平安鎌倉の物語3

沙石集歎異抄愚管抄愚管抄第七巻吉祥院法華会願文大鏡将門記他の物語と平将門歴史物語 [源氏と平氏]・・・
 

雑学の世界・補考   

沙石集

 

鎌倉時代後期の仏教説話集。全10巻。無住(1226-1312)という東国の僧が、1279(弘安2)年から4年ほどかけて書き上げました。
沙石集では、ほかの説話集に見られるような因果応報の話、美談・道徳的な話ばかりではなく、身近なこと・戯れごと・笑い話のようなものまでもが、仏教の教訓・教理を説明する材料として引き合いに出されています。和歌・連歌の話題も豊富ですし、東国出身者にふさわしく、地方庶民の生活を描いた話題も多く収録されています。砂(沙)や石のようなもの(=戯言・世俗的な話)をたくさん集めることで、砂金や宝玉(仏教の教訓・教理)を見出す、という意図から、沙石集と名付けられた、といえるでしょう。
一方でたくさんの仏教書などからの引用もかなり多く、博識かつ好奇心旺盛であった筆者の性格がうかがえます。また、説話集でありながら、単にお話を集めたというだけではなく、筆者自身の随筆・評論文としての性格も色濃くあらわれています。  
無住道曉
無住には確定した伝記が無く、様々な辞典でもそれぞれ異なっていたりしますので、紹介するのが難しいのですが、ここは書き換えることを前提に挙げておきます。
まず大まかな括りとして、無住は鎌倉時代の僧侶で、活躍したのは道元禅師より少し後の方です。今回から徐々に紹介していく「沙石集」や「雑談集」など、非常に優れた仏教説話を多数執筆し、その博学さと文体の簡明さが、古くから多くの方を惹きつけ、読まれてきました。
一円房無住道曉(いちえんぼう・むじゅう・どうぎょう,1226-1312)は、生まれは鎌倉、俗姓は梶原氏で、臨済宗聖一派に属する僧侶であり、禅宗の師は聖一国師東福円爾(1202-1280)です。無住は18歳の時、常陸国(現・茨城県)にて出家し、20歳に法身坊上人に「法華玄義」を聴きます。27歳で住房を律院としますが、翌年には遁世し、律を学ぶこと6-7年に及びます。この後、35歳で鎌倉の寿福寺に入って禅僧となりました。
翌年には、西に上り京都周辺で様々な宗派の修行を行います。それこそ天台宗園城寺では止観行(一種の坐禅瞑想です)を極め、奈良に赴いては戒律を伝授され、また和州菩提山正暦寺にて真言(東密)を習い、後には円爾からも真言(台密)を習います。
そして、38歳にて尾州長母寺に入りますが、どうやら長母寺は消失したそうなのですが、北条時頼などの帰依によって再建され、禅宗寺院になったとされています。そしてその後晩年になりますと、各々の著作活動に励むことになります。
無住道曉の思想と教禅一致
無住はまだ日本に入ったばかりの臨済宗の影響からかいわゆるの「専修」的な坐禅を行じていたわけではなく(若い頃に脚気で坐禅が意のままにならなくなったらしい)、また今後紹介していく「沙石集」(全10巻)を読解していく過程で明らかになりますが、禅宗だけではなくいわゆるの教禅一致という態度を採りました。
教禅一致とは、禅宗と教学(経典を学問的に学ぶ宗派)を双方兼ね修めることで、諸宗を公平に批判=吟味しようとする修行態度のことです。これは、中国仏教に於いてはそれなりに伝統があるもので、例えば中国の圭峰宗密(780-841)は華厳宗と禅との融合を図り、また「円覚経」に傾倒して諸研究を残すなどして「禅源諸詮集」(100巻以上の大著だったらしいのですが、現存するのは「都序」という序の部分だけであり、2巻です。「禅源諸詮集都序」は岩波文庫で見ることが出来ます)を記し、教禅一致を体系的に示そうとしました。また中国禅宗の一派であった法眼宗の永明延寿(904-975)は「宗鏡録」(全100巻)にて法相・三論・華厳・天台などを折衷して禅に融合させるという大著を書いております。こういった流れは中国明代以降さらに加速し、浄土宗などを思想的に取り入れながら禅浄一致などの展開を見せます。
さて、この栄西以降の初期臨済宗では、臨済禅の祖師となった彼らが修行した比叡山が円・密・戒・禅という兼修的(註1)な修行体系を持っていたため、兼修禅が盛んに行われました。そして、無住がその道へ進んだのは師である聖一国師東福円爾の影響が大きいようです。円爾は中国に渡って無準師範という僧から法を嗣いできますが、帰国してからは京都で東福寺を開き禅宗の宣揚に努める一方、平安仏教から続く伝統的な宗派と交わり、密教を修めました。
当の無住道曉ですが、法相・戒律・天台・真言・浄土などを修め、また古来からの神祇にも理解を示しています。結果、以後紹介していく「沙石集」では第1巻に於いて「大神宮の御事」などの神祇に関わる評論をしているのです。極めて柔軟な態度と言うべきであり、こういった態度を倣うことで、最近のブログで原始仏教などを鑽仰するモノを見るのですが、何でもかんでも思想的に純粋であれば良いという傾向に対して、少し棹さしてみようかと思った次第です。
「沙石集」という名前
「沙石集」という名前ですが、これに関しては無住自身が「沙石集」の自序で以下のように記しています。
夫道に入る方便一つにあらず。悟をひらく因縁これ多し。其大なる意を知れば、諸教、義ことならず。修すれば万行の旨、みな同じき者をや。是故に、雑談の次に教門をひき、戯論の中に解行を示す。此を見ん人、拙き語をあざむかずして、法義をさとり、うかれたる事をたださずして、因果をわきまへ、生死の郷をいづる媒とし、涅槃の都にいたるしるべとなり。是則ち愚老が志耳。彼金を求むる者は、沙をあつめてこれをとり、玉を翫ぶ類は、石をひろひて是を瑩く。仍って、沙石集と名づく。
訳さなくてもだいたいは分かりますよね。特に、金を求める者は沙(=砂)を集め、玉(=宝石)を翫ぶ者は石を拾って磨くというのが「沙石集」の意味です。様々な説話の中に、悟りへの道を見付けて欲しいということでしょう。拙僧も、他宗派の様々な宗教思想や文化的価値を習い、また宗教社会学的な視点を翫ぶのは、宗教の実相をより多角的に知りたいからに他なりません。皆さまにおかれましては、今後お付き合いいただければ幸いです。合掌。  
第一巻 序
それ麁言(そごん=粗言)軟語(なんご)みな第一義(=真理)に帰し、治生産業(ちしやうさんごふ)しかしながら実相(=真理)にそむかず。しかれば狂言綺語(きやうげんきぎよ=小説など)のあだなる戯(たはぶれ)を縁として、仏乗の妙(たへ)なる道に入れ、世間浅近の賤しき事を譬(たとへ)として、勝義(=真理)の深き理(ことわり)を知らしめんと思ふ。
これ故に老の眠(ねぶり)をさまし、徒らなる手ずさみに、見し事聞きし事、思ひ出ずるに随つて、難波江のよしあしをも選ばす、藻塩草(=随筆)、手にまかせて書きあつめ侍り。
かかる老法師は、無常の念々(=一瞬毎に)に犯す(=襲ふ)ことを覚(さと)り、冥途の歩々(ふふ)に近づく事を驚いて、黄泉の遠き路の粮(かて)を包み、苦海の深き流の船を装(よそ=準備)ふべきに、徒らなる興言(きようげん=戯れ話)を集め、虚しき世事を注(しる)す。
時に当つては光陰を惜しまず、後に於いては賢哲を恥ぢず。由なきに似たれども、愚かなる人の、仏法の大なる益(やく)をも覚らず、和光(=和光同塵、本地垂迹)の深き心をも知らず、賢愚の品(しな)異(こと)なるをも弁へず、因果の理(ことわり)定まれるをも信ぜぬために、あるいは経論の明らかなる文を引き、あるいは先賢の残せる誡(いましめ)を載(の)す。
それ道に入る方便一つにあらず。悟をひらく因縁これ多し。その大なる意(こころ)を知れば、諸教、義異(こと)ならず。修すれば万行の旨(むね)、みな同じき者をや(=である)。これ故に、雑談の次(ついで)に教門を引き、戯論(げろん)の中に解行(げぎやう=理論と実践)を示す。
これを見ん人、拙き語をあざむかず(=軽視せず)して、法義を悟り、うかれたる事をたださずして、因果を弁へ、生死の郷(さと)を出づる媒(なかだち)とし、涅槃の都に至るしるべとせよとなり。これ則ち愚老が志(こころざし)のみ。
かの金(こがね)を求むる者は沙(いさご)を集めてこれを取り、玉を翫(もてあそ)ぶ類(たぐひ)は、石を拾ひてこれを瑩(みが)く。よつて沙石集と名づく。巻は十(とを)に満ち、事は百(もも)にあまれり。
時に弘安第二の暦、三伏の夏の天、これを集む。
林下(りんげ)の貧士無住  
大神宮の御事
去ぬる弘長年中(1261-1264)に、大神宮へ詣でて侍りしに、ある神官の語りしは、「当社に三宝(=仏法僧)の御(おん)名を忌み、御殿近くは僧なんども詣(まゐ)らぬ事は、
「昔この国いまだ無かりける時、大海の底に大日の印文(いんもん)ありけるによりて、大神宮(=天照大神)、御鉾を指し入れてさぐり給ひける。その鉾の滴(したた)り露の如くなりける時、第六天の魔王遥かに見て、この滴り国となつて、仏法流布し、人倫(=人間)生死を出づべき相(さう)ありとて、失なはん(=邪魔する)ために下りけるを、大神宮、魔王に行き向ひ会ひ給ひて、「我三宝の名をも言はじ。我身にも近づけじ、とくとく帰り上り給へ」とて、こしらへ(=なだめ)給ひければ、帰りにけり。
「その御約束をたがへじとて、僧なんど御殿近く参らず。社壇にしては経をも顕(あらは)には持たず。三宝の名をも正しく言はず。仏をば「立ちずくみ」、経をば「染紙」、僧をば「髪長」、堂をば「こりたき」なんど云ひて、外には仏法をうとき事にし、内には三宝を守り給ふ事にて御座(おはしま)すゆゑに、我が国の仏法、ひとへに大神宮の御守護によれり。
「当社は本朝の諸神の父母(ぶも)にて御座すなり。素盞鳴(そさのをの)尊(みこと)、天(あま)つ罪を犯し給ひし事を憎ませ給ひて、天の巌戸を閉ぢて隠れ給ひしかば、天下常闇になりにけり。
「八万(やほよろづ)の諸(もろもろ)の神たち悲しみ給ひて、大神宮をすかし出だし奉らんために、庭火をたきて神楽をし給ひければ、御子の神たちの御遊ゆかしく思し食(め)して、岩戸を少し開きて御覧じける時、世間明らかにして、人の面(おも)見えければ、「あら面白し」と云ふ事は、その時云ひ始めたり。
「さて太刀雄(ふとちからをの)尊と申す神、抱き奉りて、岩戸に木綿(しめ)を引いて、この中へは入らせ給ふべからずとて、やがて抱き出だし奉りてけり。遂に日月(ぐわつ)となりて、天下を照し給ふ。日月の光にあたるも、当社の恩徳なり。
「すべては大海の底の大日の印文より事おこりて、内宮・外宮は両部の大日とこそ習ひ伝へて侍れ。天の巌戸と云ふは都率天(とそつてん)なり。たかまの原とも云へり。神代の事みな由(よし)あるにこそ。
「真言の意(こころ)には、都率をば内証(=悟り)の法界宮(ほふかいぐう)、密厳国(みつごんこく)とこそ申すなれ。かの内証の都を出でて、日域(じちいき=日本)に迹(あと)をたれ給ふ故に、内宮は胎蔵(たいざう)の大日、四重曼茶羅(まんだら)をかたどりて、玉垣・水垣・荒垣なんど重々なり。かつを木も九つあり。胎蔵の九尊にかたどる。
「外宮は金剛界(=胎蔵界の対)の大日、あるいは阿弥陀とも習ひ侍るなり。しかれども金剛界の五智にかたどるにや。月輪(ぐわちりん)も五つあり。胎金(=胎蔵と金剛)両部、陰陽に官(つかさ)どる時、陰は女、陽は男なる故に、胎には八葉にかたどりて、八人女(やをとめ)とて八人あり。金(こん)は五智の男に官(つかさ)どりて、五人の神楽人(かぐらをのこ)と云へるはこの故なり。
「また御殿の萱(かや)ぶきなる事も、御供(ごくう)のただ三杵(みきね)つきて黒きも、人の煩(わづら)ひ国の費(つひ)えを思し食す故なり。かつを木も直(す)ぐに、たる木も曲がらぬは、人の心を直ぐならしめんと思し食す故なり。されば心すなほにして、民の煩ひ国の費えを思はん人、神慮に叶ふべきなり。
「しかも当社の神官は、自然に梵網(=梵網経)の十重(=十戒)を持(たも)てるなり。人を殺害しぬれば、永く氏(うじ)を放(はな)たる。波羅夷罪(はらいざい=淫盗殺妄)の仏子の数に入らぬがごとし。人を打ち刃傷なんどしぬれば解官せらる。軽(きやうざい)罪に似たり。
「また当社に物を忌み給ふ事、余社に少し変はりて侍り。産屋をば生気(しやうき)と申す。五十日忌む。また死せるをも死気とて、同じく五十日忌み給ふなり。その故は死は生より来たる。生はこれ死の始めなり。されば生死を共に忌むべしとこそ申し伝へ侍れ」と言ひき。
誠に不生不滅の毘盧遮那(びるしやな=大日如来)、法身の内証を出でて愚痴顚倒(ぐちてんだう)の四生の郡類(=全生物)を助けんと跡を垂れ給ふ本意、生死の流転をやめて、常住の仏道に入らんとなり。
されば生をも死をも忌むと云ふは、愚かに苦しき流転生死(るてんしやうじ)の妄業(まうごふ)を作らずして、賢く妙(たへ)なる仏法を修行し、浄土菩提を願へとなり。
まことしく仏道を信じ行なはんこそ、大神宮の御心にかなふべきに、ただ今生の栄花を思ひ、福徳寿命を祈り、執心深くして物を忌み、すべて道心なからんは、神慮に叶ふべからず。
しかれば本地垂迹その御形異(こと)なれども、その御意(こころ)かはらじかし。漢朝には、仏法を弘めんために、儒童・迦葉(かせふ)・定光(ぢやうくわう)の三人の菩薩、孔子・老子・顔回とて、まづ外典(げでん=仏典以外)を以て人の心を和(やは)らげて、後に仏法流布せしかば、人みなこれを信じき。
我が朝には和光の神明(しんめい)まづ跡を垂れて、人のあらき心をやはらげて、仏法を信ずる方便とし給へり。本地の深き利益を仰ぎ、和光の近き方便を信ぜば、現生(げんしやう)には息災安穏の望をとげ、当来(=来世)には無為常住の悟を開くべし。我が国に生を受けん人、この意(こころ)を弁ふべきをや。  
笠置の解脱房上人大神宮参詣の事
同じき神官の語りしは、「故笠置の上人(=貞慶)、菩提心(=真実の悟を求める心)祈請のために、八幡に参籠す。示現に、「我が力にはかなひがたし。大神宮へ参つて申し給へ」と、夢の中に御告げありて、道の様(やう)委(くは)しく教へさせ給ひけり。さて夢の中に参り給ひけるほどに、外宮の南の山をすぐに越えて参り給ふ。山の頂に池あり。大小の蓮華、池にみちたり。あるいは開きたる花、つぼめる花、色香まことに妙(たへ)なり。
「傍らに人ありて云ふやう、「この蓮華は、当社の神官の、既に往生したるは開きたり。往生すべきはつぼめり。和光の方便にて、多くは往生するなり。あのつぼめる蓮華の大きなるは、経基(つねもと)の禰宜(ねぎ)申すが往生すべき花なり」と語る。さて御社(やしろ)へ参りて、法施(ほつせ)奉るとぞ見(=夢に)給ひける。
「夢覚めて、やがて負(おひ=笈)打ちかけて、ただ一人夢にまかせて参り給ふに、少しも道すがら夢に違(たが)はず。但し、外宮の南の山の麓(ふもと)を巡りて、大道ありて山の路はなし。これのみぞ違ひたりける。社壇の体(てい)は夢に違はず。
「さて若き俗のありけるを招き寄せて、先づ夢に見し禰宜の事を問ひ給ふ。「これに経基と申す禰宜やおはする」とのたまふに、「某申(それがし)こそ、さは名乗り候(さふら)へ。禰宜には成りぬべき者にて候へども、当時は禰宜にては侍らず」と云ふ。
「さて金(こがね)を三両、負の中より取り出でて奉(たてまつ)らる。やがて、かの俗の家に宿して、社頭の様(やう)なんど細(こま)かに問ひ給ひけり。「我今度生死(しやうじ)を出離(しゆつり)せずして、(=また)人間に生まるれば、当社の神官と生まれて、和光の方便を仰ぐべし」と誓ひ給ひける」と語り侍りき。かの経基に親しき神官が語りしかば、たしかの事にこそ。年久しくなれりと云へども、この事耳の底に留つて忘れず。よつてこれを記す。  
出離を神明に祈る事
「三井寺の長吏、公顕(こうけん)僧正と申ししは、顕密の明匠にて、道心ある人と聞えければ、高野の明遍僧都、かの行業おぼつかなく思はれけるままに、善阿弥陀仏と云ふ遁世聖(ひじり)を語らひて、かの人の行儀を見せらる(=調べさせた)。
「善阿、僧正の坊へ参ず。高野檜笠(ひがさ)に脛高(はぎだか)なる黒衣着て、異様(ことやう)なりけれども、「しかじか」と申し入れたりければ、高野聖(=公顕)と聞いて、なつかしく思はれけるにや、額突(ひたひつき)したる褻居(けゐ)に呼び入れて、高野の事、後世の物語なんど通夜(よもすがら)せられけり。
「さてその朝(あした)、浄衣着、幣(へい)持ちて、一間(ひとま)なる所の帳(ちやう)縣けたるに向ひて、所作せられければ、善阿、「思はずの作法かな」と見けり。三日が程変はる事なし。さて事の体(てい)よくよく見て、「朝の御所作こそ異様(ことやう)に見奉れ。いかなる御行ひにか」と申しければ、
「進みても申したく侍るに、問ひ給へるこそ本意なれ。我が身には顕密の聖教を学びて、出離(=悟り)の要道を思ひはからふに、自力弱く智品(=知力)浅し。勝縁(しようえん=日本の神)の力を離れては、出離の望み遂げがたし。
「よつて都の中の大小の神祇(=天の神と地の神)は申すに及ばず、辺地辺国までも聞き及ぶに随ひて、日本国中の大小の諸神の御名を書き奉りて、この一間なる所に請(しやう)じ置き奉りて、心経(=般若心経)三十巻(=回)、神呪なんど誦して、法楽(ほうらく)に備へて、出離の道、ひとへに和光の御方便を仰ぐほか、別の行業なし。
「その故は、大聖(だいしよう=仏)の方便、国により機(=衆生の宗教的能力)に随つて、定まれる準(のり)なし。「聖人は常の心なし。万人の心を以て心とす」と云ふが如く、法身(ほつしん=仏)は定まれる身なし。万物の身を以て身とす。<肇論(でうろん)に云はく、「仏は非天非人」と。故に、能天能人なり。>しかれば無相(=悟の境地)の法身所具(しよぐ=具備)の十界(=悟と迷の十の法界)、みな一智毘盧(いつちびる=毘盧遮那)の全体なり。
「天台の心ならば、性具(しやうぐ=理具)の三千十界の依正(えしやう=依報と正報)、みな法身所具の万徳なれば、性徳の十界を修徳(しゆとく)にあらはして、普現色身(ふげんしきしん)の力をもて、九界の迷情を度す(=救ふ)。
「また密教の心ならば、四重曼茶羅は法身所具の十界なり。内証自性会の本質を移して、外用大悲(げゆうだいひ)の利益(りやく)を垂(た)る。顕密の意(こころ)によりて、はかり知りぬ。法身地(=悟の境地)より十界の身を現じて、衆生(しゆじやう)を利益す。妙体の上の妙用なれば、水を離れぬ波の如し。真如(=真実、法身)を離れたる縁起なし。<宝蔵論に云はく、「海の千波を湧かす、千波即ち海水なり」と。>
「しかれば、西天上代(さいてんじやうだい=天竺)の機には、仏菩薩の形を現じてこれ(=衆生)を度す。我が国は粟散辺地(ぞくさんへんぢ=小国)なり。剛強(がうがう)の衆生、因果を知らず。仏法を信ぜぬ類ひには、同体無縁(=平等)の慈悲によりて、等流法身(とうるほつしん=同一で自在)の応用(おうゆう=働き)を垂れ、悪鬼邪神の形を現じ、毒蛇猛獣の身を示し、暴悪のやからを調伏して、仏道に入れ給ふ。
「されば他国(=日本)有縁の身(=仏)をのみ重くして、本朝相応の形(=神の形)を軽ろしむべからず。我が朝は神国として大権(=天照大神)迹を垂れ給ふ。また我等皆かの孫裔なり。気を同じくする因縁浅からず。この外の本尊を尋ねば、還(かへ)つて感応隔(へだた)りぬべし。よつて機感相応の和光の方便を仰いで、出離生死の要道を祈り申さんにはしかじ。
「金を以て人畜の形をつくる。形を見て金を忘るれば、勝劣(=優劣)あり。金を見て形を忘るる時は、異なる事無きがごとし。法身無相の金を以て、四重円壇(=曼荼羅)、十界随類(=自在)の形をつくる。形を忘れて体を信ぜば、いづれか法身の利益にあらざる。
「智門(=知恵)は高きを勝(すぐ)れたりとし、悲門(=慈悲)は下れるを妙(たへ)なりとす。<ひきき人(=小人)のたけくらべはひききを勝とするが如し。>大悲の利益は、等流の身、ことに劣機(=能力の劣る者)に近づきて、強剛(がうがう)の衆生を利する慈悲すぐれたり。されば和光同塵こそ諸仏の慈悲の極まりなれと信じて、かくの如く行儀異様(ことやう)なれども、年久しくしつけ侍り」と語らる。
善阿、「誠にたつとき御意楽(いげう=意図)なり」と随喜して、帰つて僧都に申しければ、「智者なれば、愚かの行業あらじと思ひつるに合はせて、いみじく思ひはからはれたり」とて、随喜の涙を流されける」となん、古き遁世上人語り侍りき。
されば智者大師(=天台宗の開祖)の、摩訶止観(まかしくわん)を説きて、「止観とは、高尚(かうじやう)の者は高尚し、卑劣の者は卑劣せん」とのたまへるがごとく、和光の垂跡をも、高尚の者は高尚すべきにこそ。密教の深き意(こころ)は、十界みな無相法身の所現なれば、炎魔の身も毘盧(びる)の形も、まことには四種法身を備へ、五智(=無限の智)無際智を具せり。
その内証に入れば、炎魔鬼畜の身を改めずして、自性法身の心地(しんぢ)を開きぬべし。されば古徳の云はく、「阿鼻の依正(えしやう)は、全く極聖(ごくしやう)の自心に処し、毘盧の身土(しんど)は凡下の一念を踰(こ)えず」。
また三種の即身成仏とは、理具(りぐ)の成仏とは、人々本(もと)これ仏なり。我が執によりて顕はれず。諸仏は顕得(けんとく)の成仏をとげて、自在に利益を施し給ふ。
加持の成仏とは、已成(いじやう=既成)の仏の三業の妙用(めいゆう)をまなびて、増上縁(ぞうじやうえん=勝縁)として、我が心に具足する無尽の荘厳(しやうごん)恒沙(ごうしや=無数)の徳用を顕はすなり。
信心まことありて、我が三業(ごう)、仏の三業に相応する時は、行人(ぎやうにん)即ち仏となるなり。[この故に「能令三業同於本尊従此一門得入法界」と云へり。]
村上の御宇の事にや、内裏にて五壇の法を修せられけるに、慈恵僧正は中壇(=不動)の阿闍梨にておはしけるが、御門(みかど)密(ひそか)に御覧じけるに、行法の中に不動になりて、本尊に少しも違ひ給はず。
寛朝僧正は、降三世(がうさんぜ)の阿闍梨にておはしけるが、ある時は本尊となり、ある時は僧正となりけり。御門これを御覧じて、「不便の事かな。寛朝は妄念の起れるにこそ」と仰せられける。余の僧はただもとの如し。
経に云はく、「一切衆生はみな如来蔵(=仏の可能性)なり、普賢菩薩自体遍(あまね)き故に」と説きて、我等が全体法身なりといへども、差別(しやべつ)は迷と悟との故なり。されば不増不減経には、「即ちこの法身、五道に流転するを説いて、衆生と名づく。即ちこの法身の六度を修行するを、名づけて菩薩となす。即ちこの法身の反流して源を尽くすを、説いて名づけて仏となす」と云へり。今、垂跡を思ふに、「即ちこの法身、和光同塵せるを名づけて神明となす」とこそ、心得られて侍れ。
しかるに、本地垂跡その意(こころ)同じけれども、機にのぞむ利益、暫く勝劣あるべし。我が国の利益は、垂迹(=神)のおもて猶すぐれて御座すをや。その故は、昔、役(えん)の行者、吉野の山上におこなはれけるに、釈迦の像現じ給へるを、「この御形にては、この国の衆生は化(け)し難かるべし。隠れさせ給へ」と申されければ、次に弥勒の御形現じ給ふ。「猶これもかなはじ」と申されける時、当時の蔵王権現とて、恐ろしげなる御形を現じ給ひける時、「これこそ我が国の能化(のうけ)」と申し給ひければ、今に跡を垂れ給へり。
釈尊劫尽の時は夜叉となりて、無道心の者を取り食らうて、人をすすめて道心をおこさしめ給ふも、この心なり。行人の信心深くして、心を一にし、つつしみ敬ふこと誠(まこと)ある時、利益にあづかる。
我が国の風儀、神明はあらたに賞罰ある故に、信敬を厚くし、仏菩薩は理に相応して遠き益はありと云へども、和光(=神)の方便よりも穏やかなるままに、愚なる人、信を立つる事少なし。[皆人の深く信ぜんためには勝劣あらんか]、諸仏の利益も苦ある者にひとへに重し。されば愚痴の族(やから)を利益する方便こそ、まことに深き慈悲の色、こまやかなる善巧の形なれば、青き事は、藍より出でて藍よりも青きが如く、尊き事は仏より出でて仏よりも尊(たと)きは、ただ和光神明の慈悲利益の色なるをや。
古徳の寺を建立し給ひ、必ず先づ勧請(くわんじやう)し神をあがむるも、和光の方便を離れて仏法立ちがたきにや。かの僧正(=公顕)の意楽(いげう=意図)、かかる趣きにこそ。心あらん人、かの跡を学び給ふべし。
天竺の釈迦、浄名居士、漢土の孔老、和国の上宮聖霊、これ皆和光の慈悲甚深の化儀(けぎ)なり。ただ神明と同じきなり。  
神明慈悲を貴び給ふ事
和州の三輪の上人、常観房と申ししは、慈悲ある人にて、密宗を旨として、結縁(けちえん)のために、あまねく真言を人にさづけられけり。
ある時、ただ一人吉野へ詣(まゐ)られける。道のほとりに、少(をさ)なき者両三人並び居て、さめざめと泣きければ、何となく哀れに覚えて、「何事に泣くぞ」と問ふに、十二、三ばかりなる女子申しけるは、「母にて候ふ者、わろき病をして死して侍るが、父は遠くあるきて候はず。人はいぶせき事に思ひて、見とぶらふ者もなし。我が身は女子なり。弟(おとと)共は云ふかひなく児(をさな)く候。ただ悲しさの余りに、泣くよりほかの事侍らず」とて、涙もかきあへず。
誠に心の中さこそと、哀れに覚えければ、「今度の物詣をとまりて、これを見助けて、いつにてもまた参りなん」と思ひて、便宜(びんぎ)近き野辺へ(=遺体を)持ちて捨てつつ、陀羅尼なんど唱へてとぶらひて、さて三輪の方へ帰らんとすれば、身すくみて働らかれず。
「哀れ、思ひつる事よ。垂跡(=神)の前は(=穢れに)厳しき事と知りながら、かかる事をしつる時に、神罰にこそ」と大きに驚き思ひながら、こころみに、吉野の方へ向ひてあゆめば、少しも煩(わづら)ひなかりけり。その時こそ、「さては参れと思し食したるにや」と心とりのべて参詣するに、別の煩ひ無し。
さて恐れもあれば、御殿より遥かなる木の下にて、念誦し法施(ほつせ)奉るに、折節かんなぎ神憑きて、舞ひ踊りけるが、走り出でて、「あの御房はいかに」とて来たりけり。「あら浅まし。これまでも参るまじかりけるに、御とがめにや」と胸うちさわぎて、恐れ思ひけるほどに、近づき寄りて、「いかに御房、このほど待ち入りたれば、遅くおわするぞ。我は物をば忌まぬぞ。慈悲こそ尊(たと)けれ」とて、袖を引きて拝殿へ具しておはしける。上人、余りに忝(かたじけな)く尊く覚えければ、墨染の袖しぼるばかりなり。さて法門(=教へ)など申し承りて、泣く泣く下向してけり。
そのかみ恵心僧都の参詣せられたりけるにも、御託宣ありて、法門(=仏法)なんど仰せられければ、めでたくありがたく覚えて、天台の法門、不審(=質問)申されけるに、明らかに答へ給ふ。さて次第にとり入りて、宗の大事を問ひ申されける時、このかんなぎ柱に立ち添ひて、足をよりて、ほけほけと物思ふ姿にて、「余りに和光同塵が久しくなりて、忘れたるぞ」と、仰せられけるこそ、中々哀れに覚えし。
東大寺の石ひじり経住(きやうぢゆう)が、「我は観音の化身なり」と名乗れども、人信ぜぬままに、おびただしく誓状(せいじやう)するを、ある人、「観音の化身と名乗るを人信ぜずば、神通なんどを現じて見せよかし。誓状こそ無下におめ(=弱気)たれ」と云ひければ、「余りに久しく現ぜで、神通も忘れて侍るものをや」と云ひける。思ひ合はせられてをかしくこそ。末代は時に随ふ振舞ひにて、権者(ごんじや)も分きがたかるべし。「牛羊の眼を以て、衆生を評量(ひやうりやう)せざれ」と云へり。誠には知り難(がた)かるべし。
尾張国熱田の神官の語りしは、性蓮房と云ふ上人、母の骨(こつ)を持ちて、高野へ参りけるついでに、社頭に宿せんとす。人皆(=骨のことを)知りて、宿貸す者なかりければ、大宮の南の門の脇に参籠したりける夜、大宮司の夢に、大明神の御(おん)使とて、神官一人来て、「「今夜大事の客人を得たり。よくよくもてなせ」と仰せにて候」と云ふと見て、夢さめて、使者を社壇へ参らせらせて、「通夜したる人やある」と尋ぬるに、この性蓮房の外に人なし。
使者帰つてこの由を申す。「さては」とて、この僧を請ずるに、「母の骨を持ちて候へばえ参らじ」と申しけるを、「大明神の御下にては、万事神慮を仰ぎ奉る事にて侍り。今夜かかる示現を蒙りぬる上は、私に忌みまゐらするに及ばず」とて、請じて様々にもてなし、馬鞍、用途なんど沙汰して、高野へ送りける。無下に近き(=最近の)事なん。
また、去ぬる承久の乱の時、当国の住人恐れて、社頭に集まり、築垣(ついがき)の内に世間の資財雑具まで用意して、所もなく集まり居たる中に、あるいは親に遅れたるもあり、あるいは産屋(うぶや)なる者もあり、神官ども制しかねて、「大明神をおろし参らせて、御託宣を仰ぐべし」とて、御神楽参らせて、諸人同心に祈請(きしやう)しけるに、一人の禰宜に託して、「我天よりこの国へ下る事は、万人をはぐくみ助けんためなり。折りにこそよれ、忌むまじきぞ」と仰せられければ、諸人一同に声をあげて、随喜渇仰の涙を流しけり。その時の人、今にありて語り侍る。
されば神明の御心は、いづれも変はらぬにこそ。ただ心清くば、身も穢れじかし。日吉へも、ある遁世者、死人を持ち孝養して、やがて参りけるを、神人(=神官)制しければ、御託宣ありて、御許しありけりと云へり。[日吉大神も死人を持て捨てたる上人を、神官ら追ひ出せるを、神官に託して、召し返さることあり。]  
神明慈悲智恵ある人を貴び給ふ事
春日の大明神の御託宣には、「明恵房・解脱房をば、我が太郎・次郎と思ふなり」とこそ仰せられけれ。ある時、この両人、春日の御社へ参詣し給ひけるに、春日野の鹿の中に、膝を折りて伏して敬ひ奉りけり。
明恵房上人、渡天(とてん=天竺へ渡る)の事心中ばかり思ひ立ち給ひけるに、湯浅(=和歌山)にて、春日の大明神御託宣ありて留(とど)め給へり。かの御託宣の日記侍るとぞ承る。遥々と離れん事を嘆き思し食す由の仰せありて、御留めありけるこそ哀れに覚ゆれ。「もし思ひ立ち候はば、天竺へ安穏に渡りなんや」と申し給ひければ、「我だに守らば、などかこそ」と仰せありけれ。その時上人の手を舐(ねぶ)らせ給ひけるが、一期のほど香(かう)ばしかりけるとぞ。
解脱房上人、笠置に般若台と名づけて、閑居の地をしめて、明神(=春日明神)を請じ奉り給ひければ、童子の形にて、上人の頸に乗りて渡らせ給ひけり。さて御詠ありけり。
我ゆかんゆきてまぼらん般若台釈迦の御法のあらん限りは
ある時、般若台の道場の虚空に御音(こゑ)ばかりして、
我をしれ釈迦牟尼仏の世に出でてさやけき月の夜を照らすとは
常に法門なんど仰せられ申し給ひけるとこそ。誠に在世(=釈迦の在りし世)の事を聞く心地して、忝(かたじけな)くも羨ましくも侍るかな。
「光ある者は光ある者を伴とす」と云へり。神明は内には智恵ほがらかに、外には慈悲妙(たへ)なり。智恵も慈悲もあらば、必ず神明の伴と思し食すべきにや。書に云はく、「火は乾けるにつき、水はうるほへるに流る」と。まことに執着なうして、心かわかば、智恵の火もつきぬべし。情(なさけ)のうるほひあらば、慈悲の水も流れぬべし。  
和光の利益甚深の事
南都に少輔(せう)の僧都璋円とて、解脱上人の弟子にて、碩学の聞えありしが、(=死後に)魔道に落ちて、ある女人に憑きて、種々の事ども申しける中に、「我が大明神の御方便のいみじき事、いささかも値遇(ちぐ=出会ふ)し奉る人をば、如何なる罪人なれども、他方の地獄へは遣(つか)はさずして、春日野の下に地獄を構へて取り入れつつ、毎日晨朝(じんでう)に、第三の御殿より、地蔵菩薩の、灑水器(しやすゐき)に水を入れて、散杖をそへて、水をそそぎ給へば、一滴(したた)りの水、罪人の口に入りて、苦患(くげん)暫く助かりて、少し正念に住する時、大乗経の要文、陀羅尼なんど唱へて聞かせ給ふ事、日々におこたりなし。この方便によりて、漸く浮かび出でて侍るなり。学生どもは、春日山の東に、香山(かうせん)と云ふ所にて、大明神、般若を説き給ふを聴聞して、論義問答なんど人間に違はず。昔学生なりしは皆学生なり。目の当たり大明神の御説法聴聞するこそ、忝なく侍れ」と語ける。
地蔵は本社鹿島の三所の中の一つなり。殊に利益めでたくおはするとぞ申しあひ侍る。無仏世界の導師、本師付属の薩埵(さつた=菩薩)なり。本地(=仏)・垂跡(=神)いづれもたのもしくこそ。されば和光の利益はいづくも同じ事にや。
日吉の大宮の後にも、山僧多く天狗となりと、和光の方便によりて出離すとこそ申し伝へたれ。それも諸社の中に、十禅師、霊験あらたに御座(おはしま)す。これも本地は地蔵薩埵(=地蔵菩薩)なり。
とたてもかくても、人身を受けたる思ひ出、仏法に遇(あ)へる印(しるし)には、一門の方便に取り付きて、出離を心ざすべし。
心地観経には、「一仏一菩薩を憑(たの)むを要法とす」と説けり。されば内には仏性常住の理を具せる事を信じ、外には本地垂跡の慈悲方便を仰いで、出離生死の道を、心中に深く思ひ染むべきをや。
三悪の火坑、足の下にあり。六道の長夜、夢未ださめず。爪上(そじやう=珍しく)の人身を受け、優曇(うどん=稀な)の仏法にあひながら、なす事なく勤むる事なくして、三途の旧里(ふるさと)に帰りなば、千度悔い百度悲しむとも、何の益かあるべき。
多生(=何度も生れ変り)に稀(まれ)に浮かび出で、億劫に一度あへり。心をゆるくして、空しく光陰を送る事なかれ。時、人を待たず。死かねて弁へず。努々(ゆめゆめ)勤めおこなふべし。[一仏一法に望をかけ、功をつみて、専一にして相続する、諸教の行門のすがたなり。有縁の法を深く信じ行じて、臨終のならしにすべし。]  
神明道心を貴び給ふ事
南都に学生ありけり。学窓に臂(ひぢ)を下(くだ)して、蛍雪の功、年(とし)積もりて、碩学の聞こえありけり。ある時、春日の御社に参籠す。夢に大明神御物語あり。瑜伽(ゆが)・唯識(ゆいしき)の法門なんど不審申し、御返答ありけり。但し御面(かほ)をば拝せず。
夢の中に申しけるは、「修学の道にたづさはりて、稽古、年久しく侍り。唯識の法燈をかかげて、明神の威光を増し[法楽に備へ]奉る。しかれば、かく目の当たり尊体をも拝し、慈訓[御言]をも承はる。これ一世の事には侍らじと、宿習(しゆくじふ)までも悦び思ひ侍るに、同じくは御貌を拝し奉りたらば、いかばかり歓喜の心も深く侍らん」と申しければ、「誠に修学(しゆがく)の功のありがたく覚ゆればこそ、かく問答もすれ。但し道心の無きがうたてさに、面は向かへたうもなきなり」と仰せありと見て、夢さめて、慚愧の心、肝にとほり、歓喜の涙袖にあまりて覚えけり。
まことに仏法は、いづれの宗も生死を解脱せんがためなり。名利を思ふべからず。しかるに南都北嶺の学侶の風儀、ひとへに名利を先途に思ひて、菩提をよそにする故に、あるいは魔道に落ち、あるいは悪趣に沈むにこそ、口惜しき心なるべしとて、やがて遁世の門に入りて、一筋に出離の道を勤めける。
昔、三井寺、山門のために焼き払はれて、堂塔・僧坊・仏像・経巻、残る所なく、寺僧も山野にまじはり、人もなき寺になりにけり。
寺僧の中に一人、新羅(しんら)明神へ参りて、通夜したりける夢に、明神御戸を挑(かか)げて、世に御心地よげにて見えさせ給ひければ、夢の中に思はず(=意外)に覚えて、「我、寺の仏法を守(まぼ)らんと御誓ひあるに、かく失せはてぬる事、いかばかり御嘆きも深かるらんと思ひ給ふに、その御気色なき事いかに」と申しければ、「まことにいかでか嘆き思し食さざらん。されどもこの事によりて、真の菩提心をおこせる寺僧、一人ある事の悦ばしきなり。堂・塔・仏・経は財宝あらばつくりぬべし。菩提心をおこせる人は、千万人の中にもありがたくこそ」と仰せられけると見て、かの僧も発心して侍りけるとこそ申し伝へたれ。
明神の御心、菩提心をおこし、まことの道に入るを悦び給ふ事、いづれの神もかはり給はじかし。今生の事を祈り申さんは、神慮には叶はじとこそ覚ゆれ。先世の果報にて、貧富(ひんぷく)さだまりあり。あながちに現世の事、神明仏陀に申さんは、且は恥づかしかるべし。まことに愚かにこそ覚ゆれ。同じ行業を菩提にむけて廻向し、かなはざらんまでも、道心をば祈り申すべきなり。
東塔の北谷(きただに)に貧しき僧ありけり。日吉へ百日参詣して祈り申しけるに、「相ひ計らふべし」と仰せある示現を蒙りて、喜び思ひて過ぐすほどに、いささかの事によりて、年来の房主に追ひ出だされて、寄る方もなかりけるままに、西塔の南谷なる房に同宿してけり。
示現蒙りて後は、物を待つ心地にてありけるに、させる事なきのみにあらず、房主にも追ひ出だされぬ。面目なく覚えて、また参籠して祈請申すほどに、示現に蒙りけるは、「先業つたなくして、いかにも福分なき故に、東塔の北谷は寒き房なれば、西塔の南谷の暖かなる房へやりたるなり。これこそ小袖一つの恩と思ひ計らひたれ。この外の福分、我が力の及ぶべきにあらず」と、示し給ひける上は、思ひ切りて祈り申さず。先業の決定(けつぢやう)して遁(のが)れがたきは、仏神の御力も叶はず。されば「神力、業力に勝たず」と云へり。
仏の在世に、五百の釈種(しやくしゆ=釈迦の親類)、吠瑠璃太子(べいるりたいし)に打たれしを、釈尊え助け給はず。
目連、神通を以て救ふべきよし申ししを、仏許し給はず。「釈尊の御親類なれば、いかなる神通をも運びて助け給ふべきに」と、人不審申ししかば、その不審を開かん為に、一人の釈種の御鉢(みはち)の中に入れて、天上に隠し置かせ給ひしも、余の釈種の打たれける日、自然として御鉢の中にして死せり。
かの因縁を説き給へるは、「五百の釈種、昔五百人の網人(あみびと)として、一つの大なる魚を海中より引きあげて、害したりし故なり。かの大魚と云ふは、今の瑠璃太子なり。我その時童子として、草の葉を以て、魚の頭(つぶり)を打ちたりし故に、今日頭痛きなり」と仰せられて、釈尊もその日、御悩ありけり。況や凡夫の位に、因果の理(ことわり)、遁(のが)れなんや。[縦ひ使百千劫業果報失と云ひて、劫をふれども因果の理たがはす。]
利軍支比丘(りぐんしびく)と云ひけるは、羅漢の聖者なりけれども、あまりに貧しくして、乞食すれども食をえず。仏をして塔の塵を掃かせさせ給ひければ、その日はその福分にて乞食をしえけり。
ある時朝寝をして、遅く掃きけるを、余の比丘これを掃きてけり。その後乞食するにえずして、七日が間食せずして、沙(いさご)を食し水をのみて餓ゑ死しぬ。
仏因縁を説き給ひけるは、「過去に母のために不孝にして、母かうゑて食物を乞ひける時、「沙をも食ひ、水をもめせかし」と云ひて、七日食をあたへずして、母をほし殺したる業なり。聖者となれども猶報ふなり」とこそ説き給ひけれ。
かかる因縁なれば、貧しく賤(いや)しきも、難に遭ひ苦しくある事、みな我が昔のとがなり。世をも人をも恨むべからず。ただ我が心を恥ぢしめて、今より後とがなく罪なき身となりて、浄土菩提をこひ願ふべし。
二条院の讃岐、この心をよめるにや。
憂きも猶昔の故と思はずば如何にこの世を恨みはてまし
凡そ仏神の感応も、少しきの因縁を以てこそ、感ずる事に侍れ。今生夢の世の栄華は、いかでもありなん。後世菩提の事を、叶はぬまでも祈り申さん所、神慮にも叶ひぬべき。
桓舜僧都と申しける山僧も、あまり貧しくて、日吉に参籠して祈請しけれども、示現も蒙らず。山王大師をも恨み奉りて、離山して稲荷に詣で申しけるに、いく程もなくて、「千石」と云ふ札を、額(ひたひ)におさせ給ふと見て、悦び思ふほどに、また夢に稲荷の仰せられけるは、「日吉の大明神の御制止あれば、さきの札は召し返しつ」と仰せらる。
夢の中に申しけるは、「我こそ御計らひなからめ。よその(=神の)御めぐみをさへ御制止あるこそ、心得がたく侍れ」と申せば、御返事に、「我は小神にて 法味を悦んで、そのほかの事>思ひも分かず。彼は大神にて御座すが、「桓舜は今度生死離るべき者なり。若し今生の栄花あらば、障りとなりて出離難かるべき故に、いかにと申せども聞きも入れぬに、何しに給(た)ぶぞ」と仰せらるれば、取り返へすなり」と仰せられけりと見て、さては深き御慈悲にこそとて、夢の中にも忝なく覚えて、驚いてやがて本山へ帰りて、一筋に後世菩提の勤めのみ怠らずして、往生したりとなん申し侍れば、神にも仏にも申さん事は、示現なくとも空しからじ。いかにも御計ひあるべきにこそ。ただ信を致し功を入れて、冥の益を憑(たの)むべきなり。
行基菩薩の御遺誡(ゆゐかい)に云はく、「一世の栄花利養は多生輪廻の基(もとゐ)なり」。>宝地房の証真法印、夢に、西坂本より十禅師(=地蔵菩薩)の上らせ給ふに参りあひぬ。手輿(たごし)にめして御眷属、済々(せいぜい)として御座す。「何事をか申さ(=祈願)まし」と思ひて、老母の貧しき事を思ひ出でて、「かの老母養ふほどの事御計ひ候へ」と申しければ、御色ざしまことにめでたく、御心地よげに見えさせ給ひけるが、この事を聞かせ給ひて、しほしほと痩せ衰ろへて、物思ふ姿にならせ給ふ。
「まことや世間の事を申すによりて、御心にかなはぬにこそ」と思ひ返して、「老母の事は、いく程あるまじき世にて候へば、いかでも候ひなむ。後世菩提の事いかが仕り候べき。御助け候へ」と申しければ、御気色もとのごとくにならせ給ひて、御心地よげにて打ちゑみて、うなづかせ給ふと見て、道心の色も深くして、終りめでたかりけり。
世間の事をのみ心にかけて仏神に祈り申すは、返々愚かなり。和光の御本意は、仏道に入れんためなり。世間の利益は、暫くの方便なるべし。この事、かの孫弟子の永海法印物語るなり。たしかの事にこそ。
止観に云はく、「和光同塵は結縁の初、八相成道は以てその終を論ず」。いかにも仏意を仰ひで、成道の化儀を待つべし。世間の善には孝養は最上の福なり。しかれども菩提心にたくらぶれば劣れり。浄土に生じて引導せん事まことの孝養なり。善根の優劣(うれつ)は、譬へば星の光あれども月の光に及ばず。月明らかなれども日に及ばず。かくの如く、孝養も菩提心に及ぶべからざるなり。  
生類を神明に供ずる不審の事
安芸の厳嶋は、菩提心祈請の為に、人多く参詣する由申し伝へたり。その故をある人申ししは、
「昔弘法大師参詣し給ひて、甚深の法味を捧げ給ひける時、(=神が)示現に、何事にても御所望の事承るべき由仰せられけるに、「我が身には別の所望は候はず。末代に菩提心祈請する人の候はんに、道心をたび候へ」と申し給ひければ、「承りぬ」と仰せありける故に、昔より上人ども常に参詣する事にてなん侍る」とぞ。
ある上人参籠して、社頭の様なんど見ければ、海中の鱗(いろくづ=魚)いくらといふ事も無く祭供(さいぐ=お供へ)しけり。和光の本地は仏菩薩なり。慈悲を先とし、人にも殺生を戒め給ふべきに、この様大きに不審なりければ、取りわきこの事を先づ祈請(=質問)申しけり。
示現に蒙りけるは、「誠に不審なるべし。これは因果の理も知らず、徒らに物の命を殺して、浮ひがたき物、我に供(くう)ぜんと思ふ心にて、とがを我にゆづりて彼は罪軽ろく、殺さるる生類は報命尽きて、何となく徒らに捨つべき命を、我に供ずる因縁によりて、仏道に入る方便をなす。よつて我が力にて、報命尽たる鱗(いろくづ)を、かりよせてとらするなり」と示し給ひければ、不審晴れにけり。
江州の湖に大なる鯉を浦人捕りて殺さんとしけるを、山僧直(あたひ)をとらせて湖へ入れにけり。その夜の夢に、老翁一人来て云はく、「今日我が命を助け給ふこと、大に本意なく侍るなり。その故は、徒らに海中にて死せば、出離の縁欠くべし。加茂の贄(いけにえ)になりて、和光の方便にて出離すべく候なるに、命のび候ひぬ」と、恨みたる色にて云ひけると古き物語にあり。
江州の湖を行くに、鮒の船に飛び入りたる事ありけるに、一説に山法師、一説に寺法師、昔より未だ定まらざるなり、この鮒を取りて説法しけるは、「汝放つまじければ生くべからず。たとひ生くるとも久しかるべからず。生ある者は必ず死す。汝が身は我が腹に入れば、我が心は汝が身に入れり。入我我入の故に、我が行業、汝が行業となりて、必ず出離すべし。しかれば汝を食ひて、汝が菩提を訪ふべし」とて打ち殺しけり。まことに慈悲和光の心にてありけるにや。またただ欲しさに殺しけるにや。おぼつかなし。
信州の諏方・下野の宇都の宮、狩を宗(むね)として、鹿鳥なんどをたむくるもこの由にや。
大権(たいごん)の方便は凡夫知るべからず。真言の調伏の法も、世のため人のため、あだと成る暴悪のものを、行者、慈悲利生の意楽(いげう=意図)に住して調伏すれば、かれ必ず慈悲に住し悪心をやめ、後生に菩提を悟ると云へり。
ただ怨敵の心を以て行ぜんは、かの法の本意にあらず。さだめて罪障なるべし。また法もなすべからず。かへつて我が身災難に遭ひ罪障深し。されば神明の方便もこの心なるべし。
凡そは殺生をせずして、仏法の教の如く戒行をも守(まぼ)り、般若の法味を捧げんこそ、まことには神慮に叶ふべき事にて侍れ。その故は、漢土に儒道の二教を始めてひろめしに、牛羊等を以て孝養には祭る事なるを、古徳の云はく、「仏法はたやすく流布し難し。よつて天竺の菩薩、漢土へ生まれて、先づ外典を弘めて、父母の神識ある事を知らしめ、孝養の志を教へて仏法の方便とす」と云へり。
されば外典の教をば権教(ごんげう)と云ひて、正しき仏法にはあらず。仏法流布しぬる後は、釈教を行ずる人は、かの祭を改めて、僧の斎(とき)とし、[供仏施僧のいとなみとし、]仏法を以て孝養の儀をなす。
これを以て思ふにも、我が国は仏法の名字も聞かず、因果の道理も知らざりし時、仏に仕へ、法を行ずべき方便に、祭といふ事を教へて、漸く仏法の方便とし給へり。
本地の御心をうかがひ、仏法の教へ弘まりなば、昔の業(わざ)を捨てて、法味を捧げんこそ、真実の神慮にかなふべきに、人の心に古くしなれぬる業をば、捨て難く、思ひ染みぬる心は、忘れがたきままに、ただ物を忌み祭を重くして、法味を奉る事少なきは、返々も愚かにこそ。和光の面(おもて)も、なほ戒を守るこそ、神慮に叶ふ事なれ。
熊野へ詣づる女房ありけり。先達この檀那の女房に心をかけて、度々その心を言ひける。さて先達の心を違へぬことなれば、すかして、「明日の夜、明日の夜」と言ひけり。今一夜となりて、しきりに「今夜ばかりにて侍る」と言ひける日、この女房物思ひたる色にて食事もせず。
年来(としごろ)近く使ひつけたる女人、主の気色を見て、「何事を思しめし候ぞ」と問ひければ、しかじかと語りて、「年久しく思ひたちて参詣するに、かかる心憂きことあれば、物も食はれず」と言ふ時、「さらばただ物もまゐり(=お食べ)候へ。夜なれば誰とも知り候はじ。わが身代はりまゐらせて、いかにもなり候ふべし」と言へば、「おのれとても、身を徒らになさんこと悲しかるべし」とて、互に泣くよりほかのことなし。「しかるべき先世の契りにてこそ、主従となりまゐらせ候へば、御身に代はりて、徒らになり候はんこと、つやつや嘆くべからず」と、うち口説きて泣く泣く言ひけり。
さればとて物食ひてけり。さて夜より会ひたりけるに、先達はやがて金(きん)になりぬ。熊野には死をば金になるといへり。女人はことなることなし。この事隠すべくもなければ、世間に披露しけるに、人々、「すべて苦しからじ。ただ女人参るべし」と言ひけり。まことにつつがなし。津の制にかなへり。同心の欲愛ならば、二人金になるべし。主のため命を捨てて、わが愛心なき故にとがなし。律制に違はず侍るにひや。
熊野詣等みな戒行に違はず。諸(もろもろ)の霊社に中古より講行なんど行なはるは、本地の御意に叶ふべき故に、和光の威もめでたくおはすべきなり。
漢土のある山のふもとに、霊験あらたなる社ありけり。世の人これをあがめ、牛羊(ごやう)魚鳥なんどを以て祭る。その神ただ古き釜なりけり。ある時、一人の禅師かの釜を打ちて、「神いづれの所より来たり、霊いづれの所にかある」と云ひて、しかしながら打ち砕きてけり。
その時青衣(せいえ)着たる俗一人現じて、冠傾(かたぶ)けて禅師を礼して云はく、「我ここにして多くの苦患を受けき。禅師の無生(=悟り)を説き給ふによりて、忽ちに業苦を離れて天に生ず。その恩報じがたし」と云ひて去りぬ。
されば「殺生をして祭るには、神明(=神)苦を受け、清浄の法味を捧げ、甚深の道理を説くには、(=神は)楽を受く」と云へり。この意を得て、罪なき供物を捧げ、妙なる法味を奉るべきなり。  
和光の方便に依つて妄念を止むる事
上総国高滝と云ふ所の地頭、熊野へ年詣(としまうで)しけり。唯一人ありける娘を、いつきかしづきて、かつは彼が為とも思ひければ、相具してぞ詣りける。
この娘、見目形よろしかりけるを、熊野の師の房に、なにがしの阿闍梨とかや云ふ、若き僧ありけり。京の者なりけり。この娘を見て心にかけて、いかにも忍びがたく覚えけるままに、「我、浄行の志ありて、霊社にして仏法を行ぜんと思ひ企つ。かかる悪縁にあひて、妄念おさへがたき事、口惜し」と思ひて、本尊にも権現にも、「この心やめ給へ」と祈請しけれども、日に随ひては、かの面影立ちそひて忘れず。何事も覚えざりければ、忍びがたくして、心のやる方と、負(おひ)うちかけて、あくがれ出でて、上総の国へ下りける。
さて鎌倉過ぎて、六浦(むつら)と云ふ所にて、便船を待ちて、「上総へ越さん」とて、浜にうち伏して、休みけるほどに、歩み疲れて、うちまどろみたる夢に見けるは、
便船を得て上総の地へ渡り、高滝へ尋ねて行きてければ、主出で会ひて、「いかにして下り給ひたるぞ」と云ふ。「鎌倉の方ゆかしくて、修行に罷り出でて侍りつるが、近き程と承りて、御住居も見奉らんとて寄りて侍る」と云ふ。さて様々にもてなしけり。やがて上(のぼ)るべき体(てい)に申しければ、「暫く、田舎の様も見給へかし」とて留めけり。
本よりその志なれば留まりて、とかくうかがひ寄りて、忍び忍び(=娘に)通ひけり。互の志浅からず。さるほどに男子一人いできぬ。父母これを聞きて大に怒りて、やがて不孝(=勘当)したりければ、忍びて、ゆかりありける人のもとに隠れ居て、年月を送るほどに、「唯一人娘なれば、力及ばず」とて許しつ。
この僧も、若き者の、見目形なだらかに、尋常の者なりける上、賢々(さかさか)しく、手迹なんどもなだらかなりければ、「今は子にこそし奉らめ」とて、鎌倉へも代官にのぼせ、物の沙汰なんども賢々(さかさか)しくしけり。孫また形まことに人々しく見えければ、かしづきもてなしけり。子ども両三人出できぬ。
この子十三と云ひける年に、元服のために鎌倉へのぼる。様々の具足ども用意して、船あまたしたてて海を渡るほどに、風激しく波高きに、この子、船ばたに望みて、あやまちに海へ落ち入りぬ。「あれあれ」と云へども、沈みて見えず。胸ひしげてあわてさわぐ、と思ひて夢さめぬ。
十三年が間の事をつくづくと思ひ続くるに、ただ片時(へんじ)の眠の間なり。「たとひ本意とげて、楽しみ栄えありとも、ただ暫くの夢なるべし。喜びあるともまた悲みあるべし。由なし」と思ひて、やがてそれより帰りのぼりて、熊野にて行ひけり。和光の御方便にてこそありけめ。
昔、荘周が片時の眠の中に胡蝶となりて、百年が間、花の園に遊ぶと見て、さめて思へば暫くの程なり。荘子(さうじ)に云はく、「荘周が、夢に胡蝶となるとやせん、胡蝶が夢に荘周となるとやせん」と云へり。まことにはうつつと思ふも夢なり。共に夢なれば分きがたき由を云ふにこそ。
凡そ三界の輪廻、四生の転変、皆これ無明の眠の中の妄想の夢なり。されば円覚経には、「始知衆生、本来成仏、生死涅槃、猶如昨夢(いうによさくむ)」と説きて、まことの悟を開きて見れば、無始の生死、始覚の涅槃、ただ一念の眠なり。本覚不生の心地のみこそ、眠もなく夢もなきまことの心なれ。
古人云はく、「昨日の覚り、今日の夢、別なる事なし。覚の境も事過ぎぬれば夢の如し。夢の事も時に当たりては覚に似たり。誰の智あらん人か、夢と覚と異なりと思はん」と云へり。誠に深き理こそ悟り難く侍れ。ゆめ幻の世上の事、心あらん人疑ふべからず。
梁の武帝の時、夢相(=夢占い)ありけり。帝これを試みん為に、そら夢を語りたまはく、「朕が寝殿の甍(かはら)二つ鴛(をしどり)となりて、飛び去ると見たり。いかなる夢ぞ」と。夢相、奏して云はく、「今日、臣下二人夭亡(えうばう)すべき御夢」と。さるほどに近臣二人闘諍して、ともに夭亡す。帝驚きて夢相を召して、「昨の夢は、まことは汝を試みんためなり。しかるにこの事違はず。いかに」と仰せられければ、「かく仰せあらんと思しめす、即ち夢なり」と申しけり。これ夢と覚と同じき心なり。
法相(=法相宗)には常の夢と思へるは、独散の意識とも闇昧の意識とも云へり。我等が覚(かく)と思へるは、明了(みやうれう)の意識の夢といへり。明闇すこし異なれども生死の中の夢なり。唯識論の文(もん)この心なるべし。
楽天(=白居易)云はく、「栄枯事過ぎればすべて夢となる。憂喜心に忘るる便(すなは)ちこれ禅なり」と。まことには事過ぎて空しきのみにあらず。時に当たりても、自性無き故に空なり。この故に、生に当たりて不生なり。[色に即して空無二。]諸法をまことに夢と知りて、喜もなく憂も無く、心地寂静ならば、自然に空門に相応すべきにや。
また云はく、「禅の功は自ら見る。人の覚る無し。愁に合べき時、また愁へず」と。文の意の云はく、夢の中の事は喜も憂も心をとどむべき事なし。我等か覚と思ひつけたる世間の事、皆これ夢なり。生を悦び、死を憂へ、会(ゑ)を楽しみ、離を悲しむ事、これ夢と知らざる心なり。これらの事にすべて心うごかずば、即ち空門に入る人なり。口に云ふを禅とせず、心に諸念忘れて、寂静なるを禅と云ふべしとなり。
荘子に云はく、「狗は善く吠ゆるを以て良しとせず、人は善くもの言ふを以て賢とせず」云々。されば法門を善う云ふ人も、心に名利五欲の思ひ忘れずば、空門に遠し。
梵網に云はく、「口には便ち空と説けども、行は有の中にあり」云々。末代は真実の智恵も道心もある人まれなれば、口は法を説けども、心には道を行ずる事なし。されば夢の中の事を実ととのみ思ひて、執心深く愛執あつし。
唯識論に云はく、「未だ真覚を得ず。恒に夢中に処す、故に仏の説いて生死の長夜となす」と云々。慈恩大師は、「心外の法あれば、生死に輪廻し、一心を覚知すれば、生死永く棄つ」と釈し給へり。生死の長夜あけざる事、心外に法を見て、妄境のために転ぜらるる故なり。心の外に法を見ずば、法即ち心、心即ち法にして、生死を出づべしと云へり。心あらん人、一心の源を覚りて、三有の眠をさますべし。  
浄土門の人神明を軽んじ罰を蒙る事
鎮西に浄土宗の学生の俗(=以下の地頭)ありける。所領の中の神田を検注して、余田をとる間、社僧神官等いきどほり申す。鎌倉にて訴訟しけれども、「余田を取る事、地頭の申す所に一分道理」とて、沙汰なくなりける間、地頭に猶々申すに、大方ゆるさず。はては「呪詛し奉らん」と云ひけれども、いささかも恐るる事無し。「いかにも呪詛せよ。浄土門の行人、神明なんどなにとか思ふべき。摂取の光明を蒙らん行人をば、神明もいかで罰し給ふべき」とて、をこづきあざむきけり。
さて神人どもいきどほり深くして、呪詛しけるほどに、いく程なく悪ろき病憑きて物くるはしければ、母の尼公おほきに驚き恐れて、「我孝養とも思ひて、神田を返し参らせて、おこたり申し給へ」と泣く泣く申しけれども、用ひず。病次第に重りて、たのみ無く見えければ、母思ひかねて、神明をおろし奉りて、病者のもとへ使をやりて、「まげて神田を返しまゐらせ、おこたり申して、神田をも猶そへてまゐらせ給へ」と云ふに、病人物くるはしき気色にて、頸をねぢて、「何条(なんでう)神」と云ひて、少しもゆるさず。
使、密かに「しかじか」と申しければ、御子に神つきて、様々に託宣しけるほどなれば、母やはらげて、「病人は「神田返しまゐらせん」と申し候。今度の命ばかり助けさせ給へ」と申せば、巫(かんなぎ)うちわらひて、「頸をねぢて「何条神」と云ふものをや。あら汚なの心や。我は本地十一面の化身なり。本師阿弥陀の本願をたのみ、実の心ありて、念仏をも申さば、如何にいとほしくも覚えたつとからん。これほどに汚なく濁り、まさなき心にては、いかでか本願に相応すべき[、清浄の浄土に生ずべき]」とて、はたはたと爪はじきして、はらはらと泣き給ひければ、これを聞く人皆涙を流しけり。
さてねぢたる頸なほらずして、息絶えにけり。最後の時、年来の師匠、学生、善知識にて念仏勧めければ、「こざかし」とて、枕を以て打ちけるが、頭を打ちはづして、希有の命とぞ見えける。
その後、母の尼公また煩ひて、白山の権現をおろし奉りておこたり申す。「我は制し申ししかば、御とがめあるべしとも覚えず」と申すに、「誠に制せし事はさる事なれども、子を思ふ心切なる故に、心中に我をうらみし事やすからず」とて、遂にうせにけり。
かの子息、家を継いでありけるも、いくほど無くて、家の棟に鷺の居たりけるを占ひければ、「神の御とがめ」と申しけるを、その中にありける陰陽師、「神の罰、何事の候べき。封じ候はん」と云ひけるが、酒盃(さかづき)持ちながら、しばられたる如くに、手を後ろへまはして、すくみて死にけり。
かの陰陽師が子息、今にありて、この事且(かつう)は人にも語り侍るとぞ[たしかに聞たる人申し侍し]。当世の事なれば、聞き及びたる人多く侍り。かの子孫親類ある事にて、その憚り侍れども、人の上を言はん為にはあらず。ただ神の威の軽からざる由を、人に知らせん為なり。
凡そ念仏宗は、濁世相応の要門、凡夫出離の直路(ぢきろ)なり。誠にめでたき宗なるほどに、余行・余善をきらひ、余の仏菩薩・神明までも軽ろしめ、諸大乗の法門をも謗る事あり。この俗、諸行往生ゆるさぬ流れにて、余の仏菩薩をも軽ろしめける人なり。
凡そ念仏宗の流れまちまちなりと云へども、暫く一義によせて申さば、大方は、経文も釈の中にも、余行の往生見え侍り。
観経には、「読誦大乗、解第一義、孝養父母、五戒八戒、世間の五常までも、廻向して往生すべし」と見えたり。
双巻経には、「四十八願の中には、第十八こそ取り分き称名念仏にて侍れ。第十九は、諸の功徳を修して廻向せば、来迎すべしと誓ひ、第二十は、徳本を植ゑ繋念して往生すべし」と云へり。
されば念仏は、とりわき諸行の中に、選びすぐりて一願に立てて、正なり本なり。余行は、惣の生因の願に立てて、傍なり末なり。さればとて往生せずとはいかが申さん。[一流の第六、「余行は非義願なり。さりながら往生す」と云へり。]
善導の御釈にも、「万行ともに廻(ゑ)して皆往することを得、一切廻して、心安楽に向かふ」と釈して、「万行万善、いづれも廻向せば、往生すべし」と見えたり。
雑行(ざふげやう=正行の反対)の下の釈に、「廻向して生ずることを得べしといへども、衆名は疎雑(そざふ)之行」と釈し給へり。疎(うと)きと親しきとはあれども、往生せずとは見えず。
諸[行往生をゆるさぬ由を宣る下にあるべし。彼]行往生ゆるさぬ流の一義に云はく、「三心を念仏と心得て、三心具足して余行を修し往生するは、ただ念仏の往生なり。三心なき余行は、往生せぬを、諸行往生せずと云へり。この事心得られず。三心は安心なり。いづれの行業にもわたるべし。されば、安心三心・起行五念、行作業、四修と見えたり。称名も三心無くば生ずべからず。さらば称名は念仏といはれじや。[三心を念仏と云ふ故なり。]惣じては念仏と云ふは諸行にわたるべし。但し称名は、念仏の中の肝心なり。[五念の心の中には、讃正行に当ると云へり。]恵心の往生要集の正修念仏の下(した)には、諸行これあり。[さればまことには、諸行もみな念仏なり。]座禅は法身念仏、経呪は報身念仏なるべし。[引声短声の阿弥陀仏をはく念仏と云へり。]相好を念じ、名号を念ずるは、応身の念仏なるべし。余行の往生を念仏往生と言はんも、この意にては苦しみはあらじ。[これおおやけ法門なり。]称名の外は往生せずといふ義は、[事の外に]ひがめるにや。[道理文証無し。]
況や法華を誦し、真言を唱へて、往生の素懐をとぐる事、経文と云ひ伝記と云ひ、三国の先蹤これ多し。おさへて大乗の効能を失なひそしりて、余教の利益をないがしろにする事、然るべからず。さればただ仰ひで本願を信じ、ねんごろに念仏の
功を入れて、余行余宗を謗り、余の仏菩薩・神明を軽しむる事あるべからず。
この人の臨終にその咎見え侍り。前車のくつがへりは、後車のいましめなるをや。真実に往生の志あらん人、この事を弁ふべきなり。
経に、「ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と云へり。慎むべし慎むべし。但しかやうに申し侍る事、さだめてまた他の謗り侍るべけれども、所存の一義を申しのべんと思ひ侍り。余行往生ゆるさぬ流は、弥陀を讃むるに似て、まことには謗るになるをや。
その故は、弥陀は慈悲広大にして、万行万善を修する人をも迎へ取り、極楽は境無辺にして、余教余宗を習ふ輩をも、摂取し給はんこそ、余の諸仏にもすぐれ、余の浄土にも超えて、「我建超世願(がこんてうせぐわん)」の誓もたのもしく、広大無辺際の国もめでたかるべきに、余行余教は選び捨てられて、往生せぬ事ならば、仏は慈悲少く、国はさかひ狭ばくこそ覚ゆれ。
ある乳母、姫君を養なひて、余りに讃めんとて、「わらはが養なひ姫君は、御見目うつくしく、御目は細々として、愛らしくおはするぞや」と云ふを、人の、「目の細きはわろき物を」と云へば、「やらやら、方々の御目は、大きにおはするぞ」と云ひけるこそ、思ひ合はせられ侍れ。弥陀をも讃めぞこなひて侍るにや。
また余行の往生ゆるさぬ流の中にも、義門まちまちなり。ある人師(にんし)の義には、「余行の往生せぬと云ふは、三心を具せざる時の事なり。三心を具すれば、余行も皆念仏となりて往生すべし。名号を唱ふとも三心なくば往生すべからず」と云へり。
この義ならば、余行の往生疑ひなし。もとより三心なくば、称名念仏とても、往生せず。余行と念仏と全くかはる事なし。[さらば余行捨つべきにあらず。]先達はかやうに隔つる心なく申して、機をすすめ、宗をひろむ。[偏執無くば、]その志咎
(とが)なし。末学在家の人なんど、ただ詞(ことば)ばかりを聞いて余行をそしるなるべし。
中ごろ、念仏門の弘通(ぐつう=普及)さかりなりける時は、「余仏余教、皆徒ら物なり」とて、あるいは法華経を河にながし、あるいは地蔵の頭にて蓼(たで)すりなんどしけり。ある里には、隣家の事を下女の中に語りて、「となりの家の地蔵は、すでに目のもとまで磨り潰したるぞや」と云ひけり。浅ましかりける仕業にこそ。
ある浄土宗の僧も、地蔵菩薩供養しける時、阿弥陀仏のそばに立ち給へるを、便なしとて取りおろして、様々(やうやう)にそしりけり。
ある浄土門の人は、「地蔵信ぜん者は、地獄に落つべし。地蔵は地獄におはする故に」と云へり。さらば弥陀観音も、利生方便には大悲代受苦と誓はせ給ひて、地獄に遊戯(いうげ)してこそおはしませ、地蔵にかぎるべしや。これ皆仏体の源をしらず。差別の執心深き故なり。
またこの国に千部の法華経を読みたる持経者ありけり。ある念仏者すすめて、念仏門に入りて、「法華経読む者は、必ず地獄に入るなり。浅ましき罪障なり。雑行の者とて、つたなき事ぞ」と云けるを信じて、「さらば一向に念仏をも申さずして、年来経読みけん事の悔しさ口惜さとのみ起居(たちゐ)に云ふほどに、口のいとまもなく心のひまもなし。かかる邪見の因縁にや、わろき病付きて、物狂はしくして、「経読みたる、悔しや悔しや」とのみ口ずさみて、はては我が舌も唇も皆食ひ切りて、血みどろになりて、狂ひ死にけり。すすめたる僧の云ひけるは、「この人は、法華経読みたる罪は懺悔して、そのむくいに舌脣も食ひ切りて、罪消えて、決定往生しつらん」とぞ云ひける。
また中ごろ、都に念仏門流布して、悪人の往生すべき由を云ひたてて、戒をも持(たも)ち経をもよむ人は、雑行にて往生すまじきやうを、曼茶羅に図して、尊とげなる僧の経読みて居たるには、光明ささずして、殺生する者に摂取の光明さし給へる様をかきて、世間にもてあそびけるころ、南都より公家へ奏状を奉る事ありけり。その状の中に云はく、「かの地獄の絵を見る者は、悪を造りし事を悔い、この曼茶羅を拝する者は、善を修せし事を悲しむ」と書けり。
四句を以て物に判ずる時は、善人の悪性もありて、上(うへ)は善人に似て、名利の心あるも誠なきあり。悪人の宿善ありて、上は悪人に似て、底に善心もあり、道念もあらんは、かかる事にて侍るべきを、愚痴の道俗は、偏執我慢の心を以て、持戒修善の人をば、「悪人なり。雑行なり。往生すまじき者」とて謗り軽しめ、造悪不善の者をば、「善人なり。摂取の光明に照らさるべし。往生決定」と、うちかたむる邪見、大きなる過ちなるべし。これは聖教をも学し、先達にも近付きたる人の中には稀なり。辺地の在俗の中に、かかる風情ままに聞こえ侍り。
念仏門のみならす、天台・真言・禅門なんどにも、辺国の末流には、多く邪見の義門侍るにや。されば如何にしても智者に親近(しんごん)し、聖教を知識として、邪見の林に入るべからず。
これ故に心地観経には、「菩提妙果のなしがたきにあらず。真の善知識にまことに遇ひがたきなり」と説き、古徳は、「出世の明師に逢はず、枉げて大乗の法薬を服す」と云へり。天台の祖師も、「利根の外道は邪相を正相に入れて、邪法を以て正法とし、鈍根の内道は正相を以て邪相に入れ、正法を以て邪法とす」と釈し給へり。六祖大師も、「邪人正法を説けば、正法邪法となり、正人邪法を説けば、邪法正法となる」とのたまへり。<下医は薬を以て毒となし、上医は毒を以て薬となすと准知(=準用)すべし。中医は毒を毒となし、薬を薬となす。凡夫二乗これに准ぜよ。>近代は正見の人、稀にして、如来の正法を、邪見の情にまかせて、自他共に邪道に入るべきをや。牛は水を飲んで乳とし、蛇は水を飲んで毒とす。法はこれ一味なれども、邪正は人による。よくよくこの義を知りて、邪見の過を遁れて、正真の道に入るべきなり。
[地蔵をそしりたる下に可有裏書
諸仏は御証皆一如平等の因なり。一の法身仏の、一善知識と現給る中にも、地蔵・観音・弥陀は真言の習に甚深の秘事侍り。たやすく申難けれども、謗法の人、世中に多くして、三宝を互にそしる事、余りに悲しく侍るままに、注し給へり。台蔵の曼茶羅は大日の一身なり。然に弥陀は大日の右肩の如し、観音は右の臂手の如し。地蔵は右指の如しと習へり。また秘経には、「弥陀六観音と変じ、六観音、六地蔵と変ず」と云へりとも習ひ侍るなり。さてこそ釈尊の付属を受て、滅後の衆生をすすめ給へる。伝の中には、「我浄土に安養知足なり」とて、念仏を勧め給ふ。何でにくさで、そしりかろしめ奉らむ。あら不思議の人の心ざまや。
裏書法身妙体和光水は波の如くなる事下
経云ふ、「非離真之立処々々即真なり」。立処と云は縁起なり。染浄異なれ共、真如より発らずといふ事無し。清濁の波異なれ共、一水の動相なり。
智門は高く悲門は下し和光利益下
自証の行は、修因至果と云て、浅より深に至り、有為をすて、無為を欣、有相をわすれ無相を証す。これ智門の修行の形なり。諸仏利他の方便は、猶本地垂跡と云ひて、本地より外用を施す故、無相より有相を示し、無身より他身を現ず。種々形を以て、いやしき族をみちびく慈悲のかたちなり。止観第六云、「和光同塵結縁之初、八相成道以其終を論ず」。和光の本は長者の窮子に近付が為、瓔珞細軟の衣をぬぎて、麁弊垢膩の衣をきしかども、長者の身かわる事なきが如し。釈尊の実報寂光の御栖を出て、応身よりもいやしき悪鬼邪神等の身を示給。猶々慈悲のいたり、下て人に近き御心なるべし。毛多き鱗を着給ど、唯長者の如く法身の仏なり。形を見て愚かに思ふべからず。三業の妙用を学びて、本尊の一門に入事の本文、大日経疏云、「能く三業をして本尊と同ぜしめ、此一門に従ひて法界に入るを得、即これ普く平等の法界門に入るなり」云々。
春日御殿の四所の中、第三本地地蔵、本社鹿嶋でおはします事の趣、鹿嶋の御社中に、奥御前とて、不開の御殿よりは二三町ばかり東の山の中に御座す。かの御殿にては、念誦なんども音をたてせず、寂静として参詣の人つつしみ恐れ、其所を知らず。故右大弁の入道光俊、其上に参詣し給ひて、奥御前の御社の辺にて物をたづね給事三日、尋ねかねて古老の神官を召て、「これに平なる石の円なるが、二尺ばかりなるがある」と問給ふ。「石候」とて、御殿の後の竹の中より、土にうづまれたるをほり出してけり。これを見給ひて、はらはらと打ちなきて、
たづねかね今日見つるかなちはやふる深山の奥の石のみましを
さて語り給ひけるは、「これは大明神天よりあまくだり給ひて、時々座禅せさせ給石なり。万葉集のみましと云これなり」とありければ、人々さる事と知りてけり。家の人ぞいみじく知り給たりける。日記には方にて少したがひたるとありける。人ぞのりてば、し侍けるにや。
荘周夢事趣高滝事
法相の法門に、百法を立つ中に、時は識分位の唯識と云へり。仮立法にて、本より定る時なし。ただ心に一日と思へば一日、一年と思へば一年なり。識の上に仮立するなり。されば、三祇成仏と云も、夢に三祇と思へるなり。まことには一刹那なりと談ず。かの宗の本論、摂大乗論云処、「夢に年を経ると謂ども、寝れは即須臾頃なり。故に時は、無量と雖も一刹那に摂在す。凡百法と云ふは、五法事理として五中に理事四なり。識自相唯識八識、識相応々々五十一心所、識所変々々十一色、識分位々々廿四不相応所、識実相性は々々、六無為々々は理、余の四事なり。唯識論云ふ、「未だ道真覚を得ず、恒に夢中に処、故仏説生死長夜となし、この由に未了々、五境唯識」と云々。
念仏法門義下終
或一流には、余行は非本願なれども、往生はすと云へる。
或一流、余行本願と云。往生だにせむにをひては、非願と云名はいかでもありなむ。大かたは本願法だにあらん上は、傍正惣別こそあれ。非本願と云へるも、すこしき不審なり。
 
 
歎異抄(たんにしょう)

鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書。作者は、親鸞に師事した唯円とされる。書名は、その内容が親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった異議異端を嘆いたものである。
善鸞事件 / 建長8年(1256年)5月、親鸞が実子である善鸞を勘当・破門した事件である。事件から遡ること約20年の嘉禎2年(1236年)頃、親鸞が東国から京に帰った後の東国では、様々な異議が生じ、異端を説く者が現れ、東国門徒が動揺するようになる。その事に対し親鸞は、息子の善鸞を事態の収拾に送った。
しかし善鸞は、異端を説く者を説得しようと試みるも応じなかったため、私は親鸞より真に往生する道を伝授されたと称し、第十八願は「しぼめる花」であるとし、自らの教えが正しいと説いた。
善鸞が異端を説いている事を知った親鸞は、秘事を伝授した事はないと東国門徒に伝え、善鸞に義絶状を送り、親子の縁を切り破門した。その後、関東から上洛して親鸞に事を質したのが、唯円を含めた一行であった。
親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)とは、異なる教義を説く者が後を絶たなかった。唯円は、それらの異義は親鸞の教えを無視したものであると嘆き、文をしたためたのである。
これに、唯円が覚如に親鸞の教えを教授したこと、「口伝抄」に「歎異抄」と類似した文が含まれることなどから、本書は覚如の要請によって書かれたのではないか、とされている。
編集された時期は、親鸞が死してより30年の後(鎌倉時代後期、1300年前後)と考えられている。  

ひそかに愚案を回(めぐ)らして、ほぼ古今を勘(かんが)ふるに、先師(=親鸞)の口伝(くでん)の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふ。幸ひに有縁(うえん)の知識に依(よ)らずば、いかでか易行(いぎょう)の一門に入ることを得んや。全(まった)く自見の覚悟をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ。
よって、故親鸞聖人の御物語の趣(おもむき)、耳の底に留むる所(ところ)いささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと。云々。
第一条
一弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと。云々。
第二条
一おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに「往生極楽のみちを問ひきかん」がためなり。しかるに、「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」と、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都・北嶺にもゆゆしき学匠たち、おほく座(おわ)せられて候ふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(=法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆへは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし。このうへは、「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々(めんめん)の御はからひなり」と。云々。
第三条
一「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや?」しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや?」と。この条
、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死(しょうじ)をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
第四条
一慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益(りやく)するをいふべきなり。今生(こんじょう)に、いかにいとほし、不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏申すのみぞ、すえとほりたる大慈悲心にて候ふべきと。云々。
第五条
一親鸞は父母(ぶも)の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
そのゆへは、一切の有情(うじょう)はみなもって世々生々の父母(ぶも)・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向(えこう)して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦(ごうく)にしづめりとも、神通方便をもって、まづ有縁を度すべきなりと。云々。
 

第六条
一専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。ひとえに弥陀の御もよほしにあづかって念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどといふこと、不可説なり。
如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと。云々。
第七条
一念仏者は無礙(むげ)の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙(しょうげ)することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへに無礙の一道なりと。云々。
第八条
一念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なりと。云々。
第九条
一念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ、おろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。
よろこぶべきこころをおさへて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。
踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと。云々。
第十条
一念仏には、無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆへにと、仰せ候ひき。
そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしにして、あゆみを遼遠(りょうえん)の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(=親鸞)の仰せにあらざる異義どもを、近来はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へへうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。
 

第十一条
一一文不通(いちもんふつう)のともがらの念仏申すにあうて、「なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか?」、また「名号不思議を信ずるか?」と、いひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この条
、かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。
誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものを、むかへとらんと、御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて、生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも、如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。
これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、申すところの念仏をも、自行になすなり。
このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地・懈慢(けまん)・疑城・胎宮にも往生して、果遂の願(かすいのがん=第二十願)のゆへに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。
第十二条
一経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆへに、易行(いぎょう)といふ。
学問をむねとするは聖道門なり。難行となづく。あやまって学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふぞかし。当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法輪をくはだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふほどに、報敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みずからわが法を破謗(はぼう)するにあらずや。
たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、「われらがごとく、下根(げこん)の凡夫、一字不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには、器量およばざればつとめがたし。
われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。
かつは諍論(じょうろん)のところには、もろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文候ふにこそ。故聖人(=親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。また、ひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ひぬべけれ。
かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑をあらせじと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか。いまの世には、学問してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんと、かまへられ候ふにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪・浄穢(じょうえ)なき趣をも、説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。
たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学問してこそなんどいひおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵(おんてき)なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまつて他を迷はさんとす。つつしんでおそるべし、先師(=親鸞)の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることをと。云々。
第十三条
一弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆへなり。故聖人(=親鸞)の仰せには、「卯毛(うのけ=兎の毛)・羊毛(ひつじのけ)のさき(=先)にゐるちり(=塵)ばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか?」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふ(=違う)まじきか?」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状(りょうじょう)申して候ひしかば、「たとへば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。
「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざることを仰せの候ひしなり。
そのかみ邪見(じゃけん)におちたるひとあって、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。
まったく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。また、「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野・山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田・畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」。
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(=親鸞)は仰せ候ひしに、当時は後世者(ごせしゃ)ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむ(なんなん)のことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善・精進の相を外にしめして、内には虚仮(こけ)をいだけるものか。
願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆへなり。されば、善きことも、悪しきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ。「唯信抄」にも、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。
おほよそ、悪業・煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさなきことか。
第十四条
一一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、はじめて善知識のをしへにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念といへるか。
滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆへは、弥陀の光明に照らされまゐらするゆへに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。
念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩・苦痛せめて、正念に住せずしてをはらんに、念仏申すことかたし。そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。
罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また念仏の申されんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。罪を滅せんとおもはんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。
第十五条
一煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつてのほかのことに候ふ。
即身成仏(そくしんじょうぶつ)は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は、他力浄土の宗旨、信心決定の通なるが故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。
いかにいはんや、戒行・慧解(えげ)ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。
この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好(ずいぎょうこう)をも具足して、説法利益候ふにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。「和讃」(=「高僧和讃」)にいわく、「金剛堅固の信心のさだまるときをまちえてぞ弥陀の心光摂護(しんこうしょうご)してながく生死をへだてける」と候へば、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。
しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(=親鸞)の仰せには候しか。
 

第十六条
一信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもをかし、同朋(どうぼう)・同侶(どうりょ)にもあひて、口論をもしてはかならず廻心(えしん)すべしといふこと。この条、断悪修善のここちか。
一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の知恵をたまはりて、日ごろのこころにては、往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、廻心とは申し候へ。
一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずして、をはることなれば、廻心もせず、柔和(にゅうわ)・忍辱(にんにく)のおもひにも住せざらんさきに、いのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。 口には、願力をたのみたてまつるといひて、こころには、さこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすが、よからんものをこそ、たすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもひたまふべきことなり。
信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出でくべし。
すべてよろづのことにつけて、往生には、かしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば念仏も申され候ふ。これ自然なり。:わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力にてまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われ物しりがほにいふひとの候ふよし、うけたまはる、あさましく候ふなり。
第十七条
一辺地の往生をとぐるひと、つゐには地獄におつべしといふこと。この条、いづれの証文にみえ候ふぞや。学生たつるひとのなかに、いひいださるることにて候ふなるこそ、あさましく候へ。経論・正教をば、いかやうにみなされて候ふらん。
信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて、疑の罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。信心の行者すくなきゆへに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。
第十八条
一仏法のかたに施入物(せにゅうもの)の多少にしたがつて、大小仏になるべしいふこと。この条、不可説なり。様々比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(=阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもってか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」といへるか。
もしこのことわりなんどに、はしひきかけられ候ふやらん。かつはまた、檀波羅蜜(だんばらみつ)の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠に施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法のかたに入れずとも、他力にこころをなげて、信心ふかくば、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆへに、同朋をいひおどさるるにや。
右条々(=以上)は、みなもって信心のことなるより、おこり候ふか。故聖人(=親鸞)の御物語に、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひとも、すくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして、御相論のこと候ひけり。
そのゆへは、「善信(=親鸞)が信心も聖人(=法然)の御信心も一つなり」と仰せの候ひければ、勢観房(せいかんぼう)・念仏房なんど申す御同朋達、もってのほかにあらそひたまひて、「いかでか聖人の御信心に、善信房の信心、一つにはあるべきぞ?」と候ひければ、「聖人の御知恵・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそひがごとならめ。
往生の信心においては、まつたく異なることなし。ただ一つなり」と御返答ありけれども、なほ「いかでかその義あらん?」といふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにて、自他の是非を定むべきにて、この子細を申しあげければ、法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。
別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候ふらんとおぼえ候ふ。
いづれもいづれも、繰り言にて候へども、書きつけ候ふなり。
露命(ろめい)わづかに枯草(こそう)の身にかかりて候ふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと、御不審をもうけたまはり、聖人(=親鸞)の仰せの候ひし趣をも、申しきかせまゐらせ候へども、閉眼(へいがん)ののちは、さこそしどけなきことどもにて候はんずらめと、歎き存じ候ひて、かくのごとくの義ども、仰せられあひ候ふひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることの候はんときは、故聖人(=親鸞)の御こころにあひかなひて、御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。
おほよそ聖教には、真実・権仮(ごんけ)ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(=親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみみだらせたまふまじく候ふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまゐらせ候ふて、目やすにして、この書に添へまゐらせて候ふなり。
聖人(=親鸞)のつねの仰せには、:「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばく(=説明をしにくい)の業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(=善導の「散善義」)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。
さればかたじけなくも、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。
聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころによし(=善し)とおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、よき(=善き)をしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、:煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもて(もって)そらごと、たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ、仰せは候ひしか。
まことに、われもひとも、そらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。
そのゆへは、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたかい勝たんがために、まったく仰せにてなきことをも、仰せとのみ申すこと、あさましくなげき(=歎き)存じ候ふなり。
このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふなり。これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈のゆくぢ(=往く路)もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、さだめてをかしきことにてこそ候はめども、古(=故)親鸞の仰せごと候ひし趣(おもむき)、百分が一、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書きつけ候ふなり。
かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直(じき)に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めて、これをしるす。なづけて「歎異抄」といふべし。外見あるべからず。
注記
後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。時に興福寺の僧侶、敵奏の上、御弟子中狼藉子細あるよし、無実の風聞によりて罪科に処せらるる人数の事。一。法然聖人并びに御弟子七人流罪、又御弟子四人死罪に行わるるなり。聖人は土佐国番田という所へ流罪、罪名藤井元彦男と云々、生年七十六歳なり。親鸞は越後国、罪名藤井善信と云々、生年三十五歳なり。浄聞房備後国、澄西禅光房伯耆国、好覚房伊豆国、行空法本房佐渡国。幸西成覚房・善恵房二人、同じく遠流に定まる。しかるに無動寺の善題大僧正、これを申しあずかると云々。遠流の人々已上八人なりと云々。死罪に行わるる人々。一番 西意善綽房、二番 性願房、三番 住蓮房、四番 安楽房。二位法印尊長の沙汰なり。親鸞僧儀を改めて俗名を賜う、よって僧に非ず俗に非ず、然る間「禿」の字を以て姓と為して奏聞を経られおわんぬ。彼の御申し状、今に外記庁に納まると云々。流罪以後「愚禿親鸞」と書かしめ給うなり。
奥書
右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり。釈蓮如  
歎異抄・解説

■前序 歎異抄を書いた目的
ひそかに愚案を廻らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、 / ひそかに愚かな思いをめぐらせて、かつて親鸞聖人から教えて頂くことができたあの頃と、今日を考えてみますと、 聖人から直接教えて頂いた他力真実の信心と、異なることが説かれて いるのは、なんと嘆かわしいことでしょうか。これでは聖人の教えを学ぶ後輩が、正しく学び、伝えるのに、疑いや惑いが生じかねません。  
幸いに有縁の知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。 / 幸いにも正しい仏教の先生におあいし、導きを受けなければ、どうして真実の仏教の教えを学び、阿弥陀仏の救いにあうことができるでしょうか。
まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。 / 決して、自分の考えで、真実の仏教の教えを乱してはならないのです。
よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。 / そこで、今は亡き親鸞聖人がよく語って下された、耳の底に残る忘れられない御言葉を 少しでも書き残しておきたいと思います。
ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり。 / これはひとえに親鸞聖人の教えを学び求める同志の不審をはらしたいからなのです。
解説
『歎異抄』を書かれた目的はこれ一つ
『前序』とは、「序文」「はしがき」「はじめに」にあたるものです。著者が、『歎異抄』を書いた目的を記しています。当時、親鸞聖人がお亡くなりになった後、親鸞聖人が教えられなかったことを、親鸞聖人の教えだと話をする者が現れてきました。
しかもそれは一人や二人ではありません。それらは『歎異抄』の11章から18章にとりあげて論じられています。
ではなぜ、親鸞聖人の教えられなかったことを言って、真実信心と異なる者が出てきたのでしょうか。
それは、親鸞聖人の教えを正しく知らなかったのでありましょう。また、誰も知らないことを言って、人を集めたいという名誉欲もあったことでしょう。
結局正しい教えがわからず、みんな自分の考えで教えを曲げていってしまうのです。それでよけい真実の信心わからなくなります。
しかし仏法は、人集めやお金で曲げていいものではありません。決して、自分の考えで、真実の仏教の教えを乱してはならないのです。
そこで、これらを嘆き、何とか本当の親鸞聖人のみ教えを伝えようと作られたのが『歎異抄』なのです。
「後学相続之疑惑有ることを思うに」も、親鸞聖人の教えを学ぶ後輩が、正しく学び、伝えてゆくことができなくなるのではないか、何とか親鸞聖人の教えを後々の世の人に正確に伝えたい、その為にこの本を書いたんだ、ということです。
「ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり」も、歎異抄の目的はただ一つ、志同じく、親鸞聖人の教えを学ぶ仲間たちの不審をはらし、正しい教えを伝えたいということなのです。  
■第1章 摂取不捨の利益
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と 信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、 すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 / 「すべての人を救う」という、阿弥陀仏の不思議なお約束に助けられ、いつ死んでも極楽往き間違いなしの身となって、お礼の念仏称えようと思いたつ心のおきた時、おさめとって捨てられない、絶対の幸福に生かされたのです。  
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。 / 阿弥陀仏の救いには、年老いた人も、若い人も、善人も、悪人も、一切の差別はありません。ただ、真実の信心一つで救われるのです。
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。 / なぜ悪人でも、阿弥陀仏の本願を信ずる一つで救われるのかといえば、煩悩の激しい、最も罪の重い悪人を助けるために立てられたのが、阿弥陀仏の本願だからです。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさる べき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。 / ですから、この世で阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、往生の一段においては、一切の善は無用となります。阿弥陀仏から頂いた念仏以上の善はないからです。また、どんな悪を犯しても、死んだら地獄へ堕ちるのではなかろうかという不安やおそれはまったくなくなります。阿弥陀仏の本願で助からない悪はないからです。と親鸞聖人と仰になりました。
『摂取不捨の利益』こそ本当の生きる意味
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
『歎異抄』のすべては、この第一章におさまります。『歎異抄』の中で最も重要な第1章ですので、よく聞いて頂きたいと思います。まず『摂取不捨の利益』とあります。これは、すべての人が生きている目的を言われています。古今東西の全人類が最も知りたい生きる目的は、摂取不捨の利益にあずかるためだということです。『摂取不捨の利益』とは『利益』とは、御利益ではなく、幸福のことです。『摂取』とは、 『摂』はおさめる『取』はとる。おさめとられるということです。『不捨』とは捨てないということです。変わらない、二度と迷うことがないということです。このようなガチッと摂め取って永遠に捨てない不変の幸福を「摂取不捨の幸福」といわれます。絶対の幸福が完成するということです。『歎異抄』第七章の言葉でいえば、「無碍の一道(むげのいちどう)」に出させて頂けるということです。
ではなぜこれが、生きる目的なのでしょうか。すべての人は、幸福を求めて生きています。受験生が苦しくても受験勉強をするのも合格した方が幸福になれると思うからです。社会に出て毎日苦労して働くのも、失業よりも幸福だと思うからです。古今東西、すべての人が、生きてきた目的は幸福になるためです。人間が求めているものは、ゆきつくところは、すべて幸福を求めてのことですから政治も、より幸福になるためであり、経済も、幸福になるためです。科学も幸福になるためです。人を不幸にするために科学は発達したのではありません。医学や、芸術、スポーツとか、その他人間の営みはすべて幸福になるためです。ところが、私たちが求める幸福は、やがて必ず壊れてしまいます。この世のものすべては続かないことを諸行無常といわれます。どんな幸福も、やがて必ず崩れる日が来るのです。ですから、常にいつ崩壊するかわからないという不安がついてまわります。それにたいして、絶対に変わらない幸福がすべての人が求める、生きる目的です。これを絶対の幸福といいます。そんなすべての人が求める、人生の目的である変わらない幸福をこの『歎異抄』第一章では「摂取不捨の利益」といわれているのです。
「あずけしめ給うなり」とは、摂取不捨の利益になるのに、自分の努力は一切間にあいません。全く阿弥陀仏からの頂きものですから「摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり」と言われています。生きる目的ということについて『歎異抄』では、このように第1章から「この摂取不捨の利益、絶対の幸福になる為に古今東西の全人類は生きているのだ、そして、生きていかなければならないのだ」と、生きる意味が教えられています。
いつ絶対の幸福になれるの?
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と 信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、
「弥陀の誓願」とは、「阿弥陀仏の本願」のことです。「誓」とは誓いということですから、「阿弥陀仏の本願」とは、阿弥陀仏がたてられたお約束ということです。阿弥陀仏は、「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」とお約束なされています。摂取不捨の利益に助けるということです。阿弥陀仏の本願の通りになった時、阿弥陀仏の本願まことであったと疑いはれますからその疑いはれたのが真実の信心です。では、いつ疑いがはれるのでしょうか。阿満利麿「無宗教からの『歎異抄』読解」にあるような、ハッキリしないものではありません。
本願と出逢う前と出逢った後に生まれる、明白な心の変化のことである。そうした変化は、劇的にあらわれる場合もあるが、長い時間をかけてふり返ったときに、そうであったのか、と自覚される場合も少なくない。(阿満利麿「無宗教からの『歎異抄』読解」) 本願を疑う心は、長い時間をかけてではなく、一念ではれますから信の一念といわれます。『一念』とは、あっという間もない短い時間です。親鸞聖人は教行信証にこう記されています。
「一念」とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す。(教行信証)
「『一念』とは、人生の目的が完成する、何億分の一秒よりも速い時をいう」『信楽開発』とは摂取不捨の利益にあずかることです。『時剋』は時刻。『極促』は極速と同じです。
ですから、摂取不捨の利益にあずるかる時は、あっという間なのです。それを親鸞聖人はここで「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とおっしゃっています。次に、「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂げるなりと信じて」とおっしゃっています。『往生』とは、極楽へ往くって阿弥陀仏と同じ仏に生まれるということです。
「往生をば遂ぐるなり」とは、いつ死んでも極楽往き間違いなしということです。これは死んでからのこと。「信一念」に
この世は絶対の幸福(摂取不捨の利益)に救い摂られ、死ねば極楽へ往って仏に生まれるとハッキリするのです。仏教の救いは、この世と未来の二度あるのです。ところが、この世だけのことだと主張する『歎異抄』の解説もありますから、注意が必要です。
第1章では、「弥陀の誓願不思議」の救いが、「往生をばとぐる」と言われ、「摂取不捨の利益」にあずかる、と説かれる。(中略)それらは二つのことが別々にあるのではなくて、本願成就の救いを別の角度から説いたものである。 (延塚知道『親鸞の説法「歎異抄」の世界』)
親鸞仏教センターの「現代語訳 歎異抄」では、さらに「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて「往生をばとぐるなり」と信じて」を
人間の思慮を超えた阿弥陀の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して(親鸞仏教センター『現代語訳 歎異抄」)
と解説しています。救いはこの世と未来の二度ある親鸞聖人の教えを二益法門ともいわれ、蓮如上人はこのようにおっしゃっています。
一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。 つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。 されば二益なりと思うべきものなり。(御文章)
「正定聚」とは、摂取不捨の利益のこと、「滅度」は仏のさとりのことです。一念で摂取不捨の利益にあずかるのはこの世のこと。仏のさとりは浄土でえられるから、二益だといわれています。弥陀の救いをこの世だけとするのは、大変な間違いです。そして次に、弥陀の救いはまったく阿弥陀仏のお力だったと知らされますから、どうお礼を言ったらいいのかと、お礼の念仏称えずにおれなくなります。この心が起こったとき救われると書かれています。その心が「念仏申さん」と思いたつ心です。ですから、念仏となえれば救われるのではありません。摂取不捨の利益にあずかるのは「『念仏申さん』と思いたつ心の発るとき」です。念仏称えようという心の起こるときということは、まだ“ナムアミダブツ”の“ナ”も言わないとき、摂取不捨の利益にあずかるのです。念仏を称える前なのです。だから念仏称えて、摂取不捨の利益にあずかるのではありません。口から“南無阿弥陀仏”と称えるのはこの世で、絶対の幸福に救われた後なのです。『歎異抄』には、最初の一文で、阿弥陀仏の本願に助けられた一念に、往生を遂ぐるなりと信じて、『念仏申さん』と思いたつ心がおこり、摂取不捨の利益にあずかるのだと、人生の目的が完成した一念のことを明らかにされています。このように、『歎異抄』の最初の親鸞聖人のお言葉はものすごいことを凝縮しておっしゃっているのです。
なぜどんな極悪人でも救われるの?
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。 そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。
この摂取不捨の利益にあずかることに全く関係のないことは何でしょうか。阿弥陀仏の本願の相手はすべての人ですから古今東西、入らない人はありません。年がいっていようとなかろうと、善人であろうと悪人であろうと全く関係ないということです。善人だから早いとか悪人だから遅いとか助かるのが早い遅いも関係ありません。罪悪重いから助かるのが遅いとか、煩悩が沢山あるから助かるのが遅いとか、煩悩が少ないから早く助かるということも、関係ありません。一体なぜでしょうか。
その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。
どんなに罪悪が深く、重くても、どんなに煩悩が盛んであっても。
「熾盛」とは火が非常な勢いで燃えていることです。煩悩が燃えさかっている、そんな私たちを助けんが為の本願だからです。「煩悩おさえろ」という阿弥陀仏の本願ではありません。そういうことできない私たちを助けるという本願です。「阿弥陀仏の本願は老少・善悪の人をえらばず」とは「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」が目当ての本願というのと同じです。これは私たちにとって、とても都合のいい話です。心を踊らせるような言葉で私たちを惹きつけて離しません。ここだけ聞くと、みんな死んだら極楽となってしまうんですが、次に「ただ信心を要とすと知るべし」とあります。阿弥陀仏の本願は若い人であろうと、年寄りであろうと、男であろうと女であろうとアメリカ人であろうと日本人であろうと関係ないけど、ただ信心だけは獲得していないと助かりません。非常に重要です。
信ずる一つで救われるとは?
ただ信心を要とすと知るべし。
「信心」といっても、普通に使われているような、金が儲かる、病気がなおる、ゴリヤクがあるから信じる信心とは、まったく異なります。親鸞聖人の説かれる信心は、「念仏申さんと思いたつ心のおきた」瞬間に、摂取不捨の幸福を得て人生の目的が完成する「二種深信」であり、「他力の信心」のことです。ところが、こんな『歎異抄』の解説まであります。
今日でも、大切なのは信心であって口称念仏ではないという「真宗信者」も少なくはない。(阿満利麿「無宗教からの『歎異抄』読解」) まるで親鸞聖人や『歎異抄』自体を批判しているかのようですが、親鸞聖人の主著『教行信証』には、この他力の信心以外に説かれていないので、親鸞聖人の教えを「唯信独達の法門」といわれます。「他力の信心一つで人生の目的が完成する」ことです。「信心を要とす」ここが最大のポイントです。「老少・善悪の人をえらばず」差別はありません。だから疑わないように念仏称えていればいい。信じていればいい、その程度ではありません。ましてやこのような、疑いが含まれるような「信」ではありません。
〈信〉は〈不審〉を内包している。そしてそれは〈不審〉への絶えざる揺り戻しとして現れる。(佐藤正英「歎異抄論註」)
「信心を要とす」これがないと助からないと言われています。この「信心」とは二種深信です。世間で考えている信心とは全然違います。“不思議不思議”と驚かされる信心です。「真実の信心」 「他力の信心」ともいわれます。仏教を求め、人生の目的が完成した信心です。
歎異抄のカミソリといわれる危険なところ
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。
この部分は、『歎異抄』がカミソリといわれる最も誤解されやすいところの一つです。仏教を破壊し、多くの人を破滅へと向かわせた弊害が非常に大きかった危険極まりないところです。そして、岩波文庫から『歎異抄』を出した金子大栄もこの部分の意味は分からないと言っています。「悪をも恐るべからず。善も要にあらず」。それだけのことを聞きますと、自暴自棄のようですが、なにかそういう世界があるのです。 (中略) 人生はこういうものであるかなと、諦めてみますと、悪をもおそるべからず、善も要にあらず、という世界があるのであろうかなあ、という感じがわかるのでしょうか。(金子大栄『歎異抄 仏教の人生観』)
ここは他力信心の極致が記されているので、親鸞聖人の教えを正しく理解せずに読むと、まったく分かりません。「善をやる必要はない。悪を恐れる必要はない」とさえ思ってしまいます。そんな誤解をしてしまったのが、たとえば齋藤孝「声に出して読みたい日本語 音読テキスト3 歎異抄」です。
阿弥陀仏の本願を信じる人は、念仏以外に、どんな善いおこないもする必要はありません。(齋藤孝「声に出して読みたい日本語 歎異抄」)
また、千葉乗隆の「新版歎異抄 現代語訳付き」では、要旨にこう書かれています。
仏の不思議な力のこめられている念仏は、これにまさる善はないので、他の善い行いをする必要はないことを強調する。(千葉乗隆「新版歎異抄 現代語訳付き」) また、松本志郎の「新訳歎異抄」では、
本願を信ずる者は、何もわざわざ善根を積む必要はない。(松本志郎「新訳歎異抄」) 野間宏の『歎異抄』では、他の善は必要ではない。善などしなくともよいというのである。悪もおそれなくてもよいというのである。しかし人間には善をしたいという気持や、また悪をしたいという気持がたえず動いている。人間がこのような気持から離れることはなかなかむつかしい。(野間宏『歎異抄』) 「わざわざ善をする必要がない」とか、「たえず動いている善をしたい気持ちを離れないといけない」かのようです。しかしもちろん、そんな意味ではありません。
では、一体どんな意味なのでしょうか。
まず、「しかれば本願を信ぜんには」とは、「阿弥陀仏の本願に救われたならば」ということです。では、救われたらどうなるのでしょうか。阿弥陀仏に救われたら二種深信が立ちます。他力信心といっても、真実信心といっても、二種深信以外にはありません。
では、二種深信とは何でしょうか。
『二種』とは二つのことです。『深信』とは、ハッキリ知らされるということです。ですから、二種深信とは、二つのことがハッキリ知らされることです。その二つとは、「機」と「法」の二つです。
「機」とは、私たちのこと。「法」とは、阿弥陀仏の本願のことです。阿弥陀仏のお約束なされていることです。この2つがハッキリすることを二種深信というのです。機についてツユチリほどの疑いもなくハッキリしたのを機の深信といいます。法についてツユチリほどの疑いもなくハッキリしたのを法の深信といいます。「機」は『堕つるに間違いなし』 「法」は『助かるに間違いなし』この2つが同時にハッキリし、永遠に続くのです。このことを「きっと助かると信じて」と解説している解説書があるので驚きます。
阿弥陀さまの不思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて(梅原猛『歎異抄』) これは、歎異抄第一章の冒頭、「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と 信じて の現代語訳ですが、二種深信も何も分かっていません。では次ですが、「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきが故に」とは、たとえば、苦しんできた難病が、特効薬で完治した人に、薬を探すことがあるでしょうか。他の薬が欲しいのは、全快していないからです。ハッキリ救い摂られた人に、救われる為に励む善などあろうはずがないのです。善が欲しいのは救われていない証です。摂取不捨の幸福に生かされ、人生の目的を達成すれば、一息一息に生命の尊厳さが知らされ、報恩感謝に全力(善)つくさずにおれなくなりますが、”人生の目的成就のため”にする心は微尽もない、ということです。「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に」とは、無類の極悪人であったと照らされて(機の深信)、それが弥陀の正客だったと驚いた(法の深信)念仏者に、恐れる悪などあろうはずがない、ということです。「こんな私は、救われないのではなかろうか」と悪を恐れるのは、”絶対に助からぬ極悪人”と知らされていないからです。罪悪深重、煩悩熾盛の極悪人と照らし抜かれ、救い摂られた念仏者なら、善も欲しからず悪も恐れずの、善悪を超越した世界で大満足しているのだよ、と親鸞聖人は言われているです。  
■第2章 地獄は一定すみかぞかし
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめた まう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。 / そなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から命をかけて、この親鸞を訪ねられたお気持は、極楽に生まれる道ただ一つ、問いただす が為であろう。  
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、 また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしまして はんべらば、大きなる誤りなり。  / だがもし親鸞が、阿弥陀仏の本願のほかに、助かる道や、 秘密の法文を知っているのではなかろうかと、この親鸞をいぶかっ ての参上ならば、とんでもない誤りであり、まことにもって悲しい限りである。
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かる べきなり。 / それほど信じられぬ親鸞ならば、奈良や比叡にでも行かれるがよい。 あそこには立派な学者が、たくさんいなさるから、それらの方々に、後生の助かる道、とくとお聞きなさるがよかろう。
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 / 親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教えるよき人・法然上人の仰せにしたがい、信ずるほかに、何もないのだ。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また 地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。 / 念仏は地獄へ行く悪い言葉という者があるようだが、そういうことなのか、 それとも20年間教えてきたように、極楽往くたねか、 今さらこの親鸞に、言わせるおつもりか。まったくもって親鸞の知るところではない。
たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候。 / たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、親鸞何の後悔もないのだ。
そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を 申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という 後悔も候わめ。 / なぜならば、念仏以外の修行に励んで仏になれる私が、念仏したから地獄に落ちたのであれば、だまされたという後悔もあろう。
いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 / だが、微塵の善もできない親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである。
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。 仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。 善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。 法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかる べからず候か。 / ああ、弥陀の本願まことだった。 弥陀の本願まことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。善導の御釈がまことならば、そのまま教えられた、法然上人の仰せにウソ偽りがあろうはずがないではないか。法然の仰せがまことならば、そのまま伝える親鸞の言うことも、そらごととは言えぬのではなかろうか。
詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし。 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、 面々の御計らいなり、と云々。 / いくら言っても親鸞の信心、このほか何もござらぬ。 この上は念仏を捨てようと、親鸞に同心して、念仏を 信じたてまつろうとも、おのおのがたの、勝手になさるがよかろう、と聖人は仰せになりました。
歎異抄第二章を知るとき重要な背景
歎異抄第二章の内容を知るには、まず背景を知らねばなりません。親鸞聖人は、約800年前、京都にお生まれになられました。そして、40歳位から約20年間、茨城県に滞在されました。ところがどうしても生まれ故郷の京都へ帰らなければならない事情ができ、60歳過ぎに関東から京都へお帰りになります。そして、90歳で亡くなられるまで、京都で著作のわざにはげまれました。ところが、親鸞聖人が関東から京都へ帰られた後、2つの大事件が起きました。
   1.「念仏無間」
1つは、関東に日蓮が現れ、「念仏無間」といい始めたことです。「念仏無間」とは、念仏とは、南無阿弥陀仏と称えること、無間とは、無間地獄のことです。念仏称えたならば、地獄へ堕ちるぞ、だからやめなさい。と日蓮が辻説法を始めました。親鸞聖人のみ教えをよく聞いておられた人たち、はじめは「きちがい坊主が現れた。念仏が地獄ゆきのたねなんて、馬鹿なこと言うな」問題にしなかったのですが、あまりにも激しく日蓮が念仏を非難しましたので、だんだん親鸞聖人の教えを聞いて信じていた人たちの信仰が、ぐらつき始めたのです。
   2.秘密の法文
2つ目には、親鸞聖人の長男の善鸞が、とんでもないことを言い始めました。それは「私はある夜中に、お父さんの親鸞聖人から秘密の法文を授かった。夜中にこれを聞かせてもらわないと、絶対極楽にはいけない。これは誰にも言ってはならないと言われたが、みんなにもそれを聞かせてやりたいと思う」ということです。全くの捏造です。ところが関東の人は、今度は何といっても親鸞聖人の跡取り、親鸞聖人の長男が、そんなこと言い始めたのですから、「本当かも知れんぞ」「何とか人生の目的わかる近道ないかな」「親鸞聖人と言っても、やっぱり子供はかわいいだろうから、そういうことありうるかもしれない」と思い始めました。日蓮が「念仏は地獄堕ちるタネだ」とふれ回ったのと、善鸞が「秘密の法文があるぞ」というとんでもないこと言いふらしたので、関東で親鸞聖人のみ教え聞いて信じておった人たちの信仰が動揺したのです。これが親鸞聖人が京都へお帰りになってから、関東で起きたことです。
   後生の一大事
この世50年60年、今日なら70年80年、そんな短い一瞬の人生のことではありません。ことは未来永劫地獄か極楽かという、後生の一大事の大問題。「もし、日蓮の言うことが本当だったら、親鸞聖人に20年間だまされてきたということだ。また、善鸞の言うこと本当なら、そんな近道があるのにそれを20年間も教えてくれなかった、それも捨ておけない。一体どうなってるんだ。本当のところはどうなのか、京都へいって、親鸞聖人に直接あって聞いてみようではないか」ということになりました。そして何人かの人が何とか京都へたどりつき、親鸞聖人に直接お尋ねすることができました。その時、親鸞聖人はその人たちにどんなことをおっしゃったか。それがこの歎異抄2章にそのまま書き残されています。
あなた方が来られた目的はわかっている
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる身命を顧みず、この親鸞を訪ねて来られたお気持は、極楽に生まれる道ただ一つ、問いただす為であろう。「おのおの」ということは一人ではありません。関東で親鸞聖人の教えを聞いていた人全員行くこともできませんので、何人かの人が尋ねていったのです。「十余ヶ国の境を越えて」何しろ当時は関東から京都までゆくと、間に10以上の国がありました。交通手段といっても、飛行機もなければ、自動車もありません。歩くとなれば、往復2ヶ月かかります。途中に大井川も、箱根の山もあります。その間に山賊もいれば、盗賊もいます。その分の旅費もかかります。「身命を顧みずして」命がけにならないと、関東から京都まで、行って帰って来れません。出発する時には家族と今生の別れを告げて、出発しています。そしてその間の旅費を調達する為に、田んぼや畑を売った人もありましょう。しかも、命の保証はどこにもない、命がけの旅路です。一体なぜそれほどまでして、親鸞聖人を訪れたのでしょうか。京都へ訪れた人の目的を次にいわれています。
なぜそれほどまでして親鸞聖人を訪ねたのか。
訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
訪ねてきた目的はただ一つ、往生極楽の道を問いただすためであろう。「往生極楽の道」とは、死んで極楽へ往けるかどうか、後生の一大事の解決の道ということです。
死ねば、田んぼや畑はおろか、紙切れ一枚持っていけないので、この後生の一大事の解決一つ、親鸞聖人に聞かせてもらわなければならないと、田畑を売って、お金にかえて、京都の親鸞聖人のところへいったのです。それらの人たちに対して親鸞聖人 「命がけで親鸞のところへ来られた気持ちはよくわかる」 今日あって、明日なき命、これは私たちも、同じことです。このような関東の人たちが京都へ命かけていったような気持ちが大事であり、また、こういう気持ちにならないと仏法は聞けないのです。
親鸞聖人の尋常ならざるお気持ち
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、 また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしまして はんべらば、大きなる誤りなり。
「だがのぉ、おのおのがた。弥陀の本願のほかに、助かる道や、秘密の法文を知っているのではなかろうかと、この親鸞をいぶかっての参上ならば、まことにもって言語道断、悲しき限りである」
ここに親鸞聖人の気持ちの一端が表れています。普通の「大変だったろう、よく来たなぁ、あの人は元気か」といったねぎらいは一切なく、単刀直入に、おのおの十余箇国の境を越えて尋ね来たらしめたもう御志、ひとえに往生極楽の道を聞きに来たんだろう。普通は久しぶりに会いにきた人に対しては、こういう言い方はされません。ここに親鸞聖人の尋常ならざる気持ちがこの時あったとうかがえます。表面だけ見れば、命をかけて京都まで来た尊い人だなあ、と思いますが、親鸞聖人からすれば、「悲しい、情けないことだな」というものがあったのです。『念仏よりほかに往生の道をも存知し』 「そなたがたは、日蓮の言うように、念仏より他に助かる道があると思ったのか」 少しでも、「日蓮の言うことが本当なのかな?」と日蓮の言うことを信じて、この親鸞のことを疑ったのか。『また法文等をも知りたるらんと』 善鸞のことも、「そんなことはない。でもひょっとしたら…」というのは「親鸞聖人、秘密の法文を知っておられる。自分の子供にだけ教えたのではないか」と疑いがある。「お前らの聞きたいことは分かっとる。この二つだろう。とんでもない間違いだ」 次も親鸞聖人のやり場のない気持ちが表われています。
親鸞聖人のやり場のない怒り
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候 なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かる べきなり。
「それほど、信じられぬ親鸞ならば、奈良や比叡へ、行かれるがよい。あそこには、ド偉い学者が、たくさんいなさるからのぉ・・・。それらの人らに、後生の助かる道、とくと、お聞きなさるがよかろう」関東の人たちは、親鸞聖人を疑う心があるから訪ねてきたのです。全く疑う心がなければ、聞きに来る必要はありません。親鸞聖人は、疑われているのです。「そんなに信じられないなら、南都北嶺に行け!」 「南都」は、奈良。 「北嶺」は、比叡山、「そこに大変な仏教の学者が沢山おるから、そこへいって聞いてこい!」 『往生の要よくよく聞かるべきなり』 「そこへ行って、助かる道を聞いてこい」 関東の同行は、親鸞聖人を信じているからこそ、南都や北嶺へ行かないで、親鸞聖人のもとへ訪ねてきたのです。そんな人たちに対して、「南都北嶺へ行け!」 「何のために親鸞のところへ来たか。あっち行け!」親鸞聖人は大変に腹を立てておられます。「ご苦労だったな」という言葉は出てこないのです。
歎異抄のカミソリ『ただ』に3通り
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
「親鸞は、よき人・法然上人のお導きにより、弥陀の誓願不思議を不思議と知らされ、念仏申さんと思い立つ心のおきた一念に、往生極楽の身に、救いとられたのだ。いつも話している通りである」ここを読むと、ただ念仏だけ称えていればいいと思います。トップページにも書きましたように、ここを誤解する人が沢山あり、おそるべきカミソリの部分です。たとえば、安良岡康作の「歎異抄全講読」では、
この親鸞においては、ひたすら念仏をとなえて、阿弥陀如来のお助けをこうむるのがよいという、すぐれた人のお言葉を身に受けて、それを信ずる以外には、格別の理由はないのです。 (安良岡康作「歎異抄全講読」)暁烏敏の「歎異抄講話」の解説では、 学問はなくてもよい、知識が浅くてもよい、末があかるくなくてもよい、悪いことを思うてもよい、いたずらなものでもよい、ただ口に南無阿弥陀仏と称えるばかりで、大慈の如来は助けてくださるるというので、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと仰せられたのである。(暁烏敏「歎異抄講話」) 梅原猛の「誤解された歎異抄」の意訳では、私は、ただ念仏すれば、阿弥陀さまにたすけられて必ず極楽往生ができるという、あの法然聖人のおっしゃいましたお言葉を…… (梅原猛「誤解された歎異抄」)
どうも、ただ念仏をとなえていれば、救われるかのように誤解しているようです。ところがそうではありません。歎異抄第1章には、弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし(歎異抄第1章)とあります。では「ただ念仏」と「ただ信心」どちらなのでしょうか。親鸞聖人は、教行信証にこのように書かれています。
涅槃の真因は唯信心を以てす(親鸞聖人「教行信証」)
「浄土往生の真の因は、ただ信心一つである」ということです。また、親鸞聖人の「正信偈」には、こうあります。
正定の因は唯信心なり(親鸞聖人「正信偈」)「仏になれる身になる因は、信心一つだ」ということです。このように、この「ただ」を、念仏称えるだけの「ただ」と思っていると、親鸞聖人の心が分かりません。この「ただ」は、一念の信心なのです。一切経を一念で読み破った「ただ」です。信の一念でただじゃったと阿弥陀仏の大慈悲心が知らされます。一切経はただで助けるという阿弥陀仏の本願を知らせるためのもの。しかし、「ただ」と言っても阿弥陀様は「ただじゃそうな」といっている人もあれば、「ただ」が分からんと地団太ふんでいる人もあります。
1「ただじゃそうな」→ 2「どうなったただか。ただがわからん。」→ 3「ただのただもいらん、ただじゃった」
「ただじゃそうな」というのは信仰の浅い人です。これがただじゃなかろう、「ただ」が分からない、どうなったただか、ただほど難しいものはない、本当の「ただ」が知りたいとなります。この「ただ」が「ただ」と知らされたときが助かったときです。それから御恩報謝の念仏になります。ただ念仏さえ称えておれば、死んだら助かるという、「ただ」ではありません。「ただ」とは信心のことです。「念仏」は御恩報謝の念仏です。親鸞聖人の教えは唯信独達、信心一つで救われます。それが一念で知らされるのです。「よきひと」とは善知識のことです。善知識のお導きによって一念で信ずる外に、儀式もなければ秘密の法文もありません。この「ただ」が大変です。この「ただ」が「ただ」と読めたら、一切経全部読んでしまうのです。この「ただ」を読ませるために釈尊は一切経を説かれたのです。
そんなこと今さら言わせるおつもりか。そなた方は。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また 地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
『日蓮が言うように念仏は地獄行く悪い言葉ということか、或いは20年間お前らに、教えてきたように極楽往くたねか、親鸞全然知らん』親鸞聖人は、本当に知られないのでしょうか。ここは、あまりに意味が分からないためか、江戸時代の深励の「歎異抄講林記」ではこう解説しています。念仏を申して浄土に往生すると云うことを信ずるは勿論のことなれども。そのいわれを信じて我が智慧才覚を以て念仏は往生すべきたねなりと吟味して信じたるにあらず。よきひとの仰を蒙て信ずるゆえに。更に自分の智解にて知りたるにあらず。故に其自分の智解にて知らぬと云う相を述べて。(香月院深励「歎異抄講林記」)
親鸞聖人が「存知せざるなり」 と言われたのは、助かるのはハッキリしているけれども、助かる理由は分からないという意味だという解説です。本当でしょうか。親鸞聖人の、念仏は極楽のたねやら地獄のたねやら知らん、とは、助かるか助からないか知らんという意味ですから、話がかなり飛躍、或いは違う話になってしまっています。
それを見抜いたか、近角常観はすなおに分からないと書いています。
私は今まで「歎異抄」を講ずること、幾十回なるかをしらぬほどでありますが、この聖人の御自督に対しては何とも敷衍してみようがありませぬ。(近角常観「歎異抄講義」)
では、「助かるか助からないか知らん」というのは、どういう意味でしょうか。ある奥さんのご主人が、第二次世界大戦で満州へいき、日本が戦争に負ける直前に戦死したという知らせを受け取っておられました。奥さんはもう死んだとして葬式して、法事もつとめていた。ところがご主人は死んでなかったのです。シベリアへ抑留されていて、ある日奥さんの所へ手紙が来ました。間違いなく、結婚前に、ラブレターもらったりしていた時の主人の筆跡。死んだ人から手紙が来た。開いてみると、「僕は生きている。シベリアに抑留されてたけど、今度、何月何日に舞鶴へ帰るから」 奥さんは嬉しびっくりで、まだその日にならないうちから舞鶴へ行って宿へ泊まって、あと何日で主人にあえると海を見ていました。いよいよ前の晩はもう眠れず、朝早く港へ行って、船がくるのを待ち受けていました。水平線にぽつっと船が見えて、だんだん大きくなり、そして、岸壁から、元気な主人が降りてきました。十数年ぶりで、しかも死んだと思っていたのです。「その時、キスの雨ふったでしょ」と聞くと、顔を真っ赤にして、「知らんわいね、知らんわいね」と奥さんは言われたそうです。もちろん知らないはずはありません。親鸞聖人の『存知せざるなり』というのは、その奥さんの「知らんわいね」のようなものです。ここを間違っている歎異抄の解説本もよくあります。たとえば、五木寛之の「私訳 歎異抄」では、このように「私訳」してあります。
念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。(五木寛之「私訳 歎異抄」) もちろん、どうでもよいのではありません。 「当然すぎて、答えるまでもない」ということです。紀野一義の「私の歎異抄」の解説ではさらに、念仏を称えたら極楽へ行けるとか行けないとかいうことは問題にしておらぬ。念仏を称えたらどこへ行くやもわからぬ。わからなくてよい。(紀野一義「私の歎異抄」) と、分からなくてよいと言っています。さらにその心を、これは賭けだからだと言っている解説もありました。
念仏に賭けるか──念仏以外の道があるのか──という、ただそれだけの問題である。だとすれば、親鸞聖人にすれば、「そんなこと、知るものか!自分で判断して賭けるよりほかないではないか。他人に尋ねて、それで解決できる問題ではない!」 (中略) 「でもさ、これはあくまでわたしの場合なんだよ。賭けをするのはあなたたちだから、自分で判断するよりほかないね」(ひろさちや「入門歎異抄の読み方」)安良岡康作著「歎異抄全講読」ではこう解説してあります。 「念仏」に対して、それが、真実に「浄土に生るる種子」なのか、「地獄に堕つべき業」なのかを自問自答した結果を、「そうじて以て存知せざるなり」とあるように、はっきりした断定・確信に達していないことを、説得や主張ではなくして、聞き手に向って告白しているのである。(安良岡康作「歎異抄全購読」)
親鸞聖人の分かっていなかった告白だと解説していますが、勿論そんなこともありません。むしろ、あまりに分かりきったことを聞かれ、「念仏が極楽行きのたねか、地獄に堕つる業か、今さらこの親鸞に、言わせるおつもりか!そなたがたは!」ということです。
だまされても後悔のない信じ方とは?
たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候。
「この親鸞、たとい法然上人にだまされて地獄に堕ちても更に、後悔はないのだ」こういうことは、その人の生涯にある人はわずかで、ほとんどの人は、一生涯、どんな長生きしていてもないことです。普通、私たちは、人を信ずる時は、だまさない相手だということを大前提として信じます。私をだます人だと思ったら信じられません。ところが、親鸞聖人は、『法然上人にだまされて地獄へ堕ちても後悔しない』ちょっとやそっとではありません。お金の貸し借りなら「今年中に返すから一万円かしてくれ。」 「いいよ」というのは、「返さないかもしれないけど、まあ一万円じゃないか」と思っています。ただし、後悔はします。「あの一万円あったら、あれ食べられたのに、もう貸さない」ところが親鸞聖人は、一万円どころか、法然上人にだまされて地獄へ堕ちても後悔しない。親鸞聖人どれ程、法然上人を深く信じておられたか。こんな信じ方が生涯に一度でもできれば、それは大変幸せな人です。このような法然上人に対する親鸞聖人の信じ方の深さは、阿弥陀仏に救い摂られた人がその阿弥陀仏の本願を伝えて下された方に対する信じ方以外にはありえないのです。「よき人法然上人の仰せにしたがうより親鸞ないんだ」 親鸞聖人おっしゃっています。その親鸞聖人のお気持ちは、阿弥陀仏に助けて頂いた。だけど、法然上人に助けて頂いたと感じられるのです。自分と阿弥陀仏の一直線上に、法然上人がおられる。そうすると、阿弥陀仏を信じるままが、法然上人を信じることになるわけです。 御和讃には、
曠劫多生のあいだにも 出離の強縁知らざりき 本師源空いまさずは  このたび空しく過ぎなまし (高僧和讃)
『曠劫多生(こうごうたしょう)』とは、何億年も前から親鸞は苦しみ続け、悩み続けてきた。その間、苦しみ迷いから助けて下される方にお会いすることができなかった。出離(しゅっり)の強縁(ごうえん)しらざりき。それはなぜでしょうか。 弥陀の本願を教えて下される方がなかった。曠劫多生何億年昔から今日までなかった。その親鸞が今助かったのは、法然上人という阿弥陀仏の本願伝えて下される方にあえたからだ。『本師源空(ほんしげんくう)いまさずは』もしこの方にお会いすることができなければ、『このたび空しく過ぎなまし』この度、苦しみ悩みの人間界を、またしても苦しみ悩みの世界へ流れていっただろう。危ないところを救われた。だからこれは、親鸞聖人が、法然上人に救われたとおっしゃっている御和讃なのです。本当は阿弥陀仏しか救う力もたれた方おられないのですが、その阿弥陀仏一直線上に、伝えて下された法然上人がおられます。だから法然上人に救われたとおっしゃっているのです。だから、こんな人の信じ方、というのは、弥陀の救いにあわれた人が伝えて下された正しい仏教の先生に対する信じ方なのです。弥陀に救われる人はほとんどありませんから、ほとんどの人は一生涯ありません。
助かる縁の絶え果てた親鸞、地獄へ堕ちて当然。
そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を 申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という 後悔も候わめ。いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定 すみかぞかし。
「助かる縁、微塵なりともある親鸞ならば、だまされて地獄に堕ちた、という後悔もあろう。だがのぉ、金輪際、助かる縁の絶え果てた親鸞、地獄へ堕ちて当然」「なぜそんな信じ方ができるのかといえば親鸞何か他の善をやって仏になれるのに、『念仏を称えて地獄に堕ちてしまった』のなら『だまされた』という後悔もあるだろう。しかし、絶対助かる縁手がかりのない、一つの善もできない親鸞、だまされて地獄に堕ちたということがあるはずないではないか」ということです。たとえば、身動きのとれない人が、アメリカへ行きたいとします。もし自分で泳いでアメリカへ行ける人なら、騙されて飛行機に乗って落ちたということがあります。ところが、他に交通手段のない人が、だまされて行けなかったということはありません。自分で何かやって助かる人なら、騙されたということがある。「あの人の言う通りにやったから、地獄に堕ちた」 ところが、地獄しか行き場がない者が、騙されて地獄に堕ちるということはないのです。これは、機の深信から言われています。阿弥陀仏に救われた人は、二つのことがハッキリします。これを「二種深信」といいます。「二種」とは二つ。「深信」とは、ハッキリするということ。「機の深信」と「法の深信」です。「機の深信」とは、自分というものがハッキリ知らされます。自分というものがどのようにハッキリ知らされるのかというと、地獄より他に行き場がない者、地獄は一定すみかの自分であったとハッキリします。こういうことをハッキリ知らされた者が、「あいつの言う通りにして地獄に堕ちた」ということがあるでしょうか?あるはずがありません。金輪際助かる縁手がかりのない者と自分の姿がハッキリ知らされていますから。機の深信がありますから、だまされて地獄に堕ちるということもありません。だから、機の深信のたった人でないと、こういうことは言えません。
「阿弥陀仏の本願まこと」のみが親鸞聖人の原点
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。 仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。 善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。 法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかる べからず候か。
「ああ、弥陀の本願まことだった。この弥陀の本願一つ説かれた、釈尊や、善導、法然のみ教えにウソがあろうか。法然の仰せまことならば、どうして親鸞の申すこと空事と言えるのか」 「阿弥陀仏の本願まこと」から、言い始められます。この阿弥陀仏の本願がまことだから、お釈迦様の説かれたことにウソはある筈がない。お釈迦様の仰ったことだまことだから、善導大師の教えられたことも、ウソがある筈ない。善導大師の教えられたことにウソはないんだから、その通り教えられた法然上人に空事がある筈ない。法然上人の教えにウソがなければ、親鸞の言っておること虚しい筈はなかろう。親鸞聖人このように仰っています。「だから親鸞の言うこと間違いないんだ」「親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候か」その前提は「弥陀の本願まことだから」です。
親鸞聖人の信心 親鸞聖人 法然上人 善導大師 お釈迦様 阿弥陀仏の本願─大前提
ところが関東の人たちの気持ちは、一番前提になっているのは親鸞聖人です。だからこそ十余カ国の境を越えて尋ねてきたのです。一番信じられるのは親鸞聖人。その親鸞聖人教えられた方は法然上人だから法然上人が身近に考えられる。法然上人を導かれた善導大師が信じられる。その善導大師を釈尊が導かれた。釈尊説かれたのが阿弥陀仏の本願。一番ハッキリしないのが阿弥陀仏の本願です。
関東の人たちの信心 阿弥陀仏の本願 お釈迦様 善導大師 法然上人 親鸞聖人 ─大前提
一番信じられるのは親鸞聖人です。法然上人・善導大師・お釈迦様が教えられた阿弥陀仏の本願だから間違いなかろうと信じています。逆に親鸞聖人にとって一番間違いないのは阿弥陀仏の本願です。弥陀の本願まことだから、釈尊、善導大師、法然上人、親鸞聖人が微動だにしないのです。親鸞聖人はこの世で最も明らかなのが弥陀の本願です。関東の人たち、一番信じられないのが弥陀の本願です。親鸞聖人、一番信じられるのが弥陀の本願。 関東の人たちは親鸞聖人ハッキリ仰有って下されれば、法然上人、善導大師、釈尊、弥陀の本願まことだと思えます。親鸞聖人がこういう答え方をしておられる。これは関東から来た人たちは全く意外でした。弥陀の本願まことだが一番かすんでみえる。「私ら全然納得できません」 関東の同行達の考え方は全部こうでした。これが自力の信心の考え方なのです。まず身近な目に見えるのは親鸞聖人。親鸞聖人が尊敬される法然上人は尊いに違いない。法然上人、善導大師を尊敬されているから間違いなかろう。お釈迦様間違いなかろう。お釈迦様がこれ一つ説かれた弥陀の本願間違いなかろう。共通している迷いです。これを真っ向から破っておられるのが弥陀の本願です。三世十方を貫いているのは弥陀の本願しかない。親鸞聖人は常にここに立っておられる。極端なことを言えばお釈迦様は架空の人物だと科学的に証明されても、親鸞聖人の信心は何ともありません。親鸞聖人は、「釈尊がゆらいでも、親鸞は結構ですよ。」ということです。親鸞聖人は架空の人物ではないかと明治時代に言った人がありました。 法然上人の選択本願念仏集に欠陥がある、教行信証にミスがあると証明されても何ともありません。関東の人たちは違います。親鸞聖人の教行信証に欠陥があると、ひっくり返ります。あと何も残りません。 これ自力の信心です。自力と他力はこんなに違います。まるきり反対です。親鸞聖人はその自力の信心を真っ向から打ち砕いておられます。弥陀の本願まこと、歎異抄に仰ってますが、この世にまことは一つもない。その中に親鸞聖人、法然上人、善導大師、釈尊も、空事、たわごとの中に入ります。これらがまことだと思っているとひっくり返ります。親鸞聖人は「オレにすがってもダメだぞ。まことは弥陀の本願一つだぞ。弥陀の本願まことにおわしまさば……」とおっしゃっていますから出発点が全然違います。これは親鸞聖人の主著、教行信証の総序に「誠なるかなや、摂取不捨の真言(阿弥陀仏の本願)…」 阿弥陀仏の本願まことだった。そこから出発されています。教行信証の最後、後序には、「心を弘誓の仏地(阿弥陀仏の本願)に樹て」 阿弥陀仏の本願を弘誓の仏地と言われて心を常に弘誓の仏地に立てておられます。親鸞聖人は常に弥陀の本願まこと。いつ崩れるか分からんものに立っておられるのではなく、永遠不滅なものに立っておられます。多くの人はお金を喜びにしています。心を金銭に立てているのです。財産、夫、妻、子供に心を立てている人、これらを信じ、たよりにしています。これらは皆崩れ、裏切られ、滅びるものです。親鸞聖人のように弘誓の仏地に立てている人はありません。地位とか名誉とか、そればかりです。裏切られて泣いている人ばかりです。人は、永遠に崩れることのない阿弥陀仏の本願に救われる為に生まれてきたのです。
あとは勝手にしろ
詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし。 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、 面々の御計らいなり、と云々。
「いくら言っても親鸞の信心、このほか何もござらぬ。この上は、日蓮に従って念仏捨てようと、親鸞に同心して、念仏を信じたてまつろうとも、おのおのがたの、勝手になさるがよかろう」歎異抄第二章は、最初から、『ああ大変でしたね』 『何日ほどかかりましたか』という普通のねぎらいの言葉がなく、そして最後も、「お前らの信心とオレの信心、夜と昼ぐらい違う。勝手にしろ」といわれて、さーっと違う部屋へ行ってしまわれました。これは一体なぜなのでしょうか。関東から命がけで尋ねてきた人たちの気持ちをよく親鸞聖人は知っておられたのです。それをよく弁えられた上で、そういう人たちは、どういう言葉を言えば、一番満足するのか。『大変でしたね』 『ゆっくり休んでから話聞かせてもらいますね』そんな言葉おそらく聞きたくないだろう。それで親鸞聖人は、一番聞きたいと思っておられる言葉をおっしゃったのではないでしょうか。逆に、親鸞聖人が、あわてて経典の根拠を示されて説明を始められたらどうでしょう。「念仏は、今まで20年間お前らに話してきたように、何というお経にはこうで、何というお経にはこうで、このようにお釈迦様教えてある」 「今まで教えてきたことは間違いないのだぞ。もし地獄ゆきの業なら、お釈迦様がお父さんが亡くなられる時、なぜ念仏三昧を勧められたのか、そんなことあるはずないではないか」 「だから日蓮の言うように、地獄行きなんてとんでもない」そんな、何とかなだめようという言葉は、全然ありません。 『親鸞知らん』と言われたり、『南都北嶺に学者沢山いるからそっちへ行け』 『勝手にせい』”それが聞きたかった”関東の同行は親鸞聖人20年間何教えられたかよく知っています。むしろ、心が晴れ晴れとしたのではないでしょうか。歎異抄2章は、親鸞聖人恐ろしい感じを持つところもありますが、その中にも安心できるような、抱擁されるような感じがあります。このように、聖人の心底からの怒りに、震えあがった関東の同行たちではありましたが、不思議と晴れ晴れとした安堵感と、底知れぬ頼もしさに、心身の踊るのをどうしようもなかったことでしょう。  
■第3章 いわんや悪人をや 悪人正機
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。 / 善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。  
しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや 善人をや」。 / ところが、世間の人は常に 「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」 と言っています。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、 本願他力の意趣に背けり。 / これは一見それらしく聞こえますが、 阿弥陀仏が本願をたてられた趣旨に反するのです。  
そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる 間、弥陀の本願にあらず。 / なぜならば自分の力で後生の一大事の解決をしようとしている 間は、他力をたのむことができないので、阿弥陀仏のお約束の対象 にはならないのです。
しかれども、自力の心をひるがえして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。 / しかし、自力をすてて他力に帰すれば、 真実の浄土へゆくことができるのです。  
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを 憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。 / 欲や怒りや愚痴などの煩悩でできている私たちは、どうやっても 迷いを離れることができないのを、阿弥陀仏がかわいそうに 思われて本願をおこされたねらいは、悪人成仏のためですから、阿弥陀仏のお力によって、自惚れをはぎとられ、醜い自己を 100%照らし抜かれた人こそが、この世から永遠の幸福に生かされ、死んで極楽へ往くことができるのです。  
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。 / それで、善人でさえ助かるのだから、まして悪人はなおさら 助かると仰になったのです。  
歎異抄最強のカミソリ
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
これは、日本思想史上、最も有名な一文と言われます。学校の教科書でも、善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。と必ずどこかに出ています。「往生」とは、助かるということですから、意味は、善人でさえ助かるんだからまして悪人は助かる、という衝撃的な言葉です。これを精神異常者が言ったのなら驚きませんが、親鸞聖人が言われた言葉なので、みんな驚くのです。そうすると、善人にならないで、悪人になればなるほど助かるということになってしまいます。これは一体どんな意味なのか、解説しようとしては、色々誤解されています。たとえば松原泰道の「わたしの歎異抄入門」であれば、このようになっています。
知識人や社会的な地位や財産や名誉を持つ世間的にも恵まれた人も、善人の枠内に入るように思えます。 (中略)それと逆に、正座に坐ることを許されない、名も富も知識もない、すべての意味で恵まれていない、いわゆる「悪人」をメーンテーブルに迎えるところに、親鸞の教えの特異性があります。善人は親鸞の教えでは、善人である限りいつまでたっても救われません。善人を飾りたてる知識や能力などすべてを取り去り、自我を捨て果てて、つまり愚に立ち返ってはじめて救われるのです。(松原泰道「わたしの歎異抄入門」)本当に親鸞聖人は、「知識や能力を取り去った愚か者でなければ助からない」と言われているのでしょうか。歎異抄の続きを見てみましょう。
親鸞聖人がこんな逆説的なことを言われた目的
しかるを世の人つねにいわく、 「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。 この条、一旦そのいわれあるに似たれども、 本願他力の意趣に背けり。
「世の人つねにいわく」世間では「悪人でさえ助かる、善人はなおさら助かる」これが常識です。法律でも倫理でもそうです。「この条、一旦そのいわれあるに似たれども」とは、このような考えは一見もっともらしく聞こえるけれど、それがまったく逆のことがいわれています。本願他力の意趣に背けり。
なぜ親鸞聖人こんな事を言われたのか。目的は一つです。「本願他力の意趣を明らかにするため」です。
本願他力の意趣に背いているか、あっているか。反しているか、反していないか。「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」これは本願他力の意趣にあっています。
「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」これは本願他力の意趣に背いているのです。
○善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや
しかるを世の人つねにいわく、
×悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。
世の中の人は常に「本願他力の意趣」に反することを言っているということです。
本願他力の意趣とは?
本願他力の意趣に背けり。
では「本願他力の意趣」とは何でしょうか。「本願」とは誓願とも言われるように約束ということ。 「他力」とは阿弥陀仏の本願力です。よく世間では、人のふんどしで相撲をとるような、自分以外の力をいっていますが、本来は、阿弥陀仏の本願力のみを他力といいます。
他力とは如来の本願力なり(教行信証)
では「本願他力の意趣」とは何かというと、阿弥陀仏の本願のことです。
「阿弥陀仏の本願」とは、歎異抄第1章では「弥陀の誓願」ともいわれていますように阿弥陀仏という仏のたてられたお約束ということです。では、阿弥陀仏はどんな約束をされているのでしょうか。分かりやすく言いますと、
「すべての人を 必ず救う 絶対の幸福に」
それは死んでからではない、平生、生きている現在救う、というとてつもないお約束なのです。この世から未来永遠に「絶対の幸福」に救ってみせると誓われたお約束が、「阿弥陀仏の本願」なのです。約束には必ず相手があります。相手のない約束はありません。阿弥陀仏は、お約束の相手を「すべての人」とおっしゃっています。約束するときは相手がどんな人か見定めないと約束できません。相手は男か女か、どんなうちに住まいしているのか、財産どれくらいあるのかということを、よく知った上で、この人となら、約束しよう、この人となら、約束できないとなります。阿弥陀仏が約束の相手をすべての人とおっしゃっているのは、すべての人をよく知った上で約束しておられるのです。では、阿弥陀仏は、すべての人をいかなるものと見抜かれて約束されているのでしょうか。阿弥陀仏は、すべての人は極悪人だと見抜かれた上で、そういうすべての人と約束するぞとおっしゃっています。約束の相手は善人ではないのです。金輪際、助かる縁がない悪人なのです。極悪人をあわれに思われてお約束されているのが阿弥陀仏の本願なのです。ところが、私たちは自惚れて、自分がそんなに恐ろしい者だとは思っておりません。自分は善人だというのは倫理や法律の上でのことです。仏様の目からご覧になると、善人など、この世にはいないのです。それなのに、自分は悪人ではない、悪人など人ごとだと思って聞いているのではないでしょうか。 例えば、石田瑞麿の「歎異抄 教行信証1」には、こう書かれています。
『歎異抄』で説かれている論旨は、悪人正機論であれ、善悪=宿業論であれ、われわれ人間にはそもそも悪(=殺人)を犯す可能性があるという議論だった。いつでもそうなりうる可能性における悪であり、可能態における悪人の問題だったといってよい。 (石田瑞麿「歎異抄 教行信証1」)
このように、自分は善人だと自惚れて、悪人など人ごとだと思っている人には、歎異抄第三章は全く読めませんし、「悪人でさえ助かるんだから、善人はなおさら助かる」という阿弥陀仏の本願に反した考えが出てきます。しかし、これは自分のことなのです。ですが、驚きもしなければあわてもしません。親鸞聖人は、これは自分のことだと知らされられた方なのです。
仏教を説かれたお釈迦様は、お亡くなりになるときに、「仏教は法鏡なり」と仰っています。「法」とは「真実」「本当の」ということですから、「法鏡」とは、「本当の私の姿を見せてくれる鏡」ということです。仏教を聞き始めのころは、法鏡から遠いところについて、自己の真実の姿を教えられても、「それは私のことではない。自分は違う」と思っています。そして「あの人に比べれば、私はまだましなほうだ」と平気でいます。ところが、だんだんと仏教を聞いていきますと、鏡に近づいていくように、自分の本当の姿が次第に明らかに知らされてきます。鏡に近づくほど、しわやら、あざやら、醜いものが見えてくるように、仏教を聞けば聞くほど、自分の醜い姿が知らされてきます。鏡の前に座っていても、目をつむったり、そっぽを向いていては、鏡を見ていることにならないように、何十年も仏教を聞いていても、本当の自分の姿を知らなければ、仏教を聞いたことにはなりません。善に向かえば向かうだけ出てきたのは、悪しかできない自分であった。親鸞聖人は歎異抄にこうおっしゃっているのです。
いずれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし(歎異抄)
『いずれの行』とはどんな善も。一生懸命善をしようと思ったけど、一つの善もできなかった。阿弥陀仏の光明に照らし抜かれた信の一念に知らされたのです。地獄よりほかに行き場のない親鸞であった。親鸞聖人29才、建仁元年です。この時までは何とかしたら、何とかなれる。一つや二つの善はできるだろう。あいつのやっていることくらいできるだろう。善ができるなら善人です。親鸞聖人うぬぼれて、できなかったのです。ところが、善をやればやるだけ、何一つ善ができない親鸞と知らされるのです。いいかげんな気持ちで親を大事にしているのなら徹底的にやってみて下さい。やればやるだけ親孝行のできない自分が知らされるです。真剣に向かえば向かうだけ知らされるんです。悪しかできない親鸞でございました。十方衆生の代表は親鸞でございました。知らされたのが、29才の時です。助かる縁手がかりの切れた時です。助かる縁手がかりが切れた時知らされたのが阿弥陀仏の本願は親鸞一人の為だった。親鸞一人がためなりと浮かび上がったのが、この時です。一切がさわりにならない無碍の一道、絶対の幸福に救われた一念の時、これは同時です。悪人の姿を知らされて、阿弥陀仏は助けて下されるんですから、これが、阿弥陀仏の本願の意趣です。すべての人は全員、自惚れているのです。それで親鸞聖人も20年も修行されたのです。そうしたらだめだった。ですから善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をやなのです。
○善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや
しかるを世の人つねにいわく、
×「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。
世の人はこのような阿弥陀仏の本願に反したことをいっている。善人なんてこの世にいないのです。これが本当だとみんな思うかもしれませんが、阿弥陀仏の本願に背いています。自分の本当のすがたを知らないのだということです。
なぜ阿弥陀仏の本願に救われないのか
そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる 間、弥陀の本願にあらず。
「自力作善の人 」とは、何とかしたら何とか助かると思っている人。自分で努力したならば、善ができると自惚れている人。ところが、いずれの行もおよびがたき身と知らされた時、助かるのぞみがきれたのです。「助かるのぞみ」を自力といいます。助かる縁手がかりがないと地獄におちた時、自力がすたるのです。同時に他力が満入するのです。自力が廃ったと同時に他力に入ります。ひとえに親鸞一人が為だった、と生き返るのです。一念で自力がすたって死んで、絶対の幸福に生まれます。ところが、何とかしたら何とかなれると思っている人は、自力がすたらないのです。他力をたのむ心かけているから。阿弥陀仏にうちまかせることができないのです。
自分が何とかしたら何とかなれるという心が邪魔して、阿弥陀仏にうちまかせることができないのです。自力が廃らない限りは、絶対他力に入らないんです。この自力について、全く正反対の解説をしている本さえあります。たとえば、山崎龍明の「歎異抄とともに」では、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」をこのように解説しています。 自力の道に生きる、立派な人々は救われるのが当然です。そして、そのような生き方ができない、多くの悪を抱えた私たちを救うために願いをおこされたアミダ仏であってみれば、悪なる者が救われるのはあたりまえであるということです。(山崎龍明「歎異抄とともに」)
龍谷大学宗教部の「歎異抄に学ぶ」では
どうして私の自力が、「私」を越える力になるのだろうか。(龍谷大学宗教部「歎異抄に学ぶ」)
自力が何か分からないのかもしれませんが、自力で自力を越えるのではありません。自力を捨てて他力に帰する「捨自帰他」の教えは、親鸞聖人の教えの心臓部分です。歎異抄に書かれている通り、自力がきれいに廃った時、浄尽した時、他力に入るのです。くれぐれも正反対にならないように気をつけて下さい。自力がすたって他力に入ります。
阿弥陀仏の救いが完成するとき
しかれども、自力の心をひるがえして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
「自力の心をひるがえして」 「自力の心」とは「自力作善の心」 自分が何とかしたら何とかなれる、この心をひるがえすということは廃るということです。これがすたれば阿弥陀仏にうちまかせることができます。他力をたのみたてまつることができます。お願いしますというたのむではありません。このようによく間違われています。
けども「自分たのみ(=自力本願)」という心を入れ替えて、まあ「あんじょう頼んます」と願うとれば、ホンマもんの極楽行きも間違いなしやで。 (中略) 「ひとまかせ」で「お願いしますわ」と一途に思うとる悪人が、いちばんに往生してしまうんは、理屈に合うとるわけやな。(川村湊「歎異抄」)
さらに、「他力」は「ひとまかせ」でもありません。阿弥陀仏のお力だけを「他力」といいます。「たのむ」は、お願いするのではなく、うちまかせるということです。ですから、他力をたのむとは、他力にうちまかせる、阿弥陀仏にうちまかせるということです。自力がすたって、絶対の幸福に生まれたこの一念の時を、たのむといわれるのです。一秒の何億分の一よりも短いとき。この一念の時に弥陀をたのむ。ここが決勝点です。信仰に決勝点なんかあるかという人ありますが、それは決勝点を知らない人です。ここで完成です。一念で、人間に生まれてよかった。あの体験をすれば、死ねば「真実報土」です。「真実報土」とは、「極楽浄土」のことです。極楽浄土へいって生まれることができますよ。ですから、誰でも彼でも死んだら極楽浄土いけるのではありません。この一念の体験のある人だけです。「他力をたのみたてまつれば」自力が廃らないと他力をたのみたてまつることはできませんから、他力をたのめば、この世から無碍の一道に出させて頂いて、死ねば弥陀の浄土へ生まれることができるのです。
なぜ悪人が救われるのか
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざる を憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。 よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。
煩悩具足の我らは「煩悩」とは、欲や怒りや愚痴などの私たちをわずらわせ、悩ませるものです。「具足」とは、それでできているということです。煩悩でできた、悪しかできない私たちは、ということです。いずれの行にても生死を離るることあるべからざる。親鸞聖人は いずれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし。これは、親鸞聖人だけのことではありません。すべての人のすがたです。「煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざる」 「生死」とは苦しみ迷いのことです。「憐れみたまいて願をおこしたまう本意」 苦しみ迷いから離れることのできない煩悩具足のわれらを、阿弥陀仏があわれみたまいて本願をたてられた。金輪際助からない私たちの為に、必ず助けてみせる。もし助けることができなければ命を捨てます。命をかけて、絶対助かる縁手がかりのないものを、絶対助けてみせるとおっしゃっています。「願をおこしたまう本意、悪人成仏の為ならば」 善人なんて一人もいないのですから。すべての人は全員悪人なのですから。善人がいるとすれば、自惚れている人のことです。親鸞聖人でさえも「一つの善もできなかった」と言われているのですから、まして私たちができるわけありません。できるというのは自惚れて、自分の本当のすがたがわからないだけです。二種深信がここで言われているわけです。「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。」 「もっとも往生の正因なり。」これより他に極楽へ行く道はないんですよ、ということです。
「よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき」
だから、善人でさえ助かる、まして悪人はなおさら助かる、とおっしゃったのです。すべての人は自惚れて、自分はみんないいものだとおもっているのです。
自分ほど悪いものはいなかったと知らされるのは、法鏡に照らされた、信の一念しかありません。本当の自己に体面させられる時、本願他力の意趣が明らかになるのです。本願他力の意趣に、これはあう、これはあわない。非常に強い言い方で、阿弥陀仏の本願は、こうなんだぞ、ということを印象強く教えられているのです。  
■第4章 慈悲といっても2つある
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。 / 慈悲といっても、聖道仏教と浄土仏教では違いがあります。  
聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。 / 聖道仏教の慈悲とは、他人や一切のものをあわれみ、いとおしみ、大切に守り育てることをいいます。
しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。 / しかしながら、どんなに頑張っても、思うように満足に助けきることは、ほとんどありえないのです。
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心を もって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。 / 浄土仏教で教える慈悲とは、はやく阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称えて仏になる身となって、大慈悲心をもって思う存分人々を救うことをいうのです。
今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難けれ ば、この慈悲始終なし。 / この世でどんなにかわいそうに、何とかしてやりたいと思っても、ご承知の通り、助けきることは難しいですから、聖道の慈悲は、一時的で徹底しないのです。
しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々。 / だから、阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称える身になることのみが、徹底した大慈悲心なのです、と親鸞聖人は仰せになりました。
「慈悲」に2通り?何ですか?どっちがいいんですか?
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
親鸞聖人は、慈悲に2つあるとおっしゃっています。「慈悲に、聖道と、浄土の二つある」
『慈悲』とは、『慈』の心と、『悲』の心です。『慈』とは、苦しんでいる人を、かわいそうだ、苦しみを抜いてやりたいと思う心です。これを『抜苦』の心といいます。子どもが病気で苦しんでいると、親は、病院に連れてゆくでしょう。何とか苦しみをぬいてやりたい。どんなにお金がかかっても、夜中で自分は眠たくても、連れてゆきます。これが、親の抜苦の心です。
『悲』というのは、楽を与えてやりたいという、『与楽』の心です。ですから、慈悲というのは、抜苦与楽のことです。
その慈悲に、聖道と、浄土の二つある。ですから、抜苦与楽に二つあるということです。ということは、抜くと言われた苦しみに2つあり、与えると言われた楽しみにも2つあるということです。
1つ目「聖道の慈悲」とは?
聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。
1つ目の「聖道の慈悲」とは、ものを憫れみ悲しみ育むことです。苦しんでいる人を見ると、あわれみ、かわいそうだ。何とか苦しみを抜いてやりたいと思います。悲しみ、かわいそうだ。育むといいますのは、助けてやりたいということです。これが慈悲です。
これは「人間の慈悲」です。倫理や道徳は、こういうことを教えています。この慈悲がなければ、鬼といわれます。鬼というのは、もとは「遠仁(おに)」と書いていました。仁に遠ざかると書きます。「仁」とは、人の道であり、慈悲の心です。この心があってはじめて人と言われます。苦しんでいる人を見ても、ほうっておく。そういうのが鬼です。慈悲がなければ、人間でないのですね。ですから、これは、人間の慈悲です。こういう心が深ければ深い程、広ければ広い程、立派な人といわれます。
政治も経済も科学も医学も、人間のやっていることの目的はみんなこれです。政治は、国民の利益と安全を守りたい。経済は、貧しい人を豊かにしてやりたい。科学は、少しでも快適にしてやりたい。医学は、病気で苦しんでいる人を、楽にしてやりたい。人間のやっていること全部、この「聖道の慈悲」なのです。しかし、親鸞聖人は、これは「聖道の慈悲」だとおっしゃっています。
「聖道門の慈悲」の正体
しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。
「聖道の慈悲」の正体を、親鸞聖人は、「助けとぐること極めて有り難し」とおっしゃっています。「人間の慈悲」の正体、本当の姿を親鸞聖人は、「思うように助けることが出来ない。完全に救いきることはできないんだ」と言われているのです。
もちろんこれは、「無慈悲であっていい」ということではありません。しかしこれは、一時的な救いなのです。「思うが如く」とは、人間の苦しみ悩みの根元を抜いて、人間に生まれた目的を達成させる。本当の意味で助けきることはできないのだとおっしゃっています。
2つ目「浄土の慈悲」とは?
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心を もって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
ここが歎異抄書いた人の怪しいところです。「仏に成る」とは、親鸞聖人においては死後のみです。親鸞聖人の書かれたもので、死後以外で「仏に成る」とはどこにもありません。それが親鸞聖人の一貫した教えです。
「仏になれば大慈大悲心を持つから思う存分衆生を救うことができる。だから浄土の慈悲は死なねば発揮できない」とするならば、「急いで仏に成りて」は「急いで死ね」ということになってしまいます。 実際、これを文字通りそのような解釈をしている人もあります。
「念仏していそぎ浄土」に生まれることが、おのづから大慈大悲の生活にみちびかれるのである。 (梅原真隆『歎異鈔講義』)
学者の人は、文字にとらわれてしまうのでしょうか。
(親鸞聖人は)利他教化ということは、すべて一生涯を終ってからのことであると領解せられました。 (金子大栄『歎異抄聞思録』)
ところがもし本当に親鸞聖人が、人に仏法を伝えるのは一生涯を終わってからだと理解され、死なねば人を救うことができないなら、親鸞聖人は29歳で阿弥陀仏に救われたのですから、すぐ死なれたはずなのに、なぜ90才まで生きておられたのかということになってしまいます。そして関東では、雪をしとねに石を枕に、仏法嫌いの日野左衛門を済度されたり、剣をかざして殺しにきた山伏弁円に対しても、「御同朋・御同行」と親しく仏法を伝えておられます。「早く仏になりて」では、親鸞聖人の生きざまとも全然違います。
正しい親鸞聖人の教え知ろうと思うなら主著『教行信証』です。親鸞聖人がじかに筆を取って書かれました。『教行信証』をはじめ、親鸞聖人書かれたもの以外はものさしにしてはなりません。歎異抄は親鸞聖人の書かれたものではありませんので、『歎異抄』に書いてあるからといって、自分の思いで親鸞聖人の教えを曲げるわけにはいきません。『歎異抄』の著者は言葉が抜けたのではないでしょうか。親鸞聖人の書き残されたものにあうかどうかがポイントです。
そこで、 「成る身に」を入れて、「仏に成る身になりて」ではどうでしょう。阿弥陀仏の本願に救われて、いつ死んでも仏に成る身になりてという意味ならば、ぴったりです。ですから浄土の慈悲は「念仏して」 急いで信心獲得して、いつ死んでも仏になれる身になって、大慈悲心をもって思う存分人々を救う、これが「浄土の慈悲」です。
大慈悲心には、ものを憫み悲しみ育む、そういう慈悲ではなく「大」の字がつきます。阿弥陀仏に救われますと、「大慈悲心」を阿弥陀仏から頂きますから思うが如く本当の抜苦与楽・阿弥陀仏の救いにどんどん導くことができるのです。「思ふが如く助け遂ぐること」が「浄土の慈悲」です。阿弥陀仏に救われて皆を導くことが出来ます。本当の意味で、みんなを助かったという身にすることができるのです。
「聖道の慈悲」の結論
今生にいかに愛し不便と思ふとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。
これは聖道の慈悲を言われたものです。さきほど、「思ふが如く助け遂ぐること極めて有りがたし」といわれたのは、「今生にいかに愛し不便と思ふとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし」と同じ意味です。これが「聖道の慈悲」に実態であるということです。
「今生」この世で色んな人を見て、いとおしいと思います。この世は悲惨な人が沢山います。「いかに愛し不便と思ふとも」 「助けてあげたい」と思っても「存知のごとく」ご承知の通り、「助け難ければ」助けるということが難しい。「聖道の慈悲」は本当に助けるということが出来なません。
「始終なし」というのは一時的で、末徹らないということです。しばらくのことです。助かったと言っても、死ななくなったのではありません。2、30年延びただけです。末徹りません。変わってゆきます。徹底しないのです。では「浄土の慈悲」はどうでしょうか?
「浄土の慈悲」の結論
しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々。
最後に、この世で阿弥陀仏に救われて、大慈悲心を阿弥陀仏から頂いて、人々を救う「浄土の慈悲」について言われています。よくこれを、「とにかく念仏を称えることだけが一貫した大慈悲心なのだ」と思っている人があります。
ただただ念仏をとなえることだけが一貫した大慈悲心なのである(ひろさちや「マンガ歎異抄入門」)
しかし、そういう意味ではありません。「阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称える身になることのみが、徹底した大慈悲心なのです」 ということです。なぜそれが大慈悲心なのかというと、この世で阿弥陀仏に救い摂られると、阿弥陀仏の御心と我々の心とが一体になります。
一念帰命の信心を発せば、まことに宿善の開発に催されて仏智より他力の信心を与えたまうが故に、仏心と凡心と一つになるところをさして信心獲得の行者とはいうなり。(御文章)
「仏心」とは阿弥陀仏の御心。「凡心」とは私たちの心です。阿弥陀仏の御心と私たちの心が一つになるのです。では「仏心」とは何かといいますと、これが、大慈悲心です。
仏身を観ずるを以ての故に、また仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。(観無量寿経)
阿弥陀仏から大慈悲心を頂き、絶対の幸福に救い摂られます。本当の幸福に救われた人は、こんな幸福の身に救われて、ひとりじめしていてはもったいないと、人に伝えずにおれなくなってくるのです。大慈悲心をもって思う存分人々を救わずにおれないのです。これこそ、苦悩の根元を抜き、本当の幸福を与える本当の意味での抜苦与楽、大慈悲心なのです。浄土の慈悲というのは、この世で阿弥陀仏の本願に救われて、阿弥陀仏から大慈悲心を頂いて、人々を救うことなのです。
最後に、「聖道」と「浄土」について考えてみると、「聖」と「浄」は、どちらも汚れがない、きよらか、ということで大体同じなのですが、「道」と「土」は違います。浄土の「土」は、土地とか世界ということですから、目的地。聖道の「道」とは、道程のことです。そういうことからすると、「聖道の慈悲」とは「どう生きるか」という生きる手段です。生きていく上で、憫み悲しみ育むのです。これによって健康になったり、お金がもうかったり、人間関係がよくなる幸福は人と比べて喜ぶ「相対の幸福」です。生きる上で必要ですが、喜びは続きません。完成もありません。
それに対して「浄土の慈悲」というのは「なぜ生きるか」という生きる意味、変わらない、本当の幸福、絶対の幸福を知らせ、果たさせる慈悲なのです。
「聖道の慈悲」は「どう生きるか」という生きる手段についての努力、慈悲です。「どう生きるか」と「なぜ生きるか」との違い、「相対の幸福」と「絶対の幸福」との違いが、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」です。
「慈悲」と言いいましても二つあります。ものを憫み悲しみ育むことを軽視してはなりません。「なぜ生きるか」という、生きる目的が明らかになって、この為にこそ「どう生きるか」という生きる手段が大事になってくるのです。  
■第5章 念仏一返未だ候わず・本当の親孝行とは
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。 /  この親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏いっぺんたりとも となえたことは、いまだかつてないのです。  
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。 / なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを くり返す中で、いつの世か、父母兄弟であったことでしょう。
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。 / そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には 仏に生まれて助けなければなりません。
わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも 助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、 六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便を もってまず有縁を度すべきなり、と云々。 / それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を 助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかっ たのです。ただ、自力をすてて阿弥陀仏の本願に救われ、 仏のさとりを開けば、迷いの世界でどんな苦しみに沈んでも、 仏の方便によってご縁のある人を救うことができるでしょう、 と親鸞聖人はおっしゃいました。
この親鸞は、親の追善供養をしたことがないのだよ
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ 候わず。
「親鸞はこうだ」と、自分の名前を打ち出して言われているところは非常に重大なところです。「これは間違いなく親鸞が言ったんだ」 強い信念で責任のありかをハッキリされています。「本当にこんなこと言われたんだろうか?」と思われるようなことを書かれるとき、その疑いを打ち砕くように親鸞聖人はこんな言い方をされます。
「父母の孝養」とは 「父母」とはお父さんお母さん「孝養」とは追善供養です。親の追善供養をしたことがないということです。親鸞聖人は主著の教行信証には繰り返し追善供養は否定されているのですが、歎異抄第五章には、こういう衝撃的な言葉で、しかも短い言葉で言われています。
「追善供養」とは、善い行いをして、亡くなった方が喜ぶことをしようとすることです。葬式・法事・読経・念仏・墓を立てる、そんな追善供養するものが仏教と思われています。みんな、寺と言ったら追善供養するところ、僧侶は追善供養する者、仏教は追善供養する教えと思っています。この追善供養を親鸞聖人は否定せられたのです。それでは全仏教の否定だ、と思われませんか? 大変なことを言われたことがわかります。そうすると、「寺は何するところ?坊主は何する人?」とみんな驚くことでしょう。
世の中では、生きている時放っておいて、老人ホーム入れていても、死んだら盛大な葬式をして追善供養すれば、感心なやつ。親孝行だとほめられます。生きている時親孝行しても、追善供養をしないと、「葬式もしない、法事もしない。線香の一本も立てない。親不孝な奴だ」と非難されます。追善供養をしない人は親不孝、追善供養をする人は親孝行、と思うのが、常識です。
それなのに、親鸞聖人は、間違いなく親鸞の言ったことだと名前を出されて「この親鸞のことじゃがな。亡き父母の追善供養の為に一返の念仏も、一巻のお経も読んだことがないのだよ」といわれているのです。
もちろんこれは、念仏だけのことではありません。葬式や読経、その他一切の仏事も含んでのことです。しかも親鸞聖人が最も慕われたお父さんお母さん、親の追善供養もしたことないということですから、強烈です。「親鸞、門徒や檀家の追善供養をしたことがない」でも驚きですが、ましてや一番慕っておられたお父さんお母さんの追善供養をしたことない。これは大変な驚きです。一体何をおっしゃったのでしょうか。
すべての生命はかつて父母兄弟だったかもしれない
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。 いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
「有情」とは心(情)の有るものということです。人間だけではありません。牛やブタ、犬とか猫とか獣や虫けら、みんな入ります。生きとし生けるものすべてが「一切の有情」です。
それが、果てしのない遠い過去からのことを考えますと、すべての生きとし生けるものは、かつては父であったかもしれないし、母であったかもしれません。あるいは兄、弟、姉、妹、という関係であったかもしれません。深い関係が一切の有情にはあるのだと言われています。すべての生きとし生けるものは父であり母であり兄であり弟である、これが仏教であり、親鸞聖人のお気持ちです。
人間界だけのこと考えてもそうなのです。仏教では、すべての人は、果てしのない過去から6つの迷いの世界を生まれては死に、生まれては死に繰り返してきたと教えられています。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の六つです。この六道を車の輪がまわるがごとく、同じ所をぐるぐるぐるぐる生死生死を繰り返してきたのです。
そうすれば今は猫であっても父であったかもしれません。母であったかもしれません。姉であったかもしれません。こういう関係が偲ばれます。深い関係があります。仏教ではそう教えられます。
親鸞聖人も過去何億兆年とさかのぼってのことを言われているのです。今の私の父、母と言われている人だけが父、母ではない。いずれの生で父であったかもしれない。母であったかもしれない。仏教では、人間だけが尊いと見るのではなく生命は同根であり、上下はないと見ています。仏教では牛や豚、魚に至るまで、私たちも、果てしない遠い過去から、かつては牛、かつては犬、そういう因縁があって人間に生まれ、生死を繰り返しながら今日に至っていると教えられています。
生命は同根。人間の生命だけが尊いというのではありません。だから、『いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり』すべての生きとし生ける、一切の有情を、自分が仏になって、自分が助けないといけない。かつての父母・兄弟であった人、いずれもいずれも死んだ後、次の生に仏に成って救わなければなりません。
仏教で廻向に2つあります。
わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ、
もし念仏が、自分の力で励む善ならば、念仏の功徳を差し向けて両親を助けることもできるだろう。
廻向(えこう)とは、与える、差し向けるということです。廻向に2つあります。1つには「自力廻向」 2つには「他力廻向」です。
まず「自力回向」とは、自分のやった善を仏や神や菩薩、死んだ人などに差し向けることです。「これで助けて下さい」と差し向けます。供養します。このような、私のやった善根功徳を差し向けることを自力廻向といいます。
歎異抄第五章では、親に、自分のやった善根功徳を差し向けることを追善供養といわれています。追善供養というのは自力廻向です。「親鸞は父母の孝養の為に念仏一返にて申したること未だ候はず」の御言葉は、追善供養を否定せられたということは、自力廻向を否定せられた同じことです。
「他力廻向」とは、阿弥陀仏が私たちに差し向けて下されます。「他力」とは、阿弥陀仏のお力ですので、差し向けて下される方は阿弥陀仏だけです。他の仏は、私たちに与えるものを持っていません。ましてや菩薩、死んだ人も持っていないのです。
自力廻向  私  →  仏・菩薩・神・死んだ人など
他力廻向  私  ←  阿弥陀仏
「他力廻向」というのは阿弥陀仏が私たちに名号を・南無阿弥陀仏を下さるのです。
「わが力にて励む善にても候はばこそ念仏を廻向して父母をも助け候わめ」だから、念仏が自分の力で励む善なのであれば、さしむけて父母を助けることもできましょう。しかし、名号南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏から頂いたもので、私は、微塵の善もできない、地獄しか行き場のない者だったのです。
早く救われて御縁の深い人から救うことができる
ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、 六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもって まず有縁を度すべきなり、と云々。
だから早く自力のうぬぼれを捨てて、真実の自分のすがたが知らされる一念まで求め抜きなさい。早く救われて、すべての人が苦しみ悩みの人生の海に、溺れて苦しんでいるから、縁のある人から思う存分助けることができるのです。
「神通方便」とは自由自在に助けることができる。「六道・四生のあいだ」とは果てしのない生死の苦海。「いづれの業苦に」とはみな苦しんでいるけど「有縁」とは縁の深い人から助けることができる。
ここで歎異抄の表面に出ているのは、死んで極楽に行って、仏のさとりを開いて、縁のある人を救って行くと書かれています。しかし第4章にもありましたように、仏のさとりを開かないと人々を救うことができないということではありません。親鸞聖人も、29才で阿弥陀仏に救い摂られてから、90才でお亡くなりになるまでの61年間、阿弥陀仏の本願を伝える大活躍をされています。
阿弥陀仏の本願に救い摂られて、苦しんでいる人を助ける。『歎異抄』の第4章と第5章は、注意しませんと、「死んで極楽へ行かなければ人を助けることできない」と読んでしまいます。
『教行信証』、その他親鸞聖人の書かれたものは読まずに『歎異抄』ばかり読みますと、注意が必要です。親鸞聖人の教えは、『教行信証』をよく知って理解した上で『歎異抄』を読むと、本当のこと分かります。
では、結局、親鸞聖人は、なぜ追善供養を否定されたのでしょうか。2つあります。1つは機の深信から 2つは追善供養は親の喜ぶことではないからです。
追善供養を否定された理由1 機の深信
「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し」と深信す。(機の深信)
まず1つ目の機の深信とは、「いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の自分であった、とハッキリした」こういう自分であることに疑いがなくなったのを機の深信といいます。
親鸞聖人は、9才から29才まで、比叡山での20年の修行の結果は、「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」でありました。
死んだ人に追善供養するのは自分のやった追善供養で死んだ人を助ける、というのが大前提です。自分に人を助ける力ある。死んだ親を助けることできる。そうでなかったらやるはずありません。しかし、本当の自分の姿が、知らされると自分が助かる縁手掛かり微塵もないとハッキリします。それなのに自分のやった善で死んだ親を助ける、という自惚れは、どこからも出てこないのです。全く可能性がないのです。
親鸞聖人が念仏一返も線香一本も立てたことないと言い切られた根底には機の深信があるのです。
追善供養を否定された理由2 親が喜ばない
もう一つは、葬式や法事は親の喜ぶことじゃないんだ、と、親鸞聖人は、本当の追善供養を教えられたのです。
親の追善供養する子供の心、目的は何でしょうか。葬式や法事が死んだ親の喜ぶというのが、大前提です。生きている間は喜ぶことをしようともしないで、死んだら喜ぶことしようとします。
親鸞聖人は、葬式や法事は親の喜ぶことじゃないんだ、と本当の追善供養を教えられたのです。「死んだ親の喜ぶことじゃないんだ。だから親鸞やらない。親鸞の親がこんなこと喜ぶならやり通すだろう。毎日お経読むだろう」あれほど両親慕われた親鸞聖人、それが喜ぶことと思われたなら毎日お経読まれたでしょうし念仏称えられたでしょう。線香立てられたでしょう。しかし一返もされたことない。親の喜ぶことじゃないと知られていたのです。
では親の喜ぶことは何でしょうか?それは、親になって、自分の子供に何を望むかを知れば分かります。その、子供がしてくれたら嬉しいことを自分が親にしてあげれば親が嬉しくなります。
親がいちばん子供に望むことは色々あると思いますが、つきつめて考えると、次の2つではないでしょうか。
1子供が正しく生きる
2子供が幸せになる
小遣いくれる子供がいい子供と思う親もあるかもしれませんが、「私は経済的に楽にならなくても、私にくれなくてもいい。子供に正しく生きてもらいたい」それが親だと思います。正しく生き抜き、真実の幸福になることが、親に対しての一番の恩返しになるのです。
約2600年前、お釈迦様は、すべての人が本当の幸福になれる道一つを生涯、教えてゆかれました。仏教の教えによって本当の幸福になり、苦悩渦巻く人生を光明の広海と転じて、明るく強く、たくましく生き抜かせていただける身になることが、本当に親を喜ばせることになるのです。  
 

■第6章 親鸞弟子一人も持たず
専修念仏の輩の、「わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らん こと、もってのほかの子細なり。 / 阿弥陀仏の救いを聞かせていたただいている人の、 「あの人は私の弟子だ、あの人は人の弟子だ」という争いは、 もってのほかのあやまりです。  
親鸞は弟子一人ももたず候。 / この親鸞は、一人の弟子もありません。
そのゆえは、わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、 弟子にても候わめ、ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏 申し候人を、「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり。 / なぜなら、私が教えてみなさんが阿弥陀仏に救われたのならば、 私の弟子ともいえるかもしれません。 しかし、みなさんが仏法を聞き始められたのも、 求められたのも、阿弥陀仏に救われたのも、 まったく阿弥陀仏のお力によってなのですから、 そんな人を「私の弟子だ」などというのはとんでもない傲慢なことです。
つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離るることのあるをも、 「師を背きて人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなり」 なんどいうこと不可説なり。 / 縁あれば連れ添い、なくなれば別れることもあります。 師匠に背いて他の人について阿弥陀仏に救われたら、 死んで極楽へ往くことはできないなどと、いえるものではありません。
如来より賜りたる信心を、わがもの顔に取り返さんと申すにや。 / 阿弥陀仏から頂いた真実の信心を、わがもの顔に取り返そうと言うのでしょうか。
かえすがえすも、あるべからざることなり。 / 重ねて念を押しますが、あってはならないことなのです。
自然の理にあいかなわば、仏恩をも知り、また師の恩をも知る べきなり、と云々。 / 真実の阿弥陀仏の救いにあえば、阿弥陀仏の御恩も知らされ、 それを伝えて下された先生のご恩も知ることになるでしょう、 とおっしゃいました。
仏教で師匠と弟子が厳しく決められていた時代
専修念仏の輩の、「わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らん こと、もってのほかの子細なり。
『専修念仏の輩』とは『一向専念無量寿仏の人』と同じことです。つまり、往生の一段においては、阿弥陀仏一仏しか我々の後生の一大事を助けて下される方はないと知らされて、阿弥陀仏一仏の救いを聞かせて頂いている人たちを、『専修念仏の輩』といいます。
親鸞聖人の時代までは、自分の縁のある仏や菩薩の教えにしたがって修行して、救われようとしている自力聖道仏教の人たちばかりでした。それらの自力の仏教では師匠と弟子は厳然と区別されていなければ、仏教がなりたちませんでした。どんなに弟子が優秀でも、師は師、弟子は弟子。終生変わらず、絶対服従なのが、聖道仏教です。師匠と弟子がハッキリしていないと根底からおかしくなります。それが親鸞聖人までの仏教のことなのです。
それに対して、一向専念無量寿仏の輩、浄土他力仏教は、全く違いました。180度がらっとかわりました。そこで、親鸞聖人は「専修念仏の輩」とまずおっしゃいました。聖道仏教なら少しも問題になりません。問題にすることがおかしいのです。聖道仏教ではない、阿弥陀仏の救いを聞かせて頂く私たちにとって、これは問題ですよ、ということです。
ましてや親鸞聖人の時代、まさに驚きです。ありえないことを今から親鸞聖人おっしゃろうとしています。阿弥陀仏の救いを聞かせて頂いている人たちは、こういうことがあってはなりません。聖道仏教では、そうでないと仏教にならないのです。それ程、師と弟子を厳しく決められている。今から800年前、間違いなく、今より厳しかった時代に、こうおっしゃっているから驚きです。「あの人は私の弟子だ、あの人は人の弟子だ」という争いはもってのほかだぞ。
これは聖道仏教の連中から言うと、我が弟子、人の弟子ということが決まっていないことがもってのほかです。それが仏教の伝統で当然至極のことになっていました。それは、聖道仏教では、「お前はそれでこれだけのさとりを開いた」と師匠が認可することによってきまります。その人のさとりを人が決めるのです。自力の仏教ですから、仏様から直接でなく、自分の力で何とか助かろうとしていますので、先に修行を始めた人、師と弟子の関係は、厳然と守られないと教えがなりたちません。
これを親鸞聖人はまっこうから打ち破っておられる御言葉が「もってのほかだぞ」「とんでもないことだ」ということなのです。世間の常識を、とんでもない間違いだと言われています。それだけ聖道自力の仏教と浄土他力の違うということなのです。阿弥陀仏一仏に向かって進んでいる人、阿弥陀仏の救いに預かった人、それ以外の道で助かろうとしている人、自力と他力は、それ程違います。ここで親鸞聖人がおっしゃっていることは、とてつもなく非常識なことです。真実というものは、ちょっとでも受けいれるような心はほどんどの人は持っていないのです。親鸞聖人は、次にこうおっしゃっています。
悪人正機についで有名な「親鸞は弟子一人も持たず」
親鸞は弟子一人ももたず候。
これまた驚きです。歎異抄と言えば、「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」の次に有名な言葉です。みんなが「とにかく偉い人だ」とたたえるインパクトのある言葉です。
ところが、親鸞聖人はお弟子が沢山おられたのは厳然とした事実であり、60人以上のお弟子がおられました。関東には、関東の二十四輩があります。関東には、有力なお弟子が24人ありました。
全国には6〜70人のお弟子がおられたのに、「親鸞は弟子一人も持たず」 本当ですか?親鸞聖人おっしゃっていること、本当の意味がこの次に書かれています。
なぜなら私の力で導いているなら弟子とも言えよう。
そのゆえは、わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、 弟子にても候わめ、
「その故は」とは、「なぜこんな、みんながおかしいと思うことを言うのかというと」ということです。
「わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、弟子にても候わめ」とは、この親鸞の力であなたが仏教を聞くようになり、人生の目的を完成したのなら、弟子ともいえるでしょう。これらのことをみな「念仏」の中におさめてあります。 「親鸞の力で皆さんが、何のために人間に生まれてきたのか、知りたいという気持ちが起きて、仏教を聞き始めた。そして仏教を求め、人生の目的を果たしたのなら、親鸞の弟子とも言えましょう」ところが、そんな風にあなたがなられたのは、100%……
では誰の力なの?
ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏 申し候人を、「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり。
「ひとえに」とは100%、 「弥陀」とは阿弥陀仏、「御催し」とは、お力です。
100%阿弥陀仏のお力によって。仏教聞こうという気が起きてきたのも阿弥陀仏のお力。聞かずにおれなくなったのも、阿弥陀仏のお力。真剣に求めずにおれなくなったのも、阿弥陀仏のお力。もちろん、絶対の幸福に救われたのも阿弥陀仏のお力。お礼の念仏称えずにおれなくなったのも阿弥陀仏のお力。ひとえに阿弥陀仏のお力によって、念仏申し候人。
あなたもそうです。インターネットで、まじめに歎異抄の意味を知ろうとしてここまで読んでおられる。すごいことです。ひとえに弥陀の御催しにあずかる人なのです。
それはこの親鸞が、よーく知らされている。それなのに、親鸞の力では全然ないのに、この親鸞の弟子ということになると「我が弟子と申すこと」 極めて無礼失礼なことである。 「極めたる荒涼のことなり」
仏様のお力によって聞く気になったのです。だから、今お弟子にさせて頂いているのです。まだ救われていない人は、ひとえに100%、とは思えません。本当に救われた人ならば、自分が救われるまでの道程を知っていますので、「あの時は、自分で真剣になったんだと思っていた」 「あの時は、自分であのような気持ちになったと思っていた。」だけど、振り返るとみんな阿弥陀仏のお力だったとハッキリ知らされます。
親鸞聖人は阿弥陀仏に救われた世界に出られてハッキリしておられたから、こうおっしゃっているのです。「ひとえに阿弥陀仏の御催しなのだから、まったく親鸞の力入ってないんだから、どうして親鸞の弟子といえようか」という自覚がありましたから、自分の弟子と思えなかったのです。これが他力真実の信心のすがたなのです。親鸞は弟子一人も持たずといわれたのは、親鸞聖人の深い自覚をおっしゃったのです。
そこで今度は「そうか、そんなら私たち、あんたの弟子でなかったんだ」と、弟子たちが思ったかというと、そうではありません。お客さんがお店に買い物にいった場合、「ありがとうございました、また来てください」と言われても「私が儲けさせてやったんだ。感謝しろよ」と思うでしょうか。「この店のおかげで生活できるんや。有難い」と思います。店の人は、店の人で買いに来てくれる人がいなければ生活はやってゆけません。感謝せずにおれません。お互いに感謝になるのです。
だからますます親鸞聖人のお弟子は、尊敬するようになり、お弟子もますます増えてきました。
「極めたる荒涼のことなり」極めて無礼失礼なことである。人のものを自分のものだと言うんだから、人が苦労してえられた成果を「私がやったんだ」と言うようなものですから、極めたる無礼です。
人の離合集散はすべて縁なのです
つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのある
人の離合集散、くっついたり離れたりするのは、すべて縁なのだ。縁のある人と、縁のある間だけ一緒にいられるのですが、離れる縁が来ると、離れたくないと思っても、離れるのです。
ですから、自分がいい男だから、いい女の子がきて結婚するんだとか、自分が悪い女だから、男が離れてゆくんだということではありません。縁なのです。必ず美男には美女、結婚するわけではない。悲観も楽観もいりません。そういうことがここに教えられています。あなたも本当の仏教を知ると、心が晴れ晴れとしてきませんか?縁というのは非常に大事です。良い悪いではないのです。
私を離れたから助からないなどと言うものではない
師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。
親鸞聖人のもとから信楽房(しんぎょうぼう)というお弟子が、腹を立てて出て行ったことがありました。その時、他の弟子たちが言っていたのが、この言葉です。「お前、師を離れてどこへゆくんや、親鸞聖人に背いたら往生すべからず。絶対助からないぞ」それをここで、親鸞聖人いさめておられます。
「不可説」とは、説くことができない。「そういうこと言うものではない」 「縁によってついたり離れたりするのだから、人間の離合集散は縁によるのだから」。
さらに驚くべき発言
如来より賜りたる信心を、我が物顔に、とりかえさんと申すにや。 かえすがえすも、あるべからざることなり。
「阿弥陀仏から頂いた真実の信心を、わがもの顔に取り返そうとでも言うのでしょうか。重ねて念を押しますが、あってはならないことなのです」
それまでの山で修行する仏教なら「こんな者は、絶対にさとりが開けない」と言うことでしょう。それは間違いなのです。親鸞聖人までの仏教知ってる人からすれば、大変な驚くべきことです。
それは、「親鸞聖人は寛大な心だったから、こんなこと言われたんだろう」とか「自分の存在感を示そうとされたんだ」とか、「人を自分を誹ってゆく人、そんな人をも抱擁する。そういうところを売り物にする目的で言われたんだ」というようなことでは、全くなかったのです。阿弥陀仏から頂かれた仏の智慧を人間の凡夫の智慧で計ろうとしても、とても計り切れるものではありません。
まだ救われていないからわからないのだ
自然のことわりにあいかなわば、仏恩をも知り、また師の恩をも しるべきなりと云々
信楽房がやがてよき仏教の先生にあって、真実の信心を獲得すれば、仏恩をも知り、身を粉にしても報いずにおれない如来大悲の恩徳を知り、骨を砕きても、かえさずにおれなくなるのです。
師に背いて出てきた自分の恐ろしい罪を知らされ、懺悔することであろう。とおっしゃっているのが、師の恩を知らされ、懺悔するだろう。まだ、本当に阿弥陀仏に救われていないから、阿弥陀仏の御恩もわかりませんし、師に背いた罪悪もわかりません。だから、懺悔の心もおきないんだ。だけど、この身になれば、恩徳讃になって師に背いた自分の罪の恐ろしさに総懺悔することになるだろう。  
■第7章 念仏者は無碍の一道
念仏者は無碍の一道なり。 / 阿弥陀仏に救われた人は一切がさわりとならない無碍の一道という世界に出ます。  
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、 魔界・外道も障碍することなし。 / なぜならば、阿弥陀仏から救われ、真実の信心を頂いた人には、 天地の神も敬って頭を下げ、魔の世界の者、真理に外れた道の者も さまたげることはできないのです。
罪悪も業報を感ずることあたわず、 諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。 / 罪悪の報いも苦とはならず、どんな努力も及ばないから、 一切がさわりとならない、絶対の幸福なのです。 と親鸞聖人はおっしゃいました。
親鸞聖人が一生涯教えられたこと
念仏者は無碍の一道なり。
阿弥陀仏に救われた人は一切がさわりとならない無碍の一道という世界に出ます。歎異抄第七章には、親鸞聖人が一生涯教えてゆかれたことが、一言で書かれています。親鸞聖人が教えられたことは、「はやく無碍の一道へ出なさい」ということです。
無碍の一道とは、「碍」とはさわり。「一道」とは世界。さわりのなくなった世界ということです。ここには、人生の目的が教えられています。
人生の目的とは、私たちは何の為に生まれてきたのか、何の為に生きているのか、苦しくてもなぜ生きねばならないのか、ということです。人間は、色々なさわりによって苦しみを受けています。そして、最大のさわりは、最後、死が来た時には、何のあて力にもならないということです。死がくれば、すべてに裏切られて、死んでゆかねばなりません。それで、無碍の一道というのは、どんなものも、さわりにならない世界ですから、死も、さわりにならない世界。親鸞聖人は、この無碍の一道に出ることが、人生の目的だと教えられています。ではその無碍の一道とはどういう世界なのでしょうか。
どうして「さわり」が「さわり」とならないの?
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、 魔界・外道も障碍することなし。
「そのいわれ如何とならば」とは、「どうしてそうなるのかというと」ということです。「信心の行者」とは、「信心」とは、「真実の信心」であり、「他力の信心」であり、「二種深信」です。親鸞聖人は「二種深信を体得した人はそういう世界に生かされる」とおっしゃっていますから、「信心の行者」とは「念仏者」と同じで、「無碍の一道にでた人」のことです。
ちなみにこの念仏者を「称える念仏」のことだと誤解している歎異抄の解説書もよくありますから注意が必要です。たとえば、水野聡「現代語訳歎異抄」では、
念仏は、妨げるものの何もない、ただひとつの大道です。(水野聡「現代語訳歎異抄」)
これをもう少し難しく言うと、佐藤正英「歎異抄論註」はこう意訳しています。
念仏はなにものにも妨げられない絶対的な手だてである。(佐藤正英「歎異抄論註」)
ひろさちやの「入門 歎異抄の読み方」ではこのように解説しています。
「念仏者」は表面的なかたちで、実体は「念仏」である。(ひろさちや「入門 歎異抄の読み方」)
どうしても念仏と思いたいのか、曽我量深の「歎異抄聴記」ではこう解説してあります。
念仏者の者は読んでも読まないでもよい。念仏するものはというからむつかしくなるので、これは念仏なるものはというのである。(曽我量深「歎異抄聴記」)
しかし、念仏者をすぐ後に「信心の行者」と言い換えてありますから、念仏者は当然、「弥陀に救われ念仏する者」の意味であることは明白です。
次に、その念仏者は無碍の一道なりといわれた「無碍の一道」とはどういう世界なのか、 4つあげて教えられています。ここは、歎異抄を絶讃している倉田百三でも分からないと言っているところです。
「天神地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」といふのは、法然の文章が「和語燈録」にその意趣が出ているが、之は不幸にして文字通り私には解らない。 (倉田百三「一枚起請文・歎異抄」)
はたしてどんな意味なのでしょうか。
まず1つ目は「天神・地祇も敬伏する」 「天神」とは天の神、地祇とは地の神。これですべての神です。天地の神が、敬って平伏すると言われています。毎年正月になると猫も杓子もみな神社に行って頭を下げています。ところが、無碍の一道に出た人は神の方から敬って平伏するといわれています。 親鸞聖人は、御和讃に、こうおっしゃっています。
南無阿弥陀仏をとなうれば 梵王帝釈帰敬す 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり
「帰敬」とは心から敬って頭を下げるということです。いやいやでなく、喜んでまもるのです。しかも、「よるひる」ですから夜も昼もです。すべての神が、一日中、喜んで守って下されるということです。仏教では、「諸神」の上が「菩薩」です。「菩薩」とは、仏のさとりを求めて努力している人ですから、「菩薩」の上が「諸仏」です。そして、「諸仏」の王が「阿弥陀仏」です。
阿弥陀仏  諸仏  菩薩  諸神
では、「諸神」よりも上の、「菩薩」は念仏者にどんな態度をとるのでしょうか。
南無阿弥陀仏を称ふれば 観音勢至はもろともに 恒沙塵数の菩薩と  かげのごとくに身にそへり
観音菩薩、勢至菩薩のような有名な菩薩をはじめ、ガンジス川の砂の数ほどの菩薩も、念仏者によりそって下されるとおっしゃっています。では「菩薩」の上の「諸仏」はどうでしょうか。
南無阿弥陀仏を称うれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して  よろこびまもりたまふなり
念仏者に対して、大宇宙の数限りもない仏方が、百重千重にとりかこんで、喜んで守って下されるということです。このように、阿弥陀仏によって絶対の幸福に救われた人は、大宇宙のすべてから敬われ、喜び守られるということです。
2つ目は「魔界・外道の人障礙することなし」 「魔界」とは魔の世界の人。おばけや一つ目小僧のことではなく、「無碍の一道に出た?お前は間違っている!」などと、非難攻撃してくる人のことを言います。「外道」とは外の教えということです。真理からはずれた教えを信じている者です。「真理」とは、すべての結果には必ず原因があるという因果の道理のことです。因果の道理に立脚した仏教は、真理の内側の教え、「内道」といいます。因果の道理に反する教えを「外道」というのです。「障礙」とは「障」も「礙」もさわり。非難攻撃してくる人は全くさわりとはならないということ。
「さわり」がなくなるのではなく懺悔となり歓喜となる
罪悪も業報を感ずることあたわず、 諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。
3つ目は「罪悪も業報を感ずることあたわず」ですが、無碍の一道に出た人は「堕つるに間違いなし」と知らされます。私達は罪悪を造り通しですから、無碍の一道に出ても、因果の道理によって、罪の報いとして悪い結果が返ってきます。けどそれが懺悔となり歓喜となります。そういう世界が無碍の一道です。これを「煩悩即菩提」といいます。親鸞聖人は御和讃にこうおっしゃっています。
罪障功徳の体となる  こおりとみずのごとくにて  こおりおおきにみずおおし  さわりおおきに徳おおし
「罪障」とは、罪悪であり、煩悩です。「功徳」とは、菩提であり、喜びです。「罪障功徳の体となる」とは、罪障がなくなって、功徳になるのではありません。罪障が、功徳の体となるのです。「体」とは何でしょうか。その関係を次に、たとえで教えられています。その関係は「こおりとみずのごとくにて」 氷と水のような関係だ。「氷」とは罪悪をたとえ「水」とは功徳をたとえています。「こおりおおきにみずおおし」 氷が多ければ多いほど、水が多いように「さわりおおきに徳おおし」罪悪が多ければ多いほど、喜びが大きいのだ。煩悩を断ち切るのではなく、煩悩あるがままで、懺悔となり、歓喜となる世界です。
4つ目は「諸善も及ばず」とは、「諸善」とは色々の善です。因果の道理にしたがい、善い行いをすれば、善い結果がかえってきます。無礙の一道は、どれだけ善をやった結果も及ばない絶対の幸福の世界だということです。
ではどうすれば無碍の一道に出られるの?
念仏者は無碍の一道なり。
親鸞聖人は、こうおっしゃっています。「念仏者になると、無碍の一道にでられますから、早く念仏者になって無碍の一道にでなさい。」では「念仏者」ときくと、どう思うでしょうか。念仏称えている人だと思います。「念仏」とは、南無阿弥陀仏を称えることですから、「念仏者」は南無阿弥陀仏と称えている人。ところが、ただ口で念仏称えている人が念仏者ではないと親鸞聖人おっしゃっています。
然るに称名憶念することあれども無明なお存して、所願を満てざるものあり(教行信証)
念仏を称えていても、苦悩の根元である無明の闇が破れておらず、絶対の幸福に救われていない人がいる。蓮如上人もおっしゃっています。御正忌の御文章に、
それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。(御文章)
「おほきにおぼつかなき次第なり。」とは「極楽に往生できませんよ。」ということです。では、念仏者とは、どんな念仏を称えている人かといいますと、称えた念仏で助かろうとする「自力の念仏」ではなく、無碍の一道に出させて頂いた喜びから、お礼の心で念仏を称えずにおれない人です。この念仏を「他力の念仏」といいます。「他力」とは阿弥陀仏のお力です。「無明の闇」が破れ、「二種深信」のたった人の念仏です。親鸞聖人は、早く仏教を聞いて、人生の目的である無碍の一道へ出なさいと一生涯教えてゆかれたのです。  
■第8章 極悪人の救われる唯一の道
念仏は行者のために非行・非善なり。 / 念仏は、阿弥陀仏に救われて人生の目的を完成した人にとって、 行でもなければ善でもない。  
わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、わが計らいにて つくる善にもあらざれば非善という。 / 阿弥陀仏に救われたならば、自分の力で後生の一大事助かろうと して称えるのではないから、私の行でもないし、私の善でもない。
ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・ 非善なり、と云々。 / ひとえに阿弥陀仏のお力で称えさせられる他力の念仏であって、 自力を離れているのだから、阿弥陀仏に救われた人にとっては、 行でも、善でもないのです、とおっしゃいました。
念仏は善ではないの?
念仏は行者のために非行・非善なり。
ここへ来て『歎異抄』では、また驚くべきことを言われています。
今まで、あれだけ「念仏にまさる善はない」と言われていたのに、突然、「念仏は行者のためには、行でもなければ善でもない」と言われています。では、念仏は善ではないのでしょうか?
もちろんそんなはずはありません。ここでポイントなのは、「行者のためには」ということです。行者とは一体どんな人なのでしょうか。
『行者』とは、阿弥陀仏に救われ、人生の目的を達成した人のことです。人生の目的は、それを教えられた仏教を聞き始めて、求め聞き、一念で完成します。 「一念」とは、あっともすっとも言う間のない短い時間です。 親鸞聖人は
一念とは信楽開発の時剋の極促をあらわす。(教行信証)
と言われています。「信楽開発」の「信楽」とは、阿弥陀仏という仏様が、お約束されている内容です。阿弥陀仏は、「すべての人を信楽の心にしてみせる」とお約束されています。これを「阿弥陀仏の本願」といいます。
では「信楽」とは、どんな心かというと、『信』とは大安心 『楽』とは大満足 ということです。 『開発』とは、ひらき、おこるということです。 阿弥陀仏の本願によって大安心、大満足の心に救われることを 信楽開発といわれています。
次の、信楽開発の時剋の極促ということは、『時剋』は時刻と同じです。 『極促』とはきわめてはやい、ということですから、 阿弥陀仏の本願に救われて、信楽の心になる、何億分の一秒よりも短い時間のきわまりを一念といいます。
すべての人は、幸せを求めて生きています。ですから、生きる目的は、どんな人にとっても、幸せです。ですが、その幸せは、一時的な、続かない幸せでもいいかというと、そんなはずはありません。 変わらない幸せを求めて生きています。
ですから、すべての人の生きる目的は、 絶対変わらない、絶対の幸福になることだといえます。
では、変わらない幸せなどあるのか、これまで人類が考え続けてきたことですが、哲学でも心理学でも、いまだに発見されていません。
ところが、この阿弥陀仏の本願によって救われた大安心、大満足の信楽は、絶対変わることのない、絶対の幸福です。すべての人は、この信楽の心になることが、人生の目的なのです。
「行者」とは、一念で阿弥陀仏に救われて、人生の目的を完成した人ということです。
人生の目的が完成した一念で念仏は180度変わる
「念仏は行者のために非行・非善なり」の「念仏」とは、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えることです。「行者のために」とは、その阿弥陀仏に救われて、人生の目的を完成した人の為に、ということですから、「念仏」は、その阿弥陀仏に救われた行者の為には行ではない。善でもない。ということです。
ところが、ここは有名な学者でも分からないところです。例えば、歎異抄で一番有名な、岩波文庫の『歎異抄』には、こうあります。
いずれの行も及びがたき身と知る者にも、念仏をもって、わが善とし、わが行とする心は離れない。 (金子大栄『歎異抄』)
歎異抄第8章の原文からして「わが善でも、わが行でもない」と書いてあるのですから、とても混乱しているようです。
また、また金子大栄の『歎異抄 仏教の人生観』も参照すると、『歎異抄』第8章の最大のポイントである、阿弥陀仏に救われた人と救われていない人の区別もついていないことが分かります。『歎異抄』第8章の次の文を読んでみれば、このような解説がとんでもない間違いであることは、書かれています。
わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
一念で救われた後の人の念仏は「こんなことでは助からないのではなかろうか」という心配はありません。
阿弥陀仏に救われるまでは、「これだけ念仏称えているから悪い所へは行かないだろう」とか 「1回でも念仏多く称えた方が助けてもらえるのだろう」と思います。そういう考えは、阿弥陀仏に救われるまでは絶対なくなりません。ということは、阿弥陀仏に救われるまでの人は自分の称える念仏は助かる為に役に立つ行だ、と思っています。念仏称えるということは、善だからです。自分の作る善としているのです。
この、後生助かる為にやる心を自力の心とか、自力といいます。救われるまでは自分の行が助かる為になる善だと思っています。この「自力のはからい」とは何か、つまり自力と他力の一念の水際が分かっていないと、本願寺・浄土真宗聖典編纂委員会の『歎異抄 現代語版』のように、まったく分からなくなってしまいます。
念仏は、それを称えるものにとって、行でもなく善でもありません。念仏は、自分のはからいによって行うのではないから、行ではないというのです。 (本願寺 浄土真宗聖典編纂委員会『歎異抄 現代語版』)
救われるまでは自力のはからいがなくなりませんが、一念で救われてからガラーッとかわって、自力が廃り、私の行でもなければ、善でもなくなってしまうわけです。 非行、非善なり。「助けてもらったから、せめてお礼くらいは言わなければならないかな」 そんな念仏は、自分の計らいで、自分の意志で言っているわけです。「礼状くらいは出さいといけないだろう」というようなものです。
ところが救われてからは、阿弥陀仏が称えさせる念仏ですから、
ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
ポイントは「行者の為に」ということです。人生の目的が完成していない人、行者でない人には、念仏は行であり、善なのです。念仏は人生の目的が完成した行者の為に、行でもなければ善でもないのです。ここが一番注意しなければならないポイントです。念仏は、行者でない人、人生の目的が完成していない人には、行であり、善なのです。  
■第9章 浄土は恋しからず候
「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」 と申しいれて候いしかば、 / 「念仏称えても、喜ぶ心がおきません。 また、はやく極楽へいきたいという心もありません。 どうしてでしょうか」と親鸞聖人にお尋ねしましたところ、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。 / 「親鸞もこの心、疑問に思っていたのだが、唯円房おまえもか。
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを 喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。 / よくよく考えてみれば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことを、 喜ばないところが、いよいよいつ死んでも極楽参り間違いなし」と 思わずにおれないのだ。
喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。 / 喜ばねばならないところ、喜ばせないのは、煩悩のしわざである。
しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたる ことなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけり と知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。 / しかるに阿弥陀仏は、百もご承知で、煩悩具足の凡夫を助けると 仰せられのだから、他力の悲願は、このような私たちの為であった と知らされて、いよいよ頼もしく、喜ばずにおれないのだ。
また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、 死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。 / また、早く極楽へゆきたいという心もなくて、少し病気になると 死ぬのではなかろうかと、心細く思うのも煩悩のしわざである。
久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、 いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、 まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。 / 阿弥陀仏に救われた今、もう迷いの世界と縁切りで、二度と迷う ことはないと思うと、はてしなき遠い過去から、今日まで生まれ 変わり死に変わり迷い続けてきた苦悩の世界はなつかしく、 まだ見ぬ阿弥陀仏の極楽浄土は少しも恋しいと思えないところが、 これまたよほどの煩悩のさかんな私であることよ。
名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、 かの土へは参るべきなり。 / 名残おしいことだが、娑婆の縁つきて、この命終われば、 阿弥陀仏の極楽参りは間違いない。
急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり。 / はやく極楽にいきたいという心のない迷いの深い者を ことさら阿弥陀仏は憐れんでくだされたのだ。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と 存じ候え。 / それを思えば、いよいよ阿弥陀仏の大慈悲のたのもしく、 極楽参り間違いないと思わずにおれないではないか。
踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩の なきやらんと、あやしく候いなまし」と云々。 / それを、喜びの心があり、早く極楽にいきたいと思っていたら 煩悩具足ではないのではないかとあやしく思うのではないだろうかと おっしゃいました。
親鸞様、2つ質問があります……
「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ 浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」 と申しいれて候いしかば、 「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。
これは親鸞聖人のお弟子の中でも高弟と言われている唯円房との対話です。
『歎異抄』は著者が書かれていないのですが、この9章と、13章にも唯円との対話がありますので、『歎異抄』は唯円房が書いたものでなかろうかと言われています。ですが、確認できるわけではありません。
ここで、唯円房が親鸞聖人に二つのことをお尋ねしています。
〇1つは躍踊歓喜の心がない。〇2つ目は急いで浄土へ参りたいという心がない。という2つです。
それに対して親鸞聖人は、唯円に「親鸞も同じ不審がある、唯円、おまえもか」とおっしゃいました。
ところがここで、この疑問は親鸞聖人も昔はあったけれども、「今はなくなった」という解説がよくあります。
たとえば、五木寛之の『歎異抄の謎』では、このように意訳されています。
そうか。唯円、そなたもそうであったか。この親鸞もおなじことを感じて、ふしぎに思うことがあったのだよ。(五木寛之『歎異抄の謎』)
ただ、五木寛之は、自分でも「『歎異抄』は分からない」と書いていますので、無理もないかもしれません。
(『歎異抄』は)肝心なところが、どうしてもわからない。 中略 たぶん、私の勉強不足が原因だろうと思います。しかし、だれもが研究家になるわけではない。(五木寛之『歎異抄の謎』)
ところが、研究家でも同じように言っているのです。
「かつて自分も唯円と同じ疑問にとらわれていたけれども、いまはその疑問が解けたのですよ」というニュアンスです。(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)
1つだけではありません、他にもこのような解説もあります。
親鸞自身にもそうした思いが「不審」としてあったことを述べたのであろう。しかしその「不審」はかつてあったけれども、親鸞はすぐ打ち消されるほどのものだったにちがいない。(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)
このように、「かつてはあったけれども、今はない」という解説がよくあります。ところが、これは間違いです。なぜなら親鸞聖人は、このようにおっしゃっています。
悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚之数に入ることを喜ばず、真証之証に近くことを快まず。恥づべし、傷むべし。(教行信証)
この後半ですが、「定聚之数」とは「正定聚」のことです。「正定聚」とは、正しく仏になるに定まった人たちということで、絶対の幸福のことですから、「定聚之数に入ることを喜ばず」とは、なんと、絶対の幸福になったのを喜ぶ心はないということです。「踊躍歓喜の心疎に候」ということと同じです。ですから、すぐ打ち消されるほどのものではなく、救われた後も、喜ぶ心はない、とおっしゃっているのです。
その次は「真証之証に近くことを快まず」「真証之証」とは、死んで極楽へ生まれて阿弥陀仏と同じさとりを開くことです。すべての人は、一日経てば、一日死に近づいています。正定聚に入った人も、入っていない人も同じです。正定聚に入った人は、極楽に近づきます。阿弥陀仏と同じさとりに近づきます。
ところが、「真証之証に近くことを快まず」ということは死んで「真証之証」に近づきたいと思わない、早く浄土へ参りたいと思わない、ということです。
親鸞聖人のお言葉は阿弥陀仏の救いは、一度ではない、二度あるということです。これを「二益法門(にやくぼうもん)」といいます。蓮如上人も、御文章におっしゃっています。
一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。 つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。 されば二益なりと思うべきものなり。(御文章)
「正定聚」とは、絶対の幸福です。「一念発起のかたは正定聚なり」とは、信の一念で正定聚、絶対の幸福になるということです。「これは穢土の益なり」とは、「穢土」はこの世ですから、絶対の幸福は、この世で頂く幸福なのだということです。
「つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり」 「滅度」とは、仏のさとりを開くことです。「浄土」へ往くのは死んでからですから、この世で正定聚(絶対の幸福)に救われた人は、死ねば極楽浄土へ往って、阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くのだ、ということです。「されば二益なり」このように親鸞聖人は、阿弥陀仏の救いは、この世と未来の二度あることを教えられたので「二益法門」と言われます。
なぜ喜べないのか
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを 喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。 喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。
天に躍り、地に踊るほど喜んで当たり前なのに喜ばない。煩悩の喜ぶことは、お金が儲かったとか、人からほめられたとか、恋人ができた時、私たちは喜びます。これが煩悩です。欲が満たされた時、喜びます。煩悩はそういうときしか喜びません。無碍の一道へ出た絶対の幸福は、そんな程度の低い喜びではありません。しかし、煩悩の喜び以外の喜びを知りませんので、すべての人はそういう喜びを求めています。これを相対の幸福といいます。どう生きるか、という生きる手段の問題です。
人生の目的である無碍の一道へ出た喜びはそんなものではありません。ところが親鸞聖人がおっしゃるように、それを喜ばせないのが煩悩です。
私たちは煩悩の喜びしか知りません。私たちは煩悩以外にはありません。煩悩をとったら私はゼロです。それが「煩悩具足の凡夫」ということです。喜ぶ心は微塵もないということです。
では、親鸞聖人に喜びはないのでしょうか?親鸞聖人はこのようにおっしゃっています。
じゃあ喜びはないの?
しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。
「かねて」とは、阿弥陀仏が、世自在王仏のみもとにましました時です。阿弥陀仏が本願を立てられた時、すべての人を煩悩具足と見て取られたということです。
「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」とは「煩悩」でできているということです。欲や怒り、愚痴の煩悩をとったら何もないのが私たちだ、ということです。
そういう「煩悩具足の凡夫」を助けなければ命を捨てるというお約束が阿弥陀仏の本願です。「煩悩具足の凡夫を助ける」と阿弥陀仏は本願を建てられたのですから、「他力の悲願はかくのごときの我等がためなりけり」と知らされて頼もしく喜ばずにおれません。
煩悩具足の凡夫とは「天に躍り、地に踊るほど喜ばねばならないことを喜ばない奴」ということです。喜ばない自分が知らされれば、知らされるほど、いよいよ喜ばずにおれない。煩悩具足と知らされれば知らされるほど、喜ばずにおれなくなるのです。
「唯円、こんなものがよくも助けられたものじゃのう。助けられても変わらんのう。しぶといなぁ。唯円も同じか。親鸞も同じだ」 助けられても煩悩具足は変わりません。それが、煩悩即菩提と、喜びに転じるのです。唯円も「本当に不思議なことですね」と喜んでいる姿が目に浮かぶようです。
早く極楽往きたくない、死にたくない
また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、 死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。
「早く死んで極楽いきたいという心もない。それどころか、少し体の調子がよくないと、死ぬんでなかろうかと心細く思う」と、親鸞聖人答えておられます。「いささか所労」とは、少し体調崩したときです。「どうもこのごろ体の調子が思わしくない」ということが「いささか所労のこともあれば」ということです。すると「死なんずるやらん」 「死ぬんでなかろうか」と心細く思います。「極楽へ死んで早く行きたいどころか、こういう気持ちだ」親鸞聖人は答えておられるのです。
苦悩の旧里は捨てがたく、安養の浄土は恋しからず候
久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、 いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、 まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。
「久遠劫」とは、はかり知れない昔から、人間に生まれてからではなく、果てしのない遠い過去から、自力の心によって迷ってきたのです。自力の心が廃らないで苦しみ悩んできたのです。その自力の心とは、苦しみの本である、無明の闇です。無明の闇は煩悩ではありません。煩悩はなくなりませんが、無明の闇はなくなります。
ずーっと迷ってきた旧里とは、古い自分の故郷です。故郷は離れがたいものです。長いこといたので、捨てがたいのです。いろいろの思い出がありました。苦しいことも多くありました。いえ、苦しければ苦しいだけ、思い出がしみついているから、離れがたいのです。
長い間いたので、死ねば極楽へ行くとハッキリしているけど「未だ、生まれざる」まだ生まれていない極楽浄土は「恋しからず候」恋しくない。
「ばかだな、親鸞は。こんな苦しいところにいたいと思う」 「ばかだな、ばかだな」 と懺悔なさっておられます。「苦しいところは捨てて、早く死んで極楽で楽したらいいではないか。それが捨てがたい。ばかな親鸞、どこどこまでも助ける縁手がかりがないな」とあきれられています。「阿弥陀仏に救われているのに、煩悩具足は変わらんなぁ」と懺悔しておられる親鸞聖人です。
じゃあやっぱり喜びはないの?
次に親鸞聖人は、このようにおっしゃっています。
名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、 かの土へは参るべきなり。 急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり。 これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と 存じ候え。
「娑婆の縁尽きて」とは「娑婆」とはこの世のことです。いよいよこの世の縁尽きて、死んで行く時は、「かの土へは参るべきなり」 「仕方ない、弥陀の浄土へ行くぞ」 「縁があればしがみついてもおりたいけど、娑婆の縁が尽きたら極楽へ行くぞ」ということです。「急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり」とは、「こんなものを阿弥陀仏は助けたい、とは何ともったいない、有り難いことか。阿弥陀仏の本願、我一人の為であった」、ということです。阿弥陀仏の本願が煩悩具足の凡夫にたてられた本願です。お目当ては煩悩具足の凡夫なのです。
「しかるに仏かねて知ろしめして、「煩悩具足の凡夫」と仰せられたることなれば、『他力の悲願は此の如きの我等のためなりけり』と知られて、いよいよ頼しく覚ゆるなり」これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と 存じ候え。
ここで、「いよいよ大悲大願は頼もしく」 「いよいよ頼もしく覚ゆるなり」と、聖人が大歓喜されていることが読めないのです。だからたとえば、梅原猛の『歎異抄入門』にはこう解説してあります。
念仏してもさっぱり嬉しい心がわかないのは、結局、われわれの煩悩が多いせいであるが、煩悩が多いことは、逆に阿弥陀の本願に対して、往生は間違いないと思うというのである。(梅原猛「梅原猛の『歎異抄』入門」)
喜ばぬ心が見えるほど、いよいよ喜ばずにおれない、と歓喜されているところまで、『歎異抄』を読み通す人がないのです。むしろ、浄土真宗の学者の方が、自分にすなおに、『歎異抄』9章は分からないと告白しています。
自分でもこの条は何べんも話してきたがはっきりわからなかった。 (曽我量深『歎異抄聴記』)
では一体これはどういうことなのでしょうか。喜ぶべき心を喜ばない、麻痺しきった自性が見えるほど、救われた不思議を喜ばずにおれないのです。
これは同時にあることであって、以下のように、二つの間を揺れ動くのではありません。上記の、分からないと言っている曽我量深『歎異抄聴記』を参考文献として、繰り返し引用している阿満利麿『歎異抄』では、このように書いています。
念仏に生きるとは、誓願に逢えた喜びと、誓願を信じる暮らしとは遠いという慚愧の、いわば二極を揺れ動くことにほかならない。(阿満利麿『歎異抄』)
ところがここはそうではなく、これは「煩悩即菩提」です。煩悩が「そのまま」菩提、つまり喜びに「転ずる」のですから、「二極を揺れ動く」のではありません。
無尽の煩悩が照らし出され、無限の懺悔と歓喜に転じる不思議さを、「煩悩即菩提」(煩悩が、そのまま菩提となる)とか、「転悪成善」(悪が、そのまま善となる)と説かれます。やはり体験しなければ、分かるものではありません。
喜ばない心が見えるほど、喜ばずにおれない、心も言葉も絶えた世界。ただ親鸞聖人は、讃仰されるばかりです。
喜ぶ心のある人は、煩悩のない人だろう
踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩の なきやらんと、あやしく候いなまし」と云々。
「踊り立つような喜びの心もあって、急いで極楽へ行きたいという心のある人は煩悩のない人だろう」こうおっしゃったのは、もし踊り立つような喜びの心があったり、急いで極楽へ行きたいという心がある私ならば、阿弥陀仏の本願にもれるということです。もし踊躍歓喜の心・急いで浄土へ参りたい心があったら煩悩具足の凡夫ではありません。善人様です。 阿弥陀仏の本願のお目当てではないのです。自惚れている人は本願がまだ知らされていないのです。踊躍歓喜の心・急いで浄土へ参りたい心がある人ならば、本願をたてられる必要はありません。善人後回しです。喜びの心も早く極楽に行きたいという心のない者だから、地獄行きなのです。そういう者を助ける為に本願がたてられているのです。  
■第10章 念仏には無義をもって義とす
念仏には無義をもって義とす。 / 阿弥陀仏に救われた人の称える他力の念仏は、一切の自力のはからいを離れているのです。
不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき。 / それは、言うことも説くことも、想像することもできないのですから、とおっしゃいました。  
人生の目的が完成した他力信心の世界がある
念仏には無義をもって義とす。不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき。
「念仏」とは、真実の信心をえての、他力の念仏です。他力の念仏は、「無義」であるということです。「義」というのは計らいであり、自力ということです。自力の心がなくなった世界が、真実の信心の世界だといわれています。そういう世界は言うこともできないし、説き聞かせることもできません。また想像もできない「不可称・不可説・不可思議」の世界なのです。
このような無義の世界がある、ということは、完成があるということです。こういう計らい・自力が浄尽して、きれいになくなる世界があるのです。それをこういう言葉で言われています。
無礙の一道、その世界は「不可称・不可説・不可思議」の世界 「真実の信心」は、心や口や体の三業で計ることのできない世界なのです。
では「自力」とは何でしょうか?これは後生の一大事が分からないとわかりません。ここで「計らい」と言われているのは、後生の一大事に対する計らいであり、阿弥陀仏の本願に対する計らいです。それ以外は「計らい」とはいいません。
仏教は、後生の一大事を知るところから始まり、後生の一大事の解決に終わります。仏教を聞けば、後生の一大事を知り、それを解決し、その計らいがすたった世界があるのです。その計らいがすたったのが、無義です。それが、人生の目的の完成です。  
■別序 最近の様子
そもそもかの御在生の昔、同じ志にして歩みを遼遠の洛陽に励まし、 信を一つにして心を当来の報土にかけし輩は、同時に御意趣を承り しかども、 / そもそも親鸞聖人が生きておられた頃は、同じ志をもって、関東からはるばる京都まで足を運び、親鸞聖人と同じ真実の信心をえて、極楽浄土へ生まれたいと願った人たちは、直接親鸞聖人から御教導頂くことができたので、大変な有り難いことでしたが、  
その人々に伴いて念仏申さるる老若、その数を知らず おわします中に、聖人の仰せにあらざる異義どもを、近来は多く 仰せられおうて候由、伝え承る。 / その人たちから仏法を聞き、念仏する人が多くなるにつれて、親鸞聖人がおっしゃらななかったことが、最近は、さかんに伝えられていると伝え聞いています。
いわれなき条々の子細のこと。 / そのとんでもない説と、その問題点をこれから述べましょう。  
 

