平安鎌倉の物語2

とはずがたり(巻一)(巻二)(巻三)(巻四)(巻五)・・・
今昔物語集(巻二)(巻七)(抜粋)今昔物語集と冥報記今昔解説1今昔と慶慈保胤今昔の「古代」解説2京鎌倉の王権と美術地獄と冥界説話解説3解説4・・・
更級日記1更級日記2更級日記と地理相模国府の変遷・・・
 
女の道「とはずがたり」諸説

雑学の世界・補考   

とはずがたり(巻一)

 

新春の御所、父と後深草院の密約
呉竹(くれたけ)の一夜(ひとよ)に春の立つ霞、今朝(けさ)しも待ちいで顔に花を折り、にほひを争ひて並(な)みゐたれば、我も人なみなみにさし出(い)でたり。つぼみ紅梅(こうばい)にやあらん七(ななつ)に、くれなゐのうちぎぬ、萌黄(もよぎ)の表着(うはぎ)、赤色の唐衣(からぎぬ)などにてありしやらん。梅唐草(からくさ)を浮き織りたる二つ小袖に、唐垣(からがき)に梅をぬひて侍りしをぞ着たりし。
今日の御薬には、大納言陪膳(はいぜん)に参らる。外(と)ざまの式はてて、また内(うち)へ召し入れられて、台盤所(だいばんどころ)の女房たちなど召されて、如法(によほふ)、をれこだれたる九献(くこん)の式、さきに大納言三々九(く)とて、外ざまにても九返(ここのかへ)りの勧盃(けんぱい)にてありけるに、またうちうちの御ことにも、「その数にてこそ」と申されけれども、「このたびは九三(くさん)にてあるべし」と仰せありて、如法、上下(じやうげ)酔(ゑ)ひすぎさせおはしましたるのち、御所(ごしよ)の御かはらけを大納言に賜(たま)はすとて、「この春よりはたのむの雁(かり)もわが方(かた)によ」とて賜ふ。ことさらかしこまりて、九三(くさん)返り賜はりてまかり出(い)づるに、何とやらん、しのびやかに仰せらるることありとは見れど、何ごととはいかでか知らん。
恋人(雪の曙)よりの文と贈物
拝礼など果ててのち、局(つぼね)へすべりたるに、「昨日の雪も今日よりはあと踏みつけん ゆくすゑ」など書きて、御文(おんふみ)あり。紅(くれなゐ)のうすやう八、濃き単(ひとへ)、萌黄(もよぎ)の表着(うはぎ)、唐衣(からぎぬ)、袴(はかま)、三つ小袖(こそで)、二つ小袖など、平(ひら)づつみにてあり。いと思はずにむつかしければ、返しつかはすに、袖のうへに薄様(うすやう)のふだにてありけり。みれば、
つばさこそ重ぬることのかなはずと着てだに馴(な)れよ鶴の毛ごろも
志ありてしたため賜(た)びたるを、返すもなさけなき心地しながら、
「よそながら馴れてはよしや小夜(さよ)衣いとど袂(たもと)の朽ちもこそすれ
思ふ心の末むなしからずは」
など書きて返しぬ。
上臥(うへぶ)しに参りたるに、夜中ばかりに、下(しも)口の遣戸(やりど)をうちたたく人あり。なに心なく、小さき女(め)の童(わらは)あけたれば、差し入れて使はやがて見えずとて、またありつるままの物あり。
契りおきし心の末の変らずはひとり片しけ夜半(よは)のさごろも
いづくへまた返しやるべきならねば、とどめぬ。
三日、法皇の御幸この御所(ごしよ)へなるに、この衣(きぬ)を着たれば、大納言「なべてならず色もにほひも見ゆるは、御所より賜はりたるか」といふも、胸さわがしくおぼえながら、「常磐井(ときはゐ)の准后(じゆごう)より」とぞつれなくいらへ侍(はべ)りし。
父邸に退出
十五日の夕つ方、河崎より迎へにとて人たづぬ。いつしかとむつかしけれども、いなといふべきならねば出(い)でぬ。見れば、何とやらんつねの年々よりもはえばえしく、屏風(びやうぶ)・畳も、几帳(きちやう)・引き物まで、心ことにみゆるはと思へども、年の始のことなればにやなど思ひて、その日は暮れぬ。
明くれば供御(くご)の何かとひしめく。殿上人(てんじやうびと)の馬、公卿(くぎやう)の牛などいふ。母の尼上(あまうへ)など来(き)あつまりてそそめくときに、「何ごとぞ」といへば、大納言うち笑ひて、「いさ、今宵(こよひ)御方違(おんかたたが)へに御幸(ごかう)なるべしと仰せらるる、時に年の始なれば、ことさらひきつくろふなり。その御陪膳(はいぜん)の料(れう)にこそ迎へたれ」といはるるに、「節分(せちぶん)にてもなし。何の御方違へぞ」といへば、「あら、いふかひなや」とてみな人笑ふ。されどもいかでか知らんに、わが常にゐたる方(かた)にも、なべてならぬ屏風立て、小几帳立てなどしたり。「ここさへ晴にあふべきか。かくしつらはれたるは」などいへば、みな人笑ひて、とかくのこといふ人なし。
タ方になりて、白き三つ単(ひとへ)、濃きはかまを着るべきとておこせたり。空薫(そらだき)などするかたさまもなべてならず、ことごとしきさまなり。火ともしてのち、大納言の北の方(かた)、あざやかなる小袖(こそで)をもちてきて、「これ着よ」といふ。またしばしありて大納言おはして、御棹(さを)に御衣(おんぞ)掛けなどして、「御幸(ごかう)まで寝入らで宮づかヘ。女房は何ごともこはごはしからず、人のままなるがよきことなり」などいはるるも、何の物教へとも心得やりたる方(かた)なし。何とやらんうるさきやうにて、炭櫃(すびつ)のもとにより臥(ふ)して寝入りぬ。
院父邸に作者を訪う、第一夜
その後(のち)のこといかがありけん、知らぬほどに、すでに御幸(ごかう)なりにけり。大納言御車寄せ、なにかひしめきて、供御(くご)参りにける折に、「いふかひなく寝入りにけり。起せ」などいひ騒ぎけるを、聞かせおはしまして、「よし、ただ寝させよ」といふ御気色(けしき)なりけるほどに、起す人もなかりけり。
これは障子(しやうじ)の内の口に置きたる炭櫃(すびつ)に、しばしばかり掛かりてありしが、衣(きぬ)ひきかづきて寝ぬるのちの、何ごとも思ひわかであるほどに、いつのほどにか寝おどろきたれば、ともし火もかすかになり、引き物もおろしてけるにや、障子の奥に寝たるそばに、なれ顔に寝たる人あり。こは何ごとぞと思ふより、起き出(い)でていなんとす。
起し給はず、「いはけなかりし昔より思(おぼ)し召しそめて、十とて四つの月日を待ちくらしつる」、なにくれ、すべて書きつづくべき言(こと)の葉もなきほどに仰せらるれども、耳にも入らず、ただ泣くよりほかのことなくて、人の御袂(たもと)までかはく所なく泣きぬらしぬれば、慰めわび給ひつつ、さすが情なくももてなし給はねども、「あまりにつれなくて年も隔てゆくを、かかるたよりにてだになど思ひ立ちて、今は人もさとこそ知りぬらめに、かくつれなくてはいかがやむべき」と仰せらるれば、さればよ、人知らぬ夢にてだになくて、人にも知られて、一夜(ひとよ)の夢のさむる間もなく物をや思はん、など案ぜらるるは、なほ心のありけるにやとあさまし。
「さらば、などやかかるべきぞとも承りて、大納言をもよく見せさせ給はざりける」と、「いまは人に顔を見すべき かは」と、くどきて泣きゐたれば、あまりにいふかひなげに思(おぼ)し召して、うち笑はせ給ふさへ心憂くかなし。
夜もすがらつひに一言葉の御返事だに申さで、明けぬる音して、「還御(くわんぎよ)は今朝にてはあるまじきにや」などいふ音すれば、「ことありがほなる朝帰りかな」とひとりごち給ひて、起き出(い)で給ふとて、「あさましく思はずなるもてなしこそ、振分け髪の昔の契りもかひなき心地(ここち)すれ。いたく人目あやしからぬやうにもてなしてこそ、よかるべけれじあまりにうづもれたらば、人いかが思はん」など、かつは恨み、また慰め給へども、つひにいらへ申さざりしかば、「あな力なのさまや」とて起き給ひて、御直衣(なほし)など召して、「御車寄せよ」などいへば、大納言の音して御粥(かゆ)参らせらるるにやと聞くも、また見るまじき人のやうに、昨日は恋しき心地ぞする。
雪の曙より文
還御(くわんぎよ)なりぬと聞けども、同じさまにて引きかづきて寝たるに、いつのほどにか御文(おんふみ)といふもあさまし。大納言の北の方(かた)、尼上(あまうへ)など来て、「いかに、などか起きぬ」などいふもかなしければ、「夜より心地わびしくて」といへば、「新枕(にひまくら)の名残か」など、人思ひたるさまもわびしきに、この御文を持ちさわげども(たれ)かは見ん。
「御使立ちわづらふ。いかにいかに」といひわびて、「大納言に申せ」などいふもたへがたきに、「心地わぶらんは」とておはしたり。 この御文をもてさわぐに、「いかなるいふかひなさぞ。御返事はまた申さじにや」 とて、来る音す。
あまた年さすがになれし小夜衣(さよごろも)かさねぬ袖に残るうつり香
紫(むらさき)の薄様(うすやう)に書かれたり。この御歌を見て、めんめんに「このごろの若き人にはたがひたり」などいふ。いとむつかしくて起きもあがらぬに、「さのみ宣旨書(せんじがき)もなかなかびんなかりぬべし」などいひわびて、御使の禄(ろく)などばかりにて、「いふかひなく同じさまに臥(ふ)して侍るほどに、かかるかしこき御文をもいまだ見侍らで」などや申されけん。
昼つかた思ひよらぬ人の文あり。見れば、
「今よりや思ひ消えなん一かたに煙(けぶり)のすゑのなびきはてなば
これまでこそつれなき命もながらへて侍りつれ。いまは何ごとをか」
などあり。 「かかる心のあとのなきまで」とだみつけにしたる、縹(はなだ)の薄様(うすやう)に書きたり。「忍(しのぶ)の山の」とあるところをいささか破(や)りて、
知られじな思ひみだれて夕煙なびきもやらぬしたの心は
とばかり書きてつかはししも、こはなにごとぞと、我ながら覚え侍りき。
 

 

第二夜、院の意に従う
かくて日ぐらし侍(はべ)りて、湯などをだに見入(い)れ侍らざりしかば、べちの病にやなど申し合ひて、暮れぬと思ひしほどに、御幸(ごかう)といふ音すなり。
またいかならんと思ふほどもなく、引きあけつつ、いとなれ顔に入りおはしまして、「悩ましくすらんは何ごとにかあらん」など御たづねあれども、御いらへ申すべき心地もせず、ただうち臥(ふ)したるままにてあるに、そひ臥し給ひて、さまざま承りつくすも、いまやいかがとのみ覚ゆれば、なき世なりせばといひぬべきにうちそへて、思ひ消えなん夕煙(けぶり)、一かたにいつしかなびきぬと知られんも、あまり色なくやなど思ひわづらひて、つゆの御いらへも聞えさせぬほどに、今宵(こよひ)はうたて情なくのみあたり給ひて、薄き衣(きぬ)はいたくほころびてけるにや、残る方なくなりゆくにも、世にありあけの名さへうらめしき心地して、
心よりほかに解けぬる下紐(ひぼ)のいかなるふしにうき名流さん
など思ひつづけしも、心はなほありけると、我ながらいと不思議なり。
「かたちは世々に変るとも契りはたえじ。あひみる夜半(よは)はへだつとも、心のへだてはあらじ」などかずかず承るほどに、むすぶほどなき短か夜は、明けゆく鐘の音すれば、さのみ明けすぎて、もて悩まるるもところせしとて起き出(い)で給ふが、「あかぬ名残などはなくとも見だに送れ」とせちにいざなひ給ひしかば、これさへ、さのみつれなかるべきにもあらねば、夜もすがら泣きぬらしぬる袖のうへに、薄き単(ひとへ)ばかりをひき掛けて、立ち出(い)でたれば、十七日の月西にかたぶきて、東(ひんがし)は横雲わたるほどなるに、桜萌黄(もよぎ)の甘(かん)の御衣(おんぞ)に、薄色の御衣、固文(かたもん)の御指貫(さしぬき)、いつよりも目とまる心地せしも、誰(た)がならはしにかとおぼつかなくこそ。
隆顕(たかあき)の大納言、はなだの狩衣(かりぎぬ)にて御車寄せたり。為方の卿(きやう)、勘解由(かげゆ)の次官(すけ)と申しし、殿上人(てんじやうびと)には一人侍りし。さらでは北面(ほくめん)の下臈(げらふ)二三人、召次(めしつぎ)などにて、御車さし寄せたるに、折知りがほなる鳥の音(ね)も、しきりにおどろかしがほなるに、観音堂の鐘の音(おと)、ただわが袖(そで)にひびく心地して、「左右(ひだりみぎ)にも」とはかかることをやなど思ふに、なほ出(い)でやり給はで、「一人ゆかん道の御送りも」などいざなひ給ふも、「心も知らで」など思ふべき御ことにてはなけれども、思ひみだれて立ちたるに、くまなかりつる有明の影、白むほどになりゆけば、「あな心苦しのやうや」とてひき乗せ給ひて、御車引き出(い)でぬれば、かくとだにいひおかで、昔物語めきて、何となりゆくにかなど覚えて、
鐘のおとにおどろくとしもなき夢の名残もかなし有明の空
道すがらも、今しもぬすみ出でなどしてゆかん人のやうに契り給ふも、をかしとも いひぬべきを、つらさをそへてゆく道は、涙のほかはこととふ方もなくて、おはしまし着きぬ。
角(すみ)の御所の中門(ちゆうもん)に御車ひき入れて、おりさせ給ひて、善勝寺大納言に、「あまりにいふかひなきみどり子のやうなるときに、うちすてがたくて伴ひつる。人に知らせじと思ふ。後見(うしろみ)せよ」といひおき給ひて、常の御所(ごしよ)へ入(い)らせ給ひぬ。
東二条院の御産の盛儀
八月(はづき)にや、東二条院の御産、角(すみ)の御所にてあるべきにてあれば、御年も少したかくならせ給ひたるうへ、さきざきの御産もわづらはしき御ことなれば、みなきもをつぶして、大法秘法のこりなく行はる。七仏薬師(しちぶつやくし)、五壇の御修法(しゆほふ)、普賢(ふげん)延命、金剛童子(こんがうどうじ)、如法愛染(によほふあいぜん)王などぞきこえし。五壇の軍荼利(ぐんだり)の法は、尾張(をはり)の国にいつもつとむるに、このたびはことさら御志をそへてとて、金剛童子のことも大納言申し沙汰(さた)しき。御験者(げんじや)には常住院の僧正参らる。
二十日あまりにや、その御気(け)おはしますとてひしめく。いまいまとて二三日過ぎさせおはしましぬれば、誰々も肝心をつぶしたるに、いかにとかや変る御気色(けしき)見ゆるとて、御所へ申したれば、入(い)らせおはしましたるに、いと弱げなる御けしきなれば、御験者ちかく召されて、御几帳(みきちやう)ばかりへだてたり。
如法愛染の大阿闍梨(あじやり)にて、大御室(おむろ)御伺候(しこう)ありしを、近く入れ参らせて「かなふまじき御けしきに見えさせ給ふ。いかがし侍るべき」と申されしかば、「定業亦能転(ぢやうごふやくのうてん)は仏菩薩(ぼさつ)の誓ひなり。さらに御大事あるべからず」とて、御念誦(ねんじゆ)あるにうちそへて、御験者、証空が命にかはりける本尊にや、絵像の不動御前にかけて、「奉仕修行者猶薄伽梵(ぶじしゆぎやうじやゆによばかぼん)、一持秘密呪生々而加護(いつぢひみつじゆしやうしやうにかご)」とて、数珠(ずず)おしすりて、「我、幼少の昔は念誦の床(ゆか)に夜を明かし、長大の今は難行苦行に日を重ぬ。玄応擁護(げんおうおうご)の利益(りやく)空(むな)しからんや」と揉(も)み伏するに、すでにと見ゆる御けしきあるに力を得て、いとど煙(けぶり)もたつほどなる。
女房たちの単襲(ひとへがさね)、生絹(すずし)の衣(きぬ)、めんめんにおし出(い)だせば、御産奉行(ぶぎやう)とりて殿上人(てんじやうびと)に賜(た)ぶ。上下の北面(ほくめん)、めんめんに御誦経(みずきやう)の僧に参る。階下には公卿(くぎやう)着座して、皇子御誕生を待つけしきなり。陰陽師(おんやうじ)は庭に八脚(やつあし)をたてて、千度(せんど)の御祓(はらへ)をつとむ。殿上人これをとりつぐ。女房たち袖口を出(い)だして、これをとりわたす。御随身(みずいじん)、北面の下臈(げらふ)神馬(じんめ)をひく。御拝ありて、二十一社へ引かせらる。人間に生(しやう)をうけて女の身を得るほどにては、かくてこそあらめとめでたくぞ見え給ひし。
七仏薬師、大阿闍梨召されて、伴僧(ばんそう)三人声すぐれたるかぎりにて、薬師経を読ませらる。「見者歓喜(けんじやくわんぎ)」といふわたりを読むをり、御産なりぬ。まづ内外(うちと)「あなめでた」と申すほどに、うちへころばししこそ、本意(ほい)なく覚えさせおはしまししかども、御験者の禄(ろく)いしいしは常のことなり。
御所の人魂の怪異
このたびは姫宮にてはわたらせ給へども、法皇ことにもてなし参らせて、五夜七夜 など殊に侍(はべ)りしに、七夜の夜事どもはてて、院の御方の常の御所にて御物語あるに、 丑(うし)の時ばかりに、橘(たちばな)の御壺(つぼ)に、大風の吹くをりに荒き磯(いそ)に波のたつやうなる音おびたたしくするを、「何ごとぞ、見よ」と仰せあり。
見れば、頭(かしら)はかいといふもののせいにて、次第に杯(さかづき)ほど、すつきほどなるものの青めに白きが、つづきて十ばかりして、尾は細長にて、おびたたしく光りて飛びあがり飛びあがりする。「あなかなし」として逃げ入(い)る。廂(ひさし)に候(さぶら)ふ公卿(くぎやう)たち、「なにか見騒ぐ、人魂(だま)なり」といふ。「大柳の下に、布海苔(ふのり)といふものをときて、うち散らしたるやうなるものあり」などののしる。
やがて御占(うら)あり。法皇の御方の御魂(たま)のよし奏し申す。今宵(こよひ)よりやがて招魂(せいこ)の御祭、泰山府君(だいざんぶく)など祭らる。
後嵯峨院発病、六波羅の変事
かくて九月(ながつき)のころにや、法皇御悩みといふ。腫(は)るる御ことにて、御灸(きう)いしいしとひしめきけれども、さしたる御しるしもなく、日々に重(おも)る御けしきのみありとて年も暮れぬ。あらたまの年どもにも、なほ御わづらはしければ、何ごとも栄(は)えなき御ことなり。
正月(むつき)の末になりぬれば、かなふまじき御さまなりとて嵯峨御幸(ごかう)なる。御輿(こし)にて入(い)らせ給ふ。新院やがて御幸、御車のしりに参る。両女院(にようゐん)同車にて、御匣殿(みくしげどの)御(おん)しりに参り給ふ。
道にて参るべき御煎(せん)じ物を、種成・師成二人して、御前にて御水瓶(みづがめ)二つにしたため入れて、経任(つねたふ)、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)のぶともに仰(おほ)せて持たせられたるを、内野(うちの)にて参らせんとするに、二つながらつゆばかりもなし。いと不思議なりしことなり。それよりいとど臆せさせ給ひてやらん、御心地も重らせ給ひてみえさせおはします、などぞ聞き参らせし。
この御所(ごしよ)は、大井殿の御所にわたらせ給ひて、ひまなく、男・女房・上臈(じやうらふ)・下臈(げらふ)をきらはず、「ただいまのほど、いかにいかに」と申さるる御使、夜昼ひまなきに、長廊をわたるほど、大井川の波の音、いとすさまじくぞ覚え侍(はべ)りし。
二月(きさらぎ)の初めつ方(かた)になりぬれば、いまは時を待つ御さまなり。九日にや両六波羅(ろくはら)御とぶらひに参る。めんめんに嘆き申すよし、西園寺の大納言披露(ひろう)せらる。十一日は行幸(ぎやうかう)、十二日は御逗留(とうりう)、十三日還御(くわんぎよ)などはひしめけども、御所のうちはしめじめとして、いととりわきたる物のねもなく、新院御対面ありて、かたみに御涙ところせき御けしきも、よそさへ露のと申しぬべき心地ぞせし。
さるほどに、十五日の酉(とり)の時ばかりに、都の方(かた)におびたたしく煙(けぶり)立つ。いかなる人のすまひ所、あとなくなるにかと聞くほどに、六波羅の南方(がた)、式部大輔(しきぶのたいふ)討たれにけり。そのあとの煙なりと申す。あへなさ申すばかりなし。九日は君の御病の御とぶらひに参り、今日とも知らぬ御身に先だちてまた失(う)せにける、東岱(とうたい)前後のならひはじめぬことながら、いとあはれなり。十三日の夜よりは、物など仰せらるることもいたくなかりしかば、かやうの無常も知らせおはしますまでもなし。
後嵯峨院の死去と葬送
さるほどに十七日のあしたより御気色(けしき)かはるとてひしめく。御善知識には経海僧正(けいかいそうじやう)、また往生院(わうじやうゐん)の長老参りて、さまざま御念仏もすすめ申され、「今生(こんじやう)にても十善(じふぜん)の床(ゆか)をふんで、百官にいつかれましませば、よみぢ未来もたのみあり。早く上品上生(じやうぼんじやうしやう)のうてなに移りましまして、かへりて、娑婆(しやば)の旧里にとどめ給ひし衆生(しゆじやう)も導きましませ」など、さまざまかつはこしらへ、かつは教化(けうげ)し申ししかども、三種の愛に心をとどめ、懺悔(さんげ)の言葉に道をまどはして、つひに教化の言葉にひるがへし給ふ御けしきなくて、文永九年二月(きさらぎ)十七日酉(とり)の時、御年五十三にて崩御なりぬ。一天かきくれて万民愁(うれ)へにしづみ、花の衣手おしなべてみな黒みわたりぬ。
十八日、薬草院殿へ送り参らせらる。内裏よりも頭(とう)の中将御使に参る。御室(おむろ)・円満院・聖護院(しやうごゐん)・菩提院(ぼだいゐん)・青蓮院(しやうれんゐん)、みなみな御供に参らせ給ふ。その夜の御あはれさ、筆にもあまりぬべし。
経任(つねたふ)さしも御あはれみふかき人なり、出家ぞせんずらんと、みな人申し思ひたりしに、御骨(こつ)の折、なよらかなるしじらの狩衣(かりぎぬ)にて、瓶子(へいじ)に入(い)らせ給ひたる御骨を持たれたりしぞ、いと思はずなりし。
新院御なげきなべてには過ぎて、夜昼御涙のひまなくみえさせ給へば、候(さぶら)ふ人々も、よその袖(そで)さへしほりぬべきころなり。天下諒闇(りやうあん)にて、音奏・警蹕(けいひつ)とどまりなどしぬれば、花もこの山のは墨染(すみぞめ)にや咲くらんとぞおぼゆる。
大納言は人より黒き御色を賜はりて、この身にも御素服を着るべきよしを申されしを、「いまだ幼きほどなれば、ただおしなべたる色にてありなん。とりわき染めずとも」と、院の御かた御けしきあり。
 

 

