欺(あざむ)くに安(やすう)して、怖(おそ)るゝに足(たら)ぬ所也。合戦(かつせん)の習(ならひ)にて候へば、一旦(いつたん)の勝負(しようぶ)をば必(かならず)しも不可被御覧。正成一人(いちにん)未だ生(いき)て有(あり)と被聞召候はゞ、聖運(せいうん)遂に可被開と被思食候へ。」と、頼(たのも)しげに申(まうし)て、正成は河内(かはち)へ帰(かへり)にけり。 |
|
■笠置(かさぎ)軍(いくさの)事(こと)付陶山(すやま)小見山(こみやま)夜討(ようちの)事(こと)
去程(さるほど)に主上笠置(かさぎ)に御坐(ござ)有(あつ)て、近国(きんごく)の官軍(くわんぐん)付随(つきしたがひ)奉る由(よし)、京都へ聞へければ、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)又力を得て、六波羅(ろくはら)へ寄(よす)る事もや有(あら)んずらんとて、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)時信(ときのぶ)に、近江(あふみ)一国(いつこく)の勢(せい)を相副(あひそへ)て大津(おほつ)へ被向。是(これ)も猶(なほ)小勢(こぜい)にて叶(かな)ふまじき由を申(まうし)ければ、重(かさね)て丹波国(たんばのくに)の住人(ぢゆうにん)、久下(くげ)・長沢の一族等(いちぞくら)を差副(さしそへ)て八百余騎(よき)、大津東西(とうざい)の宿(しゆく)に陣を取る。九月一日六波羅(ろくはら)の両■断(りやうけんだん)、糟谷(かすやの)三郎宗秋(むねあき)・隅田(すだの)次郎左衛門(じらうざゑもん)、五百余騎(よき)にて宇治の平等院(びやうどういん)へ打出(うちい)で、軍勢(ぐんぜい)の着到(ちやくたう)を着(つく)るに、催促(さいそく)をも不待、諸国の軍勢夜昼(よるひる)引(ひき)も不切馳集(はせあつまつ)て十万余騎(よき)に及べり。 既(すで)に明日二日(みやうにちふつか)巳刻(みのこく)に押寄(おしよせ)て、矢合(やあはせ)可有と定(さだ)めたりける其前(そのさき)の日(ひ)、高橋(の)又四郎抜懸(ぬけがけ)して、独り高名(かうみやう)に備(そな)へんとや思(おもひ)けん、纔(わづか)に一族の勢三百(さんびやく)余騎(よき)を率(そつ)して、笠置(かさぎ)の麓へぞ寄(よせ)たりける。城(しろ)に篭(こも)る所の官軍(くわんぐん)は、さまで大勢(おほぜい)ならずと云へども、勇気未怠(いまだたゆまず)、天下の機(き)を呑(のん)で、回天(くわいてん)の力(ちから)を出(いだ)さんと思へる者共(ものども)なれば、纔(わづか)の小勢(こぜい)を見て、なじかは打(うつ)て懸(かか)らざらん。其(その)勢三千余騎(よき)、木津河(きづがは)の辺(へん)にをり合(あう)て、高橋が勢を取篭(とりこめ)て、一人も余(あま)さじと責(せめ)戦ふ。 |
|
高橋始(はじめ)の勢(いきほ)ひにも似ず、敵の大勢(おほぜい)を見て、一返(ひとかへし)も不返捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引(ひき)ける間、木津河の逆巻水(さかまくみづ)に被追浸、被討者其数(そのかず)若干(そくばく)也。僅(わづか)に命許(ばかり)を扶(たすか)る者も、馬(むま)物具(もののぐ)を捨(すて)て赤裸(あかはだか)になり、白昼(はくちう)に京都へ逃上(にげのぼ)る。見苦しかりし有様也。是(これ)を悪(にく)しと思ふ者やしたりけん。平等院の橋爪(はしづめ)に、一首(いつしゆ)の歌を書(かい)てぞたてたりける。 木津川(きづかは)の瀬々(せぜ)の岩浪早ければ懸(かけ)て程なく落(おつ)る高橋高橋が抜懸(ぬけがけ)を聞(きい)て、引(ひか)ば入替(いりかはつ)て高名(かうみやう)せんと、跡(あと)に続(つづ)きたる小早河(こばやがは)も、一度(いちど)に皆被追立一返(ひとかへし)も不返、宇治(うぢ)まで引(ひい)たりと聞へければ、又札(ふだ)を立副(たてそへ)て、懸(かけ)も得ぬ高橋落(おち)て行(ゆく)水に憂名(うきな)を流す小早河(こばやがは)哉(かな)昨日(きのふ)の合戦に、官軍(くわんぐん)打勝(うちかち)ぬと聞へしかば、国々の勢馳(はせ)参りて、難儀(なんぎ)なる事もこそあれ、時日(ときひ)を不可移とて、両検断(りやうけんだん)宇治にて四方(しはう)の手分(てわけ)を定(さだめ)て、九月二日笠置(かさぎ)の城(しろ)へ発向(はつかう)す。南の手(て)には五畿内(きない)五箇国(ごかこく)の兵(つはもの)を被向。其勢(そのせい)七千六百余騎(よき)、光明山(くわうみやうせん)の後(うしろ)を廻(まはつ)て搦手(からめて)に向(むかふ)。 |
|
東の手には、東海道十五箇国(じふごかこく)の内(うち)、伊賀・伊勢(いせ)・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の兵(つはもの)を被向。其(その)勢二万五千余騎(よき)、伊賀路(いがぢ)を経(へ)て金剛山越(こんがうせんごえ)に向ふ。北の手には、山陰道(せんいんだう)八箇国(はちかこく)の兵共(つはものども)一万二千余騎(よき)、梨間(なしま)の宿(しゆく)のはづれより、市野辺山(いちのべやま)の麓を回(まはつ)て、追手(おふて)へ向ふ。西の手には、山陽道(せんやうだう)八箇国(はちかこく)の兵(つはもの)を被向。其(その)勢三万二千余騎(よき)、木津河(きづがは)を上(のぼ)りに、岸の上なる岨道(そばみち)を二手(ふたて)に分(わけ)て推寄(おしよす)る。追手(おふて)搦手(からめて)、都合(つがふ)七万五千余騎(よき)、笠置(かさぎ)の山の四方(しはう)二三里が間(あひだ)は、尺地(せきち)も不残充満(じゆうまん)したり。明(あく)れば九月三日の卯刻(うのこく)に、東西南北(とうざいなんぼく)の寄手(よせて)、相近(あひちかづい)て時(とき)を作る。 其(その)声百千の雷(いかづち)の鳴落(なりおつる)が如(ごとく)にして天地(てんち)も動く許(ばかり)也。時の声三度(さんど)揚(あげ)て、矢合(やあはせ)の流鏑(かぶら)を射懸(いかけ)たれども、城(しろ)の中(うち)静(しづま)り還(かへつ)て時の声をも不合、当(たう)の矢をも射ざりけり。彼(かの)笠置(かさぎ)の城(しろ)と申(まうす)は、山高(たかう)して一片(いつぺん)の白雲(はくうん)峯を埋(うづ)み、谷深(ふかう)して万仞(ばんじん)の青岩(せいがん)路を遮(さへぎ)る。攀折(つづらをり)なる道を廻(まはつ)て揚(あが)る事十八町、岩を切(きつ)て堀とし石を畳(たたう)で屏(へい)とせり。されば縦(たと)ひ防(ふせ)ぎ戦ふ者無(なく)とも、輒(たやす)く登る事を得難し。されども城中(じやうちゆう)鳴(なり)を静めて、人ありとも見へざりければ、敵(てき)はや落(おち)たりと心得て、四方(しはう)の寄手(よせて)七万五千余騎(よき)、堀がけとも不謂、葛(くず)のかづらに取付(とりつい)て、岩の上を伝(つたう)て、一(いち)の木戸口(きどぐち)の辺(へん)、二王堂(にわうだう)の前までぞ寄(よせ)たりける。 此(ここ)にて一息(ひといき)休めて城(しろ)の中(うち)を屹(きつ)と向上(みあげ)ければ、錦(にしき)の御旗(おんはた)に日月(じつげつ)を金銀(きんぎん)にて打(うつ)て着(つけ)たるが、白日(はくじつ)に耀(かかやい)て光り渡りたる其陰(そのかげ)に、透間(すきま)もなく鎧(よろ)ふたる武者(むしや)三千余人(よにん)、甲(かぶと)の星を耀(かかやか)し、鎧(よろひ)の袖を連(つらね)て、雲霞(うんか)の如くに並居(なみゐ)たり。其外(そのほか)櫓(やぐら)の上(うへ)、さまの陰(かげ)には、射手(いて)と覚(おぼ)しき者共(ものども)、弓の弦(つる)くひしめし、矢束(やたばね)解(とい)て押甘(おしくつろげ)、中差(なかざし)に鼻油(はなあぶら)引(ひい)て待懸(まちかけ)たり。其勢(そのいきほひ)決然(けつぜん)として、敢(あへ)て可攻様(やう)ぞなき。寄手(よせて)一万余騎(よき)是(これ)を見て、前(すす)まんとするも不叶、引(ひか)んとするも不協して、心ならず支(ささへ)たり。良(やや)暫有(しばらくあり)て、木戸の上なる櫓より、矢間(さま)の板を排(おしひらい)て名乗(なのり)けるは、「参河国(みかはくにの)住人(ぢゆうにん)足助(あすけの)次郎重範(しげのり)、忝(かたじけな)くも一天(いつてん)の君にたのまれ進(まゐ)らせて、此(この)城の一の木戸を堅(かた)めたり。 |
|
前陣(ぜんぢん)に進んだる旗は、美濃(みの)・尾張(をはり)の人々の旗と見るは僻目(ひがめ)か。十善(じふぜん)の君の御座(おはしま)す城(しろ)なれば、六波羅(ろくはら)殿(どの)や御向(おんむか)ひ有(あ)らんずらんと心得て、御儲(おんまうけ)の為に、大和鍛冶(やまとかぢ)のきたうて打(うち)たる鏃(やじり)を少々(せうせう)用意(ようい)仕(つかまつり)て候。一筋(ひとすぢ)受(うけ)て御覧(ごらん)じ候へ。」と云侭(いふまま)に、三人(さんにん)張(ばり)の弓に十三束三伏(じふさんぞくみつぶせ)篦(の)かづきの上まで引(ひき)かけ、暫(しばらく)堅(かた)めて丁(ちやう)と放つ。其(その)矢遥(はるか)なる谷を阻(へだて)て、二町(にちやう)余(あまり)が外(ほか)に扣(ひか)へたる荒尾九郎が鎧(よろひ)の千檀(せんだん)の板(いた)を、右の小脇(こわき)まで篦深(のぶか)にぐさと射込む。 一箭(ひとや)なりといへども究竟(くつきやう)の矢坪(やつぼ)なれば、荒尾馬より倒(さかさま)に落(おち)て起(おき)も直(なほ)らで死(しし)けり。舎弟(しやてい)の弥五郎(やごらう)是(これ)を敵に見せじと、矢面(やおもて)に立隠(たちかく)して、楯(たて)のはづれより進出(すすみいで)て云(いひ)けるは、「足助(あすけ)殿(どの)の御弓勢(ごゆんぜい)、日来(ひごろ)承候(うけたまはりさふらひ)し程は無(なか)りけり。此(ここ)を遊ばし候へ。御矢(おんや)一筋受(うけ)て物(もの)の具(ぐ)の実(さね)の程試(こころみ)候はん。」と欺(あざむい)て、弦走(つるばしり)を敲(たたい)てぞ立(たち)たりける。 足助是(これ)を聞(きい)て、「此(この)者の云様(いひやう)は、如何様(いかさま)鎧の下(した)に、腹巻(はらまき)か鎖(くさり)歟(か)を重(かさね)て着たれば社(こそ)、前(さき)の矢を見ながら此(ここ)を射よとは敲(たた)くらん。若(もし)鎧の上を射ば、篦(の)摧(くだ)け鏃(やじり)折(をれ)て通らぬ事もこそあれ。甲(かぶと)の真向(まつかう)を射たらんに、などか砕(くだけ)て通らざらん。」と思案して、「胡■(えびら)より金磁頭(かなじんどう)を一(ひと)つ抜出(ぬきいだ)し、鼻油(はなあぶら)引(ひい)て、「さらば一矢(ひとや)仕り候はん。受(うけ)て御覧(ごらん)候へ。」と云侭(いふまま)に、且(しばら)く鎧の高紐(たかひも)をはづして、十三束三伏(じふさんぞくみつぶせ)、前(さき)よりも尚引(ひき)しぼりて、手答(てごた)へ高くはたと射る。思ふ矢坪(やつぼ)を不違、荒尾弥五郎が甲(かぶと)の真向(まつかう)、金物(かなもの)の上(うへ)二寸計(ばかり)射砕(いくだい)て、眉間(みけん)の真中(まんなか)をくつまき責(せめ)て、ぐさと射篭(いこう)だりければ、二言(にごん)とも不云、兄弟(きやうだい)同枕(おなじまくら)に倒重(たふれかさなつ)て死(しし)にけり。是(これ)を軍(いくさ)の始(はじめ)として、追手(おふて)搦手(からめて)城(じやう)の内、をめき叫(さけん)で責(せめ)戦ふ。箭叫(やさけび)の音時(とき)の声且(しばし)も休(やむ)時なければ、大山(たいさん)も崩(くづれ)て海に入り、坤軸(こんぢく)も折(をれ)て忽(たちまち)地に沈(しづ)む歟(か)とぞ覚へし。 |
|
晩景(ばんげい)に成(なり)ければ、寄手(よせて)弥(いよいよ)重(かさなつ)て持楯(もちたて)をつきよせつきよせ、木戸口(きどぐち)の辺(へん)まで攻(せめ)たりける処に、爰(ここ)に南都の般若寺(はんにやじ)より巻数(くわんじゆ)持(もち)て参りたりける使(つかひ)、本性房(ほんじやうばう)と云(いふ)大力(だいりき)の律僧(りつそう)の有(あり)けるが、褊衫(へんさん)の袖を結(むすん)で引違(ひきちが)へ、尋常(よのつね)の人の百人しても動(うごか)し難き大磐石(だいばんじやく)を、軽々(かるがる)と脇に挟(はさ)み、鞠(まり)の勢(せい)に引欠々々(ひつかけひつかけ)、二三十つゞけ打(うち)にぞ投(なげ)たりける。 数万(すまん)の寄手(よせて)、楯(たて)の板(いた)を微塵(みぢん)に打砕(うちくだ)かるゝのみに非(あら)ず、少(すこし)も此(この)石に当る者、尻居(しりゐ)に被打居ければ、東西(とうざい)の坂に人頽(ひとなだれ)を築(つい)て、馬人弥(いや)が上(うへ)に落重(おちかさな)る。さしも深き谷二(ふたつ)、死人(しにん)にてこそうめたりけれ。されば軍(いくさ)散じて後(のち)までも木津河(きづがは)の流(ながれ)血に成(なつ)て、紅葉(もみぢ)の陰(かげ)を行(ゆく)水の紅(くれなゐ)深きに不異。是(これ)より後(のち)は、寄手(よせて)雲霞(うんか)の如しといへども、城(しろ)を攻(せめ)んと云(いふ)者一人もなし。只(ただ)城の四方(しはう)を囲(かこ)めて遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。 かくて日数(ひかず)を経(へ)ける処に、同(おなじき)月十一日、河内の国より早馬(はやむま)を立(たて)て、「楠兵衛(ひやうゑ)正成(まさしげ)と云(いふ)者、御所方(ごしよがた)に成(なつ)て旗を挙(あぐ)る間、近辺の者共(ものども)、志あるは同心(どうしん)し、志なきは東西(とうざい)に逃隠(にげかく)る。則(すなはち)国中(こくぢゆう)の民屋(みんをく)を追捕(ついふ)して、兵粮(ひやうらう)の為に運取(はこびとり)、己(おのれ)が館(たち)の上なる赤坂山(あかさかやま)に城郭(じやうくわく)を構へ、其勢(そのせい)五百騎にて楯篭(たてこも)り候。御退治(ごたいぢ)延引(えんいん)せば、事(こと)御難儀(おんなんぎ)に及候(およびさふらひ)なん。急ぎ御勢(おんせい)を可被向。」とぞ告申(つげまうし)ける。 是(これ)をこそ珍事(ちんじ)なりと騒ぐ処に、又同(おなじき)十三日の晩景に、備後(びんご)の国より早馬(はやむま)到来(たうらい)して、「桜山(さくらやま)四郎入道、同(おなじき)一族等(ら)御所方(ごしよがた)に参(まゐつ)て旗を揚(あげ)、当国の一宮(いちのみや)を城郭として楯篭(たてこも)る間、近国の逆徒等(げきとら)少々(せうせう)馳加(はせくははつ)て、其勢(そのせい)既(すでに)七百余騎(よき)、国中(こくぢゆう)を打靡(うちなびけ)、剰(あまつさへ)他国へ打越(うちこえ)んと企(くはだ)て候。夜(よ)を日(ひ)に継(つい)で討手(うつて)を不被下候はゞ、御大事(おんだいじ)出来(いでき)ぬと覚(おぼえ)候。御油断(ごゆだん)不可有。」とぞ告(つげ)たりける。 |
|
前(まへ)には笠置(かさぎ)の城強(つよう)して、国々の大勢(おほぜい)日夜(にちや)責(せむ)れども未落(いまだおちず)、後(うしろ)には又楠・桜山の逆徒大(おほき)に起(おこつ)て、使者(ししや)日々(ひび)に急(きふ)を告(つぐ)。南蛮西戎(なんばんせいじゆう)は已(すで)に乱(みだれ)ぬ。東夷北狄(とういほくてき)も又如何(いかが)あらんずらんと、六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)駿河(するがの)守(かみ)、安き心も無(なか)りければ、日々(ひび)に早馬(はやむま)を打(うた)せて東国勢をぞ被乞ける。相摸入道(さがみにふだう)大(おほき)に驚(おどろい)て、「さらばやがて討手を差上(さしのぼ)せよ。」とて、一門他家(たけ)宗徒(むねと)の人々六十三人(ろくじふさんにん)迄ぞ被催ける。 大将軍には大仏(おさらぎ)陸奥守(むつのかみ)貞直・同遠江守(とほたふみのかみ)・普恩寺(ふおんじ)相摸守(さがみのかみ)・塩田越前守(ゑちぜんのかみ)・桜田参河(みかはの)守(かみ)・赤橋尾張(をはりの)守(かみ)・江馬(えま)越前守(ゑちぜんのかみ)・糸田左馬頭(さまのかみ)・印具兵庫助(いぐひやうごのすけ)・佐介上総介(さかいかづさのかみ)・名越右馬助(なごやうまのすけ)・金沢(かなざは)右馬助(うまのすけ)・遠江(とほたふみの)左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)治時(はるとき)・足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)、侍大将(さぶらひたいしやう)には、長崎四郎左衛門尉(さゑもんのじよう)、相従(あひしたが)ふ侍(さぶらひ)には、三浦介(みうらのすけ)入道・武田甲斐(かひの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・椎名(しひな)孫八入道・結城上野(ゆふきかうづけの)入道・小山出羽(をやまではの)入道・氏家美作(うぢへみまさかの)守(かみ)・佐竹上総(かづさの)入道・長沼(ながぬま)四郎左衛門入道・土屋安芸権守(つちやあきのごんのかみ)・那須加賀(かがの)権(ごんの)守(かみ)・梶原(かぢはら)上野(かうづけの)太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・岩城(いはき)次郎入道・ 佐野(さのの)安房(あはの)弥太郎(やたらう)・木村次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・相馬(さうま)右衛門次郎・南部(なんぶ)三郎次郎・毛利丹後(たんごの)前司(ぜんじ)、那波(なば)左近(さこんの)太夫将監(たいふしやうげん)・一宮善(いぐせ)民部(みんぶの)太夫(たいふ)・土肥(とひ)佐渡(さどの)前司・宇都宮(うつのみや)安芸(あきの)前司・同肥後(ひごの)権守(ごんのかみ)・葛西(かさいの)三郎兵衛(さぶらうひやうゑの)尉(じよう)・寒河(さんがうの)弥四郎・上野(かうづけの)七郎三郎・大内(おほち)山城(やましろの)前司・長井治部(ぢぶの)少輔(せう)・同備前(びぜんの)太郎・同因幡(いなば)民部(みんぶの)大輔(たいふ)入道・筑後(ちくごの)前司・下総(しもつさの)入道・山城(やましろ)左衛門(さゑもんの)大夫・宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)入道・岩崎弾正左衛門尉(だんしやうさゑもんのじよう)・高久(かうく)同孫三郎・同彦三郎・伊達(だての)入道・田村形部大輔(ぎやうぶのたいふ)入道・入江蒲原(いりえかんばら)の一族・横山猪俣(ゐのまた)の両党、此外(このほか)、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)・伊豆(いづ)・駿河(するが)・上野(かうづけ)、五箇国(ごかこく)の軍勢(ぐんぜい)、都合(つごふ)二十万七千六百余騎(よき)、九月二十日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、同晦日(おなじきつごもり)、前陣(ぜんぢん)已(すで)に美濃・尾張(をはり)両国に着(つけ)ば、後陣(ごぢん)は猶未(いまだ)高志(たかし)・二村(ふたむら)の峠(たうげ)に支へたり。 |
|
爰(ここ)に備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)陶山藤三義高(すやまとうざうよしたか)・小見山(こみやま)次郎某(なにがし)、六波羅(ろくはら)の催促(さいそく)に随(したがつ)て、笠置(かさぎ)の城の寄手(よせて)に加(くははつ)て、河向(かはむかひ)に陣を取(とつ)て居たりけるが、東国の大勢(おほぜい)既(すで)に近江に着(つき)ぬと聞へければ、一族若党共(わかたうども)を集(あつめ)て申(まうし)けるは、「御辺達(ごへんたち)如何(いか)が思(おもふ)ぞや、此間(このあひだ)数日(すじつ)の合戦(かつせん)に、石に被打、遠矢(とほや)に当(あたつ)て死(し)ぬる者、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。 是(これ)皆差(さし)て為出(しいだ)したる事も無(なう)て死(しし)ぬれば、骸骨(がいこつ)未だ乾(かわ)かざるに、名は先立(さきだち)て消去(きえさり)ぬ。同(おなじ)く死(し)ぬる命(いのち)を、人目(ひとめ)に余(あま)る程の軍(いくさ)一度(いちど)して死(しし)たらば、名誉(めいよ)は千載(せんざい)に留(とどまつ)て、恩賞は子孫の家に栄(さかえ)ん。倩(つらつら)平家の乱(らん)より以来(このかた)、大剛(だいがう)の者とて名を古今(ここん)に揚(あげ)たる者共(ものども)を案ずるに、何(いづ)れも其(それ)程の高名(かうみやう)とは不覚(おぼえず)。先(まづ)熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)が一谷(いちのたに)の先懸(さきがけ)は、後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)を憑(たのみ)し故(ゆゑ)也。梶原平三(かぢはらへいざう)が二度(にど)の懸(かけ)は、源太(げんた)を助(たすけ)ん為なり。 佐々木(ささきの)三郎が藤戸(ふぢと)を渡しゝは、案内者(あんないじや)のわざ、同(おなじく)四郎高綱(たかつな)が宇治川の先陣は、いけずき故(ゆゑ)也。此等(これら)をだに今の世迄(よまで)語伝(かたりつたへ)て、名を天下の人口(じんこう)に残すぞかし。何(いか)に況(いはん)や日本国(につほんごく)の武士共(ぶしども)が集(あつまつ)て、数日(すじつ)攻(せむ)れども落(おと)し得ぬ此城(このしろ)を、我等が勢許(せいばかり)にて攻落(せめおと)したらんは、名は古今(ここん)の間(あひだ)に双(ならび)なく、忠は万人(ばんにん)の上(うへ)に可立。いざや殿原(とのばら)、今夜(こよひ)の雨風(あめかぜ)の紛(まぎ)れに、城中(じやうちゆう)へ忍入(しのびいつ)て、一夜討(ひとようち)して天下の人に目を覚(さま)させん。」と云(いひ)ければ、五十(ごじふ)余人(よにん)の一族(いちぞく)若党(わかたう)、「最(もつとも)可然。」とぞ同(どう)じける。是(これ)皆千に一(ひとつ)も生(いき)て帰る者あらじと思切(おもひきつ)たる事なれば、兼(かね)ての死(し)に出立(でだち)に、皆曼陀羅(まんだら)を書(かい)てぞ付(つけ)たりける。差縄(さしなは)の十丈(じふぢやう)許(ばかり)長きを二筋(ふたすぢ)、一尺計(ばかり)置(おい)ては結合(むすびあはせ)々々して、其端(そのはし)に熊手(くまで)を結着(ゆひつけ)て持(もた)せたり。 |
|
是(これ)は岩石(がんせき)などの被登ざらん所をば、木の枝(えだ)岩の廉(かど)に打懸(うちかけ)て、登らん為の支度(したく)也。其夜(そのよ)は九月晦日(つごもり)の事なれば、目指(めざす)とも不知暗き夜(よ)に、雨風(あめかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て面(おもて)を可向様(やう)も無(なか)りけるに、五十(ごじふ)余人(よにん)の者ども、太刀(たち)を背(せなか)に負(おひ)、刀(かたな)を後(うしろ)に差(さい)て、城(しろ)の北に当(あたり)たる石壁(せきへき)の数百丈(すひやくぢやう)聳(そびえ)て、鳥も翔(かけ)り難(がた)き所よりぞ登りける。二町(にちやう)許(ばかり)は兎角(とかう)して登りつ、其(その)上に一段高き所あり。屏風(びやうぶ)を立(たて)たる如くなる岩石(がんぜき)重(かさなり)て、古松(こしよう)枝(えだ)を垂(たれ)、蒼苔(さうたい)路滑(なめらか)なり。 此(ここ)に至(いたり)て人(ひと)皆(みな)如何(いか)んともすべき様(やう)なくして、遥(はるか)に向上(みあげ)て立(たつ)たりける処に、陶山藤三(すやまとうざう)、岩の上をさら/\と走上(はしりのぼつ)て、件(くだん)の差縄を上(うへ)なる木の枝(えだ)に打懸(うちかけ)て、岩の上よりをろしたるに、跡(あと)なる兵共(つはものども)各(おのおの)是(これ)に取付(とりつい)て、第一(だいいち)の難所(なんじよ)をば安々(やすやす)と皆上(のぼ)りてげり。其(それ)より上にはさまでの嶮岨(けんそ)無(なか)りければ、或(あるひ)は葛(くず)の根に取付(とりつき)、或(あるひ)は苔(こけ)の上を爪立(つまだて)て、二時計(ふたときばかり)に辛苦(しんく)して、屏際(へいのきは)まで着(つい)てけり。此(ここ)にて一息(ひといき)休(やすめ)て、各(おのおの)屏を上(のぼ)り超(こえ)、夜廻(よまは)りの通りける迹(あと)に付(つい)て、先(まづ)城(しろ)の中(うち)の案内をぞ見たりける。 追手(おふて)の木戸(きど)・西の坂口(さかくち)をば、伊賀・伊勢の兵(つはもの)千余騎(よき)にて堅(かた)めたり。搦手(からめて)に対する東の出屏(だしべい)の口(くち)をば、大和(やまと)・河内(かはち)の勢(せい)五百余騎(よき)にて堅(かため)たり。南の坂、二王堂(にわうだう)の前をば、和泉(いづみ)・紀伊国(きのくに)の勢七百余騎(よき)にて堅(かため)たり。北の口一方(いつぱう)は嶮(けはし)きを被憑けるにや、警固(けいご)の兵(つはもの)をば一人(いちにん)も不被置、只云甲斐(いひかひ)なげなる下部共(しもべども)二三人(にさんにん)、櫓(やぐら)の下(した)に薦(こも)を張(はり)、篝(かがり)を焼(たい)て眠居(ねむりゐ)たり。陶山(すやま)・小見山(こみやま)城(しろ)を廻(まはり)、四方(しはう)の陣をば早見澄(みすま)しつ。皇居(くわうきよ)は何(いづ)くやらんと伺(うかがう)て、本堂(ほんだう)の方(かた)へ行処(ゆくところ)に、或役所(あるやくしよ)の者是(これ)を聞付(ききつけ)て、「夜中(やちゆう)に大勢(おほぜい)の足音して、潛(ひそか)に通(とほる)は怪(あやし)き物哉(かな)、誰人(たれびと)ぞ。」と問(とひ)ければ、陶山吉次(すやまのよしつぐ)取(とり)も敢(あへ)ず、「是(これ)は大和勢(やまとぜい)にて候が、今夜(こよひ)余(あまり)に雨風烈(はげ)しくして、物騒(ものさわ)が〔し〕く候間(あひだ)、夜討(ようち)や忍入(しのびいり)候はんずらんと存候(ぞんじさふらひ)て、夜廻仕(よまはりつかまつり)候也。」と答(こたへ)ければ、「げに。」と云音(いふおと)して、又問(とふ)事(こと)も無(なか)りけり。 |
|
是(これ)より後(のち)は中々(なかなか)忍(しのび)たる体(てい)も無(なく)して、「面々(めんめん)の御陣(ごぢん)に、御用心(ごようじん)候へ。」と高らかに呼(よば)は(つ)て、閑々(しづしづ)と本堂へ上(あがり)て見れば、是(ここ)ぞ皇居(くわうきよ)と覚(おぼえ)て、蝋燭(らふそく)数多所(あまたところ)に被燃て、振鈴(しんれい)の声幽(かすか)也。衣冠(いくわん)正(ただし)くしたる人、三四人(さんしにん)大床(おほゆか)に伺候(しこう)して、警固(けいご)の武士(ぶし)に、「誰か候。」と被尋ければ、「其(その)国(くに)の某々(なにがしそれがし)。」と名乗(なのつ)て廻廊(くわいらう)にしかと並居(なみゐ)たり。 陶山(すやま)皇居(くわうきよ)の様(やう)まで見澄(みすま)して、今はかうと思(おもひ)ければ、鎮守(ちんじゆ)の前にて一礼(いちらい)を致し、本堂の上(うへ)なる峯(みね)へ上(のぼつ)て、人もなき坊(ばう)の有(あり)けるに火を懸(かけ)て同音(どうおん)に時の声を挙ぐ。四方(しはう)の寄手(よせて)是(これ)を聞(きき)、「すはや城中(じやうちゆう)に返忠(かへりちゆう)の者出来(いでき)て、火を懸(かけ)たるは。時の声を合(あは)せよや。」とて追手(おふて)搦手(からめて)七万余騎(よき)、声々(こゑごゑ)に時を合(あはせ)て喚(をめ)き叫ぶ。其(その)声天地を響(ひび)かして、如何なる須弥(しゆみ)の八万由旬(はちまんゆじゆん)なりとも崩(くづれ)ぬべくぞ聞へける。陶山(すやま)が五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、城(しろ)の案内(あんない)は只今委(くはし)く見置(みおき)たり。 此役所(ここのやくしよ)に火を懸(かけ)ては彼(かし)こに時の声をあげ、彼(かし)こに時を作(つくつ)ては此櫓(ここのやぐら)に火を懸(かけ)、四角(しかく)八方に走り廻(まはつ)て、其勢(そのせい)城中(じやうちゆう)に充満(みちみち)たる様(やう)に聞へければ、陣々堅(かた)めたる官軍共(くわんぐんども)、城内(しろのうち)に敵(てき)の大勢(おほぜい)攻入(せめいり)たりと心得て、物(もの)の具(ぐ)を脱捨(ぬぎすて)弓矢をかなぐり棄(すて)て、がけ堀とも不謂、倒(たふ)れ転(まろ)びてぞ落行(おちゆき)ける。錦織判官代(にしこりのはんぐわんだい)是(これ)を見て、「膩(きたな)き人々の振舞(ふるまひ)哉(かな)。十善(じふぜん)の君に被憑進(まゐら)せて、武家(ぶけ)を敵(てき)に受(うく)る程の者共(ものども)が、敵大勢(おほぜい)なればとて、戦(たたか)はで逃(にぐ)る様(やう)やある、いつの為に可惜命(いのち)ぞ。」とて、向ふ敵に走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)、大(おほ)はだぬぎに成(なつ)て戦ひけるが、矢種(やだね)を射尽(つく)し、太刀(たち)を打折(うちをり)ければ、父子(ふし)二人(ににん)並(ならびに)郎等十三人(じふさんにん)、各(おのおの)腹かき切(きつ)て同枕(おなじまくら)に伏(ふし)て死(しに)にけり。 |
|
■主上(しゆしやう)御没落笠置事
去程(さるほど)に類火(るゐくわ)東西(とうざい)より被吹て、余煙(よえん)皇居(くわうきよ)に懸(かか)りければ、主上を始進(はじめまゐら)せて、宮々(みやみや)・卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)、皆歩跣(かちはだし)なる体(てい)にて、何(いづ)くを指(さす)ともなく足に任(まかせ)て落行(おちゆき)給ふ。此(この)人々、始(はじめ)一二町(いちにちやう)が程こそ、主上を扶進(たすけまゐら)せて、前後(ぜんご)に御伴(おんとも)をも被申たりけれ。雨風烈(はげ)しく道闇(くらう)して、敵の時(とき)の声此彼(ここかしこ)に聞へければ、次第〔に〕別々(べちべち)に成(なつ)て、後(のち)には只藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)より外(ほか)は、主上の御手(おんて)を引進(ひきまゐら)する人もなし。悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の天子、玉体(ぎよくたい)を田夫野人(でんぷやじん)の形(かたち)に替(かへ)させ給(たまひ)て、そことも不知迷ひ出(いで)させ玉(たまひ)ける、御有様(おんありさま)こそ浅猿(あさまし)けれ。 如何(いか)にもして、夜(よ)の内(うち)に赤坂城(あかさかのしろ)へと御心(おんこころ)許(ばかり)を被尽けれども、仮(かり)にも未(いまだ)習はせ玉(たま)はぬ御歩行(ごほかう)なれば、夢路(ゆめぢ)をたどる御心地(おんここち)して、一足(ひとあし)には休み、二足(ふたあし)には立止(たちとどま)り、昼は道の傍(そば)なる青塚(おをつか)の陰(かげ)に御身(おんみ)を隠(かく)させ玉(たまひ)て、寒草(かんさう)の疎(おろそ)かなるを御座(ござ)の茵(しとね)とし、夜(よる)は人も通はぬ野原(のばら)の露に分迷(わけまよ)はせ玉(たまひ)て、羅穀(らこく)の御袖(おんそで)をほしあへず。兎角(とかう)して夜昼(よるひる)三日に、山城(やましろ)の多賀郡(たかのこほり)なる有王山(ありわうやま)の麓まで落(おち)させ玉(たまひ)てけり。藤房(ふぢふさ)も季房(すゑふさ)も、三日まで口中(くぢゆう)の食(じき)を断(たち)ければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に逢(あふ)とも逃(にげ)ぬべき心地(ここち)せざりければ、為(せ)ん方無(なう)て、幽谷(いうこく)の岩を枕にて、君臣兄弟(くんしんきやうだい)諸共(もろとも)に、うつゝの夢に伏(ふし)玉ふ。 梢(こずゑ)を払ふ松の風を、雨の降(ふる)かと聞食(きこしめし)て、木陰(きのかげ)に立寄(たちよら)せ玉(たまひ)たれば、下露(したつゆ)のはら/\と御袖(おんそで)に懸(かか)りけるを、主上被御覧て、さして行(ゆく)笠置(かさぎ)の山を出(いで)しよりあめが下(した)には隠家(かくれが)もなし藤房(ふぢふさの)卿(きやう)泪(なみだ)を押(おさ)へて、いかにせん憑(たの)む陰(かげ)とて立(たち)よれば猶(なほ)袖ぬらす松の下露山城(やましろの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、深須(みすの)入道・松井蔵人(くらんど)二人(ににん)は、此辺(このへん)の案内者(あんないしや)なりければ、山々(やまやま)峯々(みねみね)無残所捜(さが)しける間、皇居(くわうきよ)隠(かくれ)なく被尋出させ給ふ。主上誠(まこと)に怖(おそろ)しげなる御気色(おんけしき)にて、「汝等(なんぢら)心ある者ならば、天恩を戴(いただい)て私の栄花(えいぐわ)を期(ご)せよ。」と被仰ければ、さしもの深須(みすの)入道俄(にはか)に心変(へん)じて、哀(あはれ)此(この)君を隠奉(かくしたてまつつ)て、義兵(ぎへい)を揚(あげ)ばやと思(おもひ)けれども、迹(あと)につゞける松井が所存(しよぞん)難知かりける間、事(こと)の漏易(もれやす)くして、道の成難(なりがた)からん事を量(はかつ)て、黙止(もだし)けるこそうたてけれ。俄(にはか)の事にて網代輿(あじろのこし)だに無(なか)りければ、張輿(はりごし)の怪(あやし)げなるに扶乗進(たすけのせまゐら)せて、先(まづ)南都の内山(うちやま)へ入(いれ)奉る。 |
|
其体(そのてい)只殷湯(いんのたう)夏台(かだい)に囚(とらは)れ、越王(ゑつわう)会稽(くわいけい)に降(かう)せし昔の夢に不異。是(これ)を聞(きき)是を見る人ごとに、袖をぬらさずと云(いふ)事(こと)無(なか)りけり。此(この)時此彼(ここかしこ)にて、被生捕給(たまひ)ける人々には、先(まづ)一宮(いちのみや)中務卿親王(なかつかさのきやうしんわう)・第二(だいにの)宮妙法院(めうほふゐん)尊澄(そんちよう)法親王(ほふしんわう)・峰僧正(みねのそうじやう)春雅(しゆんが)・東南院僧正聖尋(しやうじん)・万里小路(までのこうぢ)大納言宣房(のぶふさ)・花山(くわざんの)院(ゐん)大納言師賢(もろかた)・按察(あぜち)大納言公敏(きんとし)・源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆき)・侍従(じじゆう)中納言公明(きんあきら)・別当左衛門督(べつたうさゑもんのかみ)実世(さねよ)・中納言藤房(ふぢふさ)・宰相(さいしやう)季房(すゑふさ)・平宰相(へいさいしやう)成輔(なりすけ)・左衛門(さゑもんの)督為明(ためあきら)・左中将(さちゆうじやう)行房(ゆきふさ)・左少将忠顕(ただあき)・源(みなもとの)少将能定(よしさだ)・四条(しでうの)少将隆兼(たかかぬ)・ 妙法院(めうほふゐんの)執事(しつじ)澄俊(ちようしゆん)法印、北面(ほくめん)・諸家(しよけの)侍共(さぶらひども)には、左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)氏信(うぢのぶ)・右兵衛(うひやうゑの)大夫(たいふ)有清(ありきよ)・対馬(つしまの)兵衛重定(しげさだ)・大夫将監(たいふしやうげん)兼秋(かねあき)・左近(さこんの)将監宗秋(むねあき)・雅楽(うた)兵衛尉(ひやうゑのじよう)則秋(のりあき)・大学助(だいがくのすけ)長明(ながあきら)・足助(あすけの)次郎重範(しげのり)・宮内丞(くないのじよう)能行(よしゆき)・大河原(おほかはら)源七左衛門(げんしちざゑもんの)尉(じよう)有重(ありしげ)、奈良(なら)法師に、俊増(しゆんぞう)・教密(けうみつ)・行海(ぎやうかい)・志賀良木(しがらきの)治部房(ぢぶばう)円実(ゑんじつ)・近藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)宗光(むねみつ)・国村(くにむら)三郎入道定法(ぢやうほふ)・源(げん)左衛門入道慈願(じぐわん)・奥(おくの)入道如円(じよゑん)・六郎兵衛入道浄円(じやうゑん)、山徒(さんと)には勝行房(しようぎやうばう)定快(ぢやうくわい)・習禅房(しふぜんばう)浄運(じやううん)・乗実房(じようじつばう)実尊(じつそん)、都合(つがふ)六十一人、其所従眷属共(そのしよじゆうけんぞくども)に至(いたる)までは計(かぞふ)るに不遑。 或(あるひ)は篭輿(かごこし)に被召、或(あるひは)伝馬(てんま)に被乗て、白昼(はくちう)に京都へ入(いり)給ひければ、其方様(そのかたさま)歟(か)と覚(おぼえ)たる男女(なんによ)街(ちまた)に立並(たちならび)て、人目(ひとめ)をも不憚泣(なき)悲む、浅増(あさまし)かりし分野(ありさま)也。十月二日六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)、常葉(ときは)駿河守(するがのかみ)範貞(のりさだ)、三千余騎(よき)にて路(みち)を警固仕(つかまつり)て、主上を宇治の平等院(びやうどうゐん)へ成し奉る。其日(そのひ)関東の両大将京(きやう)へは不入して、すぐに宇治へ参向(まゐりむかう)て、竜顔(りようがん)に謁(えつし)奉り、先(まづ)三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を渡し給(たまはつ)て、持明院新帝(ぢみやうゐんしんていへ)可進由を奏聞(そうもん)す。 |
|
主上藤房(ふぢふさ)を以て被仰出けるは、「三種(さんじゆの)神器は、自古継体君(けいたいのきみ)、位(くらゐ)を天に受(うけ)させ給ふ時、自(みづか)ら是(これ)を授(さづけ)る者也。四海(しかい)に威を振ふ逆臣(げきしん)有(あつ)て、暫(しばらく)天下を掌(たなごころ)に握る者ありと云共(いへども)、未(いまだ)此三種(このさんじゆ)の重器(ちようき)を、自(みづから)専(ほしいままに)して新帝(しんてい)に渡し奉る例を不聞。其(その)上内侍所(ないしどころ)をば、笠置(かさぎ)の本堂に捨置(すておき)奉りしかば、定(さだめ)て戦場の灰塵(くわいぢん)にこそ落(おち)させ給ひぬらめ。神璽(しいし)は山中(さんちゆう)に迷(まよひ)し時(とき)木(き)の枝(えだ)に懸置(かけおき)しかば、遂にはよも吾国(わがくに)の守(まもり)と成(なら)せ給はぬ事あらじ。宝剣(はうけん)は、武家の輩(ともがら)若(もし)天罰を顧(かへりみ)ずして、玉体(ぎよくたい)に近付(ちかづき)奉る事あらば、自(みづから)其刃(そのやいば)の上(うへ)に伏(ふ)させ給はんずる為に、暫(しばらく)も御身(おんみ)を放(はな)たる事あるまじき也。」と被仰ければ、東使両人(とうしりやうにん)も、六波羅(ろくはら)も言(こと)ば無(なく)して退出す。 翌日(よくじつ)竜駕(りようが)を廻(めぐら)して六波羅(ろくはら)へ成進(なしまゐ)らせんとしけるを、前々(さきざき)臨幸の儀式ならでは還幸(くわんかう)成(なる)まじき由を、強(しひ)て被仰出ける間、無力鳳輦(ほうれん)を用意(ようい)し、袞衣(こんい)を調進(てうしん)しける間(あひだ)、三日迄(まで)平等院(びやうどうゐん)に御逗留(ごとうりう)有(あつ)てぞ、六波羅(ろくはら)へは入給(いらせたまひ)ける。日来(ひごろ)の行幸(ぎやうがう)に事替(ことかはつ)て、鳳輦(ほうれん)は数万(すまん)の武士(ぶし)に被打囲、月卿雲客(げつけいうんかく)は怪(あやし)げなる篭(かご)・輿(こし)・伝馬(てんま)に被扶乗て、七条を東(ひんがし)へ河原(かはら)を上(のぼ)りに、六波羅(ろくはら)へと急(いそ)がせ給へば、見る人(ひと)涙(なみだ)を流し、聞人(きくひと)心を傷(いたま)しむ。悲(かなしい)乎(かな)昨日(きのふ)は紫宸北極(ししんほつきよく)の高(たかき)に坐(ざ)して、百司(ひやくし)礼儀(れいぎ)の妝(よそほひ)を刷(つくろ)ひしに、今は白屋(はくをく)東夷(とうい)の卑(いやし)きに下(くだ)らせ給(たまひ)て、万卒(ばんそつ)守禦(しゆぎよ)の密(きび)しきに御心(おんこころ)を被悩。時(とき)移(うつり)事(こと)去(さり)楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来(きた)る。 |
|
天上(てんじやう)の五衰(ごすゐ)人間(にんげん)の一炊(いつすゐ)、唯(ただ)夢かとのみぞ覚(おぼえ)たる。遠からぬ雲の上の御住居(おんすまゐ)、いつしか思食出(おぼしめしいだ)す御事(おんこと)多き時節(をりふし)、時雨(しぐれ)の音(おと)の一通(ひととほり)、軒端(のきば)の月に過(すぎ)けるを聞食(きこしめし)て、住狎(すみなれ)ぬ板屋(いたや)の軒の村時雨(むらしぐれ)音を聞(きく)にも袖はぬれけり四五日有(あり)て、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)より御琵琶(おんびは)を被進けるに、御文(おんふみ)あり。御覧(ごらん)ずれば、思(おもひ)やれ塵(ちり)のみつもる四(よつ)の絃(を)に払ひもあへずかゝる泪(なみだ)を引返(ひきかへ)して、御返事(おんかへりごと)有(あり)けるに、涙ゆへ半(なかば)の月(つき)は陰(かく)るとも共(とも)に見し夜(よ)の影(かげ)は忘れじ同(おなじき)八日両検断(りやうけんだん)、高橋刑部(ぎやうぶ)左衛門・糟谷(かすや)三郎宗秋(むねあき)、六波羅(ろくはら)に参(さんじ)て、今度(こんど)被生虜給(たまひ)し人々を一人(いちにん)づゝ大名(だいみやう)に被預。 一宮(いちのみや)中務卿(なかつかさのきやう)親王(しんわう)をば佐々木(ささきの)判官(はんぐわん)時信(ときのぶ)、妙法院(めうほうゐん)二品(にほん)親王(しんわう)をば長井左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)高広(たかひろ)、源中納言(げんぢゆうなごん)具行(ともゆき)をば筑後前司(ちくごのぜんじ)貞知(さだとも)、東南院(とうなんゐん)僧正をば常陸(ひたちの)前司時朝(ときとも)、万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)・六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)二人(ににん)をば、主上に近侍(きんじ)し奉るべしとて、放召人(はなちめしうど)の如くにて六波羅(ろくはら)にぞ留(と)め置(おか)れける。同(おなじき)九日三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を、持明院(ぢみやうゐん)の新帝(しんてい)の御方(おんかた)へ被渡。堀河(ほりかは)大納言具親(ともちか)・日野(ひのの)中納言資名(すけな)、是(これ)を請取(うけとり)て長講堂(ちやうがうだう)へ送(おくり)奉る。 其御警固(そのおんけいご)には長井弾正蔵人(だんじやうくらんど)・水谷(みづたに)兵衛蔵人・但馬民部大夫(たじまみんぶのたいふ)・佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官清高(きよたか)をぞ被置ける。同(おなじき)十三日に、新帝(しんてい)登極(とうきよく)の由にて、長講堂より内裏(だいり)へ入(いら)せ給ふ。供奉(ぐぶ)の諸卿、花(はな)を折(をつ)て行妝(かうさう)を引刷(ひきつくろ)ひ、随兵(ずゐびやう)の武士(ぶし)、甲冑(かつちう)を帯(たい)して非常を誡(いまし)む。いつしか前帝(ぜんてい)奉公の方様(かたさま)には、咎(とが)有(ある)も咎無(なき)も、如何なる憂目(うきめ)をか見んずらんと、事に触(ふれ)て身を危(あやぶ)み心を砕(くだ)けば、当今拝趨(たうぎんはいすう)の人々は、有忠も無忠も、今に栄花(えいぐわ)を開(ひら)きぬと、目を悦(よろこ)ばしめ耳をこやす。子(み)結(むすん)で陰(かげ)を成し、花(はな)落(おち)て枝(えだ)を辞(じ)す。窮達(きゆうたつ)時を替(かへ)栄辱(えいじよく)道を分つ。今に始めぬ憂世(うきよ)なれども、殊更(ことさら)夢と幻(うつつ)とを分兼(わけかね)たりしは此時(このとき)也。 |
|
■赤坂城(あかさかのしろ)軍(いくさの)事(こと)
遥々(はるばる)と東国(とうごく)より上(のぼ)りたる大勢共(おほぜいども)、未(いまだ)近江国(あふみのくに)へも入(いら)ざる前(さき)に、笠置(かさぎ)の城(しろ)已(すで)に落(おち)ければ、無念(むねん)の事に思(おもう)て、一人(いちにん)も京都へは不入。或(あるひ)は伊賀・伊勢の山を経(へ)、或(あるひ)は宇治(うぢ)・醍醐(だいご)の道を要(よこぎつ)て、楠(くすのき)兵衛(ひようゑ)正成(まさしげ)が楯篭(たてこもり)たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原(いしかはかはら)を打過(うちすぎ)、城の有様(ありさま)を見遣(みや)れば、俄(にはか)に誘(こしら)へたりと覚(おぼえ)てはか/゛\しく堀をもほらず、僅(わづか)に屏(へい)一重(ひとへ)塗(ぬつ)て、方(はう)一二町(いちにちやう)には過(すぎ)じと覚(おぼえ)たる其内(そのうち)に、櫓(やぐら)二三十が程掻双(かきなら)べたり。 是(これ)を見(み)る人毎(ひとごと)に、あな哀(あはれ)の敵(てき)の有様(ありさま)や、此城(このしろ)我等(われら)が片手に載(のせ)て、投(なぐ)るとも投(なげ)つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名(ぶんどりかうみやう)して恩賞に預(あづか)らんと、思はぬ者こそ無(なか)りけれ。されば寄手(よせて)三十万騎(さんじふまんぎ)の勢共(せいども)、打寄(うちよ)ると均(ひとし)く、馬(むま)を蹈放々々(ふみはなちふみはなち)、堀の中(なか)に飛入(とびいり)、櫓(やぐら)の下(した)に立双(たちならん)で、我前(われさき)に打入(うちいら)んとぞ諍(あらそ)ひける。正成は元来(もとより)策(はかりごと)を帷幄(ゐあく)の中(うち)に運(めぐら)し、勝事(かつこと)を千里の外(ほか)に決せんと、陳平(ちんべい)・張良(ちやうりやう)が肺肝(はいかん)の間(あひだ)より流出(るしゆつ)せるが如(ごとき)の者なりければ、究竟(くつきやう)の射手(いて)を二百余人(よにん)城中(じやうちゆう)に篭(こめ)て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠(まさとほ)とに、三百(さんびやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、よその山にぞ置(おき)たりける。 寄手(よせて)は是(これ)を思(おもひ)もよらず、心を一片(いつぺん)に取(とり)て、只一揉(ひともみ)に揉落(もみおと)さんと、同時(どうじ)に皆四方(しはう)の切岸(きりぎし)の下(した)に着(つい)たりける処を、櫓(やぐら)の上、さまの陰(かげ)より、指(さし)つめ引(ひき)つめ、鏃(やじり)を支(ささへ)て射ける間、時の程に死人手負(しにんておひ)千余人(よにん)に及べり。東国の勢共(せいども)案(あん)に相違して、「いや/\此城(このしろ)の為体(ていたらく)、一日二日には落(おつ)まじかりけるぞ、暫(しばらく)陣々を取(とつ)て役所(やくしよ)を構(かま)へ、手分(てわけ)をして合戦を致せ。」とて攻口(せめぐち)を少し引退(ひきしりぞ)き、馬(むま)の鞍(くら)を下(おろ)し、物(もの)の具(ぐ)を脱(ぬい)で、皆帷幕(ゐばく)の中(うち)にぞ休居(やすみゐ)たりける。楠(くすのき)七郎・和田五郎、遥(はるか)の山より直下(みおろ)して、時刻(じこく)よしと思(おもひ)ければ、三百(さんびやく)余騎(よき)を二手(ふたて)に分け、東西(とうざい)の山の木陰(こかげ)より、菊水(きくすゐ)の旗二流(ふたながれ)松の嵐に吹靡(ふきなび)かせ、閑(しづか)に馬(むま)を歩(あゆ)ませ、煙嵐(えんらん)を捲(まい)て押寄(おしよせ)たり。 |
|
東国の勢(せい)是(これ)を見て、敵(てき)か御方(みかた)かとためらひ怪(あやし)む処に、三百(さんびやく)余騎(よき)の勢共(せいども)、両方(りやうばう)より時(とき)を咄(どつ)と作(つくつ)て、雲霞(うんか)の如くに靉(たなび)ひたる三十万騎(さんじふまんぎ)が中(なか)へ、魚鱗懸(ぎよりんがかり)に懸入(かけいり)、東西南北へ破(はつ)て通り、四方(しはう)八面(はちめん)を切(きつ)て廻(まは)るに、寄手(よせて)の大勢(おほぜい)あきれて陣を成(なし)かねたり。城中(じやうちゆう)より三(みつ)の木戸(きど)を同時(どうじ)に颯(さつ)と排(ひらい)て、二百余騎(よき)鋒(きつさき)を双(ならべ)て打(うつ)て出(いで)、手崎(てさき)をまわして散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)さしもの大勢(おほぜい)なれども僅(わづか)の敵に驚騒(おどろきさわい)で、或(あるひ)は維(つな)げる馬に乗(のつ)てあをれども進まず。 或(あるひ)は弛(はづ)せる弓に矢をはげて射(い)んとすれども不被射。物具(もののぐ)一領(りやう)に二三人(にさんにん)取付(とりつき)、「我がよ人のよ。」と引遇(ひきあひ)ける其間(そのあひだ)に、主(しゆ)被打ども従者(じゆうさ)は不知、親被打共子も不助、蜘(くも)の子(こ)を散(ちら)すが如く、石川々原(いしかはかはら)へ引退(ひきしりぞ)く。其(その)道五十町が間(あひだ)、馬(むま)・物具(もののぐ)を捨(すて)たる事足の踏所(ふみどころ)もなかりければ、東条一郡(とうでういちぐん)の者共(ものども)は、俄(にはか)に徳(とく)付(つい)てぞ見(みえ)たりける。指(さし)もの東国勢(とうごくぜい)思(おもひ)の外(ほか)にし損(そん)じて、初度(しよど)の合戦(かつせん)に負(まけ)ければ、楠が武畧(ぶりやく)侮(あなど)りにくしとや思(おもひ)けん。吐田(はんだ)・楢原辺(ならばらへん)に各(おのおの)打寄(うちよせ)たれども、軈(やが)て又推寄(おしよせ)んとは不擬。此(ここ)に暫(しばらく)引(ひか)へて、畿内(きない)の案内者(あんないしや)を先(さき)に立(たて)て、後攻(ごづめ)のなき様(やう)に山を苅廻(かりまはり)、家を焼払(やきはらう)て、心易(やす)く城(しろ)を責(せむ)べきなんど評定(ひやうぢやう)ありけるを、本間(ほんま)・渋谷(しぶや)の者共(ものども)の中(なか)に、親被打子被討たる者多かりければ、「命(いのち)生(いき)ては何(なに)かせん、よしや我等が勢許(せいばかり)なりとも、馳向(はせむかう)て打死(うちじに)せん。」と、憤(いきどほ)りける間、諸人(しよにん)皆是(これ)に被励て、我(われ)も我(われ)もと馳向(はせむかひ)けり。 彼(かの)赤坂の城(しろ)と申(まうす)は、東(ひがし)一方(いつぱう)こそ山田(やまだ)の畔(くろ)重々(ぢゆうぢゆう)に高(たかく)して、少し難所(なんじよ)の様(やう)なれ、三方(さんぱう)は皆平地(ひらち)に続(つづ)きたるを、堀一重(ひとへ)に屏(へい)一重塗(ぬつ)たれば、如何なる鬼神(きじん)が篭りたり共(とも)、何程(なにほど)の事か可有と寄手(よせて)皆是(これ)を侮(あなど)り、又寄(よす)ると均(ひとし)く、堀の中(なか)、切岸(きりぎし)の下(した)まで攻付(せめつい)て、逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて打(うつ)て入(いら)んとしけれども、城中(じやうちゆう)には音(おと)もせず、是(これ)は如何様(いかさま)昨日(きのふ)の如く、手負(ておひ)を多く射出(いいだし)て漂(ただよ)ふ処へ、後攻(ごづめ)の勢(せい)を出(いだ)して、揉合(もみあは)せんずるよと心得て、寄手(よせて)十万余騎(よき)を分(わけ)て、後(うしろ)の山へ指向(さしむけ)て、残る二十万騎(にじふまんぎ)稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如く城を取巻(とりまい)てぞ責(せめ)たりける。 |
|
卦(かかり)けれども城(しろ)の中(うち)よりは、矢の一筋をも不射出更(さらに)人有(あり)とも見へざりければ、寄手(よせて)弥(いよいよ)気に乗(のつ)て、四方(しはう)の屏(へい)に手を懸(かけ)、同時(どうじ)に上越(のぼりこえ)んとしける処を、本(もと)より屏(へい)を二重(ふたへ)に塗(ぬつ)て、外(そと)の屏をば切(きつ)て落す様(やう)に拵(こしらへ)たりければ、城(しろ)の中(うち)より、四方(しはう)の屏(へい)の鈎縄(つりなは)を一度(いちど)に切(きつ)て落したりける間、屏に取付(とりつき)たる寄手(よせて)千余人(よにん)、厭(おし)に被打たる様(やう)にて、目許(めばかり)はたらく処を、大木(たいぼく)・大石(たいせき)を抛懸々々(なげかけなげかけ)打(うち)ける間、寄手(よせて)又今日(けふ)の軍(いくさ)にも七百余人(よにん)被討けり。 東国の勢共(せいども)、両日(りやうじつ)の合戦に手(て)ごりをして、今は城(しろ)を攻(せめ)んとする者一人(いちにん)もなし。只其近辺(そのきんぺん)に陣々を取(とつ)て、遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。四五日が程は加様(かやう)にて有(あり)けるが、余(あまり)に暗然(あんぜん)として守り居たるも云甲斐(いひがひ)なし。方(はう)四町(しちやう)にだに足(たら)ぬ平城(ひらじやう)に、敵(てき)四五百人篭(こもり)たるを、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢共(せいども)が責(せめ)かねて、遠責(とほぜめ)したる事の浅猿(あさまし)さよなんど、後(のち)までも人に被笑事こそ口惜(くちをし)けれ。前々(さきざき)は早(はや)りのまゝ楯をも不衝、責具足(せめぐそく)をも支度(したく)せで責(せむ)ればこそ、そゞろに人をば損じつれ。今度(このたび)は質(てだ)てを替(かへ)て可責とて、面々(めんめん)に持楯(もちたて)をはがせ、其面(そのおもて)にいため皮(がは)を当(あて)て、輒(たやす)く被打破ぬ様(やう)に拵(こしらへ)て、かづきつれてぞ責(せめ)たりける。 切岸(きりぎし)の高さ堀(ほり)の深さ幾程(いくほど)もなければ、走懸(はしりかかつ)て屏(へい)に着(つか)ん事は、最(いと)安(やす)く覚(おぼえ)けれ共、是(これ)も又釣屏(つりべい)にてやあらんと危(あやぶ)みて無左右屏には不着、皆堀の中(なか)にをり漬(ひたつ)て、熊手(くまで)を懸(かけ)て屏を引(ひき)ける間、既(すで)に被引破ぬべう見へける処に、城(しろ)の内(うち)より柄(え)の一二丈長き杓(ひしやく)に、熱湯(ねつたう)の湧翻(わきかへ)りたるを酌(くん)で懸(かけ)たりける間、甲(かぶと)の天返(てへん)綿噛(わたがみ)のはづれより、熱湯(あつきゆ)身に徹(とほつ)て焼爛(やけただれ)ければ、寄手(よせて)こらへかねて、楯も熊手(くまで)も打捨(すて)て、ばつと引(ひき)ける見苦しさ、矢庭(やには)に死(しす)るまでこそ無(なけ)れども、或(あるひ)は手足(てあし)を被焼て立(たち)も不揚、或(あるひ)は五体(ごたい)を損(そん)じて病(や)み臥(ふ)す者、二三百人(にさんびやくにん)に及べり。寄手(よせて)質(てだて)を替(かへ)て責(せむ)れば、城(しろ)の中(うち)工(たくみ)を替(かへ)て防ぎける間、今は兔(と)も角(かく)も可為様(やう)なくして、只食責(じぎぜめ)にすべしとぞ被議ける。 |
|
かゝりし後(のち)は混(ひたす)ら軍(いくさ)をやめて、己(おのれ)が陣々に櫓(やぐら)をかき、逆木(さかもぎ)を引(ひい)て遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。是(これ)にこそ中々(なかなか)城中(じやうちゆう)の兵(つはもの)は、慰(なぐさむ)方もなく機(き)も疲れぬる心地しけれ。楠此城(このしろ)を構(かま)へたる事暫時(ざんじ)の事なりければ、はか/゛\しく兵粮(ひやうろう)なんど用意(ようい)もせざれば、合戦始(はじまつ)て城を被囲たる事(こと)、僅(わづか)に二十日(はつか)余(あま)りに、城中(じやうちゆう)兵粮尽(つき)て、今四五日の食(かて)を残せり。懸(かかり)ければ、正成(まさしげ)諸卒(しよそつ)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「此間(このあひだ)数箇度(すかど)の合戦に打勝(かつ)て、敵を亡(ほろぼ)す事数を不知といへども、敵大勢(おほぜい)なれば敢(あへ)て物(もの)の数ともせず、城中既(すでに)食(かて)尽(つき)て助(たすけ)の兵(つはもの)なし。 元来(もとより)天下(てんか)の士卒(じそつ)に先立(さきだつ)て、草創(さうさう)の功(こう)を志(こころざし)とする上は、節(せつ)に当り義に臨(のぞん)では、命(いのち)を可惜に非(あら)ず。雖然事(こと)に臨(のぞん)で恐れ、謀(はかりごと)を好(このん)で成すは勇士(ゆうし)のする所(ところ)也。されば暫(しばらく)此城(このしろ)を落(おち)て、正成自害(じがい)したる体(てい)を敵に知(しら)せんと思ふ也。其故(そのゆゑ)は正成自害(じがい)したりと見及(みおよ)ばゞ、東国勢(とうごくぜい)定(さだめ)て悦(よろこび)を成(なし)て可下向。下(くだ)らば正成打(うつ)て出(いで)、又上(のぼ)らば深山(みやま)に引入(ひきいり)、四五度が程東国勢を悩(なやま)したらんに、などか退屈(たいくつ)せざらん。是(これ)身を全(まつたう)して敵を亡(ほろぼ)す計畧也。面々(めんめん)如何(いかん)計(はから)ひ給(たまふ)。」と云(いひ)ければ、諸人(しよにん)皆、「可然。」とぞ同(どう)じける。 「さらば。」とて城中(じやうちゆう)に大(おほき)なる穴を二丈許(ばかり)掘(ほり)て、此間(このあひだ)堀の中(なか)に多く討(うた)れて臥(ふし)たる死人(しびと)を二三十人穴の中(なか)に取入(とりいれ)て、其(その)上に炭(すみ)・薪(たきぎ)を積(つん)で雨風(あめかぜ)の吹洒(ふきそそ)ぐ夜(よ)をぞ待(まち)たりける。正成が運や天命に叶(かなひ)けん、吹(ふく)風俄(にはか)に沙(いさご)を挙(あげ)て降(ふる)雨更に篠(しの)を衝(つく)が如し。夜色(やしよく)窈溟(えうめい)として氈城(せんぜい)皆帷幕(ゐばく)を低(た)る。是(これ)ぞ待所(まつところ)の夜(よ)なりければ、城中(じやうちゆう)に人を一人残し留(とどめ)て、「我等落延(おちのび)ん事四五町にも成(なり)ぬらんと思はんずる時、城(しろ)に火を懸(かけ)よ。」と云置(いひおい)て、皆物(もの)の具(ぐ)を脱ぎ、寄手(よせて)に紛(まぎれ)て五人三人(さんにん)別々(べちべち)になり、敵(てき)の役所(やくしよ)の前(まへ)軍勢の枕の上(うへ)を越(こえ)て閑々(しづしづ)と落(おち)けり。正成長崎が厩(むまや)の前(まへ)を通りける時、敵是(これ)を見つけて、「何者なれば御(おん)役所の前を、案内も申さで忍(しのび)やかに通るぞ。」と咎(とが)めれけば、正成、「是(これ)は大将の御内(みうち)の者にて候が、道を踏違(ふみたが)へて候ひける。」と云捨(いひすて)て、足早(あしばや)にぞ通りける。 |
|
咎めつる者、「さればこそ怪(あやし)き者なれ、如何様(いかさま)馬盜人(むまぬすびと)と覚(おぼゆ)るぞ。只射殺(いころ)せ。」とて、近々(ちかぢか)と走寄(はしりよつ)て真直中(まつただなか)をぞ射たりける。其(その)矢正成が臂(ひぢ)の懸(かか)りに答(こたへ)て、したゝかに立(たち)ぬと覚へけるが、す膚(はだ)なる身に少(すこし)も不立して、筈(はず)を返して飛翻(とびかへ)る。後(のち)に其矢(そのや)の痕(あと)を見れば、正成が年来(としごろ)信じて奉読観音経(くわんおんきやう)を入(いれ)たりける膚(はだ)の守(まもり)に矢当(あたつ)て、一心称名(いつしんしようみやう)の二句の偈(げ)に、矢崎(やさき)留(とどま)りけるこそ不思議なれ。正成必死(ひつし)の鏃(やじり)に死を遁(のが)れ、二十余町落延(おちのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)ければ、約束に不違、早城(はやしろ)の役所共(ども)に火を懸(かけ)たり。寄手(よせて)の軍勢火に驚(おどろい)て、「すはや城(しろ)は落(おち)けるぞ。」とて勝時(かつどき)を作(つくつ)て、「あますな漏(もら)すな。」と騒動(さうどう)す。焼静(やけしづ)まりて後(のち)城中(じやうちゆう)をみれば、大(おほき)なる穴の中(なか)に炭を積(つん)で、焼死(やけしし)たる死骸(しがい)多し。皆是(これ)を見て、「あな哀(あはれ)や、正成はや自害(じがい)をしてけり。敵(てき)ながらも弓矢(ゆみや)取(とつ)て尋常に死(しし)たる者哉(かな)。」と誉(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。 | |
■桜山(さくらやま)自害(じがいの)事(こと)
去程(さるほど)に桜山(さくらやま)四郎入道(にふだう)は、備後国(びんごのくに)半国許(はんこくばかり)打順(うちしたが)へて、備中(びつちゆう)へや越(こえ)まし、安芸(あき)をや退治(たいぢ)せましと案じける処に、笠置城(かさぎのしろ)も落(おち)させ給ひ、楠(くすのき)も自害したりと聞へければ、一旦(いつたん)の付勢(つきぜい)は皆落失(おちうせ)ぬ。今は身を離(はなれ)ぬ一族、年来(としごろ)の若党(わかたう)二十余人(にじふよにん)ぞ残りける。此比(このごろ)こそあれ、其昔(そのむかし)は武家(ぶけ)権(けん)を執(とつ)て、四海(しかい)九州の内(うち)尺地(せきち)も不残ければ、親(したし)き者も隠し得(え)ず、疎(うとき)はまして不被憑、人手(ひとで)に懸(かか)りて尸(かばね)を曝(さら)さんよりはとて、当国(たうごく)の一宮(いちのみや)へ参り、八歳(はつさい)に成(なり)ける最愛(さいあい)の子と、二十七に成(なり)ける年来(としごろ)の女房とを刺殺(さしころし)て、社壇(しやだん)に火をかけ、己(おのれ)が身も腹掻切(かききつ)て、一族(いちぞく)若党(わかたう)二十三人(にじふさんにん)皆(みな)灰燼(ぐわいじん)と成(なつ)て失(うせ)にけり。 抑(そもそも)所(ところ)こそ多かるに、態(わざと)社壇に火を懸(かけ)焼死(やけしし)ける桜山が所存(しよぞん)を如何(いか)にと尋(たづぬ)るに、此(この)入道当社(たうしや)に首(かうべ)を傾(かたぶけ)て、年(とし)久(ひさし)かりけるが、社頭(しやとう)の余(あま)りに破損(はそん)したる事を歎(なげき)て、造営し奉(たてまつ)らんと云(いふ)大願(たいぐわん)を発(おこ)しけるが、事(こと)大営(たいえい)なれば、志(こころざし)のみ有(あり)て力(ちから)なし。今度(こんど)の謀叛(むほん)に与力(よりき)しけるも、専(もつぱら)此大願(このたいぐわん)を遂(とげ)んが為なりけり。されども神(しんは)非礼(ひれい)を享(うけ)給はざりけるにや、所願(しよぐわん)空(むなしく)して打死(うちじに)せんとしけるが、我等此社(このやしろ)を焼払(やきはらひ)たらば、公家(くげ)武家共(とも)に止(や)む事(こと)を不得して如何様(いかさま)造営の沙汰可有。其(その)身は縦(たと)ひ奈落(ならく)の底に堕在(だざい)すとも、此願(このぐわん)をだに成就(じやうじゆ)しなば悲(かなし)むべきに非(あら)ずと、勇猛(ゆうまう)の心を発(おこし)て、社頭(しやとう)にては焼死(やけしし)にける也。倩(つらつら)垂迹和光(すゐじやくわくわう)の悲願(ひぐわん)を思へば、順逆(じゆんぎやく)の二縁(にえん)、何(いづ)れも済度利生(さいどりしやう)の方便(はうべん)なれば、今生(こんじやう)の逆罪(ぎやくざい)を翻(ひるがへ)して当来(たうらい)の値遇(ちぐう)とや成らんと、是(これ)もたのみは不浅ぞ覚へける。 |
■太平記 巻第四 | |
■笠置(かさぎの)囚人(とらはれびと)死罪(しざい)流刑(るけいの)事(こと)付藤房(ふぢふさ)卿(きやうの)事(こと)
笠置(かさぎの)城(しろ)被攻落刻、被召捕給(たまひ)し人々(ひとびと)の事(こと)、去年(きよねん)は歳末(さいまつ)の計会(けいくわい)に依(よつ)て、暫く被閣ぬ。新玉(あらたま)の年(とし)立回(たちかへぬ)れば、公家(くげ)の朝拝(てうはい)武家(ぶけ)の沙汰(さた)始(はじま)りて後(のち)、東使(とうし)工藤(くどう)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)信濃(しなのの)入道行珍(ぎやうちん)二人(ににん)上洛(しやうらく)して、可行死罪人々、可処流刑国々、関東(くわんとう)評定(ひやうぢやう)の趣(おもむき)、六波羅(ろくはら)にして被定。山門(さんもん)・南都(なんと)の諸門跡(しよもんぜき)、月卿(げつけい)・雲客(うんかく)・諸衛(しよゑ)の司等(つかさとう)に至(いたる)迄、依罪軽重、禁獄(きんごく)流罪(るざい)に処(しよ)すれ共(ども)、足助(あすけの)次郎重範(しげのり)をば六条河原(ろくでうかはら)に引出(ひきいだ)し、首(くび)を可刎と被定。万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさきやう)は、子息(しそく)藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)の罪科(ざいくわ)に依(よつ)て、武家に被召捕、是(これ)も如召人にてぞ座(おは)しける。 齢(よはひ)已(すで)に七旬(しちじゆん)に傾(かたぶい)て、万乗(ばんじよう)の聖主は遠嶋(ゑんたう)に被遷させ給ふべしと聞ゆ。二人(ににん)の賢息(けんそく)は、死罪にぞ行はれんずらんと覚へて、我身(わがみ)さへ又楚(そ)の囚人(とらはれびと)と成(なり)給へば、只今まで命(いのち)存(ながらへ)て、浩(かか)る憂(うき)事(こと)をのみ見聞(みきく)事(こと)の悲しければと、一方(ひとかた)ならぬ思ひに、一首(いつしゆ)の歌をぞ被詠ける。長かれと何(なに)思ひけん世中(よのなか)の憂(うき)を見するは命(いのち)なりけり罪科(ざいくわ)有(ある)もあらざるも、先朝拝趨(せんてうはいすう)の月卿・雲客、或(あるひ)は被停出仕、尋桃源迹、或被解官職、懐首陽愁、運の通塞(つうそく)、時の否泰(ひたい)、為夢為幻、時(とき)遷(うつ)り事去(さつ)て哀楽(あいらく)互に相替(あひかは)る。憂(うき)を習(ならひ)の世の中(なか)に、楽(たのし)んでも何かせん、歎(なげい)ても由無(よしなか)るべし。 源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆきの)卿(きやう)をば、佐々木(ささきの)佐渡判官(さどのはんぐわん)入道道誉(だうよ)、路次(ろし)を警固仕(つかまつり)て鎌倉(かまくら)へ下(くだ)し奉る。道にて可被失由(よし)、兼(かね)て告申(つげまうす)人や有(あり)けん、会坂(あふさか)の関(せき)を越(こえ)給ふとて、帰るべき時しなければ是(これ)や此(この)行(ゆく)を限りの会坂の関勢多(せた)の橋(はし)を渡るとて、けふのみと思(おもふ)我身(わがみ)の夢の世を渡る物(もの)かはせたの長橋(ながはし)此卿(このきやう)をば道にて可奉失と、兼(かね)て定(さだめ)し事なれば、近江(あふみ)の柏原(かしはばら)にて切(きり)奉るべき由(よし)、探使(たんし)襲来(しふらい)していらでければ、道誉、中納言殿(どの)の御前(おんまへ)に参り、「何(いか)なる先世(ぜんせ)の宿習(しゆくしふ)によりてか、多(おほく)の人の中(なか)に入道預進(あづかりまゐら)せて、今更(いまさら)加様(かやう)に申(まうし)候へば、且(かつう)は情(なさけ)を不知に相似(あひに)て候へ共(ども)、卦(かか)る身には無力次第にて候。 |
|
今までは随分(ずゐぶん)天下(てんか)の赦(ゆるし)を待(まち)て、日数(ひかず)を過(すご)し候(さふらひ)つれ共(ども)、関東(くわんとう)より可失進由(よし)、堅く被仰候へば、何事(なにこと)も先世(ぜんせ)のなす所と、思召慰(おぼしめしなぐさ)ませ給(たまひ)候へ。」と申(まうし)もあへず袖を顔に押当(おしあて)しかば、中納言殿(どの)も不覚(ふかく)の泪(なみだ)すゝみけるを、推拭(おしのご)はせ給ひて、「誠(まこと)に其(その)事(こと)に候。此間(このあひだ)の儀をば後世(ごせ)までも難忘こそ候へ。命(いのち)の際(きは)の事は、万乗の君(きみ)既(すで)に外土遠嶋(ぐわいどゑんたう)に御遷幸(ごせんかう)の由聞へ候上(うへ)は、其以下(そのいげ)の事どもは、中々(なかなか)不及力。殊更此(この)程の情(なさけ)の色、誠(まことに)存命(ぞんめい)すとも難謝こそ候へ。」と計(ばかり)にて、其後(そののち)は言(もの)をも被仰ず、硯(すずり)と紙とを取寄(とりよせ)て、御文(おんふみ)細々(こまごま)とあそばして、「便(たより)に付(つけ)て相知(あひし)れる方(かた)へ、遣(やり)て給はれ。」とぞ被仰ける。 角(かく)て日(ひ)已(すで)に暮(くれ)ければ、御輿(おんこし)指寄(さしよせ)て乗(の)せ奉り、海道(かいだう)より西なる山際(やまぎは)に、松の一村(ひとむら)ある下(もと)に、御輿(おんこし)を舁居(かきすゑ)たれば、敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほら)せ給ひて、又硯を取寄せ、閑々(しづしづ)と辞世(じせい)の頌(じゆ)をぞ被書ける。逍遥生死。四十二年。山河一革。天地洞然。六月十九日某(それがし)と書(かい)て、筆を抛(なげうつ)て手を叉(あざへ)、座(ざ)をなをし給ふとぞ見へし。田児(たごの)六郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、後(うしろ)へ廻(まは)るかと思へば、御首(くび)は前にぞ落(おち)にける。哀(あはれ)と云(いふ)も疎(おろか)なり。入道泣々(なくなく)其遺骸(そのゆゐがい)を煙(けぶり)となし、様々(さまざま)の作善(さぜん)を致してぞ菩提(ぼだい)を奉祈ける。 糸惜(いとをしき)哉(かな)、此卿(このきやう)は先帝(せんてい)帥宮(そつのみや)と申(まうし)奉りし比(ころ)より近侍(きんじ)して、朝夕(てうせきの)拝礼(はいれい)不怠、昼夜(ちうや)の勤厚(きんこう)異于他。されば次第に昇進(しようじん)も不滞、君(きみ)の恩寵(おんちよう)も深かりき。今かく失給(うせたまひ)ぬと叡聞(えいぶん)に達せば、いかばかり哀(あはれ)にも思食(おぼしめさ)れんずらんと覚へたり。同(おなじき)二十一日殿法印(とののほふいん)良忠(りやうちゆう)をば大炊御門油小路(おほゐのみかどあぶらのこうぢ)の篝(かがり)、小串(こぐし)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)秀信(ひでのぶ)召捕(めしとり)て六波羅(ろくはら)へ出(いだ)したりしかば、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、斉藤十郎兵衛を使にて被申けるは、「此比(このごろ)一天(いつてん)の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛(ごむほん)を、御身(おんみ)なんど思立(おもひたち)給はん事(こと)、且(かつう)は無止、且(かつう)は楚忽(そこつ)にこそ覚(おぼえ)て候へ。 |
|
先帝(せんていを)奪ひ進(まゐら)せん為に、当所(たうしよ)の絵図(ゑづ)なんどまで持廻(もちまは)られ候(さふらひ)ける条、武敵(ぶてき)の至(いた)り重科(ぢゆうくわ)無双、隠謀の企(くはだて)罪責(ざいせき)有余。計(はかりごと)の次第一々に被述候へ。具(つぶさ)に関東(くわんとう)へ可注進。」とぞ宣(のたまひ)ける。法印(ほふいん)返事(へんじ)せられけるは、「普天(ふてん)の下(した)無非王土、率土(そつとの)人無非王民。誰か先帝の宸襟(しんきん)を歎き奉らざらん。人たる者是(これ)を喜(よろこぶ)べきや。叡慮(えいりよ)に代(かはつ)て玉体を奪(うばひ)奉らんと企(くはだつる)事(こと)、なじかは可無止。為誅無道、隠謀を企(くはだつる)事(こと)更(さら)に非楚忽儀。始(はじめ)より叡慮の趣を存知(ぞんぢし)、笠置(かさぎ)の皇居(くわうきよ)へ参内(さんだい)せし条無子細。而(しか)るを白地(あからさま)に出京(しゆつきやう)の蹤(あと)に、城郭無固、官軍(くわんぐん)敗北(はいぼく)の間(あひだ)、無力本意を失へり。 其間(そのあひだ)に具行卿(ともゆききやう)相談して、綸旨(りんし)を申下(まうしくだし)、諸国の兵(つはもの)に賦(くばり)し条勿論(もちろん)なり。有程(あるほど)の事は此等(これら)なり。」とぞ返答せられける。依之(これによつて)六波羅(ろくはら)の評定(ひやうぢやう)様々(さまざま)なりけるを、二階堂(にかいだう)信濃(しなのの)入道進(すすん)で申(まうし)けるは、「彼罪責(かのざいせき)勿論の上(うへ)は、無是非可被誅けれども、与党(よたう)の人なんど尚尋(たづね)沙汰有(あつ)て重(かさね)て関東(くわんとう)へ可被申かとこそ存(ぞんじ)候へ。」と申(まうし)ければ、長井右馬助(ながゐうまのすけ)、「此義(このぎ)尤(もつとも)可然候。是(これ)程の大事(だいじ)をば関東(くわんとう)へ被申てこそ。」と申(まうし)ければ、面々(めんめん)の意見一同(いちどう)せしかば、法印(ほふいん)をば五条京極(きやうごく)の篝(かがり)、加賀(かがの)前司(ぜんじ)に預(あづけ)られて禁篭(きんろう)し、重(かさね)て関東(くわんとう)へぞ被注進ける。平宰相(へいさいしやう)成輔(なりすけ)をば、河越(かはごえ)参河(みかはの)入道円重(ゑんぢゆう)具足(ぐそく)し奉(たてまつり)て、是(これ)も鎌倉(かまくら)へと聞へしが、鎌倉(かまくら)迄も下(くだ)し着(つけ)奉らで相摸(さがみ)の早河尻(はやかはじり)にて奉失。 |
|
侍従(じじゆう)中納言公明(きんあきらの)卿(きやう)・別当(べつたう)実世(さねよ)卿(きやう)二人(ににん)をば、赦免(しやめん)の由(よし)にて有(あり)しかども、猶も心ゆるしや無(なか)りけん、波多野(はだの)上野介(かうづけのかみ)宣通(のぶみち)・佐々木(ささきの)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)に被預て、猶(なほ)も本(もと)の宿所(しゆくしよ)へは不帰給。尹(ゐんの)大納言師賢(もろかたの)卿(きやう)をば下総(しもつさの)国(くに)へ流して、千葉介(ちばのすけ)に被預。此人(このひと)志学(しがく)の年(とし)の昔より、和漢の才(さい)を事として、栄辱(えいじよく)の中(うち)に心を止(と)め不給しかば、今遠流(をんる)の刑に逢へる事(こと)、露計(つゆばかり)も心に懸(かけ)て思はれず。盛唐(せいたうの)詩人杜少陵(とせうりようが)、天宝(てんばう)の末の乱に逢(あう)て、「路経■■(えんよ)双蓬鬢、天落滄浪一釣舟」と天涯(てんがい)の恨(うらみ)を吟(ぎん)じ尽(つく)し、吾朝(わがてう)の歌仙小野篁(をののたかむら)は隠岐(おきの)国(くに)へ被流て、「海原(わたのはら)八十嶋(やそしま)かけて漕出(こぎいで)ぬ」と釣(つり)する海士(あま)に言伝(ことづて)て、旅泊(りよはく)の思(おもひ)を詠ぜらる。 是(これ)皆時(とき)の難易(なんい)を知(しり)て可歎を不歎、運の窮達(きゆうたつ)を見て有悲を不悲。況乎(いはんや)「主(しゆ)憂(うれふ)る則(ときんば)臣辱(はづかしめら)る。主辱(はづかしめら)るゝ則(ときんば)臣死(しす)」といへり。縦(たとひ)骨を醢(ししびしほ)にせられ、身を車ざきにせらる共(とも)、可傷道に非(あら)ずとて、少しも不悲給。只依時触興に、諷詠(ふうえい)等閑(なほざり)に日を渡る。今は憂世(うきよ)の望(のぞみ)絶(たえ)ぬれば、有出家志由頻(しきり)に被申けるを、相摸(さがみ)入道(にふだう)子細(しさい)候はじと被許ければ、年(とし)未満強仕、翠(みどり)の髪を剃(そり)落し、桑門人(よすてびと)と成給(なりたまひ)しが、無幾程元弘(げんこう)の乱出来(いでき)し始(はじめ)俄に病に被侵、円寂(ゑんじやく)し給ひけるとかや。東宮大進(とうぐうのだいしん)季房(すゑふさ)をば常陸(ひたちの)国(くに)へ流して、長沼駿河(ながぬまするがの)守(かみ)に預(あづ)けらる。中納言藤房(ふぢふさ)をば同国(おなじくに)に流して、小田民部大輔(をだみんぶのたいふ)にぞ被預ける。 |
|
左遷遠流(させんゑんる)の悲(かなしみ)は何(いづ)れも劣らぬ涙なれども、殊に此(この)卿(きやう)の心中(こころのうち)推量(おしはか)るも猶哀(あはれ)也(なり)。近来(このごろ)中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に左衛門佐局(さゑものすけのつぼね)とて容色(ようしよく)世に勝(すぐ)れたる女房(にようばう)御座(おはしま)しけり。去(さんぬる)元享(げんかう)の秋の比(ころ)かとよ、主上北山殿(きたやまどの)に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、御賀(おんが)の舞(まひ)の有(あり)ける時、堂下(だうか)の立部(りふはう)袖を翻(ひるがへ)し、梨園(りゑん)の弟子(ていし)曲(きよく)を奏せしむ。繁絃急管(はんげんきふくわん)何(いづ)れも金玉(きんぎよく)の声(こゑ)玲瓏(れいろう)たり。 此女房(このにようばう)琵琶(びは)の役(やく)に被召、青海波(せいがいは)を弾(だん)ぜしに、間関(かんくわん)たる鴬(うぐひす)の語(かたり)は花下(はなのもと)に滑(なめらかに)、幽咽(いうえつ)せる泉(いづみ)の流(ながれ)は氷の底(そこ)に難(なや)めり。適怨清和(てきゑんせいくわ)節(せつ)に随(したがつ)て移る。四絃(しげん)一声(いつせい)如裂帛。撥(はらつ)ては復(また)挑(かかぐ)、一曲(いつきよく)の清音(せいいん)梁上(りやうじやう)に燕(つばめ)飛(とび)、水中(すゐちゆう)に魚(うを)跳許(をどるばかり)也(なり)。中納言ほのかに是(これ)を見給(みたまひ)しより、人不知思初(おもひそめ)ける心の色、日に副(そひ)て深くのみ成行(なりゆけ)共(ども)、可云知便(たより)も無ければ、心に篭(こめ)て歎明(なげきあか)し思暮(おもひくら)して、三年(みとせ)を過給(すごしたまひ)けるこそ久しけれ。何(いか)なる人目(ひとめ)の紛(まぎ)れにや、露のかごとを結ばれけん、一夜(ひとよ)の夢の幻(うつつ)、さだかならぬ枕をかはし給(たまひ)にけり。 |
|
其次(そのつぎ)の夜(よ)の事ぞかし、主上俄(にはか)に笠置(かさぎ)へ落(おち)させ給ひければ、藤房(ふぢふさ)衣冠(いくわん)を脱(ぬ)ぎ、戎衣(じゆうい)に成(なつ)て供奉(ぐぶ)せんとし給ひけるが、此女房(このにようばう)に廻(めぐ)り逢(あは)ん末の契(ちぎり)も難知、一夜(いちや)の夢の面影(おもかげ)も名残(なごり)有(あり)て、今一度(ひとたび)見もし見へばやと被思ければ、彼(かの)女房の住給(すみたまひ)ける西の対(たい)へ行(ゆき)て見給ふに、時しもこそあれ、今朝(けさ)中宮(ちゆうぐう)の召(めし)有(あつ)て北山殿(きたやまどの)へ参り給(たまひ)ぬと申(まうし)ければ、中納言鬢(びん)の髪(かみ)を少し切(きつ)て、歌を書副(かきそへ)てぞ被置ける。黒髪(くろかみ)の乱(みだれ)ん世まで存(ながら)へば是(これ)を今はの形見(かたみ)とも見よ此(この)女房立帰(たちかへ)り、形見の髪と歌とを見て、読(よみ)ては泣(なき)、々(なき)ては読み、千度百廻(ちたびももたび)巻(まき)返せ共(ども)、心乱(みだれ)てせん方もなし。 懸(かか)る涙に文字(もじ)消(きえ)て、いとゞ思(おもひ)に絶兼(たへかね)たり。せめて其(その)人の在所(いますところ)をだに知(しり)たらば、虎(とら)伏(ふす)野辺(のべ)鯨(くぢら)の寄(よる)浦なり共(とも)、あこがれぬべき心地(ここち)しけれ共(ども)、其行末(そのゆくすゑ)何(いづ)く共(とも)不聞定、又逢(あは)ん世の憑(たのみ)もいさや知らねば、余(あま)りの思(おもひ)に堪(たへ)かねて、書置(かきおき)し君が玉章(たまづさ)身に副(そへ)て後(のち)の世までの形(かた)みとやせん先(さき)の歌に一首(いつしゆ)書副(かきそへ)て、形見の髪を袖に入(いれ)、大井河(おほゐがは)の深き淵に身を投(なげ)けるこそ哀(あはれ)なれ。「為君一日恩、誤妾百年身」とも、加様(かやう)の事をや申(まうす)べき。按察(あぜちの)大納言公敏(きんとしの)卿(きやう)は上総(かづさの)国(くに)、東南院(とうなんゐんの)僧正(そうじやう)聖尋(しやうじん)は下総(しもつさの)国(くに)、峯僧正(みねのそうじやう)俊雅(しゆんが)は対馬(つしまの)国(くに)と聞へしが、俄に其(その)議を改(あらため)て、長門(ながとの)国(くに)へ流され給ふ。第四(だいし)の宮(みや)は但馬(たじまの)国(くに)へ流奉(ながしたてまつり)て、其(その)国(くに)の守護(しゆご)大田判官(おほたのはんぐわん)に預(あづけ)らる。 |
|
■八歳宮(はつさいのみや)御歌(おんうたの)事(こと)
第九宮(だいくのみや)は、未(いまだ)御幼稚(ごえうち)に御坐(おはしませ)ばとて、中御門(なかのみかど)中納言宣明(のぶあきら)卿(きやう)に被預、都の内にぞ御坐有(ござあり)ける。此(この)宮(みや)今年(こんねん)は八歳(はつさい)に成(なら)せ給(たまひ)けるが、常の人よりも御心様(おんこころざま)さか/\しく御座(おはしまし)ければ、常は、「主上已(すで)に人も通(かよ)はぬ隠岐(おきの)国(くに)とやらんに被流させ給ふ上(うへ)は、我(われ)独(ひとり)都の内に止(とどま)りても何(なに)かせん。哀(あはれ)我をも君の御座(ござ)あるなる国のあたりへ流し遣(つかは)せかし。せめては外所(よそ)ながらも、御行末(おんゆくすゑ)を承(うけたま)はらん。」と書(かき)くどき打(うち)しほれて、御涙(おんなみだ)更(さら)にせきあへず。「さても君の被押篭御座(ござ)ある白河(しらかは)は、京(みやこ)近き所と聞くに、宣明(のぶあきら)はなど我を具足(ぐそく)して御所(ごしよ)へは参(まゐ)らぬぞ。」と仰有(おほせあり)ければ、宣明卿涙を押(おさ)へて、「皇居(くわうきよ)程近(ほどちか)き所にてだに候はゞ、御伴(おんとも)仕(おんともつかまつり)て参(さん)ぜん事子細(しさい)有(ある)まじく候が、白河(しらかは)と申(まうし)候は都より数百里(すひやくり)を経(へ)て下(くだ)る道にて候。 されば能因法師(のういんほつし)が都をば霞(かすみ)と共に出(いで)しかど秋風ぞ吹(ふく)白川(しらかは)の関(せき)と読(よみ)て候(さふらひ)し歌にて、道の遠き程、人を通(とほ)さぬ関ありとは思召知(おぼしめししら)せ給へ。」と被申ければ、宮御泪(おんなみだ)を押(おさ)へさせ給(たまひ)て、暫(しばし)は被仰出事もなし。良(やや)有(あり)て、「さては宣明(のぶあきら)我(われ)を具足(ぐそく)して参(まゐ)らじと思へる故(ゆゑ)に、加様(かやう)に申(まうす)者也(なり)。白川(しらかはの)関読(よみ)とたりしは、全く洛陽(らくやう)渭水(ゐすゐ)の白河には非(あら)ず、此(この)関奥州の名所(めいしよ)也(なり)。近来(このごろ)津守国夏(つもりくになつ)が、是(これ)を本歌(ほんか)にて読(よみ)たりし歌に、東路(あづまぢ)の関迄ゆかぬ白川(しらかは)も日数(ひかず)経(へ)ぬれば秋風ぞ吹(ふく)又最勝寺(さいしようじ)の懸(かかり)の桜枯(かれ)たりしを、植(うゑ)かゆるとて、藤原雅経朝臣(ふぢはらのまさつねあつそん)、馴々(なれなれ)て見しは名残(なごり)の春ぞともなど白川の花(はな)の下陰(したかげ)是(これ)皆(みな)名(な)は同(おなじう)して、所(ところ)は替(かは)れる証歌(しようか)也(なり)。 よしや今は心に篭(こめ)て云出(いひいだ)さじ。」と、宣明(のぶあきら)を被恨仰、其後(そののち)よりは書絶(かきたえ)恋しとだに不被仰、万(よろ)づ物憂(ものうき)御気色(おんきしよく)にて、中門(ちゆうもん)に立(たた)せ給へる折節(をりふし)、遠寺(ゑんじ)の晩鐘(ばんしよう)幽(かすか)に聞へければ、つく/゛\と思暮(おもひくら)して入逢(いりあひ)の鐘を聞(きく)にも君ぞ恋しき情(こころ)動于中言(ことば)呈於外、御歌(おんうた)のをさ/\しさ哀れに聞へしかば、其比(そのころ)京中(きやうぢゆう)の僧俗男女(なんによ)、是(これ)を畳紙(たたうがみ)・扇(あふぎ)に書付(かきつけ)て、「是(これ)こそ八歳(はつさい)の宮(みや)の御歌(おんうた)よ。」とて、翫(もてあそ)ばぬ人は無(なか)りけり。 |
|
■一宮(いちのみや)並(ならびに)妙法院(めうほふゐん)二品親王(にほんしんわうの)御事(おんこと)
三月八日一宮(いちのみや)中務卿(なかつかさのきやう)親王(しんわう)をば、佐々木(ささきの)大夫判官(たいふはんぐわん)時信(ときのぶ)を路次(ろし)の御警固(おんけいご)にて、土佐(とさ)の畑(はた)へ流し奉る。今までは縦(たとひ)秋刑(しうけい)の下(もと)に死(しし)て、竜門原上(りようもんげんじやう)の苔に埋(うづま)る共(とも)、都のあたりにて、兎(と)も角(かく)もせめて成らばやと、仰天伏地御祈念(ごきねん)有(あり)けれ共(ども)、昨日(きのふ)既(すでに)先帝(せんてい)をも流し奉りぬと、警固(けいご)の武士共(ぶしども)申合(まうしあ)ひけるを聞召(きこしめし)て、御祈念(ごきねん)の御憑(おんたのみ)もなく、最(いと)心細く思召(おぼしめし)ける処(ところ)に、武士共(もののふども)数多(あまた)参りて、中門(ちゆうもん)に御輿(おんこし)を差寄(さしよ)せたれば、押(おさ)へかねたる御泪(おんなみだ)の中(うち)に、せき留(とむ)る柵(しがらみ)ぞなき泪河(なみだがは)いかに流るゝ浮身(うきみ)なるらん同(おなじき)日、妙法院(めうほふゐん)二品(にほん)親王(しんわう)をも、長井(ながゐ)左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)高広(たかひろ)を御警固(おんけいご)にて讚岐(さぬきの)国(くに)へ流し奉る。 昨日(きのふ)は主上御遷幸(ごせんかう)の由を承(うけたまは)り、今日(けふ)は一宮(いちのみや)被流させ給(たまひ)ぬと聞召(きこしめし)、御心(おんこころ)を傷(いた)ましめ給(たまひ)けり。憂名(うきな)も替らぬ同じ道に、而(しか)も別(わかれ)て赴(おもむ)き給(たまふ)、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲(かなし)けれ。 |
|
初(はじめ)の程こそ別々(べちべち)にて御下(おんくだり)有(あり)けるが、十一日の暮程(くれほど)には、一宮(いちのみや)も妙法院(めいほふゐん)も諸共(もろとも)に兵庫(ひやうご)に着(つか)せ給(たまひ)たりければ、一宮(いちのみや)は是(これ)より御舟(おんふね)にめして、土佐(とさ)の畑(はた)へ可有御下由聞へければ、御文(おんふみ)を参(まゐら)せ玉(たまひ)けるに、今までは同じ宿(やど)りを尋(たづね)来て跡(あと)無(な)き波と聞(きく)ぞ悲(かなし)き一宮(いちのみや)御返事(おんへんじ)、明日(あす)よりは迹(あと)無(な)き波に迷共(まよふとも)通(かよ)ふ心よしるべ共(とも)なれ配所(はいしよ)は共に四国(しこく)と聞(きこ)ゆれば、せめては同(おなじ)国にてもあれかし。事問(こととふ)風の便(たより)にも、憂(うき)を慰(なぐさ)む一節(ひとふし)とも念じ思召(おぼしめし)けるも叶はで、一宮(いちのみや)はたゆたふ波に漕(こが)れ行(ゆく)、身を浮(うき)舟に任(まか)せつゝ、土佐(とさ)の畑(はた)へ赴かせ給へば、有井(ありゐ)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)が館(たち)の傍(かたはら)に、一室(いつしつ)を構(かまへ)て置(おき)奉る。 彼畑(かのはた)と申(まうす)は、南は山の傍(そば)にて高く、北は海辺(かいへん)にて下(さが)れり、松の下露(したつゆ)扉(とぼそ)に懸(かか)りて、いとゞ御袖(おんそで)の泪(なみだ)を添(そへ)、磯(いそ)打(うつ)波の音御枕(おんまくら)の下(した)に聞へて、是(これ)のみ通ふ故郷(ふるさと)の、夢路(ゆめぢ)も遠く成(なり)にけり。妙法院(めうほふゐん)は是(これ)より引別(ひきわか)れて、備前(びぜんの)国(くに)迄は陸地(くがぢ)を経て、児嶋(こじま)の吹上(ふきあげ)より船に召(めし)て、讚岐(さぬき)の詫間(たくま)に着(つか)せ給ふ。是(これ)も海辺(かいへん)近き処なれば、毒霧(どくむ)御身(おんみ)を侵(をか)して瘴海(しやうかい)の気冷(すさま)じく、漁歌牧笛(ぎよかぼくてき)の夕べの声、嶺雲海月(れいうんかいげつ)の秋の色、総(すべ)て触耳遮眼事の、哀(あはれ)を催(もよほ)し、御涙(おんなみだ)を添(そふ)る媒(なかだち)とならずと云(いふ)事(こと)なし。 |
|
先皇(せんくわう)をば任承久例に、隠岐(おきの)国(くに)へ流し可進に定まりけり。臣として君を無奉(ないがしろにしたてまつ)る事(こと)、関東(くわんとう)もさすが恐(おそれ)有(あり)とや思(おもひ)けん、此為(このため)に後伏見(ごふしみの)院(ゐん)の第一(だいいち)の御子(みこ)を御位(おんくらゐ)に即(つけ)奉りて、先帝(せんてい)御遷幸(ごせんかう)の宣旨(せんじ)を可被成とぞ計(はから)ひ申(まうし)ける。於天下事に、今は重祚(ちようそ)の御望(おんのぞみ)可有にも非ざれば、遷幸以前(いぜん)に先帝(せんたい)をば法皇(ほふわう)に可奉成とて、香染(かうぞめ)の御衣(おんころも)を武家より調進(てうしん)したりけれ共(ども)、御法体(ごほつたい)の御事(おんこと)は、暫く有(ある)まじき由を被仰て、袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)をも脱(ぬが)せ給はず。毎朝(まいてう)の御行水(おんぎやうずゐ)をめされ、仮(かり)の皇居(くわうきよ)を浄(きよ)めて、石灰(せきくわい)の壇(だん)に準(なぞら)へて、太神宮(たいじんぐう)の御拝(ごはい)有(あり)ければ、天に二(ふたつ)の日(ひ)無(なけ)れども、国に二(ふたり)の王(わう)御座(おはします)心地(ここち)して、武家も持(もち)あつかひてぞ覚へける。是(これ)も叡慮に憑思食(たのみおぼしめす)事(こと)有(あり)ける故(ゆゑ)也(なり)。 | |
■俊明極(しゆんみんき)参内(さんだいの)事(こと)
去元享(さんぬるげんかう)元年の春(はる)の比(ころ)、元朝(げんてう)より俊明極(しゆんみんき)とて、得智(とくち)の禅師(ぜんじ)来朝(らいてう)せり。天子(てんし)直(ぢき)に異朝(いてう)の僧に御相看(ごしやうかん)の事は、前々(さきざき)更(さら)に無(なか)りしか共(ども)、此君(このきみ)禅(ぜん)の宗旨(しゆうし)に傾(かたぶ)かせ給(たまひ)て、諸方(しよはう)参得(さんとく)の御志(おんこころざし)をはせしかば、御法談(ごほふだん)の為に此(この)禅師を禁中(きんちゆう)へぞ被召ける。事の儀式余(あまり)に微々(びび)ならんは、吾朝(わがてう)の可恥とて、三公公卿(くぎやう)も出仕(しゆつし)の妝(よそほ)ひを刷(つくろ)ひ、蘭台金馬(らんだいきんめ)も守禦(しゆぎよ)の備(そなへ)を厳(きびし)くせり。夜半(やはん)に蝋燭(ろつそく)を伝(たて)て禅師被参内。主上紫宸殿(ししんでん)に出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、玉坐(ぎよくざ)に席を薦(すす)め給ふ。禅師三拝礼(さんはいらい)訖(をはつ)て、香(かう)を拈(ねん)じて万歳(ばんぜい)を祝(しゆく)す。 時に勅問(ちよくもん)有(あつ)て曰(いはく)、「桟山航海得々(とくとくとして)来(きたる)。和尚(をしやう)以何度生(どしやう)せん。」禅師答(こたへて)云(いはく)、「以仏法緊要処度生(どしやうせ)ん。」重(かさね)て、曰(いはく)、「正当(しやうたう)恁麼時(いんものとき)奈何(いかん)。」答(こたへて)曰(いはく)、「天上(てんじやう)に有星、皆拱北。人間無水不朝東。」御法談(ごほふだん)畢(をはつ)て、禅師拝揖(はいいふ)して被退出。翌日(よくじつ)別当実世卿(さねよのきやう)を勅使にて禅師号を被下る。時に禅師向勅使、「此(この)君雖有亢竜悔、二度(ふたたび)帝位(ていゐ)を践(ふま)せ給(たまふ)べき御相(ごさう)有(あり)。」とぞ被申ける。今君為武臣囚(とらはれ)て亢竜(かうりよう)の悔(くい)に合(あは)せ給ひけれ共(ども)、彼(かの)禅師の相(さう)し申(まうし)たりし事なれば、二度(ふたたび)九五(きうご)の帝位を践(ふま)せ給はん事(こと)、無疑思食(おぼしめす)に依(よつ)て、法体(ほつたい)の御事(おんこと)は暫く有(ある)まじき由を、強(しひ)て被仰出けり。 |
|
■中宮(ちゆうぐう)御歎(おんなげきの)事(こと)
三月七日、已(すで)に先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給ふと聞へければ、中宮夜(よ)に紛れて、六波羅(ろくはら)の御所(ごしよ)へ行啓(ぎやうけい)成(なら)せ給(たまひ)、中門(ちゆうもん)に御車(おんくるま)を差寄(さしよせ)たれば、主上出御(しゆつぎよ)有(あり)て、御車(おんくるま)の簾(すだれ)を被掲(かかげらる)。君は中宮を都に止置(とめおき)奉りて、旅泊(りよはく)の波長汀(ちやうてい)の月に彷徨(さすらひ)給はんずる行末(ゆくすゑ)の事を思召(おぼしめ)し連(つら)ね、中宮は又主上を遥々(はるばる)と遠外(ゑんぐわい)に想像(おもひやり)奉りて、何(なに)の憑(たのみ)の有世(あるよ)共(とも)なく、明(あけ)ぬ長夜(ちやうや)の心迷ひの心地(ここち)し、長襟(ながきものおもひ)にならんと、共に語り尽(つく)させ給はゞ、秋の夜(よ)の千夜(ちよ)を一夜(ひとよ)に準(なぞらふ)共(とも)、猶詞(ことば)残(のこり)て明(あけ)ぬべければ、御心(おんこころ)の中(うち)の憂(う)き程は其言(そのこと)の葉(は)も及ばねば、中々(なかなか)云出(いひいだ)させ給ふ一節(ひとふし)もなし。 只御泪(おんなみだ)にのみかきくれて、強顔(つれなく)見へし晨明(ありあけ)も、傾(かたぶ)く迄に成(なり)にけり。夜(よ)已(すで)に明(あけ)なんとしければ、中宮御車(おんくるま)を廻(めぐ)らして還御(くわんぎよ)成(なり)けるが、御泪(おんなみだ)の中(うち)に、此上(このうへ)の思(おもひ)はあらじつれなさの命(いのち)よさればいつを限りぞと許(ばかり)聞へて、臥沈(ふししづ)ませ給(たまひ)ながら、帰車(かへるくるま)の別路(わかれぢ)に、廻(めぐ)り逢世(あふよ)の憑(たのみ)なき、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲しけれ。 |
|
■先帝(せんてい)遷幸(せんかうの)事(こと)
明(あく)れば三月七日、千葉介(ちばのすけ)貞胤(さだたね)、小山(をやまの)五郎左衛門、佐々木(ささきの)佐渡判官(さどのはうぐわん)入道々誉(だうよ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて、路次(ろし)を警固仕(けいごつかまつり)て先帝(せんてい)を隠岐(おきの)国(くに)へ遷(うつ)し奉る。供奉(ぐぶ)の人とては、一条頭大夫(とうだいぶ)行房(ゆきふさ)、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、御仮借(おんかいしやく)は三位殿(さんみどの)御局許(おんつぼねばかり)也(なり)。 其外(そのほか)は皆甲冑(かつちう)を鎧(よろひ)て、弓箭(きゆうせん)帯(たい)せる武士共(ぶしども)、前後左右(ぜんごさいう)に打囲(うちかこみ)奉りて、七条を西へ、東洞院(ひがしのとうゐん)を下(しも)へ御車(おんくるま)を輾(きし)れば、京中(きやうぢゆう)貴賎男女(きせんなんによ)小路(こうぢ)に立双(たちならび)て、「正(まさ)しき一天(いつてん)の主(あるじ)を、下(しも)として流し奉る事の浅猿(あさまし)さよ。武家の運命(うんめい)今に尽(つき)なん。」と所憚なく云(いふ)声巷(ちまた)に満(みち)て、只赤子(あかご)の母を慕如(したふがごと)く泣悲(なきかなし)みければ、聞(きく)に哀(あはれ)を催(もよほ)して、警固の武士(ぶし)も諸共(もろとも)に、皆鎧(よろひ)の袖をぞぬらしける。桜井(さくらゐ)の宿(しゆく)を過(すぎ)させ給(たまひ)ける時、八幡(やはた)を伏拝(ふしをがみ)御輿(おんこし)を舁居(かきすゑ)させて、二度(ふたたび)帝都(ていと)還幸(くわんかう)の事をぞ御祈念(ごきねん)有(あり)ける。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と申(まうす)は、応神天皇(てんわう)の応化(おうげ)百王鎮護(ちんご)の御誓(おんちか)ひ新(あらた)なれば、天子行在(あんざい)の外(ほか)までも、定(さだめ)て擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)をぞ廻(めぐら)さる覧(らん)と、憑敷(たのもしく)こそ思召(おぼしめし)けれ。 |
|
湊川(みなとがは)を過(すぎ)させ給(たまふ)時、福原(ふくはら)の京(きやう)を被御覧ても、平相国清盛(へいしやうこくきよもり)が四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎつ)て、平安城(へいあんじやう)を此卑湿(このひしつ)の地に遷(うつ)したりしかば、無幾程亡(ほろび)しも、偏(ひとへ)に上(かみ)を犯さんとせし侈(おごり)の末(すゑ)、果(はた)して天の為に被罰ぞかしと、思食(おぼしめし)慰む端(はし)となりにけり。印南野(いなの)を末に御覧(ごらん)じて、須磨(すま)の浦を過(すぎ)させ給へば、昔源氏(げんじの)大将(だいしやう)の、朧月夜(おぼろづきよ)に名を立(たて)て此(この)浦に流され、三年(みとせ)の秋を送りしに、波只(ただ)此(ここ)もとに立(たち)し心地(ここち)して、涙落(おつる)共(とも)覚(おぼえ)ぬに、枕は浮許(うくばかり)に成(なり)にけりと、旅寝(たびね)の秋を悲(かなし)みしも、理(ことわり)なりと被思召。 明石(あかし)の浦の朝霧に遠く成行(なりゆく)淡路嶋(あはぢしま)、寄来(よせく)る浪も高砂(たかさご)の、尾上(をのへ)の松に吹(ふく)嵐、迹(あと)に幾重(いくへ)の山川(やまかは)を、杉坂(すぎさか)越(こえ)て美作(みまさか)や、久米(くめ)の佐羅山(さらやま)さら/\に、今は有(ある)べき時ならぬに、雲間(くもま)の山に雪見へて、遥(はるか)に遠き峯あり。御警固(おんけいご)の武士(ぶし)を召(めし)て、山の名を御尋(おんたづね)あるに、「是(これ)は伯耆(はうき)の大山(だいせん)と申(まうす)山にて候。」と申(まうし)ければ、暫く御輿(おんこし)を被止、内証甚深(ないしようじんしん)の法施(ほつせ)を奉らせ給ふ。或時(あるとき)は鶏唱(けいしやうに)抹過茅店月、或時(あるとき)は馬蹄(ばていに)踏破板橋霜、行路(かうろ)に日を窮(きは)めければ、都を御出(おんいで)有(あつ)て、十三日と申(まうす)に、出雲(いづも)の見尾(みを)の湊(みなと)に着(つか)せ給ふ。爰(ここ)にて御船(おんふね)を艤(ふなよそひ)して、渡海(とかい)の順風(じゆんぷう)をぞ待(また)れける。 |
|
■備後(びんご)三郎高徳(たかのりが)事(こと)付呉越(ごゑつ)軍(いくさの)事(こと)
其比(そのころ)備前(びぜんの)国(くに)に、児嶋(こじま)備後(びんご)三郎高徳(たかのり)と云(いふ)者あり。主上笠置(かさぎ)に御座有(ござあり)し時、御方(みかた)に参(さん)じて揚義兵しが、事未(いまだ)成(ならざる)先(さき)に、笠置(かさぎ)も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失(うしなう)て黙止(もだし)けるが、主上隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給(たまふ)と聞(きい)て、無弐一族共(いちぞくども)を集めて評定(ひやうぢやう)しけるは、「志士(しじ)仁(じん)人(じんは)無求生以(もつて)害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛(ゑい)の懿公(いこう)が北狄(ほくてき)の為に被殺て有(あり)しを見て、其(その)臣に弘演(こうえん)と云(いひ)し者、是(これ)を見るに不忍、自(みづから)腹を掻切(かききつ)て、懿公(いこう)が肝を己(おのれ)が胸の中(うち)に収め、先君(せんくん)の恩を死後(しご)に報(はうじ)て失(うせ)たりき。 「見義不為無勇。」いざや臨幸(りんかう)の路次(ろし)に参り会(あひ)、君を奪取奉(うばひとりたてまつり)て大軍を起し、縦(たと)ひ尸(かばね)を戦場に曝(さら)す共(とも)、名を子孫に伝へん。」と申(まうし)ければ、心ある一族共(いちぞくども)皆此義(このぎ)に同(どう)ず。「さらば路次の難所(なんじよ)に相待(あひまち)て、其隙(そのひま)を可伺。」とて、備前と播磨(はりま)との境(さかひ)なる、舟坂山(ふなさかやま)の嶺(みね)に隠れ臥(ふし)、今や/\とぞ待(まち)たりける。臨幸余(あま)りに遅(おそ)かりければ、人を走らかして是(これ)を見するに、警固(けいご)の武士(ぶし)、山陽道(せんやうだう)を不経、播磨(はりま)の今宿(いまじゆく)より山陰道(せんいんだう)にかゝり、遷幸(せんかう)を成(なし)奉りける間、高徳(たかのり)が支度(したく)相違してけり。 |
|
さらば美作(みまさか)の杉坂(すぎさか)こそ究竟(くつきやう)の深山(みやま)なれ。此(ここ)にて待奉(まちたてまつら)んとて、三石(みついし)の山より直違(すぢかひ)に、道もなき山の雲を凌(しの)ぎて杉坂へ着(つい)たりければ、主上早(は)や院庄(ゐんのしやう)へ入(いら)せ給(たまひ)ぬと申(まうし)ける間(あひだ)、無力此(これ)より散々(ちりぢり)に成(なり)にけるが、せめても此所存(このしよぞん)を上聞(しやうぶん)に達せばやと思(おもひ)ける間、微服潛行(びふくせんかう)して時分(じぶん)を伺ひけれ共(ども)、可然隙(ひま)も無(なか)りければ、君の御坐(ござ)ある御宿(おんやど)の庭に、大(おほき)なる桜木(さくらぎ)有(あり)けるを押削(おしけづり)て、大文字(おほもじ)に一句の詩(し)をぞ書付(かきつけ)たりける。 天莫空勾践(こうせん)。時非無范蠡。御警固(おんけいご)の武士共(ぶしども)、朝(あした)に是(これ)を見付(みつけ)て、「何事(なにこと)を何(いか)なる者が書(かき)たるやらん。」とて、読(よみ)かねて、則(すなはち)上聞(しやうぶん)に達してけり。主上は軈(やが)て詩の心を御覚(さと)り有(あり)て、竜顔(りようがん)殊に御快(おんこころよ)く笑(ゑま)せ給へども、武士共(ぶしども)は敢て其来歴(そのらいれき)を不知、思咎(おもひとがむ)る事も無(なか)りけり。抑(そもそも)此(この)詩の心は、昔異朝(いてう)に呉越(ごゑつ)とてならべる二(ふたつ)の国あり。此両国(このりやうごく)の諸侯(しよこう)皆王道(わうだう)を不行、覇業(はげふ)を務(つとめ)としける間、呉は越を伐(うつ)て取(とら)んとし、越は呉を亡(ほろぼ)して合(あは)せんとす。如此相争(あひあらそふ)事(こと)及累年。呉越互に勝負(しようぶ)を易(か)へしかば、親の敵(てき)となり、子の讎(あだ)と成(なつ)て共に天を戴(いただ)く事を恥(はづ)。 |
|
周(しう)の季(すゑ)の世に当(あたつ)て、呉国(ごこく)の主(あるじ)をば呉王(ごわう)夫差(ふさ)と云(いひ)、越国(ゑつのくに)の主(あるじ)をば越王(ゑつわう)勾践(こうせん)とぞ申(まうし)ける。或時(あるとき)此(この)越王(ゑつわう)范蠡と云(いふ)大臣を召(めし)て宣(のたま)ひけるは、「呉は是(これ)父祖(ふそ)の敵(てき)也(なり)。我(われ)是(これ)を不討、徒(いたづら)に送年事(こと)、嘲(あざけり)を天下の人に取(とる)のみに非(あら)ず。兼(かね)ては父祖(ふそ)の尸(かばね)を九泉(きうせん)の苔(こけ)の下(した)に羞(はづか)しむる恨(うらみ)あり。然れば我(われ)今(いま)国の兵(つはもの)を召集(めしあつめ)て、自(みづか)ら呉国へ打超(うちこえ)、呉王夫差を亡(ほろぼ)して父祖(ふそ)の恨(うらみ)を散(さん)ぜんと思(おもふ)也(なり)。 汝(なんぢ)は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌(いさ)め申(まうし)けるは、「臣窃(ひそか)に事の子細(しさい)を計(はか)るに、今越の力を以て呉を亡(ほろぼ)さん事は頗(すこぶる)以(もつて)可難る。其故(そのゆゑ)は先(まづ)両国の兵(つはもの)を数(かぞ)ふるに呉は二十万騎(にじふまんぎ)越は纔(わづか)に十万騎(じふまんぎ)也(なり)。誠(まこと)に以小を、大(だい)に不敵、是(これ)呉を難亡其一(そのひとつ)也(なり)。次には以時計(はか)るに、春夏(はるなつ)は陽(やう)の時にて忠賞(ちゆうしやう)を行ひ秋冬(あきふゆ)は陰(いん)の時にて刑罰を専(もつぱら)にす。時(とき)今(いま)春(はる)の始(はじめ)也(なり)。是(これ)征伐(せいばつ)を可致時に非(あら)ず。是(これ)呉を難滅其二(そのふたつ)也(なり)。次に賢人(けんじんの)所帰則(すなはち)其(その)国(くに)強(つよし)、臣聞(きく)呉王夫差の臣下(しんか)に伍子胥(ごししよ)と云(いふ)者あり。智(ち)深(ふかう)して人をなつけ、慮(おもんばかり)遠くして主(しゆ)を諌(いさ)む。渠儂(かれ)呉国に有(あら)ん程は呉を亡(ほろぼ)す事可難。 |
|
是(これ)其三(そのみつ)也(なり)。麒麟(きりん)は角(つの)に肉有(あつ)て猛(たけ)き形(かたち)を不顕、潛竜(せんりよう)は三冬(さんとう)に蟄(ちつ)して一陽来復(いちやうらうふく)の天を待(まつ)。君(きみ)呉越(ごゑつ)を合(あはせ)られ、中国(ちゆうごく)に臨(のぞん)で南面にして孤称(こしよう)せんとならば、且(しばら)く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申(まうし)ければ、其(その)時越王(ゑつわう)大(おほき)に忿(いかつ)て宣(のたまひ)けるは、「礼記(らいき)に、父の讎(あた)には共に不戴天いへり、我已(すで)に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞(はづかし)むる所(ところ)に非(あらず)や。是(これ)を以(もつて)兵(つはもの)を集(あつむ)る処に、汝三(みつ)の不可(ふか)を挙(あげ)て我を留(とどむ)る事(こと)、其義(そのぎ)一も道に不協。先(まづ)兵(つはもの)の多少(たせう)を数(かぞ)へて可致戦ば、越は誠(まこと)に呉に難対。而(しか)れ共(ども)軍(いくさ)の勝負(しようぶ)必(かならず)しも不依勢多少、只(ただ)依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易(かは)れり。 是(これ)汝(なんぢ)が皆知処(しるところ)也(なり)。今更(さら)に何(なん)ぞ越の小勢(こぜい)を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略(ぶりやく)の不足処の其一(そのひとつ)也(なり)。次(つぎ)に以時軍(いくさ)の勝負を計(はか)らば天下の人皆時(とき)を知れり。誰か軍(いくさ)に不勝。若(もし)春夏は陽(やう)の時にて罰(ばつ)を不行と云はゞ、殷(いん)の湯王(たうわう)の桀(けつ)を討(うち)しも春也(なり)。周(しう)の武王の紂(ちう)を討(うち)しも春也(なり)。されば、「天の時は不如地利に、地(ちの)利は〔不〕如人和に」といへり。而(しか)るに汝今可行征罰時に非(あら)ずと我を諌(いさ)むる、是(これ)汝が知慮(ちりよ)の浅き処の二(ふたつ)也(なり)。 |
|
次に呉国に伍子胥(ごししよ)が有(あら)ん程は、呉を亡(ほろぼ)す事不可叶と云はゞ、我(われ)遂に父祖の敵(てき)を討(うつ)て恨(うらみ)を泉下(せんか)に報ぜん事有(ある)べからず。只徒(いたづら)に伍子胥(ごししよ)が死せん事を待たば死生(しせい)有命又は老少(らうせう)前後(ぜんご)す。伍子胥(ごししよ)と我と何(いづ)れをか先(さき)としる。此理(このり)を不弁我(われ)征罰を可止や。此(これ)汝が愚(ぐ)の三(みつ)也(なり)。抑(そもそも)我(われ)多日(たじつ)に及(およん)で兵(つはもの)を召(めす)事(こと)呉国(ごこく)へも定(さだめ)て聞へぬらん。事遅怠(ちたい)して却(かへつ)て呉王に被寄なば悔(くゆ)とも不可有益。「先則(さきんずるときは)制人後則(おくるるときは)被人制」といへり。事已(すで)に決(けつ)せり且(しばらく)も不可止。」とて、越王(ゑつわう)十一年二月上旬に、勾践(こうせん)自(みづか)ら十万余騎(よき)の兵(つはもの)を率(そつ)して呉国へぞ被寄ける。 呉王夫差(ふさ)是(これ)を聞(きい)て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎(にじふまんぎの)勢を率(そつ)して、呉と越との境(さかひ)夫枡県(ふせうけん)と云(いふ)所に馳向(はせむか)ひ、後(うしろ)に会稽山(くわいけいざん)を当(あ)て、前に大河(たいが)を隔(へだて)て陣を取る。態(わざ)と敵を計(はから)ん為に三万余騎(よき)を出(いだ)して、十七万騎(じふしちまんぎ)をば陣の後(うしろ)の山陰(やまかげ)に深く隠(かく)してぞ置(おい)たりける。去程(さるほど)に越王(ゑつわう)夫枡県(ふせうけん)に打臨(うちのぞん)で、呉の兵(つはもの)を見給へば、其(その)勢僅(はつか)に二三万騎(にさんまんぎ)には過(すぎ)じと覚へて所々(しよしよ)に磬(ひか)へたり。越王(ゑつわう)是(これ)を見て、思(おもふ)に不似小勢なりけりと蔑(あなどつ)て、十万騎(じふまんぎ)の兵同時(どうじ)に馬を河水(かすゐ)に打入(うちいれ)させ、馬筏(むまいかだ)を組(くん)で打渡(うちわた)す。 |
|
比(ころ)は二月上旬の事なれば、余寒(よかん)猶(なほ)烈(はげし)くして、河水(かすゐ)氷(こほり)に連(つらな)れり。兵(つはもの)手(て)凍(こごつ)て弓を控(ひく)に不叶。馬は雪に泥(なづん)で懸引(かけひき)も不自在。され共(ども)越王(ゑつわう)責鼓(せめつづみ)を打(うつ)て進まれける間、越の兵我先(われさき)にと双轡懸入(かけい)る。呉国の兵は兼(かね)てより敵(てき)を難所(なんじよ)にをびき入(いれ)て、取篭(とりこめ)て討(うた)んと議(ぎ)したる事なれば、態(わざ)と一軍(ひといくさ)もせで夫椒県(ふせうけん)の陣を引退(ひきしりぞい)て会稽山(くわいけいざん)へ引篭(ひきこも)る。 越の兵勝(かつ)に乗(のつ)て北(にぐ)るを追(おふ)事(こと)三十(さんじふ)余里(より)、四隊(したい)の陣(ぢん)を一陣に合(あは)せて、左右(さいう)を不顧、馬の息も切るゝ程、思々(おもひおもひ)にぞ追(おう)たりける。日已(すで)に暮(くれ)なんとする時に、呉(の)兵二十万騎(にじふまんぎ)思ふ図(づ)に敵を難所(なんじよ)へをびき入(いれ)て、四方(しはう)の山より打出(うちいで)て、越王(ゑつわう)勾践(こうせん)を中(なか)に取篭(とりこめ)、一人も不漏と責(せめ)戦ふ。越の兵は今朝(こんてう)の軍(いくさ)に遠懸(とほがけ)をして人馬(じんば)共に疲れたる上(うへ)無勢(ぶせい)なりければ、呉の大勢(おほぜい)に被囲、一所(いつしよ)に打寄(うちより)て磬(ひか)へたり。進(すすん)で前(さき)なる敵(てき)に蒐(かか)らんとすれば、敵は嶮岨(けんそ)に支(ささ)へて、鏃(やじり)を調(そろ)へて待懸(まちかけ)たり。 |
|
引返(ひつかへし)て後(うしろ)なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越(ゑつの)兵(つはもの)疲(つか)れたり。進退(しんだい)此(ここ)に谷(きはまつ)て敗亡(はいばう)已(すで)に極(きはま)れり。され共(ども)越王(ゑつわう)勾践(こうせん)は破堅摧利事(こと)、項王(かうわう)が勢(いきほひ)を呑(のみ)、樊■勇(はんくわいがゆう)にも過(すぎ)たりければ、大勢の中へ懸入(かけいり)、十文字(じふもんじ)に懸破(かけやぶり)、巴(は)の字に追廻(おひめぐ)らす。一所(いつしよ)に合(あう)て三処に別れ、四方(しはう)を払(はらう)て八面(はちめん)に当(あた)る。頃刻(きやうこく)に変化して雖百度戦、越王(ゑつわう)遂に打負(うちまけ)て、七万余騎(よき)討(うた)れにけり。 勾践(こうせん)こらへ兼(かね)て会稽山(くわいけいざん)に打上(うちあが)り、越の兵を数(かぞふ)るに打残されたる兵僅(わづか)に三万余騎(よき)也(なり)。其(それ)も半(なか)ば手を負(おう)て悉(ことごとく)箭(や)尽(つき)て鋒(ほこさき)折(をれ)たり。勝負(しようぶ)を呉越に伺(うかがう)て、未だ何方(いづかた)へも不着つる隣国(りんごく)の諸侯(しよこう)、多く呉王の方に馳加(はせくは)はりければ、呉の兵弥(いよいよ)重(かさなつ)て三十万騎(さんじふまんぎ)、会稽山(くわいけいざん)の四面(しめん)を囲(かこむ)事(こと)如稲麻竹葦也(なり)。越王(ゑつわう)帷幕(ゐばく)の内に入り、兵を集めて宣(のたま)ひけるは、「我(われ)運命已(すで)に尽(つき)て今此囲(このかこみ)に逢へり。是(これ)全く非戦咎、天亡我。然れば我(われ)明日(みやうにち)士(し)と共に敵の囲(かこみ)を出(いで)て呉王の陣に懸入(かけい)り、尸(かばね)を軍門に曝(さら)し、恨(うらみ)を再生(さいしやう)に可報。」とて越の重器(ちようき)を積(つん)で、悉(ことごとく)焼捨(やきすて)んとし給ふ。 |
|
又王■与(わうせきよ)とて、今年(こんねん)八歳(はつさい)に成(なり)給ふ最愛(さいあい)の太子(たいし)、越王(ゑつわう)に随(したがつ)て、同(おなじ)く此(この)陣に座(おはし)けるを呼出(よびいだ)し奉(たてまつつ)て、「汝未(いまだ)幼稚なれば、吾(わが)死(し)に殿(おく)れて、敵に捕(とら)れ、憂目(うきめ)を見ん事も可心憂。若(もし)又我(われ)為敵虜(とらは)れて、我(われ)汝(なんぢ)より先立(さきたた)ば、生前(しやうぜん)の思(おもひ)難忍。不如汝を先立(さきたて)て心安く思切(おもひき)り、明日の軍(いくさ)に討死(うちじに)して、九泉(きうせん)の苔(こけ)の下(した)、三途(さんづ)の露の底迄(そこまで)も、父子(ふし)の恩愛(おんあい)を不捨と思ふ也(なり)。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧(すす)め給ふ時に、越王(ゑつわう)の左将軍(さしやうぐん)に、大夫(たいふ)種(しよう)と云(いふ)臣あり。 越王(ゑつわう)の御前(おんまへ)に進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「生(しやう)を全(まつた)くして命(いのち)を待(まつ)事(こと)は遠くして難(かた)く、死を軽(かろ)くして節(せつ)に随ふ事は近くして安(やす)し。君暫く越の重器を焼捨(やきすて)、太子を殺す事を止(や)め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王(くんわう)の死を救(すく)ひ、本国(ほんごく)に帰(かへつ)て再び大軍を起(おこ)し、此(この)恥を濯(すすが)んと思ふ。今此(この)山を囲(かこ)んで一陣を張(はら)しむる呉の上(じよう)将軍太宰(たいさい)■(ひ)は臣が古(いにしへ)の朋友也(なり)。久(ひさし)く相馴(あひなれ)て彼(かれ)が心を察せしに、是(これ)誠(まこと)に血気の勇者なりと云へ共(ども)、飽(あく)まで其(その)心に欲有(あつ)て、後(のち)の禍(わざはひ)を不顧。又彼(かの)呉王夫差の行迹(かうせき)を語るを聞(きき)しかば、智浅(あさう)して謀(はかりごと)短く、色に婬(いん)して道に暗し。 |
|
君臣(くんしん)共に何(いづ)れも欺くに安(やす)き所(ところ)也(なり)。抑(そもそも)今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡(はんれい)が諌めを用ひ不給故(ゆゑ)に非(あら)ずや。願(ねがはく)は君王(くんわう)臣が尺寸(せきすん)の謀(はかりごと)を被許、敗軍(はいぐん)数万(すまん)の死を救ひ給へ。」と諌申(いさめまうし)ければ、越王(ゑつわう)理(り)に折(をれ)て、「「敗軍の将(しやう)は再び不謀」と云へり。自今後(のち)の事は然(しかしながら)大夫(たいふ)種(しよう)に可任。」と宣(のたまひ)て、重器を被焼事を止(やめ)、太子の自害(じがい)をも被止けり。大夫(たいふ)種(しよう)則(すなはち)君の命(めい)を請(うけ)て、冑(かぶと)を脱(ぬ)ぎ旗を巻(まい)て、会稽山(くわいけいざん)より馳下(はせくだ)り、「越王(ゑつわう)勢(いきほ)ひ尽(つき)て、呉の軍門(ぐんもん)に降(くだ)る。」と呼(よばは)りければ、呉の兵三十万騎(さんじふまんぎ)、勝時(かちどき)を作(つくつ)て皆万歳(ばんぜい)を唱(とな)ふ。 大夫(たいふ)種(しよう)は則(すなはち)呉の轅門(ゑんもん)に入(いつ)て、「君王の倍臣(ばいしん)、越(ゑつの)勾践(こうせん)の従者(じゆうしや)、小臣種(しよう)慎(つつしん)で呉の上(じやう)将軍の下執事(かしつじ)に属(しよく)す。」と云(いつ)て、膝行頓首(しつかうとんしゆ)して、太宰(たいさい)■(ひ)が前(まへ)に平伏(へいふく)す。太宰(たいさい)■(ひ)床(ゆか)の上に坐(ざ)し、帷幕(ゐばく)を揚(あげ)させて大夫(たいふ)種(しよう)に謁す。大夫(たいふ)種(しよう)敢(あへ)て平視せず。低面流涙申(まうし)けるは、「寡君(くわくん)勾践(こうせん)運極(きは)まり、勢(いきほひ)尽(つき)て呉の兵に囲(かこま)れぬ。仍(よつて)今(いま)小臣種(しよう)をして、越王(ゑつわう)長く呉王の臣と成(なり)、一畝(いつぽ)の民と成(なら)ん事を請(こは)しむ。願(ねがはく)は先日(せんじつ)の罪を被赦今日(こんにち)の死を助け給へ。将軍若(もし)勾践(こうせん)の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其(その)重器を将軍に奉り、美人西施(せいし)を洒掃(せいさう)の妾(せふ)たらしめ、一日(いちにち)の歓娯(くわんご)に可備。 |
|
若(もし)夫(それ)請(こふ)、所望不叶遂に勾践(こうせん)を罪(つみ)せんとならば、越の重器を焼棄(やきすてて)、士卒(しそつ)の心を一(ひとつ)にして、呉王の堅陣(けんぢん)に懸入(かけいり)、軍門に尸(かばね)を可止。臣平生(へいぜい)将軍と交(まじはり)を結ぶ事膠漆(かうしつ)よりも堅し。生前(しやうぜん)の芳恩(はうおん)只此(この)事(こと)にあり。将軍早く此(この)事(こと)を呉王に奏(そう)して、臣が胸中(きようちゆう)の安否(あんぴ)を存命(ぞんめい)の裏(うち)に知(しら)しめ給へ。」と一度(ひとたび)は忿(いか)り一度(ひとたび)は歎き、言(ことば)を尽(つく)して申(まうし)ければ、太宰(たいさい)■(ひ)顔色(がんしよく)誠(まこと)に解(とけ)て、「事以(もつて)不難、我必(かならず)越王(ゑつわう)の罪をば可申宥。」とて軈(やが)て呉王の陣へぞ参りける。 太宰(たいさい)■(ひ)即(すなはち)呉王の玉座(ぎよくざ)に近付(ちかづ)き、事の子細(しさい)を奏(そう)しければ、呉王大(おほき)に忿(いかつ)て、「抑(そもそも)呉と越と国を争ひ、兵を挙(あぐ)る事今日(こんにち)のみに非(あら)ず。然るに勾践(こうせん)運窮(きはまつ)て呉の擒(とりこ)となれり。是(これ)天の予(われ)に与へたるに非(あらず)や。汝(なんぢ)是(これ)を乍知勾践(こうせん)が命(いのち)を助けんと請ふ。敢(あへ)て非忠烈之臣。」宣(のたま)ひければ、太宰(たいさい)■(ひ)重(かさね)て申(まうし)けるは、「臣雖不肖、苛(いやしく)も将軍の号(がう)を被許、越の兵と戦(たたかひ)を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝(かつ)事(こと)を快(こころよ)くせり。是(これ)偏(ひとへ)に臣が丹心(たんしん)の功と云(いひ)つべし。 |
|
為君王の、天下の太平を謀(はか)らんに、豈(あに)一日も尽忠不傾心や。倩(つらつら)計事是非、越王(ゑつわう)戦に負(まけ)て勢(いきほひ)尽(つき)ぬといへ共(ども)、残処(のこるところ)の兵(つはもの)猶(なほ)三万余騎(よき)、皆逞兵鉄騎(ていへいてつき)の勇士也(なり)。呉の兵雖多昨日の軍(いくさ)に功有(あつ)て、自今後(のち)は身を全(まつたう)して賞を貪(むさぼら)ん事を思ふべし。越の兵は小勢(こぜい)なりといへ共(ども)志(こころざし)を一(ひとつ)にして、而(しか)も遁(のが)れぬ所を知れり。「窮鼠(きゆうそ)却(かへつて)噛猫、闘雀(とうじやく)不恐人」といへり。呉越重(かさね)て戦(たたか)はゞ、呉は必(かならず)危(あやふき)に可近る。不如先(まづ)越王(ゑつわう)の命を助け、一畝(いつぽ)の地(ち)を与(あたへ)て呉の下臣(かしん)と成さんには。 然(しか)らば君王呉越(ごゑつ)両国(りやうこく)を合(あは)するのみに非(あら)ず。斉(せい)・楚(そ)・秦(しん)・趙(てう)も悉く不朝云(いふ)事(こと)有(ある)べからず。是(これ)根を深くし蔕(ほぞ)を固(かたう)する道也(なり)。」と、理を尽(つくし)て申(まうし)ければ、呉王即(すなはち)欲(よく)に耽(ふけ)る心を逞(たくましう)して、「さらば早(はや)会稽山(くわいけいざん)の囲(かこみ)を解(とい)て勾践(こうせん)を可助。」宣ひける。太宰(たいさい)■(ひ)帰(かへつ)て大夫(たいふ)種(しゆう)に此由(このよし)を語(かた)りければ、大夫(たいふ)種(しよう)大(おほき)に悦(よろこう)で、会稽山(くわいけいざん)に馳(はせ)帰り、越王(ゑつわう)に此旨(このむね)を申せば、士卒皆(みな)色(いろ)を直(なほ)して、「出万死逢一生(いつしやう)、偏(ひとへ)に大夫(たいふ)種(しよう)が智謀(ちぼう)に懸(かか)れり。」と、喜ばぬ人も無(なか)りけり。越王(ゑつわう)已(すで)に降旗(かうき)を被建ければ、会稽(くわいけい)の囲(かこみ)を解(とい)て、呉の兵(つはもの)は呉に帰り、越の兵は越に帰る。 |
|
勾践(こうせん)即(すなはち)太子王■与(わうせきよ)をば、大夫(たいふ)種(しよう)に付(つけ)て本国へ帰し遣(つかは)し、我(わが)身は白馬素車(はくばそしや)に乗(のつ)て越の璽綬(じじう)を頚に懸(かけ)、自(みづか)ら呉の下臣(かしん)と称して呉の軍門に降(くだ)り給ふ。斯(かか)りけれ共(ども)、呉王猶(なほ)心ゆるしや無(なか)りけん、「君子(くんし)は不近刑人」とて、勾践(こうせん)に面(おもて)を不見給、剰(あまつさへ)勾践(こうせん)を典獄(てんごく)の官(くわん)に被下、日に行事一駅(えき)駆(く)して、呉の姑蘇城(こそじやう)へ入(いり)給ふ。其(その)有様を見る人、涙の懸(かか)らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着(つき)給へば、即(すなはち)手械(てかせ)足械(あしかせ)を入(いれ)て、土(つち)の楼(ろう)にぞ入(いれ)奉りける。 夜(よ)明(あけ)日(ひ)暮(くる)れ共(ども)、月日(つきひ)の光をも見給はねば、一生(いつしやう)溟暗(めいあん)の中(うち)に向(むかつ)て、歳月(としつき)の遷易(うつりかはる)をも知(しり)給はねば、泪(なみだ)の浮ぶ床(とこ)の上(うへ)、さこそは露も深かりけめ。去(さる)程に范蠡(はんれい)越の国に在(あつ)て此(この)事(こと)を聞(きく)に、恨(うらみ)骨髄(こつずゐ)に徹(とほつ)て難忍。哀(あはれ)何(いか)なる事をもして越王(ゑつわう)の命を助け、本国に帰り給へかし。諸共(もろとも)に謀(はかりごと)を廻(めぐ)らして、会稽山(くわいけいざん)の恥を雪(きよ)めんと、肺肝(はいかん)を砕(くだい)て思(おもひ)ければ、疲身替形、簀(あじか)に魚(うを)を入(いれ)て自ら是(これ)を荷(にな)ひ、魚(うを)を売(うる)商人(あきんど)の真似(まね)をして、呉国へぞ行(ゆき)たりける。姑蘇城の辺(ほとり)にやすらひて、勾践(こうせん)のをはする処を問(とひ)ければ、或人(あるひと)委(くはし)く教へ知(しら)せけり。 |
|
范蠡嬉しく思(おもひ)て、彼獄(かのごく)の辺(ほとり)に行(ゆき)たりけれ共(ども)、禁門(きんもん)警固(けいご)隙(ひま)無(なか)りければ、一行(いちがう)の書(しよ)を魚(うを)の腹の中に収(をさめ)て、獄(ごく)の中へぞ擲入(なげいれ)ける。勾践(こうせん)奇(あやし)く覚(おぼ)して、魚の腹を開(ひらい)て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書(かき)たりける。筆の勢(いきほひ)文章の体(てい)、まがふべくもなき范蠡(はんれい)が業(しわ)ざ也(なり)。と見給ひければ、彼(か)れ未だ憂世(うきよ)に存(ながら)へて、為我肺肝(はいかん)を尽(つく)しけりと、其(その)志の程哀(あはれ)にも又憑(たの)もしくも覚へけるにこそ、一日片時(へんし)も生(い)けるを憂(う)しとかこたれし我(わが)身ながらの命(いのち)も、却(かへつ)て惜(をし)くは思はれけれ。 斯(かか)りける処に、呉王夫差(ふさ)俄に石淋(せきりん)と云(いふ)病(やまひ)を受(うけ)て、身心(しんしん)鎮(とこしなへ)に悩乱(なうらん)し、巫覡(ぶげき)祈れ共(ども)無験、医師(いし)治(ぢ)すれ共(ども)不痊、露命(ろめい)已(すで)に危(あやふ)く見(み)へ給(たまひ)ける処に、侘国(たこく)より名医(めいい)来(きたつ)て申(まうし)けるは、「御病(おんやまひ)実(まこと)に雖重医師の術(じゆつ)及(およぶ)まじきに非(あら)ず。石淋(せきりん)の味(あぢはひ)を甞(なめ)て、五味(ごみ)の様(やう)を知(しら)する人あらば、輒(たやす)く可奉療治。」とぞ申(まうし)ける。 「さらば誰か此(この)石淋を甞(なめ)て其味(そのあぢはひ)をしらすべき」と問(とふ)に、左右(さいう)の近臣(きんしん)相顧(あひかへりみ)て、是(これ)を甞(なむ)る人更(さら)になし。勾践(こうせん)是(これ)を伝聞(つたへきい)て泪(なみだ)を押へて宣(のたまは)く、「我(われ)会稽(くわいけい)の囲(かこみ)に逢(あひ)し時已(すで)に被罰べかりしを、今に命(いのち)助置(たすけおか)れて天下の赦(ゆるし)を待(まつ)事(こと)、偏(ひとへ)に君王(くんわう)慈慧(じけい)の厚恩(こうおん)也(なり)。我(われ)今是(これ)を以て不報其恩何(いつ)の日をか期(ご)せん。」とて潛(ひそか)に石淋を取(とり)て是(これ)を甞(なめ)て其味(そのあぢはひ)を医師に被知。医師味(あぢはひ)を聞(きい)て加療治、呉王の病(やまひ)忽(たちまち)に平癒(へいゆつ)してげり。呉王大(おほき)に悦(よろこう)で、「人有心助我死、我(われ)何(なん)ぞ是(これ)を謝(しや)する心無(なか)らんや。」とて、越王(ゑつわう)を自楼出(いだ)し奉るのみに非(あら)ず。剰(あまつさへ)越の国を返し与へて、「本国へ返(かへ)り去(さる)べし。」とぞ被宣下ける。 |
|
爰(ここ)に呉王の臣伍子胥(ごししよ)と申(まうす)者、呉王を諌(いさめ)て申(まうし)けるは、「「天(てんの)与(あたふるを)不取却(かへつ)て得其咎」云へり。此(この)時越の地を不取勾践(こうせん)を返し被遣事(こと)、千里(せんり)の野辺(のべ)に虎を放つが如し。禍(わざはひ)可在近。」申(まうし)けれ共(ども)呉王是(これ)を不聞給、遂に勾践(こうせん)を本国へぞ被返ける。越王(ゑつわう)已(すで)に車(くるま)の轅(ながえ)を廻(めぐら)して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙(かはづ)其(その)数を不知車(くるまの)前(さき)に飛来(とびきたる)。勾践(こうせん)是(これ)を見給(たまひ)て、是(これ)は勇士を得て素懐(そくわい)を可達瑞相(ずゐさう)也(なり)。 とて、車より下(おり)て是(これ)を拝(はい)し給ふ。角(かく)て越の国へ帰(かへつ)て住来(すみこし)故宮(こきゆう)を見給へば、いつしか三年(みとせ)に荒(あれ)はて、梟(ふくろふ)鳴松桂枝狐(きつね)蔵蘭菊叢、無払人閑庭(かんてい)に落葉(らくえふ)満(みち)て簫々(せうせう)たり。越王(ゑつわう)免死帰給(かへりたまひ)ぬと聞へしかば、范蠡(はんれい)王子(わうじ)王■与(わうせきよ)を宮中(きゆうちゆう)へ入(いれ)奉りぬ。越王(ゑつわう)の后(きさき)に西施(せいし)と云(いふ)美人座(おはし)けり。容色(ようしよく)勝世嬋娟(せんげん)無類しかば、越王(ゑつわう)殊に寵愛(ちようあい)甚しくして暫くも側(そば)を放れ給はざりき。越王(ゑつわう)捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給(たまひ)たりしが、越王(ゑつわう)帰(かへり)給ふ由を聞(きき)給ひて則(すなはち)後宮(こうきゆう)に帰り参り玉(たま)ふ。 年の三年(みとせ)を待(まち)わびて堪(たへ)ぬ思(おもひ)に沈玉(しづみたまひ)ける歎(なげき)の程も呈(あらは)れて、鬢(びん)疎(おろそ)かに膚(はだへ)消(きえ)たる御形(おんかたち)最(いと)わりなくらうたけて、梨花(りくわ)一枝(いつし)春(はるの)雨(あめ)に綻(ほころ)び、喩(たと)へん方も無(なか)りけり。公卿(こうけい)・大夫(たいふ)・文武百司(ぶんぶはくし)、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)集りける間(あひだ)、軽軒(けいけん)馳紫陌塵冠珮(ぐわんぱい)鎗丹■月、堂上(だうじやう)堂下(だうか)如再開花。斯(かか)りける処に自呉国使者(ししや)来れり。越王(ゑつわう)驚(おどろい)て以范蠡事の子細(しさい)を問(とひ)給ふに、使者答曰(こたへていはく)、「我君(わがきみ)呉王大王(だいわう)好婬重色尋美人玉(たま)ふ事天下に普(あまね)し。而(しか)れ共(ども)未だ如西施不見顔色。越王(ゑつわう)出会稽山(くわいけいざん)囲時有一言約。早く彼(かの)西施を呉の後宮(こうきゆう)へ奉傅入、備后妃位。」使(つかひ)也(なり)。越王(ゑつわう)聞之玉(たまひ)て、「我(われ)呉王夫差が陣に降(くだつ)て、忘恥甞石淋助命事(こと)、全(まつたく)保国身を栄(さか)やかさんとには非(あら)ず、只西施(せいし)に為結偕老契なりき。生前(しやうぜん)に一度(ひとたび)別(わかれ)て死して後(のち)期再会、保万乗国何(なに)かせん。 |
|
されば縦(たと)ひ呉越の会盟(くわいめい)破れて二度(ふたたび)我(われ)為呉成擒共(とも)、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡(はんれい)流涙申(まうし)けるは、「誠(まこと)に君展転(てんてん)の思(おもひ)を計(はか)るに、臣非不悲云へ共(ども)、若(もし)今西施を惜(をしみ)給はゞ、呉越の軍(いくさ)再び破(やぶれ)て呉王又可発兵。去程(さるほど)ならば、越(ゑつの)国(くに)を呉に被合のみに非(あら)ず、西施をも可奪、社稷(しやしよく)をも可被傾。臣倩(つらつら)計(はか)るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮(こうきゆう)に入(いり)給ふ程ならば、呉王是(これ)に迷(まよひ)て失政事非所疑。国(くに)費(つひ)へ民背(そむか)ん時に及(およん)で、起兵被攻呉勝(かつ)事(こと)を立処(たちどころ)に可得つ。是(これ)子孫万歳(しそんばんぜい)に及(およん)で、夫人(ふじん)連理(れんり)の御契(おんちぎり)可久道となるべし。」と、一度(ひとたび)は泣(なき)一度(ひとたび)は諌(いさめ)て尽理申(まうし)ければ、越王(ゑつわう)折理西施を呉国へぞ被送ける。 西施は小鹿(をじか)の角(つの)のつかの間(ま)も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼(いとけ)なき太子王■与(わうせきよ)をも不云知思置(おもひおき)、ならはぬ旅に出(いで)玉へば、別(わかれ)を慕(したふ)泪(なみだ)さへ暫(しば)しが程も止(とどま)らで、袂(たもと)の乾(かわ)く隙(ひま)もなし。越王(ゑつわう)は又是(これ)や限(かぎり)の別(わかれ)なる覧(らん)と堪(たへ)ぬ思(おもひ)に臥沈(ふししづみ)て、其方(そなた)の空を遥々(はるばる)と詠(なが)めやり玉へば、遅々(ちち)たる暮山(ぼざん)の雲いとゞ泪(なみだ)の雨となり、虚(むな)しき床(ゆか)に独(ひとり)ねて、夢にも責(せめ)て逢見(あひみ)ばやと欹枕臥(ふし)玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉(なげきたま)ふもげに理(ことわ)りなり。彼(かの)西施(せいし)と申(まうす)は天下第一(だいいち)の美人也(なり)。妝(よそほひ)成(なつ)て一度(ひとたび)笑(ゑめ)ば百(もも)の媚(こび)君(きみ)が眼(まなこ)を迷(まよは)して、漸(やうやく)池上(ちじやう)に無花歟(か)と疑ふ。艷(えん)閉(とぢ)て僅(わづか)に見れば千態(ちぢのすがた)人の心を蕩(とらか)して忽(たちまち)に雲間(くもま)に失月歟(か)と奇(あや)しまる。 |
|
されば一度(ひとたび)入宮中君王(くんわう)の傍(かたはら)に侍(はんべり)しより、呉王の御心(おんこころ)浮(うか)れて、夜(よる)は終夜(よもすが)ら婬楽(いんらく)をのみ嗜(たしなん)で、世の政(まつりごと)をも不聞、昼(ひる)は尽日(ひねもすに)遊宴(いうえん)をのみ事として、国の危(あやふき)をも不顧。金殿(きんでん)挿雲、四辺(しへん)三百里が間(あひだ)、山河(さんか)を枕の下に直下(みおろし)ても、西施の宴(えん)せし夢の中(うち)に興(きよう)を催さん為なりき。輦路(れんろ)に無花春(はるの)日は、麝臍(じやせい)を埋(うづみ)て履(くつ)を熏(にほは)し、行宮(あんきゆう)に無月夏の夜(よ)は、蛍火(けいくわ)を集(あつめ)て燭(とぼしび)に易(か)ふ。 婬乱重日更(さらに)無止時しかば、上(かみ)荒(すさみ)下(しも)廃(すた)るれ共(ども)、佞臣(ねいしん)は阿(おもねつ)て諌(いさめ)せず。呉王(ごわう)万事酔(ゑひて)如忘。伍子胥(ごししよ)見之呉王を諌(いさめ)て申(まうし)けるは、「君不見殷(いんの)紂王(ちうわう)妲妃(だつき)に迷(まよひ)て世を乱り、周(しう)の幽王(いうわう)褒■(はうじ)を愛して国を傾(かたぶけし)事(こと)を。君今西施(せいし)を婬(いん)し給へる事過之。国の傾敗(けいはい)非遠に。願(ねがはく)は君止之給へ。」と侵言顔諌申(いさめまうし)けれ共(ども)、呉王敢(あへ)て不聞給。或時(あるとき)又呉王西施に為宴、召群臣南殿(なんでん)の花(はな)に酔(ゑひ)を勧(すす)め給(たまひ)ける処に、伍子胥(ごししよ)威儀を正(ただ)しくして参(まゐり)たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階(えうかい)を登るとて、其裾(そのもすそ)を高くかゝげたる事恰(あたかも)如渉水時。 |
|
其怪(そのあやし)き故を問(とふ)に、伍子胥(ごししよ)答申(こたへてまうし)けるは、「此(この)姑蘇台(こそだい)越王(ゑつわう)の為に被亡、草深く露滋(しげ)き地とならん事非遠。臣若(もし)其(それ)迄命(いのち)あらば、住(すみ)こし昔の迹(あと)とて尋見(たづねみ)ん時、さこそは袖より余(あま)る荊棘(けいぎよく)の露も、■々(じやうじやう)として深からんずらめと、行末(ゆくすゑ)の秋を思ふ故(ゆゑ)に身を習はして裙(もすそ)をば揚(あぐ)る也(なり)。」とぞ申(まうし)ける。忠臣諌(いさめ)を納(いる)れ共(ども)、呉王曾(かつ)て不用給しかば、余(あまり)に諌(いさめ)かねて、よしや身を殺して危(あやふ)きを助けんとや思(おもひ)けん、伍子胥(ごししよ)又或時(あるとき)、只今新(あらた)に砥(と)より出(いで)たる青蛇(せいじや)の剣(けん)を持(もち)て参りたり。 抜(ぬい)て呉王の御前(おんまへ)に拉(とりひしい)で申(まうし)けるは、「臣此剣(このけん)を磨(とぐ)事(こと)、退邪払敵為(ため)也(なり)。倩(つらつら)国の傾(かたぶか)んとする其基(そのもとゐ)を尋(たづ)ぬれば、皆西施より出(いで)たり。是(これ)に過(すぎ)たる敵(てき)不可有。願(ねがはく)は刎西施首、社稷(しやしよく)の危(あやふき)を助けん。」と云(いひ)て、牙(きば)を噛(かみ)て立(たつ)たりければ、忠言(ちゆうげん)逆耳時(とき)君不犯非云(いふ)事(こと)なければ、呉王大(おほき)に忿(いかつ)て伍子胥(ごししよ)を誅(ちゆう)せんとす。伍子胥(ごししよ)敢(あへ)て是(これ)を不悲。「争(あらそ)い諌(いさ)めて死節是(これ)臣下(しんか)の則(のり)也(なり)。我(われ)正(まさ)に越の兵(つはもの)の手に死なんよりは、寧(むしろ)君王(くんわう)の手に死(しなん)事(こと)恨(うらみ)の中の悦(よろこび)也(なり)。但(ただ)し君王臣が忠諌(ちゆうかん)を忿(いかつ)て吾(われ)に賜死事(こと)、是(これ)天已(すで)に棄君也(なり)。 |
|
年(みとせ)を不可過。願(ねがはく)は臣が穿両眼呉の東門(とうもん)に掛(かけ)られて、其後(そののち)首(くび)を刎(はね)給へ。一双(いつさう)の眼(まなこ)未枯前(いまだかれざるさき)に、君勾践(こうせん)に被亡て死刑に赴(おもむ)き給はんを見て、一笑(いつせう)を快(こころよ)くせん。」と申(まうし)ければ、呉王弥(いよいよ)忿(いかつ)て即(すなはち)伍子胥(ごししよ)を被誅、穿其両眼呉の東門(とうもんの)幢(はたほこの)上(うへ)にぞ被掛ける。斯(かか)りし後(のち)は君悪(あく)を積(つめ)ども臣敢(あへ)て不献諌、只群臣(ぐんしん)口(くち)を噤(つぐ)み万人(ばんにん)目を以(もつ)てす。 范蠡(はんれい)聞之、「時已(すで)に到りぬ。」と悦(よろこう)で、自(みづから)二十万騎(にじふまんぎ)の兵を率(そつ)して、呉国へぞ押寄(おしよせ)ける。呉王夫差(ふさ)は折節(をりふし)晋国(しんのくに)呉を叛(そむく)と聞(きい)て、晋国へ被向たる隙(ひま)なりければ、防ぐ兵(つはもの)一人(いちにん)もなし。范蠡(はんれい)先(まづ)西施を取返(とりかへ)して越王(ゑつわう)の宮(きゆう)へ帰(かへ)し入(いれ)奉り、姑蘇台(こそだい)を焼掃(やきはら)ふ。斉(せい)・楚(そ)の両国(りやうごく)も越王(ゑつわう)に志(こころざし)を通(つう)ぜしかば、三十万騎(さんじふまんぎ)を出(いだ)して范蠡(はんれい)に戮力。呉王聞之先(まづ)晋国の戦(たたかひ)を閣(さしおい)て、呉国へ引返(ひつかへ)し、越に戦(たたかひ)を挑(いどまん)とすれば、前(まへ)には呉(ご)・越(ゑつ)・斉(せい)・楚(そ)の兵(つはもの)如雲霞の、待懸(まちかけ)たり。後(うしろ)には又晋国の強敵(がうてき)乗勝追懸(おつかけ)たり。 呉王大敵に前後(ぜんご)を裹(つつま)れて可遁方(かた)も無(なか)りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手(あらて)を入替(いれかへ)て不継息攻(せめ)ける間、呉の兵三万余人(よにん)討(うた)れて僅(わづか)に百騎に成(なり)にけり。呉王自(みづから)相当(あひあた)る事三十二箇度(さんじふにかど)、夜半(やはん)に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山(こそざん)に取上(とりのぼ)り、越王(ゑつわう)に使者(ししや)を立(たて)て曰(いはく)、「君王(くんわう)昔会稽山(くわいけいざん)に苦(くるしみ)し時臣(しん)夫差(ふさ)是(これ)を助(たすけ)たり。願(ねがはく)は吾(われ)今より後(のち)越の下臣(かしん)と成(なつ)て、君王の玉趾(ぎよくし)を戴(いただか)ん。君若(もし)会稽(くわいけい)の恩を不忘、臣が今日(こんにち)の死を救ひ給へ。」と言(ことば)を卑(いやしう)し厚礼降(かう)せん事をぞ被請ける。越王(ゑつわう)聞之古(いにしへ)の我が思ひに、今人(こんじん)の悲(かなし)みさこそと哀(あはれ)に思知給(おもひしりたまひ)ければ、呉王を殺に不忍、救其死思(おもひ)給へり。范蠡(はんれい)聞之、越王(ゑつわう)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て犯面申(まうし)けるは、「伐柯其則(そののり)不遠。会稽(くわいけい)の古(いにしへ)は天越(ゑつ)を呉(ご)に君越王(ゑつわう)の為に滅(ほろぼさ)れて、刑戮(けいりく)の罪に伏(ふくせ)ん事(こと)、三与へたり。 |
|
而(しかる)を呉王取(とる)事(こと)無(なう)して忽(たちまち)に此害(このがい)に逢(あへ)り。今却(かへつ)て天越(ゑつ)に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢(あふ)べし。君臣共(とも)に肺肝(はいかん)を砕(くだい)て呉を謀(はか)る事二十一年、一朝(いつてう)にして棄(すて)ん事豈(あに)不悲乎(や)。君行非時(ときに)不顧臣の忠(ちゆう)也(なり)。」と云(いひ)て、呉王の使者未(いまだ)帰(かへらざる)前(さき)に、范蠡自(みづから)攻鼓(せめつづみ)を打(うつ)て兵を勧(すす)め、遂に呉王を生捕(いけどつ)て軍門の前に引出(ひきいだ)す。呉王已(すで)に被面縛、呉の東門(とうもん)を過(すぎ)給ふに、忠臣伍子胥(ごししよ)が諌(いさめ)に依(よつ)て、被刎首時、幢(はたほこ)の上(うへ)に掛(かけ)たりし一双(いつさう)の眼(まなこ)、三年(みとせ)まで未枯(いまだかれず)して有(あり)けるが、其眸(そのまなじり)明(あきらか)に開(ひら)け、相見(あひみ)て笑(わら)へる気色(きしよく)なりければ、呉王是(これ)に面(おもて)を見(みゆる)事(こと)さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当(おしあて)て低首過(すぎ)給ふ。 数万(すまん)の兵見之涙を流さぬは無(なか)りけり。即(すなはち)呉王を典獄(てんごく)の官(くわん)に下(くだ)され、会稽山(くわいけいざん)の麓にて遂に首(くび)を刎(はね)奉る。古来(こらい)より俗(ぞく)の諺(ことわざに)曰(いはく)、「会稽(くわいけい)の恥を雪(きよ)むる。」とは此(この)事(こと)を云(いふ)なるべし。自是越王(ゑつわう)呉を合(あは)するのみに非(あら)ず、晉(しん)・楚(そ)・斉(せい)・秦(しん)を平(たひら)げ、覇者(はしや)の盟主(めいしゆ)と成(なり)しかば、其功(そのこう)を賞(しやう)して范蠡(はんれい)を万戸侯(ばんここう)に封(ほう)ぜんとし給ひしか共(ども)、范蠡(はんれい)曾(かつ)て不受其禄(そのろくを)、「大名(たいめい)の下(もと)には久(ひさし)く不可居る、功成(なり)名遂(とげて)而身退(しりぞく)は天の道也(なり)。」とて、遂(つひ)に姓名を替(か)へ陶朱公(たうしゆこう)と呼(よばは)れて、五湖(ごこ)と云(いふ)所(ところ)に身を隠し、世を遁(のがれ)てぞ居たりける。 釣(つり)して芦花(ろくわ)の岸に宿(しゆく)すれば、半蓑(はんさ)に雪を止(とど)め、歌(うたうたう)て楓葉(ふうえふ)の陰(かげ)を過(すぐ)れば、孤舟(こしう)に秋を戴(のせ)たり。一蓬(いつぽう)の月(つきは)万頃(ばんきやう)の天、紅塵(こうぢん)の外(ほか)に遊(あそん)で、白頭(はくとう)の翁(おきな)と成(なり)にけり。高徳(たかのり)此(この)事(こと)を思准(おもひなぞ)らへて、一句の詩に千般(せんぱん)の思(おもひ)を述べ、窃(ひそか)に叡聞(えいぶん)にぞ達(たつし)ける。去程(さるほど)に先帝(せんてい)は、出雲(いづも)の三尾(みを)の湊(みなと)に十(じふ)余日(よにち)御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、順風(じゆんぷう)に成(なり)にければ、舟人(ふなうど)纜(ともづな)を解(とい)て御艤(ふなよそひ)して、兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)、前後左右に漕並(こぎなら)べて、万里(ばんり)の雲に沿(さかのぼる)。 |
|
時に滄海(さうかい)沈々(ちんちん)として日没西北浪、雲山(うんざん)迢々(でうでう)として月出東南天、漁舟(ぎよしう)の帰る程見へて、一灯(とう)柳岸(りうがん)に幽(かすか)也(なり)。暮(くる)れば芦岸(ろがん)の煙(けぶり)に繋船、明(あく)れば松江(すんがう)の風に揚帆、浪路(なみぢ)に日数(ひかず)を重(かさ)ぬれば、都を御出(おんいで)有(あつ)て後(のち)二十六日と申(まうす)に、御舟(おんふね)隠岐(おき)の国に着(つき)にけり。佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官(はんぐわん)貞清(さだきよ)、府(こふ)の嶋(しま)と云(いふ)所に、黒木(くろき)の御所(ごしよ)を作(つくり)て皇居(くわうきよ)とす。玉■(ぎよくい)に咫尺(しせき)して被召仕ける人とては、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、頭大夫(とうのたいふ)行房(ゆきふさ)、女房(にようばう)には三位殿(さんみどの)の御局許(おんつぼねばかり)也(なり)。 昔の玉楼金殿(ぎよくろうきんでん)に引替(ひきかへ)て、憂(うき)節(ふし)茂(しげ)き竹椽(たけたるき)、涙(なみだ)隙(ひま)なき松の墻(かき)、一夜(ひとよ)を隔(へだつ)る程も可堪忍御心地(おんここち)ならず。■人(けいじん)暁(あかつき)を唱(となへ)し声、警固(けいご)の武士(ぶし)の番(とのゐ)を催(もよほ)す声許(ばか)り、御枕(おんまくら)の上(うへ)に近ければ、夜(よん)のをとゞに入(いら)せ給(たまひ)ても、露まどろませ給はず。萩戸(はぎのと)の明(あく)るを待(まち)し朝政(あさまつりごと)なけれ共(ども)、巫山(ぶざん)の雲雨(うんう)御夢(おんゆめ)に入(いる)時も、誠(まこと)に暁(あかつき)ごとの御勤(おんつとめ)、北辰(ほくしん)の御拝(ごはい)も懈(おこた)らず、今年何(いか)なる年(とし)なれば、百官無罪愁(うれへ)の涙(なんだ)を滴配所月、一人(いちじん)易位宸襟(しんきん)を悩他郷風給(たまふ)らん。天地開闢(てんちかいびやく)より以来(このかた)斯(かか)る不思議(ふしぎ)を不聞。されば掛天日月も、為誰明(あきらか)なる事を不恥。無心草木も悲之花(はな)開(さく)事(こと)を忘(わすれ)つべし。 |
|
■太平記 巻第五 | |
■持明院殿(ぢみやうゐんどの)御即位(ごそくゐの)事(こと)
元弘(げんこう)二年三月二十二日に、後伏見院(ごふしみのゐんの)第一(だいいちの)御子(おんこ)、御年(おんとし)十九にして、天子(てんし)の位(くらゐ)に即(つか)せ給ふ。御母(おんはは)は竹内(たけのうちの)左大臣公衡(きんひら)の御娘(むすめ)、後(のち)には広義門院(くわうぎもんゐん)と申(まうせ)し御事(おこと)也(なり)。同(おなじき)年十月二十八日に、河原(かはら)の御禊(おんはらひ)あ(つ)て、十一月十三日に大嘗会(だいじやうゑ)を被遂行。関白は鷹司(たかづかさ)の左大臣冬教(ふゆのり)公(こう)、別当は日野(ひの)中納言資名(すけなの)卿(きやう)にてぞをはしける。いつしか当今奉公(たうぎんほうこう)の人々は、皆一時に望(のぞみ)を達して門前(もんぜん)市(いち)を成(な)し、堂上(だうじやう)花(はな)の如し。中にも梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)は、天台座主(てんだいのざす)に成(なら)せ給(たまひ)て、大塔(おほたふ)・梨本(なしもと)の両門迹を合(あは)せて、御管領(ごくわんりやう)有(あり)しかば、御門徒(ごもんと)の大衆(だいしゆ)群集(くんじゆ)して、御拝堂(ごはいだう)の儀式(ぎしき)厳重(げんちよう)也(なり)。加之(しかのみならず)御室(おむろ)の二品(にほん)親王(しんわう)法守(ほふしゆ)、仁和寺(にんわじ)の御門迹(ごもんぜき)に御移(おんうつり)有(あつ)て、東寺一流(とうじいちりう)の法水(ほつすゐ)を湛(たた)へて、北極(ほつきよく)万歳(ばんぜい)の聖運(せいうん)を祈り給ふ。是(これ)皆後伏見(ごふしみの)院(ゐん)の御子(おんこ)、今上(きんじやう)皇帝の御連枝(ごれんし)也(なり)。 |