■第11章 誓願不思議と名号不思議は別のこと?
一文不通の輩の念仏申すにおうて、「汝は誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と言い驚かして、二つの不思議の子細をも分明に言いひらかずして、人の心を惑わすこと。 / あまり字も知らず、学問もしていないような人に「お前は誓願不思議を信じて念仏称えているのか名号不思議を信じているのか?」と言って人を驚かせ分かるように説明もしないで、惑わせ喜んでいる者がいる。
この条、かえすがえすも心をとどめて思い分くべきことなり。 / なぜこんな訳の分からないことを言うのでしょうか。情けないことです。
誓願の不思議によりて、たもちやすく、称えやすき名号を案じ出したまいて、「この名字を称えん者を迎えとらん」と御約束あることなれば、まず「弥陀の大悲大願の不思議に助けられまいらせて生死を出ずべし」と信じて、「念仏の申さるるも、如来の御計らいなり」と思えば、少しも自らの計らい交わらざるがゆえに、本願に相応して実報土に往生するなり。 / 本師本仏の阿弥陀仏が、助かる縁手がかりのない、諸仏の見捨てた私たちを助けるために、どんな人も救う力のある南無阿弥陀仏の六字の名号を作って、その名号を与えて救うとお約束されているのだから、その本願によって完成した名号を頂いて、いつ死んでも極楽参り間違いなしの身に救い摂られたならば、その喜びからお礼の念仏を称えずにおれなくなります。これを「信心獲得」とも「信心決定」ともいいます。救われるために励む自力の心はまったくありませんから、阿弥陀仏のお約束の通り、死ねば極楽浄土へ往くのです。
これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議一つにして、さらに異なることなきなり。 / 信心決定して、弥陀の本願まことだったと知らされたときが、名号を頂いて、身も心も南無阿弥陀仏、仏凡一体になったときですから、本願に救われたといっても、名号に救われたといっても、まったく異なるところはありません。本願と名号はイコールです。
次に自らの計らいをさしはさみて、善悪の二つにつきて、往生の助け・障り、二様に思うは、誓願の不思議をばたのまずして、わが心に往生の業を励みて、申すところの念仏をも自行になすなり。この人は、名号の不思議をもまた信ぜざるなり。 / ちなみに自力の心というのは、身口意の三業をよくして後生の一大事助かろうという心です。後生を遠くに眺めているときは気づきませんが、仏法を聞いて、後生の一大事が知らされて来ると出てきます。そして最後、自力が廃った一念に他力に入ります。自力の間は他力に入れませんし、他力に入ると自力は一切なくなります。ですから、こんなに善に励んでいるから助かるだろうとか、こんな悪しか思わない自分は助からないのではなかろうかと思うのは、自力の心ですから、まだ弥陀の本願に救われていないのです。念仏を称えていても、自分の心の善し悪しで安心しようとしたり不安になったりするのも自力の念仏です。こんな心で念仏を称えている人は、まだ名号によって救われてもいないのです。
信ぜざれども、辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議の力なり。 / ただ、信心決定していなくても、もし毎日何万回も念仏を称えて、正念往生し、臨終来迎にあえた人がいれば、化土に生まれて、やがては阿弥陀仏の願力によって報土に生まれるのですが、その場合は、これも名号の働きです。
これすなわち誓願不思議のゆえなれば、ただ一つなるべし。 / これはとりもなおさず、阿弥陀仏の願力によるものなのですから、本願も名号も一つなのです。しかし、これでは化土に生まれられるかどうかは、死んでみないと分かりませんから、死ぬまで助からないということです。親鸞聖人の教えは「平生業成」、生きているときに往生一定、いつ死んでも極楽参り間違いなしの絶対の幸福に救われるのですから、一日もはやく信心決定して、本願まことと知らされるところまで仏法を聞きなされ。  
■第12章 教学しなければ助からない?
経釈を読み学せざる輩、往生不定の由のこと。この条、すこぶる不足言の義と言いつべし。 / 経典やその解釈を勉学しない人は、弥陀の浄土へ往生できないという邪義について。非常に言葉足らずで、誤りです。
他力真実の旨を明かせる諸の聖教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや。 / 阿弥陀仏の本願を明らかにしているたくさんの仏教の本を学ぶと分かることは、信心決定してお礼の念仏を称える身になれば、死ねば仏になれるということです。どこに学問をしなければ助からないと教えられているでしょうか。
まことにこの理に迷えらん人は、いかにもいかにも学問して、本願の旨を知るべきなり。 / こんな間違った理解をしている人は、もっともっと教学を勉強して、本願に救われるところまで進みなさい。
経釈を読み学すといえども、聖教の本意を心得ざる条、もっとも不便のことなり。 / せっかく仏教の本を読んでいても、その心が分からないというのは、本当に残念なことです。
一文不通にして経釈の行く路も知らざらん人の、称えやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。 / 読み書きができず、仏教の本が読めない人でも、名号を頂く一つで救われるので易行道というのです。
学問を旨とするは聖道門なり、難行と名づく。 / 教学をしなければ助からないのは天台宗や真言宗のような聖道門の仏教です。難行道で言われることなのです。
「あやまって学問して名聞利養のおもいに住する人、順次の往生いかがあらんずらん」という証文も候べきや。 / また「名誉や金儲けのために学問をするような人は、死んだら極楽へ往けるかどうか分かりませんよ」という言葉もあります。
当時、専修念仏の人と聖道門の人、諍論を企てて、「わが宗こそ勝れたれ、人の宗は劣りなり」と言うほどに、法敵も出で来り、謗法もおこる。 / そういえば最近、浄土門の者が、名誉欲によって聖道門の人に論争をふっかけて「私の教えのほうが正しい、お前らは劣っている」などと言っているから、相手が腹を立てて法敵も現れ、仏法を謗ることにもなるのです。
これしかしながら、自らわが法を破謗するにあらずや。 / これでは自ら阿弥陀仏の本願を謗らせるようなものではないでしょうか。
たとい諸門こぞりて「念仏はかいなき人のためなり、その宗浅しいやし」と言うとも、さらに争わずして、「我らがごとく下根の凡夫、一文不通の者の、信ずれば助かる由、承りて信じ候えば、さらに上根の人のためにはいやしくとも、我らがためには最上の法にてまします。 / たとえ聖道門の色々な宗派の人たちが、総がかりで「浄土門は劣った人のための浅い教えだ」と言ってきたとしても、決して感情的にならず、「私たちのような悪しかできない者も、信ずる一念で救うと、阿弥陀仏はお約束なされています。善のできる人には問題にはならないでしょうが、諸仏に見捨てられた私たちには、阿弥陀仏の本願以外に救われる道はありません。
たとい自余の教法は勝れたりとも、自らがためには器量及ばざれば、つとめがたし。 / 出家して厳しい戒律を守り、命がけの修行をする難行の教えも、お釈迦さまの説かれた尊い仏法ですから、教えの通り実行できればさとりをえられると思いますが、私のような者には、到底及びもつかないのです。
我も人も生死を離れんことこそ諸仏の御本意にておわしませば、御妨げあるべからず」とて、にくい気せずは、誰の人かありて仇をなすべきや。 / 仏方は、相手に応じて導いておられるのですから、邪魔することはないのではないでしょうか」などと、相手が腹を立てないような言い方を考えて破邪顕正すれば、いたずらに謗法の大罪を造らせることもないでしょう。
かつは「諍論のところには諸の煩悩おこる、智者遠離すべき」由の証文候にこそ。 / それに「論争をすると感情的になるので、智慧のある人は、冷静に話を進めなければならない」というお言葉もあります。
故聖人の仰せには、「『この法をば信ずる衆生もあり、謗る衆生もあるべし』と、仏説きおかせたまいたることなれば、我はすでに信じたてまつる、また人ありて謗るにて、仏説まことなりけりと知られ候。しかれば『往生はいよいよ一定』と思いたまうべきなり。 / 三大諍論をはじめ、生涯にわたって破邪顕正せられ、八方総攻撃の的であった親鸞聖人は、かつて、謗ってくる人についてこうおっしゃったことがあります。「お釈迦さまが「信ずる人もあれば、謗る人もある」と説かれている阿弥陀仏の本願なのだ。幸いにもこの親鸞はすでに信じて救われた。そして謗ってくる人があると、お釈迦さまの説かれた通りだったと知らされて、いよいよ力がわいてくる。「自ら信じ人に教えて信ぜしめることは、難きが中にうたた更に難し。大悲を伝えて普く化す、真に仏恩を報ずるに成る」自ら信心決定することが難しい。人に教えてそこまで導くことはなお難しい。しかし、その困難をやり遂げて、一人でも多くの人に阿弥陀仏の本願を伝えることが、一番の仏恩報謝なのだ。謗られれば謗られるほど、仏説まことと知らされて、ますます前進せずにおれない。
あやまって謗る人の候わざらんにこそ、『いかに信ずる人はあれども、謗る人のなきやらん』ともおぼえ候いぬべけれ。 / もしそれで、謗る人がなかったならば、逆にお釈迦さまが説かれたことは本当だろうかという思いも出てくるだろう。
かく申せばとて、必ず人に謗られんとにはあらず。仏のかねて信謗ともにあるべき旨を知ろしめして、『人の疑いをあらせじ』と説きおかせたまうことを申すなり」とこそ候いしか。 / しかしこう言ったからといって、必ず人に謗られなければならないということではない。お釈迦さまは「そんな尊い法なのに、なんで謗る人があるんですか?」と疑問を起こさせないように、あらかじめ謗る人もあることを教えてくだされたのだ」とにっこり微笑んで、教えてくだされたものです。
今の世には、学問して人の謗りをやめ、ひとえに論義問答旨とせんとかまえられ候にや。 / このように教えられているのですから、今からは決して人を言い負かして謗ったり、論争して勝った負けたという名利のための教学をしてはなりません。お釈迦さまはじめ善知識方は、一人でも多くの人が阿弥陀仏の本願に救われるように、教えを明らかにされ、破邪顕正されているのです。
学問せば、いよいよ如来の御本意を知り、悲願の広大の旨をも存知して、「いやしからん身にて往生はいかが」なんどと危ぶまん人にも、本願には善悪・浄穢なき趣をも説き聞かせられ候わばこそ、学匠の甲斐にても候わめ、たまたま何心もなく本願に相応して念仏する人をも、「学問してこそ」なんどと言いおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。 / その教えを学んだならば、いよいよ阿弥陀仏の本願を正しく知り、その広大さを知らされて「自分のような者が助かるのだろうか」と不安に思っている人にも、どんな人でも救う本願だと説き聞かせたならば、教学を学んだ甲斐もあったというものでしょう。自力を捨てて弥陀の本願に救われ、お礼の念仏を称えている人を「学問したからだ」などと驚かすのは、仏法を破壊する仏のかたきです。
自ら他力の信心欠くるのみならず、あやまって他を迷わさんとす。 / 自らが救われないのみならず、他の人をも迷わせることにもなります。
つつしんで恐るべし、先師の御心に背くことを。かねて憐れむべし、弥陀の本願にあらざることを。 / ただしこれを聞いて、つつしんで恐れるべきことは、決して、教学をしなくてもいいとか、仏法を伝えなくてもいいなどと、親鸞聖人の御心に背いてはなりません。阿弥陀仏の本願を聞き誤っては救われませんから、それはあわれむべきことです。正しく教えを学び、一人でも多くの人と共に絶対の幸福になれるよう、仏法を伝え、聞法精進させて頂きましょう。  
■第13章 本願ぼこりは助からない?
弥陀の本願不思議におわしませばとて悪をおそれざるは、 また本願ぼこりとて往生かなうべからずということ。 / 「『阿弥陀仏の本願には底がないから、どんな悪をしても助かるのだ』というのは、本願ぼこりといって、助からない者だ」という誤りについて。  
この条、本願を疑う、善悪の宿業を心得ざるなり。 / こんなことを言っている者は、阿弥陀仏の本願を疑い、過去世の業を知らない者なのです。 
善き心のおこるも宿善のもよおすゆえなり。悪事の思われせらるるも悪業の計らうゆえなり。 / 果てしのない遠い過去から生まれ変わり死に変わりを重ねている私たちですが、今生に人間に生まれるまでを過去世といいます。その間の行いは、すべて結果を生み出す因となって、阿頼耶識に蓄えられています。その業力に、縁が来ると、結果となって現れるのです。ですからすべての結果には、必ず因があります。善いことを思えるのは過去世に善いたねをまいたからです。悪いことを思ってするのも、過去の悪い業のためなのです。  
故聖人の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにいる塵ばかりも、 つくる罪の宿業にあらずということなしと知るべし」と候いき。 / 今は亡き親鸞聖人も「兎や羊の毛の先の塵のように極めて小さい、どんなに些細な罪も、つくる罪のすべては宿業の結果なのだ。そうでないものは一つもないのだ」と教えて下さったことがあります。
またあるとき、「唯円房はわが言うことをば信ずるか」と仰せの候いし間、 / またあるときこんなことがありました。親鸞聖人が「唯円房、お前、私の言うことを信ずるか」とおっしゃったので、  
「さん候」と申し候いしかば、 / 「もちろんでございます、聖人さまのおっしゃることなら、私は何でも行います」とお答えすると、  
「さらば言わんこと違うまじきか」と重ねて仰せの候いし間、つつしんで領状申して候いしかば、 / 「本当だな、二言はないな」と念を押されるので「はい、それはもう二言はございません。おっしゃることは何なりと従います」とお答えしました。  
「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、 / すると「ではお前に言おう。たとえば人を千人殺してこい。そうしたらいつ死んでも極楽往ける身になるよ」とおっしゃった。  
「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、 / そのとき「ああそれは、親鸞聖人のおっしゃることでも、この唯円の器量では、千人どころか一人も殺すことはできません」と申し上げると、  
「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。 / 「それでは二回も親鸞の言うことを聞くと言っていたのはどうなったのだ?」と言われました。  
「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。 / 「これで分かるだろう。何ごとも自分の思った通りにできるのなら、極楽参りの為に人を千人殺せと言われたら、素直に殺しに行くだろう。  
しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。 / しかし一人も殺すことできないのは、そういう業縁がお前にないからだ。  
わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰せの候いしは、 / お前の心が善いから殺さないのではない。 もしお前にそういう業縁があれば、そんなことをしてはいけないと思っても、百人千人と殺すのだ」とおっしゃったのは、  
我らが心の善きをば善しと思い、 悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり。 / 善いことを思えるときは何とかなるように思い、悪ばかり思えるときは、これでは助からないのではないかと思って、弥陀の救いは、まったく阿弥陀仏の独りばたらきであることが知らされていないことを、教えてくだされたのです。
そのかみ、邪見におちたる人あって、「悪をつくりたる者を助けんという願にてましませば」とて、わざと好みて悪をつくりて、「往生の業とすべき」由を言いて、 ようように悪し様なることの聞こえ候いしとき、 / かつて聞き誤った人がいて「阿弥陀さまは悪人をお目当てに救うとお約束されている」のだから、わざと進んで悪を造って「極楽へ往く足しにしなさい」と言いふらし、色々とよくないことが起きていることが聞こえてきました。
御消息に「薬あればとて毒を好むべからず」とあそばされて候は、かの邪執を止めんがためなり。 / そのとき親鸞聖人は、「薬がある、だから毒を好め、そんなバカなことを言うやつがあるか!あるはずないだろう」とお手紙に書いておられたのは、この聞き誤りを正されるためでした。
まったく「悪は往生の障りたるべし」とにはあらず。 / しかし親鸞聖人がこうおっしゃったのは、毒が回って阿弥陀仏が助けられないと言われているのではありません。
持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、我らいかでか生死を離るべきや。 / 身口意の三業をよくして後生の一大事助かるのだとすれば、「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」の私たちは、どうして救われるでしょうか。
かかる浅ましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられ候え。 / そんな悪しかできない私たちが、阿弥陀仏の本願に救われたならば、弥陀の本願の尊さを仰がずにおれません。みな本願ぼこりにならずにおれないのです。
さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられ候わじものを。 / だからといって一生悪を造り通しの私たちに、悪果が来なくなるわけではありません。当然起きてくる不幸や災難は、過去に自分が造っていない悪業の結果は、決して出てはこないのですから、自分がまいたタネなのです。
また、「海河に網をひき釣りをして世を渡る者も、野山に獣を狩り鳥をとりて命をつぐ輩も、商いをもし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり」と。 / また聖人は「海や河で、網や魚釣りで生活する者も、野山で鳥や動物を殺して生きる者も、商人や農家で暮らしている人も、罪を造らずしては生きられない私たちは、過去世からの深い業をかかえていることはまったく同じことなのだ」ともおっしゃいました。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」とこそ、聖人は仰せ候いしに、 / 「この親鸞も、縁さえくれば、どんなことでもするであろう」とおっしゃっています。阿弥陀仏の光明に照らされて、ありとあらゆる悪業を持っている真実の自己をハッキリと知らされられた親鸞聖人は「阿弥陀仏に救われても、あんなことだけは絶対しないと断言できるものではない」とおっしゃっているのです。
当時は後世者ぶりして、善からん者ばかり念仏申すべきように、あるいは道場に貼り文をして、「何々の事したらん者をば、道場へ入るべからず」なんどということ、ひとえに賢善精進の相を外に示して、内には虚仮を懐けるものか。 / それなのに最近は「我こそは仏法者なり」という殊勝そうな顔で、さも仏法を聞いているのは立派な人ばかりであるかのように振る舞ったり、道場にはり紙をして、「あんな人は仲間に入れないでおこう」と言っているのは、表面ばかりかっこつけて、心を見れば自分が悪人であることに気づいていないのです。
願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよおすゆえなり。 / 阿弥陀仏を信じて造る罪も、過去世の業力によるものなのです。
されば善きことも悪しきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にては候え。 / だから心や口や身体が善をしたり悪をしたりするのは、過去の業力が、縁にふれて生じるのですが、それは極楽へ往くには関係ありません。悪しかできない私たちは、ひとえに平生に信心決定するかどうかで往生は決するのです。
『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救われ難しと思うべき」と候ぞかし。  / 『唯信抄』にも「こんな罪深い私は助からないのではなかろうかとは、阿弥陀仏のお力がどれほどか分かっているのか?」とあったではありませんか。阿弥陀仏のお力に底を入れて、自分の力が役立つと思っている、とんでもない自惚れです。
本願にほこる心のあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候え。おおよそ悪業煩悩を断じ尽くして後、本願を信ぜんのみぞ、願にほこる思いもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなわち仏になり、仏のためには五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。 / その自惚れが廃ったと同時に、他力に入るのです。もし悪業煩悩を完全に断ち切って本願を信ずるのであれば、本願にほこる思いはないでしょう。そもそも煩悩をすべて断ち切ってしまったら、もう仏ですから、阿弥陀仏の五劫思惟のご苦労の意味がないではありませんか。
本願ぼこりと誡めらるる人々も、煩悩不浄具足せられてこそ候げなれ。それは願にほこらるるにあらずや。 / 「あれは本願ぼこりだ、ダメだ」と言っている人も煩悩具足の悪しかできない身でありましょう。阿弥陀仏の本願によらずして助かりますか。
いかなる悪を本願ぼこりという、いかなる悪がほこらぬにて候べきぞや。かえりて心幼きことか。 / 「『悪人正機の本願だから、どんな悪をしても助かるのだ』というのは本願ぼこりで助からない」というなら、どんなすごい悪なら本願ぼこりで、どんな悪までなら本願ぼこりと言わないのか。まるで子供みたいな言い分じゃありませんか。  
■第14章 念仏さえ称えれば極楽へ往ける?
「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」ということ。 / 「一回の念仏で、八十億劫という気の遠くなる長期間、私たちが造った重い罪が消えて、極楽へ往けると信じなさい」という邪偽について。
この条は十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、初めて善知識の教えにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。 / この邪偽は、十悪や五逆という恐ろしい罪悪を造っている者が、日頃念仏を称えていなくても、臨終に初めて仏教の先生から教えを聞いて、一回念仏を称えれば八十億項の罪が消え、十回念仏称えれば八百億劫の重い罪が消えて極楽へ往けると言っている。
これは十悪・五逆の軽重を知らせんがために、一念・十念といえるか。滅罪の利益なり。 / お釈迦さまが念仏称えれば罪が消えると教えられたのは、一つは十悪より五逆が重いというような罪の重い軽いを教えるため、もう一つは、念仏を称えることに大変な功徳があることを分からせるために説かれているのです。
いまだ我らが信ずるところに及ばず。 / それなのにこんなことを言う者は、まだ阿弥陀仏の本願が信じられていないのだろう。
そのゆえは、弥陀の光明に照らされまいらするゆえに、一念発起するとき金剛の信心を賜りぬれば、すでに定聚の位におさめしめたまいて、命終すれば、諸の煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり。 / なぜならば、阿弥陀仏の光明に摂取され、一念で何があっても変わらない、金剛の信心を頂けば、生きているときに、いつ死んでも極楽往き間違いなしの正定聚の位に定まってしまいますから、死ねば必ず極楽へ往生して弥陀同体のさとりを得られます。念仏を称えようと称えまいと、救われた後の念仏は、往生には何の関係もありませんから、一声の念仏で八十億劫の罪が消えることが問題にならなくなります。
「この悲願ましまさずは、かかる浅ましき罪人、いかでか生死を解脱すべき」と思いて、一生の間申すところの念仏は、皆悉く「如来大悲の恩を報じ、徳を謝す」と思うべきなり。 / では救われたら念仏は称えないのかというと、「阿弥陀仏の本願によらなければ、私のような助かる縁手がかりのない罪人が、どうして救われることができただろうか」と、命ある限り、阿弥陀如来の恩徳を報いずにおれない喜びから、御恩報謝の念仏を称えずにおれなくなります。
念仏申さんごとに罪を滅ぼさんと信ぜば、すでに我と罪を消して往生せんと励むにてこそ候なれ。 / 念仏称えるごとに罪が消えると信ずるのは、自分の力で罪を消して助かろうと励んでいる自力の心です。
もししからば、一生の間思いと思うこと、皆生死の絆にあらざることなければ、命つきんまで念仏退転せずして往生すべし。 / もしそうだとすれば、「一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念々になすところこれみな三塗の業なり」といわれるように、一生の間思うことはすべて悪ばかりなのだから、死ぬまで、念仏称えて消してゆかないと助かりません。
ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛をせめて正念に住せずして終わらん、念仏申すこと難し。 / ところが、これまで果てしなく遠い過去から造ってきた悪業には限りがありませんから、その報いでどんな予想もできない事故にあったり、どんな病苦が襲ってきて臨終を迎えるか分かりません。そうなれば念仏を称えることはできないでしょう。
その間の罪は、いかがして滅すべきや。罪消えざれば往生はかなうべからざるか。 / ではその間に造る罪は、どうして消したらいいのですか。死ぬまで念仏称えられなければ往生できないとでも言うのでしょうか。それでは平生業成の親鸞聖人の教えにならないではないですか。
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて悪業をおかし、念仏申さずして終わるとも、すみやかに往生を遂ぐべし。 / 平生の一念におさめとって捨てられない、阿弥陀仏の本願に救われたならば、臨終にどんな予期せぬことが起きて悪業を造り、念仏を称えられずに命終わったとしても、死ぬと同時に弥陀の浄土へ往って仏に生まれるのです。
また念仏の申されんも、ただ今さとりを開かんずる期の近づくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ御恩を報じたてまつるにてこそ候わめ。 / また、念仏を称えていても、弥陀同体のさとりをうるときが近づくに従って、いよいよ阿弥陀仏をたのもしく思い、御恩に報いずにおれないのです。
罪を滅せんと思わんは自力の心にして臨終正念といのる人の本意なれば、他力の信心なきにて候なり。 / 念仏称えて罪を消そうとするのは自力の心であって、臨終の苦しみに打ち克って、心を乱さずに念仏称えようとしている人はそういう心ですから、それは他力の信心ではありませんよ。阿弥陀仏の本願は平生の一念に救われるのですから、はやく仏法を聞いて、阿弥陀仏の本願に救われなさい。  
■第15章 この世で仏のさとりがえられる?
煩悩具足の身をもって、すでにさとりを開くということ。この条、もってのほかの事に候。 / 煩悩具足の身であるこの世でさとりを開けるという邪義について。こんなことを親鸞聖人の教えだというのはもってのほか、どこにもそんなことは教えられていません。
即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。 これ皆、難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。 / この世で仏のさとりを開くというのは、真言密教の言うことで、手で印を結び、口に真言を唱え、心で大日如来のことを一心に念ずる身口意の修行を徹底してできた人のえられる結果です。法華経に説かれるのは「六根」といわれる眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根を清らかにすることで、心身を安楽にする身口意と誓願の4つの行によってえられるものです。これらはすべて難行道の修行のできる人のためのもの、結局、教えがあるだけで仏のさとりをえた者は誰もいない。観念的にさとりを考えているだけです。
来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。 / 死んで弥陀の浄土へ往って、仏のさとりを開かせて頂けるのが、阿弥陀仏の本願ですが、それは、この世で信心決定した人だけです。これを易行道といって、出家して厳しい修行のできない私たち、すべての人が救われる、善人悪人をえらばない教えです。
おおよそ今生においては煩悩・悪障を断ぜんこと、極めてありがたき間、真言・法華を行ずる浄侶、なおもって順次生のさとりをいのる。 / お釈迦さまに次いで高いさとりを開いた八宗の祖師、インドの龍樹菩薩にして41段、厳しい修行をして、煩悩を断ちきってこの世で52段の仏のさとりをえられた人は、地球上ではお釈迦さま以外に誰もいませんから、実際は真言宗や法華宗の僧侶であっても、やはり次の生でさとりをえられたらいいなと祈っています。
いかにいわんや戒行・恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海を渡り、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく霽れ、法性の覚月すみやかに現れて、 尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候え。 / ましてや厳しい戒律を守っての修行も、知恵もない私たちが、この世で阿弥陀仏の本願の船に乗せて頂けば、苦しみ迷いの人生の海を明るく楽しく渡していただき、死ぬと同時に弥陀の浄土へ往って煩悩はなくなり、阿弥陀仏と同じ仏のさとりをえられるのです。ですが、極楽浄土へ往ったからといって自分だけ永遠に遊び暮らしているわけではありません。この世にはまだまだたくさんの人が苦しみ悩んでいますから、とてもじっとしていられず、すぐさま娑婆界に還来して説法し、衆生を救う大活躍をするのです。それが仏のさとりというものです。
この身をもってさとりを開くと候なる人は、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候にや。 これをこそ今生にさとりを開く本とは申し候え。 / この世で仏のさとりを開くと言っている人は、お釈迦さまのように相手に応じて色々な姿を現したり、仏の特徴である三十二相・八十随形好を現して説法するとでも言うのでしょうか。仏のさとりを開くというのは本来、そういうことです。
和讃にいわく、「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」とは候えば、 信心の定まるときにひとたび摂取して捨てたまわざれば、六道に輪廻すべからず、しかればながく生死をば隔て候ぞかし。 / この世で仏のさとりを開くと言っている人たちが根拠にしているのは、親鸞聖人のご和讃「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」というお言葉です。このお言葉の意味は、阿弥陀仏の光明に一念で摂取されて信心決定したならば、二度と六道を生まれ変わり死に変わりすることはなく、迷いとは永遠に縁切りになってしまうということです。
かくのごとく知るを、さとるとは言い紛らかすべきや。 あわれに候をや。 / このように知らされるのを、仏のさとりとごっちゃにしているのでしょうか。あわれだなあ……。
「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをば開くとならい候ぞ」とこそ、故聖人の仰せには候いしか。 / 「真実の仏教は、生きているときに信心決定した人は、死んで浄土へ往って仏に生まれるのですよ」と今は亡き親鸞聖人は教えられているのです。  
 

■第16章 悪を必ず懺悔しないと助からない?
信心の行者、自然に腹をも立て、悪し様なる事をもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、必ず廻心すべしということ。 この条、断悪修善のここちか。 / 阿弥陀仏に救われた人は、しぜんに腹を立てたり、悪いことをしたり、法の友達と口ゲンカしたりしたら、必ず廻心懺悔しなければならないという邪義について。これは、阿弥陀仏の救いと善悪を関係づけている心でしょう。
一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。 / 阿弥陀仏の本願に救われた(信心決定した)人は、廻心ということは一生涯にただ一度しかありません。信心決定していない人には一回もないのです。
その廻心は、日ごろ本願他力真宗を知らざる人、弥陀の智慧を賜りて、「日ごろの心にては往生かなうべからず」と思いて、本の心をひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、廻心とは申し候え。 / その廻心というのはどんなことかというと、阿弥陀仏に救われていない人が、阿弥陀仏の智慧である南無阿弥陀仏の名号を頂いて、「自力の心では助からない」と知らされて、自力の心を捨てて、阿弥陀仏の本願の名号をまるもらいしたことを廻心と言うのです。
一切の事に朝・夕に廻心して、往生を遂げ候べくば、人の命は、出ずる息、入る息を待たずして終わることなれば、廻心もせず、柔和忍辱の思いにも住せざらん前に命つきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおわしますべきにや。 / 腹を立てたり、悪い事をしたり、口げんかしたりどころか、悪を造り続けの私たちが、すべてのことに、一日中、廻心しなければ往生できないというなら、人の命は、吸う息吐く息にふれあって、いつ死ぬか分からないのだから、廻心するひまもなく、忍耐して穏やかな心になる前に死んだら地獄に堕ちるとすれば、この世で絶対捨てることのない極楽往き間違いなしの絶対の幸福に救うという阿弥陀仏の本願は、むなしくなってしまうではないですか。
口には「願力をたのみたてまつる」と言いて、心には「さこそ悪人を助けんという願不思議にましますというとも、さすが善からん者をこそ助けたまわんずれ」と思うほどに、願力を疑い他力をたのみまいらする心欠けて、辺地の生を受けんこと、もっとも歎き思いたまうべきことなり。 / 口では「阿弥陀仏の本願に救われた」と言いながら、心では「悪人を救う本願といっても、やっぱり善人の方が悪人よりも助けて下されるだろう」と思っているのだから、善悪を問題にしている自力の心です。阿弥陀仏の本願を疑って、他力に帰する心がないのですから、どんなに善ができたとしても、浄土の近辺にしかいけないのは、非常に嘆かわしいことです。
信心定まりなば往生は弥陀に計らわれまいらせてすることなれば、わが計らいなるべからず。 / 信心決定すれば、まったく阿弥陀仏のお力によって往生させて頂けるのだから、これだけ善をしているのだから助かるだろうというのは、関係ありません。
悪からんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまいらせば、自然の理にて柔和忍辱の心も出でくべし。 / 悪しかできない者が、阿弥陀仏の御恩を知らされて、阿弥陀仏のお力によって、穏やかな忍耐の心も出てくるのです。
すべて万の事につけて往生には賢き思いを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、常は思い出しまいらすべし。 / いかなる振る舞いもする極悪人を、無条件で往生させて頂けるのだから、ただほれぼれと阿弥陀仏の御恩の深くて重いことを常に思い出さずにおれないのです。
しかれば念仏も申され候。これ自然なり。 / その救われた喜びから、お礼の念仏を称えずにおれないのです。これもまったく阿弥陀仏のお力です。
わが計らわざるを自然と申すなり。これすなわち他力にてまします。 / これだけ善いことをしているから助かるだろうという自力の心がすたったのを自然というのです。これこそが他力なのです。
しかるを、自然ということの別にあるように、我物知り顔に言う人の候由承る、浅ましく候なり。 / それなのに、自然でないことを自然だと、知ったかぶって言う人があると聞く。とんでもないことです。  
■第17章 化土に行くと地獄に堕つる?
辺地の往生を遂ぐる人、ついには地獄に堕つべしということ。 / 化土往生を遂げた人は、地獄に堕つるという邪義について。
この条、いずれの証文に見え候ぞや。 / こんなことは一切経のどこにも書いてありません。どのお聖教にあるというのでしょうか。
学匠だつる人の中に言い出さるることにて候なるこそ、浅ましく候え。 / 仏教の学問をしている学者がこんなことを言い出したというのは、まことに情けないことです。
経・論・聖教をばいかように見なされて候やらん。 / お釈迦さまの説かれたお経、それを菩薩が解釈した論、また高僧方の書かれた書物を、どのように理解しているのでしょうか。
信心欠けたる行者は、本願を疑うによりて辺地に生じて、疑いの罪をつぐのいて後、報土のさとりを開くとこそ承り候え。 / まだ信心獲得していない行者は、本願を疑っているので、もし毎日何万回も念仏を称えて、正念往生し、臨終来迎にあえた場合は、浄土の辺境である化土に生まれます。化土に生まれて疑いの罪をつぐなった後、報土のさとり、仏のさとりを開くと説かれているのです。
信心の行者少なきゆえに、化土に多くすすめ入れられ候を、「ついにむなしくなるべし」と候なるこそ、如来に虚妄を申しつけまいらせられ候なれ。 / 他力の信心を決定する人がなかなかいないので、導くための方便として化土を勧められているのですが、「ついには地獄に堕つる」などと経論釈に言われていることを否定していては、仏様を嘘つきにすることになりますよ。  
■第18章 財施が多い程、大きい仏になる?
仏法の方に施入物の多少にしたがいて、大・小仏に成るべしということ。 / 仏法への財施が多ければ、死んだら大きな仏、少なければ小さな仏になるという邪義について。  
この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。 / そんなことは、どこにも教えられていない。おかしな事です。
まず仏に大・小の分量を定めんことあるべからず候や。 / まず、大きな仏、小さな仏があると説かれている根拠がどこにもありません。
かの安養浄土の教主の御身量を説かれて候も、それは方便報身のかたちなり。 / お経の中には阿弥陀仏の大きさ、身長が説かれていますが、それは方便法身としてのことです。
法性のさとりを開いて長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒の色をも離れなば、何をもってか大小を定むべきや。 / 本当は法性法身ですから、法性のさとりを開いて、長い短い、四角い丸いという形はないし、青いとか黄色い、赤い、白い、黒いといった、色もありません。それなのに何をもって大小を定めるのでしょうか。
念仏申すに化仏を見たてまつるということの候なるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」といえるが、もしこの理なんどにばし、ひきかけられ候やらん。 / 念仏称えると化仏を拝めるということは「念仏を一生懸命に称えると大きな仏、少ないと小さな仏を見る」と『大集経』に出ていますが、それにひっかけて言っているのでしょうか?もしそうなら、それと信心決定した人が死んで大きな仏になる、小さな仏になる、ということとは全然違いますから、とんでもない間違いです。
かつはまた檀波羅蜜の行とも言いつべし。 / それとも、まいた種に応じて結果が変わる、聖道仏教の考え方を持ち込んだのでしょうか。そのどちらかでしょう。
いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心欠けなばその詮なし。 / いずれにせよ、どんなに仏様や僧侶に財施をしても、信心決定しなければ、死んで仏に生まれることはできません。
一紙半銭も仏法の方に入れずとも、他力に心をなげて信心深くば、それこそ願の本意にて候わめ。 / たとえ一枚の紙、一円の半分も財施しなくても、一心に他力に打ちまかせて、信心決定すれば、それこそ阿弥陀仏の最もお喜びになること。
すべて仏法に事を寄せて世間の欲心もあるゆえに、同朋を言いおどさるるにや。 / そういうのはみんな、仏法にかこつけて、金が欲しいという世間の欲の心から、小さな仏になるなどと門徒を脅しているのです。何と滅茶苦茶なことでしょうか。寺や僧侶の存在意義は、一人でも多くの人が信心決定されるように、親鸞聖人の教えを正しく説くことです。それに対してこそ門徒の財施があるのですから、正しい教えを伝えなければなりません。  
■後序 ひとえに親鸞一人が為なりけり
右条々は皆もって、信心の異なるより起こり候か。 / これら、11章から18章で問題にされている間違いは、親鸞聖人の信心と異なるところから起こったものでしょうか。  
故聖人の御物語に、法然聖人の御時、御弟子その数多かりける中に、同じ御信心の人も少なくおわしけるにこそ、親鸞御同朋の御中にして御相論のこと候いけり。 / 今は亡き親鸞聖人がよく語って下されたことに、親鸞聖人が法然上人のお弟子であられた時、法然門下380余人という沢山のお弟子がありましたが、同じ他力真実の信心の人が 少なかったので、お友達の中で起こった論争があります。
そのゆえは、「善信が信心も聖人の御信心も一つなり」と仰せの候いければ、  / それは、その時「善信」というお名前だった親鸞聖人が、「この善信の信心もお師匠様・法然上人の御信心も同じでございます。少しもかわるところはありません」おっしゃったからです。
勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もってのほかに争いたまいて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心一つにはあるべきぞ」と候いければ、 / 勢観房・念仏房などというお友達が、「どうしてお師匠様の御信心とおまえの信心が同じなものか」 と猛烈に異議を申し立てました。
「聖人の御智慧才覚博くおわしますに、一つならんと申さばこそ僻事ならめ、往生の信心においては全く異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、  / 親鸞聖人は この親鸞の智慧や才覚が法然上人と同じだといったのなら、もちろんとんでもないことでありましょうが、他力真実の信心においてはまったく異なることはありません。ただ一つです。」とお答えされたのですが、
なお「いかでかその義あらん」という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御前にて自他の是非を定むべきにて、この子細を申し上げければ、  / それでも「お前の言うことはさっぱりわからん」と、非難や疑いがあって、平行線をたどったので、結局、法然上人の御前で、どちらが正しいかはっきりさせて頂こうと法然上人に事の次第をご報告したところ、  
法然聖人の仰せには、 「源空が信心も如来より賜りたる信心なり、善信房の信心も如来より賜らせたまいたる信心な り、さればただ一つなり。別の信心にておわしまさん人は、源空が参らんずる浄土へは、よも参らせたまい候わじ」と仰せ候いしかば、 /  法然上人は、 「この法然の信心も阿弥陀仏より頂いた信心、善信の信心も阿弥陀仏より頂いた信心であろう。下された方も下された信心も同じだから、ただ一つになる。因が違えば結果は異なる。この法然と信心の異なった人は、私が往く浄土へは、往けませんよ」とおっしゃいました。  
当時の一向専修の人々の中にも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候らんとおぼえ候。  / そういうところからも、当時、法然上人直々の380余人のお弟子の中でさえも、親鸞聖人の御信心と異なる、間違っていた人がたくさんあったことがうかがえます。  
いずれもいずれも繰り言にて候えども、書き付け候なり。  / いづれもいづれも、また同じくり返しかと思って聞くでしょうが、書かずにおれないのです。 
露命わずかに枯草の身にかかりて候ほどにこそ、相伴わしめたまう人々、御不審をも承り、聖人の仰せの候いし趣をも申し聞かせ参らせ候えども、閉眼の後は、さこそしどけなき事どもにて候わんずらめと歎き存じ候いて、  / この身も枯れ草のようになり、その上に露の命がかろうじてかかっているかのような今日この頃、共に親鸞聖人の教えを聞き求めて来た人々の尋ねられた意見不審の点もよく聞いて、親鸞聖人からお聞かせ頂いたことを、その都度お伝えしてきましたが、私の死後は、もう話もできないので、どんなにとんでもないことが伝えてゆかれるのだろうかと心配に思って、この書を記したのです。  
かくのごとくの義ども仰せられあい候人々にも、言い迷わされなんどせらるることの候わんときは、故聖人の御心にあいかないて御用い候御聖教どもを、よくよく御覧候べし。  / これらのいろいろ間違ったことを、これが親鸞聖人の教えだと言う者が現れた時、それに迷う者があった時は、親鸞聖人の御心にかなって、ご使用になられたもの、聖人の書き残されたものをものさしとしてよくよくご覧頂きたいと思います。  
おおよそ聖教には、真実・権仮ともに相交わり候なり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真を用いるこそ、聖人の御本意にて候え。  / 仏教の教えを正しく伝えた一切のものには、永遠に変わらない真実と真実へ導くために一時的に必要な権仮(方便)が説かれているのです。たとえば、船を方便、真実を向こう岸とすれば、船に乗らねば向こう岸にはわたれませんが、船に乗ったままでも向こう岸にはわたれませんから、最後は船をおり、向こう岸に到着するのです。 ちょうどそのように、方便によって真実に入る親鸞聖人の御心なのです。  
かまえてかまえて聖教を見乱らせたまうまじく候。 大切の証文ども、少々抜き出で参らせ候て、目安にしてこの書に添え参らせて候なり。  / 仏教の教えを正しく伝えた一切のものを読む時大事な心がけは、真実と権仮を誤ることのなきよう、そういう真剣さがいるのです。 だから、読んだ人が間違わない目安にしてもらえるように、大切な証文を少々抜き出して書き添えましょう。  
聖人の常の仰せには、 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候いしことを、  / 親鸞聖人がいつも「大変長い間、阿弥陀仏が考えに考え抜かれ建てられた本願をよくよく考えてみると、全く親鸞一人を助けんがための本願であった。こんな数限りもない悪業をもった極悪の親鸞を助けて下された阿弥陀仏の本願の尊さよ、ありがたさよ。」と述懐しておられたことを、  
今また案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈み常に流転して、出離の縁あることなき身と知れ」という金言に、少しも違わせおわしまさず。  / 今また考えてみると、善導大師の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈み常に流転して、永久に助かる縁のない者と知れ」という御言葉に少しも違うところはありません。  
さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを、思い知らせんが為にて候いけり。  / かたじけないことに親鸞聖人がご自身にひきよせられて、私たちの罪悪の深きこと、阿弥陀仏の御恩の高きことを知らずに迷っていることを思い知らせる為におっしゃったことです。  
まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして、我も人も善し悪しということをのみ申しあえり。  / 善悪を問題にするのは真実へ導く方便として必要ではありますが、阿弥陀仏のご恩ということを問題にせず、善悪だけを問題にしています。
聖人の仰せには、「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそ、仰せは候いしか。  / 親鸞聖人がおっしゃるには、 「私は何が善で何が悪か、まったく分からない。なぜなら、阿弥陀仏は本当の善をご存じだから、そのように親鸞も知っていれば、善をわかっているとも言えよう。また、阿弥陀仏がご存じのように親鸞も悪を知っていれば、悪をわかっていると言えるだろう。しかし知らないのだ。自分の都合で善悪を決めるのに、煩悩でできていて自分の都合しか考えない人間が、変わり通しの、ひさしに火のついた家のように不安なこの世界に生きているから、すべてのこと、例外なく、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ阿弥陀仏の本願のみが、まことなのだ」とおっしゃいました。  
まことに我も人も空言をのみ申しあい候中に、一つ痛ましきことの候なり。そのゆえは、念仏申すについて信心の趣をもたがいに問答し、人にも言い聞かするとき、人の口をふさぎ相論を絶たんために、全く仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、浅ましく歎き存じ候なり。この旨をよくよく思い解き、心得らるべきことに候。  / 本当に、私も人も、そらごとばかり言い合っているのですが、1つ痛ましいことがあります。それというのも、念仏の称え心や信心についお互い問答したり、話して聞かせるとき、相手を黙らせ、論破するために、親鸞聖人がまったくおっしゃっていないことをおっしゃったと主張するのは、嘆かわしいかぎりです。よくよく注意して、そういうことがないようにして貰いたい。  
これさらに私の言葉にあらずといえども、経釈の行く路も知らず、法文の浅深を心得わけたることも候わねば、定めておかしきことにてこそ候わめども、故親鸞聖人の仰せ言候いし趣、百分が一つ、片端ばかりをも思い出で参らせて書き付け候なり。  / これまで記してきたことは、決して私が考えたことではないとはいえ、経典やその解釈に通じているわけでもなく、経文の深い浅いが分かっているわけでもないので、きっとおかしいと思われることもあるでしょうが、今は亡き親鸞聖人のおっしゃった100に1つでも、少しでも思い出して書きとめたのです。
悲しきかなや、幸いに念仏しながら、直に報土に生まれずして辺 地に宿をとらんこと。一室の行者の中に信心異なることなからん ために、泣く泣く筆を染めてこれを記す。  / 幸いにも、念仏する身になりながら、直ちに真実の浄土へ生まれず、浄土の近辺にとどまったならば何と悲しいことでしょう。ともに聞法する法友の中に、信心の異なることのないように、泣く泣く筆をとり、この書を記したのです。  
名づけて歎異抄というべし。外見あるべからず。  / これを『歎異抄』と名づけましょう。仏縁の浅い人には見せないようにしてください。  
■注記 僧に非ず俗に非ず
後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。 / 後鳥羽上皇の時代、法然上人が、他力本願念仏宗を興されました。  
時に興福寺の僧侶、敵奏の上、御弟子中狼藉子細あるよし、 無実の風聞によりて罪科に処せらるる人数の事。 / 時に奈良の興福寺の僧侶が、憎み、朝廷に直訴したことから、法然上人のお弟子に風紀を乱す者がいるという事実無根の噂によって、罪に処せられた人数は以下の通りです。
一。法然聖人并びに御弟子七人流罪、 又御弟子四人死罪に行わるるなり。 / 一。法然上人と、お弟子7人が流刑、また、お弟子4人が死刑に処せられた。
聖人は土佐国番田という所へ流罪、 罪名藤井元彦男と云々、生年七十六歳なり。 / 法然上人は、土佐の幡田という所に流刑。 罪人としての名前は、藤井元彦男と言われました。76歳の時でした。
親鸞は越後国、罪名藤井善信と云々、生年三十五歳なり。 / 親鸞聖人は越後の国、罪名は藤井善信、35歳の時でした。
浄聞房備後国、澄西禅光房伯耆国、好覚房伊豆国、行空法本房佐渡国。 / 浄聞房は備後の国、澄西禅光房は伯耆の国、好覚房は伊豆の国、 行空法本房は佐渡の国へ流刑にされました。
幸西成覚房・善恵房二人、同じく遠流に定まる。 しかるに無動寺の善題大僧正、これを申しあずかると云々。遠流の人々已上八人なりと云々。  / 幸西成覚房・善恵房の2人も、同じように流刑に定まっていましたが、無動寺の善題大僧正が、身柄をあずかったので免れました。流刑にあったのは以上8名でありました。
死罪に行わるる人々。一番 西意善綽房、二番 性願房、三番 住蓮房、四番 安楽房。二位法印尊長の沙汰なり。  / 死刑になったのは、以下の人々であります。一番 西意善綽房、二番 性願房、三番 住蓮房、四番 安楽房。これは「二位の法印」といわれた尊長の裁判結果です。
親鸞僧儀を改めて俗名を賜う、よって僧に非ず俗に非ず、 然る間「禿」の字を以て姓と為して奏聞を経られおわんぬ。  / 親鸞聖人は、このような刑罰を受け、もう僧侶でもなければ、俗人でもないから、「禿」という字をもって姓とし、朝廷に奏上されました。
彼の御申し状、今に外記庁に納まると云々。 流罪以後「愚禿親鸞」と書かしめ給うなり。  / その上申書は、今も外記庁に納まっているといわれます。 このようにして流刑の後は、署名される時はいつも「愚禿親鸞」と書かれるようになったのです。
歴史上の事実
ここには「承元の法難」といわれる歴史上の事実が記されています。
当時の全仏教が結託して朝廷に直訴し、法然上人や、親鸞聖人などのお弟子達が受けた大弾圧です。
その訴状である「興福寺奏状」を書いたのは興福寺の解脱房貞慶です。ところが貞慶は、一生涯、興福寺の法相宗の教えの通りに戒律を守るようにつとめ、修行に励みましたが、死ぬ1ヶ月前に、
予が如き愚人、観念に堪えず。 (『観心為清浄円明事』)
「私のような愚人は、観念(法相宗で教えられる修行)はできなかった」と言っています。そして臨終にはやはり、
予は深く西方を信ず。 (『観心為清浄円明事』)「私は阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたい」と、どんな人も救う阿弥陀仏の本願を信じようとしています。
それにしては取り返しのつかないことをしてしまっていますよね。
この大弾圧によって、親鸞聖人は「非僧非俗」を宣言され、愚禿親鸞と名乗られるようになりました。
非僧非俗
この『歎異抄』の「僧に非ず俗に非ず」というのは、親鸞聖人の主著『教行信証』にも「非僧非俗」とあります。
「僧」とは僧侶のことです。親鸞聖人というと僧侶だと思っている人が多くありますが、親鸞聖人ご自身は「僧に非ず」と言われています。なぜ親鸞聖人は「僧に非ず」と仰ったのでしょうか。
1つ目の理由は、僧侶は、当時、国家権力の認めた者を言われていました。親鸞聖人は、僧籍を剥奪されて、藤井善信という名前をつけられ、罪人として都から追放されました。国家権力から認められた僧侶ではないので、「僧に非ず」と言われています。
肉食妻帯
もう一つは、僧侶には守らなければならない戒律があります。仏法を説く者は、世間の人と同じではいけません。言動をしっかりするように教えられているのが戒律です。
男の釈尊のお弟子を「比丘」と言い、250の戒律があります。女の釈尊のお弟子、尼さんですが「比丘尼」と言い、500の戒律があります。
比丘なら250、比丘尼なら500の戒律を遵守している人が、釈尊のいわれる僧侶です。250の戒律の中に「肉食妻帯」が禁じられています。「肉食」とは、肉を食べることです。肉を食べることは殺生になります。自分で殺さず、肉屋から買って食べても殺生罪です。「妻帯」とは、結婚することです。250の中でも特に厳しく禁じられているのが肉食妻帯です。肉を食べてはならないし、結婚してもいけません。
ところが親鸞聖人は、公然と肉食妻帯されました。肉食妻帯したのだから、当然、僧侶ではない。親鸞聖人は、戒律を破ったのだから、「僧に非ず」と宣言されているのです。
自他共に認める非僧
このように、親鸞聖人が「非僧」と言われたのは、国家権力が認めた僧侶ではないことと、肉食妻帯して破戒されたことからです。
周りの人も親鸞聖人を僧と認めていないし、親鸞聖人も自ら肉食妻帯されましたから、僧侶ではないと言われています。自他共に「僧に非ず」ということです。
ですから師蛮という人が書いた『本朝高僧伝』には、1600人もの高僧の名前が書かれていますが、そこには、有名な親鸞聖人はありません。
親鸞聖人を僧侶だという人は、全くこういう事実を知らない人なのです。
俗に非ず
同時に「非俗」と言われています。俗でもないということです。僧でないからといって、俗人と同じでもありません。
親鸞聖人は、私は俗人と違うんだという大いなる誇りを持っておられました。
俗人とどこが違うのかというと、布教一筋で生きている点です。
生きるには、衣食住が必要です。その為にはお金が必要です。
他の仕事をして生きている人と、どこが違うのでしょうか。
世間の一般の仕事は一日いくらという労働契約になっています。
一日働いても、その分もらえなければ、訴えることができます。
ところが布教一筋で生きるというのは、商売ではありません。法施による財施です。
どれだけ一生懸命説法しても、財施がどれだけあるかは分かりません。
それに対して、少なすぎるとか多すぎるということは言えないことです。法を受け取った分しか財施はできませんから、説法を聞いた人の心次第です。
真実のかけらもない者ですから、そのあたいが分からない人は、財施もできません。
そう受け止めていく人が、俗に非ざる人です。
財施に関係なく、何とか分かってもらいたいと、命をかけて法を説かずにおれないんだ。命を投げ出して法施をしている親鸞聖人の自信であり、誇りです。
また、財施を多く頂いても、返す必要はありません。一般の仕事なら多く受け取ると問題になりますが、財施は、多く頂いても、仏法の為に使えば、返す必要はありません。
ここは財施が少ないから手を抜いて話す、ここは財施が多いから、一生懸命話す、そうなってはならない。
親鸞聖人の「非僧非俗」は、天下への宣言なのです。  
■奥書 仏縁浅い人に見せてはならない(蓮如上人)
右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。 / 歎異抄は、浄土真宗で大事な本です。  
無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり。釈蓮如  / 親鸞聖人の教えを余り聞いたことのない人には、誰にでも拝読させていいというものではありません。釈蓮如
これは『歎異抄』を読まれた蓮如上人が、書き加えられたものです。この『歎異抄』は、親鸞聖人の体得なされた他力の信心を知るのに大切な本だと言われています。しかも『歎異抄』に記されているのは、他力信心の極致です。カミソリでも、非常に切れるカミソリだと、余りに切れるが為に、ケガをする危険があります。だから、仏縁浅い人には、読ませてはならないと言われているのです。  
歎異抄をたたえる人々

ドイツの哲学者・ハイデガー
マルティン・ハイデガー(1889 – 1976) 20世紀最高の哲学者の1人。・・・以下は老後の日記。・・・今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の『歎異鈔』を読んだ。弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり(歎異抄後序)とは、何んと透徹した態度だろう。もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう。遅かった。自分の側には日本の哲学者、思想家だという人が三十名近くも留学して弟子になった。ほかのことではない。思想・哲学の問題を随分話し合ってきたがそれらの接触を通じて、日本にこんな素晴らしい思想があろうなどという匂いすらなかった。日本の人達は何をしているのだろう。日本は戦いに敗けて、今後は文化国家として、世界文化に貢献するといっているが私をして云わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。なんにも要らないから聖人のみ教えの匂いのある人間になって欲しい。商売、観光、政治家であっても日本人に触れたら何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。そしたら世界中の人々が、この教えの存在を知り、フランス人はフランス語を、デンマーク人はデンマーク語を通じてそれぞれこの聖者のみ教えをわがものとするであろう。そのとき世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく。 二十一世紀文明の基礎が置かれる。
大衆文学の巨匠・司馬遼太郎
司馬遼太郎(1923 – 1996) 小説家の中でも最も著書が多く、累計発行部数は2億部に近い、日本大衆文学の巨匠。『功名が辻』『翔ぶが如く』『徳川慶喜』『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など、7作が、大河ドラマの原作となっている。・・・鎌倉時代というのは、一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった。 (司馬遼太郎『この国のかたち』) そして『歎異抄』について、こうも言います。十三世紀の文章の最大の収穫の一つは、親鸞の『歎異抄』にちがいない。・・・講演では『歎異抄』について、このように言っています。「死んだらどうなるかが、わかりませんでした。人に聞いてもよくわかりません。仕方がないので本屋に行きまして、親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね。人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思うことがあります。『歎異抄』にはそれがありませんでした。 (中略) 兵隊となってからは肌見離さず持っていて、暇さえあれば読んでいました。無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ。
作家・吉川英治
吉川英治(1892 – 1962) 傑作『宮本武蔵』はNHK大河ドラマや、漫画『バガボンド』の原作にもなっています。他にも『太閤記』『新・平家物語』『太平記』など、NHK大河ドラマ5作品の原作をしています。・・・私が小説というものを書いた第一作が『親鸞』であった。29才の時、東京毎夕新聞に入社すると文才を認められ『親鸞記』などの執筆を始めました。46才の時に、再び『親鸞』を執筆していますので、生涯に二度、『親鸞』という小説を書いたことになります。・・・私は、何ということなく、親鸞が好きだ、蓮如が好きだ。好き嫌いで言うのは変だけれど、正直な表現でいえば、そうなる。・・・また、こうもうたっています。「歎異抄 旅に持ちきて 虫の声」
作家・下村湖人(しもむらこじん)
下村湖人(1884 – 1955) 佐賀県出身、東京帝国大学英文科を卒業し、中学校の教師や校長を歴任。教職を辞めた後は、講演や文筆活動に力を尽くし、生涯を通して多くの若者に影響を与えました。下村湖人の代表作は自伝的長編小説『次郎物語』です。何度も映画化され、ドラマにもなりました。学校の課題図書でもよく取り上げられ、よく読まれています。・・・主人公の次郎が、里子に出されて、成長していくさまを描いています。その絶筆となった第五部で、次郎は『歎異抄』に読みふけります。・・・次郎は、今、その空林庵の四畳半で、雀の声をきき、その飛び去ったあとを見おくり、そしてしずかに「歎異抄」に読みふけっているわけなのである。かれがなぜこのごろ「歎異抄」にばかり親しむようになったかは、だれにもわからない。それはあるいは数日後にせまっている第十回目の開塾にそなえる心の用意であるのかもしれない。あるいは、また、かれの朝倉先生に対する気持ちが、「たとへ法然上人にすかされまゐらせて念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」という親鸞の言葉と、一脈相通ずるところがあるからなのかもしれない。さらに立ち入って考えてみるなら、自分の現在の生活を幸福と感じつつも、まだ心の底に燃えつづけている道江への恋情、恭一に対する嫉妬、馬田に対する敵意、曽根少佐や西山教頭を通して感じた権力に対する反抗心、等々が、「歎異抄」を一貫して流れている思想によって、煩悩熾盛・罪悪深重の自覚を呼びさます機縁となっているせいなのかもしれない。
作家・倉田百三
倉田百三(1891 – 1943) 親鸞聖人と歎異抄の著者といわれる弟子唯円を描いた『出家とその弟子』の著者。発表と同時に当時の青年たちに熱狂的に支持され、大ベストセラーとなりました。世界各国で翻訳され、フランスのノーベル賞作家ロマン・ロランも絶賛しています。・・・『歎異鈔』の「悪をも恐るべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に」これは恐ろしい表現である。世界のどの経典にこんな恐ろしい、大胆な表現があるか。ニーチェでも、トルストイでも、ボードレールでも、これを読んだら驚くだろう。トルストイの如きは、82歳の家出後において死なずにこれを読んだら、更に転心して念仏に帰しはしなかったであろうか。・・・『歎異抄』よりも求心的な書物は、おそらく世界にあるまい。この書には、また、もの柔らかな調子ではあるが、恐ろしい、大胆な、真剣な思想が盛ってある。見方では毒薬とも、阿片とも、利刃ともとれる。そしてどこまでも敬けんな、謙虚な、しかし真理のためには何ものをも恐れない態度で書かれているのである。文章も日本文としては実に名文だ。 国宝と言っていい。・・・歎異抄は、私の知って居る限り、世界のあらゆる文書の中で、一番内面的な、求心的な、そして本質的なものである。文學や、宗教の領域の中、宗教の中でも最も内面的な仏教、その中でも最も求心的な浄土真宗の一番本質的な精髄ばかりを取り扱ったものである。 中略  歎異抄という著作は反之、その志向が内界完成にあるので、徹頭徹尾求心的なものである。その方面での、典型的なものとして、世界第一の文書である。
作家・真継伸彦
真継伸彦(1932 – 2016) 京都大学出身の作家、姫路獨協大学教授。学生時代はヨーロッパ思想一辺倒だったものの、25才頃に歎異抄に出会い、その後は仏教に打ち込んみました。やがて『親鸞』という小説を書いています。・・・浄土、日蓮、天台、真言、禅など様々に対立する在家仏教がすでに成立しているなかで、なぜとくに親鸞から学ぼうとするのかという選択の問題については、個人的な動機がある。私はおなじ動機から『歎異鈔』を訳出し、読者にあらかじめ読んでもらおうと思う。というのは、私はもう二十年ちかく前、二十代なかばのころに『歎異鈔』を読んで、救われた思いをしたことがあるからである。・・・私はこの本を書くために親鸞の著作のほとんどを再読して、やはり『歎異抄』に最も感動させられたのだった。私は読んでいて、親鸞の肉声を聞く思いもした。私は同時に『歎異抄』が、親鸞の全思想の精髄であるとも思った。
哲学者・三木清
三木清(1897 – 1945) 日本の三大哲学者の1人。20世紀最大の哲学者・ハイデッガーに学んでいます。遺稿は『親鸞』・・・万巻の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら、『歎異抄』をとる。 第一高等学校(現在の東大教養学部)から京都大学に学んでいますが、高校時代の読書をこう回想しています。・・・高等学校時代に初めて見て特に深い感銘を受けたのは『歎異鈔』であった。東洋哲学というとすぐ禅が考えられるようであるが、私には平民的な法然や親鸞の宗教に遙かに親しみが感じられるのである。いつかその哲学的意義を闡明(せんめい)してみたいというのは、私のひそかに抱いている念願である。
哲学者・西田幾多郎
西田幾多郎(1870– 1945) 京都学派の創始者で、日本の三大哲学者の1人。・・・一切の書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる。・・・このことは、日経新聞にもつぎのように掲載されました。哲学者の西田幾多郎は空襲の火災を前に、ほかの書物が燃え尽くしても「歎異抄」だけ残ればいいと言い切った。『歎異抄』は、「哲学の動機は人生の悲哀でなければならない」と見た西田だけでなく、誰にでも人間存在の悲しさ、善悪、救済について考えさせられる。・・・随筆にも、このように書いています。親鸞聖人が『歎異抄』においての善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやという語、深く味わうべきである。
ハリー・ピーパー
ハリー・ピーパー(1907 – 1978) ドイツ語の歎異抄を読んで感動。ヨーロッパに浄土真宗を伝えました。・・・毎日、『歎異抄』を読み、つねに私の疑問、不安、問題に対しての答えを見出しています。これは本当に驚くべき価値のある本です。 友人達にも『歎異抄』に忠実であるようにとすすめています。
作家・齋藤孝
齋藤孝(1960 – ) 作家・教育学者。ベストセラー『声に出して読みたい日本語』シリーズなどで有名。・・・『歎異抄』を声に出して読むと、親鸞が生の声で自分に語ってくれて いるという感触が伝わってきます。この(歎異抄の)言葉そのものに出会うことができなかったとしたら、おそらく、日本人にとっては非常に大きな損失であったでしょう。
俳優・武田鉄矢
武田鉄矢(1949 – ) 「3年B組金八先生」で有名な俳優、歌手であり作詞家。・・・直木賞作家、東野圭吾の『白夜行』がドラマ化された際、笹垣刑事役の武田鉄矢が、原作にない『歎異抄』を何度も口ずさんでいました。そのことをこのように語っています。・・・犯罪者者2人が愛というテーマでずっと何かを追い続けるのならば、笹垣も何か強いもの持っていないとダメだと思って、演出家と相談して、すき間すき間で親鸞の『歎異抄』を口ずさんでるんです。これは最初にやった時に演出家が訳分からず「あっ、いいですね!」って 言ってくれて、それ以降やらせてもらってるんですよ。・・・なぜ『歎異抄』なのかと言いますと、このドラマの持っている最終的な大きい テーマじゃないかと思うんだけど、「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というのがあるんですが、 悪こそ救済の対象なんだという意味で、これは原作の中で深く漂ってるんじゃないかって思ったんですよね。・・・雪穂がマリア様に向かって自分の運命を呪うところがありましたが、マリアから打ち捨てられたヒロインを救いうる宗教は『歎異抄』世界にたった一つ、親鸞の浄土真宗だけなんですよね。これがどういう結果になるか分からないですけど、毎回小さく『歎異抄』の一部分をつぶやきで入れています。
歌人・吉野秀雄
吉野秀雄(1902 – 1967) 近代日本の歌人で、書家でもあります。生来病弱で、60歳頃から動けなくなり、65歳で亡くなりました。・・・晩年の64歳のときの随筆集『やわらかな心』は、代表作の1つです。その「あとがき」に 「わたしは、じつは目下病重く、これ以上書けませんが、ただひたすらに、この本の一カ所でもいいから、読者の心にひびくもののあるようにと念じております」と書き残しています。その『やわらかな心』の中に、『歎異抄』のことを以下のように書いています。・・・二十三の年にわたしは肺結核を病んで、爾来七年間闘病生活をした。二度死にかけた。不安な心が宗教にひかれるのは、当然の成り行きで、この間しきりに歎異抄を読んだ・・・さらには苦しいときに内から支えた力であったと、このように言っています。戦争中の四十三の年に、わたしは前の家内に死なれ、四人の子供をかかえて、意気地なくも途方にくれていた。この際歌よみのわたしは、短歌を作ることによって救われたかのごとくであったが、その根本を内から支えた力は、やはり歎異抄であったといってさしつかえなさそうである。・・・また、歎異抄を讃える歌をたくさん作っています。若きより繙(ひもと)きなれし 書(ふみ)なれど 今宵のわれは おしいただきぬ / 歎異抄 読みゆくなべに 上人の 鏡の御影 おもかげにたつ / 河和田の 唯円と呼びき 歎異抄 つづりし人ぞ この里の人 / 耳の底に留めし み声にうながされ 泣く泣く筆をそめし一巻(ひとまき)・・・そして、歎異抄について、このように書き残しています。これ(『歎異抄』)をもって世界第一の信仰奥義の書とさえ信じている。そして、この随筆を出した翌年、65歳で吉野秀雄はその生涯を閉じています。
実業家・加藤弁三郎
加藤弁三郎(1899 – 1983) 京都帝国大学工学部卒業。協和発酵工業(2008年から協和発酵キリン)の社長・会長をつとめた実業家。・・・加藤弁三郎は、京都帝国大学在学中、古本屋で『歎異抄』をなんとなく手に取ります。「たんにしょう」という読み方も知らず、ページを開いてみると、「善人なおもて往生をとぐ……」の一節が目に飛び込んできます。値段は10銭、そのまま買います。寮に帰って最初から読み直すと、さっぱり分からず、そのまま放置します。・・・その後、浄土真宗に縁があります。就職した会社(宝酒造)の社長が浄土真宗、出向させられた協和化学工業の社長も浄土真宗。・・・就職した翌年にお見合いで結婚した奥さんの実家も浄土真宗でした。・・・やがて、終戦直後、昭和20年11月に協和発酵の社長に就任したとき、日本中大混乱の中で、何とか従業員を路頭に迷わせないようにしなければならないと、心の安定を求めて仏教を勉強し始めます。そして『歎異抄』の教えを、一言一言、骨身にしみて感じられるようになった、と述懐しています。・・・私は青年の頃、宗教は科学を知らない未開の野蛮な人間の信じるもので、文明が開化し科学隆盛の時代には、何の役にも立たないものだと思っていた。その証拠に、宗教を信じないからといって罰が当たるわけでもないし、宗教などなくても人生をエンジョイすることはできると。しかし今になれば、それは浅はかな考えであったことに気づいている。 ・・・そして、企業経営者としての生き方のバックボーンにしているといいます。幸運にも親鸞聖人の教え、とくに『歎異抄』に出会って、その魅力にとりつかれた。そして今では自分自身の生活、あるいは企業経営者としての生き方のバックボーンにさせていただいている。さらにはどんな人でも『歎異抄』を読めば、このように思うと言います。仏教に関心のない人でも『歎異抄』を読めば、人間の愚かさに気づき、頭をたれて親鸞聖人の教えの通りに人生を渡るしかないと思えてくる。・・・現代はまさに「火宅無常の世界」である。そんな時代だからこそ、私は多くの人に『歎異抄』を読んでもらい、生き方のバックボーンにしてもらいたいと思う。
ハワイ大学教授・アルフレッド・ブルーム
アルフレッド・ブルーム(1926 – 2017) 戦後、軍隊の翻訳者として日本に来ていたときにキリスト教から浄土真宗に改宗した。英語圏における浄土真宗の権威。ブルーム教授は、ハワイ放送で講義した内容を、『現代思想と歎異抄』という本にして出版しています。その中に、このよう書いています。・・・『歎異抄』の解釈において、私は親鸞の教えが現代という大衆社会、テクノロジーの社会に住む人間にとって有意義でかつ心の眼を開くような精神の視点となるものであるということを強調したつもりです。人生が無意味で絶望的なものだとの思いしかもてない人にとって、本願にあらわされる阿弥陀仏の大悲についての親鸞の考えは、人生の意味に対する活力あるとらえ方を与えてくれ、同時に人間の我執に対するありのままの洞察をも与えてくれるものであります。・・・このように『歎異抄』の内容は、人生が無意味だと思える人に生きる意味を与えると言っています。さらに言葉を変えて、精神生活の源泉であり、人生におけるすべて行動の基準であると言っています。・・・『歎異抄』は、それに目醒めることが私たちの精神生活の源泉になるところの本願の描写で始まり、人生のすべての行動基準となる本願の描写で終わっています。 (中略) 後序は私たちの人生におけるすべての行動の基準としての本願を述べておわっているのです。
俳優・石坂浩二
石坂浩二(1941 – ) 俳優業のみならず、作家、司会者やクイズ番組の解答者など多方面で活躍。画家としても知られ、自らの作品の展覧会を度々開催することもある。古典文学の名著『歎異抄』に記された内容が初めてアニメ映画となって登場しました。その映画で親鸞聖人役を務めた石坂浩二が『歎異抄』について、インタビューを受けた時のコメントが朝日新聞2019/5/21に掲載されています。・・・こんなにコンパクトで、重みのある本は、めったにない。読んでみたら、絶対、おもしろいと思う。また、『歎異抄』の魅力をこうも言っています。 『歎異抄』は、決して、宗教書ではなく、日本で最初に綴られた哲学書だと思っています。人生で、繰り返し読みたい本です。読むたびに、ひっかかるところが変わっていきます。おもしろいだけでなく、ものすごい驚きのある本です。漂流する時に、そばに、『歎異抄』がポンと置いてあっても、決して邪魔にならないですからね。・・・石坂浩二が「ものすごい驚きがある」、と言っているように、『歎異抄』には、逆説的なことがあちこちに記されています。そこには、重みのある驚くような方向性が示されています。それで、漂流してもしなくても、人生に迷い、漂流しているようなとき、誰も飽きることのない生きた人生書として、何百年も読み継がれているのでしょう。  
歎異抄の著者

『歎異抄』は、日本で最も読まれる仏教書でありながら、著者は分かっていません。そのため色々な憶測を呼んでいます。現在では著者は親鸞聖人の高弟の唯円であろうと言われています。一体どうしてなのでしょうか?そして唯円とはどんな人だったのでしょうか?
歎異抄の著者の憶測
『歎異抄』の著者は不明です。『歎異抄』に著者名が書かれていないのです。
名前を書かないということは、匿名によるネットの書き込みと同じで、無責任なだけではないか、というと、そうでもありません。書かれた後何百年も読み継がれる内容を、あれだけ美しい文章で書かれているので、自分の名前を書いたほうが、名誉であり、誇りとなるはずです。結果的に、歴史にも名前が残ります。そんなすごい深い内容と、類い希な文章力を持ちながら、自分の名前を書き残さないというのは、普通では考えられないことです。『歎異抄』に残された謎の一つとして、昔から色々な憶測を呼んでいます。
例えば、『歎異抄』の著者は大変謙虚な人だったというものです。「自分の先生の親鸞聖人のお言葉を書き残すのだから、とても自分が著者というわけにはいかない」ということで、名前を記さずに、親鸞聖人のお言葉そのままだということを表そうとしたのではないか、という人もあります。
また、『歎異抄』にはきわどい内容がたくさん書き残されているため、浄土真宗の教えを混乱させようとした、浄土宗の回し者が、あえて著者名を記さずに、読み誤れば大変なことになる内容を書いたのではないか、という人もあります。
色々な憶測を生みながらも、『歎異抄』の内容から、現在では、唯円(ゆいねん)ではないか、といわれています。何を根拠にそんなことが言われるようになったのでしょうか?
歎異抄の著者を推定する根拠
覚如上人という根拠
『歎異抄』は、それ自体に著者は書かれていなかったのですが、伝えられる目録には、著者を浄土真宗の2代目の如信(にょしん)上人であると書いた目録と、3代目の覚如(かくにょ)上人であると書いた目録がありました。また、序文は覚如上人で、内容は一部如信上人とする説もありました。
如信上人という根拠
ところが江戸時代になると、覚如上人ではなく、如信上人であろうと言われるようになりました。なぜなら、『歎異抄』には、「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれをしるす」とあるのに、覚如上人は親鸞聖人がお亡くなりになってから生まれられたので、直接聞いて耳の底に残っていることはないだろうからです。
さらに、覚如上人が如信上人から聞いたことを書かれた『口伝鈔』という本があります。その中に、『歎異抄』第3章に出てくる「善人なおもて往生す、いかにいわんや悪人をや」と、『歎異抄』第1章に出てくる「善もほしからず、また悪もおそれなし」、第13章に出てくる「人を千人殺害したらば、やすく往生すべし」という問答が出てきます。
これらのことから、覚如上人ではなく、如信上人だろうと言われるようになりました。
唯円という根拠
ところが江戸時代の終わり頃、如信上人では合わない所が見つかりました。それは『歎異抄』別序の「同じ志にして歩みを遼遠の洛陽に励まし」です。これは、関東にいたお弟子が、親鸞聖人のお住まいの京都に歩いてきたという意味です。そして『歎異抄』第2章には、「十余カ国の境を越えて」とあります。関東から10カ国の国境を越えて京都まで歩いてきた人が、親鸞聖人からご教導を頂き、そのお言葉を書き残したことになります。如信上人は、常に親鸞聖人のお膝元でしたので、このようなことはないのです。
そして『歎異抄』に出てくる人は唯円だけで、第9章と第13章に出てきます。第9章の「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」 と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」とあります。これは、親鸞聖人と唯円の問答を、別の著者が横で聞いていたか、後で唯円から又聞きして書いた第3者の文章ではありません。自分が申し上げたという文章です。
第13章の「あるとき、『唯円房はわが言うことをば信ずるか』と仰せの候いし間、『さん候』と申し候いしかば」というのも、本人が書いたときの書き方です。
これらのことから、現在では、『歎異抄』は唯円が書いたのであろうというのが、定説になったのです。
では、唯円とはどんな人だったのでしょうか?
唯円とはどんな人?
親鸞聖人のお弟子に唯円は何人かありますが、歎異抄の著者とされるのは河和田(かわだ)の唯円です。
この唯円は、教えも深く理解し、文章力もあり、覚如上人の伝記である『慕帰絵』によれば、19歳の覚如上人の疑問に答えて解決したといわれる大徳です。
では、最初からそんな立派な人だったのかというと、まったくそうではありませんでした。唯円が開いたといわれる河和田(現在の茨城県水戸市の郊外)にある報仏寺に伝承が伝えられています。
殺生を好む悪人・平次郎
唯円は、もとの名前を平次郎といいました。因果応報の道理を知らず、殺生を好む、自分勝手な悪人でした。ところが、平次郎の奥さんは、仏縁深く、夫の目を盗んでは親鸞聖人の稲田の草庵に参詣し、仏教を聞いていました。
あるとき平次郎の妻が、「うちの旦那は仏法を謗り、家に帰ると念仏も称えられない」と親鸞聖人にご相談しました。親鸞聖人は話を聞かれると、浄土真宗の御本尊である名号を書き与えたのでした。喜んだ平次郎の妻は、手箱に隠して、夫が外出した時に、お供えをしたり礼拝したりして念仏を称えていました。ところが、ある日、平次郎が外出したと思ったら、すぐ帰ってきたのです。
驚いた妻が急いで御名号を隠すと、平次郎は、誰か別の男からのラブレターを急いで隠したように見えました。「今隠したものは何だ」と問い詰めると、奥さんは「見つかったら名号が捨てられてしまう」と一目散に逃げ出します。逆上した平次郎は、追いかけていき、怒りの余り背後から思い切り斬りつけます。
妻に斬りつけ自ら殺す
刀は肩から胸まで食い込み、血しぶきをあげて妻は死んでしまいました。我に返った平次郎は、一時の怒りで大切な妻を殺してしまったことを深く後悔しましたが、もう取り返しがつきません。妻の遺体をムシロで包んで裏山に埋めて家に帰ってきました。すると、今殺して埋めたはずの妻が、出迎えるではありませんか。驚いた平次郎は、今あったことを話します。妻は名号を確認すると、あるはずの場所になくなっていました。顔を見合わせた2人は、裏山に行って、遺体を埋めた場所を掘り返してみると、斜めに切られ、血で染まった名号が出てきたのです。
平次郎の妻は、自分の代わりに斬られた御名号に申し訳なく、涙ながらに念仏を称えて喜びました。平次郎も、自らの手で妻を殺したはずのところ、身代わりになって助けてくだされたことに喜び、泣きながら伏して御名号を拝み、感謝と安堵に涙が止めどもなくあふれ、止まりませんでした。
それから2人は親鸞聖人の稲田の草庵に参詣し、ことの次第をお話しすると、「阿弥陀如来の作られた御名号は、悪人を救う働きのあるものだから、その表れであろう」と教えてくだされたのです。平次郎は、深く懺悔して、お弟子となりました。
お弟子になってからの唯円
こうして平次郎は唯円となり、親鸞聖人から教えを聞き、勉学に励むのでした。さらに報仏寺に次いで唯円が開いた奈良県の立興寺の伝承によれば、親鸞聖人が還暦過ぎて常陸から京都へ帰られると、唯円は35歳頃に十余カ国の境を越えて上京し、続けて教えを受けます。
41歳のときに親鸞聖人がお亡くなりになると、京都から常陸の河和田に戻り、報仏寺を開きます。やがて53歳頃には奈良県へ招かれ、現在の立興寺を開きます。その後、60歳の頃、覚如上人に教えを伝え、68歳で亡くなったといわれます。
『歎異抄』は、覚如上人に教えを伝えられた頃に書かれたものといわれます。親鸞聖人の教えではないことを親鸞聖人の教えだという者が沢山現れてきたので、親鸞聖人から直接お聞きしたお言葉を書き残し、誤りを正そうとされたものです。
しかし、その文章は陶酔的で余りに美しく、信じられないことばかり書かれていますので、誤解しやすいものです。『歎異抄』を読むときは、十分に気をつけるようにしてください。  
 
 
愚管抄

慈円をどう読むか、ずっと課題だった。あの晦渋な文体をどう読むかではなく、慈円の意図をどう読むかということである。
日本人として、日本の歴史を読む者として、この課題はまことに大きいものがある。ふりかえって、歴史家や国文学者が「愚管抄」を本格的に採り上げるようになったのは、せいぜいここ50年のことである。小林秀雄や保田與重郎や坂口安吾などの、戦前から独自の思索を示してきた歴史好きの文学者たちもこの課題を避けていた。慈円をこそ綴ってもよさそうな、その後の石川淳や花田清輝や梅原猛にも、慈円は薄かった。
べつだん「愚管抄」が綴った「道理の歴史思想」を把握すること自体はそんなに難しいわけではない。その歴史思想を慈円という特異な人物が綴ったことを同時に視野に入れることが、ぼくにとっての課題だったのである。
この課題に初めて本格的に挑んだのは、知るかぎりでは大隅和雄だった。「愚管抄を読む」が、慈円の歴史思想の解読だけではない視野を提供していた。これを継いだのはおそらく五味文彦あたりだろうか。他の国史や国文の者たちはあいかわらず慈円に目が狭い。
このことは近現代において最初に慈円に本格的な目をむけたのが筑土鈴寛(つくど・れいかん)であったにもかかわらず、今日、ほとんど筑土鈴寛の彫琢の成果が注目されていないことにもあらわれている。そこを大隈や五味は一歩も二歩も踏みこんだ。けれども、これらの成果はまだ日本思想の一角にくみこまれてはいない。
保元元年に日本は「武者ノ世」「乱逆ノ世」になった。1156年である。ヨーロッパではリューベックとロンバルディアに都市同盟が結成され、中国では朱子が格物致知を説いていた。
この年の7月2日、鳥羽上皇が亡くなり、7月11日の暁から明け方にかけて日本がめまぐるしく動いた。そこで、慈円も驚くほどの複雑な人間模様の対立が渦巻いた。
まず左大臣藤原頼長(弟)と関白藤原忠通(兄)が衝突し、これを庇って鳥羽院に疎まれた崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)が対立し、これにそれぞれくっついて平忠正(叔父)と平清盛(甥)が刃を交わし、さらに源氏一族では源為義(父)と源義朝(子)が闘いあった。骨肉相争う朝廷政治の内紛に「武者」が初めて登場したときでもある。
慈円はこの保元の乱とともに生まれた。久寿2年(1155)のことである。
3年後には平治の乱がおこる。慈円自身が「鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、武者ノ世ニナリニケルナリ」と「愚管抄」に書いたように、慈円は「乱逆」と「武者」の暴発とともに時代の波を生きた人物だった。同世代には平知盛・源義経・北条政子・建礼門院徳子・鴨長明がいる。
しかし慈円ほどにこの「乱逆の世」を痛々しく感得し、これをつぶさに観照し、そこから日本の歴史というものを捉える試みに分け入った者はいなかった。こういうことをしたのは慈円が最初のことだった。
こうした歴史観の披瀝をするにあたって、慈円は天台座主という仏教界の最高位にいた。
のみならず慈円は摂関家に生まれた名門でもあった。それも白河院から鳥羽院におよぶ三代の摂政関白を17年にわたって維持しつづけた“法性寺殿”こと関白藤原忠通の53歳のときの子であって、13人にのぼる兄弟には近衛基実や九条兼実など、その後に関白になっている者がずらり揃っていた。当時の日本社会の最高の地位にいた一門の者だったのである。
日本人は、このような人物の歴史観に慣れていない。トップの座についたアリストクラシーの歴史観を受け止めない。聖徳太子や藤原冬継や北条泰時を軽視する。どちらかといえば西行や兼好法師や鴨長明の遁世の生き方に歴史観の襞をさぐったり、民衆の立場というのではないだろうが、「平家」や「太平記」にひそむ穢土と浄土のあいまに歴史を読むのがもっぱら好きだった。
為政者に対しても、将門や義経や後醍醐のような挫折者や敗北者に関心を示して、天智や頼朝や尊氏のような勝利者がどのように歴史にかかわったかということには、体温をもって接しない。系統から落ちた者をかえって熱心に読む。そのような傾向は、北畠親房の「神皇正統記」がいまのいままで、あまり議論になってこなかったことにもあらわれている。
けれども「愚管抄」は、そうした従来の判官贔屓の好みだけでは読めないのである。
もうひとつ、難点というのか、奇妙なことがある。慈円が天台座主だったからといって、「愚管抄」に仏教思想や天台教学や本地垂迹思想を読もうとしても、たいした成果は得られないということである。「愚管抄」はそういう仏教思想をつかわずに、日本の歴史というものを綴っていた。
なぜそんなふうになったのだろうかというのが、ぼくが長年にわたって抱いてきた関心だった。
慈円は1歳で母を亡くし、10歳で父を失い、13歳で出家した。20歳で大原に隠棲して天台法華を学び、翌年には比叡の無動寺に入って千日入堂をはたした。
こういえば、いっぱしの仏道修行に励んだかのようだが、いや、実際にはそのような覚悟のある人物だったとおもわれるのだが、周囲の目がそうさせなかった。16歳ではやくも一身阿闍梨の称号を許され、いきなり法眼の位を与えられた。
仏門や遁世を嫌ったのではない。慈円は25歳で比叡を下り、兄の九条兼実のもとに赴いて「遁世したい」ということを申し出るのだが、兼実に思い止まるように説得されてしまっている。隠棲への思いはあったのに、名門の出自を捨てるには至らなかったのだ。そればかりか、結局は比叡山延暦寺の中央に摂関家から送りこまれた管理者のエースとしての役割を負わされた。
慈円が天台座主になったのは建久3年のこと、すなわち頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年のことだった。後白河院が亡くなったあと、この時期の政治の中心にいたのは、後鳥羽院と頼朝と、そして慈円の兄の兼実だったのである。
しかし歴史はいつも支配者を変えていく。
慈円が座主になった4年後、兼実が失脚し、慈円も座主辞任を余儀なくされる。そこに頼朝の死が加わった。これで慈円が世をはかなむのなら日本人好みなのだが、そうはしなかった。慈円は九条家の権威の再興を試みて、後鳥羽院と親交を結び、47歳でふたたび天台座主に就いたのである。
ここから先の慈円は、天下安泰を祈祷する日本国最高位の修法者になっていく。王法と仏法に橋をかける立場の頂点に立ったのだ。こうした自身の身を慈円は「サカシキ人」とよび、あえて「サカシキ人」としての思索と行動を深めることに任じていった。西郷隆盛や勝海舟ではなかった。木戸孝允や大久保利通なのである。
けれども、ここでふたたび時代が動く。後鳥羽院が討幕に走って承久の乱となった。慈円は後鳥羽院に武家との対立を回避するように勧めるのだが、ついに時代を動かすことはできなかった。慈円はやっと思い知ったことであろう。
こうして上皇から離れざるをえなくなった渦中、「愚管抄」が綴られたのである。
当然に日本の社会の中心におこったことを「上から見た記述」にしたと想定されるのだが、そうではなかった。
たしかに慈円の立場は情報のすべてを入手するに最も有利な地位にあったのだけれど、慈円はそれらの情報を摂関家のためにも、自分自身のためにも、また仏教や比叡山の立場のためにも、まったく“利用”しなかった。改竄もしていない。あくまで「道理」が見えてくるようにと、これらの情報を史実をあきらかにするためにのみ使って記述した。
こんな歴史書は、それまでまったくなかったものだった。しかも一人の目で歴史を記述するということは、それまでだれも試みていなかった。いままでの正史は複数の者たちの記述の総合であって、いわば企業の社史のようなものである。けれども慈円はそれを一人で果たすことにした。この魂胆、この意図を読みきることが、慈円を読むことの 面白さなのである。

全7巻の「愚管抄」の構成は3部に分かれている。
第1部はあとから加わったとおぼしい「皇帝年代記」で、神武天皇から順徳天皇までが年代順に紹介されている。そして、その随所に「道理」としての天皇就任の次第が解説される。開巻冒頭に「漢家年代」として中国の王朝を列記しているのが異色である。あきらかに慈円は中国を意識しつつ、日本の特異な歴史性を浮き彫りにしたかったのだった。
読んでいくと、日本の天皇の皇位継承の次第で道理が通っていたのは、第十三代の成務天皇までだというようなことがはっきり書いてある。では、そのあとの天皇を批判しているのかというと、そうではなく、仲哀天皇のときに御子がないため孫を皇位に就けてもいいという「新しい道理」ができたというふうに書く。「ナニ事モサダメナキ道理」があってもよいのだという見方なのだ。
慈円にとって「道理」とは「それぞれにそうなる道理がある」という意味なのである。
第2部は、この道理の推移にもとづいて、いったいどのように日本の歴史が進んだかということを書いている。ここは説話なども駆使しての叙述になっていて、文体は「小右記」「玉葉」「明月記」などの日記叙述に似ているのだが、狙いはあくまで摂関家の歴史こそが日本の歴史だったという見方を貫くところにあった。
こうして第3部、いよいよ慈円が直近の歴史の推移をどう見たかというところに入っていく。怨霊や末世の問題が避けられないなか、どのように政治の道理が推移するべきかを正面から議論して、後鳥羽院の政治の仕方に注文をつける。
慈円は全巻を通して、歴史万象すべては相対的であるという見方をとっている。
摂関家と仏門の頂点にいた慈円にとってすら、歴史はたえず流動するものであり、何を機軸にして見ても生起消滅の変化がおこるものだったのである。
しかしそうした見方をしたうえで、慈円が絶対に譲らないものがあった。読みとるべきは、ここである。
その第1は、天皇は天皇の血筋から生まれる系統そのものであるという、日本歴史の“真相”を断言したことだった。「愚管抄」はこういうときは「正法」という言葉すら使っている。
慈円は冒頭に「漢家ニ三ノ道アリ」と書いて、中国では皇道・帝道・王道こそが国の根幹になっていることをあきらかにする。しかし日本の歴史をつぶさに見ていくと、「コノ日本国ノ帝王ヲ推知シテ擬(なぞらえ)アテテ申サマホシケレド」、中国的な「歴史の道」はあてはまらない。日本には日本の「風儀」があると気がついていく。
こうして慈円は日本の天皇には、「国王ニハ国王フルマイヨクセン人ノヨカルベキニ、日本国ノナラヒハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国ナリ」と宣言するのである。この皇統の「スヂ」(筋)の発見が慈円の自慢であった。
第2には、日本という国の歴史には「顕」の歴史とは別に「冥」の歴史があるという見方である。
これこそは「愚管抄」を貫く最も特異な歴史観で、いわば日本国史に「負の機能」を初めて強調したものだった。
ぼくの読者は、おそらくはぼくが歴史に「負の装置」や「負の機能」があると再三強調してきたことを知っておられようが、このような見方はいまだ歴史研究においては認められていない。しかしながら慈円はとっくにこのような見方を採っていた。
もっとも慈円はこのような「負」を「冥」(みょう)ととらえ、「目に見えない歴史の力」というふうに見た。そして、この「目に見えない歴史の力」を大胆にもおよそ4種に分けたのである。
一つは、時代を越える神々の力というもので、そのトップに伊勢大神宮=天照大神と春日大明神=天児屋根命(藤原氏の祖神)があると見た。
二つ目は「冥の世」のものが「顕の世」に仮の姿であらわれたもので、慈円はこれを「化身」「権化」とよんだ。たとえば菅原道真はこの権者にあたっていて、道真が「冥」を担当したことによって藤原氏の「顕」が維持できたというふうに見た。「天神ハウタガヒナキ観音ノ化現ニテ、末代ザマノ王法ヲマヂカク守ラントオボシメシ云々」とある。
三つ目はいわゆる怨霊で、人間の怨嗟が凝り固まって歴史を変化させたというふうに見た。藤原百川を殺した井上内親王から崇徳上皇まで、「愚管抄」は怨霊の歴史を明示的に史実に入れている。
四つ目は天狗・狐狸のたぐいの邪悪な異類異物たちである。慈円はこうした異類の存在を確信していて、それゆえ、自身がその調伏をすることに意義を見出していた。
第3に慈円が譲らなかったのは、むろん「道理」の力である。これは説明するまでもない。
以上、「神の力」「冥の力」「道理の力」をもって、慈円は日本という国の特質をあきらかにする。
このような慈円の見方は、やはり日本に特異な歴史観であるとともに、慈円のような摂関社会と仏教社会の両方の頂点の立った者が歴史の激変をみずから体験したうえについに決断して採用した見方として、おおいに注目されるのである。
慈円は鎌倉新仏教の動きには理解を示さないし、芸術や庶民のこともいっさい書いてはいないのだが、そういうこととは別に、まことに独自な歴史観を紡いでみせたのだった。これはマキアヴェリやチャーチルの記述が歴史の渦中にいた者として長く読み継がれ、さまざまに分析されてきたように、もっと注目されてよい見方であった。
第一巻

漢家年代
盤古 天地人定後之首君也
三皇  天皇 地皇 人皇
又三皇 伏犠 神農 黄帝
五帝  少昊 (山+而+頁)瑣 高辛 唐堯 虞舜
三王  夏 殷 周
夏  十七王 四百卅二年
殷 日商 三十王 六百十八年
周 卅七王 八百六十七年
十二諸侯
鄭 曹 宋 晋 衛 秦 齊 燕 魯 蔡 楚 陳 呉 不入諸侯
六國 无王時号
韓 魏 趙 齊 燕 楚
秦  六帝 四十九年
漢  十四帝 二百十四年
王莽 十四年 更始 三年
後漢  十三帝 百九十五年
三雄  魏 呉 蜀
魏  五帝 四十五年
呉  四帝 四十九年
蜀  二帝 四十三年
晋  十五帝 百五十五年
偽位 恵帝以後
南燕 後涼 後秦 後蜀 後夏 西秦 南涼 前秦 前燕 後趙 代 魏 北涼 北燕 後燕
南朝 北朝
宋   八帝 五十九年  後魏  十四帝 百卅九年
南齊  七帝 廿三年   西魏  三帝 廿三年
東魏  一帝 十六年   梁   四帝 五十五年
後周  五帝 廿四年   陳   五帝 卅三年
北齊  七帝 廿八年
隋   三帝 卅七年
唐   廿帝 二百八十九年
五代
梁   三帝 十六年   唐   四帝 十三年
晋   三帝 十二年   漢   二帝 三年
周   三帝 九年
大宋  至当今十三帝 至今年二百六十三年
承久二年注之
受禅  譲位 禅譲 受禅
践祚  即位 祚阼也 阼 践祚
脱屣  避位也
黄帝求仏道避位如脱云々。
國王ノ治天下ノ年ヲ取コトハ。受禅ノ年ヲ弃テ次年ヨリ取ナリ。踰年法ナリ。
神式 綏靖 安寧 懿徳 孝昭 孝安 孝霊 孝元 開化 崇神 垂仁 景行 日本武尊 仲哀 應神 隼総皇子 男大迹王 私斐王 彦主人王 継躰 欽明 敏達 忍坂大兄皇子 舒明 天智 施基皇子 光仁 桓武 嵯峨 仁明 光孝 宇多 醍醐 村上 円融 一條 後朱雀 後三條 白川 堀川
皇帝年代記
神武天皇 七十六年 元年辛酉歳 五十二即位 御年百廿七
ウノハフキアハセズノ尊ノ第四子。正月一日庚辰。令生給フ云々。御母ハ玉依姫。海神大女。又云。神世第七帝第三子。或云。生母ハ海ニ入ニケリ。玉依姫ハ養母也云々。此時ヨリヤガテ始テ祭主ヲオキテヨロヅノ神ヲマツリ給フ。コノ國ヲ秋津嶋トイフ。大和國橿原宮。元年辛酉歳。如来滅後二百九十年云々。又相当周世第十六代主僖王三年云々。一説。以周恵王十七年辛酉当之。此説為吉。至当時無相違之故也。
綏靖 卅三年 元年庚辰 五十二践祚 御年八十四
神武第三子。神武四十二年正月甲寅日為東宮。十九。母ハタタラ五十鈴媛。コトシロヌシノ神ノムスメ也。神武ウセタマイテ四年アリテ即位。大和國葛城高岡宮。后一人。皇子一人。
神武ニ三人ノ御子ヲハシマシケリ。第一ノ御子ハ手研耳命。第二ハ神八井耳命。第三ハコノ東宮綏靖天皇ナリ。神武崩御後諒闇ノ間。太郎御子ニ世ノ事ヲ申付給フケルニ。此太郎ノ御子ヲトト二人ニタチマチニ害心ヲオコシ給フ。天皇コノ心ヲシリテ。中ノ御子ニ可射殺給之由ヲススメ給フニ。弓箭ヲトリナガラ其手フルイテイルコトヲ不得。其時コノ東宮ソノ弓箭ヲトリテアヤマタズ射殺シ給ヒケリ。ソノ後中ノ御子ハワガ受禅ノ器量ニタヘザルコトヲノベ給フ。東宮ハアニナレバトノ給ヒケル間。タガイニユヅリテ四年ガ間即位ナシ。四年トイフニ。ツイニアニノススメニヨリテ。コノ天皇位ニツカセ給ニケリ。
コノ事ヲ思ニ。一切ノ事ハカクハジメニメデタクアラハシヲカルルナルベシ。兄ヲコロスハ悪ニニタレドモ。ワガ位ニツカムレウニ射コロシタマウニハアラズ。大方ノアクヲ被対治心也。サテノコリ給アニヲ。又ナヲ位ニツキタマヘトススメタマウニ。是ヲ思ニタダ道理ヲ詮トセリ。父王コノ器量ヲハカリテ。第三ノ皇子ヲ東宮ニタテタマイケリ。コノ初ニテ後ヲカヘリミルニ。仁徳ト宇治太子トノ例ハ。コノ中ノ御子ト東宮トノ正道ノ御心ニテ互ニ譲リタマウ事ヲアラハス也。ツイニ兄ニ論ジマケテ令即位給事ハ。仁賢。顕宗ノヨロシキニシタガイテ。人ノハカライニシタガイ給ヒシ例也。アニノ太郎ノ御子ヲ射コロシタマイシハ。スベテ悪ヲシリゾケテ善ニ帰スル心ナリ。聖徳太子ノ時崇峻天皇モコロサレ。天武ニハマタ大友皇子モウタレタマフ。コノ例ハシモザママデヲホカリ。一番ニミナノ事ヲシメサルルナリ。
安寧 卅八年 元年癸丑 二十即位 御年五十七
綏靖太子。綏靖廿五年正月戌子為東宮。十一。母皇太后五十鈴依姫。コトシロヌシノヲトムスメ。同國片鹽浮穴宮。キサキ三人。皇子四人。
懿徳 卅四年 元年辛卯 卅四即位 御年七十七
安寧第二子。或三。安寧十一年東宮トス。母皇太后淳名底中姫。コトシロヌシノムマゴ。同國軽曲峡宮。此御時卅二年孔子卒云々。或孝昭七年云々。后三人。皇子一人。
孝昭 八十三年 元年丙寅 卅二即位 御年百廿
懿徳ノ太子。同廿二年東宮トス。母皇太后天豊津媛。息石耳命娘。同國腋上池心宮。
后三人。皇子二人。
孝安 百二年 元年巳丑 卅六即位 御年百卅七
孝昭第二子。同六十八年為東宮。母皇太后世襲足姫。尾張連上祖瀛津世襲之妹也。同國室秋津嶋宮。后三人。皇子一人。
孝霊 七十六年 元年庚午 五十三即位 御年百廿八
孝安太子。同七十六年為東宮。母皇太后姉押姫。天足彦國押人命之娘。同國黒田廬戸宮。后五人。男女御子六人。
孝元 五十七年 元年丁亥 六十即位 御年百十七
孝霊太子。同卅六年為東宮。母皇太后細媛。磯城縣主大目ガムスメ。同國軽境原宮。后三人。男女御子五人。
開化 六十年 元年辛未 五十一即位 御年百十五
孝元第二子。同廿二年為東宮。母皇太后鬱色謎命。穂積臣遠祖鬱色雄命ノイモウト。同國春日率川宮。后四人。男女御子五人。
巳上九代時臣不記
崇神 六十八年 元年甲申 五十二即位 御年百八
開化第二子。同廿八年東宮トス。母皇太后伊香色謎命。大綜麻杵ガ娘也。同國磯城瑞籬宮。此御門ノ時病死ル者多シ。是ニ依テ天照大神ヲ笠縫ノ里ニマツリ奉ル。諸國ニ社ヲオキ神々ヲアガム。其後世ヲサマリ民ユタカナリ。大ヤケニ御調物ヲソナヘ。諸國ニ池ヲホリ船ヲツクリナンドスル事コノ御時也。遣使四道平不従皇化人等。然無臣連之号。后四人。男女御子十一人。
垂仁 九十九年 元年壬辰 御年百卅 四十三即位 或百一 或百十一
崇神第三子。同四十八年為東宮。母皇太后御間城姫。大彦命ノ娘。同國巻向珠城宮。后四人。男女御子十一人。
此御時。大神宮ヲ伊勢國イスズカハカミニイワヒ奉ル。神ノ御ヲシヘニヨリテナリ。齋宮モコレヨリハジマル。昔ハ人ノ死スルハカニツカハサレ人ヲイキナガラウヅミケリ。此御時ヨリトドメテ土ニテカタヲツクリテコメラレケリ。此御時トコヨノ國ヨリクダモノヲタテマツル。今ノタチバナコレナリ。唐ヘハジメテ人ヲツカハス。新羅ヨリ始メテ使ヲマイラス。
阿部臣等五代祖。奉詔議政。而惣稱卿等。猶无臣号。
景行 六十年 元年辛未 四十四即位 或卅一 御年百六 或百卅三 或百廿
垂仁第三子。同卅七年為東宮。母皇太后日葉洲媛命。丹波道主王娘。同國纏向日代宮。后八人。男女御子八十人。
此御時武内宿禰ヲハジメテ大臣トス。國々ノ民ノ姓ヲタマフ。
棟梁臣武内宿禰 棟梁臣起自此。
成務 六十一年 元年辛未 四十九即位 御年百七
景行第四子。同五十一年為東宮。母皇太后八坂入姫命。八坂入彦皇子女。近江國志賀高穴穂宮。コレヨリサキハミナ大和國也。
此御時國ノ堺ヲサダメラレヌ。后一人。御子ナシ。
大臣武内宿禰 大臣号起自此。大臣与天皇同日生之故。有異寵云々。
仲哀 九年 元年壬申 四十四即位 御年五十二
景行ノムマゴ。日本武尊第二子。母皇太后両道入姫命。活目天皇ノ御姫也。垂仁也。成務四十八年東宮トス。長門國穴戸豊浦宮。后三人。皇子四人。
此御時。皇后トヨラノ宮ニテ如意宝珠ヲ得タマヘリ。海ノ中ヨリ出キタリ。
大臣武内宿禰
大連大伴健持連 大連起自此。
コノ仲哀ノ御テテノ日本武尊ハ。今尾張ノ熱田大明神コレ也。
神功皇后 摂政六十九年 元年辛巳 卅二即位 御年百
仲哀ノ后也。開化御子ニ彦座命皇子。此御子ニ大筒城真稚。○此下恐らく王此御子ニ加邇米雷王十字ヲ脱す。 此御子ニ息長宿禰。此御子ニ神功皇后也。母葛木高額媛。大和國磐余稚櫻宮。
大臣武内宿禰
男ノスガタヲシテ新羅。高麗。百済三ノ國ヲウチトリテ。應神天皇ヲウミタテマツリテ。武内ヲモテ為後見。應神ノアニノ御子タチ謀反ノ事アリケリ。武内大臣ミナウチカチテケリ。此事サノミハ代々ニ注ツクシガタシ。
應神 四十一年 元年庚寅 七十一即位 御年百一
仲哀第四子。皇子三年為東宮。御母神功皇后。大和國軽嶋明宮。后八人。男女御子十九人。
今ノ八幡大菩薩。此御門也。百済國ヨリキヌヌフ女色々ノ物師博士ナドワタス。経典馬等マイラセタリ。
大臣武内宿禰
仁徳 八十七年 元年癸酉 廿四即位 御年百十
應神第四子。同四十年為東宮。此立坊御舎弟也。有異説也。母皇太后仲姫命。五百城入彦皇子ノムマゴ。摂津國難破高津宮。后三人。男女御子六人。
兄弟即位互譲。空経三年。クハシクハシモニシルセリ。仁徳ノ御弟ヲ春宮ニハ立マイラセラレタリケリ。此説宜歟。
大臣武内宿禰。此大臣六代御ウシロミニテ二百八十余年ヲ経タリ。カクレタル所ヲシラズ。
此御時氷室始ル。又鷹イデキテ有御狩云々。此御門ハ平野大明神ナリ。
履中 六年 元年庚子 六十二即位 御年七十
仁徳第一子。同卅一年東宮トス。母皇太后磐之媛命。葛城襲津彦ガ女。大和國磐余稚櫻宮。后四人。男女御子四人。
此御時采女出キタリ。大臣四人云々。諸国ニ藏ヲ作ル事此御時ナリ。
執政平羣竹宿禰 執政始起自此。
宗我満智宿禰
物部伊久仏
大連葛城円使主 武内宿禰會孫。
反正 六年 元年丙午 五十五即位 御年六十 
仁徳第三子。履中二年為東宮。母履中同。河内國丹比柴籬宮。后二人。男女御子四人。
執政葛木円使主
允恭 四十二年 元年壬子 卅九即位 御年八十
仁徳第四子。母履中同。遠明日香宮。后二人。男女御子九人。衣通姫此帝后ナリ云々。應神御ムマゴ云々。
大連大伴室屋連
安康 三年 元年癸巳 五十三即位 御年五十六
允恭第二子。母皇太后忍坂大中姫。稚渟毛二派皇子女。大和國山辺那石上穴穂宮。
大臣葛木円大臣
安康三年八月。眉輪王殺天皇逃入円大臣家。因此為大泊瀬皇子所殺。
大連大伴室屋連
兄ノ東宮ヲ殺シテ。十二月十四日ニ五十三ニテ位ニツキ給フ。マタヲヂノ大草香ノ御子ヲコロシテ。ソノ妻ヲ取テ為后。今眉輪王其子也。仍ヲヤノカタキ也トテコノ事アリ。コマカニハ在別帖ニ。
雄略 廿二年 元年丙申 七十即位 御年百四
允恭第四子。母安康同。大和國泊瀬朝倉宮。后四人。男女御子五人。
ウラシマコガツリタル亀。女トナリテ。仙ニノボレル。コノ御時也。
大臣平羣真鳥臣
物部目連 執政伊久仏子。
清寧 五年 元年庚申 卅五即位 御年卅九
雄略第三子。母皇太夫人韓媛。葛木円大臣女。同國磐余甕栗宮。
コノ御門シラカヲイテムマレ給ヘリ。カルガユヘニ御名ヲシラカトツケ奉ル。父御門アヤシミカシヅキテ東宮ニ立給フ云々。御子ヲハシマサズ。ヨリテ履中ノ御マゴ二人ヨビトリテ子ニシ玉ヘリ。安康ノ世ノミダレニヨリテ丹波國ニカクレテヲハシケリ。
大臣大連如上
顕宗 三年 元年乙丑 三十六即位 御年四十八
履中ノムマゴ。市辺押羽皇子第三子。母(くさかんむり+夷)媛。蟻臣ノムマゴ。近明日香八釣宮。后一人。御子無。
曲水宴此御時ハジマレリ。
大臣大連如上
仁賢 十一年 元年戌辰 御年五十
顕宗ノコノカミ。母同。清寧三年東宮トス。大和國山辺郡石上廣高宮。后二人。男女御子八人。
此両天皇御事委在下。両所互譲給之間。御姉妹ノ女帝ヲ奉立云々。号飯豊天皇云々。二月即位。十一月崩給云々。常之皇代記略之歟。此二代殊世ヲサマレリ。井中ニヲハシマシテ。民ノウレヘヲヨクシロシメシテヲコナハレケレバニヤ。
大臣平羣真鳥大臣
平羣真鳥大臣此御時ニ大伴金村連が為ニコロサレヌ。此大臣。五代ノ御門ノ大臣ナリ。
大連大伴金村連
武烈 八年 元年戌寅 十歳即位 御年十八 或五十七云々
仁賢太子。同七年東宮トス。母皇后春日大娘皇女。泊瀬列城宮。后一人。御子無。カギリナキ悪王ナリ。人ヲコロスヲ御アソビニセラレケリ。真鳥ノ大臣コロサルル事モ。金村ニ御心ヲアハセテシ給フ。金村大臣ニナサレヌ。
継躰 廿五年 元年丁亥 五十八即位 御年八十二
應神天皇五世孫。彦主人王ノ御子ナリ。母振媛。イクメノ御門ノ七世ノムマゴノムスメナリ。活目ノ御門トハ垂仁天皇ナリ。應神五世孫者。應神。隼総皇子。男大迹王。私斐王。彦主人王。継躰。巳上五世。但私斐王ハ異説歟云々。五世ト取事ハ應神ヲクワヘテカゾフル歟。除之歟。神功皇后ヲモ開化天皇ノ五世ノ孫云々。ソレハ一定開化ヲクワフル定ナリ。モシ然者私斐王僻説歟。タシカニ可検知之。大和國磐余玉穂宮。山城國ヘ遷都云々。然ラバナヲ還都大和國云々。
コノ御時百済國ヨリ五経博士ヲタテマツル。
武烈ノノチ王胤タヘ畢。越前國ヨリコノ君ヲ迎取マヰラセタリ。羣臣ノサタナリ。粗委記下。后九人。御子廿一人。男九人。女十二人。
大臣巨勢男人大臣 武内子。天皇廿年九月薨。
大連大伴金村連
物部麁鹿火大連
安閑 二年 元年癸丑 六十八即位 御年七十
継躰第一子。母目子姫。尾張連草香ガ娘。大和國勾金橋宮。后四人。御子ナシ。
大臣ナシ。大連同前
宣化 四年 元年乙卯 六十九即位 御年七十三
継躰第二子。母安閑同母。大和國檜隈宮。后二人。男女御子六人。
大臣蘇我稲宿禰 満智宿禰子。
大連同前
欽明 卅二年 元年癸亥 御年未勘注 可尋之。
継躰嫡子。或三子。母皇太后手白香皇女ト申。仁賢御女。磯城嶋宮。后六人。御子廿五人。男十六人。女九人。
大臣稲目宿禰 卅一年三月薨。
大連金村麻呂
物部尾輿連
此御時百済國ヨリハジメテ仏経ヲワタセリ。御門アガメタマフ。コノ間國ニアヤシキ病ヲコレリ。物部大臣奏云。コノ國ハ昔ヨリ神ヲモテムネトス。今アラタメテ仏ヲウヤマウ。コレニヨリテ神イカリヲナシタマウニヤ。ヨテ仏像ヲ難波堀江ニナガシステ。立ル寺ヲ焼ハラフ。シカルアイダ空ヨリ火クダリテ内裏ヲヤキ。海ニヒカル物アリ。日ノヒカリニスギタリ。人ヲ遣シテ御覧ズレバ。クスノ木海ニウカベリ。コレヲトリテ仏ヲツクリ給フ。吉野ノ光像是ナリ。此天皇ヲハリノ年聖徳太子ムマレ給フ。
敏達 十四年 元年壬辰 御年廿四 
欽明第二子。欽明十五年東宮トス。母皇太后石姫皇女。宣化御娘。大和國磐余譯語田宮。后四人。御子十六人。男六人。女十人ナリ。
大臣蘇我馬子宿禰
大連物部弓削守屋連
コノ御時百済國ヨリ仏像僧尼ヲワタセリ。守屋大臣仏像ヲ焼。法師ヲ遂ウツ。此日天ニ雲ナクシテ雨フル。王臣ノ悪瘡國内ニミチタリ。仏法ヲ滅セシムルユヘナリト云々。蘇我大臣一人舎利ヲオコナイ出シテ信仏法行之。
高麗ヨリカラスノ羽ニ文ヲカキテマイラス。船史祖王辰爾コレヲヨム。
用明 二年 元年丙午
欽明第四子。母堅藍媛。蘇我稲目大臣娘。大和國池辺列槻宮。后三人。男女御子七人。大臣同前
大連守屋 被誅畢。
天皇四月崩給。入棺不奉葬之。
五月。守屋聖徳太子ト合戦。蘇我馬子大臣太子両人御同心。守屋ヲトリテ皆ホロボシツ。ソノノチ仏法サカリナリ。
七月天皇ノ御サウソウアリ。
崇峻 五年 元年戌申 六十七即位
欽明第十五子。母小姉君娘。稲目大臣娘。大和國倉橋宮。后一人。御子二人。
大臣馬子如前
百済ヨリ仏舎利ヲ渡ス。
此天皇ハ馬子大臣ニコロサレ給ヒニケリ。
推古女 廿六年 元年癸丑 四十即位 御年七十三 
欽明中女。敏達天皇ノ后ナリ。母用明同。大和國小墾田宮。
大臣馬子如前 卅四年五月薨。
蘇我蝦夷臣 同年任大臣。 号豊浦。
崇峻コロサレタマイテ相計リテ位ニツケ奉ル。
ムマヤドノ皇子ヲ東宮トシテ世ノ政ヲアヅケ奉ル。コノ東宮。用明ノ御子也。コレハ聖徳太子ナリ。太子憲法ヲカキテタテマツラル。冠位ノ品々ヲ定メヲカル。世ノ中ノ事ヲシルシヲカル。太子ウセタマイテノチ。世ヲトロヘ民トモシトイヘリ。暦天文ノフミ百済ヨリ渡セリ。僧正。僧都コノ御時ニナシハジメラル。寺々僧尼ノ事ヲサダメラル。
舒明 十三年 元年巳丑 三十七即位 御年四十九
敏達ノムマゴ。忍坂大兄皇子ノ子也。母糠手姫皇女。敏達御娘也。大和國高市岡本宮。御諱田村也。コレサキザキノ國王ノ御名ハヨニ文字多ク。人モサタセズ。ヨミモタシカナラネバカカズ。コノノチハ文字スクナクナレバ今ハ注クワウベキ也。后五人。男女御子八人。
大臣蘇我蝦夷臣
コノ御時。伊與國ノ湯ノ宮ヘ行幸アリ。
推古カクレタマイテノチ。コノ田村王ノ御時。羣議ニシタガハヌ輩。コノトヨラノ大臣イクサヲオコシテ打ハラヒテノチ。大臣ノ子入鹿國ノマツリ事ヲシテ。威勝於父大臣云々。
皇極女 三年 元年壬寅 
敏達曽孫。前帝舒明妻后ナリ。敏達ノ御子ニ茅渟王ハコノ王ノ御父也。御母吉備姫女王。欽明天皇孫云々。大和國明日香川原宮。
大臣蘇我蝦夷臣
二年十二月。聖徳太子子息。入鹿事ニヨリテ自死畢。
コノ御時。大臣左右ヲナサル。但次代歟云々。
豊浦大臣ノ子蘇我入鹿世ノ政ヲトレリ。ソノフルマイヨロシカラズ。王子タチ乱ヲ起ストイヘリ。此時中大兄皇子。天智天皇也。中臣鎌子。大織冠也。コノ二人シテハカリテ入鹿ヲ誅セラレヌ。父豊浦大臣家ニ火ヲサシテ焼死ヌ。マタ日本國ノ文書此家ニテミ禰ナヤケヌトイヘリ。コノ大臣大鬼トナレリ。
コノ女帝三年ノノチヲトトニ位ヲユヅリタマフ。
孝徳 十年 元年甲寅
御諱軽。皇極弟ナリ。同母ナリ。乙巳年六月十四日庚戌即位。同日以中大兄皇子立東宮。天智天皇也。摂津國難波長柄豊碕宮。后三人。皇子一人。
左大臣阿倍倉橋麻呂 五年三月七日薨。
大紫巨勢徳大臣 大化五年四月廿日任大臣。
右大臣蘇我山田石川麻呂 馬子大臣子。大化五年三月被人告謀反得誅自死。
大紫大伴長徳連 大化五年四月任。白雉二年七月薨。
内大臣○内臣の誤。大錦上中臣鎌子連 大化元年任。一名鎌足。天児屋根尊廿一世孫。小徳冠中臣御食子卿之長男也。大化元年六月三日。誅殺人鹿。即賜恩賞。授内大臣。詔日。社 獲安。寔頼公力。仍拝大錦冠。授内大臣。封二千戸。軍國磯要任公處分云々。
コノ御時年号ハジメテアリ。大化五年。白雉五年。八省百官ヲサダメテヲク。國國ノサカイミツギモノヲ定ム。唐ヨリ文書寶物ヲヲクワタセリ。
コノ御門コトニ仏法ヲアガメテ神事ニモスギタリ。二千余人僧尼ニ一切経ヲヨマセ。其夜二千余燈ヲ宮中ニトモセリ。
白雉五年正月鼠ヲヲク大和國ヘムレユク。遷都ノ前相トイヘリ。
齊明女 七年 重祚 元年乙卯
皇極再ビ位ニツキ給。大和國岡本宮ニヲワシマス。マヅ飛鳥川原宮ニ遷都。コノ女帝ハジメニハ用明ノウマゴ高向ノ王ニグシテ一子ヲ生タマウ。後ニマタ舒明ノキサキトシテ御子三人ヲワシマス。
コノ御時ノ末ニ人ヲヲクシニケリ。豊浦ノ大臣ノ霊ノスルトイヘリ。ソノ霊龍ニノリテソラヲトビテ人ニミエケリ。コノ天皇葬ノ夜ハヲホカサヲキテ見アリキケリ。
左大臣大紫巨勢徳大臣 四年正月薨。
内大臣○内臣の誤。大錦上中臣鎌子連
天智 十年 元年壬戌
諱葛城。舒明第一子。母皇極天皇。近江國大津宮。后九人。男女御子十四人。太政大臣大友皇子 天皇第一御子。太政大臣コレヨリハジマル。
内大臣大織冠藤原鎌子 天皇八年十月十五日為内大臣。賜姓藤原氏。同十六日薨。年五十六。在官廿五年。
コノホカ左右大臣等有六人。コノ御門孝養ノ御心フカクシテ。御母齊明天皇ウセタマイテノチ。七年マデ御即位シタマハズ。
御子大友皇子ヲ太政大臣トス。又諸國ノ百姓ヲ定メテ民ノカマドヲシルス。又東宮ノ御時漏刻ヲツクラル。鎌足ヲ内大臣ニナシテハジメテ藤原ノ姓ヲタマウ。
齊明天皇ノ位ニツカセタマウ支干ハ七年ノ後トモミエズ。相続シテタヘズトミユ。ウセタマイテ後七年マデ國主モヲハシマサヌニハアラザルニヤ。七年トアルハ天智ノ御即位アルベキヲ。猶御母ノ女帝ニ重祚ヲセサセマイラセテ。七年ノ後崩御。其後御即位カトココロエラルル。
天武 十五年 元年壬申
諱大海人。舒明第三子。天智同母。大和國飛鳥浄御原宮。天智七年ニ東宮トス。天智崩御ノ後位ヲ譲リタマウトイヘドモウケトリ給ハズ。サテ后ヲモ大友ノ皇子ヲモツケ給フベキヨシ申サレテ。セメテソノ御心ナシトシラセントテ。出家ヲシテ吉野山ニイリコモリ給ヘリ。ソレヲナヲ大友皇子イクサヲオコシテヲソイ奉ラルベシト。御娘大友皇子ノ妃ナリ。ヒソカニ告給ヘリケレバ。コハイカニ。我ハ我トカクフルマウニトヤヲボシメシケム。伊勢ノ方ヘニゲクダリテ太神宮ニ申テ。美濃尾張ノイクサヲ催テ。近江ニテタタカイテ勝タマイテ。御即位アリテ世ヲ治メタマヘリ。ソノイクサノ事ドモミナ人シレリ。
又大津ノ皇子御門ノ御子也。世ノマツリゴトヲシタマウトイヘリ。此王子カラノ文ヲ好ミテ。ハジメテ詩賦ヲ作りタマウ人也。
左大臣大錦上蘇我赤兄臣 元年八月被配流。
右大臣大錦上中臣金連 元年八月被誅。
大納言蘇我果安 元年八月坐事被誅。大納言起自此。于時五人也。
又年号アリ。朱雀一年。元年壬申。白鳳十三年。元年壬申。支干同前。年内改元歟。朱鳥八年。内一年。天武十年ニ太子草壁皇子ヲ東宮トス。
大友皇子合戦ノ後。左右大臣等被誅畢。ソノノチ大臣ミエズナリ。
持統女 十年 元年丁亥
諱兎野。天智第二娘。天武妻后。母越智娘。蘇我大臣山田石川麻呂女。大和國藤原宮。
太政大臣浄廣一高市皇子 天武第三息。四年七月五日任。十年七月十三日薨。中納言起自此云々。
此外右大臣大納言等在之。東宮ヲハシマセドモ。マズ御母ノ后位ニツキ給ヒヌ。サテコノ東宮ノ御子軽皇子ヲ又東宮ニタテタマヒヌ。
此御時ノハジメニ大津皇子謀反ノ事アリテコロサレ給ヒニケリ。
此御時年号アリ。朱鳥ノノコリ七年。大化四年。元年乙未。ウヅエ踏歌ナドイフ事。此御時ハジマル。大化三年ニ位ヲ東宮ニユヅリタテマツリテ。太上天皇ノ尊号ヲタマハリタマウ事コレヨリハジマル也。ソノノチ四年ハヲハシマス。
文武 十一年 元年丁酉 御年廿五
諱軽。十五即位。天武孫。東宮草壁皇子第二子。御母元明天皇ナリ。同藤原宮。后二人。御子一人。大化三年戊戌二月為東宮。
知太政官事刑部親王 天武第九子。大寶三年正月廿日任。慶雲二年五月七日薨。
大納言藤原不比等 大織冠二男。大寶元年任。
参議大伴安麻呂 参議始自此。
大化残一年。无年号三年。大寶三年。元年辛丑。年号此後相続不絶。律令ヲ定メラル。官位ニシタガイテ装束ヲ定メラル。冠ヲタマヘケルヲトドメテ位記ヲツクリ給フ。慶雲四年。元年甲辰。五月七日改元。
元明女 七年
諱阿閇。慶雲四年六月十五日受禅。四十八。御年六十一。天智第四娘。文武御母。草壁太子女御也。母宗我嬪。蘇我山田大臣女。大和國平城宮。
知太政官事穂積親王
左大臣石上麻呂
右大臣藤原不比等 和銅元年三月廿一日任。
和銅七年元年戊申。正月十一日改元。文武ウセタマヒテ聖武イマダヲサナクヲハシマセバ。マヅ位ニツカセタマフ。
元正女 九年 元年――
諱氷高。卅五即位。東宮草壁太子御女。文武天皇之アネナリ。母元明天皇。文武御同母也。同平城宮。
知太政官事穂積親王 霊亀元年七月十三日薨。
舎人親王 浄御原天皇第三子。養老四年八月一日任。
左右大臣如前
中納言藤原武智麻呂
参議同房前 此二人淡海公子息等也。
霊亀二年。元年乙卯。九月三日改元。此日御即位。養老七年。元年丁巳。十一月十七日改元。
不比等大臣ハ養老四年八月三日薨。年六十二。謚号淡海公。聖武ノ外祖ニテ。病ニフシタマウヨリ。重クコトニモテナサレタマフ。贈太政大臣云々。
聖武 廿五年 元年――
諱不分明。廿五即位。天璽國排開豊櫻彦天皇云々。文武太子。和銅七年為東宮。母夫人藤原宮子。淡海公不比等女。同平城宮。后四人。御子男女六人。
知太政官事舎人親王 天平七年十一月十四日薨。六十。同廿二日贈太政大臣。天平寶字二年六月追崇道尽敬天皇。
同知太政官事鈴鹿王 太政大臣高市親王三男。天平九年九月任。同十七年九月三日薨。
左大臣長屋王 依謀反被誅畢。遣宇合等云々。高市皇子一男也。
左大臣橘諸兄 敏達天皇末孫也。改葛城王為橘諸兄也。
右大臣武智麻呂 天平六年正月十七日任。九年七月廿五日薨。五十八。曙太政大臣。
中納言豊成 武智麻呂一男。中衛大将。
神亀五年。元年甲子。二月四日改元。此日即位。天平廿年。元年巳巳。八月五日改元。
天平廿一年五十ノ年七月三日位ヲリサセタマイテ御出家。法諱ハ勝満トヤ。ソノ後八年ヲハシマス。東大寺ヲツクラセタマヒケリ。別帖ニコマカニカケリ。
参議房前 天平二年任中衛大将。大将之始也。同九年四月十七日薨。五十七。
此年兄弟四人。四家ノ曾祖也。武智。○恐らく武智麻呂の誤。一男。房前。二男。宇合。三男。麻呂。四男。三人ハ参議也。一年ノ中ニ死去。赤疱發天下。没者不可勝計云々。
孝謙女 十年 元年――
諱阿閇。三十即位。聖武御娘。母光明皇后。是モ淡海公女。同平城宮。
左大臣橘諸兄 天平勝寶八年二月上表致仕。
右大臣藤豊成 同勝寶元年四月十四日任。寶字元年転左。同七年二月坐事左遷。為賞仲麻呂也云々。
大保藤恵美押勝 本名仲麻呂。武智二男。寶字元年二月十九日任右大臣。紫微内相准大臣中衛大将如元。同二年改右大臣稱大保。八月廿五日任之。同日勅云。姓中加恵美二字。以仲麻呂為押勝。封戸百町云々。
天平勝寶○一本天平感寶に作る。元年。七月二日即位。天平勝寶八年。元年巳丑。天平寶字内二年。元年丁酉。八月二日○続紀十八日に係る。改元。コノ天平感寶ハ四月十四日ニ改元アリケレド。其年ノ七月二日又天平勝寶トカハリニケレバニヤ。常ノ年代記ニハ此年号ハカキノセヌナルベシ。
東大寺ニテ万僧會アリ。内裏ニスズロニ天下太平トイフ文字イデキタリケリ。
コノ君巳下事ヲホクハ在別帖。
淡路廢帝 六年 元年――
諱大炊。廿六即位。天武孫。舎人親王第七子。母大夫人背。上総守当麻老女。平城宮。
大師藤押勝 寶字四年正月十一日自大保任大師。天皇幸大保第。以節部省施綿賜主典巳上有差。号太政大臣賜随身。同八年九月十一日謀反。除姓字惣解官。除藤原姓被誅。
大臣道鏡禅師 寶字八年任。賜姓弓削。元少僧都。
右大臣藤豊成 寶字四年転左大臣。同八年四月還任。無咎蒙罪左降。仍被優也。
天平寶字八年。元年丁酉。八月二日改元。元年東宮トス。二年八月一日即位。恵美大臣
同心被奉背孝謙之間。廢淡路國。於彼國三年之後崩御。
稱徳 女重祚 五年 御年五十二
孝謙重祚也。天平寶字九年正月一日重祚。
太政大臣道鏡禅師 天平神護二年授法皇位。
右大臣吉備真吉備 右衛士少尉下道朝臣國勝男。中衛大将。
大納言藤真楯 房前三男。天平神護二年三月十六日薨。
天平神護三年。元年乙巳。正月七日改元。神護景雲三年。元年丁未。八月十八日改元。三年八月四日崩御云々。五十二即位。五十七崩御也。
道鏡法皇事。和氣清丸勅旨。大神宮八幡等御詫宣事。
天平勝寶○天平寶字の誤。元年ハ丁酉ナリ。廢帝元年ハ戊戌歳ナリ。不能委記。在人口歟。
光仁 十二年
諱白壁。本大納言。神護景雲四年夷戌八月四日癸巳群臣云々。大納言白壁王立皇太子摂萬機政。年六十二。高野〔稱徳〕天皇遺詔日。宣以大納言白壁王立皇太子云々。同十月一日巳丑即位於大極殿云々。天智天皇孫。施基皇子第六子。母橡姫。紀諸人女。平城宮。后五人。御子男女七人。
左大臣藤永手 寶亀二年二月廿一日薨。五十八。
右大臣大中臣清麻呂
左大臣藤魚名 房前五男。近衛大将。
内大臣藤良継 本名宿名麻呂。式部卿宇合二男。
参議藤百川 宇合八男。寶亀十年七月九日薨。四十八。
寶亀十一年。元年庚戌。十月一日改元。天應一年。元年辛酉。正月一日改元。
高野天皇稱徳ナリ。ウセ給ヒテ後。大臣以下羣卿ハカライテツケタテマツレリ。天應元年四月位ヲ東宮ニ譲リテ。十二月ウセ給フ。御年七十三。
桓武 廿四年
諱山部。天應元年四月三日受禅。四十五。光仁御子。寶亀四年為東宮。卅七。母高野氏。新笠。乙継朝臣女。先長岡宮遷都。後平安宮。山城國。今此京也。后女御十六人。男女御子卅二人。
左大臣藤魚名 延暦元年六月十四日坐事配流。稱病留難波。二年五月還京。七月廿五日薨。贈本官焼却流罪詔等畢云々。六十三。
右大臣藤田麿 宇合五男。近衛大将。
藤是公 武智孫。参議乙麿男。延暦二年七月十九日任。同八年九月十九日薨。
藤継縄 豊成男。中衛大将。延暦九年二月廿七日任。同十五年七月十六日薨。七十。
神王 天智天皇孫。榎井親王子。延暦十七年八月任。
中納言藤内麿 房前孫。大納言真楯三男。延暦十七年八月十六日任。
延暦廿四年。元年壬戌。八月十九日改元。
伝教大師 依無動寺相應和尚奏。慈覚大師同日有伝教大師号。延暦七年中堂建立。同廿三年入唐。同廿四年帰朝。弘仁十三年六月四日入滅。五十六。
此御時。山城國長岡ノ京ヘウツラセ給フ。其後程ナクコノ平安ノ京ニサダマリヌ。此後無遷都。
伝教弘法両大師渡唐。コノ御時ノスエ也。
コノ御門文ヲ好マズ。武ヲ宗トシ玉フケルトイヘリ。坂上田村麿大将軍トシテエビスヲ打タヒラグ。
今平氏ハコノ御門ノスエ也。
平城 四年
諱安殿。延暦廿五年三月十七日受禅。卅三。桓武之太郎。同四年十一月東宮トス。十二。母皇太后乙牟漏。内大臣藤原良継女。后三人。男女御子七人。
右大臣神王 大同元年四月廿四日薨。
藤内麿 左近衛大将。元近衛大将。大同元年五月十九日任。同二年四月廿二日為左近衛大将。
大同四年。元年丙戌。五月十八日改元。左右大将コノ御時始也。元近衛中衛也。改近衛為左近衛。改中衛為右近衛。坂上田村麿任右近衛大将。同日任ナリ。大同四年一日譲位。皇太子神野践祚。此日高丘御子立坊。天皇御不豫。仍被行是等事云々。ヲリイノ御門ニテ十四年ヲハシマス。五十一ニテ崩御云々。天長元年七月七日也。ナヲ奈良ニヲハシマス。仍奈良ノ御門ト申ナリ。業平中将ハコノ御孫也。
嵯峨 十四年
諱賀美罷。或神野。大同四年四月一日受禅。廿四。同元年東宮トス。廿一。桓武第二子。
母平城同。后女御九人。男女御子四十七人。
右大臣藤内麿 左大将。弘仁三年十月六日薨。五十七。
藤園人 房前嫡孫。参議大蔵卿楓麿男。弘仁三年十二月五日任。同九年十二月十九日薨。六十三。
藤冬嗣 左大将。内麿三男。弘仁十二年正月九日任。
弘仁十四年。元年庚寅。九月廿七日○後紀十九日に係る。改元。
天台座主内供義真 弘仁十三年四月五日官牒。年四十四。治十一年。座主冶山事ヲ執コトハ終ノ年ヲバステテ屬新任人也云々。天長十年七月四日入滅。五十五。
コノ御時内宴ハジマレリ。
此御門能書ニヲハシマシケリ。マタ文ヲツクラセタマウ。
王子十六人。女王十四人。ミナ姓ヲタマハリテ。タダノ人トナリタマウ。スベテ男女御子四十七人云々。先帝御不和云々。仍先帝兵ヲオコシテ東國ヘ御下向云々。ヨリテ大納言田村麻呂。参議綿丸等ヲツカハシテトドメマイラスル間ニ。太上天皇ノ御方ノ大将軍仲成打取畢。又内侍〔薬子〕ノカミ同死畢。ススメニテ此事アリト云々。上皇御出家ヲハヌ。東宮高丘親王ヲトドメテ大伴皇子ヲ東宮トス。高丘親王出家得度。弘法大師ノ御弟子ニナリタマウ。入唐シテカシコニテ遷化シタマウ。真如親王ト申ハコレナリ。或ハ唐ヨリナヲ天竺ヘワタリタマウ。流沙ニテウセ給トイヘリ。
天台座主コノ御時ハジメテナサレタリ。
御脱ノノチ十九年。御年五十七。承和九年七月十五日崩御アリ。
淳和 十年
諱大伴。弘仁十四年四月十七日受禅。卅八。同元年月日為東宮。廿五。桓武第三御子。
母贈皇太后宮旅子。参議藤百川女。后女御六人。御子十三人。
左大臣藤冬嗣 左大将。天長二年転左大臣。同三年七月廿四日薨。五十二。在官六年。
藤緒嗣 百川長男。贈太政大臣。
右大臣清原夏野 左大将。舎人親王曾孫。御原王孫。正五位下小倉王男。天長九年十一月二日任。五十一。
天長十年。元年甲辰。正月五日改元。
元年七月七日平城天皇崩御。内裏ニ仏名ハジマレリ。脱屣之後七年。御年五十五。太上天皇二人ヲハシマス間ニ。嵯峨ハ前太上天皇ト申。淳和ヲバノチノ太上天皇ト申ケリ。承和七年五月八日崩御。
仁明 十七年
諱正良。深草御門ト申ス。天長十年二月廿八日受禅。弘仁十四年四月十九日壬寅立坊。十四。嵯峨第二子。母皇太后橘嘉智子。内舎人清友女。后女御更衣九人。御子廿四人。其中ニ七人ハ姓ヲ給ハシ玉フ。
左大臣藤緒嗣 承和十年正月十八日致仕。
源常 左大将。嵯峨第三子。承和七年八月七日任右大臣。同十一年七月二日転左。
右大臣清原夏野 左大将。承和四年十月七日薨。五十六。
藤三守 参木巨勢孫。阿波守真作子。承和五年正月十日任。同七年七月七日薨。五十六。
橘氏公 贈太政大臣清友三男。承和十一年七月二日任。帝外舅。同十四年十二月十九日薨。六十五。
藤良房 冬嗣男。右大将。嘉祥元年正月十日任。
承和十四年。元年甲寅。正月三日改元。七年五月八日淳和崩御。五十五。九年七月十五日嵯峨崩御。五十七。嘉祥三年。元年戊辰。六月十三日改元。三年三月廿一日崩御。四十一。
天台座主円澄 承和元年三月十六日官牒。六十一。冶三年。同三年十月廿三日卒。七十四。
此御門ハ深草ノ御門トツネニ人申也。ミササギノ名也。御葬ハテテ遍照僧正出家トイフ事アリ。少将ニテヨシミネノ宗貞トテチカク候ケル人ナリ。
承和九年七月十五日ニ。サガノ院カクレ給ニケリ。コレヨリ先ニ淳和院承和七年ニカクレ給ヌ。仁明位ニツキ給フ時。又淳和御子恒貞親王ヲバ東宮ニ立テマイラセケレド。両院ウセ給ヒテ後ニ。東宮ノ御方人謀反ノキコエアリテ。ステラレ給ヒニケリ。
此御時承和二年三月廿一日。弘法大師入定畢。御年六十二。
文徳 八年
諱道康。嘉祥三年三月廿一日受禅。廿四。承和九年八月四日立坊。十六。同二月十六日御元服云々。仁明長子。母皇太后宮藤原順子。左大臣冬嗣之女。五條后ト申。女御六人。御子廿九人。十四人ハ姓ヲ給ハレリ。
太政大臣良房 左大将。天安元年二月十九日任太政大臣。左大将如元。
左大臣源常 左大将。齊衡元年六月十三日薨。四十四。
源信 嵯峨帝第一源氏。天安元年二月十九日任。
右大臣藤良相 冬嗣五男。右大将同日。同年四月転左大将。
仁壽三年。元年辛未。四月廿八日改元。齊衡三年。元年甲戌。十一月廿九日改元。
天安二年。元年丁丑。二月廿一日改元。二年八月廿七日崩御。卅ニ。
天台座主内供奉円仁 仁壽四年四月三日官牒。六十一。冶十年。承和三年為入唐遺唐使参議左大弁常嗣相共出船。待順風之間逗留宰府送二ヶ年。同五年六月十三日解続。同十四年帰朝ナリ。貞観六年正月十四日御遷化。
此御時東大寺大仏ノ御クシスズロニ地ニヲチタリケリ。
清和 十八年
諱惟仁。水尾御門ト申ス。天安二年八月廿七日受禅。九。嘉祥三年月日立坊。一歳。文徳第四子。貞観六年正月一日御元服。母太皇太后藤原明子。忠仁公女。染殿后ト申。后十三人。御子十八人。姓ヲタマハル人四人。
摂政太政大臣藤良房 忠仁公。白川殿。日本國幼主摂政此時始ナリ。天安二年十一月七日御即位日也。五十五。貞観八年八月十九日摂政詔云々。可勘之。貞観十四年九月三日薨。六十九。
此後代々之間。大臣等不能記之。摂(武+録)臣之外無其要歟。但少々取要可加之。
右大臣良相 貞観九年十月十日薨。十一日贈正一位。
右大臣基経 良房養子。実中納言長良三男。長良ハ良房舎兄。冬嗣一男也。
貞観八年九月廿二日。流大納言伴善男於伊豆國。閏三月十日夕焼應天門井左右腋門等罪ナリ。
貞観十八年。元年巳卯。四月廿五日○三実十五日に係る。改元。
座主内供奉安恵 貞観六年二月十六日宣命。五十五。此時改官符為宣命。慈覚大師遺奏之故也。冶四年。同十年四月三日入滅。五十八。
内供奉円珍 同十年六月三日宣命。五十四。冶廿四年。仁壽三年八月九日入唐。天安二年六月十七日帰朝。寛平三年十月廿九日入滅。七十八。
此御時ヨリ摂政ハジマル。貞観十八年ニ位ヲリ給ヒテ。三年アリテ。元慶二年五月八日御出家。法名素真。同十二月四日崩御。卅一。御所清和院。
此御時八幡大菩薩男山ヘ移ワタラセ給フ。大安寺ノ僧行教祈請奉渡之云々。
陽成 八年。
諱貞明。貞観十八年十一月廿九日受禅。九。同十一年月日立坊。清和太子。元慶六年正月二日御元服。母皇太后藤高子。中納言長良二女。御子九人。皆院ノ後ノ御子也。
摂政太政大臣基経 受禅同日摂政ノ後関白。貞観十八年依先帝詔摂政。元慶元年二月辞大将。同二年七月十七日賜内舎人二人。左右近衛各六人為随身兵杖。同四年十一月八日詔為関白。同十二月十四日任太政大臣。元右大臣。元右大臣。年四十六。同六年二月一日有勅。任爵准三宮如忠仁公故事。
元慶八年。元年丁酉。四月十六日改元。二年十二月四日清和天皇崩御。卅一。此御門八十一マデ御命ナガクテ。天暦三年ニゾウセサセ給ヒニケル。
光孝 三年
諱時康。小松御門ト申。元慶八年正月四日受禅。御年五十五。仁明第三子。承和三年十二月二日御元服云々。母贈皇太后宮藤原澤子。紀伊守総継女。
執政臣昭宣公基経 元慶八年十二月廿五日帝於内賀大臣五十(竹+弄)云々。
仁和四年。元年乙巳。二月廿一日改元。三年丁未八月廿六日丁卯巳二刻崩御。五十八。陽成院御物氣歟。於事勿論之御事也。仍外舅昭宣公大臣以下相談シテ此御門ヲ位ニツケマイラセラル。女御四人。男女御子四十一人。此中源氏卅五人云々。
宇多 十年
諱定省。亭子院。又ハ寛平法皇。仁和三年八月廿六日受禅。廿一。同年月日立坊。光孝第三御子。母太后宮班子女王。式部卿仲野親王女。女御五人。御子廿人。姓ヲタマハル人一人。
関白太政大臣基経 仁和三年十一月十九日詔。萬機巨細。百官惣巳。先関白太政大臣。然後奏下。一如故事。寛平三年正月十三日薨。五十七。天皇甚哀悼。詔贈正一位。食封資人並如生存大臣久如故。在任二十年。
仁和残一年。寛平九年。元年巳酉。四月廿七日改元。
山座主内供惟首 二年五月廿一日宣命。六十六。冶一年。同五年二月廿九日卒。六十九。
内供猷憲 五年三月廿五日宣命。七十三。冶六ヶ月。同年月日卒。
阿闍梨康済 六年九月十二日宣命。六十七。冶三年。昌泰二年二月八日卒。七十二。
コノ御門ノ御元服ハタシカニ人モシラズ。元慶年中トバカリ也。ソノカミノ御コトニテアレバニヤ。寛平九年御脱屣。卅一。昌泰三年月日御出家。卅四。法名金剛覚。承平九年崩御。六十五。院ニテ三十年マデヲハシケリ。
コノ御時。賀茂臨時祭ハジマレリ。
醍醐 三十三年
諱敦仁。寛平九年丁巳七月五日戊寅受禅。十三。同五年四月二日立坊。九。宇多第一御子。寛平七年十月九日御元服。十一。或受禅同日云々。但此説非歟。母贈皇太后藤原胤子。内大臣高藤女。高藤ハ受禅ノトキ中納言。昌泰二年任大納言。
左大臣時平 内覧。号本院大臣。昌泰二年二月十四日任。延喜九年四月四日薨。三十九。
右大臣菅原― 内覧。昌泰四年辛酉正月廿五日左遷御事。延喜三年癸亥二月廿五日於大宰府薨タマウ。御年六十。
内大臣藤高藤 冬嗣孫。内舎人正六位上良門二男。昌泰三年正月廿八日任。同三月十三日薨。六十三。
右大臣源光 仁明天皇第三皇子。延喜元年正月廿六日任。同十三年三月十三日薨。六十八。
左大臣藤忠平 左大将。延喜十四年八月廿五日任右大臣。延長二年正月七日転左。
右大臣藤定方 高藤贈太政大臣二男。延長二年任。
昌泰三年。元年戊午。四月十六日改元。延喜廿二年。元年辛酉。七月十五日改元。延長八年。元年癸未。閏四月十一日改元。天皇八年九月廿九日崩御。四十六。
山座主阿闍梨長意 法橋。贈僧正。昌泰二年十月八日宣命。七十二。冶七年。延喜六年七月三日卒。七十九。同八年贈位。
内供増命 法務僧正。謚号静観。延喜六年十月十七日宣命。六十四。冶十六年。延長五年十一月十一日卒。八十五。辞退之後六年云々。
内供良勇 同廿二年八月五日宣命。六十八。冶一年。延長元年三月六日卒。六十九。
内供玄鑒 法橋。贈僧正。延長元年七月廿二日宣命。六十二。
内供尊意 法印。贈僧正。延長四年五月十一日宣命。六十六。冶十四年。天慶三年二月廿三日卒。八十三。
延喜元年正月日菅丞相ノ御コトアリケリ。其間ノ日記皆ヤカレニケリ。延長八年六月廿六日清涼殿ニ雷ヲチテ。大納言清貫。右中弁希世両人ケコロシテケリ。御門常寧殿ニウツリ居サセタマウ。
延長八年九月廿二日脱。同月二十九日丑時御出家。法名金剛寶。ソノノチヤガテ崩御。御年四十六。后女御更衣等廿一人。男女御子卅六人。此中源氏六人。
コノ御トキ彗星タビタビイデケレドモ。メデタク徳政ヲオコナハレケレバ。事モナクテノミスギケルト申ツタエタリ。大寶年号ハジマリテノチ。タダコノ御時ヲノミアフグナルベシ。北野ノ御コトモ権者ノ末代ノタメトテノ事ト心得ヌルウヘハイヨイヨメデタシ。  
第二巻

朱雀 十六年 
諱寛明。延長八年九月廿二日受禅。八。同三年月日立坊。醍醐天皇第十一御子。承平七年正月四日御元服。十五。母皇太后宮藤原穏子。昭宣公四女。
摂政太政大臣藤忠平 受禅同日摂政詔。承平六年八月十九日任太政大臣。天慶四年十月廿日辞摂政。同十一月為関白。
右大臣藤実頼 忠平長男。天慶七年四月九日任。
承平七年。元年辛卯。四月廿六日改元。元年七月十九日宇多院崩御。六十五。天慶九年。元年戊戌。五月廿三日改元。
山座主権律師義海 少僧都。天慶三年三月廿五日宣命。六十八。冶五年。同九年五月十日卒。七十四。
権律師延昌 僧正。謚号慈念。同九年十二月卅日宣命。六十七。冶十八年。應和四年正月十五日卒。八十五。
賀茂社行幸此御時始マレリ。石清水臨時祭始マレリ。将門。純友謀反事。平貞盛。橘遠保等討テ奉ル。叡山根本中堂焼亡。
天慶九年四月脱。天暦六年八月十五日崩御。三十。女御后二人。姫宮一人。
村上 廿一年
諱成明。天暦御門ト申。天慶九年四月十三日受禅。廿一。同七年月日立坊。十九。醍醐第十四子。天慶三年十月一日御元服。十五。御母朱雀院同母。
関白太政大臣忠平 天慶九年五月廿日関白准三宮。天暦三年正月廿一日賜度者五十人。又修諷踊於十五大寺。為救大臣之病也。八月八日臥病不起。十四日詔賜度者三十人。又大赦天下。為救病也。是日戌刻薨。七十。十八日詔遣大納言清蔭。中納言元方。参議庶明等。就其柩前贈正一位。封信濃國為信濃公。謚日貞信公。
左大臣実頼 忠平一男。左大将。天暦元年四月廿六日任左大臣。天徳元年三月廿一日辞大将。四月五日勅授帯劔。同三年三月日聴輦車。
右大臣師輔 同二男。右大将。天暦元年四月廿六日任。同九年六月十七日辞大将。七月廿二日勅授帯劔。天徳四年五月二日出家。五十三。同四日薨。在官十四年。
天暦十年。元年丁未。四月廿四日改元。三年九月廿九日陽成院崩御。八十二。六年八月十五日朱雀院崩御。三十。天徳四年。元年丁巳。十月廿七日改元。應和三年。元年辛酉。二月十六日改元。康保四年。元年甲子。七月十日改元。天皇四年五月廿五日崩御。四十二。
山座主権大僧都鎮朝 入道云々。俗名橘高影。應和四年三月九日宣命。七十九。冶七ヶ月。同十月五日卒。
権少僧都喜慶 康保二年二月十五日宣命。七十七。冶一年。同三年七月十七日卒。
権律師良源 法務大僧正。謚号慈恵。同三年八月廿七日宣命。五十五。冶十九年。永観三年正月三日御遷化。七十四。
天徳四年九月廿三日大内焼亡。都遷ノ後始テ焼亡云々。内侍所ノ温明殿ノ灰ノ中ニ。御躰神鏡少モ損給ハデヲハシマシケレバ。翌日ノ朝ニ職曹司ニ移シマイラセテ。内蔵寮奉幣アリケリ。或ハ大葉椋木ニ飛出テ懸リ給フナドドモ云ナリ。其日記ハタシカナラヌニヤ。康保四年五月廿五日崩。四十二。后女御十人。男女御子十九人。天暦三年以後。此御時一代無関白。小野宮九條殿為左右大臣被行政。
冷泉 二年
諱憲平。康保四年五月廿五日受禅。十八。天暦四年月日立坊。一歳。村上第二子。應和三年二月廿八日御元服。十四。母皇后藤原安子。九條右大臣師輔公女。
関白太政大臣実頼 康保四年六月廿二日関白。十月五日聴牛車。十二月十三日任太政大臣。
右大臣藤師尹 貞信公五男。小一條左大臣。
安和二年。元年戊辰。八月十五日改元。安和二年月日脱屣。二十。其後四十四御座在。
円融 十五年
諱守平。安和二年八月十三日受禅。十一。康保四年月日立坊。九。村上第五子。天禄三年正月三日御元服。十四。母冷泉院同。
関白太政大臣実頼 清慎公。安和二年八月十三日為関白。天禄元年五月十八日薨。年七十一。
摂政右大臣伊尹 天禄元年正月任右大臣。左大将如元。同五月廿一日為摂政。七月辞大将賜兵仗。同二年十一月二日任太政大臣。同三年十一月一日薨。四十九。
関白太政大臣兼通 天禄三年十一月廿七日任内大臣。元中納言。不歴大納言。十二月廿八日為延暦寺検校。天延二年二月廿八日任太政大臣。三月廿六日為関白。貞元二年十一月四日准三宮。同八日薨。五十三。謚日忠義公。
関白太政大臣頼忠 貞元二年十月十一日為関白。天元々年十月二日任太政大臣。
右大臣兼家 天元々年十月二日任。
天禄三年。元年庚午。三月廿五日改元。三年正月三日御元服。天延三年。元年癸酉。十二月廿日改元。
貞元二年。元年丙子。七月十三日改元。天元五年。元年戊寅。四月十五日改元。永観二年。元年癸未。四月十五日改元。
八幡。平野行幸此御時ヨリ始マレリ。永観二年八月廿七日脱屣。廿六。寛和元年八月廿九日御出家。御悩。廿七。法名金剛法。正暦二年二月十二日崩御。卅三。女御后五人。皇子一人。
此御時内裏焼亡タビタビアリ。北野ノ御故ナド云伝ヘタリ。貞元元年五月十一日丁丑。内侍所ハ不損滅。但無光其色黒云々。天元三年十一月廿二日半滅給云々。同五年十一月十七日。今度ハ皆焼失サセ給フ。焼タル金ヲトリアツメテマイラセタリ。此後モ霊験ハアラタナリトゾ。
花山 二年
諱師貞。永観二年八月廿七日受禅。十七。安和二年月日立坊。冷泉院第一子。天元五年二月十九日御元服。十五。母贈皇太后藤原懐子。一條摂政女〔伊尹〕。
関白太政大臣頼忠 関白可如故之由。自先帝被奏新帝。
左大臣兼家
中納言義懐 一條摂政五男。永観二年十月十日敍従三位。二階。同十四日正三位。依外舅也。越道隆。寛和元年九月十四日任参議。同十一月廿一日敍従二位。同十二月廿五日任中納言。年廿九。同二年六月廿二日扈法皇出家。
太政大臣雖有関白之号委萬機於義懐。
山座主権僧正尋禅 謚号慈忍。 永観三年二月廿七日宣命。四十一。冶五年。正暦元年二月廿七日卒。四十六。
寛和二年。元年乙酉。四月廿七日改元。
此御門寛和二年六月俄ニ道心ヲ發サセ給ヒテ。内裏ヲ出テ花山ニオハシマシテ御出家。法名入覚ト申。其後廿二年オハシマス。寛弘五年ニウセサセ給フ。
一條 廿五年
諱懐仁。寛和二年六月廿三日受禅。七。永観二年八月廿七日立坊。円融院第一子。
永祚二年正月五日御元服。十一。母東三條院詮子。大入道殿兼家女。
摂政太政大臣兼家 寛和二年六月廿三日為摂政。七月十四日辞右大臣。八月廿二日勅年官年爵准三后。但年官年爵固辞不受。永延二年三月廿五日宣旨。宣聴乗輦出入宮門陣省。正暦元年五月五日依病上表辞摂政為関白。同八日出家。法名如実。十日以二條京極家地永為仏寺号法興院。同七月二日薨。六十二。
摂政内大臣道隆 正暦元年五月八日関白。同廿五日聴牛車。廿六日摂政。六月一日辞大将賜兵仗。同二年七月廿三日辞内大臣。同四年廿七日辞摂政為関白。長徳元年三月依病辞関白。同四月六日出家。十日薨。四十三。
関白右大臣道兼 長徳元年四月廿七日為関白。同五月五日薨。三十五。号七日関白。
太政大臣頼忠 永祚元年六月廿六日薨。六十六。贈正一位。謚康義公。
藤為光 九條殿九男。寛和二年七月廿日任右大臣。正暦二年九月七日任太政大臣。同三年六月十六日薨。五十一。贈正一位。謚恒徳公。
左大臣道長 長徳元年五月十一日蒙内覧宣旨。于時大納言。同年六月十九日任右大臣。越内大臣伊周。同二年閏七月廿日任左大臣。同八月辞左大将。以童子六人為随身。十月九日勅。左右近衛府生各一人。近衛各四人為随身。但止童随身。長徳四年三月十三日上表返上随身近衛井内覧事等。勅許之。長保元年十二月十六日重賜随身如元。
内大臣伊周 正暦五年八月廿八日越御堂。年廿一。長徳元年三月八日宣旨云。太政官井殿上令奏下文書等。関白病間。暫觸内大臣奏下者。同年四月十日服解。同日賜左右近衛各四人為随身。同二年四月廿四日左降太宰権帥。詔云。内大臣伊周朝臣。権中納言藤原朝臣降家。去正月十五日夜。花山法皇御所平奉射危云々。東三條院不豫而獻厭咒咀云々。須法律乃任当罪。然而有所思内大臣平太宰権帥仁。隆家平出雲権守仁退賜云々。年廿三。在官三年。長徳四年閏十二月十六日敍本位。依東三條院御悩大赦之次也。寛弘二年二月廿五日宣旨。列大臣下可朝議者。
内大臣藤原公季
永延二年。元年丁亥。四月五日改元。永祚一年。元年巳丑。八月八日改元。正暦五年。元年庚寅。十一月七日改元。円融院二年二月十二日崩御。卅三。長徳四年。元年乙未。二月廿二日改元。長保五年。元年巳亥。正月十三日改元。寛弘八年。元年甲辰。七月廿日改元。天皇八年六月廿二日崩御。卅二。花山院五年二月八日崩御。四十一。冷泉院八年十月廿二日崩御。六十二。
山座主権大僧都余慶 謚号智弁。権僧正。永祚元年九月廿九日宣命。七十一。同十二月廿六日辞退。山僧不用之故。此後智證大師門人名ぎ座主なれども永く不寺務。
前少僧都陽生 権大僧都。永祚元年十二月廿七日宣命。八十二。冶一年正暦元年九月廿八日辞退。同年十月廿日卒。八十三。
権少僧都暹賀 権僧正。正暦元年十二月廿日宣命七十七。冶八年。長保四年八月一日卒。八十五。
権大僧都覚慶 大僧正。長保四年十月廿九日宣命。七十一。冶十六年。長和三年十一月廿三日卒。八十七。
春日。大原野。松尾。北野。巳上。四社行幸此御時始マレリ。帥内大臣刑事。寛弘八年月日脱屣。后女御五人。御子五人。
三條 五年
諱居貞。寛弘八年六月十三日受禅。卅六。寛和二年七月十六日立坊。十一。此日御元服也。冷泉院第二子。母贈皇后超子。大入道殿兼家第一女。
左大臣道長 寛弘八年八月廿三日聴牛車。内覧如元。
山座主大僧正慶円 長和三年十二月廿六日宣命。冶五年。寛仁三年九月三日卒。七十八。
長和五年。元年壬子。十二月廿五日改元。五年脱屣。四十。寛仁元年四月廿九日御出家。同五月九日ウセサセ給ヒニケリ。
後一條 廿年
諱敦成。長和五年正月廿九日受禅。九。寛弘八年月日立坊。一條院第二子。寛仁二年正月三日御元服。十一。母上東門院彰子。御堂関白〔道長〕第一女。
摂政左大臣道長 長和五年正月廿九日為摂政。同六月十日准三宮。又勅室家従一位源朝臣倫子賜封戸年爵内外官三分。十一月七日辞左大臣。寛仁元年三月十六日依請罷摂政。同年十二月任太政大臣。同二年正月三日中重内聴輦車。二月五日上表辞職。同三年三月廿一日出家。五十四。法名行観。同年五月八日詔准三宮如元。同年月日改法名行覚。四年三月廿二日供養新造無量壽院。十月十三日於天台受菩薩戒。冶安三年十月十七日参向紀伊國金剛峯寺。路次巡禮大和國七大寺。萬壽四年十二月四日薨。六十二。
摂政左大臣頼通 後関白。寛仁元年三月四日任内大臣。廿六。同十六摂政。廿二日辞大将賜兵仗。又聴牛車。同三年十二月廿二日辞摂政為関白。治安元年任左大臣。
太政大臣公季 長元二年十月十七日薨。七十三。贈正一位謚仁義公。
左大臣顕光 治安元年五月廿五日薨。先是出家。七十八。
右大臣実資 右大臣清慎公三男。実参議齊敏三男。治安元年七月廿五日任。
内大臣教通 左大将同日任。
寛仁四年。元年丁巳。四月廿三日改元。三條院元年五月九日崩御。四十二。治安三年。元年辛酉。二月二日改元。萬壽四年。元年甲子。七月十三日改元。長元九年。元年戊辰。七月廿五日改元。
山座主僧正明救 寛仁三年十月廿日宣命。七十四。冶一年。同四年七月五日卒。七十五。
法印院源 法務大僧正。同四年七月十七日宣命。七十。冶八年。萬壽五年五月廿四日卒。七十八。
権僧正慶命 萬壽五年六月十九日宣命。六十四。冶十一年。長暦二年九月七日卒。七十五。
長元九年四月十七日崩御。廿九。后一人。御子女二人。小一條院東宮ニテオハシマスガ。此御時辞サセ賜フ。
後朱雀 九年
諱敦良。長元九年四月十七日乙丑受禅。廿八。寛仁元年月日立坊。九。一條院第三子。寛仁三年八月廿八日御元服。十一。母上東門院。
関白左大臣頼通
右大臣藤実資 右大将。
内大臣藤教通 左大将。
長暦三年。元年丁丑。四月廿一日改元。長久四年。元年庚辰。十一月十日改元。寛徳二年。元年甲申。十一月廿四日改元。二年正月十八日崩御。卅七。
山座主権大僧教円 長暦三年三月十二日宣命。六十一。冶九年。永承二年六月十日卒。七十。
寛徳二年正月十六日脱屣。后五人。御子七人。
後冷泉 廿三年
諱親仁。寛徳二年正月十六日受禅。廿一。長暦元年八月十七日立坊。十三。後朱雀院第一子。長暦元年七月二日御元服。十三。母内侍督嬉子。御堂之乙女。后三人。御子オハシマサズ。
関白太政大臣頼通 康平五年九月二日辞太政大臣。同七年十二月十三日譲藤氏長者於左大臣。猶為関白。冶暦三年十月七日准三宮。同年十二月五日辞関白。延久四年正月廿九日於宇治出家。法名寂覚。八十一。大臣後五十六年。同六年二月二日薨。八十三。
関白左大臣教通 康平三年七月任左大臣。同七年十二月十三日為藤氏長者。冶暦四年四月十六日為関白。
右大臣実資 永承元年正月十八日薨。九十。
右大臣頼宗 右大将。康平三年七月十七日任。冶暦元年正月五日依病出家。七十三。二月三日薨。
右大臣師実 左大将。康平三年七月十七日任内大臣。十九。冶暦元年六月三日転右。
内大臣師房 右大将。具平親王三男。冶暦元年六月三日任。五十八。同六日兼右大将。
永承七年。元年丙戌。四月十四日改元。天喜五年。元年癸巳。正月十一日改元。康平七年。元年戊戌。八月廿九日改元。冶暦四年。元年乙巳。八月二日改元。四年四月十九日天皇崩御。四十四。
山座主法務大僧正明尊 永承三年八月十一日宣命。七十八。
権少僧都源心 権大僧都。同三年八月廿一日宣命。七十八。冶五年。天喜元年十月十一日卒。八十三。
権僧正源泉 天喜元年十月廿六日宣命。七十八。
権大僧都明快 大僧正。天喜元年十月廿九日宣命。六十七。冶十七年。
後三條 四年 
諱尊仁。冶暦四年十九日受禅。卅五。寛徳二年月日立坊。十二。後朱雀院第二子。永承元年十二月十九日御元服。十三。母陽明門院禎子。三條院第三女。
関白太政大臣教通
左大臣藤師実
山座主権大僧都勝範 僧正。延久二年五月九日宣命。七十五。冶七年。承保四年正月廿七日卒。八十二。
延久五年。元年巳酉。四月十三日改元。八幡放生會此御時始ル。日吉稲荷等行幸同ジク始マレリ。
延久四年十二月八日脱屣。同五年四月廿一日御出家。法名金剛行。五月七日崩御。四十。后三人。男女御子七人。
白河 十四年
諱貞仁 延久四年十二月八日受禅。廿。同元年月日立坊。十七。後三條院第一子。冶暦元年十二月九日御元服。十三。母贈皇太后藤原茂子。権大納言能信女。実ニハ公成中納言女也。
関白教通 承保二年九月廿五日薨。八十。
関白左大臣師実 承保二年九月廿六日内覧。十月三日藤氏長者。同十五日関白。永保三年正月十九日辞大臣。
内大臣師通 左大将。同日任。廿二。
承保三年。元年甲寅。八月廿三日改元。元年十月三日上東門院崩御。八十七。承暦四年。元年丁巳。十一月十七日改元。永保三年。元年辛酉。二月十日改元。應徳三年。元年甲子。二月七日改元。
山座主法務大僧正覚円 承保四年二月五日宣命。五十七。
権大僧都覚尋 権僧正。同年同日七日宣命。六十六。冶四年。永保元年十月一日卒。七十。
今年六月四日。山門大衆焼失三井寺事。依此座主被払山門畢。山座主被払事此時始マレリ。後々大略流例歟。委旨在別帖。永保元年四月十五日。焼三井寺。
権大僧都良真 大僧正。永保元年十月廿五日宣命。嘉保三年五月十三日卒。七十六。
應徳三年十一月廿六日脱屣。嘉保三年八月九日御出家。四十四。大治四年七月七日崩御。七十七。世ヲ知食事五十余年。后女御二人。男女御子九人。
後三條院オリサセ給テ後。世ヲ知食ントスル程ニ。ホドナク隠レサセ給フ。此時ヨリカク太上天皇ニテ世ヲ知食事久シキ也。
法勝寺ヲ建ラレテ大乗會等多クノ御仏事ヲヲカル。國王ノ氏寺ニテ今ニアガメラル。此大乗會ノ講師ハ。慈覚智證門人隔年為講師。御齊會。維摩會。以南京僧為講師也。康和ニ五十ノ御賀有ケリ。
此御時。院中ニ上下ノ北面ヲ置レテ。上ハ諸大夫。下ハ衛府所司允が多ク候テ。下北面御幸ノ御後ニハ箭負テツカマツリケリ。後ニモ皆其例也。
堀河 廿一年
諱善仁。應徳三年十一月廿六日受禅。此同日先為東宮。嘉承二年七月十九日崩御。廿九。后二人。御子三人。白河院第二子。寛治三年正月五日御元服。十一。母皇后宮賢子。京極大殿師実女。実ニハ六條右大臣顕房女。
摂政太政大臣師実 後関白。寛治二年十二月十四日任太政大臣。嘉保元年三月八日辞関白。康和三年正月廿九日出家。同二月十三日薨。
関白内大臣師通 嘉保元年三月九日為関白。年卅三。同十一日為氏長者。同廿三日給兵仗。同三年正月五日敍従一位。康和元年六月廿八日薨。卅八。
右大臣忠実 康和元年八月廿八日大納言之間。内覧藤氏長者。廿二。同二年七月十七日任右大臣。長治二年十二月廿五日関白。廿八。
寛治七年。元年丁卯。四月七日改元。嘉保二年。元年甲戌。十二月十五日改元。永長一年。元年丙子。十二月十七日改元。承徳二年。元年丁丑。十一月廿一日改元。康和五年。元年巳卯。八月廿八日改元。長治二年。元年甲申。二月十日改元。嘉承二年。元年丙戌。四月九日改元。二年七月十九日崩御。廿九。
山座主僧正仁覚 為僧正。寛治七年九月十一日宣命。五十。冶九年。康和四年三月廿八日卒。六十。
法印権大僧都慶朝 康和四年閏五月十三日宣命。七十六。冶三年。嘉承二年九月廿四日卒。八十一。
僧正増誉 長治二年閏二月十四日宣命。七十四。
法印仁源 権僧正。同年同月十七日宣命。四十八。冶四年。天仁二年三月九日卒。五十二。
尊勝寺被建立。同立灌頂堂。胎金両部灌頂隔年被行之。慈覚智證門徒為灌頂阿闍梨。弘法大師門流仁和寺観音院被置之。有議定。如比被定畢。長治二年十月卅日。山大衆日吉神輿ヲ具シマイラセ下リケル事ノ始メ也。季仲帥ト八幡別当光清ト同意シテ。竈門社神輿ヲ奉射。専当円徳法師殺害之訴也。先京極寺ニ下テ奉振大内待賢門云々。季仲ハ被流罪畢。光清ハ同一日解却見任。又八幡宮訴申之間。三日還着之。寛治六年。始テ此風聞有ケレドモサモナシ。嘉保二年十一月ニ中堂マデ奉振上云々。ソレモ下洛ハナシ。寛治ニハ為房ヲ訴ヘ。嘉保ニハ義綱ヲ訴ケリ。
鳥羽 十六年 
諱宗仁。嘉承二年七月十九日受禅。五。康和五年八月日立坊。一歳。保安四年正月廿八日脱屣。廿一。保元々年七月二日崩御。五十四。堀河院第一子。天永四年正月一日御元服。十一。后三人。御子十四人。母贈皇后藤苡子。大納言実季女。
摂政太政大臣忠実 嘉承二年七月十九日為摂政。天永三年十二月十四日任太政大臣。永久元年四月十四日辞之。十二月廿六日止摂政為関白。保安二年二月廿三日辞。
関白左大臣忠通 保安二年三月五日為関白。廿五。聴牛車。同三年十二月十七日任左大臣。元内大臣。
天仁二年。元年戊子。八月三日改元。天永三年。元年庚寅。七月十六日改元。永久五年。元年癸巳。七月十三日改元。
元永二年。元年戊戌。四月三日改元。保安四年。元年庚子。四月十日改元。
座主法印賢暹 天仁二年三月廿日宣命。八十一。冶一年。天永三年十二月廿三日卒。八十五。
権大僧都仁豪 権僧正。天仁三年五月十二日宣命。六十。冶十一年。保安二年十月四日卒。七十二。同元年六月日焼三井寺。第二度。
権僧正寛慶 保安二年十月六日宣命。七十八。冶二年。
(宀+取)勝寺御建立。始置両部灌頂等ヲ尊勝寺云々。
仁平ニ五十ノ御賀有ケリ。
御熊野詣ニ中院〔宗忠〕右大臣。花園〔有仁〕左大臣御供ニテ。右大臣ニ胡飲酒舞セラレテ。我御笛。左大臣笙吹テイヒシラヌ程ノ事ニテアリケリ。資賢太鼓ニ候ケリ。
崇徳 十八年
諱顕仁。保安四年正月廿八日受禅。五。無立坊。永治元年十二月七日脱屣。鳥羽院第一子。大治四年正月一日御元服。十一。母待賢門院璋子。白河院御女。実ニハ大納言公実女也。
前関白忠実 保延六年二月十日宣旨中重内聴輦車。六月五日准三宮。同十月二日出家。法名円理。年六十三。應保二年六月十八日薨。八十五。
摂政太政大臣忠通 後関白。大治三年十二月任太政大臣。同四年四月十日辞之。
内大臣藤頼長 左大将。保延二年十二月任。十七。
天治二年。元年甲辰。四月三日改元。大治五年。元年丙午。正月廿二日改元。同四年七月七日白河院崩御。七十七。天承一年。元年辛亥。正月廿九日改元。長承三年。元年壬子。八月十一日改元。保延六年。元年乙卯。四月廿七日改元。永治一年。元年辛酉。七月十日改元。
座主僧正行尊 保安四年十二月十八日宣命。六十九。同廿三日京都拝賀云々。即日辞退。
法印仁実 僧正。同年同月卅日宣命。卅三。冶七年。天承元年六月八日卒。四十一。
法印権大僧都忠尋 法務大僧正。大治五年十二月廿九日宣命。六十六。冶八年。保延四年十月十四日卒。七十四。
大僧正覚猷 法務。同四年十月廿八日宣命。八十六。
法務権僧正行玄 大僧正。同年同月廿九日宣命。四十二。冶十七年。久壽二年十一月五日入滅。五十九。
保延六年四月十四日。焼三井寺。第三度。永治元年十二月七日脱屣ノ後。スベテ鳥羽法皇ノ御心ニカナハセオハシマサザリケルニヤ。法皇崩御ノ後ノ事ドモ細カニ別帖ニアリ。
御在位ノ間成勝寺ヲ被建。
近衛 十四年
諱體仁。永治元年十二月七日受禅。三。保延五年八月十七日立坊。一歳。鳥羽院第八子。九安六年正月四日御元服。十二。加冠法性寺〔忠通〕殿。理髪宇治〔頼長〕左府。能冠光頼権右中弁云々。母美福門院得子。中納言長実女。贈左大臣。久壽二年七月廿三日崩御。十七。
摂政忠通 後関白。久安六年九月廿六日停藤氏長者。十二月九日為関白。
太政大臣実行 公実二男。久安五年八月廿七日任右大臣。七十。同六年八月廿一日任太政大臣。
左大臣頼長 久安五年七月廿八日任左大臣。三十。同六年九月廿六日請藤氏長者印。同七年正月十日蒙内覧宣旨。
左大臣源有仁 輔仁親王子。右大将。後転左。保安三年十二月十七日任内大臣。天承元年十二月廿二日任右大臣。保延二年十二月九日転左。久安三年二月三日出家。四十五。同十三日薨。
康治二年。元年壬戌。四月廿八日改元。天養一年。元年甲子。二月廿二日改元。久安六年。元年乙丑。七月廿二日改元。仁平三年。元年辛未。正月廿六日改元。久壽二年。元年甲戌。十月廿八日改元。二年七月廿三日崩御。
延勝寺ヲ被立。此後代々如此伽藍御願寺聞エズ。五代ノ御門此五勝寺ヲ建ラルルニ。待賢門女院ノ円勝寺ヲ加ヘテ六勝寺トイフ。
此御時。鳥羽院ノ御沙汰ニテ。宇治左大臣頼長公内覧ノ宣旨ナドイフ事出来テ。大乱逆キザシテケルニヤ。此後ノ事ドモ細カニ在別帖。
後白河 三年
諱雅仁。久壽二年七月廿四日己巳受禅。廿九。無立坊。保元三年八月十一日脱屣。卅二。鳥羽院第四子。保延五年十二月廿七日御元服。十三。母崇徳院同。
関白忠通 保元元年七月十一日為藤氏長者。應保二年六月八日出家。六十六。長寛二年二月十九日薨。六十八。
太政大臣実行 保元二年八月九日辞退。
左大臣頼長 内覧。藤氏長者。保元元年七月十一日合戦官軍。同十四日薨。卅七。
保元三年。元年丙子。四月廿四日改元。鳥羽院元年七月二日崩御。五十四。
座主権僧正最雲 無品親王。久壽三年三月卅日宣命。五十三。元法印。冶六年。應保二年二月十六日卒。
嘉應元年六月御出家。四十二。法名行真。建久三年三月十三日崩御。六十六。
御願ニハ。法住寺ニ千手観音千体。御堂号蓮花王院。此御建立也。閼伽水涌出。有霊験事等云々。
一向此御時。連々乱世。具在別帖。
此君ハ一身阿闍梨ニ成テ。終ニ入壇灌頂遂サセ給フ。御師ハ公顕大僧正ナリ。智證大師ノ門流也。
二條 七年
諱守仁。保元三年八月十一日受禅。十六。久壽二年九月廿三日立坊。十三。後白河院第一子。久壽二年十二月九日御元服。母女御懿子。大納言経実女。
関白左大臣基実 譲位日蒙関白詔。十六。平治二年八月十一日任左大臣。長寛二年閏十月十七日辞左大臣。
平治一年。元年己卯。四月廿日改元。永暦一年。元年庚辰。正月十日改元。應保二年。元年辛巳。九月四日改元。二年六月十八日知足院〔忠実〕殿下薨。長寛二年。元年癸未。三月廿九日改元。同二月十九日法性寺〔忠通〕殿下薨。六十八。崇徳院二年八月廿六日崩御。四十六。永萬一年。元年乙酉。六月五日改元。元年七月廿八日崩御。廿二。六月御脱 屣。
座主権僧正覚忠 法務大僧正。應保二年二月卅日宣命。四十五。
権僧正重愉 同二年閏二月三日宣命。六十八。冶一年。長寛二年正月十三日卒。
権僧正快修 法務大僧正。同年〔應保二〕五月廿五日宣命。六十五。冶二年。同三年九月二日焼三井寺。第四度。
権僧正俊円 長寛二年十月十三日宣命。五十六。冶二年。仁安元年八月廿八日卒。
六條 三年
諱順仁。永萬元年六月廿五日受禅。仁安三年脱屣。四。安元二年七月十九日崩御。十三。終ニ御元服ナシ。二條院御子。母不分明。或云右大臣藤原公能女。妻后中宮ノ御子ノ由ニテ御受禅有ケリ。密事ニハ大蔵大輔伊岐宗遠女子云々。
摂政基実 永萬二年七月廿六日薨。廿四。
摂政基房 永萬二年七月廿七日摂政。同十一月四日辞左大臣。
太政大臣伊通 長寛三年二月日依所労辞退。同十一日出家。七十三。十五日薨。
太政大臣平清盛 刑部卿忠盛一男。永萬二年十一月十一日任内大臣。仁安二年二月十一日任太政大臣。同年月日辞。
左大臣経宗 永萬二年十一月十一日任。
右大臣兼実 兵仗。同日任。
内大臣藤忠雅 右大将。家忠孫。中納言忠家男。仁安二年二月十一日任。
仁安三年。元年丙戌。八月廿七日改元。
座主僧正快修 還補初例也。仁安元年九月二日宣命。冶一年。承安二年六月十二日卒。避職之後六ヶ年。
法印明雲 法務大僧正。仁安二年二月十五日宣命。五十二。冶十年。安元三年五月日配流。於勢多小門大衆抑留之。相携登山畢。
高倉 十二年
諱憲仁。仁安三年二月十九日受禅。八。同二年○百錬抄元年に係る。十月十日立坊。七。後白河院第五子。嘉應三年正月三日御元服。十一。治承四年二月廿一日脱屣。母建春門院滋子。
摂政基房 後関白。承安二年十二月廿七日関白。治承三年十一月十六日停関白氏長者。同十八日左遷大宰権帥。同月赴西海之間於川尻辺出家。卅五。其後留備前國。同五年月日被召返聴帰京。
関白内大臣基通 治承三年十一月十四日任内大臣。元二位中将。同十六日為関白藤氏長者。廿。
太政大臣忠雅 仁安三年八月十日任。嘉應二年六月日辞。
太政大臣師長 承安五年十一月十日任内大臣。安元三年三月五日任太政大臣。治承三年十一月十七日辞官。坐事配流於尾張國。出家。
左大臣経宗
右大臣兼実 兵仗。
内大臣源雅通 右大将。大納言顕通一男。雅定猶子。仁安三年八月十日任。承安五年二月廿七日薨。五十八。
内大臣平重盛 左大将。安元三年三月五日任。六月五日辞大将。治承三年三月十一日辞。同五月廿五日出家。八月一日薨。
嘉應二年。元年己丑。四月八日改元。承安四年。元年辛卯。四月廿一日改元。安元二年。元年乙未。七月廿八日改元。治承四年。元年丁酉。八月四日改元。
座主阿闍梨覚快親王 安元三年五月十一日宣命。四十四。冶二年。治承三年十一月十七日辞退。但始日改補云々。不知此事云々。養和元年十一月六日入滅。辞退之後三ヶ年。
僧正明雲 治承三年十一月十六日宣命。六十五。冶四年。壽永二年十一月十九日卒。六十九。横死之様。可謂勿論。
承安三年月日。母后春門院御堂最勝光院供養大法會。導師覚珍。呪願明雲。
安元三年月日。大極殿焼亡事。後三條ノ聖主造ラセ給ヒテ後。保元ニ修理セラレキ。此度焼ニケリ。樋口京極辺ヨリ出来タリケル火。思ヒモヨラヌニ飛付テ焼ニケルナリ。中ノ辺ハ焼ズ。
此君御脱屣ノ後。安藝國厳嶋ヘ御幸有ケリ。平相國入道世ヲ取テ辺都ナド聞エシ時具シマヰラセテト聞エキ。宸筆ノ御願文アソバシテ。御仏事有ケリ。漢才勝レ御学文アリテ詩作リ雑筆ナド好ミテ。女房ノ申文ナド云テアソバシタルモノ多カリケリ。
安徳 三年
諱言仁。治承四年二月廿一日受禅。三。同二年十二月立坊。高倉院長子。母中宮徳子。入道太政大臣平清盛女。
摂政基通
内大臣平宗盛
養和一年。元年辛丑。七月十四日改元。壽永二年。元年壬寅。五月廿七日改元。
此御時辺都ノ事有ケリ。委在別帖。
此天皇ハ。コノ壽永二年七月廿五日ニ。外祖ノ清盛入道反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。都ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ関ダンノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒニケリ。七歳。寶劔ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥ウキテ返リマイリヌ。マタ内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細カニ在別帖。
後鳥羽 十五年
諱尊成。壽永二年八月廿日受禅。四歳。建久九年正月十一日脱屣。高倉院第四子。文治六年正月三日御元服。十一。加冠摂政太政大臣兼実。理髪左大臣実定。能冠内蔵頭範能。
摂政基通 壽永二年十一月廿一日止摂政藤氏長者廿四。
摂政内大臣師家 壽永二年十一月廿一日任内大臣為摂政。元大納言。十二。同三年正月廿二日止摂政氏長者。
内大臣実定 重服之間 令後日可還任。
内大臣基通 壽永三年正月廿二日為摂政。廿五。文治二年三月十二日止摂政氏長者。
摂政太政大臣兼実 文治元年十二月廿八日内覧。(于時摂政猶内覧)同二年三月十二日為摂政。同五年十二月十四日任太政大臣。建久二年十二月十七日為関白。同七年十一月廿五日止関白氏長者。建仁二年正月廿八日出家。五十四。建永二年四月五日薨。五十九。
内大臣基通 建久七年十一月廿五日為関白氏長者。卅七。
太政大臣兼房 文治六年七月十七日任内大臣。建久二年三月廿八日任太政大臣。同七年月日上表。
左大臣経宗 壽永三年十一月十七日聴輦車。同十八日聴牛車。直聴牛車事先例不分明。仍先聴輦車。是依大嘗會歩行也。宿老歩行不堪故也。
左大臣実定 文治二年任右大臣。同五年七月十日任左大臣。同六年月日辞左大臣。
左大臣実房 公教男。文治五年七月十日任右大臣。同六年七月十七日任左大臣。建久七年三月廿三日辞。五十。四月廿五日出家。
左大臣兼雅 忠雅一男。文治五年七月十日任内大臣。同六年七月十七日任右大臣。建久九年十一月十四日転左大臣。
右大臣頼実 右大将。経宗男。建久九年十一月十四日任。越内大臣。
内大臣良通 左大将。元右。文治二年十月廿九日任。二十。同四年二月廿日頓死。
内大臣忠親 忠雅弟。建久二年三月廿八日任。同五年十二月十五日出家。同六年三月十二日薨。
内大臣良経 左大将。建久六年十一月十日任。廿七。同九年正月十九日止大将。
前右大将頼朝 左馬頭義朝男。文治元年四月廿七日依搦進前内大臣賞任従二位。(元兵衛佐正四位下)同六年十一月九日権大納言。元散位。同廿四日兼右大将。十二月三日辞両職。
元暦一年。元年甲辰。四月十六日改元。安徳天皇ハ二年三月廿四日崩御。文治五年。元年乙巳。八月十四日改元。建久九年。元年庚戌。四月十一日改元。後白河院三年三月十三日崩御。六十六。
座主権僧正俊堯 壽永二年十一月廿三日宣命。冶二ヶ月。同三年正月廿日被追却山門。
前権僧正全玄 法務大僧正。壽永三年二月三日宣命。七十二。冶六年。
前大僧正公顕 法務。文治六年三月四日宣命。
法印顕真 権僧正。同年同月七日宣命。六十。冶二年。建久三年十一月日卒。六十二。
権僧正慈円 法務大僧正。建久三年十一月廿九日宣命。卅八。冶四年。同七年十一月日辞退。
阿闍梨承仁親王 同七年十一月卅日宣命。廿八。冶一年。但五ヶ月。同八年四月廿七日入滅。
法印弁雅 同八年五月廿一日宣命。六十三。冶四年。建仁元年二月十七日卒。六十七。
此君ハ安徳西海ヘ落サセ給ヒテ後。後白河法皇ノ宣命ニテ御受禅有シ也。鳥羽院モ堀河院ハ宣命ノ御沙汰モナカリケルニヤ。白河法皇ノ宣命ト聞ユ。先先モカヤウナルニコソ。
御脱屣ノ後。承元々年月日御堂供養アリ。号最勝四天王院。
此御時北面ノ上ニ西面トイフ事始マリテ。武士ガ子ドモナド多ク召付ラレケリ。
弓馬ノ御遊有テ。中古以後ナキ事多ク始マレリ。
土御門 十二年
諱為仁。建久九年正月十一日受禅。四。無立坊。承元四年十一月日脱屣。後鳥羽太子。元久二年正月三日御元服。母承明門院。内大臣通親女。実ハ能円法印娘也。
摂政基通 如元。建仁二年十二月廿五日止摂政氏長者。四十三。承元二年十月五日出家。四十九。貞永二年五月廿九日薨。七十四。
摂政太政大臣良経 建仁二年十二月廿五日為摂政。卅四。同十一月廿七日先内覧氏長者宣命云々。元久三年三月七日薨逝。三十八。
正冶二年。元年己未。四月廿七日改元。建仁三年。元年辛酉。二月十三日改元。元久二年。元年甲子。二月廿日改元。建永一年。元年丙寅。四月廿七日改元。承元四年。元年丁卯。十月廿五日改元。
座主前権僧正慈円 還補。建仁元年二月十九日宣命。四十七。冶一年。同二年七月七日辞退。
法印実全 権僧正。同二年七月十三日宣命。六十三。冶一年。同三年八月日小門学徒堂衆等合戦之間改易了。
僧正真性 大僧正。同年同月廿八日宣命。卅七。冶二年。元久二年十二月辞退。大講堂等焼失之故歟。
法印承円 法務僧正。元久二年十二月十三日宣命。廿六。冶七年。建暦元年十二月日辞退。惣持院焼亡。又日吉社辺八王子宮以下払地焼亡云々。如此故歟。
此君ハ。絶タル彗星出テ数夜ウセズ。滅テ後又程ナク出ケレバ。サマザマニ御祈祷有テオリサセ給ヒニケリ。御母方ウチタエ。アラハナル法師ノ孫位ニ即セ給フ事ハナシトゾ世ニ沙汰シケル。サレドモ御位ハ十年ニモアマリニケリ。
順徳 十一年
諱守成。承元四年十一月廿五日受禅。十四。正治二年四月十五日立坊。四歳。後鳥羽院第二子。承元二年十二月廿五日御元服。十二。母脩明門院。贈佐大臣範季女。現存ニハ従二位。
関白家実 承久三年四月廿二日止摂政氏長者。四十三。
建暦二年。元年辛未。三月九日改元。建保六年。元年癸酉。十二月六日改元。承久三年。元年己卯。四月十二日改元。
座主前大僧正慈円 又還補。建暦二年正月十六日宣命。五十八。冶一年。三年正月十一日譲公円法印又辞退之。此日先以公円被任権僧正。其後被下座主宣命云々。
権僧正公円 同年同月日宣命。四十六。冶十ヶ月。同年十一月南京衆徒山門衆徒清水寺相論事出来。仍辞退云々。
前僧正慈円 猶還補。四ヶ度也。同三年十一月十九日宣命。五十九。冶一年。建保二年六月十日又辞退。同年四月十六日焼三井寺。第五度。
前権僧正承円 還補。同年同月十二日宣命。
以上代々摂政臣之外。大臣ハ取要書之。悉ハ不書也。心得ベシ。山座主之間ニ前大僧正慈円ノ四度マデ成テ。カク辞ケル事コソ心得ガタク浅マシキ様ナレ。カウ程辞申人ヲバ。上ヨリモイカニ成タビケルニ歟。又下ニモカウ辞申ベクバイカニシテ又ナリナリハセラレケルニ歟。イカニモイカニモ是ハ様有ベキ事也。カヤウノ事ハ山門ノ仏法王法ト相対スル。仏法ノマコト見エテ侍ル也。平ノ京ニ遷ラルル初メ。此山門建立セラレテ。イカニモイカニモ様有ベキ事ニテ侍ルトアラハニ覚ユレバ。山門ノ事ヲ此奥ニ書アラハシ侍ル也。其ニ細カニカヤウニ覚束ナキ事ドモヲバ申ヒラカンズル也。
承久元年七月十三日大内焼亡了。此大内炎上。今度相加ヘテ十五ヶ度。今度大内守護重代右馬権頭頼茂有謀叛聞。被召之間及合戦放火。頼茂焼之云々。即被誅了。此大内造営事。殊有御沙汰。可有造営云々。白河。鳥羽両代ハ大略弃置云々。此事不審云々。
建保六年月日。山大衆戴日吉神輿下洛。代々此事甚多。不能記録。最略記ナレバ略之也。
承久二年十月ノ此記之了。後見之人此趣ニテ可書続也。最略尤大切歟。於別記者不能外見。
今上
諱懐成。承久三年辛巳四月廿日甲戌受禅。四歳。建保六年十一月廿六日立坊。一歳。十月十日寅時御誕生。母中宮立子。順徳院太子。
摂政左大臣道家 受禅同日為摂政。廿九。後京極殿良経嫡男。外祖外舅為大臣之時。無不居摂政之例。道理必然被戴宣命云々。同廿六日為藤氏長者。兵仗勅授可被牛車等任例宣下。此日有兵仗拝賀。
同廿六日新院初御幸一院御所賀陽院。去廿三日太上天皇尊号云々。本ノ新院ヲバ土御門院ト云々。太上天皇三人初例云々。法皇ニテ令置給事ハ先例多ト云々。
今上
諱茂仁。承久三年辛巳七月九日辛卯受禅。十歳。同年十二月一日庚辰於官廰即位。孫王即位。光仁以後無比例云々。高倉院御孫。入道守貞親王御子。後有太上天皇尊号。母北白河院。中納言基家女也。同四年正月三日御元服。
摂政家実 受禅前日七月八日。以前帝詔還任云々。其後以上無沙汰云々。
受禅当日。無節會。無宣命。無警固。無固関云々。世以為奇歟。及八九月先帝之摂政詔ヲ施行スベキ由ヲ有沙汰。外記仰天云々。花山院脱屣ノ夜コソサル不思議ニテアリケレド。翌日ニ摂政ノ詔ハ大入道〔兼家〕殿ニ下サレニケリ。節會ハナカリケレド固関ノ事ナドハ行ハレケリ。今度ノ事無下ノコト哉トゾ世ニハ申ケル。
左大臣家通 摂政家実嫡男。左大将。
右大臣藤原公継 還任始例云々。実定公例不以之云々。兼大将。同年閏十月十日任。
内大臣藤原公経 右大将同日任。同年閏十月十日大饗云々。任大臣夜如例云々。
貞應二年。元年壬午。四月十三日改元。
天台座主権僧正円基 承久三年八月廿七日宣命。
承久三年四月ニ。入道親王尊快年十八ナルヲ被補天台座主由聞エキ。サレド大嘗會以前ニ宣命ヲ下サルル事例ナシ。木曾義仲が時ニコソ俊堯座主ハ宣命有ケレド。例モヨカラズトテ未被下宣命之間。五月十五日乱起テ。六月ニ武士打入テ。此座主師弟等迯マドヒナドシケレバ。十八歳の天台座主仏法王法ノカカリケル表示カナトゾ世ノ人ハイヒケル。サテ円基僧正摂政ノ弟トテ成ニケルナルベシ。サレバ尊快親王ヲバ座主ノ数ニモ書入マジキニヤ。今年天下有内乱。是ニヨテ俄ニ主上執政易世ノ人迷惑云々。一院遠流セラレ給フ。隠岐國。七月八日於鳥羽殿御出家。十三日御下向云々。但ウルハシキヤウニハナクテ令首途給云々。御供ニハ俄入道清範只一人。女房両三人云々。則義茂法師参リカハリテ清範帰京云々。土御門院井新院。六條宮。冷泉宮。皆被行流刑給云々。新院同月廿一日佐渡國。冷泉宮同廿五日備前國小嶋。六條宮同廿四日但馬國。土御門院ハ其頃過テ同年閏十月土佐國ヘ又被流刑給。其後同四年四月改元。五月此阿波國ヘウツラセ給フ由聞ユ。三院。両宮皆遠國ヘ流サレ給ヘドモ。ウルハシキ儀ハナシトゾ世ニ沙汰シケル。
承久三年八月十六日天皇〔後高倉院〕○天皇の上恐らく太上二字を脱す。御尊号アリ。日本國ニ此例イマダナキニヤ。漢高祖ノ父太公ノ例ヲ。是ニハ似タルベキナド世ニ沙汰シケル。國母ノ御院号ノ事ハ。貞應元年四月十三日従三位准三宮云々。御名ハ陳子ト申ス。去年ノ春御出家ノ御身ニテ其例モナキニヤ。但鎌倉ノ二位政子右大将頼朝卿後家。三位セラレシ例トカヤ。其例ハ又イヅレノ例ニテ侍ルベキニカ。箇様ノ事末代ザマニハ何トナキ事ニテ有ニコソ。世ノ末コソ誠ニアハレナル事ニテ侍レ。貞應ノ改元ハヤガテ此十三日也。同年ノ七月十一日准后陳子院号ノ定メ。北白河院ト申ス。二年五月十四日太上〔後高倉〕法皇崩御。以下如夢夢。天下諒闇。三年六月十三日関東武士将軍度々後見義時朝臣死去了。同十七日夕息男武蔵守泰時下向関東畢。同十九日舎弟相模守時房同下向了。
此皇代年代ノ外ニ神武ヨリ去々年ニ至ルマデ世ノ移リ行道理ノ一通リヲ書ケリ。是ヲ能々心得テミン人ハ見ラルベキ也。偏ニ仮名ニ書ツクル事ハ是モ道理ヲ思ヒテ書ル也。先是ヲカクカカント思ヒ寄事ハ物知レル事ナキ人ノ料也。此末代ザマノ事ヲ知ルニ文簿ニタヅサハレル人ハ。貴キモ卑モ。僧ニモ俗ニモ。有難ク学問ハサスガスル由ニテ。僅ニ真名ノ文字ヲバ読ドモ。又ソノ義理ヲ悟リ知レル人ハナシ。男ハ紀伝明経ノ文多カレドモミ知ザルガ如也。僧ハ経論章疏アレドモ学スル人少シ。日本紀以下律令ハ我國ノ事ナレドモ。今スコシ読解人アリ難シ。仮名ニ書バカリニテハ。倭詞ノ本体ニテ文字ヘカカラズ。仮名ニ書タルモ。猶読ニクキ程ノコトバヲ無下ノ事ニシテ人是ヲ笑フ。ハタト。ムズト。シヤクト。トウトナドイフ詞ドモ也。是コソ此倭辞ノ本体ニテハアレ。此詞ドモノ心ヲバ人皆是ヲシレリ。アヤシノ夫宿直人マデモ。此コトノヤウナルコトグサニテ多事ヲバ心得ル也。是ヲオカシトテカカズバ。只真名ヲコソ用ルベケレ。此道理ドモヲ思ヒ続ケテ。是ハ書付侍リヌル也。サスガニ此國ニ生レテ。是程ダニ國ノ風俗ノナレル様。世ノ移リ行趣ヲ弁ヘシラデハ。又有ベキ事ニモアラズト思ヒ量ラヒ侍ルゾカシ。書落ス事申度事ノ多サハ。是ヲ書人ノ心ニダニ残ルコトハ多ク。顕ハス事ハ少クコソ侍レバ。マシテ少シモゲニゲニシキ才人ノ目ニサコソハ見ルベケレド。サノミ書侍ラバ。大方ノ文ノオモテ。ヨタケク多クナリテ知人モ有マジ。書レヌベクハ皆トドメツ。又無益ノ事ドモ書尽シタリトアリヌベキハ皆思フ所侍ルベシ。心アラン人ノ目ヲ留メン時ハ。心ヲ付ル端トナリ。道理ヲワキマフル道ト成ヌベキ事ヲノミ書テ侍ル也。才学メカシキ方ハ是ヨリ心付テ。我今更ニ学問セラルベキ也。又人語リ伝フル事ハ皆タシカナラズ。サルモナキ口弁ニテ誠ノ詮意趣ヲバ云ノケタル事ドモノ多ク侍レバ。ソノ疑ヒアル程ノ事ヲバニ書トドメ侍ラヌ也。カク心得テ是ヨリ次々ノ巻共ヲバ。此時代時代引合セテ見ルベキ也。
此一帖ノ奥ヲバ今四五代モ書バカリトテ。料紙ヲ置テカク書ルヲモ。今物モアラジトテ。思ヒヨラデ見残ス人モ侍ランズラン。奥ニテカヤウノ物ニハカク書付ル事モアランカシナド思ヒテ。ヒラキヒラキシテ文ヲ見ル程ノ心アルベクモ侍ラヌ世ニテ。今ハ人ノ心無下ニスクナク成ハテテ侍レバ。是モカク書付ル事ヲバ道理哉ト見ナサルベキナリ。
第三巻

トシニソヘ日ニソヘテハ。物ノ道理ヲノミオモヒツヅケテ。老ノネザメヲモナグサメツツ。イトド年モカタブキマカルママニハ。世ノ中モヒサシクミテ侍レバ。ムカシヨリウツリマカル道理モアハレニオボエテ。神ノ御代ハシラズ。人代トナリテ神武天皇ノ御後百王トキコユル。スデニノコリスクナク八十四代ニモナリニケル中ニ。保元ノ乱イデキテ後ノコトモ。又世継ガ物ガタリト申物ヲカキツギタル人ナシ。少少アルトカヤウケタマハレドモ。イマダエ見侍ラズ。ソレハミナタダヨキ事ヲノミシルサントテ侍レバ。保元以後ノコトハ。ミナ乱世ニテ侍レバ。ワロキ事ニテノミアランズルヲハバカリテ。人モ申ヲカヌニヤト。オロカニオボエテ。ヒトスヂニ世ノウツリカハリ。オトロエタルコトハリヒトスヂヲ申サバヤト思テオモヒツヅクレバ。マコトニイハレテノミオボユルヲ。カクハ人ノヲモハデ。コノ道理ニソムク心ノミアリテ。イトド世モミダレ。ヲダシカラヌ事ニテノミ侍レバ。コレヲオモヒツヅクルココロヲモ。ヤスメムトオモヒテカキツケ侍ル也。皇代年代記アレバヒキアハセツツミテ。フカクココロウベキナリ。

神武ヨリ成務天皇マデハ十三代。御子ノ皇子ツガセ給ヒケリ。第十四ノ仲哀ハ景行ノ御ムマ子ニテゾツガセ給ヒケル。成務ハ御子ヲハシマサデ。成務四十八年ニゾ仲哀ヲバ東宮ニタテ給ヒケル。景行ノ御子ノ二子ニテムマレヲハシマシケル。次郎ノ御子ヲバ日本武尊ト申ケル。御年卅ニテ。白キ鳥ニナリテソラヘノボリテウセ給ヒニケル。仲哀ハソノ御子ナリ。コノ仲哀ノキサキニハ神功皇后ヲゾシ給ケル。コノ皇后ハ開化天皇ノ五世ノムマゴ。息長ノ宿禰ノムスメナリ。應神天皇ヲハラミ給テ。仲哀ノ御時ノ神ノ御ヲシヘニヨリテ。仲哀ウセ給テ後。シバシナムマレ給ソトテ。女ノ御身ニテ男ノスガタヲツクリテ。新羅。高麗。百済ノ三ノ國ヲバ打トリ給テ後ニツクシニカヘリテ。ウミノ宮ノ槐ニトリスガリテ。應神天皇ヲバウミ奉リ給ケル。サテ神功皇后ハ。仲哀ノ後。應神ヲ東宮ニ立テ。六十九年ガ間摂政シテ世ヲバオサメテウセ給テノチ。應神位ニツキテ四十一年。御年ハ百十歳マデヲハシケリ。仲哀ハ神ノ御ヲシヘニテ。新羅等ノ國ヲ打トラントテ。ツクシニヲハシマシテ。俄ニウセ給ヒニケリ。先コノ次第ヲ思ヒツヅクルニ。最道理ハ十三代成務マデ継躰正道ノママニテ。一向國王世ヲ一人シテ輔佐ナクテコトカケザルベシ。仲哀ノ御時。國王御子ナクバ孫子ヲモチイルベシト云道理イデキヌ。仲哀神ノヲシヘヲカウブラセヲハシマシナガラ。其節ヲトゲズシテニハカニウセ給ヒニケリ。コレハ如此ノ間。神ノヲシヘヲ信ゼサセ給ハヌコトヲホクテウセ給ニケリトナン。サテ皇后ハ女ノ身ニテ。皇子ヲハラミナガラ。イクサノ大将軍セサセ給ベシヤハ。ムマレサセ給テ後又六十年マデ。皇后ヲ國主ニテヲハシマスベシヤハ。コレハ何事モサダメナキ道理ヲ。ヤウヤウアラハサレケルナルベシ。男女ニヨラズ天性ノ器量ヲサキトスベキ道理。又母ノ后ノヲハシマサンホド。タダソレニマカセテ御孝養アルベキ道理。コレラノ道理ヲ末代ノ人ニシラセントテ。カカル因縁ハ和合スル也。コノ道理ヲ又カクシモサトル人ナシ。次ニ成務ノサキ景行ノ御時。ハジメテ武内ノ大臣ヲオカル。コレ又臣下出クベキ道リ也。武内ハ第八ノ孝元天皇ノヤシハ子ナリ。
サテ應神ノ御ノチ清寧マデ八代ハ。皇子皇子ツガセ給。仁徳ノ御子ハ三人マデクライニツカセ給。顕宗ノ御時コレハ又履中ノムマゴナリ。

仁徳天皇ハ應神ウセヲハシマシテ後。御在生之時立チ給フ太子。宇治皇太子ナリ。ソレコソハ則即位セサセ給ベカリケンニ。仁徳ハ兄ニテヲハシマシケレバニヤ。仁徳ヲ位ニツカセ玉ヘト申サセ給ヒケリ。又仁徳ハ。太子ニ立給ヒタリ。イカデカサルコトサブラハント。タガヒニ位ニツカントイフアラソヒコソアルコトヲ。コレハワレハツカジツカジトイフアラソヒニテ。三年マデムナシク年ヲヘケレバ。宇治ノ太子カクノミ論ジテ。國王ヲハシマサデ年フルコト。民ノタメモナゲキナリ。ワレ身ヅカラシナムトノ給テ。ウセサセ給ヒニケリ。コレヲ仁徳キコシメシテ。サワギマドヒテワタラセ給ヒタリケレバ。三日ニナリケルガ。タチマチニイキカヘリテ御物ガタリアリテ。ナヲツヰニウセ給ヒニケリ。ソノノチ仁徳ハ位ニツキテ。八十七年マデヲハシマシケリ。コノシダヒコソ心モコトバモヲヨバネ。人トイフ物ハミヅカラヲワスレテ。他ヲシルヲ実道トハ申侍ナリ。コノ宇治ノ太子ノ御心バヘヲアラハサムレウニ。太子ニタテマイラセラレニケルニヤトコソ推知セラレ侍レ。應神ナドノ御アトノコトハ。サダメテカガミオボシメシケン。日本國ノ正法ニコソ侍メレ。其後御子タチ三人ミナ御位ニツカセ給フ。武内大臣コノ御トキマデ候ケリ。二百八十余年ヲヘテ。カクレタル所ヲシラズトコソ申オキタレ。

ツギツギニ履中。反正。允恭ト三人。兄ヨリオトトザマヘ御位ニテ。安康ハ允恭ノ第二ノ皇子ニテヲハシマシケルガ。第一太子ヲコロシタテマツリテ位ニツカセ給ニケリ。ユユシノ仁徳ノ御ムマゴナガラニサセ給ハズサヤト。アサマシクオボユルモシルク。三年ノ程ニママ子ノ眉輪ノ王トテ。七歳ニナラセ給ヒケルトゾ申ツタヘタル。コノマユワノ王ニコロサレ給ヒニケリ。又スナハチ円ノ大臣家ニテ。マユワモツブラモコロサレニケリ。ワヅカニ三年ノホドノ乱逆。コレモ世ノスエヲ又コトノハジメニヲシヘケルニヤ。マユワノ王ノテテ大草香皇子ハ安康ノ御オトトナリ。此オトトヲコロシテソノ妻ヲトリテ后ニシテ。ロウノ上ニタノシミテ物ガタリシテ。コノママコノマユワ王ヲトナシクナリテ。オモフ心ヤアランズラントオホセラレケルヲ。ロウノシタニテキキテ。ハハノヒザヲマクラニシテ。酒ニエイテフシ給ヒケルヲ。ハシリノボリテ御カタハラニアリケル太刀ヲトリテ。御クビヲウチキリタテマツリテ。ツブラノ大臣ノ家ニニゲテオハシタリケリト申ツタヘタリ。返々コノコトハオモヒシルベキコトドモカナ。ソノ次ニ雄略天皇ハ安康ノオトトニテ位ニツキテ世ヲヲサメ給ヘリ。ツギニ清寧天皇ハ。雄略ノ御子ニテツガセ給タリケルガ。皇子ヲエマウケ給ハデ。履中天皇ノ御マゴ二人ヲムカヘトリテ子ニシテ。兄ノ仁賢ヲ東宮ニタテテ。ヲトトノ顕宗ハ皇子ニテヲハシマシケリ。コノ二人ハ安康ノ世ノミダレニオソレテ。播磨。丹波ナドニ迯カクレテヲハシケルヲ。タヅネイダシタテマツリタリケルガ。清寧ウセ給テ。兄ノ東宮コソハツガセ給フベキヲ。カタク辞シテオトトノ顕宗ニユヅリ給ヒケルアヒダニ。タガヒニタハマズヲハシマシケレバ。イモウトノ女帝ヲ二月ニ位ニツケタテマツリテアリケルガ。ソノ年ノ十二月ニウセサセ給ヒニケレバニヤ。ツネノ皇代記ニモミエズ。人モイトシラヌサマナリ。飯豊天皇トゾ申ケル。コレハ甲子ノトシトゾシルセル。サテ次ノトシノ乙丑ノ年ノ正月一日。顕宗天皇位ニツカセ給ヌ。アニノ東宮ナルヲヲキテ。弟ノタダノ皇子ニタテテヲハシマスヲ。サノミタガイニユヅリテモイカガハ。群臣タチモコトニススメ申ケレバ。兄ノ御命。臣下ノハカライニ随テ。ツイニツカセ給ニケリ。
サレドワヅカニ三年ニテ崩御アリケレバ。次ニ皇太子ノ仁賢天皇位ニテ。十一年ニテカクレサセ給ニケリ。コレヲ思ニ。カナラズ位ノ御運ヲノヲノヲハシマシケルニ。弟ハ御命ミジカク。兄ハ御命ノナガケレバ。ソノ御運命ニヒカレテカクハアリケルニコソ。人ノ命ト果報トハカナラズシモツクリアハセヌコト也。末代ザマニコソ。次々ノ職位マデコノコトハリヲホクミヘ侍レ。

サテ仁賢ノ太子ニ武烈天皇ト申云バカリナキ悪王ノイデキテ。十ニテ位ニツキ十八マデヲハシマシケレバ。群臣ナゲクヨリ外ノコトナカリケルホドニ。皇子モマウケタマハデウセ玉ヒニケレバ。國王ノタネナクテ世ノナゲキニテ。臣下アツマリテ。越前國ニ應神天皇ノ五世ノ皇子ヲハシマシケルヲ。モトメ出シマイラセテ位ニツケマイラセタル。継躰天皇と申テ。コノサキザキヨリハ久ク廿五年タモチ給テ。トシゴロ為中ニテ民ノヤウヲモヨクヨクシロシメシテ。コノ御時コトニ國モヨクヲサマリテ。皇子三人皆次第ニ位ニツカセ給ニケリ。安閑。宣化。欽明ナリ。兄二人ハ程モナシ。欽明天皇ノ御時ハジメテ仏法コノ國ニワタリテ。聖徳太子スエニ御ムマゴニテムマレ給ヒシヨリ。コノ國ハ仏法ニマモラレテ。今マデタモテリトゾミエ侍ル。

仁徳天皇八十七年タモタセ給テ後。履中ヨリ宣化マデ十二代。ムゲニクライノ御冶天下ホドナシ。允恭ゾ四十二年。久クヲハシマス。コノ十二代ノ間ニハ。安康。武烈ナノメナラズアシキ御代ナリ。顕宗。仁賢ハ仁徳ト宇治トノ例ヲオボシメシテ。メデタケレド又ホドナシ。コレヲハカリミルニ。一期一段ノヲトロフルツギメニコソ。人代ノハジメ成務マデハ。サハサハト皇子皇子ツガセ給ヒテ正法トミヘタリ。仲哀ハハジメテ國王ノムマゴニテツガセ給フ。神功皇后又開化ノ五世ノ女帝ハジマリテ。應神天皇イデヲハシマシテ。今ハ吾國ハ神代ノ氣分モアルマジ。ヒトヘニ人心タダアシニテヲトロエンズラントヲボシメシテ。仏法ノワタランマデトマモラセ給ケレドモ。代々ノ聖運ホドナクテ。允恭。雄略ナド王孫モツヅカズ。又子孫ヲモトメナドシテ。ソノノチ仏法ワタリナドシテ。國王バカリハ治天下相応シガタクテ。聖徳太子東宮ニハ立ナガラ。推古天皇女帝ニテ卅六年ヲサメヲハシマシテ。崇峻天皇コロサレ給フ事ナドイデキナガラ世ヲオサメ。仏法ヲウケヨロコバザリシ守屋ノ臣ヲバ。聖徳太子十六ニテ蘇我大臣ト同心シテ。タタカイウシナイテ。仏法ヲオコシハジメテ。ヤガテ今ニイタルマデサカリナリ。コノ崇峻天皇ノ馬子ノ大臣ニコロサレ給ヒテ。大臣ニスコシノトガモオコナハレズ。ヨキコトヲシタル躰ニテサテヤミタルコトハ。イカニトフトモ。昔ノ人モサタシコレヲアヤメサタシヲクベシ。今ノ人モ又コレヲココロウベシ。日本國ニハ当時國王ヲコロシマイラセタルコトハ大方ナシ。又アルマジトヒシト定メタル國ナリ。ソレニコノ王ト安康天皇トバカリ也。