父発病、作者の懐妊を気づかう
五月(さつき)はなべて袖(そで)にも露のかかるころなればにや、大納言の嘆き秋にもすぎて露けくみゆるに、さしも一夜(ひとよ)もあだには寝じとするに、さやうのこともかけてもなく、酒などの遊びもかきたえなきゆゑにや、如法(によほふ)やせ衰へたるなど申すほどに、五月十四日の夜、大谷なる所にて念仏のありし、聴聞して帰る車にて、御前(ごぜん)などもありしに、「あまりに色の黄にみえ給ふ。いかなることぞ」など申し出(いだ)したりしを、あやしとて医師(くすし)にみせたれば、「黄病(きやまひ)といふことなり。あまりに物を思ひてつく病なり」と申して、灸治(きうぢ)あまたするほどに、いかなるべきことにかとあさましきに、次第に重りゆくさまなれば、思ふはかりなく覚ゆるに、わが身さへ、六月(みなづき)のころよりは心地も例ならず、いとわびしけれども、かかるなかなれば何とかはいひ出づべき。
大納言は、「いかにもかなふまじきことと覚ゆれば、御所の御ともにいま一日もとくと思ふ」とて、祈りなどもせず。しばしは六角櫛笥(くしげ)の家にてありしが、七月(ふづき)十四日の夜、河崎の宿所へうつろひしにも、幼き子どもはとどめおきて、静かに臨終のことどもなど思ひしたためたり。
おとなしき子の心地にてひとりまかりて侍りしに、心地例ざまならぬを、しばしは、わがことを嘆きて物なども食はぬと思ひて、とかく慰められしほどに、しるきことのありけるにや、「ただならずなりにけり」とて、いつしか、わが命をもこのたびばかりはと思ひなりて、はじめて中堂にて、如法、泰山府君(たいざんぶく)といふこと七日まつらせ、日吉(ひよし)にて七社(やしろ)の七番の芝田楽(しばでんがく)、八幡(やはた)にて一日の大般若(はんにや)、河原(かはら)にて石の塔、なにくれと沙汰(さた)せらるるこそ、わが命の惜しさにはあらで、この身のことの行末の見たさにこそと覚えしさま、罪ふかくこそ覚え侍れ。
院作者をあわれむ
二十日ごろには、さのみいつとなきことなれば、御所へ参りぬ。ただにもなきなど思(おぼ)し召されて後は、殊にあはれどもかけさせおはしますさま、何もいつまで草のとのみ覚ゆるに、御匣殿(みくしげどの)さへこの六月(みなづき)に産するとてうせ給ひにしも、人のうへかはと恐ろしきに、大納言の病のやう、つひにはかばかしからじと見ゆれば、何となるみのとのみ嘆きつつ、七月(ふづき)も末になるに、
二十七日の夜にや、常よりも御人少なにたありしに、「寝殿(しんでん)の方(かた)へいざ」と仰せありしかば、御供に参りたるに、人の気配もなき所なれば、しづかに昔今の御物語ありて、「無常のならひもあぢきなく思(おぼ)し召さるる」などさまざま仰せありて、「大納言もつひにはよもと覚ゆる。いかにもなりなば、いとど頼む方なくならんずるこそ。我よりほかは誰(たれ)かあはれもかけんとする」とて、御涙もこぼれぬれば、問ふにつらさもいとかなし。
月なきころなれば、燈籠(とうろ)の火かすかにて内も暗きに、人しれぬ御物語さ夜更くるまでになりぬるに、うち騒ぎたる人音してたづぬ。誰ならんといふに、河崎より「いまと見ゆる」とて告げたるなりけり。
院父を病床に見舞う
とかくのこともなく、やがて出(い)づる道すがらも、はや果てぬとや聞かんと思ひゆくに、急ぎ行くと思へども、道のはるけさ東路(あづまぢ)などを分けん心地するに、ゆき着きてみれば、なほながらへておはしけりと、いとうれしきに、「風まつ露も消えやらず、心ぐるしく思ふに、ただにもなしとさへ見おきてゆかん道のそらなく」など、いと弱げに泣かるるほどに、ふけゆく鐘の声ただいま聞ゆるほどに、御幸(ごかう)といふ。いと思はずに病(やまひ)人も思ひさわぎたり。御車さし寄する音すれば急ぎ出(い)でたるに、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)二人、殿上人(てんじやうびと)一人にて、いとやつして入(い)らせ給ひたり。
二十七日の月、ただいま山の端(は)わけ出(い)づる光もすごきに、われもかう織りたる薄色の御小直衣(なほし)にて、とりあへす思(おぼ)し召したちたるさまも、いとおもだたし。「いまは狩の衣(ころも)をひきかくるほどのカも侍(はべ)らねば、みえ奉るまでは思ひより侍らず。かく入(い)りおはしましたると承るなん、いまはこの世の思ひ出なる」よしを奏し申さるる、
程なく、やがてひきあけて入(い)らせ給ふほどに、起き上がらんとするもかなはねば、「たださてあれ」とて、枕に御座を敷きてついゐさせ給ふより、袖(そで)のほかまでもる御涙も所せく、「御幼くよりなれ仕(つか)うまつりしに、いまはと聞かせおはしましつるもかなしく、いま一度と思(おぼ)し召し立ちつる」など仰せあれば、
「かかる御(み)ゆきのうれしさも置きどころなきに、この者が心ぐるしさなん思ひやる方(かた)なく侍る。母には二葉にておくれにしに、我のみと思ひはぐくみ侍りつるに、ただにさへ侍らぬを見おき侍るなん、あまたの憂(うれ)へにまさりて、悲しさもあはれさもいはん方(かた)なく侍る」よし泣く泣く奏せらるれば、「ほどなき袖(そで)を我のみこそ。まことの道の障りなく」などこまやかに仰せありて、「ちと休ませおはしますべし」とて立たせ給ひぬ。
明けすぐるほどに、いたくやつれたる御さまもそらおそろしとて、急ぎ出(い)で給ふに、久我の太政(だいじやう)大臣の琵琶とて持たれたりしと、後鳥羽院の御太刀を、はるかに移され給ひけるころとかや、太政大臣に賜はせたりけるとてありしを、御車に参らすとて、縹(はなだ)の薄様(うすやう)のふだにて御太刀の緒(を)に結びつけられき。
わかれても三世(みよ)の契りのありときけばなほ行末を頼むばかりぞ
「あはれに御覧ぜられぬる。何ごとも心やすく思ひおけ」など、かへすがへす仰せられつつ、還御(くわんぎよ)なりて、いつしか御みづからの御手にて、
このたびはうき世のほかにめぐりあはんまつ暁の有明の空
なにとなく、御心に入りたるもうれしくなど思ひおかれたるも、あはれにかなし。
着帯の儀、父作者に遺言
八月(はづき)二日、いつしか善勝寺大納言、御帯とてもちてきたり。「諒闇(りやうあん)ならぬ姿にてあれ、と仰せ下されたる」とて、直衣(なほし)にて、前駆(ぜんくう)・侍(さぶらひ)ごとごとしくひきつくろひたるも、見るをりと思(おぼ)し召し急ぎけるにやと覚ゆ。病人(やまひびと)もいと喜びて、勧盃(けんぱい)などいひいとなまるるぞ、これや限りとあはれに覚え侍りし。御室(おむろ)より賜はりて秘蔵せられたりし、しほがまといふ牛をぞ引かれたりし。
今日などは、心地も少しおこたるやうなれば、もしやなど思ひゐたるに、更けぬれば、かたはらにうちやすむと思ふほどに、寝入(い)りにけり。おどろかされて起きたるに、
「あなはかなや。今日明日とも知らぬ道に出(い)で立つ嘆きをも忘られて、ただ心ぐるしきことをのみ思ひゐたるに、はかなく寝たるを見るさへかなしう覚ゆる。さても二つにて母に別れしより、我のみ心ぐるしく、あまた子どもありといへども、おのれ一人に三千の寵愛(ちようあい)もみな尽したる心地を思ふ。笑(ゑ)めるを見ては、百(もも)の媚(こ)びありと思ふ。愁(うれ)へたるけしきを見ては、共に嘆く心ありて、十五年の春秋(しゆんじう)を送り迎へて、いますでに別れなんとす。
君に仕へ世にうらみなくは、つつしみて怠ることなかるべし。思ふによらぬ世のならひ、もし君にも世にもうらみもあり、世にすむ力なくは、急ぎてまことの道に入りて、わが後生をも助かり、二つの親の恩をもおくり、一つ蓮(はちす)の縁と祈るべし。世に捨られ、たよりなしとて、また異君(こときみ)にも仕へ、もしはいかなる人の家にも立ちよりて、世にすむわざをせば、亡きあとなりとも不孝(ふけう)の身と思ふべし。夫妻のことにおきては、この世のみならぬことなれば力なし。それも髪をつけて、好色の家に名を残しなどせんことは、かへすがへす憂かるべし。ただ世を捨ててのちは、いかなるわざも苦しからぬことなり」
など、いつよりもこまやかに言はるるも、これやをしへの限りならんと悲しきに、明けゆく鐘の声きこゆるに、例の下に敷くおほばこの蒸したるを、仲光持ちて参りて、敷きかへんといふに、「今は近づきて覚ゆれば、何もよしなし。なにまれ、まづこれに食はせよ」といはる。
ただいまは何をかと思へども、しきりに「わが見るをり、とくとく」といはるるより、今ばかりこそ見られたりとも、後はいかにとあはれに覚えしか。いもまきといふ物を、土器(かはらけ)に入れて持ちてきたれば、「かかるほどには食はせぬむのを」とて、よにわろげに思ひたるもむつかしくて、まぎらかしてとり退(の)けぬ。
父の臨終
明けはなるるほどに、「聖(ひじり)よびにつかはせ」などいふ。七月(ふづき)のころ、八坂(やさか)の寺の長老よび奉りて、頂(いただき)そり五戒(ごかい)受けて、れんせうと名づけられて、やがて善知識と思はれたりしを、などいふことにか、三条の尼上(あまうへ)、河原の院の長老、しやう光房といふものに沙汰(さた)せさせよと、しきりにいひなして、それになりぬ。変るけしきありと告げたれども、急ぎもみえず。
さるほどに、「すでにと覚ゆるに、起せ」とて、仲光、といふは仲綱が嫡子にてあるを、幼くより生(お)ほし立てて、身はなたず使はれしを呼びて、起されて、やがてうしろにおきて、よりかかりの前に女房一人よりほかは人なし。
これは側にゐたれば、「手の首とらへよ」といはる。とらへてゐたるに、「聖の賜(た)びたりし袈裟(けさ)は」とて乞(こ)ひ出(い)でて、長絹(ちやうけん)の直垂(ひたたれ)ばかり着て、そのうへに袈裟掛けて、「念仏仲光も申せ」とて、二人して時のなからばかり申さる。
日のちとさし出(い)づるほどに、ちとねぶりて、左の方(かた)へかたぶくやうに見ゆるを、なほよくおどろかして念仏申させ奉らんと思ひて、膝(ひざ)をはたらかしたるに、きとおどろきて目を見あぐるに、あやまたず見合せたれば、「何とならんずらんは」といひもはてず、文永九年八月(はづき)三日辰(たつ)のはじめに、年五十にてかくれ給ひぬ。
念仏のままにて終らましかば、行未も頼もしかるべきに、よしなくおどろかして、あらぬ言の葉にて息絶えぬるも心うく、すべて何と思ふはかりもなく、天に仰ぎて見れば、日月地に落ちけるにや、光もみえぬ心地し、地に伏して泣く涙は、川となりて流るるかと思ひ、母には二つにておくれにしかども、心なき昔は覚えずして過ぎぬ。生をうけて四十一日といふより、はじめて膝の上にゐそめけるより、十五年の春秋(しゆんじう)を送り迎ふ。朝(あした)は鏡を見るをりも、誰(た)が影ならんと喜び、夕(ゆふべ)に衣(きぬ)を着るとても、誰(た)が恩ならんと思ひき。
五体身分を得しことは、その恩、迷蘆(めいろ)八万の頂(いただき)よりも高く、養育扶持(ふち)の志、母にかはりて切(せつ)なりしかば、その恩また四大海の水よりも深し。何と報じ、いかにむくいてかあまりあらんと思ふより、折々の言の葉は、思ひ出(い)づるも忘れがたく、今をかぎりの名残は、身にかへてもなほ残りありぬべし。
ただそのままにて、なり果てんさまをも見るわざもがな、と思へども、限りあれば、四日の夜、神楽岡(かぐらをか)といふ山へ送り侍(はべ)りし。むなしき煙(けぶり)にたぐひても、伴ふ道ならばと、思ふもかひなき袖の涙ばかりをかたみにてぞ、帰り侍りし。むなしきあとを見るにも、夢ならではとかなしく、昨日の面影を思ふ。今とてしもすすめられしことさヘ、かへすがへす何といひ尽すべき言の葉もなし。
わが袖の涙の海よ三瀬(みつせ)川に流れてかよへ影をだに見ん
 

 

傅仲綱・継母ら出家、弔問
五日夕がた、仲綱こき墨染(すみぞめ)の袂(たもと)になりて参りたるをみるにも、大臣(だいじん)の位にゐ給はば、四品(しほん)の家司(けいし)などにてあるべき心地をこそ思ひつるに、思はずにただいまかかる袂をみるべくとはと、いとかなしきに、「御墓へ参り侍(はべ)る。御ことづけや」といひて、彼も墨染の袂、乾くところなきを見て、涙おとさぬ人なし。
九日ははじめの七日に、北の方(かた)、女房二人、侍(さぶらひ)二人出家し侍りぬ。八坂の聖(ひじり)をよびつつ、「流転三界中」とて剃りすてられしを見る心地、うらやましさを添へて、あはれもいはん方なし。同じ道にとのみ思へども、かかる折ふしなれば、思ひよるべきことならねば、かひなきねのみ泣きゐたるに、三七日をばことさらとり営みしに、御所よりも、まことしくさまざまの御とぶらひどもあり。
御使は一二日にへだてず承るにも、見給はましかばとのみかなしきに、京極(きやうごく)の女院(にようゐん)と申すは、実雄(さねを)の大臣(おとど)の御女(むすめ)、当代のきさき、皇后宮とて御おぼえも人には殊にて、春宮(とうぐう)の御母にておはしますうへは、御身柄といひ御年といひ、惜しかるべき人なりしに、常は物怪(もののけ)にわづらひ給へば、またこのたびもさにやなど、みな思ひたるに、はや御こときれぬといひ騒ぐを聞くにも、大臣の嘆き、内の御おもひ、身に知られていとかなし。
五七日にもなりぬれば、水晶の数珠子(ずずこ)、女郎花(をみなへし)の打枝につけて、諷誦(ふじゆ)にとて賜ふ。同じ札(ふだ)に、
さらでだに秋は露けき袖のうへに昔をこふる涙そふらん
かやうの文(ふみ)をも、いかにせんともてなし喜ばれしに、「苔(こけ)の下にもさこそと、置きどころなくこそ」とて、
思へたださらでもぬるる袖のうへにかかるわかれの秋の白露
ころしも秋の長き寝ざめは、物ごとに悲しからずといふことなきに、千万(ばん)声のきぬたの音を聞くにも、袖にくだくる涙の露を片敷きて、むなしき面影をのみしたふ。露消えにしあしたは、御所御所の御使よりはじめ、雲の上人(うへびと)おしなべて、たづね来ぬ人もなく、使をおこせぬ人なかりしなかに、基具(もととも)の大納言ひとりおとづれざりしも、世の常ならぬことなり。
年末、醍醐に籠る
醍醐の勝倶胝(しようくてい)院の真願房は、ゆかりある人なれば、まかりて法文(ほふもん)をも聞きてなど思ひて侍(はべ)れば、煙(けぶり)をだにもとて、柴(しば)折りくべたる冬の住まひ、懸樋(かけひ)の水のおとづれも、とだえがちなるに、年暮るるいとなみも、あらぬさまなる急ぎにて過ぎゆくに、二十日あまりの月の出(い)づるころ、いと忍びて御幸あり。網代車(あじろぐるま)のうちやつれ給へるものから、御車のしりに善勝寺ぞ参りたる。「伏見の御所(ごしよ)の御ほどなるが、ただいましも思(おぼ)し召し出づることありて」と聞くも、いつあらはれてとおぼゆるに、今宵はことさらこまやかに語らひ給ひつつ、明けゆく鐘にもよほされて、立ち出でさせおはします。
有明は西にのこり、東(ひんがし)の山の端(は)にぞ横雲わたるに、むら消えたる雪のうへに、また散りかかる花の白雪も、折知りがほなるに、無文(むもん)の御直衣(なほし)に、同じ色の御指貫(さしぬき)の御姿も、わが鈍(に)ぶめる色にかよひて、あはれにかなしく見奉るに、暁の行ひに出づる尼どもの、何としも思ひわかぬが、あやしげなる衣(ころも)に真袈裟(まげさ)などやうのもの、けしきばかりひき掛けて、「晨朝(じんでう)さがり侍りぬ。誰(たれ)がし房(ばう)は何阿弥陀仏(あみだぶつ)」など呼びありくも、うらやましくみゐたるに、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)どもも、みな鈍(に)ぶめる狩衣にて御車さし寄するをみつけて、今しも、ことありがほに逃げかくるる尼どももあるべし。
「またよ」とて出(い)で給ひぬる御名残は、袖(そで)の涙にのこり、うちかはし給へる御移り香は、わが衣手にしみかへる心地して、行ひの音をつくづくと聞きゐたれば、「輪王(りんわう)位高けれど、つひには三途(さんづ)に従ひぬ」といふ文(もん)を唱ふるさへ耳につき、回向(えかう)して果つるさへ名残をしくて、明けぬれば文(ふみ)あり。「けさの有明の名残は、わがまだ知らぬ心地して」などあれば、御返しには、
君だにもならはざりける有明の面影のこる袖をみせばや
雪の曙来訪、尼たちに贈物
年の残りも、いま三日ばかりやと思ふ夕つかた、常よりもものがなしくて、あるじの前にゐたれば、「かくほどのどかなること、またはいつかは」などいひて、心ばかりはつれづれをも慰めんなど思ひたるけしきにて、物語して、年よりたる尼たち呼びあつめて、過ぎにし方の物語などするに、前なる槽(ふね)に入る懸樋(かけひ)の水も、凍りとぢつつものがなしきに、むかひの山に薪(たきぎ)こる斧(をの)の音の聞ゆるも、昔物語の心地してあはれなるに、暮れはてぬれば、御(み)あかしの光どももめむめむに見ゆ。
初夜おこなひ、「今宵(こよひ)はとくこそ」などいふほどに、そばなる妻戸を忍びてうちたたく人あり。「あやし、誰そ」といふに、おはしたるなりけり。「あなわびし。これにては、かかるしどけなき振舞も、目も耳も恥しく覚ゆるうへ、かかるおもひのほどなれば、心清くてこそ仏の行ひもしるきに、御幸などいふはさる方にいかがはせん。すさみごとに、心きたなくさへはいかがぞや。帰り給ひね」など、けしからぬほどにいふ。
折ふし雪いみじく降りて、風さへはげしく、吹雪とかやいふべきけしきなれば、「あなたへがたや。せめては内へ入れ給ヘ。この雪やめてこそ」などいひしろふ。あるじの尼御前(ごぜん)たち聞きけるにや、「いかなるけしからず、情なさぞ。誰(たれ)にてもおはしますべき御志にてこそ、ふりはへたづね給ふらめ。山おろしの風の寒きに何ごとぞ」とて、妻戸はづし火などおこしたるに、かこちてやがて入(い)り給ひぬ。
雪はかこちがほに、峰も軒端も一つに積りつつ、夜もすがら吹き荒るる音もすさまじとて、明けゆけども起きも上がられず、なれ顔なるも、なべてそら恐ろしけれども、何とすべき方なくて案じゐたるに、日高くなるほどに、さまざまのことども用意して、祗候(しこう)のもの二人ばかり来たり。
あなむつかしと見るほどに、あるじの尼たちのとり散らすべき物など、わかちやる。「年の暮の風の寒けさも忘れぬべく」などいふほどに、「念仏の尼たちの袈裟・衣、仏の手向(たむけ)になど思ひ寄らるるに、いよいよ山がつの垣ほも光出(い)できて」など、めんめんに言ひあひたるこそ、聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいがう)よりほかは、君の御(み)ゆきに過ぎたるやあるべきに、いとかすかに見送り奉りたるばかりにて、ゆゆし、めでたしなどいふ人もなかりき。「いふにや及ぶ、かかることやは」ともいふべきことは、ただ今のにぎははしさに誰(たれ)も誰もめでまどふさま、世のならひもむつかし。
春待つべき装束(しやうぞく)、花やかならねど縹(はなだ)にやあまた重なりたるに、白き三つ小袖とり添へなどせられたるも、よろづ聞く人やあらんとわびしきに、今日は日ぐらし九献(くこん)にて暮れぬ。
明くればさのみもとて帰られしに、「たち出(い)でてだに見送り給へかし」とそそのかされて、起き出でたるに、ほのぼのとあくる空に、峰の白雪光り合ひて、すさまじげにみゆるに、色なき狩衣(かりぎぬ)着たるもの二三人みえて、帰り給ひぬる名残も、また忍びがたき心地するこそ、我ながらうたて覚え侍りしか。
つごもりには、あながちに乳母(めのと)ども、「かかる折ふし、山深き住まひもいまいまし」などいひて、迎へに来たれば、心のほかに都へ帰りて、年も立ちぬ。
よろづ世の中もはえなき年なれば、元旦・元三(ぐわんざん)の雲の上もあいなく、私の袖の涙もあらたまり、やる方(かた)もなき年なり。春の初めにはいつしか参りつる神の社も、今年はかなはぬことなれば、門(もん)の外(と)まで参りて、祈誓申しつる志より、むば王の面影は、別(べち)に記し侍ればこれにはもらしぬ。
雪の曙と逢う、懐妊の兆の夢
十二月(しはす)には、常は神事なにかとて、御所さまはなべて御ひまなきころなり。私にも、年の暮は何となく、行ひをもなど思ひてゐたるに、あいなくいひならはしたる 一二月(しはす)の月をしるべに、また思ひ立ちて、夜もすがら語らふほどに、やもめ烏(がらす)のうかれ声など思ふほどに、明け過ぎぬるもはしたなしとて、とどまりゐ給ふも、そらおそろしき心地しながら、向ひゐたるに、文(ふみ)あり。
いつよりもむつましき御言の葉多くて、
「むば玉の夢にぞみつるさ夜衣あらぬ袂を重ねけりとは
さだかに見つる夢もがな」
とあるもいとあさましく、何をいかに見給ふらんとおぼつかなくも覚ゆれども、思ひ入(い)り顔にも何とかは申すべき。
ひとりのみかた敷きかぬる袂(たもと)には月の光ぞ宿り重ぬる
われながらつれなく覚えしかども、申しまぎらかし侍りぬ。
今日はのどかにうち向ひたれば、さすが里のものどもも、女のかぎりは知りはてぬれども、かくなどいふべきならねば、思ひむせびて過ぎゆくにこそ。
さても今宵(こよひ)、塗骨に松を蒔(ま)きたる扇(あふぎ)に、銀(しろがね)の油壺(つぼ)を入れて、この人の賜(た)ぶを、人に隠してふところに入れぬと夢にみて、うちおどろきたれば、暁の鐘きこゆ。いと思ひかけぬ夢をもみつるかな、と思ひてゐたるに、そばなる人同じさまにみたるよしを語るこそ、いかなるべきことにかと不思議なれ。
女児を出産
世の中もおそろしければ、二日にや、急ぎ何かと申しことづけて出(い)でぬ。その夜やがて彼にもおはしつつ、いかがすべきといふほどに、「まづ大事に病むよしを申せ。 さて人の忌(い)ませ給ふべき病なりと、陰陽師(おんやうじ)がいふよしを披露(ひろう)せよ」などと添ひゐていはるれば、そのままにいひて、昼はひめもすに臥(ふ)し暮し、うとき人も近づけず、心しる人二人ばかりにて、湯水も飲まずなどいへども、とりわきとめくる人のなきにつけても、あらましかばといと悲し。
御所さまへも、「御いたはしければ、御使な給ひそ」と申したれば、時などとりて御おとづれ、かかる心がまへつひにもりやせんと、行末いと恐ろしながら、今日明日は、みな人さと思ひて、善勝寺ぞ、「さてしもあるべきかは。医師(くすし)はいかが申す」など申して、たびたびまうできたれども、「ことさら広ごるべきことと申せば、わざと」などいひて、見参(げざん)もせず。しひておぼつかなくなどいふ折は、暗きやうにて、衣(きぬ)の下にていとものも言はねば、まことしく思ひてたち帰るもいとおそろし。さらでの人は、誰(たれ)とひくる人もなければ、添ひゐたるに、その人はまた、春日(かすが)に籠(こも)りたりと披露して、代官をこめて、「人の文(ふみ)などをば、あらましとて返事をばするな」とささめくもいと心ぐるし。
かかるほどに、二十日あまりの曙より、そのここち出できたり。人にかくともいはねば、ただ心知りたる人、一二人ばかりにて、とかく心ばかりはいひ騒ぐも、亡きあとまでもいかなる名にかとどまらんと思ふより、なほざりならぬ志をみるにもいとかなし。いたくとりたることなくて、日も暮れぬ。
火ともすほどよりは、殊のほかに近づきて覚ゆれども、ことさら弦打(つるうち)などもせず、ただ衣の下ばかりにて、ひとり悲しみゐたるに、深き鐘の聞ゆるほどにや、あまり堪へがたくや、起きあがるに、「いでや、腰とかやを抱(いだ)くなるに、さやうのことがなきゆゑに、とどこほるか。いかに抱くべきことぞ」とて、かき起さるる袖にとりつきて、ことなく生れ給ひぬ。まづあなうれしとて、「重湯とく」などいはるるこそ、いつならひけることぞと、心知るどちはあはれがり侍(はべ)りしか。
さても何ぞと火ともして見給へば、産髪黒々として、今より見あけ給ひたるを、ただ一目みれば、恩愛(おんない)のよしみなれば、あはれならずしもなきを、そばなる白き小袖におし包みて、枕(まくら)なる刀の小刀にて、臍(ほぞ)の緒うち切りつつ、かきいだきて、人にもいはず外(と)へ出(い)で給ひぬとみしよりほか、またふたたびその面影みざりしこそ。
「さらば、などやいま一目も」と言はまほしけれども、なかなかなればものは言はねど、袖の涙はしるかりけるにや、「よしや、よも。長らへてあらば、見ることのみこそあらめ」など慰めらるれど、一目見合はせられつる面影忘られがたく、女にてさへものし給ひつるを、いかなる方へとだに知らずなりぬると、思ふもかなしけれども、いかにしてといふわざもなければ、人知れぬ音(ね)をのみ袖に包みて、夜も明けぬれば、「あまりに心地わびしくて、この暁はやおろし給ひぬ。女にてなどは見えわくほどに侍りつるを」など奏しける。
「ぬるけなどおびたたしきには、みなさることと、医師(くすし)も申すぞ。かまへていたはれ」とて、薬どもあまた賜はせなどするも、いと恐ろし。殊なるわづらひもなくて、日かず過ぎぬれば、ここなりつる人も帰りなどしたれども、「百日過ぎて御所さまへは参るべし」とてあれば、つくづくと籠(こも)りゐたれば、夜な夜なは、隔てなくといふばかり通ひ給ふも、いつとなく世の聞えやとのみ我も人も思ひたるも、心のひまなし。  
 

 

皇子の死、出家行脚を思う
さても、こぞ出(い)で来(き)給ひし御方(かた)、人しれず、隆顕(たかあき)のいとなみぐさにておはせしが、このほど御悩みと聞くも、身のあやまちの行末、はかばかしからじと思ひもあへず、十月(かんなづき)の初めの八日にや、しぐれの雨のあまそそき、露とともに消えはて給ひぬと聞けば、かねて思ひまうけにしことなれども、あへなくあさましき心のうち、おろかならんや。
前後相違の別れ、愛別離苦(あいべちりく)のかなしみ、ただ身一つにとどまる。幼稚にて母におくれ、盛りにて父を失ひしのみならず、今またかかるおもひの袖(そで)の涙、かこつ方(かた)なきばかりかは。なれゆけば、帰るあしたは名残を慕ひて、また寝の床に涙を流し、待つ宵(よひ)には、ふけゆく鐘に音(ね)を添へて、待ちつけて後(のち)は、また世にや聞えんと苦しみ、里に侍(はべ)るをりは、君の御面影を恋ひ、かたはらに侍るをりは、またよそにつもる夜な夜なを怨み、わが身に疎くなりましますことも悲しむ。人間のならひ、苦しくてのみ明け暮るる、一日一夜に八億四千とかやのかなしみも、ただわれ一人に思ひつづくれば、しかじ、ただ恩愛の境界(きやうがい)をわかれて、仏弟子(ぶつでし)となりなん。
九つの年にや、西行(さいぎやう)が修行の記といふ絵をみしに、かた方(かた)に深き山を描(か)きて、前には川の流れを描きて、花の散りかかるにゐて眺(なが)むるとて、
風吹けば花のしら波岩こえて渡りわづらふ山川の水
とよみたるを書きたるをみしより、うらやましく、難行苦行はかなはずとも、われも世を捨てて、足にまかせて行きつつ、花のもと露のなさけをも慕ひ、紅葉(もみぢ)の秋の散るうらみをものべて、かかる修行の記を書きしるして、亡からんのちの形見にもせばやと思ひしを、三従(さんしよう)のうれへのがれざれば、親にしたがひて日を重ね、君に仕へても今日まで憂き世に過ぎつるも、心のほかになど思ふより、憂き世をいとふ心のみ深くなりゆくに、
前斎宮帰京、院大宮院に作者を語る
まことや、斎宮(さいぐう)は後嵯峨院の姫宮にてものし給ひしが、御服(ぶく)にており給ひながら、なほ御いとまを許され奉り給はで、伊勢に三年(とせ)まで御わたりありしが、この秋のころにや、御上(のぼ)りありしのちは、仁和寺(にわじ)に衣笠(きぬがさ)といふわたりに住み給ひしかば、故大納言さるぺきゆかりおはしまししほどに、仕うまつりつつ、御裳濯(みもすそ)川の御下(くだ)りをも、殊に取沙汰(さた)し参らせなどせしもなつかしく、人めまれなる御住まひも、何となくあはれなるやうに覚えさせおはしまして、つねに参りて、御つれづれも慰め奉りなどせしほどに、十一月(しもつき)の十日あまりにや、大宮院に御対面のために嵯峨へ入(い)らせ給ふべきに、「われひとりはあまりにあいなく侍(はべ)るべきに、御わたりあれかし」と、東二条へ申されたりしかば、御政務のこと、御立ちのひしめきのころは、女院(にようゐん)の御方(かた)さまも、うちとけ申さるることもなかりしを、このごろは、つねに申させおはしましなどするに、またとかく申されんもとて、入(い)らせ給ふに、「あの御方さまも御入り立ちなれば」とて、一人御車のしりに参る。
枯野の三つ衣(ぎぬ)に、紅梅の薄衣(うすぎぬ)を重ぬ。春宮に立たせ給ひてのちは、みな唐衣(からぎぬ)を重ねしほどに、赤色の唐衣をぞ重ねて侍りし。台所もわたされず、ただひとり参り侍り。
女院の御方(かた)へ入(い)らせおはしまして、のどかに御物語ありしついでに、「あのあかこが幼くより、生(お)ほし立てて候ふほどに、さるかたに、宮仕ひもものなれたるさまなるにつきて、具(ぐ)しありき侍るに、あらぬさまにとりなして、女院の御方(かた)さまにも、御簡(みふだ)削られなどして侍れども、われさへ捨つべきやうもなく、故典侍大(すけだい)と申し、雅忠と申し、志ふかく候ひしかたみにもなど、申しおきしほどに」など申されしかば、「まことにいかが御覧じはなち候(さぶら)ふべき。宮仕ひはまた、しなれたる人こそしばしも候(さぶら)はぬは、たよりなきことにてこそ」など申させ給ひて、「何ごとも心おかず、われにこそ」など情あるさまに承るも、いつまで草のとのみおぼゆ。
今宵(こよひ)はのどかに御物語などありて、供御(くご)も女院の御方にて参りて、更けて御やすみあるべしとて、かかりの御壺(つぼ)の方(かた)に入(い)らせおはしましたれども、人もなし。西園寺(さいをんじ)の大納言、善勝寺の大納言、長輔(ながすけ)・為方・兼行(かねゆき)・資行(すけゆき)などぞ侍りける。
大宮院と院、斎宮に対面
明けぬれば、今日斎宮へ御迎へに人参るべしとて、女院(にようゐん)の御方より、御牛飼(うしかひ)・召次(めしつぎ)、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)など参る。心ことに出(い)で立たせおはしまして、御見参(げんざん)あるべしとて、われもかう織りたる枯野の甘(かん)の御衣(おんぞ)に、りんだう織りたる薄色の御衣、紫苑色の御指貫(さしぬき)、いといたうたきしめ給ふ。夕がたになりて入(い)らせ給ふとてあり。
寝殿の南面(おもて)とりはらひて、鈍色(にぶいろ)の几帳(きちやう)とり出(い)だされ、小(こ)几帳など立てられたり。御対面ありと聞えしほどに、女房を御使にて、「前斎宮の御わたり、あまりにあいなく、さびしきやうに侍るに、入(い)らせ給ひて御物語候へかし」と申されたりしかば、やがて入らせ給ひぬ。御太刀もて例の御供に参る。
大宮院、顕紋紗(けんもしゃ)の薄墨(うすずみ)の御ころも、鈍色(にぶいろ)の御衣(おんぞ)ひきかけさせ給ひて、同じ色の小几帳立てられたり。斎宮、紅梅(こうばい)の三つ御衣に青き御単(ひとえ)ぞ、なかなかむつかしかりし。御傍親とて候ひ給ふ女房、紫のにほひ五つにて、物の具(ぐ)などもなし。
斎宮は二十(はたち)にあまり給ふ。ねびととのひたる御さま、神も名残をしたひ給ひけるもことわりに、花といはば、桜にたとへてもよそめはいかがとあやまたれ、霞の袖(そで)を重ぬるひまも、いかにせましと思ひぬべき御有様なれば、ましてくまなき御心のうちは、いつしか、いかなる御物思ひの種にかと、よそも御心苦しくぞ覚えさせ給ひし。
院作者を仲介に斎宮と契る
御物語ありて、神路(かみぢ)の山の御物語などたえだえ聞え給ひて、「今宵はいたう更け侍りぬ。のどかに明日は、嵐の山のかぶろなる梢どもも御覧じて、御帰りあれ」など申させ給ひて、わが御方へ入(い)らせ給ひて、いつしか「いかがすべき、いかがすべき」と仰せあり。
思ひつることよとをかしくてあれば、「幼くより参りししるしに、このこと申しかなへたらん、まめやかに志ありと思はん」など仰せありて、やがて御使に参る。ただ大方なるやうに、「御対面うれしく、御旅寝すさまじくや」などにて、忍びつつ文(ふみ)あり。氷襲(がさね)の薄様にや、
知られじないましも見つる面影のやがて心にかかりけりとは
更けぬれば、御前なる人もみなより臥(ふ)したる、御ぬしも、小几帳ひき寄せて、御殿(おんとの)ごもりたるなりけり。近く参りて事のやう奏すれば、御顔うちあかめて、いと物ものたまはず。文も、見るとしもなくてうちおき給ひぬ。「何とか申すべき」と申せば、「思ひよらぬ御言の葉は、何と申すべき方(かた)もなくて」とばかりにて、また寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りてこのよしを申す。
「ただ寝給ふらんところへ、みちびけ、みちびけ」とせめさせ給ふもむつかしければ、御供に参らんことはやすくこそ、しるべして参る。甘(かん)の御衣(ぞ)などはことごとしければ、御大口(おんおほくち)ばかりにて、忍びつつ入(い)らせ給ふ。
まづ先に参りて、御障子(しやうじ)をやをらあけたれば、ありつるままにて、御殿ごもりたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかにはひ入(い)らせ給ひぬるのち、いかなる御ことどもかありけん。
うちすて参らすべきならねば、御上臥(うえぶ)ししたる人のそばに寝(ぬ)れば、いまぞおどろきて、「こは誰(た)そ」といふ。「御人少ななるも御いたはしくて、御宿直(とのゐ)し侍る」といらへば、まことと思ひて物語するも、用意なきことやとわびしければ、「ねぶたしや、更(ふ)け侍(はべ)りぬ」といひて、そらねぶりしてゐたれば、御几帳のうちも遠からぬに、いたく御心も尽さず、はやうちとけ給ひにけりと覚ゆるぞ、あまりに念なかりし。
心強くてあかし給はば、いかにおもしろからんと覚えしに、明けすぎぬさきに帰り入(い)らせ給ひて、「桜は、にほひは美しけれども、枝もろく折りやすき花にてある」など仰せありしぞ、さればよと覚え侍りし。
日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして、「けしからず、今朝しもいぎたなかりける」などとて、今ぞ文ある。御返事にはただ、「夢の面影はさむる方(かた)なく」などばかりにてありけるとかや。
酒宴、院大宮院と交歓
「今日は珍しき御方(かた)の御慰めに、何ごとか」など、女院(にようゐん)の御方へ申されたれば、「ことさらなることも侍(はべ)らず」と返事あり。隆顕(たかあき)の卿(きやう)に、九献(くこん)の式あるべき御けしきある、夕がたになりて、したためたるよし申す。女院の御方へ事のよし申して、入(い)れ参らせらる。いづ方(かた)にも御入立ちなりとて、御酌(しやく)に参る。三献までは御から盃(さかづき)、その後、「あまりに念なく侍るに」とて、女院御盃を斎宮へ申されて、御所に参る。御几帳(きちやう)をへだてて、長押(なげし)のしもへ実兼(さねかぬ)・隆顕召さる。御所の御盃を賜はりて実兼にさす。雑掌(ざしやう)なるとて隆顕に譲る。思ひざしは力なしとて、実兼、そののち隆顕。
女院の御方、「故院の御事ののちは、珍しき御遊びなどもなかりつるに、今宵(こよひ)なん御心おちて御遊びあれ」と申さる。女院の女房召して琴弾(ひ)かせられ、御所へ御琵琶(びは)召さる。西園寺も賜はる。兼行(かねゆき)、篳篥(ひちりき)吹きなどして、ふけゆくままにいとおもしろし。公卿(くぎやう)二人して神楽(かぐら)歌ひなどす。また善勝寺、例の芹生(せれう)の里かずへなどす。
いかに申せども、斎宮九献を参らぬよし申すに、御所御酌に参るべしとて、御銚子(てうし)をとらせおはします折、女院の御方(かた)、「御酌を御つとめ候(さぶら)はば、こゆるぎの磯(いそ)ならぬ御肴(さかな)の候へかし」と申されしかば、
売炭の翁(おきな)はあはれなり、おのれが衣(ころも)は薄けれど、薪(たきぎ)をとりて冬を待つこそ悲しけれ
といふ今様(いまやう)を歌はせおはします。いとおもしろく聞ゆるに、「この御盃(さかづき)をわれに賜はるべし」と、女院の御方申させ給ふ。三度参りて斎宮へ申さる。
また御所もちて入(い)らせ給ひたるに、「天子には父母なしとは申せども、十善(じふぜん)の床(ゆか)をふみ給ひしも、いやしき身の恩にましまさずや」など御述懐(ずくわい)ありて、御肴(さかな)を申させ給へば、「生(しやう)を受けてよりこの方、天子の位をふみ、太上(だいじやう)天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命(めい)をかろくせん」とて、
お前の池なる亀岡(かめをか)に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ、齢(よはひ)は君がためなれば、天(あめ)の下(した)こそのどかなれ
といふ今様を、三返ばかり歌はせ給ひて、三度申させ給ひて、「この御盃は賜はるべし」とて御所に参りて、「実兼は傾城(けいせい)の思ひざししつる、うらやましくや」とて隆顕に賜ふ。そののち、殿上人(てんじやうびと)の方(かた)へおろされて、事ども果てぬ。
今宵(こよひ)はさだめて入(い)らせおはしまさんずらん、と思ふほどに、「九献過ぎていとわびし。御腰打て」とて、御殿(おんとの)ごもりて明けぬ。斎宮も今日は御帰りあり。この御所の還御(くわんぎよ)、今日は今林殿へなる。准后(じゆごう)御かぜの気おはしますとて、今宵はまたこれに御とどまりあり。次の日ぞ京の御所へ入らせおはしましぬる。  
 