|
■宣房(のぶふさの)卿(きやう)二君(じくん)奉公(ほうこうの)事(こと)
万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさのきやう)は、元来(もとより)前朝旧労(ぜんてうきうらう)の寵臣(ちようしん)にてをはせし上(うへ)、子息藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)笠置(かさぎ)の城にて被生捕て、被処遠流しかば、父の卿(きやう)も罪科(ざいくわ)深き人にて有(ある)べかりしを、賢才(けんさい)の聞へ有(あり)とて、関東(くわんとう)以別儀其罪を宥(なだ)め、当今(たうぎん)に可被召仕之(めしつかはるべきの)由(よし)奏し申す。依之(これによつて)日野(ひのの)中納言資明(すけあきらの)卿(きやう)を勅使(ちよくし)にて、此旨(このむね)を被仰下ければ、宣房(のぶふさの)卿(きやう)勅使に対して被申けるは、「臣雖不肖之身、以多年奉公之労蒙君恩寵、官禄(くわんろく)共に進(すすみ)、剰(あまつさへ)汚政道輔佐之名。「事君之礼、値其有罪、犯厳顔、以道諌諍、三諌不納奉身以退、有匡正之忠無阿順之従、是良臣之節也(なり)。若見可諌而不諌、謂之尸位。見可退而不退、謂之懐寵。々々尸位国之奸人也(なり)。」と云(いへ)り。 君(きみ)今不義の行(おこなひ)をはして、為武臣被辱給へり。是(これ)臣が予(あらかじめ)依不知処雖不献諌言世人豈(あに)其(その)無罪許(ゆるさん)哉(や)。就中(このなかに)長子(ちやうし)二人(ににん)被処遠流之罪。我(われ)已(すでに)七旬(しちじゆん)の齢(よはひ)に傾(かたぶ)けり。後栄為誰にか期(ご)せん。前非(ぜんぴ)何(なんぞ)又恥(はぢ)ざらんや。二君(じくん)の朝(てう)に仕(つかへ)て辱(はぢ)を衰老(すゐらう)の後(のち)に抱(いだ)かんよりは、伯夷(はくい)が行(かう)を学(まなび)て飢(うゑ)を首陽(しゆやう)の下(もと)に忍ばんには不如。」と、涙を流(ながし)て宣ひければ、資明(すけあきらの)卿(きやう)感涙を押(おさ)へ兼(かね)て暫(しばし)は言(もの)をも宣(のたま)はず。良有(ややあつ)て宣ひけるは、「「忠臣不必択主、見仕而可治而已(のみ)也(なり)。」といへり。 去(され)ば百里奚(はくりけい)は二(ふたたび)仕秦穆公永(ながく)令致覇業、管夷吾(くわんいごは)翻(かへつて)佐斉桓公、九(ここのたび)令朝諸侯。主(しゆ)無以道射鉤之罪、世不皆奈鬻皮之恥といへり。就中武家(ぶけ)如此許容の上は、賢息(けんそく)二人(ににん)の流罪(るざいをも)争(いかでか)無赦免御沙汰乎(や)、夫(それ)伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせいは)飢(うゑ)て何(なに)の益(えき)か有(あり)し。許由(きよいう)・巣父(さうふ)遁(のがれ)て不足用。抑(そもそも)隠身永(ながく)断来葉之一跡、与仕朝遠(とほく)耀前祖之無窮、是非得失(ぜひとくしつ)有何処乎(や)。与鳥獣同群孔子(こうしの)所不執也(なりと)。」資明(すけあきらの)卿(きやう)理(り)を尽(つく)して被責ければ。宣房卿(のぶふさのきやう)顔色(がんしよく)誠(まこと)に屈伏(くつふく)して、「「以罪棄生、則違古賢夕改之勧、忍垢苟全則犯詩人胡顔之譏」と、魏(ぎ)の曹子建(さうしけん)が詩を献(けん)ぜし表(へう)に書(かき)たりしも、理(ことわり)とこそ存ずれ。」とて、遂に参仕(さんじ)の勅答をぞ被申ける。 |
|
■中堂(ちゆうだう)新常灯(しんじやうとう)消(きゆる)事(こと)
其比(そのころ)都鄙(とひ)の間(あひだ)に、希代(きたい)の不思議共(ふしぎども)多かりけり。山門の根本中堂(こんぽんちゆうだう)の内陣(ないぢん)へ山鳩(やまばと)一番(ひとつがひ)飛来(とびきたつ)て、新常灯(しんじやうとう)の油錠(あぶらつき)の中に飛入(とびいつ)て、ふためきける間、灯明(とうみやう)忽(たちまち)に消(きえ)にけり。此(この)山鳩、堂中(だうちゆう)の闇(くら)さに行方(ゆきかた)に迷ふて、仏壇(ぶつだん)の上に翅(つばさ)を低(たれ)て居たりける処に、承塵(なげし)の方(かた)より、其(その)色朱(しゆ)を指(さし)たる如くなる鼠狼(いたち)一つ走り出で、此(この)鳩を二(ふた)つながら食殺(くひころし)てぞ失(うせ)にけり。抑(そもそも)此(この)常灯と申(まうす)は、先帝(せんてい)山門へ臨幸(りんかう)成(なり)たりし時、古(いにしへ)桓武(くわんむ)皇帝の自(みづか)ら挑(かかげ)させ給(たまひ)し常燈に準(なぞら)へて、御手(おんて)づから百二十筋(ひやくにじふすぢ)の燈心(とうしん)を束(つか)ね、銀の御錠(おんあぶらつき)に油を入(いれ)て、自(みづから)掻立(かきたて)させ給(たまひ)し燈明(とうみやう)也(なり)。 是(これ)偏(ひとへ)に皇統の無窮(ぶきゆう)を耀(かかやか)さん為の御願(ごぐわん)、兼(かね)ては六趣(ろくしゆ)の群類(ぐんるゐ)の暝闇(みやうあん)を照(てら)す、慧光法燈(ゑくわうほふとう)の明(あきらか)なるに、思食準(おぼしめしなぞら)へて被始置し常燈なれば、未来永劫(えいごふ)に至(いたる)迄消(きゆ)る事なかるべきに、鴿鳩(やまばと)の飛来(とびきたり)て打消(うちけし)けるこそ不思議(ふしぎ)なれ。其(それ)を玄獺(いたち)の食殺(くひころ)しけるも不思議(ふしぎ)也(なり)。 |
|
■相摸(さがみ)入道弄田楽(でんがくをもてあそぶ)並(ならびに)闘犬(とうけんの)事(こと)
又其比(そのころ)洛中(らくちゆう)に田楽(でんがく)を弄(もてあそぶ)事(こと)昌(さかん)にして、貴賎挙(こぞつ)て是(これ)に着(ぢやく)せり。相摸(さがみ)入道此(この)事(こと)を聞及(ききおよ)び、新座(しんざ)・本座(ほんざ)の田楽(でんがく)を呼下(よびくだ)して、日夜朝暮(にちやてうぼ)に弄(もてあそぶ)事(こと)無他事。入興(じゆきよう)の余(あまり)に、宗(むね)との大名達に田楽法師(でんがくぼふし)を一人づゝ預(あづけ)て装束(しやうぞく)を飾(かざ)らせける間、是(これ)は誰がし殿(どの)の田楽(でんがく)、彼(かれは)何がし殿(どの)の田楽(でんがく)なんど云(いひ)て、金銀珠玉(きんぎんしゆぎよく)を逞(たくましく)し綾羅錦繍(りようらきんしう)を妝(かざ)れり。宴に臨(のぞん)で一曲(いつきよく)を奏(そう)すれば、相摸(さがみ)入道(にふだう)を始(はじめ)として一族(いちぞくの)大名我(われ)劣らじと直垂(ひたたれ)・大口(おほくち)を解(ぬい)で抛出(なげいだ)す。 是(これ)を集(あつめ)て積(つむ)に山の如し。其弊(そのつひ)へ幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。或夜(あるよ)一献(いつこん)の有(あり)けるに、相摸(さがみ)入道(にふだう)数盃(すはい)を傾(かたむ)け、酔(ゑひ)に和(くわ)して立(たち)て舞(まふ)事(こと)良(やや)久し。若輩(じやくはい)の興(きよう)を勧(すすむ)る舞にてもなし。又狂者(きやうしや)の言(ことば)を巧(たくみ)にする戯(たはむれ)にも非(あら)ず。四十有余(しじふいうよ)の古(ふる)入道、酔狂(すゐきやう)の余(あまり)に舞ふ舞なれば、風情(ふぜい)可有共(とも)覚(おぼえ)ざりける処に、何(いづ)くより来(きたる)とも知(しら)ぬ、新坐(しんざ)・本座(ほんざ)の田楽共(でんがくども)十(じふ)余人(よにん)、忽然(こつぜん)として坐席(ざせき)に列(つらなつ)てぞ舞歌(まひうた)ひける。其(その)興(きよう)甚(はなはだ)尋常(よのつね)に越(こえ)たり。暫有(しばらくあつ)て拍子(ひやうし)を替(かへ)て歌ふ声を聞けば、「天王寺(てんわうじ)のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子(はやし)ける。 或官女(あるくわんぢよ)此(この)声を聞(きい)て、余(あまり)の面白さに障子(しやうじ)の隙(ひま)より是(これ)を見るに、新坐・本座の田楽共(でんがくども)と見へつる者一人も人(ひと)にては無(なか)りけり。或(あるひは)觜(くちばし)勾(かがまつ)て鵄(とび)の如くなるもあり、或(あるひ)は身に翅(つばさ)在(あつ)て其(その)形(かたち)山伏(やまぶし)の如くなるもあり。異類異形(いるゐいぎやう)の媚者(ばけもの)共が姿を人に変(へん)じたるにてぞ有(あり)ける。官女是(これ)を見て余(あま)りに不思議(ふしぎ)に覚(おぼえ)ければ、人を走(はし)らかして城入道(じやうのにふだう)にぞ告(つげ)たりける。入道取物(とるもの)も取敢(とりあへ)ず、太刀を執(とつ)て其酒宴(そのしゆえん)の席に臨む。中門(ちゆうもん)を荒らかに歩(あゆみ)ける跫(あしおと)を聞(きい)て、化物(ばけもの)は掻消様(かきけすやう)に失(う)せ、相摸(さがみ)入道(にふだう)は前後(ぜんご)も不知酔伏(ゑひふし)たり。燈(とぼしび)を挑(かかげ)させて遊宴の座席を見るに、誠(まこと)に天狗(てんぐ)の集(あつま)りけるよと覚(おぼえ)て、踏汚(ふみけが)したる畳(たたみ)の上(うへ)に禽獣(きんじう)の足迹(あしあと)多し。城(じやうの)入道、暫く虚空(こくう)を睨(にらん)で立(たち)たれ共、敢て眼(まなこ)に遮(さへぎ)る者もなし。 |
|
良(やや)久(ひさしう)して、相摸(さがみ)入道(にふだう)驚覚(おどろきさめ)て起(おき)たれ共(ども)、惘然(ばうぜん)として更に所知なし。後日(ごじつ)に南家(なんけ)の儒者(じゆしや)刑部少輔(ぎやうぶのせう)仲範(なかのり)、此(この)事(こと)を伝聞(つたへきい)て、「天下将(まさに)乱(れんとする)時、妖霊星(えうれいぼし)と云(いふ)悪星(あくしやう)下(くだつ)て災(わざはひ)を成すといへり。而(しか)も天王寺(てんわうじ)は是(これ)仏法最初の霊地(れいち)にて、聖徳太子(しやうとくたいし)自(みづから)日本(につぽん)一州の未来記(みらいき)を留(とどめ)給へり。されば彼媚者(かのばけもの)が天王寺(てんわうじ)の妖霊星と歌ひけるこそ怪(あや)しけれ。 如何様(いかさま)天王寺(てんわうじ)辺(へん)より天下の動乱(どうらん)出来(いでき)て、国家敗亡(はいばう)しぬと覚ゆ。哀(あはれ)国主(こくしゆ)徳を治(をさ)め、武家仁(じん)を施(ほどこ)して消妖謀(はかりごと)を被致よかし。」と云(いひ)けるが、果して思知(おもひしら)るゝ世に成(なり)にけり。彼(かの)仲範実(まこと)に未然(みぜん)の凶(きよう)を鑒(かんがみ)ける博覧の程こそ難有けれ。相摸(さがみ)入道(にふだう)懸(かか)る妖怪(えうくわい)にも不驚、益々(ますます)奇物(きぶつ)を愛する事止(やむ)時なし。或(ある)時庭前(ていぜん)に犬共集(あつまり)て、噛合(かみあ)ひけるを見て、此(この)禅門面白き事に思(おもひ)て、是(これ)を愛する事骨髄(こつずゐ)に入れり。則(すなはち)諸国へ相触(あひふれ)て、或(あるひ)は正税(しやうぜい)・官物(くわんもつ)に募(つの)りて犬を尋(たづね)、或(あるひ)は権門高家(けんもんかうけ)に仰(おほせ)て是(これ)を求(もとめ)ける間、国々の守護(しゆご)国司(こくし)、所々(しよしよ)の一族(いちぞく)大名(だいみやう)、十疋(じつびき)二十疋(にじつびき)飼立(かひたて)て、鎌倉(かまくら)へ引進(ひきまゐら)す。 是(これ)を飼(かふ)に魚鳥(ぎよてう)を以てし、是(これ)を維(つな)ぐに金銀を鏤(ちりば)む。其弊(そのつひえ)甚(はなはだ)多し。輿(こし)にのせて路次(ろし)を過(すぐ)る日(ひ)は、道を急ぐ行人(かうじん)も馬(むま)より下(おり)て是(これ)に跪(ひざまづ)き、農(のう)を勤(つとむ)る里民(りみん)も、夫(ぶ)に被取て是(これ)を舁(かき)、如此賞翫(しやうぐわん)不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬(きけん)、鎌倉中(かまくらぢゆう)に充満(じゆうまん)して四五千疋(しごせんびき)に及べり。月に十二度(じふにど)犬合(いぬあは)せの日とて被定しかば、一族(いちぞく)大名御内外様(みうちとざま)の人々、或(あるひ)は堂上(だうじやう)に坐(ざ)を列ね、或(あるひは)庭前(ていぜん)に膝を屈(くつ)して見物(けんぶつ)す。于時両陣の犬共を、一二百疋(いちにひやつぴき)充(づつ)放(はな)し合せたりければ、入り違ひ追合(おひあう)て、上に成(なり)下に成(なり)、噛合(かみあふ)声天を響(ひびか)し地を動(うごか)す。心なき人は是(これ)を見て、あら面白や、只戦(たたかひ)に雌雄(しゆう)を決するに不異と思ひ、智ある人は是(これ)を聞(きい)て、あな忌々(いまいま)しや、偏(ひとへ)に郊原(かうげん)に尸(かばね)を争ふに似たりと悲(かなし)めり。見聞(けんもん)の准(なぞら)ふる処、耳目(じぼく)雖異、其前相(そのぜんさう)皆闘諍死亡(とうじやうしばう)の中に存(あつ)て、浅猿(あさま)しかりし挙動(ふるまひ)なり。 |
|
■時政(ときまさ)参篭榎嶋事
時已(すで)に澆季(げうき)に及(およん)で、武家天下の権を執(と)る事(こと)、源平両家の間に落(おち)て度々(どど)に及べり。然(しかれ)ども天道(てんだうは)必(かならず)盈(みてる)を虧(かく)故(ゆゑ)に、或(あるひ)は一代にして滅び、或(あるひ)は一世をも不待して失(うせ)ぬ。今相摸(さがみ)入道(にふだう)の一家、天下を保つ事已(すで)に九代に及ぶ。此(この)事(こと)有故。昔鎌倉(かまくら)草創(さうさう)の始(はじめ)、北条(ほうでうの)四郎時政(ときまさ)榎嶋(えのしま)に参篭(さんろう)して、子孫(しそん)の繁昌を祈(いのり)けり。 三七日に当りける夜(よ)、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の衣(きぬ)着たる女房の、端厳美麗(たんごんびれい)なるが、忽然として時政が前(まへ)に来(きたつ)て告(つげ)て曰(いはく)、「汝(なんぢ)が前生(ぜんじやう)は箱根法師(はこねぼふし)也(なり)。六十六(ろくじふろく)部(ぶ)の法華経(ほけきやう)を書冩(しよしや)して、六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)の霊地(れいち)に奉納(ほうなふ)したりし善根(ぜんごん)に依(よつ)て、再び此土(このど)に生(うまる)る事を得たり。去(され)ば子孫永く日本(につぽん)の主(あるじ)と成(なつ)て、栄花(えいぐわ)に可誇。但(ただし)其挙動(そのふるまひ)違所(たがふところ)あらば、七代(しちだい)を不可過。吾(わが)所言不審(ふしん)あらば、国々に納(をさめ)し所の霊地(れいち)を見よ。」と云捨(いひすて)て帰(かへり)給ふ。其姿(そのすがた)をみければ、さしも厳(いつく)しかりつる女房、忽(たちまち)に伏長(ふしだけ)二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)の大蛇(だいじや)と成(なつ)て、海中(かいちゆう)に入(いり)にけり。 其迹(そのあと)を見(みる)に、大(おほき)なる鱗(いろこ)を三(み)つ落(おと)せり。時政所願成就(しよぐわんじやうじゆ)しぬと喜(よろこび)て、則(すなはち)彼鱗(かのいろこ)を取(とつ)て、旗の文(もん)にぞ押(おし)たりける。今の三鱗形(みついろこがた)の文(もん)是(これ)也(なり)。其後(そののち)弁才天(べんざいてん)の御示現(ごじげん)に任(まかせ)て、国々の霊地へ人を遣(つかは)して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名(ぞくみやう)の時政(ときまさ)を法師の名(な)に替(かへ)て、奉納(ほうなふの)筒(つつ)の上に大法師(だいほつし)時政(じせい)と書(かき)たるこそ不思議(ふしぎ)なれ。されば今相摸(さがみ)入道(にふだう)七代に過(すぎ)て一天下(いちてんが)を保(たもち)けるも、江嶋(えのしま)の弁才天の御利生(ごりしやう)、又は過去の善因に感じてげる故(ゆゑ)也(なり)。今の高時(たかとき)禅門、已(すで)に七代を過(すぎ)、九代に及べり。されば可亡時刻(じこく)到来(たうらい)して、斯(かか)る不思議(ふしぎ)の振舞(ふるまひ)をもせられける歟(か)とぞ覚(おぼえ)ける。 |
|
■大塔宮(おほたふのみや)熊野落(くまのおちの)事(こと)
大塔(おほたふの)二品(にほん)親王(しんわう)は、笠置(かさぎ)の城の安否(あんび)を被聞食為に、暫く南都(なんと)の般若寺(はんにやじ)に忍(しのび)て御座有(ござあり)けるが、笠置(かさぎ)の城已(すで)に落(おち)て、主上被囚させ給(たまひ)ぬと聞へしかば、虎の尾を履(ふむ)恐れ御身(おんみ)の上に迫(せまり)て、天地雖広御身(おんみ)を可被蔵所なし。日月雖明長夜(ぢやうや)に迷へる心地(ここち)して、昼は野原(のはら)の草に隠れて、露に臥(ふす)鶉(うづら)の床(とこ)に御涙(おんなみだ)を争ひ、夜(よる)は孤村(こそん)の辻に彳(たたずみ)て、人を尤(とが)むる里の犬に御心(おんこころ)を被悩、何(いづ)くとても御心(おんこころ)安(やす)かるべき所無(なか)りければ、角(かく)ても暫(しばし)はと被思食ける処に、一乗院(いちじようゐん)の候人(こうにん)按察法眼(あぜちのほふげん)好専(かうせん)、如何(いかん)して聞(きき)たりけん、五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、未明(びめい)に般若寺(はんにやじ)へぞ寄(よせ)たりける。 折節(をりふし)宮(みや)に奉付たる人独(ひとり)も無(なか)りければ一防(ひとふせ)ぎ防(ふせぎ)て落(おち)させ可給様(やう)も無(なか)りける上、透間(すきま)もなく兵(つはもの)既(すで)に寺内(じない)に打入(うちいり)たれば、紛(まぎ)れて御出(おんいで)あるべき方(かた)もなし。さらばよし自害せんと思食(おぼしめし)て、既(すで)に推膚脱(おしはだぬが)せ給(たまひ)たりけるが、事叶(かな)はざらん期(ご)に臨(のぞん)で、腹を切らん事は最(いと)可安。若(もし)やと隠れて見ばやと思食返(おぼしめしかへ)して、仏殿(ぶつでん)の方(かた)を御覧(ごらん)ずるに、人の読懸(よみかけ)て置(おき)たる大般若(だいはんにや)の唐櫃(たうひつ)三(みつ)あり。 |
|
二(ふたつ)の櫃(ひつ)は未(いまだ)開蓋を、一(ひとつ)の櫃(ひつ)は御経(きやう)を半(なか)ばすぎ取出(とりいだ)して蓋(ふた)をもせざりけり。此(この)蓋を開(あけ)たる櫃(ひつ)の中へ、御身(おんみ)を縮(しじ)めて臥(ふ)させ給ひ、其(その)上に御経を引(ひき)かづきて、隠形(おんぎやう)の呪(じゆ)を御心(おんこころ)の中(うち)に唱(となへ)てぞ坐(おは)しける。若(もし)捜(さが)し被出ば、頓(やが)て突立(つきたて)んと思召(おぼしめし)て氷の如くなる刀(かたな)を抜(ぬい)て、御腹(おんはら)に指当(さしあて)て、兵(つはもの)、「此(ここ)にこそ。」と云(いは)んずる一言(ひとこと)を待(また)せ給(たまひ)ける御心(おんこころ)の中(うち)、推量(おしはか)るも尚可浅。去程(さるほど)に兵(つはもの)仏殿(ぶつでん)に乱入(みだれいつ)て、仏壇(ぶつだん)の下天井(てんじやう)の上迄も無残所捜しけるが、余(あま)りに求(もとめ)かねて、「是体(これてい)の物こそ怪しけれ。 あの大般若(だいはんにや)の櫃(ひつ)を開見(あけてみ)よ。」とて、蓋(ふた)したる櫃二(ふたつ)を開(ひらい)て、御経を取出(とりいだ)し、底を翻(ひるがへ)して見けれどもをはせず。蓋(ふた)開(あき)たる櫃は見るまでも無(なし)とて、兵(つはもの)皆寺中を出去(いでさり)ぬ。宮は不思議(ふしぎ)の御命(いのち)を続(つが)せ給ひ、夢に道行(ゆく)心地して、猶(なほ)櫃(ひつ)の中に座(おは)しけるが、若(もし)兵(つはもの)又立帰り、委(くはし)く捜(さが)す事もや有(あら)んずらんと御思案(ごしあん)有(あつ)て、頓(やが)て前(さき)に兵の捜し見たりつる櫃(ひつ)に、入替(いりかは)らせ給(たまひ)てぞ座(おは)しける。案の如く兵共(つはものども)又仏殿に立帰り、「前(さき)に蓋(ふた)の開(あき)たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移(うちうつ)して見けるが、から/\と打笑(うちわらう)て、「大般若の櫃の中を能々(よくよく)捜したれば、大塔宮(おほたふのみや)はいらせ給はで、大唐(だいたう)の玄弉(げんじやう)三蔵こそ坐(おは)しけれ。」と戯(たはぶ)れければ、兵(つはもの)皆(みな)一同に笑(わらう)て門外(もんぐわい)へぞ出(いで)にける。 |
|
是(これ)偏(ひとへ)に摩利支天(まりしてん)の冥応(みやうおう)、又は十六(じふろく)善神(ぜんしん)の擁護(おうご)に依る命(いのち)也(なり)。と、信心(しんじん)肝(きも)に銘じ感涙(かんるゐ)御袖(おんそで)を湿(うるほ)せり。角(かく)ては南都辺(なんとへん)の御隠家(おんかくれが)暫(しばらく)も難叶ければ、則(すなはち)般若寺を御出(おんいで)在(あり)て、熊野(くまの)の方(かた)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。御供(おんとも)の衆(しゆ)には、光林房玄尊(くわうりんばうげんそん)・赤松律師則祐(そくいう)・木寺相摸(こでらのさがみ)・岡本(をかもとの)三河房・武蔵房(むさしばう)・村上(むらかみ)彦四郎・片岡八郎・矢田(やだ)彦七・平賀(ひらがの)三郎、彼此(かれこれ)以上九人也(なり)。 宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供(おんとも)の者迄(まで)も皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おひ)を掛け、頭巾(とうきん)眉半(まゆなかば)に責め、其(その)中に年長(としちやう)ぜるを先達(せんだち)に作立(つくりたて)、田舎山伏(ゐなかやまぶし)の熊野参詣(くまのさんけい)する体(てい)にぞ見せたりける。此(この)君元(もと)より龍楼鳳闕(りようろうほうけつ)の内(うち)に長(ひと)とならせ給(たまひ)て、華軒香車(くわけんかうしや)の外(ほか)を出(いで)させ給はぬ御事(おんこと)なれば、御歩行(ごほかう)の長途(ちやうど)は定(さだめ)て叶(かな)はせ給はじと、御伴(おんとも)の人々兼(かね)ては心苦しく思(おもひ)けるに、案(あん)に相違(さうゐ)して、いつ習はせ給ひたる御事(おんこと)ならねども怪しげなる単皮(たび)・脚巾(はばき)・草鞋(わらぢ)を召(めし)て、少しも草臥(くたびれ)たる御気色(きしよく)もなく、社々(やしろやしろ)の奉弊(ほうへい)、宿々(やどやど)の御勤(つとめ)懈(おこた)らせ給はざりければ、路次(ろし)に行逢(ゆきあ)ひける道者(だうしや)も、勤修(ごんじゆ)を積める先達(せんだち)も見尤(みとがむ)る事も無(なか)りけり。 由良湊(ゆらのみなと)を見渡せば、澳(おき)漕(こぐ)舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重(いくへ)とも、しらぬ浪路(なみぢ)に鳴千鳥(なくちどり)、紀伊(き)の路(ぢ)の遠山(とほやま)眇々(はるばる)と、藤代(ふぢしろ)の松に掛(かか)れる磯(いそ)の浪(なみ)、和歌(わか)・吹上(ふきあげ)を外(そと)に見て、月に瑩(みが)ける玉津(たまつ)島、光も今はさらでだに、長汀曲浦(ぢやうていきよくほ)の旅の路(みち)、心を砕(くだ)く習(ならひ)なるに、雨を含(ふく)める孤村(こそん)の樹(き)、夕(ゆふべ)を送る遠寺(ゑんじ)の鐘(かね)、哀(あはれ)を催(もよほ)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(わうじ)に着(つき)給ふ。 |
|
其夜(そのよ)は叢祠(そうし)の露に御袖(おんそで)を片敷(かたしい)て、通夜(よもすがら)祈(いのり)申させ給(たまひ)けるは、南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)三所権現(さんしよごんげん)・満山護法(まんさんのごほふ)・十万の眷属(けんぞく)・八万(はちまん)の金剛童子(こんがうどうじ)、垂迹和光(すゐじやくわくわう)の月明(あきら)かに分段同居(ぶんだんどうご)の闇(やみ)を照(てら)さば、逆臣(げきしん)忽(たちまち)に亡びて朝廷再(ふたたび)耀(かかや)く事を令得給へ。伝承(つたへうけたまは)る、両所権現(りやうしよごんげん)は是(これ)伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の応作(おうさ)也(なり)。我(わが)君其苗裔(そのべうえい)として朝日(てうじつ)忽(たちまち)に浮雲(ふうん)の為に被隠て冥闇(めいあん)たり。豈(あに)不傷哉(や)。玄鑒(げんかん)今似空。神(しん)若(もし)神(しん)たらば、君盍(なんぞ)為君と、五体(ごたい)を地に投(なげ)て一心に誠(まこと)を致(いたし)てぞ祈(いのり)申させ給(たまひ)ける。丹誠(たんぜい)無二(むに)の御勤(つとめ)、感応(かんおう)などかあらざらんと、神慮(しんりよ)も暗(あん)に被計たり。 終夜(よもすがら)の礼拝(らいはい)に御窮屈(きゆうくつ)有(あり)ければ、御肱(おんひぢ)を曲(まげ)て枕として暫(しばらく)御目睡(まどろみ)在(あり)ける御夢(おんゆめ)に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子(どうじ)一人来(きたつ)て、「熊野三山(さんざん)の間は尚(なほ)も人の心不和(ふわ)にして大儀成(なり)難し。是(これ)より十津川(とつがは)の方へ御渡候(わたりさふらひ)て時の至(いたら)んを御待(おんまち)候へかし。両所権現(ごんげん)より案内者(あんないしや)に被付進て候へば御道指南(みちしるべ)可仕候。」と申すと被御覧御夢(おんゆめ)は則(すなはち)覚(さめ)にけり。是(これ)権現の御告(つげ)也(なり)。けりと憑敷(たのもしく)被思召ければ、未明(びめい)に御悦(よろこび)の奉弊(ほうへい)を捧げ、頓(やが)て十津河(とつがは)を尋(たづね)てぞ分入(わけい)らせ給(たまひ)ける。其(その)道の程(ほど)三十(さんじふ)余里(より)が間には絶(たえ)て人里も無(なか)りければ、或(あるひ)は高峯(たかね)の雲に枕を峙(そばだて)て苔(こけ)の筵(むしろ)に袖を敷(しき)、或(あるひ)は岩漏(もる)水に渇(かつ)を忍んで朽(くち)たる橋に肝を消す。 山路(さんろ)本(もと)より雨無(なう)して、空翠(くうすゐ)常(つね)に衣(ころも)を湿(うるほ)す。向上(かうじやうとみあぐ)れば万仞(ばんじん)の青壁(せいへき)刀(つるぎ)に削(けづ)り、直下(ちよくかとみおろせ)ば千丈の碧潭(へきだん)藍(あゐ)に染(そ)めり。数日(すじつ)の間(あひだ)斯(かか)る嶮難(けんなん)を経(へ)させ給へば、御身(おんみ)も草臥(くたびれ)はてゝ流るゝ汗(あせ)如水。御足(あし)は欠損(かけそん)じて草鞋(わらぢ)皆血(ち)に染(そま)れり。御伴(おんとも)の人々も皆其身(そのみ)鉄石(てつせき)にあらざれば、皆飢疲(うゑつか)れてはか/゛\敷(しく)も歩(あゆみ)得ざりけれ共、御腰(おんこし)を推(おし)御手(おんて)を挽(ひい)て、路(みち)の程(ほど)十三日に十津河へぞ着(つか)せ給ひける。宮をばとある辻堂(つじだう)の内に奉置て、御供(おんとも)の人々は在家(ざいけ)に行(ゆい)て、熊野参詣(くまのさんけい)の山伏共(やまぶしども)道に迷(まよう)て来(きた)れる由を云(いひ)ければ、在家の者共(ものども)哀(あはれみ)を垂(たれ)て、粟(あは)の飯(いひ)橡(とち)の粥(かゆ)など取出(とりいだ)して其飢(そのうゑ)を相助(あひたす)く。宮にも此等(これら)を進(まゐら)せて二三日は過(すぎ)けり。 |
|
角(かく)ては始終(しじゆう)如何(いかが)可在とも覚へざりければ、光林房玄尊(げんそん)、とある在家の是(これ)ぞさもある人の家なるらんと覚(おぼ)しき所に行(ゆい)て、童部(わらんべ)の出(いで)たるに家主(あるじ)の名を問へば、「是(これ)は竹原八郎入道殿(にふだうどの)の甥に、戸野(とのの)兵衛殿(ひやうゑどの)と申(まうす)人の許(もと)にて候。」と云(いひ)ければ、さては是こそ、弓矢取(とつ)てさる者と聞及(ききおよ)ぶ者なれ、如何にもして是を憑(たの)まばやと思(おもひ)ければ、門(もん)の内へ入(いつ)て事の様(やう)を見聞(みきく)処に、内に病者(びやうしや)有(あり)と覚(おぼえ)て、「哀(あは)れ貴(たつと)からん山伏(やまぶし)の出来(いできた)れかし、祈らせ進(まゐ)らせん。」と云(いふ)声しけり。玄尊すはや究竟(くきやう)の事こそあれと思(おもひ)ければ、声を高らかに揚(あげ)て、「是(これ)は三重(さんぢゆう)の滝に七日うたれ、那智(なち)に千日篭(こもつ)て三十三所(さんじふさんしよ)の巡礼(じゆんれい)の為に、罷出(まかりいで)たる山伏共(やまぶしども)、路(みちに)蹈迷(ふみまよう)て此(この)里に出(いで)て候。 一夜の宿(やど)を借(かし)一日〔の〕飢(うゑ)をも休め給へ。」と云(いひ)たりければ、内より怪(あや)しげなる下女(けぢよ)一人出合(いであ)ひ、「是(これ)こそ可然仏神(ぶつじん)の御計(おんはから)ひと覚(おぼえ)て候へ。是(これ)の主(あるじ)の女房物怪(もののけ)を病(やま)せ給ひ候。祈(いのり)てたばせ給(たまひ)てんや。」と申せば、玄尊(げんそん)、「我等は夫山伏(ぶやまぶし)にて候間叶(かな)ひ候まじ。あれに見へ候辻堂(つじだう)に、足を休(やすめ)て被居て候先達(せんだち)こそ、効験(かうげん)第一(だいいち)の人にて候へ。此様(このやう)を申さんに子細(しさい)候はじ。」と云(いひ)ければ、女大(おほき)に悦(よろこう)で、「さらば其(その)先達の御房(ごばう)、是(これ)へ入進(いれまゐら)せさせ給へ。」と云(いひ)て、喜(よろこび)あへる事無限。玄尊走帰(はしりかへつ)て此由(このよし)を申(まうし)ければ、宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供(おんとも)の人皆彼(かれ)が館(たち)へ入(いら)せ給ふ。 宮(みや)病者の伏(ふし)たる所(もと)へ御入在(おんいりあつ)て御加持(ごかぢ)あり。千手陀羅尼(せんじゆだらに)を二三反(にさんべん)高らかに被遊て、御念珠(おんねんじゆ)を押揉(おしも)ませ給(たまひ)ければ、病者自(みづから)口走(くちばしつ)て、様々(さまざま)の事を云(いひ)ける、誠(まこと)に明王(みやうわう)の縛(ばく)に被掛たる体(てい)にて、足手(あして)を縮(しじめ)て戦(わなな)き、五体(ごたい)に汗を流して、物怪(もののけ)則(すなはち)立去(たちさり)ぬれば、病者忽(たちまち)に平瘉(へいゆう)す。主(あるじ)の夫(をつと)不斜喜(よろこう)で、「我(われ)畜(たくはへ)たる物候はねば、別(べち)の御引出物(おんひきでもの)迄は叶(かなひ)候まじ。枉(まげ)て十(じふ)余日(よにち)是(これ)に御逗留(ごとうりう)候(さふらひ)て、御足(みあし)を休めさせ給へ。例の山伏(やまぶし)楚忽(そこつ)に忍(しのび)で御逃(おんにげ)候(さふらひ)ぬと存(ぞんじ)候へば、恐(おそれ)ながら是(これ)を御質(ごしち)に玉(たまは)らん。」とて、面々の笈共(おひども)を取合(とりあはせ)て皆内にぞ置(おき)たりける。 |
|
御供の人々、上(うへ)には其気色(そのきしよく)を不顕といへ共、下(した)には皆悦(よろこび)思へる事無限。角(かく)て十(じふ)余日(よにち)を過(すご)させ給(たまひ)けるに、或夜(あるよ)家主(あるじ)の兵衛(ひやうゑの)尉(じよう)、客殿(きやくでん)に出て薪(たきび)などせさせ、四方山(よもやま)の物語共(ものがたりども)しける次(ついで)に申(まうし)けるは、「旁(かたがた)は定(さだめ)て聞(きき)及ばせ給(たまひ)たる事も候覧(らん)。誠(まこと)やらん、大塔宮(おほたふのみや)、京都を落(おち)させ給(たまひ)て、熊野(くまの)の方へ趣(おもむか)せ給候(たまひさふらひ)けんなる。三山の別当定遍僧都(ぢやうべんそうづ)は無二(むにの)武家方(ぶけかた)にて候へば、熊野辺(くまのへん)に御忍(おんしのび)あらん事は難成覚(おぼえ)候。哀(あはれ)此(この)里へ御入(おんいり)候へかし。 所(ところ)こそ分内(ぶんない)は狭(せば)く候へ共(ども)、四方(しはう)皆嶮岨(けんそ)にて十里(じふり)二十里(にじふり)が中(うち)へは鳥も翔(かけ)り難き所にて候。其上(そのうへ)人の心不偽、弓矢を取(とる)事(こと)世に超(こえ)たり。されば平家の嫡孫(ちやくそん)惟盛(これもり)と申(まうし)ける人も、我等(われら)が先祖(せんぞ)を憑(たのみ)て此(この)所に隠れ、遂に源氏(げんじ)の世に無恙候(さふらひ)けるとこそ承(うけたまはり)候へ。」と語(かたり)ければ、宮誠(まこと)に嬉(うれ)しげに思食(おぼしめし)たる御気色(おんきしよく)顕(あらは)れて、「若(もし)大塔宮(おほたふのみや)なんどの、此(この)所へ御憑(おんたのみ)あ(つ)て入(いら)せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問(とは)せ給へば、戸野(とのの)兵衛、「申(まうす)にや及び候。身不肖(ふせう)に候へ共(ども)、某(それがし)一人だに斯(かか)る事ぞと申さば、鹿瀬(ししがせ)・蕪坂(かぶらさか)・湯浅(ゆあさ)・阿瀬川(あぜがは)・小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津川(なかつがは)・吉野(よしの)十八郷(じふはちがう)の者迄も、手刺(てさす)者候まじきにて候。」とぞ申(まうし)ける。 |
|
其(その)時宮(みや)、木寺相摸(こでらのさがみ)にきと御目合有(めくはせあり)ければ、相摸此(さがみこの)兵衛が側(そば)に居寄(ゐより)て、「今は何をか隠し可申、あの先達(せんだち)の御房(ごばう)こそ、大塔宮(おほたふのみや)にて御坐(ござ)あれ。」と云(いひ)ければ、此(この)兵衛尚(なほ)も不審気(ふしんげ)にて、彼此(かれこれ)の顔をつく/゛\と守(まぼ)りけるに、片岡八郎・矢田(やだ)彦七、「あら熱(あつ)や。」とて、頭巾(ときん)を脱(ぬい)で側(そば)に指置(さしお)く。実(まこと)の山伏(やまぶし)ならねば、さかやきの迹(あと)隠(かくれ)なし。兵衛是(これ)を見て、「げにも山伏(やまぶし)にては御座(おは)せざりけり。賢(かしこく)ぞ此(この)事(こと)申出(まうしいで)たりける。あな浅猿(あさまし)、此(この)程の振舞(ふるまひ)さこそ尾篭(びろう)に思召候(おぼしめしさふらひ)つらん。」と以外(もつてのほか)に驚(おどろい)て、首(かうべ)を地(ち)に着(つけ)手を束(つか)ね、畳より下(した)に蹲踞(そんこ)せり。 俄に黒木(くろぎ)の御所(ごしよ)を作(つくり)て宮(みや)を守護(しゆご)し奉り、四方(しはう)の山々に関(せき)を居(すゑ)、路(みち)を切塞(きりふさい)で、用心(ようじん)密(きび)しくぞ見へたりける。是(これ)も猶(なほ)大儀の計畧難叶とて、叔父(をぢ)竹原八郎入道に此由(このよし)を語(かたり)ければ、入道頓(やが)て戸野(との)が語(かたらひ)に随(したがつ)て、我館(わがたち)へ宮を入進(いれまゐ)らせ、無二の気色に見へければ、御心(おんこころ)安く思召(おぼしめし)て、此(ここ)に半年許(はんねんばかり)御座有(ござあり)ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度(したく)に、御還俗(ごげんぞく)の体(てい)に成(なら)せ給(たまひ)ければ、竹原八郎入道が息女(そくぢよ)を、夜(よ)るのをとゞへ被召て御覚(おんおぼえ)異他なり。 |
|
さてこそ家主(あるじ)の入道も弥(いよいよ)志(こころ)を傾(かたむ)け、近辺(きんぺん)の郷民共(がうみんども)も次第に帰伏申(きふくまうし)たる由にて、却(かへつ)て武家をば褊(さみ)しけり。去程(さるほど)に熊野の別当定遍(ぢやうべん)此(この)事(こと)を聞(きい)て、十津河(とつがは)へ寄(よ)せんずる事は、縦(たとひ)十万騎(じふまんぎ)の勢(せい)ありとも不可叶。只其辺(そのへん)の郷民共(がうみんども)の欲心(よくしん)を勧(すすめ)て、宮を他所(たしよ)へ帯(おび)き出し奉らんと相計(あひはかつ)て、道路(だうろ)の辻に札(ふだ)を書(かい)て立(たて)けるは、「大塔宮(おほたふのみや)を奉討たらん者には、非職凡下(ひしよくぼんげ)を不云、伊勢の車間庄(くるまのしやう)を恩賞に可被充行由を、関東(くわんとう)の御教書(みげうしよ)有之。其(その)上に定遍(ぢやうべん)先(まづ)三日が中(うち)に六万貫(ろくまんぐわん)を可与。御内伺候(みうちしこう)の人・御手(おんて)の人を討(うち)たらん者には五百(ごひやく)貫(くわん)、降人(かうにん)に出(いで)たらん輩(ともがら)には三百(さんびやく)貫(くわん)、何(いづ)れも其(その)日の中(うち)に必(かならず)沙汰し与(あたふ)べし。」と定(さだめ)て、奥に起請文(きしやうもん)の詞(ことば)を載(のせ)て、厳密(げんみつ)の法をぞ出(いだ)しける。 夫(それ)移木(いぼく)の信(しん)は為堅約、献芹(けんきん)の賂(まひなひ)は為奪志なれば、欲心強盛(よくしんがうじやう)の八庄司共(しやうじども)此(この)札を見てければ、いつしか心変(へん)じ色替(かはつ)て、奇(あや)しき振舞共(ふるまひども)にぞ聞へける。宮「角(かく)ては此(この)所の御止住(おんすまゐ)、始終(しじゆう)悪(あし)かりなん。吉野(よしの)の方へも御出(おんいで)あらばや。」と被仰けるを、竹原(たけはら)入道、「如何なる事や候べき。」と強(しひ)て留申(とめまうし)ければ、彼(かれ)が心を破(やぶ)られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼(きようく)の中(うち)に月日を送らせ給(たまひ)ける。結句(けつく)竹原入道が子共(こども)さへ、父が命(めい)を背(そむい)て、宮を討(うち)奉らんとする企(くはだて)在(あり)と聞(きこえ)しかば、宮潛(ひそか)に十津河(とつがは)も出(いで)させ給(たまひ)て、高野(かうや)の方へぞ趣(おもむ)かせ給ひける。其路(そのみち)、小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津河(なかつがは)と云(いふ)敵陣の難所(なんじよ)を経(へ)て通る路なれば、中々(なかなか)敵を打憑(うちたのみ)て見ばやと被思召、先(まづ)芋瀬(いもがせ)の庄司(しやうじ)が許(もと)へ入(いら)せ給ひけり。 |
|
芋瀬(いもがせ)、宮(みや)をば我館(わがたち)へ入進(いれまゐ)らせずして、側(そば)なる御堂(みだう)に置(おき)奉り、使者(ししや)を以て申(まうし)けるは、「三山(さんざんの)別当定遍(ぢやうべん)武命(ぶめい)を含(ふくん)で、隠謀与党(おんぼうよたう)の輩(ともがら)をば、関東(くわんとう)へ注進仕(ちゆうしんつかまつ)る事にて候へば、此(この)道より無左右通し進(まゐ)らせん事(こと)、後(のち)の罪科陳謝(ちんじや)するに不可有拠候、乍去宮を留進(とめまゐ)らせん事は其(その)恐(おそれ)候へば、御伴(おんとも)の人々の中(うち)に名字(みやうじ)さりぬべからんずる人を一両人賜(たまはつ)て、武家へ召渡(めしわたし)候歟(か)、不然ば御紋(ごもん)の旗を給(たまはり)て、合戦仕(かつせんつかまつつ)て候(さふらひ)つる支証(ししよう)是(これ)にて候と、武家へ可申にて候。此(この)二(ふた)つの間(あひだ)、何(いづ)れも叶(かなふ)まじきとの御意(ぎよい)にて候はゞ、無力一矢(ひとや)仕らんずるにて候。」と、誠(まこと)に又予儀(よぎ)もなげにぞ申入(まうしいれ)たりける。 宮は此(この)事(こと)何(いづ)れも難議也(なり)。と思召(おぼしめし)て、敢(あへて)御返事(おんへんじ)も無(なか)りけるを、赤松律師則祐(そくいう)進み出(いで)て申(まうし)けるは、「危(あやふ)きを見て命(めい)を致すは士卒(じそつ)の守(まも)る所(ところ)に候。されば紀信(きしん)は詐(いつはつ)て敵に降(くだ)り、魏豹(ぎへう)は留(とどまつ)て城を守る。是(これ)皆主(しゆ)の命(いのち)に代(かは)りて、名を留(とど)めし者にて候はずや。兎(と)ても角(かう)ても彼(かれ)が所存解(とけ)て、御所(ごしよ)を通し可進にてだに候はゞ、則祐(そくいう)御大事(おんだいじ)に代(かはつ)て罷出(まかりいで)候はん事は、子細(しさい)有(ある)まじきにて候。」と申せば、平賀(ひらがの)三郎是を聞(きい)て、「末坐(ばつざ)の意見卒尓(そつじ)の議にて候へ共(ども)、此艱苦(このかんく)の中に付纏(つきまとひ)奉りたる人は、雖一人上の御為(おんため)には、股肱耳目(ここうじぼく)よりも難捨被思召候べし。 |
|
就中芋瀬(いもせの)庄司(しやうじ)が申(まうす)所、げにも難被黙止候へば、其(その)安きに就(つけ)て御旗許(おんはたばかり)を被下候はんに、何(なに)の煩(わづらひ)か候べき。戦場(せんぢやう)に馬・物具(もののぐ)を捨(すて)、太刀・刀(かたな)を落して敵に被取事(こと)、さまでの恥ならず。只彼(かれ)が申請(まうしうく)る旨に任(まかせ)て、御旗を被下候へかし。」と申(まうし)ければ、宮げにもと思召(おぼしめし)て、月日を金銀にて打(うつ)て着(つけ)たる錦(にしき)の御旗を、芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)にぞ被下ける。角(かく)て宮は遥(はるか)に行過(ゆきすぎ)させ給(たまひ)ぬ。暫有(しばらくあつ)て村上(むらかみ)彦四郎義光(よしてる)、遥(はるか)の迹(あと)にさがり、宮に追着進(おつつきまゐら)せんと急(いそぎ)けるに、芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)無端道にて行合(ゆきあひ)ぬ。芋瀬(いもがせ)が下人(げにん)に持(もた)せたる旗を見れば、宮の御旗也(なり)。 村上怪(あやしみ)て事の様(やう)を問(とふ)に、尓々(しかじか)の由(よし)を語る。村上、「こはそも何事(なにこと)ぞや。忝(かたじけなく)も四海(しかい)の主(あるじ)にて御坐(おはしま)す天子の御子(みこ)の、朝敵(てうてき)御追罰(ごつゐばつ)の為に、御門(おんかど)出(いで)ある路次(ろし)に参り合(あう)て、汝等程(なんぢらほど)の大凡下(だいぼんげ)の奴原(やつばら)が、左様(さやう)の事可仕様(やう)やある。」と云(いつ)て、則(すなはち)御旗を引奪(ひきうばう)て取(とり)、剰(あまつさへ)旗持(もち)たる芋瀬(いもがせ)が下人(げにん)の大(だい)の男(をとこ)を掴(つかん)で、四五丈許(ばかり)ぞ抛(なげ)たりける。其怪力(そのくわいりよく)無比類にや怖(おぢ)たりけん。芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)一言(いちごん)の返事もせざりければ、村上自(みづから)御旗を肩に懸(かけ)て、無程宮に〔奉〕追着。義光(よしてる)御前(おんまへ)に跪(ひざまづい)て此様(このやう)を申(まうし)ければ、宮誠(まこと)に嬉しげに打笑(うちわら)はせ給(たまひ)て、「則祐(そくいう)が忠は孟施舎(まうししや)が義を守(まぼ)り、平賀(ひらが)が智は陳丞相(ちんしようじやう)が謀(はかりごと)を得(え)、義光が勇(ゆう)は北宮黝(ほくきゆういう)が勢(いきほひ)を凌(しの)げり。 |
|
此(この)三傑を以て、我(われ)盍治天下哉(や)。」と被仰けるぞ忝(かたじけな)き。其夜(そのよ)は椎柴垣(しひしばがき)の隙(ひま)あらはなる山がつの庵(いほり)に、御枕(おんまくら)を傾(かたむ)けさせ給(たまひ)て、明(あく)れば小原(をばら)へと志(こころざし)て、薪(たきぎ)負(おう)たる山人(やまうど)の行逢(ゆきあひ)たるに、道の様(やう)を御尋(おんたづね)有(あり)けるに、心なき樵夫迄(きこりまで)も、さすが見知進(みしりまゐら)せてや在(あり)けん、薪(たきぎ)を下(おろ)し地(ち)に跪(ひざまづい)て、「是(これ)より小原(をばら)へ御(おん)通(とほ)り候はん道には、玉木(たまぎの)庄司殿(しやうじどの)とて、無弐(むに)の武家方(ぶけかた)の人をはしまし候。此(この)人を御語(かたら)ひ候はでは、いくらの大勢(おほぜい)にても其(その)前をば御(おん)通(とほ)り候(さふらひ)ぬと不覚候。恐(おそれ)ある申事(まうしごと)にて候へ共(ども)、先(ま)づ人を一二人(いちににん)御使(おんつかひ)に被遣候(さふらひ)て、彼(かの)人の所存(しよぞん)をも被聞召候へかし。」とぞ申(まうし)ける。 宮つく/゛\と聞召(きこしめし)て、「芻蕘(すうぜう)の詞迄(ことばまで)も不捨」と云(いふ)は是(これ)也(なり)。げにも樵夫(きこり)が申(まうす)処さもと覚(おぼゆ)るぞ。」とて、片岡(かたをか)八郎・矢田彦七二人(ににん)を、玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)が許(もと)へ被遣て、「此(この)道を御(おん)通(とほ)り有(ある)べし、道の警固に、木戸(きど)を開き、逆茂木(さかもぎ)を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)御使(おんつかひ)に出合(いであつ)て、事の由を聞(きい)て、無返事(ぶへんじ)にて内へ入(いり)けるが、軈(やが)て若党(わかたう)・中間共(ちゆうげんども)に物具(もののぐ)させ、馬に鞍置(くらおき)、事の体(てい)躁(さわが)しげに見へければ、二人(ににん)の御使(おんつかひ)、「いや/\此(この)事(こと)叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰(はしりかへつ)て、此(この)由を申さん。」とて、足早(あしばや)に帰れば、玉置が若党共(わかたうども)五六十人、取太刀許(とりだちばかり)にて追懸(おつかけ)たり。二人(ににん)の者立留(たちとどま)り、小松(こまつ)の二三本(にさんぼん)ありける陰(かげ)より跳出(をどりい)で、真前(まつさき)に進(すすん)だる武者(むしや)の馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)で刎落(はねおと)させ、返(かへ)す太刀(たち)にて頚打落(うちおと)して、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)してぞ立(たつ)たりける。 |
|
迹(あと)に続(つづい)て追(おひ)ける者共(ものども)も、是(これ)を見て敢(あへ)て近付(ちかづく)者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋(ふたすぢ)被射付て、今は助(たすか)り難(がたし)と思(おもひ)ければ、「や殿(との)、矢田殿(やだどの)、我はとても手負(ておう)たれば、此(ここ)にて打死(うちじに)せんずるぞ。御辺(ごへん)は急ぎ宮の御方へ走参(はしりまゐり)て、此由(このよし)を申(まうし)て、一(ひと)まども落し進(まゐら)せよ。」と、再往(さいわう)強(しひ)て云(いひ)ければ、矢田も一所(いつしよ)にて打死(うちじに)せんと思(おもひ)けれども、げにも宮に告(つげ)申さゞらんは、却(かへつ)て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩(はうばい)を見捨(みすて)て帰りける心の中(うち)、被推量て哀(あはれ)也(なり)。矢田遥(はるか)に行延(ゆきのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て持(もち)たる人あり。矢田急ぎ走帰(はしりかへつ)て此(この)由を宮に申(まうし)ければ、「さては遁(のが)れぬ道に行迫(ゆきせま)りぬ。運の窮達(きゆうたつ)歎(なげ)くに無詞。」とて、御伴(おんとも)の人々に至(いたる)まで中々(なかなか)騒ぐ気色ぞ無(なか)りける。 さればとて此(ここ)に可留に非(あら)ず、行(ゆか)れんずる所まで行(ゆけ)やとて、上下(じやうげ)三十(さんじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、宮を前(さき)に立進(たてまゐら)せて問々(とひとひ)山路(やまぢ)をぞ越行(こえゆき)ける。既(すで)に中津河(なかつがは)の峠(たうげ)を越(こえ)んとし給(たまひ)ける所に、向(むかう)の山の両の峯に玉置(たまぎ)が勢(せい)と覚(おぼえ)て、五六百人(ごろつぴやくにん)が程混冑(ひたかぶと)に鎧(よろう)て、楯を前に進め射手(いて)を左右へ分(わけ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。宮是(これ)を御覧(ごらん)じて、玉顔(ぎよくがん)殊に儼(おごそか)に打笑(うちゑ)ませ給(たまひ)て、御手(おんて)の者共(ものども)に向(むかつ)て、「矢種(やだね)の在(あら)んずる程は防矢(ふせぎや)を射よ、心静(しづか)に自害して名を万代(ばんだい)に可貽。但(ただし)各(おのおの)相構(あひかまへ)て、吾(われ)より先(さき)に腹切(きる)事(こと)不可有。吾已(すで)に自害せば、面(おもて)の皮を剥(はぎ)耳鼻(みみはな)を切(きつ)て、誰(たれ)が首(くび)とも見へぬ様(やう)にし成(なし)て捨(すつ)べし。其(その)故は我首(わがくび)を若(もし)獄門(ごくもん)に懸(かけ)て被曝なば、天下に御方(みかた)の志を存(そん)ぜん者は力を失ひ、武家は弥(いよいよ)所恐なかるべし。 |
|
「死せる孔明(こうめい)生(いけ)る仲達(ちゆうたつ)を走らしむ」と云(いふ)事(こと)あり。されば死して後(のち)までも、威を天下に残(のこ)すを以て良将(りやうしやう)とせり。今はとても遁(のが)れぬ所ぞ、相構(あひかまへ)て人々きたなびれて、敵(てき)に笑はるな。」と被仰ければ、御供(おんとも)の兵(つはもの)共、「何故(なにゆゑ)か、きたなびれ候べき。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)に立(たつ)て、敵の大勢にて責上(せめのぼ)りける坂中(さかなか)の辺(へん)まで下(おり)向ふ。其(その)勢僅(わづか)三十二人(さんじふににん)、是(これ)皆一騎当千(いつきたうせん)の兵(つはもの)とはいへ共(ども)、敵五百(ごひやく)余騎(よき)に打合(うちあう)て、可戦様(やう)は無(なか)りけり。寄手(よせて)は楯を雌羽(めんどりば)につきしとうてかづき襄(あが)り、防ぐ兵(つはもの)は打物(うちもの)の鞘(さや)をはづして相懸(あひかか)りに近付(ちかづく)所に、北の峯より赤旗(あかはた)三流(みながれ)、松の嵐に翻(ひるがへ)して、其(その)勢六七百騎(ろくしちひやくき)が程懸出(かけいで)たり。 其(その)勢次第に近付侭(ちかづくままに)、三手に分(わかつ)て時の声を揚(あげ)て、玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)に相向ふ。真前(まつさき)に進(すすん)だる武者大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て、「紀伊国(きのくに)の住人(ぢゆうにん)野長瀬(のながせの)六郎・同(おなじき)七郎、其(その)勢三千余騎(よき)にて大塔宮(おほたふのみや)の御迎(おんむかひ)に参る所に、忝(かたじけなく)も此(この)君に対(むか)ひ進(まゐら)せて、弓を控(ひき)楯を列(つら)ぬる人は誰(たれ)ぞや。玉置庄司殿(しやうじどの)と見るは僻目(ひがめ)か、只今可滅武家の逆命(ぎやくめい)に随(したがつ)て、即時(そくじ)に運を開かせ可給親王(しんわう)に敵対申(てきたいまうし)ては、一天下(いちてんが)の間(あひだ)何(いづれ)の処にか身を置(おか)んと思ふ。天罰不遠から、是(これ)を鎮(しづめ)ん事我等(われら)が一戦(いつせん)の内にあり。 |
|
余(あま)すな漏(もら)すな。」と、をめき叫(さけん)でぞ懸(かか)りける。是(これ)を見て玉置が勢五百(ごひやく)余騎(よき)、叶はじとや思(おもひ)けん、楯を捨(すて)旗を巻(まい)て、忽(たちまち)に四角八方へ逃散(にげさん)ず。其(その)後野長瀬(のながせ)兄弟、甲(かぶと)を脱ぎ弓を脇に挟(さしはさみ)て遥(はるか)に畏(かしこま)る。宮の御前(おんまへ)近く被召て、「山中(さんちゆう)の為体(ていたらく)、大儀の計略難叶かるべき間、大和(やまと)・河内(かはち)の方へ打出(うちいで)て勢(せい)を付(つけ)ん為(ために)、令進発之処に、玉置庄司(しやうじ)只今の挙動(ふるまひ)、当手(たうて)の兵万死(ばんし)の内(うち)に一生(いつしやう)をも得難(えがた)しと覚(おぼえ)つるに、不慮(ふりよ)の扶(たすけ)に逢(あふ)事(こと)天運尚(なほ)憑(たのみ)あるに似(に)たり。 抑(そもそも)此(この)事(こと)何(なに)として存知(ぞんぢ)たりければ、此(この)戦場に馳合(はせあつ)て、逆徒(げきと)の大軍(たいぐん)をば靡(なびかし)ぬるぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、野長瀬畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「昨日(さくじつ)の昼程(ひるほど)に、年(とし)十四五許(ばかり)に候(さふらひ)し童(わらは)の、名をば老松(おいまつ)といへり〔と〕名乗(なのり)て、「大塔宮(おほたふのみや)明日(みやうじつ)十津河(とつがは)を御出(おんいで)有(あつ)て、小原(をばら)へ御(おん)通(とほ)りあらんずるが、一定(いちぢやう)道にて難(なん)に逢はせ給(たまひ)ぬと覚(おぼゆ)るぞ、志を存(そん)ぜん人は急ぎ御迎(むかひ)に参れ」と触廻(ふれまは)り候(さふらひ)つる間、御使(おんつかひ)ぞと心得て参(まゐつ)て候。」とぞ申(まうし)ける。宮此(この)事(こと)を御思案(ごしあん)あるに、直事(ただこと)に非(あら)ずと思食合(おぼしめしあは)せて、年来(としごろ)御身(おんみ)を放(はな)されざりし膚(はだ)の御守(おんまぼり)を御覧(ごらん)ずるに、其口(そのくち)少(すこ)し開(ひらき)たりける間、弥(いよいよ)怪(あや)しく思食(おぼしめし)て、則(すなはち)開(ひらき)被御覧ければ、北野天神(きたののてんじん)の御神体(しんたい)を金銅(こんどう)にて被鋳進たる其(その)御眷属(ごけんぞく)、老松(おいまつ)の明神(みやうじん)の御神体、遍身(へんしん)より汗(あせ)かいて、御足(あし)に土(つち)の付(つき)たるぞ不思議(ふしぎ)なる。 「さては佳運(かうん)神慮(しんりよ)に叶(かな)へり、逆徒(げきと)の退治(たいぢ)何の疑(うたがひ)か可有。」とて、其(それ)より宮(みや)は、槙野(まきのの)上野房(かうづけばう)聖賢(しやうげん)が拵(こしらへ)たる、槙野(まきの)の城へ御入(おんいり)ありけるが、此(これ)も尚(なほ)分内(ぶんない)狭(せば)くて可悪ると御思案(ごしあん)ありて、吉野(よしの)の大衆(だいしゆ)を語(かたら)はせ給(たまひ)て、安善宝塔(あいぜんはうだふ)を城郭(じやうくわく)に構(かま)へ、岩切通(きりとほ)す吉野河を前に当(あて)て、三千余騎(よき)を随へて楯篭(たてごも)らせ給(たまひ)けるとぞ聞へし。 |
|
■太平記 巻第六 | |
■民部卿三位局(みんぶきやうさんみのつぼね)御夢想(ごむさうの)事(こと)
夫(それ)年光(ねんくわう)不停如奔箭下流水、哀楽(あいらく)互(たがひに)替(かはること)似紅栄黄落樹。尓(しか)れば此世中(このよのなか)の有様(ありさま)、只(ただ)夢とやいはん幻(うつつ)とやいはん。憂喜(いうき)共に感ずれば、袂(たもと)の露を催(もよほ)す事雖不始今、去年(きよねん)九月に笠置(かさぎの)城破(やぶ)れて、先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給(たまひ)し後(のち)は、百司(はくし)の旧臣(きうしん)悲(かなしみ)を抱(いだい)て所々(しよしよ)に篭居(ろうきよ)し、三千の宮女(きゆうぢよ)涙を流して面々(めんめん)に臥沈(ふししづみ)給ふ有様、誠(まこと)に憂(うき)世(よ)の中(なか)の習(ならひ)と云(いひ)ながら、殊更(ことさら)哀(あはれ)に聞へしは、民部(みんぶ)卿(きやう)三位殿(さんみどのの)御局(さんみどののおつぼね)にて留(とどめ)たり。 其(それ)を如何にと申(まうす)に、先朝(せんてう)の御寵愛(ごちようあい)不浅上、大塔(おほたふ)の宮(みやの)御母堂(ごぼだう)にて渡(わたら)せ給(たまひ)しかば、傍(かた)への女御(にようご)・后(きさき)は、花の側(あたり)の深山木(みやまぎ)の色香(いろか)も無(なき)が如く〔也(なり)〕。而るを世間(よのなか)静(しづか)ならざりし後は、万(よろ)づ引替(ひきかへ)たる九重(ここのへ)の内の御住居(おんすまゐ)も不定、荒(あれ)のみ増(まさ)る浪(なみ)の上に、舟(ふね)流したる海士(あま)の心地(ここち)して、寄(よ)る方もなき御思(おんおもひ)の上に打添(うちそひ)て、君は西海(さいかい)の帰らぬ波に浮沈(うきしづ)み、泪(なみだ)無隙(ひまなき)御袖(おんそで)の気色(けしき)と承(うけたまは)りしかば、空(むなしく)傾思於万里之暁月、宮は又南山(なんざん)の道なき雲に踏迷(ふみまよ)はせ給(たまひ)て、狂浮(あこがれ)たる御住居(おんすまゐ)と聞ゆれど、難託書於三春之暮雁。 |
|
云彼云此一方(ひとかた)ならぬ御歎(おんなげき)に、青糸(せいし)の髪疎(おろそか)にして、いつの間(ま)に老(おい)は来(き)ぬらんと被怪、紅玉(こうぎよくの)膚(はだへ)消(きえ)て、今日(けふ)を限(かぎり)の命(いのち)共(とも)がなと思召(おぼしめし)ける御悲(かなしみ)の遣方(やるかた)なさに、年来(としごろ)の御祈(いのり)の師(し)とて、御誦経(おんじゆきやう)・御撫物(おんなでもの)なんど奉りける、北野(きたの)の社僧(しやそう)の坊(ばう)に御坐(おはしま)して、一七日(ひとなぬか)参篭(さんろう)の御志(おんこころざし)ある由(よし)を被仰ければ、此折節(このをりふし)武家の聞(きこえ)も無憚には非(あら)ねども、日来(ひごろ)の御恩(ごおん)も重く、今程(いまほど)の御有様も御痛(おんいたは)しければ、無情は如何(いかが)と思(おもひ)て、拝殿(はいでん)の傍(かたはら)に僅(わづか)なる一間(ひとま)を拵(こしらへ)て、尋常(よのつね)の青女房(なまにようばう)なんどの参篭(さんろう)したる由にて置(おき)奉りけり。哀(あはれ)古(いにし)へならば、錦帳(きんちやう)に妝(よそほひ)を篭(こめ)、紗窓(しやさう)に艶(えん)を閉(とぢ)て、左右の侍女(おもとびと)其数(そのかず)を不知、当(あた)りを輝(かかやかし)て仮傅奉(いつきかしづきたてまつる)べきに、いつしか引替(ひきかへ)たる御忍(おんしのび)の物篭(ものごもり)なれば、都(みやこ)近けれ共(ども)事(こと)問(こととひ)かわす人もなし。 | |
只一夜松(ひとよのまつ)の嵐に御夢(おんゆめ)を被覚、主(あるじ)忘れぬ梅(むめ)が香(か)に、昔の春を思召出(おぼしめしいだ)すにも、昌泰(しやうたい)の年(とし)の末(すゑ)に荒人神(あらひとかみ)と成(なら)せ玉ひし、心づくしの御旅宿(おんたびね)までも、今は君の御思(おんおもひ)に擬(なぞら)へ、又は御身(おんみ)の歎(なげき)に被思召知たる、哀(あはれ)の色(いろ)の数々(かずかず)に、御念誦(おんねんじゆ)を暫(しばらく)被止て、御涙(おんなみだ)の内にかくばかり、忘(わすれ)ずは神も哀れと思(おもひ)しれ心づくしの古(いにし)への旅と遊(あそばし)て、少(すこ)し御目睡有(おんまどろみあり)ける其夜(そのよ)の御夢(おんゆめ)に、衣冠(いくわん)正(ただ)しくしたる老翁(らうをう)の、年(とし)八十有余(いうよ)なるが、左の手に梅(むめ)の花を一枝(ひとえだ)持(もち)、右の手に鳩(はと)の杖(つゑ)をつき、最(いと)苦しげなる体(てい)にて、御局(おんつぼね)の臥給(ふしたまひ)たる枕の辺(へん)に立(たち)給へり。御夢心地(おんゆめごこち)に思召(おぼしめし)けるは、篠(ささ)の小篠(をざさ)の一節(ひとふし)も、可問人も覚(おぼえ)ぬ都の外(ほか)の蓬生(よもぎふ)に、怪(あや)しや誰人(たれびと)の道蹈迷(ふみまよ)へるやすらひぞやと御尋(おんたづね)有(あり)ければ、此老翁(このらうをう)世(よ)に哀(あはれ)なる気色(きしよく)にて、云ひ出(いだ)せる詞(こと)は無(なく)て、持(もち)たる梅(むめの)花を御前(おんまへ)に指置(さしおい)て立帰(たちかへり)けり。 不思議(ふしぎ)やと思召(おぼしめし)て御覧ずれば、一首(いつしゆ)の歌を短冊(たんざく)にかけり。廻(めぐ)りきて遂(つひ)にすむべき月影(つきかげ)のしばし陰(くもる)を何(なに)歎(なげ)くらん御夢(おんゆめ)覚(さめ)て歌の心を案(あん)じ給(たまふ)に、君(きみ)遂(つひ)に還幸(くわんかう)成(なり)て雲の上に住ませ可給瑞夢(ずゐむ)也(なり)。と、憑敷(たのもしく)思召(おぼしめし)けり。誠(まこと)に彼聖廟(かのせいべう)と申(まうし)奉るは、大慈大悲(だいじだいひ)の本地(ほんぢ)、天満天神(てんまんてんじん)の垂迹(すゐじやく)にて渡らせ給へば、一度(ひとたび)歩(あゆみ)を運(はこ)ぶ人、二世の悉地(しつち)を成就(じやうじゆ)し、僅(わづか)に御名(みな)を唱(となふ)る輩(ともがら)、万事(ばんじ)の所願(しよぐわん)を満足す。況乎(いはんや)千行万行(せんかうばんかう)の紅涙(こうるゐ)を滴尽(しただりつくし)て、七日七夜の丹誠(たんぜい)を致させ給へば、懇誠(こんぜい)暗(あん)に通じて感応(かんおう)忽(たちまち)に告(つげ)あり。世(よ)既(すでに)澆季(げうき)に雖及、信心誠(しんじんまこと)ある時は霊艦(れいかん)新(あらた)なりと、弥(いよいよ)憑敷(たのもしく)ぞ思食(おぼしめし)ける。 |
|
■楠(くすのき)出張天王寺(てんわうじしゆつちやうの)事付隅田(すだ)高橋並(ならびに)宇都宮(うつのみやの)事(こと)
元弘二年三月五日、左近将監(さこんのしやうげん)時益(ときます)、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、両六波羅(りやうろくはら)に被補て、関東(くわんとう)より上洛(しやうらく)す。此(この)三四年は、常葉(ときは)駿河(するがの)守(かみ)範貞(のりさだ)一人として、両六波羅(りやうろくはら)の成敗(せいばい)を司(つかさどつ)て在(あり)しが、堅く辞(じ)し申(まうし)けるに依(よつ)てとぞ聞へし。楠兵衛正成(まさしげ)は、去年(きよねん)赤坂(あかさか)の城にて自害して、焼死(やけしし)たる真似(まね)をして落(おち)たりしを、実(まこと)と心得て、武家(ぶけ)より、其跡(そのあと)に湯浅孫六(ゆあさまごろく)入道定仏(ぢやうぶつ)を地頭(ぢとう)に居置(すゑおき)たりければ、今は河内(かはちの)国(くに)に於ては殊(こと)なる事あらじと、心安(こころやす)く思(おもひ)ける処に、同(おなじき)四月三日楠五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、俄に湯浅(ゆあさ)が城へ押寄(おしよせ)て、息をも不継責戦(せめたたか)ふ。 城中(じやうちゆう)に兵粮(ひやうらう)の用意(ようい)乏(とぼ)しかりけるにや、湯浅が所領紀伊(きの)国(くに)の阿瀬河(あぜがは)より、人夫(にんぶ)五六百人(ごろつぴやくにん)に兵粮を持(もた)せて、夜中(やちゆう)に城へ入(いれ)んとする由(よし)を、楠風(ほのかに)聞(きい)て、兵(つはもの)を道の切所(せつしよ)へ差遣(さしつかはし)、悉(ことごとく)是(これ)を奪取(うばひとり)て其俵(そのたはら)に物具(もののぐ)を入替(いれかへ)て、馬に負(おふ)せ人夫(にんぶ)に持(もた)せて、兵(つはもの)を二三百人(にさんびやくにん)兵士(ひやうじ)の様(やう)に出立(いでたた)せて、城中へ入(いら)んとす。楠が勢是を追散(おひちら)さんとする真似(まね)をして、追(おつ)つ返(かへし)つ同士軍(どしいくさ)をぞしたりける。湯浅入道是(これ)を見て、我兵粮(わがひやうらう)入るゝ兵共(つはものども)が、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より打(うつ)て出(い)で、そゞろなる敵(てき)の兵共(つはものども)を城中へぞ引入(ひきいれ)ける。 |
|
楠が勢共(せいども)思(おもひ)の侭に城中に入(いり)すまして、俵(たはら)の中より物具共(もののぐども)取出(とりいだ)し、ひし/\と堅めて、則(すなはち)時(とき)の声をぞ揚(あげ)たりける。城の外(ほか)の勢(せい)、同時(どうじ)に木戸(きど)を破(やぶ)り、屏(へい)を越(こえ)て責入(せめいり)ける間、湯浅入道内外(ないげ)の敵に取篭(とりこめ)られて、可戦様(やう)も無(なか)りければ、忽(たちまち)に頚を伸(のべ)て降人(かうにん)に出づ。楠其(その)勢を合(あは)せて、七百余騎(よき)にて和泉(いづみ)・河内の両国(りやうごく)を靡(なび)けて、大勢に成(なり)ければ、五月十七日(じふしちにち)に先(まづ)住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)辺(へん)へ打(うつ)て出で、渡部(わたなべ)の橋より南(みんなみ)に陣を取る。然間(しかるあひだ)和泉・河内の早馬(はやむま)敷並(しきなみ)を打(うつて)、楠已(すで)に京都へ責上(せめのぼ)る由告(つげ)ければ、洛中の騒動不斜。武士(ぶし)東西に馳散(はせち)りて貴賎(きせん)上下周章(あわつる)事(こと)窮(きはま)りなし。斯(かか)りければ両六波羅(りやうろくはら)には畿内近国(きないきんごく)の勢如雲霞の馳集(はせあつまつ)て、楠今や責上(せめのぼ)ると待(まち)けれ共(ども)、敢(あへ)て其義(そのぎ)もなければ、聞(きく)にも不似、楠小勢(こぜい)にてぞ有覧(あるらん)、此方(こなた)より押寄(おしよせ)て打散(うちちら)せとて、隅田(すだ)・高橋を両六波羅(ろくはら)の軍奉行(いくさぶぎやう)として、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならび)に在京人(ざいきやうにん)、畿内近国(きないきんごく)の勢を合(あは)せて、天王寺(てんわうじ)へ被指向。 | |
其(その)勢都合(つがふ)五千(ごせん)余騎(よき)、同(おなじき)二十日京都を立(たつ)て、尼崎(あまがさき)・神崎(かんざき)・柱松(はしらもと)の辺(へん)に陣を取(とり)て、遠篝(とほかがり)を焼(たい)て其夜(そのよ)を遅しと待明(まちあか)す。楠是(これ)を聞(きい)て、二千余騎(よき)を三手に分け、宗(むね)との勢をば住吉・天王寺(てんわうじ)に隠(かくし)て、僅(わづか)に三百騎(さんびやくき)許(ばかり)を渡部(わたなべ)の橋の南(みんなみ)に磬(ひかへ)させ、大篝(おほかがり)二三箇所(にさんかしよ)に焼(たか)せて相向(あひむか)へり。是(これ)は態(わざ)と敵に橋を渡させて、水の深みに追(おひ)はめ、雌雄(しゆう)を一時(いちじ)に決せんが為と也(なり)。去程(さるほど)に明(あく)れば五月二十一日に、六波羅(ろくはら)の勢五千(ごせん)余騎(よき)、所々(しよしよ)の陣を一所(いつしよ)に合(あは)せ、渡部(わたなべ)の橋まで打臨(うちのぞん)で、河向(かはむかひ)に引(ひか)へたる敵の勢を見渡せば、僅(わづか)に二三百騎(にさんびやくき)には不過、剰(あまつさへ)痩(やせ)たる馬に縄手綱(なはたづな)懸(かけ)たる体(てい)の武者共(むしやども)也(なり)。隅田(すだ)・高橋是(これ)を見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際(ぶんざい)、さこそ有らめと思ふに合せて、はか/゛\しき敵は一人も無(なか)りけり。 此奴原(このやつばら)一々に召捕(めしとつ)て六条河原(ろくでうかはら)に切懸(きりかけ)て、六波羅殿(ろくはらどの)の御感(ぎよかん)に預(あづか)らんと云侭(いふまま)に、隅田(すだ)・高橋人交(ひとまぜ)もせず橋より下(しも)を一文字(いちもんじ)にぞ渡(わたし)ける。五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)是(これ)を見て、我先(われさき)にと馬を進めて、或(あるひ)は橋の上(うへ)を歩(あゆ)ませ或(あるひ)は河瀬(かはせ)を渡して、向(むかひ)の岸に懸驤(かけあが)る。楠(くすのきが)勢是(これ)を見て、遠矢(とほや)少々射捨(いすて)て、一戦(いつせん)もせず天王寺(てんわうじ)の方(かた)へ引退(ひきしりぞ)く。六波羅(ろくはら)の勢是(これ)を見て、勝(かつ)に乗り、人馬(じんば)の息をも不継せ、天王寺(てんわうじ)の北の在家(ざいけ)まで、揉(もみ)に揉(もう)でぞ追(おう)たりける。楠思程(おもふほど)敵の人馬を疲(つか)らかして、二千騎(にせんぎ)を三手に分(わけ)て、一手(ひとて)は天王寺(てんわうじ)の東(ひんがし)より敵を弓手(ゆんで)に請(うけ)て懸出(かけい)づ。一手(ひとて)は西門(さいもん)の石の鳥居より魚鱗懸(ぎよりんがかり)に懸出(かけい)づ。一手は住吉の松(まつの)陰より懸出(かけい)で、鶴翼(かくよく)に立(た)て開合(ひらきあは)す。六波羅(ろくはら)の勢を見合(みあは)すれば、対揚(たいやう)すべき迄(まで)もなき大勢なりけれ共(ども)、陣の張様(はりやう)しどろにて、却(かへつ)て小勢(こぜい)に囲(かこま)れぬべくぞ見へたりける。 |
|
隅田・高橋是(これ)を見て、「敵後(うし)ろに大勢を陰(かく)してたばかりけるぞ。此辺(このあたり)は馬の足立(あしだち)悪(あしう)して叶はじ。広みへ敵を帯(おび)き出(いだ)し、勢(せい)の分際(ぶんざい)を見計(みはから)ふて、懸合々々(かけあはせかけあはせ)勝負を決せよ。」と、下知(げぢ)しければ、五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、敵に後(うし)ろを被切ぬ先にと、渡部(わたなべ)の橋を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。楠が勢是(これ)に利(り)を得て、三方(さんばう)より勝時(かちどき)を作(つくつ)て追懸(おつか)くる。 橋近く成(なり)ければ、隅田(すだ)・高橋是(これ)を見て、「敵は大勢にては無(なか)りけるぞ、此(ここ)にて不返合大河(たいが)後(うし)ろに在(あつ)て悪(あし)かりぬべし。返せや兵共(つはものども)。」と、馬の足を立直(たてなほ)し/\下知(げぢ)しけれども、大勢の引立(ひきたて)たる事なれば、一返(ひとかへし)も不返、只我先(われさき)にと橋の危(あやふき)をも不云、馳集(はせあつま)りける間、人馬共(じんばとも)に被推落て、水に溺(おぼ)るゝ者不知数、或(あるひは)淵瀬(ふちせ)をも不知渡し懸(かかつ)て死(し)ぬる者も有り、或(あるひ)は岸より馬を馳倒(はせたふし)て其侭(そのまま)被討者も有(あり)。只馬・物具(もののぐ)を脱捨(ぬぎすて)て、逃延(にげのび)んとする者は有れ共(ども)、返合(かへしあは)せて戦はんとする者は無(なか)りけり。而(しか)れば五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、残少(のこりずく)なに被打成て這々(はふはふ)京へぞ上(のぼ)りける。其翌日(そのよくじつ)に何者(なにもの)か仕(し)たりけん、六条河原(ろくでうかはら)に高札(たかふだ)を立(た)て一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かき)たりける。 |
|
渡部(わたなべ)の水いか許(ばかり)早(はや)ければ高橋落(おち)て隅田(すだ)流るらん京童(きやうわらんべ)の僻(くせ)なれば、此落書(このらくしよ)を歌に作(つくり)て歌ひ、或(あるひ)は語伝(かたりつたへ)て笑ひける間(あひだ)、隅田(すだ)・高橋面目(めんぼく)を失ひ、且(しばらく)は出仕(しゆつし)を逗(とど)め、虚病(きよびやう)してぞ居たりける。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を聞(きい)て、安からぬ事に被思ければ、重(かさね)て寄(よ)せんと被議けり。其比(そのころ)京都余(あまり)に無勢(ぶせい)なりとて関東(くわんとう)より被上たる宇都宮(うつのみや)治部大輔(うつのみやぢぶのたいふ)を呼寄(よびよせ)評定(ひやうぢやう)有(あり)けるは、「合戦(かつせん)の習(なら)ひ運に依(よつ)て雌雄(しゆう)替(かは)る事古(いにし)へより無(なき)に非(あら)ず。然共(しかれども)今度(このたび)南方(なんばう)の軍(いくさ)負(まけ)ぬる事(こと)、偏(ひとへ)に将(しやう)の計(はかりごと)の拙(つたなき)に由(よ)れり。又士卒(じそつ)の臆病(おくびやう)なるが故(ゆゑ)也(なり)。 天下(てんがの)嘲哢(てうろう)口を塞(ふさ)ぐに所(ところ)なし。就中に仲時(なかとき)罷上(まかりのぼり)し後(のち)、重(かさね)て御上洛(ごしやうらく)の事は、凶徒(きようと)若(もし)蜂起(ほうき)せば、御向(おんむか)ひ有(あつ)て静謐候(せいひつさふらへ)との為(ため)なり。今の如(ごとき)んば、敗軍の兵を駈集(かりあつめ)て何度(いくたび)むけて候とも、はか/゛\しき合戦しつ共不覚候。且(かつう)は天下の一大事(いちだいじ)、此時(このとき)にて候へば、御向候(むかひさふらひ)て御退治(たいぢ)候へかし。」と宣(のたま)ひければ、宇都宮(うつのみや)辞退(じたい)の気色(きしよく)無(なう)して被申けるは、「大軍(たいぐん)已(すで)に利(り)を失(うしなう)て後(のち)、小勢(こぜい)にて罷向(まかりむかひ)候はん事(こと)、如何(いかん)と存(ぞんじ)候へども、関東(くわんとう)を罷出(まかりいで)し始(はじめ)より、加様(かやう)の御大事(おんだいじ)に逢(あう)て命(いのち)を軽(かろ)くせん事を存(ぞんじ)候き。 |
|
今の時分(じぶん)、必(かならず)しも合戦の勝負(しようぶ)を見所(みるところ)にては候はねば、一人にて候共(とも)、先(まづ)罷向(まかりむかう)て一合戦(ひとかつせん)仕(つかまつ)り、及難儀候はゞ、重(かさねて)御勢(おんせい)をこそ申(まうし)候はめ。」と、誠(まこと)に思定(おもひさだめ)たる体(てい)に見へてぞ帰りける。宇都宮(うつのみや)一人武命(ぶめい)を含(ふくん)で大敵に向(むか)はん事(こと)、命(いのち)を可惜に非ざりければ、態(わざ)と宿所(しゆくしよ)へも不帰、六波羅(ろくはら)より直(すぐ)に、七月十九日(じふくにちの)午刻(うまのこく)に都を出で、天王寺(てんわうじ)へぞ下(くだ)りける。 東寺辺(とうじへん)までは主従(しゆじゆう)僅(わづか)に十四五騎が程とみへしが、洛中(らくちゆう)にあらゆる所(ところ)の手者共(てのものども)馳加(はせくはは)りける間、四塚(よつづか)・作道(つくりみち)にては、五百(ごひやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。路次(ろし)に行逢(ゆきあふ)者をば、権門勢家(けんもんせいけ)を不云、乗馬(のりむま)を奪ひ人夫(にんぶ)を駈立(かけた)て通(とほ)りける間、行旅(かうりよ)の往反路(わうへんみち)を曲(ま)げ、閭里(りより)の民屋(みんをく)戸(とぼそ)を閉(と)づ。其夜(そのよ)は柱松(はしらもと)に陣を取(とり)て明(あく)るを待つ。其志(そのこころざし)一人も生(いき)て帰らんと思(おもふ)者は無(なか)りけり。去程(さるほど)に河内(かはちの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)和田(わだ)孫三郎此由(このよし)を聞(きい)て、楠が前(まへ)に来(きたつ)て云(いひ)けるは、「先日(せんじつ)の合戦に負腹(まけばら)を立て京より宇都宮(うつのみや)を向(むけ)候なる。 今夜(こよひ)既(すで)に柱松(はしらもと)に着(つい)て候が其勢(そのせい)僅(わづか)に六七百騎(ろくしちひやくき)には過(すぎ)じと聞へ候。先(さき)に隅田(すだ)・高橋が五千(ごせん)余騎(よき)にて向(むかつ)て候(さふらひ)しをだに、我等(われら)僅(わづか)の小勢(こぜい)にて追散(おつちら)して候(さふらひ)しぞかし。其上(そのうへ)今度(このたび)は御方(みかた)勝(かつ)に乗(のつ)て大勢也(なり)。敵は機(き)を失(うしなう)て小勢也(なり)。宇都宮(うつのみや)縦(たと)ひ武勇(ぶゆう)の達人(たつじん)なりとも、何程(なにほど)の事か候べき。今夜(こよひ)逆寄(さかよせ)にして打散(うちちら)して捨候(すてさふらは)ばや。」と云(いひ)けるを、楠暫(しばらく)思案(しあん)して云(いひ)けるは、「合戦の勝負(しようぶ)必(かならず)しも大勢小勢(おほぜいこぜい)に不依、只(ただ)士卒(じそつ)の志(こころざし)を一にするとせざると也(なり)。 |
|
されば「大敵を見ては欺(あざむ)き、小勢を見ては畏(おそ)れよ」と申す事是(これ)なり。先(まづ)思案(しあん)するに、先度(せんど)の軍(いくさ)に大勢打負(うちまけ)て引退(ひきしりぞ)く跡(あと)へ、宇都宮(うつのみや)一人小勢にて相向(あひむか)ふ志(こころざし)、一人も生(いき)て帰らんと思(おもふ)者よも候はじ。其上(そのうへ)宇都宮(うつのみや)は坂東一(ばんどういち)の弓矢取(ゆみやとり)也(なり)。紀清両党(きせいりやうたう)の兵(つはもの)、元来(もとより)戦場(せんぢやう)に臨(のぞん)で命を棄(すつ)る事塵芥(ぢんがい)よりも尚(なほ)軽(かる)くす。其兵(そのつはもの)七百余騎(よき)志を一(ひと)つにして戦(たたかひ)を決せば、当手(たうて)の兵(つはもの)縦(たとひ)退(しりぞ)く心なく共(とも)、大半(たいはん)は必(かならず)可被討。 天下の事全(まつたく)今般(このたび)の戦(たたかひ)に不可依。行末(ゆくすゑ)遥(はるか)の合戦に、多からぬ御方(みかた)初度(しよど)の軍(いくさ)に被討なば、後日(ごにち)の戦(たたかひ)に誰か力(ちから)を可合。「良将(りやうしやう)は不戦して勝(かつ)」と申(まうす)事(こと)候へば、正成(まさしげ)に於ては、明日態(わざ)と此(この)陣を去(さつ)て引退(ひきしりぞ)き、敵に一面目(ひとめんぼく)在(あ)る様(やう)に思はせ、四五日を経て後(のち)、方々(はうばう)の峯に篝(かがり)を焼(たい)て、一蒸(ひとむし)蒸程(むすほど)ならば、坂東武者(ばんどうむしや)の習(ならひ)、無程機疲(きつかれ)て、「いや/\長居(ながゐ)しては悪(あし)かりなん。一面目(ひとめんぼく)有(ある)時去来(いざ)や引返(ひきかへ)さん。」と云(いは)ぬ者は候はじ。されば「懸(かく)るも引(ひく)も折(をり)による」とは、加様(かやう)の事を申(まうす)也(なり)。夜(よ)已(すで)に暁天(げうてん)に及べり。敵定(さだめ)て今は近付(ちかづく)らん。去来(いざ)させ給へ。」とて、楠天王寺(てんわうじ)を立(たち)ければ、和田・湯浅(ゆあさ)も諸共(もろとも)に打連(うちつれ)てぞ引(ひき)たりける。 |
|
夜(よ)明(あけ)ければ、宇都宮(うつのみや)七百余騎(よき)の勢にて天王寺(てんわうじ)へ押寄(おしよ)せ、古宇都(こうづ)の在家(ざいけ)に火を懸け、時(とき)の声を揚(あげ)たれ共(ども)、敵なければ不出合。「たばかりぞすらん。此辺(このあたり)は馬の足立(あしたち)悪(あしう)して、道狭(せば)き間、懸入(かけいる)敵に中(なか)を被破な、後(うし)ろを被裹な。」と下知(げぢ)して、紀清両党(きせいりやうたう)馬の足をそろへて、天王寺(てんわうじ)の東西(とうざい)の口(くち)より懸入(かけいつ)て、二三度(にさんど)まで懸入々々(かけいりかけいり)しけれ共(ども)、敵一人も無(なく)して、焼捨(たきすて)たる篝(かがり)に燈(ともしび)残(のこり)て、夜はほの/゛\と明(あけ)にけり。 宇都宮(うつのみや)不戦先(さき)に一勝(ひとかち)したる心地(ここち)して、本堂(ほんだう)の前(まへ)にて馬より下(お)り、上宮太子(じやうぐうたいし)を伏拝(ふしをが)み奉り、是(これ)偏(ひとへ)に武力(ぶりき)の非所致、只然(しかしながら)神明仏陀(しんめいぶつだ)の擁護(おうご)に懸(かか)れりと、信心(しんじん)を傾(かたむ)け歓喜(くわんぎ)の思(おもひ)を成(な)せり。頓(やが)て京都へ早馬(はやむま)を立(た)て、「天王寺(てんわうじ)の敵をば即時(そくじ)に追落(おひおと)し候(さふらひ)ぬ。」と申(まうし)たりければ、両六波羅(りやうろくはら)を始(はじめ)として、御内外様(みうちとざま)の諸軍勢(しよぐんぜい)に至(いたる)まで、宇都宮(うつのみや)が今度(このたび)の振舞(ふるまひ)抜群(ばつぐん)也(なり)。と、誉(ほめ)ぬ人も無(なか)りけり。 |
|
宇都宮(うつのみや)、天王寺(てんわうじ)の敵を輒(たやす)く追散(おつちら)したる心地(ここち)にて、一面目(ひとめんぼく)は有体(あるてい)なれ共(ども)、軈(やが)て続(つづい)て敵の陣へ責入(せめい)らん事も、無勢(ぶぜい)なれば不叶、又誠(まこと)の軍(いくさ)一度(いちど)も不為して引返(ひつかへ)さん事もさすがなれば、進退(しんだい)谷(きはまつ)たる処に、四五日を経(へ)て後(のち)、和田・楠(くすのき)、和泉(いづみ)・河内(かはち)の野伏共(のぶしども)を四五千人駈集(かりあつめ)て、可然兵(つはもの)二三百騎(にさんびやくき)差副(さしそへ)、天王寺(てんわうじ)辺(へん)に遠篝火(とほかがりび)をぞ焼(たか)せける。すはや敵こそ打出(うちいで)たれと騒動(さうどう)して、深行侭(ふけゆくまま)に是(これ)を見れば、秋篠(あきしの)や外山(とやま)の里(さと)、生駒(いこま)の岳(だけ)に見ゆる火は、晴(はれ)たる夜の星よりも数(しげ)く、藻塩草(もしほぐさ)志城津(しぎづ)の浦、住吉(すみよし)・難波(なんば)の里に焼篝(たくかがり)は、漁舟(ぎよしう)に燃(とぼ)す居去火(いさりび)の、波を焼(たく)かと怪しまる。 総(すべ)て大和(やまと)・河内・紀伊(きの)国(くに)にありとある所の山々浦々に、篝(かがり)を焼(たか)ぬ所は無(なか)りけり。其(その)勢幾万騎(いくまんぎ)あらんと推量してをびたゝし。如此する事両三夜に及び、次第(しだい)に相近付(あひちかづ)けば、弥(いよいよ)東西南北四維上下(しゆゐじやうげ)に充満(じゆうまん)して、闇夜(あんや)に昼(ひる)を易(かへ)たり。宇都宮(うつのみや)是(これ)を見て、敵寄来(よせきた)らば一軍(ひといくさ)して、雌雄(しゆう)を一時に決せんと志(こころざ)して、馬の鞍(くら)をも不息、鎧(よろひ)の上帯(うはおび)をも不解待懸(まちかけ)たれ共(ども)、軍(いくさ)は無(なう)して敵の取廻(とりまは)す勢(いきほ)ひに、勇気疲(つか)れ武力(ぶりき)怠(たゆん)で、哀(あは)れ引退(ひきしりぞ)かばやと思ふ心着(つき)けり。 |
|
斯(かか)る処に紀清両党(きせいりやうたう)の輩(ともがら)も、「我等(われら)が僅(わづか)の小勢(こぜい)にて此(この)大敵に当(あた)らん事は、始終(しじゆう)如何(いかん)と覚(おぼえ)候。先日(せんじつ)当所(たうしよ)の敵を無事故追落(おひおと)して候(さふらひ)つるを、一面目(ひとめんぼく)にして御上洛(ごしやうらく)候へかし。」と申せば、諸人(しよにん)皆此義(このぎ)に同(どう)じ、七月二十七日(にじふしちにちの)夜半許(やはんばかり)に宇都宮(うつのみや)天王寺(てんわうじ)を引(ひきて)上洛(しやうらく)すれば、翌日(よくじつ)早旦(さうたん)に楠頓(やが)て入替(いりかは)りたり。誠(まこと)に宇都宮(うつのみや)と楠と相戦(あひたたかう)て勝負(しようぶ)を決せば、両虎二龍(りやうこじりゆう)の闘(たたかひ)として、何(いづ)れも死を共(とも)にすべし。 されば互に是(これ)を思ひけるにや、一度(ひとたび)は楠引(ひい)て謀(はかりごと)を千里(せんり)の外(ほか)に運(めぐら)し、一度(ひとたび)は宇都宮(うつのみや)退(しりぞい)て名を一戦(いつせん)の後(のち)に不失。是(これ)皆智謀深く、慮(おもんばか)り遠き良将(りやうしやう)なりし故(ゆゑ)也(なり)。と、誉(ほめ)ぬ人も無(なか)りけり。去程(さるほど)に楠兵衛正成(まさしげ)は、天王寺(てんわうじ)に打出(うちいで)て、威猛(ゐまう)を雖逞、民屋(みんをく)に煩(わづら)ひをも不為して、士卒(じそつ)に礼を厚くしける間、近国(きんごく)は不及申、遐壌遠境(かじやうゑんきやう)の人牧(じんぼく)までも、是(これ)を聞伝(ききつた)へて、我(われ)も我(われ)もと馳加(はせくはは)りける程に、其勢(そのいきほ)ひ漸(やうやく)強大(きやうだい)にして、今は京都よりも、討手(うつて)を無左右被下事は難叶とぞ見へたりける。 |
|
■正成(まさしげ)天王寺(てんわうじの)未来記(みらいき)披見(ひけんの)事(こと)
元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉(すみよし)に参詣し、神馬(しんめ)三疋(さんびき)献之。翌日(よくじつ)天王寺(てんわうじ)に詣(まうで)て白鞍(しろくら)置(おい)たる馬、白輻輪(しらぶくりん)の太刀、鎧(よろひ)一両(いちりやう)副(そへ)て引進(ひきまゐら)す。是(これ)は大般若経(だいはんにやきやう)転読(てんどく)の御布施(おんふせ)なり。啓白(けいひやく)事終(ことをはつ)て、宿老(しゆくらう)の寺僧(じそう)巻数(くわんじゆ)を捧(ささげ)て来れり。楠則(すなはち)対面して申(まうし)けるは、「正成、不肖(ふせう)の身として、此(この)一大事(いちだいじ)を思立(おもひたち)て候事(こと)、涯分(がいぶん)を不計に似たりといへ共(ども)、勅命の不軽礼儀を存(ぞん)ずるに依(よつ)て、身命(しんみやう)の危(あやふ)きを忘(わすれ)たり。然(しかる)に両度(りやうど)の合戦聊(いささか)勝(かつ)に乗(のつ)て、諸国の兵不招馳加(はせくはは)れり。是(これ)天の時を与へ、仏神(ぶつじん)擁護(おうご)の眸(まなじり)を被回歟(か)と覚(おぼえ)候。 誠やらん伝承(つたへうけたまは)れば、上宮(じようぐう)太子の当初(そのかみ)、百王治天(ちてん)の安危(あんき)を勘(かんがへ)て、日本(につぽん)一州(いつしう)の未来記(みらいき)を書置(かきおか)せ給(たまひ)て候なる。拝見若(もし)不苦候はゞ、今の時に当(あた)り候はん巻許(まきばかり)、一見仕候(つかまつりさふらは)ばや。」と云(いひ)ければ、宿老(しゆくらう)の寺僧(じそう)答(こたへ)て云(いはく)、「太子守屋(もりや)の逆臣(ぎやくしん)を討(うつ)て、始(はじめ)て此寺(このてら)を建(たて)て、仏法を被弘候(さふらひ)し後(のち)、神代(しんだい)より始(はじめ)て、持統(ぢとう)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に至(いたる)までを被記たる書(しよ)三十巻(さんじつくわん)をば、前代旧事本記(ぜんだいくじほんぎ)とて、卜部(うらべ)の宿祢(すくね)是(これ)を相伝(さうでん)して有職(いうしよく)の家を立(たて)候。其外(そのほか)に又一巻(いつくわん)の秘書(ひしよ)を被留て候。是(これ)は持統(ぢとう)天皇(てんわう)以来末世代々(まつせだいだい)の王業(わうげふ)、天下の治乱(ちらん)を被記て候。是(これ)をば輒(たやす)く人の披見(ひけん)する事は候はね共(ども)、以別儀密(ひそか)に見参(げんざん)に入(いれ)候べし。」とて、即(すなはち)秘府(ひふ)の銀鑰(ぎんやく)を開(ひらい)て、金軸(こんぢく)の書(しよ)一巻(いつくわん)を取出(とりいだ)せり。 |
|
正成悦(よろこび)て則(すなはち)是(これ)を披覧(ひらん)するに、不思議(ふしぎ)の記文(きもん)一段(だん)あり。其文(そのもん)に云(いはく)、当人王九十五代。天下一(ひとたび)乱(みだれて)而主(しゆ)不安。此(この)時東魚(とうぎよ)来(きたつて)呑四海(しかい)。日没西天三百(さんびやく)七十(しちじふ)余箇日(よかにち)。西鳥(せいてう)来(きたつて)食東魚を。其後(そののち)海内(かいだい)帰一三年。如■猴(みこうのごとき)者掠天下三十(さんじふ)余年(よねん)。大凶(だいきよう)変(へんじて)帰一元。云云。正成不思議(ふしぎ)に覚へて、能々(よくよく)思案(しあん)して此文(このもん)を考(かんがふ)るに、先帝(せんてい)既(すで)に人王(にんわう)の始(はじめ)より九十五代に当(あた)り給へり。「天下一度(ひとたび)乱(みだれ)て主不安」とあるは是此(これこの)時なるべし。 「東魚(とうぎよ)来(きたつ)て呑四海(しかい)」とは逆臣(ぎやくしん)相摸(さがみ)入道の一類(いちるゐ)なるべし。「西鳥(せいてう)食東魚を」とあるは関東(くわんとう)を滅(ほろぼ)す人可有。「日没西天に」とは、先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百(さんびやく)七十(しちじふ)余箇日(よかにち)」とは、明年(みやうねん)の春(はる)の比(ころ)此(この)君隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成(なつ)て、再び帝位に即(つ)かせ可給事なるべしと、文(もん)の心を明(あきらか)に勘(かんがふる)に、天下の反覆(へんふく)久しからじと憑敷(たのもしく)覚(おぼえ)ければ、金作(こがねづくり)の太刀一振(ひとふり)此(この)老僧に与へて、此書(このしよ)をば本(もと)の秘府(ひふ)に納(をさめ)させけり。後(のち)に思合(おもひあは)するに、正成(まさしげ)が勘(かんが)へたる所、更(さら)に一事(いちじ)も不違。是(これ)誠(まこと)に大権聖者(だいごんのしやうじや)の末代(まつだい)を鑒(かんがみ)て記(しる)し置給(おきたまひ)し事なれ共(ども)、文質三統(ぶんしつさんとう)の礼変(れいべん)、少しも違(たが)はざりけるは、不思議(ふしぎ)なりし讖文(しんもん)也(なり)。 |
|
■赤松(あかまつ)入道円心(ゑんしん)賜大塔宮令旨事
其比(そのころ)播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)、村上(むらかみ)天皇(てんわう)第七(だいしちの)御子(みこ)具平(ぐへい)親王(しんわう)六代の苗裔(べうえい)、従三位(じゆさんみ)季房(すゑふさ)が末孫(ばつそん)に、赤松(あかまつの)次郎入道円心(ゑんしん)とて弓矢取(とつ)て無双(ぶさう)の勇士(ゆうし)有り。元来(もとより)其(その)心闊如(くわつじよ)として、人の下風(したて)に立(たた)ん事を思はざりければ、此(この)時絶(たえ)たるを継廃(つぎすたれ)たるを興(おこ)して、名を顕(あらは)し忠を抽(ぬきんで)ばやと思(おもひ)けるに、此(この)二三年大塔宮(おほたふのみや)に属纒奉(つきまとひたてまつり)て、吉野十津川(とつがは)の艱難(かんなん)を経(へ)ける円心が子息(しそく)律師(りつし)則祐(そくいう)、令旨(りやうじ)を捧(ささげ)て来れり。 披覧(ひらん)するに、「不日(ふじつ)に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者(は)、恩賞(おんしやう)宜依請」之(の)由(よし)、被戴。委細(いさいの)事書(ことがき)十七(じふしち)箇条の恩裁(おんさいを)被添たり。条々何(いづ)れも家の面目(めんぼく)、世の所望(しよまう)する事なれば、円心不斜悦(よろこう)で、先(まづ)当国佐用庄(さよのしやう)苔縄(こけなは)の山に城を構(かまへ)て、与力(よりき)の輩(ともがら)を相招(あひまね)く。其(その)威漸(やうやく)近国(きんごく)に振(ふる)ひければ、国中の兵共(つはものども)馳集(はせあつまつ)て、無程其(その)勢一千余騎(よき)に成(なり)にけり。只秦(しん)の世已(すで)に傾(かたむか)んとせし弊(つひえ)に乗(のつとつ)て、楚(そ)の陳勝(ちんしよう)が異蒼頭(さうとう)にして大沢(だいたく)に起りしに異ならず。頓(やが)て杉坂(すぎさか)・山(やま)の里(さと)二箇所(にかしよ)に関を居(すゑ)、山陽(せんやう)・山陰(せんいん)の両道(りやうだう)を差塞(さしふさ)ぐ。是より西国(さいこく)の道止(とまつ)て、国々の勢上洛(しやうらく)する事を得ざりけり。 |
|
■関東(くわんとうの)大勢(おほぜい)上洛(しやうらくの)事(こと)
去程(さるほど)に畿内西国(きないさいこく)の凶徒(きようと)、日を逐(おつ)て蜂起(ほうき)する由(よし)、六波羅(ろくはら)より早馬(はやむま)を立(た)て関東(くわんとう)へ被注進。相摸(さがみ)入道大(おほき)に驚(おどろい)て、さらば討手を指遣(さしつかは)せとて、相摸守(さがみのかみ)の一族(いちぞく)、其外(そのほか)東(ひがし)八箇国(はちかこく)の中に、可然大名共(だいみやうども)を催(もよほ)し立(た)て被差上。先(まづ)一族(いちぞく)には、阿曾弾正少弼(あそのだんじやうせうひつ)・名越遠江(なごやのとほたふみの)入道・大仏(おさらぎの)前陸奥守(さきのむつのかみ)貞直(さだなほ)・同(おなじき)武蔵(むさしの)左近(さこんの)将監(しやうげん)・伊具右近(いぐのうこんの)大夫将監・陸奥右馬助(むつのうまのすけ)、外様(とざま)の人々には、千葉大介(ちばのおほすけ)・宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)守(かみ)・小山判官(をやまのはんぐわん)・武田(たけだの)伊豆(いづの)三郎・小笠原(をがさはら)彦五郎・土岐伯耆(ときのはうき)入道・葦名判官(あしなのはんぐわん)・三浦(みうらの)若狭(わかさの)五郎・千田(せんだの)太郎・城太宰大弐(じやうのださいのだいに)入道・佐々木(ささきの)隠岐前司(おきのぜんじ)・同(おなじき)備中(びつちゆうの)守(かみ)・結城(ゆふきの)七郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・小田常陸前司(をだのひたちのぜんじ)・ 長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・同(おなじき)九郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・長江(ながえの)弥六左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・長沼駿河(ながぬまのするがの)守(かみ)・渋谷(しぶや)遠江守(とほたふみのかみ)・河越(かはごえ)三河(みかはの)入道・工藤(くどう)次郎左衛門(じらうざゑもん)高景(たかかげ)・狩野(かのの)七郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・伊東常陸(いとうひたちの)前司・同(おなじき)大和(やまとの)入道・安藤藤内(あんどうとうない)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・宇佐美摂津(つの)前司・二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道・同下野(おなじきしもつけの)判官・同常陸介(おなじきひたちのかみ)・安保(あぶの)左衛門入道・南部(なんぶの)次郎・山城(やましろの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、此等(これら)を始(はじめ)として、宗(むね)との大名(だいみやう)百三十二人(ひやくさんじふににん)、都合(つがふ)其(その)勢三十万七千五百(ごひやく)余騎(よき)、九月二十日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、十月八日先陣(せんぢん)既(すで)に京都に着(つ)けば後陣(ごぢん)は未だ足柄(あしがら)・筥根(はこね)に支(ささ)へたり。 |
|
是(これ)のみならず河野(かうのの)九郎四国の勢を率(そつ)して、大船(たいせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)にて尼崎(あまがさき)より襄(あがつ)て下京(しもきやう)に着(つく)。厚東(こうとう)入道・大内介(おほちのすけ)・安芸(あきの)熊谷(くまがえ)、周防(すはう)・長門(ながと)の勢を引具(ひきぐ)して、兵船(ひやうせん)二百余艘(よさう)にて、兵庫(ひやうご)より襄(あがつ)て西(にし)の京(きやう)に着(つく)。甲斐・信濃(しなの)の源氏七千余騎(よき)、中山道(なかせんだう)を経(へ)て東山(ひがしやま)に着(つく)。江馬(えま)越前守(ゑちぜんのかみ)・淡河右京亮(あいかはうきやうのすけ)、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢を率(そつ)して、三万余騎(よき)にて東坂本(ひがしさかもと)を経て上京(かみきやう)に着(つく)。総(そう)じて諸国七道の軍勢(ぐんぜい)我(われ)も我(われ)もと馳上(はせのぼ)りける間、京白河(しらかは)の家(いへ)々に居余(ゐあま)り、醍醐(だいご)・小栗栖(をぐるす)・日野(ひの)・勧修寺(くわんしゆじ)・嵯峨・仁和寺(にんわじ)・太秦(うづまさ)の辺(へん)・西山(にしやま)・北山(きたやま)・賀茂(かも)・北野・革堂(かうだう)・河崎(かうさき)・清水(きよみづ)・六角堂の門(もん)の下(した)、鐘楼(しゆろう)の中迄(まで)も、軍勢の宿(やど)らぬ所は無(なか)りけり。 日本(につぽん)雖小国是程(これほど)に人の多かりけりと始(はじめ)て驚く許(ばかり)也(なり)。去程(さるほど)に元弘三年正月晦日(つごもり)、諸国の軍勢八十万騎(はちじふまんぎ)を三手(みて)に分(わけ)て、吉野・赤坂・金剛山(こんがうせん)、三(みつ)の城へぞ被向ける。先(まづ)吉野へは二階堂出羽(ではの)入道々蘊(だううん)を太将として、態(わざ)と他の勢を交(まじ)へず、二万七千余騎(よき)にて、上道(かみみち)・下道(しもみち)・中道(なかみち)より、三手に成(なつ)て相向ふ。赤坂へは阿曾弾正少弼(あそだんじやうせうひつ)を大将として、其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、先(まづ)天王寺(てんわうじ)・住吉に陣を張る。金剛山(こんがうせん)へは陸奥(むつの)右馬助(うまのすけ)、搦手(からめで)の大将として、其(その)勢二十万騎(にじふまんぎ)、奈良路(ならぢ)よりこそ被向けれ。中にも長崎悪四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)は、別して侍(さぶらひ)大将を承(うけたまはつ)て、大手(おほて)へ向ひけるが、態(わざと)己(おのれ)が勢(せい)の程を人に被知とや思(おもひ)けん。一日引(ひき)さがりてぞ向ひける。其行妝(そのかうさう)見物(けんぶつ)の目をぞ驚(おどろか)しける。先(まづ)旗差(はたさし)、其(その)次に逞しき馬に厚総(あつぶさ)懸(かけ)て、一様(いちやう)の鎧(よろひ)着(きた)る兵(つはもの)八百(はつぴやく)余騎(よき)、二町(にちやう)計(ばかり)先(さ)き立(だ)てゝ、馬を静めて打(うた)せたり。 |
|
我(わが)身は其(その)次に纐纈(かうけつ)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、精好(せいがう)の大口(おほくち)を張(はら)せ、紫下濃(むらさきすそご)の鎧に、白星(しらぼし)の五枚甲(かぶと)に八竜(はちりゆう)を金(きん)にて打(うつ)て付(つけ)たるを猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、銀(しろがね)の瑩付(みがきつけ)の脛当(すねあて)に金作(こがねづくり)の太刀に振帯(ふりはい)て、一部黒(いちのへいぐろ)とて、五尺三寸有(あり)ける坂東(ばんどう)一の名馬に塩干潟(しほひがた)の捨小舟(すてをぶね)を金貝(かながひ)に磨(すり)たる鞍を置(おい)て、款冬(やまぶき)色の厚総(あつぶさ)懸(かけ)て、三十六(さんじふろく)差(さい)たる白磨(しらすり)の銀筈(しろがねはず)の大中黒(おほなかぐろ)の矢に、本滋藤(もとしげどう)の弓の真中(まつなか)握(にぎつ)て、小路(こうぢ)を狭(せば)しと歩(あゆ)ませたり。 片小手(かたこて)に腹当(はらあて)して、諸具足(もろぐそく)したる中間(ちゆうげん)五百(ごひやく)余人(よにん)、二行(にがう)に列を引き、馬の前後(ぜんご)に随(したがつ)て、閑(しづか)に路次(ろし)をぞ歩(あゆ)みける。其後(そののち)四五町(しごちやう)引(ひき)さがりて、思々(おもひおもひ)に鎧(よろう)たる兵(つはもの)十万余騎(よき)、甲(かぶと)の星を輝(かかや)かし、鎧の袖を重(かさね)て、沓(くつ)の子(こ)を打(うち)たるが如くに道五六里が程支(ささへ)たり。其勢(そのいきほ)ひ決然(けつぜん)として天地を響(ひび)かし山川(さんせん)を動(うごか)す許(ばかり)也(なり)。此外(このほか)々様(とざま)の大名(だいみやう)五千騎(ごせんぎ)・三千騎、引分々々(ひきわけひきわけ)昼夜(ちうや)十三日迄(まで)、引(ひき)も切らでぞ向ひける。我朝(わがてう)は不及申、唐土(たうど)・天竺(てんぢく)・太元(たいげん)・南蛮(なんばん)も、未(いまだ)是程(これほど)の大軍を発(おこ)す事難有かりし事也(なり)。と思はぬ人こそ無(なか)りけれ。 |
|
■赤坂合戦(あかさかかつせんの)事(こと)付人見本間(ひとみほんま)抜懸(ぬけがけの)事(こと)
去程(さるほど)に赤坂の城へ向ひける大将、阿曾弾正少弼(あそだんじやうせうひつ)、後陣(ごぢん)の勢を待調(まちそろ)へんが為に、天王寺(てんわうじ)に両日逗留(とうりう)有(あつ)て、同(おなじき)二月二日午刻(むまのこく)に、可有矢合、於抜懸之輩者(は)、可為罪科之由(よし)をぞ被触ける。爰(ここ)に武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に人見(ひとみ)四郎入道恩阿(おんあ)と云(いふ)者あり。此(この)恩阿、本間(ほんま)九郎資貞(すけさだ)に向(むかつ)て語りけるは、「御方(みかた)の軍勢雲霞(うんか)の如くなれば、敵陣を責落(せめおと)さん事疑(うたがひ)なし。但(ただし)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、関東(くわんとう)天下を治(をさめ)て権を執(と)る事已(すで)に七代に余れり。天道(てんだう)欠盈理(り)遁(のが)るゝ処なし。其上(そのうへ)臣として君を流し奉る積悪(せきあく)、豈(あに)果して其身(そのみ)を滅(ほろぼ)さゞらんや。某(それがし)不肖(ふせう)の身なりと云へ共(ども)、武恩を蒙(かうむつ)て齢(よはひ)已(すで)に七旬(しちじゆん)に余れり。 今日より後(のち)差(さし)たる思出(おもひで)もなき身の、そゞろに長生(ながいき)して武運の傾(かたぶ)かんを見んも、老後(らうご)の恨(うらみ)臨終(りんじゆう)の障(さはり)共(とも)成(なり)ぬべければ、明日(みやうにち)の合戦(かつせん)に先懸(さきがけ)して、一番に討死して、其(その)名を末代(まつだい)に遺(のこ)さんと存(ぞん)ずる也(なり)。」と語りければ、本間九郎心中(しんちゆう)にはげにもと思(おもひ)ながら、「枝葉(しえふ)の事を宣(のたまふ)者哉(かな)。是(これ)程なる打囲(うちごみ)の軍(いくさ)に、そゞろなる先懸(さきがけ)して討死したりとも、差(さし)て高名(かうみやう)とも云(いは)れまじ。されば只(ただ)某(それがし)は人なみに可振舞也(なり)。」と云(いひ)ければ、人見よにも無興気(ぶきようげ)にて、本堂の方(かた)へ行(ゆき)けるを、本間怪(あやし)み思(おもひ)て、人を付(つけ)て見せければ、矢立(やたて)を取出(とりいだ)して、石の鳥居(とりゐ)に何事(なにこと)とは不知一筆(ひとふで)書付(かきつけ)て、己(おのれ)が宿(やど)へぞ帰りける。 |
|
本間九郎、さればこそ此(この)者に一定(いちぢやう)明日先懸(さきがけ)せられぬと、心ゆるし無(なか)りければ、まだ宵(よひ)より打立(うちたつ)て、唯(ただ)一騎東条(とうでう)を指(さし)て向(むかひ)けり。石川々原(いしかはかはら)にて夜(よ)を明(あか)すに、朝霞(あさぎり)の晴間(はれま)より、南の方(かた)を見ければ、紺唐綾威(こんのからあやをどし)の鎧に白母衣(しろほろ)懸(かけ)て、鹿毛(かげ)なる馬に乗(のつ)たる武者(むしや)一騎、赤坂(あかさか)の城へぞ向ひける。何者(なにもの)やらんと馬打寄(うちよ)せて是(これ)を見れば、人見四郎入道なりけり。人見本間を見付(みつけ)て云(いひ)けるは、「夜部(よべ)宣(のたまひ)し事を実(まこと)と思(おもひ)なば、孫(まご)程の人に被出抜まし。」と打笑(うちわらう)てぞ、頻(しきり)に馬を早めける。 本間跡(あと)に付(つい)て、「今は互に先(さき)を争ひ申(まうす)に及(およば)ず、一所(いつしよ)にて尸(かばね)を曝(さら)し、冥途(めいど)までも同道(どうだう)申さんずるぞよ。」と云(いひ)ければ、人見、「申(まうす)にや及ばん。」と返事して、跡になり先になり物語して打(うち)けるが、赤坂城の近く成(なり)ければ、二人(ににん)の者共(ものども)馬の鼻を双(ならべ)て懸驤(かけあが)り、堀の際(きは)まで打寄(うちよつ)て、鐙(あぶみ)踏張(ふんばり)弓杖(ゆんづゑ)突(つい)て、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に、人見四郎入道恩阿(おんあ)、年(とし)積(つもつ)て七十三、相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間九郎資貞(すけさだ)、生年(しやうねん)三十七、鎌倉(かまくら)を出(いで)しより軍(いくさ)の先陣を懸(かけ)て、尸(かばね)を戦場に曝(さら)さん事を存じて相向(あひむか)へり。 |
|
我(われ)と思はん人々は、出合(いであひ)て手なみの程を御覧(ごらん)ぜよ。」と声々(こゑごゑ)に呼(よばはつ)て城を睨(にらん)で引(ひか)へたり。城中(じやうちゆう)の者共(ものども)是(これ)を見て、是(これ)ぞとよ、坂東武者(ばんどうむしや)の風情(ふぜい)とは。只(ただ)是(これ)熊谷(くまがえ)・平山(ひらやま)が一谷(いちのたに)の先懸(さきがけ)を伝聞(つたへきい)て、羨敷(うらやましく)思へる者共(ものども)也(なり)。跡(あと)を見るに続く武者もなし。又さまで大名(だいみやう)とも見へず。溢(あふ)れ者の不敵武者(ふてきむしや)に跳(をど)り合(あう)て、命(いのち)失(うしなう)て何かせん。只置(おい)て事の様(やう)を見よ、とて、東西鳴(なり)を静めて返事もせず。人見腹を立(た)て、「早旦(さうたん)より向(むかつ)て名乗れ共(ども)、城より矢の一(ひとつ)をも射出(いいだ)さぬは、臆病(おくびやう)の至(いた)り歟(か)、敵を侮(あなど)る歟(か)、いで其義(そのぎ)ならば手柄(てがら)の程を見せん。」とて、馬より飛下(とびおり)て、堀の上なる細橋(ほそはし)さら/\と走渡(はしりわた)り、二人(ににん)の者共(ものども)出(だ)し屏(べい)の脇に引傍(ひつそう)て、木戸を切落(きりおと)さんとしける間、城中是(これ)に騒(さわい)で、土小間(つちざま)・櫓(やぐら)の上より、雨の降(ふる)が如くに射ける矢、二人(ににん)の者共(ものども)が鎧に、蓑毛(みのけ)の如くにぞ立(たち)たりける。 本間も人見も、元(もと)より討死(うちじに)せんと思立(おもひたち)たる事なれば、何かは一足(ひとあし)も可引。命(いのち)を限(かぎり)に二人(ににん)共(とも)に一所(いつしよ)にて被討けり。是(これ)まで付従(つきしたが)ふて最後の十念(じふねん)勧(すす)めつる聖(ひじり)、二人(ににん)が首を乞得(こひえ)て、天王寺(てんわうじ)に持(もち)て帰り、本間が子息(しそく)源内(げんない)兵衛資忠(すけただ)に始(はじめ)よりの有様(ありさま)を語る。資忠(すけただ)父が首を一目見て、一言(いちごん)をも不出、只涙に咽(むせん)で居たりけるが、如何(いかが)思(おもひ)けん、鐙を肩に投懸(なげかけ)、馬に鞍置(おい)て只一人打出(うちいで)んとす。聖怪(あやし)み思(おもう)て、鎧の袖を引留(ひきとど)め、「是(これ)はそも如何(いか)なる事にて候ぞ。御親父(ごしんぶ)も此(この)合戦に先懸(さきがけ)して、只名(な)を天下の人に被知と許(ばかり)思召(おぼしめ)さば、父子(ふし)共に打連(うちつれ)てこそ向はせ給ふべけれ共、命(いのち)をば相摸殿(さがみどの)に献(たてまつ)り、恩賞(おんしやう)をば子孫(しそん)の栄花(えいぐわ)に貽(のこ)さんと思召(おぼしめし)ける故(ゆゑ)にこそ、人より先(さき)に討死をばし給(たまふ)らめ。 |
|
而(しか)るに思ひ篭(こめ)給へる所もなく、又敵陣に懸入(かけいつ)て、父子共(ふしとも)に打死し給ひなば、誰か其跡(そのあと)を継(つ)ぎ誰か其(その)恩賞を可蒙。子孫無窮(ぶきゆう)に栄(さかゆ)るを以(もつ)て、父祖の孝行を呈(あらは)す道とは申(まうす)也(なり)。御悲歎(ごひたん)の余(あま)りに無是非死を共にせんと思召(おぼしめす)は理(ことわり)なれ共(ども)、暫(しばらく)止(とま)らせ給へ。」と堅く制しければ、資忠涙を押(おさ)へて無力着(き)たる鎧を脱置(ぬぎおき)たり。聖(ひじり)さては制止に拘(かかは)りぬと喜しく思て、本間が首(くび)を小袖に裹(つつ)み、葬礼の為に、側(あたり)なる野辺(のべ)へ越(こえ)ける其(その)間に、資忠(すけただ)今は可止人なければ、則(すなはち)打出(うちいで)て、先(まづ)上宮(じやうぐう)太子の御前(おんまへ)に参り、今生(こんじやう)の栄耀(えいえう)は、今日(けふ)を限りの命(いのち)なれば、祈る所に非(あら)ず、唯(ただ)大悲(だいひ)の弘誓(ぐぜい)の誠(まこと)有らば、父にて候者の討死仕候(つかまつりさふらひ)し戦場(せんぢやう)の同じ苔(こけ)の下(した)に埋(うづも)れて、九品安養(くぼんあんやう)の同台(おなじうてな)に生(むま)るゝ身と成(な)させ給へと、泣々(なくなく)祈念(きねむ)を凝(こら)して泪(なみだ)と共に立出(たちいで)けり。 石の鳥居(とりゐ)を過(すぐ)るとて見れば我(わが)父と共に討死しける人見四郎入道が書付(かきつけ)たる歌あり。是(これ)ぞ誠(まこと)に後世(ごせ)までの物語に可留事よと思(おもひ)ければ、右の小指を喰切(くひきつ)て、其(その)血を以て一首(いつしゆ)を側(そば)に書添(かきそへ)て、赤坂の城へぞ向ひける。城近く成(なり)ぬる所にて馬より下(お)り、弓を脇に挟(さしはさん)で城戸(きど)を叩き、「城中の人々に可申事あり。」と呼(よばは)りけり。良(やや)暫く在(あつ)て、兵(つはもの)二人(ににん)櫓(やぐら)の小間(さま)より顔を指出(さしいだ)して、「誰人(たれびと)にて御渡(わたり)候哉(や)。」と問(とひ)ければ、「是(これ)は今朝(こんてう)此(この)城に向(むかつ)て打死(うちじに)して候(さふらひ)つる、本間九郎資貞(すけさだ)が嫡子、源内(げんない)兵衛資忠(すけただ)と申(まうす)者にて候也(なり)。人の親の子を憶(おも)ふ哀(あはれ)み、心の闇に迷(まよ)ふ習(ならひ)にて候間、共に打死(うちじに)せん事を悲(かなしみ)て、我に不知して、只一人打死(うちじに)しけるにて候。相伴(あひともな)ふ者無(なく)て、中有(ちゆうう)の途(みち)に迷ふ覧(らん)。 |
|
さこそと被思遣候へば、同(おなじ)く打死仕(つかまつり)て、無迹(なきあと)まで父に孝道を尽(つく)し候(さふらは)ばやと存(ぞん)じて、只一騎相向(あひむかつ)て候也(なり)。城の大将に此由(このよし)を被申候(さふらひ)て、木戸(きど)を被開候へ。父が打死(うちじに)の所にて、同(おなじ)く命(いのち)を止(とど)めて、其望(そののぞみ)を達し候はん。」と、慇懃(いんぎん)に事を請(こ)ひ泪(なみだ)に咽(むせん)でぞ立(たつ)たりける。一の木戸を堅(かた)めたる兵(つはもの)五十(ごじふ)余人(よにん)、其志(そのこころざし)孝行にして、相向(あひむか)ふ処やさしく哀(あはれ)なるを感じて、則(すなはち)木戸を開き、逆茂木(さかもぎ)を引(ひき)のけしかば、資忠(すけただ)馬に打乗り、城中へ懸入(かけいつ)て、五十(ごじふ)余人(よにん)の敵と火を散(ちらし)てぞ切合(きりあひ)ける。遂に父が被討し其迹(そのあと)にて、太刀を口に呀(くはへ)て覆(うつぶ)しに倒(たふれ)て、貫かれてこそ失(うせ)にけれ。惜(をしい)哉(かな)、父の資貞(すけさだ)は、無双(ぶさう)の弓矢取(ゆみやとり)にて国の為に要須(えうしゆ)たり。 又子息資忠(すけただ)は、ためしなき忠孝の勇士にて家の為に栄名(えいめい)あり。人見は年(とし)老(おい)齢(よはひ)傾(かたむ)きぬれ共(ども)、義を知(しり)て命(めい)を思ふ事(こと)、時と共に消息(せうそく)す。此(この)三人(さんにん)同時(どうじ)に討死(うちじに)しぬと聞へければ、知(しる)も知(しら)ぬもをしなべて、歎かぬ人は無(なか)りけり。既(すで)に先懸(さきがけ)の兵共(つはものども)、ぬけ/\に赤坂の城へ向(むかつ)て、討死する由披露(ひろう)有(あり)ければ、大将則(すなはち)天王寺(てんわうじ)を打立(うちたつ)て馳向(はせむか)ひけるが、上宮(じやうぐう)太子の御前(おんまへ)にて馬より下(お)り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、花さかぬ老木(おいき)の桜朽(くち)ぬとも其(その)名は苔の下(した)に隠(かく)れじと一首(いつしゆ)の歌を書(かい)て、其(その)次に、「武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)人見(ひとみ)四郎恩阿(おんあ)、生年(しやうねん)七十三、正慶(しやうきやう)二年二月二日、赤坂の城へ向(むかつ)て、武恩を報ぜん為に討死仕畢(つかまつりをはん)ぬ。」とぞ書(かい)たりける。 又右の柱を見れば、まてしばし子を思ふ闇に迷(まよふ)らん六(むつ)の街(ちまた)の道しるべせんと書(かい)て、「相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間九郎資貞(すけさだが)嫡子(ちやくし)、源内兵衛資忠生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)、正慶二年仲春(ちゆうしゆん)二日、父が死骸(しがい)を枕にして、同戦場(おなじせんぢやう)に命(いのち)を止(とど)め畢(をはん)ぬ。」とぞ書(かい)たりける。 |
|
父子の恩義君臣の忠貞、此(この)二首の歌に顕(あらは)れて、骨は化(け)して黄壌(くわうじやう)一堆(いつたい)の下(もと)に朽(くち)ぬれど、名は留(とどまつ)て青雲(せいうん)九天の上に高し。されば今に至るまで、石碑(せきひ)の上に消残(きえのこ)れる三十一字(みそぢひともじ)を見る人、感涙(かんるゐ)を流さぬは無(なか)りけり。去程(さるほど)に阿曾弾正少弼(あそのだんじやうせうひつ)、八万(はちまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)して、赤坂へ押寄(おしよ)せ、城の四方(しはう)二十(にじふ)余町(よちやう)、雲霞(うんか)の如くに取巻(とりまい)て、先時(まづとき)の声をぞ揚(あげ)たりける。 其音(そのこゑ)山を動(うごか)し地を震(ふる)ふに、蒼涯(さうがい)も忽(たちまち)に可裂。此(この)城三方(さんぱう)は岸(きし)高(たかう)して、屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如し。南の方許(ばかり)こそ平地(ひらち)に継(つづ)ひて、堀を広く深く掘切(ほりきつ)て、岸の額(ひたひ)に屏(へい)を塗(ぬ)り、其(その)上に櫓(やぐら)を掻双(かきなら)べたれば、如何なる大力早態(だいりきはやわざ)なりとも、輒(たやす)く可責様(やう)ぞなき。され共(ども)寄手(よせて)大勢なれば、思侮(おもひあなどつ)て楯にはづれ矢面(やおもて)に進(すすん)で、堀の中へ走り下(おり)て、切岸(きりぎし)を襄(あが)らんとしける処を、屏(へい)の中より究竟(くきやう)の射手共(いてども)、鏃(やじり)を支(ささへ)て思様(おもふやう)に射ける間、軍(いくさ)の度毎(たびごと)に、手負死人(ておひしにん)五百人(ごひやくにん)六百人(ろつぴやくにん)、不被射出時はなかりけり。 |
|
是をも不痛荒手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)、十三日までぞ責(せめ)たりける。され共(ども)城中少(すこし)も不弱見へけり。爰(ここ)に播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)、吉河(きつかはの)八郎と云(いふ)者、大将の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「此(この)城の為体(ていたらく)、力責(ちからせめ)にし候はゞ無左右不可落候。楠此(この)一両年が間、和泉(いづみ)・河内を管領(くわんりやう)して、若干(そこばく)の兵粮(ひやうらう)を取入(とりいれ)て候なれば、兵粮も無左右尽(つき)候まじ。倩(つらつら)思案(しあん)を廻(めぐら)し候に、此(この)城三方(さんぱう)は谷深(ふかう)して地に不継、一方は平地(ひらち)にて而(しか)も山遠く隔(へだた)れり。 されば何(いづ)くに水可有とも見へぬに、火矢(ひや)を射れば水弾(みづはじき)にて打消(うちけし)候。近来(このごろ)は雨の降る事も候はぬに、是程(これほど)まで水の卓散(たくさん)に候は、如何様(いかさま)南の山の奥より、地(ち)の底に樋(ひ)を伏(ふせ)て、城中へ水を懸入(かけい)るゝ歟(か)と覚(おぼえ)候。哀(あはれ)人夫(にんぶ)を集めて、山の腰を掘(ほり)きらせて、御覧候へかし。」と申(まうし)ければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ継(つづ)きたる山の尾を、一文字(いちもんじ)に掘切(ほりきつ)て見れば、案の如く、土(つち)の底に二丈余(あま)りの下に樋(ひ)を伏せて、側(そば)に石を畳(たた)み、上に真木(まき)の瓦(かはら)を覆(ふせ)て、水を十町(じつちよう)余(あまり)の外(ほか)よりぞ懸(かけ)たりける。此揚水(このあげみづ)を被止て後(のち)、城中に水乏(とぼしう)して、軍勢口中(くぢゆう)の渇(かつ)難忍ければ、四五日が程は、草葉(くさば)に置(お)ける朝(あした)の露を嘗め、夜気(やき)に潤(うるほ)へる地(ち)に身を当(あて)て、雨を待(まち)けれ共(ども)雨不降。寄手(よせて)是(これ)に利を得、隙(ひま)なく火矢(ひや)を射ける間、大手の櫓(やぐら)二(ふた)つをば焼落(やきおと)しぬ。 |
|
城中の兵(つはもの)水を飲まで十二日に成(なり)ければ、今は精力(せいりよく)尽(つき)はてゝ、可防方便(てだて)も無(なか)りけり。死(しに)たる者は再び帰る事なし。去来(いざ)や、とても死なんずる命(いのち)を、各(おのおの)力(ちから)の未だ墜(おち)ぬ先(さき)に打出(うちい)で、敵に指違(さしちが)へ、思様(おもふやう)に打死(うちじに)せんと、城の木戸を開(ひらい)て、同時に打出(うちいで)んとしけるを、城の本人平野将監(しやうげん)入道、高櫓(たかやぐら)より走下(はしりお)り、袖をひかへて云(いひ)けるは、「暫く楚忽(そこつ)の事な仕給(したま)ふそ。今は是程(これほど)に力尽(つ)き喉(のんど)乾(かわい)て疲(つか)れぬれば、思ふ敵に相逢(あひあは)ん事有難(ありがた)し。 名もなき人の中間(ちゆうげん)・下部共(しもべども)に被虜て、恥を曝(さら)さん事可心憂。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、吉野・金剛山(こんがうせん)の城、未(いまだ)相支(あひささへ)て勝負(しようぶ)を不決。西国(さいこく)の乱(らん)未だ静まらざるに、今降人(かうにん)に成(なつ)て出(いで)たらん者をば、人に見こらせじとて、討(うつ)事(こと)不可有と存ずる也(なり)。とても叶(かな)はぬ我等なれば、暫(しばらく)事(こと)を謀(はかつ)て降人に成(なり)、命を全(まつたう)して時至らん事を可待。」といへば、諸卒(しよそつ)皆此義(このぎ)に同(どう)じて、其(その)日の討死をば止(や)めてけり。去程(さるほど)に次(つぎの)日軍(いくさ)の最中(さいちゆう)に、平野入道高櫓(たかやぐら)に上(のぼつ)て、「大将の御方(おんかた)へ可申子細(しさい)候。 |
|
暫く合戦を止(やめ)て、聞食(きこしめし)候へ。」と云(いひ)ければ、大将渋谷(しぶや)十郎を以て、事の様(やう)を尋(たづぬ)るに、平野木戸口(きどくち)に出合(いであつ)て、「楠和泉・河内の両国を平げて威を振(ふる)ひ候(さふらひ)し刻(きざみ)に、一旦(いつたん)の難(なん)を遁れん為に、不心御敵に属(しよく)して候(さふらひ)き。此子細(このしさい)京都に参(さん)じ候(さふらう)て、申入(まうしいれ)候はんと仕(つかまつり)候処に、已(すで)に大勢を以て被押懸申(まうし)候間(あひだ)、弓矢取身(ゆみやとるみ)の習ひにて候へば、一矢(ひとや)仕りたるにて候。其罪科(そのざいくわ)をだに可有御免にて候はゞ、頚を伸(のべ)て降人(かうにん)に可参候。若(もし)叶(かな)ふまじきとの御定(ごぢやう)にて候はゞ、無力一矢(ひとや)仕(つかまつつ)て、尸(かばね)を陣中に曝(さら)すべきにて候。此様(このやう)を具(つぶさ)に被申候へ。」と云(いひ)ければ、大将大(おほき)に喜(よろこび)て、本領安堵(ほんりやうあんど)の御教書(みげうしよ)を成(な)し、殊に功あらん者には、則(すなはち)恩賞を可申沙汰由(よし)返答して、合戦をぞ止(や)めける。 城中(じやうちゆう)に篭(こも)る所の兵(つはもの)二百八十二人(にひやくはちじふににん)、明日(みやうにち)死なんずる命(いのち)をも不知、水に渇(かつ)せる難堪さに、皆降人(かうにん)に成(なつ)てぞ出(いで)たりける。長崎九郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)是(これ)を請取(うけとり)て、先(まづ)降人の法なればとて、物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)を奪取(うばひと)り、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)て六波羅(ろくはら)へぞ渡しける。降人の輩(ともがら)、如此ならば只(ただ)討死(うちじに)すべかりける者をと、後悔すれ共(ども)無甲斐。日を経(へ)て京都に着(つき)しかば、六波羅(ろくはら)に誡置(いましめおい)て、合戦の事始(ことはじめ)なれば、軍神(いくさがみ)に祭(まつり)て人に見懲(みごり)させよとて、六条河原(ろくでうかはら)に引出(ひきいだ)し、一人も不残首(くび)を刎(はね)て被懸けり。 是(これ)を聞(きき)てぞ、吉野・金剛山(こんがうせん)に篭(こも)りたる兵共(つはものども)も、弥(いよいよ)獅子(しし)の歯嚼(はがみ)をして、降人(かうにん)に出(いで)んと思ふ者は無(なか)りけり。「罪を緩(ゆる)ふするは将の謀(はかりごと)也(なり)。」と云(いふ)事(こと)を知らざりける六波羅(ろくはら)の成敗(せいばい)を、皆(みな)人毎(ひとごとに)押(おし)なべて、悪(あし)かりけりと申(まうせ)しが、幾程(いくほど)も無(なう)して悉(ことごとく)亡(ほろ)びけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。情(なさけ)は人の為ならず。余(あまり)に驕(おごり)を極(きは)めつゝ、雅意(がい)に任(まかせ)て振舞へば、武運も早く尽(つき)にけり。因果(いんぐわ)の道理(だうり)を知るならば、可有心(こころあるべき)事共(ことども)也(なり)。 |
■太平記 巻第七 | |
■吉野城(よしののじやう)軍(いくさの)事(こと)
元弘三年正月十六日、二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道道蘊(だううん)、六万余騎(よき)の勢(せい)にて大塔宮(おほたふのみや)の篭(こも)らせ給へる吉野の城へ押寄(おしよす)る。菜摘河(なつみがは)の川淀(かはよど)より、城の方を向上(みあげ)たれば、嶺には白旗(しらはた)・赤旗・錦(にしき)の旗、深山下風(みやまおろし)に吹(ふき)なびかされて、雲歟(か)花歟(か)と怪(あやし)まる。麓には数千(すせん)の官軍(くわんぐん)、冑(かぶと)の星を耀(かかや)かし鎧の袖を連(つら)ねて、錦繍(きんしう)をしける地の如し。峯(みね)高(たかう)して道細く、山嶮(けはしう)して苔滑(なめらか)なり。されば幾(いく)十万騎(じふまんぎ)の勢(せい)にて責(せむ)る共(とも)、輒(たやす)く落すべしとは見へざりけり。 同(おなじき)十八日の卯刻(うのこく)より、両陣互に矢合せして、入替々々(いれかへいれかへ)責戦(せめたたかふ)。官軍(くわんぐん)は物馴(ものなれ)たる案内者(あんないしや)共(ども)なれば、斯(ここ)のつまり彼(かしこ)の難所(なんじよ)に走散(はしりちつ)て、攻合(つめあは)せ開合(ひらきあは)せ散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)は死生不知(ししやうふち)の坂東武士(ばんどうぶし)なれば、親子(おやこ)打(うた)るれ共(ども)不顧、主従(しゆじゆう)滅(ほろぶ)れども不屑、乗越々々(のりこえのりこえ)責近(せめちか)づく。夜昼(よるひる)七日が間息(いき)をも不続相戦(あひたたかふ)に、城中(じやうちゆう)の勢三百(さんびやく)余人(よにん)打(うた)れければ、寄手(よせて)も八百(はつぴやく)余人(よにん)打(うた)れにけり。況乎(いはんや)矢に当(あた)り石に被打、生死(しやうじ)の際(あひだ)を不知者は幾(いく)千万と云(いふ)数(かず)を不知。血は草芥(さうかい)を染(そめ)、尸(かばね)は路径(ろけい)に横(よこた)はれり。され共(ども)城の体(てい)少(すこし)もよわらねば、寄手(よせて)の兵(つはもの)多くは退屈してぞ見へたりける。 |
|
爰(ここ)に此(この)山の案内者(あんないしや)とて一方へ被向たりける吉野(よしの)の執行(しゆぎやう)岩菊丸(いはぎくまる)、己(おのれ)が手(て)の者を呼寄(よびよせ)て申(まうし)けるは、「東条の大将金沢(かなざは)右馬助(うまのすけ)殿(どの)は、既(すで)に赤坂(あかさか)の城を責落(せめおと)して金剛山(こんがうせん)へ被向たりと聞ゆ。当山(たうざん)の事我等(われら)案内者(あんないしや)たるに依(よつ)て、一方(いつぱう)を承(うけたまはつ)て向ひたる甲斐(かひ)もなく、責落(せめおと)さで数日(すじつ)を送る事こそ遺恨(ゐこん)なれ。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を按(あん)ずるに、此(この)城を大手(おほて)より責(せめ)ば、人のみ被打て落す事有難(ありがた)し。 推量(すゐりやう)するに、城の後(うしろ)の山金峯山(きんぶせん)には峻(けはしき)を憑(たのん)で、敵さまで勢(せい)を置(おき)たる事あらじと覚(おぼゆ)るぞ。物馴(ものなれ)たらんずる足軽(あしがる)の兵(つはもの)を百五十人(ひやくごじふにん)すぐつて歩立(かちだち)になし、夜に紛(まぎ)れて金峯山(きんぶせん)より忍び入(いり)、愛染宝塔(あいぜんはうだふ)の上(うへ)にて、夜のほの/゛\と明(あけ)はてん時時(とき)の声を揚(あげ)よ。城の兵(つはもの)鬨音(ときのこゑ)に驚(おどろい)て度(ど)を失(うしな)はん時、大手(おほて)搦手(からめて)三方(さんぱう)より攻上(せめのぼつ)て城を追落(おひおと)し、宮を生捕(いけどり)奉るべし。」とぞ下知(げぢ)しける。さらばとて、案内知(しつ)たる兵百五十人(ひやくごじふにん)をすぐ(ッ)て、其(その)日の暮程(くれほど)より、金峯山(きんぶせん)へ廻(まはつ)て、岩を伝ひ谷を上(のぼ)るに、案の如く山の嶮(けはし)きを憑(たのみ)けるにや、唯こゝかしこの梢に旗許(ばかり)を結付置(ゆひつけおい)て可防兵一人もなし。 |
|
百(ひやく)余人(よにん)の兵共(つはものども)、思(おもひ)の侭(まま)に忍入(しのびいつ)て、木の下岩(いは)の陰(かげ)に、弓箭(ゆみや)を臥(ふせ)て、冑(かぶと)を枕にして、夜の明(あく)るをぞ待(まつ)たりける。あい図(づ)の比(ころ)にも成(なり)にければ、大手(おほて)五万(ごまん)余騎(よき)、三方(さんぱう)より押寄(おしよせ)て責上(せめのぼ)る。吉野の大衆(だいしゆ)五百(ごひやく)余人(よにん)、責口(せめくち)におり合(あつ)て防(ふせぎ)戦ふ。寄手(よせて)も城の内も、互に命(いのち)を不惜、追上(おひのぼ)せ追下(おひおろ)し、火を散(ちら)してぞ戦(たたかう)たる。卦(かか)る処に金峯山(きんぶせん)より廻(まは)りたる、搦手(からめて)の兵(つはもの)百五十人(ひやくごじふにん)、愛染宝塔(あいぜんはうだふ)よりをり降(くだつ)て、在々所々(ざいざいしよしよ)に火を懸(かけ)て、時(とき)の声をぞ揚(あげ)たりける。 吉野の大衆(だいしゆ)前後(ぜんご)の敵(てき)を防ぎ兼(かね)て、或(あるひ)は自(みづから)腹を掻切(かききつ)て、猛火(みやうくわ)の中へ走入(はしりいつ)て死(しす)るも有(あり)、或(あるひ)は向ふ敵に引組(ひつくん)で、指(さし)ちがへて共に死(しす)るもあり。思々(おもひおもひ)に討死をしける程に、大手(おほて)の堀一重(ひとへ)は、死人(しにん)に埋(うま)りて平地(ひらち)になる。去程(さるほど)に、搦手(からめて)の兵(つはもの)、思(おもひ)も寄(よら)ず勝手(かつて)の明神(みやうじん)の前より押寄(おしよせ)て、宮の御坐有(ござあり)ける蔵王堂(ざわうだう)へ打(うつ)て懸(かか)りける間、大塔宮(おほたふのみや)今は遁(のが)れぬ処也(なり)。と思食切(おぼしめしきつ)て、赤地(あかぢ)の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、火威(ひをどし)の鎧のまだ巳(み)の刻(こく)なるを、透間(すきま)もなくめされ、竜頭(たつがしら)の冑(かぶと)の緒(を)をしめ、白檀磨(びやくだんみがき)の臑当(すねあて)に、三尺五寸の小長刀(こなぎなた)を脇に挟(さしはさ)み、劣らぬ兵二十(にじふ)余人(よにん)前後左右(ぜんごさいう)に立(たて)、敵の靉(むらがつ)て引(ひか)へたる中へ走り懸(かか)り、東西を掃(はら)ひ、南北へ追廻(おひまは)し、黒煙(くろけぶり)を立(たて)て切(きつ)て廻(まは)らせ給ふに、寄手(よせて)大勢(おほぜい)也(なり)。と云へ共(ども)、纔(わづか)の小勢に被切立て、木(こ)の葉(は)の風に散(ちる)が如く、四方(しはう)の谷へ颯(さつ)とひく。 敵引(ひけ)ば、宮蔵王堂(ざわうだう)の大庭(おほには)に並居(なみゐ)させ給(たまひ)て、大幕(おほまく)打揚(うちあげ)て、最後の御酒宴(ごしゆえん)あり。宮の御鎧(おんよろひ)に立所(たつところ)の矢七筋(しちすぢ)、御頬(おんほう)さき二の御(おん)うで二箇所(にかしよ)つかれさせ給(たまひ)て、血の流るゝ事滝の如し。然(しか)れ共(ども)立(たつ)たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮(しきがは)の上に立(たち)ながら、大盃(おほさかづき)を三度(さんど)傾(かたぶけ)させ給へば、木寺相摸(こでらのさがみ)四尺三寸の太刀の鋒(きつさき)に、敵の頚をさし貫(つらぬい)て、宮の御前(おんまへ)に畏(かしこま)り、「戈■剣戟(くわせんけんげき)をふらす事電光(でんくわう)の如く也(なり)。 |
|
磐石(ばんじやく)巌(いはほ)を飛(とば)す事春(はる)の雨に相同(あひおな)じ。然りとは云へ共(ども)、天帝(てんてい)の身には近づかで、修羅(しゆら)かれが為に破らる。」と、はやしを揚(あげ)て舞(まひ)たる有様は、漢(かん)・楚(そ)の鴻門(こうもん)に会(くわい)せし時、楚の項伯(かうはく)と項荘とが、剣(けん)を抜(ぬい)て舞(まひ)しに、樊■(はんくわい)庭に立(たち)ながら、帷幕(ゐばく)をかゝげて項王を睨(にらみ)し勢(いきほひ)も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。大手(おほて)の合戦事急也(なり)。と覚(おぼえ)て、敵御方(みかた)の時(とき)の声相交(あひまじは)りて聞へけるが、げにも其戦(そのたたかひ)に自ら相当(あひあた)る事多かりけりと見へて、村上(むらかみ)彦四郎(ひこしらう)義光(よしてる)鎧に立(たつ)処の矢十六(じふろく)筋、枯野(かれの)に残る冬草の、風に臥(ふし)たる如くに折懸(をりかけ)て、宮の御前(おんまへ)に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「大手(おほて)の一の木戸(きど)、云甲斐(いふかひ)なく責破(せめやぶ)られつる間、二の木戸に支(ささへ)て数刻(すこく)相戦ひ候つる処に、御所中(ごしよぢゆう)の御酒宴(ごしゆえん)の声、冷(すさまじ)く聞へ候(さふらひ)つるに付(つい)て参(まゐつ)て候。 敵既(すで)にかさに取上(とりのぼり)て、御方(みかた)気の疲れ候(さふらひ)ぬれば、此(この)城にて功を立(たて)ん事(こと)、今は叶(かな)はじと覚へ候。未(いまだ)敵の勢を余所(よそ)へ回(まは)し候はぬ前(さき)に、一方より打破(うちやぶつ)て、一歩(ひとまど)落(おち)て可有御覧と存(ぞんじ)候。但(ただし)迹(あと)に残り留(とどまつ)て戦ふ兵(つはもの)なくば、御所(ごしよ)の落(おち)させ給ふ者也(なり)。と心得て、敵何(いづ)く迄もつゞきて追懸進(おつかけまゐら)せつと覚(おぼえ)候へば、恐(おそれ)ある事にて候へ共(ども)、めされて候錦の御鎧直垂(おんよろひひたたれ)と、御物具(おんもののぐ)とを下給(くだしたまはつ)て、御諱(おんいみな)の字(じ)を犯(をか)して敵を欺(あざむ)き、御命(おんいのち)に代り進(まゐら)せ候はん。」と申(まうし)ければ、宮(みや)、「争(いか)でかさる事あるべき、死なば一所(いつしよ)にてこそ兎(と)も角(かく)もならめ。」と仰(おほせ)られけるを、義光(よしてる)言(こと)ばを荒(あら)らかにして、「かゝる浅猿(あさまし)き御事(おんこと)や候。 |
|
漢の高祖(かうそ)■陽(けいやう)に囲(かこま)れし時、紀信(きしん)高祖(かうそ)の真似(まね)をして楚を欺(あざむ)かんと乞(こひ)しをば、高祖(かうそ)是(これ)を許し給ひ候はずや。是程(これほど)に云甲斐(いふかひ)なき御所存(ごしよぞん)にて、天下の大事(だいじ)を思食立(おぼしめしたち)ける事こそうたてけれ。はや其御物具(そのおんもののぐ)を脱(ぬが)せ給ひ候へ。」と申(まうし)て、御鎧(おんよろひ)の上帯(うはおび)をとき奉れば、 宮げにもとや思食(おぼしめし)けん、御物(おんもの)の具(ぐ)・鎧直垂(よろひひたたれ)まで脱替(ぬぎかへ)させ給ひて、「我(われ)若(もし)生(いき)たらば、汝(なんぢ)が後生(ごしやう)を訪(とぶらふ)べし。共に敵(てき)の手にかゝらば、冥途(めいど)までも同じ岐(ちまた)に伴(ともな)ふべし。」と被仰て、御涙(おんなみだ)を流させ給ひながら、勝手(かつて)の明神(みやうじん)の御前(おんまへ)を南へ向(むかつ)て落させ給へば、義光(よしてる)は二の木戸の高櫓(たかやぐら)に上(あが)り、遥(はるか)に見送り奉(たてまつつ)て、宮の御後影(おんうしろかげ)の幽(かすか)に隔(へだた)らせ給(たまひ)ぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓(やぐら)のさまの板を切落(きりおと)して、身をあらはにして、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、 「天照太神(あまてらすおほみかみの)御子孫(ごしそん)、神武(じんむ)天王(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)第二(だいに)の皇子一品兵部(いつぽんひやうぶ)卿(きやう)親王(しんわう)尊仁(そんにん)、逆臣(ぎやくしん)の為に亡(ほろぼ)され、恨(うらみ)を泉下(せんか)に報(はう)ぜん為に、只今自害する有様見置(みおい)て、汝等が武運忽(たちまち)に尽(つき)て、腹をきらんずる時の手本(てほん)にせよ。」と云侭(いふまま)に、鎧を脱(ぬい)で櫓(やぐら)より下へ投落(なげおと)し、錦の鎧直垂(よろひひたたれ)の袴許(はかまばかり)に、練貫(ねりぬき)の二(ふたつ)小袖を押膚脱(おしはだぬい)で、白く清げなる膚(はだ)に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切(かききつ)て、腸(はらわた)掴(つかん)で櫓(やぐら)の板になげつけ、太刀(たち)を口にくわへて、うつ伏(ぶし)に成(なつ)てぞ臥(ふし)たりける。 |
|
大手(おほて)・搦手(からめて)の寄手(よせて)是(これ)を見て、「すはや大塔宮(おほたふのみや)の御自害あるは。我先(われさき)に御頚(おんくび)を給(たまは)らん。」とて、四方(しはう)の囲(かこみ)を解(とい)て一所(いつしよ)に集(あつま)る。其間(そのあひだ)に宮は差違(さしちが)へて、天(てん)の河(かは)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。南より廻(まは)りける吉野の執行(しゆぎやう)が勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)、多年(たねん)の案内者(あんないしや)なれば、道を要(よこぎ)りかさに廻(まは)りて、打留(うちと)め奉(たてまつら)んと取篭(とりこむ)る。 村上(むらかみ)彦四郎(ひこしらう)義光(よしてる)が子息兵衛蔵人(ひやうゑくらうど)義隆(よしたか)は、父が自害しつる時、共に腹を切(きら)んと、二の木戸の櫓(やぐら)の下まで馳来(はせきた)りたりけるを、父大(おほき)に諌(いさめ)て、「父子(ふし)の義(ぎ)はさる事なれ共(ども)、且(しばら)く生(いき)て宮の御先途(ごせんど)を見はて進(まゐら)せよ。」と、庭訓(ていきん)を残しければ、力なく且(しばら)くの命(いのち)を延(のべ)て、宮の御供(おんとも)にぞ候(さふらひ)ける。 落行(おちゆく)道の軍(いくさ)、事(こと)既(すで)に急にして、打死(うちじに)せずば、宮落得(おちえ)させ給はじと覚(おぼえ)ければ、義隆(よしたか)只一人蹈留(ふみとどま)りて、追(おつ)てかゝる敵の馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)では切(きり)すへ、平頚(ひらくび)切(きつ)ては刎落(はねおと)させ、九折(つづらをり)なる細道(ほそみち)に、五百(ごひやく)余騎(よき)の敵を相受(あひうけ)て、半時許(はんじばかり)ぞ支(ささへ)たる。義隆(よしたか)、節(せつ)、石の如く也(なり)。といへ共(ども)、其(その)身金鉄(きんてつ)ならざれば、敵の取巻(とりまい)て射ける矢に、義隆既(すで)に十(じふ)余箇所(よかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)てけり。死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思(おもひ)けん、小竹(こたけ)の一村(ひとむら)有(あり)ける中へ走入(はしりいつ)て、腹掻切(かききつ)て死にけり。 村上父子(むらかみふし)が敵を防ぎ、討死(うちじに)しける其間(そのあひだ)に、宮は虎口(ここう)に死を御遁(おんのがれ)有(あつ)て、高野山(かうやさん)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。出羽(ではの)入道々蘊(だううん)は、村上が宮の御学(おんまね)をして、腹を切(きつ)たりつるを真実(まんまこと)と心得て、其(その)頚を取(とつ)て京都へ上(のぼ)せ、六波羅(ろくはら)の実検(じつけん)にさらすに、ありもあらぬ者の頚也(なり)。と申(まうし)ける。獄門(ごくもん)にかくるまでもなくて、九原(きうげん)の苔に埋(うづも)れにけり。道蘊(だううん)は吉野の城を攻落(せめおと)したるは、専一(せんいち)の忠戦(ちゆうせん)なれ共(ども)、大塔宮(おほたふのみや)を打漏(うちもら)し奉りぬれば、猶(なほ)安(やす)からず思(おもひ)て、軈(やが)て高野山へ押寄(おしよせ)、大塔(だいたふ)に陣を取(とつ)て、宮の御在所(ございしよ)を尋求(たづねもとめ)けれ共(ども)、一山(いつさん)の衆徒(しゆと)皆心を合(あはせ)て宮を隠し奉りければ、数日(すじつ)の粉骨(ふんこつ)甲斐もなくて、千剣破(ちはや)の城へぞ向ひける。 |
|
■千剣破(ちはやの)城軍(いくさの)事(こと)
千剣破(ちはやの)城の寄手(よせて)は、前(まへ)の勢八十万騎(はちじふまんぎ)に、又赤坂(あかさか)の勢吉野の勢馳加(はせくははつ)て、百万騎に余(あま)りければ、城の四方(しはう)二三里が間は、見物(けんぶつ)相撲(すまふ)の場(ば)の如く打囲(うちかこん)で、尺寸(せきすん)の地をも余さず充満(みちみち)たり。旌旗(せいき)の風に翻(ひるがへつ)て靡(なび)く気色(けしき)は、秋の野の尾花(をばな)が末(すゑ)よりも繁く、剣戟(けんげき)の日に映(えい)じて耀(かかやき)ける有様(ありさま)は、暁(あかつき)の霜の枯草(かれくさ)に布(しけ)るが如く也(なり)。大軍(たいぐん)の近づく処には、山勢(さんせい)是(これ)が為に動き、時(とき)の声の震(ふる)ふ中には、坤軸(こんぢく)須臾(しゆゆ)に摧(くだ)けたり。 此(この)勢にも恐(おそれ)ずして、纔(わづか)に千人に足(たら)ぬ小勢(こぜい)にて、誰を憑(たの)み何(いつ)を待(まつ)共(とも)なきに、城中(じやうちゆう)にこらへて防ぎ戦(たたかひ)ける楠が心の程こそ不敵(ふてき)なれ。此(この)城東西(とうざい)は谷深く切(きれ)て人の上(のぼ)るべき様(やう)もなし。南北は金剛山(こんがうせん)につゞきて而(しか)も峯絶(たえ)たり。されども高さ二町(にちやう)許(ばかり)にて、廻(まは)り一里に足(たら)ぬ小城(こしろ)なれば、何程(なにほど)の事か有(ある)べき〔と〕、寄手(よせて)是(これ)を見侮(みあなどつ)て、初(はじめ)一両日(いちりやうにち)の程は向ひ陣をも取(とら)ず、責支度(せめしたく)をも用意(ようい)せず、我先(われさき)にと城の木戸口(きどくち)の辺(へん)までかづきつれてぞ上(あがり)たりける。 城中の者共(ものども)少しもさはがず、静まり帰(かへつ)て、高櫓(たかやぐら)の上(うへ)より大石(たいせき)を投(なげ)かけ/\、楯(たて)の板を微塵(みぢん)に打砕(うちくだい)て、漂(ただよ)ふ処を差(さし)つめ/\射ける間(あひだ)、四方(しはう)の坂よりころび落(おち)、落重(おちかさなつ)て手を負(おひ)、死をいたす者、一日が中(うち)に五六千人に及べり。長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、軍奉行(いくさぶぎやう)にて有(あり)ければ、手負死人(ておひしにん)の実検(じつけん)をしけるに、執筆(しゆひつ)十二人(じふににん)、夜昼(よるひる)三日が間(あひだ)筆をも置(おか)ず注(しる)せり。さてこそ、「今より後(のち)は、大将の御許(おんゆるし)なくして、合戦したらんずる輩(ともがら)をば却(かへつ)て罪科に行(おこなは)るべし。」と触(ふれ)られければ、軍勢暫(しばらく)軍(いくさ)を止(やめ)て、先(まづ)己(おのれ)が陣々をぞ構(かま)へける。 爰(ここ)に赤坂の大将金沢右馬助(かなざはうまのすけ)、大仏(おさらぎ)奥州(あうしう)に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「前日(ぜんじつ)赤坂を攻落(せめおと)しつる事(こと)、全く士卒(じそつ)の高名(かうみやう)に非(あら)ず。城中の構(かまへ)を推(お)し出(いだ)して、水を留(とめ)て候(さふらひ)しに依(よつ)て、敵程(ほど)なく降参(かうさん)仕候(つかまつりさふらひ)き。是(ここ)を以て此(この)城を見候に、是程(これほど)纔(わづか)なる山の巓(いただき)に用水(ようすゐ)有(ある)べし共覚(おぼえ)候はず。又あげ水なんどをよその山より懸(かく)べき便(たより)も候はぬに、城中に水卓散(たくさん)に有(あり)げに見ゆるは、如何様(いかさま)東の山の麓に流(ながれ)たる渓水(たにみづ)を、夜々(よるよる)汲(くむ)歟(か)と覚(おぼえ)て候。あはれ宗徒(むねと)の人々一両人に仰付(おほせつけ)られて、此(この)水を汲(くま)せぬ様に御計(おんはからひ)候へかし。」と被申ければ、両大将、「此義(このぎ)可然覚(おぼえ)候。」とて、名越(なごや)越前守(ゑちぜんのかみ)を大将として其(その)勢三千余騎(よき)を指分(さしわけ)て、水の辺(へん)に陣を取(とら)せ、城より人をり下(くだ)りぬべき道々に、逆木(さかもぎ)を引(ひい)てぞ待懸(まちかけ)ける。 |
|
楠は元来(もとより)勇気智謀相兼(あひかね)たる者なりければ、此(この)城を拵(こしら)へける始(はじめ)用水の便(たより)をみるに、五所(ごしよ)の秘水(ひすゐ)とて、峯(みね)通る山伏(やまぶし)の秘(ひ)して汲(くむ)水此(この)峯に有(あつ)て、滴(しただ)る事一夜に五斛許(こくばかり)也(なり)。此(この)水いかなる旱(ひでり)にもひる事なければ、如形人の口中(こうちゆう)を濡(うるほ)さん事相違あるまじけれ共(ども)、合戦の最中(さいちゆう)は或(あるひ)は火矢(ひや)を消さん為、又喉(のんど)の乾(かわ)く事繁(しげ)ければ、此(この)水許(ばかり)にては不足(ふそく)なるべしとて、大(おほき)なる木を以て、水舟(みづふね)を二三百(にさんびやく)打(うた)せて、水を湛置(たたへおき)たり。 又数百(すひやく)箇所作り双(なら)べたる役所(やくしよ)の軒に継樋(つぎどひ)を懸(かけ)て、雨ふれば、霤(あまだれ)を少しも余さず、舟にうけ入れ、舟の底に赤土(あかつち)を沈(しづ)めて、水の性(しやう)を損(そん)ぜぬ様(やう)にぞ被拵たりける。此(この)水を以て、縦(たと)ひ五六十日雨不降ともこらへつべし。其中(そのうち)に又などかは雨降(ふる)事(こと)無(なか)らんと、了簡(れうけん)しける智慮の程こそ浅からね。されば城よりは強(あながち)に此谷水(このたにみづ)を汲(くま)んともせざりけるを、水ふせぎける兵共(つはものども)、夜毎(よごと)に機(き)をつめて、今や/\と待懸(まちかけ)けるが、始(はじめ)の程こそ有(あり)けれ、後(のち)には次第々々に心懈(おこた)り、機緩(ゆるまつ)て、此(この)水をば汲(くま)ざりけるぞとて、用心(ようじん)の体(てい)少し無沙汰(ぶさた)にぞ成(なり)にける。楠是(これ)を見すまして、究竟(くきやう)の射手(いて)をそろへて二三百人(にさんびやくにん)夜に紛(まぎれ)て城よりをろし、まだ篠目(しののめ)の明けはてぬ霞隠(かすみがく)れより押寄せ、水辺(すゐへん)に攻(つめ)て居たる者共(ものども)、二十(にじふ)余人(よにん)切伏(きりふせ)て、透間(すきま)もなく切(きつ)て懸(かか)りける間、名越(なごや)越前守(ゑちぜんのかみ)こらへ兼(かね)て、本(もと)の陣へぞ引(ひか)れける。 |