ソノ安康ハ七歳ナルママコノマユワノ王ニコロサレ給ニケルハ。ヤガテマユワノ王モ其時コロサレニケレバイカガハセン。其眉輪モ七歳ノ人ナリ。ママコニテヲヤノ敵ナレバ道理モアザヤカナリ。又安康ハ一定アニノ位ニツクベキ東宮ニテヲワシマスヲコロシテ。位ニツキテワヅカニ中一年ノホドニ。眉ワノ王ノテテヲモ殺シテ。マユワノハハヲトリナドシチラシテ。アラハニシタガヒテ。サルフシギモアリケレバ。コレハヲボツカナカラズ。コノ崇峻ノコロサレ給ヤウハ。時ノ大臣ヲコロサントヲボシケルヲキキカサドリテ。ソノ大臣ノ國王ヲコロシマイラセタルニテアリケリ。ソレニスコシノトガモナクテツツラトシテアルベシヤハ。中ニモ聖徳太子ヲハシマスヲリニテ。太子ハイカニサテハ御サタモナクテ。ヤガテ馬子トヒトツ心ニテヲハシマシケルゾト。世ニ心ヘヌコトニテアル也。サテソノ後カカリケレバトテ。コレヲ例ト思フヲモムキモ。ツヤツヤトナシ。コノ事ヲフカク案ズルニ。タダセンハ仏法ニテ王法ヲバマモランズルゾ。仏法ナクテハ。仏法ワタリヌルウヘニハ。王法ハエアルマジキゾト云コトハリヲアラハサンレウト。又モノノ道リニハ一定軽重ノアルヲ。オモキニツキテカロキヲスツルゾト云コトハリト。コノ二ヲヒシトアラハサレタルニテ侍ルナリ。コレヲバタレカアラハスベキゾト云ニ。観音ノ化身聖徳太子ノアラハサセ給ベケレバ。カクアリケルヨトサダカニ心エラルル也。ソノユヘハイミジキ権者トハソノ人ウセ給テ後ニコソヲモヘ。聖徳太子イミジトハ申セドモ。ソノ時ハタダノ人ニコソヲモイマイラセテアルガ。ヲサナクテハサスガニヲサナブルマイヲモシテコソハヲハシマスニ。ワヅカニ十六歳ノ御時マサシク仏法ヲ亡シケル守屋ヲウタルルモ。ヲトナシキ大臣ノヨニ威勢アリテ。ワガミカタタル馬子大臣ノヒトツ心ニテサタセシコソ。太子ノ詮ノ御チカラニハナリニシカ。仏法ニ帰シタル大臣ノ手本ニテ。コノ馬子ノ臣ハ侍リケリトアラハナリ。コノ大臣ヲ。スコシモ徳モヲハシマサズタダ欽明ノ御子ト云バカリニテ。位ニツカセ給イタル國王ノ。コノ臣ヲコロサントセサセ給フ時。馬子大臣仏法ヲ信ジタル力ニテ。カカル王ヲ。ワガコロサレヌ先ニ。ウシナイタテマツルニテ侍レバ。
タダコノオモムキナリ。サラバ守屋ガヤウニコノ國ノ仏法ヲ令滅給ユヘトテ。カクアレカシト云ベキハ。ソレハエサアルマジキナリ。仏法ト王法トヲヒタハタノ敵ニナシテ。仏法カチヌトイハン事ハ。カヘリテ仏法ノタメキズナリ。守屋等ヲコロスコトハ。仏法ノコロスニハアラズ。王法ノワロキ臣下ヲウシナイ給フ也。王法ノタメノタカラヲホロボスユヘナリ。物ノ道リヲタツルヤウハ。コレガ誠ノ道リニテハ侍ル也。

次ニ世間ノ道リノ軽重ヲタツルニ。欽明ノ御子ニテ敏達。推古。イモウトニテシカモ妻后ニテ推古天皇ノヲハシマス。イカニイモウトヲバ妻ニハシ給ヒケルゾト云コトハ。ソノ比ナドマデハ。是ヲハバカルベシト云事ナカリケルナルベシ。カヤウノ禮儀ハ後ザマニコトニ仏法ナドアラハレテ後サダメラルル也。ソレニ神功皇后ノ例モアリ。推古ノヤガテ御即位ハアルベキ也。サレド用明ハ太子ノ御テテニテ尤可然トテツギ給ヒヌ。サレド二年ニテホドナシ。太子カクミ給ヒケン。ソノ上ハ又崇峻ヲヲサヘラルベキ様ナクテ。マタツギ給ヘド。太子相シマイラセテ。ホドアラジ。兵厄モオハシマスベシ。御眼シカジカナド申サレヌ。ソレヲ信ジ給ハデ。ヰノコヲコロシテ。アレガヤウニワガニクキ者イツセンズラント仰セラレヌ。コノ王ウセ給ハバ推古女帝ニツキテ。太子執政シテ。仏法王法マモラルベキ道リノ重サガ。ソノ時ニトリテ引ハタラカサルベクモナキ道理ニテアリケルナリ。ソレヲ殺シツルコトハ。コノ馬子大臣ヨキコトヲシツルヨトコソ。世ノ人思ヒケメ。シラズ又推古ノ御氣色モヤマジリタリケントマデ。道リノヲサルルナリ。コノ仏法ノ方王法ノ方ノ二道ノ道リノカクヒシト行アイヌレバ。太子ハサゾカシトテ物モイハデ。臣下ノサタヲ御覧ジケンニ。コノ道リヲチタチヌレバ。サゾカシニテアリケルヨトユルガズミユルナリ。ソノ筋ニテ。ソノ後仏法ト王法ト中アシキコト露ナシ。カカレバトテ國王ヲオカサント云心ヲコス人ナシ。事ガラハ又イマイマシキ事ナレバ人コレヲサタセズ。モシサタセント思ハバ。コノ道リアザヤカナリニテ侍ケルナルベシト心エヌルナリ。コレニツケテ。馬子ニトガヲオコナハレバ。コノヲツネノニモテナスニナラン事本意ナカルベシ。タダヲシハカルベシ。父ノ王ノシナセ給タルヲオキテ。沙汰モセズシテ。守屋ガ頸ヲ切。ヲヲクノ合戦ヲシテ人ヲコロシテ。其後御葬送ナドアルベシヤハ。仏道ヲカクフタギタレバ。ソレヲウチアケテコソヲクリマイラセメトヲボシメシケン道リコソマコトニメデタケレ。権者ノシヲカセ給事又ワロキ例ニナルベシヤハ。サテ世ノスエニ又コレニタガハヌコトイデコバ。サコソハ又アランズラメ。太子ノヲハシマサザラン世ニハ。カカルコトハアルマジ。
太子ノヲハシマシナガラカカルコトニテスギニシカバコソ。其ガアシキ例ニハナラネ。ココヲカク心ウベキ也。大方カウ程ノコトニトガナンドヲコナハレナバ。サハサルコトノアルベキカト。ヨノツネノ因果ノ道リナラン事。道リカナハズ。中中カカル國王ハカクナラセ給コソ。道リヤトテアレバコソ。コノ世マデモサタノ外ニテハアル事ナレ。マメヤカノ道リノコレ程キワマラン時ハ。又今モ今モヨロヅハヲソルベキ事也。世ノ末ノ國王ノワガ玉躰ニカギリテツヨツヨシカラズヲハシマスハ。造意至極ノトガヲ國王ニアラセジト。大神宮ノ御ハカライノアリテ。カヤウノ事ハ出デコヌゾト心ウベキナリ。サテコノ後臣家ノ出デキテ。世ヲオサムベキ時代ニゾヨクナリ居ル時マデ。又天照大神アマノコヤネノ春日大明神ニ同侍殿内能為防護ト。御一諾ヲハリニシカバ。臣家ニテ王ヲタスケタテマツラルベキ期至リテ。大織冠ハ聖徳太子ニツヅキテムマレ給テ。又女帝ノ皇極天皇御時。天智天皇ノ皇宮ニテヲハシマス。二人シテ世ヲヲコシヲコナヒケル。入鹿ガ頸ヲ節會ノ庭ニテミヅカラキラセ給シニヨリ。タダ國王ノ威勢バカリニテコノ日本國ノアルマジ。タダミダレニミダレナンズ。臣下ノハカライニ。仏法ノ力ヲアハセテト。ヲボシメシケルコトノハジメハ。アラハニ心ヘラレタリ。サレバソノヲモムキノママニテ。ケフマデモ侍ルニコソ。

皇極ト申ハ敏達ノヤシハゴ。舒明ノ后ニテ。天智天皇ヲウミタテマツリテ東宮ニ立テ。ヤガテ位ニツキテヲハシマシケルハ。神功皇后ノ例ヲヲハレケルトアラハニ見ヘ侍リ。次ニハ天智位ニツカセ給ベケレドモ。孝徳天皇天智ノヲヂニテ皇極ノ御弟ナリケルガ。王位ノ御運モ其徳モヲハシマシケレバニヤ。ソレヲ先立テ位ニツケマイラセテ十年。其後ナヲ御母ノ皇極ヲ重祚ニテ又七年。コノタビノ御名ハ齊明ト申ケリ。重祚ノハジマル事モコノ女帝ノ時ナリ。天智ハ孝養ノ御心フカクテ。御母ノ御門ウセヲハシマシテ後。猶七年ノ後ニゾ位ニツカセ給ケルニ。大織冠ハヒシト御マツリゴトヲ助ケテ。藤原ノ姓ヲハジメテ給ハリテ。内大臣ト云コトモコレニハジマリテヲハシマシケリ。天智ハ十年タモチ給ニ。第八年ニ大織冠ウセ給フ時行幸ナリテ。ナクナク別ヲ惜ミ。イトモカシコクカタジケナキ御ナサケニテコソ侍リケレ。サテ又天智ノ御弟ハ腹モヤガテ齊明天皇ニテヲハシマシケル天武天皇ヲ東宮トシテ。御位引ウツシ給フベカリケルヲ。天智ノ御子大友皇子トテヲハシマシケルヲバ。太政大臣ニナシテヲハシマシケルガ。御心ノウルハシカラザリケルヲヤ天武ハ御覧ジケン。位ヲ辞シ給テ御出家アリテ。吉野山ニコモリ居サセ給ヒケレバ。天智大ニナゲキナガラ崩御ヲハリテ後。大友皇子イクサヲオコシテ。吉野山ヲセメタテマツラントスル時。大友ノ皇子ノ妃ニテハヤガテ天武天皇ノ御ムスメノヲハシマシケレバ。御テテノヤガテコロサレ玉ハンコトヲカナシミヤヲボシメシケン。カカル事イデキタルヨシヲ。シノビヤカニ吉野山ヘツゲマイラセラレタリケルトゾ申ツタヘタル。コレヲキキテ。コハイカニ我ハワレトヨシナク思テ。出家ニ及テ入リコモリタルヲ。カクセメラレンコソトテ。吉野山ヲ出テ。出家ノカタチヲナヲシテ。伊勢大神宮ヲオガミ給テ。美濃。尾張ノゼイヲモヨヲシヲコシテ。近江國ニ大友皇子イクサヲマウケ玉ヒタリケルニヨセ戦玉ヒテ。天武天皇ノ御方勝ニケレバ。大友皇子ノ頸ヲトリテ。ソノ時ノ左右大臣。大友皇子ノ御方ニテアリケルヲモ。同ク頸ヲトリ。アルイハナガシナドシテ。ヤガテ位ニツキテ世ヲオサメ給テ。十五年ヲハシマシケルニモ。大織冠ノ御子孫タチコソハ。偏ニ輔佐ニハ候ハセ給ケメ。淡海公〔不平等〕ハムゲニマダシクヤヲハシマシケン。
カヤウノ次第ヲバカク道ヲヤリテ。正道ドモヲ申シヒラクウヘニ。廣クシラント思ハン人ハカンガヘミルベキ事ナリ。

イカニモイカニモ天武ノ御心バヘハスグレタル人ニヲハシマシケリ。無益トヲボシメス方ハ宇治ノ太子ノゴトシ。猶ソレヲサヘモチイヌ人ニアハセ給フ時ハ。ワガクニウセナンズトツヨクヲボシメシテ。打カタセ給フ方ハ又唐ノ太宗ニコトナラズヲハシマシケレバニヤ。天智天皇モワガ御子ノ大友皇子ヲサシヲキテ。世ノヌシニハトヲボシメシケリ。天智ノ御遺誡コソ誠ニスエトヲリタレバ。女帝モ二人マデ持統。元明トテ位ニヲハシマスメリ。次ニ持統天皇位ニツカセ給。コレハ女帝也。天智ノ第二ノ御ムスメ也。ヤガテ天武ノ后ニテヲハシマシケルガ。皇子ヲウミ玉ヘリケル。草カベノ皇子トゾ申ケルヲ東宮ニ立テ。レイノ事ニテ御母位ニツキテヲハシマシケル程ニ。草カベノ皇子東宮ニテホドナクウセ給ニケレバ。カナシミナガラソノ御子ヲ東宮ニ又立給ヒケルハ。則文武天皇ナリ。コノ文武ノ御時ヨリ大寶ト云年号ハ出キテ。其後ハ年号タヘズシテ今マデアル也。文武位ノ後太上天皇ト云尊号玉ハリテ。太上天皇ノハジマリハコノ持統ノ女帝ノ御時ナリ。文武ノ皇子ニテ聖武天皇ハ出キテヲハシマセドモ。二人ノ女帝ヲツケ奉ル。元明。元正ナリ。元明ハ天智ノ御女メ。文武ノ御母ナリ。元正ハ文武ノアネ。ヤガテ御母ハ元明天皇ナリ。聖武ハシバラク東宮ニテ。御腹ハ大織冠ノムマゴ。不比等ノ大臣ノムスメ也。コレヨリ大織冠ノ子孫皆國王ノ御母トハ成ニケリ。ヲノヅカラコト人マジレドモ。今日マデニ藤原ノ氏ノミ國母ニテヲハシマスナリ。聖武ノ東宮ニテ世ヲバヲサメ玉フ。元明ノ時ハヲサナクヲハシマス。末ザマニハ世ヲ行給フ。元正ノ御時ハ偏ニ東宮ノ御ママニテ。コノ御時百官ニ笏ヲモタセ。女人ノ衣装ヲ定メ。僧尼ノ度者ヲタマハセナドスル事ハコノ御時也。サテ聖武ハ廿五ノ御年。養老八年甲子二月四日甲午大極殿ニテ御即位アリケリ。廿五年タモタセ給フ。コノ御時仏法ハサカリ也。吉備大臣。玄 ム僧正入唐シテ五千巻ノ一切経ヲワタサル。東大寺ツクラレタリ。行基菩薩諸國ノ國分寺ヲツクル。カヤウニシテ仏法ハコノ御時ニサカリニキコユ。皇子ヲハシマサデ皇女ニ位ヲユヅリテ。天平勝寶ノ年ヲリサセ給テ八年ヲハシマス。孝謙天皇コレナリ。コノ御時八幡ノ大菩薩タクセンアリテ。東大寺ヲオガマセ給ハンタメニ。ウサヨリ京ヘヲハシマスト云ヘリ。
コノ時太上天皇。主上。后等。ミナ東大寺ヘマイラセヲハシマシタリケリ。内裏ニ天下太平ト云文字スズロニ出キタリケリ。

聖武天皇ハ位ヲリサセタマイテ。太上天皇ニテ八年マデヲワシマシテウセサセタマイケルノチ。御遺勅ニテ孝謙天皇ノ御サタニテ。天武天皇孫。一品新田部親王御子式部卿道祖王ト申ケルヲ。立太子アリケルホドニ。イカニヲハシマシケルニカ。聖武御追善以下ノ事モ无下ニヲモイ入タマハズ。事ニヲキテ勅命ニモカナハヌコトニテアリケレバ。東宮ヲトドメテ。コト人ヲタテマイラセムト。公卿ドモニヲホセアハセケル中ニ。大炊王ト申ケルヲ東宮ニタテテ。クライヲ又ユヅリタマイケル程ニ。又ソノ大炊王アシキ御心起リテ。エミノ大臣ト一心ニテ孝謙ヲソムキ給ヒニケレバ。王位ヲカヘシトリテ。アハヂノ國ニナガシマイラセテ。重祚シテクライニカヘリツキタマイニケリ。淡路ノ廢帝トイフ帝王ハコレナリ。

孝謙ヲバコノタビハ稱徳天皇ト申ケリ。コノ女帝道鏡トイフ法師ヲアイセサセタマイテ。法王ノ位ヲサヅケ。法師ドモニ俗ノ官ヲナシナドシテ。サマアシキコトオホカリ。
エミノ大臣ノヲボヘモ道鏡ニトラレテ。アシザマニナリニケルニヤ。タダ人ニハヲハシマサズ。西大寺不空羂索ト御モノガタリモアリ。コレラハミナイイフリタル事ドモナリ。カウホドノコトハノチノ例ニモナラズ。イカニモ権化ノ事ドモノサカイノ事ヲバ心ウベキ也。コノタビハ位五年ニテ御年五十三ニテウセタマイケル。

後ニクライニツクベキ人ナクテ。ヤウヤウニ群臣ハカライケル中ニ。房前。宇合ノ子タチニテ永手。百川トテヌケイデタル人人アリテ。天智天皇ノ御ムマゴニテ。施基ノ皇子ノ御子ニテ。王大納言トテヲハシケルヲ。クライニハツケタテマツリタリケル。光仁天皇ト申コレナリ。先帝高野〔稱徳〕天皇詔日。宣以大納言白壁王立皇太子云々。コレ百川ハカルトコロ也。スナハチ位ニツキテ十二年タモチテ。ソノ御子ニテ桓武天皇ハ東宮ニテ。都ヒキウツシテ。コノ平安城タヒラノ京ヘハジメテミヤコウツリアリテ。コノ桓武ノ御ノチコノ京ノノチハ。女帝モヲハシマサズ。又ムマゴノクライトイフコトモナシ。ツヅキヅヅキシテアニヲトトヲトトツガセタマイツツ。國母ハ又ミナ大織冠ノナガレノ大臣ドモノムスメニテ。ヒシト國ヲサマリ。民アツクテメデタカリケリ。ケフマデモソノママノタガハヌヲモムキナリ。コレハコノ御トキ延暦年中ニ伝教。弘法ト申両大師唐ニワタリ。天台宗トイフ无二无三一代教主尺迦如来ノ出世ノ御本懐ノ至極无雙ノ教門。真言宗トテ。又一切真俗二諦ヲサナガラ一宗ニコメタル三世諸仏ノ巳證ノ真言宗トヲバ。コノ二人大師ワタシタマイテ。両人灌頂道場ヲヲコシ。天台宗菩薩戒ヲヒロメ。後七日ノ法ヲ真言宗トテ大内ニタテテハジメナドセラレタルシルシニテヒトヘニ侍ナリ。ツヅキテ慈覚大師。智證大師。又又ワタリテ。熾盛光ノ法。尊星王法ナドヲヲコナイテ君ヲマモリ。國オサマリテ侍ナリ。

其後ヤウヤウノイランハヲホカレドモ。王法。仏法ハタガイニマモリテ。臣下ノ家魚水合躰ノ志タガウ事ナクテ。カクメデタキ國ニテ侍レドモ。次第ニヲトロヘテ。今ハ王法。仏法ナキゴトクニナリユクヤウヲ。サラニ又コマカニ申ベキ也。ヲホカタハ日本國ノ様ハ。ヨクヨクココロヘテ。仏法ノ中ノ深義ノ大事ヲサトリテ。菩提心ヲヲコシテ。仏道ヘイルヤウニスコシモタガハズ。コノ世間ノ事モ侍ヲ。ソノママニタガハズ心ウベキニテアルヲ。ツヤツヤトコノ韻ニイリテ。心エントスル人モナシ。サレバ又エココロヘテノミ侍レバ。カクハ又ウセマカルナリ。コレ又法爾ノヤウナレバチカラヲヨバネドモ。仏法ニミナ対冶ノ法ヲトク事ナリ。又世間ハ一蔀ト申シテ。一蔀ガホドヲバ六十年ト申。支干ヲナジ年ニメグリカヘル程也。コノホドヲハカライテ次第ニヲトロヘテハ又ヲコリヲコリシテ。ヲコルタビハヲトロヘタリツルヲ。スコシモテヲコシテヲコシシテノミコソ。ケフマデ世モ人モ侍メレ。タトヘバ百王ト申ニツキテ。コレヲ心ヘヌ人人ニ心ヘサセンレウニ。タトヘヲトリテ申サバ。百帖ノカミヲヲキテ。次第ニツカウホドニ。イマ一二帖ニナリテ又マウケクワウルタビニ。九十帖ヲマウケテツカイ。又ソレツキテマウクルタビハ八十帖ヲマウケ。アルイハアマリニヲトロヘテ又ヲコルニ。タトヘバ一帖ノコリテ。ソノ一帖イマハ十枚バカリニナリテノチ。九十四五帖ヲモマウケナントセンヲバ。ヲトロヘキハマリテ。コトニヨクヲコリイヅルニタトウベシ。アルイハ七八十帖ニナリテツカウホドニ。イマダミナハツキズ。六七十帖ツキテイマ十廿帖ハノコリタルホドニ。四五十帖ヲ又マウケクハエンヲバ。イタクヲトロヘハテヌサキニ。又イタウメデタカラズヒキカヘタルニハアラデ。ヨキサマニヲチタチタランニタトフベキニテ侍ナリ。セムズルトコロハ唐土モ天竺モ三國ノ風儀。南州ノ盛衰ノコトハリハ。ヲトロヘテハヲコリ。ヲコリテハヲトロヘ。カク次第ニシテ。ハテニハ人壽十歳ニ減ジハテテ劫末ニナリテ。又次第ニヲコリイデヲコリイデシテ人壽八万歳マデヲコリアガリ侍ナリ。ソノ中ノ百王ノアイダノ盛衰モ。ソノ心ザシ道理ノユクトコロハ。コノ定ニテ侍ナリ。コレヲ昼夜毎月ニアラハサムトテ。月ノヒカリハカケテハミチ。ミチテハカクルコトニテ侍ナリ。コノ道理ヲヒシトココロウルマヘニハ。
一切ノ事ノ證據ハミナカクノミ侍ナリ。盛者必衰會者定離トイフコトハリハコレニテ侍ナリ。コレヲ心ヘテ法門ノ仏道ニミナイルルマデサトリ侍ベキナリ。コノ心ヲエテノチノチノヤウヲモ御覧ズベキニヤ。

神武ヨリ成務マデ十三代ハ。ヒシト正法ノ王位ナリ。自仲哀光仁マデ卅六代ハ。トカクウツリテ。ヤウヤウノコトハリヲアラハスニテ侍ナリ。コノ間女帝出キテ重祚トテ二タビ位ニツカセ給フコトモ。女帝ノ皇極ト孝謙トニテ侍メリ。女人此國ヲバ入眼スト申ツタヘタルハコレ也。ソノ故ヲ仏法ニ入テ心ウルニ。人界ノ生ト申ハ母ノ腹ニヤドリテ人ハイデクル事ニテ侍ナリ。コノ母ノ苦云ヤル方ナシ。コノ苦ヲウケテ人ヲウミ出ス。コノ人ノ中ニ因果善悪アヒマジリテ。悪人善人ハイデクル中ニ。二乗菩薩ノヒジリモアリ。調達カカリノ外道モ有。コレハ皆女人母ノ恩ナリ。コレニヨリテ母ヲヤシナイウヤマヒスベキ道リノアラハルルニテ侍ナリ。妻后母后ヲ兼シタルヨリ。神功皇后モ皇極天皇モ位ニツカセヲハシマス也。ヨキ臣家ノヲコナフベキ力有ルトキハワザト女帝ニテ侍ベシ。神功皇后ニハ武内。推古天皇ニハ聖徳太子皇極天皇ニハ大織冠。カクイデアハセタマウニケン。

サテ桓武ノ後ハ。ヒシト大織冠御子孫臣下ニテソイ玉フト申スハ。ミナ又妻后母后ト申ハ。コノ大臣ノ家ニ妻后母后ヲヲキテ。誠ノ女帝ハ末代アシカランズレバ。ソノ后ノ父ヲ内覧ニシテ令用タランコソ。女人入眼ノ孝養報恩ノ方モ兼行シテヨカラメトツクリテ。末代ザマトカクマモラセ給フト。ヒシト心ウベキニテ侍ナリ。サテ又王位ノ正法ノ末代ニ次第ニウセテ。國王ノ御身ノフルマイニテ。万機ノ沙汰ノユカヌヤウニナル時。脱 屣ノノチニ太上天皇ナガラ。主上ヲ子ニモチテ。ミダリガハシクハバカラズ世ヲシラント云ハカライヲモ。後三條天皇ハシイダサセ給フ也。コレハミナ王法ヲトロフル上ニ。又ヲコシタツルツギメツギメニ。ヤウカハリテメヅラシクテ。シバシシバシ世ヲサダメラルベキ道リノアラハルルナリ。

サテ桓武ノ御子三人。平城。嵯峨御中コトノハジメニアシカリケリ。宮コウツリノ間。イマダヒシトモヲチイヌホド。御心心ニテアシクナリヌ。ソレモ平城ノ内侍ノカミ薬子ガ所為ト云。アシキ事ヲモ女人ノ入眼ニハナル也。嵯峨東宮ノ間。平城國主ノ時東宮ヲ可奉廢之由サタアリケリト。後中書王〔具平親王〕ノ御物ガタリアリケリ。ソレハ伝ノ大臣冬ツギ申ススメテ。事火急ニサブラフ。可令申宗廟給トテ。桓武ノ聖廟ヲ拝シテ東宮訴申給ヒシカバ。天下ミダレユキテ。平城コノ御ヒガゴト思カヘラセ給ヒニケリトナンカタラセ給ヒケリ。
一番ニミナ末代ノヲモムキヲバアラハサルル也。

次淳和ト嵯峨トハアヤニクニ御中ヨクテ。二人脱 屣ノノチハユキアイツツ。神泉ニテアソバセタマイケリ。サテ仁明ハサガノ御子ニテ位ニツキテ。又淳和ノ御子ヲ東宮ニタテラレテアルホドニ。淳和ハ承和七年五月八日カクレタマイヌ。嵯峨ハ又同九年七月十五日ニ崩御ヲハリニケリ。コノ二人ノ太上天皇ノウセサセタマウヲヤマタレケム。コノ東宮ノ御方人發覚ノ事アリケルヲ。其後イツシカ中一日アリテ。十七日ニ阿保親王ノ当今ノ仁明ノ御ハハニツゲマイラセラルルコトアリケリ。東宮ノタチハキ健峯トイフモノマイリテ申タリケル。我カタ人ニナント思ケルニヤ。但馬権守橘逸勢。大納言藤原愛發。中納言同吉野ナドイフ人人謀反ヲコシテ。東宮ヲイソギクライニツケタテマツラムトイフコトヲ。オコストイフコトイデキテ。太皇大后宮イソギ中納言良房ヲメシテ。カカルコトトヲホセラレアハセテ。コノ人人ミナナガサレニケリ。橘逸勢イヅノシマヘナドツカハサレテ。大納言ヨシミチノ解官ノトコロニ。良房ハ大納言ニナラレニケリ。東宮ハ十六ニナラセ玉ヒケレバ。我御心ヨリハヲコラズモアリケム。コノ東宮ヲバ恒貞親王トゾ申ケル。太子ノ冷泉院ニヲハシマスヘマイラレタリケルニ申サレケレバ。ワレハシラズトヲホセラレケレド。コノ御レウニコレラガシタクスルコトアラハレニケレバ。参議正躬王ニ勑シテ。東宮ヲバ退廢シマイラセラレニケリ。サテ同四日道康親王トイフハ文徳天皇ナリ。コレヲ東宮ニタテマイラセラレニケリ。アハレアハレカマヘテ仁徳ノ御世マデコソナカラメ。仁徳ハ平野ノ大明神ナリ。仁賢。顕宗ノ御心ヅカイニテアラバヤ。嵯峨ト淳和トハスコブルソノヲモムキヲハシマシケルトゾ申ツタヘテ侍レ。

サテ文徳ノ王子ニテ清和イデキタマフ。此トキ山ノ恵亮和上ハ御イノリシテ。ナツキヲゴマノ火ニ入タリナド申ツタヘタリ。一歳ニテ東宮ニタタセタマイケリ。九歳ニテ位ニツカセタマイケレバ。幼主ノ摂政ハ日本國ニハイマダナケレバ。漢家ノ成王ノ御時ノ周公旦ノ例ヲモチイテ。母后ノテテニテ忠仁公良房ヲハジメテ摂政ニヲカレケリ。ソノノチ摂政関白ト云フコトハイデキタルナリ。ソレモハジメハタダ内覧ノ臣ニヲカレテ。マコトシク摂政ノ詔クダサルル事ハ。七年ヲヘテノチ貞観八年八月十九日ニテアリケルトゾ日記ニハ侍ナリ。コノ御トキ伴大納言善男應天門ヤキテ。信ノ大臣ニヲホセテスデニナガサレムトシケルトゾ。其アイダニハ良相ト申右大臣ハ良房ノヲトトニテ。イリコモラレテノチ天下ノマツリゴト良相ニウチマカセテアリケルニ。天皇伴大納言ガ申コトヲマコトシクヲボシメシテ。カウカウトヲホセラレケルヲ。ウタガイ思ハデ。ユユシキ失錯セラレタリケリ。ソレヲバ昭宣〔基経〕公蔵人頭ニテキキヲドロキテ。白川殿ヘハセマイリテツゲ申テコソ。ヨシヲガコトハアラハレニケル。コレハ人ミナシリタレバコマカニハシルサズ。

サテ清和ハ十八年タモチテ。廿六ニテ又太子ノ陽成院ノ九歳ノ御歳御譲位アリテ。廿九ニテ御出家アリテ。卅一ニテウセタマイニケリ。コノ陽成院九ニテクライニツキテ八年。十六マデノ間ニ昔ノ武烈天皇ノ如クナノメナラズアサマシクヲハシマシケレバ。ヲヂニテ昭宣公基経ハ摂政ニテ。諸卿群議アリテ。コレハ御モノノケノカクアレテオハシマセバ。イカガハ國主トテ國ヲモオサメヲハシマスベキトテナム。ヲロシマイラセントテ。ヤウヤウニ沙汰アリケルニ。仁明ノ御子ニテ時康ノ親王トテ。式部卿宮ニテヲワシマシケルヲムカヘトリテ。クライニツケマイラセラレケリ。コレヲ光孝天皇ト申也。五十五ニテ位ニハツカセ玉ヒテ。三年アリテ五十八ニテウセサセ玉ヒケリ。サテソノ御子ニテ宇多天皇ト申。寛平法皇ハ廿一ニテ位ニツキテヲワシマシケル。

コノ小松〔光孝〕ノ御門御病ヲモリテウセサセ玉ヒケルニハ。御子アマタヲハシマシケレドモ。クライヲツガセムコトヲバサダカニモエヲホセラレズ。今ワレカク君トアフガルル事モ。コノヲトドノシワザナレバ。又ハカラヒ申テムトヲホセケルニヤ。御病ノムシロニ昭宣〔基経〕公マイリ玉ヒテ。位ハタレニカ御ユヅリ候フベキト申サレケルニ。ソノ事ナリ。タダ御ハカライニコソトヲヲセラレケレバ。寛平ハ王侍従トテ第三ノ御子ニテヲハシマシケルヲ。ソレニテヲハシマスベク候。ヨキ君ニテヲハシマスベキヨシ申サレケレバ。カギリナクヨロコバセ玉ヒテ。ヤガテヨビマイラセテ。ソノヨシ申サセタマイケリ。寛平御記ニハ左ノ手ニテ公ガ手ヲトリ。右ノ手ニテハ朕ガ手ヲトラヘサセ玉ヒテ。ナクナク公ガ恩マコトニフカシ。ヨクヨクコレヲシラセ玉ヘト。申ヲカレケルヨシコソカカセ給タンナレ。中中カヤウノ事ハカク其御記ヲミヌ人マデモレキク事ノカタハシヲカキツケタルニテ。マサシク御記ヲミム人モミアワセタラバ。ワガモノニナリテアハレニ侍ナリ。サテ寛平ハクライニツカセヲハシマシケルハジメヨリ。我身ハムゲニ聖主ノ器量ニアラズトテ。トクヲリナントツネニ昭宣公ニヲホセアハセケルヲ。イカデカサルコト候ハントノミ申サレケレバ。サラバ一向ニ世ノマツリゴトヲシテタベトテ。ウチマカセテヲハシマシケルホドニ。十年タモチヲハシマシケル。第六年カニ昭宣公ウセ玉ヒニケレバ。ソノ太郎ノ時平ト菅丞相トヲ内覧ノ臣ニサダメラレテ。遺誡カカセタマイテ。三十一ニテヲリサセ玉ヒテ。延喜ノ御門ハ醍醐ノ天皇ト申ニ御譲位アリケレバ。十三ニテイマダ御元服モナカリケルヲ。今日タダ元服ヲシテクライニツカムトテ。ニハカニ御元服アリテ。摂政ヲモチイラレズ。寛平ノ御遺誡ノママニ。時平ト天神トニマツリゴトヲオホセアハセテアリケル程ニ。十七ノ御年延喜元年ニ。北野ノ御コトハイデキニケリ。ソノ事ハ御門ユユシキワガ御ヒガゴト。大ジヲシイダシタリトヤヲボシケン。スベテ北野ノ御コト諸家官外記ノ日記ヲミナヤケトテ。ヤカセラレニケレバ。タシカニコノ事ヲシレル人ナシ。サレドモ少少マジリテミユルトコロモアリ。又カウホドノコトナレバ人ノ口伝ニイヒツタヘタルコトニテアレバ。事ノセンハミナミユルニヤ。権者タチノムマレテカカルコトハアリケルニヤ。サレド人ヲ権者トイフコトハナシ。
天神ハウタガイナキ観音ノ化現ニテ。末代ザマノ王法ヲマヂカクマモラムトヲボシメシテ。カカルコトハアリケルトアラハニシラルルコト也。時平ノ讒言トイフコトハ一定也。浄蔵法師伝ニモミエタリ。サリナガラ八年マデハエトラセタマハザリケルニヤ。天神ノ霊ノ時平ニツカセタマイタリケルヲ。浄蔵加持シテシタタカニセメケレバ。仏法ノ威験ニカチガタクテ。浄蔵が父善宰相清行存日ナリケレバ。善相〔清行〕公ニ汝ガ子ノ僧ヨビノケヨトネムゴロニ詫宣シテヲホセラレケレバ。浄蔵モヲソレテサリニケル。ノチツヒニ時平ハウセ玉ヒニケリトコソミエテ侍メレ。コノ御心ナラバ。スベテ内覧ノ臣摂籙ノ家ハ天神ノ御カタキニテ。ウシナハルベキニテコソアルニ。ヤガテ時平ノヲトトノ貞信〔忠平〕公イエヲツタヘ内覧摂政アヤニクニ繁昌シテ子孫タフルコトナク。今マデメデタクテスギラルルコトヲフカクアンズルニ。日本國小國内覧ノ臣二人ナラビテハ一定アシカルベキ。ソノ中ニ大神宮カシマノ御一諾ハスヘマデタガウベキコトニアラズ。大織冠ノ御アトヲフカクマモラムトテ。時平ノ讒口ニワザト入テ御身ヲウシナヒテ。シカモ摂 籙ノ家ヲマモラセ玉フナリ。アザアザトハ時平コソカク心モアシケレ。貞信公ハヲトトニテ菅丞相ノツクシヘヲハシマシケルニモ。ウチウチニ貞信公御音信アリテ。申カヨハシナドセラルレバ。ソレヲバイカガハアダミヲモハントイフヲモムキナリ。コレモスナハチコトノ真実ヲコソイヘ。賢ガ子賢ナラズトコソイヘ。ヲホカタノ内覧ノ臣摂 籙ノ家ヲカタキニトランコトハ。世間ノ愚者ノ法ナリ。真実ヲコソトヲボシメススヂノトヲサルルコトヲ。カクトモマメヤカニココロウル人ナシ。コレラヲ返返マコトノ道理ニイレテ。カクココロウベキナリ。サレバマヂカクコノ大内ノ北ノ野ニ一夜松ヲヒデテワタラセ玉ヒテ。行幸ナル神トナラセ玉ヒテ。人ノ無実ヲタダサセヲハシマス。コトニ摂 籙ノ臣ノフカクウヤマイ。フカクタノミマイラセラルベキ神トコソアラハニココロヘ侍レ。カヤウノ方便教門ノ化導ナラデ。ヒトヘニ劫初劫末ノママニテハ。南州衆生ノ果報ノ勝劣モ壽命ノ長短モ。カクテコソ敬神帰仏縁フカクシテ。出離成仏ノ果位ニハイタルベケレドモ。カヤウノサカイニイリテ心ウル日ハ。一々ニソノフシブシハタガフコトナシ。

サテ寛平ハ卅一ニテ御出家アリテ。弘法大師門流真言ノ道ヲキハメテ。承平九年ニ御年六十五ニテ御入滅トコソウケタマハレ。北野御事ノトキハ。内裏ニ参ラセヲハシマシテ。イカニカカルコトヲバト申サレケレドモ。國ノ政ヲユヅリ玉ヒテ後ハ。シラセヲハシマスマジトコソ定メラレテ候ヘトテ。キキイレサセヲハシマサズトコソハ申ツタヘテ侍メレ。ツイニエ申イレサセ玉ハズ。申ツグ人ナカリケリトゾ又申メル。ソレモ心ハタダコノ御心ニテ行ハレケル也ケリ。昔ヨリヲリイノ御門ニナリテ。ヨノ事シラセ玉フコトハナキ也。世ノ末ニナリテカクナルベシトイフコトモ。未ダラボシメシヨラザリケン。君ハ臣ヲウタガイ。臣ハ君ヲヘツラフコトノイデキタリテ。中ニ太上天皇ヨヲシロシメス也。メデタクウツリユクナルベシ。コノ北野ノ御事ハ日蔵が夢記人モチイネドモ。又ヒガゴトニハアラヌナルベシ。延喜ハ卅三年マデタモタセタマヒタリ。ソノノチハ卅年ニヲヨビテヒサシキ御クラヒハナシ。

コノ貞信公ノ御子ニ小野宮〔実頼〕。九條〔師輔〕殿トテヲハスメリ。コノ事ドモハ世ツギノカガミノ巻ニ。コマゴマトカキタレバ申ニヲヨバネドモ。ツジツジノアフトコロヲバ申ベキニヤ。ヲトトノ九條ノ右丞相ハ。アニノ小野宮ドノニサキダチテ一定ウセナムズトシラセ玉ヒテ。ワガミコソ短祚ニウケタリトモ。我子孫ニ摂政ヲバツタエンニ。又ワガ子孫ヲ帝ノグワイセキトハナサムトチカイテ。観音ノ化身ノ叡山ノ慈恵大僧正トシダンノチギリフカクシテ。横川ノミネニ楞厳三昧院トイフ寺ヲタテテ。九條ドノノ御存日ニハ。法花堂バカリヲマヅヅクリテ。ノボリテ大衆ノ内ニテ火ウチノ火ヲウチテ。ワガコノ願成就スベクバ三度ガ中ニツケトテウタセ玉ヒケルニ。一番ニ火ウチツケテ。法花堂ノ常燈ニハツケラレタリ。イマニキエズト申ツタヘタリ。サレバソノ御ムスメノハラニ。冷泉。円融ノ両帝ヨリハジメテ後冷泉院マデ。継躰守文ノキミ。内覧摂 籙ノ臣アザヤカニサカリナリ。ソノノチハ閑院〔公季〕ノ大臣ノカタニウツリテ。又白川。鳥羽。後白川。太上天皇ナガラ世ヲシロシメス君シロシメス君ハヲハシマス。後白川ノツギニハ当院ツタヘテヲワシマスモ。中関白道隆ノ御スヂナリ。コノ日本國観音ノ利生方便ハ聖徳太子ヨリハジメテ。大織冠。菅丞相。慈恵大僧正カクノゴトクノミ侍コトヲフカク思シル人ナシ。アハレアハレ王臣ミナカヤウノ事ヲフカク信ジテ。イササカモユガマズ。正道ノ御案ダニモアラバ。劫初劫末ノ時運ハチカラヲヨバズ。中間ノ不運不意ノサイナンハ侍ラジ物ヲ。サレバヨクヲコナハルル世ハ。ミナ妖ハ徳ニカタズトテノミコソ侍レ。ソノ九條ノ右丞相ノ世ヲボヘハナラブ人ナカリケレバニヤ。延喜ノ御ムスメ村上ノ内裏ニ御同宿ニテアリケルヲ。ハジメハシノビヤカナレド。ノチニハアラハレニケリ。内親王ニテ弘微殿ニスエマイラセラレタリケル也。閑院ノ太政大臣公季ト申ハソノ御ハラナリ。閑院ヲコトナル花族ノヒトト世ニイフコトハ。コノユヘ也トコソ申メレ。サテコノ九條右丞相師輔ノ公ノイヘニ摂 籙ノ臣ノツキニケルコトハ。小野宮ドノウセ玉ヒテ。九條ドノノ嫡子一條摂政伊尹。摂政ニナリヌ。コレハ円融院ノ外舅ニテ右大臣ニテアレバ。九條殿ハ摂籙セザリシカバ。ナニトテカタヲナラベ。キホフベキモナクテカクハ侍ナリ。地躰ハ藤氏長者トイフコトハ。
カミヨリナサルルコトナシ。家ノ一ナル人ニシダイニ朱器臺盤印ナドヲワタシワタシスル事ナリ。ソノ人マタヲナジク内覧ノ臣トハナルナリ。関白摂政トイフコトハカナラズシモタヘズナルコトニハアラズ。摂政ハ幼主ノトキバカリナリ。忠仁〔良房〕公ノノチハタダ藤氏長者内ランノ臣ニナリヌルヲ一人トハ申ナリ。内覧モカナラズシモナキコトナリ。関白モ昭宣〔基経〕公摂政ノノチニ関白ノ詔ハジマリケリ。漢ノ宣帝ノトキ霍光ガ。マヅアヅカリキカシメテノチニ奏セヨトウケタマハリケル例ナルベシ。小野宮〔実頼〕ドノノ摂政ヲヘズシテ。関白詔ハジマリケルヲバヲソレ申サレケリ。サレバ延喜御時平ウセ玉ヒテノチト。天暦ノ御トキニハ内覧ノ臣ダニナク。マシテ摂政関白トイフツカサモナサレズ。タダ藤氏長者一ノカミニテ。延喜ノ御トキハ。貞信〔忠平〕公ノチニコソ。朱雀院八ニテ御クラヒナレバ摂政ニハナラセタマヘ。村上ニハハジメハ貞信公関白如元トテアリケレド。ウセサセ玉ヒテノチハ。左大臣ニテ小野宮ドノコソハタダ一ノ上ニテコトヲコナイテ。冷泉院御トキ直ニ関白ノ詔アリケレ。時ノキミノ御器量ガラニテ。カツハヲカルルコトナリ。世ノスヘハミナ君モ昔ニハニサセタマハズ。マコトノ聖主ハアリガタケレバ。イマハ様ノゴトク摂政関白ノ名ハタウルコトナシ。ソレモ御堂〔道長〕ノハジメ一條院。三條院。知足〔忠実〕院ドノノハジメ堀川院。コノフタタビハ内覧バカリニテ関白ニハナラセタマハザリケリ。ヤサシキコトナリ。貞信公ノ御コトハイカニモイカニモタダウチアル人ニハヲハセズ。将門ガ謀反ノトキ。禁中ニ仁王會アリケル。コトヲコナヒタマヒケルニ。コエバカリニテオコナヒタマヒテ。身ハ人ニミエタマハザリケリ。隠形ノ法ナド成就シタラン人ハカクヤトヲボヘケルハ。タシカニイヒツタヘタルコト也。又ヲノノ宮ドノノウセラレタリケル時。トブライノタメ門ニ人ヲヲクキタリアツマリタリケルガ。昔ハ徳アル人ノウセタルニハ挙哀トイヒテ。アツマレル人コエヲアゲテ哀傷スルコトアリケレド。
今ハサル人モナキニ。コノトキ門外ニアツマレル貴賤上下挙哀ノコエヲノヅカライデキテカナシミケルコソ。天下ニナゲクベキコトキハマリニケリト人ハ申ケレ。カヤウノコトヲバ思シルベキコトナリ。九條殿ノ御子ニテホリカハノ関白兼通。法興院ドノ兼家。コノフタリ次第タガイタルコトドモニテ。ナカアシクヲハシケリ。兼家ハアニナガラ。ヲトトノ兼家ニコヘラレヲヒタタレタルコトハサダメテヤウ有ケン。ヲロヲロ人ノヲモヒナライタルコトハ。冷泉。円融両帝ハコノ人人ノヲヒニテヲハシマセバ。ヲヂニテ立太子ノ坊官ドモニナラレケルニ。アニナレバマヅ冷泉院ノニテホリカハ殿トイハルルホドニ。イカナルコトカアリケン。御キソクヨロシカラデ。東宮亮ヲトドメラレニケリ。ソノトコロニ法興院ドノハナリテ。ヤガテ受禅ノトキ蔵人頭ニナリテコヘ玉ヒニケリ。ヲホカタ兼家ハヨロヅニツケテコトガラノカチタル人ニテ。蔵人頭モ中納言マデカケテヲハシケリ。大納言大将ニテヲハシケルトキニ。兼通ハ中納言ニテアリケルニ。円融院クライノ御トキ。一條〔伊尹〕摂政所労大事ニナリヌトキキテ。カナノフミヲモテマイリテ。ヲニノマニタタセ玉ヒタリケル時。マイラセラレタリケルヲヒキヒロゲテ御ランジケレバ。摂 籙ハ次第ノママニサブラフベシトカカレタリケル。御母〔安子〕ノ中宮ノ御手ニテゾアリケル。ウセサセタマヒヌルヲ思イデツツ。コイマイラセサセ玉ヒケルヲリフシ。カカルフミヲ御母ノ皇后ニカカセマイラセテモタレタリケルヲマイラセテ。イミジクカシコカリケル人カナトヨニモ申ケリ。コレヲ御ランジテ。一條ノ摂政ノヤマイカギリニナリニケレバ。左右ナク中納言ナル人ニ内覧ヲオホセラレテ。大納言ヲヘズシテ中納言ヨリヲトトノ大納言ノ大将ヲコヘテ内大臣ニナリテ。天延二年ニ関白ノ詔クダリタリケル也。法興院ドノハコレヲヤスカラヌコトニ思ヒイラレタリケルホドニ。貞元二年ニ関白ヤマイヲモリテスデニトキコヘケルニ。トリツクロイテ法興〔兼家〕院大入道ドノ大将大納言ニテ内裏ヘマイラレケルヲ。人ノコヤマイノトブライニコレハヲハスルカトイヒケレバ。サモヤトヲモハレケルホドニ。ハヤウ参内トイヒケルヲキキテ。ヤマイノムシロヨリニハカニ内ヘマイラントテマイラレケリ。トモノ者マデコハイカニトアヤシミ思ケレド。四人ニカカリテタダマイリニマイラレケレバ。内裏ニハ殿下〔兼通〕ノ御出トノノシリケルヲ。
オトトノ大将。スデニシヌルトキク人タダイマ参内ヒガコトナラント思ハレケルホドニ。マコトニマイラセケレバ。サハギテイデラレニケリ。マイリテ御前ニ候テ。最後ニ除目申ヲコナヒサブラハムト思ヒ玉ヒテマイリテサブラウナリ。ヤヤ人マイレ。チカキ公卿モヨヲセ。除目ノアランズルゾトアリケレバ。アヤシミ思テ人人マイレリケルニ。少々事ドモ申テ。右大将ハキクワイノ者ニ候。メサレ候ベキナリ。大将所望ノ人ヤサブラフ。ハバカラズ申セトタカクイハレケルニ。誰カハサウナク申サム。ヲソレテ有ケルニ。小一條大臣師尹ハ九條ノ御ヲトトナリ。ソノ人ノ子ニナリトキトテ中納言ナル人アリケリ。コノ人思ケルヤウ。コノトキナラデハイツカ我大将ヲユルサレム。申テント思テ。カサネテイカニ大将所望ノ人ノサブラハヌカ。タダ申セトイハレケルタビ。ナリトキトタカク名ノリイダシタリケレバ。メデタシメデタシトクトクトテ。右大将ニナリトキトカキテケリ。執筆ハタレニカアリケン。ソレマデノ日記ナキニヤ。タダシマサシキ除目ハ直盧ニテヲコナハレケルトカヤ。サテ関白ニハ頼忠ソノ仁ニアタリテ候。大臣ニテ候。異議候マジ。ユヅリ候ナリトテ。ヤガテ関白詔申クダサレケレバ。主上ハコハイカニト返返ヲソロシクヲボシメシテ。又申サルルコトハイタクヒガコトナラズヤヲボシメシケン。申ママニヲコナハレニケリ。故皇后ノ御フミニ次第ノママトアリケルハタガイタレド。コノツギヲナジコトナドヤヲボシメシケン。コノ冷泉。円融ノ母ハ安子中宮トテ。九條トノノ御女ナリ。ヲホカタハ一條〔伊尹〕摂政ヤマイノ間御前ニアニヲトト二人候テ。コノツギノ摂 籙ヲコトバヲイダシツツイサカイ論ゼラレケリ。済時ノ大将ガ日記ニハ。各放言ニヲヨブナドカキタルトカヤ。最後除目ハヲボツカナケレド。ヲコナハレタルヤウハ疑ナシ。カヤウノ意趣。ヨノタメ人ノタメ。國ノヲトロヘ道理ノトヲラヌコトナレドモ。コノ頼忠三條関白世ニユルサレヨキ人ニテ。小野宮ドノノ子ニテソノ運ノアリケル。カヤウナラデハカナウマジキ因縁ドモノカク和合スルミチハ。コレモ道理ナルカタ侍ベキニヤ。サテ三條ノ関白頼忠ハ貞元二年十月十一日ニ関白詔クダリテ。一條院クライニツカセタマヒケルマデ十年歟ヲハシケルホドニ。一條院践祚ノトキ。ツイニ大入道ドノハサウナキ道理ニテ摂 籙ニナラレニケレバ。チカラヲヨバデアリケリ。

ソモソモ円融院ノ花山院ニ御譲位アリケリ。大方ハコノ摂籙ノ臣ノムマゴニテ。アニヲトトミナヲハシマス。クライヲソノヲトトニユヅラセタマウトキハ。ヤガテアニノ皇子ヲ太子ニ立テ東宮トシテノミ。ノチノチモヲホク侍メリ。冷泉院ヲリサセタマイテ。円融院クライニツカセタマヘバ。ヤガテ冷泉院ノ御子花山院ヲ東宮ニタテマイラセテ。花山院ニ又位ヲユヅラセ給トキハ。円融院ノ太子ノ一條院ヲ東宮ニハタテラレケルニナム。此大入道ドノハアニノ堀川ドノノタメニヲイコメラレテノチハ。冶部卿ニナサレテ。花山院ト申ハ御母ハ一條〔伊尹〕摂政ノムスメ冷泉院ノキサキナリ。コノ時法興〔兼家〕院ドノハヤガテ摂 籙セムトヲモハレケレド。関白如元トイフヲホセニテアリケレバ。法興院ドノハ右大臣前日固関コトヲコナイタマヒケルニ。関白如元トキキ給テ。ヤガテ出仕ヲトドメテ。節會内弁モヲコナハレザリケル間ニ。ツギノ人ヲコナウベカリケルヲ。左大臣トヲトトノ大納言ト雅信。重信ノ二人ハ。服氣ニテ出仕ナカリケリ。為光。朝光両大納言ハサハリヲ申テイデニケレバ。済時コソハナヲ中納言ニテヲコナヒ侍ケレ。コノ済時ハ大入道殿ノタメニハハバカラヌ人ニコソ。ソレモ道理ノユクトコロナレバ。ニクカルベキニアラズ。忠仁公。清和ノミカド日本國ノ幼主ノハジメニテ外祖ニテハジメテ摂政ニヲカレテ後。コノ摂政ノ家ニ帝ノ外祖外舅ナラン大臣ノアランガ。カナラズカナラズ執政ノ臣ナルベキ道理ハヒシトツクリカタメタルダウリニテ。一ドモサナキコトハナシ。コノ花山院ニハ義懐ノ中納言コソハ外舅ナレバ執政スベケレドモ。践祚ノトキハ蔵人頭ニコソ。ハジメテ四位侍従ニテ任ジテ。ヤガテトク中納言ニナリテ。三條〔頼忠〕関白如元トテヲハシケレドモ。國ノ政ハヲサヘテ義懐ヲコナイケルホドニ。ワヅカニ中一年ニテフカシギノコトイデキニケレバイフバカリナシ。大入道ドノハコノツギメニト日ゴロノ遺恨ヲオボシケメドモ。外祖舅ニモアラズ。小野宮ドノノ子九條ドノノ子タダヲナジ事ナレバ。モト宿老ニナリテ関白ナランヲカウベキヤウナシトヲボシメシケルモ道理ニテ。コノ時ハヤミニケルホドニ。花山院ハ十九ニテ為光ノムスメ最愛ニヲボシメシケルキサキニヲクレサセ給ヒテ。カギリナク道心ヲオコサセ給ヒテ。世ニモアラジトヲボシメシテ。ウチナガメツツヲハシマシケルニ。大入道ドノノ運ノヲソキコトヲツネニナゲカセ給ヒケル。
二郎子ニテアハダ〔道兼〕ドノ七日関白トイハルル人ハ。ソノトキ五位蔵人左少弁トテ。時ノ職事ナレバチカクミヤヅカイテヲハシケルニ。世ノアヂキナク出家シテ仏道ニ入リナント思ゾトノミヲホセラレケルヲキキテ。ヲリヲエタリトコソハヲモハレケメ。ムカシモイマモ心キキテハカリゴトアル人ハ。ワレトダニコソフカシギノコトヲモ。思ヨリツツシイダスコトナレ。コレハ君ノサホドニヲボシメス御キソクナレバ。タガイニワカキ心ニ青道心トテ。ソノコロヨリコノコロマデモ。人ノココロバヘハタダヲナジコトニヤ。ソレモカカルヲリフシ侍ベシ。コノ此ハムゲニアラヌコトナリ。

寛平マデハ上古正法ノスヘトヲボユ。延喜。天暦ハソノスエ。中古ノハジメニテ。メデタクテシカモ又ケダカクモアリケリ。冷泉。円融ヨリ白川。鳥羽ノ院マデノ人ノココロハ。タダヲナジヤウニコソハミユレ。後白川御スヘヨリムゲニナリヲトリテ。コノ十廿年ハツヤツヤトアラヌコトニナリニケルニコソ。サレバ花山院アヲ道心ヲコシ給ヒケンモミナヲシハカラル。アハダドノノ同心シテ申ススメラレケンモアラハナリ。一定カク申サレケルトハキカネドモ。カヤウノコトハ道理キハマリテ。ソノコトバヲツクルコトハ天竺。唐土ノコトヲココニテクチギギタル脱経師ノ申ニナレバ。カノクニグニノコトバニテハナケンドモ。道理ノセンノタガハヌホドノ事ハ。ゲニゲニトイフヲコソハ正説トハ申スコトナレバ。サコソ申サレケメ。恵心僧都ノ道心ノコロニテ。厳久僧都ト申人アリケル。ソノ人ナドメサレテ道心發心ノヤウナドタヅネラレンニハサコソ申ケメ。経文ニハ妻子珍寶及王位。臨命終時不随者トコソハ申テ候ヘ。法花経ノ序品ニモ。悉捨王位。亦随出家。發大乗意。常修梵行トトキテ候ニハ候ハズヤ。提婆品ニハ時有阿私仙。來白於大王。我有微妙法。世間所希有。即便随仙人。供給於所 湏トコソ申テ候ヘ。尺迦仏モ我今出家得阿耨菩提トコソハ我御身ノコトヲモトカセ給ヘ。カカル御心ヲコリ候トキ。難入ノ仏道ヘハイラセ給ベキニ候。ヲボシメシツルトイフトモ。御發心ノ一念ハクチ候マジ。妙法ニスギタル教門候ハズ。不軽ノ縁ダニモツイニハ得道シテコソ候ヘ。菩薩戒コソセンニテハ候ヘ。ヤブレドモナヲタモツニナリ候ゾカシ。サレバコソ受法ハアレド捨法ハナシトハ申候ヘバ。タダマコトシクヲボシメシタチ候ハバ。トクトクトゲサセ給ヘナドコソハ。アサユフ申サレケメ。ソノウヘニ君一定御出家ニヲヨビ候ハバ。ヤガテミチカヌモ出家シテ。仏道修業ノ御同行トハナリマイラセ候ベシ。縁ノフカクヲハシマセバコソ。王臣ノカタニテモ。ケフハ君ニツカヘサブラヘナド申サレケレバ。イトド御心モヲコリテ。時イタリテ寛和二年六月廿二日庚申夜半ニ。蔵人左少弁道兼。厳久法師ト御車ノシリニノセテ。大内裏ヲイデサセ給ケルニハ。ヌイドノノ陣ヨリトコソハ申メレ。物ガタリニハスデニ何ドノトカヤノホトリニテイタクニハカ也。ナヲシバシ案ズベキニヤトヲホセラレケレバ。道兼ハ璽劔スデニ東宮ノ御カタヘワタサレサブライヌルニハ候ハズヤ。
イマハカナイ候ハジト申サレケレバ。マコトニマコトニトテイデサセ給ヒケルトコソハ申ツタヘタレ。スデニトヲボシメシケルトキ。道隆。道綱コノ人ダチヲマウケテ。今ハ璽劔ワタサルベクヤト申テ。道隆。道綱両種モチテ。東宮一條院御方凝花舎エマイラレケレバ。右大臣〔兼家〕マイリテ諸門ヲトヂテ。御堂〔道長〕ノ兵部卿ニテヲハシケルヲ。頼忠ノモトヘツカハシテ。カカル大事イデキヌトハツゲ給テケリ。サテ立王ノ儀ニナリニケレバ。トカクイフバカリナシ。一條院七歳ニテヲハシマセバ。摂政ニナリテ。コノタヒハ此右大臣兼家ハ外祖ナレバ。頼忠モヲモイヨラヌコトニテ。ヒシト世ハヲチイニケリ。サテ花山トイフハ元慶寺ニテ御クシヲロサレニケレバ。ヤガテ道兼モ出家センズトヲボシメシケルヲ。ナクナク今一ドヲヤヲミ候ハバヤ。ワガスガタヲモイマ一ドミエサブラハバヤ。サ候ハズバ不孝ノ身ニナリ候ハバ。三寶モアシトヤヲボシメスベク候ラン。君ノ御出家トウケ給リ候ナバ。道兼ヲトドムルコト候マジ。ホドナクカヘリマイリ候ハントテタタレケレバ。イカニ我ヲスカシツルナトヲホセラレケレド。イカデカサルコト候ハントテ。ムチヲアゲテカヘリニケリ。ナニシニカ又マイルベキ。コノ事ヲ聞テ中納言義懐。左中弁惟成ハ。ヤガテ花山ニ参リテスナハチ出家シテ。コノ二人ハイササカノキズナク。仏道ニイリトヲリニケリ。義懐ハイヒムロノ安楽寺ノ僧ニナリニケリ。惟成ハ賀茂祭ノワサツノノヒジリシテワタルホドニナリニケリトコソハ申侍メレ。花山法皇ハノチニハサマアシク思ヒカハリテヲハシケレド。又ハジメモノチノチモメデタクヲコナハセヲハシマスヲリヲリアリケレバ。サダメテ仏道ニハイラセ給ニケンカシ。

カクテ一條院御位ノ後。コノ大入道〔兼家〕殿ヒシト世ヲトラレニケリ。後後宇治〔頼通〕殿マデヲミルニ。サラニサラニイフバカリナク。一ノ人ノ家ノサカリニ世モヲダシク。人ノ心モハナレハテタルサマニ。アシキコトモナク。正道ヲマモリテ世ヲオサメラレテ。一門ノ人人モワザトシタランヤウニ。トリドリニヨキ人ドモニテ。四納言トイフモ三人ハ一門ナリ。カクテ世ハヲサマリタリケリトミユ。サテ大入道殿ハ永祚二年五月四日出家シテ。嫡子内大臣道隆ニ関白ユヅリテ。同七月二日ウセ給ヒニケリ。道隆ハ中関白トゾ申。ソノ子ニ伊周帥内大臣トイフ。ナガサレテノチ儀同三司トイフ。コノ人ニ内覧ノ宣旨ヲ申サレケレドモ。ヲトトノ道兼ハ右大臣。コノ伊周ハ内大臣ニテアリケリ。一條院御母〔詮子〕ハ東三條院ト申ハ。女院ノハジメハコノ女院ナリ。コレハ兼家ノムスメニテ。円融院ノキサキナリ。コノ女院ノ御ハカライノママニテ。世ハアリケリトナン申ツタヘタリ。道兼ヲナジク御セウトニテ。ナニトナク花山院ノ間ノコトモ我結構ナラネド。時ニアイテテテノタメイミジカリケン。右大臣上揀iレバ。内大臣伊周人ガラヤマト心バヘハワロカリケル人ナリ。カラザヘハヨクテ詩ナドハイミジウツクラレケレド。右大臣ヲコユベキナラネバ。右大臣〔道兼〕関白ニハナリニケレド。長徳元年四月廿七日ニナリテ。五月八日ウセラレニケレバ。世ノ人ハ七日関白トイイケリ。

ソノノチ内大臣ニテ伊周モト内覧宣旨カウブリタル人ニテアリケルニ。大納言ニテ御堂ハヲハシケルハ。道兼。道隆ノヲトトナリ。コノヲヂノ大納言〔道長〕其器量抜群ニシテ世モ人モユルシタリケリ。我身モコノトキ伊周執政ノ臣タラバ。世ハミダレウセナンズ。ワガ身ヲ摂 籙臣ニヲカレナバ。世ハヲダシカルベキト。サメザメトヲホセラレケリ。イモウトノ女院〔詮子〕当今ノ母后ニテ。ヒシトカクヲボシメシタリケルヲ。主上ノ思フヤウニモ御ユルシナクテアリケルホドニ。イタク申サレケルヲウルサクヤヲボシケン。アサガレイイヲタタセ給テ。日ノ御座ノカタニヲハシマシテ。蔵人頭俊賢ヲオマヘニメシテ。御モノガタリアリケルトコロヘ。ヨルノヲトドノツマドヲアケテ。女院ハ御目ノヘンタダナラデ。イカニ世ノタメ君ノタメヨク候ベキコトヲカク申候ヲバ。キコシメシイレヌサマニハ候ゾ。コノ儀ニサブラハバイマハナガクカヤウノ事モ申候マジ。心ウクコハクチヲシキコトニ侍物カナト申サセ給ケル時。イナヲラセ給テ。イカデカコレホドニヲホセラレン事ヲバイナミ申候ベキ。ハヤクヲホセクダシサブラハント。内ノ御ケシキモマメヤカニナリテヲホセラレケレバ。女院ワタラセ給トココロヘテ。御マエニサブラフ俊賢タチノキケルヲ。サラバヤガテ蔵人頭トシカタサブラフメリ。メシヲハシマセ。申キカセント申サセ給ケレバヤ。トシカタコレヘマイレトメシケレバ参タリケルニ。女院大納言道長ニ太政官ノ文書ハソウセヨトトクヲホセクダセトヲホセラレケレバ。俊賢タカクイセウシテマカリタチテ。ヤガテヲホセクダシケレバ。女院ハアサガレイイノ方ヘカヘラセ給ヒテ。御堂ハ大納言ノ左大将ニテ。コノ左右ウケタマハラントテ。サブライマウケテヲハシケルニ。女院ハ御袖ニテハ涙ヲノゴヒテ。御目ハナキ御口ハエミテ。早クヲホセクダサレ候ヌルゾトヲホセラレケレバ。カシコマリテ出サセ給ニケリ。シバシ大納言ニテ内覧ノ臣ニテ。ヤガテソノ年ホドナク右大臣ニナラレニケリ。内覧臣ナレバ内大臣ヲコヘラレニケル也。

長徳二年四月ニ伊周内大臣ト。ヲトトノ隆家トハ左遷セラレテ。内大臣ハ大宰権帥。中納言タカイエハ出雲権守ニナリテ。ヲノヲノナガサレニケルコトハ。花山院ヲ射マイラセタリケルナリケリ。ソノ事ノヲコリハ。法住寺太政大臣為光ハ恒徳公トゾ申。コノ人ニ三人ムスメアリケリ。一女ハ花山院御道心ヲコサセマイラスル人ニテ。ウセ給テノチ道心サメサセ給テ。ソノ中ノムスメニカヨハセ給ケルニ。又三ノムスメヲ伊周大臣ハカヨイケルヲ。コノ院ノヤガテコノ三ノムスメノ方ヘモヲハシマスト。人ノ云ケルヲヤスカラズ思テ。弟ノ隆家帥ハ十六ニテアリケルニ。イカガセンズル。ヤスカラズト云ケル程ニ。隆家ノワカクイカラキヤウナル人ニテ。ウカガイテ箭ヲモチテ射マイラセタリケレバ。御衣ノ袖ヲツイヂニイツケタリケリ。アヤウナガラニゲサセ給テ。コノ事ヲバヒシトカクシテアリケルヲ。ヤウヤウ披露シテ。サホドノコトイカデカサテアルベキトテ。沙汰ドモアリテコノ事ハアリケリトイヒ伝ヘタリ。サレド小野宮ノ記ニハ。ヤガテソノ夜ヨリキコヘテ正月十三日除目ニ内大臣ノ円座トラレタリケリ。尤可然ト時ノ人云ケリ。コマカニソノ日記ニハ侍レバソレヲミルベキナリ。コノトガナレド。御堂ノ御アダケカナト人思タリケレバ。返々イタマセ給ケリ。ヲノヲノ後ニハメシカヘサレテ。内大臣〔伊周〕ハ儀同三司ト云位ヲタマハリ。隆家ハ帥ニナリテクダリナンドシテ富アル人ニナンイハレケリ。帥ニナリテツクシヘクダリテ。イヒシラズトクツキテノボリタリケルニ。イツシカ御堂ヘマイリタリケルニ。出アハセ給ヒタリケレバ。イトモ申コトハナクテ名簿ヲカキテ。フトコロヨリ取出シテマイラセテ出ニケリ。イミジク心カシコカリケル人ナリトコソウケ玉ハレ。カカリケル程ニ一條院ウセサセタマイテノチニ。御堂ハ御遺物ドモノサタアリケルニ。御手箱ノアリケルヲヒラキ御覧ジケルニ。震筆ノ宣命メカシキ物ヲカカセヲハシマシタリケルハジメニ。三光欲明覆重雲大精暗トアソバサレタリケルヲ御ランジテ。次ザマヲヨマセ給ハデ。ヤガテ巻コメテヤキアゲラレニケリトコソ。宇治〔頼通〕殿ハ隆國宇治大納言。ニハカタラセ給ヒケルト。隆國ハ記シテ侍ナレ。大方御堂御事ハ。タトヘバ唐ノ太宗ノ世ヲヲコシテ。我ハ堯舜ニヒトシトマデ思ハセ給ヒタリケルト申ヤウニ。御堂ハ昭宣公ニモ大織冠マデニモヲトラヌホドニ。正道ニ理ノホカナル御心ナカリケリトミユ。
ワガ威光威勢ト云ハサナガラ君ノ御威ナリ。王威ノスエヲウケテコソカクハアレト。ワタクシナクヲボシケルナリ。ソノ證據ハ。萬壽四年十二月四日ウセ給ヒケル御臨終ニアラハナリ。思ノゴトク出家シテ。多年九躰ノ丈六堂法成寺ノ無量壽院中尊ノ御前ヲ閇眼ノ所ニシメテ。屏風ヲ立テ脇足ニヨリカカリテ。法衣ヲタダシクシテ居ナガラ御閇眼アリケルコトハ。ムカシモイマモカカル臨終ノタメシアルベシトヤハ。十二月四日ナルニ。十二月ハ神今食ノ神ゴトトテキビシクテ。閏朔日其齊イミジクキビシクテ。摂政関白公家ヲナジコトニテアルニ。法成寺ノ御八講トテ南北二京ノ堅義ヲカレタルニ。大伽藍ノ仏前ノ法會ニ氏長者関白摂政ナル。カナラズ公卿引率シテ令参詣テ。堅義例講御聴聞一切ニハバカラルル事ナシ。伊勢大神宮モコレヲユルシヲボシメスナリ。コレコソハ人間界ノ中ニ其人ノ徳ト云手本ニテ侍メレ。カカル徳ハスコシモワタクシニケガレテ。為朝家不忠ナラン人アリナンヤ。カヘスガヘスヤムゴトナキコト也。コレヲ一條院モアルママニ御覧ジシラセ給ハデ。カカル宣命メカシキ物ヲカキヲカセ給ヒテトクウセサセ給ヒニケルニ。御堂ハソノノチ久クタモチテ。子孫ノ繁昌臨終ノ正念タグイナキヲ。御心ノ内ニコレヲフカク見トヲシテ。イカニゾヤ悪心モヲコサジ。ワレトドマリテカク御追福ヲイトナム。タカキモイヤシキモ御心バヘノニスモアリ。又イカニゾヤ。キカフコトハスコシモイカニト思フベキコトナラズトテ。巻コメテ焼アゲサセ給ケムヲバ。伊勢太神宮。八幡大菩薩モアハレニサトラレ玉イケントコソアラハニサトラレ侍レ。サレバコソ其後萬壽ノ年マデ久クタモチテ。サル臨終ヲモ人ニハ聞レサセ給ヘ。
第四巻

一條院ハ七ニテ位ニツカセ給テ。廿五年タモタセヲハシマシテ。卅二ニテ寛弘八年六月廿二日カクレサセヲハシマシケリ。六月十三日ニ御譲位。十九日御出家。御戒師慶円座主ナリケリ。

三條院ハ卅六ニテ位ニツカセ給。御母ハ大入道〔兼家〕殿ノ御ムスメ〔超子〕ナレバ。御堂ハ外舅サウイナシ。一條院位ニツカセ給テノチニ。三條院ヲ東宮ニ立マイラセラレケルコトイカナリケルニカ。当今ハ七歳ニテイマダ御元服モナクテ。寛和二年六月廿二日受禅ナリ。東宮ハ十一歳ニテ。ヤガテソノ七月ノ十六日ニ御元服ナリテ東宮ニタタセ給。サテ廿五年ガ間三條院ハ東宮ニテ。一條院ノ廿五年タモチテ卅二ニテウセサセ給フ時。三條院ハ卅六マデマチツケテ位ニツカセ給ニケリ。ソレモ五年程ナクテ。御目ニコトアリテ位ヲリサセ給テ。次ノ年御出家アリケリ。コノ次第イトイト心得ガタキ事也。サレドモ世ノ人ノ思ヒナラヘルコトハ。大入道殿スコシノ御ワタクシモナク。メデタクハカラハセ給ケルニヤ。九條殿ノメデタキ願力ニコタヘテ。冷泉院イデキテヲハシマセド。天暦第一ノ皇子廣平親王ノ外祖ニテ元方大納言アリケルガ。コノ安子ノ中宮ニヲサレマイラセテ。冷泉。円融ナド出キ給テ。廣平親王ハカヒナキ事ニテアリケルヲ。オモヒ死ニシテ悪霊トナリニケルニヤ。冷泉院ハ御物氣ニヨリテ。中一年ニテヲリサセ給ヒヌ。サテ円融院ノ御方メデタケレド。花山院ノ御事ナドアサマシト云モコトヲロカナリ。ソノ御オトトニテ三條院オハシマスヲ。イタヅラニナシマイラセントオモヒテ。
カカルヤウドモハ出キケルニヤ。サテ冷泉院。花山院ハアヤニク御命バカリハ長長トシテオハシマシケリ。三條院ノ位ノ御時。御年六十二ニテ。冷泉院ハウセサセ給ハントシケルニ。行幸ナルベキニテアリケルヲ。御堂ハ先参リテ。見マイラセ候ハントテマイラレタリケルニ。見シラセ給ハヌホドニナラセ給ニケレバ。イマハイフカヒナク候。猶御物ノケノユクエモヲソロシク候トテ。行幸ヲバ申トドメラレニケリ。サリナガラ三條院弟ノ兄ノアトヲツガンヤウニ。天道ノ御ハカライスコシモサウイナクテ。位五年ノ後ヲリサセ給ヒニケレバ。後一條院ハカハリテ御践祚アリケレバ。九歳ニテツガセ給ヘバ。長和ニ宇治〔頼通〕殿ハ。御堂ノ嫡子ニテ摂政ニナサレ給ニケリ。コノ國母ハ又上東門院〔彰子〕也。御堂ノ嫡女ゾカシ。其後御堂ハ入道ニテ萬壽四年マデ立ソイテヲハシケル。メデタサ申カギリナシ。法成寺ツクリタテテ供養セラレケルニハ。アマリニ何モカモ一御事ニテ無興ナルホドナレバ。閑院ノ太政大臣公季ノ九條〔師輔〕殿ノ御子ニテ。年タカクシラガヲイテノコラレタリケルヲ。請ジイダシ申テ。御堂ハ御出家ノ身ニテ法服ヲタダシクシテ。一座ニツカセ給ヘリケルニ。太政大臣ニテ摂 籙臣ナル宇治殿ノカミニツケラレタレバ。相國ノ面目キハマリテ。入道殿ニハウシロヲサシマカセテ。ウルハシキ着座氣色モナクテ。宇治殿ニムカヒタル様ニヰラレタリケルヲバ。イミジキ事カナトコソ時ノ人申ケレ。

一條院ノ御時四納言トノノジルヌキマダラモナキ四人ハ。齋信。公任。俊賢。行成トテ。四人大納言マデニテツヰニ大臣ニハエナラズ。俊賢コソ西宮〔高明〕左大臣。延喜御子一世ノ源氏ニテ凡人ニナリテユユシキ人ナリケル。ソノ子ニテ侍ケレバ。ソノ西宮左大臣流サレケルコトモ大切ナレバ。コノ次ニ申ベキナリ。村上皇子三人。安子ノ中宮ノ御腹ニ。第一ハ冷泉院。第二ハ為平親王。第三ハ円融院ナリ。西宮左大臣ハ延喜ノ御子ニテ。ヤガテ北方ハ九條〔師輔〕殿ノ娘ナリ。カカリケレバコノ高明左大臣ノムスメヲ。為平親王ニハマイラセテ。高明ノムコニテオハシマシケルヲ。冷泉院即位ノスナハチ。アニノ為平ヲヲキテオトトノ円融院ヲ東宮ニタテテオハシマス。コレハ康保四年九月一日ト云メリ。安和二年三月ノコロ。コノ左大臣高明謀反ノ心アリテ。ムコノ為平ヲトオモヒケルナルベシ。冷泉院ホドナク御物ノ氣ニテ御薬シゲケレバ。何トナクタヂロキケルコロニヤ。左馬助源満仲。武蔵介藤善時ナド云時ノ武士ノササヤキ告ケルコト出来テ。三月廿六日ニ左大臣ハ左遷セラレテ。太宰権帥ニナリテ流サレケレバ。ヤガテ出家シテケリ。
僧連茂。中務少輔橘敏延。左衛門大尉源連。前相模介藤千晴ナド。遠流ニミナヲコナハレニケリトシルセルハ。此スヂニ満仲ナンドモカタラハレケルニヤ。武士ニテユカリツツカハレテ。推知シテツゲ申タリケルニヤ。カカル事出キニケリ。サレド天禄三年五月ニメシ返サレニケリ。コレヲバ世ノ人ノ沙汰シケルコトハ。コトニ小一條左大臣師尹。九條殿ノ子ドモ三人小野宮ノ小共モ。コノ人々カクハシナシツルゾナドオモヘリケルナルベシ。ソレモイカガハトガナカランヲバサハ有ベキ。サテモワレヤガテ出家セラレニケリ。ネブカクサ思フトモ。シウベキ事ナラネバ。人モカクサタスナド思テ。メシカヘサレニケルナンメリ。イマソノ子俊賢ハ又コトニコトニ御堂ニハシタシク候テ。イササカモアシキ意趣ナカリケリ。ヨキ人ニナリヌレバ。ヒガゴトハ思ヘレドモ。ヤガテ思ヒカヘシ。又ムヤクノアシキ意趣ナドヲフカクムスブコトヲセヌナリ。サテコソワレモ人モヲダシキ正道トハ云コトナレ。アヤマレルヲ改ムルノ善コレヨリヲホキナルナシト云明文ハカヤウノコトナルベシ。大方御堂ノ御世ニハ。ヨロヅノ人ソノ心ノヲハシケルアリサマノスクスクト私ナク。
当時タダヨカルベキヤウノホカニ。又ヤウモナクハカライサタシテヲハシケルニ。ヨロヅ皆キキテ人モナビキ帰シ申タリケルヨト。アラハニミユルナリケル。一ノ人モアルマジ。コレヲ又カクミシリテモチイル臣家モアルマジ。カカル器量ドモノアイアイヌル世ヲ。ナド見ザリケントノミシノバルレドモ。サラニ云ガイナキ末ノ世ナレバ。思ヒヤルカタナシ。

齊信ハ為光太政大臣子。公任ハ三條〔頼忠〕関白子。行成ハ一條摂政〔伊尹〕ノムマゴ。義孝少将ノ子ナリ。和漢ノ才ニミナヒデデ。ソノ外ノ能藝トリドリニ人ニ勝レタリ。サレド宇治〔頼通〕殿左大臣。小野宮実資右大臣。大二條〔教通〕殿内大臣ニテ。ミナサシモ命ナガクテオハシマシケレバ。チカラオヨバヌコトニテアリケルナルベシ。

四納言サカリノ時。テル中将。ヒカル少将トテ。殿上人ノメデタキアリケルハ。中将ノテテハ兵部卿ノ宮。母ハタカヅカサ殿ノアネニテアリケレバ。御堂ノ御子ニナリテ成信トゾ名ハ申ケル。少将ハアキミツノ左大臣ノ子ナリ。重家トゾ申ケル。コノ二人仗儀ノアリケルヲ立聞テ。四納言ノ我モ我モト才覚ヲハキツツサダメ申ケルヲ聞テ。ワレラ成アガリナン後。アレラガヤウニアランズルガ。ヲトリテハ世ニアリテモ無益ナリ。イザ仏道ト云道ノアンナルヘイリナントテ。カイナクテ二人ナガラ長保三年二月三日出家シテ。少将入道ハ大原ノ少将入道寂源トテ池上ノアザリノ弟子ニテ聞ヘタル人ナリ。中将入道ハ三井寺ニテ御堂ノ御薨逝ノ時ニモ。善知識ニ候ハレケルナドコソ申ツタヘタレ。トニモカクニモヨキコトノミ侍リケル世ニコソ。

一條院ハ伊周ノイモウト〔定子〕ヲ。ハジメノ后ニテ最愛ノ女御ニテヲハシケルガ。イツシカ長保元年主上廿ノ御年ニヤ。王子ヲウミマイラセタリケルハ敦康親王也。三條院老東宮ニテヲハシマセバ。御病ヲモクテ。卅二ニテスデニウセナントセサセ給フニ。東宮ハ卅六ナレバ。カカルサカサマノマウケノ君。当今御ヤマイマチツケテヲハシマセバ。次ノ君ハサウナシ。ソノ時コノ一條院ノ皇子東宮ニタタセ給ベキコトヲオボシメシテ。返返コノ一宮敦康親王ヲト思召ケレド。御堂ノ御ムスメ上東門院〔彰子〕モテナシメデタクテ。既ニ二人マデ皇子ウミテ。後一條。後朱雀ヲハシマシケル間ハカリヲボシメシワヅラフテ。行成ハ中納言ニテ。コノ一宮敦康親王ノ勅ノ別当ニテアリケルヲ。御病ノユカヘチカクメシヨセテ。東宮ニハタレトカ遺言スベキト。フカクヲボシメシワヅラヒタルサマニ仰合ラレケルニ。サラニサラニ思召ワヅラハルマジク候。二宮ニヲハシマスベキニ候。サ候ハデハスエアシキ事ニテ。
一定為朝為君アシク候ベシト。ハカライ申タリケル也。二宮ト申ゾ後一條院ニテオハシマス。コノ事後ザマニモレキコヘテ行成マメヤカニメデタキ人ナリトゾ世ニモ云ケル。イカニモイカニモ叡慮ニコノ趣フカクキザシテ。御堂ノ御事ナドノ時ハサテヲハシマセドモ伊周ナガサレナドシテアルモ。トガハ力ヲヨバネドモ。アシキ事ノミユキアイツツ。御心モトケザリケレバ。サヤウノ御告文ドモモアリケルニヤ。御堂ト云誠ノ賢臣ソノ世ニヲハセズバ。アヤウカルベカリケル世ニヤ。

大方コノ一條院ノ御時世ノ中ノ一ツギメニテ。一蔀ノ運イカニモイカニモアルベカリケルニヤ。寛和二年七ニテ御位ノ後。次年号永延三年六月下旬ニ。彗星東西ノ天ニミヘケルヨリ。八月ニ改元。永祚ノ風サラニ及バヌ天 灾ナリ。一年ニテ次ノ年正暦ニカハリテ。山門ニ智證。慈覚門人大事イデキテ。智證門徒千光院ミナ焼ハライハテタリ。正暦五年。長徳元年ツヅキテ。大疫癘ヲコリテ都鄙ノ人多ク死ニケリ。中ニモ長徳元年ニ八人マデ人ノウセタル事。ムカシモ今モナキ事ナレバ尤アザヤカニシルシ侍ベシ。

大納言朝光。 前左大将。三月廿八日。年四十五ニテウセケルヨリ。
関白道隆。 四月十日。四十三。
大納言左大将済時。 同廿三日。五十五。
関白右大臣道兼。 右大将。五月八日。卅四。未避大将云々。
左大臣源重信。 同日。七十四。
中納言保光。 同日。七十三。モモソノノ中納言。中務ノ代明親王ノ子ナリ。
大納言道頼。 六月十一日。廿。道隆関白二男也。山井大納言ト云。
中納言右衛門督源伊渉。 十一月日。五十九。

年ノ内ニカクウセニケリ。サテ次ニ長保トカハル。又寛弘トコノ長保ニ。上東門院〔彰子〕入内ノ後。寛弘ニ最勝講ナドハジメヲカレテ後。御堂又マジリ物モナク世ヲヲサメ給テ。世ハヒシト落居ニケリトミユ。コノ八人ウセタル人ハ。皆時ニトリテヨクモナカリケル人ニコソ。シゲノブ公ナドハ七十ニヲホクアマリニケレバ沙汰ニ及バズ。中関白〔道隆〕ハアサミツ。ナリトキノ二人ノ左右大将ト。アケクレ酒モリヨリホカノコトモナクテスギラレケリ。僧ノ極楽浄土ノメデタキ由トキケルヲ聞テ。極楽イミジクトモ。朝光。済時ハヨモアラジ。コレナクバツレヅレナリナントイハレケルナドコソハカタリツタヘタレ。大方彗星ト云変ハ世ノヨクナランズルユエニ。ヨクナラントテヲコル 灾ノカナラズアルヲアラハス変ニヤトゾ心エラレ侍ル。天変モ何モ智恵フカカラン人ヨク案ジ思ヒアハスベキ事ニテ侍ルナリ。
カヤウノ物語ノシカモ人ノ利口ソラゴトナラヌハ。ヲリヲリニイクラトモナシ。四納言ガコヘアイケルヤウナンドモ。ヨキ物語ドモナレド。サノミハカキツクシガタシ。又用ジモナキ事ナリ。タダ事ノフシブシニマメヤカニナリテ。コノマコト共ヲ聞テハコノ上ノサトリヲヒラク縁トナリヌベキ事ドモヲ。カキツケ侍ルナリ。

後一條院廿年。後朱雀院九年。コノ二所ハ上東門院〔彰子〕ノ御腹ニテヲハシマセバサウナシ。サテ一條院ノ女御ニ顕光大臣ノムスメ〔元子〕ヲマイラセラレタルハ。皇子ヲモエウマズ。サテ三條院ノ御子東宮ニタテ給ヒタルハ小一條院〔敦明〕ナリ。コノ東宮ノ女御ニ又顕光大臣ノムスメ〔延子〕ヲマイラセタリケルガ。東宮ノ一條院ノ御子ニ後一條。後朱雀ナド出キ給ニシウヘハ。我御身モテアツカハレナントオボシメシテ。東宮ヲ辞シテ院号ヲ申テ。小一條院ト申テヲハシマシケル。御有心メデタクテ。御堂コレヲイトヲシミモテナシ申サレケルアマリニ。ムコニトリマイラセラレケレバ。モトノ女御。顕光ノヲトドノムスメ。エマイラヌヤウニナラセ給ケルヲ。心ウクカナシク思ヒナガラ。ナグサメ申サントテ。我ムスメニ。世ノナラヒニ候ヘバナゲカセ給ソナド申サレケレバ。
物モ仰セラレズシテ。御火桶ニムカイテヲハシケルガ。火桶ノ火ノ灰ニウヅモレリケルガ。シハリシハリト鳴ケル。涙ノ落サセ給ヒケルガ。火ニカカリテナリケルヨト見テ。アナ心ウヤト悲ミフカクテ。ヤガテ悪霊トナリニケリトゾ人ハカタリ侍ルメル。サモアリヌベキ事ナリ。サレバ御堂ノ御アタリニハ。コノ例ハヤウヤウニ事モアリケレドモ。サマデノ大事ハエナキニヤ。コレラハ御堂ノ御トガトヤ申ベカランナレド。コレマデモスコシモ我ガアヤマチニハアラズ。タダ世ノ中ノアルヤウガ。カクテヨカルベクテナリユクトゾ。ウラウラトコソハ御堂ハヲボシメシケンヲ。アサクヲモイテ悪霊モイデクルナルベシ。

後朱雀院東宮ニカハリイテ。其御子ニ後冷泉院ハ又御堂ノヲトムスメ〔嬉子〕内侍ノカミニテマイラセラレタリケルガ。ウミマイラセラレタリケレバ。サウナキコトニテ。ヤガテ位ニツカセ給ヒニケル也。顕光ハ悪霊ノヲトドトテ。コハキ御物ノケドモニテアリケリ。サテ後冷泉又廿三年マデタモタセ給ヒケレバ。宇治〔頼通〕殿ハ後一條。後朱雀。後冷泉三代ノミカドノ外舅ニテ。五十年バカリ執政臣ニテヲハシケリ。後冷泉ノスエニ摂 籙ヲ大二條殿ト申ハ教通。宇治殿ノ御ヲトトナリ。テテノ御堂モヨキ子トヲボシテ。宇治殿ニモヲトラズモテナサレケルガ。年七十ニテ左大臣ナリケルヲ。ワガ御子ニハ通房ノ大将トテカギリナクミメヨク。人モチイタリケル御子ノ廿ニテウセラレニケルノチ。京極ノ大殿師実ハムゲニワカキ人ニテアリケルニ。コサレム事ノイタマシクヲボサルルホドノ器量ニテ。大二條殿アリケレバ。ユヅラセ給ケルヲ世ノ人宇治殿ノ御高名。善政ノ本躰ト思ヘリケリ。
サテ後三條ハ後冷泉ノ御ヲトトナレド。御母ハ陽明門院〔禎子〕ナリ。コノ女院ハ三條院ノ御ムスメ。御母ハ御堂ノ二ノムスメ〔妍子〕ナリケレドモ。スコシノギナリケリ。後冷泉ノキサキニ宇治殿ノ御ムスメ四條宮〔寛子〕ト申ヲマイラセラレケルガ。王子ヲツイニウミマイラセラレヌニヨリテ。ソノノチモ一ノ人ノムスメキサキニハ立チナガラ。王子ヲウマセタマハデ。久クタエタリケリ。サテ後朱雀ノ御病ヲモクテ。後冷泉ニ御譲位アリケルコトヲ。宇治殿マイリテ申サタシテタタセ給ケルニ。後三條ノ御事ノナニトモサタモナカリケルニ。御堂ヲト子ノ中ニ能信ノ大納言トイフ人有リケリ。閑院ノ公成中納言ノムスメ〔茂子〕ヲ子ニシテアリケルヲ。後三條ノキサキニハマイラセタル人ナリ。宇治殿タタセ給ケルアトニマイリテ。二宮御出家ノ御師ノ事也。コノ次ニヲホセヲカルベクヤ候ラント申タリケレバ。コハイカニ。二宮ハ東宮ニタタムズル人ヲバト勅答アリケルヲキキテ。
サテハケフソノ御サタ候ハデハ。イツカハ候ベキト申タリケレバ。マコトニ思ワスレテ病ヲモクテトヲホセラレテ。宇治殿メシ返シテ。譲位ノ宣命ニ皇太子ノヨシノセラレニケリ。能信ヲバ閑院東宮大夫トゾ申ス。コノ申ヤウコソ不可思議ナレト人ヲモヘリ。白川院ノツネニ能信ヲバ。故東宮大夫殿ヲハセズバ。我身ハカカル運モアラマシヤハト仰ラレケルニハ。カナラズカナラズ殿ノ文字ヲツケテ仰セラレケリ。ヤムゴトナキ事ナリ。
サテ世ノスエノ大ナルカハリメハ。後三條院世ノスエニヒトヘニ臣下ノママニテ摂籙臣世ヲトリテ。内ハ幽玄ノサカイニテヲハシマサム事。末代ニ人ノ心ヲダシカラズ。脱屣ノ後太上天皇トテ政ヲセヌナラヒハアシキ事ナリトヲボシメシテ。カタガタノ道理サシモヤハヲボシメシケン。委シクハ知ラネドモ。道理ノイタリヨモ叡慮ニノコル事アラジ。昔ハ君ハ政理カシコク。摂 籙ノ人ハ一念私ナクテコソアレ。世ノスヘニハ君ハワカクテ幼主ガチニテ。四十ニ余ラセ給フハ聞ヘズ。御政理サシモナシ。宇治殿ナドハヲホク私アリトコソハ御覧ジケメ。太上天皇ニテ世ヲシラン。当今ハミナワガ子ニテコソアラムズレバト思シメシケル間ニ。ホドナク位ヲリサセ給テ。延久四年十二月八日御譲位ニテ。同五年二月廿日住吉詣トテ。陽明門院〔禎子〕グシマイラセテ。関白〔教通〕御トモシテ。天王寺。八幡ナドヘマイリメグラセ給ヒケリ。住吉ニテ和歌會アリテ。御製ニハ。
イカバカリ神モウレシト思ランムナシキ船ヲサシテキタレバ
トアリケリ。ソノ中ニ経信ノ歌ニ。
ヲキツ風フキニケラシナ住吉ノ松ノシヅエヲアラフシラ浪

トヨメルハコノタビナリ。サテ同四月廿一日ヨリ御悩大事ニテ。五月七日御年四十ニテウセサセ給ヒニケリ。カカル御心ノヲコリケルモ。君ノ御ワタクシヤヲホカリケン。我御身ハシバシモ御脱 屣ノノチ世ヲバヲコナヒ給ハズ。事ノダウリハ又世ノ末ニハ尤カカルベケレバ。白河院ハウケトラセヲハシマシテ。太上天皇ノノチ七十七マデ世ヲバシロシメシタリケリ。

後三條院ノ位ノ御時。公卿ノ勅使タテラレケルニ。震筆宣命ヲアソバシテ。御侍読ニテ匡房江中納言ハアリケルニ。見セサセヲハシマシケルニ。ヒガゴトセズト云フヨシアソバシタリケル所ヲヨミサシテアリケレバ。イカニイカニヒガ事シタル事ノアルカト仰ラレケルヲ。カシコマリテ申サザリケレバ。只イヘイヘトセメ仰ラレケレバ。実政ヲモチテ隆方ヲコサレ候シコトハイカガ候ベカラン。ヲボシメシワスレテ候ヤラント申タリケレバ。御顔ヲアカメテ。告文ヲトリテ内ヘイラセ給ヒニケリ。コレハ東宮ノ御時。実政ハ東宮学士ニテ祭ノ使シテワタリケルヲ。隆方ガサジキヲシテ見ケルガ。タカラカニマチザイハヒノシラガコソ見苦シケレト云タリケルヲキキテ。祭ハテテイソギ東宮ニマイリテ。マサシク隆方ガカカル狂言ヲコソキキ候ツレト申タリケルヲ。キコシメシツメテ。位ノ後御マツリ事ニ。
隆方ハ右中弁ナリケルニ。左中弁アキタルニスグニコシテ。実政ヲ左中弁ニ加ヘラレタリケル也。コレヲ世ノ人実政ハイカデカ隆方ヲコエント思ヘリケル事ヲ申タリケリトコソ世ノ人申ケレ。又我身ニ仰ラレケルハ。隆國ガ二男隆綱ガ年ワカクテ。ヲヤバカリノ者ドモヲコヘテ。宰相中将ニテアル事ハ。宇治殿ノマツリゴトユユシキヒガ事ト思ヒシ程ニ。大神宮ノウタヘ出キテ。神宮ノ辺ニテ狐ヲ射タル事アリケルサダメニ。参議ノ末座ニ参リテ。定メ文当座ニカキケルニ。射タレドモ射殺シタリト云コトハタシカナラズ。ソノ罪ハイカガナント申人々アリケルヲ。雖聞飲羽之由未知首丘之実トカキタリケルヲ御覧ジテハ。カギリナクホメヲボシメシテ。隆綱ガ昇進過分ナリト思ヒシハヒガ事ナリケリ。カウホドノ器量ノ者ニテアリケルトコソシラネ。
道理ナリケリトコソ仰ラレケレ。大方理非クラカラヌ君ハカクヒガ事トヲボシメスヲモ。又カクコソ仰ゴトアリケレ。禮記文ニキツネ死ヌル時ハ。ツカヲマクラニスト云フコト。又将軍ハヲノマシムル威ナド云コトヲ。文章得タル者ハ思ヒ出アハセテ。ヤスヤストカキアラハシタル事ヲ。世ノ人シアリガタキ事トヲモヘリケリトゾカタルメル。

大方ハ宇治殿ヲバ深ク御意趣ドモアリケルニヤトゾ人ハ思ヒナラヒタル。ソノ故ハ。後朱雀院ノキサキニテ。陽明門院〔禎子〕ヲハシマスハ。三條院ノ御ムスメ。御母ハ御堂ノ二女〔妍子〕ナリ。ソレニ後ニ一條院ノ御子ノ式部卿宮敦康親王ノ御ムスメ〔子〕ハ。御母ハ具平親王ノ御女也。宇治殿ハ具平親王ノムコニトラレテ。ソノ御ムスメ〔隆子〕北政所ニテヲハシマシケレド。ツイニムマズメニテ。御子ノイデコザリケレバ。進ノ命婦トテ候ケル女房ヲヲボシメシテ。多クノ御子ウミ奉リケルヲ。イタクネタマセ給テ。ハジメ三人ヲバ別ノ人ノ子ニナサレニケリ。ハジメノ定綱ヲバ経家ガ子ニナサレニケリ。大ハリマノカミト云ハ定綱ナリ。ツギノ忠綱ヲバ大納言信家ノ子ニナサレニケリ。忠綱ハ中宮亮ニナサレニケリ。第三ノ俊綱ヲバ讃岐守橘俊遠ガ子ニナサレタル。
フシミノ修理大夫俊綱ト云名人コレナリ。大ハリマ定綱ガムコニ花山院ノ家忠ノヲトドハナリテ。花山院ハツタヘラレタルナリ。花山院ハ京極〔師実〕ノ大殿ノ家ニテアルヲ。定綱御所ツクリテマイラセタリケルカハリニ。花山院ヲバタビタリケルナリ。フルキ家タダ一ノコリテ。花山院トテアルナリ。大原長宴僧都(芸+木)衣ノ鎮シタル家也。サテ通房大将ウセテ後。命婦ガ腹ニ京極〔師実〕ノ大殿ハコワラハニテヲハシケルヲ。北政所サル者アリトコソキケ。ソレヲトリヨセヨカシトイハレケレバ。ユルサレカウブリテヨロコビテ迎ヘヨセテ。我子ニハアラハレテ家ツガセ給ヒタル也。通房ノ母ハ為平親王ノ子ニ。三位ニテ右兵衛督憲定ト云人ノムスメナリ。ソレヲバ北政所モマメヤカニ御子ナケレバユルシテ。ナノメナラヌミメヨシニテモテナサレケルガウセテ。京極〔師実〕大殿ト云運者又殊勝ノ器量ニテ。白河院ヲリ居ノ御門ニテ。ハジメテ世ヲオコナハセ給ニ。アイアイマイラセテメデタク有ル也。サテソノ敦康ノ親王ノ御ムスメハ。御堂ノ四〔嬉子〕ノ御ムスメ。御堂ノ御存日ニ十九ニテ後冷泉院ヲウミマイラセテ後ウセサセ給ヒニケリ。

後ニ陽明門院〔禎子〕ハ又中宮トテヲハシマスヲ。ヤガテ皇后宮ニアゲテ。敦康親王ノムスメ嫄子ヲ中宮ニナシテ。陽明門院ヲバ内裏ヘモイレマイラセラレザリケリ。コノ中宮モヲボヘニテ姫宮二人ウミテオハシマシケレドモ。中一年ニテ程ナクコノ中宮ウセサセ給ニケレバ。其後コソマタ陽明門院ハカヘリイラセヲハシマシテ侍リケレ。カヤウノユヘハ。コノ敦康親王ノ母ハ道隆ノ関白ノムスメニテ。タダノ親王ニテ位ハ思モヨラズ。サレド御前ハ又具平親王ノ御ムスメニテアリケレバ。宇治殿ノ北政所ヲバ。高倉ノ北政所ト申ニヤ。アサマシク命ナガクテムコマデヲハシケリ。コノ北政所ノ弟ニテ。コノアツヤスノゴゼンニテオハシケレバ。ソノ御ムスメニテ 嫄子ノ中宮ハヲハシマスニヨリテ。宇治殿ノ子ニシテ。姓モ藤原氏ノ中宮ニテ。入内立后モ有リケルナリ。
カクアレバニヤ。後三條院ノ陽明門院ノ御母ナルヲ。後冷泉院ニ譲位ノ時ナニトナクテアリケルニ。能信ガフトマイリテ。御出家ノ御師ト申事ハ。マタ御堂ノ御子ノ中ニコノ能信ヲ陽明門院ノ御ウシロ見ニツケテヲハシマシケリ。女院ノ御母御堂ノ御ムスメナレバ。女院皇后宮ノ時ノ大夫ニテ。ヤガテコノ御腹ノ王子後三條院ノ御ウシロミニテアリケルガ。御元服ノ時ヨノスケモナクテ。春宮御元服アレド。女御ニハ参ラセタリケルナリ。九條殿ノ子孫摂 籙ノカタヲ離レテ。閑院ノカタザマニ継テイノ君ノナラセ給フ始メバカリコソミユレ。コノユヘニ能信ハサハ申テ申エタリケル也。カヤウナル事ニテ宇治殿ハテテノ御堂多クノ勤賞ドモアリケルヲ。能信ニモタビタリケルガ。少シ昇進シニクキ事出来タリケルニハ。御堂ニムカイ参ラセテ。能信モキキケルニ御子ナレバトテスエズエマデ御勤賞ナドヲタビ候時ニ。カカル煩モ候ゾカシト。ヲトトノ事ヲソノ座ニヲキテテテノトノニ申サレケレバ。御堂ハ物モ仰ラレザリケリナド云伝ヘタル事ニテ侍レバ。カヤウノ事ドモノ下ニ強ク籠リタリケル也。サレバトテモ又ゾヲロカナラズアシキ事モナカリケリ。
サレバ又後三條院モヨクヨク人々ノ器量ヲモ御覧ジツツ。終ニハ京極〔師実〕大殿ニハムスメ白河院ノ后ニマイラセサセテ。ヲダシクテコソハ侍レ。ソノ賢子ノ中宮ヲ白河院東宮ノ御時ヨリ思召タリケル。覚ガラノタグヒナク。無二無三ノ御事ニテ。トカク人云バカリナクメデタカリケル間ニ。二條〔教通〕殿ノ子ノ信長太政大臣ナドノ方ザマヘヤウツランズランナド人思ヒタリケルモ。サモナキ事ニテヤミニケルナリ。

コノ後三條院位ノ御時。延久ノ宣旨斗ト云物沙汰アリテ。今マデソレヲ本ニシテ用ヒラルル斗マデ御沙汰アリテ。斗サシテマイリタレバ。清涼殿ノ庭ニテスナゴヲ入テタメサレケルナンドヲバ。コハイミジキ事カナトメデアフグ人モ有リケリ。又カカルマサナキコトハ。イカニ目ノクルルヤウニコソミレナド云人モアリケリ。コレハ内裏ノ御コトハ幽玄ニテヤサヤサトノミ思ヒナラヘル人ノ云ナルベシ。

延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ。諸國七道ノ所領ノ宣旨官符モナクテ公田ヲカスムル事。一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ。スナハチ宇治殿ノ時一ノ所ノ御領御領トノミ云テ。庄園諸國ニミチテ受領ノツトメタヘガタシナド云ヲ。キコシメシモチタリケルニコソ。サテ宣旨ヲ下サレテ。諸人領知ノ庄園ノ文書ヲメサレケルニ。宇治殿ヘ仰ラレタリケル御返事ニ。皆サ心得ラレタリケルニヤ。五十余年君ノ御ウシロミヲツカウマツリテ候シ間。所領モチテ候者ノ強縁ニセンナンド思ヒツツヨセタビ候ヒシカバ。サニコソナンド申タルバカリニテマカリスギ候キ。ナンデウ文書カハ候ベキ。タダソレガシガ領ト申候ハン所ノ。シカルベカラズタシカナラズ聞シメサレ候ハンヲバ。イササカノ御ハバカリ候ベキ事ニモ候ハズ。
カヤウノ事ハカクコソ申サタスベキ身ニテ候ヘバ。カズヲツクシテタヲサレ候ベキナリト。サハヤカニ申サレタリケレバ。アダニ御支度相違ノ事ニテ。ムコニ御案アリテ。別ニ宣旨ヲ下サレテ。コノ記録所ヘ文書ドモメスコトニハ。前大相國ノ領ヲバノゾクト云宣下アリテ。中中ツヤツヤト御沙汰ナカリケリ。コノ御沙汰ヲバイミジキ事カナトコソ世ノ中ニ申ケレ。

サテ又当時氏ノ長者ニテハ大二條〔教通〕殿ヲハシケルニ。延久ノ比氏寺領。國司ト相論事アリケル。大事ニヲヨビテ御前ニテサダメノアリケルニ。國司申カタニ裁許アラントシケレバ。長者ノ身面目ヲウシナフ上ニ神慮又ハカリガタシ。タダ聖断ヲアフグベシ。伏テ神ノ告ヲマツトテ。スナハチ座ヲタタレニケリ。藤氏ノ公卿舌ヲマキ口ヲトヂテケリ。其後ヤマシナ寺ニ如本裁許アリケレバ。衆徒サラニ又長講初メテ國家ノ御祈シケリト。親経ト申シ中納言儒卿コソサイカクノ物ニテ語リケレ。解脱房ト云シヒジリモ説経ニシケルトカヤ。宇治殿ノ譲リヲエテコトニキカレ奉ランナドヲモハレニケルニヤ。

又或日記ニハ。延久二年正月。除目終頭。関白攀縁。起座敷出殿上。此間事止敷剋依頻召帰参云々。何事故トハナケレドモ季綱ユゲイノスケニナリケル事ニヤ。世間ノサタカヤウニウチキキテ。宇治殿ハ年八十ニ成テ宇治ニコモリイテ。御子ノ京極〔師実〕ノ大殿ノ左大臣トテヲハシケルヲ。内裏ヘ日参セヨ。サシタル事ナクトモ日ヲカカズ参リテホウコウヲツムベキゾト教ヘ申サレケレバ。ソノママニ参リテ殿上ニ候テ。イデイデセラレケルニ。主上ハ常ニ蔵人ヲ召テ。殿上ニ誰々カ候候ト日ニ二三度モトハセヲハシマシケルニ。度毎ニ左大臣候ト申テ。日ゴロ月比ニナリケルホドニ。或日ノ夕ニ御尋有ケルニ。又左大臣候ト申ケルヲ。是ヘトイヘト仰ノ有ケレバ。蔵人参リテ御前ノメシ候ト申ケレバ。メヅラシキ事カナ。何事ヲ仰アランズルニカトヲボシテ。
心ヅクロイセラレテ御装束引ツクロイテ参ラレタリケレバ。近クソレヘト仰ラレテ。ナニトナキ世ノ御物語ドモ有テ。夜モヤウヤウ更行ケルヲハリツカタニ。ムスメヤモタレタルト仰出サレタリケレバ。コトヤウニ候メノワラハ候ト申サレケル。我ムスメハナカリケルヲ。師房ノ大臣ノ子ノ顕房ノムスメヲ乳ノウチヨリ子ニシテモタセ給ヘリケル也。宇治殿ハ後中書王具平ノ婿ニテ。其御子土御門ノ右府師房ヲ子ニシテヲハシケリ。コノユカリニテ宇治殿ノ御子ニシテ。師房ヲモ其子ノ仁覚僧正ト云山ノ座主モ。一心阿闍梨ニナシナドシテヲハシケリ。又コトニハヤガテ京極殿ハ土御門右府師房ノ第三ノムスメヲ北政所ニシテヲハシケレバ。顕房ノムスメハ北政所ノメイナレバ。子ニシテヲボシタテ給ヒケル也。カヤウノユカリニテ源氏ノ人々モヒトツニナリテヲハシケル故ニ。ソノムスメヲヒトヘニ我子ニハシテヲハスル也ケリ。

是ヲキコシメシテ。サヤウノムスメモタラバトクトク東宮ヘマイラセラルベキナリト仰ラレケルヲ。ウケ給ハリカシコマリテ。ヤガテ御前ヲタチテ。世間モヲボツカナカリツルニ。今ハヒシト世ハヲチイヌルコト。イソギ宇治殿ニキカセマイラセントヲボシテ。内裏ヨリ夜更テヤガテ宇治ヘイラレケレバ。人ハシラセテウヂノカケカヘノ所々ヘ引替ノ牛マイラセヨトテ。宇治ヘヲモムカセ給ヒケリ。身モタヘ心モスクヨカナルホドヲシハカラレテアリケルニ。宇治ニハ又入道〔頼通〕殿ハ小松殿トイフ所ニヲハシケルガ。ナニトナク目ウチサマシテ。心ノサハグヤウナルトテ。御前ニ火トモシテ。京ノ方ニナニ事カアルランナドヲホセラレケレバ。ソノ時マデ宇治ノヘンハ人モ居クロミタルサマニテモナクテ。コワタ岡ノ屋マデモハルバルトミヤラレテアリケルニ。人参リテ京ノ方ヨリ火ノヲホク見エ候ト申ケレバ。アヤシミ思ヘルニヨクミヨト仰ラレケルホドニ。タダヲホニヲホクナリ候テ。宇治ノ方ヘマウデキ候ト申ケレバ。左府ナドノクルニヤ。夜中アヤシキ事カナトテ。
ヨクキケ。ミヨナド仰ラレケルホドニ。随身ノサキノ声ノカスカニシケレバ。カウカウト申ケレバ。サレバヨトヲボシテ。火シロクカカゲヨナド仰ラレテアリケリ。随身ノサキハ馬上ニテ皆カヤウノヲリハヲフコト也。魔縁モヲヅル事ゾナドイヒ習ヘルナルベシ。サテイラセ給フヲ御覧ズレバ。束帯ヲタダシクシテ御前ニ参リテイラレケレバ。イカニモ事アリトヲボシテ。イカニイカニ何事ゾト仰ラレケレバ。日比仰ノゴトク参内日ヲカカズツカウマツリ候ツルホドニ。コノ夕方御前ノメシ候ト蔵人来リ申候ツレバ参リテ候ツル程ニ。コマヤカニ御物語ドモ候テ。ムスメアラバ東宮ヘトク参ラセヨト云勅定ヲ眼前ニウケ給リ候ツレバ。イソギ参リテ申候也ト申サレケレバ。是ヲ聞セ給ヒテ。宇治殿ハサウナクハラハラト涙ヲ落シテ。世ノ中覚束ナカリツルニ。アハレナヲコノ君ハメデタキ君カナ。
トクトクイデタチテマイラセラレヨトテ。ヒシヒシトサタアリテ。東宮ト申ハ白河院ナリ。東宮ノ女御ニマイラセラレニケリ。位ニツカセ給ヒテハ中宮ト申立后アリテ。今ニ賢子ノ中宮トテ堀河ノ院ノ御母是也。ヒトヘニ一ノ人ノ御子ノ后ノ例ニケフマデモモチイレドモ。又源氏ノムスメニテ堀河ノ院ノ位ノ御時ハ。近習ニテハコノ人人ヲホク候ハレケリ。

後三條ノ聖主ホドニヲハシマス君ハ。ミナ事ノセンノスエズエニヲチタタンズル事ヲ。ヒシト結句ヲバシロシメシツツ御サタハアル事ナレバ。摂籙ノ家関白摂政ヲスズロニニクミステントハ何カハヲボシメスベキ。只器量ノ浅深。道理ノ軽重ヲコソトヲボシツツ御沙汰ハアル事ナルヲ。スエザマニハ王臣中アシキヤウニノミ近臣愚者モテナシモテナシシツツ世ハカタブキウスルナリ。王臣近臣世ニアラン緇素男女。コレヲヨクヨク心ウベキ也。内々ノスエザマノ人ノ家ヲヲサムルヤウモタダ同ジ事ニテ随分随分ニハアル事ゾカシ。サレバケフマデモ大ムネハタガフ事ナシ。ソノ中ノ細々ノ事ハ皆人ノ心ニヨル事ナルヲ。末代ザマハソノ人ノ心ニ物ノ道理ト云モノノクラクウトクノミナリテ。上ハ下ヲアハレマズ。下ハ上ヲウヤマハネバ。聖徳太子イミジクカキヲカセ給フ十七ノ憲法モカイナシ。
ソレヲ本ニシテ昔ヨリツクリヲカレタル律令格式ニモソムキテ。タダウセニ世ノウセマカル事コソ。コハイカガセンズルトノミ悲シキ事ナレドモ。猶百王マデタノム所ハ宗廟社稷ノ神々ノ御メグミ。三宝諸天ノ利生也。コノ冥衆ノ利生モ亦ナカババ人ノ心ニノリテコソ機縁ハ和合シテ事ヲバ成スル事ニテ侍レ。ソレモ心得ガタク不可思議ノ事ノミ侍ルベシ。ソノ中ニコノ白河法皇御位ノ後。コノ賢子中宮ニイカデカ王子ヲウマセ給ベキトフカクヲボシメシテ。時ニトリテ三井ノ門徒ノ中ニ頼豪アザリト云タウトキ僧アリケレバ。コノ御祈ヲ仰ツケテ成就シタラバ勤賞ハ申サンママニト仰アリケルニ。心ヲツクシテ祈リ申ケル程ニ。ヲボシメスママニ王子ヲウミマイラセラレタリケレバ。頼豪ヨロコビテコノ勤賞ニ三井寺ニ戒壇ヲタテテ年来ノ本意ヲトゲント申ケルヲ。コハイカニ。カヤウノ勤賞トヤハ思召ス。
一度ニ僧正ニナラントモ云ヤウナル事コソアレ。コレハ山門ノ衆徒訴申テ両門徒ノアラソイ。仏法滅尽ノシルシヲバイカデカ行ハレントテ勅許ナカリケレバ。頼豪是ヲ思テコソ御祈ハシテ候ヘ。カナヒ候マジクバ今ハ思ヒ死ニコソ候ナレ。死候ナバ祈リ出シマイラセテ候王子ハ取リマイラセ候ナンズトテ。三井ニ帰リ入テ持仏堂ニコモリ居ニケリ。是ヲ聞召テ。匡房コソ師檀ノ契リフカカランナレ。ソレシテナグサメントテ匡房ヲメシテツカハサレケレバ。イソギ三井寺ノ房ヘ行ムカヒテ。匡房コソ御使ニ参リテ候ヘトテ。縁ニ尻ヲカケテアリケルニ。持仏堂ノアカリ障子ゴマノ烟ニフスボリテ。ナニトナク身ノ毛ダチテヲボヘケルニ。シバシバカリ有テアララカニアカリ障子ヲアケテ出タルヲミレバ。目ハクボクヲチ入テ面ノ性モミヘズ。白髪ノカミハナガクヲホシテ。ナンデウ仰ノ候ハンズルゾ。申キリ候ニキ。
カカル口惜キ事ハイカデカ候ハントテカヘリ入リニケレバ。匡房モ力及バデ帰リ参テコノ由奏シケル程ニ。頼豪ツイニ死テ。ホドナク王子又三歳ニナラセ給フウセヲハシマシニケレバ。コノウヘハトテ山ノ西京座主良真ヲメシテ。カカル事イデキタリ。イカガセンズル。タシカニ又王子祈リイデマイラセヨト勅定アリケレバ。ウケ給リ候ヌ。我山三宝山王大師御力イカデカコノウヘハ及ハデ候ハント申テ。堀川院ハイデキサセオハシマシテ御位ニハツカセ給テ。ヤガテ鳥羽院又出来ヲハシマシテ継躰タエズヲハシマスナリ。コノ事ハ少シモカザラヌマコトドモナレバ。山法師ハ一定ヲモフトコロフカカランカシ。

鳥羽院践祚ノ時。御母ハ実季ノムスメ〔茨子〕ナリ。東宮大夫公実ハ外舅ニテ摂籙ノ心アリテ。家スデニ九條右丞相ノ家ニテ候。身大納言ニテ候。イマダ外祖外舅ナラヌ人。践祚ニアヒテ摂 籙スル事候ハズ。サ候ヘバ又タビタビハ大臣大納言ナドニソノ人候ハヌ時コソ候ヘト白川院ニセメ申ケリ。我御身モ公成ノムスメ〔茂子〕ノ腹ニテ。ヒキヲボシメス御心ヤフカカリケン。思召煩テ御案アラントヤ思召ケン。御前ヘ人ノマイル道ヲ三重マデカケマハシテ御トノゴモリケリ。其時ケフスデニ其日ナリ。イマダモヨヲシナンドモナシ。コハイカニトオドロキ思テ。ソノ時ノ御ウシロミサウナキ院別当ニテ俊明大納言アリケレバ。束帯ヲ正シクトリサウゾキテマイレリケル。御前ザマノ道ミナトヂタリケレバ。コハイカニトテアララカニ引ケルヲウケ給リテ。カケタル人イデキテ。カウカウトイヒケレバ。世間ノ大事申サントテ俊明ガマイルニ猶カケヨト云仰ハイカデカアラン。タダアケヨトイヒケレバ皆アケテケリ。
近クマイリテウチシハブキケレバ。タゾトトハセ給フニ。俊明トナノリケレバ。何事ゾト仰アリケレバ。御受禅ノ間ノ事イカニ候ヤラン。日モ高クナリ候ヘバウケ給リニ参リ候。イカガト申ケレバ。其事ナリ。摂政ハサレバイカ成ベキゾト仰アリテ。無左右如元トコソハアルベケレト仰ラレケルヲ。タカダカトサウナク稱唯シテ。ヤガテ束帯サヤハラトナラシテタチケレバ。ソノウヘヲエトモカクモ仰ラレズ。ヤガテ殿下ニ参リテ。例ニマカセテトク行ハレ候ベキヨシ御氣色候ト申テ。ヒシヒシト行ハレニケリ。如元トコソハアルベケレドモ。公実ガ申ヤウハナド仰ラレムトオボシメシケルヲ。余リニコハイカニアルベクモナキ事カナトカサトリテ。イカデカサル事候ベキト思ヒケルニヤ。九條ノ右丞相ノ子ナレドモ。公季思ヒモヨラデ。ソノ子ウマゴ実成。公成。実季ト五代マデタエハテテ。ヒトヘノ凡夫トフルマヒテ。代々ヲヘテ。摂政ニハサヤウノ人ノヰルベキホドノツカサカハ。サル事ハ又ムカシモ今モアルベキコトナラズト。親疎。遠近。老少。中年。貴賤。上下。
思ヒタルコトヲイササカモヲボシメシワヅラフハアサマシキコトカナト思ヒケルナルベシ。サリトテ又公実カラノ和漢ノ才ニトミテ北野天神ノ御アトヲモフミ。又知足院殿ニ人カラヤマトダマシヒノマサリテ。識者モ実資ナドヤウニ思ハレタラバヤハアランズル。タダ外舅ニナリタルバカリニテ。マサシキ摂 籙ノ子ウマゴダニヘヌ人コソヲホカレ。イカニ公実モサホドニハ思ヒヨリケルニカ。又君モヲボシメシワヅラフベキ程ノ事カハニテ。コノ物語ハミソカ事ニテ。ウチマカセテヨノ人ノシリテサタスル事ニテハ侍ラヌナメリ。サレドセメテ一節ヲ思テ家ヲオコサント思ハンモ。我身ニナリヌレバ誠ニ又大臣大納言ノ上揀iドニテ。外祖外舅ナル人ノ摂 籙ノ子ウマゴナルガ。執政臣ニモ用イラレヌコトハ一度モナケレバ。サホドニモ思ヨリケルニヤ。アマネキ口外ニハアラネドモカクコソ申ツタヘタレ。

白川院ハ堀川院ニ御譲位アリテ。京極〔師実〕ノ大殿ハ又後二條〔師通〕殿ニ執政ユヅリテヲハスル程ニ。堀川院御成人。後二條殿又殊ノ外ニ引ハリタル人ニテ。世ノマツリゴト太上天皇ニモ大殿ニモイトモ申サデセラルル事モマジリタリケルニヤトゾ申メル。白川院御ムスメニ郁芳門院〔是子〕ト申女院ヲハシマシケルガ。イフバカリナクカナシウ思ヒマイラセラレタリケルニ。猶三井ノ頼豪ガ霊ノツキテ。御物ノ氣ヲコリケルヲ。三井ノ増誉。隆明ナド祈リ申ケレドカナハザリケレバ。山ノ良真ヲメシテ。中堂ノ久住者廿人グシテ参リテ。イミジク祈リヤメ参ラセテ。悦ビ思召ケル程ニ。ニハカニウセサセ給ニケリ。ヲドロキカナシミテヤガテ御出家アリケルニ。堀川ノ院ウセ給テケル時ハ重祚ノ御心ザシモアリヌベカリケルヲ。御出家ノ後ニテアリケレバ。鳥羽院ヲツケ参ラセテ。陣ノ内ニ仙洞ヲシメテ世ヲバ行ハセ給ヒニケリ。
光信。為義。保清三人ノケビイシヲ朝夕ニ内裏ノ宿直ヲバツトメサセラレケルニナン。ソノ間ニイミジキ物語ドモアレドモ。大事ナラネバカキツケズ。位ノ御時三宮輔仁親王ヲオソレ給ケルナドイヘリ。行幸ニハ義家。義綱ナドミソカニ御コシノ辺御後ニツカウマツラセラレケレバ。義家ハウルハシク鎧キテサブライケリナドコソ申スメレ。

サテ堀川院ノ御時。山ノ大衆ウタヘシテ日吉ノ御コシヲフリクダシタリケル。返々奇怪ナリトテ。後二條殿沙汰シテ。射チラシテ神輿ニ矢タチナドシテアリケリ。友実トイフ禰≪rヲカウブリナドシタリケレバ。ソノタタリニテ後二條殿ハトクウセラレニケリ。仁源理智房ノ座主トイフハ兄弟ナリ。大峯ナドトホリテ世ニシルシアル者ナレバイノラレケルニ。イデイデヤメミセントテ。ヨリマシガフトコロヨリクロ血ヲフタフタト取出シタリケレバ。アラタナルコトニテヲソレヲナシテ後ハ。理智房ノ座主モ祈ラレズナリテ。遂ニウセ給ヒニケリトゾ申伝ヘタル。サレバ京極ノ大殿コソカヘリナラルベキヲ。二條殿ノ子ニテ知足院〔忠実〕ドノノ大納言ニテヲハシケルニ。内覧ノ宣旨ヲクダシテ藤氏ノ長者ニテ。関白モナクテ堀河ノ院ノ程ハアリケル也。スエニナリテ長治ニゾ関白ノ詔クダリタリケル。

サテスエザマニ鳥羽院十六年ノ後ニ崇徳院ニ御譲位アリテ。ヒヒ子位ニツケテ御覧ズルマデ白河院ハヲハシマシテ。大治ニ七十七ニテゾ崩御アリケル。白河ニ法勝寺タテラレテ。國王ノウヂデラニ是ヲモテナサレケルヨリ。代々コノ御願ヲツクラレテ。六勝寺トイフ白川ノ御堂大伽藍ウチツヅキアリケリ。堀河ノ院ハ尊勝寺。鳥羽院ハ最勝寺。崇徳院ハ成勝寺。近衛院ハ延勝寺。是マデニテ後ハナシ。母后ニテ待賢門院〔璋子〕円勝寺ヲ加ヘテ六勝寺トイフナルベシ。

サテ大治ノ後久壽マデハ。又鳥羽院。白川院ノ御アトニ世ヲシロシメシテ。保元々年七月二日鳥羽院ウセサセ給ヒテ後。日本國ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後。ムサノ世ニナリニケル也ケリ。コノ次第ノコトハリヲコレハセンニ思テ書置侍ルナリ。城外ノ乱逆合戦ハヲホカリ。日本國ハ大友王子。安康天王ナンドノ世ノ事ハ。日記モナニモ人サタセズ。大寶以後トイヒテ其後ノ事又コノ平ノ京ニナリテノ後ヲコソサタスル事ニテアルニ。天慶ニ朱雀院ノ将門ガ合戦モ。頼義ガ貞任ヲセムル十二年ノタタカイナドイフモ。又隆家ノ帥ノトウイ國ウチシタガフルモ。関東。鎮西ニコソキコユレ。マサシク王臣都ノ内ニテカカル乱ハ鳥羽院ノ御時迄ハナシ。カタジケナクアハレナル事也。コノ事ノ起リハ。後三條院ノ宇治殿ヲ心得ズ思召ケルヨリ根ハサシソメタル也。サレドソレハ王臣トモニ離レタル事ハナシ。メデタク上モ下モハカライ心得テコソヲハシマセ。ソレニ白河院ノ鳥羽院位ノハジメニキサキダチアルベキニ。知足院殿ノムスメヲマイラセヨト仰アリケルヲ。カタク辞シテマイラセラレザリケリ。
人是ヲ心得ズ思イケリ。是ヲ推スルニ。鳥羽ノ院ハヲサナクヲハシマシケル時。ヒアイナル事ドモアリテ。瀧口ガ顔ニ小弓ノ矢射タテナドセサセ給ト人ヲモヘリケルヲ。ヲソレ給ケルニヤナドゾ人ハ申ヌル。又公実ノムスメヲ御子ニシテモタセ給ヒタリケルヲバ。法性寺〔忠通〕殿ニ婿トラントヲボシメシテ。スデニ其沙汰アリケルホドニ。日次ナドエラバルルニヲヨビタリケルガ。シカルベクテサハリヲヲク出来出来シテイマダトゲラレザリケル程ニ。知足院殿ノムスメヲエマイラセジト申サレケルニ。アダニ御腹ダチテ待賢門院ヲバ法性寺殿ノ儀ヲアラタメテ。ヤガテ入内アリケルトゾ。鳥羽ノ院ハアヤニクニヲトナシクナラセヲハシマシテハ。コトニメデタキ御心バヘノ君ニヲヒナリテコソハヲハシマシケレ。サテ白河院ハカノ公実ノムスメ〔璋子〕ヲトリテ御子ニシテモタセ給ヘリケルヲ。鳥羽院ニ入内立后シテヲハシマス。待賢門院ト申是也。ソノ御腹ニ王子イクラトモナシ。ハジメハ崇徳院。次二人ハナエ宮〔君仁〕。目宮〔通仁〕トテヲヒモタタデウセサセ給ヌ。

サテ崇徳院位ニツキテヲハシマシケリ。四宮〔後白河〕。五宮〔覚性〕ミナ待賢門院ノ御腹也。サテ白河院ノ御時御熊野詣トイフコトハジマリテ。度々マイラセヲハシマシケルニ。イヅレノ度ニカ。信ヲ出シテ寶前ニヲハシマシケルニ。寶殿ノミスノ下ヨリメデタキ手ヲサシ出シテ。二三度バカリウチ返シ返シシテ引入ニケリ。夢ナンドニコソカカル事ハアレ。アザヤカニウツツニカカル事ヲ御覧ジタリケルヲアヤシミヲボシメシテ。ミコドモヲヲカリケルニ。何トナク物ヲトハレケレバ。サラニサラニゲニゲニシキ事ナシ。ソレニヨカノイタトテ熊野ノカウナギノ中ニ聞ヘタル者アリケリ。ミマサカノ國ノモノトゾ申ケル。ソレガ七歳ニテ候ケルニハタト御神ツカセ給ヒタリケル。世ノスエニハ手ノウラヲカヘスヤウニノミアランズル事ヲミセマイラセツルゾカシト申タリケルガ。カカルフシギヲモ御覧ジタリケル君ナリ。ソレニ。

保安元年十月ニ御熊野詣アリケル時。其間ニ鳥羽院御在位ノ末ツカタニ。関白ニテヲハシケル知足院〔忠実〕殿ノムスメ〔泰子〕ヲ。ナヲ入内アレト内ノ御心ヨリヲコリテ仰ラレケルヲ。ウチウチニ悦ビテ出立セ給ヒケルコト出キタリケルヲ。クマ野ヘアシザマニ人申タリケルニ。ハタト御ハラヲ立テ。ワガマイラセヨト云シニハ方ヲフリテ辞シテ。我ニシラセデカクスルト思召テケリ。サテ御帰洛ノスナハチ。知足院当時関白ナルヲハタト勅勘アリテ。十一月十三日ニ内覧トドメテ閇門セラレニケリ。

サテ摂籙ノ臣ヲカエント思召ケルニ大方其人ナシ。花山院左府家忠。京極〔師実〕殿ノ子ニテ。大納言ノ大将ニテサモヤト思召テ顕隆ニ仰合セケレバ。稲荷祭ノサジキノ事ハト申タリケリナド聞ユ。家忠ノ子忠宗中納言ハ顕季卿ガ子ノ宰相ガ婿也。カヤウノユカリニテ其時顕季。家保ナドアツマリテ。桟敷ニテ酒モリシテサシカヨハサレタリナド人ソシリケル事也。是ハ一定ハシラネドモカクゾ申メル。スコシモサヤウナラン人ノスベキ事ニテハコノ摂政関白ハナキ也。サテ内大臣ニテ法性寺〔忠通〕殿ノヲハシケル外ニハ。イササカモ又々サモトイフ人ナカリケレバ力及バデ。ヲヤハヲヤ。コハコトコソハゲスモイフメレバ。執政セヨト仰ラレケレバ。法性寺殿ハ。此職ヲツギ候バカリ候ハバ忠通ニユルサレ候テ。一日父ノ勅勘ヲ免ゼラレ候テ門ヲヒラカセ候テ。代代ノ例コノ職ハ父ノ譲ヲ得候テウケ取候夜。ヤガテ拝賀ナドスル事ニテ候ヲタガヘズシ候ハバヤ。
職ニ居候バカリニテ父ノ勅勘エ申免ゼズ候ハンモ不孝ノ身ニナリ候ハバ。仏神ノ御トガメモヤ候ベカラント申サレタリケレバ。コノ申サルルムネ返ス返スシカルベシト感思食トテ。ソノ定ニスコシモタガヘズヲコナイテウケトラレニケリ。

法性〔忠通〕寺ドノハ白河院陣中ニ人ノ家ヲメシテヲハシマシケルウヘ。カナラズ参内ニハ先マイラレケルニ。世ノ中ノコト先例ヲホセアハセラレケルニ。一度モ滞ルコトナク。鏡ニムカウヤウニ申沙汰シテヲハシケレバ。カバカリノ人ナシト思召テスギケルホドニ。鳥羽院ハ崇徳院ノ五ニナラセ給御トシ御譲位アリケリ。保安四年正月也。白川院ヒヒ子位ニツケテ御ランジケリ。大治四年正月九日摂政〔忠通〕ノムスメ〔聖子〕入内。同十六日女御。是ハ皇嘉門院ナリ。サテ其年ノ七月七日白川院ハ崩御。御年七十七マデヲハシマシケル也。天承元年二月九日立后アリケリ。

サテ鳥羽院ノ御代ニナリテ。知足院殿ハコトニミヤヅカヘテトリイラセ給ケレバ。鳥羽院御本意トゲムトテ。脱屣ノノチニゾムスメ〔泰子〕ノ賀陽院ハナヲマイラセ給ニケル。長承二年六月廿九日上皇ノ宮ニイリ給テ。同三年三月十九日ニゾ立后アリケル。白川院ウセサセ給テ後五年也。ソレモ王子モエウマセ給ハズ。サテ待賢門院久安元年八月廿六日ニゾウセ給ニケル。白川院ノ天永三年三月十六日ノ御賀ハ御ランジケン。ヲサナクテサブラハセ給ケンニ。鳥羽院ノ仁平二年三月七日ノ御賀ハ御ランゼデウセ給ニケリ。ソノ御ナゴリニ閑院ノ人人家ヲヲコシタリ。コノ女院ハ永久五年十二月十三日ニ入内。十七日ニ女御。同六年正月廿六日ニゾ立后アリケル。カカリケルホドニ。知足院ドノ申サレケルヤウハ。君ノ御ユカリニ不慮ノ籠居シ候ニシカドモ。摂 籙ハ子息ニヒキウツシテ候ヘバ悦ビテ候。
イマ一ド出仕ヲシテ元日ノ拝禮ニマイリ候ハン。サテ子〔忠実〕ノ関白ガ上ニ候ハント申テ。天承二年正月三日ナンタダ一度出仕セラレタリ。ソノ日ハ二男宇治左府頼長ノキミハ中将ニテ下襲ノシリトリテナドゾ物語ニ人ハ申ス。コノ日摂政太政大臣忠通。次右大臣ニテ花園左府有仁。三宮御子〔輔仁親王〕ナリ。次内大臣忠宗。家人ナリ。其次々ノ公卿サナガラ禮フカク家禮ナリシニ。花園ノ大臣一人ウソエミテ揖シテタタレタリシ。イミジカリキトコソ申ケレ。スベテ知足院殿ハ執フカキ人ニヤ。コノ拝禮ニ参リテ年ヨリ病アルヨシニテ。イマダ公卿列立トトノホラヌサキニ。脚病久シクタチテ無術候トテ。カツカツ拝サブラハントテイソギ拝セラレケリ。起アツカハレケレバ摂政太政大臣ヨリテタスケ申サレケレバ。諸卿ノ拝以前ニ出ラレケルニ。内大臣イゲ家禮ノ人ヲホクアリケルヲモ。人ニ見エントニヤト人イヒケリ。時ニトリテイミジカリケレバフルマイヲホセラレケリ。
カヤウノ心ニテソノ霊モヲソロシ。カカリケルホドニコノ頼長ノ公。日本第一大学生。和漢ノ才ニトミテ。ハラアシクヨロヅニキハドキ人ナリケルガ。テテノ殿ニサイアイ也ケリ。一日摂 籙内覧ヲエバヤエバヤトアマリニ申サレケルヲ。一日エサセバヤトヲボシテ。子ノ法性寺殿ニ。サモアリナンヤ。後ニハ汝ガ子孫ニコソカヘサンズレトタビタビネンゴロニ申サレケルヲ。法性寺殿ノトモカクモソノ御返事ヲ申サレザリケレバ。後ニハヤスカラズヲボシテ。鳥羽院ニコノ由ヲ申テ。カナヘ叶ハズバ。次ノ事ニテ存候ハンヤウカヘリゴトノ聞度候。上ヨリ仰タビテ申状ヲキカセラレ候ヘト申サレケレバ。コノ由仰ラレタリケル御カヘリゴトニ。存候ムネハトテ。手ノキハ頼長ガ御心バエハシカジカト候也。カレ君ノ御ウシロミニナリ候テハ天下ノ損ジ候ヌベシ。コノヤウヲ申候ハバイヨイヨ腹立シ候ハバ不孝ニモ候ベシ。父ノ申候ヘバトテ承諾シ候ハバ世ノ為不忠ニナリ候ヌベシ。
仰天シテ候ナド申サレタリケルヲツカハサレタリケレバ。カクモ返事ハアリケルハ。ナドワガ云ニハ返事ダニナキトテ彌フカク思ツツ。藤氏長者ハ君ノシロシメサヌ事ナリトテ。久安六年九月廿五日ニ藤氏長者ヲトリ返シテ。東三條ニヲハシマシテ。左府ニ朱器臺盤ワタサレニケリ。サテ院ヲトカクスカシマイラセラレケルホドニ。ミソカニ上卿ナドモヨヲシテ。久安七年正月ニ。内覧ハナラビタル例モアレバニテ。内覧ノ宣旨バカリクダサレニケリ。アサマシキコトカナト一天ノアヤシミニナリヌ。

サテ上上ノ御中アシキコトハ。崇徳院ノ位ニヲハシマシケルニ。鳥羽院ハ長実中納言ガムスメ〔得子〕ヲコトニ最愛ニヲボシメシテ。ハジメハ三位セサセテヲハシマシケルヲ東宮ニタテテ。崇徳ノキサキニハ法性寺殿ノムスメ〔聖子〕マイラレタル。皇嘉門院也。ソノ御子ノヨシニテ外祖ノ儀ニテヨクヨクサタシマイラセヨト仰ラレケレバ。コトニ心ニイレテ誠ノ外祖ノホシサニ。サタシマイラセラレケルニ。ソノ定ニテ譲位候ベシト申サレケレバ。崇徳院ハサ候ベシトテ。永治元年十二月ニ御譲位アリケル。保延五年八月ニ東宮ニハタタセ給ニケリ。ソノ宣命ニ皇太子トゾアランズラント思召ケルヲ。皇太弟トカカセラレケルトキ。コハイカニト崇徳院ノ御意趣ニコモリケリ。サテ近衛院位ニテヲハシマシケルニ。当今ヲトナシクナラセ給ヒテ。頼長ノ公内覧ノ臣ニテ左大臣一ノ上ニテ。節會ノ内弁キラキラトツトメテ。御堂ノムカシコノモシクテアリケル。節會ゴトニ主上御帳ニイデヲハシマス事ノナクテ。ヒキカウブリテトノゴモリゴモリシテヒトヘニ違例ニナリニケリ。院ヨリイカニ申サセ給ケルモキカセヲハシマサズ。
又関白ワガトガニ成候ナンズト返返申サレケルヲモキカセ給ハヌ事ニテアリケレバ。ナヲコレハコノ関白ガスルト思召テ御キソクアシカリケリ。サレド法性寺殿ハスコシモ是ヲ思ヒイタルケモナクテ。備前國バカリウチシリテ。関白内覧ヲバトドムル人モナカリケレバ。出仕ウチシテヲワシケリ。其後内裏ニテフタタビアシクユキアハレタリケレバ。左府ハ昔ゴトク家禮シテヲヒタチケル兄ナレバナヲイラレケリ。昔ハ法性寺殿ノ子ニシテヲハシケレバ。サヤウノ事思ヒ出ラレケル。アハレナリト人イイケリ。テテノ殿ハイカニトアリケレド。禮ハトリカヘサズト禮記ノ文ナリ。中アシトテイカデカイザラントイワレケルヲバ時ノ人ノノジリケリ。カヤウニテスグルホドニ。コノ左府悪左府トイフ名ヲ天下ノ諸人ツケタリケレバ。ソノシルシアケクレノ事ニテアリケルニ。法勝寺御幸ニ実衡中納言ガ車ヤブリ。又院第一ノ寵人家成中納言ガ家ツイブクシタリケレバ。院ノ御心ニウトミ思召ニケリ。兄ノ殿ハ誠ニヨクイイケルモノヲト思召ナガラサテスギケリ。人ノ物語ニ申シシハ。高松ノ中納言実衡ガ車ヤブリタル事ヲ。父殿イカニサルコトハトイワレケル。
次ニカクアシクトモ家成ナドヲバエセジモノヲト。腹ノタタレケルニイハレタリケルヲキキハサミテ。親ニモカク思ハレタルヤスカラズトテ。無二ニ愛シ寵シケル随身公春ニ心ヲアハセテ。家成ガ家ノカドニ下人ヲタテテ前ヲ通ラレケルニ。高足駄ハキテアリケルヲオイイレタル由ニテツイブクハシタリケル也。アシク心タテタリトイイナガラ。身ヲウシナウ程ノ悪事カクセラレケリ。サル程ニ主上近衛院十七ニテ久壽二年七月ニウセ給ニケルハ。ヒトヘニコノ左府ガ咒咀ナリト人イイケリ。院モヲボシメシタリケリ。證拠ドモモアリケルニヤ。カクウセサセ給ヌレバ。今ハ我身ハ一人内覧ニナリナントコソハ思ハレケンニ。例ニマカセテ大臣内覧辞表ヲアゲタリケルヲ。カヘシモタマハラデ後。次ノ年正月左大臣バカリハモトノゴトシトテアリケリ。

院〔鳥羽〕ハコノ次ノ位ノ事ヲ思シメシワヅライケリ。四宮ニテ後白河院。待賢門院〔璋子〕ノ御腹ニテ。新院崇徳。ニ同宿シテヲハシマシケルガ。イタクサタダシク御遊ビナドアリトテ。即位ノ御器量ニハアラズト思召テ。近衛院ノ姉ノ八條院姫宮〔瞳子〕ナルヲ女帝カ。新院一ノ宮〔重仁親王〕カ。コノ四宮ノ御子二條院ノヲサナクヲハシマスカヲナドヤウヤウニ思召テ。其時ハ知足院〔忠実〕ドノ左府〔頼長〕ト云コトハナクテ。一向ニ法性寺〔忠通〕殿ニ申合セラレケル。

御返事タビタビイカニモイカニモ君ノ御事ハ人臣ノハカライニ候ハズ。タダ叡慮ニアルベシトノミ申サレケルヲ。第四度ノタビタダハカラハセ給ヘ。コノ御返事ヲ大神宮ノ仰ト思候ハンズル也ト。サシツメテ仰ラレタリケルタビ。コノ勅定ノ上ハ四宮親王ニテ廿九ニナラセヲハシマス。是ガヲハシマサン上ハ。先コレヲ御即位ノ上ノ御案コソ候ハメト申サレタリケレバ。左右ナシ。其定ニサタセサセ給ヘトテアリケレバ。主上ノ御事カナシミナガラ。例ニマカセテ雅仁親王新院御所ニヲハシマシケル。ムカヘマイラセテ。東三條南ノ町高松殿ニテ御譲位ノ儀メデタク行ハレニケリ。サレバ世ヲシロシメス太上天皇ト摂 籙臣ノヲヤノ前関白殿トモニ兄ヲ憎ミテ弟ヲカタヒキ給テ。カカル世中ノ最大事ヲ行ハレケルガ。世ノ末ノカクナルベキ時運ニツクリアハセテケレバ。鳥羽院。知足院一御心ニナリテシバシ天下ノアリケル。

コノ巨害ノコノ世ヲバカクナシタリケル也。サレド鳥羽院ノ御在生マデハ。マノアタリ内乱合戦ハナクテヤミニケリ。カクテ鳥羽院ハ久壽ヲ改元シテ四月廿四日ニ保元トナリニケリ。七月ノ二日ウセ給ヒニケル。御病ノ間此君ヲハシマサズバ。イカナル事カイデコンズラント貴賤老少サシヤキツツヤキシケルヲ。宗能ノ内大臣トイフ人。大納言カニテアリケリ。サマデノ近習者ニモナカリケレド。思ヒアマリテ文ヲカキテ。此世ハ君ノ御眼トヂヲハシマシナン後ハ。イカニナリナンズトカ思召ヲハシマス。只今ミダレウセ候ナンズ。ヨクヨクハカライ仰ヲカルベシナドヤ申タリケン。サナシトテモ君モ思召ケン。サテキタヲモテニハ武士為義。清盛ナド十人トカヤニ祭文ヲカカセテ。美福門院〔得子〕ニマイラセラレニケリ。

後白河法皇位ニテ。少納言入道信西ト云学生抜群ノ者アリケルガ。年比ノ御乳母ニテ紀ノ二位ト云妻モチテ有ケル。コレヲバ人モタノモシク思ヘリケルニ。美福門院一向母后ノ儀ニテ。摂 籙ノ法性寺殿。大臣諸卿ヒトツ心ニテ有ベシト申置レニケリ。サテ七月二日御支度ノ如ク。鳥羽殿ニ安楽壽院トテ御終焉ノ御堂御所シオカセ給タリケルニテウセサセ給ニケリ。ソノ時新院〔崇徳〕マイラセ給タリケレドモ。内ヘ入レマイラスル人ダニモナカリケレバ。ハラダチテ鳥羽ノ南殿人モナキ所ヘ御幸ノ御車チラシテヲハシマシケルニ。マサシキ法皇ノ御閇眼ノ時ナレバ。馬車サハギアフニ。
勝光明院ノ前ノホドニテチカノリガ十七八ノ程ノリ家ガ子ニテ。勘解由次官ニナサレテ召仕イケルガ。参リアイタリケルヲウタセ給イケル程ニ。目ヲウチツブサレタリトノノジリケルヲ。既ニ今ハカウニテヲハシマシケルニ参リテ。最後ノ御ヲモイ人ニテ候ケル光安ガムスメノ土佐殿トイヒケル女房ノ。新院ノチカノリガ目ヲウチツブサセ給タルト申アイ候ト申タリケルヲ聞セヲハシマシテ。御目ヲキラリト見アゲテヲハシマシタリケルガ。マサシキ最後ニテヒキイラセ給ニケルトゾ人ハカタリ侍シ。

其後チカノリ現存シテ民部卿入道トテ八十マデイキテアリシニ。カク人語ルハイカナリシゾト問侍ケレバ。目ハツブレ候ハズ。聞ヘ候ヤウニ参リアイテ候シニ。御幸氣色モ候ハバヤハ。車ハチラシアイ候シニ。メシツギガ礫ニテ。乗テ候シ車ノ物見ニウチアテテハタトナリ候シニ。新院ノ御幸ゾト申候シカバ。左右ナク車ヲオサヘヨトタカク車ヲオドリヲリ候シ程ニ。イカニシテ候シヤラン。車ノスダレノ竹ノヌケテ候シガ。目ノ下ノ皮ノ簿ク候所ニアタリテ縫ザマニツラヌカレテ候シ。血ノ顕文紗ノシラアヲヲキテ候シ狩衣ノ前ニカカリテ候シヲミ候テ。メシツギドモ打ヤミ候ニシ也。

サ候ハズバ猶モ打フセラレモヤシ候ハマシ。其血ノカカリヤウハ却リテ冥加トゾ覚ヘ候ニシトゾ語リハベリケル。サテ新院ハ田中殿ノ御所ニヲハシマシケルホドニ。宇治ノ左府申カハシケム。俄ニ七月九日鳥羽ヲ出テ白河ノ中御門河原ニテ千躰ノ阿弥陀堂ノ御所トキコユルサシキ殿ト云御所ヘワタラセ給ニケリ。ソレモワガ御所ニテモナキヲオシアケテヲハシマシケリ。サレバヨト既ニ京ノ内ノダイリニハ。関白〔忠通〕。徳大寺ノ左府〔実能〕ナドイイシ人々ヒシト参リツドイテ。祭文カキテ参ラセタル武士ドモ候テ警固シテヲハシマシケルニ。悪左府ハ宇治ニヲハシケル。宇治ヨリ参ランズラントテノブカヌト云武士。ヒツ〔櫃〕河ノ辺ニマカリ向イテウチテマイラセヨトスデニ仰ラレニケルニ。アマリニ俄ナレバヲソク行向イケルホドニ。夜半ニ宇治ヨリ中御門御所ヘマイラレニケリ。

サテ為義ヲ宰相中将教長年比ノ新院ノ近習者也。ソレシテ度々メシテ。為義スグニ新院ヘ参リヌト聞ヘテ。子二人グシテ参リニケリ。四郎左衛門頼賢。源八為朝也。サテ嫡子ノ義朝ハ御方ニヒシト候ケリ。年比コノ父ノ中ヨカラズ子細ドモ事長シ。サテ十一日議定アリテ世ノ中ハイカニイカニトノノジリケルニ。為義ハ新院ニマイリテ申ケルヤウハ。ムゲニ無勢ニ候。郎徒ハ皆義朝ニツキ候テ内裏ニ候。ワヅカニ小男二人候。ナニゴトヲカハシ候ベキ。コノ御所ニテマチイクサニナリ候テハ。少シモ叶候マジ。イソギイソギテタダ宇治ニイラセヲハシマシテ。宇治橋ヲ引候テシバシモヤササヘラレ候ベキ。

サ候ハズバタダ近江國ヘ御下向候テ甲賀ノ山ヲウシロニアテ。坂東武士候ナンズ。ヲソクマイリ候ハバ関東ヘ御幸候テ。足柄ノ山キリフサギ候ナバ。ヤウヤウ京中ハエタタヘ候ハジモノヲ。東國ハ頼義。義家ガ時ヨリ為義ニシタガハヌ者候ハズ。京中ハ誰モ誰モコトガラヲコソ伺イ候ラメ。セメテナラバ内裏ニマイリテ一アテシテイカニモ成候ハバヤト申シケルヲ。左府御前ニテ。イタクナイソギソ。只今何事ノアランズルゾ。当時マコトニ無勢ゲナリ。大和國ヒガキノ冠者ト云者アリ。吉野ノ勢モヨヲシテヤガテイソギ参レト仰テキ。今ハマイルラン。シバシ相マテトシヅメラレケレバ。コハ以外ノ御事哉トテ。庭ニ候ケリ。為義ガ外ニハ正弘。家弘。忠正。頼憲ナドゾ候ケル。勢ズクナナル者ドモ也。

内裏ニハ義朝ガ申上ケルハ。イカニカクイツトモナクテササヘタル御ハカライハ候ニカ。軍ノ道ハカクハ候ハズ。先タダヲシヨセテ蹴チラシ候テノ上ノコトニ候。為義。ヨリカタ。為朝具シテ既ニ参リ候ニケリ。親ニテ候ヘドモ御方ニカクテ候ヘバ。罷向イ候ハバ彼等モヒキ候ナンモノヲ。タダヨセ候ナントカシラヲカキテ申ケルニ。十日一日ニコトキレズ。通憲法師庭ニ候テ。イカニイカニト申ケルニ。法性寺殿御マヘニヒシト候テ。目ヲシバタタキテウチミアゲウチミアゲ見テ。物モイハレザリケルヲ。実能。公能以下是ヲマボリテアリケル程ニ。十一日ノ暁サラバトクヲイチラシ候ヘトイイ出サレタリケルニ。下野守義朝ハ悦テ日出シタリケル紅ノ扇ヲハラハラトツカイテ。義朝軍ニアフ事何ヶ度ニナリ候ヌル。

皆朝家ヲオソレテイカナルトガヲカ蒙候ハンズラント。ムネニ先コタヘテヲソレ候キ。ケフ追討ノ宣旨カウブリテ只今敵ニアイ候ヌル心ノスズシサコソ候ハネトテ。安藝守清盛ト手ヲワカチテ。三條内裏ヨリ中御門ヘヨセ参リケル。此外ニハ源頼政。重成。光康ナド候ケリ。ホドヤハアルベキ。ホノボノニヨセカケタリケルニ。頼賢。為朝勢ズクナニテヒシトササヘタリケルニ。義朝ガ一ノ郎等鎌田ノ次郎正清ハ度々カケカヘサレケレドモ。御方ノ勢バカリナケレバ。ヲシマハシテ火カケテケレバ。新院ハ御直衣ニテ御馬ニ奉リテ。御馬ノシリニハムマノスケノブザネト云者ノリテ。仁和寺ノ御室五ノ宮〔覚性法親王〕ヘワタラセ給ヒケリ。左大臣ハシタ腹巻トカヤキテヲチラレケルヲ。誰ガ矢ニカアリケン。顔ニアタリテホウヲツヨク射ツラヌカレニケレバ馬ヨリヲチニケリ。
小家ニカキ入テケリ。コノ日ヤガテ藤氏長者ハ如元ト云宣下有テ。法性寺殿ニカヘシツケラレニケリ。上ノ御サタニカクナル事ノハジメ也。筑後ノ前司シゲサダト云シ武士ハ土佐源太シゲザネガ子也。入道シテ八十ニナリシニアイテ侍シカバ。我ガ射テ候シ矢ノマサシクアタリ申テ候シトテ。カイナヲカキ出シテ七星ノハハグロノカク候テ。弓矢ノ冥加一度モフカク候ハズトゾ申シ。サテ悪左府ハ桂川ノ梅津ト云所ヨリ小船ニノセテ。ツネノリナド云者ドモ具シテ宇治ニテ入道殿ニ申ケレバ。今一度トモ仰ラレザリケリ。サテ大和ノ盤若道ト云カタヘ具シ申テクダリケレバ。次ノ日トカヤ引入ラレニケリ。コマカニ仲行ガ子ニ問侍シカバ。宇治ノ左府ハ馬ニノルニ及バズ。戦場大炊御門御所ニ御堂ノアリケルニ。ツマドニ立ソイテ事ヲ行イテアリケルニ。矢ノ来リテ耳ノシモニアタリニケレバ。門辺ニ有ケル車ニ。蔵人大夫経憲ト云者ノリグシ申テ。桂河ニ行テ鵜船ニノセ申テコツ河ヘクダシテ。知足院殿南都ヘイラセ給タリケルニ見参セント申サレケレバ。モトヨリ存タル事也。

対面ニ及マジト仰ラレケル。後ニ船ノ内ニテ引イラレケレバ。コノツネノリ。図書允利成。監物信頼ナド云ケル両三人。般若寺ノ大道ヨリ上リテノ方三段バカリ入テ火葬シ申テケリトゾ承リシト申ケリ。カヤウノ事ハ人ノウチ云トマサシク尋聞トハカハル事ニ侍リ。彼是ヲトリ合ツツ聞ニ。一定アリケンヤウハミナシラルル事也。カクシテ為義ハ義朝ガリニゲテ来リケルヲカウカウト申ケレバ。ハヤク首ヲキルベキヨシ勅定サダマリニケレバ。義朝ヤガテコシグルマニノセテ。ヨツツカヘヤリテヤガテクビキリテケレバ。義朝ハ親ノ首切ツト世ニハ又ノノジリケリ。カクテ新院ヲバ讃岐ノ國ヘ流シ奉ラレニケリ。
宇治〔忠実〕ノ入道ヲバ又法性寺〔忠通〕殿ノサタニテ知足院ニウチコメラレニケリ。コノ十一日ノイクサハ五位蔵人ニテマサヨリノ中納言蔵人ノ治部大輔トテ候シガ。奉行シテカケリシ日記ヲ思カケズ見侍シ也。暁ヨセテノチウチヲトシテ帰リ参マデ。時々剋々只今ハト候。カウ候トイササカノ不審モナク。義朝ガ申ケル使ハハシリチガイテ。ムカイテ見ムヤウニコソヲボヘシカ。ユユシキ者ニテ義朝アリケリトコソ雅頼モ申ケレ。ソノ後教長メシトリテヤウヤウノスイモンアリケル。官ニメシテ長者大夫史大外記候テ。弁官職事ニテトハレケル。昔ノ跡アリテ猶イミジカリケリ。コノ比ナドサルスヂアルベシトコソミヘネ。
第五巻

コノ内乱タチマチニヲコリテ。御方コトナクカチテ。トガアルベキ者ドモ皆ホドホドニヲコナハレニケリ。死罪ハトドマリテ久ク成タレド。カウホドノ事ナレバニヤヲコナハレニケルヲ。カタブク人モアリケルニヤ。サテ後白川院ハ仏法ノ御ヲコナイコトニ叡慮ニイリタル方ヲハシマシテ。御位ノホド。大内ノ仁寿殿ニテ懺法ヲコナヒナドセサセ給ヒケリ。ヒトヘニ信西入道世ヲトリテアリケレバ。年コロヲモイトヂタル事ニヤアリケン。大内ハナキガゴトクニテ。白川。鳥羽二代アリケルヲ。有職ノ人ドモハ公事ハ大内コソ本ナレ。
コノ二代ハステラレテサタナシトナゲキケレバ。鳥羽院ノ御時。法性寺殿ニ世ノ事一向ニトリサタセラレヨト仰ラレケル手ハジメニ。ソノ大内造営ノ事ヲ先申サタセントクハダテラレケルヲキコシメシテ。世ノ末ニハカナフマジ。コノ人ハ昔心ノ人ニコソトテ。叡慮ニカナハザリケレバ引イラレニケリ。ソレヲ信西ガハタハタト折ヲエテ。メデタクメデタクサタシテ。諸國七道スコシノワヅライモナク。サハサハトタダ二年ガ程ニツクリイダシテケリ。ソノ間手ヅカラ終夜竿ヲ置ケル。後夜方ニハ竿ノ音ナリケル。コエスミテタウトカリケルナド人沙汰シケリ。サテヒシト功程ヲ考ヘテ。諸國ニスクナスクナトアテテ。誠ニメデタクナリニケリ。其後内宴行ヒテ妓女ノ舞ナドシテ。コハイカニトオボユル程ニ沙汰シケリ。サテ大内常ノ御所ニテアリケレバ。御懺法ナドサヘアシカルベキ事ニモ候ハズトテ。行ハセマイラセナンドシテアリケルホドニ。

保元三年八月十一日ニヲリサセ給テ。東宮二條院。二御譲位アリテ。太上天皇ニテ白河。鳥羽ノ定ニ世ヲシラセ給フ間ニ。忠隆卿ガ子ニ信頼ト云フ殿上人アリケルヲ。アサマシキ程ニ御寵愛アリケリ。去程ニ又北面ノ下揀hモニモ信成。信忠。為行。為康ナド云者ドモ兄弟ニテ出来ナドシケレバ。信頼ハ中納言右衛門督マデナサレテアリケルガ。コノ信西ハマタ我子ドモ俊憲大弁宰相。貞憲右中弁。成憲近衛司ナドニナシテアリケリ。俊憲等才智文章ナド誠ニ人ニスグレテ。延久例ニ記録所ヲコシタテテユユシカリケリ。大方信西ガ子ドモハ法師ドモモ数シラズ多カルモ。皆程々ニヨキ者ニテ有ケル程ニ。此信西ヲ信頼ソネム心イデキテ。義朝。清盛。源氏。平氏ニテ候ケルヲ。各此乱ノ後ニ世ヲトラント思ヘリケル。
義朝ト一ツ心ニナリテ。ハタト謀反ヲオコシテ。ソレモ義朝。信西ソコニ意趣コボリニケル也。信西ハ時ニトリテサウナキ者ナレバ。義朝。清盛トテナラビタルニ。信西ガ子ニ是憲トテ信乃入道トテ。西山吉峯ノ往生院ニテ最後十念成就シテ決定往生シタリト世ニ云聖ノアリシガ。男ニテサカリノ折フシニシアリシヲササヘテ。婿ニトラント義朝ガ云ケルヲ。我子ハ学生也。汝ガ婿ニアタハズト云。アラキヤウナル返事ヲシテキカザリケル程ニ。ヤガテ程ナク当時ノ妻ノキノ二位ガ腹ナルシゲノリヲ清盛ガ婿ニナシテケル也。ココニハイカデカソノ意趣コモラザラン。カワウノ不覚ヲイミジキ者モシ出ス也。サラニサラニ力ヲヨバヌ事也。トテモカクテモ物ノ道理ノ重キ軽キヲヨクヨク知テ。フルマイタガヘヌホカニハ。ナニモカナフマジキ也。
ソレモ一カタバカリニテハ。皆シバシハ思フサマニスギラルル也。二ツ三ツサシアハセテアシキ事ノ出キヌル上ハ。ヨキ事モワロキ事モ其時コトハ切ルル也。信西ガフルマイ。子息ノ昇進。天下ノ執権。コノ充満ノアリサマニ。義朝ト云程ノ武士ニ此意趣ムスブベシヤハ。運報ノカギリ時ノイタレル也。又腹ノイタレル也。又腹ノアシキ難ノ第一。人ノ身ヲバホロボス也。ヨク腹アシカリケル物ニコソ。カカリケル程ニ平治元年十二月九日夜。三條鳥丸ノ内裏。院ノ御所ニテアリケルニ。信西子ドモグシテ常ニ候ケルヲ押コメテ。皆ウチ殺サントシタクシテ。御所ヲマキテ火ヲカケテケリ。サテ中門ニ御車ヲヨセテ師仲源中納言同心ノ者ニテ。御車ヨセタリケレバ。院ト上西門院〔統子内親王〕ト二所ノセ参ラセタリケルニ。信西ガ妻成範ガ母ノ紀ノ二位ハセイチイサキ女房ニテ有ケルガ。上西門院ノ御ゾノスソニカクレテ御車ニノリニケルヲ。サトル人ナカリケリ。
上西門院ハ待賢門院ノ一ツ御腹ニテ。母后ノ由トテ立后モ有ケルトカヤ。サテカタガタ殊ニアイ思テ一所ニ常ハヲハシマシケル也。コノ御車ニハ重成。光基。季実ナドツキテ。一本御書所ヘイレ参ラセテケリ。コノ重成ハ後ニ死タル所ヲ人ニシラレズトホメケリ。俊憲。貞憲トモニ候ケルハ逃ニケリ。俊憲ハタダヤケ死ナント思テ。北ノ対ノ縁ノ下ニ入テ有ケルガ。見廻シケルニ逃ヌベクテ。ホノヲノタダモヘニモヘケルエ。走リ出テソレモ逃ニケリ。信西ハカサドリテ左衛門尉師光。右衛門尉成景。田口四郎兼光。齋藤馬允清実ヲ具シテ。人ニシラルマジキ夫コシカキニカカレテ。大和國ノ田原ト云方ヘユキテ。穴ヲホリテカキウヅマレニケリ。ソノ四人ナガラ本島キリテ名ツケヨト云ケレバ。西光。西景。西実。西印トツケタリケル。ソノ西光。西景ハ。後ニ院ニ召仕ハレテ候キ。西光ハタダ唐ヘ渡ラセ給ヘ。具シ参ラセントゾ云ケル。
出立ケル時ハ本星命位ニアリ。イカニモノガルマジトゾ云ケル。サテ信頼ハカクシチラシテ大内ニ行幸ナシテ。二條院当今ニテヲハシマスヲトリマイラセテ。世ヲオコナイテ。院ヲ御書所ト云所ニスエマイラセテ。既ニ除目行ヒテ。義朝ハ四位シテ播磨守ニ成テ。子ノ頼朝十三ニナリケル。右兵衛佐ニナシナドシテ有ケル也。サテ信西ハイミジクカクレヌト思ヒケル程ニ。猶夫輿カキ人ニ語リテ。光康ト云武士コレヲ聞ツケテ。義朝ガ方ニテ求メイダシテ参ラセントテ。田原ノ方ヘユキケルヲ。師光ハ大ナル木ノアリケル上ニノボリテ夜ヲアカサントシケルニ。穴ノ内ニテ阿弥陀仏タカク申声ハホノカニ聞ヘタリ。ソレニアヤシキ火ドモノ多ク見エケレバ。木ヨリヲリテ。怪シキ火コソミエ候ヘ。御心シテヲハシマセト。タカク穴ノモトニ云イレテ。又木ニノボリテミケル程ニ。武士ドモセイセイト出キテ。トカク見メグリケル程ニ。ヨクカキ埋ミタリト思ケレド。穴口ニ板ヲフセナンドシタリケル。
見出シテ堀出シタリケレバ。腰刀ヲ持テアリケルヲ。ムナ板ノ上ニツヨクツキ立テ死テアリケルヲ。堀出シテ頸ヲトリテ。イミジ顔ニ持テ参リテワタシナンドシケリ。男法師ノ子ドモ数ヲ尽シテ諸國ヘ流シテケリ。

此間ニ清盛ハ太宰大弐ニテ有ケルガ。熊野詣ヲシタリケル間ニ。コノ事ドモヲバシ出シテ有ケルニ。清盛ハイマダ参リツカデ。フタガハノ宿ト云ハタノベノ宿ナリ。ソレニツキタリケルニカクリキハシリテ。カカル事京ニ出キタリト告ケレバ。コハイカガセンズルト思ヒ煩ヒテアリケリ。子ドモニハ越前守基盛ト。十三ニナル淡路守宗盛ト。侍十五人トヲゾ具シタリケル。是ヨリタダツクシザマヘヤ落テ。勢ツクベキナンド云ヘドモ。湯浅ノ権守ト云テ宗重ト云紀伊國ニ武者アリ。タシカニ卅七騎ゾ有ケル。ソノ時ハヨキ勢ニテタダヲハシマセ。京ヘハ入レ参ラセナント云ケリ。熊野ノ湛快ハサブライノ数ニハエナクテ。鎧七領ヲゾ弓矢マデ皆具タノモシクトリ出テ。サウナクトラセタリケリ。又宗重ガ子ノ十三ナルガ紫革ノ小腹巻ノ有ケルヲゾ宗盛ニハキセタリケル。
ソノ子ハ文覚ガ一具ノ上覚ト云ヒジリニヤ。代官ヲ立テ参モツカデ。ヤガテ十二月十七日ニ京ヘ入ニケリ。スベカラク義朝ハウツベカリケルヲ。東國ノ勢ナドモイマダツカザリケレバニヤ。是ヲバトモカクモサタセデ有ケル程ニ。大方世ノ中ニハ三條内大臣公教ソノ後ノ八條太政大臣以下。サモアル人々。世ハカクテハイカガセンゾ。信頼。義朝。師仲等ガ中ニマコトシク世ヲ行フベキ人ナシ。主上二條院ノ外舅ニテ大納言経宗。コトニ鳥羽院モツケマイラセラレタリケル惟方検非違使別当ニテアリケル。コノ二人主上ニハツキマイラセテ。信頼同心ノ由ニテアリケルモ。ソソヤキツツヤキツツ清盛朝臣コトナクイリテ。六波羅ノ家ニ有ケルトトカク議定シテ。六波羅ヘ行幸ヲナサント議シカタメタリケリ。ソノ使ハ近衛院東宮ノ時ノ学士ニテ。知通ト云博士アリケルガ子ニ。尹明トテ内ノ非蔵人有ケリ。
惟方ハ知通ガムコナリケレバ一ニテ有ケル。コノ尹明サカシキ者ナリケルヲ使ニハシテ云カハシテ。尹明ハソノ此ハ勅勘ニテ内裏ヘモエマイラヌ程ナリケレバ。中中人モシラデヨカリケレバ。十二月廿五日亥乙丑ノ時ニ。六波羅ヘ行幸ヲナシテケリ。ソノヤウハ。清盛。尹明ニコマカニヲシヘケリ。昼ヨリ女房ノセンズル料ノ車トヲボシクテ。牛飼バカリニテ下簾ノ車ヲ参ラセテヲキ候ハン。サテ夜サシフケ候ハン程ニ。二條大宮ノ辺ニ焼亡ヲイダシ候ハバ。武士ドモハ何事ゾトテソノ所ヘ皆マウデ来候ナンズラン。ソノ時ソノ御車ニテ行幸ノナリ候ベキゾト約束シテケリ。サテ内々コノ事シカルベキ人々相議定シテ。清盛熊野ヨリ帰テナニトナクテアレバ。一定義朝モ信頼モケフケフト思フ様共ヲホカラン。用心ノ堅固ニテハ物ノタカクナルモアヤムル事也。スコシ心ヲノベテコソヨカラメトテ。清盛ガ名簿ヲ信頼ガリヤルベキ。ソノヨシ子細ヲ云ヘトテアリケレバ。清盛ハタダイカニモイカニモカヤウノ事ハ。人々ノ御ハカライニ候ト云ケレバ。内大臣公教ノ君ゾマサシクソノ名簿ヲバ書タリケル。
ソレヲ一ノ郎等家定ニ持セテ云ヤリケルヤウハ。カヤウニテ候ヘバ。何トナク御心ヲカレ候ラン。サナシトテヲロカナルベキニハ候ハネド。イカニモイカニモ御ハカライ御気色ヲバタガヘマイラセ候マジキニ候。其シルシニハヲソレナガラ名簿ヲマイラセ候也トイハセタリケレバ。コレハコノ行幸ノ日ノツトメテニテアリケレバ。返事ニハ返々悦テ承リ候ヌ。此旨ヲ存候テ何事モ申承候ベシ。尤本意ニ候ト云タリケレバ。ヨシヨシトテゾ。有ケルシタクノ如クニシタリケリ。夜ニ入テ惟方ハ院ノ御書所ニ参リテ。小男ニテ有ケルガ直衣ニククリアゲテ。フト参テソソヤギ申テ出ニケリ。車ハ又ソノ御料ニモマウケタリケレバ。院ノ御方ノ事ハサタスル人モナク。見アヤム人モナカリケレバ。覚束ナカラズ。内ノ御方ニハコノ尹明候ナレタル者ニテ。ムシロヲ二枚マウケテ。莚道ニ南殿ノ廻廊ニ敷テ。一枚ヲ歩マセ給フ程ニゾ一枚ヲシキシキシテ。内侍ニハ伊与内侍。少輔内侍ノ二人ゾ心得タリケル。
コレヲ為先シルシノ御筥宝劔トヲバ御車ニイレテケリ。支度ノ如クニテ焼亡ノ間。サリゲナシニテヤリ出シテケリ。サテ火消テ後。信頼ハ焼亡ハ別事候ハズト申サセ給ヘト。蔵人シテ伊与内侍ニ云ケレバ。サ申候ヌトテ。コノ内侍ドモハ小袖バカリキテカミワキトリテ出ニケリ。尹明ハシヅカニ長櫃ヲ設ケテ。玄象。鈴鹿。御笛ノハコ。ダイトケイノカラ櫃。日ノ御座ノ御太刀。殿上ノ御倚子ナドサタシ入テ。追ザマニ六波羅ヘ参レリケレバ。武士ドモヲサヘテ。弓長刀サシチガヘサシチガヘシテカタメタルニ。誰カ参ラセ給ゾト云ケレバ。タカク進士蔵人尹明ガ御物持セテ参テ候ナリト申サセ給ヘト申タリケレバ。ヤガテ申テトク入レヨトテ参リニケリ。ホノボノトスル程也ケリ。ヤガテ院ノ御幸。上西門院。美福門院御幸ドモナリ合セ給テ有ケリ。大殿〔忠通〕。関白〔基実〕相具シテ参ラレタリケリ。大殿トハ法性寺殿也。関白トハソノ子十六歳ニテ。保元三年八月十一日二條院受禅ノ同日ニ。関白氏長者皆譲ラレニケル。
アナワカヤト人皆思ヒタリケルハコノ中ノ殿トゾ世ニハ云メル。又六條摂政。中院トモ申ヤラン。コノ関白ハ信頼ガ妹ニ婿トラレテ有ケレバ。スコシ法性寺殿ヲバ心ヲカンナド云コト有ケルニヤ。六波羅ニテ院。内ヲハシマシケル御前ニテ人々候ケルニ。三條〔公教〕内府清盛ノ方ヲ見ヤリテ。関白参ラレタリト申。イカニ候ベキヤラント云タリケレバ。清盛サウナク摂 籙ノ臣ノ御事ナドハ議ニ及ブベクモ候ハズ。参ラレザランヲゾワザトメサルベク候。参ラセ給ヒタランハ神妙ノ事ニテコソ候ヘト申タリケル。アハレヨク申物カナト聞ク人思ヒタリケリ。ソノ夜中ニハ京中ニ。行幸六波羅ヘナリ候ヌルゾヌルゾトノ、ジラセケリ。山ノ青蓮院座主行玄ノ弟子ニテ。鳥羽院ノ七宮法印〔覚快法親王〕法性寺座主トテヲハシケル。知法ノ覚エ有ケレバニヤ。其時仏眼法ウケ給リテ修セラレケル。
白川房ヘモ夜半ニタタキテ。行幸六波羅ヘナリ候ヌ。ヨクヨク祈リ申サセ給ヘト云御使アリケリ。カカリケル程ニ内裏ニハ信頼。義朝。師仲。南殿ニテアブノ目ヌケタルゴトクニテアリケリ。後ニ師仲中納言申ケルハ。義朝ハ其時。信頼ヲ日本第一ノ不覚人ナリケル。人ヲタノミテカカル事ヲシ出ツルト申ケルヲバ。少シモ物モエイハザリケリ。紫宸殿ノ大床ニ立テ鎧トリテキケル時。ダイトケイノ唐櫃ノ小鈎ヲ守刀ニ付タリケルヲ。師仲ハ内侍所ノ御躰ヲ懐ニ入テ持タリケル。夕ベ。ソノ鈎是ニ具シマイラセテモタン。ソノ刀ニツケテ無益也ト云ケレバ。誠ニトテ投ヲコセタリケレバ。取テイヅチモ御身ヲハナレ申マジキゾトテ。藍摺ノ直垂ヲゾ着タリケル。ヤガテ義朝ハカブトノ緒ヲシメテ打出ケル。馬ノシリニウチ具シテ有ケレド。京ノ小路ニ入ニケルウヘハ。散散ニ打ワカレニケリ。サテ六ハラヨリハヤガテ内裏ヘヨセケリ。
義朝ハ又イカザマニモ六ハラニテ尸ヲサラサン。一アテシテコソトテヨセケリ。平氏ガ方ニハ左衛門佐重盛。清盛嫡男。三河守頼盛。清盛舎弟。コノ二人コソ大将軍ノ誠ニタタカイハシタリケルハアリケレ。重盛ガ馬ヲ射サセテ堀河ノ材木ノ上ニ弓杖ツキテタチテ乗替ニノリケルユユシク見ヘケリ。鎧ノ上ノ矢ドモ折カケテ各六ハラニ参レリケル。カチテノ上ハ心モヲチ居テ見物ニテコソ有ケレ。義朝ハ又六ハラノハタ板ノキハマデカケ寄テ。物サハガシクナリケル時。大将軍清盛ハヒタ黒ニサウゾキテ。カチノ直垂ニ黒革ヲドシノ鎧ニ塗ノノ矢ヲイテ。黒キ馬ニノリテ御所ノ中門ノ廊ニ引ヨセテ。大鍬形ノ甲トリテキテ緒シメ打出ケレバ。カチ武者ノ侍二三十人馬ニソイテ走メグリテ。物サハガシク候。見候ハント云テ。ハタハタト打出ケルコソ。時ニトリテヨニタノモシカリケレ。

義朝ガ方ニハ郎等ワヅカニ十人ガ内ニ成ニケレバ。何ワザヲカハセン。ヤガテ落テ。イカニモ東國ヘ向ヒテ今一度会稽ヲトゲント思ヒケレバ。大原ノ千束ガガケニカカリテ近江ノ方ヘ落ニケリ。正清モナヲ離レズ具シタリケリ。此時内ノ護持僧ニテ山ノ重瑜僧正候ケル。六ハラニ参テ香染ニテ丑寅ノ方ニ向テ。南無叡山三宝トテ如法ニ立。額ヲツキテ拝ミケルコソ。ヨニタノモシカリケレ。カヤウノ時ハサル者ノ必候ベキ也。又清盛ハ大内裏ニ信頼ガ宿所ニ昨日カキテヤリタル名簿ヲ。ソノママニテ今日トリ返シツルトテコソ笑ヒケレ。信頼ハ仁和寺ノ五ノ宮〔覚性法親王〕ノ御室ヘ参りタリケルヲ。次ノ日五ノ宮ヨリマイラセラレタリケルニ。清盛ハ一家ノ者ドモアツメテ。六原ノウシロニ清水アル所ニ平バリウチテヲリ居タリケル所ヘ。成親中将ト二人ヲ具シテ前ヘ引スヘタリケルニ。信頼ガアヤマタヌヨシ云ケル。ヨニヨニワロク聞ヘケリ。
カウ程ノ事ニサ云バヤハ叶フベキ。清盛ハナンデウトテ顔ヲフリケレバ。心エテ引タテテ六條河原ニテヤガテ頸キリテケリ。成親ハ家成中納言ガ子ニテ。フヤウノ若殿上人ニテ有ケルガ。信頼ニグセラレテ有ケル。深カルベキ者ナラネバトガモイトナカリケリ。武士ドモモ何モ何モ程々ノ刑罰ハ皆行ハレニケリ。

サテ義朝ハ又馬ニモエノラズ。カチハダシニテ尾張國マデ落行テ。足モハレツカレタレバ。郎等鎌田次郎正清ガ舅ニテ内海庄司平忠致トテ。大矢ノ左衛門ムネツネガ末孫ト云者ノ有ケル家ニウチタノミテ。カカルユカリナレバ行ツキタリケル。待悦ブ由ニテイミジクイタハリツツ。湯ワカシテアブサントシケルニ。正清事ノケシキヲバサトリテ。ココニテウタレナンズヨト見テケレバ。カナイ候ハジ。アシク候ト云ケレバ。サウナシ皆存タリ。此頸ウテヨト云ケレバ。正清主ノ頸打落シテ。ヤガテ我身自害シテケリ。サテ義朝ガ頸ハトリテ京ヘマイラセテワタシテ。東ノ獄門ノアテノ木ニカケタリケル。ソノ頸ノカタハラニ歌ヲヨミテカキツケタリケルヲミレバ。
下ヅケハ木ノ上ニコソナリニケレヨシトモミヘヌカケヅカサ哉
トナンヨメリケル。是ヲミル人カヤウノ歌ノ中ニ。コレ程一文字モアダナラヌ歌コソナケレトノノジリケリ。九條ノ大相國伊通ノ公ゾカカル歌ヨミテ。ヲホクオトシブミニカキナドシケルトゾ。時ノ人思ヒタリケル。

カクテ二條院当今ニテヲハシマスハ。ソノ十二月廿九日ニ。美福門院ノ御所八條殿ヘ行幸ナリテワタラセ給フ。後白川院ヲバソノ正月六日。八條堀川ノ顕長卿ガ家ニヲハシマサセケルニ。ソノ家ニハ桟敷ノ有ケルニテ。大路御覧ジテ下スナンド召寄ラレケレバ。経宗。惟方ナドサタシテ堀川の桟敷ヲ板ニテ外ヨリムズムズト打ツケテケリ。カヤウノ事ドモニテ大方此二人シテ世ヲバ院ニシラセマイラセジ。内ノ御沙汰ニテアルベシト云ケルヲ聞召テ。院ハ清盛ヲメシテ。ワガ世ニアリナシハコノ惟方。経宗ニアリ。是ヲ思フ程イマシメテマイラセヨトナクナク仰有ケレバ。ソノ御前ニハ法性寺殿モヲハシマシケルトカヤ。清盛又思フヤウドモモ有ケン。
忠景。為長ト云二人ノ郎等シテ。コノ二人ヲカラメトリテ。陣頭ニ御幸ナシテ御車ノ前ニ引スエテ。ヲメカセテマイラセタリケルナド世ニハ沙汰シキ。ソノ有サマハマガマガシケレバカキツクベカラズ。人皆シレルナルベシ。サテヤガテ経宗ヲバ阿波國。惟方ヲバ長門國ヘ流シテケリ。信西ガ子共ハ又数ヲツクシテ召カヘシテケリ。是等カラムルコトハ永暦元年二月廿日ノ事也。コレラ流シケル時。義朝ガ子ノ頼朝ヲバ伊豆國ヘ同ジク流シヤリテケリ。同キ三月十一日ニゾ。コノ流刑ドモハ行ハレケル。惟方ヲバ中小別当ト云名付テ世ノ人云サタシケリ。

サテコノ平治元年ヨリ應保二年マデ三四年ガ程ハ。院。内申シ合ツツ同ジ御心ニテイミジク有ケル程ニ。主上ヲノロイマイラセケル聞ヘ有テ。賀茂ノ上ノ宮ニ御カタチヲカキテ。ノロヒマイラスル事見アラハシテ実長卿申タリケリ。カウナギ男カラメラレタリケレバ。院ノ近習者資賢卿ナド云恪勤ノ人々ノ所為トアラハレニケリ。サテ其六月二日資賢ガ修理ノ大夫解官セラレヌ。又時忠ガ高倉院ノ生レサセ給ヒケル時。妹ノ小弁ノ殿ノウミマイラセケルニ。ユユシキ過言ヲシタリケルヨシ披露シテ。前ノ年解官セラレニケリ。カヤウノ事ドモモユキアイテ。資賢。時忠ハ應保二年六月廿三日ニ流サレニケリ。
サテ長寛二年四月十日。関白〔其実〕中殿。ヲバ清盛ヲサナキムスメニ婿トリ申テ。北政所ニテアリケリ。

サテ主上二條院。世ノ事ヲバ一向ニ行ハセマイラセテ。押小路東洞院ニ皇居造リテヲハシマシテ。清盛ガ一家ノ者サナガラ其辺ニトノ居所ドモ造リテ。朝夕ニ候ハセケリ。イカニモイカニモ清盛モ誰モ下ノ心ニハ。コノ後白川院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバイカガトノミ思ヘリケルニ。清盛ハヨクヨクツツシミテイミジクハカライテ。アナタコナタシケルニコソ。我妻ノヲトト小弁ノ殿ハ院ノヲボエトシテ皇子ウミ参ラセナドシテケレバ。ソレモ下ニ思フヤウドモ有ケン。

サテ後白川院ハ多年ノ御宿願ニテ。千手観世音千躰ノ御堂ヲツクラント思召ケルヲバ。清盛ウケ玉ハリテ備前國ニテ造リテマイラセケレバ。長寛二年十二月十七日ニ供養アリケルニ。行幸アラバヤト思召タリケレド。二條院ハ少シモ思召ヨラヌサマニテ有ケルニ。寺ヅカサノ勤賞申サレケルヲモ沙汰モナカリケリ。親範職事ニテ奉行シテ候ケル御使シケル。コノ御堂ヲバ蓮華王院トツケラレタリ。ソノ御所ニテ御前ヘ召テイカニト被仰ケレバ。親範勅許候ハヌニコソト申タリケレバ。御目ニ涙ヲヒトハタウケテ。ヤヤナンノニクサニニクサニトゾ仰ラレテ親範ガトガトマデ思召サレ候ニシ。ヲソレ候テトゾ親範ハカタリ侍ケル。此御堂ハ真言ノ御師ニテコマノ僧正行慶ハ白川院ノ御子也。三井門流ニタウトキ人ナリシカバ。院ハ偏ニタノミ思召タリケルガ。コトニ沙汰シテ中尊ノ丈六ノ御面相ヲ御手ヅカラ直サレケリ。万ノ事ニ心キキタル人トゾ人ハ云ケル。六宮〔定慧法親王〕ノ御師ナリ。

二條院ハ御出家ノ義ニテ。仁和寺ノ五宮〔覚性法親王〕ヘワタリハジメテヲハシマシケルヲ。王胤ナヲ大切ナリトテトリカヘシテ遂ニ立坊有ケリ。ソノ御ムツビニテ五宮ハ位ノ御時ニ。コノ二條内裏ノ辺ニ三條坊門烏丸ニ壇所手ヅカラツクリテ。朝夕ニヒシト候ハセ給ケレバ萬機ノ御口入モ有ケリ。サテ六宮ノ天王寺別当トリテナラセ給テ。人々イハレサセ給ヒケリ。

サテ應保二年三月七日。又経宗大納言ハ召還サレテ。長寛二年正月廿二日ニ大納言ニカヘリナリテ。後ニハ左大臣一ノ上ニテ多年職者ニモチイラレテゾ候ケル。コノ経宗ノ大納言ハマサシキ京極〔師実〕大殿ノムマゴ也。人ガラ有テ祖父ノ二位大納言経実ニハ似ズ。公事ヨク勤メテ職者ガラモアリヌベカリケレバ。知足院殿〔忠実〕ノ知足院ニ打コメラレテ腰イテヲハシケル。人参リテ常ニ世ノ事ナラヒマイラセケレバ。法性寺殿〔忠通〕ノ方ニハイヨイヨアヤシミ思ヒケリ。世ニハ二條院ノ外舅也。摂 籙モヤナド云和讒トモ有ケレド。イマダコノ科ニハ及バズゾ有ケル。大方世ノ人ノ口ノニクサ。スコシモヨリクルヤウニノミ人ハ物ヲ云也。カヘスガヘス是モ心ウベキ事也。
又惟方ハ後ニ永万二年三月ニゾ召カヘサレタリケル。カクテ過ル程ニ法性寺殿ノヲトムスメ入内立后アリテ。中宮トテヲハシマシシカドモ。ナノメナラヌ覚ヘナガラ。猶御懐妊ハエナカリケリ。サテ二條院ハ又永万元年六月ニオホム病ヲモクテ。二歳ナル皇子ノヲハシマシケル。御母ハ誰トモサダカニ聞ヘズ。コノ皇子ニ御譲位アリテ七月廿二日ニヲホン年二十三ニテカクレサセ給ヒニケリ。

永万元年八月十七日ニ清盛ハ大納言ニナリニケリ。中ノ殿〔基実〕婿ニテ世ヲバイカニモ行イテント思ヒケル程ニ。ヤガテ仁安元年十一月十三日ニ内大臣ニ任ジテ。同二年二月十一日ニ太政大臣ニハノボリニケリ。サル程ニ其年ノ七月廿六日俄ニコノ摂政〔基実〕ノウセラレニケレバ。清盛ノ君コハイカニトイフバカリナキナゲキニテアル程ニ。邦綱トテ法性寺殿ノ近比左右ナキ者ニテ。伊与播磨守中宮亮ナドマデナシテ召ツカフ者アリキ。コノ邦綱ガ清盛公ガ許ニユキテ云ケルヤウハ。コノ殿下ノ御跡ノ事ハ。必シモミナ一ノ人ニツクベキ事ニテモ候ハヌナリ。カタガタニワカレテコソ候シヲ。知足院殿ノ御時ノ末ニコソ一ニナリテ候シヲ。法性寺殿バカリコソ皆スベテオハシマシ候ヘ。コノ北政所殿カクテオハシマス。
又故摂政殿ノ若君モ此御腹ニテコソ候ハネドモ。オハシ候ヘバシロシメサレンニ僻事ニテ候ハジ物ヲト云ケルヲ。アダニ目ヲサマシテ聞悦ビテ。ソノママニ云合セツツ。カギリアルコトドモバカリヲツケテ。左大臣ニテ松殿〔基房〕オハスレバ。左右ナキ事ニテ摂政ニハナサレテ。興福寺。法成寺。平等院。勤学院。又鹿田。方上ナド云所バカリヲ摂 籙ニハツケテ奉リテ。大方ノ家領鎮西ノシマヅ以下。鴨居殿ノ代々ノ日記宝物。東三條ノ御所ニイタルマデ惣領シテ。邦綱北政所ノ御後見ニテ。近衛殿ノ若君ナルヤシナヒテ。世ノ政ハ皆院ノ御沙汰ニナシテ。建春〔滋子〕門院ハ其時小弁殿トテ候ケル。時信ガムスメ。清盛ガ妻ノ弟也ケレバ。コレト一ニトリナシテ。後白河院ノ皇子小弁殿ウミマイラセテモチタリケルヲ。ヤガテ東三條ニワタシ参ラセテ。仁安二年十月十日東宮ニタテマイラセテケリ。清盛ハ同三年二月十一日病ニ沈ミテ出家シテ後ヤミニケリ。

サテ同年四歳ノ内ヲオロシマイラセテ。八歳ノ東宮高倉院。ヲ位ニツケマイラセテケリ。コノ新院ヲバ六條院トゾ申ケル。ソレハ十三ニテ御元服ダニモナクテウセ給ニケリ。邦綱ガムスメ嫡女ヲ御メノトニシタリケリ。大夫三位トテ成頼ガ妻也。成頼入道ガ出家ニハ物語ドモアレド無益也。二ノムスメヲバ又コノ高倉ノ院ノ東宮ノ御メノトニナシテ別当ノ三位ト云ケリ。コノ事カクハカラヒタルメデタサニ。邦綱ハ法性寺殿ハ上階ナドマデハ思召モヨラザリケルニ。ヤガテ蔵人頭ニナシテ三位宰相春宮権大夫ニナシテ。御メノトニテ後ニハ正二位ノ大納言マデナシテケリ。カクテ清盛ガ子共重盛。宗盛左右大将ニナリニケリ。我身ハ太政大臣ニテ。重盛ハ内大臣左大将ニテ有ケル程ニ。院ハ又コノ建春門院ニナリカヘラセ給テ。日本國女人入眼モカクノミ有ケレバ誠ナルベシ。
先ハ皇后宮。後ニ院号國母ニテ。コノ女院宗盛ヲ又子ニセサセ給テケリ。承安元年十二月十四日。コノ平太相國入道ガムスメ〔得子〕ヲ入内セサセテ。ヤガテ同ジ二年二月十日立后中宮トテアルニ。皇子ヲムマセマイラセテ。イヨイヨ帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント思ヒケルニヤ。様々ノ祈ドモシテ有ケルニ。先ハ母ノ二位日吉ニ百日祈リケレドシルシモナカリケレバ。入道云ヤウ。ワレガ祈ルシルシナシ。今見給ヘ祈出デント云テ。安藝國厳嶋ヲコトニ信仰シタリケルニヤ。船ツクリテ月詣ヲ福原ヨリ始メテ祈リケル。六十日バカリノ後御懐妊ト聞ヘテ。治承二年十一月十一日六波羅ニテ皇子誕生思ノ如クアリテ。思フサマニ入道帝ノ外祖ニ成ニケリ。カクテ建春門院ハ安元二年七月八日瘡ヤミテウセ給ヒヌ。

ソノ後院中アレユクヤウニテスグル程ニ。院ノ男ノヲボヘニテ。成親トテ。信頼ガ時アヤウカリシ人流サレタリシモ。サヤウノ時ノ師仲マデ内侍所又カノ請トリタリシ小鈎ナド持テ参リツツ。カヘリテ忠アル由申シカバ。皆カヤウノ者ハ召カヘサレニケル。コノ成親ヲコトニナノメナラズ御寵アリケル。信西ガ時ノ師光。成景ハ西光。西景。トテ殊ニ召ツカヒケリ。康頼ナド云サルガウクルイ者ナドニギニギト召ツカヒテ。又法勝寺執行俊寛ト云者僧都ニナシタビナドシテ有ケルガ。アマリニ平家ノ世ノママナルヲ羨ムカニクムカ。叡慮ヲイカニ見ケルニカシテ。東山辺ニ鹿ノ谷ト云トコロニ静賢法印トテ。法勝寺ノサキノ執行。信西ガ子ノ法師アリケルハ。蓮花王院ノ執行ニテ深ク召ツカヒケル。
萬ノ事思ヒシリテ引イリツツ。マコトノ人ニテアリケレバ。コレヲ又院モ平相國モ用ヒテ。物ナド云アハセケルガ。イササカ山庄ヲツクリタリケル所ヘ。御幸ノナリナリシケル。コノ閑所ニテ御幸ノ次ニ。成親。西光。俊寛ナドアツマリテ。ヤウヤウノ議ヲシケルト云事ノ聞ヘケル。コレハ一定ノ説ハシラネドモ。満仲ガ末孫ニ多田蔵人行綱ト云シ者ヲ召テ。用意シテ候ヘトテ白シルシノ料ニ。宇治布卅段タビタリケルヲモチテ。平相國ハ世ノ事シオホセタリト思テ出家シテ。ツノクニノ福原ト云所ニ常ニハアリケル。ソレヘモテ行テ。カカル事コソ候ヘト告ケレバ。其返事ヲバイハデ。布バカリヲバ取テ。ツボニテ焼ステテ後。京ニ上リテ安元三年六月二日カトヨ。西光法師ヲ呼トリテ八條ノ堂ニテヤ竹ニカケテヒシヒシト問ケレバ皆落ニケリ。白状書セテ判セサセテ。ヤガテ朱雀ノ大路ニ引イデデ頸切テケリ。コノ日ハ山ノ座主明雲ガ方大衆西坂本マデクダリテ。カク罷下リテ侍タルヨシ云タリケリ。
世ノ中ノ人アキレマドヒタル事ニテ侍キ。コノ西光ガ頸キル前ノ日。成親ノ大納言ヲバヨビテ。盛俊ト云力アル郎従盛國ガ子ニテアリキ。ソレシテ抱キテ打フセテ。ヒキシバリテ部屋ニ押籠テケリ。公卿ノ座ニ重盛ト頼盛ト居タリケル所ヘ。何事ニカ召ノ候ヘバ参テ候トテ。諒闇ニテ建春門院母后ニテウセ給テ後ノ事ニテゾ。諒闇ノナヲシニテ。ヨニヨクテキタリケリ。出候ハンニコマカニ見参ハセントテ有ケルヲ。ヤガテカクシテケレバ。重盛モ思モヨラデアキレナガラ。コメタル部屋ノモトニユキテ。小舅ノムツビニヤ。コノ度モ御命バカリノ事ハ申候ハンズルゾト云ケリ。サヤウナリケルニヤ。備前國ヘヤリテ。七日バカリ物ヲクハセテ後。サウナクヨキ酒ヲノマセナドシテヤガテ死亡シテケリ。俊寛ト検非違使康頼トヲバ硫黄ノ嶋ト云所ヘヤリテ。カシコニテ又俊寛ハ死ニケリ。

安元三年七月廿九日ニ讃岐院ニ崇徳院ト云名ヲバ宣下セラレケリ。カヤウノ事ドモ怨霊ヲヲソレタリケリ。ヤガテ成勝寺御八講。頼長左府ニ贈正一位太政大臣ノヨシ宣下ナド有ケリ。サテ又此年京中大焼亡ニテ。ソノ火大極殿ニ飛付テ焼ニケリ。コレニ依テ改元治承トアリケリ。入道カヤウノ事ドモ行ヒチラシテ。西光ガ白状ヲ持テ院ヘ参リテ。右兵衛督光能卿ヲ呼出シテ。カカル次第ニテ候ヘバカク沙汰シ候ヒヌ。是ハ偏ニ為世為君ニ候。我身ノタメハ次ノ事ニテ候トゾ申ケル。扨ヤガテ福原ヘ下リニケリ。
下リザマノ出タチニテ 参リタリケリ。コレヨリ院ニモ光能マデモ。コハイカニ世ハナリヌルゾト思ヒケル程ニ。小松内府重盛治承三年八月一日ウセニケリ。コノ小松内府ハイミジク心ウルハシクテ。父入道〔清盛〕ガ謀反心アルトミテトク死ナバヤナド云ト聞ヘシニ。イカニシタリケルニカ。父入道ガ教ニハアラデ。不可思議ノ事ヲ一ツシタリ。子ニテ資盛トテ有シヲバ。基家中納言ムコニシテアリシ。サテ持明院ノ三位中将トゾ申シ。ソレガムゲニ若カリシトキ松殿〔其房〕ノ摂 籙臣ニテ御出アリケルニ。忍ビタルアリキヲシテアシクイキアヒテ。ウタレテ車ノ簾キラレナドシタル事ノ有シヲ。深クネタク思テ。関白〔其房〕嘉應二年十月廿一日高倉院御元服ノ定ニ参内スル道ニテ。武士等ヲマウケテ前駈ノ本鳥ヲ切テシ也。コレニヨリテ御元服定ノビニキ。サル不思議有シカド世ニ沙汰モナシ。次ノ日ヨリ又松殿モ出仕ウチシテアラレケリ。
コノ不思議コノ後ノチノ事共ノ始ニテ有ケルニコソ。コノ松殿ハ摂籙ノ後。年比ノ北方三條ノ内大臣公教ノムスメニ婿トラレテ。其子共実房。実國ナド云人々ドモシテ沓トリ簾モタゲテ。法性寺殿ノ存日ヨリノ事ニテイミジカリケルヲ。花山大相國忠雅ムスメヲモチタリケル。摂 籙ノ北政所ニナシタガリテ。婿ニトリ申テケリ。世間ノユユシキ沙汰ニテ。最愛ノ中ニナリテ。師家ト云子ウミテ。八歳ニテ中納言ニナシテ。カカル事ドモ出キニケリ。其後ハワザト殿下御出トテアレバ。実房ハ直衣ノ袖中門廊ノ妻戸ニサシ出スヤウニテ。无愛ニノミフルマイケレバ。アレミヨナド人云ケリ。兼雅ハ又カハリテ。ソノタウコソハ家禮ハシケメ。アハレタダ器量ト云モノ一コソ大切ナレ。サテ白川殿ト云シ北政所モ。延勝寺ノ西ニイミジク家造リテアリシモ。治承三年六月十七日ウセラレニケリ。
是ハ中一年アリテ小松内府ハ八月一日ウセテ後。カレガ年比シリケル越前國ヲ。入道〔清盛〕ニモトカクノ仰モナクテ左右ナクメサレニケリ。又白河殿ウセテ一ノ所ノ家領文書ノ事ナド松殿申サルル旨有ケリ。院モヤウヤウ御沙汰ドモ有ケリナド聞テ。ヲトトシノ事ドモフカクキザシテノ上ニ。イカナルコノ外ノヤウカアリケン。入道〔清盛〕福原ヨリ武者ダチテニハカニノボリテ。我身モ腹巻ハヅサズナド聞エキ。カクシテ同キ治承三年十一月十九日ニ解官ノ除目。同廿一日ニ任官除目ト云モノヲ行ヒテ。コノ近衛殿ノ二位〔基通〕中将トテ年ハ廿ニテアリシヲ。一度ニ内大臣ニナシテキ。重盛ガ内大臣闕イマダナラザリシ所也。サテヤガテ関白内乱ノ臣ニナシテキ。
九條ノ大臣兼実ハ右大臣ニテ法性寺殿ノ三男。ササイナクテ。天下ノ事預顧問テ。兵杖ノ大臣ニテ候ハレシヲコヘテ。シカモ此右大臣ニ殊ニ扶持シ給ヘトテ。子ノ二位中将良通トテ十二ニテアリシヲ。一度ニ此除目ニ中納言ノ右大将ニナシナドシテ。ヤガテ関白ヲバ備前國ヘ流ストモナク。邦綱ガ沙汰ニテ下シ申ケレバ。俄ニ鳥羽ニテ大原ノ本覚房ヨビテ出家セラレニケリ。院ノ近習ノ輩散散ニ國々ヘヤリテ。ヤガテ院ヲバソノ廿日鳥羽殿ニ御幸ナシテ。人ヒトリモツケマイラセズ。僅ニ瑯慶ト云僧一人ナド候ハスル躰ニテ置マイラセテ。後ニ御恩ヒ人浄土寺ノ二位ヲバ其時ハ丹後ト云シ。ソレバカリハマイラセラレタリケリ。

同〔治承〕四年五月十五日ニ。高倉ノ宮〔以仁王〕トテ。院ノ宮〔後白河〕ニ高倉ノ三位〔成子〕トテヲボエセシ女房ウミマイラセタル御子ヲハシキ。諸道ノ事沙汰アリテ王位ニ御心カケタリト人思ヒタリキ。コノ宮ヲサウナク流シマイラセントテ。頼政源三位ガ子ニ兼綱ト云検非違使ヲ追ツカヒニマイラセテ。三條高倉ノ御所ヘ参レリケルヲ。トニ逃サセ給テ。三井寺ニ入セ給タリケルヲ。寺法師ドモモテナシテ道々切フタギタリケルニ。頼政ハモトヨリ出家シタリケルガ。近衛河原ノ家ヤキテ仲綱伊豆守。兼綱ナド具シテ参リニケリ。宮ヲニガシ参ラセタル一スヂニヤトゾ人ハ思ヘリケル。コハイカニト天下ハ只今只今トノノジリキ。サテタダヘテヲハシマスベキナラネバ。落テ吉野ノ方ヘ奈良ヲサシテヲハシマシケル。頼政三井寺ヘ廿二日ニ参リテ。寺ヨリ六ハラヘ夜打出シタテテアルホドニ。ヲソクサシテ松坂ニテ夜明ニケレバ。コノ事ノトゲズシテ。廿四日ニ宇治ヘ落サセ給テ。一夜ヲハシマシケル。
廿五日ニ平家ヲシカケテ攻寄テ戦ヒケレバ。宮ノ御方ニハタダ頼政ガ勢誠ニスクナシ。大勢ニテ馬イカダニテ宇治川ワタシテケレバ。何ワザヲカハセン。ヤガテ仲綱ハ平等院ノ殿上ノ廊ニ入テ自害シテケリ。ニエ野ノ池ヲスグル程ニテ。追ツキテ宮ヲバ打トリマイラセテケリ。頼政モウタレヌ。宮ノ御事ハタシカナラズトテ御頸ヲ萬ノ人ニ見セケル。御学問ノ御師ニテ宗業アリケレバ。召テ見セラレナンドシテ一定ナリケレバ。サテアリケル程ニ。宮ハイマダヲハシマスナド云事云ヒ出シテ。不可思議ノ事ドモ有ケレド。信ジタル人ノヲコニテヤミニキ。サテヤガテ寺ヘハ武士イレテ堂舎ヲノゾキテ房々ハ多ク焼ハラハセテキ。

サテ宮ノ三井寺ヨリ奈良へヲハシマス事ハ。奈良。吉野ノ方ニ請取マイラセント支度シタリケレバ。フカクヤスカラヌ事ニシテ。南都ヲ追討セントテ公卿僉議ヲコナヒケリ。隆季。通親ナド云公卿一スヂニ。平禅門ニナリカヘリタリケレバ。サルベキヨシ申ケルヲ。左右大臣ニテ経宗。兼実多年ナラビテヲハシケル。右大臣思ヒキリテ。一定謀反ノ證拠ナクテサウナクサ程ノ寺ヲ追討ハサラニエ候ハジ。就中春日大明神日本第一守護ノ神明也。王法仏法如牛角不可被滅之由愚詞ヲ申サレニケレバ。左大臣経宗ハ昔ノナラヒニヲソレテヨモ是ニ同セジト人思ヘリケルニ。右大臣申サルル旨一言アダナラズ。ヒシト是ニ同ジ申ト申タリケレバ。サスガニ左右大臣申サルル旨然ルベシトテ其時ハヤミニケリ。

又治承四年六月二日忽ニ都ウツリト云事行ヒテ。都ヲ福原ヘ遷テ行幸ナシテ。トカク云バカリナキ事ドモニナリニケリ。乍去サテ有ベキ事ナラネバ。又公卿僉議行ヒテ。十一月廿三日還都アリテ。少シ人モ心ヲチイテ有ケルニ。猶十二月廿八日ニ遂ニ南都ヘヨセテ焼払ヒテキ。ソノ大将軍ハ三位中将重衡也。アサマシトモ事モヲロカ也。長方中納言ガ云ケルハ。コハイカニト思ヒシニ。更ニ公卿僉議トテ有シニカヘリナント思フヨト推知シテシカバ放詞。サテヨカルベキ由申テキトゾ云ケル。

サテカウ程ニ世ノ中ノ又ナリユク事ハ。三條宮〔以仁王〕寺ニ七八日ヲハシマシケル間。諸國七道ヘ宮ノ宣トテ武士ヲ催サルル文ドモヲ。書チラカサレタリケルヲモテツキタリケルニ。伊豆國ニ頼義朝ガ子頼朝兵衛佐トテアリシハ。世ノ事ヲフカク思テアリケリ。平治ノ乱ニ十三ニテ兵衛佐トテアリケルヲ。其乱ハ十二月也。正月ニ永暦ト改元アリケル。二月九日頼盛ガ郎等ニ右兵衛尉平宗清ト云者有ケルガ。求メ出シテマイラセタリケル。コノ頼盛ガ母〔池の禅尼〕ト云ハ修理権大夫宗兼ガムスメ也。イヒシラヌ程ノ女房ニテアリケルガ。夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者ナリケルガ。保元ノ乱ニモ頼盛ガ母ガ新院〔崇徳〕ノ一宮ヲヤシナヒマイラセケレバ。新院ノ御方ヘマイルベキ者ニテ有ケルヲ。コノ事ハ一定新院ノ御方ハ負ナンズ。勝ベキヤウモナキ次第也トテ。ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレト教ヘテ有ケル。
カヤウノ者ニテコノ頼朝ハアサマシクヲサナクテイトヲシキ氣シタル者ニテ有ケルヲ。アレガ頸ヲバイカガハ切ランズル。我ニユルサセ給ヘトナクナク乞ウケテ。伊豆ヘハ流刑ニ行ヒテケル也。物ノ始終ハ有興不思議也。其時モカカル又打カヘシテ世ノ主トナルベキ者也ケレバニヤ。頼盛ヲモフカクタノミタル氣色ニテ有ケルナリケリ。コノ頼朝コノ宮ノ宣旨ト云物ヲモテ来リケルヲ見テ。サレバヨコノ世ノ事ハサ思シモノヲトテ心ヲコリニケリ。又光能卿院ノ御氣色ヲミテ。文覚トテ余リニ高雄ノ事ススメスゴシテ伊豆ニ流サレタル上人アリキ。ソレシテ云ヤリタル旨モ有ケルトカヤ。但是ハ僻事也。文覚。上覚。千覚トテ具シテアルヒジリ流サレタリケル中。四年同ジ伊豆國ニテ朝夕ニ頼朝ニナレタリケル。其文覚サカシキ事共ヲ。仰モナケレドモ。上下ノ御○此下恐らく脱文。ノ内ヲサグリツツイヒイタリケル也。

サテ治承四年ヨリ事ヲ起シテ打出ケルニハ。梶原平三景時。土肥次郎実平。舅ノ伊豆ノ北條四郎時政。コレラヲ具シテ東國ヲ打従ヘントシケル程ニ。平家世ヲ知テ久シクナリケレバ。東國ニモ郎等多カリケル中ニ。畠山庄司。小山田別当ト云者兄弟ニテ有ケリ。コレラハソノ時京ニアリケレバ。ソレラガ子共ノ庄司次郎ナド云者共ノ押寄テ戦ヒテ。箱根ノ山ニ逐コメテケリ。頼朝鎧ヌグ程ニナリニケレバ。実平フルキ者ニテ。大将軍ノ鎧ヌガセ給フハヤウアル事ゾカシトテ。松葉ヲキリテ鎧ノ下ニシカセテ。カブトヲ取テ上ニ置ナンドシテ。イミジキ事ドモフルマヒケルトカヤ。カクテコレラ具シテ船ニ乗テ。上総介ノ八郎廣経ガ許ヘ行テ勢ツキニケル後ハ。又東國ノ者皆従ヒニケリ。三浦党ハ頼朝ガリキケル道ニテ畠山トハ戦ヒタリケリ。ソレヨリ一所ニアツマリニケリ。

北國ノ方ニハ帯刀先生義賢ガ子ニテ木曾冠者義仲ト云者ナドヲコリアヒケリ。宮ノ御子ナド云人下リテヲハシケリ。清盛ハ三條ノ以仁ノ宮ウチトリテ。彌心ヲゴリツツ。カヤウニシテアリケレド。東國ニ源氏起リテ國ノ大事ニナリニケレバ。小松〔重盛〕内府ノ嫡子三位中将維盛ヲ大将ニシテ。追討ノ宣旨下シテ頼朝ウタントテ。治承四年九月廿一日下リシカバ。人見物シテ有シ程ニ。駿河ノ浮嶋ガ原ニテ合戦ニダニ及バデ。東國ノ武士具シタリケルモ。皆落テ敵ノ方ヘユキニケレバ。帰リ上リケルハ逃マドヒタル姿ニテ京ヘ入ニケリ。其後平相國入道ハ同五年閏二月五日。温病大事ニテ程ナク薨逝シヌ。其後ニ法皇ニ國ノ政ノカヘリテ。内大臣宗盛ゾ家ヲツギテ沙汰シケル。

高倉院ハ先立テ正月十四日ニウセ給ヒニキ。カクテ日ニソヘテ東國。北陸道皆フタガリテ。コノイクサニカタン事ヲ沙汰シテ有ケレド。上下諸人ノ心ミナ源氏ニ成ニケリ。次第ニ攻寄ル聞ヘドモ有ナガラ。入道ウセテ後。寿永二年七月マデハ三年ガ程過ケルニ。先ヅ北陸道ノ源氏進ミテ近江國ニミチミチケリ。是ヨリサキ越前ノ方ヘ家ノ子ドモヤリタリケレド。散々ニ追カヘサレテヤミニケリ。トナミ山ノイクサトゾ云フ。カカリケル程ニ七月廿四日ノ夜事火急ニナリテ。六波羅ヘ行幸ナシテ。一家ノ者ドモ集マリテ。山科ガタメニ大納言頼盛ヲヤリケレバ再三辞シケリ。頼盛ハ治承三年冬ノ比アシザマナル事ドモ聞エシカバ。ナガク弓箭ノミチハステ候ヌル由故入道殿ニ申テキ。遷都ノ比奏聞シ候キ。
今ハ如此事ニハ不可供奉ト云ケレド。内大臣宗盛不用シテセメフセラレケレバ。ナマジヒニ山科ヘ向ヒテケリ。カ様ニシテケフアス義仲東國ノ武田ナド云者モ入ナンズルニテ有ケレバ。サラニ京中ニテ大合戦アランズルニテヲノノキアヒケル程ニ。廿四日ノ夜半ニ法皇ヒソカニ法住寺殿ヲ出サセ給ヒテ。鞍馬ノ方ヨリマハリテ横川ヘノボラセヲハシマシテ。近江ノ源氏ガリ此由仰ツカハシケリ。タダ北面下揀jトモヤス鼓ノ兵衛ト云男御輿カキナンドシテゾ候ケル。暁ニコノ事アヤメ出シテ六波羅サハギテ。辰巳午両三時バカリニ。ヤウモナク内ヲ具シマイラセテ。内大臣宗盛一族サナガラ鳥羽ノ方ヘ落テ。船ニ乗リ四國ノ方ヘ向ヒケリ。六波羅ノ家ニ火カケテ焼ケレバ。京中ニ物ドリト名付タル者イデキテ。火ノ中ヘアラソヒ入テ物トリケリ。
ソノ中ニ頼盛ガ山科ニアルニモ告ザリケリ。カクト聞テ先子ノ兵衛佐為盛ヲ使ニシテ鳥羽ニ追付テイカニト云ケレバ。返事ヲダニモエセズ。心モウセテミエケレバ。ハセ帰リテソノ由云ケレバ。ヤガテ追様ニ落ケレバ。心ノ中ハトマラント思ヒケリ。又コノ中ニ三位中将資盛ハ其比院ノヲボエシテサカリニ候ケレバ。御氣色ウカガハント思ケリ。コノ二人鳥羽ヨリ打カヘリテ法住寺殿ニ入居ケレバ。又京中地ヲカヘシテ有ケルガ。山ヘ二人ナガラ事ノ由ヲ申タリケレバ。頼盛ニハサ聞食ツ。日比ヨリサ思食キ。忍テ八條院辺ニ候ヘト御返事承リニケリ。元ヨリ八條院ノヲヂノ宰相ト云寛雅法印ガ妻ハシウトメナレバ。女院ノ御ウシロミニテ候ケレバ。サテトマリニケリ。資盛ハ申入ル者モナクテ御返事ヲダニ聞カザリケレバ。又落テ相具シテケリ。
サテ廿五日東塔円融房ヘ御幸ナリテアリケレバ。山ヘハ上リナガラ参ラザリケリ。サテ京ノ人サナガラ摂籙ノ近衛〔基通〕殿ハ一定具シテ落ヌラント人ハ思ヒタリケルモ。チガヒテトドマリテ山ヘ参リニケリ。松〔基房〕殿入道モ九條〔兼実〕右大臣モ皆ノボリ集マリケリ。其刹那京中ハ互ニツイブクヲシテ物モナク成ヌベカリケレバ。残ナク平氏ハ落ヌ。ヲソレ候マジニテ。廿六日ノツトメテ御下京有ケレバ。近江ニ入タル武田先参リヌ。ツヅキテ又義仲ハ廿六日ニ入ニケリ。六條堀川ナル八條院ノハハキ尼ガ家ヲ給リテ居ニケリ。

カクテヒシメキテ有ケル程ニ。イカサマニモ國王ハ神璽寶劔内侍所相具シテ西國ノ方ヘ落給ヒヌ。コノ京ニ國主ナクテハイカデカアラント云沙汰ニテアリケリ。父法皇ヲハシマセバ西國王安否ノ後歟ナドヤウヤウニ沙汰アリケリ。コノ間ノ事ハ左右大臣。松殿入道ナド云人ニ仰合ケレド。右大臣〔兼実〕ノ申サルル旨コトニツハビラカ也トテ。ソレヲゾ用ヒラレケル。サテイカニモイカニモ践祚ハ有ベシトテ。高倉院ノ王子三人ヲハシマス。一人ハ六波羅ノ二位養ヒテ船ニ具シ参ラセテアリケリ。イマ二人ハ京ニヲハシマス。ソノ御中ニ三宮。四宮ナルヲ法皇ヨビ参ラセテ。見マイラセラレケルニ。四宮御ヲモギラヒモナクヨビヲハシマシケリ。又御ウラニモヨクヲハシマシケレバ。四宮ヲ寿永二年八月廿日御受禅行ハレニケリ。
ヨロヅ新儀ドモナレド仰合ツツ。右大臣コトニ申ヲコナヒテ。國王ココニ出キサセヲハシマシテ。世ハサレバイカニ落居ナンズルゾト。日本國ノナレル様今ハカウニコソトテ。摂 籙臣コソ如此事ハサタスルコトヲ。山ヨリクダラセ給フママニ。近衛殿摂籙モトノ如シト被仰ニケリ。一定平氏ニ具シテ落ベキ人ノトマリタレバニヤ。又イカナルヤウカ有ケン。サレド近衛殿ハカヤウノ事申サタスベキ人ニモアラズ。少シモヲボツカナキ事ハ右大臣ニ問ツツコソヲハシケレバ。タダ名バカリノ事ニテ。庄薗文書ママ母ノ我ヨリモ。弟ナリシガ手ヨリエタル由ニテ。清盛ニカクシナサレタル人ニテ有ガ。猶カクテアラハルル。
イカニモイカニモ人ハ心エヌコトニテ有シヲバ皆心得ラレタリ。カウ程ニミダレン世ハ何事モイハレタル事ハ有マジキ時節ナルベシ。大方摂籙臣始マリテ後。是程ニ不中用ナル器量ノ人ハイマダナシ。カクテコノ世ハウセヌル也。贈左大臣範季ノ申シケルハ。スデニ源氏ハ近江國ニミチテ六波羅サハギ候之時。院ハ今熊野ニ籠ラセ給テ候シニ。近習ニメシツケラレテ候シカバ。ヒマノ候シニ。イカニモイカニモ今ハ叶候マジ。東國武士ハ夫マデモ弓箭ニタヅサヒテ候ヘバ。コノ平家カナヒ候ハジ。チガハセヲハシマス御沙汰ヤ候ベカラント申テ候シカバ。エマセヲハシマシテ。イマソノ期ニコソハト仰ノ候シト語リケリ。モトヨリノ御案ナリケリ。
コノ範季ハ後鳥羽院ヲ養ヒマイラセテ。践祚ノ時モヒトヘニ沙汰シマイラセシ人也。サテ加階ハ二位マデシタリシカドモ。当今〔順徳〕ノ母后〔重子〕ノテテナリ。サテ贈位モタマハレリ。範季ガメイ〔範子〕刑部卿ノ三位ト云シハ能円法師ガ妻也。能円ハ土御門院ノ母后承明門院〔在子〕ノ父ナリ。コノ僧ノ妻ニテ刑部卿三位ハアリシソノ腹也。ソノ上御メノトニテ候シカドモ。能円ハ六波羅ノ二位ガ子ニシタル者ニテ。御メノトニモナシタリキ。落シ時相具シテ平氏ノ方ニアリシカバ。其後ハ刑部卿ノ三位モヒトヘニ範季ヲヂニカカリテアリシ也。ソレヲ通親内大臣又思テ。子ヲイクラトモナクムマセテ有キ。故卿〔兼子〕ノ二位ハ刑部卿三位ガ弟ニテ。ヒシト君ニツキ参ラセテ。カカル果報ノ人ニナリタル也。