 

東二条院作者を非難、院の弁護
還御(くわんぎよ)の夕がた、女院(にようゐん)の御方(かた)より御使に中納言殿参らる。何ごとぞと聞けば、「二条殿が振舞のやう、心得ぬことのみ候(さぶら)ふときに、この御方の御祗候(しこう)をとどめて候ヘば、殊更もてなされて三つ衣(ぎぬ)を着て御車に参り候へば、人のみな女院の御同車と申し候ふなり。これせんなく覚え候。よろづ面目なきことのみ候へば、いとまを賜はりて、伏見などにひきこもりて、出家して候はんと思ひ候」といふ御使なり。
御返事には、
「承り候(さうら)ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍(すけ)、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌(りやうじやう)申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身のとがも候はで、いかが御所をも出(い)だし、行方も知らずも候ふべき。
また三つ衣(ぎぬ)を着候ふこと、いま始めたることならず候。四歳の年、初参のをり、「わが身位あさく候。祖父(おほぢ)、久我の太政(だいじやう)大臣が子にて参らせ候はん」と申して、五つ緒(を)の車数、袙(あこめ)・二重(ふたへ)織物許(ゆ)り候ひぬ。そのほかまた、大納言の典侍(すけ)は、北山の入道(にふだう)太政大臣の猶子(いうし)とて候ひしかば、次いでこれも、准后(じゆごう)御猶子の儀にて、袴(はかま)を着そめ候ひしをり、腰を結(い)はせられ候ひしとき、いづ方(かた)につけても、薄衣(うすぎぬ)白き袴などは許すべしといふこと、ふり候ひぬ。車寄(くるまよせ)などまでも許(ゆ)り候ひて、年月になり候ふが、今更かやうに承り候、心得ず候。
いふかひなき北面(ほくめん)の下臈(げらふ)ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん、さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰(さた)し候べく候。さりといふとも、御所を出(い)だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官(にようくわん)ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。
大納言、二条といふ名を付きて候ひしを、返し参らせ候ひしことは、世隠れなく候。されば、呼ぶ人々さは呼ばせ候はず。「われ位あさく候ふゆゑに、祖父(おほぢ)が子にて参り候ひぬるうへは、小路(こうぢ)名を付くべきにあらず候」「詮(せん)じ候ふところ、ただしばしは、あかこにて候へかし。何さまにも大臣は定まれる位に候へば、そのをり一度に付け候はん」と申し候ひき。
太政大臣の女(むすめ)にて、薄衣(うすぎぬ)は定まれることに候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山(くわざん)・閑院(かんゐん)ともに淡海公(たんかいこう)の末より、次々また申すに及ばず候。久我(こが)は村上の前帝の御子、冷泉・円融の御弟、第七皇子具平(ともひら)親王よりこの方(かた)、家久しからず、されば今までも、かの家女子(をんなご)は宮仕ひなどは望まぬことにて候ふを、母奉公のものなりとて、その形見になどねんごろに申して、幼少の昔より召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心得候ふらんとこそ覚え候ふに、今更なる仰せ言(ごと)、存(ぞん)の外(ほか)に候。御出家の事は、宿善内(うち)にもよほし、時至ることに候へば、何とよそよりはからひ申すによるまじきことに候」
とばかり御返事に申さる。そののちは、いとどこと悪(あ)しきやうなるもむつかしながら、ただ御一(ひと)ところの御志、なほざりならずさに慰めてぞ侍(はべ)る。  
 
とはずがたり(巻二)

 

元旦の感慨
ひまゆく駒(こま)のはやせ川、越えてかへらぬ年なみのわが身につもるをかぞふれば、今年は十八になり侍るにこそ。百千鳥(ももちどり)さへづる春の日影、のどかなるを見るにも、何となき心のなかの物思はしさ、忘るるときもなければ、花やかなるもうれしからぬ心地ぞし侍る。
今年の御薬(くすり)は、花山(くわざん)院太政大臣参らる。去年(こぞ)、後院別当とかやになりておはせしかば、何とやらん、この御所さまには快からぬ御ことなりしかども、春宮(とうぐう)に立たせおはしましぬれば、世の御うらみもをさをさ慰み給ひぬれば、またのちまで思(おぼ)し召しとがむべきにあらねば、御薬に参り給ふなるべし。
ことさら女房の袖口(そでぐち)もひきつくろひなどして、台盤所(だいばんどころ)さまも人々心ことに、衣(きぬ)の色をもつくし侍るやらん。一とせ、中院(ちゆうゐん)大納言御薬に参りたりしことなど、あらたまる年ともいはず思ひ出でられて、ふりぬる涙ぞ、なは袖ぬらし侍りし。
粥杖の報復に作者院を打つ
春宮(とうぐう)の御方(おんかた)、いつしか御かたわかちあるべしとて、十五日のうちとひしめく。例の院御方(ゐんのおんかた)、春宮両方にならせ給うて、男、女房めんめんに籤(くじ)にしたがひて分(わ)かたる。相手、みな男に女房合(あは)せらる。春宮の御方には、傅(ふ)の大臣(おとど)をはじめてみな男、院の御方は、御所よりほかはみな女房にて、相手を籤にとらる。傅の大臣の相手にとり当る。「めんめんに引出(ひき)で物、思ひ思ひに一人づつして、さまざま能(のう)を尽してせよ」といふ仰せこそ。
女房の方(かた)にはいと堪へがたかりしことは、あまりにわが御身ひとつならず、近習(きんじゆ)の男たちを召しあつめて、女房たちを打たせさせおはしましたるを、ねたきことなりとて、東(ひんがし)の御方と申しあはせて、十八日には御所を打ち参らせんといふことを談議して、十八日に、つとめての供御(くご)はつるほどに、台盤所(だいばんどころ)に女房たち寄り合ひて、御湯殿の上のくちには新大納言殿・権中納言、あらはに別当殿、つねの御所のなかには中納言どの、馬道(めんだう)に真清水(ましみづ)さぶらふなどを立ておきて、東の御方と二人、すゑの一間にて何となき物語して、「一定(いちぢやう)、御所はここへ出でさせおはしましなん」といひて待ち参らするに、案にもたがはず、思し召しよらぬ御ことなれば、御大口(おほくち)ばかりにて、「など、これほど常の御所には人影もせぬぞ。ここには誰(たれ)か候(さぶら)ふぞ」とて入らせおはしましたるを、東の御方かきいだき参らす。
「あなかなしや、人やある、人やある」と仰せらるれども、きと参る人もなし。からうじて、廂(ひさし)に師親(もろちか)の大納言が参らんとするをば、馬道(めんだう)に候ふ真清水、「子細候ふ。通し参らずまじ」とて杖(つゑ)を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ち参らせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状せさせ給ひぬ。
院の訴え、一族贖いに定まる
さて、しおほせたりと思ひてゐたるほどに、夕供御(くご)まゐる折、公卿(くぎやう)たち常の御所に候ふに仰せられ出(い)だして、「わが御身三十三にならせおはします、御厄(やく)に負けたるとおぼゆる。かかる目にこそあひたりつれ。十善(じふぜん)の床(ゆか)をふんで、万乗の主(あるじ)となる身に、杖(つゑ)をあてられし、いまだ昔もその例なくやあらん。などかまた、おのおの見附かざりつるぞ。一同せられけるにや」と、めんめんに恨み仰せらるるほどに、おのおのとかく陳じ申さるるほどに、
「さても、君を打ち参らするほどのことは、女房なりと申すとも、罪科かろかるまじきことに候。昔の朝敵の人々も、これほどの不思議は現ぜず候。御影をだに踏まぬことにて候ふに、まさしく杖をまゐらせ候ひける不思議、かろからず候」よし、二条左大臣、三条坊門大納言、善勝寺の大納言、西園寺の新大納言、万里小路の大納言、一同に申さる。
殊に善勝寺の大納言、いつものことなれば、我ひとりと申して、「さてもこの女房の名字(みやうじ)は誰々(たれたれ)ぞ。いそぎ承りて、罪科のやうをも公卿一同にはからひ申すべし」と申さるる折、御所(ごしよ)、「一人ならぬ罪科は、親類かかるべしや」と御たづねあり。
「申すに及ばず候。六親(ろくしん)と申して、みなかかり候」など、めんめんに申さるる折、「まさしくわれを打ちたるは、中院(ちゆうゐん)大納言がむすめ、四条大納言隆親が孫、善勝寺の大納言隆顕の卿が姪(めひ)と申すやらん。またずいぶん養子と聞ゆれば、御むすめと申すべきにや。二条殿の御局(つぼね)の御しごとなれば、まづ一ばんに、人の上ならずやあらん」と仰せ出だされたれば、御前(まへ)に候ふ公卿、みな一こゑに笑ひののしる。
「年の始に、女房を流罪(るざい)せられんも、そのわづらひなり。ゆかりまでそのとがあらんも、なはわづらひなり。昔もさる事あり。いそぎ贖(あが)ひ申さるべし」とひしめかる。その折申す、
「これ身として思ひよらず候(さぶらふ)。十五日に、あまりに御所つよく打たせおはしまし候ふのみならず、公卿殿上人を召しあつめて、打たせられ候ひしこと、本意(ほい)なく思ひまゐらせ候ひしかども、身数ならず候へば、思ひよるかたなく候ひしを、東(ひんがし)の御方、「このうらみ思ひ返し参らせん、同心せよ」と候ひしかば、「さ承り候ひぬ」と申して、打ち参らせて候ひしときに、われ一人罪にあたるべきに候はず」と申せども、「なにともあれ、まさしく君の御身に杖をあて参らせたるものに、過ぎたることあるまじ」とて、御贖(あが)ひにさだまる。
隆親、隆顕らの贖い、隆遍鯉を切る
善勝寺大納言、御使にて、隆親卿のもとへ事の由(よし)を仰せらる。「かへすがへす尾籠(びろう)のしわざに候ひけり。いそぎ贖(あが)ひ申さるべし」と申さる。「日数のび候へばあしかるべし。いそぎいそぎ」と責められて、二十日ぞ参られたる。御事ゆゆしくして、院の御方へ、御直衣(なほし)、かいぐ、御小袖十、御太刀一まゐる。二条左大臣より、公卿(くぎやう)六人に太刀一つづつ、女房たちの中へ、檀紙(だんし)百帖まゐらせらる。
二十一日、やがて善勝寺の大納言、御事つねのごとく、御所へは綾練貫(あやねりぬき)、紫にて、琴・琵琶(びは)をつくりてまゐらせらる。またしろがねの柳筥(やないばこ)に瑠璃(るり)の御盃(さかづき)まゐる。公卿に、馬・牛、女房たちの中へ染物にて行居(ほかゐ)をつくりて、糸にて瓜をつくりて、十合(じふがふ)まゐらせらる。
御酒盛いつよりもおびたたしきに、折ふし隆遍(りゆうへん)僧正参らる。やがて御前(まへ)へ召されて、御酒盛のみぎりへ参る。鯉(こひ)を取り出だしたるを、「宇治の僧正の例あり。その家より生れて、いかがもだすべき。切るべき」よし、僧正に御けしきあり。固く辞退申す。
仰せたびたびになる折、隆顕まな板を取りて僧正の前に置く。ふところより、庖丁(はうちやう)刀・まな箸(ばし)を取り出(い)でて、この側におく。「このうへは」としきりに仰せらる。御所の御前に御盃あり。力なくて香染(かうぞめ)の袂(たもと)にて切られたりし、いとめづらかなりき。
少々切りて、「かしらをば、え割り侍らじ」と申されしを、「さるやういかが」とてなほ仰せられしかば、いとさわやかに割りて、いそぎ御前を立つを、いたく御感(ぎよかん)ありて、今の瑠璃の盃を柳筥に据ゑながら、門前へおくらる。
有明の月から恋の告白をうける
かくて三月(やよひ)の頃にもなりぬるに、例の後白河院御八講(はかう)にてあるに、六条殿長講堂はなければ、正親町(おほぎまち)の長講堂にて行はる。結願(けちぐわん)十三日に御幸(ごかう)なりぬる間(ま)に、御参りある人あり。「還御(くわんぎよ)待ち参らすべし」とて候(さぶら)はせ給ふ。二棟の廊(らう)に御わたりあり。
参りて見参(げざん)に入りて、「還御は早くなり侍らん」など申して、帰らんとすれば、「しばしそれに候(さぶら)へ」と仰せらるれば、何の御用ともおぼえねども、そぞろき逃ぐべき御人柄ならねば、候ふに、何となき御昔語り、「故大納言が常に申し侍りしことも、忘れず思(おぼ)し召さるる」など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどとうち向ひ参らせたるに、何とやらん思ひの外なることを仰せられ出だして、「仏も心きたなき勤めとや思し召すらんと思ふ」とかや承るも、思はずに不思議なれば、何となくまぎらかして立ち退(の)かんとする袖をさへ控へて、「いかなるひまとだに、せめてはたのめよ」とて、まことにいつはりならず見ゆる御袖の涙もむつかしきに、還御とてひしめけば、引き放ちまゐらせぬ。
思はずながら、不思議なりつる夢とやいはんなど覚えてゐたるに、御対面ありて、「久しかりけるに」などとて九献(くこん)すすめ申さるる、御陪膳(はいぜん)をつとむるにも、心の中を人や知らんといとをかし。
 

 

亀山院来訪、遊宴ののち文
さるほどに、両院、御仲心よからぬこと、悪(あ)しく東(あづま)ざまに思ひ参らせたるといふこと聞えて、この御所へ新院御幸あるべしと申さる。かかり御覧ぜらるべしとて、御鞠(まり)あるべしとてあれば、「いかで、いかなるべき式ぞ」と、近衛大殿(このゑのおほとの)へ申さる。「いたく事過ぎぬほどに、九献(くこん)、御鞠の中に御装束なほさるるをり、御柿浸(かきひた)しまゐることあり。女房して参らせらるべし」と申さる。「女房は誰(たれ)にてか」と御沙汰あるに、「御年頃なり、さるべき人がらなれば」とて、この役をうけたまはる。かば桜七つ、裏山吹の表着(うはぎ)、青色唐衣(からぎぬ)、くれなゐの打衣(うちぎぬ)、生絹(すずし)の袴にてあり。浮織物の紅梅(こうばい)のにほひの三つ小袖(こそで)、唐綾の二つ小袖なり。
御幸なりぬるに、御座を対座に設けたりしを、新院御覧ぜられて、「前院の御とき定めおかれにしに、御座の設けやうわろし」とて、長押(なげし)の下(しも)へおろさるるところにあるじの院出(い)でさせ給ひて、「朱雀(すざく)院の行幸には、あるじの座を対座にこそなされしに、今日の出御(しゆつぎよ)には御座をおろさるる、異様(ことやう)に侍る」と申されしこそ、「優(いう)にきこゆ」など、人々申し侍りしか。
ことさら式の供御(くご)まゐり、三献(こん)はてなどしてのち、東宮入らせおはしまして御鞠(まり)あり。半ば過ぐるほどに、二棟の東(ひんがし)の妻戸(つまど)へ入らせおはしますところへ、柳筥(やないばこ)に御土器(かはらけ)を据ゑて、かねの御ひさげに御柿浸し入れて、別当殿、松襲(まつがさね)の五つ衣(ぎぬ)に紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)、柳の表着(うはぎ)、裏山吹の唐衣(からぎぬ)にてありしに持たせて参りて取りて参らす。「まづ飲め」と御言葉かけさせ給ふ。暮れかかるまで御鞠ありて、松明(しようめい)とりて還御。
つぎの日、仲頼(なかより)して御文(おんふみ)あり。
いかにせんうつつともなき面影を夢とおもへばさむるまもなし
紅の薄様(うすやう)にて柳の枝につけらる。さのみ御返りをだに申さぬも、かつはびんなきやうにやとて、はなだの薄様に書きて、桜の枝につけて、
うつつとも夢ともよしや桜花咲き散るほどと常ならぬ世に
そののちも、たびたび打ちしきり承りしかども、師親(もろちか)の大納言すむ所へ、車こひて帰りぬ。
長講堂供養、御壺合せ
まことや、六条殿の長講堂(ちやうかうだう)造り立てて、卯月(うづき)に御わたまし、御堂供養(くやう)は曼陀羅供(まんだらく)、御導師は公豪僧正、讃衆(さんしゆ)二十人にてありしのち、憲実(けんじち)御導師にて定朝堂(ぢやうてうだう)供養、御わたましののちなり。御わたましには、出(い)だし車五輛(りやう)ありし、一の車の左に参る。右に京極殿。撫子(なでしこ)の七つ衣(ぎぬ)、若菖蒲(しやうぶ)の表着(うはぎ)なり。京極殿は藤の五つ衣(ぎぬ)なり。御わたまし三日は白き衣にて、濃き物の具(ぐ)、袴なり。
御壺合せあるべしとて、公卿(くぎやう)・殿上人(てんじやうびと)・上臈(じやうらふ)・小上臈、御壺を分け賜はる。常の御所の東(ひんがし)向きの、二間(ふたま)の御壺を賜はる。とり造る定朝堂の前、二間(ふたま)が通りを賜はりて、反橋(そりはし)を遣水(やりみづ)に小さく美しく渡したるを、善勝寺の大納言夜の間に盗みわたして、わが御壺に置かれたりしこそ、いとをかしかりしか。
院の病中有明と契る
かくしつつ八月(はづき)のころにや、御所にさしたる御心地にてはなく、そこはかとなくなくやみわたり給ふことありて、供御(くご)をまゐらで、御汗垂(た)りなどしつつ日数かさなれば、いかなることにかと思ひさわぎ、医師(くすし)参りなどして、御灸(やいとう)はじめて、十ところばかりせさせおはしましなどすれども、同じさまにわたらせおはしませば、九月(ながつき)の八日よりにや、延命供(えんめいく)はじめられて、七日過ぎぬるに、なほ同じさまなる御ことなれば、いかなるべき御ことにかと嘆くに、さても、この阿闍梨(あじやり)に御参りあるは、この春、袖の涙の色をみせ給ひしかば、御使に参る折々も、いひ出(い)だしなどし給へども、まぎらはしつつ過ぎゆくに、この程こまやかなる御文を賜はりて、返事をせめわたり給ふ。いとむつかしくて、薄様(うすやう)の元結(もとゆひ)のそばを破(や)りて、夢といふ文字を一つ書きて、参らするとしもなくてうち置きて帰りぬ。
また参りたるに、樒(しきみ)の枝を一つ投げ給ふ。取りて片方(かたかた)に行きてみれば、葉にもの書れたり。
樒つむあかつき起きに袖(そで)ぬれて見はてぬ夢の末ぞゆかしき
優におもしろくおぼえて、この後すこし心にかかり給ふ心地して、御使に参るもすすましくて、御ものがたりの返事もうちのどまりて申すに、御所へ入らせ給うて御対面 ありて、「かくいつとなくわたらせ給ふこと」など嘆き申されて、「御撫物(なでもの)を持たせて、御時(じ)はじまらんほど、聴聞(ちやうもん)所へ人を賜はり候へ」と申させ給ふ。初夜の時はじまるほどに、「御衣(おんぞ)を持ちて聴聞所にまゐれ」と仰せあるほどに、参りたれば、人もみな伴僧(ばんそう)にまゐるべき装束(しやうぞく)しに、おのおの部屋部屋へ出でたるほどにや、人もなし。ただ一人おはしますところへ参りぬ。
「御撫物、いづくに候(さぶら)ふべきぞ」と申す。「道場のそばの局(つぼね)へ」と仰せ言あれば、参りてみるに、厳重(げんでう)げに御(み)あかしの火にかがやきたるに、思はずに、なえたる衣にてふとおはしたり。こはいかにと思ふほどに、「仏の御しるべは、くらき道に入りても」など仰せられて、泣く泣く抱(いだ)きつき給ふも、あまりうたてく覚ゆれども、人の御ため、「こは何ごとぞ」などいふべき御人がらにもあらねば、しのびつつ「仏の御心のうちも」など申せどもかなはず、見つる夢の、名残もうつつともなきほどなるに、「時(じ)よくなりぬ」とて伴僧(ばんそう)ども参れば、うしろの方(かた)より逃げかへり給ひて、「後夜(ごや)のほどに、いま一度かならず」と仰せありて、やがて始まるさまは何となきに、参り給ふらんとも覚えねば、いとおそろし。
御あかしの光さへ、くもりなくさし入りたりつる火影(ほかげ)は、来ん世の闇(やみ)も悲しきに、思ひこがるる心はなくて、後夜すぐるほどに、人間(ひとま)をうかがひて参りたれば、このたびは御時はててのちなれば、少しのどかに見奉るにつけても、むせかへり給ふけしき、心ぐるしきものから、明けゆく音するに、肌に着たる小袖に、わが御肌なる御小袖をしひて形見にとて着かへ給ひつつ、起きわかれぬる御名残もかたほなるものから、なつかしく、あはれともいひぬべき御さまも、忘れがたき心地して、局(つぼね)にすべりてうち寝たるに、いまの御小袖のつまに物あり。
取りてみれば、陸奥紙(みちのくにがみ)をいささか破(や)りて、
うつつとも夢ともいまだ分きかねて悲しさのこる秋の夜の月
とあるも、いかなるひまに書き給ひけんなど、なほざりならぬ御志もそらに知られて、 このほどはひまをうかがひつつ、夜をへてといふばかり見奉れば、このたびの御修法(しゆほふ)は、心清からぬ御祈誓、仏の御心中もはづかしきに、二七日の末つ方よりよろしくなり給ひて、三七日にて御結願(けちぐわん)ありて出で給ふ、明日とての夜、「またいかなるたよりをか待ちみん。念誦(ねんじゆ)のゆかにも塵つもり、護摩(ごま)の道場も、煙(けぶり)絶えぬべくこそ。おなじ心にだにもあらば、濃き墨染の袂(たもと)になりつつ、深き山にこもりゐて、幾ほどなきこの世に、物思はでも」など仰せらるるぞ、あまりにむくつけき心地する。
明けゆく鐘に音(ね)をそへて起きわかれ給ふさま、いつならひ給ふ御言の葉にかと、いとあはれなるほどにみえ給ふ。御袖(そで)のしがらみも、洩(も)りてうき名やと、心ぐるしきほどなり。かくしつつ結願ありぬれば、御出でありぬるも、さすが心にかかるこそ、よしなき思ひもかずかず色そふ心地し侍れ。
有明から文、作者応ぜず
さても、有明の月の御もとより、思ひかけぬ祗候(しこう)の稚児(ちご)のゆかりを尋ねて、御文(おんふみ)あり。思はずにまことしき御志さへあれば、なかなかむつかしき心地して、御文にてはときどき申せども、みづからの御ついではかき絶えたるも、いぶせからずと思はぬとしもなくて、また年も返りぬ。
新院・本院御花合せの勝負といふことありて、知らぬ山の奥まで尋ね求めなど、この春はいとま惜しきほどなれば、うち隠ろへたる忍びごとどももかなはで、おぼつかなさをのみ書きつくす。今年は御所にのみつと候(さぶら)ひて、秋にもなりぬ。
出雲路で有明と逢う、絶交を決意
九月(ながつき)の中の十日あまりにや、善勝寺の大納言のもとより、文(ふみ)細やかに書きて、「申したきことあり、出で給ヘ。出雲路(いづもぢ)といふわたりに侍るが、女どもの見参(げざん)したがるが侍るに、いかがして、みづからのたよりは身に代へても」など申ししを、まめやかに同じ心に思ふべきことと思ひて、
この大納言は幼くより御志あるさまなれば、これもまた身親しき人なればなど、思(おぼ)し召しめぐらしけるは、なほざりならずとも申しぬべき、例のけしからずさは、恨めしくうとましく思ひ参らせて、恐ろしきやうにさへ覚えて、つゆの御いらへも申されで、床中に起きゐたる有様は、「あとより恋の」といひたるさまやしたるらんと、我ながらをかしくもありぬべし。夜もすがら泣く泣く契り給ふも、身のよそに覚えて、今宵(こよlひ)ぞかぎりと心に誓ひゐたるは、誰(たれ)かは知らん。
鳥の音(ね)ももよほしがほに聞ゆるも、人は悲しきことを尽していはるれども、わが心にはうれしきぞ情なき。大納言声(こわ)づくりて、何とやらんいふ音して、帰り給ひなどするが、またたち帰り、さまざま仰せられて、「せめては見だに送れ」とありしかども、「心地わびし」とて起きあがらず。泣く泣く出で給ひぬるけしきは、げに袖にや残しおき給ふらんとみゆるも、罪深きほどなり。
大納言の心のうちもわびしければ、いたく白々(しらしら)しくならぬさきにと、公事(おほやけごと)にことづけて急ぎ参りて、局(つぼね)にうち臥したれば、まめやかにありつるままの面影の、そばにみえ給ひぬるも恐ろしきに、その昼つ方、書きつづけて賜ひたる御言の葉は、いつはりあらじと覚えしなかに、
悲しとも憂(う)しともいはん方(かた)ぞなきかばかり見つる人の面影
今さら変るとしはなけれども、あまりに憂くつらく覚えて、言の葉もなかりつるもの をと覚えて、
変るらん心はいさやしら菊のうつろふ色はよそにこそみれ
あまりに多きことどもも、何と申すべき言の葉もなければ、ただかくばかりにてぞ侍 りし。  
 

 