|
寄手(よせて)数万(すまん)の軍勢是(これ)を見て、渡り合(あは)せんとひしめけ共(ども)、谷を隔(へだ)て尾を隔(へだて)たる道なれば、輒(たやす)く馳合(はせあは)する兵(つはもの)もなし。兎角(とかく)しける其間(そのあひだ)に、捨置(すておい)たる旗・大幕(おほまく)なんど取持(とりもた)せて、楠が勢、閑(しづか)に城中へぞ引入(ひきいり)ける。其翌日(そのよくじつ)城の大手(おほて)に三本(さんぼん)唐笠(がらかさ)の紋(もん)書(かい)たる旗と、同(おなじ)き文(もん)の幕とを引(ひい)て、「是(これ)こそ皆名越(ながや)殿(どの)より給(たまはり)て候(さふらひ)つる御旗(おんはた)にて候へ、御文付(ごもんつき)て候間(あひだ)他人の為には無用に候。御中(みうち)の人々是(これ)へ御入(おんいり)候(さふらひ)て、被召候へかし。」と云(いつ)て、同音(どうおん)にどつと笑(わらひ)ければ、天下の武士共(ぶしども)是(これ)を見て、「あはれ名越(なごや)殿(どの)の不覚(ふかく)や。」と、口々に云(いは)ぬ者こそ無(なか)りけれ。 名越(なごや)一家の人々此(この)事(こと)を聞(きい)て、安からぬ事に被思ければ、「当手(たうて)の軍勢共(ぐんぜいども)一人も不残、城の木戸(きど)を枕にして、討死をせよ。」とぞ被下知ける。依之(これによつて)彼(かの)手(て)の兵五千(ごせん)余人(よにん)、思切(おもひきつ)て討共(うてども)射共(いれども)用(もちひ)ず、乗越々々(のりこえのりこえ)城の逆木(さかもぎ)一重(ひとへ)引破(ひきやぶつ)て、切岸(きりぎし)の下迄ぞ攻(せめ)たりける。され共(ども)岸高(たかう)して切立(きりたつ)たれば、矢長(やたけ)に思へ共(ども)のぼり得ず、唯(ただ)徒(いたづら)に城を睨(にらみ)、忿(いかり)を押(おさ)へて息つぎ居たり。此(この)時城の中(うち)より、切岸(きりぎし)の上(うへ)に横(よこた)へて置(おい)たる大木十計(ばかり)切(きつ)て落(おと)し懸(かけ)たりける間、将碁倒(しやうぎたふし)をする如く、寄手(よせて)四五百人(しごひやくにん)圧(おし)に被討て死にけり。是(これ)にちがはんとしどろに成(なつ)て騒ぐ処を、十方の櫓(やぐら)より指落(さしおと)し、思様(おもふやう)に射ける間、五千(ごせん)余人(よにん)の兵共(つはものども)残(のこり)すくなに討(うた)れて、其(その)日の軍(いくさ)は果(はて)にけり。 誠(まことに)志の程は猛(たけ)けれ共(ども)、唯(ただ)し出(いだ)したる事もなくて、若干(そくばく)討(うた)れにければ、「あはれ恥(はぢ)の上の損(そん)哉(かな)。」と、諸人(しよにん)の口遊(くちずさみ)は猶不止。尋常(よのつね)ならぬ合戦の体(てい)を見て、寄手(よせて)も侮(あなど)りにくゝや思(おもひ)けん、今は始(はじめ)の様(やう)に、勇進(いさみすすん)で攻(せめ)んとする者も無(なか)りけり。長崎(ながさき)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)此(この)有様を見て、「此(この)城を力責(ちからぜめ)にする事は、人の討(うた)るゝ計(ばかり)にて、其(その)功成難(なりがた)し。唯取巻(とりまい)て食責(じきぜめ)にせよ。」と下知(げぢ)して、軍(いくさ)を被止ければ、徒然(とぜん)に皆堪兼(たへかね)て、花の下(もと)の連歌(れんが)し共(ども)を呼下(よびくだ)し、一万句の連歌をぞ始(はじめ)たりける。其(その)初日の発句(ほつく)をば長崎九郎左衛門師宗(もろむね)、さき懸(がけ)てかつ色みせよ山桜(やまざくら)としたりけるを、脇(わき)の句、工藤(くどう)二郎右衛門(じらううゑもんの)尉(じよう)嵐や花のかたきなるらんとぞ付(つけ)たりける。 |
|
誠(まこと)に両句ともに、詞(ことば)の縁(えん)巧(たくみ)にして句の体(てい)は優(いう)なれども、御方(みかた)をば花になし、敵(てき)を嵐に喩(たと)へければ、禁忌(きんき)也(なり)。ける表事(へうじ)哉(かな)と後(のち)にぞ思ひ知(しら)れける。大将の下知(げぢ)に随(したがひ)て、軍勢皆軍(いくさ)を止(やめ)ければ、慰(なぐさ)む方(かた)や無(なか)りけん、或(あるひ)は碁(ご)・双六(しごろく)を打(うつ)て日を過(すご)し、或(あるひ)は百服茶(ひやつぷくちや)・褒貶(はうへん)の歌合(うたあはせ)なんどを翫(もてあそん)で夜(よ)を明(あか)す。 是(これ)にこそ城中の兵は中々(なかなか)被悩たる心地(ここち)して、心を遣方(やるかた)も無(なか)りける。少し程(ほど)経(へ)て後(のち)、正成(まさしげ)、「いでさらば、又寄手(よせて)たばかりて居眠(ゐねぶり)さまさん。」とて、芥(あくた)を以て人長(ひとだけ)に人形(にんぎやう)を二三十作(つくつ)て、甲冑(かつちう)をきせ兵杖(ひやうぢやう)を持(もた)せて、夜中(やちゆう)に城の麓に立置(たてお)き、前(まへ)に畳楯(でふだて)をつき双(なら)べ、其後(そのうし)ろにすぐりたる兵(つはもの)五百人(ごひやくにん)を交(まじ)へて、夜のほの/゛\と明(あけ)ける霞(かすみ)の下(した)より、同時に時(とき)をどつと作る。四方(しはう)の寄手(よせて)時の声を聞(きい)て、「すはや城の中(うち)より打出(うちいで)たるは、是(これ)こそ敵の運の尽(つく)る処の死狂(しにくるひ)よ。」とて我先(われさき)にとぞ攻合(せめあは)せける。 城の兵兼(かね)て巧(たくみ)たる事なれば、矢軍(やいくさ)ちとする様(やう)にして大勢(おほぜい)相近(あひちか)づけて、人形許(ばかり)を木(こ)がくれに残し置(おい)て、兵(つはもの)は皆次第々々に城の上へ引上(ひきあが)る。寄手(よせて)人形を実(まこと)の兵(つはもの)ぞと心得て、是(これ)を打(うた)んと相集(あひあつま)る。正成所存(しよぞん)の如く敵をたばかり寄せて、大石(たいせき)を四五十(しごじふ)、一度(いちど)にばつと発(はな)す。一所(いつしよ)に集(あつま)りたる敵三百(さんびやく)余人(よにん)、矢庭(やには)に被討殺、半死半生の者五百(ごひやく)余人(よにん)に及(およべ)り。軍(いくさ)はてゝ是(これ)を見れば、哀(あはれ)大剛(だいがう)の者哉(かな)と覚(おぼえ)て、一足(ひとあし)も引(ひか)ざりつる兵(つはもの)、皆人にはあらで藁(わら)にて作れる人形(にんぎやう)也(なり)。 |
|
是(これ)を討(うた)んと相集(あひあつまつ)て、石に打(うた)れ矢に当(あたつ)て死せるも高名(かうみやう)ならず、又是(これ)を危(あやぶみ)て進得(すすみえ)ざりつるも臆病の程顕(あらは)れて云甲斐(いふかひ)なし。唯兎(と)にも角(かく)にも万人の物笑ひとぞ成(なり)にける。是(これ)より後(のち)は弥(いよいよ)合戦を止(やめ)ける間、諸国の軍勢唯(ただ)徒(いたづら)に城を守り上(あげ)て居たる計(ばかり)にて、するわざ一(ひとつ)も無(なか)りけり。爰(ここ)に何(いか)なる者か読(よみ)たりけん、一首(いつしゆ)の古歌(こか)を翻案(ほんあん)して、大将の陣の前にぞ立(たて)たりける。余所(よそ)にのみ見てやゝみなん葛城(かづらき)のたかまの山の峯の楠軍(いくさ)も無(なく)てそゞろに向ひ居たるつれ/゛\に、諸大将の陣々に、江口(えぐち)・神崎(かんざき)の傾城共(けいせいども)を呼寄(よびよせ)て、様々(さまざま)の遊(あそび)をぞせられける。 名越(なごや)遠江(とほたふみの)入道と同兵庫(おなじきひやうごの)助(すけ)とは伯叔甥(をぢをひ)にて御座(おはし)けるが、共に一方の大将にて、責口(せめくち)近く陣を取り、役所(やくしよ)を双(ならべ)てぞ御座(おはし)ける。或時(あるとき)遊君(いうくん)の前にて双六(しごろく)を打(うた)れけるが、賽(さい)の目(め)を論じて聊(いささか)の詞(ことば)の違(ちが)ひけるにや、伯叔甥(をぢをひ)二人(ににん)突違(つきちがへ)てぞ死(しな)れける。両人の郎従共(らうじゆうども)、何の意趣(いしゆ)もなきに、差違(さしちが)へ差違へ、片時(へんし)が間(あひだ)に死(しす)る者二百余人(よにん)に及べり。 |
|
城の中(うち)より是(これ)を見て、「十善(じふぜん)の君(きみ)に敵をし奉る天罰(てんばつ)に依(よつ)て、自滅(じめつ)する人々の有様見よ。」とぞ咲(わらひ)ける。誠(まこと)に是(これ)直事(ただごと)に非(あら)ず。天魔波旬(てんまはじゆん)の所行(しよぎやう)歟(か)と覚(おぼえ)て、浅猿(あさまし)かりし珍事(ちんじ)也(なり)。同(おなじき)三月四日関東(くわんとう)より飛脚(ひきやく)到来して、「軍(いくさ)を止(やめ)て徒(いたづら)に日を送る事不可然。」と被下知ければ、宗(むね)との大将達評定(ひやうぢやう)有(あつ)て、御方(みかた)の向ひ陣と敵の城との際(あひだ)に、高く切立(きりたつ)たる堀に橋を渡して、城へ打(うつ)て入(いら)んとぞ巧(たく)まれける。為之京都より番匠(ばんしやう)を五百(ごひやく)余人(よにん)召下(めしくだ)し、五六八九寸の材木を集(あつめ)て、広さ一丈五尺、長さ二十丈(にじふぢやう)余(あまり)に梯(かけはし)をぞ作らせける。 梯(かけはし)既(すで)に作り出(いだ)しければ、大縄(おほつな)を二三千筋(にさんぜんすぢ)付(つけ)て、車木(くるまき)を以て巻立(まきたて)て、城の切岸(きりぎし)の上へぞ倒し懸(かけ)たりける。魯般(ろはん)が雲の梯(かけはし)も角(かく)やと覚(おぼえ)て巧(たくみ)也(なり)。軈(やが)て早(はや)りおの兵共(つはものども)五六千人、橋の上を渡り、我先(われさき)にと前(すすん)だり。あはや此(この)城只今打落されぬと見へたる処に、楠兼(かね)て用意(ようい)やしたりけん、投松明(なげたいまつ)のさきに火を付(つけ)て、橋の上に薪(たきぎ)を積(つめ)るが如くに投集(なげあつめ)て、水弾(みづはじき)を以て油を滝の流るゝ様(やう)に懸(かけ)たりける間、火橋桁(はしげた)に燃付(もえつい)て、渓風(たにかぜ)炎(ほのほ)を吹布(ふきしい)たり。憖(なまじひ)に渡り懸(かか)りたる兵共(つはものども)、前(さき)へ進(すすま)んとすれば、猛火(みやうくわ)盛(さかん)に燃(もえ)て身を焦(こが)す、帰(かへら)んとすれば後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)前(まへ)の難儀をも不云支(ささへ)たり。そばへ飛(とび)をりんとすれば、谷(たに)深く巌(いはほ)そびへて肝(きもを)冷(ひや)し、如何(いかが)せんと身を揉(もう)で押(おし)あふ程に、橋桁(はしげた)中(なか)より燃折(もえをれ)て、谷底(たにぞこ)へどうど落(おち)ければ、数千(すせん)の兵(つはもの)同時に猛(みやうくわ)の中へ落重(おちかさなつ)て、一人も不残焼死(やけしに)にけり。 其(その)有様偏(ひとへ)に八大地獄(はちだいぢごく)の罪人の刀山剣樹(たうざんけんじゆ)につらぬかれ、猛火鉄湯(みやうくわてつたう)に身を焦(こが)す覧(らん)も、角(かく)やと被思知たり。去程(さるほど)に吉野・戸津河(とつがは)・宇多(うだ)・内郡(うちのこほり)の野伏共(のぶしども)、大塔宮(おほたふのみや)の命(めい)を含(ふくん)で、相集(あひあつま)る事七千余人(よにん)、此(ここ)の峯(みね)彼(かしこ)〔の〕谷(たに)に立隠(たちかくれ)て、千剣破(ちはやの)寄手共(よせてども)の往来(わうらい)の路を差塞(さしふさ)ぐ。依之(これによつて)諸国の兵(つはもの)の兵粮(ひやうらう)忽(たちまち)に尽(つき)て、人馬(じんば)共に疲(つか)れければ、転漕(てんさう)に怺兼(こらへかね)て百騎・二百騎引(ひい)て帰る処を、案内者(あんないしや)の野伏(のぶし)共、所々のつまり/゛\に待受(まちうけ)て、討留(うちとめ)ける間、日々夜々に討(うた)るゝ者数を知(しら)ず。 |
|
希有(けう)にして命計(いのちばかり)を助かる者は、馬(むま)・物具(もののぐ)を捨(すて)、衣裳(いしやう)を剥取(はぎとら)れて裸(はだか)なれば、或(あるひ)は破(やれ)たる蓑(みの)を身に纏(まとひ)て、膚計(はだへばかり)を隠(かく)し、或(あるひ)は草の葉(は)を腰に巻(まい)て、恥をあらはせる落人共(おちうどども)、毎日に引(ひき)も切らず十方へ逃散(にげち)る。前代未聞(ぜんだいみもん)の恥辱(ちじよく)也(なり)。されば日本国の武士共(ぶしども)の重代(ぢゆうだい)したる物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)は、皆此(この)時に至(いたつ)て失(うせ)にけり。名越(なごや)遠江(とほたふみの)入道、同(おなじき)兵庫(ひやうごの)助(すけ)二人(ににん)は、無詮口論して共に死給(しにたまひ)ぬ。其外(そのほか)の軍勢共(ぐんぜいども)、親(おや)は討(うた)るれば子は髻(もとどり)を切(きつ)てうせ、主(しゆ)疵(きず)を被(かうむ)れば、郎従(らうじゆう)助(たすけ)て引帰(ひきかへ)す間、始(はじめ)は八十万騎(はちじふまんぎ)と聞へしか共(ども)、今は纔(わづか)に十万余騎(よき)に成(なり)にけり。 | |
■新田義貞(につたよしさだ)賜綸旨事
上野(かうづけの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)新田(につたの)小太郎義貞(よしさだ)と申(まうす)は、八幡(はちまん)太郎義家(よしいへ)十七代の後胤(こういん)、源家嫡流(げんけちやくりう)の名家(めいか)也(なり)。然共(しかれども)平氏(へいじ)世を執(とつ)て四海(しかい)皆其(その)威に服する時節(をりふし)なれば、無力関東(くわんとう)の催促(さいそく)に随(したがつ)て金剛山(こんがうせん)の搦手(からめて)にぞ被向ける。爰(ここ)に如何なる所存(しよぞん)歟(か)出来(いでき)にけん、或時(あるとき)執事(しつじ)船田(ふなだ)入道義昌(よしまさ)を近づけて宣(のたま)ひける、「古(いにしへ)より源平両家(りやうけ)朝家(てうけ)に仕へて、平氏(へいじ)世を乱(みだ)る時は、源家(げんけ)是(これ)を鎮(しづ)め、源氏上(かみ)を侵(をか)す日は平家是(これ)を治(をさ)む。 義貞不肖(ふせう)也(なり)。と云へ共(ども)、当家(たうけ)の門■(もんび)として、譜代(ふだい)弓矢(ゆみや)の名を汚(けが)せり。而(しかる)に今相摸(さがみ)入道の行迹(かうせき)を見(みる)に滅亡遠(とほき)に非(あら)ず。我(われ)本国に帰(かへつ)て義兵(ぎへい)を挙(あげ)、先朝(せんてう)の宸襟(しんきん)を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙(かうむ)らでは叶(かなふ)まじ。如何(いかん)して大塔宮(おほたふのみや)の令旨(りやうじ)を給(たまはつ)て、此素懐(このそくわい)を可達。」と問給(とひたまひ)ければ、舟田入道畏(かしこまつ)て、「大塔宮(おほたふのみや)は此辺(このへん)の山中に忍(しのび)て御座(ござ)候なれば、義昌(よしまさ)方便(はうべん)を廻(めぐら)して、急(いそい)で令旨(りやうじ)を申出(まうしいだ)し候べし。」と、事安げに領掌申(りやうじやうまうし)て、己(おのれ)が役所へぞ帰(かへり)ける。 |
|
其翌日(そのよくじつ)舟田(ふなだ)己(おのれ)が若党(わかたう)を三十(さんじふ)余人(よにん)、野伏(のぶし)の質(すがた)に出立(いでたた)せて、夜中に葛城峯(かづらきのみね)へ上(のぼ)せ、我身(わがみ)は落行(おちゆく)勢の真似(まね)をして、朝まだきの霞隠(かすみがくれ)に、追(おつ)つ返(かへし)つ半時計(はんじばかり)どし軍(いくさ)をぞしたりける、宇多(うだ)・内郡(うちのこほり)の野伏共(のぶしども)是(これ)を見て、御方(みかた)の野伏ぞと心得、力を合(あは)せん為に余所(よそ)の峯よりおり合(あう)て近付(ちかづき)たりける処を、舟田が勢の中に取篭(とりこめ)て、十一人まで生捕(いけどり)てげり。 舟田此生捕(このいけどり)どもを解脱(ときゆる)して潛(ひそか)に申(まうし)けるは、「今汝等(なんぢら)をたばかり搦取(からめとり)たる事(こと)、全(まつたく)誅(ちゆう)せん為に非(あら)ず。新田殿(につたどの)本国へ帰(かへつ)て、御旗(はた)を挙(あげ)んとし給ふが、令旨(りやうじ)なくては叶(かなふ)まじければ、汝等に大塔宮(おほたふのみや)の御坐所(ござしよ)を尋問(たづねとは)ん為に召取(めしとり)つる也(なり)。命(いのち)惜(をし)くば案内者(あんないしや)して、此方(こなた)の使をつれて、宮の御座(ござ)あんなる所へ参れ。」と申(まうし)ければ、野伏(のぶし)ども大(おほき)に悦(よろこび)て、「其御意(そのぎよい)にて候はゞ、最(いと)安(やす)かるべき事にて候。此(この)中に一人暫(しばし)の暇(いとま)を給(たまはり)候へ、令旨(りやうじ)を申出(まうしいだし)て進(まゐら)せ候はん。」と申(まうし)て、残り十人をば留置(とめおき)、一人宮の御方(おんかた)へとてぞ参(まゐり)ける。 |
|
今や/\と相待(あひまつ)処に、一日有(あつ)て令旨(りやうじ)を捧(ささげ)て来れり。開(ひらい)て是(これ)を見(みる)に、令旨(りやうじ)にはあらで、綸旨(りんし)の文章(ぶんしやう)に書(かか)れたり。其詞(そのことばに)云(いはく)、被綸言称敷化理万国者明君徳也(なり)。撥乱鎮四海(しかい)者武臣節也(なり)。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東(くわんとう)征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。元弘三年二月十一日左少将新田(につたの)小太郎殿(こたらうどの)綸旨(りんし)の文章(ぶんしやう)、家の眉目(びぼく)に備(そなへ)つべき綸言(りんげん)なれば、義貞不斜悦(よろこび)て、其翌日(そのあくるひ)より虚病(きよびやう)して、急ぎ本国へぞ被下ける。宗徒(むねと)の軍(いくさ)をもしつべき勢共(せいども)は兎(と)に角(かく)に事を寄(よせ)て国々へ帰(かへり)ぬ。 兵粮(ひやうらう)運送(うんそう)の道絶(たえ)て、千剣破(ちはや)の寄手(よせて)以外(もつてのほか)に気を失(うしな)へる由聞へければ、又六波羅(ろくはら)より宇都宮(うつのみや)をぞ下(くだ)されける。紀清(きせい)両党千余騎(よき)寄手(よせて)に加(くは)は(ッ)て、未屈(いまだくつせざる)荒手(あらて)なれば、軈(やが)て城の堀の際(きは)まで責上(せめのぼつ)て、夜昼(よるひる)少しも不引退、十(じふ)余日(よにち)までぞ責(せめ)たりける。此(この)時にぞ、屏(へい)の際(きは)なる鹿垣(ししがき)・逆木(さかもぎ)皆被引破て、城も少し防兼(ふせぎかね)たる体(てい)にぞ見へたりける。され共(ども)紀清(きせい)両党の者とても、斑足王(はんぞくわう)の身をもからざれば天をも翔(かけ)り難(がた)し。竜伯公(りゆうはくこう)が力を不得ば山をも擘難(つんざきがた)し。余(あまり)に為方(せんかた)や無(なか)りけん、面(おもて)なる兵には軍(いくさ)をさせて後(うしろ)なる者は手々(てて)に鋤(すき)・鍬(くは)を以て、山を掘倒(ほりたふ)さんとぞ企(くはだて)ける。げにも大手(おほて)の櫓(やぐら)をば、夜昼(よるひる)三日が間に、念(ねむ)なく掘り崩(くづ)してけり。諸人(しよにん)是(これ)を見て、唯(ただ)始(はじめ)より軍(いくさ)を止(やめ)て掘(ほる)べかりける物を、と後悔して、我(われ)も我(われ)もと掘(ほり)けれ共(ども)、廻(まは)り一里に余れる大山なれば左右(さう)なく掘倒(ほりたふ)さるべしとは見へざりけり。 |
|
■赤松(あかまつ)蜂起(ほうきの)事(こと)
去程(さるほど)に楠が城強くして、京都は無勢(ぶせい)也(なり)。と聞へしかば、赤松(あかまつ)二郎入道円心(ゑんしん)、播磨国(はりまのくにの)苔縄(こけなは)の城より打(うつ)て出で、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)の両道(りやうだう)を差塞(さしふさ)ぎ、山里(やまのさと)・梨原(なしがはら)の間(あひだ)に陣をとる。爰(ここ)に備前(びぜん)・備中(びつちゆう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すはう)の勢共(せいども)、六波羅(ろくはら)の催促に依(よつ)て上洛(しやうらく)しけるが、三石(みついし)の宿(しゆく)に打集(うちあつまつ)て、山里(やまのさと)の勢を追払(おひはらう)て通(とほら)んとしけるを、赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)舟坂山(ふなさかやま)に支(ささへ)て、宗(むね)との敵二十(にじふ)余人(よにん)を生捕(いけどり)てけり。然共(しかれども)赤松(あかまつ)是(これ)を討(うた)せずして、情(なさけ)深(ふか)く相交(あひまじは)りける間、伊東大和(いとうやまとの)二郎其(その)恩を感じて、忽(たちまち)に武家与力(よりき)の志を変じて、官軍(くわんぐん)合体(がつてい)の思(おもひ)をなしければ、先(まづ)己(おのれ)が館(たち)の上なる三石山(みついしやま)に城郭(じやうくわく)を構(かま)へ、軈(やが)て熊山(くまやま)へ取上(とりのぼ)りて、義兵を揚(あげ)たるに、備前の守護(しゆご)加治(かぢの)源二郎左衛門(じらうざゑもん)一戦(いつせん)に利(り)を失(うしなう)て、児嶋(こじま)を指(さし)て落(おち)て行(ゆく)。 是(これ)より西国(さいこく)の路弥(いよいよ)塞(ふさがつ)て、中国(ちゆうごく)の動乱(どうらん)不斜。西国より上洛(しやうらく)する勢をば、伊東(いとう)に支(ささ)へさせて、後(うしろ)は思(おもひ)も無(なか)りければ、赤松軈(やが)て高田兵庫(ひやうごの)助(すけ)が城を責落(せめおと)して、片時(へんし)も足を不休、山陰道(せんいんだう)を指(さ)して責上(せめのぼ)る。路次の軍勢馳加(はせくははつ)て、無程七千余騎(よき)に成(なり)にけり。此(この)勢にて六波羅(ろくはら)を責落(せめおと)さん事は案(あん)の内(うち)なれ共(ども)、若(もし)戦(たたか)ひ利(り)を失(うしなふ)事(こと)あらば、引退(ひきしりぞい)て、暫く人馬をも休(やすめ)ん為に、兵庫の北に当(あたつ)て、摩耶(まや)と云(いふ)山寺(やまでら)の有(あり)けるに、先(まづ)城郭を構(かまへ)て、敵を二十里(にじふり)が間に縮(つづ)めたり。 |
|
■河野(かうの)謀叛(むほんの)事(こと)
六波羅(ろくはら)には、一方の打手(うつて)にはと被憑ける宇都宮(うつのみや)は千剣破(ちはや)の城へ向ひつ、西国の勢は伊東(いとう)に被支て不上得、今は四国(しこくの)勢を摩耶(まや)の城へは向(むく)べしと被評定ける処に、後(のち)の二月四日、伊予(いよの)国(くに)より早馬(はやむま)を立(たて)て、「土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)弥三郎、宮方(みやかた)に成(なつ)て旗をあげ、当国の勢を相付(あひつけ)て土佐(とさの)国(くに)へ打越(うちこゆ)る処に、去月十二日長門(ながと)の探題(たんだい)上野介(かうづけのすけ)時直(ときなほ)、兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)にて当国へ推渡(おしわた)り、星岡(ほしがをか)にして合戦を致す処に、長門(ながと)・周防(すはう)の勢一戦(いつせん)に打負(うちまけ)て、死人・手負(ておひ)其数(そのかず)を不知。剰(あまつさへ)時直父子(ふし)行方(ゆきかた)を不知云云。其(それ)より後(のち)四国の勢悉(ことごとく)土居・得能に属(しよく)する間、其(その)勢已(すで)に六千余騎(よき)、宇多津(うたつ)・今張(いまばり)の湊(みなと)に舟をそろへ、只今責上(せめのぼら)んと企(くはだて)候也(なり)。御用心(ごようじん)有(ある)べし。」とぞ告(つげ)たりける。 |
|
■先帝(せんてい)船上(ふなのうへへ)臨幸(りんかうの)事(こと)
畿内(きない)の軍(いくさ)未だ静(しづか)ならざるに、又四国・西国日を追(おつ)て乱(みだれ)ければ、人の心皆薄氷(はくひよう)を履(ふん)で国の危(あやふ)き事深淵(しんえん)に臨(のぞむ)が如し。抑(そもそも)今如斯天下の乱るゝ事は偏(ひとへ)に先帝(せんてい)の宸襟(しんきん)より事興(おこ)れり。若(もし)逆徒(ぎやくと)差(さし)ちがふて奪取奉(うばひとりたてまつら)んとする事もこそあれ、相構(あひかまへ)て能々(よくよく)警固仕(つかまつる)べしと、隠岐(おきの)判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)を催(もよほ)して日番(ひばん)・夜廻(よまはり)隙(ひま)もなく、宮門(きゆうもん)を閉(とぢ)て警固(けいご)し奉る。閏(うるふ)二月下旬(げじゆん)は、佐々木(ささきの)富士名(ふじなの)判官が番(ばん)にて、中門(ちゆうもん)の警固に候(さふらひ)けるが、如何(いか)が思(おもひ)けん、哀(あはれ)此(この)君を取奉(とりたてまつつ)て、謀叛(むほん)を起さばやと思(おもふ)心ぞ付(つき)にける。 され共(ども)可申入便(たより)も無(なう)て、案(あん)じ煩(わづら)ひける処に、或夜(あるよ)御前(おんまへ)より官女(くわんぢよ)を以て御盃(おんさかづき)を被下たり。判官是(これ)を給(たまはつ)て、よき便(たより)也(なり)。と思(おもひ)ければ、潛(ひそか)に彼(かの)官女を以て申入(まうしいれ)けるは、「上様(うへさま)には未だ知(しろ)し召(めさ)れ候はずや、楠兵衛正成(まさしげ)金剛山(こんがうせん)に城を構(かまへ)て楯篭候(たてごもりさふらひ)し処に、東国勢百万余騎(よき)にて上洛(しやうらく)し、去(さんぬる)二月の初(はじめ)より責戦(せめたたかひ)候といへ共(ども)、城は剛(つよう)して寄手(よせて)已(すで)に引色(ひきいろ)に成(なつ)て候。 |
|
又備前には伊東大和(やまとの)二郎、三石(みついし)と申(まうす)所に城を構(かまへ)て、山陽道(せんやうだう)を差塞(さしふさ)ぎ候。播磨(はりま)には赤松入道円心(ゑんしん)、宮の令旨(りやうじ)を給(たまはつ)て、摂津国(つのくに)まで責上(せめのぼ)り、兵庫(ひやうご)の摩耶(まや)と申(まうす)処に陣を取(とつ)て候。其(その)勢已(すで)に三千余騎(よき)、京を縮(しし)め地を略(りやく)して勢(いきほひ)近国に振ひ候也(なり)。四国には河野(かうの)の一族(いちぞく)に、土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)弥三郎、御方(みかた)に参(まゐつ)て旗を挙(あげ)候処に、長門の探題(たんだい)上野(かうづけの)介時直(ときなほ)、彼(かれ)に打負(うちまけ)て、行方(ゆきかた)を不知落行候(おちゆきさふらひ)し後(のち)、四国の勢悉く土居(どゐ)・得能(とくのう)に属(しよく)し候間、既(すで)に大船(たいせん)をそろへて、是(これ)へ御迎(おんむかひ)に参るべし共(とも)聞へ候。 又先(まづ)京都を責(せむ)べし共(とも)披露(ひろう)す。御聖運(せいうん)開(ひらかる)べき時已(すで)に至(いたり)ぬとこそ覚(おぼえ)て候へ。義綱(よしつな)が当番(たうばん)の間に忍(しのび)やかに御出(おんいで)候(さふらひ)て、千波(ちぶり)の湊(みなと)より御舟(おんふね)に被召、出雲(いづも)・伯耆(はうき)の間、何(いづ)れの浦へも風に任(まかせ)て御舟(おんふね)を被寄、さりぬべからんずる武士(ぶし)を御憑(おんたのみ)候(さふらひ)て、暫(しばら)く御待(まち)候へ。義綱(よしつな)乍恐責進(せめまゐら)せん為に罷向体(まかりむかふてい)にて、軈(やが)て御方(みかた)に参(まゐり)候べし。」とぞ奏(そう)し申(まうし)ける。 |
|
官女此由(このよし)を申入(まうしいれ)ければ、主上猶(なほ)も彼(かれ)偽(いつはり)てや申覧(まうすらん)と思食(おぼしめさ)れける間、義綱が志の程を能々(よくよく)伺(うかがひ)御覧ぜられん為に、彼(かの)官女を義綱にぞ被下ける。判官は面目身に余(あま)りて覚(おぼえ)ける上(うへ)、最愛(さいあい)又甚しかりければ、弥(いよいよ)忠烈(ちゆうれつ)の志を顕(あらは)しける。「さらば汝(なんぢ)先(まづ)出雲(いづもの)国(くに)へ越(こえ)て、同心(どうしん)すべき一族(いちぞく)を語(かたらひ)て御迎(おんむかひ)に参れ。」と被仰下ける程に、義綱則(すなはち)出雲へ渡(わたつ)て塩冶(えんや)判官を語(かたら)ふに、塩冶(えんや)如何(いかが)思(おもひ)けん、義綱をゐこめて置(おい)て、隠岐(おきの)国(くに)へ不帰。主上且(しばら)くは義綱を御待有(まちあり)けるが、余(あまり)に事(こと)滞(とどこほ)りければ、唯(ただ)運(うん)に任(まかせ)て御出(おんいで)有(あら)んと思食(おぼしめし)て、或夜(あるよ)の宵(よひ)の紛(まぎれ)に、三位(さんみ)殿(どの)の御局(おつぼね)の御産(ごさん)の事近付(ちかづき)たりとて、御所(ごしよ)を御出(おんいで)ある由にて、主上其御輿(そのおんこし)にめされ、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)朝臣計(ばかり)を召具(めしぐ)して、潛(ひそか)に御所(ごしよ)をぞ御出(おんいで)有(あり)ける。 此体(このてい)にては人の怪(あやし)め申(まうす)べき上(うへ)、駕輿丁(かよちやう)も無(なか)りければ、御輿(こし)をば被停て、悉(かたじけなく)も十善の天子、自(みづか)ら玉趾(ぎよくし)を草鞋(さうあい)の塵(ちり)に汚(けが)して、自(みづか)ら泥土(でいど)の地を踏(ふま)せ給(たまひ)けるこそ浅猿(あさまし)けれ。比(ころ)は三月二十三日の事なれば、月待程(まつほど)の暗き夜に、そこ共不知遠き野(の)の道を、たどりて歩(あゆま)せ給へば、今は遥(はるか)に来(き)ぬ覧(らん)と被思食たれば、迹(あと)なる山は未(いまだ)滝(たき)の響(ひびき)の風(ほのか)に聞ゆる程なり。 |
|
若(もし)追懸進(おつかけまゐら)する事もやある覧(らん)と、恐(おそろ)しく思食(おぼしめし)ければ、一足(ひとあし)も前(さき)へと御心(おんこころ)許(ばかり)は進(すす)め共(ども)、いつ習(なら)はせ給(たまふ)べき道ならねば、夢路(ゆめぢ)をたどる心地(ここち)して、唯(ただ)一所(いつしよ)にのみやすらはせ給へば、こは如何(いかが)せんと思煩(おもひわづら)ひて、忠顕(ただあき)朝臣、御(おん)手を引(ひき)御腰(おんこし)を推(おし)て、今夜(こよひ)いかにもして、湊辺(みなとのへん)までと心遣(やり)給へ共(ども)、心身共(しんしんとも)に疲れ終(はて)て、野径(やけい)の露に徘徊(はいくわい)す。 夜いたく深(ふけ)にければ、里遠からぬ鐘(かね)の声(こゑ)の、月に和(くわ)して聞へけるを、道しるべに尋寄(たづねより)て、忠顕(ただあき)朝臣或(ある)家の門を扣(たた)き、「千波(ちぶりの)湊へは何方(いづかた)へ行(ゆく)ぞ。」と問(とひ)ければ、内より怪(あやし)げなる男(をのこ)一人出向(いでむかひ)て、主上の御有様(おんありさま)を見進(まゐら)せけるが、心なき田夫野人(でんぶやじん)なれ共(ども)、何となく痛敷(いたはしく)や思進(おもひまゐら)せけん、「千波(ちぶりの)湊へは是(これ)より纔(わづかに)五十町(ごじつちよう)許(ばかり)候へ共(ども)、道(みち)南北へ分れて如何様(いかさま)御迷候(おんまよひさふらひ)ぬと存(ぞんじ)候へば、御(おん)道(みち)しるべ仕(つかまつり)候はん。」と申(まうし)て、主上を軽々(かるがる)と負進(おひまゐら)せ、程なく千波(ちぶりの)湊へぞ着(つき)にける。爰(ここ)にて時打(ときうつ)鼓(つづみ)の声を聞けば、夜は未だ五更(ごかう)の初(はじめ)也(なり)。 |
|
此(この)道(みち)の案内者(あんないしや)仕(つかまつり)たる男(をのこ)、甲斐々々敷(かひがひしく)湊(みなとの)中(うち)を走廻(はしりまはつて)、伯耆(はうき)の国へ漕(こぎ)もどる商人舟(あきんどぶね)の有(あり)けるを、兎角(とかう)語(かたら)ひて、主上を屋形(やかた)の内に乗(の)せ進(まゐら)せ、其後(そののち)暇(いとま)申(まうし)てぞ止(とどま)りける。此男(このをのこ)誠(まこと)に唯人(ただびと)に非ざりけるにや、君(きみ)御一統(ごいつとう)の御時(おんとき)に、尤(もつとも)忠賞(ちゆうしやう)有(ある)べしと国中を被尋けるに、我こそ其(それ)にて候へと申(まうす)者遂(つひ)に無(なか)りけり。夜も已(すで)に明(あけ)ければ、舟人(ふなうど)纜(ともづな)を解(とい)て順風(じゆんぷう)に帆(ほ)を揚(あげ)、湊(みなと)の外(ほか)に漕出(こぎいだ)す。 船頭(せんどう)主上の御有様を見奉(たてまつつ)て、唯人(ただびと)にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形(やかた)の前(まへ)に畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「加様(かやう)の時御船(おんふね)を仕(つかまつつ)て候こそ、我等が生涯の面目(めんぼく)にて候へ、何(いづ)くの浦へ寄(よせ)よと御定(ごぢやう)に随(したがひ)て、御舟(おんふね)の梶(かぢ)をば仕(つかまつり)候べし。」と申(まうし)て、実(まこと)に他事(たじ)もなげなる気色(きしよく)也(なり)。忠顕(ただあき)朝臣是(これ)を聞き給(たまひ)て、隠(かく)しては中々(なかなか)悪(あし)かりぬと思はれければ、此船頭(このせんどう)を近く呼寄(よびよせ)て、「是程(これほど)に推(お)し当(あて)られぬる上(うへ)は何をか隠(かく)すべき、屋形の中(うち)に御座(ござ)あるこそ、日本国の主(あるじ)、悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の君にていらせ給へ。汝等(なんぢら)も定(さだめ)て聞及(ききおよび)ぬらん、去年より隠岐(おきの)判官が館(たち)に被押篭て御座(ござ)ありつるを、忠顕(ただあき)盜出(ぬすみいだ)し進(まゐら)せたる也(なり)。 |
|
出雲・伯耆(はうき)の間に、何(いづ)くにてもさりぬべからんずる泊(とまり)へ、急ぎ御舟(おんふね)を着(つけ)てをろし進(まゐら)せよ。御運(ごうん)開(ひらけ)ば、必(かならず)汝を侍(さぶらひ)に申成(まうしなし)て、所領一所(しよりやういつしよ)の主(ぬし)に成(なす)べし。」と被仰ければ、船頭(せんどう)実(まこと)に嬉しげなる気色(きしよく)にて、取梶(とりかぢ)・面梶(おもかぢ)取合(とりあは)せて、片帆(かたほ)にかけてぞ馳(はせ)たりける。今は海上(かいじやう)二三十里(にさんじふり)も過(すぎ)ぬらんと思ふ処に、同じ追風(おひかぜ)に帆(ほ)懸(かけ)たる舟十艘計(ばかり)、出雲・伯耆を指(さし)て馳来(はせきた)れり。 筑紫舟(つくしぶね)か商人舟(あきんどぶね)かと見れば、さもあらで、隠岐(おきの)判官清高(きよたか)、主上を追(おひ)奉る舟にてぞ有(あり)ける。船頭是(これ)を見て、「角(かく)ては叶(かなひ)候まじ、是(これ)に御隠れ候へ。」と申(まうし)て、主上と忠顕(ただあき)朝臣とを、舟底(ふなぞこ)にやどし進(まゐら)せて、其(その)上に、あひ物とて乾(ほし)たる魚(うを)の入(いり)たる俵(たはら)を取積(とりつん)で、水手(すゐしゆ)・梶取(かんとり)其上(そのうへ)に立双(たちならん)で、櫓(ろ)をぞ押(おし)たりける。去程(さるほど)に追手(おひて)の舟一艘(いつさう)、御座舟(ござぶね)に追付(おつつい)て、屋形の中(うち)に乗移(のりうつ)り、こゝかしこ捜(さが)しけれ共(ども)、見出(みいだ)し奉らず。 |
|
「さては此(この)舟には召(めさ)ざりけり。若(もし)あやしき舟や通(とほ)りつる。」と問(とひ)ければ、船頭(せんどう)、「今夜の子(ね)の刻計(こくばかり)に、千波(ちぶりの)湊を出候(いでさふらひ)つる舟にこそ、京上臈(きやうじやうらふ)かと覚(おぼ)しくて、冠(かぶり)とやらん着(き)たる人と、立烏帽子(たてゑぼし)着(き)たる人と、二人(ににん)乗(のら)せ給(たまひ)て候(さふらひ)つる。其(その)舟は今は五六里も先立候(さきだちさふらひ)ぬらん。」と申(まうし)ければ、「さては疑(うたがひ)もなき事也(なり)。早(はや)、舟をおせ。」とて、帆(ほ)を引(ひき)梶(かぢ)を直(なほ)せば、此(この)舟は軈(やが)て隔(へだたり)ぬ。今はかうと心安く覚(おぼえ)て迹(あと)の浪路(なみぢ)を顧(かへりみ)れば、又一里許(ばかり)さがりて、追手(おひて)の舟百余艘(よさう)、御坐船(ござふね)を目に懸(かけ)て、鳥の飛(とぶ)が如くに追懸(おつかけ)たり。 船頭(せんどう)是(これ)を見て帆(ほ)の下に櫓(ろ)を立(たて)て、万里(ばんり)を一時(いちじ)に渡らんと声を帆に挙(あげ)て推(おし)けれ共(ども)、時節(をりふし)風たゆみ、塩(しほ)向(むかう)て御舟(おんふね)更に不進。水手(すゐしゆ)・梶取(かんどり)如何(いかが)せんと、あはて騒ぎける間、主上船底(ふなぞこ)より御出(おんいで)有(あつ)て、膚(はだ)の御護(おんまぶり)より、仏舎利(ぶつしやり)を一粒(いちりふ)取出(とりいだ)させ給(たまひ)て、御畳紙(おんたたうがみ)に乗(の)せて、波の上にぞ浮(うけ)られける。竜神(りゆうじん)是(これ)に納受(なふじゆ)やした〔り〕けん、海上(かいじやう)俄(にはか)に風替(かは)りて、御坐船(ござふね)をば東へ吹送(ふきおく)り、追手(おひて)の船をば西へ吹(ふき)もどす。さてこそ主上は虎口(ここう)の難(なん)の御遁有(のがれあり)て、御船(おんふね)は時間(ときのま)に、伯耆(はうき)の国名和湊(なわのみなと)に着(つき)にけり。 |
|
六条(ろくでうの)少将忠顕朝臣(ただあきあそん)一人先(まづ)舟よりおり給(たまひ)て、「此辺(このへん)には何(いか)なる者か、弓矢取(とつ)て人に被知たる。」と問(とは)れければ、道行(ゆく)人立(たち)やすらひて、「此辺(このへん)には名和(なわの)又太郎長年(ながとし)と申(まうす)者こそ、其身(そのみ)指(さし)て名有(なある)武士(ぶし)にては候はね共(ども)、家(いへ)富(とみ)一族(いちぞく)広(ひろう)して、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕(ただあき)朝臣能々(よくよく)其子細(そのしさい)を尋聞(たづねきい)て、軈(やが)て勅使(ちよくし)を立(たて)て被仰けるは、「主上隠岐(おきの)判官が館(たち)を御逃(おんにげ)有(あつ)て、今此湊(このみなと)に御坐有(ござあり)。 長年(ながとし)が武勇兼(かね)て上聞(しやうぶん)に達せし間、御憑(おんたのみ)あるべき由を被仰出也(なり)。憑(たの)まれ進(まゐら)せ候べしや否(いなや)、速(すみやか)に勅答可申。」とぞ被仰たりける。名和(なわの)又太郎は、折節(をりふし)一族共(いちぞくども)呼集(よびあつめ)て酒飲(のう)で居たりけるが、此(この)由を聞(きい)て案じ煩(わづらう)たる気色にて、兎(と)も角(かく)も申得(まうしえ)ざりけるを、舎弟(しやてい)小太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)長重(ながしげ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「古(いにしへ)より今に至迄(いたるまで)、人の望(のぞむ)所は名と利との二(ふたつ)也(なり)。我等(われら)悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の君に被憑進(まゐらせ)て、尸(かばね)を軍門(ぐんもん)に曝(さら)す共(とも)名を後代(こうだい)に残(のこさ)ん事(こと)、生前(しやうぜん)の思出(おもひで)、死後の名誉たるべし。 |
|
唯一筋(ひとすぢ)に思定(おもひさだめ)させ給ふより外(ほか)の儀(ぎ)有(ある)べしとも存(ぞんじ)候はず。」と申(まうし)ければ、又太郎を始(はじめ)として当座(たうざ)に候(さふらひ)ける一族共(いちぞくども)二十(にじふ)余人(よにん)、皆此儀(このぎ)に同(どう)じてけり。「されば頓(やが)て合戦の用意(ようい)候べし。定(さだめ)て追手(おひて)も迹(あと)より懸(かか)り候らん。長重(ながしげ)は主上の御迎(むかひ)に参(まゐつ)て、直(すぐ)に船上山(ふなのうへやま)へ入進(いれまゐら)せん。旁(かたがた)は頓(やが)て打立(うつたつ)て、船上(ふなのうへ)へ御参(ごさん)候べし。」と云捨(いひすて)て、鎧一縮(いつしゆく)して走り出(いで)ければ、一族(いちぞく)五人腹巻(はらまき)取(とつ)て投懸々々(なげかけなげかけ)、皆高紐(たかひぼ)しめて、共に御迎(むかひ)にぞ参じける。俄(にはか)の事にて御輿(こし)なんども無(なか)りければ、長重(ながしげ)着(き)たる鎧(よろひ)の上に荒薦(あらこも)を巻(まい)て、主上を負進(おひまゐら)せ、鳥の飛(とぶ)が如くして舟上(ふなのうへ)へ入(いれ)奉る。 長年(ながとし)近辺(きんぺん)の在家(ざいけ)に人を廻(まは)し、「思立(おもひたつ)事(こと)有(あつ)て舟上(ふなのうへ)に兵粮を上(あぐ)る事あり。我倉(わがくら)の内にある所の米穀(べいこく)を、一荷(いつか)持(もつ)て運びたらん者には、銭(ぜに)を五百(ごひやく)づゝ取らすべし。」と触(ふれ)たりける間、十方より人夫(にんぷ)五六千人出来(しゆつらい)して、我(われ)劣らじと持送(もちおく)る。一日が中(うち)に兵粮五千(ごせん)余石(よこく)運びけり。其後(そののち)家中(けちゆう)の財宝(ざいはう)悉(ことごとく)人民(じんみん)百姓に与(あたへ)て、己(おのれ)が館(たち)に火をかけ、其(その)勢百五十騎にて、船上(ふなのうへ)に馳(はせ)参り、皇居(くわうきよ)を警固(けいご)仕る。長年(ながとし)が一族(いちぞく)名和(なわの)七郎と云(いひ)ける者、武勇の謀(はかりごと)有(あり)ければ、白布(しらぬの)五百(ごひやく)端(たん)有(あり)けるを旗にこしらへ、松の葉を焼(やい)て煙(けむり)にふすべ、近国(きんごく)の武士共(ぶしども)の家々の文(もん)を書(かい)て、此(ここ)の木の本(もと)、彼(かしこ)の峯にぞ立置(たておき)ける。此(この)旗共(はたども)峯の嵐に吹(ふか)れて、陣々に翻(ひるがへ)りたる様(さま)、山中(さんちゆう)に大勢(おほぜい)充満(じゆうまん)したりと見へてをびたゝし。 |
|
■船上(ふなのうへ)合戦(かつせんの)事(こと)
去程(さるほど)に同(おなじき)二十九日、隠岐(おきの)判官、佐々木(ささきの)弾正(だんじやう)左衛門、其(その)勢三千余騎(よき)にて南北より押寄(おしよせ)たり。此舟上(このふなのうへ)と申(まうす)は、北は大山(だいせん)に継(つづ)き峙(そばだ)ち、三方(さんぱう)は地僻(ちさがり)に、峯に懸(かか)れる白雲(しらくも)腰(こし)を廻(めぐ)れり。俄に拵(こしら)へたる城なれば、未(いまだ)堀の一所(いつしよ)をも不掘、屏(へい)の一重(ひとへ)をも不塗、唯所々(しよしよ)に大木(たいぼく)少々切倒(きりたふ)して、逆木(さかもぎ)にひき、坊舎(ばうしや)の甍(いらか)を破(やぶつ)て、かひ楯(だて)にかける計(ばかり)也(なり)。寄手(よせて)三千余騎(よき)、坂中(さかなか)まで責上(せめのぼつ)て、城中をきつと向上(みあげ)たれば、松柏(しようはく)生茂(おひしげつ)ていと深き木陰(こかげ)に、勢の多少は知(しら)ね共(ども)、家々の旗四五百(ごひやく)流(ながれ)、雲に翻(ひるがへ)り、日に映(えい)じて見へたり。 さては早(はや)、近国(きんごく)の勢共(せいども)の悉(ことごとく)馳(はせ)参りたりけり。此(この)勢許(ばかり)にては責難(せめがた)しとや思(おもひ)けん、寄手(よせて)皆心に危(あやしみ)て不進得。城中の勢共(せいども)は、敵(てき)に勢(せい)の分際(ぶんざい)を見へじと、木陰(こかげ)にぬはれ伏(ふし)て、時々(ときどき)射手(いて)を出(いだ)し、遠矢(とほや)を射させて日を暮(くら)す。卦(かか)る所に一方の寄手(よせて)なりける佐々木(ささきの)弾正(だんじやう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、遥(はるか)の麓にひかへて居たりけるが、何方(いづかた)より射る共(とも)しらぬ流矢(ながれや)に、右の眼(まなこ)を射ぬかれて、矢庭(やには)に伏(ふし)て死にけり。依之(これによつて)其(その)手(て)の兵(つはもの)五百(ごひやく)余騎(よき)色を失(うしなう)て軍(いくさ)をもせず。 |
|
佐渡前司(さどのぜんじ)は八百(はつぴやく)余騎(よき)にて搦手(からめて)へ向(むかひ)たりけるが、俄に旗を巻(まき)、甲(かぶと)を脱(ぬい)で降参(かうさん)す。隠岐(おきの)判官は猶(なほ)加様(かやう)の事をも不知、搦手(からめて)の勢は、定(さだめ)て今は責近(せめちかづ)きぬらんと心得て、一の木戸口(きどくち)に支(ささへ)て、悪手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)、時(とき)移(うつ)るまでぞ責(せめ)たりける。日已(すで)に西山(せいざん)に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降(ふる)事(こと)車軸(しやぢく)の如く、雷(いかづち)の鳴(なる)事(こと)山を崩(くづ)すが如し。寄手(よせて)是(これ)におぢわなゝひて、斯彼(ここかしこ)の木陰(こかげ)に立寄(たちよつ)てむらがり居たる所に、名和(なわ)又太郎長年(ながとし)舎弟(しやてい)太郎左衛門長重(ながしげ)、小次郎長生(ながたか)が、射手(いて)を左右に進めて散々(さんざん)に射させ、敵(てき)の楯(たて)の端(はし)のゆるぐ所を、得たりや賢(かしこ)しと、ぬきつれて打(うつ)てかゝる。 大手の寄手(よせて)千余騎(よき)、谷底(たにぞこ)へ皆まくり落されて、己(おのれ)が太刀・長刀(なぎなた)に貫(つらぬか)れて命(いのち)を墜(おと)す者其数(そのかず)を不知。隠岐(おきの)判官計(ばかり)辛(から)き命を助(たすか)りて、小舟(こぶね)一艘(いつさう)に取乗(とりのり)、本国へ逃帰(にげかへ)りけるを、国人いつしか心替(こころがはり)して、津々浦々(つつうらうら)を堅めふせぎける間、波に任(まか)せ風に随(したがひ)て、越前の敦賀(つるが)へ漂(ただよ)ひ寄(より)たりけるが、幾程も無(なく)して、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)の時、江州(がうしう)番馬(ばんば)の辻堂(つじだう)にて、腹掻切(かききつ)て失(うせ)にけり。 |
|
世澆季(げうき)に成(なり)ぬといへ共(ども)、天理(てんり)未(いま)だ有(あり)けるにや、余(あまり)に君を悩(なやま)し奉りける隠岐(おきの)判官が、三十(さんじふ)余日(よにち)が間に滅(ほろ)びはてゝ、首(くび)を軍門(ぐんもん)の幢(はたほこ)に懸(かけ)られけるこそ不思儀なれ。主上隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成(なつ)て、船上(ふなのうへ)に御座有(ござあり)と聞へしかば、国々の兵共(つはものども)の馳(はせ)参る事引(ひき)も不切。先(まづ)一番に出雲(いづも)の守護(しゆご)塩谷(えんや)判官高貞(たかさだ)、富士名(ふじなの)判官と打連(うちつれ)、千(せん)余騎(よき)にて馳(はせ)参る。其後(そののち)浅山(あさやま)二郎八百(はつぴやく)余騎(よき)、金持(かなぢ)の一党(いつたう)三百(さんびやく)余騎(よき)、大山衆徒(だいせんのしゆと)七百余騎(よき)、都(すべ)て出雲(いづも)・伯耆・因幡(いなば)、三箇国(かこく)の間に、弓矢に携(たづさは)る程の武士共(ぶしども)の参らぬ者は無(なか)りけり。 是(これ)のみならず、石見(いはみの)国(くに)には沢(さは)・三角(みすみ)の一族(いちぞく)、安芸(あきの)国(くに)に熊谷(くまがえ)・小早河(こばいかは)、美作(みまさかの)国(くに)には菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)・江見(えみ)・方賀(はが)・渋谷(しぶや)・南三郷(みなみさんがう)、備後(びんごの)国(くに)に江田(えた)・広沢・宮(みや)・三吉(みよし)、備中に新見(にひみ)・成合(なりあひ)・那須(なす)・三村(みむら)・小坂(こさか)・河村・庄(しやう)・真壁(まかべ)、備前に今木(いまぎ)・大富(おほどみの)太郎幸範(よしのり)・和田備後(びんごの)二郎範長(のりなが)・知間(ちまの)二郎親経(ちかつね)・藤井・射越(いのこし)五郎左衛門範貞(のりさだ)・小嶋(こじま)・中吉(なかぎり)・美濃権(みののごんの)介・和気(わけの)弥次郎季経(すゑつね)・石生(おしこ)彦三郎、此外(このほか)四国九州の兵(つはもの)までも聞伝々々(ききつたへききつたへ)、我前(われさき)にと馳(はせ)参りける間、其(その)勢舟上山(ふなのうへやま)に居余(ゐあま)りて、四方(しはう)の麓二三里は、木の下・草の陰(かげ)までも、人ならずと云(いふ)所は無(なか)りけり。 |
|
■太平記 巻第八 | |
■摩耶(まや)合戦(かつせんの)事(こと)付酒部瀬河(さかべせがは)合戦(かつせんの)事(こと)
先帝(せんてい)已(すで)に船上(ふなのうへ)に着御(ちやくぎよ)成(なつ)て、隠岐(おきの)判官清高(きよたか)合戦に打負(うちまけ)し後、近国(きんごく)の武士共(ぶしども)皆馳(はせ)参る由(よし)、出雲(いづも)・伯耆(はうき)の早馬(はやむま)頻並(しきなみ)に打(うつ)て、六波羅(ろくはら)へ告(つげ)たりければ、事已(すで)に珍事(ちんじ)に及びぬと聞(きく)人色(いろ)を失へり。是(これ)に付(つけ)ても、京(きやう)近き所に敵の足をためさせては叶(かなふ)まじ。先(まづ)摂津国(つのくに)摩耶(まや)の城(じやう)へ押寄(おしよせ)て、赤松(あかまつ)を可退治とて、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時知(ときとも)に四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、在京人(ざいきやうにん)並(ならびに)三井寺(みゐでら)法師三百(さんびやく)余人(よにん)を相副(あひそへ)て、以上五千(ごせん)余騎(よき)を摩耶(まや)の城(じやう)へぞ被向ける。 其(その)勢閏(うるふ)二月五日京都を立(たつ)て、同(おなじき)十一日の卯刻(うのこく)に、摩耶(まや)の城の南の麓(ふもと)、求塚(もとめづか)・八幡林(やはたばやし)よりぞ寄(よせ)たりける。赤松入道是(これ)を見て、態(わざと)敵を難所(なんじよ)に帯(おび)き寄(よせ)ん為に、足軽(あしがる)の射手(いて)一二百人を麓へ下(おろ)して、遠矢(とほや)少々射させて、城(しろ)へ引上(ひきあが)りけるを、寄手(よせて)勝(かつ)に乗(のつ)て五千(ごせん)余騎(よき)、さしも嶮(けはし)き南の坂を、人馬(じんば)に息も継(つが)せず揉(もみ)に々(もう)でぞ挙(あげ)たりける。此(この)山へ上(のぼ)るに、七曲(ななまがり)とて岨(けはし)く細き路あり。 |
|
此(この)所に至(いたつ)て、寄手(よせて)少し上(のぼ)りかねて支(ささ)へたりける所を、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)・飽間(あくま)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)光泰(みつやす)二人(ににん)南の尾崎(をさき)へ下降(おりくだつ)て、矢種(やだね)を不惜散々(さんざん)に射ける間、寄手(よせて)少し射しらまかされて、互(たがひ)に人を楯に成(なし)て其陰(そのかげ)にかくれんと色めきける気色(けしき)を見て、赤松入道子息信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・佐用(さよ)・上月(かうつき)・小寺(こでら)・頓宮(とんぐう)の一党五百(ごひやく)余人(よにん)、鋒(きつさき)を双(ならべ)て大山の崩(くづるる)が如く、二(に)の尾(を)より打(うつ)て出(いで)たりける間、寄手(よせて)跡より引立(ひきたつ)て、「返せ。」と云(いひ)けれ共(ども)、耳にも不聞入、我先(われさき)にと引(ひき)けり。 其(その)道或(あるひは)深田(ふけだ)にして馬の蹄(ひづめ)膝(ひざ)を過ぎ、或(あるひは)荊棘(けいぎよく)生繁(おひしげつ)て行く前(さ)き弥(いよいよ)狭(せば)ければ、返さんとするも不叶、防がんとするも便(たよ)りなし。されば城の麓より、武庫河(むこがは)の西の縁(はた)まで道三里が間、人馬上(いや)が上(うへ)に重(かさな)り死(しし)て行人(かうじん)路(みち)を去敢(さりあへ)ず。向ふ時七千余騎(よき)と聞へし六波羅(ろくはら)の勢、僅(わづか)に千騎(せんぎ)にだにも足(た)らで引返しければ、京中(きやうぢゆう)・六波羅(ろくはら)の周章(しうしやう)不斜(なのめならず)。雖然、敵近国より起(おこつ)て、属順(つきしたが)ひたる勢(せい)さまで多しとも聞へねば、縦(たと)ひ一度(いちど)二度(にど)勝(かつ)に乗る事有(あり)とも、何程の事か可有と、敵の分限(ぶんげん)を推量(おしはかつ)て、引(ひけ)ども機をば不失。 |
|
斯(かか)る所に、備前(びぜんの)国(くに)の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)も大略(たいりやく)敵に成(なり)ぬと聞へければ、摩耶城(まやのじやう)へ勢(せい)重(かさ)ならぬ前(さき)に討手を下(くだ)せとて、同(おなじき)二十八日、又一万余騎(よき)の勢を被差下。赤松入動是(これ)を聞(きい)て、「勝軍(かちいくさ)の利(りは)、謀(はかりごと)不意(ふい)に出で大敵の気を凌(しのい)で、須臾(しゆゆ)に変化(へんくわ)して先(さきん)ずるには不如。」とて三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)し、摩耶(まや)の城を出(いで)て、久々智(くくち)・酒部(さかべ)に陣を取(とつ)て待(まち)かけたり。三月十日六波羅勢(ろくはらぜい)、既(すで)に瀬河(せがは)に着(つき)ぬと聞へければ、合戦は明日にてぞ有(あら)んずらんとて、赤松すこし油断(ゆだん)して、一村雨(ひとむらさめ)の過(すぎ)けるほど物具(もののぐ)の露をほさんと、僅(わづか)なる在家(ざいけ)にこみ入(いつ)て、雨の晴間(はれま)を待(まち)ける所に、尼崎(ああまがさき)より船を留(とど)めてあがりける阿波(あは)の小笠原(をがさはら)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。 赤松纔(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)にて大勢(おほぜい)の中へかけ入り、面(おもて)も不振戦ひけるが、大敵凌(しの)ぐに叶はねば、四十七騎は被討て、父子(ふし)六騎にこそ成(なり)にけれ。六騎の兵(つはもの)皆揆(しるし)をかなぐり捨(すて)て、大勢の中へ颯(さつ)と交(まじは)りて懸(かけ)まわりける間、敵是(これ)を知らでや有(あり)けん、又天運の助けにや懸(かか)りけん、何(いづ)れも無恙して、御方(みかた)の勢の小屋野(こやの)の宿(しゆく)の西に、三千(さんぜん)余騎(よき)にて引(ひか)へたる其(その)中へ馳入(はせいつ)て、虎口(ここう)に死を遁(のが)れけり。 |
|
六波羅勢(ろくはらぜい)は昨日の軍(いくさ)に敵の勇鋭(ゆうえい)を見るに、小勢(こぜい)也(なり)。といへども、欺(あざむ)き難(がた)しと思(おもひ)ければ、瀬河(せがは)の宿(しゆく)に引(ひか)へて進み得ず。赤松は又敗軍(はいぐん)の士卒(じそつ)を集め、殿(おく)れたる勢を待調(まちそろへ)ん為に不懸、互(たがひ)に陣を阻(へだて)て未(いまだ)雌雄(しゆう)を決せず。丁壮(ていさう)そゞろに軍旅(ぐんりよ)につかれなば、敵に気を被奪べしとて、同(おなじき)十一日赤松三千(さんぜん)余騎(よき)にて、敵の陣へ押寄(おしよせ)て、先づ事の体(てい)を伺ひ見(みる)に、瀬河(せがは)の宿(しゆく)の東西(とうざい)に、家々の旗二三百(にさんびやく)流(ながれ)、梢の風に翻(ひるがへ)して、其(その)勢二三万騎(にさんまんぎ)も有(あら)んと見へたり。 御方(みかた)を是(これ)に合(あは)せば、百にして其(その)一二をも可比とは見へねども、戦はで可勝道な〔け〕れば、偏(ひとへ)に只討死と志(こころざし)て、筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・佐用(さよの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)範家(のりいへ)・宇野(うのの)能登(のとの)守(かみ)国頼(くにより)・中山(なかやまの)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)光能(みつよし)・飽間(あくま)九郎左〔衛〕門(くらうざゑもんの)尉(じよう)光泰(みつやす)、郎等(らうどう)共に七騎にて、竹の陰(かげ)より南の山へ打襄(うちあがつ)て進み出(いで)たり。敵是(これ)を見て、楯の端(はし)少し動(うごい)て、かゝるかと見ればさもあらず、色めきたる気色(けしき)に見へける間、七騎の人々馬より飛下(とびお)り、竹の一村(ひとむら)滋(しげ)りたるを木楯(こだて)に取(とつ)て、差攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)にぞ射たりける。 |
|
瀬川(せがは)の宿(しゆく)の南北三十(さんじふ)余町(よちやう)に、沓(くつ)の子(こ)を打(うつ)たる様(やう)に引(ひか)へたる敵なれば、何(なに)かはゝづるべき。矢比(やころ)近き敵二十五騎、真逆(まつさかさま)に被打落ければ、矢面(やおもて)なる人を楯(たて)にして、馬を射させじと立てかねたり。平野(ひらの)伊勢(いせの)前司(ぜんじ)・佐用(さよ)・上月(かうつき)・田中・小寺(こてら)・八木(やぎ)・衣笠(きぬがさ)の若者共(わかものども)、「すはや敵は色めきたるは。」と、箙(えびら)を叩き、勝時(かつどき)を作(つくつ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)轡(くつばみ)を双(なら)べてぞ懸(かけ)たりける。大軍の靡(なび)く僻(くせ)なれば、六波羅勢(ろくはらぜい)前陣(ぜんぢん)返(かへ)せども後陣(ごぢん)不続、行前(ゆくさき)は狭(せば)し、「閑(しづか)に引け。」といへども耳にも不聞入、子は親を捨て郎等(らうどう)は主(しゆ)を知らで、我前(われさき)にと落行(おちゆき)ける程に、其(その)勢大半(たいはん)討(うた)れて纔(わづか)に京へぞ帰りける。 赤松は手負(ておひ)・生捕(いけどり)の頚三百(さんびやく)余、宿河原(しゆくのかはら)に切懸(きりかけ)させて、又摩耶(まや)の城(じやう)へ引返さんとしけるを、円心(ゑんしん)が子息(しそく)帥律師(そつのりつし)則祐(そくいう)、進み出(いで)て申(まうし)けるは、「軍(いくさ)の利(り)は勝(かつ)に乗(のつ)て北(にぐ)るを追(おふ)に不如。今度(こんど)寄手(よせて)の名字(みやうじ)を聞(きく)に、京都の勢数(かず)を尽(つく)して向(むかつ)て候なる。此(この)勢共(せいども)今四五日は、長途(ちやうど)の負軍(まけいくさ)にくたびれて、人馬(じんば)ともに物(もの)の用に不可立。臆病神(おくびやうがみ)の覚(さめ)ぬ前(さき)に続(つづ)ひて責(せむ)る物(もの)ならば、などか六波羅(ろくはら)を一戦(いつせん)の中(うち)に責落(せめおと)さでは候べき。是(これ)太公(たいこう)が兵書(ひやうしよ)に出(いで)て、子房(しばう)が心底(しんてい)に秘せし所にて候はずや。」と云(いひ)ければ、諸人(しよにん)皆此義(このぎ)に同(どう)じて、其夜(そのよ)軈(やが)て宿川原(しゆくのかはら)を立(たつ)て、路次(ろし)の在家(ざいけ)に火をかけ、其(その)光を手松(たいまつ)にして、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがうて責上(せめのぼ)りけり。 |
|
■三月十二日合戦(かつせんの)事(こと)
六波羅(ろくはら)には斯(かか)る事とは夢にも知(しら)ず。摩耶(まや)の城(じやう)へは大勢下(くだ)しつれば、敵を責落(せめおと)さん事(こと)、日を過さじと心安く思(おもひ)ける。其左右(そのさう)を今や/\と待(まち)ける所に、寄手(よせて)打負(うちまけ)て逃上(にげのぼ)る由披露(ひろう)有(あつ)て、実説(じつせつ)は未聞。何(なに)とある事やらん、不審(ふしん)端(はし)多き所に、三月十二日申刻計(さるのこくばかり)に、淀(よど)・赤井(あかゐ)・山崎・西岡辺(にしのをかへん)三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)たり。「こは何事ぞ。」と問(とふ)に、「西国の勢已(すで)に三方(さんぱう)より寄(よせ)たり。」とて、京中(きやうぢゆう)上(うへ)を下(した)へ返して騒動す。 両六波羅(りやうろくはら)驚ひて、地蔵堂(ぢざうだう)の鐘(かね)を鳴(なら)し洛中(らくちゆう)の勢を被集けれども、宗徒(むねと)の勢(せい)は摩耶(まや)の城より被追立、右往左往(うわうざわう)に逃隠(にげかく)れぬ。其外(そのほか)は奉行(ぶぎやう)・頭人(とうにん)なんど被云て、肥脹(こえふく)れたる者共(ものども)が馬に被舁乗て、四五百騎馳集(はせあつま)りたれ共(ども)、皆只あきれ迷へる計(ばかり)にて、差(さし)たる義勢(ぎせい)も無(なか)りけり。六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)、左近(さこんの)将監仲時(なかとき)、「事の体(てい)を見るに、何様(なにさま)坐(ゐ)ながら敵を京都にて相待(あひまた)ん事は、武略(ぶりやく)の足(たら)ざるに似〔た〕り。洛外(ぐわい)に馳向(はせむかつ)て可防。」とて両検断(けんだん)隅田(すだ)・高橋に、在京の武士(ぶし)二万余騎(よき)を相副(あひそへ)て、今在家(いまざいけ)・作道(つくりみち)・西の朱雀(しゆじやか)・西八条辺(へん)へ被差向。 |
|
是(これ)は此比(このころ)南風(みなみのかぜ)に雪とけて河水(かはみづ)岸(きし)に余(あま)る時なれば、桂河(かつらがは)を阻(へだて)て戦(たたかひ)を致せとの謀(はかりごと)也(なり)。去程(さるほど)に赤松入道円心(ゑんしん)、三千(さんぜん)余騎(よき)を二(ふたつ)に分(わけ)て、久我縄手(こがなはて)・西の七条より押寄(おしよせ)たり。大手(おほて)の勢桂川(かつらがは)の西の岸に打莅(うちのぞん)で、川向(かはむかひ)なる六波羅勢(ろくはらぜい)を見渡せば、鳥羽(とば)の秋(あき)山風(やまかぜ)に、家家の旗翩翻(へんぼん)として、城南(せいなん)の離宮(りきゆう)の西(さい)門より、作道(つくりみち)・四塚(よつづか)・羅城門(らしやうもん)の東西(とうざい)、々(にし)の七条口まで支(ささ)へて、雲霞(うんか)の如(ごとく)に充満(じゆうまん)したり。 されども此(この)勢(せい)は、桂川(かつらがは)を前にして防げと被下知つる其趣(そのおもむき)を守(まもつ)て、川をば誰も越(こえ)ざりけり。寄手(よせて)は又、思(おもひ)の外(ほか)敵大勢なるよと思惟(しゆゐ)して、無左右打(うつ)て懸(かか)らんともせず。只両陣互(たがひ)に川を隔(へだて)て、矢軍(やいくさ)に時をぞ移しける。中(なか)にも帥律師(そつのりつし)則祐(そくいう)、馬を踏放(ふみはなし)て歩立(かちたち)になり、矢たばね解(とい)て押(おし)くつろげ、一枚楯(いちまいだて)の陰(かげ)より、引攻々々(ひきつめひきつめ)散々(さんざん)に射けるが、「矢軍許(やいくさばかり)にては勝負(しようぶ)を決すまじかり。」と独言(ひとりごと)して、脱置(ぬぎおい)たる鎧(よろひ)を肩にかけ、胄(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)、馬の腹帯(はるび)を堅(かた)めて、只一騎岸(きし)より下(した)に打下(うちおろ)し、手縄(たづな)かいくり渡さんとす。 |
|
父の入道遥(はるか)に見て馬を打寄(うちよ)せ、面(おもて)に塞(ふさがつ)て制(せい)しけるは、「昔佐々木(ささきの)三郎が藤戸(ふぢと)を渡し、足利(あしかが)又太郎が宇治川(うぢがは)を渡(わたし)たるは、兼(かね)てみほじるしを立(たて)て、案内(あんない)を見置き、敵の無勢(ぶせい)を目に懸(かけ)て先(さき)をば懸(かけ)し者也(なり)。河上(かはかみ)の雪消(きえ)水増(まさ)りて、淵瀬(ふちせ)も見へぬ大河(たいが)を、曾(かつ)て案内も知(しら)ずして渡さば可被渡歟(か)。縦(たとひ)馬強(つよ)くして渡る事を得たりとも、あの大勢(おほぜい)の中へ只一騎懸入(かけいり)たらんは、不被討と云(いふ)事(こと)可不有。天下の安危(あんき)必(かならず)しも此(この)一戦(いつせん)に不可限。暫(しばらく)命(いのち)を全(まつたう)して君の御代(ごよ)を待(また)んと思ふ心のなきか。」と、再三(さいさん)強(しひ)て止(とめ)ければ、則祐(そくいう)馬を立直(たてなほ)し、抜(ぬい)たる太刀を収(をさめ)て申(まうし)けるは、「御方(みかた)と敵と可対揚程の勢にてだに候はゞ、我(われ)と手を不砕とも、運(うん)を合戦の勝負(しようぶ)に任(まかせ)て見候べきを、御方(みかた)は僅(わづか)に三千(さんぜん)余騎(よき)、敵は是(これ)に百倍(ひやくばい)せり。 急に戦(たたかひ)を不決して、敵に無勢(ぶせい)の程を被見透なば、雖戦不可有利。されば太公(たいこう)が兵道(へいだう)の詞(ことば)に、「兵勝之術密察敵人之機、而速乗其利疾撃其不意」と云へり、是(これ)以吾困兵敗敵強陣謀(はかりごと)にて候はぬや。」と云捨(いひすて)て、駿馬(しゆんめ)に鞭を進め、漲(みなぎつ)て流るゝ瀬枕(せまくら)に、逆波(さかなみ)を立(たて)てぞ游(およ)がせける。 |
|
見之飽間(あくま)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・伊東大輔(いとうのたいふ)・川原林(かはらばやしの)二郎・木寺相摸(こでらのさがみ)・宇野(うのの)能登(のとの)守(かみ)国頼(くにより)、五騎続(つづ)ひて颯(さつ)と打入(うちいれ)たり。宇野と伊東は馬強(つよう)して、一文字に流(ながれ)を截(きつ)て渡る。木寺相摸(こでらのさがみ)は、逆巻(さかまく)水に馬を被放て、胄(かぶと)の手反許(てへんばかり)僅(わづか)に浮(うかん)で見へけるが、波の上をや游(およ)ぎけん、水底(みづのそこ)をや潛(くぐ)りけん、人より前(さき)に渡付(わたりつい)て、川の向(むかう)の流州(ながれす)に、鎧(よろひ)の水瀝(したで)てぞ立(たつ)たりける。 彼等(かれら)五人(ごにん)が振舞(ふるまひ)を見て尋常(よのつね)の者ならずとや思(おもひ)けん、六波羅(ろくはら)の二万余騎(よき)、人馬(じんば)東西(とうざい)に僻易(へきえき)して敢(あへ)て懸合(かけあは)せんとする者なし。剰(あまつさへ)楯(たて)の端(はし)しどろに成(なつ)て色めき渡る所を見て、「前懸(さきがけ)の御方(みかた)打(うた)すな。続けや。」とて、信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)真前(まつさき)に進めば、佐用(さよ)・上月(かうつき)の兵(つはもの)三千(さんぜん)余騎(よき)、一度(いちど)に颯(さつ)と打入(うちいつ)て、馬筏(うまいかだ)に流(ながれ)をせきあげたれば、逆水(さかみづ)岸(きし)に余(あま)り、流(なが)れ十方に分(わかれ)て元(もと)の淵瀬(ふちせ)は、中々(なかなか)に陸地(くがぢ)を行(ゆく)がご〔と〕く也(なり)。 |
|
三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、向(むかう)の岸に打上(うちあが)り、死を一挙(いつきよ)の中(うち)に軽(かろく)せんと、進み勇める勢(いきほひ)を見て、六波羅勢(ろくはらぜい)叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、未(いまだ)戦(たたかはざる)前(さき)に、楯を捨て旗を引(ひい)て、作道(つくりみち)を北へ東寺(とうじ)を指(さし)て引(ひく)も有(あり)、竹田川原(たけだがはら)を上(のぼ)りに、法性寺大路(ほふしやうじおほち)へ落(おつる)もあり。其(その)道二三十町(にさんじつちよう)が間には、捨(すて)たる物具(もののぐ)地に満(みち)て、馬蹄(ばてい)の塵に埋没(まいぼつ)す。去程(さるほど)に西七条の手、高倉(たかくら)少将の子息(しそく)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、小寺(こでら)・衣笠(きぬがさ)の兵共(つはものども)、早(はや)京中へ責入(せめいつ)たりと見へて、大宮(おほみや)・猪熊(ゐのくま)・堀川・油小路(あぶらのこうぢ)の辺(へん)、五十(ごじふ)余箇所(よかしよ)に火をかけたり。 又八条、九条の間(あひだ)にも、戦(たたかひ)有(あり)と覚へて、汗馬(かんば)東西に馳違(はせちがひ)、時(とき)の声天地を響(ひびか)せり。唯(ただ)大三災(だいさんさい)一時(いちじ)に起(おこつ)て、世界(せかい)悉(ことごとく)却火(ごふくわ)の為に焼失(やけうせ)るかと疑はる。京中の合戦は、夜半許(やはんばかり)の事なれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、時(ときの)声此彼(ここかしこ)に聞へて、勢の多少も軍立(いくさだち)の様(やう)も見分(みわか)ざれば、何(いづ)くへ何(なに)と向(むかう)て軍(いくさ)を可為とも不覚(おぼえず)。京中の勢(せい)は、先(まづ)只六条川原(ろくでうかはら)に馳集(はせあつまつ)て、あきれたる体(てい)にて扣(ひか)へたり。 |
|
■持明院殿(ぢみやうゐんどの)行幸六波羅事
日野(ひの)中納言資名(すけな)・同(おなじき)左大弁(さだいべん)宰相資明(すけあきら)二人(ににん)同車(どうじや)して、内裏(だいり)へ参り給(たまひ)たれば、四門(しもん)徒(いたづら)に開(ひらき)、警固(けいご)の武士(ぶし)は一人もなし。主上南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、「誰(たれ)か候。」と御尋(おんたづね)あれども、衛府諸司(ゑふしよし)の官、蘭台金馬(らんたいきんめ)の司(つかさ)も何地(いづち)へか行(ゆき)たりけん、勾当(こうたう)の内侍(ないし)・上童(うへわらは)二人(ににん)より外(ほか)は御前(おんまへ)に候(こう)する者無(なか)りけり。 資名(すけな)・資明(すけあきら)二人(ににん)御前(おんまへ)に参じて、「官軍(くわんぐん)戦(たたか)ひ弱くして、逆徒(ぎやくと)不期洛中(らくちゆう)に襲来(おそひきたり)候。加様(かやう)にて御坐(ござ)候はゞ、賊徒(ぞくと)差違(さしちがへ)て御所(ごしよ)中へも乱入(らんにふ)仕候(つかまつりさふらひ)ぬと覚へ候。急ぎ三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を先立(さきだて)て六波羅(ろくはら)へ行幸(ぎやうがう)成(なり)候へ。」と被申ければ、主上軈(やが)て腰輿(えうよ)に被召、二条(にでう)川原(かはら)より六波羅(ろくはら)へ臨幸(りんかう)成る。其後(そののち)堀河(ほりかはの)大納言・三条(さんでうの)源(げん)大納言・鷲尾(わしのをの)中納言・坊城(ばうじやうの)宰相以下(いげ)、月卿雲客(げつけいうんかく)二十(にじふ)余人(よにん)、路次(ろし)に参着(さんちやく)して供奉(ぐぶ)し奉りけり。 是(これ)を聞食及(きこしめしおよん)で、院(ゐん)・法皇(ほふわう)・東宮(とうぐう)・皇后(くわうごう)・梶井(かぢゐ)の二品親王(にほんしんわう)まで皆六波羅(ろくはら)へと御幸(ごかう)成る間、供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)軍勢の中に交(まじはり)て警蹕(けいひつ)の声頻(しきり)也(なり)ければ、是(これ)さへ六波羅(ろくはら)の仰天(ぎやうてん)一方(ひとかた)ならず。俄に六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)をあけて、仙院(せんゐん)・皇居(くわうきよ)となす。事の体(てい)騒(さわが)しかりし有様也(なり)。軈(やが)て両六波羅(りやうろくはら)は七条河原(しちでうがはら)に打立(うちたつ)て、近付く敵を相待つ。此大勢(このおほぜい)を見て敵もさすがにあぐんでや思ひけん、只此彼(ここかしこ)に走散(はしりちつ)て、火を懸(かけ)時(とき)の声を作る計(ばかり)にて、同じ陣に扣(ひか)へたり。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を見て、「如何様(いかさま)敵は小勢(こぜい)也(なり)。と覚(おぼゆ)るぞ、向(むかつ)て追散(おつちら)せ。」とて、隅田(すだ)・高橋に三千(さんぜん)余騎(よき)を相副(あひそへ)て八条口へ被差向。 |
|
河野(かうのの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・陶山(すやま)次郎に二千余騎(よき)をさし副(そへ)て、蓮華王院(れんげわうゐん)へ被向けり。陶山(すやま)川野(かうの)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「何ともなき取集(とりあつ)め勢(ぜい)に交(まじはつ)て軍(いくさ)をせば、憖(なまじひ)に足纏(あしまとひ)に成(なつ)て懸引(かけひき)も自在なるまじ。いざや六波羅殿(ろくはらどの)より被差副たる勢をば、八条河原(はつでうがはら)に引(ひか)へさせて時(とき)の声を挙(あ)げさせ、我等(われら)は手勢(てせい)を引勝(ひきすぐつ)て、蓮華王院(れんげわうゐん)の東より敵の中へ駈入(かけい)り、蜘手(くもで)十文字(じふもんじ)に懸破(かけやぶ)り、弓手妻手(ゆんでめて)にて相付(あひつけ)て、追物(おふもの)射(い)に射てくれ候はん。」と云(いひ)ければ、河野(かうの)、「尤(もつとも)可然。」と同(どう)じて、外様(とざま)の勢二千余騎(よき)をば、塩小路(しほのこうぢ)の道場(だうぢやう)の前へ差遣(さしつかは)し、川野(かうの)が勢三百(さんびやく)余騎(よき)、陶山(すやま)が勢百五十(ひやくごじふ)余騎(よき)は引分(ひきわけ)て、蓮華王院(れんげわうゐん)の東へぞ廻(まは)りける。 合図(あひづ)の程にも成(なり)ければ、八条川原(はつでうがはら)の勢、鬨(ときの)声を揚(あげ)たるに、敵是(これ)に立合(たてあは)せんと馬を西頭(にしがしら)に立(たて)て相待(あひまつ)処に、陶山(すやま)・川野(かうの)四百余騎(よき)、思(おもひ)も寄らぬ後(うしろ)より、時(とき)を咄(どつ)と作(つくつ)て、大勢の中(なか)へ懸入(かけいり)、東西南北に懸破(かけやぶつ)て、敵を一所(いつしよ)に不打寄、追立々々(おつたておつたて)責戦(せめたたかふ)。川野(かうの)と陶山(すやま)と、一所(いつしよ)に合(あう)ては両所に分れ、両所に分(わかれ)ては又一所(いつしよ)に合(あひ)、七八度が程ぞ揉(もう)だりける。長途(ちやうど)に疲(つかれ)たる歩立(かちたち)の武者、駿馬(しゆんめ)の兵に被懸悩て、討(うた)るゝ者其数(そのかず)を不知。手負(ておひ)を捨(すて)て道を要(よこぎつ)て、散々(ちりぢり)に成(なつ)て引返(ひきかへ)す。 陶山(すやま)・川野(かうの)逃(にぐ)る敵には目をも不懸、「西七条辺(へん)の合戦何(なに)と有(あ)らん、無心元。」とて、又七条川原(しちでうがはら)を直違(すぢかひ)に西へ打(うつ)て七条大宮(おほみや)に扣(ひか)へ、朱雀(しゆじやか)の方(かた)を見遣(みやり)ければ、隅田(すだ)・高橋が三千(さんぜん)余騎(よき)、高倉(たかくら)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・小寺(こでら)・衣笠(きぬがさ)が二千余騎(よき)に被懸立て、馬の足をぞ立兼(たてかね)たる。川野(かうの)是(これ)を見て、「角(かく)ては御方(みかた)被打ぬと覚(おぼゆ)るぞ。いざや打(うつ)て懸(かか)らん。」と云(いひ)けるを、陶山(すやま)、「暫(しばし)。」と制(せい)しけり。「其故(そのゆゑ)は此(この)陣の軍(いくさ)未(いまだ)雌雄(しゆう)決(せざる)前(さき)に、力を合(あはせ)て御方(みかた)を助(たすけ)たりとも、隅田(すだ)・高橋が口の悪(にく)さは、我高名(わがかうみやう)にぞ云はんずらん。暫(しばら)く置(おい)て事の様(やう)を御覧(ごらん)ぜよ。敵縦(たと)ひ勝(かつ)に乗(のる)とも何程(なにほど)の事か可有。」とて、見物してぞ居たりける。 |
|
去程(さるほど)に隅田(すだ)・高橋が大勢、小寺(こでら)・衣笠(きぬがさ)が小勢(こぜい)に被追立、返さんとすれ共(ども)不叶、朱雀(しゆじやか)を上(のぼ)りに内野(うちの)を指(さし)て引(ひく)もあり、七条を東へ向(むかつ)て逃(にぐ)るもあり、馬に離(はなれ)たる者は心ならず返合(かへしあはせ)て死(しぬる)もあり。陶山(すやま)是(これ)を見て、「余(あまり)にながめ居て、御方(みかた)の弱り為出(しいだ)したらんも由(よし)なし、いざや今は懸合(かけあは)せん。」といへば、河野(かうの)、「子細(しさい)にや及ぶ。」と云侭(いふまま)に、両勢を一手(ひとて)に成(なし)て大勢の中(なか)へ懸入(かけい)り、時移(うつ)るまでぞ戦ひたる。四武(しぶ)の衝陣(しようぢん)堅(かたき)を砕(くだい)て、百戦の勇力(ゆうりよく)変(へん)に応ぜしかば、寄手(よせて)又此(この)陣の軍(いくさ)にも打負(うちまけ)て、寺戸(てらど)を西へ引返しけり。 筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・律師則祐(りつしそくいう)兄弟は、最初(さいしよ)に桂河(かつらがは)を渡しつる時の合戦に、逃(にぐ)る敵を追立(おつたて)て、跡(あと)に続く御方(みかた)の無(なき)をも不知、只主従(しゆじゆう)六騎にて、竹田(たけだ)を上(のぼ)りに、法性寺大路(ほふしやうじのおほち)へ懸通(かけとほり)、六条河原(ろくでうかはら)へ打出(うちいで)て、六波羅(ろくはら)の館(たち)へ懸入(かけいら)んとぞ待(まつ)たりける。東寺(とうじ)より寄(よせ)つる御方(みかた)、早(はや)打負(うちまけ)て引返(ひきかへ)しけりと覚(おぼえ)て、東西(とうざい)南北に敵より外(ほか)はなし。さらば且(しばら)く敵に紛(まぎれ)てや御方(みかた)を待つと、六騎の人々皆笠符(かさじるし)をかなぐり捨(すて)て、一所(いつしよ)に扣(ひか)へたる処に、隅田(すだ)・高橋打廻(うちまはつ)て、「如何様(いかさま)赤松が勢共(せいども)、尚御方(みかた)に紛(まぎれ)て此(この)中に在(あり)と覚(おぼゆ)るぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物具(もののぐ)のぬれぬは不可有。其(それ)を験(しる)しにして組討(くみうち)に打て。」と呼(よばは)りける間、貞範(さだのり)も則祐(そくいう)も中々(なかなか)敵に紛(まぎ)れんとせば悪(あし)かりぬべしとて、兄弟・郎等僅(わづか)六騎轡(くつばみ)を双(なら)べわつと呼(をめい)て敵二千騎(にせんぎ)が中(なか)へ懸入(かけい)り、此(ここ)に名乗(なのり)彼(かしこ)に紛(まぎれ)て相戦(あひたたかひ)けり。 敵是程(これほど)に小勢(こぜい)なるべしとは可思寄事ならねば、東西南北に入乱(いりみだれ)て、同士打(どしうち)をする事数刻(すごく)也(なり)。大敵を謀(はか)るに勢(いきほ)ひ久(ひさし)からざれば、郎等(らうどう)四騎皆所々(しよしよ)にて被討ぬ。筑前(ちくぜんの)守(かみ)は被押隔ぬ。則祐(そくいう)は只一騎に成(なつ)て、七条を西へ大宮(おほみや)を下(くだ)りに落行(おちゆき)ける所に、印具(いぐの)尾張(をはりの)守(かみ)が郎従(らうじゆう)八騎追懸(おつかけ)て、「敵ながらも優(やさし)く覚へ候者(もの)哉(かな)。誰人(たれひと)にてをはするぞ。御名乗(なのり)候へ。」と云(いひ)ければ、則祐(そくいう)馬を閑(しづか)に打(うつ)て、「身(み)不肖(ふせう)に候へば、名乗申(なのりまうす)とも不可有御存知候。只頚(くび)を取(とつ)て人に被見候へ。」と云侭(いふまま)に、敵近付(ちかづけ)ば返合(かへしあはせ)、敵引(ひけ)ば馬を歩(あゆま)せ、二十(にじふ)余町(よちやう)が間、敵八騎と打連(うちつれ)て心閑(しづか)にぞ落行(おちゆき)ける。 |
|
西八条の寺の前(まへ)を南へ打出(うちいで)ければ、信濃(しなのの)守(かみ)貞範(さだのり)三百(さんびやく)余騎(よき)、羅城門(らしやうもん)の前なる水の潺(せぜら)きに、馬の足を冷(ひや)して、敗軍(はいぐん)の兵を集(あつめ)んと、旗打立(うちたて)て引(ひか)へたり。則祐(そくいう)是(これ)を見付(みつけ)て、諸鐙(もろあぶみ)を合(あはせ)て馳入(はせいり)ければ、追懸(おつかけ)つる八騎の敵共(てきども)、「善き敵と見つる物を、遂(つひ)に打漏(うちもら)しぬる事の不安さよ。」と云(いふ)声(こゑ)聞へて、馬の鼻を引返(ききかへ)しける。暫(しばら)く有れば、七条河原(しちでうがはら)・西朱雀(にししゆじやか)にて被懸散たる兵共(つはものども)、此彼(ここかしこ)より馳集(はせあつまつ)て、又千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。 赤松其(その)兵を東西の小路(こうぢ)より進ませ、七条辺(へん)にて、又時(とき)の声を揚げ(あげ)たりければ、六波羅勢(ろくはらぜい)七千余騎(よき)、六条(ろくでうの)院(ゐん)を後(うしろ)に当(あ)て、追(おつ)つ返(かへし)つ二時許(ふたときばかり)ぞ責合(せめあひ)たる。角(かく)ては軍(いくさ)の勝負(しようぶ)いつ有(ある)べしとも覚へざりける処に、河野(かうの)と陶山(すやま)とが勢五百(ごひやく)余騎(よき)、大宮(おほみや)を下(くだ)りに打(うつ)て出(いで)、後(うしろ)を裹(つつま)んと廻(まは)りける勢に、後陣を被破て、寄手(よせて)若干(そくばく)討(うた)れにければ、赤松わづかの勢に成(なつ)て、山崎を指(さし)て引返(ひつかへ)しけり。河野(かうの)・陶山(すやま)勝(かつ)に乗(のつ)て、作道(つくりみち)の辺(へん)まで追駈(おつかけ)けるが、赤松動(ややも)すれば、取(とつ)て返さんとする勢(いきほひ)を見て、「軍(いくさ)は是(これ)までぞ、さのみ長追(ながおひ)なせそ。」とて、鳥羽殿(とばどの)の前より引返し、虜(いけどり)二十(にじふ)余人(よにん)、首(くび)七十三(しちじふさん)取(とつ)て、鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、朱(あけ)に成(なつ)て六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)参る。 |
|
主上は御簾(ぎよれん)を捲(まか)せて叡覧(えいらん)あり。両六波羅(りやうろくはら)は敷皮(しきかは)に坐(ざ)して、是(これ)を検知(けんち)す。「両人の振舞(ふるまひ)いつもの事なれ共(ども)、殊更(ことさら)今夜(こよひ)の合戦に、旁(かたがた)手を下(くだ)し命(いのち)を捨(すて)給はずば、叶(かなふ)まじとこそ見へて候(さふらひ)つれ。」と、再三(さいさん)感じて被賞翫。其夜(そのよ)軈(やが)て臨時の宣下(せんげ)有(あつ)て、河野(かうのの)九郎をば対馬(つしまの)守(かみ)に被成て御剣(ぎよけん)を被下、陶山(すやまの)二郎をば備中(びつちゆうの)守(かみ)に被成て、寮(れう)の御馬(おんむま)を被下ければ、是(これ)を見聞(みきく)武士(ぶし)、「あはれ弓矢の面目(めんぼく)や。」と、或(あるひ)は羨(うらや)み或(あるひ)は猜(そねん)で、其(その)名天下に被知たり。 軍(いくさ)散(さん)じて翌日(よくじつ)に、隅田(すだ)・高橋京中を馳廻(はせまはつ)て、此彼(ここかしこ)の堀(ほり)・溝(みぞ)に倒れ居たる手負死人(ておひしにん)の頚共(くびども)を取集(とりあつめ)て、六条川原(ろくでうかはら)に懸並(かけならべ)たるに、其数(そのかず)八百七十三(はつぴやくしちじふさん)あり。敵是(これ)まで多く被討ざれども、軍(いくさ)もせぬ六波羅勢(ろくはらぜい)ども、「我れ高名(かうみやう)したり。」と云(いは)んとて、洛中(らくちゆう)・辺土(へんど)の在家人(ざいけにん)なんどの頚(くび)仮首(かりくび)にして、様々(さまざま)の名を書付(かきつけ)て出(いだ)したりける頚共(くびども)也(なり)。其(その)中に赤松入道円心(ゑんしん)と、札(ふだ)を付(つけ)たる首(くび)五(いつつ)あり。何(いづ)れも見知(みしり)たる人無(なけ)れば、同じやうにぞ懸(かけ)たりける。京童部(きやうわらんべ)是(これ)を見て、「頚を借(かり)たる人、利子(りこ)を付(つけ)て可返。赤松入道分身(ぶんしん)して、敵の尽(つき)ぬ相(さう)なるべし。」と、口々にこそ笑ひけれ。 |
|
■禁裡仙洞(きんりせんとう)御修法(みしほの)事(こと)付山崎(やまざき)合戦(かつせんの)事(こと)
此比(このころ)四海(しかい)大(おほき)に乱(みだれ)て、兵火(ひやうくわ)天を掠(かす)めり。聖主■(い)を負(おう)て、春秋無安時、武臣矛(ほこ)を建(たて)て、旌旗(せいき)無閑日。是(これ)以法威逆臣(ぎやくしん)を不鎮ば、静謐(せいひつ)其期(そのご)不可有とて、諸寺諸社(しよじしよしや)に課(おほせ)て、大法(だいほふ)秘法をぞ被修ける。梶井宮(かぢゐのみや)は、聖主(せいしゆ)の連枝(れんし)、山門(さんもん)の座主(ざす)にて御坐(おはしま)しければ、禁裏(きんり)に壇(だん)を立(たて)て、仏眼(ぶつげん)の法を行(おこなは)せ給ふ。裏辻(うらつじ)の慈什(じじふ)僧正は、仙洞(せんとう)にて薬師(やくし)の法を行はる。武家又山門・南都(なんと)・園城寺(をんじやうじ)の衆徒(しゆと)の心を取(とり)、霊鑑(れいかん)の加護(かご)を仰(あふ)がん為に、所々(しよしよ)の庄園(しやうゑん)を寄進(きしん)し、種々の神宝(しんはう)を献(たてまつつ)て、祈祷を被致しか共(ども)、公家(くげ)の政道不正、武家の積悪(せきあく)禍(わざはひ)を招(まね)きしかば、祈(いのる)共(とも)神(しん)不享非礼、語(かたら)へども人不耽利欲にや、只日(ひ)を逐(おつ)て、国々より急を告(つぐ)る事隙(ひま)無(なか)りけり。 去(さる)三月十二日の合戦に赤松打負(うちまけ)て、山崎を指(さし)て落行(おちゆき)しを、頓(やが)て追懸(おつかけ)て討手をだに下(くだ)したらば、敵足をたむまじかりしを、今は何事か可有とて被油断しに依(よつ)て、敗軍(はいぐん)の兵(つはもの)此彼(ここかしこ)より馳集(はせあつまつ)て、無程大勢に成(なり)ければ、赤松、中院(なかのゐん)の中将(ちゆうじやう)貞能(さだよし)を取立(とりたて)て聖護院(しやうごゐん)の宮(みや)と号し、山崎・八幡(やはた)に陣を取(とり)、河尻(かはじり)を差塞(さしふさ)ぎ西国往反(わうへん)の道を打止(うちとど)む。依之(これによつて)洛中の商買(しやうばい)止(とどまつ)て士卒(じそつ)皆転漕(てんさう)の助(たすけ)に苦(くるし)めり。両六波羅(りやうろくはら)聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦(くるしむ)る事こそ安からね。去(さる)十二日の合戦の体(てい)を見るに、敵さまで大勢にても無(なか)りける物を、無云甲斐聞懼(ききおぢ)して敵を辺境(へんきやう)の間に閣(さしおく)こそ、武家後代(こうだい)の恥辱(ちじよく)なれ、所詮(しよせん)於今度は官軍(くわんぐん)遮(さへぎつ)て敵陣に押寄(おしよせ)、八幡(やはた)・山崎の両陣を責落(せめおと)し、賊徒(ぞくと)を河に追(おつ)はめ、其首(そのくび)を取(とつ)て六条河原(ろくでうかはら)に可曝。」と被下知ければ、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならびに)在京人、其(その)勢五千(ごせん)余騎(よき)、五条河原(かはら)に勢揃(せいぞろへ)して、三月十五日の卯刻(うのこく)に、山崎へとぞ向ひける。 此(この)勢始(はじめ)は二手に分けたりけるを、久我縄手(こがなはて)は、路細く深田(ふかた)なれば馬の懸引(かけひき)も自在なるまじとて、八条より一手に成(なり)、桂河(かつらがは)を渡り、河嶋(かうしま)の南を経(へ)て、物集女(もずめ)・大原野(おほはらの)の前よりぞ寄(よせ)たりける。赤松是(これ)を聞(きい)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を三手に分つ。一手には足軽(あしがる)の射手(いて)を勝(すぐつ)て五百(ごひやく)余人(よにん)小塩山(をしほやま)へ廻(まは)す。一手をば野伏(のぶし)に騎馬(きば)の兵を少々交(まじへ)て千(せん)余人(よにん)、狐河(きつねがは)の辺(へん)に引(ひか)へさす。 |
|
一手をば混(ひた)すら打物(うちもの)の衆(しゆ)八百(はつぴやく)余騎(よき)を汰(そろへ)て、向日明神(むかふのみやうじん)の後(うしろ)なる松原の陰(かげ)に隠置(かくしお)く。六波羅勢(ろくはらぜい)、敵此(これ)まで可出合とは不思寄、そゞろに深入(ふかいり)して、寺戸(てらど)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、先懸(さきがけ)既(すで)に向日明神(むかふのみやうじん)の前を打過(うちすぎ)ける処に、善峯(よしみね)・岩蔵(いはくら)の上より、足軽(あしがる)の射手(いて)一枚楯(いちまいたて)手々(てんで)に提(ひつさげ)て麓にをり下(さがり)て散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)の兵共(つはものども)是(これ)を見て、馬の鼻を双(ならべ)て懸散(かけちら)さんとすれば、山嶮(けはしう)して不上得、広(ひろ)みに帯(おび)き出して打(うた)んとすれば、敵是(これ)を心得て不懸。「よしや人々、はか/゛\しからぬ野伏共(のぶしども)に目を懸(かけ)て、骨を折(をり)ては何かせん。此(ここ)をば打捨(うちすて)て山崎へ打通(うちとほ)れ。」と議(ぎ)して、西岡(にしのをか)を南へ打過(うちすぐ)る処に、坊城(ばうじやう)左衛門五十(ごじふ)余騎(よき)にて、思(おもひ)もよらぬ向日明神(むかふのみやうじん)の小松原(こまつはら)より懸出(かけいで)て、大勢の中(なか)へ切(きつ)て入(いる)。 敵を小勢(こぜい)と侮(あなどつ)て、真中(まんなか)に取篭(とりこめ)て、余さじと戦ふ処に、田中・小寺・八木(やぎ)・神沢(かんざは)此彼(ここかしこ)より百騎二百騎、思々(おもひおもひ)に懸出(かけいで)て、魚鱗(ぎよりん)に進み鶴翼(かくよく)に囲(かこま)んとす。是(これ)を見て狐河に引(ひか)へたる勢五百(ごひやく)余騎(よき)、六波羅勢(ろくはらぜい)の跡(あと)を切らんと、縄手(なはて)を伝(つた)ひ道を要(よこぎつ)て打廻(うちまは)るを見て、京勢叶はじとや思(おもひ)けん、捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引返す。片時(へんし)の戦也(なり)ければ、京勢多く被打たる事は無けれ共(ども)、堀(ほり)・溝(みぞ)・深田(ふかた)に落入(おちいつ)て、馬物具(もののぐ)皆取所(とるところ)もなく膩(よごれ)たれば、白昼(はくちう)に京中を打通(うちとほ)るに、見物しける人毎(ごと)に、「哀(あは)れ、さりとも陶山(すやま)・河野(かうの)を被向たらば、是程(これほど)にきたなき負(まけ)はせじ物を。」と、笑はぬ人もなかりけり。去(され)ば京勢此度(このたび)打負(うちまけ)て、向はで京に被残たる河野(かうの)と陶山(すやま)が手柄(てがら)の程、いとゞ名高く成(なり)にけり。 |
|
■山徒(ざんと)寄京都事
京都に合戦始(はじま)りて、官軍(くわんぐん)動(ややも)すれば利(り)を失(うしな)ふ由(よし)、其(その)聞へ有(あり)しかば、大塔宮(おほたふのみや)より牒使(てふし)を被立て、山門の衆徒(しゆと)をぞ被語ける。依之(これによつて)三月二十六日(にじふろくにちに)一山(いつさん)の衆徒(しゆと)大講堂の庭に会合して、「夫吾山者為七社応化之霊地、作百王鎮護之藩籬。高祖(かうそ)大師占開基之始、止観窓前雖弄天真独朗之夜月、慈恵僧正為貫頂之後、忍辱衣上忽帯魔障降伏之秋霜。尓来妖■(えうげつ)見天、則振法威而攘退之。逆暴乱国、則借神力而退之。肆神号山王。須有非三非一之深理矣。山言比叡。所以仏法王法之相比焉。而今四海(しかい)方乱、一人不安。武臣積悪之余、果天将下誅。其先兆非無賢愚。共所世知也(なり)。王事毋■(もろいことなし)。釈門仮使雖為出塵之徒、此時奈何無尽報国之忠。早翻武家合体之前非宜専朝廷扶危之忠胆矣。」と僉議(せんぎ)しければ、三千(さんぜん)一同に尤々(もつとももつとも)と同(どう)じて院々谷々(ゐんゐんたにたに)へ帰り、則(すなはち)武家追討(つゐたう)の企(くはだて)の外(ほか)無他事。山門、已(すで)に来(きたる)二十八日六波羅(ろくはら)へ可寄と定(さだめ)ければ、末寺(まつじ)・末社(まつしや)の輩(ともがら)は不及申、所縁(しよえん)に随(したがつ)て近国の兵馳集(はせあつま)る事雲霞(うんか)の如く也(なり)。 二十七日(にじふしちにち)大宮(おほみや)の前にて着到(ちやくたう)を付(つけ)けるに、十万六千余騎(よき)と注(ちゆう)せり。大衆(だいしゆ)の習(ならひ)、大早(おほはやり)無極所存なれば、此(この)勢京へ寄(よせ)たらんに、六波羅(ろくはら)よも一たまりもたまらじ、聞落(ききおち)にぞせんずらんと思侮(おもひあなどつ)て、八幡(やはた)・山崎の御方(みかた)にも不牒合して、二十八日の卯刻(うのこく)に、法勝寺(ほつしようじ)にて勢撰(せいぞろ)へ可有と触(ふれ)たりければ、物具(もののぐ)をもせず、兵粮(ひやうらう)をも未だつかはで、或(あるひは)今路(いまみち)より向ひ、或(あるひ)は西坂(にしざか)よりぞをり下(くだ)る。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を聞(きい)て、思(おもふ)に、山徒(さんと)縦(たとひ)雖大勢、騎馬の兵(つはもの)一人も不可有。此方(こなた)には馬上(ばじやう)の射手(いて)を撰(そろ)へて、三条河原(さんでうがはら)に待受(まちう)けさせて、懸開懸合(かけひらきかけあは)せ、弓手(ゆんで)・妻手(めて)に着(つけ)て追物射(おふものい)に射たらんずるに、山徒(さんと)心は雖武、歩立(かちだち)に力疲(つか)れ、重鎧(おもよろひ)に肩を被引、片時(へんし)が間(ま)に疲(つか)るべし。 |
|
是(これ)以小砕大、以弱拉剛行(てだて)也(なり)。とて、七千余騎(よき)を七手に分(わけ)て、三条河原(さんでうがはら)の東西に陣を取(とつ)てぞ待懸(まちかけ)たる。大衆斯(かか)るべしとは思(おもひ)もよらず、我前(われさき)に京へ入(いつ)てよからんずる宿(やど)をも取(とり)、財宝(ざいはう)をも管領(くわんりやう)せんと志(こころざし)て、宿札共(やどふだども)を面々(めんめん)に二三十づゝ持(もた)せて、先(まづ)法勝寺(ほつしようじ)へぞ集りける。其(その)勢を見渡せば、今路(いまみち)・西坂(にしざか)・古塔下(ふるたふげ)・八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・下松(さがりまつ)・赤山口(せきさんぐち)に支(ささへ)て、前陣已(すで)に法勝寺・真如堂(しんによだう)に付(つけ)ば後陣(ごぢん)は未(いまだ)山上・坂本(さかもと)に充満(みちみち)たり。甲冑(かつちう)に映(えい)ぜる朝日は、電光(でんくわう)の激(げき)するに不異。旌旗(せいき)を靡(なび)かす山風は、竜蛇(りようじや)の動くに相似(あひに)たり。 山上(さんじやう)と洛中(らくちゆう)との勢の多少を見合(みあは)するに、武家の勢(せい)は十にして其(その)一にも不及。「げにも此(この)勢にては輒(たやす)くこそ。」と、六波羅(ろくはら)を直下(みおろし)ける山法師(やまほふし)の心の程を思へば、大様(おほやう)ながらも理(ことわり)也(なり)。去程(さるほど)に前陣の大衆且(しばら)く法勝寺(ほつしようじ)に付(つい)て後陣の勢を待(まち)ける処へ、六波羅勢(ろくはらぜい)七千余騎(よき)三方(さんぱう)より押寄(おしよせ)て時(とき)をどつと作る。大衆時の声に驚(おどろい)て、物具太刀(もののぐたち)よ長刀(なぎなた)よとひしめいて取(とる)物も不取敢、僅(わづか)に千人許(ばかり)にて法勝寺の西門(さいもん)の前に出合(いであひ)、近付く敵に抜(ぬい)て懸(かか)る。武士(ぶし)は兼(かね)てより巧(たく)みたる事なれば、敵の懸(かか)る時は馬を引返(ひきかへし)てばつと引き、敵留(とどま)れば開合(ひらきあは)せて後(うしろ)へ懸廻(かけまは)る。如此六七度が程懸悩(かけなや)ましける間、山徒(さんと)は皆歩立(かちだち)の上(うへ)、重鎧(おもよろひ)に肩を被推て、次第に疲(つかれ)たる体(てい)にぞ見へける。武士は是(これ)に利(り)を得て、射手(いて)を撰(そろへ)て散々(さんざん)に射る。 |
|
大衆是(これ)に射立(いたて)られて、平場(ひらば)の合戦叶はじとや思(おもひ)けん、又法勝寺(ほつしようじ)の中へ引篭(ひきこも)らんとしける処を、丹波(たんばの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)佐治(さちの)孫五郎と云(いひ)ける兵(つはもの)、西門の前に馬を横たへ、其比(そのころ)会(かつ)てなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵(てき)三人(さんにん)不懸筒切(どうぎつ)て、太刀の少(すこし)仰(のつ)たるを門(もん)の扉(とびら)に当(あて)て推直(おしなほ)し、猶も敵を相待(あひまつ)て、西頭(にしがしら)に馬をぞ扣(ひかへ)たる。山徒(さんと)是(これ)を見て、其勢(そのいきほひ)にや辟易(へきえき)しけん。又法勝寺にも敵有(あり)とや思(おもひ)けん。法勝寺へ不入得、西門の前を北へ向(むかつ)て、真如堂(しんによだう)の前神楽岡(かぐらをか)の後(うしろ)を二(ふたつ)に分れて、只山上(さんじやう)へとのみ引返しける。 爰(ここ)に東塔(とうだふ)の南谷(みなみだに)善智房(ぜんちばう)の同宿(どうじゆく)に豪鑒(がうかん)・豪仙(がうせん)とて、三塔(さんたふ)名誉(めいよ)の悪僧(あくそう)あり。御方(みかた)の大勢に被引立て、不心北白河(きたしらかは)を指(さし)て引(ひき)けるが、豪鑒豪仙(がうかんがうせん)を呼留(よびとめ)て、「軍(いくさ)の習(ならひ)として、勝(かつ)時もあり負(まくる)時もあり、時の運による事なれば恥(はぢ)にて不恥。雖然今日の合戦の体(てい)、山門(さんもん)の恥辱(ちじよく)天下の嘲哢(てうろう)たるべし。いざや御辺(ごへん)、相共(あひとも)に返(かへ)し合(あはせ)て打死(うちじに)し、二人(ににん)が命(いのち)を捨(すて)て三塔(さんたふ)の恥を雪(きよ)めん。」と云(いひ)ければ、豪仙、「云(いふ)にや及ぶ、尤(もつと)も庶幾(そき)する所也(なり)。」と云(いつ)て、二人(ににん)蹈留(ふみとどまつ)て法勝寺の北の門の前に立並(たちなら)び、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「是程(これほど)に引立(ひきたつ)たる大勢の中より、只二人(ににん)返(かへ)し合(あは)するを以て三塔(さんたふ)一の剛(がう)の者とは可知。 |
|
其(その)名をば定(さだ)めて聞及(ききおよび)ぬらん、東塔(とうだふ)の南谷(みなみだに)善智坊(ぜんちばう)の同宿(どうじゆく)に、豪鑒・豪仙とて一山(いつさん)に名を知られたる者共(ものども)也(なり)。我(われ)と思はん武士共(ぶしども)、よれや、打物(うちもの)して、自余(じよ)の輩(ともがら)に見物せさせん。」と云侭(いふまま)に、四尺余(あまり)の大長刀(おほなぎなた)水車(みづぐるま)に廻(まは)して、跳懸(をどりかかり)々々(をどりかかり)火を散(ちら)してぞ切(きつ)たりける。是(これ)を打取(うちと)らんと相近付(あひちかづ)ける武士共(ぶしども)、多く馬の足を被薙、冑(かぶと)の鉢を被破て被討にけり。 彼等(かれら)二人(ににん)、此(ここ)に半時許(はんじばかり)支(ささ)へて戦(たたかひ)けれ共(ども)、続く大衆一人もなし。敵雨の降る如くに射ける矢に、二人(ににん)ながら十(じふ)余箇所(よかしよ)疵(きず)を蒙(かうむ)りければ、「今は所存(しよぞん)是(これ)までぞ。いざや冥途(めいど)まで同道(どうだう)せん。」と契(ちぎり)て、鎧(よろひ)脱捨(ぬぎすて)押裸脱(おしはだぬぎ)、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、同じ枕にこそ伏(ふし)たりけれ。是(これ)を見る武士共(ぶしども)、「あはれ日本一(につぽんいち)の剛(がう)の者共(ものども)哉(かな)。」と、惜(をし)まぬ人も無(なか)りけり。前陣の軍(いくさ)破(やぶ)れて引返しければ、後陣(ごじん)の大勢は軍場(いくさば)をだに不見して、道より山門へ引返す。只豪鑒(がうかん)・豪仙(がうせん)二人(ににん)が振舞にこそ、山門の名をば揚(あげ)たりけれ。 |
|
■四月三日合戦(かつせんの)事(こと)付妻鹿(めが)孫三郎(まごさぶらう)勇力(ゆうりよくの)事(こと)
去月(きよげつ)十二日赤松合戦無利して引退(ひきしりぞき)し後(のち)は、武家常に勝(かつ)に乗(のつ)て、敵(てき)を討(うつ)事(こと)数千人(すせんにん)也(なり)。といへども、四海(しかい)未静(いまだしづかならず)、剰(あまつさへ)山門又武家に敵(てき)して、大岳(おほだけ)に篝火(かがりび)を焼(た)き、坂本(さかもと)に勢を集めて、尚(なほ)も六波羅(ろくはら)へ可寄と聞へければ、衆徒(しゆと)の心を取らん為に、武家より大庄(たいしやう)十三箇所(じふさんかしよ)、山門へ寄進(きしん)す。其外(そのほか)宗徒(むねと)の衆徒(しゆと)に、便宜(びんぎ)の地を一二箇所(いちにかしよ)充(づつ)祈祷(きたう)の為とて恩賞を被行ける。さてこそ山門の衆議(しゆぎ)心心に成(なつ)て武家に心を寄する衆徒も多く出来(いでき)にければ、八幡(やはた)・山崎(やまざき)の官軍(くわんぐん)は、先度(せんど)京都の合戦に、或(あるひは)被討、或(あるひは)疵(きず)を蒙(かうむ)る者多かりければ、其(その)勢太半(たいはん)減じて今は僅(わづか)に、一万騎(いちまんぎ)に足(た)らざりけり。 去(され)ども武家の軍立(いくさだち)、京都の形勢(ありさま)恐るゝに不足と見透(みすか)してげれば、七千余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、四月三日の卯刻(うのこく)に、又京都へ押寄(おしよ)せたり。其(その)一方には、殿法印(とののほふいん)良忠(りやうちゆう)・中院(なかのゐんの)定平(さだひら)を両大将として、伊東・松田・頓宮(とんぐう)・富田(とんだの)判官が一党(いつたう)、並(ならびに)真木(まき)・葛葉(くずは)の溢(あふ)れ者共(ものども)を加へて其(その)勢都合(つがふ)三千(さんぜん)余騎(よき)、伏見(ふしみ)・木幡(こばた)に火を懸(かけ)て、鳥羽(とば)・竹田(たけだ)より推寄(おしよ)する。 |
|
又一方には、赤松入道円心(ゑんしん)を始(はじめ)として、宇野・柏原(かしはばら)・佐用(さよ)・真嶋(ましま)・得平(とくひら)・衣笠(きぬがさ)、菅家(くわんけ)の一党(いつたう)都合(つがふ)其(その)勢三千五百(さんぜんごひやく)余騎(よき)、河嶋(かうしま)・桂(かつら)の里に火を懸(かけ)て、西の七条よりぞ寄(よせ)たりける。両六波羅(りやうろくはら)は、度々(どど)の合戦に打勝(うちかつ)て兵皆気を挙(あげ)ける上、其(その)勢を算(かぞ)ふるに、三万騎(さんまんぎ)に余(あま)りける間、敵已(すで)に近付(ちかづき)ぬと告(つげ)けれ共(ども)、仰天(ぎやうてん)の気色(けしき)もなし。六条河原(ろくでうかはら)に勢汰(せいぞろへ)して閑(しづか)に手分(てわけ)をぞせられける。 山門(さんもん)今は武家に志(こころざし)を通(つう)ずといへども、又如何なる野心(やしん)をか存(そん)ずらん。非可油断とて、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時朝(ときとも)・長井縫殿(ぬひ)秀正(ひでまさ)に三千(さんぜん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、糾河原(ただすかはら)へ被向。去月(きよげつ)十二日の合戦も、其(その)方より勝(かつ)たりしかば吉例(きちれい)也(なり)。とて、河野(かうの)と陶山(すやま)とに五千騎(ごせんぎ)を相副(あひそへ)て法性寺大路(ほふしやうじおほち)へ被差向。富樫(とがし)・林(はやし)が一族(いちぞく)・島津(しまづ)・小早河(こばいかは)が両勢に、国々の兵六千余騎(よき)を相副(あひそへ)て、八条東寺辺(とうじへん)へ被指向。厚東(こうとう)加賀(かがの)守(かみ)・加治(かぢの)源太左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・隅田(すだ)・高橋・糟谷(かすや)・土屋(つちや)・小笠原(をがさはら)に七千余騎(よき)を相副(あひそへ)て、西七条口へ被向。自余(じよ)の兵千(せん)余騎(よき)をば悪手(あくて)の為に残して、未(いまだ)六波羅(ろくはら)に並居(なみゐ)たり。 |
|
其(その)日の巳刻(みのこく)より、三方(さんぱう)ながら同時に軍(いくさ)始(はじまつ)て、入替々々(いれかへいれかへ)責戦(せめたたか)ふ。寄手(よせて)は騎馬の兵少(すくなく)して、歩立(かちだち)射手(いて)多ければ、小路々々(こうぢこうぢ)を塞(ふさ)ぎ、鏃(やじり)を調(そろへ)て散々(さんざん)に射る。六波羅勢(ろくはらぜい)は歩立(かちだち)は少(すくなく)して、騎馬の兵多ければ、懸違々々(かけちがひかけちがひ)敵を中(なか)に篭(こ)めんとす。孫子(そんし)が千反(せんぺん)の謀(はかりごと)、呉氏(ごし)が八陣の法、互(たがひ)に知(しり)たる道なれば、共に不被破不被囲、只命(いのち)を際(きは)の戦(たたかひ)にて更に勝負(しようぶ)も無(なか)りけり。終日(ひねもす)戦(たたかつ)て已(すで)に夕陽(せきやう)に及びける時、河野(かうの)と陶山(すやま)と一手に成(なつ)て、三百(さんびやく)余騎(よき)轡(くつばみ)を双(なら)べて懸(かけ)たりけるに、木幡(こはた)の寄手(よせて)足をもためず被懸立て、宇治路(うぢぢ)を指(さし)て引退く。 陶山(すやま)・河野(かうの)、逃(にぐ)る敵をば打捨(うちすて)て、竹田(たけだ)河原(かはら)を直違(すぢかひ)に、鳥羽殿(とばどの)の北の門を打廻(うちまは)り、作道(つくりみち)へ懸出(かけいで)て、東寺の前なる寄手(よせて)を取篭(とりこ)めんとす。作道(つくりみち)十八町に充満(じゆうまん)したる寄手(よせて)是(これ)を見て、叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、羅城門(らしやうもん)の西を横切(よこぎり)に、寺戸(てらど)を指(さし)て引返す。小早河(こばいかは)は島津安芸(あきの)前司(ぜんじ)とは東寺の敵に向(むかつ)て、追(おつ)つ返(かへし)つ戦(たたかひ)けるが、己(おの)が陣の敵を河野(かうの)と陶山(すやま)とに被払て、身方(みかた)の負(まけ)をしつる事よと無念に思ひければ、「西の七条へ寄せつる敵に逢(あう)て、花やかなる一軍(ひといくさ)せん。」と云(いつ)て、西八条を上(のぼ)りに、西朱雀(にししゆじやか)へぞ出(いで)たりける。此(ここ)に赤松入道、究竟(くきやう)の兵を勝(すぐつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)にて引(ひか)へたりければ、無左右可破様(やう)も無(なか)りなり。されども嶋津・小早河(こばいかは)が横合(よこあひ)に懸(かか)るを見て、戦ひ疲(つか)れたる六波羅勢(ろくはらぜい)力を得て三方(さんぱう)より攻合(せめあは)せける間、赤松が勢、忽(たちまち)に開靡(ひらきなびい)て三所に引(ひか)へたり。爰(ここ)に赤松が勢の中より兵四人進み出(いで)て、数千騎(すせんぎ)引(ひか)へたる敵の中(なか)へ無是非打懸(うつてかか)りけり。其勢(そのいきほひ)決然(けつぜん)として恰(あたかも)樊噌(はんくわい)・項羽(かうう)が忿(いか)れる形(かたち)にも過(すぎ)たり。 |
|
近付(ちかづく)に随(したがつ)て是(これ)を見れば長(たけ)七尺許(ばかり)なる男(をとこ)の、髭(ひげ)両方へ生(お)ひ分(わかれ)て、眥(まなじり)逆(さましま)に裂(さけ)たるが、鎖(くさり)の上(うへ)に鎧(よろひ)を重(かさね)て着(き)、大立挙(おほたてあげ)の臑当(すねあて)に膝鎧(ひざよろひ)懸(かけ)て、竜頭(たつがしら)の冑(かぶと)猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、五尺余(あま)りの太刀を帯(は)き、八尺余のかなさい棒(ぼう)の八角(はつかく)なるを、手本(てもと)二尺許(ばかり)円(まる)めて、誠(まこと)に軽(かろ)げに提(ひつさ)げたり。数千騎(すせんぎ)扣(ひか)へたる六波羅勢(ろくはらぜい)、彼等(かれら)四人が有様を見て、未(いまだ)戦(たたかはざる)先(さき)に三方(さんぱう)へ分れて引退く。 敵を招(まねい)て彼等四人、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)頓宮(とんぐう)又次郎入道・子息(しそく)孫三郎(まごさぶらう)・田中藤(とう)九郎盛兼(もりかぬ)・同舎弟(おなじきしやてい)弥九郎盛泰(もりやす)と云(いふ)者也(なり)。我等(われら)父子(ふし)兄弟、少年の昔より勅勘武敵(ちよくかんぶてき)の身と成りし間、山賊(さんぞく)を業(げふ)として一生(いつしやう)を楽(たのし)めり。然(しかる)に今幸(さいはひ)に此乱(このらん)出来(しゆつたい)して、忝(かたじけな)くも万乗(ばんじよう)の君の御方(みかた)に参(さん)ず。然(しかる)を先度(せんど)の合戦、指(さし)たる軍(いくさ)もせで御方(みかた)の負(まけ)したりし事(こと)、我等(われら)が恥(はぢ)と存(ぞん)ずる間、今日に於ては縦(たとひ)御方(みかた)負(まけ)て引(ひく)とも引(ひく)まじ、敵強くとも其(それ)にもよるまじ、敵の中(なか)を破(はつ)て通(とほ)り六波羅殿(ろくはらどの)に直(ぢき)に対面(たいめん)申さんと存ずるなり。」と、広言(くわうげん)吐(はい)て二王立(にわうだち)にぞ立(たつ)たりける。 島津安芸(あきの)前司(ぜんじ)是(これ)を聞(きい)て、子息(しそく)二人(ににん)手(て)の者共(ものども)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「日比(ひごろ)聞及(ききおよび)し西国(さいこく)一の大力(だいりき)とは是(これ)なり。彼等を討たん事大勢にては叶(かなふ)まじ。御辺達(ごへんたち)は且(しばら)く外に引(ひか)へて自余(じよ)の敵に可戦。我等(われら)父子(ふし)三人(さんにん)相近付(あひちかづい)て、進(すすん)づ退(しりぞい)つ且(しばら)く悩(なやま)したらんに、などか是(これ)を討たざらん。縦(たとひ)力(ちから)こそ強くとも、身に矢の立(たた)ぬ事不可有。縦(たとひ)走る事早くとも、馬にはよも追(おつ)つかじ。多年稽古(けいこ)の犬笠懸(いぬかさがけ)、今の用に不立ばいつをか可期。いで/\不思議(ふしぎ)の一軍(ひといくさ)して人に見せん。」と云侭(いふまま)に、唯三騎打(うち)ぬけて四人の敵に相近付(あひちかづ)く。 |
|
田中藤九郎是(これ)を見て、「其(その)名はいまだ知らねども、猛(たけ)くも思へる志(こころざし)かな、同(おなじく)は御辺(ごへん)を生虜(いけどつ)て、御方(みかた)に成(なし)て軍(いくさ)せさせん。」とあざ笑(わらう)て、件(くだん)の金棒(かなぼう)を打振(うちふつ)て、閑(しづか)に歩(あゆ)み近付く。島津も馬を静々(しづしづ)と歩(あゆ)ませ寄(より)て、矢比(やごろ)に成(なり)ければ、先(まづ)安芸(あきの)前司(ぜんじ)、三人張(さんにんばり)に十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、且(しば)し堅めて丁(ちやう)と放つ。其(その)矢あやまたず、田中が石の頬前(ほうさき)を冑(かぶと)の菱縫(ひしぬひ)の板(いた)へ懸(かけ)て、篦中許(のなかばかり)射通(いとほ)したりける間、急所の痛手(いたて)に弱りて、さしもの大力(だいりき)なれども、目くれて更に進み不得。舎弟(しやていの)弥九郎走寄(はしりよ)り、其(その)矢を抜(ぬい)て打捨(うちすて)、「君の御敵(おんてき)は六波羅(ろくはら)也(なり)。兄(あに)の敵は御辺(ごへん)也(なり)。余(あま)すまじ。」と云侭(いふまま)に、兄が金棒(かなぼう)をゝつ取振(とりふつ)て懸(かか)れば、頓宮(とんぐう)父子(ふし)各五尺二寸の太刀を引側(ひきそば)めて、小躍(こをどり)して続(つづ)ひたり。 嶋津元(もと)より物馴(ものなれ)たる馬上(ばじやう)の達者(たつしや)矢継早(やつぎはや)の手きゝなれば、少(すこし)も不騒、田中進(すすん)で懸(かか)れば、あいの鞭(むち)を打(うつ)て、押(おし)もぢりにはたと射(いる)。田中妻手(めて)へ廻(まはれ)ば、弓手(ゆんで)を越(こえ)て丁(ちやう)と射る。西国(さいこく)名誉(めいよ)の打物(うちもの)の上手(じやうず)と、北国(ほくこく)無双(ぶさう)の馬上の達者と、追(おつ)つ返(かへし)つ懸違(かけちが)へ、人交(ひとまぜ)もせず戦ひける。前代未聞(ぜんだいみもん)の見物(けんぶつ)也(なり)。去程(さるほど)に嶋津が矢種(やだね)も尽(つき)て、打物(うちもの)に成らんとしけるを見て、角(かく)ては叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、朱雀(しゆじやか)の地蔵堂(ぢざうだう)より北に引(ひか)へたる小早河(こばいかは)、二百騎にてをめいて懸(かか)りけるに、田中が後(うしろ)なる勢、ばつと引退(ひきしりぞき)ければ、田中兄弟、頓宮父子(はやみふし)、彼此(かれこれ)四人の鎧(よろひ)の透間(すきま)内冑(うちかぶと)に、各(おのおの)矢二三十筋(にさんじふすぢ)被射立て、太刀を逆(さかさま)につきて、皆立(たち)ずくみにぞ死(しに)たりける。 |
|
見る人聞く人、後までも惜(をし)まぬ者は無(なか)りけり。美作(みまさかの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて四条(しでう)猪熊(ゐのくま)まで責入(せめいり)、武田(たけだの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・糟谷(かすや)・高橋が一千(いつせん)余騎(よき)の勢と懸合(かけあつ)て、時移(うつ)るまで戦(たたかひ)けるが、跡(あと)なる御方(みかた)の引退きぬる体(てい)を見て、元来(もとより)引かじとや思(おもひ)けん。又向ふ敵に後(うしろ)を見せじとや恥(はぢ)たりけん。有元菅四郎佐弘(ありもとくわんしらうすけひろ)・同(おなじき)五郎佐光(すけみつ)・同(おなじき)又三郎佐吉(すけよし)兄弟三騎、近付く敵に馳双(はせなら)べ引組(ひつくん)で臥(ふ)したり。 佐弘(すけひろ)は今朝の軍(いくさ)に膝口(ひざぐち)を被切て、力弱りたりけるにや、武田(たけだの)七郎に押(おさ)へられて頚(くび)を被掻、佐光(すけみつ)は武田(たけだの)二郎が頚を取る。佐吉(すけよし)は武田(たけだ)が郎等(らうとう)と差違(さしちがへ)て共に死にけり。敵二人(ににん)も共に兄弟、御方(みかた)二人(ににん)も兄弟なれば、死残(しにのこつ)ては何(なに)かせん。いざや共に勝負(しようぶ)せんとて、佐光(すけみつ)と武田(たけだの)七郎と、持(もち)たる頚を両方へ投捨(なげすて)て、又引組(ひつくん)で指違(さしちが)ふ。是(これ)を見て福光(ふくみつの)彦二郎佐長(すけなが)・殖月(うゑつきの)彦五郎重佐(しげすけ)・原田彦三郎佐秀(すけひで)・鷹取(たかとり)彦二郎種佐(たねすけ)同時に馬を引退し、むずと組(くん)ではどうど落(おち)、引組(ひつくん)では指違(さしちが)へ、二十七人(にじふしちにん)の者共(ものども)一所(いつしよ)にて皆討(うた)れければ、其(その)陣の軍(いくさ)は破(やぶれ)にけり。 播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)妻鹿(めが)孫三郎(まごさぶらう)長宗(ながむね)と申すは、薩摩(さつまの)氏長(うぢなが)が末(すゑ)にて、力(ちから)人に勝(すぐ)れ器量(きりやう)世に超(こえ)たり。生年(しやうねん)十二の春(はる)の比(ころ)より好(このん)で相撲(すまふ)を取(とり)けるに、日本(につぽん)六十(ろくじふ)余州(よしう)の中には、遂に片手(かたて)にも懸(かか)る者無(なか)りけり。人は類(るゐ)を以て聚(あつま)る習ひなれば、相伴(あひともな)ふ一族(いちぞく)十七人(じふしちにん)、皆是(これ)尋常(よのつね)の人には越(こえ)たり。されば他人の手を不交して一陣に進み、六条(ろくでうの)坊門(ばうもん)大宮(おほみや)まで責入(せめいり)たりけるが、東寺(とうじ)・竹田(たけだ)より勝軍(かちいくさ)して帰りける六波羅(ろくはらの)勢三千(さんぜん)余騎(よき)に被取巻、十七人(じふしちにん)は被打て、孫三郎(まごさぶらう)一人ぞ残(のこり)たりける。「生(いき)て無甲斐命(いのち)なれども、君の御大事(おんだいじ)是(これ)に限るまじ。一人なりとも生残(いきのこつ)て、後の御用(ごよう)にこそ立(たた)め。」と独(ひと)りごとして、只一騎西朱雀(にししゆじやか)を指(さし)て引(ひき)けるを、印具(いぐ)駿河(するがの)守(かみ)の勢五十(ごじふ)余騎(よき)にて追懸(おつかけ)たり。 |
|
其(その)中に、年の程二十許(はたちばかり)なる若武者(わかむしや)、只一騎馳寄(はせよ)せて、引(ひい)て帰りける妻鹿(めが)孫三郎(まごさぶらう)に組(くま)んと近付(ちかづい)て、鎧の袖に取着(とりつき)ける処を、孫三郎(まごさぶらう)是(これ)を物ともせず、長肘(ながきひぢ)を指延(さしのべ)て、鎧(よろひの)総角(あげまき)を掴(つかん)で中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、馬の上(うへ)三町許(ばかり)ぞ行(ゆき)たりける。此(この)武者可然者のにてや有(あり)けん、「あれ討(うた)すな。」とて、五十(ごじふ)余騎(よき)の兵迹(あと)に付(つい)て追(おひ)けるを、孫三郎(まごさぶらう)尻目(しりめ)にはつたと睨(にらん)で、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて我に近付(ちかづい)てあやまちすな。ほしがらばすは是(これ)取らせん。請取(うけと)れ。」と云(いつ)て、左の手に提(ひつさ)げたる鎧武者(よろひむしや)を、右の手〔に〕取渡(とりわた)して、ゑいと抛(なげ)たりければ、跡(あと)なる馬武者(むまむしや)六騎が上を投越(なげこ)して、深田(ふけた)の泥(どろ)の中(なか)へ見へぬ程こそ打(うち)こうだれ。 是(これ)を見て、五十(ごじふ)余騎(よき)の者共(ものども)、同時に馬を引返し、逸足(いちあし)を出(いだ)してぞ逃(にげ)たりける。赤松入道は、殊更(ことさら)今日(けふ)の軍(いくさ)に、憑切(たのみきつ)たる一族(いちぞく)の兵共(つはものども)も、所々(しよしよ)にて八百(はつぴやく)余騎(よき)被打ければ、気(き)疲(つかれ)力(ちから)落(おち)はてゝ、八幡(やはた)・山崎へ又引返(ひつかへ)しけり。 |
|
■主上自(みづから)令修金輪法給(たまふ)事(こと)付千種殿(ちぐさどの)京合戦(かつせんの)事(こと)
京都数箇度(すかど)の合戦に、官軍(くわんぐん)毎度(まいど)打負(うちまけ)て、八幡(やはた)・山崎(やまざき)の陣も既(すで)に小勢(こぜい)に成りぬと聞へければ、主上(しゆしやう)天下の安危(あんき)如何(いかが)有(あ)らんと宸襟(しんきん)を被悩、船上(ふなのうへ)の皇居(くわうきよ)に壇(だん)を被立、天子自(みづから)金輪(こんりん)の法を行(おこな)はせ給ふ。其(その)七(しち)箇日(かにち)に当りける夜、三光天子(さんくわうてんし)光(ひかり)を並(ならべ)て壇上に現(げん)じ給(たまひ)ければ、御願(ごぐわん)忽(たちまち)に成就(じやうじゆ)しぬと、憑敷(たのもしく)被思召ける。さらばやがて大将を差上(さしのぼ)せて赤松入道に力を合せ、六波羅(ろくはら)を可攻とて、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)朝臣を頭(とうの)中将(ちゆうじやう)に成し、山陽(さんやう)・山陰(せんおん)両道の兵の大将として、京都へ被指向。其(その)勢伯耆(はうきの)国(くに)を立(たち)しまで、僅(わづか)に千(せん)余騎(よき)と聞へしが、因幡(いなば)・伯耆(はうき)・出雲(いづも)・美作(みまさか)・但馬(たじま)・丹後(たんご)・丹波(たんば)・若狭(わかさ)の勢共(せいども)馳加(はせくは)は(ッ)て、程なく二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。 又第六の若宮(わかみや)は、元弘の乱(らん)の始(はじめ)、武家に被囚させ給(たまひ)て、但馬(たじまの)国(くに)へ被流させ給ひたりしを、其(その)国(くに)の守護(しゆご)大田三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)取立奉(とりたてたてまつつ)て、近国(きんごく)の勢を相催(あひもよほ)し、則(すなはち)丹波の篠村(しのむら)へ参会(さんくわい)す。大将頭(とうの)中将(ちゆうじやう)不斜(なのめならず)悦(よろこん)で、即(すなはち)錦(にしき)の御旗(おんはた)を立(たて)て、此(この)宮(みや)を上将軍(じやうしようぐん)と仰(あふ)ぎ奉(たてまつつ)て、軍勢催促(さいそく)の令旨(りやうじ)を被成下けり。四月二日、宮、篠村(しのむら)を御立(おんたち)有(あつ)て、西山(にしやま)の峯堂(みねのだう)を御陣に被召、相従(あひしたが)ふ軍勢二十万騎(にじふまんぎ)、谷堂(たにのだう)・葉室(はむろ)・衣笠(きぬがさ)・万石大路(まんごくおほみち)・松尾(まつのを)・桂里(かつらのさと)に居余(ゐあまつ)て、半(なかば)は野宿(のじゆく)に充満(みちみち)たり。 |
|
殿(とのの)法印良忠(りやうちゆう)は、八幡(やはた)に陣を取(とる)。赤松入道円心は山崎に屯(たむろ)を張れり。彼(かの)陣と千種殿(ちぐさどの)の陣と相去(あひさる)事(こと)僅(わづか)に五十(ごじふ)余町(よちやう)が程なれば、方々(かたがた)牒(てふ)じ合(あは)せてこそ京都へは可被寄かりしを、千種頭(ちぐさのとうの)中将(ちゆうじやう)我(わが)勢の多(おほき)をや被憑けん。又独(ひとり)高名(かうみやう)にせんとや被思けん、潛(ひそか)に日を定(さだめ)て四月八日の卯刻(うのこく)に六波羅(ろくはら)へぞ被寄ける。あら不思議(ふしぎ)、今日(けふ)は仏生日(ぶつしやうび)とて心あるも心なきも潅仏(くわんぶつ)の水に心を澄(すま)し、供花焼香(くげせうかう)に経(きやう)を翻(ひるがへ)して捨悪修善(しやあくしゆぜん)を事とする習ひなるに、時日(ときひ)こそ多かるに、斎日(さいじつ)にして合戦を始(はじめ)て、天魔波旬(てんまはじゆん)の道を学ばる条難心得と人々舌(した)を翻(ひるがへ)せり。さて敵御方(みかた)の士卒源平(げんぺい)互(たがひ)に交(まじは)れり。 無笠符ては同士打(どうしうち)も有(あり)ぬべしとて、白絹(しろききぬ)を一尺づゝ切(きつ)て風と云(いふ)文字を書(かい)て、鎧(よろひ)の袖にぞ付(つけ)させられける。是(これ)は孔子(こうし)の言(ことば)に、「君子(くんし)の徳は風也(なり)。小人の徳は草也(なり)。草に風を加ふる時は不偃と云(いふ)事(こと)なし。」と云(いふ)心なるべし。六波羅(ろくはら)には敵を西に待(まち)ける故(ゆゑ)に、三条(さんでう)より九条まで大宮面(おほみやおもて)に屏(へい)を塗(ぬ)り、櫓(やぐら)を掻(かい)て射手(いて)を上(あげ)て、小路々々(こうぢこうぢ)に兵を千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)扣(ひか)へさせて、魚鱗(ぎよりん)に進み、鶴翼(かくよく)に囲(かこ)まん様(やう)をぞ謀(はか)りける。 「寄手(よせて)の大将は誰(た)そ。」と問(とふ)に、「前帝(ぜんてい)第六の若宮(わかみや)、副(ふく)将軍は千種頭(ちぐさのとうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)の朝臣(あそん)。」と聞へければ、「さては軍(いくさ)の成敗(せいはい)心にくからず。源(みなもと)は同流(おなじながれ)也(なり)。といへども、「江南(かうなん)の橘(たちばな)、江北(かうほく)に被移て枳(からたち)と成(なる)」習(ならひ)也(なり)。弓馬(きゆうば)の道を守る武家の輩(ともがら)と、風月の才(さい)を事とする朝廷(てうてい)の臣と闘(たたかひ)を決(けつ)せんに、武家不勝と云(いふ)事(こと)不可有。」と、各(おのおの)勇(いさ)み進(すすん)で、七千余騎(よき)大宮面(おほみやおもて)に打寄(うちよせ)て、寄手(よせて)遅しとぞ待懸(まちかけ)たる。 |
|
去程(さるほど)に忠顕(ただあき)朝臣、神祇官(じんぎくわん)の前に扣(ひか)へて勢を分(わけ)て、上は大舎人(おほどねり)より下は七条まで、小路(こうぢ)ごとに千(せん)余騎(よき)づゝ指向(さしむけ)て責(せめ)させらる。武士(ぶし)は要害を拵(こしらへ)て射打(いうち)を面(おもて)に立(たて)て、馬武者を後(うしろ)に置(おき)たれば、敵の疼(ひる)む所を見て懸出々々(かけいでかけいで)追立(おつたて)けり。官軍(くわんぐん)は二重(にぢゆう)三重(さんぢゆう)に荒手(あらて)を立(たて)たれば、一陣引けば二陣入替(いりかは)り、二陣打負(うちまく)れば三陣入替(いりかはつ)て、人馬に息を継(つが)せ、煙塵(えんぢん)天を掠(かすめ)て責(せめ)戦ふ。官軍(くわんぐん)も武士(ぶし)も諸共(もろとも)に、義に依(よつ)て命(いのち)を軽(かろん)じ、名を惜(をしみ)で死を争(あらそ)ひしかば、御方(みかた)を助(たすけ)て進むは有れども、敵に遇(あう)て退くは無(なか)りけり。 角(かく)ては何(いつ)可有勝負とも見へざりける処に、但馬(たじま)・丹波の勢共(せいども)の中(なか)より、兼(かね)て京中に忍(しのび)て人を入置(いれおき)たりける間、此彼(ここかしこ)に火を懸(かけ)たり。時節(をりふし)辻風(つじかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て、猛煙(みやうえん)後(うしろ)に立覆(たちおほ)ひければ、一陣に支(ささ)へたる武士(ぶし)共、大宮面(おほみやおもて)を引退(ひきしりぞき)て尚(なほ)京中に扣(ひか)へたり。 |
|
六波羅(ろくはら)是(これ)を聞(きい)て、弱からん方(かた)へ向けんとて用意(ようい)を残し留(とどめ)たる、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)・隅田(すだ)・高橋・南部(なんぶ)・下山(しもやま)・河野(かうの)・陶山(すやま)・富樫(とがし)・小早河等(こばいかはに)、五千(ごせん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、一条・二条(にでう)の口へ被向。此荒手(このあらて)に懸合(かけあつ)て、但馬の守護(しゆご)大田三郎左衛門被打にけり。丹波(たんばの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)荻野(おぎの)彦六と足立(あだち)三郎は、五百(ごひやく)余騎(よき)にて四条(しでう)油小路(あぶらのこうぢ)まで責入(せめいり)たりけるを、備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、薬師寺(やくしじの)八郎・中吉(なかぎりの)十郎・丹(たん)・児玉(こだま)が勢共(せいども)、七百(しちひやく)余騎(よき)相支(あひささへ)て戦(たたかひ)けるが、二条(にでう)の手被破ぬと見へければ、荻野・足立も諸共(もろとも)に御方(みかた)の負(まけ)して引返す。 金持(かなぢ)三郎は七百(しちひやく)余騎(よき)にて、七条東洞院(ひがしのとうゐん)まで責入(せめいり)たりけるが、深手(ふかで)を負(おう)て引(ひき)かねけるを、播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)肥塚(こいづか)が一族(いちぞく)、三百(さんびやく)余騎(よき)が中に取篭(とりこめ)て、出抜(だしぬい)て虜(いけどり)てげり。丹波(たんばの)国(くに)神池(みいけ)の衆徒(しゆと)は、八十(はちじふ)余騎(よき)にて、五条西洞院(にしのとうゐん)まで責入(せめいり)、御方(みかた)の引(ひく)をも知らで戦(たたかひ)けるを、備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、庄(しやうの)三郎・真壁(まかべの)四郎、三百(さんびやく)余騎(よき)にて取篭(とりこめ)、一人も不余打(うつ)てげり。方々(かたがた)の寄手(よせて)、或(あるひ)は被打或(あるひ)は被破て、皆桂河(かつらがは)の辺(へん)まで引(ひき)たれども、名和(なわの)小次郎と小嶋(こじま)備後(びんごの)三郎とが向ひたりける一条の寄手(よせて)は、未引(いまだひかず)、懸(かけ)つ返(かへし)つ時移(うつ)るまで戦(たたかひ)たり。 防(ふせぐ)は陶山(すやま)と河野(かうの)にて、責(せむる)は名和(なわ)と小嶋(こじま)と也(なり)。小島と河野(かうの)とは一族(いちぞく)にて、名和と陶山(すやま)とは知人也(なり)。日比(ひごろ)の詞(ことば)をや恥(はぢ)たりけん、後日(ごにち)の難(なん)をや思(おもひ)けん、死(しし)ては尸(かばね)を曝(さら)すとも、逃(にげ)て名をば失(うしなは)じと、互(たがひ)に命(いのち)を不惜、をめき叫(さけん)でぞ戦ひける。大将頭(とうの)中将(ちゆうじやう)は、内野(うちの)まで被引たりけるが、一条の手尚(なほ)相支(あひささへ)て戦半(たたかひなかば)也(なり)。と聞へしかば、又神祇官(じんぎくわん)の前へ引返して、使を立(たて)て小島と名和とを被喚返けり。彼等(かれら)二人(ににん)、陶山(すやま)と河野(かうの)とに向(むかひ)て、「今日(けふ)已(すで)に日暮候(くれさふらひ)ぬ。 |
|
後日(ごにち)にこそ又見参(けんざん)に入らめ。」と色代(しきだい)して、両軍ともに引分(ひきわかれ)、各(おのおの)東西へ去(さり)にけり。夕陽(せきやう)に及(およん)で軍(いくさ)散(さん)じければ、千種殿(ちぐさどの)は本陣峯(みね)の堂(だう)に帰(かへつ)て、御方(みかた)の手負打死(ておひうちじに)を被註に、七千人に余(あま)れり。其(その)内に、宗(むね)と憑(たのまれ)たる大田(おほた)・金持(かなぢ)の一族(いちぞく)以下(いげ)、数百人(すひやくにん)被打畢(をはんす)。仍(よつて)一方の侍大将とも可成者とや被思けん、小嶋(こじま)備後三郎高徳(たかのり)を呼寄(よびよせ)て、「敗軍(はいぐん)の士力(ちから)疲(つかれ)て再び難戦。都(みやこ)近き陣は悪(あし)かりぬと覚(おぼゆ)れば、少し堺(さかひ)を阻(へだて)て陣を取り、重(かさね)て近国の勢を集(あつめ)て、又京都を責(せめ)ばやと思ふは、如何(いか)に計(はから)ふぞ。」と宣(のたま)へば、小嶋三郎不聞敢、「軍(いくさ)の勝負(しようぶ)は時の運による事にて候へば、負(まく)るも必(かならず)しも不恥、只引(ひく)まじき処を引かせ、可懸所を不懸を、大将の不覚(ふかく)とは申(まうす)也(なり)。 如何(いか)なれば赤松入道は、僅(わづか)に千(せん)余騎(よき)の勢を以て、三箇度(さんがど)まで京都へ責入(せめいり)、叶(かな)はねば引退(ひきしりぞい)て、遂(つひ)に八幡(やはた)・山崎の陣をば去らで候ぞ。御勢(おんせい)縦(たと)ひ過半(くわはん)被打て候共(とも)、残(のこる)所の兵尚(なほ)六波羅(ろくはら)の勢よりは多かるべし。此(この)御陣後(うしろ)は深山(みやま)にて前は大河也(なり)。敵若(もし)寄来(よせきた)らば、好む所の取手(とりで)なるべし。穴(あな)賢(かしこ)、此(この)御陣を引かんと思食(おぼしめ)す事不可然候。但(ただし)御方(みかた)の疲(つか)れたる弊(つひえ)に乗(のつ)て、敵夜討(ようち)に寄(よ)する事もや候はんずらんと存(ぞんじ)候へば、高徳(たかのり)は七条の橋爪(はしづめ)に陣を取(とつ)て相待(あひまち)候べし。 |
|
御心安(おんこころやす)からんずる兵共(つはものども)を、四五百騎が程、梅津(うめつ)・法輪(ほふりん)の渡(わたし)へ差向(さしむけ)て、警固(けいご)をさせられ候へ。」と申置(まうしおい)て、則(すなはち)小嶋三郎高徳(たかのり)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて、七条の橋より西にぞ陣を堅めたる。千種殿(ちぐさどの)は小嶋に云恥(いひはぢ)しめられて、暫(しばし)は峯(みね)の堂(だう)におはしけるが、「敵若(もし)夜討(ようち)にや寄せんずらん。」と云(いひ)つる言(ことば)に被驚て、弥(いよいよ)臆病心(おくびやうごころ)や付(つき)給ひけん、夜半(やはん)過(すぐ)る程に、宮を御馬(おんむま)に乗(の)せ奉(たてまつつ)て、葉室(はむろ)の前を直違(すぢかひ)に、八幡(やはた)を指(さし)てぞ被落ける。備後(びんごの)三郎、かかる事とは思ひもよらず、夜深方(よふけがた)に峯の堂を見遣(みやれ)ば、星の如(ごとく)に耀(かかや)き見へつる篝火(かがりび)次第に数(かず)消(きえ)て、所々(しよしよ)に焼(たき)すさめり。 是(これ)はあはれ大将の落(おち)給ひぬるやらんと怪(あやしみ)て、事の様(やう)を見ん為に、葉室大路(はむろおほち)より峯の堂へ上(のぼ)る処に、荻野(をぎの)彦六朝忠(ともただ)浄住寺(じやうぢゆうじ)の前に行合(ゆきあひ)て、「大将已(すで)に夜部(よべの)子刻(ねのこく)に落(おち)させ給(たまひ)て候間、無力我等(われら)も丹後(たんご)の方へと志(こころざし)て、罷下(まかりくだり)候也(なり)。いざゝせ給へ、打連(うちつ)れ申さん。」と云(いひ)ければ備後三郎大(おほき)に怒(いかつ)て、「かゝる臆病の人を大将と憑(たの)みけるこそ越度(をちど)なれ。さりながらも、直(ぢき)に事の様(やう)を見ざらんは後難(こうなん)も有(あり)ぬべし。早(はや)御(おん)通(とほ)り候へ。高徳(たかのり)は何様(なにさま)峯の堂へ上(のぼつ)て、宮の御跡(おんあと)を奉見て追付(おつつき)可申。」と云(いひ)て、手(て)の者兵をば麓に留(とめ)て只一人、落行(おちゆく)勢の中を押分々々(おしわけおしわけ)、峯(みね)の堂(だう)へぞ上(のぼ)りける。 大将のおはしつる本堂へ入(いつ)て見れば、能(よく)遽(あわて)て被落けりと覚へて、錦(にしき)の御旗(おんはた)、鎧直垂(ひたたれ)まで被捨たり。備後三郎腹を立てゝ、「あはれ此(この)大将、如何なる堀がけへも落入(おちいつ)て死に給へかし。」と独(ひと)り言(ごと)して、しばらくは尚(なほ)堂(だう)の縁(えん)に歯嚼(はがみ)をして立(たつ)たりけるが、「今はさこそ手(て)の者共(ものども)も待(まち)かねたるらめ。」と思ひければ、錦の御旗許(おんはたばかり)を巻(まい)て、下人(げにん)に持(もた)せ、急ぎ浄住寺の前へ走(はし)り下(お)り、手(て)の者打連(うちつれ)て馬を早めければ、追分(おひわけ)の宿(しゆく)の辺(へん)にて、荻野(をぎの)彦六にぞ追付(おひつき)ける。荻野は、丹波・丹後(たんご)・出雲・伯耆へ落(おち)ける勢の、篠村(しのむら)・稗田辺(ひえだのへん)に打集(うちあつ)ま(ッ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)有(あり)けるを相伴(あひともなひ)、路次(ろし)の野伏(のぶし)を追払(おひはらう)て、丹波国高山寺(かうせんじ)の城(じやう)にぞ楯篭(たてごも)りける。 |
|
■谷堂炎上(たにのだうえんじやうの)事(こと)
千種頭(ちくさのとうの)中将(ちゆうじやう)は西山(にしやま)の陣を落(おち)給ひぬと聞へしかば、翌日(よくじつ)四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下(いげ)浄住寺・松(まつ)の尾(を)・万石大路(まんごくおほち)・葉室(はむろ)・衣笠(きぬがさ)に乱入(みだれいつ)て、仏閣(ぶつかく)神殿を打破(うちやぶ)り、僧坊民屋(そうばうみんをく)を追捕(つひふ)し、財宝(ざいはう)を悉(ことごと)く運取(はこびとつ)て後(のち)、在家(ざいけ)に火を懸(かけ)たれば、時節(をりふし)魔風(まかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て、浄住寺・最福寺(さいふくじ)・葉室(はむろ)・衣笠(きぬがさ)・三尊院(さんそんゐん)、総(そう)じて堂舎(だうしや)三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)、在家(ざいけ)五千(ごせん)余宇(よう)、一時に灰燼(くわいじん)と成(なつ)て、仏像・神体・経論(きやうろん)・聖教(しやうげう)、忽(たちまち)に寂滅(じやくめつ)の煙(けぶり)と立上(たちのぼ)る。彼(かの)谷堂(たにのだう)と申(まうす)は八幡殿(はちまんどの)の嫡男(ちやくなん)対馬(つしまの)守(かみ)義親(よしちか)が嫡孫(ちやくそん)、延朗(えんらう)上人造立(ざうりふ)の霊地(れいち)也(なり)。 此(この)上人幼稚(えうち)の昔より、武略累代(ぶりやくるゐだい)の家を離れ、偏(ひとへ)に寂寞無人(じやくまくむにん)の室(むろ)をと給(しめたまひ)し後、戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を兼備(けんび)して、六根清浄(ろくこんしやうじやう)の功徳(くどく)を得給ひしかば、法華読誦(ほつけどくじゆ)の窓の前には、松尾(まつのを)の明神坐列(ざれつ)して耳を傾(かたぶ)け、真言秘密(しんごんひみつ)の扉(とぼそ)の中(うち)には、総角(そうかく)の護法(ごほふ)手を束(つかね)て奉仕(ぶし)し給ふ。かゝる有智高行(いうちかうぎやう)の上人(しやうにん)、草創(さうさう)せられし砌(みぎり)なれば、五百(ごひやく)余歳(よさい)の星霜(せいざう)を経(へ)て、末世澆漓(まつせげうり)の今に至るまで、智水(ちすゐ)流(ながれ)清く、法燈(ほつとう)光(ひかり)明(あきらか)也(なり)。 三間四面(さんげんしめん)の輪蔵(りんざう)には、転法輪(てんほふりん)の相(さう)を表(へう)して、七千余巻(よくわん)の経論(きやうろん)を納(をさ)め奉られけり。奇樹怪石(きじゆくわいせき)の池上(ちじやう)には、都卒(とそつ)の内院(ないゐん)を移(うつ)して、四十九院(しじふくゐん)の楼閣(ろうかく)を並ぶ。十二の欄干(らんかん)珠玉(しゆぎよく)天に捧(ささ)げ、五重(ごぢゆう)の塔婆(たふば)金銀月(つき)を引く。恰(あたか)も極楽浄土(ごくらくじやうど)の七宝荘厳(しちはうしやうごん)の有様も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。又浄住寺と申(まうす)は、戒法(かいほふ)流布(るふ)の地、律宗(りつしゆう)作業(さごふ)の砌(みぎり)也(なり)。 |
|
釈尊(しやくそん)御入滅(ごにふめつ)の刻(きざみ)、金棺(きんくわん)未(いまだ)閉(とぢざる)時、捷疾鬼(せふしつき)と云(いふ)鬼神(きじん)、潛(ひそか)に双林(さうりん)の下(もと)に近付(ちかづい)て、御牙(おんきば)を一(ひとつ)引■(ひつかい)て是(これ)を取る。四衆(ししゆ)の仏弟子(ぶつでし)驚(おどろき)見て、是(これ)を留(とど)めんとし給ひけるに、片時(へんし)が間(ま)に四万由旬(しまんゆじゆん)を飛越(とびこえ)て、須弥(しゆみ)の半(なかば)四天王(してんわう)へ逃上(にげのぼ)る。韋駄天(ゐだてん)追攻(おひつめ)奪取(うばひとり)、是(これ)を得て其(その)後漢土(かんど)の道宣律師(だうせんりつし)に被与。自尓以来(このかた)相承(さうじやう)して我朝(わがてう)に渡(わたり)しを、嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に始(はじめ)て此(この)寺に被奉安置。偉(おほいなる)哉(かな)大聖世尊(だいしやうせそん)滅後(めつご)二千三百(にせんさんびやく)余年(よねん)の已後(いご)、仏肉(ぶつにく)猶(なほ)留(とどまつ)て広く天下に流布(るふ)する事普(あまね)し。かゝる異瑞奇特(いずゐきどく)の大加藍(だいがらん)を無咎して被滅けるは、偏(ひとへ)に武運(ぶうん)の可尽前表(ぜんべう)哉(かな)と、人皆唇(くちびる)を翻(ひるがへし)けるが、果(はた)して幾程(いくほど)も非ざるに、六波羅(ろくはら)皆番馬(ばんば)にて亡(ほろ)び、一類(いちるゐ)悉(ことごと)く鎌倉(かまくら)にて失(う)せける事こそ不思議(ふしぎ)なれ。「積悪(せきあく)の家には必(かならず)有余殃」とは、加様(かやう)の事をぞ可申と、思はぬ人も無(なか)りけり。 |
|
■太平記 巻第九 | |
■足利殿(あしかがどの)御上洛(ごしやうらくの)事(こと)
先朝(せんてう)船上(ふなのうへ)に御坐(ござ)有(あつ)て、討手を被差上、京都を被責由(よし)、六波羅(ろくはら)の早馬(はやむま)頻(しきり)に打(うつ)て、事既(すで)に難儀に及(およぶ)由(よし)、関東(くわんとう)に聞へければ、相摸(さがみ)入道大(おほき)に驚(おどろい)て、さらば重(かさね)て大勢を指上(さしのぼ)せて半(なかば)は京都を警固(けいご)し、宗徒(むねと)は舟上(ふなのうへ)を可責と評定(ひやうぢやう)有(あつ)て、名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)を大将として、外様(とざま)の大名二十人を被催。其(その)中に足利(あしかが)治部大輔(ぢふのたいふ)高氏(たかうぢ)は、所労(しよらう)の事有(あつ)て、起居(ききよ)未(いまだ)快(こころよからざり)けるを、又上洛(しやうらく)の其数(そのかず)に入(いつ)て、催促(さいそく)度々(どど)に及べり。 足利殿(あしかがどの)此(この)事(こと)に依(よつ)て、心中(しんちゆう)に被憤思けるは、「我(われ)父の喪(も)に居(ゐ)て三月を過(すぎ)ざれば、非歎(ひたん)の涙(なんだ)未(いまだ)乾(かわかず)、又病気身を侵(をか)して負薪(ふしん)の憂(うれへ)未(いまだ)休(やまざる)処に、征罰(せいばつ)の役(やく)に随へて、被相催事こそ遺恨(ゐこん)なれ。時移(うつ)り事変(へん)じて貴賎雖易位、彼(かれ)は北条四郎時政(ときまさ)が末孫(ばつそん)也(なり)。人臣に下(くだつ)て年久し。我は源家累葉(げんけるゐえふ)の族(やから)也(なり)。王氏(わうし)を出(いで)て不遠。此(この)理を知(しる)ならば、一度(いちど)は君臣の儀をも可存に、是(これ)までの沙汰(さた)に及(およぶ)事(こと)、偏(ひとへ)に身の不肖(ふせう)による故(ゆゑ)也(なり)。所詮(しよせん)重(かさね)て尚上洛(しやうらく)の催促(さいそく)を加(くはふ)る程ならば、一家(いつけ)を尽(つく)して上洛(しやうらく)し、先帝(せんてい)の御方(みかた)に参(まゐつ)て六波羅(ろくはら)を責落(せめおと)して、家の安否(あんぴ)を可定者を。」と心中(しんちゆう)に被思立けるをば、人更(さら)に知(しる)事(こと)無(なか)りけり。 相摸(さがみ)入道(にふだう)は、可斯事とは不思寄、工藤(くどう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)を使にて、「御上洛(ごしやうらく)延引不被心得。」一日の中(うちに)両度までこそ被責けれ。足利殿(あしかがどの)は反逆(はんぎやく)の企(くはだて)、已(すで)に心中(しんちゆう)に被思定てげれば、中々(なかなか)異儀(いぎ)に不及、「不日(ふじつ)に上洛(しやうらく)可仕。」とぞ被返答ける。則(すなはち)夜を日に継(つい)で被打立けるに、御一族(ごいちぞく)・郎従(らうじゆう)は不及申、女性(によしやう)幼稚(えうち)の君達(きんだち)迄も、不残皆可有上洛(しやうらく)と聞へければ、長崎入道円喜(ゑんき)怪(あやし)み思(おもひ)て、急ぎ相摸(さがみ)入道(にふだう)の方に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「誠(まこと)にて候哉覧(やらん)。足利殿(あしかがどの)こそ、御台(みだい)・君達(きんだち)まで皆引具(ひきぐ)し進(まゐら)せて、御上洛(ごしやうらく)候なれ。事の体(てい)怪(あやし)く存(ぞんじ)候。 |
|
加様(かやう)の時は、御一門(ごいちもん)の疎(おろそ)かならぬ人にだに、御心(おんこころ)被置候べし。況乎(いはんや)源家(げんけ)の貴族として、天下の権柄(けんぺい)を捨(すて)給へる事年久しければ、思召立(おぼしめしたつ)事(こと)もや候覧(らん)。異国より吾朝(わがてう)に至(いたる)まで、世の乱(みだれ)たる時は、覇王(はわう)諸候を集(あつめ)て牲(いけにへ)を殺し血を啜(すすつ)て弐(ふたごこ)ろ無(なか)らん事を盟(ちか)ふ。今の世の起請文(きしやうもん)是(これ)也(なり)。或(あるひ)は又其(その)子を質(しち)に出(いだ)して、野心(やしん)の疑(うたがひ)を散ず。木曾殿(きそどの)の御子(おんこ)、清水冠者(しみづのくわじや)を大将殿(たいしやうどの)の方へ被出き。加様(かやう)の例を存(ぞんじ)候にも、如何様(いかさま)足利殿(あしかがどの)の御子息(ごしそく)と御台(みだい)とをば、鎌倉(かまくら)に被留申て、一紙(いつし)の起請文を書(かか)せ可被進とこそ存(ぞんじ)候へ。」と申ければ、相摸(さがみ)入道(にふだう)げにもとや被思けん。 頓(やが)て使者を以て被申遣けるは、「東国(とうごく)は未だ世閑(しづか)にて、御心(おんこころ)安かるべきにて候。幼稚(えうち)の御子息(ごしそく)をば、皆鎌倉(かまくら)に留置進(とめおきまゐら)せられ候べし。次に両家(りやうけ)の体(てい)を一にして、水魚(すゐぎよ)の思(おもひ)を被成候上(うへ)、赤橋(あかはし)相州(さうしう)御縁(ごえん)に成(なり)候、彼此(かれこれ)何の不審(ふしん)か候べきなれ共(ども)、諸人(しよにん)の疑(うたがひ)を散(さん)ぜん為にて候へば、乍恐一紙(いつし)の誓言(せいごん)を被留置候はん事(こと)、公私(こうし)に付(つい)て可然こそ存(ぞんじ)候へ。」と、被仰たりければ、足利殿(あしかがどの)、欝胸(うつきよう)弥(いよいよ)深かりけれ共(ども)、憤(いきどほり)を押(おさ)へて気色(きしよく)にも不被出、「是(これ)より御返事(ごへんじ)を可申。」とて、使者をば被返てげり。 其後(そののち)舎弟兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)殿(どの)を被呼進て、「此(この)事(こと)可有如何。」と意見を被訪に、且(しばら)く案(あん)じて被申けるは、「今此(この)一大事(いちだいじ)を思食立(おぼしめしたつ)事(こと)、全(まつた)く御身(おんみ)の為に非(あら)ず、只天に代(かはつ)て無道(ぶだう)を誅(ちゆう)し、君は御為(おんため)に不義を退(しりぞけ)んと也(なり)。其(その)上(うへ)誓言(せいごん)は神も不受とこそ申習(まうしなら)はして候へ。設(たと)ひ偽(いつはつ)て起請(きしやう)の詞(ことば)被載候共(とも)、仏神などか忠烈(ちゆうれつ)の志(こころざし)を守らせ給はで候べき。就中(なかんづく)御子息(ごしそく)と御台(みだい)とは、鎌倉(かまくら)に留置進(とめおきまゐら)せられん事(こと)、大儀(たいぎ)の前の少事(せうじ)にて候へば、強(あながち)に御心(おんこころ)を可被煩に非(あら)ず。 |