カヤウニテスグル程ニ。コノ義仲ハ頼朝ヲ敵ニ思ヒケリ。平氏ハ西海ニテ京ヘ帰リイラント思ヒタリ。コノ平氏ト義仲ト云カハシテ。一ニナリテ関東ノ頼朝ヲセメント云事出キテ。ツツヤキササヤキナドシケル程ニ。是モ一定モナシナドニテ有ケルニ。院ニ候北面ノ下摎F康。公友ナド云者。ヒタ立ニ武士ヲ立テ。頼朝コソ猶本躰トヒシト思テ。物ガラモサコソ聞ヘケレバ。ソレヲヲモハヘテ頼朝ガ打ノボラン事ヲマチテ。又義仲何事カハト思ケルニテ。法住寺殿院御所ヲ城ニシマハシテヒシトアフレ。源氏山々寺々ノ者ヲ催シテ。山ノ座王明雲参リテ山ノ悪僧具シテヒシトカタメテ候ケルニ。義仲ハ又今ハ思ヒキリテ。山田。樋口。楯。根ノ井ト云四人ノ郎従有ケリ。
我勢落ナンズ。落ヌサキニトヤ思ヒケン。寿永二年十一月十九日ニ。法住寺殿ヘ千騎内五百余騎ナントゾ云ケル程ノ勢ニテハタト寄テケリ。義仲ガ方ニ三郎先生ト云源氏有ケルモ。カク成ニケレバ皆御方ヘ参リタリケルガ。猶義仲ニ心ヲアハセテ最勝光院ノ方ヲカタメタリケル。山ノ座主ガ方ニ在ケルガ内ヨリ。座主ノ兵士ナニバカリカハアランヲ。ヒシヒシト射ケルホドニ。ホロホロト落ニケリ。散散ニ追チラサレテ。然ルベキ公卿殿上人宮ナニカ皆武士ニトラレニケリ。殿上人巳上ノ人ニハ美濃守信行ト云者ゾ当座ニ殺サレニケル。其外ハ死去ノ者ハ上揀Uマニハサスガニナカリケリ。サルヤウナル武士モ皆ニゲニケリ。院ノ御幸ハ清浄光院ノ方ヘナリタリケリ。武士参リテウルハシク六條ノ木曾ガ六條ノカタハラニ信成ガ家アルニスエ参ラセテケリ。当時ノ六條殿ハ是也。サテ山ノ座主明雲。寺ノ親王八條宮〔円慧法親王〕ト云院ノ御子コレ二人ハウタレ給ヌ。
明雲ガ頸ハ西洞院河ニテ求メ出テ顕真トリテケリ。カカリケル程ニソレニ具シテ見タル者ノ申ケルハ。ワガカタメタル方落ヌト聞テ。御所ニ候ケルガ。長絹ノ衣ニ香ノ袈裟ゾキタリケル。輿カキモ何モカナハデ。馬ニノセテ弟子少々具シテ。蓮華王院ノ西ノツイヂノキハヲ南ザマヘ逃ケルニ。ソノ程ニテヲホク射カケケル矢ノ鞍ノシヅワノ上ヨリ腰ニ立タリケルヲ。ウシロヨリ引ヌキケル。ククリメヨリ血流レ出デケリ。サテ南面ノスエニ田井ノアリケル所ニテ馬ヨリ落ニケリ。武者ドモ弓ヲ引ツツ追ユキケリ。弟子ニ院ノ宮。後ニハ梶井宮〔承仁法親王〕トテキト座主ニナラレタリシハ。十五六ニテ有ケルガ。カシコクワレハ宮ナリト名ノラレケレバ。生ドリニ取テ武者ノ小家ニ唐櫃ノ上ニスエタリケリトゾ聞ヘシ。

八條宮〔円慧法親王〕ハ具シタリケル人アシク。衣袈裟ナンドヲヌガセ申テ。紺ノ帷子ヲキセ奉リタリケレバ。走リカカリテ武者ノキラントシケルニ。ウシロニ少将房トテチカクツカハレケル僧ハ。院ノ御所ニ候源馬助俊光ト云ガ兄也。ソノ僧ノ兄ト云テ手ヲヒロゲタリケル。カイナヲ打落スマデハ見キト申者有ケリ。山座主ガ首ヲトリテ木曾ニカウカウト云ケレバ。ナンデウサル者ト云ケレバ。タダ西洞院川ニステタリケルナメリ。院ノ御前ニ御室〔守覚法親王〕ノヲハシケル。一番ニ逃給ヒニケリ。口惜キ事也トゾ人申シ。明雲ハ山ニテ座主アラソイテ快修トタタカイシテ。雪ノ上ニ五仏院ヨリ西塔マデ四十八人コロサセタリシ人也。
スベテ積悪ヲヲカル人也。西光ガ頸キラルル日ハ。山大衆西坂本ニ下リテコレマデ候ナドイハセテ。平入道ハ庭ニ畳シキテ。大衆大ダケヘカヘリノボラセ給フ火ノミエ候シマデハ。ヲガミ申候キナド云ケルトゾ聞ヘシ。カヤウニテ今日ハ又コノ武者シテ候事コハイカニト。サスガ二世ノ末ニモフカクカタブク人多カリケリ。寺ノ宮ハ尊星王法ヲコナハレケリ。院事ヲハシマスベクバ替リマイラセント祭文ニカカレタリケリトゾ申シ。又三條宮〔以仁王〕寺ニヲハセシヲ。追出ス方ノ人ナリキナドモ申キ。イカニモイカニモコノ院ノ木曾ト御戦ハ天狗ノシワザ疑ナキ事也。是ヲシヅムベキ仏法モカク人ノ心ノワロクキハマリヌレバ。利生ノウツハ物ニアラズ。術ナキ事也。

サテ義仲ハ。松〔基房〕殿ノ子十二歳ナル中納言〔師家〕。八歳ニテ中納言ニナラレテ八歳ノ中納言ト云異名有シ人ヲ。ヤガテ内大臣ニナシテ摂政長者ニナリ。又大臣ノ闕モナキニ。実定ノ内大臣ヲ暫トテカリテナシタレバ。世ニハカルノ大臣ト云異名又ツケテケリ。サテ松殿世ヲオコナハルベキニテ有キ。サシモ平家ニウシナハレ給テシカバ。コノ時ダニモナド云心ニコソ。サテ除目ヲコナヒテ善政トヲボシクテ。俊経宰相ニナシナドシテアリシ程ニ。カカル次第ナレバ。一ノ所ノ家領文書ハ松殿皆スベテサタセラルベキニテ。近衛〔基道〕殿ハホロホロトナリヌルニテ有ケレバ。法皇ノ近衛殿ヲイカニモイカニモイトヲシキ人ニ思ハセ給テ。賀陽院方ノ領ト云ハ。近衛殿ノテテノ中〔基実〕殿賀陽院ノ御子ニナリテ伝ヘ給ヘル方ナレバ。ソレバカリヲバ近衛殿ニユルサルベシヤト。
其世ニモ猶院ヨリ仰ラレタリケルヲ。シカルベカラヌヤウニ返事ヲ申サレタリケル。クチヲシク思召タリケル也。松殿ナンド程ノ人モ。カクテ木曾ガ世ニテ世ヲナガクシランズト思シケルニヤト。返々口惜キ事也。九條殿ハウルセクソノ時トリ出サレズシテ。松殿ニナリケルヲバ。事ガラモ十二歳ノヲモテ方コソアサマシケレト。松殿ノ返リナリタルニテコソアレ。イミジイミジトテ。我レノガレタルヲバ仏神ノタスケト悦バレケリ。

カカル程ニヤガテ次ノ年正月ノ廿日。頼朝コノ事キキテ。弟ニ九郎〔義経〕ト云ヒシ者ニ。土肥実平。梶原景時。次官親能ナド云者サシノボセタルガ。左右ナク京ヘ打入テ。ソノ日ノ中ニ打勝テ頸トリテキ。ソノ時スデニ坂東武者セメ上ルト聞テ。義仲ハ郎等ドモヲ勢多。宇治。淀ナンドノ方ヘチラシテフセガセント。手ビロニクハダテテ有ケルホドニ。ススドニ宇治ノ方ヨリ九郎。親能ハセ入テ川原ニ打立タリト聞テ。義仲ハワヅカニ四五騎ニテカケ出タリケル。ヤガテ落テ勢多ノ手ニ加ハラント大津ノ方ヘ落ケルニ。九郎追カケテ大津ノ田中ニ追ハメテ。伊勢三郎ト云ケル郎等。打テケリト聞ヘキ。頸モチテ参リタリケレバ。法皇ハ御車ニテ御門ヘイデデ御覧ジケリ。

サテ平氏宗盛内大臣ハ。我主ト具シ奉リテ。義仲ト一ニナランズルシタクニテ。西國ヨリ上洛セシメテ。福原ニツキテアリケル程ニ。同寿永三年二月六日ヤガテ此頼朝ガ郎従等押カケテ行ムカイテケリ。ソレモ一ノ谷ト云フ方ニ。カラメ手ニテ。九郎ハ義経トゾ云シ。後ノ京極〔良経〕殿ノ名ニカヨヒタレバ。後ニハ義顕トカヘサセラレニキ。コノ九郎ソノ一ノ谷ヨリ打入テ。平家ノ家ノ子東大寺ヤキシ大将車重衡生ドリニシテ。其外十人バカリソノ日打取テケリ。教盛中納言ノ子ノ通盛。三位忠度ナド云者ドモナリ。サテ船ニマドイ乗テ宗盛又落ニケリ。

其後ヤガテ寿永三年四月十六日ニ。崇徳院并ニ宇治〔頼長〕贈太政大臣寶殿ツクリテ社壇春日河原保元戦場ニシメラレテ。範季朝臣奉行シテ霊蛇出キタリ。又預ニナサレタル神祇権大副ト部兼友夢相アリナンド聞ヘキ。コノ事ハコノ木曾ガ法住寺イクサノ事。偏ニ天狗ノ所為ナリト人思ヘリ。イカニモコノ新院〔崇徳〕ノ怨霊ゾナド云事ニテ。タチマチニコノ事出キタリ。新院ノ御ヲモイ人ノ烏丸殿トテアリシイマダイキタリケレバ。ソレモ御影堂トテ綾小路河原ナル家ニツクリテ。シルシドモ有リトテヤウヤウノ沙汰ドモアリキ。

カヤウニテ平氏ハ西國ニ海ニウカビツツ國々領シタリ。坂東ハ又アキタレド未落居。京中ノ人アザミナゲキテアル程ニ。元暦二年三月廿四日ニ船イクサノ支度ニテ。イヨイヨカクト聞テ頼朝ガ武士等カサナリ来リテ西國ニヲモムキテ。長門ノ門司関ダンノ浦ト云フ所ニテ船ノイクサシテ。主上〔安徳〕ヲバムバノ二位宗盛母。イダキマイラセテ。神璽寶劔トリ具シテ海ニ入リニケリ。ユユシカリケル女房也。内大臣宗盛以下数ヲ尽シテ入海シテケル程ニ。宗盛ハ水練ヲスル者ニテ。ウキアガリウキアガリシテ。イカント思フ心ツキニケリ。サテ生ドリニセラレヌ。主上ノ母后建禮門院ヲバ海ヨリトリアゲテ。トカクシテイケ奉リテケリ。神璽内侍所ハ同キ四月廿五日ニカヘリイラセ給ニケリ。寶劔ハ海ニシヅミヌ。其シルシノ御ハコハウキテ有ケルヲ。武者トリテ尹明ガムスメノ内侍ニテ有ケルニ見セナンドシタリケリ。
内侍所ハ大納言時忠トテ二位ガセウト有リキ。具シテアル者ドモノ中ニ。時信子ニテ仕ヘシ者ニテ。サトシキ事ノミシテ。タビタビ流サレナンドシタリシ者取テ持タリケリ。コレ皆トリ具シテ京ヘ上リニケリ。二宮モトラレサセ給テ上西門院〔統子内親王〕ニ養ハレテゾヲハシケル。寶劔ノ沙汰ヤウヤウニ有シカド。終ニエアマモカツギシカネテ出デコズ。其間ノ次第ハイカニトモ書尽スベキ事ナラズ。タダヲシハカリツベシ。大事ノフシブシナラヌ事ハソノ詮モナケレバ書落ス事ノミ有リ。其後此主上ヲバ安徳天皇トツケ申タリ。海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。安藝ノ厳嶋ノ明神ノ利生也。コノ厳嶋ト云フハ龍王ノムスメ也ト申伝ヘタリ。コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ。我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。サテハテニハ海ヘ帰リヌル也トゾ。コノ子細シリタル人ハ申ケル。コノ事ハ誠ナラント覚ユ。

抑コノ寶劔ウセハテヌル事コソ。王法ニハ心ウキコトニテ侍レ。是ヲモ心得ベキ道理定メテアルラント案ヲメグラスニ。是ハヒトヘニ今ハ色ニアラハレテ。武士ノ君ノ御マモリトナリタル世ニナレバ。ソレニカヘテウセタルニヤト覚ユル也。ソノ故ハ太刀ト云フ劔ハコレ兵器ノ本也。コレハ武ノ方ノヲホンマモリ也。文武ノ二道ニテ國主ハ世ヲオサムルニ。文ハ継體守文トテ國王ノヲホン身ニツキテ。東宮ニハ学士。主上ニハ侍讃トテ。儒家トテヲカレタリ。武ノ方ヲバコノヲホン守リニ宗廟ノ神モノチマデ守リマイラセラルル也。ソレニ今ハ武士大将軍世ヲヒシト取テ。國主武士大将軍ガ心ヲタガヘテハ。エヲハシマスマジキ時運ノ色ニアラハレテ出キヌル世ゾト。大神宮八幡大菩薩モユルサレヌレバ。今ハ寶劔モムヤクニナリヌル也。高倉院ヲバ平氏立マイラスル君也。
コノ陛下ノ兵器ノ御守リノ終ニコノヲリカク失ヌル事コソ。アラハニ心エラレテ世ノヤウアハレニ侍レ。大方ハ上下ノ人ノ運命モ三世ノ時運モ。法爾自然ニウツリユク事ナレバ。イミジクカヤウニ思ヒアハスルモイハレズト思フ人モアルベケレド。三世ニ因果ノ道理ト云物ヲヒシトヲキツレバ。ソノ道理ト法爾ノ時運トノモトヨリヒシトツクリ合セラレテ。流レ下リモエノボル事ニテ侍也。ソレヲ智フカキ人ハコノコトハリノアザヤカナルヲヒシト心ヘツレバ。他心智未来智ナドヲエタランヤウニ。少シモタガハズカネテモ知ラルル也。漢家ノ聖人ト云孔子老子ヨリハジメテ。皆コノ定ニカネテ云アツル也。コノ世ニモスコシカシコキ人ノ物ヲ思ヒハカラフハ。随分ニハサノミコソ候ヘ。サル人モチイラルル世ハヲサマリ。サナキ人ノタダサシムカイタル事バカリヲノミサタスル人ノ世ヲトリタル時ハ。世ハタダウセニヲトロヘマカルトコソハウケ玉ハレ。

サテ九郎ハ大夫尉ニナサレテ。生捕ノ宗盛公。重衡ナド具シテ。五月七日頼朝ガリ下リニケリ。二人ナガラ又京ヘノボセテ。内大臣宗盛ヲバ六月廿三日ニ。コノセタノ辺ニテ頸キリテケリ。重衡ヲバマサシク東大寺大仏ヤキタリシ大将軍ナリケリ。カク仏ノ御敵ウチテマイラスルシルシニセントテ。ワザト泉ノ木津ノ辺ニテ切テ。ソノ頸ハ奈良坂ニカケテケリ。前内大臣頸ヲバ使庁ヘワタシケレバ見物ニテ院モ御覧ジケリ。重衡ヲバ頼政入道ガ子ニテ頼兼ト云者ヲソノ使ニサタシノボセテ。東大寺ヘ具シテ行テ切ケリ。大津ヨリ醍醐通リ。ヒツ川ヘイデデ。宇治橋渡リテ奈良ヘユキケルニ。重衡ハ邦綱ガヲトムスメニ大納言スケトテ高倉院ニ候シガ。安徳天皇ノ御メノトナリシニ婿トリタルガアネノ大夫三位ガ。日野ト醍醐トノアハイニ家作リテ有リシニアイグシテ居タリケル。
コノ本ノ妻ノモトニ便路ヲヨロコビテヲリテ。只今死ナンズル身ニテ。ナクナク小袖キカヘナドシテスギケルヲバ。頼兼モユルシテキセサセケリ。大方積悪ノサカリハ是ヲニクメドモ。又カカル時ニノゾミテハキク人カナシミノ涙ニヲボボユル事也。範源法印トテ季通入道ガ子アリキ。天台宗碩学題者ナリ。ソノカミ吉野山ニ通フ事アリケルガ。相人ニテヨク人相スルヲボエアリキ。ソレガ吉野ヨリノボリケルニ。クヌ木原ノ程ニコノ重衡アイタリケレバ。是ハ何事ゾト問セケルニ。カウカウト云ヒケレバ。只今死ナンズト云者ノ相コソヲボツカナケレ。見テント思ヒテ輿ヨリヲリテ。ソノ辺ニ武士ワリゴナンドノ料ニ馬ドモヤスメケル所ニテ。スコシチカクヨリテ見ケルニ。ツヤツヤト死相ミヘズ。
コハイカニト思ヒテ立廻リツツミケレド。エ見出サデ過ニキ。不可思議ノ事哉トコソ申ケレ。相ト云モノハイカナルベキニカ。頼朝カヤウノサタドモ。ヨノ人舌ナキヲシテアフギタリケリ。頼兼ハ頼政ヲツギテ猶大内ノ守護セサセラレキ。久シクモナクテエ思フヤウナラデウセニキ。ソレガ子トテ頼茂ト云者ゾ又ツギテ大内ニ候ケル。カヤウニテ今ハ世ノ中ヲチ居ヌルニヤトオモイシ程ニ。元暦二年七月九日午時バカリナノメナラヌ大地震アリキ。古ノ堂ノマロバヌハナシ。所々ノツイガキクヅレヌハナシ。少シモヨハキ家ノヤブレヌモナシ。山ノ根本中堂以下ユガマヌ所ナシ。事モナノメナラヌ龍王動トゾ申シ。平相國龍ニ成テフリタルト世ニハ申キ。法勝寺九重塔ハアダニハタウレズ傾キテ。ヒエンハ重コトニ皆落ニケリ。
其後九郎ハ検非違使五位尉伊与守ナドニナサレテ。関東ノ鎌倉ノタチヘ下リテ。又帰リ上リナンドシテ後。アシキ心出キニケリ。
サテ頼朝ハ次第ニ國ニアリナガラ加階シテ正二位マデ成ニケリ。サテ平家知行所領カキタテテ。没官ノ所ト名付テ五百余所サナガラツカハサル。東國武蔵。相模ヲハジメテ申ウクルママニタビテケリ。

義仲京中ニ入テトリクビラントセシハジメニ。頼盛大納言ハ頼朝ガリ下リニケリ。二日ノ道コナタヘ頼朝ハムカイテ如父モテナシケル。又頼朝ガイモウトト云女房一人アリケルヲ。大宮権亮能康〔保〕ト云フ人ノ妻ニシテ年来アリケリ。此故ニヨシヤス又妻グシテ鎌倉ヘ下リニキ。カヤウニシカルベキ者ドモ下リアツマリテ。京中ノ人ノ程ドモ何事モヨクヨク頼朝シリニケリ。サテ頼朝ガカハリニテ京ニ候コノ九郎判官。タチマチニ頼朝ヲソムク心ヲヲコシテ。

同文治元年十一月三日。頼朝可追討宣旨給リニケリ。人々ニ被仰合ケレバ。当時ノヲソレニタヘズ。皆可然ト申ケル中ニ。九條〔兼実〕右府一人コソ追討宣旨ナド申事ハ依其罪科候事也。頼朝罪過ナニ事ニテ候ニカ。イマダ其罪ヲシラズ候ヘバ。トカクハカライ申ガタキ由申サレタリケレバ。コノ披露ノ後。頼朝郎従ノ中ニ土佐房ト云フ法師アリケリ。左右ナク九郎義経ガモトヘ夜打ニ入ニケリ。九郎ヲキアイテヒシヒシトタタカイテ。ソノ害ヲノガレニケレド。キスサヘラレテハカバカシク勢モナクテ。宣旨ヲ頸ニカケテ。

文治元年十一月三日西國方ヘトテ船ニノリテ出ニケリト聞ヘシニ。其夜京中コトニサハギケリ。人ヒトリ質ニヤトランズラント思ヒケレドタダゾ落ニケル。川尻ニテ頼朝ガ方ノ郎従ドモヲイカカリテチリヂリニウセニケリ。十郎蔵人行家トテアリシハ木曾義仲ニ具シタリシ。ソレト又ヒトツニテアリシモハナレテ。北石藏ニテウタレテソノ頸ナンド云モノキコエキ。九郎ハシバシハトカク隠レツツアリキケル。无動寺ニ財修トテアリケル堂衆ガ房ニハ。暫カクシ置タリケルト後ニ聞ヘキ。ツイニミチノクニノ康〔泰〕衡ガモトヘ逃トヲリテ行ニケル。ヲソロシキ事ナリト聞ヘシカドモ。ヤスヒラウチテコノ由頼朝ガリ云ケルヲバ。ソレニモヨラジ。ワロキ事シタリトゾカノ國ニモイヒケル。

同十二月廿八日ニ九條〔兼実〕右大臣ニ内覧宣旨下サレニケリ。コノ頼朝追討ノ宣旨下シタル人々。皆勅勘候ベキ由申シタリケリ。蔵人頭光雅。大夫史隆職ナド解官セラレニケリ。上卿ハ左大臣経宗也。ソレヲバトカクモ申サザリケレド。議奏ノ上卿トテ申タリケルニハ。左大臣〔経宗〕ヲバカキイレザリケリ。是ニテサヨト人ニ思ハセケリ。是マデモイミジクハカライタリケルニヤ。又院ノ近習者泰経三位ナド皆ヲイコメテケリ。同二年十一月廿六日ニ。又九郎ヲ可搦進之由宣下アリケリ。アサマシキ次第ドモ也。又其後文治五年七月十九日ニ。鎌藏〔倉〕ヲイデデ奥イリトテ。終ニミチノ國ノヒデヒラガアトヤスヒラト云打トラント頼朝ノ将軍思ヒケリ。尤イハレタリ。
カレハ誰ニモ従ハヌヤウニテ。ミチノ國ホドノ國ヲヒトヘニ領シテアレバ。イカデカ我物ニセザラン。ユユシク出デタチテ攻入テ。同九月三日ヤスヤスト打ハライテケリ。サテミチノ國モ皆郎従ドモニワケ取セテ。此由上ヘ申テウルハシク國司ナサレテ。年比ニモニズ國司ノタメモヨクテ有ケリ。ヒデヒラガ子ニ母太郎。父太郎トテ子二人有ケリ。ヤスヒラハ母太郎也。ソレニ伝ヘテ父太郎ハ別ノ所ヲスコシエテアリケル。父太郎ハ武者ガラユユシクテ。イクサノ日モヌケ出テアハレ物ヤト見ヘケルニ。コナタヨリアレヲ打トラント心ヲカケタリケルニモ。庄司次郎重忠コソ分入テヤガテ落合テ頸取テ参タリケレ。スベテ庄司次郎ヲ頼朝ハ一番ニハウタセウタセシテアリケリ。ユユシキ武者也。
終ニイカナル納涼ヲシケルニモ。カタヘノ者チカク膝ヲクミテ居ル事エセデヤミニケル者トゾ聞ユル。頼朝ハ鎌倉ヲ打出ケルヨリ。片時モトリ弓セサセズ。弓ヲ身にハナツ事ナカリケレバ。郎従ドモモナノメナラズヲヂアイケリ。手ノキキザマ狩ナドシケルニハ大鹿ニハセナラビテ角ヲトリテ手ドリニモトリケリ。
太郎頼家ハ又昔今フツニナキ程ノ手キキニテアリケリ。ノクモリナク聞ユキ。
第六巻

九條〔兼実〕右大臣ハ文治二年三月十二日ニツイニ摂政詔。氏長者ト仰セ下サレニケリ。去年十二月廿九日ヨリ内覧臣許ニテ。ワレモ人モ何トモナク思テアリケルニ。カク定マリニケレバ。世ノ中ノ人モ。ゲニゲニシキ摂 籙臣コソ出キタレト思ヘリケリ。サテ右大臣イハレケルハ。治承三年ノ冬ヨリ。イカナルベシトモ思ヒワカデ仏神ニ祈リテ。摂籙ノ前途ニハ必ズ達スベキ告アリテ。十年ノ後ケフ待ツケツルトイワレケリ。十六日ヤガテ拝賀セラレニケリ。其夜コトニ雨フリタリケリ。サテ後法皇〔後白河〕ニハ心シヅカニ見参ニ入テアリケレバ。我ハカクナニトナキヤウナル身ナレド。世ヲバ久ク見タリ。
ハバカラズタダヨカランサマニヲコナハルベキ也ナド仰有テ。ヲボヘノ丹後〔高階栄子〕ト云ハ浄土寺二位。宣陽門院〔覲子内親王〕ノ御母也。イデアハセサセナドシテアリケリ。又頼朝関東ヨウヤウヤウニメデタク申ヤクソクシテ。世ノヒシトヲチヒヌト世間ノ人モ思テスギケリ。去年十月廿八日ニ嫡子ノ良通大納言大将ハ任内大臣大饗イミジクヲコナイナドシテ。同四年正月ニ春日詣セラレケリ。家嫡ニテ良通内大臣ハグセラレケレバ。先例マレナルコトニテ。如長者御サキグシテ一員ニテアリケリ。御サキト云ハ大外記大夫史弁少納言ヲ車ノヤカタグチニウタスル也。ユユシキコトニテアリケリ。カク二人ナラブ時ハ一方ハタダノ史外記ナリ。二人ヅヅ五位史外記出キニタレバ。サアラン時ハ今スコシ厳重ニヤ。サテソノ二月ノ廿日ノ暁。コノ内大臣ネ死ニ頓死ヲシテケリ。コノ人ハ三ノ舟ニノリヌベキ人ニテ。学生職者和漢ノ才ヌケタル人ニテ。廿一ナル年ノ人トモ人ニ思ハレズ。スコシセイチイサヤカナレド。容儀身体ヌケ出テ。人ニホメラレケレバ。父ノ殿モナノメナラズヨキ子モチタリト思ハレケリ。
皇嘉門院〔聖子〕ニヤシナイタテラレテ。ソノ御跡サナガラツギタル子ニテアリケル。カカル死ヲシテケレバ。ヤガテイミニケガレテソノ由院ニ申テアリケル程ニ。我ヨシナシ。ウケガタキ人ニ生レタルト云ハ仏道コソ本意ナレ。経ベキ家ノ前途ハトゲツ。出家シテント思フ心フカク付ナガラ。ソノイモウトニ女子ノマタ同ジク最愛ナルヲハシケリ。今ノ秋門院〔任子〕ナリ。ソレヲ昔ノ上東門院〔彰子〕ノ例ニカナイ。当今御元服チカキニアリ。八ニナラセ給。十一ニテ御元服アランズランニ。是ヲ入内立后セント思フ心フカケレド。法皇モ御出家ノ後ナレド。丹後ガ腹ニ女王ヲハス。頼朝モ女子アムナリ。思サマニモカナハジト思テ。又コノ本意トグマジクバ。タダ出家ヲコノ中陰ノハテニシテント思テ。二心ナク祈請セサセラレケルニ。又アラタニトゲンズル告ノ有ケレバ思ヒノドメテ。善政トヲボシキ事。禁中ノ公事ナドヲコシツツ。摂 籙ノ初ヨリ諸卿ニ意見メシナドシテ。記録所殊ニトリヲコナイテアリケリ。文治六年正月三日主上御元服ナリケレバ。正月十一日ニヨキ日ニテ。上東門院ノ例ニ叶テ。ムスメ〔任子〕ノ入内思ノ如クトゲラレニケリ。

サテ過ル程ニ文治ハ六年ト云四月十一日ニ改元ニテ建久ニ成ニケル。元年十一月七日頼朝ノ卿ハ京ヘ上リニケリ。ヨノ人ソウニタチテマチ思ケリ。六波羅平相國ガ跡ニ二町ヲコメテ造作シマウケテ京ヘイリケル。キノフトテ有ケル。雨フリテ勢田ノ辺ニトドマリテ。思サマニ雨ヤミテ七日入ケルヤウハ。三騎三騎ナラベテ武士ウタセテ。我ヨリ先ニタシカニ七百余騎アリケリ。後ニ三百余騎ハウチコミテ有ケリ。コムアヲニノウラ水干ニ夏毛ノムカバキマコトニトヲ白クテ黒キ馬ニゾノリタリケル。其後院。内ヘ参リナンドシテ。院ニハ左右ナキ者ニナリニケリ。ヤガテ右大将ニナサレニケリ。
十一月九日先任権大納言参議中納言ヲモヘズ直ニ大納言ニ任ズル也。同廿四日任右大将。同日拝賀。十二月三日両官辞退シテキ。モトヲリフシフシニ正二位マデノ位ニハ玉ハリニケリ。大臣モ何モニテアリケレド。我心ニイミジクハカライ申ケリ。イカニモイカニモ末代ノ将軍ニ有ガタシ。ヌケタル器量ノ人ナリ。大将ノヨロコビ申ニモイミジクメヅラシキ式ツクリテ。前駈十人ハミナ院ノ北面ノ者給ハリテ。随身カネヨリガ太郎カネヒラ給リテ。公卿ニハ能保。イモウトノ男ニテ。ヤガテ次第ニナシアゲタレバ。中納言ニテ。ソレ一人グシテ。ヤガテ其イモウトノ腹ノムスメニムコニトリタリシ公経中将。又イトコヲ子ニシタルモト家ノ中納言ガ子ノ保家少将。是ラヲゾ具シタリケル。我車ノシリニ七騎ノ武士ヲヨロイキセテ。カブトハキズ。タダ七人具シタリキ。ソノ名ドモハタシカニモ覚ヘネバ略シヌ。見ルコハユユシキ見物カナト申ケリ。サテ内裏ニマイリアイテ。殿下ト世ノ政ノ作ベキヤウハナドフカク申承ケリ。

院ヘモタビタビ参リケリ。経房大納言ハジメヨリ京ノ申次ニセント定申テアリケレバ。ノボリテモ六ハラヘ行ムカイツツイミジキ程ニ。一番ニ院ヘマイリケルハ。ヤガテツクリテマイラセタル六條殿指図ヨクヨクシテ。ナゲシノ上下マデサタシモチテ。モトヨリ参ナレタルヤウニフルマイテ。ヒトニモホメラレント思ヒケルホドニ。先ニ立テ道ビケトゾイワンズラント思ニ。サモノハズスクスクト参ケルニ。シリニ立テ白昼ナレバヲボツカナカルベクモナキニコソハ。ナゲシノ上候下候ナニカト。天性ロカマシキナンアリケル人ニテ云カケケリ。後物ニ心得ヌ人ニコソトゾ云ケル。カヤウニ在京ノ間人ニホメラレテ。イク程モナク八幡。東大寺。天王寺ナドヘ参メグリテ。十二月十八日帰リテクダリニケリ。前ノ日大功田百町宣下ナド給ケリ。
院ニ申ケル事ハ。ワガ朝家ノ為。君ノ御事ヲ私ナク身ニカヘテ思候シルシハ。介ノ八郎ヒロツネト申候シ者ハ東國ノ勢人。頼朝ウチ出候テ君ノ御敵シリゾケ候ハントシ候シハジメハ。ヒロツネヲメシトリテ。勢ニシテコソカクモ打エテ候シカバ。功アル者ニテ候シカド。オモヒ廻シ候ヘバ。ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タダ坂東ニカクテアランニ。誰カハ引ハタラカサンナド申テ。謀反心ノ者ニテ候シカバ。カカル者ヲ郎従ニモチテ候ハバ。頼朝マデ冥加候ハジト思ヒテ。ウシナイ候ニキトコソ申ケレ。ソノ介八郎ヲ梶原景時シテウタセタル事。景時ガカウミヤウ云バカリナシ。双六ウチテ。サリゲナシニテ盤ヲコヘテ。ヤガテ頸ヲカイキリテモテキタリケル。マコトシカラヌ程ノ事也。コマカニ申サバ。サルコトハヒガ事モアレバコレニテタリヌベシ。コノ奏聞ノヤウ誠ナラバ。返々マコトニ朝家ノタカラナリケル者カナ。

同三年三月十三日ニ法皇ハ崩御アル。前ノ年ヨリ御病アリテ少シヨロシクナラセ給ナドキコヘナガラ。大腹水痟ト云御悩ニテ。御閇眼ノ前日マデ御足ナドハスクミナガラ。長日護摩御退転ナクヲコナハセヲハシマシケリ。御イミノ間ノ御仏事ナドハ近比ハキカズ。アマリナル迄ニゾ聞ヘケル。大方コノ法皇ハ男ニテヲハシマシシ時モ。袈裟奉リテ護摩ナドサヘ行ハセ給テ。御出家ノ後ハイヨイヨ御行ニテノミ有ケリ。法華経ノ部数ナド。数萬部ノ内ニ百部ナドニモヲヨビケリ。ツネハ舞猿楽ヲコノミセサセツツゾ御覧ジケル。御イモウトノ上西門院モ持経者ニテ。イマスコシハヤクヨマセ給ケレバ。ツネハ読アイマイラセンナド仰ラレケリ。御悩ノ間行幸ナリツツ。世ノ事ミナ主上ニ申ヲカレテケレバ。太上天皇モヲハシマサデ。白川。鳥羽。此院ト三代ハ。ヲリ居ノ御門ノ御世ニテアリケレバ。メヅラシク後院ノ庁務ナクシテ。院ノ尊勝陀羅尼供養ナド云事モ。法勝寺ニテ行ハレナドシテ。殿下〔兼実〕。鎌倉〔頼朝〕ノ将軍仰セ合セツツ。世ノ御政ハアリケリ。
ソノ始ニ播磨國。備前國ハ院分ニテアリシヲ。上人二人ニタビテ成モヤリ候ハヌ。東大寺イソギ造営候ベシ。東寺ハ弘法大師ノ御建立。鎮護國家無左右候。寺モナキガ如クニ成リ候ヲツクラレ候ベシ。其ニ過タル御追善ヤハ候ベキトテ。東寺ノ文学〔覚〕房。東大寺ノ俊乗坊トニ。播磨ハ文学。備前ハ俊乗ニ給ハセテケリ。東大寺ニハモトヨリ周防國ハツキテ有ケレド。事モナリヤラズトテ加ヘ給ハルル也。文学ハソノカミ同ジ國ニ流サレテアリケル時。アサタニユキアイテ仏法ヲ信ズベキヤウ。王法ヲオモク守リ奉ルベキヤウナド云聞セケリ。カクテハツベキ世中ニモアラズ。ウチ出ル事モアラバナド。アラマシ事モ約束シケルガ。果シテ思フママニ叶ヒニケレバ。高雄寺ヲモ東寺ヲモナノメナラズ興隆シケリ。文学ハ行ハアレド学ハナキ上人也。アサマシク人ヲノリ悪口ノ者ニテ人ニイハレケリ。天狗ヲ祭ルナドノミ人ニ云ケリ。サレド誠ノ心ニカカリケレバニヤ。播磨ヲモ七年マデシリツツ。カク興隆シケルニコソ。

サテ九條〔兼実〕殿ハ摂六〔籙〕本意ニカナイテ。物モナカリシ興福寺南円堂ノ御本尊不空羂索等丈六仏像。大伽藍東大寺トハナヲナラベテツクラレケリ。
同五年九月廿二日興福寺供養也。甚雨ナリケリ。前ノ日殿ハ春日詣セラレケリ。中納言巳下騎馬ト聞ヘキ。御堂〔道長〕ノ御時ヨリ始マレル例ニヤ。アマリナル事ナリト人思ケリ。
同六年三月十三日東大寺供養。行幸。七條院〔殖子〕御幸アリケリ。大風大雨ナリケリ。コノ東大寺供養ニアハムトテ。頼朝将軍ハ三月四日又京上シテアリケリ。供養ノ日東大寺ニ参リテ。武士等ウチマキテアリケル。大雨ニテ有ケルニ。武士等ハレハ雨ニヌルルトダニ思ハヌケシキニテ。ヒシトシテ居カタマリタリケルコソ。中中物ミシレラン人ノ為ニハヲドロカシキ程ノ事ナリケレ。内裏ニテ又度々殿下見参シツツアリケリ。コノ度ハ万ヲボツカナクヤアリケム。六月廿五日ホドナク下リニケリ。
此年八月八日。中宮〔任子〕御産トノノジリケリ。イカバカリカハ御祈前代ニモ過タリケリ。サレド皇女〔昇子内親王〕ヲウミマイラセラレテ。殿ハ口ヲシクヲボシケリ。八條院〔瞳子内親王〕ヤガテ養ヒマイラセテ。タテバヒカル。イレバヒカル程ノ末代。上下貴賤ノ女房カカル御ミメナシ。御クシナドノヨタケ。サコソトゾ世ニハ云ケル。院モアマリナルホドノムスメカナト思召テ。ツネニムカヘ奉リテ見マイラセテハ。御心ヲユカシ給ケリ。後ニハ院号アリテ春花門院ト申ケリ。コノ門ノ名ヲゾ人カタブキケル。

サテ同七年冬ノ比事共出来ニケリ。摂籙臣九條殿。ヲイコメラレ給ヌ。関白ヲバ近衛〔基通〕殿ニカヘシナシテ。中宮モ内裏ヲ出デ給ヒヌ。コレハ何事ゾト云ニ。コノ頼朝ガムスメ〔乙姫君〕ヲ内ヘマイラセンノ心フカク付テアルヲ。通親ノ大納言ト云人。コノ御メノトナリシ刑部〔範子〕卿三位ヲメニシテ。子ドモ生セタルヲコメ置タリシヲ。サラニワガムスメマイラセムト云文カヨハシケリ。明雲ガ弟子ノ梶井宮〔承仁法親王〕ト云人。木曾ガ時イケドリニセラレタリシ。ヲトナシク成テ内ヘ日々ニ参リナドシテ侍リシニ。又浄土寺〔高階栄子〕ノ二位密通ノ聞ヘアリキ。是等ガイヒ合セツツ。法皇ウセヲハシマシケルトキ。ニハカニ大庄ヲ播磨。備前ナドニタテラレタルヲタヲサレニキ。成経。実教ナド云諸大夫ノ家。宰相中将ニナリタル。トドメナンドセラレシ事ハ。皆頼朝ニ云合セツツ。カノマ引ニテコソアリト。誠ニモコレ善政ナリト思ハレタレバ。カヤウノ事ヲ浄土寺ノ二位モトガメテ。梶井ノ宮ニササヤキツツ。通親ヲモ云ヒススムル也ケリ。
内ノ御氣色ヲウカガフニ。又イタウ事ウルハシクテ。善政善政トノミ云テ。御遊ドモ憚ラシク思召ケンヲモ見マイラセテ。ココニテハ頼朝ガ氣色カウト申。関東ヘハ君ノ御氣色ワロク候ト云テ。ヲモテヲ何トナクシ成シテ。又一定ヲトハンヲリハ。両方ニ會尺ヲマウクル由ノ案ドモニテ。コレハ定マレル奇謀ノナラヒナレバ。カクシテ又仏神ノ加護モエアルマジキ時イタリニケレバ。同七年ノ十一月廿三日ニ。中宮ハ八條院ヘイデ給ヒニケリ。

廿五日ニ前摂政〔基通〕ニ関白氏長者ト宣下セラレ。又上卿通親。弁親國。職事朝経ト聞ヘケリ。ヤガテ流罪ニヲヨバント。此人々申ヲコナイケレドモ。ソレヲバツヨク御氣色エアラジト思召タリケレバ。云ツグベキ罪過ノアラバヤハ。サシテモ申ベキナレバ。サテヤミニケリ。カカリケレバ九條殿ノ弟〔慈円〕山ノ座主ニテアリケル。何モ皆辞シテケレバ。ソノ所ニ梶井ノ宮承仁ハ座主ニナサレタリケル。次ノ年ノ四月ニ拝堂シケルヨリ。ヤガテ病ツキテ入滅セラレニケリ。アラタナル事カナト人云ケリ。慈円僧正座主辞シタル事ヲバ。頼朝モ大ニウラミヲコセリ。

カカル程ニ同九年正月十一日ニ。通親ハタト譲位ヲオコナイテ。コノ刑部〔範子〕卿三位ガ腹ニ能円ガムスメニテコノ承明〔在子〕門院ヲハシマス腹ニ。王子ノ四ニナラセ給ヲ践祚シテ。コノ院モ今ハヤウヤウ意ニマカセナバヤト思召ニヨリテカク行テケリ。関東ノ頼朝ニハイタウタシカナルユルサレモナカリケルニヤ。頼朝モ手ニアマリタル事カナトモヤ思ヒケン。是等ハシレル人モナキサカイノ事也。サテ帝ノ外祖ニテ能円法印現存シテアリシカバ。人モイカニト思ヒタリシ程ニ。ホドモナク病テシニニキ。ヨキ事ト世ノ人思ヘリケリ。

能保卿ハ中納言別当ナドニ成テ。終ニ病ヲモクテ出家シテ。ヨクナリテ内ナドヘ参シカドモ。此事ドモアキレテモ有ケン。九條殿ノ御子後京極〔良経〕ノ摂政。カノ頼朝ガメイノ能保卿ノ嫡女ナリシニアハセ申テ。執婿ノ儀イミジクシテアリシ也。終ニ同八年十月十三日ニ能保入道ハウセニケル程ニ。コノ年ノ七月十四日ニ京ヘ参ラスベシト聞エシ。頼朝ガムスメ久クワヅライテウセニケリ。京ヨリ実全法印ト云験者クダシタリシモ全クシルシナシ。頼朝ソレマデモユユシク心キキテ。ヨロシク成タリト披露シテノボセケルガ。イマダ京ヘノボリツカヌ先ニ。ウセヌルヨシ聞ヘテ後。京ヘイレリケレバ。祈殺シテ帰リタルニテヲカシカリケリ。能保ガ子高能ト申シ。ワカクテ公卿ニ成テ参議兵衛督ナリシ。サハギ下リナンドシテアリシ程ニ。頼朝コノ後京ノ事ドモ聞テ。猶次ノムスメヲ具シテノボランズト聞ヘテ。建久九年ハスグル程ニ。九月十七日高能卿ウセニキ。

カカル程ニ人思ヒヨラヌホドノ事ニテ。アサマシキ事出キヌ。同十年正月ニ関東将軍所労不快トカヤホノカニ云シ程ニ。ヤガテショウガツ十一日ニ出家シテ。同十三日ニウセニケリト。十五六日ヨリ聞ヘタチニキ。夢カ現カト人思タリキ。今年必シヅカニノボリテ世ノ事沙汰セント思ヒタリケリ。万ノ事存ノ外ニ候ナドゾ。九條殿ヘハ申ツカハシケル。コノ後イツシカ正月廿日除目行ヒテ。通親ハ右大将ニ成ニキ。故摂政〔良経〕ヲバ後京極殿ト申ニヤ。ソノ内大臣ナリシヲコシテ。頼実大相國入道ヲバ右大臣ニナシテキ。コノ頼実ハ右大将ヲ辞セサセテソノ所ニナリニキ。コノ除目ニ頼朝ガ家ツギタル嫡子ノ頼家ヲバ左中将ニナシテキ。

其比不可思議ノ風聞アリキ。能保入道。高能卿ナドガ跡ノタメニムゲニアシカリケレバ。其郎等ドモニ基清(ママ)〔後藤兵衛〕。政経〔中原〕。義成〔小野〕ナド云三人ノ佐衛門尉アリケリ。頼家ガ世ニ成テ梶原ガ太郎左衛門尉ニノボリタリケルニ。此源大将ガ事ナドヲイカニ云タリケルニカ。ソレヲ又カク是等ガ申候也ト告タリケル程ニ。ヒシト院ノ御所ニ参リ籠テ。只今マカリ出デバ殺サレ候ナンズトテ。ナノメナラヌ事出ケテ。頼家ガリ又廣元ハ方人ニテアリケルシテ。ヤウヤウニ云テコノ三人ヲ三左衛門トゾ人ハ申シ。是等ヲ院ノ御前ワタシテ。三人ノ武士給ハリテ流罪シテケリ。
サテ頼朝ガ拝賀ノトモシタリシ公経。保家ヲヒコメラレニケリ。能保コトニイトヲシクシテ左馬頭ニナシタリシ高保ト云シ者ナド流サレニケリ。二月十四日ノ事ニヤトゾ聞ヘシ。又文学〔覚〕上人播磨給ハリテ。思フママニ高雄寺建立シテ。東寺イミジクツクリテアリシモ。使庁検非違使ニテマモラセラレナドスル事ニテアリケリ。三左衛門モ通親公ウセテ後ハ。皆メシ返サレテメデタクテ候キ。

カカル程ニ院ノ叡慮ニ。サラニサラニヒガ事御偏頗ナルヤウナル事ハナシ。タダ思召モ入ヌ事ヲ作者ノスルヲ。エシロシメサズ。サトラセ玉ハヌ事コソチカラヲヨバネ。カヤウニテアレド内大臣良経ハ内大臣ハサスガニイマダトラレヌヤウニテヲハセシヲ。院ヨクヨク思食ハカラヒテ。右大臣頼実ヲ太政大臣ニアゲテ。正治元年六月廿二日任大臣ヲコナハレケリ。兼雅公辞退ノ所ニ。左大臣ニ故摂政〔良経〕ヲナシテ。近衛〔基通〕殿ノ当摂政ナルガ嫡子。当時〔家実〕ノ殿ヲ右大臣ニナシテ。通親ハ内大臣ニ成シキ。頼実ノ公アサマシク腹立テ。土佐國ヘ辞テ入コモリテ人ニイハレケリ。
通親ガ我内大臣ニナラントテシタル事ト思ヒケリ。九條殿ノ左右ナキ御後見宗頼ハ大納言ニテ。コノ卿二位〔刑部卿範兼女兼子〕ガヲトコニテアリシヲ。イミジキ事ニテ九條殿ハアラレケリ。サレドモ心バヘヨキバカリニテ。ツヨツヨシキ事モナカリケリ。サル程ニ。ツネニ院ノ御所ニハ和歌會。詩會ナドニ。通親モ良経モ左大臣。内大臣トテ水無瀬殿ナドニテ行アヒアヒシツツ。正治二年ノ程ハスギケルニ。コノ年ノ七月十三日ニ左府ノ北方ハウセニケリ。十日産ヲシテソノ名残トキコヘキ。サルホドニ松殿〔基房〕ノムスメヲサヤウニモイワレケレバ。次ノ年建仁元年十月三日ムカヘラレニケリ。年ハ廿八ト聞ヘキ。其年十二月九日母ノ北政所ウセラレヌ。

建仁二年十月廿一日ニ。通親公等ウセニケリ。頓死ノ躰ナリ。不可思議ノ事ト人モ思ヘリケリ。承明門院〔在子〕ヲゾ母ウセテ後ハアイシ参ラセケル。カカリケル程ニ。院ハ範季ガムスメヲ思召テ三位セサセテ。美福門院ノ例ニモニテ有ケルニ。王子モアマタ出キタル。御アニ〔守成〕ヲ東宮ニスエマイラセントヲボシメシタル御ケシキナレバ。通親ノ公申沙汰シテ立坊有テ。正治二年四月十四日ニ東宮ニ立テ。カヤウニテ過ル程ニ。九條〔良経〕殿ハ又北政所ニヲクレテ出家セラレニケリ。サル程ニ院ノ御心ニフカク世ノカハリシ我ガ御心ヨリヲコラズト云コトヲ人ニモシラレントヤ思召ケン。建仁二年十一月廿七日ニ。左大臣〔良経〕ニ内覧氏長者ノ宣旨ヲクダシテ。ヤガテ廿八日ニ熊野御進発ナリニケリ。母北政所重服コノ十二月バカリニテアリケリ。サテ熊野ヨリ御帰洛ノ後。十二月廿七日ニ摂政ノ詔クダサレニケリ。
サテ正月一日ノ拝禮ノサキニヨロコビ申サセラレニケレバ。世ノ人ハコハユユシク目出キコトカナト思ケリ。宗頼大納言ハ成頼入道ガ高野ニ年比ヲコナイテアリケル入滅シタル服ヲキルベキヲ。真ノ親ノ光頼ノ大納言ガヲバ成頼ガヲキムズレバトテキザリケリ。是ハ又アマリニ世ニアイテイトマヲオシガリテキズ。サテ親モナカリケル者ニナリヌル事ヲ。人モカタブキケルニヤ。カク熊野ノ御幸ノ御トモニマイリテ。松明ノ火ニテ足ヲヤキタリケルガ。サシモ大事ニナリテ正月卅日ウセニケル。其後卿二位ハ夫ヲウシナイテ又トカクアンジツツ。コノ太相國頼実ノ七條院辺〔後鳥羽院御母〕ニ申ヨリテ候ケルニ申ナドシテ。又夫ニシテヤガテ院ノ御ウシロミセサセテ候ケル。

後京極〔良経〕殿ハ。院モイミジキ関白摂政カナト。ヨニ御心ニカナイテヨキ事シタリトヒシト思召テアリケリ。山ノ座主慈円僧正ト云人アリケルハ九條〔兼実〕殿ノヲトト也。ウケラレヌ事ナレド。マメヤカノ歌ヨミニテアリケレバ。摂政〔良経〕トヲナジ身ナルヤウナル人ニテ。必参リアヘト御氣色モアリケレバツネニ候ケリ。院ノ御持僧ニハ昔ヨリタグヒナク頼ミ思召タル人ト聞ヘキ。

サテ宇治ニメデタキ御所ツクリテ。御幸ナドナリテケルガ程ナク焼ニケリ。摂政ハ主上〔土御門〕御元服ニアイテ。テテノ〔兼実〕殿ノ例モチカシ。又昔ノ例共モワザトシタランヤウナレバ。ムスメヲヲクモチテ。ヨシヤスガムコニナリテ。イツシカマウケラレタリシ嫡女ヲ。又ナラブ人モナク入内セントテ。院ニモ申ツツイトナマセケル程ニ。卿二位フカク申ムネアリケリ。

大相國〔頼実〕モトノ妻ノ腹ニヲノコゴハエナクテ。女御代トテムスメヲモチタリケルヲ。入内ノ心ザシフカク。又太政大臣ニヲシナサレテ。左大臣ニカヘリナリテ一ノ上シテ。如父経宗ナラバヤト思ヒケリ。サテ卿二位ガ夫ニモヨロコビテ成ニケル程ニ。左大臣ノ事申ケルハ。大臣ノ下登ムゲニメヅラシクアルベキ事ナラズトヲボシメシテ。エ申エザリケレバ。コノ入内ノ事ヲ殿ノムスメ参テ後ハカナフマジ。是マイリテ後ハ殿ノムスメ参ラン事ハ。例モ道理モハバカルマジケレバ。一日コノ本意トゲバヤト。卿二位シテ殿下ニ申ウケケリ。殿ハ院ニ申アハセラレケルヲ。院ハコノ主上ノ御事ヲバトクヲロシテ。東宮〔為仁〕ニタテテヲハシマス脩明門院〔重子〕ノ太子ヲ位ニツケマイラセタラン時。殿ノムスメハマイラセヨカシト思召ケリ。人コレヲシラズ。申アハセラレケル時。イササカコノ趣キナドノアリケルヤラントゾ人ハ推知シケル。サテアリテ頼実ノムスメ〔麗子〕ヲ入内立后ナド思ノゴトクニシテケリ。

殿〔良経〕ハマチザイハイヲボツカナク。当時ハウラ山シクモヤヲボシケン。人目ハヨクトシテ。サラレタルモヨシニテスギケル程ニ。中御門京極ニイヅクニモマサリタルヤウナル家ツクリタテテ。山水池水峨々タル事ニテメデタクシテ。元久三年三月十三日トカヤニ。絶タル曲水ノ宴ヲオコナハントテ。鸚(武+鳥)坏ツクラセナドシテ。イミジクヨノ人モマチ悦テ。松殿〔其房〕ノムスメヲ北政所ニセラレタリ。摂(武+録)ノヤガテ摂(武+録)ノ婿ニナルモアリガタキ事ニテアリケレバ。サキノ入道殿下ヲ二人ナガラヲヤシウトニテモタレタレバ。公事ノミチ職者ノ方キハメタル人ノ。昔ニスギタル詠歌ノ道ヲキハメテ。コノ宴ヲオコサルル然ルベシト人モ思ヒツツ。心ヲトキ目耳ヲタテツツアリケル程ニ。三月七日ヤウモナクネ死ニセラレニケリ。
天下ノヲドロキ云バカリナシ。院カギリナクナゲキヲボシメシケレド云ニカイナシ。サテ力及バデ此度ハ近衛殿ノ子〔家実〕。当時左大臣ニテモトヨリアレバ関白ニナラレニケリ。

コノ春三星合トテ大事ナル天変ノアリケル。司天ノ輩大ニヲヂ申ケルニ。ソノ間慈円僧正五辻ト云テシバシナリケル御所ニテ。取ツクロイタル薬師ノ御修法ヲハジメラレタリケル。修中ニコノ変ハアリケリ。太白木星火星トナリ。西ノ方ニヨヒヨヒニスデニ犯分ニ三合ノヨリアイタリケルニ。雨フリテ消ニケリ。又晴テミエケルニミヘテハヤガテ雨フリテキエフリテキエ四五日シテ。シバシ晴ザリケレバ。メデタキ事カナニテアリケル程ニ。ソノ雨ハレテナヲ犯分ノカヌ程ニテ現ジタリケルヲ。サテ第三日ニ又クモリテ。朝ヨリ夜ニ入ルマデ雨ヲ惜ミテアリケリ。イカバカリ僧正モ祈念シケンニ。夜ニ入テ雨シメジメトメデタクフリテ。ツトメテ消エ候ヌト奏シテケリ。サテ其雨ハレテ後ハ犯分トヲクサリテ。コノ大事変ツイニ消ニケリ。
サテホドナクコノ殿ノ頓死セラレニケルヲバ。晴光ト云天文博士ハ。一定コノ三星合ハ君ノ御大事ニテ候ツルガ。ツイニカラカイテ消エ候ニシカ。殿下〔良経〕ニトリカヘ参ラセラレニケルニトコソタシカニ申ケレ。コノヲリフシニサシ合セ。怨霊モ力ヲエケントヲボユルニナン。ソノ御修法ハコトニ叡感有テ勤賞ナドヲコナハレニケリ。サテイカサマニモコノ殿下ノ死ナレタル事ハ。世ノ末ノ口ヲシサ。カカル人ヲエモタフマジキ時運悲シキ哉ト人思ヘリケリ。大方故内大臣良通。コノ摂政カカル死ドモセラレヌル事ハ。猶法性寺〔忠通〕殿ノスエニカカリケル事ノ人ノイデクルヲ。知足院〔忠実〕殿ノ悪霊ノシツルゾトコソハ人ハ思ヘリケレ。法性寺殿ヨリコノ摂政マデ七人ニナリヌルニコソ。其霊ノ後世菩提マメヤカニタスケトブラフ心シタル人ダニアラバ。今ハカウホドノ事ハヨモアラジカシ。アハレ事ノ道理マコトシク思ヒタル臣下ダニモ二三人世ノ中ニアラバ。スコシハタノモシカリナンモノヲ。

カカリケル程ニ。院ニハモトヨリウセヌル摂政ノ事フカクシノビ思召ケレバ。家実摂政ニナリテ。左大将アキケル所ニ。中納言中将道家ヲバ左大将ニナサレニケリ。建永元年六月廿六日也。摂政関白程ノ人ノ名カクハバカラズヲサヘテカキヲサヘテカキシタル事ハ。ワザトアザヤカアナランレウニカキテ侍也。又不可思議ノ事ドモアリキ。後白川院ウセサセ給テ後ニ。建久七年ノ比。兼中ト云。公時二位入道ガウシロミニツカイケル男アリキ。ソレガ妻ニ故院ツキシマセヲハシマシテ。我レ祝ヘ社ツクリ。國ヨセヨナド云コトヲ云イダシテ。沙汰ニノリテ兼中妻夫。妻ハ安房。夫ハ隠岐ヘ流罪セラレナドシタル事ノ出キタリシ也。
シバシハ人信ゼザリケレド。ヨシヤスノ中納言出家スル程ニ。一定死ナンズルニテ有ケル比。スマスマト云テ生ニケルニ。アダニ信ジタリケルニ。後ノタビ又サヤウニ云ケレバ。申ヤウニ沙汰有ベシナド浄土寺ノ二位申ナドシケルヲ。七日ヨビトリテ置テ。一定事ガラノ真ソラ事ヲミントテ。入道ヨビトレト云事ニテ。七日ヲキタリケルニ。ムゲニ云事モナク。シルシタチタル事ノナカリケレバ。正躰ナキ事カナトテ。ヤガテ狂惑ニナリテ流サレニキ。又七八年ヲヘテ建永元年ノコロヲヒ。仲國法師ハコトナル光遠法師ガ子ニテ。故院ニハ朝夕ニ候シガ。妻ニツカセ給テ。又我イハヘト云事出キテ。浄土寺ノ丹後ノ二位ナドツネニアヒテ。ナクナクコレヲモテナシナドシテ。院ヘ申テ公卿僉議ニ及テ。スデニイハハレントスル事アリケリ。
万ノ人皆サ候ベシト申タリケルニ。今ノ前右府公〔徳大寺〕継ノ公ゾ少シイカガナド申タルト聞エシヲ。サカシク慈円僧正院コトニタノミヲボシタリケレバニヤ。大相國頼実卿ノ二位ヲトコノモトヘ一通ノ文ヲカキテヤリタリケル。カカル事聞ヘ候バ。コハイカニ候事哉。先如此ノ事ハ怨霊トサダメラレタル人ニトリテコソサル例ヲホク候ヘ。故院ノ怨霊ニ君ノタメナラセ給フニナリ候ナンズルハ。又八幡大菩薩躰ニ宗廟神ノ儀ニ候ベキニヤ。アラタナル瑞相候ニヤ。タダ野干天狗トテ。人ニツキ候物ノ申事ヲ信ジテ。カカルコト出キ候ベシヤハ。ソレハサル事ニテ。スデニ京中ノ諸人コレヲ承テ。近所ニタチテ候趣。コレヲ聞候ニ。故院ハ下搴゚ク候テ。世ノ中ノ狂ヒ者ト申テ。ミコカウナギ舞猿楽ノトモガラ。又アカ金ザイク何カト申候トモガラノ。コレヲトリナシマイラセ候ハンズルヤウ見ルココチコソシ候ヘ。タダ今世ハウセ候ナンズ。猶サ候ベクバ誠シク御祈請候テ。真実ノ冥感ヲキコシメスベク候ト云ヨシヲ申タリケルヲ。ヤガテ院キコシメシテ。我モサ思フ。メデタク申タル物カナトテ。
ヤガテヒシトコノ事ヲ仰合テ。仲國ガ夫妻流刑ニヲコナフベキカト仰合セラレタリケレバ。僧正又申ケルヤウハ。コノ事ハツヤトキツネ。タヌキモツキ候ハデ。我心ヨリ申イデタルニテ候ハバ。尤尤流刑ニモヲコナハレ候ベシ。ソレガ人不思議ノ者ニ候ト申ナガラ。ソレハヨモサハ候ハジ。先ニ兼仲ト申候シ者ノ妻モカカル事申イデ候ケリ。ソレモ物グルハシキウツハ物ノ候ニ。必狐天狗ナド申物ハ又候コトナレバ。サヤウノ物ハ世ノ誠シカラズ成テ。我ヲ祭リナドスルヲ一段本意ニ思ヒテ。カク人ヲタブラカシ候事ハ昔今ノ物語ニモ候。又サ候ベキ事ニテモ候也。ソレガツキテサル病ヲシ出シテ候ニテコソ候ヘ。病ヒストテ上ヨリ罪ニ行ハルベキニテモ候ハネバ。タダ聞シメシ入ラレ候ハデ。片角ナンドニヲイコメテ置レテ候ハバ。サル狐。狸ハサヤウニ成候ヘバ頓テ引入リテヲトモシ候ハヌニ候。サテタダ事ガラヲヤ御覧候ベク候ラント申サレタリケレバ。イミジク申タリトテ。ソノ定ニ御サタ有テ。ヲイコメラレタリケレバ。ツノ國ナル山寺ニ仲山トカヤニ居テアリケル程ニ。
又二メニ物ツキタリト云事モナクテ。ミソミソトシテサテヤミニケリ。心アル人ハコレヲカンゼズト云コトナシ。浄土寺ノ二位モシラケシラケトシテヤミニケリ。カカル不思議コソ侍ケレ。仲國ハ後ニハユルサレテ卿二位ガウシロミニツカイテアン也。コレヲ思フニ。コノ院ノ御事ハヤムゴトナクヲハシマス君也。ワガ御心ニハ是ヲ正義トノミ思召ケルナルベシ。ソレガアサマシキ人々ノミ世ニアリテ口々ニ申ニナレバ。又サモヤト思召ナルベシ。サレバアヤウキ事ニテ。モシカカルサカシキ人モナクバ。サハフシギモトゲラレテ。一旦ノ己國ハ邪魔ニセラレナンズルハトアサマシクコソ。コノ天狗ヅキ共ハ赦免セラレテイマダ生テ侍也。

又建永ノ年。法然房ト云上人アリキ。マヂカク京中ヲスミカニテ。念仏宗ヲ立テ専宗念仏ト号シテ。タダアミダ仏トバカリ申ベキ也。ソレナラヌコト顕密ノツトメハナセソト云事ヲ云イダシテ。不可思議ノ愚癡无智ノ尼入道ニヨロコバレテ。コノ事ノタダ繁昌ニ世ニハンジヤウシテツヨクヲコリツツ。ソノ中ニ安楽房トテ泰経入道ガモトニアリケル侍ノ入道シテ専修ノ行人トテ。又住蓮トツガイテ。六時禮讃ハ善導和上ノ行ナリトテ。コレヲタテテ。尼ドモニ帰依渇仰セラルル者出キニケリ。ソレラガアマリサヘ云ハヤリテ。コノ行者ニ成ヌレバ。女犯ヲコノムモ魚鳥ヲ食モ。阿ミダ仏ハスコシモトガメ玉ハズ。一向専修ニイリテ念仏バカリヲ信ジツレバ。一定最後ニムカヘ玉フゾト云テ。京田舎サナガラコノヤウニナリケル程ニ。院ノ小御所ノ女房。二和寺ノ御ムロノ御母マジリニコレヲ信ジテ。ミソカニ安楽ナド云モノヨビヨセテ。コノヤウトカセテキカントシケレバ。又グシテ行向ドウレイタチ出キナンドシテ。夜ルサヘトドメナドスル裏出キタリケリ。
トカク云バカリナクテ。終ニ安楽。住蓮頸キラレニケリ。法然上人ナガシテ京ノ中ニアルマジニテヲハレニケリ。カカル事モカヤウニ御無沙汰ノアルニ。スコシカカリテヒカヘラルルトコソミユレ。サレド法然ハアマリ方人ナクテ。ユルサレテ終ニ大谷ト云東山ニテ入滅シテケリ。ソレモ往生往生ト云ナシテ人アツマリケレド。サルタシカナル事モナシ。臨終行儀モ増賀上人ナドノヤウニハイワルル事モナシ。カカル事モアリシカバ。コレハ昨今マデシリビキヲシテ。猶ソノ魚鳥女犯ノ専修ハ大方エトドメラレヌニヤ。山ノ大衆ヲコリテ。空アミダ仏ガ念仏ヲイチラサントテ。ニゲマドハセナドスメリ。大方東大寺ノ俊乗房ハ。阿弥陀ノ化身ト云コト出キテ。ワガ身ノ名ヲバ南無阿弥陀仏ト名ノリテ。万ノ人ニ上ニ一字ヲキテ。空アミダ仏。法アミダ仏ナド云名ヲ付ケルヲ。誠ニヤガテ我名ニシタル尼法師ヲヲカリ。ハテニ法然ガ弟子トテカカル事ドモシ出タル。
誠ニモ仏法ノ滅相ウタガイナシ。是ヲ心ウルニモ。魔ニハ順魔逆魔ト云。コノ順魔ノカナシウカヤウノ事ドモヲシフル也。弥陀一教利物偏増ノマコトナラン世ニハ。罪障マコトニ消テ極楽ヘマイル人モ有ベシ。マダシキニ真言止観サカリニモアリヌベキ時。順魔ノ教ニシタガイテ得脱スル人ハヨモアラジ。悲シキ事ドモナリ。

サテ九條〔兼実〕殿ハ。念仏ノ事ヲ法然上人ススメ申シヲバ信ジテ。ソレヲ戒師ニテ出家ナドセラレニシカバ。仲國ガ妻ノ事アサマシガリ。法然ガ事ナドナゲキテ。ソノ建永二年ノ四月五日。久ク病ニネテ起居モ心ニカナハズ。臨終ハヨクテウセニケリ。

サテ故摂政〔良経〕ノムスメ〔立子〕ハイヨイヨミナシ子ニ成テ。ヨロヅ事タガイテイカニト人モ思ヒタリケレドモ。サヤウニ思召キザシテアリケル上ニ。春日大明神モ八幡大菩薩モ。カク皇子誕生シテ世モヲサマリ。又祖父ノ社稜ノミチ心ニイレタルサマハ。一定仏神モアハレニテラサセ給ヒケント。人ミナ思ヒタル方ノスエトホル事モアルベケレバニヤ。承元三年三月十日。十八ニテ東宮〔順徳〕ノ御息所ニマイラレニケリ。セウトニテ今ノ左大将ヲトナニハハルカニマサリテ。何事モテテノ殿ニハスギタリトノミ人思ヒタレバ。メデタクサタシテマイラセ給ニケルナリ。

サテ又ユユシキ事ノ出キタリケリ。承元二年五月十五日。法勝寺ノ九重塔ノ上ニ雷ヲチテ火付テ焼ニケリ。アサマシキ事ニテアリケリ。ホカヘハカシコクウツラズ。ソノ時院ノ御ツツシミヲモシ。シルシアリナントヲボエン法マイリテ行ヘト慈円僧正ニ仰ラレタリケレバ。法花経ヲオコナイ候ハントテ。助衆廿人具シテ。院ノ御所ニテ七日ハテテ出タリケル後。程ナクコノ塔ノヤケニケルヲ。僧正イミジク案ジテ御所ニ候シホド。修中ニ焼タラバイカニ遺恨ナラマシ。但コノ事ハ一定君ノ御ツツシミノアルベカリケルガ。コレニ転ジヌルヨト思テ。ナ歎キ思食候ソ。コレハヨキ事ニテ候。タダシヤガテ急ギツクラルル御沙汰ノ候ベキ也。当時ヤケ候ヌルハ御死ノ転ジ候ヌルゾ。ヤガテツクラレ候ナンズレバ。御滅罪生善ニ候ベシト申サレタリケレバ。ヤガテ伊予ノ國ニテ公経大納言ツクレトテ。ホドナクツクリ出ントシタクシケルヲ。是ニ伊予フタゲラレテ。世ノ御大事モカケナン。葉上〔栄西〕ト云上人ソノ骨アリ唐ニ久クスミタリシ者也トテ。葉上ニ周防ノ國ヲタビテ長房宰相奉行シテ申サタシタリケリ。塔ノ焼ヲ見テ執行章玄法印ヤガテ死ニケリ。
年八十ニアマリタリケル。人感ジケルトカヤ。サテ第七年ト云ニ建暦三年ニクミ出テ。御供養トゲラレニケリ。其時葉上僧正ニナラントシイテ申テ。カネテ法印ニハナサレタリケル。僧正ニ成ニケリ。院ハ御後悔アリテアルマジキ事シタリト仰セラレケリ。大師号ナンド云サマアシキ事サタアリケルハ。慈円僧正申トドメテケリ。猶僧正ニハ成ニケルナリ。

サテスグル程ニ。承元四年九月卅日ハハキ星トテ。久ク絶タル天変ノ中ニ第一ノ変ト思ヒタル彗星イデデ。夜ヲ重ネテ久ク消エザリケリ。世ノ人イカナル事カトヲソレタリケリ。御祈ドモアリテ。慈円僧正ナド熾盛光法行イナドシテイデズナリタレド。御ツツシミハイカガニテ有程ニ。同十一月十一日ニ又出キニケリ。其タビ司天ノトモガラモ大ニ驚キ思ヒケル程ニ。上皇信ヲイタシテ御祈念ナドアリケルニ。御夢ノ告ノアリケルニヤトゾ人ハ申ケル。忽ニ御譲位ノ事ヲ行ハレテ。承元四年十一月廿五日ニ受禅事アリケリ。サテ東宮ノミヤス〔立子〕所ハ。ヤガテ承元五年正月廿五日立后アリテ。東宮ト申テヲハシケル程ニ。大相國〔頼実〕ノムスメ〔麗子〕ノ中宮ハ。其後内ヲリサセヲハシマシテ。新院〔土御門〕トテヲハシマスニマシラセ給ベキヲ。今ハサナクテアリナント。院ノ御氣色アリケレバ。院号カウブリテ陰明門院トテヲハシマシケリ。

サテ大嘗會ヲコナハレントシケルニ。朱雀門俄ニクヅレヲチタリケル上ニ。春花門院〔昇子内親王〕ウセサセ給テ。御服仮モ出キニケレバ。次ノ年ニノビニケリ。大嘗會ノ御禊ノ行幸ノ日ニテ。朱雀門ノクヅレハ世ノ人モキヨト思ヘリ。サレドモ御禊バカリニテノビタル例ノアルトテノビニケルナリ。世ノ人イカニゾ思ヘリケレド。別ニアシキ事モナクテ。次ノ年朱雀門ハ造リ出サレテ。事ナクヲコナハレニケリ。誠ニモ彗星コノ御譲位ノ事ニテ有ケレバニヤ。上皇ノ御ツツシミハイトモナクテヤミニケルナリ。サテ大相國ハコノ陰明門院中宮ノ御時。春日ノ行啓ト云事。先例モイトナカリケル事ヲ。思フゴトクヲコナイテ。我身兵仗給テ。一ノ人ノゴトクニテ。グシマイラセテマイリナドシテ。後ニ出家シテ太政入道トテ候ハルル也。人ハ随分ニ皆我本意ハトグル事ナルヲ。スグル案ヲタダヨクヨクヒカフベキ事也。

サテ当今〔順徳〕佐渡院。御母〔重子〕ハ。建永二年六月七日院号アリキ。立后ハナシ。二位セサセ給テキト准后ノ宮ニナリ給テ。修明門院ト云院号アリケリ。コノ例ハ八條院ノ御時ヨリハジマレリケルトゾ。又東宮御即位ノ後。院号近例カナラズアル事也。サレバ又範季ノ二位モ贈左大臣ニ成ニキ。出家イトヨニスベカリシ人ノコノ事ヲ思テ。出家モセズシテウセニシガ。果シテカカレバメデタキ事也。サテ左大将〔道家〕ハ又建暦二年六月廿九日ニ任内大臣ケリ。
サテ又関東将軍ノ方ニハ。頼家又叙二位。左衛門督ニ成テ。頼朝ノ将軍ガアトニ候ケレバ。範光中納言弁ナリシ時。御使ニツカハシナドシテ有ケル程ニ。建仁三年九月ノコロヲイ。大事ノ病ヲウケテスデニ死ントシケルニ。ヒキノ判官能員阿波國ノ者也。ト云者ノムスメヲ思テ。男子ヲウマセタリケルニ。六ニ成ケル。一万御前ト云ケル。ソレニ皆家ヲ引ウツシテ。能員ガ世ニテアラントテシケル由ヲ。母方ノヲジ北條時政。遠江守ニ成テアリケルガ聞テ。頼家ガヲトト千万御前〔実朝〕トテ頼朝モ愛子ニテアリシ。ソレコソト思テ。同九月廿日能員ヲヨビトリテ。ヤガテ遠景入道ニイダカセテ。日田四郎ニサシコロサセテ。ヤガテ武士ヲヤリテ頼家ガヤミフシタルヲ。オホエ廣元ガモトニテ病セテ。ソレニスエテケリ。サテ本躰ノ家ニナラヒテ。子ノ一万御前ハアル人ヤリテウタントシケレバ。母イダキテ小門ヨリ出逃ニケリ。サレドソレニ籠リタル程ノ郎等ノハヂアルハ出ザリケレバ。皆ウチ殺テケリ。
ソノ中ニカスヤ有末ヲバ由ナシ。出セヨ出セヨト敵モヲシミテ云ケルヲ。ツイニ出ズシテ敵八人トリテ打死シケルヲゾ。人ハナノメナラズヲシミケル。其外笠原ノ十郎左衛門親景。澁河ノ刑部兼忠ナド云者ミナウタレヌ。ヒキガ子共。ムコノ児玉党ナド。アリアイタル者ハ皆ウタレニケリ。是ハ建仁三年九月二日ノ事也。同五日日田四郎ト云者ハ。頼家ガコトナル近習ノ者也。頼家マデカカルベシトモシラデ。能員ヲモサシコロシケルニ。コノヤウニ成ニケルニ。本躰ノ頼家ガ家ノ侍ノ西東ナルニ。義時ト二人アリケルガヨキタタカイシテウタレニケリ。サテソノ十日頼家入道ヲバ。伊豆ノ修禅寺云山中ナル堂ヘヲシコメテケリ。頼家ハ世ノ中心チノ病ニテ。八月晦日ニカウニテ出家シテ。廣元ガモトニスエタル程ニ。出家ノ後ハ一万御前ノ世ニ成ヌトテ。皆中ヨクテ。カクシナサルベシトモ思ハデ有ケルニ。ヤガテ出家ノスナハチヨリ病ハヨロシク成タリケル。九月二日カク一万御前ヲウツト聞テ。コハイカニト云テ。カタハラナル太刀ヲトリテ。フト立ケレバ。病ノナゴリ誠ニハカナハヌニ。母ノ尼モトリツキナドシテ。ヤガテ守リテ修禅寺ニヲシコメテケリ。
悲シキ事ナリ。サテソノ年ノ十一月三日。終ニ一万若ヲバ義時トリテヲキテ。藤馬ト云郎等ニサシコロサセテウヅミテケリ。サテ次ノ年ハ元久元年七月十八日ニ。修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。トミニエトリツメザリケレバ。頸ニヲヲツケ。フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ。トカク云バカリナキ事ドモナリ。イカデカイカデカソノムクイナカラン。人ハイミジクタケキモ力及バヌコト也ケリ。ヒキハ其郡ニ父ノ党トテ。ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ。一万御前ガ母ヲバマウケタル也。ソノ行時ハ又児玉党ヲ婿ニシタルナリ。

コレヨリ先ニ正治元年ノ比。一ノ郎等ト思ヒタリシ梶原景時ガ。ヤガテメノトニテ有ケルヲ。イタク我バカリト思ヒテ。次次ノ郎等ヲアナヅリケレバニヤ。ソレニウタヘラレテ景時ヲウタントシケレバ。景時國ヲ出テ京ノ方ヘノボリケル道ニテウタレニケリ。子ドモ一人ダニナク。鎌倉ノ本躰ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ。ハタシテ今日カカル事出キニケリ。

カクテ京ヘカクリキノボセテ。千万御前元服セサセテ。実朝ト云名モ京ヨリ給ハリテ。建仁三年十二月八日。ヤガテ将軍宣旨申下シテ。祖父ノ北條ガ世ニ関東ハ成テ。イマダヲサナク若キ実朝ヲ面ニ立テスギケル程ニ。将軍ガ妻ニ可然人ノムスメアハセラルベシト云事出キテ。信清大納言院〔後鳥羽〕ノ御外舅。七條院〔殖子〕ノ御ヲトト也。ソレガムスメヲホカル中ニ。十三歳ナルヲイミジクシ立テ。関東ヨリ武士ドモムカエニマイラセテ下リケルハ元久元年十一月三日也。法勝寺ノ西ノ小路ニ御サジキツクラセテ御覧ジケリ。ソノ御サジキハ延勝寺執行増円法印トテアリシ者ゾ承テツクリタリケル。サテ信清ハ一定死ナンズト親シキ疎キ思タル重病久クワヅライテ。ヤミ生テ終ニ大臣ニナサレテ。建保三年二月十八日ニ出家シテ。同四年二月十五日ニウセニケリ。カヤウニ人ノ事ヲ申侍レバ。年月ヘダツルヤウニ侍也。

カクテ関東スグル程ニ。時政ワカキ妻ヲマウケテ其ガ腹ニ子ドモマウケ。ムスメヲホクモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウトトテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテアリキ。ソノ宗親。頼盛入道ガモトニ多年ツカイテ。駿河國ノ大岡ノ牧ト云所ヲシラセケリ。武者ニモアラズ。カカル者ノ中ニ。カカル果報ノ出クルフシギノ事也。其子ヲバ京ニノボセテ馬助ニナシナドシテ有ケル。程ナク死ニケリ。ムスメノ嫡女ニハトモマサトテ源氏ニテ有ケルハコレ義ガ弟ニヤ。頼朝ガ猶子トキコユル。コノ友正〔朝雅〕ヲバ京ヘノボセテ院ニ参ラセテ御笠懸ノ折モ参リナンドシテツカハセケリ。
コトムスメドモモ皆公卿殿上人ドモノ妻ニ成テスギケリ。サテ関東ニテ又実朝ヲウチコロシテ。コノ友正ヲ大将軍ニセント云コトヲシタクスル由ヲ聞テ。母ノ尼君〔政子〕サハギテ。三浦ノ義村ト云ヲヨビテ。カカル事聞ユ一定也。コレタスケヨ。イカガセンズルトテアリケレバ。義村ヨキ謀ノ者ニテ具シテ義時ガ家ニヲキテ。何トモナクテカザト郎等ヲモヨヲシアツメサセテ。イクサ立テ将軍ノ仰ナリトテ。コノ祖父ノ時政ガ鎌倉ニアルヲヨビ出シテ。モトノ伊豆國ヘヤリテケリ。サテ京ニ朝政〔雅〕ガアルヲ。京ニアル武士ドモニウテト云仰テ此由ヲ院奏シテケリ。京ニ六角東洞院ニ家ツクリテ居タリケル。武士ヒシト巻テセメケレバ。シバシハタタカイテ終ニ家ニ火カケ。打出テ大津ノ方ヘ落ニケリ。
ワザトウシロヲバアケテ落サントシケルナルベシ。山科ニテ追武士共モアリケレバ。自害シテ死ケル頸ヲ。伯嘗國守護武士ニテカナモチト云者アリケル。取テモテ参リタリケレバ。院ハ御車ニテ門ニ出テ御覧ジケルト聞ヘキ。コレハ元久二年後七月廿六日ノ事也。カクシテ北條ヲバヲイコメテ。子共ト云ハ実朝ガ母頼朝ガ後家ナレバ左右ナシ。義時又ヲヤナレバ今ノ妻ノ方ニテ。カカルヒガ事ヲスレバ。ムマゴガ母方ノ祖父ノワレコロサントスルヲオヒコムル也。サレバ実朝ガ世ニヒシトナシテ沙汰シケリ。時政ガムスメノ実朝。頼家ガ母生残リタルガ世ニテアルニヤ。義時ト云時政ガ子ヲバ奏聞シテ。又フツト上揀jナシテ右京権大夫ト云官ニナシテ。コノイモウトセウトシテ関東ヲバヲコナイテアリケリ。京ニハ卿二位〔兼子〕ヒシト世ヲトリタリ。
女人入眼ノ日本國イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ。カクテスグル程ニ時政ガ時。関東ニ勢モアリ。サモスコシムツカシカリヌベキ武士庄司二郎シゲタダナド以下皆ウチテケリ。重忠ハ武士ノ方ハソノミタリテ第一ニ聞ヘキ。サレバウタレケルニモヨリツク人モナクテ。終ニ我トコソ死ニケレ。平氏ノ跡カタナキホロビヤウ。又コノ源氏頼朝将軍昔今有難キ器量ニテ。ヒシト天下ヲシヅメタリツル跡ノ成行ヤウ。人ノシワザトハヲボヘズ。顕ニハ武士ガ世ニテアルベシト。宗庁ノ神モ定メ思食タル事ハ。今ハ道理ニカナイテ必然ナリ。其上ハ平家ノヲホク怨霊モアリ。只冥ニ因果ノコタヘユクニヤトゾ心アル人ハ思フベキ。カヤウニテアカシクラス程ニ。関東ノ方ノ事共モ又イカニナド世ノ中ニハウタガイ思フ程ニ。実朝卿ヤウヤウヲトナシクナリテ。我ト世ノ事ドモ沙汰セントテアリケルニ。仲章トテ光遠ト云シ者ノ子。家ヲ興シテ儒家ニ入テ。菅家ニ入テ。菅家ノ長守朝臣ガ弟子ニテ学問シタリトイハルル者ノ有シガ。事ノエンドモ有ケレバニヤ関東ノ将軍ノ師ニナリテ。常ニ下リテ事ノ外ニ武ノ方ヨリモ文ニ心ヲ入レタリケリ。
仲章ハ京ニテハ飛脚ノ沙汰ナドシテ有ケリ。コレガ将軍ヲヤウヤウニ漢家ノ例引テヲシフルナド。世ノ人サタシケル程ニ。又イカナルコトカト人思ヒタリケリ。実朝ハ又関東ニ不思議イデキテ。我ガ舘ミナ焼レテアヤウキ事有ケリ。義盛左衛門ト云三浦ノ長者。義時ヲ深クソネミテウタンノ志アリケリ。タダアラハレニアラハレヌト聞テ。ニハカニ建暦三年五月二日義時ガ家ニ押寄テケレバ。実朝一所ニテアリケレバ。実朝面ニフタガリテタタカハセケレバ。当時アル程ノ武士ハ皆義時ガ方ニテ。二日タタカイテ義盛ガ頸トリテケリ。ソレニ同意シタル児玉。横山ナンド云者ハ皆ウセニケリ。其後又頼家ガ子ノ。葉上上人ガモトニ法師ニナリテアリケル十四ニナリケルガ。義盛ガ方ニ打モラサレタル者ノアツマリテ。一心ニテ此禅師ヲ取テ打出ントシケル又聞ヘテ。皆ウタレニケリ。十四ニナル禅師ノ自害イカメシクシテケリ。其後ハスコシシヅマリニケリ。

又中宮〔立子〕ハ世ニ大事ナル御病アリケルニ。御セウトニテ良尊法印トテ。寺法師実慶大僧正ガ弟子ニテアリケル人。師モテテモウセテ。大峯笙ノ岩屋ナドヲコナイケルガ御修法シテ候ケル。スズロニ御加持ニ参タビニ。ウルハシク祈モマイラセヌニ。御物ノ氣ノアラハレケレバ。サラバトテ祈マイラセテシルシアリテ。アラタニヤマセ給ニケリ。平法印ニテ有ケル。大僧都ニ賞カウブリナドシテアリケル程ニ。建保五年四月廿四日。忽ニ御懐妊有テ又皇女〔明義門院〕ヲウミ給ニケリ。
猶皇子カタキ事カナ。中中テテノ殿ナドヲハセネバ。モシサモヤトコソ思ヒツルニナド。人モ思ヒタリケル程ニ。其次ノ年ノ正月ヨリ又御懐妊ト聞ヘテ。十月十日寅ノ時ニ御産平安。皇子〔仲恭〕誕生思ノゴトクノ事イデキニケリ。上皇〔後鳥羽〕コトニ待ヨロコバセ給テ。十一月廿六日ニヤガテ立坊有ケリ。清和ノ御時ヨリ一歳ノ立坊定マレル事也。カカルメデタキ事世ノスエニ有ガタキ事カナ。猶世ハシバシアランズルニヤナド。上中下ノ人々思タリケリ。御堂ノ御ムスメニテ上東門院〔彰子〕。一條院ノキサキニテ。後一條。後朱雀院二トコロノ母后ニテ。又後朱雀院ニ上東門院ノ御ヲト〔嬉子〕ト内侍ノカミトテ。後冷泉院ウミ申サレテ後ハ。一ノ人ノムスメ入内立后ハヲホカレド。スベテ御産ト云コト絶ヘタリ。
四條宮〔寛子〕 宇治殿娘〔頼通〕 後冷泉院后
小野皇太后宮〔歓子〕 大二條殿女〔教通〕 同院后
賀陽院〔泰子〕 知足院殿女〔忠実〕 鳥羽院々号ノ後
皇嘉門院〔聖子〕 法性寺殿女〔忠通〕 崇徳院后
皇后宮〔妹子内親王〕 同女〔鳥羽〕 二條院后
コレラスベテ御産ナシ。
宜秋門院〔任子〕 九條殿女〔兼実〕 当院后〔後鳥羽〕

コレハ春花門院〔昇子内親王〕ヲハシマシシカド。先ニソノ次第ハ申ツ。
コノ中宮〔立子〕後京極〔良経〕殿ムスメニテ。カクハジメ姫宮。ノチニ皇子ニテ東宮ニタタセ給フ。返返有ガタキ事也。サテ公経ノ大納言ハコノ立坊ノ春宮大夫ニナリテ。イミジク候ハルルニ。大方コノ人ハ閑院ノ一家ノ中ニ。春宮大夫公実ノ嫡子ニタテテ。トモエノ車ナド伝ヘタリケル。中納言左衛門督通季ノスヂ也。中納言ニテ若死ヲシテ。待賢門院ノ時外舅フルマイモエセズ。実能。実行ナド云ヲトト共ノ方ニ。大臣大将モ出キニケリ。通季ノ子公通ハ大納言マデ成タレド。一大納言マデニモ及バデ。病アリテウセヌ。其子ニ内大臣実宗ハ出キタリ。大臣ニ未ダナラヌ方也トテカタカリシカド。其時又コレニマサリテ大臣ニ成ベキ人モナカリシニ。コノ公経院ノ近習奉公年比ニモナリシカバ。ヤウヤウニ申ツツ。中風ノ氣アリシカバ。実宗公内大臣ニナリニキ。其子ニテ大将ヲ申ケリ。且ハ実行ノ大相國息公教内大臣ノソノカミノ例也。

父ノ大臣ユルサレニシ時。故摂政ハ三條ノ内府。例ハ汝ニコソトタシカニ申候キト申ケレバ。院モサモアリナント御約束アリケルヲ。卿二位ガヲトコニテ大相國入道。ヲトトヲ子ニシテ師経大納言トテアルハ。公経ノ下揀iルヲ。又申ベキ事ナレバトテ大将ニ申ケリ。未ダ闕モナキ時カネゴトヲ各申ケリ。世ノ末ノ習也。大方ハ官ハヌシノ心ニテ。サセルトガナケレバ死闕ヲコソマツヲ。コノ世ニハナリツレバ辞セヨトテ。人ノ心ヲユカシテ。アマネキ政ヨカルベシトテアレバ。コノ風儀ニ入リヌレバ。カネゴトノカク大事ニモナルニヤ。此間ニ院ノ北面ニ忠綱トテ。メシツカイテ誠ニサセル事ナキ者ノ真名ヲダニシラヌヲ。人従者ニテ諸家ノ前駈ガ党也ケリ。
ソノカミ位ノ御時ヨリ候ナレテ。近ク召ツカイケルユエニ。内蔵頭殿上人マデナサレタルヲ御使ニテ。太政入道カク申セバ。大将ニナシ給ハン事。コノ度ハ不定ナリト云事ヲ。水無瀬殿ニテ仰セツカハシタリケルハ。御約束変改ノ議ニハアラズ。セメテモノ事ニテ有ケルヲ。ソノ由ヲバツヤバツヤトイハデ。偏ニ御変改ノ定ニ云ケル間ニ。公経ノ大納言ハアダニ心ウク思ヒテ。サ候ハバ片角ニ出家入道ヲモシテコソハ候ハメ。世ニ候者ハ高モ賤モ妻子ト云事ヲカナシミ思ヒ候ハ。実朝ガユカリノ者ニ候ヘバ。

関東ニマカリテ命バカリハイキテモ候ヘカシナド申テケリ。子ニテ中納言左衛門督実氏ト云。詩ツクリ歌ヨミメデタキ。誠ノ人ナル子ナド近習ニ候ハセテモチタル。カヤウニ云ケルヲソノママニ申テ。君ヲヲドシ参ラセテ。実朝ニウタエント申候ナド云ナシテ。ヤガテ逆鱗アリテ公経大納言ヲバコメラレニケリ。是ハ建保五年十一月八日トカヤ聞ヘケリ。コノ事ハ大将ノアラソイバカリニハアラジ。フカキヤウアリゲナリケリ。院ノ御アトヲ当今ノ外ニツガバヤト思ハセ給フ宮ダチナドオハシマススヂスヂアルニヤ。ハカバカシクハシラネドモ。院ハモトヨリカク位ニツケマイラセラレシヨリ。コノ内ヲ御跡ツグベキ君トハヒシトオボシメシタルニナン。サテヤウヤウコノ事ヲ実朝キキテ大ニ驚テ。シタシケレバウキコトアルニ。ワガ妻モ子モ実朝ヲタノミテ。身バカリハ命モイキヨト内々ニ申タランカラニ。サウナク勅勘ニ及ビテ。年ゴロ申次シテシウトノ信清ノ君アリシカド。公経ノ大納言ノ申次ハ又相違ナカリキ。
今ヲイコメラルベキ様ナシト思テ。卿二位ヲヒシト敵ニトリテ口惜キ由ヲ云ケレバ。卿二位オドロキサハギテ。同キ六年二月十八日ニ申ユルシテケリ。アリシ事ハタダ我モ人モ夢ニナシテ忘レナムト云コトニテゾアリケル。ソノ同二月廿一日ニ。実朝母ハ熊野ヘ参ラントテ京ニ上リタリケルニ。卿二位タビタビユキテヤウヤウニ云ツツ。尼ナル者ヲハジメテ三位セサセテ。四月十五日ニ下リニキ。二位ニナシテ鎌倉ノ二位殿トテ有ケリ。ハジメタル例カナト人云ケリ。カクテスグル程ニ仲章ト云者。使シテヲリノボリシツツ。実朝先ハコレヨリサキニ。中納言中将申テナリヌ。サテ大将ニナラントテ。左大臣ノ大将ヲ兵仗ニカヘテ。九條殿ノ例ナレバトテ。イソギアゲテ左大将ニナサレヌ。ヤガテ大臣ニナラント申テ。ナランニ取テハ内大臣ハ例ワロシ。重盛。宗盛ナド云モ皆内大臣ナリケレバナド云不思議ドモ聞エシ程ニ。九條殿ノ子ニ良輔左大臣日本國古今タグヒナキ学生ニテ。左大臣一ノ上ニテ朝ノ重寶カナト思タリキ。
昔師尹小一條左大臣。一條摂政右大臣ナリケルニ似タル物カナト。心アル人思ケリ。君モイミジト思食タリキ。八條院ニ母三位殿ト云シ人。母ノ方ノ御ムツビニテ院中第一ノ者ニテ候シカバ。女院ヨリ養立ラレ参ラセテヲヒタチタリシ人ノ。同年ノ冬ゴロ。世ニモガサト云病ヲコリタリシヲ。大事ニワヅラヒテ十一月十一日ニウセ給ニケリ。師尹モカクウセラレタリケル。コレマデモ似タル事也。家ニ皇子〔仲恭〕誕生。十月十日有テ世ノヨロコビ又家ノヲコルニテアリシカバ。一定我ハ死ナンズ。アヤシナガラコノ程ノ身ニナリ居タレバ。憂喜集門ト云事我身ニアタレリト。イマ死ナントテノ前日イハレケリ。カカル事出キテ左大臣闕アリケレバ。内大臣実朝思ノゴトク右大臣ニナサレニケリ。サテ京ヘハノボラデ。コノ大将ノ拝賀ヲモ関東鎌倉ニイハイマイラセタルニ。大臣ノ拝賀又イミジクモテナシテ。建保七年正月廿八日甲午。拝賀トゲントテ。京ヨリ公卿五人檳榔ノ車具シツツクダリアツマリケリ。五人ハ
大納言忠信 内大臣信清息
中納言実氏 春宮大夫公経息
宰相中将國通 故泰通大納言息 朝政旧妻夫也
正三位光盛 頼盛大納言息
刑部卿三位宗長 蹴鞠之料ニ本下向云々

ユユシクモテナシツツ拝賀トゲゲル。夜ニ入テ奉幣終テ。寶前ノ石橋ヲ下リテ。扈従ノ公卿列立シタル前ヲ揖シテ。下襲尻引テ笏モチテユキケルヲ。法師ノケウサウトキント云物シタル馳カカリテ。下ガサネノ尻ノ上ニノボリテ。カシラヲ一ノ刀ニハ切テタフレケレバ。頸ヲウチヲトシテ取テケリ。ヲイザマニ三四人ヲナジヤウナル者ノ出キテ。供ノ者ヲイチラシテ。コノ仲章ガ前駈シテ火フリテ有ケルヲ義時ゾト思テ。ヲナジク切フセテコロシテウセヌ。義時ハ太刀ヲモチテカタハラニアリケルヲサヘ。中門ニトドマレトテトドメテケリ。大方用心セズサ云バカリナシ。皆クモノ子ヲチラスガ如クニ。公卿モ何モニゲニケリ。カシコク光盛ハコレヘハコデ。鳥居ニマウケテ有ケレバ。ワガ毛車ニ乗テ帰リニケリ。
皆散々ニチリテ鳥居ノ外ナル数万ノ武士是ヲシラズ。此法師ハ。頼家ガ子ヲ其八幡ノ別当ニナシテ置タリケルガ。日比思モチテ。今日カカル本意ヲ遂テケリ。一ノ刀ノ時。親ノ敵ハカクウツゾト云ケル。公卿ドモアザヤカニ皆聞ケリ。カクシチラシテ一ノ郎等トヲボシキ義村三浦左衛門ト云者ノモトヘ。ワレカクシツ。今ハ我コソハ大将軍ヨ。ソレヘユカント云タリケレバ。コノ由ヲ義時ニ云テ。ヤガテ一人此実朝ガ頸ヲ持タリケルニヤ。大雪ニテ雪ノツモリタル中ニ。岡山ノ有ケルヲコエテ。義ムラガモトヘユキケル道ニ人ヲヤリテ打テケリ。トミニウタレズシテ切チラシ切チラシシテニゲテ。義村ガ家ノハタ板ノモトマデキテ。ハタ板ヲコヘテイラントシケル所ニテ打トリテケリ。猶猶頼朝ユユシカリケル将軍カナ。ソレガ孫ニテカカル事シタル武士ノ心ギハ。カカル者出キ。又ヲロカニ用心ナクテ。文ノ方アリケル実朝ハ又大臣ノ大将ケガシテケリ。亦跡モナクウセヌルナリケリ。

実朝ガ頸ハ岡山ノ雪ノ中ヨリ求メ出タリケリ。日頃若宮トゾ此社ハ云ナライタリケル。其辺ニ房ツクリテ居タリケルヘヨセテ。同意シタル者共ヲバ皆ウチテケリ。又焼ハライテケリ。カカル夢ノ又出キテ。二月二日ノツトメテ京ヘ申テ聞ヘキ。院ハ水無瀬殿ニヲハシマシケルニ。公経大納言ノガリ。実氏ナドガフミ有ケレバ。参リテサハギマドイテ申テケリ。コノ二日。卿二位ハ熊野ヘマウデシテ天王寺ニツキテ候ケルニ。カクト告ケレバ。帰ラントシケルヲ。アナカシコ。ナカリヘリソト。御使ヲヒヲヒニ三人マデハシレリケレバ。ヤガテマイリニケリ。サテコハ不可思議ノワザカナニテ有ケル程ニ。下向ノ公卿モ又ヤウヤウ皆上洛シテケリ。
サテ鎌倉ハ将軍ガアトヲバ母堂ノ二位尼惣領シテ。猶セウトノ義時右京権大夫サタシテ有ベシト議定シタルヨシ聞ヘケリ。其夜次ノ日郎従出家スル者七八十人マデ有ケリ。サマアシカリケリ。廣元ハ大膳大夫トテ久ク有ケル。コノサキニ目ヲヤミテ大事ニテ目ハミエズ成ニケリ。少シハ見ルニヤナドニテ出家シテアンナレドモ。今ハモトニハ似ヌナルベシ。其子モ皆若若トシテ出家シテケリ。入道ノヲヲサ云バカリナシ。カカル事共アレバ。公卿ノ勅使タテラレケルニ。宸筆宣命ニハ文武ノ長ノウセヌル由ニハ。去年冬左大臣良輔朝臣。今年春実朝如此ウセヌル。驚キヲボシメスヨシコソノセラレタリケレ。良輔ノヲトド誠ニヤンゴトナカリケル人カナ。

カカリケル程ニ。尼二位使ヲ参ラス。行光トテ年ゴロ政所ノ事サタセサセテイミジキ者トツカイケリ。成功マイラセテ信乃ノ守ニナリタル者也。二品ノ熊野詣モ。奉行シテ上リタリケルモノヲマイラセテ。院ノ宮コノ中ニサモ候ヌベカランヲ。御下向候テ。ソレヲ将軍ニ成シマイラセテモチマイラセラレ候ヘ。将軍ガ跡ノ武士今ハアリツキテ数万候ガ。主人ヲウシナイ候テ。一定ヤウヤウノ心モ出キ候ヌベシ。サテコソノドマリ候ハメト申タリケリ。コノ事ハ熊野詣ノ料ニ上リタリケルニ。実朝ガアリシ時。子モマウケヌニサヤ有ベキナド。卿二位物語シタリト聞ヘシ名残ニヤ。カカル事ヲ申タリケル。
信清ノヲトドノムスメニ西ノ御方〔坊門局〕トテ。院ニ候ヲバ卿二位子ニシタルガ腹ニ。院ノ宮〔長仁親王〕ウミ参ラセタルヲ。スグル御前ト名付テ。卿二位ガ養イマイラセタル。初ハ三井寺ヘ法師ニ成シマイラセントテ有ケル。猶御元服アリテ親王ニテヲハシマスヲ。モテアツカイテ位ノ心モ深ク。サラズハ将軍ニマレナド思ニヤ。人ノニククテカク推量ドモヲスルニコソ。イカデカ誠ノ心アラン人サハ思フベキ。

位アラソイバカリハ昔ヨリキコユル事ナレド。今ハソノ心アルベクモナシ。院ノ御氣色ヲミナガラハ。イカニサテ此宮所望ノコトヲ上皇キコシメシテ。イカニ将来ニコノ日本國二ニ分ル事ヲバシヲカンゾ。コハイカニト有マジキ事ニ思召テ。エアラジト仰ラレニケリ。其御返事ニ。次々ノタダノ人ハ関白摂政ノ子ナリトモ申サンニシタガフベシナド云タダノ御詞ノアリケル。コレニトリツキテ。又モトヨリ義村○或は義時の誤。ガ思ヨリテ。コノ上ニハ何カ候マジ。左大臣〔道家〕殿ノ御子ノ三位〔教実〕ノ少将殿ヲノボリテムカヘマイラセ候ナント云ケリ。コノ心ニテカサネテ申ケルヤウハ。左府ノ子息ユカリモ候。頼朝ガイモウトノムマゴウミ申タリ。宮カナフマジク候ハバ。ソレヲ下シテ養ヒタテ候テ。将軍ニテ君ノ御マモリニテ候ベシト申テケリ。
其後ヤウヤウノ儀ドモ有テ。先ニモ御使ニクダリタリキトテ。忠綱ヲ又御使ニ下シツカハサレタリケリ。サレドモ詮ハタダモト申シシ左府ノ若君。ソレハアマタ候ナレバ。イヅレニテモト申ツメケレバ。サラバ誠ニヨカリナントテ。二歳ナル若公。祖父公経ノ大納言ガモトニ養ヒケルハ。正月寅月ノ寅ノ歳寅時ウマレテ。誠ニモツネノヲサナキ人ニモ似ヌ子ノ。占ニモ宿曜ニモメデタク叶ヒタリトテ。ソレヲ終ニ六月廿五日ニ。武士ドモムカヘニ上リテ下シ遣サレニケリ。京ヲ出ル時ヨリ下リツクマデ。イササカモイササカモナク声ナクテヤマレニケリトテ。不可思議ノ事カナト云ケリ。

サテ大納言公経ハ其冬十月十三日。終ニ右大将ニナシタブベシトテ。ヨロコビ申ノ出立セヨト仰ラレニケリ。御熊野詣ノ後十一月十三日ノ除目ニ。終ニ右大将ニナリテ。其十九日拝賀メデタクシテ。ヨノ人ニホメラレケリ。

コノ年ノ七月十三日。俄ニ頼政ガ孫ノ頼茂大内ニ候シヲ。謀反ノ心起シテ我将軍ニナラント思タリト云事アラハレテ。在京ノ武士ドモ申テ。院ヘ召ケレドマイラザリケレバ。大内裏ヲ押マハシテウチケルホドニ。内裏ニ火サシテ大内ヤケニケリ。左衛門尉盛時頸ヲ取テ参リニケリ。伊予ノ武士河野ト云ヲカタライケルガ。カウカウト申タリケルト聞ヘキ。

又院ハ八月ノコロヲイ御悩ハヅライヲハシマシシニ。ヨクヨク静ニ物ヲ案ズルニ。此忠綱ト云男ヲコレラナドニ殿上人内藏頭マデナシタルヒガ事コソ。イカニ案ズルモ取所モナキヒガ事ナリケレト。サトリ思フ也トテ。ヤガテ解官停任シテ。御領國サナガラメシテステラレニケリ。少シモ心アル人々ハ殊勝殊勝ノ事哉ト思ヘリケレバニヤ。其御悩無為無事ニ御平癒アリケリ。此関東ノ御使ノ間ニモ。ヤウヤウノヒガ事奇謀ドモ聞ヘキ。故後京極殿ノ子左府〔道家〕ノヲトドハ。松殿ノムスメ北政所ノ腹也。ソレヲ院ノ子ニセントテ。メシトリテ忠綱ニヤシナハセラルルアリ。ソレヲオトナシクモアリ。将軍ニ下シ申サンナンドカマヘテ。ソラ事ノミ京ヰ中ト申ケルモ聞ヘケリ。又頼茂トコトニカタライテ。アヤシキ事ニモ人モ思ケルニ。頼モチガ後見ノ法師カラメラレテ。ヤウヤウノ事申ナンド聞ヘケルハ。披露モナクテ関東ヘクダシツカハシテケリ。
万事ノ事トリアツメテ忠綱ガウセヌル事。不可思議ノ君ノ御運。御案ノメデタサト心アル人ハコレラノミメデタクゾオモヒタリケル。猶申ユルサントスル卿ノ二位ヲゾ人ハアザミケル。

サテ此日本國ノ王臣武士ノナリユク事ハ。事ガラハコノカキツケテ侍ル次第ニテ。皆アラハレマカリヌレド。コレハヲリヲリノ道理ニ思ヒカナヘテ。然モ此ヒガ事ノ世ヲハカリナシツルヨト。其フシヲサトリテ心モツキテ。後ノ人ノ能々ツツシミテ世ヲ治メ。邪正ノコトハリ善悪ノ道理ヲワキマヘテ。末代ノ道理ニ叶ヒテ。仏神ノ利生ノウツハ物トナリテ。今百王ノ十六代ノコリタル程。仏法王法ヲ守リハテンコトノ。先カギリナキ利生ノ本意。仏神ノ冥應ニテ侍ルベケレバ。ソレヲ詮ニテ書ヲキ侍ル也。ソノヤウハ事ヒロク侍レド。又々次ザマニ書ツクシ侍ベシ。其ヲモブキニヒカレテハ。見ム人ハネブラレテヨモ見侍ラジ。コノサキザマノ事ハヨキ物ガタリニテ。目モサメヌベク侍ルメリ。ノコル事ノヲヲサ。カキツクサヌ恨ハ力及バズ。サノミハイカガ書ツクスベキナレバ。コレニテ人ノ物ガタリヲモ聞キクワエン人ハ。其マコトソラ事モ心ヘヌベシ。
是ニハカザリタル事。ソラゴトト云事。神仏テラシ給フラン一コトバモ侍ラヌ也。少ヲボツカナカルベキ事ハ。ヤガテソノ趣見ヘ侍メリ。カキヲトス事ノヲヲサコソ猶イヤマシク侍レ。サテコノ後ノヤウヲ見ルニ。世ノナリマカランズルサマ。コノ廿年ヨリコノカタ。コトシ承久マデノ世ノ政。人ノ心バヘノムクイユカンズル程ノ事ノアヤウサ申カギリナシ。コマカニハ未来記ナレバ申アテタランモ誠シカラズ。タダ八幡大菩薩ノ照見ニアラハレマカランズラン。ソノヤウヲ又カキツケツツ。心アラン人ハシルシクハヘラルベキナリ。
第七巻

今カナニテ書事タカキ樣ナレド、世ノウツリユク次第トヲ心ウベキヤウヲ、カキツケ侍意趣ハ、惣ジテ僧モ俗モ今ノ世ヲミルニ、智解ノムゲニウセテ學問ト云コトヲセヌナリ。學問ハ僧ノ顯密ヲマナブモ、俗ノ紀傳・明經ヲナラフモ、コレヲ學スルニシタガイテ、智解ニテソノ心ヲウレバコソヲモシロクナリテセラルヽコトナレ。スベテ末代ニハ犬ノ星ヲマモルナンド云ヤウナルコトニテヱ心ヘヌナリ。
ソレハ又學シトカクスル文ハ、梵本ヨリヲコリテ漢字ニテアレバ、コノ日本國ノ人ハコレヲヤハラゲテ和詞ニナシテ心ウルモ、猶ウルサクテ知解ノイルナル。明經ニ十三經トテ、孝經・禮記ヨリ、孔子ノ春秋トテ、左傳・公羊・穀ナド云モ、又紀傳ノ三史、八代史乃至文選・文集・貞觀政要コレラヲミテ心ヱン人ノタメニハ、カヤウノ事ハヲカシゴトニテヤミヌ。
本朝ニトリテハ入鹿ガ時、豐浦大臣ノ家ニテ文書ミナヤケニシカドモ、舍人親王ノトキ清人ト日本記ヲナヲツクラレキ。又大朝臣安麿ナド云説モアリケル。ソレヨリウチツヾキ續日本記五十卷ヲバ、初二十卷ハ中納言石川野足、次十四卷ハ右大臣繼繩、ノコリ十六卷ハ民部大輔菅野眞道、コレラ本體トハウケ給テツクリケリ。日本後記ハ左大臣緒嗣、續日本後記ハ忠仁公、文徳實録ハ昭宣公、三代(さんだい)實録ハ左大臣時平、カヤウニキコユ。又律令ハ淡海公ツクラル。弘仁格式ハ閑院大臣冬嗣、貞觀格ハ大納言氏宗、延喜格式ハ時平ツクリサシテアリケルヲバ、貞信公ツクリハテラレケリ。コノ外ニモ官曹事類トカヤ云文モアムナレドモ、持タル人モナキトカヤ。蓮華王院ノ寶藏ニハヲカレタルトキコユレド、取出シテミムト云事ダニモナシ。
スベテサスガニ内典・外典ノ文籍ハ、一切經ナドモキラ++トアムメレド、ヒハノクルミヲカヽヘ、トナリノタカラヲカゾフルト申コトニテ學スル人モナシ。サスガニコトニソノ家ニムマレタルモノハタシナムト思ヒタレド、ソノ義理ヲサトルコトハナシ。イヨ++コレヨリ後、當時アル人ノ子孫ヲミルニ、イサヽカモヲヤノアトニイルベシトミユル人モナシ。
コレヲ思フニ、中++カヤウノ戲言ニテカキヲキタランハ、イミジガホナラン學生タチモ心ノ中ニハコヽロヘヤスクテ、ヒトリヱミシテ才學ニモシテン物ヲトヲモヒヨリテ、中++本文ナドシキリニヒキテ才學氣色モヨシナシ。マコトニモツヤ++トシラヌ上ニ、ワレニテ人ヲシルニ物ノ道理ヲワキマヘシラン事ハカヤウニテヤ、スコシモソノアト世ニノコルベキト思テ、コレハ書ツケ侍ナリ。
コレダニモコトバコソ假名ナルウヘニ、ムゲニヲカシク耳チカク侍レドモ、猶心ハウヘニフカクコモリタルコト侍ランカシ。ソレヲモコノヲカシクアサキカタニテスカシイダシテ、正意道理ヲワキマヘヨカシト思テ、タヾ一スヂヲワザト耳トヲキ事ヲバ心詞ニケヅリステヽ、世中ノ道理ノ次第ニツクリカヘラレテ、世ヲマモル、人ヲモル事ヲ申侍ナルベシ。モシ萬ガ一ニコレニ心ヅキテコレコソ無下ナレ、本文少々ミバヤナド思フ人モイデコバ、イトヾ本意ニ侍ラン。サアラン人ハコノ申タテタル内外典ノ書籍アレバ、カナラズソレヲ御御覽ズベシ。ソレモ寛平遺誡、二代御記、九條殿ノ遺誡、又名譽ノ職者ノ人ノ家々ノ日記、内典ニハ顯密ノ先徳タチノ抄物ナドゾ、スコシ物ノ要ニハカナフベキ。ソレラヲワガ物ニミタテヽ、モシソレニアマル心ツキタラン人ゾ、本書ノ心ヲモ心ヘトクベキ。左右ナクフカタチシテ本書ヨリ道理ヲシル人ハ定侍ラジ。
ムゲニ輕々ナル事バ共ノヲヽクテ、ハタト・ムズト・キト・シヤクト・キヨトナド云事ノミヲホクカキテ侍ル事ハ、和語ノ本體ニテハコレガ侍ベキトヲボユルナリ。訓ノヨミナレド、心ヲサシツメテ字尺ニアラハシタル事ハ、猶心ノヒロガヌナリ。眞名ノ文字ニハスグレヌコトバノムゲニタヾ事ナルヤウナルコトバコソ、日本國ノコトバノ本體ナルベケレ。ソノユヘハ、物ヲイヒツヾクルニ心ノヲホクコモリテ時ノ景氣ヲアラハスコトハ、カヤウノコトバノサハ++トシラスル事ニテ侍ル也。兒女子ガ口遊トテコレラヲオカシキコトニ申ハ、詩歌ノマコトノ道ヲ本意ニモチイル時ノコトナリ。愚癡無智ノ人ニモ物ノ道理ヲ心ノソコニシラセントテ、假名ニカキツクルオ、法ノコトニハタヾ心ヲヱンカタノ眞實ノ要ヲ一トルバカリナリ。コノヲカシ事ヲバタヾ一スヂニカク心得テミルベキナリ。
ソノ中ニ代々ノウツリユク道理ヲバ、コヽロニウカブバカリハ申ツ。ソレヲ又ヲシフサネテソノ心ノ詮ヲ申アラハサントヲモフニハ、神武ヨリ承久マデノコト、詮ヲトリツヽ、心ニウカブニシタガイテカキツケ侍ヌ。
ヲヽキニコ(レ)ヲワカツニ漢家ニ三ノ道アリ。皇道・帝道・王道也。コノ三ノ道ニ、コノ日本國ノ帝王ヲ推知シテ擬アテヽ申サマホシケレド、ソレハ日本國ニハ、日本記已下ノ風儀ニモヲトリ、ツヤ++トナキ事ニテ中++アシカリヌベシ。ソノ分際ハマタシリタカラン人ハ、ミナコノ假名ノ戲言ニモソノホドヨナドハ思アハセラレムズル事ゾカシ。
漢土ニ衞鞅ト云執政ノ臣ノ出コシガ(コ)トコソ、萬ノ事ノ器量ヲシル道ニハヨキ物語ニテ侍レ。秦代ニ孝公ヨキ臣ヲモトメ給ヒシカバ、景監ト云モノ衞鞅ヲモトメテマイラセタリ。見參ニイリテ天下ヲ治メラルベキヤウヲ申。孝公キコシメシテ御心ニカナハズトミユ。又參テ申ス。ウチネブリテキコシメシイレズ。第三度「マゲテ今一度見參ニイラム」ト申テ令參テ申ケルタビ、居ヨリ+セサセ給テ、イミジクモチイラレケリ。サテヒシト天下ヲ治メテケリ。
ソレハ一番ニハ帝道ヲトキテイサメ申ケリ。次ニハ王道ヲトキテヲシヘ申ケリ。コノ二タビ御心ニカナハズ。第三度ノタビコノ君カナハジトミマイラセテ、覇業ヲトキ申テ用ラレニケリ。秦ノ始皇ト申キミモ覇業ノ君トコソ申ナレ。
後ニ又魏ノ齊王ノ時ニ、范叔ト云臣ノ世ヲトリタル。衞鞅ヲイミジキ者ト云ケレド、蔡澤ト云者イデキテ、「衞鞅ハイミジカリシガ、後ニ車裂ニセラレタリナド申スゾカシ王臣モ一期生無爲無事ニコトモナクテスグルコソハヨケレ」ト論ジテ、范叔ハ蔡澤ニ論マケテ、サラバトテ世ノ政ヲ蔡澤ニユヅリテイリコモリニケレバ、蔡澤ウケトリテ誠ニ王臣一生ハヲダシクテヤミニケリ。アハレコノモシキ者ドモカナ。蔡澤ガメデタキヨリモ、范叔ガ我世ヲ道理ニヲレテ、去テノキケルコヽロアリガタカルベシ。漢家ノ聖人賢人ノアリサマコレニテミナシラルベシ。唐太宗ノ事ハ貞觀政要ニアキラケシ。佛ノサトリニモ、菩薩ノ四十二位マデタツルモ、善惡ノサトリ分際ミナヲモヒシラルヽ事ナリ。
今神武以後、延喜・天暦マデクダリツヽ、コノ世ヲ思ヒツヾクルニ、心モコトバモ不及。サリナガラコノ代ニノゾミテヲモフニ、神武ヨリ成務マデ十三代ハ、王法・俗諦バカリニテイサヽカノヤウモナク、皇子++ウチツヾキテ八百四十六年ハスギニケリ。仲哀ヨリ欽明マデ十七代ハ、トカクヲチアガリテ、安康・武烈ノ王モマジラセタマイテ、又仁徳・仁賢メデタクテスギニケリ。三百九十四年ナリ。十三代ヨリモ十七代ハスクナシ。
サテ欽明ニ佛法ワタリハジメテ、敏達ヨリ、聖徳太子ノヲサナクヲハシマス五ツ六ツヨリワタルトコロノ經論、ヒトヘニヲサナキ人ニウチマカセテ、ミトキテ王ニ申サセタマイテ、敏達・用明・崇峻三代ハスギヌ。ソノ次ニ女帝ノ推古ニヒシト太子ヲ攝政ニテ、佛法ニ王法ハタモタレテヲハシマセバ、コノ敏達ヨリ桓武マデ二十一代、コノ平安ノ京ヘウツルマデヲ一段ニトラバ、ソノ間ハ二百卅六年、コレ又十七代ノ年ノカズヨリモスクナシ。
コノヤウニテ世ノ道理ノウツリユク事ヲタテムニハ、一切ノ法ハタヾ道理ト云二文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也。ヒガコトノ道理ナルヲ、シリワカツコトノキハマレル大事ニテアルナリ。コノ道理ノ道ヲ、劫初ヨリ劫末ヘアユミクダリ、劫末ヨリ劫初ヘアユミノボルナリ。コレヲ又大小ノ國++ノハジメヨリヲハリザマヘクダリユクナリ。
コノ道理ヲタツルニ、ヤウ++サマ※※ナルヲ心得ヌ人ニコヽロサセンレウニ、セウ++心ヱヤスキヤウカキアラハシ侍ベシ。
一、冥顯和合シテ道理ヲ道理ニテトヲスヤウハハジメナリ。コレハ神武ヨリ十三代マデカ。
二、冥ノ道理ノユク++トウツリユクヲ顯ノ人ハヱ心得ヌ道理、コレハ前後首尾ノタガヒ+シテ、ヨキモヨクテモトヲラズ、ワロキモワロクテモハテヌヲ人ノヱ心得ヌナリ。
コレハ仲哀ヨリ欽明マデカ。
三、顯ニハ道理カナトミナ人ユルシテアレド、冥衆ノ御心ニハカナハヌ道理ナリ。コレハヨシト思テシツルコトノカナラズ後悔ノアルナリ。ソノ時道理ト思テスル人ノ、後ニヲモヒアハセテサトリ知也。
コレハ敏達ヨリ後一條院ノ御堂ノ關白マデカ。
四、當時サタシヌル間ハ、我モ人モヨキ道理ト思ホドニ、智アル人ノイデキテ、コレコソイハレナケレト云トキ、マコトニサアリケリト思返ス道理ナリ。
コレハ世ノ末ノ人ノフカクアルベキヤウノ道理ナリ。
コレマタ宇治殿ヨリ鳥羽院ナドマデカ。
五、初ヨリ其儀兩方ニワカレテヒシ++ト論ジテユリユクホドニ、サスガニ道理ハ一コソアレバ、其道理ヘイヽカチテヲコナフ道理ナリ。コレハ地體ニ道理ヲシレルニハアラネド、シカルベクテ威徳アル人ノ主人ナル時ハコレヲ用ル道理也。
コレハ武士ノ世ノ方ノ頼朝マデカ。
六、カクノゴトク分別シガタクテ、トカクアルイハ論ジアルイハ末定ニテスグルホドニ、ツイニ一方ニツキテヲコナフ時、ワロキ心ノヒクカタニテ、無道ヲ道理トアシクハカライテ、ヒガコトニナルガ道理ナル道理ナリ。コレハスベテ世ノウツリユクサマノヒガ事ガ道理ニテ、ワロキ寸法ノ世々ヲチクダル時ドキノ道理ナリ。
コレ又後白河ヨリコノ院ノ御位マデカ。
七、スベテハジメヨリヲモヒクワダツルトコロ、道理ト云モノヲツヤ++ワレモ人モシラヌアイダニ、タヾアタルニシタガイテ後ヲカヘリミズ、腹寸白ナドヤム人ノ、當時ヲコラヌトキ、ノドノカハケバトテ水ナドヲノミテシバシアレバ、ソノヤマイヲコリテ死行ニモヲヨブ道理也。
コレハコノ世ノ道理ナリ。サレバ今ハ道理イフモノハナキニヤ。
コノヤウヲ、日本國ノ世ノハジメヨリ次第ニ王臣ノ器量果報ヲトロヘユクニシタガイテ、カヽル道理ヲツクリカヘ+シテ世ノ中ハスグルナリ。劫初劫末ノ道理ニ、佛法王法、上古中古、王臣萬民ノ器量ヲカクヒシトツクリアラハスル也。サレバトカク思トモカナフマジケレバ、カナハデカクヲチクダル也。
カクハアレド内外典ニ滅罪生善ト(イフ)道理、遮惡持善トイフ道理、諸惡莫作、諸善奉行トイフ佛説ノキラ++トシテ、諸佛菩薩ノ利生方便トイフモノヽ一定マタアルナリ。コレヲコノハジメノ道理ドモニコヽロヘアハスベキナリ。イカニ心得アハスベキゾトイフニ、サラニ+人コレヲオシフベカラズ。智惠アラン人ノワガ智解ニテシルベキナリ。タヾシモシヤト心ノヲヨビコトバノユカンホドヲバ申ヒラクベシ。
大方フルキ昔ノコトハ、タヾカタハシヲキクニ皆ヨロヅハシラルヽ心バヘノ人ニテ、シルシヲク事キハメテカスカ也。コレヲミテ申サムコトハ、ヒトヘノスイリヤウノヤウナレバ、又此コロノ人ハ信ヲオコサヌコトニテ侍ランズレバ、コマカニ申ガタシ。ヲロ++ハ、又ヤガテ事ノケズライヲバ、サヤウニヤト云コトハカキツケ侍ヌ。
サテ(世ノ)スヱザマハ事ノシゲクナリテツクシガタク侍レドモ、清和ノ御時ハジメテ攝政ヲヲカレテ、良房ノヲトヾイデキタマイシ後、ソノ御子ニテ昭宣公ノワガヲイノ陽成院ヲオロシタテマツリテ、小松ノ御門ヲタテ給イシヨリ後ノ事ヲ申ベキ也。
先道理ウツリユクコトヲ、地體ニヨク++人ハ心ウベキ也。イカニ國王ト云ハ、天下ノサタヲシテ世ヲシヅメ民ヲアハレムベキニ、トヲガウチナルヲサナキ人ヲ國王ニハセンゾト云ダウリ侍ゾカシ。次ニ國王トテスヱマイラセ後ハ、イカニワロクトモ、タヾサテコソアラメ。ソレヲワガ御心ヨリヲコリテヲリナントモ仰ラレヌニ、ヲシオロシマイラスベキヤウナシ。「コレヲ云ゾカシ、謀反トハ」ト云道理又必然ノ事ニテ侍ゾカシ。其ニコノ陽成院ヲオロシマイラセラレシヲバ、イハレズ昭宣公ノ謀反ナリト申人ヤハ世々侍ル。ツヤ++トサモヲモハズ又申サヌゾカシ。御門ノ御タメカギリナキ功ニコソ申ツタヘタレ。又幼主トテ四五ヨリ位ニツカセ給ヲ、シカルベカラズ、モノサタスルホドニナラセ給テコソ、ト云人ヤハ又侍ル。昔今ツクマジキ人ヲ位ニツクル事ナケレバ、ヲサナシトテキラハヾ、王位ハタヘナンズレバ、コノ道理ニヨリテヲサナキヲキラフコトナシ。コレラ二ニテ物ノ道理ヲバシルベキナリ。
大方世ノタメ人ノタメヨカルベキヤウヲ用ル。何ゴトニモ道理詮トハ申ナリ。世ト申ト人ト申トハ、二ノ物ニテハナキ也。世トハ人ヲ申也。ソノ人ニトリテ世トイワルヽ方ハヲホヤケ道理トテ、國ノマツリコトニカヽリテ善惡ヲサダムルヲ世トハ申也。人ト申ハ、世ノマツリコトニモノゾマズ、スベテ一切ノ諸人ノ家ノ内マデヲヲダシクアハレム方ノマツリコトヲ、又人トハ申ナリ。其人ノ中ニ國王ヨリハジメテアヤシノ民マデ侍ゾカシ。
ソレニ國王ニハ國王フルマイヨクセン人ノヨカルベキニ、日本國ノナラヒハ、國王種姓ノ人ナラヌスヂヲ國王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル國ナリ。ソノ中ニハ又ヲナジクハヨカランヲトネガフハ、又世ノナラヒ也。ソレニカナラズシモワレカラノ手ゴミニメデタクヲハシマス事ノカタケレバ、御ウシロミヲ用テ大臣ト云臣下ヲナシテ、仰合ツヽ世ヲバヲコナヘトサダメツル也。コノ道理ニテ國王モアマリニワロクナラセ給ヌレバ、世ト人トノ果報ニヲサレテ、ヱタモタセタマハヌナリ。ソノワロキ國王ノ運ノツキサセタマウニ、マタヤウ++ノサマノ侍ナリ。
太神宮・八幡大菩薩ノ御ヲシヘノヤウハ、「御ウシロミノ臣下トスコシモ心ヲオカズヲハシマセ」トテ、魚水合體ノ禮ト云コトヲサダメラレタル也。コレ計ニテ天下ノヲサマリミダルヽ事ハ侍ナリ。アマノコヤネノミコトニ、アマテルヲオン神ノ、「トノヽウチニサブライテヨクフセギマモレ」ト御一諾ヲハルカニシ、スヘノタガウベキヤウノ露バカリモナキ道理ヲヱテ、藤氏ノ三功トイフ事イデキヌ。ソノ三ト云ハ、大織冠ノ入鹿ヲ誅シ給シコト、永手大臣・百河ノ宰相ガ光仁天皇ヲタテマイラセシ事、昭宣公ノ光孝天皇ヲ又タテ給シコト、コノ三也。ハジメ二ハ事アガリタリ。昭宣公ノ御コトハ、清和ノ後ニサダカニイデキタル事也。
ソノ後スベテ國王ノ御命ノミジカキ云バカリナシ。五十ニヲヨバセ給タル一人モナシ。位ヲオリサセ給テ後ハ、ミナ又ヒサシクヲハシマスメリ。コレラハ皆人シリタレド、一ドニコヽロニウカブコトナケレバ、ウルサキヤウナレド、コレヲマヅ申アラハスベシ。
清和ハワヅカニ御歳三十一、治天下十八年ナリ。
陽成ハ八年ニテヲリサセ給ヌ。八十一マデヲハシマセド世モシラセタマハズ。
光孝ハタヾ三年、コレハサラニイデキヲハシタル事ニテ、五十五ニテハジメテツカセ給。
宇多ハ三十年ニテ位ヲサリテ御出家、六十五マデヲハシマス。
醍醐ハ卅三年マデヒサシクテ、御年モ四十六ニテ、タヾコレバカリメデタキ事ニテヲハシマス。
朱雀ハ十六年ニテアレド卅ニテウセ給フ。
村上ハ廿一年ニテ四十二マデ也。コレ延喜・天暦トテ、コレコソスコシナガクヲハシマセ。
冷泉ハ二年ニテ位ヲオリテ、六十二マデヲワシマセド、タヾ陽成トヲナジ御事ナリ。
圓融ハ十五年ニテ卅四。
花山ハ二年ニテ四十一マデヲハシマセド云ニタラズ。
一條ハ廿五年ニテ卅二、幼主ニテノミヲハシマスハ、ヒサシキモカイナシ。
三條ハ五年ナリ。東宮ニテコソヒサシクヲハシマセドモ又カイナシ。
後一條ハ二十年ナレド廿九ニテ、又幼主ニテヒサシクヲハシマシキ。
後朱雀ハ九年ニテヲトナシクヲハシマセドモ卅七、又ホドナシ。
後冷泉ハ廿三年ニテ四十二、コレゾスコシホドアレド、ヒトヘニタヾ宇治殿ノマヽナリ。
コノ國王ノ代々ノワカ死ヲセサセ給ニテフカク心ウベキナリ。タカキモイヤシキモ、命ノタフルニスギテ、ツクリカタメタル道理ヲアラハスミチハアルマジキ也。日本國ノ政ヲツクリカフル道理ト、ヲリヰノミカドノ世ヲシロシメスベキ時代ニヲチクダルコトノマダシキホド、國王ノ六十七十マデモヲハシマサバ、攝 籙ノ臣ノ世ヲオコナフト云一段ノ世ハアルマジキ也。サスガニ君トナラセヲハシマシテ、五十六十マデ脱 モナクテアランニハ、タヾ昔ノマヽニテコソアルベケレ。誠ニ御年ノワカクテ、ハジメハ幼主ノ攝政ニテ、ヤウ++サバカリニナラセ給ヘドモ、我ト世ヲシラムトヲボシメスホドノ御心ハヱナシ。
攝籙ノ臣ノ器量メデタクテ、ソノ御マツリ事ヲタスケテ、世ヲオサメラルレバ事モカケズ。サルホドニ君ハ卅ガウチトニテミナウセサセ給フ也。コレコソハ太神宮ノ、コノ中ホドハ、キミノ君ニテ昔ノゴトクヱアルマジケレバ、此レウニコソ神代ヨリ、「ヨク殿内ヲフセギマモレ」トイヽテシカバ、ソノ子孫ニ又カク器量アイカナイテ、ムマレアイ+シテコノ九條ノ右丞相ノ子孫ノ、君ノ政ヲバタスケンズルゾト、ツクリアハセラレタル也。
サテソノ後、太上天皇ニテ世ヲシロシメスベシト又サダマリヌレバ、白河・鳥羽・後白河ト三代ハ七十六(十)五十ニミナアマリ+ シテ世ヲバシロシメスニナン。サレバコノコトハリハコレニテ心ヱラレヌ。
サテ後三條院ヒサシクヲワシマスベキニ、事ヲバキザシテ四十ニテウセヲハシマス事ゾヲボツカナケレド、ソレハムズト世ノヲトロフベキ道理ノアラハルヽナルベシ。後三條院御心ニヲボシメスホドノアリケムハ、イカニメデタカリケム。
サテ、トモイヘカクモイヘ、時ニトリテ、世ヲシロシメス君ト攝籙臣トヒシト一ツ御心ニテ、チガフコトノ返+ 侍マジキヲ、別ニ院ノ近臣ト云物ノ、男女ニツケテイデキヌレバ、ソレガ中ニイテ、イカニモ+ コノ王臣ノ御中ヲアシク申ナリ。アハレ俊明卿マデハイミジカリケル人哉。コヽヲ詮ニハ君ノシロシメスベキナリ。
今ハ又武者ノイデキテ、將軍トテ君ト攝籙ノ家トヲオシコメテ世ヲトリタルコトノ、世ノハテニハ侍ホドニ、此武將ヲミナウシナイハテヽ、誰ニモ郎從トナルベキ武士バカリニナシテ、ソノ將軍ニハ攝 籙ノ臣ノ家ノ君公ヲナサレヌル事ノ、イカニモ+宗廟神ノ、猶君臣合體シテ昔ニカヘリテ、世ヲシバシヲサメントヲボシメシタルニテ侍レバ、ソノ始終ヲ申トヲシ侍ベキ也。サレバ後三條院ハ四年、コレヨリノ事ヲコマカニ申ベシ。
コノ後ハ事カハリテ位ヲリテ後、世ヲシラントヲボシメシクハダテヽ、ワレハトクウセサセ給シカド、白河院七十七マデ世ヲシロシメシキ。コレハ臣下ノ御フルマイニナレバヒサシクヲハシマスナリ。次鳥羽院又五十四マデヲハシマスベキニ、又後白河五代ノミカドノ父祖ニテ、六十六マデヲハシマス。太上天皇世ヲシロシメシテノ後、ソノ中ノ御子・御孫ノ位ノヒサシサ、トサノコトハムヤクナレバ申ニヲヨバズ。ワザトセンヤウニホドナクカハラセ給フメリ。ソノ次ニコノ院ノ御世ニ成テ、スデニ後白河院ウセサセヲハシマシテ後、承久マデスデニ廿八年ニナリ侍リヌル也。
延喜・天暦マデハ君臣合體魚水ノ儀マコトニメデタシトミユ。北野ノ御事モセメテ時平ト御心タガハヌカタノシルシナルベシ。
冷泉院ノ御後、ヒシト天下ハ執政臣ニツキタリトミユ。ソレニトリテ御堂マデハ攝籙ノ御心ノ、時ノ君ヲオモイアナヅリマイラスル心ノサワ++トナクテ、君ノアシクヲハシマス事ヲバメデタク申ナヲシ+テヲハシマスヲ、君ノアシク御心ヱテ、圓融・一條院ナドヨリ我ヲアナヅルカ、世ヲワガ心ニマカセヌコソ、ナドヲボシメシケルハミナ君ノ御ヒガ事トミユ。宇治殿ノ後冷泉院ノ御時、世ヲヒシトトラセ給シ後ニ、スコシハ君ヲアナヅリマイラセテ、世ヲワガ世ニ思ハレケルカタノマジリニケルヨ、ナドミユ。後三條院コレヲサ御ランジテ、コノ事アレトヲボシメシテ、今ハタヽ脱ノ後ワレ世ヲシラントヲボシメシテケリ。サレドコノ宇治ト後三條院トハサハヲボシメセドモ、アシカリケリ+ トミナ思ヒナヲシ+ シテ、王道ヘヲトシスヱテ世ノマツリコトハヤミ++シケルヨ、ナドミユ。
白河院ノ後、ヒシト太上天皇ノ御心ノホカニ、臣下トイフモノヽセンニタツ事ノナクテ、別ニ近臣トテ白河院ニハ初ハ俊明等モ候。スヱニハ顯隆・顯頼ナド云物ドモイデキテ、本體ノ攝 籙臣ヲコノシモザマノ人ノヲハシケルニ、又カナシウヲサレテヲソレハヾカリナガラ、又昔ノスヱハサスガニツヨクノコリテ、鳥羽、後白河ノハジメ法性寺ドノマデハアリケリトミユ。
コノ中ニ白河院ノ、知足院ドノヲヒシト中アシクモテナシテヲヒコメテ、ソノ知足院ノ子法性寺殿ヲ別ニトリハナツヤウニツカヒタテサセ給タル御ヒガ事ノ、ヒシト世ヲバウシナイツルニテ侍ナリ。コレニツケテサダカニ冥顯ノ二ノ道、邪神善神ノ御タガヘ、色ニアラハレ内ニコモリテミユルナリ。サレドモ鳥羽院ハ最後ザマニヲボシメシシリケン、物ヲ法性寺殿ニ申アワセテ、ソノ申サルヽマヽニテ、後白河院位ニツケマイラセテ、立ナヲリヌベキトコロニ、カヤウニ成行ハ世ノナヲルマジケレバ、スナハチ天下日本國ノ運ノツキハテヽ、大亂ノイデキテ、ヒシト武者ノ世ニナリニシ也。
ソノ後、攝籙ノ臣ト云物ノ、世中ニトリテ、三四番ニクダリタル威勢ニテ、キラモナク成ニシナリ。其後ワヅカニ松殿・九條殿コノ二人、イサヽカ一ノ人ニ似タル事ドモアレド、カク成ヌル上ノナサケニテコソアレ。松殿ハ平家ニウシナハレ、九條殿ハ源將軍ニトリイダサレタル人ニテ、國王ノ御(意)ニマカセテ、攝 籙臣ヲワガ物ニタノミモシ、ニクミモスルスヂノコソ++トウセヌル上ハ、ヨキモアシキモヲカシキ事ニテ今ハヤミヌルニ、タヾシバシコノ院ノ後京極殿良經ヲ攝籙ニナサレタリシコソ、コハメデタキ事カナトミヱシホドニ、ユメノヤウニテ頓死セラレニキ。
近衞殿ト云父子ノ、家ニハムマレテ、職ニハ居ナガラ、ツヤ++トカイハライテ、世ノヤウヲモ家ノナライヲモ、スベテシラズ、キカズ、ミズ、ナラハヌ人ニテ、シカモ家領文書カヽヱテ、カクトラレヌ、カヱサレヌシテ、イマダウセズシナデヲハスルニテ、ヒシト世ハ王臣ノ道ハウセハテヌルニテ侍ヨト、サハ++トミユル也。
ソレニ王モ臣モマヂカキ九條殿ノ世ノ事ヲ思ハレタリシ。チカラノ正道ナルカタハ、宗廟社稷ノ本ナレバ、ソレガトヲルベキニヤ。イマ左大臣ノ子ヲ武士ノ大將軍ニ、一定八幡大菩薩ノナサセ給ヒヌ。人ノスル事ニアラズ、一定神々ノシイダサセ給ヒヌルヨトミユル、フカシギノ事ノイデキ侍リヌル也。
コレヲ近衞殿ナド云サタノホカノ者ハ、「ワガ家ニカヽルコトナシ。ハヂカヽルヽカ」イハルヽヲ、誠ニナドヲモフ人モアルトカヤ。ヲカシキ事トハ、タヾコレラナリ。ワガ身ウルハシク家ヲツギタル人ニテコソ、サヤウノ事ハヲロカナガラモイフベケレ。平將軍ガ亂世ニ成サダマル謀反ノ詮ニ、二位中將ヨリ、ツヤ++物モシラヌ人ノワカ++ヲロカ+トシタルニ、攝 籙ノ臣ノ名バカリサヅケラレテ、怨靈ニワザトマモラレテ、ワガ家ウシナワンレウニ久シクイキタルゾト、ヱ思ヒシラヌホドノ身ニシテ、「家ノハヂ也」ナドイハヾヤ、大菩薩ノ御心ニカナフベキ。不足言ト云ハコレナリ。
スコシハ、世ノウツリ物ノ道理ノカハリユクヤウハ、人コレヲワキマヘガタケレバ、ソノレウニコレハカキツケ侍レド、コレヲミム人モワガ心ニイレ++センズレバサラニカナウマジ。コハイカヾシ侍ベキ。
サレバ攝籙家ト武士家トヲヒトツニナシテ、文武兼行シテ世ヲマモリ、君ヲウシロミマイラスベキニナリヌルカトミユルナリ。コレニツキテ昔ヲ思ヒイデ今ヲカヘリミテ、正意ニヲトシスヱテ邪ヲステ正ニキスル道ヲヒシト心ウベキニアヒ成テ侍ゾカシ。先コレニツキテ、是ハ一定大菩薩ノ御計カ、天狗・地狗ノ又シハザカトフカクウタガウベシ。
コノウタガイニツキテ、昔ヨリ怨靈ト云物ノ世ヲウシナイ人ヲホロボス道理ノ一ツ侍ヲ、先佛神ニイノラルベキナリ。
百川ノ宰相イミジク光仁ヲタテ申シト、又ソノアトノ王子立太子論ゼシニ、桓武ヲバタテヲホセマイラセタレド、アマリニサタシスゴシテ、井上ノ内親王ヲ穴ヲヱリテ獄ヲツクリテコメマイラセナンドセシカバ、現身ニ龍ニ成テ、ツイニ蹴コロサセ給フト云メリ。
一條攝政ハ朝成ノ中納言ヲ生靈ニマウケテ、義孝ノ少將マデウセヌト云メリ。アサヒラハ定方右大臣ノ子也。宰相ノ時ハ一條攝政ハ下臈ニテ競望ノアイダ放言シ申タリケリ。大納言所望ノ時ハ攝 籙臣ニナラレタルニマイリテ、昔ハサウナク上ヘノボル事モナカリケルニ良久シク庭ニ立テ、タマ++ヨビ入テアハレタルニ、大納言ニハワガナルベキ道理ヲ立テケルヲウチキヽテ、「往年納言トキハ放言セラレキ。今ハ貴閣ノ昇進ワガ心ニマカセタリ。世間ハハカリガタキ事ゾ」ト云テ、ヤガテ内ヘイラレニケレバ、ナノメナラズ腹立テイデケル。車ニマヅ笏ヲナゲイレケル二ニワレニケリ。サテ生靈トナレリ、トコソ江帥モカタリケレ。三條東洞院ハアサ平ガ家ノアトナリ。ソレヘハ一條攝政ノ子孫ハノゾマズナド申メリ。
元方ノ大納言ハ天暦ノ第一皇子廣平親王ノ外祖ニテ、冷泉院ヲトリツメマイラセタリ。顯光大臣ハ御堂ノ靈ニナレリ。小一條院御シウトナリシユヘナドカヤウニ申也。サレドモ佛法ト云モノヽサカリニテ、智行ノ僧ヲホカレバ、カヤウノ事ハタヽレドモ、事ノホカナル事ヲバフセグメリ。マメヤカニ底ヨリタウトキ僧ヲタノミテ、三寶ノ益ヲバウル也。九條殿ハ慈惠大師、御堂ハ三昧和尚・無動寺座主、宇治殿ハ滋賀僧正ナド、カヤウニキコユメリ。
フカク世ヲミルニハ、讚岐院、知足院ドノヽ靈ノサタノナクテ、タヾ我家ヲウシナハント云事ニテ、法性寺殿ハコナガラアマリニ器量ノ、手ガクベクモナケレバニヤ、ワガ御身ニハアナガチノ事モナシ。中ノ殿ノトクウセザマ、松殿・九條殿ノ事ニアハレヤウ、コノイ殿ノタビ++トラレ給ヒテ、今マデ命ヲイケテアソビテコノ家ヲウシナハレヌル事ト、後白河一代アケクレ事ニアハセ給フコトナドハ、アラタニコノ怨靈モ何モタヾ道理ヲウル方ノコタウル事ニテ侍ナリ。一トアタリハタヾヤス++トアル事ノ一大事ニハナル也。サヌキヨリヨビカハシマイラセテ、京ニヲキタテマツリテ、國一ツナドマイラセテ、「御作善候ベシ」ナドニテ歌ウチヨマセマイラセテアラマシカバ、カウホドノ事アルマジ。知足院殿ヲモ申ウケテ、法性寺殿ノ御サタニハ、宇治ノ常樂院ニスヱ申テ、イマスコシ庄ドモヽマイラセテ、ヲナジクアソビシテ管絃モテナシテヲハシマサマシカバ、カウホドノ事ハアルマジキ也。法性寺殿ハワガヲヤナレバ、流刑ノナキコソソマウノ事トヲモハレタリケルニヤ。ソレモイハレタレド、我身ニアラタナルタヽリハナケレドモ、イカニモノヽハカライハ、コレホドノヤウヲフカク思ヒトカヌトコロニ事ハイデクルナリ。
人間界ニハ怨憎會苦、カナラズハタストコロナリ。タヾ口ニテ一言、ワレニマサリタル人ヲ過分ニ放言シツレバ、當座ニムズトツキコロシテ命ヲウシナハルヽナリ。怨靈ト云ハ、センハタヾ現世ナガラフカク意趣ヲムスビテカタキニトリテ、小家ヨリ天下ニモヲヨビテ、ソノカタキヲホリマロバカサントシテ、讒言ソラ事ヲツクリイダスニテ、世ノミダレ又人ノ損ズル事ハタヾヲナジ事ナリ。顯ニソノムクイヲハタサネバ冥ニナルバカリナリ。
聖徳太子ノ十七條ノ中ニ、
「嫉妬ヲヤメヨ、嫉妬ノ思ヒハソノキハナシ。
カシコクヲロカナル事ハ、又タマキノハシナキガゴトシ。我一人エタリトナ思ヒソ」トイマシメテ、
「寶アルモノ、ウレヘハヤス++トトホルナリ。石ヲ水ニナゲイルヽヤウ也。マヅシキ者ノウレヘハカタクテトホル事ナシ。水ニテ岩ヲウツヤウ也」ト仰ラレタル。
コノ三事ノセンニテハ侍ルヲ、世ノスエザマ、當時ノ世間ニハサルイマシメノアルカトダニモ思ハデ、ワザトコレヲメデタキ事ニ思テ、スコシモタマシイアラント思ヒタル人ハ、物ネタミト自是非他ト追從マイナイトニテ、コレガヒトヘニ世ヲモタンニハナンノ候ハンゾナ。アザヤカ+ ト侍ルモノカナ。
ヲサマレル世ニハ官人ヲモトム、ミダレタル世ニハ人官ヲモトムト。コノ比ノ十人大納言三位五六十人、コ院ノ御時マデモ十人ガ内外ニテコソ侍シカ。ユゲイノゼウ・ケビイシハカズモサダマラズ。一度ノ除目ヲミレバ、靭負尉・兵衞尉四十人ニヲトルタビナシ。千人ニモナリヌラン。
人官ヲモトメテ、ソクラウワキザシヲタヅネテネガフモノハ、近臣恪勤ノ男女ニテアランニハ左右ニヲヨバヌコトゾカシ。サマデハヲモヒヨラズ。
マコトニハ、末代惡世、武士ガ世ニナリハテ、末法ニモイリニタレバ、タヾチリバカリコノ道理ドモヲ君モヲボシメシイデヽ、コハイカニトヲドロキサメサセ給テ、サノミハイカニコノ邪魔惡靈ノ手ニモイルベキトヲボシメシ、近臣ノ男女モイサヽカヲドロケカシトノミコソ念願セラレ侍レ。
又武士將軍ヲウシナイテ、我身ニハヲソロシキ物モナクテ、地頭+トテミナ日本國ノ所當トリモチタリ。院ノ御コトヲバ、近臣ノワキ、地頭ノ得分ニテコソグレバ、ヱマズト云事ナシ。武士ナレバ、當時心ニカナハヌ物ヲバヲレ++トニラミツレバ、手ムカイスル物ナシ。タヾ心ニマカセテント、ヒシト案ジタリト今ハミユメリ。
サテコレラノヒガ事ノツモリテ大亂ニナリテ、コノ世ハ我モ人モホロビハテナンズラン。大ノ三災ハマダシキ物ヲ、サスガニ佛法ノヲコナイモノコリタリ。宗廟社稷ノ神モキラ++トアンメリ。タヾイサヽカノ正意トリイダシテ、無顯無道ノ事スコシナノメニナリテ、サスガニコレヲワキマヘタル人、僧俗ノ中ニ二三人四五人ナドハアルラン物ヲ、コレヲメシイダシテ、天下二ツカヘラレヨカシ。事ノ詮ニハ、人ノ一切智具足シテマコトノ賢人・聖人ハカナウマジ、スコシモ分++ニ主トナラン人ハ、國王ヨリハジメマイラセテ、人ノヨシアシヲミシリテメシツカイヲハシマス御心一ツガ、ヤスカルベキ事ノ詮ニナル事ニテ侍ナリ。ソレガワザトスルヤウニ、何事ニモ、サナガラカラスヲウニツカハルヽコトニテ侍メレバ、ツヤ++トヨノウセ侍リヌルゾトヨ。
又道リト云物ハヤス++ト侍ゾカシ。ソレワキマヘタラン臣下ニテ、武士の勢アランヲメシアツメテ仰セキカセバヤ。ソノ仰セコトバヽ、
「先武士ト云モノハ、今ハ世ノ末ニ一定當時アルヤウニモチイラレテアルベキ世ノ末ニナリタリトヒシトミユ。サレバソノヤウハ勿論也。ソノ上ニハコノ武士ヲワロシトヲボシメシテ、コレニマサリタルトモガライデクベキニアラズ。コノヤウニツケテモ世ノ末ザマハイヨ++ワロキ者ノミコソアランズレ。コノトモガラホロボサンズル逆亂ハイカバカリノコトニテカハアルベキナレバ、冥ニ天道ノ御サタノホカニ、顯ニ汝等ヲニクヽモウタガイモヲボシメスコトハナキ也」。
地頭ノ事コソ大事ナレ。コレハシズカニ+ ヨク++武士ニ仰合テ御ハカライアルベキ也。コレトヾメラレマイラセジトテ、ムカヘビヲツクリテ朝家ヲオドシマイラスル事モアルベカラズ。サレバトテ又ヲヂサセタマウベキコトニモアラヌナリ。タヾ大方ノヤウノ武士ノトモガラガ、今ハ正道ヲ存ベキ世ニナリタル也。
コノ東宮、コノ將軍ト云ハワヅカニ二歳ノ少人ナリ。コレヲツクリイデ給フコトハヒトヘニ宗廟ノ神ノ御サタアラハナル。東宮モ御母ハミナシ子ニナラレタリ。祈念スベキ人モナシ。外祖父ノ願力ノコタフランヲバシラネドモ、カヽルコトイマイデキ給ベシヤハ。將軍又カヽル死シテ源氏平氏ノ氏ツヤ++トタユベシヤハ。ソノカハリニコノ子ヲモチヰルベシヤハ。一定タヾコトニハアラヌ也。
昔ヨリナリユク世ヲミルニ、スタレハテヽ又ヲコルベキ時ニアイアタリタリ。コレニスギテハウセムトテハイカニウセムズルゾ。記典・明經モスコシハノコレリ。明法・法令モチリバカリハアンメリ。顯密ノ僧徒モ又過失ナクキコユ。百王ヲカゾフルニイマ十六代ハノコレリ。今コノ二歳ノ人々ノヲトナシク成テ、世ヲバウシナイモハテ、ヲコシモタテムズルナリ。「ソレ今廿年マタンマデ武士ヒガコトスナ+、ヒガコトセズハ自餘ノ人ノヒガコトハトヾメヤスシ」ト仰キカセテ、
神社・佛事、祠官・僧侶ニヨケラカナラン庄薗サラニメヅラシクヨセタビテ、「コノ世ヲ猶ウシナハン邪魔ヲバ、神力・佛力ニテヲサヘ、惡人反道ノ心アラントモガラヲバ、ソノ心アラセヌサキニメシトレト祈念セヨ」ト、ヒシト仰ラレテ、コノマイナイ獻芹スコシトヾメラレヨカシ。世ニヤスカリヌベキコトカナトコソ、神武ヨリケフマデノ事ガラヲミクダシテ思ヒツヾクルニ、コノ道理ハサスガニノコリテ侍ル物ヲトサトラレ侍レ。
アナヲヽノ申ベキコトノヲオサヤ。タヾチリバカリカキツケ侍ヌ。コレヲコノ人々ヲトナシクヲハシマサンヲリ御覽ゼヨカシ。イカヾヲボシメサン。露バカリソラコトモナク、最眞實ノ(眞實ノ)世ノナリユクサマ、カキツケタル人モヨモ侍ラジトテ、タヾ一スヂノ道理ト云コトノ侍ヲカキ侍リヌル也。
又コトノセン一侍リケリ。人ト申モノハ、センガセンヌハニルヲ友トスト申コトノ、ソノセンニテハ侍ナリ。ソレガ世ノ末ニ、ワロキ人ノサナガラ一ツ心ニ同心合力シテコノ世ヲトリテ侍ニコソ。ヨキ人ハ又ヲナジクアイカタラヒテ同心ニ侍ベキニ、ヨキ人ノアラバヤハ合力ニモヲヨブベキ。アナカナシヤト思ツヽ、イサヽカ佛神ノ御サタヲアフグバカリナリ。モチヰル時ハトラトナルベキ人ハサスガニ候ランモノヲ、ヨキ物ハ世ノヤウヲミテサシイデヌニコソ侍ラメ。
カクコノ世ノウセユク事ハ君モ近臣モソラコトニテ世ヲオコナハルメリ。ソラ事ト云物ハ朝議ノ方ニハイサヽカモナキコト也。ソラ事ト云物ヲモチヰラレンニハ、ヨキ人ノ世ニヱアルマジキ也。
サヤウノ事モ中++世ノ末ニハ、民ハ正直ナル將軍ノイデキテ、タヾサズハ、ナヲルカタアルマジキニ、カヽル將軍ノカクイデクル事ハ大菩薩ノ御ハカラヒニテ、文武兼ジテ威勢アリテ世ヲマモリ君ヲマモルベキ攝 籙ノ人ヲマウケテ、世ノタメ人ノタメ君ノ御タメニマイラセラルヽヲバ、君ノヱ御心得ヲハシマサヌニコソ。コレコソユヽシキ大事ニテ侍レ。コレハ君ノ御タメ攝籙臣ト將軍トヲナジ人ニテヨカルベシト、一定テラシ御サタノ侍ル物ヲ、ソノユヘアラハナリ。謀反スヂノ心ハナク、シカモ威勢ツヨクシテ、君ノ御後見セサセムト也。カク御心ヱラレヨカシ。陽成院御事テイナランタメナドコソ、イヨ++メデタカルベケレ。ソレヲフセギヲボシメシテハ、君コソ太神宮・八幡ノ御心ニハタガハセヲハシマサンズレ。コヽヲ構テ君ノサトラセタマウベキ也。
コノ藤氏ノ攝籙ノ人ノ、君ノタメ謀反ノカタノ心ヅカイハ、ケヅリハテヽアルマジトサダメラレタルナリ。サテシカモ君ノワロクヲワシマサンズルヲ、ツヨクウシロミマイラセテ、王道ノ君ノスヂヲタガヘズマモリタテマツレニテ侍レバ、陽成院ノヤウニヲボシマサン君ハ御タメコソアシカランズレ。サル君ハ又ヲボロゲニハヲハシマスマジ。サホドナラン君ハ又ヨキ攝 籙ヲソネミヲボシメサバ、ヤハカナハンズル。太神宮・大菩薩ノ御心ニテコソアランズレ。コノ道理ハスコシモタガウマジ。ヒシトサダマリタルコトニテ侍ナリ。
始終ヲチタヽムズルヤウノ道理ヲモ、コノ世ノ末ノ、昔ヨリナリマカル道理ノ、宗廟社稷ノ神ノテラサセ給フヤウヲモシラセ給ハデ、アサキ御サタトコソウケタマハリ侍レ。物ノ道理、吾國ノナリユクヤウハ、カクテコソヒシトハ落居センズルコトニテ侍レ。
法門ノ十如是ノ中ニモ、如是本末究竟等ト申コト也。カナラズ昔今ハカヘリアイテ、ヤウハ昔今ナレバカハルヤウナレドモ、同スヂニカヘリテモタフル事ニテ侍ナリ。大織冠ノ入鹿ヲウタセ給テ、世ハヒシト遮惡持善ノ事ハリニハカナヒニシゾカシ。今又コノ定ナルベキニコソ。コノヤウニテコソヒシト君臣合體ニテメデタカランズレ。
猶ヲロ++コノ世ノヤウヲウケタマハレバ、攝籙ノ臣トテヲモテハモチヰル由ニテ、底ニハ奇怪ノ物ニヲボシメシモテナシテ、近臣ハ攝籙臣ヲ讒言スルヲ、君ノ御(意)ニカナフコトヽシリテ世ヲウシナハルヽ事ハ、申テモ+イフバカリナキヒガコトニテ侍也。コレハ内々小家ノ家主、随分ノ後見マデタヾヲナジコトニテ侍也。ソレガ随分+ノ後見ト主人トヒシトアヒ思ヒタル人ノ家ノヤウニヲサマリヨキコトハ侍ラヌ也。マシテ文武兼行ノ大織冠ノ苗裔ト、國王ノ御身ニテ不和ノナカラヒニテ、タガイニ心ヲヲキテアラント云コトハ、冥顯、首尾、始中終、過現當、イサヽカモ事ノ道理ニカナフミチ侍リナンヤ。アハレ+コノ道理コソ、イカニモ+スエニハヒシトツクリマカランズラメトコソ、カネテヨリ心得フセテ侍レ。
ソレガイカニ申トモカナウマジキ事ニテ侍ルゾトヨ、世ノ末ニ世ノ中ハヲダシカルマジト云道理ノ方ヘ、フヽトウツリ+シ侍ナリ。ソレニ惡魔邪神ハヒシトワロガラセント取ナス處ニ、時運シカラシメヌレバ、又三寶善神ノ化益ノ力ヲヨバズ成テンズト、事イデキテハヲトロヘ+シマカリテ、カク世ノ末ト云コトニナリクダリ侍ゾカシ。ソノヤウハ、時ノ君ノツヨクウルサキ攝 籙臣ヲアラセジバヤトヲボシメシメス御心ノ、世ノ末ザマニハイヨ++又ツヨクイデクルナリ。コノヒガ事ノユヽシキ大事ニテ侍也。ソレニ文武兼行ノ攝籙臣ノツヨ++トシテ、イカニモ+ヱ引ハタラカスマジキガイデコムヤウニ、君ノ御意ニカナハヌコトハナニゴトカハアルベキ。コヽニ世ハ損ゼンズルナリ。コノ道理ヲ返々君ノヲボシサトリテ、コノ御ヒガコトノフツトアルマジキ也。
君ハ臣ヲタテ、臣ハ君ヲタツルコトハリノヒシトアルゾカシ。コノコトハリヲコノ日本國ヲ昔ヨリサダメタルヤウト、又コノ道理ニヨリテ先例ノサハ++トミユルト、コレヲ一々ニヲボシメシアハセテ、道理ヲダニモコヽロヘトヲサセ給ヒナバメデタカルベキ也。
トヲクハ伊勢大神宮ト鹿島ノ大明神ト、チカクハ八幡大菩薩ト春日ノ大明神ト、昔今ヒシト議定シテ世ヲバモタセ給フナリ。今文武兼行シテ君ノ御ウシロミアルベシト、コノ末代、トウツリカウウツリシモテマカリテ、カクサダメラレヌル事ハアラハナルコトゾカシ。
ソレニ漢家ノ事ハタヾ詮ニハソノ器量ノ一事キハマレルヲトリテ、ソレガウチカチテ國王トハナルコトヽサダメタリ。コノ日本國ハ初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノマヽニテイカナル事イデクレドモケフマデタガハズ。百王ノイマ十六代ノコリタルホドハ、コノヤウハフツトタガウマジキ也。コヽニカヽル文武兼行ノ執政ヲツクリイダシテ、宗廟社稷ノ神ノマイラセラレヌルヲ、ニクミソネミヲボシメシテハ、君ハキミニテヱヲハシマスマジキナリ。
日本ニモ臣ノ君ヲタツルミチゲニ++ト二アンメリ。一ニハ先清盛公ガ後白河院ヲワロガリマイラセテ、ソノ御子、御孫ニテ世ヲ治メントセシヤウ、木曾ガ又一タヽカイニカチテ、君ヲオシコメマイラセシスヂ、コノヤウハ君ヲタツトハ申スベクモナケレドモ、武士ガ心ノソコニ、世ヲシロシメスキミヲアラタメマイラスルニテアル也。サレバ世ヲミダス方ニテタテマイラセ、世ヲ治ル方ニテマイラスル、二ノヤウ也、ミダス方ハ謀反ノ義ナリ。ソレハスヱトヲル道ナシ。
イマ一ノ國ヲ治ルスヂニテタテマイラスルハ、昭宣公ノ陽成院ヲオロシマイラセテ、小松ノ御門ヲタテマイラセ、永手大臣・百川宰相ト二人シテ光仁天皇ヲタテマイラセシ、武烈ウセ給テ繼體天皇ヲ臣下ドモノモトメイデマイラセシ、コレラハ君ノタメ世ノタメニ、一定コノ君ワロクテカハラセ給ベシト、ソノ道理サダマリヌ。コノ君イデキ給テ、コノ日本國ハ始終メデタカルベシト云道理ノヒシトサダマリシカバ、コレニヨリテ神明ノ冥ニハ御サタアルニカハリマイラセテ、臣下ノ君ヲ立マイラセシナリ。サレバアヤマタズコノ御門ノ末コソハミナツガセ給テ、ケフマデコノ世ハモタヘラレテ侍レ。サハ++トコノ二ノヤウハ侍ゾカシ。
ソレニ今コノ文武兼行ノ攝籙ノイデキタランズルヲ、ヱテ君ノコレヲニクマンノ御心イデキナバ、コレガ日本國ノ運命ノキハマリニナリヌトカナシキ也。コノ攝籙臣ハ、イカニモ+君ニソムキテ謀反ノ心ノヲコルマジキナリ。タヾスコシホヲゴハニテアナヅリニクヽコソアランズレ。ソレヲバ一同ニ、事ニノゾミテ道理ニヨリテ萬ノコトノヲコナハルベキ也。一同ニ天道ニマカセマイラセテ、無道ニ事ヲオコナハヾ冥罰ヲマタルベキナリ。末代ザマノ君ノ、ヒトヘニ御心ニマカセテ世ヲオコナハセ給テ事イデキナバ、百王マデヲダニマチツケズシテ、世ノミダレンズル也。タヾハヾカラズ理ニマカセテヲホセフクメラレテ御覽ノアルベキ也。サテコソ此代ハシバシモヲサマランズレト、ヒシトコレハ神++ノ御ハカライノアリテ、カクサタシナサレタルコトヨト、アキラカニ心ヱラルヽヲ、カマヘテ神明ノ御ハカライノ定ニアイカナイテ、ヲボシメシハカライテ、世ヲ治メラルベキニテ侍ナリ。
「冥衆ハヲハシマサヌニコソ」ナド申ハ、セメテアサマシキ時ウラミマイラセテ人ノイフコトグサ也。誠ニハ劫末マデモ冥衆ノヲハシマサヌ世ハカタ時モアルマジキ。マシテカヤウニ道アルヤウニ人ノ物ヲハカライヲモフ時ハ、コトニアラタニコソ當時モヲボユレ。
コレハサシツメテコノ將軍ガコトヲ申ヤウナルハ、カヽルコトノ當時アレバ、ソレニスガリテ申バカリ也。コノ心ハタヾイツモ+コト將軍ニテモコノヲモムキヲ心ヱテ、世ノ中ヲバ君ノモタセ給ベキゾカシ。將軍ガムホン心ノヲコリテ運ノツキン時ハ、又ヤス++トウシナハンズル也。實朝ガウセヤウニテ心得ラレヌ。平家ノホロビヤウモアラハナリ。コレハ將軍ガ内外アヤマタザランヲ、ユヘナクニクマレムコトノアシカランズルヤウヲコマカニ申也。コノスヂハワロキ男女ノ近臣ノ引イダサンズルナリ。コヽヲシロシメサンコトノ詮ニテハ侍ベキ也。
コハ以ノ外ノ事ドモカキツケ侍リヌル物カナ。コレカク人ノ身ナガラモ、ワガスル事トハスコシモヲボヘ侍ラヌ也。申バカリナシ+。アハレ神佛モノノ給フ世ナラバ、トイマイラセテマシ。
サテモ+コノ世ノカハリノ繼目ニムマレアイテ、世ノ中ノ(目ノ)マヘニカハリヌル事ヲ、カクケザ++トミ侍コトコソ、ヨニアハレニモアサマシクモヲボユレ。人ハ十三四マデハサスガニヲサナキホド也。十五六バカリハ心アル人ハ皆ナニゴトモワキマヘシラルヽコト也。コノ五年ガアイダ、コレヲミキクニ、スベテムゲニ世ニ人ノウセハテヽ侍也。ソノ人ノウセユクツギ目コソ、イカニ申ベシトモナケレドモ、ヲロ++、尤コノ世ノ人心ヱシラルヽベキフシナケレバ、思ヒイダシテ申シソフル也。
今ノ(世ノ)風儀ハ忠仁公ノ後ヲ申ベキニヤ。ソレハ猶上代ナリ。一條院ノ四納言ノコロコソハイミジキ事ニテ侍メレ。僧モソノ時ニアタリテ、弘法・慈覺・智證ノ末流ドモヽ、仁海・皇慶・慶祚ナドアリケリ。僧俗ノアリサマ、イサヽカソノ風儀ノチリバカリヅヽモ、ノコリタルカトヲボユルハ、イツマデゾト云ニ、家々ヲタヅヌベキニ、マヅハ攝 籙臣ノ身々、次ニハソノ庶子ドモノ末孫、源氏ノ家々、次々ノ諸大夫ドモノ侍ル中ニハ、コノ世ノ人ハ白河院ノ御代ヲ正法ニシタル也。尤可然+。ヲリ居ノ御門ノ御世ニナリカハルツギ目ナリ。白河院ノ御世ニ候ケン人ハチカクマデモアリシカバコレヲ心ウベシ。一條院ノ四納言ノスヘモ白河院ノハジメマデハ、ヲナジホドノコトノ、ヤウ++ウスクナルニテコソアレ。白河院御脱ノ後一ヲチ+クダレドモ、
猶マタソノアトハタガハズ。後白河院ノ御トキニナリテ、
一ノ人ハ法性寺殿、
一ノ人ノ庶子ノ末ハ花山院忠雅、又經宗、伊通相國、
閑院ニハマヂカ
公能子三人、實定・實家・實守、
公教子三人、實房・實國・實綱、公通・實宗父子、コレラマデ。又源氏ニハ雅通公、
諸大夫ニハ顯季ガ末ハ隆季・重家、
勸修寺ニハ朝方・經房、
日野ニハ資長・兼光父子、
コレラハ、見聞シ人々ハ、コレラマデハチリバカリ昔ノニホヒハアリケルヤラムト、ソノ家++ノヲホカタノ器量ハヲボヘキ。中ノ難ドモハサタノ外ナリ、
光頼大納言カツラノ入道トテアリシコソ、末代ニヌケイデヽ人ニホメラレシカ。二條院時ハ、「世ノ事一同ニサタセヨ」ト云仰アリケルヲ、フツニ辭退シテ出家シテケルハ、誠ニヨカリケルニヤ。タヾシ大納言ニナリタルコトコソヲボツカナケレ。「諸大夫ノ大納言ハ光頼ニゾハジマリタリ」ナンド人ニイハルメリマデ也。カヽラン人ハナラデ候ナンナドヤ思フベカラン。昔ハ諸大夫ナニカト器量アル士ヲバサタナカリキ。サヤウノコロハ勿論也。ヒサシクカヤウノ品秩サダマリテ「諸大夫ノ大納言ミツヨリニハジマリタル」ナドイハルヽ事ハ、上品ノ賢人ノイハルベキ事ニハナキゾカシ。末代ニハコノ難ハアマリ也。イカサマニモヨクユルサレタリケル物ニコソ。
コノ人々ノ子共ノ世ニナリテハ、ツヤ++ト、ムマレツキヨリ父祖ノ氣分ノ器量ノケヅリステヽナキニ、ムマゴドモニナリテハ當時アル人々ニテアレバ、トカクヨキ人トモ、ワロキ人トモ云ニタラヌ事ニテ侍也。
サテ又一ノ人ハ四五人マデナラビテイデキヌ。ソノ中ニ法性寺殿ノ子共ノ攝政ニナラレタル中ニ、中ノ殿ノ子近衞殿、又松殿・九條殿ノ子ドモニハ師家・良經也。テヽトニ三人ノ中ニ九條殿ハ社稷ノ心ニシミタリシカバニヤ、アニ二人ノ子孫ニハ、人トヲボユル器量ハ一人モナシ。松殿ノ子ニ家房トイヒシ中納言ゾヨクモヤトキコヘシヲ、卅ニモヲヨバデ早世シテキ。
九條殿ノ子ドモハ昔ノニホヒニツキツベシ。三人マデトリ※※ニナノメナラズコノ世ノ人ニハホメラレキ。良通内大臣ハ廿二ニテウセニシ。名譽在人口。良經又(執)政臣ニナリテ同(能)藝群ニヌケタリキ。詩歌・能書昔ニハヂズ、政理・公事父祖ヲツゲリ。左大臣良輔ハ漢才古今ニ比類ナシトマデ人ヲモイタリキ。卅五ニテ早世。カヤウノ人ドモノ若ジニヽ世ノ中カヽルベシトハシラレヌ。アナカナシ+。今、良經後ノ京極殿ノ子ニテ左大臣只一人ノコリタルバカリニテ、
コトアニ+ノ子息ハ人カタニテマヨフバカリニヤ。ソノホカ家々ニ一人モトルベキ人ナシ。諸大夫家ニモツヤ++ト人モナキ也。職事・辨官ノ官ノ名バカリハ昔ナレド、任人ハナキガゴトシ。ヲノヅカラアリヌベキモ出家入道トノミキコユ。ホリモトメバ三四ナドハイデクル人モアリナンモノヲ、スベテ人ヲモトメラレバコソハ、アリテステラレタランコソ、タノモシクモキコヱメ。サレバコハイカヾセンズルヤ、此人ノナサヲバ。
コノ中ニ實房ハ左府入道トテイキノコリタルガ、タヾコノ世ノ人ノ心ニナリタルトカヤ。
僧中ニハ、山ニハ青蓮院座主ノ後ハ、イサヽカモニホウベキ人ナシ。ウセテ後六十年ニヲホクアマリヌ。寺ニハ行慶・覺忠ノ後、又ツヤ++トキコヘズ。東寺ニハ御室ニハ五宮マデ也。東寺長者ノ中ニハ、寛助・寛信ナド云人コソキコヘケレ。サカリザマニハ理性・三密ナドハ名譽アリケリ。南京方ニハ惠信法務ナガサレテ後ハ、タレコソナド申ベキ。寸法ニモヲヨバズ。覺珍ゾアシウモキコヘヌ。
中++當時法性寺殿ノ子ニテノコリタル信圓前大僧正、上ナル人ノニホヒニモナリヌベキニコソ。又慈圓大僧正弟ニテ山ニハノコリタルニヤ。
サレバコハイカニスベキ世ニカ侍ラン。コノ人ノナサヲ思ヒツヾクルニコソ、アダニクサ++心モナリテ、マツベキ事モタノモシクモナケレバ、イマハ臨終正念ニテ、トク++頓死ヲシ侍ナバヤトノミコソヲボユレ。
コノ世ノスヱニ、アザヤカニアナアサマシトミヘテ、カヽレバナリニケリトヲボユルシルシニハ、攝籙ヘタル人ノ四五人+ナラビテツヾラトシテ侍ゾヤ。コレハ前官ニテ一人アルダニモ猶アリガタキ職ドモヲ、小童ベノウタヒテマウコトバニモ、九條殿ノ攝政ノ時ハ、「入道殿下、小殿下、近衞殿下、當殿下」ト云テマイケリ。ソレニ良經攝政ニ又ナラレニシカバ五人ニナリニキ。
天台座主ニハ慈圓・實全・眞性・承圓・公圓ト五人アンメリ。ナラニハ信圓・雅縁・覺憲・信憲・良圓アリキ。信憲モ覺憲ガイキタリシニナリタリシヤラン。
十大納言、十中納言、散三位五十人ニモヤナリヌラン。僧綱ニハ正員ノ律師百五六十人ニナリヌルニヤ。故院御時百法橋ト云テアザミケン事ノヤサシサヨ。僧正故院御時マデモ五人ニハスギザリキ。當時正僧正一度ニ五人イデキテ十三人マデアルニヤ。前僧正又十餘人アルニコソ、衞府ハカゾヘアラヌ程ナレバ、トカク申ニヲヨバズ。官人ヲモトムト云事ハイヒイダスベキ事ナラズ。人ノ官ヲモトムルモ今ハウセニケリ。成功+ト猶モトムルニナサント云人ナシ。サレバ半ニモヲヨバデナスヲイミジキニ今ハシタルトカヤ。ソレニトリテ、コノ官位ノ事ハカクハアレドモ、サテアラルヽ事ニテアリケリ。又世ノスヱノ手本トモヲボヘタリ。大方心アル人ノナサコソ申テモ+カナシケレ。
カヽレバ一ノ人ノ子ノヲホサヨ。コノ慈圓僧正ノ座主ニ成シマデハ、山ニハ昔ヨリカゾヘヨク、攝籙ノ家ノ人ノ座主ニナリタルハ、飯室ノ僧正尋禪ト、仁源・行玄・慈圓トタヾ四人トコソ申シカ。當時ハ山バカリニダニ、一ノ人ノ子一度ニナラビイデキテ十人ニモアマリヌラン。寺・奈良・仁和寺・醍醐ト四五十人ニモヤアマリヌラン。一度ニ攝 籙臣四五人マデ前官ナガラナラビテアランニハ道理ニテコソアレ。又宮タチハ入道親王トテ、
御室ノ中ニモアリガタカリシヲ、山ニモ二人ナラビテヲハシマスメリ。新院・當今、又二宮・三宮ノ御子ナド云テ、數シラズヲサナキ宮++、法師+ニト、師共ノモトヘアテガハルメリ。世滅松ニ聖徳太子ノカキヲカセタマヘルモ、アハレニコソ、ヒシトカナイテミユレ。
コレヲ昔ハ、サレバ人ノ子ヲマウケザリケルカト、世ニウタガウ人ヲオカリヌベシ。ヨク++心ヘラルベキ也。昔ハ國王ノ御子++ヲヽカレド、皆姓ヲタマハセテタヾノ大臣公卿ニモナサルレバ、親王タチノ御子モサタニヲヨバス。一ノ人ノ子モ家ヲツギテ、攝 籙シテントヲモハヌホカハ、ミナタヾノ凡人ニフルマハセテ、朝家ニツカヘサセラレキ。ツギ++ノ人ノ子モ人ガマシカリヌベキ子ヲコソトリイダセ、サナキハタヾハイシレテヤミ++スレバ、アル人ハ皆ヨクテモテアツカフモナシ。今ノ世ニハ宮モ一ノ人ノ子モ、又次++ノ人ノ子モサナガラ宮ブルマイ、攝 籙ノ家嫡ブルマイニテ、次++モヨキヲヤノヤウナラセント、ワロキ子共ヲアテガイテ、コノヲヤ+ノ取イダセバカクハアルナルベシ。
又僧ノ中ニモソノ所ノ長吏ヲヘツレバ、又ソノ門徒+トテ、出世ノ師弟ハ世間ノ父子ナレバ、我モ+トソノタチワケノヲヽサヨ。
サレバ人ナシトハイカニモシカルベキ人ノヲホサコソトゾイフベキ。アハレ+有若亡、有名無實ナドイフコトバヲ人ノ口ニツケテ云ハ、タヾコノレウニコソ。カヽレバイヨ++緇素ミナ怨敵ニシテ、鬪諍誠ニ堅固ナリ。貴賎同ク無人シテ、言語スデニ道斷侍リヌルニナム。シヽモテマカリテハ、物ノハテニハ問答シタルガ心ハナグサムナリ。
問、サレバ今ハチカラヲヨバズ、カウテ世ニナヲルマジキカ。
答、分ニハヤスクナホリナム。
問、スデニ世クダリハテタリ。人又ナカン也。アトモナクナリニタルニコソ。シカルニヤスクナヲリナントハイカニ。
答、分ニハトハサテ申也。一定ヤス++トナヲルベキ也。
問、ソノナヲランズルヤウ如何。
答、人ハウセタレド、君ト攝 籙臣ト御心一ニテ、コノアル人ノ中ニワロケレドモ、サリトテハ、僧俗ヲカイヱリ+ シテ、ヨカラン人ヲ、タヾ鳥羽・白河ノコロノ官ノ數ニメシツカイテ、ソノホカヲバフツトステラルベキナリ。不中用ノ物ヲマコトシクステハテヽ目ヲダニミセラレズハ、メデタ+ トシテナヲランズル也。隨分ニナヲルト云ハコレナリ。昔ノゴトクニハ、人ノナケレバ、カナフマジ。ヱリタヾシタランズル寸法ノ世コソハワロナガラ、ヨクナヲリタルコノ世ニテアランズレ。
問、コノ官ノヲヽサ、人ノヲヽサヲバ、イカニステントテハステラレンズルゾ。
答、スツト云ハ、フツトメシツカハズ。(サ)ル者ヤ世ニアラントモシロシメサルマジキ也。陽成院世ニヲハシマシテ、ヤウ++ノ惡事セサセ給シカド、モノモイハデ聞イレザリシカバ、寛平・延喜ノ世メデタクテアリキ。解官停任ニモヲヨブマジ。タヾステラレヌニテ、「マコトニステラレタラン人ニハ、ナアイシライソ」ト、ヱリトラレタラン人ニ、ヲホセフクメテ、サテ有ベキナリ。
問、ソノステラレ人アマリヲホクテ、ヨリアイテ謀反ヤヲコシテ大事ニヤナランズラン。
答、武士ヲカクテモタセヲハシマシタルハ、ソノレウゾカシ。スコシモサル氣色イカデカキコヱザラン。キコヱン時二三人サラン者ヲ遠流セラレナバ、ツヤ++サル心ヲオコス人モアルマジキ也。
問、此義ナリテ侍リ。イミジ+ 。タヾシタレカソノ人ヲバヱリトランズルゾ。
答、コレコレ大事ナレ。タヾシコレヱリテマイラスル人四五人ハ一定アリヌベシ。ソノ四五人ヨリアイテ、ヱリトリテマイラセタランヲ、君ダニモツヨ++トハタラカサデ、ヒシトモチヰサセ給ハヾ、ヤス++トコノ世ハナヲランズルナリ。
問、解官セジトハイカニ。
答、ヱリイダサレム人ノ、八座・辧官・職事バカリニナル人候ラントコロコソ要ナレバ、ソレハ解官セラレナンズ。コトモヲロカヤ。ソノホカハセメテ無沙汰ナレト也。僧俗官ノ數ノサダメホドコソ大事ナレド、鳥羽院最中ノ數、末代ヨリヨキホド也。
 

慈円(慈圓) / 「院政期社会の言語構造を探る」
俊成の指導のもと、九条家で定家と和歌の技を競ったライバルに慈円と良経がいる。次に二人のプロフィールと作品を紹介しておこう。
兼実の実弟・慈円(1155-1225年)は、天台座主(延暦寺=天台宗の総本山の最高位)4回の、後鳥羽院政期仏教界の重鎮。現代では、慈円はもっぱら天皇家と藤原氏(九条家)のかかわりを書いた歴史哲学の書「愚管抄」の著者として知られているのではないか。しかし当時は、後鳥羽院政期を代表する歌人として重んじられ、後鳥羽院によって和歌所寄人にも任じられている。慈円自身も「愚管抄」のなかに、自己を「マメヤカノ歌ヨミ」(巻第六)、すなわち本格的な歌人と記した。「新古今集」への入撰歌数は92首で、西行の94首に次ぐ。これは生存作者中最多。生来の多作ぶりを反映して、死後に門弟らによってまとめられた歌集「拾玉集」には、甥・良経、俊成、定家、時の人・源頼朝らとの贈答歌を含めて5802首と、当時としては例外的な数の和歌が収載されている 。
そこで小論は、まず「マメヤカノ歌ヨミ」慈円の和歌のあり方をみていくことにしよう。兼実の項でも指摘したが、慈円の歌作の背景にあるのは、天皇家を中心とする(民衆と直結した)新たなタイプの文化の浸透に対する強い危機意識ではなかったか。今様、専修念仏などのしだいの興隆のなかで、摂関家といえども、古い朝廷文化をそのまま保持し伝えていくだけではなく、早急にそれを内部から刷新する必要にかられていた。その思いが、慈円をかりたてて大胆な修辞の跳梁する世界へ導いていく。
専門歌人とはいえない慈円がそうした自己の信念を具現化するために選んだ装置が、時間をおかずに次から次へと和歌を詠む「速詠」であった。慈円にあっても、兼実周辺に集まる歌人たち同様、和歌とは自己の心情の「自動記述」にほかならないのだが、彼の場合、それはいささかの推敲をもゆるさぬ速詠というかたちで実現されなければならなかった。
 彼が方法論としての速詠に思いいたったきっかけは、若き日の百首歌詠進とみられる。文治三年(1187年)「厭離百首」、建久三年(1192年)「住吉百首」と、慈円は神仏に捧げる和歌を数多く詠んでいるが、この両百首は、あふれでる感懐にまかせて時をおかず瞬時のうちに詠まれており、慈円の研究者・山本一氏によれば、
速詠ということは、それが趣向として神を喜ばすのみでなく、社前での宗教活動の、直接の、作為や変形を含まない吐露であるという意味でも、この「証し」としての性格を保証するものであった(山本一氏「信仰と速詠」、「慈円の和歌と思想」所収、和泉書院、1999年)
という。次にみるような、特定の言葉のくり返し(たとえば「住吉百首」の場合の「色」という言葉)や、「なまめきたてる」などすぐに口をついてでる口語的な言いまわしの多用も、速詠である以上やむをえないこととして許される。
いつまでかなまめきたてる女郎花花も一時露も一時
こはいかに又こはいかにとに斯くに唯悲しきは心なりけり
いつか我苦しき海に沈み行く人皆救ふ網をおろさむ
睡みて又驚くは夢路よりやがて夢路に伝ふなりけり
世と共にあるかひもなき身にしあれば世を捨ててこそ世をば厭はめ (以上「厭離百首」より)
心ざし深きあまりに尋ね来ぬあはれと思へ住吉の神
さてもさぞ思ふ心の末やなに行くへを守れ住吉の神
世の中の世の中にてもあるならば悔しかるべき住吉の神
鶯の梢に来ゐる初音より色に色添ふ住の江の松
住の江の松のうは葉に春更けて変らぬ色に色ぞありける (以上「住吉百首」より)
こうして個々の和歌の完成度を犠牲にしても、仏教者・慈円は、自己の心情の「作為や変形を含まない吐露」(山本氏)を選びとる。そして神前で試みた速詠を、次に一般の詠歌にも適用していく。速詠というかっこうのいいわけがあればこそ、多少の詠み損じやぎこちなさがあっても、専門歌人に十分伍していくことができる。いっぽう定家ら慈円周辺の才知に満ちた若い歌人たちにしてみれば、慈円が提唱する速詠は、瞬間的な発想の優劣を競う一種の技術比べという魅力をもっていた。したがって彼らとしてもこれを拒む理由はない。こうして慈円は、周囲の歌人たちを速詠の渦のなかに巻き込んでいく。
しかし、技術としての速詠を競いながらも、慈円にとっての速詠は、あくまでも表層的な意識の下によどみ、うごめいているものをストレートに言語に汲みあげていくために要請される装置であった。慈円の作歌活動では、どこまでいっても、深層意識を言語化するという点が重視されるのである。したがって同じ観点から、速詠ほど自覚的なものではないが、専門歌人たちが考えもしなかったもうひとつ別の装置も選びとられる。「作品の子供への仮託」である。
文治四年(1188)慈円は長治年間の堀河院の題にもとづく組題で、「早率露膽百首」を速詠しているが、この百首には速詠のほかにもうひとつ仕掛けがしてあり、たわむれに、比叡山の若い稚児が詠んだものだと記した。
都遠からぬ山寺にをさなきちごありけり。学問などもしつべしとて親の師につけたりけるなり。倶舎などもいとよう読みけり。ひるつかたわかき僧たちあつまりて遊びけるに、今の世の歌よみたちの百首とて見あひけるを事の外にのとまりてききければ、僧たち歌よみてんやといさむるを聞きて、題書きたる物や侍るといひける気色ことざまらうたく覚えて、堀川院百首をとりいだしてとらせたるをとりて、我がゐたるかたにたてこもりにけり。次の日もさし出でざりければいかになどいひける程に、第三日の午時ばかり此百首ををさなき様なる手にて書きつづけて、室のひろびさしのかたに要文うちふしてたちたり(以下略)
百首全体は題に振りまわされてしまった感じで、みるべき作はほとんどないといっていいが、慈円の詠みぶりを知るため、以下に数首引いておこう。
さもあらばあれ春の野沢の若菜ゆゑ心を人に摘まれぬるかな (若菜)
思ひとけ夢のうちなる現こそ現の中の夢には有りけれ (夢)
皆人の知り顔にして知らぬかな必ず死ぬる別れありとも (無常)
こうしてみていくと、慈円の和歌の新しさと定家ら新進歌人たちの和歌の新しさは、伝統的な和歌の様式からの脱却・破却ぶりにおいては似ていても、めざすところはいささか異なるということになる。にもかかわらず、あるいはそれゆえ、 慈円が定家の新風に対して抱いた共感は、定家の意識的・方法的な試みの、個々の成果に対してよりも、定家の姿勢の一側面としての、和歌表現の固定した規範からの脱却の志向に向けられていたらしく思われる ということになろう。
このように完成度を犠牲にして頓着しない慈円の和歌の、結果的な「新古今集」への入集の多さについては、山本一氏が次の3つのポイントを指摘しており、小論もそれに従いたい 。
1) ネーム・ヴァリュー。門地が高く、宗教的資質においても(単に僧官が高いだけでなく)尊敬されており、かつ歌人としての実績や名声もある、という条件が揃っていた。
2) 仏教的述懐歌が非常に多く入集した。これはおそらく、「新古今集」が編纂段階で相当数の遁世・無常・求道の歌を必要とし、その需要に応え得たのが慈円の作品群であった。
3) 慈円の歌風の多様性。彼の作品には、優美な宮廷風から深刻な宗教詠、軽い諧謔調から革新的な表現技法に到る幅が含まれていて、撰者の嗜好のばらつきや、集の編纂上の必要の様々な側面に、それぞれ対応する部分があった。
文芸としての達成度の高さからのみ「新古今集」をみようとする文学史家にとっては、いささか皮肉な分析結果というべきであろう。
こうしてみてくると、最終的に慈円には、歌人というより、新たな文化のあり方を探求しようとする文化人という側面の方が強い。しかし文化人としての彼の大きさは、そうした新文化のあり方を理論として示したことにあるのではなく、いっぽうで新しい価値観・審美眼にもとづく和歌を実作し、同時に若い歌人たちにそれを奨励していったところに示されていると思う。
次に歴史学者・慈円をみてみよう。
承久年間(1219-22年)の緊迫した政情のなかで書かれた晩年の著作「愚管抄」は、歴史(時間意識)に名をかりた「末法思想」を逆手にとって、歴史的観点から、天皇と摂関をめぐる政治のあり方(道理)を探ることを述作のねらいとしている。ゆえに「愚管抄」は先行する「大鏡」等のように、権力者の移り変わりとそのプロセスの叙述に終始した単なる歴史書ではない。慈円の主眼は、時間をつらぬき、時代を動かしていく「道理」の解明と、次の政治ステージへのその適用にある。したがって、「歴史(時間)」に着目しながらも、慈円の世界観・時代意識は、歴史のなかに人間のはからいを超えて世界を終末へ導いていくものしかみようとしないいわゆる「末法思想」とは、本質的に大きく異なるものであった。
「愚管抄」で正法ということばが使われる場合には、日本の天皇のあり方が理想的であった時代のことを指している。したがって「愚管抄」の基本は、神々の約諾にあり、仏教的な諸概念は神々の約諾の展開をとらえ、叙述するうえで用いられるものにすぎなかった 。
してみると、「愚管抄」を単なる歴史書とみて、歴史文学の流れのなかに封じこめてしまうのがいかに不当なことかが明らかになってくる。慈円にとって、歴史はあくまでも政治的な道理を解明するための手段なのであり、あえて「愚管抄」をなんらかのジャンルに分類する必要があるとすれば、むしろ「政治学」の著作とするのが妥当であろう。九条家の立場から執筆しているという制約はみられるが(註5)、政道のあり方を論ずる著述の出現という意味で、これはやはり、時代を画するできごとなのである。
また慈円と歴史書のかかわりに関して、もう一つ無視できないのは、「徒然草」のなかで、兼好が、慈円は信濃前司行長を扶持していたとしていること、そしてこの行長を「平家物語」の作者としていることだろう(「徒然草」第226段、註6参照)。行長は、元久二年(1205年)の詩歌合に参加するなど九条家と縁の深い人間だが、自己が「愚管抄」を執筆する一方で、(「徒然草」の記事が事実とすれば)扶持する人間に「平家物語」を書かせるといったところにも、慈円の歴史(政治文学)に対するなみなみならぬ関心がうかがえる。少なくとも、中世人・兼好は、慈円をそうした人物とみていたということだ。
いっぽう表現の面から見逃すことができないのは、「愚管抄」の叙述をすすめるにあたり、慈円が意図的に当時の世俗的言語を採用しているという点である。すでにみたように、和歌においても、口語的表現が入りこんでくることをけして拒まなかった慈円ではあるが、散文で書かれる歴史書においてこうした表現形式をとる理由は、次のように、「愚管抄」のなかに明確に記してある。
「日本書紀」にはじまる六国史や律令はわが国のことを書いたものであるのに、今は少しでも読解できる人はまれなのである。そこで仮名ばかりで書くと、日本語の本来の性格から漢字とその表現にはかかわりがなくなるであろう。ところが世間の人は、仮名で書いてもなお読みにくいようなことばをとりあげてどうしようもない低俗なものとして嘲笑するのである。たとえば、ハタト、ムズト、シャクト、ドウトなどのことばがその例であるが、わたくしはこれらのことばこそ日本語の本来の姿を示すものと思う。これらのことばの意味はどんな人でもみな知っている。卑しい人夫や宿直の番人までも、これらのことばのような表現で多くのことを人に伝えまた理解することができるのである。それなのに、こうしたことばは滑稽であるといって書く時に使わないとすれば、結局は漢字ばかりを用いることになってしまうであろう。そうすれば漢字の読める人は少ないのであるから、この間の道理を考えた末に、以下のような書き方で書くことにしたのである 。
「愚管抄」全体は、結果的に主語・述語・挿入句の入り組んだ複雑な構文をとることが多いが、そのなかで、歴史の現場に立ち会った証人の生の会話の採用等は、叙述全体に緊迫感をもたらしている。
こうして慈円の作品活動全体をみてくると、彼は時代の変化を悲観してその方向を変えることを断念してしまったのではなく、変化の原因をみきわめ、「理(言語)」で外の世界を律していこうという傾向が強かったことが明らかになる。ちなみに、これまでもたびたび引用した大隈和雄氏は、慈円の達成を次のようにまとめている。
一つの時代が政治的にも文化的にも終わろうとする時代に生きた慈円は、自己の生きた時代の論理を自覚的に把握し、それによって日本の歴史、特に自己の生きた時代の歴史をまとめあげることにつとめた。「愚管抄」は、その意味で貴族文化がみずからの手で行なった、総決算の書であった。そして、慈円はその地位、学識・才能すべての点で、決算を遂行するにもっともふさわしい人だったのである 。
小論は、大隅氏と時代認識を異にし、慈円の時代は政治的にも文化的にも新しい段階のはじまりととらえているが、大隅氏による慈円の社会的位置付けそのものは妥当だろう。元久、建永年間に良経、兼実が相次いで没した後、九条家の代表者として、宗教のみならず、政治、文化の各分野の第一線で活動した慈円こそ、この時代の貴族文化を体現した、最高の教養人といっていいと思う。
 