有明から起請文、御所での出逢い
そののちとかく仰せらるれども、御返事も申さず。まして参らんこと、思ひよるべきことならず。とにかくに言ひなして、つひに見参(げざん)に入らぬに、暮れゆく歳に驚きてにや、文(ふみ)あり。善勝寺の文に、
「御文参らす。このやうかへすがへす詮(せん)なくこそ候ヘ。いとあながちに厭(いと)ひ申さるることにても候はず、しかるべき御契りにてこそ、かくまでも思(おぼ)し召ししみ候ひけめに、情なく申され、かやうに苦々しくなりぬること、身一つの嘆きに覚え候。これへも同じさまには、かへすがへす恐れ覚え候」
よしこまごまとあり。
文(ふみ)をみれば、立文(たてぶみ)こはごはしげに、続飯(そくひ)にて上下につけ書かれたり。あけたれば、熊野の、またいづくのやらん、本寺のとかや、牛王(ごわう)といふものの裏に、まづ日本国六十箇神仏、梵天王(ぼんてんわう)・帝釈(たいしやく)よりはじめ、書きつくし給ひて後、
「われ七歳よりして、勤求等覚(ごんくとうがく)の沙門(しやもん)の形を汚してよりこの方、炉壇(ろだん)に手を結びて、難行苦行の日を重ね、近くは天長地久を祈り奉り、遠くは一切衆生(いつさいしゆじやう)もろともに、滅罪生善(しやうぜん)を祈誓す。心のうち、定めて護法天童・諸明王、験(げん)垂れ給ふらんと思ひしに、いかなる魔縁にか、よしなきことゆゑ、今年二年、夜は夜もすがら面影を恋ひて涙に袖を濡らし、本尊に向かひ持経(ぢきやう)を開く折々も、まづ言(こと)の葉をしのび、護摩(ごま)の壇の上には文を置きて持経とし、御(み)あかしの光にはまづこれを開きて心を養ふ。
この思ひ忍びがたきによりて、かの大納言にいひ合せば、見参(げざん)のたよりも心安くやなど思ふ。またさりとも同じ心なるらんと、思ひつることみな空(むな)し。このうへは、文をも遣はし言葉をも交さんと思ふこと、今生(こんじやう)にはこの思ひを断つ。さりながら、心の中に忘るることは、生々世々(しやうじやうせぜ)あべからざれば、我さだめて悪道(あくだう)に落つべし。さればこの恨み尽くる世あるべからず。両界の加行(けぎやう)よりこの方(かた)、灌頂(くわんぢやう)にいたるまで、一々の行法読誦(ぎやうぼふどくじゆ)大乗四威儀の行、一期(いちご)の間(あひだ)修(しゆ)するところ、みな三悪道に回向(えかう)す。このカをもちて、今生(こんじやう)長く空(むな)しくて、後生には悪趣に生(むま)れあはん。
またもし生をうけてこの方、幼少の昔、襁褓(むつき)の中にありけんことは、覚えずして過ぎぬ。七歳にて髪を剃(そ)り、衣を染めてのち、一つ床(ゆか)にもゐ、もしは愛念(あいねん)の思ひなど、思ひ寄りたることなし。こののち、またあるべからず。我にもいふ言の葉は、なべて人にもやと思ふらんと思ひ、大納言が心中、かへすがへすくやしきなり」
と書きて、天照(てんせう)大神・正八幡宮、いしいしおびたたしく賜はりたるをみれば、身の毛もたち、心もわびしきほどなれど、さればとて何とかはせん。 これをみな巻き集めて、返し参らする包紙に、
今よりは絶えぬとみゆる水茎(みづくき)の跡をみるには袖ぞしほるる
とばかり書きて、同じさまに封じて、返し参らせたりしのちは、かき絶え御おとづれもなし。なにとまた申すべきことならねば、むなしく年も返りぬ。
春はいつしか御参りあることなれば、入らせ給ひたるに、九献(くこん)参る。ことさら外(と)ざまなる人もなく、しめやかなる御ことどもにて、例の常の御所にての御ことどもなれば、逃げ隠れ参らすべきやうもなくて、御前(まへ)に候(さぶら)ふに、御所「御酌(しやく)に参れ」と仰せありしに参るとて、立ちざまに鼻血垂りて、目もくらくなりなどせしほどに、御前を立ちぬ。そののち十日ばかり、如法(によほふ)大事に病みて侍りしも、いかなりけることぞと、恐ろしくぞ侍りし。
院と亀山院小弓、負態に女房蹴鞠
かくて、二月(きさらぎ)のころにや、新院入らせおはしまして、ただ御さし向ひ、小弓(こゆみ)を遊ばし、「御負けあらば、御所の女房たちを上下みなみせ給へ。我負け参らせたらば、またそのやうに」といふことあり。この御所御負けあり。「これより申すべし」とて、還御(くわんぎよ)ののち、資李(すけすゑ)の大納言入道を召されて、「いかがこの式あるべき。めづらしき風情(ふぜい)何ごとありなん」など、仰せられ合はするに、「正月(しやうぐわつ)の儀式にて、台盤所(だいばんどころ)に並べ据ゑられたらんも、あまりに珍しからずや侍らん。また一人づつ、占相人(うらさうにん)などに会ふ人のやうにて出(い)でんも、異様(ことやう)にあるべし」など、公卿たちめんめんに申さるるに、御所、「龍頭鷁首(りようとうげきしゆ)の舟を造りて、水瓶(みづがめ)をもたせて、春待つ宿のかへしにてや」と御気色(きしよく)あるを、舟いしいしわづらはしとて、それも定まらず。
資季入道、「上臈(じやうらふ)八人、小上臈・中上臈八人づつを、上中下の鞠足(まりあし)の童(わらは)になして、橘(たちばな)の御壺に木立てをして、鞠の景気をあらんや珍しからん」と申す。さるべしとみな人人申し定めて、めんめんに、上臈には公卿、小上臈には殿上人(てんじやうびと)、中臈には上北面(じやうほくめん)、傅(めのと)につきて出(い)だし立つ。水干袴(すいかんばかま)に刀さして、沓(くつ)・襪(したうづ)などはきて出(い)で立つべし、とてある、いとたへがたし。さらば夜などにてもなくて、昼のことなるべしとてあり。誰かわびざらん。されども力なきことにて、おのおの出で立つべし。
西園寺(さいをんじ)の大納言、傅(めのと)につく。縹裏(はなだうら)の水干袴(すいかんばかま)に紅(くれなゐ)のうちき重(かさ)ぬ。左の袖に沈(ぢん)の岩をつけて、白き糸にして滝を落し、右に桜を結びてつけて、ひしと散らす。袴には岩・堰(ゐせき)などして、花をひしと散らす。「涙もよほす滝の音かな」の心なるべし。権大納言殿、資季入道沙汰(さた)す。萌黄(もよぎ)裏の水干袴には、左に西楼(せいろう)、右に桜。袴、左に竹結びてつけ、右に燈台一つつけたり。紅の単(ひとゑ)を重ぬ。めんめんにこの式なり。中の御所の広所を、屏風(びやうぶ)にて隔て分けて、二十四人出(い)で立つさま思ひ思ひにをかし。
さて風流(ふりう)の鞠(まり)をつくりて、ただ新院の御前ばかりに置かんずるを、ことさら、かかりの上へあぐるよしをして、落つるところを袖に受けて、沓(くつ)を脱ぎて、新院の御前に置くべしとてありし、みな人、この上(あ)げ鞠を泣く泣く辞退申ししほどに、器量の人なりとて、女院の御方の新衛門督殿(しんゑもんのかみどの)を、上(かみ)八人に召し入れてつとめられたりし、これも時にとりては美々しかりしかとも申してん。さりながらうらやましからずぞ。袖に受けて御前に置くことは、その日の八人、上首(じやうしゆ)につきてつとめ侍りき。いと晴がましかしことどもなり。
南庭の御簾(みす)あげて、両院・春宮(とうぐう)、階下に公卿(くぎやう)両方に着座す。殿上人はここかしこにたたずむ。塀の下を過ぎて南庭を渡るとき、みな傅(めのと)ども、色々の狩衣(かりぎぬ)にてかしづきに具(ぐ)す。新院「交名(けいみやう)を承らん」と申さる。御幸(ごかう)昼よりなりて、九献(くこん)もとく始まりて、「遅し、御鞠とくとく」と奉行(ぶぎやう)為方(ためかた)せむれども、いまいまと申して松明(しようめい)を取る。
やがて、めんめんのかしづき、脂燭(しそく)を持ちて、「誰(たれ)がし、御達(ごたち)の局(つぼね)」と申して、ことさら御前へ向きて、袖かき合せて過ぎしほど、なかなか言の葉なく侍る。下八人より次第にかかりの下(した)へ参りて、めんめんの木のもとにゐる有様、われながら珍らかなりき。まして上下、男たちの興に入りしさまは、ことわりにや侍らん。御鞠を御前に置きて急ぎまかり出でんとせしを、しばし召しおかれて、その姿にて御酌(しやく)に参りたりし、いみじくたへがたかりしことなり。
二三日かねてより局々に祗候(しこう)して、髪結(ゆ)ひ、水干(すいかん)・沓(くつ)など着ならはし候ふほど、傅(めのと)たち経営(けいめい)して、養ひ君もてなすとて、片よりに事どものありしさま、推しはかるべし。
負態の女楽の計画、作者の琵琶の来歴
さるほどに、御妬(ねた)みには御勝あり。嵯峨殿(さがどの)の御所(ごしよ)へ申されて、按察使(あぜち)の二品(ほん)のもとにわたらせ給ふ、と御所とかや申す姫宮、十三にならせ給ふを、舞姫に出(い)だし立て参らせて、上臈(じやうらふ)女房たち、童(わらは)・下仕(しもづかへ)になりて、帳台(ちやうだい)の試(こころみ)あり。また公卿厚褄(あつづま)にて、殿上人(てんじやうびと)・六位、肩脱ぎ、北の陣をわたる。美女(びでう)・雑仕(ざうし)が景気などのこるなく、露台の乱舞、御前(ごぜん)の召し、おもしろくとも言ふばかりなかりしを、なほ名残惜しとて、いや妬(ねた)みまであそばして、またこの御所御負け、伏見殿にてあるべしとて、六条院の女楽(をんながく)をまねばる。
紫の上には東(ひんがし)の御方、女三の宮の琴(きん)のかはりに、箏(しやう)の琴(こと)を隆親(たかちか)の女(むすめ)の今参りに弾かせんに、隆親ことさら所望ありと聞くより、などやらんむつかしくて、参りたくもなきに、「御鞠(まり)の折にことさら御言葉かかりなどして、御覧じ知りたるに」とて、明石(あかし)の上にて琵琶(びは)に参るべしとてあり。
琵琶は七つの年より、雅光の中納言にはじめて楽(がく)二三習ひて侍りしを、いたく心にも入らでありしを、九つの年より、またしばし御所に教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合(そがふ)・万秋楽(まんじゆらく)などはみな弾きて、御賀の折、白河殿くわいそとかやいひしことにも、十にて御琵琶をたどりて、いたいけして弾きたりとて、花梨木(くわりぼく)の直甲(ひたかふ)の琵琶の紫檀(したん)の転手(てんじゆ)したるを、赤地の錦(にしき)の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして、折々は弾きしかども、いたく心にも入らでありしを、弾けとてあるもむつかしく、などやらんものぐさながら出(い)で立ちて、柳の衣(きぬ)に紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)、萌黄(もよぎ)の表着(うはぎ)、裏山吹の小袿(こうちき)を着るべしとてあるが、なぞしも必ず人より殊に落ちばなる明石になることは。
東の御方の和琴(わごん)とても、日ごろしつけたることならねども、ただこの程の御ならひなり。琴(きん)のことの代りの、今参りの箏(こと)ばかりこそしつけたることならめ、女御の君は、花山院(くわざんゐん)太政大臣の女(むすめ)、西の御方なれば、紫の上に並び給へり。これは対座に敷かれたる畳の右の上臈(じやうらふ)にすゑらるべし。御鞠の折にたがふべからずとてあれば、などやらんさるべしとも覚えず、今参りは女三の宮とて、一畳上にこそあらめと思ひながら、御けしきのうへはと思ひて、まづ伏見殿へは御供に参りぬ。今参りは当日に、紋の車にて、侍(さぶらひ)具(ぐ)しなどして参りたるをみるにも、わが身の昔思ひ出でられてあはれなるに、新院御幸(ごかう)なりぬ。
祖父隆親の処置に怒り出奔
すでに九献(くこん)始まりなどして、こなたに女房次第にゐて、心々(こころごころ)の楽器前に置き、思ひ思ひのしとねなど、若菜の巻にや、記(しる)し文(ぶみ)のままに定めおかれて、時なりて、あるじの院は六条院に代り、新院は大将に代り、殿(との)の中納言中将、洞院(とうゐん)の三位(さんみ)中将にや、笛・篳篥(ひちりき)に階下へ召さるべきとて、まづ女房の座、みなしたためて並びゐて、あなた裏にて御酒盛ありて、半ばになりてこなたへ入らせ給ふべきにてあるところへ、兵部卿(ひやうぶきやう)参りて、女房の座いかにとて見らるるが、
「このやうわろし。まねばるる女三の宮、文台(ぶんだい)の御前なり。いままねぶ人の、これは叔母なり、あれは姪(めひ)なり。上(うへ)にゐるべき人なり。隆親(たかちか)、故大納言には上首なりき。何ごとに下にゐるべきぞ。ゐなほれゐなほれ」と声高(こゑだか)にいひければ、善勝寺・西園寺参りて、「これは別勅にて候ふものを」といへども、「何とてあれ、さるべきことかは」といはるるうへは、一旦(いつたん)こそあれ、さのみいふ人もなければ、御所はあなたにわたらせ給ふに、誰(たれ)か告げ参らせんも詮(せん)なければ、座をしもへおろされぬ。
出(い)だし車(ぐるま)のこといまさら思ひ出(い)だされていと悲し。姪・叔母にはなじかよるべき。あやしの者の腹に宿る人も多かり。それも、叔母は、祖母(むば)はとてささげおくべきか。こは何ごとぞ。すべてすさまじかりつることなり。これほど面目なからんことに交(まじ)ろひて、詮(せん)なしと思ひて、この座を立つ。
局(つぼね)へすべりて、「御尋ねあらば消息(せうそく)を参らせよ」といひおきて、小林といふは、御ははが母、宣陽門院(せんやうもんゐん)に伊予殿(いよどの)といひける女房、おくれ参らせさまかへて、即成院(そくじやうゐん)の御墓近く候ふところへ、たづねゆく。参らせおく消息(せうそく)に、白き薄様(うすやう)に、琵琶の一の緒(を)をニつに切りて包みて、
数ならぬ憂き身を知れば四つの緒もこの世のほかに思ひ切りつつ
と書きおきて、「御尋ねあらば、都へ出(い)で侍(はべ)りぬと申せ」と申しおきて、出で侍りぬ。
さるほどに、九献(くこん)半ば過ぎて、御約束のままに入らせ給ふに、明石の上の代りの琵琶なし。事のやうを御尋ねあるに、東(ひんがし)の御方、ありのままに申さる。聞かせおはしまして、「ことわりや、あかこが立ちけること。そのいはれあり」とて、局(つぼね)をたづねらるるに、「これを参らせて、はや都へ出でぬ。さだめて召しあらば参らせよとて、消息(せうそく)こそ候へ」と申しけるほどに、あへなく不思議なりとて、よろづに苦々しくなりて、いまの歌を新院も御覧ぜられて、「いとやさしくこそ侍れ。今宵(こよひ)の女楽(をんながく)はあいなく侍るべし。この歌を賜はりて帰るべし」とて、申させ給ひて、還御(くわんぎよ)なりにけり。
このうへは今参り琴弾くに及ばず。めんめんに、「兵部卿(ひやうぶきやう)うつつなし。老いのひがみか。あかこがしやうやさしく」など申して過ぎぬ。
関係者作者を捜す、醍醐に移る
あしたはまたとく、四条大宮の御ははがもと、六角櫛笥(くしげ)のむばのもとなど、人をたまはりて御たづねあれども、行方知らずと申しけり。さるほどに、あちこち尋ねらるれども、いづくよりかありと申すべき。よきついでに憂き世をのがれんと思ふに、十二月(しはす)の頃より、ただならずなりにけりと思ふ折からなれば、それしもむつかしくて、しばしさらば隠ろへゐて、この程すぐして身二つとなりなばと、思ひてぞゐたる。
これよりして長く琵琶の撥(ばち)を取ちじと誓ひて、後嵯峨の院より賜はりてし琵琶の八幡(やはた)へ参らせしに、大納言の書きて賜(た)びたりし文(ふみ)の裏に、法華経を書きて参らするとて、経の包紙に、
この世には思ひ切りぬる四つの緒(を)のかたみや法(のり)の水茎(みづくき)のあと
つくづくと案ずれば、一昨年(をととし)の春、三月(やよひ)十三日に、はじめて「折らでは過ぎじ」とかや承り初(そ)めしに、去年(こぞ)の十二月(しはす)にや、おびたたしき誓ひの文(ふみ)を賜はりて、幾ほども過ぎぬに、今年の三月十三日に、年月候(さぶら)ひなれぬる御所のうちをも住みうかれ、琵琶をも長く思ひ捨て、大納言かくれて後は親ざまに思ひつる兵部卿(ひやうぶきやう)も、快からず思ひて、「わが申したることをとがめて出(い)づるほどのものは、わが一期(ご)にはよも参り侍らじ」など申さるると聞けば、道とぢめぬる心地して、いかなりけることぞといと恐ろしくぞ覚えし。
如法(によほふ)、御所よりもあなたこなたを尋ねられ、雪の曙も山々寺々までも、思ひ残すくまなく尋ねらるるよし聞けども、つゆも動かれず隠れゐて、聞法(もんぽふ)の結縁(けちえん)もたよりありぬべく覚えて、真願房(しんぐわんぼう)の室(むろ)にぞまた隠れ出(い)で侍りし。  
 

 

隆顕、父隆親と衝突、作者隆顕と面会
さるほどに、四月(うづき)の祭の御桟敷(さじき)の事、兵部卿(ひやうぶきやう)用意して、両院御幸(ごかう)なすなどひしめくよしも、耳のよそに伝へ聞きしほどに、同じ四月の頃にや、内(うち)・春宮(とうぐう)の御元服に、大納言の年のたけたるがいるべきに、前官わろしとて、あまりの奉公の忠のよしにや、善勝寺が大納言を、一日借りわたして参るべきよし申す。神妙(しんべう)なりとて、参りて振舞ひまゐりて、返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、ひきちがへ経任(つねたふ)になされぬ。
さるほどに善勝寺の大納言、故なくはがれぬること、さながら父の大納言がしごとやと思ひて、深く恨む。当腹(たうふく)隆良(たかよし)の中将に、宰相を申すころなれば、この大納言を参らせ上げて、われを超越(てうをつ)せさせんとすると思ひて、同宿も詮(せん)なしとて、北の方が父九条中納言家に、籠居(ろうきよ)しぬるよし聞く。
いとあさましければ、行きてもとぶらひたけれども、世の聞えむつかしくて、文(ふみ)にて、「かかる所に侍るを、立ち寄り給へかし」など申したれば、「あとなく聞きなしてのち、よろづいはん方(かた)なく覚えつるに、うれしくこそ。やがて夜さり参りて、いぶせかりつる日数も」などいひて、暮るるほどにぞ立ち寄りたる。
四月(うづき)の末つ方のことなるに、なべて青みわたる梢(こずゑ)のなかに、遅き桜の、ことさらけぢめ見えて白く残りたるに、月いとあかくさし出(い)でたるものから、木陰(こかげ)は暗きなかに鹿のたたずみありきたるなど、絵に描(か)きとめまほしきに、寺々の初夜の鐘ただいま打ちつづきたるに、ここは三昧堂(さんまいだう)つづきたる廊なれば、これにも初夜の念仏近きほどに聞ゆ。
回向(えかう)して果てぬれば、尼どもの麻(あさ)の衣の姿、いとあはれげなるを見出(い)だして、大納言も、さしも思ふことなく太りたる人の、ことさらうちしめりて、長絹(ちやうけん)の狩衣(かりぎぬ)の袂(たもと)もしほりぬ。 「いまは、恩愛の家を出でて、真実(しんじち)の道に思ひ立つに、故大納言の心苦しく申しおきしこと、我さへまたと思ふこそ、おもひのほだしなれ」など申せば、我も、げにいとど何をかと、名残をしさも悲しきに、薄き単(ひとへ)の袂は乾くところなくぞ侍りける。
「かかる程をすごして、山深く思ひ立つべければ、同じ御姿にや」など申しつつ、かたみにあはれなること言ひつくし侍りしなかに、
「さてもいつぞや、恐ろしかりし文(ふみ)を見し、我すごさぬことながら、いかなるべきことにてかと、身の毛もよだちしか。いつしか、御身といひ身といひ、かかることの出できぬるも、まめやかに報いにやと覚ゆる。 さても、いづくにもおはしまさずとて、あちこち尋ね申されし折ふし、御参りありて、御帰りありし御道にて、「まことにや、かくと聞くは」と御尋ねありしに、「行方なく、今日までは承る」と申したりしに、いかが思(おぼ)しけん、中門(ちゆうもん)のほどに立ちやすらひつつ、とばかり物も仰せられで、御涙のこぼれしを、檜扇(ひあふぎ)にまぎらはしつつ、「三界無安(さんがいむあん)猶如火宅(ゆによくわたく)」と口ずさみて、出(い)で給ひしけしきこそ、常ならん人の、恋し、悲し、あさまし、あはれと申しつづけんあはれにも、なほまさりてみえ侍りしかば、本尊に向ひ給ふらん念誦(ねんじゆ)も推しはかられて」
など語るを聞けば、悲しさ残るとありし月影も、いまさら思ひ出(い)でられて、などあながちにかうしも情なく申しけんと、くやしき心地さへして、わが袂さへ露けくなり侍りしにや。
夜(よ)明けぬれば、世の中もかたがたつつましとて、帰らるるも、「事ありがほなる朝帰りめきて」などいひて、いつしか、「今宵(こよひ)のあはれ、今朝の名残、まことの道には棄(す)て給ふな」などあり。
はかなくも世のことわりは忘られてつらさに堪へぬわが袂(たもと)かな
と申したりし、「げに憂きはなべてのならひとも知りながら、嘆かるるはかやうのことにやと、悲しさ添ひて」など申して、
よしさらばこれもなべてのならひぞと思ひなすべき世のつらさかは
雪の曙の来訪、隆顕と三人で語る
雪の曙(あけぼの)は、あとなきことを嘆きて、春日(かすが)に二七日籠(こも)られたりけるが、十一日と申しける夜、二の御殿の御前に、昔にかはらぬ姿にて侍るとみて、急ぎ下向(げかう)しけるに、藤ノ森といほどにてとかや、善勝寺(ぜんしようじ)が中間(ちゆうげん)、細き文(ふみ)の箱を持ちて逢ひたる。などやらん、ふと思ひ寄る心地して、人にいはするまでもなくて、「勝倶胝院(しようくていゐん)より帰るな。二条殿の御出家(すけ)は、いつ一定(いちぢやう)とか聞く」といはれたりければ、よく知りたる人とや思ひけん、「昨夜(よべ)、九条より大納言殿入らせ給ひて候ひしが、今朝また御使に参りて帰り候ふが、御出家の事は、いつとまではえ承り候はず。いかさまにも、御出家は一定げに候」と申しけるに、さればよとうれしくて、供なる侍(さぶらひ)が乗りたる馬を取りて、これより神馬(じんめ)に参らせて、わが身は昼は世の聞えむつかしくて、上(かみ)の醍醐に、知るゆかりある僧坊へぞ立ち入りける。
それも知らで、夏木立(こだち)ながめ出(い)でて、房主(ばうず)の尼御前の前にて、せん道(だう)の御ことをならひなどしてゐたる、暮れほどに、何のやうもなく縁にのぼる人あり。尼たちにやと思ふほどに、さやさやと鳴るは装束(しやうぞく)の音からと、見返りたるに、側(そば)なる明障子(あかりしやうじ)を細めて、「心強くも隠れ給へども、神の御しるべは、かくこそ尋ね参りたれ」といふをみれば、雪の曙なり。こはいかにと、いまさら胸も騒げど、なにかはせん。「なベて世のうらめしく侍りて、思ひ出(い)でぬるうへは、いづれを分(わ)きてか」とばかりいひて、立ち出でたり。
例の、いづくより出づる言の葉にかと思ふことどもを、いひつづけゐたるも、げに悲しからぬにしもなけれども、思ひ切りにし道なれば、再び帰り参るべき心地もせぬを、かかる身のほどにてもあり、誰(たれ)かはあはれともいふべき。「御志のおろかなるにてもなし、兵部卿(ひやうぶきやう)の老いのひがみゆゑに、かかるべきことかは。ただこのたびばかりは、仰せにしたがひてこそ」など、しきりにいひつつ、次の日はとどまりぬ。
善勝寺のとぶらひいひて、「これに侍りけるに、思ひかけずたづね参りたり。見参(げざん)せん」といひたり。「かまへてこれへ」とねんごろにいはれて、この暮れにまた立ち寄りたれば、「つれづれの慰めに」などとて、九献(くこん)夜もすがらにて、明けゆくほどに帰るに、「ただこのたびは、それに聞き出だしたるよしにて、御所へ申してよかるべし」など、めんめんにいひさだめて、雪の曙も今朝たち帰りぬ。
めんめんの名残もいと忍びがたくて、「見だに送らん」とて立ち出(い)でたれば、善勝寺は、檜垣(ひがき)に夕顔を折りたるしじらの狩衣(かりぎぬ)にて、「道こちなくや」などためらひて、夜深く帰りぬ。いま一人は、入り方(がた)の月くまなきに、薄香(うすかう)の狩衣、車したたむるほど端(はし)つ方(かた)に出で、あるじの方(かた)へも、「思ひ寄らざる見参もうれしく」などあれば、「十念成就の終りに、三尊の来迎(らいかふ)をこそ待ち侍る柴(しば)の庵(いほり)に、思ひかけぬ人ゆゑ、折々かやうなる御袂(たもと)にてたづね入り給ふも、山がつの光にや思ひ侍らん」などあり。
「さても、残る山の端(は)もなく尋ねかねて、三笠の神のしるべにやと参りて、見しむば玉の夢の面影」など語らるるぞ、住吉の少将が心地し侍る。明けゆく鐘ももよほし顔なれば、出でさまに口ずさみしを、強(し)ひていへれば、
世の憂(う)さも思ひつきぬる鐘の音(おと)を月にかこちて有明の空
とやらん口ずさみて、出でぬるあとも悲しくて、
鐘の音(おと)に憂さもつらさもたちそへて名残をのこす有明の月
近衛大殿、院と久我家を語る
八月(はづき)のころにや、近衛大殿(このゑのおほとの)御参りあり。後嵯峨の院御かくれの折、「かまへて御覧じはぐくみ参らせられよ、と申されたりける」とて、常に御参りもあり、またもてもなし参らせられしほどに、常の御所にて、内々九献(くこん)など参り候ふほどに、御覧じて、「いかに、行方なく聞きしに、いかなる山に籠(こも)りゐて候ひけるぞ」と申さる。
「おほかた方士(はうじ)が術ならでは、尋ね出(い)でがたく候ひしを、蓬莱(ほうらい)の山にてこそ」など仰せありしついでに、「地体、兵部卿(ひやうぶきやう)が老いのひがみ、殊のほかに候ふ。隆顕が籠居(ろうきよ)もあさましきこと、いかにかかる御まつりごとも候ふやらんと覚え候。経任(つねたふ)大納言申しおきたる子細などぞ候ふらん。さても琵琶(びは)は棄てはてられて候ひけるか」と仰せられしかども、ことさら物も申さで候ひしかば、「身一代ならず子孫までと、深く八幡宮に誓ひ申して候ふなる」と御所に仰せられしかば、
「むげに若き程にて候ふに、にがにがしく思ひ切られ候ひける。地体、あの家の人々は、なのめならず家を重くせられ候。村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我(こが)ばかりにて候。あの傅(めのと)仲綱は、久我重代の家人(けにん)にて候ふを、岡屋(をかのや)の殿下、ふびんに思はるる子細候ひて、「兼参(けさん)せよ」と候ひけるに、「久我の家人なり、いかがあるべき」、と申して候ひけるには、「久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば、兼参子細あるまじ」と、みづからの文(ふみ)にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候。隆親の卿、女(むすめ)・叔母なれば、上(うへ)にこそと申し候ひけるやうも、けしからず候ひつる。
前(さき)の関白、新院へ参られて候ひけるに、やや久しく御物語ども候ひけるついでに、「傾城(けいせい)の能には、歌ほどのことなし。かかる苦々しかりしなかにも、この歌こそ耳にとどまりしか。梁園(りやうゑん)八代の古風といひながら、いまだ若きほどにありがたき心遣ひなり。仲頼と申してこの御所に候ふは、その人が家人なるが、行方なしとて、山々寺々たづねありくと聞きしかば、いかなる方(かた)に聞きなさんと、我さへしづ心なくこそ」など、御物語候ひけるよし承りき」など申させ給ひき。
伏見で院の今様伝授と遊宴
「さても中納言中将、今様(いまやう)器量に侍る。同じくは、その秘事を御許され候へ」と申さる。「左右(さう)におよばず。京の御所(ごしよ)はむつかし。伏見にて」と御約束あり。明後日(あさて)ばかりとて、にはかに御幸(ごかう)あり。披露(ひろう)なきことなれば、人あまたも参らず。供御(くご)は臨時の供御を召さる。台所の別当一人などにてありしやらん。
あちこちのありき、いしいしに、姿もことのほかになえばみたりし折ふしなるに、参るべしとてあれば、兵部卿(ひやうぶきやう)も、ありし事ののちは、いと申すこともなければ、何(なに)とすべき方(かた)もなきやうに案じゐたるに、女郎花(をみなへし)の単襲(ひとへがさね)に、袖(そで)に秋の野を縫ひて、露おきたる赤色の唐衣(からぎぬ)重ねて、生絹(すずし)の小袖・袴(はかま)など、いろいろに雪の曙の賜(た)びたるぞ、いつよりもうれしかりし。
大殿・前(さき)の殿・中納言中将殿、この御所には、西園寺(さいをんじ)・三条坊門(さんでうばうもん)・帥親(もろちか)よりほかは人なし。善勝寺九条の宿所は近きほどなり。この御所にははばかり申すべきやうなしとて、たびたび申されしかども、籠居(ろうきよ)の折ふしなれば、はばかりあるよしを申して参らざりしを、清長(きよなが)を遣はして召しあれば、参る。思ひかけぬ白拍子(しらびやうし)を二人召し具(ぐ)せられたりける、誰(たれ)かは知らん。下(しも)の御所の広所にて御事はあり。上(うへ)の御所の方(かた)に車ながら置かる。
事ども始まりて案内(あんない)を申さる。興に入らせ給ひて、召さる。姉妹(おととい)といふ。姉二十あまり、蘇芳(すはう)の単襲(ひとへがさね)に袴、妹(おとと)は女郎花(をみなへし)、すぢの水干(すいかん)に、萩(はぎ)を袖に縫ひたる大口(おほくち)を着たり。姉は春菊、妹若菊といひき。
白拍子少々申して、立ち姿御覧ぜられんといふ御気色あり。「鼓打(つづみうち)を用意せず」と申す。そのわたりにて鼓をたづねて、善勝寺これを打つ。まづ若菊舞ふ。そののち姉をと御気色あり。棄てて久しくなりぬるよしたびたび辞退申ししを、ねんごろに仰せありて、袴のうへに妹が水干を着て舞ひたりし、異様(ことやう)におもしろく侍(はべ)りき。いたく短かからずとて、しゆげんの白拍子をぞ舞ひ侍りし。
御所、如法(によほふ)酔(ゑ)はせおはしましてのち、夜ふけてやがて出(い)だされぬ。それも知らせおはしまさず、人々は今宵(こよひ)はみな御祗候(しこう)、あす一度に還御(くわんぎよ)などいふ沙汰なり。
大殿作者を捉える
御所(ごしよ)御寝(ぎよしん)の間(ま)に、筒井(つつゐ)の御所の方(かた)へ、ちと用ありて出(い)でたるに、松の嵐(あらし)も身にしみ、人まつ虫の声も、袖の涙に音を添ふるかと覚えて、待たるる月も澄みのぼりぬるほどなるに、思ひつるよりもものあはれなる心地して、御所へ帰り参らんとて、山里の御所の夜なれば、みな人しづまりぬる心地して、かけ湯巻(ゆまき)にて通るに、筒井の御所の前なる御簾(みす)の中より、袖をひかゆる人あり。
まめやかに化物(ばけもの)の心地して、荒らかに「あなかなし」といふ。「夜声(よごゑ)には、木魂(こたま)といふもののおとづるなるに、いとまがまがしや」といふ御声は、さにやと思ふも恐ろしくて、何とはなくひき過ぎんとするに、袂(たもと)はさながらほころびぬれども、放ち給はす。人の気配(けはひ)もなければ、御簾の中にとり入れられぬ。
御所にも人もなし。「こはいかに、こはいかに」と申せどもかなはず。「年月思ひ初 (そ)めし」などは、なべて聞きふりぬることなれば、あなむつかしと覚ゆるに、とかくい ひ契り給ふも、なべてのことと耳にも入らねば、ただ急ぎ参らんとするに、「夜の長 きとて、御目さまして御尋ねある」といふにことつけて、立ち出(い)でんとするに、「いかなる暇をも作り出でて、帰りこんと誓ヘ」といはるるも、のがるることなければ、四方(よも)の社にかけぬるも、誓ひの末おそろしき心地して、立ち出でぬ。
また九献(くこん)参るとて、人々参りてひしめく。なのめならず酔(ゑ)はせおはしまして、「若菊をとく帰されたるが念なければ、明日御逗留(とうりう)ありて、いま一度召さるべし」と御気色あり。承りぬるよしにてのち、御心ゆきて、九献殊に参りて、御(お)よるになりぬるにも、うたた寝にもあらぬ夢の名残は、うつつとしもなき心地して、まどろまで明けぬ。  
 