|
公達(きんだち)未だ御幼稚(ごえうち)に候へば、自然の事もあらん時は、其(その)為に少々被残置郎従共(らうじゆうども)、何方(いづかた)へも抱拘(だきかか)へて隠し奉り候(さふらひ)なん。御台(みだい)の御事(おんこと)は、又赤橋殿(あかはしどの)とても御坐(おはしまし)候はん程は、何の御痛敷(おんいたはしき)事(こと)か候べき。「大行(たいかう)は不顧細謹」とこそ申(まうし)候へ。此等(これら)程の少事(せうじ)に可有猶予あらず。兎(と)も角(かく)も相摸(さがみ)入道(にふだう)の申さん侭(まま)に随(したがつ)て其(その)不審を令散、御上洛(ごしやうらく)候(さふらひ)て後(のち)、大儀の御計略(ごけいりやく)を可被回とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、足利殿(あしかがどの)此(この)道理に服(ふく)して、御子息(ごしそく)千寿王(せんじゆわう)殿(どの)と、御台(みだい)赤橋(あかはし)相州(さうしう)の御妹(おんいもうと)とをば、鎌倉(かまくら)に留置(とめおき)奉りて、一紙(いつし)の起請文(きしやうもん)を書(かい)て相摸(さがみ)入道(にふだう)の方へ被遣。 相摸(さがみ)入道(にふだう)是(これ)に不審(ふしん)を散(さん)じて喜悦(きえつ)の思(おもひ)を成し、高氏(たかうぢ)を招請(せうしやう)有(あつ)て、様々(さまざま)賞翫共(しやうぐわんども)有(あり)しに、「御先祖(ごせんぞ)累代(るゐたい)の白旌(しらはた)あり、是(これ)は八幡殿(はちまんどの)より代々(だいだい)の家督(かとく)に伝(つたへ)て被執重宝(ちようはう)にて候(さふらひ)けるを、故頼朝(こよりとも)卿(きやう)の後室(こうしつ)、二位(にゐ)の禅尼(ぜんに)相伝(さうでん)して、当家(たうけ)に今まで所持(しよぢ)候也(なり)。希代(きたい)の重宝と申(まうし)ながら、於他家に、無其詮候歟(か)。是(これ)を今度の餞送(はなむけ)に進(しん)じ候也(なり)。此旌(このはた)をさゝせて、凶徒(きようと)を急ぎ御退治(ごたいぢ)候へ。」とて、錦(にしき)の袋に入(いれ)ながら、自(みづか)ら是(これ)をまいらせらる。其外(そのほか)乗替(のりがへ)の御為(おんため)にとて、飼(かう)たる馬に白鞍(しろくら)置(おい)て十疋(じつびき)、白幅輪(しろぶくりん)の鎧(よろひ)十領(じふりやう)、金作(こがねづくり)の太刀一副(ひとつそへ)て被引たりけり。足利殿(あしかがどの)御兄弟(ごきやうだい)・吉良(きら)・上杉・仁木(につき)・細川・今河・荒河(あらかは)・以下(いげ)の御一族(ごいちぞく)三十二人(さんじふににん)、高家(かうけ)の一類(いちるゐ)四十三人(しじふさんにん)、都合其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、元弘三年三月二十七日(にじふしちにち)に鎌倉(かまくら)を立(たち)、大手の大将と被定、名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)高家(たかいへ)に三日先立(さきだつ)て、四月十六日に京都に着(つき)給ふ。 |
|
■山崎攻(せめの)事(こと)付久我畷(くがなはて)合戦(かつせんの)事(こと)
両六波羅(りやうろくはら)は、度々(どど)の合戦に打勝(うちかち)ければ、西国(さいこく)の敵恐(おそる)るに不足と欺(あざむ)きながら、宗徒(むねと)の勇士(ゆうし)と被憑たりける結城(ゆふき)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)は、敵に成(なつ)て山崎の勢(せい)に加(くはは)りぬ。其外(そのほか)、国々の勢共(せいども)五騎十騎、或(あるひ)は転漕(てんさう)に疲(つかれ)て国々に帰り、或(あるひ)は時の運を謀(はかつ)て敵に属(しよく)しける間、宮方(みやがた)は負(まく)れ共(ども)勢弥(いよいよ)重(かさな)り、武家は勝(かて)共(ども)兵(つはもの)日々(ひび)に減(げん)ぜり。角(かく)ては如何(いかが)可有と、世を危(あやぶ)む人多かりける処に、足利(あしかが)・名越(なごや)の両勢叉雲霞(うんか)の如く上洛(しやうらく)したりければ、いつしか人の心替(かはつ)て今は何事か可有と、色を直(なほ)して勇合(いさみあ)へり。 かゝる処に、足利殿(あしかがどの)は京着(きやうちやく)の翌日(よくじつ)より、伯耆(はうき)の船上(ふなのうへ)へ潛(ひそか)に使を進(まゐら)せて、御方(みかた)に可参由を被申たりければ、君殊(こと)に叡感(えいかん)有(あつ)て、諸国の官軍(くわんぐん)を相催(あひもよほ)し朝敵(てうてき)を可御追罰(ついばつ)由の綸旨(りんし)をぞ被成下ける。両六波羅(りやうろくはら)も名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)も、足利殿(あしかがどの)にかゝる企(くはだて)有(あり)とは思(おもひ)も可寄事ならねば、日々(ひび)に参会(さんくわい)して八幡(やはた)・山崎を可被責内談評定(ないだんひやうぢやう)、一々(いちいち)に心底(しんてい)を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流也(なり)。人心好悪苦不常。」とは云(いひ)ながら、足利殿(あしかがどの)は代々(だいだい)相州(さうしう)の恩を戴き徳を荷(になつ)て、一家(いつけ)の繁昌恐(おそら)くは天下の肩(かた)を可並も無(なか)りけり。 其(その)上(うへ)赤橋(あかはし)前(さきの)相摸守(さがみのかみ)の縁(えん)に成(なつ)て、公達(きんだち)数(あま)た出来給(いできたまひ)ぬれば、此(この)人よも弐(ふたごころ)はおはせじと相摸(さがみ)入道(にふだう)混(ひたすら)に被憑けるも理(ことわり)也(なり)。四月二十七日(にじふしちにち)には八幡(やはた)・山崎の合戦と、兼(かね)てより被定ければ、名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)大手の大将として七千六百(しちせんろつぴやく)余騎(よき)、鳥羽(とば)の作道(つくりみち)より被向。足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)は、搦手(からめて)の大将として五千(ごせん)余騎(よき)、西岡(にしのをか)よりぞ被向ける。八幡(やはた)・山崎の官軍(くわんぐん)是(これ)を聞(きい)て、さらば難所(なんじよ)に出合(いであつ)て不慮に戦(たたかひ)を決せしめよとて、千種(ちぐさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣は、五百(ごひやく)余騎(よき)にて大渡(おほわたり)の橋を打渡り、赤井河原(あかゐかはら)に被扣。結城(ゆふきの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)親光(ちかみつ)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて狐河(きつねがは)の辺(へん)に向ふ。赤松入道円心(ゑんしん)は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて淀(よど)・古河(ふるかは)・久我畷(こがなはて)の南北三箇所(さんかしよ)に陣を張(はる)。 |
|
是(これ)皆強敵(がうてき)を拉(とりひしぐ)気(き)、天を廻(めぐら)し地を傾(かたむく)と云共(いふとも)、機を解(と)き勢(いきほひ)を被呑とも、今上(いまのぼり)の東国勢一万余騎(よき)に対して可戦とはみへざりけり。足利殿(あしかがどの)は、兼(かね)て内通(ないつう)の子細(しさい)有(あり)けれ共(ども)、若(もし)恃(たばかり)やし給ふ覧(らん)とて、坊門(ばうもんの)少将雅忠(まさただ)朝臣は、寺戸(てらど)と西岡(にしのをか)の野伏共(のぶしども)五六百人(ごろつぴやくにん)駆催(かりもよほ)して、岩蔵辺(いはくらへん)に被向。去程(さるほど)に搦手(からめて)の大将足利殿(あしかがどの)は、未明(びめい)に京都を立給(たちたまひ)ぬと披露有(ひろうあり)ければ、大手(おほて)の大将名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)、「さては早(はや)人に先(さき)を被懸ぬ。」と、不安思ひて、さしも深き久我畷(こがなはて)の、馬の足もたゝぬ泥土(でいど)の中へ馬を打入(うちい)れ、我先(われさき)にとぞ進みける。 尾張(をはりの)守(かみ)は、元(もと)より気早(きばや)の若武者(わかむしや)なれば、今度の合戦、人の耳目(じもく)を驚(おどろか)す様(やう)にして、名を揚(あげ)んずる者をと、兼(かね)て有増(あらまし)の事なれば、其(その)日(ひ)の馬物(もの)の具(ぐ)・笠符(かさじるし)に至(いたる)まで、当(あた)りを耀(かかや)かして被出立たり。 花段子(くわどんす)の濃紅(こきくれなゐ)に染(そめ)たる鎧直垂(よろひひたたれ)に、紫糸(むらさきいと)の鎧金物(よろひかなもの)重(しげ)く打(うつ)たるを、透間(すきま)もなく着下(きくだ)して、白星(しらほし)の五枚甲(ごまいかぶと)の吹返(ふきかへし)に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透(ほりすか)して打(うつ)たるを猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、当家累代(たうけるゐだいの)重宝(ちようはう)に、鬼丸(おにまる)と云(いひ)ける金作(こがねづくり)の円鞘(まるざや)の太刀に、三尺(さんじやく)六寸(ろくすん)の太刀を帯(は)き添(そへ)、たかうすべ尾(を)の矢(や)三十六(さんじふろく)指(さい)たるを、筈高(はずだか)に負成(おひなし)、黄瓦毛(きかはらげ)の馬の太く逞(たくまし)きに、三本(さんぼん)唐笠(からかさ)を金具(かながひ)に磨(すつ)たる鞍(くら)を置き、厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)の燃立許(もえたつばかり)なるを懸け、朝日(あさひ)の陰に耀(かかやか)して、光渡(ひかりわたつ)てみへたるが、動(ややもすれ)ば軍勢より先(さき)に進出(すすみいで)て、当(あた)りを払(はらつ)て被懸ければ、馬物具(もののぐ)の体(てい)、軍立(いくさたち)の様(やう)、今日の大手の大将は是(これ)なめりと、知(しら)ぬ敵は無(なか)りけり。 されば敵も自余(じよ)の葉武者共(はむしやども)には目を不懸、此(ここ)に開(ひら)き合(あは)せ彼(かしこ)に攻合(せめあひ)て、是(これ)一人を打(うた)んとしけれども、鎧よければ裏かゝする矢もなし。打物達者(うちものたつしや)なれば、近付(ちかづく)敵を切(きつ)て落す。其勢(そのいきほ)ひ参然(さんぜん)たるに辟易(へきえき)して、官軍(くわんぐん)数万(すまん)の士卒(じそつ)、已(すで)に開(ひら)き靡(なび)きぬとぞ見へたりける。 |
|
爰(ここ)に赤松の一族(いちぞく)に佐用(さよ)佐衛門三郎範家(のりいへ)とて、強弓(つよゆみ)の矢継早(やつぎばや)、野伏(のぶし)戦(いくさ)に心きゝて、卓宣(たくせん)公(こう)が秘(ひ)せし所を、我物(わがもの)に得たる兵(つはもの)あり。態(わざと)物具(もののぐ)を解(ぬい)で、歩立(かちだち)の射手(いて)に成(なり)、畔(くろ)を伝(つた)ひ、薮(やぶ)を潛(くぐつ)て、とある畔(くろ)の陰(かげ)にぬはれ臥(ふし)、大将に近付(ちかづい)て、一矢(ひとや)ねらはんとぞ待(まつ)たりける。尾張(をはりの)守(かみ)は、三方(さんぱう)の敵を追(おひ)まくり、鬼丸(おにまる)に着(つき)たる血を笠符(かさじるし)にて推拭(おしのご)ひ、扇(あふぎ)開仕(ひらきつか)ふて、思ふ事もなげに扣(ひか)へたる処を、範家(のりいへ)近々とねらひ寄(よつ)て引(ひき)つめて丁(ちやう)と射る。 其(その)矢思ふ矢坪(やつぼ)を不違、尾張(をはりの)守(かみ)が冑(かぶと)の真甲(まつかふ)のはづれ、眉間(みけん)の真中(まんなか)に当(あたつ)て、脳を砕(くだき)骨(ほね)を破(やぶつ)て、頚(くび)の骨のはづれへ、矢さき白く射出(いだし)たりける間、さしもの猛将(まうしやう)なれ共(ども)、此(この)矢一隻に弱(よわつ)て、馬より真倒(まつさかさま)にどうど落(おつ)、範家(のりいへ)箙(えびら)を叩(たたい)て矢呼(やさけび)を成(な)し、「寄手(よせて)の大将名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)をば、範家が只一矢(ひとや)に射殺(いころ)したるぞ、続けや人々。」と呼(よばは)りければ、引色(ひきいろ)に成(なり)つる官軍共(くわんぐんども)、是(これ)に機を直(なほ)し、三方(さんぱう)より勝時(かつどき)を作(つくつ)て攻合(せめあは)す。尾張(をはりの)守(かみ)の郎従(らうじゆう)七千(しちせん)余騎(よき)、しどろに成(なつ)て引(ひき)けるが、或(あるひ)は大将を打(うた)せて何(いづ)くへか可帰とて、引返(ひつかへし)て討死(うちじに)するもあり。或(あるひ)は深田(ふかた)に馬を馳(はせ)こうで、叶(かな)はで自害(じがい)するもあり。されば狐河(きつねがは)の端(はた)より鳥羽(とば)の今在家(いまざいけ)まで、其(その)道五十(ごじふ)余町(よちやう)が間には、死人(しにん)尺地(せきぢ)もなく伏(ふし)にけり。 |
|
■足利殿(あしかがどの)打越大江山事
追手(おふて)の合戦は、今朝(こんてう)辰刻(たつのこく)より始ま(ッ)て、馬煙(むまけぶり)東西に靡(なび)き、時(とき)の声天地(てんち)を響(ひび)かして攻合(せめあひ)けれ共(ども)、搦手(からめて)の大将足利殿(あしかがどの)は、桂河(かつらがは)の西の端(はた)に下(お)り居て、酒盛(さかもり)してぞおはしける。角(かく)て数刻(すこく)を経(へ)て後、大手の合戦に寄手(よせて)打負(うちまけ)て、大将已(すで)に被討ぬと告(つげ)たりければ、足利殿(あしかがどの)、「さらばいざや山を越(こえ)ん。」とて、各(おのおの)馬に打乗(うちのつ)て、山崎の方を遥(はるか)の余所(よそ)に見捨(みすて)て、丹波路(たんばぢ)を西へ、篠村(しのむら)を指(さし)て馬を早められけり。 爰(ここ)に備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)中吉(なかぎりの)十郎と、摂津国(つのくに)の住人(ぢゆうにん)に奴可(ぬかの)四郎とは、両陣の手合(てあはせ)に依(よつ)て搦手(からめて)の勢の中に在(あり)けるが、中吉(なかぎりの)十郎大江山(おいのやま)の麓にて、道より上手(うはて)に馬を打挙(うちあげ)て、奴可四郎を呼(よび)のけて云(いひ)けるは、「心得ぬ様(やう)哉(かな)、大手の合戦は火を散(ちらし)て、今朝の辰刻(たつのこく)より始(はじま)りたれば、搦手(からめて)は芝居(しばゐ)の長酒盛(ながさかもり)にてさて休(やみ)ぬ。結句(けつく)名越(なごや)殿(どの)被討給(たまひ)ぬと聞へぬれば、丹波路(たんばぢ)を指(さ)して馬を早め給ふは、此(この)人如何様(いかさま)野心(やしん)を挿給(さしはさみたまふ)歟(か)と覚(おぼゆ)るぞ。さらんに於ては、我等何(いづ)くまでか可相従。いざや是(これ)より引返(ひつかへし)て、六波羅殿(ろくはらどの)に此(この)由を申(まうさ)ん。」と云(いひ)ければ、奴可四郎、「いしくも宣(のたま)ひたり。我(われ)も事の体(てい)怪しくは存じながら、是(これ)も又如何なる配立(はいりふ)かある覧(らん)と、兎角(とかう)案じける間に、早(はや)今日(こんにち)の合戦には迦(はづ)れぬる事こそ安からね。 |
|
但(ただし)此人(このひと)敵に成給(なりたまひ)ぬと見ながら、只引返(ひつかへ)したらんは、余(あまり)に云甲斐(いふかひ)なく覚ゆれば、いざ一矢射て帰らん。」と云侭(いふまま)に、中差(なかざし)取(とつ)て打番(うちつがひ)、轟懸(とどろかけ)てかさへ打(うつ)て廻(まは)さんとしけるを、中吉(なかぎり)、「如何なる事ぞ。御辺(ごへん)は物に狂ふか。我等僅(わづか)に二三十騎にて、あの大勢に懸合(かけあひ)て、犬死(いぬじに)したらんは本意歟(か)。嗚呼(をご)の高名はせぬに不如、唯無事故引返(ひつかへし)て、後(のち)の合戦の為に命(いのち)を全(まつたう)したらんこそ、忠義を存(そんじ)たる者也(なり)けりと、後(のち)までの名も留(とど)まらんずれ。」と、再往(さいわう)制止(せいし)ければ、げにもとや思(おもひ)けん、奴可(ぬかの)四郎も中吉(なかぎり)も、大江山(おいのやま)より馬を引返(ひつかへ)して、六波羅(ろくはら)へこそ打帰(うちかへ)りけれ。彼等二人(ににん)馳参(はせさんじ)て事の由を申(まうし)ければ、両六波羅(りやうろくはら)は、楯鉾(たてほこ)とも被憑たりける名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)は被討ぬ。是(これ)ぞ骨肉(こつにく)の如くなれば、さりとも弐(ふたごころ)はおはせじと、水魚(すゐぎよ)の思を被成つる足利殿(あしかがどの)さへ、敵(てき)に成給(なりたまひ)ぬれば、憑(たの)む木下(このもと)に雨のたまらぬ心地(ここち)して、心細きに就(つけ)ても、今まで着纒(つきまと)ひたる兵共(つはものども)も、又さこそはあらめと、心の被置ぬ人もなし。 | |
■足利殿(あしかがどの)着御篠村則(すなはち)国人(くにうど)馳参(はせまゐる)事(こと)
去程(さるほど)に、足利殿(あしかがどの)篠村(しのむら)に陣を取(とつ)て、近国の勢を被催けるに、当国の住人(ぢゆうにん)に久下(くげの)弥三郎時重(ときしげ)と云(いふ)者、二百五十騎にて最前(まつさき)に馳(はせ)参る。其(その)旗の文(もん)、笠符(かさじるし)に皆一番(いちばん)と云(いふ)文字(もじ)を書(かい)たりける。足利殿(あしかがどの)是(これ)を御覧(ごらん)じて、怪しく覚(おぼ)しければ、高(かうの)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)師直(もろなほ)を被召て、「久下(くげ)の者共(ものども)が、笠璽(かさじるし)に一番と云(いふ)を書(かい)たるは、元来の家の文(もん)歟(か)、又是(これ)へ一番に参りたりと云(いふ)符(しるし)歟(か)。」と尋給(たづねたまひ)ければ、師直(もろなほ)畏(かしこまつ)て、「由緒(ゆゐしよ)ある文(もん)にて候。 彼が先祖、武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)久下(くげの)二郎重光(しげみつ)、頼朝(よりとも)大将殿(たいしやうどの)、土肥(とひ)の杉山(すぎやま)にて御旗(おんはた)を被揚て候(さふらひ)ける時、一番に馳(はせ)参じて候(さふらひ)けるを、大将殿(たいしやうどの)御感(ぎよかん)候(さふらひ)て、「若(もし)我(われ)天下を持(もた)たば、一番に恩賞を可行。」と被仰て、自(みづから)一番と云(いふ)文字を書(かい)てたび候(さふらひ)けるを、頓(やがて)其(その)家の文(もん)と成(なし)て候。」と答申(こたへまうし)ければ、「さては是(これ)が最初に参りたるこそ、当家の吉例(きちれい)なれ。」とて、御賞翫(ごしやうぐわん)殊に甚しかりけり。 |
|
元来高山寺(かうせんじ)に楯篭(たてごも)りたる足立(あだち)・荻野(をぎの)・小島(こじま)・和田・位田(ゐんでん)・本庄(ほんじやう)・平庄(ひらじやう)の者共(ものども)許(ばかり)こそ、今更(いまさら)人の下風(したて)に可立に非(あら)ずとて、丹波より若狭(わかさ)へ打越(うちこえ)て、北陸道(ほくろくだう)より責上(せめのぼ)らんとは企(くはだて)けれ。其外(そのほか)久下(くげ)・長沢・志宇知(しうち)・山内(やまのうち)・葦田(あしだ)・余田(よだ)・酒井(さかゐ)・波賀野(はがの)・小山(をやま)・波々伯部(はうかべ)、其外(そのほか)近国の者共(ものども)、一人も不残馳(はせ)参りける。 篠村(しのむら)の勢無程集(あつまつ)て、其数(そのかず)既(すで)に二万(にまん)三千(さんぜん)余騎(よき)に成(なり)にけり。六波羅(ろくはら)には是(これ)を聞(きい)て、「さては今度の合戦天下の安否(あんぴ)たるべし。若(もし)自然に打負(うちまく)る事あらば、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を取奉(とりたてまつつ)て、関東(くわんとう)へ下向(げかう)し、鎌倉(かまくら)に都を立(たて)て、重(かさね)て大軍を揚(あげ)、凶徒を可追討。」と評定有(あつ)て、去る三月より北方(きたのかた)の館(たち)を御所(ごしよ)にしつらひ、院内(ゐんだい)を行幸成(なし)奉らる。梶井(かぢゐの)二品(にほん)親王(しんわう)は天台(てんだいの)座主(ざす)にて坐(ましませ)ば、縦(たとひ)転反(てんへん)すとも、御身(おんみ)に於ては何の御怖畏(ごふゐ)か可有なれ共(ども)、当今(たうぎん)の御連枝(ごれんし)にて坐(ましませ)ば、且(しばし)は玉体に近付進(ちかづきまゐら)せて、宝祚(はうそ)の長久をも祈(いのり)申さんとにや、是(これ)も同(おなじ)く六波羅(ろくはら)へ入(いら)せ給ふ。 |
|
加之(しかのみならず)国母(こくぼ)・皇后(くわうぐう)・女院(にようゐん)・北政所(きたのまんどころ)・三台(さんたい)・九卿(きうけい)・槐棘(くわいきよく)・三家(さんか)の臣・文武百司(ぶんぶはくし)の官・並(ならびに)竹園(ちくゑん)門徒の大衆(だいしゆ)・北面(ほくめん)以下(いげ)諸家(しよけ)の侍(さぶらひ)・児(ちご)、女房達(にようばうたち)に至(いたる)まで我(われ)も々(われ)もと参集(まゐりあつまり)ける間、京中は忽(たちまち)にさびかへり、嵐の後(あと)の木葉(このは)の如く、己(おの)が様々(さまざま)散行(ちりゆけ)ば、白河(しらかは)はいつしか昌(さかえ)て、花一時(ひととき)の盛(さかり)を成せり。是(これ)も幾程(いくほど)の夢ならん、移り変る世の在様(ありさま)、今更被驚も理(ことわり)也(なり)。 「夫(それ)天子は四海(しかい)を以て為家」といへり。其(その)上(うへ)六波羅(ろくはら)とても都近き所なれば、東洛渭川(とうらくゐせん)の行宮(あんきゆう)、さまで御心(おんこころ)を可被令傷には非ざれども、此(この)君御治天(ごちてん)の後天下遂(つひ)に不穏、剰(あまつさへ)百寮忽(たちまち)に外都(ぐわいと)の塵に交(まじは)りぬれば、是(これ)偏(ひとへ)に帝徳(ていとく)の天に背(そむ)きぬる故(ゆゑ)也(なり)。と、罪一人(いちじん)に帰(き)して主上(しゆしやう)殊に歎(なげき)被思召ければ、常は五更の天に至(いたる)まで、夜(よん)のをとゞにも入(いら)せ給はず、元老(げんらう)智化(ちくわ)の賢臣共(けんしんども)を被召て、只■舜湯武(げうしゆんたうぶ)の旧き迹(あと)をのみ御尋(おんたづね)有(たづねあつ)て、会(かつ)て怪力(くわいりよく)乱神の徒(いたづら)なる事をば不被聞食。卯月(うづき)十六日は、中(なか)の申(さる)なりしか共(ども)、日吉(ひよし)の祭礼もなければ、国津御神(くにつみかみ)も浦さびて、御贄(みにへ)の錦鱗(きんりん)徒(いたづら)に湖水(こすゐ)の浪に撥辣(はつらつ)たり。 |
|
十七日(じふしちにち)は中の酉(とり)なれども、賀茂の御生所(みあれ)もなければ、一条大路(いちでうのおほぢ)人すみて、車を争ふ所もなし。銀面空(むな)しく塵(ちり)積(つもつ)て、雲珠(うんじゆ)光を失へり。「祭(まつり)は豊年にも不勝、凶年にも不減」とこそいへるに、開闢以来(かいびやくよりこのかた)無闕如両社の祭礼も、此(この)時に始(はじめ)て絶(たえ)ぬれば、神慮も如何と測(はかり)難く、恐有(おそれある)べき事共(ことども)也(なり)。さて官軍(くわんぐん)は五月七日京中に寄(よせ)て、合戦可有と被定ければ、篠村(しのむら)・八幡(やはた)・山崎の先陣の勢(せい)、宵より陣を取寄(とりよせ)て、西は梅津(うめづ)・桂(かつらの)里、南は竹田・伏見に篝(かがり)を焼(たき)、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)の両道は已(すで)に如此。又若狭路(わかさぢ)を経(へ)て、高山寺(かうせんじ)の勢共(せいども)鞍馬路(くらまぢ)・高雄(たかを)より寄(よす)るとも聞(きこゆ)也(なり)。 今は僅(わづか)に東山道許(とうせんだうばかり)こそ開(ひらき)たれども、山門猶野心(やしん)を含(ふく)める最中(さいちゆう)なれば、勢多(せた)をも指塞(さしふさ)ぎぬらん。篭(こ)の中の鳥、網代(あじろ)の魚(うを)の如くにて、可漏方もなければ、六波羅(ろくはら)の兵共(つはものども)、上(うへ)には勇める気色(きしよく)なれ共(ども)、心は下(した)に仰天(ぎやうてん)せり。彼雲南万里(かのうんなんばんり)の軍(いくさ)、「戸(へべ)に有三丁抽一丁」といへり。況(いはん)や又千葉屋(ちはや)程の小城(こじろ)一(ひとつ)を責(せめ)んとて、諸国の勢(せい)数(かず)を尽(つく)して被向たれ共(ども)、其(その)城未(いまだ)落(おちざる)先(さき)に禍(わざはひ)既(すで)に蕭牆(せうしやう)の中(うち)より出(いで)て、義旗(ぎき)忽(たちまち)に長安の西に近付(ちかづき)ぬ。 |
|
防がんとするに勢(せい)少なく救はんとするに道塞(ふさが)れり。哀(あは)れ兼(かね)てよりかゝるべしとだに知(しり)たらば、京中の勢(せい)をばさのみすかすまじかりし物をと、両六波羅(りやうろくはら)を始(はじめ)として後悔すれ共(ども)甲斐ぞなき。兼々(かねがね)六波羅(ろくはら)に議(ぎ)しけるは、「今度(こんど)諸方の敵(かたき)牒合(てふじあはせ)て、大勢にて寄(よす)るなれば、平場(ひらば)の合戦許(ばかり)にては叶(かなふ)まじ。要害(えうがい)を構(かまへ)て時々(じじ)馬の足を休め、兵(つはもの)の機(き)を扶(たすけ)て、敵近付(ちかづか)ば、懸出々々(かけいでかけいで)可戦。」とて、六波羅(ろくはら)の館(たち)を中(なか)に篭(こめ)て、河原面(かはらおもて)七八町(しちはちちやう)に堀を深く掘(ほつ)て鴨川を懸入(かけいれ)たれば、昆明池(こんめいち)の春(はる)の水西日(せいじつ)を沈(しづめ)て、■淪(いんりん)たるに不異。 残(のこり)三方(さんぱう)には芝築地(しばついぢ)を高く築(つい)て、櫓(やぐら)をかき双(なら)べ、逆木(さかもぎ)を重(しげ)く引(ひい)たれば、城塩州(しろえんしうの)受降城(じゆかうじやう)も角(かく)やと覚へてをびたゝし。誠(まこと)に城の構(かまへ)は、謀(はかりごと)あるに似たれ共(ども)智(ち)は長ぜるに非(あら)ず。「剣閣雖高憑之者蹶。非所以深根固蔕也(なり)。洞庭雖浚負之者北。非所以愛人治国也(なり)。」とかや。今已(すで)に天下二(ふた)つに分れて、安危(あんき)此(この)一挙に懸(かけ)たる合戦なれば、粮(かて)を捨て舟を沈(しづむ)る謀(はかりごと)をこそ致さるべきに、今日より軈(やが)て後足(うしろあし)を蹈(ふん)で纔(わづか)の小城に楯篭(たてこも)らんと、兼(かね)て心をつかはれける、武略の程こそ悲しけれ。 |
|
■高氏被篭願書於篠村八幡宮事
去程(さるほど)に、明(あく)れば五月七日の寅刻(とらのこく)に、足利(あしかが)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)高氏朝臣、二万五千(にまんごせん)余騎(よき)を率(そつ)して、篠村(しのむら)の宿(しゆく)を立(たち)給ふ。夜(よ)未だ深かりければ、閑(しづか)に馬を打(うつ)て、東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当(あたつ)て、陰森(いんしん)たる故柳疎槐(こりうそくわい)の下(もと)に社壇(しやだん)有(あり)と覚(おぼえ)て、焼荒(たきすさみ)たる燎(にはび)の影の風(ほのか)なるに、宜祢(きね)が袖振(ふる)鈴(すず)の音(おと)幽(かすか)に聞へて神さびたり。何(いか)なる社(やしろ)とは知(しら)ねども、戦場に赴く門出(かどで)なればとて、馬より下(おり)て甲(かぶと)を脱(ぬぎ)て、叢祠(ほこら)の前に跪(ひざまつ)き、「今日の合戦無事故、朝敵を退治する擁護(おうご)の力を加へ給へ。」と祈誓(きせい)を凝(こら)してぞ坐(おはし)ける。 時に賽(かへりまうし)しける巫(かんなぎ)に、「此社(このやしろは)如何なる神を崇(あがめ)奉りたるぞ。」と問ひ給(たまひ)ければ、「是(これ)は中比(なかごろ)八幡(はちまん)を遷(うつ)し進(まゐ)らせてより以来(このかた)、篠村の新八幡(しんはちまん)と申(まうし)候也(なり)。」とぞ答申(こたへまうし)ける。足利殿(あしかがどの)、「さては当家尊崇(そんそう)の霊神にて御坐(おはしま)しけり。機感(きかん)最(もつと)も相応せり。宜(よろし)きに随(したがつ)て一紙(いつし)の願書(ぐわんじよ)を献(たてまつら)ばや。」と宣ひければ、疋壇妙玄(ひきだのめうげん)、鎧の引合(ひきあはせ)より矢立(やたて)の硯(すずり)を取出して、筆を引(ひか)へて是(これ)を書(かく)。 其詞(そのことば)に曰(いはく)敬白祈願事夫以八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)者、聖代前列之宗廟、源家中興之霊神也(なり)。本地内証之月、高懸于十万(じふまん)億土之天、垂迹外融之光、明冠於七千(しちせん)余座之上。触縁雖分化、聿未享非礼之奠、垂慈雖利生、偏期宿正直之頭。偉哉為其徳矣。挙世所以尽誠也(なり)。爰承久以来、当棘累祖之家臣、平氏末裔之辺鄙、恣執四海(しかい)之権柄、横振九代之猛威。剰今遷聖主於西海之浪、困貫頂於南山之雲。悪逆之甚前代未聞。是為朝敵之最。為臣之道不致命乎。又為神敵之先。為天之理不下誅乎。高氏苟見彼積悪、未遑顧匪躬、将以魚肉菲、偏当刀俎之利、義卒勠力、張旅於西南之日、上将軍鳩嶺、下臣軍篠村。共在于瑞籬之影、同出乎擁護之懐。函蓋相応。誅戮何疑。所仰百王鎮護之神約也(なり)。懸勇於石馬之汗。所憑累代帰依之(これによつて)家運也(なり)。寄奇於金鼠之咀。神将与義戦耀霊威。徳風加草而靡敵於千里之外、神光代剣而得勝於一戦(いつせん)之中。丹精有誠、玄鑒莫誤矣。敬白元弘三年五月七日源朝臣高氏敬白とぞ読上(よみあげ)たりける。 |
|
文章玉を綴(つづつ)て、詞(ことば)明かに理濃(こまやか)なれば、神も定(さだめ)て納受し御坐(おはしま)す覧(らん)と、聞(きく)人皆信(しん)を凝(こら)し、士卒悉(ことごとく)憑(たのみ)を懸奉(かけたてまつり)けり。足利殿(あしかがどの)自(みづから)筆を執(とつ)て判を居(すゑ)給ひ、上差(うはざし)の鏑(かぶら)一筋(ひとすぢ)副(そへ)て、宝殿(はうでん)に被納ければ、舎弟直義(ただよし)朝臣を始(はじめ)として、吉良(きら)・石塔(いしだふ)・仁木(につき)・細川・今河・荒川(あらかは)・高(かう)・上杉、以下相順(あひしたが)ふ人々、我(われ)も々(われ)もと上矢(うはや)一(ひとつ)づゝ献(たてまつ)りける間、其箭(そのや)社壇(しやだん)に充満(みちみち)て、塚(つか)の如くに積挙(つみあげ)たり。 夜(よ)既(すで)に明(あけ)ければ前陣進(すすん)で後陣を待(まつ)。大将大江山(おいのやま)の峠を打越給(うちこえたまひ)ける時、山鳩一番(ひとつがひ)飛来(とびきたつ)て白旗(しらはた)の上に翩翻(へんぽん)す。「是(これ)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の立翔(たちかけつ)て護(まぼ)らせ給ふ験(しるし)也(なり)。此(この)鳩の飛行(とびゆか)んずるに任(まかせ)て可向。」と、被下知ければ、旗差(はたさし)馬を早めて、鳩の迹(あと)に付(つい)て行(ゆく)程に、此(この)鳩閑(しづか)に飛(とん)で、大内(たいだい)の旧迹(きうせき)、神祇官(じんぎくわん)の前なる樗木(あふちのき)にぞ留(とま)りける。官軍(くわんぐん)此奇瑞(このきずゐ)に勇(いさん)で、内野(うちの)を指(さし)て馳向(はせむかひ)ける道すがら、敵五騎十騎旗を巻き甲(かぶと)を脱(ぬい)で降参す。足利殿(あしかがどの)篠村を出給(いでたまひ)し時は、僅(わづか)に二万(にまん)余騎(よき)有(あり)しが、右近馬場(うこんのばば)を過(すぎ)給へば、其(その)勢(せい)五万(ごまん)余騎(よき)に及べり。 |
|
■六波羅(ろくはら)攻(ぜめの)事(こと)
去程(さるほど)に六波羅(ろくはら)には、六万(ろくまん)余騎(よき)を三手に分(わけ)て、一手をば神祇官(じんぎくわん)の前に引(ひか)へさせて、足利殿(あしかがどの)を防がせらる。一手をば東寺へ差向(さしむけ)て、赤松を防がせらる。一手をば伏見の上へ向(むけ)て、千種(ちくさ)殿(どの)の被寄竹田・伏見を被支。巳(み)の刻(こく)の始(はじめ)より、大手搦手(からめて)同時に軍(いくさ)始ま(ッ)て、馬煙(むまけぶり)南北に靡(なび)き時(とき)の声天地を響(ひび)かす。内野(うちの)へは陶山(すやま)と河野(かうの)とに宗徒(むねと)の勇士二万(にまん)余騎(よき)を副(そへ)て被向たれば、官軍(くわんぐん)も無左右不懸入、敵も輒(たやすく)不懸出両陣互に支(ささへ)て、只矢軍(やいくさ)に時をぞ移しける。 爰(ここ)に官軍(くわんぐん)の中(なか)より、櫨匂(はじにほひ)の鎧に、薄紫の母衣(ほろ)懸(かけ)たる武者(むしや)只一騎、敵の前に馬を懸居(かけすゑ)て、高声(かうじやう)に名乗(なのり)けるは、「其(その)身人数(ひとかず)ならねば、名を知(しる)人よもあらじ。是(これ)は足利殿(あしかがどの)の御内(みうち)に、設楽(しだら)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)と申(まうす)者也(なり)。六波羅殿(ろくはらどの)の御内(みうち)に、我と思はん人あらば、懸合(かけあひ)て手柄の程をも御覧(ごらん)ぜよ。」と云侭(いふまま)に、三尺(さんじやく)五寸(ごすん)の太刀を抜(ぬき)、甲(かぶと)の真向(まつかう)に差簪(さしかざ)し、誠(まこと)に矢所(やつぼ)少(すくな)く馬を立(たて)て引(ひか)へたり。其勢(そのいきほ)ひ一騎当千とみへたれば、敵御方(みかた)互に軍(いくさ)を止(や)めて見物す。 爰(ここ)に六波羅(ろくはら)の勢(せい)の中より年の程五十(ごじふ)計(ばかり)なる老武者の、黒糸(くろいと)の鎧に、五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)て、白栗毛(しらくりげ)の馬に青総懸(あをふさかけ)て乗(のつ)たるが、馬をしづ/゛\と歩(あゆ)ませて、高声(かうじやう)に名乗(なのり)けるは、「其(その)身雖愚蒙、多年奉行(ぶぎやう)の数(かず)に加は(ッ)て、末席(まつせき)を汚(けが)す家なれば、人は定(さだめ)て筆(ふで)とりなんど侮(あなどつ)て、あはぬ敵とぞ思ひ給ふ覧(らん)。雖然我等が先祖をいへば、利仁(としひとの)将軍の氏族(しぞく)として、武略累葉(ぶりやくるゐえふ)の家業(かげふ)也(なり)。今某(それがし)十七代の末孫(ばつそん)に、斎藤伊予(いよの)房(ばう)玄基(げんき)と云(いふ)者也(なり)。今日(けふ)の合戦敵御方(みかた)の安否(あんぴ)なれば、命(いのち)を何の為に可惜。死残(しにのこ)る人あらば、我(わが)忠戦を語(かたつ)て子孫に留(とど)むべし。」と云捨(いひすて)て、互に馬を懸合(かけあは)せ、鎧の袖と々(そで)とを引違(ひきちが)へて、むずと組(くん)でどうど落つ。設楽(しだら)は力勝(まさ)りなれば、上(うへ)に成(なつ)て斎藤が頚を掻く。斎藤は心早(はやき)者なりければ、挙様(あげさま)に設楽(しだら)を三刀(みかたな)刺(さ)す。何(いづ)れも剛(がう)の者なりければ、死して後までも、互に引組(ひつくつ)たる手を不放、共に刀を突立(つきたて)て、同じ枕にこそ臥(ふし)たりけれ。 |
|
又源氏の陣より、紺(こん)の唐綾威(からあやをどし)の鎧に、鍬形(くはがた)打(うつ)たる甲(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、五尺(ごしやく)余(あまり)の太刀を抜(ぬい)て肩に懸(かけ)、敵の前(まへ)半町計(ばかり)に馬を駈寄(かけよせ)て、高声(かうじやう)に名乗(なのり)けるは、「八幡(はちまん)殿(どの)より以来(このかた)、源氏代々(だいだい)の侍(さぶらひ)として、流石(さすが)に名は隠(かくれ)なけれ共(ども)、時に取(とつ)て名を被知ねば、然(しかる)べき敵に逢(あひ)難し。是(これ)は足利殿(あしかがどの)の御内(みうち)に大高(だいかうの)二郎重成(しげなり)と云(いふ)者也(なり)。先日度々(どど)の合戦に高名したりと聞ゆる陶山(すやま)備中(びつちゆうの)守(かみ)・河野対馬(つしまの)守(かみ)はおはせぬか、出合(いであひ)給へ。打物(うちもの)して人に見物せさせん。」と云侭(いふまま)に、手縄(たづな)かいくり、馬に白沫(しらあわ)嚼(かま)せて引(ひか)へたり。 陶山(すやま)は東寺(とうじ)の軍(いくさ)強しとて、俄(にはか)に八条へ向ひたりければ此(この)陣にはなし。河野対馬(つしまの)守(かみ)許(ばかり)一陣に進(すすん)で有(あり)けるが、大高(たいかう)に詞(ことば)を被懸て、元来(もとより)たまらぬ懸武者(かけむしや)なれば、なじかは少しもためらうべき、「通治(みちはる)是(これ)に有(あり)。」と云侭(いふまま)に、大高(だいかう)に組(くま)んと相近付(あひちちかづ)く。是(これ)を見て河野対馬(つしまの)守(かみ)が猶子(いうし)に、七郎通遠(みちとほ)とて今年十六(じふろく)に成(なり)ける若武者(わかむしや)、父を討(うた)せじとや思(おもひ)けん、真前(まつさき)に馳塞(はせふさがつ)て、大高(たいかう)に押双(おしならべ)てむずと組(くむ)。大高・河野七郎が総角(あげまき)を掴(つかん)で中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、「己(おの)れ程の小者(こもの)と組(くん)で勝負はすまじきぞ。」とて、差(さし)のけて鎧の笠符(かさじるし)をみるに、其文(そのもん)、傍折敷(そばをしき)に三文字を書(かい)て着(つけ)たりけり。 さては是(これ)も河野が子か甥(をひ)歟(か)にてぞ有(ある)らんと打見(うちみ)て、片手打(かたてうち)の下切(さげきり)に諸膝(もろひざ)不懸切て落し、弓(ゆん)だけ三杖(みつゑ)許(ばかり)投(なげ)たりける。対馬(つしまの)守(かみ)最愛(さいあい)の猶子(いうし)を目の前に討(うた)せて、なじかは命を可惜、大高(たいかう)に組(くま)んと諸鐙(もろあぶみ)を合(あはせ)て馳懸(はせかか)る処に、河野が郎等共(らうどうども)是(これ)を見て、主(しゆ)を討(うた)せじと三百(さんびやく)余騎(よき)にてをめゐて懸る。源氏又大高を討(うた)せじと、一千(いつせん)余騎(よき)にて喚(をめい)て懸る。源平互に入乱(いりみだれ)て黒煙(くろけぶり)を立(たて)て責(せめ)戦ふ。官軍(くわんぐん)多(おほく)討(うた)れて内野(うちの)へはつと引(ひく)。源氏荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦ふに、六波羅勢(ろくはらぜい)若干(そくばく)討れて河原(かはら)へさつと引(ひけ)ば、平氏荒手を入替(いれかへ)て、此(ここ)を先途(せんど)と戦ふ。一条・二条(にでう)を東西へ、追(おつ)つ返(かへし)つ七八度が程ぞ揉合(もみあ)ひたる。源平両陣諸共(もろとも)に、互に命(いのち)を惜(をし)まねば、剛臆(がうおく)何(いづ)れとは見へざりけれ共(ども)、源氏は大勢なれば、平氏遂に打負(うちまけ)て、六波羅(ろくはら)を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。 |
|
東寺へは、赤松入道円心、三千(さんぜん)余騎(よき)にて寄懸(よせかけ)たり。楼門(ろうもん)近く成(なり)ければ、信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)、鐙(あぶみ)踏張(ふんばり)左右を顧(かへりみ)て、「誰かある、あの木戸、逆木(さかもぎ)、引破(ひきやぶつ)て捨(すて)よ。」と下知(げぢ)しければ、宇野(うの)・柏原(かしはばら)・佐用(さよ)・真島(ましま)の早(はや)り雄(を)の若者共(わかものども)三百(さんびやく)余騎(よき)、馬を乗捨(のりすて)て走り寄り、城の構(かまへ)を見渡せば、西は羅城門(らしやうもん)の礎(いしずゑ)より、東は八条河原(はつでうがはら)辺(へん)まで、五六八九寸の琵琶(びは)の甲(かふ)、安郡(やすのこほり)なんどを鐫貫(ゑりぬい)て、したゝかに屏(へい)を塗(ぬり)、前には乱杭(らんぐひ)・逆木(さかもぎ)を引懸(ひつかけ)て、広さ三丈余(あまり)に堀をほり、流水(りうすゐ)をせき入たり。 飛漬(とびひた)らんとすれば、水の深さの程を不知。渡らんとすれば橋を引(ひき)たり。如何(いかが)せんと案煩(あんじわずら)ひたる処に、播磨の国の住人(ぢゆうにん)妻鹿(めがの)孫三郎(まごさぶらう)長宗(ながむね)馬より飛(とん)で下(おり)、弓を差(さし)をろして、水の深さを探るに、末弭(うらはず)僅(わづか)に残りたり。さては我長(わがたけ)は立(たた)んずる物を、と思ひければ、五尺(ごしやく)三寸(さんずん)の太刀を抜(ぬい)て肩に掛(かけ)、貫脱(つらぬきぬい)で抛(なげ)すて、かつはと飛漬(とびひた)りたれば、水は胸板(むないた)の上へも不揚、跡(あと)に続(つづ)ひたる武部(たけべの)七郎是(これ)を見て、「堀は浅かりけるぞ。」とて、長(たけ)五尺(ごしやく)許(ばかり)なる小男(こをとこ)が、無是非飛入(とびいり)たれば、水は甲(かぶと)をぞ越(こえ)たりける。 長宗(ながむね)きつと見返(みかへつ)て、「我総角(わがあげまき)に取着(とりつい)てあがれ。」と云(いひ)ければ、武部(たけべの)七郎、妻鹿(めが)が鎧の上帯(うはおび)を蹈(ふん)で肩に乗揚(のりあが)り、一刎(ひとはね)刎(はね)て向(むかひ)の岸にぞ着(つき)ける。妻鹿(めが)から/\と笑(わらつ)て、「御辺(ごへん)は我を橋にして渡(わたり)たるや。いで其屏(そのへい)引破(ひきやぶつ)て捨(すて)ん。」と云侭(いふまま)に、岸より上へづんど刎揚(はねあが)り、屏柱(へいばしら)の四五寸(しごすん)余(あまり)て見へたるに手を懸(かけ)、ゑいや/\と引(ひく)に一二丈掘挙(ほりあ)げて、山の如くなる揚土(あげつち)、壁(かべ)と共に崩れて、堀は平地に成(なり)にけり。是(これ)を見て、築垣(ついがき)の上に三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)掻双(かきなら)べたる櫓(やぐら)より、指攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)射ける矢、雨の降(ふる)よりも猶滋(しげ)し。 |
|
長宗(ながむね)が鎧の菱縫(ひしぬひ)、甲(かぶと)の吹返(ふきかへし)に立(たつ)所の矢、少々折懸(をりかけ)て、高櫓(たかやぐら)の下へつ走入(はしりい)り、両金剛(こんがう)の前に太刀を倒(さかさま)につき、上咀(うはぐひ)して立(たち)たるは、何(いづ)れを二王、何れを孫三郎(まごさぶらう)とも分兼(わけかね)たり。東寺(とうじ)・西八条・針(はり)・唐橋(からはし)に引(ひか)へたる、六波羅(ろくはら)の兵(つはもの)一万余騎(よき)、木戸口の合戦強(つよ)しと騒(さわい)で、皆一手に成(なり)、東寺の東門(とうもん)の脇より、湿雲(しふうん)の雨を帯(おび)て、暮山(ぼざん)を出(いで)たるが如(ごとく)、ましくらに打(うつ)て出(いで)たり。 妻鹿(めが)も武部(たけべ)もすはや被討ぬと見へければ、佐用(さよ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・得平(とくひらの)源太・別所(べつしよの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・同(おなじき)五郎左衛門(ごらうざゑもん)相懸(あひがか)りに懸(かかり)て面(おもて)も不振戦ふたり。「あれ討(うた)すな殿原(とのばら)。」とて、赤松入道円心(ゑんしん)、嫡子(ちやくし)信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・次男筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・三男律師(りつし)則祐(そくいう)・真島(まじま)・上月(かうづき)・菅家(くわんけ)・衣笠(きぬがさ)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)てぞ懸りける。六波羅(ろくはら)の勢一万余騎(よき)、七縦八横(しちじゆうはちわう)に被破て、七条河原(しちでうがはら)へ被追出。一陣破(やぶれ)て残党(ざんたう)全(まつた)からざれば、六波羅(ろくはら)の勢(せい)竹田(たけだ)の合戦にも打負(うちまけ)、木幡(こはた)・伏見の軍(いくさ)にも負(まけ)て、落行(おちゆく)勢(せい)散々(ちりぢり)に、六波羅(ろくはら)の城へ逃篭(にげこも)る。 勝(かつ)に乗(のつ)て逃(にぐる)を追ふ四方(しはう)の寄手(よせて)五万(ごまん)余騎(よき)、皆一所(いつしよ)に寄(よせ)て、五条の橋爪(はしづめ)より七条河原(しちでうがはら)まで、六波羅(ろくはら)を囲(かこみ)ぬる事幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数(かず)を不知。されども東一方をば態(わざと)被開たり。是(これ)は敵の心を一(ひとつ)になさで、輒(たやす)く責落(せめおと)さん為の謀(はかりごと)也(なり)。千種頭(ちぐさのとうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣、士卒に向(むかつ)て被下知けるは、「此(この)城尋常(よのつね)の思(おもひ)を成(なし)て延々(のびのび)に責(せめ)ば、千葉屋(ちはや)の寄手(よせて)彼(かしこ)を捨(すて)て、此後攻(ここのうしろづめ)を仕(し)つと覚(おぼゆ)るぞ。諸卒(しよそつ)心を一(ひとつ)にして一時(いちじ)が間に可責落。」と被下知ければ、出雲・伯耆(はうき)の兵共(つはものども)、雑車(ざふぐるま)二三百(にさんびやく)両取集(とりあつめ)て、轅(ながえ)と々(ながえ)とを結合(ゆひあは)せ、其(その)上(うへ)に家を壊(こぼつ)て山の如くに積挙(つみあげ)て、櫓(やぐら)の下へ指寄(さしよせ)、一方の木戸を焼破(やきやぶり)けり。 |
|
爰(ここ)に梶井(かぢゐの)宮(みや)の御門徒(ごもんと)、上林房(じやうりんばう)・勝行房(しようぎやうばう)の同宿共(どうじゆくども)、混甲(ひたかぶと)にて三百(さんびやく)余人(よにん)、地蔵堂の北の門より、五条の橋爪(はしづめ)へ打(うつ)て出(いで)たりける間、坊門(ばうもんの)少将、殿(とのの)法印の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)、僅(わづか)の勢(せい)にまくり立(たて)られて、河原(かはら)三町を追越(おつこさ)る。されども山徒(さんと)さすがに小勢(こぜい)なれば、長追(ながおひ)しては悪(あし)かりなんとて、又城の中へ引篭(ひきこも)る。 六波羅(ろくはら)に楯篭(たてこも)る所の軍勢雖少と、其(その)数五万騎に余れり。此(この)時若(もし)志を一(ひとつ)にして、同時に懸出(かけいで)たらましかば、引立(ひきたつ)たる寄手共(よせてども)、足をためじとみへしか共(ども)、武家可亡運の極(きわ)めにや有(あり)けん、日来(ひごろ)名を顕(あらは)せし剛(がう)の者といへ共(ども)不勇、無双(ぶさうの)強弓精兵(つよゆみせいびやう)と被云者も弓を不引して、只あきれたる許(ばかり)にて、此彼(ここかしこ)に村立(むらたつ)て、落支度(おちじたく)の外(ほか)は儀勢(ぎせい)もなし。名を惜(をし)み家を重(おもん)ずる武士共(ぶしども)だにも如此。何況(いかにいはんや)主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を始進(はじめまゐ)らせて、女院(にようゐん)・皇后(くわうごう)・北政所(きたのまんどころ)・月卿(げつけい)・雲客(うんかく)・児(ちご)・女童(をんなわらは)・女房達(にようばうたち)に至るまで、軍(いくさ)と云(いふ)事(こと)は未だ目にも見玉(たま)はぬ事なれば、時(とき)の声矢叫(やさけび)の音(おと)に懼(おぢ)をのゝかせ給ひて、「こは如何(いかが)すべき。」と、消入計(きえいるばかり)の御気色(おんきしよく)なれば、げにも理(ことわり)也(なり)。 と御痛敷(おんいたはしき)様(さま)を見進(まゐ)らするに就(つけ)ても、両六波羅(りやうろくはら)弥(いよいよ)気を失(うしなつ)て、惘然(ばうぜん)の体(てい)也(なり)。今まで無弐者とみへつる兵なれども、加様(かやう)に城中の色めきたる様(さま)を見て、叶はじとや思ひけん、夜に入(いり)ければ、木戸を開(ひらき)逆木(さかもぎ)を越(こえ)て、我れ先にと落行(おちゆき)けり。義を知(しり)命を軽(かろん)じて残留(のこりとどま)る兵(つはもの)、僅(わづか)に千騎(せんぎ)にも不足見へにけり。 |
|
■主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)御沈落(ごちんらくの)事(こと)
爰(ここ)に糟谷(かすや)三郎宗秋(むねあき)、六波羅殿(ろくはらどの)の前に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「御方(みかた)の御勢(おんぜい)次第に落(おち)て、今は千騎(せんぎ)にたらぬ程に成(なつ)て候。此(この)御勢にて大敵を防がん事は叶はじとこそ覚へ候へ。東(ひがし)一方(いつぱう)をば敵未だ取(とり)まはし候はねば、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を奉取て、関東(くわんとう)へ御下候(くだりさふらふ)て後(のち)、重(かさね)て大勢を以て、京都を被責候へかし。佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)、勢多(せた)の橋を警固して候を被召具ば、御勢も不足(ふそく)候まじ。時信(ときのぶ)御伴(おんとも)仕る程ならば、近江(あふみの)国(くに)に於ては手差(てさす)者は候まじ。美濃(みの)・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)には御敵(おんてき)有(あり)とも承(うけたまは)らねば、路次(ろし)は定(さだめ)て無為(ぶゐ)にぞ候はんずらん。 鎌倉(かまくら)に御着候(つきさふらひ)なば、逆徒(ぎやくと)の退治(たいぢ)踵(くびす)を不可回、先(まづ)思召立(おぼしめしたち)候へかし。是程(これほど)にあさまなる平城(ひらじやう)に、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を篭進(こめまゐ)らせて、名将匹夫(ひつぷ)の鋒(きつさき)に名を失はせ給はん事(こと)、口惜(くちをし)かるべき事に候はずや。」と、再三強(しひ)て申(まうし)ければ、両六波羅(りやうろくはら)げにもとや被思けん、「さらば先(まづ)、女院(にようゐん)・皇后・北政所(きたのまんどころ)を始進(はじめまゐら)せて、面々(めんめん)の女性(によしやう)少(をさな)き人々を、忍びやかに落して後(のち)、心閑(しづか)に一方を打破(うちやぶつ)て落(おつ)べし。」と評定(ひやうぢやう)有(あつ)て、小串(こぐし)五郎兵衛(ごらうびやうゑの)尉(じよう)を以て、此(この)由院(ゐん)・内(だい)へ被申たりければ、国母(こくぼ)・皇后・女院(にようゐん)・北政所(きたのまんどころ)・内侍(ないし)・上童(うへわらは)・上臈(じやうらふ)女房達(にようばうたち)に至(いたる)まで、城中に篭(こも)りたるが恐(おそろし)さに、思はぬ別(わかれ)の悲しさも、後(のち)何(いか)に成行(なりゆか)んずる様(やう)をも不知。歩跣(かちはだし)にて我先(われさき)にと迷出(まよひいで)給ふ。只金谷園裡(きんこくゑんり)の春(はる)の花、一朝(いつてう)の嵐に被誘て、四方(しはう)の霞に散行(ちりゆき)し、昔の夢に不異。 |
|
越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)北(きた)の方(かた)に向(むかつ)て宣ひけるは、「日来(ひごろ)の間は、縦(たとひ)思の外(ほか)に都を去(さる)事(こと)有(あり)共、何(いづ)くまでも伴(ともな)ひ申さんとこそ思ひつれ共(ども)、敵東西に満(みち)て、道を塞(ふさ)ぎぬと聞ゆれば、心安く関東(くわんとう)まで落延(おちのび)ぬとも不覚(おぼえず)。御事(おこと)は女性(にやしやう)の身なれば苦しかるまじ。松寿(まつじゆ)は未(いまだ)幼稚なれば、敵設(たとひ)見付(みつけ)たりとも誰(た)が子共(とも)よもしらじ。只今の程に、夜(よ)に紛(まぎ)れて何方(いづかた)へも忍出給(しのびいでたまひ)て、片辺土(かたへんど)の方にも身を隠し、暫(しばら)く世の静まらん程を待(まち)給ふべし。道の程事故(ことゆゑ)なく関東(くわんとう)に着(つき)なば、頓(やが)て御迎(むかひ)に人を可進す。若(もし)又我等道にて被討ぬと聞(きき)給はゞ、如何なる人にも相馴(あひなれ)て、松寿(まつじゆ)を人と成し、心付(つき)なば僧に成して、我後世(わがごせ)を問(とは)せ給へ。」と心細げに云置(いひおい)て、泪(なみだ)を流(ながし)て立(たち)給ふ。 北(きた)の方(かた)、越後(ゑちごの)守(かみ)の鎧の袖を引(ひか)へて、「などや角(かく)うたてしき言葉(ことのは)に聞へ侍(はんべ)るぞや。此折節(このをりふし)少(をさな)き者なんど引具(ひきぐ)して、しらぬ傍(あたり)にやすらはゞ、誰か落人(おちうど)の其方様(そのかたさま)と思はざらん。又日比(ひごろ)より知(しつ)たる人の傍(あたり)に立宿(たちやど)らば、敵に捜し被出て、我(わが)身の恥を見(みる)のみにあらず、少(をさな)き者の命をさへ失はん事こそ悲しけれ。道にて思(おもひ)の外(ほか)の事あらば、そこにてこそ共に兎(と)も角(かく)も成(なり)はてめ。憑(たの)む陰(かげ)なき木(こ)の下(もと)に、世を秋風の露の間(ま)も、被棄置進(まゐ)らせては、ながらうべき心地(ここち)もせず。」と、泣悲(なきかなし)み給(たまひ)ければ、越後(ゑちごの)守(かみ)も心は猛(たけ)しといへども、流石(さすが)に岩木(いはき)の身ならねば、慕ふ別(わかれ)を捨兼(すてかね)て、遥(はるか)に時をぞ移されける。昔漢(かん)の高祖(かうそ)と楚(そ)の項羽(かうう)と戦ふ事七十(しちじふ)余度(よど)也(なり)。 |
|
しに、項羽(かうう)遂に高祖(かうそ)に被囲て、夜(よ)明(あけ)ば討死せんとせし時に、漢の兵四面(しめん)にして皆楚歌(そか)するを聞(きい)て、項羽(かうう)則(すなはち)帳中(ちやうちゆう)に入り、其婦人(そのふじん)虞氏(ぐし)に向(むかつ)て、別(わかれ)を慕(した)ひ悲(かなし)みを含んで、自(みづから)歌(うたを)作(つくつ)て云(いはく)、力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。々々々可奈何。虞氏兮々々々奈若何。と悲歌慷慨(ひかかうがい)して、項羽(かうう)泪(なみだ)を流し給(たまひ)しかば、虞氏悲(かなし)みに堪兼(たへかね)て、則(すなはち)自(みづから)剣(けん)の上に伏(ふ)し、項羽(かうう)に先立(さきだつ)て死にけり。項羽(かうう)明(あく)る日の戦(たたかひ)に、二十八騎を伴(ともなひ)て、漢の軍(ぐん)四十万騎(しじふまんぎ)を懸破(かけやぶ)り、自(みづから)漢の将軍三人(さんにん)が首(くび)を取(とつ)て、被討残たる兵に向(むかつ)て、「我(われ)遂(つひ)に漢の高祖(かうそ)が為に被亡ぬる事戦の罪に非(あら)ず、天我を亡(ほろぼ)せり。」と、自(みづから)運を計(はかつ)て遂に烏江(をうがう)の辺(へん)にして自害したりしも、角(かく)やと被思知て泪を落さぬ武士(ぶし)はなし。 南方(みなみのかた)左近(さこんの)将監(しやうげん)時益(ときます)は、行幸(ぎやうがう)の御前(おんさき)を仕(つかまつつ)て打(うち)けるが、馬に乍乗北方(きたのかた)越後(ゑちごの)守(かみ)の中門(ちゆうもんの)際(きは)まで打寄せて、「主上(しゆしやう)早(はや)寮の御馬(おんむま)に被召て候に、などや長々敷(ながながしく)打立(うちたた)せ給はぬぞ。」と云捨(いひすて)て打出(うちいで)ければ、仲時(なかとき)無力鎧の袖に取着(とりつき)たる北(きた)の方(かた)少(をさな)き人を引放(ひきはな)して、縁(えん)より馬に打乗り、北の門を東へ打出(うちいで)給へば、被捨置人々、泣々(なくなく)左右へ別(わかれ)て、東の門より迷出(まよひいで)給ふ。行々(ゆくゆく)泣悲(なきかなし)む声遥(はるか)に耳に留(とどまつ)て、離れもやらぬ悲(かなし)さに、落行(おちゆく)前(さき)の路暮(くれ)て、馬に任(まかせ)て歩(あゆま)せ行(ゆく)。是(これ)を限(かぎり)の別(わかれ)とは互に知(しら)ぬぞ哀(あはれ)なる。十四五町(じふしごちやう)打延(うちのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)れば、早(はや)両六波羅(りやうろくはら)の館(たち)に火懸(かかり)て、一片(いつぺん)の煙(けむり)と焼揚(やきあげ)たり。 |
|
五月闇(さつきやみ)の比(ころ)なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道(くずめぢ)の辺(へん)に野伏(のぶし)充満(みちみち)て、十方より射ける矢に、左近(さこんの)将監(しやうげん)時益(ときます)は、頚(くび)の骨を被射て、馬より倒(さかさま)に落(おち)ぬ。糟谷(かすや)七郎馬より下(おり)て、其(その)矢を抜(ぬけ)ば、忽(たちまち)に息止(とどまり)にけり。敵何(いづ)くに有(あり)とも知(しら)ねば、馳合(はせあはせ)て敵を可討様(やう)もなし。又忍(しのび)て落(おつ)る道なれば、傍輩(はうばい)に知(しら)せて可返合にてもなし。只同じ枕に自害(じがい)して、後世までも主従(しゆうじゆう)の義を重(おもん)ずるより外(ほか)の事はあらじと思(おもひ)ければ、糟谷(かすや)泣々(なくなく)主(しゆう)の頚を取(とつ)て錦の直垂(ひたたれ)の袖に裹(つつ)み、道の傍(かたはら)の田の中に深く隠して則(すなはち)腹掻切(かききつ)て主の死骸(しがい)の上に重(かさなつ)て、抱着(いだきつい)てぞ伏(ふし)たりける。 | |
竜駕(りようが)遥(はるか)に四宮(しのみや)河原(かはら)を過(すぎ)させ給ふ処に、「落人(おちうど)の通るぞ、打留(うちとめ)て物具(もののぐ)剥(はげ)。」と呼(よばはる)声前後(ぜんご)に聞へて、矢を射る事雨の降(ふる)が如し。角(かく)ては行末(ゆくすゑ)とても如何(いかが)有(ある)べきとて、東宮を始進(はじめまゐ)らせて供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)、方々(はうばう)へ落散給(おちちりたまひ)ける程に、今は僅(わづか)に日野(ひの)大納言資名(すけな)・勧修寺(くわんしゆじ)中納言経顕(つねあき)・綾小路(あやのこうぢ)中納言重資(しげすけ)・禅林寺宰相(さいしやう)有光許(ありみつばかり)ぞ竜駕の前後には被供奉ける。都を一片(いつぺん)の暁(あかつき)の雲に阻(へだて)て、思(おもひ)を万里の東(あづま)の道に傾(かたむけ)させ給へば、剣閣(けんかく)の遠き昔も被思召合、寿水の乱れたりし世も、角(かく)こそと叡襟(えいきん)を悩(なやま)し玉ひ、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)も御涙(おんなみだ)更にせきあへず。 五月(さつき)の短夜(みじかよ)明(あけ)やらで、関(せき)の此方(こなた)も闇(くら)ければ、杉の木陰(こかげ)に駒を駐(とどめ)て、暫(しばらく)やすらはせ給ふ処に、何(いづ)くより射る共(とも)知らぬ流矢(ながれや)、主上(しゆしやう)の左の御肱(おんひぢ)に立(たち)にけり。陶山(すやま)備中(びつちゆうの)守(かみ)急ぎ馬より飛下(とびおり)て、矢を抜(ぬい)て御疵(きず)を吸(すふ)に、流るゝ血(ち)雪(ゆき)の御膚(おんはだへ)を染(そめ)て、見進(まゐ)らするに目もあてられず。忝(かたじけなく)も万乗(ばんじよう)の主(あるじ)、卑(いやしき)匹夫(ひつぷ)の矢前(やさき)に被傷て、神竜(しんりよう)忽(たちまち)に釣者(てうしや)の網(あみ)にかゝれる事(こと)、浅猿(あさまし)かりし世中(よのなか)也(なり)。去程(さるほど)に篠目(しののめ)漸(やうやく)明初(あけそめ)て、朝霧(あさぎり)僅(わづか)に残れるに、北なる山を見渡せば、野伏共(のぶしども)と覚(おぼえ)て、五六百人(ごろつぴやくにん)が程、楯をつき鏃(やじり)を支(ささへ)て待懸(まちかけ)たり。 |
|
是(これ)を見て面々(めんめん)度(ど)を失(うしなつ)てあきれたり。爰(ここ)に備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)中吉(なかぎりの)弥八、行幸の御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、敵近く馬を懸寄(かけよせ)て、「忝(かたじけなく)も一天(いつてん)の君、関東(くわんとう)へ臨幸成(りんかうなる)処に、何者なれば加様(かやう)の狼籍(らうぜき)をば仕るぞ。心ある者ならば、弓を伏せ甲(かぶと)を脱(ぬい)で、可奉通。礼儀を知(しら)ぬ奴原(やつばら)ならば、一々に召捕(めしとつ)て、頚切懸(きりかけ)て可通。」と云(いひ)ければ、野伏共(のぶしども)から/\と笑(わらう)て、「如何なる一天(いつてん)の君にても渡らせ給へ、御運(ごうん)已(すで)に尽(つき)て、落(おち)させ給はんずるを、通し進(まゐ)らせんとは申(まうす)まじ。輒(たやす)く通(とほ)り度(たく)思食(おぼしめ)さば、御伴(おんとも)の武士(ぶし)の馬物具(もののぐ)を皆捨(すて)させて、御心(おんこころ)安く落(おち)させ給へ。」と云(いひ)もはてず、同音(どうおん)に時(とき)をどつど作る。 中吉(なかぎりの)弥八是(これ)を聞(きい)て、「悪(にく)ひ奴原(やつばら)が振舞(ふるまひ)哉(かな)。いでほしがる物具(もののぐ)とらせん。」と云侭(いふまま)に、若党(わかたう)六騎馬の鼻を双(なら)べて懸(かけ)たりけるに、慾心熾盛(よくしんしじやう)の野伏共(のぶしども)、六騎の兵に被懸立て、蛛(くも)の子を散(ちら)す如く、四角八方へぞ逃散(にげちり)ける。六騎の兵、六方へ分(わかれ)て、逃(にぐ)るを追(おふ)事(こと)各数(す)十町(じつちよう)也(なり)。弥八余(あまり)に長追(ながおひ)したりける程に、野伏二十(にじふ)余人(よにん)返合(かへしあはせ)て、是(これ)を中(なか)に取篭(とりこむ)る。然共(しかれども)弥八少(すこし)もひるまず、其(その)中の棟梁(とうりやう)と見へたる敵に、馳並(はせなら)べてむずと組(くみ)、馬二疋が間(あひだ)へどうど落(おち)て、四五丈許(ばかり)高き片岸(かたきし)の上より、上に成(なり)下に成(なり)ころびけるが、共に組(くみ)も放れずして深田(ふかた)の中へころび落(おち)にけり。 中吉(なかぎり)下に成(なり)てければ、挙様(あげざま)に一刀(ひとかたな)さゝんとて、腰刀(こしがたな)を捜(さぐ)りけるにころぶ時抜(ぬけ)てや失(うせ)たりけん、鞘許(さやばかり)有(あつ)て刀はなし。上なる敵、中吉(なかぎり)が胸板(むないた)の上に乗懸(のつかかつ)て、鬢(びん)の髪を掴(つかん)で、頚を掻(かか)んとしける処に、中吉刀加(かたなぐは)へに、敵の小腕(こうで)を丁(ちやう)と掬(にぎ)りすくめて、「暫く聞(きき)給へ、可申事あり。 |
|
御辺(ごへん)今は我をな恐(おそれ)給ふそ、刀があらばこそ、刎返(はねかへ)して勝負をもせめ。又続く御方(みかた)なければ、落重(おちかさなつ)て我を助(たすく)る人もあらじ。されば御辺(ごへん)の手に懸(かけ)て、頚を取(とつ)て被出さたりとも、曾(かつて)実検にも及(およぶ)まじ、高名(かうみやう)にも成(なる)まじ。我は六波羅殿(ろくはらどの)の御雑色(おんざふしき)に、六郎太郎と云(いふ)者にて候へば、見知(みしり)ぬ人は候まじ。無用の下部(しもべ)の頚取(とつ)て罪を作り給はんよりは、我(わが)命を助(たすけ)てたび候へ、其悦(そのよろこび)には六波羅殿(ろくはらどの)の銭を隠くして、六千貫被埋たる所を知(しつ)て候へば、手引申(てびきまうし)て御辺(ごへん)に所得(しよとく)せさせ奉(たてまつら)ん。」と云(いひ)ければ、誠とや思(おもひ)けん、抜(ぬい)たる刀を鞘(さや)にさし、下(した)なる中吉(なかぎり)を引起(ひきおこ)して、命を助(たすく)るのみならず様々(さまざま)の引出物(ひきでもの)をし、酒なんどを勧(すすめ)て、京へ連(つれ)て上(のぼ)りたれば、弥八六波羅(ろくはら)の焼跡(やけあと)へ行(ゆき)、「正(まさ)しく此(ここ)に被埋たりし物を、早(はや)人が掘(ほつ)て取(とり)たりけるぞや。 徳(とく)着(つ)け奉(たてまつら)んと思(おもう)たれば、耳のびくが薄く坐(おは)しけり。」と欺(あざむい)て、空笑(そらわらひ)してこそ返しけれ。中吉が謀(はかりごと)に道開(ひら)けて、主上(しゆしやう)其(その)日は篠原(しのはら)の宿(しゆく)に着(つか)せ給ふ。此(ここ)にて怪しげなる網代輿(あじろのこし)を尋出(たづねいだし)て、歩立(かちだち)なる武者共(むしやども)俄に駕輿丁(かよちやう)の如くに成(なつ)て、御輿(おんこし)の前後をぞ仕りける。天台座主(てんだいのざす)梶井(かぢゐの)二品親王(にほんしんわう)は、是(これ)まで御供申させ給ひたりけるが、行末(ゆくすゑ)とても道の程(ほど)心安く可過共覚(おぼえ)させ給はねば、何(いづ)くにも暫(しば)し立忍(たちしの)ばゞやと思召(おぼしめし)て、「御門徒(ごもんと)に誰か候(さぶらふ)。」と御尋(おんたづね)有(たづねあり)けれ共(ども)、「去(さん)ぬる夜(よ)の路次(ろし)の合戦に、或(あるひ)は疵(きず)を蒙(かうむつ)て留(とどま)り、或(あるひ)は心替(こころがはり)して落(おち)けるにや。中納言僧都(そうづ)経超(きやうてう)、二位(にゐの)寺主(てらじ)浄勝(じやうしよう)二人(ににん)より外(ほか)は供奉(ぐぶ)仕りたる出世(しゆつせ)・坊官(ばうくわん)一人も候はず。」と申(まうし)ければ、さては殊更(ことさら)長途(ちやうど)の逆旅(げきりよ)叶ふまじとて、是(これ)より引別(ひきわかれ)て、伊勢の方へぞ赴かせ給(たまひ)ける。 |
|
さらでだに山立(やまだち)多き鈴鹿(すずか)山を、飼(かひ)たる馬に白鞍(しろくら)置(おい)て被召たらんは、中々(なかなか)道の可為讎とて、御馬(おんむま)を皆宿(やど)の主(ある)じに賜(たまう)て、門主(もんじゆ)は長々(ながなが)と蹴垂(けたれ)たる長絹(ちやうけん)の御衣(おんころも)に、檳榔(びんらう)の裏無(うらなし)を被召、経超(きやうてう)僧都は、袙重(あこめがさ)ねたる黒衣(こくえ)に、水精(すゐしやう)の念珠(ねんじゆ)手に持(もつ)て、歩兼(あゆみかね)たる有様、如何なる人も是(これ)を見て、すはや是(これ)こそ落人(おちうど)よと、思はぬ者は不可有。され共(ども)山王大師(さんわうたいし)の御加護(おんかご)にや依(より)けん、道に行逢(ゆきあひ)奉る山路(やまぢ)の樵(きこり)、野径(やけい)の蘇(くさかり)、御手(おんて)を引(ひき)御腰(おんこし)を推(おし)て、鈴鹿(すずか)山を越(こし)奉る。さて伊勢の神官(しんくわん)なる人を、平(ひら)に御憑(おんたのみ)有(あつ)て御坐(おはしま)しけるに、神官(しんくわん)心有(あつ)て身の難に可遇をも不顧、兎角(とかく)隠置進(かくしおきまゐら)せければ、是(ここ)に三十(さんじふ)余日(よにち)御忍(おんしのび)有(あつ)て、京都少し静(しづま)りしかば還御成(くわんぎよなつ)て、三四年が間は、白毫院(びやくがうゐん)と云(いふ)処に、御遁世(ごとんせい)の体(てい)にてぞ御坐(ござ)有(あり)ける。 | |
■越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)已下(いげ)自害(じがいの)事(こと)
去程(さるほど)に、両六波羅(りやうろくはら)京都の合戦に打負(うちまけ)て、関東(くわんとう)へ被落由披露有(ひろうあり)ければ、安宅(あたか)・篠原(しのはら)・日夏(ひなつ)・老曾(おいそ)・愛智川(えちかは)・小野(をの)・四十九院(しじふくゐん)・摺針(すりはり)・番場(ばんば)・醒井(さめがゐ)・柏原(かしはばら)、其外(そのほか)伊吹山(いぶきやま)の麓、鈴鹿河(すずかがは)の辺(へん)の山立(やまだち)・強盜(がうだう)・溢者共(あふれものども)二三千人(にさんぜんにん)、一夜(いちや)の程に馳集(はせあつまつ)て、先帝(せんてい)第五の宮(みや)御遁世(ごとんせい)の体(てい)にて、伊吹(いぶき)の麓に忍(しのん)で御坐(ござ)有(あり)けるを、大将に取奉(とりたてまつつ)て、錦の御旗(おんはた)を差挙(さしあ)げ、東山道(とうせんだう)第一(だいいち)の難所(なんじよ)、番馬(ばんば)の宿(しゆく)の東なる、小山(こやま)の峯に取上(とりのぼ)り、岸の下(した)なる細道(ほそみち)を中(なか)に夾(はさ)みて待懸(まちかけ)たり。 夜(よ)明(あけ)ければ越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、篠原(しのはら)の宿(しゆく)を立(たつ)て、仙蹕(せんひつ)を重山(ちようざん)の深きに促(うなが)し奉る。都を出(いで)し昨日(きのふ)までは、供奉(ぐぶ)の兵二千騎(にせんぎ)に余(あま)りしかども、次第に落散(おちちり)けるにや、今は僅(わづか)に七百騎(しちひやくき)にも足(たら)ざりけり。「若(もし)跡(あと)より追懸(おつかけ)奉る事もあらば、防矢(ふせぎや)仕れ。」とて、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)をば後陣(ごぢん)に打(うた)せられ、「賊徒(ぞくと)道を塞(ふさ)ぐ事あらば、打散(うちちら)して道を開(あけ)よ。」とて、糟谷(かすや)三郎に先陣を被打せ、鸞輿(らんよ)迹(あと)に連(つらなつ)て、番馬の峠を越(こえ)んとする処に、数千(すせん)の敵道を中に夾(はさ)み、楯を一面に双(ならべ)て、矢前(やさき)をそろへて待懸(まちかけ)たり。糟谷遥(はるか)に是(これ)を見て、「思ふに当国・他国の悪党共(あくたうども)が、落人(おちうど)の物具(もののぐ)剥(は)がんとてぞ集(あつま)りたるらん。 手痛(ていた)く当(あて)て捨(すつ)る程ならば、命を惜(をし)まで戦ふ程の事はよも非じ。只一懸(ひとかけ)に駈散(かけちら)して捨(すて)よ。」と云侭(いふまま)に、三十六騎の兵共(つはものども)馬の鼻を並(ならべ)てぞ掛(かけ)たりける。一陣を堅(かた)めたる野伏(のぶし)五百(ごひやく)余人(よにん)、遥(はるか)の峯へまくり揚(あげ)られて、二陣の勢(せい)に逃加(にげくはは)る。糟谷は一陣の軍(いくさ)には打勝(うちかつ)つ、今はよも手に碍(さは)る者非じと、心安く思(おもひ)て、朝霧の晴行侭(はれゆくまま)に、可越末(すゑ)の山路(やまぢ)を遥(はるか)に見渡したれば、錦の旗一流(ひとながれ)、峯の嵐に翻(ひるがへ)して、兵五六千人(ごろくせんにん)が程要害(えうがい)を前に当(あて)て待掛(まちかけ)たり。糟谷二陣の敵大勢を見て、退屈してぞ引(ひか)へたる。重(かさね)て懸破(かけやぶら)んとすれば、人馬共に疲れて、敵嶮岨(けんそ)に支(ささ)へたり。相近付(あひちかづい)て矢軍(やいくさ)をせんとすれば、矢種(やだね)皆射尽(いつく)して、敵若干(そくばく)の大勢也(なり)。兎(と)にも角(かう)にも可叶とも覚へざりければ、麓に辻堂の有(あり)けるに、皆下居(おりゐ)て、後陣の勢(せい)をぞ相待(あひまち)ける。 |
|
越後(ゑちごの)守(かみ)は前陣に軍(いくさ)有(あり)と聞(きい)て、馬を早めて馳来(はせきたり)給ふ。糟谷(かすやの)三郎、越後(ゑちごの)守(かみ)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「弓矢取(ゆみやとり)の可死処にて死せざれば恥を見(みる)と申し習はしたるは理(ことわり)にて候(さふらひ)けり。我等(われら)都にて可打死候(さうらひ)し者が、一日の命を惜(をしみ)て是(これ)まで落(おち)もて来て、今云甲斐(いふかひ)なき田夫野人(でんぶやじん)の手に懸(かかつ)て、尸(かばね)を路径(ろけい)の露に曝(さら)さん事こそ口惜(くちをしく)候へ。敵此(この)一所許(ばかり)にて候はゞ身命を捨(すて)て、打払(うちはらう)ても可通候が、推量仕るに、先(まづ)土岐が一族(いちぞく)、最初より謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)にて候(さふらひ)しかば、折(をり)を得て、美濃(みのの)国(くに)をば通さじとぞ仕(つかまつり)候はんずらん。 吉良(きら)の一族(いちぞく)も度々(どど)の召(めし)に不応して、遠江(とほたふみの)国(くに)に城郭(じやうくわく)を構(かまへ)て候と、風聞(ふうぶん)候(さふらひ)しかば、出合(いであは)ぬ事は候はじ。此等(これら)を敵に受(うけ)ては、退治(たいぢ)せん事(こと)、恐(おそら)くは万騎(ばんき)の勢(せい)にても難叶。況(いはんや)我等落人(おちうど)の身と成(なつ)て、人馬共に疲れ、矢の一双(せき)をも、はか/゛\しく射候べき力もなく成(なつ)て候へば、何(いづ)く迄か落延(おちのび)候べき。只後陣(ごぢん)の佐々木(ささき)を御待候(おんまちさふらう)て、近江(あふみの)国(くに)へ引返し、暫(しばらく)さりぬべからんずる城に楯篭(たてごもつ)て、関東(くわんとう)勢の上洛(しやうらく)し候はんずるを御待(まち)候へかし。」と申(まうし)ければ、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)も、「此(この)義を存ずれ共(ども)、佐々木(ささき)とても今は如何なる野心(やしん)か存ずらんと、憑(たのみ)少(すくな)く覚(おぼゆ)れば、進退(しんたい)谷(きはまつ)て、面々(めんめん)の意見を訪(とひ)申さんと存ずる也(なり)。 さらば何様(いかさま)此(この)堂に暫く彳(たたずみ)て、時信(ときのぶ)を待(まち)てこそ評定あらめ。」とて、五百(ごひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、皆辻堂(つじだう)の庭にぞ下居(おりゐ)たる。佐々木(ささきの)判官時信は一里許(ばかり)引(ひき)さがりて、三百(さんびやく)余騎(よき)にて打(うち)けるが、如何なる天魔波旬(てんまはじゆん)の所為(しわざ)にてか有(あり)けん、「六波羅殿(ろくはらどの)は番馬の当下(たうげ)にて、野伏(のぶし)共に被取篭て一人も不残被討給(たまひ)たり。」とぞ告(つげ)たりける。時信、「今は可為様(やう)無(なか)りけり。」と愛智河(えぢかは)より引返し、降人(かうにん)に成(なつ)て京都へ上(のぼ)りにけり。越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、暫(しばし)は時信を遅しと待給(まちたまひ)けるが、待期(まつご)過(すぎ)て時移(うつり)ければ、さては時信も早(はや)敵に成(なり)にけり。 |
|
今は何(いづ)くへか引返し、何(いづ)くまでか可落なれば、爽(さわやか)に腹を切らんずる物をと、中々(なかなか)一途(いちづ)に心を取定(とりさだめ)て、気色(きしよく)涼(すずし)くぞ見へける。其(その)時軍勢共(ぐんぜいども)に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「武運(ぶうん)漸(やうやく)傾(かたむい)て、当家(たうけ)の滅亡(めつばう)近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重(おもん)じ、日来(ひごろ)の好(よし)みを不忘して、是(これ)まで着纏(つきまと)ひ給へる志、中々申(まうす)に言(ことば)は可無る。其報謝(そのはうしや)の思(おもひ)雖深と、一家の運已(すで)に尽(つき)ぬれば、何を以てか是(これ)を可報。今は我(われ)旁(かたがた)の為に自害(じがい)をして、生前(しやうぜん)の芳恩(はうおん)を死後に報ぜんと存ずる也(なり)。仲時(なかとき)雖不肖也(なり)。 平氏一類(へいじいちるゐ)の名を揚(あぐ)る身なれば、敵共(てきども)定(さだめ)て我首(わがくび)を以て、千戸侯(せんここう)にも募(つの)りぬらん。早く仲時(なかとき)が首を取(とつ)て源氏の手に渡し、咎(とが)を補(おぎなう)て忠(ちゆう)に備へ給へ。」と、云(いひ)はてざる言(ことば)の下に、鐙脱(ぬい)で押膚脱(おしはだぬぎ)、腹掻切(かききつ)て伏(ふし)給ふ。糟谷(かすやの)三郎宗秋(むねあき)是(これ)を見て、泪(なみだ)の鎧の袖に懸りけるを押(おさ)へて、「宗秋(むねあき)こそ先(まづ)自害(じがい)して、冥途(めいど)の御先(おんさき)をも仕らんと存候(ぞんじさふらひ)つるに、先立(さきだた)せ給(たまひ)ぬる事こそ口惜(くちをし)けれ。今生(こんじやう)にては命(いのち)を際(きは)の御先途(ごせんど)を見終進(はてまゐ)らせつ。冥途なればとて見放(みはなし)可奉に非(あら)ず。暫(しばらく)御待(まち)候へ。死出(しで)の山の御伴(おんとも)申(ともまうし)候はん。」とて、越後(ゑちごの)守(かみ)の、鞆口(つかぐち)まで腹に突立(つきたて)て被置たる刀を取(とつ)て、己(おのれ)が腹に突立(つきたて)、仲時(なかとき)の膝に抱(いだ)き付(つき)、覆(うつぶし)にこそ伏(ふし)たりけれ。 |
|
是(これ)を始(はじめ)て、佐々木(ささきの)隠岐前司(おきのぜんじ)・子息次郎右衛門(じらううゑもん)・同(おなじき)三郎兵衛(さぶらうひやうゑ)・同永寿丸(えいじゆまる)・高橋九郎左衛門(くらうざゑもん)・同孫四郎・同又四郎・同弥四郎左衛門・同五郎・隅田(すだ)源七左衛門(げんしちざゑもんの)尉(じよう)・同孫五郎・同藤内(とうない)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・同与一(よいち)・同四郎・同五郎・同孫八・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・同又五郎・同藤六・同三郎・安藤太郎左衛門入道・同孫三郎(まごさぶらう)入道・同左衛門太郎・同左衛門三郎・同十郎・同三郎・同又次郎・同新左衛門(しんざゑもん)・同七郎三郎・同藤次郎・中布利(なかぶり)五郎左衛門(ごらうざゑもん)・石見(いはみ)彦三郎・武田(たけだ)下条(げでう)十郎・関屋(せきや)八郎・同十郎・黒田新左衛門(しんざゑもん)・同次郎左衛門(じらうざゑもん)・竹井(たけゐの)太郎・同掃部(かもん)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・ 寄藤(よりふぢ)十郎兵衛・皆吉(みなぎり)左京(さきやうの)亮(すけ)・同勘解由(かげゆ)七郎兵衛・小屋木(こやきの)七郎・塩屋(しほや)右馬(うまの)充(じよう)・同八郎・岩切(いはぎり)三郎左衛門・子息新左衛門(しんざゑもん)・同四郎・浦上(うらかみ)八郎・岡田(をかだ)平六兵衛・木工介(もくのすけ)入道・子息介三郎(すけさぶらう)・吉井(よしゐ)彦三郎・同四郎・壱岐(いきの)孫四郎・窪(くぼの)二郎・糟谷(かすやの)弥次郎入道・同孫三郎(まごさぶらう)入道・同六郎・同次郎・同伊賀(いがの)三郎・同彦三郎入道・同大炊(おほゐ)次郎・同次郎入道・同六郎・櫛橋(くしはし)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・南和(なわの)五郎・同又五郎・原宗(はらむねの)左近(さこんの)将監(しやうげん)入道・子息彦七・同七郎・同七郎次郎・同平(へい)右馬三郎・御器所(ごきその)七郎・怒借屋(ぬかりや)彦三郎・西郡(にしこり)十郎・秋月(あきづき)二郎兵衛・半田(はんだ)彦三郎・平塚(ひらつか)孫四郎・毎田(まいでん)三郎・花房(はなぶさ)六郎入道・宮崎三郎・同太郎次郎・山本八郎入道・同七郎入道・子息彦三郎・同小五郎・子息彦五郎・同孫四郎・足立(あだち)源五・三河(みかは)孫六・ |
|
広田(ひろた)五郎左衛門(ごらうざゑもん)・伊佐治部(いさぢぶの)丞・同孫八・同三郎・息男(そくなん)孫四郎・片山十郎入道・木村四郎・佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官・二階堂(にかいだう)伊予(いよの)入道・石井中務(いしゐなかづかさの)丞・子息弥三郎・同四郎・海老名(えびなの)四郎・同与一・弘田(ひろた)八郎・覚井(さめがゐ)三郎・石川九郎・子息又次郎・進藤(しんどう)六郎・同彦四郎(ひこしらう)・備後(びんご)民部(みんぶの)大夫・同三郎入道・加賀(かがの)彦太郎・同弥太郎(やたらう)・三嶋(みしま)新三郎・同新太郎・武田(たけだ)与三・満王野(みをのや)藤左衛門・池守(いけもり)藤内兵衛・同左衛門五郎・同左衛門七郎・同左衛門太郎・同新左衛門(しんざゑもん)・斎藤宮内(くないの)丞・子息竹丸(たけまる)・同宮内左衛門・子息七郎・同三郎・筑前(ちくぜんの)民部(みんぶの)大夫・同七郎左衛門・田村中務(なかつかさの)入道・同彦五郎・同兵衛次郎・信濃小外記(しなののせうげき)・真上(まかみの)彦三郎・子息三郎・陶山(すやま)次郎・ 同小五郎・小見山(こみやま)孫太郎・同五郎・同六郎次郎・高境(たかさか)孫三郎(まごさぶらう)・塩谷(しほのやの)弥次郎・庄(しやうの)左衛門四郎・藤田六郎・同七郎・金子(かねこの)十郎左衛門・真壁(まかべ)三郎・江馬(えま)彦次郎(ひこじらう)・近部(こんべ)七郎・能登(のとの)彦次郎(ひこじらう)・新野(にひのの)四郎・佐海(さみの)八郎三郎・藤里(ふぢさと)八郎・愛多義(あたぎ)中務(なかつかさの)丞・子息弥次郎、是等(これら)を宗徒(むねと)の者として、都合(つがふ)四百三十二人(しひやくさんじふににん)、同時に腹をぞ切(きつ)たりける。血は其(その)身を浸(ひた)して恰(あたかも)黄河(くわうが)の流(ながれ)の如く也(なり)。死骸は庭に充満(じゆうまん)して、屠所(どしよ)の肉に不異。彼己亥(かのきがい)の年、五千の貂錦(てうきん)胡塵(こぢん)に亡(ほろ)び、潼関(とうくわん)の戦(たたかひ)に、百万の士卒河水に溺(おぼ)れなんも、是(これ)にはよも過(すぎ)じと哀(あはれ)なりし事共(ことども)、目もあてられず、言(いふ)に詞(ことば)も無(なか)りけり。主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)は、此死人共(このしにんども)の有様を御覧(ごらん)ずるに、肝心(きもこころ)も御身(おんみ)に不傍、只あきれてぞ坐(ま)しましける。 |
|
■主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)為五宮被囚給(たまふ)事(こと)付資名(すけなの)卿(きやう)出家(の)事(こと)
去程(さるほど)に五宮(ごのみや)の官軍共(くわんぐんども)、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を取進(とりまゐ)らせて其(その)日先(まづ)長光寺へ入(いれ)奉り、三種(さんじゆの)神器(じんぎ)並(ならびに)玄象(げんじやう)・下濃(すそご)・二間(ふたま)の御本尊(ごほんぞん)に至(いたる)まで、自(みづから)五(ごの)宮(みや)の御方(かた)へぞ被渡ける。秦(しん)の子嬰(しえい)漢祖(かんそ)の為に被亡て天子の璽符(しふ)を頚に懸(かけ)、白馬素車(はくばそしや)に乗(のつ)て、■道(しだう)の傍(かたはら)に至り給ひし亡秦(ばうしん)の時に不異。日野(ひのの)大納言資名卿(すけなのきやう)は、殊更当今(たうぎん)奉公の寵臣(ちようしん)也(なり)。 しかば、如何なる憂目(うきめ)をか見んずらんとて、身を危(あや)ぶんで被思ければ、其辺(そのへん)の辻堂に遊行(ゆぎやう)の聖(ひじり)の有(あり)ける処へおはして、可出家由を宣(のたま)ひければ、聖(ひじり)軈(やが)て戒師(かいし)と成(なつ)て、無是非髪(かみ)を剃落(そりおと)さんとしけるを、資名卿(すけなのきやう)聖に向(むかつ)て、「出家(しゆつけ)の時は、何とやらん四句(しく)の偈(げ)を唱(となふ)る事の有(あり)げに候者を。」と被仰ければ、此聖(このひじり)其(その)文をや知(しら)ざりけん、「汝是畜生発菩提心(によぜちくしやうほつぼだいしん)。」とぞ唱(となへ)たりける。三河(みかはの)守(かみ)友俊(ともとし)も同(おなじ)く此(ここ)にて出家せんとて、既(すで)に髪を洗(あらひ)けるが、是(これ)を聞(きい)て、「命の惜(をし)さに出家すればとて、汝(なんぢ)は是(これ)畜生(ちくしやう)也(なり)。と唱(となへ)給ふ事の悲しさよ。」と、ゑつぼに入(いつ)てぞ笑(わらはれ)ける。 如此今まで付纏(つきまと)ひ進(まゐ)らせたる卿相雲客(けいしやううんかく)も、此彼(ここかしこ)に落留(おちとどまつ)て、出家遁世(とんせい)して退散(たいさん)しける間、今は主上(しゆしやう)・春宮(とうぐう)・両上皇の御方様(おんかたさま)とては、経顕(つねあき)・有光(ありみつ)卿(きやう)二人(ににん)より外(ほか)は供奉(ぐぶ)仕る人もなし。其外(そのほか)は皆見狎(みなれ)ぬ敵軍に前後(ぜんご)を被打囲て、怪(あやし)げなる網代輿(あじろのこし)に被召て、都へ帰上(かへりのぼ)らせ給へば、見物(けんぶつ)の貴賎(きせん)岐(ちまた)に立(たつ)て、「あら不思議(ふしぎ)や、去年先帝を笠置(かさぎ)にて生捕進(いけどりまゐ)らせて、隠岐の国へ流し奉りし其報(そのむくい)、三年(みとせ)の中(うち)に来りぬる事の浅猿(あさまし)さよ。昨日(きのふ)は他州(たしう)の憂(うれへ)と聞(きき)しかど、今日(けふ)は我(わが)上の責(せめ)に当(あた)れりとは、加様(かやう)の事をや申すべき。此(この)君も又如何なる配所(はいしよ)へか被遷させ給(たまひ)て宸襟(しんきん)を被悩ずらんと、心あるも心なきも、見る人毎(ごと)に因果歴然(いんぐわれきぜん)の理(ことわり)を感思(かんし)して、袖をぬらさぬは無(なか)りけり。 |
|
■千葉屋(ちはやの)城寄手(よせて)敗北(はいぼくの)事(こと)
去程(さるほど)に昨日(きのふ)の夜、六波羅(ろくはら)已(すで)に被責落て、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)皆関東(くわんとう)へ落(おち)させ給(たまひ)ぬと、翌日(よくじつ)の午刻(うまのこく)に、千葉屋(ちはや)へ聞へたりければ、城中には悦び勇(いさん)で、唯篭(こ)の中の鳥の、出(いで)て林に遊ぶ悦(よろこび)をなし、寄手(よせて)は牲(にへ)に赴く羊の、被駆て廟(べう)に近づく思(おもひ)を成す。何様(なにさま)一日も遅く引かば、野伏(のぶし)弥(いよいよ)勢重(かさな)りて、山中の路可難儀とて、十日の早旦(さうたん)に、千葉屋(ちはや)の寄手(よせて)十万(じふまん)余騎(よき)、南都(なんと)の方(かた)へと引(ひい)て行く。前(さき)には兼(かね)て野臥(のぶし)充満(みちみち)たり。 跡(あと)よりは又敵急に追懸(おつかか)る。都(すべ)て大勢の引立(ひきたつ)たる時の癖(くせ)なれば、弓矢を取捨(とりすて)て、親子(しんし)兄弟を離(はなれ)て、我先(われさき)にと逃(にげ)ふためきける程に、或(あるひ)は道もなき岩石(がんぜき)の際(きは)に行(ゆき)つまりて腹を切り、或(あるひ)は数千丈(すせんぢやう)深き谷の底へ落入(おちいつ)て、骨を微塵(みぢん)に打摧(うちくだ)く者、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。始(はじめ)御方(みかた)の勢(せい)を帰さじとて、寄手(よせて)の方より警固を居(すゑ)、谷合(たにあひ)の関(せき)・逆木(さかもぎ)も引除(ひきのけ)て通る人無ければ、被関落ては馬に離れ、倒れては人に被蹈殺。二三里が間の山路(やまぢ)を、数万の敵に被追立て一軍(ひといくさ)もせで引(ひき)しかば、今朝まで十万(じふまん)余騎(よき)と見へつる寄手(よせて)の勢(せい)、残少(のこりずく)なに被討成、僅(わづか)に生(いき)たる軍勢も、馬物具(もののぐ)を捨(すて)ぬは無(なか)りけり。されば今に至るまで、金剛山(こんがうせん)の麓、東条谷(とうでうだに)の路(みち)の辺(へん)には、矢の孔(あな)の刀の疵(きず)ある白骨、収(をさむ)る人もなければ、苔に纏(まとは)れて塁々(るゐるゐ)たり。されども宗徒(むねと)の大将達(たち)は、一人も道にては不被討して生(いき)たる甲斐はなけれ共(ども)、其(その)日(ひ)の夜半(やはん)許(ばかり)に、南都(なんと)にこそ被落着けれ。 |
■太平記 巻第十 | |
■千寿王殿(せんじゆわうどの)被落大蔵谷事
足利治部(あしかがのぢぶの)大輔(たいふ)高氏(たかうぢ)敵に成給(なりたまひ)ぬる事(こと)、道遠ければ飛脚(ひきやく)未到来(たうらいせず)、鎌倉(かまくら)には曾(かつ)て其(その)沙汰も無(なか)りけり。斯(かかり)し処に元弘三年五月二日の夜半に、足利殿(あしかがどの)の二男千寿王殿(せんじゆわうどの)、大蔵谷(おほくらのやつ)を落(おち)て行方(ゆきがた)不知成給(なりたまひ)けり。依之(これによつて)鎌倉中(かまくらぢゆう)の貴賎(きせん)、すはや大事(だいじ)出来(いでき)ぬるはとて騒動不斜(なのめならず)。京都の事は道遠(とほき)に依(よつ)て未だ分明(ぶんみやう)の説も無ければ、毎事(まいじ)無心元とて、長崎勘解由左衛門(かげゆざゑもん)入道と諏方(すはの)木工左衛門(もくざゑもん)入道と、両使にて被上ける処に、六波羅(ろくはら)の早馬、駿河(するが)の高橋(たかはし)にてぞ行合(ゆきあひ)ける。 「名越(なごや)殿(どの)は被討給(たまふ)、足利殿(あしかがどの)は敵に成給(なりたまひ)ぬ。」と申(まうし)ければ、「さては鎌倉(かまくら)の事も不審(おぼつかなし)。」とて、両使は取(とつ)て返し、関東(くわんとう)へぞ下(くだり)ける。爰(ここ)に高氏の長男竹若殿(たけわかどの)は、伊豆(いづ)の御山(おやま)に御座(おはしまし)けるが、伯父の宰相(さいしやう)法印良遍(りやうべん)、児(ちご)・同宿十三人(じふさんにん)山伏(やまぶし)の姿に成(なつ)て、潛(ひそか)に上洛(しやうらく)し給(たまひ)けるが、浮嶋(うきしま)が原にて、彼(かの)両使にぞ行合給(ゆきあひたまひ)ける。諏方・長崎生取奉(いけどりたてまつら)んと思(おもふ)処に、宰相法印無是非馬上にて腹切(きつ)て、道の傍(かたはら)にぞ臥給(ふしたまひ)ける。長崎、「去(され)ばこそ内に野心(やしん)のある人は、外(ほか)に遁(のが)るゝ無辞。」とて、若竹殿(わかたけどの)を潛(ひそか)に指殺(さしころ)し奉り、同宿十三人(じふさんにん)をば頭(くび)を刎(はね)て、浮嶋が原に懸(かけ)てぞ通(とほ)りける。 |
|
■新田(につた)義貞謀叛(むほんの)事(こと)付天狗(てんぐ)催越後勢事
懸(かかり)ける処に、新田太郎義貞、去(さんぬる)三月十一日先朝(せんてう)より綸旨(りんし)を給(たまひ)たりしかば、千剣破(ちはや)より虚病(きよびやう)して本国へ帰り、便宜(びんぎ)の一族(いちぞく)達(たち)を潛(ひそか)に集(あつめ)て、謀反(むほん)の計略をぞ被回ける。懸(かか)る企(くはだて)有(あり)とは不思寄、相摸(さがみ)入道(にふだう)、舎弟の四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道に十万(じふまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て京都へ上(のぼ)せ、畿内(きない)・西国の乱(らん)を可静とて、武蔵・上野(かうづけ)・安房(あは)・上総(かづさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)六箇国(ろくかこく)の勢をぞ被催ける。其兵粮(そのひやうらう)の為にとて、近国(きんごく)の庄園(しやうゑん)に、臨時の天役(てんやく)を被懸ける。中にも新田庄(につたのしやう)世良田(せらだ)には、有徳(うとく)の者多しとて、出雲介(いづものすけ)親連(ちかつら)、黒沼(くろぬま)彦四郎(ひこしらう)入道を使にて、「六万貫(ろくまんぐわん)を五日(いつかの)中(うち)可沙汰。」と、堅く下知(げぢ)せられければ、使先(まづ)彼所(かのところ)に莅(のぞん)で、大勢を庄家(しやうけ)に放入(はなちいれ)て、譴責(けんせき)する事法(ほふ)に過(すぎ)たり。 新田義貞是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「我館(わがたち)の辺(へん)を、雑人(ざふにん)の馬蹄(むまのひづめ)に懸(かけ)させつる事こそ返々(かへすがへす)も無念なれ、争(いかで)か乍見可怺。」とて数多(あまた)の人勢(にんぜい)を差向(さしむけ)られて、両使を忽(たちまち)生取(いけどつ)て、出雲(いづもの)介をば誡(いまし)め置き、黒沼(くろぬま)入道をば頚を切(きつ)て、同日の暮(くれ)程に世良田(せらだ)の里中(さとのうち)にぞ被懸たる。相摸(さがみ)入道(にふだう)此(この)事(こと)を聞(きき)て、大(おほき)に忿(いかつ)て宣(のたまひ)けるは、「当家執世已(すで)に九代、海内(かいだい)悉(ことごとく)其命(そのめい)に不随と云(いふ)事(こと)更になし。然(しかる)に近代遠境(ゑんきやう)動(ややもすれ)ば武命に不随、近国常に下知(げぢ)を軽(かろん)ずる事奇怪(きくわい)也(なり)。剰(あまつさへ)藩屏(はんぺい)の中(うち)にして、使節(しせつ)を誅戮(ちゆうりく)する条、罪科(ざいくわ)非軽に。此(この)時若(もし)緩々(くわんくわん)の沙汰を致さば、大逆(たいぎやく)の基(もとゐ)と成(なり)ぬべし。」とて、則(すなはち)武蔵・上野両国の勢(せい)に仰(おほせ)て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋(わきや)次郎義助(よしすけ)を討(うつ)て可進す。」とぞ被下知ける。 |
|
義貞是(これ)を聞(きい)て、宗徒(むねと)の一族(いちぞく)達(たち)を集(あつめ)て、「此(この)事(こと)可有如何。」と評定有(あり)けるに、異儀区々(いぎまちまち)にして不一定。或(あるひ)は、沼田圧(ぬまたのしやう)を要害(えうがい)にして、利根河(とねがは)を前に当(あて)て敵を待(また)ん。」と云(いふ)義もあり。又、「越後国(ゑちごのくに)には大略(たいりやく)当家の一族(いちぞく)充満(みちみち)たれば、津張郡(つばりのこほり)へ打超(うちこえ)て、上田(うへだ)山を伐塞(きりふさ)ぎ、勢(せい)を付(つけ)てや可防。」と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫(しばらく)思案して、進出(すすみいで)て被申けるは、「弓矢の道、死を軽(かろん)じて名を重(おもん)ずるを以て義とせり。就中相摸守(さがみのかみ)天下を執(とつ)て百六十(ろくじふ)余年(よねん)、于今至(いたる)まで武威盛(さかん)に振(ふるう)て、其命(そのめい)を重(おもん)ぜずと云(いふ)処なし。 されば縦(たとひ)戸祢(とね)川をさかうて防(ふせぐ)共(とも)、運尽(つき)なば叶(かなふ)まじ。又越後国(ゑちごのくに)の一族(いちぞく)を憑(たのみ)たり共(とも)、人の意(こころ)不和(ふくわ)ならば久(ひさし)き謀(はかりごと)に非(あら)ず。指(さし)たる事も仕出(しいだ)さぬ物故(ものゆゑ)に、此彼(ここかしこ)へ落行(おちゆき)て、新田の某(それがし)こそ、相摸守(さがみのかみ)の使を切(きり)たりし咎(とが)に依(よつ)て、他国へ逃(にげ)て被討たりしかなんど、天下の人口(じんこう)に入らん事こそ口惜(くちをし)けれ。とても討死をせんずる命を謀反人(むほんにん)と謂(いは)れて、朝家(てうか)の為に捨(すて)たらんは、無(なか)らん跡(あと)までも、勇(いさみ)は子孫の面(かほ)を令悦名は路径(ろけい)の尸(かばね)を可清む。先立(さきだつ)て綸旨(りんし)を被下ぬるは何(なん)の用にか可当。各(おのおの)宣旨(せんじ)を額(ひたひ)に当(あて)て、運命を天に任(まかせ)て、只一騎也(なり)共(とも)国中へ打出(うちいで)て、義兵(ぎへい)を挙(あげ)たらんに勢(せい)付(つきな)ば軈(やが)て鎌倉(かまくら)を可責落。勢不付ば只鎌倉(かまくら)を枕にして、討死するより外(ほか)の事やあるべき。と、義を先(さき)とし勇(いさみ)を宗(むね)として宣(のたまひ)しかば、当座の一族(いちぞく)三十(さんじふ)余人(よにん)、皆此(この)義にぞ同(どう)じける。 さらば軈(やが)て事の漏れ聞へぬ前(さき)に打立(うつたて)とて、同(おなじき)五月八日の卯刻(うのこく)に、生品(いくしなの)明神の御前(おんまえ)にて旗を挙(あげ)、綸旨(りんし)を披(ひらい)て三度(みたび)是を拝し、笠懸野(かさかけの)へ打出(うちいで)らる。 |
|
相随(あひしたが)ふ人々、氏族(しぞく)には、大館(おほたち)次郎宗氏(むねうぢ)・子息孫次郎幸氏(なりうぢ)・二男弥次郎氏明(うぢあきら)・三男彦二郎氏兼(うぢかぬ)・堀口三郎貞満(さだみつ)・舎弟四郎行義(ゆきよし)・岩松三郎経家(つねいへ)・里見五郎義胤(よしたね)・脇屋次郎義助・江田三郎光義(みつよし)・桃井次郎尚義(なほよし)、是等(これら)を宗徒(むねと)の兵(つはもの)として、百五十騎には過(すぎ)ざりけり。此勢(このせい)にては如何(いかが)と思ふ処に、其(その)日(ひ)の晩景(ばんげい)に利根河(とねがは)の方(かた)より、馬・物具(もののぐ)爽(さわやか)に見へたりける兵二千騎(にせんぎ)許(ばかり)、馬煙(むまけぶり)を立(たて)て馳来(はせきた)る。すはや敵よと目に懸(かけ)て見れば、敵には非(あら)ずして、越後(ゑちごの)国(くに)の一族(いちぞく)に、里見(さとみ)・鳥山(とりやま)・田中・大井田(おゐだ)・羽川(はねかは)の人々にてぞ坐(おは)しける。 義貞大(おほき)に悦(よろこび)て、馬を扣(ひかへ)て宣(のたまひ)けるは、「此(この)事(こと)兼(かね)てより其企(そのくはだて)はありながら、昨日今日(きのふけふ)とは存ぜざりつるに、俄に思立(おもひたつ)事(こと)の候ひつる間、告申(つげまうす)までなかりしに、何(なに)として存ぜられける。」と問(とひ)給ひければ、大井田(おゐだ)遠江守(とほたふみのかみ)鞍壷(くらつぼ)に畏(かしこまつ)て被申けるは、「依勅定大儀を思召立(おぼしめしたた)るゝ由承(うけたまはり)候はずば、何(な)にとして加様(かやう)に可馳参候。去(さんぬる)五日(いつかの)御使(おんつかひ)とて天狗山伏(てんぐやまぶし)一人、越後の国中を一日の間(ま)に、触廻(ふれまはり)て通候(とほりさふらひ)し間、夜(よ)を日に継(つい)で馳参(はせまゐつ)て候。境を隔(へだて)たる者は、皆明日の程にぞ参着(さんちやく)候はんずらん。他国へ御出(おんいで)候はゞ、且(しばら)く彼勢(かのせい)を御待(まち)候へかし。」と被申て、馬より下(おり)て各対面色代(たいめんしきだい)して、人馬の息を継(つが)せ給(たまひ)ける処に、後陣(ごぢん)の越後勢並(ならびに)甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連(さしつれ)て、其(その)勢(せい)五千(ごせん)余騎(よき)夥敷(おびたたし)く見へて馳来(はせきたる)。 |
|
義貞・義助不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、「是(これ)偏(ひとへに)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の擁護(おうご)による者也(なり)。且(しばらく)も不可逗留(とうりう)。」とて、同(おなじき)九日武蔵(むさしの)国(くに)へ打越(うちこえ)給ふに、紀(きの)五左衛門、足利殿(あしかがどの)の御子息(ごしそく)千寿王(せんじゆわう)殿(どの)を奉具足、二百余騎(よき)にて馳着(はせつき)たり。是(これ)より上野(かうづけ)・下野(しもつけ)・上総(かづさ)・常陸(ひたち)・武蔵(むさし)の兵共(つはものども)不期に集り、不催に馳来(はせきたつ)て、其(その)日(ひ)の暮(くれ)程に、二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)甲(かぶと)を並べ扣(ひかへ)たり。 去(され)ば四方(しはう)八百(はつぴやく)里(り)に余れる武蔵野に、人馬共に充満(みちみち)て、身を峙(そばだつ)るに処なく、打囲(うちかこう)だる勢なれば、天に飛(とぶ)鳥も翔(かけ)る事を不得、地を走る獣(けだもの)も隠(かくれ)んとするに処なし。草の原より出(いづ)る月(つき)は、馬鞍(むまくら)の上にほのめきて冑(よろひ)の袖に傾(かたぶ)けり。尾花が末を分(わく)る風は、旗の影をひらめかし、母衣(ほろ)の手静(しづま)る事ぞなき。懸(かかり)しかば国々の早馬(はやむま)、鎌倉(かまくら)へ打重(うちかさなつ)て、急を告(つぐ)る事櫛(くし)の歯を引(ひく)が如し。是(これ)を聞(きい)て時の変化をも計らぬ者は、「穴(あな)こと/゛\し、何程の事か可有。唐土(たうど)・天竺(てんぢく)より寄来(よせきたる)といはゞ、げにも真(まこと)しかるべし。我朝秋津嶋(わがてうあきつしま)の内より出(いで)て、鎌倉殿(かまくらどの)を亡(ほろぼ)さんとせん事蟷螂(たうらう)遮車、精衛(せいゑい)填海とするに不異。」と欺合(あざむきあへ)り。 物(もの)の心をも弁(わきまへ)たる人は、「すはや大事(だいじ)出来(いでき)ぬるは。西国・畿内(きない)の合戦未(いまだ)静(しずまら)ざるに大敵又藩籬(はんり)の中(うち)より起れり。是(これ)伍子胥(ごししよ)が呉王(ごわう)夫差(ふさ)を諌(いさめ)しに、晋(しん)は瘡■(さうゐ)にして越(ゑつ)は腹心の病(やまひ)也(なり)。と云(いひ)しに不異。」と恐合(おそれあ)へり。去程(さるほど)に京都へ討手(うつて)を可被上事をば閣(さしおい)て、新田(につた)殿(どの)退治の沙汰計(ばかり)也(なり)。同(おなじき)九日軍(いくさ)の評定(ひやうぢやう)有(あつ)て翌日(よくじつ)の巳刻(みのこく)に、金沢(かなざは)武蔵守(むさしのかみ)貞将(さだまさ)に、五万(ごまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、下河辺(しもかうべ)へ被下。是(これ)は先(まづ)上総(かづさ)・下総(しもつさ)の勢(せい)を付(つけ)て、敵の後攻(ごづめ)をせよと也(なり)。 |
|
一方へは桜田治部大輔(ぢぶのたいふ)貞国(さだくに)を大将にて、長崎二郎高重(たかしげ)・同孫四郎左衛門・加治(かぢ)二郎左衛門(じらうざゑもん)入道に、武蔵・上野両国の勢(せい)六万(ろくまん)余騎(よき)を相副(あひそへ)て、上路(かみみち)より入間河(いるまがは)へ被向。是(これ)は水沢(みづさは)を前に当(あて)て敵の渡さん処を討(うて)と也(なり)。承久より以来(このかた)東風閑(しづか)にして、人皆弓箭(ゆみや)をも忘(わすれ)たるが如(ごとく)なるに、今始(はじめ)て干戈(かんくわ)動(うごか)す珍しさに、兵共(つはものども)こと/゛\敷(しく)此(ここ)を晴(はれ)と出立(いでたち)たりしかば、馬・物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)、皆照耀許(てりかかやくばかり)なれば、由々敷(ゆゆしき)見物(みもの)にてぞ有(あり)ける。路次(ろし)に両日逗留(とうりう)有(あつ)て、同(おなじき)十一日の辰刻(たつのこく)に、武蔵(むさしの)国(くに)小手差原(こてさしばら)に打臨(うちのぞみ)給ふ。 爰(ここ)にて遥(はるか)に源氏の陣を見渡せば、其(その)勢(せい)雲霞(うんか)の如くにて、幾千万騎(いくせんまんぎ)共(とも)可云数(かず)を不知。桜田(さくらだ)・長崎是(これ)を見て、案に相違(さうゐ)やしたりけん、馬を扣(ひかへ)て不進得。義貞忽(たちまち)に入間河(いるまがは)を打渡(うちわたつ)て、先(まづ)時(とき)の声を揚(あげ)、陣を勧(すす)め、早(はや)矢合(やあはせ)の鏑(かぶら)をぞ射させける。平家も鯨波(ときのこゑ)を合せて、旗を進めて懸(かか)りけり。初(はじめ)は射手(いて)を汰(そろへ)て散々(さんざん)に矢軍(やいくさ)をしけるが、前(まへ)は究竟(くつきやう)の馬の足立(あしだち)也(なり)。何れも東国そだちの武士共(ぶしども)なれば、争(いか)でか少しもたまるべき、太刀・長刀(なぎなた)の鋒(きつさき)をそろへ馬の轡(くつばみ)を並(ならべ)て切(きつ)て入(いる)。二百騎・三百騎(さんびやくき)・千騎(せんぎ)・二千騎(にせんぎ)兵を添(そへ)て、相戦(あひたたかふ)事(こと)三十(さんじふ)余度(よど)に成(なり)しかば、義貞の兵三百(さんびやく)余騎(よき)被討、鎌倉勢(かまくらぜい)五百(ごひやく)余騎(よき)討死して、日已(すで)に暮(くれ)ければ、人馬共に疲(つかれ)たり。軍(いくさ)は明日と約諾(やくだく)して、義貞三里引退(ひきしりぞい)て、入間河(いるまがは)に陣をとる。 |
|
鎌倉勢(かまくらぜい)も三里引退(ひきしりぞい)て、久米河(くめがは)に陣をぞ取(とつ)たりける。両陣相去る其間(そのあひだ)を見渡せば三十(さんじふ)余町(よちやう)に足(たら)ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継(つが)せ、両陣互に篝(かがり)を焼(たい)て、明(あく)るを遅(おそし)と待居(まちゐ)たり。夜(よ)既(すで)に明(あけ)ぬれば、源氏は平家に先(さき)をせられじと、馬の足を進(すすめ)て久米河の陣へ押寄(おしよす)る。平家も夜明けば、源氏定(さだめ)て寄(よせ)んずらん、待(まつ)て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯(はるび)を固め甲(かぶと)の緒(お)を縮(し)め、相待(あひまつ)とぞみへし。両陣互(たがひ)に寄合(よせあは)せて、六万(ろくまん)余騎(よき)の兵を一手に合(あはせ)て、陽(やう)に開(ひらい)て中にとり篭(こめ)んと勇(いさみ)けり。 義貞の兵是(これ)を見て、陰(いん)に閉(とぢ)て中を破(わら)れじとす。是(これ)ぞ此黄石公(このくわうせきこう)が虎を縛(ばく)する手、張子房(ちやうしばう)が鬼を拉(とりひし)ぐ術(じゆつ)、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱(いりみだれ)て、不被破不被囲して、只百戦(ひやくせん)の命(いのち)を限りにし、一挙(いつきよ)に死をぞ争ひける。されば千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)までも、互に引(ひか)じと戦(たたかひ)けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔(わづか)に討(うた)れて平家は多く亡(ほろび)にければ、加治(かぢ)・長崎二度(にど)の合戦に打負(うちまけ)たる心地(ここち)して、分陪(ぶんばい)を差して引退(ひきしりぞ)く。源氏猶(なほ)続(つづい)て寄(よせ)んとしけるが、連日(れんじつ)数度(すど)の戦(たたかひ)に、人馬(じんば)あまた疲(つかれ)たりしかば、一夜(いちや)馬の足を休めて、久米河(くめがは)に陣を取寄(とりよせ)て、明(あく)る日をこそ待(まち)たりけれ。 去程(さるほど)に桜田治部(ぢぶの)大輔(たいふ)貞国(さだくに)・加治(かぢ)・長崎等(ながさきら)十二日の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て引退(ひきしりぞく)由(よし)鎌倉(かまくら)へ聞へければ、相摸(さがみ)入道(にふだう)・舎弟の四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道恵性(ゑしやう)を大将軍として、塩田陸奥(むつの)入道・安保(あぶ)左衛門入道・城(じやうの)越後(ゑちごの)守(かみ)・長崎駿河(するがの)守(かみ)時光(ときみつ)・左藤(さとう)左衛門入道・安東(あんどう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)高貞・横溝(よこみぞ)五郎入道・南部(なんぶ)孫二郎・新開(しんがい)左衛門入道・三浦若狭(みうらわかさの)五郎氏明(うぢあきら)を差副(さしそへ)て、重(かさね)て十万(じふまん)余騎(よき)を被下、其(その)勢(せい)十五日の夜半許(やはんばかり)に、分陪(ぶんばい)に着(つき)ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進(いさみすす)まんとす。 |
|
義貞は敵に荒手(あらて)の大勢加(くはは)りたりとは不思寄。十五日の夜(よ)未(いまだ)明(あけざる)に、分陪(ぶんばい)へ押寄(おしよせ)て時(とき)を作る。鎌倉勢(かまくらぜい)先(まづ)究竟(くつきやう)の射手(いて)三千人(さんぜんにん)を勝(すぐつ)て面(おもて)に進め、雨の降如(ふるごとく)散々(さんざん)に射させける間、源氏射たてられて駈(かけ)ゑず。平家是(これ)に利を得て、義貞の勢(せい)を取篭(とりこめ)不余とこそ責(せめ)たりけれ。新田(につた)義貞逞兵(ていへい)を引勝(ひつすぐつ)て、敵の大勢を懸破(かけやぶつ)ては裏へ通(とほ)り、取(とつ)て返(かへし)ては喚(をめい)て懸入(かけいり)、電光(でんくわう)の如激、蜘手(くもで)・輪違(わちがひ)に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵(たいてき)而(しか)も荒手(あらて)にて、先度(せんど)の恥を雪(きよ)めんと、義を専(もつばら)にして闘(たたか)ひける間、義貞(よしさだ)遂に打負(うちまけ)て堀金(ほりかね)を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。其(その)勢(せい)若干(そくばく)被討て痛手(いたで)を負(おふ)者数を不知。其(その)日軈(やが)て追(おう)てばし寄(よせ)たらば、義貞爰(ここ)にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定(さだめ)て武蔵・上野(かうづけ)の者共(ものども)が、討(うつ)て出(いだ)さんずらんと、大様(おほやう)に憑(たのん)で時を移す。是(これ)ぞ平家の運命の尽(つき)ぬる処のしるし也(なり)。 | |
■三浦大多和(おほたわ)合戦意見(いけんの)事(こと)
懸(かかり)し程に、義貞も無為方思召(おぼしめし)ける処へ、三浦大多和平六左衛門義勝(よしかつ)は、兼(かね)てより義貞に志(こころざし)有(あり)しかば、相摸(さがみの)国(くに)の勢(せい)松田・河村(かうむら)・土肥(とひ)・土屋(つちや)・本間(ほんま)・渋谷(しぶや)を具足して、以上其(その)勢(せい)六千余騎(よき)、十五日の晩景(ばんげい)に、義貞の陣へ馳(はせ)参る。義貞大(おほき)に悦(よろこび)て、急ぎ対面有(あつ)て、礼を厚くし、席を近付(ちかづけ)て、合戦の意見(いけん)をぞ被訪ける。平六左衛門畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「今天下二(ふた)つに分れて、互の安否(あんぴ)を合戦の勝負(しようぶ)に懸(かけ)たる事にて候へば、其雌雄(そのしゆう)十度も二十も、などか無(なく)ては候べき。但(ただし)始終(しじゆう)の落居(らくきよ)は天命(てんめい)の帰(き)する処にて候へば、遂に太平を被致事(こと)、何(なん)の疑(うたがひ)か候べき。御勢(おんせい)に義勝(よしかつ)が勢(せい)を合(あはせ)て戦はんに、十万(じふまん)余騎(よき)、是(これ)も猶(なほ)敵の勢に不及候と云(いへ)ども、今度(こんど)の合戦に一勝負(ひとしようぶ)せでは候べき。」と申(まうし)ければ、 義貞も、「いさとよ、当手(たうて)の疲(たかれ)たる兵(つはもの)を以て、大敵の勇誇(いさみほこつ)たるに懸(かか)らん事は、如何。」と宣(のたま)ひけるを、義勝重(かさね)て申(まうし)けるは、「今日の軍(いくさ)には治定(ぢぢやう)可勝謂(いは)れ候。其(その)故は、昔秦(しん)と楚(そ)と国を争ひける時、楚の将軍武信君(ぶしんくん)、纔(わづか)に八万(はちまん)余騎(よき)の勢(せい)を以て、秦の将軍李由(りいう)が八十万騎(はちじふまんぎ)の勢(せい)に打勝(うちかち)、首を切(きる)事(こと)四十(しじふ)余万(よまん)也(なり)。是(これ)より武信君(ぶしんくん)心驕(おご)り軍(いくさ)懈(おこたつ)て秦の兵を恐るゝに不足と思へり。楚の副将軍に宋義(そうぎ)と云(いひ)ける兵是(これ)を見て、「戦(たたかひ)に勝(かつ)て将(しやう)驕(おご)り卒(そつ)惰(おこた)る時は必(かならず)破(やぶる)と云へり。武信君今如此。不亡何をか待(また)ん。」と申(まうし)けるが、果して後の軍(いくさ)に、武信君秦(しん)の左将軍章邯(しやうかん)が為に被討て忽(たちまち)に一戦(いつせん)に亡(ほろび)にけり。義勝(よしかつ)昨日(きのふ)潛(ひそか)に人を遣(つかは)して敵の陣を見するに、其(その)将驕(おご)れる事武信君に不異。是(これ)則(すなはち)宋義が謂(いひ)し所に不違。 |
|
所詮(しよせん)明日の御合戦には、義勝荒手(あらて)にて候へば一方の前(さき)を承(うけたまはつ)て、敵を一当(ひとあて)々(あて)て見候はん。」と申(まうし)ければ、義貞誠(まこと)に心に服(ふく)し、宜(よろしき)に随ひ、則(すなはち)今度の軍(いくさ)の成敗(せいばい)をば三浦平六左衛門にぞ被許ける。明(あく)れば五月十六日の寅刻(とらのこく)に、三浦四万(しまん)余騎(よき)が真前(まつさき)に進んで、分陪(ぶんばい)河原(かはら)へ押寄(おしよす)る。敵の陣近く成(なる)まで態(わざ)と旗の手をも不下、時(とき)の声をも不挙けり。是(これ)は敵を出抜(だしぬい)て、手攻(てづめ)の勝負を為決也(なり)。如案敵は前日数箇度(すかど)の戦(たたかひ)に人馬皆疲(つかれ)たり。 其(その)上(うへ)今敵可寄共不思懸ければ、馬に鞍(くら)をも不置、物具(もののぐ)をも不取調、或(あるひ)は遊君(いうくん)に枕を双(ならべ)て帯紐(おびひぼ)を解(とい)て臥(ふし)たる者あり、或(あるひ)は酒宴(しゆえん)に酔(ゑひ)を被催て、前後を不知寝たる者もあり。只一業所感(いちごふしよかん)の者共(ものども)が招自滅不異。爰(ここ)に寄手(よせて)相近づくを見て、河原面(かはらおもて)に陣を取(とつ)たる者、「只今面(おもて)より旗を巻(まい)て、大勢の閑(しづか)に馬を打(うつ)て来(きた)れば、若(もし)敵にてや有らん。御要心(ごえうじん)候へ。」と告(つげ)たりければ、大将を始(はじめ)て、「さる事あり、三浦大多和(おほたわ)が相摸(さがみの)国(くに)勢(せい)を催(もよほし)て、御方(みかた)へ馳参(はせさん)ずると聞へしかば、一定(いちぢやう)参(まいつ)たりと覚(おぼゆ)るぞ。 懸(かか)る目出度(めでたき)事(こと)こそなけれ。」とて、驚(おどろく)者一人もなし。只兎(と)にも角(かく)にも、運命の尽(つき)ぬる程こそ浅猿(あさまし)けれ。去程(さるほど)に義貞、三浦が先懸(さきがけ)に追(おつ)すがふて、十万(じふまん)余騎(よき)を三手に分け、三方(さんぱう)より推寄(おしよせ)て、同(おなじ)く時(とき)を作りける。恵性(ゑしやう)時(とき)の声に驚(おどろい)て、「馬よ物具(もののぐ)よ。」と周章騒(あわてさわぐ)処へ、義貞・義助の兵縦横無尽(じゆうわうむじん)に懸(か)け立(たつ)る。三浦平六是(これ)に力(ちから)を得て、江戸・豊嶋(としま)・葛西(かさい)・河越(かはごえ)、坂東(ばんどう)の八平氏、武蔵の七党(しちたう)を七手(ななて)になし、蜘手(くもで)・輪違(わちがひ)・十文字(じふもんじ)に、不余とぞ攻(せめ)たりける。四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道、大勢也(なり)。といへ共(ども)、三浦が一時の計(はかりごと)に被破て、落行(おちゆく)勢(せい)は散々(ちりぢり)に、鎌倉(かまくら)を指(さ)して引退(ひきしりぞ)く。 |
|
討(うた)るゝ者は数(かず)を不知。大将左近(さこんの)大夫(たいふ)入道も、関戸辺(せきとのへん)にて已(すで)に討(うた)れぬべく見へけるを、横溝(よこみぞ)八郎蹈止(ふみとどまつ)て、近付(ちかづく)敵二十三騎時の間(ま)に射落し、主従(しゆじゆう)三騎打死(うちじに)す。安保(あぶの)入道々堪父子(だうかんふし)三人(さんにん)相随(あひしたが)ふ兵(つはもの)百(ひやく)余人(よにん)、同(おなじ)枕に討死す。其外(そのほか)譜代(ふだい)奉公の郎従(らうじゆう)、一言(いちごん)芳恩(はうおん)の軍勢共(ぐんぜいども)、三百(さんびやく)余人(よにん)引返し、討死しける間に、大将四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道は、其(その)身に無恙してぞ山内(やまのうち)まで被引ける。 長崎二郎高重(たかしげ)、久米河(くめがは)の合戦に、組(くん)で討(うつ)たりし敵の首(くび)二(ふたつ)、切(きつ)て落したりし敵の首十三、中間(ちゆうげん)・下部(しもべ)に取持(とりもた)せて、鎧に立(たつ)処の箭(や)をも未(いまだ)抜(ぬかず)、疵(きず)のろより流るゝ血に、白糸(しろいと)の鎧忽(たちまち)に火威(ひをどし)に染成(そめなし)て、閑々(しづしづ)と鎌倉殿(かまくらどの)の御屋形(やかた)へ参り中門(ちゆうもん)に畏(かしこま)りたりければ、祖父(おほぢ)の入道世にも嬉しげに打見て出迎(いでむかひ)、自(みづから)疵(きず)を吸(すひ)血を含(ふくん)で、泪(なみだ)を流(ながし)て申(まうし)けるは、「古き諺(ことわざ)に「見子不如父」いへども、我(われ)先(まづ)汝(なんぢ)を以て、上(うへ)の御用(ごよう)に難立者也(なり)。と思(おもつ)て、常に不孝を加(くはへ)し事(こと)、大(おほき)なる誤(あやまり)也(なり)。汝(なんぢ)今万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に遇(あひ)、堅(かたき)を摧(くだ)きける振舞、陳平(ちんべい)・張良(ちやうりやう)が為難処を究(きは)め得たり。相構(あひかまへ)て今より後も、我が一大事(いちだいじ)と合戦して父祖(ふそ)の名をも呈(あらは)し、守殿(かうのとの)の御恩をも報(はう)じ申(まうし)候へ。」と、日来(ひごろ)の庭訓(ていきん)を翻(ひるがへ)して只今の武勇(ぶよう)を感じければ、高重頭(かうべ)を地に付(つけ)て、両眼(りやうがん)に泪(なみだ)をぞ浮べける。 |
|
かゝる処に、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)して、近江(あふみ)の番馬(ばんば)にて、悉(ことごと)く自害(じがい)のよし告来(つげきたり)ければ、只今大敵と戦(たたかふ)中(うち)に、此(この)事(こと)をきいて、大火(おほび)を打消(うちけし)て、あきれ果(はて)たる事限(かぎり)なし。其所従(そのしよじゆう)・眷属共(けんぞくども)是(これ)を聞(きい)て、泣歎(なきなげ)き憂悲(うれへかなし)むこと、喩(たとへ)をとるに物なし。何(いか)にたけく勇(いさ)める人々も、足手(あして)もなゆる心地(ここち)して東西をもさらに弁(わきま)へず。然(しかり)といへども、此(この)大敵を退(しりぞけ)てこそ、京都へも討手(うつて)を上(のぼ)さんずれとて、先(まづ)鎌倉(かまくら)の軍評定(いくさひやうぢやう)をぞせられける。此(この)事(こと)敵にしらせじとせしかども、隠(かくれ)あるべき事ならねばやがて聞へて、哀(あはれ)潤色(じゆんしよく)やと、悦び勇(いさ)まぬ者はなし。 | |
■鎌倉(かまくら)合戦(かつせんの)事(こと)
去程(さるほど)に、義貞数箇度(すかど)の闘(たたかひ)に打勝給(うちかちたまひ)ぬと聞へしかば、東八箇国(とうはつかこく)の武士共(ぶしども)、順付(したがひつく)事(こと)如雲霞。関戸(せきと)に一日逗留(とうりう)有(あつ)て、軍勢の着到(ちやくたう)を着(つけ)られけるに、六十万(ろくじふまん)七千(しちせん)余騎(よき)とぞ注(しる)せる。こゝにて此勢(このせい)を三手に分(わけ)て、各(おのおの)二人(ににん)の大将を差副(さしそ)へ、三軍の帥(すゐ)を令司ら、其(その)一方には大館(おほたちの)二郎宗氏を左将軍(さしやうぐん)として、江田(えだの)三郎行義(ゆきよし)を右将軍(うしやうぐん)とす。其(その)勢(せい)総(すべ)て十万(じふまん)余騎(よき)、極楽寺(ごくらくじ)の切通(きりどほし)へぞ向はれける。一方には堀口(ほりぐち)三郎貞満(さだみつ)を上将軍とし、大嶋(おほしま)讚岐守(さぬきのかみ)々之(もりゆき)を裨将軍(ひしやうぐん)として、其(その)勢(せい)都合(つがふ)十万(じふまん)余騎(よき)、巨福呂坂(こくぶろざか)へ指向(さしむけ)らる。 其(その)一方には、新田(につた)義貞・義助、諸将の命(めい)を司(つかさどつ)て、堀口・山名(やまな)・岩松・大井田(おほゐだ)・桃井(もものゐ)・里見・鳥山(とりやま)・額田(ぬかだ)・一井(いちのゐ)・羽川以下(はねかはいげ)の一族(いちぞく)達(たち)を前後左右に囲(かこま)せて、其(その)勢(せい)五十万(ごじふまん)七千(しちせん)余騎(よき)、粧坂(けはひざか)よりぞ被寄ける。鎌倉中(かまくらぢゆう)の人々は昨日(きのふ)・一昨日(をととひ)までも、分陪(ぶばい)・関戸(せきと)に合戦有(あつ)て、御方(みかた)打負(うちまけ)ぬと聞へけれ共(ども)、猶(なほ)物(もの)の数(かず)共(とも)不思、敵の分際(ぶんざい)さこそ有(あ)らめと慢(あなどつ)て、強(あながち)に周章(あわて)たる気色(けしき)も無(なか)りけるに、大手(おほて)の大将にて向(むかは)れたる四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道僅(わづか)に被討成て、昨日の晩景(ばんげい)に山内(やまのうち)へ引返されぬ。 |
|
搦手(からめて)の大将にて、下河辺(しもかうべ)へ被向たりし金沢(かなざは)武蔵守(むさしのかみ)貞将(さだまさ)は、小山(をやまの)判官・千葉介(ちばのすけ)に打負(うちまけ)て、下道(しもみち)より鎌倉(かまくら)へ引返し給(たまひ)ければ、思(おもひ)の外(ほか)なる珍事(ちんじ)哉(かな)と、人皆周章(しうしやう)しける処に、結句(けつく)五月十八日の卯刻(うのこく)に、村岡・藤沢・片瀬(かたせ)・腰越(こしごえ)・十間坂(じつけざか)・五十(ごじふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)て、敵三方(さんぱう)より寄懸(よせかけ)たりしかば、武士(ぶし)東西に馳替(はせちがひ)、貴賎(きせん)山野(さんや)に逃迷(にげまよ)ふ。 是(これ)ぞ此霓裳(このげいしやう)一曲(いつきよく)の声の中(うち)に、漁陽(ぎよやう)の■鼓(へいく)動地来り、烽火万里(ほうくわばんり)の詐(いつはり)の後に、戎狄(じゆうてき)の旌旗(せいき)天を掠(かすめ)て到(いたり)けん、周(しう)の幽王(いうわう)の滅亡せし有様、唐(たう)の玄宗傾廃(けいはい)せし為体(ていたらく)も、角(かく)こそは有(あり)つらんと、被思知許(ばかり)にて涙も更に不止、浅猿(あさまし)かりし事共也(なり)。去程(さるほど)に義貞の兵三方(さんぱう)より寄(よする)と聞へければ、鎌倉(かまくら)にも相摸左馬(さまの)助(すけ)高成(たかなり)・城(じやうの)式部(しきぶの)大輔(たいふ)景氏(かげうぢ)・丹波(たんばの)左近(さこんの)太夫将監(しやうげん)時守(ときもり)を大将として、三手に分(わけ)てぞ防(ふせぎ)ける。其(その)一方には金沢越後(ゑちごの)左近(さこんの)太夫将監(しやうげん)を差副(さしそへ)て、安房(あは)・上総(かづさ)・下野(しもつけ)の勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)にて粧坂(けはひざか)を堅めたり。 |
|
一方には大仏(だいぶつ)陸奥(むつの)守(かみ)貞直(さだなほ)を大将として、甲斐(かひ)・信濃(しなの)・伊豆(いづ)・駿河(するが)の勢(せい)を相随へて、五万(ごまん)余騎(よき)、極楽寺(ごくらくじ)の切通(きりどほし)を堅めたり。一方には赤橋前(あかはしのさきの)相摸守(さがみのかみ)盛時(もりとき)を大将として、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)・出羽(では)・奥州(あうしうの)の勢(せい)六万(ろくまん)余騎(よき)にて、州崎(すさき)の敵に被向。此外(このほか)末々(すゑずゑ)の平氏八十(はちじふ)余人(よにん)、国々の兵(つはもの)十万騎(じふまんぎ)をば、弱からん方(かた)へ可向とて、鎌倉中(かまくらぢゆう)に被残たり。去程(さるほど)に同日(どうじつ)の巳刻(みのこく)より合戦始(はじまつ)て、終日終夜(しゆうじつしゆうや)責(せめ)戦ふ。寄手(よせて)は大勢にて、悪手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)責入(せめいり)ければ、鎌倉(かまくら)方には防場(ふせぎば)殺所(せつしよ)なりければ、打出々々(うちいでうちいで)相支(あひささへ)て戦(たたかひ)ける。 されば三方(さんぱう)に作る時(とき)の声両陣に呼(さけぶ)箭叫(やさけび)は、天を響(ひびか)し地を動(うごか)す。魚鱗(ぎよりん)に懸(かか)り鶴翼(かくよく)に開(ひらい)て、前後に当り左右を支(ささ)へ、義を重(おもん)じ命を軽(かろん)じて、安否(あんぴ)を一時に定(さだ)め、剛臆(がうおく)を累代(るゐたい)に可残合戦なれば、子被討共(ども)不扶、親は乗越(のりこえ)て前なる敵に懸り、主(しゆ)被射落共(ども)不引起、郎等(らうどう)は其(その)馬に乗(のつ)て懸出(かけいで)、或(あるひ)は引組(ひつくん)で勝負をするもあり、或(あるひ)は打替(うちちがへ)て共に死するもありけり。其猛卒(そのまうそつ)の機を見(みる)に、万人死して一人残り、百陣破(やぶれ)て一陣に成(なる)共、いつ可終軍(いくさ)とは見へざりけり。 |
|
■赤橋相摸(あかはしさがみの)守(かみ)自害(じがいの)事(こと)付本間(ほんま)自害(じがいの)事(こと)
懸(かかり)ける処、赤橋(あかはし)相摸守(さがみのかみ)、今朝は州崎(すさき)へ被向たりけるが、此(この)陣の軍(いくさ)剛(つよく)して、一日一夜(いちじついちや)の其(その)間に、六十五度まで切合(きりあひ)たり。されば数万騎有(あり)つる郎従(らうじゆう)も、討(うた)れ落失(おちうす)る程に、僅(わづか)に残る其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。侍(さぶらひ)大将にて同陣に候(さふらひ)ける南条左衛門高直(たかなほ)に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「漢(かん)・楚(そ)八箇年(はちかねん)の闘(たたかひ)に、高祖(かうそ)度(たび)ごとに討負給(うちまけ)たまひしか共(ども)、一度(ひとたび)烏江(をうがう)の軍(いくさ)に利を得て却(かへつ)て項羽(かうう)を被亡き。斉(せい)・晋(しん)七十度の闘(たたかひ)に、重耳(ちようじ)更に勝(かつ)事(こと)無(なか)りしか共(ども)、遂(つひ)に斉境(せいきやう)の闘(たたかひ)に打勝(うちかつ)て、文公国(ぶんこうくに)を保(たも)てり。 されば万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)を得、百回(ももたび)負(まけ)て一戦(いつせん)に利あるは、合戦の習(ならひ)也(なり)。今此戦(このたたかひ)に敵聊(いささか)勝(かつ)に乗るに以たりといへ共(ども)、さればとて当家の運今日に窮(きはま)りぬとは不覚(おぼえず)。雖然盛時(もりとき)に於ては、一門(いちもん)の安否(あんぴ)を見果(みはつ)る迄もなく、此陣頭(このぢんとう)にて腹を切(きら)んと思ふ也(なり)。其(その)故は、盛時(もりとき)足利殿(あしかがどの)に女性方(によしやうがた)の縁(えん)に成(なり)ぬる間、相摸殿(さがみどの)を奉始、一家(いつけ)の人々、さこそ心をも置給(おきたまふ)らめ。是(これ)勇士の所恥也(なり)。彼田広先生(かのでんくわうせんじやう)は、燕丹(えんたん)に被語はし時、「此(この)事(こと)漏(もら)すな」と云(いは)れて、為散其疑、命を失(うしなう)て燕丹(えんたん)が前に死(しし)たりしぞかし。 |
|
此(この)陣闘(たたかひ)急にして兵皆疲(つかれ)たり。我(われ)何(なん)の面目か有(あつ)て、堅めたる陣を引(ひい)て而(しか)も嫌疑(けんぎ)の中(うち)に且(しばら)く命を可惜。」とて、闘(たたかひ)未(いまだ)半(なかばなら)ざる最中(さいちゆう)に、帷幕(ゐばく)の中(うち)に物具(もののぐ)脱捨(ぬぎすて)て腹(はら)十文字(じふもんじ)に切給(きりたまひ)て北枕(きたまくら)にぞ臥(ふし)給ふ。南条是(これ)を見て、「大将已(すで)に御自害(ごじがい)ある上は士卒(じそつ)誰(た)れが為に命を可惜。いでさらば御伴(おんとも)申さん。」とて、続(つづい)て腹を切(きり)ければ、同志の侍(さぶらひ)九十(くじふ)余人(よにん)、上(いや)が上(うへ)に重(かさな)り伏(ふし)て、腹をぞ切(きつ)たりける。さてこそ十八日の晩(くれ)程に州崎(すさき)一番に破れて、義貞の官軍(くわんぐん)は山内(やまのうち)まで入(いり)にけり。懸(かかる)処に本間(ほんま)山城(やましろの)左衛門は、多年大仏(だいぶつ)奥州貞直(さだなほ)の恩顧の者にて、殊更(ことさら)近習(きんじふ)しけるが、聊(いささか)勘気(かんき)せられたる事有(あつ)て、不被免出仕、未だ己(おの)が宿所にぞ候(そふらひ)ける。 | |
已(すでに)五月十九日の早旦(さうたん)に、極楽寺の切通(きりどほし)の軍(いくさ)破(やぶ)れて敵攻入(せめいる)なんど聞へしかば、本間山城(やましろの)左衛門・若党(わかたう)中間(ちゆうげん)百(ひやく)余人(よにん)、是(これ)を最後と出立(いでたつ)て極楽寺坂へぞ向ひける。敵の大将大館(おほたち)二郎宗氏(むねうぢ)が、三万(さんまん)余騎(よき)にて扣(ひかへ)たる真中(まんなか)へ懸入(かけいつ)て、勇誇(いさみほこつ)たる大勢を八方へ追散(おつちら)し、大将宗氏に組(くま)んと透間(すきま)もなくぞ懸(かか)りける。三万(さんまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)須臾(しゆゆ)の程に分れ靡(なび)き、腰越(こしごえ)までぞ引(ひい)たりける。余(あま)りに手繁(てしげ)く進(すすん)で懸(かか)りしかば、大将宗氏は取(とつ)て返し思ふ程闘(たたかつ)て、本間が郎等(らうどう)と引組(ひつくん)で、差違(さしちが)へてぞ伏(ふし)給ひける。 本間大(おほき)に悦(よろこん)で馬より飛(とん)で下(お)り、其(その)頚を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、貞直(さだなほ)の陣に馳参(はせさん)じ、幕(まく)の前に畏(かしこまつ)て、「多年の奉公多日(たじつ)の御恩此一戦(このいつせん)を以て奉報候。又御不審(ごふしん)の身にて空(むなし)く罷成(まかりなり)候はゞ、後世(ごせ)までの妄念(まうねん)共(とも)成(なり)ぬべう候へば、今は御免(ごめん)を蒙(かうむつ)て、心安(やすく)冥途(めいど)の御先仕(さきつかまつり)候はん。」と申(まうし)もはてず、流るゝ泪(なみだ)を押へつゝ、腹掻切(かききつ)てぞ失(うせ)にける。「「三軍をば可奪帥」とは彼(かれ)をぞ云(いふ)べき。「以徳報怨」とは是(これ)をぞ申(まうす)べき。はづかしの本間が心中や。」とて、落(おつ)る泪(なみだ)を袖にかけながら、「いざや本間が志(こころざし)を感ぜん。」とて、自(みづから)打出(うちいで)られしかば、相順(あひしたがふ)兵も泪(なみだ)を流さぬは無(なか)りけり。 |
|
■稲村崎(いなむらがさき)成干潟事
去程(さるほど)に、極楽寺の切通(きりどほし)へ被向たる大館(おほたち)次郎宗氏(むねうぢ)、本間(ほんま)に被討て、兵共(つはものども)片瀬(かたせ)・腰越(こしごえ)まで、引退(ひきしりぞき)ぬと聞へければ、新田(につた)義貞逞兵(ていへい)に万余騎(よき)を率(そつ)して、二十一日の夜半許(やはんばかり)に、片瀬・腰越を打廻(うちまは)り、極楽寺坂へ打莅(うちのぞみ)給ふ。明行(あけゆく)月に敵の陣を見給へば、北は切通(きりどほし)まで山高く路(みち)嶮(けはし)きに、木戸を誘(かま)へ垣楯(かいだて)を掻(かい)て、数万(すまん)の兵(つはもの)陣を双(なら)べて並居(なみゐ)たり。 南は稲村崎(いなむらがさき)にて、沙頭(しやとう)路(みち)狭(せば)きに、浪打涯(なみうちぎは)まで逆木(さかもぎ)を繁(しげ)く引懸(ひきかけ)て、澳(おき)四五町(しごちやう)が程に大船共(たいせんども)を並べて、矢倉(やぐら)をかきて横矢(よこや)に射させんと構(かまへ)たり。誠(げに)も此(この)陣の寄手(よせて)、叶はで引(ひき)ぬらんも理(ことわり)也(なり)。と見給(たまひ)ければ、義貞馬より下給(おりたまひ)て、甲(かぶと)を脱(ぬい)で海上を遥々(はるばる)と伏拝(ふしをが)み、竜神(りゆうじん)に向(むかつ)て祈誓(きせい)し給(たまひ)ける。「伝(つたへ)奉る、日本(につぽん)開闢(かいびやく)の主(あるじ)、伊勢天照太神(あまてらすおほみかみ)は、本地(ほんち)を大日(たいにち)の尊像に隠(かく)し、垂跡(すゐじやく)を滄海(さうかい)の竜神(りゆうじん)に呈(あらは)し給へりと、吾(わが)君其苗裔(そのべうえい)として、逆臣(ぎやくしん)の為に西海の浪に漂(ただよひ)給ふ。 義貞今(いま)臣たる道を尽(つくさ)ん為に、斧鉞(ふえつ)を把(とつ)て敵陣に臨む。其(その)志偏(ひとへ)に王化(わうくわ)を資(たす)け奉(たてまつつ)て、蒼生(さうせい)を令安となり。仰願(あふぎねがはく)は内海外海(ないかいげかい)の竜神八部(りゆうじんはちぶ)、臣が忠義を鑒(かんがみ)て、潮(うしほ)を万里の外(ほか)に退(しりぞ)け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信(ししん)に祈念(きねん)し、自ら佩(はき)給へる金作(こがねづくり)の太刀を抜(ぬい)て、海中へ投給(なげたまひ)けり。真(まこと)に竜神納受(なふじゆ)やし給(たまひ)けん、其夜(そのよ)の月の入方(いりがた)に、前々(さきざき)更に干(ひ)る事も無(なか)りける稲村崎(いなむらがさき)、俄(にはか)に二十(にじふ)余町(よちやう)干上(ひあがつ)て、平沙渺々(へいしやべうべう)たり。 |
|
横矢(よこや)射んと構(かまへ)ぬる数千(すせん)の兵船も、落行(おちゆく)塩(しほ)に被誘て、遥(はるか)の澳(おき)に漂(ただよ)へり。不思議(ふしぎ)と云(いふ)も無類。義貞是(これ)を見給(たまひ)て、「伝聞(つたへきく)、後漢(ごかん)の弐師(じし)将軍は、城中に水尽(つき)渇(かつ)に被責ける時、刀を抜(ぬい)て岩石(がんぜき)を刺(さし)しかば、飛泉(ひせん)俄に湧出(わきいで)き。我朝(わがてう)の神宮皇后(じんぐうくわうぐう)は、新羅(しんら)を責給(せめたまひ)し時自(みづか)ら干珠(かんしゆ)を取(とり)、海上に抛給(なげたまひ)しかば、潮水(てうすゐ)遠(とほく)退(しりぞい)て終(つひに)戦(たたかひ)に勝(かつ)事(こと)を令得玉ふと。是(これ)皆和漢(わかん)の佳例(かれい)にして古今(ここん)の奇瑞(きずゐ)に相似(あひにた)り。進めや兵共(つはものども)。」と被下知ければ、江田(えだ)・大館(おほたち)・里見・鳥山(とりやま)・田中・羽河(はねかは)・山名(やまな)・桃井(もものゐ)の人々を始(はじめ)として、越後・上野(かうづけ)・武蔵・相摸の軍勢共(ぐんぜいども)、六万(ろくまん)余騎(よき)を一手に成(なし)て、稲村が崎の遠干潟(とほひかた)を真(ま)一文字に懸通(かけとほり)て、鎌倉中(かまくらぢゆう)へ乱入(みだれい)る。 数多(あまた)の兵是(これ)を見て、後(うしろ)なる敵に懸(かか)らんとすれば、前なる寄手(よせて)迹(あと)に付(つい)て攻入(せめいら)んとす。前なる敵を欲防と、後(うしろ)の大勢道を塞(ふさい)で欲討と。進退(しんたい)失度、東西に心迷(まよう)て、墓々敷(はかばかしく)敵に向(むかつ)て、軍(いくさ)を至す事は無(なか)りけり。爰(ここ)に嶋津(しまづ)四郎と申(まうし)しは、大力(だいりき)の聞へ有(あつ)て、誠(まこと)に器量事(きりやうこと)がら人に勝(すぐ)れたりければ、御大事(おんだいじ)に逢(あひ)ぬべき者也(なり)。とて、執事(しつじ)長崎入道烏帽子々(ゑぼしご)にして一人当千と被憑たりければ、詮度(せんど)の合戦に向(むけ)んとて未(いま)だろ々の防場(ふせぎば)へは不被向、態(わざと)相摸(さがみ)入道(にふだう)の屋形(やかた)の辺(へん)にぞ被置ける。懸(かか)る処に浜の手破(やぶれ)て、源氏已(すで)に若宮小路(わかみやこうぢ)まで攻入(せめいつ)たりと騒ぎければ、相摸(さがみ)入道(にふだう)、嶋津を呼寄(よびよせ)て、自(みづか)ら酌(しやく)を取(とつ)て酒を進め三度(さんど)傾(かたぶけ)ける時、三間(さんげん)の馬屋(むまや)に被立たりける関東(くわんとう)無双(ぶさう)の名馬白浪(しらなみ)と云(いひ)けるに、白鞍(しろくら)置(おい)てぞ被引ける。 |
|
見る人是(これ)を不浦山と云(いふ)事(こと)なし。嶋津、門前より此(この)馬にひたと打乗(うちのつ)て、由井浜(ゆゐのはま)の浦風に、濃紅(こきくれなゐ)の大笠注(おほかさじるし)を吹(ふき)そらさせ、三物四物(みつものよつもの)取付(とりつけ)て、あたりを払(はらう)て馳向(はせむかひ)ければ、数多(あまた)の軍勢是(これ)を見て、誠(まこと)に一騎当千の兵(つはもの)也(なり)。此(この)間執事(しつじ)の重恩(ぢゆうおん)を与へて、傍若無人(ばうじやくぶじん)の振舞(ふるまひ)せられたるも理(ことわ)り哉(かな)、と思はぬ人はなかりけり。義貞の兵是(これ)を見て、「あはれ敵や。」と罵(ののし)りければ、栗生(くりふ)・篠塚(しのづか)・畑(はた)・矢部(やべ)・堀口(ほりぐち)・由良(ゆら)・長浜を始(はじめ)として、大力の覚へ取(とつ)たる悪者(あらもの)共、我先(われさき)に彼(かの)武者と組(くん)で勝負を決せんと、馬を進めて相(あひ)近づく。 両方名誉(めいよ)の大力共が、人交(ひとまぜ)もせず軍(いくさ)する、あれ見よとのゝめきて、敵御方(みかた)諸共(もろとも)に、難唾(かたづ)を呑(のう)で汗を流し、是(これ)を見物してぞ扣(ひか)へたる。懸(かか)る処に島津馬より飛(とん)で下り、甲(かぶと)を脱(ぬい)で閑々(しづしづ)と身繕(みづくろひ)をする程に、何とするぞと見居たれば、をめ/\と降参して、義貞の勢(せい)にぞ加(くはは)りける。貴賎上下(きせんじやうげ)是(これ)を見て、誉(ほめ)つる言(ことば)を翻(ひるがへ)して、悪(にく)まぬ者も無(なか)りけり。是(これ)を降人(かうにん)の始(はじめ)として、或(あるひ)は年来(としごろ)重恩(ぢゆうおん)の郎従(らうじゆう)、或(あるひ)は累代(るゐたい)奉公の家人(けにん)とも、主(しゆ)を棄(すて)て降人(かうにん)になり、親を捨(すて)て敵に付(つく)、目も不被当有様なり。凡(およそ)源平威(ゐ)を振(ふる)ひ、互に天下を争はん事も、今日を限りとぞ見へたりける。 |
|
■鎌倉(かまくら)兵火(ひやうくわの)事(こと)付長崎父子(ふし)武勇(ぶようの)事(こと)
去程(さるほど)に、浜面(はもおもて)の在家(ざいけ)並(ならび)稲瀬(いなせ)河の東西に火を懸(かけ)たれば、折節(をりふし)浜風烈(はげしく)吹布(ふきしい)て、車輪(しやりん)の如くなる炎(ほのほ)、黒煙(くろけぶり)の中(なか)に飛散(とびちつ)て、十町(じつちよう)二十町(にじつちよう)が外(ほか)に燃付(もえつく)事(こと)、同時に二十(にじふ)余箇所(よかしよ)也(なり)。猛火(みやうくわ)の下より源氏の兵(つはもの)乱入(みだれいつ)て、度方(とはう)を失へる敵共(てきども)を、此彼(ここかしこ)に射伏切臥(いふせきりふせ)、或(あるひは)引組差違(ひつくんでさしちがへ)、或(あるひは)生捕分捕(いけどりぶんどり)様々(さまざま)也(なり)。煙(けぶり)に迷(まよへ)る女(をんな)・童部(わらんべ)共、被追立て火の中(なか)堀の底共(とも)不云、逃倒(にげたふ)れたる有様は、是(これ)や此(この)帝尺宮(たいしやくきゆう)の闘(たたかひ)に、修羅(しゆら)の眷属共(けんぞくども)天帝(てんてい)の為に被罰て、剣戟(けんげき)の上に倒伏(たふれふし)阿鼻大城(あびだいじやう)の罪人(ざいにん)が獄卒(ごくそつ)の槍(しもと)に被駆て、鉄湯(てつたう)の底に落入(おちい)る覧(らん)も、角(かく)やと被思知て、語るに言(ことば)も更になく、聞(きく)に哀(あはれ)を催して、皆泪(なみだ)にぞ咽(むせび)ける。 去程(さるほど)に余煙(よえん)四方(しはう)より吹懸(ふきかけ)て、相摸(さがみの)入道殿(にふだうどの)の屋形(やかた)近く火懸(かか)りければ、相摸(さがみの)入道殿(にふだうどの)千(せん)余騎(よき)にて、葛西(かさい)が谷(やつ)に引篭(ひきこも)り給(たまひ)ければ、諸大将の兵(つはもの)共は、東勝寺(とうしようじ)に充満(みちみち)たり。是(これ)は父祖代々(ふそだいだい)の墳墓(ふんぼ)の地なれば、爰(ここ)にて兵共(つはものども)に防矢(ふせぎや)射させて、心閑に自害せん也(なり)。中(なか)にも長崎三郎左衛門入道思元(しげん)・子息勘解由左衛門(かげゆざゑもん)為基(ためもと)二人(ににん)は、極楽寺(ごくらくじ)の切通(きりどほし)へ向(むかつ)て、責入(せめいる)敵を支(ささへ)て防(ふせぎ)けるが、敵の時(とき)の声已(すで)に小町口(こまちぐち)に聞へて、鎌倉殿(かまくらどの)へ御屋形(おんやかた)に、火懸(かか)りぬと見へしかば、相随(あひしたが)ふ兵七千(しちせん)余騎(よき)をば、猶(なほ)本(もと)の責口(せめくち)に残(のこし)置き、父子(ふし)二人(ににん)が手勢(てぜい)六百(ろつぴやく)余騎(よき)を勝(すぐつ)て、小町口へぞ向(むかひ)ける。 |
|
義貞の兵是(これ)を見て、中(なか)に取篭(とりこめ)て討(うた)んとす。長崎父子一所(いつしよ)に打(うちよせ)寄て魚鱗(ぎよりん)に連(つらなつ)ては懸破(かけやぶ)り、虎韜(こたう)に別(わかれ)ては追靡(おひなび)け、七八度が程ぞ揉(もう)だりける。義貞の兵共(つはものども)蜘手(くもで)・十文字(じふもんじ)に被懸散て、若宮小路(わかもやこうぢ)へ颯(さつ)と引(ひい)て、人馬に息をぞ継(つが)せける。懸(かか)る処に、天狗堂(てんぐだう)と扇(あふぎ)が谷(やつ)に軍(いくさ)有(あり)と覚(おぼえ)て、馬煙(むまけぶり)夥敷(おびたたしく)みへければ、長崎父子左右(さいう)へ別(わかれ)て、馳向(はせむか)はんとしけるが、子息勘解由左衛門(かげゆざゑもん)、是(これ)を限(かぎり)と思(おもひ)ければ、名残惜(なごりをし)げに立止(たちとどまつ)て、遥(はるか)に父の方(かた)を見遣(みやり)て、両眼より泪(なみだ)を浮べて、行(ゆき)も過(すぎ)ざりけるを、父屹(きつ)と是(これ)を見て、高らかに恥(はぢ)しめて、馬を扣(ひかへ)て云(いひ)けるは、「何か名残(なごり)の可惜る、独(ひとり)死(しし)て独(ひとり)生残(いきのこ)らんにこそ、再会(さいくわい)其期(そのご)も久しからんずれ。我(われ)も人も今日の日(ひ)の中(うち)に討死して、明日は又冥途(めいど)にて寄合(よりあは)んずる者が、一夜(いちや)の程の別れ、何かさまでは悲(かなし)かるべき。」と、高声(かうじやう)に申(まうし)ければ、為基(ためもと)泪(なみだ)を推拭(おしのご)ひ、「さ候はゞ疾(とく)して冥途(めいど)の旅を御急(いそぎ)候へ。 死出(しで)の山路(やまぢ)にては待進(まちまゐら)せ候はん。」と云捨(いひすて)て、大勢の中(なか)へ懸入(かけいり)ける心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。相順(あひしたがふ)兵僅(わづか)に二十(にじふ)余騎(よき)に成(なり)しかば、敵三千(さんぜん)余騎(よき)の真中(まんなか)に取篭(とりこめ)て、短兵(たんぺい)急に拉(とりひし)がんとす。為基が佩(はい)たる太刀は面影(おもかげ)と名付(なづけ)て、来(らい)太郎国行(くにゆき)が、百日精進(しやうじん)して、百貫(くわん)にて三尺(さんじやく)三寸(さんずん)に打(うつ)たる太刀なれば、此鋒(このきつさき)に廻(まは)る者、或(あるひ)は甲(かぶと)の鉢(はち)を立破(たてわり)に被破、或(あるひは)胸板(むないた)を袈裟懸(けさがけ)に切(きつ)て被落ける程に、敵皆是(これ)に被追立て、敢(あへ)て近付(ちかづく)者も無(なか)りけり。只陣を隔(へだて)て矢衾(やぶすま)を作(つくつ)て、遠矢(とほや)に射殺さんとしける間、為基(ためもとが)乗(のつ)たる馬に矢の立(たつ)事(こと)七筋(しちすぢ)也(なり)。 |
|