第七巻2

現代の学問の水準
今仮名にて書くこと高きやうなれど、世の移りゆく次第と[を]心得べき様(やう)を、書きつけ侍る意趣は、惣じて僧も俗も今の世を見るに、智解(ちげ=知恵の理解)のむげに失せて学問と云ふことをせぬなり。学問は僧の顕密を学ぶも、俗の紀伝・明経を習ふも、これを学(がく)するに従ひて、智解にてその心を得ればこそ面白くなりて為(せ)らるることなれ。すべて末代には犬の星を守(=見守る)るなんど云ふやうなることにてえ心得ぬなり。
それは又学し<てぞ書か>[とかく]する文(ぶん)は、梵本より起こりて漢字にてあれば、この日本国の人はこれを和(やは)らげて和詞(やまとことば)になして心得るも、猶うるさくて知解の要(い)るなる。明経に十三経とて、孝経・礼記より、孔子の春秋とて、左伝・公羊(くやう)・穀(こく)など云ふも、又紀伝の三史、八代史乃至(ないし)文選・文集・貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)これらを見て心得ん人のためには、かやうの事は可笑(をか)し事にてやみぬ。
本朝にとりては入鹿が時、豊浦大臣(とよらのおとど=蝦夷)の家にて文書みな焼けにしかども、舎人親王のとき清人と「日本記」を猶つくられき。又大朝臣(おおのあそん)安麿など云ふ説もありける。それよりうち続き 「続日本記」五十巻をば、初め二十巻は中納言石川野足、次十四巻は右大臣継縄、残り十六巻は民部大輔菅野真道、これら本体とはうけ給りて作りけり。「日本後記」は左大臣緒嗣、 「続日本後記」は忠仁公、「文徳実録」は昭宣公、「三代実録」は左大臣時平、かやうに聞こゆ。又律令は淡海公(=不比等)つくらる。弘仁格式は閑院大臣冬嗣、貞観格は大納言氏宗、延喜格式は時平作りさしてありけるをば、貞信公作り果てられけり。この外にも官曹事類とかや云ふ文も在(あ)むなれども、持たる人もなきとかや。蓮華王院(=三十三間堂)の宝蔵には置かれたると聞こゆれど、取り出して見むと云ふ事だにもなし。
すべてさすがに内典・外典の文籍は、一切経などもきらきらと在(あ)むめれど、鶸(ひは)の胡桃を抱へ、隣の宝を数ふると申すことにて学する人もなし。さすがに殊にその家に生(む)まれたる者はたしなむと思ひたれど、その義理(=意味)を悟ることはなし。いよいよこれより後、当時(=今)ある人の子孫を見るに、いささかも親の跡に入るべしと見ゆる人もなし。
この書執筆の意図
これを思ふに、中々かやうの戯言(ざれごと=この本)にて書き置きたらんは、いみじ顔ならん学生(がくしやう)達も、心の中には心得易くて、一人笑みして才学にもしてん物をと思ひ寄りて<なり>。中々本文(=古典)など頻(しき)りに引きて<も>才学気色もよしなし(=役立たない)。誠(まこと)にも、つやつやと(=私は全く何も)知らぬ上に、我にて人を知るに、物の道理をわきまへ知らん事はかやう(=このやり方)にてや、少しもその後世に残るべきと思ひて、これは書きつけ侍るなり。
これだにも言葉こそ仮名なる上に、むげに可笑しく耳近く侍れども、猶心は上に深く籠りたること侍らんかし。それをもこの可笑しく浅き方にて賺(すか)し出だして、正意道理をわきまへよかしと思ひて、ただ一筋をわざと耳遠き事をば心詞(こころことば)に削(けづ)り捨てて、世の中の道理の次第に作り変へられて、世を守る、人を守(も)る事を申し侍るなるべし。もし万が一にこれに心付(づ)きて「これこそ無下(=ひどい)なれ、本文(=古典)少々見ばや」など思ふ人も出でこば、いとど本意に侍らん。
さあらん人はこの申し立てたる内外典の書籍あれば、必ずそれを御覧ずべし。それも寛平遺誡、二代御記、九条殿の遺誡、又名誉の職者の人の家々の日記、内典には顕密の先徳たちの抄物などぞ、すこし物の要には適(かな)ふべき。それらを我が物に見たてて、もしそれに余る心付きたらん人ぞ、本書(=古典)の心をも心得解くべき。左右なく深(ふか)裁(た)ちして本書(=古典)より道理を知る人は定めて侍らじ。
むげに軽々(かろがろ)なる<言葉>どもの多くて、はたと・むずと・きと・しやくと・きよとなど云ふ事のみ多く書きて侍る事は、和語の本体にてはこれが侍るべきと覚(おぼ)ゆるなり。訓の読みなれど、心(=意味)をさし詰めて字尺(=漢字の解釈)に表はしたる事は、猶心の広がぬなり。真名の文字にはすぐれぬ、言葉のむげに只事なるやうなる言葉こそ、日本国の言葉の本体なるべけれ。
その故(ゆへ)は、物を言ひ続くるに心の多く籠りて時の景気を表はすことは、かやうの言葉のさはさはと(=明瞭に)知らする事にて侍る也。児女子が口遊(くいう)とてこれらを可笑しきことに申すは、詩歌の誠の道を本意に用ゐる時のことなり。愚痴無智の人にも物の道理を心の底に知らせんとて、仮名に書きつくるを、法(=法則の理解)の事には、ただ心を得ん方の真実の要(かなめ)を一つ取るばかりなり。この可笑し事(=この本)をば、ただ一筋にかく心得て見るべきなり。
その中に代々の移り行く道理をば、心に浮かぶばかりは申しつ。それを又押し総(ふさ=まとめる)ねてその心の詮(せん=要点)を申し表はさんと思ふには、神武より承久までのこと、詮をとりつつ、心に浮かぶに従ひて書きつけ侍りぬ。
皇道・帝道・王道
大きにこ<れ>を分かつに漢家(かんか=中国)に三つの道あり。皇道(=三皇五帝の政道)・帝道(=帝者の徳治)・王道(=夏殷周の徳治)也。この三つの道に、この日本国の帝王を推知(=類推)して擬(なぞら)へ充てて申さまほしけれど、それは日本国には、 「日本記」已下(いげ=以下)の風儀にも劣り、つやつやと(=全く何も)無き事にて中々(=却て)悪しかりぬべし。その分際(=程度)はまた知りたからん人は、みなこの仮名の戯言にも「その程(ほど)よ」などは思ひ合はせられむずる事ぞかし。
漢土に衛鞅(=商鞅)と云ふ執政の臣の出で来しが<こ>とこそ、万(よろ)づの事の器量を知る道にはよき物語にて侍れ。秦代に孝公(第十三代)良き臣を求め給ひしかば、景監と云ふ者衛鞅を求めて参らせたり。見参に入りて天下を治めらるべき様(やう)を申す。孝公聞こし召して御心に適(かな)はずと見ゆ。又参りて申す。うちねぶりて聞こし召し入れず。第三度「まげて今一度見参にいらむ」と申して参ら令(し)めて申しけるたび、居寄り居寄りせさせ給ひて、いみじく用ゐられけり。さてひしと天下を治めてけり。
それは一番には帝道を説きて諌(いさ)め申しけり。次には王道を説きて教へ申しけり。この二度(たび)御心にかなはず。第三度の度(たび)この君かなはじと見参らせて、覇業を説き申して用ゐられにけり。秦の始皇と申す君も覇業の君とこそ申すなれ。
後に又魏の斉王の時に、范叔(はんしゆく)と云ふ臣の世を取りたる。衛鞅をいみじき者と云ふけれど、蔡沢(さいたく)と云ふ者出で来て、「衛鞅はいみじかりしが、後に車裂(くるまざき)にせられたりなど申すぞかし。王臣も一期生(いちごしやう=一生)無為無事にこともなくて過ぐるこそは良けれ」と論じて、范叔は蔡沢に論(ろんじ)負けて、さらばとて世の政(まつりごと)を蔡沢にゆづりて入り籠りにければ、蔡沢受け取りて誠に王臣一生は穏(をだ)しくて止みにけり。あはれ好(この)もしき者どもかな。蔡沢が目出度(めでた)きよりも、范叔が我が世を道理に折れて、去りて退(の)きける心有り難かるべし。漢家の聖人賢人の有り様これにて皆知らるべし。唐太宗の事は貞観政要にあきらけし。仏の悟りにも、菩薩(ぼさつ=修行者)の四十二位(=42段階)まで立つるも、善悪の悟り分際皆思ひ知らるる事なり。
今神武以後、延喜・天暦まで下りつつ、この世(=今の世)を思ひ続くるに、心も言葉も及ばず。さりながらこの代に臨(のぞ)みて思ふに、神武より成務まで十三代は、王法・俗諦(ぞくたい)ばかりにて、いささかの様(やう=子細)もなく、皇子々々うち続きて八百四十六年は過ぎにけり。仲哀より欽明まで十七代は、とかく落ち上がりて、安康・武烈の王も混じらせ給ひて、又仁徳・仁賢めでたくて過ぎにけり。三百九十四年なり。十三代よりも十七代は少なし。
さて欽明に仏法渡り始めて、敏達より、聖徳太子の幼なくおはします五つ六つより渡るところの経論、ひとへに幼なき人にうちまかせて、見解きて王に申させたまひて、敏達・用明・崇峻三代は過ぎぬ。その次に女帝の推古にひしと太子を摂政にて、仏法に王法は保(たも)たれておはしませば、この敏達より桓武まで二十一代、この平安の京へ移るまでを一段にとらば、その間は二百卅六年、これ又十七代の年の数よりも少なし。  
歴史の段階
このやうにて世の道理の移り行く事を立てむには、一切の法はただ道理と云ふ二文字が持つなり。其の外には何もなき也。僻事(ひがこと)の道理なるを、知り分かつことの極(きは)まれる大事にてあるなり。この道理の道を、劫初(ごふしよ)より劫末へ歩み下り、劫末より劫初へ歩み上るなり。これを又大小の国々の初めより終りざまへ下り行くなり。
この道理を立つるに、様々(やうやう)さまざまなるを、心得ぬ人に心得させん料(れう=為)に、少々心得易きやう、書き表はし侍るべし。
一、冥顕(みやうげん)和合して道理を道理にて通す様(やう)は初めなり。これは神武より十三代までか。
二、冥の道理のゆくゆくと(=すらすらと)移り行くを顕の人はえ心得ぬ道理、これは前後首尾の違(たが)ひ違ひして、善きも善くて[も]通らず、悪ろきも悪ろくて[も]果てぬを人のえ心得ぬなり。これは仲哀より欽明までか。
三、顕には道理かなと皆人許してあれど、冥衆(=神仏)の御心には適はぬ道理なり。これは善しと思ひてしつることの必ず後悔のあるなり。その時道理と思ひてする人の、後に思ひ合はせて悟り知る也。これは敏達より後一条院の御堂の関白(=道長)までか。
四、当時沙汰しぬる間は我も人も善き道理と思ふほどに、智ある人の出で来て、これこそ謂(いは)れ無けれと云ふ時、誠にさありけりと思ひ返す道理なり。これは世の末の人の深くあるべきやうの道理なり。これまた宇治殿(=藤原頼通)より鳥羽院などまでか。
五、初めより其の儀両方に分かれて、ひしひしと論じて揺(ゆ)り行くほどに、さすがに道理は一つこそあれば、其の道理へ言ひ勝ちて行なふ道理なり。これは地体(ぢたい=元々)に道理を知れるにはあらねど、しかるべくて威徳ある人の主人なる時はこれを用ゐる道理也。これは武士の世の方の頼朝までか。
六、かくのごとく分別しがたくて、とかくあるいは論じあるいは未定にて過ぐるほどに、ついに一方(いつぱう)に就きて行なふ時、悪ろき心の引く方にて、無道を道理と悪しくはからひて、僻事(ひがごと)になるが道理なる道理なり。これはすべて世の移り行くさまの僻事が道理にて、悪ろき寸法の世々落ち下る時々の道理なり。これ又後白河よりこの院の御位(くらゐ)までか。
七、すべて初めより思ひ企つる所、道理と云ふ物をつやつや我も人も知らぬ間に、ただ当たるに従ひて後をかへりみず、腹に寸白(すばく=寄生虫)など病む人の、当時<病の>起こらぬとき喉(のど)の渇(かは)けばとて水などを飲みてしばしあれば、その病<の>起こりて死に行くにも及ぶ道理也。これはこの世(=今の世)の道理なり。されば今は道理<と>云ふ物は無きにや。
歴史の推移と道理
このやうを、日本国の世の初めより次第に王臣の器量果報衰(をとろ)へ行くに従ひて、かかる道理を作り換へ作り換へして世の中は過ぐるなり。劫初劫末の道理に、仏法王法、上古中古、王臣万民の器量をかくひしと作り表(あら)はする也。さればとかく思ふとも叶(かな)ふまじければ、叶はでかく落ち下る也。
かくはあれど内外典(ないげてん)に滅罪生善と<いふ>道理、遮悪持善といふ道理、諸悪莫作(まくさ)、諸善奉行といふ仏説のきらきらとして、諸仏菩薩の利生(りしやう)方便といふものの一定(いちぢやう)またあるなり。これをこの初めの(=上記の)道理どもに心得合はすべきなり。いかに心得合はすべきぞと言ふに、さらにさらに人これを教ふべからず。智恵あらん人の我が智解にて知るべきなり。但しもしやと心の及び言葉の行かん程をば申し開くべし。
大方古き昔のことは、ただ片端を聞くに皆よろづは知らるる心ばへの人にて、記し置く事極(きは)めてかすか也。これを見て申さむことは、ひとへの推量のやうなれば、又此頃の人は信を起こさぬことにて侍らんずれば、細かに申しがたし。をろをろは、又やがて事のけずらい(=核心)をば、さやうにやと云ふ事は書きつけ侍りぬ。
国王の条件
さて<世の>末ざまは事の繁くなりて尽くしがたく侍れども、清和の御時はじめて摂政を置かれて、良房の大臣(おとど)出で来たまひし後、その御子にて昭宣公(=基経)の我が甥(をひ)の陽成院をおろし奉りて、小松の御門を立て給ひしより後の事を申すべき也。
先づ道理移り行く事を、地体(ぢたい)によくよく人は心得べき也。いかに国王と云ふは、天下の沙汰をして世を鎮(しづ)め民を憐(あは)れむべきに、十(とを)が内なる幼き人を国王にはせんぞ(=するだらうか)と云ふ道理の侍るぞかし。
次に国王とて据ゑまいらせ後は、いかに悪ろくとも、たださてこそあらめ。それを我が御心より起こりて降りなんとも仰せられぬに、押し降ろしまいらすべきやうなし。「これを云ふぞかし、謀反とは」と云ふ道理又必然の事にて侍るぞかし。其れにこの陽成院を降ろし参らせられしをば、謂はれず昭宣公の謀反なりと申す人やは世々侍る。つやつやとさも思はず又申さぬぞかし。御門(みかど)の御為(ため)限りなき功にこそ申し伝へたれ。
又幼主とて四つ五つより位に即(つ)かせ給ふを、しかるべからず、もの沙汰するほどにならせ給ひてこそ、と云ふ人やは又侍る。昔今即(つ)くまじき人を位に即くる事なければ、幼しとて嫌はば、王位は絶へなんず(=だらう)れば、この道理によりて幼きを嫌ふことなし。これら二つにて物の道理をば知るべきなり。
大方世のため人のため良かるべきやうを用ゐる。何ごとにも道理詮(せん=究極)とは申すなり。世と申すと人と申すとは、二つの物にてはなき也。世とは人を申す也。
その、人にとりて世と言はるる方は公(おほやけ)道理とて、国の政(まつりこと)にかかりて善悪を定むるを世とは申す也。人と申すは、世の政にも臨まず、すべて一切の諸人の家の内までを穏(おだ)しく哀れむ方の政を、又人とは申すなり。其の人の中に国王より始めてあやしの民まで侍るぞかし。
それに国王には、国王の振舞ひ能(よ)くせん人のよかるべきに、日本国の習ひは、国王の種姓(しゆしやう)の人ならぬ筋を国王にはすまじと、神の代より定めたる国なり。その中には又同じくは善からんをと願ふは、又世の習ひ也。
それに必ずしも我からの手ごみ(=手はずよく)に目出度くおはします事の難(かた)ければ、御後見(うしろみ)を用ゐて大臣(おほおみ)と云ふ臣下をなして、仰せ合はせつつ世をば行なへと定めつる也。この道理にて国王もあまりに悪ろくならせ給ひぬれば、世と人との果報に押されて、え保(たも)たせ給はぬなり。その悪ろき国王の運の尽きさせたまうに、また様々(やうやう=さまざま)のさま(=様態)の侍るなり。  
天皇と御後見役
太神宮(=伊勢神宮)・八幡大菩薩の御教へのやうは、「御後見の臣下と少しも心を置かずおはしませ」とて、魚水合体(がつてい)の礼と云ふことを定められたる也。こればかりにて天下の治まり乱るる事は侍るなり。
天児屋根命(あまのこやねのみこと=藤原氏の祖先の~)に、天照(あまてる)御神の、「殿(との)の内にさぶらいて、よく防ぎ守れ」と御一諾(いちだく)を遥か<昔>にし、末(すへ)の違(たが)うべきやうの露ばかりもなき道理を得て、藤氏の三功といふ事出で来ぬ。
その三つと云ふは、大織冠(=鎌足)の入鹿を誅し給ひしこと、永手(ながた)大臣・百河(ももかは)の宰相が光仁天皇を立て参らせし事、昭宣公の光孝天皇を又立て給ひしこと、この三つ也。はじめ二つは事上がりたり(=遠い昔のこと)。昭宣公の御事は、清和の後に定かに出で来たる事也。
その後すべて国王の御命の短き云ふばかりなし。五十に及ばせ給ひたる一人もなし。位(くらゐ)を降りさせ給ひて後は、皆又久しくおはしますめり。これらは皆人知りたれど、一度に心に浮かぶことなければ、うるさきやうなれど、これを先づ申しあらはすべし。
清和はわづかに御歳三十一、治天下十八年なり。
陽成は八年にて降りさせ給ひぬ。八十一までおはしませど世もしらせたまはず。
光孝はただ三年、これはさらに(=特別に)出で来おはしたる事にて、五十五にてはじめてつかせ給ふ。
宇多は三十年にて位を去りて御出家、六十五までおはします。
醍醐は卅三年まで久しくて、御年も四十六にて、ただこればかり目出度き事にておはします。
朱雀は十六年にてあれど卅にて失せ給ふ。
村上は廿一年にて四十二まで也。
これ延喜・天暦とて、これこそ少し長くおはしませ。
冷泉は二年にて位を降りて、六十二迄おはしませど、ただ陽成と同じ御事なり。
円融は十五年にて卅四。
花山は二年にて四十一迄おはしませど云ふに足らず。
一条は廿五年にて卅二、幼主にてのみおはしますは、久しきも甲斐なし。
三条は五年なり。東宮にてこそ久しくおはしませども又甲斐なし。
後一条は二十年なれど廿九にて、又幼主にて久しくおはしましき。
後朱雀は九年にて大人(おとな=分別がある)しくおはしませども卅七、又程なし(=短い)。
後冷泉は廿三年にて四十二、これぞ少し程あれど、ひとへにただ宇治殿のままなり。
この国王の代々の若死をせさせ給ふにて深く心得べきなり。高きも卑しきも、命の耐(た)ふるに過ぎて、作り堅めたる道理を表はす道はあるまじき也。日本国の政を作り変(かふ)る道理(=摂関政治)と、降りゐの御門の世を知ろしめすべき時代に落ち下ることの、まだしきほど、国王の六十七十までもおはしまさば、摂籙(せつろく)の臣の世を行なふと云ふ一段の世はあるまじき也。
さすがに君とならせおはしまして、五十六十まで脱屣(だつし=退位)もなくてあらんには、ただ昔のままにてこそあるべけれ。誠に御年の若くて、初めは幼主の摂政にて、やうやうさばかりにならせ給へども、我と(=自分で)世をしらむと思(おぼ)し召すほどの御心ばへなし。
摂籙の臣の器量めでたくて、その御まつり事を助けて、世を治めらるれば事も欠けず。さるほどに君は卅が内外(うちと)にて皆失せさせ給ふ也。これこそは太神宮の、この中ほど(=清和以後)は君(きみ)の君にて昔の如くえあるまじければ、此料(れう=為)にこそ神代より、「よく殿内(とのうち)を防ぎ守れ」と言ひてしかば、その子孫に又かく器量あい適(かな)ひて、生まれあい生まれあいして、この九条の右丞相の子孫の、君の政をば助けんずるぞと、<道理が>作り合はせられたる也。
さてその後、太上天皇にて世を知ろしめすべしと又定まりぬれば、白河・鳥羽・後白河と三代は七十、六<十>、五十に皆余り余りして世をば知ろしめすになん。さればこの理(ことはり)はこれにて心得られぬ。
上皇政治の出現
さて後三条院(=後冷泉の次)久しくおはしますべきに、事をば兆(きざ)して(=政治を始めて)四十にて失せおはします事ぞおぼつかなけれど、それはむずと(=急に)世の衰ふべき道理の現はるるなるべし。後三条院御心に思(おぼ)し召す程のありけむは(=御考へが実現したら)、いかに目出度(めでた)かりけむ。
さて、とも言へかくも言へ、時にとりて、世を知ろしめす君と摂籙臣(=摂政)とひしと一つ御心にて、違ふことの返す返す侍るまじきを、別に院の近臣と云ふ物の、男女につけて出で来ぬれば、それが中にいて、いかにもいかにもこの王臣の御中を悪しく申すなり。あはれ俊明卿まではいみじかりける人哉。ここを詮(=要点)に<して>は君の知ろしめすべきなり。
今は又武者の出で来て、将軍とて君と摂籙の家とを押し籠めて世を取りたることの、世の果てには侍るほどに、此武将(=源氏平家)をみな失ひ果てて、誰にも郎従となるべき武士ばかりになして、その将軍には摂籙の臣の家の君公(=頼経)をなされぬる事の、いかにもいかにも宗廟神の、猶君臣合体して昔に帰りて、世をしばし治めんと思し召したるにて侍れば、その始終を申し通し侍るべき也。されば後三条院は四年、これよりの事を細かに申すべし。
この後は事変はりて位降りて後、世を知らんと思し召し企てて、我(=後三条)はとく失せさせ給しかど、白河院七十七まで世を知ろしめしき。これは臣下(=藤原氏)の御振る舞ひになれば久しくおはしますなり。次に鳥羽院又五十四までおはしますべきに、又後白河五代の御門(みかど)の父祖にて、六十六までおはします。
太上天皇世を知ろしめしての後、その中の御子・御孫の位の久しさ疾(と)さのことは、無益(むやく)なれば申すに及ばず。わざとせんやうに程なく代はらせ給ふめり。その次にこの院(=後鳥羽院)の御世に成りて、すでに後白河院失せさせおはしまして後、承久まで既に廿八年になり侍りぬる也。  
摂関の権威の下落
延喜・天暦までは君臣合体魚水の儀まことに目出度しと見ゆ。北野の御事もせめて時平と御心違(たが)はぬ方の印(しるし)なるべし。
冷泉院の御後、ひしと天下は執政臣に付きたりと見ゆ。それにとりて御堂までは摂籙の御心の、時の君を思ひあなづり参らする心のさわさわと(=全く)なくて、君の悪しくおはします事をば目出度く申し直し申し直しておはしますを、君の悪しく御心得て、円融・一条院などより「我をあなづるか、世を我が心にまかせぬこそ」など思し召しけるは、みな君の御僻事(ひがこと)と見ゆ。
宇治殿の、後冷泉院の御時、世をひしと取らせ給ひし後に、すこしは君をあなづり参らせて、世を我が世に思はれける方の混じりにけるよ、など見ゆ。後三条院これをさ(=そのやうに)御覧じて、この事(=頼通の専横)あれと思し召して、「今はただ脱屣の後われ世を知らん」と思し召してけり。されどこの宇治と後三条院とはさは思し召せども、悪しかりけり悪しかりけりと皆(=二人)思ひ直し思ひ直して、王道へ落とし据ゑて世の政(まつりこと)は止みやみ(=決着)しけるよ、など見ゆ。
白河院の後、ひしと太上天皇の御心のほかに、臣下(=摂籙臣)といふ者の詮(せん)に立つ事のなくて、別に近臣とて白河院には初めは俊明等も候。末には顕隆・顕頼など云ふ者ども出で来て、本体(=本来)の摂籙臣、痴(をこ)の下様(しもざま)の人(=師通、忠実、頼長)のおはしけるに、又かなしう押されて恐れ憚りながら、又昔の末はさすがに強くのこりて、鳥羽、後白河の初め法性寺殿(=忠通)まではありけりと見ゆ。
この中に白河院の、知足院殿(=忠実)をひしと仲悪しくもてなして追ひ籠めて、その知足院の子法性寺殿を別に取り放つやうに使ひ立てさせ給ひたる御僻事の、ひしと世をば失ひつるにて侍るなり。これにつけて定かに冥顕の二つの道、邪神善神の御違へ(=争ひ)、色に表はれ内に籠りて見ゆるなり。
されども鳥羽院は最後ざまに思し召し知りけん、物を法性寺殿に申し合はせて、その申さるるままにて、後白河院位に即けまいらせて、立ち直りぬべきところに、かやうに(=乱世に)成り行くは世の直るまじければ、すなはち天下日本国の運の尽き果てて、大乱の出で来て、ひしと武者の世になりにし也。
その後、摂籙の臣と云ふ物の、世の中にとりて、三四番に下りたる威勢にて、きらもなく成りにしなり。其の後わづかに松殿・九条殿この二人、いささか一の人に似たる事どもあれど、かく成りぬる上の情けにてこそあれ。松殿は平家に失なはれ、九条殿は源将軍に取り出だされたる人にて、国王の御<意>にまかせて、摂籙臣を我が物に頼みもし憎みもする筋の、こそこそと(=いつの間にか)失せぬる上は、善きも悪しきもをかしき事にて今は止みぬるに、ただ暫しこの院(=後白河)の後、(=後鳥羽院が)京極殿良経を摂籙になされたりしこそ、こは目出度き事かなと見えしほどに、夢のやうにて頓死せられにき。
近衛殿と云ふ父子(=基通、家実)の、家には生まれて、職には居ながら、つやつやと掻い払ひて、世の様(やう)をも家の習ひをも、すべて知らず、聞かず、見ず、習はぬ人にて、しかも家領文書抱(かか)へて、かく取られぬ、返されぬして、いまだ失せず死なでおはするにて、ひしと世は王臣の道は失せ果てぬるにて侍るよと、さはさはと見ゆる也。それに、王も臣も間近(まぢか)き九条殿の世の事を、思はれたりし。力の正道なる方は、宗廟社稷の本なれば、それが通るべきにや。
怨霊と道理
いま左大臣の子(=頼経)を武士の大将軍に、一定八幡大菩薩のなさせ給ひぬ。人のする事にあらず、一定神々のし出ださせ給ひぬるよと見ゆる。不可思議の事の出で来侍りぬる也。
これを近衛殿など云ふ、沙汰のほかの者は、「我が家にかかることなし。恥かかるるか」言はるるを、誠になど思ふ人もあるとかや。をかしき事とは、ただこれらなり。我が身うるはしく家を継ぎたる人にてこそ、さやうの事は愚かながらも言ふべけれ。平将軍が乱世に成り定まる謀反の詮に、二位中将(=の位)より、つやつや物も知らぬ人の若々愚かおろかとしたるに、摂籙の臣の名ばかり授(さづ)けられて、怨霊にわざと守られて、我が家失なはん料(れう)に久しく生きたるぞと、え思ひ知らぬ程の身にして、「家の恥也」など言はばや、大菩薩の御心に適ふべき。「言ふに足らず」と云ふはこれなり。
すこしは、世の移り物の道理の変はり行くやうは、人これを弁(わきま)へがたければ、その料(れう)にこれは書き付け侍れど、これを見む人も我が心に入れ心に入れせんずれ(=せんざれ)ば、さらにかなふまじ。こはいかがし侍るべき。
されば摂籙家と武士家とを一つになして、文武兼行して世を守り、君を後見(うしろみ)参らすべきに成りぬるかと見ゆるなり。これにつきて昔を思ひ出で今を顧(かへり)みて、正意(しやうい=正しい意味)に落とし据ゑて、邪を捨て正に帰する道をひしと心得べきにあひ成りて侍るぞかし。先づこれにつきて、是は一定大菩薩の御計らひか、天狗・地狗(ぢく)の又仕業かと深く疑ふべし。
この疑ひにつきて、昔より怨霊と云ふ物の世を失ひ人を滅ぼす道理の一つ侍るを、先づ仏神に祈らるべきなり。
百川の宰相いみじく光仁を立て申ししと、又その後の王子立太子論ぜしに、桓武をば立て果(おほ)せ参らせたれど、あまりに沙汰(=策略)し過ごして、井上(いのかみ)の内親王(=廃皇太子の母)を穴を彫(ゑ)りて獄を作りて籠め参らせなんどせしかば、現身(げんしん)に竜に成りて、ついに蹴殺させ給ふと云ふめり。
一条摂政(=藤原伊尹)は朝成(あさひら)の中納言を生霊(いきすだま)に儲(まう=身に受)けて、義孝(のりたか)の少将まで失せぬと云ふめり。
朝成(あさひら)は定方(さだかた)右大臣の子也。宰相の時は一条摂政は下臈にて競望の間、放言(=悪口)し申したりけり。大納言所望の時は摂籙臣(=伊尹)になられたるに参りて、昔は左右(さう)なく上へ登る事もなかりけるに、良(やや)久しく庭に立ちて、たまたま(=やつと)呼び入れて会はれたるに、大納言には我(=朝成)がなるべき道理を立てけるをうち聞きて、「往年、納言のときは放言せられき。今は貴閣の昇進我が心に任せたり。世間は計り難き事ぞ」と云ひて、やがて内へ入られにければ、なのめならず腹立て出でける。車にまづ笏を投げ入れける二つに割れにけり。さて生霊となれり、とこそ江帥(がうのそち=大江匡房)も語りけれ。三条東洞院は朝<成>[平]が家の跡なり。それへは一条摂政の子孫は臨まずなど申すめり。
元方の大納言は天暦(=村上天皇)の第一皇子広平親王の外祖にて、冷泉院(=村上第二皇子が即位)を取り詰め参らせたり。顕光大臣は御堂の霊になれり(=第4巻)。小一条院(=敦明親王)<の>御舅(しうと)なりし故など、かやうに申す也。されども仏法と云ふものの盛りにて、智行の僧多かれば、かやうの事は祟(たた)れども、事のほかなる事をば防ぐめり。まめやかに<心>底より尊(たうと)き僧を頼みて、三宝の益をば得る也。九条殿は慈恵大師、御堂は三昧和尚・無動寺座主、宇治殿は滋賀僧正など、かやうに聞こゆめり。
深く世を見るには、讚岐院、知足院殿の霊の沙汰(=対策)のなくて、ただ我が家を失なはんと云ふ事にて、法性寺殿は子ながら余りに器量の、手掛(が)くべくもなければにや、我が御身にはあながちの(=ひどい)事もなし。中の殿の疾く失せざま、松殿・九条殿の事に合はれやう、近衛(このい)殿(=基通)のたびたび取られ給ひて、今まで命を生(い)けて遊びてこの家を失(うしな)はれぬる事と、後白河一代明け暮れ事に遭はせ給ふことなどは、験(あらた)に(=明らかに)この怨霊も何もただ道理を得る方の応(こた)ふる事にて侍るなり。
一(ひ)と当たりはただ易々とある事の、一大事にはなる也。讃岐より呼び返(か<へ>[は])し参らせて、京に置き奉りて、国一つなど参らせて、「御作善(おんさぜん)候べし」などにて歌うち詠ませ参らせてあらましかば、かう程の事あるまじ。
知足院殿をも申し受けて、法性寺殿の御沙汰には、宇治の常楽院に据ゑ申して、いま少し庄どもも参らせて、同じく遊びして管絃もてなしておはしまさましかば、かう程の事はあるまじき也。
法性寺殿は我が親なれば、流刑のなきこそ所望(そまう)の事と思はれたりけるにや。それも言はれたれど、我身にあらたなる祟りはなけれども、いかに物の計らひは、これ程の様(やう)を深く思ひ解かぬ所に、事は出で来るなり。
人間界には怨憎会苦(をんぞうえく)、必ず果たすところなり。ただ口にて一言我に勝りたる人を過分に放言しつれば、当座にむずと突き殺して命を失なはるるなり。怨霊と云ふは、詮(せん)はただ現世ながら深く意趣を結びて敵(かたき)に取りて、小家(こいへ)より天下にも及びて、その敵を掘り転(まろ)ばかさんとして、讒言空事を作り出だすにて、世の乱れ又人の損ずる事はただ同じ事なり。顕(あらは)にその報ひを果たさねば冥(みやう)になるばかりなり。  
末の世の姿
聖徳太子の十七条の中に、「嫉妬をやめよ、嫉妬の思ひはその際(きは)なし。賢こく愚かなる事は、又環(たまき)の端無きが如し。我一人<心>得たりとな思ひそ」といましめて、「宝あるもの、憂へ(=訴訟)は易々と通るなり。石を水に投げ入るるやう也。貧しき者の憂へは難くて通る事なし。水にて岩を打つやう也」と仰られたる。
この三事の詮にては侍るを、世の末ざま、当時の世間にはさる戒(いまし)めのあるかとだにも思はで、わざとこれを目出度き事に思ひて、すこしも魂(たましい=分別)あらんと思ひ(=自認し)たる人は、物妬みと自是非他(=自分に甘く他人に厳しい態度)と追従・賄(まいない)とにて、これがひとへに(=こんなことだけで)世を保(たも)たんには難(なん=災難)の候はんぞな。あざやかあざやか(=明々白々)と侍るものかな。
治(をさ)まれる世には「官、人を求む」、乱れたる世には「人、官を求む」と。この頃の十人大納言、三位五六十人、故院の御時までも十人が内外(=前後)にてこそ侍りしか。靫負(ゆげい)の尉(ぜう)・検非違使は数も定まらず。一度の除目を見れば、靭負の尉・兵衛の尉四十人に劣るたびなし。千人にもなりぬらん。
人、官をもとめて、贖労(そくらう=買官)・脇差(わきざし)をたづねて願ふ者は、近臣恪勤(かくご=側近)の男女にてあらんには左右に及ばぬ(=ためらはない)ことぞかし。さまでは(=これほどひどい状況は)思ひ寄らず。
まことには、末代悪世、武士が世になりはて、末法(=1052年)にも入りにたれば、ただ塵(ちり)ばかりこの道理どもを君も思し召し出でて、こはいかにと驚き覚(さ)めさせ給ひて、さのみは如何にこの邪魔悪霊の手にも入るべきと思し召し、近臣の男女もいささか驚けかしとのみこそ念願せられ侍れ。
又武士将軍を失ひて、我身には恐ろしき物もなくて、地頭々々とてみな日本国の所当(=年貢)取り持ちたり。院の御事をば、近臣の脇、地頭の得分(=収益)にて、こそぐれば笑まずと云ふ事なし。武士なれば、当時心に叶はぬ物をば俺々とにらみつれば、手向かひする者なし。ただ心に任せてんと、ひしと案じたり(=心に決めた)と今は見ゆめり。
さてこれらの僻事の積もりて大乱になりて、この世(=今の世)は我も人も滅び果てなんずらん。大の三災(=水火兵)はまだしき物を、さすがに仏法の行ひも残りたり。宗廟社稷の神もきらきらとあんめり。ただいささかの正意とり出だして、無顕無道の事少しなのめ(=普通)になりて、さすがにこれを弁(わきま)へたる人、僧俗の中に二三人四五人などはあるらん物を、これを召し出だして、天下に仕(つか)へられよかし。
事の詮には、人の一切智具足してまことの賢人・聖人はかなふまじ。少しも分々に(=分に応じて)主(ぬし)とならん人は、国王より初めまいらせて、人の善し悪しを見知りて召し使いおはします御心一つが、やすかるべき事の詮になる事にて侍るなり。それがわざとするやうに、何事にも、さながら烏を鵜に使はるることにて侍るめれば、つやつやと世の失せ侍りぬるぞとよ。
後世への期待
又道理と云ふ物はやすやすと侍るぞかし。それ弁(わきま)へたらん臣下にて、武士の勢あらんを召し集めて仰せ聞かせばや。その仰せ言葉は、
「先づ武士と云ふものは、今は世の末に一定、当時あるやうに用ゐられてあるべき世の末になりたりとひしと見ゆ。さればそのやうは勿論(=異論なき)也。その上にはこの武士を悪ろしと思し召して<も>、これにまさりたる輩(ともがら)出で来べきにあらず。この様(やう)に付けても世の末ざま<なれ>ば、いよいよ悪ろき者のみこそあらんずれ。この輩(ともがら)滅ぼさんずる逆乱(げきらん=争乱)はいかばかりの事にてかはあるべき<やう>な<け>れば、冥(みやう)に天道の御沙汰のほかに、顕(あらは)に汝等を憎くも疑ひも思し召すことは無き也」。
地頭の事こそ大事なれ。これは静かに静かによくよく武士に仰せ合せて御計らひあるべき也。これ(=地頭)停(とど)められ参らせじとて、迎へ火を作りて朝家を威し参らする事もあるべからず。さればとて又怖ぢさせ給うべきことにもあらぬなり。ただ大方のやうの武士の輩(ともがら)が、今は正道を存ずべき世になりたる也。
この東宮、この将軍と云ふはわづかに二歳の少人なり。これを作り出で給ふことはひとへに宗廟の神の御沙汰あらはなる。東宮も御母はみなし子になられたり。祈念すべき人もなし。外祖父の願力の応(こた)ふらんをば知らねども、かかること今出で来給ふべしやは。将軍又かかる死して源氏平氏の氏つやつやと絶ゆべしやは。その代はりにこの子を用ゐるべしやは。一定只事(ただこと)にはあらぬ也。
昔より成り行く世を見るに、廃(す)たれ果てて又起こるべき時にあい当たりたり。これに過ぎては失せむとては、いかに失せむずるぞ。記典・明経もすこしは残れり。明法・法令も塵ばかりはあんめり。顕密の僧徒も又過失なくきこゆ。百王を数ふるにいま十六代は残れり。今この二歳の人々の大人しく成りて、世をば失ひも果て、起こしも立てむずるなり。
「それ今廿年待たん迄、武士僻事(ひがこと)すな僻事すな、僻事せずは自余の人の僻事は停めやすし」と仰せ聞かせて、神社・仏寺、祠官・僧侶に良けらかならん庄薗さらに珍しく寄せ給(た)びて、「この世を猶失なはん邪魔をば、神力・仏力にて押さへ、悪人、反道の心あらん輩をば、その心あらせぬ先に召し取れと祈念せよ」と、ひしと仰せられて、この賄(まいない)献芹(=献上)すこし停められよかし。世に安かりぬべき事かなとこそ、神武より今日(けふ)までの事がらを見下して思ひ続くるに、この道理はさすがに残りて侍る物をと悟られ侍れ。
あな多の申すべきことのを多さや。ただ塵ばかり書きつけ侍りぬ。これをこの人々大人しくおはしまさん折(をり)御覧ぜよかし。いかが思しめさん。露ばかり空事もなく、最も真実の<真実の>世の成り行くさま、書き付けたる人もよも侍らじとて、ただ一筋の道理と云ふことの侍るを書き侍りぬる也。
後鳥羽上皇の心得違ひ
又ことの詮(せん)一つ侍りけり。人と申すものは、詮(せん)が詮には、似るを友とすと申すことの、その詮にては侍るなり。それが世の末に、悪ろき人のさながら一つ心に同心合力してこの世(=今の世)を取りて侍るにこそ。善き人は又同じくあい語らひて同心に侍るべきに、善き人のあらばやは合力にも及ぶべき。あな悲しやと思ひつつ、いささか仏神の御沙汰を仰(あふ)ぐばかりなり。用ゐる時は虎となるべき人はさすがに候(さふらふ)らんものを、善き物は世の様(やう)を見てさし出でぬにこそ侍らめ。
かくこの世の失せゆく事は君も近臣も空事にて世を行なはるめり。空事と云ふ物は朝議の方にはいささかも無きこと也。空事と云ふ物を用ゐられんには、善き人の世に得(え)あるまじき也。
さやうの事も中々世の末には、民は正直なる将軍の出で来て、正(ただ)さずは、直(なを)る方あるまじきに、かかる将軍のかく出で来る事は大菩薩の御計らひにて、文武兼じて威勢ありて世を守り君を守るべき摂籙の人(=道家と頼経)をまうけて、世の為人の為君の御為に参らせらるるをば、君のえ御心得御座(おは)しまさぬにこそ。これこそ由々しき大事にて侍れ。
これは君の御為、摂籙臣と将軍と同(おな)じ人にて良かるべしと、一定照らし御沙汰の侍る物を、その故(ゆへ)顕(あらは)なり。謀反筋の心は無く、しかも威勢つよくして、君の御後見せさせむと也。
かく御心得られよかし。陽成院御事体(てい)ならんためなどこそ、いよいよ目出度かるべけれ。それを防ぎ思し召しては、君こそ太神宮・八幡の御心には違(たがは)せおはしまさんずれ。ここを構て君の悟らせたまうべき也。
この藤氏の摂籙の人の、君の為謀反の方の心遣ひは、けづりはてて、あるまじと定められたるなり。さてしかも君の悪ろくおはしまさんずるを、強く後見(うしろみ)まいらせて、王道の君の筋を違(たが)へず守り奉(たてまつ)れ、にて侍れば、陽成院のやうにおはしまさん君は御為こそ悪しからんずれ。さる君は又おぼろげにはおはしますまじ。さほどならん君は又よき摂籙をそねみ思し召さば、やは叶(かな)はんずる。太神宮・大菩薩の御心にてこそあらんずれ。この道理はすこしも違ふまじ。ひしと定(さだ)まりたることにて侍るなり。
始終落ち立たむずるやうの道理をも、この世の末の、昔より成り罷(まか)る道理の、宗廟社稷の神の照らさせ給ふやうをも知らせ給はで、浅き御沙汰とこそうけたまはり侍れ。物の道理、吾国の成り行くやうは、かくてこそひしとは落居(らくきよ)せんずることにて侍れ。
法門の十如是(じふによぜ)の中にも、如是本末究竟(くきやう)等と申すこと也。必ず昔<と>今は帰り合いて、様(やう=外見)は昔<と>今なれば変はるやうなれども、同じ筋<道>に帰りて持たふる事にて侍るなり。大織冠の入鹿を討たせ給ひて、世はひしと遮悪持善の理(ことはり)には適(かな)ひにしぞかし。今又この定めなるべきにこそ。このやうにてこそひしと君臣合体にて目出度からんずれ。  
君と臣の道理
猶をろをろ(=大略)この世(=今の世)のやうを承(うけたまは)れば、摂籙の臣とて表(おもて)は用ゐる由にて、底には奇怪の物に思し召しもてなして、近臣は摂籙臣を讒言するを、君の御<意>に適ふことと知りて世を失なはるる事は、申しても申しても言ふばかりなき僻事にて侍る也。
これは内々小家(こいへ)の家主(いへぬし)、随分の後見(うしろみ)までただ同じことにて侍る也。それが随分々々の後見と主人と、ひしと相(あひ)思ひたる人の家のやうに治まり良きことは侍らぬ也。まして文武兼行の大織冠の苗裔(べうえい)と、国王の御身にて不和の仲らひにて、互ひに心を置きてあらんと云ふことは、冥顕(みやうけん)、首尾、始中終、過現当、いささかも事の道理に適ふ道侍りなんや。哀れ哀れこの道理こそ、いかにもいかにも末にはひしと作りまからんずらめとこそ、かねてより心得伏せて侍れ。
それが如何に申すとも<人力の>適ふまじき事にて侍るぞとよ、世の末に世の中は穏(をだ)しかるまじと云ふ道理の方へ、ふふと移(うつ)り移りし侍るなり。それに悪魔邪神はひしと悪(わろ)がらせんと取りなす処に、時運(じうん)しからしめぬれば、又三宝善神の化益(けやく)の力及ばず成りてんずと、事出で来ては衰へ衰へしまかりて、かく世の末と云ふことに成り下(くだ)り侍るぞかし。
そのやうは、時の君の強くうるさき摂籙臣をあらせじばやと思し召す御心の、世の末ざまにはいよいよ又強く出で来るなり。この僻事の由々しき大事(だいじ)にて侍る也。それに文武兼行の摂籙臣の強々(つよつよ)として、いかにもいかにもえ引き働(はたら)かすまじきが出で来む様(やう)に<は>、君の御意に適はぬ事は何事かはあるべき。ここに世は損ぜんずるなり。この道理を返々君の思し悟りて、この御僻事のふつとあるまじき也。
君は臣を立て、臣は君を立つる理(ことはり)のひしとあるぞかし。この理をこの日本国を昔より定めたる様(やう)と、又この道理によりて先例のさはさはと見ゆると、これを一々に思し召し合はせて、道理をだにも心得通させ給ひなば目出度かるべき也。
乱と治の天皇擁立
遠くは伊勢大神宮と鹿島の大明神と、近くは八幡大菩薩と春日の大明神と、昔今ひしと議定して世をば持たせ給ふなり。今文武兼行して君の御後見あるべしと、この末代、と移りかう移りし以てまかりて、かく定められぬる事は顕(あらは)なることぞかし。
それに漢家の事はただ詮にはその器量の一事極まれるをとりて、それが打ち勝ちて国王とは成ることと定めたり。この日本国は初より王胤はほかへ移ることなし。臣下の家又定め置かれぬ。そのままにて如何なる事出で来れども今日まで違はず。百王のいま十六代残りたるほどは、このやうはふつと違ふまじき也。ここにかかる文武兼行の執政を作り出だして、宗廟社稷の神の参らせられぬるを、憎みそねみ思し召しては、君(きみ)は君にて得(え)おはしますまじきなり。
日本にも臣の君を立つる道げにげにと二つあんめり。一つには先づ清盛公が後白河院を悪ろがり参らせて、その御子(=高倉)、御孫(=安徳)にて世を治めんとせしやう、木曾が又一戦ひに勝ちて、君を押し込め参らせし筋、このやうは君を立つとは申すべくもなけれども、武士が心の底に、世を知ろしめす君を改め参らするにてある也。されば世を乱す方にて立て参らせ、世を治むる方にて参らする、二つのやう也。乱す方は謀反の義なり。それは末通(すゑとほ)る道なし。
いま一つの国を治むる筋にて立て参らするは、昭宣公の陽成院を降ろし参らせて、小松の御門を立て参らせ、永手大臣・百川宰相と二人して光仁天皇を立て参らせし、武烈失せ給ひて継体天皇を臣下どもの求め出で参らせし、これらは君の為世の為に、一定この君悪ろくて代はらせ給ふべしと、その道理定まりぬ。この君出で来給ひて、この日本国は始終目出度かるべしと云ふ道理のひしと定まりしかば、これによりて神明の冥(みやう)には御沙汰あるに代はり参らせて(=神々に代つて臣下が)、臣下の君を立て参らせしなり。されば過(あやま)たずこの御門の末こそはみな継がせ給ひて、今日までこの世は持たへられて侍れ。さはさはと、この二つのやうは侍るぞかし。
神々の御はからひと政治
それに今この文武兼行の摂籙の出で来たらんずるを、えて君のこれを憎まんの御心出で来なば、これが日本国の運命の極まりになりぬと悲しき也。この摂籙臣は、いかにもいかにも君に背きて謀反の心の起こるまじきなり。ただ少し頬(ほほ)強(ごは)にてあなづりにくくこそあらんずれ。それをば一同に、事に望みて道理によりて万づの事の行なはるべき也。一同に天道に任せ参らせて、無道に事を行なはば冥罰を待たるべきなり。
末代ざまの君の、ひとへに御心に任せて世を行なはせ給ひて事出で来なば、百王までをだに待ちつけずして、世の乱れんずる也。ただ憚らず理(ことはり)に任せて仰せふくめられて御覧のあるべき也。さてこそ此代(よ)はしばしも治(をさ)まらんずれと、ひしとこれは神々の御計らひのありて、かく沙汰しなされたることよと、明らかに心得らるるを、かまへて神明の御計らひの定(ぢやう)にあひ適ひて、思し召し計らひて、世を治めらるべきにて侍るなり。
「冥衆(=神々)はおはしまさぬにこそ」など申すは、せめてあさましき時、<神々を>怨み参らせて人の言ふ言草(ことぐさ)也。誠には劫末までも冥衆のおはしまさぬ世は片時もあるまじき。ましてかやうに道あるやうに人の物を計らひ思ふ時は、殊(こと)に新(あら=あらたか)たにこそ当時(=今)も覚ゆれ。
これは差し詰めて(=限定して)この将軍がことを申すやうなるは、かかることの当時(=現在)あれば、それにすがりて申すばかり也。この心は、ただ何時(いつ)も何時も異(こと)将軍にても、この趣(おもむき)を心得て、世の中をば君の持たせ給ふべきぞかし。
将軍が謀反(むほん)心の起こりて運の尽きん時は、又易々と失なはんずる也。実朝が失せやうにて心得られぬ。平家の滅びやうもあらはなり。これは将軍が内外あやまたざらんを、故無く憎まれむことのあしからんずるやうを細かに申す也。この筋は悪ろき男女の近臣の引き出ださんずるなり。ここを知ろしめさんことの詮にては侍るべき也。
こは以ての外(ほか)の事ども書きつけ侍りぬる物かな。これ書く人の身ながらも、我がする事とは少しも覚え侍らぬ也。申すばかりなし申すばかりなし。哀れ神仏物のたまふ世ならば、問ひ参らせてまし。  
白河院政の名残り
さてもさてもこの世の変はりの継ぎ目に生まれあひて、世の中の<目の>前に変はりぬる事を、かくけざけざと見侍ることこそ、世に哀れにもあさましくも覚ゆれ。人は十三四まではさすがに幼きほど也。十五六ばかりは心ある人は皆何事も弁へ知らるること也。この五<十>年が間、これを見聞くに、全てむげに世に人の失せ果てて侍る也。その人の失せゆく継ぎ目こそ、いかに申すべしともなけれども、をろをろ、尤もこの世の人<の>心得知らるるべき節(ふし=機会)なければ、思ひ出だして申しそふる也。
今の<世の>風儀は忠仁公(=良房)の後を申すべきにや。それは猶上代なり。一条院の四納言(=斉信、公任、行成、源俊賢)の頃こそはいみじき事にて侍るめれ。僧もその時にあたりて、弘法・慈覚・智証の末流どもも、仁海・皇慶・慶祚などありけり。僧俗の有り様、いささかその風儀の塵(ちり)ばかりづつも残りたるかと覚ゆるは、いつまでぞと云ふに、家々を尋ぬべきに、まづは摂籙臣の身々(みみ)、次にはその庶子どもの末孫、源氏の家々、次々の諸大夫どもの侍る中には、この世の人は白河院の御代を正法にしたる也。
尤も可然(しかるべし)々々。降(お)り居の御門(みかど)の御世(=院政)になりかはる継ぎ目なり。白河院の御世に候ひけん人は近くまでもありしかばこれを心得べし。一条院の四納言の末も白河院の初めまでは、同じ程の事の、やうやう薄くなるにてこそあれ。白河院御脱屣の後、一(ひと)落ち一落ち下れども、猶またその跡は違(たが)はず。
後白河院の御時になりて、一の人は法性寺殿、一の人の庶子の末は花山院忠雅、又経宗、伊通(これみち)相国、閑院には間近く公能(きみよし)子三人、実定・実家・実守、公教(きみのり)子三人、実房・実国・実綱、公通(きみみち)・実宗父子、これらまで。
又源氏には雅通公、諸大夫には顕季(あきすゑ)が末は隆季・重家、勧修寺(くわじうじ)には朝方(ともかた)・経房、日野には資長・兼光父子、これらは、見聞きし人々は、これらまでは塵ばかり昔の匂ひはありけるやらむと、その家々の大方(をほかた)の器量は、覚えき。中の難(=身内の非難)どもは沙汰の外(ほか)なり。
光頼大納言、桂(かつら)の入道とてありしこそ、末代に抜け出でて人に褒められしか。二条院<の>時は、「世の事一<向>[同]に沙汰せよ」と云ふ仰せありけるを、ふつに辞退して出家してけるは、誠によかりけるにや。ただし大納言になりたる事こそおぼつかなけれ。「諸大夫の大納言は光頼にぞ始まりたり」なんど人に言はるめりまで也。「かからん人は成らで候なん」などや思ふべからん。昔は諸大夫<の>何かと器量ある士をば沙汰なかりき。さやうの頃は勿論(=異論なき)也。久しくかやうの品秩(ほんちつ)定まりて「諸大夫の大納言光頼に始まりたる」など言はるる事は、上品の賢人の言はるべき事にはなきぞかし。末代にはこの難はあまり也。<光頼は>いかさまにもよく許されたりける者にこそあれ。
この人々の子共(ども)の世になりては、つやつやと、生まれつきより父祖の気分の器量の削り捨てて無きに、孫(むまご)どもになりては当時(=今)ある人々にてあれば、とかく善き人とも、悪ろき人とも云ふに足らぬ事にて侍る也。
人材なき末の世
さて又一の人は四五人まで並びて出で来ぬ。その中に法性寺殿の子共の摂政になられたる中に、中の殿(基実)の子近衛殿(基通)、又松殿(基房)・九条殿(兼実)の子どもには師家・良経也。父人(ててと)に三人の中に九条殿は社稷の心にしみたりしかばにや、兄二人の子孫には、人と覚ゆる器量は一人もなし。松殿の子に家房と言ひし中納言ぞ良くもやと聞こえしを、卅にも及ばで早世してき。
九条殿の子どもは昔の匂ひに付きつべし。三人まで取りどりになのめならずこの世の人には褒められき。良通内大臣は廿二にて失せにし。名誉、人口に在り。良経又<執>政臣になりて同じく<能>芸群に抜けたりき。詩歌・能書昔に恥ぢず、政理(=政治)・公事父祖を継げり。左大臣良輔(よしすけ)は漢才古今に比類なしとまで人思ひたりき。卅五にて早世。かやうの人どもの若死(わかじに)にて世の中かかるべしとは知られぬ。あな悲しあな悲し。
今、良経、後の京極殿(=良経)の子にて、左大臣(=道家)只一人残りたるばかりにて、こと兄々の子息は人型にて迷ふばかりにや。そのほか家々に一人も採るべき人なし。諸大夫家にもつやつやと人も無き也。職事・弁官の官の名ばかりは昔なれど、任人(にんじん)は無きが如し。おのづからありぬべきも出家入道とのみ聞こゆ。掘り求めば三四<人>などは出で来る人もありなんものを、すべて人を求められばこそは、ありて捨てられたらん人ありてこそ、頼もしくも聞こえめ。さればこは如何がせんずるや、この人の無さをば。この中に実房は左府入道とて生き残りたるが、ただこの世(=今の世)の人の心になりたるとかや。
僧中には、山には青蓮院座主の後は、いささかも匂ふべき人なし。失せて後六十年に多くあまりぬ。寺(=三井寺)には行慶・覚忠の後、又つやつやと聞こえず。[東寺には]御室(=仁和寺)には五宮(=鳥羽天皇第五子)まで也。東寺長者の中には、寛助・寛信など云ふ人こそ聞こえけれ。盛(さか)りざまには理性(りしやう=賢覚)・三密(=聖賢)などは名誉ありけり。南京(=奈良)方には恵信法務流されて後は、誰(たれ)こそなど申すべき。寸法にも及ばず。覚珍ぞ悪しうも聞こえぬ。中々当時法性寺殿の子にて残りたる信円前大僧正、上なる人の匂ひにも成りぬべきにこそ。又慈円大僧正弟にて山には残りたるにや。
多すぎる高官位の人
さればこは如何にすべき世にか侍らん。この人の無さを思ひ続くるにこそ、徒(あだ)に、くさくさ心も成りて、待つべき事も頼もしくもなければ、今は臨終正念にて、とくとく頓死をし侍りなばやとのみこそ覚ゆれ。
この世の末に、あざやかにあな浅ましと見えて、かかれば成りにけりと覚ゆる印(しるし)には、摂籙経たる人の四五人四五人並びて葛(つづら)として侍るぞや。これは前官にて一人あるだにも猶ありがたき職どもを、小童(こわら)べの歌ひて舞ふ言葉にも、九条殿の摂政の時は、「入道殿下(基房)、小殿下(師家)、近衛殿下(基通)、当殿下(兼実)」と云ひて舞ひけり。それに良経摂政に又なられにしかば五人になりにき。
天台座主には慈円・実全・真性・承円・公円と五人あんめり。奈良(=興福寺)には信円・雅縁・覚憲・信憲・良円ありき。信憲も覚憲が生きたりしに<座主に>成りたりしやらん。
十大納言、十中納言、散三位五十人にもやなりぬらん。僧綱には正員(しやうゐん)の律師百五六十人になりぬるにや。故院(=後白河法皇)の御時、百法橋(ほつけう)と云ひてあざみけん事のやさしさよ(=恥づかいことよ)。僧正、故院の御時までも、五人には過ぎざりき。当時、正僧正一度に五人出で来て十三人まであるにや。前僧正又十余人あるにこそ、衛府は数(かぞ)へあらぬ程なれば、とかく申すに及ばず。
「官、人を求む」と云ふ事は言ひ出だすべき事ならず。人の官を求むるも今は失せにけり。成功々々と猶求むるに、成さんと云ふ人なし。されば半(なか)ばにも及ばで成すをいみじきに今はしたるとかや。それにとりて、この官位の事はかくはあれども、さてあらるる事にてありけり(=それは充分あり得ることである)。又世の末の手本(=典型)とも覚えたり。  
人あれどなきがごとし
大方心ある人の無さこそ申しても申しても悲しけれ。かかれば<法師に>一の人の子の多さよ。この慈円僧正の座主に成りしまでは、山には昔より数(かぞ)へよく、摂籙の家の人の座主になりたるは、飯室(いいむろ)の僧正尋禅と、仁源・行玄・慈円とただ四人とこそ申ししか。当時(=今)は山ばかりにだに、一の人の子一度に並び出で来て十人にもあまりぬらん。
寺(=三井寺)・奈良(=興福寺)・仁和寺・醍醐と四五十人にもやあまりぬらん。一度に摂籙臣四五人まで前官ながら並びてあらんには、道理にてこそあれ。又宮たちは入道親王とて、御室の中にもありがたかりしを、山にも二人並びておはしますめり。新院(=土御門)・当今(=順徳)、又二宮(=高倉天皇第二子)・三宮(=同第三子)の御子など云ひて、数しらず幼き宮々、法師々々にと、師どもの元へ充てがはるめり。「世滅松」に聖徳太子の書き置かせたまへるも、哀れにこそ、ひしと適ひて見ゆれ。
これを昔は、されば、人の、子を儲(まう)けざりけるかと、世に疑ふ人多かりぬべし。よくよく心得らるべき也。昔は国王の御子々々多かれど、皆姓を賜はせて只(ただ)の大臣公卿にも為さるれば、親王たちの御子も沙汰に及ばず。
一の人の子も家を継ぎて、摂籙してんと思はぬほかは、みな只の凡人(ただびと)に振舞はせて、朝家(てうか)に仕(つか)へさせられき。次々の人の子も人がましかりぬべき子をこそ取り出だせ、さなきはただ這(は)ひ痴(し)れて止み止みすれば、ある人は皆よくて持て扱かふもなし。
今の世には宮も一の人の子も、又次々の人の子もさながら宮振舞ひ、摂籙の家嫡(かちやく)振舞ひにて、次々もよき親の様(やう)ならせんと、悪ろき子どもを充てがひて、この親々の取り出だせば、かくはあるなるべし。
又僧の中にもその所の長吏(ちやうり)を経つれば、又その門徒々々とて、出世の師弟は世間の父子(=親子)なれば、我も我もとその裁ち分け(=分派)の多さよ。
されば人無しとは、如何に[も]しかるべき人の多さこそとぞ言ふべき。哀れ哀れ「有若亡(うじやくまう)」、「有名無実」などいふ言葉を人の口につけて云ふは、ただこの料(れう=為)にこそ。かかればいよいよ緇素(しそ=僧俗)みな怨敵にして、闘諍(とうじやう)誠に堅固(=確実)なり。貴賎同じく人無くして、言語(ごんご)すでに道断侍りぬるになむ。しし(為仕?)以てまかりては、物の果てには問答したるが心は慰むなり。
問、されば今は力及ばず、かうて世に直(なを)るまじきか。
答、分(ぶん=随分)には易く直りなむ。
問、すでに世下り果てたり。人又無(な)かん也。跡もなくなりにたるにこそ。しかるに易く直りなんとはいかに。
答、「分には」とはさて申す也。一定易々と直るべき也。
問、その直らんずるやう如何。
答、人は失せたれど、君と摂籙臣と御心一つにて、このある人の中に悪ろけれども、さりとては、僧俗を掻い選(え)り選りして、良からん人を、ただ鳥羽・白河の頃の官の数に召し使ひて、そのほかをばふつと捨てらるべきなり。不中用(=不要)の者をまことしく捨て果てて目をだに見せられずは、目出度めでたとして直らんずる也。随分に直ると云ふはこれなり。昔の如くには人の無ければ、<それも中々>叶ふまじ。選り正したらんずる寸法の世こそは悪ろながら、よく直りたるこの世にてあらんずれ。
問、この官の多さ、人の多さをば、いかに捨てんとては捨てられんずるぞ。
答、捨つと云ふは、ふつと召し使はず。<さ>る者や世にあらんとも知ろしめさるまじき也。陽成院(=上皇として)世におはしまして、やうやうの悪事せさせ給ひしかど、物も言はで聞き入れざりしかば、寛平・延喜の世、目出度くてありき。解官停任(=罷免)にも及ぶまじ。ただ捨てられぬにて、「まことに捨てられたらん人には、なあひしらひそ(=相手にするな)」と、選り採られたらん人に、仰せふくめて、さて有るべきなり。
問、その捨てられ人あまり多くて、寄り合ひて謀反や起こして大事にやならんずらん。
答、武士をかくて持たせおはしましたるは、その料(れう)ぞかし。少しもさる気色(=謀反)いかでか聞こえざらん。聞こえん時二三人さらん者を遠流せられなば、つやつやさる心を起こす人もあるまじき也。
問、此義なりて侍り。いみじいみじ。但し誰かその人をば選りとらんずるぞ。
答、これこれ大事なれ。但しこれ選りて参らする人四五人は一定ありぬべし。その四五人寄り合ひて、選り取りて参らせたらんを、君だにも強々(つよつよ)と働(はたら=変更)かさで、ひしと用ゐさせ給はば、易々とこの世は直らんずるなり。
問、解官せじとはいかに。
答、選り出だされむ人の、八座・弁官・職事ばかりになる人候らん所こそ要(かなめ)なれば、それは解官せられなんず(=前の人は罷免されるだらう)。言(こと)も愚かや。そのほかはせめて無沙汰なれと也。僧俗官の数の定め程こそ大事なれど、鳥羽院最中の数、末代よりよきほど也。  
 
 
吉祥院法華会願文

原文
吉祥院法華会願文     吉祥院法華会願文(きつしやういんほつけえがんもん)
〈元慶五年十月廿一日〉  〈元慶五年十月廿一日〉
弟子              弟子(ていし )
従五位上式部少輔     従五位上式部少輔(しきぶのせう )
菅原朝臣敬白。       菅原朝臣(すがはらのあそん) 敬(うやま)ひて白(まう)す。
吉祥院建立之縁、      吉祥院建立の縁(えん)、
「最勝会願文」叙之詳矣。 「最勝会(さいしようえ)願文」に叙(の)べしこと詳(つまび)らかなり。
伏惟、             伏して惟(おもんみ)るに、
弟子慈親伴氏、       弟子が慈親( じしん)伴氏(ばんし )、
去貞観十四年正月十四日、去(い)んぬる貞観(ぢやうぐわん)十四年正月十四日、
奄然過去。          奄然(えんぜん)として過去(くわこ )せり。
及至周忌、          周忌に至るに及び、
先考、奉写          先考(せんかう)、
『法華経』一部八巻・     『法華経』一部八巻・
『普賢観経』          『普賢観経』
『無量義経』各一巻・     『無量義経』各一巻・
『般若心経』一巻。      『般若心経』一巻を写し奉(たてまつ)れり。
時也此院未立。       時や此(こ)の院立たず。
便於弥勒寺講堂、      便(すなは)ち弥勒寺(みろくじ)の講堂に於(おい)て、
略               略(ほぼ)
説大乗之妙趣、       大乗(だいじよう)の妙趣を説(と)き、
引長逝之尊霊。       長逝(ちやうせい)の尊霊を引く。
弟子、             弟子、
位望猶微、心申事屈。   位望( ゐばう) 猶(なほ)微(び)にして、心は申(の)ぶるも事は屈す。
泣血而已、更無所営。   泣血(きふけつ)するのみにして、更(さら)に営(いとな)む所無し。
又、先妣亡去之日、     又(また)、先妣(せんぴ )亡去の日、
誡弟子曰、          弟子を誡(いまし)めて曰(のたま)はく、
「汝幼稚之齢、        「汝(なんぢ)幼稚の齢(よはひ)に、
 得病危困。         病を得て危困せり。
 余心、不堪哀愍之深、   余(よ)が心、哀愍(あいびん)の深きに堪(た)へず、
 発奉造観音像之願。    観音像を造(つく)り奉る願を発(ほつ)す。
 念彼観音力、        彼(か)の観音力を念ずれば、
 汝病得除愈。        汝が病除愈(ぢよゆ )し得たり。
 自汝有禄、割其上分、   汝禄有るにより、其(そ)の上分を割き、
 分寸相累、用度可支。   分寸(ふんすん) 相累(あひかさ)ね、用度(ようど )支ふべし。 
 発願之本、雖在汝身、   発願(ほつがん)の本(もと)、汝が身に在(あ)りと雖(いへ)ども、
 懈緩之責、恐為余累。」  懈緩(けくわん)の責(せめ)、余が累(わづらひ)と為(な)らんことを恐る。」と。
弟子、             弟子、
自奉遺命三四年来、     遺命(いみやう)を奉(たてまつ)りてより三四年来(このかた)、
雕飾纔成、          雕飾(てうしよく) 纔(わづ)かに成(な)れども、
礼供猶闕。          礼供(れいぐ )猶闕(か)けり。
自後、             自後、
朝恩不遺、          朝恩遺(わす)れず、
官爵過分。          官爵分に過ぐ。
即作念曰、          即(すなは)ち念(おもひ)を作(つく)りて曰(いは)く、
「所得禄俸、先資報恩、   「得(う)る所の禄俸(ろくほう)、先(ま)づ報恩(ほうおん)に資(し)せんとし、
 報恩之後、当以遊費。」  報恩の後、遊費に以てすべし。」と。
爰、               爰(ここ)に、
損節経用、弁設禅供。    経用(けいよう)を損節(そんせち)し、禅供(ぜんく )を弁設(べんせつ)せんとす。
至元慶三年夏末、       元慶(ぐわんぎやう)三年の夏の末に至り、
風月之下、定省之間、    風月の下(もと)、定省(ていせい)の間、
以斯一念、略達先考。    斯(こ)の一念を以て、略(ほぼ)先考に達す。
先考曰、            先考曰(のたまは)く、
「善哉、汝作是言。      「善(よ)きかな、汝の是(こ)の言を作(な)すや。
 余建一禅院、         余一禅院を建て、
 当講二部経。         二部経を講ずべし。
 最勝妙典、          最勝(さいしよう)の妙典(めうてん)、
 依余発願、先年講畢。   余が発願に依(よ)り、先年講畢(をは)れり。
 法華大乗、          法華(ほつけ )の大乗、
 寄汝報恩、当共随喜。    汝が報恩に寄せ、共に随喜(ずいき )すべし。
 唯念、              唯(ただ) 念(おも)ふらくは、
 懸車已迫、死門在前。    懸車(けんしや)已(すで)に迫り、死門( しもん)前に在らんことを。
 須待明年、豫帰田舎、   明年を待ち、豫(あらかじ)め田舎に帰るべく、
 帰去之次、将聴妙理。   帰去の次(ついで)に、妙理(めうり )を聴かんとす。
 聴妙理、已将結因縁、   妙理を聴き、已(もつ)て因縁を結ばんとし、
 結因縁、已余無後累。   因縁を結び、已て余が後累(こうるい)無し。
 又、余家吉祥悔過、    又、余が家の吉祥悔過(きちじやうけくわ)、
 久用孟冬十月。       久しく孟冬(まうとう)十月を用ひたり。
 法会之期、宜取彼節。」  法会の期(とき)、彼の節を取るべし。」と。
弟子、              弟子、
敬奉慈誨、不敢軽慢。    敬ひて慈誨(じくわい)を奉り、敢(あ)へて軽慢(けいまん)せざりき。
於是、              於是(ここに )、
日輪不駐、           日輪駐(とどま)らず、
星律已廻。           星律已(すで)に廻(めぐ)れり。
二月下旬、弟子始嘗薬、   二月下旬、弟子始めて薬を嘗(な)め、
仲秋晦日、先考遂就薨。   仲秋晦日、先考遂(つひ)に薨(こう)に就(つ)けり。
遺誡之中、更無他事。    遺誡( ゐかい)の中(うち)、更(さら)に他事無かりき。
唯有十月悔過不可失堕而已。 唯(ただ)十月の悔過失堕(しつつい)すべからざることのみ有り。
今、               今、
八月既過、父服先除、    八月既に過ぐれば、父が服先に除(のぞ)けるも、
正月未来、母忌猶遠。    正月来らざれば、母が忌猶遠し。
起廿一日、           廿一日に起こし、
至廿四日、           廿四日に至るまで、
礼拝禅衆、           禅衆(ぜんしゆ)を礼拝(らいはい)し、
開批法筵。           法筵(ほふえん)を開批(かいひ )せんとす。
所仰者、新成観音像、    仰ぐ所は、新成の観音像、
所説者、旧写法華経。    説く所は、旧写の法華経。
始謂、就冥報以共利存亡、  始め謂(おも)へらくは、冥報(みやうほう)に就きて以て共に存亡(そんばう)を利せんとするも、
今願、仮善功而同導考妣。 今願はくは、善功(ぜんく )に仮(か)りて同(とも)に考妣(かうひ )を導きたまはんことを。
嗟呼、              嗟呼(ああ)、
先考、所誡弟子不失者、   先考、弟子の失はざるを誡(いまし)めし所は、
今日開会之朝、        今日開会の朝(あした)なり、
弟子、所奉先考相違者、   弟子、先考の相違(たが)へるを奉りし所は、
去年薨逝之夕。        去年薨逝の夕(ゆふべ)なり。
弟子、              弟子、
無父何恃、           父無く何をか恃(たの)まん、
無母何怙。           母無く何をか怙(たの)まん。
不怨天、            天を怨まず、
不尤人。            人を尤(とが)めず。
身之数奇、           身の数奇(すうき )にして、
夙為孤露。           夙(つと)に孤露(ころ)と為りぬ。
南無観世音菩薩、       南無観世音菩薩、
南無妙法蓮華経、       南無妙法蓮華経、
如所説、             説きし所の如(ごと)く、
如所誓、             誓ひし所の如く、
引導弟子之考妣、       弟子の考妣を引導し、
速證大菩提果。        速(すみ)やかに大菩提果を證(しよう)したまへ。
無辺功徳、           無辺の功徳( くどく)、
無量善根、           無量の善根(ぜんこん)、
普施法界、           普(あまね)く法界(ほつかい)に施(ほどこ)し、
皆共利益。           皆利益( りやく)を共にせん。
解説
元慶5(881)年11月21日から24日にかけて、37歳の道真が氏寺の吉祥院(きっしょういん)において『法華経(ほけきょう)』(正式名称は『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』)を講じた時の願文です。全8巻を1巻ずつに分け、朝夕2回4日間かけて講じる「法華八講(ほっけはっこう)」の形で開催されました。
願文は各種法要での主催者の願いを述べるための文体で、法要の場で僧侶によって読まれます。名文家が執筆し、能書家が清書するものとされ、その実例は、空海『性霊集(しょうりょうしゅう)』・『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』・『本朝続文粋』・大江匡房『江都督納言(ごうととくなごん)願文集』・『朝野群載(ちょうやぐんさい)』・宗性編『願文集』などに収録されています。
道真が執筆したものは33篇あり、『菅家文草』巻11・12に収録されています。内容でみると、以下の8種類に分類できます。なお、「逆修(ぎゃくしゅ)」は生前に自分の追善供養を行うこと、「施入(せにゅう)」は財産を寄進することです。
四十九日法要 (3篇) 一周忌法要 (9篇) 追善供養 (3篇) 逆修 (2篇) 長寿を願う (6篇) 功徳を修す (7篇) 施入・喜捨 (4篇) 放生 (1篇)
道真は四十九日法要が3篇・一周忌法要が10篇ですが、『本朝文粋』の場合、全27篇のうち四十九日法要が14篇・一周忌法要が1篇と逆転しています。『本朝文粋』が執筆の参考になる詩文を選択・集成した書籍であるという点を考慮しても、この不均等ぶりは少々気になるところです。
『菅家文草』の場合、題の下に道真自身が製作時期を記しているため、すべて製作年代順に配列していることが容易に判明しますが、うち1篇は自注に誤りがあり、実際の製作時期とはずれが生じています。それは「清和女御源氏(源済子)の為に、功徳を修する願文」(12:661)です。自注では仁和2(886)年11月27日作ですが、本文中に「父帝が崩御されてから29年が経った」という記述があり、父文徳(もんとく)天皇が崩御したのが天安2(858)年8月27日(『文徳実録』同日条)であることから計算すると、29年後の仁和3(887)年の作であるはずです。大系本では、源済子の祖母が亡くなったのは「去夏」(12:660によると仁和2年5月29日)だから翌年の作だ、と判断されていますが、「去夏」は必ずしも「昨年の夏」を意味するのではなく、「過ぎ去った夏」を指し、今年の夏でも該当しますから、やはり本文から逆算するのが正攻法のようです。
32篇は他の人のために代作したもので、唯一自分のために書いたのが今回の願文です。
吉祥院は平安京の南郊にありました。延暦23(804)年に道真の祖父清公が遣唐判官(けんとうのじょう)として唐に渡った際、吉祥天(きちじょうてん)(衆生に福徳を与えるとされる仏教の女神)の加護により遭難の危機を脱したので、帰国後に自宅で吉祥天を祀ったのが始まりとされます。建立の経緯については、是善が「最勝会願文」に詳述しましたが、残念ながら現存していないので、内容を確かめることはできません。しかしこの願文を読むと、清公が吉祥院を創設したという所伝は、必ずしも正しくないことが分かります。
「時や此の院立たず」とある通り、是善が妻の一周忌法要を行った貞観15(873)年の時点において、吉祥院はまだ建立されておらず、少なくとも寺院として整備されていなかったのは確かです。2年後の貞観17(875)年、道真は吉祥院の鐘に鋳込むための銘(『菅家文草』07:521)を書いており、この頃ようやく造営が開始されたと思われます。さらに3年が経過した元慶2(878)年以前に完成し、『最勝王経(さいしょうおうきょう)』(正式名称は『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』、別名は『金光明経』)の法会が開かれました。
是善の言う「一禅院」は吉祥院を指しますが、吉祥院は貞観年間の末に是善が創建した寺院であることを、この願文は示しているのです。
なお、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』は、『吉祥院供養記』からの引用として「元慶5年11月22日に道真が吉祥院を供養した」と記しますが(同日条)、以上に述べたことから誤りであることが分かります。少なくとも、原文の「供養吉祥院」は「供養於吉祥院」とあるべきところでしょう。また、法華会(ほっけえ)を1日繰り下げて開催したように書いていますが、『法華経』を供養するには最低でも4日は必要なので、やはり21日から4日間という『菅家文草』の記述に問題はなく、『吉祥院供養記』はいささか正確さを書くようです。
長い文章ですので、読み進める前に、内容を年表形式で整理しておきます。一周忌法要の日程については、他の周忌法要願文から判断するに、必ずしも命日に合わせて行うわけではないようですので、月のみの記載となっています。
貞観14(872)年1月14日 伴氏逝去
貞観15(873)年1月 是善、弥勒寺で伴氏の一周忌法要を行う
貞観17(875)年 道真、吉祥院の鐘銘を書く=吉祥院建立開始?
元慶2(878)年 是善、吉祥院で『最勝王経』の講筵を開く
元慶3(879)年6月 道真、観音像供養の意思を是善に伝える
元慶4(880)年2月下旬 是善、病床に臥す
元慶4(880)年8月30日 是善逝去
元慶5(881)年10月21日 吉祥院で『法華経』の講筵を開く
道真の母は大伴(おおとも)氏の出身です。弘仁(こうにん)14(823)年、淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)(本名)が大伴親王であったことを憚り、大伴氏は「大」の字を削って伴(とも)氏と称しました(『日本紀略』弘仁14年4月壬子条)。古代以来の軍事貴族であり、奈良時代には万葉歌人大伴旅人(たびと )・家持(やかもち)親子を輩出した名門ですが、天平宝字(てんぴょうほうじ)元(757)年の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変・延暦(えんりゃく)4(785)年の藤原種継(たねつぐ)暗殺・承和(じょうわ)9(842)年の承和の変・貞観8(866)年の応天門の変と、反乱に加担し、あるいは政変に巻き込まれ、没落する一方でした。
そのような時代の中で、是善の妻となり一子を儲けた彼女は、貞観14年1月14日に急死しました。道真28歳の時のことです。この時、道真は正六位上で少内記(しょうないき)・存問渤海客使(そんもんぼっかいきゃくし)に任じられていたに過ぎず、身分も低く給与も少なかったため、正四位下で参議・式部大輔(しきぶのたいふ)を兼任する62歳の父親が弥勒寺で一周忌法要を行った際も、何の供養もできず、悔しい思いをしました。
道真に対し、最後に母はこう告げました。「昔そなたを死の淵から救ったのは観世音菩薩だから、私が誓った通り、観音像を造りなさい」。それから3・4年間、言われた通りに給与の一部を割いて経費に充てたのですが、観音像を造る費用で消えてしまい、法要を行うには至りませんでした。
30歳で五位となり中級貴族となった道真は、母の恩に報いるべく法要を行おうと決心し、費用を貯えるため節約に励みました。そして母の死から7年半が経過した元慶3(879)年6月、父親に法要の話をすると、彼は喜び、こう言いました。「私は寺院を建てて『最勝王経』と『法華経』の法会を開きたいと思っているが、『最勝王経』の法会は去年行ったから、『法華経』の法会はそなたが開きなさい」。そして吉祥悔過(きちじょうけか)に合わせ、10月に行うよう命じました。
さらに、「年が明けたら官職を退き、仏道修行に専念したい」とも告げました。致仕(ちし)と言って70歳になれば引退する習いですが、道真も文章博士(もんじょうはかせ)・式部少輔(しきぶのしょう)として活躍しており、俗世のことに関しては何も思い煩うこともありません。当時是善は68歳でしたが、引退の時期を1年前倒しして、残り少ない余生を御仏に捧げたいと考えたのです。
しかし翌年2月下旬、是善は病に臥し、薬石の効なく8月30日に亡くなってしまいました。位は従三位に昇り、参議・刑部卿(ぎょうぶきょう)で生涯を終えました。彼の薨伝は『扶桑略記』(元慶4年8月30日条)に収録されていますが、道真が『三代実録』に執筆したものを転載したもののようです。そこには、
天性(てんせい)事少なく、世体忘るるが如(ごと)し。常に風月を賞(め)で、吟詩を楽しむ。最も仏道を崇び、人物を仁愛す。孝行天至(てんし )、殺生を好まず。臨終の夕べ、「四命根を絶ゆれば、孟冬(まうとう)悔過( けくわ)の期に及ばざらん。今日死すと雖(いへ)ども、彼(か)の月に至らば吾(わ)が為(ため)に功徳を修(しゆ)せよ。」とのみ言ひ、一言(いつごん)にして止(や)み、更に他語无(な)し。(中略)
延暦以来、毎年十月に吉祥悔過文(「会」の誤り?)を修す。清公、常に誓ひて願はくは、「吾が死、十月の中(うち)に在らんと欲す。」と。遂に十月十七日に薨ず。自後、此の日に修せるは、其(そ)の忌日なり。是善、薨後に其の日を改めず念仏読経し、書を閲(み)て思ひに沈む。寝疾の中、曽(かつ)て塞廃(そくはい)せず。
とあります。
是善は、学界を領導し、高位高官に達しましたが、詩を愛し、仏教に深く帰依していました。その父清公も「仁にして物を愛し、殺伐を好まず。造像・写経、此(これ)を以て勤めと為す。」(『続日本後紀』承和9年10月17日条清公薨伝)と記された仏教信者で、毎年10月に吉祥悔過を行い、願い通り10月中に亡くなりました。是善も父の命日に吉祥悔過を行い、病床でも怠ることはありませんでした。そして息子にも10月が来れば吉祥悔過を行うよう遺言し、それ以上何も言いませんでした。この遺言は、願文に「遺誡の中、更に他事無かりき。唯十月の悔過失堕すべからざることのみ有り。 」、あるいは「先考、弟子の失はざるを誡めし所は、今日開会の朝なり、弟子、先考の相違へるを奉りし所は、去年薨逝の夕なり。」とあるのと一致し、やはり道真の手によるものと考えて良さそうです。
後に道真も大宰府で「吉祥院の10月の法華会は累代(るいだい)の家事だから、絶やすことのないように」と遺言しており(「北野天神御伝」)、父と祖父の遺志を重く受け止めていたことが分かります。しかしこの時、「累代の家事(先祖代々の家の行事)」を「吉祥悔過(=吉祥会)」ではなく「法華会」と言ったことについては、注意する必要があります。と言うのも、「吉祥悔過」と「法華会」は等質ではないからです。
清公から道真に至る菅原家と仏教との関わりについて、田村圓澄氏が詳しく述べていますが(「菅原道真の仏教信仰」『菅原道真と太宰府天満宮 上』吉川弘文館、1975年)、そこに興味深い記述があります。それは是善が供養を企図した『最勝王経』と『法華経』の違いです。
元来吉祥悔過は奈良時代後半に南都仏教で行われていた法会で、『最勝王経』大吉祥天女品・大吉祥天女増長財物品によって正月に吉祥天を祀り、除災招福を願うものです。つまり、吉祥悔過と最勝会は共に『最勝王経』に基づく仏事なのです。護国の経典である『最勝王経』が重視されたのは奈良時代ですが、清公が生まれたのは奈良末期の宝亀元(770)年、まだ「土師(はじ)」の姓を名乗っていた頃の話です。そして是善は『最勝王経』の注釈書に序文を書いており(後藤昭雄氏「菅原是善伝断章」「日本歴史」535、1992年12月)、内容についても理解していたと思われます。
対する『法華経』は天台宗の根本となる経典です。遣唐使船で清公と最澄は同じ船に乗っていましたから、当初から接点がありましたが、円仁の遺著『顕揚大戒論(けんようだいかんろん)』の序文執筆を天台座主安慧から依頼されて道真に代作させた(『菅家文草』07:551「『顕揚大戒論』序」)ところをみると、是善は天台宗とさらに深い交流を有していたようです。
道真は母親の感化を受けて篤く観音を信仰しましたが、その背景には、天台宗と『法華経』があったという訳です。清公が始めた10月の吉祥悔過を是善が継承して17日に開くこととし、道真は是善の指示に従って10月に法華会を開きましたが、毎年開催すべきは吉祥天が主体の吉祥悔過であって、観音主体の法華会ではないはずです。ですから、「北野天神御伝」の記述には問題があると言わざるを得ません。道真が吉祥悔過から法華会に転換させたか、混同して遺言したか、伝え間違えたか、執筆者が取り違えたか、そのいずれかになります。
道真が最初に願文を代作したのは貞観元(859)年15歳のことで、讃岐守時代にはまどろみながら口述筆記させた(12:662)ことがあるほど習熟しています。彼の願文を最初に斜め読みした時から、類似した表現が多いように感じていたのですが、思い過ごしではなかったようで、軽く再読しただけでも容易に類似表現や共通語彙が見つかりました。
「心申事屈」 11:641・11:642に同一句あり
「即作念曰」
 ※『法華経』囑累品の「即作念言」による 「弟子、亦嘗作念曰」(12:655)
「弟子等、又、次作念曰」(12:658)
「四内親王、運籌帷帳、作念言曰」(12:664)
「起廿一日、至廿四日」 「起廿三日、至廿六日」(11:647)
「自十一日、至十四日」(11:638)
「自廿一日、至廿五日」(12:659)
「無父何恃、無母何怙」 「無父何怙、無母何怙」(11:638)
「身之数奇、夙為孤露」 「身之数奇、家之単祚」(12:661)
「夙為孤露、未報微塵」(12:654)
「妾之薄祐、夙為孤露」(12:655)
「幼稚之年、乍為偏露」(12:662)
「皇天不祐、夙為偏孤」(11:643)
「引導弟子之考妣、速證大菩提果」
 ※「速證菩提」は『最勝王経』夢見金鼓懺悔品による 「請導先妣於安楽、速證菩提之正覚」(11:641)
「速證菩提果」(11:646・11:649)
「速証菩提之誓」(12:661)
「速證菩提」(11:637・11:642)
「無辺功徳、無量善根」
 ※「無量無辺」は『法華経』に頻出 「於知恩報恩、乃無量無辺乎」(11:641)
「一言一説、不誑語者、無量無辺、施方便力」(12:654)
「如是等罪、無量無辺、未死之前、可慙可愧」(12:655)
「无量无辺何処起/自身自口此中臻」(04:279 ※詩)
「功徳無辺、善根無量」(09:590 ※奏状)
その他、「作是言」も『法華経』に頻出する表現であり、「大乗(だいじょう)」「発願(ほつがん)」「禅供(ぜんく )」「随喜(ずいき )」「妙理」「禅衆(ぜんしゅ)」「法筵(ほうえん)」なども仏教語ですが、見落とせないのが「念彼観音力」です。
『法華経』普門品(ふもんぼん)には、「観世音菩薩の神通力を念じることで、あらゆる災いから逃れられる」という主旨の記述がありますが、ここで12回も「念彼観音力」を繰り返しています。この普門品こそが「観音経(かんのんきょう)」であり、観世音菩薩について説く経典に他なりません。母が観音に対し誓いを立てたからこそ、遺言の中に普門品の句を引用したのです。
もっとも、仏教の言葉や経典の記述ばかりではありません。例えば、「不怨天、不尤人」は、『論語』憲問篇や『孟子』公孫丑下に見える表現です。
道真の願文の傾向と語彙・吉祥院建立の時期・是善薨伝との一致・「吉祥悔過」と「法華会」の違いと、様々な事柄について書いてきましたが、最後にもう一つ。是善が妻の一周忌法要に書写した経典の組み合わせについてです。
『法華経』を中心に据える場合、序説の『無量義経』を開経(かいきょう)に、総説の『普賢観経』(正式名称は『観普賢菩薩行法経』、別名は『観普賢経』)を結経(けっきょう)に、対にして追加します。この二経は合わせて「開結二経(かいけつにきょう)(開結、開結経とも)」と呼ばれ、3つをまとめて「法華三部経(ほっけさんぶきょう)」と総称します。更に「具経(ぐきょう)」、すなわち『般若心経』と『阿弥陀経』を加える場合もあります。これらのうち、是善は『阿弥陀経』以外の四経を書写したことになります。
そこで、この五経を中心に他の願文を見てみましょう。全てを挙げると煩雑になりますので、是善が書写したものと2つ以上一致するものを抜粋したのが次の表です。
作品番号 法要の種類 法華経 無量義経 普賢観経 般若心経 阿弥陀経 その他の経典・備考
11:652 四十九日 ○ ○ ○ ○ −  
12:660 四十九日 ○ ○ ○ ○ − 『転女成仏経』
11:642 追善供養 ○ ○ ○ ○ − 法華会
12:654 逆修       ○ ○ ○ ○ −  
11:651 一周忌    ○ ○ ○ ○ −  
12:655 一周忌    ○ ○ ○ ○ ○ 『最勝王経』 『地蔵経』 『仏頂尊勝陀羅尼経』
12:657 一周忌    ○ ○ ○ ○ ○ 『仏頂尊勝陀羅尼経』 『転女成仏経』
12:653 一周忌    ○ − − ○ − 『最勝王経』、一切経供養
11:641 追善供養 ○ − ○ − −  
11:649 修功徳    ○ ○ ○ − −  
他の例とあわせて考えると、『法華経』が数多く書写されているようですが、最勝会など特定の経典による法会を除き、どの法要でどの経典を用いるか、特に決まっていなことが良く分かります。また、『阿弥陀経』以外の四経を書写するという方法が、珍しいことでないことも確かです。
口語訳
吉祥院法華会願文 〈元慶五年十月廿一日〉
仏弟子
従五位上式部少輔
菅原朝臣が謹んで(御仏に)申し上げます。
吉祥院を建てた経緯については、 (父が以前)「最勝会願文」で詳しく述べました。
伏して考えますに、 私の情け深い親である伴氏は、 去る貞観十四年正月十四日、 突然亡くなりました。
一周忌に際し、 亡き父は
『法華経』一部八巻・ 『普賢観経』 『無量義経』各一巻・ 『般若心経』一巻を写し申し上げました。
(しかし当)時は、この(吉祥)院は建立されていませんでした。
(そこで父は)すぐに弥勒寺の講堂にて、 あらかた 『法華経』の深遠なる教えを説き、 逝去した尊い(母の)霊魂を(極楽浄土へ)導きました。
(しかし)私は、 なお位も低く人望も乏しく、(供養しようと)心がはやるも実現できませんでした。
(ただ)血の涙を流すばかりで、全く(法要を)営むことはありませんでした。
また、亡母が逝去した日、 (母は)私に命じて(こう)仰られました、
「そなたが幼かった頃、病気になって危篤に陥りました。
私の心は、深い悲しみをこらえきれず、(息子の命を助けて下されば)観音像をお造り申し上げるという誓願を立てました。
かの観世音菩薩の力を念じたから、そなたの病気は治ったのです。
そなたが給料を頂くようになったら、その一部を割き、わずか(な額)を積み重ね、(観音像を造る)費用として支払いなさい。
発願した理由が、そなたの身(の上)にあったとは言え、(私は造立を)怠った責任を感じ、(死後も)心配するのではと気がかりなのです。」と。
私は、 遺言を承ってから三四年間、 ささやかながら(観音像を造立して)荘厳しましたが、 礼拝は依然として滞っておりました。
(しかし)その後、 天恩は(私を)お忘れにならず、 (昇進して)官位は身の程を過ぎるまでになりました。
そこで(こう)誓いました、 「得た給与は、まず(観世音菩薩の)恩に報いる元手とし、  恩に報いた後、遊興の費用としよう。」と。
ここにおいて、 生活費を節約し、法要の経費を準備しようとしました。
元慶三年の夏の終わりに、 詩文の席で、(父の)御機嫌を伺った際、 この(母の遺言をかなえたいと言う)思いを、あらかた亡き父に伝えました。
(すると)父は(こう)仰られたのです、 「良いことだ、そなたがこう申すとは。
私は寺院を建立して、
(『最勝王経』と『法華経』という)二部の経典を説こうと思っている。
『最勝王経』という深遠な教えを説く経典は、私の発願により、昨年講会(こうえ )を終えた。
『法華経』という優れた乗り物は、そなたの報恩に託し、共に随喜しよう。
ただ(心配に)思うのは、(私は)七十歳を前にして、死期が迫っていることだ。
来年になれば、(死に)先立って官を辞すつもりだ、その際は、深遠な真理に耳を傾けようと思う。
深遠な真理を聴くことで、(御仏と)縁を結ぼう、縁を結べば、私には(もう)思い残すことなどない。
また、我が家の吉祥悔過は、長らく初冬十月に行ってきた。
(『法華経』の)法会は、(吉祥悔過にあわせて)この時期に行いなさい。」と。
私は、 謹んで心のこもった(父の)戒めを承り、決しておろそかにしませんでした。
ここに、 太陽は止まることなく、年月はもう巡ってきました。(月日が過ぎるのは早いものです。)
(翌元慶四年)二月下旬、私は初めて(父の)病床に侍り、 八月三十日、父はとうとう亡くなりました。
遺言の中には、(仏道に関わりない)他の事は何もありませんでした。
ただ十月の(吉祥)悔過は(時期を違えず)必ず行うようにということだけでした。
今、 八月は既に過ぎ、父の喪は以前に明けましたが、 正月はまだですから、母の忌日はさらに先です。
(しかし父の遺言に従い、今月)二十一日より(法華会を)始め、 二十四日になるまで、 僧侶を拝み、 法要を営むことにします。
仰ぐのは、(私が)新たに造った観音像であり、 説くのは、(父が)昔書写した法華経です。
(発願した)当初は、(御仏の)深遠なる報いによって一緒に生者(私)と死者(母)の功徳にしようと思っていましたが、 現在は、善行にこと寄せて共に亡き父母を(極楽浄土へ)導いて下さるよう願っています。
ああ、 亡き父が、間違えないよう私に誡められたのは、 今日(法華会を)開催する日のことでした、 私が、(臨終が吉祥悔過の月と)異なることを亡き父から承ったのは、 昨年(父が)亡くなった夕暮れのことでした。
私は、 父もおらず誰を頼れば良いのでしょう、 母もおらず誰を頼れば良いのでしょう。
天を怨んだり、 人を責めたりはしません。
(しかし)不遇にも、 早くも孤独な寄る辺なき身となってしまいました。
(私は)観世音菩薩に帰依します、 妙法蓮華経に帰依します、 (法に)説いたように、 (仏が)誓ったように、 私の亡き父母を(浄土へ)お導きになり、 すみやかに大いなる悟りという果実をお示し下さい。
限りなき功徳、 計り知れぬ善根、 広く全世界に与え、 皆で御仏の恩恵を受けましょう。
 
 
大鏡

大鏡1
大鏡は、平安時代後期に作られた歴史物語です。
ある寺で、大宅世継・夏山繁樹と名乗る二人の老人が話をしています。若侍が歳をたずねると、それぞれ190歳・180歳だと言うのです。二人は、居合わせた人々の前で、平安時代前期から中期にかけての出来事について、語り始めます。
語られるエピソードは、文徳天皇(850年)の代から後一条天皇(1025年)の代まで。各天皇にまつわる話や、当時の出来事、有力貴族であった藤原氏の面々の政治上のかけひきについてなど、まさに見てきたかのような歴史物語が披露されます。特に、平安史上もっとも有力であった政治家・藤原道長が権力を獲得していく経緯など、こと細かに綴られています。
藤原氏に対しやや批判的で、一族の面々の策略・言動が赤裸々に描かれています。語り手の批評や感想もときどきはさみこまれています。歴史上の事実を淡々と羅列するというわけではなく、人間的かつ臨場感あふれるエピソードが、”歴史書”ではなく”歴史物語”としての大鏡を印象づけていると言えるでしょう。 
大鏡2
『大鏡(おおかがみ)』は、平安時代の末期に成立した歴史物語で、「世継物語」「世継の翁の物語」「世継のかがみの巻」などともいう。作者については諸説があるが、いずれも確証がなく未詳。だが、摂関家(藤原氏)を批判的に見る立場にあった男性の教養人によって書かれたという説が有力である。なお、『大鏡』という書名の意味は、「歴史を明らかに映し出す優れた鏡」とされ、帝紀「後一条院」にある繁樹の歌、「明らけき鏡にあへば過ぎにしも今行く末のことも見えけり(明るく澄んだ鏡に向かうと過去の事柄も将来の事柄もはっきり見えることだ)」、および、世継の返歌、「すべらぎのあとも次々隠れなく新たに見ゆる古鏡かも(代々の天皇のご治世のありさまも次々に新しく映し出して見せてくれる古い鏡であることよ)」などがその根拠とされるが、仏教の「大円鏡智(大きな丸い鏡が万物の影を映すように、すべてを正確に照らす智慧)」を踏まえて後世の人が命名したとも考えられる。
内容は、文徳天皇の嘉祥三(八五〇)年から後一条天皇の万寿二(一〇二五)年までの一八〇年近い史実を、中国の『史記』にならって、帝紀と臣下列伝とに大別した紀伝体で述べられている。京都・紫野の雲林院の菩提講に参詣の二人の古老、大宅世継(百九十歳)と夏山繁樹(百八十歳)がこれまでに見聞した出来事を語る懐古譚に、一人の若侍(三十歳)が時々口をはさんだりするのを、聴衆にまじって聞いていた作者がそれらの話を書き留めた、という形式で話が展開されていく。こうした対話によって歴史を語るという形式は、その後の歴史物語『今鏡』『水鏡』『増鏡』などにも引き継がれていった。なお、同時代に書かれた『栄花物語』がひたすら藤原道長の栄華を謳歌しているのに対して、この物語は、道長を賛美しつつも随所に批判的な見解を述べている。
文体は、仮名文ではあるが、男性的できびきびした歯切れの良さがあり、迫力のある表現でそれぞれの人間像を力強く描いているところにその特徴がある。和語(大和言葉)に漢語・仏語を交えて書かれており、簡潔でありながら劇的な表現に富んでいる。藤原兼通・兼家兄弟の権力争いや、藤原道兼が花山天皇を欺いて出家させる場面などでは、権力者の個性的な人物像や謀略が活写されており特に圧巻である。そこには飽くなき権力欲への皮肉も垣間見える。 
大鏡 上


先(さい)つ頃(ころ)、雲林院(うりんゐん)の菩提講(ぼだいこう)に詣(まう)でて侍(はべ)りしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁(おきな)二人、嫗(おうな)といき会(あ)ひて、同じ所に居(ゐ)ぬめり。「あはれに、同じ様(やう)なるもののさまかな」と見侍(はべ)りしに、これらうち笑ひ、見かはして言(い)ふやう、
《世継》『年頃(としごろ)、昔の人に対面(たいめ)して、いかで世の中の見聞(き)くことをも聞(き)こえあはせむ、このただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)の御有様(ありさま)をも申(まう)しあはせばやと思(おも)ふに、あはれにうれしくも会(あ)ひ申(まう)したるかな。今ぞ心やすく黄泉路(よみぢ)もまかるべき。おぼしきこと言(い)はぬは、げにぞ腹ふくるる心地(ここち)しける。かかればこそ、昔の人は物(もの)言(い)はまほしくなれば、穴を掘りては言(い)ひ入れ侍(はべ)りけめとおぼえ侍(はべ)り。かへすがへすうれしく対面(たいめ)したるかな。さてもいくつにかなり給(たま)ひぬる』と言(い)へば、いま一人(ひとり)の翁(おきな)、
《繁樹》『いくつといふこと、さらに覚(おぼ)え侍(はべ)らず。ただし、おのれは、故(こ)太政(だいじやう)のおとど貞信公(ていしんこう)、蔵人(くらうど)の少将(せうしやう)と申(まう)しし折の子舎人童(こどねりわらは)、大犬丸(おほいぬまろ)ぞかし。ぬしは、その御時の母后(ははきさき)の宮(みや)の御方の召使(めしつかひ)、高名(かうみやう)の大宅(おほやけの)世継(よつぎ)とぞ言(い)ひ侍(はべ)りしかな。されば、ぬしの御年(みとし)は、おのれにはこよなくまさり給(たま)へらむかし。みづからが小童(こわらは)にてありし時、ぬしは二十五六ばかりの男(をのこ)にてこそはいませしか。』と言(い)ふめれば、世継、
『しかしか、さ侍(はべ)りしことなり。さてもぬしの御名(みな)はいかにぞや』と言(い)ふめれば、
《繁樹》『太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)にて元服(げんぶく)つかまつりし時、「きむぢが姓(さう)はなにぞ」と仰(おほ)せられしかば、「夏山(なつやま)となむ申(まう)す」と申(まう)ししを、やがて、繁樹(しげき)となむつけさせ給(たま)へりし』など言(い)ふに、いとあさましうなりぬ。 
【現代語訳】
先ごろ、(私が)雲林院の菩提講に参詣しましたところ、普通の人よりはひどく年を取って、異様な感じのする老人二人と、老女が出会って、同じ場所に座っていたようです。ほんとにまあ(揃いも揃って)同じような老人の様子だなあと見ておりますと、これらの老人たちが笑って、互いに(顔を)見合わせて言うには、「長い年月、昔なじみの人に会って、何とかして世の中で見聞きしたことを話し合い申したい、(また)現在のこの入道殿下(藤原道長公)のご様子をも語り合い申し上げたいと思っていたところ、ほんとにまあうれしくもお会い申し上げ(ることができ)たことよ。今こそ安心して冥土へも行くことができるでしょう。心の中で思っていることを言わないでいるのは、ほんとうに(諺にあるように)腹がふくれるような(いやな)気持ちがしたものです。こういうものであるからこそ、昔の人は(何か)ものを言いたくなると、穴を掘っては(そこに)言い入れたのでしょう、と思われます。本当にうれしいことにお会いできたなあ。それにしても、(あなたは)いくつのおなりですか」と言うと、もう一人の翁(繁樹)が、「いくつということは、まったく覚えておりません。ただし、私は、亡くなった太政大臣貞信公が、(まだ)蔵人の少将と申し上げた頃の小舎人童(であった)、大犬丸ですよ。あなたはその御代(宇多天皇の)の母君で后の宮の召使い(であった)有名な大宅世継と言ったのですよね。ですから、あなたのお年は、私よりはずっと上でいらっしゃるでしょうね。私が(まだ)子どもであった時、あなたは、二十五、六歳ぐらいの一人前の男でいらっしゃいました」と言ったようでしたが、(すると)世継が、「そうそう、その通りでした。ところで、あなたのお名前は何ですか」と答えたようでしたが、(また、繁樹が)「(私が)太政大臣のお屋敷で元服致しました時、(太政大臣が)『そなたの姓は何か』とおっしゃいましたので、(私が)『夏山と申します』と申し上げたところ、そのまま(夏山にちなんで)繁樹と(名を)お付けになりました」などと言うので、(話を聞いていた私は)すっかり驚きあきれてしまった。
【解説】
歴史物語『大鏡』の冒頭の一節である。京都・紫野の雲林院の菩提講に居合わせた老人たちと、後に登場する若侍との間で交わされる話を、傍で聞いていた作者がそれを記録していくという設定で物語は展開していく。こうした戯曲的・額縁的な対話形式は、登場する人物や事件を立体的に表現する効果を持っている。作者が直に歴史物語を綴るという形式を取らずに、登場人物の対話によって歴史を語るという手法は、『源氏物語』(帚木の巻)の「雨夜の品定め」や『法華経』の教典にも前例があるとされるが、歴史を物語る上で効果を上げている。歴史というものは、常に評価の対象として語られざるを得ないのであって、その評価の質を間接的なものとして包み込む意味を果たすからである。同じことは、戯曲的な構成法についても言えよう。複数の語り手を持つことによって、時には賛同したり、時には反発したりすることによって、単調になりがちな展開に変化をもたらすことができるからだ。また、推量の助動詞「めり」が作者の視点において三回使用されているが、この助動詞は、視覚に基づく推定や主観的な判断を示す場合に使用するものであるので、作者が二人の老人からやや離れた距離で、二人をじっと見つめながら対話を冷静に聞いているという臨場感が感じられる。聞き手である作者は、老人たちの言葉を通して主題の紹介に移っていく。「世の中の見聞くこと」「このただいまの入道殿下の御ありさま」を語り合わすというのがその主題である。末尾の「いとあさましうなりぬ」という言葉には、作者の感慨が込められているが、老人たちの話があまりにも古いので、驚きあきれてしまったというのである。しかし、一方では、彼らが話す内容に引きつけられていくのである。 
たれも、少しよろしき者どもは、見おこせ、居寄(ゐよ)りなどしけり。年三十ばかりなる侍(さぶらひ)めきたる者の、せちに近く寄りて、
《侍》『いで、いと興(きよう)あること言(い)ふ老者(らうざ)たちかな。さらにこそ信ぜられね』と言(い)へば、翁(おきな)二人見かはしてあざ笑ふ。繁樹(しげき)と名のるがかたざまに見やりて、
《侍》『「いくつといふこと覚(おぼ)えず」といふめり。この翁どもは覚(おぼ)え賜(た)ぶや』と問(と)へば、
《世継》『さらにもあらず。一百九十歳にぞ、今年(ことし)はなり侍(はべ)りぬる。されば、繁樹(しげき)は百八十におよびてこそ候(さぶら)ふらめど、やさしく申(まう)すなり。おのれは水尾(みづのを)の帝(みかど)のおり御座(おは)します年の、正月の望(もち)の日(ひ)生まれて侍(はべ)れば、十三代に会(あ)ひ奉(たてまつ)りて侍(はべ)るなり。けしうは候(さぶら)はぬ年なりな。まことと人思(おぼ)さじ。されど、父が生学生(なまがくしやう)に使はれたいまつりて、「下臈(げらふ)なれども都ほとり」と言(い)ふことなれば、目を見給(たま)へて、産衣(うぶぎぬ)に書き置きて侍(はべ)りける、いまだ侍(はべ)り。丙申(ひのえさる)の年に侍(はべ)り』と言(い)ふも、げにと聞(き)こゆ。
いま一人(ひとり)に、
《侍》『なほ、わ翁(おきな)の年(とし)こそ聞(き)かまほしけれ。生まれけむ年は知(し)りたりや。それにていとやすく数(かず)へてむ。』と言(い)ふめれば、
《繁樹》『これは誠(まこと)の親にも添(そ)ひ侍(はべ)らず、他人のもとに養はれて、十二三まで侍(はべ)りしかば、はかばかしくも申(まう)さず。ただ、
《養父》「我は子うむわきも知(し)らざりしに、主の御使(つかひ)に市(いち)へまかりしに、また、私(わたくし)にも銭十貫を持ちて侍(はべ)りけるに、
母が抱(いだ)きて、「この児(ちご)買はん人がな」とひとりごちしを聞(き)きて、見侍(はべ)りけるに、色白うてにくげも侍(はべ)らざりければ、さるべきにや、あはれにおぼえて抱(いだ)きとり侍(はべ)りけるに、うち笑みてかきつきて侍(はべ)りけるに、いとどかなしくて、「など、かくうつくしき児(ちご)を放(はな)たむとは思(おも)はるるぞ」と問(と)ひ侍(はべ)りければ、「まろも子を十人(とたり)まで・・・・・・」。
にくげもなき児を抱(いだ)きたる女の、「これ人に放(はな)たむとなむ思(おも)ふ。子を十人(とたり)までうみて、これは四十(よそ)たりの子にて、いとど五月にさへ生まれてむつかしきなり」と言(い)ひ侍(はべ)りければ、この持ちたる銭にかへてきにしなり。「姓は何(なに)とか言(い)ふ」と問(と)ひ侍(はべ)りければ、「夏山」とは申(まう)しける」。さて、十三にてぞ、おほき大殿(おほとの)には参(まゐ)り侍(はべ)りし』など言(い)ひて、
《世継》『さても、うれしく対面(たいめ)したるかな。仏(ほとけ)の御しるしなめり。年頃(としごろ)、ここかしこの説経(せきやう)とののしれど、なにかはとて参(まゐ)らず侍(はべ)り。かしこく思(おも)ひたちて、参(まゐ)り侍(はべ)りにけるが、うれしきこと』とて、
《世継》『そこに御座(おは)するは、その折の女人にやみでますらむ』
と言(い)ふめれば、繁樹(しげき)がいらへ、『いで、さも侍(はべ)らず。それははや失(う)せ侍(はべ)りにしかば、これは、その後(のち)あひ添(そ)ひて侍(はべ)るわらべなり。さて閣下(かふか)はいかが』と言(い)ふめれば、世継がいらへ、『それは侍(はべ)りし時のなり。今日(けふ)もろともに参(まゐ)らむと出(い)でたち侍(はべ)りつれど、わらはやみをして、あたり日(び)に侍(はべ)りつれば、口惜(くちを)しくえ参(まゐ)り侍(はべ)らずなりぬる』と、あはれに言(い)ひ語らひて泣くめれど、涙落つとも見えず。
かくて講師(こうじ)待つほどに、我も人もひさしくつれづれなるに、この翁(おきな)どもの言(い)ふやう、
《世継》『いで、さうざうしきに、いざ給(たま)へ。昔物語(むかしものがたり)して、このおの御座(おは)さふ人々に、「さは、いにしへは、世はかくこそ侍(はべ)りけれ」と、聞(き)かせ奉(たてまつ)らむ』と言(い)ふめれば、いま、一人(ひとり)、
《繁樹》『しかしか、いと興(きよう)あることなり。いで覚(おぼ)え給(たま)へ。時々、さるべきことのさしいらへ、繁樹(しげき)もうち覚(おぼ)え侍(はべ)らむかし』と言(い)ひて、言(い)はむ言(い)はむと思(おも)へる気色(けしき)ども、いつしか聞(き)かまほしく、おくゆかしき心地(ここち)するに、そこらの人多かりしかど、物(もの)はかばかしく耳とどむるもあらめど、人目にあらはれて、この侍(さぶらひ)ぞ、よく聞(き)かむと、あどうつめりし。世継が言(い)ふやう。
『世はいかに興(きよう)ある物(もの)ぞや。さりとも、翁(おきな)こそ、少々のことは覚(おぼ)え侍(はべ)らめ。昔さかしき帝(みかど)の御政(まつりごと)の折は、「国のうちに年老いたる翁・嫗(おうな)やある」と召(め)し尋ねて、いにしへの掟(おきて)の有様(ありさま)を問(と)はせ給(たま)ひてこそ、奏(そう)することを聞(き)こし召(め)しあはせて、世の政は行はせ給(たま)ひけれ。されば、老いたるは、いとかしこきものに侍(はべ)り。若き人たち、なあなづりそ。』とて、黒柿(くろがへ)の骨九つあるに、黄(き)なる紙張りたる扇(あふぎ)をさしかくして、気色だち笑ふほども、さすがにをかし。
《世継》『まめやかに世継が申(まう)さむと思(おも)ふにことは、ことごとかは。ただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)の御有様(ありさま)の、世にすぐれて御座(おは)しますことを、道俗男女の御前(おまへ)にて申(まう)さむと思(おも)ふが、いとこと多くなりて、あまたの帝王・后(きさき)、また大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)の御上(うへ)をつづくべきなり。そのなかに、幸(さいは)ひ人(びと)に御座(おは)します、この御有様(ありさま)申(まう)さむと思(おも)ふほどに、世の中のことのかくれなくあらはるべきなり。つてに承(うけたまは)れば、法華経(ほけきやう)一部を説き奉(たてまつ)らむとてこそ、まづ余教(よけう)をば説き給(たま)ひけれ。それを名づけて五時教(ごじけう)とは言(い)ふにこそはあなれ。しかのごとくに、入道(にふだう)殿(どの)の御栄えを申(まう)さむと思(おも)ふほどに、余教の説かるると言(い)ひつべし』など言(い)ふも、わざわざしく、ことごとしく聞(き)こゆれど、「いでやさりとも、なにばかりのことをか」と思(おも)ふに、いみじうこそ言(い)ひつづけ侍(はべ)りしか。
《世継》『世間の摂政(せつしやう)・関白(くわんばく)と申(まう)し、大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)と聞(き)こゆる、古今(いにしへいま)の、皆、この入道(にふだう)殿(どの)の御有様(ありさま)のやうにこそは御座(おは)しますらめとぞ、今様(いまやう)の児(ちご)どもは思(おも)ふらむかし。されども、それさもあらぬことなり。言(い)ひもていけば、同じ種一(ひと)つ筋(すぢ)にぞ御座(おは)しあれど、門(かど)別れぬれば、人々の御心用(こころもち)ゐも、また、それにしたがひてことごとになりぬ。この世始(はじ)まりて後(のち)、帝(みかど)はまづ神の世七代をおき奉(たてまつ)りて、神武(じんむ)天皇(てんわう)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、当代(たうだい)まで六十八代にぞならせ給(たま)ひにける。すべからくは、神武天皇(てんわう)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、次々の帝(みかど)の御次第(しだい)を覚(おぼ)え申(まう)すべきなり。しかりと言(い)へども、それはいと聞(き)き耳遠ければ、ただ近きほどより申(まう)さむと思(おも)ふに侍(はべ)り。文徳(もんとく)天皇(てんわう)と申(まう)す帝(みかど)御座(おは)しましき。その帝(みかど)よりこなた、今の帝(みかど)まで十四代にぞならせ給(たま)ひにける。世をかぞへ侍(はべ)れば、その帝(みかど)、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)の年より、今年(ことし)までは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申(まう)すは、かたじけなく候(さぶら)へども』とて、言(い)ひつづけ侍(はべ)りし。 
一 五十五代  文徳(もんとく)天皇(てんわう)  道康(みちやす)
《世継》『文徳(もんとく)天皇(てんわう)と申(まう)しける帝(みかど)は、仁明(にんみやう)天皇(てんわう)の御第一の皇子なり。御母、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)藤原(ふぢはらの)順子(じゆんし)と申(まう)しき。その后(きさき)、左大臣(さだいじん)贈(ぞう)正一位(じやういちゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、天長(てんちやう)四年丁末(ひのとひつじ)八月に生まれ給(たま)ひて、御心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和(じようわ)九年壬戌(みづのえいぬ)二月二十六日に御元服(げんぶく)。同八月四日、東宮(とうぐう)にたち給(たま)ふ。御年十六。
仁明(にんみやう)天皇(てんわう)もと御座(おは)する東宮(とうぐう)をとりて、この帝(みかど)を、承和(じようわ)九年八月四日、東宮(とうぐう)にたて奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしなり。いかにやすからず思(おぼ)しけむとこそおぼえ侍(はべ)れ。
嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)三月二十一日、位(くらゐ)につき給(たま)ふ。御年二十四。さて世を保(たも)たせ給(たま)ふこと八年。
御母后(きさき)の御年十九にてぞ、この帝(みかど)をうみ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。嘉祥(かしやう)三年四月に后にたたせ給(たま)ふ。御年四十二。斎衡(さいかう)元年甲戌(きのえいぬ)の年、皇太后宮(くわうたいごうぐう)にあがりゐ給(たま)ふ。貞観(ぢやうぐわん)三年辛巳(かのとみ)二月二十九日癸酉(みづのととり)、御出家(すけ)して、潅頂(くわんぢやう)などせさせ給(たま)へり。同じき六年丙申(ひのえさる)正月七日、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)にあがりゐ給(たま)ふ。これを五条(ごでう)の后(きさい)と申(まう)す。伊勢物語(ものがたり)に、業平(なりひらの)中将(ちゆうじやう)の、「よひよひごとにうちも寝ななむ」とよみ給(たま)ひけるは、この宮の御ことなり。「春や昔の」なども。
同じことのやうに候(さぶら)ふめる。いかなることにか、二条(にでう)の后(きさい)に通ひまされける間のことどもとぞ、承(うけたまは)りしを。「春や昔の」なども。五条の后の御家と侍(はべ)るは、わかぬ御仲にて、その宮に養はれ給(たま)へれば、同じ所に御座(おは)しけるにや。 
一 五十六代  清和(せいわ)天皇(てんわう)  惟仁(これひと)
次の帝(みかど)、清和(せいわ)天皇(てんわう)と申(まう)しけり。文徳(もんとく)天皇(てんわう)の第四の皇子なり。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)明子(あきらけいこ)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)良房(よしふさ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、嘉祥三年庚午三月二十五日に、母方の御祖父(おほぢ)、おほきおとどの小一条の家にて、父帝(ちちみかど)の位につかせ給(たま)へる、五日といふ日、生まれ給(たま)へりけむこそ、いかに折さへはなやかにめでたかりけむとおぼえ侍(はべ)れ。この帝(みかど)は、御心いつくしく、御かたちめでたくぞ御座(おは)しましける。惟喬(これたか)の親王の東宮(とうぐう)あらそひし給(たま)ひけむも、この御こととこそおぼゆれ。やがて生まれ給(たま)ふ年の十一月二十五日戊戌(つちのえいぬ)、東宮(とうぐう)にたち給(たま)ひて、天安(てんあん)二年戊寅(つちのえとら)八月二十七日、御年九つにて位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。貞観(ぢやうぐわん)六年正月一日戊子(つちのえね)、御元服(げんぶく)、御年十五なり。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと十八年。同じ十八年十一月二十九日、染殿院(そめどののゐん)にておりさせ給(たま)ふ。元慶(ぐわんぎやう)三年五月八日、御出家(すけ)。水尾(みづのを)の帝(みかど)と申(まう)す。この御末(すゑ)ぞかし、今の世に源氏(げんじ)の武者(むさ)の族(ぞう)は。それもおほやけの御かためとこそはなるめれ。
御母、二十三にて、この帝(みかど)をうみ奉(たてまつ)り給(たま)へり。貞観(ぢやうぐわん)六年正月七日、皇后宮(くわうごうぐう)にあがりゐ給(たま)ふ。后(きさい)の位にて四十一年御座(おは)します。染殿(そめどの)の后と申(まう)す。その御時の護持僧(ごぢそう)は智証大師(ちしようだいし)に御座(おは)す。
さばかりの仏の護持僧にて御座(おは)しけむに、この后の御物(もの)の怪(け)のこはかりけるに、など、えやめ奉(たてまつ)り給(たま)はざりけむ。前(さき)の世(よ)のことにて御座(おは)しましけるにやとこそおぼえ侍(はべ)れ。
天安(てんあん)二年戊寅(つちのえとら)にぞ唐より帰り給(たま)ふ。 
一 五十七代  陽成院(やうぜいゐん)  貞明(さだあきら)
次の帝(みかど)、陽成(やうぜい)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、清和(せいわ)天皇(てんわう)の第一の皇子なり。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)高子(たかいこ)と申(まう)しき。権中納言(ごんちゆうなごん)贈(ぞう)正一位(じやういちゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)長良(ながら)の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、貞観(ぢやうぐわん)十年戊子(つちのえね)十二月十六日、染殿院にて生まれ給(たま)へり。同じき十一月二月一日己丑(つちのとうし)、御年二つにて東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひて、同じき十八年丙申(ひのえさる)十一月二十九日、位につかせ給(たま)ふ。御年九歳。元慶(ぐわんぎやう)六年壬寅(みづのえとら)正月二日乙巳(きのとみ)〈 坎日也 〉、御元服(げんぶく)。御年十五。世をしらせ給(たま)ふこと八年。位おりさせ給(たま)ひて、二条院(にでうのゐん)にぞ御座(おは)しましける。さて六十五年なれば、八十一にてかくれさせ給(たま)ふ。御法事(ほふじ)の願文(ぐわんもん)には、「釈迦如来(しやかによらい)の一年(ひととせ)の兄(このかみ)」とは作られたるなり。智恵(ちゑ)深く思(おも)ひよりけむほど、いと興(きよう)あれど、仏の御年よりは御年高しといふ心の、後世(ごせ)の責(せ)めとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。
御母后、清和(せいわ)の帝(みかど)よりは九年の御姉なり。二十七と申(まう)しし年、陽成院(やうぜいゐん)をばうみ奉(たてまつ)り給(たま)ふなり。元慶(ぐわんぎやう)元年正月に后(きさい)にたたせ給(たま)ふ、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)す。御年三十六。同じき六年正月七日、皇太后宮(くわうたいごうぐう)にあがり給(たま)ふ。御年四十一。この后(きさい)の宮(みや)の、宮仕(みやづか)ひしそめ給(たま)ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世ごもりて御座(おは)しける時、在中将(ざいちゆうじやう)しのびて率(ゐ)てかくし奉(たてまつ)りたりけるを、御せうとの君達、基経(もとつね)の大臣・国経(くにつね)の大納言(だいなごん)などの、若く御座(おは)しけむほどのことなりけむかし、取り返しに御座(おは)したりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」とよみ給(たま)ひたるは、この御ことなれば、末の世に、「神代(かみよ)のことも」とは申(まう)し出(い)で給(たま)ひけるぞかし。されば、世(よ)の常(つね)の御かしづきにては御覧(ごらん)じそめられ給(たま)はずや御座(おは)しましけむとぞ、おぼえ侍(はべ)る。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮(そめどののみや)に参(まゐ)り通ひなどし給(たま)ひけむほどのことにやとぞ、推(お)しはかられ侍(はべ)る。およばぬ身に、斯様(かやう)のことをさへ申(まう)すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人(みなひと)の知ろしめしたることなれば。いかなる人かは、この頃(ごろ)、古今(こきん)・伊勢物語(ものがたり)など覚(おぼ)えさせ給(たま)はぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申(まう)すことも、この御なからひのほどとこそは承(うけたまは)れ。末の世まで書き置き給(たま)ひけむ、おそろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、なかなかに気色(けしき)あることも、をかしきこともありける物(もの)』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。
《世継》『二条(にでう)の后と申(まう)すは、この御ことなり。 
一 五十八代  光孝(くわうかう)天皇(てんわう)  時康(ときやす)
次の帝(みかど)、光孝(くわうかう)天皇(てんわう)と申(まう)しき。仁明(にんみやう)天皇(てんわう)の第三の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇太后宮(くわうたいごうぐう)藤原(ふぢはらの)沢子(たくし)、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)総継(ふさつぎ)の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、淳和(じゆんな)天皇(てんわう)の御時の天長(てんちやう)七年庚戌(かのえいぬ)、東五条家にて生まれ給(たま)ふ。御親の深草(ふかくさ)の帝(みかど)の御時の承和(じようわ)十三年丙辰(ひのえたつ)正月七日、四品(しほん)し給(たま)ふ。御年十七。嘉祥三年正月、中務卿(なかつかさきやう)になり給(たま)ふ。御年二十一。仁寿(にんじゆ)元年十一月二十一日、三品(さんぼん)にのぼり給(たま)ふ。御年二十二。貞観(ぢやうぐわん)六年正月十六日、上野大守(かうづけのかみ)かけさせ給(たま)ふ。御年三十五。同じ八年正月十三日、大宰権師(だざいのごんのそち)にうつりならせ給(たま)ふ。同じ十二年二月七日、二品(にほん)にのぼらせ給(たま)ふ。御年四十一。同じ十八年十二月二十六日、式部卿(しきぶきやう)にならせ給(たま)ふ。御年四十七。元慶(ぐわんぎやう)六年正月七日、一品(いつぽん)にのぼらせ給(たま)ふ。御年五十三。同じ八年正月十三日に大宰師かけ給(たま)ひて、二月四日、位につき給(たま)ふ。御年五十五。世をしらせ給(たま)ふこと四年。小松(こまつ)の帝(みかど)と申(まう)す。この御時に、藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(みつぼね)の黒戸(くろど)は開(あ)きたると聞(き)き侍(はべ)るは、誠(まこと)にや。 
一 五十九代  宇多(うだ)天皇(てんわう)  定省(さだみ)
次の帝(みかど)、亭子(ていじ)の帝(みかど)と申(まう)しき。これ、小松の天皇(てんわう)の御第三の皇子。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)班子(はんし)女王と申(まう)しき。二品式部卿(しきぶきやう)贈(ぞう)一品(いつぽん)太政大臣(だいじやうだいじん)仲野(なかの)の親王の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、貞観(ぢやうぐわん)九年丁亥(ひのとゐ)五月五日、生まれさせ給(たま)ふ。元慶(ぐわんぎやう)八年四月十三日、源氏(げんじ)になり給(たま)ふ。御年十八。
王侍従(わうじじゆう)など聞(き)こえて、殿上人(てんじやうびと)にて御座(おは)しましける時、殿上の御椅子(ごいし)の前にて、業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)と相撲(すまひ)とらせ給(たま)ひけるほどに、御椅子にうちかけられて高欄(かうらん)折れにけり。その折目(をれめ)今に侍(はべ)るなり。
仁和(にんな)三年丁末(ひのとひつじ)八月二十六日に春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひて、やがて同じ日に位につかせ給(たま)ふ。御年二十一。世をしらせ給(たま)ふこと十年。寛平(くわんぴやう)元年己酉(つちのととり)十一月二十一日己酉の日、賀茂(かも)の臨時祭(りんじのまつり)始(はじ)まること、この御時よりなり。使(つかひ)には右近(うこんの)中将(ちゆうじやう)時平(ときひら)なり。昌泰(しやうたい)元年戊午(つちのえうま)四月十日、御出家(すけ)せさせ給(たま)ふ。
この帝(みかど)、いまだ位(くらゐ)につかせ給(たま)はざりける時、十一月二十余(よ)日のほどに、賀茂(かも)の御社(みやしろ)の辺(へん)に、鷹(たか)つかひ、遊びありきけるに、賀茂(かも)の明神(みやうじん)託宣し給(たま)ひけるやう、「この辺に侍(はべ)る翁(おきな)どもなり。春は祭多く侍(はべ)り。冬のいみじくつれづれなるに、祭賜(たま)はらむ」と申(まう)し給(たま)へば、その時に賀茂(かも)の明神(みやうじん)の仰(おほ)せらるるとおぼえさせ給(たま)ひて、「おのれは力および候(さぶら)はず。おほやけに申(まう)させ給(たま)ふべきことにこそ候(さぶら)ふなれ」と申(まう)させ給(たま)へば、「力およばせ給(たま)ひぬべきなればこそ申(まう)せ。いたく軽々(きやうきやう)なるふるまひなさせ給(たま)ひそ。さ申(まう)すやうあり。近くなり侍(はべ)り」とて、かい消(け)つやうに失(う)せ給(たま)ひぬ。いかなることにかと心得ず思(おぼ)し召(め)すほどに、かく位につかせ給(たま)へりければ、臨時の祭せさせ給(たま)へるぞかし。賀茂(かも)の明神(みやうじん)の託宣して、「祭せさせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)ふ日、酉(とり)の日(ひ)にて侍(はべ)りければ、やがて霜月(しもつき)のはての酉の日、臨時の祭は侍(はべ)るぞかし。東遊(あづまあそび)の歌は、敏之(としゆき)の朝臣(あそん)のよみけるぞかし。
ちはやぶる賀茂(かも)の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)よろづ代(よ)経(ふ)とも色は変はらじ
これは古今(こきん)に入りて侍(はべ)り。人(ひと)皆(みな)知(し)らせ給(たま)へることなれども、いみじくよみ給(たま)へるぬしかな。今に絶えずひろごらせ給(たま)へる御末(すゑ)、帝(みかど)と申(まう)すともいとかくやは御座(おは)します。
位(くらゐ)につかせ給(たま)ひて二年といふに始(はじ)まれり。使(つかひ)、右近(うこんの)中将(ちゆうじやう)時平(ときひら)の朝臣(あそん)こそはし給(たま)ひけれ。
寛平(くわんぴやう)九年七月五日、おりさせ給(たま)ふ。昌泰(しやうたい)二年己末(つちのとひつじ)十月十四日、出家(すけ)せさせ給(たま)ふ。御名、金剛覚(こんがうかく)と申(まう)しき。承平(しやうへい)元年七月十九日、失(う)せさせ給(たま)ひぬ。御年六十五。
肥前掾(ひぜんのぞう)橘良利(たちばなのよしとし)、殿上(てんじやう)に候(さぶら)ひける、入道(にふだう)して、修行(すぎやう)の御供(とも)にも、これのみぞつかうまつりける。されば、熊野(くまの)にても、日根(ひね)といふ所にて、「たびねの夢に見えつるは」ともよむぞかし。人々の涙落とすも、ことわりにあはれなることよな。
この帝(みかど)の、ただ人になり給(たま)ふほどなどおぼつかなし。よくも覚(おぼ)え侍(はべ)らず。御母、洞院(とうゐん)の后(きさき)と申(まう)す。この帝(みかど)の、源氏(げんじ)にならせ給(たま)ふこと、よく知(し)らぬにや、「王侍従(わうじじゆう)」とこそ申(まう)しけれ。陽成院(やうぜいゐん)の御時、殿上人(てんじやうびと)にて、神社行幸(ぎやうかう)には舞人(まひびと)などせさせ給(たま)ひたり。位につかせ給(たま)ひて後(のち)、陽成院(やうぜいゐん)を通りて行幸ありけるに、「当代(たうだい)は家人(けにん)にはあらずや」とぞ仰(おほ)せられける。さばかりの家人持たせ給(たま)へる帝(みかど)も、ありがたきことぞかし。 
一 六十代  醍醐(だいご)天皇(てんわう)  敦仁(あつひと)
次の帝(みかど)、醍醐(だいご)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、亭子(ていじ)太上法皇(だいじやうほふわう)の第一の皇子に御座(おは)します。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)胤子(いんし)と申(まう)しき。内大臣藤原(ふぢはらの)高藤(たかふぢ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、仁和元年乙巳(きのとみ)正月十八日に生まれ給(たま)ふ。寛平(くわんぴやう)五年四月十四日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年九歳。同七年正月十九日、十一歳にて御元服(げんぶく)。また同じ九年丁巳(ひのとみ)七月三日、位につかせ給(たま)ふ。御年十三。やがて今宵(こよひ)、夜(よる)の御殿(おとど)より、にはかに御かぶり奉(たてまつ)りて、さし出(い)で御座(おは)しましたりける。「御手づからわざ」と人の申(まう)すは、誠(まこと)にや。さて、世を保(たも)たせ給(たま)ふこと三十三年。この御時ぞかし、村上(むらかみ)か朱雀院(すざくゐん)かの生まれ御座(おは)しましたる御五十日(いか)の餅(もちひ)、殿上(てんじやう)に出(い)ださせ給(たま)へるに、伊衡(これひら)中将(ちゆうじやう)の和歌つかうまつり給(たま)へるは」とて、覚ゆめる。
《世継》『ひととせに今宵(こよひ)かぞふる今よりはももとせまでの月影を見む 
とよむぞかし。御返し、帝(みかど)のし御座(おは)しましけむかたじけなさよ。
いはひつる言霊(ことだま)ならばももとせの後(のち)もつきせぬ月をこそ見め
御集(ぎよしふ)など見給(たま)ふるこそ、いとなまめかしう、かくやうの方(かた)さへ御座(おは)しましける。 
一 六十一代  朱雀院(すざくゐん)  寛明(ひろあきら)
次の帝(みかど)、朱雀院(すざくゐん)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、醍醐(だいご)の帝(みかど)第十一の皇子なり。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)穏子(をんし)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)基経(もとつね)のおとどの第四の女なり。この帝(みかど)、延長(えんちやう)元年癸未(みづのとひつじ)七月二十四日、生まれさせ給(たま)ふ。同じ三年十月二十一日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年三歳。同じ八年庚寅(かのえとら)九月二十二日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年八歳。承平(しようへい)七年正月四日、御元服(げんぶく)。御年十五。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと十六年なり。
八幡の臨時の祭は、この御時よりあるぞかし。この帝(みかど)生まれさせ給(たま)ひては、御格子(みかうし)も参(まゐ)らず、夜昼灯(ひ)をともして御帳の内にて三まで生(おほ)し奉(たてまつ)らせ給(たま)ひき。北野に怖(お)ぢ申(まう)させ給(たま)ひてかくありしぞかし。この帝(みかど)生まれ御座(おは)しまさずは、藤氏の栄えいとかうしも御座(おは)しまさざらまし。いみじき折節生まれさせ給(たま)へりしぞかし。位につかせ給(たま)ひて、将門(まさかど)が乱れ出(い)できて、御願にてぞと聞(き)こえ侍(はべ)りし、この臨時の祭は。その東遊(あづまあそび)の歌、貫之(つらゆき)のぬしの詠みたりし。
松も生ひまたも影さす石清水(いはしみづ)行末遠く仕へまつらむ 
一 六十二代  村上(むらかみ)天皇(てんわう)  成明(なりあきら)
次の帝(みかど)、村上天皇(てんわう)と申(まう)す。これ、醍醐(だいご)の帝(みかど)の第十四の皇子なり。御母、朱雀院(すざくゐん)の同じ御腹(はら)に御座(おは)します。この帝(みかど)、延長四年丙戌(ひのえいぬ)六月二日、桂芳坊(けいはうばう)にて生まれさせ給(たま)ふ。天慶(てんぎやう)三年二月十五日辛亥(かのとゐ)、御元服(げんぶく)。御年十五。同じ七年甲辰(きのえたつ)四月二十二日、春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年十九。同じ九年丙午(ひのえうま)四月十三日、位につかせ給(たま)ふ。御年二十一。世をしらせ給(たま)ふこと二十一年。
御母后、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)、前坊(せんばう)をうみ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御年十九。同じ二十年庚辰(かのえたつ)女御(にようご)の宣旨(せんじ)下り給(たま)ふ。御年三十六。同じ二十三年癸末(みづのとひつじ)、朱雀院(すざくゐん)生まれさせ給(たま)ふ。閏(うるふ)四月二十五日、后(きさき)の宣旨かぶらせ給(たま)ふ。御年三十九。やがて、帝(みかど)うみ奉(たてまつ)り給(たま)ふ同じ月に、后(きさき)にもたたせ給(たま)ひけるにや。四十二にて、村上は生まれさせ給(たま)へり。
后にたち給(たま)ふ日は、先坊(せんばう)の御ことを、宮のうちにゆゆしがりて申(まう)し出づる人もなかりけるに、かの御乳母子(めのとご)に大輔(たいふ)の君(きみ)と言(い)ひける女房(にようばう)の、かくよみて出(い)だしける、
わびぬれば今はとものを思(おも)へども心に似ぬは涙なりけり 
また、御法事はてて、人々まかり出づる日も、かくこそよまれたりけれ。
今はとてみ山を出づる郭公(ほととぎす)いづれの里に鳴かむとすらむ
五月のことに侍(はべ)りけり。げにいかにとおぼゆるふしぶし、末の世まで伝ふるばかりのこと言(い)ひおく人、優(いう)に侍(はべ)りかしな。
前(さき)の東宮(とうぐう)におくれ奉(たてまつ)りて、かぎりなく嘆かせ給(たま)ふ同じ年、朱雀院(すざくゐん)生まれ給(たま)ひ、我(われ)、后にたたせ給(たま)ひけむこそ、さまざま、御嘆き御よろこび、かきまぜたる心地(ここち)つかうまつれ。世の、大后(おほきさき)とこれを申(まう)す。 
一 六十三代  冷泉院(れいぜいゐん)  憲平(のりひら)
次の帝(みかど)、冷泉院(れいぜいゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、村上天皇(てんわう)の第二の皇子なり。御母、皇后宮(くわうごうぐう)安子(あんし)と申(まう)す。右大臣師輔(もろすけ)のおとどの第一の御女なり。この帝(みかど)、天暦(てんりやく)四年庚戌(かのえいぬ)五月二十四日、在衡(ありひら)のおとどのいまだ従五位下(じゆごゐげ)にて、備前介(びぜんのすけ)と聞(き)こえける折の五条の家にて、生まれさせ給(たま)へり。同じ年の七月二十三日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。応和(おうわ)三年二月二十八日、御元服(げんぶく)。御年十四。康保(かうほう)四年五月二十五日、御年十八にて位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと二年。寛弘(くわんこう)八年十月二十四日、御年六十二にて失(う)せさせ御座(おは)しましけるを、三条院(さんでうゐん)位につかせ給(たま)ふ年にて、大嘗会(だいじやうゑ)などの延びけるをぞ、「折節(をりふし)」と、世の人申(まう)しける。 
一 六十四代  円融院(ゑんゆうゐん)  守平(もりひら)
次の帝(みかど)、円融院(ゑんゆうゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ村上の帝(みかど)の第五の皇子なり。御母、冷泉院(れいぜいゐん)の同じ腹(はら)に御座(おは)します。この帝(みかど)、天徳(てんとく)三年己未(つちのとひつじ)三月二日、生まれさせ給(たま)ふ。この帝(みかど)の東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふほどは、いと聞(き)きにくく、いみじきことどもこそ侍(はべ)れな。これは皆人(みなひと)の知ろしめしたることなれば、ことも長し、とどめ侍(はべ)りなむ。安和(あんな)二年己巳(つちのとみ)八月十三日にこそは位につかせ給(たま)ひけれ。御年十一にて。さて天禄三年正月三日、御元服(げんぶく)、御年十四。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと十五年。
母后(ははきさき)の、御年二十三四にて、うちつづき、この帝(みかど)、冷泉院とうみ奉(たてまつ)り給(たま)へる、いとやむごとなき御宿世(すくせ)なり。御母方の祖父(おほぢ)は出雲守(いづものかみ)従五位下(じゆごゐげ)藤原(ふぢはらの)経邦(つねくに)と言(い)ひし人なり。末(すゑ)の世(よ)には、奏(そう)せさせ給(たま)ひてこそは、贈(ぞう)三位(さんみ)し給(たま)ふとこそは承(うけたまは)りしか。いませぬ後(あと)なれど、この世の光はいと面目(めいぼく)ありかし。中后(なかきさき)と申(まう)す。この御ことなり。女十の宮うみ奉(たてまつ)り給(たま)ふたび、かくれさせ給(たま)へりし御嘆きこそ、いとかなしく承(うけたまは)りしか。村上の御日記御覧(ごらん)じたる人も御座(おは)しますらむ。ほのぼの伝へ承(うけたまは)るにも、およばぬ心にも、いとあはれにかたじけなく候(さぶら)ふな。そのとどまり御座(おは)します女宮こそは、大斎院(おほさいゐん)よ。 
一 六十五代  花山院(くわさんゐん)  師貞(もろさだ)
次の帝(みかど)、花山院(くわさんゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。冷泉院(れいぜいゐん)の第一の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)懐子(くわいし)と申(まう)す。太政大臣(だいじやうだいじん)伊尹(これまさ)のおとどの第一の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、安和元年戊辰(つちのえたつ)十月二十六日丙子(ひのえね)、母方の御祖父(おほぢ)の一条の家にて生まれさせ給(たま)ふとあるは、世尊寺(せそんじ)のことにや。その日は、冷泉院の御時の大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)あり。同じ二年八月十三日、春宮(とうぐう)にたち給(たま)ふ。御年二歳。天元(てんげん)五年二月十九日、御元服(げんぶく)。御年十五。永観(えいくわん)二年八月二十八日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年十七。寛和(くわんな)二年丙戌(ひのえいぬ)六月二十二日の夜(よ)、あさましく候(さぶら)ひしことは、人にも知(し)らせ給(たま)はで、みそかに花山寺に御座(おは)しまして、御出家入道(にふだう)せさせ給(たま)へりしこそ。御年十九。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと二年。その後(のち)二十二年御座(おは)しましき。
あはれなることは、おり御座(おは)しましける夜は、藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(つぼね)の子戸(こど)より出(い)でさせ給(たま)ひけるに、有明(ありあけ)の月のいみじく明(あ)かかりければ、「顕証(けんしよう)にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰(おほ)せられけるを、「さりとて、とまらせ給(たま)ふべきやう侍(はべ)らず。神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)わたり給(たま)ひぬるには」と、粟田殿(あはたどの)のさわがし申(まう)し給(たま)ひけるは、まだ、帝(みかど)出(い)でさせ御座(おは)しまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮(とうぐう)の御方にわたし奉(たてまつ)り給(たま)ひてければ、かへり入らせ給(たま)はむことはあるまじく思(おぼ)して、しか申(まう)させ給(たま)ひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思(おぼ)し召(め)しつるほどに、月のかほにむら雲(くも)のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家(すけ)は成就するなりけり」と仰(おほ)せられて、歩み出(い)でさせ給(たま)ふほどに、弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)の御文(ふみ)の、日頃(ひごろ)破(や)り残して御身を放(はな)たず御覧(ごらん)じけるを思(おぼ)し召(め)し出(い)でて、「しばし」とて、取りに入り御座(おは)しましけるほどぞかし、粟田殿(あはたどの)の、「いかにかくは思(おぼ)し召(め)しならせ御座(おは)しましぬるぞ。ただ今(いま)過ぎば、おのづから障(さは)りも出(い)でまうできなむ」と、そら泣きし給(たま)ひけるは。
さて、土御門(つちみかど)より東(ひんがし)ざまに率(ゐ)て出(い)だし参(まゐ)らせ給(たま)ふに、晴明(せいめい)が家の前をわたらせ給(たま)へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王(みかど)おりさせ給(たま)ふと見ゆるは。
天変(てんぺん)ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参(まゐ)りて奏(そう)せむ。車に装束(さうぞく)とうせよ」といふ声聞(き)かせ給(たま)ひけむ、さりともあはれには思(おぼ)し召(め)しけむかし。「且(かつがつ)、式神一人内裏(だいり)に参(まゐ)れ」と申(まう)しければ、目には見えぬ物(もの)の、戸をおしあけて、御後(うしろ)をや見参(まゐ)らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせ御座(おは)しますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口(まちぐち)なれば、御道なりけり。
花山寺に御座(おは)しまし着きて、御髪(みぐし)おろさせ給(たま)ひて後(のち)にぞ、粟田殿(あはたどの)は、「まかり出(い)でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内(あない)申(まう)して、かならず参(まゐ)り侍(はべ)らむ」と申(まう)し給(たま)ひければ、「朕(われ)をば謀(はか)るなりけり」とてこそ泣かせ給(たま)ひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃(ひごろ)、よく、「御弟子(でし)にて候(さぶら)はむ」と契りて、すかし申(まう)し給(たま)ひけむがおそろしさよ。東三条(とうさんでう)殿(どの)は、「もしさることやし給(たま)ふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏(げんじ)の武者(むさ)たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤(つつみ)の辺(わたり)よりぞうち出(い)で参(まゐ)りける。寺などにては、「もし、おして人などやなし奉(たてまつ)る」とて、一尺(ひとさく)ばかりの刀(かたな)どもを抜きかけてぞまもり申(まう)しける。 
一 六十六代  一条院(いちでうゐん)  懐仁
次の帝(みかど)、一条院(いちでうゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、円融院の第一の皇子なり。御母皇后詮子(せんし)と申(まう)しき。これ、太政大臣(だいじやうだいじん)兼家(かねいへ)のおとどの第二の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、天元(てんげん)三年庚辰(かのえたつ)六月一日、兼家のおとどの東三条(とうさんでう)の家にて生まれさせ給(たま)ふ。東宮(とうぐう)にたち給(たま)ふこと、永観(えいくわん)二年八月二十八日なり。御年五歳。寛和(くわんな)二年六月二十三日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年七歳。永祚(えいそ)二年庚寅(かのえとら)正月五日、御元服(げんぶく)。御年十一。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと二十五年。御母は、十九にて、この帝(みかど)をうみ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。東三条(とうさんでう)の女院(にようゐん)とこれを申(まう)す。この御母は、摂津守(つのかみ)藤原(ふぢはらの)中正(なかまさ)の女なり。 
一 六十七代  三条院(さんでうゐん)  居貞(ゐさだ)
次の帝(みかど)、三条院と申(まう)す。これ、冷泉院(れいぜいゐん)の第二の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)超子(てうし)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)兼家(かねいへ)のおとどの第一の御女なり。この帝(みかど)、貞元(ぢやうげん)元年丙子(ひのえね)正月三日、生まれさせ給(たま)ふ。寛和(くわんな)二年七月十六日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。同じ日、御元服(げんぶく)。御年十一。寛弘(くわんこう)八年六月十三日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年三十六。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと五年。
院にならせ給(たま)ひて、御目を御覧(ごらん)ぜざりしこそ、いといみじかりしか。こと人(ひと)の見奉(たてまつ)るには、いささか変はらせ給(たま)ふこと御座(おは)しまさざりければ、そらごとのやうにぞ御座(おは)しましける。御まなこなども、いと清らかに御座(おは)しましける。いかなる折にか、時々は御覧ずる時もありけり。「御廉(みす)の編諸(あみを)の見ゆる」なども仰(おほ)せられて。一品宮(いつぽんのみや)ののぼらせ給(たま)ひけるに、弁(べん)の乳母(めのと)の御供に候(さぶら)ふが、さし櫛(ぐし)を左にさされたりければ、「あゆよ、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰(おほ)せられけれ。この宮をことのほかにかなしうし奉(たてまつ)らせ給(たま)うて、御髪(みぐし)のいとをかしげに御座(おは)しますを、さぐり申(まう)させ給(たま)うて、「かくうつくしう御座(おは)する御髪を、え見ぬこそ、心憂(こころう)く口惜(くちを)しけれ」とて、ほろほろと泣かせ給(たま)ひけるこそ、あはれに侍(はべ)れ。わたらせ給(たま)ひたる度(たび)には、さるべきものを、かならず奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。三条院の御券(ごけん)を持(も)て帰りわたらせ給(たま)うけるを、入道(にふだう)殿(どの)、御覧じて、「かしこく御座(おは)しける宮かな。幼き御心に、古反古(ふるほぐ)と思(おぼ)してうち捨てさせ給(たま)はで、持てわたらせ給(たま)へるよ」と興(きよう)じ申(まう)させ給(たま)ひければ、「まさなくも申(まう)させ給(たま)ふかな」とて、御乳母(めのと)たちは笑ひ申(まう)させ給(たま)ける。冷泉院(れいぜいゐん)も奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけれど、「昔より帝王の御領にてのみ候(さぶら)ふ所の、いまさらに私(わたくし)の領になり侍(はべ)らむは、便(びん)なきことなり。おほやけものにて候(さぶら)ふべきなり」とて、返し申(まう)させ給(たま)ひてけり。されば、代々のわたりものにて、朱雀院(すざくゐん)の同じことに侍(はべ)るべきにこそ。
この御目のためには、よろづにつくろひ御座(おは)しましけれど、その験(しるし)あることもなき、いといみじきことなり。もとより御風(かぜ)重く御座(おは)しますに、医師(くすし)どもの、「大小寒(だいせうかん)の水を御頭(みぐし)に沃(い)させ給(たま)へ」と申(まう)しければ、凍(こほ)りふたがりたる水を多くかけさせ給(たま)けるに、いといみじくふるひわななかせ給(たま)て、御色もたがひ御座(おは)しましたりけるなむ、いとあはれにかなしく人々見参(まゐ)らせけるとぞ承(うけたまは)りし。御病(やまひ)により、金液丹(きんえきたん)といふ薬(くすり)を召(め)したりけるを、「その薬くひたる人は、かく目をなむ病(や)む」など人は申(ま)ししかど、桓算供奉(くわんざんぐぶ)の御物(もの)の怪(け)にあらはれて申(まう)しけるは、「御首(くび)に乗りゐて、左右の羽をうちおほひ申(まう)したるに、うちはぶき動かす折に、すこし御覧ずるなり」とこそいひ侍(はべ)りけれ。御位(くらゐ)去らせ給(たま)しことも、多くは中堂(ちゆうだう)にのぼらせ給(たま)はむとなり。さりしかど、のぼらせ給(たま)ひて、さらにその験(しるし)御座(おは)しまさざりしこそ、口惜(くちを)しかりしか。やがておこたり御座(おは)しまさずとも、すこしの験はあるべかりしことよ。されば、いとど山の天狗(てんぐ)のし奉(たてまつ)るとこそ、さまざまに聞(き)こえ侍(はべ)れ。太奏(うづまさ)にも蘢(こも)らせ給(たま)へりき。さて仏の御前(おまへ)より東の廂(ひさし)に、組入(くみれ)はせられたるなり。
御鳥帽子(えぼうし)せさせ給(たま)ひけるは、大入道(おほにふだう)殿(どの)にこそ似奉(たてまつ)り給(たま)へりけれ。御心(こころ)ばへいとなつかしう、おいらかに御座(おは)しまして、世の人いみじう恋ひ申(まう)すめり。「斎宮(さいぐう)下らせ給(たま)ふ別れの御櫛(みぐし)ささせ給(たま)ては、かたみに見返らせ給(たま)はぬことを、思(おも)ひかけぬに、この院はむかせ給(たま)へりしに、あやしとは見奉(たてまつ)りし物(もの)を」とこそ、入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。 
一 六十八代   後一条院(ごいちでうゐん)  敦成(あつひら)
次の帝(みかど)、当代(たうだい)。一条院の第二の皇子なり。御母、今の入道(にふだう)殿下(でんか)の第一の御女なり。皇太后宮(くわうたいごうぐう)彰子(しやうし)と申(まう)す。ただ今、たれかはおぼつかなく思(おぼ)し思(おも)ふ人の侍(はべ)らむ。されどまづすべらぎの御ことを申(まう)すさまにたがへ侍(はべ)らぬなり。寛弘(くわんこう)五年戊申(つちのえさる)九月十一日、土御門殿(つちみかどどの)にて生まれさせ給(たま)ふ。同じ八年六月十三日、春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひき。御年四歳。長和(ちやうわ)五年正月二十九日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ひき。御年九歳。寛仁(くわんにん)二年正月三日、御元服(げんぶく)。御年十一。位につかせ給(たま)て十年にやならせ給(たま)ふらむ。今年、万寿(まんじゆ)二年乙丑(きのとうし)とこそは申(まう)すめれ。同じ帝王と申(まう)せども、御後見(うしろみ)多く頼(たの)もしく御座(おは)します。御祖父(おほぢ)にてただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)、出家せさせ給(たま)へれど、世の親、一切衆生(いつさいしゆじやう)を子のごとくはぐくみ思(おぼ)し召(め)す。第一の御舅(をぢ)、ただ今の関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)、一天下(いつてんが)をまつりごちて御座(おは)します。次の御舅、内大臣・左大将にて御座(おは)します。次々の御舅と申(まう)すは、大納言(だいなごん)春宮(とうぐう)の大夫(だいぶ)、中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)、中納言など、さまざまにて御座(おは)します。斯様(かやう)に御座(おは)しませば、御後見多く御座(おは)します。昔も今も、帝(みかど)かしこしと申(まう)せど、臣下のあまたして傾(かたぶ)け奉(たてまつ)る時は、傾き給(たま)ふ物(もの)なり。されば、ただ一天下はわが御後見のかぎりにて御座(おは)しませば、いと頼もしくめでたきことなり。昔、一条院の御悩(なやみ)の折、仰(おほ)せられけるは、「一の親王をなむ春宮(とうぐう)とすべけれども、後見申(まう)すべき人のなきにより、思(おも)ひかけず。されば二宮をばたて奉(たてまつ)るなり」と仰(おほ)せられけるぞ、この当代(たうだい)の御ことよ。げにさることぞかし』
《世継》『帝王の御次第(しだい)は申(まう)さでもありぬべけれど、入道(にふだう)殿下(でんか)の御栄花(えいぐわ)もなにによりひらけ給(たま)ふぞと思(おも)へば、まづ帝(みかど)・后(きさき)の御有様(ありさま)を申(まう)すなり。植木は根をおほくて、つくろひおほしたてつればこそ、枝も茂りて木(こ)の実(み)をもむすべや。しかれば、まづ帝王の御つづきを覚(おぼ)えて、次に大臣のつづきはあかさむとなり』と言(い)へば、大犬丸(おほいぬまろ)をとこ、『いでいで、いといみじうめでたしや。ここらのすべらぎの御有様(ありさま)をだに鏡をかけ給(たま)へるに、まして大臣などの御ことは、年頃闇(としごろやみ)に向(むか)ひたるに、朝日のうららかにさし出(い)でたるにあへらむ心地(ここち)もするかな。また、翁(おきな)が家(いへ)の女(をんな)どものもとなる櫛笥鏡(くしげかがみ)の、影見えがたく、とぐわきも知(し)らず、うち挟(はさ)めて置きたるにならひて、あかく磨(みが)ける鏡に向ひて、わが身の顔を見るに、かつは影はづかしく、また、いとめづらしきにも似給(たま)へりや。いで興(きよう)ありのわざや。さらに翁、いま十二十年の命は、今日(けふ)延びぬる心地し侍(はべ)り』と、いたく遊戯(ゆげ)するを、見聞(き)く人々、をこがましくをかしけれども、言(い)ひつづくることどもおろかならず、おそろしければ、物(もの)も言(い)はで、皆聞(き)きゐたり。
大犬丸(おほいぬまろ)をとこ、『いで、聞(き)き給(たま)ふや。歌一首つくりて侍(はべ)り』と言(い)ふめれば、世継、
『いと感あることなり』とて、
世継『承(うけたまは)らむ』と言(い)へば、繁樹(しげき)、いとやさしげにいひ出づ。
あきらけに鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり
と言(い)ふめれば、世継いたく感じて、あまた度(たび)誦(ず)して、うめきて、返し、
すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆる古鏡かも
今様(いまやう)の葵八花(あふひやつはな)がたの鏡、螺鈿(らでん)の筥(はこ)に入れたるに向ひたる心地し給(たま)ふや。いでや、それは、さきらめけど、曇りやすくぞあるや。いかにいにしへの古体(こたい)の鏡は、かね白くて、人手ふれねど、かくぞあかき』など、したり顔(がほ)に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなる気(け)つきて、をかしく、誠(まこと)にめづらかになむ。
《世継》『よしなきことよりは、まめやかなることを申(まう)しはてむ。よくよく、たれもたれも聞(き)こし召(め)せ。今日の講師(こうじ)の説法(せつぽふ)は、菩提(ぼだい)のためと思(おぼ)し、翁(おきな)らが説くことをば、日本紀(にほんぎ)聞(き)くと思(おぼ)すばかりぞかし』と言(い)へば、僧俗(そうぞく)、
『げに説経・説法多く承(うけたまは)れど、かく珍しきこと宣(のたま)ふ人は、さらに御座(おは)せぬなり』とて、年老いたる尼・法師ども、額(ひたひ)に手をあてて、信をなしつつ聞(き)きゐたり。
《世継》『世継はいとおそろしき翁に侍(はべ)り。真実の心御座(おは)せむ人は、などか恥づかしと思(おぼ)さざらむ。世の中を見知(し)り、うかべたてて持ちて侍(はべ)る翁なり。目にも見、耳にも聞(き)き集めて侍(はべ)るよろづのことの中に、ただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)の御有様(ありさま)、古(いにしへ)を聞(き)き今を見侍(はべ)るに、二もなく三もなく、ならびなく、はかりなく御座(おは)します。たとへば一乗(いちじよう)の法(ほふ)のごとし。御有様(ありさま)のかへすがへすもめでたきなり。世の中の太政大臣(だいじやうだいじん)・摂政・関白(くわんばく)と申(まう)せど、始終(始(はじ)めをはり)めでたきことは、え御座(おは)しまさぬことなり。法文(ほふもん)・聖教(しやうげう)の中にもたとへるなるは、「魚(うを)の子(こ)多かれど、誠(まこと)の魚となることかたし。菴羅(あんら)といふ植木あれど、木(こ)の実(み)を結ぶことかたし」とこそは説き給(たま)へなれ。天下の大臣・公卿(くぎやう)の御中に、この宝(たから)の君(きみ)のみこそ、世にめづらかに御座(おは)すめれ。今ゆく末(すゑ)も、たれの人かかばかりは御座(おは)せむ。いとありがたくこそ侍(はべ)れや。たれも心をとなへて聞(き)こし召(め)せ。世にあることをば、なにごとをか見残し聞(き)き残し侍(はべ)らむ。この世継が申(まう)すことどもはしも、知(し)り給(たま)はぬ人々多く御座(おは)すらむとなむ思(おも)ひ侍(はべ)る』と言(い)ふめれば、
人々『すべてすべて申(まう)すべきにも侍(はべ)らず』とて聞(き)きあへり。
《世継》『世始(はじ)まりて後(のち)、大臣皆(みな)御座(おは)しけり。されど、左大臣(さだいじん)・右大臣・内大臣・太政大臣(だいじやうだいじん)と申(まう)す位(くらゐ)、天下になりあつまり給(たま)へる、かぞへて皆覚(おぼ)え侍(はべ)り。世始(はじ)まりて後今にいたるまで、左大臣(さだいじん)三十人、右大臣五十七人、内大臣十二人なり。太政大臣(だいじやうだいじん)はいにしへの帝(みかど)の御代(みよ)に、たはやすくおかせ給(たま)はざりけり。あるいは帝(みかど)の御祖父(おほぢ)、あるいは御舅(をぢ)ぞなり給(たま)ひける。また、しかのごとく、帝王の御祖父・舅などにて、御後見(うしろみ)し給(たま)ふ大臣・納言(なごん)数多く御座(おは)す。失(う)せ給(たま)ひて後、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)などになり給(たま)へるたぐひ、あまた御座(おは)すめり。さやうのたぐひ七人ばかりや御座(おは)すらむ。わざとの太政大臣(だいじやうだいじん)はなりがたく、少なくぞ御座(おは)する。神武(じんむ)天皇(てんわう)より三十七代にあたり給(たま)ふ孝得(かうとく)天皇(てんわう)と申(まう)す帝(みかど)の御代にや、八省・百官・左右大臣・内大臣なり始(はじ)め給(たま)へらむ。左大臣(さだいじん)には阿倍倉橋麿(あべのくらはしまろ)、右大臣には蘇我山田石川麿(そがのやまだのいしかはまろ)、これは、元明(げんめい)天皇(てんわう)の御祖父なり。石川麿の大臣、孝徳天皇(てんわう)位につき給(たま)ての元年乙巳(きのとみ)、大臣になり、五年己酉(つちのととり)、東宮(とうぐう)のために殺され給(たま)へりとこそは、これはあまりあがりたることなり。内大臣には中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)なり。年号いまだあらざれば、月日(つきひ)申(まう)しにくし。また、三十九代にあたり給(たま)ふ帝(みかど)、天智(てんぢ)天皇(てんわう)こそは、始(はじ)めて太政大臣(だいじやうだいじん)をばなし給(たま)けれ。それは、やがてわが御弟(おとと)の皇子に御座(おは)します大友皇子(おほとものみこ)なり。正月に太政大臣(だいじやうだいじん)になり。同じ年十二月二十五日に位につかせ給(たま)ふ。天武(てんむ)天皇(てんわう)と申(まう)しき。世をしらせ給(たま)ふこと十五年。神武天皇(てんわう)より四十一代にあたり給(たま)ふ持統(ぢとう)天皇(てんわう)、また、太政大臣(だいじやうだいじん)に高市皇子(たけちのみこ)をなし給(たま)ふ。天武(てんむ)天皇(てんわう)の皇子なり。この二人の太政大臣(だいじやうだいじん)はやがて帝(みかど)となり給(たま)ふ、高市皇子(たけちのみこ)は大臣ながら失(う)せ給(たま)ひにき。その後(のち)、太政大臣(だいじやうだいじん)いとひさしく絶え給(たま)へり。ただし、職員令(しきゐんりやう)に、「太政大臣(だいじやうだいじん)にはおぼろけの人はなすべからず。その人なくば、ただにおかるべし」とこそあんなれ。おぼろけの位(くらゐ)には侍(はべ)らぬにや。四十二代にあたり給(たま)ふ文武(もんむ)天皇(てんわう)の御時に、年号定(さだま)りたり。大宝(たいほう)元年といふ。文徳(もんとく)天皇(てんわう)の末(すゑ)の年、斎衡(さいかう)四年丁丑(ひのとうし)二月十九日、帝(みかど)の御舅(をぢ)、左大臣(さだいじん)従一位(じゆいちゐ)藤原(ふぢはらの)良房(よしふさ)のおとど、太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ふ。御年五十四。このおとどこそは、始(はじ)めて摂政もし給(たま)へれ。やがてこの殿(との)よりして、今の閑院(かんゐん)の大臣まで、太政大臣(だいじやうだいじん)十一人つづき給(たま)へり。ただし、これよりさきの大友皇子(おほとものみこ)・高市皇子くはへて、十三人の太政大臣(だいじやうだいじん)なり。太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ひぬる人は、失(う)せ給(たま)ひて後、かならず諡号(いみな)と申(まう)す物(もの)あり。しかれども、大友皇子やがて帝(みかど)になり給(たま)ふ。高市の皇子の御諡号おぼつかなし。また、太政大臣(だいじやうだいじん)といへど、出家しつれば、諡号なし。されば、この十一人つづかせ給(たま)へる太政大臣(だいじやうだいじん)、二所(ふたところ)は出家し給(たま)へれば、諡号御座(おは)せず。この十一人の太政大臣(だいじやうだいじん)たちの御次第(しだい)・有様(ありさま)。始終(始(はじ)めをはり)申(まう)し侍(はべ)らむと思(おも)ふなり。流れを汲(く)みて、源(みなもと)を尋ねてこそは、よく侍(はべ)るべきを、大織冠(たいしよくくわん)より始(はじ)め奉(たてまつ)りて申(まう)すべけれど、それはあまりあがりて、この聞(き)かせ給(たま)はむ人々も、あなづりごとには侍(はべ)れど、なにごととも思(おぼ)さざらむ物(もの)から、こと多くて講師(こうじ)御座(おは)しなば、こと醒(さ)め侍(はべ)りなば、口惜(くちを)し。されば、帝王の御ことも、文徳(もんとく)の御時より申(まう)して侍(はべ)れば、その帝(みかど)の御祖父(おほぢ)の鎌足(かまたり)のおとどより第六にあたり給(たま)ふ、世の人は、ふぢさしとこそ申(まう)すめれ、その冬嗣(ふゆつぎ)の大臣より申(まう)し侍(はべ)らむ。その中に、思(おも)ふに、ただ今の入道(にふだう)殿(どの)、世にすぐれさせ給(たま)へり。 
左大臣(さだいじん)冬嗣(ふゆつぎ)
このおとどは、内麿(うちまろ)のおとどの三郎。御母、正六位(しやうろくゐ)上(じやう)飛鳥部奈止麿(あすかべのなしまろ)の女(むすめ)なり。公卿(くぎやう)にて十六年、大臣(だいじん)の位(くらゐ)にて六年。田邑(たむら)の御祖父(おほぢ)に御座(おは)します。かるがゆゑに、嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)七月十七日、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)へり。閑院(かんゐん)の大臣と申(まう)す。このおとどは、おほかた男子(をのこご)十一人御座(おは)したるなり。されど、くだくだしき女子(をんなご)たちなどのことは、くはしく知(し)り侍(はべ)らず。ただし、田邑(たむら)の帝(みかど)の御母后(ははきさき)・贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)長良(ながら)・太政大臣(だいじやうだいじん)良房(よしふさ)のおとど・右大臣良相(よしみ)のおとどは、一つ御腹(はら)なり。 
太政大臣(だいじやうだいじん)良房(よしふさ)   忠仁公(ちゆうじんこう)
このおとどは、左大臣(さだいじん)冬嗣の二郎なり。天安(てんあん)元年二月十九日、太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ふ。同年四月十九日、従一位(じゆいちゐ)、御年五十四。水尾(みづのを)の帝(みかど)は御孫(まご)に御座(おは)しませば、即位の年、摂政の詔(みことのり)あり、年官(ねんくわん)・年爵(ねんしやく)賜(たま)はり給(たま)ふ。貞観(ぢやうぐわん)八年に関白(くわんばく)にうつり給(たま)ふ。年六十三。失(う)せ給(たま)ひて後(のち)、御諡号(いみな)忠仁公と申(まう)す。また、白川(しらかわ)の大臣・染殿(そめどの)の大臣とも申(まう)し伝へたり。ただし、このおとどは、文徳(もんとく)天皇(てんわう)の御舅(をぢ)、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)明子(あきらけいこ)の御父、清和(せいわ)天皇(てんわう)の祖父(おほぢ)にて、太政大臣(だいじやうだいじん)・准三宮(じゆさんぐう)の位にのぼらせ給(たま)ふ。年官・年爵(ねんしやく)の宣旨(せんじ)下り、摂政・関白(くわんばく)などし給(たま)ひて、十五年こそは御座(おは)しましたれ。おほかた公卿にて三十年、大臣の位にて二十五年ぞ御座(おは)する。この殿ぞ、藤氏の始(はじ)めて太政大臣(だいじやうだいじん)・摂政し給(たま)ふ。めでたき御有様(ありさま)なり。
和歌もあそばしけるにこそ。古今(こきん)にも、あまた侍(はべ)るめるは。「前(さき)のおほいまうち君(ぎみ)」とは、この御ことなり。多かる中にも、いかに御心ゆき、めでたくおぼえてあそばしけむと推(お)しはからるるを、御女(むすめ)の染殿(そめどの)の后(きさき)の御前(おまへ)に、桜の花の瓶(かめ)にさされたるを御覧(ごらん)じて、かくよませ給(たま)へるにこそ。
年経(ふ)ればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば物(もの)思(おも)ひもなし 
后を、花にたとへ申(まう)させ給(たま)へるにこそ。
かくれ給(たま)ひて、白川(しらかは)にをさめ奉(たてまつ)る日、素性(そせい)ぎみのよみ給(たま)へりしは、
血の涙落ちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ
皆人(みなひと)知ろしめしたらめど、物(もの)を申(まう)しはやりぬれば、さぞ侍(はべ)る。かくいみじき幸(さいは)ひ人(びと)の、子の御座(おは)しまさぬこそ口惜(くちを)しけれ。御兄(このかみ)の長良(ながら)の中納言、ことのほかに越えられ給(たま)ひけむ折、いかばかり辛(から)う思(おぼ)され、また世の人もことのほかに申(まう)しけめども、その御末(すゑ)こそ、今に栄え御座(おは)しますめれ。ゆく末は、ことのほかにまさり給(たま)ひける物(もの)を。 
一 右大臣良相(うだいじんよしみ)
このおとどは、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの五郎。御母は、白川の大臣に同じ。大臣の位(くらゐ)にて十一年、贈(ぞう)正一位(じやういちゐ)。西三条(さいさんでう)の大臣と申(まう)す。浄蔵定額(じやうざうぢやうがく)を御祈(いのり)の師にて御座(おは)す。千手陀羅尼(せんじゆだらに)の験徳(げんとく)かぶり給(たま)ふ人なり。この大臣の御女子の御ことよく知(し)らず。一人ぞ、水尾(みづのを)の御時の女御(にようご)。男子(をのこご)は、大納言(だいなごん)常行(ときつね)卿と聞(き)こえし。御子二人御座(おは)せしも、五位にて典薬助(てんやくのすけ)・主殿頭(とのものかみ)など言(い)ひて、いとあさくてやみ給(たま)ひにき。かくばかり末栄え給(たま)ひける中納言殿を、やへやへの御弟(おとと)にて、越え奉(たてまつ)り給(たま)ひける御あやまちにや、とこそおぼえ侍(はべ)れ。 
一 権中納言(ごんちゆうなごん)従二位左兵衛督長良(じゆにゐさひやうゑのかみながら)
この中納言は、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの太郎。母、白川(しらかはの)大臣・西三条(さいさんでうの)大臣に同じ。公卿(くぎやう)にて十三年。陽成院(ようぜいゐん)の御時に、御祖父(おほぢ)に御座(おは)するがゆゑに、元慶(ぐわんぎやう)元年正月に贈(ぞう)左大臣(さだいじん)正一位(じやういちゐ)、次に、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)。枇杷(びは)の大臣と申(まう)す。この殿(との)の御男子(をのこご)六人御座(おは)せし、その中に基経(もとつね)のおとどすぐれ給(たま)へり。 
一 太政大臣(だいじやうだいじん)基経(もとつね)  昭宣公(せうせんこう)
この大臣(おとど)は、長良の中納言の三郎に御座(おは)す。このおとどの御女(むすめ)、醍醐(だいご)の御時の后(きさき)、朱雀院(すざくゐん)并(なら)びに村上二代の御母后(ははきさき)に御座(おは)します。このおとどの御母、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)総継(ふさつぎ)の女、贈(ぞう)正一位大夫人乙春(たいふぢんおとはる)なり。陽成院(やうぜいゐん)位(くらゐ)につかせ給(たま)ひて、摂政(せつしやう)の宣旨(せんじ)かぶり給(たま)ふ。御年四十一。寛平(くわんぴやう)の御時、仁和(にんな)三年十一月二十一日、関白(くわんばく)にならせ給(たま)ふ。御年五十六にて失(う)せ給(たま)ひて、御諡号(いみな)、昭宣公と申(まう)す。公卿にて二十七年、大臣の位にて二十年、世をしらせ給(たま)ふこと十余年かとぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る。世の人、堀河(ほりかは)の大臣と申(まう)す。
小松(こまつ)の帝(みかど)の御母、この大臣(おとど)の御母、はらからに御座(おは)します。さて、児(ちご)より小松の帝(みかど)をば親しく見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけるに、
ことにふれ 迹(きやうじやく)に御座(おは)します。「あはれ君かな」と見奉(たてまつ)らせたまひけるが、
良房のおとどの大饗(だいきやう)にや、昔は親王たち、かならず大饗につかせ給(たま)ふことにて、わたらせ給(たま)へるに、雉(きじ)の足はかならず大饗に盛る物(もの)にて侍(はべ)るを、いかがしけむ、尊者(そんじや)の御前(おまへ)にとり落してけり。陪膳(はいぜん)の、皇子(みこ)の御前(おまへ)のをとりて、まどひて尊者(そんじや)の御前に据(す)うるを、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、御前の大殿油(おほとなぶら)を、やをらかい消(け)たせ給(たま)ふ。このおとどは、その折は下臈(げらふ)にて、座の末(すゑ)にて見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、「いみじうもせさせ給(たま)ふかな」と、いよいよ見めで奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、陽成院(やうぜいゐん)おりさせ給(たま)ふべき陣(ぢん)の定(さだめ)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。融(とほる)のおとど、左大臣(さだいじん)にてやむごとなくて、位(くらゐ)につかせ給(たま)はむ御心ふかくて、「いかがは。近き皇胤(くわういん)をたづねば、融らも侍(はべ)るは」と言(い)ひ出(い)で給(たま)へるを、このおとどこそ、「皇胤なれど、姓(しやう)賜(たま)はりて、ただ人(びと)にて仕へて、位につきたる例(ためし)やある」と申(まう)し出(い)で給(たま)へれ。さもあることなれと、このおとどの定(さだ)めによりて、小松(こまつ)の帝(みかど)は位につかせ給(たま)へるなり。帝(みかど)の御末もはるかに伝はり、おとどの末もともに伝はりつつ後見(うしろみ)申(まう)し給(たま)ふ。さるべく契りおかせ給(たま)へる御仲にやとぞおぼえ侍(はべ)る。
大臣(おとど)失(う)せ給(たま)ひて、深草(ふかくさ)の山(やま)にをさめ奉(たてまつ)る夜(よ)、勝延僧都(しやうえんそうづ)のよみ給(たま)ふ、
うつせみはからを見つつも慰めつ深草の山煙(けぶり)だに立て 
また、上野峯雄(かんつけのみねを)と言(い)ひし人のよみたる、
深草の野辺(のべ)の桜し心あらば今年ばかりは墨染(すみぞめ)に咲け 
などは、古今(こきん)に侍(はべ)ることどもぞかしな。御家は堀河院(ほりかはゐん)・閑院(かんゐん)とに住ませ給(たま)ひしを、堀河院をば、さるべきことの折、はればれしき料(れう)にせさせ給(たま)ふ。閑院をば、御物忌(ものいみ)や、また、うとき人などは参(まゐ)らぬ所にて、さるべくむつましく思(おぼ)す人ばかり御供(とも)に候(さぶら)はせて、わたらせ給(たま)ふ折も御座(おは)しましける。堀河院(ほりかはゐん)は地形(ぢぎやう)のいといみじきなり。大饗(だいきやう)の折、殿(との)ばらの御車の立ち様(やう)などよ。尊者(そんじや)の御車をば東に立て、牛は御橋(みはし)の平葱柱(ひらきはしら)につなぎ、こと上達部(かんだちめ)の車をば、河よりは西に立てたるがめでたきをは。「尊者の御車の別(べち)に見ゆることは、こと所は見侍(はべ)らぬ物(もの)をや」と見給(たま)ふるに、この高陽院殿(かやのゐんどの)にこそおされにて侍(はべ)れ。方四町(ほうしちやう)にて四面に大路(おほぢ)ある京中の家は、冷泉院(れいぜいゐん)のみとこそ思(おも)ひ候(さぶら)ひつれ、世の末(すゑ)になるままに、まさることのみ出(い)でまうで来るなり。この昭宣公(せうせんこう)のおとどは、陽成院(やうぜいゐん)の御舅(をぢ)にて、宇多(うだ)の帝(みかど)の御時に、准三宮(じゆさんぐう)の位(くらゐ)にて年官(ねんくわん)・年爵(ねんしやく)をえ給(たま)ひ、朱雀院(すざくゐん)・村上の祖父(おほぢ)にて御座(おは)します。「世覚(おぼ)えやむごとなし」と申(まう)せばおろかなりや。御男子(をのこご)四人御座(おは)しましき。太郎左大臣(さだいじん)時平(ときひら)、二郎左大臣(さだいじん)仲平(なかひら)、四郎太政大臣(だいじやうだいじん)忠平(ただひら)』と言(い)ふに、繁樹(しげき)、気色(けしき)ことになりて、まづうしろの人の顔うち見わたして、『それぞ、いはゆる、この翁(おきな)が宝の君貞信公(ていしんこう)に御座(おは)します』とて、扇(あふぎ)うちつかふ顔もち、ことにをかし。
《世継》『三郎にあたり給(たま)ひしは、従三位(じゆさんみ)して宮内卿兼平(くないきやうかねひら)の君(きみ)と申(まう)して失(う)せ給(たま)ひにき。さるは、御母、忠良(ただよし)の式部卿(しきぶきやう)の親王の御女(むすめ)にて、いとやむごとなく御座(おは)すべかりしかど。この三人の大臣たちを、世の人、「三平」と申(まう)しき。 
一 左大臣(さだいじん)時平(ときひら)
この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康(しほんだんじやうのゐんさねやす)の親王の御女なり。醍醐(だいご)の帝(みかど)の御時、このおとど、左大臣(さだいじん)の位(くらゐ)にて年いと若くて御座(おは)します。菅原(すがはら)のおとど、右大臣の位にて御座(おは)します。その折、帝(みかど)御年いと若く御座(おは)します。左右の大臣に世の政(まつりごと)を行ふべきよし宣旨(せんじ)下さしめ給(たま)へりしに、その折、左大臣(さだいじん)、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にや御座(おは)しましけむ。ともに世の政をせしめ給(たま)ひし間(あひだ)、右大臣は才(ざえ)世にすぐれめでたく御座(おは)しまし、御心(こころ)おきても、ことのほかにかしこく御座(おは)します。左大臣(さだいじん)は御年も若く、才もことのほかに劣り給(たま)へるにより、右大臣の御おぼえことのほかに御座(おは)しましたるに、左大臣(さだいじん)やすからず思(おぼ)したるほどに、さるべきにや御座(おは)しけむ、右大臣の御ためによからぬこと出(い)できて、昌泰(しやうたい)四年正月二十五日、大宰権師(だざいのごんのそち)になし奉(たてまつ)りて、流され給(たま)ふ。
この大臣(おとど)、子どもあまた御座(おは)せしに、女君(をんなぎみ)達は婿(むこ)とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位(くらゐ)ども御座(おは)せしを、それも皆方々(かたがた)に流され給(たま)ひてかなしきに、幼く御座(おは)しける男君・女君(をんなぎみ)達慕ひ泣きて御座(おは)しければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせ給(たま)ひしぞかし。帝(みかど)の御おきて、きはめてあやにくに御座(おは)しませば、この御子どもを、同じ方(かた)につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思(おぼ)し召(め)して、御前(おまへ)の梅の花を御覧(ごらん)じて、
東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな 
また、亭子(ていじ)の帝(みかど)に聞(き)こえさせ給(たま)ふ、
流れゆく我は水宵(みくづ)となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ 
なきことにより、かく罪せられ給(たま)ふを、かしこく思(おぼ)し嘆きて、やがて山崎(やまざき)にて出家(すけ)せしめ給(たま)ひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思(おぼ)されて、
君が住む宿の梢(こずゑ)をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや 
また、播磨国(はりまのくに)に御座(おは)しましつきて、明石(あかし)の駅(むまや)といふ所に御宿りせしめ給(たま)ひて、駅の長(をさ)のいみじく思(おも)へる気色(けしき)を御覧じて、作らしめ給(たま)ふ詩、いとかなし。
駅長(えきちやう)驚クコトナカレ、時ノ変改(へんがい)
一栄一落(いつえいいつらく)、是(こ)レ春秋(しゆんじう) 
かくて筑紫(つくし)に御座(おは)しつきて、物(もの)をあはれに心ぼそく思(おぼ)さるる夕(ゆふべ)、をちかたに所々(ところどころ)煙(けぶり)立つを御覧(ごらん)じて、
夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ 
また、雲の浮きてただよふを御覧じて、
山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼(たの)まれぬ
さりともと、世を思(おぼ)し召(め)されけるなるべし。
月のあかき夜(よ)、
海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ
これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日(つきひ)こそは照らし給(たま)はめとこそはあめれ』誠(まこと)に、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしう言(い)ひつづけまねぶに、見聞(き)く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。物(もの)のゆゑ知(し)りたる人なども、むげに近く居寄(ゐよ)りて外目(ほかめ)せず、見聞(き)く気色(けしき)どもを見て、いよいよはえて物(もの)を繰(く)り出(い)だすやうに言(い)ひつづくるほどぞ、誠(まこと)に希有(けう)なるや。繁樹(しげき)、涙をのごひつつ興(きよう)じゐたり。
《世継》『筑紫に御座(おは)します所の御門(みかど)かためて御座(おは)します。大弐(だいに)の居所(ゐどころ)は遥かなれども、楼(ろう)の上の瓦(かはら)などの、心にもあらず御覧(ごらん)じやられけるに、またいと近く観音寺(くわんおんじ)といふ寺のありければ、鐘の声を聞(き)こし召(め)して、作らしめ給(たま)へる詩ぞかし、
都府楼(とふろう)ハ纔(わづか)ニ瓦ノ色ヲ看(み)ル
観音寺ハ只(ただ)鐘ノ声ヲ聴(き)ク
これは、文集(もんじふ)の、白居易(はくきよい)の遺愛寺(ゐあいじ)ノ鐘ハ欹(そばだ)テテ枕ヲ聴キ、香(かう)炉(ろ)峯(ほう)ノ雪ハ撥(かか)ゲテ簾(すだれ)ヲ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめ給(たま)へりとこそ、昔の博士ども申(まう)しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京に御座(おは)しましし時、九月の今宵(こよひ)、内裏(だいり)にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせ給(たま)ひける詩を、帝(みかど)かしこく感じ給(たま)ひて、御衣(おんぞ)賜(たま)はり給(たま)へりしを、筑紫に持(も)て下らしめ給(たま)へりければ、御覧ずるに、いとどその折思(おぼ)し召(め)し出(い)でて、作らしめ給(たま)ひける、
去年ノ今夜(こよひ)ハ清涼(せいりやう)ニ侍(はべ)リキ
秋思(しうし)ノ詩篇(しへん)ニ独(ひと)リ腸(はらわた)ヲ断(た)チキ
恩賜(おんし)ノ御衣(ぎよい)ハ今此(ここ)ニ在(あ)リ
捧(ささ)ゲ持チテ毎日余香(よかう)ヲ拝シタテマツル
この詩、いとかしこく人々感じ申(まう)されき。このことどもただちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせ給(たま)へりけるを、書きて一巻とせしめ給(たま)ひて、後集(こうしふ)と名づけられたり。また折々(をりをり)の歌(うた)書きおかせ給(たま)へりけるを、おのづから世に散り聞(き)こえしなり。 
【現代語訳】
(世継)「(菅原道真は)こうして筑紫にお着きになって、目に入るすべてのものをしみじみともの悲しく心細くお思いになっている(ある)夕方、遠くの方にところどころ煙が立ち上っているのをご覧になって、
夕方になると、野にも山にも煙が立ち上っている。(あの煙は、私の胸の中の無実の罪を悲しむ)嘆きという投げ木(薪のこと)を添えることによって、ますます激しく燃えることだ。
また、雲が(空に)浮かんで漂うのをご覧になって、
山から別れて飛んで行く雲が(夕方になって再び)帰ってくる姿を見る時は、(自分もあの雲のように再び都に帰れるのではないかと)やはり自然と頼みにせずにはいられないのだ。
それにしても(いつかは都に帰れるだろうと)、わが身の上をお思いになったのでしょう。
月の明るい晩に、
海どころではなくもっと深くたたえている水の奥底であっても、清らかな私の心は、月が照らすだろう(私はいま無実の罪で筑紫に流されているが、心は汚れていないので、天は私の清らかな心を見通してくださるだろう)。
この歌は、たいそうりっぱにお詠みになったものですね。ほんとうに、月や日だけは(私の清い心を)ご照覧くださることだろうというお気持ちであったのだと思われます。
(このように話す世継の翁は)ほんとうに大げさな(政治の)ことは言うまでもないこととして、このような和歌や漢詩などをたいそう流暢に、(しかも)重々しく(人々に)語り続けるので、(このさまを)見聞きしている人々は、目もくらむような気持ちで驚いて、(世継を)感慨深くじっと見つめているのだった。ものの道理をわきまえている人なども、(世継の)ごく近くにいざり寄ってよそ見もせずに見聞きする(人々の)様子などを見て、ますます調子に乗って、(何か糸のような)ものを繰り出すように話し続ける様子は、まことに珍しいことでしたよ。繁樹は、感涙を押し拭い押し拭いしては面白がっていた。
(世継は話を続けて)「(道真公は)筑紫ではお住みになっている家の御門を固く閉ざして(謹慎して)いらっしゃった。大宰府次官の役所は遠く離れているが、楼上の瓦などが見ようとするわけでもなく自然とお目にとまるのであったし、また、すぐ近くに観音寺という寺があったので、(道真は)鐘の音をお聞きになってお作りになったのが(次の)漢詩ですよ。
大宰府の高い建物は、わずかに屋根の瓦の色を眺めやるばかりであり(登庁することもなく)、
観音寺はただ、その鐘の声を聞いているだけであった(参詣することもなかった)。
この漢詩は、『白氏文集』にある白居易の「(私は左遷の身であるが気ままに暮らしている)遺愛寺の鐘は、(横になったまま)枕を傾けて耳を澄まし、香炉峰の雪は(座ったまま)、簾を上げて見るのである」という詩よりも優れているくらいにお作りになったと、昔の学者たちは申したそうです。また、かの筑紫で、九月九日に菊の花をご覧になった折に、まだ京にいらっしゃった時、九月のこの夜、宮中で観菊の宴があった際に、この大臣(道真公)がお作りになった漢詩を(醍醐)天皇がたいそうお誉めになって、(ごほうびに)御衣を下賜なされたものを、筑紫に持って下りなさったので、(それを)御覧になったところ、ますますその当時のことを思い出しなさって、お作りになった(漢詩は)、
去年の今夜は、清涼殿(の観菊の宴)において(帝のおそばに)侍し、
「秋思」(という)題の詩篇を作ったが、一人ひそかに断腸の思いを述べたのであった。
(その折にごほうびとして)帝がくださった御衣は、いまでもここにある。
(私は)毎日(それを)ささげ持って、残り香を拝し(聖恩のかたじけなさに感泣し)ているのである。
この漢詩を、たいそう優れていると(当時の)人々が誉め申し上げなさった」
これらの(数々の)漢詩や和歌は、すぐ散り散りになったのでもなく、あの筑紫でたくさんお作りになったものを、書き集めなさったものを一巻となさって、『菅家後集』と名付けられているのです。また、折々に詠んだ和歌は、書き置きなさった(ものだ)が、たまたま(それが)世間に流布したのです。
【解説】
筑紫に着いた道真の深い嘆きは三首の和歌に込められている。第一首には、無実の罪によって左遷された悲しみ、第二首には、いつかは都に帰れるのどはないかという期待、第三首には、天は私の清い心を見通してくださるだろうという願いなどが込められていた。道真はわが身を無実と思うものの、流刑の立場であることを自覚して、一歩も門外に出ないで謹慎していた。大宰府の庁舎はもちろんのこと、近所の観音寺を参詣することもなかった。こうして謹慎の生活を続けていた道真は、その生活の一端を漢詩で表現し、さらには、かつて宮中で催された観菊の宴を思い出して、現在の逆境を嘆きつつも天皇の御恩に感謝する心境を漢詩に託したのである。 
世継若(わか)う侍(はべ)りし時、このことのせめてあはれにかなしう侍(はべ)りしかば、大学(だいがく)の衆(しゆう)どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうの物(もの)調(てう)じて、うち具(ぐ)してまかりつつ、習ひとりて侍(はべ)りしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、皆こそ、忘れ侍(はべ)りにけれ。これはただ頗(すこぶ)る覚(おぼ)え侍(はべ)るなり』と言(い)へば、聞(き)く人々、『げにげに、いみじき好き者にも物(もの)し給(たま)ひけるかな。今の人は、さる心ありなむや』など、感じあへり。
《世継》『また、雨の降る日、うちながめ給(たま)ひて、
あめのしたかわけるほどのなければやきてし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき 
やがてかしこにて失(う)せ給(たま)へる、夜のうちに、この北野(きたの)にそこらの松を生(お)ほし給(たま)ひて、わたり住み給(たま)ふをこそは、ただ今の北野の宮と申(まう)して、現人神(あらひとがみ)に御座(おは)しますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめ給(たま)ふ。いとかしこくあがめ奉(たてまつ)り給(たま)ふめり。筑紫の御座(おは)しまし所は安楽寺(あんらくじ)と言(い)ひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などなさせ給(たま)ひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けて度々(たびたび)造らせ給(たま)ふに、円融院(ゑんゆうゐん)の御時のことなり、工(たくみ)ども、裏板(うらいた)どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出(い)でつつ、またの朝(あした)に参(まゐ)りて見るに、昨日の裏板に物(もの)のすすけて見ゆる所のありければ、梯(はし)に上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは 
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申(まう)すめりしか。かくて、このおとど、筑紫に御座(おは)しまして、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)二月二十五日に失(う)せ給(たま)ひしぞかし。御年五十九にて。
さて後(のち)七年ばかりありて、左大臣(さだいじん)時平(ときひら)のおとど、延喜(えんぎ)九年四月四日失(う)せ給(たま)ふ。御年三十九。大臣の位(くらゐ)にて十一年ぞ御座(おは)しける。本院(ほんゐん)の大臣と申(まう)す。この時平のおとどの御女(むすめ)の女御(にようご)も失(う)せ給(たま)ふ。御孫(まご)の春宮(とうぐう)も、一男八条(はちでう)の大将(だいしやう)保忠(やすただ)卿も失(う)せ給(たま)ひにきかし。この大将、八条に住み給(たま)へば、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ふほどいと遥かなるに、いかが思(おぼ)されけむ、冬は餅(もちひ)のいと大きなるをば一つ、小さきをば二つを焼きて、焼き石のやうに、御身にあてて持ち給(たま)へりけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副(くるまぞひ)に投げとらせ給(たま)ひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも、耳とどまりて人の思(おも)ひければこそ、かく言(い)ひ伝へためれ。この殿(との)ぞかし、病(やまひ)づきて、さまざま祈りし給(たま)ひ、薬師経(やくしきやう)の読経(どきやう)、枕上(まくらがみ)にてせさせ給(たま)ふに、「所謂(いはゆる)宮毘羅大将(くびらだいしやう)」とうちあげたるを、「我を『くびる』とよむなりけり」と思(おぼ)しけり。臆病(おくびやう)に、やがて絶(た)え入(い)り給(たま)へば、経の文といふ中にも、こはき物(もの)の怪(け)にとりこめられ給(たま)へる人に、げにあやしくはうちあげて侍(はべ)りかし。さるべきとはいひながら、物(もの)は折ふしの言霊(ことだま)も侍(はべ)ることなり。
その御弟(おとと)の敦忠(あつただ)の中納言も失(う)せ給(たま)ひにき。和歌の上手(じやうず)、菅絃(くわんげん)の道にもすぐれ給(たま)へりき。世にかくれ給(たま)ひて後(のち)、御遊びある折、博雅三位(ひろまさのさんみ)の、さはることありて参(まゐ)らざる時は、「今日の御遊びとどまりぬ」と、度々(たびたび)召(め)されて参(まゐ)るを見て、ふるき人々は、「世の末(すゑ)こそあはれなれ。敦忠の中納言のいますかりし折は、かかる道に、この三位、おほやけを始(はじ)め奉(たてまつ)りて、世の大事に思(おも)ひ侍(はべ)るべき物(もの)とこそ思(おも)はざりしか」とぞ宣(のたま)ひける。
先坊(せんばう)に御息所(みやすどころ)参(まゐ)り給(たま)ふこと、本院(ほんゐん)のおとどの御女(むすめ)具して三四人なり。本院のは、失(う)せ給(たま)ひにき。中将(ちゆうじやう)の御息所と聞(き)こえし、後(のち)は重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の親王の北の方にて、斎宮(さいぐう)の女御(にようご)の御母にて、そも失(う)せ給(たま)ひにき。いとやさしく御座(おは)せし。先坊を恋ひかなしび奉(たてまつ)り給(たま)ひ、大輔(たいふ)なむ、夢に見奉(たてまつ)りたると聞(き)きて、よみておくり給(たま)へる、
時の間も慰めつらむ君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき 
御返りごと、大輔、
恋しさの慰むべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば 
いま一人の御息所は、玄上(はるかみ)の宰相(さいしやう)の女にや。その後朝の使(つかひ)、敦忠(あつただ)の中納言、少将(せうしやう)にてし給(たま)ひける。宮失(う)せ給(たま)ひて後、この中納言には会(あ)ひ給(たま)へるを、かぎりなく思(おも)ひながら、いかが見給(たま)ひけむ、文範(ふみのり)の民部卿(みんぶきやう)の、播磨守(はりまのかみ)にて、殿(との)の家司(けいし)にて候(さぶら)はるるを、「我は命みじかき族(ぞう)なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞ会(あ)ひ給(たま)はむ」と宣(のたま)ひけるを、「あるまじきこと」といらへ給(たま)ひければ、「天(あま)がけりても見む。よにたがへ給(たま)はじ」など宣(のたま)ひけるが、誠(まこと)にさていまするぞかし。
ただ、この君たちの御中には、大納言(だいなごん)源昇(みなもとののぼる)の卿(きやう)の御女の腹の顕忠(あきただ)のおとどのみぞ、右大臣までなり給(たま)ふ。その位(くらゐ)にて六年御座(おは)せしかど、少し思(おぼ)すところやありけむ、出(い)でて歩(あり)き給(たま)ふにも、家内にも、大臣の作法(さほふ)をふるまひ給(たま)はず。御歩きの折は、おぼろけにて御前(ごぜん)つがひ給(たま)はず。まれまれも数少なくて、御車のしりにぞ候(さぶら)ひし。車副(くるまぞひ)四人つがはせ給(たま)はざりき。御先(みさき)も時々(ときどき)ほのかにぞ参(まゐ)りし。盥(たらひ)して御手すますことなかりき。寝殿(しんでん)の日隠(ひがくし)の間(ま)に棚(たな)をして、小桶(こをけ)に小杓(こひさご)して置かれたれば、仕丁(じちやう)、つとめてごとに、湯を持(も)て参(まゐ)りて入れければ、人してもかけさせ給(たま)はず、我(われ)出(い)で給(たま)ひて、御手づからぞすましける。御召物(めしもの)は、うるはしく御器(ごき)などにも参(まゐ)り据(す)ゑで、ただ御土器(かはらけ)にて、台などもなく、折敷(をしき)などにとり据ゑつつぞ参(まゐ)らせける。
倹約(けんやく)し給(たま)ひしに、さるべきことの折の御座と、御判所(はんしよ)とにぞ、大臣とは見え給(たま)ひし。かくもてなし給(たま)ひし故(け)にや、このおとどのみぞ、御族(ぞう)の中に、六十余りまで御座(おは)せし。四分一の家にて大饗(だいきやう)し給(たま)へる人なり。富小路(とみのこうぢ)の大臣と申(まう)す。
これよりほかの君達、皆三十余り、四十に過ぎ給(たま)はず。そのゆゑは、他(た)のことにあらず、この北野の御嘆きになむあるべき。
顕忠(あきただ)の大臣の御子、重輔(しげすけ)の右衛門佐(うゑもんのすけ)とて御座(おは)せしが御子なり、今の三井寺(みゐでら)の別当心誉僧都(べたうしんよそうづ)・山階寺(やましなでら)の権別当扶公(ごんのべたうふこう)僧都なり。この君達こそは物(もの)し給(たま)ふめれ。敦忠(あつただ)の中納言の御子あまた御座(おは)しける中に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)なにがし君(ぎみ)とかや申(ま)しし、その君出家(すけ)して往生(わうじやう)し給(たま)ひにき。その仏(ほとけ)の御子なり、石蔵(いはくら)の文慶(もんけい)僧都は。敦忠の御女子は枇杷(びは)の大納言(だいなごん)の北の方にて御座(おは)しきかし。あさましき悪事(あくじ)を申(まう)し行ひ給(たま)へりし罪により、このおとどの御末(すゑ)は御座(おは)せぬなり。さるは、大和魂(やまとだましひ)などは、いみじく御座(おは)しましたる物(もの)を。
延喜(えんぎ)の、世間の作法(さほふ)したためさせ給(たま)ひしかど、過差(くわさ)をばえしづめさせ給(たま)はざりしに、この殿(との)、制(せい)を破りたる御装束(さうぞく)の、ことのほかにめでたきをして、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひて、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふを、帝(みかど)、小蔀(こじとみ)より御覧(ごらん)じて、御気色(けしき)いとあしくならせ給(たま)ひて、職事(しきじ)を召(め)して、「世間の過差の制きびしき頃、左(ひだり)のおとどの一(いち)の人(ひと)といひながら、美麗(びれい)ことのほかにて参(まゐ)れる、便(びん)なきことなり。はやくまかり出(い)づべきよし仰(おほ)せよ」と仰(おほ)せられければ、承(うけたまは)る職事は、「いかなることにか」と怖(おそ)れ思(おも)ひけれど、参(まゐ)りて、わななくわななく、「しかじか」と申(まう)しければ、いみじくおどろき、かしこまり承(うけたまは)りて、御随身(みずいじん)の御先(みさき)参(まゐ)るも制し給(たま)ひて、急ぎまかり出(い)で給(たま)へば、御前(ごぜん)どもあやしと思(おも)ひけり。さて本院の御門(みかど)一月(ひとつき)ばかり鎖(さ)させて、御簾(みす)の外(と)にも出(い)で給(たま)はず、人などの参(まゐ)るにも、「勘当(かんだう)の重ければ」とて、会はせ給(たま)はざりしにこそ、世の過差はたひらぎたりしか。内々によく承(うけたまは)りしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝(みかど)と御心あはせさせ給(たま)へりけるとぞ。
物(もの)のをかしさをぞえ念ぜさせ給(たま)はざりける。笑ひたたせ給(たま)ひぬれば、頗(すこぶ)ることも乱れけるとか。北野と世をまつりごたせ給(たま)ふ間(あひだ)、非道(ひだう)なることを仰(おほ)せられければ、さすがにやむごとなくて、せちにし給(たま)ふことをいかがはと思(おぼ)して、「このおとどのし給(たま)ふことなれば、不便(ふびん)なりと見れど、いかがすべからむ」と嘆き給(たま)ひけるを、なにがしの史(し)が、「ことにも侍(はべ)らず。おのれ、かまへてかの御ことをとどめ侍(はべ)らむ」と申(まう)しければ、「いとあるまじきこと。いかにして」など宣(のたま)はせけるを、「ただ御覧ぜよ」とて、座につきて、こときびしく定めののしり給(たま)ふに、この史、文刺(ふんさし)に文(ふみ)挟(はさ)みて、いらなくふるまひて、このおとどに奉(たてまつ)るとて、いと高やかに鳴らして侍(はべ)りけるに、おとど文もえとらず、手わななきて、やがて笑ひて、「今日は術(ずち)なし。右(みぎ)のおとどにまかせ申(まう)す」とだに言(い)ひやり給(たま)はざりければ、それにこそ菅原(すがはら)のおとど、御心のままにまつりごち給(たま)ひけれ。
また、北野の、神にならせ給(たま)ひて、いとおそろしく神鳴(かみな)りひらめき、清涼殿(せいりやうでん)に落ちかかりぬと見えけるが、本院(ほんゐん)の大臣(おとど)、太刀(たち)を抜きさけて、「生(い)きてもわが次にこそ物(もの)し給(たま)ひしか。今日、神となり給(たま)へりとも、この世には、我に所置き給(たま)ふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりて宣(のたま)ひける。一度はしづまらせ給(たま)へりけりとぞ、世(よ)の人(ひと)、申(まう)し侍(はべ)りし。されど、それは、かの大臣(おとど)のいみじう御座(おは)するにはあらず、王威(わうゐ)のかぎりなく御座(おは)しますによりて、理非(りひ)を示させ給(たま)へるなり。 
一 左大臣(さだいじん)仲平(なかひら)
この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの次郎。御母は、本院(ほんゐん)の大臣に同じ。大臣の位(くらゐ)にて十三年ぞ御座(おは)せし。枇杷(びは)の大臣と申(まう)す。御子持たせ給(たま)はず。伊勢集(いせしふ)に、
花薄(はなすすき)われこそしたに思(おも)ひしかほに出(い)でて人にむすばれにけり 
などよみ給(たま)へるは、この人に御座(おは)す。貞信公(ていしんこう)よりは御兄なれども、三十年まで大臣になりおくれ給(たま)へりしを、つひになり給(たま)へれば、おほきおほいどのの御よろこびの歌、
おそくとくつひに咲きぬる梅の花たが植ゑおきし種にかあるらむ 
やがてその花をかざして、御対面(たいめ)の日、よろこび給(たま)へる。
廂(ひさし)の大饗(だいきやう)せさせ給(たま)ひけるにも、横さまに据ゑ参(まゐ)らせさせ給(たま)ひけるこそ、年頃(としごろ)少しかたはらいたく思(おぼ)されける御心(こころ)とけて、いかにかたみに心ゆかせ給(たま)へりけむと、御あはひめでたけれ。この殿(との)の御心、誠(まこと)にうるはしく御座(おは)しましける。皆人聞(き)き知ろしめしたることなり、申(まう)さじ。
このおとどに伊勢(いせ)の御息所(みやすどころ)の忘られてよむ歌なり。
人知(し)れずやみなましかばわびつつも無き名ぞとだに言(い)はまし物(もの)を 
一 太政大臣(だいじやうだいじん)忠平(ただひら)  貞信公(ていしんこう)
この大臣(おとど)、これ、基経(もとつね)のおとどの四郎君。御母、本院(ほんゐん)の大臣・枇杷(びは)の大臣に同じ。このおとど、延長(えんちやう)八年九月二十一日摂政、天慶(てんぎやう)四年十一月関白(くわんばく)の宣旨(せんじ)かぶり給(たま)ふ。公卿(くぎやう)にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給(たま)ふこと二十年。後(のち)の御諡号(いみな)貞信公と名づけ奉(たてまつ)る。子一条(こいちでう)の太政大臣(だいじやうだいじん)と申(まう)す。朱雀院(すざくゐん)并(なら)びに村上の御舅(をぢ)に御座(おは)します。この御子五人。その折は、御位(くらゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)にて、御太郎、左大臣(さだいじん)にて実頼(さねより)のおとど、これ、小野宮(をののみや)と申(まう)しき。二郎、右大臣師輔(もろすけ)のおとど、これを九条殿(くでうどの)と申(まう)しき。四郎、師氏(もろうじ)の大納言(だいなごん)と聞(き)こえき。五郎、また左大臣(さだいじん)師尹(もろまさ)のおとど、子一条殿と申(まう)しきかし。これ、四人君達、左右(さう)の大臣、納言(なごん)などにて、さしつづき御座(おは)しましし、いみじかりし御栄花(えいぐわ)ぞかし。女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)は、先坊(せんばう)の御息所(みやすどころ)にて御座(おは)しましき。
つねにこの三人の大臣たちの参(まゐ)らせ給(たま)ふ料(れう)に、小一条(こいちでう)の南、勘解由小路(かげゆのこうぢ)には、石畳(いしだたみ)をぞせられたりしが、まだ侍(はべ)るぞかし。宗像(むなかた)の明神(みやうじん)の御座(おは)しませば、洞院(とうゐん)・小代(こしろ)の辻子(つじ)よりおりさせ給(たま)ひしに、雨などの降る日の料とぞ承(うけたまは)りし。凡(おほよそ)その一町(ひとまち)は、人まかり歩(あり)かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩(ある)き侍(はべ)れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給(たま)ふれ。この翁(おきな)どもは、今もおぼろけにては通り侍(はべ)らず。今日も参(まゐ)り侍(はべ)るが、腰のいたく侍(はべ)りつれば、術(ずち)なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥(でい)をふみこみて候(さぶら)ひつれば、きたなき物(もの)も、かくなりて侍(はべ)るなり』とて、引き出(い)でて見す。
《世継》『「先祖の御物(もの)は何もほしけれど、小一条のみなむ要(えう)に侍(はべ)らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡(おほよそ)、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神(みやうじん)、うつつに、物(もの)など申(まう)し給(たま)ひけり。「我よりは御位(くらゐ)高くて居(ゐ)させ給(たま)へるなむ、くるしき」と申(まう)し給(たま)ひければ、いと不便(ふびん)なる御こととて、神の御位申(まう)しあげさせ給(たま)へるなり。
この殿(との)、何(いづれ)の御時とは覚(おぼ)え侍(はべ)らず、思(おも)ふに、延喜(えんぎ)・朱雀院(すざくゐん)の御ほどにこそは侍(はべ)りけめ、宣旨(せんじ)承(うけたまは)らせ給(たま)ひて、おこなひに陣座(ぢんのざ)ざまに御座(おは)します道に、南殿(なでん)の御帳(みちやう)のうしろのほど通らせ給(たま)ふに、物(もの)のけはひして、御太刀(たち)の石突(いしづき)をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給(たま)ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪(つめ)ながくて刀(かたな)の刃(は)の様(やう)なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆(おく)したるさま見えじと念(ねん)ぜさせ給(たま)ひて、「おほやけの勅宣(ちよくせん)承(うけたまは)りて、定(さだめ)に参(まゐ)る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給(たま)へりければ、まどひてうち放(はな)ちてこそ、丑寅(うしとら)の隅(すみ)ざまにまかりにけれ。思(おも)ふに夜(よる)のことなりけむかし。こと殿(との)ばらの御ことよりも、この殿の御こと申(まう)すは、かたじけなくもあはれにも侍(はべ)るかな』とて、音(こゑ)うちかはりて、鼻度々(たびたび)うちかむめり。
《世継》『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給(たま)へるとこそ、人申(まう)し伝へたれ。天暦(てんりやく)三年八月十一日にぞ失(う)せさせ給(たま)ひける。正一位(じやういちゐ)に贈(ぞう)せられ給(たま)ふ。御年七十一。 
太政大臣(だいじやうだいじん)実頼(さねより)  清慎公(せいしんこう)
このおとどは、忠平のおとどの一男に御座(おは)します。小野宮(をののみや)のおとどと申(まう)しき。御母、寛平(くわんぴやう)法皇の御女(むすめ)なり。大臣の位(くらゐ)にて二十七年、天下執行(しふぎやう)、摂政・関白(くわんばく)し給(たま)ひて二十年ばかりや御座(おは)しましけむ。御諡号(いみな)、清慎公なり。
和歌の道にもすぐれ御座(おは)しまして、後撰(ごせん)にもあまた入り給(たま)へり。おほかた、何事にも有識(いうそく)に、御心うるはしく御座(おは)しますことは、世の人の本(ほん)にぞひかれさせ給(たま)ふ。小野宮(をののみや)の南面(みなみおもて)には、御髻(もとどり)放(はな)ちては出(い)で給(たま)ふことなかりき。そのゆゑは、稲荷(いなり)の杉のあらはに見ゆれば、「明神(みやうじん)、御覧(ごらん)ずらむに、いかでかなめげにては出(い)でむ」と宣(のたま)はせて、いみじくつつしませ給(たま)ふに、おのづから思(おぼ)し召(め)し忘れぬる折は、御袖(そで)をかづきてぞ驚きさわがせ給(たま)ひける。
この大臣(おとど)の御女子(をんなご)、女御(にようご)にて失(う)せ給(たま)ひにき。村上の御時にや、よくも覚(おぼ)え侍(はべ)らず。男君(をとこぎみ)は、時平のおとどの御女(むすめ)の腹に、敦敏(あつとし)の少将(せうしやう)と聞(き)こえし、父大臣(おとど)の御先にかくれ給(たま)ひにきかし。さていみじう思(おぼ)し嘆くに、東(あづま)のかたより、失(う)せ給(たま)へりとも知(し)らで、馬を奉(たてまつ)りたりければ、大臣(おとど)、
まだ知(し)らぬ人もありけり東路(あづまぢ)に我もゆきてぞ住むべかりける 
いとかなしきことなり」とて、目おしのごふに、
《世継》『大臣(おとど)の御童名(わらはな)をば、うしかひと申(まう)しき。されば、その御族(ぞう)は、牛飼(うしかひ)を「牛つき」と宣(のたま)ふなり。
敦敏の少将(せうしやう)の子なり、佐理(すけまさ)の大弐(だいに)、世の手書(てかき)の上手(じやうず)。任はてて上(のぼ)られけるに、伊予国(いよのくに)のまへなるとまりにて、日いみじう荒れ、海のおもてあしくて、風おそろしく吹きなどするを、少しなほりて出(い)でむとし給(たま)へば、また同じやうになりぬ。かくのみしつつ日頃(ひごろ)過(す)ぐれば、いとあやしく思(おぼ)して、物(もの)問(と)ひ給(たま)へば、「神の御祟(たたり)」とのみ言(い)ふに、さるべきこともなし。いかなることにかと、怖(おそ)れ給(たま)ひける夢に見え給(たま)ひけるやう、いみじうけだかきさましたる男(をとこ)の御座(おは)して、「この日の荒れて、日頃ここに経(へ)給(たま)ふは、おのれがし侍(はべ)ることなり。よろづの社(やしろ)に額(がく)のかかりたるに、おのれがもとにしもなきがあしければ、かけむと思(おも)ふに、なべての手して書かせむがわろく侍(はべ)れば、われに書かせ奉(たてまつ)らむと思(おも)ふにより、この折ならではいつかはとて、とどめ奉(たてまつ)りたるなり」と宣(のたま)ふに、「たれとか申(まう)す」と問(と)ひ申(まう)し給(たま)へば、「この浦の三島(みしま)に侍(はべ)る翁(おきな)なり」と宣(のたま)ふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申(まう)すと思(おぼ)すに、おどろき給(たま)ひて、またさらにもいはず。
さて、伊与(いよ)へわたり給(たま)ふに、多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまに追風(おひかぜ)吹きて、飛ぶがごとくまうで着き給(たま)ひぬ。湯度々(たびたび)浴(あ)み、いみじう潔斎(けつさい)して、清(きよ)まはりて、昼(ひ)の装束(さうぞく)して、やがて神の御前(おまへ)にて書き給(たま)ふ。神司(かみづかさ)ども召(め)し出(い)だして打たせなど、よく法(はふ)のごとくして帰り給(たま)ふに、つゆ怖(おそ)るることなくて、すゑずゑの船にいたるまで、たひらかに上(のぼ)り給(たま)ひにき。わがすることを人間(にんげん)にほめ崇(あが)むるだに興(きよう)あることにてこそあれ、まして神の御心にさまでほしく思(おぼ)しけむこそ、いかに御心おごりし給(たま)ひけむ。また、おほよそこれにぞ、いとど日本第一の御手のおぼえはとり給(たま)へりし。六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の額も、この大弐(だいに)の書き給(たま)へるなり。されば、かの三島(みしま)の社(やしろ)の額と、この寺のとは同じ御手に侍(はべ)り。
御心ばへぞ、懈怠者(けだいしや)、少しは如泥人(じよでいにん)とも聞(き)こえつべく御座(おは)せし。故(こ)中関白殿(なかのくわんばくどの)、東三条(とうさんでう)つくらせ給(たま)ひて、御障子(しやうじ)に歌絵(うたゑ)ども書かせ給(たま)ひし色紙形(しきしがた)を、この大弐に書かせまし給(たま)ひけるを、いたく人さわがしからぬほどに、参(まゐ)りて書かれなばよかりぬべかりけるを、関白(くわんばく)殿わたらせ給(たま)ひ、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)など、さるべき人々参(まゐ)りつどひて後(のち)に、日高く待たれ奉(たてまつ)りて参(まゐ)り給(たま)ひければ、少し骨(こち)なく思(おぼ)し召(め)さるれど、さりとてあるべきことならねば、書きてまかで給(たま)ふに、女の装束かづけさせ給(たま)ふを、さらでもありぬべく思(おぼ)さるれど、捨つべきことならねば、そこらの人の中をわけ出(い)でられけるなむ、なほ懈怠の失錯(しつさく)なりける。「のどかなる今朝(けさ)、とくもうち参(まゐ)りて書かれなましかば、かからましやは」とぞ、皆人(みなひと)も思(おも)ひ、みづからも思(おぼ)したりける。「むげの、その道、なべての下臈(げらふ)などにこそ、斯様(かやう)なることはせさせ給(たま)はめ」と、殿(との)をも謗(そし)り申(まう)す人々ありけり。
その大弐(だいに)の御女(むすめ)、いとこの懐平(やすひら)の右衛門督(うゑもんのかみ)の北の方にて御座(おは)せし、経任(つねたふ)の君の母よ。大弐におとらず、女手書(をんなてかき)にて御座(おは)すめり。大弐の御妹は、法住寺(ほふぢゆうじ)のおとどの北の方にて御座(おは)す。その御腹(はら)の女君(をんなぎみ)は、花山院(くわざんゐん)の御時の弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)、また、入道(にふだう)中納言の御北の方。また、男子(をのこご)は、今の中宮(ちゆうぐう)の大夫斎信(だいぶただのぶ)の卿(きやう)とぞ申(まう)すめる。
小野宮(をののみや)の大臣(おとど)の三郎、敦敏(あつとし)の少将(せうしやう)の同じ腹の君(ぎみ)、右衛門督までなり給(たま)へりし、斎敏(ただとし)とぞ聞(き)こえしかし。その御男君、播磨守(はりまのかみ)尹文(まさぶん)の女の腹に三所(みところ)御座(おは)せし。太郎は高遠(たかとほ)の君、大弐にて失(う)せ給(たま)ひにき。二郎は懐平(やすひら)とて、中納言・右衛門督までなり給(たま)へりし。その御男子なり、今の右兵衛督経通(うひやうゑのかみつねみち)の君、また侍従宰相資平(じじゆうのさいしやうすけひら)の君、今の皇太后宮権大夫(くわうたいごうぐうのごんのだいぶ)にて御座(おは)すめる。その斎敏の君の御男子、御祖父(おほぢ)の小野宮(をののみや)のおとどの御子にし給(たま)ひて、実資(さねすけ)とつけ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、いみじうかなしうし給(たま)ひき。このおとどの御名の文字なり、「実」文字は』
といふほども、あまり才(ざえ)がりたりや。「童名(わらはな)は、大学丸(だいがくまろ)とぞつけたりける。
『その君こそ、今の小野宮(をののみや)の右大臣と申(まう)して、いとやむごとなくて御座(おは)すめり。このおとどの、御子なき嘆きをし給(たま)ひて、わが御甥(をひ)の資平の宰相を養ひ給(たま)ふめり。末に、宮仕人(みやづかへびと)を思(おぼ)しける腹に出(い)で御座(おは)したる男子は、法師にて、内供良円(ないぐりやうゑん)の君(きみ)とて御座(おは)す。また、さぶらひける女房(にようばう)を召(め)しつかひ給(たま)ひけるほどに、おのづから生まれ給(たま)へりける女君(をんなぎみ)、かくや姫(ひめ)とぞ申(まう)しける。この母は頼忠(よりただ)の宰相の乳母子(めのとご)。北の方は、花山院の女御、為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の御女(むすめ)。院そむかせ給(たま)ひて、道信(みちのぶ)の中将(ちゆうじやう)も懸想(けさう)し申(まう)し給(たま)ふに、この殿参(まゐ)り給(たま)ひにけるを聞(き)きて、中将(ちゆうじやう)の聞(き)こえ給(たま)ひしぞかし、
うれしきはいかばかりかは思(おも)ふらむ憂(う)きは身にしむ心地(ここち)こそすれ 
この女御、殿に候(さぶら)ひ給(たま)ひしなり
この女君(をんなぎみ)、千日(せんにち)の講(こう)おこなひ給(たま)ふ。資家(すけいへ)の中納言の上(うへ)の腹なり。兼頼(かねより)の中納言の北の方にて失(う)せ給(たま)ひにき。おほかた、子かたく御座(おは)しましける族(ぞう)にや。これも、中宮(ちゆうぐう)の権大夫(ごんのだいぶ)の上も、継子(ままこ)を養ひ給(たま)へる。
この女君(をんなぎみ)を、小野宮(をののみや)の寝殿(しんでん)の東面(ひんがしおもて)に帳(ちやう)たてて、いみじうかしづき据ゑ奉(たてまつ)り給(たま)ふめり。いかなる人か御婿(むこ)となり給(たま)はむとすらむ。
かの殿は、いみじき隠(こも)り徳人(とくにん)にぞ御座(おは)します。故(こ)小野宮(をののみや)のそこばくの宝物(たからもの)・荘園(しやうゑん)は、皆この殿にこそはあらめ。殿づくりせられたるさま、いとめでたしや。対(たい)・寝殿・渡殿(わたどの)は例のことなり、辰巳(たつみ)の方(はう)に三間四面の御堂(みだう)たてられて、廻廊は皆、供僧(ぐそう)の房(ばう)にせられたり。湯屋(ゆや)に大きなる鼎(かなへ)二つ塗(ぬ)り据(す)ゑられて、煙(けぶり)立たぬ日なし。御堂には、金色(こんじき)の仏多く御座(おは)します。供米(くまい)三十石(こく)を、定図(ぢやうづ)におかれて絶ゆることなし。御堂へ参(まゐ)る道は、御前(おまへ)の池よりあなたをはるばると野につくらせ給(たま)ひて、時々(ときどき)の花・紅葉(もみぢ)を植ゑ給(たま)へり。また舟に乗りて池より漕(こ)ぎても参(まゐ)る。これよりほかに道なし。
これよりほかの道なきけにや、心やすきけなし。さだめて、三日精進(かさうじ)なり。さらずはあへてたひらかに参(まゐ)るべきならず。
住僧(ぢゆうそう)にはやむごとなき智者(ちしや)、あるいは持経者(ぢきやうじや)・真言師(しんごんし)どもなり。これに夏冬の法服(ほふぶく)を賜(た)び、供料(くれう)をあて賜びて、わが滅罪生善(めつざいじやうぜん)の祈(いのり)、また姫君の御息災を祈り給(たま)ふ。
この小野宮(をののみや)をあけくれつくらせ給(たま)ふこと、日に工(たくみ)の七八人絶(た)ゆることなし。世の中に手斧(てをの)の音する所は、東大寺(とうだいじ)とこの宮とこそは侍(はべ)るなれ。祖父(おほぢ)おほいどのの、とりわき給(たま)ひししるしは御座(おは)する人なり。まこと、この御男子は、今の伯耆守(ははきのかみ)資頼(すけより)と聞(き)こゆめるは、姫君の御一(ひと)つ腹(ばら)にあらず、いづれにかありけむ。 
一 太政大臣(だいじやうだいじん)頼忠(よりただ)  廉義公(れんぎこう)
このおとどは、小野宮(をののみや)実頼(さねより)のおとどの二郎なり。御母、時平(ときひら)の大臣の御女(むすめ)、敦敏(あつとし)の少将(せうしやう)の御同(おな)じ腹(はら)なり。大臣の位(くらゐ)にて十九年、関白(くわんばく)にて九年、この生(しやう)きはめさせ給(たま)へる人ぞかし。三条(さんでう)よりは北、西洞院(にしのとうゐん)より東(ひんがし)に住み給(たま)ひしかば、三条殿と申(まう)す。
この大臣(おとど)、いみじきことどもしおき給(たま)へる人なり。賀茂詣(かもまうで)に、検非違使(けびゐし)、車のしりに具(ぐ)すること、また馬の上の随身(ずいじん)、左右(さう)に四人つがはしむることも、この殿(との)のしいで給(たま)へり。古(いにしへ)は、物節(もののふし)のかぎり、一人づつありて、府生(ふしやう)はなくて侍(はべ)りしなり。一(いち)の人(ひと)御座(おは)すなど見ゆること侍(はべ)らざりけり。必ずかく侍(はべ)るなりけることなりかし。あまりよろづしたためあまり給(たま)ひて、殿(との)のうちに宵(よひ)にともしたる油を、またのつとめて、侍(さぶらひ)に油瓶(あぶらがめ)を持たせて、女房(にようばう)の局(つぼね)までめぐりて、残りたるを返し入れて、また、今日の油にくはへてともさせ給(たま)ひけり。あまりにうたてあることなりや。
一条院位(くらゐ)につかせ給(たま)ひしかば、よそ人(びと)にて、関白(くわんばく)退(の)かせ給(たま)ひにき。ただ、おほきおほいどのと申(まう)して、四条(しでう)の宮(みや)にこそは、一つに住ませ給(たま)ひしか。それに、この前(さき)の師殿(そちどの)は、時の一(いち)の人(ひと)の御孫(まご)にて、えもいはずはなやぎ給(たま)ひしに、六条殿(ろくでうどの)の御婿(むこ)にて御座(おは)せしかば、つねに西洞院(にしのとうゐん)のぼりに歩(あり)き給(たま)ふを、こと人(ひと)ならばこと方(かた)よりよきても御座(おは)すべきを、大后(おほきさき)・太政大臣(だいじやうだいじん)の御座(おは)します前を、馬にてわたり給(たま)ふ。おほきおほいどのいとやすからず思(おぼ)せども、いかがはせさせ給(たま)はむ。なほいかやうにてかとゆかしく思(おぼ)して、中門(ちゆうもん)の北廊(きたのらう)の連子(れんじ)よりのぞかせ給(たま)へば、いみじうはやる馬にて、御紐(ひも)おしのけて、雑色(ざふしき)二三十人ばかりに、先(さき)いと高く御座(おは)せて、うち見いれつつ、馬の手綱(たづな)ひかへて、扇(あふぎ)高くつかひて通り給(たま)ふを、あさましく思(おぼ)せど、なかなかなることなれば、こと多くも宣(のたま)はで、ただ、「なさけなげなる男(をのこ)にこそありけれ」とばかりぞ申(まう)し給(たま)ひける。非常(ひじやう)のことなりや。さるは、師中納言殿(そちのちゆうなごんどの)の上(うへ)の六条殿(ろくでうどの)の姫君は、母は三条殿の御女に御座(おは)すれば、御孫ぞかし。されば、人よりは参(まゐ)りつかまつりだにこそし給(たま)ふべかりしか。この頼忠(よりただ)のおとど、一(いち)の人(ひと)にて御座(おは)しまししかど、御直衣(なほし)にて内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ふこと侍(はべ)らざりき。奏(そう)せさせ給(たま)ふべきことある折は、布袴(ほうこ)にてぞ参(まゐ)り給(たま)ふ。さて、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。年中行事(ねんちゆうぎやうじ)の御障子(さうじ)のもとにて、さるべき職事蔵人(しきじくらうど)などしてぞ、奏せさせ給(たま)ひ、承(うけたまは)り給(たま)ひける。また、ある折は、鬼間(おにのま)に帝(みかど)出(い)でしめ給(たま)ひて、召(め)しある折ぞ参(まゐ)り給(たま)ひし。関白(くわんばく)し給(たま)へど、よその人に御座(おは)しましければにや。
故(こ)中務卿代明(なかつかさきやうよあきら)の親王の御女の腹に、御女二人・男子一人御座(おは)しまして、大姫君(おほひめぎみ)は、円融院(ゑんゆうゐん)の御時の女御(にようご)にて、天元(てんげん)五年三月十一日に后(きさき)にたち給(たま)ひ、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)しき。御年二十六。御子(みこ)御座(おは)せず。四条(しでう)の宮とぞ申(まう)すめりし。いみじき有心者(うしんじや)・有識(いうぞく)にぞいはれ給(たま)ひし。功徳(くどく)も御祈(いのり)も如法(によほふ)に行はせ給(たま)ひし。毎年の季(き)の御読経(みどきやう)なども、つねのこととも思(おぼ)し召(め)したらず、四日がほど、二十人の僧を、房(ばう)のかぎりめでたくて、かしづき据ゑさせ給(たま)ひ、湯あむし、斎(とき)などかぎりなく如法に供養(くやう)せさせ給(たま)ひ、御前(おまへ)よりも、とりわきさるべきものども出(い)ださせ給(たま)ふ。御みづからも清き御衣(おんぞ)奉(たてまつ)り、かぎりなくきよまはらせ給(たま)ひて、僧に賜(た)ぶものどもは、まづ御前にとり据ゑさせて置かせ給(たま)ひて後(のち)につかはしける。恵心(ゑしん)の僧都(そうづ)の頭陀行(づだぎやう)せられける折に、京中こぞりて、いみじき御斎(とき)を設(まう)けつつ参(まゐ)りしに、この宮には、うるはしくかねの御器(ごき)ども失(う)せ給(たま)へりしかば、「かくてあまり見ぐるし」とて、僧都は迄食(こつじき)とどめ給(たま)ひてき。
いま一所(ひとところ)の姫君(ひめぎみ)、花山院(くわさんゐん)の御時の女御(にようご)にて、四条宮に尼にて御座(おは)しますめり。
やがて后・女御の一(ひと)つ腹(ばら)の男君、ただ今の按察(あぜちの)大納言(だいなごん)公任(きんたふ)卿と申(まう)す。小野宮(をののみや)の御孫(むまご)なればにや、和歌の道すぐれ給(たま)へり。世にはづかしく心にくきおぼえ御座(おは)す。その御女(むすめ)、ただ今の内大臣の北の方にて、年頃(としごろ)多くの君達うみつづけ給(たま)へりつる、去年(こぞ)の正月に失(う)せ給(たま)ひて、大納言(だいなごん)よろづを知(し)らず、思(おぼ)し嘆くことかぎりなし。また、男君一人ぞ御座(おは)する。左大弁定頼(さだいべんさだより)の君、若殿上人(わかてんじやうびと)の中に、心あり、歌なども上手(じやうず)にて御座(おは)すめり。母北の方いとあてに御座(おは)すかし。村上の九の宮の御女(むすめ)、多武峯(たむのみね)の入道(にふだう)の少将(せうしやう)、まちをさ君(ぎみ)の御女の腹(はら)なり。内大臣殿の上(うへ)も、この弁の君も、されば御なからひいとやむごとなし。
この大納言(だいなごん)殿、無心(むしん)のこと一度ぞ宣(のたま)へるや。御妹の四条(しでう)の宮(みや)の、后(きさき)にたち給(たま)ひて、初めて入内(じゆだい)し給(たま)ふに、洞院(とうゐん)のぼりに御座(おは)しませば、東三条(とうさんでう)の前をわたらせ給(たま)ふに、大入道(おほにふだう)殿(どの)も、故(こ)女院(にようゐん)も胸痛く思(おぼ)し召(め)しけるに、按察(あぜちの)大納言(だいなごん)は后の御せうとにて、御心地(ここち)のよく思(おぼ)されけるままに、御馬をひかへて、「この女御は、いつか后にはたち給(たま)ふらむ」と、うち見入れて宣(のたま)へりけるを、殿(との)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、その御族(ぞう)やすからず思(おぼ)しけれど、男宮(をのこみや)御座(おは)しませば、たけくぞ。よその人々も、「益(やく)なくも宣(のたま)ふかな」と聞(き)き給(たま)ふ。一条院(いちでうゐん)、位(くらゐ)につき給(たま)へば、女御、后にたち給(たま)ひて入内し給(たま)ふに、大納言(だいなごん)殿(どの)の、亮(すけ)につかまつり給(たま)へるに、出車(いだしぐるま)より扇をさし出(い)だして、「やや、物(もの)申(まう)さむ」と、女房(にようばう)の聞(き)こえければ、「何事にか」とて、うち寄り給(たま)へるに、進(しん)の内侍(ないし)、顔をさし出(い)でて、「御妹の素腹(すばら)の后は、いづくにか御座(おは)する」と聞(き)こえかけたりけるに、「先年のことを思(おも)ひおかれたるなり。自(みづか)らだにいかがとおぼえつることなれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとこそおぼえしか」とこそ宣(のたま)ひけれ。されど、人柄しよろづによくなり給(たま)ひぬれば、ことにふれて捨てられ給(たま)はず、かの内侍のとがなるにてやみにき。
ひととせ、入道(にふだう)殿(どの)の大井川(おほいがは)に逍遥(せうえう)せさせ給(たま)ひしに作文(さくもん)の船(ふね)・管絃(くわんげん)の船・和歌の船と分(わか)たせ給(たま)ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給(たま)ひしに、この大納言(だいなごん)の参(まゐ)り給(たま)へるを、入道(にふだう)殿(どの)、「かの大納言(だいなごん)、いづれの船にか乗らるべき」と宣(のたま)はすれば、「和歌の船に乗り侍(はべ)らむ」と宣(のたま)ひて、よみ給(たま)へるぞかし、
をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦(にしき)きぬ人ぞなき 
申(まう)しうけ給(たま)へるかひありてあそばしたりな。御みづからも、宣(のたま)ふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜(くちを)しかりけるわざかな。さても、殿(との)の、『いづれにかと思(おも)ふ』と宣(のたま)はせしになむ、われながら心おごりせられし」と宣(のたま)ふなる。一事(ひとこと)のすぐるるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出(い)で給(たま)ひけむは、いにしへも侍(はべ)らぬことなり。
大臣(おとど)、永祚(えいそ)元年六月二十六日に、失(う)せ給(たま)ひて、贈(ぞう)正(じやう)一位になり給(たま)ふ。廉義公とぞ申(まう)しける。この大臣(おとど)の末、かくなり。 
一 左大臣(さだいじん)師尹(もろまさ)
この大臣(おとど)、忠平のおとどの五郎、小一条(こいちでう)の大臣(おとど)と聞えさせ給(たま)ふめり。御母、九条殿に同じ。大臣の位にて三年。左大臣(さだいじん)にうつり給(たま)ふこと、西宮殿(にしのみやどの)、筑紫へ下り給(たま)ふ御替(かはり)なり。その御ことのみだれは、この小一条の大臣(おとど)のいひ出(い)で給(たま)へるとぞ、世の人聞えし。さて、その年も過(すぐ)さず失(う)せ給(たま)ふことをこそ申(まう)すめりしか。それも誠(まこと)にや。 
御娘(むすめ)、村上の御時の宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)、かたちをかしげにうつくしう御座(おは)しけり。内(うち)へ参(まゐ)り給(たま)ふとて、御車(みくるま)に奉(たてまつ)り給(たま)ひければ、わが御身は乗り給(たま)ひけれど、御(み)ぐしのすそは、母屋(もや)の柱のもとにぞ御座(おは)しける。一筋(すぢ)をみちのくにがみに置きたるに、いかにもすき見えずとぞ申(まう)し伝へためる。御目のしりの少しさがり給(たま)へるが、いとどらうたく御座(おは)するを、帝(みかど)、いとかしこくときめかさせ給(たま)ひて、かく仰(おほ)せられけるとか、
生(い)きての世死にてののちの後(のち)の世もはねをかはせる鳥となりなむ 
御返し、女御(にようご)、
秋になることの葉だにもかはらずはわれもかはせる枝となりなむ 
古今うかべ給(たま)へりと聞(き)かせ給(たま)ひて、帝(みかど)、こころみに本(ほん)をかくして、女御には見せさせ給(たま)はで、「やまとうたは」とあるを始(はじ)めにて、まへの句のことばを仰(おほ)せられつつ、問(と)はせ給(たま)ひけるに、いひたがへ給(たま)ふこと、詞(ことば)にても歌にてもなかりけり。かかることなむと、父大臣(おとど)は聞(き)き給(たま)ひて、御装束(しやうぞく)して、手洗(あら)ひなどして、所々(ところどころ)に誦経(ずきやう)などし、念じ入りてぞ御座(おは)しける。帝(みかど)、箏(しやう)の琴(こと)をめでたくあそばしけるも、御心(みこころ)にいれてをしへなど、かぎりなくときめき給(たま)ふに、冷泉院の御母后(ははきさき)失(う)せ給(たま)ひてこそ、なかなかこよなく覚(おぼ)え劣り給(たま)へりとは聞え給(たま)ひしか。「故(こ)宮(みや)のいみじうめざましく、やすらかぬ物(もの)に思(おぼ)したりしかば、思(おも)ひ出づるに、いとほしく、くやしきなり」とぞ仰(おほ)せられける。 
【現代語訳】
(世継)「(左大臣師尹公の)御娘(芳子)は、村上天皇の御代の宣耀殿の女御で、ご容貌が美しくかわいらしくていらっしゃった。宮中へ参内なさろうとして、お車にお乗りになったところ、ご自身の(お体)は(お車に)お乗りになったけれど、御髪の先は(まだ)母屋の柱のもとにおありだったそうです。(また、髪の)一筋を檀紙の上に置いたところ、少しも(白い紙の)透き間が見えなかったと申し伝えているようです。御目尻が少し下がっていらっしゃるのが、いっそうかわいらしくていらっしゃたので、天皇は(芳子さまを)たいそう深くご寵愛なさって、このようにおっしゃったとかいうことです。
生きている現世でも死んでから後の来世でも、羽を並べて一体となって飛ぶという比翼の鳥(のようになって、いつまでも離れずに愛し合うように)なりたいものだ。
その返歌として、女御(が次のような歌を詠みました)。
秋になって(木の葉の色が変わるように、人の心にも秋が来ると、前に誓った言葉も変わってしまうものですが、もし、ただいまの)お言葉にお変わりさえないならば、私も枝を連ねて生えているという連理の枝のように、(いつまでも離れずに)おそばにいたいものです。
(この女御が)『古今和歌集』を暗記していらっしゃるとお聞きになって、(村上)天皇が試しに(古今集)の本を隠して、女御にはお見せにならないで、(古今集・仮名序の)「やまと歌は」とあるところを初めとして、(歌の)第一句の言葉を次々とおっしゃっては、(続きの句を)お尋ねになったところ、(女御が)言い間違えなさることは詞書きでも歌でもなかったそうです。(宮中で)このようなことが(行われている)と、父の大臣(師尹公)がお聞きになって、御正装して、手洗いなどして(身を清め)、あちらこちらの寺に読経など(を頼むことを)し、(ご自分も)一心に祈っていらっしゃたそうです。(また)天皇は、箏の琴をみごとにお弾きになりましたが、(この女御に)ご熱心にお教えになるなど、(女御は)この上なく(天皇の)ご寵愛をお受けになりましたが、冷泉院の御母である后(安子)がお亡くなりになって(からは)、かえってひどくご寵愛が衰えなさったというおうわさでした。(村上天皇は)『亡くなった中宮(安子)が(この女御を)非常に心外で我慢ならない者とお思いになっていたので、(そのことを)思い出すと、(中宮が)かわいそうで、(女御ばかりを愛したことが)悔やまれるのだ』とおっしゃいました」。
【解説】
村上天皇から寵愛された愛らしく賢い女御の話が、政治的な男の世界から切り離されて述べられている。まず、その容貌について「かたちをかしげに、うつくしうおはしけり」と紹介した世継は、次に、美人の条件とされる「髪」について伝承をもとにして、一つは全体の長さについて、もう一つは一筋だけを取り上げて分析的に語った。さらには、帝を登場させて、情の細やかな歌のやりとりを紹介する。それは、当時の貴族たちに愛唱された『長恨歌』の末尾近くの一節を踏まえた相聞歌(そうもんか)であった。
後半では、彼女の教養の深さを伝える逸話として、古今集の暗唱についての試問が語られる。その部分は、『枕草子』の「清涼殿の丑寅の隅の」の一節を参考にして書かれたものと推測されるので、その一部を紹介すると、「村上の御時に、宣耀殿の女御ときこえけるは、小一条の左のおほい殿の御女におはしけると、誰かは知り奉らざらむ。まだ姫君ときこえける時、父大臣の教へきこえ給ひけることは、『一には、御手を習ひ給へ。次には、琴の御琴を人よりことに弾きまさらむと思せ。さては、古今の歌二十巻をみな浮かべさせ給ふを、御学問にはせさせ給へ』となむきこえ給ひけると(帝が)聞こし召しおきて、御物忌なりける日、古今もて渡らせ給ひて、御几帳をひき隔てさせ給ひければ、女御、例ならずあやしと思しけるに、草子をひろげさせ給ひて、(帝)『その月、何のをり、その人の詠みたる歌はいかに』と問ひきこえさせたまふ」というものであった。『大鏡』の作者は、これを踏まえたのであろうが、話の展開の仕方が平板であり、男性を主人公とした政界の裏話のような生き生きとしたものは感じられない。だが、当時の女性の教養として、書道・音楽・和歌が必須のものであったという資料としての側面は評価できるものである。 
この女御の御腹に、八の宮とて男親王(をとこみこ)一人生れ給(たま)へり。御かたちなどは清げに御座(おは)しけれど、御心きはめたる白物(しれもの)とぞ、聞(き)き奉(たてまつ)りし。世の中のかしこき帝(みかど)の御ためしに、もろこしには堯(げう)・舜(しゆん)の帝(みかど)と申(まう)し、この国には延喜(えんぎ)・天暦(てんりやく)とこそは申(まう)すめれ。延喜(えんぎ)とは醍醐(だいご)の先帝(せんだい)、天暦とは村上の先帝の御ことなり。その帝(みかど)の御子(みこ)、小一条(こいちでう)の大臣(おとど)の御孫(まご)にて、しかしれ給(たま)へりける、いとどあやしきことなりかし。
その母女御の御せうと、済時(なりとき)の左大将と申(ま)しし、長徳(ちやうとく)元年己未(つちのとひつじ)四月二十三日失(う)せ給(たま)ひにき、御年五十五.この大将は、父大臣よりも御心(こころ)ざまわづらはしく、くせぐせしきおぼえまさりて、名聞(みやうもん)になどぞ御座(おは)せし。御妹の女御(にようご)殿(どの)に、村上の、琴をしへさせ給(たま)ひける御前(おまへ)に候(さぶら)ひ給(たま)ひて、聞(き)き給(たま)ふほどに、おのづから、われもその道の上手(じやうず)に、人にも思(おも)はれ給(たま)へりしを、おぼろけにて心よくならし給(たま)はず、さるべきことの折も、せめてそそのかされて、物(もの)一つばかりかきあはせなどし給(たま)ひしかば、「あまりけにくし」と、人にもいはれ給(たま)ひき。人の奉(たてまつ)りたる贄(にへ)などいふ物(もの)は、御前(おまへ)の庭にとりおかせ給(たま)ひて、夜(よる)は贄殿(にへどの)に納(をさ)め、昼はまたもとのやうにとり出(い)でつつ置かせなど、また人の奉(たてまつ)りかふるまでは置かせ給(たま)ひて、とりうごかすことはせさせ給(たま)はぬ、あまりやさしきことなりな。人などの参(まゐ)るにも、かくなむと見せ給(たま)ふ料(れう)なめり。昔人(むかしびと)はさることをよきにはしければ、そのままの有様(ありさま)をせさせ給(たま)ふとぞ。
かくやうにいみじう心ありて思(おぼ)したりしほどよりは、よしなしごとし給(たま)へりとぞ、人にいはれ給(たま)ふめりし。御甥(をひ)の八の宮に大饗(たいきやう)せさせ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、上戸(じやうご)に御座(おは)すれば、人々酔(ゑ)はしてあそばむなど思(おぼ)して、「さるべき上達部(かんだちめ)たちとく出づる物(もの)ならば、『しばし』など、をかしきさまにとどめさせ給(たま)へ」と、よくをしへまうさせ給(たま)へりけり。さこそ人がらあやしくしれ給(たま)へれど、やむごとなき親王(みこ)の大事(だいじ)にし給(たま)ふことなれば、人々あまた参(まゐ)りたりしも古体(こたい)なりかし。されど、公事(おほやけごと)さしあはせたる日なれば、いそぎ出(い)で給(たま)ふに、まことさることありつ、と思(おぼ)し出(い)でて、大将の御方をあまたたび見やらせ給(たま)ふに、目をくはせ給(たま)へば、御おもていと赤くなりて、とみにえうち出(い)でさせ給(たま)はず、物(もの)も仰(おほ)せられで、にはかにおびゆるやうに、おどろおどろしくあららかに、人々の上(うへ)の衣(きぬ)の片袂(かたたもと)落ちぬばかり、とりかからせ給(たま)ふに、参(まゐ)りと参(まゐ)る上達部(かんだちめ)は、末の座まで見合せつつ、えしづめずやありけむ、顔けしきかはりつつ、とりあへずことにことをつけつつなむ急ぎ立ちぬ。この入道(にふだう)殿(どの)などは、若殿上人(わかてんじやうびと)にて御座(おは)しましけるほどなれば、ことすゑにてよくも御覧(ごらん)ぜざりけり。「ただ人々のほほゑみて出(い)で給(たま)ひしをぞ見し」とぞ、この頃、をかしかりしことに語り給(たま)ふなる。大将は、「なにせむにかかることをせさせ奉(たてまつ)りて、また、しか宣(のたま)へとも、をしへきこえさせつらむ」と、くやしく思(おぼ)すに、御色も青くなりてぞ御座(おは)しける。誠(まこと)に、親王(みこ)をば、もとよりさる人と知(し)りまうしたれば、これをしも、謗(そし)りまうさず、この殿(との)をぞ、「かかる御心を見る見る、せめてならであるべきことならぬに、かく見ぐるしき御有様(ありさま)を、あまた人に見せきこえ給(たま)へること」とぞ、謗りまうしし。いみじき心ある人と世覚(おぼ)え御座(おは)せし人の、口惜(くちを)しき辱号(ぞくがう)とり給(たま)へるよ。
この殿の御北の方にては、枇杷(びわ)の大納言(だいなごん)延光(のぶみつ)の御女(むすめ)ぞ御座(おは)する。女君(をんなぎみ)二所(ふたところ)・男君二人ぞ御座(おは)せし。女君(をんなぎみ)は、三条院の東宮(とうぐう)にて御座(おは)しましし折の女御(にようご)にて、宣耀殿と申(まう)して、いと時に御座(おは)しましし。男親王(をとこみこ)四所(よところ)・女宮二人、生れ給(たま)へりしほどに、東宮(とうぐう)、位につかせ給(たま)ひてまたの年、長和(ちやうわ)元年四月二十八日、后(きさき)にたち給(たま)ひて、皇后宮(くわうごうぐう)と申(まう)す。また、いま一所の女君(をんなぎみ)は、父殿(ちちとの)失(う)せ給(たま)ひにし後(のち)、御心(こころ)わざに、冷泉院の四(し)の親王(みこ)、師(そち)の宮(みや)と申(まう)す御上(うへ)にて、二三年ばかり御座(おは)せしほどに、宮、和泉式部(いづみしきぶ)に思(おぼ)しうつりにしかば、本意(ほい)なくて、小一条に帰らせ給(たま)ひにし後(のち)、この頃、聞(き)けば、心えぬ有様(ありさま)の、ことのほかなるにてこそ御座(おは)すなれ。
この殿の御おもておこし給(たま)ふは、皇后宮(くわうごうぐう)に御座(おは)しましき。この宮の御腹の一の親王(みこ)敦明(あつあきら)の親王とて、式部卿(しきぶきやう)と申(まう)ししほどに、長和五年正月二十九日、三条院おりさせ給(たま)へば、この式部卿(しきぶきやう)、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひにき。御年二十三。ただし、道理あることと、皆人思(おも)ひまうししほどに、二年ばかりありて、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、宮たちと申(まう)しし折、よろづに遊びならはせ給(たま)ひて、うるはしき御有様(ありさま)いとくるしく、いかでかからでもあらばや、と思(おぼ)しなられて、皇后宮(くわうごうぐう)に、「かくなむ思(おも)ひ侍(はべ)る」と申(まう)させ給(たま)ふを、「いかでかは、げにさもとは思(おぼ)さむずる。すべてあさましく、あるまじきこと」とのみ諌(いさ)めまうさせ給(たま)ふに、思(おぼ)しあまりて、入道(にふだう)殿(どの)に御消息(せうそこ)ありければ、参(まゐ)らせ給(たま)へるに、御物語こまやかにて、「この位去りて、ただ心やすくてあらむとなむ思(おも)ひ侍(はべ)る」と聞えさせ給(たま)ひければ、「さらにさらに承(うけたまは)らじ。さは、三条院の御末はたえねと思(おぼ)し召(め)し、おきてさせ給(たま)ふか。いとあさましくかなしき御ことなり。かかる御心のつかせ給(たま)ふは、ことごとならじ、ただ冷泉院の御物(もの)の怪(け)などの思(おも)はせ奉(たてまつ)るなり。さ思(おぼ)し召(め)すべきぞ」と啓(けい)し給(たま)ふに、「さらば、ただ本意(ほい)ある出家(すけ)にこそはあなれ」と宣(のたま)はするに、「さまで思(おぼ)し召(め)すことなれば、いかがはともかくも申(まう)さむ。内(うち)に奏し侍(はべ)りてを」と申(まう)させ給(たま)ふ折にぞ、御けしきいとよくならせ給(たま)ひにける。
さて、殿(との)、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひて、大宮(おほみや)にも申(まう)させ給(たま)ひければ、いかがは聞(き)かせ給(たま)ひけむな。このたびの東宮(とうぐう)には式部卿(しきぶきやう)の宮をとこそは思(おぼ)し召(め)すべけれど、一条院の、「はかばかしき御後見(うしろみ)なければ、東宮(とうぐう)に当代(たうだい)を奉(たてまつ)るなり」と仰(おほ)せられしかば、これも同じことなりと思(おぼ)しさだめて、寛仁(くわんにん)元年八月五日こそは、九つにて、三の宮、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひて、
同じ月の二十三日にこそは、壺切(つぼきり)といふ太刀(たち)は、内より持(も)て参(まゐ)りしか。当代位につかせ給(たま)ひしかば、すなはち東宮(とうぐう)にも参(まゐ)るべかりしを、しかるべきにやありけむ、とかくさはりて、この年頃(としごろ)、内(うち)の納殿(をさめどの)に候(さぶら)ひつるぞかし。
寛仁三年八月二十八日、御年十一にて、御元服(げんぶく)せさせ給(たま)ひしか。前(まへ)の東宮(とうぐう)をば小一条院(こいちでうゐん)と申(まう)す。今の東宮(とうぐう)の御有様(ありさま)、申(まう)すかぎりなし。つひのこととは思(おも)ひながら、ただいまかくとは思(おも)ひかけざりしことなりかし。
小一条院、わが御心(みこころ)と、かく退(の)かせ給(たま)へることは、これを始(はじ)めとす。世始(はじ)まりて後(のち)、東宮(とうぐう)の御位とり下(さ)げられ給(たま)へることは、九代ばかりにやなりぬらむ。中に法師(ほふし)東宮(とうぐう)御座(おは)しけるこそ、失(う)せ給(たま)ひて後(のち)に、贈(ぞう)太上(ぞうだいじやう)天皇(てんわう)と申(まう)して、六十余国にいはひすゑられ給(たま)へれ。公家(おほやけ)にも知ろしめして、官物(くわんもつ)のはつをさき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふめり。この院のかく思(おぼ)したちぬること、かつは殿下(でんか)の御報(ごはう)の早く御座(おは)しますにおされ給(たま)へるなるべし。また多くは元方(もとかた)の民部卿(みんぶきやう)の霊(りやう)のつかうまつるなり。」といへば、侍(さぶらひ)、「それもさるべきなり。このほどの御ことどもこそ、ことのほかに変りて侍(はべ)れ。なにがしは、いとくはしく承(うけたまは)ること侍(はべ)る物(もの)を」といへば、世継、「さも侍(はべ)るらむ。伝はりぬることは、いでいで承(うけたまは)らばや。ならひにしことなれば、物(もの)のなほ聞(き)かまほしく侍(はべ)るぞ」といふ。興(きよう)ありげに思(おも)ひたれば、
《侍》「ことの様体(やうだい)は、三条院の御座(おは)しましけるかぎりこそあれ、失(う)せさせ給(たま)ひにける後(のち)は、世(よ)の常(つね)の東宮(とうぐう)のやうにもなく、殿上人(てんじやうびと)参(まゐ)りて、御遊びせさせ給(たま)ひや、もてなしかしづきまうす人などもなく、いとつれづれに、まぎるるかたなく思(おぼ)し召(め)されけるままに、心やすかりし御有様(ありさま)のみ恋しく、ほけほけしきまでおぼえさせ給(たま)ひけれど、三条院御座(おは)しましつるかぎりは、院(ゐん)の殿上人(てんじやうびと)も参(まゐ)りや、御使もしげく参(まゐ)り通ひなどするに、人目もしげく、よろづ慰めさせ給(たま)ふを、院失(う)せ御座(おは)しましては、世の中の物(もの)おそろしく、大路(おほち)の道かひもいかがとのみわづらはしく、ふるまひにくきにより、宮司(みやづかさ)などだにも、参(まゐ)りつかまつることもかたくなりゆけば、ましてげすの心はいかがはあらむ、殿守司(とのもりづかさ)の下部(しもべ)、朝ぎよめつかうまつることなければ、庭の草もしげりまさりつつ、いとかたじけなき御すみかにてまします。
まれまれ参(まゐ)りよる人々は、世に聞ゆることとて、「三の宮のかくて御座(おは)しますを、心ぐるしく殿(との)も大宮(おほみや)も思(おも)ひまうさせ給(たま)ふに、『もし、内(うち)に男宮(をとこみや)も出(い)で御座(おは)しましなば、いかがあらむ。さあらぬ先に東宮(とうぐう)にたて奉(たてまつ)らばや』となむ仰(おほ)せらるなる。されば、おしてとられさせ給(たま)ふべかむなり」などのみ申(まう)すを、誠(まこと)にしもあらざらめど、げにことのさまも、よもとおぼゆまじければにや、聞(き)かせ給(たま)ふ御心地(ここち)は、いとどうきたるやうに思(おぼ)し召(め)されて、ひたぶるにとられむよりは、我(われ)とや退(の)きなまし、と思(おぼ)し召(め)すに、また、「高松殿(たかまつどの)の御匣殿(みくしげどの)参(まゐ)らせ給(たま)ひ、殿(との)、はなやかにもてなし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふべかなり」とも、例のことなれば、世(よ)の人(ひと)のさまざま定め申(まう)すを、皇后宮(くわうごうぐう)、聞(き)かせ給(たま)ひて、いみじう喜ばせ給(たま)ふを、東宮(とうぐう)は、いとよかるべきことなれど、さだにあらば、いとどわが思(おも)ふことえせじ、なほかくてえあるまじく思(おぼ)されて、御母宮に、「しかじかなむ思(おも)ふ」と聞えまうさせ給(たま)へば、「さらなりや、いといとあるまじき御ことなり。御匣殿の御ことをこそ、まことならば、すすみきこえさせ給(たま)はめ。さらにさらに思(おぼ)しよるまじきことなり」と聞えさせ給(たま)ひて、御物(もの)の怪(け)のするなりと、御祈(いのり)どもせさせ給(たま)へど、さらに思(おぼ)しとどまらぬ御心(みこころ)のうちを、いかでか世の人も聞(き)きけむ、「さてなむ、『御匣殿(みくしげどの)参(まゐ)らせ奉(たてまつ)り給(たま)へ』とも聞えさせ給(たま)ふべかなる」などいふこと、殿(との)の辺(へん)にも聞ゆれば、誠(まこと)にさも思(おぼ)しゆるぎて宣(のたま)はせば、いかがすべからむ、など思(おぼ)す。
さて東宮(とうぐう)はつひに思(おぼ)し召(め)したちぬ。後(のち)に御匣殿の御こともいはむに、なかなかそれはなどかなからむなど、よきかたざまに思(おぼ)しなしけむ、不覚(ふかく)のことなりや。
壺切(つぼきり)などのこと、僻事(ひがごと)に候(さぶら)ふめり。故(こ)三条院たびたび申(まう)させ給(たま)ひしかども、とかく申(まう)しやりて奉(たてまつ)らせざりしとこそ聞(き)き侍(はべ)りしか。されば、故(こ)院も、「さむばれ、なくともたてでは」とて、御座(おは)しまししなり。しかるべきとは、おのづからのことを申(まう)させて。
皇后宮(くわうごうぐう)にもかくとも申(まう)し給(たま)はず、ただ御心のままに、殿(との)に御消息(せうそこ)聞えむと思(おぼ)し召(め)すに、むつましうさるべき人も物(もの)し給(たま)はねば、中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)殿(ちゆうぐうごんのだいぶどの)の御座(おは)します四条の坊門(ばうもん)と西洞院(にしのとうゐん)とは宮近きぞかし、そればかりを、こと人よりはとや思(おぼ)し召(め)しよりけむ、蔵人(くらうど)なにがしを御使にて、「あからさまに参(まゐ)らせ給(たま)へ」とあるを、思(おぼ)しもかけぬことなれば、おどろき給(たま)ひて、「なにしに召(め)すぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、「申(まう)させ給(たま)ふべきことの候(さぶら)ふにこそ」と申(まう)すを、この聞ゆることどもにや、と思(おぼ)せど、退(の)かせ給(たま)ふことは、さりともよにあらじ、御匣殿(みくしげどの)の御ことならむ、と思(おぼ)す。いかにもわが心ひとつには、思(おも)ふべきことならねば、「おどろきながら参(まゐ)り候(さぶら)ふべきを、大臣(おとど)に案内(あない)申(まう)してなむ候(さぶら)ふべき」と申(まう)し給(たま)ひて、まづ、殿(との)に参(まゐ)り給(たま)へり。「東宮(とうぐう)より、しかじかなむ仰(おほ)せられたる」と申(まう)し給(たま)へば、殿もおどろき給(たま)ひて、「何事ならむ」と仰(おほ)せられながら、大夫殿(だいぶどの)と同じやうにぞ思(おぼ)しよらせ給(たま)ひける。誠(まこと)に御匣殿(みくしげどの)の御こと宣(のたま)はせむを、いなびまうさむも便(びん)なし。参(まゐ)り給(たま)ひなば、また、さやうにあやしくてはあらせ奉(たてまつ)るべきならず。また、さては世の人の申(まう)すなるやうに、東宮(とうぐう)退(の)かせ給(たま)はむの御思(おも)ひあるべきならずかし、とは思(おぼ)せど、「しかわざと召(め)さむには、いかでか参(まゐ)らではあらむ。いかにも、宣(のたま)はせむことを聞(き)くべきなり」と申(まう)させ給(たま)へば、参(まゐ)らせ給(たま)ふほど、日も暮れぬ。
陣(ぢん)に左大臣(さだいじん)殿(どの)の御車(みくるま)や、御前(ごぜん)どものあるを、なまむつかしと思(おぼ)し召(め)せど、帰らせ給(たま)ふべきならねば、殿上(てんじやう)に上(のぼ)らせ給(たま)ひて、「参(まゐ)りたるよし啓(けい)せよ」と、蔵人(くらうど)に宣(のたま)はすれば、「おほい殿の、御前(おまへ)に候(さぶら)はせ給(たま)へば、ただいまはえなむ申(まう)し候(さぶら)はぬ」と聞えさするほど、見まはさせ給(たま)ふに、庭の草もいと深く、殿上の有様(ありさま)も、東宮(とうぐう)の御座(おは)しますとは見えず、あさましうかたじけなげなり。おほい殿出(い)で給(たま)ひて、かくと啓すれば、朝餉(あさがれひ)の方に出(い)でさせ給(たま)ひて、召(め)しあれば、参(まゐ)り給(たま)へり。「いと近く、こち」と仰(おほ)せられて、「物(もの)せらるることもなきに、案内(あない)するもはばかり多かれど、大臣(おとど)に聞ゆべきことのあるを、伝へ物(もの)すべき人のなきに、間近(まぢか)きほどなれば、たよりにもと思(おも)ひて消息(せうそこ)し聞えつる。その旨(むね)は、かくて侍(はべ)るこそは本意(ほい)あることと思(おも)ひ、故(こ)院のしおかせ給(たま)へることをたがへ奉(たてまつ)らむも、かたがたにはばかり思(おも)はぬにあらねど、かくてあるなむ、思(おも)ひつづくるに、罪深くもおぼゆる。内(うち)の御ゆく末はいと遥かに物(もの)せさせ給(たま)ふ。いつともなくて、はかなき世に命も知(し)りがたし。この有様(ありさま)退きて、心に任(まか)せて行ひもし、物詣(ものまうで)をもし、やすらかにてなむあらまほしきを、むげに前東宮(さきのとうぐう)にてあらむは、見ぐるしかるべくなむ。院号(ゐんがう)給(たま)ひて、年(とし)に受領(ずりやう)などありてあらまほしきを、いかなるべきことにかと、伝へ聞えられよ」と仰(おほ)せられければ、かしこまりてまかでさせ給(たま)ひぬ。
その夜はふけにければ、つとめてぞ、殿(との)に参(まゐ)らせ給(たま)へるに、内へ参(まゐ)らせ給(たま)はむとて、御装束(さうぞく)のほどなれば、え申(まう)させ給(たま)はず。おほかたには御供(とも)に参(まゐ)るべき人々、さらぬも、出(い)でさせ給(たま)はむに見参(げざん)せむと、多く参(まゐ)り集りて、さわがしげなれば、御車(みくるま)に奉(たてまつ)りに御座(おは)しまさむに申(まう)さむとて、そのほど、寝殿(しんでん)の隅(すみ)の間(ま)の格子(かうし)によりかかりてゐさせ給(たま)へるを、源民部卿(げんみんぶきやう)寄り御座(おは)して、「などかくては御座(おは)します」と聞えさせ給(たま)へば、殿には隠しきこゆべきことにもあらねば、「しかじかのことのあるを、人々も候(さぶら)へば、え申(まう)さぬなり」と宣(のたま)はするに、御けしきうち変りて、この殿もおどろき給(たま)ふ。「いみじくかしこきことにこそあなれ。ただとく聞(き)かせ奉(たてまつ)り給(たま)へ。内に参(まゐ)らせ給(たま)ひなば、いとど人がちにて、え申(まう)させ給(たま)はじ」とあれば、げにと思(おぼ)して、御座(おは)します方に参(まゐ)り給(たま)へれば、さならむと御心得(こころえ)させ給(たま)ひて、隅の間に出(い)でさせ給(たま)ひて、「春宮(とうぐう)に参(まゐ)りたりつるか」と問(と)はせ給(たま)へば、よべの御消息(せうそこ)くはしく申(まう)させ給(たま)ふに、さらなりや、おろかに思(おぼ)し召(め)さむやは。おしておろし奉(たてまつ)らむこと、はばかり思(おぼ)し召(め)しつるに、かかることの出(い)で来(き)ぬる御よろこびなほつきせず。まづいみじかりける大宮(おほみや)の御宿世(すくせ)かな、と思(おぼ)し召(め)す。
民部卿殿に申(まう)しあはせさせ給(たま)へば、「ただとくとくせさせ給(たま)ふべきなり。なにか吉日(よきひ)をも問(と)はせ給(たま)ふ。少しも延びば、思(おぼ)しかへして、さらでありなむとあらむをば、いかがはせさせ給(たま)はむ」と申(まう)させ給(たま)へば、さることと思(おぼ)して、御暦(こよみ)御覧(ごらん)ずるに、今日あしき日にもあらざりけり。やがて関白(くわんばく)殿も参(まゐ)り給(たま)へるほどにて、「とくとく」と、そそのかしまうさせ給(たま)ふに、「まづいかにも大宮に申(まう)してこそは」とて、内(うち)に御座(おは)しますほどなれば、参(まゐ)らせ給(たま)ひて、「かくなむ」と聞(き)かせ奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、まして女の御心はいかが思(おぼ)し召(め)されけむ。それよりぞ、東宮(とうぐう)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて。
御子(みこ)どもの殿(との)ばら、また例(れい)も御供(とも)に参(まゐ)り給(たま)ふ上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)引き具(ぐ)せさせ給(たま)へれば、いとこちたく、ひびきことにて御座(おは)しますを、待ちつけ給(たま)へる宮の御心地(ここち)は、さりとも、少しすずろはしく思(おぼ)し召(め)されけむかし。
心も知(し)らぬ人は、つゆ参(まゐ)りよる人だになきに、昨日(きのふ)、二位(にゐの)中将(ちゆうじやう)殿(どの)の参(まゐ)り給(たま)へりしだにあやしと思(おも)ふに、また今日、かくおびただしく、賀茂詣(かもまうで)などのやうに、御先(みさき)の音もおどろおどろしうひびきて参(まゐ)らせ給(たま)へるを、いかなることぞとあきるるに、少しよろしきほどのものは、「御匣殿(みくしげどの)の御こと申(ま)させ給(たま)ふなめり」と思(おも)ふは、さも似つかはしや。むげに思(おも)ひやりなき際(きは)のものは、またわが心にかかるままに、「内のいかに御座(おは)しますぞ」などまで、心さわぎしあへりけるこそ、あさましうゆゆしけれ。母宮(ははみや)だにえ知(し)らせ給(たま)はざりけり。かくこの御方に物(もの)さわがしきを、いかなることぞとあやしう思(おぼ)して、案内(あない)しまうさせ給(たま)へど、例(れい)の女房(にようばう)の参(まゐ)る道を、かためさせ給(たま)ひてけり。
殿(との)には、年頃(としごろ)思(おぼ)し召(め)しつることなどこまかに聞えむと、心強く思(おぼ)し召(め)しつれど、誠(まこと)になりぬる折は、いかになりぬることぞと、さすがに御心さわがせ給(たま)ひぬ。向(むか)ひきこえさせ給(たま)ひては、かたがたに臆(おく)せられ給(たま)ひにけるにや。ただ昨日のおなじさまに、なかなか言少(ことずく)なに仰(おほ)せらるる。御返りは、「さりとも、いかにかくは思(おぼ)し召(め)しよりぬるぞ」などやうに申(まう)させ給(たま)ひけむかしな。御けしきの心ぐるしさを、かつは見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、少しおし拭(のご)はせ給(たま)ひて、「さらば、今日、吉日(よきひ)なり」とて、院(ゐん)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。やがてことども始めさせ給(たま)ひぬ。よろづのこと定め行はせ給(たま)ふ。判官代(はうぐわんだい)には、宮司(みやづかさ)ども・蔵人(くらうど)などかはるべきにあらず。別当(べたう)には中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)をなし奉(たてまつ)り給(たま)へれば、おりて拝(はい)しまうさせ給(たま)ふ。ことども定まりはてぬれば、出(い)でさせ給(たま)ひぬ。
いとあはれに侍(はべ)りけることは、殿のまだ候(さぶら)はせ給(たま)ひける時、母宮(ははみや)の御方より、いづかたの道より尋ね参(まゐ)りたるにか、あらはに御覧(ごらん)ずるも知(し)らぬけしきにて、いとあやしげなる姿したる女房(にようばう)の、わななくわななく、「いかにかくはせさせ給(たま)へるぞ」と、声もかはりて申(まう)しつるなむ、「あはれにも、またをかしうも」とこそ仰(おほ)せられけれ。勅使(ちよくし)こそ誰(たれ)ともたしかにも聞(き)き侍(はべ)らね。禄(ろく)など、にはかにて、いかにせられけむ」といへば、
《世継》「殿こそはせさせ給(たま)ひけめ。さばかりのことになりて、逗留(とうりう)せさせ給(たま)はむやは」
《侍》「火焚屋(ひたきや)・陣屋(ぢんや)などとりやられけるほどにこそ、え堪(た)へずしのび音(ね)泣く人々侍(はべ)りけれ。まして皇后宮(くわうごうぐう)・堀河(ほりかは)の女御殿(にようごどの)など、さばかり心深(こころぶか)く御座(おは)します御心どもに、いかばかり思(おぼ)し召(め)しけむとおぼえ侍(はべ)りし。世の中の人、「女御殿、
雲居(くもゐ)まで立ちのぼるべき煙(けぶり)かと見えし思(おも)ひのほかにもあるかな 
といふ歌よみ給(たま)へり」など申(まう)すこそ、さらによもとおぼゆれ。いとさばかりのことに、和歌のすぢ思(おぼ)しよらじかしな。御心のうちには、おのづから後にも、おぼえさせ給(たま)ふやうもありけめど、人の聞(き)き伝ふるばかりは、いかがありけむ」といへば、翁、
《世継》「げにそれはさることに侍(はべ)れど、昔もいみじきことの折、かかることいと多くこそ聞え侍(はべ)りしか」
とてささめくは、いかなることにか。
《侍》「さて、かくせめおろし奉(たてまつ)り給(たま)ひては、また御婿にとり奉(たてまつ)らせ給(たま)ふほど、もてかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ御有様(ありさま)、誠(まこと)に御心もなぐさませ給(たま)ふばかりこそ聞え侍(はべ)りしか。おもの参(まゐ)らする折は、台盤所に御座(おは)しまして、御台や盤などまで手づから拭はせ給(たま)ふ。なにをも召(め)し試みつつなむ参(まゐ)らせ給(たま)ひける。御障子口までもて御座(おは)しまして、女房に給(たま)はせ、殿上に出すほどにも立ちそひて、よかるべきやうにをしへなど、これこそは御本意よと、あはれにぞ。「このきはに、故(こ)式部卿(しきぶきやう)の宮の御ことありけり」といふ、そらごとなり。なにゆゑ、あることにもあらなくに、昔のことどもこそ侍(はべ)れ、御座(おは)します人の御こと申(まう)す、便なきことなりかし」
《世継》「さて、式部卿(しきぶきやう)の宮と申(まう)すは、故(こ)一条院の一の皇子に御座(おは)します。その宮をば、年頃、帥の宮と申(まう)ししを、小一条院、式部卿(しきぶきやう)にて御座(おは)しまししが、東宮(とうぐう)にたち給(たま)ひて、あく所に、帥をば退かせ給(たま)ひて、式部卿(しきぶきやう)とは申(まう)ししぞかし。その後の度の東宮(とうぐう)にもはづれ給(たま)ひて、思(おぼ)し嘆きしほどに失(う)せ給(たま)ひにし後、またこの小一条院の御さしつぎの二の宮敦儀の親王をこそは、式部卿(しきぶきやう)とは申(まう)すめれ。また次の三の宮敦平の親王を、中務の宮と申(まう)す。次の四の宮師明の親王と申(まう)す。幼くより出家して、仁和寺の僧正のかしづきものにて御座(おは)しますめり。この宮たちの御妹の女宮たち二人、一所は、やがて三条院の御時の斎宮にて下らせ給(たま)ひにしを、上らせ給(たま)ひて後、荒三位道雅の君に名だたせ給(たま)ひにければ、三条院も御悩の折、いとあさましきことに思(おぼ)し嘆きて、尼になし給(たま)ひて失(う)せ給(たま)ひにき。いま一所の女宮まだ御座(おは)します。
小一条の大将の御姫君ぞ、ただいまの皇后宮(くわうごうぐう)と申(まう)しつるよ。
三条院の御時に、后にたて奉(たてまつ)らむと思(おぼ)しける。こちよりては、大納言(だいなごん)の女の、后にたつ例なかりければ、御父大納言(だいなごん)を贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になしてこそは、后にたてさせ給(たま)ひてしか。されば皇后宮(くわうごうぐう)いとめでたく御座(おは)しますめり。御せうと、一人は侍従の入道(にふだう)、いま一所は大蔵卿通任の君こそは御座(おは)すめれ。
また、伊予の入道(にふだう)もそれぞかし。
いま一所の女君(をんなぎみ)こそは、いとはなはだしく心憂(こころう)き御有様(ありさま)にて御座(おは)すめれ。父大将のとらせ給(たま)へりける処分(そうぶん)の領所(らうしよ)、近江(あふみ)にありけるを、人にとられければ、すべき様(やう)なくて、かばかりになりぬれば、物(もの)のはづかしさも知(し)られずや思(おも)はれけむ、夜(よる)、かちより御堂(みだう)に参(まゐ)りて、うれへ申(まう)し給(たま)ひしはとよ。
殿の御前(おまへ)は、阿弥陀堂(あみだだう)の仏の御前(おまへ)に念誦(ねんず)して御座(おは)しますに、夜いたくふけにければ、御脇息(けふそく)によりかかりて、少し眠(ねぶ)らせ給(たま)へるに、犬防(いぬふせぎ)のもとに、人のけはひのしければ、あやしと思(おぼ)し召(め)しけるに、女のけはひにて、忍びやかに、「物(もの)申(まう)し候(さぶら)はむ」と申(まう)すを、御僻耳(ひがみみ)かと思(おぼ)し召(め)すに、あまたたびになりぬれば、まことなりけり、と思(おぼ)し召(め)して、いとあやしくはあれど、「誰(た)そ、あれは」と問(と)はせ給(たま)ふに、「しかじかの人の、申(まう)すべきこと候(さぶら)ひて、参(まゐ)りたるなり」と申(まう)しければ、いといとあさましくは思(おぼ)し召(め)せど、あらく仰(おほ)せられけむも、さすがにいとほしくて、「何事(なにごと)ぞ」と問(と)はせ給(たま)ひければ、「知ろしめしたることに候(さぶら)ふらむ」とて、ことの有様(ありさま)こまかに申(まう)し給(たま)ふに、いとあはれに思(おぼ)し召(め)して、「さらなり、みな聞(き)きたることなり。いと不便(ふびん)なることにこそ侍(はべ)るなれ。いま、しかすまじきよし、すみやかにいはせむ。かくいましたること、あるまじきことなり。人してこそいはせ給(たま)はめ。とく帰られね」と仰(おほ)せられければ、「さこそはかへすがへす思(おも)ひ給(たま)へ候(さぶら)ひつれど、申(まう)しつぐべき人のさらに候(さぶら)はねば、さりともあはれとは仰(おほ)せ言(ごと)候(さぶら)ひなむ、と思(おも)ひ給(たま)へて、参(まゐ)り候(さぶら)ひながらも、いみじうつつましう候(さぶら)ひつるに、かく仰(おほ)せらるる、申(まう)しやるかたなくうれしく候(さぶら)ふ」とて、手をすりて泣くけはひに、ゆゆしくも、あはれにも思(おぼ)し召(め)されて、殿(との)も泣かせ給(たま)ひにけり。
出(い)で給(たま)ふ途(みち)に、南大門(なんだいもん)に人々ゐたる中を御座(おは)しければ、なにがしぬしの引(ひ)き留(とど)められけるこそ、いと無愛(ぶあい)のことなりや。後(のち)に、殿も聞(き)かせ給(たま)ひければ、いみじうむつからせ給(たま)ひて、いとひさしく御かしこまりにていましき。さて御うれへの所は、長く論あるまじく、この人の領(らう)にてあるべきよし、仰(おほ)せ下されにければ、もとよりいとしたたかに領じ給(たま)ふ、きはめていとよし。「さばかりになりなむには、物(もの)の恥(はぢ)しらでありなむ。かしこく申(まう)し給(たま)へる、いとよきこと」と、口々ほめきこえしこそ、なかなかにおぼえ侍(はべ)りしか。大門にてとらへたりし人は、式部(しきぶの)大夫(たいふ)源(みなもとの)政成(まさなり)が父なり。 
大鏡 中