 

酒宴の後、院の黙契で大殿作者と契る
今日は御所の御雑掌(ざしやう)にてあるべきとて、資高(すけたか)承る。御事おびたたしく用意したり。傾城(けいせい)参りて、おびたたしき御酒盛なり。御所の御はしりまひとて、ことさらもてなしひしめかる。沈(ぢん)の折敷(をしき)にかねの盃(さかづき)すゑて、麝香(ざかう)のへそ三つ入れて、姉賜(たま)はる。
かねの折敷に、瑠璃(るり)の御器(ごき)にへそ一つ入れて、妹(おとと)賜はる。 後夜(ごや)打つほどまでも遊び給ふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚(さうおうくわしやう)の破(われ)不動」かぞゆるに、「柿の本の紀僧正(きそうじやう)、一旦(いたん)の妄執(まうしふ)や残りけん」といふわたりをいふ折、善勝寺きと見おこせたれば、我も思ひ合はせらるるふしあれば、あはれにも恐ろしくも覚えて、ただ居たり。のちのちは、人々の声、乱舞(らんぶ)にて果てぬ。
御殿(との)ごもりてあるに、御腰打ち参らせて候(さぶら)ふに、筒井の御所のよべの御面影、ここもとにみえて、「ちともの仰せられん」と呼び給へども、いかが立ちあがるべき。動かでゐたるを、「御(お)よるにてあるをりだに」など、さまざま仰せらるるに、「はや立て。苦しかるまじ」と、忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。御あとにあるを、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心の外に立たれぬるに、「御とぎにはこなたにこそ」とて、障子(しやうじ)のあなたにて仰せられゐたることどもを、寝入り給ひたるやうにて聞き給ひけるこそあさましけれ。
とかく泣きさまだれゐたれども、酔(ゑひ)心地やただならざりけん、つひに明けゆくほどに帰し給ひぬ。我過さずとはいひながら、悲しきことを尽して御前に臥したるに、殊にうらうらとおはしますぞ、いと堪へがたき。
今日は還御(くわんぎよ)にてあるべきを、「御名残多きよし傾城(けいせい)申して、いまだ侍る。今日ばかり」と申されて、大殿より御事参るべしとて、また逗留(とうりう)あるも、またいかなることかと悲しくて、局(つぼね)としもなくうち休みたるところヘ、
「みじか夜の夢の面影さめやらで心に残る袖の移り香(が)
近き御隣の御寝覚もやと、今朝はあさましく」などあり。
夢とだになほわきかねて人知れずおさふる袖の色をみせばや
たびたび召しあれば、参りたるに、わびしくや思ふらんと思し召しけるにや、殊にう らうらと当り給ふぞ、なかなかあさましき。
舟遊、ふたたび大殿と逢う
事ども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに御舟に召されて、伏見殿へ出(い)でさせおはしはします。更けゆくほどに、鵜飼(うかひ)召されて、鵜舟、端(はし)舟につけて、鵜使はせらる。鵜飼三人参りたるに、着たりし単襲(ひとへがさね)賜(た)ぶなどして、還御(くわんぎよ)なりてのち、また酒参りて、酔(ゑ)はせおはしますさまも今宵はなのめならで、更けぬれば、また御(お)よるなる所へ参りて、「あまた重ぬる旅寝こそすさまじく侍(はべ)れ。さらでも伏見の里は寝にくきものを」など仰せられて、「脂燭(しそく)さして給(た)ベ。むつかしき虫などやうのものもあるらん」と、あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」とさへ仰せ言あるぞ、まめやかに悲しき。
「かかる老いのひがみは、思(おぼ)し許してんや。いかにぞやみゆることも、御めのとになり侍らん古きためしも多く」など、御枕にて申さるる、いはん方なく悲しともおろかならんや。例のうらうらと、「こなたもひとり寝はすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させ給へば、よべの所に宿りぬるこそ。
今朝は夜のうちに還御(くわんぎよ)とてひしめけば、起き別れぬるも、憂き殻残るといひぬべきに、これは御車の尻(しり)に参りたるに、西園寺(さいをんじ)も御車に参る。清水の橋のうへまでは、みな御車を遣(や)りつづけたりしに、京極より御幸(ごかう)は北へなるに、残りは西へ遣り別れし折は、何となく名残惜しきやうに、車の影のみられ侍りしこそ、こはいつよりの習はしぞと、わが心ながらおぼつかなく侍りしか。
 
とはずがたり(巻三)

 

院、有明の月と作者の対話を聞く
世の中いと煩(わづら)はしきやうになりゆくにつけても、いつまで同じながめをとのみ味気(あぢき)なければ、山のあなたの住まひのみ願はしけれども、心に任せぬなど思ふも、なほ捨て難きにこそと、我ながら身を恨み寝の夢にさへ、遠ざかり奉るべきことのみえつるも、いかに違(ちが)へんと思ふもかひなくて、二月(きさらぎ)も半(なか)ばになれば、大方(おほかた)の花もやうやう気色(けしき)づきて、梅(むめ)が香(か)匂ふ風おとづれたるも飽かぬ心地して、いつよりも心細さも悲しさもかこつ方(かた)なき。
人召す音の聞ゆれば、何ごとにかと思ひて参りたるに、御前には人もなし。御湯殿(ゆどの)の上にひとり立たせ給ひたるほどなり。
「この程は人々の里住みにて、あまりに寂しき心地(ここち)するに、常に局(つぼね)がちなるは、いづれの方(かた)ざまに引く心にか」
など仰(おほ)せらるるも、例のとむつかしきに、有明の月御参りのよし奏す。
やがて常の御所(ごしよ)へ入れ参らせらるれば、いかがはせん。つれなく御前に候(さぶら)ふに、そのころ今御所(いまごしよ)と申すは、遊義門院(いうぎもんゐん)いまだ姫宮におはしまししころの御ことなり。御悩み煩はしくて、ほど経(へ)給ひける御祈りに、如法愛染(によほふあいぜん)王行はるべきこと申させ給ふ。またそのほかも、わが御祈りに北斗(ほくと)の法、それは鳴滝(なるたき)にや承る。
いつよりものどやかなる御物語のほど、候(さぶら)ふも、御心の中いかがとおそろしきに、
「宮の御方の御心地わづらはしくみえさせ給ふ」よし申されたれば、きと入らせ給ふ とて、
「還御(くわんぎよ)待ち奉り給ヘ」
と申したる、その折しも、御前に人もなくて、向ひ参らせたるに、憂かりし月日の積りつるよりうちはじめ、ただ今までのこと、御袖(そで)の涙はよその人目も包みあへぬほどなり。
何と申すべき言の葉もなければ、ただうち聞きゐたるに、ほどなく還御なりけるも知らず、同じさまなる口説(くど)きごと、御障子(しやうじ)のあなたにも聞えけるにや、しばし立ち止まり給ひけるも、いかでか知らん。
さるほどに例の、人よりははやき御心なれば、さにこそありけれと推(すゐ)し給ひけるぞ、あさましきや。入らせ給ひぬれば、さりげなきよしにもてなし給へれども、しぼりも敢(あ)へざりつる御涙は、包む袂(たもと)に残りあれば、いかが御覧じとがむらんとあさましきに、
院に有明との秘密を告白、院の述懐
火ともすほどに還御(くわんぎよ)なりぬるのち、殊更(ことさら)しめやかに、人なき宵(よひ)のことなるに御足など参りて御殿(おんとの)ごもりつつ、「さて思ひのほかなりつることを聞きつるかな。さればいかなりけることにか。いはけなかりし御ほどより、かたみにおろかならぬ御事に思ひ参らせ、かやうの道には思ひ掛けぬことと思ふに」とて、うちくどき仰せらるれば、「さることなし」と申すとも、かひあるべきことしあらねば、あひ見しことの始めより、別れし月の影まで、つゆくもりなく申したりしかば、
「まことに不思議なりける御契りかな。さりながら、さほどに思し召しあまりて、隆顕(たかあき)に道芝せさせられけるを、情なく申したりけるも、御恨みの末もかへすがへすよしなかるべし。昔のためしにも、かかる思ひは人をわかぬことなり。柿の本の僧正(そうじやう)、染殿(そめどの)の后(きさき)の物怪(もののけ)にて、あまた仏菩薩の力尽し給ふといへども、つひにはこれに身を捨て給ひにけるにこそ。志賀寺の聖(ひじり)には、ゆらぐ玉の緒と情を残し給ひしかば、すなはち一念の妄執(まうしゆ)をあらためたりき。
この御けしきなほざりならぬことなり。心得てあひしらひ申せ。われこころみたらば、つゆ人は知るまじ。このほど祗候(しこう)し給ふべきに、さやうのついであらば、日ごろの恨みを忘れ給ふやうにはからふべし。さやうの勤めの折からは、悪(あ)しかるべきに似たれども、我深く思ふ子細(しさい)あり。苦しかるまじきことなり」
とねんごろに仰せられて、「何ごとにも我に隔つる心のなきにより、かやうにはからひいふぞ。いかがなどは、かへすがへす心の恨みもはるな」 と承るにつけても、いかでかわびしからざらん。
「人より先に見染めて、あまたの年を過ぎぬれば、何ごとにつけても、なほざりならず覚ゆれども、何とやらん、わが心にもかなはぬことのみにて、心の色のみえぬこそいと口惜(くちを)しけれ。わが新枕(にひまくら)は故典侍大(すけだい)にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れず覚えしを、いまだいふかひなきほどの心地(ここち)して、よろづ世の中つつましくて、明け暮れしほどに、冬忠・雅忠などに主(ぬし)づかれて、ひまをこそ人わろく窺ひしか。腹の中にありし折もこころもとなく、いつかいつかと、手のうちなりしより、さばくりつけてありし」
など、昔の古ごとさへいひ知らせ給へば、人やりならずあはれも忍びがたくて、明けぬるに、今日より御修法(しゆほふ)始まるべしとて、御壇所いしいしひしめくにも、人知れず、心中には物思はしき心地すれば、顔の色もいかがと、我ながらよその人目もわびしきに、すでに御参りといふにも、つれなく御前に侍るにも、御心のうちいとわびし。
院、二人の仲をはからう、有明と契る
常に御使に参らせらるるにも、日ごろよりも、心の鬼とかやもせん方(かた)なき心地するに、いまだ初夜(しよや)もまだしきほどに、真言(しんごん)のことにつけて、御不審どもを記し申さるる折紙を持ちて参りたるに、いつよりも人もなくて、面影(おもかげ)霞む春の月おぼろにさし入りたるに、脇息(けふそく)によりかかりて念誦(ねんじゆ)し給ふほどなり。
「憂かりし秋の月影は、ただそのままにとこそ仏にも申したりつれども、かくてもいと堪へがたく覚ゆるは、なほ身に代ふべきにや。同じ世になき身になし給へとのみ申すも、神も受けぬ禊(みそぎ)なればいかがはせん」 とてしばしひき止め給ふも、
いかに洩るべき憂き名にかと恐ろしながら、見る夢のいまだ結びも果てぬに、時(じ)なりぬとてひしめけば、うしろの障子(さうじ)より出でぬるも、隔つる関の心地して、「後夜(ごや)果つるほど」とかへすがへす契り給へども、さのみ憂き節のみとまるべきにしあらねば、またたち帰りたるにも、
「悲しさ残る」とありし夜半(よは)よりも、今宵(こよひ)はわが身に残る面影も袖の涙に残る心地するは、これやのがれぬ契りならんと、我ながら前(さき)の世ゆかしき心地して、うち臥したれども、また寝にみゆる夢もなくて明け果てぬれば、さてしもあらねば、参りて御前の役に従ふに、折しも人少ななる御ほどにて、「夜べは心ありて振舞ひたりしを、思ひ知り給はじな。我知り顔にばしあるな。包み給はんも心苦し」など仰せらるるぞ、なかなか言の葉なき。
御修法(しゆほふ)の心ぎたなさも、御心のうちわびしきに、六日と申しし夜は、二月(きさらぎ)の十八日にて侍りしに、広御所(ひろごしよ)の前の紅梅、常の年よりも色もにほひもなべてならぬを御覧ぜられて、ふくるまでありしほどに、後夜果つる音すれば、「今宵ばかりの夜半もふけぬべし。ひま作り出でよかし」など仰せらるるもあさましきに、深き鐘の声ののち、東(ひんがし)の御方召され給ひて、橘の御壺(つぼ)の二の間に御よるになりぬれば、
仰せに従ふにしあらねども、今宵ばかりもさすが御名残なきにしあらねば、例の方ざまへ立ち出でたれば、もしやと待ち給ひけるもしるければ、思ひたえずは本意(ほい)なかるべしとかや覚えても、ただ今までさまざま承りつる御言の葉、耳の底にとどまり、うち交はし給ひつる御匂ひも、袂(たもと)にあまる心地するを、飽かず重ぬる袖の涙は、誰(たれ)にかこつべしとも覚えぬに、今宵閉ぢめぬる別れのやうに泣き悲しみ給ふも、なかなかよしなき心地するに、憂かりしままの別れよりもやみなましかばと、かへすがへす思はるれども、かひなくて、短か夜の空の今宵よりの程なさは、露の光などいひぬべ心地して、明けゆけば後朝(きぬぎぬ)になる別れは、いつの暮れをかとその期(ご)遥かなれば、
つらしとて別れしままの面影をあらぬ涙にまた宿しつる
院、懐妊を予言する
とかく思ふもかひなくて、御心地もおこたりぬれば、初夜(しよや)にてまかり出で給ふにも、さすがに残る面影はいと忍び難きに、いと不思議なりしは、まだ夜も明けぬさきに起き出でて、局(つぼね)にうち臥したるに、右京の権大夫(ごんのだいぶ)清長を御使にて、「きときと」と召しあり。夜べは東(ひんがし)の御方(おんかた)参り給ひき。などしも急がるらんただ今の御使ならんと、心騒ぎして参りたるに、
「夜べはふけ過ぎしも、待つらん方の心尽しを、など思ひてありしも、ただ世の常の ことならば、かくまで心ありがほにもあるまじきに、主がらのなほざりならずさに思 ひ許してこそ。さても今宵(こよひ)不思議なる夢をこそ見つれ。いまの五鈷(こ)を賜(た)びつるを、我にちとひき隠して懐(ふところ)に入れつるを、袖(そで)を控へて、「これほど心知りてあるに、などかくは」といはれて、わびしげに思ひて涙のこぼれつるを、払ひて取り出でたりつるをみれば、銀(しろがね)にてありける。故法皇の御物なれば、わがにせんといひて、立ちながら取ると思ひて夢さめぬ。今宵必ずしるしあることあるらんと覚ゆるぞ。もしさもあらば、疑ふところなき岩根の松をこそ」
など仰せられしかども、まことと頼むべきにしあらぬに、その後は月たつまで殊更(ことさら)御言葉にもかからねば、とにかくにわが過(あやま)ちのみあれば、人を憂しと申すべきことなで、明け暮るるに、思ひ合せらるることさへあれば、何となるべき世のしきとも覚えぬに、
三月(やよひ)の初めつ方(かた)にや、常よりも御人少なにて、夜の供御(くご)などいふこともなくて、二棟(ふたむね)の方(かた)へ入らせおはします、御供に召さる。 いかなることをかなんど思へども、尽きせずなだらかなる御言葉いひ契り給ふも、嬉しとやいはん、またわびしとやいはましなど思ふに、
「ありし夢ののちは、わざとこそいはざりつれ。月を隔てんと待ちつるもいと心細しや」と仰せらるるにこそ、されば思(おぼ)し召すやうありけるにこそ、とあさましかりしか。違はずその月よりただならねば、疑ひまぎるべきことにしなきにつけては、みし夢の名残も、いまさら心に掛るぞはかなき。
院、懐妊を有明に告げようと計画
秋の初めになりては、いつとなかりし心地(ここち)もおこたりぬるに、「しめ結(ゆ)ふほどにもなりぬらんな。かくとは知り給ひたりや」と仰せらるれども、「さも侍らず。いつのたよりにか」など申せば、
「何ごとなりとも我にはつゆはばかり給ぷまじ。しばしこそつつましく思(おぼ)し召すとも、力なき御宿世(しゆくせ)のがれざりけることなれば、なかなか何かそれによるべきことならずなど、申し知らせんと思ふぞ」
と仰せらるれば、なに申し遣る方なく、人の御心の中もさこそと思へども、「いなかなはじ」と申さんにつけても、なほも心を持ちがほならんと、われながら憎きやうにやと思へば、「何ともよきやうに御はからひ」と申しぬるよりほかは、また言の葉もなし。
そのころ真言(しんごん)の御談義といふこと始まりて、人々に御尋ねなどありしついでに、御参りありて、四五日御祗候(しこう)あることあり。法文(ほふもん)の御談義ども果てて、九献(くこん)ちと参る、御陪膳(はいぜん)に候(さぶら)ふに、
「さても広く尋ね深く学するにつきては、男(をとこ)女のことこそ罪なきことに侍れ。のがれ難からん契りぞ力なきことなる。されば昔もためし多く侍る。浄蔵(じやうざう)といひし行者(ぎやうじや)は、陸奥国(みちのくに)なる女に契りあることを聞きえて、害せんとせしかども、かなはでそれに落ちにき。染殿(そめどの)の后(きさき)は、志賀寺の聖(ひじり)に「われをいざなヘ」ともいひき。この思ひに堪へずして青き鬼ともなり、望夫石といふ石も恋ゆゑなれる姿なり。若しは畜類・獣(けだもの)に契るも、みな前業(ぜんごふ)の果すところなり。人はしすべきにあらず」
など仰せらるるも、我ひとり聞きとがめらるる心地して、汗も涙も流れ添ふ心地するに、いたくことごとしからぬしきにて、誰もまかり出でぬ。
有明の月も出(い)でなんとし給ふを、「深き夜の静かなるにこそ、心のどかなる法文をも」 など申して、とどめ参らせらるるが、何となくむつかしくて、御前(まへ)をたちぬ。そののちの御言の葉は知らですべりぬ。  
 

 

院、有明を許す、有明感謝
夜中すぐるほどに、召しありて参りたれば、「ありしあらましごとを、ついでつくり出でて、よくこそ言ひ知らせたれ。いかなるたらちを・たらちねの心の闇(やみ)といふとも、これほど志あらじ」とて、まづうち涙ぐみ給へば、何と申しやるべき言葉もなきに、まづ先だつ袖(そで)の涙ぞおさへがたく侍りし。いつよりもこまやかに語らひ給ひて、 「さても人の契りのがれ難きことなど、かねて申ししは聞きしぞかし。そののち、
「さても思ひ掛けぬ立聞きをして侍りし。さだめて憚(はばか)り思(おぼ)し召すらんとは思へども、命をかけて誓ひてしことなれば、かたみに隔てあるべきことならず。なべて世に洩れんことは、うたてあるべき御身なり。忍びがたき御思ひ、前業(ぜんごふ)の感ずる所と思へば、つゆいかにと思ひ奉ることなし。
過ぎぬる春の頃より、ただには侍(はべ)らず見ゆるにつけて、ありし夢の事、ただのことならず覚えて、御契りのほどもゆかしく、見しむば玉の夢をも思ひ合せんために、三月(やよひ)になるまで待ちくらして侍るも、なほざりならず、推しはかり給へ。かつは伊勢・石清水(いはしみづ)・賀茂・春日、国を守る神々の擁護(おうご)に洩れ侍らん。御心のへだてあるべからず。かかればとて、我つゆも変る心なし」
と申したれば、とばかり物も仰せられで、涙のひまなかりしを、はらひ隠しつつ、
「この仰せのうへは、残りあるべきに侍らず。まことに前業の所感こそ口惜しく侍れ。 かくまでの仰(おほ)せ、今生(こんじやう)一世の御恩にあらず。世々(せせ)生々に忘れ奉るべきにあらず。かかる悪縁にあひける恨み忍びがたく、三年過行に思ひ絶えなんと思ふ。念誦・持経の祈念にもこれよりほかのこと侍らで、せめて思ひのあまりに、誓ひを起して、巻書をかの人のもとへ送り遣はしなどせしかども、この心なほやまずして、また廻(めぐ)りあふ小車の、憂しと思はぬ身を恨み侍るに、さやうに著(しる)きふしさへ侍るなれば、若宮を一所わたし参らせて、我は深き山に籠(こも)りゐて、濃き墨染(すみぞめ)の袂になりて侍らん。なほし年ごろの御志も浅からざりつれども、この一ふしのうれしさは、多生(たしやう)の喜びにて侍る」
とて、泣く泣くこそ立たれぬれ。深く思ひ染めぬるさまも、げにあはれに覚えつるぞ」など、御物語あるを聞くにも、「左右(ひだりみぎ)にも」とはかかることをや言はましと、涙はまづこぼれつつ、
有明と逢う、院作者にからむ
さても事柄もゆかしく、御出(い)でも近くなれば、更(ふ)くるほどに御使のよしにもてなして参りたれば、をさあい稚児(ちご)一人、御前に寝入りたり。さらでは人もなし。
例の方(かた)ざまへ立ち出で給ひつつ、「憂きはうれしき方もやと思ふこそ、せめて思ひあまる心の中、我ながらあはれに」など仰せらるるも、憂かりしままの月影はなほ忍ばるる志ながら、明日はこの御談義結願(けちぐわん)なれば、今宵(こよひ)ばかりの御名残、さすがに思はぬにしもなきならひなれば、夜もすがらかかる御袖(そで)の涙も所せければ、何となりゆくべき身の果てとも覚えぬに、かかる仰せごとをつゆたがはず語りつつ、
「なかなかかくては便りもと思ふこそ、げになべてならぬ心の色も知らるれ。不思議なることさへあるなれば、この世一つならぬ契りもいかでかおろかなるべき。「一すぢにわれ撫(な)で生ほさん」と承りつる嬉しさもあはれさも限りなく、さるから、いつしか心もとなき心地するこそ」
など、泣きみ笑ひみ語らひ給ふほどに、明けぬるにやと聞ゆれば、起き別れつつ出づるに、またいつの暮れをかと思ひむせび給ひたるさま、我もげにと思ひたてまつるこそ。
わが袖の涙にやどる有明のあけても同じ面影もがな
など覚えしは、我もかよふ心の出できけるにや。
これのがれぬ契りとかやならんなど思ひ続け、さながらうち臥したるに、御使あり。「今宵待つ心地して、むなしき床に臥し明かしつる」とて、いまだ夜のおましにおは しますなりけり。
「ただ今しも、あかぬ名残も、後朝(きぬぎぬ)の空は心なく」など仰せあるも、何と申すべき言の葉なきにつけても、しからぬ人のみこそ世には多きに、いかなればなど思ふに、涙のこぼれぬるを、いかなる方に思し召しなすにか、心づきなく、「また寝の夢をだに心安くもなど思ふにや」 とあらぬ筋に思し召したりげにて、常よりもよに煩(わづら)はしげなることどもを承るにぞ、さればよ、思ひつることなり、つひにはかばかしかるまじき身の行末を、など、いとど涙のみこぼるるに添へては、「ただ一すぢに御名残を慕ひつつ、わが御使を心づきなく思ひたる」といふ御はしにて起き給ひぬるもむつかしければ、局(つぼね)へすべりぬ。
有明と逢う、院作者にからむ
心地(ここち)さへわびしければ、暮るるまで参らぬも、またいかなる仰(おほ)せをかと覚えて悲しければ、さし出(い)づるにつけても、憂き世に住まぬ身にもがななど、いまさら山のあなたに急がるる心地のみするに、御果てなるべければ、参り給ひて、常よりのどやかなる御物語もそぞろはしきやうにて、御湯殿(ゆどの)の上(うへ)の方(かた)ざまに立ち出でたるに、 「このほどは上日(じやうじつ)なれば祗候(しこう)して侍れども、おのづから御言の葉にだにかからぬこそ」 など言はるるも、とにかくに身のおきどころなくて聞きゐたるに、御前(ごぜん)より召しあり。
何ごとにかとて参りたれば、九献(くこん)参るべきなりけり。 うちうちに静かなる座敷にて、御前女房一二人ばかりにてあるも、あまりにあいな しとて、広御所(ひろごしよ)に師親(もろちか)・実兼など音しつるとて、召されて、うち乱れたる御遊び、名残あるほどにて果てぬれば、宮の御方にて初夜勤めてまかり出で給ひぬる名残の空も、なべて雲居(くもゐ)もかこつ方(かた)なきに、ことごとしからぬさまにて御所にて帯をしつるこそ、御心のうちいと堪へがたけれ。
今宵(こよひ)は上臥(うへぶ)しをさへしたれば、夜もすがら語らひ明かし給ふも、つゆうらなき御もてなしにつけても、いかでかわびしからざらん。
供花、院の扇の使
九月の御花は、常よりもひきつくろはるべしとて、かねてよりひしめけば、身も憚(はばか)りあるやうなれば、いとまを申せども、「さしも目に立たねば、人数(ひとかず)に参るべき」よし仰せあれば、薄色の衣(きぬ)に赤色の唐衣(からぎぬ)、朽葉(くちば)の単襲(ひとへがさね)にあをばのからぎぬにて、夜の番つとめて候ふに、「有明の月御参り」といふ音すれば、何となく胸騒ぎて聞きゐたるに、御花御結縁(けちえん)とて、御堂に御参りあり。
ここにありともいかでか聞き給ふべきに、承仕(しようじ)がここもとにて、 「御所(ごしよ)よりにて候。御扇(あふぎ)や御堂に落ちて侍ると御覧じて、参らさせ給へと申せと候」といふ。
心得ぬやうに覚えながら、中の障子をあけてみれどもなし。 さて引きたてて、「候(さぶら)はず」と申して、承仕は帰りぬるのち、ちと障子(しやうじ)を細め給ひて、「さのみ積るいぶせさも、かやうのほどは殊におどろかるるに、苦しからぬ人して里へ訪れん。つゆ人には洩らすまじきものなれば」 など仰せらるるも、いかなる方にか世に洩れんと、人の御名もいたはしければ、さのみいなともいかがなれば、「なべて世にだに洩れ候はずは」とばかりにて、引きたてぬ。
御帰りののち、時(じ)過ぎぬれば御前へ参りたるに、「扇の使はいかに」とて笑はせおはしますをこそ、例の心あるよしの御使なりけると知り侍りしか。
法輪寺に籠る、嵯峨殿より院の使
十月(かんなづき)のころになりぬれば、なべて時雨(しぐれ)がちなる空のけしきも、袖(そで)の涙にあらそひて、よろづ常の年々よりも、心細さも味気(あぢき)なければ、まことならぬ母の、嵯峨に住まひたるがもとへまかりて、法輪(ほふりん)に籠(こも)りて侍れば、嵐の山の紅葉も、憂き世をはらふ風にさそはれて、大井川の瀬々に波よる錦と覚ゆるにも、いにしへのことも公私忘れがたき中に、後嵯峨の院の宸筆(しんぴつ)の御経の折、めんめんの姿、捧げ物などまで、かずかず思ひ出でられて、うらやましくも返る波かなと覚ゆるに、ただここもとに鳴く鹿のねは、誰(た)がもろ声にかとかなしくて、
わが身こそいつも涙のひまなきに何をしのびて鹿の鳴くらん
いつよりももの悲しき夕暮に、故ある殿上人(てんじやうびと)の参るあり。誰(たれ)ならんとみれば楊梅(やまもも)の中将兼行なり。局(つぼね)のわたりに立ちよりて案内(あんない)すれば、いつよりも思ひ寄らぬ心地するに、 「にはかに大宮院快からぬ御こととて、今朝よりこの御所へ御幸(ごかう)ありけるほどに、里を御たづねありけるが、これにとてまた仰せらるるぞ。女房も御参りなくて、にはかに御幸あり。宿願ならばまた籠るべし。まづ参れ」といふ御使なり。
籠りて五日になる日なれば、いま二日果てぬも心やましけれども、車をさへ賜はせたるうヘ、嵯峨に候(さぶら)ふを御頼みにて、人も参らせ給はぬよし、中将物語すれば、とかく申すべきことならねば、やがて大井殿の御所へ参りたれば、みな人々里へ出でなんとして、はかばかしき人も候はざりつるうへ、これにあるを御頼みにて、両院御同車にてなりつるほどに、人もなし。御車の尻(しり)に、西園寺の大納言参られたりけるなり。 大御所(おほごしよ)より、ただ今ぞ供御(くご)参るほどなる。  
 