角(かく)ては可然敵に近(ちかづい)て、組(くま)んとする事叶はじと思(おもひ)ければ、由井(ゆゐ)の浜の大鳥居(おほどりゐ)の前にて馬よりゆらりと飛(とん)で下(おり)、只一人太刀を倒(さかさま)に杖(つい)て、二王立(にわうだち)にぞ立(たつ)たりける。義貞の兵是(これ)を見て、猶(なほ)も只十方より遠矢に射計(いるばかり)にて、寄合(よせあはせ)んとする者ぞ無(なか)りける。敵を為謀手負(おう)たる真似(まね)をして、小膝(こひざ)を折(をつ)てぞ臥(ふし)たりける。爰(ここ)に誰(たれ)とは不知、輪子引両(りふごひきりやう)の笠符(かさじるし)付(つけ)たる武者(むしや)、五十(ごじふ)余騎(よき)ひし/\と打寄(うちよつ)て、勘解由左衛門(かげゆざゑもん)が頚を取(とら)んと、争ひ近付(ちかづき)ける処に、為基かはと起(おき)て太刀を取直(とりなほ)し、「何者ぞ、人の軍(いくさ)にしくたびれて、昼寝したるを驚(おどろか)すは。いで己等(おのれら)がほしがる頚取(とら)せん。」と云侭(いふまま)に、 鐔本(つばもと)まで血に成(なつ)たる太刀を打振(うちふつ)て、鳴雷(なるかみ)の落懸(おちかか)る様(やう)に、大手(おほて)をはだけて追(おひ)ける間、五十(ごじふ)余騎(よき)の者共(ものども)、逸足(いちあし)を出し逃(にげ)ける間、勘解由左衛門(かげゆざゑもん)大音(だいおん)を揚(あげ)て、「何(いづ)くまで逃(にぐ)るぞ。蓬(きたな)し、返せ。と罵(ののし)る声の、只耳本(みみもと)に聞へて、日来(ひごろ)さしも早しと思(おもひ)し馬共、皆一所(いつしよ)に躍(をど)る心地(ここち)して、恐しなんど云(いふ)許(ばかり)なし。為基(ためもと)只一人懸入(かけいつ)て裏へぬけ、取(とつ)て返しては懸乱(かけみだ)し、今日を限(かぎり)と闘(たたかひ)しが、二十一日の合戦に、由比浜(ゆゐのはま)の大勢を東西南北に懸散(かけちら)し、敵・御方(みかた)の目を驚(おどろか)し、其後(そののち)は生死(しやうじ)を不知成(なり)にけり。 |
|
■大仏貞直(だいぶつさだなほ)並金沢貞将(さだまさ)討死(うちじにの)事(こと)
去程(さるほど)に、大仏陸奥(むつの)守(かみ)貞直は、昨日まで二万(にまん)余騎(よき)にて、極楽寺の切通(きりどほし)を支(ささへ)て防(ふせぎ)闘ひ給(たまひ)けるが、今朝(こんてう)の浜の合戦に、三百(さんびやく)余騎(よき)に討成(うちなさ)れ、剰(あまつさへ)敵に後(うしろ)を被遮て、前後に度(ど)を失(うしなう)て御座(おはしまし)ける処に、鎌倉殿(かまくらどの)の御屋形(やかた)にも火懸(かか)りぬと見へしかば、世間(よのなか)今はさてとや思(おもひ)けん、又主(しゆ)の自害(じがい)をや勧(すす)めけん、宗徒(むねと)の郎従(らうじゆう)三十(さんじふ)余人(よにん)、白州(しらす)の上に物具(もののぐ)脱棄(ぬぎすて)て、一面に並居(なみゐ)て腹をぞ切(きり)にける。 貞直是(これ)を見給(たまひ)て、「日本一(につぽんいち)の不覚(ふかく)の者共(ものども)の行跡(ふるまひ)哉(かな)。千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)までも、敵を亡(ほろぼし)名を後代(こうだい)に残すこそ、勇士の本意とする所なれ。いでさらば最後の一合戦(ひとかつせん)快(こころよう)して、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎(よき)の兵を相随(あひしたが)へ、先(まづ)大嶋(おほしま)・里見・額田(ぬかだ)・桃井(もものゐ)、六千余騎(よき)にて磬(ひかへ)たる真中(まんなか)へ破(わつ)て入(いり)、思(おもふ)程闘(たたかつ)て、敵数(あま)た討取(うちとつ)て、ばつと駈出(かけいで)見給へば、其(その)勢(せい)僅(わづか)に六十(ろくじふ)余騎(よき)に成(なり)にけり。貞直其(その)兵を指招(さしまねい)て、「今は末々(すゑずゑ)の敵と懸合(かけあつ)ても無益(むやく)也(なり)。」とて、脇屋義助(わきやよしすけ)雲霞(うんか)のごとくに扣(ひかへ)たる真中(まんなか)へ駈入(かけいり)、一人も不残討死して尸(かばね)を戦場の土(つち)にぞ残しける。 金沢武蔵守(むさしのかみ)貞将(さだまさ)も、山内(やまのうち)の合戦に相従(あひしたが)ふ兵八百(はつぴやく)余人(よにん)被打散我(わが)身も七箇所(しちかしよ)まで疵(きず)を蒙(かうむつ)て、相摸(さがみ)入道(にふだう)の御坐(おはしま)す東勝寺(とうしようじ)へ打帰り給(たまひ)たりければ、入道不斜(なのめならず)感謝して、軈(やが)て両探題職(たんだいしよく)に可被居御教書(みげうしよ)を被成、相摸守(さがみのかみ)にぞ被移ける。貞将(さだまさ)は一家(いつけ)の滅亡(めつばう)日(ひ)の中(うち)を不過と被思けれ共(ども)、「多年の所望(しよまう)、氏族(しぞく)の規摸(きぼ)とする職なれば、今は冥途(めいど)の思出(おもひで)にもなれかし。」と、彼御教書(かのみげうしよ)を請取(うけとつ)て、又戦場へ打出(うちいで)給(たまひ)けるが、其御教書(そのみげうしよ)の裏に、「棄我百年命報公一日恩。」と大(おほ)文字に書(かい)て、是(これ)を鎧(よろひ)の引合(ひきあはせ)に入(いれ)て、大勢の中(なか)へ懸入(かけいり)、終(つひ)に討死し玉(たまひ)ければ、当家も他家(たけ)も推双(おしなべ)て、感ぜぬ者も無(なか)りけり。 |
|
■信忍(しんにん)自害(じがいの)事(こと)
去程(さるほど)に普恩寺(ふおんじ)前(さきの)相摸(さがみの)入道信忍(しんにん)も、粧粧坂(けはひざか)へ被向たりしが、夜(よ)る昼(ひ)る五日の合戦に、郎従(らうじゆう)悉(ことごと)く討死して、僅(わづか)に二十(にじふ)余騎(よき)ぞ残(のこり)ける。諸方の攻口(せめくち)皆破(やぶれ)て、敵谷々(やつやつ)に入乱(いりみだれ)ぬと申(まうし)ければ、入道普恩寺討残(うちのこ)されたる若党(わかたう)諸共(もろとも)に自害(じがい)せられけるが、子息越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)六波羅(ろくはら)を落(おち)て、江州(がうしう)番馬(ばんば)にて腹切玉(きりたまひ)ぬと告(つげ)たりければ、其(その)最後の有様思出(おもひだ)して、哀(あはれ)に不堪や被思けん、一首(いつしゆ)の歌を御堂(みだう)の柱に血を以て書付玉(かきつけたまひ)けるとかや、待(まて)しばし死出(しで)の山辺(やまべ)の旅の道同(おなじ)く越(こえ)て浮世(うきよ)語らん年来(としごろ)嗜弄給(たしなみもてあそびたまひ)し事とて、最後の時も不忘、心中(しんちゆう)の愁緒(しうしよ)を述(のべ)て、天下の称嘆(しようたん)に残されける、数奇(すき)の程こそ優(やさし)けれと、皆感涙(かんるゐ)をぞ流しける。 |
|
■塩田父子(しほだふし)自害(じがいの)事(こと)
爰(ここ)に不思議(ふしぎ)なりしは、塩田陸奥(むつの)入道々祐(だういう)が子息民部大輔(みんぶのたいふ)俊時(としとき)、親の自害(じがい)を勧(すすめ)んと、腹掻切(かききつ)て目前(めのまへ)に臥(ふし)たりけるを見給(たまひ)て、幾程(いくほど)ならぬ今生(こんじやう)の別(わかれ)に目くれ心迷(まよひ)て落(おつ)る泪(なみだ)も不留、先立(さきだち)ぬる子息の菩提(ぼだい)をも祈り、我逆修(わがぎやくしゆ)にも備へんとや被思けん、子息の尸骸(しがい)に向(むかつ)て、年来(としごろ)誦給(よみたまひ)ける持経(ぢきやう)の紐(ひぼ)を解(とき)、要文(えうもん)処々(ところどころ)打上(うちあげ)、心閑(しづか)に読誦(どくじゆ)し給(たまひ)けり。被打漏たる郎等共(らうどうども)、主(しゆ)と共に自害(じがい)せんとて、二百余人(よにん)並居(なみゐ)たりけるを、三方(さんぱう)へ差遣(さしつかは)し、「此(この)御経誦終(よみはつ)る程防矢(ふせぎや)射よ。」と下地(げぢ)せられけり。 其(その)中に狩野(かのの)五郎重光許(しげみつばかり)は年来(としごろ)の者なる上、近々召仕(めしつかは)れければ、「吾(われ)腹切(きつ)て後(のち)、屋形(やかた)に火懸(かけ)て、敵に頚とらすな。」と云含(いひふく)め、一人被留置けるが、法花経(ほけきやう)已(すで)に五の巻の提婆品(だいばほん)はてんとしける時、狩野(かのの)五郎門前(もんぜん)に走出(はしりいで)て四方(しはう)を見る真似(まね)をして、「防矢仕(ふせぎやつかま)つる者共(ものども)早(はや)皆討(うた)れて、敵攻近付(せめちかづき)候。早々(はやはや)御自害(ごじがい)候へ。」と勧(すすめ)ければ、入道、「さらば。」とて、経(きやう)をば左の手に握り、右の手に刀を抜(ぬい)て腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、父子同(おなじ)枕にぞ臥給(ふしたまひ)ける。重光(しげみつ)は年来(としごろ)と云(いひ)、重恩(ぢゆうおん)と云(いひ)、当時遺言(ゆゐごん)旁(かたがた)難遁ければ、軈(やが)て腹をも切らんずらんと思(おもひ)たれば、さは無(なく)て、主(しゆ)二人(ににん)の鎧(よろひ)・太刀・々剥(かたなはぎ)、家中の財宝(ざいはう)中間(ちゆうげん)・下部(しもべ)に取持(とりもた)せて、円覚寺(ゑんがくじ)の蔵主寮(ざうすれう)にぞ隠居(かくれゐ)たりける。此重宝共(このちようはうども)にては、一期(いちご)不足(ふそく)非(あら)じと覚(おぼえ)しに、天罰にや懸(かか)りけん。舟田(ふなだ)入道是(これ)を聞付(ききつけ)て推寄(おしよ)せ、是非なく召捕(めしとつ)て、遂(つひ)に頚を刎(はね)て、由井(ゆゐ)の浜にぞ掛(かけ)られける。尤(もつとも)角(かう)こそ有(あり)たけれとて、悪(にくま)ぬ者も無(なか)りけり。 |
|
■塩飽(しあく)入道自害(じがいの)事(こと)
塩飽(しあく)新左近(さこんの)入道聖遠(しやうゑん)は、嫡子(ちやくし)三郎左衛門忠頼(ただより)を呼(よび)、「諸方(しよはう)の攻口悉(ことごとく)破(やぶれ)、御一門達(ごいちもんたち)大略(たいりやく)腹切(きら)せ給(たまふ)と聞へければ、入道も守殿(かうのとの)に先立進(さきだちまゐらせ)て、其(その)忠義を知られ奉らんと思(おもふ)也(なり)。されば御辺(ごへん)は未だ私(わたくし)の眷養(けんやう)にて、公方(くばう)の御恩(ごおん)をも蒙(かうむ)らねば、縦(たと)ひ一所にて今命(いのち)を不棄共(とも)、人強(あながち)義(ぎ)を知(しら)ぬ者とはよも思はじ。然者(しかれば)何(いづ)くにも暫(しばら)く身を隠し、出家遁世(しゆつけとんせい)の身ともなり、我後生(わがごしやう)をも訪(とぶら)ひ、心安く一身(いつしん)の生涯をもくらせかし。」と、泪(なみだ)の中(うち)に宣(のたま)ひければ、三郎左衛門忠頼(ただより)も、両眼に泪(なみだ)を浮(うか)め、しば/\物も不被申けるが、良有(ややあつ)て、「是(これ)こそ仰(おほせ)共(とも)覚(おぼえ)候はね。忠頼直(ぢき)に公方(くばう)の御恩を蒙りたる事は候はね共(ども)、一家(いつけ)の続命(ぞくみやう)悉(ことごと)く是(これ)武恩に非(あらず)と云(いふ)事(こと)なし。其(その)上(うへ)忠頼自幼少釈門(しやくもん)に至る身ならば、恩を棄(すて)て無為(ぶゐ)に入る道も然(しか)なるべし。苟(いやしく)も弓矢の家に生れ、名を此門棄(このもんえふ)に懸(かけ)ながら、武運の傾(かたむく)を見て、時の難(なん)を遁(のが)れんが為に、出塵(しゆつぢん)の身と成(なつ)て、天下の人に指を差(ささ)れん事(こと)、是(これ)に過(すぎ)たる恥辱(ちじよく)や候べき。御腹(おんはら)被召(めされ)候はゞ、冥途(めいど)の御道しるべ仕(つかまつり)候はん。」と云(いひ)も終(はて)ず、袖の下より刀を抜(ぬい)て、偸(ひそか)に腹に突立(つきたて)て、畏(かしこまつ)たる体(てい)にて死(しに)ける。 其弟(そのおとと)塩飽(しあく)四郎是(これ)を見て、続(つづい)て腹を切らんとしけるを、父の入道大(おほき)に諌(いさめ)て、「暫く吾を先立(さきだてて)、順次(じゆんじ)の孝を専(もつぱら)にし、其後(そののち)自害せよ。」と申(まうし)ければ、塩飽(しあく)四郎抜(ぬい)たる刀を収(をさめ)て、父の入道が前に畏(かしこまつ)てぞ侯(さふらひ)ける。入道是(これ)を見て快(こころよ)げに打笑(うちわらひ)、閑々(しづしづ)と中門(ちゆうもん)に曲■(きよくろく)をかざらせて、其(その)上(うへ)に結跏趺座(けつかふざ)し、硯(すずり)取寄(とりよせ)て自ら筆を染め、辞世(じせい)の頌(じゆ)をぞ書(かき)たりける。提持吹毛。截断虚空。大火聚裡(たいくわじゆり)。一道清風(いちだうのせいふう)。と書(かい)て、叉手(しやす)して頭(くび)を伸(のべ)て、子息四郎に、「其討(それうて)。」と下地(げぢ)しければ、大膚脱(おほはだぬぎ)に成(なつ)て、父の頚をうち落(おとし)て、其(その)太刀を取直(とりなほし)て、鐔本(つばもと)まで己(おの)れが腹に突貫(つきつらぬい)て、うつぶしざまにぞ臥(ふし)たりける。郎等(らうどう)三人(さんにん)是(これ)を見て走寄(はしりよ)り、同(おなじ)太刀に被貫て、串(くし)に指(さし)たる魚肉(ぎよにく)の如く頭(かうべ)を連(つらね)て伏(ふし)たりける。 |
|
■安東(あんどう)入道自害(じがいの)事(こと)付漢(かんの)王陵(わうりようが)事(こと)
安東左衛門入道聖秀(しやうしう)と申(まうせ)しは、新田(につた)義貞の北台(きたのだい)の伯父(をぢ)成(なり)しかば、彼(かの)女房義貞(よしさだ)の状に我文(わがふみ)を書副(かきそへ)て、偸(ひそか)に聖秀(しやうしう)が方へぞ被遣ける。安東、始(はじめ)は三千(さんぜん)余騎(よき)にて、稲瀬河(いなせがは)へ向(むかひ)たりけるが、世良田(せらだ)太郎が稲村崎(いなむらがさき)より後(うしろ)へ回(まは)りける勢(せい)に、陣を被破て引(ひき)けるが、由良(ゆら)・長浜が勢に被取篭て百余騎(よき)に被討成、我(わが)身も薄手(うすで)あまた所負(おう)て、己(おの)が館(たち)へ帰(かへつ)たりけるが、今朝(こんてう)巳刻(みのこく)に、宿所は早(はや)焼(やけ)て其跡(そのあと)もなし。 妻子遣属(さいしけんぞく)は何(いづ)ちへか落行(おちゆき)けん、行末(ゆくへ)も不知成(なつ)て、可尋問人もなし。是(これ)のみならず、鎌倉殿(かまくらどの)の御屋形(おんやかた)も焼(やけ)て、入道殿(にふだうどの)東勝寺へ落(おち)させ給(たまひ)ぬと申(まうす)者有(あり)ければ、「さて御屋形(おんやかた)の焼跡(やけあと)には、傍輩(はうばい)何様(なにさま)腹切(きり)討死してみゆるか。」と尋(たづね)ければ、「一人も不見候。」とぞ答(こたへ)ける。是(これ)を聞(きい)て安東(あんどう)、「口惜(くちをしき)事(こと)哉(かな)。日本国の主(あるじ)、鎌倉殿(かまくらどの)程の年来(としごろ)住給(すみたまひ)し処を敵の馬の蹄(ひづめ)に懸(かけ)させながら、そこにて千人も二千人(にせんにん)も討死する人の無(なか)りし事よと、後(のち)の人々に被欺事こそ恥辱なれ。いざや人々、とても死せんずる命(いのち)を、御屋形(やかた)の焼跡(やけあと)にて心閑(しづか)に自害(じがい)して、鎌倉殿(かまくらどの)の御恥(はぢ)を洗(すす)がん。」とて、被討残たる郎等(らうどう)百余騎(よき)を相順(あひしたが)へて、小町口(こまちぐち)へ打莅(うちのぞ)む。 先々(さきざき)出仕(しゆつし)の如く、塔辻(たふのつじ)にて馬より下(お)り、空(むなし)き迹(あと)を見廻(みまは)せば、今朝までは、奇麗(きれい)なる大廈高牆(たいかかうしやう)の構(かまへ)、忽(たちまち)に灰燼(くわいじん)と成(なつ)て、須臾転変(しゆゆにてんべん)の煙(けむり)を残し、昨日まで遊戯(あそびたはむれ)せし親類(しんるゐ)朋友も、多く戦場に死して、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の尸(かばね)を余(のこ)せり。悲(かなしみ)の中(うち)の悲(かなしみ)に、安東泪(なみだ)を押(おさ)へて惘然(ばうぜん)たる処に、新田殿(につたどの)の北(きた)の台(だい)の御使(おんつかひ)とて、薄様(うすやう)に書(かき)たる文(ふみ)を捧(ささげ)たり。何事ぞとて披見(ひらきみ)れば、「鎌倉(かまくら)の有様今はさてとこそ承(うけたまはり)候へ。何(いか)にもして此方(こなた)へ御出(おんいで)候へ。此(この)程の式(しき)をば身に替(かへ)ても可申宥候。」なんど、様々(さまざま)に書(かか)れたり。 |
|
是(これ)を見て安東大(おほき)に色を損(そん)じて申(まうし)けるは、「栴檀(せんだん)の林に入(いる)者は、不染衣(ころも)自(おのづか)ら香(かうば)しといへり。武士(ぶし)の女房たる者は、けなげなる心を一つ持(もち)てこそ、其(その)家をも継(つぎ)子孫の名をも露(あらは)す事なれ。されば昔漢(かん)の高祖(かうそ)と楚(その)項羽(かうう)と闘(たたかひ)ける時、王陵(わうりよう)と云(いふ)者城を構(かまへ)て篭(こもつ)たりしを、楚(そ)是(これ)を攻(せむ)るに更に不落。此(この)時楚の兵相謀(あひはかつ)て云(いはく)、「王陵は母の為に忠孝を存(ぞん)ずる事不浅。所詮(しよせん)王陵が母を捕(とら)へて楯(たて)の面(おもて)に当(あて)て城を攻(せむ)る程ならば、王陵矢を射る事を不得して降人(かうにん)に出(いづ)る事可有。」とて潛(ひそか)に彼(かの)母を捕(とらへ)てけり。 彼(かの)母心の中(うち)に思(おもひ)けるは、王陵我(われ)に仕(つかふ)る事大舜(たいしゆん)・曾参(そうしん)が高孝(かうかう)にも過(すぎ)たり。我(われ)若(もし)楯(たて)の面(おもて)に被縛城に向ふ程ならば、王陵悲(かなしみ)に不堪して、城を被落事可有。不如無幾程命を為子孫捨んにはと思定(おもひさだめ)て、自(みづから)剣(けん)の上に死(しし)てこそ、遂に王陵が名をば揚(あげ)たりしか。我(われ)只今まで武恩(ぶおん)に浴(よく)して、人に被知身となれり。今事の急なるに臨(のぞん)で、降人(かうにん)に出(いで)たらば、人豈(あに)恥を知(しつ)たる者と思はんや。されば女性心(によしやうごころ)にて縦(たとひ)加様(かやう)の事を被云共(とも)、義貞勇士(ゆうし)の義(ぎ)を知給(しりたまは)ば、さる事やあるべき、可被制。又義貞縱(たとひ)敵の志(こころざし)を計らん為に宣(のたま)ふ共、北方(きたのかた)は我方様(わがかたさま)の名を失(うしな)はじと思はれば、堅(かたく)可被辞、只(ただ)似るを友とする方見(うたて)さ、子孫の為に不被憑。」と、一度(ひとたび)は恨(うらみ)一度(いちど)は怒(いかつ)て、彼(かの)使の見る前にて、其文(そのふみ)を刀に拳(にぎ)り加へて、腹掻切(かききつ)てぞ失給(うせたまひ)ける。 |
|
■亀寿殿(かめじゆどの)令落信濃事付左近(さこんの)大夫偽(いつはつて)落奥州事
爰(ここ)に相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の舎弟(しやてい)四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道の方(かた)に候(さふらひ)ける諏方(すは)左馬(さまの)助(すけ)入道が子息、諏訪(すは)三郎盛高(もりたか)は、数度(すど)の戦(たたかひ)に郎等(らうどう)皆討(うた)れぬ。 只主従(しゆうじゆう)二騎に成(なつ)て、左近(さこんの)大夫(たいふ)入道の宿所に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「鎌倉中(かまくらぢゆう)の合戦、今は是(これ)までと覚(おぼえ)て候間、最後の御伴(おんとも)仕(つかまつり)候はん為に参(まいつ)て候。早(はや)思召切(おぼしめしきら)せ給へ。」と進め申(まうし)ければ、入道当(あた)りの人をのけさせて、潛(ひそか)に盛高が耳に宣(のたま)ひけるは、「此乱(このらん)不量出来(いできて)、当家(たうけ)已(すで)に滅亡(めつばう)しぬる事更に他なし。只相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の御振舞(おんふるまひ)人望にも背(そむ)き神慮にも違(ちがひ)たりし故(ゆゑ)也(なり)。但(ただ)し天縦(たと)ひ驕(おごり)を悪(にく)み盈(みてる)を欠(かく)とも、数代(すだい)積善(しやくぜん)の余慶(よけい)家に尽(つき)ずば、此(この)子孫の中に絶(たえ)たるを継ぎ廃(すたれ)たるを興(おこ)す者無(なか)らんや。昔斉(せい)の襄公(じやうこう)無道(ぶだう)なりしかば、斉の国可亡を見て、其(その)臣に鮑叔牙(はうしゆくが)と云(いひ)ける者、襄公(じやうこう)の子小伯(せうはく)を取(とつ)て他国へ落(おち)てげり。 其(その)間に襄公(じやうこう)果して公孫無智(こうそんぶち)に被亡、斉の国を失へり。其(その)時に鮑叔牙(はうしゆくが)小伯を取立(とりたて)て、斉の国へ推寄(おしよせ)、公孫無智(こうそんぶち)を討(うつ)事(こと)を得て遂に再び斉の国を保(たも)たせける。斉の桓公(くわんこう)は是(これ)也(なり)。されば於我深く存(ぞん)ずる子細(しさい)あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽(くわいけい)の恥を雪(きよめ)ばやと思ふ也(なり)。御辺(ごへん)も能々(よくよく)遠慮(ゑんりよ)を回(めぐら)して、何(いか)なる方にも隠忍(かくれしのぶ)歟(か)、不然ば降人に成(なつ)て命(いのち)を継(つい)で、甥(をひ)にてある亀寿(かめじゆ)を隠置(かくしおい)て、時至(いたり)ぬと見ん時再び大軍を起して素懐(そくわい)を可被遂。 |
|
兄の万寿(まんじゆ)をば五大院(ごだいゐん)の右衛門に申付(まうしつけ)たれば、心安く覚(おぼゆ)る也(なり)。」と宣(のたま)へば、盛高泪(なみだ)を押(おさ)へて申(まうし)けるは、「今までは一身(いつしん)の安否(あんぴ)を御一門(ごいちもん)の存亡(ぞんばう)に任候(まかせさふらひ)つれば、命をば可惜候はず。御前(おんまへ)にて自害仕(じがいつかまつつ)て、二心(ふたごころ)なき程を見へ進(まゐら)せ候はんずる為にこそ、是(これ)まで参(まいつ)て候へ共(ども)、「死を一時に定(さだむ)るは易(やす)く、謀(はかりごと)を万代(ばんだい)に残すは難(かた)し」と申(まうす)事(こと)候へば、兎(と)も角(かう)も仰(おほせ)に可随候。」とて、盛高(もりたか)は御前(おんまへ)を罷立(まかりたつ)て、相摸殿(さがみどの)の妾(おもひびと)、二位殿(にゐどの)の御局(おつぼね)の扇(あふぎ)の谷(やつ)に御坐(おはしまし)ける処へ参(まゐり)たりければ、御局(おつぼね)を始進(はじめまゐら)せて、女房達(にようばうたち)まで誠(まこと)に嬉し気(げ)にて、 「さても此(この)世の中は、何(なに)と成行(なりゆく)べきぞや。我等(われら)は女なれば立隠(たちかく)るゝ方(かた)も有(あり)ぬべし。此(この)亀寿(かめじゆ)をば如何(いかが)すべき。兄の万寿をば五大院(ごだいゐんの)右衛門可蔵方(かた)有(あり)とて、今朝(こんてう)何方(いづかた)へやらん具足(ぐそく)しつれば心安く思(おもふ)也(なり)。只此(この)亀寿(かめじゆ)が事思煩(おもひわづらう)て、露の如(ごとく)なる我(わが)身さへ、消侘(きえわび)ぬるぞ。」と泣口説(なきくどき)給ふ。盛高此(この)事(こと)有(あり)の侭(まま)に申(まうし)て、御心(おんこころ)をも慰め奉らばやとは思ひけれども、女性(によしやう)はゝかなき者なれば、後(のち)にも若(もし)人に洩(もら)し給ふ事もやと思返(おもひかへ)して、泪(なみだ)の中(うち)に申(まうし)けるは、 「此世中(このよのなか)今はさてとこそ覚(おぼえ)候へ。御一門(ごいちもん)太略(たいりやく)御自害(おんじがい)候なり。大殿計(おおとのばかり)こそ未(いまだ)葛西谷(かさいのやつ)に御座(ござ)候へ。公達(きんだち)を一目(ひとめ)御覧じ候(さふらひ)て、御腹(おんはら)を可被召と仰(おほせ)候間、御迎(むかひ)の為に参(まゐり)て候。」と申(まうし)ければ、御局うれし気(げ)に御座(おはしまし)つる御気色(ごきしよく)、しほ/\と成(なら)せ給(たまひ)て、「万寿をば宗繁(むねしげ)に預けつれば心安し、構(かまへ)て此(この)子をも能々(よくよく)隠してくれよ。」と仰(おほ)せも敢(あへ)ず、御泪(おんなみだ)に咽(むせ)ばせ給(たまひ)しかば、盛高(もりたか)も岩木(いはき)ならねば、心計(ばかり)は悲しけれ共(ども)、心を強く持(もつ)て申(まうし)けるは、「万寿御料(ごれう)をも五大院(ごだいゐんの)右衛門宗繁(むねしげ)が具足(ぐそく)し進(まゐら)せ候(さふらひ)つるを、敵見付(みつけ)て追懸進(おつかけまゐら)せ候(さふらひ)しかば、小町口(こまちぐち)の在家(ざいけ)に走入(はしりいつ)て、若子(わかご)をば指殺(さしころ)し進(まゐら)せ、我(わが)身も腹切(きつ)て焼死候(やけしにさふらひ)つる也(なり)。 |
|
あの若御(わかご)も今日此(この)世の御名残(なごり)、是(これ)を限(かぎり)と思召(おぼしめし)候へ。とても隠れあるまじき物故(ものゆゑ)に、狩場(かりば)の雉(きじ)の草隠(くさがくれ)たる有様にて、敵にさがし出(いだ)されて、幼(をさな)き御尸(おんかばね)に、一家(いつけ)の御名(おんな)を失(うしなは)れん事口惜(くちをしく)候。其(それ)よりは大殿(おほとの)の御手(おんて)に懸(かけ)られ給(たまひ)て冥途(めいど)までも御伴(おんとも)申させ給(たまひ)たらんこそ、生々世々(しやうじやうせぜ)の忠孝にて御座(ござ)候はん。疾々(とくとく)入進(いりまゐら)せ給へ。」と進めければ、御局(おつぼね)を始進(はじめまゐら)せて、御乳母(おんめのと)の女房達(にようばうたち)に至るまで、 「方見(うたて)の事を申(まうす)者哉(かな)。せめて敵の手に懸(かか)らば如何(いかが)せん。二人(ににん)の公達(きんだち)を懐存進(いだきそだてまゐらせ)つる人々の手に懸(かけ)て失ひ奉らんを見聞(みきき)ては、如何許(いかばかり)とか思遣(おもひや)る。只我(われ)を先(まづ)殺して後(のち)、何とも計(はから)へ。」とて、少人(をさなきひと)の前後(ぜんご)に取付(とりつい)て、声も不惜泣悲(なきかなしみ)給へば、盛高(もりたか)も目くれ、心消々(きえぎえ)と成(なり)しか共(ども)、思切(おもひき)らでは叶(かなう)まじと思(おもひ)て、声(こゑを)いらゝげ色を損(そんじ)て、御局(おつぼね)を奉睨、 「武士の家に生れん人、襁(むつき)の中(うち)より懸(かか)る事可有と思召(おぼしめさ)れぬこそうたてけれ。大殿(おほとの)のさこそ待思召(まちおぼしめし)候覧(らん)。早(はや)御渡(おんわたり)候(さふらひ)て、守殿(かうのとの)の御伴(おんとも)申させ給へ。」と云侭(いふまま)に走懸(はしりかか)り、亀寿殿(かめじゆどの)を抱取(だきとつ)て、鎧(よろひ)の上に舁負(かいおう)て、門より外(そと)へ走出(はしりいづ)れば、同音(どうおん)にわつと泣(なき)つれ玉(たまひ)し御声々(おんこゑごゑ)、遥(はるか)の外所(よそ)まで聞へつゝ、耳の底に止(とどま)れば、盛高も泪(なみだ)を行兼(せきかね)て、立返(たちかへつ)て見送(みおくれ)ば、御乳母(おんめのと)の御妻(おさい)は、歩跣(かちはだし)にて人目をも不憚走出(はしりいで)させ給(たまひ)て、四五町(しごちやう)が程は、泣(ない)ては倒れ、倒(たふれ)ては起(おき)迹(あと)に付(つい)て被追けるを、盛高(もりたか)心強(つよく)行方(ゆきかた)を知(しら)れじと、馬を進めて打(うつ)程に後影(うしろかげ)も見へず成(なり)にければ、御妻(おさい)、「今は誰(たれ)をそだて、誰を憑(たのん)で可惜命ぞや。」とて、あたりなる古井(ふるゐ)に身を投(なげ)て、終(つひ)に空(むなし)く成(なり)給ふ。 |
|
其(その)後盛高(もりたか)此若公(このわかぎみ)を具足(ぐそく)して、信濃へ落下(おちくだ)り、諏訪(すは)の祝(はふり)を憑(たのん)で有(あり)しが、建武元年の春(はる)の比(ころ)、暫(しばらく)関東(くわんとう)を劫略(こふりやく)して、天下の大軍を起し、中前代(なかせんだい)の大将に、相摸二郎と云(いふ)は是(これ)なり。角(かう)して四郎左近(さこんの)太夫入道は、二心(ふたごころ)なき侍共を呼寄(よびよせ)て「我は思様(おもふやう)有(あつ)て、奥州(あうしう)の方へ落(おち)て、再び天下を覆(くつがへ)す計(はかりごと)を可回也(なり)。南部(なんぶの)太郎・伊達(だての)六郎二人(ににん)は、案内(あんない)者なれば可召具。其外(そのほか)の人々は自害(じがい)して屋形(やかた)に火をかけ、我は腹を切(きつ)て焼死(やけしに)たる体(てい)を敵に可見。」と宣(のたまひ)ければ、二十(にじふ)余人(よにん)の侍共、一義(いちぎ)にも不及、「皆御定(ごぢやう)に可随。」とぞ申(まうし)ける。 伊達(だて)・南部(なんぶ)二人(ににん)は、貌(かたち)をやつし夫(ぶ)になり、中間(ちゆうげん)二人(ににん)に物具(もののぐ)きせて馬にのせ、中黒(なかぐろ)の笠符(かさじるし)を付(つけ)させ、四郎入道を■(あをだ)に乗(のせ)て、血の付(つい)たる帷(かたびら)を上に引覆(ひきおほ)ひ、源氏の兵(つはもの)の手負(ておう)て本国へ帰る真以(まね)をして、武蔵までぞ落(おち)たりける。其後(そののち)残置(のこしおい)たる侍共、中門に走出(はしりいで)、「殿(との)は早(はや)御自害(ごじがい)有(ある)ぞ。志の人は皆御伴(おんとも)申せ。」と呼(よばはつ)て、屋形に火を懸(かけ)、忽(たちまち)に煙(けむり)の中に並居(なみゐ)て、二十(にじふ)余人(よにん)の者共(ものども)は、一度(いちど)に腹をぞ切(きつ)たりける。是(これ)を見て、庭上・門外(もんぐわい)に袖を連(つら)ねたる兵共(つはものども)三百(さんびやく)余人(よにん)、面々(めんめん)に劣(おとら)じ々(おとら)じと腹切(きつ)て、猛火(みやうくわ)の中へ飛(とん)で入(いり)、尸(かばね)を不残焼死(やけしに)けり。さてこそ四郎左近(さこんの)太夫入道の落給(おちたまひ)ぬる事をば不知して、自害(じがい)し給(たまひ)ぬと思(おもひ)けれ。其後(そののち)西園寺の家に仕へて、建武の比(ころ)京都の大将にて、時興(ときおき)と被云しは、此(この)入道の事也(なり)けり。 |
|
■長崎高重(たかしげ)最期(さいご)合戦(かつせんの)事(こと)
去程(さるほど)に長崎次郎高重は、始(はじめ)武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼(よるひる)八十(はちじふ)余箇度(よかど)の戦(たたかひ)に、毎度(まいど)先(さき)を懸(かけ)、囲(かこみ)を破(やぶつ)て自(みづから)相当る事(こと)、其数(そのかず)を不知然(しか)ば、手者(てのもの)・若党(わかたう)共次第に討亡(うちほろぼ)されて、今は僅(わづか)に百五十騎に成(なり)にけり。五月二十二日に、源氏早(はや)谷々(やつやつ)へ乱入(みだれいつ)て、当家の諸大将、太略皆討(うた)れ給(たまひ)ぬと聞へければ、誰(た)が堅(かた)めたる陣とも不云、只敵の近づく処へ、馳合々々(はせあはせはせあはせ)、八方の敵を払(はらつ)て、四隊の堅(かた)めを破(やぶり)ける間、馬疲れぬれば乗替(のりかへ)、太刀打折(うちを)れば帯替(はきかへ)て、自(みづから)敵を切(きつ)て落す事三十二人(さんじふににん)、陣を破る事八箇度(はちかど)なり。 角(かく)て相摸(さがみ)入道(にふだう)の御坐(おはします)葛西谷(かさいのやつ)へ帰り参(まゐつ)て、中門(ちゆうもん)に畏(かしこま)り泪(なみだ)を流し申(まうし)けるは、「高重数代(すだい)奉公の義(ぎ)を忝(かたじけなう)して、朝夕恩顔(おんがん)を拝(はい)し奉りつる御名残(おんなごり)、今生(こんじやう)に於ては今日を限りとこそ覚へ候へ。高重一人数箇所(すかしよ)の敵を打散(うちちらし)て、数度(すど)の闘(たたかひ)に毎度(まいど)打勝(うちかち)候といへ共(ども)、方々(はうばう)の口々(くちくち)皆責破(せめやぶ)られて、敵の兵(つはもの)鎌倉中(かまくらぢゆう)に充満(じゆうまん)して候(さふらひ)ぬる上は、今は矢長(やたけ)に思(おもふ)共不可叶候。只一筋(ひとすぢ)に敵の手に懸(かか)らせ給はぬ様(やう)に、思召定(おぼしめしさだめ)させ給(たまひ)候へ。但し高重帰参(かへりさんじ)て勧(すすめ)申さん程は、無左右御自害(ごじがい)候な。上(うへ)の御存命(ごぞんめい)の間に、今一度(いちど)快(こころよ)く敵の中(なか)へ懸入(かけいり)、思(おもふ)程の合戦して冥途(めいど)の御伴(おんとも)申さん時の物語に仕(つかまつり)候はん。」とて、又東勝寺を打出(うちい)づ。其後影(そのうしろかげ)を相摸入道(さがみにふだう)遥(はるか)に目送玉(みおくりたまひ)て、是(これ)や限(かぎり)なる覧(らん)と名残惜(なごりをし)げなる体(てい)にて、泪(なみだ)ぐみてぞ被立たる。 |
|
長崎次郎甲(よろひ)をば脱捨(ぬぎすて)、筋(すぢ)の帷(かたびら)の月日(つきひ)推(おし)たるに、精好(せいがう)の大口(おほくち)の上に赤糸(あかいと)の腹巻(はらまき)着(き)て小手(こて)をば不差、兎鶏(とけい)と云(いひ)ける坂東(ばんどう)一の名馬に、金具(かながひ)の鞍(くら)に小総(こふさ)の鞦(しりがひ)懸(かけ)てぞ乗(のつ)たりける。是(これ)を最後と思定(おもひさだめ)ければ、先(まづ)崇寿寺(そうじゆじ)の長老南山和尚(なんざんをしやう)に参じて、案内申(まうし)ければ、長老威儀(ゐぎ)を具足(ぐそく)して出合(いであひ)給へり。方々(はうばう)の軍(いくさ)急にして甲冑を帯したりければ、高重は庭に立(たち)ながら、左右(さいう)に揖(いふ)して問(とつ)て曰(いはく)、「如何(いかなる)是(これ)勇士恁麼(いんも)の事(じ)。」和尚答曰(こたへていはく)、「吹毛(すゐもう)急(きふに)用(もちゐて)不如前。」高重此(この)一句を聞(きい)て、問訊(もんじん)して、門前より馬引寄(ひきよせ)打乗(うちのつ)て、百五十騎の兵(つはもの)を前後(ぜんご)に相随(あひしたが)へ、笠符(かさじるし)かなぐり棄(すて)、閑(しづか)に馬を歩(あゆませ)て、敵陣に紛入(まぎれいる)。 其(その)志偏(ひとへ)に義貞に相近付(あひちかづか)ば、撲(うつ)て勝負を決せん為也(なり)。高重(たかしげ)旗をも不指、打物(うちもの)の室(さや)をはづしたる者無ければ、源氏の兵(つはもの)、敵とも不知けるにや、をめ/\と中(なか)を開(ひらい)て通しければ、高重、義貞に近(ちかづ)く事僅(わづか)に半町計(ばかり)也(なり)。すはやと見ける処に、源氏の運や強かりけん、義貞の真前(まつさき)に扣(ひかへ)たりける由良(ゆら)新左衛門(しんざゑもん)是(これ)を見知(みしつ)て、「只今旗をも不指相近勢(あひちかづくせい)は長崎次郎と見(みる)ぞ。さる勇士なれば定(さだめ)て思(おもふ)処有(あつ)てぞ是(これ)までは来(きたる)らん。あますな漏(もら)すな。」と、大音(だいおん)挙(あげ)て呼(よばは)りければ、先陣に磬(ひかへ)たる武蔵の七党(しちたう)三千(さんぜん)余騎(よき)、東西より引裹(ひつつつん)で真中(まんなか)に是(これ)を取込(とりこめ)、我(われ)も々(われ)もと討(うた)んとす。高重は支度(したく)相違しぬと思(おもひ)ければ、百五十騎の兵を、ひし/\と一所へ寄(よせ)て、同音(どうおん)に時(とき)をどつと揚(あげ)、三千(さんぜん)余騎(よき)の者共(ものども)を懸抜懸入交合(かけぬけかけいりまじりあひ)、彼(かしこ)に露(あらは)れ此(ここ)に隠れ、火を散(ちら)してぞ闘(たたかひ)ける。 |
|
聚散離合(しゆさんりがふ)の有様は須臾(しゆゆ)に反化(へんくわ)して前に有(ある)歟(か)とすれば忽焉(こつえん)として後(しり)へにある。御方(みかた)かと思へば屹(きつ)として敵也(なり)。十方に分身(ぶんしん)して、万卒に同(おなじ)く相当(あひあた)りければ、義貞の兵高重(たかしげ)が在所(ありか)を見定(みさだめ)ず、多くは同士打(どしうち)をぞしたりける。長浜六郎是(これ)を見て「無云甲斐人々の同士打(どしうち)哉(かな)、敵は皆笠符(かさじるし)を不付とみへつるぞ、中(なか)に紛(まぎ)れば、其(それ)を符(しるし)にして組(くん)で討(うて)。」と下地(げぢ)しければ、甲斐・信濃・武蔵・相摸の兵共(つはものども)、押双(おしならべ)てはむずと組(くみ)、々(くん)で落(おち)ては首を取(とる)もあり、被捕もあり、芥塵(かいぢん)掠天、汗血(かんけつ)地を糢糊(もご)す。其在様(そのありさま)項王(かうわう)が漢の三将を靡(なびか)し魯陽(ろやう)が日を三舎(さんしや)に返(かへ)し闘(たたかひ)しも、是(これ)には不過とぞ見へたりける。 され共(ども)長崎次郎は未(いまだ)被討、主従只八騎に成(なつ)て戦(たたかひ)けるが、猶(なほ)も義貞に組(くま)んと伺(うかがう)て近付(ちかづく)敵を打払(うちはらひ)、動(ややもす)れば差違(さしちがへ)て、義貞兄弟を目に懸(かけ)て回(まは)りけるを、武蔵国の住人(ぢゆうにん)横山(よこやまの)太郎重真(しげざね)、押隔(おしへだて)て是(これ)に組(くま)んと、馬を進めて相近(あひちか)づく。長崎もよき敵ならば、組(くま)んと懸合(かけあつ)て是(これ)を見るに、横山(よこやまの)太郎重真(しげざね)也(なり)。さてはあはぬ敵ぞと思(おもひ)ければ、重真を弓手(ゆんで)に相受(あひうけ)、甲(かぶと)の鉢(はち)を菱縫(ひしぬひ)の板まで破着(わりつけ)たりければ、重真二(ふた)つに成(なつ)て失(うせ)にけり。馬もしりゐに被打居て、小膝(こひざ)を折(をつ)てどうど伏す。同国(どうごく)の住人(ぢゆうにん)庄(しやうの)三郎為久(ためひさ)是(これ)を見て、よき敵也(なり)。と思(おもひ)ければ、続(つづい)て是(これ)に組(くま)んとす。大手をはだけて馳懸(はせかか)る。長崎遥(はるか)に見て、から/\と打笑(うちわらう)て、「党(たう)の者共(ものども)に可組ば、横山をも何かは可嫌。逢(あは)ぬ敵を失ふ様(さま)、いで/\己(おのれ)に知(しら)せん。」とて、為久(ためひさ)が鎧の上巻(あげまき)掴(つかん)で中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、弓杖(ゆんづゑ)五杖(いつつゑ)計(ばかり)安々(やすやす)と投渡(なげわた)す。 |
|
其人飛礫(そのひとつぶて)に当りける武者(むしや)二人(ににん)、馬より倒(さかさま)に被打落て、血を吐(はい)て空(むなし)く成(なり)にけり。高重(たかしげ)今はとても敵に被見知ぬる上はと思(おもひ)ければ、馬を懸居(かけすゑ)大音揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「桓武(くわんむ)第五の皇子葛原(かつらはらの)親王(しんわう)に三代の孫(そん)、平(たいらの)将軍貞盛(さだもり)より十三代前(さきの)相摸守(さがみのかみ)高時(たかとき)の管領(くわんれい)に、長崎入道円喜(ゑんき)が嫡孫(ちやくそん)、次郎高重(たかしげ)、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名(かうみやう)せんと思はん者は、よれや組(くま)ん。」と云侭(いふまま)に、鎧の袖引(ひき)ちぎり、草摺(くさずり)あまた切落(きりおと)し、太刀をも鞘(さや)に納(をさめ)つゝ、左右の大手を播(ひろげ)ては、此(ここ)に馳合(はせあひ)彼(かしこ)に馳替(はせちがひ)、大童(おほわらは)に成(なつ)て駈散(かけちら)しける。 懸(かか)る処に、郎等共(らうどうども)馬の前に馳塞(はせふさがつ)て、「何(いか)なる事にて候ぞ。御一所(ごいつしよ)こそ加様(かやう)に馳廻坐(はせまはりましま)せ。敵は大勢にて早(はや)谷々(やつやつ)に乱入(みだれいり)、火を懸(かけ)物を乱妨(らんばう)し候。急(いそぎ)御帰候(かへりさふらう)て、守殿(かうのとの)の御自害(ごじがい)をも勤(すすめ)申させ給へ。」と云(いひ)ければ、高重郎等(らうどう)に向(むかつ)て宣(のたまひ)けるは、「余(あま)りに人の逃(にぐ)るが面白さに、大殿(おほとの)に約束しつる事をも忘(わすれ)ぬるぞや。いざゝらば帰参(かへりまゐら)ん。」とて、主従八騎の者共(ものども)、山内(やまのうち)より引帰(ひきかへ)しければ、逃(にげ)て行(ゆく)とや思ひけん、児玉党(こだまたう)五百(ごひやく)余騎(よき)、「きたなし返せ。」と罵(ののしつ)て、馬を争(あらそう)て追懸(おつかけ)たり。高重、「こと/゛\しの奴原(やつばら)や、何程の事をか仕出(しいだ)すべき。」とて、聞(きか)ぬ由にて打(うち)けるを、手茂(てしげ)く追(おう)て懸(かか)りしかば、主従八騎屹(きつ)と見帰(みかへつ)て馬の轡(くつばみ)を引回(ひきまは)すとぞみへし。 山内(やまのうち)より葛西(かさい)の谷口(たにぐち)まで十七度まで返し合せて、五百(ごひやく)余騎(よき)を追退(おひしりぞ)け、又閑々(しづしづ)とぞ打(うつ)て行(ゆき)ける。高重が鎧に立(たつ)処の矢二十三筋(にじふさんすぢ)、蓑毛(みのけ)の如く折(をり)かけて、葛西谷(かさいのやつ)へ参りければ、祖父(おほぢ)の入道待請(まちうけ)て、「何とて今まで遅(おそか)りつるぞ。今は是(これ)までか。」と問(とは)れければ、高重畏(かしこま)り、「若(もし)大将義貞に寄せ合(あは)せば、組(くん)で勝負をせばやと存候(ぞんじさふらう)て、二十(にじふ)余度(よど)まで懸入(かけいり)候へ共(ども)、遂に不近付得。其(その)人と覚(おぼ)しき敵にも見合(みあひ)候はで、そゞろなる党の奴(や)つ原(ばら)四五百人(しごひやくにん)切落(きりおとし)てぞ捨候(すてさふらひ)つらん。哀(あはれ)罪の事だに思ひ候はずは、猶(なほ)も奴原(やつばら)を浜面(はまおもて)へ追出(おひいだ)して、弓手(ゆんで)・馬手(めて)に相付(あひつけ)、車切(くるまぎり)・胴切・立破(たてわり)に仕棄度(つかまつりすてたく)存候(ぞんじさふらひ)つれ共(ども)、上(うへ)の御事(おんこと)何(いか)がと御心元(おんこころもと)なくて帰参(かへりまゐつ)て候。」と、聞(きく)も涼(すずし)く語るにぞ、最期(さいご)に近き人々も、少し心を慰めける。 |
|
■高時並一門(いちもん)以下(いげ)於東勝寺自害(じがいの)事(こと)
去程(さるほど)に高重走廻(はしりまはつ)て、「早々(はやはや)御自害(ごじがい)候へ。高重先(さき)を仕(つかまつつ)て、手本に見せ進(まゐら)せ候はん。」と云侭(いふまま)に、胴計(ばかり)残(のこつ)たる鎧(よろひ)脱(ぬい)で抛(なげ)すてゝ、御前(おんまへ)に有(あり)ける盃(さかづき)を以て、舎弟(しやてい)の新右衛門に酌(しやく)を取(とら)せ、三度(さんど)傾(かたむけ)て、摂津(つの)刑部(ぎやうぶの)太夫入道々準(だうじゆん)が前に置き、「思指申(おもひざしまうす)ぞ。是(これ)を肴(さかな)にし給へ。」とて左の小脇(こわき)に刀を突立(つきたて)て、右の傍腹(そばはら)まで切目(きりめ)長く掻破(かきわつ)て、中(なか)なる腸(はらわた)手縷出(たぐりいだ)して道準が前にぞ伏(ふし)たりける。 道準盃を取(とつ)て、「あはれ肴や、何(いか)なる下戸(げこ)なり共(とも)此(これ)をのまぬ者非じ。」と戯(たはむれ)て、其(その)盃を半分計(ばかり)呑残(のみのこし)て、諏訪(すは)入道が前に指置(さしおき)、同(おなじ)く腹切(きつ)て死にけり。諏訪(すは)入道直性(ぢきしやう)、其(その)盃を以て心閑(しづか)に三度(さんど)傾(かたむけ)て、相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の前に指置(さしおい)て、「若者共(わかものども)随分芸(げい)を尽(つく)して被振舞候に年老(としより)なればとて争(いかで)か候べき、今より後(のち)は皆是(これ)を送肴(おくりざかな)に仕(つかまつる)べし。」とて、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、其(その)刀を抜(ぬい)て入道殿(にふだうどの)の前に指置(さしおい)たり。 長崎入道円喜(ゑんき)は、是(これ)までも猶(なほ)相摸(さがみ)入道(にふだう)の御事(おんこと)を何奈(いかが)と思(おもひ)たる気色(けしき)にて、腹をも未(いまだ)切(きらざり)けるが、長崎新右衛門今年十五に成(なり)けるが、祖父(おほぢ)の前に畏(かしこまつ)て、「父祖(ふそ)の名を呈(あらは)すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神(ぶつじん)三宝も定(さだめ)て御免(おんゆるし)こそ候はんずらん。」とて、年老残(としおいのこつ)たる祖父(おほぢ)の円喜(ゑんき)が肱(ひぢ)のかゝりを二刀(ふたかたな)差(さし)て、其(その)刀にて己(おのれ)が腹を掻切(かききつ)て、祖父を取(とつ)て引伏(ひきふ)せて、其(その)上(うへ)に重(かさなつ)てぞ臥(ふし)たりける。此小冠者(このこくわじや)に義を進められて、相摸(さがみ)入道(にふだう)も腹切(きり)給へば、城(じやうの)入道続(つづい)て腹をぞ切(きつ)たりける。是(これ)を見て、堂上(だうじやう)に座を列(つらね)たる一門(いちもん)・他家の人々、雪の如くなる膚(はだへ)を、推膚脱々々々(おしはだぬぎおしはだぬぎ)、腹を切(きる)人もあり、自(みづから)頭(くび)を掻落(かきおと)す人もあり、思々(おもひおもひ)の最期(さいご)の体(てい)、殊に由々敷(ゆゆしく)ぞみへたりし。 |
|
其外(そのほか)の人々には、金沢(かなざは)太夫入道崇顕(そうけん)・佐介(さすけ)近江(あふみの)前司(ぜんじ)宗直(むねなほ)・甘名宇(あまなう)駿河(するがの)守(かみ)宗顕(むねあき)・子息駿河(するがの)左近(さこんの)太夫将監(しやうげん)時顕(ときあき)・小町(こまち)中務(なかつかさの)太輔朝実(ともざね)・常葉(ときは)駿河(するがの)守(かみ)範貞(のりさだ)・名越(なごや)土佐(とさの)前司(ぜんじ)時元(ときもと)・摂津(つの)形部大輔(ぎやうぶのたいふ)入道・伊具(いぐ)越前(ゑちぜんの)々司宗有(むねあり)・城(じやうの)加賀(かがの)前司(ぜんじ)師顕(もろあき)・秋田城介師時(あいたのじやうのすけもろとき)・城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)有時(ありとき)・南部(なんぶ)右馬(うまの)頭(かみ)茂時(しげとき)・陸奥(むつの)右馬助(うまのすけ)家時(いへとき)・相摸(さがみの)右馬助(うまのすけ)高基(たかもと)・武蔵(むさしの)左近(さこんの)大夫将監(しやうげん)時名(ときな)・陸奥(むつの)左近(さこんの)将監(しやうげん)時英(ときふさ)・桜田治部(ぢぶの)太輔貞国(さだくに)・ 江馬(えま)遠江守(とほたふみのかみ)公篤(きんあつ)・阿曾(あその)弾正少弼(せうひつ)治時(はるとき)・苅田(かつた)式部(しきぶの)大夫篤時(あつとき)・遠江兵庫(ひやうごの)助(すけ)顕勝(あきかつ)・備前(びぜんの)左近(さこんの)大夫将監(しやうげん)政雄(まさを)・坂上(さかのうへ)遠江守(とほたふみのかみ)貞朝・陸奥(むつの)式部(しきぶの)太輔高朝(たかとも)・城介高量(じやうのすけたかかず)・同(おなじき)式部(しきぶの)大夫顕高(あきたか)・同(おなじき)美濃(みのの)守(かみ)高茂(たかしげ)・秋田城介(あいたのじやうのすけ)入道延明(えんみやう)・明石(あかし)長門(ながとの)介入道忍阿(にんあ)・長崎三郎左衛門入道思元(しげん)・隅田(すだ)次郎左衛門(じらうざゑもん)・摂津(つの)宮内(くないの)大輔(たいふ)高親(たかちか)・同(おなじき)左近(さこんの)大夫将監(しやうげん)親貞(ちかさだ)、名越(なごやの)一族(いちぞく)三十四人、塩田(しほだ)・赤橋(あかはし)・常葉(ときは)・ 佐介(さすけ)の人々四十六人、総(そう)じて其門葉(そのもんえふ)たる人二百八十三人(にひやくはちじふさんにん)、我先(われさき)にと腹切(きつ)て、屋形(やかた)に火を懸(かけ)たれば、猛炎(みやうえん)昌(さかん)に燃上(もえあが)り、黒煙(くろけぶり)天を掠(かすめ)たり。庭上・門前に並居(なみゐ)たりける兵共(つはものども)是(これ)を見て、或(あるひ)は自(みづから)腹掻切(かききつ)て炎(ほのほ)の中へ飛入(とびいる)もあり、或(あるひ)は父子(ふし)兄弟差違(さしちが)へ重(かさな)り臥(ふす)もあり。血は流(ながれ)て大地に溢(あふ)れ、漫々(まんまん)として洪河(こうが)の如くなれば、尸(かばね)は行路(かうろ)に横(よこたはつ)て累々(るゐるゐ)たる郊原(かうげん)の如し。死骸(しがい)は焼(やけ)て見へね共(ども)、後に名字を尋(たづ)ぬれば、此一所(このいつしよ)にて死する者、総(すべ)て八百七十(はつぴやくしちじふ)余人(よにん)也(なり)。此外(このほか)門葉・恩顧(おんこ)の者、僧俗(そうぞく)・男女を不云、聞伝々々(ききつたへききつたへ)泉下(せんか)に恩を報(はうず)る人、世上に促悲を者、遠国(ゑんごく)の事はいざ不知、鎌倉中(かまくらぢゆう)を考(かんがふ)るに、総(すべ)て六千余人(よにん)也(なり)。嗚呼(ああ)此(この)日何(いか)なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申(まうす)に、平家九代の繁昌一時(いちじ)に滅亡して、源氏多年の蟄懐(ちつくわい)一朝(いつてう)に開(ひらく)る事を得たり。 |
|
■太平記 巻第十一 | |
■五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)宗繁(むねしげ)賺相摸太郎事
義貞已(すで)に鎌倉(かまくら)を定(しづめ)て、其威(そのゐ)遠近(ゑんきん)に振(ふる)ひしかば、東(とう)八箇国(はちかこく)の大名・高家(かうけ)、手を束(つか)ね膝を不屈と云(いふ)者なし。多日属随(つきしたがひ)て忠を憑(たの)む人だにも如此。況(いはん)や只今まで平氏の恩顧(おんこ)に順(したがひ)て、敵陣に在(あり)つる者共(ものども)、生甲斐(いきがひ)なき命を続(つが)ん為に、所縁(しよえん)に属(しよく)し降人(かうにん)に成(なつ)て、肥馬(ひば)の前に塵(ちり)を望み、高門(かうもん)の外に地を掃(はい)ても、己(おのれ)が咎(とが)を補はんと思へる心根(こころね)なれば、今は浮世(うきよ)の望(のぞみ)を捨(すて)て、僧法師(そうほふし)に成(なり)たる平氏の一族(いちぞく)達(たち)をも、寺々より引出して、法衣(ほふえ)の上に血を淋(そそ)き、二度(ふたたび)は人に契(ちぎ)らじと、髪をゝろし貌(かたち)を替(かへ)んとする亡夫(ばうふ)の後室共(こうしつども)をも、所々より捜出(さがしいだ)して、貞女(ていぢよ)の心を令失。 悲(かなしい)哉(かな)、義を専(もつばら)にせんとして、忽(たちまち)に死せる人は、永く修羅(しゆら)の奴(やつこ)と成(なつ)て、苦(くるしみ)を多劫(たごふ)の間(あひだ)に受けん事を。痛(いたはしい)哉(かな)、恥を忍(しのん)で苟(いやしく)も生(いく)る者は、立(たちどこ)ろに衰窮(すゐきゆう)の身と成(なつ)て、笑(わらひ)を万人の前に得たる事を。中にも五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)宗繁(むねしげ)は、故(こ)相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の重恩(ぢゆうおん)を与(あたへ)たる侍(さぶらひ)なる上、相摸(さがみ)入道(にふだう)の嫡子(ちやくし)相摸太郎邦時(くにとき)は、此(この)五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)が妹(いもうと)の腹に出来(いでき)たる子なれば、甥(をひ)也(なり)。主(しゆ)也(なり)。 何(いづれ)に付(つけ)ても弐(ふたごこ)ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時(このくにとき)をば汝(なんぢ)に預置(あづけおく)ぞ、如何(いか)なる方便(てだて)をも廻(めぐら)し、是(これ)を隠し置き、時到(いた)りぬと見へば、取立(とりたて)て亡魂(ばうこん)の恨(うらみ)を可謝。」と相摸(さがみ)入道(にふだう)宣(のたまひ)ければ、宗繁、「仔細(しさい)候はじ。」と領掌(りやうじやう)して、鎌倉(かまくら)の合戦の最中(さいちゆう)に、降人(かうにん)にぞ成(なり)たりける。角(かく)て二三日を経(へ)て後、平氏悉(ことごとく)滅(ほろ)びしかば、関東(くわんとう)皆源氏の顧命(こめい)に随(したがつ)て、此彼(ここかしこ)に隠居(かくれゐ)たる平氏の一族共(いちぞくども)、数(あま)た捜出(いだ)されて、捕手(とりて)は所領(しよりやう)を預(あづか)り、隠せる者は忽(たちまち)に被誅事多し。 |
|
五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)是(これ)を見て、いや/\果報(くわはう)尽(つき)はてたる人を扶持(ふち)せんとて適(たまたま)遁(のがれ)得たる命を失はんよりは、此(この)人の在所(ざいしよ)を知(しつ)たる由(よし)、源氏の兵(つはもの)に告(つぐ)て、弐(ふたごこ)ろなき所を顕(あらは)し、所領の一所(いつしよ)をも安堵(あんど)せばやと思(おもひ)ければ、或夜(あるよ)彼(かの)相摸太郎に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「是(これ)に御坐(ござ)の事は、如何なる人も知(しり)候はじとこそ存じて候に、如何(いかが)して漏(もれ)聞へ候(さふらひ)けん、船田(ふなだ)入道明日(みやうにち)是(これ)へ押寄候(おしよせさふらひ)て、捜し奉らんと用意(ようい)候由(よし)、只今或方(あるかた)より告知(つげしら)せて候。何様(なにさま)御座(ござ)の在所(ざいしよ)を、今夜替(かへ)候はでは叶(かなふ)まじく候。夜(よ)に紛(まぎ)れて、急ぎ伊豆(いづ)の御山(おやま)の方(かた)へ落(おち)させ給(たまひ)候へ。宗繁(むねしげ)も御伴(おんとも)申度(まうしたく)は存(ぞんじ)候へ共(ども)、一家(いつけ)を尽(つく)して落候(おちさふらひ)なば、船田入道、さればこそと心付(つき)て、何(いづ)くまでも尋求(たづねもとむ)る事も候はんと存じ候間、態(わざと)御伴(おんとも)をば申(まうす)まじく候。」と、誠(まこと)し顔(がほ)に成(なつ)て云(いひ)ければ、相摸太郎げにもと身の置所(おきどころ)なくて、五月二十七日(にじふしちにち)の夜半計(やはんばかり)に、忍(しのび)て鎌倉(かまくら)を落玉(おちたま)ふ。 昨日(きのふ)までは天下の主(あるじ)たりし相摸(さがみ)入道(にふだう)の嫡子(ちやくし)にて有(あり)しかば、仮初(かりそめ)の物詣(ものまう)で・方違(かたたが)ひと云(いひ)しにも、御内(みうち)・外様(とざま)の大名共、細馬(さいば)に轡(くつばみ)を噛(かま)せて、五百騎(ごひやくき)・三百騎(さんびやくき)前後(ぜんご)に打囲(うちかこう)で社(こそ)往覆(わうふく)せしに、時移(うつり)事(こと)替(かはり)ぬる世の有様の浅猿(あさまし)さよ、怪(あや)しげなる中間(ちゆうげん)一人に太刀持(もた)せて、伝馬(てんま)にだにも乗らで、破(やれ)たる草鞋(わらぢ)に編笠(あみがさ)着(き)て、そこ共(とも)不知、泣々(なくなく)伊豆の御山(おやま)を尋(たづね)て、足に任(まかせ)て行(ゆき)給ひける、心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)は、加様(かやう)にして此(この)人をばすかし出(いだ)しぬ。 |
|
我と打(うつ)て出(いだ)さば、年来(としごろ)奉公の好(よしみ)を忘(わすれ)たる者よと、人に指を被差つべし。便宜(びんぎ)好(よか)らんずる源氏の侍(さぶらひ)に討(うた)せて、勲功(くんこう)を分(わけ)て知行(ちぎやう)せばやと思(おもひ)ければ、急(いそぎ)船田入道が許(もと)に行(ゆき)て、「相摸の太郎殿(たらうどの)の在所(ざいしよ)をこそ、委(くはし)く聞出(ききいで)て候へ、他の勢(せい)を不交して、打(うつ)て被出候はゞ、定(さだめ)て勲功異他候はんか。告申(つげまうし)候忠(ちゆう)には、一所懸命(いつしよけんめい)の地を安堵仕(あんどつかまつ)る様(やう)に、御吹挙(ごすゐきよ)に預り候はん。」と云(いひ)ければ、船田入道、心中(しんちゆう)には悪(にく)き者の云様(いひやう)哉(かな)と乍思、「先(まづ)子細非じ。」と約束して、五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)諸共(もろとも)に、相摸太郎の落行(おちゆき)ける道を遮(さへぎつ)てぞ待(また)せける。 相摸太郎道に相待(あひまつ)敵有(あり)とも不思寄、五月二十八日明(あけ)ぼのに、浅猿(あさまし)げなる■(やつ)れ姿(すがた)にて、相摸河を渡らんと、渡(わた)し守(もり)を待(まつ)て、岸の上に立(たち)たりけるを、五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)余所(よそ)に立(たつ)て、「あれこそ、すは件(くだん)の人よ。」と教(をしへ)ければ、船田が郎等(らうどう)三騎、馬より飛(とん)で下(お)り、透間(すきま)もなく生捕(いけどり)奉る。俄(にはか)の事にて張輿(はりごし)なんどもなければ、馬にのせ舟の縄(なは)にてしたゝかに是(これ)を誡(いまし)め、中間(ちゆうげん)二人(ににん)に馬の口を引(ひか)せて、白昼(はくちう)に鎌倉(かまくら)へ入れ奉る。是(これ)を見聞(みきく)人毎(ごと)に、袖をしぼらぬは無(なか)りけり。 此(この)人未だ幼稚(えうち)の身なれば、何程の事か有(ある)べけれ共(ども)、朝敵(てうてき)の長男にてをはすれば、非可閣とて、則(すなはち)翌日(よくじつ)の暁(あかつき)、潛(ひそか)に首(くび)を刎(はね)奉る。昔程嬰(ていえい)が我(わが)子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲(よじやう)が貌(かたち)を変(へん)じて、旧君(きうくん)の恩を報ぜし、其(それ)までこそなからめ、年来(としごろ)の主を敵に打(うた)せて、欲心(よくしん)に義を忘れたる五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)が心の程、希有(けう)也(なり)。不道(ふだう)也(なり)と、見る人毎(ごと)に爪弾(つまはじき)をして悪(にく)みしかば、義貞げにもと聞給(ききたまひ)て、是(これ)をも可誅と、内々其儀(そのぎ)定まりければ、宗繁(むねしげ)是(これ)を伝聞(つたへきい)て、此彼(ここかしこ)に隠れ行きけるが、梟悪(けうあく)の罪(つみ)身を譴(せ)めけるにや、三界雖広一身(いつしん)を措(おく)に処なく故旧(こきう)雖多一飯(いつぱん)を与(あたふ)る無人して、遂(つひ)に乞食(こつじき)の如(ごとく)に成果(なりはて)て、道路の街(ちまた)にして、飢死(うゑじ)にけるとぞ聞へし。 |
|
■諸将被進早馬於船上事
都には五月十二日千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕朝臣(ただあきあそん)・足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)・赤松入道円心等(ゑんしんら)、追々(おひおひ)早馬を立(たて)て、六波羅(ろくはら)已(すで)に令没落之(ぼつらくせしむるの)由船上(ふなのうへ)へ奏聞(そうもん)す。依之(これによつて)諸卿僉議(せんぎ)あ(ッ)て、則(すなはち)還幸可成否(いなや)の意見を被献ぜ。時に勘解由次官(かげゆのじくわん)光守(みつもり)、諌言(かんげん)を以て被申けるは、「両六波羅(りやうろくはら)已(すで)に雖没落、千葉屋(ちはや)発向(はつかう)の朝敵等猶(なほ)畿内(きない)に満(みち)て、勢(いきほ)ひ京洛(きやうらく)を呑(の)めり。又賎(いやし)き諺(ことわざ)に、「東(とう)八箇国(はちかこく)の勢(せい)を以て、日本国の勢に対し、鎌倉中(かまくらぢゆう)の勢を以て、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢に対(たい)す」といへり。 されば承久(しようきう)の合戦に、伊賀判官(いがのはうぐわん)光季(みつすゑ)を被追落し事は輒(たやす)かりしか共(ども)、坂東勢(ばんどうぜい)重(かさね)て上洛(しやうらく)せし時、官軍(くわんぐん)戦ひに負(まけ)て、天下久(ひさしく)武家の権威(けんゐ)に落(おち)ぬ。今一戦(いつせん)の雌雄(しゆう)を測(はか)るに、御方(みかた)は纔(わづか)に十〔に〕して其(その)一二を得たり。「君子(くんしは)不近刑人」と申(まうす)事(こと)候へば、暫(しばら)く只皇居(くわうきよ)を被移候はで、諸国へ綸旨(りんし)を被成下、東国の変違(へんゐ)を可被御覧ぜや候らん。」と被申ければ、当座(たうざ)の諸卿悉(ことごとく)此(この)議にぞ被同ける。而(しか)れども、主上(しゆしやう)猶(なほ)時宜(しぎ)定め難く被思召ければ、自(みづから)周易(しうえき)を披(ひら)かせ給(たまひ)て、還幸(くわんかう)の吉凶(きつきよう)を蓍筮(しぜい)に就(つけ)てぞ被御覧ける。御占師(おんうらなひの)卦(け)に出(いで)て云(いはく)、「師貞、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。小人勿用。王弼注云、処師之極、師之終也(なり)。大君之命不失功也(なり)。開国承家、以寧邦也(なり)。小人勿用、非其道也(なり)。」と注(ちゆう)せり。 |
|
御占(おんうらなひ)已(すで)に如此。此(この)上は何をか可疑とて、同(おなじき)二十三日(にじふさんにち)伯耆(はうき)の舟上(ふなのうへ)を御立(おんたち)有(あつ)て、腰輿(えうよ)を山陰(せんおん)の東にぞ被催ける。路次(ろし)の行装(ぎやうさう)例(れい)に替(かは)りて、頭(とうの)大夫行房(ゆきふさ)・勘解由次官(かげゆのじくわん)光守(みつもり)二人(ににん)許(ばかり)こそ、衣冠(いくわん)にて被供奉けれ。其外(そのほか)の月卿雲客(げつけいうんかく)・衛府諸司(ゑふしよし)の助(すけ)は、皆戎衣(じゆうい)にて前騎後乗(ぜんきこうじよう)す。六軍(りくぐん)悉(ことごとく)甲冑(かつちう)を着(ちやく)し、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して、前後三十(さんじふ)余里(より)に支(ささ)へたり。 塩冶(えんや)判官高貞は、千(せん)余騎(よき)にて、一日先立(さきだつ)て前陣を仕(つかまつ)る。又朝山(あさやま)太郎は、一日路(にちぢ)引殿(ひきおくれ)て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて後陣(ごぢん)に打(うち)けり。金持(かなぢの)大和(やまとの)守(かみ)、錦(にしき)の御旗(おんはた)を差(さし)て左に候(こう)し、伯耆守(はうきのかみ)長年(ながとし)は、帯剣(たいけん)の役(やく)にて右に副(そ)ふ。雨師(うし)道を清め、風伯(ふうはく)塵(ちり)を払ふ。紫微北辰(しびほくしん)の拱陣(きようぢん)も、角(かく)やと覚(おぼえ)て厳重也(なり)。されば去年の春隠岐(おきの)国(くに)へ被移させ給ひし時、そゞろに宸襟(しんきん)を被悩て、御泪(おんなみだ)の故(もと)と成(なり)し山雲海月の色、今は竜顔(りようがん)を令悦端(はし)と成(なつ)て、松吹(ふく)風も自(おのづか)ら万歳(ばんぜい)を呼ぶかと被奇、塩焼(しほやく)浦の煙(けぶり)まで、にぎわう民の竈(かまど)と成る。 |
|
■書写山(しよしやさん)行幸(ぎやうがうの)事(こと)付(つけたり)新田(につた)注進(ちゆうしんの)事(こと)
五月二十七日(にじふしちにち)には、播磨国(はりまのくに)書写山へ行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、先年の御宿願(しゆくぐわん)を被果、諸堂御順礼(ごじゆんれい)の次(つぎ)に、開山(かいさん)性空上人(しやうぐうしやうにん)の御影堂(みえいだう)を被開に、年来(としごろ)秘(ひ)しける物と覚(おぼえ)て、重宝(ちようはう)ども多かりけり。 当寺の宿老(しゆくらう)を一人召(めし)て、「是(これ)は如何なる由緒(ゆゐしよ)の物共ぞ。」と、御尋(おんたづね)有(あり)ければ、宿老畏(かしこまつ)て一々に是(これ)を演説(えんぜつ)す。先(まづ)杉原(すいばら)一枚を折(をつ)て、法華経(ほけきやう)一部八巻並(ならびに)開結二経(かいけつのにきやう)を細字(さいじ)に書(かき)たるあり。是(これ)は上人寂寞(じやくまく)の扉(とぼそ)に御坐(おはしまし)て妙典(めうでん)を読誦(どくじゆ)し給(たまひ)ける時、第八の冥官(みやうくわん)一人(ひとり)の化人(けにん)と成(なつ)て、片時(へんし)の程に書(かき)たりし御経也(なり)。 又歯(は)禿(ちび)て僅(わづか)に残れる杉(すぎ)の屐(あしだ)あり。是(これ)は上人当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道(かいだう)三十五里の間を一時(いつとき)が内に歩(あゆ)ませ給(たまひ)し屐(あしだ)也(なり)。又布(ぬの)にて縫(ぬひ)たる香(かう)の袈裟(けさ)あり。是(これ)は上人御身(おんみ)を不放、長時(ぢやうじ)に懸(かけ)させ給(たまひ)けるが、香の煙(けぶり)にすゝけたるを御覧じて、「哀(あはれ)洗(あらは)ばや。」と被仰ける時、常随給仕(じやうずゐきふじ)の乙護法(おとごほふ)「是(これ)を洗(あらう)て参(まゐり)候はん。」と申(まうし)て、遥(はるか)に西天(さいてん)を指(さ)して飛去(とびさり)ぬ。且(しばら)く在(あつ)て、此(この)袈裟をば虚空(こくう)に懸乾(かけほす)、恰(あたか)も一片(いつぺん)の雲の夕日に映(えい)ずるが如し。 上人護法(ごほふ)を呼(よび)て、「此袈裟(このけさ)をば如何なる水にて洗ひたりけるぞ。」と問はせ給へば、護法、「日本(につぽん)の内には可然清冷水(せいりやうすゐ)候はで、天竺(てんぢく)の無熱池(むねつち)の水にて濯(すすい)で候也(なり)。」と、被答申たりし御袈裟也(なり)。生木化仏(しやうもくけぶつ)の観世音(くわんぜおん)、稽首(けいしゆ)生木如意輪(によいりん)、能満有情福寿願(のうまんうじやうふくじゆぐわん)、亦満往生極楽願(やくまんわうじやうごくらくぐわん)、百千倶■悉所念(ひやくせんくていしつしよねむ)と、天人降下供養(かうげくやう)し奉る像(ざう)なり。毘首羯磨(びしゆかつま)が作りし五大尊(ごたいそん)、是(これ)のみならず、法華読誦(ほつけどくじゆ)の砌(みぎり)には、不動(ふどう)・毘沙門(びしやもん)の二童子に、形(かたち)を現(げん)じて仕給(つかへたまふ)也(なり)。 |
|
又延暦寺(えんりやくじ)の中堂供養(ちゆうだうくやう)の日は、上人当山に坐(ましま)しながら、風(ほのか)に如来唄(によらいばい)を引給(ひきたまひ)しかば、梵音(ぼんおん)遠く叡山の雲に響(ひびい)て一会(いちゑ)の奇特(きどく)を顕(あらは)せし事共(ことども)、委細(いさい)に演説仕(えんぜつつかまつ)りたれば、主上(しゆしやう)不斜(なのめならず)信心を傾(かたむけ)させ給(たまひ)て、則(すなはち)当国の安室郷(やすむろのがう)を御寄附(ごきふ)有(あつ)て、不断如法経(ふだんによほふきやう)の料所(れうしよ)にぞ被擬ける。今に至(いたる)まで、其妙行(そのめうぎやう)片時(へんし)も懈(おこた)る事無(なう)して、如法如説(によほふによせつ)の勤行(ごんぎやう)たり。誠(まこと)に滅罪生善(めつざいしやうぜん)の御願(ごぐわん)難有かりし事共(ことども)也(なり)。二十八日に法華山(ほつけさん)へ行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、御巡礼(ごじゆんれい)あり。是(これ)より龍駕(りようが)を被早て、晦日(つごもり)は兵庫(ひやうご)の福厳寺(ふくごんじ)と云(いふ)寺に、儲餉(ちよしやう)の在所(ざいしよ)を点(てん)じて、且(しばら)く御坐(ござ)有(あり)ける処に、其(その)日(ひ)赤松入道父子四人、五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して参向(さんかう)す。 竜顔(りようがん)殊に麗(うるはし)くして、「天下草創(さうさう)の功(こう)偏(ひとへ)に汝等(なんぢら)贔屓(ひいき)の忠戦によれり。恩賞(おんしやう)は各(おのおの)望(のぞみ)に可任。」と叡感有(あつ)て、禁門の警固(けいご)に奉侍(ぶし)せられけり。此(この)寺に一日御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、供奉(ぐぶ)の行列還幸の儀式を被調ける処に、其(その)日(ひ)の午刻(うまのこく)に、羽書(うしよ)を頚に懸(かけ)たる早馬三騎、門前まで乗打(のりうち)にして、庭上に羽書を捧(ささげ)たり。諸卿驚(おどろい)て急披(いそぎひらい)て是(これ)を見給へば、新田(につた)小太郎義貞の許(もと)より、相摸(さがみ)入道(にふだう)以下(いげ)の一族(いちぞく)従類等(じゆうるゐら)、不日(ふじつ)に追討(つゐたう)して、東国已(すで)に静謐(せいひつ)の由を注進(ちゆうしん)せり。西国(さいこく)・洛中(らくちゆう)の戦(たたかひ)に、官軍(くわんぐん)勝(かつ)に乗(のつ)て両六波羅(りやうろくはら)を雖責落、関東(くわんとう)を被責事は、ゆゝしき大事(だいじ)成(なる)べしと、叡慮を被回ける処に、此注進(このちゆうしん)到来(たうらい)しければ、主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、諸卿一同に猶預(ゆよ)の宸襟(しんきん)を休め、欣悦称嘆(きんえつしようたん)を被尽、則(すなはち)、「恩賞は宜(よろしく)依請。」と被宣下て、先(まづ)使者三人(さんにん)に各(おのおの)勲功の賞をぞ被行ける。 |
|
■正成(まさしげ)参兵庫事(こと)付(つけたり)還幸(くわんかうの)事(こと)
兵庫に一日御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、六月二日被回腰輿(えうよ)処に、楠(くすのき)多門(たもん)兵衛正成(まさしげ)七千(しちせん)余騎(よき)にて参向(さんかう)す。其(その)勢(せい)殊に勇々敷(ゆゆしく)ぞ見へたりける。主上(しゆしやう)御簾(ぎよれん)を高く捲(まか)せて、正成を近く被召、「大儀(たいぎ)早速(さつそく)の功、偏(ひとへ)に汝が忠戦にあり。」と感じ被仰ければ、正成畏(かしこまつ)て、「是(これ)君の聖文(せいぶん)神武(しんぶ)の徳に不依ば、微臣(びしん)争(いかで)か尺寸(せきすん)の謀(はかりごと)を以て、強敵(がうてき)の囲(かこみ)を可出候(さふらはん)乎(や)。」と功を辞して謙下(けんげ)す。 兵庫を御立(おんたち)有(あり)ける日より、正成前陣(せんぢん)を奉(うけたまはつ)て、畿内(きない)の勢を相順(あひしたが)へ、七千(しちせん)余騎(よき)にて前騎(ぜんき)す。其(その)道十八里が間、干戈戚揚(かんくわせきやう)相挟(あひはさみ)、左輔右弼(さほいうひつ)列(れつ)を引(ひき)、六軍(りくぐん)次(つい)でを守り、五雲(ごうん)閑(しづか)に幸(みゆき)すれば、六月五日の暮(くれ)程に、東寺(とうじ)まで臨幸(りんかう)成(なり)ければ、武士(ぶし)たる者は不及申、摂政・関白・太政(だいじやう)大臣(だいじん)・左右(さう)の大将(だいしやう)・大中納言・八座(はちざ)・七弁(しちべん)・五位・六位・内外(ないげ)の諸司(しよし)・医陰(いおんの)両道に至(いたる)まで、我(われ)劣(おとら)じと参集(まゐりあつま)りしかば、車馬(しやば)門前に群集(くんしゆ)して、地府(ちふ)に布雲、青紫(せいし)堂上(だうじやう)に陰映(いんえい)して、天極(てんきよく)に列星。 翌日(よくじつ)六月六日、東寺より二条(にでう)の内裏(だいり)へ還幸成(なつ)て、其(その)日(ひ)先(まづ)臨時の宣下(せんげ)有(あつ)て、足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)治部卿に任(にん)ず。舎弟兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)直義(ただよし)左馬頭(さまのかみ)に任ず。去程(さるほど)に千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣、帯剣(たいけん)の役(やく)にて、鳳輦(ほうれん)の前に被供奉けるが、尚(なほ)非常を慎(つつし)む最中(さいちゆう)なればとて、帯刀(たてはき)の兵(つはもの)五百人(ごひやくにん)二行に被歩。高氏・直義二人(ににん)は後乗(こうじよう)に順(したがつ)て、百官の後(しりへ)に被打。衛府(ゑふ)の官なればとて、騎馬の兵五千(ごせん)余騎(よき)、甲冑(かつちう)を帯して被打。其(その)次に宇都宮(うつのみや)五百(ごひやく)余騎(よき)、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)七百(しちひやく)余騎(よき)、土居(どゐ)・得能(とくのう)二千(にせん)余騎(よき)、此外(このほか)正成(まさしげ)・長年(ながとし)・円心(ゑんしん)・結城(ゆふき)・長沼・塩冶已下(えんやいげ)諸国の大名は、五百騎(ごひやくき)・三百騎(さんびやくき)、其(その)旗の次に一勢(いつせい)々々(いつせい)引分(ひきわけ)て、輦輅(れんろ)を中(なか)にして、閑(しづか)に小路(こうぢを)打(うつ)たり。凡(およそ)路次の行装(かうさう)、行列の儀式、前々の臨幸に事替(かはつ)て、百司(はくし)の守衛(しゆゑ)厳重(げんぢゆう)也(なり)。見物の貴賎(きせん)岐(ちまた)に満(みち)て、只(ただ)帝徳(ていとく)を頌(しよう)し奉(たてまつる)声(こゑ)、洋々(やうやう)として耳に盈(みて)り。 |
|
■筑紫(つくし)合戦(かつせんの)事(こと)
京都・鎌倉(かまくら)は、已(すで)に高氏・義貞の武功に依(よつ)て静謐(せいひつ)しぬ。今は筑紫(つくし)へ討手(うつて)を被下て、九国の探題(たんだい)英時(ひでとき)を可被責とて、二条(にでうの)大納言師基(もろもとの)卿(きやう)を太宰帥(だざいのそつ)に被成て、既(すで)に下(くだ)し奉らんとせられける処に、六月七日、菊池(きくち)・小弐(せうに)・大伴(おほども)が許(もと)より、早馬(はやむま)同時に京着(きやうちやく)して、九州の朝敵無所残、退治候(たいぢさふらひ)ぬと奏聞(そうもん)す。其(その)合戦の次第を、後(のち)に委(くはし)く尋ぬれば、主上(しゆしやう)未だ舟上(ふなのうへ)に御座(ござ)有(あり)し時、小弐入道妙慧(めうゑ)・大伴(おほども)入道具簡(ぐかん)・菊池(きくち)入道(にふだう)寂阿(じやくあ)、三人(さんにん)同心して、御方(みかた)に可参由を申入(まうしいれ)ける間、則(すなはち)綸旨(りんし)に錦の御旗(おんはた)を副(そへ)てぞ被下ける。其企(そのくはだて)彼等(かれら)三人(さんにん)が心中に秘(ひ)して、未(いまだ)色に雖不出、さすがに隠れ無(なか)りければ、此(この)事(こと)頓(やが)て探題英時(ひでとき)が方へ聞へければ、英時、彼等が野心(やしん)の実否(じつぴ)を能々(よくよく)伺ひ見ん為に、先(まづ)菊池(きくち)入道(にふだう)寂阿(じやくあ)を博多(はかた)へぞ呼(よび)ける。 菊池(きくち)此(この)使に肝付(きもつい)て、是(これ)は如何様(いかさま)彼隠謀(かのいんぼう)露顕(ろけん)して、我等を討(うた)ん為にぞ呼(よび)給ふ覧(らん)。さらんに於(おいて)は、人に先(さき)をせられては叶ふまじ、此方(こなた)より遮(さへぎつ)て博多へ寄(よせ)て、覿面(てきめん)に勝負(しようぶ)を決せんと思(おもひ)ければ、兼(かね)ての約諾(やくだく)に任(まかせ)て、小弐(せうに)・大伴(おほども)が方へ触遺(ふれつかは)しける処に、大伴、天下の落居(らくきよ)未だ如何なるべしとも見定めざりければ、分明(ぶんみやう)の返事に不及。小弐は又其比(そのころ)京都の合戦に、六波羅(ろくはら)毎度(まいど)勝(かつ)に乗(のる)由聞へければ、己(おのれ)が咎(とが)を補(おぎな)はんとや思(おもひ)けん、日来(ひごろ)の約を変(へん)じて、菊池(きくち)が使(つかひ)八幡弥四郎宗安(やはたやしらうむねやす)を討(うつ)て、其(その)頚を探題(たんだい)の方へぞ出(いだ)したりける。菊池(きくち)入道(にふだう)大(おほき)に怒(いかつ)て、「日本一(につぽんいち)の不当人共(ふたうじんども)を憑(たのん)で、此(この)一大事(いちだいじ)を思立(おもひたち)けるこそ越度(をちど)なれ。 |
|
よし/\其(その)人々の与(くみ)せぬ軍(いくさ)はせられぬか。」とて元弘三年三月十三日(じふさんにち)の卯刻(うのこく)に、僅(わづか)に百五十騎(ひやくごじつき)にて探題の館(たち)へぞ押寄(おしよせ)ける。菊池(きくち)入道(にふだう)櫛田(くしだ)の宮(みや)の前を打過(うちすぎ)ける時、軍(いくさ)の凶(きよう)をや被示けん。又乗打(のりうち)に仕(し)たりけるをや御尤(とが)め有(あり)けん。菊池(きくち)が乗(のつ)たる馬、俄(にはか)にすくみて一足(ひとあし)も前へ不進得。入道大(おほき)に腹を立(たて)て、「如何なる神にてもをはせよ、寂阿(じやくあ)が戦場へ向はんずる道にて、乗打(のりうち)を尤(とが)め可給様(やう)やある。其(その)義ならば矢一つ進(まゐら)せん。受(うけ)て御覧ぜよ。」とて、上差(うはざし)の鏑(かぶら)を抜き出し、神殿(しんでん)の扉(とびら)を二矢(ふたや)までぞ射たりける。矢を放つと均(ひとし)く、馬のすくみ直りにければ、「さぞとよ。」とあざ笑(わらう)て、則(すなはち)打通(うちとほ)りける。 其後(そののち)社壇(しやだん)を見ければ、二丈許(ばかり)なる大蛇(だいじや)、菊池(きくち)が鏑(かぶら)に当(あたつ)て死(しし)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。探題(たんだい)は、兼(かね)てより用意(ようい)したる事なれば、大勢を城の木戸(きど)より外(そと)へ出して戦はしむるに、菊池(きくち)小勢なりといへども、皆命を塵芥(ぢんかい)に比(ひ)し、義を金石(きんせき)に類(るゐ)して、責戦(せめたたかひ)ければ、防ぐ兵若干(そくばく)被打て、攻(つめ)の城(じやう)へ引篭(ひきこも)る。菊池(きくち)勝(かつ)に乗(のつ)て、屏(へい)を越(こえ)関(きど)を切破(きりやぶつ)て、透間(すきま)もなく責入(せめいり)ける間、英時(ひでとき)こらへかねて、既(すで)に自害(じがい)をせんとしける処に、小弐・大友(おほども)六千(ろくせん)余騎(よき)にて、後攻(ごづめ)をぞしたりける。菊池(きくち)入道(にふだう)是(これ)を見て、嫡子(ちやくし)に肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)を喚(よび)て云(いひ)けるは、「我(われ)今小弐・大友(おほども)に被出抜て、戦場の死に赴くといへ共(ども)、義の当る所を思ふ故(ゆゑ)に、命を堕(おとさ)ん事を不悔。然(しか)れば寂阿に於ては、英時(ひでとき)が城を枕にして可討死。汝は急(いそぎ)我館(わがたち)へ帰(かへつ)て、城を堅(かたう)し兵を起して、我が生前(しやうぜん)の恨(うらみ)を死後に報(はう)ぜよ。」と云含(いひふく)め、若党(わかたう)五十(ごじふ)余騎(よき)を引分(ひきわけ)て武重(たけしげ)に相副(あひそへ)、肥後の国へぞ返しける。 |
|
故郷(こきやう)に留置(とめおき)し妻子共(さいしども)は、出(いで)しを終(つひ)の別れとも知らで、帰るを今やとこそ待(まつ)らめと、哀(あはれ)に覚(おぼえ)ければ、一首(いつしゆ)の歌を袖の笠符(かさじるし)に書(かき)て故郷へぞ送(おくり)ける。故郷(ふるさと)に今夜許(こよひばかり)の命ともしらでや人の我(われ)を待(まつ)らん肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)は、「四十有余(しじふいうよ)の独(ひとり)の親(おや)の、只今討死せんとて大敵に向ふ戦(たたかひ)なれば、一所(いつしよ)にてこそ兎(と)も角(かう)も成(なり)候はめ。」と、再三(さいさん)申(まうし)けれども、「汝(なんぢ)をば天下の為に留(とどむ)るぞ。」と父が庭訓(ていきん)堅(かた)ければ、武重無力是(これ)を最後の別(わかれ)と見捨(みすて)て、泣々(なくなく)肥後へ帰(かへり)ける心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。 其後(そののち)菊池(きくち)入道(にふだう)は二男(じなん)肥後(ひごの)三郎と相共(あひとも)に、百(ひやく)余騎(よき)を前後に立(たて)て、後攻(ごづめ)の勢(せい)には目を不懸して探題(たんだい)の屋形(やかた)へ責入(せめいり)、終(つひ)に一足(ひとあし)も引(ひか)ず、敵に指違々々(さしちがへさしちがへ)一人も不残打死(うちじに)す。専諸(せんしよ)・荊卿(けいけい)が心は恩(おん)の為に仕(つか)はれ、侯生(こうせい)・予子(よし)が命は義に依(よつ)て軽(かろ)しとも、是等(これら)をや可申。さても小弐・大伴(おほども)が今度の振舞(ふるまひ)人に非(あら)ずと天下の人に被譏ながら、暗知(そらしら)ずして世間の様(やう)を聞居(ききゐ)たりける処に、五月七日両六波羅(ろくはら)已(すで)に被責落て、千葉屋(ちはや)の寄手(よせて)も悉(ことごとく)南都(なんと)へ引退(ひきしりぞき)ぬと聞へければ、小弐入道、こは可如何と仰天(ぎやうてん)す。去(さら)ば我れ探題を奉討身の咎(とが)を遁(のがれ)ばやと思(おもひ)ければ、先(まづ)菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)と大友入道とが許(もと)へ内々(ないない)使者を遣(つかは)して相語(あひかたら)ふに、菊池(きくち)は先(さき)に懲(こり)て耳にも不聞入。大友は我(われ)も咎(とが)ある身なれば、角(かく)てや助かると堅(かたく)領掌(りやうじやう)してげり。 |
|
今日(けふ)や明日(あす)やと吉日を撰(えらび)ける処に、英時(ひでとき)、小弐が隠謀(いんぼう)の企(くはだて)を聞(きき)て、事の実否(じつぴ)を伺見(うかがひみ)よとて、長岡(ながをかの)六郎(ろくらう)を小弐が許(もと)へぞ遣(つかは)しける。長岡(ながをか)則(すなはち)行向(ゆきむかつ)て、小弐に可見参由を云(いひ)ければ、時節(をりふし)相労(あひいたはる)事(こと)有(あり)とて、対面(たいめん)に不及。長岡(ながをか)無力、小弐入道が子息筑後(ちくごの)新小弐(しんせうに)が許(もと)に行向(ゆきむかひ)、云入(いひいれ)て、さりげなき様(やう)にて彼方此方(かなたこなた)を見るに、只今打立(うちたた)んずる形勢(ありさま)にて、楯(たて)を矯(はが)せ鏃(やじり)を砺(とぐ)最中也(なり)。 又遠侍(とほさぶらひ)を見るに、蝉本(せみもと)白くしたる青竹の旗竿(はたざを)あり。さればこそ、船上(ふなのうへ)より錦の御旗(おんはた)を賜(たまはつ)たりと聞へしが、実(まこと)也(なり)けりと思(おもつ)て、対面せば頓(やが)て指違(さしちが)へんずる者をと思(おもひ)ける処に、新小弐(しんせうに)何心もなげにて出合(いであひ)たり。長岡(ながをか)座席(ざせき)に着(つく)と均(ひと)しく、「まさなき人々の謀反(むほん)の企(くはだて)哉(かな)。」と云侭(いふまま)に、腰の刀を抜(ぬい)て、新小弐に飛(とん)で懸(かかり)ける。新小弐飽(あく)まで心早き者なりければ、側(そば)なる将碁(しやうぎ)の盤(ばん)をゝつ取(とつ)て突(つく)刀を受留(うけと)め、長岡(ながをか)にむずと引組(ひつくん)で、上(うへ)を下(した)へぞ返しける。頓(やが)て小弐が郎従共(らうじゆうども)あまた走寄(はしりよつ)て、上なる敵を三刀(みかたな)指(さし)て、下なる主(しゆ)を助けゝれば、長岡(ながをかの)六郎(ろくらう)本意を不達して、忽(たちまち)に命を失(うしなひ)てげり。 小弐筑後(ちくごの)入道、さては我謀反(わがむほん)の企(くはだて)、早(はや)探題に被知てげり。今は休(やむ)事(こと)を得ぬ所也(なり)とて、大伴入道相共(あひとも)に七千(しちせん)余騎(よき)の軍兵(ぐんぴやう)を率(そつ)して、同(おなじき)五月二十五日の午刻(うまのこく)に、探題英時(ひでとき)の館(たち)へ押寄(おしよせ)ける。世の末(すゑ)の風俗(ふうぞく)、義を重(おもん)ずる者は少く、利に趨(うつ)る人は多ければ、只今まで付順(つきしたがひ)つる筑紫(つくし)九箇国(くかこく)の兵共(つはものども)も、恩を忘(わすれ)て落失(おちう)せ、名をも惜(をし)まで翻(ひるがへ)りける間、一朝(いつてう)の間(ま)の戦(たたかひ)に、英時(ひでとき)遂に打負(うちまけ)て、忽(たちまち)に自害(じがい)しければ、一族(いちぞく)郎従(らうじゆう)三百四十人(さんびやくしじふにん)、続(つづい)て腹をぞ切(きつ)たりける。哀(あはれなる)哉(かな)、昨日(きのふ)は小弐・大友、英時に順(したがひ)て菊池(きくち)を討(うち)、今日は又小弐・大友、官軍(くわんぐん)に属(しよく)して、英時を討(うつ)。「行路難、不在山兮、不在水、唯在人情反覆之間」と、白居易(はくきよい)が書(かき)たりし筆の跡、今こそ被思知たれ。 |
|
■長門探題(ながとのたんだい)降参(かうさんの)事(こと)
長門(ながと)の探題遠江守(とほたふみのかみ)時直(ときなほ)、京都の合戦難儀(なんぎ)の由を聞(きき)て、六波羅(ろくはら)に力を勠(あは)せんと、大船(たいせん)百(ひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、海上を上(のぼり)けるが、周防(すはう)の鳴渡(なると)にて、京も鎌倉(かまくら)も早(はや)皆源氏の為に被滅て、天下悉(ことごとく)王化に順(したがひ)ぬと聞へければ、鳴渡(なると)より舟を漕(こぎ)もどして、九州の探題と一所(いつしよ)に成(なら)んと、心づくしへぞ赴(おもむ)きける。赤間(あかま)が関(せき)に着(つい)て、九州の様(やう)を伺(うかが)ひ聞(きき)給へば、「筑紫(つくし)の探題英時(ひでとき)も、昨日(きのふ)早(はや)小弐・大友(おほども)が為に被亡て、九国二嶋悉(ことごとく)公家(くげ)のたすけと成(なり)ぬ。」と云(いひ)ければ、一旦(いつたん)催促(さいそく)に依(よつ)て、此(これ)まで属順(つきしたがひ)たる兵共(つはものども)も、いつしか頓(やが)て心替(こころがはり)して、己(おの)が様々(さまざま)に落行(おちゆき)ける間(あひだ)、時直(ときなほ)僅(わづか)に五十(ごじふ)余人(よにん)に成(なつ)て柳浦(やなぎがうら)の浪に漂泊(へうはく)す。 彼(かしこ)の浦に帆を下(おろ)さんとすれば、敵鏃(やじり)を支(ささへ)て待懸(まちかけ)たり。此嶋(ここのしま)に纜(ともづな)を結ばんとすれば、官軍(くわんぐん)楯を双(なら)べて討(うた)んとす。残留(のこりとどま)る人々にさへ、今は心を沖津波(おきつなみ)、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮(うき)舟の橈(かぢ)を絶(たえ)、思はぬ風に漂(ただよ)へり。跡(あと)に留(とど)めし妻子共(さいしども)も、如何(いかが)成(なり)ぬ〔ら〕んと、責(せめ)て其行末(そのゆくへ)を聞(きき)て後(のち)、心安く討死をもせばやと被思ければ、且(しばらく)の命を延(のべ)ん為に、郎等(らうどう)を一人船よりあげて、小弐・嶋津(しまづ)が許(もと)へ、降人(かうにん)に可成由をぞ伝(つた)へける。小弐も嶋津も年来(としごろ)の好(よし)み浅からざりけるに、今の有様聞(きく)も哀(あはれ)にや思(おもひ)けん。急(いそぎ)迎(むかひ)に来て、己(おの)が宿所(しゆくしよ)に入(いれ)奉る。其比(そのころ)峯(みね)の僧正俊雅(しゆんが)と申(まうせ)しは、君の御外戚(ごぐわいせき)にてをはせしを、笠置(かさぎ)の合戦の刻(きざみ)に筑前の国へ被流てをはしけるが、今一時に運を開(ひらい)て、国人(くにうど)皆其左右(そのさいう)に慎(つつし)み随(したが)ふ。九州の成敗(せいばい)、勅許(ちよくきよ)以前は暫(しばらく)此(この)僧正(そうじやう)の計(はから)ひに在(あり)しかば、小弐・嶋津、彼時直(かのときなほ)を同道して降参の由をぞ申入(まうしいれ)ける。 |
|
僧正、「子細(しさい)あらじ。」と被仰て、則(すなはち)御前(おんまへ)へ被召けり。時直膝行頓首(しつかうとんしゆ)して、敢(あへ)て不平視、遥(はるか)の末座(まつざ)に畏(かしこまつ)て、誠(まこと)に平伏(へいふく)したる体(てい)を見給(みたまひ)て、僧正泪(なみだ)を流して被仰けるは、「去(さんぬる)元弘の始(はじめ)、無罪して此(この)所に被遠流時、遠州(ゑんしう)我を以て寇(あた)とせしかば、或(あるひ)は過分(くわぶん)の言(ことば)の下に面を低(たれ)て泪(なみだ)を推拭(おしのご)ひ、或(あるひ)は無礼(ぶれい)の驕(おごり)の前に手を束(つかね)て恥を忍(しのび)き。然(しかる)に今天道(てんだう)謙(けん)に祐(さいはひ)して、不測世の変化を見(みる)に、吉凶(きつきよう)相乱(あひみだ)れ栄枯(えいこ)地を易(かへ)たり。夢現(ゆめうつつ)昨日(きのふ)は身の上の哀(あはれ)み、今日(けふ)は人の上の悲(かなしみ)也(なり)。「怨(あた)を報ずるに恩を以てす」と云(いふ)事(こと)あれば、如何にもして命許(いのちばかり)を可申助。」と被仰ければ、時直(ときなほ)頭(かうべ)を地に付(つけ)て、両眼に泪(なみだ)を浮めたり。不日(ふじつ)に飛脚(ひきやく)を以て、此(この)由を奏聞(そうもん)ありければ、則(すなはち)勅免(ちよくめん)有(あつ)て懸命(けんめい)の地をぞ安堵(あんど)せられける。時直無甲斐命(いのち)を扶(たすかつ)て、嘲(あざけり)を万人の指頭(しとう)に受(うく)といへども、時を一家(いつけ)の再興(さいこう)に被待けるが、幾程(いくほど)もあらざるに、病(やまひ)の霧に被侵て、夕の露と消(きえ)にけり。 | |
■越前(ゑちぜんの)牛原地頭(うしがはらぢとう)自害(じがいの)事(こと)
淡河(あいかは)右京亮(うきやうのすけ)時治(ときはる)は、京都の合戦の最中(さいちゆう)、北国の蜂起(ほうき)を鎮(しづ)めん為に越前の国に下(くだつ)て、大野郡(おほののこほり)牛原(うしがはら)と云(いふ)所にぞをはしける。幾程無(いくほどなう)して、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)の由聞へしかば、相順(あひしたがひ)たる国の勢共(せいども)、片時(へんし)の程に落失(おちうせ)て、妻子従類(さいしじゆうるゐ)の外(ほか)は事問(とふ)人も無(なか)りけり。去程(さるほど)に平泉寺(へいせんじ)の衆徒(しゆと)、折(をり)を得て、彼跡(かのあと)を恩賞に申賜(まうしたまは)らん為に、自国(じこく)・他国の軍勢を相語(あひかたら)ひ、七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、五月十二日の白昼(はくちう)に牛原(うしがはら)へ押寄(おしよす)る。時治(ときはる)敵の勢(せい)の雲霞(うんか)の如(ごとく)なるを見て、戦(たたかふ)共(とも)幾程が可怺と思(おもひ)ければ、二十(にじふ)余人(よにん)有(あり)ける郎等(らうどう)に、向ふ敵を防がせて、あたり近き所に僧の坐(ましま)しけるを請(しやう)じて、女房少(をさな)き人までも、皆髪に剃刀(かみそり)をあて、戒(かい)を受(うけ)させて、偏(ひとへ)に後生菩提(ごしやうぼだい)の経営(けいえい)を、泪(なみだ)の中(うち)にぞ被致ける。 戒(かい)の師(し)帰(かへつ)て後(のち)、時治女房に向(むかつ)て「宣(のたま)ひけるは、二人(ふたり)の子共(こども)は男子(なんし)なれば、稚(をさな)しとも敵よも命を助(たすけ)じと覚(おぼゆ)る間、冥途(めいど)の旅に可伴。御事(おこと)は女性(によしやう)にてをわすれば、縦(たと)ひ敵角(かく)と知(しる)とも命を失ひ奉るまでの事は非(あら)じ。さても此(この)世に在存(ながら)へ給はゞ、如何なる人にも相馴(あひなれ)て、憂(うき)を慰(なぐさ)む便(たより)に付(つき)可給。無跡(なきあと)までも心安(やすく)てをはせんをこそ、草の陰(かげ)・苔(こけ)の下(した)までもうれしくは思ふべけれ。」と、泪(なみだ)の中(うち)に掻口説(かきくどい)て聞へければ、女房最(い)と恨(うらみ)て、「水に住(すむ)鴛(をし)、梁(うつばり)に巣(すくふ)燕(つばめ)も翼(つばさ)をかわす契(ちぎり)を不忘。況(いはん)や相馴進(あひなれまゐらせ)て不覚過(すぎ)ぬる十年余(ととせあまり)の袖の下(した)に、二人(ふたり)の子共をそだてて、千代(ちよ)もと祈(いのり)し無甲斐も、御身(おんみ)は今(いま)秋の霜の下(した)に伏し、少(をさな)き者共(ものども)は朝(あした)の露に先立(さきだつ)て、消(きえ)はてなん後(のち)の悲(かなしみ)を堪(た)へ忍(しのび)ては、時の間(ま)もながらふべき我(わが)身かや。 |
|
とても思(おもひ)に堪(たへ)かねば、生(いき)て可有命ならず。同(おなじく)は思ふ人と共にはかなく成(なつ)て、埋(うづも)れん苔(こけ)の下(した)までも、同穴(どうけつ)の契(ちぎり)を忘(わすれ)じ。」と、泪(なみだ)の床(ゆか)に臥沈(ふししづ)む。去程(さるほど)に防矢(ふせぎや)射つる郎等共(らうどうども)已(すで)に皆被討て、衆徒(しゆと)箱(はこ)の渡(わたし)を打越(うちこえ)、後(うしろ)の山へ廻(まは)ると聞へければ、五(いつつ)と六(むつつ)とに成(なり)ける少(をさな)き人を鎧唐櫃(よろひからひつ)に入(いれ)て、乳母(めのと)二人(ににん)に前後を舁(かか)せ、鎌倉(かまくら)河の淵(ふち)に沈(しづ)めよとて、遥(はるか)に見送(みおくり)て立(たち)たれば、母儀(ぼぎ)の女房も、同(おなじく)其(その)淵に身を沈めんと、唐櫃(からひつ)の緒(を)に取付(とりつい)て歩行(あゆみゆく)、心の中(うち)こそ悲しけれ。 唐櫃を岸の上に舁(かき)居(すゑ)て、蓋(ふた)を開(あけ)たれば、二人(ににん)の少(をさな)き人顔を差挙(さしあげ)て、「是(これ)はなう母御(ははご)何(いづ)くへ行(ゆき)給ふぞ。母御の歩(かち)にて歩ませ給ふが御痛敷(おんいたはしく)候。是(これ)に乗らせ給へ。」と何心もなげに戯(たはむれ)ければ、母上流るゝ泪(なみだ)を押(おさ)へて、「此(この)河は是(これ)極楽浄土(ごくらくじやうど)の八功徳池(はつくどくち)とて、少(をさな)き者の生れて遊び戯(たはむ)るゝ所也(なり)。我如(わがごと)く念仏申(まうし)て此(この)河の中へ被沈よ。」と教へければ、二人(ににん)の少(をさな)き人々母と共に手を合せ、念仏高らかに唱(とな)へて西に向(むかつ)て坐(ざ)したるを、二人(ににん)の乳母(めのと)一人づゝ掻抱(かきだい)て、碧潭(へきだん)の底へ飛入(とびいり)ければ、母上も続(つづい)て身を投(なげ)て、同じ淵(ふち)にぞ被沈ける。其後(そののち)時治(ときはる)も自害(じがい)して一堆(いつたい)の灰(はひ)と成(なり)にけり。隔生則忘(きやくしやうそくばう)とは申(まうし)ながら又一念五百生(いちねんごひやくしやう)、繋念無量劫(けねんむりやうごふ)の業(ごふ)なれば、奈利(ないり)八万(はちまん)の底までも、同じ思(おもひ)の炎(ほのほ)と成(なつ)て焦(こがれ)給ふらんと、哀(あはれ)也(なり)ける事共(ことども)也(なり)。 |
|
■越中(ゑつちゆうの)守護(しゆご)自害(じがいの)事(こと)付(つけたり)怨霊(をんりやうの)事(こと)
越中(ゑつちゆう)の守護(しゆご)名越(なごや)遠江守(とほたふみのかみ)時有(ときあり)・舎弟(しやてい)修理亮(しゆりのすけ)有公(ありとも)・甥の兵庫助(ひやうごのすけ)貞持(さだもち)三人(さんにん)は、出羽・越後の宮方(みやがた)北陸道(ほくろくだう)を経(へ)て京都へ責上(せめのぼる)べしと聞へしかば、道にて是(これ)を支(ささへ)んとて、越中(ゑつちゆう)の二塚(ふたつづか)と云(いふ)所に陣を取(とつ)て、近国の勢共(せいども)をぞ相催(あひもよほ)しける。斯(かか)る処に、六波羅(ろくはら)已(すで)に被責落て後(のち)、東国(とうごく)にも軍(いくさ)起(おこつ)て、已(すで)に鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)けるなんど、様々に聞へければ、催促(さいそく)に順(したがひ)て、只今まで馳集(はせあつまり)つる能登(のと)・越中(ゑつちゆう)の兵共(つはものども)、放生津(はうじやうづ)に引退(ひきしりぞい)て却(かへつ)て守護(しゆご)の陣へ押寄(おしよせ)んとぞ企(くはたて)ける。 是(これ)を見て、今まで身に代(かはり)命に代らんと、義を存じ忠を致しつる郎従(らうじゆう)も、時の間(ま)に落失(おちうせ)て、剰(あまつさへ)敵軍に加(くはは)り、朝(あした)に来(きた)り暮(くれ)に往(ゆき)て、交(まじはり)を結び情(なさけ)を深(ふかう)せし朋友(ほういう)も、忽(たちまち)に心変(へん)じて、却(かへつ)て害心(がいしん)を挿(さしはさ)む。今は残留(のこりとどまり)たる者とては、三族に不遁一家(いつけ)の輩(ともがら)、重恩(ぢゆうおん)を蒙(かうむり)し譜代(ふだい)の侍、僅(わづか)に七十九人(しちじふくにん)也(なり)。五月十七日(じふしちにち)の午刻(うまのこく)に敵既(すで)に一万(いちまん)余騎(よき)にて寄(よす)ると聞へしかば、「我等此(この)小勢にて合戦をすとも、何程の事をかし出(いだ)すべき、憖(なまじひ)なる軍(いくさ)して、無云甲斐敵の手に懸(かか)り、縲紲(るゐせつ)の恥に及ばん事(こと)、後代(こうだい)迄の嘲(あざけり)たるべし。」とて、敵の近付(ちかづか)ぬ前(さき)に女性(によしよう)・少(をさな)き人々をば舟に乗(のせ)て澳(おき)に沈め、我(わが)身は城の内にて自害(じがい)をせんとぞ出立(いでたち)ける。 遠江守(とほたふみのかみ)の女房は、偕老(かいらう)の契(ちぎり)を結(むすび)て今年二十一年になれば、恩愛(おんあい)の懐(ふところ)の内に二人(ににん)の男子(なんし)をそだてたり。兄は九(ここのつ)弟(おとと)は七(ななつ)にぞ成(なり)ける。修理亮(しゆりのすけ)有公(ありとも)が女房は、相馴(あひなれ)て已(すで)に三年に余(あまり)けるが、只ならぬ身に成(なつ)て、早(はや)月比(つきごろ)過(すぎ)にけり。兵庫(ひやうごの)助(すけ)貞持(さだもち)が女房は、此(この)四五日前(さき)に、京より迎へたりける上臈(じやうらふ)女房にてぞ有(あり)ける。其(その)昔紅顔翠黛(こうがんすゐたい)の世に無類有様、風(ほのか)に見初(みそめ)し珠簾(たまだれ)の隙(ひま)もあらばと心に懸(かけ)て、三年余(あまり)恋慕(こひしたひ)しが、兎角(とかく)方便(てだて)を廻(めぐら)して、偸出(ぬすみいだ)してぞ迎へたりける。 |
|
語(かたら)ひ得て纔(わづか)に昨日今日(きのふけふ)の程なれば、逢(あふ)に替(かはら)んと歎来(なげきこ)し命も今は被惜ける。恋悲(こひかなし)みし月日は、天(あま)の羽衣(はごろも)撫尽(なでつく)すらん程よりも長く、相見て後のたゞちは、春(はる)の夜の夢よりも尚(なほ)短(みじか)し。忽(たちまち)に此悲(このかなしみ)に逢(あひ)ける契(ちぎり)の程こそ哀(あはれ)なれ。末(すゑ)の露本(もと)の雫(しづく)、後(おく)れ先立(さきだ)つ道をこそ、悲(かなし)き物と聞(きき)つるに、浪(なみ)の上、煙(けぶり)の底に、沈み焦(こが)れん別れの憂(う)さ、こはそもいかゞすべきと、互(たがひ)に名残(なごり)を惜(をしみ)つゝ、伏(ふし)まろびてぞ被泣ける。去程(さるほど)に、敵の早(はや)寄来(よせく)るやらん、馬煙(むまけぶり)の東西に揚(あげ)て見へ候と騒げば、女房・少(をさな)き人々は、泣々(なくなく)皆舟に取乗(とりのつ)て、遥(はるか)の澳(おき)に漕出(こぎいだ)す。うらめしの追風(おひかぜ)や、しばしもやまで、行(ゆく)人を波路(なみぢ)遥(はるか)に吹送(ふきおく)る。 情なの引塩(ひきしほ)や、立(たち)も帰らで、漕(こぐ)舟を浦より外(ほか)に誘(さそふ)らん。彼松浦佐用嬪(かのまつらさよひめ)が、玉嶋山(たましまやま)にひれふりて、澳(おき)行(ゆく)舟を招(まねき)しも、今の哀(あはれ)に被知たり。水手櫓(すゐしゆろ)をかいて、船を浪間(なみま)に差留(さしとど)めたれば、一人の女房は二人(ににん)の子を左右の脇(わき)に抱(いだ)き、二人(ににん)の女房は手に手を取組(とりくん)で、同(おなじく)身をぞ投(なげ)たりける。紅(くれなゐ)の衣(きぬ)絳(あかき)袴(はかま)の暫(しばらく)浪に漂(ただよひ)しは、吉野・立田(たつた)の河水(かはみづ)に、落花紅葉(らくくわこうえふ)の散乱(さんらん)たる如(ごとく)に見へけるが、寄来(よせく)る浪に紛(まぎ)れて、次第に沈むを見はてゝ後、城に残留(のこりとどまり)たる人々上下(じやうげ)七十九人(しちじふくにん)、同時に腹を掻切(かききつ)て、兵火(ひやうくわ)の底にぞ焼死(やけしに)ける。其幽魂亡霊(そのいうこんばうれい)、尚(なほ)も此(この)地に留(とどまつ)て夫婦執着(しふぢやく)の妄念(まうねん)を遺(のこ)しけるにや、近比(このごろ)越後より上(のぼ)る舟人(ふなうど)、此(この)浦を過(すぎ)けるに、俄(にはか)に風向ひ波荒(あら)かりける間、碇(いかり)を下(おろ)して澳(おき)に舟を留(と)めたるに、夜(よ)更(ふけ)浪静(しづまつ)て、松涛(しようたう)の風、芦花(ろくわ)の月、旅泊(りよはく)の体(てい)、万(よろ)づ心すごき折節(をりふし)、遥(はるか)の澳(おき)に女の声して泣悲(なきかなし)む音(おと)しけり。 |
|
是(これ)を怪しと聞居(ききゐ)たる処に、又汀(なぎさ)の方に男の声して、「其(その)舟こゝへ寄せてたべ。」と、声々にぞ呼(よばは)りける。舟人止(や)む事を不得して、舟を渚(なぎさ)に寄(よせ)たれば、最(いと)清(きよ)げなる男三人(さんにん)、「あの澳(おき)まで便船(びんせん)申さん。」とて、屋形(やかた)にぞ乗(のり)たりける。舟人是(これ)を乗(のせ)て澳津塩合(おきつしほあひ)に舟を差留(さしと)めたれば、此(この)三人(さんにん)の男舟より下(おり)て、漫々(まんまん)たる浪の上にぞ立(たつ)たりける。暫(しばらく)あれば、年十六七(じふろくしち)二十許(はたちばかり)なる女房の、色々の衣(きぬ)に赤き袴(はかま)踏(ふみ)くゝみたるが、三人(さんにん)浪の底より浮び出て、其(その)事(こと)となく泣(なき)しほれたる様(さま)也(なり)。 男よに眤(むつま)しげなる気色(けしき)にて、相互(あひたがひ)に寄近付(よりちかづか)んとする処に、猛火(みやうくわ)俄(にはか)に燃出(もえいで)て、炎(ほのほ)男女の中(なか)を隔(へだて)ければ、三人(さんにん)の女房は、いもせの山の中々(なかなか)に、思焦(おもひこが)れたる体(てい)にて、波の底に沈(しづみ)ぬ。男は又泣々(なくなく)浪の上を游帰(およぎかへつ)て、二塚(ふたつづか)の方へぞ歩み行(ゆき)ける。余(あまり)の不思議(ふしぎ)さに舟人(ふなうど)此(この)男の袖を引(ひか)へて、「去(さる)にても誰人(たれびと)にて御渡(おんわたり)候やらん。」と問(とひ)たりければ、男答云(こたへていはく)、「我等は名越(なごや)遠江守(とほたふみのかみ)・同(おなじき)修理(しゆりの)亮・並(ならびに)兵庫(ひやうごの)助(すけ)。」と各(おのおの)名乗(なのつ)て、かき消様(けすやう)に失(うせ)にけり。天竺(てんぢく)の術婆伽(じゆつばが)は后(きさき)を恋(こひし)て、思(おもひ)の炎(ほのほ)に身を焦(こが)し、我朝(わがてう)の宇治の橋姫(はしひめ)は、夫(おつと)を慕(した)ひてかたしく袖を波に浸(ひた)す。是(これ)皆上古の不思議(ふしぎ)、旧記(きうき)に載(のす)る所也(なり)。親(まのあた)り斯(かか)る事の、うつゝに見へたりける亡念(まうねん)の程こそ罪深(ふか)けれ。 |
|
■金剛山(こんがうせんの)寄手等(よせてら)被誅事(こと)付(つけたり)佐介貞俊(さかいさだとしが)事(こと)
京洛(きやうらく)已(すで)に静まりぬといへ共(ども)、金剛山(こんがうせん)より引返(ひつかへ)したる平氏共(へいじども)、猶(なほ)南都に留(とどまつ)て、帝都を責(せめ)んとする由聞へ有(あり)ければ、中院(なかのゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)を大将として、五万(ごまん)余騎(よき)、大和路(やまとぢ)へ被差向。楠(くすのき)兵衛正成(まさしげ)に畿内勢(きないのせい)二万(にまん)余騎(よき)を副(そへ)て、河内(かはちの)国(くに)より搦手(からめて)にぞ被向ける。南都に引篭(ひきこも)る平氏の軍兵(ぐんぴやう)已(すで)に十方に雖退散、残留(のこりとどま)る兵尚(なほ)五万騎(ごまんぎ)に余(あまり)たれば、今一度(いちど)手痛(ていた)き合戦あらんと覚(おぼゆ)るに、日来(ひごろ)の儀勢(ぎせい)尽(つき)はてゝ、いつしか小水の魚の沫(あわ)に吻(いきづ)く体(てい)に成(なつ)て、徒(いたづら)に日を送(おくり)ける間、先(まづ)一番に南都(なんと)の一の木戸口(きどぐち)般若寺(はんにやじ)を堅(かため)て居たりける宇都宮(うつのみや)・紀清両党(きせいりやうたう)七百(しちひやく)余騎(よき)、綸旨(りんし)を給(たまはつ)て上洛(しやうらく)す。 是(これ)を始(はじめ)として、百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)、五騎十騎、我先(われさき)にと降参しける間、今平氏(へいじ)の一族(いちぞく)の輩(ともがら)、譜代(ふだい)重恩の族(やから)の外(ほか)は、一人も残留(のこりとどま)る者も無(なか)りけり。是(これ)に付(つけ)ても、今は何に憑(たのみ)を懸(かけ)てか命を可惜なれば、各(おのおの)打死して名を後代(こうだい)にこそ残すべかりけるに、攻(せめ)ての業(ごふ)の程の浅猿(あさまし)さは、阿曾(あその)弾正少弼(だんじやうせうひつ)時治(ときはる)・大仏(だいぶつ)右馬助(うまのすけ)貞直(さだなほ)・江馬(えま)遠江守(とほたふみのかみ)・佐介安芸(さすけあきの)守を始(はじめ)として、宗(むね)との平氏十三人(じふさんにん)、並(ならびに)長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道々蘊已下(だううんいげ)・関東(くわんとう)権勢(けんせい)の侍五十(ごじふ)余人(よにん)、般若寺(はんにやじ)にして各(おのおの)入道出家して、律僧(りつそう)の形(かたち)に成り、三衣(さんえ)を肩に懸(かけ)、一鉢(いつはつ)を手に提(さげ)て、降人(かうにん)に成(なつ)てぞ出(いで)たりける。 |
|
定平(さだひら)朝臣是(これ)を請取(うけとつ)て、高手小手(たかてこて)に誡(いまし)め、伝馬(てんま)の鞍坪(くらつぼ)に縛屈(しばりかが)めて、数万(すまん)の官軍(くわんぐん)の前々(さきざき)を追立(おつたて)させ、白昼(はくちう)に京へぞ被帰ける。平治(へいぢ)には悪源太義平(あくげんだよしひら)、々家(へいけ)に被生捕て首(くび)被刎、元暦(げんりやく)には内大臣(ないだいじん)宗盛(むねもり)公(こう)、源氏に被囚て大路(おほち)を被渡。是(これ)は皆戦(たたかひ)に臨む日、或(あるひ)は敵に被議、或(あるひ)は自害(じがい)に無隙(ひまなく)して、心ならず敵の手に懸(かか)りしをだに、今に至(いたる)まで人口(じんこう)の嘲(あざけり)と成(なつ)て、両家(りやうけ)の末流(まつりう)是(これを)聞(きく)時、面(おもて)を一百(いつぴやく)余年(よねん)の後に令辱。況乎(いはんや)是(これ)は敵に被議たるにも非(あら)ず、又自害(じがい)に隙(ひま)なきにも非(あら)ず、勢(いきほ)ひ未(いまだ)尽(つきざる)先(さき)に自(みづから)黒衣(こくえ)の身と成(なつ)て、遁(のがれ)ぬ命を捨(すて)かねて、縲紲面縛(るゐせつめんばく)の有様、前代未聞(ぜんだいみもん)の恥辱也(なり)。 囚人(とらはれびと)京都に着(つき)ければ、皆黒衣(こくえ)を脱(ぬが)せ、法名(ほふみやう)を元の名に改(あらため)て、一人づゝ大名に預(あづけ)らる。其秋刑(そのしうけい)を待(まつ)程に、禁錮(きんこ)の裏(うち)に起伏(おきふし)て、思ひ連(つら)ぬる浮世(うきよ)の中(なか)、涙の落(おち)ぬ隙(ひま)もなし。さだかならぬ便(たより)に付(つけ)て、鎌倉(かまくら)の事共(ことども)を聞(きけ)ば、偕老(かいらう)の枕の上に契(ちぎり)を成(なし)し貞女(ていぢよ)も、むくつけゞなる田舎人(ゐなかうど)どもに被奪て、王昭君(わうせうくん)が恨(うらみ)を貽(のこ)し、富貴(ふうき)の薹(うてな)の中(うち)に傅立(かしづきたて)し賢息(けんそく)も、傍(あたり)へだにも寄(よせ)ざりし凡下(ぼんげ)共(ども)の奴(やつこ)と成(なつ)て、黄頭郎(くわうとうらう)が夢をなせり。是等(これら)はせめて乍憂、未だ生(いき)たりときけば、猶(なほ)も思(おもひ)の数(かず)ならず。昨日(きのふ)岐(ちまた)を過ぎ、今日は門(かど)にやすらふ行客(かうかく)の、穴(あな)哀(あはれ)や、道路に袖をひろげ、食を乞(こひ)し女房の、倒(たふれ)て死(しせ)しは誰(たれ)が母也(なり)。短褐(たんかつ)に貌(かたち)を窶(やつし)て縁(ゆかり)を尋(たづね)し旅人の、被捕て死せしは誰(たれ)が親也(なり)と、風(ほのか)に語るを聞(きく)時は、今まで生(いき)ける我(わが)身の命を、憂(う)しとぞ更に誣(かこ)たれける。 |
|
七月九日、阿曾(あその)弾正少弼(せうひつ)・大仏(だいぶつ)右馬助(うまのすけ)・江馬遠江守(とほたふみのかみ)・佐介(さすけ)安芸(あきの)守(かみ)・並(ならびに)長崎四郎左衛門、彼此(かれこれ)十五人(じふごにん)阿弥陀峯(あみだがみね)にて被誅けり。此(この)君重祚(ちようそ)の後、諸事の政(まつりごと)未(いまだ)被行前(さき)に、刑罰(けいばつ)を専(ほしいまま)にせられん事は、非仁政とて、潛(ひそか)に是(これ)を被切しかば、首(くび)を被渡までの事に及ばず、面々(めんめん)の尸骸(しがい)便宜(びんぎ)の寺々に被送、後世菩提(ごせぼだい)をぞ被訪ける。二階堂出羽(ではの)入道々蘊(だううん)は、朝敵の最一(さいいち)、武家の輔佐(ふさ)たりしか共(ども)、賢才(けんさい)の誉(ほまれ)、兼(かね)てより叡聞(えいぶん)に達せしかば、召仕(めしつかは)るべしとて、死罪(しざい)一等を許され、懸命(けんめい)の地に安堵(あんど)して居たりけるが、又陰謀(いんぼう)の企(くはだて)有(あり)とて、同年の秋の季(すゑ)に、終(つひ)に死刑に被行てげり。 佐介(さすけ)左京(さきやうの)亮(すけ)貞俊(さだとし)は、平氏の門葉(もんえふ)たる上武略才能(ぶりやくさいのう)共(とも)に兼(かね)たりしかば、定(さだめ)て一方の大将をもと身を高く思(おもひ)ける処に、相摸(さがみ)入道(にふだう)さまでの賞翫(しやうぐわん)も無(なか)りければ、恨(うらみ)を含(ふく)み憤(いきどほり)を抱(いだ)きながら、金剛山(こんがうせん)の寄手(よせて)の中にぞ有(あり)ける。斯(かか)る処に千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)綸旨(りんし)を申与(まうしあた)へて、御方(みかた)に可参由を被仰ければ、去(さんぬる)五月の初(はじめ)に千葉屋(ちはや)より降参して、京都にぞ歴回(へめぐり)ける。去程(さるほど)に、平氏の一族(いちぞく)皆出家して、召人(めしうと)に成(なり)し後は、武家被官(ひくわん)の者共(ものども)、悉(ことごとく)所領(しよりやう)を被召上、宿所(しゆくしよ)を被追出て、僅(わづか)なる身一(ひとつ)をだに措(おき)かねて、貞俊(さだとし)も阿波の国へ被流て有(あり)しかば、今は召仕ふ若党(わかたう)・中間(ちゆうげん)も身に不傍、昨日の楽(たのしみ)今日の悲(かなしみ)と成(なつ)て、ます/\身を責(せむ)る体(てい)に成行(なりゆき)ければ、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(ことわり)の中に在(あり)ながら、今更世中(よのなか)無情覚(おぼえ)て、如何なる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。 |
|
さても関東(くわんとう)の様(さま)何とか成(なり)ぬらんと尋聞(たづねきく)に、相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)を始(はじめ)として、一族(いちぞく)以下(いげ)一人も不残、皆被討給(たまひ)て、妻子従類(さいしじゆうるゐ)も共に行方(ゆきかた)を不知成(なり)ぬと聞へければ、今は誰を憑(たの)み、何を可待世とも不覚(おぼえず)、見(みる)に付(つけ)聞(きく)に随(したがひ)て、いとゞ心を摧(くだ)き、魂(きも)を消(けし)ける処に、関東(くわんとう)奉公の者共(ものども)は、一旦(いつたん)命を扶(たす)からん為に、降人(かうにん)に雖出と、遂(つひ)には如何にも野心(やしん)有(あり)ぬべければ、悉(ことごとく)可被誅とて、貞俊又被召捕てげり。挺(とて)も心の留(とどま)る浮世ならねば、命を惜(をし)とは思はねども、故郷(こきやう)に捨置(すておき)し妻子共(さいしども)の行末(ゆくへ)、何ともきかで死なんずる事の、余(あまり)に心に懸りければ、最期(さいご)の十念(じふねん)勧(すすめ)ける聖(ひじり)に付(つい)て、年来(としごろ)身を放(はな)たざりける腰の刀を、預人(あづかりびと)の許(もと)より乞出(こひいだ)して、故郷(こきやう)の妻子(さいし)の許(もと)へぞ送(おくり)ける。 聖(ひじり)是(これ)を請取(うけとつ)て、其行末(そのゆくへ)を可尋申と領状(りやうじやう)しければ、貞俊無限喜(よろこび)て、敷皮(しぎかは)の上に居直(ゐなほつ)て、一首(いつしゆ)の歌を詠(えい)じ、十念(じふねん)高らかに唱(となへ)て、閑(しづか)に首(くび)をぞ打(うた)せける。皆人の世に有(ある)時は数ならで憂(うき)にはもれぬ我(わが)身也(なり)けり聖(ひじり)形見(かたみ)の刀と、貞俊が最期(さいご)の時着(き)たりける小袖とを持(もつ)て、急(いそぎ)鎌倉(かまくら)へ下(くだり)、彼(かの)女房を尋出(たづねいだ)し、是(これ)を与へければ、妻室(さいしつ)聞(きき)もあへず、只涙の床(ゆか)に臥沈(ふししづみ)て、悲(かなしみ)に堪兼(たへかね)たる気色(けしき)に見へけるが、側(そば)なる硯(すずり)を引寄(ひきよせ)て、形見(かたみ)の小袖の妻(つま)に、誰(たれ)見よと信(かたみ)を人の留(とど)めけん堪(たへ)て有(ある)べき命ならぬにと書付(かきつけ)て、記念(かたみ)の小袖を引(ひき)かづき、其(その)刀を胸につき立(たて)て、忽(たちまち)にはかなく成(なり)にけり。此外(このほか)或(あるひ)は偕老(かいらう)の契(ちぎり)空(むなし)くして、夫(をつと)に別(わかれ)たる妻室(さいしつ)は、苟(いやしくも)も二夫(じふ)に嫁(か)せん事を悲(かなしん)で、深き淵瀬(ふちせ)に身を投(なげ)、或(あるひ)は口養(くやう)の資(たすけ)無(なく)して子に後(おく)れたる老母は、僅(わづか)に一日の餐(ざん)を求兼(もとめかね)て自(みづから)溝壑(こうがく)に倒れ伏す。 |
|
承久(しようきう)より以来(このかた)、平氏世を執(とつ)て九代、暦数(れきすう)已(すで)に百六十(ひやくろくじふ)余年(よねん)に及(および)ぬれば、一類(いちるゐ)天下にはびこりて、威を振ひ勢(いきほ)ひを専(ほしいまま)にせる所々(しよしよ)の探題(たんだい)、国々の守護(しゆご)、其(その)名を挙(あげ)て天下に有(ある)者已(すで)に八百人(はつぴやくにん)に余(あま)りぬ。況(いはんや)其(その)家々の郎従(らうじゆう)たる者幾万億と云(いふ)数(かず)を不知(しらず)。去(され)ば縦(たとひ)六波羅(ろくはら)こそ輒(たやすく)被責落共、筑紫(つくし)と鎌倉(かまくら)をば十年(じふねん)・二十年(にじふねん)にも被退治事難(かたし)とこそ覚へしに、六十(ろくじふ)余州(よしう)悉(ことごとく)符(わりふ)を合(あはせ)たる如く、同時に軍(いくさ)起(おこつ)て、纔(わづか)に四十三日(しじふさんにち)の中に皆滅(ほろ)びぬる業報(ごつぱう)の程こそ不思議(ふしぎ)なれ。愚(おろかなる)哉(かな)関東(くわんとう)の勇士、久(ひさしく)天下を保ち、威を遍(あまねく)海内(かいだい)に覆(おほひ)しかども、国を治(をさむ)る心無(なか)りしかば、堅甲利兵(けんかふりへい)、徒(いたづら)に梃楚(ていそ)の為に被摧て、滅亡(めつばう)を瞬目(しゆんぼく)の中(うち)に得たる事(こと)、驕(おご)れる者は失(しつ)し倹(けん)なる者は存(そん)す。古(いにし)へより今に至(いたる)まで是(これ)あり。此裏(このうち)に向(むかつ)て頭(かうべ)を回(めぐら)す人、天道(てんだう)は盈(み)てるを欠(かく)事(こと)を不知して、猶(なほ)人の欲心の厭(いとふ)ことなきに溺(おぼ)る。豈(あに)不迷乎(や)。 |
|
■太平記 巻第十二 | |
■公家一統(くげいつとう)政道(せいだうの)事(こと)
先帝重祚(ちようそ)之(の)後(のち)、正慶(しやうきやう)の年号(ねんがう)は廃帝(はいてい)の改元(かいげん)なればとて被棄之、本(もと)の元弘に帰(かへ)さる。其(その)二年の夏比(なつのころ)、天下一時に評定(ひやうぢやう)して、賞罰法令(しやうばつほふれい)悉(ことごと)く公家一統(くげいつとう)の政(まつりごと)に出(いで)しかば、群俗帰風若被霜而照春日、中華(ちゆうくわ)懼軌若履刃而戴雷霆。同(おなじき)年の六月三日、大塔宮(おほたふのみや)志貴(しぎ)の毘沙門堂(びしやもんだう)に御座(ござ)有(あり)と聞へしかば、畿内(きない)・近国の勢(せい)は不及申、京中・遠国(をんごく)の兵までも、人より先(さき)にと馳参(はせさんじ)ける間、其(その)勢頗(すこぶる)尽天下(てんがの)大半をぬらんと夥(おびただ)し。 同(おなじき)十三日(じふさんにち)に可有御入洛被定たりしが、無其事と、延引有(えんいんあつ)て、被召諸国兵、作楯砥鏃、合戦の御用意(ごようい)ありと聞へしかば、誰(た)が身の上とは知(しら)ね共(ども)、京中の武士(ぶし)の心中(しんちゆう)更に不穏。依之(これによつて)主上(しゆしやう)右大弁宰相(うだいべんのさいしやう)清忠(きよただ)を勅使にて被仰けるは、「天下已(すで)に鎮(しづまつ)て偃七徳之余威、成九功之大化処に、猶(なほ)動干戈被集士卒之条、其要(そのえう)何事乎(ぞや)、次(つぎに)四海(しかい)騒乱(さうらん)の程は、為遁敵難、一旦(いつたん)其容(そのすがた)を雖被替俗体、世已(すで)に静謐(せいひつ)の上は急(いそぎ)帰剃髪染衣姿、門迹相承(もんぜきさうじよう)の業(げう)を事とし給(たまふ)べし。」とぞ被仰ける。 宮(みや)、清忠(きよただ)を御前(おんまへ)近く被召、勅答申させ給(たまひ)けるは、「今四海(しかい)一時に定(しづまつ)て万民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣。而(しかる)に足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)僅(わづか)に以一戦(いつせん)功、欲立其志於万人上。今若(もし)乗其勢微不討之、取高時法師逆悪加高氏威勢上に、者なるべし。是(この)故(ゆゑ)に挙兵備武、全(まつたく)非臣罪。次(つぎに)剃髪(ていはつ)の事(こと)、兆前(てうぜん)に不鑒機者定(さだめ)て舌を翻(ひるがへ)さん歟(か)。今逆徒(ぎやくと)不測滅(ほろび)て天下雖属無事(こと)、与党(よたう)猶(なほ)隠身伺隙、不可有不待時。此(この)時上(かみ)無威厳、下(しも)必可有暴慢心。されば文武(ぶんぶ)の二道同(おなじ)く立(たつ)て可治今の世也(なり)。我(われ)若(もし)帰剃髪染衣体捨虎賁猛将威、於武全朝家人(ひとは)誰(たそ)哉(や)。夫(それ)諸仏菩薩(ぼさつ)垂利生方便日、有折伏・摂受二門。其(その)摂受(せふじゆとは)者、作柔和・忍辱之貌慈悲為先、折伏(しやくぶくとは)者、現大勢忿怒形刑罰(けいばつを)為宗。況(いはんや)聖明(せいめいの)君求賢佐・武備才時、或(あるひ)は出塵(しゆつぢん)の輩(ともがら)を帰俗体或(あるひは)退体(たいたい)の主(しゆ)を奉即帝位、和漢其(その)例多し。 |
|
所謂(いはゆる)賈嶋浪仙(かたうらうせん)は、釈門(しやくもん)より出(いで)て成朝廷臣。我朝(わがてうの)天武(てんむ)・孝謙(かうけん)は、替法体登重祚位。抑(そもそも)我栖台嶺幽渓、纔(わづかに)守一門迹、居幕府上将、遠(とほく)静一天下(いちてんが)、国家の用何(いづ)れをか為吉。此(この)両篇速(すみやか)に被下勅許様に可経奏聞。」被仰、則(すなはち)清忠(きよただ)をぞ被返ける。 清忠(きよただの)卿(きやう)帰参(きさん)して、此(この)由を奏聞しければ、主上(しゆしやう)具(つぶさ)に被聞召、「居大樹位、全武備守、げにも為朝家似忘人嘲。高氏誅罰(ちゆうばつ)の事(こと)、彼(かれの)不忠何事ぞ乎(や)。太平の後天下の士卒猶(なほ)抱恐懼心。若(もし)無罪行罰、諸卒豈(あに)成安堵思哉(や)。然(しから)ば於大樹任不可有子細。至高氏誅罰事堅可留其企。」有聖断、被成征夷将軍宣旨。依之(これによつて)宮(みや)の御憤(いきどほり)も散(さん)じけるにや、六月十七日(じふしちにち)志貴(しぎ)を御立(おんたち)有(あつ)て、八幡(やはた)に七日御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、同(おなじき)二十三日(にじふさんにち)御入洛(じゆらく)あり。其(その)行列・行装(かうさう)尽天下壮観。先(まづ)一番(いちばんには)赤松入道円心(ゑんしん)、千(せん)余騎(よき)にて前陣(ぜんぢん)を仕(つかまつ)る。二番に殿(とのの)法印良忠(りやうちゆう)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて打つ。三番には四条(しでうの)少将隆資(たかすけ)、五百(ごひやく)余騎(よき)。四番には中(なかの)院(ゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)、八百(はつぴやく)余騎(よき)にて打(うた)る。其(その)次に花やかに鎧(よろ)ふたる兵(つはもの)五百人(ごひやくにん)勝(すぐつ)て、帯刀(たてはき)にて二行に被歩。 其(その)次に、宮は赤地(あかぢ)の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、火威(ひをどし)の鎧の裾金物(すそかなもの)に、牡丹(ぼたん)の陰(かげ)に獅子(しし)の戯(たはむれ)て、前後左右に追合(おひあひ)たるを、草摺(くさずり)長(なが)に被召、兵庫鎖(ひやうごくさり)の丸鞘(まるさや)の太刀に、虎の皮の尻鞘(しりさや)かけたるを、太刀懸(かけ)の半(なかば)に結(ゆう)てさげ、白篦(しらの)に節陰許(ふしかげばかり)少塗(すこしぬつ)て、鵠(くぐひ)の羽(はね)を以て矧(はい)だる征矢(そや)の三十六(さんじふろく)指(さし)たるを筈高(はずだか)に負成(おひなし)、二所藤(ふたところどう)の弓の、銀(ぎん)のつく打(うつ)たるを十文字(じふもんじ)に拳(にぎつ)て、白瓦毛(しろかはらげ)なる馬の、尾髪(をがみ)飽(あく)まで足(たつ)て太逞(ふとくたくましき)に沃懸地(いつかけち)の鞍置(おい)て、厚総(あつふさ)の鞦(しりがひ)の、只今染出(そめいで)たる如(ごとく)なるを、芝打長(しばうちだけ)に懸成(かけな)し、侍十二人(じふににん)に双口(もろぐち)をさせ、千鳥足(ちどりあし)を蹈(ふま)せて、小路(こうじ)を狭(せば)しと被歩。 |
|
後乗(こうじよう)には、千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣千(せん)余騎(よき)にて被供奉。猶も御用心(ごようじん)の最中(さいちゆう)なれば、御心(おんこころ)安(やすき)兵を以て非常を可被誡とて、国々の兵をば、混物具(ひたもののぐ)にて三千(さんぜん)余騎(よき)、閑(しづか)に小路(こうじ)を被打。其後陣(そのごぢん)には湯浅権(ゆあさごんの)大夫(たいふ)・山本四郎次郎忠行(ただゆき)・伊東三郎行高(ゆきたか)・加藤太郎光直(みつなお)、畿内(きない)近国の勢打込(うちこみ)に、二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)、三日支(ささへ)てぞ打(うつ)たりける。 時移り事去(さつ)て、万(よろ)づ昔に替る世なれども、天台座主(てんだいざす)忽(たちまち)に蒙将軍宣旨、帯甲冑召具随兵、御入洛有(じゆらくあり)し分野(ありさま)は、珍(めづらし)かりし壮観(さうくわん)也(なり)。其後(そののち)妙法院(めうほふゐんの)宮(みや)は四国の勢を被召具、讚岐(さぬきの)国(くに)より御上洛(ごしやうらく)あり。万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)卿(きやう)は、預人(あづかりうど)小田民部(をだみんぶの)大輔(たいふ)相具(あひぐ)して常陸(ひたちの)国(くに)より被上洛(しやうらく)。 春宮大進(とうぐうのだいしん)季房(すゑふさ)は配所(はいしよ)にて身罷(みまかり)にければ、父宣房(のぶふさ)卿(きやう)悦(よろこび)の中(うち)の悲(かなし)み、老後の泪満袖。法勝寺(ほつしようじの)円観(ゑんくわん)上人をば、預人(あづかりうど)結城上野(ゆふきかうづけの)入道奉具足上洛(しやうらく)したりければ、君法体(ほつたい)の無恙事を悦び思召(おぼしめし)て、軈(やが)て結城(ゆふき)に本領安堵(あんど)の被成下綸旨。文観(もんくわん)上人は硫黄(いわうが)嶋より上洛(しやうらく)し、忠円(ちゆうゑん)僧正は越後国(ゑちごのくに)より被帰洛。総(そう)じて此(この)君笠置(かさぎ)へ落(おち)させ給(たまひ)し刻(きざみ)、解官停任(げくわんちやうにん)せられし人々、死罪流刑(るけい)に逢(あひ)し其(その)子孫、此彼(ここかしこ)より被召出、一時に蟄懐(ちつくわい)を開けり。 されば日来(ひごろ)誇武威無本所を、権門高家(けんもんかうけ)の武士共(ぶしども)、いつしか成諸庭奉公人、或(あるひ)は走軽軒香車後、或(あるひは)跪青侍恪勤前。世の盛衰(せいすゐ)時の転変(てんぺん)、歎(なげく)に叶(かな)はぬ習(ならひ)とは知(しり)ながら、今の如(ごとく)にて公家(くげ)一統(いつとう)の天下ならば、諸国(しよこく)の地頭・御家人(ごけにん)は皆奴婢(ぬび)・雑人(ざふにん)の如(ごとく)にて有(ある)べし。哀(あはれ)何(いか)なる不思議(ふしぎ)も出来(いでき)て、武家執四海(しかい)権世中(よのなか)に又成(なれ)かしと思ふ人のみ多かりけり。 |
|
同(おなじき)八月三日より可有軍勢恩賞沙汰とて、洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)卿(きやう)を被定上卿。依之(これによつて)諸国の軍勢、立軍忠支証捧申状望恩賞輩(ともがら)、何千万人(いくせんまんにん)と云(いふ)数(かず)を不知(しらず)。実(まこと)に有忠者は憑功不諛、無忠者媚奥求竈、掠上聞間、数月(すげつ)の内に僅(わづか)に二十(にじふ)余人(よにん)の恩賞を被沙汰たりけれ共(ども)、事非正路軈(やがて)被召返けり。さらば改上卿とて、万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさの)卿を被成上卿、申状を被付渡。藤房(ふぢふさ)請取之糾忠否分浅深、各(おのおの)申与(まうしあたへ)んとし給ひける処に、依内奏秘計、只今までは朝敵(てうてき)なりつる者も安堵(あんど)を賜(たまは)り、更に無忠輩(ともがら)も五箇所・十箇所(じつかしよ)の所領(しよりやう)を給(たまはり)ける間、藤房(ふぢふさ)諌言(かんげん)を納(いれ)かねて称病被辞奉行。角(かく)て非可黙止とて、九条(くでうの)民部卿を上卿に定(さだめ)て御沙汰(ごさた)有(あり)ける間、光経(みつつね)卿(きやう)、諸大将(しよだいしやう)に其(その)手(て)の忠否(ちゆうひ)を委細尋究(たづねきはめ)て申与(まうしあたへ)んとし給(たまひ)ける処に、相摸(さがみ)入道(にふだう)の一跡(いつせき)をば、内裏(だいり)の供御料所(ぐごれうしよ)に被置。 舎弟(しやてい)四郎(しらう)左近(さこんの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の跡(あと)をば、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)へ被進。大仏(だいぶつ)陸奥(むつの)守(かみ)の跡をば准后(じゆごう)の御領(ごりやう)になさる。此外(このほか)相州(さうしう)の一族(いちぞく)、関東(くわんとう)家風(かふう)の輩(ともがら)が所領をば、無指事郢曲妓女(えいきよくぎぢよ)の輩(ともがら)、蹴鞠伎芸(しうきくぎげい)の者共(ものども)、乃至(ないし)衛府諸司(ゑふしよし)・官女・官僧まで、一跡(いつせき)・二跡を合(あはせ)て、内奏(ないそう)より申給(まうしたまは)りければ、今は六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)の内には、立錐(りつすゐ)の地も軍勢に可行闕所(けつしよ)は無(なか)りけり。浩(かかり)ければ光経(みつつねの)卿(きやう)も、心許(ばかり)は無偏(むへん)の恩化を申沙汰(まうしさた)せんと欲し給(たまひ)けれ共(ども)、叶(かな)はで年月をぞ被送ける。 |
|
又雑訴(ざつそ)の沙汰の為にとて、郁芳門(いうはうもん)の左右の脇(わき)に決断所(けつだんしよ)を被造。其議定(そのぎてい)の人数(にんず)には、才学優長(さいがくいうちやう)の卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)・紀伝(きてん)・明法(みやうはふ)・外記(げき)・官人(くわんにん)を三番に分(わかつ)て、一月に六箇度(ろくかど)の沙汰の日をぞ被定ける。凡(およそ)事(こと)の体(てい)厳重(げんぢゆう)に見へて堂々(だうだう)たり。去(され)ども是(これ)尚(なほ)理世安国(りせあんこく)の政(まつりごと)に非(あらざ)りけり。或(あるひ)は自内奏訴人(そにん)蒙勅許を、決断所にて論人(ろんにん)に理(り)を被付、又決断所にて本主(ほんしゆ)給安堵、内奏より其(その)地を別人(べつにん)の恩賞に被行。如此互に錯乱(さくらん)せし間、所領一所(しよりやういつしよ)に四五人(しごにん)の給主(きふしゆ)付(つい)て、国々の動乱(どうらん)更に無休時。去(さる)七月の初(はじめ)より中宮御心(おんここち)煩(わづら)はせ給(たまひ)けるが、八月二日隠(かくれ)させ給ふ。是(これ)のみならず十一月三日、春宮(とうぐう)崩御成(ほうぎよなり)にけり。是(これ)非只事、亡卒(ばうそつ)の怨霊共(をんりやうども)の所為(しわざ)なるべしとて、止其怨害、為令趣善所、仰四箇大寺、大蔵経五千三百(ごせんさんびやく)巻(くわん)を一日(いちにちの)中(うち)に被書写、法勝寺(ほつしようじ)にて則(すなはち)供養(くやう)を遂(とげ)られけり。 | |
■大内裏(だいだいり)造営(ざうえいの)事(こと)付(つけたり)聖廟(せいべうの)御事(おんこと)
翌年(よくねん)正月十二日、諸卿(しよきやう)議奏(ぎそう)して曰(いはく)、「帝王の業(げふ)、万機(ばんき)事繁(ことしげう)して、百司(はくし)設位。今の鳳闕(ほうけつ)僅(わづかに)方(はう)四町(しちやう)の内なれば、分内(ぶんない)狭(せばう)して調礼儀無所。四方(しはう)へ一町(いつちやう)宛(づつ)被広、建殿造宮。是(これ)猶(なほ)古(いにしへ)の皇居(くわうきよ)に及ばねばとて、大内裏可被造。」とて安芸(あき)・周防(すはう)を料国(れうごく)に被寄、日本国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)の所領(しよりやう)の得分(とくぶん)二十分(にじふぶんの)一(いち)を被懸召。抑(そもそも)大内裡(だいだいり)と申(まうす)は、秦(しん)の始皇帝(しくわうてい)の都、咸陽宮(かんやうきゆう)の一殿を摸(うつ)して被作たれば、南北三十六町(さんじふろくちやう)、東西二十町(にじつちよう)の外(ほか)、竜尾(りゆうび)の置石(すゑいし)を居(す)へて、四方(しはう)に十二の門(もん)を被立たり。 東には陽明(やうめい)・待賢(たいけん)・郁芳門(いうはうもん)、南には美福(びふく)・朱雀(しゆじやく)・皇嘉門(くわうかもん)、西には談天(だつてん)・藻壁(さうへき)・殷富門(いんふもん)、北には安嘉(あんか)・偉鑒(ゐかん)・達智門(たつちもん)、此外(このほか)上東(しやうとう)・上西(しやうさい)、二門に至(いたる)迄、守交戟衛伍長時(ぢやうじ)に誡非常たり。三十六(さんじふろく)の後宮(こうきゆう)には、三千(さんぜん)の淑女(しゆくぢよ)飾妝、七十二の前殿(ぜんでん)には文武(ぶんぶ)の百司(はくし)待詔。紫宸殿(ししんでん)の東西に、清涼殿(せいりやうでん)・温明殿(うんめいでん)。当北常寧殿(じやうねいでん)・貞観殿(ちやうぐわんでん)。々々々(ちやうぐわんでん)と申(まうす)は、后町(きさきまち)の北(きた)の御匣殿(みくしげどの)也(なり)。 校書殿(かうしよでん)と号せしは、清涼殿の南の弓場殿(ゆばどの)也(なり)。昭陽舎(せうやうしや)は梨壺(なしつぼ)、淑景舎(しげいしや)は桐壺(きりつぼ)、飛香舎(ひきやうしや)は藤壺(ふぢつぼ)、凝花舎(ぎようくわしや)は梅坪(むめつぼ)、襲芳舎(しふはうしや)と申(まうす)は雷鳴坪(かんなりのつぼ)の事也(なり)。萩戸(はぎのと)・陣座(ぢんのざ)・滝口戸(たきぐちのと)・鳥曹司(とりのさうし)・縫殿(ぬひどの)。兵衛(ひやうゑの)陣、左は宣陽門(せんやうもん)、右陰明門(いんめいもん)。日花(じつくわ)・月花(げつくわ)の両門は、対陣座左右。大極殿(たいごくでん)・小安殿(こあどの)・蒼龍楼(さうりようろう)・白虎楼(びやくころう)。豊楽院(ぶらくゐん)・清署堂(せいしよだう)、五節(ごせつ)の宴水(えんすゐ)・大嘗会(だいじやうゑ)は此(この)所にて被行。中和院(ちゆうくわゐん)は中(なかの)院(ゐん)、内教坊(ないけうばう)は雅楽所(ががくじよ)也(なり)。 |
|
御修法(みしほ)は真言院(しんごんゐん)、神今食(じんごんじき)は神嘉殿(しんかでん)、真弓(まゆみ)・競馬(くらべむま)をば、武徳殿(ぶとくでん)にして被御覧。朝堂院(てうだうゐん)と申(まうす)は八省の諸寮是(これ)也(なり)。右近(うこん)の陣の橘(たちばな)は昔を忍ぶ香(か)を留(とど)め、御階(みはし)に滋(しげ)る竹の台(だい)幾世(いくよ)の霜を重(かさ)ぬらん。在原(ありはらの)中将(ちゆうじやう)の弓(ゆみ)・胡■(やなぐひ)を身に添(そへ)て、雷鳴(かんなり)騒ぐ終夜(よもすがら)あばらなる屋(や)に居たりしは、官(くわん)の庁(ちやう)の八神殿(やつじんどの)、光(ひかる)源氏(げんじの)大将(だいしやう)の、如(しく)物もなしと詠(えい)じつゝ、朧月夜(おぼろづきよ)に軻(あこがれ)しは弘徽殿(こうきでん)の細殿(ほそどの)、江相公(えのしやうこう)の古(いにし)へ越(こしぢ)の国へ下(くだり)しに、旅の別(わかれ)を悲(かなしみ)て、「後会期(こうくわいご)遥(はるか)也(なり)。 濡纓於鴻臚之暁涙」と、長篇(ちやうへん)の序(じよ)に書(かき)たりしは、羅城門(らしやうもん)の南なる鴻臚館(こうろくわん)の名残(なごり)なり。鬼の間・直盧(ちよくろ)・鈴(すず)の縄(つな)。荒海(あらうみ)の障子(しやうじ)をば、清涼殿(せいりやうでん)に被立、賢聖(げんじやう)の障子をば、紫宸殿(ししんでん)にぞ被立ける。東の一の間(ま)には、馬周(ばしう)・房玄齢(ばうげんれい)・杜如晦(とじよくわい)・魏徴(ぎちよう)、二の間には、諸葛亮(しよかつりやう)・遽伯玉(きよはくぎよく)・張子房(ちやうしばう)・第伍倫(ていごりん)、三の間には、管仲・■禹(とうう)・子産(しさん)・蕭何(せうか)、四の間には、伊尹(いゐん)・傅説(ふえつ)・太公望(たいこうばう)・仲山甫(ちゆうざんほ)、西の一の間には、李勣(りせき)・虞世南(ぐせいなん)・杜預(どよ)・張華(ちやうくわ)、二の間には、羊■(やうこ)・揚雄・陳寔(ちんしよく)・班固(はんこ)、三の間には、桓栄(くわんえい)・鄭玄(ていげん)・蘇武(そぶ)・倪寛(げいくわん)、四の間には、董仲舒(とうちゆうじよ)・文翁・賈誼(かぎ)・叔孫通(しくそんとう)也(なり)。 画図(ぐわと)は金岡(かなをか)が筆、賛詞(さんのことば)は小野道風(をののたうふう)が書(かき)たりけるとぞ承(うけたまは)る。鳳(ほう)の甍(いらか)翔天虹の梁(うつばり)聳雲、さしもいみじく被造双たりし大内裏(だいだいり)、天災(てんさいを)消(けす)に無便、回禄(くわいろく)度々に及(およん)で、今は昔の礎(いしずゑ)のみ残れり。尋回禄由(よし)、彼唐尭(かのたうげう)・虞舜(ぐじゆん)の君は支那四百州の主(あるじ)として、其(その)徳天地に応(おう)ぜしか共(ども)、「茆茨不剪、柴椽不削」とこそ申伝(まうしつたへ)たれ。矧(いはん)や粟散国(ぞくさんこく)の主(あるじ)として、此大内(このだいだい)を被造たる事(こと)、其(その)徳不可相応。 |
|
後王(こうわう)若(もし)無徳にして欲令居安給はゞ、国(くにの)財力(ざいりよく)も依之(これによつて)可尽と、高野大師(かうやだいし)鑒之、門々(もんもん)の額(がく)を書(かか)せ給(たまひ)けるに、大極殿(だいごくでん)の大の字の中(なか)を引切(ひききつ)て、火(くわ)と云(いふ)字に成し、朱雀門(しゆじやくもん)の朱の字を米(べい)と云(いふ)字にぞ遊(あそば)しける。小野道風(おののたうふう)見之、大極殿は火極殿(くわこくでん)、朱雀門は米雀門(べいじやくもん)とぞ難(なん)じたりける。大権(たいごん)の聖者(しやうじや)鑒未来書(かき)給へる事を、凡俗(ぼんぞく)として難(なん)じ申(まうし)たりける罰(ばつ)にや、其後(そののち)より道風執筆、手戦(ふるひ)て文字正しからざれども、草書(さうしよ)に得妙人なれば、戦(ふるう)て書(かき)けるも、軈(やが)て筆勢(ひつせい)にぞ成(なり)にける。 遂に大極殿より火出(いで)て、諸司八省(しよしはつしやう)悉(ことごとく)焼(やけ)にけり。無程又造営(ざうえい)有(あり)しを、北野天神(てんじん)の御眷属(ごけんぞく)火雷気毒神(くわらいきどくじん)、清涼殿(せいりやうでん)の坤柱(ひつじさるのはしら)に落掛給(おちかかりたまひ)し時焼(やけ)けるとぞ承(うけたまは)る。抑(そもそも)彼天満(かのてんまん)大神と申(まうす)は、風月の本主、文道(ぶんだう)の大祖(たいそ)たり。天に御坐(おはしまし)ては日月(じつげつ)に顕光照国土、地に降下(あまくだつ)ては塩梅(えんばい)の臣と成(なつ)て群生(ぐんしやう)を利(り)し玉(たま)ふ。其始(そのはじめ)を申せば、菅原(すがはらの)宰相是善(ぜぜん)卿(きやう)の南庭(なんてい)に、五六歳(ごろくさい)許(ばかり)なる小児(せうに)の容顔美麗(ようがんびれい)なるが、詠前栽花只一人立(たち)給へり。 |
|
菅相公(くわんしやうこう)怪(あや)しと見給(みたまひ)て、「君は何(いづれ)の処の人、誰(た)が家の男(なん)にて御坐(おはします)ぞ。」と問玉(といたまふ)に、「我は無父無母、願(ねがはく)は相公(しやうこう)を親(おや)とせんと思侍(おもひはんべ)る也(なり)。」と被仰ければ、相公嬉(うれし)く思召(おぼしめし)て、手(てづ)から奉舁懐、鴛鴦(ゑんあう)の衾(ふすま)の下(した)に、恩愛(おんあい)の養育を為事生育(はごくみ)奉り、御名をば菅(くわん)少将とぞ申(まうし)ける。未(いまだ)習(ならはずして)悟道、御才学(ごさいかく)世に又類(たぐひ)も非じと見給(みえたまひ)しかば、十一歳に成(なら)せ給(たまひ)し時父菅相公(くわんしやうこう)御髪(おんかみ)を掻撫(かきなで)て、「若(もし)詩(し)や作り給ふべき。」と問進(とひまゐら)せ給(たまひ)ければ、少しも案じたる御気色(けしき)も無(なう)て、 月耀如晴雪。梅花似照星。可憐金鏡転。庭上玉芳馨。と寒夜(かんや)の即事(そくじ)を、言(こと)ば明(あきらか)に五言(ごごん)の絶句(ぜつく)にぞ作(つくら)せ玉(たまひ)ける。其(それ)より後(のち)、詩は捲盛唐波瀾先七歩才、文は漱漢魏芳潤、諳万巻書玉(たまひ)しかば、貞観(ちやうぐわん)十二年三月二十三日(にじふさんにち)対策(たいさく)及第して自(みづから)詞場(しぢやう)に折桂玉ふ。其(その)年の春都良香(とりやうきやう)の家に人集(あつまつ)て弓を射ける所へ菅少将(くわんせうしやう)をはしたり。 都良香、此(この)公(こう)は無何と、学窓(がくさう)に聚蛍、稽古(けいこ)に無隙人なれば、弓の本末(もとうら)をも知(しり)玉(たま)はじ、的を射させ奉り咲(わらは)ばやと思(おぼ)して、的矢(まとや)に弓を取副(とりそへ)て閣菅少将(くわんせうしやうの)御前(おんまへ)に、「春(はる)の始(はじめ)にて候に、一度(ひとこぶし)遊(あそ)ばし候へ。」とぞ被請ける。菅少将(くわんせうしやう)さしも辞退(じたい)し給はず、番(つがひ)の逢手(あひて)に立合(たちあひ)て、如雪膚(はだ)を押袒(おしはだぬき)、打上(うちあげ)て引下(ひきおろ)すより、暫(しばらく)しをりて堅めたる体(すがた)、切(きつ)て放(はなし)たる矢色(やいろ)・弦音(つるおと)・弓倒(ゆんだふ)し、五善(ごぜん)何(いづ)れも逞(たくまし)く勢(いきほひ)有(あつ)て、矢所(やつぼ)一寸ものかず、五度(ごど)の十(つづ)をし給(たまひ)ければ、都良香感(かん)に堪兼(たへかね)て、自(みづから)下(おり)て御手(おんて)を引(ひき)、酒宴(しゆえん)及数刻、様々(さまざま)の引出物(ひきでもの)をぞ被進ける。 |
|
同(おなじき)年の三月二十六日に、延喜帝(えんぎのみかど)未だ東宮(とうぐう)にて御坐(ござ)ありけるが、菅少将(くわんせうしやう)を被召て、「漢朝(かんてう)の李■(りけう)は一夜(いちや)に百首の詩を作(つくり)けると見(みえ)たり。汝(なんぢ)盍如其才。一時に作十首詩可備天覧。」被仰下ければ、則(すなはち)十(じふの)題を賜(たまはり)て、半時許(ばかり)に十首の詩をぞ作(つくら)せ玉(たまひ)ける。送春不用動舟車。唯別残鴬与落花。若使韶光知我意。今宵旅宿在詩家。と云(いふ)暮春(ぼしゆん)の詩(し)も其(その)十首の絶句(ぜつく)の内なるべし。才賢(さいけん)の誉(ほまれ)・仁義の道、一として無所欠、君(きみは)帰三皇五帝徳、世(よは)均周公・孔子(こうし)治只在此人、君無限賞(しやう)じ思召(おぼしめし)ければ、寛平(くわんへい)九年(くねん)六月に中納言より大納言に上(あがり)、軈(やが)て大将(だいしやう)に成(なり)玉ふ。 同(おなじき)年十月に、延喜帝(えんぎのみかど)即御位給(たまひ)し後(のち)は、万機(ばんき)の政(まつりごと)然(しかしながら)自幕府上相出(いで)しかば、摂禄(せつろく)の臣も清花(せいぐわ)の家も無可比肩人。昌泰(しやうたい)二年の二月に、大臣(だいじんの)大将(だいしやう)に成(なら)せ給ふ。此(この)時本院大臣(ほんゐんのおとど)と申(まうす)は、大織冠(たいしよくくわん)九代の孫(そん)、昭宣公(せうせんこう)第一(だいいち)の男(なん)、皇后(くわうごうの)御兄(おんせうと)、村上天皇(むらかみてんわう)の御伯父(おんをぢ)也(なり)。摂家(せつけ)と云(いひ)高貴(かうき)と云(いひ)、旁(かたがた)我に等(ひとし)き人非じと思ひ給(たまひ)けるに、官位・禄賞(ろくしやう)共(とも)に菅丞相(くわんしようじやう)に被越給(たまひ)ければ、御憤(いきどほり)更(さらに)無休時。光(ひかる)卿(きやう)・定国(さだくにの)卿(きやう)・菅根朝臣(すがねのあそん)などに内々相計(あいはかつ)て、召陰陽頭、王城の八方に埋人形祭冥衆、菅丞相を呪咀(じゆそ)し給(たまひ)けれども、天道(てんだう)私(わたくし)なければ、御身(おんみ)に災難不来。さらば構讒沈罪科思(おぼし)て、本院(ほんゐんの)大臣(おとど)時々(よりより)菅丞相天下の世務に有私、不知民愁、以非為理由(よし)被申ければ、帝(みかど)さては乱世害民逆臣(ぎやくしんにして)、諌非禁邪忠臣に非(あら)ずと被思召けるこそ浅猿(あさまし)けれ。 |
|
「誰知、偽言巧似簧。勧君掩鼻君莫掩。使君夫婦為参商。請君捕峰君莫捕。使君母子成豺狼。」さしも可眤夫婦・父子の中(なか)をだに遠(とほざ)くるは讒者(ざんしや)の偽(いつはり)也(なり)。況(いはんや)於君臣間乎。遂(つひに)昌泰(しやうたい)四年正月二十日菅丞相被遷太宰権帥、筑紫(つくし)へ被流給(たまふ)べきに定(さだま)りにければ、不堪左遷御悲、一首(いつしゆ)の歌に千般(せんばん)の恨(うらみ)を述(のべ)て亭子院(ていじゐん)へ奉り給ふ。流行(ながれゆく)我はみくづとなりぬとも君しがらみと成(なり)てとゞめよ法皇此(この)歌を御覧じて御泪(おんなみだ)御衣(ぎよい)を濡(うるほ)しければ、左遷(させん)の罪を申宥(まうしなだめ)させ給はんとて、御参内有(さんだいあり)けれ共(ども)、帝(みかど)遂(つひ)に出御無(しゆつぎよなか)りければ、法皇御憤(いきどほり)を含(ふくん)で空(むなし)く還御成(くわんぎよなり)にけり。 其後(そののち)流刑(るけい)定(さだまり)て、菅丞相忽(たちまち)に太宰府(だざいふ)へ被流させ玉ふ。御子二十三人(にじふさんにん)の中(うち)に、四人は男子にてをわせしかば、皆引分(ひきわけ)て四方(しはう)の国々へ奉流。第一(だいいち)の姫君一人をば都に留め進(まゐら)せ、残(のこる)君達(きんたち)十八人は、泣々(なくなく)都を立離(たちはな)れ、心つくしに赴(おもむか)せ玉ふ御有様(おんありさま)こそ悲しけれ。年久(ひさし)く住馴給(すみなれたまひ)し、紅梅殿(こうばいどの)を立出(たちいで)させ玉へば、明方(あけがた)の月幽(かすか)なるに、をり忘(わすれ)たる梅(むめ)が香(か)の御袖(おんそで)に余(あま)りたるも、今は是(これ)や古郷(こきやう)の春(はる)の形見(かたみ)と思食(おぼしめす)に、御涙(おんなみだ)さへ留(とま)らねば、東風(こち)吹(ふか)ば匂(にほひ)をこせよ梅(むめ)の花主(あるじ)なしとて春な忘れそと打詠給(うちえいじたまひ)て、今夜(こよひ)淀(よど)の渡(わたし)までと、追立(おつたて)の官人共(くわんにんども)に道を被急、御車(おんくるま)にぞ被召ける。心なき草木までも馴(なれ)し別(わかれ)を悲(かなしみ)けるにや、東風(こち)吹(ふく)風の便(たより)を得て、此(この)梅(むめ)飛去(とびさつ)て配所の庭にぞ生(おひ)たりける。されば夢の告(つげ)有(あつ)て、折(をる)人つらしと惜(をし)まれし、宰府(さいふ)の飛梅(とびむめ)是(これ)也(なり)。 |
|