一 右大臣師輔(もろすけ)
《世継》「この大臣(おとど)は、忠平(ただひら)の大臣(おとど)の二郎君、御母、右大臣源能有(みなもとのよしあり)の御女(むすめ)、いはゆる、九条殿(くでうどの)に御座(おは)します。公卿にて二十六年、大臣の位にて十四年ぞ御座(おは)しましし。御孫(まご)にて、東宮(とうぐう)、また、四・五の宮を見おき奉(たてまつ)りてかくれ給(たま)ひけむは、きはめて口惜(くちを)しき御ことぞや。御年まだ六十(むそじ)にもたらせ給(たま)はねば、ゆく末はるかに、ゆかしきこと多かるべきほどよ」とせめてささやく物(もの)から、手を打ちてあふぐ。
《世継》「その殿(との)の御公達(きんだち)十一人、女五六人ぞ、御座(おは)しましし。第一の御女、村上の先帝(せんだい)の御時の女御(にようご)、多くの女御、御息所(みやすどころ)のなかに、すぐれてめでたく御座(おは)しましき。帝(みかど)も、この女御殿にはいみじう怖(お)ぢまうさせ給(たま)ひ、ありがたきことをも奏(そう)せさせ給(たま)ふことをば、いなびさせ給(たま)ふべくもあらざりけり。いはむや自余(じよ)のことをば申(まう)すべきならず。少し御心(みこころ)さがなく、御物(もの)怨(うら)みなどせさせ給(たま)ふやうにぞ、世の人にいはれ御座(おは)しましし。帝(みかど)をもつねにふすべまうさせ給(たま)ひて、いかなることのありける折にか、ようさりわたらせ御座(おは)しましたりけるを、御格子(みかうし)を叩(たた)かせ給(たま)ひけれど、あけさせ給(たま)はざりければ、叩きわづらはせ給(たま)ひて、「女房に、『などあけぬぞ』と問(と)へ」と、なにがしのぬしの、童殿上(わらはてんじやう)したるが御供(とも)なるに仰(おほ)せられければ、あきたる所やあると、ここかしこ見たうびけれど、さるべき方は皆たてられて、細殿(ほそどの)の口のみあきたるに、人のけはひしければ、寄りてかくとのたうびければ、いらへはともかくもせで、いみじう笑ひければ、参(まゐ)りて、ありつるやうを奏しければ、帝(みかど)もうち笑はせ給(たま)ひて、「例(れい)のことななり」と仰(おほ)せられてぞ、帰りわたらせ御座(おは)しましける。この童は、伊賀前司資国(いがのぜんじすけくに)が祖父(おほじ)なり。
藤壷(ふぢつぼ)・弘徽殿(こきでん)との上(うへ)の御局(みつぼね)は、ほどもなく近きに、藤壷の方には小一条(いちでう)の女御、弘徽殿にはこの后(きさき)の上(のぼ)りて御座(おは)しましあへるを、いとやすからず、えやしづめがたく御座(おは)しましけむ、中隔(なかへだて)の壁に穴をあけて、のぞかせ給(たま)ひけるに、女御の御かたち、いとうつくしくめでたく御座(おは)しましければ、「むべ、ときめくにこそありけれ」と御覧(ごらん)ずるに、いとど心やましくならせ給(たま)ひて、穴よりとほるばかりの土器(かはらけ)のわれして、打たせ給(たま)へりければ、帝(みかど)御座(おは)しますほどにて、こればかりはえたへさせ給(たま)はずむつかり御座(おは)しまして、「かうやうのことは、女房(にようばう)はせじ。伊尹(これまさ)・兼通(かねみち)・兼家(かねいへ)などが、いひもよほして、せさするならむ」と仰(おほ)せられて、皆、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふほどなりければ、三所(みところ)ながら、かしこまらせ給(たま)へりしかば、その折に、いとどおほきに腹立(はらだ)たせ給(たま)ひて、「わたらせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)へば、思(おも)ふにこのことならむ、と思(おぼ)し召(め)して、わたらせ給(たま)はぬを、たびたび、「なほなほ」と御消息(しようそく)ありければ、わたらずは、いとどこそむつからめと、おそろしくいとほしく思(おぼ)し召(め)して、御座(おは)しましけるに、「いかでかかることはせさせ給(たま)ふぞ。いみじからむさかさまの罪ありとも、この人々をば思(おぼ)しゆるすべきなり。いはむや、まろが方(かた)ざまにてかくせさせ給(たま)ふは、いとあさましう心憂(こころう)きことなり。ただいま召(め)し返せ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、「いかでかただいまはゆるさむ。音聞(おとぎ)き見ぐるしきことなり」と聞えさせ給(たま)ひけるを、「さらにあるべきことならず」と、せめまうさせ給(たま)ひければ、「さらば」とて、帰りわたらせ給(たま)ふを、「御座(おは)しましなば、ただいまもゆるさせ給(たま)はじ。ただこなたにてを召(め)せ」とて、御衣(おんぞ)をとらへ奉(たてまつ)りて、立て奉(たてまつ)らせ給(たま)はざりければ、いかがはせむと思(おぼ)し召(め)して、この御方へ職事(しきじ)召(め)してぞ、参(まゐ)るべきよしの宣旨(せんじ)下させ給(たま)ひける。これのみにもあらず、斯様(かやう)なることども多く聞え侍(はべ)りしかは。
おほかたの御心(みこころ)はいとひろく、人のためなどにも思(おも)ひやり御座(おは)しまし、あたりあたりに、あるべきほどほど過ぐさせ給(たま)はず、御かへりみあり。かたへの女御(にようご)たちの御ためも、かつは情(なさけ)あり、御みやびをかはさせ給(たま)ふに、心よりほかにあまらせ給(たま)ひぬる時の御物(もの)妬(ねた)みのかたにや、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ。この小一条の女御は、いとかく御かたちのめでたく御座(おは)すればにや、御ゆるされにすぎたる折々の出(い)でくるより、かかることもあるにこそ。その道は心ばへにもよらぬことにやな。斯様(かやう)のことまでは申(まう)さじ、いとかたじけなし。
おほかた、殿上人(てんじやうびと)・女房(にようばう)、さるまじき女官(にようくわん)までも、さるべき折のとぶらひせさせ給(たま)ひ、いかなる折も、かならず見過(みすぐ)し聞(き)き放(はな)たせ給(たま)はず、御覧じ入れて、かへりみさせ給(たま)ひ、まして、御はらからたちをば、さらなりや。御兄(あに)をば親のやうに頼(たの)みまうさせ給(たま)ひ、御弟(おとと)をば子のごとくにはぐくみ給(たま)ひし御心(こころ)おきてぞや。されば、失(う)せ御座(おは)しましたりし、ことわりとはいひながら、田舎世界(ゐなかせかい)まで聞(き)きつぎ奉(たてまつ)りて、惜しみ悲しびまうししか。帝(みかど)、よろづの政(まつりごと)をば聞(きこ)えさせ合(あは)せてせさせ給(たま)ひけるに、人のため嘆きとあるべきことをば直(なほ)させ給(たま)ふ、よろこびとなりぬべきことをばそそのかし申(まう)させ給(たま)ひ、おのづからおほやけ聞し召(め)してあしかりぬべきことなど人の申(まう)すをば、御口(くち)より出(いだ)させ給(たま)はず。斯様(かやう)なる御心おもむけのありがたく御座(おは)しませば、御祈(いのり)ともなりて、ながく栄え御座(おは)しますにこそあべかめれ。
冷泉院・円融院・為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)と、女宮(をんなみや)四人との御母后(ははきさき)にて、またならびなく御座(おは)しましき。帝(みかど)・春宮(とうぐう)と申(まう)し、代代(よよ)の関白(くわんばく)・摂政と申(まう)すも、多くは、ただこの九条殿(くでうどの)の御一筋(ひとすぢ)なり。男宮(をとこみや)たちの御有様(ありさま)は、代々の帝(みかど)の御ことなれば、かへすがへすまたはいかが申(ま)し侍(はべ)らむ。
この后の御腹には、式部卿(しきぶきやう)の宮こそは、冷泉院の御次に、まづ東宮(とうぐう)にもたち給(たま)ふべきに、西宮殿(にしみやどの)の御婿(むこ)に御座(おは)しますによりて、御弟の次の宮にひき越されさせ給(たま)へるほどなどのことども、いといみじく侍(はべ)る。そのゆゑは、式部卿(しきぶきやう)の宮、帝(みかど)にゐさせ給(たま)ひなば、西宮殿の族(ぞう)に世の中うつりて、源氏(げんじ)の御栄えになりぬべければ、御舅(をぢ)たちの魂(たましひ)深く、非道(ひだう)に御弟をば引き越しまうさせ奉(たてまつ)らせ給(たま)へるぞかし。世の中にも宮のうちにも、殿(との)ばらの思(おぼ)しかまへけるをば、いかでかは知(し)らむ。次第のままにこそはと、式部卿(しきぶきやう)の宮の御ことをば思(おも)ひまうしたりしに、にはかに、「若宮(わかみや)の御(み)ぐしかいけづり給(たま)へ」など、御乳母(めのと)たちに仰(おほ)せられて、大入道(おほにふだう)殿(どの)、御車(みくるま)にうち乗せ奉(たてまつ)りて、北(きた)の陣(ぢん)よりなむ御座(おは)しましけるなどこそ、伝へ承(うけたまは)りしか。されば、道理あるべき御方人(かたうど)たちは、いかがは思(おぼ)されけむ。その頃、宮たちあまた御座(おは)せしかど、ことしもあれ、威儀(ゐぎ)の親王(みこ)をさへせさせ給(たま)へりしよ。見奉(たてまつ)りける人も、あはれなることにこそ申(まう)しけれ。そのほど、西宮殿などの御心地(ここち)よな、いかが思(おぼ)しけむ。さてぞかし、いとおそろしく悲しき御ことども出(い)できにしは。斯様(かやう)に申(まう)すも、なかなかいとどことおろかなりや。かくやうのことは、人中(ひとなか)にて、下臈(げらふ)の申(まう)すにいとかたじけなし、とどめ候(さぶら)ひなむ。されどなほ、われながら無愛(ぶあい)のものにて、おぼえ候(さぶら)ふにや。
式部卿(しきぶきやう)の宮、わが御身の口惜(くちを)しく本意(ほい)なきを、思(おぼ)しくづほれても御座(おは)しまさで、なほ末の世に、花山院の帝(みかど)は、冷泉院の皇子(みこ)に御座(おは)しませば、御甥(をひ)ぞかし、その御時に、御女奉(たてまつ)り給(たま)ひて、御みづからもつねに参(まゐ)りなどし給(たま)ひけるこそ、「さらでもありぬべけれ」と、世の人もいみじう謗(そし)りまうしけり。さりとても、御継(つぎ)などの御座(おは)しまさば、いにしへの御本意のかなふべかりけるとも見ゆべきに、帝(みかど)、出家(すけ)し給(たま)ひなどせさせ給(たま)ひて後(のち)、また今の小野宮(をののみや)の右大臣殿の北の方にならせ給(たま)へりしよ、いとあやしかりし御ことどもぞかし。その女御殿(にようごどの)には、道信(みちのぶ)の中将(ちゆうじやう)の君も御消息(せうそこ)聞え給(たま)ひけるに、それはさもなくて、かの大臣(おとゞ)に具(ぐ)し給(たま)ひければ、中将(ちゆうじやう)の申(まう)し給(たま)ふぞかし、「憂(う)きは身にしむ心地(ここち)こそすれ」とは、今に人の口にのりたる秀歌(しうか)にて侍(はべ)めり。
まこと、この式部卿(しきぶきやう)の宮は、世にあはせ給(たま)へるかひある折一度御座(おは)しましたるは、御子(ね)の日(ひ)ぞかし。御弟(おとと)の皇子たちもまだ幼く御座(おは)しまして、かの宮おとなに御座(おは)しますほどなれば、世覚(おぼ)え(よおぼえ)・帝(みかど)の御もてなしもことに思(おも)ひまうさせ給(たま)ふあまりに、その日こそは、御供の上達部(かんだちめ)・殿上人などの狩装束(かりさうぞく)・馬鞍(うまくら)まで内裏(だいり)のうちに召(め)し入れて御覧(ごらん)ずるは、またなきこととこそは承(うけたまは)れ。滝口(たきぐち)をはなちて、布衣(ほい)のもの、内に参(まゐ)ることは、かしこき君の御時も、かかることの侍(はべ)りけるにや。おほかたいみじかりし日の見物ぞかし。物見車(ものみぐるま)、大宮(おほみや)のぼりに所やは侍(はべ)りしとよ。さばかりのことこそ、この世にはえ候(さぶら)はね。
殿(との)ばらの、宣(のたま)ひけるは、大路(おほぢ)わたることは常(つね)なり。藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(みつぼね)につぶとえもいはぬ打出(うちいで)ども、わざとなくこぼれ出(い)でて、后(きさい)の宮(みや)・内(うち)の御前(おまへ)などさしならび、御簾(みす)のうちに御座(おは)しまして御覧ぜし御前(おまへ)通りしなむ、たふれぬべき心地(ここち)せし」とこそ宣(のたま)ひけれ。またそれのみかは、大路にも宮の出車(いだしぐるま)十(とを)ばかり引きつづけて立てられたりしは。一町かねてあたりに人もかけらず、滝口・侍(さぶらひ)の御前(ごぜん)どもに選(え)りととのへさせ給(たま)へりし、さるべきものの子どもにて、心のままに、今日はわが世よと、人払はせ、きらめきあへりし気色(きそく)どもなど、よそ人、誠(まこと)にいみじうこそ見侍(はべ)りしか」とて、車の衣(きぬ)の色などをさへ語りゐたるぞあさましきや。
《世継》「さて、この御腹に御座(おは)しましし、女宮一所こそ、いとはかなく、失(う)せ給(たま)ひにしか。」いま一所、入道(にふだう)一品(いつぽん)の宮とて三条に御座(おは)しましき。失(う)せ給(たま)ひて十余年にやならせ給(たま)ひぬらむ。うみおき奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしたびの宮こそは、今の斎院に御座(おは)しませ。いつきの宮、世に多く御座(おは)しませど、これはことにうごきなく、世にひさしくたもち御座(おは)します。ただこの御一筋のかく栄え給(たま)ふべきとぞ見まうす。昔の斎宮・斎院は、仏経などのことは忌ませ給(たま)ひけれど、この宮には仏法をさへあがめ給(たま)ひて、朝ごとの御念誦かかせ給(たま)はず。近くは、この御寺の今日の講には、さだまりて布施をこそは贈らせ給(たま)ふめれ。いととうより神人にならせ給(たま)ひて、いかでかかることを思(おぼ)し召(め)しよりけむとおぼえ候(さぶら)ふは。賀茂(かも)の祭の日、一条大路に、そこら集りたる人、さながらともに仏とならむと、誓はせ給(たま)ひけむこそ、なほあさましく侍(はべ)れ。さりとてまた、現世の御栄華をととのへさせ給(たま)はぬか。御禊より始(はじ)め三箇日の作法、出車などのめでたさ、おほかた御さまのいと優に、らうらうじく御座(おは)しましたるぞ。
今の関白(くわんばく)殿、兵衛左にて、御禊に御前せさせ給(たま)へりしに、いと幼く御座(おは)しませば、例は本院に帰らせ給(たま)ひて、人々に禄など給(たま)はするを、これは川原より出(い)でさせ給(たま)ひしかば、思(おも)ひがけぬ御ことにて、さる御心もうけもなかりければ、御前に召(め)しありて、御対面などせさせ給(たま)ひて、奉(たてまつ)り給(たま)へりける小袿をぞ、かづけ奉(たてまつ)らせ給(たま)へりける。入道(にふだう)殿(どの)、聞(き)かせ給(たま)ひて、「いとをかしくもし給(たま)へるかな。禄なからむもたよりなく、取りにやり給(たま)はむもほど経ぬべければ、とりわきたるさまを見せ給(たま)ふなめり。えせ者は、え思(おも)ひよらじかし」とぞ申(まう)させ給(たま)ひける。
この当代(とうだい)や東宮(とうぐう)などの、まだ宮たちにて御座(おは)しましし時、祭見せ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひし御桟敷(さじき)の前過ぎさせ給(たま)ふほど、殿(との)の御膝(ひざ)に、二所(ふたところ)ながらすゑ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、「この宮たち見奉(たてまつ)らせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)へば、御輿(みこし)の帷(かたびら)より赤色(あかいろ)の御扇(あふぎ)のつまをさし出(い)で給(たま)へりけり。殿を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、「なほ心ばせめでたく御座(おは)する院(ゐん)なりや。かかるしるしを見せ給(たま)はずは、いかでか、見奉(たてまつ)り給(たま)ふらむとも知(し)らまし」とこそは、感じ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけれ。院より大宮(おほみや)に聞えさせ給(たま)ひける、
ひかりいづるあふひのかげを見てしより年積(つ)みけるもうれしかりけり 
御返し、
もろかづら二葉(ふたば)ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらむ
げに賀茂(かも)の明神(みやうじん)などのうけ奉(たてまつ)り給(たま)へればこそ、二代までうちつづき栄えさせ給(たま)ふらめな。このこと、「いとをかし失(う)せさせ給(たま)へり」と、世の人申(まう)ししに、前帥(さきのそち)のみぞ、「追従(ついそう)ぶかき老(おい)ぎつねかな。あな、愛敬(あいぎやう)な」と申(まう)し給(たま)ひける。
まこと、この后(きさい)の宮の御おととの中の君は、重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の宮の北の方にて御座(おは)しまししぞかし。その親王(みこ)は、村上(むらかみ)の御はらからに御座(おは)します。この宮の上(うへ)、さるべきことの折は、物(もの)見(み)せ奉(たてまつ)りにとて、后の迎へ奉(たてまつ)り給(たま)へば、忍びつつ参(まゐ)り給(たま)ふに、帝(みかど)ほの御覧じて、いとうつくしう御座(おは)しましけるを、いと色なる御心ぐせにて、宮に、「かくなむ思(おも)ふ」とあながちにせめ申(まう)させ給(たま)へば、一二度、知(し)らず顔(がほ)にて、ゆるしまうさせ給(たま)ひけり。さて後(のち)、御心は通はせ給(たま)ひける御けしきなれど、さのみはいかがとや思(おぼ)し召(め)しけむ、后(きさき)、さらぬことだに、この方(かた)ざまは、なだらかにもえつくりあへさせ給(たま)はざめる中(なか)に、ましてこれはよそのことよりは、心づきなうも思(おぼ)し召(め)すべけれど、御あたりをひろうかへりみ給(たま)ふ御心深(こころぶか)さに、人の御ため聞(き)きにくくうたてあれば、なだらかに色にも出(い)でず、過(すぐ)させ給(たま)ひけるこそ、いとかたじけなうかなしきことなれな。さて后(きさい)の宮(みや)失(う)せさせ御座(おは)しまして後(のち)に、召(め)しとりて、いみじうときめかさせ給(たま)ひて、貞観殿(ちやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)とぞ、申(まう)ししかし。世になく覚(おぼ)え御座(おは)して、こと女御(にようご)・御息所(みやすどころ)そねみ給(たま)ひしかども、かひなかりけり。これにつけても、「九条殿の御幸ひ」とぞ、人申(まう)し」ける。
また三の君は、西宮殿(にしのみやどの)の北の方にて御座(おは)せしを、御子(みこ)うみて、失(う)せ給(たま)ひにしかば、よその人は、君達(きんだち)の御ためあしかりなむとて、また御おととの五にあたらせ給(たま)ふ愛宮(あいみや)と申(まう)ししにうつらせ給(たま)ひにき。四の君はとく失(う)せ給(たま)ひにき。六の君、冷泉院の東宮(とうぐう)に御座(おは)しまししに、参(まゐ)らせ給(たま)ひなど、女君(をんなぎみ)たちは、皆かく御座(おは)しまさふ。
男君たちは、十一人の御中に、五人は太政大臣(だいじやうだいじん)にならせ給(たま)へり。それあさましうおどろおどろしき御幸ひなりかし。その御ほかは右兵衛督忠君(うひやうゑのかみただきみ)、また北野(きたの)の三位遠度(さんみとほのり)、大蔵卿遠量(おほくらきやうとほかず)、多武峯(たむのみね)の入道(にふだう)少将(せうしやう)なり。また法師にては、飯室(いひむろ)の権僧正(ごんのそうじやう)、今の禅林寺(ぜんりんじ)の僧正などにこそ御座(おは)しますめれ。法師といへども、世の中の一(いち)の験者(げんざ)にて、仏のごとくに公私(おほやけわたくし)、頼(たの)みあふぎまうさぬ人なし。また北野の三位の御子(みこ)は、尋空律師(じんくうりし)・朝源(てうげん)律師などなり。また大蔵卿の御子は、粟田殿(あはたどの)の北の方、今の左衛門督(さゑもんのかみ)の母上。この御族(ぞう)、斯様(かやう)にぞ御座(おは)しますなかにも、多武峯の少将(せうしやう)、出家(すけ)し給(たま)へりしほどは、いかにあはれにもやさしくもさまざまなることどもの侍(はべ)りしかは。なかにも、帝(みかど)の御消息(せうそこ)つかはしたりしこそ、おぼろけならず、御心もや乱れ給(たま)ひけむと、かたじけなく承(うけたまは)りしか。
みやこより雲のうへまで山の井の横川(よかは)の水はすみよかるらむ 
御返し、
九重(ここのへ)のうちのみつねにこひしくて雲の八重(やへ)たつ山はすみ憂(う)し
始(はじ)めは、横川に御座(おは)して、後(のち)に多武峯(たむのみね)には住ませ給(たま)ひしぞかし。いといみじう侍(はべ)りしことぞかし。されども、それは九条殿・后(きさい)の宮(みや)など失(う)せさせ御座(おは)しまして後(のち)のことなり。
この馬頭殿(うまのかみのとの)の御出家(すけ)こそ、親たちの栄えさせ給(たま)ふことの始(はじ)めをうちすてて、いといとありがたく悲しかりし御ことよ。とうより、さる御心(こころ)まうけは思(おぼ)しよらせ給(たま)ひにけるにや、御はらからの君たちに具(ぐ)し奉(たてまつ)りて、正月二七夜(にしちや)のほどに、中堂(ちゆうだう)に登らせ給(たま)へりけるに、さらに御行(おこな)ひもせで、大殿篭(おほとのごも)りたりければ、殿(との)ばら、暁(あかつき)に、「など、かくては臥(ふ)し給(たま)へる。起きて、念誦(ねんず)もせさせ給(たま)へかし」と申(まう)させ給(たま)ひければ、「いま一度に」と宣(のたま)ひしを、その折は、思(おも)ひもとがめられざりき。「斯様(かやう)の御有様(ありさま)を思(おぼ)しつづけけるにや」とこそ、この折には、君たち思(おぼ)し出(い)でて申(まう)し給(たま)ひけれ。さりとて、うち屈(く)しやいかにぞやなどある御(み)けしきもなかりけり。人よりことにほこりかに、心地(ここち)よげなる人柄(ひとがら)にてぞ御座(おは)しましける。
この九条殿は、百鬼夜行(ひやくきやぎやう)にあはせ給(たま)へるは。いづれの月といふことは、え承(うけたまは)らず、いみじう夜(よ)ふけて、内(うち)より出(い)で給(たま)ふに、大宮(おほみや)より南ざまへ御座(おは)しますに、あははの辻(つじ)のほどにて、御車(みくるま)の簾(すだれ)うち垂(た)れさせ給(たま)ひて、「御車牛(みくるまうし)もかきおろせ、かきおろせ」と、急ぎ仰(おほ)せられければ、あやしと思(おも)へど、かきおろしつ。御随身(みずいじん)・御前(ごぜん)どもも、いかなることの御座(おは)しますぞと、御車のもとに近く参(まゐ)りたれば、御下簾(したすだれ)うるはしくひき垂(た)れて、御笏(さく)とりて、うつぶさせ給(たま)へるけしき、いみじう人にかしこまりまうさせ給(たま)へるさまにて御座(おは)します。「御車は榻(しぢ)にかくな。ただ随身どもは、轅(ながえ)の左右(ひだりみぎ)の軛(くびき)のもとにいと近く候(さぶら)ひて、先(さき)を高く追へ。雑色(ざふしき)どもも声絶えさすな。御前ども近くあれ」と仰(おほ)せられて、尊勝陀羅尼(そんしようだらに)をいみじう読み奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。牛をば御車の隠(かく)れの方にひき立てさせ給(たま)へり。さて、時中(ときなか)ばかりありてぞ、御簾(すだれ)あげさせ給(たま)ひて、「今は、牛かけてやれ」と仰(おほ)せられけれど、つゆ御供(とも)の人は心えざりけり。後々(のちのち)に、「しかじかのことのありし」など、さるべき人々にこそは、忍(しの)びて語り申(まう)させ給(たま)ひけめど、さるめづらしきことは、おのづから散り侍(はべ)りけるにこそは。
元方(もとかた)の民部卿(みんぶきやう)の御孫(まご)、儲(まうけ)の君(きみ)にて御座(おは)する頃、帝(みかど)の御庚申(かうしん)せさせ給(たま)ふに、この民部卿参(まゐ)り給(たま)へり、さらなり。九条殿、候(さぶら)はせ給(たま)ひて、人々あまた候(さぶら)ひ給(たま)ひて、攤(だ)打たせ給(たま)ふついでに、冷泉院の孕(はら)まれ御座(おは)しましたるほどにて、さらぬだに世の人いかがと思(おも)ひまうしたるに、九条殿、「いで、今宵(こよひ)の攤(だ)つかうまつらむ」と仰(おほ)せらるるままに、この孕(はら)まれ給(たま)へる御子(みこ)、男に御座(おは)しますべくは、調六(でうろく)出(い)で来(こ)」とて、打たせ給(たま)へりけるに、ただ一度に出(い)でくる物(もの)か。ありとある人、目を見かはして、めで感じもてはやし給(たま)ひ、御みづからもいみじと思(おぼ)したりけるに、この民部卿の御けしきいとあしうなりて、色もいと青くこそなりたりけれ。さて後(のち)に、霊(りやう)に出(い)でまして、「その夜(よ)やがて、胸に釘(くぎ)はうちてき」とこそ宣(のたま)ひけれ。
おほかた、この九条殿、いとただ人(びと)には御座(おは)しまさぬにや、思(おぼ)しよるゆく末のことなども、かなはぬはなくぞ御座(おは)しましける。口惜(くちを)しかりけることは、まだいと若く御座(おは)しましける時、「夢に、朱雀門(すざくもん)の前に、左右(さう)の足を西東(にしひんがし)の大宮(おほみや)にさしやりて、北向きにて内裏(だいり)を抱(いだ)きて立てりとなむ見えつる」と仰(おほ)せられけるを、御前(おまへ)になまさかしき女房の候(さぶら)ひけるが、「いかに御股(また)痛く御座(おは)しましつらむ」と申(まう)したりけるに、御夢たがひて、かく子孫は栄えさせ給(たま)へど、摂政・関白(くわんばく)えし御座(おは)しまさずなりにしなり。また御末に思(おも)はずなることのうちまじり、帥殿(そちどの)の御ことなども、かれがたがひたる故に侍(はべ)るめり。「いみじき吉相(きつさう)の夢もあしざまにあはせつればたがふ」と、昔より申(まう)し伝へて侍(はべ)ることなり。荒涼(くわうりやう)して、心知(し)らざらむ人の前に、夢語りな、この聞(き)かせ給(たま)ふ人々、し御座(おは)しまされそ。今ゆく末も九条殿の御末のみこそ、とにかくにつけて、ひろごり栄えさせ給(たま)はめ。
いとをかしきことは、かくやむごとなく御座(おは)します殿(との)の、貫之(つらゆき)のぬしが家に御座(おは)しましたりしこそ、なほ和歌はめざましきことなりかしと、おぼえ侍(はべ)りしか。正月一日つけさせ給(たま)ふべき魚袋(ぎよたい)のそこなはれたりければ、つくろはせ給(たま)ふほど、まづ貞信公(ていしんこう)の御もとに参(まゐ)らせ給(たま)ひて、「かうかうのことの侍(はべ)れば、内(うち)に遅く参(まゐ)る」のよしを申(まう)させ給(たま)ひければ、おほきおとど驚かせ給(たま)ひて、年頃(としごろ)持たせ給(たま)へりける、取り出(い)でさせ給(たま)ひて、やがて、「あえものにも」とて奉(たてまつ)らせ給(たま)ふを、ことうるはしく松の枝につけさせ給(たま)へり。その御かしこまりのよろこびは、御心(みこころ)のおよばぬにしも御座(おは)しまさざらめど、なほ貫之に召(め)さむ、と思(おぼ)し召(め)して、わたり御座(おは)しましたるを、待ちうけましけむ面目(めいぼく)、いかがおろかなるべきな。
吹く風にこほりとけたる池の魚千代(ちよ)まで松のかげにかくれむ 
集に書き入れたる、ことわりなりかし。
いにしへより今にかぎりもなく御座(おは)します殿(との)の、ただ冷泉院の御有様(ありさま)のみぞ、いと心憂(こころう)く口惜(くちを)しきことにては御座(おは)します」といへば、侍(さぶらひ)、
「されど、ことの例(れい)には、まづその御時をこそは引かるめれ」といへば、
《世継》「それは、いかでかはさらでは侍(はべ)らむ。その帝(みかど)の出(い)で御座(おは)しましたればこそ、この藤氏(とうし)の殿(との)ばら、今に栄え御座(おは)しませ。「さらざらましかば、この頃わづかにわれらも諸大夫(しよだいぶ)ばかりになり出(い)でて、ところどころの御前(ごぜん)・雑役(ざふやく)につられ歩(あり)きなまし」とこそ、入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せられければ、源民部卿(げんみんぶきやう)は、「さるかたちしたるまうちぎみだちの候(さぶら)はましかば、いかに見ぐるしからまし」とぞ、笑ひ申(まう)させ給(たま)ふなる。かかれば、公私(おほやけわたくし)、その御時のことをためしとせさせ給(たま)ふ、ことわりなり。御物(もの)の怪(け)こはくて、いかがと思(おぼ)し召(め)ししに、大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)にこそ、いとうるはしくて、わたらせ給(たま)ひにしか。「それは、人の目にあらはれて、九条殿なむ御後(うしろ)を抱(いだ)き奉(たてまつ)りて、御輿(みこし)のうちに候(さぶら)はせ給(たま)ひける」とぞ、人申(まう)しし。げに現(うつつ)にても、いとただ人(びと)とは見えさせ給(たま)はざりしかば、まして御座(おは)しまさぬ後(あと)には、さやうに御守(まぼり)にても添(そ)ひまうさせ給(たま)ひつらむ」
《侍》「さらば、元方(もとかた)卿・桓算供奉(くわんざんぐぶ)をぞ、逐(お)ひのけさせ給(たま)ふべきな」。
《世継》「それはまた、しかるべき前(さき)の世(よ)の御報(むくひ)にこそ御座(おは)しましけめ。さるは、御心(みこころ)いとうるはしくて、世の政(まつりごと)かしこくせさせ給(たま)ひつべかりしかば、世間(よのなか)にいみじうあたらしきことにぞ申(まう)すめりし。
さてまた、今は故(こ)九条殿の御子(みこ)どもの数(かず)、この冷泉院・円融院の御母、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)、一条摂政、堀河殿(ほりかはどの)、大入道(おほにふだう)殿(どの)、忠君(ただきみ)の兵衛督(ひやうゑのかみ)と六人は、武蔵守(むさしのかみ)従(じゆ)五位上経邦(つねくに)の女(むすめ)の腹に御座(おは)しまさふ。世の人「女子(をんなご)」といふことは、この御ことにや。おほかた、御腹ことなれど、男君(をとこぎみ)たち五人は太政大臣(だいじやうだいじん)、三人は摂政し給(たま)へり。 
一 太政大臣(だいじやうだいじん)伊尹(これまさ) 謙徳公(けんとくこう)
この大臣(おとど)は、一条摂政と申(まう)しき。これ、九条殿(くでうどの)の一男に御座(おは)します。いみじき御集(ぎよしふ)つくりて、豊景(とよかげ)と名のらせ給(たま)へり。大臣になり栄え給(たま)ひて三年。いと若くて失(う)せ御座(おは)しましたることは、九条殿の御遺言(ゆいごん)をたがへさせ御座(おは)しましつる故(け)とぞ人申(まう)しける。されどいかでかは、さらでも御座(おは)しまさむ。御葬送(さうそう)の沙汰(さた)を、むげに略定(りやくぢやう)に書きおかせ給(たま)へりければ、「いかでか、いとさは」とて、例(れい)の作法(さはふ)に行(おこなは)せ給(たま)ふとぞ。それはことわりの御しわざぞかし。ただ、御かたち・身の才(ざえ)、何事もあまりすぐれさせ給(たま)へれば、御命のえととのはせ給(たま)はざりけるにこそ。
折々の御和歌などこそめでたく侍(はべ)れな。春日(かすが)の使(つかひ)に御座(おは)しまして、帰るさに、女のもとに遺(つか)はしける、
暮ればとくゆきて語らむ逢(あ)ふことはとをちの里の住み憂(う)かりしも 
御返し、
逢(あ)ふことはとをちの里にほど経(へ)しも吉野の山と思(おも)ふなりけむ
助信(すけのぶ)の少将(せうしやう)の、宇佐(うさ)の使にたたれしに、殿(との)にて、餞(うまのはなむけ)に「菊の花のうつろひたる」を題にて、別れの歌よませ給(たま)へる、
さは遠くうつろひぬとかきくの花折りて見るだに飽(あ)かぬ心を
帝(みかど)の御舅(をぢ)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほぢ)にて摂政せさせ給(たま)へば、世の中はわが御心(みこころ)にかなはぬことなく、過差(くわさ)ことのほかに好ませ給(たま)ひて、大饗(たいきやう)せさせ給(たま)ふに、寝殿(しんでん)の裏板(うらいた)の壁の少し黒かりければ、にはかに御覧(ごらん)じつけて、陸奥紙(みちのくにがみ)をつぶと押させ給(たま)へりけるがなかなか白く清(きよ)げに侍(はべ)りける。思(おも)ひよるべきことかはな。御家は今の世尊寺(せそんじ)ぞかし。御族(ぞう)の氏寺(うぢでら)にておかれたるを、斯様(かやう)のついでには、立ち入りて見給(たま)ふれば、まだその紙の押されて侍(はべ)るこそ、昔にあへる心地(ここち)してあはれに見給(たま)ふれ。斯様(かやう)の御栄えを御覧じおきて、御年五十(いそじ)にだなたらで失(う)せさせ給(たま)へるあたらしさは、父大臣(おとど)にもおとらせ給(たま)はずこそ、世の人惜しみ奉(たてまつ)りしか。
その御男(をとこ)・女君(をんなぎみ)たちあまた御座(おは)しましき。女君(をんなぎみ)一人は、冷泉院の御寺の女御(にようご)にて、花山院の御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)にならせ給(たま)ひにき。次々の女君(をんなぎみ)二人は、法住寺(ほふぢゆうじ)の大臣(おとど)の北の方にて、うちつづき失(う)せさせ給(たま)ひにき。九の君は、冷泉院の御皇子(みこ)の弾上(だんじやう)の宮(みや)と申(まう)す御上(うへ)にて御座(おは)せしを、その宮失(う)せ給(たま)ひて後(のち)、尼(あま)にていみじう行ひつとめて御座(おは)すめり。また、忠君(ただきみ)の兵衛督(ひやうゑのかみ)の北の方にて御座(おは)せしが、後(のち)には、六条の左大臣(さだいじん)殿(どの)の御子(みこ)の右大弁(うだいべん)の上にて御座(おは)しけるは、四の君とこそは。
また、花山院の御妹(いもうと)の女一の宮は失(う)せ給(たま)ひにき。女二の宮は冷泉院の御時の斎宮(さいぐう)にたたせ給(たま)ひて、円融院の御時の女御に参(まゐ)り給(たま)へりしほどもなく、内(うち)の焼けにしかば、火(ひ)の宮(みや)と世の人つけ奉(たてまつ)りき。さて二三度参(まゐ)り給(たま)ひて後(のち)、ほどもなく失(う)せ給(たま)ひにき。この宮に御覧(ごらん)ぜさせむとて、三宝絵(さんぽうゑ)はつくれるなり。
男君たちは、代明(よあきら)の親王(みこ)の御女(むすめ)の腹に、前少将(せうしやう)挙賢(たかかた)・後少将(せうしやう)義孝(よしたか)とて、花を折り給(たま)ひし君たちの、殿(との)失(う)せ給(たま)ひて、三年ばかりありて、天延(てんえん)二年甲戌(きのえいぬ)の年、皰瘡(もがさ)おこりたるに、煩(わづら)ひ給(たま)ひて、前少将(せうしやう)は、朝(あした)に失(う)せ、後少将(せうしやう)は、夕(ゆふべ)にかくれ給(たま)ひにしぞかし。一日(ひとひ)がうちに、二人の子をうしなひ給(たま)へりし、母北の方の御心地(ここち)いかなりけむ、いとこそ悲しく承(うけたまは)りしか。
かの後少将(せうしやう)は義孝とぞ聞えし。御かたちいとめでたく御座(おは)し、年頃(としごろ)きはめたる道心者(だうしんざ)にぞ御座(おは)しける。病重くなるままに、生くべくもおぼえ給(たま)はざりければ、母上に申(まう)し給(たま)ひけるやう、「おのれ死に侍(はべ)りぬとも、とかく例(れい)のやうにせさせ給(たま)ふな。しばし法華経(ほけきやう)誦(ずん)じ奉(たてまつ)らむの本意(ほい)侍(はべ)れば、かならず帰りまうで来(く)べし」と宣(のたま)ひて、方便品(はうべんぼん)を読み奉(たてまつ)り給(たま)ひてぞ、失(う)せ給(たま)ひける。その遺言(ゆいごん)を、母北の方忘れ給(たま)ふべきにはあらねども、物(もの)も覚(おぼ)えで御座(おは)しければ、思(おも)ふに人のし奉(たてまつ)りてけるにや、枕(まくら)がへしなにやと、例の様(やう)なる有様(ありさま)どもにしてければ、え帰り給(たま)はずなりにけり。後(のち)に、母北の方の御夢に見え給(たま)へる、
しかばかり契りし物(もの)を渡り川かへるほどには忘るべしやは 
とぞよみ給(たま)ひける、いかにくやしく思(おぼ)しけむな。
さて後(のち)、ほど経(へ)て、賀縁(がえん)阿闍梨(あざり)と申(まう)す僧の夢に、この君たち二人御座(おは)しけるが、兄、前少将(せうしやう)いたう物(もの)思(おも)へるさまにて、この後少将(せうしやう)は、いと心地(ここち)よげなるさまにて御座(おは)しければ、阿闍梨、「君はなど心地よげにて御座(おは)する。母上は、君をこそ、兄君よりはいみじう恋ひきこえ給(たま)ふめれ」と聞えければ、いとあたはぬさまのけしきにて、
しぐれとは蓮(はちす)の花ぞ散りまがふなにふるさとに袖(そで)濡(ぬ)らすらむ
など、うちよみ給(たま)ひける。さて後(のち)に、小野宮(をののみや)の実資(さねすけ)の大臣(おとど)の御夢に、おもしろき花のかげに御座(おは)しけるを、うつつにも語らひ給(たま)ひし御中(なか)にて、「いかでかくは。いづくにか」とめづらしがり申(まう)し給(たま)ひければ、その御いらへに、
昔ハ契リキ、蓬莱宮(ほうらいきゆう)ノ裏(うち)ノ月ニ
今ハ遊ブ、極楽界(ごくらくかい)ノ中(なか)ノ風ニ
昔契蓬莱宮裏月 今遊極楽界中風
とぞ宣(のたま)ひける。極楽に生れ給(たま)へるにぞあなる。斯様(かやう)にも夢など示(しめ)い給(たま)はずとも、この人の御往生(わうじやう)疑ひまうすべきならず。
世の常(つね)の君達(きんだち)などのやうに、内(うち)わたりなどにて、おのづから女房(にようばう)と語らひ、はかなきことをだに宣(のたま)はせざりけるに、いかなる折にかありけむ、細殿(ほそどの)に立ち寄り給(たま)へれば、例(れい)ならずめづらしう物語りきこえさせけるが、やうやう夜中などにもなりやしぬらむと思(おも)ふほどに、立ち退(の)き給(たま)ふを、いづかたへかとゆかしうて、人をつけ奉(たてまつ)りて見せければ、北(きた)の陣(ぢん)出(い)で給(たま)ふほどより、法華経(ほけきやう)をいみじう尊く誦(ずん)じ給(たま)ふ。大宮(おほみや)のぼりに御座(おは)して、世尊寺へ御座(おは)しましつきぬ。なほ見ければ、東(ひんがし)の対(たい)の端(つま)なる紅梅(こうばい)のいみじく盛りに咲きたる下に立たせ給(たま)ひて、「滅罪(めつざい)生善(しやうぜん)、往生(わうじやう)極楽(ごくらく)」といふ、額(ぬか)を西に向(む)きて、あまたたびつかせ給(たま)ひけり。帰りて御有様(ありさま)語りければ、いといとあはれに聞(き)き奉(たてまつ)らぬ人なし。
この翁(おきな)もその頃大宮なる所に宿りて侍(はべ)りしかば、御声にこそおどろきていといみじう承(うけたまは)りしか。起き出(い)でて見奉(たてまつ)りしかば、空は霞(かす)みわたりたるに月はいみじうあかくて、御直衣(なほし)のいと白きに、濃(こ)き指貫(さしぬき)に、よいほどに御くくりあげて、何色(なにいろ)にか、色ある御衣(おんぞ)どもの、ゆたちより多くこぼれ出(い)でて侍(はべ)りし御様体(やうだい)などよ。御顔の色、月影に映(は)えて、いと白く見えさせ給(たま)ひしに、鬢茎(びんぐき)の掲焉(けちえん)にめでたくこそ、誠(まこと)に御座(おは)しまししか。やがて見つぎ見つぎに御供(とも)に参(まゐ)りて、御額(ぬか)つかせ給(たま)ひしも見奉(たてまつ)り侍(はべ)りにき。いとかなしうあはれにこそ侍(はべ)りしか。御供(とも)には童(わらは)一人ぞ候(さぶら)ふめりし。
また、殿上(てんじやう)の逍遥(せうえう)侍(はべ)りし時さらなり、こと人はみな、こころごころに狩装束(かりしやうぞく)めでたうせられたりけるに、この殿(との)はいたう待たれ給(たま)ひて、白き御衣どもに、香染(かうぞめ)の御狩衣(かりぎぬ)、薄色(うすいろ)の御指貫(さしぬき)、いとはなやかならぬあはひにて、さし出(い)で給(たま)へりけるこそ、なかなかに心を尽(つ)くしたる人よりはいみじう御座(おは)しましけれ。常(つね)の御ことなれば、法華経、御口(くち)につぶやきて、紫檀(したん)の数珠(ずず)の、水精(すいさう)の装束(さうぞく)したる、ひき隠して持ち給(たま)ひける御用意などの、優(いう)にこそ御座(おは)しましけれ。おほかた、一生(いつしやう)精進(さうじん)を始(はじ)め給(たま)へる、まづありがたきことぞかし。なほなほ同じことのやうにおぼえ侍(はべ)れど、いみじう見給(たま)へ聞(き)きおきつることは、申(まう)さまほしう。
この殿は、御(おほん)かたちのありがたく、末の世にもさる人や出(い)で御座(おは)しましがたからむとまでこそ見給(たま)へしか。雪のいみじう降りたりし日、一条(いちでう)の左大臣(さだいじん)殿(どの)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて、御前(おまへ)の梅の木に雪のいたう積(つも)りたるを折りて、うち振らせ給(たま)へりしかば、御上に、はらはらとかかりたりしが、御直衣(なほし)の裏の花なりければ、かへりていと斑(まだら)になりて侍(はべ)りしに、もてはやされさせ給(たま)へりし御かたちこそ、いとめでたく御座(おは)しまししか。御兄の少将(せうしやう)も、いとよく御座(おは)しましき。この弟殿(おととどの)はかくあまりにうるはしく御座(おは)せしをもどきて、すこし勇幹(ようかん)にあしき人にてぞ御座(おは)せし。
その義孝の少将(せうしやう)、桃園(ももぞの)の源(げん)中納言保光(やすみつ)卿の女(むすめ)の御腹にうませ給(たま)へりし君ぞかし、今の侍従(じじゆう)大納言(だいなごん)行成(ゆきなり)卿、世の手書きとののしり給(たま)ふは。この殿(との)の御男子(をのこご)、ただいまの但馬守(たじまのかみ)実経(さねつね)の君・尾張守(をはりのかみ)良経(よしつね)の君二人は、泰清(やすきよ)の三位(さんみ)の女の腹なり。嫡腹(むかひばら)の少将(せうしやう)行経(ゆきつね)の君なり。女君(をんなぎみ)は、入道(にふだう)殿(どの)の御子(みこ)の、高松腹(たかまつばら)の権(ごん)中納言殿の北の方にて御座(おは)せし、失(う)せ給(たま)ひにきかし。また、今の丹波守(たんばのかみ)経頼(つねより)の君の北の方にて御座(おは)す。また、大姫君(おほひめぎみ)御座(おは)しますとか。
この侍従大納言(だいなごん)殿こそ、備後介(びごのすけ)とてまだ地下(ぢげ)に御座(おは)せし時、蔵人頭(くらうどのとう)になり給(たま)へる、例(れい)いとめづらしきことよな。その頃は、源民部卿殿(げんみんぶきようどの)は、職事(しきじ)にて御座(おは)しますに、上達部(かんだちめ)になり給(たま)ふべければ、一条院(いちでうゐん)、「この次にはまた誰(たれ)かなるべき」と問(と)はせ給(たま)ひければ、「行成なむまかりなるべき人に候(さぶら)ふ」と奏(そう)せさせ給(たま)ひけるを、「地下(ぢげ)の者はいかがあるべからむ」と宣(のたま)はせければ、「いとやむごとなき者に候(さぶら)ふ。地下など思(おぼ)し召(め)し憚(はばか)らせ給(たま)ふまじ。ゆく末にもおほやけに、何事にもつかうまつらむにたへたる者になむ。斯様(かやう)なる人を御覧(ごらん)じ分(わ)かぬは、世のためあしきことに侍(はべ)り。善悪をわきまへ御座(おは)しませばこそ、人も心遣(こころづか)ひはつかうまつれ。このきはになさせ給(たま)はざらむは、いと口惜(くちを)しきことにこそ候(さぶら)はめ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、道理のこととはいひながら、なり給(たま)ひにしぞかし。
おほかた昔は、前頭(さきのとう)の挙(きよ)によりて、後(のち)の頭はなることにて侍(はべ)りしなり。されば、殿上(てんじやう)に、われなるべしなど、思(おも)ひ給(たま)へりける人は、今宵(こよひ)と聞(き)きて参(まゐ)り給(たま)へるに、いづこもととかにさし会(あ)ひ給(たま)へりけるを、「誰(たれ)ぞ」と問(と)ひ給(たま)ひければ、御名のりし給(たま)ひて、「頭になしたびたれば、参(まゐ)りて侍(はべ)るなり」とあるに、あさましとあきれてこそ、動きもせで立ち給(たま)ひたりけれ。げに思(おも)ひがけぬことなれば、道理なりや。
この源民部卿かく申(まう)しなし給(たま)へることを思(おぼ)し知(し)りて、従二位の折かとよ、越えまうし給(たま)ひしかど、さらに上(かみ)に居(ゐ)給(たま)はざりき。かの殿(との)出(い)で給(たま)ふ日は、われ、病(やまひ)まうし、またともに出(い)で給(たま)ふ日は、むかへ座(ざ)などにぞ居(ゐ)給(たま)ひし。さて民部卿正二位の折こそは、もとのやうに下臈(げらふ)になり給(たま)ひしか。
おほかた、この御族(ぞう)の頭争(とうあらそ)ひに、敵(かたき)をつき給(たま)へば、これもいかが御座(おは)すべからむ。みな人知ろしめしたることなれど、朝成(あさひら)の中納言と一条摂政と同じ折の殿上人(てんじやうびと)にて、品(しな)のほどこそ、一条殿とひとしからねど、身の才(ざえ)・人覚(ひとおぼ)え、やむごとなき人なりければ、頭になるべき次第(しだい)いたりたるに、またこの一条殿さらなり、道理の人にて御座(おは)しけるを、この朝成の君申(まう)し給(たま)ひけるやう、「殿(との)はならせ給(たま)はずとも、人わろく思(おも)ひ申(まう)すべきにあらず。後々(のちのち)にも御心(みこころ)にまかせさせ給(たま)へり。
おのれは、このたびまかりはづれなば、いみじう辛(から)かるべきことにてなむ侍(はべ)るべきを、このたび、申(まう)させ給(たま)はで侍(はべ)りなむや」と申(まう)し給(たま)ひければ、「ここにもさ思(おも)ふことなり。さらば申(まう)さじ」と宣(のたま)ふを、いとうれしと思(おも)はれけるに、いかに思(おぼ)しなりにけることにか、やがて問(と)ひごともなく、なり給(たま)ひにければ、かく謀(はか)り給(たま)ふべしやはと、いみじう心やましと思(おも)ひまうされけるに、御中(なか)よからぬやうにて過ぎ給(たま)ふほどに、この一条院殿のつかまつり人とかやのために、なめきことしたうびたりけるを、「本意(ほい)なしなどばかりは思(おも)ふとも、いかに、ことにふれてわれなどをば、かくなめげにもてなしぞ」と、むつかり給(たま)ふと聞(き)きて、「あやまたぬよしも申(まう)さむ」とて、参(まゐ)られたりけるに、はやうの人は、われより高き所にまうでては、「こなたへ」となきかぎりは、上(うへ)にものぼらで、下(しも)に立てることになむありけるを、これは六七月のいと暑くたへがたき頃、かくと申(まう)させて、今や今やと、中門(ちゆうもん)に立ちて待つほどに、西日(にしび)もさしかかりて暑くたへがたしとはおろかなり、心地(ここち)もそこなはれぬべきに、「はやう、この殿(との)は、われをあぶり殺さむと思(おぼ)すにこそありけれ。益(やく)なくも参(まゐ)りにけるかな」と思(おも)ふに、すべて悪心(あくしん)おこるとは、おろかなり。夜(よる)になるほどに、さてあるべきならねば、笏(しやく)をおさへて立ちければ、はたらと折れけるは。いかばかりの心をおこされにけるにか。さて家に帰りて、「この族(ぞう)ながく絶(た)たむ。もし男子(をのこご)も女子(をんなご)もありとも、はかばかしくてはあらせじ。あはれといふ人もあらば、それをも恨(うら)みむ」など誓ひて、失(う)せ給(たま)ひにければ、代々(だいだい)の御悪霊(あくりやう)とこそはなり給(たま)ひたれ。されば、まして、この殿(との)近く御座(おは)しませば、いとおそろし。殿の御夢に、南殿(なでん)の御後(うしろ)、かならず人の参(まゐ)るに通る所よな、そこに人の立ちたるを、誰(たれ)ぞと見れど、顔は戸の上(かみ)に隠れたれば、よくも見えず。あやしくて、「誰(た)そ誰(た)そ」と、あまたたび問(と)はれて、「朝成(あさひら)に侍(はべ)り」といらふるに、夢のうちにもいとおそろしけれど、念じて、「などかくては立ち給(たま)ひたるぞ」と問(と)ひ給(たま)ひければ、「頭弁(とうのべん)の参(まゐ)らるるを待ち侍(はべ)るなり」といふと見給(たま)ひて、おどろきて、「今日は公事(くじ)ある日なれば、とく参(まゐ)らるらむ。不便(ふびん)なるわざかな」とて、「夢に見え給(たま)へることあり。今日は御病まうしなどもして、物忌(ものいみ)かたくして、なにか参(まゐ)り給(たま)ふ。こまかにはみづから」と書きて急ぎ奉(たてまつ)り給(たま)へど、ちがひていととく参(まゐ)り給(たま)ひにけり。まもりのこはくや御座(おは)しけむ、例(れい)のやうにはあらで、北(きた)の陣(ぢん)より藤壺(ふぢつぼ)・後涼殿(こうらうでん)のはさまより通りて、殿上(てんじやう)に参(まゐ)り給(たま)へるに、「こはいかに。御消息(せうそこ)奉(たてまつ)りつるは、御覧(ごらん)ぜざりつるか。かかる夢をなむ見侍(はべ)りつるは」。手をはたと打ちて、いかにぞと、こまかにも問(と)ひ申(まう)させ給(たま)はず、また二つ物(もの)も宣(のたま)はで出(い)で給(たま)ひにけり。さて御祈(いのり)などして、しばしは内(うち)へも参(まゐ)り給(たま)はざりけり。この物(もの)の怪(け)の家は、三条(さんでう)よりは北、西洞院(にしのとうゐん)よりは西なり。今に一条殿の御族(ぞう)あからさまにも入らぬところなり。
この大納言(だいなごん)殿、よろづにととのひ給(たま)へるに、和歌の方や少しおくれ給(たま)へりけむ。殿上(てんじよう)に歌論義(うたろぎ)といふこと出(い)できて、その道の人々、いかが問答(もんだふ)すべきなど、歌の学問よりほかのこともなきに、この大納言(だいなごん)殿は、物(もの)も宣(のたま)はざりければ、いかなることぞとて、なにがしの殿(との)の、「難波津(なにはづ)に咲くやこの花冬ごもり、いかに」と聞えさせ給(たま)ひければ、とばかり物(もの)も宣(のたま)はで、いみじう思(おぼ)し案(あん)ずるさまにもてなして、「え知(し)らず」と答へさせ給(たま)へりけるに、人々笑ひて、こと醒(さ)め
侍(はべ)りにけり。
すこしいたらぬことにも、御魂(たましひ)の深く御座(おは)して、らうらうじうしなし給(たま)ひける御根性(こんじよう)にて、帝(みかど)幼く御座(おは)しまして、人々に、「遊び物ども参(まゐ)らせよ」と仰(おほ)せられければ、さまざま、金(こがね)・銀(しろかね)など心を尽(つ)くして、いかなることをがなと、風流(ふりう)をし出(い)でて、持(も)て参(まゐ)り会(あ)ひたるに、この殿(との)は、こまつぶりにむらごの緒(を)つけて奉(たてまつ)り給(たま)へりければ、「あやしの物のさまや。こはなにぞ」と問(と)はせ給(たま)ひければ、「しかじかの物になむ」と申(まう)す、「まはして御覧(ごらん)じ御座(おは)しませ。興(きよう)ある物になむ」と申(まう)されければ、南殿(なでん)に出(い)でさせ御座(おは)しまして、まはさせ給(たま)ふに、いと広き殿(との)のうちに、のこらずくるべき歩(ある)けば、いみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひて、これをのみ、つねに御覧じあそばせ給(たま)へば、こと物どもは籠(こ)められにけり。
また、殿上人(てんじやうびと)、扇(あふぎ)どもして参(まゐ)らするに、こと人々は、骨に蒔絵(まきゑ)をし、あるは、金・銀・沈(ぢん)・紫壇(したん)の骨になむ筋(すぢ)を入れ、彫物(ほりもの)をし、えもいはぬ紙どもに、人のなべて知(し)らぬ歌や詩や、また六十余国の歌枕(うたまくら)に名あがりたる所々などを書きつつ、人人参(まゐ)らするに、例(れい)のこの殿(との)は、骨の漆(うるし)ばかりをかしげに塗(ぬ)りて、黄(き)なる唐紙(からかみ)の下絵(したゑ)ほのかにをかしきほどなるに、表(おもて)の方には楽府(がくふ)をうるはしく真(しん)に書き、裏には御筆(ふで)とどめて草(さう)にめでたく書きて奉(たてまつ)り給(たま)へりければ、うち返しうち返し御覧(ごらん)じて、御手箱(てばこ)に入れさせ給(たま)ひて、いみじき御宝(たから)と思(おぼ)し召(め)したりければ、こと扇どもは、ただ御覧じ興(きよう)ずるばかりにてやみにけり。いずれもいずれも、帝王(みかど)の御感(ぎよかん)侍(はべ)るにますことやはあるべきよな。
いみじき秀句(すく)宣(のたま)へる人なり。この高陽院殿(かやゐんどの)にて競馬(くらべうま)ある日、鼓(つづみ)は、讃岐前司明理(さぬきのぜんじあきまさ)ぞ打ち給(たま)ひし。一番にはなにがし、二番にはかがしなどいひしかど、その名こそ覚(おぼ)えね。勝つべき方の鼓をあしう打ちさげて、負(まけ)になりにければ、その随身(ずいじん)の、やがて馬の上にて、ない腹(ばら)を立ちて、見返るままに、「あなわざはひや。かばかりのことをだにしそこなひ給(たま)ふよ。かかれば、『明理・行成(ゆきなり)』と一双(いつさう)にいはれ給(たま)ひしかども、一(いち)の大納言(だいなごん)にて、いとやむごとなくて候(さぶら)はせ給(たま)ふに、くさりたる讃岐前司古受領(ふるずりやう)の、鼓打ちそこなひて、立ち給(たま)ひたるぞかし」と放言(はうごん)したいまつりけるを、大納言(だいなごん)殿(どの)聞(き)かせ給(たま)ひて、「明理の濫行(らんかう)に、行成が醜名(しこな)呼ぶべきにあらず。いと辛(から)いことなり」とて、笑はせ給(たま)ひければ、人々、「いみじう宣(のたま)はせたり」とて、興(きよう)じ奉(たてまつ)りて、その頃のいひごとにこそし侍(はべ)りしか。
また、一条摂政殿の御男子(をのこご)、花山院の御時、帝(みかど)の御舅(をぢ)にて、義懐(よしちか)の中納言と聞えし、少将(せうしやう)たちの同じ腹よ。その御時は、いみじうはなやぎ給(たま)ひしに、帝(みかど)の出家(すけ)せさせ給(たま)ひてしかば、やがて、われも、遅れ奉(たてまつ)らじとて、花山(はなやま)まで尋ね参(まゐ)りて、一日をはさめて、法師になり給(たま)ひにき。飯室(いひむろ)といふ所に、いと尊く行ひてぞかくれ給(たま)ひにし。その中納言、文盲(もんまう)にこそ御座(おは)せしかど、御心(こころ)魂(たましひ)いとかしこく、有識(いうそく)に御座(おは)しまして、花山院の御時の政(まつりごと)は、ただこの殿(との)と惟成(これしげ)の弁(べん)として行ひ給(たま)ひければ、いといみじかりしぞかし。
その帝(みかど)をば、「内劣(うちおと)りの外(と)めでた」とぞ、世の人、申(まう)しし。「冬(ふゆ)の臨時(りんじ)の祭(まつり)の、日の暮るる、あしきことなり。辰(たつ)の時に人々参(まゐ)れ」と、宣旨(せんじ)下させ給(たま)ふを、さぞ仰(おほ)せらるとも、巳(み)・午(うま)の時にぞ始(はじ)まらむなど思(おも)ひ給(たま)へりけるに、舞人(まひびと)の君達(きんだち)装束(さうぞく)賜(たま)はりに参(まゐ)り御座(おは)さうじたりければ、帝(みかど)は御装束奉(たてまつ)りて、立たせ御座(おは)しましたりけるに、この入道(にふだう)殿(どの)も舞人にて御座(おは)しましければ、この頃、語らせ給(たま)ふなるを、伝へて承(うけたまは)るなり。あかく大路(おほち)などわたるがよかるべきにやと思(おも)ふに、帝(みかど)、馬をいみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひければ、舞人の馬を後涼殿(こうらうでん)の北の馬道(めだう)より通させ給(たま)ひて、朝餉(あさがれひ)の壺(つぼ)にひきおろさせ給(たま)ひて、殿上人(てんじやうびと)どもを乗せて御覧(ごらん)ずるをだに、あさましう人々思(おも)ふに、はては乗らむとさへせさせ給(たま)ふに、すべき方もなくて候(さぶら)ひ会(あ)ひ給(たま)へるほどに、さるべきにや侍(はべ)りけむ、入道(にふだう)中納言さし出(い)で給(たま)へりけるに、帝(みかど)、御おもていと赤くならせ給(たま)ひて、術(ずち)なげに思(おぼ)し召(め)したり。中納言もいとあさましう見奉(たてまつ)り給(たま)へど、人々の見るに、制(せい)しまうさむも、なかなか見ぐるしければ、もてはやし興(きよう)じまうし給(たま)ふにもてなしつつ、みづから下襲(したがさね)のしりはさみて乗り給(たま)ひぬ。さばかりせばき壺(つぼ)に折りまはし、おもしろくあげ給(たま)へば、御けしきなほりて、あしきことにはなかりけり、と思(おぼ)し召(め)して、いみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひけるを、中納言あさましうもあはれにも思(おぼ)さるる御けしきは、同じ御心(みこころ)によからぬことを囃(はや)しまうし給(たま)ふとは見えず、誰(たれ)もさぞかしとは見知(し)りきこえさする人もありければこそは、かくも申(まう)し伝へたれな。また、「みづから乗り給(たま)ふまではあまりなり」といふ人もありけり。
これならず、ひたぶるに色にはいたくも見えず、ただ御本性(ほんじやう)のけしからぬさまに見えさせ給(たま)へば、いと大事(だいじ)にぞ。されば源民部卿(げんみんぶきよう)は、「冷泉院の狂(くる)ひよりは、花山院の狂ひは術(ずち)なき物(もの)なれ」と申(まう)し給(たま)ひければ、入道(にふだう)殿(どの)は、「いと不便(ふびん)なることをも申(まう)さるるかな」と仰(おほ)せられながら、いといみじう笑はせ給(たま)ひけり。
この義懐(よしちか)の中納言の御出家(すけ)、惟成(これしげ)の弁(べん)の勧(すす)めきこえられたりけるとぞ。いみじういたりありける人にて、「いまさらに、よそ人(びと)にてまじらひ給(たま)はむ見ぐるしかりなむ」と聞えさせければ、げにさもと、いとど思(おぼ)して、なり給(たま)ひにしを、もとよりおこし給(たま)はぬ道心(だうしん)なれば、いかがと人思(おも)ひきこえしかど、落(お)ち居(ゐ)給(たま)へる御心(みこころ)の本性なれば、懈怠(けたい)なく行ひ給(たま)ひて、失(う)せ給(たま)ひにしぞかし。
その御子(みこ)は、ただいまの飯室(いひむろ)の僧都(そうづ)、また、絵阿闍梨(ゑあざり)の君(きみ)、入道(にふだう)中将(ちゆうじやう)成房(なりふさ)の君なり。この三人(みたり)、備中守(びつちゆうのかみ)為雅(ためまさ)の女(むすめ)の腹なり。その中将(ちゆうじやう)の女は、定経(さだつね)のぬしの妻(め)にてこそは御座(おは)すめれ。一条殿の御族(ぞう)は、いかなることにか、御命短くぞ御座(おは)しますめる。
花山院の、御出家(すけ)の本意(ほい)あり、いみじう行はせ給(たま)ひ、修行(すぎやう)せさせ給(たま)はぬところなし。されば、熊野(くまの)の道に千里(ちさと)の浜といふところにて、御心地(ここち)そこなはせ給(たま)へれば、浜づらに石のあるを御枕にて、大殿籠(おほとのごも)りたるに、いと近く海人(あま)の塩焼く煙(けぶり)の立ちのぼる心ぼそさ、げにいかにあはれに思(おぼ)されけむな。
旅の空夜半(よは)のけぶりとのぼりなば海人(あま)の藻塩火(もしほび)焚(た)くかとや見む 
かかるほどに、御験(ごげん)いみじうつかせ給(たま)ひて、中堂(ちゆうだう)にのぼらせ給(たま)へる夜(よ)、験競(げんくら)べしけるを、試(こころみ)むと思(おぼ)し召(め)して、御心(みこころ)のうちに念(ねん)じ御座(おは)しましければ、護法(ごほふ)つきたる法師、御座(おは)します御屏風(びやうぶ)のつらに引きつけられて、ふつと動きもせず、あまりひさしくなれば、今はとてゆるさせ給(たま)ふ折ぞ、つけつる僧どものがり、をどりいぬるを、「はやう院(ゐん)の御護法の引き取るにこそありけれ」と、人々あはれに見奉(たてまつ)る。それ、さることに侍(はべ)り。験(げん)も品(しな)によることなれば、いみじき行(おこな)ひ人(びと)なりとも、いかでかなずらひまうさむ。前生(ぜんしやう)の御戒力(かいりき)に、また、国王の位をすて給(たま)へる出家(すけ)の御功徳(くどく)、かぎりなき御ことにこそ御座(おは)しますらめ。ゆく末までも、さばかりならせ給(たま)ひなむ御心には、懈怠(けだい)せさせ給(たま)ふべきことかはな。それに、いとあやしくならせ給(たま)ひにし御心あやまちも、ただ御物(もの)の怪(け)のし奉(たてまつ)りぬるにこそ侍(はべ)めりしか。
なかにも、冷泉院の、南院(みなみのゐん)に御座(おは)しましし時、焼亡(せうまう)ありし夜(よ)、御とぶらひに参(まゐ)らせ給(たま)へりし有様(ありさま)こそ不思議に候(さぶら)ひしか。御親の院は御車(みくるま)にて二条町尻(まちじり)の辻(つじ)に立たせ給(たま)へり。この院は御馬にて、頂(いただき)に鏡いれたる笠、頭光(づくわう)に奉(たてまつ)りて、「いづくにか御座(おは)します、いづくにか御座(おは)します」と、御手づから人ごとに尋ね申(まう)させ給(たま)へば、「そこそこになむ」と聞(き)かせ給(たま)ひて、御座(おは)しましどころへ近く降りさせ給(たま)ひぬ。御馬の鞭腕(むちかひな)に入れて、御車の前に御袖(そで)うち合(あは)せて、いみじうつきづきしう居(ゐ)させ給(たま)へりしは、さることやは侍(はべ)りしとよ。それにまた、冷泉院の、御車のうちより、高やかに神楽歌(かぐらうた)をうたはせ給(たま)ひしは、さまざま興(きよう)あることをも見聞(き)くかなと、おぼえ候(さぶら)ひし。明順(あきのぶ)のぬしの、「庭火(にはび)、いと猛(まう)なりや」と宣(のたま)へりけるにこそ、万人(ばんにん)えたへず笑ひ給(たま)ひにけれ。
あてまた、花山院の、ひととせ、祭(まつり)のかへさ御覧(ごらん)ぜし御有様(ありさま)は、誰(たれ)も見奉(たてまつ)り給(たま)ひけむな。前の日、こと出(いだ)させ給(たま)へりしたびのことぞかし。さることあらむまたの日は、なほ御歩(あり)きなどなくてもあるべきに、いみじき一(いち)のものども、高帽頼勢(かうぼうらいせい)を始(はじ)めとして、御車(みくるま)のしりに多くうちむれ参(まゐ)りしけしきども、いへばおろかなり。なによりも御数珠(ずず)のいと興(きよう)ありしなり。小さき柑子(かうじ)をおほかたの玉には貫(つらぬ)かせ給(たま)ひて、達磨(だつま)には大柑子(おほかうじ)をしたる御数珠、いと長く御指貫(さしぬき)に具(ぐ)して出(いだ)させ給(たま)へりしは、さる見物(みもの)やは候(さぶら)ひしな。紫野(むらさきの)にて、人人、御車に目をつけ奉(たてまつ)りたりしに、検非違使(けびゐし)参(まゐ)りて、昨日、こと出(いだ)したりし童(わらは)べ捕(とら)ふべし、といふこと出(い)できにける物(もの)か。このごろの権(ごん)大納言(だいなごん)殿、まだその折は若く御座(おは)しまししほどぞかし、人走らせて、「かうかうのこと候(さぶら)ふ。とく帰らせ給(たま)ひね」と申(まう)させ給(たま)へりしかば、そこら候(さぶら)ひつるものども、蜘蛛(くも)の子を風の吹き払(はら)ふごとくに逃げぬれば、ただ御車副(みくるまぞひ)のかぎりにてやらせて、物見車(ものみぐるま)のうしろの方より御座(おは)しまししこそ、さすがにいとほしく、かたじけなくおぼえ御座(おは)しまししか。さて検非違使つきや、いといみじう辛(から)う責(せ)められ給(たま)ひて、太上(だいじやう)天皇(てんわう)の御名は下(くだ)させ給(たま)ひてき。かかればこそ、民部卿殿の御いひ言(ごと)はげにとおぼゆれ。
さすがに、あそばしたる和歌は、いづれも人の口にのらぬなく、優(いう)にこそ承(うけたまは)れな。「ほかの月をも見てしがな」などは、この御有様(ありさま)に思(おぼ)し召(め)しよりけることともおぼえず、心ぐるしうこそ候(さぶら)へ。あてまた冷泉院に笋(たかうな)奉(たてまつ)らせ給(たま)へる折は、
世の中にふるかひもなきたけのこはわが経(へ)む年を奉(たてまつ)るなり 
御返し、
年経ぬる竹のよはひを返してもこの世をながくなさむとぞ思(おも)ふ
「かたじけなく仰(おほ)せられたり」と、御集(ぎよしふ)に侍(はべ)るこそあはれに候(さぶら)へ。誠(まこと)に、さる御心(みこころ)にも、祝ひ申(まう)さむと思(おぼ)し召(め)しけるかなしさよ。
この花山院は、風流者(ふりうざ)にさへ御座(おは)しましけるこそ。御所(ごしよ)つくらせ給(たま)へりしさまなどよ。
寝殿(しんでん)・対(たい)・渡殿(わたどの)などは、つくり会(あ)ひ、檜皮葺(ひはだふ)きあはすることも、この院のし出(い)でさせ給(たま)へるなり。昔は別々(べちべち)にて、あはひに樋(ひ)かけてぞ侍(はべ)りし。内裏(だいり)は今にさてこそは侍(はべ)るめれ。
御車(みくるま)やどりには、板敷(いたじき)を奥には高く、端(はし)はさがりて、大きなる妻戸(つまど)をせさせ給(たま)へる、ゆゑは、御車の装束(さうぞく)をさながら立てさせ給(たま)ひて、おのづからとみのことの折に、とりあへず戸押し開かば、からからと、人も手もふれぬさきに、さし出(いだ)さむが料(れう)と、おもしろく思(おぼ)し召(め)しよりたることぞかし。御調度(てうど)どもなどの清(けう)らさこそ、えもいはず侍(はべ)りけれ。六の宮の絶(た)えいり給(たま)へりし御誦経(みずきやう)にせられたりし御硯(すずり)の箱見給(たま)へき。海賦(かいぶ)に蓬莱山(ほうらいせん)・手長(てなが)・足長(あしなが)、金(こがね)して蒔(ま)かせ給(たま)へりし、かばかりの箱の漆(うるし)つき、蒔絵のさま、くちをかれたりし様(やう)などのいとめでたかりしなり。
また、木立(こだち)つくらせ給(たま)へりし折は、「桜の花は優(いう)なるに枝ざしのこはごはしく、幹(もと)の様(やう)などもにくし。梢(こずゑ)ばかりを見るなむをかしき」とて中門(ちゆうもん)より外(と)に植ゑさせ給(たま)へる、なによりもいみじく思(おぼ)し寄りたりと、人は感じまうしき。また、撫子(なでしこ)の種を築地(ついひぢ)の上にまかせ給(たま)へりければ、思(おも)ひがけぬ四方(よも)に、色々の唐錦(からにしき)をひきかけたるやうに咲きたりしなどを見給(たま)へしは、いかにめでたく侍(はべ)りしかは。
入道(にふだう)殿(どの)、競馬(くらべうま)せさせ給(たま)ひし日、迎へまうさせ給(たま)ひけるに、わたり御座(おは)します日の御装(よそひ)は、さらなり、おろかなるべきにあらねど、それにつけても、誠(まこと)に、御車(みくるま)のさまこそ、世にたぐひなく候(さぶら)ひしか。御沓(くつ)にいたるまで、ただ、人の見物(みもの)になるばかりこそ、後(のち)には持(も)て歩(あり)くと承(うけたまは)りしか。
あて、御絵(ゑ)あそばしたりし、興(きよう)あり。さは、走り車の輪(わ)には、薄墨(うすずみ)に塗(ぬ)らせ給(たま)ひて、大きさのほど、輻(や)などのしるしには墨(すみ)をにほはさせ給(たま)へりし、げにかくこそ書くべかりけれ。あまりに走る車は、いつかは黒さのほどやは見え侍(はべ)る。
また、笋(たかうな)の皮を、男の指(および)ごとに入れて、目かかうして、児(ちご)をおどせば、顔を赤めてゆゆしう怖(お)ぢたるかた、また、徳人(とくにん)・たよりなしの家のうちの作法(さはふ)などかかせ給(たま)へりしが、いづれもいづれも、さぞありけむとのみ、あさましうこそ候(さぶら)ひしか。この中(なか)に、御覧(ごらん)じたる人もや御座(おは)しますらむ。 
一 太政大臣(だいじやうだいじん)兼通(かねみち)忠義公(ちゆうぎこう)
この大臣(おとど)、これ、九条殿(くでうどの)の次郎君、堀河(ほりかは)の関白(くわんばく)と聞(きこ)えさせき。関白(くわんばく)し給(たま)ふこと、六年。
安和(あんな)二年正月七日、宰相(さいしやう)にならせ給(たま)ふ。閏(うるふ)五月二十一日、宮内卿(くないきやう)とこそは申(まう)ししか。天禄(てんろく)二年閏二月二十九日、中納言にならせ給(たま)ひて、大納言(だいなごん)をば経(へ)で、十一月二十七日、内大臣にならせ給(たま)ふ。いとめでたかりしことなり。
弟(おとうと)の東三条(とうさんでう)殿(どの)の中納言に御座(おは)しまししに、まだこの殿は宰相にていと辛(から)きことに思(おぼ)したりしに、かくならせ給(たま)ひしめでたかりしことなりかし。天延(てんえん)二年正月七日、従(じゆ)二位せさせ給(たま)ふ。二月二十八日に太政大臣(だいじやうだいじん)にならせ給(たま)ふ。やがて正二位せさせ給(たま)ひ、輦車(てぐるま)ゆるさせ給(たま)ひて、三月二十六日、関白(くわんばく)にならせ給(たま)ひにしぞかし。宰相にならせ給(たま)ひし年より六年(むとせ)といふにかくならせ給(たま)ひにき。天延(てんえん)三年正月七日、一位せさせ給(たま)ひてき。貞元(ぢやうげん)二年十一月八日失(う)せさせ給(たま)ひにき、御年五十三.同じ二十日、贈(ぞう)正(じやう)一位(いちゐ)の宣旨(せんじ)あり。後(のち)の御いみな、忠義公と申(まう)しき。この殿(との)、かくめでたく御座(おは)しますほどよりは、ひまなくて大将にえなり給(たま)はざりしぞ、口惜(くちを)しかりしや。それ斯様(かやう)ならんためにこそあれ。さてもありぬべきことなり。ただ思(おぼ)し召(め)せかしな。
御母のことのなきは、一条殿(いちでうどの)の同じきにや。大入道(おほにふだう)殿(どの)、納言(なごん)にて御座(おは)しますほど、御兄(このかみ)なれど、宰相(さいしやう)にて年頃(としごろ)経(へ)させ給(たま)ひけるを、天禄(てんろく)三年二月に中納言になり給(たま)ひて、宮中のこと内覧(ないらん)すべき宣旨承(うけたまは)らせ給(たま)ひにけり。同じ年十一月に、内大臣にて関白(くわんばく)の宣旨かぶらせ給(たま)ひてぞ、多くの人越え給(たま)ひける。
円融院の御母后(ははきさき)、この大臣(おとど)の妹(いもうと)に御座(おは)しますぞかし。この后(きさき)、村上の御時、康保(かうはう)元年四月二十九日に失(う)せ給(たま)ひにしぞかし。この后のいまだ御座(おは)しましし時に、この大臣(おとど)いかが思(おぼ)しけむ、「関白(くわんばく)は、次第(しだい)のままにせさせ給(たま)へ」と書かせ奉(たてまつ)りて、取り給(たま)ひたりける御文(ふみ)を、守(まもり)のやうに首にかけて、年頃(としごろ)、持ちたりけり。御弟(おとと)の東三条(とうさんでう)殿(どの)は、冷泉院の御時の蔵人頭(くらうどのとう)にて、この殿(との)よりも先(さき)に三位(さんみ)して、中納言にもなり給(たま)ひにしに、この殿は、はつかに宰相ばかりにて御座(おは)せしかば、世の中すさまじがりて、内(うち)にもつねに参(まゐ)り給(たま)はねば、帝(みかど)も、うとく思(おぼ)し召(め)したり。
その時に、兄の一条(いちでう)の摂政(せつしやう)、天禄三年十月に失(う)せ給(たま)ひぬるに、この御文(ふみ)を内(うち)に持(も)て参(まゐ)り給(たま)ひて、御覧(ごらん)ぜさせむと思(おぼ)すほどに、上(うへ)、鬼(おに)の間(ま)に御座(おは)しますほどなりけり。折よしと思(おぼ)し召(め)すに、御舅(をぢ)たちの中に、うとく御座(おは)します人なれば、うち御覧じて入(い)らせ給(たま)ひき。さし寄りて、「奏(そう)すべきこと」と申(まう)し給(たま)へば、立ち帰らせ給(たま)へるに、この文を引き出(い)でて参(まゐ)らせ給(たま)へれば、取りて御覧ずれば、紫の薄様(うすやう)一重(ひとかさね)に、故(こ)宮(みや)の御手にて、「関白(くわんばく)をば、次第(しだい)のままにせさせ給(たま)へ。ゆめゆめたがへさせ給(たま)ふな」と書かせ給(たま)へる、御覧ずるままに、いとあはれげに思(おぼ)し召(め)したる御けしきにて、「故(こ)宮(みや)の御手よな」と仰(おほ)せられ、御文をば取りて入らせ給(たま)ひにけりとこそは。さてかく出(い)で給(たま)へるとこそは聞(きこ)え侍(はべ)りしか。いと心かしこく思(おぼ)しけることにて、さるべき御宿世(すくせ)とは申(まう)しながら、円融院孝養(けうやう)の心深く御座(おは)しまして、母宮の御遺言(ゆいごん)たがへじとて、なし奉(たてまつ)らせ給(たま)へりける、いとあはれなることなり。
その時、頼忠(よりただ)の大臣(おとど)、右大臣にて御座(おは)しまししかば、道理のままならば、この大臣(おとど)のし給(たま)ふべきにてありしに、この文(ふみ)にてかくありけるとこそは聞え侍(はべ)りしか。東三条(とうさんでう)殿(どの)も、この堀河殿よりは上臈(じやうらふ)にて御座(おは)しまししかば、いみじう思(おぼ)し召(め)しよりたることぞかし。
この殿(との)の御着袴(ちやくこ)に、貞信公(ていしんこう)の御もとに参(まゐ)り給(たま)へる、贈物(おくりもの)に添(そ)へさせ給(たま)ふとて、貫之(つらゆき)のぬしに召(め)したりしかば、奉(たてまつ)れたりし歌、
ことに出(い)でで心のうちに知(し)らるるは神のすぢなはぬけるなりけり 
引出物(ひきいでもの)に、琴をせさせ給(たま)へるにや。
御かたちいと清(きよ)げに、きららかになどぞ御座(おは)しましし。堀河院(ほりかはのゐん)に住ませ給(たま)ひしころ、臨時客(りんじきやく)の日、寝殿(しんでん)の隅(すみ)の紅梅(こうばい)盛(さか)りに咲きたるを、ことはてて内(うち)へ参(まゐ)らせ給(たま)ひざまに、花の下に立ち寄らせ給(たま)ひて、一枝をおし折りて、御挿頭(かざし)にさして、けしきばかりうち奏(かな)でさせ給(たま)へりし日などは、いとこそめでたく見えさせ給(たま)ひしか。
この殿(との)には、御夜(ごや)に召(め)す卯酒(ばうしゆ)の御肴(さかな)には、ただいま殺したる〓[矢+鳥](きじ)をぞ参(まゐ)らせける。持(も)て参(まゐ)りあふべきならねば、宵(よひ)よりぞまうけておかれける。業遠(なりとほ)のぬしのまだ六位にて、始(はじ)めて参(まゐ)れる夜(よ)、御沓櫃(くつびつ)のもとに居(ゐ)られたりければ、櫃(ひつ)のうちに、物(もの)のほとほとしけるがあやしさに、暗(くら)まぎれなれば、やをら細めにあけて見給(たま)ひければ、〓[矢+鳥](きじ)の雄鳥(をとり)かがまりをる物(もの)か。人のいふことはまことなりけりと、あさましうて、人の寝にける折に、やをら取り出(いだ)して、懐(ふところ)にさし入れて、冷泉院(れいぜいゐん)の山に放(はな)ちたりしかば、ほろほろと飛びてこそ去(ゐ)にしか。「し得(え)たりし心地(ここち)は、いみじかりし物(もの)かな。それにぞ、われは幸(さいは)ひ人(びと)なりけりとはおぼえしか」となむ、語られける。殺生(せつしやう)は殿(との)ばらの皆せさせ給(たま)ふことなれど、これはむげの無益(むやく)のことなり。
この殿(との)の御女(むすめ)、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)元平(もとひら)の親王(みこ)の御女の御腹の姫君(ひめぎみ)、円融院の御時に参(まゐ)り給(たま)ひて、堀河(ほりかは)の中宮(ちゆうぐう)と申(まう)しき。幼く御座(おは)しまししほど、いかなりけるにか、例(れい)の御親のやうにつねに見奉(たてまつ)りなどもし給(たま)はざりければ、御心(みこころ)いとかしこう、また御後見(うしろみ)などこそは申(まう)しすすめけめ、物詣(ものまうで)・祈(いのり)をいみじうせさせ給(たま)ひけるとか。稲荷(いなり)の坂にても、この女(をんな)ども見奉(たてまつ)りけり。いと苦しげにて、御〓[巾+皮](むし)おしやりて、あふがれさせ給(たま)ひける御姿つき、指貫(さしぬき)の腰ぎはなども、さはいへど、多くの人よりは気高(けだか)く、なべてならずぞ御座(おは)しける。斯様(かやう)につとめさせ給(たま)へるつもりにや、やうやうおとなび給(たま)ふままに、これよりおとななる御女(むすめ)も御座(おは)しまさねば、さりとて后(きさき)にたて奉(たてまつ)らであるべきならねば、かく参(まゐ)らせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、いとやむごとなく候(さぶら)はせ給(たま)ひしぞかし。いま一所(ひとところ)の姫君は、尚侍(ないしのかみ)にならせ給(たま)へりし、今に御座(おは)します。六条の左大臣(さだいじん)殿(どの)の御子(みこ)の讃岐守(さぬきのかみ)の上(うへ)にて御座(おは)するとかや。
また、太郎君(たらうぎみ)、長徳(ちやうとく)二年七月二十一日、右大臣にならせ給(たま)ひにき。御年七十八にてや失(う)せ御座(おは)しましけむ。失(う)せ給(たま)ひて、この五年(いつとせ)ばかりにやなりぬらむ。悪霊(あくりやう)の左大臣(さだいじん)殿(どの)と申(まう)し伝へたる、いと心憂(こころう)き御名なりかし。そのゆゑどもみな侍(はべ)るべし。この御北の方には、村上の先帝(せんだい)の女五の宮、広幡(ひろはた)の御息所(みやすどころ)の御腹ぞかし。その御腹に、男子(をのこご)一人・女二人御座(おは)しまししを、男君(をとこぎみ)は重家(しげいへ)の少将(せうしやう)とて、心ばへ有識(いうそく)に、世覚(よおぼ)え重くてまじらひ給(たま)ひしほどに、ひさしく御座(おは)しますまじかりければにや、出家(すけ)して失(う)せ給(たま)ひにき。女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)は、一条院の御時の承香殿(しようきやうでん)の女御(にようご)とて御座(おは)せしが、末には、為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御子(みこ)、源宰相(げんさいしやう)頼定(よりさだ)の君の北の方にて、あまたの君達(きんだち)御座(おは)すめり。そのほどの御ことどもは、皆人知ろしめしたらむ。その宰相失(う)せ給(たま)ひにしかば、尼(あま)になりて御座(おは)します。いま一所は、今の小一条院(こいちでうゐん)の、まだ式部卿(しきぶきやう)の宮と申(ま)しし折、婿(むこ)にとり奉(たてまつ)らせ給(たま)へりしほどに、春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)へりしをうれしきことに思(おぼ)ししかど、院にならせ給(たま)ひにし後(のち)は、高松殿(たかまつどの)の御匣殿(みくしげどの)にわたらせ給(たま)ひて、御心(みこころ)ばかりは通はし給(たま)ひながら、通はせ給(たま)ふこと絶えにしかば、女御も父大臣(ちちおとど)も、いみじう思(おぼ)し嘆きしほどに、御病にもなりにけるにや、失(う)せ給(たま)ひにき。
いみじきものになりて、父大臣(おとど)具(ぐ)してこそ、し歩(あり)き給(たま)ふなれ。院の女御には、つねにつきわづらはせ給(たま)ふなり。
その腹に、宮たちあまた所(ところ)御座(おは)します。
また、堀河の関白(くわんばく)殿の御二郎、兵部卿(ひやうぶきやう)有明(ありあきら)の親王(みこ)の御女(むすめ)の腹の君、中宮の御一(ひと)つ腹(ばら)には御座(おは)せず。これはまた、閑院(かんゐん)の大将朝光(あさてる)とぞ申(まう)しし。兄(このかみ)の大臣(おとど)、宰相にて御座(おは)しけるほどは、この殿(との)は中納言にてぞ御座(おは)しける。ひき越され給(たま)ひけるぞめでたく、その頃などすべていみじかりし御世覚(よおぼ)えにて、御まじらひのほどなど、ことのほかにきらめき給(たま)ひき。胡〓[竹+禄](やなぐひ)の水精(すいさう)の筈(はず)も、この殿の思(おも)ひ寄りし出(い)で給(たま)へるなり。何事(なにごと)の行幸(ぎやうかう)にぞや仕(つか)まつり給(たま)へりしに、この胡〓[竹+禄]負(お)ひ給(たま)へりしは、朝日の光に輝(かかや)き会(あ)ひて、さるめでたきことやは侍(はべ)りし。今は目馴(めな)れにたれば、めづらしからず人も思(おも)ひて侍(はべ)るぞ。何事につけても、はなやかにもて出(い)でさせ給(たま)へりし殿の、父殿(ちちどの)失(う)せ給(たま)ひにしかば、世の中おとろへなどして、御病も重くて、大将も辞(じ)し給(たま)ひてこそ、口惜(くちを)しかりしか。さて、ただ按察(あぜちの)大納言(だいなごん)とぞ聞えさせし。和歌などこそ、いとをかしくあそばししか。四十五にて失(う)せ給(たま)ひにき。
北の方には、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍の御腹の、重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の宮の御中姫君ぞ御座(おは)せしかし。その御腹に、男君三人、女君(をんなぎみ)のかかやくごとくなる御座(おは)せし、花山院の御時参(まゐ)らせ給(たま)ひて、一月ばかりいみじうときめかせ給(たま)ひしを、いかにしけることにかありけむ、まう上(のぼ)り給(たま)ふこともとどまり、帝(みかど)もわたらせ給(たま)ふこと絶えて、御文(ふみ)だに見えきこえずなりにしかば、一二月候(さぶら)ひわびてこそは、出(い)でさせ給(たま)ひにしか。また、さあさましかりしことやはありし。御かたちなどの、世の常ならずをかしげにて、思(おぼ)し嘆くも、見奉(たてまつ)り給(たま)ふ大納言(だいなごん)・御せうとの君たち、いかがは思(おぼ)しけむ。その御一(ひと)つ腹(ばら)の男君三所(みところ)、太郎君は、今の藤(とう)中納言朝経(あさつね)の卿に御座(おは)すめり。人に重く思(おも)はれ給(たま)へるめり。次郎・三郎君は、馬頭(うまのかみ)・少将(せうしやう)などにて、みな出家(すけ)しつつ失(う)せ給(たま)ひにき。この馬(うま)の入道(にふだう)の御男子(をのこご)なり、今の右京大夫(うきやうのだいぶ)。
この閑院(かんゐん)の大将殿は、後(のち)にはこの君達(きんだち)の母をばさりて、枇杷(びは)の大納言(だいなごん)延光(のぶみつ)の卿の失(う)せ給(たま)ひにし後(のち)、その上(うへ)の、年老いて、かたちなどわろく御座(おは)しけるにや、ことなること聞え給(たま)はざりしをぞ住み給(たま)ひし。徳(とく)につき給(たま)へるとぞ世の人申(まう)しし。さて、世覚(よおぼ)えもおとり給(たま)ひにしぞかし。もとの上、御かたちもいとうつくしく、人のほどもやむごとなく御座(おは)しまししかど、不合(ふがふ)に御座(おは)すとて、かかる今北の方をまうけて、さり給(たま)ひにしぞかし。この今の上の御もとには、女房(にようばう)三十人ばかり、裳(も)・唐衣(からぎぬ)着せて、えもいはずさうぞきて、すゑ並べて、しつらひ有様(ありさま)より始(はじ)めて、めでたくしたてて、かしづききこゆることかぎりなし。大将歩(あり)きて帰り給(たま)ふ折は、冬は火おほらかに埋(うづ)みて、薫物(たきもの)多きにつくりて、伏籠(ふせご)うち置きて、褻(け)に着給(たま)ふ御衣(おんぞ)をば、暖かにてぞ着せ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。炭櫃(すびつ)に銀(しろかね)の提子(ひさげ)二十ばかりを据ゑて、さまざまの薬を置き並べて参(まゐ)り給(たま)ふ。また、寝給(たま)ふ畳(たたみ)の上筵(うはむしろ)に、綿入れてぞ敷(し)かせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。寝給(たま)ふ時には、大きなる熨斗(のし)持ちたる女房三四人(みたりよたり)ばかり出(い)で来(き)て、かの
大殿籠(おほとのごも)る筵(むしろ)をば、暖かにのしなでてぞ寝させ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。あまりなる御用意なりしかは。
おほかたのしつらひ・有様(ありさま)、女房の装束(さうぞく)などはめでたけれども、この北の方は、練色(ねりいろ)の衣(きぬ)の綿厚き二つばかりに、白袴(しろばかま)うち着てぞ御座(おは)しける。年四十余(よそぢあまり)ばかりなる人の、大将には親ばかりにぞ御座(おは)しける。色黒くて、額(ひたひ)に花がたうち付きて、髪ちぢけたるにぞ御座(おは)しける。御かたちのほどを思(おも)ひ知(し)りて、さまに会(あ)ひたる装束と思(おぼ)しけるにや、誠(まこと)にその御装束こそ、かたちに合ひて見えけれ。さばかりの人の北の方と申(まう)すべくも見えざりけれど、もとの北の方重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の姫君、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)の御腹、やむごとなき人と申(まう)しながら、かたち・有様(ありさま)めでたく御座(おは)しけるに、かかる人に思(おぼ)しうつりて、さり奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけむほど思(おも)ひ侍(はべ)るに、ただ徳(とく)のありて、かくもてかしづききこゆるに、思(おも)ひの御座(おは)しけるにや。
やむごとなき人だにこそかくは御座(おは)しけれ。あはれ、翁(おきな)らが心にだに、いみじき宝(たから)を降(ふ)らしてあつかはむといふ人ありとも、年頃(としごろ)の女(をんな)どもをうち捨ててまからむは、いとほしかりぬべきに、さばかりにやむごとなく御座(おは)します人は、不合(ふがふ)に御座(おは)すといふとも、翁らが宿(やど)りのやうに侍(はべ)らむやは。この今北の方のことにより、世の人にも軽(かろ)く思(おも)はれ、世覚(よおぼ)えもおとり給(たま)ひにし、いと口惜(くちを)しきことに侍(はべ)りや。さばかりのこと思(おぼ)しわかぬやう侍(はべ)るべしや。あやしの翁らが心におとらせ給(たま)はむやは、と思(おも)ひ給(たま)ふれど、口惜(くちを)しく思(おも)ひ給(たま)ふることなりしかば、申(まう)すぞや」とて、ほほゑむけしき、はづかしげなり。
《世継》「さばかりの人だにかく御座(おは)しましければ、それより次々の人のいかなる振舞(ふるまひ)もせむ、ことわりなりや。翁らがここらの年頃、あやしの宿(やど)りに、わりなき世を念(ねん)じ過して侍(はべ)りつるこそ、ありがたくおぼえ侍(はべ)りつれ」
快(こころよ)くうちすみたりし顔けしきこそいとをかしかりしか。
《世継》「さて、時々、もとの上(うへ)の御もとへ御座(おは)しまさむとて、牛飼(うしかひ)・車副(くるまぞひ)などに、「そなたへ車をやれ」とて仰(おほ)せられけれどさらに聞(き)かざりけれ。この今北の方、侍(さぶらひ)・雑色(ざふしき)・隨身(ずいじん)・車副などに、装束(さうずく)物(もの)取らすることはさるものにて、日ごとに酒を出(いだ)して飲ませ遊ばせ、いみじき志(こころざし)どもをしける。その故(け)にや、かくしけるを、それまたいとあやしき御心(みこころ)なりや。雑色・牛飼の心にまかせて、それによりてえ御座(おは)しまさざりけむよ。さることやは侍(はべ)るな。さるは、この大将は、御心(こころ)ばへもかたちも、人にすぐれてめでたく御座(おは)せし人なり。
また、堀河殿(ほりかはどの)の御子(みこ)、大蔵卿(おほくらきやう)正光(まさみつ)と聞えしが御女(むすめ)、源帥(げんのそち)の御中(なか)の君(きみ)の御腹のぞかし。今の皇太后宮(くわうたいごうぐう)の御匣殿(みくしげどの)とて候(さぶら)ひ給(たま)ふ、ただいまの左兵衛督(さひやうゑのかみ)の北の方。また、上野前司(かうづけのぜんじ)兼定(かねさだ)の君ぞかし。まことや、北面(きたおもて)の中納言とかや、世の人の申(ま)しし時光(ときみつ)の卿、それまた、右京大夫(うきやうのだいぶ)にて御座(おは)せし。この大夫の御子(みこ)ぞかし、今の仁和寺(にんなじ)の別当(べたう)、律師(りし)尋清(じんせい)の君。堀河殿の御末、かばかりか。
この大臣(おとど)、すべて非常(ひざう)の御心ぞ御座(おは)しし。かばかり末絶えず栄え御座(おは)しましける東三条(とうさんでう)殿(どの)を、ゆゑなきことにより、御官位(つかさくらゐ)を取り奉(たてまつ)り給(たま)へりし、いかに悪事(あくじ)なりしかは。天道(てんたう)もやすからず思(おぼ)し召(め)しけむを。その折の帝(みかど)、円融院にぞ御座(おは)しましし。かかる嘆きのよしを長歌(ながうた)によみて、奉(たてまつ)り給(たま)へりしかば、帝(みかど)の御返り、「いなふねの」とこそ仰(おほ)せられければ、しばしばかりを思(おぼ)し嘆きしぞかし。
堀河殿、はてはわれ失(う)せ給(たま)はむとては、関白(くわんばく)をば、御いとこの頼忠(よりただ)の大臣(おとど)にぞ譲り給(たま)ひしこそ、世の人いみじき僻事(ひがごと)と謗(そし)りまうししか」。
この向(むか)ひ居(を)る侍(さぶらひ)のいふやう、
「東三条(とうさんでう)殿(どの)の官(つかさ)など取り奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしほどのことは、ことわりとこそ承(うけたまは)りしか。おのれが祖父(おほぢ)親(おや)は、かの殿(との)の年頃(としごろ)の者にて侍(はべ)りしかば、こまかに承(うけたまは)りしは。この殿たちの兄弟(あにおとと)の御中(なか)、年頃の官位(つかさくらゐ)の劣(おと)り優(まさ)りのほどに、御中あしくて過ぎさせ給(たま)ひし間に、堀河殿御病重くならせ給(たま)ひて、今はかぎりにて御座(おは)しまししほどに、東(ひんがし)の方に、先(さき)追ふ音のすれば、御前(おまへ)に候(さぶら)ふ人たち、「誰(たれ)ぞ」などいふほどに、「東三条(とうさんでう)殿(どの)の大将殿参(まゐ)らせ給(たま)ふ」と人の申(まう)しければ、殿(との)聞(き)かせ給(たま)ひて、年頃なからひよからずして過ぎつるに、今はかぎりになりたると聞(き)きて、とぶらひに御座(おは)するにこそはとて、御前(おまへ)なる苦しき物(もの)取り遣(や)り、大殿籠(おほとのごも)りたる所ひきつくろひなどして、入れ奉(たてまつ)らむとて、待ち給(たま)ふに、「早く過ぎて、内(うち)へ参(まゐ)らせ給(たま)ひぬ」と人の申(まう)すに、いとあさましく心憂(こころう)くて、御前(おまへ)に候(さぶら)ふ人々も、をこがましく思(おも)ふらむ。御座(おは)したらば、関白(くわんばく)など譲ることなど申(まう)さむとこそ思(おも)ひつるに。かかればこそ、年頃なからひよからで過ぎつれ。あさましくやすからぬことなりとて、かぎりのさまにて臥(ふ)し給(たま)へる人の、「かき起(おこ)せ」と宣(のたま)へば、人々、あやしと思(おも)ふほどに、「車に装束(さうぞく)せよ。御前(ごぜん)もよほせ」と仰(おほ)せらるれば、物(もの)のつかせ給(たま)へるか、現心(うつしごころ)もなくて仰(おほ)せらるるかと、あやしく見奉(たてまつ)るほどに、御冠(かぶり)召(め)し寄せて、装束などせさせ給(たま)ひて、内(うち)へ参(まゐ)らせ給(たま)ひて、陣(ぢん)のうちは君達(きんだち)にかかりて、滝口(たきぐち)の陣の方より、御前(おまへ)へ参(まゐ)らせ給(たま)ひて、昆明池(こんめいち)の障子(さうじ)のもとにさし出(い)でさせ給(たま)へるに、昼(ひ)の御座(ござ)に、東三条(とうさんでう)の大将、御前(おまへ)に候(さぶら)ひ給(たま)ふほどなりけり。
この大将殿は、堀河殿すでに失(う)せさせ給(たま)ひぬと聞(き)かせ給(たま)ひて、内(うち)に関白(くわんばく)のこと申(まう)さむと思(おも)ひ給(たま)ひて、この殿(との)の門(かど)を通りて、参(まゐ)りて申(まう)し奉(たてまつ)るほどに、堀河殿の目をつづらかにさし出(い)で給(たま)へるに、帝(みかど)も大将も、いとあさましく思(おぼ)し召(め)す。大将はうち見るままに、立ちて鬼(おに)の間(ま)の方に御座(おは)しましぬ。関白(くわんばく)殿御前(おまへ)につい居(ゐ)給(たま)ひて、御けしきいとあしくて、「最後の除目(ぢもく)行ひに参(まゐ)り給(たま)ふるなり」とて、蔵人頭(くらうどのとう)召(め)して、関白(くわんばく)には頼忠(よりただ)の大臣(おとど)、東三条(とうさんでう)殿(どの)の大将を取りて、小一条(こいちでう)の済時(なりとき)の中納言を大将になしきこゆる宣旨(せんじ)下して、東三条(とうさんでう)殿(どの)をば治部卿(ぢぶきやう)になしきこえて、出(い)でさせ給(たま)ひて、ほどなく失(う)せ給(たま)ひしぞかし。心意地(こころいぢ)にて御座(おは)せし殿(との)にて、さばかりかぎりに御座(おは)せしに、ねたさに内(うち)に参(まゐ)りて申(まう)させ給(たま)ひしほど、こと人すべうもなかりことぞかし。
されば、東三条(とうさんでう)殿(どの)官(つかさ)取り給(たま)ふことも、ひたぶるに堀河殿の非常(ひざう)の御心(みこころ)にも侍(はべ)らず。ことのゆゑは、かくなり。「関白(くわんばく)は次第(しだい)のままに」といふ御文(ふみ)思(おぼ)し召(め)しより、御妹(いもうと)の宮に申(まう)して取り給(たま)へるも、最後に思(おぼ)すことどもして、失(う)せ給(たま)へるほども、思(おも)ひ侍(はべ)るに、心つよくかしこく御座(おは)しましける殿なり」。 
一 太政大臣(だいじやうだいじん)為光(ためみつ) 恒徳公(こうとくこう)
《世継》「この大臣(おとど)は、これ九条殿(くでうどの)の御九郎君、大臣の位にて七年、法住寺(ほふぢゆうじ)の大臣(おとど)と聞(きこ)えさす。御男子(をのこご)七人・女君(をんなぎみ)五人御座(おは)しき。女二所(ふたところ)は、佐理(すけまさ)の兵部卿(ひやうぶきやう)の御妹の腹、いま三所(みところ)は、一条(いちでう)の摂政(せつしやう)の御女(むすめ)の腹に御座(おは)します。男君(をとこぎみ)たちの御母、皆あかれあかれに御座(おは)しましき。女君(をんなぎみ)一所は、花山院の御時の女御(にようご)、いみじう時に御座(おは)せしほどに、失(う)せ給(たま)ひにき。いま一所も、入道(にふだう)中納言(ちゆうなごん)の北の方にて失(う)せ給(たま)ひにき。 男君、太郎は左衛門督(さゑもんのかみ)と聞えさせし、悪心(あくしん)起して失(う)せ給(たま)ひにし有様(ありさま)は、いとあさましかりしことぞかし。人に越えられ、辛(から)いめみることは、さのみこそ御座(おは)しあるわざなるを、さるべきにこそはありけめ。同じ宰相(さいしやう)に御座(おは)すれど、弟殿には人柄(ひとがら)・世覚(よおぼ)えの劣り給(たま)へればにや、中納言あくきはに、われもならむ、など思(おぼ)して、わざと対面(たいめん)し給(たま)ひて、「このたびの中納言望みまうし給(たま)ふな。ここに申(まう)し侍(はべ)るべきなり」と聞え給(たま)ひければ、「いかでか殿(との)の御先(さき)にはまかりなり侍(はべ)らむ。ましてかく仰(おほ)せられむには、あるべきことならず」と申(まう)し給(たま)ひければ、御心(こころ)ゆきて、しか思(おぼ)して、いみじう申(まう)し給(たま)ふにおよばぬほどにや御座(おは)しけむ、入道(にふだう)殿(どの)、この弟殿に、「そこは申(まう)されぬか」と宣(のたま)はせければ、「左衛門督の申(まう)さるれば、いかがは」と、しぶしぶげに申(まう)し給(たま)ひけるに、「かの左衛門督はえなられじ。また、そこにさられば、こと人こそはなるべかなれ」とのたまはせければ、「かの左衛門督まかりなるまじくは、由(よし)なし。なし賜(た)ぶべきなり」と申(まう)し給(たま)へば、またかくあらむには、こと人はいかでかとて、なり給(たま)ひにしを、いかでわれに向(むか)ひて、あるまじきよしを謀(はか)りけるぞ、と思(おぼ)すに、いとど悪心(あくしん)を起して、除目(ぢもく)のあしたより、手をつよくにぎりて、「斉信(ただのぶ)・道長(みちなが)にわれははまれぬるぞ」といひいりて、物(もの)もつゆ参(まゐ)らで、うつぶしうつぶし給(たま)へるほどに、病づきて七日といふに失(う)せ給(たま)ひにしは。にぎり給(たま)ひたりける指(および)は、あまりつよくて、上にこそ通りて出(い)でて侍(はべ)りけれ。
いみじき上戸(じやうご)にてぞ御座(おは)せし。この関白(くわんばく)殿のひととせの臨時客(りんじきやく)に、あまり酔(ゑ)ひて、御座(ござ)に居(ゐ)ながら立ちもあへ給(たま)はで、物(もの)つき給(たま)へりけるにぞ、高名(かうみやう)の弘高(ひろたか)が書きたる楽府(がふ)の屏風(びやうぶ)にかかりて、そこなはれたなる。この中納言になり給(たま)へるも、いと世覚(おぼ)えあり、よき人にて御座(おは)しき。
また、権中将(ごんのちゆうじやう)道信(みちのぶ)の君、いみじき和歌の上手(じやうず)にて、心にくき人にいはれ給(たま)ひしほどに、失(う)せ給(たま)ひにき。また、左衛門督(さゑもんのかみ)公信(きんのぶ)の卿・法住寺(ほふぢゆうじ)の僧都(そうづ)の君・阿闍梨(あざり)良光(よしみつ)の君御座(おは)す。まこと、一条(いちでう)摂政殿(せつしやうどの)の御女の腹の女君(をんなぎみ)たち、三・四・五の御方。三の御方は、鷹司殿(たかつかさどの)の上(うへ)とて、尼(あま)になりて御座(おは)します。四の御方は、入道(にふだう)殿(どの)の俗(ぞく)に御座(おは)しましし折の御子(みこ)うみて、失(う)せ給(たま)ひにき。五の君は、今の皇太后宮(くわうたいごうぐう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。この大臣(おとど)の御有様(ありさま)かくなり。
法住寺をぞ、いといかめしうおきてさせ給(たま)へる。摂政・関白(くわんばく)せさせ給(たま)はぬ人の御しわざにては、いと猛(まう)なりかし。この大臣(おとど)、いとやむごとなく御座(おは)しまししかど、御末ほそくぞ。 
太政大臣(だいじやうだいじん)公季 仁義公
この大臣(おとど)、ただいまの閑院(かんゐん)の大臣(おとど)に御座(おは)します。これ、九条殿(くでうどの)の十一郎君、母、宮腹(みやばら)に御座(おは)します。皇子(みこ)の御女(むすめ)をぞ、北の方にて御座(おは)しましし。その御腹に、女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)、男君二所(ふたところ)、女君(をんなぎみ)は、一条院の御時の弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)、今に御座(おは)します。男一人は、三味噌都(さんまいそうづ)如源(によげん)と申(ま)しし、失(う)せ給(たま)ひにき。いま一所の男君は、ただいまの右衛門督(うゑもんのかみ)実成(さねなり)の卿にぞ御座(おは)する。この殿(との)の御子(みこ)、播磨守(はりまのかみ)陳政(のぶまさ)の女の腹に、女二所・男一人御座(おは)します。大姫君(おほひめぎみ)は、今の中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)殿(どの)の北の方、いま一所は源(げん)大納言(だいなごん)俊賢(としかた)の卿、これ民部卿(みんぶきやう)と聞ゆ、その御子のただいまの頭中将(とうのちゆうじやう)顕基(あきもと)の君の御北の方にて御座(おは)すめる。男君をば、御祖父(おほぢ)の太政大臣(だいじやうだいじん)殿、子にし奉(たてまつ)り給(たま)ひて、公成(きんなり)とつけ奉(たてまつ)らせ給(たま)へるなり。蔵人頭(くらうどのとう)にて、いと覚(おぼ)えことにて御座(おは)すめる君になむ。この太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)の御有様(ありさま)かくなり。帝(みかど)・后(きさき)、たたせ給(たま)はず。
このおほきおとどの御母上は、延喜(えんぎ)の帝(みかど)の御女、四の宮と聞えさせき。延喜(えんぎ)、いみじうときめかせ、思(おも)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)へりき。御裳着(もぎ)の屏風(びやうぶ)に、公忠(きんただ)の弁(べん)、
ゆきやらで山路(やまぢ)くらしつほととぎすいま一声の聞(き)かまほしさに 
とよむは、この宮のなり。貫之(つらゆき)などあまたよみて侍(はべ)りしかど、人にとりては、すぐれてののしられ給(たま)ひし歌よ。二代の帝(みかど)の御妹(いもうと)に御座(おは)します。
さて、内住(うちず)みして、かしづかれ御座(おは)しまししを、九条殿は女房(にようばう)をかたらひて、みそかに参(まゐ)り給(たま)へりしぞかし。世の人、便(びん)なきことに申(まう)し、村上のすべらぎも、やすからぬことに思(おぼ)し召(め)し御座(おは)しましけれど、色に出(い)でて、咎(とが)め仰(おほ)せられずなりにしも、この九条殿の御覚(おぼ)えの、かぎりなきによりてなり。まだ、人々うちささめき、上(うへ)にも聞し召(め)さぬほどに、雨のおどろおどろしう降り、雷鳴(かみな)りひらめきし日、この宮、内(うち)に御座(おは)しますに、「殿上(てんじやう)の人々、四の宮の御方へ参(まゐ)れ。おそろしう思(おぼ)し召(め)すらむ」と仰(おほ)せごとあれば、たれも参(まゐ)り給(たま)ふに、小野宮(をののみや)の大臣(おとど)ぞかし、「参(まゐ)らじ。御前(おまへ)のきたなきに」とつぶやき給(たま)へば、後(のち)にこそ、帝(みかど)、思(おぼ)し召(め)しあはせけめ。
さて殿(との)にまかでさせ奉(たてまつ)りて、思(おも)ひかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふといへば、さらなりや。さるほどに、この太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)をはらみ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、いみじう物(もの)心ぼそくおぼえさせ給(たま)ひければ、「まろはさらにあるまじき心地(ここち)なむする。よし見給(たま)へよ」と男君につねに聞えさせ給(たま)ひければ、「誠(まこと)にさも御座(おは)します物(もの)ならば、片時(かたとき)も後(おく)れまうすべきならず。もし心にあらずながらへ候(さぶら)はば、出家(すけ)かならずし侍(はべ)りなむ。また二つこと人見るといふことはあるべきにもあらず。天(あま)がけりても御覧(ごらん)ぜよ」とぞ申(まう)させ給(たま)ひける。法師にならせ給(たま)はむことはあるまじとや、思(おぼ)し召(め)しけむ、小さき御唐櫃(からびつ)一具(ひとよろひ)に、片つ方は御烏帽子(えぼうし)、いま片つ方には襪(したうづ)を、一唐櫃づつ、御手づからつぶと縫(ぬ)ひ入れさせ給(たま)へりけるを、殿(との)はさも知(し)らせ給(たま)はざりけり。さてつひに失(う)せさせ給(たま)ひにしは。されば、この太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)は、生れさせ給(たま)へる日を、やがて御忌日(きにち)にて御座(おは)しますなり。かの縫ひおかせ給(たま)ひし御烏帽子・御襪、御覧ずるたびごとに、九条殿しほたれさせ給(たま)はぬ折なし。誠(まこと)に、その後(のち)、一人住(ひとりず)みにてぞやませ給(たま)ひにし。
このうみおき奉(たてまつ)り給(たま)へりし太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)をば、御姉の中宮(ちゆうぐう)、さらなり、世の常ならぬ御族(ぞう)思(おも)ひに御座(おは)しませば、養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。内(うち)にのみ御座(おは)しませば、帝(みかど)もいみじうらうたき物(もの)にせさせ給(たま)ひて、つねに御前(おまへ)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。何事(なにごと)も、宮たちの同じやうに、かしずきもてなしまうさせ給(たま)ふに、御膳(おもの)召(め)す御台(みだい)のたけばかりをぞ、一寸(ひとき)おとさせ給(たま)ひけるを、けぢめに知(し)ることにはせさせ給(たま)ひける。昔は、皇子(みこ)たちも、幼く御座(おは)しますほどは、内住(うちず)みせさせ給(たま)ふことはなかりけるに、この若君(わかぎみ)のかくて候(さぶら)はせ給(たま)ふは、「あるまじきこと」と謗(そし)りまうせど、かくて生(お)ひたたせ給(たま)へれば、なべての殿上人(てんじやうびと)などになずらはせ給(たま)ふべきならねど、若(わか)う御座(おは)しませば、おのづから、御たはぶれなどのほどにも、なみなみにふるまはせ給(たま)ひし折は、円融院の帝(みかど)は、「同じほどの男(をのこ)どもと思(おも)ふにや、かからであらばや」などぞうめかせ給(たま)ひける。
かかるほどに、御年積(つも)らせ給(たま)ひて、また御孫(まご)の頭中将(とうのちゆうじやう)公成(きんなり)の君を、ことのほかにかなしがり給(たま)ひて、内(うち)にも、御車(みくるま)のしりに乗せさせ給(たま)はぬかぎりは、参(まゐ)らせ給(たま)はず。さるべきことの折も、この君、遅くまかり出(い)で給(たま)へば、弓場殿(ゆばどの)に、御先(みさき)ばかり参(まゐ)らせ給(たま)ひて、待ち立たせ給(たま)へりければ、見奉(たてまつ)り給(たま)ふ人、「など、かくては立たせ給(たま)へる」と申(まう)させ給(たま)へば、「いぬ、待ち侍(はべ)るなり」とぞ仰(おほ)せられける。無量寿院(むりやうじゆゐん)の金堂(こんだう)供養(くやう)に、東宮(とうぐう)の行啓(ぎやうけい)ある御車(みくるま)に候(さぶら)はせ給(たま)ひて、ひとみち、「公成(きんなり)思(おぼ)し召(め)せよ、思(おぼ)し召(め)せよ」と、同じことを啓(けい)させ給(たま)ひける、「あはれなる物(もの)から、をかしくなむありし」とこそ、宮仰(おほ)せられけれ。繁樹(しげき)が姪(めひ)の女(むすめ)の、中務(なかつかさ)の乳母(めのと)のもとに侍(はべ)るが、まうできて語り侍(はべ)りしなり。
頭中将(ちゆうじやう)顕基(あきもと)の君の御若君(わかぎみ)御座(おは)すとかな。五十日(いか)をば四条(しでう)にわたしきこえて、太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)こそくくめさせ給(たま)ひけれ。御舅(をぢ)の右衛門督(うゑもんのかみ)ぞいだききこえ給(たま)へるに、この若君の泣き給(たま)へば、「例(れい)はかくもむづからぬに、いかなればかからむ」と、右衛門督立ち居(ゐ)なぐさめ給(たま)ひければ、「おのづから児(ちご)はさこそはあれ。ましも、さぞありし」と、太政大臣(だいじやうだいじん)殿宣(のたま)はせけるにこそ、さるべき人々参(まゐ)り給(たま)へりける、皆ほほゑみ給(たま)ひけれ。なかにも四位少将(しゐのせうしやう)隆国(たかくに)の君は、つねに思(おも)ひ出(い)でてこそ、今に笑ひ給(たま)ふなれ。斯様(かやう)にあまり古体(こたい)にぞ御座(おは)しますべき。昔の御童名(わらはな)は、宮雄君(みやをぎみ)とこそは申(まう)ししか。 
一 太政大臣(だいじやうだいじん)兼家(かねいへ)
この大臣(おとど)は、九条殿(くでうどの)の三郎君、東三条(とうさんでう)の大臣(おとど)に御座(おは)します。御母は、一条(いちでう)摂政(せつしやう)に同じ。冷泉院・円融院の御舅(をぢ)、一条院・三条院の御祖父(おほぢ)、東三条(とうさんでう)の女院(にようゐん)・贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)の御父。公卿にて二十年、大臣の位にて十二年、摂政にて五年、太政大臣(だいじやうだいじん)にて二年、世をしらせ給(たま)ふ、栄(さか)えて五年ぞ御座(おは)します。出家(すけ)せさせ給(たま)ひてしかば、後(のち)の御いみななし。
内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)ふには、さらなり、牛車(ぎつしや)にて北(きた)の陣(ぢん)まで入(い)らせ給(たま)へば、それよりうちはなにばかりのほどならねど、紐(ひも)解(と)きて入らせ給(たま)ふこそ。されど、それはさてもあり、相撲(すまひ)の折、内(うち)・春宮(とうぐう)の御座(おは)しませば、二人の御前(おまへ)に、なにをもおしやりて、汗(あせ)とりばかりにて候(さぶら)はせ給(たま)ひけるこそ、世にたぐひなくやむごとなきことなれ。
末には、北の方も御座(おは)しまさざりしかば、男(をとこ)住(ず)みにて、東三条(とうさんでう)殿(どの)の西(にし)の対(たい)を清涼殿(せいりやうでん)づくりに、御しつらひより始(はじ)めて、住ませ給(たま)ふなどをぞ、あまりなることに人申(まう)すめりし。なほ、ただ人(びと)にならせ給(たま)ひぬれば、御果報(くわはう)のおよばせ給(たま)はぬにや。さやうの御身持ちにひさしうは保(たも)たせ給(たま)はぬとも、定(さだ)め申(まう)すめりき。
その時は、夢解(ゆめとき)も巫女(かんなぎ)も、かしこきものどもの侍(はべ)りしぞとよ。堀河(ほりかは)の摂政のはやり給(たま)ひし時に、この東三条(とうさんでう)殿(どの)は御官(つかさ)どもとどめられさせ給(たま)ひて、いと辛(から)く御座(おは)しましし時に、人の夢に、かの堀河院(ほりかはゐん)より、箭(や)をいと多く東(ひんがし)ざまに射るを、いかなることぞと見れば、東三条(とうさんでう)殿(どの)に皆落ちぬと見けり。よからず思(おも)ひきこえさせ給(たま)へる方より御座(おは)せ給(たま)へば、あしきことかな、と思(おも)ひて、殿(との)にも、申(まう)しければ、おそれさせ給(たま)ひて、夢解(ゆめとき)に問(と)はせ給(たま)ひければ、いみじうよき御夢なり。世の中の、この殿にうつりて、あの殿の人の、さながら参(まゐ)るべきが見えたるなり」と申(まう)しけるが、当てざらざりしことかは。
また、その頃、いとかしこき巫女(かんなぎ)侍(はべ)りき。賀茂(かも)の若宮(わかみや)のつかせ給(たま)ふとて、伏(ふ)してのみ物(もの)を申(ま)ししかば、「うち伏しのみこ」とぞ、世の人つけて侍(はべ)りし。大入道(おほにふだう)殿(どの)に召(め)して、物(もの)問(と)はせ給(たま)ひけるに、いとかしこく申(まう)せば、さしあたりたること、過ぎにし方のことは、皆さいふことなれば、しか思(おぼ)し召(め)しけるに、かなはせ給(たま)ふことどもの出(い)でくるままに、後々(のちのち)には、御装束(さうぞく)奉(たてまつ)り、御冠(かぶり)せさせ給(たま)ひて、御膝(ひざ)に枕をせさせてぞ、物(もの)は問(と)はせ給(たま)ひける。それに一事(ひとこと)として、後後のこと申(まう)しあやまたざりけり。さやうに近く召(め)し寄するに、いふがひなきほどの物(もの)にもあらで、少しおもとほどのきはにてぞありける。
この殿(との)、法興院(ほこゐん)に御座(おは)しますことをぞ、こころよからぬ所と,人は、うけ申(まう)さざりしかど、いみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひて、聞(き)きも入れで、わたらせ給(たま)ひて、ほどなく失(う)せさせ御座(おは)しましにき。
「東山(ひがしやま)などのいとほど近く見ゆるが、山里とおぼえて、をかしきなり」とぞ仰(おほ)せられける。
御物忌(ものいみ)の折は、わたり給(たま)はむとて、「御座(おは)しましてはいかがある」と、占(うら)せさせ給(たま)ひて、そのたび、法興院にて病づきて失(う)せ給(たま)ひにき。
「御厩(みまや)の馬に御随身(みずいじん)乗せて、粟田口(あはたぐち)へつかはししが、あらはにはるばると見ゆる」など、をかしきことに仰(おほ)せられて、月のあかき夜(よ)は、下格子(げかうし)もせで、ながめさせ給(たま)ひけるに、目にも見えぬ物(もの)の、はらはらと参(まゐ)りわたしければ、候(さぶら)ふ人々は怖(お)ぢさわげど、殿(との)は、つゆおどろかせ給(たま)はで、御枕上(まくらがみ)なる太刀(たち)をひき抜かせ給(たま)ひて、「月見るとてあげたる格子おろすは、何者のするぞ。いと便(びん)なし。もとのやうにあげわたせ。さらずは、あしかりなむ」と仰(おほ)せられければ、やがて参(まゐ)りわたしなど、おほかた落ち居ぬことども侍(はべ)りけり。さて、つひに殿(との)ばらの領(らう)にもならで、かく御堂(みだう)にはなさせ給(たま)へるなめり。
この大臣(おとど)の君達(きんだち)、女君(をんなぎみ)四所(よところ)・男君五人、御座(おは)しましき。女二所・男三所(みところ)、五所(いつところ)は、摂津守(せつつのかみ)藤原(ふぢはらの)中正(なかまさ)のぬしの女(むすめ)の腹に御座(おは)します。三条院の御母の贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)と、女院(にようゐん)、大臣三人ぞかし。
この御母、いかに思(おぼ)しけるにか、いまだ若う御座(おは)しける折、二条の大路(おほち)にいでて、夕占(ゆふけ)問(と)ひ給(たま)ひければ、白髪(しらが)いみじう白き女のただ一人ゆくが、立ちとまりて、「なにわざし給(たま)ふ人ぞ。もし夕占問(と)ひ給(たま)ふか。何事(なにごと)なりとも、思(おぼ)さむことかなひて、この大路よりも広くながく栄えさせ給(たま)ふべきぞ」と、うち申(まう)しかけてぞまかりにける。人にはあらで、さるべきものの示し奉(たてまつ)りけるにこそ侍(はべ)りけめ。
女君(をんなぎみ)は、女院(にようゐん)の后(きさい)の宮にて御座(おは)しましし折の宣旨(せんじ)にて御座(おは)しき。また、対(たい)の御方(おんかた)と聞(き)こえし御腹の女(むすめ)、大臣(おとど)いみじうかなしくしきこえさせ給(たま)ひて、十一に御座(おは)せし折、尚侍(ないしのかみ)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、内住(うちず)みせさせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひし。御かたちいとうつくしうて、御(み)ぐしも十一二のほどに、糸をよりかけたるやうにて、いとめでたく御座(おは)しませば、ことわりとて、三条院の東宮(とうぐう)にて御元服(げんぶく)(げんぷく)せさせ給(たま)ふ夜(よ)の御添臥(そひふ)しに参(まゐ)らせ給(たま)ひて、三条院もにくからぬ物(もの)に思(おぼ)し召(め)したりき。夏いと暑き日わたらせ給(たま)へるに、御前(おまへ)なる氷(ひ)をとらせ給(たま)ひて、「これしばし持ち給(たま)ひたれ。まろを思(おも)ひ給(たま)はば、『今は』といはざらむかぎりは、置き給(たま)ふな」とて、持たせきこえさせ給(たま)ひて御覧(ごらん)じければ、誠(まこと)に、かたの黒むまでこそ持ち給(たま)ひたりけれ。「さりとも、しばしぞあらむと思(おぼ)ししに、あはれさすぎて、うとましくこそおぼえしか」とぞ、院(ゐん)は仰(おほ)せられける。
あやしきことは、源宰相(げんさいしやう)頼定(よりさだ)の君の通ひ給(たま)ふと、世に聞えて、里に出(い)で給(たま)ひにきかし。ただならず御座(おは)すとさへ、三条院聞(き)かせ給(たま)ひて、この入道(にふだう)殿(どの)に、「さることのあなるは、誠(まこと)にやあらむ」と仰(おほ)せられければ、「まかりて見て参(まゐ)り侍(はべ)らむ」とて、御座(おは)しましたりければ、例(れい)ならずあやしく思(おぼ)して、几帳(きちやう)ひき寄せさせ給(たま)ひけるを、押しやらせ給(たま)へれば、もとはなやかなるかたちに、いみじう化粧(けさう)じ給(たま)へれば、常(つね)よりもうつくしう見え給(たま)ふ。「春宮(とうぐう)に参(まゐ)りたりつるに、しかじか仰(おほ)せられつれば、見奉(たてまつ)りに参(まゐ)りつるなり。そらごとにも御座(おは)せむに、しか聞し召(め)され給(たま)はむが、いと不便(ふびん)なれば」とて、御胸をひきあけさせ給(たま)ひて、乳(ち)をひねり給(たま)へりければ、御顔にさとはしりかかる物(もの)か。ともかくも宣(のたま)はせで、やがて立たせ給(たま)ひぬ。春宮(とうぐう)に参(まゐ)り給(たま)ひて、「誠(まこと)に候(さぶら)ひけり」とて、し給(たま)ひつる有様(ありさま)を啓(けい)せさせ給(たま)へれば、さすがに、もと心ぐるしう思(おぼ)し召(め)しならはせ給(たま)へる御中(なか)なればにや、いとほしげにこそ思(おぼ)し召(め)したりけれ。「尚侍(ないしのかみ)は、殿(との)帰らせ給(たま)ひて後(のち)に、人やりならぬ御心(こころ)づから、いみじう泣き給(たま)ひけり」とぞ、その折見奉(たてまつ)りたる人語り侍(はべ)りし。春宮(とうぐう)に候(さぶら)ひ給(たま)ひしほども、宰相(さいしやう)は通ひ参(まゐ)り給(たま)ふ。ことあまり出(い)でてこそは、宮も聞(きこ)し召(め)して、「帯刀(たちはき)どもして蹴(け)させやせましと思(おも)ひしかど、故(こ)大臣(おとど)のことを、なきかげにもいかがと、いとほしかりしかば、さもせざりし」とこそ仰(おほ)せられけれ。この御あやまちより、源(げん)宰相、三条院の御時は殿上もし給(たま)はで、地下(ぢげ)の上達部(かんだちめ)にて御座(おは)せしに、この御時にこそは殿上し、検非違使(けびゐし)の別当(べたう)などになりて、失(う)せ給(たま)ひにしか。
いま一つの御腹の大君(おほいぎみ)は、冷泉院の女御(にようご)にて、三条院・弾正(だんじやう)の宮(みや)・帥(そち)の宮(みや)の御母にて、三条院位につかせ給(たま)ひしかば、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)と申(まう)しき。この三人の宮たちを、祖父(おほぢ)殿ことのほかにかなしうしまうし給(たま)ひき。世の中に少しのことも出(い)でき、雷(かみ)も鳴り、地震(なゐ)もふるときは、まづ春宮(とうぐう)の御方に参(まゐ)らせ給(たま)ひて、舅(をぢ)の殿(との)ばら、それならぬ人々などを、「内(うち)の御方へは参(まゐ)れ。この御方にはわれ候(さぶら)はむ」とぞ仰(おほ)せられける。雲形(くもがた)といふ高名(かうみやう)の御帯(おび)は、三条院にこそは奉(たてまつ)らせ給(たま)へれ。かこの裏に、「春宮(とうぐう)に奉(たてまつ)る」と、刀のさきにて、自筆(じひつ)に書かせ給(たま)へるなり。この頃は、一品(いつぽん)の宮(みや)にとこそ承(うけたまは)れ。
この春宮(とうぐう)の御弟(おとと)の宮たちは、少し軽々(きやうきやう)にぞ御座(おは)しましし。帥の宮の、祭のかへさ、和泉式部(いづみしきぶ)の君とあひ乗らせ給(たま)ひて御覧(ごらん)ぜしさまも、いと興(きよう)ありきやな。御車(みくるま)の口の簾(すだれ)を中より切らせ給(たま)ひて、わが御方をば高う上げさせ給(たま)ひ、式部が乗りたる方をばおろして、衣(きぬ)ながう出(いだ)させて、紅(くれなゐ)の袴(はかま)に赤き色紙(しきし)の物忌(ものいみ)いとひろきつけて、地(つち)とひとしうさげられたりしかば、いかにぞ、物見(ものみ)よりは、それをこそ人見るめりしか。弾正尹(だんじやうのゐん)の宮(みや)の、童(わらは)に御座(おは)しましし時、御かたちのうつくしげさは、はかりも知(し)らず、かかやくとこそは見えさせ給(たま)ひしか。御元服(げんぶく)おとりのことのほかにせさせ給(たま)ひにしをや。
この宮たちは、御心(みこころ)の少し軽(かろ)く御座(おは)しますこそ、一家(け)の殿ばらうけまうさせ給(たま)はざりしかど、さるべきことの折などは、いみじうもてかしづきまうさせ給(たま)ひし。帥(そち)の宮(みや)、一条院の御時の御作文(さくもん)に参(まゐ)らせ給(たま)ひしなどには、御前(ごぜん)などにさるべき人多くて、いとこそめでたくて参(まゐ)らせ給(たま)ふめりしか。御前(おまへ)にて御襪(したうづ)のいたうせめさせ給(たま)ひけるに心地(ここち)もたがひて、いとたへがたう御座(おは)しましければ、この入道(にふだう)殿(どの)にかくと聞えさせ給(たま)ひて、鬼(おに)の間(ま)に御座(おは)しまして、御襪をひき抜き奉(たてまつ)らせ給(たま)へりければこそ、御心地(ここち)なほらせ給(たま)へりけれ。
贈后(ぞうこう)の御一(ひと)つ腹(ばら)の、いま一所(ひとところ)の姫君は、円融院の御時、梅壷(うめつぼ)の女御(にようご)と申(まう)して、一(いち)の皇子(みこ)生まれ給(たま)へりき。その皇子五つにて春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひ、七つにて位につかせ給(たま)ひにしかば、御母、女御殿、寛和(くわんな)二年七月五日、后にたたせ給(たま)ひて、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)しき。
この帝(みかど)を一条院と申(まう)しき。その母后(ははきさき)、入道(にふだう)せさせ給(たま)ひて、太上天皇(てんわう)とひとしき位にて、女院(にようゐん)と聞えさせき。一天下(いちてんか)をあるままにして御座(おは)しましし。
この父大臣(おとど)の御太郎君、女院の御一(ひと)つ腹(ばら)の道隆(みちたか)の大臣(おとど)、内大臣にて関白(くわんばく)せさせ給(たま)ひき。二郎君、陸奥守(みちのくにのかみ)倫寧(ともやす)のぬしの女の腹に御座(おは)せし君なり。道綱(みちつな)と聞えし。大納言(だいなごん)までなりて、右大将かけ給(たま)へりき。この母君、きはめたる和歌の上手(じやうず)に御座(おは)しければ、この殿(との)の通はせ給(たま)ひけるほどのこと、歌など書き集めて、『かげろふの日記(にき)』と名づけて、世にひろめ給(たま)へり。殿の御座(おは)しましたりけるに、門(かど)をおそくあけければ、たびたび御消息(せうそこ)いひ入れさせ給(たま)ふに、女君(をんなぎみ)、
嘆きつつひとり寝(ぬ)る夜(よ)のあくるまはいかにひさしき物(もの)とかはしる 
いと興(きよう)ありと思(おぼ)し召(め)して、
げにやげに冬の夜(よ)ならぬ槙(まき)の戸もおそくあくるは苦しかりけり
されば、その腹の君ぞかし、この道綱(みちつな)の卿の、後(のち)には東宮傅(とうぐうのふ)になり給(たま)ひて傅(ふ)の殿(との)とぞ申(まう)すめりし。いとあつくして、大将をも辞(じ)し給(たま)ひてき。その殿、今の入道(にふだう)殿(どの)の北(きた)の政所(まんどころ)の御はらからに住み奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、生れ給(たま)へりし君、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)兼経(かねつね)の君よ。父大納言(だいなごん)は失(う)せ給(たま)ひにき、御年六十六とぞ聞(き)き奉(たてまつ)りし。大入道(おほにふだう)殿(どの)の三郎、粟田殿(あはたどの)。また、四郎は、外腹(ほかばら)の治部少輔(ぢぶせふ)の君とて、世のしれものにて、まじらひもせでやみ給(たま)ひぬとぞ、聞え侍(はべ)りし。五郎君、ただいまの入道(にふだう)殿(どの)に御座(おは)します。女院(にようゐん)の御母北の方の御腹の君達(きんだち)三所(みところ)の御有様(ありさま)、申(まう)し侍(はべ)らむ。昭宣公(せうせんこう)の御君達、「三平(さんぺい)」と聞えさすめりしに、この三所をば、「三道(さんだう)」とや世の人申(まう)しけむ、えこそ承(うけたまは)らずなりにしか」
とて、ほほゑむ。 
一 内大臣道隆(みちたか)
《世継》「この大臣(おとど)は、これ、東三条(とうさんでう)の大臣(おとど)の御一男なり。御母は、女院(にようゐん)の御同じ腹なり。関白(くわんばく)になり栄えさせ給(たま)ひて六年ばかりや御座(おは)しけむ、大疫癘(おほえきれい)の年こそ失(う)せ給(たま)ひけれ。されど、その御病にてはあらで、御酒(みき)のみだれさせ給(たま)ひにしなり。男(おのこ)は、上戸(じやうご)、ひとつの興(きよう)のことにすれど、過ぎぬるはいと不便(ふびん)なる折侍(はべ)りや。祭のかへさ御覧(ごらん)ずとて、小一条(こいちでう)の大将・閑院(かんゐん)の大将と一つ御車(みくるま)にて、紫野(むらさいの)に出(い)でさせ給(たま)ひぬ。烏(からす)のつい居(ゐ)たるかたを瓶(かめ)につくらせ給(たま)ひて、興(きよう)ある物(もの)に思(おぼ)して、ともすれば御酒(みき)入れて召(め)す。今日もそれにて参(まゐ)らする、もてはやさせ給(たま)ふほどに、やうやう過ぎさせ給(たま)ひて後(のち)は、御車(みくるま)の後(しり)・前(まへ)の簾(すだれ)皆あげて、三所(みところ)ながら御髻(もとどり)はなちて御座(おは)しましけるは、いとこそ見ぐるしかりけれ。おほかたこの大将殿たちの参(まゐ)り給(たま)へる、世の常にて出(い)で給(たま)ふをば、いと本意(ほい)なく口惜(くちを)しきことに思(おぼ)し召(め)したりけり。物(もの)もおぼえず、御装束(さうぞく)もひきみだりて、車さし寄せつつ、人にかかれて乗り給(たま)ふをぞ、いと興(きよう)あることにせさせ給(たま)ひける。
ただしこの殿(との)、御酔(ゑひ)のほどよりはとくさむることをぞせさせ給(たま)ひし。御賀茂詣(かもまうで)の日は、社頭(しやとう)にて三度(みたび)の御かはらけ定まりて参(まゐ)らするわざなるを、その御時には、禰宜(ねぎ)・神主(かうぬし)も心得て、大かはらけをぞ参(まゐ)らせしに、三度はさらなることにて、七八度など召(め)して、上(かみ)の社(やしろ)に参(まゐ)りたまふ道にては、やがてのけざまに、しりの方を御枕にて、不覚(ふかく)に大殿篭(おほとおのごも)りぬ。一(いち)の大納言(だいなごん)にては、この御堂(みだう)ぞ御座(おは)しまししかば、御覧(ごらん)ずるに、夜(よ)に入りぬれば、御前(ごぜん)の松の光にとほりて見ゆるに、御透影(すきかげ)の御座(おは)しまさねば、あやしと思(おぼ)し召(め)しけるに、参(まゐ)りつかせ給(たま)ひて、御車かきおろしたれど、え知(し)らせ給(たま)はず。いかにと思(おも)へど、御前(ごぜん)どももえおどろかしまうさで、ただ候(さぶら)ひなめるに、入道(にふだう)殿(どの)おりさせ給(たま)へるに、さてあるべきことならねば、轅(ながえ)の戸(と)ながら、高(たか)やかに、「やや」と御扇(あふぎ)を鳴らしなどせさせ給(たま)へど、さらにおどろき給(たま)はねば、近く寄りて、表(うへ)の御袴(はかま)の裾(すそ)を荒らかにひかせ給(たま)ふ折ぞ、おどろかせ給(たま)ひて、さる御用意はならはせ給(たま)へれば、御櫛(くし)・笄(かうがい)具(ぐ)し給(たま)へりける取り出(い)でて、つくろひなどして、おりさせ給(たま)ひけるに、いささかさりげなくて、清(きよ)らかにてぞ御座(おは)しましし。されば、さばかり酔(ゑ)ひなむ人は、その夜は起きあがるべきかは。それに、この殿(との)の御上戸(じやうご)は、よく御座(おは)しましける。その御心(みこころ)のなほ終りまでも忘れさせ給(たま)はざりけるにや、御病づきて失(う)せ給(たま)ひけるとき、西にかき向け奉(たてまつ)りて、「念仏(ねんぶつ)申(まう)させ給(たま)へ」と、人々のすすめ奉(たてまつ)りければ、「済時(なりとき)・朝光(あさてる)なむどもや極楽(ごくらく)にはあらむずらむ」と仰(おほ)せられけるこそ、あはれなれ。つねに御心に思(おぼ)しならひたることなればにや。あの、地獄の鼎(かなへ)のはたに頭(かしら)うちあてて、三宝(さんぽう)の御名(みな)思(おも)ひ出(い)でけむ人の様(やう)なることなりや。
御かたちぞいと清らに御座(おは)しましし。帥殿(そちどの)に天下執行(しゆぎやう)の宣旨(せんじ)下し奉(たてまつ)りに、この民部卿殿(みんぶきやうどの)の、頭弁(とうのべん)にて参(まゐ)り給(たま)へりけるに、御病いたくせめて、御装束(さうぞく)もえ奉(たてまつ)らざりければ、御直衣(なほし)にて御簾(みす)の外(と)にゐざり出(い)でさせ給(たま)ふに、長押(なげし)をおりわづらはせ給(たま)ひて、女装束(をんなさうぞく)御手にとりて、かたのやうにかづけさせ給(たま)ひしなむ、いとあはれなりし。こと人のいとさばかりなりたらむは、ことやうなるべきを、なほいとかはらかにあてに御座(おは)せしかば、「病づきてしもこそかたちはいるべかりけれ、となむ見えし」とこそ、民部卿殿はつねに宣(のたま)ふなれ。
その関白(くわんばく)殿は腹々(はらばら)に男子(をのこご)・女子(をんなご)あまた御座(おは)しましき。今の北の方は、大和守高階成忠(やまとのかみたかしなのなりただ)のぬしの御女(むすめ)なり。後(のち)には高二位(かうにゐ)とこそいひ侍(はべ)りしか。さて積善寺(しやくぜんじ)の供養(くやう)の日は、この入道(にふだう)殿(どの)の上(かみ)に候(さぶら)はれしは、いとめだうなりしわざかな。
その腹に男君三所(をとこぎみみところ)・女君(をんなぎみ)四所(よところ)御座(おは)しましき。大姫君(おほひめぎみ)は、一条院の十一にて御元服(げんぶく)せしめ給(たま)ひしに、十五にてや参(まゐ)らせ給(たま)ひけむ。やがてその年六月一日、后(きさき)にゐさせ給(たま)ふ。
中宮(ちゆうぐう)と申(まう)しき。
東三条(とうさんでう)殿(どの)の御悩(ごなう)のさかりも過ぐさせ給(たま)はで、奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしをぞ、世人(よひと)、いかにぞや申(まう)し侍(はべ)りし。
さて関白(くわんばく)殿など失(う)せさせ給(たま)ひて後(のち)に男御子(をとこみこ)一人・女御子二人うみ奉(たてまつ)らせ給(たま)へりき。女一の宮は入道(にふだう)の一品(いつぽん)の宮とて、三条に御座(おは)します。女二の宮は、九つにて失(う)せ給(たま)ひにき。男親王(みこ)、式部卿(しきぶきやう)の宮篤康(みやあつやす)の親王(みこ)とこそ申(まう)ししか。たびたびの御思(おも)ひたがひて、世の中を思(おぼ)し嘆きて失(う)せ給(たま)ひにき、御年二十にて。あさましうて病(や)ませ給(たま)ひにしかは。冷泉院の宮たちなどのやうに、軽々(きやうきやう)に御座(おは)しまさましかば、いとほしさもよろしくや、世の人思(おも)ひまさまし。御才(ざえ)いとかしこう、御心(こころ)ばへもいとめでたうぞ御座(おは)しましし。
さてまた、この宮の御母后(ははきさき)の御さしつぎの中(なか)の君(きみ)は、三条院の東宮(とうぐう)と申(まう)しし折のしげいさとて、はなやがせ給(たま)ひしも、父殿(ちちどの)失(う)せ給(たま)ひにし後(のち)、御年二十二三ばかりにて失(う)せさせ給(たま)ひにき。
三の御方は、冷泉院の四の皇子(みこ)、帥(そち)の宮(みや)と申(まう)ししをこそは、父殿(ちちどの)婿(むこ)どり奉(たてまつ)らせ給(たま)へりしも、後(のち)には、やがて御中(なか)絶えにしかば、末の世は、一条の渡りにいとあやしくて御座(おは)するとぞ聞え給(たま)ひし。誠(まこと)にや、御心ばへなどの、いと落(お)ち居(ゐ)ず御座(おは)しければ、かつは、宮もうとみきこえさせ給(たま)へりけるとかや。客人(まらうど)などの参(まゐ)りたる折は、御簾(みす)をいと高やかに押しやりて、御懐(ふところ)をひろげて立ち給(たま)へりければ、宮は御おもてうち赤(あか)めてなむ御座(おは)しましける。候(さぶら)ふ人も、おもての色たがふ心地(ここち)して、うつぶしてなむ、立たむもはしたに、術(ずち)なかりける。宮、後(のち)には、「見返りたりしままに、動きもせられず、物(もの)こそ覚(おぼ)えざりしか」とこそ仰(おほ)せられけれ。
また、学生(がくしやう)ども召(め)し集めて、作文(さくもん)し遊ばせ給(たま)ひけるに、金(こがね)を二三十両ばかり、屏風(びやうぶ)の上より投げ出(いだ)して、人々うち給(たま)ひければ、ふさはしからず憎しとは思(おも)はれけれど、その座にては饗応(きやうよう)しまうしてとり争ひけり。「金賜(たま)はりたるはよけれども、さも見ぐるしかりし物(もの)かな」とこそ今に申(まう)さるなれ。人々文(ふみ)作りて講じなどするに、よしあしいと高やかに定め給(たま)ふ折もありけり。二位の新発(しぼち)の御流(ながれ)にて、この御族(ぞう)は、女も皆、才(ざえ)の御座(おは)したるなり。
母上は高内侍(こうないし)ぞかし。されど、殿上(てんじやう)えせられざりしかば、行幸(ぎやうかう)・節会(せちゑ)などには、南殿(なでん)にぞ参(まゐ)られし。それはまことしき文者(もんざ)にて、御前(おまへ)の作文(さくもん)には、文(ふみ)奉(たてまつ)られしはとよ。少々(せうせう)の男(をのこ)にはまさりてこそ聞え侍(はべ)りしか。さやうの折、召しありけるにも、台盤所の方よりは参(まゐ)り給(たま)はで、弘徽殿(こきでん)の上(うえ)の御局(みつぼね)の方より通りて、二間(ふたま)になむ候(さぶら)ひ給(たま)ひけるとこそ承(うけたまは)りしか。古体(こたい)に侍(はべ)りや。「女のあまりに才(ざえ)かしこきは、物(もの)あしき」と、人の申(まう)すなるに、この内侍、後(のち)にはいといみじう堕落(だらく)せられにしも、その故(け)とこそはおぼえ侍(はべ)りしか。さて、その宮の上の御さしつぎの四の君は、御匣殿(みくしげどの)と申(まう)しし。御かたちいとうつくしうて、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御母代(ははしろ)にて御座(おは)しまししも、はかなく失(う)せ給(たま)ひにき。されば、一(ひと)つ腹(ばら)の女君(をんなぎみ)たちかくなり。対(たい)の御方(おんかた)と聞えさせし人の御腹にも、女君(をんなぎみ)御座(おは)しけるは、今の皇太后宮(くわうたいごうぐう)にこそは候(さぶら)ひ給(たま)ふなれ。またも聞え給(たま)ふかし。
男君たちは、太郎君、故(こ)伊予守守仁(いよのかみもりひと)のぬしの女(むすめ)の腹ぞかし、大千代君(おほちよぎみ)よな。それは祖父大臣(おほぢおとど)の御子(みこ)にし奉(たてまつ)り給(たま)ひて、道頼(みちより)の六郎君とこそは申(ま)ししか。大納言(だいなごん)までなり給(たま)へりき。父関白(くわんばく)殿失(う)せ給(たま)ひし年の六月十一日に、うちつづき失(う)せ給(たま)ひにき。御年二十五とぞ聞えさせ給(たま)ひし。御かたちいと清(きよ)げに、あまりあたらしきさまして、物(もの)より抜け出(い)でたるやうにぞ御座(おは)せし。御心(こころ)ばへこそ、こと御はらからにも似給(たま)はずいとよく、また、ざれをかしくも御座(おは)せしか。この殿(との)は、こと腹(ばら)に御座(おは)す。皇后宮(くわうごうぐう)と一つ腹の男君、法師にて、十あまりのほどに僧都(そうづ)になし奉(たてまつ)り給(たま)へりし。それも三十六にて失(う)せ給(たま)ひにき。いま一所(ひとところ)は、小千代君(こちよぎみ)とて、かの外腹(ほかばら)の大千代君にはこよなくひき越し、二十一に御座(おは)せしとき、内大臣になし奉(たてまつ)り給(たま)ひて、わが失(う)せ給(たま)ひし年、長徳(ちやうとく)元年のことなり、御病重くなるきはに、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひて、「おのれかくまかりなりにて候(さぶら)ふほど、この内大臣伊周(これちか)の大臣(おとど)に、百官ならびに天下執行(しゆぎやう)の宣旨(せんじ)賜(た)ぶべき」よし、申(まう)し下さしめ給(たま)ひて、われは出家(すけ)せさせ給(たま)ひてしかば、この内大臣殿を関白(くわんばく)殿とて、世の人集り参(まゐ)りしほどに、粟田殿(あはたどの)にわたりにしかば、手に据(す)ゑたる鷹をそらいたらむやうにて嘆かせ給(たま)ふ。一家にいみじきことに思(おぼ)しみだりしほどに、その移りつる方も夢のごとくにて失(う)せ給(たま)ひにしかば、今の入道(にふだう)殿(どの)、その年の五月十一日より世をしろしめししかば、かの殿(との)いとど無徳(むとく)に御座(おは)しまししほどに、またの年、花山院の御こと出(い)できて、御官位(つかさくらゐ)とられて、ただ太宰権帥(だざいのごんのそち)になりて、長徳二年四月二十四日にこそは下り給(たま)ひにしか、御年二十三。いかばかりあはれにかなしかりしことぞ。されど、げにかならず斯様(かやう)のこと、わがおこたりにて流され給(たま)ふにしもあらず。よろづのこと身にあまりぬる人の、唐(もろこし)にもこの国にもあるわざにぞ侍(はべ)るなる。昔は北野(きたの)の御ことぞかし」などいひて、鼻うちかむほどもあはれに見ゆ。
《世継》「この殿も、御才(ざえ)日本にはあまらせ給(たま)へりしかば、かかることも御座(おは)しますにこそ侍(はべ)りしか。
さて、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の生れさせ給(たま)へる御よろこびにこそ召(め)し返させ給(たま)ひつれ。さて、大臣になずなふる宣旨(せんじ)かぶらせ給(たま)ひて歩(あり)き給(たま)ひし御有様(ありさま)も、いと落(お)ち居(ゐ)ても覚(おぼ)え侍(はべ)らざりき。いと見ぐるしきことのみ、いかに聞え侍(はべ)りし物(もの)とて。内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)ひけるに、北(きた)の陣(ぢん)より入らせ給(たま)ひて、西ざまに御座(おは)しますに、入道(にふだう)殿(どの)も候(さぶら)はせ給(たま)ふほどなれば、梅壷(うめつぼ)の東(ひんがし)の塀(へい)の戸(と)のはさまに、下人(げにん)どもいと多くゐたるを、この帥殿(そちどの)の御供(とも)の人々いみじう払(はら)へば、いくべき方のなくて、梅壷の塀のうちにはらはらと入りたるを、これはいかにと、殿(との)御覧(ごらん)ず。あやしと人々見れど、さすがにえともかくもせぬに、なにがしといひし御隋身(みずいじん)の、そら知(し)らずして、荒らかにいたく払ひ出(いだ)せば、また戸(と)ざまに、、いとらうがはしく出づるを、帥殿の御供の人々、このたびはえ払ひあへねば、ふとり給(たま)へる人にて、すがやかにもえ歩(あゆ)み退(の)き給(たま)はで、登花殿(とうくわでん)の細殿(ほそどの)の小蔀(こじとみ)に押し立てられ給(たま)ひて、「やや」と仰(おほ)せられけれど、狭(せば)きところに雑人(ざふにん)いと多く払はれて、おしかけられまつりぬれば、とみにえ退かで、いとこそ不便(ふびん)に侍(はべ)りけれ。それはげに御罪(つみ)にあらねど、ただはなやかなる御歩(あり)き・振舞(ふるまひ)をせさせ給(たま)はずは、さやうに軽々(かろがろ)しきこと御座(おは)しますべきことかはとぞかし。
また、入道(にふだう)殿(どの)、御嶽(みたけ)に参(まゐ)らせ給(たま)へりし道にて帥殿の方より便(びん)なきことあるべしと聞えて、常(つね)よりも世をおそれさせ給(たま)ひて、たひらかに帰らせ給(たま)へるに、かの殿(との)も、「かかること聞えたりけり」と人の申(まう)せば、いとかたはらいたく思(おぼ)されながら、さりとてあるべきならねば、参(まゐ)り給(たま)へり。道のほどの物語などせさせ給(たま)ふに、帥殿いたく臆(おく)し給(たま)へる御けしきのしるきを、をかしくもまたさすがにいとほしくも思(おぼ)されて、「ひさしく双六(すぐろく)つかまつらで、いとさうざうしきに、今日あそばせ」とて、双六のばんを召(め)して、おしのごはせ給(たま)ふに、御けしきこよなうなほりて見え給(たま)へば、殿(との)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、参(まゐ)り給(たま)へる人々、あはれになむ見奉(たてまつ)りける。さばかりのことを聞(き)かせ給(たま)はむには、少しすさまじくももてなさせ給(たま)ふべけれど、入道(にふだう)殿(どの)は、あくまで情(なさけ)御座(おは)します御本性(ほんじやう)にて、かならず人のさ思(おも)ふらむ事をば、おしかへし、なつかしうもてなさせ給(たま)ふなり。この御博奕(ばくやう)は、うちたたせ給(たま)ひぬれば、二所(ふたところ)ながら裸(はだか)に腰からませ給(たま)ひて、夜半(よなか)・暁(あかつき)まであそばず。「心幼く御座(おは)する人にて、便(びん)なきこともこそ出(い)でくれ」と、人はうけまうさざりけり。いみじき御賭物(かけもの)どもこそ侍(はべ)りけれ。帥殿(そちどの)はふるき物(もの)どもえもいはぬ、入道(にふだう)殿(どの)はあたらしきが興(きよう)ある、をかしきさまにしなしつつぞ、かたみにとりかはさせ給(たま)ひぬれど、斯様(かやう)のことさへ、帥殿はつねに負け奉(たてまつ)らせ給(たま)ひてぞ、まかでさせ給(たま)ひける。
かかれど、ただいまは、一の宮の御座(おは)しますをたのもしき物(もの)に思(おぼ)し、世の人もさはいへど、したには追従(ついそう)し、怖(お)ぢまうしたりしほどに、今の帝(みかど)・春宮(とうぐう)さしつづき生れさせ給(たま)ひにしかば、世を思(おぼ)しくづほれて、月頃(つきごろ)御病もつかせ給(たま)ひて、寛弘(くわんこう)七年正月二十九日失(う)せさせ給(たま)ひにしぞかし。御年三十七とぞ承(うけたまは)りし。かぎりの御病とても、いたう苦しがり給(たま)ふこともなかりけり。御しはぶき病にやなど思(おぼ)しけるほどに、重(おも)り給(たま)ひにければ、修法(ずほふ)せむとて、僧召(め)せど、参(まゐ)るもなきに、いかがはせむとて、道雅(みちまさ)の君を御使にて、入道(にふだう)殿(どの)に申(まう)し給(たま)へりける。夜(よ)いたうふけて、人もしづまりにければ、やがて御格子(みかうし)のもとによりて、うちしはぶき給(たま)ふ。「誰そ」と問(と)はせ給(たま)へば、御名のり申(まう)して、「しかじかのことにて、修法(ずほふ)始(はじ)めむとつかまつれば、阿闍梨(あざり)にまうでくる人も候(さぶら)はぬを、賜(たま)はらむ」と申(まう)し給(たま)へば、「いと不便(ふびん)なる御ことかな。えこそ承(うけたまは)らざりけれ。いかやうなる御心地(ここち)ぞ。いとたいだいしき御ことにもあるかな」と、いみじうおどろかせ給(たま)ひて、「誰(たれ)を召(め)したるに参(まゐ)らぬぞ」など、くはしく問(と)はせ給(たま)ふ。なにがし阿闍梨をこそは奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしか。されど、世の末は人の心も弱くなりにけるにや、「あしく御座(おは)します」など申(まう)ししかど、元方の大納言(だいなごん)のやうにやは聞えさせ給(たま)ふな。また、入道(にふだう)殿下(でんか)のなほすぐれさせ給(たま)へる威(ゐ)のいみじきに侍(はべ)るめり。老(おい)の波にいひ過(すぐ)しもぞし侍(はべ)る」と、けしきだちて、このほどはうちささめく。
《世継》「源(げん)大納言(だいなごん)重光(しげみつ)の卿の御女(むすめ)の腹に、女君(をんなぎみ)二人・男君一人御座(おは)せしが、この君たち皆おとなび給(たま)ひて女君(をんなぎみ)たちは后(きさき)がねとかしづき奉(たてまつ)り給(たま)ひしほどに、さまざま思(おぼ)ししことどもたがひて、かく御病さへ重(おも)り給(たま)ひにければ、この姫君たちをすゑなめて、泣く泣く宣(のたま)ひける「年頃(としごろ)、仏(ほとけ)・神(かみ)にいみじうつかうまつりつれば、何事もさりともとこそ頼(たの)み侍(はべ)りつれど、かくいふかひなき死(しに)をさへせむことのかなしさ。かく知(し)らましかば、君たちをこそ、われより先に失(う)せ給(たま)ひねと、祈り思(おも)ふべかりけれ。おのれ死なば、いかなる振舞(ふるまひ)・有様(ありさま)をし給(たま)はむずらむと思(おも)ふが悲しく、人笑はれなるべきこと」と、いひつづけて泣かせ給(たま)ふ。「あやしき有様(ありさま)をもし給(たま)はば、なき世なりとも、かならず恨(うら)みきこえむずるぞ」とぞ、母北の方にも、泣く泣く遺言(ゆいごん)し給(たま)ひけるかし。その君たち、大姫君(おほひめぎみ)は、高松殿(たかまつどの)の春宮大夫殿(とうぐうのだいぶどの)の北の方にて、多くの君達(きんだち)うみつづけて御座(おは)すめり。それは、あしかるべきことならず。いま一所(ひとところ)は、大宮(おほみや)に参(まゐ)りて、帥殿(そちどの)の御方とて、いとやむごとなくて候(さぶら)ひ給(たま)ふめるこそは、思(おぼ)しかけぬ御有様(ありさま)なめれ。あはれなりかし。
男君は、松の君とて、生れ給(たま)へりしより、祖父大臣(おほぢおとど)いみじき物(もの)に思(おぼ)して、迎へ奉(たてまつ)り給(たま)ふたびごとに、贈物(おくりもの)をせさせ給(たま)ふ。御乳母(めのと)をも饗応(きやうよう)し給(たま)ひし君ぞかし。この頃三位(さんみ)して御座(おは)すめるは。この君を、父大臣(おとど)、「あなかしこ、わがなからむ世に、あるまじきわざせず、身捨てがたしとて、物(もの)覚(おぼ)えぬ名簿(みやうぶ)うちして、わがおもてふせて、『いでや、さありしかど、かかるぞかし』と、人にいひのたてせさすな。世の中にありわびなむときは、出家(すけ)すばかりなり」と、泣く泣くいひおかせ給(たま)ひけるに、この君、当代(たうだい)の春宮(とうぐう)にて御座(おは)しましし折の亮(すけ)になり給(たま)ひて、いとめやすきことと見奉(たてまつ)りしほどに、春宮亮道雅(とうぐうのすけみちまさ)の君とて、いと覚(おぼ)え御座(おは)しきかし。それに、いかがしけむ、位につかせ給(たま)ひしきざみに、蔵人頭(くらうどのとう)にもえなり給(たま)はずして、坊官(ばうくわん)の労(らう)にて三位ばかりして、中将(ちゆうじやう)をだにえかけたまはずなりにしは、いとかなしかりしことぞかし。あさましう思(おも)ひかけぬことどもかな。
この君、故(こ)帥中納言惟仲(そちのちゆうなごんこれなか)の女(むすめ)に住み給(たま)ひて、男一人・女一人うませ給(たま)へりしは、法師にて、明尊僧都(めいそんそうず)の御房(ごばう)にこそは御座(おは)すめれ。女君(をんなぎみ)は、いかが思(おも)ひ給(たま)ひけむ、みそかに逃げて、今の皇太后宮(くわうたいごうぐう)にこそ参(まゐ)りて、大和(やまと)の宣旨(せんじ)とて候(さぶら)ひ給(たま)ふなれ。年頃の妻子(めこ)とやは頼(たの)むべかりける。なかなかそれしもこそあなづりて、をこがましくもてなしけれ。あはれ、翁(おきな)らがわらはべのさやうに侍(はべ)らましかば、しらががみをも剃(そ)り、鼻をもかきおとしはべなまし。よき人と申(まう)すものは、いみじかし名の惜しければ、えともかくもし給(たま)はぬにこそあめれ。さるは、かの君、さやうにしれ給(たま)へる人かは、たましひはわき給(たま)ふ君をは。
帥殿(そちどの)は、この内(うち)の生れさせ給(たま)へりし七夜(しちや)に、和歌の序代(じよだい)書かせ給(たま)へりしぞ、なかなか心なきことやな。本体(ほんたい)は参(まゐ)らせ給(たま)ふまじきを、それに、さし出(い)で給(たま)ふより、多くの人の目をつけ奉(たてまつ)りて、「いかに思(おぼ)すらむ」「なにせむに参(まゐ)り給(たま)へるぞ」とのみ、まもられ給(たま)ふ。いとはしたなきことにはあらずや。それに、例(れい)の入道(にふだう)殿(どの)は誠(まこと)にすさまじからずもてなしきこえさせ給(たま)へるかひありて、憎さは、めでたくこそ書かせ給(たま)へりけれ。当座(たうざ)の御おもては優(いう)にて、それにぞ人々ゆるしまうし給(たま)ひける。
この帥殿の御一(ひと)つ腹(ばら)の、十七にて中納言になりなどして、世の中のさがなものといはれ給(たま)ひし殿(との)の、御童名(わらはな)は阿古君(あこぎみ)ぞかし。この兄殿(あにどの)の御ののしりにかかりて、出雲権守(いづものごんのかみ)になりて、但馬(たじま)にこそは御座(おは)せしか。さて、帥殿の帰り給(たま)ひし折、この殿(との)も上(のぼ)り給(たま)ひて、もとの中納言になりや、また兵部卿(ひやうぶきやう)などこそは聞えさせしか。それも、いみじうたましひ御座(おは)すとぞ、世の人に思(おも)はれ給(たま)へりし。あまたの人々の下臈(げらふ)になりて、かたがたすさまじう思(おぼ)されながら歩(ある)かせ給(たま)ふに、御賀茂詣(かもまうで)につかうまつり給(たま)へるに、むげに下(くだ)りて御座(おは)するがいとほしくて、殿(との)の御車(みくるま)に乗せ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、御物語こまやかなるついでに、「ひととせのことは、おのれが申(まう)し行(おこな)ふとぞ、世の中にいひ侍(はべ)りける。そこにもしかぞ思(おぼ)しけむ。されど、さもなかりしことなり。宣旨(せんじ)ならぬこと、一言(ひとこと)にてもくはへて侍(はべ)らましかば、この御社(みやしろ)にかくて参(まゐ)りなましや。天道(てんたう)も見給(たま)ふらむ。いとおそろしきこと」とも、まめやかに宣(のたま)はせしなむ、「なかなかにおもておかむかたなく、術(ずち)なくおぼえし」とこそ、後(のち)に宣(のたま)ひけれ。それも、この殿(との)に御座(おは)すれば、さやうにも仰(おほ)せらるるぞ。帥殿(そちどの)にはさまでもや聞えさせ給(たま)ひける。
この中納言は、斯様(かやう)にえさりがたきことの折々ばかり歩(あり)き給(たま)ひて、いといにしへのやうに、まじろひ給(たま)ふことはなかりけるに、入道(にふだう)殿(どの)の土御門殿(つちみかどどの)にて御遊びあるに、「斯様(かやう)のことに、権(ごん)中納言のなきこそ、なほさうざうしけれ」と宣(のたま)はせて、わざと御消息(せうそく)聞えさせ給(たま)ふほど、杯(さかづき)あまたたびになりて、人々みだれ給(たま)ひて、紐(ひも)おしやりて候(さぶら)はるるに、この中納言参(まゐ)り給(たま)へれば、うるはしくなりて、居直(ゐなほ)りなどせられければ、殿、「とく御紐解(と)かせ給(たま)へ。ことやぶれ侍(はべ)りぬべし」と仰(おほ)せられければ、かしこまりて逗留(とうりう)し給(たま)ふを、公信(きんのぶ)の卿、うしろより、「解き奉(たてまつ)らむ」とて寄り給(たま)ふに、中納言御けしきあしくなりて、「隆家(たかいへ)は不運なる事こそあれ、そこたちに斯様(かやう)にせらるべき身にもあらず」と、荒らかに宣(のたま)ふに、人々御けしき変り給(たま)へるなかにも、今の民部卿殿(みんぶきやうどの)は、うはぐみて、人々の御顔をとかく見給(たま)ひつつ、こと出(い)できなむず、いみじきわざかなと思(おぼ)したり。入道(にふだう)殿(どの)、うち笑はせ給(たま)ひて、「今日は、斯様(かやう)のたはぶれごと侍(はべ)らでありなむ。道長(みちなが)解き奉(たてまつ)らむ」とて寄らせ給(たま)ひて、はらはらと解き奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、「これらこそあるべきことよ」とて、御けしきなほり給(たま)ひて、さしおかれつる杯(さかづき)とり給(たま)ひてあまたたび召(め)し、常(つね)よりも乱れあそばせ給(たま)ひけるさまなど、あらまほしく御座(おは)しけり。殿(との)もいみじうぞもてはやしきこえさせ給(たま)ひける。
さて、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御ことを、さりともさりともと待ち給(たま)ふに、一条院の御悩(なやみ)重(おも)らせ給(たま)ふきはに、御前(おまへ)に参(まゐ)り給(たま)ひて、御気色(きそく)賜(たま)はり給(たま)ひければ、「あのことこそ、つひにえせずなりぬれ」と仰(おほ)せられけるに、「『あはれの人非人(にんぴにん)や』とこそ申(まう)さまほしくこそありしか」とこそ宣(のたま)ひけれ。さて、まかで給(たま)うて、わが御家の日隠(ひがくし)の間(ま)に尻(しり)うちかけて、手をはたはたと打ちゐ給(たま)へりける。世の人は、「宮の御ことありて、この殿(との)、御後見(うしろみ)もし給(たま)はば、天下の政(まつりごと)はしたたまりなむ」とぞ、思(おも)ひまうしためりしかども、この入道(にふだう)殿(どの)の御栄えのわけらるまじかりけるにこそは。
三条院の大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)に、きらめかせ給(たま)へりしさまなどこそ、常(つね)よりもことなりしか。人の、このきはは、さりともくづほれ給(たま)ひなむ、と思(おも)ひたりしところをたがへむと、思(おぼ)したりしなめり。さやうなるところの御座(おは)しまししなり。節会(せちゑ)・行幸(ぎやうかう)には、掻練襲(かいねりがさね)奉(たてまつ)らぬことなるを、単衣(ひとへ)を青くてつけさせ給(たま)へれば、紅葉襲(もみぢがさね)にてぞ見えける。表(うへ)の御袴(はかま)、竜胆(りんだう)の二重織物(ふたへおりもの)にて、いとめでたく清(けう)らにこそ、きらめかせ給(たま)へりしか。
御目のそこなはれ給(たま)ひにしこそ、いといとあたらしかりしか。よろづにつくろはせ給(たま)ひしかど、えやませ給(たま)はで、御まじらひ絶え給(たま)へる頃、大弐(だいに)の闕(けち)出(い)できて、人々望みののしりしに、唐人(からびと)の目つくろふがあなるに、見せむと思(おぼ)して、「こころみにならばや」と申(まう)し給(たま)ひければ、三条院の御時にて、またいとほしくや思(おぼ)し召(め)しけむ、二言(ふたこと)となくならせ給(たま)ひてしぞかし。その御北の方には、伊予守兼資(いよのかみかねもと)のぬしの女なり。その御腹の女君(をんなぎみ)二所(ふたところ)御座(おは)せしは、三条院の御子(みこ)の式部卿(しきぶきやう)の宮の北の方、いま一所(ひとところ)は、傅(ふ)の殿(との)の御子に宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)兼経(かねつね)の君、この二所の御婿(むこ)をとり奉(たてまつ)り給(たま)ひて、いみじういたはりきこえ給(たま)ふめり。
政(まつりごと)よくし給(たま)ふとて、筑紫人(つくしびと)さながら従ひまうしたりければ、例(れい)の大弐(だいに)、十人ばかりがほどにて、上(のぼ)り給(たま)へりとこそ申(まう)ししか。
かの国に御座(おは)しまししほど、刀伊国(といこく)の物(もの)にはかにこの国を討ち取らむとや思(おも)ひけむ、越え来たりけるに、筑紫には、かねて用意もなく、大弐殿、弓矢(ゆみや)の本末(もとすえ)も知(し)り給(たま)はねば、いかがと思(おぼ)しけれど、大和心(やまとごころ)かしこく御座(おは)する人にて、筑後(ちくご)・肥前(ひぜん)・肥後(ひご)、九国の人をおこし給(たま)ふをばさることにて、府(ふ)の内(うち)に仕(つか)うまつる人をさへおしこりて、戦はせ給(たま)ひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高く御座(おは)します故(け)に、いみじかりしこと、平(たひら)げ給(たま)へる殿(との)ぞかし。公家(おほやけ)、大臣・大納言(だいなごん)にもなさせ給(たま)ひぬべかりしかど、御まじらひ絶えにたれば、ただには御座(おは)するにこそあめれ。この中に、むねと射返(いかへ)したるものどもしるして、公家に奏(そう)せられたりしかば、皆賞せさせ給(たま)ひき。種材(たねき)は壱岐守(ゆきのかみ)になされ、その子は大宰監(だざいのげん)にこそなさせ給(たま)へりしか。
この種材が族(ぞう)は、純友(すみとも)討(う)ちたりしものの筋(すぢ)なり。この純友は、将門(まさかど)同心(どうしん)に語らひて、おそろしきこと企(くはだ)てたるものなり。将門は、「帝(みかど)を討ちとり奉(たてまつ)らむ」といひ、純友は、「関白(くわんばく)にならむ」と、同じく心をあはせて、この世界に我(われ)と政(まつりごと)をし、君(きみ)となりてすぎむ、といふことを契り会(あ)ひて、一人は東国(ひんがしぐに)にいくさをととのへ、一人は西国(にしぐに)の海に、いくつともなく、大筏(おほいかだ)を数知(し)らず集めて、筏の上に土(つち)をふせて、植木をおほし、よもやまの田をつくり、住みつきて、おほかたおぼろけのいくさに、動(どう)ずべうもなくなりゆくを、かしこうかまへて、討ち奉(たてまつ)りたるは、いみじきことなりな。それはげに人のかしこきのみにはあらじ、王威(わうゐ)の御座(おは)しまさむかぎりは、いかでかさることあるべきと思(おも)へど。
さて壱岐(ゆき)・対馬国(つしまのくに)の人を、いと多く刀伊国にとりていきたりければ、新羅(しらぎ)の帝(みかど)いくさをおこし給(たま)ひて、皆討(う)ち返し給(たま)ひてけり。さて使をつけて、たしかにこの島に送り給(たま)へりければ、かの国の使には、大弐(だいに)、金(こがね)三百両とらせてかへさせ給(たま)ひける。このほどのことも、かくいみじうしたため給(たま)へるに、入道(にふだう)殿(どの)、なほこの帥殿(そちどの)を捨てぬものに思(おも)ひきこえさせ給(たま)へるなり。さればにや、世にもいとふり捨てがたき覚(おぼ)えにてこそ御座(おは)すめれ。御門(みかど)には、いつかは馬・車の三つ四つ絶ゆる時ある。また、道もさりあへず立つ折もあるぞかし。この殿(との)の御子(みこ)の男君、ただいまの蔵人(くらうどの)少将(せうしやう)良頼(よしより)の君、また、右中弁経輔(うちゆうべんつねすけ)の君、また式部丞(しきぶのぞう)などにて御座(おは)すめり。
誠(まこと)に、世に会(あ)ひてはなやぎ給(たま)へりし折、この帥殿は花山院とあらがひごとまうさせ給(たま)へりしはとよ。いと不思議なりしことぞかし。「わぬしなりとも、わが門(かど)はえわたらじ」と仰(おほ)せられければ、「隆家(たかいへ)、などてかわたり侍(はべ)らざらむ」と申(まう)し給(たま)ひて、その日と定められぬ。輪(わ)つよき御車(みくるま)に、逸物(いちもち)の御車牛(みくるまうし)かけて、御烏帽子(えぼし)・直衣(なほし)いとあざやかにさうぞかせ給(たま)ひて、葡萄染(えびぞめ)の織物(おりもの)の御指貫(さしぬき)少しゐ出(い)でさせ給(たま)ひて、祭のかへさに紫野(むらさきの)走らせ給(たま)ふ君達(きんだち)のやうに、踏板(ふみいた)にいと長やかに踏みしだかせ給(たま)ひて、くくりは地(つち)にひかれて、簾(すだれ)いと高やかに巻き上げて、雑色(ざふしき)五六十人ばかり、声のあるかぎり、ひまなく御先(みさき)参(まゐ)らせ給(たま)ふ。院(ゐん)には、さらなり、えもいはぬ勇幹幹了(ようかんかんれう)の法師ばら・大中童子(だいちゆうどうじ)など、あはせて七八十人ばかり、大きなる石・五六尺ばかりなる杖(つゑ)ども持たせさせ給(たま)ひて、北・南の御門(みかど)・築地(ついぢ)づらに、小一条(こいちでう)の前、洞院(とうゐん)の裏うへ、ひまなく立て並(な)めて、御門のうちにも、侍(さぶらひ)・僧の若やかに力強(ちからづよ)きかぎり、さるまうけして候(さぶら)ふ。さることをのみ思(おも)ひたる上下(かみしも)の、今日にあへるけしきどもは、げにいかがはありけむ。いづ方にも、石・杖(つゑ)ばかりにて、まことしき弓矢(ゆみや)まではまうけさせ給(たま)はず。中納言殿の、御車(みくるま)、一時(ひととき)ばかり立て給(たま)ひて、勘解由小路(かでのこうぢ)よりは北に、御門(みかど)近うまでは、やり寄せ給(たま)へりしかど、なほえわたり給(たま)はで、帰らせ給(たま)ふに、院方(ゐんがた)にそこらつどひたるものども、ひとつ心に、目をかためまもりまもりて、やりかへし給(たま)ふほど、「は」と一度に笑ひたりし声こそ、いとおびたたしかりしか。さる見物(みもの)やは侍(はべ)りしとよ。王威(わうゐ)はいみじき物(もの)なりけり。えわたらせ給(たま)はざりつるよ。「無益(むやく)のことをもいひてけるかな。いみじき辱号(ぞくがう)とりつる」とてこそ、笑ひ給(たま)ひけれ。院は勝ちえさせ給(たま)へりけるを、いみじと思(おぼ)したるさまも、ことしもあれ、まことしきことの様(やう)なり。
この帥殿(そちどの)の御はらからといふ君達(きんだち)、数あまた御座(おは)すべし。頼親(よりちか)の内蔵頭(くらのかみ)・周頼(ちかより)の木工頭(もくのかみ)などいひし人、かたはしよりなくなり給(たま)ひて、今は、ただ兵部大輔周家(ひやうぶのたいふちかいへ)の君ばかり、ほのめき給(たま)ふなり。小一条院(こいちでうゐん)の御宮たちの御乳母(めのと)の夫(をとこ)にて、院の格勤(かくごん)して候(さぶら)ひ給(たま)ふ、いとかしこし。また、井手(ゐで)の少将(せうしやう)とありし君は、出家(すけ)とか。故(こ)関白(くわんばく)殿の御心(こころ)おきていとうるはしく、あてに御座(おは)ししかど、御末あやしく、御命も短く御座(おは)しますめり。今は、入道(にふだう)一品(いつぽん)の宮(みや)と、この帥(そちの)中納言殿(ちゆうなごんどの)とのみこそは、残らせ給(たま)へめれ。 
一 右大臣道兼
この大臣(おとど)、これ、大入道(おほにふだう)殿(どの)の御三郎、粟田殿(あはたどの)とこそは、聞えさすめりしか。長徳(ちやうとく)元年乙未(きのとひつじ)五月二日関白(くわんばく)の宣旨(せんじ)かうぶらせ給(たま)ひて、同じ月の八日失(う)せさせ給(たま)ひにき。大臣の位にて五年、関白(くわんばく)と申(まう)して七日ぞ御座(おは)しまししか。この殿(との)ばらの御族(ぞう)に、やがて世をしろしめさぬたぐひ多く御座(おは)すれど、またあらじかし、夢のやうにてやみ給(たま)へるは。出雲守(いづものかみ)相如(すけゆき)のぬしの御家(みいへ)に、あからさまにわたり給(たま)へりし折、宣旨(せんじ)は下りしかば、あるじのよろこびたうびたるさま、おしはかり給(たま)へ。狭(せば)うて、ことの作法(さはふ)えあるまじとて、たたせ給(たま)ふ日ぞ、御よろこびも申(まう)させ給(たま)ふ。殿(との)の御前(ごぜん)は、えもいはぬ物(もの)のかぎりすぐられたるに、北の方の二条に帰り給(たま)ふ御供人(ともびと)は、よきもあしきも、数知(し)らぬまで、布衣(ほうい)などにてあるもまじりて、殿の出(いだ)したて奉(たてまつ)りて、わたり給(たま)ひしほどの、殿のうちの栄え・人のけしきは、ただ思(おぼ)しやれ。あまりにもと見る人もありけり。御心地(ここち)は少し例(れい)ならず思(おぼ)されけれど、おのづからのことにこそは、いまいましく今日の御よろこび申(まう)しとどめじと思(おぼ)して、念(ねん)じて内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)へるに、いと苦しうならせ給(たま)ひにければ、殿上(てんじやう)よりはえ出(い)でさせ給(たま)はで、御湯殿(おゆどの)の馬道(めだう)の戸口に、御前(ごぜん)を召(め)してかかりて、北(きた)の陣(ぢん)より出(い)でさせ給(たま)ふに、こはいかにと人々見奉(たてまつ)る。殿には、常(つね)よりもとり経営(けいめい)して待ち奉(たてまつ)り給(たま)ふに、人にかかりて、御冠(かうぶり)もしどけなく、御紐(ひも)おしのけて、いといみじう苦しげにておりさせ給(たま)へるを見奉(たてまつ)り給(たま)へる御心地、出(い)で給(たま)ふつる折にたとしへなし。されど、ただ「さりとも」と、ささめきにこそささめけ、胸はふたがりながら、ここちよ顔(がほ)をつくりあへり。されば、世にはいとおびたたしくも聞えず。
今の小野宮(をののみや)の右大臣殿の御よろこびに参(まゐ)り給(たま)へりけるを、母屋(もや)の御簾(みす)をおろして、呼び入れ奉(たてまつ)り給(たま)へり。臥(ふ)しながら御対面(たいめ)ありて、「乱れ心地、いとあやしう侍(はべ)りて、外にはえまかり出(い)でねば、かくて申(まう)し侍(はべ)るなり。年頃(としごろ)、はかなきことにつけても、心のうちによろこび申(まう)すことなむ侍(はべ)りつれど、させることなきほどは、ことごとにもえ申(まう)し侍(はべ)らでなむ過ぎまかりつるを、今はかくまかりなりて侍(はべ)れば、公私(おほやけわたくし)につけて、報(ほう)じまうすべきになむ。また、大小のことをも申(まう)し合せむと思う給(たま)へれば、無礼(むらい)をもえはばからず、かくらうがはしき方に案内まうしつるなり」などこまやかに宣(のたま)へど、言葉もつづかず、ただおしあてにさばかりなめりと聞(き)きなさるるに、「御息ざしなどいと苦しげなるを、いと不便(ふびん)なるわざかなと思(おも)ひしに、風の御簾(みす)を吹き上げたりしはさまより見入れしかば、さばかり重き病をうけとり給(たま)ひてければ、御色もたがひて、きららかに御座(おは)する人ともおぼえず、ことのほかに不覚(ふかく)になり給(たま)ひにけりと見えながら、ながかるべきことども宣(のたま)ひしなむ、あはれなりし」とこそ、後に語り給(たま)ひたれ。
この粟田殿(あはたどの)の御男君達(をとこきんだち)ぞ三人御座(おは)せしが、太郎君は福足君(ふくたりぎみ)と申(まう)ししを、幼き人はさのみこそはと思(おも)へど、いとあさましう、まさなう、あしくぞ御座(おは)せし。東三条(とうさんでう)殿(どの)の御賀に、この君、舞をせさせ奉(たてまつ)らむとて、習(なら)はせ給(たま)ふほども、あやにくがりすまひ給(たま)へど、よろづにをこづり、祈(いのり)をさへして、教へきこえさするに、その日になりて、いみじうしたて奉(たてまつ)り給(たま)へるに、舞台(ぶたい)の上にのぼり給(たま)ひて、物(もの)の音調子(ねてうし)吹き出づるほどに、「わざはひかな、あれは舞はじ」とて、髭頬(びづら)ひき乱(みだ)り、御装束(さうぞく)はらはらとひき破(や)り給(たま)ふに、粟田殿(あはたどの)、御色真青(まあを)にならせ給(たま)ひて、あれかにもあらぬ御けしきなり。ありとある人、「さ思(おも)ひつることよ」と見給(たま)へど、すべきやうもなきに、御舅(をぢ)の中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)のおりて、舞台に上(のぼ)らせ給(たま)へば、いひをこづらせ給(たま)ふべきか、また憎さにえたへず、追ひおろさせ給(たま)ふべきかと、かたがた見侍(はべ)りしに、この君を御腰のほどに引きつけさせ給(たま)ひて、御手づからいみじう舞はせたりしこそ、楽(がく)もまさりておもしろく、かの君の御恥(はぢ)もかくれ、その日の興(きよう)もことのほかにまさりたりけれ。祖父(おほぢ)殿(どの)もうれしと思(おぼ)したりけり。父大臣(おとど)はさらなり、よその人だにこそ、すずろに感じ奉(たてまつ)りけれ。斯様(かやう)に、人のためになさけなさけしきところ御座(おは)しましけるに、など御末かれさせ給(たま)ひにけむ。この君、人しもこそあれ、蛇(くちなは)れうじ給(たま)ひて、その崇(たた)りにより、頭(かしら)に物(もの)はれて、失(う)せ給(たま)ひにき。
この御弟(おとと)の次郎君、今の左衛門督兼隆(さえもんのかみかねたか)の卿は、大蔵卿(おほくらきやう)の女(むすめ)の腹なり。この左衛門督の君達(きんだち)、男女(をとこをんな)あまた御座(おは)すなり。大姫君(おほひめぎみ)は、三条院の三の皇子(みこ)、敦平(あつひら)の中務(なかつかさ)の宮に、このきさらぎかとよ、婿(むこ)どり奉(たてまつ)り給(たま)へる、いとよき御中にて御座(おは)しますめり。また、姫君なる四人御座(おは)す。また、粟田殿(あはたどの)の三郎、前頭中将兼綱(さきのとうのちゆうじやうかねつな)の君。その君の祭の日ととのへ給(たま)へりし車こそ、いとをかしかりしか。桧網代(ひあじろ)といふ物(もの)を張(は)りて、的(まと)のかたに彩(いろど)られたりし車の、横ざまのふちを、弓(ゆみ)の形(かた)にし、縦(たて)ぶちを矢の形にせられたりしさまの、興(きよう)ありしなり。和泉式部(いずみしきぶ)の君、歌によまれて侍めりき。
とをつらの馬ならねども君乗れば車もまとに見ゆる物(もの)かな 
さて、よき御風流(ふりう)と見えしかど、人の口やすからぬ物(もの)にて、「賀茂(かも)の明神(みやうじん)の御矢めおひ給(たま)へり」と、いひなしてしかば、いと便(びん)なくてやみにき。この君の、頭(とう)とられ給(たま)ひし、いといみじく侍(はべ)りしことぞかし。頭になりておどろきよろこび給(たま)ふべきならねど、あるべきことにてあるに、「粟田殿(あはたどの)、花山院すかしおろし奉(たてまつ)り、左衛門督(さえもんのかみ)、小一条院(こいちでうゐん)すかしおろし奉(たてまつ)り給(たま)へり。帝(みかど)・春宮(とうぐう)の御あたり近づかでありぬべき族(ぞう)」といふこと出(い)できにしぞ、いと希有(けう)に侍(はべ)りきな。誰(たれ)も聞(きこ)し召(め)し知(し)りたることなれど。男君(をとこぎみ)たち、かくなり。
女君(をんなぎみ)は、故(こ)一条院の御乳母(めのと)の藤三位(とうさんみ)の腹に出(い)で御座(おは)しましたりしを、やがてその御時のくらべやの女御(にようご)と聞えし。後(のち)に、この大蔵卿通任(おほくらきやうみちたふ)の君の御北の方にて失(う)せ給(たま)ひにしかし。御嫡腹(むかへばら)に、仏(ほとけ)・神(かみ)に申(まう)して孕(はら)まれ給(たま)へりし君、今の中宮(ちゆうぐう)に、二条殿の御方とてこそは候(さぶら)ひ給(たま)ふめれ。父殿(ちちどの)、女子(をんなご)をほしがり、願(ぐわん)をたて給(たま)ひしかど、御顔をだにえ見奉(たてまつ)り給(たま)はずなりにき。斯様(かやう)にあはれなることどもの、世に侍(はべ)りしぞかし。
その殿(との)の御北の方、栗田殿の御後は、この堀河殿(ほりかはどの)の御子(みこ)の左大臣(さだいじん)の北の方にてこそは、年頃(としごろ)御座(おは)すと、聞(き)き奉(たてまつ)りしか。その北の方、九条殿(くでうどの)の御子の大蔵卿の君の女(むすめ)ぞかし。されば、この栗田殿の御有様(ありさま)、ことのほかにあへなく御座(おは)しましき。さるは、御心(みこころ)いとなさけなくおそろしくて、人にいみじう怖(お)ぢられ給(たま)へりし殿の、あやしく末なくてやみ給(たま)ひにしなり。
この殿、父大臣(おとど)の御忌(いみ)には、土殿(つちどの)などにもゐさせ給(たま)はで、暑きにことつけて、御簾(みす)どもあげわたして、御念誦(ねんず)などもし給(たま)はず、さるべき人々呼び集めて、後撰(ごせん)・古今(こきん)ひろげて、興言(きようげん)し、遊びて、つゆ嘆かせ給(たま)はざりけり。そのゆゑは、花山院をばわれこそすかしおろし奉(たてまつ)りたれ、されば、関白(くわんばく)をも譲らせ給(たま)ふべきなり、といふ御恨みなりけり。世(よ)づかぬ御ことなりや。さまざまよからぬ御ことどもこそきこえしか。傅(ふ)の殿・この入道(にふだう)殿(どの)二所(ふたところ)は、如法(によほふ)に孝(けう)じ奉(たてまつ)り給(たま)ひけりとぞ、承(うけたまは)りし。 
大鏡 下