 

大宮院と院・亀山院の酒宴
女院御悩み、御脚の気(け)にて、いたくの御ことなければ、めでたき御こととて、両院御よろこびの事あるべしとて、まづ一院の御分(ぶん)、春宮大夫(とうぐうのだいぶ)承る。彩絵(だみゑ)描きたる破子(わりご)十合に、供御(くご)・御肴(みさかな)を入れて、めんめんの御前に置かる。次々もこの定(ぢやう)なり。これにて三献(こん)参りてのち、まかり出だして、また白き供御(くご)、そののち色々の御肴(さかな)にて九献(くこん)参る。
大宮の院の御方(かた)へ、紅梅(こうばい)・紫、腹は練貫(ねりぬき)にて琵琶(びは)、染物にて琴(こと)作りて参る。新院の御方(かた)へ、方磬(はうきやう)の台を作りて、紫を巻きて、色々のむら濃(ご)の染物を四方(よはう)に作りて、守(まぼ)りの緒にて下げて、かねにして、沈(ぢん)の柄(つか)に水晶を入れて、撥(ばち)にして参る。女房たちの中へ檀紙(だんし)百、染物などにてやうやうの作り物をして置かれ、男の中にも鞦(しりがい)・色革とかやつみ置きなどして、おびたたしき御ことにて、夜もすがら御遊びあり。例の御酌(しやく)に召されて参る。
一院御琵琶、新院御笛、洞院(とうゐん)琴、大宮の院の姫宮御琴、春宮大夫琵琶、公衡(きんひら)笙(しやう)の笛、兼行篳篥(ひちりき)。夜ふけゆくままに、嵐の山の松風、雲居(くもゐ)にひびく音すごきに、浄金剛院(じやうこんがうゐん)の鐘ここもとに聞ゆる折ふし、一院「都府楼(とふろう)は自(おのづか)ら」とかや仰せ出だされたりしに、よろづの事みな尽きて、おもしろくあはれなるに、女院の御方より、「ただいまの御盃(さかづき)はいづくに候ふぞ」と尋ね申されたるに、「新院の御前に候ふ」よし申されたれば、この御声にて参るべきよし御けしきあれば、新院はかしこまりて候ひ給ふを、一院御盃と御銚子(てうし)とを持ちて、母屋(もや)の御簾(みす)の中に入り給ひて、一度申させ給ひてのち、「嘉辰令月歓無極(かしんれいぐゑつくわんぶきよく)」とうち出で給ひしに、新院御声加へ給ひしを、
「老いのあやにく申し侍らん。われ濁世(ぢよくせ)、末の代に生れたるは悲しみなりといへども、かたじけなく后妃(こうひ)の位にそなはりて、両上皇の父母(ぶも)として、二代の国母(こくも)たり。齢(よはひ)すでに六旬(りくじゆん)に余り、この世に残るところなし。ただ九品(くほん)の上なき位をのぞむばかりなるに、今宵(こよひ)の御楽は、上品蓮台(じやうぼんれんだい)の暁の楽もかくやと覚え、今の御声は、迦陵頻伽(かりようびんが)の御声もこれには過ぎ侍らじと思ふに、同じくは今様(いまやう)を一ぺん承りて、いま一度聞(きこ)し召すべし」
と申されて、新院をも内へ申さる。春宮大夫御簾(みす)のきはへ召されて、小几帳(きちやう)引き寄せて、御簾半(はん)にあげらる。
あはれに忘れず身にしむは、忍びし折々待ちし宵、頼めし言の葉もろともに、二 人有明の月の影、思へばいとこそ悲しけれ
両上皇うたひ給ひしに、似るものなくおもしろし。はては酔(ゑ)ひ泣きにや、古き世々のどの御物語など出できて、みなうちしほれつつ立ち給ふに、大井殿(どの)の御所へ参らせおはします、御送りとて新院御幸なり。春宮大夫は心地を寒じてまかり出でぬ。若き殿上人(てんじやうびと)二三人は御供にて、入らせおはします。
両院の傍らに宿直、亀山院の贈物
「いと御人少なに侍るに、御宿直(とのゐ)つかうまつるべし」とて、二所(ふたところ)御よるになる。ただ一人候(さぶら)へば、「御足に参れ」など承るもむつかしけれども、誰に譲るべしとも覚えねば、候ふに、「この両所の御側に寝させさせ給へ」と、しきりに新院申さる。
「ただしは、所せき身のほどにて候とて、里に候ふを、にはかに人もなしとて参りて 候ふに、召し出でて候へば、あたりも苦しげに候。かからざらん折は」など申さるれども、
「御側にて候はんずれば、あやまち候はじ。女三の御方をだに御許されあるに、なぞしもこれにかぎり候ふべき。わが身は、いづれにても御心に掛り候はんをば、と申しおき侍りし、そのちかひもかひなく」 など申させ給ふに、折ふし按察使(あぜち)の二品(ほん)のもとに御わたりありし前(さき)の斎宮(さいぐう)へ、「いらせ給ふべし」など申す。宮をやうやう申さるるほどなりしかばにや。「御側に候へ」と仰せらるるともなく、いたく酔ひすぐさせ給ひたるほどに、御よるになりぬ。
御前にもさしたる人もなければ、ほかへはいかがとて、御屏風(びやうぶ)うしろに候ふに、ありきなどせさせ給ふも、つゆ知り給はぬぞあさましきや。明方ちかくなれば、御側へ帰り入らせ給ひて、おどろかしきこえ給ふにぞ、はじめておどろき給ひぬる。「御息もなさに、御添臥(そへぶ)しも逃げにけり」など申させ給へば、「ただ今までここに侍りつ」など申さるるもなかなか恐ろしけれど、をかせる罪もそれとなければ、頼みをかけて侍るに、とかくの御沙汰(さた)もなくて、また夕方になれば、今日は新院の御分とて、景房が御事したり。
「昨日西園寺の御雑掌(ざしやう)に、今日景房が、御所の御代官ながら並び参らせたる、雑掌柄わろし」など、人々つぶやき申すもありしかども、御事は、うちまかせたる式の供御(くご)、九献(くこん)など、常のことなり。女院の御方(かた)へ、染物にて岩を作りて、地盤に水の紋をして、沈(ぢん)の舟に丁子(ちやうじ)を積みて参らす。一院へ銀(しろがね)の柳筥(やないばこ)に沈の御枕(まくら)を据ゑて参る。 女房たちのなかに糸綿にて山滝の景色などして参らす。男たちの中ヘ、色革染物にて柿作りて参らせなどしたるに、「殊に一人この御方に候(さぶら)ふに」など仰せられたりけるにや、唐綾(からあや)・紫むら濃(ご)十づつを、五十四帖(でふ)の草子(さうし)に作りて、源氏の名を書きて賜(た)びたり。御酒盛(さかもり)は夜べにみな事ども尽きて、今宵(こよひ)はさしたることなくて果てぬ。春宮(とうぐう)の大夫(だいぶ)は、風の気(け)とて今日は出仕(すし)なし。「わざとならんかし」「まことに」など沙汰(さた)あり。
今宵も桟敷殿(さじきどの)に、両院御渡りありて供御(くご)もこれにて参る。御陪膳(はいぜん)両方をつとむ。夜も一ところに御よるになる。御添臥(そへぶ)しに候(さぶら)ふも、などやらんむつかしく覚ゆれども、のがるるところなくて宮仕ひゐたるも、いまさら憂き世の習ひも思ひ知られ侍る。
かくて還御(くわんぎよ)なれば、これは、「法輪(ほふりん)の宿願(しゆくぐわん)も残りて侍るうへ、今は身もむつかしきほどなれば」と申して、とどまりて里へ出でんとするに、両院御幸(ごかう)、同じやうに還御あり。一院には春宮大夫、新院には洞院(とうゐん)の大納言ぞのちのちに参り給ふ。
東二条院より大宮院へ恨みの文
ひしひしとして還御(くわんぎよ)なりぬる御あとも寂しきに、「今日はこれに候(さぶら)へかし」と大宮の院の御けしきあれば、この御所に候ふに、東二条院よりとて御文(ふみ)あり。何とも思ひわかぬほどに、女院(によゐん)御覧ぜられてのち、「とは何ごとぞ、うつつなや」と仰(おほ)せごとあり。
「何ごとならん」と尋ね申せば、 「「その身をこれにて女院もてなして、露顕(ろけん)のけしきありて、御遊さまざまの御ことどもあると聞くこそ、うらやましけれ。古(ふ)りぬる身なりとも、思(おぼ)し召しはなつまじき御こととこそ思ひ参らするに」と、かへすがへす申されたり」 とて、笑はせ給ふもむつかしければ、四条大宮なる乳母(めのと)がもとへ出でぬ。
乳母の家に有明・院の来訪
いつしか有明の御文(ふみ)あり。程近きところに、御あひていする稚児(ちご)のもとへ入らせ給ひて、それへ忍びつつ参りなどするも、たび重なれば、人の物言ひさがなさは、やうやう天の下のあつかひぐさになると聞くもあさましけれど、「身のいたづらにならんもいかがせん。さらば片山里の柴の庵(いほり)のすみかにこそ」など仰せられつつ、通ひありき給ふぞいとあさましき。
かかるほどに、十月(かんなづき)の末になれば、常よりも心地も悩ましくわづらはしければ、心細く悲しきに、御所よりの御沙汰(さた)にて、兵部卿(ひやうぶきやう)その沙汰したるも、つゆのわが身のおきどころいかがと思ひたるに、いといたう更くるほどに、忍びたる車の音して門たたく。
「富の小路殿より、京極殿の御局(つぼね)の御わたりぞ」といふ。いと心得ぬ心地すれど、あけたるに、網代(あじろ)車にいたうやつしつつ、入らせおはしましたり。思ひ寄らぬことなれば、あさましくあきれたる心地するに、「さしていふべきことありて」とて、こまやかに語らひ給ひつつ、
「さてもこの有明のこと、世に隠れなくこそなりぬれ。わがぬれぎぬさへ、様々をかしきふしにとりなさるると聞くが、よによしなくおぼゆるときに、このほど、こと方にこころもとなかりつる人、かの今宵亡くて生れたると聞くを、あなかまとて、いまださなきよしにてあるぞ。ただ今もこれより出で来たらんを、あれへやりて、ここのをなきになせ。さてそこの名は、少し人の物言ひ草も静まらんずる。すさまじく聞くことのわびしさに、かくはからひたるぞ」
とて、明けゆく鳥の声におどろかされて帰り給ひぬるも、浅からぬ御志はうれしきものから、昔物語めきて、よそに聞かん契りも、憂かりしふしのただにてもなくて、たぴ重なる契りも悲しく思ひゐたるに、いつしか文(ふみ)あり。
「今宵のしきは、珍らかなりつるも忘れがたくて」とこまやかにて、
荒れにけるむぐらの宿の板びさしさすが離れぬ心地こそすれ
とあるも、いつまでと心細くて、
あはれとてとはるることもいつまでと思へば悲し庭のよもぎふ
有明の男子を生む
この暮れには、有明の光も近きほどと聞けども、そのけにや、昼より心地も例ならねば、思ひ立たぬに、更(ふ)け過ぎてのちおはしたるも、思ひ寄らずあさましけれど、心知るどち二三人よりほかは立ちまじる人もなくて、入れ奉りたるに、夜べの趣を申せば、「とても身に添ふべきにはあらねども、ここさへいぶせからんこそ口惜しけれ。かからぬためしも世に多きものを」とて、いと口惜しと思したれども、「御はからひの前はいかがはせん」などいふほどに、明けゆく鐘とともに、をのこ子にてさへおはするを、何の人かたとも見えわかずかはゆげなるを、膝にすゑて、「昔の契り浅からでこそかかるらめ」など、涙もせきあへず、大人(おとな)に物を言ふやうにくどき給ふほどに、夜もはしたなく明けゆけば、名残(なごり)をのこして出で給ひぬ。
この人をば仰せのままに渡し奉りて、ここには何の沙汰もなければ、「露消え給ひにけるにこそ」などいひてのちは、いたく世の沙汰も、けしからざりし物言ひもとどまりぬるは、思(おぼ)し寄らぬくまなき御志は、公私ありがたき御ことなり。御心知る人のもとより沙汰し送ることども、いかにも隠れなくやといとわびし。  
 

 

有明の最後の訪問、鴛鴦の夢
十一月(しもつき)六日のことなりしに、あまりになるほどに御訪れのうちしきるも、そらおそろしきに、十三日の夜ふくるほどに例の立ち入り給ひたるも、なべて世の中つつましきに、一昨年(をととし)より春日の御神木(さかき)京にわたらせ給ふが、このほど御帰座あるべしとひしめくに、いかなることにか、かたはらやみといふことはやりて、幾ほどの日数もへだてず、人々かくるると聞くが、
「殊に身に近き無常どもを聞けば、いつかわが身もなき人数(ひとかず)にと、心細きままに、思ひ立ちつる」とて、常よりも心細くあぢきなきさまにいひ契りつつ、「形は世々に変るとも、あひ見ることだに絶えせずは、いかなる上品上生(じやうぼんじやうしやう)の台(うてな)にも、共に住まずは物憂かるべきに、いかなる藁屋(わらや)のとこなりとも、もろ共にだにあらばと思ふ」など、夜もすがらまどろまず語らひ明かし給ふほどに、明け過ぎにけり。
出で給ふべきところさへ、垣根つづきのあるじが方ざまに、人目しげければ、包むにつけたる御有様もしるかるべければ、今日はとどまり給ひぬる、そらおそろしけれども、心知る稚児(ちご)一人よりほかは知らぬを、わが宿所にても、いかが聞きなすらんと思ふも胸騒がしけれども、ぬしはさしも思されぬぞ言の葉なき心地する。
今日は日ぐらしのどかに、憂かりし有明の別れより、「にはかに雲隠れぬと聞きしにも、かこつ方なかりしままに、五部の大乗経を手づから書きて、おのづから水茎の跡を、一巻(まき)に一文字づつを加へて書きたるは、必ず下界にていま一度契りを結ばんの大願なり。いとうたてある心なり。二の経書写は終りたる。供養(くやう)をとげぬは、このたび一所に生れて供養をせんとなり。竜宮(りゆうぐう)の宝蔵にあづけ奉らば、二百余巻の経、必ずこのたびの生れに供養をのぶべきなり。さればわれ北※(ほくばう)の露と消えなんのちの煙(けぶり)に、この経を薪(たきぎ)に積み具せんと思ふなり」
など仰せらるる、よしなき妄念もむつかしく、「ただ一つ仏の蓮(はちす)の縁をこそ」と申せば、「いさや、なほこの道の名残惜しきにより、いま一度人間に生を受けばやと思ひ定め、世のならひいかにもならば、むなしき空に立ちのぼらん煙も、なほあたりは去らじ」など、まめやかにかはゆきほどに仰せられて、うちおどろきて、汗おびたたしく垂り給ふを、「いかに」と申せば、
「わが身が鴛鴦(をし)といふ鳥となりて、御身のうちへ入ると思ひつるが、かく汗のおびたたしく垂るは、あながちなる思ひに、わが魂や袖の中にとどまりけん」など仰せられて、今日さへいかがとてたち出で給ふに、月の入るさの山の端に横雲白みつつ、東(ひんがし)の山はほのぼのと明くるほどなり。
明けゆく鐘にねを添へて、帰り給ひぬる名残いつよりも残り多きに、近きほどよりかの稚児してまた文(ふみ)あり。
あくがるるわが魂はとどめおきぬ何の残りて物思ふらん
いつよりも悲しさもあはれさも、おきどころなくて、
物思ふ涙の色をくらべばやげに誰(た)が袖かしほれまさると
心にきと思ひつづくるままなるなり。
北山准后九十賀に召される
またの年の正月(むつき)の末に、大宮の院より文(ふみ)あり。
「准后(ずごう)の九十の御賀の事、この春思ひいそぐ。里住みもはるかになりぬるを、何か苦しからん。打出(うちい)での人数(ひとかず)にと思ふ。准后の御方(かた)に候(さぶら)へ」と仰せあり。
「さるべき御ことにては候へども、御所(ごしよ)さまあしざまなる御けしきにて、里住みし候ふに、何のうれしさにか打出でのみぎりに参り侍るべき」 と申さるるに、
「すべて苦しかるまじきうへ、准后の御ことは、ことさら幼くより故大納言の典侍(すけ)といひ、その身といひ、他に異ならざりしことなれば、かかる一期(ご)の御大事見沙汰せん、何かは」
など御自(みづか)らさまざま承るを、さのみ申すもことありがほなれば、参るべきよし申しぬ。
籠(こも)りの日数は四百日にあまるを、帰り参らんほどは代官を候(さぶら)はせて、西園寺の承りにて、車など賜はせたれば、いまは山がつになり果てたる心地(ここち)して、晴々しさもそぞろはしながら、紅梅の三つ衣(ぎぬ)に桜萌黄(もよぎ)の薄衣(うすぎぬ)重ねて、参りてみれば、思ひつるもしるく晴々しげなり。
帝・院・宮々参会、御所のしつらい
両院・東二条院、遊義門院(いうぎもんゐん)いまだ姫宮にておはしませしも、かねて入らせ給ひけるなるべし。新陽明門院も忍びて御幸(ごかう)あり。二月(きさらぎ)のつごもりのことなるべしとて、二十九日行幸・行啓あり。まづ行幸、輿(こし)三つばかりになる。門の前に御輿をすゑて、神司(かみづかさ)幣(ぬさ)を奉り、雅楽(うた)の司(つかさ)楽(がく)を奏す。院司左衛門督(さゑもんのかみ)参りて、事のよしを申してのち、御輿を中門(ちゆうもん)へ寄す。二条の三位(さんみ)中将、中門のうちより剣璽(けんじ)の役つとむべきに、春宮(とうぐう)行啓まづ門の下まで筵道(えんだう)を敷く。設けの御所、奉行(ぶぎやう)顕家、関白(くわんぱく)・左大将・三位中将など参り設(まう)く。傅(ふ)の大臣(おとど)御車に参らる。
その日になりぬれば、御所のしつらひ、南面(おもて)の母屋(もや)三間(ま)、中にあたりて、北の御簾(みす)に添へて仏台を立てて、釈迦如来の像一幅(ぷく)掛けらる。その前に香華(かうげ)の机(つくゑ)を立つ。左右に灯台(とうだい)を立てたり。前に講座をおく。その南に礼盤(らいばん)あり。同じ間の南の簀子(すのこ)に机を立てて、その上に御経筥(ばこ)二合おかる。寿命(ずみやう)経・法華経入れらる。御願文(ぐわんもん)、草(さう)茂範(もちのり)、清書関白殿と聞えしやらん。母屋(もや)の柱ごとに幡(はた)・華鬘(けまん)を掛けらる。
母屋の西の一の間に、御簾の中に、繧繝(うげん)二帖の上に唐錦(からにしき)の褥(しとね)を敷きて、内の御座とす。同じ御座の北に、大文(だいもん)二帖を敷きて一院の御座、二の間に同じ畳を敷きて新院の御座、その東(ひんがし)の間に屏風(びやうぶ)を立てて、大宮の院の御座、南面の御簾(みす)に几帳(きちやう)のかたびら出(い)だして、一院の女房候(さぶら)ふところをよそに見侍りし、あはれ少からず。同じき西の廂(ひさし)に屏風を立てて、繧繝二帖敷きて、その上に東京(とうぎやう)の錦の褥(しとね)を敷きて、准后(ずごう)の御座なり。
かの准后と聞ゆるは、西園寺(さいをんじ)の太政大臣実氏(さねうぢ)公の家、大宮院・東二条院御母、一院・新院御祖母、内・春宮御曾祖母なれば、世をこぞりてもてなし奉るもことわりなり。俗姓(ぞくしやう)は鷲尾(わしのを)の大納言隆房の孫、隆衡(たかひら)の卿(きやう)の女(むすめ)なれば、母方ははなれぬ縁(ゆかり)におはしますうへ、ことさら幼くより、母にて侍りし者もこれにて生ひ立ち、わが身もその名残変らざりしかば、召し出ださるるに、褻(け)なりにてはいかがとて、大宮院御沙汰にて、紫のにほひにて准后の御方(かた)に候ふべきかと定めありしを、なほいかがと思し召しけん、大宮の御方に候ふべきとて、紅梅(こうばい)のにほひ、まさりたる単(ひとへ)、紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)、赤色の唐衣(からぎぬ)、大宮院の女房はみな侍りしに、西園寺の沙汰にて、うゑ紅梅の梅襲(がさね)八、濃き単(ひとへ)、裏山吹(やまぶき)の表着(うはぎ)、青色の唐衣、紅の打衣、彩(だ)み物置きなど、心殊(こと)にしたるをぞ賜はりて候ひしかども、さやは思ひしと、よろづあぢきなきほどにぞ侍りし。
第一日の儀、法会・舞楽
事始まりぬるにや、両院・内(うち)・春宮(とうぐう)・両女院・今出川(いまでがは)の院・姫宮・春宮の大夫(だいぶ)、うちつづく誦経(じゆきやう)の鐘のひびきも、ことさらに聞えき。
階(はし)より東(ひんがし)には関白・左大臣・右大臣・花山院(くわざんゐん)大納言・土御門の大納言源大納言・大炊(おほひ)の御門(みかど)の大納言・右大将・春宮大夫・程なく席を立つ、左大将・三条中納言・花山院中納言、家奉行(いへぶぎやう)の院司左衛門督(さゑもんのかみ)、階より西に四条前大納言・春宮権大夫(とうぐうごんのだいぶ)・権大納言・四条宰相・右衛門督などぞ候(さぶら)ひし。
主上御引直衣(ひきなほし)、正絹(すずし)の御袴(はかま)、一院御直衣、青鈍(にび)の御指貫(さしぬき)、新院御直衣、綾(あや)の御指貫、春宮御直衣、浮織物の紫の御指貫なり。みな御簾(みす)の内におはします。左右大将・右衛門督、弓を持ち矢を負ひたり。
楽人(がくにん)・舞人(まひびと)、鳥向楽(でうかうらく)を奏す。鶏婁(けいろう)先だつ。乱声(らむざう)、左右桙(ほこ)を振る。こののち壱越調(いちこつてう)の調子を吹きて、楽人・舞人、衆僧衆会(しゆそうしゆゑ)の所へ向ひて、左右にわかれて参る。中門を入りて舞台の左右を過ぎて、階(はし)の間よりのぼりて座に着く。
講師(かうじ)法印憲実(けんじち)、読師僧正(そうじやう)守助(しゆうじよ)、呪願(じゆぐわん)僧正道耀(だうえう)座にのぼりぬれば、堂達(だうたつ)磬(けい)を打つ。堂童子(だうどうじ)重経・顕範(あきのり)・仲兼(なかかぬ)・顕世・兼仲・親氏など、左右にわけて候(さぶら)ふ。唄師(ばいし)、声出でてのち、堂童子花筥(はなばこ)をわかつ。 楽人渋河鳥(しんがてう)を奏して、散華行道(さんげぎやうだう)一ぺん、楽人鶏婁(けいろう)、御前にひざまづく。一は久資(ひさすけ)なり。院司為方(ためかた)禄を取る。
後に杖(つゑ)を退けて舞を奏す。けしきばかりうちそそく春の雨、糸をびたるほどなるを、いとふけしきもなく、このもかのもに並(な)みゐたる有様、いつまでぐさのあぢきなく見わたさる。左万歳楽(まんざいらく)、楽拍子(がくびやうし)、賀殿(かてん)・陵王(りようわう)、右地久(ちきう)・延喜楽(えんぎらく)・納曽利(なそり)、二の者にて多久忠(おほのひさただ)、勅禄の手とかや舞ふ。このほど右の大臣(おとど)座を立ちて、左の舞人近康(ちかやす)を召して、勧賞(けんじやう)仰せらる。うけたまはりて再び拝み奉るべきに、右の舞人久資、楽人政秋同じく勧賞をうけたまはる。政秋、笙(しやう)の笛を持ちながら起き伏すさま、つきづきしなど御沙汰(さた)あり。
講師座をおりて、楽人楽を奏す。そののち御布施(ふせ)を引かる。頭中将公敦(きんあつ)・左中将為兼(ためかぬ)・少将やすなかなど、闕腋(わきあけ)に平胡※(ひらやなぐひ)を負へり。縫腋(もとはし)に革緒(かはを)の太刀(たち)、多くは細太刀な りしに、衆僧どもまかり出づるほどに、廻忽(くわいこつ)・長慶子(ちやうげいし)を奏して、楽人・舞人まかり出づ。
大宮・東二条・准后の御膳参る。准后の陪膳(はいぜん)四条宰相、役送(やくそう)左衛門督(さゑもんのかみ)なり。
第二日の儀、御膳の儀、御遊
次の日は三月(やよひ)の一日なり。内・春宮(とうぐう)・両院、御膳参る。舞台(ぶたい)とりのけて、母屋(もや)の四面に壁代(かべしろ)を掛けたる、西のすみに御屏風(びやうぶ)を立てて、中の間に繧繝(うげん)二帖敷きて、唐錦(からにしき)の褥(しとね)を敷きて、公の御座、両院の御座、母屋にまうけたり。東の対(たい)一間に繧繝を敷きて、東京(とうぎやう)の錦の褥を敷きて、春宮の御座とみえたり。内・両院御簾(ぎよれん)、関白殿、春宮には傅(ふ)の大臣(おとど)遅参にて、大夫(だいぶ)御簾に参り給ふなりけり。
主上、常の御直衣(なほし)、紅(くれなゐ)の打御衣(うちおんぞ)、綿入れて出(い)ださる。一院、固織物(かたおりもの)の薄色御指貫(さしぬき)、新院、浮織物の御直衣、同じ御指貫、これも紅の打御衣、綿入りたるを出ださる。春宮、浮線綾(ふせんりよう)の御指貫、打御衣、綿入らぬを出ださる。
御膳参る。内の御方陪膳(はいぜん)、花山院(くわざんゐん)大納言、役送(やくそう)四条宰相・三条の宰相中将、一院陪謄、大炊御門(おほひみかど)の大納言、新院春宮大夫、春宮三条宰相中将。春宮の役送隆良、桜の直衣、薄色の衣(きぬ)、同じ指貫、紅の単、壺・老懸(おいかけ)までも今日をはれとみゆ。
御膳果ててのち御遊(ぎよいう)。内の御笛、柯亭(かてい)といふ御笛、筥(はこ)に入れて忠世参る。関白取りて御前(ぜん)におかる。春宮御琵琶(びは)玄象(げんじやう)なり。権亮(ごんのすけ)親定持ちて参るを、大夫御前(まへ)におかる。臣下の笛の筥(はこ)べちにあり。笙(しやう)土御門の大納言、笙左衛門督、篳篥(ひちりき)兼行、和琴(わごん)大炊御門の大納言、琴左大将、琵琶春宮大夫・権大納言、拍子(ひやうし)徳大寺の大納言、洞院三位中将琴、宗冬付歌(つけうた)、呂(りよ)の歌安名尊(あなたふと)・席田(むしろだ)、楽鳥(がくとりの)破急、律(りつ)青柳(あをやなぎ)、万歳楽(まんざいらく)、三台の急(きふ)、これにて侍りしやらん。
 

 