去(さる)仁和の比(ころ)、讚州(さんしう)の任(にん)に下給(くだりたまひ)しには、解甘寧錦纜、蘭橈桂梶(らんのさをかつらのかぢ)、敲舷於南海月、昌泰(しやうたい)の今配所(はいしよ)の道へ赴(おもむか)せ玉ふには、恩賜(おんし)の御衣(ぎよい)の袖を片敷(かたしい)て、浪の上篷(とま)の底、傷思於西府雲、都に留置進(とめおきまゐら)せし北(きたの)御方(おんかた)・姫君の御事(おんこと)も、今は昨日(きのふ)を限(かぎり)の別(わかれ)と悲(かなし)く、知(しら)ぬ国々へ被流遣十八人の君達(きんたち)も、さこそ思はぬ旅に趣(おもむい)て、苦身悩心らめと、一方(ひとかた)ならず思食遣(おぼしめしやる)に、御泪(なみだ)更に乾(かわく)間(ま)も無(なけ)れば、旅泊(りよはく)の思を述(のべ)させ給(たまひ)ける詩にも、自従勅使駈将去。父子一時五処離。口不能言眼中血。俯仰天神与地祇。北(きたの)御方(おんかた)より被副ける御使(おんつかひ)の道より帰(かへり)けるに御文(ふみ)あり。 君が住(すむ)宿(やど)の梢(こずゑ)を行々(ゆくゆく)も隠(かく)るゝまでにかへり見しはや心筑紫(つくし)に生(いき)の松、待(まつ)とはなしに明暮(あけくれ)て、配所(はいしよ)の西府(さいふ)に着(つか)せ玉へば、埴生(はにふ)の小屋(こや)のいぶせきに、奉送置、都の官人も帰りぬ。都府楼(とふろう)の瓦の色、観音寺の鐘(かね)の声、聞(きく)に随ひ見(みる)に付(つけ)ての御悲(かなしみ)、此(この)秋は独(ひとり)我(わが)身の秋となれり。起臥(おきふす)露のとことはに、古郷(こきやう)を忍ぶ御涙(おんなみだ)、毎言葉繁ければ、さらでも重(おもき)濡衣(ぬれぎぬ)の、袖乾(かわ)く間(ま)も無(なか)りけり、さても無実(むじつ)の讒(ざん)によりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思召(おぼしめし)ければ、七日(なぬかが)、間(あひだ)御身(おんみ)を清(きよ)め一巻(いつくわん)の告文(かうぶん)を遊(あそば)して高山(かうざん)に登り、竿(さを)の前(さき)に着(つけ)て差挙(さしあげ)、七日(なぬか)御足を翹(つまだて)させ給(たまひ)たるに、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしやく)も其(その)無実をや憐給(あはれみたまひ)けん。 黒雲一群(ひとむら)天より下(おり)さがりて、此告文(このかうぶん)を把(とつ)て遥(はるか)の天にぞ揚(あが)りける。其後(そののち)延喜(えんぎ)三年二月二十五日遂(つひ)に沈左遷恨薨逝(こうせい)し給(たまひ)ぬ。今の安楽寺(あんらくじ)を御墓所(みはかしよ)と定(さだめ)て奉送置。惜(をしい)哉(かな)北闕(ほくけつの)春(はるの)花、随流不帰水、奈何(いかんがせん)西府(さいふの)夜(よるの)月、入不晴虚命雲、されば貴賎(きせん)滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。同(おなじき)年夏の末(すゑ)に、延暦寺(えんりやくじ)第十三の座主(ざす)、法性坊尊意贈(ほふしやうばうそんいぞう)僧正、四明(しめい)山の上、十乗の床前(ゆかのまへ)に照観月、清心水御坐(おはしまし)けるに、持仏(ぢぶつ)堂の妻戸(つまど)を、ほと/\と敲(たたく)音(おと)しければ、押開(おしひらい)て見玉ふに、過(すぎ)ぬる春筑紫(つくし)にて正(まさ)しく薨逝(こうせい)し給(たまひ)ぬと聞へし菅丞相にてぞ御坐(おはしまし)ける。 |
|
僧正奇(あやしく)思(おぼ)して、「先(まづ)此方(こなた)へ御入(おんいり)候へ。」と奉誘引、「さても御事(おんこと)は過(すぎ)にし二月二十五日に、筑紫(つくし)にて御隠候(かくれさふらひ)ぬと、慥(たしかに)に承(うけたまはり)しかば、悲歎(ひたん)の涙を袖にかけて、後生菩提(ごしやうぼだい)の御追善(つゐぜん)をのみ申居(まうしゐ)候に、少(すこし)も不替元の御形にて入御(じゆぎよ)候へば、夢幻(ゆめうつつ)の間難弁こそ覚(おぼえ)て候へ。」と被申ければ、菅丞相(くわんしようじやう)御顔にはら/\とこぼれ懸りける御泪(なみだ)を押拭(おしのご)はせ給(たまひ)て、「我(われ)成朝廷臣、為令安天下、暫(しばらく)下生人間処に、君時平公(しへいこう)が讒(ざん)を御許容(ごきよよう)有(あつ)て、終(つひ)に無実(むじつ)の罪に被沈ぬる事(こと)、瞋恚(しんい)の焔(ほむら)従劫火盛(さかん)也(なり)。 依之(これによつて)五蘊(ごうん)の形は雖壊、一霊(いちれい)の神(しん)は明(あきらか)にして在天。今得大小(だいせうの)神祇(しんぎ)・梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしやく)・四王許、為報其恨九重(ここのへ)の帝闕(ていけつ)に近づき、我につらかりし佞臣(ねいしん)・讒者(ざんしや)を一々に蹴殺(けころ)さんと存ずる也(なり)。 其(その)時定(さだめ)て仰山門可被致総持法験。縦(たとひ)雖有勅定、相構(あひかまへて)不可有参内。」と被仰ければ、僧正(そうじやうの)曰(いはく)、「貴方(きはうと)与愚僧師資(しし)之(の)儀雖不浅、君(きみと)与臣上下之礼尚(なほ)深(ふかし)。勅請(ちよくしやう)の旨(むね)一往(いちわう)雖辞申、及度々争(いかで)か参内仕(さんだいつかまつ)らで候べき。」と被申けるに、菅丞相御気色(けしき)俄に損(そん)じて御肴(さかな)に有(あり)ける柘榴(じやくろ)を取(とつ)てかみ摧(くだ)き、持仏堂(ぢぶつだう)の妻戸(つまど)に颯(さつ)と吹懸(ふきかけ)させ給(たまひ)ければ、柘榴の核(さね)猛火(みやうくわ)と成(なつ)て妻戸に燃付(もえつき)けるを、僧正少(すこし)も不騒、向燃火灑水(しやすゐ)の印(いん)を結ばれければ、猛火忽(たちまち)に消(きえ)て妻戸は半(なかば)焦(こげ)たる許(ばかり)也(なり)。此(この)妻戸今に伝(つたはつ)て在山門とぞ承(うけたまは)る。其後(そののち)菅丞相座席(ざせき)を立(たつ)て天(てん)に昇(のぼ)らせ玉ふと見へければ、軈(やがて)雷(いかづち)内裡の上に鳴落(なりおち)鳴騰(なりのぼつて)、高天も落地大地も如裂。 |
|
一人(いちじん)・百官(はくくわん)縮身消魂給ふ。七日七夜が間雨暴(あらく)風烈(はげしく)して世界(せかい)如闇、洪水(こうずゐ)家々を漂(ただよ)はしければ、京白河の貴賎男女(きせんなんによ)、喚(をめ)き叫ぶ声叫喚(けうくわん)・大叫喚の苦(くるしみ)の如し。遂(つひ)に雷電(らいでん)大内(だいだい)の清涼殿に落(おち)て、大納言清貫(きよつら)卿(きやう)の表(うへ)の衣(きぬ)に火燃付(もえつき)て伏転(ふしまろ)べども不消。右大弁(うだいべん)希世(まれよの)朝臣は、心(こころ)剛(がう)なる人なりければ、「縦(たとひ)何(いか)なる天雷(てんらい)也(なり)とも、王威(わうゐ)に不威哉(や)。」とて、弓に矢を取副(とりそへ)て向(むかひ)給へば、五体(ごたい)すくみて覆倒(うつぶしにたふれ)にけり。 近衛(こんゑの)忠包(ただかぬ)鬢髪(びんぱつ)に火付(つき)焼死(やけしに)ぬ。紀蔭連(きのかげつら)は煙(けむり)に咽(むせん)で絶入(たえいり)にけり。本院大臣(ほんゐんのおとど)あはや我(わが)身に懸(かか)る神罰よと被思ければ、玉体に立副進(たちそひまゐら)せ太刀を抜懸(ぬきかけ)て、「朝(てう)に仕(つか)へ給(たまひ)し時も我に礼を乱玉(みだしたま)はず、縦(たと)ひ神と成(なり)玉ふとも、君臣上下の義を失(うしなひ)玉(たま)はんや。金輪(こんりん)位高(たかう)して擁護(おうご)の神未(いまだ)捨玉、暫く静(しづま)りて穏かに其(その)徳を施し玉へ。」と理(り)に当(あたつ)て宣ひければ、理にやしづまり玉(たまひ)けん、時平(しへい)大臣も蹴殺(けころ)され給はず、玉体も無恙、雷神天に上(のぼ)り玉(たまひ)ぬ。 去(され)ども雨風の降続(ふりつづく)事(こと)は尚(なほ)不休。角(かく)ては世界国土皆流失(ながれうせ)ぬと見へければ、以法威神(かみの)忿(いかり)を宥(なだめ)申さるべしとて、法性坊(ほつしやうばう)の贈(ぞう)僧正を被召。一両度までは辞退申されけるが、勅宣(ちよくせん)及三度(さんど)ければ、無力下洛(げらく)し給(たまひ)けるに、鴨川をびたゝしく水増(まし)て、船ならでは道有(ある)まじかりけるを、僧正、「只其(その)車水の中(なか)を遣(や)れ。」と下知(げぢ)し給ふ。牛飼(うしかひ)随命、漲(みなぎつ)たる河の中へ車を颯(さつ)と遣懸(やりかけ)たれば、洪水左右へ分(わかれ)、却(かへつ)て車は陸地(くがち)を通(とほ)りけり。 |
|
僧正参内(さんだい)し給ふより、雨止(やみ)風静(しづまつ)て、神(かみの)忿(いかり)も忽(たちまち)に宥(なだま)り給(たまひ)ぬと見へければ、僧正預叡感登山(とうさん)し玉ふ。山門の効験(かうげん)天下の称讚(しようさん)在之とぞ聞へし。其後(そののち)本院(ほんゐんの)大臣(おとど)受病身心(しんしん)鎮(とこしなへ)に苦(くるし)み給ふ。浄蔵貴所(じやうざうきそ)を奉請被加持けるに、大臣(おとど)の左右の耳より、小青蛇(こせいじや)頭(かしら)を差出して、「良(やや)浄蔵貴所(きそ)、我(われ)無実(むじつ)の讒(ざん)に沈(しづみ)し恨(うらみ)を為散、此(この)大臣を取殺(とりころさ)んと思(おもふ)也(なり)。されば祈療(きれう)共(とも)に以て不可有験。加様(かやう)に云(いふ)者をば誰(たれ)とかしる。 是(これ)こそ菅丞相の変化(へんげ)の神、天満大自在(てんまんだいじざい)天神よ。」とぞ示給(しめしたまひ)ける。浄蔵貴所(きそ)示現(じげん)の不思議(ふしぎ)に驚(おどろい)て、暫く罷加持出玉(いでたまひ)ければ、本院(ほんゐんの)大臣(おとど)忽(たちまち)に薨(こう)じ給(たまひ)ぬ。御息女(そくぢよ)の女御(にようご)、御孫(まご)の東宮(とうぐう)も軈(やが)て隠(かく)れさせ玉(たまひ)ぬ。二男八条(はつでうの)大将(だいしやう)保忠(やすただ)同(おなじく)重病に沈給(しづみたまひ)けるが、験者(げんじや)薬師経(やくしきやう)を読む時、宮毘羅大将(くびらだいしやう)と打挙(うちあげ)て読(よみ)けるを、我が頚(くび)切らんと云(いふ)声に聞成(ききなし)て、則(すなはち)絶入給(たえいりたまひ)けり。三男敦忠(あつただ)中納言も早世(さうせい)しぬ。其(その)人こそあらめ、子孫(しそん)まで一時に亡玉(ほろびたまひ)ける神罰の程こそをそろしけれ。 其比(そのころ)延喜帝(えんぎのみかど)の御従兄弟(おんいとこ)に右大弁(うだいべん)公忠(きんただ)と申(まうす)人、悩(なやむ)事(こと)も無(なく)て頓死(とんし)しけり。経三日蘇生給(よみがへらせたまひ)けるが、大息(おほいき)突出(つきいで)て、「可奏聞事あり、我を扶起(たすけおこし)て内裏(だいり)へ参れ。」と宣(のたまひ)ければ、子息信明(のぶあきら)・信孝(のぶたか)二人(ににん)左右の手を扶(たすけ)て参内し玉ふ。「事の故(ゆゑ)何ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、公忠わな/\と振(ふるう)て、「臣冥官(みやうくわん)の庁(ちやう)とてをそろしき所に至り候(さふらい)つるが、長(たけ)一丈(いちぢやう)余(あまり)なる人の衣冠(いくわん)正(ただ)しきが、金軸(こんぢく)の申文(まをしぶみ)を捧(ささげ)て、「粟散辺地(ぞくさんへんち)の主(あるじ)、延喜帝王(えんぎていわう)、時平(しへい)大臣が信讒無罪臣を被流候(さふらひ)き。其誤(そのあやまり)尤(もつとも)重(おも)し、早(はやく)被記庁御札、阿鼻地獄(あびぢごく)へ可被落。」と申(まうせ)しかば、三十(さんじふ)余人(よにん)並居(なみゐ)玉へる冥官大(おほき)に忿(いかつ)て、「不移時刻可及其責。」と同(どう)じ給(たまひ)しを、座中(ざちゆう)第二(だいに)の冥官、「若(もし)年号を改(あらため)て過(とが)を謝(じや)する道あらば、如何(いかん)し候べき。」と宣(のたまひ)しに、座中皆案(あん)じ煩(わづらう)たる体(てい)に見へて、其後(そののち)、公忠(きんただ)蘇生仕(そせいつかまつり)候。」とぞ被奏ける。 |
|
君大(おほき)に驚思召(おどろきおぼしめし)て、軈(やが)て延喜(えんぎ)の年号を延長に改(あらため)て、菅丞相流罪(るざい)の宣旨(せんじ)を焼捨(やきすて)て、官位を元(もと)の大臣に帰(かへ)し、正(じやう)二位(にゐ)の一階(かい)を被贈けり。其後(そののち)天慶(てんぎやう)九年(くねん)近江(あふみの)国(くに)比良(ひら)の社(やしろ)の袮宜(ねぎ)、神(みぶ)の良種(よしざね)に託(たく)して、大内(おほうち)の北野(きたの)に千本の松一夜(いちや)に生(おひ)たりしかば、此(ここ)に建社壇、奉崇天満大自在天神けり。御眷属(ごけんぞく)十六万八千(じふろくまんはつせん)之神尚(なほ)も静(しづま)り玉(たまは)ざりけるにや、天徳二年より天元(てんげん)五年に至(いたる)迄二十五年の間に、諸司(しよし)八省三度(さんど)迄焼(やけ)にけり。 角(かく)て有(ある)べきにあらねば、内裏造営(ざうえい)あるべしとて、運魯般斧新(あらた)に造立(つくりたて)たりける柱に一首(いつしゆ)の蝕(むしくひ)の歌あり。造(つくる)とも又も焼(やけ)なん菅原(すがはら)や棟(むね)の板間(いたま)の合(あは)ん限(かぎ)りは此(この)歌に神慮(しんりよ)尚(なほ)も御納受(ごなふじゆ)なかりけりと驚思食(おどろきおぼしめし)て、一条院より正(じやう)一位(いちゐ)太政(だいじやう)大臣(だいじん)の官位を賜(たまは)らせ玉ふ。勅使安楽寺(あんらくじ)に下(くだつ)て詔書(せうしよ)を読上(よみあげ)ける時天に声有(あつ)て一首(いつしゆ)の詩(し)聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後(そののち)よりは、神の嗔(いかり)も静(しづま)り国土も穏(おだやか)也(なり)。偉(おほいなる)矣(かな)、尋本地、大慈大悲(だいじだいひ)の観世音、弘誓(ぐぜい)の海深(ふかう)して、群生済度(ぐんしやうさいど)の船(ふね)無不到彼岸。垂跡(すゐじやく)を申せば天満大自在天神の応化(おうげ)の身、利物(りもつ)日(ひびに)新(あらた)にして、一来結縁(いちらいけちえん)の人所願(しよぐわん)任心成就(じやうじゆ)す。 是(ここ)を以て上(かみ)自一人、下(しも)至万民、渇仰(かつがう)の首(かうべ)を不傾云(いふ)人はなし。誠(まことに)奇特(きどく)無双(ぶさう)の霊社(れいしや)也(なり)。去程(さるほど)に、治暦(ちりやく)四年八月十四日、内裏(だいり)造営(ざうえい)の事始(ことはじめ)有(あつ)て、後三条院(ごさんでうのゐん)の御宇(ぎよう)、延久(えんきう)四年四月十五日遷幸(せんかう)あり。文人(ぶんじん)献詩伶倫(れいりん)奏楽。目出(めでた)かりしに、無幾程、又安元(あんげん)二年に日吉(ひよし)山王の依御祟、大内(だいだい)の諸寮(しよれう)一宇(いちう)も不残焼(やけ)にし後(のち)は、国の力衰(おとろへ)て代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)も今に至(いたる)まで造営の御沙汰(ごさた)も無(なか)りつるに、今兵革(ひやうかく)の後(のち)、世未(いまだ)安(やすからず)、国費(つひ)へ民苦(くるしみ)て、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我朝(わがてう)には未(いまだ)用(もちひざる)作紙銭、諸国の地頭・御家人(ごけにん)の所領(しよりやう)に被懸課役条、神慮にも違(たが)ひ驕誇(けうくう)の端(はし)とも成(なり)ぬと、顰眉智臣も多かりけり。 |
|
■安鎮国家(あんちんこくかの)法(ほふの)事(こと)付(つけたり)諸大将(しよだいしやう)恩賞(おんしやうの)事(こと)
元弘三年春(はる)の比(ころ)、筑紫(つくし)には規矩(きくの)掃部助(かもんのすけ)高政(たかまさ)・糸田左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)貞義(さだよし)と云(いふ)平氏の一族(いちぞく)出(いで)来て、前亡(ぜんばう)の余類(よるゐ)を集め、所々の逆党(ぎやくたう)を招(まねい)て国を乱(みだ)らんとす。又河内(かはちの)国(くに)の賊徒等(ぞくとら)、佐々目憲法(けんぽふ)僧正と云(いひ)ける者を取立(とりたて)て、飯盛山(いいもりやま)に城郭をぞ構(かまへ)ける。是(これ)のみならず、伊与(いよの)国(くに)には赤橋(あかはし)駿河(するがの)守(かみ)が子息、駿河(するがの)太郎重時(しげとき)と云(いふ)者有(あつ)て、立烏帽子峯(たてゑぼしがみね)に城を拵(こしらへ)、四辺(しへん)の庄園を掠領(かすめりやう)す。 此等(これら)の凶徒(きようと)、加法威於武力不退治者、早速(さつそく)に可難静謐とて、俄に紫宸殿(ししんでん)の皇居(くわうきよ)に構壇、竹内(たけのうちの)慈厳(じごん)僧正を被召て、天下安鎮(あんちん)の法をぞ被行ける。此(この)法を行(おこなふ)時、甲冑の武士四門(しもん)を堅(かため)て、内弁(ないべん)・外弁(げべん)、近衛(こんゑ)、階下(かいか)に陣を張(は)り、伶人(れいじん)楽(がく)を奏(そう)する始(はじめ)、武家の輩(ともがら)南庭(なんてい)の左右に立双(たちならん)で、抜剣四方(しはう)を鎮(しづむ)る事あり。四門(しもん)の警固(けいご)には、結城(ゆふき)七郎左衛門(しちらうざゑもん)親光(ちかみつ)・楠(くすのき)河内(かはちの)守(かみ)正成(まさしげ)・塩冶(えんや)判官高貞(たかさだ)・名和伯耆(なわはうきの)守(かみ)長年(ながとし)也(なり)。 南庭(なんてい)の陣には右は三浦介(みうらのすけ)、左は千葉大介貞胤(ちばのおほすけさだたね)をぞ被召ける。此(この)両人兼(かね)ては可随其役由を領状申(りやうじやうまうし)たりけるが、臨其期千葉は三浦が相手に成(なら)ん事を嫌(きら)ひ、三浦は千葉が右に立(たた)ん事を忿(いかつ)て、共に出仕(しゆし)を留(とどめ)ければ、天魔の障礙(しやうげ)、法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)とぞ成(なり)にける。後(のち)に思合(おもひあは)するに天下久(ひさしく)無為(ぶゐ)なるまじき表示(へうじ)也(なり)けり。 |
|
されども此(この)法の効験(かうげん)にや、飯盛(いひもりの)丸城は正成に被攻落、立烏帽子(たてゑぼしの)城は、土居・得能(とくのう)に被責破、筑紫(つくし)は大友・小弐に打負(うちまけ)て、朝敵(てうてき)の首(くび)京都に上(のぼり)しかば、共に被渡大路、軈(やが)て被懸獄門けり。東国・西国已(すでに)静謐(せいひつ)しければ、自筑紫小弐・大友・菊池(きくち)・松浦(まつら)の者共(ものども)、大船(たいせん)七百(しちひやく)余艘(よさう)にて参洛(さんらく)す。新田(につた)左馬(さまの)助(すけ)・舎弟兵庫(ひやうごの)助(すけ)七千(しちせん)余騎(よき)にて被上洛(しやうらく)。此外(このほか)国々の武士共(ぶしども)、一人も不残上(のぼ)り集(あつまり)ける間、京白河に充満(じゆうまん)して、王城の富貴(ふうき)日来(ひごろ)に百倍(ひやくばい)せり。 諸軍勢(しよぐんぜい)の恩賞は暫(しばら)く延引すとも、先(まづ)大功の輩(ともがら)の抽賞(ちうしやう)を可被行とて、足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)に、武蔵(むさし)・常陸(ひたち)・下総(しもふさ)三箇国(さんかこく)、舎弟左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)に遠江(とほたふみの)国(くに)、新田左馬(さまの)助(すけ)義貞に上野(かうづけ)・播磨(はりま)両国、子息義顕(よしあき)に越後国(ゑちごのくに)、舎弟兵部(ひやうぶの)少輔(せう)義助(よしすけ)に駿河(するがの)国(くに)、楠判官正成(まさしげ)に摂津国(つのくに)・河内、名和(なわ)伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)に因幡(いなば)・伯耆両国をぞ被行ける。其外(そのほか)公家(くげ)・武家の輩(ともがら)、二箇国(にかこく)・三箇国(さんかこく)を給(たまは)りけるに、さしもの軍忠有(あり)し赤松入道円心(ゑんしん)に、佐用(さよの)庄一所許(ばかり)を被行。播磨国(はりまのくに)の守護職(しゆごしよく)をば無程被召返けり。されば建武の乱(らん)に円心俄に心替(こころがはり)して、朝敵(てうてき)と成(なり)しも、此恨(このうらみ)とぞ聞へし。其外(そのほか)五十(ごじふ)余箇国(よかこく)の守護(しゆご)・国司(こくし)・国々の闕所大庄(けつしよたいしやう)をば悉(ことごとく)公家被官(ひくわん)の人々拝領(はいりやう)しける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。 |
|
■千種殿(ちぐさどの)並(ならびに)文観(もんくわん)僧正奢侈(しやしの)事(こと)付(つけたり)解脱(げだつ)上人(しやうにんの)事(こと)
中(なか)にも千種(ちぐさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕朝臣(ただあきあそん)は、故(こ)六条(ろくでうの)内府(だいふ)有房(ありふさ)公(こう)の孫(まご)にて御坐(おはせ)しかば文字(もんじ)の道をこそ、家業(かげふ)とも嗜(たしな)まるべかりしに、弱冠(じやくくわん)の比(ころ)より我(わが)道にもあらぬ笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおふもの)を好み、博奕(ばくえき)・婬乱(いんらん)を事とせられける間、父有忠(ありただの)卿(きやう)離父子義、不幸の由にてぞ被置ける。され共(ども)此(この)朝臣、一時の栄花(えいぐわ)を可開過去(くわこ)の因縁(いんえん)にや有(あり)けん、主上(しゆしやう)隠岐(おきの)国(くに)へ御遷幸(ごせんかう)の時供奉仕(ぐぶつかまつり)て、六波羅(ろくはら)の討手(うつて)に上(のぼ)りたりし忠功(ちゆうこう)に依(よつ)て、大国三箇国(さんかこく)、闕所(けつしよ)数十箇所(すじつかしよ)被拝領たりしかば、朝恩(てうおん)身に余(あま)り、其侈(そのおご)り目を驚(おどろか)せり。 其重恩(そのぢゆうおん)を与へたる家人共(けにんども)に、毎日の巡酒(じゆんしゆ)を振舞(ふるまは)せけるに、堂上(だうじやう)に袖を連(つら)ぬる諸大夫(しよだいぶ)・侍三百人(さんびやくにん)に余れり。其酒肉珍膳(そのしゆじくちんぜん)の費(つひ)へ、一度(いちど)に万銭も尚(なほ)不可足。又数十間(すじつけん)の厩(むまや)を作双(つくりなら)べて、肉(しし)に余れる馬を五六十疋(ごろくじつぴき)被立たり。宴(さかもり)罷(やん)で和興に時は、数百騎(すひやくき)を相随(あひしたが)へて内野(うちの)・北山辺(へん)に打出(うちいで)て追出犬、小鷹狩(こたかがり)に日を暮(くら)し給ふ。其(その)衣裳は豹(へう)・虎(とらの)皮を行縢(むかばき)に裁(た)ち、金襴纐纈(きんらんかうけつ)を直垂(ひたたれ)に縫へり。賎(いやしきが)服貴服謂之僭上。々々無礼(せんじやうぶれいは)国(くにの)凶賊(きようぞく)也(なり)と、孔安国(こうあんこく)が誡(いましめ)を不恥ける社(こそ)うたてけれ。是(これ)はせめて俗人なれば不足言。彼(かの)文観僧正(そうじやう)の振舞を伝聞(つたへきく)こそ不思議(ふしぎ)なれ。適(たまたま)一旦(いつたん)名利(みやうり)の境界(きやうがい)を離れ、既(すで)に三密瑜伽(さんみつゆが)の道場に入給(いりたまひ)し無益、只利欲・名聞(みやうもん)にのみ■(おもむい)て、更に観念定坐(くわんねんぢやうざ)の勤(つとめ)を忘(わすれ)たるに似(にた)り。何(なん)の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、傍(かたはら)に集武具士卒を逞(たくましう)す。 |
|
成媚結交輩(ともがら)には、無忠賞を被申与ける間、文観僧正(そうじやう)の手(て)の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人(ごろつぴやくにん)。されば程(ほど)遠からぬ参内(さんだい)の時も、輿(こし)の前後に数百騎(すひやくき)の兵打囲(うちかこん)で、路次を横行しければ、法衣(ほふえ)忽(たちまち)汚馬蹄塵、律儀(りつぎ)空(むなしく)落人口譏。彼廬山(かのろざんの)慧遠法師(ゑをんほつし)は一度(ひとたび)辞風塵境、寂寞(じやくまく)の室(しつ)に坐(ざ)し給(たまひ)しより、仮(かり)にも此(この)山を不出と誓(ちかつ)て、十八(じふはちの)賢聖(げんじやう)を結(むすん)で、長日(ちやうじつ)に六時礼讚(ろくじらいさん)を勤(つとめ)き。 大梅常和尚(だいばいのじやうをしやう)は強(しひて)不被世人知住処更に茅舎(ばうしや)を移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆古(いにしへ)〔も〕今も韜光消跡、暮山(ぼざん)の雲に伴(ともなひ)一池(いつち)の蓮(はちす)を衣(ころも)として、行道清心こそ生涯を尽(つく)す事なるに、此(この)僧正は如此名利の絆(きづな)に羈(ほださ)れけるも非直事、何様(なにさま)天魔外道(げだう)の其(その)心に依託(えたく)して、挙動(ふるまは)せけるかと覚(おぼえ)たり。以何云之ならば、文治(ぶんぢ)の比(ころ)洛陽(らくやう)に有一沙門(しやもん)。其(その)名を解脱(げだつ)上人とぞ申(まうし)ける。其(その)母七歳の時、夢中(むちゆう)に鈴(すず)を呑(のむ)と見て設(まうけ)たりける子なりければ、非直人とて、三(みつつ)に成(なり)ける時より、其(その)身を入釈門、遂(つひ)に貴(たつと)き聖(ひじり)とは成(な)しける也(なり)。 されば慈悲深重(じひじんぢゆう)にして、三衣(さんえ)の破(やれ)たる事を不悲、行業(ぎやうごふ)不退(ふたい)にして、一鉢(いつぱつ)の空(むなし)き事を不愁。大隠(たいいん)は必(かならず)しも市朝(してう)の内を不辞。身は雖交五濁塵、心は不犯三毒霧。任縁歳月(としつき)を渡り、利生山川を抖薮(とそう)し給(たまひ)けるが、或時伊勢太神宮に参(まゐつ)て、内外宮(ないげくう)を巡礼(じゆんれい)して、潛(ひそか)に自受法楽(じじゆほふらく)の法施(ほつせ)をぞ被奉ける。大方(おほかた)自余(じよ)の社(やしろ)には様替(さまかはつ)て、千木(ちぎも)不曲形祖木(かたそぎも)不剃、是(これ)正直捨方便(しやはうべん)の形(かたち)を顕(あらは)せるかと見へ、古松(こしよう)垂枝老樹(らうじゆ)敷葉、皆下化衆生(げけしゆじやう)の相(さう)を表(へう)すと覚(おぼえ)たり。 |
|
垂迹(すゐじやく)の方便をきけば、仮(かり)に雖似忌三宝名、内証深心(ないしやうのしんじん)を思へば、其(それ)も尚(なほ)有化俗結縁理覚(おぼえ)て、そゞろに感涙(かんるゐ)袖を濡(ぬら)しければ、日暮(くれ)けれ共(ども)在家(ざいけ)なんどに可立宿心地もし給はず、外宮(げくう)の御前(おんまへ)に通夜念誦(つやねんじゆ)して、神路山(かみぢやま)の松風に眠(ねぶり)をさまし、御裳濯川(みもすそがは)の月に心を清(すま)して御坐(おしはまし)ける処に、俄に空掻曇(かきくもり)雨風烈(はげしく)吹(ふい)て、雲の上に車を轟(とどろかし)、馬を馳(はす)る音して東西より来れり。「あな恐(おそろ)しや、此(これ)何物やらん。」と上人消肝見給へば、忽然(こつぜん)として虚空(こくう)に瑩玉鏤金たる宮殿(くうでん)楼閣出(いで)来て、庭上に引幔門前に張幕。爰(ここ)に十方より所来の車馬(しやば)の客(かく)、二三千(にさんぜん)も有らんと覚(おぼえ)たるが左右に居流(ゐながれ)て、上座に一人の大人(たいじん)あり。其容(そのすがた)甚(はなはだ)非尋常、長(たけ)二三十丈(にさんじふぢやう)も有らんと見揚(みあげ)たるに、頭(かしら)は如夜叉十二の面上(おもてうへ)に双(なら)べり。四十二の手有(あつ)て左右に相連(あひつらな)る。或(あるひ)は握日月、或(あるひ)は提剣戟八竜(はちりゆう)にぞ乗(のつ)たりける。相順(あひしたがふ)処の眷属共(けんぞくども)、皆非常人、八臂(はつぴ)六足(ろくそく)にして鉄の楯(たて)を挟(さしはさ)み、三面(さんめん)一体(いつたい)にして金の鎧(よろひを)着(ちやく)せり。 | |
座(ざ)定(さだまつ)て後(のち)、上坐に居たる大人(たいじん)左右に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「此比(このころ)帝釈(たいしやく)の軍(いくさ)に打勝(うちかつ)て手に握日月、身居須弥頂、一足(ひとあし)に雖蹈大海、其(その)眷属(けんぞく)毎日数万人(すまんにん)亡(ほろぶ)、故(ゆゑ)何事ぞと見れば、南胆部州(なんぜんぶしう)扶桑国(ふさうこくの)洛陽辺(らくやうへん)に解脱房(げだつばう)と云(いふ)一人の聖(ひじり)出(いで)来て、化導利生(けたうりしやう)する間、法威(ほふゐ)盛(さかん)にして天帝(てんたい)得力、魔障(ましやう)弱(よわく)して修羅(しゆら)失勢。所詮(しよせん)彼が角(かく)て有(あら)ん程は、我等(われら)向天帝合戦する事叶ふまじ。何(いか)にもして彼が醒道心、可着■慢(けうまん)懈怠心。」申(まうし)ければ、甲(かぶと)の真向(まつかう)に、第六天の魔王と金字(こんじ)に銘(めい)を打(うつ)たる者座中に進(すすみ)出で、 「彼(かれの)醒道心候はん事は、可輒るにて候。先(まず)後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)に滅武家思召(おぼしめす)心を奉着、被攻六波羅(ろくはら)、左京(さきやうの)権大夫(ごんのだいぶ)義時(よしとき)定(さだめ)て向官軍(くわんぐん)可致合戦。其(その)時加力義時ば官軍(くわんぐん)敗北(はいぼく)して、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)遠国(をんごく)へ被流給(たま)はゞ、義時司天下成敗治天(ちてん)を計(はからひ)申さんに、必(かならず)広瀬(ひろせの)院(ゐん)第二(だいに)の宮(みや)を可奉即位。さる程ならば、此(この)解脱房彼宮(かのみや)の有御帰依聖(ひじり)なれば、被召官僧奉近竜顔、可刷出仕儀則。自是行業(ぎやうごふ)は日々に怠(おこたり)、■慢(けうまん)は時々に増(まし)て、破戒無慚(はかいむざん)の比丘(びく)と成(なら)んずる条、不可有子細、角(かく)てぞ我等も若干(そくばく)の眷属(けんぞく)を可設候。」と申(まうし)ければ、二行に並居(なみゐ)たる悪魔外道(けだう)共(ども)、「此(この)儀尤可然覚(おぼえ)候。」と同(どう)じて各(おのおの)東西に飛去(とびさり)にけり。 上人聞此事給(たまひ)て、「是(これ)ぞ神明の我に道心を勧(すすめ)させ給ふ御利生(りしやう)よ。」と歓喜(くわんぎ)の泪(なみだ)を流し、其(それ)より軈(やがて)京へは帰(かへり)給はで、山城(やましろの)国(くに)笠置(かさぎ)と云(いふ)深山(みやま)に卜一巌屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長(ながく)発厭離穢土心鎮専欣求浄土勤し給ひける。角(かく)て三四年を過(すごし)給ひける処に承久(しようきう)の合戦出(いで)来て、義時(よしとき)執天下権しかば、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)被流させ給(たまひ)て、広瀬(ひろせの)宮(みや)即天子位給(たまひ)ける。其(その)時解脱(げだつ)上人在笠置(かさぎ)窟聞召(きこしめし)て、為官僧度々被下勅使被召けれ共(ども)、是(これ)こそ第六天の魔王共が云(いひ)し事よと被思ければ、遂(つひ)に不随勅定弥(いよいよ)行澄(おこなひすま)してぞ御坐(おはしま)しける。智行(ちぎやう)徳(とく)開(ひらけ)しかば、軈(やが)て成此寺開山、今に残仏法弘通紹隆給へり。以彼思此、うたてかりける文観(もんくわん)上人の行儀(ぎやうぎ)哉(かな)と、迷愚蒙眼。遂(つひに)無幾程建武の乱出(いで)来しかば、無法流相続門弟一人成孤独衰窮身、吉野の辺(へん)に漂泊(へうはく)して、終給(をはりたまひ)けるとぞ聞へし。 |
|
■広有(ひろあり)射怪鳥事
元弘三年七月に改元(かいげん)有(あつ)て建武(けんむ)に被移。是(これ)は後漢(ごかんの)光武、治王莽之乱再(ふたたび)続漢世佳例也(なり)とて、漢朝(かんてう)の年号を被摸けるとかや。今年天下に疫癘(えきれい)有(あつ)て、病死する者甚(はなはだ)多し。是(これ)のみならず、其(その)秋の比(ころ)より紫宸殿(ししんでん)の上に怪鳥(けてう)出(いで)来て、「いつまで/\。」とぞ鳴(なき)ける。其(その)声響雲驚眠。聞(きく)人皆無不忌恐。即(すなはち)諸卿相議(あひぎ)して曰(いはく)、「異国(いこく)の昔、尭(げう)の代に九(ここのつ)の日出(いで)たりしを、■(げい)と云(いひ)ける者承(うけたまはつ)て、八(やつつ)の日を射落せり。我(わが)朝の古(いにしへ)、堀川(ほりかはの)院(ゐん)の御在位(ございゐの)時、有反化物、奉悩君しをば、前(さきの)陸奥(むつの)守(かみ)義家(よしいへ)承(うけたまはつ)て、殿上(てんしやう)の下口(したぐち)に候(こうし)、三度(さんど)弦音(つるおと)を鳴(なら)して鎮之。又近衛(こんゑの)院(ゐん)の御在位(ございゐ)の時、鵺(ぬえ)と云(いふ)鳥の雲中に翔(かけつ)て鳴(なき)しをば、源三位(げんざんみ)頼政(よりまさの)卿(きやう)蒙勅、射落したりし例(れい)あれば、源氏の中に誰(たれ)か可射候者有(ある)。」と被尋けれ共(ども)、射はづしたらば生涯の恥辱(ちじよく)と思(おもひ)けるにや、我(われ)承らんと申(まうす)者無(なか)りけり。 「さらば上北面(じやうほくめん)・諸庭(しよてい)の侍共(さぶらひどもの)中に誰かさりぬべき者有(ある)。」と御尋(おんたづね)有(あり)けるに、「二条(にでうの)関白左大臣殿(さだいじんどの)の被召仕候、隠岐(おきの)次郎左衛門(じらうざゑもん)広有(ひろあり)と申(まうす)者こそ、其器(そのき)に堪(たへ)たる者にて候へ。」と被申ければ、軈(やがて)召之とて広有をぞ被召ける。広有承勅定鈴間辺(すずのまのへん)に候(さふらひ)けるが、げにも此(この)鳥蚊(か)の睫(まつげ)に巣くうなる■螟(せうめい)の如く少(ちひさく)て不及矢も、虚空(こくう)の外(ほか)に翔(かけり)飛ばゞ叶(かなふ)まじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸(やがか)りならんずるに、何事ありとも射はづすまじき物をと思(おもひ)ければ、一義(いちぎ)も不申畏(かしこまつ)て領掌(りやうじやう)す。則(すなはち)下人に持(もた)せたる弓(ゆみと)与矢(やと)を執寄(とりよせ)て、孫廂(まごひさし)の陰(かげ)に立隠(たちかくれ)て、此(この)鳥の有様を伺(うかがひ)見るに、八月十七夜の月殊に晴渡(はれわたつ)て、虚空(こくう)清明(せいめい)たるに、大内山(おほうちやま)の上に黒雲(くろくも)一群(ひとむら)懸(かかつ)て、鳥啼(なく)こと荐(しきり)也(なり)。 |
|
鳴(なく)時口(くち)より火炎(くわえん)を吐(はく)歟(か)と覚(おぼえ)て、声の内より電(いなびかり)して、其(その)光御簾(ぎよれん)の内へ散徹(さんてつ)す。広有此(この)鳥の在所(ありか)を能々(よくよく)見課(みおほせ)て、弓押張り弦(つる)くひしめして、流鏑矢(かぶらや)を差番(さしつがひ)て立向へば、主上(しゆしやう)は南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)成(なつ)て叡覧(えいらん)あり。関白殿下・左右(さう)の大将(だいしやう)・大中納言・八座(はちざ)・七弁(しちべん)・八省輔(はつしやうふ)・諸家(しよけ)の侍、堂上(だうじやう)堂下(だうか)に連袖、文武(ぶんぶ)百官見之、如何が有(あら)んずらんとかたづを呑(のう)で拳手。広有已(すで)に立向(たちむかつ)て、欲引弓けるが、聊(いささか)思案(しあん)する様(やう)有(あり)げにて、流鏑(かぶら)にすげたる狩俣(かりまた)を抜(ぬい)て打捨(うちすて)、二人(ににん)張(ばり)に十二束二伏(じふにそくふたつぶせ)、きり/\と引(ひき)しぼりて無左右不放之、待鳥啼声たりける。 此(この)鳥例(れい)より飛下(とびさがり)、紫宸殿(ししんでん)の上に二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)が程に鳴(なき)ける処を聞清(ききすま)して、弦音(つるおと)高く兵(ひやう)と放つ。鏑(かぶら)紫宸殿(ししんでん)の上を鳴り響(ひびか)し、雲の間に手答(てごたへ)して、何とは不知、大盤石(だいばんじやく)の如落懸聞へて、仁寿殿(じじゆでん)の軒の上より、ふたへに竹台(たけのだい)の前へぞ落(おち)たりける。堂上(だうじやう)堂下(だうか)一同に、「あ射たり/\。」と感ずる声、半時許(ばかり)のゝめいて、且(しばし)は不云休けり。 衛士(ゑじ)の司(つかさ)に松明(たいまつ)を高く捕(とら)せて是(これ)を御覧(ごらん)ずるに、頭(かしら)は如人して、身は蛇(じや)の形(かたち)也(なり)。嘴(くちばし)の前曲(さきまがつ)て歯如鋸生違(おひちがふ)。両の足に長距(ながきけづめ)有(あつ)て、利(ときこと)如剣。羽崎(はさき)を延(のべ)て見之、長(ながさ)一丈(いちぢやう)六尺也(なり)。「さても広有(ひろあり)射ける時、俄に雁俣(かりまた)を抜(ぬい)て捨(すて)つるは何ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、広有畏(かしこまつ)て、「此(この)鳥当御殿上鳴候(なきさふらひ)つる間、仕(つかまつつ)て候はんずる矢の落(おち)候はん時、宮殿(きゆうでん)の上に立(たち)候はんずるが禁忌(いまいま)しさに、雁俣(かりまた)をば抜(ぬい)て捨(すて)つるにて候。」と申(まうし)ければ、主上(しゆしやう)弥(いよいよ)叡感有(あつ)て、其夜(そのよ)軈(やが)て広有を被成五位、次の日因幡(いなばの)国(くに)に大庄(だいしやう)二箇所(にかしよ)賜(たまはり)てけり。弓矢取(ゆみやとり)の面目、後代(こうだい)までの名誉也(なり)。 |
|
■神泉苑(しんぜんゑんの)事(こと)
兵革(ひやうかく)の後(のち)、妖気(えうき)猶(なほ)示禍。銷其殃無如真言秘密効験とて、俄に神泉苑をぞ被修造ける。彼神泉園(かのしんぜんゑん)と申(まうす)は、大内(だいだい)始(はじめ)て成(なり)し時、准周文王霊囿、方八町(はちちやう)に被築たりし園囿(ゑんいう)也(なり)。其後(そののち)桓武(くわんむ)の御世(みよ)に、始(はじめ)て朱雀門(しゆじやく)の東西に被建二寺。左をば名東寺右をば号西寺。東寺には高野(かうや)大師(だいし)安胎蔵界七百(しちひやく)余尊(よそん)守金輪宝祚。西寺(さいじ)には南都の周敏僧都(しゆびんそうづ)金剛界(こんがうかいの)五百(ごひやく)余尊(よそん)を顕(あらは)して、被祈玉体長久。斯(かか)りし処に、桓武(くわんむの)御宇(ぎよう)延暦二十三年春(はるの)比(ころ)、弘法(こうぼふ)大師(だいし)為求法御渡唐(ごとたう)有(あり)けり。 其(その)間周敏(しゆびん)僧都一人奉近竜顔被致朝夕加持ける。或(ある)時御門(みかど)御手水(おんてうづ)を被召けるが、水(みづ)氷(こほつ)て余(あまり)につめたかりける程に、暫(しばし)とて閣(さしお)き給ひたりけるを、周敏(しゆびん)向御手水結火印を給(たまひ)ける間、氷水(ひようすゐ)忽(たちまち)に解(とけ)て如沸湯也(なり)。御門(みかど)被御覧て、余(あまり)に不思議(ふしぎ)に被思召ければ、態(わざと)火鉢に炭を多くをこさせて、障子(しやうじ)を立廻(たてまは)し、火気を内に被篭たれば、臘裏(らふりの)風光宛(あたかも)如春三月也(なり)。帝(みかど)御顔の汗を押拭(おしのご)はせ給(たまひ)て、「此火(このひを)滅(けさ)ばや。」と被仰ければ、守敏又向火水の印(いん)をぞ結び給ひける。依之(これによつて)炉火(ろくわ)忽(たちまち)に消(きえ)て空(むなし)く冷灰(れいくわい)に成(なり)にければ、寒気(かんき)侵膚五体(ごたい)に如灑水。自此後、守敏加様(かやう)の顕奇特不思議(ふしぎ)事如得神変。斯(かかり)しかば帝(みかど)是を帰依渇仰(きえかつがう)し給へる事不尋常。懸(かか)りける処に弘法(こうぼふ)大師(だいし)有御帰朝。即(すなはち)参内し給ふ。帝(みかど)異朝の事共(ことども)有御尋(おんたづね)後、守敏(しゆびん)僧都の此間(このあひだ)様々(さまざま)なりつる奇特共(きどくども)をぞ御物語有(あり)ける。 大師(だいし)聞召之、「馬鳴(めみやう)■帷、鬼神(きしん)去(さつて)閉口、栴檀(せんだん)礼塔支提(しだい)破(やぶれて)顕尸と申(まうす)事(こと)候へば、空海(くうかい)が有(あら)んずる処にて、守敏よもさやうの奇特(きどく)をば現(あらは)し候はじ。」とぞ被欺ける。帝(みかど)さらば両人の効験(かうげん)を施(ほどこ)させて威徳の勝劣(しようれつ)を被御覧思召(おぼしめし)て、或(ある)時大師(だいし)御参内有(あり)けるを、傍(かたはら)に奉隠置、守敏応勅御前(おんまへ)に候(こう)す。時に帝(みかど)湯薬(たうやく)を進(まゐ)りけるが、建盞(けんざん)を閣(さしおか)せ給(たまひ)て、「余(あまり)に此(この)水つめたく覚(おぼゆ)る。例の様(やう)に加持(かぢ)して被暖候へかし。」とぞ被仰ける。守敏仔細(しさい)候はじとて、向建盞結火印被加持けれども、水敢(あへ)て不成湯。帝(みかど)「こは何(いか)なる不思議(ふしぎ)ぞや。」と被仰、左右に目くわし有(あり)ければ、内侍(ないし)の典主(すけ)なる者、態(わざと)熱(あつ)く沸返(わきかへり)たる湯をついで参(まゐり)たり。帝(みかど)又湯を立(たて)させて進(まゐ)らんとし給ひけるが、又建盞(けんざん)を閣(さしおか)せ給ふ。 |
|
「是(これ)は余(あまり)に熱(あつく)て、手にも不被捕。」と被仰ければ、守敏先(さき)にもこりず、又向建盞結水印たりけれ共(ども)、湯敢(あへて)不醒、尚(なほ)建盞の内にて沸返(わきかへ)る。守敏前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師(だいし)傍(そば)なる障子(しやうじ)の内より御出(おんいで)有(あつ)て、「何(いか)に守敏、空海(くうかい)是(これ)に有とは被存知候はざりける歟(か)。星光(ほしのひかり)は消朝日蛍(ほたるの)火は隠暁月。」とぞ咲(わらは)れける。守敏大(おほき)に恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。自其守敏君を恨(うらみ)申す憤(いきどほり)入骨髄深(ふか)かりければ、天下に大旱魃(だいかんばつ)をやりて、四海(しかい)の民を無一人飢渇(けかち)に合(あは)せんと思(おもつ)て、一大三千界(いちだいさんぜんかい)の中(うち)にある所の竜神共(りゆうじんども)を捕(とら)へて、僅(わづか)なる水瓶(すゐへい)の内に押篭(おしこめ)てぞ置(おき)たりける。 依之(これによつて)孟夏(まうか)三月の間、雨降(ふる)事(こと)無(なく)して、農民不勤耕作。天下の愁(うれへ)一人(いちじん)の罪にぞ帰(き)しける。君遥(はるか)に天災の民に害ある事を愁(うれ)へ思召(おぼしめし)て、弘法(こうぼふ)大師(だいし)を召請(めししやう)じて、雨の祈(いのり)をぞ被仰付ける。大師(だいし)承勅、先(まづ)一七日(ひとなぬか)の間入定、明(あきらか)に三千界の中(うち)を御覧(ごらん)ずるに、内海(ないかい)・外海(げかい)の竜神共(りゆうじんども)、悉(ことごとく)守敏の以呪力、水瓶(すゐへい)の中(うち)に駆篭(かりこめ)て可降雨竜神(りゆうじん)無(なか)りけり。但(ただし)北天竺(てんじく)の境(さかひ)大雪山(だいせつせん)の北に無熱池(むねつち)と云(いふ)池(いけ)の善女(ぜんによ)竜王、独(ひとり)守敏(しゆびん)より上位の薩■(さつた)にて御坐(おはしまし)ける。大師(だいし)定(ぢやう)より出(いで)て、此由(このよし)を奏聞(そうもん)有(あり)ければ、俄に大内(だいだい)の前に池を掘(ほら)せ、清涼(せいりやう)の水を湛(たたへ)て竜王をぞ勧請(くわんじやう)し給(たまひ)ける。 于時彼(かの)善女龍王金色(こんじき)の八寸(はつすん)の竜に現(げん)じて、長(たけ)九尺(くしやく)許(ばかり)の蛇(くちなは)の頂(いただき)に乗(のつ)て此(この)池に来(きたり)給ふ。則(すなはち)此(この)由を奏す。公家(くげ)殊に敬嘆(きやうたん)せさせ給(たまひ)て、和気真綱(わけのまつな)を勅使(ちよくし)として、以御幣種々物供龍王(りゆうわう)を祭(まつら)せらる。其後(そののち)湿雲(しふうん)油然(ゆぜん)として降雨事国土に普(あまね)し。三日の間をやみ無(なく)して、災旱(さいかん)の憂(うれへ)永(ながく)消(きえ)ぬ。真言(しんごん)の道を被崇事自是弥(いよいよ)盛(さかん)也(なり)。守敏尚(なほ)腹を立(たて)て、さらば弘法(こうぼふ)大師(だいし)を奉調伏思(おもひ)て、西寺に引篭(ひきこも)り、三角(さんかく)の壇(だん)を構(かま)へ本尊(ほんぞん)を北向に立(たて)て、軍荼利夜叉(ぐだりやしや)の法をぞ被行ける。大師(だいし)此(この)由を聞給(ききたまひ)て、則(すなはち)東寺に炉壇(ろだん)を構へ大威徳明王(みやうわう)の法を修(しゆ)し給ふ。両人何れも徳行薫修(とくぎやうくんじゆ)の尊宿(そんしゆく)也(なり)しかば、二尊(にそん)の射給(たまひ)ける流鏑矢(かぶらや)空中(くうちゆう)に合(あつ)て中(なか)に落(おつ)る事(こと)、鳴休(なりやむ)隙(ひま)も無(なか)りけり。 |
|
爰(ここ)に大師(だいし)、守敏を油断(ゆだん)させんと思召(おぼしめし)て、俄に御入滅(ごにふめつ)の由(よし)を被披露ければ、緇素(しそ)流悲歎泪、貴賎(きせん)呑哀慟声。守敏聞之、「法威成就(ほふゐじやうじゆ)しぬ。」と成悦則(すなはち)被破壇(だんをやぶられ)けり。此(この)時守敏俄に目くれ鼻血(はなぢ)垂(たつ)て、心身被悩乱けるが、仏壇の前に倒伏(たふれふし)て遂(つひ)に無墓成(なり)にけり。「呪咀諸毒薬還着於本人(じゆそしよどくやくげんぢやくをほんにん)」と説(とき)給ふ金言(きんげん)、誠(まこと)に験(しるし)有(あつ)て、不思議(ふしぎ)なりし効験(かうげん)也(なり)。自是して東寺は繁昌し西寺滅亡す。大師(だいし)茅(ちがや)と云(いふ)草を結(むすん)で、竜(りゆう)の形(かたち)に作(つくつ)て壇上に立(たて)て行(おこな)はせ給(たまひ)ける。 法成就の後(のち)、聖衆(しやうじゆ)を奉送給(たまひ)けるに、真(まこと)の善女龍王をば、軈(やがて)神泉園(しんぜんゑん)に留奉(とどめたてまつつ)て、「竜華下生三会(りゆうげげしやうさんゑ)の暁(あかつき)まで、守此国治我法給へ。」と、御契約(けいやく)有(あり)ければ、今まで迹(あと)を留(とめ)て彼(かの)池に住(すみ)給ふ。彼茅(かのちがや)の竜王は大龍に成(なつ)て、無熱池(むねつち)へ飛帰(とびかへり)玉ふとも云(いひ)、或(あるひは)云(いはく)聖衆(しやうじゆ)と共に空(そら)に昇(のぼつ)て、指東を、飛去(とびさり)、尾張(をはりの)国(くに)熱田(あつた)の宮(みや)に留(とま)り玉ふ共(とも)云(いふ)説(せつ)あり。仏法東漸(とうぜん)の先兆(せんてう)、東海鎮護(とうかいちんご)の奇瑞(きずゐ)なるにや。大師(だいしの)言(いはく)、「若(もし)此(この)竜王他界(たかい)に移(うつ)らば池浅く水少(すくなく)して国荒れ世乏(とぼしか)らん。其(その)時は我門徒(わがもんと)加祈請、竜王を奉請留可助国。」宣(のたま)へり。 今は水浅く池あせたり。恐(おそらく)は竜王移他界玉へる歟(か)。然共(しかれども)請雨経(しやううぎやう)の法被行ごとに掲焉(けつえん)の霊験(れいけん)猶(なほ)不絶、未(いまだ)国(くにを)捨玉似(に)たり、風雨叶時感応奇特(かんおうきどく)の霊池(れいち)也(なり)。代々(だいだい)の御門(みかど)崇之家々の賢臣(けんしん)敬之。若(もし)旱魃(かんばつ)起る時は先(まづ)池を浄(きよ)む。然(しかる)を後鳥羽法皇(ごとばのほふわう)をり居させ玉ひて後、建保(けんほう)の比(ころ)より此(この)所廃(すた)れ、荊棘(けいぎよく)路(みち)を閉(とづ)るのみならず、猪鹿(ちよろく)の害蛇放(はな)たれ、流鏑(かぶら)の音(おと)驚護法聴、飛蹄(ひてい)の響(ひびき)騒冥衆心。有心人不恐歎云(いふ)事(こと)なし。承久(しようきう)の乱(らん)の後(のち)、故武州禅門(ごぶしうぜんもん)潛(ひそか)に悲此事(こと)、高築垣堅門被止雑穢。其後(そののち)涼燠(りやういく)数(しばしば)改(あらたまつ)て門牆(もんしやう)漸(やうやく)不全。不浄汚穢(ふじやうわゑ)之(の)男女出入無制止、牛馬水草を求(もとむ)る往来(わうらい)無憚。定知(さだめてしんぬ)竜神(りゆうじん)不快歟(か)。早(はやく)加修理可崇重給。崇此所国土可治也(なり)。 |
|
■兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)流刑(るけいの)事(こと)付(つけたり)驪姫(りきが)事(こと)
兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)天下の乱(らん)に向ふ程は、無力為遁其身難雖被替御法体、四海(しかい)已(すで)に静謐(せいひつ)せば、如元復三千(さんぜん)貫長位、致仏法・王法紹隆給(たまは)んこそ、仏意にも叶ひ叡慮にも違(たが)はせ給ふまじかりしを、備征夷将軍位可守天下武道とて、則(すなはち)勅許(ちよくきよ)を被申しかば、聖慮不隠しか共(ども)、任御望遂に被下征夷将軍宣旨。斯(かか)りしかば、四海(しかい)の倚頼(いらい)として慎身可被重位御事(おんこと)なるに、御心(おんこころ)の侭(まま)に極侈、世の譏(そしり)を忘(わすれ)て婬楽(いんらく)をのみ事とし給(たまひ)しかば、天下の人皆再(ふたた)び世の危(あやふ)からん事を思へり。 大乱(たいらん)の後は弓矢を裹(つつみ)て干戈(かんくわ)袋(ふくろ)にすとこそ申すに、何の用ともなきに、強弓(つよゆみ)射る者、大太刀(おほたち)仕(つか)ふ者とだに申せば、無忠被下厚恩、左右前後に仕承(ししよう)す。剰(あまつさへ)加様(かやう)のそらがらくる者共(ものども)、毎夜(まいよ)京白河(しらかは)を廻(まはつ)て、辻切(つしぎり)をしける程に、路次(ろし)に行合(ゆきあ)ふ児法師(ちごほふし)・女童部(をんなわらんべ)、此彼(ここかしこ)に被切倒、逢横死者無休時。是(これ)も只足利(あしかが)治部卿を討(うた)んと被思召ける故(ゆゑ)に、集兵被習武ける御挙動(ふるまひ)也(なり)。抑(そもそも)高氏卿(たかうぢのきやう)今までは随分有忠仁(じん)にて、有過僻不聞、依何事兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)は、是(これ)程に御憤(いきどほり)は深かりけるぞと、根元(こんげん)を尋ぬれば、去年の五月に官軍(くわんぐん)六波羅(ろくはら)を責落(せめおと)したりし刻(きざみ)、殿(とのの)法印の手(て)の者共(ものども)、京中の土蔵(どざう)共(ども)を打破(うちやぶつ)て、財宝(ざいはう)共(ども)を運(はこ)び取(とり)ける間、為鎮狼籍、足利殿(あしかがどの)の方より是(これ)を召捕(めしとつ)て、二十(にじふ)余人(よにん)六条河原(ろくでうかはら)に切(きつて)ぞ被懸ける。 其高札(そのたかふだ)に、「大塔宮(おほたふのみや)の候人(こうにん)、殿(とのの)法印良忠(りやうちゆう)が手(て)の者共(ものども)、於在々所々、昼強盜(ひるがうだう)を致す間、所誅也(なり)。」とぞ被書たりける。殿(とのの)法印此(この)事(こと)を聞(きい)て不安事に被思ければ、様々の讒(ざん)を構(かま)へ方便(てだて)を廻(めぐら)して、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)にぞ被訴申ける。 |
|
加様(かやう)の事共(ことども)重畳(ぢゆうでふ)して達上聞ければ、宮も憤り思召(おぼしめ)して、志貴(しぎ)に御座(ござ)有(あり)し時より、高氏(たかうぢ)卿(きやう)を討(うた)ばやと、連々(れんれん)に思召立(おぼしめしたち)けれ共(ども)、勅許(ちよくきよ)無(なか)りしかば無力黙止給(もだしたまひ)けるが、尚讒口(ざんこう)不止けるにや、内々以隠密儀を、諸国へ被成令旨を、兵(つはもの)をぞ被召ける。高氏卿(たかうぢのきやう)此(この)事(こと)を聞(きい)て、内々奉属継母准后被奏聞けるは、「兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)為奉奪帝位、諸国の兵(つはもの)を召(めし)候也(なり)。其証拠(そのしやうご)分明(ぶんみやう)に候。」とて、国々へ被成下処の令旨(りやうじ)を取(とつ)て、被備上覧けり。 君大(おほき)に逆鱗(げきりん)有(あつ)て、「此(この)宮(みや)を可処流罪。」とて、中殿(ちゆうでん)の御会(くわい)に寄事兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)をぞ被召ける。宮懸(かか)る事とは更に不思召寄、前駈(ぜんく)二人(ににん)・侍(さぶらひ)十(じふ)余人(よにん)召具(めしぐ)して、忍(しのび)やかに御参内有(さんだいあり)けるを、結城判官(ゆふきはうぐわん)・伯耆(はうき)守二人(ににん)、兼(かね)てより承勅用意(ようい)したりければ、鈴(すず)の間(ま)の辺(へん)に待受(まちうけ)て奉捕之、則(すなはち)馬場殿(ばばどの)に奉押篭。宮は一間(ひとま)なる所の蜘手(くもで)結(ゆう)たる中に、参(まゐり)通ふ人独(ひとり)も無(なう)して、泪(なみだ)の床(ゆか)に起伏(おきふさ)せ給ふにも、こは何(いか)なる我(わが)身なれば、弘元の始(はじめ)は武家のために隠身、木の下(した)岩のはざまに露敷(つゆしく)袖をほしかね、帰洛(きらく)の今は一生(いつしやう)の楽(たのしみ)未(いまだ)一日(いちにちも)終(をへざるに)、為讒臣被罪、刑戮(けいりく)の中(うち)には苦(くるし)むらんと、知(しら)ぬ前世の報(むくい)までも思召残(おぼしめしのこ)す方もなし。 |
|
「虚(きよ)名不久立」云(いふ)事(こと)あれば、さり共(とも)君も可被聞召直思召(おぼしめし)ける処に、公儀(こうぎ)已(すで)に遠流(をんる)に定(さだま)りぬと聞へければ、不堪御悲、内々御心(おんこころ)よせの女房(にようばう)して、委細(いさい)の御書(ごしよ)を遊(あそば)し、付伝奏急(いそぎ)可経奏聞由を被仰遣。 其消息(そのせうそくに)云(いはく)先以勅勘之身欲奏無罪之由(よし)、涙落心暗、愁結言短。唯以一令察万、加詞被恤悲者、臣愚生前之望云足而已。夫承久(しようきう)以来、武家把権朝廷棄政年尚矣。臣苟不忍看之、一解慈悲忍辱法衣、忽被怨敵降伏之堅甲。内恐破戒之罪、外受無慙之譏。雖然為君依忘身、為敵不顧死。当斯時忠臣孝子雖多朝、或不励志、或徒待運。臣独無尺鉄之資、揺義兵隠嶮隘之中窺敵軍。肆逆徒専以我為根元之間、四海(しかい)下法、万戸以贖。誠是命雖在天奈何身無措処。昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜。撫龍鬚消魂、践虎尾冷胸幾千万(いくせんまん)矣。遂運策於帷幄之中、亡敵於斧鉞之下。竜駕方還都、鳳暦永則天、恐非微臣之忠功、其為誰乎。而今戦功未立、罪責忽来。風聞其科条、一事(いちじ)非吾所犯、虚説所起惟悲不被尋究。仰而将訴天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣。父子義絶、乾坤共棄。何愁如之乎。自今以後勲業為孰策。行蔵於世軽、綸宣儻被優死刑、永削竹園之名、速為桑門之客。君不見乎、申生死而晋国乱、扶蘇刑而秦世傾。浸潤之譖、膚受之愬、事起于小、禍皆逮大。乾臨何延古不鑒今。不堪懇歎之至、伏仰奏達。誠惶、誠恐謹言。 三月五日護良(もりよし)前左大臣殿(さだいじんどの)とぞ被遊ける。此(この)御文、若(もし)達叡聞、宥免(いうめん)の御沙汰(ごさた)も有(ある)べかりしを、伝奏(てんそう)諸(もろもろ)の憤(いきどほり)を恐(おそれ)て、終(つひ)に不奏聞ければ、上天隔听中心の訴(うつた)へ不啓。此(この)二三年宮(みや)に奉付副、致忠待賞御内(みうち)の候人(こうにん)三十(さんじふ)余人(よにん)、潛(ひそか)に被誅之上は不及兎角(とかく)申、遂に五月三日、宮を直義(ただよし)朝臣の方へ被渡ければ、以数百騎(すひやくき)軍勢路次(ろし)を警固(けいご)し、鎌倉(かまくら)へ下(くだ)し奉(たてまつつ)て、二階堂の谷(やつ)に土篭(つちのろう)を塗(ぬつ)てぞ置進(おきまゐら)せける。 |
|
南の御方(おかた)と申(まうし)ける上臈女房(じやうらふにようばう)一人より外(ほか)は、着副進(つきそひまゐら)する人もなく、月日の光も見へぬ闇室(あんしつ)の内に向(むかつ)て、よこぎる雨に御袖(おんそでを)濡(ぬら)し、岩の滴(しただり)に御枕(おんまくら)を干(ほし)わびて、年の半(なかば)を過(すご)し給(たまひ)ける御心(おんこころ)の内こそ悲しけれ。君一旦(いつたん)の逆鱗(げきりん)に鎌倉(かまくら)へ下し進(まゐら)せられしかども是(これ)までの沙汰あれとは叡慮(えいりよ)も不赴けるを、直義(ただよし)朝臣日来(ひごろ)の宿意(しゆくい)を以て、奉禁篭けるこそ浅猿(あさまし)けれ。 孝子其(その)父に雖有誠、継母(けいぼ)其(その)子を讒(ざん)する時は傾国失家事古より其類(そのるゐ)多し。昔(むかし)異国に晋(しん)の献公(けんこう)と云(いふ)人坐(おは)しけり。其后(そのきさき)斉姜(せいきやう)三人(さんにん)の子を生(うみ)給ふ。嫡子(ちやくし)を申生(しんせい)と云(いひ)、次男を重耳(ちようじ)、三男を夷吾(いご)とぞ申(まうし)ける。三人(さんにん)の子已(すで)に長成(ひととなり)て後(のち)、母の斉姜病(やまひ)に侵(をか)されて、忽(たちまち)に無墓成(なり)にけり。献公(けんこう)歎之不浅しかども、別(わかれ)の日数(ひかず)漸(やうやく)遠く成(なり)しかば、移れば替(かは)る心の花に、昔の契(ちぎり)を忘(わすれ)て、驪姫(りき)と云(いひ)ける美人をぞ被迎ける。此驪姫(このりき)只紅顔翠黛(こうがんすゐたい)迷眼のみに非(あら)ず、又巧言令色(かうげんれいしよく)君の心を令悦しかば、献公(けんこうの)寵愛(ちようあい)甚(はなはだしう)して、別(わかれ)し人の化(おもかげ)は夢にも不見成(なり)にけり。 角(かく)て経年月程に、驪姫(りき)又子を生(うめ)り。是(これ)を奚齊(けいせい)とぞ名付(なづけ)る。奚齊未(いまだ)幼(をさなし)といへ共(ども)、母の寵愛(ちようあい)に依(よつ)て、父のをぼへ三人(さんにん)の太子に超(こえ)たりしかば、献公(けんこう)常に前(まへ)の后(きさき)斉姜(せいきやう)の子三人(さんにん)を捨(すて)て、今の驪姫が腹の子奚齊(けいせい)に、晋(しん)の国を譲(ゆづら)んと思へり。驪姫心には嬉(うれし)く乍思、上(うへ)に偽(いつはつ)て申(まうし)けるは、「奚齊(けいせい)未だ幼(をさな)くして不弁善悪を、賢愚(けんぐ)更に不見前(さき)に、太子三人(さんにん)を超(こえ)て、継此国事(こと)、是(これ)天下の人の可悪処。」と、時々(よりより)に諌(いさめ)め申(まうし)ければ、献公(けんこう)弥(いよいよ)驪姫が心に無私、世の譏(そしり)を恥(はぢ)、国の安からん事を思へる処を感じて、只万事を被任之しかば、其威(そのゐ)倍々(ますます)重く成(なつ)て天下皆是(これ)に帰伏(きふく)せり。 |
|
或時(あるとき)嫡子(ちやくし)の申生(しんせい)、母の追孝(つゐけう)の為に、三牲(さんせい)の備(そなへ)を調(ととの)へて、斉姜の死して埋(うづも)れし曲沃(きよくをく)の墳墓(ふんぼ)をぞ被祭ける。其(その)胙(ひもろぎ)の余(あまり)を、父の献公(けんこう)の方へ奉(たてまつり)給ふ。献公(けんこう)折節(をりふし)狩場(かりば)に出(いで)給ひければ、此(この)ひもろぎを裹(つつん)で置(おき)たるに、驪姫(りき)潛(ひそか)に鴆(ちん)と云(いふ)恐(おそろしき)毒(どく)を被入たり。献公(けんこう)狩場(かりば)より帰(かへつ)て、軈(やがて)此(この)ひもろぎを食(くは)んとし給ひけるを、驪姫申されけるは、「外(ほか)より贈(おく)れる物をば、先づ人に食(くは)せて後(のち)に、大人(たいじん)には進(まゐ)らする事ぞ。」とて御前(おんまへ)なりける人に食(くはせ)られたるに、其(その)人忽(たちまち)に血を吐(はい)て死にけり。 こは何(い)かなる事ぞとて、庭前(ていぜん)なる鶏(けい)・犬(けん)に食(くは)せて見給へば、鶏(けい)・犬共(けんとも)に斃(たふれ)て死ぬ。献公(けんこう)大(おほき)に驚(おどろい)て其余(そのあまり)を土(つち)に捨(すて)給へば、捨(すて)たる処の土(つち)穿(うげ)て、あたりの草木皆枯萎(かれしぼ)む。驪姫偽(いつわつ)て泪(なみだ)を流し申(まうし)けるは、「吾(われ)太子(たいし)申生(しんせい)を思ふ事奚齊(けいせい)に不劣。されば奚齊を太子に立(たて)んとし給(たまひ)しをも、我こそ諌申(いさめまうし)て止(とめ)つるに、さればよ此(この)毒を以て、我(われ)と父とを殺して、早(はやく)晋(しん)の国を捕(とら)んと被巧けるこそうたてけれ。 是(これ)を以て思ふに、献公(けんこう)何(いか)にも成給(なりたまひ)なん後(のち)は、申生(しんせい)よも我と奚齊とをば、一日片時(へんし)も生(いけ)て置(おき)給はじ。願(ねがはく)は君我(われ)を捨(すて)、奚齊を失(うしなひ)て、申生の御心(おんこころ)を休(やすめ)給へ。」と泣々(なくなく)献公(けんこう)にぞ申されける。献公(けんこう)元来(ぐわんらい)智浅(あさう)して讒(ざん)を信ずる人なりければ、大(おほき)に忿(いかつ)て太子申生を可討由(よし)、典獄(てんごく)の官に被仰付。諸群臣(ぐんしん)皆、申生の無罪して死に赴(おもむか)んずる事を悲(かなしみ)て、「急(いそぎ)他国へ落(おち)させ給ふべし。」とぞ告(つげ)たりける。申生是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「我(われ)少年の昔は母を失(うしなう)て、長年(ながねん)の今継母(けいぼ)に逢へり。是(これ)不幸の上に妖命(えうめい)備(そなは)れり。抑(そもそも)天地(てんちの)間何(いづれ)の所にか父子(ふし)のなき国あらん、今為遁其死他国へ行(ゆき)て、是(これ)こそ父を殺(ころさ)んとて鴆毒(ちんどく)を与へたりし大逆不幸(だいぎやくふかう)の者よと、見る人ごとに悪(にくま)れて、生(いき)ては何の顔(かほばせ)かあらん。 |
|
我(わが)不誤処をば天知之。只虚名(きよめい)の下(した)に死を賜(たまはつ)て、父の忿(いかり)を休(やすめ)んには不如。」とて、討手(うつて)の未(いまだ)来(きたらざる)前(さき)に自(みづから)剣(けん)に貫(つらぬかれ)て、遂(つひ)に空(むなしく)成(なり)にけり。其弟(そのおとと)重耳(ちようじ)・夷吾(いご)此(この)事(こと)を聞(きき)て、驪姫(りき)が讒(ざん)の又我(わが)身の上に成(なら)ん事を恐(おそれ)て、二人(ににん)共(とも)に他国へぞ逃給(にげたまひ)ける。角(かく)て奚齊(けいせい)に晋国(しんのくに)を譲(ゆづり)得たりけるが、天命に背(そむき)しかば、無幾程献公(けんこう)・奚齊父子共(ふしとも)に、其(その)臣里剋(りこく)と云(いひ)ける者に討(うた)れて、晋(しん)の国忽(たちまち)に滅びけり。抑(そもそも)今兵革(ひやうかく)一時に定(しづまつ)て、廃帝(はいてい)重祚(ちようそ)を践(ふま)せ給ふ御事(おんこと)、偏(ひとへ)に此(この)宮(みや)の依武功に事なれば、縦(たとひ)雖有小過誡而(いましめてかも)可被宥かりしを、無是非被渡敵人手、被処遠流事は、朝廷再(ふたたび)傾(かたむい)て武家又可蔓延(はびこるべき)瑞相(ずゐさう)にやと、人々申合(まうしあひ)けるが、果(はた)して大塔宮(おほたふのみや)被失させ給(たまひ)し後、忽(たちまち)に天下皆将軍の代(よ)と成(なり)てけり。牝鶏(ひんけい)晨(あした)するは家の尽(つく)る相(さう)なりと、古賢(こけん)の云(いひ)し言(ことば)の末(すゑ)、げにもと被思知たり。 |
■太平記 巻十三 | |
■龍馬(りゆうめ)進奏(しんそうの)事(こと)
鳳闕(ほうけつ)の西二条(にしにでう)高倉(たかくら)に、馬場殿(ばばどの)とて、俄に離宮(りきゆう)を被立たり。天子常に幸成(みゆきなり)て、歌舞(かぶ)・蹴鞠(しうきく)の隙(ひま)には、弓馬(きゆうば)の達者(たつしや)を被召、競馬(けいば)を番(つが)はせ、笠懸(かさかけ)を射させ、御遊(ぎよいう)の興(きよう)をぞ被添ける。其比(そのころ)佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)高貞(たかさだ)が許(もと)より、竜馬(りゆうめ)也(なり)とて月毛(つきげ)なる馬の三寸計(みきばかり)なるを引進(ひきまゐら)す。其相形(そのさうぎやう)げにも尋常(よのつね)の馬に異(こと)也(なり)。骨(ほね)挙(あが)り筋(すぢ)太(ふと)くして脂肉(しじく)短(みじか)し。 頚は鶏(にはとり)の如(ごとく)にして、須弥(しゆみ)の髪(かみ)膝(ひざ)を過ぎ、背(せなか)は竜(りゆう)の如(ごとく)にして、四十二の辻毛(つじげ)を巻(まい)て背筋(せすぢ)に連(つらな)れり。両の耳(みみ)は竹を剥(そい)で直(ぢき)に天を指(さ)し、双(さう)の眼(まなこ)は鈴(すず)を懸(かけ)て、地に向ふ如し。今朝の卯刻(うのこく)に出雲の富田(とんだ)を立(たつ)て、酉剋(とりのこく)の始(はじめ)に京著(きやうちやく)す。其(その)道已(すで)に七十六(しちじふろく)里(り)、鞍(くら)の上(うへ)閑(しづか)にして、徒(ただ)に坐(ざ)せるが如し。然共(しかれども)、旋風(せふう)面を撲(うつ)に不堪とぞ奏(そう)しける。則(すなはち)左馬寮(さまれう)に被預、朝には禁池(きんち)に水飼(かひ)、夕には花廏(くわきう)に秣(まくさ)飼(かふ)。其比(そのころ)天下一の馬乗(むまのり)と聞(きこ)へし本間(ほんま)孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁(はんかんてうりやう)甚(はなはだ)不尋常。四蹄(てい)を縮(ちぢ)むれば双六盤(すごろくばん)の上(うへ)にも立ち、一鞭(いちべん)を当(あ)つれば十丈(じふぢやう)の堀をも越(こえ)つべし。 誠(まこと)に天馬に非(あら)ずば斯(かか)る駿足(しゆんそく)は難有とて、叡慮(えいりよ)更に類無(たぐひなか)りけり。或時(あるとき)主上(しゆしやう)馬場殿(ばばどの)に幸成(みゆきなつ)て、又此(この)馬を叡覧有(えいらんあり)けるに、諸卿皆左右に候(こう)す。時に主上(しゆしやう)洞院(とうゐん)の相国(しやうこく)に向(むかつ)て被仰けるは、「古(いにし)へ、屈産(くつさん)の乗(じよう)、項羽(かうう)が騅(すゐ)、一日に千里を翔(かけ)る馬有(あり)といへども、我(わが)朝に天馬の来(きた)る事を未だ聞(きか)ず。然(しかる)に朕(ちん)が代(よ)に当(あたつ)て此(この)馬不求出来(いできた)る。吉凶如何。」と御尋(おんたづね)ありけるに、相国(しやうこく)被申けるは、「是(これ)聖明(せいめい)の徳に不因ば、天豈(あに)此嘉瑞(このかずゐ)を降(くだし)候はんや。虞舜(ぐしゆん)の代には鳳凰(ほうわう)来(きたり)、孔子(こうし)の時は麒麟(きりん)出(いづ)といへり。 |
|
就中(なかんづく)天馬の聖代(せいだい)に来(きた)る事第一(だいいち)の嘉祥(かしやう)也(なり)。其故(そのゆゑ)は昔周(しう)の穆王(ぼくわう)の時、驥(き)・■(たう)・驪(り)・■(くわ)・■(りう)・■(ろく)・■(じ)・駟(し)とて八疋(はつぴき)の天馬来れり。穆王是(これ)に乗(のつ)て、四荒八極(しくわうはつきよく)不至云所(いふところ)無(なか)りけり。或(ある)時西天(さいてん)十万里の山川を一時に越(こえ)て、中天竺(ぢく)の舎衛国(しやゑこく)に至り給ふ。時に釈尊(しやくそん)霊鷲山(りやうじゆせん)にして法華(ほつけ)を説(とき)給ふ。 穆王馬より下(おり)て会座(ゑざ)に臨(のぞん)で、則(すなはち)仏(ほとけ)を礼(らい)し奉(たてまつ)て、退(しりぞい)て一面に坐(ざ)し給へり。如来(によらい)問(とひ)て宣(のたまは)く、「汝(なんぢ)は何(いづれ)の国の人ぞ。」穆王答曰(こたへていはく)、「吾(われ)は是(これ)震旦国(しんだんこく)の王也(なり)。」仏(ほとけ)重(かさね)て宣(のたまは)く、「善(よい)哉(かな)今来此会場。我(われ)有治国法、汝欲受持否(いなや)。」穆王曰(いはく)、「願(ねがはく)は信受奉行(しんじゆぶぎやう)して理民安国の施功徳。」爾(その)時、仏(ほとけ)以漢語、四要品(しえうぼん)の中の八句の偈(げ)を穆王に授(さづけ)給ふ。 今の法華の中の経律(けいりつ)の法門有(あり)と云ふ深秘(しんひ)の文是(これ)也(なり)。穆王震旦(しんだん)に帰(かへつ)て後深(ふかく)心底(しんてい)に秘(ひ)して世に不被伝。此(この)時慈童(じどう)と云(いひ)ける童子(どうじ)を、穆王寵愛(ちようあい)し給ふに依(よつ)て、恒(つね)に帝(みかど)の傍(かたはら)に侍(はんべり)けり。或(ある)時彼慈童(かのじどう)君(きみ)の空位(くうゐ)を過(すぎ)けるが、誤(あやまつ)て帝(みかど)の御枕(おんまくら)の上をぞ越(こえ)ける。群臣(ぐんしん)議(ぎ)して曰(いはく)、「其例(そのれい)を考(かんがふ)るに罪科(ざいくわ)非浅に。雖然事(こと)誤(あやまり)より出(いで)たれば、死罪一等を宥(なだめ)て遠流(をんる)に可被処。」とぞ奏(そう)しける。 |
|
群議(ぐんぎ)止(やむ)事(こと)を不得して、慈童(じどう)を■県(てつけん)と云(いふ)深山(しんざん)へぞ被流ける。彼■県(かのてつけん)と云(いふ)所は帝城(ていじやう)を去(さる)事(こと)三百里、山深(ふかう)して鳥だにも不鳴、雲暝(くらう)して虎狼(こらう)充満(じゆうまん)せり。されば仮(かり)にも此(この)山へ入(いる)人の、生(いき)て帰ると云(いふ)事(こと)なし。穆王猶(なほ)慈童を哀(あはれ)み思召(おぼしめし)ければ、彼(かの)八句の内を分(わか)たれて、普門品(ふもんぼん)にある二句の偈(げ)を、潛(ひそか)に慈童に授(さづけ)させ給(たまひ)て、「毎朝(まいてう)に十方を一礼(いちらい)して、此(この)文を可唱。」と被仰ける。慈童遂(つひ)に■県(てつけん)に被流、深山幽谷(しんざんいうこく)の底(そこ)に被棄けり。爰(ここ)に慈童君(きみ)の恩命に任(まかせ)て、毎朝に一反(いつぺん)此(この)文を唱(となへ)けるが、若(もし)忘(わすれ)もやせんずらんと思(おもひ)ければ、側(そば)なる菊の下葉(したば)に此(この)文を書付(かきつけ)けり。 其(それ)より此(この)菊の葉にをける下露(したつゆ)、僅(わづか)に落(おち)て流るゝ谷の水に滴(しただ)りけるが、其(その)水皆(みな)天の霊薬(れいやく)と成る。慈童渇(かつ)に臨(のぞん)で是(これ)を飲(のむ)に、水の味(あぢはひ)天の甘露(かんろ)の如(ごとく)にして、恰(あたか)百味の珍(ちん)に勝(まさ)れり。加之(しかのみならず)天人花を捧(ささげ)て来り、鬼神手を束(つかね)て奉仕(ぶし)しける間、敢(あへ)て虎狼悪獣(こらうあくじう)の恐(おそれ)無(なく)して、却(かへつ)て換骨羽化(くわんこつうげ)の仙人と成る。是(これ)のみならず、此(この)谷の流(ながれ)の末を汲(くん)で飲(のみ)ける民三百(さんびやく)余家、皆病(びやう)即(そく)消滅(せうめつ)して不老不死の上寿(しやうじゆ)を保(たも)てり。其(その)後時代推移(おしうつつ)て、八百(はつぴやく)余年(よねん)まで慈童猶(なほ)少年の貌(かたち)有(あつ)て、更に衰老(すゐらう)の姿(すがた)なし。魏(ぎ)の文帝(ぶんてい)の時、彭祖(はうそ)と名を替(かへ)て、此術(このじゆつ)を文帝に授(さづけ)奉る。 |
|
文帝是(これ)を受(うけ)て菊花(きくくわ)の盃(さかづき)を伝へて、万年の寿(ことぶき)を被成。今の重陽(ちようやう)の宴(えん)是(これ)也(なり)。其(それ)より後(のち)、皇太子位(くらゐ)を天に受(うけ)させ給ふ時、必(かならず)先(まづ)此(この)文を受持(じゆぢ)し給ふ。依之(これによつて)普門品(ふもんぼん)を当途王経(たうづわうきやう)とは申(まうす)なるべし。此(この)文我朝(わがてう)に伝はり、代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)御即位(ごそくゐ)の日必ず是(これ)を受持(じゆぢ)し給ふ。若(もし)幼主の君(きみ)践祚(せんそ)ある時は、摂政(せつしやう)先(まづ)是(これ)を受(うけ)て、御治世(ごぢせい)の始(はじめ)に必(かならず)君に授(さづけ)奉る。此(この)八句の偈(げ)の文、三国(さんごく)伝来(でんらい)して、理世安民の治略(ちりやく)、除災与楽(ぢよさいよらく)の要術(えうじゆつ)と成る。是(これ)偏(ひとへ)に穆王(ぼくわう)天馬の徳也(なり)。されば此龍馬(このりゆうめ)の来(きた)れる事(こと)、併(しかしながら)仏法・王法の繁昌宝祚(はうそ)長久の奇瑞(きずゐ)に候べし。」と被申たりければ、主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、当座の諸卿悉(ことごとく)心に服(ふく)し旨(むね)を承(うけたまはつ)て、賀(が)し申(まう)さぬ人は無(なか)りけり。 | |
暫有(しばらくあつ)て万里小路(までのこうぢ)の中納言藤房(ふぢふさの)卿(きやう)被参。座定(さだ)ま(ッ)て後(のち)、主上(しゆしやう)又藤房(ふぢふさの)卿(きやう)に向(むかつ)て、「天馬の遠(とほき)より来れる事(こと)、吉凶(きつきよう)の間(あひだ)、諸臣の勘例(かんれい)、已(すで)に皆先(さきに)畢(をはん)ぬ。藤房(ふぢふさ)は如何(いかが)思へるぞ。」と勅問(ちよくもん)有(あり)ければ、藤房(ふぢふさの)卿(きやう)被申けるは、「天馬の本朝に来れる事(こと)、古今未だ其(その)例を承(うけたまはり)候はねば、善悪(ぜんあく)・吉凶勘(かんが)へ申難(もうしがた)しといへども退(しりぞい)て愚案(ぐあん)を回(めぐら)すに、是(これ)不可有吉事に。其故(そのゆゑ)は昔漢(かん)の文帝(ぶんてい)の時、一日に千里を行(ゆく)馬を献(けん)ずる者あり。 公卿(くぎやう)・大臣(だいじん)皆(みな)相見て是(これ)を賀(が)す。文帝笑(わらつ)て曰(いはく)、「吾(われ)吉(きつ)に行(ゆく)日は三十里(さんじふり)凶(きよう)に行(ゆく)日は十里(ごじふり)、鸞輿在前、属車在後、吾独乗千里駿馬将安之乎。」とて乃(すなはち)償其道費而遂被返之。又後漢(ごかん)の光武(くわうぶの)時、千里の馬(むま)と宝剣(はうけん)とを献(けん)ずる者あり。光武(くわうぶ)是(これ)を珍(ちん)とせずして、馬をば鼓車(こしや)に駕(が)し、剣(けん)をば騎士(きし)に賜(たま)ふ。又周(しう)の代(よ)已(すで)に衰(おとろへ)なんとせし時、房星(ばうせい)降(くだつ)て八匹の馬と成れり。穆王是(これ)を愛(あい)して造父(ざうほ)をして御(ぎよ)たらしめて、四荒(くわう)八極(きよく)の外瑶池(えうち)に遊び碧台(へきたい)に宴(えん)し給ひしかば、七廟(しちべう)の祭(まつり)年(とし)を逐(おつ)て衰(おとろ)へ、明堂(みやうどう)の礼日(ひ)に随(したがつ)て廃(すた)れしかば、周(しう)の宝祚(はうそ)傾(かたむ)けり。 文帝・光武の代(よ)には是(これ)を棄(すて)て福祚(ふくそ)久(ひさし)く栄(さか)へ、周穆(しうぼく)の時には是(これ)を愛して王業(わうげふ)始(はじめ)て衰ふ。拾捨(しふしや)の間、一(ひとつは)凶(きよう)一(ひとつは)吉(きつ)的然(てきぜん)として在耳。臣愚(ぐ)窃(ひそか)に是(これ)を案(あん)ずるに、「由来尤物是非天、只蕩君心則為害。」といへり。去(され)ば今政道正(ただし)からざるに依(よつ)て、房星(ばうせい)の精(せい)、化(くわ)して此(この)馬と成(なつ)て、人の心を蕩(とら)かさんとする者也(なり)。其故(そのゆゑ)は大乱の後(のち)民弊(つひ)へ人苦(くるしん)で、天下未安(いまだやすからざ)れば、執政(しつせい)吐哺を、人の愁(うれへ)を聞(きき)、諌臣(かんしん)上表を、主(しゆ)の誤(あやまり)を可正時なるに、百辟(ひやくへき)は楽(たのしみ)に婬(いん)して世の治否(ちひ)を不見、群臣(ぐんしん)は旨(むね)に阿(おもねつ)て国の安危(あんき)を不申。依之(これによつて)記録所(きろくところ)・決断所(けつだんところ)に群集(ぐんしゆ)せし訴人(そにん)日々に減(げん)じて訴陳(そちん)徒(いたづら)に閣(さしお)けり。 |
|
諸卿是(これ)を見て、虞■(ぐぜい)の訴(うつたへ)止(とどまつ)て諌鼓(かんこ)撃(うつ)人なし。無為(ぶゐ)の徳(とく)天下に及(およん)で、民(たみ)皆(みな)堂々(だうだう)の化(くわ)に誇(ほこ)れりと思へり。悲(かなしい)乎(かな)其迷(そのまよ)へる事。元弘大乱の始(はじめ)、天下の士卒(じそつ)挙(こぞつ)て官軍(くわんぐん)に属(しよく)せし事更に無他。只一戦(いつせん)の利を以て勲功(くんこう)の賞(しやう)に預(あづか)らんと思へる故(ゆゑ)也(なり)。されば世静謐(せいひつ)の後(のち)、忠を立(たて)賞を望む輩(ともがら)、幾千万(いくせんまん)と云数(いふかず)を知(しら)ず。然共(しかれども)公家被官(くげひくわん)の外(ほか)は、未(いまだ)恩賞(おんしやう)を給(たまひ)たる者あらざるに、申状(まうしじやう)を捨(すて)て訟(うつたへ)を止(やめ)たるは、忠功の不立を恨(うら)み、政道の不正を褊(さみ)して、皆(みな)己(おのれ)が本国(ほんごく)に帰(かへ)る者也(なり)。 諌臣(かんしん)是(これ)に驚(おどろい)て、雍歯(ようし)が功を先(さき)として、諸卒(しよそつ)の恨(うらみ)を散(さん)ずべきに、先(まづ)大内裏造営(だいだいりざうえい)可有とて、諸国の地頭(ぢとう)に二十分(にじふぶんの)一(いち)の得分(とくぶん)を割分(さきわけ)て被召れば、兵革(ひやうかく)の弊(つひえ)の上に此功課(このこうくわ)を悲(かなし)めり。又国々には守護(しゆご)威(ゐ)を失ひ国司(こくし)権(けん)を重くす。依之(これによつて)非職凡卑(ひしよくぼんひ)の目代等(もくだいら)、貞応(ぢやうおう)以後の新立(しんりふ)の庄園を没倒(もつたう)して、在庁官人(ざいちやうくわんにん)・検非違使(けびゐし)・健児所(こんでいどころ)等(ら)過分(くわぶん)の勢(いきほ)ひを高(たかく)せり。加之(しかのみならず)諸国の御家人(ごけにん)の称号(しようがう)は、頼朝(よりとも)卿(きやう)の時より有(あつ)て已(すで)に年久しき武名なるを、此御代(このみよ)に始(はじめ)て其号(そのがう)を被止ぬれば、大名(だいみやう)・高家(かうけ)いつしか凡民(ぼんみん)の類(るゐ)に同じ。 其憤(そのいきどほり)幾千万(いくせんまん)とか知らん。次には天運(てんうん)図(と)に膺(あたつ)て朝敵自(みづから)亡(ほろび)ぬといへども、今度天下を定(しづめ)て、君の宸襟(しんきん)を休(やす)め奉(たてまつり)たる者は、高氏(たかうぢ)・義貞(よしさだ)・正成(まさしげ)・円心(ゑんしん)・長年(ながとし)なり。彼等(かれら)が忠を取(とつ)て漢の功臣(こうしん)に比(ひ)せば、韓信(かんしん)・彭越(はうゑつ)・張良(ちやうりやう)・蕭何(せうが)・曹参(さうさん)也(なり)。又唐(たう)の賢佐(けんさ)に譬(たとへ)ば、魏徴(ぎちよう)・玄齢(げんれい)・世南(せいなん)・如晦(じよくわい)・李勣(りせき)なるべし。其志(そのこころざし)節(せつ)に当(あた)り義に向(むかつ)て忠を立(たつる)所、何(いづ)れをか前(さき)とし何れをか後(のち)とせん。其賞(そのしやう)皆均(ひとしく)其爵(そのしやく)是(これ)同(おなじ)かるべき処に、円心(ゑんしん)一人僅(わづか)に本領(ほんりやう)一所(いつしよ)の安堵(あんど)を全(まつたう)して、守護(しゆご)恩補(おんふ)の国を被召返事、其咎(そのとが)そも何事ぞや。「賞中其功則有忠之者進、罰当其罪則有咎之者退。」と云へり。痛(いたはしき)哉(かな)今の政道、只抽賞(ちうしやう)の功(こう)に不当譏(そしり)のみに非(あら)ず。兼(かね)ては綸言(りんげん)の掌(たなごころ)を翻(かへ)す憚(はばかり)あり。 |
|
今若(もし)武家の棟梁(とうりやう)と成(なり)ぬべき器用(きよう)の仁(じん)出来(いでき)て、朝(てう)家を褊(さみ)し申(まうす)事(こと)あらば、恨(うらみ)を含み政道を猜(そね)む天下の士、糧(かて)を荷(になひ)て招(まねか)ざるに集(あつま)らん事不可有疑。抑(そもそも)天馬の用(もちゐる)所を案ずるに、徳の流行(りうかう)する事は郵(いう)を置(おい)て命(めい)を伝(つたふ)るよりも早ければ、此(この)馬必(かならず)しも不足用。只大逆(たいぎやく)不慮(ふりよ)に出来(いできた)る日、急(きふ)を遠国(ゑんこく)に告(つぐ)る時、聊(いささか)用(もちゐる)に得(とく)あらんか。是(これ)静謐(せいひつ)の朝(てう)に出で、兼(かね)て大乱の備(そなへ)を設(まう)く。豈(あに)不吉(ふきつ)の表事(へうじ)に候はずや。只奇物(きぶつ)の翫(もてあそび)を止(やめ)て、仁政(じんせい)の化(くわ)を致(いたさ)れんには不如。」と、誠を至し言を不残被申しに、竜顔(りようがん)少(すこ)し逆鱗(げきりん)の気色有(あつ)て、諸臣皆(みな)色を変(へん)じければ、旨酒高会(ししゆかうぐわい)も無興(ぶきよう)して、其(その)日(ひ)の御遊(ぎよいう)はさて止(やみ)にけりとぞ聞へし。 | |
■藤房(ふぢふさの)卿(きやう)遁世(とんせいの)事(こと)
其(その)後藤房(ふぢふさの)卿(きやう)連続(れんぞく)して諌言(かんげん)を上(たてまつ)りけれども、君遂(つひ)に御許容(きよよう)無(なか)りしかば、大内裏(だいだいり)造営(ざうえい)の事をも不被止、蘭籍桂筵(らんせきけいえん)の御遊(ぎよいう)猶(なほ)頻(しきり)なりければ、藤房(ふぢふさ)是(これ)を諌兼(いさめかね)て、「臣たる道我(われ)に於て至(いた)せり。よしや今は身を退(しりぞけん)には不如。」と、思定(おもひさだめ)てぞ坐(おは)しける。三月十一日は、八幡(やはた)の行幸(ぎやうがう)にて、諸卿皆(みな)路次(ろし)の行装(ぎやうさう)を事とし給(たまひ)けり。 藤房(ふぢふさ)も時の大理(だいり)にて坐(おは)する上(うへ)、今は是(これ)を限(かぎり)の供奉(ぐぶ)と被思ければ、御供(おんとも)の官人(くわんにん)、悉(ことごとく)目を驚(おどろか)す程(ほど)に出立(いでたた)れたり。看督長(かどのをさ)十六人、冠(かふり)の老懸(おいかけ)に、袖単(ひとへ)白くしたる薄紅(うすくれなゐ)の袍(うはきぬ)に白袴(はかま)を著し、いちひはばきに乱(みだ)れ緒(を)をはいて列(れつ)をひく。次に走(わし)り下部(しもべ)八人、細烏帽子(ほそゑぼし)に上下(かみしも)、一色(ひといろ)の家の紋(もん)の水干(すゐかん)著て、二行に歩(あゆみ)つゞきたり。 其(その)後大理(だいり)は、巻纓(まきふさ)の老懸(おいかけ)に、赤裏(あかうら)の表(うへ)の袴(はかま)、靴(くわ)の沓(くつ)はいて、蒔絵(まきゑ)の平鞘(ひらざやの)太刀を佩(はき)、あまの面(おもて)の羽(は)付(つき)たる平胡■(ひらやなぐひ)の箙(えびら)を負(おひ)、甲斐の大黒(おほぐろ)とて、五尺(ごしやく)三寸(さんずん)有(あり)ける名馬の太(ふと)く逞(たくましき)に、いかけ地(ぢ)の鞍(くら)置(おい)て、水色の厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)に、唐糸(からいと)の手縄(たづな)ゆるらかに結(むすん)でかけ、鞍の上(うへ)閑(しづか)に乗(のり)うけて、町に三処手縄(たづな)入(いれ)させ小路(こうぢ)に余(あまつ)て歩(あゆま)せ出(いで)たれば、馬副(むまぞひ)四人、か千冠(ちかぶり)に猪(ゐ)の皮の尻鞘(しりさや)の太刀佩(はい)て、左右にそひ、かい副(ぞへ)の侍(さぶらひ)二人(ににん)をば、烏帽子(ゑぼし)に花田(はなた)のうち絹(きぬ)を重(かさね)て、袖単(そでひとへ)を出(いだ)したる水干(すゐかん)著(き)たる舎人(とねり)の雑色(ざふしき)四人、次に白張(しらはり)に香(かう)の衣(きぬ)重(かさね)たる童(わらは)一人(いちにん)、次に細烏帽子(ほそゑぼし)に袖単(そでひとへ)白(しろく)して、海松色(みるいろ)の水干(すゐかん)著(き)たる調度懸(てうどかけ)六人、次に細烏帽子に香(かう)の水干著たる舎人(とねり)八人、其(その)次に直垂著(ひたたれき)の雑人(ざふにん)等(ら)百(ひやく)余人(よにん)、警蹕(けいひつ)の声高らかに、傍(あたり)を払(はらつ)て被供奉たり。 |
|
伏拝(ふしをがみ)に馬を留(とどめ)て、男山(をとこやま)を登(のぼり)給ふにも、栄行(さかゆく)時も有(あり)こし物也(なり)と、明日(あす)は被謂ぬべき身の程も哀(あはれ)に、石清水(いはしみづ)を見給(たまふ)にも、可澄末(すゑ)の久しさを、君が御影(みかげ)に寄(よせ)て祝(しゆく)し、其言葉(そのことのは)の引替(ひきかへ)て、今よりは心の垢(あか)を雪(きよめ)、憂世(うきよ)の耳(みみ)を可洗便(たよ)りに成(なり)ぬと思(おもひ)給ひ、大菩薩(だいぼさつ)の御前(おんまへ)にして、潛(ひそか)に自受法楽(じじゆほふらく)の法施(ほつせ)を献(たてまつ)ても、道心堅固速証菩提(けんごそくしようぼだい)と祈(いのり)給へば、和光同塵(わくわうどうぢん)の月明(あきら)かに心の闇(やみ)をや照(てら)すらんと、神慮(しんりよ)も暗(あん)に被量たり。 御神拝(ごじんはい)一日有(あつ)て還幸(くわんかう)事散(ことさん)じければ、藤房(ふぢふさ)致仕(ちじ)の為に被参内、竜顔(りようがん)に近付進(ちかづきまゐら)せん事(こと)、今ならでは何事にかと被思ければ、其(その)事(こと)となく御前(おんまへ)に祗候(しこう)して、竜逢(りようほう)・比干(ひかん)が諌(いさめ)に死せし恨(うらみ)、伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせい)が潔(いさぎよ)きを蹈(ふみ)にし跡(あと)、終夜(よもすがら)申出(まうしいで)て、未明(びめい)に退出(たいしゆつ)し給へば、大内山(おほうちやま)の月影(つきかげ)も涙に陰(くも)りて幽(かすか)なり。陣頭(ぢんとう)より車をば宿所へ返(かへ)し遣(つかは)し、侍(さぶらひ)一人召具(めしぐ)して、北山(きたやま)の岩蔵(いはくら)と云(いふ)所へ趣(おもむ)かれける。此(ここ)にて不二房(ふにばう)と云(いふ)僧を戒師(かいし)に請(しやう)じて、遂(つひ)に多年拝趨(はいすう)の儒冠(じゆくわん)を解(ぬい)で、十戒持律(じつかいぢりつ)の法体(ほつたい)に成給(なりたまひ)けり。家貧(まどし)く年老(おい)ぬる人だにも、難離難捨恩愛(おんあい)の旧(ふる)き栖(すみか)也(なり)。況乎(いはんや)官禄(くわんろく)共(とも)に卑(いやし)からで、齢(よはひ)未(いまだ)四十に不足人の、妻子(さいし)を離(はな)れ父母(ふぼ)を捨(すて)て、山川抖薮(とそう)の身と成りしは、ためしすくなき発心(ほつしん)也(なり)。 |
|
此(この)事(こと)叡聞(えいぶん)に達しければ、君無限驚き思召(おぼしめし)て、「其(その)在所を急ぎ尋出(たづねいだ)し、再び政道輔佐(ふさ)の臣と可成。」と、父宣房(のぶふさの)卿(きやう)に被仰下ければ、宣房(のぶふさの)卿(きやう)泣々(なくなく)車を飛(とば)して、岩蔵(いはくら)へ尋行給(たづねゆきたまひ)けるに、中納言入道は、其(その)朝まで岩蔵(いはくら)の坊(ばう)にをはしけるが、是(これ)も尚(なほ)都(みやこ)近き傍(あた)りなれば、浮世(うきよ)の人の事問(ことと)ひかはす事もこそあれと厭(いと)はしくて、何地(いづち)と云方(いふかた)もなく足に信(まかせ)て出(いで)給ひけり。宣房(のぶふさの)卿(きやう)彼(かの)坊に行給(ゆきたまひ)て、「左様(さやう)の人やある。」と被尋ければ、主(あるじ)の僧、「さる人は今朝まで是(これ)に御坐候(ござさふらひ)つるが、行脚(あんぎや)の御志(おんこころざし)候とて、何地(いづち)へやらん御出(おんいで)候(さふらひ)つる也(なり)。」とぞ答へける。 宣房(のぶふさの)卿(きやう)悲歎(ひたん)の泪(なみだ)を掩(おさへ)て其住捨(そのすみすて)たる菴室(あんじつ)を見給へば、誰(た)れ見よとてか書置(かきおき)ける、破(やれ)たる障子(しやうじ)の上に、一首(いつしゆ)の歌を被残たり。住捨(すみすつ)る山を浮世(うきよ)の人とはゞ嵐や庭の松にこたへん棄恩入無為(きおんにふむゐ)、真実報恩者(しんじつはうおんしや)と云(いふ)文の下(した)に、白頭望断万重山。曠劫恩波尽底乾。不是胸中蔵五逆(ごぎやく)。出家端的報親難。と、黄蘗(わうばく)の大義渡(たいぎと)を題せし古き頌(じゆ)を被書たり。さてこそ此(この)人設(たと)ひ何(いづ)くの山にありとも、命(いのち)の中(うち)の再会(さいくわい)は叶(かな)ふまじかりけるよと、宣房(のぶふさの)卿(きやう)恋慕(れんぼ)の泪(なみだ)に咽(むせ)んで、空(むなし)く帰り給ひけり。抑(そもそも)彼(かの)宣房(のぶふさの)卿(きやう)と申(まうす)は、吉田(よしだの)大弐(だいに)資経(すけつね)の孫(まご)、藤三位資通(とうのさんみすけみち)の子也(なり)。此(この)人閑官(かんくわん)の昔、五部(ごぶ)の大乗経(だいじようきやう)を一字三礼(いちじさんらい)に書供養(かきくやう)して、子孫(しそん)の繁昌を祈(いの)らん為に、春日(かすが)の社(やしろ)にぞ被奉納ける。 |
|
其夜(そのよ)の夢想(むさう)に、黄衣(くわうえ)著(き)たる神人(じんにん)、榊(さかき)の枝(えだ)に立文(たてぶみ)を著(つけ)て、宣房(のぶふさの)卿(きやう)の前に差置(さしおき)たり。何(いか)なる文(ふみ)やらんと怪(あやしみ)て、急(いそぎ)是(これ)を披(ひらい)て見給へば、上書(うはがき)に万里小路(までのこうじ)一位(いちゐ)殿(どの)へと書(かき)て、中(なか)には、速証無上大菩提(そくしようむじやうだいぼだい)と、金字(こんじ)にぞ書(かき)たりける。夢覚(さめ)て後(のち)静(しづか)に是(これ)を案(あん)ずるに、我(われ)朝廷に仕へて、位一品(くらゐいつぼん)に至らんずる条無疑。中(なか)に見へつる金字(こんじ)の文(ぶん)は、我(われ)則(すなはち)此作善(このさぜん)を以て、後生善処(ごしやうぜんしよ)の望(のぞみ)を可達者也(なり)と、二世の悉地(しつち)共(ども)に成就(じやうじゆ)したる心地(ここち)して、憑(たの)もしく思給(おもひたまひ)けるが、果(はた)して元弘の末に、父祖代々(ふそだいだい)絶(たえ)て久(ひさし)き従(じゆ)一位(いちゐ)に成給(なりたまひ)けり。 中(なか)に見へし金字(こんじ)の文は、子息藤房(ふぢふさの)卿(きやう)出家得道(しゆつけとくだう)し給(たまふ)べき、其善縁(そのぜんえん)有(あり)と被示ける明神(みやうじん)の御告(おんつげ)なるべし。誠(まこと)に百年の栄耀(えいえう)は風前(ふうぜん)の塵(ちり)、一念の発心(ほつしん)は命後(みやうご)の灯(とぼしび)也(なり)。一子(いつし)出家(しゆつけ)すれば、七世の父母(ふも)皆(みな)仏道を成(な)すと、如来(によらい)の所説(しよせつ)明(あきらか)なれば、此(この)人一人の発心(ほつしん)に依(よつ)て、七世の父母諸共(もろとも)に、成仏得道(じやうぶつとくだう)せん事(こと)、歎(なげき)の中(うち)の悦(よろこび)なるべければ、是(これ)を誠(まこと)に第一(だいいち)の利生(りしやう)預(あづか)りたる人よと、智ある人は聞(きい)て感歎(かんたん)せり。 |
|
■北山殿(きたやまどの)謀叛(むほんの)事(こと)
故相摸(こさがみ)入道(にふだう)の舎弟(しやてい)、四郎(しらう)左近(さこんの)大夫(たいふ)入道(にふどう)は、元弘の鎌倉(かまくら)合戦の時、自害(じがい)したる真似(まね)をして、潛(ひそか)に鎌倉(かまくら)を落(おち)て、暫(しばし)は奥州(あうしう)に在(あり)けるが、人に見知(しら)れじが為に、還俗(げんぞく)して京都に上(のぼり)、西園寺殿(さいをんじどの)を憑奉(たのみたてまつ)て、田舎侍(ゐなかさぶらひ)の始(はじめ)て召(めし)仕はるゝ体(てい)にてぞ居たりける。是(これ)も承久(しようきう)の合戦の時、西園寺の太政(だいじやう)大臣(だいじん)公経公(きんつねこう)、関東(くわんとう)へ内通(ないつう)の旨(むね)有(あり)しに依(よつ)て、義時(よしとき)其(その)日(ひ)の合戦に利(り)を得たりし間、子孫(しそん)七代迄(まで)、西園寺殿(さいをんじどの)を可憑申と云置(いひおき)たりしかば、今に至迄(いたるまで)武家異他思(おもひ)を成(な)せり。依之(これによつて)代々(だいだい)の立后(りつこう)も、多(おほく)は此(この)家より出(いで)て、国々の拝任(はいにん)も半(なかば)は其族(そのぞく)にあり。 然れば官(くわん)太政(だいじやう)大臣(だいじん)に至り、位一品(くらゐいつぼん)の極位(ごくゐ)を不極と云(いふ)事(こと)なし。偏(ひとへ)に是(これ)関東(くわんとう)贔屓(ひいき)の厚恩(こうおん)也(なり)と被思けるにや、如何(いか)にもして故相摸(こさがみ)入道が一族(いちぞく)を取立(とりたて)て、再び天下の権(けん)を取(とら)せ、我(わが)身公家(くげ)の執政(しつせい)として、四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎ)らばやと被思ければ、此(この)四郎(しらう)左近(さこんの)大夫(たいふ)入道を還俗(げんぞく)せさせ、刑部少輔(ぎやうぶのせう)時興(ときおき)と名を替(かへ)て、明暮(あけくれ)は只謀叛(むほん)の計略(けいりやく)をぞ被回ける。或夜(あるよ)政所(せいしよ)の入道、大納言殿(だいなごんどの)の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「国の興亡(きようばう)を見(みる)には、政(まつりごと)の善悪(ぜんあく)を見(みる)に不如、政(まつりごと)の善悪(ぜんあく)を見(みる)には、賢臣(けんしん)の用捨(ようしや)を見(みる)に不如、されば微子(びし)去(さつ)て殷(いん)の代傾(かたむ)き、范増(はんぞう)被罪楚王(そわう)滅(ほろび)たり。今の朝家(てうけ)には只藤房(ふぢふさ)一人のみにて候(さふらひ)つるが、未然(みぜん)に凶(きよう)を鑑(かんがみ)て、隠遁(いんとん)の身と成(なり)候事(こと)、朝廷の大凶(たいきよう)、当家(たうけ)の御運(ごうん)とこそ覚(おぼえ)て候へ。 |
|
急(いそぎ)思召立(おぼしめしたた)せ給(たまひ)候はゞ、前代(ぜんだい)の余類(よるゐ)十方より馳参(はせまゐつ)て、天下を覆(くつがへ)さん事(こと)、一日を不可出。」とぞ勧(すす)め申(まうし)ける。公宗卿(きんむねきやう)げにもと被思ければ、時興(ときおき)を京都の大将として、畿内近国(きないきんごく)の勢(せい)を被催。其甥(そのをひ)相摸次郎時行(ときゆき)をば関東(くわんとう)の大将として、甲斐(かひ)・信濃(しなの)・武蔵(むさし)・相摸(さがみ)の勢を付(つけ)らる。名越(なごや)太郎時兼(ときかぬ)をば北国の大将として、越中・能登・加賀の勢をぞ被集ける。如此諸方の相図(あひづ)を同時に定(さだめ)て後(のち)、西の京(きやう)より番匠(ばんじやう)数(あま)た召寄(めしよせ)て、俄に温殿(ゆどの)をぞ被作ける。其襄場(そのあがりば)に板(いた)を一間(ひとま)蹈(ふ)めば落(おつ)る様(やう)に構(かま)へて、其(その)下に刀の簇(ひし)を被殖たり。是(これ)は主上(しゆしやう)御遊(ぎよいう)の為に臨幸(りんかう)成(なり)たらんずる時、華清宮(くわせいきゆう)の温泉(をんせん)に准(なぞら)へて、浴室(よくしつ)の宴(えん)を勧(すす)め申(まうし)て、君を此(この)下へ陥入奉(おとしいれたてまつ)らん為の企(くはだて)也(なり)。 加様(かやう)に様々(さまざま)の謀(はかりこと)を定(さだ)め兵(つはもの)を調(ととのへ)て、「北山(きたやま)の紅葉(もみぢ)御覧(ごらん)の為に臨幸(りんかう)成(なり)候へ。」と被申ければ、則(すなはち)日を被定、行幸(ぎやうがう)の儀則(ぎそく)をぞ被調ける。已(すで)に明日午刻(うまのこく)に可有臨幸由(よし)、被相触たりける其夜(そのよ)、主上(しゆしやう)且(しばら)く御目睡有(おんまどろみあり)ける御夢(おんゆめ)に、赤袴(あかきはかま)に鈍色(にぶいろ)の二(ふた)つ衣(ぎぬ)著(き)たる女一人来(きたつ)て、「前には虎狼(こらう)の怒(いかれ)るあり。後(うし)ろには熊羆(いうひ)の猛(たけ)きあり、明日の行幸(ぎやうがう)をば思召留(おぼしめしとま)らせ給ふべし。」とぞ申(まうし)ける。主上(しゆしやう)御夢(おんゆめ)の中(うち)に、「汝(なんぢ)は何(いづ)くより来れる者ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「神泉園(しんぜんゑん)の辺(あたり)に多年住侍(すみはんべ)る者也(なり)。」と、答申(こたへまうし)て立帰(たちかへり)ぬと被御覧、御夢(おんゆめ)は無程覚(さめ)にけり。主上(しゆしやう)怪(あやし)き夢の告(つげ)也(なり)と被思召ながら、是(これ)まで事定(さだ)まりぬる臨幸(りんかう)、期(ご)に臨(のぞん)では如何(いかが)可被停と被思食ければ、遂(つひ)に鳳輦(ほうれん)を被促。 |
|
乍去夢の告(つげ)怪(あや)しければとて、先(まづ)神泉苑(しんぜんゑん)に幸成(みゆきなつ)て、竜神(りゆうじん)の御手向有(おんたむけあり)けるに、池水(ちすゐ)俄に変(へん)じて、風不吹白浪(しらなみ)岸を打(うつ)事(こと)頻(しきり)也(なり)。主上(しゆしやう)是(これ)を被御覧弥(いよいよ)夢の告(つげ)怪(あやし)く被思召ければ、且(しばら)く鳳輦(ほうれん)を留(とどめ)て御思案(ごしあん)有(あり)ける処に、竹林院(ちくりんゐん)の中納言公重(きんしげ)卿(きやう)馳参(はせさん)じて被申けるは、「西園寺大納言公宗(きんむね)、隠媒(いんぼう)の企(くはたて)有(あつ)て臨幸(りんかう)を勧(すす)め申(まうす)由(よし)、只今或方(あるかた)より告示(つげしめし)候。是(これ)より急(いそぎ)還幸成(くわんかうなつ)て、橋本(はしもとの)中将(ちゆうじやう)俊季(としすゑ)、並(ならびに)春衡(はるひら)・文衡(ぶんひら)入道を被召て、子細(しさい)を御尋(おんたづね)候べし。」と被申ければ、君去夜(さんぬるよ)の夢告(ゆめつげ)の、今日の池水(ちすゐ)の変(へん)ずる態(わざ)、げにも様(やう)ありと思召合(おぼしめしあはせ)て、軈(やが)て還幸成(なり)にけり。 則(すなはち)中院(なかのゐん)の中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)に結城(ゆふき)判官(はうぐわん)親光(ちかみつ)・伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)を差副(さしそへ)て、「西園寺の大納言公宗(きんむね)卿(きやう)・橋本(はしもとの)中将(ちゆうじやう)俊季(としすゑ)・並(ならびに)文衡(ぶんひら)入道を召取(めしとつ)て参れ。」とぞ被仰下ける。勅宣(ちよくせん)の御使(おんつかひ)、其(その)勢(せい)二千(にせん)余騎(よき)、追手(おふて)搦手(からめて)より押寄(おしよせ)て、北山殿(きたやまどの)の四方(しはう)を七重(ななへ)八重(やへ)にぞ取巻(とりまき)ける。大納言殿(だいなごんどの)、早(はや)此間(このあひだ)の隠謀(いんぼう)顕(あらは)れけりと思(おもひ)給ふ。されば中々(なかなか)騒(さわぎ)たる気色もなし。 |
|
事の様(やう)をも知(しら)ぬ北御方(きたのおんかた)・女房達(にようばうたち)・侍(さぶらひ)共(ども)はこは如何なる事ぞやと、周章(あわて)ふためき逃倒(にげたふ)る。御弟(おんおとと)俊季朝臣(としすゑあそん)は、官軍(くわんぐん)の向(むかひ)けるを見て、心早(はやき)人なりければ、只一人抽(ぬきんで)て、後(うしろ)の山より何地(いづち)ともなく落給(おちたまひ)にけり。 定平(さだひら)朝臣先(まづ)大納言殿(だいなごんどの)に対面(たいめん)有(あつ)て、穏(おだやか)に事の子細(しさい)を被演ければ、大納言殿(だいなごんどの)涙を押(おさ)へて宣(のたまひ)けるは、「公宗(きんむね)不肖(ふせう)の身なりといへども、故中宮(こちゆうぐう)の御好(おんよしみ)に依(よつ)て、官禄(くわんろく)共(とも)に人に不下、是(これ)偏(ひとへ)に明王慈恵(みやうわうじけい)の恩幸(おんかう)なれば、争(いかで)か居陰折枝、汲流濁源志可存候。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、当家数代(たうけすだい)の間官爵(くわんしやく)人に超(こ)へ、恩禄(おんろく)身に余れる間、或(あるひ)は清花(せいぐわ)の家是(これ)を妬(ねた)み、或(あるひ)は名家(めいか)の輩(ともがら)是(これ)を猜(そねん)で、如何様(いかさま)種々(しゆじゆ)の讒言(ざんげん)を構(かま)へ、様々(さまざま)の虚説(きよぜつ)を成(なし)て、当家(たうけ)を失(うしな)はんと仕る歟(か)とこそ覚(おぼえ)て候へ。乍去天鑑真、虚名(きよめい)いつまでか可掠上聞候なれば、先(まづ)召(めし)に随(したがつ)て陣下(ぢんか)に参じ、犯否(ぼんび)の御糺明(きうめい)を仰(あふ)ぎ候べし。但(ただし)俊季(としすゑ)に於(おいて)は、今朝已(すで)に逐電候(ちくてんさふらひ)ぬる間召具(めしぐ)するに不及。」とぞ宣(のたまひ)ける。 官軍共(くわんぐんども)是(これ)を聞(きい)て、「さては橋本(はしもとの)中将殿(ちゆうじやうどの)を隠(かく)し被申にてこそあれ。御所中(ごしよちゆう)を能々(よくよく)見奉れ。」とて数千(すせん)の兵共(つはものども)殿中(でんちゆう)に乱入(みだれいつ)て、天井塗篭(てんじやうぬりこめ)打破(うちやぶり)、翠簾几帳(すゐれんきちやう)を引落(ひきおと)して、無残処捜(さがし)けり。依之(これによつて)只今まで可有紅葉の御賀とて楽絃(がくげん)を調(しら)べつる伶人(れいじん)、装束(しやうぞく)をも不脱、東西に逃迷(にげまよ)ひ、見物の為とて群(ぐん)をなせる僧俗男女、怪(あやし)き者歟(か)とて、多く被召捕不慮(ふりよ)に刑戮(けいりく)に逢(あひ)けり。其辺(そのへん)の山の奥(おく)、岩(いは)のはざま迄(まで)、若(もし)やと猶(なほ)捜(さがし)けれども、俊季(としすゑ)朝臣遂(つひ)に見へ給はざりければ、官軍(くわんぐん)無力、公宗(きんむね)卿(きやう)と文衡(ぶんひら)入道とを召捕奉(めしとりたてまつ)て、夜中に京(きやう)へぞ帰(かへり)ける。 |
|
大納言殿(だいなごんどの)をば定平(さだひら)朝臣の宿所に、一間(ひとま)なる所を攻篭(つめろう)の如(ごとく)に拵(こしらへ)て、押篭(おしこめ)奉る。文衡(ぶんひら)入道をば結城(ゆふき)判官(はうぐわん)に被預、夜昼(よるひる)三日まで、上(あげ)つ下(おろし)つ被拷問けるに、無所残白状(はくじやう)しければ、則(すなはち)六条河原(ろくでうかはら)へ引出(ひきいだ)して、首(くび)を被刎けり。 公宗(きんむね)をば伯耆守(はうきのかみ)長年(ながとし)に被仰付、出雲(いづもの)国(くに)へ可被流と、公儀(こうぎ)已(すで)に定(さだま)りにけり。明日必(かならず)配所(はいしよ)へ赴き給(たまふ)べしと、治定(ぢてい)有(あり)ける其夜(そのよ)、中院(なかのゐん)より北(きた)の御方(おんかた)へ被告申ければ、北(きた)の方(かた)忍(しのび)たる体(てい)にて泣々(なくなく)彼(かし)こへ坐(おは)したり。暫(しばら)く警固(けいご)の武士(ぶし)をのけさせて、篭(ろう)の傍(あた)りを見給へば、一間(ひとま)なる所の蜘手(くもで)密(きびし)く結(ゆう)たる中(なか)に身を縮(ちぢ)めて、起伏(おきふし)もなく泣沈(なきしづ)み給(たまひ)ければ、流るゝ泪(なみだ)袖に余(あま)りて、身も浮く許(ばかり)に成(なり)にけり。 大納言殿(だいなごんどの)北(きた)の方(かた)を一目(ひとめ)見給(たまひ)て、いとゞ泪(なみだ)に咽(むせ)び、云出(いひいだ)し給へる言葉(ことのは)もなし。北(きた)の方(かた)も、「こは如何に成(なり)ぬる御有様(おんありさま)ぞや。」と許(ばかり)涙(なみだ)の中(うち)に聞(きこ)へて、引(ひき)かづき泣伏(なきふし)給ふ。良(やや)暫有(しばらくあつ)て、大納言殿(だいなごんどの)泪(なみだ)を押(おさ)へて宣(のたまひ)けるは、「我(わが)身かく引(ひく)人もなき捨小舟(すてをぶね)の如く、深罪(ふかきつみ)に沈(しづ)みぬるに付(つい)ても、たゞならぬ御事(おんこと)とやらん承(うけたまは)りしかば、我故(われゆゑ)の物思(ものおも)ひに、如何(いか)なる煩(わづら)はしき御心地(おんここち)かあらんずらんと、それさへ後の闇路(やみぢ)の迷(まよひ)と成(なり)ぬべう覚(おぼえ)てこそ候へ。若(もし)それ男子(なんし)にても候はゞ、行末(ゆくすゑ)の事思捨(おもひすて)給はで、哀(あはれ)みの懐(ふところ)の中に人となし給(たまふ)べし。 |
|
我家(わがいへ)に伝(つたふ)る所の物なれば、見ざりし親の忘形見(わすれがたみ)ともなし給へ。」とて、上原(しやうげん)・石上(せきしやう)・流泉(りうせん)・啄木(たくぼく)の秘曲(ひきよく)を被書たる琵琶の譜(ふ)を一帖(いちでふ)、膚(はだ)の護(まぶり)より取出(とりいだ)し玉(たまひ)て、北(きた)の方(かた)に手(てづ)から被渡けるが、側(そば)なる硯(すずり)を引寄(ひきよせ)て、上巻(うはまき)の紙に一首(いつしゆ)の歌を書(かき)給ふ。哀(あはれ)なり日影(ひかげ)待(まつ)間(ま)の露の身に思(おもひ)をかるゝ石竹(なでしこ)の花硯の水に泪(なみだ)落(おち)て、薄墨(うすずみ)の文字さだかならず、見る心地(ここち)さへ消(きえ)ぬべきに、是(これ)を今はの形見(かたみ)とも、泪(なみだ)と共に留玉(とどめたま)へば、北(きた)の御方(おんかた)はいとゞ悲(かなし)みを被副て中々(なかなか)言葉(ことのは)もなければ、只顔をも不擡泣(なき)給ふ。 去(さる)程(ほど)に追立(おつたて)の官人(くわんにん)来(きたつ)て、「今夜先(まづ)伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)が方へ渡し奉(たてまつ)て暁(あかつき)配所(はいしよ)へ可奉下。」と申(まうし)ければ、頓(やが)て物騒(ものさわが)しく成(なつ)て、北方(きたのかた)も傍(あたり)へ立隠給(たちかくれたまひ)ぬ。さても猶(なほ)今より後の御有様(おんありさま)如何(いかが)と心苦(くるしく)覚(おぼえ)て、透垣(すいがき)の中に立紛(たちまぎれ)て見玉(みたま)へば、大納言殿(だいなごんどの)を請取進(うけとりまゐらせ)んとて、長年物具(もののぐ)したる者共(ものども)二三百人(にさんびやくにん)召具(めしぐ)して、庭上(ていじやう)に並居(なみゐ)たり。余(あま)りに夜(よ)の深候(ふけさふらひ)ぬると急(いそぎ)ければ、大納言殿(だいなごんどの)縄取(なはとり)に引(ひか)へられて中門(ちゆうもん)へ出(いで)玉ふ。 其(その)有様を見給(たまひ)ける北(きた)の御方(おんかた)の心の中(うち)、譬(たと)へて云はん方もなし。既(すで)に庭上に舁居(かきすゑ)たる輿(こし)の簾(すだれ)を掲(かかげ)て乗(の)らんとし給(たまひ)ける時、定平(さだひら)朝臣長年に向(むかつ)て、「早(はや)。」と被云けるを、「殺(ころ)し奉れ。」との詞(ことば)ぞと心得て、長年、大納言に走懸(はしりかかつ)て鬢髪(びんのかみ)を掴(つかん)で覆(うつぶし)に引伏(ひきふ)せ、腰(こしの)刀を抜(ぬい)て御頚(おんくび)を掻落(かきおと)しけり。下(しも)として上(かみ)を犯(をかさ)んと企(くはだつ)る罰(ばつ)の程こそ恐(おそろ)しけれ。北(きた)の方(かた)は是(これ)を見給(たまひ)て、不覚あつとをめいて、透垣(すいがき)の中に倒(たふ)れ伏(ふし)給ふ。 |
|
此侭(このまま)頓(やが)て絶(たえ)入り給(たまひ)ぬと見へければ、女房達(にようばうたち)車に扶乗奉(たすけのせたてまつ)て、泣々(なくなく)又北山(きたやま)殿(どの)へ帰(かへ)し入れ奉る。さしも堂上(だうじやう)堂下(だうか)雲の如(ごとく)なりし青侍官女(せいしくわんぢよ)、何地(いづち)へか落行(おちゆき)けん。人一人も不見成(なつ)て、翠簾几帳(すゐれんきちやう)皆被引落たり。常の御方(おんかた)を見給へば、月の夜(よ)・雪の朝(あした)、興(きよう)に触(ふれ)て読棄(よみすて)給へる短冊共(たんじやくども)の、此彼(ここかしこ)に散乱(ちりみだれ)たるも、今はなき人の忘形見(わすれがたみ)と成(なつ)て、そゞろに泪(なみだ)を被催給ふ。又夜(よん)の御方(おんかた)を見給へば、旧(ふる)き衾(ふすま)は留(とどまつ)て、枕ならべし人はなし。 其面影(そのおもかげ)はそれながら、語(かたり)て慰(なぐさ)む方もなし。庭(には)には紅葉(もみぢ)散敷(ちりしい)て、風の気色(けしき)も冷(すさまじ)きに、古き梢(こずゑ)の梟(ふくろの)声、けうとげに啼(ない)たる暁(あかつき)の物さびしさ、堪(たへ)ては如何(いかが)と住(すみ)はび給へる処に、西園寺(さいをんじ)の一跡(いつせき)をば、竹林院(ちくりんゐん)中納言公重(きんしげ)卿(きやう)賜(たまは)らせ給(たまひ)たりとて、青侍共(あをさぶらひども)数(あま)た来(きたつ)て取貸(とりまかな)へば、是(これ)さへ別(わかれ)の憂数(うきかず)に成(なつ)て、北(きた)の御方(おんかた)は仁和寺(にんわじ)なる傍(かたはら)に、幽(かすか)なる住所(すみところ)尋出(たづねいだ)して移(うつり)玉ふ。 時しもこそあれ、故(こ)大納言殿(だいなごんどの)の百箇日(ひやくかにち)に当(あた)りける日、御産(ごさん)事故無(ことゆゑなく)して、若君生(うま)れさせ玉へり。あはれ其(その)昔ならば、御祈(おんいのり)の貴僧高僧歓喜(くわんき)の眉(まゆ)を開(ひら)き、弄璋(ろうしやう)の御慶(ぎよけい)天下に聞(きこ)へて門前の車馬(しやば)群(ぐん)を可成に、桑(くは)の弓引(ひく)人もなく、蓬(よもぎ)の矢射(い)る所もなきあばら屋(や)に、透間(すきま)の風冷(すさま)じけれども、防(ふせ)ぎし陰(かげ)もかれはてぬれば、御乳母(おんめのと)なんど被付までも不叶、只母上(ははうへ)自(みづから)懐(いだ)きそだて給へば、漸(やうや)く故(こ)大納言殿(だいなごんどの)に似(に)給へる御顔つきを見(み)玉ふにも、「形見(かたみ)こそ今はあたなれ是(これ)なくば忘(わす)るゝ時もあらまし物を。」と古人(いにしへびと)の読(よみ)たりしも、泪(なみだ)の故(ゆゑ)と成(なり)にけり。 |
|
悲歎(ひたん)の思(おもひ)胸に満(みち)て、生産(うぶや)の筵(むしろ)未乾、中院(なかのゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)の許(もと)より、以使、「御産(ごさん)の事に付(つい)て、内裡(だいり)より被尋仰事候。もし若君にても御渡(おんわたり)候はゞ、御乳母(おんめのと)に懐(いだ)かせて、是(これ)へ先(まづ)入進(いれまゐらせ)られ候へ。」と被仰ければ、母上(ははうへ)、「あな心憂(こころう)や、故(こ)大納言(だいなごん)の公達(きんだち)をば、腹の中(なか)までも開(あけ)て可被御覧聞(きこ)へしかば、若君(わかぎみ)出来(いでき)させ給(たまひ)ぬと漏聞(もれきこ)へけるにこそ有(あり)けれ。歎(なげき)の中(うち)にも此(この)子をそだてゝこそ、故(こ)大納言殿(だいなごんどの)の忘形見(わすれがたみ)とも見、若(もし)人とならば僧にもなして、無跡(なきあと)をも問(とは)せんと思(おもひ)つるに、未だ乳房(ちぶさ)も離(はなれ)ぬみどり子を、武士(もののふ)の手に懸(かけ)て被失ぬと聞(きい)て、有(あり)し別(わかれ)の今の歎(なげき)に、消(きえ)はびん露の命(いのち)を何(なに)に懸(かけ)てか可堪忍。 あるを限(かぎり)の命だに、心に叶ふ者ならで、斯(かか)る憂(うき)事(こと)をのみ見聞く身こそ悲しけれ。」と泣(なき)沈み給(たまひ)ければ、春日(かすが)の局(つぼね)泣々(なくなく)内(うち)より御使(おんつかひ)に出合給(いであひたまひ)て、「故(こ)大納言殿(だいなごんどの)の忘形見(わすれがたみ)の出来(いでき)させ給(たまひ)て候(さふらひ)しが、母上(ははうへ)のたゞならざりし時節(をりふし)限(かぎり)なき物思(おもひ)に沈(しづみ)給ふ故(ゆゑ)にや、生(うま)れ落(おち)玉ひし後、無幾程はかなく成給(なりたまひ)候。是(これ)も咎(とが)有(あり)し人の行(ゆく)ゑなれば、如何(いか)なる御沙汰(ごさた)にか逢(あひ)候はんずらんと、上(うへ)の御尤(おんとがめ)を怖(おそれ)て、隠(かく)し侍(はんべ)るにこそと被思召事も候(さふらひ)ぬべければ、偽(いつはり)ならぬしるしの一言を、仏神(ぶつじん)に懸(かけ)て申入(まうしいれ)候べし。」とて、泣々(なくなく)消息(せうそく)を書(かき)給ひ、其(その)奥に、偽(いつはり)を糺(ただす)の森に置(おく)露(つゆ)の消(きえ)しにつけて濡(ぬ)るゝ袖哉(かな) 使(つかひ)此(この)御文を持(もつ)て帰(かへ)り参(まゐ)れば、定平(さだひら)泪(なみだ)を押(おさ)へて奏覧(そうらん)し給ふ。 此(この)一言に、君も哀(あはれ)とや思召(おぼしめさ)れけん、其(その)後は御尋(おんたづね)もなかりければ、うれしき中に思ひ有(あつ)て、焼野(やけの)の雉(きぎす)の残る叢(くさむら)を命にて、雛(ひな)を育(はごくむ)らむ風情(ふぜい)にて、泣(なく)声をだに人に聞(きか)せじと、口を押(おさ)へ乳(ち)を含(ふくめ)て、同枕(おなじまくら)の忍(しの)びねに、泣明(なきあか)し泣暮(なきくら)して、三年(みとせ)を過(すご)し給(たまひ)し心の中(うち)こそ悲しけれ。 |
|
其後(そののち)建武(けんむ)の乱出来(いでき)て、天下将軍の代(よ)と成(なり)しかば、此(この)人朝(てう)に仕へて、西園寺(さいをんじ)の跡(あと)を継給(つぎたまひ)し、北山の右大将(うだいしやう)実俊(さねとし)卿(きやう)是(これ)也(なり)。さても故(こ)大納言殿(だいなごんどの)滅(ほろ)び給ふべき前表(ぜんべう)のありけるを、木工頭(もくのかみ)孝重(たかしげ)が兼(かね)て聞(きき)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。彼(かの)卿(きやう)謀叛(むほん)の最初(さいしよ)、祈祷(きたう)の為に一七日(ひとなぬか)北野に参篭(さんろう)して、毎夜(まいよ)琵琶(びは)の秘曲(ひきよく)を弾(だん)じ給(たまひ)けるが、七日(なぬか)に満(まん)じける其夜(そのよ)は、殊更(ことさら)聖廟(せいべう)の法楽(ほふらく)に備(そなふ)べき為とや被思けん。月冷(すさまじ)く風秋(ひややか)なる小夜深方(さよふけがた)に、翠簾(すゐれん)を高く捲上(まきあげ)させて、玉樹(ぎよくじゆ)三女の序(じよ)を弾(だん)じ給ふ。 「第一(だいいち)・第二(だいにの)絃(げんは)索々(さくさくたり)秋(あきの)風払松疎韻(そゐん)落(おつ)。第三(だいさん)・第四(だいしの)絃(げんは)冷々(れいれいたり)夜鶴(よるのつる)憶子篭(この)中(うちに)鳴(なく)、絃々(げんげん)掩抑(えんよく)只拍子(ひやうし)に移る。六反(ろくへん)の後(のち)の一曲(いつきよく)、誠(まこと)に嬰児(えいじ)も起(たつ)て舞許(まふばかり)也(なり)。時節(をりふし)木工頭(もくのかみ)孝重(たかしげ)社頭(しやとう)に通夜(つや)して、心を澄(すま)し耳を側(そばだて)て聞(きき)けるが、曲終(はて)て後に、人に向(むかつ)て語りけるは、「今夜の御琵琶(びは)祈願(きぐわん)の御事(おんこと)有(あつ)て遊(あそ)ばさるゝならば、御願(ごぐわん)不可成就。其故(そのゆゑ)は此玉樹(このぎよくじゆ)と申(まうす)曲(きよく)は、昔晉(しん)の平公(へいこう)濮水(ぼくすゐ)の辺(ほとり)を過給(すぎたまひ)けるに、流るゝ水の声に絃管(げんくわん)の響(ひびき)あり。 平公(へいこう)則(すなはち)師涓(しけん)と云(いふ)楽人(がくにん)を召(めし)て、琴(こと)の曲(きよく)に移(うつ)さしむ。其(その)曲殺声(さつせい)にして、聞人(きくひと)泪(なみだ)を不流云(いふ)事(こと)なし。然共(しかれども)平公(へいこう)是(これ)を愛(あい)して、専(もつぱら)楽絃(がくげん)に用(もちゐ)給ひしを、師曠(しくわう)と云(いひ)ける伶倫(れいりん)、此曲(このきよく)を聴(きき)て難(なん)じて奏(そう)しけるは、「君是(これ)を弄(もてあそ)び玉(たま)はゞ、天下一(ひと)たび乱(みだれ)て、宗廟(そうべう)全(まつた)からじ。如何(いかん)となれば、古(いにし)へ殷(いん)の紂王(ちうわう)彼婬声(かのいんせい)の楽(がく)を作(なし)て弄(もてあそ)び給(たまひ)しが、無程周(しう)の武王に被滅給(たまひ)き。其魂魄(そのこんばく)猶(なほ)濮水(ぼくすゐ)の底(そこ)に留(とどまつ)て、此(この)曲を奏(そう)するを、君今新楽(しんがく)に写(うつ)して、是(これ)を翫(もてあそ)び給ふ。鄭声(ていせい)雅(が)を乱(みだ)る故(ゆゑ)に一唱(いつしやう)三歎(さんたん)の曲に非(あら)ず。」と申(まうし)けるが、果(はた)して平公(へいこう)滅(ほろ)びにけり。 |
|
其(その)後此楽(このがく)猶(なほ)止(やま)ずして、陳(ちん)の代(よ)に至る。陳(ちん)の後主(こうしゆ)是(これ)を弄(もてあそん)で、隋(ずゐ)の為に被滅ぬ。隋(ずゐ)の煬帝(やうたい)又是(これ)を翫(もてあそ)ぶ事甚(はなはだしく)して唐(たう)の太宗(たいそう)に被滅ぬ。唐の末(すゑ)の代(よ)に当(あたつ)て、我朝(わがてう)の楽人(がくじん)掃部頭(かもんのかみ)貞敏(さだとし)、遣唐使(けんたうし)にて渡(わたり)たりしが、大唐(だいたう)の琵琶(びは)の博士(はかせ)廉承夫(れんせふふ)に逢(あう)て、此(この)曲を我朝(わがてう)に伝来(でんらい)せり。然(しかれ)ども此(この)曲に不吉の声(ね)有(あり)とて、一手(ひとて)を略(りやく)せる所あり。然(しかる)を其夜(そのよ)の御法楽(ほふらく)に、宗(むね)と此(この)手を引(ひき)給ひしに、然(しか)も殊(こと)に殺発(さつばつ)の声(ね)の聞(きこ)へつるこそ、浅増(あさまし)く覚(おぼ)へ侍(はんべ)りけれ、八音(はちいんと)与政通(つう)ずといへり。大納言殿(だいなごんどの)の御身(おんみ)に当(あたつ)て、いかなる煩(わづらひ)か出来(いでく)らん。」と、孝重(たかしげ)歎(なげき)て申(まうし)けるが、無幾程して、大納言殿(だいなごんどの)此死刑(このしけい)に逢(あひ)給ふ。不思議(ふしぎ)也(なり)ける前相(ぜんさう)也(なり)。 | |
■中前代(なかせんだい)蜂起(ほうきの)事(こと)
今天下一統(いつとう)に帰(き)して、寰中(くわんちゆう)雖無事、朝敵の余党(よたう)猶(なほ)東国に在(あり)ぬべければ、鎌倉(かまくら)に探題(たんだい)を一人をかでは悪(あし)かりぬべしとて、当今(たうぎん)第八の宮(みや)を、征夷将軍になし奉(たてまつ)て、鎌倉(かまくら)にぞ置進(おきまゐら)せられける。足利(あしかが)左馬頭(さまのかみ)直義(ただよし)其執権(そのしつけん)として、東国の成敗(せいばい)を司(つかさど)れども、法令(はふれい)皆(みな)旧(ふるき)を不改。斯(かか)る処に、西園寺(さいをんじの)大納言(だいなごん)公宗(きんむね)卿(きやう)隠謀(いんぼう)露顕(ろけん)して被誅給(たまひ)し時、京都にて旗(はた)を挙(あげ)んと企(くはたて)つる平家の余類共(よるゐども)、皆(みな)東国・北国に逃下(にげくだつ)て、猶其素懐(そのそくわい)を達せん事を謀る。 名越(なごや)太郎時兼(ときかぬ)には、野尻(のじり)・井口(ゐのくち)・長沢・倉満(くらみつ)の者共(ものども)、馳著(はせつき)ける間、越中・能登・加賀の勢共(せいども)、多く与力(よりき)して、無程六千(ろくせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。相摸(さがみ)次郎時行(ときゆき)には、諏訪(すは)三河(みかはの)守(かみ)・三浦(みうらの)介入道・同若狭(わかさの)五郎・葦名(あしな)判官(はうぐわん)入道・那和(なわ)左近(さこんの)大夫(たいふ)・清久(きよくの)山城(やましろの)守(かみ)・塩谷(しほのや)民部(みんぶの)大夫(たいふ)・工藤(くどう)四郎左衛門(しらうざゑもん)已下(いげ)宗(むね)との大名五十(ごじふ)余人(よにん)与(くみ)してげれば、伊豆・駿河(するが)・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共(せいども)不相付云(いふ)事(こと)なし。時行(ときゆき)其(その)勢(せい)を率(そつ)して、五万(ごまん)余騎(よき)、俄に信濃(しなのの)国(くに)に打越(こえ)て、時日(ときひ)を不替則(すなはち)鎌倉(かまくら)へ責上(せめのぼ)りける。 渋河(しぶかは)刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ)・小山(をやま)判官(はうぐわん)秀朝(ひでとも)武蔵(むさしの)国(くに)に出合(いであ)ひ、是(これ)を支(ささへ)んとしけるが、共に、戦(たたかひ)利(り)無(なう)して、両人所々(しよしよ)にて自害(じがい)しければ、其郎従(そのらうじゆう)三百(さんびやく)余人(よにん)、皆両所にて被討にけり。又新田(につた)四郎上野(こうづけの)国(くに)利根川(とねがは)に支(ささへ)て、是(これ)を防(ふせ)がんとしけるも、敵(てき)目(め)に余(あま)る程の大勢なれば、一戦(いつせん)に勢力を被砕、二百(にひやく)余人(よにん)被討にけり。懸(かか)りし後は、時行(ときゆき)弥(いよいよ)大勢に成(なつ)て、既(すで)に三方(さんぱう)より鎌倉(かまくら)へ押寄(おしよす)ると告(つげ)ければ、直義(ただよし)朝臣は事の急(きふ)なる時節(をりふし)、用意(ようい)の兵(つはもの)少(すくな)かりければ、角(かく)ては中々(なかなか)敵に利(り)を付(つけ)つべしとて、将軍の宮(みや)を具足(ぐそく)し奉(たてまつ)て、七月十六日の暁(あかつき)に、鎌倉(かまくら)を落給(おちたまひ)けり。 |
|
■兵部卿宮(ひやうぶきやうのみや)薨御(こうぎよの)事(こと)付(つけたり)干将莫耶(かんしやうばくやが)事(こと)
左馬頭(さまのかみ)既(すで)に山の内を打過給(すぎたまひ)ける時、淵辺(ふちべ)伊賀(いがの)守(かみ)を近付(ちかづけ)て宣(のたまひ)けるは、「御方(みかた)依無勢、一旦(いつたん)鎌倉(かまくら)を雖引退、美濃・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の勢を催(もよほ)して、頓(やが)て又鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)んずれば、相摸次郎時行(ときゆき)を滅(ほろぼ)さん事は、不可回踵。猶も只当家(たうけ)の為に、始終(しじゆう)可被成讎は、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)也(なり)。此御事(このおこと)死刑(しけい)に行(おこな)ひ奉れと云(いふ)勅許(ちよくきよ)はなけれ共(ども)、此次(このついで)に只失(うしなひ)奉らばやと思ふ也(なり)。 御辺(ごへん)は急(いそぎ)薬師堂(やくしだう)の谷(やつ)へ馳帰(はせかへつ)て、宮(みや)を刺殺(さしころ)し進(まゐ)らせよ。」と被下知ければ、淵辺(ふちべ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」とて、山の内(うち)より主従(しゆじゆう)七騎引返(ひきかへ)して宮の坐(ましまし)ける篭(ろう)の御所(ごしよ)へ参(まゐり)たれば、宮はいつとなく闇(やみ)の夜(よ)の如(ごとく)なる土篭(つちろう)の中に、朝(あした)に成(なり)ぬるをも知(しら)せ給はず、猶(なほ)灯(ともしび)を挑(かかげ)て御経あそばして御坐(ござ)有(あり)けるが、淵辺(ふちべ)が御迎(むかひ)に参(まゐり)て候由を申(まうし)て、御輿(おんこし)を庭に舁居(かきす)へたりけるを御覧(ごらん)じて、「汝(なんぢ)は我を失(うしなは)んとの使にてぞ有(ある)らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸(かか)らせ給(たまひ)けるを、淵辺持(もち)たる太刀を取直(とりなほ)し、御膝(おんひざ)の辺(あたり)をしたゝかに奉打。 宮は半年許(ばかり)篭(ろう)の中に居屈(ゐかがま)らせ給(たまひ)たりければ、御足(あし)も快(こころよく)立(たた)ざりけるにや、御心(おんこころ)は八十梟(やたけ)に思召(おぼしめし)けれ共(ども)、覆(うつぶし)に被打倒、起挙(おきあが)らんとし給ひける処を、淵辺(ふちべ)御胸の上に乗(のり)懸り、腰の刀を抜(ぬい)て御頚(おんくび)を掻(かか)んとしければ、宮御頚(おんくび)を縮(ちぢめ)て、刀のさきをしかと呀(くはへ)させ給ふ。淵辺(ふちべ)したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進(まゐ)らせじと、引合ひける間、刀の鋒(きつさき)一寸余(あま)り折(をれ)て失(うせ)にけり。淵辺其(その)刀を投捨(なげすて)、脇差(わきざし)の刀を抜(ぬい)て、先(まず)御心(おんむな)もとの辺(へん)を二刀(ふたかたな)刺(さ)す。被刺て宮少し弱(よわ)らせ給ふ体(てい)に見へける処を、御髪を掴(つかん)で引挙(あ)げ、則(すなはち)御頚(おんくび)を掻(かき)落す。 |
|
篭(ろう)の前に走出(はしりいで)て、明(あか)き所にて御頚(おんくび)を奉見、噬切(くひき)らせ給ひたりつる刀の鋒(きつさき)、未だ御口の中に留(とどまつ)て、御眼(まなこ)猶(なほ)生(いき)たる人の如し。淵辺是(これ)を見て、「さる事あり。加様(かやう)の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側(かたはら)なる薮(やぶ)の中へ投捨(なげすて)てぞ帰りける。去(さる)程(ほど)に御かいしやくの為(ために)、御前(おんまへ)に候(さふら)はれける南(みなみ)の御方(おかた)、此(この)有様を見奉(たてまつ)て、余(あまり)の恐(おそろ)しさと悲しさに、御身(おんみ)もすくみ、手足もたゝで坐(ましま)しけるが、暫(しばらく)肝(きも)を静(しづ)めて、人心付(つき)ければ、薮(やぶ)に捨(すて)たる御頚(おんくび)を取挙(とりあげ)たるに、御膚(おんはだ)へも猶(なほ)不冷、御目も塞(ふさが)せ給はず、只元(もと)の気色(きしよく)に見へさせ給へば、こは若(もし)夢にてや有(あ)らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣悲(なきかなし)み給ひけり。 遥(はるか)に有(あつ)て理致光院(りちくわうゐん)の長老、「斯(かか)る御事(おんこと)と承及(うけたまはりおよび)候。」とて葬礼(さうれい)の御事(おんこと)取営(とりいとな)み給へり。南(みなみ)の御方(おんかた)は、軈(やが)て御髪被落ろて泣々(なくなく)京(きやう)へ上(のぼ)り給ひけり。抑(そもそも)淵辺が宮(みや)の御頚(おんくび)を取(とり)ながら左馬頭(さまのかみ)殿(どの)に見せ奉らで、薮(やぶ)の傍(かたはら)に捨(すて)ける事聊(いささか)思へる所あり。昔周(しう)の末(すゑ)の代(よ)に、楚王(そわう)と云(いひ)ける王、武(ぶ)を以て天下を取らん為に、戦(たたかひ)を習はし剣(けん)を好む事年久し。或(ある)時楚王の夫人(ふじん)、鉄(くろがね)の柱に倚傍(よりそひ)てすゞみ給(たまひ)けるが、心地(ここち)只ならず覚(おぼえ)て忽(たちまちに)懐姙(くわいにん)し玉(たまひ)けり。十月(とつき)を過(すぎ)て後、生産(うぶや)の席(せき)に苦(くるしん)で一(ひとつ)の鉄丸(てつぐわん)を産(うみ)給ふ。楚王是(これ)を怪しとし玉(たま)はず、「如何様(いかさま)是(これ)金鉄の精霊(せいれい)なるべし。」とて、干将(かんしやう)と云(いひ)ける鍛冶(かじ)を被召、此鉄(このくろがね)にて宝剣(はうけん)を作(つくつ)て進(まゐら)すべき由を被仰。干将此鉄(このくろがね)を賜(たまはつ)て、其妻(そのつま)の莫耶(ばくや)と共に呉山(ござん)の中に行(ゆき)て、竜泉(りゆうせん)の水に淬(にぶらし)て、三年が内に雌雄(しゆう)の二剣(にけん)を打出(うちいだ)せり。 |
|
剣成(なつ)て未奏前(さき)に、莫耶(ばくや)、干将(かんしやう)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「此二(このふたつ)の剣(けん)精霊(せいれい)暗(あん)に通じて坐(ゐ)ながら怨敵(をんでき)を可滅剣也(なり)。我(われ)今懐姙(くわいにん)せり。産子(うむこ)は必(かならず)猛(たけ)く勇(いさ)める男なるべし。然れば一(ひとつ)の剣をば楚王に献(たてまつ)るとも今一(ひとつ)の剣をば隠(かく)して我子(わがこ)に可与玉。」云(いひ)ければ、干将(かんしやう)、莫耶(ばくや)が申(まうす)に付(つい)て、其雄剣(そのゆうけん)一(ひとつ)を楚王に献(けん)じて、一(ひとつ)の雌剣(しけん)をば、未だ胎内(たいない)にある子の為に深く隠(かく)してぞ置(おき)ける。楚王雄剣(ゆうけん)を開(ひらい)て見給ふに、誠(まこと)に精霊(せいれい)有(あり)と見へければ、箱の中に収(をさめ)て被置たるに、此剣(このけん)箱の中にして常に悲泣(ひきふ)の声あり。 楚王怪(あやしみ)て群臣(ぐんしん)に其泣(そのなく)故(ゆゑ)を問(とひ)給ふに、臣皆申(まう)さく、「此剣(このけん)必(かならず)雄(ゆう)と雌(し)と二(ふた)つ可有。其(その)雌雄一所(いつしよ)に不在間、是(これ)を悲(かなしん)で泣(なく)者也(なり)。」とぞ奏(そう)しける。楚王大(おほき)に忿(いかつ)て、則(すなはち)干将を被召出、典獄(てんごく)の官に仰(おほせ)て首(くび)を被刎けり。其後(そののち)莫耶(ばくや)子を生(うめ)り。面貌(めんばう)尋常(よのつね)の人に替(かはつ)て長(たけ)の高(たかき)事(こと)一丈(いちぢやう)五尺(ごしやく)、力は五百人(ごひやくにん)が力を合(あは)せたり。面(おもて)三尺(さんじやく)有(あつ)て眉間(みけん)一尺(いつしやく)有(あり)ければ、世の人其(その)名を眉間尺(みけんじやく)とぞ名付(なづけ)ける。年十五に成(なり)ける時、父が書置(かきおき)ける詞(ことば)を見るに、日出北戸(ほつこにいづ)。南山其松。松生於石。剣在其中。と書(かけ)り。さては此剣(このけん)北戸(ほつこ)の柱の中に在(あり)と心得て、柱を破(はつ)て見るに、果(はた)して一(ひとつ)の雌剣(しけん)あり。 |
|
眉間尺(みけんじやく)是(これ)を得て、哀(あはれ)楚王を奉討父の仇(あた)を報ぜばやと思ふ事骨髄(こつずゐ)に徹(とほ)れり。楚王も眉間尺(みけんじやく)が憤(いきどほり)を聞給(ききたまひ)て、彼(か)れ世にあらん程は、不心安被思ければ、数万(すまん)の官軍(くわんぐん)を差遣(さしつかは)して、是(これ)を被責けるに、眉間尺(みけんじやく)一人が勇力(ゆうりき)に被摧、又其雌剣(そのしけん)の刃(やいば)に触れて、死傷する者幾千万(いくせんまん)と云数(いふかず)を不知(しらず)。 斯(かか)る処に、父干将(かんしやう)が古(いにし)への知音(ちいん)なりける甑山人(そうさんじん)来(きたつ)て、眉間尺(みけんじやく)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「我(わ)れ汝(なんぢ)が父干将と交(まじは)りを結ぶ事年久(ひさし)かりき。然れば、其朋友(そのほういう)の恩を謝(しや)せん為、汝と共に楚王を可奉討事を可謀。汝若(もし)父の仇(あた)を報ぜんとならば、持所(もつところ)の剣(けん)の鋒(きつさき)を三寸(さんずん)嚼切(くひきつ)て口の中に含(ふくん)で可死。我(われ)汝が頭(くび)を取(とつ)て楚王に献(けん)ぜば、楚王悦(よろこん)で必(かならず)汝が頭(くび)を見給はん時、口に含(ふく)める剣(けん)のさきを楚王に吹懸(ふきかけ)て、共(ともに)可死。」と云(いひ)ければ、眉間尺(みけんじやく)大(おほき)に悦(よろこん)で、則(すなはち)雌剣(しけん)の鋒(きつさき)三寸(さんずん)喫切(くひきつ)て、口の内に含(ふく)み、自(みづから)己(おのれ)が頭(くび)をかき切(きつ)て、客(かく)の前にぞ指置(さしおき)ける。 客(かく)眉間尺(みけんじやく)が首(くび)を取(とつ)て、則(すなはち)楚王に献(たてまつ)る。楚王大(おほき)に喜(よろこび)て是(これ)を獄門(ごくもん)に被懸たるに、三月まで其頭(そのくび)不爛(ただれず)、■(みはり)目を、切歯を、常に歯喫(はがみ)をしける間、楚王是(これ)を恐(おそれ)て敢(あへ)て不近給。是(これ)を鼎(かなへ)の中(なか)に入れ、七日七夜までぞ被煮(にられ)ける。余(あまり)につよく被煮(にられ)て、此頭(このくび)少し爛(ただれ)て目を塞(ふさ)ぎたりけるを、今は子細(しさい)非(あら)じとて、楚王自(みづから)鼎(かなへ)の蓋(ふた)を開(あけさ)せて、是(これ)を見給(たまひ)ける時、此頭(このくび)、口に含(ふくん)だる剣(けん)の鋒(きつさき)を楚王にはつと奉吹懸。剣(けん)の鋒(きつさき)不誤、楚王の頚の骨(ほね)を切(きり)ければ、楚王の頭(くび)忽(たちまち)に落(おち)て、鼎(かなへ)の中へ入(いり)にけり。 |
|
楚王の頭(くび)と眉間尺(みけんじやく)が首(くび)と、煎揚(にえあが)る湯の中(なか)にして、上(うへ)になり下(した)に成り、喫相(くひあひ)けるが、動(ややもすれ)ば眉間尺(みけんじやく)が頭(くび)は下に成(なつ)て、喫負(くひまけ)ぬべく見へける間、客(かく)自(みづから)己(おのれ)が首(くび)を掻落(かきおとし)て鼎の中(なか)へ投入(なげいれ)、則(すなはち)眉間尺(みけんじやく)が頭(くび)と相共(あいとも)に、楚王の頭(くび)を喫破(くひやぶつ)て、眉間尺(みけんじやく)が頭(くび)は、「死して後(のち)父の怨(あた)を報じぬ。」と呼(よばは)り、客(かく)の頭(くび)は、「泉下(せんか)に朋友(ほういう)の恩を謝(しや)しぬ。」と悦ぶ声して、共に皆煮爛(にえただ)れて失(うせ)にけり。 此(この)口の中に含(ふくん)だりし三寸(さんずん)の剣(けん)、燕(えん)の国に留(とどまつ)て太子丹(たいしたん)が剣(けん)となる。太子丹(たいしたん)、荊軻(けいか)・秦舞陽(しんぶやう)をして秦始皇(しんのしくわう)を伐(うた)んとせし時、自(みづから)差図(さしづ)の箱の中(なか)より飛出(とびいで)て、始皇帝(しくわうてい)を追(おひ)奉りしが、薬の袋を被投懸ながら、口(くち)六尺の銅(あかがね)の柱の半(なか)ばを切(きつ)て、遂(つひ)に三(みつつ)に折(をれ)て失(うせ)たりし匕首(ひしゆ)の剣(けん)是(これ)也(なり)。其雌雄(そのしゆう)二(ふたつ)の剣(けん)は干将莫耶(かんしやうばくや)の剣(けん)と被云て、代々(だいだい)の天子の宝(たから)たりしが、陳代(ちんのよ)に至(いたつ)て俄に失(うせ)にけり。 或(ある)時天に一(ひとつ)の悪星(あくせい)出(いで)て天下の妖(えう)を示す事あり。張華(ちやうくわ)・雷煥(らいくわん)と云(いひ)ける二人(ににん)の臣(しん)、楼台(ろうだい)に上(のぼつ)て此(この)星を見るに、旧獄門(ふるきごくもん)の辺(へん)より剣(けん)の光(ひかり)天に上(のぼつ)て悪星(あくせい)と闘(たたか)ふ気あり。張華怪(あやし)しで光の指(さ)す所を掘(ほら)せて見るに、件(くだん)の干将莫耶(かんしやうばくや)の剣土(つち)五尺(ごしやく)が下(した)に埋(うづも)れてぞ残りける。張華・雷煥是(これ)を取(とつ)て天子に献(たてまつ)らん為に、自(みづから)是(これ)を帯(たい)し、延平津(えんへいしん)と云(いふ)沢(さわ)の辺(へん)を通(とほり)ける時、剣(けん)自(みづから)抜(ぬけ)て水の中(なか)に入(いり)けるが、雌雄(しゆう)二(ふたつ)の竜(りゆう)と成(なつ)て遥(はるか)の浪(なみ)にぞ沈みける。淵辺(ふちべ)加様(かやう)の前蹤(ぜんしよう)を思(おもひ)ければ、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)の刀の鋒(きつさき)を喫切(くひき)らせ給(たまひ)て、御口の中に被含たりけるを見て、左馬(さまの)頭に近付(ちかづけ)奉らじと、其(その)御頚(おんくび)をば薮(やぶ)の傍(かたはら)に棄(すて)けるとなり。 |
|
■足利殿(あしかがどの)東国下向(とうごくげかうの)事(こと)付(つけたり)時行(ときゆき)滅亡(めつばうの)事(こと)
直義(ただよし)朝臣は鎌倉(かまくら)を落(おち)て被上洛(しやうらく)けるが、其路次(そのろし)に於て、駿河(するがの)国(くに)入江庄(いりえのしやう)は、海道第一(だいいち)の難所(なんしよ)也(なり)。相摸次郎が与力(よりき)の者共(ものども)、若(もし)道をや塞(ふさが)んずらんと、士卒(じそつ)皆是(これを)危(あやふく)思へり。依之(これによつて)其所(そのところ)の地頭(ぢとう)入江(いりえ)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)春倫(はるとも)が許(もと)へ使を被遣て、可憑由を被仰たりければ、春倫(はるとも)が一族共(いちぞくども)、関東(くわんとう)再興(さいこう)の時到りぬと、料簡(れうけん)しける者共(ものども)は、左馬(さまの)頭を奉打、相摸次郎殿(さがみじらうどの)に馳参(はせまゐ)らんと云(いひ)けるを、春倫(はるとも)つく/゛\思案(しあん)して、「天下の落居(らくきよ)は、愚蒙(ぐもう)の我等(われら)が可知処に非(あら)ず。只義の向ふ所を思ふに、入江庄(いりえのしやう)と云(いふ)は、本(もと)徳宗領(とくそうりやう)にて有(あり)しを、朝恩(てうおん)に下(くだ)し賜(たまは)り、此(この)二三年が間、一家を顧(かへりみ)る事日来(ひごろ)に勝(まさ)れり。 是(これ)天恩の上(うへ)に猶(なお)義を重ねたり。此(この)時争(いかで)か傾敗(けいはい)の弊(つひえ)に乗(のつ)て、不義の振舞(ふるまひ)を致さん。」とて、春倫(はるとも)則(すなはち)御迎(むかひ)に参じければ、直義(ただよし)朝臣不斜(なのめならず)喜(よろこび)て、頓(やが)て彼等(かれら)を召具(めしぐ)し、矢矯(やはぎ)の宿(しゆく)に陣(ぢん)を取(とつ)て、是(これ)に暫(しばらく)汗馬(かんば)の足を休(やす)め、京都へ早馬(はやむま)をぞ被立ける。依之(これによつて)諸卿議奏(ぎそう)有(あつ)て、急(いそぎ)足利(あしかが)宰相高氏(たかうぢ)卿(きやう)を討手(うつて)に可被下に定(さだま)りけり。 則(すなはち)勅使(ちよくし)を以て、此(この)由を被仰下ければ、相公(しやうこう)勅使(ちよくし)に対して被申けるは、「去(さん)ぬる元弘の乱の始(はじめ)、高氏御方(みかた)に参ぜしに依(よつ)て、天下の士卒(じそつ)皆(みな)官軍(くわんぐん)に属(しよく)して、勝(かつ)事(こと)を一時に決候(けつしさふらひ)き。然(しかれ)ば今一統(いつとう)の御代(みよ)、偏(ひとへ)に高氏が武功(ぶこう)と可云。抑(そもそも)征夷将軍の任(にん)は、代々(だいだい)源平の輩(ともがら)功(こう)に依(よつ)て、其位(そのくらゐ)に居(きよ)する例不可勝計。此(この)一事(いちじ)殊(こと)に為朝為家、望み深き所也(なり)。 次には乱(らん)を鎮(しづ)め治(ち)を致す以謀、士卒(じそつ)有功時節(をりふし)に、賞を行(おこなふ)にしくはなし。若(もし)註進(ちゆうしん)を経(へ)て、軍勢(ぐんぜい)の忠否(ちゆうび)を奏聞(そうもん)せば、挙達(ぎよたつ)道遠(とおく)して、忠戦(ちゆうせん)の輩(ともがら)勇(いさみ)を不可成。然れば暫(しばらく)東(とう)八箇国(はちかこく)の官領(くわんれい)を被許、直(ぢき)に軍勢(ぐんぜい)の恩賞を執行(とりおこな)ふ様(やう)に、勅裁(ちよくさい)を被成下、夜(よ)を日に継(つい)で罷下(まかりくだつ)て、朝敵(てうてき)を退治(たいぢ)仕るべきにて候。若(もし)此(この)両条勅許(ちよくきよ)を蒙(かうむら)ずんば、関東(くわんとう)征罰(せいばつ)の事(こと)、可被仰付他人候。」とぞ被申ける。 |
|
此(この)両条は天下治乱(ちらん)の端(はし)なれば、君も能々(よくよく)御思案(ごしあん)あるべかりけるを、申請(まうしうく)る旨(むね)に任(まかせ)て、無左右勅許(ちよくきよ)有(あり)けるこそ、始終(しじゆう)如何(いかが)とは覚(おぼ)へけれ。但(ただし)征夷将軍の事は関東(くわんとう)静謐(せいひつ)の忠(ちゆう)に可依。東(とう)八箇国(はちかこく)の官領(くわんれい)の事は先(まづ)不可有子細とて、則(すなはち)綸旨(りんし)を被成下ける。是(これ)のみならず、忝(かたじけなく)も天子の御諱(おんいみな)の字(じ)を被下て、高氏(たかうぢ)と名のられける高の字を改めて、尊(そん)の字にぞ被成ける。尊氏(たかうぢ)卿(きやう)東(とう)八箇国(はちかこく)を官領(くわんれい)の所望(しよまう)、輒(たやす)く道行(ゆき)て、征夷将軍の事は今度の忠節(ちゆうせつ)に可依と勅約(ちよくやく)有(あり)ければ、時日(ときひ)を不回関東(くわんとう)へ被下向けり。 吉良(きら)兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)を先立(さきだて)て、我(わが)身は五日引(ひき)さがりて進発(しんばつ)し給(たまひ)けり。都(みやこ)を被立ける日は其(その)勢(せい)僅(わづか)に五百(ごひやく)余騎(よき)有(あり)しか共(ども)、近江(あふみ)・美濃・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の勢馳加(はせくははつ)て、駿河(するがの)国(くに)に著給(つきたまひ)ける時は三万(さんまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)、尊氏(たかうぢ)卿(きやう)の勢を合(あはせ)て五万(ごまん)余騎(よき)、矢矯(やはぎ)の宿(しゆく)より取(とつ)て返して又鎌倉(かまくら)へ発向(はつかう)す。相摸次郎時行(ときゆき)是(これ)を聞(きい)て、「源氏は若干(そくばく)の大勢と聞(きこ)ゆれば、待軍(まちいくさ)して敵に気を呑(のま)れては不叶。先(さきん)ずる時は人を制(せい)するに利(り)有(あり)。」とて、我(わが)身は鎌倉(かまくら)に在(あり)ながら、名越式部(なごやしきぶの)大輔(たいふ)を大将として、東海・東山(とうせん)両道を押(おし)て責上(せめのぼ)る。 其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、八月三日鎌倉(かまくら)を立(たた)んとしける夜(よ)、俄(にはか)に大風吹(ふい)て、家々を吹破(ふきやぶり)ける間、天災(てんさい)を遁(のが)れんとて大仏殿(だいぶつでん)の中へ逃(にげ)入り、各(おのおの)身を縮(ちぢめ)て居(ゐ)たりけるに、大仏殿(だいぶつでん)の棟梁(とうりやう)、微塵(みぢん)に折(を)れて倒(たふ)れける間、其(その)内にあつまり居(ゐ)たる軍兵共五百(ごひやく)余人(よにん)、一人も不残圧(おし)にうてゝ死(し)にけり。戦場(せんぢやう)に趣(おもむ)く門出(かどで)にかゝる天災に逢ふ。此軍(このいくさ)はか/゛\しからじと、さゝやきけれ共(ども)、さて有(ある)べき事ならねば、重(かさね)て日を取り、名越式部(しきぶの)大輔(たいふ)鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、夜(よ)を日(ひ)に継(つい)で路(みち)を急(いそぎ)ける間、八月七日前陣(ぜんぢん)已(すで)に遠江(とほたふみ)佐夜(さよ)の中山(なかやま)を越(こえ)けり。足利相公(あしかがのしやうこう)此由(このよし)を聞給(ききたまひ)て、「六韜(りくたう)の十四変に、敵経長途来急可撃と云へり。是(これ)太公(たいこう)武王に教(をしふ)る所の兵法也(なり)。」とて、同(おなじき)八日の卯刻(うのこく)に平家の陣へ押寄(おしよせ)て、終日(ひねもす)闘(たたかひ)くらされけり。 |
|
平家も此(ここ)を前途(せんど)と心を一(ひとつ)にして相当(あひあた)る事三十(さんじふ)余箇度(よかど)、入替々々(いれかへいれかへ)戦ひけるが、野心(やしん)の兵(つわもの)後(うしろ)に在(あつ)て、跡(あと)より引(ひき)けるに力を失(うしなつ)て、橋本(はしもと)の陣を引退(ひきしりぞ)き、佐夜(さよ)の中山(なかやま)にて支(ささ)へたり。源氏の真前(まつさき)には、仁木(につき)・細河(ほそかわ)の人々、命を義に軽(かろん)じて進みたり。平家の後陣には、諏方(すは)の祝部(はふり)身を恩に報じて、防(ふせぎ)戦ひけり。両陣牙(たがひ)に勇気を励(はげま)して、終日(ひねもす)相戦(あひたたかひ)けるが、平家此(ここ)をも被破(やぶられ)て、箱根(はこね)の水飲(みづのみ)の峠(たうげ)へ引退(ひきしりぞ)く。此(この)山は海道第一(だいいち)の難所(なんしよ)なれば、源氏無左右懸(かか)り得じと思(おもひ)ける処に、赤松(あかまつ)筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)、さしも嶮(けはし)き山路(やまぢ)を、短兵(たんへい)直(ただち)に進んで、敵(てき)の中へ懸入(かけいつ)て、前後(ぜんご)に当り、左右に激(げき)しける勇力に被払て、平家又此(この)山をも支(ささ)へず、大崩(おほくづれ)まで引退(ひきしりぞ)く。 清久(きよく)山城(やましろの)守(かみ)返(かへ)し合(あは)せて、一足(ひとあし)も不引闘(たたかひ)けるが、源氏の兵に被組て、腹(はら)切る間もや無(なか)りけん、其(その)身は忽(たちまち)に被虜、郎従(らうじゆう)は皆被討にけり。路次(ろし)数箇度(すかど)の合戦に打負(うちまけ)て、平家やたけに思へ共(ども)不叶。相摸河を引越(こし)て、水を阻(へだて)て支へたり。時節(をりふし)秋の急雨(しぐれ)一通(ひととほ)りして、河水岸(きし)を浸(ひた)しければ、源氏よも渡(わた)しては懸(かか)らじと、平家少し由断(ゆだん)して、手負(ておひ)を扶け馬を休めて、敗軍(はいぐん)の士(し)を集めんとしける処に、夜に入(いつ)て、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)二千(にせん)余騎(よき)にて上(かみ)の瀬を渡し、赤松(あかまつ)筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)は中(なか)の瀬を渡し、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)と、長井(ながゐ)治部(ぢぶの)少輔は、下(しも)の瀬を渡して、平家の陣の後(うし)ろへ回(まは)り、東西に分れて、同時に時(とき)をどつと作る。 平家の兵(つはもの)、前後(ぜんご)の敵に被囲て、叶はじとや思(おもひ)けん、一戦(いつせん)にも不及、皆鎌倉(かまくら)を指(さし)て引(ひき)けるが、又腰越(こしごえ)にて返(かへ)し合(あは)せて葦名(あしなの)判官(はうぐわん)も被討にけり。始(はじめ)遠江(とほたふみ)の橋本(はしもと)より、佐夜(さよ)の中山(なかやま)・江尻(えじり)・高橋・箱根山・相摸(さがみ)河・片瀬(かたせ)・腰越(こしごえ)・十間坂(じつけざか)、此等(これら)十七(じふしち)箇度(かど)の戦ひに、平家二万(にまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は疵(きず)を蒙(かうむ)りて、今僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成(なり)ければ、諏方(すは)三河(みかはの)守(かみ)を始(はじめ)として宗(むね)との大名四十三人(しじふさんにん)、大御堂(おほみだう)の内に走入(はしりい)り、同(おなじ)く皆自害(じがい)して名を滅亡(めつばう)の跡(あと)にぞ留(とど)めける。 |
|