一 太政大臣(だいじやうだいじん)道長(みちなが) (上)
この大臣(おとど)は、法興院(ほこゐん)の大臣(おとど)の御五男、御母、従四位(じゆしゐ)上摂津守(じやうつのかみ)右京大夫(うきやうのだいぶ)藤原(ふぢはらの)中正(なかまさ)朝臣(あそん)の女(むすめ)なり。その朝臣(あそん)は従二位中納言山蔭(やまかげ)卿の七男なり。この道長のおとどは、今の入道(にふだう)殿下(でんか)これに御座(おは)します。一条院・三条院の御舅(をぢ)、当代(たうだい)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほじ)にて御座(おは)します。この殿(との)、宰相(さいしやう)にはなり給(たま)はで、ただちに権(ごん)中納言にならせ給(たま)ふ、御年二十三。その年、上東門院(じやうとうもんゐん)生れ給(たま)ふ。四月二十七日、従二位し給(たま)ふ、御年二十七。関白(くわんばく)殿生れ給(たま)ふ年なり。長徳(ちやうとく)元年乙羊(きのとひつじ)四月二十七日、左近大将(さこんのたいしやう)かけさせ給(たま)ふ。
その年の祭の前より、世の中きはめてさわがしきに、またの年、いとどいみじくなりたちにしぞかし。まづは、大臣・公卿多く失(う)せ給(たま)へりしに、まして、四位・五位のほどは、数やは知(し)りし。
まづその年失(う)せ給(たま)へる殿(との)ばらの御数、閑院(かんゐん)の大納言(だいなごん)、三月二十八日、中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)、四月十日。これは世の疫(え)に御座(おは)しまさず、ただ同じ折のさしあはせたりしことなり。小一条(こいちでう)の左大将済時(なりとき)卿は四月二十三日、六条の左大臣(さだいじん)殿・粟田(あはた)の右大臣殿・桃園(ももぞの)の中納言保光(やすみつ)卿、この三人は五月八日、一度に失(う)せ給(たま)ふ。山井(やまのゐ)の大納言(だいなごん)殿、六月十一日ぞかし。またあらじ、あがりての世にも、かく大臣・公卿七八人、二三月のうちにかきはらひ給(たま)ふこと。希有(けう)なりしわざなり。それもただこの入道(にふだう)殿(どの)の御幸(さいは)ひの、上(かみ)をきはめ給(たま)ふにこそ侍(はべ)るめれ。かの殿ばら、次第(しだい)のままにひさしく保(たも)ち給(たま)はましかば、いとかくしもやは御座(おは)しまさまし。
まづ帥殿(そちどの)の御心(こころ)もちゐのさまざましく御座(おは)しまさば、父大臣(おとど)の御病のほど、天下執行(しゆぎやう)の宣旨(せんじ)下り給(たま)へりしままに、おのづからさてもや御座(おは)しまさまし。それにまた、大臣(おとど)失(う)せ給(たま)ひにしかば、いかでか、みどりごの様(やう)なる殿の、世の政(まつりごと)し給(たま)はむとて、粟田殿(あはたどの)にわたりにしぞかし。さるべき御次第にて、それまたあるべきことなり。あさましく夢などのやうに、とりあへずならせ給(たま)ひにし、これはあるべきことかはな。この今の入道(にふだう)殿(どの)、その折、大納言(だいなごん)中宮(ちゆうぐうの)大夫(だいぶ)と申(まう)して、御年いと若く、ゆく末待ちつけさせ給(たま)ふべき御齢(よはひ)のほどに、三十にて、五月十一日に、関白(くわんばく)の宣旨承(うけたまは)り給(たま)うて、栄えそめさせ給(たま)ひにしままに、また外(ほか)ざまへも分かれずなりにしぞかし。いまいまも、さこそは侍(はべ)るべかむめれ。
この殿(との)は、北の方二所(ふたところ)御座(おは)します。この宮宮(みやみや)の母上と申(まう)すは、土御門(つちみかど)の左大臣(さだいじん)源雅信(みなもとのまさざね)のおとどの御女(むすめ)に御座(おは)します。雅信のおとどは、亭子(ていじ)の帝(みかど)の御子(みこ)、一品(いつぽん)式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)敦実(あつみ)の親王(みこ)の御子、左大臣(さだいじん)時平(ときひら)のおとどの御女(むすめ)の腹に生れ給(たま)ひし御子なり。その雅信のおとどの御女を、今の入道(にふだう)殿下(でんか)の北(きた)の政所(まんどころ)と申(まう)すなり。その御腹に、女君(をんなぎみ)四所(よところ)・男君(をとこぎみ)二所ぞ御座(おは)します。その御有様(ありさま)は、ただいまのことなれば、皆人見奉(たてまつ)り給(たま)ふらめど、ことばつづけ申(まう)さむとなり。
第一の女君(をんなぎみ)は、一条院の御時に、十二にて、参(まゐ)らせ給(たま)ひて、またの年、長保(ちやうはう)二年庚子(かのえね)二月二十五日、十三にて后(きさき)にたち給(たま)ひて、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)ししほどに、うちつづき男親王(をとこみこ)二人うみ奉(たてまつ)り給(たま)へりしこそは、今の帝(みかど)・東宮(とうぐう)に御座(おは)しますめれ。二所の御母后(ははきさき)、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)と申(まう)して、天下第一の母にて御座(おは)します。
その御さしつぎの尚侍(ないしのかみ)と申(まう)しし、三条院の東宮(とうぐう)に御座(おは)しまししに、参(まゐ)らせ給(たま)うて、宮、位につかせ給(たま)ひにしかば、后にたたせ給(たま)ひて、中宮と申(まう)しき、御年十九。さてまたの年、長和二年癸丑(みづのとうし)七月二十六日に、女親王(をんなみこ)生れさせ給(たま)へるこそは、三四ばかりにて一品(いつぽん)にならせ給(たま)ひて、今に御座(おは)しませ。この頃は、この御母宮を皇太后宮(くわうたいごうぐう)と申(まう)して、枇杷殿(びはどの)に御座(おは)します。一品(いつぽん)の宮は、三宮(さんぐう)に准(じゆん)じて、千戸(こ)の御封(みぶ)を得させ給(たま)へば、この宮に后二所御座(おは)しますがごとくなり。
また次の女君(をんなぎみ)、これも尚侍にて、今の帝(みかど)十一歳にて、寛仁(くわんにん)二年戊午(つちのえうま)正月二日、御元服(げんぶく)せさせ給(たま)ふ、その二月に参(まゐ)り給(たま)うて、同じき年の十月十六日に后にゐさせ給(たま)ふ。ただいまの中宮と申(まう)して、内に御座(おは)します。
また、次の女君(をんなぎみ)、それも尚侍、十五に御座(おは)します、今の東宮(とうぐう)十三にならせ給(たま)ふ年、参(まゐ)らせ給(たま)ひて、東宮(とうぐう)の女御(にようご)にて候(さぶら)はせ給(たま)ふ。入道(にふだう)せしめ給(たま)ひて後のことなれば、今の関白(くわんばく)殿の御女と名づけ奉(たてまつ)りてこそは参(まゐ)らせ給(たま)ひしか。今年は十九にならせ給(たま)ふ。妊(にん)じ給(たま)ひて、七八月(つき)にぞ当たらせ給(たま)へる。入道(にふだう)殿(どの)の御有様(ありさま)見奉(たてまつ)るに、かならず男(をのこ)にてぞ御座(おは)しまさむ。この翁(おきな)、さらによも申(まう)しあやまち侍(はべ)らじ」と、扇(あふぎ)を高くつかひつついひしこそ、をかしかりしか。
《世継》「女君(をんなぎみ)たちの御有様(ありさま)かくのごとし。男君二所と申(まう)すは、今の関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)頼通(よりみち)のおとどと聞(きこ)えさせて、天下をわがままにまつりごちて御座(おは)します。御年二十六にてや内大臣・摂政にならせ給(たま)ひけむ。帝(みかど)およすけさせ給(たま)ひにしかば、ただ関白(くわんばく)にて御座(おは)します。二十余(はたちあまり)にて納言などになり給(たま)ふをぞ、いみじきことにいひしかど、今の世の御有様(ありさま)かく御座(おは)しますぞかし。御童名(わらはな)は鶴君なり。いま一所は、ただいまの内大臣にて、左大将かけて、教通(のりみち)のおとどと聞えさす。世の二の人にて御座(おは)しますめり。御童名、せや君ぞかし。
かかれば、この北の政所の御栄えきはめさせ給(たま)へり。
御女の御幸(さいは)ひは、あるいは、帝(みかど)・東宮(とうぐう)の御母后(ははきさき)にならせ給(たま)ひ、あるいは、わが御親一の人にて御座(おは)するには、御子生れさせ給(たま)はねど、かねて后にみなゐませ給(たま)ふめり。女の御幸ひは、后(きさき)にこそきはめさせ給(たま)ふことなめれ。されどそれは、いと所狭きに御座(おは)します。いみじきとみのことなれど、おぼろけならねば、えうごかせ給(たま)はず。陣屋(ぢんや)ゐぬれば、女房(にようばう)たやすく心にもまかせず。かように所狭げなり。
ただ人(びと)と申(まう)せど、帝(みかど)・春宮(とうぐう)の御祖母(おほば)にて、准三宮(じゆさんぐう)の御位にて、年官、年爵給(たま)はらせ給(たま)ふ。唐の御車にて、いとたはやすく、御ありきなども、なかなか御身安らかにて、ゆかしく思(おぼ)し召(め)しけることは、世の中の物見、なにの法会(ほふゑ)やなどある折は、御車にても、桟敷(さじき)にても、かならず御覧ずめり。内・東宮(とうぐう)・宮々と、あかれあかれよそほしくて御座(おは)しませど、いづかたにもわたり参(まゐ)らせ給(たま)ひてはさしならび御座(おは)します。
ただいま三后(さんこう)・東宮(とうぐう)の女御(にようご)・関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)・内大臣の御母・帝(みかど)・春宮(とうぐう)はた申(まう)さず、おほよそ世の親にて御座(おは)します。入道(にふだう)殿(どの)と申(まう)すもさらなり、おほかたこの二所ながら、さるべき権者(ごんじや)にこそ御座(おは)しますめれ。御なからひ四十年ばかりにやならせ給(たま)ひぬらむ。あはれにやむごとなき物(もの)にかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ、といへばこそおろかなれ。世の中には、いにしへ・ただいまの国王(こくわう)・大臣、皆藤氏(とうし)にてこそ御座(おは)しますに、この北(きた)の政所(まんどころ)ぞ、源氏(げんじ)にて御幸(さいは)ひきはめさせ給(たま)ひにたる。一昨年(おととし)の御賀(が)の有様(ありさま)などこそ、皆人見聞(き)き給(たま)ひしことなれど、なほかへすがへすもいみじく侍(はべ)りし物(もの)かな。
また、高松殿(たかまつどの)の上(うえ)と申(まう)すも、源氏(げんじ)にて御座(おは)します。延喜(えんぎ)の皇子(みこ)高明(たかあきら)の親王(みこ)を左大臣(さだいじん)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)へりしに、思(おも)はざるほかのことによりて、帥にならせ給(たま)ひて、いといと心憂かりしことぞかし。その御女に御座(おは)します。それを、かの殿、筑紫に御座(おは)しましける年、この姫君まだいと幼く御座(おは)しましけるを、御舅(をぢ)の十五の宮と申(まう)したるも、同じ延喜(えんぎ)の皇子に御座(おは)します、
女子(をんなご)も御座(おは)せざりければ、この君をとり奉(たてまつ)りて、養ひかしづき奉(たてまつ)りて、もち給(たま)へるに、西宮殿(にしのみやどの)も、十五の宮もかくれさせ給(たま)ひにし後(のち)に、故(こ)女院(にようゐん)の后に御座(おは)しましし折、この姫君を迎へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、東三条(とうさんでう)殿(どの)の東(ひんがし)の対(たい)に、帳(ちやう)を立てて、壁代(かべしろ)をひき、わが御しつらひにいささかおとさせ給(たま)はず、しすゑきこえさせ給(たま)ひ、女房(にようばう)・侍(さぶらひ)・家司(けいし)・下人(しもびと)まで別(べち)にあかちあてさせ給(たま)ひて、姫宮(ひめみや)などの御座(おは)しまさせしごとくにかぎりなく、思(おも)ひかしづききこえさせ給(たま)ひしかば、御せうとの殿(との)ばら、我(われ)も我もと、よしばみ申(まう)し給(たま)ひけれど、后かしこく制しまうさせ給(たま)ひて、今の入道(にふだう)殿(どの)をぞ許しきこえさせ給(たま)ひければ、通ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしほどに、女君(をんなぎみ)二所(ふたところ)・男君四人御座(おは)しますぞかし。
女君(をんなぎみ)と申(まう)すは、今の小一条院(こいちでうゐん)の女御(にようご)。いま一所(ひとところ)は故(こ)中務卿具平(なかつかさきやうともひら)の親王(みこ)と申(まう)す、村上の帝(みかど)の七の親王に御座(おは)しましき、その御男君三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)師房(もろふさ)の君と申(まう)すを、
今の関白(くわんばく)殿の上(うへ)の御はらからなるが故(ゆゑ)に、関白(くわんばく)殿、御子(みこ)にし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふを、
入道(にふだう)殿(どの)婿(むこ)どり奉(たてまつ)らせ給(たま)へり。「あさはかに、心得ぬこと」とこそ、世の人申(まう)ししか。殿(との)のうちの人も思(おぼ)したりしかど、入道(にふだう)殿(どの)思(おも)ひおきてさせ給(たま)ふやうありけむかしな。
男君は、大納言(だいなごん)にて春宮大夫頼宗(とうぐうのだいぶよりむね)と聞ゆる。御童名(わらはな)、石君(いはぎみ)。いま一所、これに同じ、大納言(だいなごん)中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)能信(よしのぶ)と聞ゆる。
いま一所、中納言長家(ながいへ)。御童名、小若君(こわかぎみ)。
いま一人は、馬頭(うまのかみ)にて、顕信(あきのぶ)とて御座(おは)しき。御童名、苔君(こけぎみ)なり。寛弘(くわんこう)九年壬子(みづのえね)正月十九日、入道(にふだう)し給(たま)ひて、この十余年は、仏のごとくして行はせ給(たま)ふ。思(おも)ひがけず、あはれなる御ことなり。みづからの菩提(ぼだい)を申(まう)すべからず、殿の御ためにもまた、法師なる御子(みこ)の御座(おは)しまさぬが口惜(くちを)しく、こと欠けさせ給(たま)へる様(やう)なるに、「されば、やがて一度に僧正(そうじやう)になし奉(たてまつ)らむ」となむ仰(おほ)せられけるとぞ承(うけたまは)るを、いかが侍(はべ)らむ。うるはしき法服(ほふぶく)、宮々よりも奉(たてまつ)らせ給(たま)ひ、殿よりは麻の御衣(ころも)奉(たてまつ)るなるをば、あるまじきことに申(まう)させ給(たま)ふなるをぞ、いみじく侘(わ)びさせ給(たま)ひける。
出(い)でさせ給(たま)ひけるには、緋の御衵(あこめ)のあまた候(さぶら)ひけるを、「これがあまた重(かさ)ねて着たるなむうるさき。綿を一つに入れなして一つばかりを着たらばや。しかせよ」と仰(おほ)せられければ、「これかれそそき侍(はべ)らむもうるさきにことを厚くして参(まゐ)らせむ」と申(まう)しければ、「それはひさしくもなりなむ。ただとくと思(おも)ふぞ」と仰(おほ)せられければ、思(おぼ)し召(め)すやうこそはと思(おも)ひて、あまたを一つにとり入れて参(まゐ)らせたるを奉(たてまつ)りてぞ、その夜は出(い)でさせ給(たま)ひける。
されば、御乳母(めのと)は、「かくて仰(おほ)せられける物(もの)を、なにしにして参(まゐ)らせけむ」と、「例ならずあやしと思(おも)はざりけむ心のいたりのなさよ」と、泣きまどひけむこそ、いとことわりにあはれなれ。ことしもそれにさはらせ給(たま)はむやうに。かくと聞(き)きつけ給(たま)ひては、やがて絶え入りて、なき人のやうにて御座(おは)しけるを、「かく聞(き)かせ給(たま)はば、いとほしと思(おぼ)して、御心(みこころ)や乱(みだ)れ給(たま)はむ」と、「今さらによしなし。これぞめでたきこと。仏(ほとけ)にならせ給(たま)はば、我が御ためも、後の世のよく御座(おは)せむこそ、つひのこと」と、人々のいひければ、「われは仏にならせ給(たま)はむもうれしからず。わが身の後のたすけられ奉(たてまつ)らむもおぼえず。ただいまのかなしさよりほかのことなし。殿の上も、御子(おほんこ)どもあまた御座(おは)しませば、いとよし。ただわれ一人がことぞや」とぞ、伏(ふ)しまろびまどひける。げにさることなりや。道心(だうしん)なからむ人は、後の世までも知(し)るべきかはな。
高松殿(たかまつどの)の御夢にこそ、左の方の御ぐしを、なからより剃(そ)り落とさせ給(たま)ふと御覧(ごらん)じけるを、かくて後(のち)にこそ、これが見えけるなりけりと思(おも)ひさだめて、「ちがへさせ、祈などをもすべかりけることを」と仰(おほ)せられける。
皮堂(かはだう)にて御ぐしおろさせ給(たま)ひて、やがてその夜、山へ登らせ給(たま)ひけるに、「鴨河(かもがは)渡りしほどのいみじうつめたくおぼえしなむ、少しあはれなりし。今は斯様(かやう)にてあるべき身ぞかしと思(おも)ひながら」とこそ仰(おほ)せられけれ。
今の右衛門督(うゑもんのかみ)ぞ、とくより、この君をば、「出家(すけ)の相こそ御座(おは)すれ」と宣(のたま)ひて、中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)殿(どの)の上(うへ)に御消息(せうそこ)聞えさせ給(たま)ひけれど、「さる相ある人をばいかで」とて、後にこの大夫殿(だいぶどの)をばとり奉(たてまつ)り給(たま)へるなり。正月に、内(うち)より出(い)で給(たま)ひて、この右衛門督(うゑもんのかみ)、「馬頭(うまのかみ)の、物見(ものみ)よりさし出(い)でたりつるこそ、むげに出家(すけ)の相(さう)近くなりにて見えつれ。いくつぞ」と宣(のたま)ひければ、頭中将(とうのちゆうじやう)「十九にこそなり給(たま)ふらめ」と申(まう)し給(たま)ひければ、「さては、今年ぞし給(たま)はむ」とありけるに、かくと聞(き)きてこそ、「さればよ」と宣(のたま)ひけれ。相人(さうにん)ならねど、よき人は、物(もの)を見給(たま)ふなり。
入道(にふだう)殿(どの)は、「益(やく)なし。いたう嘆きてかなし。心乱れせられむも、この人のためにいとほし。法師子(ほふしご)のなかりつるに、いかがはせむ。幼くてもなさむと思(おも)ひしかども、すまひしかばこそあれ」とて、ただ例(れい)の作法(さはふ)の法師の御やうにもてなしきこえ給(たま)ひき。受戒(じゆかい)には、やがて殿(との)登らせ給(たま)ひ、人々我も我もと、御供(とも)に参(まゐ)り給(たま)ひて、いとよそほしげなりき。威儀僧(ゐぎそう)には、えもいはぬものども選(え)らせ給(たま)ひき。御先(さき)に、有職(うしき)・僧網(そうがう)どものやむごとなき候(さぶら)ふ。山の所司(しよし)・殿(との)の御随身(みずいじん)ども、人払(はら)ひののしりて、戒壇(かいだん)にのぼらせ給(たま)ひけるほどこそ、入道(にふだう)殿(どの)はえ見奉(たてまつ)らせ給(たま)はざりけれ。御みづからは、本意(ほい)なくかたはらいたしと思(おぼ)したりけり。座主(ざす)の、手輿(たごし)に乗りて、白蓋(びやくがい)ささせてのぼられけるこそ、あはれ天台(てんだい)座主、戒和尚(かいわじやう)の一や、とこそ見え給(たま)ひけれ。世継(よつぎ)が隣(となり)に侍(はべ)る者の、そのきにはに会(あ)ひて見奉(たてまつ)りけるが、語り侍(はべ)りしなり。
「春宮大夫(とうぐうのだいぶ)・中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)殿(どの)などの、大納言(だいなごん)にならせ給(たま)ひし折は、さりとも、御耳とまりてきかせ給(たま)ふらむ、とおぼえしかど、その大饗の折のことども、大納言(だいなごん)の座敷(し)き添へられしほどなど、語り申(まう)ししかど、いささか御けしき変らず、念誦(ねんず)うちして、「かうやうのこと、ただしばしのことなり」とうち宣(のたま)はせしなむ、めでたく優(いう)におぼえし」とぞ、通任(みちたふ)の君、宣(のたま)ひける。
この殿(との)の君達(きんだち)、男女あはせ奉(たてまつ)りて十二人、数(かず)のままにて御座(おは)します。男も女も、御官位(つかさくらゐ)こそ心にまかせ給(たま)へらめ、御心(こころ)ばへ・人柄(ひとがら)どもさへ、いささかかたほにて、もどかれさせ給(たま)ふべきも御座(おは)しまさず、とりどりに有識(いうそく)にめでたく御座(おは)しまさふも、ただことごとならず、入道(にふだう)殿(どの)の御幸(さいは)ひのいふかぎりなく御座(おは)しますなめり。先々(さきざき)の殿(との)ばらの君達御座(おは)せしかども、皆かくしも思(おも)ふさまにやは御座(おは)せし。おのづから、男も女もよきあしきまじりてこそ御座(おは)しまさふめりしか。この北(きた)の政所(まんどころ)の二人ながら源氏(げんじ)に御座(おは)しませば、末の世の源氏(げんじ)の栄え給(たま)ふべきと定(さだめ)め申(まう)すなり。かかれば、この二所(ふたところ)の御有様(ありさま)、かくのごとし。
ただし、殿の御前(おまへ)は、三十より関白(くわんばく)せさせ給(たま)ひて、一条院・三条院の御時、世をまつりごち、わが御ままにて御座(おは)しまししに、また当代(たうだい)の九歳にて位につかせ給(たま)ひにしかば、御年五十一にて摂政せさせ給(たま)ふ年、わが御身は太政大臣(だいじやうだいじん)にならせ給(たま)ひて、摂政をば大臣(おとど)に譲り奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、御年五十四にならせ給(たま)ふに、寛仁(くわんにん)三年己未(つちのとひつじ)
三月十八日の夜中ばかりより御胸を病ませ給(たま)ひて、わざとに御座(おは)しまさねど、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、にはかに、二十一日、未(ひつじ)の時ばかり、起き居(ゐ)させ給(たま)ひて、御冠(かうぶり)し、掻練(かいねり)の御下襲(したがさね)に布袴(ほうこ)をうるはしくさうずかせ給(たま)ひて、御手水(てうづ)召(め)せば、何事(なにごと)にかと、関白(くわんばく)殿を始(はじ)め奉(たてまつ)りて殿ばらも思(おぼ)し召(め)す。寝殿(しんでん)の西(にし)の渡殿(わたどの)に出(い)でさせ給(たま)ひて、南面(みなみおもて)拝(はい)せさせ給(たま)ひて、春日(かすが)の明神(みやうじん)にいとま申(まう)させ給(たま)ふなりけり。慶明僧都(きやうめいそうづ)・定基律師(ぢやうきりし)して、御(み)ぐしおろさせ給(たま)ふ。関白(くわんばく)殿を始(はじ)めとして、君達(きんだち)・殿(との)ばらなど、いとあさましく思(おぼ)せど、思(おぼ)したちてにはかにせさせ給(たま)ふことなれば、誰(たれ)も誰もあきれて、え制(せい)しまうさせ給(たま)はず。あさましとはおろかなり。院源法印(ゐんげんほふいん)、御戒師(かいし)し給(たま)ふ。信恵(しんゑ)僧都の袈裟(けさ)・衣をぞ奉(たてまつ)りける。にはかのことにてまうけさせ給(たま)はざりけるにや。御名は行観(ぎやうくわん)とぞ侍(はべ)りし。
かくて後(のち)にぞ、内(うち)・東宮(とうぐう)・宮々たちには、かくと聞えさせ給(たま)ひける。聞(き)きつけさせ給(たま)へる宮たちの御心(みこころ)ども、あさましく思(おぼ)しさわぐとは、おろかなり。申(さる)の時ばかりに、小一条院(こいちでうゐん)わたらせ給(たま)ひ、御門(おんかど)の外(と)にて、御車(みくるま)かきおろして、引き入れて、中門(ちゆうもん)の外にておりさせ給(たま)ひてこそは御座(おは)しまししか。寄(よ)せてもおりさせ給(たま)はで、かしこまりまうさせ給(たま)ふほども、いともかたじけなくめでたき御有様(ありさま)なりかし。宮たちも、夜(よ)さりこそはわたらせ給(たま)ひしか。
中宮(ちゆうぐう)・皇后宮(くわうごうぐう)などは、一つ御車にてぞわたらせ給(たま)ひし。行啓(ぎやうけい)の有様(ありさま)、にはかにて、例(れい)の作法(さはふ)も侍(はべ)らざりける。同じき年九月二十七日奈良にて御受戒(じゆかい)侍(はべ)りき。かかる御有様(ありさま)につけても、いかにめでたき御有様(ありさま)にことどもの多く侍(はべ)りしかば、皆人知(し)り給(たま)へることどもなれば、こまかには申(まう)し侍(はべ)らじ。
三月二十一日、御出家(すけ)し給(たま)ひつれど、なほまた同じき五月八日、准三宮(じゆさんぐう)の位にならせ給(たま)ひて、年官・年爵(ねんしやく)得させ給(たま)ふ。帝(みかど)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほじ)、三后(みきさき)・関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)・内大臣・あまたの納言(なごん)の御父にて御座(おは)します。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと、かくて三十一年ばかりにやならせ給(たま)ひぬらむ。今年(ことし)は満六十に御座(おは)しませば、督(かん)の殿(との)の御産(ごさん)の後(のち)、御賀(が)あるべしとぞ人申(まう)す。いかにまたさまざま御座(おは)しまさへて、めでたく侍(はべ)らむずらむ。おほかたまた世になきことなり、大臣(だいじん)の御女三人(みたり)、后(きさき)にてさし並べ奉(たてまつ)り給(たま)ふこと。
あさましう希有(けう)のことなり。唐(もろこし)には、昔三千人の后御座(おは)しけれど、それは筋(すぢ)をたづねずしてただかたちありなど聞ゆるを、隣(となり)の国まで選び召(め)して、その中に楊貴妃(やうきひ)ごときは、あまりときめきすぎて、かなしきことあり。王昭君(わうせうくん)は父の申(まう)すにたがひて胡(こ)の国の人となり、上陽人(じやうやうじん)は楊貴妃にそばめられて、帝(みかど)に見え奉(たてまつ)らで、深き窓のうちにて、春のゆき秋の過ぐることをも知(し)らずして、十六にて参(まゐ)りて、六十までありき。斯様(かやう)なれば、三千人のかひなし。
わが国には、七(なな)の后こそ御座(おは)すべけれど、代々(よよ)に四人ぞたち給(たま)ふ。
この入道(にふだう)殿下(でんか)の御一門(ひとつかど)よりこそ、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)・皇太后宮(くわうたいごうぐう)・中宮、三所(みところ)出(い)で御座(おは)しましたれば、誠(まこと)に希有希有(けうけう)の御幸(さいは)ひなり。皇后宮(くわうごうぐう)一人のみ、筋わかれ給(たま)へりといへども、それそら貞信公(ていしんこう)の御末に御座(おは)しませば、これをよそ人と思(おも)ひまうすべきことかは。しかれば、ただ世の中は、この殿(との)の御光ならずといふことなきに、この春こそは失(う)せ給(たま)ひにしかば、いとどただ三后(みきさき)のみ御座(おは)しますめり。
この殿、ことにふれてあそばせる詩・和歌など、居易(きよい)・人麿(ひとまろ)・躬恒(みつね)・貫之(つらゆき)といふとも、え思(おも)ひよらざりけむとこそ、おぼえ侍(はべ)れ。春日(かすが)の行幸(ぎやうかう)、先(さき)の一条院の御時より始(はじ)まれるぞかしな。それにまた、当代(たうだい)幼く御座(おは)しませども、かならずあるべきことにて、始(はじ)まりたる例になりにたれば、大宮(おほみや)御輿(みこし)に添(そ)ひまうさせ給(たま)ひて御座(おは)します、めでたしなどはいふも世の常なり。すべらぎの御祖父にて、うち添ひつかうまつらせ給(たま)へる殿の御有様(ありさま)・御かたちなど少し世の常にも御座(おは)しまさましかば、あかぬことにや。そこらあつまりたる田舎世界(ゐなかせかい)の民百姓(たみひやくしやう)、これこそは、たしかに見奉(たてまつ)りけめ、ただ転輪聖王(てんりんじやうわう)などはかくやと、光るやうに御座(おは)しますに、仏見奉(たてまつ)りたらむやうに、額(ひたひ)に手を当てて拝みまどふさま、ことわりなり。大宮の、赤色(あかいろ)の御扇(あふぎ)さし隠して、御肩のほどなどは、少し見えさせ給(たま)ひけり。かばかりにならせ給(たま)ひぬる人は、つゆの透影(すきかげ)もふたぎ、いかがとこそはもて隠し奉(たてまつ)るに、ことかぎりあれば、今日はよそほしき御有様(ありさま)も、少しは人の見奉(たてまつ)らむも、などかはともや思(おぼ)し召(め)しけむ。殿も宮も、いふよしなく、御心ゆかせ給(たま)へりけること、おしはかられ侍(はべ)れば、殿、大宮に、
そのかみや祈りおきけむ春日野(かすがの)のおなじ道にもたづねゆくかな 
御返し、 
曇(くも)りなき世の光にや春日野のおなじ道にもたづねゆくらむ
斯様(かやう)に申(まう)しかはさせ給(たま)ふほどに、げにげにと聞えて、めでたく侍(はべ)りしなかにも、大宮のあそばしたりし、
三笠山(みかさやま)さしてぞ来(き)つるいそのかみ古きみゆきのあとをたづねて
これこそ、翁(おきな)らが心およばざるにや。あがりても、かばかりの秀歌(しうか)え候(さぶら)はじ。その日にとりては、春日(かすが)の明神(みやうじん)もよませ給(たま)へりけるとおぼえ侍(はべ)り。今日かかることどもの栄(は)えあるべきにて、先(さき)の一条院の御時にも、大入道(おほにふだう)殿(どの)、行幸(ぎやうかう)申(まう)し行はせ給(たま)ひけるにやとこそ、心得られ侍(はべ)れな。
おほかた、幸ひ御座(おは)しまさむ人の、和歌の道おくれ給(たま)へらむは、ことの栄(は)えなくや侍(はべ)らまし。この殿は、折節(をりふし)ごとに、かならず斯様(かやう)のことを仰(おほ)せられて、ことをはやさせ給(たま)ふなり。ひととせの、北(きた)の政所(まんどころ)の御賀(が)に、よませ給(たま)へりしは、
ありなれし契りは絶えていまさらに心けがしに千代(ちよ)といふらむ 
また、この一品(いつぽん)の宮の生れ御座(おは)しましたりし御産養(うぶやしなひ)、大宮のせさせ給(たま)へりし夜(よ)の御歌は、聞(き)き給(たま)へりや。それこそいと興(きよう)あることを。ただ人は思(おも)ひよるべきにも侍(はべ)らぬ和歌の体(てい)なり。
おと宮(みや)の産養(うぶやしなひ)をあね宮のし給(たま)ふ見るぞうれしかりける 
とかや、承(うけたまは)りし」とて、こころよく笑(ゑ)みたり。
《世継》「四条(しでう)の大納言(だいなごん)のかく何事(なにごと)もすぐれ、めでたく御座(おは)しますを、大入道(おほにふだう)殿(どの)「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべもあらぬこそ口惜(くちを)しけれ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)・粟田殿(あはたどの)などは、げにさもとや思(おぼ)すらむと、はづかしげなる御けしきにて、物(もの)も宣(のたま)はぬに、この入道(にふだう)殿(どの)は、いと若く御座(おは)します御身にて、「影をば踏まで、面(つら)をや踏まぬ」とこそ仰(おほ)せられけれ。まことにこそさ御座(おは)しますめれ。内大臣殿をだに、近くてえ見奉(たてまつ)り給(たま)はぬよ。
さるべき人は、とうより御心魂(こころだましひ)のたけく、御守(まもり)もこはきなめりとおぼえ侍(はべ)るは。花山院の御時に、五月下(さつきしも)つ闇(やみ)に、五月雨(さみだれ)も過ぎて、いとおどろおどろしくかきたれ雨の降る夜(よ)、帝(みかど)、さうざうしとや思(おぼ)し召(め)しけむ、殿上(てんじやう)に出(い)でさせ御座(おは)しまして、遊び御座(おは)しましけるに、人々、物語申(まう)しなどし給(たま)うて、昔おそろしかりけることどもなどに申(まう)しなり給(たま)へるに、「今宵(こよひ)こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるだに、けしきおほゆ。まして、物(もの)離れたる所などいかならむ。
さあらむ所に一人往(い)なむや」と仰(おほ)せられけるに、「えまからじ」とのみ申(まう)し給(たま)ひけるを、入道(にふだう)殿(どの)は、「いづくなりともまかりなむ」と申(まう)し給(たま)ひければ、さるところ御座(おは)します帝(みかど)にて、「いと興(きよう)あることなり。さらばいけ。道隆(みちたか)は豊楽院(ぶらくゐん)、道兼(みちかね)は仁寿殿(じじゆうでん)の塗篭(ぬりごめ)、道長は大極殿(だいこくでん)へいけ」と仰(おほ)せられければ、よその君達(きんだち)は、便(びん)なきことをも奏(そう)してけるかなと思(おも)ふ。
また、承(うけたまは)らせ給(たま)へる殿ばらは、御けしきかはりて、益なしと思(おぼ)したるに、入道(にふだう)殿(どの)は、つゆさる御けしきもなくて、「私の従者をば具し候(さぶら)はじ。この陣の吉上(きちじやう)まれ、滝口(たきぐち)まれ、一人を、『昭慶門(せうけいもん)まで送れ』と仰(おほ)せ言(ごと)たべ。それよりうちには一人入り侍(はべ)らむ」と申(まう)し給(たま)へば、「証(そう)なきこと」と仰(おほ)せらるるに、「げに」とて、御手箱(てばこ)に置かせ給(たま)へる小刀まして立ち給(たま)ひぬ。いま二所(ふたところ)も、苦(にが)む苦むおのおの御座(おは)さふじぬ。「子四(ねよ)つ」と奏して、かく仰(おほ)せられ議(ぎ)するほどに、丑にもなりにけむ。「道隆は右衛門(うゑもん)の陣(ぢん)より出(い)でよ。道長は承明門(しようめいもん)より出(い)でよ」と、それをさへ分たせ給(たま)へば、しか御座(おは)しましあへるに、中(なかの)関白(くわんばく)殿、陣まで念(ねん)じて御座(おは)しましたるに、宴(えん)の松原(まつばら)のほどに、その物(もの)ともなき声どもの聞ゆるに、術(ずち)なくて帰り給(たま)ふ。粟田殿(あはたどの)は、露台(ろだい)の外(と)まで、わななくわななく御座(おは)したるに、仁寿殿の東面(ひんがしおもて)の砌(みぎり)のほどに、軒(のき)とひとしき人のあるやうに見え給(たま)ひければ、物(もの)もおぼえで、「身の候(さぶら)はばこそ、仰(おほ)せ言も承(うけたまは)らめ」とて、おのおのたち帰り参(まゐ)り給(たま)へれば、御扇をたたきて笑はせ給(たま)ふに、入道(にふだう)殿(どの)はいとひさしく見えさせ給(たま)はぬを、いかがと思(おぼ)し召(め)すほどにぞ、いとさりげなくことにもあらずげにて参(まゐ)らせ給(たま)へる。「いかにいかに」と問(と)はせたまへば、いとのどやかに、御刀に、削(けづ)られたる物を取り具(ぐ)して奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、「こは何ぞ」と仰(おほ)せらるれば、「ただにて帰り参(まゐ)りて侍(はべ)らむは、証候(さぶら)ふまじきにより、高御座(たかみくら)の南面の柱のもとを削りて候(さぶら)ふなり」と、つれなく申(まう)し給(たま)ふに、いとあさましく思(おぼ)し召(め)さる。こと殿(との)たちの御けしきは、いかにもなほ直(なほ)らで、この殿のかくて参(まゐ)り給(たま)へるを、帝より始(はじ)め感じののしられ給(たま)へど、うらやましきにや、またいかなるにか、物(もの)もいはでぞ候(さぶら)ひ給(たま)ひける。なほ、うたがはしく思(おぼ)し召(め)されければ、つとめて、「蔵人(くらうど)して、削(けづ)り屑(くづ)をつがはしてみよ」と仰(おほ)せ言(ごと)ありければ、持ていきて押しつけて見たうびけるに、つゆたがはざりけり。その削り跡は、いとけざやかにて侍(はべ)めり。末の世にも、見る人はなほあさましきことにぞ申(まう)ししかし。
故(こ)女院(にようゐん)の御修法(みしほ)して、飯室(いひむろ)の権僧正(ごんのそうじやう)の御座(おは)しましし伴僧(ばんそう)にて、相人(さうにん)の候(さぶら)ひしを、女房どもの呼びて相(さう)ぜられけるついでに、「内大臣殿はいかが御座(おは)す」など問(と)ふに、「いとかしこう御座(おは)します。天下(てんか)とる相(さう)御座(おは)します。中宮(ちゆうぐうの)大夫殿(だいぶどの)こそいみじう御座(おは)しませ」といふ。また、粟田殿(あはたどの)を問(と)ひ奉(たてまつ)れば、「それもまた、いとかしこく御座(おは)します。大臣の相(さう)御座(おは)します」。
また、「あはれ中宮大夫殿こそいみじう御座(おは)しませ」といふ。
また、権大納言(だいなごん)殿を問(と)ひ奉(たてまつ)れば、「それも、いとやむごとなく御座(おは)します。雷(いかづち)の相なむ御座(おは)する」と申(まう)しければ、「雷はいかなるぞ」と問(と)ふに、「ひときはは、いと高く鳴(な)れど、後とげのなきなり。されば、御末いかが御座(おは)しまさむと見えたり。中宮(ちゆうぐうの)大夫殿こそ、かぎりなくきはなく御座(おは)しませ」と、こと人を問(と)ひ奉(たてまつ)るたびには、この入道(にふだう)殿(どの)をかならずひき添(そ)へ奉(たてまつ)りて申(まう)す。「いかに御座(おは)すれば、かく毎度(たびごと)には聞(きこ)え給(たま)ふぞ」といへば、「第一の相には、虎(とら)の子の深き山の峰を渡るがごとくなるを申(まう)したるに、いささかもたがはせ給(たま)はねばかく申(まう)し侍(はべ)るなり。このたとひは、虎の子のけはしき山の峰を渡るがごとしと申(まう)すなり。御かたち・容体は、ただ毘沙門のいき本見奉(たてまつ)らむやうに御座(おは)します。御相(さう)かくのごとしといへば、誰よりもすぐれ給(たま)へり」とこそ申(まう)しけれ。いみじかりける上手(じやうず)かな。あてたがはせ給(たま)へることやは御座(おは)しますめる。帥(そち)の大臣(おとど)の大臣(だいじん)までかくすがやかになり給(たま)へりしを、「始(はじ)めよし」とはいひけるなめり。
雷(いかづち)は落ちぬれど、またもあがる物(もの)を、星の落ちて石となるにぞたとふべきや。それこそ返りあがることなけれ。
折々につけたる御かたちなどは、げにながき思(おも)ひ出(い)でとこそは人申(まう)すめれ。なかにも三条院の御時、賀茂(かも)行幸(ぎやうかう)の日、雪ことのほかにいたう降りしかば、御単(ひとへ)の袖(そで)をひき出(い)でて、御扇(あふぎ)を高く持たせ給(たま)へるに、いと白く降りかかりたれば、「あないみじ」とて、うち払(はら)はせ給(たま)へりし御もてなしは、いとめでたく御座(おは)しましし物(もの)かな。上(うへ)の御衣(ぞ)は黒きに、御単衣(ひとへぎぬ)は紅(くれなゐ)のはなやかなるあはひに、雪の色ももてはやされて、えもいはず御座(おは)しましし物(もの)かな。高名(かうみやう)のなにがしといひし御馬、いみじかりし悪馬(あくめ)なり。あはれ、それを奉(たてまつ)りしづめたりしはや。三条院も、その日のことをこそ思(おぼ)し召(め)し出(い)で御座(おは)しますなれ。御病のうちにも、「賀茂(かも)行幸の日の雪こそ、忘れがたけれ」と仰(おほ)せられけむこそ、あはれに侍(はべ)れ。
世間(よのなか)の光にて御座(おは)します殿の、一年(ひととせ)ばかり、物(もの)をやすからず思(おぼ)し召(め)したりしよ、いかに天道(てんたう)御覧(ごらん)じけむ。さりながらも、いささか逼気(ひけ)し、御心(みこころ)やは倒(たう)させ給(たま)へりし。おほやけざまの公事(くじ)・作法(さはふ)ばかりにはあるべきほどにふるまひ、時たがふことなく勤(つと)めさせ給(たま)ひて、うちうちには、所も置ききこえさせ給(たま)はざりしぞかし。 
帥殿(そちどの)の、南院(みなみのゐん)にて人々集めて弓あそばししに、この殿わたらせ給(たま)へれば、思(おも)ひがけずあやしと、中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)思(おぼ)し驚きて、いみじう饗応(きやうよう)しまうさせ給(たま)うて、下藤(げらふ)に御座(おは)しませど、前にたて奉(たてまつ)りて、まづ射(い)させ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけるに、帥殿、矢数(やかず)いま二つ劣(おと)り給(たま)ひぬ。中(なかの)関白(くわんばく)殿、また御前(おまへ)に候(さぶら)ふ人々も、「いま二度延(の)べさせ給(たま)へ」と申(まう)して、延べさせ給(たま)ひけるを、やすからず思(おぼ)しなりて、「さらば、延べさせ給(たま)へ」と仰(おほ)せられて、また射させ給(たま)ふとて、仰(おほ)せらるるやう、「道長が家より帝(みかど)・后たち給(たま)ふべき物(もの)ならば、この矢あたれ」と仰(おほ)せらるるに、同じ物(もの)を中心にはあたる物(もの)かは。次に、帥殿射給(たま)ふに、いみじう臆(おく)し給(たま)ひて、御手もわななく故にや、的のあたりにだに近くよらず、無辺世界を射給(たま)へるに、関白(くわんばく)殿、色青くなりぬ。また、入道(にふだう)殿(どの)射給(たま)ふとて、「摂政・関白(くわんばく)すべき物(もの)ならば、この矢あたれ」と仰(おほ)せらるるに、始(はじ)めの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させ給(たま)ひつ。饗応し、もてはやしきこえさせ給(たま)ひつる興(きよう)もさめて、こと苦うなりぬ。父大臣、帥殿に、「なにか射る。な射そ、な射そ」と制し給(たま)ひて、ことさめにけり。
入道(にふだう)殿(どの)、矢もどして、やがて出(い)でさせ給(たま)ひぬ。その折は左京大夫(さきやうのだいぶ)とぞ申(まう)しし。弓をいみじう射させ給(たま)ひしなり。また、いみじう好ませ給(たま)ひしなり。
今日に見ゆべきことならねど、人の御さまの、いひ出(い)で給(たま)ふことのおもむきより、かたへは臆せられ給(たま)ふなむめり。 
【現代語訳】
(世継)「帥殿(伊周公)が、(父道隆公の二条邸の)南の院で、人々を集めて弓の競射をなさった時に、この殿(道長公)がおいでになったので、思いがけないことで不思議なことだと、中の関白殿(道隆公)は驚きなさってたいそう機嫌をとって調子を合わせ申し上げなさって、(道長公は伊周公より)官位が低くていらっしゃったが、先にお立て申し上げて、最初に射させ申し上げなさったところ、帥殿の(当たり)矢の数がもう二本劣りなさった。中の関白殿も、また、御前に伺候している人々も、『もう二回延長なさいませ』と申し上げて、延長なさいましたので、(道長公は)不愉快におなりになって、『それなら、延長なさい』とおっしゃって、また射なさろうとして、『道長の家から帝や后がお立ちになるはずのものならば、この矢よ当たれ』とおっしゃったところ、同じ当たるという中でも何と真ん中に当たったではないか。次に、帥殿が、射なさいましたが、ひどく気おくれなさって、お手も震えたせいだろうか、的のそばにさえ近寄らず、とんでもないそっぽを射なさったので、関白殿は顔色が青くなってしまった。再び入道殿(道長公)が射なさろうとして、『(この自分が)摂政や関白になるはずのものならば、この矢よ当たれ』とおっしゃったところ、初めの矢と同じように、的が割れるほど、同じ所に射当てなさいました。(道長公の)ご機嫌を取ってもてなし申し上げなさっていた興も冷めて、気まずくなってしまった。父大臣(道隆公)は、帥殿に、『どうして射るのか。射るな、射るな』とお止めになって、(座が)しらけてしまった」。
入道殿は、矢を返して、すぐにお帰りになってしまった。その当時は、(道長公は)左京の大夫と申し上げました。弓をたいそう上手にお引きになったのです。また、たいそうお好きでもあったのです。(道長公のお言葉は)今日(ただちに)実現するはずのことでもありませんが、道長公のお人柄や、おっしゃったことの(強い)調子から、片一方の人(伊周公)はつい気おくれなさったのだとおもわれます。
【解説】
関白道隆邸の南院で「弓の競射」が行われた時、道長が左京の大夫であったとされているが、そのどちらもが事実とすれば、弓の競射は、道長が二十二歳、伊周が十四歳の時であったということになる。二人の年齢の差から見て勝負になるはずはないのに、あえてこうした話題を「道長伝」に取り入れたのは、若き日の道長の気概の大きさを述べようとしたからであろう。おそらく道長の権勢が確立された後の作り話であろうが、強運を自らの力で引き寄せてしまう道長の面目が躍如としている逸話である。
まず、話の冒頭で舞台となった場所と登場人物が劇的に紹介される。時の権力者、関白道隆にとっては自分の弟とはいえ、仇敵にも近い道長の突然の来訪に驚き、「思ひがけず、あやし」と感じつつも、「いみじう饗応し」「下揩ノおはしませど、前に立て」と競射をおこなったというのである。こうして気を遣ったにもかかわらず、最初の勝負は道長が勝利した。道隆は強引に二回ほど延長させたが、結局は伊周の惨めな敗北に終わってしまった。この勝負の際の「道長が家より帝・后立ち給ふべきものならば、この矢当たれ」「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ」という道長の祈念の言葉は、まるで歌舞伎の舞台の中央で、主役が「見え」を切る場面を彷彿とさせるような劇場性を持っている。この場面は、道長の将来の栄華をはっきりと予言するものである。 
また、故(こ)女院(にようゐん)の御石山詣(いしやままうで)に、この殿は御馬にて、帥殿は車にて参(まゐ)り給(たま)ふに、さはることありて、粟田口(あはたぐち)より帰り給(たま)ふとて、院の御車(みくるま)のもとに参(まゐ)り給(たま)ひて、案内(あない)申(まう)し給(たま)ふに、御車もとどめたれば、轅(ながえ)をおさへて立ち給(たま)へるに、入道(にふだう)殿(どの)は、御馬をおしかへして、帥殿(そちどの)の御項(うなじ)のもとに、いと近ううち寄せさせ給(たま)ひて、「とく仕(つか)うまつれ。日の暮れぬるに」と仰(おほ)せられければ、あやしく思(おぼ)されて見返り給(たま)へれど、おどろきたる御けしきもなく、とみにも退(の)かせ給(たま)はで、「日暮れぬ。とくとく」とそそのかせ給(たま)ふを、いみじうやすからず思(おぼ)せど、いかがはせさせ給(たま)はむ、やはら立ち退かせ給(たま)ひにけり。父大臣(おとど)にも申(まう)し給(たま)ひければ、「大臣(だいじん)軽(かろ)むる人のよき様(やう)なし」と宣(のたま)はせける。
三月巳(み)の日(ひ)の祓(はらへ)に、やがて造遥(せうえう)し給(たま)ふとて、帥殿、河原(かはら)にさるべき人々あまた具(ぐ)して出(い)でさせ給(たま)へり。平張(ひらばり)どもあまたうちわたしたる御座(おは)し所(どころ)に、入道(にふだう)殿(どの)も出(い)でさせ給(たま)へる、御車を近くやれば、「便(びん)なきこと。かくなせそ。やりのけよ」と仰(おほ)せられけるを、なにがし丸(まろ)といひし御車副(みくるまぞひ)の、「何事(なにごと)宣(のたま)ふ殿(との)にかあらむ。かくきこし給(たま)へれば、この殿は不運には御座(おは)するぞかし。わざはひや、わざはひや」とて、いたく御車牛(みくるまうし)をうちて、いま少し平張のもと近くこそ、つかうまつり寄せたりけれ。「辛(から)うもこの男(をとこ)にいはれぬるかな」とぞ仰(おほ)せられける。さて、その御車副をば、いみじうらうたくせさせ給(たま)ひ、御かへりみありしは。斯様(かやう)のことにて、この殿たちの御中(なか)いとあしかりき。
女院(にようゐん)は、入道(にふだう)殿(どの)をとりわき奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、いみじう思(おも)ひまうさせ給(たま)へりしかば、帥殿はうとうとしくもてなさせ給(たま)へりけり。帝(みかど)、皇后宮(くわうごうぐう)をねんごろにときめかさせ給(たま)ふゆかりに、帥殿はあけくれ御前(おまへ)に候(さぶら)はせ給(たま)ひて、入道(にふだう)殿(どの)をばさらにも申(まう)さず、女院をもよからず、ことにふれて申(まう)させ給(たま)ふを、おのづから心得(こころえ)やせさせ給(たま)ひけむ、いと本意(ほい)なきことに思(おぼ)し召(め)しける、ことわりなりな。入道(にふだう)殿(どの)の世をしらせ給(たま)はむことを、帝(みかど)いみじうしぶらせ給(たま)ひけり。皇后宮(くわうごうぐう)、父大臣御座(おは)しまさで、世の中をひきかはらせ給(たま)はむことを、いと心ぐるしう思(おぼ)し召(め)して、粟田殿(あはたどの)にも、とみにやは宣旨(せんじ)下させ給(たま)ひし。されど、女院の道理(だうり)のままの御ことを思(おぼ)し召(め)し、また帥殿をばよからず思(おも)ひきこえさせ給(たま)うければ、入道(にふだう)殿(どの)の御ことを、いみじうしぶらせ給(たま)ひけれど、「いかでかくは思(おぼ)し召(め)し仰(おほ)せらるるぞ。大臣越えられたることだに、いといとほしく侍(はべ)りしに、父大臣(おとど)のあながちにし侍(はべ)りしことなれば、いなびさせ給(たま)はずなりにしこそ侍(はべ)れ。粟田(あはた)の大臣(おとど)にはせさせ給(たま)ひて、これにしも侍(はべ)らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむ、いと便(びん)なく、世の人もいひなし侍(はべ)らむ」など、いみじう奏(そう)せさせ給(たま)ひければ、むつかしうや思(おぼ)し召(め)しけむ、後(のち)にはわたらせ給(たま)はざりけり。されば、上(うへ)の御局(みつぼね)にのぼらせ給(たま)ひて、「こなたへ」とは申(まう)させ給(たま)はで、我(われ)、夜(よる)の御殿(おとど)に入らせ給(たま)ひて、泣く泣く申(まう)させ給(たま)ふ。その日は、入道(にふだう)殿(どの)は上の御局に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。いとひさしく出(い)でさせ給(たま)はねば、御胸つぶれさせ給(たま)ひけるほどに、とばかりありて、戸をおしあけて出(い)でさせ給(たま)ひける、御顔は赤み濡(ぬ)れつやめかせ給(たま)ひながら、御口はこころよく笑(ゑ)ませ給(たま)ひて、「あはや、宣旨下りぬ」とこそ申(まう)させ給(たま)ひけれ。いささかのことだに、この世ならず侍(はべ)るなれば、いはむや、かばかりの御有様(ありさま)は、人の、ともかくも思(おぼ)しおかむによらせ給(たま)ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思(おも)ひまうさせ給(たま)はまし。そのなかにも、道理(だうり)すぎてこそは報(はう)じ奉(たてまつ)り仕(つか)うまつらせ給(たま)ひしか。御骨(こつ)をさへこそはかけさせ給(たま)へりしか。
中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)・粟田殿(あはたどの)うちつづき失(う)せさせ給(たま)ひて、入道(にふだう)殿(どの)に世のうつりしほどは、さも胸つぶれて、きよきよとおぼえ侍(はべ)りしわざかな。いとあがりての世は知(し)り侍(はべ)らず、翁(おきな)物(もの)覚(おぼ)えての後(のち)は、かかること候(さぶら)はぬ物(もの)をや。今の世となりては、一(いち)の人の、貞信公(ていしんこう)・小野宮殿(をののみやどの)をはなち奉(たてまつ)りて、十年と御座(おは)することの、近くは侍(はべ)らねば、この入道(にふだう)殿(どの)もいかがと思(おも)ひまうし侍(はべ)りしに、いとかかる運におされて、御兄たちはとりもあへずほろび給(たま)ひにしにこそ御座(おは)すめれ。それもまた、さるべくあるやうあることを、皆世はかかるなむめりとぞ人々思(おぼ)し召(め)すとて、有様(ありさま)を少しまた申(まう)すべきなり。 
藤原氏物語
世の中の帝(みかど)、神代(かみよ)七代(ななよ)をばさるものにて、神武(じんむ)天皇(てんわう)より始(はじ)め奉(たてまつ)りて、三十七代にあたり給(たま)ふ孝徳(かうとく)天皇(てんわう)の御代(みよ)よりこそは、さまざまの大臣定(さだ)まり給(たま)へなれ。ただしこの御時、中臣鎌子(かまこ)の連(むらじ)と申(まう)して、内大臣になり始(はじ)め給(たま)ふ。その大臣は常陸国にて生れ給(たま)へりければ、三十九代にあたり給(たま)へる帝(みかど)、天智天皇(てんわう)と申(まう)す、その帝(みかど)の御時こそこの鎌足のおとどの御姓(しやう)、藤原(ふぢはら)とあらたまり給(たま)ひたる。されば世の中の藤氏の始(はじ)めには内大臣鎌足のおとどをし奉(たてまつ)る。その末々より多くの帝(みかど)・后・大臣・公卿(くぎやう)さまざまになり出(い)で給(たま)へり。
ただし、この鎌足のおとどを、この天智天皇(てんわう)いとかしこくときめかし思(おぼ)して、わが女御一人をこの大臣に譲らしめ給(たま)ひつ。その女御ただにもあらず、孕(はら)み給(たま)ひにければ、帝(みかど)の思(おぼ)し召(め)し宣(のたま)ひけるやう、この女御の孕(はら)める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子とせむと思(おぼ)して、かの大臣に仰(おほ)せられけるやう、「男ならば大臣の子とせよ。女ならば朕(わ)が子にせむ」と契らしめ給(たま)へりけるに、この御子、男にて生れ給(たま)へりければ、内大臣の御子とし給(たま)ふ。この大臣は、もとより男一人・女一人をぞ、持ち奉(たてまつ)り給(たま)へりける。この御腹に、さしつづき女二人・男二人生れ給(たま)ひぬ。その姫君、天智天皇(てんわう)の皇子、大友皇子と申(まう)ししが、太政大臣(だいじやうだいじん)の位にて、次にはやがて同じ年のうちに帝(みかど)となり給(たま)ひて、天武天皇(てんわう)と申(まう)しける帝(みかど)の女御(にようご)にて、二所ながらさしつづき御座(おは)しけり。
大臣(おとど)のもとの太郎君をば、中臣意美麿(おみまろ)とて、宰相(さいしやう)までなり給(たま)へり。天智天皇(てんわう)の御子の孕(はら)まれ給(たま)へりし、右大臣までなり給(たま)ひて、藤原(ふぢはらの)不比等(ふひと)のおとどとて御座(おは)しけり。失(う)せ給(たま)ひて後、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)へり。鎌足のおとどの三郎は宇合(うまかひ)とぞ申(まう)しける。四郎は麿(まろ)と申(まう)しき。この男君たち、皆宰相ばかりまでぞなり給(たま)へる。かくて鎌足のおとどは、天智天皇(てんわう)の御時、藤原(ふぢはら)の姓賜(たま)はり給(たま)ひし年ぞ、失(う)せさせ給(たま)ひける。内大臣の位にて、二十五年ぞ御座(おは)しましける。太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)はねど、藤氏(とうし)の出(い)で始(はじ)めのやむごとなきによりて、失(う)せさせ給(たま)へる後の御いみな、淡海公(たんかいこう)と申(まう)しけり」
この繁樹(しげき)がいふやう、「大織冠(だいしよくくわん)をば、いかでか淡海公と申(まう)さむ。大織冠は大臣の位にて二十五年、御年五十六にてなむかくれ御座(おは)しましける。ぬしののたぶことも、天の川をかき流すやうに侍(はべ)れど、折々かかる僻事のまじりたる。されども、誰かまた、かうは語らむな。仏在世(ざいせ)の浄名居士(じやうみやうこじ)とおぼえ給(たま)ふ物(もの)かな」といへば、世継がいはく、
「昔、唐国に、孔子(くじ)と申(まう)す物(もの)知(し)り、宣(のたま)ひけるやう侍(はべ)り。
「智者(ちさ)は千のおもひはかり、かならず一つあやまちあり」とあれば、世継、年百歳(ももとせ)に多くあまり、二百歳にたらぬほどにて、かくまでは問(と)はず語り申(まう)すは、昔の人にも劣らざりけるにやあらむ、となむおぼゆる」といへば、繁樹、「しかしか。誠(まこと)に申(まう)すべき方なくこそ興(きよう)あり、おもしろくおぼえ侍(はべ)れ」とて、かつは涙をおしのごひなむ感ずる、誠(まこと)にいひてもあまりにぞおぼゆるや。
《世継》「御子の右大臣不比等(ふひと)のおとど、実は天智天皇(てんわう)の御子なり。されど、鎌足のおとどの二郎になり給(たま)へり。この不比等のおとどの御名より始(はじ)め、なべてならず御座(おは)しましけり。「ならびひとしからず」とつけられ給(たま)へる名にてぞ、この文字は侍(はべ)りける。この不比等のおとどの御男君たち二人ぞ御座(おは)しける。太郎は武智麿(むちまろ)と聞えて、左大臣(さだいじん)までなり給(たま)へり。二郎は房前と申(まう)して、宰相までなり給(たま)へり。この不比等のおとどの御女二人御座(おは)しけり。一所は、聖武天皇(てんわう)の御母后、光明皇后と申(まう)しける。いま一所の御女は、聖武天皇(てんわう)の女御にて、女親王(ひめみこ)をぞうみ奉(たてまつ)り給(たま)へりける。女御子(をんなみこ)を、聖武天皇(てんわう)、女帝(ひめみかど)にすゑ奉(たてまつ)り給(たま)ひてけり。この女帝をば、高野(たかの)の女帝と申(まう)しけり。二度位につかせ給(たま)ひたりける。
さて、不比等のおとどの男子二人、また御弟二人とを、四家となづけて、皆門わかち給(たま)へりけり。その武智麿をば南家となづけ、二郎房前(ふささき)をば北家となづけ、御はらからの宇合の式部卿(しきぶきやう)をば式家となづけ、その弟の麿をば京家となづけ給(たま)ひて、これを、藤氏の四家とはなづけられたるなりけり。この四家よりあまたのさまざまの国王・大臣・公卿多く出(い)で給(たま)ひて栄え御座(おは)します。しかあれど、北家の末、今に枝ひろごり給(たま)へり。その御つづきを、また一筋(ひとすぢ)に申(まう)すべきなり。絶えにたる方をば申(まう)さじ。人ならぬほどのものどもは、その御末にもや侍(はべ)らむ。
この鎌足のおとどよりの次々、今の関白(くわんばく)殿(どの)まで十三代にやならせ給(たま)ひぬらむ。その次第を聞し召(め)せ。藤氏と申(まう)せば、ただ藤原(ふぢはら)をばさいふなりとぞ、人は思(おぼ)さるらむ。さはあれど、本末知(し)ることは、いとありがたきことなり。 
一、内大臣鎌足のおとど、藤氏の姓賜(たま)はり給(たま)ひての年の十月十六日に失(う)せさせ給(たま)ひぬ、御年五十六。大臣の位にて二十五年。この姓の出(い)でくるを聞(き)きて、紀氏(きのうぢ)の人のいひける、「藤かかりぬる木は枯れぬる物(もの)なり。いまぞ紀氏は失(う)せなむずる」とぞ宣(のたま)ひけるに、誠(まこと)にこそしか侍(はべ)れ。この鎌足のおとどの病づき給(たま)へるに、昔この国に仏法(ぶつぽふ)ひろまらず、僧などたはやすく侍(はべ)らずやありけむ、聖徳太子伝へ給(たま)ふといへども、この頃だに、生れたる児も法華経(ほけきやう)を読むと申(まう)せど、まだ読まぬも侍(はべ)るぞかし、百済(くだらの)国よりわたりたりける尼して、維摩経供養(ゆいまきやうくやう)じ給(たま)へりけるに、御心地ひとたびにおこたりて侍(はべ)りければ、その経をいみじき物(もの)にし給(たま)ひけるままに、維摩会(ゆいまゑ)は侍(はべ)るなり。
一、鎌足のおとどの二郎、左大臣(さだいじん)正二位不比等、大臣の位にて十三年。贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)にならせ給(たま)へり。元明(げんめい)天皇(てんわう)・元正(げんしやう)天皇(てんわう)の御時二代。
一、不比等のおとどの二郎、房前、宰相にて二十年。大炊(おほひ)天皇(てんわう)の御時、天平宝字(てんぴやうはうじ)四年庚子八月七日、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ふ。元正天皇(てんわう)・聖武天皇(てんわう)二代。
一、房前のおとどの四男、真楯(またて)の大納言(だいなごん)、称徳天皇(てんわう)の御時、天平神護二年三月十六日、失(う)せ給(たま)ひぬ、御年五十二。贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)。公卿にて七年。
一、真楯の大納言(だいなごん)の御二郎、右大臣従二位左近大将内麿のおとど、御年五十七。公卿にて二十年、大臣の位にて七年。
贈(ぞう)従一位左大臣(さだいじん)。桓武天皇(てんわう)・平城(へいぜう)天皇(てんわう)二代に会(あ)ひ給(たま)へり。
一、内麿のおとどの御三郎、冬嗣のおとどは、左大臣(さだいじん)までなり給(たま)へり。贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)。この殿より次、さまざまあかしたればこまかに申(まう)さじ。
鎌足(かまたり)の御代(みよ)より栄えひろごり給(たま)へる、御末々(すゑずゑ)やうやう失(う)せ給(たま)ひて、この冬嗣のほどは無下(むげ)に心ぼそくなり給(たま)へりし。その時は、源氏(げんじ)のみぞ、さまざま大臣・公卿にて御座(おは)せし。それに、この大臣なむ南円堂を建てて、丈六(ぢやうろく)の不空羂索観音(ふくうくゑんじやくくわんおん)を据(す)ゑ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。
さて、やがて不空羂索経一千巻供養(くやう)じ給(たま)へり。今にその経ありつつ、藤氏(とうし)の人々とりて守りにし会(あ)ひ給(たま)へり。その仏経(ぶつきやう)の力にこそ侍(はべ)るめれ、また栄えて、帝(みかど)の御後見(うしろみ)今に絶えず、末々(すゑずゑ)せさせ給(たま)ふめるは。その供養の日ぞかし、こと姓(しやう)の上達部(かんだちめ)あまた、日のうちに失(う)せ給(たま)ひにければ、誠(まこと)にや、人々申(まう)すめり。
一、冬嗣(ふゆつぐ)のおとどの御太郎、長良(ながら)の中納言は、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)。
一、長良のおとどの御三郎、基経(もとつね)のおとどは、太政大臣(だいじやうだいじん)までなり給(たま)へり。
一、基経のおとどの御四郎、忠平(ただひら)のおとどは、太政大臣(だいじやうだいじん)までなり給(たま)へり。
一、忠平のおとどの御二郎、師輔(もろすけ)のおとどは、右大臣までなり給(たま)へり。
一、師輔のおとどの御三郎、兼家(かねいへ)のおとど、太政大臣(だいじやうだいじん)まで。
一、兼家のおとどの御五郎、道長(みちなが)のおとど、太政大臣(だいじやうだいじん)まで。
一、道長のおとどの御太郎、ただいまの関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)頼通のおとど、これに御座(おは)します。
この殿(との)の御子(みこ)の、今まで御座(おは)しまさざりつるこそ、いと不便(ふびん)に侍(はべ)りつるを、この若君(わかぎみ)の生れ給(たま)ひつる、いとかしこきことなり。母は申(まう)さぬことなれど、これはいとやむごとなくさへ御座(おは)するこそ。故(こ)左兵衛督(さひやうゑのかみ)は、人柄こそ、いとしも思(おも)はれ給(たま)はざりしかど、もとの貴人(あてびと)に御座(おは)するに、また、かく世をひびかす御孫(むまご)の出(い)で御座(おは)しましたる、なき後にもいとよし。七夜(しちや)のことは、入道(にふだう)殿(どの)せさせ給(たま)へるに、つかはしける歌、
年を経て待ちつる松の若枝にうれしくあへる春のみどりご 
帝(みかど)・東宮(とうぐう)をはなち奉(たてまつ)りては、これこそ孫(むまご)の長(をさ)とて、やがて御童名(わらはな)を長君(をさぎみ)とつけ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。この四家(しけ)の君(きみ)たち、昔も今もあまた御座(おは)しますなかに、道絶えずすぐれ給(たま)へるは、かくなり。
その鎌足(かまたり)のおとど生まれ給(たま)へるは、常陸国(ひたちのくに)なれば、かしこに鹿島(かしま)といふ所に、氏(うじ)の御神を住ましめ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、その御代(みよ)より今にいたるまで、あたらしき帝(みかど)・后(きさき)・大臣たち給(たま)ふ折は、幣(みてぐら)の使(つかひ)かならずたつ。帝(みかど)、奈良に御座(おは)しましし時に、鹿島遠しとて、大和国三笠山(やまとのくにみかさやま)にふり奉(たてまつ)りて、春日明神(かすがみやうじん)となづけ奉(たてまつ)りて、今に藤氏(とうし)の御氏神(うぢがみ)にて、公家(おほやけ)、男(をとこ)・女使(をんなづかひ)たてさせ給(たま)ひ、后(きさい)の宮(みや)・氏(うぢ)の大臣(おとど)・公卿、皆、この明神(みやうじん)に仕(つか)うまつり給(たま)ひて、二月(きさらぎ)・十一月(しもつき)上(かみ)の申(さる)の日、御祭にてなむ、さまざまの使たちののしる。帝(みかど)、この京に遷(うつ)らしめ給(たま)ひては、また近くふり奉(たてまつ)りて、大原野(おほはらの)と申(まう)す。
二月の初卯(はつう)の日・霜月の初子(はつね)の日と定(さだ)めて、年(とし)に二度の御祭あり。また同じく公家の使たつ。藤氏(とうし)の殿(との)ばら、皆、この御神に御幣(みてぐら)・十列(とをつら)奉(たてまつ)り給(たま)ふ。なほし近くとて、またふり奉(たてまつ)りて、吉田(よしだ)と申(まう)して御座(おは)しますめり。この吉田の明神(みやうじん)は、山陰(やまかげ)の中納言のふり奉(たてまつ)り給(たま)へるぞかし。御祭の日、四月(うづき)下(しも)の子(ね)・十一月(しもつき)下(しも)の申(さる)の日とを定めて、「わが御族(ぞう)に、帝(みかど)・后(きさい)の宮(みや)たち給(たま)ふ物(もの)ならば、公(おほやけ)祭(まつり)になさむ」と誓(ちか)ひ奉(たてまつ)り給(たま)へれば、一条院の御時より、公祭にはなりたるなり。
また、鎌足のおとどの御氏寺(うぢでら)、大和国多武峯(たむのみね)に造(つく)らしめ給(たま)ひて、そこに御骨を納め奉(たてまつ)りて、今に三昧行ひ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。不比等のおとどは、山階寺を建立(こんりふ)せしめ給(たま)へり。それにより、かの寺に藤氏を祈りまうすに、この寺ならびに多武峯・春日・大原野・吉田に、例にたがひ、あやしきこと出(い)できぬれば、御寺の僧・禰宜等(ねぎら)など公家に奏し申(まう)して、その時に、藤氏(とうし)の長者殿占はしめ給(たま)ふに、御慎みあるべきは、年のあたり給(たま)ふ殿ばらたちの御もとに、御物忌(ものいみ)を書きて、一の所より配らしめ給(たま)ふ。おほよそ、かの寺より始(はじ)まりて、年に二三度、会を行はる。正月八日より十四日まで、八省(はつしやう)にて、奈良方の僧を講師(こうじ)とて、御斎会行はしむ。公家より始(はじ)め、藤氏の殿ばら、皆加供し給(たま)ふ。
また、三月十七日より始(はじ)めて、薬師寺にて最勝会七日、また山階寺にて十月十日より維摩会七日。皆これらのたびに、勅使(ちよくし)下向(げかう)して衾(ふすま)つかはす。藤氏の殿ばらより五位まで奉(たてまつ)り給(たま)ふ。南京(なんきやう)の法師、三会(さんゑ)講師しつれば、已講(いこう)と名づけて、その次第をつくりて、律師、僧綱になる。かかれば、かの御寺、いかめしうやむごとなき所なり。いみじき非道のことも、山階寺にかかりぬれば、またともかくも、人物(もの)いはず、「山階道理(やましなだうり)」とつけて、おきつ。かかれば、藤氏の御有様(ありさま)たぐひなくめでたし。
同じことの様(やう)なれども、またつづきを申(まう)すべきなり。后(きさい)の宮(みや)の御父・帝(みかど)の御祖父(おほじ)となり給(たま)へるたぐひをこそは、あかし申(まう)さめ」とて、
「一、内大臣鎌足のおとどの御女二人、やがて皆天武天皇(てんわう)に奉(たてまつ)り給(たま)へりけり。男・女親王(をんなみこ)たち御座(おは)しましけれど、帝(みかど)・春宮(とうぐう)たたせ給(たま)はざめり。
一、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)不比等のおとどの御女二所、一人の御女は、文武(もんむ)天皇(てんわう)の御時の女御(にようご)、親王(みこ)生れ給(たま)へり。それを聖武天皇(てんわう)と申(まう)す。御母をば光明(こうみやう)皇后と申(まう)しき。いま一人の御女は、やがて御甥(おひ)の聖武天皇(てんわう)に奉(たてまつ)りて、女親王(をんなみこ)うみ奉(たてまつ)り給(たま)へるを、女帝(ひめみかど)にたて奉(たてまつ)り給(たま)へるなり。高野(たかの)の女帝と申(まう)す、これなり。四十六代にあたり給(たま)ふ。それおり給(たま)へるに、また帝(みかど)一人を隔て奉(たてまつ)りて、また四十八代にかへりゐ給(たま)へるなり。母后を贈(ぞう)皇后と申(まう)す。しかれば不比等のおとどの御女、二人ながら后にましますめれど、高野の女帝の御母后は、贈后(ぞうこう)と申(まう)したるにて、御座(おは)しまさぬ世に、后(きさい)の宮(みや)にゐ給(たま)へると見えたり。かるが故に、不比等のおとどは、光明皇后、また贈后(ぞうこう)の父、聖武天皇(てんわう)ならびに高野の女帝の御祖父。或(ある)本(ほん)にまた、「高野の女帝の母后、生(い)き給(たま)へる世に后にたち給(たま)ひて、その御名を光明皇后と申(まう)す」とあり。聖武の御母も、御座(おは)します世に、后となり給(たま)ひて、贈后(ぞうこう)と見え給(たま)はず。
一、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)冬嗣(ふゆつぎ)のおとどは、太皇太后順子(じゆんし)の御父、文徳(もんとく)天皇(てんわう)の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)良房のおとどは、皇太后宮(くわうたいごうぐう)明子(あきらけいこ)の御父、清和(せいわ)天皇(てんわう)の御祖父。
一、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)長良のおとどは、皇太后高子(たかいこ)の御父、陽成院(やうぜうゐん)の御祖父。
一、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)総継のおとどは、贈(ぞう)皇太后沢子の御父、光孝天皇(てんわう)の御祖父。
一、内大臣高藤(たかふぢ)のおとどは、皇太后胤子の御父、醍醐(だいご)天皇(てんわう)の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)基経のおとどは、皇后宮(くわうごうぐう)穏子の御父、朱雀・村上二代の御祖父。
一、右大臣師輔のおとどは、皇后安子の御父、冷泉院ならびに円融院の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)伊尹(これまさ)のおとどは、贈(ぞう)皇后懐子(くわいし)の御父、花山院の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)兼家のおとどは、皇太后宮(くわうたいごうぐう)詮子(せんし)、また贈后(ぞうこう)超子(てうし)の御父、一条院・三条院の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)道長のおとどは、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)彰子(しやうし)・皇太后宮(くわうたいごうぐう)妍子(けんし)・中宮(ちゆうぐう)威子(ゐし)・東宮(とうぐう)の御息所(みやすどころ)の御父、当代ならびに春宮(とうぐう)の御祖父に御座(おは)します。ここらの御中に、后三人並べすゑて見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふことは、入道(にふだう)殿下(でんか)よりほかに聞えさせ給(たま)はざんめり。関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)・内大臣・大納言(だいなごん)二人・中納言の御親にて御座(おは)します。さりや、聞し召(め)しあつめよ。日本国には唯一無二(ゆいいつむに)に御座(おは)します。 
まづは、造(つく)らしめ給(たま)へる御堂(みだう)などの有様(ありさま)、鎌足のおとどの多武峯(たむのみね)・不比等(ふひと)のおとどの山階寺・基経のおとどの極楽寺(ごくらくじ)・忠平(ただひら)のおとどの法性寺(ほふしやうじ)・九条殿の楞厳院(れうごんゐん)・天(あめ)のみかどの造り給(たま)へる東大寺も、仏ばかりこそは大きに御座(おは)すめれど、なほこの無量寿院(むりやうじゆゐん)には並び給(たま)はず。まして、こと御寺御寺はいふべきならず。大安寺は、兜率天(とそつてん)の一院を天竺(てんぢく)の祇園精舎(ぎをんしやうじや)にうつし造り、天竺の祇園精舎を唐(もろこし)の西明寺にうつし造り、唐(もろこし)の西明寺(さいみやうじ)の一院を、この国の帝(みかど)は、大安寺にうつさしめ給(たま)へるなり。しかあれども、ただいまはなほこの無量寿院まさり給(たま)へり。南京のそこばくの多かる寺ども、なほあたり給(たま)ふなし。恒徳公(こうとくこう)の法住寺(ほふぢゆうじ)いと猛(まう)なれど、なほこの無量寿院すぐれ給(たま)へり。難波(なには)の天王寺(てんわうじ)など、聖徳太子の御心に入れ造り給(たま)へれど、なほこの無量寿院まさり給(たま)へり。奈良は七大寺・十五大寺など見くらぶるに、なほこの無量寿院いとめでたく、極楽浄土(ごくらくじやうど)のこの世にあらはれけると見えたり。かるが故に、この無量寿院も、思(おも)ふに、思(おぼ)し召(め)し願(ぐわん)ずること侍(はべ)りけむ。浄妙寺は、東三条(とうさんでう)の大臣の、大臣になり給(たま)ひて、御慶(よろこ)びに木幡(こはた)に参(まゐ)り給(たま)へりし御供に、入道(にふだう)殿(どの)具し奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて御覧(ごらん)ずるに、多くの先祖の御骨(こつ)御座(おは)するに、鐘の声聞(き)き給(たま)はぬ、いと憂きことなり、わが身思(おも)ふさまになりたらば、三昧堂(さんまいだう)建てむと、御心のうちに思(おぼ)し召(め)し企(くはだ)てたりける、とこそ承(うけたまは)れ。
昔も、かかりけること多く侍(はべ)りけるなかに、極楽寺(ごくらくじ)・法性寺(ほふしやうじ)ぞいみじく侍(はべ)るや。御年なんどもおとなびさせ給(たま)はぬにだにも思(おぼ)し召(め)しよるらむほど、なべてならずおぼえ侍(はべ)るに、いづれの御時とはたしかにえ聞(き)き侍(はべ)らず、ただ深草(ふかくさ)の御ほどにやなどぞ思(おも)ひやり侍(はべ)る。芹河(せりかは)の行幸(みゆき)せしめ給(たま)ひけるに、昭宣公童殿上(せうせんこうわらはてんじやう)にて仕(つか)うまつらせ給(たま)へりけるに、帝(みかど)、琴(きん)をあそばしける。この琴弾(ひ)く人は、別(べち)の爪(つめ)つくりて、指にさし入れてぞ、弾くことにて侍(はべ)りし。さて持たせ給(たま)ひたりけるを、落し御座(おは)しまして、大事に思(おぼ)し召(め)しけれど、またつくらせ給(たま)ふべきやうもなかりければ、さるべきにてぞ思(おぼ)し召(め)しよりけむ、おとなしき人々にも仰(おほ)せられずて、幼く御座(おは)します君にしも、「求めて参(まゐ)れ」と仰(おほ)せられければ、御馬をうち返して御座(おは)しましけれど、いづくをはかりともいかでかは尋ねさせ給(たま)はむ。見つけて参(まゐ)らせざらむことのいといみじく思(おぼ)し召(め)しければ、これ求め出(い)でたらむ所には一伽藍(がらん)を建てむと、願(ぐわん)じ思(おぼ)して、求め給(たま)ひけるに、出(い)できたる所ぞかし、極楽寺は。幼き御心(みこころ)に、いかでか思(おぼ)し召(め)しよらせ給(たま)ひけむ。さるべきにて御爪も落ち、幼く御座(おは)します人にも仰(おほ)せられけるにこそは侍(はべ)りけめ。
さて、やむごとなくならせ給(たま)ひて、御堂(みだう)建てさせに御座(おは)します御車(みくるま)に、貞信公(ていしんこう)はいと小さくて具(ぐ)し奉(たてまつ)り給(たま)へりけるに、法性寺の前わたり給(たま)ふとて、「父こそ。こここそ、よき堂所(だうどころ)なむめれ。ここに建てさせ給(たま)へかし」と聞えさせ給(たま)ひけるに、いかに見てかくいふらむと思(おぼ)して、さし出(い)でて御覧(ごらん)ずれば、誠(まこと)にいとよく見えければ、幼き目にいかでかく見つらむ、さるべきにこそあらめと、思(おぼ)し召(め)して、「げにいとよき所なめり。汝(まし)が堂を建てよ。われはしかじかのことのありしかば、そこに建てむずるぞ」と申(まう)させ給(たま)ひける。さて法性寺は建てさせ給(たま)ひしなり」。
《繁樹》「また、九条殿(くでうどの)の飯室(いひむろ)のことなどはいかにぞ。横川(よかは)の大僧正(だいそうじやう)、御房(ごばう)にのぼらせ給(たま)ひし御供には、繁樹参(まゐ)りて侍(はべ)りき」
《世継》「斯様(かやう)のことども聞(き)き見給(たま)ふれど、なほ、この入道(にふだう)殿(どの)、世にすぐれ抜け出(い)でさせ給(たま)へり。天地にうけられさせ給(たま)へるは、この殿こそは御座(おは)しませ。何事も行はせ給(たま)ふ折に、いみじき大風吹き、長雨(ながあめ)降れども、まづ二三日かねて、空晴れ、土乾(かわ)くめり。かかれば、あるいは聖徳太子の生れ給(たま)へると申(まう)し、あるいは弘法大師(こうぼふだいし)の仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりゆう)のために生れ給(たま)へるとも申(まう)すめり。げにそれは、翁らがさがな目にも、ただ人とは見えさせ給(たま)はざめり。なほ権者(ごんじや)にこそ御座(おは)しますべかめれとなむ、仰(あふ)ぎ見奉(たてまつ)る。
かかれば、この御世(みよ)の楽しきことかぎりなし。そのゆゑは、昔は、殿ばら・宮(みや)ばらの馬飼(うまかひ)・牛飼(うしかひ)、なにの御霊会・祭の料とて、銭・紙・米など乞ひののしりて、野山の草をだにやは刈らせし。仕丁(じちやう)・おものもち出(い)できて、人の物(もの)取り奪ふこと絶えにたり。また、里の刀禰(とね)・村の行事(ぎやうじ)出(い)できて、火祭やなにやと煩(わづら)はしく責めしこと、今は聞えず。かばかり安穏泰平(あんをんたいへい)なる時には会(あ)ひなむやと思(おも)ふは。翁らがいやしき宿りも、帯(おび)・紐(ひも)を解(と)き、門(かど)をだに鎖(さ)さで、安らかに偃(のいふ)したれば、年も若え、命も延びたるぞかし。まづは、北野(きたの)・賀茂河原(かもがはら)に作りたる、まめ・ささげ・うり・なすびといふ物(もの)、この中頃は、さらに術(ずち)なかりし物(もの)をや。この年頃は、いとこそたのしけれ。人の取らぬをばさるものにて、馬・牛だにぞ食(は)まぬ。されば、ただまかせ捨てつつ置きたるぞかし。かくたのしき弥勒(みろく)の世にこそ会(あ)ひて侍(はべ)れや」といふめれば、いま一人(ひとり)の翁、
《繁樹》「ただいまは、この御堂の夫(ぶ)を頻(しきり)に召(め)すことこそは、人は堪(た)へがたげに申(まう)すめれ。それはさは聞(き)き給(たま)はぬか」
といふめれば、世継、
「しかしか、そのことぞある。二三日(ふつかみか)まぜに召(め)すぞかし。されどそれ、参(まゐ)るにあしからず。ゆゑは、極楽浄土のあらたにあらはれ出(い)で給(たま)ふべきために召(め)すなり、と思(おも)ひ侍(はべ)れば、いかで、力堪へば、参(まゐ)りて仕うまつらむ。ゆく末に、この御堂の草木となりにしかなとこそ思(おも)ひ侍(はべ)れ。されば、物(もの)の心知(し)りたらむ人は、望みても参(まゐ)るべきなり。されば、翁ら、またあらじ、一度欠(か)かず奉(たてまつ)り侍(はべ)るなり。さて参(まゐ)りたれば、あしきことやはある。飯・酒しげく賜(た)び、持ちて参(まゐ)る果物をさへ恵み賜(た)び、つねに仕うまつるものは、衣裳をさへこそ宛(あ)て行はしめ給(たま)へ。されば、参(まゐ)る下人も、いみじういそがしがりてぞ、すすみつどふめる」といへば、
《繁樹》「しか、それさることに侍(はべ)り。ただし翁らが思(おも)ひ得て侍(はべ)るやうは、いとたのもしきなり。翁いまだ世に侍(はべ)るに、衣裳破(や)れ、むつかしき目見侍(はべ)らず。また、飯(いひ)・酒(さけ)乏(とも)しき目見侍(はべ)らず。もしこのことどもの術なからむ時は、紙三枚をぞ求むべき。ゆゑは、入道(にふだう)殿下(でんか)の御前に申文(まうしぶみ)を奉(たてまつ)るべきなり。その文に作るべきやうは、「翁、故(こ)太政大臣(だいじやうだいじん)貞信公殿下の御時の小舎人童(こどねりわらは)なり。それ多くの年積りて、術なくなりて侍(はべ)り。閤下の君、末の家の子に御座(おは)しませば、同じ君と頼み仰(あふ)ぎ奉(たてまつ)る。物(もの)少し恵み賜(たま)はらむ」と申(まう)さむには、少々の物(もの)は賜(た)ばじやはと思(おも)へば、それは案の物(もの)にて、倉に置きたるごとくになむ思(おも)ひ侍(はべ)る」といへば、世継、「それはげにさることなり。家貧しくならむ折は御寺に申文を奉(たてまつ)らしめむとなむ、卑しきわらはべとうち語らひ侍(はべ)る」と、同じ心にいひかはす。
世継、「さてもさても、うれしう対面(たいめ)したるかな。年頃の袋の口あけ、綻びを裁ち侍(はべ)りぬること。さても、このののしる無量寿院には、いくたび参(まゐ)りて拝み奉(たてまつ)り給(たま)ひつ」といへば、
《繁樹》「おのれは大御堂の供養の年の会の日は、人いみじう払ふべかなりと聞(き)きしかば、試楽(しがく)といふこと、三日かねてせしめ給(たま)ひしになむ、参(まゐ)りて侍(はべ)りし」といへば、世継、「おのれば、たびたび参(まゐ)り侍(はべ)り。供養の日の有様(ありさま)のめでたさは、さらにもあらずや。またの日、今日は御仏(みほとけ)など近うて拝み奉(たてまつ)らむ、物(もの)ども取りおかれぬ先(さき)にと思(おも)ひて、参(まゐ)りて侍(はべ)りしに、宮たちの諸堂拝み奉(たてまつ)らせ給(たま)ひし、見まうし侍(はべ)りしこそ、かかることにあはむとて、今まで生(い)きたるなりけりとおぼえ侍(はべ)りしか。物(もの)覚(おぼ)えて後、さることをこそまだ見侍(はべ)らね。御輦車(てぐるま)に四所奉(たてまつ)りたりしぞかし。口に大宮・皇太后宮(くわうたいごうぐう)、御袖ばかりをいささかさし出(い)ださせ給(たま)ひて侍(はべ)りしに、枇杷(びは)殿(どの)の宮の御ぐしの、地(つち)にいと長く引かれさせ給(たま)ひて、出(い)でさせ給(たま)へりしは、いとめづらかなりしことかな。しりの方には、中宮・督(かん)の殿奉(たてまつ)りて、ただ御身ばかり御車に御座(おは)しますやうにて、御衣(おんぞ)どもは皆ながら出(い)でて、それも地(つち)までこそ引かれ侍(はべ)りしか。一品(いつぽん)の宮(みや)も中に奉(たてまつ)りたりけるにや、御衣どもは、なにがしぬしの持ちたうび、御車のしりにぞ候(さぶら)はれし。単の御衣ばかりを奉(たてまつ)りて御座(おは)しましけるなめり。御車には、まうちぎみたち引かれて、しりには関白(くわんばく)殿を始(はじ)め奉(たてまつ)り、殿ばら、さらぬ上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、御直衣(なほし)にて歩みつづかせ給(たま)へりし、いで、あないみじや。
中宮(ちゆうぐうの)権大夫殿のみぞ、堅固(けんご)の御物忌(ものいみ)にて参(まゐ)らせ給(たま)はざりし。さていみじく口惜(くちを)しがらせ給(たま)ひける。中宮の御装束(さうぞく)は、権大夫殿せさせ給(たま)へりし、いと清らにてこそ見え侍(はべ)りしか。
「供養の日、啓すべきことありて、御座(おは)します所に参(まゐ)りて、五所居並ばせ給(たま)へりしを見奉(たてまつ)りしかば、中宮(ちゆうぐう)の御衣の優に見えしはわがしたればにや」とこそ、大夫殿仰(おほ)せられけれ。かく口ばかりさかしだち侍(はべ)れど、下臈(げらふ)のつたなきことは、いづれの御衣も、ほど経ぬれば、色どものつぶと忘れ侍(はべ)りにけるよ。ことにめでたくせさせ給(たま)へりければにや、下は紅薄物(うすもの)の御単衣重(ひとえがさね)にや、御表着よくも覚(おぼ)え侍(はべ)らず。萩(はぎ)の織物(おりもの)の三重襲(みへがさね)の御唐衣に、秋の野を縫物にし、絵にもかかれたるにやとぞ、目もとどろきて見給(たま)へし。
こと宮々のも、殿ばらの調(てう)じて奉(たてまつ)らせ給(たま)へりけるとぞ、人申(まう)しし。大宮は、二重織物折り重ねられて侍(はべ)りし。皇太后宮(くわうたいごうぐう)は、そうじて唐装束(からさうぞく)。督(かん)の殿のは、殿こそせさせ給(たま)へりしか。こと御方々のも、絵かきなどせられたり、と聞(き)かせ給(たま)て、にはかに薄押(はくお)しなどせられたりければ、入道(にふだう)殿(どの)、御覧じて、「よき呪師(じゆし)の装束かな」とて、笑ひまうさせ給(たま)ひけり。
殿は、まづ御堂御堂あけつつ待ちまうさせ給(たま)ふ。南大門(なんだいもん)のほどにて見まししだに、笑(ゑ)ましくおぼえ侍(はべ)りしに、御堂(みだう)の渡殿の物(もの)のはさまより、一品(いつぽん)の宮の弁(べん)の乳母(めのと)、いま一人は、それも一品(いつぽん)の宮の大輔(たいふ)の乳母・中将(ちゆうじやう)の乳母とかや、三人とぞ承(うけたまは)りし、御車よりおりさせ給(たま)ひて、ゐざりつづかせ給(たま)へるを見奉(たてまつ)りたるぞかし。
おそろしさにわななかれしかど、今日、さばかりのことはありなむやと思(おも)ひて、見参(まゐ)らするに、などてかはとは申(まう)しながら、いづれと聞えさすべきにもなく、とりどりにめでたく御座(おは)しまさふ。大宮、御ぐし御衣の裾(すそ)にあまらせ給(たま)へり。中宮(ちゆうぐう)は、たけに少しあまらせ給(たま)へり。皇太后宮(くわうたいごうぐう)は、御衣に一尺ばかりあまらせ給(たま)へる御裾、扇のやうにぞ。督の殿、御たけに七八寸あまらせ給(たま)へり。御扇少しのけてさし隠させ給(たま)ひける。一品(いつぽん)の宮は、殿の御前、「なにか居させ給(たま)ふ。立たせ給(たま)へ」とて、長押(なげし)おりのぼらせ給(たま)ふ御手をとらへつつ、助けまうさせ給(たま)ふ。あまりなることは、目ももどろく心地なむし給(たま)ひける。あらはならずひきふたぎなど、つくろはせ給(たま)ひけるほどに、御覧じつけられたる物(もの)かは。「あないみじ。宮仕(みやづか)へに宿世(すくせ)の尽くる日なりけり」と、生ける心地もせで、三人ながら候(さぶら)ひ給(たま)ひけるほどに、「宮たち見奉(たてまつ)りつるか。いかが御座(おは)しましつる。この老法師(おいほふし)の女(むすめ)たちには、けしうはあらず御座(おは)しまさふな。なあなづられそよ」と、うち笑みて仰(おほ)せられかけて、いたうもふたがせ給(たま)はで御座(おは)しましたりしなむ、生(い)き出(い)でたる心地して、うれしなどはいふべきやうもなく、かたみに見れば、顔はそこら化粧(けさう)じたりつれど、草の葉の色のやうにて、また赤くなりなど、さまざま汗水(あせみづ)になりて見かはしたり。「さらぬ人だに、あざれたるもの覗きは、いと便なきことにするを、せめてめでたう思(おぼ)し召(め)しければ、御よろこびに堪(た)へで、さはれと思(おぼ)し召(め)しつるにこそと思(おも)ひなすも、心驕(こころおご)りなむする」と、宣(のたま)ひいまさうじける。
斯様(かやう)のことどもを見給(たま)ふるままには、いとどもこの世の栄花の御栄えのみおぼえて、染着(せんぢやく)の心のいとどますますにおこりつつ、道心(だうしん)つくべくも侍(はべ)らぬに、河内国(かはちのくに)そこそこに住むなにがしの聖人(しやうにん)は、庵(いほり)より出づることもせられねど、後世の責めを思(おも)へばとて、のぼり参(まゐ)られたりけるに、関白(くわんばく)殿参(まゐ)らせ給(たま)ひて、雑人(ざふにん)どもを払ひののしるに、これこそは一の人に御座(おは)すめれと見奉(たてまつ)るに、入道(にふだう)殿(どの)の御前に居させ給(たま)へば、なほまさらせ給(たま)ふなりけりと見奉(たてまつ)るほどに、また行幸なりて、乱声(らんじやう)し、待ちうけ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふさま、御輿(みこし)の入らせ給(たま)ふほどなど、見奉(たてまつ)りつる殿たちの、かしこまりまうさせ給(たま)へば、なほ国王こそ日本第一のことなりけれと思(おも)ふに、おり御座(おは)しまして、阿弥陀堂(あみだだう)の中尊(ちゆうそん)の御前につい居(ゐ)させ給(たま)ひて、拝(をが)みまうさせ給(たま)ひしに、「なほなほ仏こそ上なく御座(おは)しましけれと、この会(ゑ)の庭にかしこう結縁(けちえん)しまうして、道心なむいとど熟し侍(はべ)りぬる」とこそ申(まう)され侍(はべ)りしか。かたはらに居られたりしなりや、まこと、忘れ侍(はべ)りにけり。
世の中の人の申(まう)すやう、「大宮(おほみや)の入道(にふだう)せしめ給(たま)ひて、太上(だいじやう)天皇(てんわう)の御位にならせ給(たま)ひて、女院(にようゐん)となむ申(まう)すべき。この御寺(みてら)に戒壇(かいだん)たてられて、御受戒あるべかなれば、世の中の尼(あま)ども参(まゐ)りて受くべかむなり」とて、よろこびをこそすなれ。この世継(よつぎ)が女(をんな)ども、かかることを伝へ聞(き)きて、申(まう)すやう、「おのれを、その折にだに、白髪(しらが)の裾(すそ)そぎてむとなむ。なにか制(せい)する」と語らひ侍(はべ)れば、「なにせむにか制せむ。ただし、さらむ後(のち)には、若からむ女(め)のわらはべ求めて得さすばかりぞ」といひ侍(はべ)れば、「わが姪(めひ)なる女(をんな)一人あり。それを今よりいひ語らはむ。いとさし離れたらむも、情(なさけ)なきこともぞある」と申(まう)せば、「それあるまじきことなり。近くも遠くも、身のためにおろかならむ人を、いまさらに寄すべきかは」となむ語らひ侍(はべ)る。やうやう裳(も)・袈裟(けさ)などのまうけに、よき絹(きぬ)一二疋(ひき)求めまうけ侍(はべ)る」
などいひて、さすがにいかにぞや、物(もの)あはれげなるけしきの出(い)できたるは、女(をんな)どもにそむかれむことの心ぼそきにやとぞ見え侍(はべ)りし。
《世継》「さて、今年こそ天変(てんぺん)頻(しきり)にし、世の妖言(えうげん)などよからず聞(きこ)え侍(はべ)るめれ。督(かん)の殿(との)のかく懐妊(くわいにん)せしめ給(たま)ふ、院の女御殿の常の御悩(なやみ)のなかにも、今年となりては、ひまなく御座(おは)しますなるなどこそ、おそろしう承(うけたまは)れ。いでや、かうやうのことをうちつづけ申(まう)せば、昔のことこそただいまのやうにおぼえ侍(はべ)れ」
見かはして、繁樹(しげき)がいふやう、
「いであはれ、」かくさまざまにめでたきことども、あはれにもそこら多く見聞(き)き侍(はべ)れど、なほ、わが宝(たから)の君(きみ)に後(おく)れ奉(たてまつ)りたりしやうに、物(もの)のかなしく思う給(たま)へらるる折こそ侍(はべ)らね。八月十日あまりのことに候(さぶら)ひしかば、折さへこそあはれに、「時しもあれ」とおぼえ侍(はべ)りし物(もの)かな」とて、鼻たびたびかみて、えもいひやらず、いみじと思(おも)ひたるさま、誠(まこと)にその折もかくこそと見えたり。
「一日(ひとひ)片時(かたとき)生(い)きて世にめぐらふべき心地(ここち)もし侍(はべ)らざりしかど、かくまで候(さぶら)ふは、いよいよひろごり栄え御座(おは)しますを見奉(たてまつ)り、よろこびまうさせむとに侍(はべ)めり。さて、またの年五月二十四日こそは、冷泉院(れいぜいゐん)は誕生せしめ給(たま)へりしか。それにつけていとこそ口惜(くちを)しく、折のうれしさは、はかりも御座(おは)しまさざりしか」
などいへば、世継も、
「しか、しか」とこころよく思(おも)へるさまおろかならず。
《世継》「朱雀院(すざくゐん)・村上などのうちつづき生れ御座(おは)しまししは、またいかが」などいふほど、あまりに恐ろしくぞ。
また、「世継が思(おも)ふことこそ侍(はべ)れ。便(びん)なきことなれど、明日とも知(し)らぬ身にて侍(はべ)れば、ただ申(まう)してむ。この一品(いつぽん)の宮(みや)の御有様(ありさま)のゆかしくおぼえさせ給(たま)ふにこそ、また命惜しく侍(はべ)れ。そのゆゑは、生れ御座(おは)しまさむとて、いとかしこき夢想(むさう)見給(たま)へしなり。さおぼえ侍(はべ)りしことは、故(こ)女院(にようゐん)・この大宮(おほみや)など孕(はら)まれさせ給(たま)はむとて見えし、ただ同じさまなる夢に侍(はべ)りしなり。それにて、よろづおしはかられさせ給(たま)ふ御有様(ありさま)なり。皇太后宮(くわうたいごうぐう)にいかで啓(けい)せしめむと思(おも)ひ侍(はべ)れど、その宮の辺(ほとり)の人に、え会(あ)ひ侍(はべ)らぬが口惜(くちを)しさに、ここら集り給(たま)へる中(なか)に、もし御座(おは)しましやすらむと思う給(たま)へて、かつはかく申(まう)し侍(はべ)るぞ。ゆく末にも、よくいひける物(もの)かなと、思(おぼ)しあはすることも侍(はべ)りなむ」といひし折こそ、
《記者》「ここにあり」とて、さし出(い)でまほしかりしか。
拾遺 〔一 太政大臣(だいじやうだいじん)道長(下)雑々物語(くさぐさものがたり)〕
いといとあさましくめづらかに、尽(つ)きもせず、二人語らひしに、この侍(さぶらひ)、「いといと興(きよう)あることをも承(うけたまは)るかな。さても、物(もの)の覚(おぼ)え始(はじ)めは何事(なにごと)ぞや。それこそ、まづ聞(き)かまほしけれ。語られよ」といへば、世継(よつぎ)、「六七歳より見聞(き)き侍(はべ)りしことは、いとよく覚(おぼ)え侍(はべ)れど、そのこととなきは、証(そう)のなければ、用ゐる人も候(さぶら)はじ。九つに侍(はべ)りし時の大事(だいじ)を申(まう)し侍(はべ)らむ。
小松(こまつ)の帝(みかど)の、親王(みこ)にて御座(おは)しましし時の御所(ごしよ)は、皆人知(し)りて侍(はべ)り。おのが親の候(さぶら)ひし所、大炊御門(おほひのみかど)よりは北、町尻(まちじり)よりは西にぞ侍(はべ)りし。されば、宮の傍(かたはら)にて、つねに参(まゐ)りて遊び侍(はべ)りしかば、いと閑散(かんさん)にてこそ御座(おは)しまししか。二月(きさらぎ)の三日、初午(はつうま)といへど、甲午(きのえうま)の最吉日(さいきちにち)、常(つね)よりも世こぞりて、稲荷詣(いなりまうで)にののしりしかば、父の詣で侍(はべ)りし供にしたひ参(まゐ)りて、さは申(まう)せど、幼きほどにて、坂のこはきを登り侍(はべ)りしかば、困(こう)じて、えその日のうちに還向(げかう)つかまつらざりしかば、父がやがて、その御社の禰宜大夫(ねぎのたいふ)が後見(うしろみ)つかうまつりて、いとうるさくて候(さぶら)ひし宿(やど)りにまかりて、一夜は宿りして、またの日帰り侍(はべ)りしに、東洞院(ひがしのとうゐん)よりのぼりにまかるに、大炊御門(おほひのみかど)より西ざまに、人々のさざと走れば、あやしくて見候(さぶら)ひしかば、わが家のほどにしも、いと暗うなるまで人立ちこみて見ゆるに、いとどおどろかれて、焼亡(せうまう)かと思(おも)ひて、上を見あぐれば、煙(けぶり)も立たず。さは、大きなる追捕(ついぶ)かなど、かたがたに心もなきまでまどひまかりしかば、小野宮(をののみや)のほどにて、上達部の御車や、鞍(くら)置きたる馬ども、冠(かうぶり)・表(うへ)の衣(きぬ)着たる人々などの見え侍(はべ)りしに、心得ずあやしくて、「何事ぞ、何事ぞ」と、人ごとに問(と)ひ候(さぶら)ひしかば、「式部卿(しきぶきやう)の宮、帝(みかど)にゐさせ給(たま)ふとて、大殿(おほとの)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、皆人参(まゐ)り給(たま)ふなり」とて、急ぎまかりしなどぞ、物(もの)覚(おぼ)えたることにて見給(たま)へし。
また、七つばかりにや、元慶(ぐわんぎやう)二年ばかりにや侍(はべ)りけむ、式部卿(しきぶきやう)の宮の侍従と申(まう)ししぞ、寛平(くわんびやう)の天皇(てんわう)、つねに狩を好ませ御座(おは)しまして、十一月(しもつき)の二十余日(はつかあまり)のほどにや、鷹狩(たかがり)に、式部卿(しきぶきやう)の宮より出(い)で御座(おは)しましし御供に走り参(まゐ)りて侍(はべ)りし。賀茂(かも)の堤(つつみ)のそこそこなる所に、侍従殿、鷹使はせ給(たま)ひて、いみじう興(きよう)に入らせ給(たま)へるほどに、俄(にはか)に霧たち、世間(せけん)もかい暗がりて侍(はべ)りしに、東西(ひんがしにし)もおぼえず、暮(くれ)の往(い)ぬるにやとおぼえて、藪(やぶ)の中(なか)に倒(たふ)れ伏(ふ)して、わななきまどひ候(さぶら)ふほど、時中(ときなか)や侍(はべ)りけむ。後(のち)に承(うけたまは)れば、賀茂(かも)の明神(みやうじん)のあらはれ御座(おは)しまして、侍従殿に物(もの)申(まう)させ御座(おは)しますほどなりけり。そのことは、皆世に申(まう)しおかれて侍(はべ)るなればなかなか申(まう)さじ。知ろしめしたらむ、あはそかに申(まう)すべきに侍(はべ)らず。
さて後(のち)六年ばかりありてや、賀茂(かも)の臨時(りんじ)の祭始(はじ)まり侍(はべ)りけむ。位につかせ御座(おは)しましし年とぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る。その日、酉の日にて侍(はべ)れば、やがて霜月(しもつき)の果(は)ての酉の日にては侍(はべ)るぞ。
始(はじ)めたる東遊(あづまあそび)の歌、敏行(としゆき)の中将(ちゆうじやう)ぞかし。
ちはやぶる賀茂(かも)の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)よろづ代までも色はかはらじ 
古今(こきん)に入りて侍(はべ)り。皆人知ろしめしたることなれど、いみじうよみ給(たま)へるぬしかな。今に絶えずひろごらせ給(たま)へる御末とか。帝(みかど)と申(まう)せど、かくしもやは御座(おは)します。
八幡(やはた)の臨時の祭、朱雀院(すざくゐん)の御時よりぞかし。朱雀院(すざくゐん)生れさせ給(たま)ひて三年は、御座(おは)します殿の御格子(みかうし)も参(まゐ)らず、夜昼(よるひる)火をともして、御帳(みちやう)のうちにておほしたてたて参(まゐ)らせ給(たま)ふ、北野に怖(お)ぢまうさせ給(たま)ひて。天暦(てんりやく)の帝(みかど)は、いとさも守り奉(たてまつ)らせ給(たま)はず。いみじき折節(おりふし)に生れ御座(おは)しましたりしぞかし。朱雀院(すざくゐん)生れ御座(おは)しまさずは、藤氏の御栄え、いとかくしも侍(はべ)らざらまし。さて位につかせ給(たま)ひて、将門(まさかど)が乱(みだれ)出(い)できて、その御願にてとぞ承(うけたまは)りし。その東遊(あづまあそび)の歌、貫之(つらゆき)のぬしぞかし。
松もおひまたも苔(こけ)むす石清水(いはしみづ)ゆく末とほくつかへまつらむ 
集(しふ)にも書きて侍(はべ)るぞかし」といへば、繁樹、
「この翁も、あのぬしの申(まう)されつるがごとく、くだくだしきことは申(まう)さじ。同じことの様(やう)なれど、寛平・延喜(えんぎ)などの御譲位のほどのことなどは、いとかしこく忘れず覚(おぼ)え侍(はべ)るをや。伊勢(いせ)の君の、弘徴殿(こきでん)の壁に書きつけたうべりし歌こそは、そのかみに、あはれなることと人申(まう)ししか。
別るれど会(あ)ひも思(おも)はぬももしきを見ざらむことやなにかかなしき
法皇(ほふわう)の御返し、
身ひとつのあらぬばかりをおしなべてゆきかへりてもなどか見ざらむ
といへば、かたはらなる人、
「法皇の書かせ給(たま)へりけるを、延喜(えんぎ)の、後に御覧じつけて、かたはらに書きつけさせ給(たま)へるとも承(うけたまは)るは、いづれかまことならむ」。
《繁樹》「同じ帝(みかど)と申(まう)せど、その御時に生れ会(あ)ひて候(さぶら)ひけるは、あやしの民(たみ)の竃(かまど)まで、やむごとなくこそ。大小寒(だいせうかん)のころほひ、いみじう雪降り、冴えたる夜は、「諸国の民百姓いかに寒からむ」とて、御衣(おんぞ)をこそ、夜の御殿より投げ出(いだ)し御座(おは)しましければ、おのれまでも、恵みあはれびられ奉(たてまつ)りて侍(はべ)る身と、面立(おもだ)たしくこそは。
されば、その世に見給(たま)へしことは、なほ末までもいみじきことと覚(おぼ)え侍(はべ)るぞ。人々聞し召(め)せ。この座にて申(まう)すは、はばかりあることなれど、かつは、若く候(さぶら)ひしほど、いみじと身にしみて思う給(たま)へし罪も、今に失(う)せ侍(はべ)らじ。今日この伽藍(がらん)にて、懺悔(さんげ)つかうまつりてむとなり。
六条(ろくでう)の式部卿(しきぶきやう)の宮と申(まう)ししは、延喜(えんぎ)の帝(みかど)の一つ腹(ばら)の御はら
からに御座(おは)します。野の行幸(みゆき)せさせ給(たま)ひしに、この宮供奉(ぐぶ)せしめ給(たま)へりけれど、京のほど遅参(ちさん)せさせ給(たま)ひて、桂(かつら)の里にぞ参(まゐ)りあはせ給(たま)へりしかば、御輿とどめて、先立て奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしに、なにがしといひし犬飼(いぬかひ)の、大の前足を二つながら肩に引き越して、深き河の瀬渡りしこそ、行幸に仕うまつり給(たま)へる人々、さながら興(きよう)じ給(たま)はぬなく、帝(みかど)も、労ありげに思(おぼ)し召(め)したる御けしきにてこそ、見え御座(おは)しまししか。
さて山口(やまぐち)入らせ給(たま)ひしほどに、しらせうといひし御鷹の、鳥をとりながら、御輿の鳳(ほう)の上に飛び参(まゐ)りて居て候(さぶら)ひし、やうやう日は山の端に入りがたに、光のいみじうさして、山の紅葉(もみぢ)、錦(にしき)をはりたるやうに、鷹の色はいと白く、雉(きじ)は紺青(こんじやう)のやうにて、羽うちひろげて居て候(さぶら)ひしほどは、誠(まこと)に雪少しうち散りて、折節とり集めて、さることやは候(さぶら)ひしとよ。身にしむばかり思う給(たま)へしかば、いかに罪得侍(はべ)りけむ」とて、弾指(だんし)はたはたとす。
《繁樹》「おほかた、延喜(えんぎ)の帝(みかど)、つねに笑みてぞ御座(おは)しましける。そのゆゑは、「まめだちたる人には、物(もの)いひにくし。うちとけたるけしきにつきてなむ、人は物(もの)はいひよき。されば、大小こと聞(き)かむがためなり」とぞ仰(おほ)せ言ありける。それさることなり。けにくき顔には、物(もの)いひふれにくき物(もの)なり。
さて、「われいかで、七月(ふづき).九月(ながつき)に死にせじ。相撲(すまひ)の節(せち)・九日(ここぬか)の節のとまらむが口惜(くちを)しきに」と仰(おほ)せられけれど、九月に失(う)せさせ給(たま)ひて、九日の節はそれよりとどまりたるなり。その日、左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)の前にて御鷹ども放(はな)たれしは、あはれなりし物(もの)かな。とみにこそ飛び退かざりしか。
公忠(きんただ)の弁(べん)をば、おほかたの世にとりても、やむごとなき物(もの)に思(おぼ)し召(め)したりし中にも、鷹のかたざまには、いみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひしなり。日々に政(まつりごと)を勤(つと)め給(たま)ひて、馬をいづこにぞや立て給(たま)うて、こと果つるままにこそ、中山へはいませしか。官(くわん)のつかさの弁の曹司(ざうし)の壁には、その殿の鷹の物(もの)はいまだ付きて侍(はべ)らむ。久世の鳥・交野(かたの)の鳥の味(あぢは)ひ、参(まゐ)り知(し)りたりき。「かたへはそらごとを宣(のたま)ふぞ。こころみたいまつらむ」とて、みそかに二所の鳥をつくりまぜて、しるしをつけて、人の参(まゐ)りたりければ、いささかとりたがへず、「これは久世(くぜ)の、これは交野(かたの)のなり」とこそ参(まゐ)り知(し)りたりけれ。かかれば、「ひたぶるの鷹飼にて候(さぶら)ふものの、殿上に候(さぶら)ふこそ見ぐるしけれ」と、延喜に奏しまうす人の御座(おは)しければ、「公事をおろそかにし、狩をのみせばこそは罪はあらめ、一度(ひとたび)政(まつりごと)をもかかで、公事をよろづ勤めて後に、ともかくもあらむは、なんでふことかあらむ」とこそ仰(おほ)せられけれ。
いでまた、いみじく侍(はべ)りしことは、やがて同じ君の、大井河(おほゐがは)の行幸(みゆき)に、富小路(とみのこうぢ)の御息所の御腹の親王(みこ)、七歳にて舞せさせ給(たま)へりしばかりのことこそ侍(はべ)らざりしか。万人(ばんにん)しほたれぬ人侍(はべ)らざりき。あまり御かたちの光るやうにし給(たま)ひしかば、山の神めでて、取り奉(たてまつ)り給(たま)ひてしぞかし。
その御時に、いとおもしろきことども多く侍(はべ)りきや。おほかた申(まう)し尽くすべきならず。まづ申(まう)すべきことをも、ただ覚ゆることにしたがひて、しどけなく申(まう)さむ。
法皇(ほふわう)の、ところどころの修行(すぎやう)しあそばせ給(たま)うて、宮滝(みやたき)御覧(ごらん)ぜしほどこそいといみじう侍(はべ)りしか。その折、菅原(すがはら)のおとどのあそばしたりし和歌、
水ひきの白糸(しらいと)はへて織るはたは旅のころもにたちやかさねむ 
大井の御幸(ごかう)も侍(はべ)りしぞかし。さてまた、「みゆきありぬべき所」と申(まう)させ給(たま)ふ、ことのよし秦せむとて、小一条(こいちでう)のおほいまうちぎみぞかし、
小倉山(をぐらやま)紅葉(もみぢ)の色もこころあらばいまひとたびのみゆきまたなむ
あはれ優(いう)にも候(さぶら)ひしかな。さて行幸(みゆき)に、あまたの題ありて、やまと歌つかうまつりし中(なか)に、「猿叫(レ)峡(さるかひにさけぶ)」、躬恒(みつね)、
わびしらにましらななきそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ
その日の序代(じよだい)は、やがて貫之(つらゆき)のぬしこそはつかうまつり給(たま)ひしか。
さてまた、朱雀院(すざくゐん)も優(いう)に御座(おは)しますとこそはいはれさせ給(たま)ひしかども、将門(まさかど)が乱(みだれ)など出(い)できて、怖(おそ)れ過ごさせ御座(おは)しまししほどに、やがてかはらせ給(たま)ひにしぞかし。そのほどのことこそ、いとあやしう侍(はべ)りけれ。母后(ははきさき)の御もとに行幸せさせ給(たま)へりしを、「かかる御有様(ありさま)の思(おも)ふやうにめでたくうれしきこと」など秦(そう)せさせ給(たま)ひて、「いまは、東宮(とうぐう)ぞかくて見きこえまほしき」と申(まう)させ給(たま)ひけるを、心もとなく急ぎ思(おぼ)し召(め)しけることにこそありけれとて、ほどもなく譲(ゆづ)りきこえさせ給(たま)ひけるに、后(きさい)の宮(みや)は、「さも思(おも)ひても申(まう)さざりしことを。ただゆく末のことをこそ思(おも)ひしか」とて、いみじう嘆かせ給(たま)ひけり。
さて、おりさせ給(たま)ひて後(のち)、人々の嘆きけるを御覧(ごらん)じて、院(ゐん)より后(きさい)の宮(みや)に聞(きこ)えさせ給(たま)へりし、国譲(くにゆづ)りの日、
日のひかり出(い)でそふ今日のしぐるるはいづれの方の山辺なるらむ 
后(きさい)の宮(みや)の御返し、
白雲(しらくも)のおりゐる方(かた)やしぐるらむおなじみ山のゆかりながらに
などぞ聞え侍(はべ)りし。院は数月(つきごろ)、綾綺殿(りようきでん)にこそ御座(おは)しまししか。後(のち)は少し悔(く)い思(おぼ)し召(め)すことありて、位にかへりつかせ給(たま)ふべき御祈(いのり)などせさせ給(たま)ひけりとあるは、誠(まこと)にや。御心(みこころ)いとなまめかしうも御座(おは)しましし。御心地(ここち)おもくならせ給(たま)ひて、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)の幼く御座(おは)しますを見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、いみじうしほたれ御座(おは)しましけり。
くれ竹のわが世はことになりぬともねは絶えせずぞなほなかるべき 
誠(まこと)にこそかなしくあはれに承(うけたまは)りしか。
村上(むらかみ)の帝(みかど)、はた申(まう)すべきならず。「なつかしうなまめきたる方(かた)は、延喜(えんぎ)にはまさりまうさせ給(たま)へり」とこそ、人申(まう)すめりしか。「われをば人はいかがいふ」など、人に問(と)はせ給(たま)ひけるに、「『ゆるになむ御座(おは)します』と、世には申(まう)す」と奏(そう)しければ、「さてはほむるなんなり。王(きみ)のきびしうなりなば、世の人いかが堪(た)へむ」とこそ仰(おほ)せられけれ。
いとをかしうあはれに侍(はべ)りしことは、この天暦(てんりやく)の御時に、清涼殿(せいりやうでん)の御前(おまへ)の梅の木の枯れたりしかば、求めさせ給(たま)ひしに、なにがしぬしの蔵人(くらうど)にていますがりし時、承(うけたまは)りて、「若き者どもはえ見知(し)らじ。きむぢ求めよ」と宣(のたま)ひしかば、一京(ひときやう)まかり歩(あり)きしかども、侍(はべ)らざりしに、西京(にしのきやう)のそこそこなる家に、色濃(いろこ)く咲きたる木の、様体(やうだい)うつくしきが侍(はべ)りしを、掘りとりしかば、家あるじの、「木にこれ結(ゆ)ひつけて持(も)て参(まゐ)れ」といはせ給(たま)ひしかば、あるやうこそはとて、持て参(まゐ)りて候(さぶら)ひしを、「なにぞ」とて御覧(ごらん)じければ、女の手にて書きて侍(はべ)りける。
勅(ちよく)なればいともかしこしうぐひすの宿はと問(と)はばいかが答へむ 
とありけるに、あやしく思(おぼ)し召(め)して、「何者(なにもの)の家ぞ」とたづねさせ給(たま)ひければ、貫之(つらゆき)のぬしの御女(みむすめ)の住む所なりけり。「遺恨(ゐこん)のわざをもしたりけるかな」とて、あまえ御座(おは)しましける。繁樹(しげき)今生(こんじやう)の辱号(ぞくがう)は、これや侍(はべ)りけむ。さるは、「思(おも)ふ様(やう)なる木持て参(まゐ)りたり」とて、衣(きぬ)かづけられたりしも、辛(から)くなりにき」とて、こまやかに笑ふ。
繁樹、また、「いとせちにやさしく思(おも)ひ給(たま)へしことは、この同じ御時のことなり。承香殿(しようきやうでん)の女御(にようご)と申(まう)ししは、斎宮(さいぐう)の女御よ。「帝(みかど)ひさしくわたらせ給(たま)はざりける秋の夕暮(ゆうぐれ)に、琴(こと)をいとめでたく弾(ひ)き給(たま)ひければ、急ぎわたらせ給(たま)ひて、御かたはらに御座(おは)しましけれど、人やあるとも思(おぼ)したらで、せめて弾き給(たま)ふを、聞(きこ)し召(め)せば、
秋の日のあやしきほどの夕暮に荻(おぎ)吹く風のおとぞきこゆる 
と弾きたりしほどこそせちなりしか」と御集(ぎよしふ)に侍(はべ)るこそ、いみじう候(さぶら)へ」といふは、あまりかたじけなしやな。
ある人、「城外(じやうぐわい)やし給(たま)へりし」といへば、
《繁樹》「遠国(おんごく)にはまからず。和泉国(いづみのくに)にこそ、貫之(つらゆき)のぬしの御任(ごにん)に下(くだ)りて侍(はべ)りしか。「ありとほしをば思(おも)ふべしやは」と、よまれしたびの供(とも)にも候(さぶら)ひき。雨の降りしさま」など語りしこそ、古草子(ふるざうし)にあるを見るは、ほど経たる心地し侍(はべ)りしに、昔に会(あ)ひにたる心地して、をかしかりしか。
この侍(さぶらひ)もいみじう興(きよう)じて、
「繁樹が女(め)どもこそ、いま少しこまやかなることどもは語られめ」といへば、
《妻》「われは京人(きやうびと)にも侍(はべ)らず、高き宮仕(みやづか)へなどもし侍(はべ)らず。若くより、この翁に添ひ候(さぶら)ひにしかば、はかばかしきことをも見給(たま)へぬ物(もの)をは」といらふれば、
《侍》「いづれの国の人ぞ」と問(と)ふ。
《妻》「陸奥国(みちのくに)安積(あさか)の沼にぞ侍(はべ)りし」といへば、
《侍》「いかで京には来(こ)しぞ」と問(と)へば、
《妻》「その人とは、え知(し)り奉(たてまつ)らず、歌よみ給(たま)ひし北(きた)の方(かた)御座(おは)せし守(かみ)の御任にぞ、上(のぼ)り侍(はべ)りし」といふに、中務(なかつかさ)の君(きみ)にこそと聞(き)くもをかしくなりぬ。
《侍》「いといたきことかな。北の方をば誰(たれ)とか聞(きこ)えし。よみ給(たま)ひけむ歌は覚ゆや」といへば、
《妻》「その方(かた)に心も得で、覚(おぼ)え侍(はべ)らず。ただ上り給(たま)ひしに、逢坂(あふさか)の関(せき)に御座(おは)して、よみ給(たま)へりし歌こそ、ところどころ覚(おぼ)え侍(はべ)れ」とて、
都(みやこ)には待つらむ物(もの)を逢坂(あふさか)の関まで来(き)ぬと告(つ)げややらまし 
など、たどたどしげに語るさま、誠(まこと)に男(をとこ)にたとしへなし。繁樹、
「この人をば人と覚(おぼ)えずかとよ。さやうの方(かた)は覚ゆらむ物(もの)ぞ。世間(せけん)だましひはしも、いとかしこく侍(はべ)るをとり所にて、え去りがたく思(おも)ひ給(たま)ふるなり」といふに、世継(よつぎ)、
「いで、この翁(おきな)の女人(をんなびと)こそ、いとかしこく物(もの)は覚(おぼ)え侍(はべ)れ。いまひとめぐりがこのかみに候(さぶら)へば、見給(たま)へぬほどのことなども、あれは知(し)りて侍(はべ)るめり。染殿(そめどの)の后(きさい)の宮(みや)の洗(すま)しに侍(はべ)りけり。母も上(かん)の刀自にて仕うまつりければ、幼くより参(まゐ)り通ひて、忠仁公(ちゆうじんこう)をも見奉(たてまつ)りけり。童部(わらはべ)がたちのほどの、いと物(もの)ぎたなうも候(さぶら)はざりけるにや、やむごとなき君達(きんだち)も御覧じいれて、兼輔(かねすけ)の中納言・良岑衆樹(よしみねのもろき)の宰相(さいしやう)の御文(ふみ)なども持ちて侍(はべ)るめり。中納言はみちのくにがみに書かれ、宰相のは胡桃色(くるみいろ)にてぞ侍(はべ)るめる。
この宰相ぞかし、五十までさせることなく、おぼやけに捨てられたるやうにていますがりけるが、八幡(やはた)に参(まゐ)りたうび たるに、雨いみじう降る石清水(いはしみづ)の坂登りわづらひつつ参(まゐ)り給(たま)へるに、御前の橘(たちばな)の木の少し枯れて侍(はべ)りけるに立ち寄りて、
ちはやぶる神の御前の橘ももろきもともに老いにけるかな 
とよみ給(たま)へば、神聞(き)き、あはれびさせ給(たま)ひて、橘も栄え、宰相も思(おも)ひかけず頭(とう)になり給(たま)ふとこそは承(うけたまは)りしか」といへば、侍(さぶらひ)、
「賀茂(かも)の御前(おまへ)にとかや、はるかの世の物語(ものがたり)にわらはべ申(まう)し侍(はべ)るめるは」といらふれば、
《世継》「さもや侍(はべ)りけむ。ほど経て僻事(ひがごと)も申(まう)し侍(はべ)らむ。宰相をば見たいまつりしかど、人となりてこそ尋ね承(うけたまは)れ」といらふ。侍、
「そはさなり。その宰相は、五十六にて宰相になり、左近中将(さこんのちゆうじやう)かけていませしか」
《世継》「その折はなにともおぼえ侍(はべ)らざりしかど、この頃(ごろ)思(おも)ひ出(い)で侍(はべ)れば、見ぐるしかりけることかなと思(おも)ひ侍(はべ)る」この侍、
「いかでさる有識(いうそく)をば、ものげなきわかうどにてはとりこめられしぞ」と問(と)へば、
《世継》「さればこそ。さやうに好き惚(ほ)き候(さぶら)ひしものの、心にもあらず、世継が家にはまうで来(き)よりては、恥(はぢ)にして、いかばかりのいさかひ侍(はべ)りしかど、さばかりにこかけそめて、あからめせさせ侍(はべ)りなむや。さるほどに、ゐつき候(さぶら)ひては、翁(おきな)をまた一夜(ひとよ)もほかめせさせ侍(はべ)らぬをや」と、ほほゑみたる口つき、いとをこがまし。
《世継》「また、この女どもも、世継も、しかるべきにて侍(はべ)りけるぞ。かの女、二百歳ばかりになりにて侍(はべ)り。兼輔の中納言・衆樹(もろき)の宰相(さうしやう)も、今まであとかばねだにいませず、いかがし侍(はべ)らまし。世継も、今様(いまやう)の若き女ども、さらに語らはれ侍(はべ)らじ」といへば、
《繁樹》「かかる命長(いのちなが)の生(い)きあはず侍(はべ)らましかば、いとあしく侍(はべ)らまし」とて、こころよく笑ふ。げにと聞えてをかしくもあり、語るも現(うつつ)のことともおぼえず。
《世継》「あはれ、今日具(ぐ)して侍(はべ)らましかば、女房(にようばう)たちの御耳に、いま少しとどまることどもは、聞(き)かせ給(たま)へてまし。私(わたくし)の頼(たの)む人にては、兵衛内侍(ひやうゑのないし)の御親をぞし侍(はべ)りしかば、内侍のもとへは、時々まかるめりき」といふに、「とは誰(たれ)にか」といふ人ありければ、
《世継》「いで、この高名(かうみやう)の琵琶(びは)ひき。相撲(すまひ)の節(せち)に玄上(げんじやう)賜(たま)はりて、御前(おまへ)にて「青海波(せいがいは)」つかうまつられたりしは、いみじかりし物(もの)かな。博雅(はくが)の三位(さんみ)などだにおぼろけにはえ鳴らし給(たま)はざりけるに、これは承明門(しようめいもん)まで聞え侍(はべ)りしかば、左(ひだり)の楽屋(がくや)にまかりて、承(うけたまは)りしぞかし。
斯様(かやう)に物(もの)のはえ、うべうべしきことどもも、天暦(てんりやく)の御時までなり。冷泉院(れいぜいゐん)の御世(みよ)になりてこそ、さはいへども、世は暗れふたがりたる心地せし物(もの)かな。世のおとろふることも、その御時よりなり。小野宮殿(をののみやどの)も、一(いち)の人と申(まう)せど、よそ人にならせ給(たま)ひて、若くはなやかなる御舅(をぢ)たちにまかせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひ、また帝(みかど)は申(まう)すべきならず。
あはれに候(さぶら)ひけることは、村上失(う)せ御座(おは)しまして、またの年、小野宮(をののみや)に人々参(まゐ)り給(たま)ひて、いと臨時客(りんじきやく)などはなけれど、「嘉辰令月(かしんれいげつ)しなどうち誦(ずん)ぜさせ給(たま)ふついでに、一条(いちでう)の左大臣(さだいじん)・六条殿(ろくでうどの)など拍子(はうし)とりて、「席田(むしろだ)」うち出(い)でさせ給(たま)ひけるに、「あはれ、先帝(せんだい)の御座(おは)しまさましかば」とて、御笏(しやく)もうち置きつつ、あるじ殿(どの)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、事忌(こといみ)もせさせ給(たま)はず、上(うへ)の御衣(おんぞ)どもの袖(そで)濡(ぬ)れさせ給(たま)ひにけり。さることなりや。何事(なにごと)も、聞(き)き知(し)り見分(みわ)く人のあるはかひあり、なきはいと口惜(くちを)しきわざなり。今日かかることども申(まう)すも、わ殿(どの)の聞(き)きわかせ給(たま)へば、いとどいま少しも申(まう)さまほしきなり」といへば、侍(さぶらひ)もあまえたりき。
《世継》「藤氏(とうし)の御ことをのみ申(まう)し侍(はべ)るに、源氏(げんじ)の御こともめづらしう申(まう)し侍(はべ)らむ。この一条殿・六条の左大臣(さだいじん)殿(どの)たちは、六条の一品(いつぽん)式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御子(みこ)どもに御座(おは)しまさふ。寛平(くわんぴやう)の御孫(まご)なりとばかりは申(まう)しながら、人の御有様(ありさま)、有識(いうそく)に御座(おは)しまして、いづれをも村上の帝(みかど)ときめかしまうさせ給(たま)ひしに、いま少し六条殿をば愛しまうさせ給(たま)へりけり。兄殿(あにどの)は、いとあまりうるはしく、公事(おほやけごと)よりほかのこと、他分(たぶん)には申(まう)させ給(たま)はで、ゆるぎたる所の御座(おは)しまさざりしなり。弟殿(おととどの)は、みそかごとは無才(むざえ)にぞ御座(おは)しまししかど、若らかに愛敬(あいぎやう)づき、なつかしき方はまさらせ給(たま)ひしかばなめりとぞ、人申(まう)しし。父宮(ちちみや)は出家(すけ)せさせ給(たま)ひて、仁和寺(にんなじ)に御座(おは)しまししかば、六条殿、修理大夫(すりのかみ)にて御座(おは)しまししほどなれば、仁和寺へ参(まゐ)らせ給(たま)ふゆき帰りの道を、一度(ひとたび)は、東(ひんがし)の大宮(おほみや)より上(のぼ)らせ給(たま)ひて、一条より西ざまに御座(おは)しまし、また一度は、西の大宮より下(くだ)らせ給(たま)ひて、二条より東(ひんがし)ざまなどに過ぎさせ給(たま)ひつつ、内裏(だいり)を御覧(ごらん)じて、破れたる所あれば、修理(すり)せさせ給(たま)ひけり。いと手ききたる御心(こころ)ばへなりな。
また、一条殿の仰(おほ)せられけるは、「親王(みこ)たちのなかにて、世の案内(あない)も知(し)らず、たづきなかりしかば・さるべき公事(くじ)の折は、人より先に参(まゐ)り、こと果(は)てても、最末(いとすゑ)にまかり出(い)でなどして、見習ひしなり」とぞ宣(のたま)はせける。八幡(やはた)の放生会(はうじやうゑ)には・御馬奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしを・御使(つかひ)などにも浄衣(じやうえ)を給(たま)はせ、御みずからも清(きよ)まらせ給(たま)ひしかばにや、御前(おまへ)近き木に山鳩(やまばと)のかならず居て、ひき出づる折に飛び立ちければ、かひありと、よろこび興(きよう)ぜさせ給(たま)ひけり。御心(みこころ)いとうるはしく御座(おは)します人の、信(しん)をいたさせ給(たま)ひしかば、大菩薩(だいぼさつ)のうけまうさせ給(たま)へりけるにこそ。ひととせの旱(ひでり)の御祈(いのり)にこそ、東三条(とうさんでう)殿(どの)の御賀茂詣(かもまうで)せさせ給(たま)ひしには、この一条殿も参(まゐ)らせ給(たま)ひき。大臣にならせ給(たま)ひぬれば、さる例(れい)なけれども、天下の大事(だいじ)なりとて、御出立(いでた)ちの所には御座(おは)しまさで、わが御殿(ごてん)の前わたらせ給(たま)ひしほどに、引き出(い)でて具(ぐ)しまうさせ給(たま)ひしなり。この生には御数珠(ずず)とらせ給(たま)ふことはなくて、ただ毎日、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、南無金峯山金(きんぶせん)剛蔵王(こんがざわう)、南無大般若波羅蜜多心経(だいはんにやはらみたしんぎやう)」と、冬の御扇(あふぎ)を数(かず)にとりて、一百遍(いちひやくへん)づつぞ念(ねん)じ申(まう)させ給(たま)ひける。それよりほかの御勤(つとめ)せさせ給(たま)はず。四条(しでう)の大后(おほきさい)の宮(みや)に、かくなむと申(まう)す人のありければ、聞(き)かせ給(たま)ひて、「なつかしからぬ御本尊(ごほんぞん)かな」とぞ仰(おほ)せられける。
この殿(との)こそ、「荒田(あらた)に生(お)ふる」をば、なべてのやうには謡(うた)ひ変へさせ給(たま)ひけれ。一条院(いちでうゐん)の御時、臨時の祭の御前(おまへ)のこと果てて、上達部たちの物見(ものみ)に出(い)で給(たま)ひしに、外記(げき)の隅(すみ)のほど過ぎさせ給(たま)ふとて、わざとはなく、口ずさみのやうに謡はせ給(たま)ひしが、なかなか優(いう)におぼえ侍(はべ)りし。「富草(とみくさ)の花、手に摘(つ)みいれて、宮へ参(まゐ)らむ」のほどを、例(れい)には変りたるやうに承(うけたまは)りしかば、遠きほどに、老(おい)の僻耳(ひがみみ)にこそはと思(おも)ひ給(たま)へしを、この按察(あぜち)大納言(だいなごん)殿(どの)もしか宣(のたま)はせける。
「殿上人(てんじやうびと)にてありしかば、遠くて、よくも聞(き)かざりき。変りたりしやうの、めづらしう、さまかはりておぼえしは、あの殿(との)の御ことなりしかばにや。またも聞(き)かまほしかりしかども、さもなくてやみにしこそ、今に口惜(くちを)しくおぼゆれ」とこそ宣(のたま)ふなれ。
このおほい殿(どの)たちの御弟(おとと)の大納言(だいなごん)、優(いう)に御座(おは)しましき。おほかた六条の宮の御子(みこ)どもの、皆めでたく御座(おは)しまさひしなり。御法師子(ほふしご)は、広沢(ひろさは)の僧正(そうじやう)・勧修寺(くわんじゆじ)の僧正二所(ふたところ)こそは御座(おは)しまししか。おほかたそのほどには、かたがたにつけつつ、いみじき人々の御座(おは)しましし物(もの)をや」といへば、「この頃(ごろ)もさやうの人は御座(おは)しまさずやはある」と、侍(さぶらひ)のいへば、
《世継》「この四人の大納言(だいなごん)たちよな。斉信(ただのぶ)・公任(きんたふ)・行成(ゆきなり)・俊賢(としかた)など申(まう)す君達(きんだち)は、またさらなり。
さてまた、多くの見物(みもの)し侍(はべ)りし中(なか)にも、花山院(くわさんゐん)の御時の石清水(いはしみづ)の臨時の祭、円融院(ゑんゆうゐん)の御覧(ごらん)ぜしばかり、興(きよう)あること候(さぶら)はざりき。その折の蔵人頭(くらうどのとう)にては、今の小野宮(をののみや)の右大臣殿ぞ御座(おは)しましし。御前(おまへ)のこと果(は)てけるままに、院はつれづれに御座(おは)しますらむかしと思(おぼ)し召(め)して、参(まゐ)らせ給(たま)へりければ、さるべき人も候(さぶら)ひ給(たま)はざりけり。蔵人・判官代(はうぐわんだい)ばかりして、いといとさうざうしげにて御座(おは)します。かく参(まゐ)らせ給(たま)へるを、いと時よう思(おぼ)し召(め)したる御けしきを、いとあはれに心ぐるしう見参(まゐ)らせさせ給(たま)ひて、「物(もの)御覧ぜよ」など、御けしき賜(たま)はらせ給(たま)へば、「にはかにはいかがあるべからむ」と仰(おほ)せられけるを、「かくて実資(さねすけ)候(さぶら)へば、また、殿上(てんじやう)に候(さぶら)ふ男(をのこ)どもばかりにてあへ侍(はべ)りなむ」とそそのかし申(まう)させ給(たま)ふ。御厩(みまや)の御馬ども召(め)して、候(さぶら)ひしかぎり、御前(ごぜん)仕(つか)まつり、頭中将(とうのちゆうじやう)は束帯(そくたい)ながら参(まゐ)り給(たま)ふ。堀河院(ほりかはのゐん)なれば、ほど近く出(い)でさせ給(たま)ふに、物見車(ものみぐるま)ども二条大宮(にでうおほみや)の辻(つじ)に立ちかたまりて見るに、布衣(ほい)・衣冠(いくわん)なる御前(ごぜん)したる車の、いみじく人払(はら)ひ、なべてならぬ勢(いきほひ)なる来(く)れば、誰(たれ)ばかりならむとあやしく思(おも)ひあへるに、頭中将(とうのちゆうじやう)、下襲(したがさね)の尻(しり)はさみて、移置(うつしお)きたる馬に乗りて御座(おは)するに、院の御座(おは)しますなりけりと見て、車どもも、徒人(かちびと)も、てまどひし立ち騒(さわ)ぎて、いと物(もの)さわがし。二条(にでう)よりは少し北によりて、冷泉院(れいぜいゐん)の築地(ついひぢ)づらに、御車(みくるま)立てつ。御前(ごぜん)どもおりて候(さぶら)ひ並(な)み給(たま)ふほどに、内(うち)より見物(みもの)しに、引きつづき出(い)で給(たま)ふ上達部(かんだちめ)たちの見給(たま)ふに、大路(おほち)のいみじうののしれば、あやしくて、「何事(なにごと)ぞ」と問(と)はせ給(たま)ふに、「院の御座(おは)しますなり」と申(まう)しけるを、よにあらじと思(おぼ)すに、「頭中将(ちゆうじやう)も御座(おは)します」 といふにぞ、まことなりけりとおぼえつつ、御車(みくるま)よりいそぎおりつつ、皆参(まゐ)り給(たま)ひし。大臣二人は、左右(さう)の御車の筒(どう)うち押(おさ)へて立たせ給(たま)へり。東三条(とうさんでう)殿(どの)・一条(いちでう)の左大臣(さだいじん)殿(どの)よ。さて納言以下(なごんいげ)は、轅(ながえ)のこなたかなたに候(さぶら)ひ給(たま)ふ。なかなかうるはしからむ、ことの作法(さはふ)よりも、めでたく侍(はべ)りし物(もの)かな。舞人(まひびと)・陪従(べいじゆう)は皆乗りてわたるに、時中(ときなか)の源(げん)大納言(だいなごん)の、いまだ大蔵卿(おほくらきやう)と申(まう)しし折ぞ、使(つかひ)にて御座(おは)せし、御車の前近く立ちとどまりて、「求子(もとめご)」を袖(そで)のけしきばかりつかまつり給(たま)ひて、つい居(ゐ)給(たま)ひしままに、御はた袖を顔におしあてて候(さぶら)ひ給(たま)ひしかば、香(かう)なる御扇(あふぎ)をさし出させ給(たま)ひて、「はやう」とかかせ給(たま)ひしかばこそ、少しおし拭(のご)ひて立ち給(たま)ひしか。すべてさばかり優(いう)なることまた候(さぶら)ひなむや。
げにあはれなることのさまなれば、人々も御けしきかはり、院(ゐん)の御前(おまへ)にも、少し涙ぐみ御座(おは)しましけりとぞ、後(のち)に承(うけたまは)りし。神泉(しんせん)の丑寅(うしとら)の角(すみ)の垣(かき)のうちにて見給(たま)へしなり。
また、若く侍(はべ)りし折も、仏法(ぶつぽふ)うとくて、世ののしる大法会(だいほふゑ)ならぬには、まかりあふこともなかりしに、まして年積(としつも)りては、動きがたく候(さぶら)ひしかども、参河(みかは)の入道(にふだう)の入唐(につたう)の馬のはなむけの講師(こうじ)、清照法橋(せいせうほつけう)のせられし日こそ、まかりたりしか。さばかり道心(だうしん)なき物(もの)の、始(はじ)めて心起ることこそ候(さぶら)はざりしか。まづは神分(しんぶん)の心経(しんぎやう)・表白(へうびやく)のたうびて、鐘(かね)打ち給(たま)へりしに、そこばくあつまりたりし万人(ばんにん)、さとこそ泣きて侍(はべ)りしか。それは道理(だうり)のことなり。
また、清範律師(せいはんりし)の、犬(いぬ)のために法事(ほふじ)しける人の講師に請(しやう)ぜられていくを、清照法橋、同じほどの説法者(せほふざ)なれば、いかがすると聞(き)きに、頭(かしら)つつみて、誰(たれ)ともなくて聴聞(ちやうもん)しければ、「ただいまや、過去聖霊(くわこしやうりやう)は蓮台(れんだい)の上にてひよと吠(ほ)え給(たま)ふらむ」と宣(のたま)ひければ、「さればよ。こと人、かく思(おも)ひよりなましや。なほ、斯様(かやう)のたましひあることは、すぐれたる御房(ごばう)ぞかし」とこそほめ給(たま)ひけれ。誠(まこと)に承(うけたまは)りしに、をかしうこそ候(さぶら)ひしか。これはまた、聴聞衆(ちやうもんしゆう)ども、さざと笑ひてまかりにき。いと軽々(きやうきやう)なる往生人(わうじやうにん)なりや。また、無下(むげ)のよしなしごとに侍(はべ)れど、人のかどかどしく、たましひあることの興(きよう)ありて、優(いう)におぼえ侍(はべ)りしかばなり。
法成寺(ほふじやうじ)の五大堂供養(ごだいだうくやう)は、師走(しはす)には侍(はべ)らずやな。きはめて寒かりし頃(ころ)、百僧(ひやくそう)なりしかば、御堂(みだう)の北の庇(ひさし)にこそは、題名僧(だいみやうそう)の座(ざ)はせられたりしか。その料(れう)にその御堂の庇はいれられたるなり。わざとの僧膳(そうぜん)はせさせ給(たま)はで、湯漬(ゆづけ)ばかり給(たま)ふ。行事(ぎやうじ)二人に、五十人づつ分(わか)たせ給(たま)ひて、僧の座せられたる御堂の南面(みなみおもて)に、鼎(かなへ)を立てて、湯をたぎらかしつつ、御(お)物(もの)を入れて、いみじう熱くて参(まゐ)らせ渡したるを、思(おも)ふにぬるくこそはあらめと、僧たち思(おも)ひて、ざふざふと参(まゐ)りたるに、はしたなききはに熱かりければ、北風(きたかぜ)はいとつめたきに、さばかりにはあらで、いとよく参(まゐ)りたる御房たちもいまさうじけり。後に、「北向きの座にて、いかに寒かりけむ」など、殿(との)の問(と)はせ給(たま)ひければ、「しかじか候(さぶら)ひしかば、こよなく暖(あたた)まりて、寒さも忘れ侍(はべ)りにき」と申(まう)されければ、行事(ぎやうじ)たちをいとよしと思(おぼ)し召(め)されたりけり。ぬるくて参(まゐ)りたりとも、別(べち)の勘当(かんだう)などあるべきにはあらねど、殿を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、人にほめられ、ゆく末にも、「さこそありけれ」といはれたうばむは、ただなるよりはあしからず、よきことぞかし。
いでまた、故(こ)女院(にようゐん)の御賀に、この関白(くわんばく)殿、「陵王(りようわう)」、春宮大夫殿(とうぐうのだいぶどの)、「納蘇利(なつそり)」舞(ま)はせ給(たま)へりしめでたさはいかにぞ。「陵王」はいと気高(けだか)くあてに舞はせ給(たま)ひて、御禄(ろく)賜(たま)はらせ給(たま)ひて、舞ひすてて、知(し)らぬさまにて入らせ給(たま)ひぬる御うつくしさ、めでたさに、並(なら)ぶことあらじ、と見参(まゐ)らするに、「納蘇利」のいとかしこく、また、かくこそはありけめと見えて舞はせ給(たま)ふに、御禄を、これはいとしたたかに御肩(おほんかた)にひきかけさせ給(たま)ひて、いまひとかへり、えもいはず舞はせ給(たま)へりし興(きよう)は、またかかるべかりけるわざかな、とこそおぼえ侍(はべ)りしか。御師(おんし)の、「陵王」はかならず御禄は捨てさせ給(たま)ひてむぞ、同じさまにせさせ給(たま)はむ、目馴(めな)れたるべければ、さまかへさせ奉(たてまつ)りたるなりけり。心ばせまされりとこそはいはれ侍(はべ)りしか。女院かうぶり賜(たま)はせば、大夫殿(だいぶどの)をいみじくかなしがりまさせ給(たま)へばとぞ。「陵王(りようわう)」の御師は賜(たま)はらでいと辛かりけり。それにこそ、北(きた)の政所(まんどころ)少しむつからせ給(たま)ひけれ。さて後にこそ賜(たま)はすめりしか。かたのやうに舞かせ給(たま)ふともあしかるべき御年のほどにも御座(おは)しまさず、わろしと人の申(まう)すべきにも侍(はべ)らざりしに、誠(まこと)にこそ、二所(ふたところ)ながら、この世の人とは見えさせ給(たま)はで、天童(てんどう)などの降り来(き)たるとこそ見えさせ給(たま)ひしか。
また、この大宮(おほみや)の大原野(おほはらの)の行啓(ぎやうけい)はいみじう侍(はべ)りし。ことに雨の降りしこそいと口惜(くちを)しく侍(はべ)りしことよ。舞人(まひびと)には、たれたれ、それそれの君達(きんだち)などかぞへて、一(いち)の舞(まひ)には、関白(くわんばく)殿(どの)の君(きみ)とこそはせさせ給(たま)ひしか。試楽(しがく)の日、掻練襲(かいねりがさね)の御下襲(したがさね)に、黒半臂(くろはんび)奉(たてまつ)りたりしは、めづらしく候(さぶら)ひし物(もの)かな。闕腋(わきあけ)に人の着給(たま)へりしを、いまだ見侍(はべ)らざりしかば。行啓には、入道(にふだう)殿(どの)、それがしといふ御馬に奉(たてまつ)りて、御随身(みずいじん)四人と、らんもんにあげさせ給(たま)へりしは、軽々(かろがろ)しかりしわざかな。公忠(きんただ)が少し控(ひか)へつつ、所おきまうししを、制せさせ給(たま)ひしかば、なほ少し怖(おそ)りましてこそありしか。かしこく京(きやう)のほどは雨も降らざりしぞかし。閑院(かんゐん)の太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)の、西の七条より帰らせ給(たま)ひしをこそ、入道(にふだう)殿(どの)いみじう恨みまうさせ給(たま)ひけれ。堀河(ほりかは)の左大臣(さだいじん)殿(どの)は、御社(みやしろ)までつかまつらせ給(たま)ひて、御引出物(ひきいでもの)御馬あり。枇杷殿(びはどの)の宮(みや)・中宮(ちゆうぐう)とは、金造(こがねづくり)の御車(みくるま)にて、まうちぎみたちの、やむごとなきかぎり選(え)らせ給(たま)へる御前具(ごぜんぐ)しまうさせ給(たま)へりき。御車のしりには、皇后宮(くわうごうぐう)の御乳母(めのと)、維経(これつね)のぬしの御母(みはは)、中宮の御乳母、兼安(かねやす)・実任(さねたふ)のぬしの御母、おのおのこそ候(さぶら)はれけれ。殿(との)の君達(きんだち)のまだ男(をとこ)にならせ給(たま)はぬ、童(わらは)にて皆仕(つか)うまつらせ給(たま)へりき。
また、ついでなきことには侍(はべ)れど、怪(け)と人の申(まう)すことどもの、させることなくてやみにしは、前(さき)の一条院(いちでうゐん)の御即位の日、大極殿(だいこくでん)の御装束(さうぞく)すとて人々あつまりたるに、高御座(たかみくら)のうちに、髪(かみ)つきたるものの頭(かしら)の、血うちつきたるを見つけたりける、あさましく、いかがすべきと行事(ぎやうじ)思(おも)ひあつかひて、かばかりのことを隠すべきかとて、大入道(おほにふだう)殿(どの)に、「かかることなむ候(さぶら)ふ」と、なにがしのぬしして申(まう)させけるを、いと眠(ねぶ)たげなる御けしきにもてなさせ給(たま)ひて、物(もの)も仰(おほ)せられねば、もし聞(きこ)し召(め)さぬにやとて、また御けしき賜(たま)はれど、うち眠らせ給(たま)ひて、なほ御いらへなし。いとあやしく、さまで大殿籠(おほとのごも)り入りたりとは見えさせ給(たま)はぬに、いかなればかくては御座(おは)しますぞと思(おも)ひて、とばかり御前(おまへ)に候(さぶら)ふにぞ、うちおどろかせ給(たま)ふさまにて、「御装束(さうぞく)は果(は)てぬるにや」と仰(おほ)せらるるに、聞(き)かせ給(たま)はぬやうにてあらむと、思(おぼ)し召(め)しけるにこそと心得て、立ちたうびける。げにかばかりの祝(いはひ)の御こと、また今日になりてとまらむも、いまいましきに、やをらひき隠してあるべかりけることを、心肝(こころぎも)なく申(まう)すかなと、いかに思(おぼ)し召(め)しつらむと、後(のち)にぞ、かの殿(との)もいみじう悔(く)い給(たま)ひける。さることなりかしな。されば、なでふことかは御座(おは)します、よきことにこそありけれ。
また、大宮(おほみや)のいまだ幼く御座(おは)しましける時、北(きた)の政所(まんどころ)具(ぐ)し奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、春日(かすが)に参(まゐ)らせ給(たま)ひけるに、御前(おまへ)の物(もの)どもの参(まゐ)らせすゑたりけるを、俄(にはか)に辻風(つじかぜ)の吹き纒(まつ)ひて、東大寺(とうだいじ)の大仏殿(だいぶつでん)の御前に落したりけるを、春日(かすが)の御前なる物(もの)の源氏(げんじ)の氏寺(うじでら)に取られたるはよからぬことにや。これをも、その折、世の人申(まう)ししかど、ながく御末つがせ給(たま)ふは吉相(きつさう)にこそはありけれ、とぞおぼえ侍(はべ)るな。夢も現(うつつ)も、「これはよきこと」と人申(まう)せど、させることなくてやむやう侍(はべ)り。また、斯様(かやう)に怪(け)だちて見給(たま)へきこゆることも、かくよきことも候(さぶら)ふな。
まことは、世の中にいくそばくあはれにもめでたくも興(きよう)ありて、承(うけたまは)り見給(たま)へ集めたることの、数(かず)知(し)らず積(つも)りて侍(はべ)る翁(おきな)どもとか、人々思(おぼ)し召(め)す。やむごとなくも、また下(くだ)りても、間近(まぢか)き御簾(みす)・簾(すだれ)のうちばかりや、おぼつかなさ残りて侍(はべ)らむ。それなりとも、各宮(おのおのみや)・殿(との)ばら・次々の人の御あたりに、人のうち聞(き)くばかりのことは、女房(にようばう)・わらはべ申(まう)し伝へぬやうやは侍(はべ)る。されば、それも、不意(ふい)に伝へ承(うけたまは)らずしも候(さぶら)はず。されど、それをばなにとかは語りまうさむずる。ただ世にとりて、人の御耳とどめさせ給(たま)ひぬべかりし昔のことばかりを、かく語りまうすだにいとをこがましげに御覧(ごらん)じおこする人も御座(おは)すめり。今日は、ただ殿のめづらしう興(きよう)ありげに思(おぼ)して、あどをよくうたせ給(たま)ふにはやされ奉(たてまつ)りて、かばかりも口あけそめて侍(はべ)れば、なかなか残り多く、またまた申(まう)すべきことは、期(ご)もなく侍(はべ)るを、もし誠(まこと)に聞(きこ)し召(め)しはてまほしくは、駄一疋(だいつぴき)を給(たま)はせよ。はひ乗りて参(まゐ)り侍(はべ)らむ。
かつまた、御宿(やど)りに参(まゐ)りて、殿の御才学(さいがく)のほども承(うけたまは)らまほしう思(おも)ひ給(たま)ふるやうは、いまだ年頃(としごろ)、かばかりもさしいらへし給(たま)ふ人に対面(たいめ)賜(たま)はらぬに、時々くはへさせ給(たま)ふ御ことばの、見奉(たてまつ)るは、翁らが玄孫(やしはご)のほどにこそはとおぼえさせ給(たま)ふに、この知ろしめしげなることども、思(おも)ふに古き御日記(にき)などを御覧(ごらん)ずるならむかしと心にくく。下臈(げらふ)はさばかりの才(ざえ)はいかでか侍(はべ)らむ。ただ見聞(き)き給(たま)へしことを心に思(おも)ひおきて、かくさかしがり申(まう)すにこそあれ。まこと人(びと)に会(あ)ひ奉(たてまつ)りては、思(おぼ)し咎(とが)め給(たま)ふことも侍(はべ)らむと、はづかしう御座(おは)しませば、老(おい)の学問にも承(うけたまは)りあかさまほしうこそ侍(はべ)れ」といへば、繁樹(しげき)もただ、「かうなり、かうなり。さらむ折は、かならず告(つ)げ給(たま)ふべきなり。杖(つゑ)にかかりても、かならず参(まゐ)り会(あ)ひまうし侍(はべ)らむ」と、うなづきあはす。
《世継》「ただし、さまでのわきまへ御座(おは)せぬ若き人々は、そら物語(ものがたり)する翁(おきな)かなと思(おぼ)すもあらむ。わが心におぼえて、一言(ひとこと)にても、むなしきことくははりて侍(はべ)らば、この御寺(みてら)の三宝(さんぽう)、今日の座(ざ)の戒和尚(かいわじやう)に請(しやう)ぜられ給(たま)ふ仏(ぶつ)・菩薩(ぼさつ)を証(しよう)とし奉(たてまつ)らむ。なかにも、若うより、十戒(じつかい)のなかに、妄語(まうご)をばたもちて侍(はべ)る身なればこそ、かく命をば保(たも)たれて候(さぶら)へ。今日、この御寺のむねとそれを授(さづ)け給(たま)ふ講(こう)の庭にしも参(まゐ)りて、あやまちまうすべきならず。おほかた、世の始(はじ)まりは、人の寿(いのち)は八万歳なり。それがやうやう減(げん)じもていきて、百歳になる時、仏(ほとけ)は出(い)で御座(おは)しますなり。されど、生死(しやうじ)の定(さだ)めなきよしを人に示(しめ)し給(たま)ふとて、なほいま二十年を約(つづ)めて八十と申(まう)しし年(とし)、入滅(にふめつ)せさせ給(たま)ひにき。その年より今年まで、一千九百七十三年にぞなり侍(はべ)りぬる。釈迦如来(しやかによらい)滅し給(たま)ふを期(ご)にて、八十には侍(はべ)れど、仏、人の命を不定(ふぢやう)なりと見せさせ給(たま)ふにや、この頃(ごろ)も、九十・百の人、おのづから聞(きこ)え侍(はべ)るめれど、この翁(おきな)どもの寿(いのち)は希(まれ)なること、「甚深甚深希有希有(じんしんじんしんけうけう)なり」とは、これを申(まう)すべきなり。
いと昔は、かばかりの人侍(はべ)らず。神武(じんむ)天皇(てんわう)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、二十余代までの間に、十代ばかりがほどは、百歳・百余歳までたもち給(たま)へる帝(みかど)も御座(おは)しましたれど、末代(まつだい)には、けやけき寿(いのち)もちて侍(はべ)る翁なりかし。かかれば、前生(ぜんしやう)にも戒(かい)を受けたもちて候(さぶら)ひけると思(おも)ひ給(たま)ふれば、この生にも破らでまかりかへらむと思(おも)ひ給(たま)ふるなり。今日、この御堂(みだう)に影向(やうがう)し給(たま)ふらむ神明(しんめい)・冥道(みやうだう)たちも聞(きこ)し召(め)せ」とうちいひて、したり顔(がほ)に、扇(あふぎ)うちつかひつつ、見かはしたるけしき、ことわりに、何事(なにごと)よりも、公(おほやけ)私(わたくし)うらやましくこそ侍(はべ)りしか。
《繁樹》「さてもさても、繁樹(しげき)が年かぞへさせ給(たま)へ。ただなる折は、年を知(し)り侍(はべ)らぬが口惜(くちを)しきに」 といへば、侍、「いでいで」とて、
《侍》「十三にておほき大殿(おほとの)に参(まゐ)りき」と宣(のたま)へば、十(とを)ばかりにて、陽成院(やうぜいゐん)のおりさせ給(たま)ふ年はいますがりけるにこそ。
それにて推(すい)し思(おも)ふに、あの世継(よつぎ)のぬしには、いま十余年が弟(おとと)にこそあむめれば、百七十には少しあまり、八十にもおよばれにたるべし」など、手を折りかぞへて、
《侍》「いとかばかりの御年(みとし)どもをば、相人(さうにん)などに相(さう)せられやせし」と問(と)へば、
《繁樹》「さる人にも見え侍(はべ)らざりき。ただ狛人(こまうど)のもとに、二人つれてまかりたりしかば、「二人長命」と申(まう)ししかど、いとかばかりまで候(さぶら)ふべしとは、思(おも)ひかけ候(さぶら)ふべきことか。ことごと問(と)はむ、と思(おも)ひ給(たま)へしほどに、昭宣公(せうせんこう)の君達(きんだち)三人御座(おは)しまして、え申(まう)さずなりにき。それぞかし、時平(ときひら)のおとどをば、「御かたちすぐれ、心(こころ)だましひすぐれ賢(かしこ)うて、日本にはあまらせ給(たま)へり。日本のかためと用(もち)ゐむにあまらせ給(たま)へり」と相しまうししは。枇杷殿(びはどの)をば、「あまり御心(みこころ)うるはしくすなほにて、へつらひ飾(かざ)りたる小国にはおはぬ御相なり」と申(まう)す。貞信公(ていしんこう)をば、「あはれ、日本国のかためや。ながく世をつぎ門(かど)ひらくこと、ただこの殿」と申(まう)したれば、「われを、あるが中に、才(ざえ)なく心諂曲(てんごく)なりと、かくいふ、はづかしきこと」と仰(おほ)せられけるは。
されど、その儀(ぎ)にたがはせ給(たま)はず、門をひらき、栄花(えいぐわ)をひらかせ給(たま)へば、なほいみじかりけりと思(おも)ひ侍(はべ)りて、またまかりたりしに、小野宮殿(をののみやどの)御座(おは)しまししかば、え申(まう)さずなりにき。ことさらにあやしき姿をつくりて、下臈(げらふ)の中に遠く居(ゐ)させ給(たま)へりしを、多かりし人の中より、のびあがり見奉(たてまつ)りて、指(および)をさして物(もの)を申(まう)ししかば、何事(なにごと)ならむと思(おも)ひ給(たま)へりしを、後に承(うけたまは)りしかば、「貴臣(きしん)よ」と申(まう)しけるなりけり。さるは、いと若く御座(おは)しますほどなりしかな。いみじきあざれごとどもに侍(はべ)れど、誠(まこと)にこれは徳至(いた)りたる翁どもにて候(さぶら)ふ。などか人のゆるさせ給(たま)はざらむ。また、拙(つたな)き下臈(げらふ)のさることもありけるはと聞(きこ)し召(め)せ。
亭主院(ていじのゐん)の、河尻(かはじり)に御座(おは)しまししに、白女(しろめ)といふ遊女(あそび)召(め)して、御覧(ごらん)じなどせさせ給(たま)ひて、「はるかに遠く候(さぶら)ふよし、歌につかうまつれ」と仰(おほ)せ言(ごと)ありければ、よみて奉(たてまつ)りし、
浜千鳥(はまちどり)飛びゆくかぎりありければ雲立つ山をあはとこそ見れ 
いといみじうめでさせ給(たま)ひて、物かづけさせ給(たま)ひき。「命だに心にかなふ物(もの)ならば」も、この白女が歌なり。
また、鳥飼院(とりかひのゐん)に御座(おは)しましたるに、例(れい)の遊女(あそび)どもあまた参(まゐ)りたる中に、大江玉淵(おほえのたまぶち)が女(むすめ)の、声よくかたちをかしげなれば、あはれがらせ給(たま)ひて、うへに召(め)しあげて、「玉淵はいと労(らう)ありて、歌などいとよくよみき。この『とりかひ』といふ題を、人々のよむに、同じ心につかうまつりたらば、誠(まこと)の玉淵が子とは思(おぼ)し召(め)さむ」と仰(おほ)せ給(たま)ふを承(うけたまは)りて、すなはち、
ふかみどりかひある春にあふ時はかすみならねどたちのぼりけり
など、めでたがりて、帝(みかど)より始(はじ)め奉(たてまつ)りて、物(もの)かづけ給(たま)ふほどのこと、南院(なんゐん)の七郎君(しちらうぎみ)にうしろむべきことなど仰(おほ)せられけるほどなど、くはしくぞ語る。 
《繁樹》「延喜(えんぎ)の御時に、古今抄(こきんせう)せられし折、貫之(つらゆき)はさらなり、忠岑(ただみね)や躬恒(みつね)などは、御書所(ごしよどころ)に召(め)されて候(さぶら)ひけるほどに、四月二日なりしかば、まだ忍音(しのびね)の頃(ころ)にて、いみじく興(きよう)じ御座(おは)します。貴之召(め)し出(い)でて、歌つかうまつらしめ給(たま)へり。
こと夏はいかが鳴きけむほととぎすこの宵ばかりあやしきぞなき 
それをだに、けやけきことに思(おも)ひ給(たま)へしに、同じ御時、御遊びありし夜、御前(おまへ)の御階(みはし)のもとに躬恒(みつね)を召(め)して、「月を弓張(ゆみはり)といふ心はなにの心ぞ。これがよしつかうまつれ」と仰(おほ)せ言ありしかば、
照る月を弓はりとしもいふことは山辺をさしていればなりけり
と申(まう)したるを、いみじう感ぜさせ給(たま)ひて、大袿(おほうちき)給(たま)ひて、肩にうちかくるままに、
白雲(しらくも)のこのかたにしもおりゐるは天(あま)つ風(かぜ)こそ吹き手きぬらし
いみじかりし物(もの)かな。さばかりの者に、近う召(め)しよせて、勅禄(ちよくろく)給(たま)はすべきことならねど、謗(そし)りまうす人のなきも、君(きみ)の重く御座(おは)しまし、また躬恒(みつね)が和歌の道にゆるされたるとこそ、思(おも)ひ給(たま)へしか。 
【現代語訳】
(繁樹が)「醍醐天皇の御代に古今集を編纂なさった時、貫之はもちろん、忠岑や躬恒などは、御書所に呼ばれなさって、(そこに)詰めておりましたところ、(その日は)四月二日でありましたので、(ほととぎすは)まだ声をひそめて鳴く時分で、(天皇はその風情に)たいそう興を催していらっしゃいました。(そこで、天皇は)貫之をお呼び出しになって、歌を詠ませ申し上げなさいました。(その歌は)
去年までの夏はどのように鳴いたのであろうか、ほととぎすよ。(はっきりとは覚えていないが)今夜ほど不思議なまでに心ひかれたことはありません。
そのことでさえ異例なことだと(私は)思っておりましたのに、同じ御代に、(宮中で)管弦の催しがあった夜、(天皇は)御前の御階段の下に、躬恒をお呼びになって、『月を弓張りというのはどういう意味か。この理由を(歌に)詠め』とご命令がありましたので、
(空に)照り輝く月を弓張りと申しますのは、(それが)山辺を指して射る、すなわち、射るからでございます。
と申し上げたところ、(天皇は)たいそう感心なさって、(ほうびとして)大袿を下賜なさいまして、(それを躬恒は)肩に掛けるとすぐに、
白雲が私の方に、この肩に下りてたなびいていますのは、空吹く風がここまで吹き下ろしてきたのでしょう。すなわち、白い大袿が私の肩に掛かっておりますのは、雲居にいらっしゃる帝のありがたいお恵みによるものです。
(と詠みましたが)たいそうすばらしいものでしたよ。(躬恒ほどの)身分の低い者を、おそば近くにお呼びになって、天皇からのごほうびをお与えになることなどなさるべきではありませんが、(そのことを)非難申し上げる人がいないのも、(一つには)天皇が重々しくていらっしゃるからであり、また(一つには)躬恒が和歌の道において(大家として)認められていたからであると、(私は)思いましたよ」。
【解説】
十世紀の初めに、醍醐天皇の勅命によって『古今和歌集』が編纂されたが、その時の撰者がここに登場する紀貫之や凡河内躬恒らであった。最初の勅撰和歌集の編纂は、これらの優秀な歌人たちによって行われたのだが、彼らを登用し自らも和歌を愛した醍醐天皇の存在なくしては、この大事業が達成されることはなかった。醍醐天皇は、政治面では、摂政や関白を置かず自らが政治を行う積極的な姿勢を見せ、文化面では、『古今和歌集』の編纂を命じたばかりでなく、自らも歌を詠み私家集も編んだと伝えられている。なお、この時代の政治は、後世「延喜の治」と呼ばれ高く評価されたが、策謀家と言われる藤原時平を重用し、菅原道真(【注】二・70)を左遷したことについては、批判がなかったわけではない。
この一節は、醍醐天皇の文化的な側面を描いたものである。貫之も躬恒も優れた歌人ではあったが、天皇に謁見することができない地下(じげ)であった。古今集撰者(紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑)は、いずれも身分が低く、四人の中でも最高の官位であった紀友則でさえも六位相当の大内記であった。それよりも身分の低い貫之に対して、天皇が詠歌を直接に下命することなど全く異例のことであった。さらに躬恒の場合は、和歌に感じ入った天皇が自らの手でほうびを下賜したが、そのようなことは異例中の異例の出来事であった。 
かの遊女(あそび)どもの、歌よみ、感賜(たま)はるは、さぞ侍(はべ)る。院(ゐん)にならせ給(たま)ひ、都(みやこ)離れたる所なれば」と優(いう)にこそ、あまりにおよすけたれ。
この侍(さぶらひ)問(と)ふ、「円融院(ゑんゆうゐん)の紫野(むらさいの)の子(ね)の日(ひ)の日、曾禰好忠(そねのよしただ)いかに侍(はべ)りけることぞ」といへば、
《繁樹》「それそれ、いと興(きよう)に侍(はべ)りしことなり。さばかりのことに上下(かみしも)をえらばず、和歌を賞(しやう)せさせ給(たま)はむに、げに入(い)らまほしきことに侍(はべ)れど、かくろへにて、優なる歌をよみ出(いだ)さむだに、いと無礼(むらい)に侍(はべ)るべき。ことに、座(ざ)に、ただつきにつきたりし、あさましく侍(はべ)りしことぞかし。小野宮殿(をののみやどの)・閑院(かんゐん)の大将殿などぞかし、「引き立てよ、引き立てよ」と、おきてさせ給(たま)ひしは。躬恒(みつね)が別禄(べちろく)賜(たま)はるに、たとしへなき歌よみなりかし。歌いみじくとも、折節(をりふし)・きりめを見て、つかうまつるべきなり。けしうはあらぬ歌よみなれど、辛(から)う劣りにしことぞかし」といふ。
侍(さぶらひ)、こまやかにうち笑(ゑ)みて、「いにしへのいみじきことどもの侍(はべ)りけむは知(し)らず。なにがしもの覚(おぼ)えて後(のち)、不思議なりしことは、三条院(さんでうゐん)の大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)の出車(いだしぐるま)、大宮(おほみや)・皇太后宮(くわうたいごうぐう)より奉(たてまつ)らせ給(たま)へりしぞありしや。大宮の一(いち)の車の口(くち)の眉(まゆ)に、香嚢(かうのふくろ)かけられて、空薫物(そらだきもの)たかれたりしかば、二条(にでう)の大路(おほち)のつぶと煙(けぶり)満ちたりしさまこそめでたく、今にさばかりの見物(みもの)またなし」などいへば、世継(よつぎ)、
「しかしか、いかばかり御心(みこころ)に入れて、いどみせさせ給(たま)へりしかは。それに、女房(にようばう)の御心のおほけなさは、さばかりのことを、簾(すだれ)おろしてわたりたうびにしはとよ。あさましかりしことぞかしな。ものけ賜(たま)はる口に乗るべしと思(おも)はれけるが、しりに押し下され給(たま)へりけるとこそは承(うけたまは)りしか。げに女房の辛(から)きことにせらるれども、主(しゆう)の思(おぼ)し召(め)さむところも知(し)らず、男(をとこ)はえしかあるまじくこそ侍(はべ)れ。
おほかた、その宮には、心おぞましき人の御座(おは)するにや。一品(いつぽん)の宮(みや)の御裳着(もぎ)に、入道(にふだう)殿(どの)より、玉を貫(つらぬ)き、岩を立て、水を遣(や)り、えもいはず調(てう)ぜさせ給(たま)へる裳(も)・唐衣(からぎぬ)を、「まづ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、なかにも、とりわき思(おぼ)し召(め)さむ人に給(たま)はせよ」と申(まう)させ給(たま)へりけるを、さりともと思(おも)ひ給(たま)へりける女房の、賜(たま)はらで、やがてそれ嘆きの病つきて、七日といふに失(う)せ給(たま)ひにけるを、などいとさまで覚(おぼ)え給(たま)ひけむ。罪ふかく、まして、いかに物(もの)妬(ねた)みの心ふかくいましけむ」などいふに、あさましく、いかでかくよろづのこと、御簾(みす)のうちまで聞(き)くらむとおそろしく。
斯様(かやう)なる女・翁なんどの古言(ふること)するは、いとうるさく、聞(き)かまうきやうにこそおぼゆるに、これはただ昔にたち返り会(あ)ひたる心地して、またまたもいへかし、さしいらへごと・問(と)はまほしきこと多く、心もとなきに、「講師(こうじ)御座(おは)しにたり」と、立ち騒(さわ)ぎののしりしほどに、かきさましてしかば、いと口惜(くちを)しく、こと果(は)てなむに、人つけて、家はいづこぞと、見せむと思(おも)ひしも、講(こう)のなからばかりがほどに、そのこととなく、とよみとて、かいののしり出(い)で来(き)て、居(ゐ)こめたりつる人も、皆くづれ出づるほどにまぎれて、いづれともなく見まぎらはしてし口惜(くちを)しさこそ。何事(なにごと)よりも、かの夢の聞(き)かまほしさに、居所(ゐどころ)も尋ねさせむとし侍(はべ)りしかども、ひとりびとりをだに、え見つけずなりにしよ。
まことまこと、帝(みかど)の、母后(ははきさき)の御もとに行幸(みゆき)せさせ給(たま)ひて、御輿(みこし)寄することは、深草(ふかくさ)の御時よりありけることとこそ。それがさきは、降りて乗らせ給(たま)ひけるが、后(きさい)の宮(みや)、「行幸の有様(ありさま)見奉(たてまつ)らむ。ただ寄せて奉(たてまつ)れ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、そのたび、さて御座(おは)しましけるより、今は寄せて乗らせ給(たま)ふとぞ。
後日物語(二の舞の翁の物語)
皇后宮(くわうごうぐうの)大夫殿(だいぶどの)書きつがはれたる夢なり。
この年頃(としごろ)聞(き)けば、百日・千日の講(こう)行(おこな)はぬ家々なし。老いたるも若きも、後(のち)の世(よ)の勤(つと)めをのみ思(おぼ)しまうすめるに、一日の講も行はず、ただつらつらといたづらに起(お)き臥(ふ)してのみ侍(はべ)る罪ふかさに、ある所の千日の講、卯(う)の時になむ行ふと聞(き)きて参(まゐ)りたりけるに、人々(ひとびと)、所もなく、車もかちの人もありけむ。やや待てど講師(こうじ)見えず。人々のいふを聞(き)けば、「今日の講は、夕(ゆふ)つ方(かた)ぞあらむ」などいふに、帰らむも罪得がましく思(おも)ふに、百歳(ももとせ)ばかりにやあらむと見ゆる翁(おきな)の居(ゐ)たるかたはらに、法師の同じほどに見ゆる、人の中(なか)を分(わ)けてきて、この翁に、
《僧》「いとかしこく見奉(たてまつ)りつけて、あながちに参(まゐ)りつるなり。そもそも御前(おまへ)は、ひととせ世継(よつぎ)の菩提講(ぼだいこう)にて物語(ものがたり)し給(たま)ひし、あながちに居寄(ゐよ)りて、あどうち給(たま)ひしと見奉(たてまつ)るは、老法師(おいほふし)の僻目(ひがめ)か」
といへば、男(おとこ)、「さもや侍(はべ)りけむ」といふ。
《僧》「これはいで、興(きよう)ありて。その世継には、またや会(あ)ひ給(たま)へりし」といへば、
《翁》「後三条院(ごさんでうゐん)生れさせ給(たま)ひてなむ、会(あ)ひて侍(はべ)りし」といへば、「さてさていかなることか申(まう)されけむ。そのかみごろも、耳もおよばず承(うけたまは)り思う給(たま)へし。その後(のち)さまざま興(きよう)あることも侍(はべ)るを、聞(き)かせ給(たま)ひけむ。誠(まこと)に今の世
のこと、とりそへて宣(のたま)はせよ。あはれ、幾歳(いくとせ)にななり給(たま)ひ侍(はべ)りぬらむ」といへば、
《翁》「二の舞(まひ)の翁(おきな)にてこそは侍(はべ)らめ。さはあれど、聞(き)かむと思(おぼ)し召(め)さば、すこぶる申(まう)し侍(はべ)らむ。まづ、その年、万寿(まんじゆ)二年乙(きのと)の丑(うし)の年、今年己(つちのと)の亥(ゐ)の年とや申(まう)す。八十三年にこそ、なりにて侍(はべ)りけれ。いでや、なにばかり見聞(き)きたることの情(なさけ)も侍(はべ)らず。かの世継の申(まう)されしことも、耳にとどまるやうにも侍(はべ)らざりき」といへば、法師、
「いでいで、さりとも八十三年の功徳(くどく)の林(はやし)とは、今日の講(こう)を申(まう)すべきなめり。今も昔もしかぞ侍(はべ)りし。二の舞の翁、
物まねびの翁、僧(そう)らが申(まう)さむことを、正教(しやうげう)になずらへて、誰(たれ)も聞(きこ)し召(め)せ」といへば、翁、
「聞し召(め)し所(どころ)も侍(はべ)るまじけれど、かくせちにすすめ給(たま)へば、今はのきざみに、痴(をこ)のものに笑はれ奉(たてまつ)るべきにこそ。見聞(き)き侍(はべ)りしは、後一条院(ごいちでうゐん)、長元(ちやうげん)九年四月十七日失(う)せさせ給(たま)へる。天下(てんか)をしろしめすこと、二十一年。そのほど、いらなく悲しきこと多く侍(はべ)りき。中宮(ちゆうぐう)はやがて思(おぼ)し召(め)し嘆きて、同じ年の九月六日失(う)せさせ給(たま)ひにし。上東門院(じやうとうもんゐん)思(おぼ)し召(め)し嘆きしかど、これにも後(おく)れ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、一品(いつぽん)の宮(みや)・前斎院(さきのさいゐん)をこそは、かしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしか。院の御葬送(おほんさうそう)の夜(よ)ぞかし、常陸国(ひたちのくに)の百姓とかや、
かけまくもかしこぎ君が雲のうへに煙(けぶり)かからむ物(もの)とやは見し 
五月ばかり、郭公(ほととぎす)を聞(きこ)し召(め)して、女院(にようゐん)、
一言(ひとこと)を君に告げなむほととぎすこのさみだれは闇(やみ)にまどふと
この御思(おほんおも)ひに、源(げん)中納言顕基(あきもと)の君(きみ)出家(すけ)し給(たま)ひて後(のち)、女院に申(まう)し給(たま)へりし、
身を捨てて宿を出(い)でにし身なれどもなほ恋しきは昔なりけり
御返し、
時の間も恋しきことのなぐさまば世はふたたびもそむかれなまし
その時は、斯様(かやう)なること多く聞え侍(はべ)りしかど、数々(かずかず)申(まう)すべきならず。
後朱雀院(ごすざくゐん)位につかせ給(たま)うて、さはいへど、はなやかにめでたく世にもてなされて、しばしこそあれ、一(いち)の宮(みや)の方にゐさせ給(たま)ふ一品(いつぽん)の宮(みや)、后(きさき)にたたせ給(たま)ふ。後三条院(ごさんでうゐん)生れさせ給(たま)ひにしかば、さればこそ、昔の夢はむなしかりけりや。「なからむ末伝へさせ給(たま)ふべき君に御座(おは)します」とぞ、世継申(まう)されし。今后(いまきさき)、弘徽殿(こきでん)に御座(おは)しまし、春宮(とうぐう)、梅壷(うめつぼ)に御座(おは)しまして、先帝(せんだい)の一品(いつぽん)の宮、春宮(とうぐう)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて、藤壷(ふぢつぼ)に御座(おは)しまして、女院入らせ給(たま)ひて、ひとつにおほし奉(たてまつ)らせ給(たま)へる宮たち、いづれともおぼつかなからず見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふめでたさに、故(こ)院(ゐん)の御座(おは)しまさぬ嘆き、尽(つ)きせず思(おぼ)し召(め)したりけり。
関白(くわんばく)殿に養ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひし、故(こ)式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の姫君(ひめぎみ)、内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて、弘徽殿(こきでん)に御座(おは)しますべしとて、かねて后(きさい)の宮(みや)出(い)でさせ給(たま)ひしこそ、いかに安(やす)からず思(おぼ)し召(め)すらむと、世の人、悩みまうししか。明日まかでさせ給(たま)はむとて、上(うへ)にのぼらせ給(たま)ひて、帝(みかど)いかが申(まう)させ給(たま)ひけむ、宮、
今はただ雲居(くもゐ)の月をながめつつめぐりあふべきほども知(し)られず 
この宮に女宮(をんなみや)二所(ふたところ)御座(おは)します。斎宮(さいぐう)・斎院(さいゐん)にゐさせ給(たま)うて、いとつれづれに、宮たち恋しく、世もすさまじく思(おぼ)し召(め)すに、五月五日に、内(うち)より、
もろともにかけし菖蒲(あやめ)のねを絶えてさらにこひぢにまどふ頃かな
御返し、
かたがたにひき別れつつあやめ草あらぬねをやはかけむと思(おも)ひし
殿(との)の御もてなし、かたはらいたくわづらはしくて、ひさしく入らせ給(たま)はず。されど、この宮御座(おは)しますこそは、たのもしきことなれど、今の宮に男皇子(をとこみこ)うみ奉(たてまつ)り給(たま)ひてば、うたがひなき儲(まうけ)の君(きみ)と思(おぼ)し召(め)したる、ことわりなり。よき女房(にようばう)多く、出羽(いでは)・少将(せうしやう)・小弁(こべん)・小侍従(こじじゆう)などいひて、手書き・歌よみなど、はなやかにていみじうて、候(さぶら)はせ給(たま)ふ」 
 