和歌御会
御遊(ぎよいう)果てぬれば和歌の御会あり。六位・殿上人(てんじやうびと)、文台(ぶんだい)・円座をおく。下臈(げらふ)より懐紙をおく。為道縫腋(もとほし)の袍(はう)に革緒(かはを)の太刀(たち)、壺(つぼ)なり。弓に懐紙をとり具して、のぼりて文台におく。残りの殿上人のをばとり集めて、信輔(のぶすけ)文台におく。為道より先に春宮権大進(とうぐうごんだいじん)顕家、春宮の御円座を文台の東に敷きて、披講のほど御座ありし、古きためしも今めかしくぞ人々申し侍りし。
公卿(くぎやう)、関白・左右大臣・儀同三司(ぎどうさんし)・兵部卿(ひやうぶきやう)・前藤(とう)大納言・花山院(くわざんゐん)大納言・右大将・土御門大納言・春宮大夫(とうぐうだいぶ)・大炊御門(おほひみかど)の大納言・徳大寺大納言・前藤中納言・三条中納言・花山院中納言・左衛門督(さゑもんのかみ)・四条宰相・右兵衛督(うひやうゑのかみ)・九条侍従三位とぞ聞えし。
みな公卿(くぎやう)直衣(なほし)なる中に、右大将 通基 表着(おもてぎ)、魚綾(ぎよりよう)の山吹の衣(きぬ)を出だして、太刀をはきたり。笏(しやく)に懐紙をもち具したり。このほかのよその公卿は、弓に矢を負へり。花山院中納言講師(かうじ)を召す。公敦(きんあつ)参る。読師(どくし)左の大臣に仰せらるる、故障にて右大臣参り給ふ。兵部卿。藤中納言など召しにて参る。
権中納言の局(つぼね)の歌、紅(くれなゐ)の薄様(うすやう)に書きて、簾中(れんちゆう)より出ださるるに、新院、
「雅忠卿女(むすめ)の歌はなどみえ候はぬぞ」と申されけるに、
「いたはりなどにて候ふやらん。すんしうて」と御返事ある。
「など歌をだに参らせぬぞ」と春宮大夫いはるれば、
「東二条院より、歌ばし召さるなと准后(ずごう)へ申されけるよし承りし」など申して、
かねてより数に洩れぬと聞きしかば思ひもよらぬ和歌の浦波
などぞ、心一つに思ひつづけて侍りし。
内・新院の御歌は殿下賜はり給ふ。春宮のはなほ臣下のつらにて同じ講師読み奉る。内・院のをば左衛門督読師、殿下たびたび講ぜらる。披講(ひかう)果てぬれば、まづ春宮入らせ給ふ。そのほども公卿禄(ろく)あり。内の御製は、殿書き給ひける。禅定(ぜんぢやう)仙院 今の大覚寺の法皇の御事なり 従一位藤原の朝臣(あそん)貞子(ていし)、九十の齢を賀する歌、
行末をなほ長き世と契るかな三月(やよひ)に移る今日の春日に
新院の御歌は、内の大臣(おとど)書き給ふ。端書(はしがき)同じさまながら、貞子の二字をとどめらる。
百年(ももとせ)といまや鳴くらむ鶯(うぐひす)のここのかへりの君が春へて
春宮のは左大将書き給ふ。「春の日北山の邸(てい)にて、行幸するに侍りて、従一位藤原の朝臣、九十の算を賀して、制に応ずる歌」とて、なほ上の文字を添へられたるは、古き例(ためし)にや。
限りなき齢はいまだ九十(ここのそぢ)なほ千代遠き春にもあるかな
このほかのをば別(べち)に記しおく。
さても春宮の大夫の、
代々のあとになほ立ちのぼる老の波よりけん年は今日のためかも
まことに、おもしろきよし、公私申しけるとかや。
実氏(さねうぢ)の大臣(おとど)の一切経の供養の折の御会に、後嵯峨の院、「花もわが身も今日さかりかも」とあそばし、大臣の「わが君々の千代のかざしに」と詠まれたりしは、ことわりにおもしろく聞えしに劣らず、など沙汰ありしにや。
こののち、御鞠(まり)とて色々の袖(そで)を出だせる、内・春宮・新院・関白殿・内の大臣より、思ひ思ひの御姿、見どころ多かりき。後鳥羽の院、建仁のころの例(ためし)とて、新院御上鞠(あげまり)なり。御鞠果てぬれば、行幸は今宵還御(くわんぎよ)なり。あかず思(おぼ)し召さるる御旅なれども、春の司召(つかさめし)あるべしとて急がるるとぞ聞え侍りし。
第三日の儀、妙音堂の御遊
またの日は、行幸還御(くわんぎよ)ののちなれば、ゑふの姿もいとなく、うちとけたるさまなり。午(むま)の時ばかりに、北殿(きたどの)より西園寺(さいをんじ)へ筵道(えんだう)を敷く。両院御烏帽子(えぼし)・直衣(なほし)、春宮御直衣にくくりあげさせおはします。堂々御巡礼ありて、妙音堂に御参りあり。今日の御(み)ゆきを待ちがほなる花のただ一木みゆるも、「ほかの散りなんのち」とは誰(たれ)かをしへけんとゆかしきに、御遊(ぎよいう)あるべしとてひしめけば、衣被(きぬかづ)きにまじりつつ、人々あまた参るに、誰(たれ)もさそはれつつ見参らすれば、両院・春宮、内にわたらせ給ふ。
廂(ひさし)に、笛花山院(くわざんゐん)大納言、笙(しやう)左衛門督、篳篥(ひちりき)兼行、琵琶(びは)春宮御方、大夫(だいぶ)琴(こと)、太鼓具顕(ともあき)、羯鼓(かこ)範藤(のりふじ)、調子(てうし)盤渉調(ばんしきてう)にて、採桑老(さいしやうらう)、蘇合(そがふ)三の帖(でふ)破急、白柱・千秋楽(せんしうらく)。兼行「花、上苑に明らかなり」と詠ず。ことさら物の音(ね)ととのほりて、おもしろきに、二返終りてのち、「情なきことを機婦に妬(ねた)む」と、一院詠ぜさせおはしましたるに、新院・東宮、御声加へたるは、なべてにやは聞えん。楽終りぬれば還御あるも、あかず御名残多くぞ人々申し侍りし。
 
とはずがたり(巻四)

 

都を立つ、逢坂、赤坂の遊女
二月(きさらぎ)の二十日あまりの月とともに都を出(い)で侍(はべ)れば、なにとなく捨て果てにしすみかながらも、またと思ふべき世のならひかはと思ふより、袖(そで)の涙もいまさら、宿る月さへ濡るるがほにやとまでおぼゆるに、われながら心弱くおぼえつつ、逢坂(あふさか)の関ときけば、宮も藁屋(わらや)も果てしなくとながめすぐしけん蝉丸(せみまる)のすみかも、跡だにもなく、関の清水にやどるわが面影は、出で立つ足もとよりうちはじめ、ならはぬ旅の装(よそほ)ひいとあはれにて、やすらはるるに、いと盛りとみゆる桜のただ一木あるも、これさへ見捨てがたきに、田舎人とみゆるが、馬(むま)の上四五人きたなげならぬが、またこの花のもとに休らふも、同じ心にやとおぼえて、
行く人の心をとむる桜かな花や関守(せきもり)あふさかの山
など思ひつづけて、鏡の宿(しゆく)といふところにも着きぬ。暮るるほどなれば、遊女ども契(ちぎ)り求めてありくさま、憂(う)かりける世のならひかなとおぼえて、いと悲し。明けゆく鐘の音(おと)にすすめられて出で立つも、あはれに悲しきに、
立ちよりてみるとも知らじ鏡山心のうちに残るおもかげ
やうやう日数ふるほどに、美濃の国赤坂の宿といふところに着きぬ。ならはぬ旅の日数もさすが重なれば、苦しくもわびしければ、これに今日はとどまりぬるに、宿(やど)のあるじに若き遊女姉妹(おととい)あり。琴(こと)・琵琶(びは)など弾きて情あるさまなれば、昔思ひ出でらる心地(ここち)して、九献(くこん)などとらせて遊ばするに、二人ある遊女の姉とおぼしきが、いみじく物思ふさまにて、琵琶の撥(ばち)にてまぎらかせども、涙がちなるも、身のたぐひにおぼえて目とどまるに、これもまた、墨染(すみぞめ)の色にはあらぬ袖の涙を、あやしく思ひけるにや、杯(さかづき)すゑたる小折敷(をしき)に、書きてさしおこせたる、
思ひ立つ心は何のいろぞとも富士の煙(けぶり)の末ぞゆかしき
いと思はずに、情ある心地して、
富士のねは恋をするがの山なれば思ひありとぞ煙立つらん
馴れぬる名残は、これまでもひき捨てがたき心地しながら、さのみあるべきならねば、また立ち出でぬ。
八橋(やつはし)といふところに着きたれども、水ゆく川もなし。橋もみえぬさへ友もなき心地して、
われはなほくもでに物を思へどもその八橋は跡だにもなし
熱田社詣で
尾張(をはり)の国熱田(あつた)の社に参りぬ。御垣(みかき)を拝(をが)むより、故大納言の知る国にて、この社にはわが祈りのためとて、五月(さつき)の御祭にはかならず神馬(じんめ)を奉る使を立てられしに、最後の病の折、神馬を参らせられしに、生絹(すずし)の衣(きぬ)を一つ添へて参らせしに、萱津(かやつ)の宿といふところにて、にはかにこの馬(むま)死ににけり。驚きて在庁がなかより、馬はたづねて参らせたりけると聞きしも、神は受けぬ祈りなりけりとおぼえしことまで、かずかず思ひ出(い)でられて、あはれさも悲しさも、遣る方なき心地して、この御社に今宵(こよひ)はとどまりぬ。
都を出でしことは、二月(きさらぎ)の二十日あまりなりしかども、さすがならはぬ道なれば、心はすすめどもはかもゆかで、三月(やよひ)の初めになりぬ。夕月夜(ゆふづくよ)はなやかにさし出(い)でて、都の空も一つながめに思ひ出でられて、いまさらなる御面影も立ち添ふ心地するに、御垣のうちの桜は、けふ盛りとみせがほなるも、誰(た)がためにほふ梢(こずゑ)なるらんとおぼえて、
春の色もやよひの空になるみ潟(がた)いま幾ほどか花もすぎむら
社の前なる杉の木に、札(ふだ)にて打たせ侍りき。思ふ心ありしかば、これに七日こもりて、また立ち出で侍りしかば、鳴海(なるみ)の潮干潟(しほひがた)をはるばる行きつつぞ、社をかへりみれば、霞の間(ま)よりほのみえたる朱(あけ)の玉垣神さびて、昔を思ふ涙は忍びがたくて、
神はなほあはれをかけよ御注連縄(みしめなは)ひきたがへたる憂(う)き身なりとも
鎌倉の展望、鶴岡八幡宮
明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞、都にたがはず、懐しくおぼえてみつつ、化粧坂(けはひざか)といふ山を越えて、鎌倉の方(かた)をみれば、東山(ひんがしやま)にて京を見るにはひきたがへて、階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる、あなものわびしとやうやう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。
由比(ゆひ)の浜といふところへ出でてみれば、大きなる鳥居あり。若宮の御社はるかにみ え給へば、他の氏よりはとかや誓ひ給ふなるに、契りありてこそさるべき家にと生(むま)れ けめに、いかなる報いならんと思ふほどに、まことや、父の生所(しやうじよ)を祈誓申したりし折、 「今生(こんじやう)の果報にかゆる」と承りしかば、恨み申すにてはなけれども、袖をひろげんをも嘆くべからず。
また小野小町も衣通姫(そとほりひめ)が流れといへども、簀(あじか)を肘(ひじ)にかけ蓑を腰に巻きても、身のはてはありしかども、わればかり物思ふとや書き置きし、など思ひつづけても、まづ御社へ参りぬ。
所のさまは、男山(をとこやま)の景色よりも、海みはるかしたるは見どころありともいひぬべし。大名ども浄衣(じやうえ)などにはあらで、いろいろの直垂(ひたたれ)にて参る、出づるも様(やう)変りたる。
小町殿と交通、病臥、新八幡放生会
かくて荏柄(えがら)・二階堂・大御堂(おほみだう)などいふところども拝みつつ、大蔵(おほくら)の谷(やつ)といふ所に、小町殿とて将軍に候(さぶら)ふは、土御門の定実のゆかりなれば、文遣はしたりしかば、「いと思ひ寄らず」といひつつ、「わがもとヘ」とてありしかども、なかなかむつかしくて、近きほどに宿をとりて侍りしかば、「たよりなくや」など、さまざまとぶらひおこせたるに、道のほどの苦しさもしばしいたはるほどに、善光寺(ぜんくわうじ)の先達(せんだち)に頼みたる人、四月(うづき)の末つ方(かた)より大事に病み出だして、前後を知らず、あさましとも言ふばかりなきほどに、少しおこたるにやと見ゆるほどに、わが身またうち臥しぬ。
二人になりぬれば、人も「いかなることにか」といへども、「ことさらなることにてはなし。ならはぬ旅の苦しさに持病(じびやう)の起りたるなり」とて、医師(くすし)などは申ししかども、いまはといふほどなれば、心細さもいはん方なし。
さほどなき病にだにも、風の気(け)、はなたりといへども、少しもわづらはしく、二三日にも過ぎぬれば、陰陽(おんやう)・医道の洩るるはなく、家に伝へたる宝、世に聞えある名馬まで、霊杜霊仏に奉る。南嶺(なんれい)の橘(たちばな)、玄圃(けんぽ)の梨、わがためにとのみこそ騒がれしに、病の床(ゆか)に臥してあまた日数はつもれども、神にも祈らず仏にも申さず、何を食ひ何を用ゐるべき沙汰にも及ばで、ただうち臥したるままにて、明かし暮らす有様、生(しやう)を変へたる心地すれども、命は限りあるものなれば、六月(みなづき)のころよりは心地もおこたりぬれども、なほ物参り思ひ立つほどの心地はせで、ただよひありきて、月日むなしく過ぐしつつ、八月(はづき)にもなりぬ。
十五日の朝(あした)、小町殿のもとより、「今日は都の放生会(はうじやうゑ)の日にて侍る、いかが思ひ出づる」と申したりしかば、
思ひ出づるかひこそなけれ石清水同じ流れの末もなき身は
返し、
ただ頼め心のしめの引く方に神もあはれはさこそ掛くらめ
また鎌倉の新八幡(やはた)の放生会といふことあれば、事の有様もゆかしくて、立ち出でて みれば、将軍御出仕の有様、所につけてはこれもゆゆしげなり。大名どもみな狩衣(かりぎぬ)に て出仕したる、直垂(ひたたれ)着たる帯刀(たちはき)とやらんなど、思ひ思ひの姿ども珍しきに、赤橋といふ所より、将軍車よりおりさせおはします折、公卿(くぎやう)・殿上人(てんじやうびと)少々御供したる有様ぞ、あまりにいやしげにも、ものわびしげにも侍りし。
平左衛門入道(へいさゑもんにふだう)と申す者が嫡子、平二郎左衛門が、将軍の侍所(さぶらいどころ)の所司とて参りし有様などは、物にくらべば、関白などの御振舞とみえき。ゆゆしかりしことなり。流鏑馬(やぶさめ)、いしいしのまつりごとの作法(さはふ)・有様は、見てもなにかはせんとおぼえしかば、帰り侍りにき。
将軍惟康、都へ配流
さるほどに、幾ほどの日数も隔たらぬに、鎌倉に事出(い)で来べしとささやく。誰(た)がうへならんといふほどに、将軍都へ上り給ふべしといふほどこそあれ、ただ今御所を出で給ふといふをみれば、いとあやしげなる張輿(はりこし)を対(たい)の屋のつまへ寄す。丹後の二郎判官(はうぐわん)といひしやらん、奉行(ぶぎやう)して渡し奉るところヘ、相模の守(かみ)の使とて、平二郎左衛門出で来たり。
その後(のち)先例なりとて、「御輿さかさまに寄すべし」といふ。またここには未だ御輿だに召さぬさきに、寝殿には小舎人(ことねり)といふ者のいやしげなるが、藁沓(わらうづ)はきながら上(うへ)へのぼりて、御簾(みす)引き落しなどするも、いと目もあてられず。
さるほどに、御輿出でさせ給ひぬれば、めんめんに女房たちは、輿などいふこともなく、物をうち被(かづ)くまでもなく、「御所はいづくへ入(い)らせおはしましぬるぞ」などいひて、泣く泣く出づるもあり。大名など心寄せあるとみゆるは、若党など具(ぐ)せさせて、暮れゆくほどに、送り奉るにやとみゆるもあり。思ひ思ひ心々に別れゆく有様は、いはん方なし。
佐介(さすけ)の谷(やつ)といふところへまづおはしまして、五日ばかりにて、京へ御上りなれば、御出での有様も見参らせたくて、その御あたり近きところに、押手(おしで)の聖天(しやうでん)と申す霊仏おはしますへ参りて、聞き参らすれば、御立ち、丑(うし)の時と時をとられたるとて、すでに立たせおはします折ふし、宵(よひ)より降る雨、ことさらその程となりては、おびたたしく風吹き添へて、物など渡るにやとおぼゆるさまなるに、時たがへじとて出(い)だし参らするに、御輿を筵(むしろ)といふものにて包みたり。あさましく目もあてられぬ御様(やう)なり。
御輿寄せて召しぬとおぼゆれども、何かとてまた庭にかき据ゑ参らせて、ほどふれば御洟(はな)かみ給ふ。いと忍びたるものから、たびたび聞ゆるにぞ、御袖(そで)の涙もおしはかられ侍りし。
さても将軍と申すも、ゑびすなどがおのれと世をうち取りて、かくなりたるなどにてもおはしまさず。後の嵯峨の天皇、第二の皇子と申すべきにや、後深草のみかどには、御年とやらんほどやらん御まさりにて、まづ出でき給ひにしかば、十善(じふぜん)のあるじにもなり給はば、これも、位をも継ぎ給ふべき御身なりしかども、母准后(じゆごう)の御事ゆゑかなはでやみ給ひしを、将軍にて下り給ひしかども、ただ人(うど)にてはおはしまさで、中務(なかつかさ)の親王(しんわう)と申し侍りしぞかし。その御あとなれば、申すにや及ぶ。何となき御おもひ腹(ばら)など申すこともあれども、藤門執柄(とうもんしつぺい)の流れよりも出(い)で給ひき。いづ方につけてか、少しもいるがせなるべき御ことにはおはします、と思ひつづくるにも、まづ先立つものは涙なりけり。
五十鈴(いすず)川同じ流れを忘れずはいかにあはれと神も見るらん
御道のほども、さこそ露けき御ことにて侍らめとおしはかられ奉りしに、御歌などいふことの一つも聞えざりしぞ、前将軍の「北野の雪の朝ぼらけ」など遊ばされたり し御あとにと、いと口惜しかりし。
 

 

新将軍久明の東下
かかるほどに、後深草の院の皇子(わうじ)、将軍に下り給ふべしとて、御所(ごしよ)造りあらため、ことさら世の中はなやかに、大名七人御迎へに参ると聞きしなかに、平左衛門入道(へいさゑもんにふだう)が二郎、飯沼(いひぬま)の判官(はうぐわん)、未だ使の宣旨もかうぶらで、新左衛門と申し候ふがその中に上るに、流され人の上り給ひしあとをば通らじとて、足柄山(あしがらやま)とかやいふところへ越えゆくと聞えしをぞ、みな人あまりなることとは申し侍りし。御下り近くなるとて、世の中ひしめくさま、事ありがほなるに、いま二三日になりて、朝(あした)とく小町殿よりとて文(ふみ)あり。
何ごとかとてみるに、思ひかけぬことなれども、平入道が御前(ごぜん)、御方(かた)といふがもとへ東二条院より五つ衣(ぎぬ)を下し遣(つかは)されたるが、調(てう)ぜられたるままにて縫ひなどもせられぬを、申し合はせんとて、さりがたく申すに、「出家の習ひ苦しからじ。そのうへ誰(たれ)とも知るまじ。ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたびかなふまじきよしを申ししかども、果ては相模(さがみ)の守(かみ)の文(ふみ)などいふものさへとり添へて、何かといはれしうヘ、これにては何とも見沙汰(みさた)する心地にてあるに、安かりぬべきことゆゑ、何かと言はれんもむつかしくて、まかりぬ。
相模の守の宿所(すくしよ)のうちにや、角殿(すみどの)とかやとぞ申しし。御所(ごしよ)さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉(こんごんきんぎよく)をちりばめ、光耀鸞鏡(くわうえうらんけい)を瑩(みが)いてとはこれにやとおぼえ、解脱(げだつ)の瓔珞(やうらく)にはあらねども、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、几帳(きちやう)の帷子(かたびら)引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。
御方とかや出でたり。地は薄青に紫の濃き薄き糸にて、紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物の二つ衣(ぎぬ)に、白き裳(も)を着たり。みめことがら誇りかに、たけ高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道(にふだう)あなたより走りきて、袖(そで)短かなる白き直垂(ひたたれ)姿にて馴れ顔に添ひゐたりしぞ、やつるる心地(ここち)し侍りし。
御所よりの衣(きぬ)とて取り出だしたるをみれば、蘇芳(すはう)の匂ひの内へまさりたる五つ衣(ぎぬ)に、青き単(ひとへ)重なりたり。上は、地は薄々と赤紫に、濃き紫、青き格子(かうし)とを、かたみがはりに織られたるを、さまざまに取りちがへて裁ち縫ひぬ。重なりは内へまさりたるを、上へまさらせたれば、上は白く二番は濃き紫などにて、いと珍らかなり。「などかくは」といへば、「御服所(ごふくどころ)の人々も御暇(ひま)なしとて、知らずしに、これにてして侍るほどに」などいふ。をかしけれども、重なりばかりはとり直させなどするほどに、守(かう)の殿より使あり。
「将軍の御所の御しつらひ、外様(とざま)のことは比企(ひき)にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよ」 といはれたる。とは何ごとぞとむつかしけれども、ゆきかかるほどにては、憎いけしていふべきならねば、参りぬ。これは、さほどに目あてられぬほどのことにてもなく、うちまかせて公(おほやけ)びたる御事どもなり。御しつらひのこと、ただ今とかく下知(げち)しいふべきことなければ、「御厨子(づし)の立て所(どころ)所らく御衣(きぬ)の掛けやうかくやあるべき」などにて帰りぬ。
すでに将軍御着きの日になりぬれば、若宮小路は所もなく立ち重なりたり。御関迎への人々、はや先陣は進みたりとて二三十、四五十騎、ゆゆしげにて過ぐるほどに、はやこれへとて、召次(めしつぎ)などていなる姿に直垂(ひたたれ)着たるもの、小舎人(ことねり)とぞいふなる二十人ばかり走りたり。
そののち大名ども、思ひ思ひの直垂(ひたたれ)に、うち群れうち群れ、五六町にもつづきぬとおぼえて過ぎぬるのち、女郎花(をみなへし)の浮織物の御下衣(したぎぬ)にや召して、御輿(こし)の御簾(すだれ)あげられたり。のちに飯沼の新左衛門、木賊(とくさ)の狩衣(かりぎぬ)にて供奉(ぐぶ)したり。ゆゆしかりしことどもなり。
御所には、当国司・足利より、みなさるべき人々は布衣(ほうい)なり。御馬(むま)引かれなどする儀式めでたくみゆ。三日にあたる日は、山内(やまのうち)といふ相模殿(さがみどの)の山荘へ御入りなどとて、めでたくきこゆることどもを見聞くにも、雲居(くもゐ)の昔の御ことも思ひ出でられてあはれなり。
鎌倉で和歌の交歓、川口の歳晩
やうやう年の暮にもなりゆけば、今年は善光寺(ぜんくわうじ)のあらましもかなはでやみぬと口惜(くちを)しきに、小町殿の、 これより残りをば刀にて破(や)られて候、おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしく候、…… 心のほかにのみおぼえて過ぎゆくに、飯沼(いひぬま)の新左衛門(さゑもん)は、歌をもよみ好き者といふ名ありしゆゑにや、若林の二郎左衛門といふ者を使にてたびたび呼びて、続歌(つぎうた)などすべきよしねんごろに申ししかば、まかりたりしかば、思ひしよりも情あるさまにて、たびたび寄り合ひて、連歌・歌などよみて遊び侍りしほどに、十二月(しはす)になりて、河越(かはごえ)の入道と申す者のあとなる尼の、武蔵の国川口といふ所へ下る、あれより、年返らば善光寺へ参るべしといふも、たよりうれしき心地してまかりしかば、雪降り積りて分けゆく道もみえぬに、鎌倉より二日にまかり着きぬ。
かやうの物へだたりたる有様、前には入間(いるま)川とかや流れたる。向へには、岩淵(いはぶち)の宿といひて、遊女どものすみかあり。山といふものはこの国内(くにうち)にはみえず。はるばるとある武蔵野の萱(かや)が下折れ、霜枯れはててあり。なかを分け過ぎたる住まひ思ひやる。都の隔たりゆく住まひ、悲しさもあはれさも、とり重ねたる年の暮なり。
つらつら古(いにしへ)をかへりみれば、二歳の年母には別れければ、その面影も知らず。やうやう人となりて、四つになりし九月(ながつき)二十日あまりにや、仙洞(せんとう)に知られ奉りて、御簡(みふだ)の列(れち)に連なりてよりこの方(かた)、かたじけなく君の恩眷(おんけん)をうけたまはりて、身を立つるはかりごとをも知り、朝恩(てうおん)をもかぶりて、あまたの年月を経しかば、一門の光ともなりもやすると、心のうちのあらましも、などか思ひ寄らざるべきなれども、捨てて無為(むゐ)に入るならひ、定まれる世のことわりなれば、妻子珍宝及(きふ)王位、臨命(りんみやう)終時(しゆじ)不随者、思ひ捨てにし憂き世ぞかしと思へども、馴れこし宮のうちも恋しく、折々の御情も忘られ奉らねば、ことのたよりには、まづこととふ袖(そで)の涙のみぞ色深く侍る。
雪さへかきくらし降り積れば、ながめの末さへ道絶えはつる心地して、ながめゐたるに、あるじの尼君が方より、「雪のうちいかに」と申したりしかば、
思ひやれ憂きことつもる白雪のあとなき庭に消えかへる身を
問ふにつらさの涙もろさも、人めあやしければ、忍びてまた年も返りぬ。軒端(のきば)の梅に木伝ふ鶯(うぐひす)の音におどろかされても、あひみかへらざるうらみ忍びがたく、昔を思ふ涙は、あらたまる年ともいはずふるものなり。
善光寺詣で、高岡石見入道邸に滞在
二月(きさらぎ)の十日あまりのほどにや、善光寺(ぜんくわうじ)へ思ひ立つ。碓氷坂(うすひざか)、木曾の懸路(かけぢ)の丸木橋(まろきばし)、げにふみみるからにあやふげなるわたりなり。道のほどの名所なども、休らひ見たかりしかども、大勢にひき具(ぐ)せられてことしげかりしかば、何となく過ぎにしを、思ひのほかにむつかしければ、宿願の志ありてしばし籠るべきよしをいひつつ、帰さにはとどまりぬ。一人とどめ置くことを心苦しがりいひしかば、
「中有(ちゆうう)の旅の空には誰(たれ)か伴ふべき。生(しやう)ぜし折も一人来(きた)りき。去りてゆかん折もまたしかなり。相逢ふ者は必ず別れ、生ずるものは死に必ず至る。桃花(たうくわ)装(よそほ)ひいみじといへども、つひには根にかへる。紅葉(こうえふ)は千入(ちしほ)の色を尽くして盛りありといへども、風を待ちて秋の色久しからず。名残(なごり)を慕ふは一旦の情なり」
などいひて、一人とどまりぬ。
所のさまは眺望(てうばう)などはなけれども、生身(しやうじん)の如来(によらい)と聞き参らすれば、頼もしくおぼえて、百万遍の念仏など申して、明かし暮らすほどに、高岡の石見(いわみ)の入道といふ者あり。いと情ある者にて、歌つねによみ管弦(くわんげん)などして遊ぶとて、かたへなる修行者・尼にさそはれてまかりたりしかば、まことにゆゑある住まひ、辺土分際(ぶんざい)には過ぎたり。かれといひこれといひて慰むたよりもあれば、秋まではとどまりぬ。
浅草寺詣で、秋月の述懐
八月(はづき)の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵の国へ帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分けゆくに、萩・女郎花(をみなへし)・荻(をぎ)・芒(すすき)よりほかは、またまじるものもなく、これが高さは、馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿(しゆく)などもあれ、はるばる一とほりは、来(こ)し方(かた)行く末野原なり。
観音堂はちとひき上りて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに、 草の原より出づる月影と思ひ出づれば、今宵は十五夜なりけり。雲の上の御遊びも思ひやらるるに、御形見の御衣(おんぞ)は、如法経の折、御布施に大菩薩に参らせて、今ここにありとはおぼえねども、鳳闕(ほうけつ)の雲の上忘れ奉らざれば、余香(よきやう)をば拝する志も、深きにかはらずぞおぼえし。
草の原より出でし月影、更けゆくままに澄みのぼり、葉末に結ぶ白露は、玉かとみゆる心地して、
雲の上に見しもなかなか月ゆゑの身の思ひ出は今宵(こよひ)なりけり
涙に浮ぶ心地して、
くまもなき月になりゆくながめにもなほ面影は忘れやはする
明けぬれば、さのみ野原に宿るべきならねば帰りぬ。
隅田川、三芳野の伝承
さても、隅田川原近きほどにやと思ふも、いと大きなる橋の、清水(きよみづ)・祗園(ぎをん)の橋のていなるを渡るに、きたなげなき男二人逢ひたり。「このわたりに隅田川といふ川の侍るなるは、いづくぞ」と問へば、
「これなんその川なり。この橋をばすだの橋と申し侍る。昔は橋なくて、渡し船にて 人を渡しけるも、煩(わづら)はしくとて橋出(い)できて侍る。隅田川などはやさしきことに申しおきけるにや。賤(しづ)がことわざには、すだ川の橋とぞ申し侍る。 この川の向へをば、昔は三芳野(みよしの)の里と申しけるが、賤が刈り乾す稲と申すものに、実の入らぬところにて侍りけるを、時の国司里の名を尋ねききて、ことわりなりけりとて、吉田の里と名を改めちれて後、稲うるはしく実も入り侍る」
など語れば、業平(なりひら)の中将、都鳥(みやこどり)に言(こと)問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、
たづね来(こ)しかひこそなけれ隅田川すみけん鳥の跡だにもなし
川霧こめて、来し方行く先もみえず、涙にくれてゆく折ふし、雲居(くもゐ)遙かに鳴くかりがねの声も、折知りがほにおぼえ侍りて、
旅の空涙にくれてゆく袖をこととふ雁の声ぞかなしき
堀兼の井は跡もなくて、ただ枯れたる木の一つ残りたるばかりなり。これより奥さままでも行きたけれども、恋路の末にはなほ関守(せきもり)も許しがたき世なれば、よしやなかなかと思ひかへして、また都の方(かた)へ帰り上りなんと思ひて、鎌倉へ帰りぬ。
 

 