其死骸(そのしがい)を見るに、皆面の皮を剥(はい)で何(いづ)れをそれとも見分(みわけ)ざれば、相摸次郎時行(ときゆき)も、定(さだめ)て此(この)内にぞ在(ある)らんと、聞(きく)人哀(あは)れを催(もよほ)しけり。三浦介(みうらのすけ)入道一人は、如何(いかが)して遁(のが)れたりけん、尾張(をはりの)国(くに)へ落(おち)て、舟より挙(あが)りける所を、熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)是(これ)を生捕(いけどつ)て京都へ上(のぼ)せければ、則(すなはち)六条河原(ろくでうかはら)にて首を被刎けり。是(これ)のみならず、平家再興の計略(けいりやく)、時や未だ至(いた)らざりけん、又天命にや違(たが)ひけん。名越(なごや)太郎時兼(ときかぬ)が、北陸道(ほくろくだう)を打順(したが)へて、三万(さんまん)余騎(よき)にて京都へ責上(せめのぼり)けるも、越前と加賀との堺(さかひ)、大聖寺(だいしやうじ)と云(いふ)所にて、敷地(しきぢ)・上木(うへき)・山岸・瓜生(うりふ)・深町(ふかまち)の者共(ものども)が僅(わづか)の勢(せい)に打負(うちまけ)て、骨(ほね)を白刃(はくじん)の下に砕(くだ)き、恩を黄泉(くわうせん)の底(そこ)に報ぜり。 時行(ときゆき)は已(すで)に関東(くわんとう)にして滅(ほろ)び、時兼(ときかぬ)は又北国にて被討し後(のち)は、末々(すゑずゑ)の平氏共(へいじども)、少々(せうせう)身を隠(かく)し貌(かたち)を替(かへ)て、此(ここ)の山(やま)の奥(おく)、彼(かしこ)の浦の辺にありといへ共(ども)、今は平家の立直(たちなほ)る事難有とや思(おもひ)けん、其(その)昔を忍(しの)びし人も皆怨敵(をんてき)の心を改(あらため)て、足利相公(あしかがのしやうこう)に属(しよく)し奉らずと云(いふ)者無(なか)りけり。さてこそ、尊氏(たかうぢ)卿(きやう)の威勢(ゐせい)自然(じねん)に重く成(なつ)て、武運(ぶうん)忽(たちまち)に開けゝれば、天下又武家の世とは成(なり)にけり。 |
|
■太平記 巻第十四 | |
■新田(につた)足利(あしかが)確執(かくしつ)奏状(そうじやうの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に足利宰相尊氏(たかうぢ)卿(きやう)は、相摸次郎時行を退治して、東国軈(やが)て静謐(せいひつ)しぬれば、勅約の上は何(なん)の子細(しさい)か可有とて、未だ宣旨(せんじ)をも不被下、押(おし)て足利征夷将軍とぞ申(まうし)ける。東(とう)八箇国(はちかこく)の官領(くわんれい)の事は、勅許有(あり)し事なればとて、今度箱根(はこね)・相摸河にて合戦の時、有忠輩(ともがら)に被行恩賞。先立(さいだつて)新田の一族共(いちぞくども)拝領したる東国の所領共を、悉く闕所(けつしよ)に成して、給人(きふにん)をぞ被付ける。義貞朝臣(あそん)是(これ)を聞(きき)て安からぬ事に被思ければ、其替(そのかは)りに我(わが)分国、越後・上野(かうづけ)・駿河(するが)・播磨(はりま)などに足利(あしかが)の一族共(いちぞくども)の知行(ちぎやう)の庄園を押(おさ)へて、家人共(けにんども)にぞ被行ける。依之(これによつて)新田・足利中悪(なかあしく)成(なつ)て、国々の確執無休時。其根元(そのこんげん)を尋ぬれば、去(さん)ぬる元弘の初(はじめ)義貞鎌倉(かまくら)を責亡(せめほろぼ)して、功(こう)諸人に勝(すぐ)れたりしかば、東国の武士共(ぶしども)は皆我下(わがした)より可立と被思ける処に、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の二男千寿王(せんじゆわう)殿(どの)三歳に成(なり)給しが、軍(いくさ)散(さん)じて六月三日下野(しもつけの)国(くに)より立帰(たちかへつ)て、大蔵(おほくら)の谷(やつ)に御坐(おはしま)しける。 又尊氏(たかうぢの)卿(きやう)都にて抽賞(ちうしやう)異他なりと聞(きこ)へて、是(これ)を輒(たやす)く上聞(しやうぶん)にも達し、恩賞にも預(あづか)らんと思(おもひ)ければ、東(とう)八箇国(はちかこく)の兵共(つはものども)、心替りして、太半(たいはん)は千寿王殿(せんじゆわうどの)の手にぞ付(つき)たりける。加之(しかのみならず)義貞若宮(わかみや)の拝殿に坐(おは)して、頚共(くびども)実検し、御池(みいけ)にて太刀・長刀を洗ひ、結句(けつく)神殿を打破(うちやぶつ)て、重宝(ちようはう)共(ども)を被見(ひけん)し給(たまふ)に、錦の袋に入(いり)たる二引両(ふたつひきりやう)の旗あり。「是(これ)は曩祖(なうそ)八幡殿(はちまんどの)、後三年(ごさんねん)の軍(いくさ)の時、願書(ぐわんじよ)を添(そへ)て被篭し御旌(はた)也(なり)。奇特(きどく)の重宝(ちようはう)と云(いひ)ながら、中黒(なかぐろ)の旌(はた)にあらざれば、当家(たうけ)の用に無詮。」と宣(のたまひ)けるを、足利殿(あしかがどの)方(がた)の人是(これ)を聞(きき)て彼旌(かのはた)を奉乞。 |
|
義貞此旌(このはた)不出しかば、両家(りやうけの)確執合戦に及(およ)ばんとしけるを、上聞(しやうぶん)を恐憚(おそれはばかつ)て黙止(もだし)けり。加様(かやう)の事共(ことども)重畳有(ちようでふあり)しかば、果して今、新田・足利一家の好(よし)みを忘れ怨讎(をんしう)の思(おもひ)をなし、互に亡(ほろぼ)さんと牙(きば)を砥(とぐ)の志顕(あらは)れて、早(はや)天下の乱(らん)と成(なり)にけるこそ浅猿(あさまし)けれ。依之(これによつて)讒口(ざんこう)傍(かたは)らに有(あつ)て、乱真事多かりける中に、今度尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、相摸次郎時行(ときゆき)が討手を承(うけたまはつ)て平関東(くわんとう)後(のち)、今隠謀(いんぼう)の企(くはだて)ある由叡聞に達しければ、主上(しゆしやう)逆鱗(げきりん)有(あり)て、「縦(たとひ)其(その)忠功莫太(ばくだい)なりとも、不義を重(かさね)ば可為逆臣条(でう)勿論(もちろん)也(なり)。則(すなはち)追伐(つゐばつ)の宣旨(せんじ)を可被下。」と御憤有(いきどほりあり)けるを、諸卿僉議(せんぎ)有(あつ)て、「尊氏が不義雖達叡聞未知其実罪の疑(うたがは)しきを以て、功の誠(まこと)あるを被棄事は非仁政。」親房(ちかふさ)・公明(きんあきら)、頻(しきり)に諌言(かんげん)を被上しかば、さらば法勝寺(ほつしようじ)の慧鎮(ゑちん)上人を鎌倉(かまくら)へ奉下、事の様(やう)を可尋窮定まりにけり。慧鎮(ゑちん)上人奉勅関東(くわんとう)へ下らんと欲給(ほつしたまひ)ける其(その)日(ひ)、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)細河阿波(あはの)守(かみ)和氏(かずうぢ)を使にて、一紙(いつし)の奏状(そうじやう)を被捧たり。 | |
其(その)状(じやうに)曰(いはく)、参議従三位(じゆさんみ)兼武蔵守源朝臣尊氏誠恐誠惶謹言。請早誅罰義貞朝臣一類(いちるゐ)致天下泰平状右謹考往代列聖徳四海(しかい)、無不賞顕其忠罰当其罪。若其道違則讒雖建草創遂不得守文。肆君子所慎、庸愚所軽也(なり)。去元弘之初、東藩武臣恣振逆頻無朝憲。禍乱起于茲国家不獲安。爰尊氏以不肖之身麾同志之師。自是定死於一途士、運倒戈之志、卜勝於両端輩、有与議之誠。聿振臂致一戦(いつせん)之(の)日、得勝於瞬目之中、攘敵於京畿之外。此時義貞朝臣有忿鶏肋之貪心戮鳥使之急課。其罪大而無拠逋身。不獲止軍起不慮。尊氏已於洛陽聞退逆徒之者、履虎尾就魚麗。義貞始以誅朝敵為名。而其実在窮鼠却噛猫闘雀不辞人。斯日義貞三戦不得勝、屈而欲守城深壁之処、尊氏長男義詮為三歳幼稚大将、起下野国。其威動遠、義卒不招馳加。義貞嚢沙背水之謀一成而大得破敵。是則戦雖在他功隠在我。而義貞掠上聞貪抽賞、忘下愚望大官、世残賊国蠹害也(なり)。不可不誡之。今尊氏再為鎮先亡之余殃、久苦東征之間。佞臣在朝讒口乱真。是偏生於義貞阿党裏。豈非趙高謀内章邯降楚之謂乎。大逆之基可莫甚於是焉。兆前撥乱武将所全備也(なり)。乾臨早被下勅許、誅伐彼逆類、将致海内之安静、不堪懇歎之至。尊氏誠惶誠恐謹言。建武(けんむ)二年十月日とぞ被書たりける。 此(この)奏状(そうじやう)未だ内覧にも不被下ければ、遍(あまね)く知(しる)人も無(なき)処に、義貞朝臣是(これ)を伝聞(つたへきき)て、同(おなじく)奏状をぞ上(たてまつり)ける。其詞(そのことばに)曰(いはく)、従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞誠惶誠恐謹言。請早誅伐逆臣尊氏直義等徇天下状右謹案当今聖主経緯天地、徳光古今、化蓋三五。所以神武揺鋒端聖文定宇宙也(なり)。爰有源家末流之昆弟尊氏直義、不恥散木之陋質、並蹈青雲之高官。聴其所功、堪拍掌一咲。太平初山川震動、略地拉敵。南有正成、西有円心。加之四夷蜂起、六軍虎窺。此時尊氏随東夷命尽族上洛(しやうらく)。潛看官軍(くわんぐん)乗勝、有意免死。然猶不決心於一偏、相窺運於両端之処、名越尾張(をはりの)守高家、於戦場墜命之後、始与義卒軍丹州。天誅革命之日、忽乗鷸蚌之弊快為狼狽之行。若夫非義旗約京高家致死者、尊氏独把斧鉞当強敵乎。退而憶之、渠儂忠非彼、須羞愧亡卒之遺骸。今以功微爵多、頻猜義貞忠義。剰暢讒口之舌、巧吐浸潤之譖。其愬無不一入邪路。義貞賜朝敵御追罰(ついばつ)倫旨初起于上野者五月八日也(なり)。尊氏付官軍(くわんぐん)殿攻六波羅(ろくはら)同月七日也(なり)。都鄙相去八百(はつぴやく)余里(より)、豈一日中得伝言哉(かな)。而義貞京洛听敵軍破挙旌之(の)由(よし)載于上奏、謀言乱真、豈禁乎。其罪一。尊氏長男義詮才率百(ひやく)余騎(よき)勢(せい)還入鎌倉(かまくら)者、六月三日也(なり)。 |
|
義貞随百万騎士、立亡凶党者、五月二十二日也(なり)。而義詮為三歳幼稚之大将致合戦之(の)由(よし)、掠上聞之条、雲泥万里之差違、何足言。其罪二。仲時(なかとき)・時益等敗北之後、尊氏未被勅許、自専京都之法禁誅親王(しんわう)之(の)卒伍、非司行法之咎、太以不残。其罪三。兵革後蛮夷未心服、本枝猶不堅根之間、奉下竹苑於東国、已令苦柳営于塞外之処、尊氏誇超涯皇沢、欲与立。僭上無礼之過無拠遁。其罪四。前亡余党纔存揚蟷螂忿之日、尊氏申賜東(とう)八箇国(はちかこく)管領不叙用以往勅裁、養寇堅恩沢、害民事利欲。違勅悖政之逆行、無甚於是。其罪五。天運循環雖無不往而還、成敗帰一統(いつとう)、大化伝万葉、偏出于兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)智謀。而尊氏構種々讒、遂奉陥流刑訖。讒臣乱国、暴逆誰不悪之。其罪六。親王(しんわう)贖刑事、為l押侈帰正而已。古武丁放桐宮、豈非此謂乎。而尊氏■(かだましく)仮宿意於公議外、奉苦尊体於囹圄中、人面獣心之積悪、是可忍也(なり)。 孰不可忍乎。其罪七。直義朝臣劫相摸次郎時行軍旅、不戦而退鎌倉(かまくら)之(の)時、窃遣使者奉誅兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)、其意偏在将傾国家之端。此事隠雖未達叡聞、世之所知遍界何蔵。大逆無道之甚千古未聞此類。其罪八。斯八逆(はちぎやく)者、乾坤且所不容其身也(なり)。若刑措不用者、四維方絶八柱再傾可無益噬臍。抑義貞一挙(いつきよ)大軍百戦破堅、万卒死而不顧、退逆徒於干戈下、得静謐於尺寸中。与尊氏附驥尾超険雲、控弾丸殺篭鳥、大功所建、孰与綸言所最矣。尊氏漸為奪天威、憂義士在朝請誅義貞。与義貞傾忠心尽正義、為朝家軽命、先勾萌奏罰尊氏。国家用捨、孰与理世安民之政矣。望請乾臨明照中正、加断割於昆吾利、可令討罰尊氏・直義以下逆党等之(の)由(よし)、下賜宣旨、忽払浮雲擁弊将輝白日之余光。義貞誠惶誠恐謹言。建武二年十月日とぞ被書たりける。 則(すなはち)諸卿参列して、此(この)事(こと)如何(いかが)可有と僉議(せんぎ)有(あり)けれ共(ども)、大臣は重禄閉口、小臣は憚聞不出言処に、坊門(ばうもんの)宰相清忠(きよただ)進出(すすみいで)て、被申けるは、「今両方の表奏(へうそう)を披(ひらい)て倩(つらつら)案一致之道理、義貞が差申(さしまうす)処之尊氏が八逆(はちぎやく)、一々に其(その)罪不軽。就中(なかんづく)兵部(ひやうぶ)卿(きやう)親王(しんわう)を奉禁殺由初(はじめ)て達上聞。此(この)一事(いちじ)申(まうす)処実(まこと)ならば尊氏・直義等(ただよしら)罪責(ざいせき)難遁。但(ただし)以片言獄訟事、卒爾(そつじ)に出(いで)て制すとも不可止。暫(しばらく)待東説実否尊氏が罪科を可被定歟(か)。」と被申ければ、諸卿皆此(この)儀に被同、其(その)日(ひ)の議定(ぎてい)は終(はて)にけり。 |
|
懸(かか)る処に大塔宮(おほたふのみや)の御介妁(ごかいしやく)に付進(つきまゐら)せ給(たまひ)し南の御方(おかた)と申(まうす)女房、鎌倉(かまくら)より帰り上(のぼり)て、事の様(やう)有(あり)の侭(まま)に奏し申させ給(たまひ)ければ、「さては尊氏・直義が反逆(ほんぎやく)無子細けり。」とて、叡慮(えいりよ)更に不穏。是(これ)をこそ不思議(ふしぎ)の事と思食(おぼしめ)す処に、又四国・西国より、足利殿(あしかがどの)の成(なさ)るゝ軍勢(ぐんぜい)催促の御教書(みげうしよ)とて数十通(すじつつう)進覧(しんらん)す。就之諸卿重(かさね)て僉議(せんぎ)有(あつ)て、「此(この)上は非疑処。急に討手を可被下。」とて、一宮(いちのみや)中務(なかつかさ)卿(きやう)親王(しんわう)を東国の御管領(ごくわんれい)に成し奉り、新田(につた)左兵衛(ひやうゑの)督(かみ)義貞を大将軍に定(さだめ)て国々の大名共(だいみやうども)をぞ被添ける。元弘の兵乱の後、天下一統(いつとう)に帰(き)して万民(ばんみん)無事に誇(ほこる)といへども、其弊(そのつひえ)猶残(のこつ)て四海(しかい)未だ安堵(あんど)の思(おもひ)を不成処に、此(この)事(こと)出来(いでき)て諸国の軍勢共(ぐんぜいども)催促に随へば、こは如何(いか)なる世中(よのなか)ぞやとて、安き意(こころ)も無(なか)りけり。 | |
■節度使(せつどし)下向(げかうの)事(こと)
懸(かかり)ける程(ほど)に、十一月八日新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞朝臣、朝敵追罰(つゐばつ)の宣旨(せんじ)を下(くだ)し給(たまはつ)て、兵(つはもの)を召具(めしぐ)し参内(さんだい)せらる。馬・物具(もののぐ)誠(まこと)に爽(さわやか)に勢(いきほ)ひ有(あつ)て被出立たり。内弁・外弁(けべん)・八座(はちざ)・八省、階下に陣を張り、中議(ちゆうぎ)の節会(せちゑ)被行て、節度(せつど)を被下。治承(ぢしよう)四年に、権亮(ごんのすけ)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)惟盛(これもり)を、頼朝進罰(しんばつ)の為に被下時、鈴許(すずばかり)給(たまは)りたりしは不吉(ふきつ)の例なればとて、今度は天慶(てんぎやう)・承平(しようへい)の例をぞ被追ける。義貞節度(せつど)を給(たまはつ)て、二条河原(にでうがはら)へ打出(うちいで)て、先(まづ)尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の宿所二条(にでう)高倉(たかくら)へ舟田(ふなた)入道を指向(さしむけ)て、時(とき)の声を三度(さんど)挙(あげ)させ、流鏑(かぶら)三矢(みすぢ)射させて、中門(ちゆうもん)の柱を切(きり)落す。 是(これ)は嘉承(かしよう)三年讚岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が、義親(よしちか)進討(しんたう)の為に出羽(ではの)国(くに)へ下(くだり)し時の例也(なり)とぞ聞へし。其後(そののち)一宮(いちのみや)中務卿親王(しんわう)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて三条河原(さんでうがはら)へ打出(うちいで)させ給(たまひ)たるに、内裏(だいり)より被下たる錦の御旌(おんはた)を指上(さしあげ)たるに、俄に風烈(はげし)く吹(ふい)て、金銀にて打(うつ)て著(つけ)たる月日の御紋(ごもん)きれて、地に落(おち)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。是(これ)を見る者、あな浅猿(あさまし)や、今度御合戦はか/゛\しからじと、忌(いみ)思はぬ者は無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に同日の午刻(うまのこく)に、大将新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞都(みやこ)を立(たち)給ふ。元弘の初(はじめ)に、此(この)人さしもの大敵を亡(ほろぼ)して忠功人に超(こえ)たりしかども、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)君に咫尺(しせき)し給(たまふ)に依(よつ)て抽賞さまでも無(なか)りしが、陰徳(いんとく)遂(つひ)に露(あらはれ)て、今天下の武将に備(そなは)り給(たまひ)ければ、当家も他家も推並(おしなべ)て偏執(へんしゆ)の心を失ひつゝ、付(つき)不随云(いふ)者無(なか)りけり。 |
|
先(まづ)当家の一族(いちぞく)には、舎弟脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助(よしすけ)・式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治(よしはる)・堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満・錦折(にしきをり)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・里見伊賀(いがの)守(かみ)・同(おなじき)大膳(だいぜんの)亮(すけ)・桃井(もものゐ)遠江守(とほたふみのかみ)・鳥山(とりやま)修理(しゆりの)亮(すけ)・細屋(ほそや)右馬助(うまのすけ)・大井田(おゐだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)・大嶋讚岐守(さぬきのかみ)・岩松民部(みんぶの)大輔(たいふ)・篭沢(こもりざわ)入道・額田掃部(ぬかだかもんの)助(すけ)・金谷(かなや)治部(ぢぶの)少輔(せう)・世良田兵庫(せらたひやうごの)助(すけ)・羽川(はねかは)備中(びつちゆうの)守(かみ)・一井(いちのゐ)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・堤宮内(つつみくない)卿(きやうの)律師(りつし)・田井蔵人(たゐくらうどの)大夫(たいふ)、是等(これら)を宗(むね)との一族(いちぞく)として末々の源氏三十(さんじふ)余人(よにん)其(その)勢(せい)都合(つがふ)七千(しちせん)余騎(よき)、大将之前後に打囲(うちかこう)たり。 他家の大名には、千葉(ちばの)介貞胤(さだたね)・宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)公綱(きんつな)・菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)・大友(おほとも)左近(さこんの)将監(しやうげん)・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・大内新介(おほちしんすけ)・佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)高貞・同加治(かぢ)源太左衛門・熱田摂津(あつたのつの)大宮司(だいぐうじ)・愛曾(あそ)伊勢(いせの)三郎・遠山加藤(かとう)五郎・武田(たけだの)甲斐(かひの)守(かみ)・小笠原(をがさはら)信濃(しなのの)守(かみ)・高山遠江守(とほたふみのかみ)・河越(かはごえ)三河守・皃玉庄左衛門・杉原下総(しもふさの)守(かみ)・高田薩摩(さつまの)守(かみ)義遠・藤田三郎左衛門・難波(なんば)備前(びぜんの)守(かみ)・田中三郎衛門・舟田(ふなた)入道・同長門(ながとの)守(かみ)・由良(ゆら)三郎左衛門・同美作(みまさかの)守(かみ)・長浜六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・山上(やまがみ)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・波多野(はだの)三郎・高梨・小国(をくに)・河内(かはち)・池・風間(かざま)、山徒(さんと)には道場坊、是等(これら)を宗(むね)との兵(つはもの)として諸国の大名三百二十(さんびやくにじふ)余人(よにん)、其(その)勢(せい)都合(つがふ)六万(ろくまん)七千(しちせん)余騎(よき)、前陣已(すで)に尾張(をはり)の熱田(あつた)に著(つき)ければ後陣(ごぢん)は未だ相坂(あふさか)の関、四宮河原(しのみやがはら)に支(ささへ)たり。 |
|
東山道(とうせんだう)の勢(せい)は搦手(からめて)なれば、大将に三日引下(ひきさがつ)て都を立(たち)けり。其(その)大将には、先(まづ)大智院宮(だいちゐんのみや)・弾正尹宮(だんじやうのゐんのみや)・洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・持明院(ぢみやうゐん)兵衛(ひやうゑの)督(かみ)入道々応(だうおう)・園(そのの)中将(ちゆうじやう)基隆(もとたか)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為冬(ためふゆ)、侍(さぶらひ)大将には、江田(えだ)修理亮(しゆりのすけ)行義(ゆきよし)・大館(おほたち)左京(さきやうの)大夫(たいふ)氏義・嶋津上総(かづさの)入道・同筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)・饗庭(あいば)・石谷(いしがえ)・猿子(ましこ)・落合・仁科(にしな)・伊木(いぎ)・津志(つし)・中村・々上・纐纈(かうけつ)・高梨・志賀・真壁(まかべの)十郎・美濃(みのの)権(ごんの)介助重(すけしげ)、是等(これら)を宗(むね)との侍として其(その)勢(せい)都合(つがふ)五千(ごせん)余騎(よき)、黒田の宿(しゆく)より東山道(とうせんだう)を経(へ)て信濃(しなのの)国(くに)へ入(いり)ければ、当国の国司(こくし)堀河中納言二千(にせん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。 其(その)勢(せい)を合せて一万(いちまん)余騎(よき)、大井(おほゐ)の城を責落(せめおと)して同時に鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)んと、大手(おほて)の相図(あひづ)をぞ待(まち)たりける。討手(うつて)の大勢(おほぜい)已(すで)に京を立(たち)ぬと鎌倉(かまくら)へ告(つげ)ける人多ければ、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)・仁木(につき)・細河・高(かう)・上杉の人々、将軍の御前(おんまへ)へ参じて、「已(すで)に御一家傾(かたぶけ)申されん為に、義貞を大将にて、東海・東山(とうせん)の両道より攻下(せめくだり)候なる。敵に難所(なんしよ)を被超なば、防戦(ふせぎたたかふ)共(とも)甲斐有(ある)まじ。急(いそぎ)矢矯(やはぎ)・薩■山(さつたやま)の辺(へん)に馳向(はせむかつ)て、御支(ささへ)候へかし。」と被申ければ、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)黙然(もくねん)として暫(しばし)は物も不宣。 |
|
良(やや)有(あつ)て、「我(われ)譜代弓箭(ふたいきゆうせん)の家に生れ、僅(わづか)に源氏の名を残すといへ共(ども)、承久(しようきう)以来(よりこのかた)相摸守(さがみのかみ)が顧命(こめい)に随(したがつ)て汚家羞名恨(うらみ)を積(つん)だりしを、今度継絶職達征夷将軍望、興廃位極従上三品。是(これ)臣が依微功いへども、豈(あに)非君厚恩哉(かな)。戴恩忘恩事は為人者所不為也(なり)。抑(そもそも)今君の有逆鱗処は、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)を奉失たると、諸国へ軍勢(ぐんぜい)催促の御教書(みげうしよ)を下(くだ)したると云(いふ)両条の御咎(とが)め也(なり)。是(これ)一(ひとつ)も尊氏が所為(しわざ)に非(あら)ず。此(この)条々謹(つつしん)で事の子細を陳(ちんじ)申さば、虚名(きよめい)遂(つひ)に消(きえ)て逆鱗(げきりん)などか静かならざらん。旁(かたがた)は兎(と)も角(かく)も身の進退(しんたい)を計ひ給へ。於尊氏向君奉(たてまつり)て引弓放矢事不可有。さても猶(なほ)罪科無所遁、剃髪染衣(ていほつぜんえ)の貌(かたち)にも成(なつ)て、君の御為に不忠を不存処を、子孫の為に可残。」と気色(きしよく)を損じて宣(のたまひ)もはてず、後(うしろ)の障子(しやうじ)を引立(ひきたて)て、内へぞ入給(いりたまひ)ける。 懸(かか)りしかば、甲冑(かつちう)を帯(たい)して参集(まゐりあつまり)たる人々、皆興を醒(さま)して退出(たいしゆつ)し、思(おもひ)の外(ほか)なる事哉(かな)と私語(ささや)かぬ者ぞ無(なか)りける。角(かく)て一両日(いちりやうにち)を過(すぎ)ける処に、討手の大将一宮(いちのみや)を始め進(まゐら)せて、新田(につた)の人々三河・遠江まで進(まゐり)ぬと騒ぎければ、上杉兵庫入道々勤(だうきん)・細河阿波(あはの)守(かみ)和氏(かずうぢ)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)、左馬(さまの)頭(かみ)殿(との)の御方(おんかた)へ参(まゐつ)て、「此(この)事(こと)如何(いかが)可有。」と評定(ひやうぢやう)しけるに、「将軍の仰(おほせ)もさる事なれども、如今公家(くげ)一統(いつとう)の御代(みよ)とならんには、天下の武士は、指(さし)たる事もなき京家(きやうけ)の人々に付順(つきしたがひ)て、唯(ただ)奴婢僕従(ぬびぼくじゆう)の如(ごとく)なるべし。是(これ)諸国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)の心に憤(いきどほ)り、望(のぞみ)を失(うしなふ)といへども、今までは武家(ぶけの)棟梁(とうりやう)と成(なり)ぬべき人なきに依(よつ)て、心ならず公家に相順(あひしたがふ)者也(なり)。されば此(この)時御一家の中に思召(おぼしめ)し立(たつ)御事(おんこと)ありと聞(きき)たらんに、誰か馳参(はせまゐら)で候べき。 |
|
是(これ)こそ当家(たうけ)の御運の可開初(はじめ)にて候へ。将軍も一往(いちわう)の理(り)の推(おす)処を以(もつて)加様(かやう)に仰(おほせ)候とも、実(まこと)に御身(おんみ)の上に禍(わざはひ)来らばよもさては御座(おはしまし)候はじ。兎(と)やせまし角(かく)や可有と長僉議(ながせんぎ)して、敵に難所(なんじよ)を越(こ)されなば後悔すとも益(えき)あるまじ。将軍をば鎌倉(かまくら)に残し留(と)め奉(たてまつ)て左馬(さまの)頭(かみ)殿(との)御向(むかひ)候へ。我等(われら)面々に御供仕(つかまつつ)て、伊豆(いづ)・駿河辺(するがへん)に相支(あひささ)へ、合戦仕(つかまつつ)て運の程を見候はん。」と被申ければ、左馬(さまの)頭直義朝臣不斜(なのめならず)喜(よろこん)で、軈(やが)て鎌倉(かまくら)を打立(うつたつ)て、夜を日に継(つい)で被急けり。 相(あひ)随ふ人々には、吉良(きら)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・子息三河(みかはの)三郎・石堂(いしたう)入道・其(その)子中務(なかつかさの)大輔(たいふ)・同右馬(うまの)頭(かみ)・桃井修理亮(もものゐしゆりのすけ)、上杉伊豆(いづの)守(かみ)・同民部(みんぶの)大輔(たいふ)・細河陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)・同形部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春(よりはる)・同式部(しきぶの)大夫(たいふ)繁氏(しげうぢ)・畠山(はたけやま)左京(さきやうの)大夫(たいふ)国清・同宮内少輔(くないのせう)・足利尾張(をはりの)右馬(うまの)頭高経(たかつね)・舎弟式部(しきぶの)大夫(たいふ)時家・仁木(につき)太郎頼章(よりあきら)・舎弟二郎義長(よしなが)・今河修理(しゆりの)亮・岩松禅師(ぜんじ)頼有(らいう)・高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)・同豊前(ぶぜんの)守(かみ)・南部(なんぶ)遠江守(とほたふみのかみ)・ 同備前(びぜんの)守(かみ)・同駿河(するがの)守(かみ)・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)、外様(とざま)の大名には、小山(をやまの)判官(はうぐわん)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)・舎弟五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じやう)・三浦因幡(いなばの)守(かみ)・土岐弾正少弼(ときだんじやうのせうひつ)頼遠・舎弟道謙(だうけん)・宇都宮(うつのみや)遠江守(とほたふみのかみ)・佐竹左馬(さまの)頭(かみ)義敦(よしあつ)・舎弟常陸(ひたちの)守(かみ)義春・小田中務(をたなかつかさの)大輔(たいふ)・武田(たけだの)甲斐(かひの)守(かみ)・河超(かはこえ)三河(みかはの)守(かみ)・狩野(かのの)新介(しんすけ)・高坂(かうさか)七郎・松田・河村・土肥(とひ)・土屋(つちや)、坂東(ばんとう)の八平氏、武蔵(むさしの)七党(しちたう)を始(はじめ)として、其(その)勢(せい)二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)、十一月二十日鎌倉(かまくら)を打立(うつたつ)て、同(おなじき)二十四日三河(みかはの)国(くに)矢矯(やはぎ)の東宿(ひがししゆく)に著(つき)にけり。 |
|
■矢矧(やはぎ)、鷺坂(さぎさか)、手超河原(てごしかはら)闘(たたかひの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に十一月二十五日の卯刻(うのこく)に、新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助、六万(ろくまん)余騎(よき)にて矢矧河(やはぎがは)に推寄(おしよせ)、敵の陣を見渡せば、其(その)勢(せい)二三十万騎(にさんじふまんぎ)もあるらんと覚敷(おぼしく)て、自河東(ひがし)、橋の上下(かみしも)三十(さんじふ)余町(よちやう)に打囲(うちかこん)で、雲霞(うんか)の如(ごとく)に充満(みちみち)たり。 左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞、長浜六郎左衛門(ろくらうざゑもんの)尉(じやう)を呼(よび)て、「此(この)河何(いづ)くか渡(わたり)つべき処ある、委(くはし)く見て参れ。」と宣(のたまひ)ければ、長浜六郎左衛門(ろくらうざゑもん)只一騎河の上下(かみしも)を打廻(うちまは)り、軈(やが)て馳帰(はせかへつ)て申(まうし)けるは、「此(この)河の様(やう)を見候に、渡(わたり)つべき所は三箇所(さんかしよ)候へ共(ども)、向(むかひ)の岸高(たかく)して屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如くなるに、敵鏃(やじり)を汰(そろへ)て支(ささへ)て候。されば此方(こなた)より渡(わたつ)ては、中々(なかなか)敵に利(り)を被得存(ぞんじ)候。只且(しばらく)河原面(かはらおもて)に御磬(ひかへ)候(さふらひ)て敵を被欺ば、定(さだめ)て河を渡(わたつ)てぞ懸(かか)り候はんずらん。其(その)時相懸(あひかか)りに懸(かかつ)て、河中へ敵を追(おう)て手痛(ていた)くあつる程ならば、などか勝(かつ)事(こと)を一戦(いつせん)に得では候べき。」と申(まうし)ければ、諸卒(しよそつ)皆此(この)義に同(どう)じて、態(わざと)敵に河を渡させんと河原面(かはらおもて)に馬の懸場(かけば)を残し、西の宿(しゆく)の端(はし)に南北二十(にじふ)余町(よちやう)に磬(ひかへ)て、射手(いて)を河中の州崎(すさき)へ出し、遠矢(とほや)を射させてぞ帯(おび)きける。 案(あん)に不違吉良(きら)左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)・土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道、彼此(かれこれ)其(その)勢(せい)六千(ろくせん)余騎(よき)、上(かみ)の瀬を打渡(うちわたつ)て、義貞の左将軍、堀口・桃井・山名、里見の人々に打(うつ)て懸(かか)る。官軍(くわんぐん)五千(ごせん)余騎(よき)相懸(あひかか)りに懸(かかつ)て、互(たがひ)に命を不惜火を散(ちらし)て責戦(せめたたか)ふ。吉良(きら)左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)の兵(つはもの)三百(さんびやく)余騎(よき)被討て、本陣(ほんぢん)へ引退(ひきしりぞ)けば、官軍(くわんぐん)も二百(にひやく)余騎(よき)ぞ被討ける。二番には高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)、二万(にまん)余騎(よき)にて橋より下(しも)の瀬を渡して、義貞の右将軍、大嶋・額田(ぬかだ)・篭沢(こざは)・岩松が勢に打懸(うちかか)る。官軍(くわんぐん)七千(しちせん)余騎(よき)、喚(をめ)いて真中(まんなか)に懸入(かけいつ)て、東西南北へ懸散(かけちら)し、半時許(はんじばかり)ぞ揉合(もみあ)ひける。高家(かうけ)の兵(つはもの)又五百(ごひやく)余騎(よき)被討て、又本陣へ引退(ひきしりぞ)く。三番に仁木(につき)・細川・今河・石塔(いしたふ)一万(いちまん)余騎(よき)下(しも)の瀬を渡(わたつ)て、官軍(くわんぐん)の総大将(そうだいしやう)新田義貞に打(うつ)て懸(かか)りたり。 |
|
義貞は兼(かね)てより馬廻(むままはり)に勝(すぐ)れたる兵(つはもの)を七千(しちせん)余騎(よき)囲(かこ)ませて、栗生(くりふ)・篠塚(しのづか)・名張(なばりの)八郎とて、天下に名を得たる大力(だいぢから)を真先(まつさき)に進ませ、八尺(はつしやく)余(あまり)の金棒(かなぼう)に、畳楯(でふだて)の広(ひろく)厚きを突双(つきなら)べ、「縦(たと)ひ敵懸(かか)るとも謾(みだり)に不可懸、敵引(ひく)とも、四度路(しどろ)に不可追。懸(かけ)寄せては切(きつ)て落せ。中(なか)を破(わら)んとせば、馬を透間(すきま)もなく打(うち)寄せて轡(くつばみ)を双(なら)べよ。一足(ひとあし)も敵には進むとも退(しりぞ)く心不可有。」と、諸軍を諌(いさめ)て被下知ける。 敵一万(いちまん)余騎(よき)、陰(いん)に閉(とぢ)て囲(かこ)まんとすれども不囲、陽(やう)に開(ひらい)て懸乱(かけみだ)さんとすれども敢(あへ)て不乱、懸入(かけいつ)ては討(うた)れ、破(わつ)て通(とほれ)ば切(きつ)て被落さ、少しも不漂戦(たたかひ)ける間、人馬共(とも)に気疲(つか)れて、左右に分(わかれ)て磬(ひかへ)たる処に、総大将(そうだいしやう)義貞・副将軍(ふくしやうぐん)義助七千(しちせん)余騎(よき)にて、香象(かうざう)の浪を蹈(ふん)で大海を渡らん勢(いきほ)ひの如く、閑(しづか)に馬を歩(あゆ)ませ、鋒(きつさき)を双(ならべ)て進みける間、敵一万(いちまん)余騎(よき)、其(その)勢(いきほ)ひに辟易(へきえき)して河より向(むかひ)へ引退(ひきしりぞ)き、其(その)勢(せい)若干(そくばく)被討にけり。 日已(すで)に暮(くれ)ければ、合戦は明日(あす)にてぞ有(あら)んずらんと、鎌倉勢(かまくらぜい)皆(みな)河より東に陣を取(とつ)て居(ゐ)けるが、如何(いかが)思(おもひ)けん、爰(ここ)にては不叶とて其(その)夜矢矯(やはぎ)を引退(ひきしりぞき)、鷺坂(さぎさか)に陣をぞ取(とり)たりける。懸(かかる)処に宇都宮(うつのみや)・仁科(にしな)・愛曾(あそ)伊勢(いせの)守(かみ)・熱田摂津大宮司(あつたのつのだいぐうじ)、後(おく)れ馳(はせ)にて三千(さんぜん)余騎(よき)、義貞の陣に著(つい)たりけるが、矢矧(やはぎ)の合戦に不合事を無念(むねん)に思(おもひ)て、打寄(うちよる)と等(ひと)しく鷺坂へ推(おし)寄せて、矢一(ひとつ)をも不射、抜連(ぬきつれ)て責(せめ)たりける。 引立(ひきたち)たる鎌倉勢(かまくらぜい)、鷺坂をも又被破(やぶられ)て、立足(たつあし)もなく引(ひき)けるが、左馬(さまの)頭(かみ)直義朝臣(ただよしあそん)兵(つはもの)二万(にまん)余騎(よき)荒手(あらて)にて馳著(はせつき)たり。敗軍(はいぐん)是(これ)に力を得て手超(てごし)に陣をぞ取(とつ)たりける。同(おなじき)十二月五日、新田義貞、矢矧(やはぎ)・鷺坂(さぎさか)にて降人(かうにん)に出(いで)たりける勢を合(あはせ)て八万(はちまん)余騎(よき)、手越(てごし)河原(かはら)に打莅(うちのぞん)で敵の勢を見給へば、荒手(あらて)加はりたりと覚(おぼ)へて見しより大勢(おほぜい)也(なり)。「縦(たとひ)何百万騎(なんびやくまんぎ)の勢(せい)加はりたりとも、気(き)疲(つか)れたる敗軍(はいぐん)の士卒(じそつ)半(なか)ば交(まじ)は(ッ)て、跡(あと)より引かば、敵立直(たてなほ)す事不可有、只懸(かけ)て見よ。」とて、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・千葉介(ちばのすけ)・宇都宮(うつのみや)六千(ろくせん)余騎(よき)にて、手超(てごし)河原(かはら)に推寄(おしよせ)て、東西へ渡(わたし)つ渡されつ、午刻(むまのこく)の始(はじめ)より、酉(とり)の下(さがり)まで、十七度(じふしちど)までぞ戦(たたかひ)たる。 |
|
夜(よ)に入(いり)けるば、両方人馬(じんば)を休(やす)めて、河を隔(へだて)て篝(かがりび)を焼(たき)、初(はじめ)は月雲に隠(かく)れて、夜(よ)已(すで)に深(ふけ)にければ、義貞の方(かた)より、究竟(くきやう)の射手(いて)を勝(すぐつ)て、薮(やぶ)の陰(かげ)より敵の陣近く忍び寄り、後陣(ごぢん)に磬(ひかへ)たる勢の中へ、雨の降如(ふるごと)く込矢(こみや)をぞ射たりける。数万(すまん)の敵是(これ)に周章騒(あわてさわい)で跡(あと)より引(ひき)ける間、荒手(あらて)の兵共(つはものども)、命を軽(かろん)ずる勇士共(ゆうしども)、「是(これ)は如何(いか)なる事ぞ、返せ/\。」と云(いひ)ながら、落行(おちゆく)勢(せい)に被引立て鎌倉(かまくら)までぞ落(おち)たりける。 されば新田義貞度々(どど)の軍(いくさ)に打勝(うちかつ)て、伊豆(いづ)の府(こふ)に著(つき)給へば、落行(おちゆく)勢共(せいども)巻弦脱冑降人(かうにん)に出(いづ)る者数(かず)を不知(しらず)。宇都宮(うつのみや)遠江(とほたふみの)入道、元来(ぐわんらい)総領(そうりやう)宇都宮(うつのみや)京方(きやうがた)に有(あり)しかば、縁にふれて馳著(はせつき)たり。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道、太刀打(うち)して痛手(いたで)数(あま)た所(ところ)に負(お)ふ。舎弟五郎左衛門(ごらうざゑもん)は手超(てごし)にて討(うた)れしかば、世の中さてとや思(おもひ)けん。降参して義貞の前陳に打(うち)けるが、後(のち)の筥根(はこね)の合戦の時又将軍へは参(まゐり)ける。官軍(くわんぐん)此(この)時若(もし)足をもためず、追懸(おつかけ)たらましかば、敵鎌倉(かまくら)にも怺(こら)ふまじかりけるを、今は何(なん)と無くとも、東国の者共(ものども)御方(みかた)へぞ参らんずらん、其(その)上(うへ)東山道(とうせんだう)より下(くだ)りし搦手(からめて)の勢をも可待とて、伊豆の府(こふ)に被逗留(とうりう)けるこそ、天運とは云(いひ)ながら、薄情(うたて)かりし事共(ことども)なり。 猿(さる)程(ほど)に足利左馬(さまの)頭(かみ)直義朝臣(ただよしあそん)は、鎌倉(かまくら)に打帰(うちかへつ)て、合戦の様(やう)を申さん為に、将軍の御屋形(やかた)へ被参たれば、四門(しもん)空(むなし)く閉(とぢ)て人もなし。あらゝかに門を敲(たたい)て、「誰か有(ある)。」と問(とひ)給へば、須賀(すがの)左衛門出合(いであひ)て、「将軍は矢矧(やはぎ)の合戦の事を聞召候(きこしめしさふらひ)しより、建長寺へ御入(おんいり)候(さふらひ)て、已(すで)に御出家候はんと仰候(おほせさふらひ)しを、面々(めんめん)様々(さまざま)申留(まうしとど)めて置進(おきまゐら)せて候。御本結(もとゆひ)は切(きら)せ給(たまひ)て候へども、未だ御法体(ほつたい)には成(なら)せ給はず。」とぞ申(まうし)ける。 |
|
左馬(さまの)頭(かみ)・高(かう)・上杉の人々是(これ)を聞(きき)て、「角(かく)ては弥(いよいよ)軍勢共(ぐんぜいども)憑(たの)みを失ふべし。如何(いかん)せん。」と仰天(ぎやうてん)せられけるを、上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)且(しばらく)思案(しあん)して、「将軍縦(たと)ひ御出家有(あつ)て法体(ほつたい)に成(なら)せ給(たまひ)候共(とも)、勅勘(ちよくかん)遁(のが)るまじき様(やう)をだに聞召(きこしめし)候はゞ、思召直(おぼしめしなほ)す事などか無(なく)て候べき。謀(はかりこと)に綸旨(りんし)を二三通(にさんつう)書(かき)て、将軍に見せ進(まゐら)せ候はゞや。」と被申ければ、左馬(さまの)頭(かみ)、「兎(と)も角(かく)も事のよからん様(やう)に計(はから)ひ沙汰(さた)候へ。」とぞ被任たりける。 伊豆(いづの)守(かみ)、「さらば。」とて、宿紙(しゆくし)を俄に染出(そめいだ)し、能書(のうしよ)を尋(たづね)て、職事(しきじ)の手に少しも不違是(これ)を書(かく)。其詞(そのことば)に云(いはく)、足利宰相尊氏、左馬頭直義以下一類(いちるゐ)等、誇武威軽朝憲之間、所被征罰也(なり)。彼輩縦雖為隠遁身、不可寛刑伐。深尋彼在所、不日可令誅戮。於有戦功者可被抽賞、者綸旨如此。悉之以状。建武二年十一月二十三日(にじふさんにち)右中弁光守武田(たけだ)一族(いちぞく)中小笠原一族(いちぞく)中へと、同文章(おなじぶんしやう)に名字を替(かへ)て、十(じふ)余通(よつう)書(かき)てぞ出したりける。左馬(さまの)頭直義朝臣是(これ)を持(もち)て急(いそぎ)建長寺へ参り給(たまひ)て、将軍に対面(たいめん)有(あつ)て泪(なみだ)を押(おさ)へて宣(のたま)ひけるは、「当家(たうけ)勅勘の事(こと)、義貞朝臣が申勧(まうしすすむ)るに依(よつ)て、則(すなはち)新田を討手(うつて)に被下候間、此(この)一門(いちもん)に於ては、縦(たとひ)遁世(とんせい)降参の者なり共(とも)、求尋(もとめたづね)て可誅と議(ぎ)し候なる。叡慮(えいりよ)の趣(おもむき)も、又同(おなじ)く遁(のが)るゝ所候はざりける。先日矢矧(やはぎ)・手超(てごし)の合戦に討(うた)れて候(さふらひ)し敵の膚(はだ)の守(まも)りに入(いれ)て候(さふらひ)し綸旨共(りんしども)、是(これ)御覧(ごらん)候へ。加様(かやう)に候上(うへ)は、とても遁(のがれ)ぬ一家の勅勘(ちよくかん)にて候へば、御出家の儀を思召翻(おぼしめしかへ)されて、氏族(しぞく)の陸沈(りくちん)を御助(おんたすけ)候へかし。」と被申ければ、将軍此(この)綸旨を御覧じて、謀書(ぼうしよ)とは思(おもひ)も寄り給はず。 「誠(まことに)さては一門(いちもん)の浮沈(ふちん)此(この)時にて候(さふらひ)ける。さらば無力。尊氏も旁(かたがた)と共に弓矢の義を専(もつぱら)にして、義貞と死を共にすべし。」とて、忽(たちまち)に脱道服給(たまひ)て、錦の直垂(ひたたれ)をぞ被召ける。されば其比(そのころ)鎌倉中(かまくらぢゆう)の軍勢共(ぐんぜいども)が、一束切(いつそくぎり)とて髻(もとどり)を短くしけるは、将軍の髪を紛(まぎら)かさんが為也(なり)けり。さてこそ事叶はじとて京方へ降参せんとしける大名共(だいみやうども)も、右往左往(うわうざわう)に落行(おちゆか)んとしける軍勢(ぐんぜい)も、俄(にはか)に気を直(なほ)して馳参(はせさんじ)ければ、一日も過(すぎ)ざるに、将軍の御勢(おんせい)は三十万騎(さんじふまんぎ)に成(なり)にけり。 |
|
■箱根竹下(はこねたけのした)合戦(かつせんの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に同(おなじき)十二月十一日両陣の手分(てわけ)有(あつ)て、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)箱根路(はこねぢ)を支(ささ)へ、将軍は竹下(たけのした)へ向(むかふ)べしと被定にけり。此間(このあひだ)度々(どど)の合戦に打負(うちまけ)たる兵共(つはものども)、未(いまだ)気を直(なほ)さで不勇、昨日今日(きのふけふ)馳集(はせあつまり)たる勢(せい)は、大将を待(まつ)て猶予(いうよ)しける間、敵已(すで)に伊豆の府(こふ)を打立(うつたつ)て、今夜野七里山七里(のくれやまくれ)を超(こゆ)ると聞(きこえ)しかば、足利尾張(をはりの)右馬(うまの)頭(かみ)高経(たかつね)・舎弟式部(しきぶの)大夫(たいふ)・三浦因幡(いなばの)守(かみ)・土岐弾正少弼(ときだんじやうせうひつ)頼遠・舎弟道謙(だうけん)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)・赤松雅楽助(うたのすけ)貞則(さだのり)、「加様(かやう)に目くらべして、鎌倉(かまくら)に集り居ては叶(かなふ)まじ、人の事はよし兎(と)も角(かく)もあれ、いざや先(まづ)竹下(たけのした)へ馳向(はせむかつ)て、後陣の勢の著(つか)ぬ先(さき)に、敵寄せば一(ひと)合戦して討死(うちじに)せん。」とて、十一日まだ宵(よひ)に竹下(たけのした)へ馳(はせ)向ふ。 其(その)勢(せい)僅(わづか)なりしかば、物冷(さび)しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共(ゆうしども)なれば、族(あながち)に多少不可依とて、竹下(たけのした)へ打襄(うちあがつ)て敵の陣を遥(はるか)に直下(みおろし)たれば、西は伊豆の府(こふ)、東は野七里山七里(のくれやまくれ)に焼双(たきなら)べたる篝火(かがりび)の数(かず)幾千万(いくせんまん)とも不知けり。只晴天(せいてん)の星の影、滄海(さうかい)に移る如く也(なり)。さらば御方(みかた)にも篝火(かがりび)を焼(たか)せんとて、雪の下草(したくさ)打払(うちはら)ひ、処々刈(かり)集めて幽(かすか)に火を吹著(ふきつけ)たれば、夏山(なつやま)の茂みが下に夜を明す、照射(ともし)の影に不異。されども武運(ぶうん)強ければにや、敵今夜は寄(よせ)来らず。夜(よ)已(すで)に明(あけ)なんとしける時、将軍鎌倉(かまくら)を打立(うちたた)せ給へば、仁木(につき)・細河・高(かう)・上杉、是等(これら)を宗(むね)との兵(つはもの)として都合(つがふ)其(その)勢(せい)十八万騎竹下(たけのした)へ著(つき)給へば、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)六万(ろくまん)余騎(よき)にて箱根(はこね)峠(たうげ)へ著(つき)給ふ。 |
|
去(さる)程(ほど)に、明(あく)れば十二日辰刻(たつのこく)に、京勢共(きやうぜいども)伊豆の府(こふ)にて手分(てわけ)して、竹下(たけのした)へは中務(なかつかさの)卿(きやうの)親王(しんわう)に卿相雲客(けいしやううんかく)十六人、副将軍(ふくしやうぐん)には脇屋(わきや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義助・細屋(ほそや)右馬助(うまのすけ)・堤卿律師(つつみのきやうのりつし)・大友(おほとも)左近(さこんの)将監(しやうげん)・佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)高貞を相副(あひそへ)て、已上(いじやう)其(その)勢(せい)七千(しちせん)余騎(よき)、搦手(からめて)にて被向けり。箱根路(はこねぢ)へは又新田義貞宗徒(むねと)の一族(いちぞく)二十(にじふ)余人(よにん)、千葉(ちば)・宇都宮(うつのみや)・大友(おほとも)千代松丸(ちよまつまる)・菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)・松浦党(まつらたう)を始(はじめ)として、国々の大名三十(さんじふ)余人(よにん)、都合(つがふ)其(その)勢(せい)七万(しちまん)余騎(よき)、大手にてぞ被向ける。 同(おなじき)日午刻(むまのこく)に軍(いくさ)始まりしかば、大手(おほて)搦手(からめて)敵御方(みかた)、互に時(とき)を作りつゝ、山川(さんせん)を傾(かたぶ)け天地を動(うごか)し、叫喚(をめきさけん)で責(せめ)戦ふ。去(さる)程(ほど)に、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武重、箱根(はこね)軍(いくさ)の先懸(さきがけ)して、敵三千(さんぜん)余騎(よき)を遥(はるか)の峯へ巻上(まくりあ)げ、坂中に楯(たて)を突双(つきならべ)て、一息継(つい)て怺(こら)へたり。是(これ)を見て、千葉・宇都宮(うつのみや)・河越(かはごえ)・高坂(かうさか)・愛曾(あそ)・熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)、一勢(いつせい)々々(いつせい)陣を取(とつ)て曳声(えいごゑ)を出して責上(せめあがり)々々(せめあがり)、叫喚(をめきさけん)で戦(たたかう)たり。中にも道場坊助注記(じよちゆうぎ)祐覚(いうがく)は、児(ちご)十人(じふにん)同宿(どうじゆく)三十(さんじふ)余人(よにん)、紅下濃(くれなゐすそご)の鎧(よろひ)を一様(いちやう)に著て、児(ちご)は紅梅の作り花を一枝(いつし)づゝ甲(かぶと)の真額(まつかう)に挿(さしはさみ)たりけるが、楯(たて)に外(はづ)れて一陣に進みけるを、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)の荒夷(あらえびす)共(ども)、「児(ちご)とも云はず只射よ。」とて、散々(さんざん)に指攻(さしつめ)て射ける間、面(おもて)に進みたる児(ちご)八人矢庭(やには)に倒れて小篠(をざさ)の上にぞ臥(ふし)たりける。 |
|
党の者共(ものども)是(これ)を見て、頚を取らんと抜連(ぬきつれ)て打(うつ)て下(くだり)けるを、道場坊が同宿共(どうじゆくども)児を討(うた)せて何か可怺。三十(さんじふ)余人(よにん)太刀・長刀の鋒(きつさき)を双(なら)べて手負(ておひ)の上を飛超(とびこえ)々々、「坂本様(さかもとやう)の袈裟切(けさきり)に成仏(じやうぶつ)せよ。」と云侭(いふまま)に、追攻(おひつめ)々々切(きつ)て廻りける間、武士(ぶし)散々(さんざん)に被切立て、北なる峯へ颯(さつ)と引(ひく)と、且(しば)し息をぞ継(つい)だりける。此隙(このひま)に祐覚(いうがく)が同宿共(どうじゆくども)、面(めん)々の手負(ておひ)を肩に引懸(ひつかけ)て、麓の陣へぞ下(くだ)りける。義貞の兵(つはもの)の中に、杉原下総(しもふさの)守(かみ)・高田薩摩(さつまの)守(かみ)義遠・葦堀(あしほり)七郎・藤田六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・川波新左衛門(しんざゑもん)・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門(しらうざゑもん)・栗生(くりふ)左衛門・篠塚(しのづか)伊賀(いがの)守(かみ)・難波(なんば)備前(びぜんの)守(かみ)・川越参河(みかはの)守(かみ)・長浜六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・高山遠江守(とほたふみのかみ)・園田(そのだ)四郎左衛門(しらうざゑもん)・青木五郎左衛門(ごらうざゑもん)・同七郎左衛門(しちらうざゑもん)・山上(やまかみ)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)とて、党を結(むすん)だる精兵(せいびやう)の射手(いて)十六人あり。 一様(いちやう)に笠験(かさじるし)を付(つけ)て、進(すすむ)にも同(おなじ)く進み、又引(ひく)時も共に引(ひき)ける間、世の人此(これ)を十六騎が党(たう)とぞ申(まうし)ける。彼等(かれら)が射ける矢には、楯も物具(もののぐ)もたまらざりければ、向ふ方(かた)の敵を射すかさずと云(いふ)事(こと)なし。執事(しつじ)舟田(ふなた)入道は、馳廻(はせまはつ)て士卒(じそつ)を諌(いさ)め、大将軍義貞は、一段(いちだん)高き処に諸卒の振舞(ふるまひ)を被実検ける間、名を重(おもん)じ命を軽(かろん)ずる千葉・宇都宮(うつのみや)・菊池(きくち)・松浦(まつら)の者共(ものども)、勇進(いさみすすん)で戦(たたかひ)ける間、鎌倉勢(かまくらぜい)馬の足を立兼(たてかね)て、引退(ひきしりぞく)者数(かず)を不知けり。 |
|
懸(かか)る処に竹下(たけのした)へ被向たる中書王(ちゆうしよわう)の御勢(おんせい)・諸庭(しよてい)の侍・北面(ほくめん)の輩(ともがら)五百(ごひやく)余騎(よき)、憖(なまじひ)武士に先(さき)を不被懸とや思(おもひ)けん。錦の御旌(おんはた)を先に進め竹下(たけのした)へ押寄(おしよせ)て、敵未(いまだ)一矢も不射先に、「一天(いつてんの)君に向奉(むかひたてまつ)て曳弓放矢者不蒙天罰哉(や)。命惜(をし)くば脱甲降人(かうにん)に参れ。」と声々にぞ呼(よばは)りける。是(これ)を見て尾張(をはりの)右馬(うまの)頭(かみ)・舎弟式部(しきぶの)大夫(たいふ)・土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠・舎弟道謙(だうけん)・三浦因幡(いなばの)守(かみ)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道・赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞則(さだのり)、自宵一陣に有(あり)けるが、「敵の馬の立様(たてやう)、旌(はた)の紋、京家(きやうけ)の人と覚(おぼゆ)るぞ、矢だうなに遠矢(とほや)な射そ。只抜連(ぬきつ)れて懸(かか)れ。」とて三百(さんびやく)余騎(よき)双轡、 「弓馬の家に生(うま)れたる者は名をこそ惜(をし)め、命をば惜(をし)まぬ者を。云(いふ)処虚事(そらごと)か実事(まこと)か、戦(たたかう)て手並(てなみ)の程を見給へ。」とて一同に時(とき)を咄(どつ)と挙げ、喚(をめい)てこそ懸(かかり)たりけれ。官軍(くわんぐん)は敵をかさに受(うけ)て麓に引(ひか)へたる勢なれば、何かは一怺(ひとたまり)も可怺、一戦(いつせん)にも不及して、捨鞭(すてむち)を打(うつ)てぞ引(ひき)たりける。是(これ)を見て土岐(とき)・佐々木(ささき)一陣に進(すすみ)て、「言(こと)ばにも似ぬ人々哉(かな)、蓬(きたな)し返せ。」と恥しめて、追立(おつたて)々々(おつたて)責(せめ)ける間、後(おく)れて引(ひく)兵(つはもの)五百(ごひやく)余騎(よき)、或(あるひ)は生捕(いけどら)れ或(あるひは)被討、残少(のこりずくな)に成(なり)にけり。手合(てあは)せの合戦をしちがへて官軍(くわんぐん)漂(ただよひ)て見へければ、仁木(につき)・細河・高(かう)・上杉の人々勇進(いさみすすん)で、中書王(ちゆうしよわう)の御陣へ会尺(ゑしやく)もなく打(うつ)て懸(かか)る。 |
|
されば引漂(ひきただよう)たる京勢(きやうぜい)にて、可叶様(やう)無(なか)りけるを、中書王の副将軍(ふくしやうぐん)脇屋右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、「云(いふ)甲斐なき者共(ものども)が憖(なまじひ)に一陣に進(すすみ)て御方(みかた)の力を失(うしなふ)こそ遺恨(ゐこん)なれ。こゝを散(ちら)さでは叶(かなふ)まじ。」とて、七千(しちせん)余騎(よき)を一手(ひとて)になして、馬の頭(かしら)を雁行(がんかう)に連(つら)ねて、旌(はた)の足を龍装(りゆうさう)に進めて、横合(よこあひ)に閑々(しづしづ)と懸(かけ)られける。勝誇(かちほこつ)たる敵なれば何かは少しも疼(ひる)むべき。十字(じふもんじ)に合(あつ)て八字(はちもんじ)に破(やぶ)る。 大中黒(おほなかぐろ)と二(ふた)つ引両(ひきりよう)と二(ふたつ)の旌(はた)を入替(いれかへ)々々(いれかへ)、東西に靡(なび)き南北に分れ、万卒(ばんそつ)に面を進め一挙(いつきよ)に死をぞ争ひける。誠(まこと)に両方名を被知たる兵共(つはものども)なれば誰かは独(ひとり)も可遁。互に討(うつ)つ討(うた)れつ、馬の蹄(ひづめ)を浸(ひた)す血は混々(こんこん)として洪河(こうが)の流るゝが如く也(なり)。死骸を積める地は、累々(るゐるゐ)として屠所(どしよ)の肉の如く也(なり)。無慙(むざん)と云(いふ)も疎(おろか)也(なり)。爰(ここ)に脇屋右衛門(うゑもんの)佐(すけの)子息式部(しきぶの)大夫(たいふ)とて、今年十三に成(なり)けるが、敵御方(みかた)引分(ひきわか)れける時、如何(いかに)して紛(まぎ)れたりけん、郎等(らうどう)三騎相共(あひとも)に敵の中にぞ残りける。 此(この)人幼稚(えうち)なれども心早き人にて、笠符(かさじるし)引切(ひききつ)て投捨(なげすて)、髪を乱(みだ)し顔に振懸(ふりかけ)て、敵に不被見知とさはがぬ体(てい)にてぞ御坐(おはしまし)ける。父義助(よしすけ)是(これ)をば不知、「義治(よしはる)が見へぬは誅(うた)れぬるか、又生捕(いけどら)れぬるか、二(ふたつ)の間(あひだ)をば離れじ。彼死生(かれがししやう)を見ずば、片時(へんし)の命生(いき)ても何かはすべき。勇士(ゆうし)の戦場に命を捨(すつ)る事只是(これ)子孫の後栄(こうえい)を思ふ故(ゆゑ)也(なり)。されば未(いまだ)幼(をさ)なき身なれども、片時(へんし)の別(わかれ)を悲(かなし)んで此(この)戦場にも伴(ともな)ひつる也(なり)。其(その)死生を知らでは、如何(いかが)さて有(ある)べき。」とて、鎧の袖に泪(なみだ)をかけ、大勢の中へ懸(かけ)入り給(たまひ)けるが、「誠(まこと)に父の子を思ふ志、今に初(はじめ)ぬ事なれども、哀(あはれ)なる御事(おんこと)哉(かな)。いざや御伴(おんとも)仕らん。」とて義助の兵共(つはものども)轡(くつばみ)を双(なら)べ三百(さんびやく)余騎(よき)、主を討(うた)せじと懸入(かけいり)ける。 |
|
義助の二度(にど)の懸(かけ)に、指(さし)もの大勢戦疲(たたかひつか)れて、一度(いちど)にばつとぞ引(ひき)たりける。是(これ)に理(り)を得て、義助尚(なほ)追北進(すす)まれける処に、式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治、我が父と見成(みな)して馬を引(ひき)返し、主従(しゆじゆう)四騎にて脇屋(わきや)殿(どの)に馳加(はせくは)はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両(かたひきりやう)の笠符(かさじるし)著(つけ)たる兵(つはもの)二騎、御方(みかた)が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給(たまひ)候へ。御供申(ともまうし)て討死し候。」とて、連(つれ)て是(これ)も返しけり。 式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治は父の義助の勢の中へつと懸(かけ)入り様(さま)に、若党(わかたう)にきつと目くはせゝられければ義治の郎従(らうじゆう)よせ合(あは)せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落(きりおと)し、頚を取(とつ)てぞ指挙(さしあげ)たる。義助是(これ)を見給(たまひ)て死(しし)たる人の蘇生(そせい)したる様(やう)に悦(よろこび)て、今一涯(ひときは)の勇(いさ)みを成(な)し、「且(しばら)く人馬を休(やす)めよ。」とて、又元(もと)の陣へは引(ひき)返されける。一陣余(あまり)に闘(たたか)ひくたびれしかば、荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦(たたかは)しめんとしける処に、大友(おほとも)(おほども)左近(さこんの)将監(しやうげん)・佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)が、千(せん)余騎(よき)にて後(うしろ)に引(ひか)へたるが、如何(いかが)思(おもひ)けん一矢射て後(のち)、旗を巻(まい)て将軍方(しやうぐんがた)に馳加(はせくはは)り、却(かへつ)て官軍(くわんぐん)を散々(さんざん)に射る。中書王(ちゆうしよわう)の御勢(おんせい)は、初度(しよど)の合戦に若干(そくばく)討(うた)れて、又も戦はず。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の兵は両度の懸合(かけあひ)に人馬疲(つか)れて無勢(ぶせい)也(なり)。 是(これ)ぞ荒(あら)手にて一軍(ひといくさ)もしつべき者と憑(たのま)れつる大友(おほとも)(おほども)・塩冶(えんや)は、忽(たちまち)に翻(ひるがへつ)て、親王(しんわう)に向奉(むかひたてまつ)て弓を引(ひき)、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)に懸合(かけあは)せて戦(たたかひ)しかば、官軍(くわんぐん)争(いかで)か堪(こら)ふべき。「敵の後(うし)ろを遮(さへぎ)らぬ前(さき)に、大手(おほて)の勢と成合(なりあは)ん。」とて、佐野原(さののはら)へ引退(ひきしりぞ)く。仁木(につき)・細川・今川・荒川・高(かう)・上杉・武蔵・相摸の兵共(つはものども)、三万(さんまん)余騎(よき)にて追懸(おつかけ)たり。是(これ)にて中書王の股肱(ここう)の臣下と憑(たの)み思食(おぼしめし)たりける二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為冬(ためふゆ)討(うた)れ給(たまひ)ければ、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の兵共(つはものども)返合(かへしあはせ)々々(かへしあはせ)、三百騎(さんびやくき)所々にて討死す。是(これ)をも顧(かへりみ)ず引立(ひきたつ)たる官軍共(くわんぐんども)、我先(われさき)にと落行(おちゆき)ける程(ほど)に、佐野原(さののはら)にもたまり得ず、伊豆の府(こふ)にも支(ささ)へずして、搦(からめ)手(て)の寄手(よせて)三百(さんびやく)余騎(よき)は、海道(かいだう)を西へ落(おち)て行く。 |
|
■官軍(くわんぐん)引退箱根(はこね)事
追手(おふて)箱根路(はこねぢ)の合戦は官軍(くわんぐん)戦ふ毎(ごと)に利を得しかば、僅(わづか)に引(ひか)へて支(ささへ)たる足利(あしかが)左馬(さまの)頭を追落(おひおとし)て、鎌倉(かまくら)へ入らんずる事掌(たなごころ)の内に有(あり)と、寄手(よせて)皆勇(いさみ)に々(いさん)で明(あく)るを遅(おそ)しと待(まち)ける処に、搦手(からめて)より軍(いくさ)破(やぶ)れて、寄手(よせて)皆追散(おつちら)されぬと聞へければ、諸国の催(もよほ)し勢、路次(ろし)の軍(いくさ)に降人(かうにん)に出(いで)たりつる坂東勢(ばんどうぜい)、幕を捨(すて)旗を側(そば)めて、我先(われさき)にと落行(おちゆき)ける間、さしも広き箱根山に、すきまも無く充満(じゆうまん)したりつる陣に、人あり共(とも)見へず成(なり)にけり。執事(しつじ)舟田(ふなた)入道は、一(いち)の責口(せめくち)に敵を攻(せめ)て居たりけるが、敵陣に、「竹下(たけのした)の合戦は将軍打勝(うちかた)せ給(たまひ)て、敵を皆追散(おつちら)して候也(なり)。」と、早馬(はやむま)の参(まゐつ)て罵(ののし)る声を聞(きい)て、誠(まこ)とやらん不審(おぼつか)なく思(おもひ)ければ、只一騎御方(みかた)の陣々を打廻(うちまはつ)て見るに、幕計(まくばかり)残(のこり)て、人のある陣は無(なか)りけり。 さては竹下(たけのした)の合戦に、御方(みかた)早(はや)打負(うちまけ)てけり。かくては叶(かなふ)まじと思(おもひ)て、急(いそぎ)大将の陣へ参(まゐつ)て、事の子細(しさい)を申(まうし)ければ、義貞且(しばら)く思案(しあん)し給ひけるが、「何様(いかさま)陣を少し引退(ひきしりぞい)て、落行(おちゆく)勢(せい)を留(とめ)てこそ合戦をもせめ。」とて、舟田(ふなた)入道に打(うち)つれて、箱根山を引(ひき)て下(くだり)給ふ。其(その)勢(せい)僅(わづか)に百騎(ひやくき)には過(すぎ)ざりけり。且(しばら)く馬を扣(ひか)へて後(うしろ)を見給へば、例の十六騎の党馳参(はせまゐり)たり。又北なる山に添(そう)て、三(み)つ葉柏(はかし)の旗の見へたるは、「敵か御方(みかた)歟(か)。」と問(とひ)給へば、熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)百騎(ひやくき)計(ばかり)にて待(まち)奉る。其(その)勢(せい)を合(あはせ)て野七里(のくれ)に打出(うちいで)給ひたれば、鷹(たか)の羽(は)の旗一流(ひとながれ)指(さ)し揚(あげ)て、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳参(はせまゐ)る。 |
|
爰(ここ)に散所法師(さんじよほふし)一人西の方(かた)より来りけるが、舟田(ふなた)が馬の前(まへ)に畏(かしこまつ)て、「是(これ)はいづくへとて御(おん)通(とほ)り候やらん。昨日(きのふ)の暮程(くれほど)に脇屋(わきや)殿(どの)、竹下(たけのした)の合戦に討負(うちまけ)て落(おち)させ給候(たまひさふらひ)し後、将軍の御勢(おんせい)八十万騎(はちじふまんぎ)、伊豆の府(こふ)に居余(ゐあまり)て、木の下(した)岩の陰(かげ)、人ならずと云(いふ)所候はず。今此(この)御勢(おんせい)計(ばかり)にて御(おん)通(とほ)り候はん事(こと)、努々(ゆめゆめ)叶(かなふ)まじき事にて候。」とぞ申(まうし)ける。 是(これ)を聞(きき)て栗生(くりふ)と篠塚(しのづか)と打双(うちなら)べて候(さふらひ)けるが、鐙(あぶみ)蹈張(ふんば)り、つとのびあがり、御方(みかた)の勢を打(うち)見て、「哀(あつば)れ兵共(つはものども)や。一騎当千の武者(むしや)とは、此(この)人々をぞ申(まうす)べき。敵八十万騎(はちじふまんぎ)に、御方(みかた)五百(ごひやく)余騎(よき)、吉程(よつぼと)の合ひ手也(なり)。いで/\懸破(かけやぶつ)て道開(ひらき)て参(まゐら)せん。継(つづ)けや人々。」と勇(いさ)めて、数万騎(すまんぎ)打集(うちあつまつ)たる敵の中へ懸(かけ)て入(いる)。府中にて一条(いちでうの)次郎三千(さんぜん)余騎(よき)にて戦ひけるが、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)を見てよき敵と思ひけるにや、馳双(はせならん)で組(くま)んとしけるを、篠塚中(なか)に隔(へだたつ)て、打(うち)ける太刀を弓手(ゆんで)の袖に受留(うけとめ)、大の武者をかい掴(つかん)で弓杖(ゆんづゑ)二丈計(ばかり)ぞ投(なげ)たりける。 一条も大力の早業成(はやわざなり)ければ、抛(なげ)られたれ共(ども)倒(たふ)れず。漂(ただよ)ふ足を践直(ふみなほ)して、猶義貞に走懸(はしりかか)らんとしけるを、篠塚馬より飛(とん)でおり両膝合(あはせ)て倒(さかさま)に蹴倒(けたふ)す。倒(たふ)るゝと均(ひとし)く、一条を起(おこ)しも立(たて)ず、推(おさ)へて頚かき切(きつ)てぞ指揚(さしあげ)ける。一条が郎等共(らうどうども)、目の前にて主を討(うた)せて心うき事に思(おもひ)ければ、篠塚を討(うた)んと、馬より飛下(とびおり)々々(とびおり)打(うつ)て懸(かか)れば、篠塚かい違(ちがう)ては蹴倒(けたふし)、々々(けたふ)しては首を取(とり)、足をもためず一所(いつしよ)にて九人(くにん)迄こそ討(うつ)たりけれ。是(これ)を見て、敵数十万騎(すじふまんぎ)有(あり)と云(いへ)ども、敢(あへ)て懸合(かけあは)せん共(とも)せざりければ、義貞閑々(しづしづ)と伊豆の府(こふ)を打(うつ)て通(とほ)り給ふに、宵より落(おち)て其辺(そのへん)にまぎれ居たる官軍共(くわんぐんども)、此彼(ここかしこ)より馳付(はせつき)ける程(ほど)に、義貞の勢二千騎(にせんぎ)計(ばかり)に成(なり)にけり。 |
|
「此(この)勢(せい)にては縦(たと)ひ百重千重に取篭(とりこめ)たり共(とも)、などか懸破(かけやぶつ)て通らざるべき。」と、悦(よろこび)て行(ゆく)処に、木瀬川(きせがは)に旗一流(ひとながれ)打立(うつたて)て、勢の程二千騎(にせんぎ)計(ばかり)見へたり。近々と打寄(うちよせ)て、旗の文(もん)を見れば、二巴(ふたつともゑ)を旗にも笠璽(かさじるし)にも書(かき)たり。「さては小山(をやま)判官(はうぐわん)にてぞ有(ある)らん、一騎も余(あま)さず打取(うちとれ)。」とて、山名・里見の人々馬の鼻を双(なら)べておめいて懸(かか)りける程(ほど)に、小山(をやま)が勢四角(しかく)八方(はつぱう)に懸散(かけちら)されて、百騎(ひやくき)計(ばかり)は討(うた)れにけり。 かくて浮嶋(うきしま)が原を打過(うちすぐ)れば、松原の陰(かげ)に旗三流差(さし)て、勢(せい)の程五百騎(ごひやくき)計(ばかり)扣(ひかへ)たり。「是(これ)は敵か御方(みかた)歟(か)。」と在家(ざいけ)の者に問(とひ)給へば、「是(これ)は昨日(きのふ)の竹下(たけのした)より、一宮(いちのみや)を追進(おひまゐら)せて、所々(しよしよ)にて合戦し候(さふらひ)し甲斐の源氏にて候。」とぞ答申(こたへまうし)ける。「さてはよき敵ぞ、取篭(とりこめ)て討(うて)。」とて、二千(にせん)余騎(よき)の勢を二手(ふたて)に分(わけ)て北南より押寄(おしよす)れば、叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、一矢(ひとや)をも射ずして、降人(かうにん)に成(なつ)てぞ出(いで)たりける。此(この)勢(せい)を先(さき)に打(うた)せて遥(はるか)に行けば、中黒の旗を見付(みつけ)て、落隠居(おちかくれゐ)たる官軍共(くわんぐんども)、彼方此方(かなたこなた)より馳付(はせつき)て、七千(しちせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。 今はかうと勇(いさみ)て、今井(いまゐ)・見付(みつけ)を過(すぐ)る処に、又旗五流差揚(さしあげ)て、小山の上に敵二千騎(にせんぎ)計(ばかり)扣(ひかへ)たり。降人に出(いで)たりつる甲斐源氏に、「此(この)敵は誰(た)そ。」と問(とひ)給へば、「是(これ)は武田(たけだ)・小笠原の者共(ものども)にて候也(なり)。」と答ふ。「さらば責(せめ)よ。」とて四方(しはう)より攻上(つめのぼ)りけるを、高山(たかやま)薩摩(さつまの)守(かみ)義遠、「此(この)敵を余さず討(うた)んとせば、御方(みかた)も若干(そくばく)亡(ほろ)ぶべし。大敵をば開(ひら)ひて責(せめ)るにこそ利は候へ。」と申(まうし)ければ、由良・舟田げにもとて、東一方をば開(あ)けて三方(さんぱう)より責上(せめのぼ)りければ、此(この)敵共(てきども)遠矢少々(せうせう)射捨(すて)て、東を指(さし)てぞ落行(おちゆき)ける。是(これ)より後は敢(あへ)て遮(さへぎ)る敵もなかりければ、手負(ておひ)を相助(あひたすけ)、さがる勢を待連(まちつれ)て、十二月十四日の暮(くれ)程(ほど)に、天竜川の東の宿(しゆく)に著給(つきたまひ)にけり。 |
|
時節(をりふし)川上(かはかみ)に雨降(ふり)て、河の水岸(きし)を浸(ひた)せり。長途(ちやうど)に疲れたる人馬なれば、渡す事叶(かなふ)まじとて、俄に在家(ざいけ)をこぼちて浮橋(うきはし)をぞ渡されける。此(この)時もし将軍の大勢、後(うしろ)より追懸(おつかけ)てばし寄(より)たりしかば、京勢(きやうぜい)は一人もなく亡(ほろ)ぶべかりしを、吉良(きら)・上杉の人々、長僉議(ながせんぎ)に三四日逗留(とうりう)有(あり)ければ、川の浮橋程(ほど)なく渡しすまし、数万騎(すまんぎ)の軍勢(ぐんぜい)残(のこる)所なく一日が中(うち)に渡(わたり)てけり。諸卒を皆渡しはてゝ後、舟田入道と大将義貞朝臣と二人(ににん)、橋を渡り給ひけるに、如何なる野心(やしん)の者かしたりけん、浮橋を一間はりづなを切(きつ)てぞ捨(すて)たりける。 舎人(とねり)馬を引(ひい)て渡りけるが、馬と共に倒(さかさま)に落入(おちいつ)て、浮(うき)ぬ沈(しづみ)ぬ流(ながれ)けるを、舟田入道、「誰(たれ)かある、あの御馬(おんむま)引上(ひきあ)げよ。」と申(まうし)ければ、後(うしろ)に渡(わたり)ける栗生(くりふ)左衛門、鎧著(き)ながら川中へ飛(とび)つかり、二町(にちやう)計(ばかり)游付(およぎつき)て、馬と舎人とを左右の手に差揚(さしあげ)て、肩を超(こし)ける水の底を閑(しづか)に歩(あゆん)で向(むかひ)の岸へぞ著(つき)たりける。此(この)馬の落入(おちいり)ける時、橋二間計(にけんばかり)落(おち)て、渡るべき様(やう)もなかりけるを、舟田入道と大将と二人(ににん)手に手を取組(とりくん)で、ゆらりと飛(とび)渡り給ふ。 |
|
其跡(そのあと)に候(さふらひ)ける兵(つはもの)二十(にじふ)余人(よにん)、飛(とび)かねて且(しば)し徘徊(はいくわい)しけるを、伊賀(いがの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に名張(なんばり)八郎とて、名誉の大力(だいぢから)の有(あり)けるが、「いで渡して取(とら)せん。」とて鎧武者(むしや)の上巻(あげまき)を取(とつ)て中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、二十人までこそ投越(なげこし)けれ。今二人(ににん)残(のこり)て有(あり)けるを左右の脇に軽々(かるがる)と挟(さしはさん)で、一丈(いちぢやう)余(あま)り落(おち)たる橋をゆらりと飛(とん)で向(むかひ)の橋桁(はしげた)を蹈(ふみ)けるに、蹈所(ふむところ)少(すこし)も動かず、誠(まこと)に軽(かる)げに見へければ、諸軍勢(しよぐんぜい)遥(はるか)に是(これ)を見て、「あないかめし、何(いづ)れも凡夫(ぼんぶ)の態(わざ)に非(あら)ず。大将と云(いひ)手(て)の者共(ものども)と云(いひ)、何れを捨(すつ)べし共覚(おぼえ)ね共(ども)、時の運に引(ひか)れて、此軍(このいくさ)に打負(うちまけ)給ひぬるうたてさよ。」と、云はぬは人こそなかりけれ。 其(その)後浮橋(うきはし)を切(きつ)て、つき流されたれば、敵縦(たと)ひ寄来(よせきた)る共、左右(さう)なく渡すべき様(やう)もなかりけるに、引立(ひきたつ)たる勢の習(ならひ)なれば、大将と同心に成(なつ)て、今一軍(ひといくさ)せん太平記と思ふ者無(なか)りけるにや。矢矯(やはぎ)に一日逗留(とうりう)し給ひければ、昨日まで二万(にまん)余騎(よき)有(あり)つる勢、十方へ落失(おちうせ)て十分が一もなかりけり。早旦(さうたん)に宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)太輔、大将の前に来(きたつ)て申されけるは、「今夜官軍共(くわんぐんども)、夜もすがら落(おち)候ひけると承(うけたまはる)が、げにも陣々まばらに成(なつ)て、いづくに人あり共(とも)見へ候はず。爰(ここ)にてもし数日(すじつ)を送(おく)らば、後(うし)ろに敵出来(いでき)て、路を塞(ふさ)ぐ事有(あり)ぬと覚(おぼえ)候。哀(あは)れ今少し引退(ひきしりぞい)て、あじか・州俣(すのまた)を前に当(あ)てゝ、京近き国々に、御陣を召され候へかし。」と申されければ、諸大将(しよだいしやう)、「げにも皇居(くわうきよ)の事おぼつかなく候へば、さのみ都遠き所の長居(ながゐ)は然るべし共存(ぞんじ)候はず。」とぞ同(どう)じける。義貞、「さらば兎(と)も角(かく)も面々の御意見にこそ順ひ候はめ。」とて、其(その)日(ひ)天竜川を立(たつ)てこそ、尾張(をはりの)国(くに)までは引かれけれ。 |
|
■諸国(しよこくの)朝敵蜂起(ほうきの)事(こと)
かゝる処に、十二月十日、讚岐(さぬき)より高松(たかまつ)三郎頼重(よりしげ)早馬を立(たて)て京都へ申(まうし)けるは、「足利(あしかが)の一族(いちぞく)細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、去月二十六日当国鷺田(さぎたの)庄(しやう)に於て旗を揚(あぐ)る処に、詫間(たくま)・香西(かうさい)これに与(くみ)して、則(すなはち)三百(さんびやく)余騎(よき)に及ぶ。是(これ)に依(よつ)て、頼重(よりしげ)時剋を廻(めぐ)らさず、退治(たいじ)せしめん為に、先づ矢嶋(やしま)の麓に打寄(うちよせ)て国中(こくぢゆう)の勢を催す処に、定禅(ぢやうぜん)遮(さへぎつ)て夜討を致せし間、頼重等身命を捨(すて)て防(ふせぎ)戦ふと雖も、属(しよく)する所の国勢忽(たちまち)に翻(ひるがへつ)て剰(あまつさ)へ御方(みかた)を射る間、頼重が老父、並(ならび)に一族(いちぞく)十四人・郎等(らうどう)三十(さんじふ)余人(よにん)、其場(そのば)に於て討死仕畢(つかまつりをはんぬ)。一陣遂に彼が為に破られし後、藤橘(とうきつ)両家(りやうけ)・坂東(ばんどう)・坂西(ばんぜい)の者共(ものども)残る所なく定禅(ぢやうぜん)に属(しよく)する間、其(その)勢(せい)已(すでに)及三千(さんぜん)余騎(よき)に、近日宇多津(うたづ)に於て兵船(ひやうせん)を点(てん)じ、備前の児嶋(こじま)に上(あがつ)て已(すで)に京都に責上(せめのぼら)んと仕(つかまつり)候。御用心(ごようじん)有(ある)べし。」とぞ告申(つげまうし)ける。 かゝりけれ共(ども)、京都には新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)を大将として、結城(ゆふき)・名和・楠木以下(くすのきいげ)宗(むね)との大名共(だいみやうども)大勢にて有(あり)しかば、四国の朝敵共縦(たと)ひ数(かず)を尽(つく)して責上(せめのぼ)る共、何程の事か有るべきと、さまでの仰天(ぎやうてん)もなかりけるに、同(おなじき)十一日、備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)児嶋三郎高徳(たかのり)が許(もと)より、早馬を立(たて)て申(まうし)けるは、「去月二十六日、当国の住人(ぢゆうにん)佐々木(ささきの)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)信胤(のぶたね)・同田井(たゐの)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)信高等(のぶたから)、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)が語(かたら)いを得て備中(びつちゆうの)国(くに)に打越(うちこえ)、福山(ふくやま)の城に楯篭(たてこも)る間、彼(かの)国(くに)の目代(もくだい)先(まづ)手勢計(てせいばかり)を以て合戦を致(いたす)と雖も、国中(こくぢゆう)の勢催促(さいそく)に随はず。 |
|
無勢(ぶせい)なるに依(よつ)て引退(ひきしりぞ)く刻(きざみ)、朝敵勝(かつ)に乗(のり)し間、目代が勢数百人(すひやくにん)討死し畢(をはんぬ)。其(その)翌日に小坂・川村・庄(しやう)・真壁(まかべ)・陶山(すやま)・成合(なりあひ)・那須・市川以下(いげ)、悉く朝敵に馳加(はせくはは)る間、程なく其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)に及(およ)べり。爰(ここ)に備前(びぜんの)国(くに)の地頭・御家人等(ごけにんら)、吉備津(きびつの)宮(みや)に馳集(はせあつまり)て、朝敵を相待(あひまつ)処に、浅山(あさやま)備後(びんごの)守(かみ)、備後の国の守護職(しゆごしよく)を賜(たまはつ)て下向する間、其(その)勢(せい)を合(あはせ)て、同(おなじき)二十八日、福山に押寄責戦(おしよせせめたたかひ)〔し〕日、高徳(たかのり)が一族(いちぞく)等(ら)大手(おほて)を責破(せめやぶつ)て、已(すで)に城中に打入る刻(きざみ)、野心(やしん)の国人等(くにうどら)、忽(たちまち)に翻(ひるがへつ)て御方(みかた)を射る間、目代浄智(じやうち)が子息七条弁房(べんばう)・小周防(こすはう)の大弐房(だいにばう)・藤井六郎(ろくらう)・佐井(さゐの)七郎以下(いげ)三十(さんじふ)余人(よにん)、搦手(からめて)に於て討(うた)れ候畢(さふらひをはんぬ)。 官軍(くわんぐん)遂に戦ひ負(まけ)て備前(びぜんの)国(くに)に引退(ひきしりぞき)、三石(みついし)の城に楯篭(たてこも)る処に、当国の守護(しゆご)松田十郎盛朝(もりとも)・大田(おほた)判官(はうぐわん)全職(みつもと)・高津(たかつ)入道浄源(じやうげん)当国に下著(げちやく)して、已(すでに)御方(みかた)に加(くはは)る間、又三石より国中へ引返(ひきかへし)、和気(わけ)の宿(しゆく)に於て、合戦を致す刻(きざみ)、松田十郎敵に属(しよく)する間、官軍(くわんぐん)数十人(すじふにん)討(うた)れて、熊山(くまやま)の城に引篭(こも)る。其(その)夜、当国の住人(ぢゆうにん)内藤弥(ないとうや)二郎、御方(みかた)の陣に有(あり)ながら、潛(ひそか)に敵を城中へ引入(ひきいれ)責劫(せめおびやかす)間、諸卒悉(ことごとく)行方(ゆきかた)を知らず没落候畢(ぼつらくさふらひをはんぬ)。高徳(たかのりが)一族(いちぞく)等(ら)此(この)時纔(わづか)に死を免(まぬかる)る者身を山林に隠(かく)し、討手の下向を相待(あひまち)候。若(もし)早速に御勢(おんせい)を下されずば、西国の乱、御大事(おんだいじ)に及ぶべし。」とぞ申(まうし)たりける。 |
|
両日の早馬天聴(てんちやう)を驚(おどろか)しければ、「こは如何すべき。」と周章(しうしやう)ありける処に、又翌日の午剋(むまのこく)に、丹波(たんばの)国(くに)より碓井(うすゐ)丹波(たんばの)守(かみ)盛景(もりかげ)、早馬を立(たて)て申(まうし)けるは、「去(さる)十二月十九日の夜、当国の住人(ぢゆうにん)久下(くげ)弥三郎時重(ときしげ)、波々伯部(はうかべ)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・中沢三郎入道等を相語(あひかたらつ)て守護(しゆご)の館(たち)へ押寄(おしよす)る間、防戦(ふせぎたたかう)と雖も、劫戦(こふせん)不慮に起(おこる)に依(よつ)て、御方(みかた)戦破(たたかひやぶ)れて、遂に摂州へ引退(ひきしりぞ)く。雖然と猶他の力を合(あはせ)て其(その)恥を雪(きよめ)ん為に、使者を赤松入道に通(つう)じて、合力を請(うく)る処に、円心(ゑんしん)野心(やしん)を挟(さしはさ)む歟(か)、返答にも及ばず。剰(あまつさ)へ将軍の御教書(みげうしよ)と号し、国中(こくぢゆう)の勢を相催(あひもよほす)由(よし)、風聞(ふうぶん)在人口に。加之(しかのみならず)但馬・丹後(たんご)・丹波の朝敵等(てうてきら)、備前・備中の勢を待(まち)、同時に山陰(せんおん)・山陽(せんやう)の両道より責上(せめのぼ)るべき由承及(うけたまはりおよび)候、御用心(ごようじん)有るべし。」とぞ告(つげ)たりける。 又其(その)日(ひ)の酉剋(とりのこく)に、能登(のとの)国(くに)石動山(ゆするぎやま)の衆徒(しゆと)の中(なか)より、使者を立てゝ申(まうし)けるは、「去月(きよげつ)二十七日(にじふしちにち)越中に守護(しゆご)、普門(ふもん)蔵人利清(としきよ)・並(ならび)に井上(ゐのうへ)・野尻(のじり)・長沢・波多野(はだの)の者共(ものども)、将軍の御教書(みげうしよ)を以て、両国の勢を集め、叛逆(ほんぎやく)を企(くはたつ)る間、国司(こくし)中院(なかのゐんの)少将定清(さだきよ)、就用害に被楯篭当山処、今月十二日彼逆徒等(かのぎやくとら)、以雲霞勢押寄(おしよする)間、衆徒等(しゆとら)与義卒に、雖軽身命を、一陣全(まつたき)事(こと)を得ずして、遂に定清(さだきよ)於戦場に被墜命、寺院悉(ことごとく)兵火の為に回禄(くわいろく)せしめ畢(をはんぬ)。是(これ)より逆徒(ぎやくと)弥(いよいよ)猛威を振(ふるう)て、近日已(すで)に京都に責上(せめのぼ)らんと仕(つかまつり)候。急ぎ可被下御勢(おんせい)を。」とぞ申(まうし)ける。 |
|
是(これ)のみならず、加賀の富樫(とがしの)介、越前に尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)の家人(けにん)、伊予に川野対馬(かうのつしま)入道、長門(ながと)に厚東(こうとう)の一族(いちぞく)、安芸(あき)に熊谷(くまがえ)、周防(すはう)に大内介(おほちのすけ)が一類(いちるゐ)、備後に江田(えだ)・弘沢(ひろさは)・宮(みや)・三善(みよし)、出雲に富田(とんだ)、伯耆(はうき)に波多野(はだの)、因幡(いなば)に矢部(やべ)・小幡(をばた)、此外(このほか)五畿・七道・四国・九州、残(のこる)所なく起(おこ)ると聞へしかば、主上(しゆしやう)を始めまいらせて、公家被官(くげひくわん)の人々、独(ひとり)として肝(きも)を消さずと云(いふ)事(こと)なし。其比(そのころ)何(い)かなる嗚呼(をご)の者かしたりけん。内裏(だいり)の陽明門(やうめいもん)の扉に、一首(いつしゆ)の狂歌をぞ書(かき)たりける。 賢王(けんわう)の横言(わうげん)に成る世中(よのなか)は上を下へぞ帰したりける四夷八蛮(しいはちばん)起り合(あつ)て、急を告(つぐ)る事隙(ひま)なかりければ、引他(ひきたの)の九郎を勅使にして、新田義貞猶(なほ)道にて敵を支へんとて、尾張(をはりの)国(くに)に居(ゐ)られたりけるを、急ぎ先(まづ)上洛(しやうらく)すべしとぞ召(めさ)れける。引他(ひきた)九郎竜馬(りゆうめ)を給(たまはつ)て、早馬に打(うち)けるが、此(この)馬にては、四五日の道をも、一日には輒(たやす)く打帰(うちかへら)んずらんと思(おもひ)けるに合せて、げにも十二月十九日の辰刻(たつのこく)に、京を立(たつ)て、其(その)日(ひ)の午刻(むまのこく)に近江(あふみの)国(くに)愛智(えち)川の宿(しゆく)にぞ著(つい)たりける。彼竜馬(かのりゆうめ)俄に病出(やみいだ)して、軈(やが)て死(し)にけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。引佗(ひきた)乗替(のりがへ)に乗替(のりかへ)々々(のりかへ)、日を経(へ)て尾張(をはりの)国(くに)に下著し、此子細(このしさい)を左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に申(まうし)ければ、「先(まづ)京都へ引返(ひきかへ)して宇治・勢多を支(ささへ)てこそ、合戦を致さめ。」とて、勅使に打(うち)つれてぞ上(のぼ)られける。 |
|
■将軍御進発(ごしんばつ)大渡(おほわたり)・山崎等合戦(かつせんの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に改(あらたまの)年立帰(たちかへ)れ共(ども)、内裏(だいり)には朝拝(てうはい)もなし。節会(せちゑ)も行(おこなは)れず。京白川(しらかは)には、家をこぼちて堀に入れ、財宝を積(つん)で持運(もちはこ)ぶ。只何(な)にと云(いふ)沙汰(さた)もなく、物騒(ものさわがし)く見へたりける。懸(かか)る程(ほど)に、将軍已(すで)に、八十万騎(はちじふまんぎ)にて、美濃・尾張(をはり)へ著給(つきたまひ)ぬと云(いふ)程こそあれ、四国の御敵(おんてき)も近付(ちかづき)ぬ、山陰(せんおん)道の朝敵も、只今大江山(おいのやま)へ取(とり)あがるなんど聞へしかば、此(この)間召(めし)に応じて上(のぼ)り集(あつまつ)たる国々の軍勢共(ぐんぜいども)十方へ落行(おちゆき)ける程(ほど)に、洛中(らくちゆう)には残り止(とどま)る勢一万騎(いちまんぎ)までもあらじとぞ見へたりける。 其(それ)も皆勇(いさめ)る気色(けしき)もなくて、何方(いづかた)へ向(むか)へと下知(げぢ)せられけれ共(ども)、耳にも聞入(ききいれ)ざりければ、軍勢(ぐんぜい)の心を勇(いさ)ません為に、「今度の合戦に於て忠あらん者には、不日(ふじつ)に恩賞(おんしやう)行はるべし。」とし壁書(へきしよ)を、決断所(けつだんしよ)に押(お)されたり。是(これ)を見て、其事書(そのことがき)の奥に例の落書(らくしよ)をぞしたりける。かく計(ばかり)たらさせ給ふ綸言(りんげん)の汗の如くになどなかるらん去(さる)程(ほど)に正月七日に、義貞内裏(だいり)より退出して軍勢(ぐんぜい)の手分(てわけ)あり。勢多へは伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)に、出雲(いづも)・伯耆(はうき)・因幡(いなば)三箇国(さんかこく)の勢二千騎(にせんぎ)を副(そへ)て向けらる。供御(ぐご)の瀬・ぜゞが瀬二箇所(にかしよ)に大木を数千本(すせんぼん)流し懸(かけ)て、大綱(おほづな)をはり乱(らん)ぐひを打(うち)て、引懸(ひつかけ)々々(ひつかけ)つなぎたれば、何(いか)なる河伯(かはく)水神なり共(とも)、上をも游(およぎ)がたく下をも潛難(くぐりがた)し。 |
|
宇治へは楠木判官正成(まさしげ)に、大和・河内・和泉(いづみ)・紀伊(きの)国(くに)の勢五千(ごせん)余騎(よき)を副(そへ)て向(むけ)らる。橋板(はしいた)四五間(しごけん)はね迦(はづ)して河中に大石を畳(たたみ)あげ、逆茂木(さかもぎ)を繁(しげ)くゑり立(たて)て、東の岸を高く屏風(びやうぶ)の如くに切立(きりたて)たれば、河水二(ふたつ)にはかれて、白浪(しらなみ)漲(みなぎ)り落(おち)たる事(こと)、恰(あた)か竜門(りゆうもん)三級(さんきふ)の如(ごとく)也(なり)。敵に心安く陣を取(とら)せじとて、橘(たちばな)の小嶋(こじま)・槙嶋(まきのしま)・平等院(びやうどうゐん)のあたりを、一宇(いちう)も残さず焼払(やきはらひ)ける程(ほど)に、魔風(まふう)大廈(たいか)に吹懸(ふきかけ)て、宇治の平等院の仏閣宝蔵(はうざう)、忽(たちまち)に焼けゝる事こそ浅猿(あさまし)けれ。山崎へは脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)を大将として、洞院(とうゐん)の按察(あぜち)大納言(だいなごん)・文観(もんくわん)僧正(そうじやう)・大友(おほとも)千代松丸(おほともちよまつまる)・宇都宮(うつのみや)美濃将監(みののしやうげん)泰藤(やすふぢ)・海老名(えびなの)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)・長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)以下(いげ)七千(しちせん)余騎(よき)の勢(せい)を向(むけ)らる。 宝寺(たからでら)より川端(かはばた)まで屏(へい)を塗り堀をほりて、高櫓(たかやぐら)・出櫓(だしやぐら)三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)にかき双(ならべ)たり。陣の構(かま)へなにとなくゆゝしげには見へたれ共(ども)、俄に拵(こしらへ)たる事なれば屏(へい)の土も未干(いまだひず)、堀も浅し。又防ぐべき兵(つはもの)も、京家(きやうけ)の人、僧正(そうじやう)の御房(ごばう)の手(て)の者などゝ号(がうす)る者共(ものども)多ければ、此(この)陣の軍(いくさ)はか/゛\しからじとぞ見へたりける。大渡(おほわたり)には、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞を惣大将(そうだいしやう)として、里見・鳥山・々名・桃井(もものゐ)・額田(ぬかだ)・々中・篭沢(こざは)・千葉・宇都宮(うつのみや)・菊池(きくち)・結城(ゆふき)・池(いけ)・風間(かさま)・小国(をくに)・河内(かはち)の兵共(つはものども)一万(いちまん)余騎(よき)にて堅めたり。 |
|
是(これ)も橋板三間(さんげん)まばらに引落(ひきおと)して、半(なかば)より東にかい楯(だて)をかき、櫓(やぐら)をかきて、川を渡す敵あらば、横矢(よこや)に射、橋桁(はしげた)を渡る者あらば、走(はし)りを以て推落(おしおと)す様(やう)にぞ構へたる。馬の懸上(かけあが)りへ逆茂木(さかもぎ)ひしと引懸(ひきかけ)て、後(うしろ)に究竟(くつきやう)の兵共(つはものども)、馬を引立(ひきたて)々々(ひきたて)並居(なみゐ)たれば、如何なるいけずき・する墨に乗る共(とも)、こゝを渡すべしとは見へざりけり。去(さる)程(ほど)に将軍は八十万騎(はちじふまんぎ)の勢を率(そつ)し、正月七日近江(あふみの)国(くに)伊岐州(いぎす)の社(やしろ)に、山法師(やまほふし)成願坊(じやうぐわんばう)が三百(さんびやく)余騎(よき)にて楯篭(たてごもり)たりける城を、一日(いちにち)一夜(いちや)に責(せめ)落して、八日に八幡(やはた)の山下(さんげ)に陣を取る。細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)は、四国・中国の勢を率(そつ)して正月七日播磨(はりま)の大蔵谷(おほくらだに)に著(つい)たりけるに、赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)我(わが)国(くに)に下(くだつ)て旗を挙(あげ)ん為に、京より逃下(にげくだり)けるに行逢(ゆきあひ)て、互に悦(よろこび)思ふ事限(かぎり)なし。 且(かつう)は元弘の佳例(かれい)也(なり)とて、信濃(しなのの)守(かみ)を先陣にて、其(その)勢(せい)都合(つがふ)二万三千(にまんさんぜん)余騎(よき)、正月八日の午剋(むまのこく)に芥川(あくたかは)の宿(しゆく)に陣を取る。久下(くげの)弥三郎時重(ときしげ)・波々伯部(はうかべの)二郎左衛門(じらうざゑもん)為光(ためみつ)・酒井(さかゐ)六郎(ろくらう)貞信(さだのぶ)、但馬(たじま)・丹後(たんご)の勢と引合(ひきあはせ)て六千(ろくせん)余騎(よき)、二条(にでうの)大納言殿(だいなごんどの)の西山の峯(みね)の堂(だう)に陣を取(とつ)ておはしけるを追(おひ)落して、正月八日の夜半(やはん)より、大江山(おいのやま)の峠に篝(かがり)をぞ焼(たき)ける。京中(きやうぢゆう)には時に取(とつ)て弱からん方(かた)へ向(むく)べしとて、新田の一族(いちぞく)三十(さんじふ)余人(よにん)、国々の勢五千(ごせん)余騎(よき)を貽(のこさ)れたりければ、大江山(おいのやま)の敵を追(おひ)払ふべしとて、江田(えた)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)行義(ゆきよし)を大将として、三千(さんぜん)余騎(よき)を丹波路(たんばぢ)へ差向(さしむけ)らる。此(この)勢(せい)正月八日の暁(あかつき)、桂(かつら)川を打渡(うちわたつ)て、朝霞(あさかすみ)の紛(まぎ)れに、大江山(おいのやま)へ推(おし)寄せ、一矢(ひとや)射違(ちがふ)る程こそ有(あり)けれ、抜連(ぬきつ)れて責上(せめあが)りける間、一陣に進(すすん)で戦ひける久下(くげの)弥三郎が舎弟五郎長重(ながしげ)、痛手(いたで)を負(おう)て討(うた)れにけり。 |
|
是(これ)を見て後陣(ごぢん)の勢一戦(いつせん)も戦(たたかは)ずして、捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引きける間、敵さまでは追(おは)ざりけれ共(ども)、十里(じふり)二十里(にじふり)の外(ほか)まで、引かぬ兵(つはもの)はなかりけり。明(あく)れば正月九日の辰剋(たつのこく)に、将軍八十万騎(はちじふまんぎ)の勢にて、大渡(おほわたり)の西の橋爪(はしづめ)に推寄(おしよせ)、橋桁(はしげた)をや渡らまし、川をや渡さましと見給(たまふ)に、橋の上も川の中も、敵の構(かま)へきびしければ、如何(いかが)すべしと思案(しあん)して時移るまでぞ引(ひか)へたる。 時に官軍(くわんぐん)の陣よりはやりをの者共(ものども)と見へたる兵百騎(ひやくき)計(ばかり)、川端(かはばた)へ進出(すすみいで)て、「足利殿(あしかがどの)の搦手(からめて)には憑思食(たのみおぼしめし)て候(さふらひ)つる丹波路(たんばぢ)の御敵(おんてき)どもをこそ、昨日追散(おつちら)して、一人も不残討取(うちとつ)て候へ。御旗(おんはた)の文(もん)を見候に、宗(むね)との人々は、大略(たいりやく)此(この)陣へ御向有(おんむかひあり)と覚(おぼえ)て候。治承(ぢしよう)には足利又太郎、元暦(げんりやく)には佐々木(ささきの)四郎高綱(たかつな)、宇治川を渡して名を後代(こうたい)に挙候(あげさふらひ)き。此(この)川は宇治川よりも浅(あさく)して而(しか)も早からず。爰(ここ)を渡され候へ。」と声々に欺(あざむい)て、箙(えびら)を敲(たたい)て咄(どつ)と笑(わらふ)。 武蔵・相摸の兵共(つはものども)、「敵に招(まねか)れて、何(いか)なる早き淵(ふち)川なり共(とも)渡さずと云(いふ)事(こと)やあるべき。仮令(たとひ)川深(ふかう)して、馬人(うまひと)共(とも)に沈みなば、後陣の勢其(それ)を橋に蹈(ふん)で渡れかし。」とて、二千(にせん)余騎(よき)一度(いちど)に馬を打入(うちいれ)んとしけるを、執事(しつじ)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)馳廻(はせまはつ)て、「是(これ)はそも物に狂ひ給ふか。馬の足もたゝぬ大河の、底は早(はやく)して上は閑(しづか)なるを、渡さば渡されんずるか。暫(しばらく)閑(しづ)まり給へ。在家(ざいけ)をこぼちて、筏(いかだ)に組(くん)で渡らんずるぞ。」と下知(げぢ)せられければ、さしも進みける兵、げにもとや思(おもひ)けん、軈(やが)て近辺(きんへん)の在家数百(すひやく)家を壊(こぼ)ち連(つらね)て、面(おもて)二三町なる筏をぞ組(くん)だりける。武蔵・相摸の兵共(つはものども)五百(ごひやく)余人(よにん)こみ乗(のつ)て、橋より下(しも)を渡(わたり)けるが、河中に打(うち)たる乱杭(らんぐひ)に懸(かかつ)て、棹を指(さ)せ共(ども)行(ゆき)やらず。 |
|
敵は雨の降る如く散々(さんざん)に射る。筏はちともはたらかず。兎角(とかう)しける程(ほど)に、流れ淀(よどう)たる浪に筏の舫(もやひ)を押(おし)切られて、竿(さを)にも留(とま)らず流(ながれ)けるが、組み重ねたる材木共、次第に別々(べちべち)に成(なり)ければ、五百(ごひやく)余人(よにん)乗(のつ)たる兵(つはもの)皆水に溺れて失(うせ)にけり。 敵は楯を敲(たたい)て、「あれ見よ。」と咲(わら)ふ。御方(みかた)は手をあがいて、如何(いかん)かせんと騒(さわ)き悲(かなし)め共(ども)叶(かな)はず。又此軍(このいくさ)散(さん)じて後、橋の上なる櫓(やぐら)より、武者(むしや)一人矢間(やま)の板(いた)を推開(おしひらい)て、「治承(ぢしよう)に高倉(たかくら)の宮(みや)の御合戦の時、宇治橋を三間(さんげん)引(ひき)落して、橋桁(はしげた)計(ばかり)残(のこり)て候(さふらひ)しをだに、筒井浄妙(つつゐのじやうめう)・矢切但馬(やぎりのたじま)なんどは、一条・二条(にでう)の大路(おほち)よりも広げに、走渡(はしりわたつ)てこそ合戦仕(つかまつつ)て候ひけるなれ。況(いはん)や此(この)橋は、かい楯の料(れう)に所々板を弛(はづい)て候へ共(ども)、人の渡り得ぬ程の事はあるまじきにて候。坂東(ばんどう)より上(のぼつ)て京を責(せめ)られんに、川を阻(へだて)たる合戦のあらんずるとは、思ひ設(まうけ)られてこそ候(さふらひ)つらめ。舟も筏も事の煩計(わづらひばかり)にてよも叶(かなひ)候はじ。只橋の上を渡(わたつ)て手攻(てづめ)の軍(いくさ)に我等が手なみの程を御覧じ候へ。」と、敵を欺(あざむ)き恥(はぢ)しめてあざ咲(わらう)てぞ立(たつ)たりける。 是(これ)を聞(きい)て武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)が内に、野木(やぎの)与一兵衛入道頼玄(らいげん)とて、大力(だいぢから)の早業(はやわざ)、打物(うちもの)取(とつ)て世に名を知られたる兵(つはもの)有(あり)けるが、同丸(どうまる)の上にふしなはめの大鎧(おほよろひ)すき間(ま)もなく著なし、獅子頭(ししがしら)の冑(かぶと)に、目の下(した)の頬当(ほうあて)して、四尺(ししやく)三寸(さんずん)のいか物作(つくり)の太刀をはき、大たて揚(あげ)の膸当(すねあて)脇楯(わいだて)の下へ引(ひき)こうて、柄(え)も五尺(ごしやく)身も五尺(ごしやく)の備前長刀(なぎなた)、右の小脇(こわき)にかいこみて、「治承(ぢしよう)の合戦は、音(おと)に聞(きい)て目に見たる人なし。浄妙(じやうめう)にや劣(おとる)と我を見よ。敵を目に懸(かく)る程ならば、天竺(てんぢく)の石橋(しやくけう)、蜀川(しよくせん)の縄(なは)の橋也(なり)とも、渡(わたり)得ずと云(いふ)事(こと)やあるべき。」と高声(かうじやう)に広言(くわうげん)吐(はい)て、橋桁(はしげた)の上にぞ進(すすん)だる。 |
|
櫓(やぐら)の上の掻楯(かいだて)の陰(かげ)なる官軍共(くわんぐんども)、是(これ)を射て落さんと、差攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)に射る。面(おもて)僅(わづか)に一尺(いつしやく)計(ばかり)ある橋桁(はしげた)の上を、歩(あゆめ)ば矢に違(ちが)ふ様(やう)もなかりけるに、上(あが)る矢には指覆(さしうつぶき)、下(さが)る矢をば跳越(をどりこ)へ、弓手(ゆんで)の矢には右の橋桁(はしげた)に飛(とび)移り、馬手(めて)の矢には左の橋桁(はしげた)へ飛(とび)移り、真中(ただなか)を指(さし)て射る矢をば、矢切(やぎり)の但馬(たじま)にはあらねども、切(きつ)て落さぬ矢はなかりけり。数万騎(すまんぎ)の敵御方(みかた)立合(たちあつ)て見ける処に、又山川(やまがは)判官(はうぐわん)が郎等(らうどう)二人(ににん)、橋桁(はしげた)を渡(わたつ)て継(つづい)たり。 頼玄(らいげん)弥(いよいよ)力を得て、櫓(やぐら)の下へかづき、堀立(ほりたて)たる柱(はしら)を、ゑいや/\と引くに、橋の上にかいたる櫓なれば、橋共(とも)にゆるぎ渡(わたり)て、すはやゆり倒(たふ)しぬとぞ見へたりける。櫓の上なる射手共(いてども)四五十人(しごじふにん)叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、飛下(とびおり)々々(とびおり)倒(たふ)れふためいて二の木戸(きど)の内へ逃入(にげいり)ければ、寄手(よせて)数十万騎(すじふまんぎ)同音(どうおん)に箙(えびら)を敲(たたい)てぞ笑(わらひ)ける。「すはや敵は引(ひく)ぞ。」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ、参河・遠江・美濃・尾張(をはり)のはやり雄(を)の兵共(つはものども)千(せん)余人(よにん)、馬を乗放(のりはなち)々々、我前(われさき)にとせき合(あつ)て渡るに、射落されせき落されて、水に溺るゝ者数(かず)を知(しら)ず。其(それ)をも不顧、幾(いく)程もなき橋の上に、沓(くつ)の子(こ)を打(うつ)たるが如く立双(たちならん)で、重々(ぢゆうぢゆう)に構(かまへ)たる櫓(やぐら)かい楯(だて)を引破(ひきやぶ)らんと引(ひき)ける程(ほど)に、敵や兼(かね)てをしたりけん、橋桁(はしげた)四五間(しごけん)中(ちゆう)より折(を)れて、落(おち)入る兵千(せん)余人(よにん)、浮(うき)ぬ沈(しづみ)ぬ流行(ながれゆく)。 |
|
数万(すまん)の官軍(くわんぐん)同音(どうおん)に楯を敲(たたい)てどつと咲(わらふ)。され共(ども)野木(やぎの)与一兵衛入道計(ばかり)は、水練さへ達者也(なり)ければ、橋の板一枚に乗り、長刀を棹(さを)に指(さし)て、本の陣へぞ帰りける。是(これ)より後は橋桁(はしげた)もつゞかず、筏も叶(かなは)ず。右(かく)てはいつまでか向居(むかひをる)べきと、責(せめ)あぐんで思(おもひ)ける処に、さも小賢(こざかし)げなる力者(りきしや)一人立封(たてふう)したる文(ふみ)を持(もつ)て、「赤松筑前(ちくぜん)殿(どの)の御陣(ごぢん)はいづくにて候ぞ。」と、問々走(とひとひはしり)て出来(いできた)る
。 筑前(ちくぜんの)守(かみ)は八日の宵より、桃井修理亮(もものゐしゆりのすけ)・土屋三川(みかはの)守(かみ)・安保(あぶ)丹後(たんごの)守(かみ)と陣を双(ならべ)て、橋の下に居(ゐ)たりけるが、此(この)使を見付(みつけ)て、急(いそぎ)文を披(ひらい)て見れば、舎兄(しやけい)信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)の自筆にて、「義貞以下(いげ)の逆徒等(ぎやくとら)退治(たいぢ)の事(こと)、将軍家の御教書(みげうしよ)到来(たうらい)の間、為挙義兵播州に罷下(まかりくだ)る処に、細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、京都に責上(せめのぼ)らるゝ間、路次(ろし)に於て参会(さんくわい)す。且(しばら)く元弘の佳例(かれい)に任(まかせ)て、範資(のりすけ)可打先陣由一諾(いちだく)事(こと)訖(をはり)、今日已(すでに)芥河(あくたがは)の宿(しゆく)に著(つき)候也(なり)。明日十日辰剋(たつのこく)には、山崎の陣へ推寄(おしよせ)て、合戦を致すべきにて候。此(この)由を又将軍へ申さしめ給ふべし。」とぞ書(かき)たりける。 筑前(ちくぜんの)守(かみ)此(この)状を持参して読上(よみあげ)たりければ、将軍を始奉(はじめたてまつ)て、吉良(きら)・石堂(いしたう)・高(かう)・上杉・畠山(はたけやま)の人々、「今はかうぞ。」と悦合(よろこびあへ)る事不斜(なのめならず)。此(この)使立帰(たちかへつ)て後、相図(あひづ)の程(ほど)にも成(なり)ければ、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)二万(にまん)余騎(よき)にて、桜井の宿(しゆく)の東へ打出(うちいで)、赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)二千(にせん)余騎(よき)にて、川に副(そう)て押寄(おしよす)る。筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)、川向(かはむかひ)より旗の文(もん)を見て、小舟(こぶね)三艘(さんざう)に取乗押(とりのりおし)渡りて兄弟一所(いつしよ)になる。此(この)間東西数百(すひやく)里(り)を隔(へだて)て、安否(あんぴ)更に知らざりしかば、いづくの陣にか討(うた)れぬらんと安き心もなかりつるに、互に恙無(つつがなか)りける天運の程の不思議(ふしぎ)さよと、手に手を取(とり)組み、額(ひたひ)を合(あは)せて、先づ悦び泣(なき)にぞ泣(なき)たりける。 |
|
山崎の合戦は、元弘の吉例(きちれい)に任せて、赤松先(まづ)矢合(やあはせ)をすべしと、兼(かね)て定められたりけるを、播磨(はりま)の紀氏(きうぢ)の者共(ものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)抜懸(ぬけがけ)して一番に押(おし)寄せたり。官軍(くわんぐん)敵を小勢(こぜい)と見て、木戸(きど)を開き、逆茂木(さかもぎ)を引除(ひきのけ)て、五百(ごひやく)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)て懸出(かけいで)たるに、寄手(よせて)一積(ひとたまり)もたまらず追立(おつたて)られて、四方(しはう)に逃(にげ)散る。二番に坂東(ばんどう)・坂西(ばんぜい)の兵共(つはものども)二千(にせん)余騎(よき)、桜井の宿(しゆく)の北より、山に副(そう)て推寄(おしよせ)たり。 城中の大将脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助(よしすけ)の兵(つはもの)、並(ならびに)宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)将監(しやうげん)泰藤(やすふぢ)が紀清(きせい)両党二千(にせん)余騎(よき)、二の木戸(きど)より同時に打出(うちいで)て、東西に開(ひら)きあひ、南北へ追(おつ)つ返(かへし)つ、半時計(はんじばかり)相(あひ)戦ふ。汗馬(かんば)の馳違(はせちがふ)音(おと)、鬨(とき)作る声、山に響き地を動(うごか)して、雌雄未決(いまだけつせず)、戦半(たたかひなかば)なる時、四国の大将細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、六万(ろくまん)余騎(よき)、赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)二千(にせん)余騎(よき)、二手(ふたて)に分(わけ)て押寄(おしよせ)たり。官軍(くわんぐん)敵の大勢(おほぜい)を見て、叶(かな)はじとや思ひけん、引返(ひきかへ)して城の中に引篭(こも)る。 寄手(よせて)弥(いよいよ)機(き)に乗(のつ)て、堀に飛漬(とびつか)り、逆茂木(さかもぎ)引(ひき)のけて、射れ共(ども)痛まず、打て共(ども)漂(ただよ)はず、乗越(のりこえ)々々責入(せめいり)ける程(ほど)に、堀は死人(しにん)に埋(うまつ)て平地(ひらち)になり、矢間(さま)は皆射とぢられて開きゑず。城中早(はや)色めき立(たつ)て見へけるが、一番に但馬(たぢまの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)、同意の兵(つはもの)三百(さんびやく)余騎(よき)、旗を巻(まい)て降人(かうにん)に出づ。是(これ)を見て、洞院按察(とうゐんあぜち)大納言殿(だいなごんどの)の御勢(おんせい)、文観(もんくわん)僧正(そうじやう)の手(て)の者なんど云(いひ)て、此(この)間畠水練(はたけすゐれん)しつる者共(ものども)、弓を弛(はづ)し冑(かぶと)を脱(ぬい)で我先(われさき)にと降人(かうにん)に出(いで)ける間、城中の官軍(くわんぐん)力を失(うしなつ)て防(ふせぎ)得ず。 |
|
さらば淀(よど)・鳥羽(とば)の辺(へん)へ引退(ひきしりぞい)て、大渡(おほわたり)の勢と一(ひとつ)に成(なつ)て戦へとて、討(うち)残されたる官軍(くわんぐん)三千(さんぜん)余騎(よき)、赤井(あかゐ)を差(さし)て落行(おちゆけ)ば、山崎の陣は破(やぶれ)にけり。「右(かく)ては敵皇居(くわうきよ)に乱入(みだれい)りぬと覚(おぼゆ)るぞ。主上(しゆしやう)を先(まづ)山門へ行幸成奉(ぎやうがうなしたてまつ)てこそ、心安(やすく)合戦をもせめ。」とて、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、大渡(おほわたり)を捨てゝ都へ帰(かへり)給へば、大友(おほとも)千代松丸・宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)降人(かうにん)に成(なつ)て、将軍の御方(みかた)に馳加(はせくはは)る。 義貞・義助一手(ひとて)に成(なつ)て淀の大明神(だいみやうじん)の前を引(ひく)時、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)六万(ろくまん)余騎(よき)にて追懸(おつかけ)たり。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)後陣に引(ひき)けるが、三千(さんぜん)余騎(よき)にて返合(かへしあは)せ、相撲(すまふ)が辻を陣に取(とつ)て、旗を颯(さつ)と指揚(さしあげ)たりけれ共(ども)、跡(あと)に合戦有(あり)とは義貞には告(つげ)られず。先(まづ)山門へ行幸(ぎやうがう)を成奉(なしたてまつ)らん為也(なり)。越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)、矢軍(やいくさ)にて且(しばら)く時を移し、義貞今は内裏(だいり)へ参(さんぜ)られぬらんと覚(おぼゆ)る程(ほど)に成(なつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、東西よりどつとをめいて懸入(かけいり)、大勢(おほぜい)に颯(さつ)と乱(みだれ)合ひ火を散(ちら)してぞ闘(たたかう)たる。 只今まで御方(みかた)に有(あつ)て、敵になりぬる大友(おほとも)・宇都宮(うつのみや)が兵共(つはものども)なれば、越後(ゑちごの)守(かみ)を見知(しつ)て、自余(じよ)の勢には目を懸(かけ)ず、此(ここ)に取篭(とりこ)め彼(かしこ)によせ合(あは)せて、打留(うちと)めんとしけるを、義顕(よしあき)打破(うちやぶつ)ては囲(かこみ)を出(いで)、取(とつ)て返(かへし)ては追退(おひしりぞ)け、七八度(しちはちど)まで自(みづから)戦(たたかは)れけるに、鎧の袖も冑(かぶと)のしころも、皆切(きり)落されて、深手(ふかで)あまた所(ところ)負(お)ひければ、半死半生(はんしはんしやう)に切(きり)成されて、僅に都へ帰り給ふ。 |
|
■主上(しゆしやう)都落(みやこおちの)事(こと)付(つけたり)勅使河原(てしかはら)自害(じがいの)事(こと)
山崎・大渡(おほわたり)の陣破(やぶ)れぬと聞へければ、京中(きやうぢゆう)の貴賎上下(きせんじやうげ)、俄に出来(いでき)たる事の様(やう)に、周章(あわて)ふためき倒(たふ)れ迷(まよひ)て、車馬東西に馳(はせ)違ふ。蔵物(ざうもつ)・財宝を上下(かみしも)へ持(もち)運ぶ。義貞・義助未(いまだ)馳参(はせまゐ)らざる前(さき)に、主上(しゆしやう)は山門へ落(おち)させ給はんとて、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を玉体(ぎよくたい)にそへて、鳳輦(ほうれん)に召されたれ共(ども)、駕輿丁(かよちやう)一人もなかりければ、四門(しもん)を堅(かため)て候武士共(ぶしども)、鎧著(き)ながら徒立(かちだち)に成(なつ)て、御輿(みこし)の前後をぞ仕りける。吉田(よしだの)内大臣(ないだいじん)定房(さだふさ)公(こう)、車を飛ばせて参ぜられたりけるが、御所中を走廻(はしりまはつ)て見給ふに、よく近侍(きんじ)の人々も周章(あわて)たりけりと覚(おぼえ)て、明星(みやうじやう)・日(ひ)の札(ふだ)、二間(ふたま)の御本尊まで、皆捨(すて)置かれたり。 内府(だいふ)心閑(しづか)に青侍共(あをさぶらひども)に執持(とりもた)せて参ぜられけるが、如何(いかん)かして見落し給ひけん、玄象(げんじやう)・牧馬(ぼくば)・達磨(だるま)の御袈裟(けさ)・毘須羯摩(びしゆかつま)が作(つくり)し五大尊(ごだいそん)、取(とり)落されけるこそ浅猿(あさま)しけれ。公卿(くぎやう)・殿上人(てんしやうびと)三四人(さんしにん)こそ、衣冠(いくわん)正くして供奉(ぐぶ)せられたりけれ、其外(そのほか)の衛府(ゑふ)の官は、皆甲冑(かつちう)を著(ちやく)し、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して、翠花(すゐくわ)の前後に打囲(うちかこ)む。此(この)二三年の間天下僅(わづか)に一統(いつとう)にして、朝恩に誇りし月卿雲客(げつけいうんかく)、指(さし)たる事もなきに、武具を嗜(たしな)み弓馬を好みて、朝義(てうぎ)道に違(たが)ひ、礼法則(のり)に背(そむき)しも、早(はや)かゝる不思議(ふしぎ)出来(いできた)るべき前表(ぜんべう)也(なり)と、今こそ思ひ知られたれ。 |
|
新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)・並(ならび)に江田(えだ)・大館(おほたち)・堀口美濃(みのの)守(かみ)・里見・大井田(おゐた)・々中(たなか)・篭沢以下(こざはいげ)の一族(いちぞく)三十(さんじふ)余人(よにん)・千葉介(ちばのすけ)・宇都宮(うつのみや)美濃将監(みののしやうげん)・仁科(にしな)・高梨・菊池(きくち)以下(いげ)の外様(とざま)の大名八十(はちじふ)余人(よにん)、其(その)勢(せい)僅(わづか)に二万(にまん)余騎(よき)、鳳輦(ほうれん)の跡(あと)を守禦(しゆぎよ)して、皆東坂本(ひがしさかもと)へと馬を早む。 事の騒(さわが)しかりし有様たゞ安禄山(あんろくざん)が潼関(とうくわん)の軍(いくさ)に、官軍(くわんぐん)忽(たちまち)に打負(うちまけ)て、玄宗皇帝(くわうてい)自(みづか)ら蜀(しよく)の国へ落(おち)させ給(たまひ)しに、六軍翠花(すゐくわ)に随(したがつ)て、剣閣の雲に迷(まよひ)しに異ならず。爰(ここ)に信濃(しなのの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に勅使川原(てしかはら)丹三郎(たんざぶらう)は、大渡(おほわたり)の手に向(むかひ)たりけるが、宇治も山崎も破れて、主上(しゆしやう)早(はや)何地共(いづちとも)なく東を差(さし)て落(おち)させ給ひぬと披露有(あり)ければ、「見危致命臣の義也(なり)。我(われ)何(なん)の顔(かんばせ)有(あつ)てか、亡朝(ばうてう)の臣として、不義の逆臣(ぎやくしん)に順(したが)はんや。」と云(いひ)て、三条川原(さんでうがはら)より父子三騎引返(ひつかへ)して、鳥羽(とば)の造路(つくりみち)・羅精門(らしやうもん)の辺(へん)にて、腹かき切(きつ)て死(しに)けり。 |
|
■長年(ながとし)帰洛(きらくの)事(こと)付(つけたり)内裏(だいり)炎上(えんじやうの)事(こと)
那和(なわ)伯耆守(はうきのかみ)長年(ながとし)は、勢多(せた)を堅めて居たりけるが、山崎の陣破れて、主上(しゆしやう)早(はや)東坂本(ひがしさかもと)へ落(おち)させ給(たまひ)ぬと聞へければ、是(これ)より直(すぐ)に坂本へ馳参(はせまゐ)らんずる事は安けれ共(ども)、今一度(いちど)内裏(だいり)へ馳(はせ)まいらで直(すぐ)に落行(おちゆか)んずる事は、後難(こうなん)あるべしとて、其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)にて、十日の暮程(くれほど)に又京都へぞ帰(かへり)ける。今日は悪日(あくにち)とて将軍未(いまだ)都へは入(いり)給はざりけれ共(ども)、四国・西国の兵共(つはものども)、数万騎(すまんぎ)打入(うちいつ)て、京白川(しらかは)に充満(みちみち)たれば、帆掛舟(ほかけぶね)の笠符(かさじるし)を見て、此(ここ)に要(よこぎり)彼(かしこ)に遮(さへぎつ)て、打留(うちとどめ)んとしけれ共(ども)、長年(ながとし)懸散(かけちらし)ては通(とほ)り、打破(うちやぶつ)ては囲(かこみ)を出(いで)、十七度(じふしちど)まで戦(たたかひ)けるに、三百(さんびやく)余騎(よき)の勢次第々々に討(うた)れて、百騎(ひやくき)計(ばかり)に成(なり)にけり。 され共(ども)長年遂(つひ)に討(うた)れざれば、内裏(だいり)の置石(すゑいし)の辺(へん)にて、馬よりをり冑(かぶと)を脱(ぬ)ぎ、南庭に跪(ひざまづ)く。主上(しゆしやう)東坂本(ひがしさかもと)へ臨幸成(なつ)て、数剋(すごく)の事なれば、四門(しもん)悉(ことごとく)閇(とぢ)て、宮殿正に寂寞(せきばく)たり。然(しかれ)ば早(はや)甲乙人共(かふおつにんども)、乱入(みだれいり)けりと覚(おぼえ)て、百官礼儀を調(ととのへ)し紫宸殿(ししんでん)の上には賢聖(げんじやう)の障子(しやうじ)引破(ひきやぶ)られて、雲台(うんたい)の画図(ぐわと)此(こ)こ彼(かし)こに乱(みだれ)たり。佳人(かじん)晨装(しんさう)を餝(かざ)りし弘徽殿(こうきでん)の前には、翡翠(ひすゐ)の御簾(ぎよれん)半(なかば)より絶(たえ)て、微月(びげつ)の銀鉤(ぎんこう)虚(むなし)く懸(かか)れり。 |
|
長年(ながとし)つく/゛\と是(これ)を見て、さしも勇める夷心(えびすごころ)にも哀(あは)れの色や勝りけん、泪(なみだ)を両眼に余(あまし)て鎧の袖をぞぬらしける。良(やや)且(しばら)く徘徊(やすらう)て居たりけるが、敵の時(とき)の声ま近(ぢか)く聞へければ、陽明門(やうめいもん)の前より馬に打乗(うちのつ)て、北白川(きたしらかは)を東へ今路越(いまみちごえ)に懸(かかつ)て、東坂本(ひがしさかもと)へぞ参(まゐり)ける。 其(その)後四国・西国の兵共(つはものども)、洛中(らくちゆう)に乱入(みだれいつ)て、行幸供奉(ぎやうがうぐぶ)の人々の家に、屋形屋形(やかたやかた)に火を懸(かけ)たれば、時節(をりふし)辻風(つじかぜ)はげしく吹布(ふきしい)て、竜楼竹苑准后(りようろうちくゑんじゆごう)の御所(ごしよ)・式部卿(しきぶきやうの)親王(しんわうの)常盤井殿(ときはゐどの)・聖主御遊(せいしゆぎよいう)の馬場の御所、煙(けぶり)同時に立(たち)登りて炎(ほのほ)四方(しはう)に充満(みちみち)たれば、猛火(みやうくわ)内裏(だいり)に懸(かかつ)て、前殿后宮(こうきゆう)・諸司(しよし)八省(しやう)・三十六(さんじふろく)殿十二門、大廈(たいか)の構(かま)へ、徒(いたづら)に一時の灰燼(くわいじん)と成(なり)にけり。越王(ゑつわう)呉を亡(ほろぼ)して姑蘇城(こそじやう)一片(いつぺん)の煙となり、項羽(かうう)秦を傾(かたぶけ)て、咸陽宮(かんやうきゆう)三月の火を盛(さかん)にせし、呉越(ごゑつ)・秦楚(しんそ)の古(いにしへ)も、是(これ)にはよも過(すぎ)じと、浅猿(あさまし)かりし世間(よのなか)なり。 |
|
■将軍入洛(じゆらくの)事(こと)付(つけたり)親光(ちかみつ)討死(うちじにの)事(こと)
明(あく)れば正月十一日、将軍八十万騎(はちじふまんぎ)にて都へ入(いり)給ふ。兼(かね)ては合戦事故(ことゆゑ)なくして入洛(じゆらく)せば、持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)の御方(おんかた)の院(ゐん)・宮々(みやみや)の御中(おんなか)に一人御位(おんくらゐ)に即奉(つけたてまつ)て、天下の政道をば武家より計(はから)ひ申(まうす)べしと、議定(ぎぢやう)せられたりけるが、持明院の法皇・儲王(ちよわう)・儲君(ちよくん)一人も残らせ給はず、皆山門へ御幸成(ごかうなり)たりける間、将軍自(みづか)ら万機(ばんき)の政(まつりごと)をし給はん事も叶ふまじ、天下の事如何(いかが)すべきと案じ煩(わづら)ふてぞおはしける。結城(ゆふき)大田(おほたの)判官(はうぐわん)親光(ちかみつ)は、此(この)君に弐(ふたごこ)ろなき者也(なり)と深く憑(たの)まれ進(まゐら)せて、朝恩(てうおん)に誇る事傍(かたはら)に人なきが如(ごとく)也(なり)ければ、鳳輦(ほうれん)に供奉(ぐぶ)せんとしけるが、此(この)世の中、とても今は墓々(はかばか)しからじと思ひければ、いかにもして将軍をねらい奉らん為に、態(わざ)と都に落止(おちとどまり)てぞ居たりける。 或(ある)禅僧を縁に執(とつ)て、降参(かうさん)仕るべき由を将軍へ申入(まうしいれ)たりければ、「親光(ちかみつ)が所存よも誠の降参にてはあらじ、只尊氏をたばからん為にてぞあるらん。乍去事の様(やう)を聞かん。」とて、大友(おほとも)左近(さこんの)将監(しやうげん)をぞ遣(つかは)されける。去(さる)程(ほど)に大友(おほとも)と太田(おほた)判官(はうぐわん)と、楊梅東洞院(やまももひがしのとうゐん)にて行合(ゆきあひ)たり。大友(おほとも)は元来(もとより)少し思慮なき者也(なり)ければ、結城に向(むかつ)て、「御降参(ごかうさん)の由を申され候(さふらひ)つるに依(よつ)て、某(それがし)を御使(おんつかひ)にて事の由を能々(よくよく)尋ねよと仰せらるゝにて候。何様(なにさま)降人(かうにん)の法にて候へば、御物具(もののぐ)を解(ぬが)せ給ひ候べし。」と、あらゝかに言(ことば)をぞ懸(かけ)たりける。親光(ちかみつ)是(これ)を聞(きい)て、さては将軍はや我(わが)心中を推量有(あつ)て、打手(うつて)の使に大友(おほとも)を出されたりと心得て、「物具を解(ぬが)せよとの御使(おんつかひ)にて候はゞ進(まゐらせ)候はん。」と云侭(いふまま)に、三尺(さんじやく)八寸(はつすん)の太刀を抜(ぬい)て、大友(おほとも)に馳懸(はせかか)り、冑(かぶと)のしころより本頚(もとくび)まで、鋒(きつさき)五寸(ごすん)計(ばかり)ぞ打(うち)こみたる。 大友(おほとも)も太刀を抜(ぬか)んとしけるが、目やくれけん、一尺(いつしやく)計(ばかり)抜懸(ぬきかけ)て馬より倒(さかさま)に落(おち)て死(し)にけり。是(これ)を見て大友(おほとも)が若党(わかたう)三百(さんびやく)余騎(よき)、結城(ゆふき)が手(て)の者十七騎を中に取篭(とりこめ)て、余さず是(これ)を討(うた)んとす。結城が郎等共(らうどうども)は、元来主(しゆ)と共に討死せんと、思切(おもひきつ)たる者共(ものども)なれば、中々(なかなか)戦(たたかひ)てはなにかせんとて、引組(ひつくん)では差違差違(さしちがへさしちがへ)、一足(ひとあし)も引かず、一所(いつしよ)にて十四人まで打(うた)れにけり。敵も御方(みかた)も是(これ)を聞(きい)て、「あたら兵(つはもの)を、時の間(ま)に失(うしなひ)つる事の方見(うたて)しさよ。」と、惜(をし)まぬ人こそなかりけれ。 |
|
■坂本御皇居(さかもとごくわうきよ)並(ならびに)御願書(ごぐわんじよの)事(こと)
主上(しゆしやう)已(すで)に東坂本(ひがしさかもと)に臨幸(りんかう)成(なつ)て、大宮(おほみや)の彼岸所(ひがんじよ)に御座あれ共(ども)、未(いまだ)参ずる大衆(だいしゆ)一人もなし。さては衆徒(しゆと)の心も変(へん)じぬるにやと叡慮(えいりよ)を悩(なやま)されける処に、藤本房(ふぢもとばうの)英憲僧都(えいけんそうづ)参(まゐつ)て、申出(まうしいで)たる言(ことば)もなく泪(なみだ)を流して大床(おほゆか)の上に畏(かしこまつ)てぞ候(さふらひ)ける。主上(しゆしやう)御簾(ぎよれん)の内より叡覧(えいらん)あ(ッ)て名字(みやうじ)を委(くはし)く尋仰(たづねおほせ)らる。さて其(その)後、「硯やある。」と仰(おほせ)られければ、英憲(えいけん)急ぎ硯を召寄(めしよせ)て御前(おんまへ)に閣(さしお)く。自(みづから)宸筆(しんぴつ)を染(そめ)られて御願書(ごぐわんじよ)をあそばされ、「是(これ)を大宮(おほみや)の神殿に篭(こめ)よ。」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、英憲(えいけん)畏(かしこまつ)て右方(みぎのかた)権禰宜(ごんのねぎ)行親(ゆきちか)を以て是(これ)を納め奉る。 暫くあ(ッ)て円宗院法印(ゑんじゆうゐんのほふいん)定宗(ぢやうしゆう)、同宿(どうじゆく)五百(ごひやく)余人(よにん)召具(めしぐ)して参りたり。君大(おほき)に叡感有(あつ)て、大床(おほゆか)へ召(めさ)る。定宗(ぢやうしゆう)御前(おんまへ)に跪(ひざまづい)て申(まうし)けるは、「桓武(くわんむの)皇帝(くわうてい)の御宇(ぎよう)に、高祖(かうそ)大師(だいし)当山を開基(かいき)して、百王鎮護の伽藍(がらん)を立られ候(さふらひ)しより以来(このかた)、朝家に悦び有る時は、九院挙(こぞつ)て掌(たなごころ)を合(あは)せ、山門に愁(うれ)へある日は、百司均(ひとし)く心を傾(かたぶけ)られずと申す事候はず。誠(まこと)に仏法と王法と相比(あひひ)する故、人として知(しら)ずと云(いふ)者候べからず。されば今逆臣朝廷を危(あやし)めんとするに依(よつ)て、忝(かたじけなく)も万乗(ばんじよう)の聖主、吾(わが)山を御憑(おんたのみ)あ(ッ)て、臨幸成(なつ)て候はんずるを、褊(さみ)し申す衆徒は、一人もあるまじきにて候。身不肖(ふせう)に候へ共(ども)、定宗一人忠貞(ちゆうてい)を存ずる程ならば、三千(さんぜん)の宗徒、弐(ふたごこ)ろはあらじと思食(おぼしめ)し候べし。供奉(ぐぶ)の官軍(くわんぐん)さこそ窮屈(きゆうくつ)に候らめ。先(まづ)御宿(やど)を点じて進(まゐら)せ候べし。」とて、二十一箇所の彼岸所(ひがんしよ)、其外(そのほか)坂本・戸津(とづ)・比叡辻(へいつじ)の坊々(ばうばう)・家々に札(ふだ)を打(うつ)て、諸軍勢(しよぐんぜい)をぞやどしける。 其(その)後又南岸坊(なんがんばう)の僧都(そうづ)・道場坊(だうぢやうばうの)祐覚(いうがく)、同宿(どうじゆく)千(せん)余人(よにん)召具(めしぐ)して、先(まづ)内裏(だいり)に参じ、やがて十禅師(じふぜんじ)に立登(たちのぼつ)て大衆(だいしゆ)を起(おこ)し、僉議(せんぎ)の趣(おもむき)を院々(ゐんゐん)・谷々(たにだに)へぞ触送(ふれおく)りける間、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)悉(ことごと)く甲冑(かつちう)を帯(たい)して馳参(はせまゐる)。先(まづ)官軍(くわんぐん)の兵粮(ひやうらう)とて、銭貨(せんくわ)六万貫(ろくまんぐわん)・米穀七千(しちせん)石(ごく)・波止土濃(はしどの)の前に積(つん)だりければ、祐覚(いうがく)是(これ)を奉(ぶ)行して、諸軍勢(しよぐんぜい)に配分(はいぶん)す。さてこそ未(いまだ)医王山王(いわうさんわう)も、我(わが)君を捨(すて)させ給はざりけりと、敗軍(はいぐん)の士卒(じそつ)悉(ことごと)く憑(たの)もしき事には思ひけれ。 |
|
■太平記 巻第十五 | |
■園城寺(をんじやうじ)戒壇(かいだんの)事(こと)
山門二心(ふたごころ)なく君を擁護(おうご)し奉て、北国・奥州の勢を相待(まつ)由聞(きこ)へければ、義貞に勢の著(つか)ぬ前(さき)に、東坂本(ひがしさかもと)を急(いそぎ)可被責とて、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)・同刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・並(ならびに)陸奥(むつの)守(かみ)を大将として、六万(ろくまん)余騎(よき)を三井寺(みゐでら)へ被差遣。是(これ)は何(いつ)も山門に敵する寺なれば、衆徒(しゆと)の所存よも二心非じと被憑ける故(ゆゑ)也(なり)。 随(したがつて)而衆徒被致忠節者、戒壇(かいだん)造営の事(こと)、武家殊に加力可成其功之(の)由(よし)、被成御教書。抑(そもそも)園城寺(をんじやうじ)の三摩耶戒壇(さまやかいだん)の事は、前々(せんぜん)已(すで)に公家(くげ)尊崇(そんそう)の儀を以て、勅裁を被成、又関東(くわんとう)贔負(ひいき)の威を添(そへ)て取立(とりたて)しか共(ども)、山門嗷訴(がうそ)を恣(ほしいまま)にして猛威を振(ふる)ふ間、干戈(かんくわ)是(これ)より動き、回禄(くわいろく)度々(どど)に及べり。其(その)故を如何(いかに)と尋(たづぬ)るに、彼(かの)寺の開山高祖(かいさんかうそ)智証(ちしよう)大師(だいし)と申(まうし)奉るは、最初(そのかみ)叡山(えいさん)伝教(でんげう)大師(だいし)の御弟子(おんでし)にて、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)の碩徳(せきとく)、智行兼備の権者(ごんじや)にてぞ御坐(おはしま)しける。 而るに伝教(でんげう)大師(だいし)御入滅(ごにふめつ)の後、智証(ちしよう)大師(だいし)の御弟子(おんでし)と、慈覚(じかく)大師(だいし)の御弟子(おんでし)と、聊(いささか)法論の事有(あつ)て、忽(たちまち)に確執(かくしつ)に及(および)ける間、智証(ちしよう)大師(だいし)の門徒修禅(もんとしゆぜん)三百房(さんびやくばう)引(ひい)て、三井寺(みゐでら)に移る。于時教待和尚(けうたいくわしやう)百六十年(ひやくろくじふねん)行(おこなう)て祈出(いのりいだ)し給(たまひ)し生身(しやうじん)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)を智証(ちしよう)大師(だいし)に付属(ふぞく)し給へり。大師(だいし)是(これ)を受て、三密瑜伽(さんみつゆか)の道場を構へ、一代説教の法席(ほつせき)を展給(のべたまひ)けり。其(その)後仁寿(にんじゆ)三年に、智証(ちしよう)大師(だいし)求法(ぐほふ)の為に御渡唐有(ごとたうあり)けるに、悪風俄に吹来(ふききたつ)て、海上の御船(おんふね)忽(たちまち)にくつがへらんとせし時、大師(だいし)舷(ふなばた)に立出(たちいで)て、十方を一礼(いちらい)して誠礼を致させ給ひしかば、仏法護持(ごぢ)の不動明王(ふどうみやうわう)、金色(こんじき)の身相(しんさう)を現(げん)じて、船の舳(へ)に立(たち)給ふ。 |
|
又新羅(しんら)大明神(だいみやうじん)親(まのあた)りに船の艫(とも)に化現(けげん)して、自(みづから)橈(かぢ)を取(とり)給ふ。依之(これによつて)御舟(おんふね)無恙明州津(みやうじうのつ)に著(つき)にけり。角(かく)て御在唐(ございたう)七箇年(しちかねん)の間、寝食(しんしよく)を忘(わすれ)て顕密(けんみつ)の奥義(あうぎ)を究(きは)め給ひて、天安三年に御帰朝あり。其後(そののち)法流弥(いよいよ)盛(さかん)にして、一朝の綱領(かうれい)、四海(しかい)の倚頼(いらい)たりしかば、此(この)寺四箇の大寺(だいじ)の其(その)一つとして、論場(ろんぢやう)の公請(くしやう)に随ひ、宝祚(はうそ)の護持を致(いたす)事(こと)諸寺に卓犖(たくらく)せり。抑(そもそも)山門已(すで)に菩薩(ぼさつ)の大乗戒(だいじようかい)を建(たて)、南都(なんと)は又声聞(しやうもん)の小乗戒(せうじようかい)を立つ。園城寺(をんじやうじ)何ぞ真言(しんごん)の三摩耶戒(さまやかい)を建(たて)ざらんやとて、後朱雀(ごしゆじやく)院(ゐん)の御宇(ぎよう)長暦(ちようりやく)年中に、三井寺(みゐでら)の明尊(みやうそん)僧正(そうじやう)、頻(しき)りに勅許を蒙(かうむ)らんと奏聞しけるを、山門堅く支申(ささへまうし)ければ、彼(かの)寺の本主太政(だいじやう)大臣(だいじん)大友(おほともの)皇子(わうじ)の後胤、大友(おほともの)夜須磨呂(やすまろ)の氏族連署して、官府(くわんふ)を申す。 貞観(ぢやうぐわん)六年十二月五日の状に曰(いはく)、「望請長為延暦寺(えんりやくじ)別院(べちゐん)、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺(えんりやくじ)別院(べちゐん)之(の)由(よし)、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂(やすまろ)並氏人愁吟。弥為天台(てんだいの)別院(べちゐん)専祈天長地久之御願、可致四海(しかい)八■(はちえん)之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、以園城寺可為天台(てんだいの)別院(べちゐん)云云。如之貞観九年(くねん)十月三日智証(ちしよう)大師(だいし)記文云、円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒云云。然(しかれ)ば本末(ほんまつ)の号歴然(れきぜん)たり。師弟の義何ぞ同(おなじ)からん。」証(しよう)を引き理(り)を立(たて)て支申(ささへまうし)ける間、君(きみ)思食煩(おぼしめしわづらは)せ給(たまひ)て、「許否(きよひ)共に凡慮(ぼんりよ)の及(およぶ)処に非(あらざ)れば、只可任冥慮。」とて、自(みづから)告文(かうぶん)を被遊て叡山(えいさんの)根本中堂(こんぼんちゆうだう)に被篭けり。 |
|
其詞(そのことばに)云(く)、「戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現云云。」此告文(このかうぶん)を被篭て、七日に当りける夜、主上(しゆしやう)不思議(ふしぎ)の御夢想(ごむさう)ありけり。無動寺(むどうじ)の慶命(きやうみやう)僧正(そうじやう)、一紙(いつし)の消息(せうそく)を進(まゐらせ)て云(いはく)、「自胎内之昔、至治天之今、忝(かたじけなくも)雖奉祈請宝祚長久、三井寺(みゐでらの)戒壇院若(もし)被宣下者、可失本懐云云。」又其翌夜(そのつぎのよ)の御夢(おんゆめ)に彼(かの)慶命(きやうみやう)僧正(そうじやう)参内(さんだい)して紫宸殿(ししんでん)に被立たりけるが、大きに忿(いか)れる気色(けしき)にて、「昨日一紙(いつし)の状を雖進覧、叡慮(えいりよ)更に不驚給、所詮(しよせん)三井寺(みゐでら)の戒壇有勅許者、変年来之御祈、忽(たちまち)に可成怨心。」と宣(のたま)ふ。 又其翌(そのつぎ)の夜(よ)の御夢(おんゆめ)に、一人の老翁弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して殿上(てんしやう)に候(こう)す。主上(しゆしやう)、「汝(なんぢ)は何者ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「円宗(ゑんしゆう)擁護(おうご)の赤山(せきさん)大明神(だいみやうじん)にて候。三井寺(みゐでら)の戒壇院執奏(しつそう)の人に向(むかつ)て、矢一つ仕(つかまつら)ん為に参内(さんだい)して候也(なり)。」とぞ申(まうさ)れける。夜々の御夢想に、君も臣も恐(おそれ)て被成ければ、遂(つひ)に寺門の所望被黙止、山門に道理をぞ被付ける。角(かく)て遥(はるか)に程(ほど)経(へ)て、白河院の御宇(ぎよう)に、江帥匡房(えのそつのきやうばう)の兄に、三井寺(みゐでら)の頼豪(らいがう)僧都(そうづ)とて、貴(たつと)き人有(あり)けるを被召、皇子御誕生の御祈(おんいのり)をぞ被仰付ける。 |
|
頼豪(らいがう)勅を奉(うけたまはつ)て肝胆(かんたん)を砕(くだい)て祈請(きしやう)しけるに、陰徳忽(たちまち)に顕(あらは)れて承保(しようほう)元年十二月十六日に皇子御誕生有(あり)てけり。帝(みかど)叡感の余(あまり)に、「御祷(おんいのり)の観賞(けんじやう)宜依請。」と被宣下。頼豪(らいがう)年来(としごろ)の所望(しよまう)也(なり)ければ、他の官禄一向是(これ)を閣(さしおい)て、園城寺(をんじやうじ)の三摩耶戒壇(さまやかいだん)造立(ざうりつ)の勅許をぞ申賜(まうしたまはり)ける。山門又是(これ)を聴(きき)て款状(くわじやう)を捧(ささげ)て禁庭(きんてい)に訴へ、先例を引(ひい)て停廃(ちやうはい)せられんと奏(そう)しけれども、「綸言(りんげん)再び不複」とて勅許無(なか)りしかば、三塔(さんたふ)嗷儀(がうぎ)を以て谷々(たにだに)の講演(かうえん)を打止(うちや)め、社々(やしろやしろ)の門戸(もんこ)を閉(とぢ)て御願(ごぐわん)を止(やめ)ける間、朝儀(てうぎ)難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁(ちよくさい)をぞ被召返ける。 頼豪(らいがう)是(これ)を忿(いかつ)て、百日(ひやくにち)の間髪(かみ)をも不剃爪をも不切、炉壇(ろだん)の烟にふすぼり、嗔恚(しんい)の炎(ほのほ)に骨を焦(こがし)て、我(われ)願(ねがはく)は即身(そくしん)に大魔縁(だいまえん)と成(なつ)て、玉体を悩(なやま)し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念(あくねん)を発(おこ)して、遂(つひ)に三七日(さんしちにち)が中に壇上(だんじやう)にして死にけり。其怨霊(そのをんりやう)果(はた)して邪毒を成(なし)ければ、頼豪(らいがう)が祈出(いのりいだ)し奉りし皇子、未(いまだ)母后(ぼこう)の御膝(ひざ)の上を離(はなれ)させ給はで、忽(たちまち)に御隠(おんかくれ)有(あり)けり。 叡襟(えいきん)是(これ)に依(よつ)て不堪、山門の嗷訴(がうそ)、園城(をんじやう)の効験(かうげん)、得失(とくしつ)甚(はなはだし)き事隠無(かくれなか)りければ、且(かつう)は山門の恥を洗(すす)ぎ、又は継体(けいたい)の儲(ひつぎ)を全(まつたう)せん為に、延暦寺(えんりやくじの)座主(ざす)良信(りやうしん)大僧正(だいそうじやう)を申請(まうししやうじ)て、皇子御誕生の御祈(おんいのり)をぞ被致ける。先(まづ)御修法(みしほ)の間種々の奇瑞(きずゐ)有(あり)て、承暦(しやうりやく)三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持(ごぢ)隙(ひま)無(なか)りければ、頼豪(らいがう)が怨霊(をんりやう)も近付(ちかづき)奉らざりけるにや、此(この)宮(みや)遂(つひ)に玉体無恙して、天子の位を践(ふま)せ給ふ。御在位(ございゐ)の後院号(ゐんがう)有(あつ)て、堀河(ほりかはの)院(ゐん)と申(まうし)しは、則(すなはち)此(この)第二(だいに)の宮(みや)の御事(おんこと)也(なり)。 |
|
其後(そののち)頼豪(らいがう)が亡霊(ばうれい)忽(たちまち)に鉄(くろがね)の牙(きば)、石の身なる八万四千(はちまんしせん)の鼠と成(なつ)て、比叡山(ひえいさん)に登り、仏像・経巻を噛破(くひやぶり)ける間、是(これ)を防(ふせぐ)に無術して、頼豪(らいがう)を一社(いつしや)の神に崇(あが)めて其怨念(そのをんねん)を鎮(しづ)む。鼠の禿倉(ほこら)是(これ)也(なり)。懸(かかり)し後は、三井寺(みゐでら)も弥(いよいよ)意趣(いしゆ)深(ふかう)して、動(ややもすれ)ば戒壇の事を申達(まうしたつ)せんとし、山門も又以前の嗷儀(がうぎ)を例(れい)として、理不尽に是(これ)を欲徹却と。去(され)ば始(はじめ)天歴年中より、去文保(さんぬるぶんほう)元年に至(いたる)迄、此(この)戒壇故(ゆゑ)に園城寺(をんじやうじ)の焼(やく)る事已(すで)に七箇度(しちかど)也(なり)。近年は是(これ)に依(よつ)て、其企(そのくはたて)も無(なか)りつれば、中々(なかなか)寺門繁昌して三宝の住持(ぢゆうぢ)も全(まつた)かりつるに、今将軍妄(みだり)に衆徒の心を取(とら)ん為に、山門の忿(いかり)をも不顧、楚忽(そこつ)に被成御教書ければ、却(かへつ)て天魔(てんま)の所行(しよぎやう)、法滅の因縁(いんえん)哉(かな)と、聞(きく)人毎(ごと)に脣(くちびる)を翻(ひるがへ)しけり。 | |
■奥州勢(あうしうぜい)著坂本事
去年十一月に、義貞朝臣打手(うつて)の大将を承(うけたまはつ)て、関東(くわんとう)へ被下向時、奥州の国司(こくし)北畠(きたばたけの)中納言顕家(あきいへの)卿(きやう)の方へ、合図(あひづ)の時をたがへず可攻合由綸旨(りんし)を被下たりけるが、大軍を起す事不容易間、兎角(とかう)延引す。剰(あまつさへ)路すがらの軍(いくさ)に日数(ひかず)を送りける間、心許(ばかり)は被急けれども、此彼(ここかしこ)の逗留(とうりう)に依(よつ)て、箱根(はこね)の合戦には迦(はづ)れ給ひにけり。されども幾程(いくほど)もなく、鎌倉(かまくら)に打入(うちいり)給ひたれば、将軍は早(はや)箱根(はこね)竹下(たけのした)の戦に打勝(うちかつ)て、軈(やが)て上洛(しやうらく)し給ひぬと申(まうし)ければ、さらば迹(あと)より追(おつ)てこそ上(のぼ)らめとて、夜を日に継(つい)でぞ被上洛(しやうらくせられ)ける。去程(さるほど)に越後・上野(かうづけ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)に残りたる新田(につた)の一族(いちぞく)、並(ならびに)千葉・宇都宮(うつのみや)が手勢(てぜい)共(ども)、是(これ)を聞伝(ききつたへ)て此彼(ここかしこ)より馳加(はせくはは)りける間、其(その)勢(せい)無程五万(ごまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。 鎌倉(かまくら)より西には手さす者も無(なか)りければ、夜昼(よるひる)馬を早めて、正月十二日近江(あふみ)の愛智河(えちがは)の宿(しゆく)に被著けり。其(その)日(ひ)大館中務(おほたちなかづかさの)大輔(たいふ)、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)氏頼(うぢより)其比(そのころ)未(いまだ)幼稚(えうち)にて楯篭(たてごも)りたる観音寺(くわんおんじ)の城郭を責落(せめおとし)て、敵を討(うつ)事(こと)都(すべ)て五百(ごひやく)余人(よにん)、翌日(よくじつ)早馬を先立(さきたて)て事の由を坂本へ被申たりければ、主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、敗軍の士卒(じそつ)悉(ことごとく)悦(よろこび)をなし、志(こころざし)を不令蘇と云(いふ)者なし。則(すなはち)道場坊の助註記(じよちゆうき)祐覚(いうかく)に被仰付、湖上(こしやう)の船七百(しちひやく)余艘(よさう)を点(てん)じて志那浜(しなのはま)より一日が中(うち)にぞ被渡ける。爰(ここ)に宇都宮(うつのみや)紀清(きせい)両党、主の催促に依(よつ)て五百(ごひやく)余騎(よき)にて打連(うちつれ)たりけるが、宇都宮(うつのみや)は将軍方(しやうぐんがた)に在(あり)と聞へければ、面々(めんめん)に暇(いとま)を請(こひ)、色代(しきだい)して志那(しなの)浜より引(ひき)分れ、芋洗(いもあらひ)を廻(まはつ)て、京都へこそ上(のぼ)りけれ。 |
|
■三井寺(みゐでら)合戦並(ならびに)当寺撞鐘(つきがねの)事(こと)付(つけたり)俵藤太(たはらとうだが)事(こと)
東国の勢既(すで)[に]坂本に著(つき)ければ、顕家(あきいへの)卿(きやう)・義貞朝臣、其外(そのほか)宗(むね)との人々、聖女(しやうによ)の彼岸所(ひかんじよ)に会合して、合戦の評定(ひやうぢやう)あり。「何様(いかさま)一両日(いちりやうにち)は馬の足を休(やすめ)てこそ、京都へは寄(よせ)候はめ。」と、顕家(あきいへの)卿(きやう)宣(のたまひ)けるを、大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)被申けるは、「長途(ちやうど)に疲れたる馬を一日も休(やすめ)候はゞ中々(なかなか)血下(さがつ)て四五日は物(もの)の用に不可立。其(その)上(うへ)此(この)勢(せい)坂本へ著(つき)たりと、敵縦(たとひ)聞及共(ききおよぶとも)、頓(やが)て可寄とはよも思寄(おもひより)候はじ。軍(いくさ)は起不意必(かならず)敵を拉(とりひしぐ)習(ならひ)也(なり)。只今夜(こんや)の中(うち)に志賀(しが)・唐崎(からさき)の辺(へん)迄打寄(うちよせ)て、未明(びめい)に三井寺(みゐでら)へ押寄せ、四方(しはう)より時(とき)を作(つくつ)て責入(せめいる)程ならば、御方(みかた)治定(ぢぢやう)の勝軍(かちいくさ)とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、義貞朝臣も楠(くすのき)判官(はうぐわん)正成(まさしげ)も、「此義(このぎ)誠(まこと)に可然候。」と被同て、頓(やが)て諸大将(しよだいしやう)へぞ被触ける。 今上(いまのぼ)りの千葉勢是(これ)を聞(きい)て、まだ宵(よひ)より千(せん)余騎(よき)にて志賀の里に陣取る。大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)・額田(ぬかだ)・羽(はね)川六千(ろくせん)余騎(よき)にて、夜半(やはん)に坂本を立(たつ)て、唐崎の浜に陣を取る。戸津(とつ)・比叡辻(へいつじ)・和爾(わに)・堅田(かたた)の者共(ものども)は、小船七百(しちひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、澳(おき)に浮(うかめ)て明(あく)るを待(まつ)。山門の大衆(だいしゆ)は、二万(にまん)余人(よにん)、大略(たいりやく)徒立(かちだち)なりければ、如意越(によいごえ)を搦手(からめて)に廻(まは)り、時の声を揚(あ)げば同時に落(おと)し合(あはせ)んと、鳴(なり)を静めて待明(まちあか)す。 去(さる)程(ほど)に坂本に大勢(おほぜい)の著(つき)たる形勢(ありさま)、船の往反(わうへん)に見へて震(おびたた)しかりければ、三井寺(みゐでら)の大将細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)が方より、京都へ使を馳(はせ)て、「東国の大勢坂本に著(つき)て、明日可寄由其聞(そのきこ)へ候。急(いそぎ)御勢(おんせい)を被添候へ。」と、三度(さんど)迄被申たりけれ共(ども)、「関東(くわんとう)より何(なに)勢(せい)が其(それ)程迄多(おほく)は上(のぼ)るべきぞ。勢(せい)は大略(たいりやく)宇都宮(うつのみや)紀清(きせい)の両党の者とこそ聞(きこ)ゆれ。其(その)勢(せい)縦(たとひ)誤(あやまつ)て坂本へ著(つき)たりとも、宇都宮(うつのみや)京に在(あり)と聞(きこ)へなば、頓(やが)て主の許(もと)へこそ馳来(はせきたら)んずらん。」とて、将軍事ともし給はざりければ、三井寺(みゐでら)へは勢の一騎をも不被添。 |