 
将門記 / 物語の平将門

「しょうもんき」、「まさかどき」とも読む。承平・天慶の乱の実録。940年に成立したといわれるが、乱後数年ないし10年の後に成立したとする説もある。1巻。著者不詳。平将門が乱を起こし、平貞盛・藤原秀郷に滅ぼされた次第を和風化した四六駢儷体で記し、史料としてばかりでなく日本の戦記文学の端緒を開いたものとして注目される。すべての将門モノの原典である。 
1 発端
(将門記の冒頭部分は失われている。そのため、将門記の冒頭の内容に当たると思われる別の文章をここにあてはめる。)
『将門略記』冒頭部分
聞くところによれば、かの将門は昔の「天国押撥御宇(あめくにおしはるきあめのしたしろしめす)」柏原(桓武)天皇五代の後裔であり、三世高望王の孫である。その父は陸奥鎮守府将軍・平朝臣良持(よしもち)である。弟の下総介・平良兼朝臣は将門の伯父である。ところが、良兼は去る延長九年(931)に、少々女論(女性に関する紛争)によって叔父(舅)・甥の間ですでに関係が悪化していた。
「歴代皇紀」朱雀天皇条
将門合戦状にいわく、始め伯父・平良兼と将門と合戦し、次に平真樹に誘われて、承平五年二月、平国香ならびに源護(みなもとのまもる)と合戦した。
野本付近の合戦
裏等、野本□□□□(源)扶(みなもとのたすく=源護の子)らが陣を張って将門を待った。遙かにその軍の様子を見ると、いわゆる兵具の神に向かって旗をなびかせ、鉦を撃っていた。ここで将門は退こうと思っても退けず、進もうとしても進めなかった。しかし、身をふるいたたせて進み寄り、刃を交えて合戦した。将門は幸いに順風を得て、矢を射れば流れるようであり、予想通りに矢が命中した。扶らは励んだがついに負けた。このため亡くなった者は数多く、生存した者は少なかった。
その(承平五年二月)四日に、野本・石田・大串・取木などの住宅から初めて、扶の味方をした人々の小宅に至るまで、皆ことごとく焼きめぐった。□□□□□□□□火を逃れて出た人は矢に驚いて帰り、火中に入って泣き叫ぶ。□□□□□□□□の中、千年の貯えも一時の炎に焼失した。また筑波・真壁・新治の三郡の伴類の家が五百軒余り、あるものすべて焼き払った。悲しいことに男女は火のために薪となり、珍しい財宝は他人に分配されてしまった。三界の火宅(苦しみの多いこの世)の財産にはそもそも五人の持ち主があり、持ち主が変わって定まらない、というのは、こういうことを言っているのだろうか。その日の火が燃え上がる音は雷鳴のようにすさまじく響き渡り、その時の煙の色は、雲と争うかのように空を覆った。山王神社は煙の中で岩の影に焼け落ち、人の家は灰のようになって風の前に散ってしまった。国衙の役人・一般人民はこれを見て悲しみ嘆き、遠い者も近い者もこれを聞いて嘆息した。矢に当たって死んだ者は思いもかけず親子の別離となり、楯を捨てて逃れた者は予期せず夫婦の生き別れとなってしまった。
貞盛、去就に迷う
そのなかで平貞盛は朝廷に仕え、事件が起こる以前に花の都に参上し、経めぐるうちに詳しくことのいきさつを京都で聞いた。そこで貞盛が事情を考えてみるに、「自分はまさに常陸の前の大掾(三等官)・源護やその子息とはみな同族であった。しかし、まだ自分から加勢したわけでもないのに、その姻戚として縁があったがために、父・平国香の家はみなことごとく亡んでしまい、本人も死去してしまった」と。遙かにこの事情を聞いて、心中に嘆いた。財産については五人の主があるとかいうのだから憂い嘆くことはない。しかし、哀れなのは、亡父がむなしくあの世への別れを告げ、残された母一人が山野に迷っているという。朝には座ってこれを聞いては涙で顔を濡らし、夕方には横になってこのことを思っては愁えて胸を焼いた。
貞盛は哀慕の思いに耐えられず、休暇を申し出て故郷に帰った。ようやく私宅に着いて、亡父を煙の中に探し、母を岩の影に尋ねた。幸いに司馬(左馬允)の位に至ったというのに、帰郷してからは別鶴という曲のように嘆き悲しんだ。そして、人の口伝えで偕老の妻を得ることができ、人づてに連理の妻を得た。麻布の冠を髪につけ、菅の帯を藤の衣に結ぶという喪服姿とは悲しいことだ。冬が去り、春が来て、ついに親孝行ができなくなり、年が変わり季節が改まって、ようやく一周忌を済ますことができた。
貞盛がよくよく事情を調べてみると、将門は本来の敵ではなかった。これは自分たちが源氏の姻戚に連なっていたがためのことである。いやしくも貞盛は国家守護の職にある。都の官に戻って出世するべきである。しかし、やもめの母が家におり、子である自分以外にだれが養えようか。数々の田地は自分以外に誰が領有できようか。将門に和睦して、よしみを都と田舎で通じ合って、親しさを世間に広めよう。だから、このことを詳しく告げて、将門と親密にするのがよいだろう、と考えたのであった。 
2 良正との戦い
川曲村の合戦
こうして対面しようとしている一方で、故・上総介高望王の妾の子・平良正も、また将門の次の伯父であった。それゆえ、下総介の良兼朝臣と良正とは兄弟であって、二人ともあの常陸の前の掾である源護の姻戚であった。護はいつも、息子の扶・隆(たかし)・繁(しげる)らが将門のために亡くなったことを嘆いていた。しかし、下総介の良兼は上総国にいて、いまだこの事情を知らなかった。
良正一人が親類縁者のことを思い慕って、車のように常陸の国内を奔走する。ここで良正は外戚・源護一家の不幸に同情する余り、同じ平一族である将門との親族関係を忘れた。そこで干戈の計画を立て、将門の身を滅ぼそうとした。ときに、良正の縁者(源護一族)がその威力の準備を見て、いまだに勝負はわからないけれども、にっこり笑ってよろこんだ。常道に従って楯を負い、状況に従って出立した。
将門はこのことを伝え聞いて、承平五年10月22日、常陸国の新治郡川曲(かわわ)村に向かう。そこで良将(良正)は声を上げて予定通りに打ちあい、命を捨てて互いに合戦した。しかし、将門に運あって勝利し、良正は運がなくついに負けた。射取る者は60人余り、逃れ隠れた者は数もわからない。こうしてその22日に将門は本拠地に帰った。ここで良正とその一族・一時的同盟者は、兵の恥を他国でさらし、敵の名声を上げることになってしまった。情けないことに静かで動かない雲のような心を動かして、疾風の影を追いかけてしまったのである。 
3 良兼との戦い
反将門の軍兵が結集
しかし、会稽の恥をすすぐ思いが深いため、まだ敵対心を発する。そのため兵力不足の由を記して長兄・下総介良兼に文書を奉った。その文書には「雷電が響きを起こすのは、風雨の助けによるものであり、おおとりが雲をしのいで飛ぶのは、その羽の力によるものです。願わくば協力を仰いで、将門の乱悪を鎮めましょう。そうすれば国内の騒ぎは自ずから鎮まり、上下の動きも必ず鎮まるでしょう」とあった。
下総介良兼は口を開いて、「昔の悪王も父を殺害する罪を犯したのだ。今の状況で、どうして甥の将門を強くするような過ちを我慢できようか。弟の言うことはもっともだ。その理由は、姻戚の護の掾に近年愁えることがあったからだ。いやしくも良兼はその姻戚の長である。どうして力を与える心がなかろうか。早く武器を整え、密かに待つべきだ」と言った。良正は龍が水を得たように心が励まされ、前漢の武将・李陵のように戦意を燃やす。
これを聞いて、先の(川曲村の)合戦で射られた者は、傷を治してやってきたし、その戦で逃れた者は、楯を繕って集まった。
こうしているうちに、下総介良兼は兵を整えて陣を張り、承平6年6月26日をもって、常陸国を指して雲のように兵が集まってきた。上総・下総は禁圧を加えたけれども、親戚を訪ねるのだと称して集まる者が多く、あちこちの関所を通らず、上総国武射郡の小道から、下総国香取郡の神崎にたどり着いた。その渡しから常陸国信太郡[艸+奇]前(えさき)津に着き、その翌日の早朝、同国水守(みもり)の営所に着いた。
下野国庁付近の戦い
この夜明けに、良正が参上して将門の不審な点について述べる。そのついでに、貞盛は昔なじみの思いから、下総介良兼に対面した。介は、「聞いたとおりであれば、私に身を寄せている貞盛は将門と親密な関係である。ということであれば、これは武士らしからぬ者である。兵は名誉を第一とする。どうしていくらかの財物を奪い取って我がものとされ、いくらかの親類を殺害されたからといって、その敵にこびへつらうことがあろうか。今、ともに協力を得て、是非を定めるべきである」と言う。貞盛は人の言葉に乗せられやすいため、本意ではなかったけれども、暗に同類となり、下毛野国を指して、大地をとどろかせ、草木をなびかせ、一列に出発した。
ここに将門は緊急の知らせがあったので、それが本当かどうかを確かめるために、ただ百余騎を率いて、同年10月26日(正しくは7月26日)に下毛野国の国境に向かった。実状を見ると、例の敵は数千ほどある。おおよそ良兼方の陣の様子を見ると、あえて敵対できそうにない。その理由はなぜかといえば、下総介はいまだ戦いによって消耗しておらず、兵・馬はよく肥えていて、武器もよく備わっているからである。将門はたびたび敵に痛めつけられていて、武器はすでに乏しく、兵力も手薄である。敵はこれを見て、垣のように楯を築き、切り込むように攻めてきた。将門はまだ敵軍が攻めてこないうちに先手を打って歩兵で急襲し、だいたいの戦いの決着をつけさせて、射取った騎兵は80余りであった。下総介は大いに驚き、おびえて、みな楯を引いて逃れていった。
将門は鞭を上げ、名乗りを上げて追討したが、そのとき、敵はどうしようもなくなって、国府の中に籠城した。ここで将門が思うには、「まことに毎晩の夢に見る敵であるといえども、血筋をたどれば遠くはなく、家系をたどれば骨肉の親族である。夫婦は瓦が水を漏らさないように親密だが、親戚は葦葺きが水を漏らすように疎遠であるというたとえもある。もし思い切って殺害すれば、遠近から非難の声も起こるのではないか。だからあの下総介一人の身を逃そう」と考えて、すぐに国庁西方の陣を開いて、下総介を逃れさせたついでに、千人余りの兵がみな鷹の前の雉のように命を助けられ、急に籠を出た鳥のように喜んだ。
その日、例の下総介の無道の合戦の事情を在地に触れ知らせるとともに、国庁の記録に記しとどめた。その翌日、将門の本拠地に帰った。これ以降、特別のことはなかった。
将門、恩赦に遭う
そうこうしているうち、前大掾・源護の訴状により、その護と犯人・平将門と平真樹らを召し進めるべき由の官符、去る承平5年12月29日の符が、同6年9月7日に到来したが、これは左近衛の番長・正六位の上・英保純行(あなほのすみゆき)、英保氏立、宇自加支興らを使者として、常陸・下野・下総などの国に派遣されたものである。
そのため将門は原告より先に同年10月17日急いで上京し、すぐに朝廷に参内して、つぶさに事のよしを奏上した。幸いに天皇の判決をこうむり、検非違使に捕らえ調べられるうち、理路整然と語ることには長けていなかったものの、神仏の感応があって、ことを論ずるに理がかなっていた。天皇のお恵みがあった上に、百官の恩顧があって、犯した罪も軽く、罪過も重くなかった。かえって武勇の名声を畿内に広め、京中に面目を施した。
京都滞在中に天皇の大いなる徳にて詔が下され、暦が改められた。〔承平八年を天慶元年としたことをいう〕ゆえに、松の緑の色は千年もの恒久の繁栄をことほぐかのように輝きを増し、蓮の糸は十種の善の蔓を結ぶ。今や、多くの人民の担った重い負担は、大赦令によって軽減され、八つの重罪は、犯人から浅くされる。将門は幸いにこの仁風に遭って、承平7年4月7日の恩赦によって、罪に軽重なく、喜びのえくぼを春の花のように浮かべ、郷里に帰ることを五月になって許された。かたじけなくも、燕丹のように辞して、嶋子のように故郷に帰る〔昔、燕の王子・丹は秦の始皇帝に人質となっていたが、長年過ごした後、燕は暇を請うて故郷に帰ろうとした。始皇帝は、烏の首が白く、馬に角が生じたときには帰ることを認めよう、と言った。燕丹が嘆いて天を仰ぐと、烏はこのために首が白くなり、地に伏すと、馬はこのために角を生じた。始皇帝は大いに驚き、帰るのを許した。また、嶋子(浦島太郎)は幸いに常楽の国に入ったけれども、故郷の廃墟に帰った。それゆえ、この句がある〕。北方産の馬は北風が吹くといななき、南方産の鳥は南向きの枝に巣を作るという。ましてや、人間であれば信条として、どうして故郷を懐かしむ心がないはずがあろうか。 
4 良兼との戦い2
子飼の渡の戦い
こうして同年5月11日をもって都を辞してみすぼらしい自宅に着く。まだ旅の脚を休めず、まだ十日・一月を経ていないうちに、例の下総介良兼、前々からの怨みを忘れておらず、やはり敗戦の恥をすすごうと思った。ここ数年準備した軍備は、平常と違って優れていた。
そうして8月6日に常陸・下総両国の境にある子飼の渡を囲んできた。その日の陣立ては、霊像を陣の前に張り飾った〔霊像というのは、故・上総介・高茂王(将門の祖父・高望王)の形と、故・陸奥将軍・平良茂(将門の父・良持)の形であった〕。精兵を整えて将門を襲い、攻めた。その日の明神には将門への怒りがあって、将門は何もできなかった。従う兵が少ない上、準備もすべて劣っていて、ただ楯を背負って帰る。このとき、下総介は、下総国豊田郡栗栖院常羽御厩(くりすのいんいくはのみまや)や人民の家を焼き払った。このとき、昼は人家の食事の火の始末をし終えたのにかかわらず、奇怪な灰が家ごとに満ち、夜は民のかまどの煙が立ち上らず、漆のように焼けこげた柱が家々に立ち並んでいた。煙ははるかに空を覆う雲のように広がり、良兼軍のかがり火は地に星が散っているようであった。
同7日をもって、敵は勇猛の武名を将門から奪い取って、いちはやく去っていき、将門は深い怨みを抱いたまましばらく潜伏した。
堀越の渡の戦い
将門は、一つには武名を後代に残そうと望み、また合戦の状況を一両日のうちに変えようとして、構えた鉾・楯は370枚、兵士は倍増させた。同月17日をもって、同郡下大方郷の堀越の渡しに人を固めて待った。例の敵は予期したとおり、雲のように立ち現れて、雷のように響きを立てた。その日、将門は急に脚の病になって、朦朧としてしまった。まだそれほど合戦していないのに、伴類は算木がバラバラになるように打ち据えられて散ってしまった。残った民家は、敵のためにみなことごとく焼けてしまった。郡中の農耕作物、人馬ともに損害を被った。千人も駐屯するところには草木が繁茂しない、というが、このことをいうのだろうか。
その時、将門は身の病をいたわるため、妻子を隠して、ともに猿島郡葦津江の辺に宿った。非常事態の恐れがあるので、妻子を船に乗せて広河の江に浮かべた。将門は山を伝って陸閉の岸におり、一両日を経る間に、例の敵が18日には分散していった。19日には敵の介が猿島の道をとって上総国に渡っていった。その日、将門の妻は船に乗って彼方の岸に寄せている。このとき、かの敵らが通報人の助けを得て例の船を訪ねていって取った。7〜8隻のうちに掠奪された雑物・道具類は3000あまりになった。妻子も同じく取られた。そうして20日に上総国に渡った。ここにまさかどの妻は夫のもとから離れて抑留され、大いに怒り、怨んだ。その身は生きているが、魂は死んだようだった。旅の宿に慣れていないこともあるが、興奮して眠れず、仮眠しかできない。なんの利益があろうか。妻妾は常に貞婦の心を持ち、韓朋とともに死にたいと願う(中国戦国時代の宋の韓朋は、美人の妻を康王に奪われて悲しんで自殺した)。夫は漢王(玄宗)のように、楊貴妃の魂を訪ね求めるかのごとくである。謀議をめぐらすうちに数旬が経ってしまった。なお恋うているが、会う機会がなかった。その間、将門の妻の弟らがはかりごとをして、9月10日、ひそかに豊田郡に帰らせた。すでに親族たちに背いて、夫のもとに帰ったのだった。たとえるならば、遼東の女が夫に従って父の国を討ったという話のようなものだ。
弓袋山の対陣
しかし、将門はやはり伯父と前世からの仇敵のごとく、互いに戦い続けた。このとき、介の良兼は親類縁者がいるために常陸国にたどり着く。将門はこのことを聞いて、また征伐しようと思った。備えた兵士1800余人、草木ともになびかせ、(9月)19日に常陸国真壁郡に出発した。そして、例の介のいる服織の宿から始めて、与力・伴類の家をある限り焼き払った。一両日のあいだに例の敵を追い求めるが、みな高山に隠れて、いることがわかっているのに会えなかった。
逗留するうちに、筑波山にいると聞き、(9月)23日に数をそろえて出発した。実状を探ってみると、例の敵は弓袋の山の南の谷からはるかに千人あまりの声を聞いた。山は響き、草は動いて、車のきしむ音、罪人を責める声がやかましく響き渡った。将門は陣を固め、楯を築いて、書簡を送ったり、兵士を進め寄せたりした。
ときに暦でいう孟冬(陰暦十月)、時刻は黄昏ごろである。各々楯をひき、陣の守りを固めた。昔から今に至るまで、敵を苦しめるには、昼の間は矢をつがえて、その八が敵に当たるのを見極める。夜は弓を枕とし、敵が心を励まして攻めてくるのを危ぶむ。風雨のときには、蓑笠を家とし、露営の身には蚊や虻が仇である。しかし、両陣営とも敵を怨んでいるために、寒さ暑さをかえりみずに合戦する。このたびの軍事行動は秋の収穫の名残があった。稲束を深い泥に敷いて人馬をたやすく渡すことができた。まぐさを食べ過ぎて死んだ牛は10頭、酒に酔って討たれた者も7人いた。〔真樹の陣中の人は死んでいない〕悔しいことに数千の家を焼き、悲しいことに何万もの稲を滅す。ついに敵に会うことなくむなしく本拠地に帰った。
将門の駈使・子春丸、間諜となる
その後、同年11月5日、介の良兼・掾の源護ならびに掾の平貞盛・公雅・公連・秦清文ら、常陸国の敵たちを将門に追捕させるという官符が、武蔵・安房・上総・常陸・下毛野などの国に下された。ここに至って、将門は非常に意気を上げ、力づいた。しかし、諸国の国司は官符を受けながら、実行しようとせず、進んで探索しようとしなかった。そして、介の良兼はなおも忿怒の毒を含み、いまだ殺害の気持ちを止めようとしなかった。ついでを求め、隙を狙って、いずれ将門を討とうと欲した。
ときに将門の駈使(雑用に使われる者)丈部(はせつかべノ)子春丸が縁あってしばしば常陸国石田庄の辺の田屋と往来していた。そこで例の介が心中に思うには、「人を陥れようとして激しく言い立て、たのみ乞い求めれば、岩をもうちやぶり、山を傾けるほどの強い力となる。子春丸の注進を得て、将門らの身を殺害せねばならない」と。そこで子春丸を召し取って、様子を聞いた。「大変よいことであります。今こちらの農民一人を渡してください。連れて帰ってあちら側の様子を見せさせましょう」云々と答える。介は喜び楽しむことがはなはだしく、東絹1疋を賜って、「もし汝の情報によって将門を謀害することができれば、汝の苦役をなくし、必ず乗馬の郎党に取り立てよう。穀米を積んで勇気を鼓舞したり、衣服を与えて賞するよりもいいだろう」と言った。子春丸は、駿馬の肉を食べれば身体を損なうということを知らなかった。鴆毒の甘さによって喜んでいた。
そこで例の農民を連れて、私宅の豊田郡岡崎の村に帰った。その翌日早朝、子春丸とその農民は、各々炭を背負って将門の石井(いわい)の営所に至った。一両日宿直警備しているあいだに使者を招き入れて、その兵具の置き場所、将門の夜の寝所、東西の馬場、南北の出入りをすべて見知らせた。
石井の迎撃戦
この使者は帰っていって、くわしくこの事情を伝えた。介の良兼は夜討ちの兵を整え、同年12月14日の夕方、石井の営所に派兵した。その兵類は、一騎当千の者ばかり80余騎、すでに養由の弓を張り〔漢書にいう、養由とは弓をとれば空の鳥が自ら落ち、百発百中の弓の名手である〕、解烏の矢入れを背負い〔淮南子にいう、夷ゲイという弓師が堯帝の時代にいた。十個の太陽が現れたとき、この人が射て、九個の太陽を射落とした。その太陽に金の烏がいた。そのため解烏と名付けたという。上等の兵士のたとえである〕、駿馬の蹄を催し〔晋代の詩人・郭璞は、駿馬は生まれて三日でその母を超え、一日に百里を行く、という。ゆえに駿馬にたとえたのである〕、李陵の鞭を揚げて、風のように疾駆していき、鳥のように飛びついた。
亥の刻(午後十時)に結城郡法城寺(結城寺?)に突き当たる道に出て、到着するころ、将門の一騎当千の兵が暗に夜討ちの気配を知った。介の軍の後陣にまじってゆっくりと進んでいくと、一向にばれなかった。そこで鵝鴨(かも)橋の上からひそかに先に進み出て、石井の宿に馳せ参じ、つぶさに事情を述べた。主従ともに騒ぎ恐れて、男女ともに騒いだ。
ここに敵たちは卯の刻(午前6時)に包囲した。このとき、将門の兵は10人にも満たなかった。声を上げて告げて言うには、「昔聞くところによると、由弓〔人名〕は爪を楯として数万の敵に勝ち、子柱〔人名〕は針を立てて千もの鉾を奪った、という。まして私には猛将・李陵の心がある。お前たちは決して顔を後ろに背けるようなことがあってはならない」と。
将門は眼を見開き、歯を食いしばり、進んで撃ちあった。このとき、例の敵たちは楯を捨てて雲のように逃げ散ってしまった。将門は馬に乗って風のように追い攻める。逃げる者は猫に出会った鼠が穴を失ったようにあわてふためき、追う者は、雉を攻める鷹が鷹匠の手袋を離れていくようであった。第一の矢で上兵・多治良利を射取り、残った者は九牛の一毛ほどもいなかった。その日殺害された者は40人あまり、生き残った者は天運に恵まれたがために逃れていったのだ。〔ただし、密告者・子春丸は天罰あって事が露見し、承平8年正月3日に捕らえ殺されてしまった〕 
5 貞盛の逃避行
信濃千曲川の戦い
この後、掾の貞盛が三度も自分のことを振り返って思うには、「身を立てて徳を修めるには、朝廷に仕える以上のことはない。名誉を損ない、実利を失うのは、悪いことをする以上のことはない。清廉潔白であってもアワビの部屋に泊まれば、生臭い臭気を同じように受けてしまう。しかし、本文に言うとおり、前生の報いとして貧しいことは憂うことではなく、後生に悪名が残るのを悲しむ、という。悪行の満ちる東国の地を巡り歩いていれば、必ず不善の名声があることだろう。イバラで作った門を出て花の都に上り、立身出世するのが一番いい。それだけではなく、一生はほんの隙間のようなものである。千年栄える者は誰もいない。正しい暮らしを進んでおこない、ものを盗む行為をやめるべきだ。いやしくも貞盛は朝廷に仕え、さいわいに司馬(左馬允)の列に加わることができた。それなら朝廷に勤めて成績を重ね、朱紫(四位・五位)の衣をいただこう。そのついでに、快く我が身の愁いなどを奏上することができよう」と。
承平8年春2月中旬に、東山道から上京した。
将門は詳しくこの言葉を聞いて、判類に行った。「讒言するような人の行ないは、自分の上に忠節の人がいることを憎むものである。邪悪の心は、富貴な者が自分の上にいることをねたむものである。これは、蘭の花が咲き誇ろうとしても、秋風がさまたげ、賢人が英明の名を立てようとしても、讒言する者がこれを隠す、というものである。今、例の貞盛は、将門からの恥への復讐が遂げられず、報いようとして忘れることができない。もし都に上京したならば、将門の身を讒言するだろう。貞盛を追いとどめて、踏みにじるのが一番だ」と。そこで100騎あまりの兵を率いて、緊急に追っていった。
2月29日、信濃国小県郡の国分寺のあたりに追いついた。そこで千曲川を挟んで合戦する間に、勝負はつかなかった。そのうち、敵方の上兵・他田(おさだ)真樹が矢に当たって死に、味方の上兵・文屋{ふんや}好立は矢に当たったが生き延びた。貞盛は幸いに天命があって、呂布の鏑を免れて、山の中に逃れ隠れた。将門は何度も残念がって首をかき、むなしく本拠に戻った。
貞盛の逃避行
ここで貞盛は千里の旅の糧食を一時に奪われてしまい、旅空の涙を草にそそいで泣いた。疲れた馬は薄雪をなめつつ国境を越え、飢えた従者は寒風にさらされて憂いつつ上京した。しかし、生き延びる天運に恵まれて、なんとか京都に着いた。そこでたびたびの愁いの内容を記して太政官に奏上し、糾問すべきであるという天皇の裁許を、将門出身国(下総国)に賜った。
去る天慶元年(※2年)6月中旬に、京から在地に下って後、官符をもって糺そうとしたけれども、例の将門はいよいよ悪逆の心を持って、ますます暴悪をなした。そのうちに、介の良兼朝臣、6月上旬に亡くなった。考え沈んでいるうちに、陸奥守平維扶(これすけ)朝臣が同年冬10月に任国に就任しようとするついでに、東山道から下野の国府にたどり着いた。貞盛はその太守と知り合いの間柄だったので、ともに奥州に入ろうと思い、事情を話して聞かせたところ、「わかった」ということであった。
そこで出発しようとしていたうちに将門が隙をうかがって追ってきて、前後の陣を固めて、山狩りをして潜伏している身を探し、野を踏んで足跡を探した。貞盛は天運があって、風のようにすばやく通過し、雲のようにすばやく身を隠す。太守は思い煩って、ついに見捨てて任国に入っていってしまった。
その後、朝には山を家とし、夕には石を枕としなければならなかった。凶悪な賊らのおそれはますます多くなり、非常の疑いも倍増した。ぐずぐずとして国の周辺を離れず、ひそひそと逃げ隠れして山の中から外に出ない。天を仰いで世間の不安な様子を嘆き、地に伏しては我が身一つ持ちこたえられないありさまを嘆き悲しんだ。悲しみ、そして傷む。身を厭うけれども捨てるわけにもいかない。鳥のうるさいのを聞けば、例の敵がほえ立てているのかと疑い、草が動くのを見れば密告者が来たのかと驚く。嘆きながら多くの月日を過ごし、憂えながら日々を送る。しかし、このころは合戦の音もなく、ようやく朝から晩までの不安な心を慰めた。 
6 武蔵国の争い
武蔵国国郡司の戦い
そんななか、去る承平8年2月中に、武蔵権守の興世王・介の源常基と、足立郡の郡司判官・武蔵武芝とが互いに相手の政治が悪いということについて争った。
聞いたところによれば、「国司は無道を常のこととし、郡司は理にかなった正しい行いをして、それを自分のよりどころとしていた。なぜならば、たとえば郡司武芝は公務を怠りなく励み勤めており、誉れあってそしられることはない。いやしくも武芝の治郡の名声は広く武蔵国中に聞こえ、民を慈しみ育てる方策は広く民衆に行き渡っていた。代々の国司は、郡内からの納税が欠けているなどわざわざ求めようとはせず、その時々の国司は納期の遅れについてどがめだてしなかった。ところが、例の権守は、正式任命の国司がまだ着任しないうちにむりに国内の諸郡に入ろうとした」という。
武芝が事情を調べたところ、「この国は前例として正式の着任以前に権官が入ってくるということはない」という。
国司は郡司が無礼だと言って思うままに武力を行使し、押し入ってきた。武芝は国司の公の権力を恐れたため、しばらく山野に隠れた。思ったとおり武芝のところの屋敷や近くの民家を襲ってきて、底をさらうように掠奪していき、残った家は封印して捨て去った。
例の守・介の行いを見るなら、主人は暴君として有名な仲和のような行ないをし〔『華陽国志』にいう。仲和は太守として、課税を重くし、財を貪り、国内から搾取した〕、従者は野蛮な心を抱いた。主は、箸で肉をつつくように、申し合わせて、骨を破り、膏を取り出すようなくわだてをし、従者は、アリのように、手を分けて財を盗み隠して運ぶ思いに専念した。国内のしぼみ衰える様子を見るに、平民を消耗させてしまう。
さて、国の書記官らは、越後国の前例どおり、新たに悔い改めることを求める書を一巻作り、役所の前に落としておいた。これらのことはみなこの国・郡のあいだではよく知れ渡ったことであった。武芝はすでに郡司の職についていたけれども、もともと公のものを私物化したという噂もなく、掠奪された私物を返し受けることを文書によって上申した。ところが、これをただすような行政はなく、国司はひたすら合戦しようという姿勢を見せたのである。
将門、武蔵国の争いに介入する
そのとき将門が急にこの事情を聞いて従者に、「かの武芝らは私の近い親族ではない。また、かの守・介は、わが兄弟の血縁ではない。しかし、彼らの争いを鎮めるために、武蔵国に向かおうと思う」と言った。そして、自分の兵を率いて、武芝のいる野原に到着した。
武芝は「例の権守ならびに介らは、ただひたすら軍兵を整備して、みな妻子を連れて比企郡狭服山に登っている」と言った。将門と武芝はともに国府を指して出発した。
このとき、権守・興世王がまず出発して国府の役所に出た。介の経基はまだ山の中から離れなかった。将門が興世王と武芝との和議を成立させようとして、おのおの酒杯を傾けて、お互いに歓談した。その間に、武芝の後陣は、特に理由なく、経基の営所を囲んでしまった。介の経基はまだ兵の道に慣れておらず、驚いて散り散りになったということがたちまち府中に伝わった。そこで将門が乱悪を鎮めようと思った意図は、食い違ってしまった。興世王は国府にとどまり、将門らは本拠地に戻った。
ここに経基が心中思うには、「権守と将門とは、郡司武芝にそそのかされて、経基を討伐しようとしたのだ」という疑いを抱いて、深い怨みを持って京都に逃れていった。さて、興世王・将門らへの怨みをはらすために、虚言を心の中に作って、謀叛の由を太政官に奏上した。これについて、京の中は大いに驚き、御所の内も都の中も騒々しくなった。
ここに将門が私淑していた太政大臣(藤原忠平)家は、事実かどうかを明らかにせよとの命令文書で、天慶2年3月25日に、中宮少進多治真人助真のところに寄せて下された状が、同月28日に将門に届けられたという。さて将門は常陸・下総・下毛野・武蔵・上毛野五か国の解文(公文書)を取って、謀叛は無実であるとの由、同年5月2日に申し上げた。
その間、介の良兼朝臣は六月中旬、病の床に伏しながら、髪を剃って出家した上で亡くなってしまった。その後はとりたてて言うべきこともない。
そのころ、武蔵権守の興世王と新しい国司の百済貞連とは不和であった。姻戚関係でありながら、国衙の会議に列席しない。興世王は世を怨んで下総国に身を寄せた。そもそも諸国の考課基準である善を記した文書によって、将門に考課があるべきだとの由が宮中で議論された。幸いに恵み・恩恵を国内に受けて、それによって威勢を他の国にも広げることができるであろう。 
7 常陸・下野攻略
藤原玄明の乱行
その間、常陸国に居住する藤原玄明(くろあき)らは、もともと国の秩序を乱す人であり、民の毒害であった。収穫期には一町以上の広い土地の収穫物を掠奪し、公の租税については少しも納入しない。ことあるごとに、徴税のために派遣された国の役人が来れば責め立て、弱い一般民衆の身を脅かしたり連れ去ったりする。その行いは蝦夷よりひどく、その考え方を聞けば盗賊そのものである。
時に、長官(常陸介)藤原維幾朝臣が、公のものを納入させるためにたびたび公文書を送ったが、対抗して拒絶するばかりで、府に出頭しようとしない。公に背いて勝手に非道を行ない、私腹を肥やして国内各所に乱暴を働いた。
長官は度重なる玄明の罪過を記し集め、太政官符の趣旨によって追捕しようとしたところ、急に妻子を引き連れて下総国豊田郡に逃れたが、そのついでに行方(なめかた)郡・河内郡の不動倉(非常用倉庫)の保存用の稲を盗んでいった、と、その地の郡司の日記にある。
さて、玄明を捕らえて送れという趣旨の移牒を、常陸国から下総国ならびに将門に送ってきた。しかし、将門は、すでに逃げてしまったと称して、捕らえて渡すつもりがなかった。そもそも、国のために宿世の仇敵となったのであり、郡のために暴悪の行いをしたのだ。玄明は変わるところなく街道を行き来する人の荷物を奪って、妻子の暮らしをうるおし、常に人民の財産を掠めて、従者たちを喜ばせたのであった。
将門はもとから世にはぐれた人を救って意気を上げ、頼るところのない者を庇護して力を貸してやってきた。そんなところへ玄明らは、かの介の維幾朝臣のためにいつも道理に反する心を抱き、蛇の猛毒を含んでいた。あるときは身を隠して誅殺しようと思い、あるときは実力を行使して合戦を挑もうとした。玄明は試しにこのことを将門に話してみた。すると、力を合わせるような様子があった。そこでますますほしいままに猛々しく振る舞い、すべてをあげて、全力で合戦の手配をし、内々の打ち合わせも終わらせた。
常陸国衙攻略
国内の武器を集め、国外から兵士を徴発した。天慶2年11月21日、常陸国に渡った。国はかねてから警固を備えて、将門を待っていた。将門が宣告するには、「例の玄明らを常陸国内に住まわせて、追捕してはならないという文書を国衙に奉る」という。しかし、承諾せず、合戦するという内容の返事が送られてきた。そうして互いに合戦するうちに、国の軍は3000人、すべて討ち取られてしまった。将門に従う兵はわずかに1000人余り、国府の町を包囲して、東西に行き来させなかった。長官は将門の契約に従い、詔書を都から持ってきていた使いも自ら罪に服して首を垂れてかしこまっていた。
世間の綾織りの布や薄地の絹は、雲のように多くを人民に施し与え、すばらしく珍しい宝物は算木を散らしたように散りばめて分配した。1万5000もの膨大な絹布はまわりもののごとくばらまかれ、300あまりの民家は滅んで一瞬の煙になってしまった。屏風に描かれた西施のような美女は急に裸体にひきむかれ、国府に住む僧侶・一般人はひどい目にあい、殺害されそうになった。金銀を彫った鞍、瑠璃をちりばめた箱は幾千、幾万だろうか。家々のわずかのたくわえ、わずかの珍しい財宝は、だれが取って持っていってしまったかわからない。国家公認の僧尼は一時の命を下級兵に請い、わずかに残っていた役人や女たちは生き恥を受けた。かわいそうに、介は悲しみの涙を緋色の衣のすそでぬぐい、かなしいことに、国衙の役人は両膝を泥のうえに屈してひざまずかされた。まさに今、乱悪の日、太陽が西に傾き、乱れきった翌日の朝、印鎰(いんやく。国印・国倉の鍵)を奪われた。こうして、長官(介)・詔使を追い立て、付き従わせることが終わってしまった。役所に勤める人々は、嘆き悲しんで役所の建物に取り残され、従者たちは主人を失って道路のわきでうろうろしている。
29日になって、豊田郡鎌輪の宿に戻った。長官・詔使を一つの家に住まわせたが、いたわりをかけたけれども、夜も寝られず、食も進まない様子であった。
板東八国虜掠の会議
このとき、武蔵権守の興世王が密かに将門に相談するには「事情を見るなら、一国を討ったとしても国家のとがめは軽くない。同じことなら板東の地をかすめ取って、しばらく様子をうかがおう」という。将門は答えて「将門が思うことはこのことだけだ。その理由は何かといえば、昔、斑足王子は天位に登ろうとして、まず千王の首を斬った。ある太子は父の位を奪おうとして、父を七重の獄に入れた。いやしくも将門は桓武天皇の裔である。同じことなら八国から始めて、京都の都城もかすめ取ろうと思う。今はまず諸国の印鎰を奪い、受領(国守)のいる限りすべて都に追い払ってしまおう。それならば、八国を手に入れる一方で、多くの人民を手なずけることができよう」というので、重大な謀議が終わった。
下野国衙攻略
また数千の兵を率いて、天慶2年12月11日、まず下野国に渡った。各々が龍のような馬に乗っており、みな雲のような従者を率いていた。鞭を上げ、蹄を動かして、まさに万里の山を越えようというところ。みな心ははやり、高ぶって、十万の軍にも勝ちそうだった。国衙に到着して、その儀式を行なった。このとき、新しい国司の藤原公雅・前の国司の大中臣全行朝臣らは、かねてから将門が下野国を奪おうとしている様子を見て、まず将門を再拝し、印鎰を捧げ、地にひざまずいて授けた。
このような騒動の間に、館内も国府の周辺もすべて領有された。強くてよくできる使者を送って、長官を都に追わせた。長官が言うには「天人には五衰あり、人には八苦がある。今日苦しみに遭ったとして、どうしようもないことだ。時は改まり、世は変化して、天地は道を失う。善は伏せ、悪は起こり、神も仏もない時代になっている。ああ、悲しいことだ。時もあまり経っていないのに西の朝廷に帰らねばならず、占いの亀甲がまだ使われずに新しいのに東国から去らねばならない〔下野守の任期中にこのような愁いにしずまねばならないことを言っている〕。御簾の中にいた子供や女は、車を捨てて霜の中の道を歩かねばならず、館の外に済んでいた従者たちは、馬の鞍を離れて雪の坂に向かう。治世の初めには朋友の交わりが固く、任期中の盛りには爪を弾いて嘆息する。4度の公文書を取られてむなしく公家に帰り、国司任期中の俸禄を奪われて、暗澹たる旅に疲れてしまう。国内の役人や人民は眉をひそめて涙を流し、国外の役人の妻女は声を挙げてあわれんだ。昨日は他人の不幸と思って聞いていたが、今日は自らの恥となる。だいたいの様子を見ると、天下の騒動、世間のおとろえはこれに勝るものはない」と。嘆き繰り言を言う間に、東山道から追い上げることは終わった。 
8 新皇
将門、新皇と称する
将門が天慶2年12月15日、上毛野に移る途中、上毛野の介である藤原尚範(ひさのり)朝臣は、印鎰を奪われ、19日には使者に付き添われて都に追い上げられた。その後、国府を占領して国衙政庁に入り、四門の陣を固め、諸国の官の任命を行なった。
このとき、一人の昌伎(巫女/遊女?)が、「八幡大菩薩の使い」と口走り「朕の位を蔭子(五位以上の人の子)平将門に授け奉る。その位階文書は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂が述べ伝える。右・八幡大菩薩、八万の軍を起こして、朕の位を授け奉るであろう。今、三十二相の音楽によってこれを迎えよ」と。
ここに将門は首をさしのべて二度拝礼した。また、武蔵権守(興世王)と常陸掾藤原玄茂らがこのときの取り仕切り人として喜ぶ様子は、貧者が富を得たようであり、笑う様子は蓮の花が開いたようであった。このとき、自ら諡号を奏上させ、将門を新皇と呼んだ。
藤原忠平宛の上書
さて、公家(忠平)に事情を伝える手紙にこうある。
将門、謹んで申し上げます。あなたの教えをこうむらないまま多くの歳月をすごしました。拝謁を望んでおりますが、このあわただしい折、何を申し上げられましょうか。伏して高察を賜るならばありがたい幸せであります。
さて、先年、源護らの訴え状によって将門を召されました。官符は恐れ多いため、急ぎ上京し、つつしんでおそばにおりました間、仰せを承りまして、「将門はすでに恩赦の恵みにあずかった。そのため、早く返して遣わす」ということでしのたで、本拠地に帰り着くことができました。その後、兵のことは忘れてしまい、あとは弓の弦をゆるめて安らかに暮らしておりました。
その間に、前の下総国介・平良兼が数千の兵を興して将門を襲い攻めました(※子飼の渡の戦い)。敗走することもできずに防いでいるうちに、良兼のために人やものが殺されたり壊されたり奪われたりしたという事情については、詳しく下総国の上申書に書き記して、太政官に申し上げました。ここに朝廷は「諸国が力を合わせて良兼らを追捕せよ」という官符を下されました。それなのに、さらに将門を召喚するという使いが送られました。しかし、心中不安でならないので、結局上京することなく、官使の英保(あなほ)純行に託して詳細を申し上げました。
それに対する裁決がくだらないで鬱々と憂えていましたところ、今年の夏、同じように平貞盛が将門を召喚するという官符を握って常陸国にやってきました。そして、国司はしきりに書状を将門に送ってきました。この貞盛とは、追捕を逃れて、ひそかに上京した者です。公家はこの者を捕らえて事情をただすべきであります。それなのに、逆に貞盛の言い分が理にかなっているとする官符を賜ったというのは、うわべを取り繕っているからにほかなりません。また、右少弁・源相職(すけもと)朝臣があなたの仰せの旨を受けて書状を送ってきた文面には、「武蔵介経基の告訴状により、将門を審問すべきであるという、次の官符を下すことがすでに決まっている」とのことでした。
詔使の到来を待つあいだ、常陸介藤原維幾朝臣の息子の為憲は、公の威厳をかさにきて、冤罪ばかり好んでいました。このため、将門の従兵である藤原玄明の愁訴により、将門をその事情を聞くためにその国に出向きました。
ところが、為憲と貞盛らは心を合わせて、3000人の精兵を率い、思いのままに兵庫の武器・防具・楯などを持ち出して戦いを挑んできたのです。このため、将門は士卒を激励して、意気を高め、為憲の軍兵を討ち伏せてしまったのです。そのとき、1州を征圧する間に、滅亡した者は数もわからないほどです。ましてや存命した庶民は、ことごとく将門に捕獲されました。
介の維幾は、息子の為憲に教え諭せずにこのような兵乱に及ばせてしまった罪を自ら認める詫び状を出してきました。将門は本意ではありませんでしたが、一国を討ち滅ぼしてしまったのです。罪科は軽くなく、百県を征圧するも同じ罪です。このため、朝廷の評議をうかがうあいだに、坂東の諸国を領有していったのです。
伏して祖先のことを考えてみますと、将門はまさに柏原帝王の5代の子孫です。たとえ永く日本の半分を領有したとしても、それが天命でないとはいいきれません。昔は兵力をふるって天下を取った者が多く史書に載っています。将門は、天から授かったものは武芸であります。思いはかってみても、同僚のだれが将門に並ぶでしょうか。それなのに、公家から褒賞などはなく、かえって何度も譴責の官符を下されています。身を省みると恥ばかり。面目をどうやって施しましょうか。これを推察していただけますなら、たいへん幸いであります。
そもそも将門は少年のころ、名簿を太政の大殿にたてまつり、それから数十年、今に至ります。相国さまが摂政となられた世に、思いもかけずこのような事件となってしまいました。歎くばかりで、何も申し上げることができません。将門は、国を傾けるはかりごとを抱いているとはいえ、どうして旧主のあなたを忘れましょうか。これを察していただけますなら、たいへん幸いであります。一文で万感を込めています。将門謹言
天慶2年12月15日
謹々上、太政大殿の少将(師氏)閣賀恩下
将平の諌言
このとき、新皇の弟の将平らは、ひそかに新皇に進言して言った。「そもそも帝王の業とは、智をもって競うべきものではありません。また、力をもって争うものではありません。昔から今に至るまで、天を経とし地を緯とする(天下を治める)君主も、王位を受け継ぎ国の基を受けた王も、すべて天が与えたものです。どうして論じることができましょうか。おそらくは後世からそしられることになります。決して……」と。
これに新皇が勅していうには「武弓の術は日中両国の助けとなってきた。矢をかえす功績は我が命を救う。将門はいやしくも武名を坂東にあげ、合戦の評判を都にも田舎にもとどろかせている。今の世の人は、必ずうち勝った者を君主とする。たとえ我が国に前例がないとしても、すべて他国には例がある。去る延長年間に大契丹王(耶律阿保機)などは正月1日に渤海国を討ち取って、東丹国と改称し、領有した。どうして力をもって征服したのではないといえようか。さらに加えて、こちらは多数の兵力であたっている上、戦い討つ経験も多い。山を越えようとする心はおじけず、巌をも破ろうとする力は弱くない。戦いに勝とうとする思いは漢の高祖の軍をもしのぐだろう。およそ坂東8か国を領有しているあいだに、朝廷からの軍が攻めてきたら、足柄・碓氷の2関を固め、坂東を防御しよう。だから、汝らの申すことは、はなはだ迂遠なことである」といい、それぞれ叱られて退出した。
伊和員経の諌言
また、くつろいでいたときに、内竪(ないじゅ=小姓)の伊和員経(いわのかずつね)が謹言した。「諌臣がいれば君主は不義に落ちないものです。もしこのことが遂げられなければ、国家の危機が訪れるでしょう。『天に違えばわざわいがあり、王に背けば罰をこうむる』といいます。願わくば、新天さまは耆婆(古代インドの名医。王をいさめた)の諫めを信じて、よくよくお考えの上での天裁を賜ってください」と言うと、新天皇は勅していう。
「能力・才能は、人によっては不幸となり、人によっては喜びとなる。一度口に出した言葉は四頭だての馬車でも追いつけない。だから、言葉に出して成し遂げないわけにはいかない。議決をくつがえそうとするのは、汝らの考えが足りないからだ」といった。
員経は舌を巻き、口をつぐんで、黙って閑居してしまった。昔、秦の始皇帝などは書を焼いて儒者を埋めた。あえて諫める者はいなくなってしまった。
新政府の発足
一方、武蔵権守・興世王は当時の主宰者であった。玄茂らは宣旨と称して諸国の除目を発した。
下野守には、弟の平朝臣将頼(まさより)。
上野守には、常羽の御厨の別当、多治経明(たじのつねあきら)。
常陸介には、藤原玄茂(はるもち)。
上総介には、武蔵権守・興世王。
安房守には、文屋好立(ぶんやのよしたち)。
相模守には、平将文(まさふみ)。
伊豆守には、平将武(まさたけ)。
下総守には、平将為(まさため)。
こうして諸国の受領を決定した一方で、王城を建てるための謀議をおこなった。その記録によると、「王城を下総国の亭南に建てる。さらに、[木義]橋(うきはし)を名付けて京の山崎とし、相馬郡の大井の津を名付けて京の大津とする」。
そして左右の大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史、みなすべて決定し、内印・外印を鋳造する寸法、古字体・正字をも定めた。ただし、決まらなかったのは、暦日博士だけであった。
京中の騒動
この言葉を聞いて、諸国の長官は魚のように驚き、鳥が飛ぶように早く上京していった。そののち、武蔵・相模などの国に至るまで新皇が巡検して、すべて印鎰を掌握し、公務を勤めるよう留守の役人に命じた。さらに天皇位につくという書状を太政官に送達し、相模国から下総に帰った。
さて、京の役人は大いに驚き、宮中は大騒ぎになった。ときに本の天皇(朱雀天皇)は十日の命を仏天に請い、そのうちに名僧を七大寺に集めて、捧げものを八大明神に捧げて祈った。詔して言うには、「かたじけなくも天皇位を受けて、幸いに事業の基を受け継ぎました。ところが将門が乱悪を力となして、国の位を奪おうと欲しているといいます。昨日この奏を聞きました。今日は必ず来ようと欲しているでしょう。早く名高き神々におもてなしをして、この邪悪をとどめてください。すみやかに仏力を仰いで、かの賊難を払ってください」と。
そして本皇は座を下りて両手の平を額の上に合わせ、百官は潔斎して千度の祈りを寺院に請うた。ましてや、山々の阿闍梨は邪滅悪滅の修法を行なった。諸社の神祇官は頓死頓滅の式神をまつった。7日間に焼いた芥子は7石以上。そなえたそなえものは五色どれほどか。悪鬼の名号を書いた札を大壇の中で焼き、賊人の像を棘楓の下につり下げた。五大力尊は侍者を東国に遣わし、八大尊官は神の鏑を賊の方に放った。その間に、天神は眉をひそめ口元をゆがめて賊の分をわきまえない野望を非難し、地神は責めとがめて悪王の困った念願をねたんだ。 
9 将門の最期
貞盛の妻
ところが新皇は、井戸の底で浅はかな思いを抱いて、境域外の広い戦略を持っていなかった。そこで相模から本拠に帰った後、まだ馬の蹄を休めないうちの天慶3年正月中旬に、残りの敵を撃つため、5000の兵を率いて常陸国に出発した。そのとき、那珂郡・久慈郡の藤原氏らは国境に出迎えて、贅を尽くした宴会を開いてもてなした。新皇は勅して「藤原氏ら、掾の貞盛と為憲らの所在を申せ」と言った。そこで藤原氏らは「聞いたところによると、その身は浮雲のようで、飛び去り、飛び来たって、住所は不定です」と奏上した。
こうしてなおも探索しているうちに、ようやく10日ほどが経った。なんとか、吉田郡蒜間の江のほとりに、掾の貞盛・源扶の妻を捕えることができた。陣頭の多治経明・坂上遂高(さかのうえのかつたか)らの中に、その女たちが連れてこられた。
新皇はこのことを聞いて、女人がはずかしめをうけないように勅命を下したが、勅命以前に兵卒らにことごとく凌辱されていた。そのなかでも、貞盛の妻は、服をはぎ取られて裸にされてどうしようもなかった。眉の下の涙は顔の白粉を流し、胸中の炎は心の中の肝を貫いた。思いのほかの恥が自らの恥となったのである。会稽の恥をそそごうとした報いに、その会稽の敵に会ってしまったようなものだ。どうして人のせいにできようか、どうして天を怨むことができようか。生前に受ける恥は、自らに原因があるのだから。
そこで傍らにいた陣頭の武将らが新皇に奏上した。「例の貞盛の妻は、顔立ちが美しいものです。罪科は妻にはありません。できれば恩詔をたれて、早く本拠に送り返してください」。新皇は「女人の流浪者は本拠地に返す、というのが法の通例である。また、身よりのない人、孤独な人に哀れみを垂れるのは、古帝の良い手本である」と勅した。そこで一かさねの衣服を賜って、その女の本心を確かめるために勅歌を詠んだ。
「よそにても風の便に吾ぞ問ふ枝離たる花の宿(やどり)を」
(離れたところにいても、香りを運ぶ風の便りに、枝を離れていった花の行方を私は訪ね求める)
貞盛の妻も幸いに温情ある処遇にあったことから、これに唱和して詠んだ。
「よそにても花の匂ひの散り来れば我身わびしとおもほえぬかな」
(離れたところにいても、花の香りが散ってやってくるのだから、私の身の上がわびしいものとは思いません)
そのとき、源扶の妻もその身の不幸を恥じて、人に寄せてこう詠んだ。
「花散りし我身もならず吹く風は心もあはきものにざりける」
(花が散り、我が身には実もならなくなったので、吹く風は心寂しく感じられます)
こういった歌を交わしているうちに人々の心はなごみ、逆心も弱まった。
川口村の戦い
何日も経ったが、例の敵の消息を聞くことはなかった。そのため、諸国の兵士らはみな帰してしまった。わずかに残った兵は1000人にも足りない。このことを伝え聞いて、貞盛と押領使・藤原秀郷らは、4000人あまりの兵を率いて、すぐさま合戦しようとした。
新皇は大いに驚いて、2月1日、兵を率いて敵の地である下野方面に国境を越えて向かった。このとき、新皇将門の前の陣はまだ敵の所在を知らなかったが、副将軍・玄茂の陣頭の経明・遂高らの後陣が敵の所在を発見した。実情を見るために高い山の頂に登ってはるかに北方を見ると、実際に敵がいた。気配ではほぼ4000人ほどであった。
そこで経明らは、すでに一騎当千の名声を得ていたため、例の敵を見逃すわけにはいかなかった。そこで、新皇に奏上せず、迫って押領使秀郷の陣とうちあった。秀郷はもとより古い計略に通じていて、思いのままに玄明の陣をうち倒してしまった。その副将軍・兵士らは三軍を動かす手に詰まってしまい、四方の野に散っていった。道を知る者は弓のつるのように素早く逃げ去り、よく知らない者は車輪のようにそのあたりを回っているだけだった。生存者は少なく、亡くなった者が多かった。
ときに貞盛・秀郷らが敗走軍の後について追撃するうちに、同日の未申(午後三時)ごろに川口村を襲撃した。新皇は声をあげて迎え撃ち、剣を振るって自ら戦う。
貞盛は天を仰いで言った。「私兵である賊軍は雲の上の雷のようだ。公の従者は厠の底の虫のようだ。しかし、私兵どものほうには道理がない。公のわが方には天の助けがある。三千の兵は絶対に面を背けて逃げ帰ることがないように」と言った。
日はようやく未刻(午後二時ごろ)を過ぎて黄昏になっていた。みな李陵王のような勇猛心を奮い立たせ、死生を決するつもりで奮戦した。桑の弓のように思い切り引くことができ、ヨモギの矢のように見事に的中する。
官兵は常よりも強く、私兵は常よりも弱かった。さすがの新皇も馬の口を後ろに向け、楯を前に出して防戦する。昨日の雄は今日の雌。そのため常陸国の兵はあざけり笑って宿営にとどまった。下総国の兵は怒り、恥じながらすぐにそこを去っていった。
北山の決戦 / 将門の最期
その後、貞盛・秀郷らが語らって言うには、「将門も千年の寿命をもっているわけではない。我々も奴もみな一生の身である。それなのに、将門ひとりが人の世にはびこって、おのずと物事の妨げとなっている。国外に出ては乱悪を朝夕に行ない、国内では利得を国や村から吸い上げている。坂東の宏蠹(巨大なキクイムシ)・外地の毒蟒(毒ウワバミ)であっても、これより害があるものはない。昔の話に、霊力の神蛇を斬って九野を鎮め、巨大な怪鯨を斬って四海を清めたという。まさに今、凶賊を殺害してその乱を鎮めなければ、私的なものから公的なものに及んで、(天皇の)大きな徳が損なわれてしまうだろう。『尚書』に、「天下が平穏であったとしても、戦いはしなければならない。甲兵がいくら強くても訓練しなければならない」とある。今回は勝利したといえども、今後の戦いを忘れてはならない。それだけではなく、武王に病があったときに周公がその命に代わろうと祈念したという。貞盛らは公から命を受けて、まさに例の敵を撃とうとしているのである」と。
そこで群衆を集めて甘言をもって誘い、兵を整え、その数を倍増させて、同年2月13日、強賊の地である下総の国境に着いた。新皇は疲れた兵をおびき寄せようとして、兵を率いて幸嶋の広江に隠れた。
このとき貞盛はさまざまなことを行ない、計略を東西にめぐらして、新皇の美しい館から味方のあたりの家までことごとく焼き払った。火の煙は昇って天に届くほど、人の家は尽きて地に住人はない。わずかに残った僧や俗人は家を棄てて山に逃げた。たまたま残っていた身分ある者たちは道に迷って途方に暮れた。人々は、常陸国が貞盛によって荒らされたことを怨むよりも、将門らのために世が治まらないことを嘆いた。
そして貞盛は例の敵を追い求めた。その日は探索したが会えなかった。
その翌朝、将門は身に甲冑を着込んで瓢序のように身を隠す場所を考え、逆悪の心を抱いて衛方のように世を乱そうと考えた(白居易が言うには、瓢序は虚空にたとえたもの。衛方は荊州の人で、生まれつき邪悪なことを好んで、追捕されたときには天に上がり地に隠れた者である)。しかし、いつもの兵士8000余人がまだ集まってきていなかったので、率いていたのはわずか400人余りであった。とりあえず幸嶋郡の北山を背にして、陣を張って待ちかまえた。
貞盛・秀郷らは、子反のような鋭い陣構えを造り、梨老の剣の軍功を上げる策を練った(白居易が言うには、子反・養由の両人は、漢の時代の人。子反は40歳で鉾を投げると15里に及び、養由は70歳で剣を三千里に奪ったという)。
14日未申(午後3時)に、両軍は戦端を開いた。
このとき、新皇は順風を得て、貞盛・秀郷らは不幸にして風下にあっていた。その日、暴風が枝をならし、地のうなりは土塊を運んでいた。新皇の南軍の楯はおのずと前方へ吹き倒され、貞盛の北軍の楯は顔に吹き当てられた。そのため、両軍とも楯を捨てて合戦したが、貞盛の中の陣が討ちかかってきたので、新皇の兵は馬を駆って討った。その場で討ち取った兵は80余人、みな撃退した。ここに新皇の陣が敗走する敵軍を追撃した時、貞盛・秀郷・為憲らの従者2900人がみな逃げ去っていった。残ったのは精兵300人だけである。
これらの者が途方に暮れて逡巡しているうちに、風向きが変わって順風を得た。ときに新皇は本陣に帰る間に風下になった。貞盛・秀郷らは身命を捨てて力の限り合戦する。ここに新皇は甲冑を着て、駿馬を疾駆させて自ら戦った。このとき歴然と天罰があって、馬は風のように飛ぶ歩みを忘れ、人は梨老のような戦いの術を失った。新皇は目に見えない神鏑に当たり、託鹿の野で戦った蚩尤のように地に滅んだ。 
10 その後
将門の評価
天下にいまだ、将軍が自ら戦って自ら討ち死にしたような例はない。誰が予測し得たであろうか、小さなあやまちをたださなかったため、大きな害に及ぶとは。また、私的に勢力を拡大して、このように公の徳を奪うことになろうとは。このため朱雲のような人に託して長鯢の首をはねるようなことになったのだ(『漢書』にいう。朱雲は悪人である。昔、朱雲は尚方の剣をもらって人の首を斬った)。
こうして下野国から解文をそえて、同年4月25日にその首を献上した。
一方、常陸介・維幾朝臣ならびに交替使は、幸いに理にかなった運のめぐみを受けて、(2月?)15日をもって任国の館に帰った。それをたとえるなら、鷹の前におびえていた雉が野原に放たれ、俎の上の魚が海に戻されるようなものである。昨日は不運な老人のような恨みを抱き、今は次将(掾の貞盛)の恩を受けていた。
そもそも新皇が名声を失い、身を滅ぼしたのは、まさに武蔵権守・興世王、常陸介・藤原玄茂らのはかりごとによるものである。何と悲しいことか。新皇の背徳の悲しみ、身を滅ぼした嘆き。たとえるなら、花開こうとした穀物がその前にしぼみ、光り輝こうとした月が雲に隠れるようなものである。
『左伝』にいう。「徳を貪って公に背くのは、威力をたのんで鉾を踏み越えてくる虎のようなものである」と。そのため、ある書に「小人物は才能があっても使いこなせない。悪人は徳を貪っても維持できない」という。いわゆる「遠慮深謀がなければ、身近なところに問題が起こる」というのはこのことか。
さて、将門は官都に功績を積み重ねてきて、その忠誠を後々まで伝えている。それなのに生涯になしたことは猛乱が中心であり、毎年、毎月、合戦に明け暮れていた。このため、学業を修める者たちは相手にしなかった。ただ武芸のたぐいを行なっていた。このために楯に向かっては親族を相手とすることとなり、悪を好んで罪を得ることになった。この間、邪悪が積もって一身に及ぶようになり、不善のそしりが八州に広まって、ついに阪泉の地に滅んだ炎帝のようになり、永く謀反人の名を残すことになったのである。
残党の掃討
このとき、賊の首領・将門の兄弟や伴類を追捕すべきであるという官符が、去る正月11日に東海道・東山道の諸国に下された。その官符には「もし魁帥(賊の首領)を殺した者には朱・紫の服を着る五位以上に任官し、また副将を斬った者はその勲功にしたがって官職を賜る」とあった。
こうして、詔使・左大将軍・参議兼修理大夫・右衛門督・藤原朝臣忠文、副将軍・刑部大輔・藤原朝臣忠舒らを八州に派遣する間に、賊の首領将門の長兄・将頼と玄茂らは、相模国に至って殺害された。次に興世王は、上総国に至って誅戮された。坂上遂高・藤原玄明らは常陸国で斬られた。
これに続いて、東海道方面追討軍の将軍兼刑部大輔藤原忠舒は、下総権少掾・平公連を押領使として、4月8日に入国、ただちに謀反人の一味を探して討った。そのうち、賊の首領将門の弟七、八人が、髪を剃って深山に入ったり、妻子を置き去りにして山野に逃げまどった。さらに残った者たちは恐れを成して去っていった。
正月11日の官符は四方に広く伝えられた。2月16日の詔使の恩符によって出頭する者もいた。
論功行賞
その間、武蔵介・源経基、常陸大掾・平貞盛、下野押領使・藤原秀郷らは、勲功があったとして褒賞を受けた。そこで、去る3月9日、中務省に奏上して、軍のはかりごとがよく忠節を尽くした旨を述べ、その結果、賊の首を戦陣にあげ、武功を朝廷にもたらした、と言った。
今、介・経基については、始めは虚言を奏上したとはいえ、それがついに事実になったことにより、従五位下に叙した。
掾の貞盛は長年合戦を経てきたにもかかわらず、なかなか勝敗が定まらなかった。ところが秀郷が協力して謀反人の首を斬り、討ったのである。これは、秀郷の老練な計略に力があったからである、として従四位に叙した。
また、貞盛も多年の艱難を経て、今、凶悪な一味を誅殺することができた。これはまさに貞盛が励んだ結果である。それゆえに正五位上に叙することになった。
こうした結果からいえば、将門はあやまって過分の望みを抱いて、水の流れのように死んでこの世を去っていったが、他人に官位を与えることになったわけである。その心には怨みはないだろう。なぜならば、「虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す」というからである。哀れむべきは、我が身を滅ぼしてその後に他人の名を揚げたことだ。
乱後の評価
今、思案してみると、昔は六王の謀叛により七国の災難があった(呉楚七国の乱)が、今、一人の謀叛で八国の騒動を起こした。この分相応な野望のはかりごとを実行したのは、古今にもまれなことである。ましてや本朝では神代以来このようなことはなかった。
このため、将門の妻子は路頭に迷い、臍を噛むような恥を受け、兄弟は行き場を失って身を隠すところもなくなった。
雲のように集まっていた従兵は霞のように散ってしまい、影のように付き従っていた者たちはむなしく途中で滅んでしまった。生き別れとなった親子を捜して山・川に向かう者あり、別れを惜しみながら夫婦がばらばらに逃げのびていく者もあった。鳥でもないのに「四鳥の別れ」をし、木でもないのに「三荊の悲しみ」を抱かせられたのだ。犯した罪科のある者もない者も、同じ道ばたによい香り・悪いにおいの草々が混じって生えるように入り乱れ、濁りのある者もない者も、濁った水と清らかな渭水の二つの川が合流するように入り混じって辛酸をなめた。
雷電の音は百里内外に響きわたるが、将門の悪はすでに千里を超えて知られるようになった。将門は常に夏王朝の大康のような放逸な悪行を好み、周の宣王のような正しい道を踏み外した。こうして不善を一心になし、天位を九重の宮廷と争った。過分の罪によって生前の名声を失い、放逸の報いとして死後に恥を残すこととなったのである。
冥界消息
巷説に「将門は昔からの宿縁によって、東海道下総国豊田郡に住んでいた。しかし、殺生の悪事に忙殺されて、善をなす心がなかった。そのため、寿命に限りがあってついに滅んで没してしまった。どこに逝き、どこに生まれ変わり、だれの家に生まれているのか」といわれている。
これに答えて、田舎のある人がこう伝えている。
「今、三界の国、六道の郡、五趣の郷、八難の村に住んでいる。ただし、中有の使者にことづけてこういう消息を伝えてきた。
『自分は生きていた時に一つの善もなさなかった。この業の報いによって悪趣を廻っている。自分を訴える者は今一万五千人。痛ましいことだ、将門が悪をなしたときには多くの従者を駆りたてて犯したのに、報いを受ける日にはもろもろの罪を被って一人苦しんでいる。身は剣の林の苦しみを受け、肝は鉄囲いの猛火に焼かれる。苦痛があまりにも激しいのは言いようもないほどだ。ただし、一月のうちに一時だけの休みがある。その理由は何かといえば、獄吏が言うには「汝が生きていた時に誓願した金光明経一巻の助けである」という。冥官の暦には、この世の十二年を一年とし、この世の十二月を一月とし、三十日を一日とする、とある。これにあてはめれば、わが日本国の暦では92年にあたり、(金光明経の)本願によってその苦を逃れることができる、という。閻浮提(人間世界)の兄弟、娑婆(苦しみの世界)の妻子たちよ、他に慈しみを施し、悪業を消すために善をなせ。口に甘くとも、生類を殺して食べてはならない。心に惜しいと思ったとしても、進んで仏僧に施して供えなければならない』と。
亡魂の便りは以上のとおりであった」
天慶三年六月中にこの文を記す。
ある本にいう。「わが日本国の暦では、93年のうちに一時の休みがあるだろう。我が兄弟らよ、この本願を遂げてこの苦を脱させてほしい」と。
こういうことであれば、聞いているところによれば生前の勇猛さは死後の面目とはなっていない。おごり高ぶった報いに、憂いの苦しみを味わうことになる。
一代の仇敵がいて、この敵と角や牙をつきあわせるように戦った。しかし、強い者が勝ち、弱い者が負けた。天下に謀叛があって、日と月のように競い合った。しかし、公がまさり、私は滅した。
およそ世間の理として、苦しんで死ぬとしても戦ってはならない。現世に生きて恥があれば、死後にも名誉はない。とはいえ、この世は「闘諍堅固」といわれる末法の末にあたり、乱悪が盛んである。人々は心に戦いを抱いているが、戦っていないだけだ。
もし思わぬ誤りがあったなら、後世の達識者が書き足してほしい。ここに里の無名の者が謹んで申し上げる。 
 
他の物語と平将門

今昔物語集 巻二十五藤原純友、依海賊被誅語第二
藤原純友、海賊によりて誅せらるること
今は昔、朱雀院の御時に伊予掾藤原純友という者がいた。筑前守良範という人の子であった。純友は伊予国にいて、多くの勇猛な兵を集めて配下とし、弓矢を持って船に乗り、常に海に出て、西の国々から上ってくる船のものを奪い取り、人を殺すことを業としていた。そのため、往来する者は、船の道を行くことができず、船に乗ることもなくなった。
このため、西の国々から国解(上申書)が上がり「伊予掾純友は悪行を宗とし、盗犯を好んで、船に乗っていつも海におり、国々の往来の船のものを奪い取り、人を殺しております。これは公・私にとって問題となっております」という。これを聞いて天皇は驚き、賛位(位はあるが官職がない)の橘遠保(たちばなのとおやす)という者に「かの純友の身を速やかに討つべし」と命じた。遠保は宣旨を奉って伊予国に下り、四国と山陽道の国々の兵を招集して、純友のすみかに寄った。純友は力をふるって待ちかまえ、戦った。しかし、公に勝たず、天の罰を受けたため、ついに討たれた。
また、純友の子に13歳の子がいた。姿は端正で、名は重太丸(しげたまろ)という。幼いが父とともに海に出て海賊を好み、大人に劣ることがなかった。重太丸も殺して首を斬り、父の首と二つの頭を持って、天慶4年7月7日、京にたどりついた。まず右近の馬場でそのことを奏上する間、京中の上中下の見物人が数多く見に来た。車も並べず、ましてや徒歩の人は場所もない。公はこれをお聞きになって、遠保を誉め称えた。
その次の日、左衛門府の下級役人の掃守在上(かもりのありかみ)という有名な絵師がいた。物の形を写すと少しも違わなかった。これを内裏に召して、「かの純友と重太丸の二つの頭が、右近馬場にある。速やかにそこに行って、かの二つの頭の形を見て、写して持ってくるように」と言った。これはその首を公がご覧になりたいと思ったが、内裏に持ってはいるべきものではないため、このように絵師をつかわして、その形を写してご覧になろうとしたためであった。こうして絵師は右近の馬場に行き、その形を見て写して内裏に持っていき、公は殿上でそれをご覧になった。頭の形を写したのは少しも違うところがなかった。これを写してご覧になったことを、世の人はよくないと考えた。
こうして頭を検非違使左衛門府の下級役人の若江善邦(わかえのよしくに)という者を召して、左獄に下された。遠保には賞を賜った。
この天皇の御時に、去る承平年間に平将門の謀叛のことがあって、世のきわまりないおおごとであったのに、ほどなくまたこの純友が討たれて、こういうおおごとがうち続いてあったことを世の人が取りざたした、と語り伝えたのである。 
今昔物語集
平安末期の説話集。31巻,内3巻を欠く。作者,成立事情に定説はないが,宇治大納言源隆国〔1004〜1077〕に関係があるとする説もある。天竺,震旦,本朝の三部に大別して千余編を収める。俗語をまじえた自由な和漢混淆文で書かれ,取材範囲も広く,登場人物も貴族,僧,武士,農民,医師,遊女,盗賊,乞食から,鳥獣,妖怪変化にまで及んでいる。短編小説としてもすぐれた特質を備えており,近代の作家が多くこの集に取材している。
古事談 巻四ノ三〜九
308貞盛、将門の謀叛を予言しける事(巻四ノ三)
仁和寺式部卿宮(敦実親王)の御許に将門が参入した。郎等五、六人を連れていた、という。御門を出るとき、貞盛がまた参入した。郎等を連れていなかった。そこで御前に参って「今日は郎等を連れていませんでした。もっとも口惜しいことです。郎等がありましたら、今日殺していたことでしょう。この将門は天下に大事を引き出すことになる者です」と申し上げた。
309東八箇国領せる将門、忠平公へ献状の事(巻四ノ四)
将門の逆乱は、天慶2年11月に始めて披露という。東八か国を領し、印鎰(国印・国倉の鍵)を奪い、国司を任じ、すべて除目を行ない、大臣以下の文武百官をみな点定した。ただし、欠けていたのは暦博士だけであった。また、書状を太政大臣のもとに献じた。その状にはこうあった。
将門は一国を討滅しました。罪科は百県を奪っても同じです。このため、朝廷の評議を待つあいだに、坂東の諸国を領有していったのです。
伏して祖先のことを考えてみますと、将門はまさに柏原帝王の5代の子孫です。たとえ永く日本の半分を領有したとしても、それが天命でないとはいいきれません。昔は兵力をふるって天下を取った者が多く史書に載っています。将門は、天から授かったものは武芸であります。思いはかってみても、同僚のだれが将門に並ぶでしょうか。それなのに、公家から褒賞などはなく、かえって何度も譴責の官符を下されています。身を省みると恥ばかり。面目をどうやって施しましょうか。これを推察していただけますなら、たいへん幸いであります。
そもそも将門は少年のころ、名簿を太政の大殿にたてまつり、それから数十年、今に至ります。相国さまが摂政となられた世に、思いもかけずこのような事件となってしまいました。歎くばかりで、何も申し上げることができません。将門は、国を傾けるはかりごとを抱いているとはいえ、どうして旧主のあなたを忘れましょうか。これを察していただけますなら、たいへん幸いであります。一文で万感を込めています。将門謹言
平将門たてまつる
天慶2年12月15日
謹々上、太政大殿の少将(師氏)閣賀息下
310浄蔵、将門を調伏しける事(巻四ノ五)
同3年正月22日、善相公(三善清行)の子息、定額僧沙門(定額寺の加持祈祷僧)である浄蔵が、将門を降伏するため、延暦寺楞厳院にて三七日(21日間)大威徳法を修した。その間、将門が弓矢を帯びてうつつに火をともす皿に立った。例の僧の弟子らはそれを見て怪しんだ。また、鏑の音が壇の中から出て、東を指して去っていった。ここに浄蔵は「将門が降伏されたことがわかった」と言った。
また公家が大仁王会を行なったとき、浄蔵は待賢門の導師であった。この日、京洛は騒動して「今、将門の兵が入洛した」と言っていた。そこで浄蔵は「将門の首が今持ってこられるのである」と言った。気を失いかけていた宮人たちは、この言葉を聞いてたちまち元気になった。そして、その言葉のとおりとなった。
311忠文等、坂東へ発遣の事ならびに秀郷・貞盛、将門と合戦の事(巻四ノ六)
2月8日、天皇は南殿に出御なされた。征夷大将軍右衛門督・藤原忠文に節刀を賜い、坂東の国に下し遣わした。このとき、参議・修理大夫兼右衛門督・忠文を大将軍とし、刑部大輔・藤原忠舒、右京亮・藤原国幹、大監物・平清基、散位・源就国、源経基らを副将軍とした。2月1日、下野の押領使・藤原秀郷、常陸掾・平貞盛ら4000余人の兵(あるいは一万という)を率い、下野国において将門と合戦している間、将門の陣はすでにうち負かされていた。三兵の手に迷い、身を四方に逃れて、矢に当たって死んだ者は数百人であった。
312将門、下総国にて討たれし事ならびに勧賞の沙汰の事(巻四ノ七)
同13日、貞盛・秀郷らは下総国に至り、将門を攻め襲った。しかし、将門は兵を率いて嶋広山に隠れたので、将門の館をはじめとして士卒の宅に至るまでみなことごとく焼き回った。
同14日の未の刻、同国において貞盛、為憲、秀郷ら、身を棄て命を忘れて馳せ向かい、射合わせた。ときに風飛の歩みを忘れ、梨老の術を失い、貞盛の矢に当たって落馬した。秀郷はその場所に馳せ至って、将門の首を斬って士卒に渡した。貞盛は下馬して秀郷の前に至った(合戦章には、うつつに天罰を被り、神鏑に当たるとある)。その日、将門の従者の射殺された物は190人とか。
将門を誅した勧賞に、藤原秀郷を従四位下に叙し、かねて功田を賜い、永く子孫に伝えさせ、さらに追って兼ねて下野・武蔵両国の守に任じた。平貞盛を従五位上に叙し、右馬助に任ず。経基を従五位下に叙し、兼ねて太宰大弐に任ず。
314忠文、勧賞の沙汰に立腹の事(巻四ノ九)
忠文卿は勧賞の沙汰のとき、小野宮殿(藤原実頼)が「疑わしきを賞するなかれ」と定め申されたため、賞を行なわれなかったという。そのとき九条殿(藤原師輔)が「刑の疑わしいものを賞するなかれ、賞の疑わしいものは許せ、ということです」と申されたが、遂に賞が行なわれなかったという。このことばを申し上げたために、後日、忠文が土地家屋の証文を差し上げたという。
罪の疑わしきはこれを軽くし、功の疑わしきはこれを重くす(刑の疑わしきは軽くすることを許し、賞の疑わしきは重きに従え)。『尚書』の文である。
古事談
鎌倉初期の説話集。6巻。源顕兼著。1212〜15年ごろ成立。王道后宮,臣節,僧行,勇士,神社仏寺,亭宅諸道の6巻に分け説話を記す。種々の先行書からの抄出で文体も不統一。<江談抄>の影響が強い。1219年成立の<続古事談>も構成内容はほぼ同じ。 
源平盛衰記
巻第二十二 俵藤太、将門中違ふ事
昔、将門が東8か国を討ち平らげて、凶賊を集め、王城へ攻め入ろうとしていた。平将軍貞盛は、勅宣をこうむって下向した。下野国の住人・俵藤太秀郷は名高きつわもので勢力を有する者であったが、将門と心を合わせて朝廷を傾け、日本国をともに領有しようと思って出かけていったという。将門はちょうど髪を乱してくしけずっていたところだったが、あまりに喜んで、とるものもとりあえず、結髪していない頭を露出したまま、下着の白衣であわてて出てきて、いろいろもてなすことを言うので、秀郷は鋭く見抜いて、「この人の性質は軽率である。とうてい日本の主とはなれない」と考えて、初対面で心変わりした。その上、俵藤太をもてなすため、酒食をととのえて進めた。将門が食べていた食事が袴の上に落ち散らばったのを、自分で払いのけた。「これは民の振る舞いである。いいようもない」と心の底でうとましく思い、後には貞盛に同意して秀郷のはかりごとによって将門を滅ぼした。
巻第二十三 貞盛・将門合戦附勧賞の事
下野国の住人の俵藤太秀郷は、将門追討の使いが下ってくることを聞いて、平新王に加勢しようとおもって行ったのだが、大将軍の相がないと見てうとみ、将門を主人とすると偽って本国に帰り、貞盛を待ち受けて相従って下っていった。承平3年2月13日、貞盛麾下の官兵が将門の館へ向かっていった。将門は下総国幸島郡北山というところに陣を構えた。その勢はわずかに4000余騎。同14日未の時に、矢合わせして散々に戦った。官兵は凶徒に撃ち返されて、死者80余人、傷を受けた者は数知れず。貞盛・秀郷らが退却するときには2900人の官軍が失われていた。将門が勝ちに乗じて攻め戦うとき、貞盛・秀郷らは精兵200余人をそろえ、身命を棄てて返し、合戦した。ここに将門は自ら甲冑をつけ、駿馬を駆って先陣に進んで戦っていたところ、王事はもろくなく、天罰がてきめんに顕われて、馬は風飛のような歩みを忘れ、人は李老のような戦術を失った。その上、法性坊調伏の祈誓にこたえて、神鏑が頭に当たって、将門はついに滅んだ。
同4月25日、将門の首が都へ上った。大路を渡して、左の獄門の木に懸けられた。哀れなことよ、昨日は東夷の新王とかしずかれて威力をふるい、今日は皇居に逆賊として恥をさらされるとは。徳を貪り公に背いたのは、あたかも威力をたのんで鉾を踏む虎のようである、という文章もある。最も慎むべきことである。貞盛はまた珍しいことに逃れることができた。たとえば馬の前のまぐさが野原に残り、まないたの上の魚が海に帰ることができたというくらいのものである。帝運による必然というものの、武芸によく秀でていたものと思われる。将門の弟・将頼と常陸介藤原玄茂は相模国で討たれた。武蔵権守興世は上総国で誅せられた。坂上近高・藤原玄明は常陸国で斬られた。従者・与党は多かったが、妻子を棄てて入道出家して山林に迷った。
将門追討の勧賞が行なわれた。左大臣実頼(さねより=小野宮殿)、右大臣師輔(もろすけ=九条殿)以下、公卿殿上人が陣の座に列した。大将軍貞盛は上平太であったが、正五位上に叙して平将軍の宣旨をこうむった。藤原秀郷は、従四位下に叙して、武蔵・下野両国の押領使を賜り、右馬助源経基は従五位下に叙して太宰少弐に任じた。次に副将軍忠文卿の勧賞のことが問題になったところ、小野宮殿が「今回の合戦はひとえに大将軍の忠にある。副将軍は功がないようなものである。恩賞はたやすく与えるべきではない」といった。しかし九条殿が「兵を選んで賊を誅することについては、大将軍も副将軍もともに詔命によって敵陣に向かった。大将軍が先陣で勇んだのは、後陣の副将軍の勢いをたのみにしたからである。副将軍が後陣に控えていたことは、大将軍の進退を守ったのであるから、ともに互角である。どうして朝恩がなくていいということがあろうか。大将軍ほどの賞でなくとも、それなりの勲功があるべきだろう」と重ね重ね奏上されたので、小野宮殿は「そういう勧賞は残念である。忠による禄でなければならない」と固く諫めた。そのため、民部卿はついに賞に漏れてしまった。
忠文神と祝ふ附追討使門出の事
ここに忠文は大きな怨みを感じて、面目なく内裏をまかり出ていったが、天にも響き地も崩れるほどの大声を放って「悔しいことだ。同じように勅命を受けて、同じように朝敵を平らげた。一人は賞にあずかり、一人は恩に漏れる。小野宮殿のはからい、生々世々忘れるまい。その家門は衰退し、その末葉の人は、永く九条殿のご子孫の奴隷となれ」と、太高らかにののしり、手を打って拳を握ったところ、左右の八つの爪が手の甲に突き刺さり、血が流れ出たので、紅を絞ったようであった。その後宿所に帰り、食事を絶ち、怨んで死んだ。悪霊となって様々なおそろしいことがあったので、怨霊をなだめようとして、忠文を神として祝った。宇治の離宮大明神というのはこれである。その怨みが通ったのだろうか。小野宮殿の子孫は絶えてしまったようだ。残っている人も、みな必ず九条殿の奴隷となった。九条殿は一言の情けによって、摂政関白が今も絶えることがない。
源平盛衰記
軍記物語。四八巻。成立は鎌倉時代から南北朝時代にかけて諸説がある。平清盛の栄華を中心に源平二氏の興亡盛衰を精細に叙述するが、挿話が多く流麗さを欠き、読み物風。平家物語を増補改修した異本の一種と見られる。忠文が賞にあずかれず、不満を持ったというのは古事談と共通の挿話。俵藤太こと藤原秀郷が、最初は将門軍に参加するつもりで行ったが、これは大人物ではないと思って貞盛に加担した、というエピソードがここで登場する。 
源平闘諍録
※千葉成胤と平親正の合戦にかむろ姿の妙見菩薩が出現した。
三妙見大菩薩の本地の事
北条の四郎(北条時政か義時)を始めとして、人々が同じく詮議していたところ「命によって親正を追討させようとなさっているが、親正は小物である。平家の大将軍である大庭三郎景親は相模国にいる。畠山次郎重忠は武蔵国にいる。つまり、急いで計画して彼らを討とう」と言ったところ、「そのとおりである」と(頼朝は)おっしゃった。
また右兵衛佐(頼朝)がおっしゃるには、「侍どもよく聞け。今回、千葉小太郎成胤が初陣に先駆けしたことはめったにないことだ。勲功の賞があるべきだ。頼朝がもし日本国を打ち従えたなら、千葉庄を妙見大菩薩に寄進し奉ろう。そもそも、妙見大菩薩をどうして千葉は崇敬しているのだろうか。また、ご本体はいずれの仏菩薩なのであろうか」と。
常胤がかしこまって申し上げた。
「この妙見大菩薩というのは、人王61代朱雀の御門の御宇、承平5年8月上旬のころに、相馬小次郎将門が、上総介良兼との伯父・甥の関係がよくなく、常陸国で合戦を行なっていたところ、良兼は多勢、将門は無勢でした。常陸国から蚕飼河(こがい)の岸に追いつめられて、将門は河を渡りたいと思ったものの、橋もなく、船もなく、困っていたところ、急に小さな子供が出てきて『瀬を渡そう』と告げたのです。
将門はこれを聞いて蚕飼河を渡り、豊田郡へ越え、河を隔てて戦っていましたが、将門の矢種が尽きた時は、その子供が落ちた矢を拾い取って将門に与え、これを射ました。また、将門が疲れたときには、子供は将門の弓をとって十の矢をまっすぐにして敵を射ましたが、一つも当たらないものはありませんでした。これをみて良兼は『ただごとではない。天の計らいである』と思いながら、その場を退却しました。
将門はついに勝利を得て、子供のまえにひざまずき、袖をかき合わせて『そもそも君はいかなる人でいらっしゃいますか』と問うたところ、その子供は『吾はこれ妙見大菩薩である。昔から今に至るまで、心は勇猛で慈悲が深く正直な者を守ろうという誓いがあった。汝は正しく直く勇敢で剛の者であるがゆえに、汝を守るために来臨したのである。自らは上野の花園という寺にいる。汝、もし志があるならば、速やかに我を迎えとるべきである。吾はこれ十一面観音の垂迹であって、五星の中では北辰三光天子の後身である。汝は東北の角に向かって、わが名号を唱えよ。今後、将門の旗印には千九曜の旗(今は月星と呼ぶ)をかかげよ』といいながら、どこともなく消えていったのです。
そうして将門は使者を花園へ遣わしてこれを迎え、信心をして崇敬しました。将門は妙見の利生をこうむり、五年間のうちに東八か国を打ち従え、下総相馬郡に京を立て、将門親王と号しました。しかし、正直は不正となって、万事の政務を曲げて行ない、神の意志を恐れず、朝廷の威光にもはばかることなく、仏神の田地を奪い取りました。
そのため妙見大菩薩は将門の家を出て、村岡五郎良文のところへ行ってしまいました。良文は伯父でありましたが、甥の将門の養子となったために、さすがによそへは行かずに良文のところへ来られたのです。
将門は妙見に見すてられたため、天慶3年正月22日、天台座主法性房の尊意が横河で大威徳の修法を行なって将門親王を調伏させたところ、紅の血が法性房の行ずる壇上に走り流れました。そこで尊意が急いで悉地成就のよしを奏上させられたところ、御門はおほめになって法務大僧正になさいました。
さて、この妙見大菩薩は、良文から忠頼に移り、嫡子に代々伝わって、常胤に至って七代となります」と。
右兵衛佐はこれを聞いて「まことにめでたいことである。ならば少し頼朝のところへも来てもらおうと思う。どうだろうか」
千葉介が答えるには「この妙見大菩薩は他の仏神と違って、天照大神の三種の神器が国王と一緒にいてはじめて代々の御門を守ってくださっているようなものです。この妙見大菩薩も、将門以来代々伝わり、寝殿の内に安置して、別の家に移したことがありません。あやしい不祥があるようなときは宮殿の内が騒がしくなって異変を示し、示現して氏子を守る霊神です。一族であっても本体は分家に渡していません。ましてや他人には。考えるに、常胤が君の御方のもとに参って仕えているのを、妙見大菩薩のお越しであると思っていただきたいと思います」と申したので、右兵衛佐は頭を傾けてものほしそうにしたので、侍たちは身の毛がよだったように思った。 
大鏡
第四 / 藤原隆家の段より関連部分
この純友は、将門と心を合わせて相談して、恐ろしいことを企てた者です。将門は「帝を討ち取ろう」といい、純友は「関白になろう」と、同じく心を合わせて、この世界で思いのままに政治をし、君主となってすごそうということを互いに約束して、ひとりは東国に軍を調え、一人は西国の海に数多くの大いかだを集め、いかだの上に土を盛ってその上に草木を植え、たくさんの田をつくり、そこに住み着いて、おおかた、並一通りの軍勢ではびくともしないようになっていたのですが、巧みにはかりごとをめぐらして討伐したのはすばらしいことですね。それは確かに、討伐した武将が優れていただけではなく、王威がある限りは謀叛がうまくいくはずはないということだと思いますが。 
古事談
巻四ノ一〇
315純友が逆乱の顛末の事(巻四ノ一〇)
天慶3年11月22日、勅があって、内供奉十禅師・明達を遣わし、摂津国住吉の神宮寺において、西海の凶賊・藤原純友を鎮めるために、二七日(14日間)、毘沙門天の調伏の法を修させた。20人の伴僧を引率した。すると、海賊純友らはついに捕縛された。
『純友追討記』にいう。伊予掾・藤原純友、かの国に居住して海賊の首であった。ただ生まれつきの性格が狼戻であり、礼法にこだわらず、多く人を率いて、いつも南海・山陽の国々に行き、乱暴狼藉を常としていた。暴悪な者のなかには、その威力の猛々しいことを聞き、追従する者もやや多かった。官物を押し取り、官舎を焼き、これを朝・暮の勤めとしていた。はるかに将門の謀叛のことを聞いて、ただちに逆乱を企て、上道しようとした。このころ、東西二京は連夜火を放たれた。このため、男は水を屋上に送り、女は水を庭の中に運んだ。純友の士卒が京洛に入ってなしたことであるという。
ここに備前介・藤原子高がこのことを聞いて、その旨を上奏するため、12月下旬、妻子をつれて陸路から上道した。純友はこれを聞いて、子高を害するために郎等の藤原文元らに、摂津国兎原郡須岐駅に追わせた。〔同12月26日壬戌、寅の刻、純友の郎等の〕文元らが雨のように矢を放って、ついに子高を捕えた。すぐに耳を切り、鼻をそぎ、妻を奪って去っていった。子息らは賊のために殺されてしまった。公家は大いに驚き、固関使を諸国に下す一方で、純友に厳密の官符を賜って栄爵を与え、従五位下に叙した。
しかし、純友の野心はいまだ改まらず、猥賊はいよいよ倍増した。讃岐国はその賊軍と合戦して大破し、矢に当たって死んだ者は数百人。介・藤原国風はいくさに敗れ、警固使・坂上敏基を招いてひそかに阿波国に逃げ向かった。純友は国府に入り、放火して焼き払い、公私の財物を取った。介・国風はさらに淡路国に向かい、つぶさに状況を説明し、飛駅をもって伝えさせた。二カ月を経て武勇の人を招集して讃岐国に帰り、官軍の到来を待った。
ときに公家は追捕使を遣わした。左近衛少将・小野好古を長官とし、源経基を次官とし、右衛門尉・藤原慶幸を判官とし、左衛門志・大蔵春実を主典として、播磨・讃岐二か国に向かい、200隻余の船を造って、賊地伊予国を指して向かった。ここにおいて純友は、蓄えている船が1500隻という。
官使がまだ到着する前に、純友の次将・藤原恒利が賊陣を脱してひそかに逃げてきて、国風のところに着いた。その恒利は賊徒の宿所・隠れ家、海陸両道の通行の詳細を知っている者であった。そこで国風は直ちに案内役にして、勇敢な者を添えて賊を討たせた。大敗して散る様子は、葉が海上に浮かぶようであった。一方では陸路をふさいで通り道を絶ち、一方では海上に追って、停泊場所を見れば風波の難に遭わせ、ともに賊の行き場を断った。
そうして進んでいって、賊徒は太宰府に至った。官吏が準備していた兵隊は、壁を出て防戦したが、賊に敗れた。このとき、賊は太宰府累代の財物を奪い取り、火を放って府を焼き払った。
賊がこのように略奪しているあいだに、官使・好古は武勇の者を率いて陸地から向かい、慶幸・春実らは海上から筑前国博多津に赴いた。賊は待ち受けて戦い、一挙に死生を決しようとした。春実は戦いたけなわのとき、肩脱ぎをして刀剣を取り、一人呼びながら賊の中に入っていった。恒利・遠方らもまた従っていき、遂に入って多くの賊を斬った。賊陣はさらに船に乗って戦った。このとき、官軍は賊船に入って火をつけ、船を焼いた。凶党はついに敗れ、ことごとく殺された。
奪った賊船は800隻余り、矢に当たって死傷した者は数百人、官軍の威力を恐れて海に入った男女は数え切れない。賊徒の主従はともに離散し、滅ぶ者あり、投降する者あり、雲のように散っていった。純友は小船に乗って伊予国に逃げ帰ったが、警固使・橘遠保のために捕えられた。次将らもみな国々所々で捕えられた。純友は捕えられたためにその身を禁固していたが、獄中で死んだ。
古事談
鎌倉初期の説話集。6巻。源顕兼著。1212〜15年ごろ成立。王道后宮,臣節,僧行,勇士,神社仏寺,亭宅諸道の6巻に分け説話を記す。種々の先行書からの抄出で文体も不統一。<江談抄>の影響が強い。1219年成立の<続古事談>も構成内容はほぼ同じ。 
 
 
歴史物語 [源氏と平氏]

 

1 伊賀平氏の興隆 
(1) 平維衝(これひら。伊勢平氏の祖)、伊勢守になる
桓武平氏の嫡流で平将軍と呼ばれた貞盛の子孫達は阪東各地で繁栄を続けたが、四男・維衝だけは伊賀、伊勢に根拠を置き勢力拡大に努めた。
維衝は、長徳四年(九九八)勝手に都を離れ伊勢神領を騒がせた罪で流罪に処せられたものの、寛弘三年(一〇〇六)には再び伊勢守に任ぜられ、安濃部に進出して伊勢平氏の祖となっている。 
(2) 平正度(まさのり。維衝の次男)、斉宮ノ助になる
維衝の次男・正度は斉宮ノ助に任ぜられている。
当時の斉宮には五百人近い役人が勤務していた。神三郡と称する度会、多気、飯野は、「竹の都」と呼ばれた。その広大な神領は、朝廷から任命された大小宮司が政治的に支配し、一ノ禰宜以下二百余人の地元神官らが祭祀を司どる大所帯で、国司の支配外であった。
将門の場合でも判るように神宮領は年貢が安かったので民衆から人気があり、正度の末孫になる正盛の頃には伊賀領内に随分領土を拡めたが、永長元年(一〇九六)その子・忠盛の生まれた頃には山田郡平田がその根拠となっていたらしい。 
(3) 平正盛(まさもり。正度の末孫)、隠岐守になる
正盛は若い頃から青雲の志に燃えて都に上り、院の北面の武士となって白河上皇に仕えたが、故郷・伊賀には同族の平貞光を管理人として常駐させていたようだ。
彼らは仲々の手腕家で、正盛が院に乱入した熊野山伏を捕えて武名を知られるようになると、地元の豪農を次々に傘下に加えてその領土を拡張し、やがては神宮領や東大寺領にまで喰込んだ。
嘉保三年(一〇九六)、白河上皇は出家され法皇となった。一番可愛がった第一皇女六條女院を亡くしたからだ。この年、改元されて永長元年(一〇九六)になるが、忠盛の生まれた年でもある。この頃、正盛は官位も進んで隠岐守に任ぜられていた。
白河院の専制君主ぶりを充分知って如才なかった彼は、直ちに亡き女院の菩提を弔う為と称して、父祖代々の所領の中から伊賀阿拝郡鞆田村と山田郡山田村の田畑と屋敷地を併せた計二十町を思いきって六條院に寄進した。
と云っても現地の代官は今まで通り貞光らが当っているから名目だけで、実収にはさして響かなかったらしく、白河法皇は喜んで官職のほうを優遇してくれるから差引で損はなかった。 
(4) 平正盛、東大寺や伊勢神宮と争う
処がそれを知った東大寺や伊勢神宮側から「それは怪しからん、その土地は昔から我らの領分である。正盛はそれを勝手に横領したのだ」と訴え出たから騒動となった。
特に東大寺は黒田ノ杣(*1)と並んで玉滝ノ杣の出作りに懸命になって居り「鞆田村六十余町は四十人の杣工の衣食用に東大寺創建以来ずっと寺領となっている」とやかましく主張したが、現地の地主や農民達が「そんな事はない、わしらは昔から正盛様に仕えて来た」と証言したからどうやら勝訴となる。
神宮領との争いも法皇が自から裁判官となって双方の云分を聞かれ「正盛の申し立てが正当である」と裁断されたからこれも勝つ事が出来た。これらの事件後は一段と順風で若狭守に進んだ平正盛は伊勢平氏の嫡流を凌いで一門の棟梁と見られるようになり、法皇も正盛の人柄を愛して寵用された。

(*1) 三重県名張市。 
(5) 平正盛、若狭守になる(源氏の対抗馬に)
と云うのは、律令制社会が荘園制社会となるにつれ、武器を携えた僧兵が寺々に満ちあふれて互に抗争するようになっていたからだ。永保元年(一〇八一)の延暦、園城寺の争い(*1)では円珍が生涯をかけて再興した三井寺の大半が焼失している。
三山が熊野権現の神輿を担ぎ出して以来、何かあると「山法師」と呼ばれた叡山の僧兵は日枝山王の神輿をかつぎ出し、寺法師の興福寺では春日神木を擁して強訴(*2)に及んだから、さすがの白河法皇も
「あゝ、まゝならぬものは鴨川の水と双六の目と法師共」とホトホト手を焼いている。
力には力で圧さえねばならぬが院の警吏などでは手に負えぬ、やむなく源氏の武将に出動を命じて鎮圧させたが、只では使えない。賞として土地を与えると云う状況でその勢力は大きくなるばかり…。
「これでは先が思いやられる」と、競い合わせを得意とする白河法皇は、気に入りの正盛をその対抗馬に育て上げようと思い立ゝれたらしい。

(*1) 天台宗の内紛。慈覚派と智証派の延暦寺の主導権争い。貞観元年(八五九)円珍(智証派)は延暦寺を降り、園城寺(三井寺)を再建する。平安末から鎌倉時代にかけて、ついに武力衝突へと発展。歴史に残っているだけでも十数回を数えるという。「山寺両門の争い」。
(*2) ごうそ。寺社が、仏罰・神罰や武力を盾に、幕府や朝廷に対し、自らの要求を通そうとした。延暦寺・興福寺などが有名。神輿や神木などの「神威」をかざして要求を行ない、通らない時は、神輿・神木を御所の門前等に放置。政治機能を実質上停止させるなどした。 
(6) 平正盛、源義親を追討して但馬守になる
白河法皇は六條女院の死んだ年に生れた正盛の嫡男・忠盛を可愛がられて何かと目をかけていた。堀河天皇が没せられた嘉承二年(一一〇七)、彼らを大きく活躍させる機会が来る。
半ば神に近い父・源義家にも劣らぬ武勇で知られていた源義親が、流罪中に出雲の代官を殺し官物を奪うと云う重罪をひき起こしたのだ。院では「誰を追討使にするか」でもめた末、法皇の意向で
「義親の子の為義に、実父を討たせる訳にはゆかぬ。平正盛父子に命じよ」と云う事になり、人々は驚いた。
「勇猛で聞こえた義親を相手にするには余りにも荷が重過ぎる。将門の乱のような事にならねば良いが」と云う噂を耳にしながら、正盛が元服前の忠盛を連れて都を出陣したのは師走の寒い朝だった。
正盛は、伊賀一円の領内から勇躍参加した強壮な兵士団を率い、定めにより鎬矢を義親邸に射込んだ。歩武堂々と出雲に向ったがその数は余りにも少なく、白河法皇も心配だったらしい。それが驚いた事に一ト月もたたぬうちに「義親を誅した」と云う正盛の急報が入った。
喜んだ法皇は直ちに正盛を但馬守に昇進させると伊勢安野津に領地を賜わった。晴の凱旋には異例の出迎えに出御されたから洛中は大騒ぎ。義親の首を一目見ようと弥次馬が巷にあふれ、
「見物の車馬、熱狂してこれを迎え、正盛父子の武勇をたたう」という光景を呈したから、六條堀川の為義ら源氏一門はさぞかし腹を立てたに違いない。
その時賜った伊勢安濃津(現在の津市)の産土の地は忠盛誕生の地と伝えられるが、彼は多分京生れで、新領検分の為に出かけ暫く滞在した為だろう。 
(7) 平清盛が誕生する
永久元年(一一一三)になると、十九歳になった忠盛が、宮中の宝物を納めた蘭林坊を破った有名な大盗賊・名張の夏焼大夫の隠れ家を襲い、子飼の郎党二人を失いながらも見事に捕えて忽ち従五位下に昇進した。
続いて永久の強訴事件では数千人の興福、延暦寺の荒僧鎮圧に出動し、春日明神の使とされる神鹿をも恐れず射倒して、さしもの荒法師共を散々に敗走させ一段と勇名を馳せる。
忠盛は武勇だけではなく法皇に米万石、絹万疋を献じて院の行事や寺院の建立に役立てると云う如才なさに、やがて法皇は寵愛されていた祇園女御の妹を妻に与えられる程になるが、その時「腹に宿っていた法皇の種が、女なら皇女とする。男なら忠盛の子とせよ」と云う意向であったらしい。
やがて永久五年(一一一七)生れたのが男児で、清盛と命名して嫡男に定めたから、法皇もきっと喜ばれたに違いない。その子が元気で這い廻るようになった頃、彼は法皇の供で熊野に詣でた。
それは元永元年(一一一八)の九月で法皇の寄進で新宮大社に一切経堂が完成した頃と思われるが、中辺路の大坂で一服された時、道端に実った山芋を籠に拾い集めた忠盛が
芋が子は 這う程にこそ なりにけり
と云う一句を添えて献上すると、法皇もほほえまれ、
ただもり取りて 養いにせよ
と下の句をつけられたと云うから、二人の間には主従を越えた親交ぶりが感じられる。 
(8) 平忠盛、武門のトップになる
白河法皇には十余人の子があるけれど病弱で若死にされた方も多く、清盛が石清水八幡宮の祭りに舞人として舞台に立つと聞かれて喜んで見物に出かけているし、清盛が十二歳になるとさして功もないのに、従五位ノ下と云う源義家が前九年ノ役で苦斗した結果賜わった官位と同じ高位を与えられているのは、我子と認めていたからだろう。
伊勢平氏の開祖である維衝の嫡流があるかないかの存在となっているのに比べて、末子の正盛の子孫がこのような栄達を得ているのは、二十余年前に伊賀の荘園を六條女院に献じたのが転機である。
従って正盛以後は「伊賀平氏」と称したほうが適切で、今や忠盛は桓武平氏の棟梁とも云うべき地位に立ち、源氏を圧さえて武門のトップを占めた。 
(9) 平忠盛、富強を極める
忠盛は、関東八平氏が源氏の郎党と化したのに対抗して、西国の国守を歴任し、宋国との貿易を一手に占めて富強を極めた。さらに南海道をも支配下に収めるなど、前途洋々たる繁昌ぶりで、一門の面倒も良く見ていたようだ。
朝野の評判も「源氏はとかく共喰いする家風じゃが、平氏は一族仲良く手を取り合って共に繁栄を計るのが父祖伝来の血らしいわい」と上々なのは、伊勢平氏の嫡流達を厚遇した忠盛の寛厚で律気な人柄からだろう。
そして源氏が八幡宮を家門の産土神と仰いだのに対抗して、伊勢と熊野権現を守護神と奉じて数々の寄進を献上じ、伊賀上野に親子で広大な平楽寺を建立したのを始め、仏法興隆に大きく尽力している。 
(10) 平氏と源氏の比較
ただ源氏に比して劣る点は、八幡太郎のような古今無双の武将が生れていないこと。そして、関八州の広大な武士集団に比べて、神宮領三郡を除く伊勢と伊賀の狭い領土からしか子飼の郎党達を養成できなかった事だろう。
伊賀山田郡平田を本拠とする平貞光の嫡流である家貞、服部郷の季宗、伊勢関を本拠とする信兼、安濃津の貞清ら一門の家の子郎党をかき集めてもその兵力は源氏の一割にも満たなかったと思われる。
これが平氏の弱点であり、「驕る平氏も久しからず」と称された彼らの泣き処であった事を現在この地に住む子孫の人々はよく胸に刻んで置かねばなるまい。要は人であり、逆に云えば「よくまあ、あの狭い土地から天下を征する事が出来たものだ」と感嘆される。平氏が一族仲良く共存共栄を計った事がその偉業を達成したと云える。伊賀人にとって明日への大きな教訓とすべきだろう。 
(11) 白河法皇が亡くなる
やがて大治四年夏、半世紀にわたり「治天の君」と呼ばれ「ねい仏政治」と影口された白河法皇が七十七で世を去ると白河院政に羽ぶりの良かった近臣群は忽ち権力の座から追われ、代って鳥羽上皇の側近が我世の春を寿ほぐ時代が来る。
それにしても近親のすべてが若死にされているのに、法皇が喜寿まで生きられたのは「ひとえに熊野詣を重ねられた賜物ぞ」と人々は噂した。一段と熊野詣が勢いを増す中で、忠盛は南海道の海賊退治を終え、首領の日高禅師と云うから熊野生れと思われる悪僧以下七十余人を捕虜として凱旋しているが、出陣中に法皇の崩御を知ると、
又も来ぬ 秋を待つべき 七夕の 別るゝだにも いとゞ悲しき
と詠じて哀悼の意を表しているのは、武将としての激務の中にも宮廷的教養を身につけ、歌道にも励んだ事が察せられる。 
(12) 平忠盛、三十三間堂得長院を建立する
白河法皇に代って新しい専制者となられた鳥羽上皇(*1)が「明石の浦の月はどうであったか」と尋ねると、即座に、
有明の 月も明石の 浦風に 波ばかりこそ 寄ると見えしが
と「明石」と「明し」、「夜」と「寄る」をかけた秀句を以て答え、「八幡太郎にも劣らぬ文武両道の名将よ」と賞讃されている。
そして長承元年(一一三二)になると慌しい権変の時流の中で平氏の棟梁忠盛だけは巧みに時流に乗り、上皇の為に三十三間堂得長院を建立して一躍寵臣の一人となった。
それについて平家物語は「殿上闇討」の章を設け
“天承元年(一一三一)三月、忠盛が備前守の時、鳥羽上皇の望みに応じて得長寿院を造営し千一体の仏を据え奉る。鳥羽上皇、御感の余りに内の昇殿を許されるにそれを聞きたる殿上人大いにそねみ、豊明りの節会の夜に忠盛を闇討ちにせむと議せられける。忠盛これを聞き「武勇の家に生れて不慮の恥に会わん事のいと心憂し」とてその夜は大いなる太刀を束帯の下にさして昇殿し、灯の暗き方にてこの刀を抜き鬢にあてられければ氷の如くに光り見え諸人目をすましけり……”と男盛りの三十六歳だった忠盛が晴の昇殿に際し、武門の棟梁として長袖の青公卿達から恥をかゝされるのを防ぐ為に、銀紙を貼った竹光と無二の腹心である左兵衛尉家貞とその子貞能の尽力によって見事に危機を凌ぎ、それを知った鳥羽上皇から反って賞賛されるエピソードを述べている。

(*1) 崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の三代二十八年に渡り実権を掌握。康治元年(一一四二年)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。 
(13) 源為義と熊野・田鶴原女房
平氏系図(*1)にもある通り、家貞は忠盛には伯父系の一族である。この時代にはその一の郎党として根拠地である伊賀国山田郡平田郷に代官として住み、阿拝郡柘植郷に常駐する一族の季宗らと共に、伊賀平氏の武士団を編成し、忠盛の両腕となった。
忠盛が院の寵愛を受けて次々に昇進し、その子・清盛も保延三年(一一三七)には熊野本宮造営の功によって肥後守に任じられ西国にその勢力を伸ばし宋国との貿易で財力も大いに富み栄えた。
それに比べ源氏の棟梁・為義のほうは御難続きで、嫡男・義朝を鎌倉に住まわせ何とかその勢力拡大に懸命となっていたが、親子仲が良くなかったのは子供が余り多過ぎた為かもしれない。
新宮の熊野別当・長範の養女に十人目の男子が生れたのは保安六年だった。後の、新宮十郎行家である。別当としても熊野源氏の開祖となるべき御曹司だけに、熊野地の玉ノ井橋のほとりに一町四方の邸を新築し武将としての修行に努めさせる事にして大事に育てゝいた。ちなみに、行家の同母姉に「鳥居禅尼」(*2)がいる。

(*1) 別途。作成予定。
(*2) 源為義の娘で、源義朝の姉。鎌倉幕府の初代将軍頼朝の伯母でもある。新宮別当家の行範(十六代熊野別当・長範の嫡男)に嫁し,田鶴原女房(たつたはらにょうぼう)ともよばれた。 
(14) 平忠盛と熊野・浜の女房
熊野地の十郎屋敷から遠からぬ浜王子社には里人達から「浜の女房殿」と呼ばれる評判の美女が住んで居り、その素性は地元王子ガ浜の豪力で知られた漁師の子らしい。
フトした事から別当の目に止って、幼い頃から浜王子社の巫女となり、参詣人の世話をして過すうち巫女としての優れた素質と愛想の良さが評判となり、やがて行幸の供奉で再々熊野を訪れた忠盛に愛されるようになった。
忠盛は文武両道に優れた武将ではあるが、外見上は渺目の不男でそれでいて結構、女性には目がなかったらしい。そして源氏の八幡信仰に対して然るべき守護神を持たなかった平家だけに院の供で参詣の旅を重ねるにつれその霊験にうたれ、熊野権現を守護神に奉じるようになった。
鶴原の別当邸に泊って、阿須賀や王子社に詣でて家門繁栄を祈るうち、彼女を見てすっかり気に入り、度々神の託宣を求めて通う間に何時しか深い仲となった。けれど年に一、二度のはかない逢瀬にたまりかねた彼女は秘かに熊野を出奔し、彼を頼って都にやって来た。
前記の通り忠盛の前妻は、今は亡き白河法皇の寵姫であった祇園の女御の妹だが、若くして亡くなったので後妻には藤原宗子と云う公卿の娘を迎えた。彼女は賢夫人で知られ、頼盛らを生んだ、かの池ノ禅尼である。
浮気はしても元来が真面目で実直な忠盛だけに身近に置く訳にもゆかず、鳥羽院に勤めさせてコッソリと通っていたが、夏の盛りの或夜、何時ものように忍んで来た彼が帰りにうっかり扇を忘れた。
朝になって月の出を画いた男持ちの扇が縁先に落ちているのを見つけた院の女房達が「これは、これは一体いずこから入りたる月やら?ハテさて月の行方は如何に……」と大騒ぎではやしたてると彼女は、
雲居より 只洩り来る 月なれば 朧気にては 云わじとぞ想う
と見事な一句で応じたので女房達もすっかり感心し「さすが風流武人と云われたる忠盛殿の想われ人にこそ」と院中の話題となった。 
(15) 平忠盛9 / 浜の女房殿は熊野へ戻る / 忠度の誕生
けれど二人の逢瀬もそう長くは続かなかった。やがて彼女が身ごもると、何時までも宮仕えはさせられず、扇の一件以来は妻の目も険しくなっている。思案の末に彼女の望み通り一度熊野へ帰す事に決め、やむなく別当に細々と一書をしたためて依頼した。
彼女が出奔した時はひどく怒っていた別当も今をときめく刑部卿・忠盛の頼みだけに喜んで承知したものの、さて彼女の住んでいた浜王子社は十郎屋敷に余りにも近すぎるし「何処ぞに良い場所はないか」と思案した。
と云うのは競い勝ちな源平両氏の棟梁の血をひく御曹司を同じ新宮に住まわせてはと案じた為である。結局平氏にとっては因縁も浅からぬ楊子薬師の対岸にある九重音川の里に邸を持つ神官・宮井外記を守役として彼女を託する事にした。
音川で浜の女房が玉のように元気な男の子を生んだのは天養元年(一一四四)四月半ばで青葉の谷間には美しい鶯の声が流れていたろう。そして都の忠盛は五十に近い末っ子だけにひどく喜び、巨額の養育費に平家ゆかりの名刀をそえ、成長の後は忠度と名乗るようにと子飼の郎党に託して来た。
時に熊野地の十郎屋敷に住む義盛は四才のいたずら盛りで、やがて訪れる源平動乱の世にその武名を天下に知られる熊野生れの両雄は、共に清烈な大河熊野川のほとりですくすくと成長していったのである。 
(16) 平清盛、瑞兆を見る
久安三年(一一四七)は平家にとっても大きな事件の起きた年で、平家一門の新しき星である清盛が大国安芸守に昇任されたのはひとえに熊野権現のお陰であると、その春には伊勢の津港から海路熊野にお礼参りに向ったが、波も穏やかな春の海を航海中に大きな鱸が船中へ飛び込んで人々を驚かせた。
それを見た清盛は「昔、周の武王の船に白魚が躍り込み、やがて天下を制する事になったと云う吉兆がある。精進潔済の旅ではあるが、これも権現様の神意とあれば辱けなく頂戴してそなたらにもお裾分けをしよう」と刺身に作り、家貞ら郎党達にも食べさせて大いに前途を祝した。
そして無事に三山を巡拝して都に帰った夜、枕辺に美しく神々しい熊野結大神が立たれると「西八條の地に若一王子の御神体が埋もれている、汝はそれを掘り起して祀れ、さすれば一段と立身出世は疑いなし。」と告げられた。
感激した清盛が夜の明けるのも待ちかねて西八條に走り、夢で見た光景と良く似た地を掘って見ると果せるかな黄金まばゆき神像が出現されたので喜んで邸の守護神として祭った。 
(17) 平清盛、神輿に矢を射る
その夏になると延暦寺が強訴に及び、法皇の命で警備に当った清盛が神輿を奉じて暴れる神人達と争い敢然とそれを矢で射貫いた為に大騒ぎとなり延暦寺では忠盛、清盛を流罪にさせよと厳しく院に訴えた。
神輿に矢を射かける等と云う事は当時としては破天荒な大事件であったが厚く熊野権現を信じる清盛には確呼たる信念が燃えていたようで、院の裁きも幸い銅三十斤を納める事で落着し、反対に清盛の名は天下に轟いた。
これを聞いた新しい熊野別当・田辺湛快は一段と平氏に惚れ込み、御幸で見えられる法皇やその寵姫・美福門院にも大いにその人柄を讃え、清盛もそれに答えて、中国貿易で蓄えた豊富な財力に物を云わせ、造営その他に色々と尽力した。
仁平三年(一一五三)熊野音川の里で生まれた忠度が漸く九才になった頃、父忠盛は五十八才で世を去り、幼なくして母を失った彼は続いて物心ついてから僅か数度会っただけの父を失う悲劇を迎える。
忠盛の死を知った左大臣・頼長は「数国の受領をへて富は巨万をつみ、家人は国に満つ。
武威世に高きも人となり恭謙にして奢移の振舞なし。」と珍しく高く讃えているが、忠盛が世を去っても、その子・清盛健在なる限り、平氏の屋台骨は揺がず、忠度の前途もまた洋々たるものがあった。 
(18) 源為義の周辺
それに比べて源氏の長者・為義の運勢は余り振わなかった。嫡男・義朝が興福寺と争った為に免官となっていたのをやっとの事に復職したのも束の間、久寿元年(一一五四)には十郎のすぐ上の兄である鎮西八郎・為朝が九州で大暴れした。その為に鳥羽法皇が激怒され、「為朝に従う者は厳罪に処す」との院宣を発し、為義は謹慎して罪をわびている。
翌年(一一五五)、東国で勢力拡大に努めていた義朝の子・義平(為義の孫)が、為義の命で志田に下っていた次男・義賢(義平の叔父になる)と争い、叔父を殺して「悪源太」の名で世を驚かせると云う事件を起こした。(大蔵合戦)
「それ、またも源氏の共喰いぞ」と貴族達は嘲笑し、鳥羽法皇の覚召しも一段と悪く、度重なる御幸警備にも平氏ばかりで、為義の姿を見る事がなくなった。 
(19) 保元ノ乱1 / 後白河天皇、即位する
久寿二年(一一五五)の夏になると全国的な飢饉の中に近衛幼帝(*1)が世を去った。やがて帝位に就かれた後白河天皇は、崇徳上皇の同母弟である。鳥羽法皇から「とても皇位に就く器に非ず」と三十近くまで冷飯扱いにされていた皇子で、一度思い立った事は見境いもなく実行される。田楽、小笛、果ては今様と云う流行歌に夢中になるかと思えば、男色、女色の両刀使いと云う好色家である。帝位についた後も大学者の信西少納言から「古今無類の暗愚な帝」と冷評されている。後白河が帝位に就いたのは、鳥羽法皇の寵姫・美門福院が猶子(*2)としていた守仁親王(後の二條帝)を皇位に就けたい為に、その父である後白河をホンの一時即位させただけである。
崇徳上皇は、鳥羽法皇亡き後は院政を開いて「治天の君」の地位に就く事を待望して日々を耐えていた。しかし後白河の即位の為に、その望みを断たれ、我子も皇位からしめ出されたのを知って深く怨まれる。
保元元年七月、専制者・鳥羽法皇は世を去るが、臨終の床にかけつけた崇徳上皇は枕辺に近づく事も許されず、怨を呑んで空しく邸に帰られた。それを見て同じ境遇にあった摂関家の才物、左大臣・藤原頼長が崇徳上皇を擁して権勢を回復すべく武力によって事を決せんとする。ここに父子兄弟が血を血で洗う「保元ノ乱」が勃発することになる。

(*1) 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原氏の美福門院(藤原得子・ふじわらのなりこ)。
(*2) 猶子(ゆうし)とは、明治以前において存在した「他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶ」こと。ただし、養子とは違い、契約によって成立し、子供の姓は変わらないなど、「法的な」親子関係という意味合いが強い。 
(20)保元ノ乱2 / 後白河天皇と崇徳上皇が争う
七月十日、かねて臣下の礼をとっていた藤原頼長と、崇徳上皇からの再三の院宣を受け断わりきれなくなった源為義が長男・義朝を除く六人の息子達と、白河の崇徳院に参じた。いっぽう後白河天皇の高松御所には鳥羽法皇の遺言として、源義朝や平清盛、伊勢平氏の平信兼らが召されて忽ち戦いとなった。
けれど俄かな開戦に藤原頼長が頼みとした興福寺の僧兵さえ間に合わなかった程で、遷都以来三百六十年、都が戦火にまみれるのはこれが始めてである。開戦に際し還暦を迎えた老朽な源為義は千騎足らずの味方の寡兵を見て長期戦を提案したが否決された。豪勇無双の源為朝は、それが容れられぬと知るや「直ちに高松殿の夜襲火攻め」を主張した。けれど藤原頼長は才を誇ってそれも取り上げなかった。
反対に天皇方では、実力者であった信西入道(*1)が「戦さの事は万事武門に任すべし、邸の一つや二つ焼けたって建直すまで」と源義朝の焼討ち策をすんなり採用したから戦いは一夜にして決し、崇徳上皇方の敗戦となった。

(*1) 藤原 通憲(ふじわら の みちのり)。貴族・学者。藤原南家の末裔。当世無双の宏才博覧と称された。信西(しんぜい)は出家後の法名。 
(21) 保元ノ乱3 / 源為義、嫡男・義朝に殺される
藤原頼長は流れ矢で死に、源為義は天皇方についた嫡男・義朝を頼って自首した。義朝は「何とか父の命だけは」と願ったものゝ「朝敵はすべて斬れ」との冷酷な信西の裁定に父と弟達をすべて斬らざるを得なくなった。これは平清盛が信西の云う通り真先に叔父一族を斬った為である。
然しそれを知って平氏相伝の老臣である伊賀の家貞は大いに腹を立て清盛に
「武夫は情深く物の哀れを知り罪ある者を許してこそ神の冥加あるもの。叔父、叔母は親と同じであると云われるのに何たる事を為さったか」と涙を流して叱責し、これには清盛も一言もなかったと云う。
それにしても源義朝がその事を正直に云わず、父・為義を欺いて斬ろうとし郎党の波多野次郎が
「実父を闇討するとは余りにもひどい。せめて事情を打明け、最後の念仏をすゝめるべきだ」と敢て為義に泣く泣く言上した。
為義も驚いて
「仏は衆生を念ずれど衆生は仏を思わず、親の子を思う程に子は親を思わぬと云うが正にその通りだったか」と嘆き、
「せめて戦に加わらなかった乙若ら四人の幼児だけは何としても助けよ」と遺言して斬らせている。
然し義朝は「男はすべて殺せ」と云う冷たい勅命通り、戦さに加わった者は元より何の罪もない乙若以下の幼弟まで斬らんとした。それを知った乙若は死に臨んで聊ゝかも乱れず、
「兄に一言伝えよ“昔よりその例しもなき実の父や兄弟のすべてを斬って我身一人の栄華を計ろうとも、遅くも七年早くば三年のうちに因果は巡ってその身も亡び、源氏の種も絶えなん”と年幼い乙若が申したとな。」と健気にも云い残したと伝えられる。それを聞いて母である為義の正妻は悲しみの余り保津川に投身して果てた。都の貴賊は「天道も人道も滅びたるか」と嘆き、僧・慈円(*1)は「これより後は武者の世となりける」と記している。

(*1) 天台宗僧侶。鎌倉時代初期の史論書「愚管抄(ぐかんしょう)」を著す。 
(22) 保元ノ乱4 / 新宮十郎、都へ行く
乱後の都では勲功第一の源義朝が正五位ノ下左馬頭に進んだ。それに対し、戦さでは逃げ廻っていた平清盛が正四位播磨守から太宰府ノ師の要職に進んだ。また、対宋貿易を一手に占めて一段と富強を誇り、冷血政治家・信西にもひどく気に入られていた。
巷の評判も親兄弟の仲の良いのは「平家型」と云われるのに比べて、義朝は「何ぞ情なや義朝様は」と歌われ、「親殺し」の悪名も高い。何とか源氏の勢力を伸ばさんと焦った彼は熊野に在ると聞く末弟を呼び寄せる事にした。
召命を受けて喜んだ新宮十郎が熊野早船に乗じて新宮を出発したのは父の三回忌も済んだ保元三年の春で歳も十九、青春多感の頃である。やがて兄の顔で検非違使の下役に就くと日夜職務に精励し「左馬頭殿の弟御は智勇兼備の頼もしき若武者ぞ」と人にも知られ始めた。 
(23) 平治の乱1 / 後白河天皇、上皇になる
明けて平治元年(一一五九)後白河天皇は譲位して上皇となり二條天皇が即位される。
賢主の誉れも高い天皇の親政を望む声も多い中に、院政の中心勢力である信西と上皇の寵臣である藤原信頼の対立が深まり、これが平清盛と源義朝の抗争を呼んだ。天下は武力を以て容易に決する事を知った人々は一路それに突進する。
平家全盛の世をもたらした「平治の乱」は上皇の男色の相手だった藤原信頼が右近衛の大将を望み、院の承諾を得たのに信西にはねつけられた事から始まる。藤原信頼は信西を怨み、源義朝や天皇親政派と結んで捲き起こしたもので、こんな人物と手を組んだのは源義朝の大失敗であった。
然し「鹿を追者、山を見ず」の諺通り、クーデターによって信西と平清盛を打倒すべく秘そかに計画を進めた源義朝は、折から平清盛が我子・重盛の三山造営奉行就任を喜び親子揃って都を出発すると聞き「時こそ来れ」と勇み立った。 
(24) 平治の乱2 / 清盛親子、熊野から引き返す
平治元年十二月九日、藤原信頼と源義朝らは天皇親政派の側臣や多田源氏の頼政を味方に誘い、東三條殿を焼いて上皇、天皇を幽閉した。信西を捕えて梟首にすると勝手に論功行賞を行い、藤原信頼は宿望の大将となり天皇気分で我世の春に酔いしいれ、忽ち人心を失った。
一方、清盛親子は腹心の家貞ら僅かな郎党と共に熊野をめざしていたが、切目王子という場所でその変事を聞かされ立往生の形となった。然し親友である熊野別当・湛快やその子・湛増が手兵を率いて駈けつけ、また、湯浅宗重が精強な一隊をつれて援軍に参じたので漸く意気揚り、一路都をめざす事にした。
切目王子の社前で「勝利を得なば必ず立派な社殿を寄進する」との誓いを立て、無事に六波羅に入った。やがて藤原信頼の隙をついて天皇親政派を味方にし、巧みに天皇、上皇を脱出させると朝敵追討の宣旨を賜わり、
「年号は平治、処は平安、我らは平氏と三拍子揃ったこの一戦に勝利は疑いなし、進めや者共!」と陣頭に立った二十三才の重盛に対して、義朝の嫡男、十九才の悪源太・義平の一騎討ちが待賢門で華々しく展開したのは余りにも有名だが、大義名分は明らかに平家にある。
御所を守った十郎は初陣だけに大いに奮戦して清盛勢を追い崩し、勢に乗じて敵の本陣である六波羅に迫ったが、その隙に御所を占領され、その上朝敵となったのを嫌った頼政ら多田源氏の裏切りで味方は総崩れ、彼も足に重傷を受けると「もはやこれまで」と腹を切ろうとした。
けれど子飼の郎党・五郎を始め熊野山伏達が必死で追手の目をかすめ、秘密の山伏道からようやく熊野に落ち延び得たのは誠に幸運だったと云える。 
(25) 平治の乱3 / 源義朝、欺し討たれて死す
いっぽう東国での再挙を期した義朝は八瀬から西坂本へ落ちる処を叡山の僧兵達に襲われ、義平、朝長、頼朝らは雪の中を散り散りとなった。義朝は辛うじて尾張に落ち延びたが、家人である坂東平氏一門の長田忠致に欺し討たれて無念の最後をとげる。
美濃の青墓から独り東国に向った頼朝は、伊賀柘植郷を本拠とする平家一門の侍大将の弥兵衛宗清に捕えられて都に曳かれ、既に断罪ときまっていた。しかし、その人柄を見た弥兵衛宗清が何とかしたいと清盛の継母・宗子(池ノ禅尼)に
「頼朝は熊野詣の旅の帰りに宇治で死なれた家盛様に瓜二つです。何とか命だけは助けられては」とすすめた結果、伊豆に流罪となる。
続いて莵田の岸ノ岡にかくれていた常盤(*1)らを捕えたものゝ、戦に参加して奮戦した敵将の嫡子を許す以上、頑是ない牛若ら幼児を斬る訳にはゆかなかった。常盤の美貌に溺れてその命を助けた為に、後世、稀代の政治家・頼朝と天才武将・義経を世に送る結果となった。

(*1) 源義経の母。
(26) 平清盛、太政大臣になる
それにしても頼朝以上に奮戦した新宮十郎義盛が敗戦後に熊野落ち、姉の丹鶴夫妻にかくまわれているのを湛快の通報で知りながら、清盛は敢えて追求していない。これは、かねて守護神として信仰して来た熊野権現の神慮を恐れたとは云え、清盛の温かな人柄と云える。
平治の乱の十年後、仁安二年(一一六七)には清盛は太政大臣に躍進する。法皇に愛された義妹・滋子が皇子(高倉帝)を生み、今熊野社や三十三間堂の完工など仏教の法皇に取入った為とも云われる。しかしやはり彼の血筋と器量であったろう。
仁安三年には高倉天皇が即位し、承安元年(一一七一)には娘・徳子が皇后となるや平家一門の公卿、殿上人は三十余人を数えた。まさに全盛を誇る世となり、治承元年その勢いを憎む後白河法皇の有名な「鹿の谷の陰謀事件」も起きている。
然し治承二年(一一七八)徳子が後の安徳を生み、その権勢にゆらぎもなかったが、翌三年(一一七九)になると激動の世の幕がきって落とされる。 
(27) 平清盛、クーデターを起こす
突如!清盛は
「(後白河法皇は、私、清盛にとって)柱石であった重盛の死を知りながら平気で八幡宮に行幸して遊宴を開かれた。また、重盛が子孫末代までとの約束で賜った越前領を没収された。それは子を失い悲しみに暮れる七十路の老父(清盛)に(後白河法皇が)敢えて挑戦されたものだ。これは、正しく鹿谷で平家倒滅を計られた二の矢に外ならぬ」とその怒りを明らかにし、側近にあって院政を司る関白以下四十余人の官職を停めて流罪にし、法住寺御所を軍兵で包囲して後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、院政を廃止すると云うクーデターを断行した。
そして宗盛を内大臣にし、娘聟である藤原基通を関白に任ずると、同じく娘聟である高倉天皇に
「今後の政務は万事帝の思いのまゝにせらるべし」と云って福原に帰った。
けれど高倉天皇は「法皇の譲り給うた世なればともかく」と取上られず、秘かに後白河法皇に手紙を書かれ、
「かかる世に帝位に在りて何になろう、花山法皇の例しもあり世を逃れ流浪の行者とも成りたし」と嘆かれている。 
(28) 安徳幼帝(平清盛の孫)、即位する
高倉天皇は、治承四年(一一八〇)の二月になると二十の若さで退位して僅か三才の安徳幼帝が即位された。清盛は外祖父として淮三后(皇族に準ずる待遇)の権勢を専らにしたから、院を囲む反平氏陣営の人々は一段と不満を高めた。
これを見て新宮に潜んでいた新宮十郎義盛は「苦節二十年の時節到来」と秘かに上京して、院の側近や都に還っていた文覚上人達と密謀を重ね、一門の長老である源三位頼政をかき口説いた。このため、さすが慎重な源頼政も遂に挙兵に踏切り、高倉上皇の兄になる以仁王を奉じて、全国の源氏に平家追討の檄文を発する事を決心した。
それは恐らく鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇の密命でもあったろう。治承四年四月、源頼政の邸に潜んで待機していた新宮十郎義盛に王の召命が下り勇み立って参上した彼に、以仁王は自ら筆を取って、
「東海、東山、北陸の諸国源氏に下す、清盛法師ら叛逆の者共を早々に追討すべし」との令書をしたゝめられ、
「これを以て各地の源氏を蹶起させよ」と命じた。さらに、無官では重味が足りぬと八條院ノ蔵人に任じ、その名も行真と号された法皇の一字を賜り「行家と改めよ」との有難い上意を下された。 
2 新宮川の開戦 

 

(1) 源平合戦(治承・寿永の乱)1 / 源氏、新宮川の戦いで勝つ
以仁王(もちひとしんのう。高倉上皇の兄)の令旨(「各地の源氏を蹶起させよ」との上意)を拝して嬉し涙にむせんだ新宮十郎義盛、改め、行家は、
「平治以来、新宮に隠れ籠りて日夜安き心もなく、如何にして源氏再建の念願を果し家門の恥をすゝがんと辛苦し居りましたる処、計らずも唯今その命を蒙る。身の幸せこれに過ぐるなく、源氏一門の誰かこれに叛く者ありましょうや。これより直ちに馳せ、一日も早く挙兵上洛、天下の安危を救い申すべし」と勇躍高倉邸を出発した。
その行動を平家物語は次の如く述べている。
“熊野に候う十郎義盛を召して蔵人となし行家と改名させ令旨の御使に東国へ下されける。四月廿八日に都を立ち近江より始めて美濃、尾張の源氏共にふれ催ほし、五月十日伊豆北条に下りつき流人前ノ右兵衛佐・頼朝に令旨を奉る。次いで信太三郎先生義広(*1)は兄なればと常陸に下り、木曽ノ冠者・義仲は甥なればと中仙道へぞ赴きぬ。その頃、熊野別当・湛増は平家重恩の身になれば何とかして洩れ聞いたりけん 「新宮の十郎こそ高倉宮の令旨を賜わり既に謀叛を起すなれ、新宮那智の者共は定めて源氏の味方ぞせん。我は平家の御恩を天や山と蒙れば如何で背き奉るべき。新宮に矢の一つも射かけて後に都へ報告すべし」 とて鎧兜に身を固めた一千余人、新宮湊に発向す。新宮方には鳥井ノ法眼(行快)、高坊ノ法眼を始め、侍には宇井、鈴木、水屋、亀甲ら、那智方は米良ノ執行法眼ら総勢二千余人勝閧を作り 「源氏の方にはとこそ射よ平家の方にはこうこそ射れ」 の矢叫びの声も退転なく、鏑矢の鳴りやむ隙もなく、三日が程こそ戦うたれ、湛増勢の大江ノ法眼は家ノ子郎党を多く討たせ、我身も傷負い、辛き命を生き延び、本宮へぞ逃げ上りける”

(*1) しだせんじょうさぶろうよしひろ。源為義の三男。 
(2) 源平合戦(治承・寿永の乱)2 / 源頼政(*1)、平清盛に叛く
この戦いを諸戦に源平の争乱は五カ年、二十度に及ぶ大戦となるが、拙著の『年代記』に詳記したから、今回は幾内の伊賀大和に連なる戦いを追いながら、その経過を辿る事にしよう。
治承四年五月の始め、新宮川原での散々な負け戦さを知って大いに口悔しがった湛増は、直ちに早馬で「以仁王ご謀叛!」の第一報を都に飛ばした。福原の新邸でそれを知った清盛は、急いで源頼政の嫡男、伊豆守・仲綱らに宮の逮捕を命じている。まさか彼らが元凶とは夢にも気づかなかった当り、清盛の人の好さが察せられる。
清盛に云わせれば、源氏が亡んだのは義朝が逆賊となった自業自得である。あの正直で忠節な頼政が
四位を拾うて 世を渡るかな
と嘆くのを聞き、源氏としては八幡太郎も及ばぬ最高の三位に叙任させたのだ。清盛としては頼政に厚く報いたつもりである。それだけに、その頼政が叛こうとは思いも寄らぬ事であったろう。
けれど当の頼政が以仁王に挙兵をすすめた時、
「かつて朝敵を平らげる任務は源平いずれも優劣はなかったのに、保元・平治以来、両者の差は雲泥となり、主従の礼をとるよりも甚しく、国では平氏の代官に従い、庄ではその目代(*2)にこき使われ、年貢課税に休む暇もない有様となってしまった。特に東国では、平家の侍奉行の虎の威を借る厳命で、三年もの長い間、「大番役」と云う御所の警備に駆り出され、帝に対する一期の大事と一族郎党が晴をかざって上洛したものの、役目を終って帰る時は、馬も武器も売り払い、破れ蓑笠に裸足と云う、乞食同様の姿で帰国する有様でありました」と言上している。
当時の東国に於ける武士社会は、国守の代官である目代の支配下に、所領を持つ武士と、その配下の郎党、そして一般の農民、一番下が下人や奴婢達、と云う四階級があり、関東八平氏も武士であると共に地主であり農民でもあった。
従って武門の頭梁である清盛は、地主農民である同族の喜びも苦しみも良く知り、曽っての将門の如き配慮がなくては、その心をつかむ事は出来ぬ。
自からは太政大臣として中央政府に君臨していても、せめて嫡男・重盛は征夷大将軍と云う武門の棟梁に止め、関東に将軍府を定めて阪東八平氏の信頼を失わず、その生活の向上を計るべきであった。
それが出来なかった為に破局が訪れるのだが…。

(*1) 弓の名手として知られ、鵺(ぬえ)という怪物を退治したエピソードで知られる。
(*2) もくだい。任国へ赴任しなかった国司が現地へ派遣する私的な代理人。 
(3) 源平合戦(治承・寿永の乱)3 / 源頼政父子、宇治川の戦いで死す
一方清盛から突如!「以仁王を逮捕せよ」と命ぜられた源沖綱も驚いた。父とも協議し旗上げは東国の源氏が挙兵後と考えていたから、未だ準備が出来ていなかった。
「スワ!事は露見したるか!」と、以仁王に急報する。長閑に十五夜の月を賞でゝいた以仁王は、取る物も取り敢えず頼政の云う通り三井寺に奔った。
源頼政が手兵を率いて三井寺に入り、打倒平家の第一声を発したのは五月十九日だったが、頼みとする叡山は動かず奈良法師も中々参じない。三百足らずの兵で平家の大兵を相手にしては勝利の見込みもない。急いで奈良をめざす途中、平知盛、平忠度らを大将とする追討軍に追いつかれ、宇治川を挟んで合戦となった。
五月二十六日に展開した宇治平等院での源平の第二戦は、衆寡敵せず源氏の敗戦となった。以仁王を奈良へ逃がした頼政父子はこゝで潔ぎよく討死。仲盛の嫡子が辛くも伊賀の島ガ原に落ち延びている。以仁王自身も奈良からの救援軍を目前にしながら、光明山寺の鳥居前で追手の矢にかゝって敢なく落命し、三十の若い生涯を終えられる。 
(4) 源平合戦(治承・寿永の乱)4 / 頼朝、挙兵する
六月の上旬、令旨を伊豆の頼朝、常陸の義教、木曽の興禅寺で義仲に伝達したばかりの新宮十郎行家の耳に、頼政父子討死の悲報が届いた。
彼も事が熊野別当・湛増の急報により発覚したと聞かされて自責の念に耐えず、
「この上は亡き宮や頼政父子の弔い合戦に一日も早く源氏の総蹶起に持込まねば」と、一段と各地を奔走した事だろう。
宇治での敗戦を知りながら、源頼朝は「以仁王が尚存命で関東一円の支配を任された」と称して兵を挙げたのは八月半ばだった。伊豆の国守だった源頼政が敗死後、伊豆は平時忠の領国となり、その目代には伊勢平氏の一門である関信兼の嫡男である山木兼隆(*1)が任ぜられていた。彼は猛者で知られていたが、何故か父の訴えで伊豆に流されて居た。北条時政(*2)は娘の政子を彼の嫁にやろうとしたが、政子は頼朝の元に逃げたという話がある。
そんな宿縁もあってか頼朝は挙兵の血祭に先ず山木兼隆の邸を襲った。折しも三島大社の祭礼の夜で郎党達が祭見物に出払った隙を突かれた兼隆は、勇戦空しく討死。
「幸先よし!」と喜んだ頼朝は意気高く相模に進撃した。

(*1) 伊豆国司・平時忠の目代に任ぜられ、現地に流されていた源頼朝の監視役。
(*2) 源頼朝の妻・北条政子の父。伊豆の豪族。鎌倉幕府の初代執権。 
(5) 源平合戦(治承・寿永の乱)5 / 源氏、進撃する
けれども頼朝は石橋山で大庭景親らの大軍に完敗して既にこれまでと自決を覚悟した。しかしその時、敵方であった梶原景時に救われ後に彼を腹心にする。頼朝が戦場に臨んだのはこの一戦のみで天下の覇者となったのだから余程の幸運児であった。
頼朝が安房に渡って再起するや、関東各地の豪族達は次々に争ってその軍門に馳せつけ、忽ち三方余騎の大軍となって関東一円を支配下に収めた。これは八幡太郎以来の父祖の余慶であったろう。
九月に入るや、木曽義仲が信濃で挙兵。甲斐源氏の武田信義が甲斐で、同じ新羅三郎義光の流れを汲み紀州保田を本領とし、やがて近江に移った安田義定はいち早く頼朝の家人となり、近江山本から甲賀伊賀に地盤を持つ嫡男・義経と呼応して駿河に進撃した。
正に瞭原の炎の如き状勢を見た公卿達は驚いて「あたかも将門の乱の如し」とうろたえ、清盛は内心女心の情にほだされた己の愚かさに激怒しつゝ
「恩知らずの源氏共を皆殺しにせい」と命じ、洛中は俄に戦風が吹き荒れた。 
(6) 源平合戦(治承・寿永の乱)6 / 平氏、富士川の戦いで負けるが、反撃に転ずる
治承四年、十月大凶作の中に展開された富士川の戦いは「水鳥の羽音に驚いての敗走」として日本中の笑い草となった。しかし兵力から云って源氏数万に対し平氏は僅か三千、然も天の時、地の利、人の和のすべてに欠けていた。勇将・平忠度らの奮斗も及ばなかったのは当然だったろう。
入道相国・清盛は今更ながら重盛に先立たれた痛手を嘆きつつ、体勢の立直しに懸命となる。後白河法皇の幽閉を解いて院政を再開させ、叡山の要請に応じて僅か半年で福原の新都を捨てた。京に戻ると民心をなだめ、南都の僧兵達の鎮静をめざした。
そして忠度らの戦力立直し進言を容れて、近畿西国の武士達への配慮を厚くすると、知盛、忠度に再度出撃を命じる。平田家継ら子飼の伊賀の平氏軍団を動員して、近江の甲賀入道義兼や山本義経ら源氏勢を敗走させ、逃げるを追って近江、伊賀、伊勢の三手に分れた。二万と号する追討軍は前回とはうって変り、連戦連勝の勢いを示した。 
(7) 源平合戦(治承・寿永の乱)7 / 清盛、東大寺を焼く
さらに年の瀬も迫った頃、氏の長者である関白・基房らを奈良に派遣して、近江源氏と呼応して蜂起した南都の僧兵達を説得させた。しかし中々鎮まらないので腹心の郎党・瀬尾太郎兼康を呼び、
「鎧もつけず弓矢も持たず堪忍を第一とし何とか狼籍を静めよ」と命じた。
処が思い上った僧兵達は、無法にも無抵抗の彼らを捕え六十余人の首をはねて猿沢の池にさらした。激怒した清盛は頭中将・重衝を大将として四万の大軍を出撃させる。父や兄を無惨にも殺されて復仇の怨みに燃えた将兵は、大激戦の末に般若寺の僧兵七千を打ち破ると、夜にまぎれ逃げるを追って興福、東大両寺に攻め入った。
折からの烈風に民家からの飛火が大仏殿を始め七堂伽藍を次々に焼き、多数の罪もない女子供までが煙にまかれ焼け死ぬと云う大惨事となってしまった。それを聞いた都の貴賤は口々に
「見よ仏罰を蒙って平家の世も長くあるまい」と噂した。
これは決して清盛や重衝の計画した事ではなかったが、それを知った高倉上皇は苦悩の末にやがて崩御されると云う悲劇まで発展した。さすがの清盛も頭を抱えて時流の非を痛哭したに違いないが、それでも一門の総師として弱気は禁物と自らを叱咤して断呼強圧政策を進めた。
次男・宗盛を近畿一円の総管領に配して軍政を一手に握らせ、広大な東大寺、興福寺領を没収して財力を増強する。木曽義仲追討には越後の城ノ太郎、四国の河野追討には備後の額入道西寂、九州へは伊賀平氏の頭梁筑後守家貞らを派遣して、その鎮圧に全力を傾ける事に決した。
「大仏炎上!」の報は幾内全土を驚愕させた。大和結崎郷の興福寺下司職の井戸一族も、宮司の縁に連なる伊賀出身の重源が各地に走らせた再建の山伏の勧進に応じて、浄財を奮発している。 
(8) 源平合戦(治承・寿永の乱)8 / 清盛、熱病で死す
年明けて養和元年(一一八一)に入ると賊徒鎮圧に懸命な平家にとっては痛恨の大災難がふりかかった。
日頃頑健な清盛が突如高熱に襲われて苦しみ喘いだ末、三月四日の夜六十四才を一期として世を去ったのである。
彼の遺言を平家物語は
「今生の望みは一事も残る処なきも、頼朝の首を見ざりしこそ安からぬ。我亡き後は堂塔も建てず供養もすべからず。たゞ頼朝が頭をはねて墓前に供うべし」と云い凄いものであったと伝える。
清盛亡き後、平氏の総師は重盛の嫡男・維盛ではなく、人の好いだけが取柄の三男・宗盛となった。彼は後白河法皇に平身低頭して
「万事につけ唯々院宣通りに行いまするによって、畿内、伊勢伊賀九カ国の総官、下司職に任ぜられ、徴兵と食糧確保の権限を許し賜わり度し」と哀願して許されると、根こそぎ動員を断行し大勢挽回に必死となった。 
3 平家都落ち 

 

(1) 源平合戦(治承・寿永の乱)9 / 墨俣川の戦い、くりから谷の戦い
養和元年三月、墨俣川の戦いで平氏は何とか清盛の霊を慰めんと奮戦して、新宮十郎行家軍を敗走させたが、不屈の行家は木曽に奔って義仲に救いを求めた。
寿永二年になると十万の将兵を根こそぎ動員した平家は、北陸五カ国を征圧した義仲軍を壊滅すべく勇躍北上したものの、有名なくりから谷で大敗して総崩れとなった。
後世この地を訪れた芭蕉は、老将・斉藤実盛が白髪を染め、錦の直垂をきらめかして一歩も退かずに、骸を越路にさらした話を聞き、
無惨やな 兜の下の きりぎりす
と嘆いている。 
(2) 源平合戦(治承・寿永の乱)10 / 平家都落ち
そして五月半ば、平忠度らの力戦も空しく、四面楚歌の情勢の中で遂に万策尽きた形となり、平氏は開祖・桓武天皇の創建された叡山に、一門の公卿が連署で救援を乞う。
然し叡山には早くも行家や義仲の手が伸びて、大衆会議の結果「宿運つきた平家をすてゝ源氏に味方する」事に決していた。かねて南都は焼打以来、平氏に対する復仇の念に燃えて居り、北嶺(叡山)かくの如きでは万事窮すである
折しも「木曽勢五万騎早くも東阪本に満ち、新宮行家数千騎を率いて大和路より宇治に進む」との早馬が入り、知盛、重衝ら若手の諸将は
「高祖・桓武大帝の築かれた平安の都を空しく明け渡す事は出来ぬ。最後の一兵まで戦いせめても一期の花を咲かさん」と主張したが、宗盛は、
「法皇、帝を擁して西海に落ち再挙を計らん」とする道を選んだ。
それは七月二十四日の一門協議の結論であったが、いち早く知った後白河法皇はその夜のうちに旅僧に変装して法住寺殿を忍び出ると行方を晦まされた。大騒ぎとなるが、玉砕派の知盛らは、
「法皇様は天下一の大天狗よ。平家の負と見れば、八つ手の大団扇に風をくらって源氏に飛ばれる。今頃はきっと鞍馬か叡山の空あたりじゃろ」と笑い飛ばしたと云う。
知盛らの判断通り、ひとまず鞍馬へ落ち、次いで叡山に逃げ込んだ後白河法皇は、昨日まで朝敵であった義仲に、平気で平家追討の院宣を書くと云う薄情さであった。 
(3) 源平合戦(治承・寿永の乱)11 / 木曽義仲の死、義経は京へ
かくして時鳥の忍び音もわびしき七月二十五日の早暁五時、まだ六才の安徳幼帝と国母建礼門院を載せた輿に続き、三種の神器を始めとして数々の国宝を満載した牛車数十台を囲んだ平家一門は、西八条から六波羅の五千余軒の豪装華麗な邸宅群を火の海と化して羅生門から西に向った。油照りの街道を重荷にあえぎつゝ落ちて行く人々の彼方には、最早や見納めとなる叡山や伏見醍醐の山々が美しく聳え立っていた。
それでも内大臣・宗盛以下の公卿殿上人七十余人は轡を並べて西海をめざした。同行しなかったのは頼朝を助けた頼盛一家だけだった。さすが兄弟仲の良い事で知られた平家一門であり、生死は共にと、続く郎党は七千余騎と云われている。
そして勝敗は兵家の常とか。それから僅か半歳、入替わって朝日将軍ともてはやされた木曽義仲の一族も、行家の説くまゝに頼朝のように己の地盤を固める暇もなく、院命に応じて一路都に突進した為に、海千山千の院とその側近達の手玉に取られ、腹立ちまぎれに
「腹黒い院の命なんぞ糞くらえ!」と大暴れし、晴の都入りから僅か半歳後の寿永三年春に、獄門首を巷にさらす結果となる。
後世、伊賀には彼と今井(*1)の生存説が残っている。これは今井の爽やかな心情を愛した俳聖芭蕉が“木曽殿と背中合せの寒さかな”の名吟と共に、義仲の墓に並んで眠っている名将へのせめてもの慰めであろう。
寿永三年、梅匂う春、山猿と恐れられた木曽勢に替って入京した鎌倉勢は、義経の指揮宣しく忽ち京の治安を回復して、民衆の人気を高めた。

(*1) 今井兼平(いまいかねひら)。義仲四天王の一人。木曽義仲とは乳兄弟でもあり、最後まで義仲と共に戦う。 
(4) 源平合戦(治承・寿永の乱)12 / 平家の逆襲
西海に在り、勢力挽回に努めた平家は二月に入るや室ノ津、屋島から旧都福原に進出した。西国一円から集まった兵力は数万と称され、二月四日、清盛の四回忌の法要を済ませると一門の諸将は意気高く新しい配置に就いた。常勝将軍・知盛や重衝は三千の兵を生田川一帯に配して東方の関門を固める。
搦手の須磨は、忠度を大将に悪七兵衛・景清、越中ノ次郎・守嗣らの勇将の率いる一千騎が守る。北方山手の丹波口には、遠く三草山に資盛ら数百が先駆。鵯越(ひよどりごえ)の山麓には、通盛、教経、鬼と呼ばれた越中の前司・盛俊ら一千が配された。
そしてこゝから須磨口まで「鹿も通わぬ」と云われる安全堅固な一ノ谷には、帝の内裏が建てられた。大輪田の浜に軍船を連ねた主将・宗盛が二千の兵を連れて、こゝに動座される帝を守護する計画だった。 
(5) 源平合戦(治承・寿永の乱)13 / 和議…後白河の罠
処が二月五日になると、突然院の密使が訪ねて来て
「何とか戦いをさけて帝と三種の神器を奉じて都に還るように源氏方との和議を考えてはどうか。源氏には八日までは休戦するように命じているから、其間に充分話し合うように」との院の意向である。
宗盛はかつて法皇から
「頼朝は東国は源氏、西国は平氏の支配とし昔ながらに源氏両氏が力を合せて平和な世の中を築き万民の幸福を計るようにしたい」と望んでいる事を聞かされている。
その時は拒絶したが、都を落ちてより八カ月。佗しい流浪の旅を重ねるうちに人々の間には都恋しさの念が一入つのり、一日も早く平和な生活をと望んでいるのを宗盛知っていた。今度は即座に拒絶する事は出来なかった。
二位ノ尼や女院、叔父の時忠ら一門の長老達とも終日、和議の条件について話し合いが続けられた。しかし、何ぞ計らん、これは後白河法皇の陰謀だった。源氏方(*1)の実数が五千余で、平家よりはるかに劣る事を知るや、何とか神器奪回の奇襲作戦を成功させるべく、自ら策を弄されたのである
「都から和議の院使が訪れた」と云う情報は忽ち平家全軍の将兵に知れ渡って、その戦意に大きな影響を与えた。或者は喜び、或者は怒り、その結果を見守るうちに、二月六日も暮れた。

(*1) 範頼(のりより。頼朝の異母弟)、義経ら。
(6) 源平合戦(治承・寿永の乱)14 / 忠度と敦盛
源氏の作戦は、二月七日の早朝六時を期して、大手には範頼、搦手には義経勢が一斉攻撃を展開して敵の不意をつく。混乱に乗じ、内裏を奇襲して、神器を奪回するという計画だった。
二月五日の夜には、義経の率いる二千の騎馬軍団が疾風の如く三草山の盗盛軍を夜襲して師盛以下を討取ると、六日朝には軍を二分して土肥実平を須磨の西に廻らせ、義経自らは鵜越の山中に分け入っていた。
須磨口を守る平忠度は妙に戦気が動くの感じたのであろう。その日も終日、一の谷陣の望楼に登って油断なく警戒の目を光らせていたが、二月六日の夕日が瀬戸の海に沈むのを見るとさすがにホッと一息をついて、
「『朝焼門を出でず 暮焼千里を走る』と云うが、明日も良い日和らしい。本陣では和議の話で目の色を変えている様だが、どうも敵の動きがおかしい。或は罠であるかも知らぬ。ともあれ油断は禁物ぞ」と見張の将に厳命して陣に戻ると、今度の陣で共に戦う事になった客将・敦盛を呼んで夕餉を共にした。
銘酒の産地だけあって、陣中でもそれは豊かで微薫に頬を染めた敦盛に初陣の心得などを語りながら一時を過した。これが最後の宴になろうとは神ならぬ身の知る由もなく、笛の名手で知られた敦盛に、忠度は一曲を所望する。
敦盛も快く秘蔵の名笛「小枝」を取出して吹口をしめらせた。この笛は弘法大使が唐の青竜寺で作り、嵯峨天皇に献上して青葉と名づけられた名品で、曽祖父・忠盛が鳥羽上皇より賜わったものであった。
やがて更けゆく須磨の浦辺に少年貴公子の奏でる粛々たる調べが将士の仮寝の夢を誘う。今宵限りの命とは知らぬ忠度は故郷に待つ妻子の上に想いを馳せたが、笛の音は折から陣前に迫っていた熊谷直実親子の耳にも達したと云う。 
(7) 源平合戦(治承・寿永の乱)15 / 一の谷の戦い〜鵯越の逆落とし〜忠度の最期
然し其頃、平家にとって最も恐るべき天才武将・義経に率いられた熊野生れの弁慶、鈴木兄弟を始めとする七十余人の強兵は、背後に聳え立つ鉄拐山、鉢状山の嶮路をよじ登っていた。帝と神器の居わすと思われた一の谷内裏の絶壁を駈け下りる、という大奇襲作戦である。
けれども「綸言汗の如し」と称された院の令旨が、まさか偽りであろう等とは夢にも思わなかった忠度らの愚かさを誰が笑い得よう。この奇襲の成功でいち早く内裏が炎上した。「勝つ為には手段を選ばぬ」関東勢だけに、子飼の郎党を討たれて孤立した武将を取囲み乱刃で斃す、と云う卑怯な戦法で、平家の名ある勇将達は次々に討死した。
一ノ谷を死守し続けた忠度も生田、山手口が崩壊して「もはやこれまで」と乱軍の中を大輪田泊の味方の軍船をめざした。そして忠度の乗る駒が林まで突破した時、武蔵七党の古豪・岡部六弥太の一群に囲まれて、潔く首を与えることになる。
名も云わず従容と散った忠度の箙(えびら:矢を入れる箱)に
行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし
の句を見て、源氏方は薩摩守忠度であると知った。
後世の『千載集』に「読人知らず」として
さゞ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
と並ぶこの名句によって「零汀宿を借るゝ平ノ忠度」と賛えられ、八幡太郎にも劣らぬ平家代表的風流武人として、後世に花と薫る事になる。 
4 不死鳥!伊賀平氏 

 

(1) 伊賀1 / 信太義広(頼朝の叔父)の死
元暦元年(一一八四)の春浅き二月、一の谷の決戦で平家きっての勇将・忠度以下一門十余人、将兵三千を失い大敗した平氏は屋島に逃げた。しかし伊賀に潜む残党は尚も斗志に燃えて機会を待ち続けていた。五月になると信太三郎先生義広が醍醐寺から伊賀山田郡の千度山の金峰神社に潜んでいた処を襲われて勇戦空しく自刃したと云う悲報が入って来た。かつて木曽陣営で共に戦った兄の死を聞いて、さすが豪気の行家も
「ああ、これで十人もいた兄弟が遂にはわし一人になってしもうたか」と唇をかんだ。
それにしても兄の義広は何故わしを頼って熊野に落ちず、伊賀平氏の本拠である山田郡なんぞに潜伏していたのかと残念でならなかった。晩年の義仲が頼朝追討の院宣を手に入れ平家と協同作戦を展開せんとしていた事を考えると、兄もそのつもりで伊賀に入ったかも知れないと考えた。 
(2) 伊賀2 / 大内惟義・山内首藤(平家)が、信太義広(源氏)を討つ
事実は行家の判断した通りで、信太義広は義仲と共に芋洗を守ったものの、敗戦後は各地を転々として機を狙っていた。一方伊賀一円でも、平家の都落ち後も山田郡平田、服部、阿拝郡柘植、壬生野や名張郡黒田庄にまで、多数の平氏一族が情勢を待って息を潜めていた。
その棟梁は平田入道家継と伊勢関を根拠とする出羽守・信兼だった。池ノ大納言・頼盛(*1)は平家一族と行を共にせず、都に残って頼朝に招かれ、三十余カ所の本領を安緒された上に馬十頭に砂金や絹等を貰って帰った。かねてより彼らはこれを知り、大いに憤慨して途上で襲わんとしていた。
その頃、信太義広は醍醐寺の山伏達にかくまわれていたが、それを知ると彼らを頼って伊賀に入り、山田郡千度の金峰神社に潜伏して時節を待っていたらしい。
然しそれを知った服部平六正綱(服部時貞?元は平家の郎党?)が何とか手柄をたてて鎌倉殿の目に止まり、没収された父祖伝来の本領を安緒されんものと、信太義広の隙を狙った。この春、頼朝から伊賀守護に任ぜられた大内惟義、伊勢守護・山内首藤らの援兵を受け、二百余騎で千度山を襲ったのである。
不意を突かれた義広は六十の老躯で必死に戦い、寄手多数を倒したものの力尽きて社に火をかけ自刃した。夏と云うのに冬小袖に大口袴をはき、黄金造りの太刀で美事に切腹していたと云われ、さすが為義の子らしい最後であった。

(*1) 平忠盛の五男。母は藤原宗兼の娘・池禅尼。池禅尼は源頼朝の命を助けた。 
(3) 伊賀3 / 佐々木秀義(源氏)対平田家継・紀七景時(平家)[近江合戦]
それを知った平田家継らは平六の裏切りに大いに怒り六月十八日、大内惟義の守護館を襲い、留守を守る郎党八十余人を討取って高らかに凱歌を奏すると壬生野平田城で軍議を開いた。
伊賀一円を征したものの今後どうするかで協議の末、進ノ次郎能盛の意見を容れ
「伊賀で戦っては百姓達の難儀、むしろ近江に進み鈴鹿山を背後にして戦い、敵弱くば都を望み、戦い利なくば山に籠りて長期戦を展開せん。」と決め三百余騎を率いて柘植の与野から甲賀に進んだ。
それを知った近江守護の佐々木秀義は宇治川先陣で武名を挙げた子の高綱らが範頼軍に従って西国に出陣して行った後だけに、急ぎ国中の兵をかき集め老躯に鞭打って大原ノ庄油日明神の下野に陣をしき川をへだてて対戦した。
黒田庄の下司職紀七景時を先峰とする平家勢は、この一戦に一族の運命をかけて必死の奮戦を見せ、その勢に源氏方は浮足立ち敗色に覆われるのを見た総大将の秀義は
「平家はもはや運つきて西海に落ちたり、その僅かな残党共でどうして武運にめぐまれたる源氏を倒せよう、たゞひたすらに追い崩せ!」と先陣に立った。
それを見た進ノ次郎能盛は得意の強弓を引絞って狙い射ち、たまらず落馬する処を追いかけて首を取った。けれども源氏の郎党達は主の仇をこのまま見逃しては武夫の面目が立たぬと反って奮い立ち、その凄しい反撃に小勢の平家は次第に押され始める。
何と云っても伊賀平氏の主力は平内左衛門家長、筑前守貞能、弥兵衛宗清らと共に西海に在り、伊賀に残っていたのは老若の兵が多かった為にひとたび崩れ立つと案外にもろく、総大将家継以下主だった部将八十余人が次々に討死して総崩れとなり鈴鹿山中に散り散りとなってしまった。 
(4) 伊賀4 / 義経、関信兼を討つ[飯南郡滝野城]
乱軍の中で辛うじて落ち延び洛中に潜伏して再挙を計っていた関信兼の子・兼時ら三人は義経配下の検非違使庁の兵に捕えられて無念の最後をとげる。
伊勢の関城に落ちた信兼は頼みとする息子達が悉く先立ったのを知るや、その死場所を伊勢滝野城に求めて力戦した。
元暦元年八月半ば、伊勢守護から援軍を求められた義経は、精兵数百を率いて伊勢に向ったが、その軍中には恐らく弁慶や伊勢ノ三郎ら名ある郎党もすべて勇姿を見せていたに違いない。
滝野城(現在の飯南郡粥見町有馬野)に籠った平家勢は今日が最後の戦いと覚悟を決め、折から猛暑の最中だけに鎧を捨てて素裸となり必死の坑戦を続けたが衆寡敵せず、主将信兼以下その大半が討死して平家相伝の郎党としての名をかざった。 
(5) 伊賀5 / 八人の勇士、池ノ禅尼の所領に潜む[名張市滝之原]
口さがない都の京雀は義経の勝利をたたえたが、そんな中で再挙を期した八人の勇士が、必死で滝野城から伊賀六箇山領下に逃れて来ると名張郡滝之原に潜んで血盟を誓い合った。
ここは亡き池ノ禅尼の所領を子の頼盛が相続したもので、鎌倉御家人の手の及ばぬ土地柄だったのも彼らの潜むには好適だった。池ノ禅尼が藤原宗子と云ったのにちなみ、八人それぞれ藤の字の入った姓に変えて山野を開墾し、水銀等の鉱物を掘って食いつなぎながら武技を練り、同志を求めて再挙の旗挙げの一日も早からん事を神仏に祈願したらしい。
山中にはささやかな尼堂が建てられて池ノ禅尼の墓趾も残されている。歴史上では池の禅尼が何時何処で没したかは明らかでない。忠盛の後妻だけに彼が久寿元年(一一五四)五十八才で没した時五十才だとすると、頼朝の挙兵時は七十六才で、其頃ここに陰居していて没したとしても不思議ではない。
元暦元年(一一八四)の秋、滝之原に潜んだ彼らの苦斗を知らず「城は落ち、信兼以下悉く討死」の悲報が屋島の平家本陣に入った。一の谷で大敗後、何とかして再建をと懸命に九州、四国で奮戦していた知盛の腹心・平内左衛門家長以下、一騎当千の伊賀平氏団はそれを知ってみな鎧の袖を絞ったに違いない。 
(6) 義経、左衛門尉(*1)になる
伊賀、伊勢の平氏を忽ちに鎮圧して都に凱旋した義経の武名は一段と轟いた。元暦元年(一一八四)の夏、法皇の寵愛も深く度々の叙任の恩命に、遂に義経は左衛門尉を拝命した。院側近の大蔵卿・泰経から「此上の辞退は院に対する不忠」と忠告された為で、義経もやはり行家の如く朝廷には忠臣であった。
然しそれを知った頼朝は鎌倉幕府の政権確立に懸命となっていただけに、義経が自分の命よりも院命を重んじる態度に腹を立て、九月になると平家追討の大将軍には範頼(*2)一人を任命し、義経は専ら京都の治安を維持するだけに止めた。
けれども温厚だけが取柄の凡将範頼にこの大任は重荷で、制海権を平家に握られて飢に苦しんだ。軍監として付けられた和田義盛でさえも早く故郷に帰りたいと泣事を云い出す有様で、このままでは全面崩壊も遠からぬと云う情況を呈し始めた。
平家勢は、屋島を本拠とし、九州彦島に知盛以下の精鋭を配して、四国、九州一円の海上を支配下に収めている。これに対し、源氏に欠ける水軍を補う為には、何よりも天下に冠たる熊野水軍を動員する事が先決と感じられた法皇は、元暦元年(一一八四)の暮になると秘かに義経を召して、その策を示されたようである。

(*1) さえもんのじょう。左衛門府の判官であり、六位相当の官職。宮門を守衛し通行者を検察。
(*2) 源頼朝の異母弟。 
(7)熊野の鶏合戦
それを拝し味方の拙劣な作戦に心を痛めていた義経は、直ちに弁慶を新宮に派遣して行家に院の意向を伝えた。義仲没落後は故郷に引籠って情勢を見ていた行家は、頼朝には腹を立ててはいても、純情で情義に厚く天才的武将の素質を持つ義経を愛していたから再びめざましい活躍を見せ始めた。
行家が弁慶らと共に田辺の新熊野社に滞在して湛増(*1)と談合を重ね、長年平家の恩義を蒙っている田辺衆徒達を納得させる手段として、史上に有名な鶏合戦(*2)を演じたのは元暦元年も押つまった年の瀬と思われる。
平家物語は
“熊野別当湛増は平家重恩の身なりしが、忽ちその恩を忘れて「平家へや参るべきか、源氏につくべきか」とて新熊野の社前にて御神楽を奏して権現に祈念し「たゞ白旗につけ」との託宣あれども尚も疑い白鶏七羽、赤鶏七羽を以て勝負させ、赤鶏一つも勝たず皆負けたれば「さてこそ源氏へ参らん」と思い定めける。”と、その時期を壇ノ浦の決戦直前の如く記しているが、実際は屋島合戦の行われる前の事であろう。

(*1) 二十一代熊野別当。十八代別当・湛快の次子。湛増は行家の姪の婿(新宮十郎行家の姉・たつたはらの女房[鳥居禅尼]が、湛増の妻の母)。武蔵坊弁慶の父とも伝えられるが、伝承のみで確証はない。
(*2) 現在の田辺市にある闘鶏神社で紅白の闘鶏を行い、神慮を占ったとされる。 
(8) 熊野水軍、出撃す
湛増配下の田辺水軍、行忠(*1)の指揮する新宮水軍併せて二百余隻、二千余人の堂々たる熊野連合艦隊が故郷を出撃したのは元暦二年(一一八五)二月に入っていたと思われ、その先陣を承わったのが鵜殿党の猛者達だった事は吉川英治氏の新平家の説く通りであろう。
新宮水軍の大将軍に弓の名手、二十二代別当・行快(*2)でなく法橋・行忠が任ぜられたのは母、鳥居禅尼の意向だったらしい。彼女は父・為義から贈られた源氏伝来の名剣「吠丸」(後に薄緑と改名)を義経に贈って勝利を祈願している。
「薄緑」は、後に吉野で義経の身代りとなった忠臣・佐藤忠信に与えられて彼と運命を共にした。あるいは、腰越滞在中に箱根権現に神助を願って献じられた後、曽我ノ五郎の仇討に活躍したとも伝えられている名剣である。この秘剣を頼朝でなく義経に贈ったのを見ても、鳥居禅尼が義経を如何に愛していたかゞ判る。

(*1) 二十二代熊野別当。鳥居禅尼の孫。湛増の甥。
(*2) 鳥居禅尼の子。湛増の義兄弟。 
(9) 屋島の戦い
元暦二年(一一八五)正月十日、頼朝から平家追討の指揮官を命ぜられた義経は意気高らかに院ノ御所に参じた。母・常盤の再婚先である大蔵卿・泰経の取次ぎにより、出撃を報ずると後白河法皇もいたく感動され
「夜を日に継いで大いに戦い、一気に勝負を決して、神器を無事奪い還すように」と激励されたと云う。
義経らは直ちに都を出発し、淀川尻の摂津長良の渡辺橋附近でひたすら熊野水軍の到着を待った。しかし折悪しく時化続きで一か月近くも待たされたらしく、漸くにして二月中旬、鵜殿水軍の先陣が到着するや、勇み立った義経は折から逆まく嵐を突いて決死的な奇襲作戦を強行した。
軍監・梶原景時と逆櫓に就いて激論を交えた後、弁慶ら股肱の臣と畠山重忠らを合せた僅か二百余騎の小勢で阿波の勝浦−小松島市−疾風迅雷の上陸作戦を敢行した。これは鵜殿党の勇猛果敢な影の力があったればこそであろう。
嵐を頼んで安心していた宗盛以下三千余の平家勢はm義経得意の騎兵集団戦法に不意を突かれ驚きあわて、屋島の御所を捨てて船上に逃れたものの源氏の案外な小勢を知ると勇将、能登守・教経を先頭に果敢な奪回作戦を展開した。
かの那須与一の扇の的や、教経の強弓を主の身代りに受けて倒れた佐藤継信の壮烈な死、そして義経自身も流した愛弓を危険を冒して拾い取ると云う数々のエピソードが展開されたのも此の戦いである。 
(10) 範頼と湛増
我に数倍する大軍を相手に激斗を交えるうち、湛増や梶原ら源氏軍が続々と到着するのを見た宗盛は戦局を悲観した。長門の彦島にある知盛勢と合流し、最後の決戦を敢行すべく屋島を捨てて西に向ったのは元暦二年二月下旬である。それにしても清盛が没したのも、一の谷の大敗も、そしてまたこの屋島での敗走もすべて二月の出来事であり、二月と云う月は平氏にとっては誠に不運な月であった。
敗れたりとは云え、主上の御座船を中心に尚三百余隻を数えた平家水軍が志度の浦から彦島に去った。その後、入れ代って海上に勇姿を現したのは名にし負う熊野の荒海で鍛え上げた熊野海賊衆の主力で、忽ちにして四国一円を制圧すると勢に乗じて九州に進攻した。
それを知って腹を立てた範頼(前出。源頼朝の異母弟)は、頼朝に手紙で
「九州は私の縄張りであるのに義経配下の熊野衆が勝手に荒し廻っているのは何とも怪しからぬ振舞である」と訴えた。心配した頼朝は、範頼、湛増両将に「よろしく協調して平家打倒に当れ」と指令しているが、さる伊勢神領の乱暴事件と云い湛増勢の猛者ぶりにはさすがの頼朝も手を焼いたらしい。 
(11) 壇の浦の戦1
かくして元暦二年(一一八五)三月二十四日、範頼勢の不参加のまま、壇の浦決戦の幕が切って落される。彦島を根拠にした平家は五百余隻を三陣に配し、先陣は九州筑前の山鹿秀遠の二百隻、二陣肥前の松浦党の二百隻、三陣は唐船を中心とする平家本陣の百余隻であったと云われる。
これに対する源氏方は、つい先程、若一王子(*1)の御正体を奉じ、墨くろぐろと金剛童子を描いた長旗を翻した二百余隻の熊野水軍が壇ノ浦に勇姿を現した。その時、源平両軍は共に歓呼の声を挙げて伏し拝んだと云う。その名うての熊野水軍が先陣に立った。
そして続く二陣には義経本隊の百五十隻、三陣には四国河野通信、船所正利の五十隻の外に雑軍多数が群がって総計八百余隻が布陣した。それを見た平家勢は、
「入道相国以来一族の守護神として信仰して来た熊野権現に見放されては戦もこれまで」と、意気衰えて見えたから京の総師、新中納言・知盛は船上に立ちはだかって大音声を張り上げ、
「戦は今日が最後なれ、者共少しも退くべからず。天竺、震旦、日本にも比類なき名将勇士とは云えど、運命尽くれば力及ばずされど名をこそ惜しむべし、などか命をば惜しまん唯これのみを思い阪東武者に弱気を見せるな、知盛の願うはこれだけぞ」と、激励して、折からの上げ潮に乗じて激しく攻め立てた。

(*1) にゃくいちおうじ。神仏習合の神。若王子(にゃくおうじ)ともいう。熊野三山に祀られる熊野十二所権現のひとつ。 
(12) 壇の浦の戦2
その凄まじい猛攻ぶりを平家物語は次の如く述べる。
“さる程に源平最後の決戦は海の面三十余町をへだてたる門司、赤馬が関壇ノ浦にぞありにける。たぎりて落つる潮なれば海竜神も驚くらん、源氏の船は潮に向いて押落され、平家の船は潮に乗ってぞ追い迫る”
その通り緒戦は誠に平氏に幸先よく、わけても九州一の精兵五百を揃えた平氏の先陣、山鹿勢の強弓に射立てられた源氏勢は散々に射すくめられて乱れ始める。
「さてこそ勝ちぬ」と、勇み立った平家勢いの為に源氏は満珠、千珠島辺りまで追いつめられた。
それでも熊野水軍らの必死の反撃で持ちこたえているうちにやがて潮は下げ始めた。これを見た義経はかねて鵜殿党が意見具申した水夫梶取の必殺戦法に転じた。楯にかくれた武者よりもセガリと呼ぶ舷側に出て漕ぐ船頭を狙う意外な戦術に、肝心の舵取を失った平家の船は武士達が如何にいきり立っても潮流に押し流され四分五裂となって漂い始めた。
それを見た四国水軍の雄、阿波重能が義経勢に寝返り秘かに「唐船には雑兵を乗せ兵船には一門の歴々を乗せて源氏が唐船を攻めるのを見て一挙に包囲攻撃せん」と云う平氏方の作戦を内通したから、義経は唐船には目もくれず専ら兵船攻撃に全力を集中した為、平家方の名ある武将の死傷が続出し、敗色は刻一刻と濃くなった。 
(13) 壇の浦の戦3 / 知盛の最期
「もはやこれまで」と見た知盛は帝の御座船に帰って船上を清め
「戦さは如何に」と尋ねる女房に、
「やがて珍しき東男共が見られましょう」とカラカラと笑う。
それを聞いて敗戦と知った二位ノ尼は神剣を腰にさし幼帝と玉爾をかき抱いて
「波の底にも都はありまする」と千尋の海に投じられる。
それを見て女院を始め女房共も次々に波間に投じるのを確かめた知盛は、豪勇無双で知られた能登守教経が尚も阿修羅の如く暴れ廻っているのを見て
「もうこの上は痛う罪を作り給うな」と云い送り、
「さて見るべき事は見終った」と乳兄弟の伊賀平内左衛門家長を呼び
「かねての約束通り共に死なん」と鎧を二領重ねて錘とし互いに手を取り合い沸き立つ海中に投じた。 
(14) 壇の浦の戦4 / 教経の最期
知盛に「戦敗が決した以上は無役な殺生はするな」と戒められた教経は「それでは義経以外は殺すな」と云う事かと次々に源氏の船に飛び移り必死で義経を狙った。
然し今一歩で「八そう飛」の早業に義経を逸するや、三十人力で知られた敵の安芸太郎兄弟を両腕に抱え「いざ死出の山の供をせい」と海に入り、いかにも彼らしい豪快な最後をとげる。
続いて門脇中納言教盛、経盛の兄弟が鎧の上に碇を負い仲良く海に沈んだのを始め、小松資盛、有盛兄弟、越中ノ次郎、上総ノ五郎、悪七兵衛ら聞えた侍大将達も次々に華々しく戦った後、潔ぎよい末路をかざったと伝えられるが「このままではいかにも残念至極」と血路を開いて再挙を期した武士達は少なくなかったようだ。
かくして名にし負う早柄の瀬戸に赤々と夕日の沈む頃、名を惜しむ勇士は散り、生捕りとなったのは総大将・宗盛以下の三十八人、女院や僧ら四十人を算え、その中に二十代熊野別当範智も交っていたのは哀れと云えよう。 
(15) 戦いの後1 / 湛増と行忠
勝利を祝う源氏勢の凱歌の中で義経は熊野水軍の奮斗を讃えて湛増を召し、総大将の印とした日の丸五本骨の大軍扇に浜松の根つきを添え「この松の如く永代末広に繁昌」との意気な行賞を行い、湛増は大いに面目をほどこして後にはそれを田辺別当家の替紋としたと伝えられる。
新宮水軍の大将は法橋・行忠で、彼は参陣の際、かつて父・行範が源為義から引出物として与えられた源氏重代の名刀「吼丸」を献じているから、湛増に劣らぬ数々の恩賞を賜わったに違いないが、その資料が何も残されていないのは残念である。
義経は勿論、疑い深い頼朝は平治の乱以来の平家党である湛増を信頼せず、源氏の血をひく行快、行忠らに期待していた事は、行快が「一の谷で戦死した忠度の所領のうち三河ノ国蒲形の庄だけは元来が私の妻であった忠度夫人の持参したものだから没収するのを許してやって貰えまいか」と願い出るや直ちに了承している事実からも察しられる。
平家物語は壇ノ浦当時の熊野別当を湛増としているが、湛増が正式に21代別当に任じられたのはそれから三年後の文治三年の事で壇ノ浦に出陣した熊野水軍は湛増の率いる田辺水軍と行忠の指揮する新宮水軍の連合艦隊で総大将の義経も湛増より行忠を信頼していた事は其後の歴史から見ても明らかである。 
(16) 戦いの後2 / 平時忠
ともあれ壇ノ浦での勝敗を決した最大の要素は熊野水軍が源氏に参じた為で、その影の功労者は新宮行家である。それを一番知っていたのは後白河法皇で戦後は再び院の熊野御幸が年々続けられる。
平氏が熊野生れの大豪・忠度や、知盛、教経を始めとして数多くの文武両道に秀で物の哀れを知る武夫を擁しながら西海にさまよう事三年、天才武将・義経の出現によって百戦功なく遂に滅亡の悲劇を知ったのは、知盛の云う人の力ではどうにもならぬ天運であったろう。
「歴史は小説よりも奇なり」との言葉通り、平家物語の説く処はあくまでフィクションでしかなく、平治の乱以来二十余年、天下に君臨した清盛の厳しい遺言を胸に刻んだ平家一門の勇将や「天下の三兵衛」と称された郎党らがそんなにもろくも壊滅する訳はない。
「このままでは如何にも無念じゃ」と腰抜けの宗盛父子を除く知盛らは壇ノ浦から兵船に乗じて秘そかに九州、四国、熊野の各地へ再挙を誓って散っていった。
その軍師役を演じたのは清盛の義弟・平時忠で、先の皇后徳子と三種の神器の中でも「伝国の玉爾」と云われる曲玉を義経に渡す代りに「帝以下の平家一族の生存権を認めさせた」らしいのは、現に時忠が能登の地で富強、長寿を全うしている事でも判る。
そして平家戦力の中心となったものが、伊賀忍法の祖と云われる平内左衛門家長以下の伊賀軍団であったろう。 
(17) 戦いの後3 / 越中ノ次郎兵衛盛嗣[那智大社の社史]
現在、全国に安徳天皇の御陵と伝えられるものが、知盛の子孫という対馬や五島福江の領主宋一族の墓碑に囲まれている他にも、四国祖父谷、熊野の平治川らに伝承される。平家落人の里と云われる地は九州椎葉、伊勢、伊賀、志摩、十津川の各地に数限りもない。
家長らの船団は不幸にして嵐に襲われ、山陰沿岸に漂着したものの、元平家領の但馬を中心に各地に據点を設けて再挙の機会を待つ。家長は惜しくも世を去るが、今も兵庫県香住町には彼を祭神と仰ぐ平内神社が信仰を集めて居り、その子孫と云われる人々も健在である。
このことは那智大社の社史を思い出させる。
平家が壇ノ浦に亡び、文治元年(一一八五)と改められた夏、色川の里に世を忍ぶ平維盛(*1)を訪ねて屈強な武士がやってきた。彼は家長の命で、平家嫡流の維盛に決起をうながしに来たのだが、「その気なし」と見て、せめても人情厚い里人への恩返しに那智一円を荒らし回る大凶盗を退治しようと思い立った。それは一つ目、一本足の「一つタダラ」と恐れられた怪物であったが、その屈強な武士は物ともせず、七日七夜、山中を探し求め、得意の強弓で見事に退治してしまう。喜んだ那智大社は恩賞として三千町歩の寺山の入合権(*2)を贈ったが、彼はアッサリ村に寄進して旅立った。その清廉さに感謝した里人は刑部左衛門と名乗った彼の名を刻んだ石を建て、毎年十一月には餅まきなどの祭典を催している。
那智大社の社史に登場するこの勇者こそ、実は越中ノ次郎兵衛盛嗣(*3)で、やがて香住に帰ると平内左衛門とも打ち合わせ、城之崎の気比四郎の娘婿となった。常に源氏への警戒をゆるめず、ひそかに兵馬の訓練に励みつつ、再挙の日を待つうち、文治二年(一一八六)捕らわれて鎌倉で斬られる。

(*1) 清盛の嫡子の重盛の長男。大変な美男で、桜梅(おうばい)少将と呼ばれた。
(*2) 山林原野または漁場の草・薪炭材・魚介などを採取する権利。
(*3) 父・平盛国と共に平清盛の側近を務めた。子は平盛綱、平盛嗣。越中守。俗称は官名から越中守、のち越中前司(源氏により官職が剥奪され、「前の越中国司」の意)。
(18) 戦いの後4 / 越中ノ次郎兵衛盛嗣[兵庫県香住町]
折りしも平氏八百年忌で、その供養にも但馬の国の史跡を訪ねようと思い、蟹で有名な香住をめざしたのは平成九年の十一月文化の日である。
早朝に伊賀を発し「つゝ井筒」の史跡でもある宇治〜淀〜山崎から明智光秀の居城・亀岡を通った。新装なった福知山城に里歌にも讃えられたその人柄を偲びつつ、香住に着いたのは日本海に華麗な夕日が沈む頃であった。
民宿・旭屋に投じ、ズワイガニの刺身に舌鼓を打ち、翌早朝に余部の大鉄橋をくぐって、御崎の平内神社を目指す。平内左衛門は、「平家三兵衛」で有名な越中ノ次郎兵衛、上総の五郎兵衛らと共に、老いた教盛(*1)や小宰相の局(*2)ら足弱を守った。この地に船を着けると、海から三百米も聳え立つ絶壁の上の台地を開拓したらしい。
昔を偲ばせる樹齢数百年の大銀杏の下に鎮まる古弓を飾った平内神社や頑丈な石積みの見張所跡、石仏や五輪塔の連なる墓地を一巡した。落人の子孫である伊賀姓の里人に色々と苦労話を聞きつつ心を残して眺望絶景な御崎を下った。
次は今も電話帳に「平内左衛門」の名を留めた「畑」の伊賀市の邸を訪ねた。平家落人の里の碑石の立つ川辺の宅で、老翁から八百年の歴史を聞く。
この地は平内神社から南西十六粁にあり、その南方一帯は「平家平」と呼ばれる広大な高原で、御所平、馬場平、烽火など数々の史跡と伝説が残る。

(*1) のりもり。平忠盛の四男。兄に清盛、経盛、弟に頼盛。門脇宰相、門脇中納言。
(*2) 教盛の嫡男・通盛(みちもり)の妻。通盛は一の谷で戦死。 
(19) 戦いの後5 / 越中ノ次郎、平内左衛門[兵庫県香住町]
那智から帰った越中ノ次郎が潜んでいた田久日(たくい)、宇日は、この地から東北十六粁の海岸だ。練兵に励むうち、越中ノ次郎は入浴中を襲われる。力闘の後に捕らえられたと云うが、逃げ延びることはできても、残った平家一門に禍を及ぼすのを恐れて、一身を犠牲にしたのではないだろうか。それ故に慰霊祭が気比と城之崎温泉の両地に残され、今も尚、祭り続けられているのだろう。
「畑」の地名の由来は秦ノ徐福や呉羽、綾羽の呉服〜服部からきたと云われるから、結崎の糸井神社にも連なる。そんな史実を知っていたのかどうなのか、平内左衛門が偲ばれる。
調べたいことは山ほどあるが、三百粁の幾山河を帰らねばならない。平家の里のエピソードの著書を戴いたので、じっくり読ませてもらうことにして、名残惜しく辞去した。
越中ノ次郎ゆかりの田久日の里は次回に廻し、何はともあれ城之崎の湯に旅塵をすすぎ、出石の蕎麦で腹を作って帰途に着く。現地を見て肌で感じたことは、伊賀に残る数々の平氏の風習なども伝えられていて、根も葉もない作り話とは思えないということだ。
「平家物語は仏教を深く信仰する人の画いた文学的な色が深く真相と考えては誤りだ。平家は壇ノ浦で滅亡などしていない」と、痛感した。 
(20) 戦いの後6 / 三日平氏の乱
「平家物語」は尚も「三日平氏の乱」として、壇ノ浦後二十五年をへた建仁三年(一二〇三)二代将軍頼家の世に、恩師文覚が世を去るや「待っていた」と云う風に出家していた維盛の嫡男六代が斬られた。それを知った伊賀、伊勢の平家勢は伊勢守護の山内首藤(*1)を襲って忽ちにして両国を征圧した事件を語る。
驚いた鎌倉幕府は平賀朝雅(*2)に追討させてはいるが、吾妻鏡は尚も「伊賀伊勢らに平氏の残党多く重ねて討つべきなり」と記している。概略は次のようである。
建仁三年(一二〇三)十二月、平忠光(*3)の子・若菜五郎盛高(*4)が伊勢で挙兵するや、それに呼応し、翌元久元年(一二〇四)二月、平維基(*5)が伊賀に、平度光(*6)が伊勢で挙兵。猛威を見た守護の山内首藤は逃亡し、両国は彼らの手に落ちた。
追討を命じられた平賀朝雅は鈴鹿の関を越えることができず、美濃路を廻って伊勢に入るとやっとこさ鎮圧した。しかし関・亀山に籠った若菜五郎は尚も屈せず一年近くも力戦を続けているのは立派である。

(*1) 日本の氏族の一つ。八万太郎義家の祖父・源頼義の家臣・藤原資通の曾孫・俊通を祖とする。相模山内庄を領した際に山内姓を名乗る。山内首藤氏とも。
(*2) ひらがともまさ。母は源頼朝の乳母・比企尼の三女。兄弟に大内惟義。初代執権・北条時政の後妻・牧の方の娘婿で、頼朝死後から重用。一二〇三年、京都守護職。
(*3) 藤原忠光。悪七兵衛景清の兄。平氏のために奮戦。父・藤原忠清や悪七兵衛景清らと共に以仁王・源三位頼政挙兵鎮圧に活躍。 侍大将として木曾義仲討伐にも参加。
(*4) 平忠光(藤原忠光)の子。
(*5) 平維盛の子。維盛は、清盛の嫡子の重盛の長男。大変な美男で、桜梅(おうばい)少将と呼ばれた。 
(21) 戦いの後7 / 大江定基(寂照)など
やがて平賀が伊賀守護となり弾圧を続けたが、一族は頑としてひるまず、北伊賀には姓を服部と改め、二本矢の紋所に変えた一門の将士が盛んに武を練り、名張には大江一族が頭角を現わし、その歴史を辿ると阿保親王に繋がる。
親王の四代の孫と云われる大江定基が愛人を亡くして世の無常を感じ、寛和二年(九八六)三河守を退官して比叡山に上り、寂照と号して修行に励み、東大寺の要請で名張に移住し大江寺や杉谷天満宮を建立して興福寺の侵略に備えた。
長保二年(一〇〇二)渡宋して、眞宋皇帝に愛され、天台山、五台山に巡錫(*1)して名僧と讃えられ、長元元年(一〇三四)客死して円通大師を贈られるが、三十余年の滞在中に孫子(*2)、呉子(*3)を始め、数々の名著を訳して日本に送っている。
その一門から源義家(*4)の師である軍学者・大江匡房(*5)が出たのは有名で、名張に残った知定(*6)一門は南伊賀一帯に繁栄している。
南北朝時代に入ると河内の楠木と協力して活躍した観世一門を始め、次々に精強な伊賀忍者軍団が誕生する。
そして戦国乱世の中にも独り伊賀だけは「五百年不乱にして神仏崇拝の霊地」を誇っている。正に「不死鳥」と讃えて過言ではあるまい。

(*1) じゅんしゃく。僧が、錫杖(しゃくじょう)を持って各地をめぐり歩くこと。
(*2) 中国・春秋時代の思想家「孫武」の作とされる兵法書で、武経七書の一つ。
(*3) 中国・春秋戦国時代に著されたとされる兵法書。著者不明。武経七書の一つ。
(*4) 1039〜1106?八幡太郎。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、義家のひ孫にあたる源義朝の子。
(*5) おおえのまさふさ。公卿・学者。頼朝の右筆・大江広元の曾祖父。
(*6) 不明。
5 義経党悲話 

 

(1) 義経、凱旋
元暦二(一一八五)が安徳幼帝の入水と共に文治元年(一一八五)と改元されたが、その春から夏にかけての数カ月程、義経主従にとって目まぐるしい変貌の月日はなかったろう。
遂に平家打倒の宿望を達した義経が三種の神器のうち鏡と玉爾を取戻し、総大将宗盛父子以下八十余人を生捕りにして都に還ってくる。それを聞かれた後白河法皇は驚喜され、
「間違いなく鏡と玉爾が本物であるか見て参れ」と伊豆の有綱らを走らせた程である。
そして剣(三種の神器の一つ)を失ったのは「八俣の大蛇が霊剣を惜しむ余り、八十代の後孫である安徳八才の帝と化して海底に沈まれ、神竜の宝と返ったもの」で、人力の如何ともすべからざる処とされた。
義経は入京に際し、源氏再興に最も古くから力を尽した行家にその輝かしい日を見せてやりたいと、新宮に急使を走らせていた。行家もまた名実共に源氏の天下となった都の有様を一目見ようと、早舟を駈って堀川にある義経の館に急行してその帰りを待っていたようだ。
そして行家入京と知った後白河法皇は直ちに院に召して永年の労をねぎらい、
「以後も都に在って義経の後見をせよ」との言葉を賜わったので、行家も再び宮仕えに精励し始める。 
(2) 「義経の指揮に従うべからず」
専制君主の後白河法皇は平家没落後に鎌倉幕府が強大になるのを恐れていた。それに対抗すべき武将を院の爪牙にしなければ、政権は頼朝の手に握られてしまう。その対抗馬として義経と院に忠誠な行家を選んだに違いない。
そして行家もかねてから頼朝の王臣にあるまじき覇道主義に腹を立てゝいた。純情で天才的武将である義経を擁し、常に朝廷への忠節を尽しつつ、源氏の全盛時代をもたらさんと、頼朝との激しい政治斗争に身を緒したものと思われる。
けれども肝心の義経には権謀術策を専らにして、兄に対抗すべき武力を育て、力こそ正義とする政治家的素質が極めて乏しい。晴の入京後、十日もたゝぬ四月には早くも頼朝が先手を打って、
「今後、予に忠節を尽くさんと思う家人は義経の指揮に従うべからず」と云う命令を出している。純真な義経はあくまで兄を疑わず、誠意を以てすれば必ず判って呉れるものと信じ、少しも対抗的手段をとらなかった。 
(3) 「鎌倉に入ってはならぬ」腰越状1
行家は、院の側近達の中にも
「頼朝の機嫌を損じる事を恐れて、その官位を三階級も飛び越えて“従二位”に躍進させたのに、実際の功労者である義経は僅かに“伊豫ノ守”では余りにも不公平。頼朝が何をしたか」と云う声が高いのに乗じて、義経を“西海南海総追捕使”に就かせ、その戦力、支配力を高めさせたいと躍起になったが、義経にその気はないからどうにもならぬ。
このような頼朝の出方を見て、事重大と心配した軍師役の弁慶は、亀井六郎に義経の二心ない事を記した熊野午王の起請文を持たせて鎌倉に走らせた。五月早々には宗盛護送の名目で義経自身が鎌倉に向われん事を懇請して、兄弟の仲に決定的な溝が出来る事を喰い止めんとした。
元暦二年(一一八五)五月七日に出発した義経一行が酒匂に到着したのは五月半ばで
「兄に会って誠意を示せば何と云っても血肉をわけた兄弟だからすべてが円く治まるに違いない」と信じきっている義経の下に
「鎌倉に入ってはならぬ」と云う冷酷な命令が届き、それを見て義父・河越重頼や畠山重忠らは色々と取りなした。
鎌倉を目前にした腰越の万福寺で悶々と日を過ごしている主君の心境を見かねて筆にしたのが世に有名な「腰越状」で大豪・弁慶の一世一代の名文と云われているからその筆の跡を辿って彼の苦衷を察しよう。
「源義経、恐れながら申上げ候。この身代官の一人に選ばれ、勅を奉じて朝敵を倒し父祖のはじ雪ぐ、勲功賞せらるべき処、反って虎口の讒言により罪なくして咎めを受け空しく紅涙に沈む。……以下略」 
(4) 腰越状2
るゝとして誠実を叶露した長文は、弁慶が主の為に心肝をくだいたと云い、昔から「一読泣かざる者なし」と称される。しかし出した相手が「一生に一度も涙を見せた事もない」と云われた冷血の大江広元(*1)である。しかも一足先に鎌倉に帰って、
「日本国は今や残る所なく随い奉り候も九郎判官こそ終の御敵と見られ候」と数々の讒言を吹込む梶原景時に囲まれていた頼朝だから、例え百、千の腰越状を以てしても無駄であったろう。
平家物語には
“鎌倉の源二位は巷に流れる「九郎判官(義経)程の人はなし、世は一向判官(義経)のまゝにさせたや」との噂を聞き「私(頼朝)がよく計いて兵を指し上らすればこそ平家はたやすう滅びたれ、九郎(義経)ばかりなれば如何でか世を静むべき」とのたまう。”と記している。
頼朝は己れ一人を独裁者とする鎌倉幕府を樹立する為には肉親一族とて容赦しなかった。その比類なき猜疑心で生涯に功臣百四十人、その臣を加えれば有に数万を犠牲にして源氏断絶の原因を作った。妻の政子は、実家北條の繁栄の為には我子をも見殺しにして悔いぬ人である。
比べて義経は人情に厚く物の哀れを知り、日本民族の伝統精神をよく身につけて朝廷を第一とする忠誠心を失わず、理より情の詩人肌だから所詮は両立する筈はなかった。

(*1) 頼朝の家臣。政所(政務・財政機構)の前身である公文所別当。辣腕で知られる。頼朝が守護(*2)・地頭(*3)を設置したのも、広元の献策と言われている。
(*2) 国単位で設置された職。軍事指揮官・行政官。
(*3) 荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置された職。
(5) 頼朝追討の院宣
空しく都に帰った義経を追い討つように与えられた平家所領二十四ヵ庄の没収と云う非情な頼朝の命が下り、それを知って巷の庶民までが一斉に彼に同情した。
行家や伊豆ノ有綱(*1)は、院の意向を受けて南都北嶺、吉野熊野の僧兵にも働きかけ義経擁護に積極的な活動を見せた。それを知った頼朝は近江守護の佐々木定綱に行家暗殺を内命し、梶原景季を派遣して義経に行家を殺せと命じたのは得意の友喰い策戦であろう。
けれど義経にそんな気が全然ない事を知るや、頼朝は遂に武力攻撃を決意した。文治元年(一一八五)十月九日(八月十四日に元暦から改元)、鎌倉に全御家人を招集して義経討滅の希望者を募った。然しさすがの阪東武者も「それは非道い」と二千に近い猛者の中で名ある武夫は唯の一人も申し出ず、正義漢の畠山重忠(*2)を始め義経に同情して頼朝に反省を求める風であった。
僅かに功名に逸った土佐房昌俊(*3)以下八十騎が熊野詣を装って都に上り、義経の邸を夜襲したのは十月十七日。忽ち駈けつけた弁慶らによって散々に撃ち崩され、命からがら鞍馬山に逃げ込んだが、義経びいきの僧兵達に捕えられて刑場の露と消えた。
それを知った頼朝は大いに怒ったが重忠などは義経の行動は
「降りかゝる火の子を払ったまでゞ至極当然の扱いでござる」と語った程で、ましてやそれを知った院の首脳部は頼朝の卑劣な暴力に大いに激怒し、後白河法皇もまた「かくなる上は」と、進んで義経や行家を召し、頼朝追討の院宣を下された。

(*1) ありつな。源有綱。摂津源氏。義経の女婿という説がある。
(*2) 幕府御家人。当初は頼朝に敵対。後に臣従。知勇兼備の武将として常に先陣を務めた幕府創業の功臣。頼朝没後、初代執権・北条時政の謀略で死す。存命中から有名な坂東武者の代表的存在。卑怯を憎み、誠実な人柄で敵味方双方から賞賛。
(*3) もとは源義朝の小姓。源義朝が湯殿で騙まし討ちされ、その首が京都へ運ばれていた時、奪い返そうと敵・数十人を斬り、京を目指したが手遅れ。京の常盤御前(義朝の妻)に義朝の死を伝え、出家。のち頼朝に仕え、京の義経邸を襲撃。 
(6) 義経、西海落ち
それを拝した行家は八方に奔走して防衛体勢を固めんとした。しかし肝心の義経が昔から「源氏の共喰い」と人々の嘲笑する兄弟争いで、罪もない都の貴賤を戦禍にまきこむ気はなく、挙兵にもさっぱり乗り気でない。
一方頼朝は義経に同情する御家人達をかり立てる為にも率先陣頭に立つ決意を示した。十月下旬には三万の大軍を黄瀬川に進めると共に、近畿一円の武士達に
「義経に味方する者は反逆者として成敗する」と厳命を発した。その威勢を見た連中は院宣などは「糞くらえ」で続々と鎌倉方に参じる。
そこで後白河法皇は行家の意見通り、彼らを九州、四国の総追捕使に任じて一切の公領、荘園の年貢徴集権を与え、兵糧米を確保する事を許した。然しこの案は確かに都を戦禍にさらす恐れはないが、同時に近畿に所領を持つ武士達を離反させる結果となる。
文治元年(一一八五)十一月三日、義経、行家を囲む精兵五百余騎は整然と都を出て西に向った。それは身にかかる火の粉は払ったものの、その天才的武略を血をわけた兄に対して振う気にはなれない純情な義経の心を察した行家が、やむなく建てた新作戦への首途である。
「九州、四国総追捕使に任ず」との院命を得て西海に落ち、まずはここに地盤を固める。それから熊野を始め五山の僧兵、奥州・藤原秀衝(*1)らと呼応して頼朝と対抗せんとする。

(*1) 都から遠く離れた黄金と名馬の産地、奥州に藤原氏の絶頂期を築いた。秀衡は青春時代を奥州で過ごした九郎には終始あたたかかったが、病に倒れ、息子らに九郎を主君とし守り抜くよう遺言した。それは守られず、奥州藤原氏は秀衡の死後数年で滅びる。 
(7) 義経党壊滅
この戦のスタートは順調で、平家や義仲とは異なり、正に“立つ鳥、跡を濁さず”との諺通りの見事な退き際に、口うるさい貴族達も、
「判官殿が守護であられた間は、都は亦とない楽土であり、その人柄は威あって猛からず、常に院命にそむかず、衆望に答えられたあたり、正に仁義の士であった」と絶賛している。
それは同時に義経の股肱であった弁慶ら郎党や行家一門に対する巷の声であり、このまま九州四国に渡って捲土重来を計れば必ずや新しい時流を呼び起こしたに違いない。
けれど頼朝は自ら三万の大軍を率いて黄瀬川に進み、先陣を承った北條時政(*1)は
「義経に味方する者は謀叛人として成敗する」とふれ廻りながら早くも尾張を急進撃した。それを知った多田源氏(*2)の一族が裏切を計って襲いかかった事が、運命を変えてしまった。
「この二股武士め」と、鎧袖一觸に敗走させたものの、船を焼かれて出帆は遅れた。それでも十一月六日、門出の勝利に志気高く西に向った義経の船団は、俄かに沸き起った突風に襲われた。
兵庫沖を過ぎる頃には本格的な大暴風となり、怒涛逆まく闇夜の海上で船団はチリヂリに吹き流され次々に波間に沈んだ。義経の乗った月丸は辛くも住吉ノ浜に打ち上げられたが、行家の船は岸和田の沖で難破し、郎党二人とやっと岸に泳ぎつく惨状となった。
昔から「正義の軍は常に悲劇によって彩られる」とは云え、何たる天の非情であろう。都を出る時は「天下の義士」と讃えられた義経党は、「若一王子」を奉じる熊野水軍に頼らなかった。雲行きの険悪さをも考えず慌ただしく出帆した為に忽ち壊滅してしまったのである。

(*1) 頼朝の妻・北條政子の父。伊豆に流された源頼朝の監視役だったが、頼朝の挙兵を助ける。頼朝の死後、頼家(頼朝の嫡男)を謀殺、実朝(頼家の弟)を擁立。後妻・牧ノ方の陰謀で、実朝を廃し女婿・平賀朝政を将軍にしようするが失敗。出家して明盛と号す。
(*2) 多田行綱。ただゆきつな。多田源氏の嫡流(源満仲より八代目)。平治の乱後、平氏に属した。が、後白河上皇らの平氏打倒謀議に参加。が、平清盛に密告。安芸に流されたので、木曽義仲に味方。が、義仲と後白河法皇が対立すると法皇に、ついで源義経についた。義経と頼朝の対立後、頼朝に追放される。西国に没落する義経と戦い、以後不明。 
(8) 義経追討の院宣
翌十一月七日、数千の鎌倉勢が早くも京に殺到した。
畠山重忠が、「鎌倉きっての狡猾者(ずる)」と評した程の北條時政は大いに勇み立ち、
「院宣何するものぞ」と沿道の武士達を煽りつつ、昼夜ぶっ通しの猛進撃で揉みにもんで都に入った。まず院を包囲し
「法皇は島流し、義経党の公卿は斬罪」等と様々なデマを流して脅しつけた。
その上で、やおら参内すると猫なぜ声で、義経びいきの大蔵卿・泰経らを口説いたから、腰の抜けた参議達は忽ち頼朝追討の院宣を取消した。義経、行家、有綱らの官職を解いて、逆に追討の院宣を出すと云う狼狽ぶりで天下の物笑いとなる。
さすが海千の後白河法皇も
「崇徳院(*1)の二の舞になっては」と使者を頼朝に走らせ
「今回の頼朝追討の事は、全く朕の預り知らぬ処で、正に天魔の為す術か」と弁解これ努める。然し肝の中でせせら笑った頼朝は俄然居直り、
「天魔とは仏法を妨げ人道に煩いをもたらす者の事ぞ。そもそも余は院命を奉じて朝敵を平げ、政治はすべて君に任せているのに、何故反逆者とされ、君の知らぬ追討の院宣なぞが出されたのか。義経らに加担する日本一の大天狗がいったい誰であるか余が知らぬとでも思っているのか」と思い切り脅しつける。

(*1) 崇徳上皇。保元の乱で後白河天皇と対立した。敗戦後、出家したが許されず、讃岐国(現在の香川県)に流された。このため、その後「讃岐院」と呼ばれる。 
(9)頼朝、守護・地頭を設置する
その上で頃を見て時政が、先に後白河法皇が義経に与えた追捕使の権限を頼朝に置き変えた。さらに、全国に頼朝の命じる守護、地頭を配し、その上、公領、私領を問わず総べての田地から反当り五升の兵糧米を徴集する権力までを要請した。さすがの後白河法皇も「流されるよりは」と易々としてそれを許してしまった。
「それでもまあこれで一段落」と胸をなぜ下ろしていた院側に、続いて泰経ら義経派の公卿十四人を免官流罪にし、九條兼実(*1)ら親頼朝派を登用せよとの第二段がうち込まれた。亦々大騒動で、法皇も遂に諦めて悄然と熊野に逃げ、年籠りされる有様。
さすがに南都北嶺の僧兵達は朝敵となった義経らに深い同情を寄せ
「彼らは決して我々の敵でも朝廷に対する逆臣でもない。唯、頼朝に憎まれただけに過ぎないのだから、何とか助けてやろうじゃないか」と正義感を燃やし続けた。
すると頼朝は
「日本は神国であるから、神領も寺領も昔の通り認める。特に大和に限って守護は置かない」と布告し、伊勢神宮には砂金を、東大寺には大仏再建の莫大な寄進を約束する、と云う。「物でつる」抜け目のない政策をとる辺り、日本一の大天狗は実は頼朝であったと云えよう。

(*1) 公卿。五摂家(*2)の一つ、九条家の祖。後白河法皇の死後、頼朝に征夷大将軍を宣下。後、政変によって関白の地位を追われる。念仏への帰依、特に法然への帰依が強かった。四十年間書き綴った日記「玉葉」は第一級の史料として有名。
(*2) 藤原氏の嫡流で鎌倉時代に成立した公家の最高位の家格。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白に昇任できる家。近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家の五家。 
(10) 義経の逃亡生活 / 吉野
都に鎌倉風が吹き荒れている頃、住吉ノ浜で行家と別れた義経は、静御前や弁慶ら僅かな郎党を連れ、伊豆有綱の領地のある大和榛原郡莵田野に落ちた。暫く母・常盤御前と幼ない日を過した岸ノ岡に潜んでいたが、再び吉野に入り吉水院に投じた。
然しここも追われ、雪の山中に静御前を残して姿を消し、宮滝の庄屋や、淡山神社の塔ノ峯奥ノ院に潜んでいた後は、杳として謎である。大台山麓の柏木には義経が愛用した五色湯の秘話や、雪中の難行軍で足を痛めた愛馬・大黒が三本足の怪馬となって主を苦しめた僧兵どもに仇をなした、と云う伝説等が残っている。 
(11) 行家の逃亡生活
そして同じように再挙を約して住吉ノ浜から河内の隠れ家に潜伏した行家は、八方に奔走して尚も不屈の戦いを続けていた。しかし、かつては論言汗の如し、と云われた院宣も今では女郎の起請文に変らず、行家が賜わった頼朝追討の院宣の墨色も乾かぬ間に忽ち朝敵とされてしまった。日夜絶え間なく検非違使の手先が、行家の周辺をうかがう。親交を重ねた南都、北嶺の僧兵達も欲につられて次第に油断のならぬ形勢を呈し始めた。
治天の君と仰いで絶対的な忠誠を捧げた後白河法皇も、頼朝派の九條兼実以下十余人の参議に囲まれては手も足も出ぬ有様で、熊野の帰途を待ち受けて密かに拝閲を願っても許されない。 
(12) 守護・地頭制度
元は行家の考えた総追捕使からヒントを得た守護・地頭制度の効果は絶大で武家政治はこれによって巨大な歩みを始めたとさえ云えよう。
守護は国内の兵馬の権を一手に握って謀叛人、殺人者の逮捕と半年間の御所警備が任務で広大な守護田を与えられる。配下の地頭は朝廷の公領や貴族大社寺のすべての荘園をも含め一反当り五升の兵糧米を取り上げる権力を許されて、領内の警察権と税務を一手に収めた。
例えば一郷百町の地頭は、地頭給田の外に年五十石(百二十五俵)の米収があるのだから何とかこの役にありつこうとひしめき合うのは当然である。義経や行家の身の上を気の毒には思っても、欲につられて続々と鎌倉の家臣となった。 
(13) 行家の最後
文治二年(一一八六)の初夏に入っても、「何とか打開の道を」と行家は和泉国の目代だった日向権ノ守清実や、四天王寺の学頭・兼春泰六や泰七の邸、或は河内源氏の石川一族ら知友の宅を転々としていた。院の側近の木工頭・範季ら、僅かに残された同志達と連絡をとりひたすら再挙の時節を狙い続けた。
けれど若葉に薫風のそよぐ頃になると、さすが不屈の彼も四面楚歌の思いに耐えられなくなった。四天王寺の隠れ家で別れを惜しむ恋人達に再会を約し、ひとまず熊野をめざして旅立つべく仕度を終えたのは五月の節句の朝だったと云う。
折しも三井寺の僧から「行家卿、天王寺に潜伏す」との密告を受けた北條平六時貞(*1)は小笠原十郎(*2)や、先年志田義広を討って頼朝の御家人となった伊賀の服部平六ら屈強の武士三十余人を差向けた。殺到して来る武装兵の姿を見るなり、行家は素早く裏門から脱走して巧みに姿をくらました。
そして和泉国小木郷(現在の岸和田市内)までやって来た時、唯一人残った子飼いの郎党・五郎幸盛が足に受けた傷の痛みで歩けなくなり
「殿!どうかわしに構わず一刻も早く山路に入って下され」と切願するのを見捨てられなかった。やむなく権守清実(*3)の下役の家に一夜の宿を乞うたのが運命の極みとなって、哀れ一代の風雲児も生涯を終える。

(*1) ときさだ。鎌倉幕府初代執権・北条時政の曾孫。北条時政−時房(ときふさ)−朝直(ともなお)−時貞。
(*2) 北條平六時貞の聟。
(*3) 神前清実。神前連(かむさきのむらじ)。源行家を匿った当主。後の戦国時代、神前清実の屋敷のあった場所に、根来衆の支城として畠中城を築城。畠中城(はたけなかじょう)は、大阪府貝塚市畠中にかつてあった城。 
(14) 佐藤忠信、義経の身代わりに
文治二年初夏(一一八六)、平家打倒に最も功のあった新宮十郎行家が、哀れや淀の赤井川原で果てた日、義経は新宮にいた。
どうして新宮にいたかと云えば、これより半蔵前の文治元年(一一八五)十一月、西吉野の岸ノ岡で伊豆ノ有綱と別れた。金峰山吉水院に静御前と共に身を秘そめていた義経は、ここも危うくなり、愛する静御前に金や初音の鼓などを与えて下山させると雪の吉野山に分け入った。
けれど山中でさまよう静御前を捕えて勢い立った飢狼の如き吉野僧兵の大山狩りに追われ谷間の一角で遂に進退窮まった。その時、忠義一途な佐藤忠信は、主君の身代りとなってここで討死するから、その隙に宮滝・柏木方面に脱出されるよう進言した。
奥州以来の郎党だけに、始めは「生死は共に」と許さなかった義経も、佐藤忠信の悲痛な言葉に心打たれ
「この剣は我が命に代えてもと思うて来た大切なものだが」と過ぎし屋島出陣の際に、渡辺ノ浦で熊野権現から賜った宝剣をその身代りとして与えた。それを捧げた忠信は、
「あゝ何と見事な御佩刀(みはかせ)か。屋島の合戦で兄の継信は殿の身代りとなったので、名馬・大夫黒(*1)を頂戴して冥途まで乗っていった。弟の私は忠義を貫かんとしてこの宝剣を賜う、もはや思い残す事は何もない」と喜んで大いに勇戦し、敵の勇将・覚範を討取って巧みに落ちている。

(*1) たいふくろ。義経が後白河法皇から賜った秘蔵の名馬。一ノ谷の合戦の「鵯越えの逆落とし」で活躍。継信の供養の礼として、志度寺の覚阿上人に与えられ、死後継信の傍に埋葬されたといわれる。現在、香川県牟礼町の佐藤継信の墓地内に大夫黒の墓もある。 
(15) 義経の逃亡生活 / 多武峯
義経は其間に敵の目を逃れ、吉野川上流の白糸の滝から宮滝に出ると、この里の豪家に身を寄せて数日を送った。やがて多武峯の南院をめざし、義経党の十字坊にかくまわれたのは十一月の二十二日だったと云う。
当時多武峯は興福寺の傘下にあり、寺の得業(*1)住職の聖弘は鞍馬以来の師だけに深く同情して庇い守った。義経があくまで武人として潔よい生涯を終えたいと望んでいるのを知ると
「それなら法皇に再度院宣を賜わり再挙を計られよ。及ばずながら私も天下の五山に檄を飛ばして最後まで尽力する」と剛毅な心底を見せている。
義経も師の気持に感激し、十字坊の勧めるままに十津川の末寺に身を寄せて都の情勢をうかがっていた。文治二年(一一八六)の二月、後白河法皇が熊野御幸にお出ましと聞くや、直ちに十津川を下って新宮に入り、二十二代別当・行快にかくまわれつつ、院の到着を待ち、一夜秘かに御所ノ間に参じて意向を拝したらしい。
然しながら、さすがの専制君主・後白河法皇も、親頼朝派の関白兼実以下の側臣に囲まれてはどうにもならなかった。「以後は一切、政治に口は出さず隠居する」と云われて、専ら今様と仏道に日々を過ごされていた頃だけに、
「今直ちに頼朝追討の院宣を下賜する訳にはゆかぬが、暫しは身をいといつつ時節を待ち、行家とも充分協議して事を計れ」との意向が近臣の木工頭・範季を通じて下され、法皇愛用の黄金作りの名刀を賜わった。義経も院の真意を喜んで、行家の帰るのを待つ事にした、と伝えられている。

(*1) 僧の学階の称。奈良では、三会の立義(さんえのりゅうぎ)を勤め終えた僧の称号。比叡山では、横川(よかわ)の四季講、定心房の三講の聴衆を勤めた僧の称号。 
(16) 油断できぬ湛増
けれども状況は極めて悪く、吉野で捕らえられた静御前はやがて鎌倉に送られて厳しい取り調べを受けていた。伊勢や佐藤らはその道中を狙い、命がけで救出に苦心したものの北條時政の老獪な策にかかって悉く失敗した。そればかりか今では堀弥太郎と名を変えた「金売り吉次」さえも身の置き処に苦しむ程となっていた。
義経主従にとっても、新宮別当の配下である太地、那智勝浦以南の奥熊野水軍の猛者達は屋島、壇ノ浦以前の戦友だけに昔通り義経を御大将と仰いで心服してくれる。しかし、湛増(*1)は、どうやら頼朝に媚びて一日も早く熊野別当に補任されんと懸命なようで、少しも油断は出来ない状況となった。

(*1) 二十一代熊野別当。十八代熊野別当・湛快の子。義母は源為義の娘の鳥居禅尼。妹は平忠度の妻。源平双方に関係がある。父の湛快以来、田辺を拠点。田辺別当と称す。文治三年(一一八七)熊野別当補任『熊野別当代々記』。
(17) 静御前、舞う
三月半ばには鵜殿隼人正の骨折りで伊勢神宮を海路往復し、後白河法皇から賜った黄金造りの名刀を寄進した。所願成就を祈りながら行家の帰りを待ちわびる義経主従の処に、四月の末、胸のすくような報が入った。桜散る鶴カ岡八幡宮の社殿で捕われの身となっていた静が敢然として、
吉野山 峯の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
と歌って万丈の気を吐いたと云う。
それを聞いた人々は一斉に
「さすがは判官殿の想われ人だけあるわい」とどよめいたが、続いて入ったのが行家父子処刑の悲報だった。それも味方と頼む叡山僧兵の常陸坊らの手で捕えられたと聞いて人々は、一段と憤慨した。
それも元はと云えば北條時政の莫大な賞金政策の為で
「平家の子孫や義経党の謀叛人を捕えたる者は望みのまゝの恩賞を与える」と町々に高札を立てゝ大いに宣伝したからである。
“上乱れれば、下見習う”の諺通り、義経が治政に当っていた頃と比べれば欲につられた都の人心の荒廃は甚しく、義理人情はすたれ金の為なら親、兄弟さえ平気で売る。
「物の哀れを知る事こそ誠の武夫」と賛える気風などは見る影もなく消え失せてしまった。 
(18) 伊豆ノ有綱、伊賀山中で自刃す
文治二年(一一八六)の四月末、都に潜伏して機を待っていた家臣達の悲報を知った義経が叔母や一族達の止めるのも振りきるように新宮を立った。折から伊勢神宮では伊賀出身の重源ら七百人が神夢に答え、大般若経を転読して東大寺再建祈願の最中で、抜け目ない頼朝は神領、神馬、砂金を献じて内宮神職・荒木田成長を喜ばせている。
そして文治二年(一一八五)の六月になると、源三位頼政の孫で行家に継ぐ後白河法皇の寵臣・伊豆ノ有綱が伊賀山中で自刃している。義経の義弟とも云われる信義の人で、伊賀にも縁の深い有綱の死に就いて、土地の歴史愛好家・吉本貞一氏は次の如く語っている。
[ 私の住む短野の丘から名張川に沿って下ってゆくと薦生の里に出る。桜の名所で春は花見の宴で賑わうが、桜並木の根方に近い畑の中に天神墓と呼がれる土饅頭があって昔から有綱自決の地と伝えられて来た。昭和の初め、近くの井戸本さんの処で古い巨木を取り除こうと掘っていたら根元の穴の中から「神、源有綱」と刻んだ石碑が出て来たので予野の偉い坊さんに拝んで貰った処、「有綱さんが自刃されている、側には薙刀を持った美人の奥方らしい人も倒れて居り、『人目につかぬ場所にそっと祭って貰いたい』と願って居られるようじゃ」と云われるので、邸の一角に移し丁重に祭り続けている。] 
(19) 伊豆ノ有綱1
有綱卿は悲運の名将義経の同志として最後まで節をかえなかった仁義の士である。この地で最後を遂げられて八百年余りになる。これを記念し、その清廉な生涯を讃えて冥福を祈ると共に史跡保存に役立ちたいと思い資料や現地を調べて見た。色々説もあるが地元の人々にも広く知って貰いたいので、なるべく難かしい話はさけて判り易く書こう。
清和源氏の家系は前にも載っているが、義家に次ぐ弓の名人である頼政が伊豆ノ国守となったのは、平治ノ乱に天皇方に参じた功賞である。嫡男・仲綱が代官として伊豆に赴任し、有綱はその次男である。生まれた地から「伊豆ノ冠者」と呼ばれた。
治承四年(一一八〇)、頼政が以仁王を奉じて平家打倒の兵を挙げたものの、衆虚敵せず宇治平等院で敗死した。その時、有綱は伊豆にいたらしくこの戦さには参加していない。が、何しろ祖父も父も長男の宗綱も討死したから、一家で残ったのは彼ばかりとなり、平家に対する恨みは一段と深かった。
当時、頼政は七十六才、仲綱は五十二才だから、有綱は精々二十歳過ぎたばかりの若者だったろう。源氏で唯一栄えていた同家もこれで没落。頼政が怪鳥退治(*1)で武名を挙げた時に活躍した一の郎党井ノ早太が、主の遺言を果すべく名張の福成寺に家宝の法華経を納めに帰り、ここで平家勢に討たれている。それを見ても、伊賀各地にあった所領はすべて没収されたようだ。

(*1) 高倉天皇(一一六八)の時、真夜中になると、黒雲が御殿の上をおおい、あやしげな鳥のような叫び声をあげた。怪鳥退治の白羽の矢を立てられたのが頼政で、弓で射ると、黒雲は段末魔の声とともに落下。姿は、頭はサル、胴体はタヌキ、尾はヘビ、手足はトラ。世に言う「鵺(ヌエ)」で、現在、京都市二条城の北に「鵺大明神」が鎮座するとか。 
(20) 伊豆ノ有綱2
その上、伊豆ノ国守は平時忠となった。有綱はやむなく逃亡して各地をさすらいながら時節を待ち、同じ伊賀生れの近江源氏の山本義経らと共に盛んにゲリラ戦を展開して平家を苦しめた。義仲が入京の際には、有綱も行家軍の将として大いに活躍している。やがてその功により任官しているが、頼政の孫と云うので院でも優遇されたらしい。
寿永二年(一一八三)、九郎義経が頼朝の代官として伊賀に入るや、有綱はその人柄に惹かれて家人となる。旗下の客将といった待遇だったようで、一の谷、屋島で大いに活躍した。壇ノ浦決戦には従五位ノ下左衛門ノ尉に進み、院の特使として神器出迎えを命ぜられている。
文治元年(一一八四)秋、頼朝と義経の間が険悪となるや、有綱は後白河法皇の意向を奉じて行家と共に義経を助けた。都落ちに際しては多田行綱ら源氏の諸将がすべて叛旗を翻す中で、独り義を貫いて義経と行を共にしている。喜んだ義経は京の鬼一法眼の邸に養われている愛娘の婿としたと云うが、義経と有綱は同年配と思われるから、これは有綱の嫡男・有宗だろう。 
(21) 伊豆ノ有綱3
大物ノ浦での不幸な遭難後、有綱は義経一行を自分の領地のある莵田野西芳野の岸ノ岡に案内して再挙を計った。鎌倉勢の来襲を知るや義経を吉野に落し、自分はここに残って芳野城の源の義近や大宇陀松山の光朝らの協力を乞うた。薦生の同族、武田成守を説き、大和と伊賀伊勢を結ぶ街道の要所を把握するこの要害の地に強力な居城を築いた。時到れば天才武将・義経を迎えて、武名を天下に轟かさんと云う構想からだったろう。
その意気は壮なりとは云え、頼朝が院を脅迫して手に入れた守護・地頭制度によって情勢は刻々と悪化し、頼みとする義経とは連絡もつかない。西吉野、榛原、山辺の拠点を次々に失い、和泉に潜伏している行家に出した手紙から薦生城の事も露見して危機は次第に迫った。
伊賀の鎌倉党(頼朝派)は、去る寿永三年(一一八四)、千戸山で志田義広の首をあげ、没収されていた旧領を安堵された元平家の旧臣の服部平六である。其後、三日平氏の乱にも活躍して一段と威勢を高めていた。有綱の動向を知るや、伊賀守護に任じられていた大内惟義に増援を求め、数百騎の兵力をかり集めて来襲した。
それは文治二年(一一八六)六月の上旬で、此時もし有綱が城を捨てて義経の跡を追う気なら充分その機会はあった。しかし彼はそうせず、勝敗は論外として華々しく決戦を挑んだ。義を天下にとなえて源三位頼政の孫にふさわしく死花を咲かさんと決意した為であろう。 
(22) 伊豆ノ有綱4
かくして戦端が開かれ、清流名張川の畔に聳え立つ掛山城を囲んで、連日激戦が展開した。城は要害の地であり、死を決した勇将と共に潔く死なんと心に決めた伊賀将兵の奮戦は見るも目覚ましいものがあったに違いない。
この時、彼の旗下にせめて三百の勇士があれば守りは鉄壁で戦は有利に進展したと思われる。しかし恐らく百にも満たなかったらしく、多勢に無勢で搦手の二ノ尾の尾根伝いに潜入した敵の奇襲によって城の守りは破れた。
「もはやこれまで」と知った有綱は、嫡男・有宗ら四人の子女を子飼の郎党六名に守らせると、三里の山路を潜行して、乳母の弟である予野の菅左衛門の処へ落した。その後、潔く城を討って出ると大いに奮戦し、遂に刀折れ矢つき天神塚の一角で従容として自刃した。文治二年(一一八六)六月十六日である。
その壮烈な最後を聞いた義経はせめても菩提を弔わんと思い立ったのだろう。九月末、秘かに伊賀に潜入して、神戸の長浜邸に潜伏し、四十余日をこゝに過している。恐らく薦野城跡や予野の遺族達を秘かに訪ねて慰め励まし、一族が力を併せて再建にいそしむよう願ったに違いない。
其間に「都から静御前が彼を追うて来た」と云われ今も尚近くの白拍子ノ滝や宮待谷に数々の伝説を止めているが彼らの心を神仏も憐み給うたのだろう、有宗の子孫は代々繁栄して後世かの有名な観阿弥を始め多くの立派な人物が生れ、伊賀史上に大きな足跡を残している。
やがて有綱没して十五年後の建仁元年(一二〇一)十一月、一族の有志がこの地に碑を立てたが、碑の表面には「凉龍院殿真海法師」と刻み、側面には正五位ノ上左衛門尉源有綱と記していたと云う事を三八〇年後の天正十三年(一五八五)、中出清閑坊らが書き残している。
昭和に発見された現碑石はそれが朽ちた為に徳川時代にでも建て替えられたものだろうか。いずれにしても城と云い人と云い、伊賀には珍しい源平時代の歴史を語るトップ級の史跡である。
この機会に地元有志の尽力により地を整え碑を立てて、義に殉じた雄々しい先輩将士の冥福を千年の薦生桜と共に後世に語り継ぐ史跡“有綱さん”を何とか残したいものである。 
(23) 義経、奥州平泉へ
文治二年(一一八六)の夏から秋にかけては義経党にとって悲劇の連続であった。
七月には伊賀才良の生れである伊勢ノ三郎、八月には金売り吉次こと堀弥太郎、そして九月には義経千本桜の立役者、佐藤忠信が六条堀川の旧館で壮絶な自刃をとげる。さすがの義経も
「時世時節には克てぬ、せめても彼らの墓前に別れを告げて平泉に帰らん」と考え、秘かに伊賀上神戸の永浜家を訪ねたのは九月末であったと云う。
前記したように、伊賀の北西にある島ガ原には、源三位頼政の嫡男である仲綱の子・宗綱が、忠実な郎党に助けられて正月堂の僧坊で成人し、島ガ原党の中心となっていた。義経は、彼らの尽力で予野の有綱の遺児・有宗ら一族を懇ろに慰めると、宮侍谷で待ちわびていた静御前と再会した。そして永浜家の別宅になっていた天武天皇の行宮跡に人目を忍びつつ尽きぬ名残りを惜しむと、熊野山伏姿に身をやつし出羽三山をめざした。
それでも斗志衰えぬ弁慶は、六波羅奉行所の扉に墨痕も鮮やかに魏の曹操の三男・植が非情の兄・曹否に対して詠じた「七歩の賦」すなわち
「豆を煮るに豆殻を以てす。豆は釜中に在って泣く。元はこれ同根なるに相煮ること何ぞ急なる」とその怒りを吐露した。そして勧進帳で有名な「安宅の関」を突破して平泉に入ったのは、文治三年(一一八七)三月であったと云われる。 
(24) 興福寺の聖弘
折から鎌倉では、義経育ての師である興福寺の聖弘に対して、頼朝自ら厳しく尋問を重ねた。彼は毅然として臆する色もなく
「平家を亡ぼし、鎌倉殿(頼朝)の天下を実現した第一の功は、義経公。これは天下の認める処である。不肖ながら身共は鞍馬山で幼い頃より教え育てて参った故、その人柄は良く存じている。公(義経)は誠に仁義忠孝の道に厚い天下の義士と称すべき英才である。然るに血肉をわけた兄でありながら讒言に乘ってそれを認めず、謀叛人として厳しく追求されるとは何とも非情の限り。如何に義士と云えども誇り高い人柄だけに降りかかる火の粉は払わざるを得ないのが道理である。この事を充分省みられ、兄弟仲よく天下泰平の為に尽力して貰いたいと云うのが、上は法皇様より我ら仏に仕える者、末は日本国中の万民の切なる願いである」と死を覚悟しての忠告に、さすがの頼朝も顔赤らめて
「…それは余もよく判っているが…」と呟くのみだったと云う。
それは正しく天の声であり、その責はすべて頼朝にある。しかし、半ばは妻で尼将軍と仇名された政子も逃れる事はできない。それは大史家・頼山陽が
「頼朝は己の一族より妻を信じた故に僅か三代で源氏を亡ぼしてしまった。北条氏、姦なりとも、彼女(政子)がよく気を配って、義経らに数カ国を与えて後見役に配しておけば、断じてああはならなかったろう」と評している。
すべてがその言に尽きるが、敢えて一言つけ加えよう。政子にとって頼朝は“つゝ井筒の君”とも云うべき初恋の人であった。なのに、政子は腹を痛めた我子までを名利野望の為に滅ぼしてしまった稀代の悪女である。まこと心すべきは“つゝ井筒の恋”であると痛感する。
さて本章の結びとして、熊野の奥ノ院である霊峯・玉置山々麓に眠る源平両氏の群霊成仏の為に、久しく奉仕行脚に励む有志の一文を掲げよう。 
6 源平群霊を弔して 

 

(1) 維盛伝説1 / 那智色川の里
「盛者必衰」の理に従い、一門悉く壇の浦で亡び去ったと伝えられる平家一門だが、熊野一円には、その落人伝説が数多く残されている。中でも多いのが維盛(これもり)、資盛(すけもり)の兄弟である。
維盛は重盛の嫡子で、本来から云えば平家の総帥の資格を持ちながら、叔父・宗盛(むねもり。平清盛の三男)にその地位を奪われた。その上に富士川、くりから谷の戦いで武運拙なく連敗。彼は不遇の中に悶々としていたと云えよう。
維盛に就いて、平家物語は
「一ノ谷合戦後の寿永三年(一一八四)三月、屋島ノ浦から逃れ出た維盛は高野の参詣をすませ、那智勝浦の浜から万里の蒼海に浮かび、山成島の沖で入水し果てた」と説くが、実は「熊野年代記」の第二巻で詳記されている通り、太地浦に上って那智色川の里に潜んだ。ここで数年を送った彼は土地の豪族の娘に、二人の男の子を生ませている。彼らは元服後、兄は清水権太郎盛広、弟は水口小次郎盛安と名乗って繁栄するのだが、維盛はやがて漂然と旅に出る。それは源氏の追手をさけるのと、熊野聖としての修行の為であった。 
(2) 維盛伝説2 / 五百瀬の里
熊野川を北上して十津川に入った維盛は折立、風屋の地を過ぎ、河津から川沿いに左折して五百瀬の里に足を止める。ここでは
「屋島を脱出して高野をめざしたが、途中で霊山・護摩ノ壇山に登って占った。その結果、都の妻子と逢うのを断念して出家すると、高野街道の宿場である五百瀬の豪族に匿われて新生活に挑んだ」と伝えられる。
その名も小松弥助と改めて、里の娘を妻に迎えて永住し、多くの子孫を残した、と云われる。今も尚、馬屋を改造した豪壮な正門が残され、丘の一角には維盛の墓所と云う小社もある。六十五代目と云われる御子孫の話では、平家重代の小鳥丸(*1)や鎧兜も明治の大洪水までは大切に保存されていたらしい。
その命日を寿永三年(一一八四)三月八日としているのは、源氏の追求をさける為だったと思われる。後には色川一族同様に、芋瀬の庄司として政所を置き、あたり一円に勢力を振るった。けれど維盛は再び旅に出たのは前と同じ理由であろう。

(*1) 桓武天皇のところに一羽の烏が飛んできて、「伊勢神宮から剣の使いとしてやって来ました」と言って一振りの太刀を落とした。天皇はこれを小烏丸と命名したという。 
(3) 維盛伝説3 / 神山の里〜下市〜古座湊〜竜神の里
瀞八丁で有名な北山川上流の神山の里に姿を見せた維盛は、土地の豪族の蔵屋家にかくまわれ、四間四方の阿弥陀堂・光福寺を建立したと云われる。堂の天井裏には平家重代の二俣竹(*1)の竹団扇、古鏡、弥陀三尊の画像、青磁の香炉、愛用の横笛を納めた箱が残され、近くの観音滝のお堂には守り本尊の観音像が祭られていたらしい。
やがて神山を去った維盛は伯母峰峠を越えて吉野に出ると、下市で鮨屋を営む旧臣・宅田弥左衛門宅に足を止める。有名な歌舞伎の「義経千本桜」(*2)の釣瓶鮨屋の場のように、名も弥助で通し、やくざ息子の「いがみの権太」の見せ場となる。
再び熊野に向った維盛は、新宮、那智から大辺路を辿ると古座湊の豪族・高河原一族に迎えられる。
旅の疲れを慰やし、維盛は更に山路を分けて竜神の里に足を止める。竜神の湯で知られる桃源郷で、彼を慕って追って来た高河原一族の美姫と甘いエピソードを残している。さすがの維盛も長い放浪の旅にピリオドを打つ気になったらしい。

(*1) 竹の二股(たけのふたまた)。二股に分かれた竹は滅多にないところから、滅多にないこと、殆どないことの喩。
(*2) 歌舞伎「義経千本桜」第四幕 鮓屋。鮓屋の娘・お里が弥助(実は維盛)と祝言できると有頂天になっている処へ、勘当を受けた兄「いがみの権太」がやってきて…。 
(4) 維盛伝説4 / 有田郡、清水上湯川
竜神より有田郡に北上した維盛は、平家相伝の郎党である湯浅一族を頼った。名僧・明恵上人の尽力で湯浅宗近の領内、清水上湯川に安住する。この地は護摩ノ壇山をへだてて五百瀬にも近い。やはり小松弥助と称して、城とも云える館を構えているのは、湯浅一族の尽力だろう。
ここにも維盛の子孫が残っているのは、平家の嫡流と云う貴種と「桜梅の少将」と讃えられた絶世の美男子ぶりが里の豪族や娘達の憧れの的となった為で、あながち好色家とは云えないようだ。
けれど同じく美女群に囲まれつつも、義経のように天才武将らしい凛然と心を打つ話がない。やはり坊っちゃん育ちで、詩人肌の心優しい斜陽貴族であったからだろう。
建仁三年(一二〇三)文覚(*1)が世を去って、保護者を失った六代(*2)が、妙覚と号してひたすら仏道修業に励んでいたにも拘わらず、三十を一期として斬罪に処せられた。それを知った伊勢伊賀の平氏一族が各地で叛乱を捲き起こした。
けれど維盛がこれに応じた気配もなく翌元久元年(一二〇四)嫡子六代に先立たれその気力も衰えたか四十七の男盛りで上湯川の館で世を去ったと云われて居り、如何にも佗しい生涯ではあったが源氏が三代で断絶したのに比べて各地に残したその子達がそれぞれ一門仲良く助け合って家門再興に励んでいる事がせめてもの慰めである。

(*1) もんがく。真言宗の僧。弟子には上覚、明恵ら。元は武士。従兄弟の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺したので出家。神護寺の再興を後白河天皇に強訴し伊豆に流され、源頼朝に平家打倒の挙兵を促す。頼朝死後、後鳥羽上皇により佐渡へ流され客死。
(*2) 平維盛の嫡男。平清盛の曾孫。幼名は平正盛から数えて直系の六代目に当たることに因んで「六代(ろくだい)」と名づけられた。平氏滅亡後に捕らえられ、斬首になるところを文覚上人の嘆願で助けられ、身柄を文覚に預けられる。 
(5) 資盛伝説1 / 折立
次に維盛の弟、資盛である。彼は壇ノ浦で戦死したと見せて秘かに戦場を落ち延び、湯浅城に入って大いに奮戦したが、補給路を断たれて再挙を計る事になり、十津川郷に潜入して時節を待った。
そして玉置山の神官・玉置氏の客分となったが、同家は饒速日(*1)の子孫と云われる初代熊野国造・大阿刀ノ宿弥(*2)の血をうけた名家である。熊野別当(*3)の配下の重臣の一人だから、内々は別当・湛増も知りながら黙認したのだろう。
資盛は折立の地に潜んだ。「素庵」と呼ばれる一庵を設けて出家生活を送るうちに、その嫡子が玉置家の嗣子に迎えられ、下野守直広と号した。その子息達だが、長男は地元一帯、次男・直行は和佐(和歌山県日高郡)の手取城主、四男・直弘は寒川山地(和歌山県日高郡美山村大字山地?)の鶴カ城主となって繁栄している。
資盛の没年は不明だが、彼の晩年を送った「素庵」はやがて「順公庵」と呼ばれ、次いで「松雲寺」と改められた。初代院主として等身の立派な木像も残されていたと云う。その墓所には十二基の源平末期に作られた五輪ノ塔が現存しているから、折立一円を支配下に収めたらしい。
そして南北朝の世には、熊野八庄司の中に玉置、芋瀬、湯浅ら平氏系豪族と新宮、安田ら源氏系豪族が共に参加している。仲良く家門の繁栄を計り、源平氏の名ではなくとも再び世にときめいている。

(*1) にぎはやひ。饒速日命。『古事記』では、神武天皇の東征で、大和地方の豪族・ナガスネヒコが奉じる神。『日本書紀』では、東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったと云う。
(*2) おおあとたじのすくね。大阿斗足尼とも。第十三代成務天皇の御代に、饒速日命の子である高倉子命の四世、大阿斗足尼が初代の熊野国造に任ぜられた『旧事本紀(巻十 国造本紀)』 。
(*3) 寛治四年(一〇九〇)白河院は熊野御幸の後、熊野別当の長快を「法橋(*4)」に叙階。熊野三山は中央制度に属す。長快の後、「新宮に本拠を置く新宮別当家」「本宮と紀伊田辺を拠点とする田辺別当家」に分裂。承久の乱(承久三年、一二二一)で別当家は武家方と上皇方に争う。十四世紀中頃(南北朝時代)、熊野別当の呼称は消える。
(*4) 「法橋上人位」の略。僧位の第三位。法眼に次ぐ。僧綱(*5)の律師に相当。官位の五位に準ぜられる。
(*5) そうごう。僧尼を管理する僧官の役職。僧正、僧都、律師からなる。六二四年に設置。僧綱所は、奈良時代は薬師寺、平安遷都後は西寺に。八六四年、僧位(序列)が定められ、僧正は「法印大和尚位」、僧都は「法眼和上位」、律師は「法橋上人位」。 
(6) 数々の悲話
けれど一方では数々の悲話も多い。
本宮周辺の平治川では安徳幼帝ではないかと云われる貴公子を擁した二十余名の落人がいた。中辺路の道湯川から右に折れた要害ノ森に砦を築いて見張所とし、平治川の堂地(童子)と呼ぶ大岩壁の下にささやかな居を置いた。度々の追手によって多くの死傷者を出しながらも懸命に生き延びている。
彼らの中には忠度の一子・忠行ではないかと思われる若武者もある。炭焼の娘に愛されて鶴松と呼ぶ子を為しているが、敗残の身の悲しさに弥右衛門と云う名しか残っていない。「七人塚」、「矢調べの丘」、「絹巻岩」等の地名の他は、一切が謎のままである。
僅かに篠尾の山中に、兵庫左衛門尉・氏永が一族三十余名と共に隠れ住み、僅かな農作物で必死に生き抜き、やがては三百余人の人口を数える豊かな村に繁栄した。後世、大和から落ちてきた「井戸」を姓とする人々が、本宮の高山、下湯川、皆地、静川一円に拡がっている。
いずれもさすが由緒正しい人々だけに、平治川では若くして世を去った主君の菩提を弔って若宮を建て、年々歳々、「薙刀踊り」や「太刀踊り」で盆供養を続けている。山一つへだてた武住村では、大物浦で遭難後に落ちて来た義経党が八幡社を建て、同じく「牛若踊り」を伝えている。
篠尾の三十五人塚、大里赤井・蔵光山の七十五人塚、或いは皆地、静川、皆瀬川、田代の落人部落には必ずと云って良い程、苦しい生活の中で先祖を祭る立派な供養碑が残されていた。 
(7) 大道とは
明治の排仏の嵐(*1)が、先祖を祭る立派な供養碑を、容赦なく埋没させてしまった。
この暴挙が如何に純朴な里人の心を荒廃させ、今日の数々の怨念と因果の業因をもたらしたかは只々驚くばかりだ。ここ十年ひたすら浄霊奉仕に努めつつ霊地熊野が再び「長寿と幸運」に恵まれた此世の浄土となるには、何よりも里人の心の持ち方にある事を痛感する。
昔から多くの先哲、高僧は
「此世は『写し世』にして真の本体は霊の世界にこそあり、肉体は滅しても魂は不滅である」と説かれ、不肖私も数多くの霊体験によってそれを確信している。
三十幾カ村を巡錫して感じるのは、一枚の紙にも裏表のあるように、家には家、村には村の目に見えぬ柱があり、我々が元気で暮らせるのは先祖の賜物である。なのに開拓者の祖霊の多くが忘れられ埋もれ果ててしまった様に感じられる。
家、村、国を興すには先ず私達が第一にこの見えない柱の存在に気がつき、何時も感謝の気持ちで補修と磨きを忘れない事だ。
遠廻りの様でも、これが一番近い確実な物心両面の安らぎと繁栄をもたらす大道と云える。

(*1) 明治元年(一八六八)三月に明治政府が発した太政官布告神仏分離令など、神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。 
 

 

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