|
夜既(すで)に明方(あけがた)に成(なり)しかば源(げん)中納言(ぢゆうなごん)顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)、新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞三万(さんまん)余騎(よき)、脇屋(わきや)・堀口・額田(ぬかだ)・鳥山(とりやま)の勢一万五千(いちまんごせん)余騎(よき)、志賀(しが)・唐崎の浜路(はまぢ)に駒を進(すすめ)て押寄(おしよせ)て、後陣(ごぢん)遅(おそ)しとぞ待(まち)ける。前陣の勢先(まづ)大津(おほつ)の西の浦、松本の宿(しゆく)に火をかけて時の声を揚(あ)ぐ。三井寺(みゐでら)の勢共(せいども)、兼(かね)てより用意(ようい)したる事なれば、南院(なんゐん)の坂口に下(お)り合(あつ)て、散々(さんざん)に射る。一番に千葉介(ちばのすけ)千(せん)余騎(よき)にて推(おし)寄せ、一二の木戸(きど)打破(うちやぶ)り、城の中へ切(きつ)て入り、三方(さんぱう)に敵を受(うけ)て、半時許(はんじばかり)闘(たたか)ふたり。 細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)が横合(よこあひ)に懸(かか)りける四国の勢六千(ろくせん)余騎(よき)に被取篭て、千葉(ちばの)新介(しんすけ)矢庭(やには)に被打にければ、其(その)手(て)の兵(つはもの)百(ひやく)余騎(よき)に、当(たう)の敵を討(うた)んと懸入(かけいり)々々(かけいり)戦(たたかう)て、百五十騎(ひやくごじつき)被討にければ、後陣に譲(ゆづつ)て引退(ひきしりぞ)く。二番に顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)にて、入替(いれか)へ乱合(みだれあつ)て責(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)一軍(ひといくさ)して馬の足を休(やすむ)れば、三番に結城(ゆふき)上野入道・伊達(だて)・信夫(しのぶ)の者共(ものども)五千(ごせん)余騎(よき)入替(いれかはつ)て面(おもて)も不振責(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)被討て引退(ひきしりぞき)ければ、敵勝(かつ)に乗(のつ)て、六万(ろくまん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、浜面(はまおもて)へぞ打(うつ)て出(いで)たりける。新田左衛門(さゑもんの)督(かみ)是(これ)を見て、三万(さんまん)余騎(よき)を一手(ひとて)に合(あは)せて、利兵(りへい)堅(かたき)を破(やぶつ)て被進たり。細川雖大勢と、北は大津の在家(ざいけ)まで焼(やく)る最中(さいちゆう)なれば通(とほ)り不得。 |
|
東は湖海(こかい)なれば、水深(ふかう)して廻(まはら)んとするに便(たよ)りなし。僅(わづか)に半町にもたらぬ細道を只一順(じゆん)に前(すす)まんとすれば、和爾(わに)・堅田(かたた)の者共(ものども)が渚(なぎさ)に舟を漕並(こぎならべ)て射ける横矢(よこや)に被防て、懸引自在(かけひきじざい)にも無(なか)りけり。官軍(くわんぐん)是(これ)に力を得て、透間(すきま)もなく懸(かか)りける間、細川が六万(ろくまん)余騎(よき)の勢五百(ごひやく)余騎(よき)被打て、三井寺(みゐでら)へぞ引返(ひつかへ)しける。額田(ぬかだ)・堀口・江田・大館(おほたち)七百(しちひやく)余騎(よき)にて、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがふて、城の中へ入(いら)んとしける処を、三井寺(みゐでらの)衆徒五百(ごひやく)余人(よにん)関(きど)の口に下(お)り塞(ふさがつ)て、命を捨(すて)闘(たたかひ)ける間、寄手(よせて)の勢百(ひやく)余人(よにん)堀の際(きは)にて被討ければ、後陣(ごぢん)を待(まつ)て不進得。其(その)間に城中より木戸を下(おろ)して堀の橋を引(ひき)けり。 義助是(これ)を見て、「無云甲斐者共(ものども)の作法(さほう)哉(かな)。僅(わづか)の木戸(きど)一(ひとつ)に被支て是(これ)程の小城(こしろ)を責(せめ)落さずと云(いふ)事(こと)やある。栗生(くりふ)・篠塚(しのづか)はなきか。あの木戸取(とつ)て引破(やぶ)れ。畑(はた)・亘理(わたり)はなきか。切(きつ)て入れ。」とぞ被下知ける。栗生・篠塚是(これ)を聞(きい)て馬より飛(とん)で下(お)り、木戸を引破(やぶ)らんと走寄(はしりよつ)て見れば、屏(へい)の前に深さ二丈余(あま)りの堀をほりて、両方の岸屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如くなるに、橋の板をば皆刎迦(はねはづ)して、橋桁許(はしげたばかり)ぞ立(たち)たりける。二人(ににん)の者共(ものども)如何(いかに)して可渡と左右をきつと見(みる)処に、傍(そば)なる塚の上(うへ)に、面(おもて)三丈許(ばかり)有(あつ)て、長さ五六丈もあるらんと覚へたりける大率都婆(おほそとば)二本あり。爰(ここ)にこそ究竟(くきやう)の橋板(はしいた)は有(あり)けれ。 |
|
率都婆(そとば)を立(たつ)るも、橋を渡すも、功徳(くどく)は同じ事なるべし。いざや是(これ)を取(とつ)て渡さんと云侭(いふまま)に、二人(ににん)の者共(ものども)走寄(はしりよつ)て、小脇(こわき)に挟(はさみ)てゑいやつと抜く。土の底五六尺掘入(ほりいれ)たる大木なれば、傍(あた)りの土一二尺(いちにしやく)が程くわつと崩(くづれ)て、率都婆(そとば)は無念抜(ぬけ)にけり。彼等(かれら)二人(ににん)、二本の率都婆(そとば)を軽々(かるかる)と打(うち)かたげ、堀のはたに突立(つきたて)て、先(まづ)自歎(じたん)をこそしたりけれ。「異国には烏獲(をうくわく)・樊■(はんくわい)、吾朝(わがてう)には和泉(いづみの)小次郎・浅井那(あさゐな)三郎、是(これ)皆世に双(なら)びなき大力(だいぢから)と聞ゆれども、我等が力に幾程(いくほど)かまさるべき。云(いふ)所傍若無人(ばうじやくぶじん)也(なり)と思(おもは)ん人は、寄合(よせあつ)て力根(ちからね)の程を御覧(ごらん)ぜよ。」と云侭(いふまま)に、二本の率都婆(そとば)を同じ様(やう)に、向(むかひ)の岸へぞ倒し懸(かけ)たりける。 率都婆(そとば)の面(おもて)平(たひらか)にして、二本相並(あひならべ)たれば宛(あたか)四条(しでう)・五条の橋の如し。爰(ここ)に畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・亘理(わたり)新左衛門(しんざゑもん)二人(ににん)橋の爪(つめ)に有(あり)けるが、「御辺達(ごへんたち)は橋渡(わた)しの判官に成り給へ。我等(われら)は合戦をせん。」と戯(たはむ)れて、二人(ににん)共橋の上をさら/゛\と走(はしり)渡り、堀の上なる逆木(さかもぎ)共(ども)取(とつ)て引除(ひきのけ)、各(おのおの)木戸(きど)の脇にぞ著(つい)たりける。是(これ)を防ぎける兵共(つはものども)、三方(さんぱう)の土矢間(つちさま)より鑓(やり)・長刀を差出(さしいだ)して散々(さんざん)に突(つき)けるを、亘理新左衛門(しんざゑもん)、十六(じふろく)迄奪(うばう)てぞ捨(すて)たりける。 畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)是(これ)を見て、「のけや亘理殿、其屏(そのへい)引破(やぶつ)て心安く人々に合戦せさせん。」と云侭(いふまま)に、走懸(はしりかか)り、右の足を揚(あげ)て、木戸(きど)の関(くわん)の木の辺(へん)を、二蹈三蹈(ふたふみみふみ)ぞ蹈(ふん)だりける。余(あまり)に強く被蹈て、二筋(ふたすぢ)渡せる八九寸の貫(くわん)の木、中より折(をれ)て、木戸の扉も屏柱(へいはしら)も、同(おなじ)くどうど倒れければ、防がんとする兵五百(ごひやく)余人(よにん)、四方(しはう)に散(ちつ)て颯(さつ)とひく。一の木戸已(すで)に破(やぶれ)ければ、新田(につた)の三万(さんまん)余騎(よき)の勢、城の中へ懸入(かけいつ)て、先(まづ)合図(あひず)の火をぞ揚(あげ)たりける。是(これ)を見て山門の大衆(だいしゆ)二万(にまん)余人(よにん)、如意越(によいごえ)より落合(おちあつ)て、則(すなはち)院々(ゐんゐん)谷々(たにだに)へ乱(みだれ)入り、堂舎・仏閣に火を懸(かけ)て呼(をめ)き叫(さけん)でぞ責(せめ)たりける。 |
|
猛火(みやうくわ)東西より吹懸(ふきかけ)て、敵南北に充満(みちみち)たれば、今は叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、三井寺(みゐでら)の衆徒共(しゆとども)、或(あるひ)は金堂(こんだう)に走入(はしりいつ)て猛火(みやうくわ)の中に腹を切(きつ)て臥(ふし)、或(あるひ)は聖教(しやうげう)を抱(いだい)て幽谷(いうこく)に倒れ転(まろ)ぶ。多年止住(しぢゆう)の案内者(あんないしや)だにも、時に取(とつ)ては行方(ゆきかた)を失ふ。況乎(いはんや)四国・西国の兵共(つはものども)、方角もしらぬ烟(けぶり)の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼(ここかし)この木の下岩(いは)の陰(かげ)に疲れて、自害をするより外(ほか)の事は無(なか)りけり。されば半日許(ばかり)の合戦に、大津・松本・三井寺(みゐでらの)内に被討たる敵を数(かぞふ)るに七千三百(しちせんさんびやく)余人(よにん)也(なり)。抑(そもそも)金堂(こんだう)の本尊(ほんぞん)は、生身(しやうしん)の弥勒(みろく)にて渡(わたら)せ給へば、角(かく)ては如何(いかが)とて或(ある)衆徒御首許(みくしばかり)を取(とつ)て、薮(やぶ)の中に隠(かく)し置(おき)たりけるが、多(おほく)被討たる兵(つはもの)の首共(くびども)の中に交(まじは)りて、切目(きりめ)に血の付(つき)たりけるを見て、山法師(やまほふし)や仕(し)たりけん、大札(おほふだ)を立(たて)て、一首(いつしゆ)の歌に事書(ことがき)を書副(かきそへ)たりける。 「建武二年の春(はる)の比(ころ)、何(なん)とやらん、事の騒(さわが)しき様に聞へ侍りしかば、早(はや)三会(さんゑ)の暁(あかつき)に成(なり)ぬるやらん。いでさらば八相成道(はつしやうじやうだう)して、説法利生(せつほふりしやう)せんと思ひて、金堂(こんだう)の方(かた)へ立出(たちいで)たれば、業火(ごふくわ)盛(さかん)に燃(もえ)て修羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)四方(しはう)に聞ゆ。こは何事(なにこと)かと思ひ分(わ)く方も無(なく)て居たるに、仏地坊(ぶつちばう)の某(それがし)とやらん、堂内(だうのうち)に走(はしり)入り、所以(ゆゑ)もなく、鋸(のこぎり)を以て我が首(くび)を切(きり)し間、阿逸多(あいつた)といへ共(ども)不叶、堪兼(たへかね)たりし悲みの中(うち)に思ひつゞけて侍(はんべ)りし。山を我(わが)敵(てき)とはいかで思ひけん寺法師(てらほふし)にぞ頚(くび)を切(きら)るゝ。」前々(せんぜん)炎上の時は、寺門の衆徒是(これ)を一大事(いちだいじ)にして隠しける九乳(きうにゆう)の鳧鐘(ふしよう)も取(とる)人なければ、空(むなし)く焼(やけ)て地に落(おち)たり。 |
|
此鐘(このかね)と申(まうす)は、昔竜宮城(りゆうぐうじやう)より伝りたる鐘也(なり)。其(その)故は承平(しようへい)の比(ころ)俵藤太秀郷(たはらとうだひでさと)と云(いふ)者有(あり)けり。或(ある)時此秀郷(このひでさと)只一人勢多(せた)の橋を渡(わたり)けるに、長(たけ)二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)なる大蛇(だいじや)、橋の上に横(よこたはつ)て伏(ふし)たり。両の眼(まなこ)は耀(かかやい)て、天に二(ふたつ)の日を卦(かけ)たるが如(ごとし)、双(なら)べる角(つの)尖(するど)にして、冬枯(ふゆかれ)の森の梢に不異。鉄(くろがね)の牙(きば)上下に生(おひ)ちがふて、紅(くれなゐ)の舌炎(ほのほ)を吐(はく)かと怪(あやし)まる。若(もし)尋常(よのつね)の人是(これ)を見ば、目もくれ魂(たましひ)消(きえ)て則(すなはち)地にも倒(たふれ)つべし。されども秀郷天下第一(だいいち)の大剛(だいかう)の者也(なり)ければ更に一念も不動ぜして、彼大蛇(かのだいじや)の背(せなか)の上を荒(あらら)かに蹈(ふん)で閑(しづか)に上をぞ越(こえ)たりける。 然(しか)れ共(ども)大蛇も敢(あへ)て不驚、秀郷も後(うし)ろを不顧して遥(はるか)に行隔(ゆきへだ)たりける処に、怪(あやし)げなる小男(こをとこ)一人忽然(こつぜん)として秀郷が前に来(きたつ)て云(いひ)けるは、「我(われ)此(この)橋の下に住(すむ)事(こと)已(すで)に二千(にせん)余年(よねん)也(なり)。貴賎往来(きせんわうらい)の人を量(はか)り見るに、今御辺(ごへん)程(ほど)に剛(かう)なる人を未(いまだ)見ず。我(われ)に年来(としごろ)地を争ふ敵有(あつ)て、動(ややもすれ)ば彼(かれ)が為に被悩。可然は御辺(ごへん)我(わが)敵を討(うつ)てたび候へ。」と、懇(ねんごろ)にこそ語(かたら)ひけれ。秀郷一義(いちぎ)も不謂、「子細有(ある)まじ。」と領状(りやうじやう)して、則(すなはち)此(この)男を前(さき)に立てゝ又勢多(せた)の方(かた)へぞ帰(かへり)ける。 二人(ににん)共(とも)に湖水(こすゐ)の波を分(わけ)て、水中に入(いる)事(こと)五十(ごじふ)余町(よちやう)有(あつ)て一(ひとつ)の楼門(ろうもん)あり。開(ひらい)て内へ入るに、瑠璃(るり)の沙(いさご)厚く玉の甃(いしだたみ)暖(あたたか)にして、落花自(おのづから)繽紛(ひんふん)たり。朱楼紫殿玉欄干(たまのらんかん)、金(こがね)を鐺(こじり)にし銀(しろかね)を柱とせり。其(その)壮観奇麗、未曾(いまだかつ)て目にも不見耳にも聞(きか)ざりし所也(なり)。此(この)怪しげなりつる男、先(まづ)内へ入(いつ)て、須臾(しゆゆ)の間に衣冠(いくわん)を正(ただ)しくして、秀郷を客位(きやくゐ)に請(しやう)ず。左右侍衛官(しゑのくわん)前後花の装(よそほひ)善(ぜん)尽(つく)し美(び)尽(つく)せり。酒宴数刻(すごく)に及(およん)で夜既(すで)に深(ふけ)ければ、敵の可寄程(ほど)に成(なり)ぬと周章(あわて)騒ぐ。秀郷は一生涯が間身を放(はな)たで持(もち)たりける五人(ごにん)張(ばり)にせき弦(つる)懸(かけ)て噛(く)ひ湿(しめ)し、三年竹(さんねんだけ)の節近(ふしぢか)なるを十五束(じふごそく)二伏(ふたつぶせ)に拵(こしら)へて、鏃(やじり)の中子(なかご)を筈本(はずもと)迄打(うち)どほしにしたる矢、只三筋(さんすぢ)を手挟(たばさみ)て、今や/\とぞ待(まち)たりける。夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に雨風一通(ひととほ)り過(すぎ)て、電火の激(げき)する事隙(ひま)なし。 |
|
暫有(しばらくあつ)て比良(ひら)の高峯(たかね)の方より、焼松(たいまつ)二三千(にさんぜん)がほど二行に燃(もえ)て、中に嶋の如(ごとく)なる物、此龍宮城(このりゆうぐうじやう)を指(さし)てぞ近付(ちかづき)ける。事の体(てい)を能々(よくよく)見(みる)に、二行にとぼせる焼松(たいまつ)は皆己(おのれ)が左右の手にともしたりと見へたり。あはれ是(これ)は百足蜈蚣(むかで)の化(ばけ)たるよと心得て、矢比(ころ)近く成(なり)ければ、件(くだん)の五人(ごにん)張(ばり)に十五束(じふごそく)三伏(みつぶせ)忘るゝ許(ばかり)引(ひき)しぼりて、眉間(みけん)の真中(まんなか)をぞ射たりける。其手答(そのてごたへ)鉄(くろがね)を射る様(やう)に聞へて、筈(はず)を返してぞ不立ける。秀郷一(いち)の矢を射損(そんじ)て、不安思ひければ、二の矢を番(つがう)て、一分も不違態(わざと)前の矢所(やつぼ)をぞ射たりける。此(この)矢も又前の如くに躍(をど)り返(かへり)て、是(これ)も身に不立けり。 秀郷二(ふた)つの矢をば皆射損(そん)じつ、憑(たのむ)所は矢一筋(ひとすぢ)也(なり)。如何せんと思(おもひ)けるが、屹(きつ)と案じ出(いだ)したる事有(あつ)て、此度(このたび)射んとしける矢さきに、唾(つばき)を吐懸(はきかけ)て、又同矢所(おなじやつぼ)をぞ射たりける。此(この)矢に毒を塗(ぬり)たる故(ゆゑ)にや依(より)けん、又同(おなじ)矢坪(つぼ)を三度(さんど)迄射たる故(ゆゑ)にや依(より)けん、此(この)矢眉間(みけん)のたゞ中を徹(とほ)りて喉(のんど)の下迄羽(は)ぶくら責(せめ)てぞ立(たち)たりける。二三千(にさんぜん)見へつる焼松(たいまつ)も、光忽(たちまち)に消(きえ)て、島の如(ごとく)に有(あり)つる物、倒るゝ音(おと)大地を響(ひび)かせり。立寄(より)て是(これ)を見るに、果して百足の蜈蚣(むかで)也(なり)。竜神(りゆうじん)は是(これ)を悦(よろこび)て、秀郷(ひでさと)を様々(さまざま)にもてなしけるに、太刀一振(ひとふり)・巻絹(まきぎぬ)一(ひとつ)・鎧一領(いちりやう)・頚結(ゆう)たる俵(たはら)一(ひとつ)・赤銅(しやくどう)の撞鐘(つきがね)一口(いつく)を与(あたへ)て、「御辺(ごへん)の門葉(もんえふ)に、必(かならず)将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。 |
|
秀郷(ひでさと)都に帰(かへつ)て後此(この)絹を切(きつ)てつかふに、更に尽(つくる)事(こと)なし。俵は中なる納物(いれもの)を、取(とれ)ども/\尽(つき)ざりける間、財宝倉(くら)に満(みち)て衣裳(いしやう)身に余れり。故(ゆゑ)に其(その)名を俵藤太(たはらとうだ)とは云(いひ)ける也(なり)。是(これ)は産業(さんげふ)の財(たか)らなればとて是(これ)を倉廩(さうりん)に収む。鐘は梵砌(ぼんぜい)の物なればとて三井寺(みゐでら)へ是(これ)をたてまつる。文保(ぶんほう)二年三井寺(みゐでら)炎上の時、此(この)鐘を山門へ取寄(とりよせ)て、朝夕是(これ)を撞(つき)けるに、敢(あへ)てすこしも鳴(なら)ざりける間、山法師(やまほふし)共(ども)、「悪(にく)し、其義(そのぎ)ならば鳴様(なるやう)に撞(つけ)。」とて、鐘木(しもく)を大きに拵(こしら)へて、二三十人(にさんじふにん)立懸(たちかか)りて、破(われ)よとぞ撞(つき)たりける。 其(その)時此(この)鐘海鯨(くぢら)の吼(ほゆ)る声を出(いだ)して、「三井寺(みゐでら)へゆかふ。」とぞ鳴(ない)たりける。山徒(さんと)弥(いよいよ)是(これ)を悪(にく)みて、無動寺(むどうじ)の上よりして数千丈(すせんぢやう)高き岩の上をころばかしたりける間、此(この)鐘微塵(みぢん)に砕(くだけ)にけり。今は何の用にか可立とて、其(その)われを取集(とりあつめ)て本寺へぞ送りける。或時(あるとき)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小蛇(こへび)来(きたつ)て、此(この)鐘を尾を以[て]扣(たた)きたりけるが、一夜(いちや)の内に又本(もと)の鐘に成(なつ)て、疵(きず)つける所一(ひとつ)も無(なか)りけり。されば今に至るまで、三井寺(みゐでら)に有(あつ)て此(この)鐘の声を聞(きく)人、無明長夜(むみやうぢやうや)の夢を驚かして慈尊(じそん)出世の暁(あかつき)を待(まつ)。末代(まつだい)の不思議(ふしぎ)、奇特(きどく)の事共(ことども)也(なり)。 |
|
■建武二年正月十六日合戦(かつせんの)事(こと)
三井寺(みゐでら)の敵無事故責落(せめおとし)たりければ、長途(ちやうど)に疲(つかれ)たる人馬、一両日(いちりやうにち)機(き)を扶(たすけ)てこそ又合戦をも致さめとて、顕家(あきいへの)卿(きやう)坂本(さかもと)へ被引返ければ、其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)は、彼趣(かのおもむき)に相順ふ。 新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、同(おなじく)坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田(ふなた)長門(ながとの)守(かみ)経政(つねまさ)、馬を叩(ひかへ)て申(まうし)けるは、「軍(いくさ)の利(り)、勝(かつ)に乗る時、北(にぐ)るを追(おふ)より外(ほか)の質(てだて)は非じと存(ぞんじ)候。此(この)合戦に被打漏て、馬を棄(すて)物具(もののぐ)を脱(ぬい)で、命許(ばかり)を助からんと落行(おちゆき)候敵を追懸(おつかけ)て、京中(きやうぢゆう)へ押寄(おしよす)る程ならば、臆病神(おくびやうがみ)の付(つき)たる大勢に被引立、自余(じよ)の敵も定(さだめ)て機(き)を失はん歟(か)。さる程ならば、官軍(くわんぐん)敵の中へ紛れ入(いり)て、勢の分際(ぶんざい)を敵に不見せしとて、此(ここ)に火をかけ、彼(かしこ)に時を作り、縦横無碍(じゆうわうむげ)に懸立(かけたつ)る者ならば、などか足利殿(あしかがどの)御兄弟(ごきやうだい)の間に近付奉(ちかづきたてまつ)て、勝負(しようぶ)を仕らでは候べき。落候(おちさふらひ)つる敵、よも幾程(いくほど)も阻(へだた)り候はじ。何様一追(ひとおひ)々懸(おつかけ)て見候はゞや。」と申(まうし)ければ、義貞、「我(われ)も此(この)義を思ひつる処に、いしくも申(まうし)たり。 さらば頓(やが)て追懸(おつかけ)よ。」とて、又旗の手を下(おろ)して馬を進め給へば、新田の一族(いちぞく)五千(ごせん)余人(よにん)、其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、走る馬に鞭(むち)を進めて、落行(おちゆく)敵をぞ追懸(おつかけ)たる。敵今は遥(はるか)に阻(へだ)たりぬらんと覚(おぼゆ)る程なれば、逃(にぐ)るは大勢にて遅く、追(おふ)は小勢(こぜい)にて早かりければ、山階辺(やましなへん)にて漸(やうやく)敵にぞ追付(おひつき)ける。由良(ゆら)・長浜・吉江(よしえ)・高橋、真前(まつさき)に進(すすん)で追(おひ)けるが、大敵をば不可欺とて、広みにて敵の返(かへ)し合(あひ)つべき所迄はさまで不追、遠矢(とほや)射懸(いかけ)々々(いかけ)、時を作る許(ばかり)にて、静(しづ)々と是(これ)を追ひ、道迫(せま)りて、而も敵の行前(ゆくさき)難所(なんじよ)なる山路(やまぢ)にては、かさより落し懸(かけ)て、透間(すきま)もなく射落し切(きり)臥せける間、敵一度(いちど)も返し不得、只我先(われさき)にとぞ落行(おちゆき)ける。 |
|
されば手を負(おう)たる者は其侭(そのまま)馬人に被蹈殺、馬離(はなれ)たる者は引(ひき)かねて無力腹を切(きり)けり。其(その)死骸谷をうめ溝を埋(うづ)みければ、追手(おふて)の為には道平(たひらか)に成(なつ)て、弥(いよいよ)輪宝(りんはう)の山谷(さんこく)を平らぐるに不異、将軍三井寺(みゐでら)に軍(いくさ)始(はじまり)たりと聞へて後、黒烟(くろけむり)天に覆(おほう)を見へければ、「御方(みかた)如何様(いかさま)負軍(まけいくさ)したりと覚(おぼゆ)るぞ。急ぎ勢を遣(つかは)せ。」とて、三条河原(さんでうがはら)に打出(うちいで)、先(まづ)勢揃(せいぞろへ)をぞし給ひける。斯(かかる)処に粟田口(あはたぐち)より馬烟(むまけむり)を立(たて)て、其(その)勢(せい)四五万騎(しごまんぎ)が程引(ひい)て出来(いでき)たり。 誰やらんと見給へば、三井寺(みゐでら)へ向(むかひ)し四国・西国の勢共(せいども)也(なり)。誠(まこと)に皆軍(いくさ)手痛(ていた)くしたりと見へて、薄手(うすで)少々(せうせう)負(お)はぬ者もなく、鎧の袖冑(かぶと)の吹返(ふきかへし)に、矢三筋(さんすぢ)四筋折懸(をりかけ)ぬ人も無(なか)りけり。さる程(ほど)に新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、二万三千(にまんさんぜん)余騎(よき)を三手に分(わけ)て、一手(ひとて)をば将軍塚(しやうぐんづか)の上へ挙(あげ)、一手(ひとて)をば真如堂(しんによだう)の前より出し、一手(ひとて)をば法勝寺(ほつしようじ)を後(うしろ)に当(あて)て、二条河原(にでうがはら)へ出(いだ)して、則(すなはち)相図(あひづ)の烟(けむり)をぞ被挙ける。自(みづか)らは花頂山(くわちやうざん)に打上(うちあがつ)て、敵の陣を見渡し給へば、上(かみ)は河合(ただすの)森より、下(しも)は七条河原(しちでうがはら)まで、馬の三頭(さんづ)に馬を打懸け、鎧の袖に袖を重(かさね)て、東西南北四十(しじふ)余町(よちやう)が間、錐(きり)を立(たつ)る許(ばかり)の地も不見、身を峙(そばだて)て打囲(うちかこみ)たり。 |
|
義貞朝臣弓杖(ゆんづゑ)にすがり被下知けるは、「敵の勢に御方(みかた)を合(あはす)れば、大海の一滴(いつてき)、九牛が一毛(いちまう)也(なり)。只尋常(よのつね)の如くに軍(いくさ)をせば、勝(かつ)事(こと)を得難し。相互(あひたがひ)に面(おもて)をしり被知たらんずる侍共(さぶらひども)、五十騎づゝ手を分(わけ)て、笠符(かさじるし)を取捨(とりすて)、幡(はた)を巻(まい)て、敵の中に紛(まぎ)れ入り、此彼(ここかしこ)に叩々(ひかへひかへ)、暫(しばらく)可相待。将軍塚(しやうぐんづか)へ上(のぼ)せつる勢、既(すで)に軍(いくさ)を始むと見ば、此(この)陣より兵(つはもの)を進めて可令闘。其(その)時に至(いたつ)て、御辺達(ごへんたち)敵の前後左右に旗を差挙(さしあげ)て、馬の足を不静め、前に在(ある)歟(か)とせば後(うしろ)へぬけ、左に在(ある)かとせば右へ廻(まはつ)て、七縦(しちじゆう)八横(はちわう)に乱(みだれ)て敵に見する程ならば、敵の大勢は、還(かへつ)て御方(みかた)の勢に見へて、同士打(どしうち)をする歟(か)、引(ひい)て退(しりぞ)く歟(か)、尊氏此(この)二(ふた)つの中を不可出。」韓信が謀(はかりこと)を被出しかば、諸大将(しよだいしやう)の中より、逞兵(ていへい)五十騎づゝ勝(すぐ)り出して、二千(にせん)余騎(よき)各(おのおの)一様(いちやう)に、中黒(なかぐろ)の旗を巻(まい)て、文(もん)を隠し、笠符(かさじるし)を取(とつ)て袖の下に収(をさ)め、三井寺(みゐでら)より引(ひき)をくれたる勢の真似をして、京勢(きやうぜい)の中へぞ馳加(はせくはは)りける。 敵斯(かか)る謀(はかりこと)ありとは、将軍不思寄給、宗(むね)との侍共(さぶらひども)に向ふて被下知けるは、「新田はいつも平場(ひらば)の懸(かけ)をこそ好(このむ)と聞しに、山を後(うし)ろに当てゝ、頓(やが)ても懸出(かけいで)ぬは、如何様(いかさま)小勢の程を敵に見せじと思へる者也(なり)。将軍塚(しやうぐんづか)の上に取(とり)あがりたる敵を置(おい)てはいつまでか可守挙。師泰(もろやす)彼(かしこ)に馳向(はせむかつ)て追散(おひちら)せ。」と宣(のたまひ)ければ、越後(ゑちごの)守(かみ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」と申(まうし)て、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)の勢二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して、双林寺(さうりんじ)と中霊山(なかりやうぜん)とより、二手(ふたて)に成(なつ)てぞ挙(あがつ)たりける。 |
|
此(ここ)には脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)・堀口美濃(みのの)守(かみ)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)・結城(ゆふき)上野入道以下(いげ)三千(さんぜん)余騎(よき)にて向(むかひ)たりけるが、其(その)中より逸物(いちもつ)の射手(いて)六百(ろつぴやく)余人(よにん)を勝(すぐつ)て、馬より下(おろ)し、小松の陰(かげ)を木楯(こだて)に取(とつ)て、指攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)にぞ射させたりける。嶮(けはし)き山を挙(あがり)かねたりける武蔵・相摸の勢共(せいども)、物具(もののぐ)を被徹て矢場(やには)に伏(ふし)、馬を被射てはね落されける間、少(すこし)猶予(ゆよ)して見へける処を、「得たり賢(かしこ)し。」と、三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)抜連(ぬきつれ)て、大山の崩(くづる)るが如く、真倒(まつさかさま)に落し懸(かけ)たりける間、師泰(もろやす)が兵二万(にまん)余騎(よき)、一足(ひとあし)をもためず、五条河原(かはら)へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞく)。 此(ここ)にて、杉本(すぎもとの)判官(はうぐわん)・曾我(そがの)二郎左衛門(じらうざゑもん)も被討にけり。官軍(くわんぐん)態(わざと)長追(ながおひ)をばせで、猶(なほ)東山(ひがしやま)を後(うしろ)に当(あて)て勢の程をぞ見せざりける。搦手(からめて)より軍(いくさ)始まりければ、大手(おほて)音(こゑ)を受(うけ)て時を作る。官軍(くわんぐん)の二万(にまん)余騎(よき)と将軍の八十万騎(はちじふまんぎ)と、入替入替(いれかへいれかへ)天地を響(ひびか)して戦(たたかひ)たる。漢楚(かんそ)八箇年(はちかねん)の戦(たたかひ)を一時に集め、呉越(ごゑつ)三十度の軍(いくさ)を百倍(ひやくばい)になす共(とも)、猶(なほ)是(これ)には不可過。寄手(よせて)は小勢(こぜい)なれども皆心を一(ひとつ)にして、懸(かかる)時は一度(いちど)に颯(さつ)と懸(かかつ)て敵を追(おひ)まくり、引(ひく)時は手負(ておひ)を中に立(たて)て静(しづか)に引く。 京勢(きやうぜい)は大勢なりけれ共(ども)人の心不調して、懸(かかる)時も不揃、引(ひく)時も助けず、思々(おもひおもひ)心々に闘(たたかひ)ける間、午(うま)の剋(こく)より酉(とり)の終(をはり)まで六十(ろくじふ)余度(よど)の懸合(かけあひ)に、寄手(よせて)の官軍(くわんぐん)度毎(たびごと)に勝(かつ)に不乗と云(いふ)事(こと)なし。されども将軍方(しやうぐんがた)大勢(おほぜい)なれば、被討共(ども)勢(せい)もすかず、逃(にぐ)れども遠引(とほびき)せず、只一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交(まじは)りたる一揆(いつき)の勢共(せいども)、将軍の前後左右に中黒(なかぐろ)の旗を差揚(さしあげ)て、乱合(みだれあつ)てぞ戦(たたかひ)ける。 何(いづ)れを敵何(いづれ)を御方共(みかたとも)弁(わきま)へ難(がた)ければ、東西南北呼叫(をめきさけん)で、只同士打(どしうち)をするより外(ほか)の事ぞ無(なか)りける。将軍を始(はじめ)奉りて、吉良(きら)・石堂(いしだう)・高(かう)・上杉の人々是(これ)を見て、御方(みかた)の者共(ものども)が敵と作合(なりあひ)て後矢(うしろや)を射(いる)よと被思ければ、心を置合(おきあひ)て、高・上杉の人々は、山崎を指(さ)して引退(ひきしりぞ)き、将軍・吉良・石堂・仁木(につき)・細川の人々は、丹波路(たんばぢ)へ向(むかつ)て落(おち)給ふ。官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)勝(かつ)に乗(のつ)て短兵(たんへい)急に拉(とりひしぐ)。 |
|
将軍今は遁(のがる)る所なしと思食(おぼしめし)けるにや、梅津(むめづ)、桂河辺(かつらがはへん)にては、鎧の草摺(くさずり)畳(たた)み揚(あげ)て腰の刀を抜(ぬか)んとし給ふ事(こと)、三箇度(さんがど)に及(および)けり。されども将軍の御運(ごうん)や強かりけん、日既(すで)に暮(くれ)けるを見て、追手(おひて)桂河より引返(ひきかへし)ければ、将軍も且(しばら)く松尾(まつのを)・葉室(はむろ)の間に引(ひか)へて、梅酸(ばいさん)の渇(かつ)をぞ休(やす)められける。 爰(ここ)に細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、四国の勢共(せいども)に向(むかつ)て宣(のたまひ)けるは、「軍(いくさ)の勝負(しようぶ)は時の運(うん)に依(よる)事(こと)なれば、強(あながち)に恥ならねども、今日の負(まけ)は三井寺(みゐでら)の合戦より事始りつる間、我等が瑕瑾(かきん)、人の嘲(あざけり)を不遁。されば態(わざと)他の勢を不交して、花やかなる軍(いくさ)一軍(ひといくさ)して、天下の人口を塞(ふさ)がばやと思(おもふ)也(なり)。推量するに、新田が勢(せい)は、終日(ひねもす)の合戦に草伏(くたびれ)て、敵に当り変に応ずる事自在(じざい)なるまじ。其外(そのほか)の敵共(てきども)は、京白河の財宝に目をかけて一所に不可在。其(その)上(うへ)赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)僅(わづか)の勢にて下松(さがりまつ)に引(ひか)へて有(あり)つるを、無代(むたい)に討(うた)せたらんも可口惜。いざや殿原(とのばら)、蓮台野(れんだいの)より北白河へ打廻(うちまはつ)て、赤松が勢と成合(なりあひ)、新田が勢を一あて/\て見ん。」と宣(のたま)へば、藤(とう)・橘(きつ)・伴(ばん)の者共(ものども)、「子細候まじ。」とぞ同(どう)じける。 定禅(ぢやうぜん)不斜(なのめならず)喜(よろこん)で、態(わざと)将軍にも知らせ不奉、伊予・讚岐の勢の中より三百(さんびやく)余騎(よき)を勝(すぐつ)て、北野の後(うし)ろより上賀茂(かみかも)を経て、潛(ひそか)に北白河へぞ廻(まは)りける。糾(ただす)の前にて三百(さんびやく)余騎(よき)の勢十方に分(わけ)て、下松(さがりまつ)・薮里(やぶさと)・静原(しづはら)・松崎(まつがさき)・中(なか)賀茂、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)に火をかけて、此(ここ)をば打捨(うちすて)て、一条・二条(にでう)の間にて、三所に鬨(ときのこゑ)をぞ挙(あげ)たりける。げにも定禅(ぢやうぜん)律師(りつし)推量の如く、敵京白河に分散(ぶんさん)して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞・義助一戦(いつせん)に利(り)を失(うしなう)て、坂本を指(さ)して引返しけり。 所々(しよしよ)に打散(うちちり)たる兵共(つはものども)、俄に周章(あわて)て引(ひき)ける間、北白河・粟田口(あはたぐち)の辺(へん)にて、舟田入道・大館(おほたち)左近(さこんの)蔵人・由良(ゆら)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・高田七郎左衛門(しちらうざゑもん)以下(いげ)宗(むね)との官軍(くわんぐん)数百騎(すひやくき)被討けり。卿律師(きやうりつし)、頓(やが)て早馬を立(たて)て、此(この)由を将軍へ被申たりければ、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)両道へ落行(おちゆき)ける兵共(つはものども)、皆又京へぞ立帰る。義貞朝臣は、僅(わづか)に二万騎(にまんぎの)勢(せい)を以て将軍の八十万騎(はちじふまんぎ)を懸散(かけちら)し、定禅(ぢやうぜん)律師(りつし)は、亦(また)三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を以て、官軍(くわんぐん)の二万(にまん)余騎(よき)を追落(おひおと)す。彼(かれ)は項王(かうわう)が勇(いさみ)を心とし、是(これ)は張良が謀(はかりこと)を宗(むね)とす。智謀勇力いづれも取々(とりどり)なりし人傑(じんけつ)也(なり)。 |
|
■正月二十七日(にじふしちにち)合戦(かつせんの)事(こと)
斯(かか)る処に去年十二月に、一宮(いちのみや)関東(くわんとう)へ御下(おんくだり)有(あり)し時、搦手(からめて)にて東山(とうせん)道より鎌倉(かまくら)へ御下(おんくだり)有(あり)し大智院(だいちゐんの)宮(みや)・弾正尹(だんじやうのゐんの)宮(みや)、竹下(たけのした)・箱根(はこね)の合戦には、相図(あひづ)相違して逢(あは)せ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野(かうづけ)・下野(しもつけの)勢共(せいども)馳参(はせまゐり)しかば、御勢(おんせい)雲霞(うんか)の如(ごとく)に成(なつ)て、鎌倉(かまくら)へ入(いら)せ給ふ。 此(ここ)にて事の様(やう)を問へば、「新田、竹下(たけのした)・箱根(はこね)の合戦に打負(うちまけ)て引返(ひつかへ)す。尊氏朝臣北(にぐる)を追(おう)て被上洛(しやうらく)ぬ。其(その)後奥州国司(あうしうのこくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)、又尊氏朝臣の跡(あと)を追(おう)て、被責上候(さふらひ)ぬ。」とぞ申(まうし)ける。「さらば何様道にても新田蹈留(ふみとどま)らば合戦有(あり)ぬべし。鎌倉(かまくら)に可逗留(とうりう)様なし。」とて、公家(くげ)には洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・持明院右衛門(うゑもんの)督(かみ)入道・信濃(しなのの)国司(こくし)堀河(ほりかはの)中納言・園(そのの)中将(ちゆうじやう)基隆(もとたか)・二条(にでう)少将為次、武士には、嶋津上野入道・同筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)・大伴・猿子(ましこ)の一党・落合(おちあひ)の一族(いちぞく)・相場(あひば)・石谷(いしがえ)・纐纈(かうけつ)・伊木(いき)・津子(つし)・中村・々上(むらかみ)・源氏・仁科(にしな)・高梨・志賀・真壁(まかべ)、是等(これら)を宗(むね)との者として都合(つがふ)其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)、正月二十日の晩景(ばんげい)に東坂本(ひがしさかもと)にぞ著(つき)にける。 官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)勢(いきほ)ひを得て翌日(よくじつ)にも頓(やが)て京都へ寄(よせ)んと議(ぎ)しけるが、打続(つづ)き悪日(あくにち)也(なり)ける上、余(あまり)に強く乗(のつ)たる馬共なれば、皆竦(すくみ)て更(さらに)はたらき得ざりける間、兎(と)に角(かく)に延引(えんいん)して、今度の合戦は、二十七日(にじふしちにち)にぞ被定ける。既(すでに)其(その)日(ひ)に成(なり)ぬれば、人馬を休(やすめ)ん為に、宵より楠木・結城(ゆふき)・伯耆(はうき)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて、西坂を下々(おりさがつ)て、下松(さがりまつ)に陣を取る。顕家(あきいへの)卿(きやう)は三万(さんまん)余騎(よき)にて、大津を経て山科(やましな)に陣を取る。洞院左衛門(さゑもんの)督(かみ)二万(にまん)余騎(よき)にて赤山(せきさん)に陣を取(とる)。 |
|
山徒(さんと)は一万(いちまん)余騎(よき)にて竜花越(りゆうげごえ)を廻(まはつ)て鹿谷(ししのたに)に陣を取(とる)。新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)兄弟は二万(にまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、今道(いまみち)より向(むかつ)て、北白河に陣を取る。大手・搦手(からめて)都合(つがふ)十万(じふまん)三千(さんぜん)余騎(よき)、皆宵(よひ)より陣を取寄(とりよせ)たれども、敵に知(しら)せじと態(わざと)篝火(かがりび)をば焼(たか)ざりけり。合戦は明日辰刻(たつのこく)と被定けるを、機早(きばや)なる若大衆共(わかだいしゆども)、武士に先(せん)をせられじとや思(おもひ)けん、まだ卯刻(うのこく)の始(はじめ)に神楽岡(かぐらをか)へぞ寄(よせ)たりける。 此(この)岡には宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)両党城郭を構(かまへ)てぞ居たりける。去(され)ば無左右寄著(よりつき)て人の可責様も無(なか)りけるを、助註記(じよちゆうき)祐覚(いうかく)が同宿共(どうじゆくども)三百(さんびやく)余人(よにん)、一番に木戸口(きどぐち)に著(つい)て屏(へい)を阻(へだて)て闘(たたかひ)けるが、高櫓(たかやぐら)より大石数(あま)た被投懸て引退(ひきしりぞく)処に、南岸(なんがんの)円宗院(ゑんじゆうゐん)が同宿共五百(ごひやく)余人(よにん)、入替(いれかはつ)てぞ責(せめ)たりける。是(これ)も城中に名誉の精兵共(せいびやうども)多かりければ、走廻(はしりまはつ)て射けるに、多く物具(もののぐ)を被徹て叶(かな)はじとや思ひけん、皆持楯(もつだて)の陰(かげ)に隠れて、「悪手(あらて)替(かは)れ。」とぞ招きける。 爰(ここ)に妙観院(めうくわんゐん)の因幡竪者(いなばのりつしや)全村(ぜんそん)とて、三塔(さんたふ)名誉の悪僧あり。鎖(くさり)の上に大荒目(おほあらめ)の鎧を重(かさね)て、備前長刀(なぎなた)のしのぎさがりに菖蒲形(しやうぶかたち)なるを脇に挟(さしはさ)み、箆(の)の太(ふと)さは尋常(よのつね)の人の蟇目(ひきめ)がらにする程なる三年竹を、もぎつけに押削(おしけづり)て、長船打(をさふねうち)の鏃(やじり)の五分鑿(ごぶのみ)程なるを、筈本(はずもと)迄中子(なかご)を打徹(うちとほし)にしてねぢすげ、沓巻(くつまき)の上を琴(こと)の糸を以てねた巻(まき)に巻(まい)て、三十六(さんじふろく)差(さし)たるを、森の如(ごとく)に負(おひ)成し、態(わざと)弓をば不持、是(これ)は手衝(てつき)にせんが為なりけり。 |
|
切岸(きりきし)の面(おもて)に二王立(たち)に立(たつ)て名乗(なのり)けるは、「先年三井寺(みゐでら)の合戦の張本(ちやうぼん)に被召て、越後国(ゑちごのくに)へ被流たりし妙観院(めうくわんゐんの)高因幡全村(あらいなばぜんそん)と云(いふ)は我(わが)事(こと)也(なり)。城中の人々此(この)矢一つ進(まゐら)せ候はん。被遊て御覧(ごらん)候へ。」と云侭(いふまま)に、上差(うはざし)一筋(ひとすぢ)抽出(ぬきいで)て、櫓(やぐら)の小間(さま)を手突(てづき)にぞ突(つい)たりける。此(この)矢不誤、矢間(さま)の陰(かげ)に立(たち)たりける鎧武者(よろひむしや)のせんだんの板より、後(うしろ)の角総著(あげまきつけ)の金物(かなもの)迄、裏表二重(うらおもてふたへ)を徹(とほつ)て、矢前(やさき)二寸(にすん)許(ばかり)出(いで)たりける間、其(その)兵櫓(やぐら)より落(おち)て、二言も不云死にけり。 是(これ)を見ける敵共(てきども)、「あなをびたゝし、凡夫(ぼんぶ)の態(わざ)に非(あら)ず。」と懼(おぢ)て色めきける処へ、禅智房護聖院(ごしやうゐん)の若者共(わかものども)、千(せん)余人(よにん)抜連(ぬきつれ)て責入(せめいり)ける間、宇都宮(うつのみや)神楽岡(かぐらをか)を落(おち)て二条(にでう)の手に馳加(はせくはは)る。是(これ)よりしてぞ、全村を手突因幡(てつきのいなば)とは名付(なづけ)ける。山法師(やまほふし)鹿谷(ししのたに)より寄(よせ)て神楽岡の城を責(せむ)る由(よし)、両党の中より申(まうし)ければ、将軍頓(やが)て後攻(ごづめ)をせよとて、今河・細川の一族(いちぞく)に、三万(さんまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て被遣けるが、城は早(はや)被責落、敵入替(いれかはり)ければ、後攻(ごづめ)の勢も徒(いたづら)に京中(きやうぢゆう)へぞ帰(かへり)ける。去(さる)程(ほど)に、楠判官・結城(ゆふき)入道・伯耆(はうきの)守(かみ)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて糾(ただす)の前より押寄(おしよせ)て、出雲路(いづもぢ)の辺(へん)に火を懸(かけ)たり。 |
|
将軍是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)は如何様(いかさま)神楽岡の勢共(せいども)と覚(おぼゆ)るぞ、山法師(やまほふし)ならば馬上の懸合(かけあひ)は心にくからず、急ぎ向(むかつ)て懸散(かけちら)せ。」とて、上杉伊豆(いづの)守(かみ)・畠山(はたけやま)修理(しゆりの)大夫(たいふ)・足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)に、五万(ごまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)てぞ被向ける。楠木は元来(もとより)勇気無双(ぶさう)の上智謀第一(だいいち)也(なり)ければ、一枚楯(いちまいたて)の軽々(かるがる)としたるを五六百(ごろつぴやく)帖(てふ)はがせて、板の端(はし)に懸金(かけがね)と壷(つぼ)とを打(うつ)て、敵の駆(かけ)んとする時は、此(この)楯の懸金を懸(かけ)、城の掻楯(かいだて)の如く一二町(いちにちやう)が程(ほど)につき並(なら)べて、透間(すきま)より散々(さんざん)に射させ、敵引けば究竟(くつきやう)の懸武者(かけむしや)を五百(ごひやく)余騎(よき)勝(すぐつ)て、同時にばつと駆(かけ)させける間、防(ふせぎ)手(て)の上杉・畠山が五万(ごまん)余騎(よき)、楠木が五百(ごひやく)余騎(よき)に被揉立て五条河原(かはら)へ引退(ひきしりぞ)く。 敵は是計(こればかり)歟(か)と見(みる)処に、奥州(あうしうの)国司(こくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)にて粟田口より押寄(おしよせ)て、車大路(くるまおほち)に火を被懸たり。将軍是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)は如何様(いかさま)北畠殿(きたばたけどの)と覚(おぼゆ)るぞ、敵も敵にこそよれ、尊氏向はでは叶(かなふ)まじ。」とて、自(みづから)五十万騎(ごじふまんぎ)を率(そつ)し、四条(しでう)・五条の河原(かはら)へ馳向(はせむかつ)て、追(おう)つ返(かへし)つ、入替(いれかへ)々々(いれかへ)時移る迄ぞ被闘ける。尊氏(たかうぢの)卿(きやう)は大勢なれども軍(いくさ)する勢少(すくな)くして、大将已(すで)に戦ひくたびれ給(たまひ)ぬ。顕家(あきいへの)卿(きやう)は小勢(こぜい)なれば、入替(いれかは)る勢無(なく)して、諸卒忽(たちまち)に疲れぬ。 両陣互に戦屈(たたかひくつ)して忿(いか)りを抑(おさ)へ、馬の息つぎ居たる処へ、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さだみつ)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)、三万(さんまん)余騎(よき)を三手に分け、双林寺(さうりんじ)・将軍塚(しやうぐんづか)・法勝寺(ほつしようじ)の前より、中黒(なかぐろ)の旗五十(ごじふ)余流(よながれ)差(ささ)せて、二条河原(にでうがはら)に雲霞(うんか)の如くに打囲(かこみ)たる敵の中を、真横様(まつよこさま)に懸(かけ)通(とほ)りて、敵の後(うしろ)を切(きら)んと、京中(きやうぢゆう)へこそ被懸入けれ。 敵是(これ)を見て、「すはや例の中黒(なかぐろ)よ。」と云(いふ)程こそあれ、鴨河・白河・京中(きやうぢゆう)に、稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如(ごとく)に打囲(かこ)ふだる大勢共、馬を馳倒(はせたふ)し、弓矢をかなくり捨(すて)て、四角(しかく)八方(はつぱう)へ逃散(にげちる)事(こと)、秋の木(こ)の葉(は)を山下風(やまおろし)の吹立(ふきたて)たるに不異。義貞朝臣は、態(わざと)鎧を脱替(ぬぎか)へ馬を乗替(のりかへ)て、只一騎敵の中へ懸入(かけいり)々々(かけいり)、何(いづ)くにか尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の坐(おはす)らん、撰(えら)び打(うち)に討(うた)んと伺ひ給ひけれども、将軍運強くして、遂(つひ)に見へ給はざりければ、無力其(その)勢(せい)を十方へ分(わけ)て、逃(にぐ)る敵をぞ追はせられける。 |
|
中にも里見(さとみ)・鳥山(とりやま)の人々は、僅(わづか)に二十六騎の勢にて、丹波路(たんばぢ)の方へ落(おち)ける敵二三万騎(にさんまんぎ)有(あり)けるを、将軍にてぞ坐(おはす)らんと心得て桂河(かつらがは)の西まで追(おひ)ける間、大勢に返合(かへしあは)せられて一人も不残被討にけり。さてこそ十方に分れて追(おひ)ける兵(つはもの)も、「そゞろに長追(ながおひ)なせそ。」とて、皆京中(きやうぢゆう)へは引返(ひつかへ)しける。 角(かく)て日已(すで)に暮(くれ)ければ、楠判官総大将(そうだいしやう)の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「今日御合戦、不慮(ふりよ)に八方(はつぱう)の衆を傾(かたむ)くと申(まう)せ共さして被討たる敵も候はず、将軍の落させ給(たまひ)ける方をも不知、御方(みかた)僅(わづか)の勢にて京中(きやうぢゆう)に居(ゐ)候程ならば、兵皆財宝(ざいはう)に心を懸(かけ)て、如何に申すとも、一所に打寄(よす)る事不可有候。去(さる)程ならば、前の如く又敵に取(とつ)て被返て、度方(とはう)を失(うしなふ)事(こと)治定(ぢぢやう)可有と覚(おぼえ)候。敵に少しも機(き)を付(つけ)ぬれば、後の合戦しにくき事にて候。只此侭(このまま)にて今日は引返させ給ひ候(さふらひ)て、一日馬の足を休め、明後日の程(ほど)に寄せて、今一あて手痛(ていた)く戦ふ程ならば、などか敵を十里(じふり)・二十里(にじふり)が外まで、追靡(おひなび)けでは候べき。」と申(まうし)ければ、大将誠(まこと)にげにもとて、坂本へぞ被引返ける。 将軍は今度も丹波路(たんばぢ)へ引給(ひきたまは)んと、寺戸(てらど)の辺(へん)までをはしたりけるが、京中(きやうぢゆう)には敵一人も不残皆引返(ひつかへ)したりと聞へければ、又京都へぞ帰り給ひける。此外(このほか)八幡・山崎・宇治・勢多・嵯峨・仁和寺(にんわじ)・鞍馬路(くらまぢ)へ懸(かか)りて、落行(おちゆき)ける者共(ものども)も是(これ)を聞(きい)て、みな我(われ)も我(われ)もと立(たち)帰りけり。入洛(じゆらく)の体(てい)こそ恥かしけれども、今も敵の勢を見合(あは)すれば、百分が一もなきに、毎度(まいど)かく被追立、見苦(みぐるし)き負(まけ)をのみするは非直事。我等朝敵(てうてき)たる故(ゆゑ)歟(か)、山門に被咒詛故歟(か)と、謀(はかりこと)の拙(つたな)き所をば閣(さしおい)て、人々怪しみ思はれける心の程こそ愚(おろか)なれ。 |
|
■将軍都落(みやこおちの)事(こと)付(つけたり)薬師丸(やくしまる)帰京(ききやうの)事(こと)
楠判官山門へ帰(かへつ)て、翌(つぎ)の朝律僧(りつそう)を二三十人(にさんじふにん)作り立(たて)て京へ下(くだ)し、此彼(ここかしこ)の戦場にして、尸骸(しがい)をぞ求(もとめ)させける。京勢(きやうぜい)怪(あやしみ)て事の由を問(とひ)ければ、此(この)僧共悲歎(ひたん)の泪(なみだ)を押(おさ)へて、「昨日の合戦に、新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)殿(どの)・北畠源(げん)中納言(ぢゆうなごん)殿(どの)・楠木判官已下(いげ)、宗(むね)との人々七人(しちにん)迄被討させ給ひ候程(ほど)に、孝養(けうやう)の為に其尸骸(そのしがい)を求(もとめ)候也(なり)。」とぞ答へける。 将軍を始奉(はじめたてまつ)て、高(かう)・上杉の人々是(これ)を聞(きい)て、「あな不思議(ふしぎ)や、宗徒(むねと)の敵共(てきども)が皆一度(いちど)に被討たりける。さては勝軍(かちいくさ)をばしながら官軍(くわんぐん)京をば引(ひき)たりける。何(いづ)くにか其(その)頚共(くびども)の有(ある)らん。取(とつ)て獄門(ごくもん)に懸(かけ)、大路(おほち)を渡せ。」とて、敵御方(みかた)の尸骸(しがい)共(ども)の中を求(もとめ)させけれ共(ども)、是(これ)こそとをぼしき頚も無(なか)りけり。余(あまり)にあらまほしさに、此(ここ)に面影(おもかげ)の似たりける頭(くび)を二(ふた)つ獄門の木に懸(かけ)て、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞・楠河内(かはちの)判官(はうぐわん)正成(まさしげ)と書付(かきつけ)をせられたりけるを、如何なるにくさうの者かしたりけん、其札(そのふだ)の側(そば)に、「是(これ)はにた頚也(なり)。まさしげにも書(かき)ける虚事(そらごと)哉(かな)。」と、秀句(しうく)をしてぞ書副(かきそへ)て見せたりける。 又同日の夜半許(やはんばかり)に、楠判官下部共(しもべども)に焼松(たいまつ)を二三千(にさんぜん)燃(とぼ)し連(つれ)させて、小原(をはら)・鞍馬(くらま)の方へぞ下(くだ)しける。京中(きやうぢゆう)の勢共(せいども)是(これ)を見て、「すはや山門の敵共(てきども)こそ、大将を被討て、今夜方々(はうばう)へ落行(おちゆく)げに候へ。」と申(まうし)ければ、将軍もげにもとや思ひ給ひけん。「さらば落(おと)さぬ様(やう)に、方々へ勢を差向(さしむけ)よ。」とて、鞍馬路(くらまぢ)へは三千(さんぜん)余騎(よき)、小原口(をはらぐち)へ五千(ごせん)余騎(よき)、勢多(せた)へ一万(いちまん)余騎(よき)、宇治へ三千(さんぜん)余騎(よき)、嵯峨・仁和寺(にんわじ)の方迄(まで)、洩(もら)さぬ様に堅めよとて、千騎(せんぎ)・二千騎(にせんぎ)差分(さしわけ)て、勢を不被置方も無(なか)りけり。さてこそ京中(きやうぢゆう)の大勢(おほぜい)大半減じて、残る兵も徒(いたづら)に用心(ようじん)するは無(なか)りけれ。 |
|
去(さる)程(ほど)に官軍(くわんぐん)宵より西坂(にしざか)をゝり下(くだつ)て、八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・鷺森(さぎのもり)・降松(さがりまつ)に陣を取る。諸大将(しよだいしやう)は皆一手(ひとて)に成(なり)て、二十九日の卯刻(うのこく)に、二条河原(にでうがはら)へ押寄(おしよせ)て、在々所所(ざいざいしよしよ)に火をかけ、三所に時をぞ揚(あげ)たりける。京中(きやうぢゆう)の勢(せい)は、大勢なりし時だにも叶はで引(ひき)し軍(いくさ)也(なり)。況(まし)て勢をば大略(たいりやく)方々へ分(わか)ち被遣ぬ。敵(てき)可寄とは夢にも知(しら)ぬ事なれば、俄に周章(あわて)ふためきて、或(あるひ)は丹波路(たんばぢ)を指(さし)て引(ひく)もあり、或(あるひ)は山崎を志(こころざし)て逃(にぐ)るもあり、心も発(おこ)らぬ出家して禅律(ぜんりつ)の僧に成(なる)もあり。官軍(くわんぐん)はさまで遠く追(おは)ざりけるを、跡(あと)に引(ひく)御方(みかた)を追懸(おつかく)る敵ぞと心得て、久我畷(こがなはて)・桂河辺(へん)には、自害をしたる者も数を不知ありけり。 況(いはんや)馬・物具(もののぐ)を棄(すて)たる事は、足の蹈所(ふみどころ)も無(なか)りけり。将軍は其(その)日(ひ)丹波の篠村(しのむら)を通(とほ)り、曾地(そち)の内藤三郎左衛門入道々勝(だうしよう)が館(たち)に著(つき)給へば、四国・西国の勢(せい)は、山崎を過(すぎ)て芥河(あくたがは)にぞ著(つき)にける。親子兄弟骨肉主従(こつにくしゆじゆう)互に行方(ゆきかた)を不知落行(おちゆき)ければ、被討てぞ死(し)しつらんと悲(かなし)む。されども、「将軍は正(まさ)しく別事(べちのこと)無(なく)て、尾宅(をいわけ)の宿(しゆく)を過(すぎ)させ給(たまひ)候也(なり)。」と分明(ぶんみやう)に云(いふ)者有(あり)ければ、兵庫(ひやうご)湊河(みなとがは)に落(おち)集りたる勢の中より丹波へ飛脚(ひきやく)を立(たて)て、「急ぎ摂州へ御越(おんこし)候へ、勢を集(あつめ)て頓(やが)て京都へ責上(せめのぼ)り候はん。」と申(まうし)ければ、二月二日将軍曾地(そち)を立(たち)て、摂津国(つのくに)へぞ越(こえ)給ひける。 此(この)時熊野山(くまのさん)の別当四郎法橋(ほつけう)道有(だういう)が、未(いまだ)に薬師丸(やくしまる)とて童体(どうたい)にて御伴(おんとも)したりけるを、将軍喚寄給(よびよせたまひ)て、忍(しのび)やかに宣(のたまひ)けるは、「今度京都の合戦に、御方(みかた)毎度(まいど)打負(うちまけ)たる事(こと)、全く戦(たたかひ)の咎(とが)に非(あら)ず。倩(つらつら)事(こと)の心を案ずるに、只尊氏混(ひたすら)朝敵(てうてき)たる故(ゆゑ)也(なり)。されば如何にもして持明院殿(ぢみやうゐんどの)の院宣(ゐんぜん)を申賜(まうしたまはつ)て、天下を君(きみ)与君の御争(おんあらそひ)に成(なし)て、合戦を致さばやと思(おもふ)也(なり)。御辺(ごへん)は日野(ひのの)中納言殿(ちゆうなごんどの)に所縁(しええん)有(あり)と聞及(ききおよべ)ば、是(これ)より京都へ帰上(かへりのぼつ)て、院宣を伺ひ申(まうし)て見よかし。」と被仰ければ、薬師丸(やくしまる)、「畏(かしこまつ)て承(うけたまは)り候。」とて、三草山(みくさやま)より暇申(いとままうし)て、則(すなはち)京へぞ上(のぼ)りける。 |
|
■大樹(だいじゆ)摂津国(つのくに)豊嶋河原(てしまかはら)合戦(かつせんの)事(こと)
将軍湊河に著給(つきたまひ)ければ、機(き)を失(うしなひ)つる軍勢共(ぐんぜいども)、又色を直(なほ)して、方々より馳(はせ)参りける間、無程其(その)勢(せい)二十万騎(にじふまんぎ)に成(なり)にけり。此(この)勢(せい)にて頓(やが)て責上(せめのぼ)り給はゞ、又官軍(くわんぐん)京にはたまるまじかりしを、湊河の宿(しゆく)に、其(その)事(こと)となく三日迄逗留(とうりう)有(あり)ける間、宇都宮(うつのみや)五百(ごひやく)余騎(よき)道より引返(ひつかへ)して、官軍(くわんぐん)に属(しよく)し、八幡(やはた)に被置たる武田(たけだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)も、堪(こらへ)かねて降人(かうにん)に成(なり)ぬ。其(その)外此彼(ここかしこ)に隠れ居たりし兵共(つはものども)、義貞に属(しよくし)ける間、官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)大勢(おほぜい)に成(なつ)て、竜虎(りようこ)の勢(いきほひ)を振へり。 二月五日顕家(あきいへの)卿(きやう)・義貞朝臣、十万(じふまん)余騎(よき)にて都を立(たち)て、其(その)日(ひ)摂津(つの)国(くに)の芥河(あくたがは)にぞ被著ける。将軍此(この)由を聞給(ききたまひ)て、「さらば行向(ゆきむかつ)て合戦を致せ。」とて、将軍の舎弟左馬(さまの)頭(かみ)に、十六万騎を差副(さひそへ)て、京都へぞ被上ける。さる程(ほど)に両家(りやうけ)の軍勢(ぐんぜい)、二月六日の巳刻(みのこく)に、端(はした)なく豊嶋(てしま)河原(かはら)にてぞ行合(ゆきあひ)ける。互に旗の手を下(おろ)して、東西に陣を張り、南北に旅(りよ)を屯(たむろ)す。奥州(あうしうの)国司(こくし)先(まづ)二たび逢(あう)て、軍(いくさ)利(り)あらず、引退(ひきしりぞい)て息を継(つげ)ば、宇都宮(うつのみや)入替(いれかはつ)て、一面目(ひとめんぼく)に備(そなへ)んと攻(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)二百(にひやく)余騎(よき)被討て引退(ひきしりぞ)けば、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)二千(にせん)余騎(よき)にて入替(いれかはり)たり。敵には仁木(につき)・細川・高(かう)・畠山、先日の恥を雪(きよ)めんと命を棄(すて)て戦ふ。官軍(くわんぐん)には江田(えだ)・大館(おほたち)・里見・鳥山(とりやま)、是(ここ)を被破(やぶられ)ては何(いづ)くへか可引と、身を無(なき)者に成(なし)てぞ防ぎける。されば互に死を軽(かろん)ぜしかども、遂(つひ)に雌雄(しゆう)を不決して、其(その)日(ひ)は戦ひ暮(くらし)てけり。 |
|
爰(ここ)に楠判官正成(まさしげ)、殿馳(おくればせ)にて下(くだ)りけるが、合戦の体(てい)を見て、面(おもて)よりは不懸、神崎(かんざき)より打廻(うちまはつ)て、浜の南よりぞ寄(よせ)たりける。左馬(さまの)頭(かみ)の兵、終日(ひねもす)の軍(いくさ)に戦(たたかひ)くたびれたる上、敵に後(うしろ)をつゝまれじと思(おもひ)ければ、一戦(ひといくさ)もせで、兵庫を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。義貞頓(やが)て追懸(おつかけ)て、西宮(にしのみや)に著(つき)給へば、直義(ただよし)は猶(なほ)相支(あひささへ)て、湊河に陣をぞ被取ける。同(おなじき)七日の朝なぎに、遥(はるか)の澳(おき)を見渡せば、大船五百(ごひやく)余艘(よさう)、順風(じゆんぷう)に帆を揚(あげ)て東を指(さし)て馳(はせ)たり。何方(いづかた)に属(つく)勢(せい)にかと見る処に、二百(にひやく)余艘(よさう)は梶(かぢ)を直(なほ)して兵庫の嶋へ漕(こぎ)入る。 三百(さんびやく)余艘(よさう)は帆をつゐて、西(にしの)宮(みや)へぞ漕(こぎ)寄せける。是(これ)は大伴・厚東(こうとう)・大内介(おほちのすけ)が、将軍方(しやうぐんがた)へ上(のぼ)りけると、伊予の土居(どゐ)・得能(とくのう)が、御所(ごしよ)方(がた)へ参りけると漕連(こぎつれ)て、昨日迄は同湊(おなじみなと)に泊りたりしが、今日は両方へ引分(わかれ)て、心々にぞ著(つき)たりける。荒手(あらて)の大勢両方へ著(つき)にければ、互(たがひ)に兵(つはもの)を進(すす)めて、小清水(こしみづ)の辺(へん)に羽向合(はせむかふ)。将軍方(しやうぐんがた)は目に余る程の大勢なりけれども、日比(ひごろ)の兵(つはもの)、荒手(あらて)にせさせんとて、軍(いくさ)をせず。厚東(こうとう)・大伴は、又強(あながち)に我等許(われらばかり)が大事(だいじ)に非(あら)ずと思(おもひ)ければ、さしも勇める気色(きしよく)もなし。官軍(くわんぐん)方(がた)は双(なら)べて可云程もなき小勢(こぜい)なりけれども、元来(ぐわんらい)の兵は、是(これ)人の大事(だいじ)に非(あら)ず、我(わが)身の上の安否(あんぴ)と思ひ、荒手(あらて)の土居・得能は、今日の合戦無云甲斐しては、河野(かうの)の名を可失と、機(き)をとき心を励(はげま)せり。されば両陣未(いまだ)闘(たたか)はざる前(さき)に安危の端(はし)機(き)に顕(あらは)れて、勝負(しようぶ)の色暗(あん)に見(みえ)たり。 |
|
されども荒手(あらて)の験(しる)しなれば、大伴・厚東・大内(おほち)が勢三千(さんぜん)余騎(よき)、一番に旗を進めたり。土居(どゐ)・得能後(うしろ)へつと懸抽(かけぬけ)て、左馬(さまの)頭(かみ)の引(ひか)へ給へる打出宿(うちでのしゆく)の西の端(はし)へ懸通(かけとほ)り、「葉武者共(はむしやども)に目な懸(かけ)そ、大将に組め。」と下知(げぢ)して、風の如くに散(ちら)し雲の如くに集(あつまつ)て、呼(をめ)ひて懸入(かけいり)、々々(かけいつ)ては戦ひ、戦ふては懸抽(かけぬ)け、千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)迄も、引(ひく)なと互に恥(はぢし)めて面(おもて)も不振闘(たたか)ひける間、左馬(さまの)頭(かみ)叶はじとや被思けん、又兵庫を指(さ)して引(ひき)給ふ。 千度百般(ちたびももたび)戦へども、御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)の軍(いくさ)したる有様、見るに可叶とも覚(おぼえ)ざりければ、将軍も早(はや)退屈(たいくつ)の体(てい)見へ給(たまひ)ける処へ、大伴参(まゐつ)て、「今の如くにては何としても御合戦よかるべしとも覚(おぼえ)候はず。幸(さいはひ)に船共(ふねども)数(あまた)候へば、只先(まづ)筑紫(つくし)へ御開(ひら)き候へかし。小弐(せうに)筑後(ちくごの)入道御方(みかた)にて候なれば、九国の勢多く属進(つきまゐら)せ候はゞ、頓(やが)て大軍を動(うごかし)て京都を被責候はんに、何程の事か候べき。」と申(まうし)ければ、将軍げにもとや思食(おぼしめし)けん、軈(やが)て大伴が舟にぞ乗(のり)給ひける。 諸軍勢(しよぐんぜい)是(これ)を見て、「すはや将軍こそ御舟(おんふね)に被召て落(おち)させ給へ。」とのゝめき立(たつ)て、取(とる)物も取(とり)不敢、乗(のり)をくれじとあはて騒ぐ。舟は僅(わづか)に三百(さんびやく)余艘(よさう)也(なり)。乗(のら)んとする人は二十万騎(にじふまんぎ)に余れり。一艘(いつさう)に二千人(にせんにん)許(ばかり)こみ乗(のり)ける間、大船一艘(いつさう)乗沈(のりしづ)めて、一人も不残失(うせ)にけり。自余(じよ)の舟共是(これ)を見て、さのみは人を乗せじと纜(ともづな)を解(とい)て差出(さしいだ)す。乗殿(のりおく)れたる兵共(つはものども)、物具衣裳(もののぐいしやう)を脱捨(ぬぎすて)て、遥(はるか)の澳(おき)に游出(およぎい)で、舟に取著(とりつか)んとすれば、太刀・長刀にて切(きり)殺し、櫓(ろ)かいにて打落(うちおと)す。乗(のり)得ずして渚(なぎさ)に帰る者は、徒(いたづら)に自害をして礒(いそ)越(こ)す波に漂へり。尊氏(たかうぢの)卿(きやう)は福原(ふくはら)の京(きやう)をさへ被追落て、長汀(ちやうてい)の月に心を傷(いたま)しめ、曲浦(きよくほ)の波に袖を濡(ぬら)して、心づくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高(たかう)して、数万(すまん)の降人(かうにん)を召具(めしぐ)し、天下の士卒(じそつ)に将として花の都に帰(かへり)給ふ。憂喜(いうき)忽(たちまち)に相替(あひかはつ)て、うつゝもさながら夢の如くの世に成(なり)けり。 |
|
■主上(しゆしやう)自山門還幸(くわんかうの)事(こと)
去月晦日(みそか)逆徒(ぎやくと)都を落(おち)しかば、二月二日主上(しゆしやう)自山門還幸成(なつ)て、花山院(くわさんのゐん)を皇居(くわうきよ)に被成にけり。同(おなじき)八日義貞朝臣、豊嶋(てしま)・打出(うちで)の合戦に打勝(かつ)て、則(すなはち)朝敵(てうてき)を万里の波に漂(ただよは)せ、同(おなじく)降人(かうにん)の五刑(ごけい)の難(なん)を宥(なだめ)て京都へ帰(かへり)給ふ。事体(ことのてい)ゆゝしくぞ見へたりける。其(その)時の降人(かうにん)一万(いちまん)余騎(よき)、皆元(もと)の笠符(かさじるし)の文(もん)を書直(かきなほ)して著(つけ)たりけるが、墨の濃(こ)き薄(うす)き程見へて、あらはにしるかりけるにや、其次(そのつぎ)の日、五条の辻に高札(たかふだ)を立(たて)て、一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かき)たりける。 二筋(ふたすぢ)の中の白みを塗隠(ぬりかく)し新田々々(にたにた)しげな笠符(かさじるし)哉(かな)都鄙(とひ)数箇度(すかど)の合戦の体(てい)、君殊に叡感(えいかん)不浅。則(すなはち)臨時(りんじの)除目(ぢもく)を被行て、義貞を左近衛(さこんゑの)中将(ちゆうじやう)に被任ぜ、義助を右衛門(うゑもんの)佐(すけ)に被任けり。天下の吉凶(きつきよう)必(かならず)しも是(これ)にはよらぬ事なれども、今の建武(けんむ)の年号は公家(くげ)の為不吉(ふきつ)也(なり)けりとて、二月二十五日に改元(かいげん)有(あつ)て、延元(えんげん)に被移。近日朝廷已(すで)に逆臣(ぎやくしん)の為に傾(かたぶけ)られんとせしか共(ども)、無程静謐(せいひつ)に属(しよく)して、一天下(いちてんが)又泰平(たいへい)に帰(き)せしかば、此(この)君の聖徳(せいとく)天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾(かたぶ)け可申と、群臣いつしか危(あやふき)を忘れて、慎む方の無(なか)りける、人の心ぞ愚(おろ)かなる。 |
|
■賀茂神主(かものかんぬし)改補(かいふの)事(こと)
大凶(だいきよう)一元(いちげん)に帰(き)して万機(ばんき)の政(まつりごと)を新(あら)たにせられしかば、愁(うれへ)を含み喜(よろこび)を懐(いだ)く人多かりけり。中にも賀茂の社(やしろ)の神主職(かんぬししよく)は、神職(しんしよく)の中の重職(ちようしよく)として、恩補(おんふ)次第ある事なれば、咎(とが)無(なく)しては改動(かいどう)の沙汰も難有事なるを、今度尊氏(たかうぢの)卿(きやう)貞久(さだひさ)を改(あらため)て、基久(もとひさ)に被補任、彼(か)れ眉を開く事僅(わづか)に二十日を不過、天下又反覆(はんふく)せしかば、公家(くげ)の御沙汰(ごさた)として貞久に被返付。此(この)事(こと)今度の改動(かいどう)のみならず、両院の御治世(ぢせい)替(かは)る毎(ごと)に転変(てんべん)する事(こと)、掌(たなごころ)を反(かへ)すが如し。其逆鱗(そのげきりん)何事(なにこと)の起(おこり)ぞと尋ぬれば、此基久(このもとひさ)に一人の女(むす)めあり。 被養て深窓(しんさう)に在(あり)し時より、若紫(わかむらさき)の■匂(にほひ)殊に、初本結(はつもとゆひ)の寐乱髪(ねみだれがみ)、末(すゑ)如何ならんと、見るに心も迷(まよひ)ぬべし。齢(よはひ)已(すで)に二八にも成(なり)しかば、巫山(ぶさん)の神女(しんによ)雲と成(なり)し夢の面影(おもかげ)を留(とど)め、玉妃(ぎよくひ)の太真院(たいしんゐん)を出(いで)し春(はる)の媚(こび)を残せり。只容色嬋娟(ようしよくせんけん)の世に勝(すぐ)れたるのみに非(あら)ず、小野小町(をののこまち)が弄(もてあそ)びし道を学び、優婆塞宮(うばそくのみや)のすさみ給(たまひ)し跡(あと)を追(おひ)しかば、月の前に琵琶(びは)を弾(だん)じては、傾(かたぶ)く影を招き、花の下(もと)に歌を詠(えい)じては、うつろう色を悲(かなし)めり。されば其情(そのなさけ)を聞き、其貌(そのかたち)を見る人毎(ごと)に、意(こころ)を不悩と云(いふ)事(こと)なし。其比(そのころ)先帝は未(いまだ)帥宮(そつのみや)にて、幽(かす)かなる御棲居(すまひ)也(なり)。是(これ)は後宇多(ごうだ)院(ゐんの)第二(だいに)の皇子後醍醐(ごだいごの)天王(てんわう)と申(まう)せし御事(おんこと)也(なり)。今の法皇は伏見(ふしみの)院(ゐんの)第一(だいいち)の皇子にて、既(すで)に春宮(とうぐう)に立(たた)せ可給と云(いひ)、時めき合(あ)へり。此宮々(このみやみや)如何なる玉簾(たまだれ)の隙(ひま)にか被御覧たりけん。 |
|
此女(このむすめ)最(いと)あてやかに臈(らふたけ)しとぞ被思食ける。されども、混(ひた)すらなる御業(おんわざ)は如何と思食煩(おぼしめしわづらう)て、荻(をぎ)の葉に伝ふ風の便(たより)に付(つ)け、萱(わすれぐさ)の末葉(すゑば)に結(むす)ぶ露のかごとに寄せては、いひしらぬ御文(おんふみ)の数(かず)、千束(ちつか)に余る程(ほど)に成(なり)にけり。女(むすめ)も最(いと)物わびしう哀(あはれ)なる方に覚(おぼ)へけれども、吹(ふき)も定(さだめ)ぬ浦風に靡(なび)きはつべき烟(けぶり)の末(すゑ)も、終(つひ)にはうき名に立(たち)ぬべしと、心強き気色(けしき)をのみ関守(せきもり)になして、早(はや)年の三年(みとせ)を過(すぎ)にけり。父は賎(いやしう)して母なん藤原なりければ、無止事御子達(みこたち)の御覚(おんおぼえ)は等閑(なほざり)ならぬを聞(きき)て、などや今迄御いらへをも申さではやみにけるぞと、最(いと)痛(いた)ふ打侘(うちわぶ)れば、御消息伝へたる二(ふた)りのなかだち次(ついで)よしと思(おもひ)て、「たらちめの諌(いさ)めも理(ことわ)りにこそ侍(はんべ)るめれ。早(はやく)一方に御返事(おんかへりごと)を。」と、かこち顔(がほ)也(なり)ければ、女(むすめ)云(いふ)ばかりなく打侘(わび)て、「いさや我とは争(いか)でか分(わ)く方可侍。 たゞ此度(このたび)の御文(おんふみ)に、御歌の最(いと)憐(あは)れに覚へ侍らん方へこそ参らめ。」と云(いひ)て、少し打笑(わらひ)ぬる気色(けしき)を、二(ふた)りの媒(なかだち)嬉(うれ)しと聞(きき)て、急ぎ宮々の御方(おんかた)へ参(まゐり)てかくと申せば、頓(やが)て伏見(ふしみの)宮(みや)の御方(おんかた)より、取(とる)手もくゆる許(ばかり)にこがれたる紅葉重(もみぢかさね)の薄様(うすやう)に、何(いつ)よりも言(こと)の葉(は)過(すぎ)て、憐(あは)れなる程なり。思ひかね云(いは)んとすればかきくれて泪(なみだ)の外(ほか)は言(こと)の葉もなしと被遊たり。此(この)上の哀(あはれ)誰(たれ)かと思へる処に、帥(そつの)宮(みや)御文あり。是(これ)は指(さし)も色深からぬ花染(そめ)のかほり返(かへり)たるに、言(ことば)は無(なく)て、数ならぬみのゝを山の夕時雨(ゆふしぐれ)強面(つれなき)松は降(ふる)かひもなしと被遊たり。此(この)御歌を見て、女(むすめ)そゞろに心あこがれぬと覚(おぼえ)て、手に持(もち)ながら詠(えい)じ伏(ふし)たりければ、早何(いづ)れをかと可云程もなければ、帥(そつの)宮(みや)の御使(おんつかひ)そゞろに独笑(ひとりゑ)みして帰り参りぬ。 |
|
頓(やが)て其(その)夜の深(ふ)け過(すぐ)る程(ほど)に、牛車(うしぐるま)さはやかに取(とり)まかないて、御迎(おんむかひ)に参りたり。滝口(たきぐち)なりける人、中門(ちゆうもん)の傍(かたはら)にやすらひかねて、夜もはや丑三(うしみつ)に成(なり)ぬと急げば、女(むすめ)下簾(したすだれ)を掲(かかげ)させて、被扶乗としける処に、父の基久(もとひさ)外より帰りまうで来て、「是(これ)はいづ方へぞ。」と問(とふ)に、母上、「帥(そつの)宮(みや)召有(めしあり)て。」と聞ゆ。父痛(いた)く留(とどめ)て、「事の外(ほか)なる態(わざ)をも計(はから)ひ給ひける者哉(かな)。伏見(ふしみの)宮(みや)は春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまふ)べき由御沙汰(ごさた)あれば、其(その)御方(おんかた)へ参(まゐり)てこそ、深山隠(みやまがくれ)の老木(おいき)迄も、花さく春にも可逢に、行末(ゆくすゑ)とても憑(たの)みなき帥(そつの)宮(みや)に参り仕へん事は、誰(た)が為とても可待方(かた)や有(ある)。」と云留(いひとど)めければ、母上げにやと思返(おもひかへ)す心に成(なり)にけり。 滝口は角(かく)ともしらで簾(みす)の前によりゐて、月の傾(かたぶ)きぬる程を申せば、母上出合(いであひ)て、「只今俄に心地(ここち)の例(れい)ならぬ事侍(はんべ)れば、後(のち)の夕べをこそ。」と申(まうし)て、御車(おんくるま)を返してげり。帥(そつの)宮(みや)かゝる事侍(はべる)とは、露もおぼしよらず、さのみやと今日の憑(たの)みに昨日の憂(う)さを替(かへ)て、度々御使(おんつかひ)有(あり)けるに、「思(おもひ)の外(ほか)なる事候(さふらひ)て、伏見(ふしみの)宮(みや)の御方(おんかた)へ参りぬ。」と申(まうし)ければ、おやしさけずば、東路(あづまぢ)の佐野(さの)の船橋(ふなはし)さのみやは、堪(たへ)ては人の恋(こひ)渡るべきと、思ひ沈ませ給(たまふ)にも、御憤(おんいきどほり)の末(すゑ)深かりければ、帥(そつの)宮(みや)御治世(ぢせい)の初(はじめ)、基久(もとひさ)指(さし)たる咎(とが)は無(なか)りしかども、勅勘を蒙(かうむ)り神職(しんしよく)を被解て、貞久(さだひさ)に被補。其後(そののち)天下大(おほき)に乱(みだれ)て、二君(くん)三たび天位を替(かへ)させ給(たまひ)しかば、基久・貞久纔(わづか)に三四年が中に、三度(さんど)被改補。夢幻(ゆめまぼろし)の世の習(ならひ)、今に始(はじめ)ぬ事とは云(いひ)ながら、殊更身の上に被知たる世の哀(あはれ)に、よしや今は兎(と)ても角(かく)てもと思(おもひ)ければ、うたゝねの夢よりも尚(なほ)化(あだ)なるは此比(このころ)見つる現(うつつ)なりけりと、基久一首(いつしゆ)の歌を書留めて、遂(つひ)に出家遁世(とんせい)の身とぞ成(なり)にける。 |
■太平記 巻第十六 | |
■将軍(しやうぐん)筑紫(つくしへ)御開(おんひらきの)事(こと)
建武三年二月八日、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)兵庫を落(おち)給ひし迄は、相順ふ兵僅(わづか)七千(しちせん)余騎(よき)有(あり)しか共(ども)、備前の児嶋(こじま)に著給(つきたまひ)ける時、京都より討手(うつて)馳下(はせくだ)らば、三石辺(みついしへん)にて支(ささへ)よとて、尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)氏頼(うぢより)を、田井(たゐ)・飽浦(あくら)・松田・内藤に付(つけ)て留(とめ)られ、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)・同刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)義敦(よしあつ)をば、東国の事無心元とて返さる。其外(そのほか)の勢共(せいども)は、各(おのおの)暇申(いとままうし)て己が国々に留(とどま)りける間、今は高(かう)・上杉・仁木(につき)・畠山(はたけやま)・吉良(きら)・石塔(いしたふ)の人々、武蔵・相摸勢の外(ほか)は相順(したがふ)兵も無(なか)りけり。 筑前(ちくぜんの)国(くに)多々良浜(たたらばま)の湊(みなと)に著(つき)給ひける日は、其(その)勢(せい)僅に五百人(ごひやくにん)にも足(たら)ず、矢種(やだね)は皆打出(うちで)・瀬川(せがは)の合戦に射尽(いつく)し、馬・物具(もののぐ)は悉(ことごとく)兵庫西宮(にしのみや)の渡海(とかい)に脱捨(ぬぎすて)ぬ。気疲(つか)れ勢尽(つき)ぬれば、轍魚(てつぎよ)の泥(どろ)に吻(いきつ)き、窮鳥(きゆうてう)の懐(ふところ)に入(いるら)ん風情(ふぜい)して、知(しら)ぬ里に宿(やど)を問ひ、狎(な)れぬ人に身を寄(よす)れば、朝(あさ)の食飢渇(きかつ)して夜(よる)の寝醒(ねざめ)蒼々(さうさう)たり。何(いつ)の日か誰と云(いは)ん敵の手に懸(かかり)てか、魂(たましひ)浮(うか)れ、骨(ほね)空(むなしう)して、天涯望郷(てんがいばうきやう)の鬼と成(なら)んずらんと、明日(あす)の命をも憑(たのま)れねば味気無(あぢきなく)思はぬ人も無(なか)りけり。 斯(かかる)処に、宗像大宮司(むなかたのだいぐうじ)使者を進(まゐらせ)て、「御座の辺(あたり)は余(あま)りに分内(ぶんない)狭(せばう)て、軍勢(ぐんぜい)の宿(やど)なんども候はねば、恐(おそれ)ながら此弊屋(このへいをく)へ御入(おんいり)有(あつ)て、暫(しばらく)此(この)間の御窮屈(きゆうくつ)を息(やすめ)られ、国々へ御教書(みげうしよ)を成(なさ)れて、勢を召(めさ)れ候べし。」と申(まうし)ければ、将軍軈(やが)て宗像が館(たち)へ入(いら)せ給ふ。次日(つぎのひ)小弐(せうに)入道妙恵(めうゑ)が方へ、南(みなみの)遠江守(とほたふみのかみ)宗継(むねつぐ)・豊田(とよたの)弥三郎光顕(みつあき)を両使として、恃(たのむ)べき由を宣遣(のたまひつかは)されければ、小弐入道子細(しさい)に及ばず、軈(やがて)嫡子(ちやくし)の太郎頼尚(よりなほ)に、若武者(わかむしや)三百騎(さんびやくき)差添(さしそへ)て、将軍へぞ進(まゐら)せける。 |
|
■小弐与菊池(きくち)合戦事(こと)付(つけたり)宗応蔵主(そうおうざうすが)事(こと)
菊池(きくち)掃部(かもんの)助(すけ)武俊(たけとし)は、元来宮方(みやがた)にて肥後(ひごの)国(くに)に有(あり)けるが、小弐が将軍方(しやうぐんがた)へ参(まゐる)由を聞(きき)て道にて討散(うちちらさ)んと、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)にて水木(みづき)の渡(わたし)へぞ馳向(はせむかひ)ける。小弐太郎は、夢にも此(これ)を知(しら)ずして、小船(こぶね)七艘に込乗(こみのつ)て、我(わが)身は先(まづ)向(むかう)の岸に付く。畦篭(あぜくら)豊前(ぶぜんの)守(かみ)以下(いげ)は未越(いまだこえず)、叩(ひか)へて船の指(さ)し戻(もど)す間を相待(まち)ける処に、菊池(きくち)が兵三千(さんぜん)余騎(よき)、三方(さんぱう)より推寄(おしよせ)て、河中へ追(おつ)ばめんとす。畦篭(あぜくら)が兵百五十騎(ひやくごじつき)、とても遁れぬ所也(なり)と、一途(いちづ)に思定(おもひさだめ)て、菊池(きくち)が大勢の中へ懸入(かけいつ)て、一人も不残討死す。 小弐太郎は川向(かはむかひ)より、此(これ)を見けれ共(ども)、大河を中に障(へだて)て、舟ならでは渡(わたる)べき便(たより)も無(な)ければ、徒(いたづら)に恃切(たのみきつ)たる一族(いちぞく)若党共(わかたうども)を敵に取篭(とりこめ)させける心中(こころのうち)、遣方無(やるかたなく)して無念なる。遂に船共(ふねども)近辺(きんぺん)に見へざりければ、忿(いかり)を推(おさへ)て将軍へぞ参(まゐり)ける。菊池(きくち)は手合(てあはせ)の合戦に討勝(うちかつ)て、門出(かどいで)吉(よし)と悦(よろこん)で、頓(やが)て其(その)勢(せい)を率(そつし)、小弐入道妙恵(めうゑ)が楯篭(たてこもつ)たる内山(うちやま)の城へぞ推寄(おしよせ)ける。小弐宗徒(むねと)の兵をば皆頼尚(よりなほ)に付(つけ)て、其(その)勢(せい)過半水木(みづき)の渡(わたし)にて討(うた)れぬ。 城に残(のこる)勢(せい)僅(わづか)に三百人(さんびやくにん)にも足(たら)ざりければ、菊池(きくち)が大勢に可叶とも覚へず。されども城の要害緊(きび)しかりければ、切岸(きりきし)の下に敵を直下(みおろ)して、防戦(ふせぎたたかふ)事(こと)数日(すじつ)に及べり。菊池(きくち)荒手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)夜昼(よるひる)十方より責(せめ)けれ共(ども)、城中の兵一人(いちにん)も討れず、矢種(やだね)も未尽(いまだつきざ)りければ、いかに責(せむ)るとも不落物をと思(おもひ)ける処に、小弐が一族(いちぞく)等(ら)俄に心替(こころがはり)して攻(つめ)の城に引挙(ひきあがり)、中黒(なかぐろ)の旗を揚(あげ)て、「我等(われら)聊(いささか)所存(しよぞん)候間宮方(みやがた)へ参(まゐり)候也(なり)。御同心(ごどうしん)候べしや。」と、妙恵(めうゑ)が方へ云遣(いひつかは)しければ、一言の返答にも及ばず、「苟(いやしく)も存(ながらへ)て義無(なから)んよりは、死して名を残さんには不如。」と云(いひ)て、持仏堂(ぢぶつだう)へ走入(はしりいり)、腹掻斬(かききつ)て臥(ふし)にけり。郎等(らうどう)百(ひやく)余人(よにん)も、堂の大床(おほゆか)に並(なみ)居て、同音に声を出(いだ)し、一度(いちど)に腹をぞ切(きつ)たりける。其(その)声天に響(ひびき)て、悲想悲々想(ひさうひひさう)天迄も聞へやすらんと夥(おびたた)し。小弐が最末(いとすゑ)の子に、宗応蔵主(そうおうざうす)と云(いふ)僧、蔀遣戸(しとみやりど)を蹈破(ふみやぶり)て薪(たきぎ)とし、父が死骸を葬(さう)して、「万里碧天風高月明、為問慧公行脚事(こと)、蹈翻白刃転身行、下火云、猛火重焼一段清」と、閑(しづか)に下火(あこ)の仏事をして、其炎(そのほのほ)の中へ飛入(とびいつ)て同(おなじ)く死にぞ赴(おもむき)ける。 |
|
■多々良浜(たたらばま)合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)高(かうの)駿河(するがの)守(かみ)引例事
小弐(せうに)が城已(すで)に責落(せめおと)されて、一族(いちぞく)若党(わかたう)百六十五人、一所にて討(うた)れければ、菊池(きくち)弥(いよいよ)大勢に成(なつ)て、頓(やが)て多々良浜(たたらばま)へぞ寄懸(よせかけ)ける。将軍は香椎宮(かしひのみや)に取挙(とりあがつ)て、遥(はるか)に菊池(きくち)が勢を見給ふに、四五万騎(しごまんぎ)も有(ある)らんと覚敷(おぼし)く、御方(みかた)は纔(わづか)に三百騎(さんびやくき)には過(すぎ)ず。而(しか)も半(なかば)は馬にも乗(のら)ず鎧(よろひ)をも著ず、「此(この)兵を以て彼(かの)大敵に合(あは)ん事(こと)、■蜉(ひふ)動大樹、蟷螂(たうらう)遮流車不異。憖(なましひ)なる軍(いくさ)して、云(いふ)甲斐なき敵に合(あは)んよりは腹を切(きら)ん。」と、将軍は被仰けるを、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)堅く諌申(いさめまうさ)れけるは、「合戦の勝負(しようぶ)は、必(かならずし)も大勢小勢(こぜい)に依(よる)べからず。 異国に漢高祖(かんのかうそ)■陽(けいやう)の囲(かこみ)を出(いでし)時は、才(わづか)に二十八騎に成(なり)しかども、遂に項羽(かうう)が百万騎に討勝(うちかつ)て天下を保(たもて)り。吾朝(わがてう)の近比(このごろ)は、右大将頼朝(よりともの)卿(きやう)土肥(とひ)の杉山(すぎやま)の合戦に討負(うちまけ)て臥木(ふしき)の中に隠(かくれ)し時は、僅(わづか)に七騎に成(なつ)て候(さふらひ)しか共(ども)、終(つひ)に平氏の一類(いちるゐ)を亡(ほろぼ)して累葉(るゐえふ)久(ひさしく)武将の位を続(つぎ)候はずや。二十八騎を以て百万騎の囲(かこみ)を出(いで)、七騎を以て伏木(ふしき)の下に隠(かく)れし機分(きぶん)、全く臆病にて命を捨兼(すてかね)しには非(あら)ず、只天運の保(たもつ)べき処を恃(たのみ)し者也(なり)。今敵の勢誠(まこと)に雲霞(うんか)の如しといへども、御方(みかた)の三百(さんびやく)余騎(よき)は今迄著纏(つきまとひ)て、我等(われら)が前途(せんど)を見はてんと思へる一人当千の勇士(ゆうし)なれば、一人も敵に後(うしろ)を見せ候はじ。此(この)三百騎(さんびやくき)志(こころざし)を同(おなじう)する程ならば、などか敵を追払(おひはら)はで候べき。御自害(ごじがい)の事曾(かつ)て有(ある)べからず。 |
|
先(まづ)直義馳向(はせむかつ)て一軍(ひといくさ)仕(つかまつつ)て見候はん。」と申捨(まうしすて)て、左馬(さまの)頭(かみ)香椎宮(かしひのみや)を打立(うちたち)給へば、相順(したがふ)人々には、仁木(につき)四郎次郎義長(よしなが)・細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)・高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)師重(もろしげ)・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)重成(しげなり)・南(みなみの)遠江守(とほたふみのかみ)宗継(むねつぐ)・上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山阿波(あはの)守(かみ)国清(くにきよ)を始(はじめ)として、大伴(おほとも)・嶋津・曾我・白石(しろいし)・八木岡(やぎをか)・相庭(あひば)を宗徒(むねと)の兵として、都合(つがふ)其(その)勢(せい)二百五十騎(にひやくごじつき)、三万(さんまん)余騎(よき)の敵に懸合(かけあは)せんと志(こころざ)して、命を塵芥(ぢんかい)に思(おもひ)ける心の程こそ艷(やさし)けれ。 直義(ただよし)已(すでに)旌(はた)の手を下(おろ)し、社壇(しやだん)の前を打過(うちすぎ)給ひける時、烏(からす)一番(ひとつがひ)杉の葉を一枝(ひとえだ)噛(くはへ)て甲(かぶと)の上へぞ落しける。左馬(さまの)頭(かみ)馬より下(おり)て、是(これ)は香椎宮(かしひのみや)の擁護(おうご)し給ふ瑞相(ずゐさう)也(なり)と敬礼(きやうらい)して、射向(いむけ)の袖に差(ささ)れける。敵御方(みかた)相近付(あひちかづき)て、時の音(こゑ)を挙(あげ)んとしける時、大高伊予(いよの)守(かみ)重成は、「将軍の御陣の余(あま)りに無勢(ぶせい)に候へば帰参(きさん)候はん。」とて引返(ひきかへ)しけり。直義此(これ)を見て、「始(はじめ)よりこそ留(とどま)るべきに、敵を見て引返すは臆病の至(いたり)也(なり)。あはれ大高が五尺(ごしやく)六寸(ろくすん)を五尺(ごしやく)切(きつ)てすて、剃刀(かみそり)にせよかし。」と欺(あざむか)れける。去(さる)程(ほど)に菊池(きくち)五千(ごせん)余騎(よき)を率(そつ)し、浜の西より相近付(ちかづき)て、先(まづ)矢合(やあはせ)の流鏑(かぶら)をぞ射たりける。左馬(さまの)頭(かみ)の陣よりは矢の一筋(ひとすぢ)をも射ず、鳴(なり)を閑(ひそ)めて、透間(すきま)あらば切懸(きりかけ)んと伺(うかがひ)見給ひけるに、誰が射(いる)とも不知白羽(しらは)の流鏑矢(かぶらや)敵の上を鳴響(なりひびい)て、落(おつる)所も見へず。左馬(さまの)頭(かみ)の兵共(つはものども)、是は只事(ただごと)に非(あらず)と憑敷(たのもしく)思(おもひ)、勇(いさみ)を不成と云(いふ)者なし。 |
|
両陣相挑(あひいどん)で、未(いまだ)兵刃(へいじん)を交へざる処に、菊池(きくち)が兵黄河原毛(きかはらげ)なる馬に、火威(ひをどし)の鎧著(き)たる武者只一騎、御方(みかた)の勢に三町余(あま)り先立(さきだつ)て、抜懸(ぬけがけ)にぞしたりける。爰(ここ)に曾我左衛門・白石(しろいし)彦太郎・八木岡(やぎをか)五郎、三人(さんにん)共(とも)に馬・物具(もののぐ)無(なく)て、真前(まつさき)に進(すすん)だりけるが、見之、白石立向(たちむかつ)て馬より引落さんと、手もと近く寄副(よりそひ)ければ、敵太刀を捨(すて)て、腰(こしの)刀を抜(ぬか)んと、一反(ひとそ)り反(そ)りけるが、真倒(まつさかさま)に成(なつ)て落(おち)にけり。白石此(これ)を起(おこし)も立(たて)ず、推(おさ)へて首をば掻(かい)てけり。馬をば曾我走寄(はしりよつ)て打乗り、鎧をば八木岡剥取(はぎとつ)て著たりけり。 白石が高名(かうみやう)に、二人(ににん)得利、軈(やがて)三人(さんにん)共(とも)に敵の中へ打入れば、仁木(につき)・細川以下(いげ)、「御方(みかた)討(うた)すな、連(つづけ)や。」とて、大勢の中へ懸入(かけいつ)て乱合(みだれあつ)てぞ闘(たたかひ)ける。仁木(につき)越後(ゑちごの)守(かみ)は、近付(ちかづく)敵五騎切(きつ)て落し、六騎に手負(ておふ)せて、猶敵の中に乍有、仰(のつ)たる太刀を蹈直(ふみなほ)しては切(きり)合ひ、命を限(かぎり)とぞ見(みえ)たりける。されば百五十騎(ひやくごじつき)、参然(さんぜん)として堅(かたき)を破(やぶ)れば、菊池(きくち)が勢誠(まこと)に百倍(ひやくばい)せりといへども、才(わづか)の小勢(こぜい)に懸立(かけたて)られて、一陣の軍兵三千(さんぜん)余騎(よき)、多々良浜(たたらばま)の遠干潟(とほひかた)を、二十(にじふ)余町(よちやう)までぞ引退(ひきしりぞき)ける。搦手(からめて)に回(まは)りける松浦(まつら)・神田(かんだ)の者共(ものども)、将軍の御勢(おんせい)の僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にも足(たら)ざりけるを二三万騎(にさんまんぎ)に見なし、礒打(いそうつ)浪の音(おと)をも敵の時の声に聞(きき)なしければ、俄(にはか)に叶はじと思ふ心付(つい)て、一軍(ひといくさ)をもせず旌(はた)を捲(まく)と甲(かぶと)を脱(ぬい)で降人(かうにん)に出(いで)にけり。 |
|
菊池(きくち)此(これ)を見て弥(いよいよ)難儀に思ひ、「大勢の懸(かか)らぬ先(さき)に。」と急(いそぎ)肥後(ひごの)国(くに)へ引返す。将軍則(すなはち)一色(いつしき)太郎入道々献(だうけん)・仁木(につき)四郎次郎義長を差遣(さしつかは)し菊池(きくち)が城を責(せめ)させらるるに、一日も堪(こらへ)得ず深山(みやま)の奥へ逃篭(にげこも)る。是(これ)より軈(やがて)同国八代(やつしろ)の城を責(せめ)て内河(うちかは)彦三郎を追(おひ)落す也(なり)。此(これ)のみならず、阿蘇大宮司(あそのだいぐうじ)八郎(はちらう)惟直(これなほ)は、先日多々良浜(たたらばま)の合戦に深手(ふかで)負(おう)たりけるが、肥前(ひぜんの)国(くに)小杵山(をつきやま)にて自害しぬ。其弟(そのおとと)九郎は、知(しら)ぬ里に行迷(ゆきまよう)て、卑(いやし)き田夫(でんぶ)に生擒(いけとら)れぬ。秋月備前(びぜんの)守(かみ)は、大宰府(ださいふ)迄落(おち)たりけるが、一族(いちぞく)二十(にじふ)余人(よにん)一所にて討(うた)れにけり。 是等(これら)は皆一方の大将共なり。又九州の強敵(かうてき)ともなりぬべき者也(なり)しが、天運(てんうん)時至(いたら)ざれば加様(かやう)に皆滅(ほろぼ)されにけり。爾(しかつし)より後は九国・二嶋、悉(ことごとく)将軍に付順奉(つきしたがひたてまつら)ずと云(いふ)者なし。此(これ)全く菊池(きくち)が不覚(ふかく)にも非(あら)ず、又直義(ただよし)朝臣の謀(はかりこと)にも依らず、啻(ただ)将軍天下の主(あるじ)と成(なり)給ふべき過去の善因(ぜんいん)催(もよほ)して、霊神擁護(れいじんおうご)の威を加へ給(たまひ)しかば、不慮(ふりよ)に勝(かつ)ことを得て一時に靡(なび)き順(したがひ)けり。 今まで大敵なりし松浦(まつら)・神田(かんだ)の者共(ものども)、将軍の小勢(こぜい)を大勢也(なり)と見て、降人(かうにん)に参(まゐり)たりと其聞有(そのきこえあり)ければ、将軍高(かう)・上杉の人々に向(むかつ)て宣(のたまひ)けるは、「言(ことば)の下(した)に骨(ほね)を消し、笑(わらひ)の中に刀を砺(とぐ)は此比(このころ)の人の心也(なり)。されば小弐が一族共(いちぞくども)は多年の恩顧なりしか共、正(まさし)く小弐を討(うち)つるも遠からぬ様(ためし)ぞかし。此(これ)を見るにも松浦・神田何(いか)なる野心を挿(さしはさん)でか、一軍(ひといくさ)もせず降人(かうにん)には出(いで)たるらん。信心(しんじん)真(まこ)と有(ある)時は感応(かんおう)不思議(ふしぎ)を顕(あらはす)事(こと)あり。今御方(みかた)の小勢(こぜい)を大勢と見し事(こと)、不審(ふしん)無(なき)に非(あら)ず。相構(あひかまへ)て面々(めんめん)心赦(ゆる)し有(ある)べからず。」と仰(おほせ)ければ、遥(はるか)の末坐(まつざ)に候(さふらひ)ける高(かうの)駿河(するがの)守(かみ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「誠(まこと)に人の心の測(はか)り難(かたき)事(こと)は、天よりも高(たかく)地よりも厚(あつし)と申せども、加様(かやう)の大儀(たいぎ)に於ては、余(あまり)に人の心を御不審(ごふしん)有(あつ)ては、争(いかで)か早速(さつそく)の大功を成(なし)候べき。 就中(なかんづく)御勢(おんせい)の多(おほく)見へて候(さふらひ)ける事(こと)、例(れい)無(なき)にも有(ある)べからず。其(その)故は昔唐朝(たうてう)に、玄宗皇帝(くわうてい)の左将軍(さしやうぐん)に哥舒翰(かじよかん)、与逆臣安禄山兵崔乾祐、潼関(とうくわん)にて戦(たたかひ)けるに、黄(き)なる旗を差(さし)たる兵十万(じふまん)余騎(よき)、忽然(こつぜん)として官軍(くわんぐん)の陣に出来(いできた)れり。 |
|
崔乾祐(さいけんいう)此(これ)を見て敵大勢なりと思ひ、兵を引(ひい)て四方(しはう)に逃(にげ)散る。其喜(そのよろこび)に勅使宗廟に詣(まうで)けるに、石人(せきじん)とて、石にて作双(つくりならべ)て廟(べう)に置(おき)たる人形共(にんぎやうども)両足泥(どろ)に触(まみ)れ、五体(ごたい)に矢立(たて)り。さてこそ黄旗(きはた)の兵十万(じふまん)余騎(よき)は、宗廟(そうべう)の神官軍(くわんぐん)に化(け)して、逆徒(ぎやくと)を退け給(たまひ)たりけりと、人皆疑(うたがひ)を散じけり。吾朝(わがてう)には天武(てんむ)天皇(てんわう)与大友(おほともの)王子(わうじ)天下を争(あらそ)はせ給(たまひ)ける時、備中(びつちゆうの)国(くに)二万郷(にまのさと)と云(いふ)所にて、両方の兵戦(たたかひ)を決せんとす。 于時天武(てんむ)天皇(てんわう)の御勢(おんせい)は僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)、大友(おほともの)王子(わうじ)の御勢(おんせい)は、一万(いちまん)余騎(よき)也(なり)。勢の多少更(さらに)闘(たたか)ふべくも無(なか)りける処に、何(いづく)より来れる共知(しら)ぬ爽(さわや)かなる兵二万(にまん)余騎(よき)、天皇(てんわう)の御方(みかた)に出(いで)来て、大友(おほともの)王子(わうじ)の御勢(おんせい)を十方へ懸散(かけちら)す。此(これ)よりして其(その)所を二万里(にまのさと)と名付(なづけ)らる。君が代(よ)は二万(にま)の里人数(かず)副(そへ)て絶(たえ)ず備(そなふ)る御貢物(みつきもの)哉(かな)と周防の内侍(ないし)が読(よみ)たりしも、此(この)心にて候也(なり)。」と、和漢(わかん)両朝の例(れい)を引(ひい)て、武運の天に叶(かな)へる由を申(まうし)ければ、将軍を始(はじめ)まいらせて、当座の人々も、皆歓喜(くわんぎ)の笑(ゑみ)をぞ含(ふくま)れける。 |
|
■西国蜂起(ほうき)官軍(くわんぐん)進発(しんぱつの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に、将軍筑紫(つくし)へ没落(ぼつらく)し給(たまひ)し刻(きざみ)、四国・西国の朝敵共(てうてきども)、機を損(そん)じ度(ど)を失(うしなひ)て、或(あるひ)は山林に隠れ或(あるひ)は所縁(しよえん)を尋(たづね)て、新田(につた)殿(どの)の御教書(みげうしよ)を給(たまは)らぬ人は無(なか)りけり。此(この)時若(もし)義貞早速(さつそく)に被下向たらましかば、一人も降参せぬ者は有(ある)まじかりしを、其比(そのころ)天下第一(だいいち)の美人と聞へし、勾当(こうたう)の内侍(ないし)を内裏(だいり)より給(たまはり)たりけるに、暫(しばし)が程も別(わかれ)を悲(かなしみ)て、三月の末迄西国下向(げかう)の事被延引けるこそ、誠(まこと)に傾城(けいせい)傾国の験(しるし)なれ。 依之(これによつて)丹波(たんばの)国(くに)には、久下(くげ)・長沢・荻野(をぎの)・波々伯部(はうかべ)の者共(ものども)、仁木(につきの)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)を大将として、高山寺(かうせんじ)の城に楯篭(たてごも)り、播磨国(はりまのくに)には、赤松入道円心白旗(しらはた)が峯(みね)を城郭に構(かまへ)て、射手(いて)の下向を支(ささへ)んとす。美作(みまさか)には、菅家(くわんけ)・江見(えみ)・弘戸(ひろと)の者共(ものども)、奈義能山(なぎのせ)・菩提寺の城を拵(こしら)へて、国中を掠(かす)め領(りやう)す。備前には、田井・飽浦(あくら)・内藤・頓宮(とんぐう)・松田・福林寺(ふくりんじ)の者共(ものども)、石橋左衛門(さゑもんの)佐(すけ)を大将として、甲斐河(かひかは)・三石(みついし)二箇処(にかしよ)の城を構(かまへ)て船路(ふなぢ)・陸地(くがぢ)を支(ささへ)んとす。備中には、庄(しやう)・真壁・陶山(すやま)・成合(なりあひ)・新見(にひみ)・多地部(たちへ)の者共(ものども)、勢山(せやま)を切塞(きりふさい)で、鳥も翔(かけ)らぬ様(やう)に構へたり。 是(これ)より西、備後・安芸(あき)・周防・長門は申(まうす)に不及、四国・九州も悉(ことごとく)著(つか)では叶(かなふ)まじかりければ、将軍方(しやうぐんがた)に無志も皆順ひ不靡云(いふ)事(こと)なし。処々(しよしよ)の城郭、国々の蜂起(ほうき)、震(おびたたし)く京都へ聞(きこえ)ければ、先(まづ)東国を敵に成(なし)ては叶(かなふ)まじとて、北畠(きたばたけの)源(げん)中納言(ぢゆうなごん)顕家(あきいへの)卿(きやう)を、鎮守府(ちんじゆふ)の将軍になして、奥州へ下(くだ)さる。新田(につた)左中将(さちゆうじやう)義貞には、十六(じふろく)箇国(かこく)の管領(くわんれい)を被許、尊氏追討(つゐたう)の宣旨(せんじ)をぞ被成ける。義貞綸命(りんめい)を蒙(かうむつ)て、已(すで)に西国へ立(たた)んとし給(たまひ)ける刻(きざみ)、瘧病(ぎやへい)の心地(ここち)煩(わづらは)しかりければ、先(まづ)江田(えた)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)行義(ゆきよし)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)二人(ににん)を播磨国(はりまのくに)へ被差下。其(その)勢(せい)二千(にせん)余騎(よき)、三月四日京を立(たつ)て、同(おなじき)六日書写坂本(しよしやさかもと)に著(つき)にけり。赤松入道是(これ)を聞(きい)て、敵に足をためさせては叶(かなふ)まじとて、備前・播磨両国の勢(せい)を合(あはせ)て書写坂本へ押寄(おしよせ)ける間、江田・大館、室山(むろやま)に出向(いでむかつ)て相戦ふ。赤松軍(いくさ)利(り)無(なく)して、官軍(くわんぐん)勝(かつ)に乗(のり)しかば、江田・大館勢(いきほひ)を得て、西国の退治輒(たやす)かるべき由(よし)、頻(しきり)に羽書(うしよ)を飛(とば)せて京都へ注進す。 |
|
■新田左中将被責赤松事
去(さる)程(ほど)に、左中将(さちゆうじやう)義貞の病気能(よく)成(なり)てければ、五万(ごまん)余騎(よき)の勢(せい)を率(そつ)して、西国へ下り給ふ。後陣(ごぢん)の勢を待調(まちそろ)へん為に、播磨国(はりまのくに)賀古河(かごかは)に四五日逗留(とうりう)有(あり)ける程(ほど)に、宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)公綱(きんつな)・紀伊(きの)常陸(ひたちの)守(かみ)・菊池(きくち)次郎武季(たけすゑ)三千(さんぜん)余騎(よき)にて下著(げちやく)す。其外(そのほか)摂津国(つのくに)・播磨・丹波・丹後(たんご)の勢共(せいども)、思々(おもひおもひ)に馳参(はせさん)じける間、無程六万(ろくまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。 「さらば軈(やが)て赤松が城へ寄(よせ)て可責。」とて、斑鳩(いかるが)の宿(しゆく)迄打寄せ給(たまひ)たりける時、赤松入道円心(ゑんしん)、小寺(こでら)藤兵衛(ひやうゑの)尉(じよう)を以て、新田殿(につたどの)へ被申けるは、「円心不肖(ふせう)の身を以て、元弘(げんこう)の初(はじめ)大敵に当り、逆徒(ぎやくと)を責却候(せめしりぞけさふらひ)し事(こと)、恐(おそらく)は第一(だいいち)の忠節とこそ存候(ぞんじさふらひ)しに、恩賞の地、降参不儀(ふぎ)の者よりも猶賎(いやし)く候(さふらひ)し間、一旦(いつたん)の恨(うらみ)に依(よつ)て多日の大功を捨候(すてさふらひ)き。乍去兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)の御恩、生々世々(しやうしやうよよ)難忘存(ぞんじ)候へば、全く御敵(おんてき)に属(しよく)し候事(こと)、本意とは不存候。所詮(しよせん)当国の守護職(しゆごしよく)をだに、綸旨(りんし)に御辞状(ごじじやう)を副(そへ)て下(くだ)し給(たまは)り候はゞ、如元御方(みかた)に参(まゐつ)て、忠節を可致にて候。」と申(まうし)たりければ、義貞是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「此(この)事(こと)ならば子細(しさい)あらじ。」と被仰て、頓(やが)て京都へ飛脚(ひきやく)を立(たて)、守護職(しゆごしよく)補任(ふにん)の綸旨(りんし)をぞ申成(まうしなさ)れける。 其(その)使節往反(わうへん)の間、已(すで)に十(じふ)余日(よにち)を過(すぎ)ける間に、円心城を拵(こしらへ)すまして、「当国の守護(しゆご)・国司(こくし)をば、将軍より給(たまひ)て候間、手(て)の裏を返す様(やう)なる綸旨をば、何かは仕(つかまつり)候べき。」と、嘲哢(てうろう)してこそ返されけれ。新田左中将(さちゆうじやう)是を聞給(ききたまひ)て、「王事毋脆事、縦(たとひ)恨(うらみ)を以て朝敵(てうてき)の身になる共、戴天欺天命哉(や)。其(その)儀ならば爰(ここ)にて数月(すげつ)を送る共、彼(かれ)が城を責(せめ)落さでは通るまじ。」とて、六万(ろくまん)余騎(よき)の勢を以て、白旗(しらはた)の城を百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に取囲(とりかこみ)て、夜昼(よるひる)五十(ごじふ)余日(よにち)、息をも不継責(せめ)たりける。 |
|
斯(かか)りけれ共(ども)、此(この)城四方(しはう)皆嶮岨(けんそ)にして、人の上(のぼ)るべき様(やう)もなく、水も兵粮も卓散(たくさん)なる上、播磨・美作(みまさか)に名を得たる射手(いて)共(ども)、八百(はつぴやく)余人(よにん)迄篭(こも)りたりける間、責(せむ)けれども/\只寄手(よせて)々負(ておひ)討(うた)るゝ許(ばかり)にて、城中恙(つつが)なかりけり。脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)是(これ)を見給(たまひ)て、左中将(さちゆうじやう)に向(むかつ)て被申けるは、「先年正成(まさしげ)が篭(こも)りたりし金剛山(こんがうせん)の城を、日本国の勢共(せいども)が責兼(せめかね)て、結句(けつく)天下を覆(くつがへ)されし事は、先代の後悔にて候はずや。 僅(わづか)の小城(こじろ)一(ひとつ)に取懸(とりかか)りて、そゞろに日数を送り候はゞ、御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)は皆兵粮に疲(つかれ)、敵陣の城には弥(いよいよ)強(つよ)り候はんか。其(その)上(うへ)尊氏已(すで)に筑紫(つくし)九箇国(くかこく)を平(たひらげ)て、上洛(しやうらく)する由聞(きこえ)候へば、彼(かれ)が近付(ちかづか)ぬ前(さき)に備前・備中を退治(たいぢ)して、安芸・周防・長門の勢を被著候はでは、ゆゝしき大事(だいじ)に及(および)候(さふらひ)ぬとこそ覚(おぼえ)候へ。乍去今迄責懸(せめかけ)たる城を落さで引(ひく)は、天下の哢(あざけり)共(とも)成(なる)べく候へば、御勢(おんせい)を少々(せうせう)被残、自余(じよ)の勢を船坂(ふなさか)へ差向(さしむけ)られ、先(まづ)山陽道(せんやうだう)の路を開(ひらい)て中国の勢を著(つ)け、推(おし)て筑紫へ御下(おんくだり)候へかし。」と被申ければ、左中将(さちゆうじやう)、「此(この)儀尤(もつとも)宜(よろしく)覚(おぼえ)候。」とて、頓(やが)て宇都宮(うつのみや)と菊池(きくち)が勢を差副(さしそへ)、伊東大和(やまとの)守(かみ)・頓宮(とんぐう)六郎(ろくらう)を案内者(あんないしや)として、二万(にまん)余騎(よき)舟坂山(ふなさかやま)へぞ向(むけ)られける。 彼(かの)山と申(まうす)は、山陽道(せんやうだう)第一(だいいち)の難処也(なり)。両方は嶺(みね)峨々(がが)として、中に一の細(ほそ)道あり。谷深(ふかく)石滑(なめらか)にして、路羊腸(やうちやう)を践(ふん)で上る事二十(にじふ)余町(よちやう)、雲霧窈溟(うんむえうめい)たり。若(もし)一夫怒(いかつて)臨関、万侶(ばんりよ)難得透。況(いはんや)岩石(がんせき)を穿(うがつ)て細橋(ほそはし)を渡しゝ大木(たいぼく)を倒して逆木(さかもぎ)に引(ひき)たれば、何(いか)なる百万騎の勢にても、責(せめ)破るべしとはみへざりけり。去(され)ば指(さし)も勇める菊池(きくち)・宇都宮(うつのみや)が勢も、麓に磬(ひか)へて不進得。案内者(あんないしや)に憑(たのま)れたる伊東・頓宮(とんぐう)の者共(ものども)も、山をのみ向上(みあげ)て徒(いたづら)に日をぞ送(おくり)ける。 |
|
■児嶋三郎熊山(くまやまに)挙旗事(こと)付(つけたり)船坂(ふなさか)合戦(かつせんの)事(こと)
斯(かか)りける処に、備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)児嶋三郎高徳(たかのり)、去年の冬、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)、四国より責上(せめのぼり)し時、備前・備中数箇度(すかど)の合戦に打負(うちまけ)て、山林に身を隠し、会稽(くわいけい)の恥を雪(すす)がんと、義貞朝臣の下向を待(まつ)て居たりけるが、舟坂山(ふなさかやま)を官軍(くわんぐん)の超(こえ)かねたりと聞(きき)て、潛(ひそかに)使を新田(につた)殿(どの)の方へ立(たて)て申(まうし)けるは、「舟坂(ふなさか)より御勢(おんせい)を可被越由承及(うけたまはりおよび)候事実(まこと)に候はゞ、彼(かの)要害輒(たやす)く難被破(やぶられ)候歟(か)。高徳(たかのり)来(きたる)十八日当国(たうごくの)於熊山可挙義兵候。さる程ならば、舟坂(ふなさか)を堅(かため)たる凶徒等(きようとら)、定(さだめ)て熊山へ寄来(よせきたり)候はん歟(か)。 敵の勢のすきたる隙(ひま)を得て御勢(おんせい)を二手(ふたて)に分(わか)たれ、一手(ひとて)をば舟坂(ふなさか)へ差向(さしむけ)て可攻勢(いきほ)ひを見せ、一手(ひとて)をば三石山(みついしやま)の南に当(あたつ)て樵(きこり)の通(かよ)ふ路一(ひとつ)候なる、潛(ひそか)に廻(まはら)せて、三石(みついし)の宿(しゆく)より西へ被出候はゞ、船坂の敵前後を被裹、定(さだめ)て引(ひき)方(がた)を失(うしなひ)候はんか。高徳(たかのり)国中に旗を挙(あげ)、舟坂(ふなさか)を先(まづ)破り候はゞ、西国の軍勢(ぐんぜい)御方(みかた)に参(まゐら)ずと云(いふ)者候べからず。急(いそぎ)此相図(このあひづ)を以て、御合戦有(ある)べく候也(なり)。」とぞ申送(まうしおくり)ける。其比(そのころ)播磨より西、長門の国に至(いたる)まで悉(ことごと)く敵陣にて、案内を通づる者もなきに、高徳が使者来(きたつ)て、企(くはたて)の様(やう)を申(まうし)ければ、新田殿(につたどの)悦(よろこび)給ふ事不斜(なのめならず)。 則(すなはち)相図(あひづ)の日を定(さだめ)て、其(その)使をぞ被返ける。使者(ししや)備前に帰(かへつ)て相図(あひづ)の様(やう)を申(まうし)ければ、四月十七日(じふしちにち)の夜半許(やはんばかり)に、児嶋三郎高徳、己(おの)が館(たち)に火をかけて、僅(わづか)二十五騎にてぞ打出(うちいで)ける。国を阻(へだて)境を隔(へだて)たる一族共(いちぞくども)は、事急(きふ)なるに依(よつ)て不及相催、近辺(きんぺん)の親類共に事の子細(しさい)を告(つげ)たりければ、今木・大富(おほどみ)・和田・射越(いのこし)・原・松崎の者共(ものども)、取(とる)物も不取敢馳著(はせつき)ける間、其(その)勢(せい)二百(にひやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。 |
|
兼(かね)ては夜中に熊山へ取上(とりあが)り、四方(しはう)に篝火(かがりび)を焼(たい)て、大勢篭(こも)りたる勢(いきほ)ひを、敵にみせんと巧(たく)みたりけるが、馬よ物具(もののぐ)よとひしめく間に、夏の夜程なく明(あけ)けれども、無力相図の時刻を違(ちがへ)じとて、熊山へこそ取上(とりあが)りけれ。如案三石(みついし)・舟坂(ふなさか)の勢共(せいども)是(これ)を聞(きき)て、「国中に敵出来(いできたり)なば、ゆゝしき大事(だいじ)なるべし。万方(ばんばう)を閣(さしおい)て、先(まづ)熊山を責(せめ)よ。」とて、舟坂(ふなさか)・三石(みついし)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を引分(ひきわけ)て、熊山へぞ向(むかひ)たりける。 彼(かの)熊山と申(まうす)は、高さは比叡山(ひえいさん)の如(ごとく)にして四方(しはう)に七(ななつ)の道あり。其路(そのみち)何(いづれ)も麓は少し嶮(けはしう)して峯は平(たひらか)なり。高徳僅(わづか)の勢を七の道へ差分(さしわけ)て、四方(しはう)へ敵をぞ防ぎける。追下(おひおろ)せば責上(せめあが)り、責上(せめあが)れば追下(おひおろ)し、終日(ひねもす)戦暮(たたかひくら)して態(わざ)と時をぞ移(うつ)しける。夜に入(いり)ける時、寄手(よせて)の中に石戸(おしこ)彦三郎とて此(この)山の案内者(あんないしや)有(あり)けるが、思(おもひ)も寄(よら)ぬ方より抜入(ぬけいつ)て、本堂の後(うしろ)なる峯にて鬨(ときのこゑ)をぞ揚(あげ)たりける。 高徳(たかのり)四方(しはう)の麓へ勢を皆分(わけ)て遣(つかはし)ぬ。僅(わづか)に十四五騎にて本堂の庭に磬(ひかへ)たりけるが、石戸(おしこ)が二百騎(にひやくき)の中へ喚(をめい)て懸(かけ)入り、火を散(ちらし)てぞ闘ひける。深山(みやま)の木隠(こがく)れ月暗(くらう)して、敵の打(うつ)太刀分明にも見へざりければ、高徳が内甲(うちかぶと)を突(つか)れて、馬より倒(さかさま)に落(おち)にけり。敵二騎落合(おちあつ)て、頚を取(とら)んとしける処へ、高徳が甥(をひ)松崎彦四郎(ひこしらう)・和田四郎馳合(はせあつ)て、二人(ににん)の敵を追払(おつはら)ひ、高徳を馬に引乗せて、本堂の縁(えん)にぞ下(おろ)しける。高徳(たかのり)は内甲(うちかぶと)の疵(きず)痛手(いたで)也(なり)ける上、馬より落(おち)ける時、胸板(むないた)を強く蹈(ふま)れて、目昏(くれ)魂(たましひ)消(きえ)ければ、暫(しばらく)絶入(ぜつじゆ)したりけるを、父備後(びんごの)守(かみ)範長(のりなが)、枕の下(もと)に差寄(さしよつ)て、「昔鎌倉(かまくら)の権五郎(ごんごらう)景政(かげまさ)は、左の眼(まなこ)を射抜(いぬか)れ、三日三夜まで其(その)矢を抜かで、当(たう)の矢を射たりとこそ云(いひ)伝へたれ。 |
|
是(これ)程の小疵(こきず)一所に弱りて死(しぬ)ると云(いふ)事(こと)や可有。其(それ)程無云甲斐心を以て此(この)一大事(いちだいじ)をば思立(おもひたち)けるか。」と荒(あら)らかに恥(はぢ)しめける間、高徳忽(たちまち)に生出(いきいで)て、「我を馬に舁乗(かきのせ)よ、今一軍(ひといくさ)して敵を追払(おひはら)はん。」とぞ申(まうし)ける。父大(おほき)に悦(よろこん)で、「今は此(この)者よも死なじ。いざや殿原(とのばら)、爰(ここ)らに有(あり)つる敵共(てきども)追散(おつちら)さん。」とて、今木(いまぎの)太郎範秀(のりひで)・舎弟次郎範仲(のりなか)・中西四郎範顕(のりあき)・和田四郎範氏(のりうぢ)・松崎彦四郎(ひこしらう)範家(のりいへ)主従(しゆじゆう)十七騎にて、敵二百騎(にひやくき)が中へまつしらくに懸入(かけいり)ける間、石戸(おしこ)是(これ)を小勢(こぜい)とは知(しら)ざりけるにや、一立合(ひとたてあは)せも立合(たてあは)せず、南面(みなみおもて)の長坂を福岡までこそ引(ひき)たりけれ。 其侭(そのまま)両陣相支(あひささへ)て互に軍(いくさ)もせざりけり。相図の日にも成(なり)ければ、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)を大将として、梨原(なしがはら)へ打莅(うちのぞ)み、二万騎(にまんぎ)の勢を三手に分(わか)たる。一手(ひとて)には江田兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)を大将として、二千(にせん)余騎(よき)杉坂へ向(むけ)らる。是(これ)は菅家(くわんけ)・南三郷(なんさんがう)の者共(ものども)が堅(かた)めたる所を追破(おひやぶつ)て、美作(みまさか)へ入(いら)ん為也(なり)。一手(ひとて)には大江田(おいだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)氏経を大将として、菊池(きくち)・宇都宮(うつのみや)が勢五千(ごせん)余騎(よき)を船坂へ差向(さしむけ)らる。是(これ)は敵を爰(ここ)に遮(さへぎ)り留(とめ)て、搦手(からめて)の勢を潛(ひそか)に後(うしろ)より回(まは)さん為也(なり)。 |
|
一手(ひとて)には伊東大和(やまとの)守(かみ)を案内者(あんないしや)として、頓宮(とんぐう)六郎(ろくらう)・畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、当国の目代(もくだい)少納言範猷(のりみち)・由良新左衛門(しんざゑもん)・小寺(こでら)六郎(ろくらう)・三津沢(みつざは)山城(やましろの)権守(ごんのかみ)以下(いげ)態(わざと)小勢(こぜい)を勝(すぐつ)て三百(さんびやく)余騎(よき)向(むけ)らる。其(その)勢(せい)皆轡(くつわ)の七寸(みづつき)を紙を以て巻(まい)て、馬の舌根(したね)を結(ゆう)たりける。 杉坂越(すぎさかごえ)の北、三石(みついし)の南に当(あたつ)て、鹿(しし)の渡る道一(ひとつ)あり。敵是(これ)を知(しら)ざりけるにや、堀切(ほりきり)たる処もなく、逆木(さかもぎ)の一本をも引(ひか)ざりけり。此(この)道余(あまり)に木茂(しげつ)て、枝の支へたる処をば下(おり)て馬を引く。山殊に嶮(けはしう)して、足もたまらぬ所をば、中々(なかなか)乗(のつ)て懸下(かけおろ)す、兎角(とかう)して三時許(みときばかり)に嶮岨(けんそ)を凌(しのい)で三石(みついし)の宿(しゆく)の西へ打出(いで)たれば、城中の者も舟坂(ふなさか)の勢も、遥(はるか)に是(これ)を顧(かへりみ)て、思(おもひ)も寄(よら)ぬ方なれば、熊山の寄手共(よせてども)が帰(かへり)たるよと心得て、更に仰天(ぎやうてん)もせざりけり。 三百(さんびやく)余騎(よき)の勢共(せいども)、宿(しゆく)の東なる夷(えびす)の社(やしろ)の前へ打寄り、中黒(なかぐろ)の旗を差揚(さしあげ)て東西の宿に火をかけ、鬨(ときのこゑ)をぞ挙(あげ)たりける。城中の兵は、大略(たいりやく)舟坂(ふなさか)へ差向けぬ。三石(みついし)に有(あり)し勢(せい)は、皆熊山へ向ひたる時分なれば、闘(たたか)はんとするに勢(せい)なく、防(ふせ)がんとするに便(たより)なし。舟坂(ふなさか)へ向ひたる勢、前後の敵に取巻(とりまか)れて、すべき様(やう)もなかりければ、只馬・物具(もののぐ)を捨(すて)て、城へ連(つらなり)たる山の上へ、はう/\逃上(にげのぼ)らんとぞ騒ぎける。是を見て、大手(おほて)・搦手(からめて)差合(さしあは)せて、「余(あま)すな漏(もら)すな。」と追懸(おつかけ)ける間、逃方(にげかた)を失(うしなひ)ける敵共(てきども)此彼(ここかしこ)に行迫(ゆきつまつ)て自害をする者百(ひやく)余人(よにん)、生取(いけど)らるゝ者五十(ごじふ)余人(よにん)也(なり)。 |
|
爰(ここ)に備前(びぜんの)国(くに)一宮(いちのみや)の在庁(ざいちやう)、美濃(みのの)権(ごんの)介(すけ)佐重(すけしげ)と云(いひ)ける者、可引方なくして、已(すで)に腹を切らんとしけるが、屹(きつ)と思(おもひ)返す事有(あつ)て、脱(ぬぎ)たる鎧を取(とつ)て著(き)、捨(すて)たる馬に打乗(のつ)て、向ふ敵の中を推分(おしわけ)て、播磨の方へぞ通(とほ)りける。舟坂(ふなさか)より打入る大勢共、「是(これ)は何(なに)者ぞ。」と尋(たづね)ければ、「是(これ)は搦手(からめて)の案内者(あんないしや)仕(つかま)つる者にて候が、合戦の様(やう)を委(くはし)く新田殿(につたどの)へ申入(まうしいれ)候也(なり)。」と答(こたへ)ければ、打(うち)合ふ数万の勢共(せいども)、「目出(めでたく)候。」と感じて、道を開(ひらい)てぞ通しける。佐重(すけしげ)、総大将(そうだいしやう)の侍所(さぶらひどころ)長浜が前に跪(ひざまづい)て、「備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に、美濃(みのの)権(ごんの)介(すけ)佐重、三石(みついし)の城より降人に参(まゐつ)て候。」と申(まうし)ければ、総大将(そうだいしやう)より、 「神妙(しんべう)に候。」と被仰、則(すなはち)著到(ちやくたう)にぞ被著ける。佐重若干(そくばく)の人を出抜(だしぬい)て、其(その)日(ひ)の命を助かりける。是(これ)も暫時(ざんじ)の智謀(ちぼう)也(なり)。舟坂(ふなさか)已(すで)に破れたれば、江田兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて美作(みまさかの)国(くに)へ打入(いつ)て、奈義能山(なぎのせ)・菩提寺(ぼだいじ)二箇所(にかしよ)の城を取巻(とりまき)給ふ。彼(かの)城もすべなき様(やう)なければ、馬・武具(もののぐ)を捨(すて)て、城に連(つらなり)たる上の山へぞ逃上(にげのぼ)りける。脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助は、五千(ごせん)余騎(よき)にて三石(みついし)の城を責(せめ)らる。大江田(おいた)式部(しきぶの)大輔(たいふ)は、二千(にせん)余騎(よき)にて備中(びつちゆうの)国(くに)へ打越(うちこえ)、福山の城にぞ陣を被取ける。 |
|
■将軍自筑紫御上洛(しやうらくの)事(こと)付(つけたり)瑞夢(ずゐむの)事(こと)
多々良浜(たたらばま)の合戦の後、筑紫九国の勢一人として将軍に不順靡云(いふ)者無(なか)りけり。 然共(しかれども)中国に敵陣充満(じゆうまん)して道を塞(ふさ)ぎ、東国王化に順(したがひ)て、御方(みかた)に通(つう)ずる者少なかりければ、左右(さう)なく京都へ責上(せめのぼ)らん事は、如何(いかが)有(ある)べからんと、此(この)春(はる)の敗北にこり懼(おぢ)て、諸卒敢(あへ)て進む義勢(ぎせい)無(なか)りける処に、赤松入道が三男(さんなん)則祐律師(そくいうりつし)、並(ならび)に得平因播(とくひらいなばの)守(かみ)秀光(ひでみつ)、播磨より筑紫(つくし)へ馳参(はせまゐつ)て申(まうし)けるは、「京都より下(くだ)されたる敵軍、備中・備前・播磨・美作に充満(じゆうまん)して候といへ共、是(これ)皆城々(しろじろ)を責(せめ)かねて、気疲(つか)れ粮(かて)尽(つき)たる時節(をりふし)にて候間、将軍こそ大勢(おほぜい)にて御上洛(ごしやうらく)候へとだに承及(うけたまはりおよび)候はゞ、一(ひと)たまりも怺(たまら)じと存(ぞんじ)候。若(もし)御進発(ごしんばつ)延引(えんいん)候(さふらひ)て、白旗(しらはた)の城責(せめ)落されなば、自余(じよ)の城一日も怺(こらへ)候まじ。四箇国(しかこく)の要害、皆敵の城に成(なつ)て候はんずる後は、何百万騎(なんびやくまんぎ)の勢(せい)にても、御上洛(ごしやうらく)叶(かなふ)まじく候。是(これ)則(すなはち)趙王(てうわう)が秦(しん)の兵に囲(かこま)れて、楚の項羽(かうう)舟筏(ふないかだ)を沈め、釜甑(ふそう)を焼(やい)て、戦(たたかひ)負けば、士卒(じそつ)一人も生(いき)て返らじとせし戦(たたかひ)にて候はずや。天下の成功只此(この)一挙(いつきよ)に可有にて候者を。」と詞(ことば)を残さで申(まうし)ければ、将軍是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「げにも此義(このぎ)さもありと覚(おぼゆ)るぞ。 さらば夜を日に継(つい)で、上洛(しやうらく)を急ぐべし。但(ただし)九州を混(ひたす)ら打捨(すて)ては叶(なかふ)まじ。」とて、仁木(につき)四郎次郎義長(よしなが)を大将として、大友(おほとも)・小弐(せうに)両人を留(とめ)置き、四月二十六日に太宰府を打立(うちたつ)て、同二十八日に順風に纜(ともづな)解(とい)て、五月一日安芸(あき)の厳嶋(いつくしま)へ舟を寄(よせ)られて、三日参篭(さんろう)し給ふ。其結願(そのけちぐわん)の日、三宝院(さんばうゐん)の僧正(そうじやう)賢俊(けんしゆん)京より下(くだつ)て、持明院殿(ぢみやうゐんどの)より被成ける院宣(ゐんぜん)をぞ奉ける。将軍是(これ)を拝覧し給(たまひ)て、「函蓋(かんかい)相応(さうおう)して心中の所願已(すで)に叶へり。向後(きやうこう)の合戦に於ては、不勝云(いふ)事(こと)有(ある)べからず。」とぞ悦給(よろこびたまひ)ける。去(さる)四月六日に、法皇は持明院殿(ぢみやうゐんどの)にて崩御(ほうぎよ)なりしかば、後(ご)伏見(ふしみの)院(ゐん)とぞ申(まうし)ける。 |
|
彼(かの)崩御已前(いぜん)に下(くだり)し院宣(ゐんぜん)なり。将軍は厳島(いつくしま)の奉弊(ほうへい)事(こと)終(をはつ)て、同五日厳嶋を立(たち)給へば、伊予・讚岐・安芸・周防(すはう)・長門(ながと)の勢五百(ごひやく)余艘(よさう)にて馳(はせ)参る。同七日備後・備中・出雲・石見(いはみ)・伯耆(はうき)の勢六千(ろくせん)余騎(よき)にて馳(はせ)参る。其外(そのほか)国々の軍勢(ぐんぜい)不招に集(あつま)り、不責に順ひ著(つく)事(こと)、只吹(ふく)風の草木を靡(なびか)すに異(こと)ならず。新田(につた)左中将(さちゆうじやう)の勢已(すで)に備中・備前・播磨・美作に充満(じゆうまん)して、国々の城を責(せむ)る由聞(きこ)へければ、鞆(とも)の浦より左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)を大将にて、二十万騎(にじふまんぎ)を差分(さしわけ)て、徒路(かちぢ)を上(のぼ)せられ、将軍は一族(いちぞく)四十(しじふ)余人(よにん)、高家(かうけの)一党五十(ごじふ)余人(よにん)、上杉の一類(いちるゐ)三十(さんじふ)余人(よにん)、外様(とざま)の大名百六十(ひやくろくじふ)頭(かしら)、兵船(ひやうせん)七千(しちせん)五百(ごひやく)余艘(よさう)を漕双(こぎならべ)て、海上をぞ上(のぼ)られける。 同五日備後の鞆(とも)を立(たち)給ひける時一(ひとつ)の不思議(ふしぎ)あり。将軍の屋形(やかた)の中に少(すこし)目眠給(まどろみたまひ)たりける夢に、南方より光明赫奕(かくやく)たる観世音菩薩一尊(いつそん)飛(とび)来りまし/\て、船の舳(へ)に立(たち)給へば、眷属(けんぞく)の二十八部衆、各(おのおの)弓箭兵杖(きゆうせんひやうぢやう)を帯(たい)して擁護(おうご)し奉る体(てい)にぞ見給(たまひ)ける。将軍夢覚(さめ)て見給へば、山鳩(やまばと)一つ船の屋形の上にあり。彼此(かれこれ)偏(ひとへ)に円通大士(ゑんつうだいし)の擁護(おうご)の威を加へて、勝軍(かちいくさ)の義を可得夢想(むさう)の告(つげ)也(なり)と思召(おぼしめし)ければ、杉原(すいばら)を三帖(さんでふ)短冊(たんじやく)の広さに切(きら)せて、自(みづから)観世音菩薩を書(かか)せ給(たまひ)て、舟の帆柱毎(ほばしらごと)にぞ推させられける。角(かく)て舟路(ふなぢ)の勢(せい)、已(すで)に備前の吹上(ふきあげ)に著けば、歩路(かちぢ)の勢(せい)は、備中の草壁(くさかべ)の庄にぞ著(つき)にける。 |
|
■備中(びつちゆうの)福山(ふくやま)合戦(かつせんの)事(こと)
福山に楯篭(たてごも)る処の官軍共(くわんぐんども)、此(この)由を聞(きき)て、「此(この)城未拵(いまだこしらふ)るに不及、彼(かれ)に付(つき)此(これ)に付(つき)、大敵を支へん事は、可叶共(とも)覚(おぼ)へず。」と申(まうし)けるを、大江田(おいた)式部(しきぶの)大輔(たいふ)、且(しばら)く思案して宣ひけるは、「合戦の習(ならひ)、勝負(しようぶ)は時の運に依(よる)といへども、御方(みかた)の小勢(こぜい)を以て、敵の大勢に闘(たたか)はんに、不負云(いふ)事(こと)は、千に一(ひとつ)も有(ある)べからず。乍去国を越(こえ)て足利殿(あしかがどの)の上洛(しやうらく)を支(ささへ)んとて、向ひたる者が、大勢の寄(よす)ればとて、聞逃(ききにげ)には如何(いかが)すべき。よしや只一業所感(ごふしよかん)の者共(ものども)が、此(この)所にて皆可死果報(くわはう)にてこそ有(ある)らめ。軽死重名者をこそ人とは申せ。誰々も爰(ここ)にて討死して、名を子孫に残さんと被思定候へ。」と諌められければ、紀伊(きいの)常陸(ひたち)・合田以下(あひだいげ)は、 「申(まうす)にや及(および)候。」と領状して討死を一篇(いつぺん)に思儲(おもひまうけ)てければ、中々心中涼(すずし)くぞ覚(おぼ)へける。去(さる)程(ほど)に、明(あく)れば五月十五日の宵より、左馬(さまの)頭(かみ)直義三十万騎(さんじふまんぎ)の勢にて、勢山(せやま)を打越へ、福山の麓四五里が間、数百(すひやく)箇所(かしよ)を陣に取(とつ)て、篝(かがり)を焼(たい)てぞ居たりける。此(この)勢(せい)を見ては、如何なる鬼神(きじん)ともいへ、今夜落(おち)ぬ事はよも非じと覚(おぼえ)けるに、城の篝も不焼止、猶怺(こらへ)たりと見へければ、夜已(すで)に明(あけ)て後、先(まづ)備前・備中の勢共(せいども)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄せ、浅原峠(あさはらたうげ)よりぞ懸(かかり)たりける。是(これ)迄も城中鳴(なり)を静めて音もせず。 「さればこそ落(おち)たりと覚(おぼゆ)るぞ。時の声を挙(あげ)て敵の有無(いうぶ)も知れ。」とて、三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、楯(たて)の板を敲(たた)き、時を作る事三声、近付(ちかづき)て上(あがら)んとする処に、城中の東西の木戸口(きどぐち)に、大鼓(たいこ)を打(うち)て時の声をぞ合(あは)せたりける。外所(よそ)に磬(ひかへ)たる寄手(よせて)の大勢是(これ)を聞(きき)て、「源氏の大将の篭(こも)りたらんずる城の、小勢(こぜい)なればとて、聞落(ききおち)にはよもせじと思(おもひ)つるが、果して未(いまだ)怺(こらへ)たりけるぞ。侮(あなどつ)て手合(てあはせ)の軍(いくさ)し損(そん)ずな。四方(しはう)を取巻(とりまい)て同時に責(せめ)よ。」とて国々の勢一方々々を請取(うけとつ)て、谷々(たにだに)峯々より攻上(せめのぼ)りける。城中の者共(ものども)は、兼(かね)てより思儲(おもひまうけ)たる事なれば、雲霞(うんか)の勢に囲まれぬれ共少(すこし)も不騒、此彼(ここかしこ)の木隠(こかげ)に立隠(たちかく)れて、矢種(やだね)を不惜散々(さんざん)に射ける間、寄手(よせて)稲麻(たうま)の如(ごとく)に立双(たちなら)びたれば、浮矢(あだや)は一(ひとつ)も無(なか)りけり。 |
|
敵に矢種(やだね)を尽(つく)させんと、寄手(よせて)は態(わざと)射ざりければ、城の勢(せい)は未だ一人も不手負。大江田(おいだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)是(これ)を見給(たまひ)て、「さのみ精力の尽(つき)ぬさきに、いざや打出(いで)て、左馬(さまの)頭(かみ)が陣一散(ひとちら)し懸散(かけちら)さん。」とて、城中には徒立(かちだち)なる兵(つはもの)五百(ごひやく)余人(よにん)を留(とどめ)て、馬強(むまづよ)なる兵千(せん)余騎(よき)引率(いんぞつ)し、木戸を開(ひら)かせ、逆木(さかもぎ)を引のけて、北(きた)の尾の殊に嶮(けはし)き方より喚(をめい)てぞ懸出(かけいで)られける。一方の寄手(よせて)二万(にまん)余騎(よき)是(これ)に被懸落、谷底に馬を馳(はせ)こみ、いやが上に重(かさな)り臥臥す。式部(しきぶの)大輔(たいふ)是(これ)をば打捨(うちすて)、「東のはなれ尾に二引両(ふたつひきりやう)の旗の見(みゆ)るは、左馬(さまの)頭(かみ)にてぞ有(ある)らん。」とて、二万(にまん)余騎(よき)磬(ひか)へたる勢の中へ破(わつ)て入り、時移るまでぞ闘(たたかは)れける。 「是(これ)も左馬(さまの)頭(かみ)にては無(なか)りける。」とて、大勢の中を颯(さつ)と懸抜(かけぬけ)て御方(みかた)の勢を見給へば、五百(ごひやく)余騎(よき)討(うた)れて纔(わづか)に四百騎に成(なり)にけり。爰(ここ)にて城の方を遥(はるか)に観(み)れば、敵早(はや)入替(いりかは)りぬと見へて櫓(やぐら)・掻楯(かいだて)に火を懸(かけ)たり。式部(しきぶの)大輔(たいふ)其(その)兵を一処に集めて、「今日の合戦今は是(これ)迄ぞ、いざや一方打破(うちやぶつ)て備前へ帰り、播磨・三石(みついし)の勢と一(ひとつ)にならん。」とて、板倉(いたくら)の橋を東へ向(むかつ)て落(おち)給へば、敵二千騎(にせんぎ)・三千騎(さんぜんぎ)、此彼(ここかしこ)に道を塞(ふさい)で打留(うちとめ)んとす。四百(しひやく)余騎(よき)の者共(ものども)も、遁(のがれ)ぬ処ぞと思ひ切(きつ)たる事なれば、近付(ちかづく)敵の中へ破(わつ)て入り、懸散(かけちら)し、板倉川(いたくらかは)の辺(へん)より唐皮(からかは)迄、十(じふ)余度(よど)までこそ闘ひけれ。 され共兵もさのみ討(うた)れず、大将も無恙りければ、虎口(ここう)の難(なん)を遁(のがれ)て、五月十八日の早旦(さうたん)に、三石(みついし)の宿(しゆく)にぞ落著(おちつき)ける。左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)は、福山の敵を追(おひ)落して、事始(はじめ)よしと悦給(よろこびたまふ)事(こと)不斜(なのめならず)。其(その)日(ひ)一日唐皮の宿に逗留(とうりう)有(あつ)て、頚の実験有(あり)けるに、生捕(いけどり)・討死の頚千三百五十三(せんさんびやくごじふさん)と註(しる)せり。当国の吉備津宮(きびつのみや)に参詣の志をはしけれ共(ども)、合戦の最中(さいちゆう)なれば、触穢(しよくゑ)の憚(はばかり)有(あり)とて、只願書許(ぐわんじよばかり)を被篭て、翌(つぎ)の日唐皮を立(たち)給へば、将軍も舟を出されて、順風に帆をぞあげられける。五月十八日晩景(ばんげい)に、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)三石(みついし)より使者を以て、新田左中将(さちゆうじやう)の方へ立て、福山の合戦の次第、委細(ゐさい)に註進せられければ、其(その)使者軈(やが)て馳返(はせかへつ)て、「白旗(しらはた)・三石(みついし)・菩提寺の城未(いまだ)責落(せめおとさ)ざる処に、尊氏・直義(ただよし)大勢にて舟路(ふなぢ)と陸路(くがぢ)とより上(のぼ)ると云(いふ)に、若(もし)陸(くが)の敵を支(ささへ)ん為に、当国にて相待(あひまた)ば、舟路の敵差違(さしちがひ)て帝都を侵(をか)さん事疑(うたがひ)なし。 |
|
只速(すみやか)に西国の合戦を打捨(すて)て、摂津国辺(つのくにへん)まで引退(ひきしりぞき)、水陸(すゐろく)の敵を一処に待請(まちうけ)、帝都を後(うしろ)に当(あて)て、合戦を致すべく候。急(いそぎ)其(それ)よりも山の里(さと)辺へ出合(いであは)れ候へ。美作へも此旨(このむね)を申遣(まうしつかは)し候(さふらひ)つる也(なり)。」とぞ、被仰たりける。依之(これによつて)五月十八日の夜半許(ばかり)に、官軍(くわんぐん)皆三石(みついし)を打捨(すて)て、舟坂(ふなさか)をぞ引(ひか)れける。城中の勢共(せいども)、是(これ)に機(き)を得て、舟坂山(ふなさかやま)に出(いで)合ひ、道を塞(ふさい)で散々(さんざん)に射る。宵の間(ま)の月、山に隠(かく)れて、前後さだかに見へぬ事なれば、親討(うた)れ子討(うた)るれども、只一足(ひとあし)も前(さき)へこそ行延(ゆきのび)んとしける処に、菊池(きくち)が若党(わかたう)に、原(はらの)源五・源六とて、名を得たる大剛(たいかう)の者有りけるが、態(わざ)と迹(あと)に引(ひき)さがりて、御方(みかた)の勢を落さんと、防矢(ふせぎや)を射たりける。 矢種(やだね)皆射尽(いつくし)ければ、打物(うちもの)の鞘(さや)をはづして、「傍輩(はうばい)共(ども)あらば返せ。」とぞ呼(よばはり)ける。菊池(きくち)が若党共(わかたうども)是(これ)を聞(きき)て、遥(はるか)に落延(おちのび)たりける者共(ものども)、「某(それがし)此(ここ)に有(あり)。」と名乗懸(かけ)て返合(かへしあは)せける間、城よりをり合(あは)せける敵共(てきども)、さすがに近付(ちかづき)得ずして、只余所(よそ)の峯々に立渡(わたつ)て時の声をぞ作りける。其(その)間に数万の官軍共(くわんぐんども)、一人も討(うた)るゝ事なくして、大江田(おいだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)、其(その)夜の曙(あけぼの)には山の里へ著(つき)にけり。和田備後(びんごの)守(かみ)範長(のりなが)・子息三郎高徳、佐々木(ささき)の一党が舟よりあがる由を聞(きき)て、是(これ)を防がん為に、西川尻(にしかはじり)に陣を取(とつ)て居たりけるが、福山已(すで)に落(おと)されぬと聞へければ、三石(みついし)の勢と成合(なりあは)んが為に、九日(ここのか)の夜に入(いつ)て、三石(みついし)へぞ馳著(はせつき)ける。爰(ここ)にて人に尋(たづぬ)れば、「脇屋殿(わきやどの)は早(はや)宵(よひ)に播磨へ引(ひか)せ給ひて候也(なり)。」と申(まうし)ける間、さては舟坂(ふなさか)をば通(とほ)り得じとて、先日搦手(からめて)の廻(まは)りたりし三石(みついし)の南の山路(やまぢ)を、たどるたどる終夜(よもすがら)越(こえ)て、さごしの浦へぞ出(いで)たりける。 |
|
夜未(いまだ)深かりければ、此侭(このまま)少しの逗留(とうりう)もなくて打(うつ)て通らば、新田殿(につたどの)には安く追著(おつつき)奉るべかりけるを、子息高徳が先(さき)の軍(いくさ)に負(おう)たりける疵(きず)、未愈(いまだいえざり)けるが、馬に振(ふら)れけるに依(よつ)て、目(め)昏(くら)く肝(きも)消して、馬にもたまらざりける間、さごしの辺(へん)に相知(あひしつ)たる僧の有(あり)けるを尋出(たづねいだ)して、預置(あづけおき)ける程(ほど)に、時刻押遷りければ、五月(さつき)の短夜(みじかよ)明(あけ)にけり。去(さる)程(ほど)に此(この)道より落人(おちうと)の通(とほ)りけると聞(きき)て、赤松入道三百(さんびやく)余騎(よき)を差遣(さしつかは)して、名和辺(なわへん)にてぞ待(また)せける。備後(びんごの)守(かみ)僅(わづか)に八十三騎にて、大道(おほち)へと志(こころざし)て打(うち)ける処に、赤松が勢とある山陰(やまかげ)に寄せ合(あつ)て、「落人(おちうと)と見るは誰(たれ)人ぞ。命惜(をし)くば弓をはづし物具(もののぐ)脱(ぬい)で降人(かうにん)に参れ。」とぞかけたりける。 備後(びんごの)守(かみ)是(これ)を聞(きき)て、から/\と打笑ひ、「聞(きき)も習はぬ言(こと)ば哉(かな)、降人(かうにん)に可成は、筑紫(つくし)より将軍の、様々の御教書(みげうしよ)を成してすかされし時こそ成(なら)んずれ。其(それ)をだに引(ひき)さきて火にくべたりし範長(のりなが)が、御辺達(ごへんたち)に向(むかつ)て、降人にならんと、ゑこそ申(まうす)まじけれ。物具(もののぐ)ほしくばいでとらせん。」と云侭(いふまま)に、八十三騎の者共(ものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)の中へ喚(をめい)て懸(かけ)入り、敵十二騎切(きつ)て落(おと)し、二十三騎に手負(ておは)せ、大勢の囲(かこみ)を破(やぶつ)て、浜路(はまぢ)を東へぞ落行(おちゆき)ける。赤松が勢案内者(あんないしや)なりければ、被懸散ながら、前々(さきざき)へ馳過(はせすぎ)て、「落人(おちうと)の通るぞ、打留め物具はげ。」と、近隣傍庄(ばうしやう)にぞ触(ふれ)たりける。依之(これによつて)其辺(そのへん)二三里が間の野伏共(のぶしども)、二三千人(にさんぜんにん)出合(いであひ)て此(ここ)の山の隠(かくれ)、彼(かしこ)の田の畷(あぜ)に立渡りて、散々(さんざん)に射ける間、備後(びんごの)守(かみ)が若党共(わかたうども)、主を落さんが為に、進(すすん)では懸(かけ)破り引下(さがつ)ては討死し、十八(なは)より阿弥陀(あみだ)が宿(しゆく)の辺(へん)迄、十八度まで戦(たたかつ)て落(おち)ける間、打残(うちのこ)されたる者、今は僅(わづか)に主従六騎に成(なり)にけり。 |
|
備後(びんごの)守(かみ)或辻堂(あるつじだう)の前にて馬を引(ひか)へて、若党共(わかたうども)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「あはれ一族共(いちぞくども)だに打(うち)連れたりせば、播磨の国中をば安く蹴散(けちら)して通るべかりつる物を、方々の手分(てわけ)に向(むけ)られて一族(いちぞく)一所に不居つれば、無力範長討(うた)るべき時刻の到来しける也(なり)。今は可遁共(とも)覚(おぼえ)ねば、最後の念仏心閑(しづか)に唱(とな)へて腹を切らんと思(おもふ)ぞ。其(その)程敵の近付かぬ様(やう)に防げ。」とて、馬より飛(とん)でをり、辻堂の中へ走入(はしりいり)、本尊に向ひ手を合(あは)せ念仏高声(かうじやう)に二三百(にさんびやく)返(へん)が程唱(となへ)て、腹一文字に掻切(かききつ)て、其(その)刀を口に加(くはへ)て、うつぶしに成(なつ)てぞ臥(ふし)たりける。其(その)後若党(わかたう)四人つゞきて自害をしけるに、備後(びんごの)守(かみ)がいとこに和田四郎範家(のりいへ)と云(いひ)ける者、暫(しばらく)思案しけるは、敵をば一人も滅(ほろぼ)したるこそ後までの忠なれ。 追手(おひて)の敵若(もし)赤松が一族(いちぞく)子共(こども)にてや有(ある)らん。さもあらば引組(ひつくん)で、差違(さしちが)へんずる物をと思(おもひ)て、刀を抜(ぬい)て逆手(さかて)に拳(にぎ)り、甲(かぶと)を枕にして、自害したる体(てい)に見へてぞ臥(ふし)たりける。此(ここ)へ追手(おひて)懸(かか)りける赤松が勢の大将には、宇(うの)弥左衛門次郎重氏(しげうぢ)とて、和田が親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳来(はせきたつ)て、自害したる敵の首をとらんとて、是(これ)をみるに袖に著(つけ)たる笠符(かさじるし)皆下黒(すそぐろ)の文(もん)也(なり)。重氏抜(ぬき)たる太刀を抛(なげ)て、「あら浅猿(あさまし)や、誰(たれ)やらんと思(おもひ)たれば、児嶋・和田・今木(いまき)の人々にて有(あり)けるぞや。此(この)人達と■疾(とく)知(しる)ならば、命に替(かへ)ても助くべかりつる物を。」と悲(かなしみ)て、泪(なみだ)を流して立(たち)たりける。和田四郎此(この)声を聞(きき)て、「範家(のりいへ)是(ここ)に有(あり)。」とて、かはと起(おき)たれば、重氏肝(きも)をつぶしながら立寄(たちより)て、「こはいかに。」とぞ悦(よろこび)ける。軈(やが)て和田四郎をば同道して助(たすけ)をき、備後(びんごの)守(かみ)をば、葬礼懇(ねんごろ)に取沙汰して、遺骨(ゆゐこつ)を故郷(こきやう)へぞ送りける。さても八十三騎は討(うた)れて範家一人助(たすか)りける、運命の程こそ不思議(ふしぎ)なれ。 |
|
■新田(につた)殿(どの)被引兵庫事
新田左中将(さちゆうじやう)義貞は、備前・美作の勢共(せいども)を待調(まちそろ)へん為に、賀古川(かごかは)の西なる岡に陣を取(とつ)て、二日までぞ逗留(とうりう)し給ひける。時節(をりふし)五月雨(さみだれ)の降(ふり)つゞいて、河の水増(まさ)りければ、「跡(あと)より敵の懸(かかる)事(こと)もこそ候へ。先(まづ)総大将(そうだいしやう)又宗(むね)との人々許(ばかり)は、舟にて向(むかう)へ御渡(おんわたり)候へかし。」と諸人口々に申(まうし)けれども、義貞、「さる事や有(ある)べき。渡(わた)さぬ先に敵懸(かか)りたらば、中々可引方無(なく)して、死を軽(かろ)んぜんに便(たより)あり。 されば韓信が水を背(うしろ)にして陣を張(はり)しは此(ここ)なり。軍勢(ぐんぜい)を渡しはてゝ、義貞後(のち)に渡る共(とも)、何の痛(いたみ)が可有。」とて、先(まづ)馬弱(よわ)なる軍勢(ぐんぜい)、手負(ておう)たる者共(ものども)を、漸々(ぜんぜん)にぞ被渡ける。去(さる)程(ほど)に水一夜(いちや)に落(おち)て、備前・美作の勢馳進(はせまゐ)りければ、馬筏(いかだ)を組(くん)で、六万(ろくまん)余騎(よき)同時に川をぞ渡されける。是(これ)までは西国勢共(せいども)馳参(はせさんじ)て、十万騎(じふまんぎ)に余(あま)りたりしが、将軍兄弟上洛(しやうらく)し給ふ由を聞(きき)て、何(いつ)の間(ま)にか落失(おちうせ)けん、五月十三日(じふさんにち)左中将(さちゆうじやう)兵庫に著給(つきたまひ)ける時は、其(その)勢(せい)纔(わづか)に二万騎(にまんぎ)にも不足けり。 |
|
■正成下向兵庫事
尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義朝臣大勢を率(そつ)して上洛(しやうらく)の間、用害(ようがい)の地に於て防ぎ戦(たたか)はん為に、兵庫に引退(ひきしりぞき)ぬる由(よし)、義貞朝臣早馬を進(まゐらせ)て、内裡(たいり)に奏聞(そうもん)ありければ、主上(しゆしやう)大(おほき)に御騒有(さわぎあつ)て、楠判官正成(まさしげ)を被召て、「急(いそ |