飯沼判官との惜別、熱田社
とかく過ぐるほどに、九月(ながつき)の十日余りのほどに、都へ帰り上らんとするほどに、さきに馴れたる人々、めんめんに名残惜しみなどせしなかに、暁とての暮れ方、飯沼(いひぬま)の左衛門(さゑもん)の尉(じよう)、さまざまの物ども用意して、いま一ど続歌(つぎうた)すべしとて来たり。 情もなほざりならずおぼえしかば、夜もすがら歌よみなどするに、「涙川と申す川はいづくに侍(はべ)るぞ」といふことを、先のたび尋ね申ししかども、知らぬよし申して侍りしを、夜もすがら遊びて、「あけばまことに立ち給ふやは」といへば、「とまるべき道ならず」といひしかば、帰るとて、杯(さかづき)据ゑたる折敷(をしき)に書きつけてゆく。
わが袖にありけるものを涙川しばしとまれといはぬ契りに
返し遣はしやするなど思ふほどに、またたち返り旅の衣(ころも)など賜はせて、
着てだにも身をばはなつな旅衣さこそよそなる契りなりとも
鎌倉のほどは、常にかやうに寄り合ふとて、「あやしく、いかなる契りなどぞ」と申す人もあるなど聞きしも、とり添へ思ひ出でられて、返しに、
乾(ほ)さざりしその濡れ衣(ぎぬ)もいまはいとど恋ひん涙に朽ちぬべきかな
都を急ぐとしはなけれども、さてしもとどまるべきならねば、朝日とともに明け過ぎてこそ立ち侍りしか。めんめんに宿(しゆく)々ヘ次第に輿(こし)にて送りなどして、程なく小夜(さや)の中山に至りぬ。西行(さいぎやう)が「命なりけり」とよみける、思ひ出でられて、
越えゆくも苦しかりけり命ありとまた訪はましや小夜の中山
熱田の宮に参りぬ。通夜(つや)したるほどに、修行者どもの侍る、「大神宮より」と申す。「近く侍るか」といへば、津島の渡りといふ渡りをして参るよし申せば、いとうれしくて参らんと思ふほどに、宿願にて侍れば、まづこの社にて、華厳経の残りいま三十巻を書きはて参らせんと思ひて、何となく鎌倉にてちと人の賜(た)びたりし旅衣など、皆 り集めて、またこれにて経をはじむべき心地せしほどに、熱田の大宮司(だいぐうじ)とかやいふもの、わづらはしくとかく申すことどもありて、かなふまじかりしほどに、とかくためらひしほどに、例の大事に病起り、わびしくて、何のつとめもかなひがたければ、都へ帰り上りぬ。
石清水八幡で院と邂逅
かやうにしつつ年も返りぬ。二月(きさらぎ)のころにや都へ帰りのぼるついでに八幡(やはた)へ参りぬ。奈良より八幡は道のほど遠くて、日の入るほどに参り着きて、猪鼻(ゐのはな)をのぼりて宝前へ参るに、石見(いはみ)の国のものとて矮人(ひきうど)の参るを、行きつれて、「いかなる宿縁にてかかるかたは人となりけんなど、思ひ知らずや」といひつつ行くに、馬場殿の御所あきたり。
検校(けんげう)などが籠(こも)りたる折もあけば、かならず御幸などいひ聞かする人も、道のほどにてもなかりつれば、思ひも寄り参らせで過ぎゆくほどに、楼門(ろうもん)を上るところへ、召次(めしつぎ)などにやとおぼゆる者出できて、「馬場殿(どの)の御所へ参れ」といふ。
「誰(たれ)かわたらせ給ふぞ。誰と知りて、さることを承るべきことおぼえず。あの矮人(ひきうど)などがことか」といへば、「さも候はず。まがふべきことならず。御ことにて候ふ。一昨日(をととひ)より、富の小路殿の一院御幸にて候ふ」といふ。ともかくも物も申されず。
年月は、心のうちに忘るる御ことはなかりしかども、一年(ひととせ)今はと思ひ捨てし折、京極(きやうごく)殿の局(つぼね)より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに、苔(こけ)の袂(たもと)、苔の衣、霜雪霰(あられ)にしをれ果てたる身の有様は、誰(たれ)かは見知らんと思ひつるに、誰か見知りけんなど思ひて、なほ御所(ごしよ)よりの御こととは思ひ寄り参らせで、女房たちの中にあやしと見る人などのありて、ひが目にやとて問はるるにこそ、など案じゐたるほどに、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)一人走りて、「とく」といふなり。
何とのがるべきやうもなければ、北の端(はし)なる御妻戸(つまど)の縁に候(さぶら)へば、「なかなか人の見るも目立たし。内へ入れ」と仰せある御声は、さすが昔ながらに変らせおはしまさねば、こはいかなりつることぞと思ふより胸つぶれて、少しも動かれぬを、「とくとく」と承れば、なかなかにて参りぬ。
院と語り明かす
「ゆゆしく見忘られぬにて、年月隔(へだた)りぬれども、忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などよりはじめて、昔今の事ども、「移り変る世のならひ、味気(あぢき)なく思し召さるる」など、さまざま承りしほどに、寝ぬに明けゆく短か夜は、ほどなく明けゆく空になれば、「御籠(こも)りのほどはかならず籠りて、またも心静かに」など承りて、立ち給ふとて、御肌に召されたる御小袖を三つ脱がせおはしまして、「人知れぬ形見ぞ、身を放つなよ」とて賜はせし心のうちは、来(こ)し方(かた)行く末の事も、来(こ)ん世の闇も、よろづ思ひ忘れて、悲しさもあはれさも何と申しやる方なきに、はしたなく明けぬれば、「さらばよ」とて引き立てさせおはしましぬる御名残は、御あと懐しく、にほひ近きほどの御移り香も、墨染(すみぞめ)の袂にとどまりぬる心地して、人目あやしく目立たしければ、御形見の御小袖(こそで)を墨染の衣の下に重ぬるも、びんなく悲しきものから、
重ねしもむかしになりぬ恋ごろもいまは涙に墨染の袖
むなしく残る御面影を袖の涙に残して立ち侍るも、夢に夢見る心地(ここち)して、今日ばかりもいかでいま一たびも、のどかなる御ついでもやなど思ひ参らせながら、憂き面影も、思ひ寄らずながらは、力なき身のあやまりとも思し召されぬべし。あまりにうちつけにとどまりて、またの御言の葉を待ち参らせがほならんも、思ふところなきにもなりぬべしなど、心に心をいましめて都へ出づる心の中、さながらおしはかるべし。
御宮めぐりをまれ、いま一たびよそながら見参らせんと思ひて、墨染の袂は御覧じもぞつけらるると思ひて、賜(たま)はりたりし御小袖を上に着て、女房の中にまじりて見参らするに、御裘代(きうたい)の姿も昔には変りたるも、あはれにおぼえさせおはしますに、階(きざはし)のぼらせおはしますとては、資高(すけたか)の中納言、侍従の宰相(さいしやう)と申しし頃にや、御手を引き参らせて入らせおはします。「同じ袂なつかしく」などさまざま承りて、いはけなかりし世の事まで数々仰せありつるさへ、さながら耳の底にとどまり、御面影は袖の涙に宿りて、御山を出で侍りて都へと北へはうち向けども、わが魂はさながら御山にとどまりぬる心地して帰りぬ。
 
とはずがたり(巻五)

 

白峰で写経供養
讃岐(さぬき)の白峰(しろみね)・松山などは、崇徳院(すとくゐん)の御跡もゆかしくおぼえ侍りしに、訪(と)ふべきゆかりもあれば、漕(こ)ぎよせておりぬ。松山の法華堂は、如法(によほふ)行ふ景気みゆれば、しづみ給ふともなどかと頼もしげなり。「かからむ後は」と西行(さいぎやう)がよみけるも思ひ出でられて、「かかれとてこそ生(むま)れけめ」と、あそばされける古(いにしへ)の御ことまで、あはれに思ひ出で参らせしにつけても、
物思ふ身の憂きことを思ひ出でば苔の下にもあはれとはみよ
さても、五部の大乗経の宿願残り多く侍るを、この国にてまた少し書き参らせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに小さき庵室をたづね出だして、道場にさだめ、懺法(せんぽふ)・正懺悔(さんげ)などはじむ。九月(ながつき)の末のことなれば、虫の音も弱りはてて、何をともなふべしともおぼえず。三時の懺法を読みて、慙愧(ざんぎ)懺悔、六根罪障と唱へても、まづ忘られぬ御言の葉は心の底に残りつつ、さても、いまだ幼かりしころ、琵琶の曲を習ひ奉りしに、たまはりたりし御撥(ばち)を、四つの緒をば思ひ切りにしかども、御手なれ給ひしも忘られねば、法座のかたはらに置きたるも、
手になれし昔の影は残らねど形見とみればぬるる袖かな
このたびは大集経四十巻を、二十巻書き奉りて、松山に奉納し奉る。経のほどのことは、とかくこの国の知る人にいひなどしぬ。供養(くやう)には、ひととせ御形見(かたみ)ぞとて三つたまはりし御衣(おんぞ)、一つは熱田(あつた)の宮の経のとき、誦経(じゆきやう)の布施(ふせ)に参らせぬ。このたびは供養の御布施なれば、これを一つ持ちて布施に奉りしにつけても、
月出でん暁までの形見ぞとなど同じくは契らざりけん
御肌(はだ)なりしは、いかならん世までもと思ひて残しおき奉るも、罪深き心ならんかし。
帰洛、東二条院の病と死を聞く
さても、不思議なりしことはありしぞかし。この入道下りあはざらましかば、いかなるめにかあはまし。主(しゆう)にてなしといふとも、誰(たれ)か方人(かたうど)もせまし。さるほどには何とかあらまし、と思ふより、修行ももの憂くなり侍りて、なかすみして…ときどき侍る。…
都の方(かた)のことなど聞くほどに、正月(むつき)の初めつ方にや、東二条院御悩みといふ。いかなる御ことにかと、人知れずおぼつかなく思ひ参らすれども、こととふべき方(かた)もなければ、よそに承るほどに、いまはかなふまじき御ことになりて、御所(ごしよ)を出でさせおはしますよし承りしかば、無常はつねの習ひなれども、住みなれさせおはしましつる御すみかをさへ出でさせおはしますこそ、いかなる御ことなるらんと、十善(じふぜん)の床(ゆか)に並びましまして、朝まつりごとをも助け奉り、夜はともに夜ををさめ給ひし御身なれば、いまはの御ことも、かはるまじき御ことかとこそ思ひ参らするに、などやなど、御おぼつかなく覚えさせおはしまししほどに、はや御こときれさせ給ひぬとてひしめく。
折ふし近き都の住まひに侍れば、何となく、御所さまの御やうも御ゆかしくて、見まゐらせに参りたれば、まづ遊義門院(いうぎもんゐん)御幸(ごかう)なるべしとて、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)一二人、御車さし寄す。今出川(いまでがは)の右の大臣(おとど)も候(さぶら)ひ給ひけるが、御出(い)でなどいひあひたるに、遊義門院御幸まづ急がるるとて、御車寄すると見参らすれば、また、まづしばしとてひきのけて、かへり入らせおはしますかとおぼゆること、二三度になれば、いまはの御姿またはいつかと、御名残(なごり)惜しく思(おぼ)し召さるるほども、あはれに悲しく覚えさせおはしまして、あまた物見る人どももあれば、御車近く参りて承れば、すでに召されぬと思ふほどに、またたち返らせおはしましぬるにやと間ゆ。召されて後も、ためしなき御心惑(まど)ひ、よその袂(たもと)もところせきほどに、聞えさせおはしませば、心あるも心なきも、袂をしぼらぬ人なし。
宮々わたらせおはしまししかども、みな先だち参らさせおはしまして、ただ御一ところわたらせおはしまししかば、かたみの御志さこそと思ひやり参らするも、しるく見えさせおはしまししこそ、数ならぬ身のおもひにも、くらべられさせおはします心地し侍りしか。いまはの御幸を見参らするにも、昔ながらの身ならましかば、いかばかりかなど、覚えさせおはしまして、
さてもかく数ならぬ身は永らへていまはとみつる夢ぞ悲しき
御葬送(そうそう)は伏見殿の御所とて、法皇の御方(かた)も、遊義門院の御方も入らせおはしましぬと承れば、御嘆きもさこそと、おしはかり参らせしかども、伝へし風も跡絶えはてて後は、何として申し出(い)づべき方もなければ、むなしく心に嘆きて、明かし暮らし侍りしほどに、同じ年六月(みなづき)のころにや、法皇御悩みと聞ゆ。
後深草院発病、西園寺実兼に頼み院を見舞う
御瘧(おこり)ごこちなど申せば、人知れず、今やおちさせおはしましぬと承る、と思ふほどに、御わづらはしうならせおはしますとて、閻魔天供(えんまてんく)とかや行はるるなど承りしかば、ことがらもゆかしくて、参りて承りしかども、誰(たれ)にこととひ申すべきやうもなければ、むなしく帰り侍るとて、
夢ならでいかでか知らんかくばかりわれのみ袖にかくる涙を
「御日おこりにならせ給ふ」、いしいしと申す。「御大事出(い)で来(く)べき」など申すを聞くに、思ひやる方(かた)もなく、いま一たび、この世ながらの御面影を見参らせずなりなんことの悲しさなど、思ひ寄る。あまりに悲しくて、七月(ふづき)一日より八幡(やはた)に籠(こも)りて、武内の御千度(せんど)をして、このたび別(べち)の御事なからんことを申すに、五日の夢に、日蝕(につしよく)といひて、「あらはへ出でし」といふ。本のまま。ここより紙を切られて候。おぼつかなし。紙の切れたる所より写す。
めす。また御やまひの御やうも承る、など思ひつづけて、西園寺(さいをんじ)へまかりて、「昔御所さまに侍りし者なり。ちと見参(げざん)に入り侍らん」と案内(あんない)すれば、墨染(すみぞめ)の袂(たもと)を嫌ふにや、きと申し入るる人もなし。せめてのことに、文(ふみ)を書きて持ちたりしを、「見参に入れよ」といふだにも、きとは取りあぐる人もなし。夜ふくるほどになりて、春王といふ侍(さぶらひ)、一人出で来て、文取りあげぬ。「年のつもりにや、きともおぼえ侍らず。明後日(あさて)ばかり必ず立ち寄れ」と仰せらる。
何となく嬉しくて、十日の夜また立ち寄りたれば、「法皇御悩みすでにておはします とて、京へ出で給ひぬ」といへば、いまさらなる心地もかきくらす心地して、右近の馬場を過ぎ行くとても、北野・平野を伏し拝みても、「わが命に転じ替へ給へ」とぞ申 し侍りし。この願(ぐわん)もし成就して、われもし露と消えなば、御(おん)ゆゑかくなりぬとも、知られ奉るまじきこそなど、あはれに思ひつづけられて、
君ゆゑにわれ先立たばおのづから夢にはみえよ跡の白露
昼は日ぐらし思ひ暮らし、夜は夜もすがら嘆き明かすほどに、十四日夜、また北山へ 思ひ立ちて侍れば、今宵(こよひ)は入道殿出であひ給ひたる。
昔のこと何くれ仰せられて、御悩みのさま、「むげに頼みなくおはします」など、語り給ふを聞けば、いかでかおろかにおぼえさせ給はん。いま一度いかがしてとや申さん、と思ひては参りたりつれども、何とあるべしともおぼえず侍るに、「仰せられ出だしたりしこと語りて、参れかし」といはるるにつけても、袖の涙も人めあやしければたち帰り侍れば、鳥辺野(とりべの)のむなしき跡とふ人、内野(うちの)には所もなく行きちがふさま、いつかわが身もとあはれなり。
あだし野の草葉の露のあととふと行きかふ人もあはれいつまで
十五夜、二条京極より参りて、入道殿をたづね申して、夢やうに見参らする。
院死去、御所の庭にたたずむ
十六日の昼つ方(かた)にや、はや御こときれ給ひぬといふ。思ひまうけたりつる心地(ここち)ながら、いまはと聞き果て参らせぬる心地は、かこつ方なく、悲しさもあはれさも、思ひやる方なくて、御所へ参りたれば、かたへには、御修法(しゆほふ)の壇こぼちて出(い)づる方もあり。あなたこなたに人は行きちがへども、しめじめとことさら音もなく、南殿の灯籠(とうろ)も消たれにけり。春宮(とうぐう)の行啓は、いまだ明きほどにや、二条殿へなりぬれば、次第に人の気配(けはひ)もなくなりゆくに、初夜過ぐるほどに六波羅(ろくはら)御弔(とぶら)ひに参りたり。
北は富小路表(とみのこうぢおもて)に、人の家の軒に松明(たいまつ)ともさせて並(な)みゐたり。南は京極表の篝(かがり)の前に、床子(しやうじ)に尻掛けて、手のもの二行に並みゐたるさまなど、なほゆゆしく侍りき。夜もやうやう更けゆけども、帰らん空もおぼえねば、むなしき庭に一人ゐて、昔を思ひつづくれば、折々の御面影ただいまの心地して、何と申しつくすべき言の葉もなく悲しくて、月をみれば、さやかに澄みのぼりて見えしかば、
くまもなき月さへつらき今宵(こよひ)かな曇らばいかにうれしからまし
釈尊入滅(しやくそんにふめつ)の昔は、日月も光を失ひ、心なき鳥・獣(けだもの)までも、うれへたる色に沈みけるにと、げにすずろに月に向ふながめさへ、つらく覚えしこそ、我ながらせめてのことと思ひ知られ侍りしか。
葬列を跣(はだし)で追う、火葬の煙を望み空しく帰る
夜も明けぬれば、たち帰りても、なほのどまるべき心地(ここち)もせねば、平(へい)中納言のゆかりある人、御葬送奉行(さうそうぶぎやう)と聞きしに、ゆかりある女房(にようぼう)を知りたること侍りしを、たづね行きて、「御棺をとほなりとも、いま一度みせ給へ」と申ししかども、かなひがたきよし申ししかば、思ひやる方(かた)なくて、いかなるひまにても、さりぬべきことやと思ふ試みに、女房の衣(きぬ)をかづきて、日暮らし御所にたたずめども、かなはぬに、すでに御格子(かうし)参るほどになりて、御棺の入らせ給ひしやらん、御簾(みす)のとほりより、やはらたたずみ寄りて、火の光ばかり、さにやとおぼえさせおはしまししも、目もくれ心もまどひて侍りしほどに、
事なりぬとて、御車寄せ参らせて、すでに出(い)でさせおはしますに、持明院殿(じみやうゐんどの)の御所(ごしよ)、門まで出でさせおはしまして、帰り入らせおはしますとて、御直衣(なほし)の御袖(そで)にて、御涙をはらはせおはしましし御気色(けしき)、さこそと悲しく見参らせて、やがて京極表(きやうごくおもて)より出でて、御車の尻(しり)に参るに、日ぐらし御所に候(さぶら)ひつるが、事なりぬとて御車の寄りしに、あわてて、履(は)きたりしものもいづ方(かた)へか行きぬらん、はだしにて、走りおりたるままにて参りしほどに、五条京極を西へ遣り廻すに、大路(おほぢ)に立てたりし竹に、御車を遣り掛けて、御車の簾(すだれ)、片方落ちぬべしとて、御車副(くるまぞひ)のぼりてなほし参らするほど、つくづくとみれば、山科(やましな)の中将入道(にふだう)そばに立たれたり。墨染(すみぞめ)の袖もしぼるばかりなる気色(けしき)、さこそと悲し。
ここよりやとまるとまると思へども、たち帰るべき心地もせねば、次第に参るほどに、物ははかず足は痛くて、やはらづつ行くほどに、みな人には追ひおくれぬ。藤の森といふほどにや、男一人逢ひたるに、「御幸(ごかう)、先立たせおはしましぬるにか」といへば、
「稲荷(いなり)の御前をば御通りあるまじきほどに、いづかたへとやらん、参らせおはしましてしかば、こなたは人も候ふまじ。夜ははや寅(とら)になりぬ。いかにして行き給ふべきぞ。いづくへ行き給ふ人ぞ。あやまちすな、送らん」といふ。
むなしく帰らんことの悲しさに、泣く泣く一人なほ参るほどに、夜の明けしほどにや、事果てて、むなしき煙の末ばかりを見参らせし心の中、今まで世に永らふべしとや思ひけん。伏見殿の御所さまをみ参らすれば、この春、女院の御方(かた)御かくれの折は、二御方こそ御わたりありしに、このたびは、女院の御方ばかりわたらせおはしますらん御心の中、いかばかりかとおしはかり参らするにも、
露消えし後のみゆきの悲しさにむかしにかへるわが袂(たもと)かな
語らふべき戸口もさし込めて、いかにといふべき方もなし。さのみ迷ふべきにもあらねば、その夕方帰り侍りぬ。
 

 

亀山院の病と死、熊野で写経し夢想を得る
この程よりや、また法皇御悩みといふことあり。さのみうち続かせおはしますべきにもあらず。御悩(ごなう)は常のことなれば、これをかぎりと思ひ参らすべきにもあらぬに、かなふまじき御ことに侍るとて、すでに嵯峨殿(さがどの)の御幸(ごかう)と聞ゆ。去年(こぞ)今年の御あはれ、いかなる御ことにかと、及ばぬ御ことながら、あはれに覚えさせおはします。
般若(はんにや)経の残り二十巻を、今年書き終るべき宿願、年頃熊野にてと思ひ侍りしが、いたく水凍(こほ)らぬさきにと思ひ立ちて、九月(ながつき)の十日ごろに熊野へ立ち侍りしにも、御所の御ことはいまだ同じさまに承るも、つひにいかが聞えさせおはしまさんなどは、思ひ参らせしかども、去年の御あはればかりは嘆かれさせおはしまさざりしぞ、うたてき愛別(あいべち)なるや。
例の宵(よひ)暁の垢離(こり)の水を前方便(ぜんはうべん)になずらへて、那智(なち)の御山にてこの経を書く。九月(ながつき)の二十日あまりのことなれば、峰の嵐(あらし)もややはげしく、滝の音も涙あらそふ心地して、あはれを尽したるに、
物思ふ袖の涙をいくしほとせめてはよそに人の問へかし
形見の残りを尽して、浄写(じやうしや)いしいしといとなむ志を、権現(ごんげん)も納受し給ひにけるにや、写経の日数も残り少くなりしかば、御山を出づべきほども近くなりぬれば、御名残も惜しくて、夜もすがら拝みなど参らせて、うちまどろみたる暁がたの夢に、
故大納言のそばにありけるが、出御の半ばと告ぐ。見参らすれば、鳥襷(とりだすき)を浮織物に織りたる甘(かん)の御衣(おんぞ)を召して、右の方(かた)へちとかたぶかせおはしましたるさまにて、われは左の方なる御簾(みす)より出でて、向ひ参らせたる。証誠殿(しようじやうでん)の御社に入り給ひて、御簾(みす)を少しあげさせおはしまして、うち笑(ゑ)みて、よに御快げなる御さまなり。また「遊義門院の御方も、出でさせおはしましたるぞ」と告げらる。
見参らすれば、白き御袴(はかま)に御小袖ばかりにて、西の御前(ごぜん)と申す社の中に、御簾、それも半(はん)にあげて、白き衣(きぬ)二つ、うらうへより取り出でさせおはしまして、「二人の親の形見をうらうヘヘ遣りし志、忍びがたく思(おぼ)し召す。とり合せて賜(た)ぶぞ」と仰せあるを、賜はりて本座にかへりて、父大納言に向ひて、「十善(じふぜん)の床(ゆか)をふみましましながら、いかなる御宿縁にて、御かたははわたらせおはしますぞ」と申す。
「あの御かたはは、いませおはしましたる下に御腫物(はれもの)あり。この腫物といふは、われらがやうなる無知の衆生(しゆじやう)を、多くしりへもたせ給ひて、これをあはれみ育み思し召すゆゑなり。またくわが御あやまりなし」と言はる。
また見やり参らせたれば、なほ同じさまに、快き御顔にて、「近く参れ」と思し召したるさまなり。立ちて御殿の前にひざまづく。白き箸(はし)のやうに、もとは白々とけづりて、末には竹柏(なぎ)の葉二つある枝を、二つとりそろへて賜はる。
と思ひて、うちおどろきたれば、如意輪堂(によいりんだう)の懺法(せんぽふ)始まる。
何となくそばをさぐりたれば、白き扇(あふぎ)の、檜(ひのき)の骨なる一本あり。夏などにてもなきに、いと不思議にありがたくおぼえて、取りて道場に置く。このよしを語るに、那智の御山の師、備後(びんご)の律師(りし)かくたうといふもの、「扇(あふぎ)は千手(せんじゆ)の御体といふやうなり。かならず利生(りしやう)あるべし」といふ。
夢の御面影も覚むる袂(たもと)に残りて、写経終り侍りしかば、ことさら残しもち参らせたりつる御衣(おんぞ)、いつまでかはと思ひ参らせて、御布施(ふせ)に泣く泣く取り出で侍りしに、
あまた年馴れし形見の小夜衣(さよごろも)けふを限りとみるぞ悲しき
那智の御山にみな納めつつ、帰り侍りしに、
夢さむる枕(まくら)に残る有明に涙ともなふ滝の音かな
かの夢の枕なりし扇(あふぎ)を、いまは御形見ともと慰めて帰り侍りぬるに、はや法皇崩御なりにけるよし承りしかば、うち続かせおはしましぬる世の御あはれも、有為(うゐ)無常の情なきならひと申しながら、心憂く侍りて、われのみ消(け)たぬむなしきけぶりは立ち去る方(かた)なきに、年も返りぬ。
八幡で遊義門院と邂逅
三月(やよひ)初めつ方、いつも年の初めには参りならひたるも忘られねば、八幡(やはた)に参りぬ。正月(むつき)のころより奈良に侍り、鹿のほかたよりなかりしかば、御幸(ごかう)とも誰(たれ)かは知らん。例の猪鼻(ゐのはな)より参れば、馬場殿あきたるにも、過ぎにしこと思ひ出でられて、宝前を見参らすれば、御幸の御しつらひあり。「いづれの御幸にか」と尋ね聞き参らすれば、遊義門院(いうぎもんゐん)の御幸といふ。いとあはれに参りあひまゐらせぬる御契りも、去年(こぞ)みし夢の御面影さへ思ひ出で参らせて、今宵(こよひ)は通夜(つや)して、あしたもいまだ、女官(にようくわん)めきたる女房のおとなしきが所作(しよさ)するあり。誰(たれ)ならんとあひしらふ。得選(とくせん)おとらぬといふ者なり。
いとあはれにて、何となく御所(ごしよ)さまのこと尋ね聞けば、「みな昔の人は亡くなり果てて、若き人々のみ」といへば、いかにしてか誰とも知られ奉らんとて、御宮巡(めぐ)りばかりをなりとも、よそながらも見参らせんとて、したためにだにも宿へも行かぬに、事なりぬといへば、片方(かた)に忍びつつ、よに御輿のさまけだかくて、宝前へ入らせおはします。御幣の役を、西園寺(さいをんじ)の春宮権大夫(とうぐうごんのだいぶ)つとめらるるに、太上入道殿(だいじやうにふだうどの)の左衛門督(さゑもんのかみ)など申ししころの面影も、通ひ給ふ心地して、それさへあはれなるに、今日は八日とて、狩尾(とがのを)へ女房御参りといふ。
網代輿(あじろごし)二つばかりにて、ことさらやつれたる御さまなれども、もし忍びたる御参りにてあらば、誰とかは知られ奉らん。よそながらもちと御姿をもや見参らする、と思ひて参るに、また徒(かち)より参る若き人、二三人行きつれたる。御社に参りたれば、さにやと覚えさせおはします御後ろを見参らするより、袖の涙はつつまれず、立ちのくべき心地もせで侍るに、御所作はてぬるにや、立たせおはしまして、「いづくより参りたる者ぞ」と仰せあれば、過ぎにし昔より語り申さまほしけれども、「奈良の方(かた)よりにて候」と申す。
「法華寺よりか」など仰せあれども、涙のみこぼるるも、あやしとや思し召されんと 思思ひて、言葉すくなにてたち帰り侍らんとするも、なほ悲しくおぼえて候(さぶら)ふに、すでに還御(くわんぎよ)なる、御名残もせん方なきに、降りさせおはしますところの高きとて、え降りさせおはしまさざりしついでにて、「肩をふませおはしまして、降りさせおはしませ」とて、御そば近く参りたるを、あやしげに御覧ぜられしかば、「いまだ御幼く侍りし昔は、馴れ仕うまつりしに、御覧じ忘れにけるにや」と申し出でしかば、いとど涙もところせく侍りしかば、御所(ごしよ)さまにもねんごろに御尋ねありて、「いまは常に申せ」など仰せありしかば、見し夢も思ひ合せられ、過ぎにし御所に参りあひまししもこの御社ぞかし、と思ひ出づれば、かくれたる信のむなしからぬを喜びても、ただ心を知るものは涙ばかりなり。
徒(かち)なる女房のなかに、ことに初めより物など申すあり。問へば、兵衛(ひやうゑ)の佐(すけ)といふ人なり。次の日還御とて、その夜は御神楽(かぐら)・御てあそび、さまざまありしに、暮るるほどに、桜の枝を折りて兵衛の佐のもとへ、「この花散らさんさきに、都の御所へたづね申すべし」と申して、つとめては、還御よりさきに出で侍るべき心地(ここち)せしを、かかるみゆきに参り会ふも、大菩薩の御志なりと思ひしかば、よろこびも申さんなど思ひて、三日とどまりて、御社に候(さぶら)ひてのち、京へ上りて、御文(ふみ)を参らすとて、「さても花はいかがなりぬらん」とて、
花はさてもあだにや風のさそひけん契りしほどの日数ならねば
御返し、
その花は風にもいかがさそはせん契りしほどは隔てゆくとも
後深草院三回忌、御影供養
そののち、いぶせからぬほどに申し承りけるも、昔ながらの心地(ここち)するに、七月(ふづき)の初めのころより、過ぎにし御所(ごしよ)の御三めぐりにならせおはしますとて、伏見の御所にわたらせおはしませば、何となく御あはれも承りたく、いまは残る御形見(かたみ)もなければ、書くべき経はいま一部なほ残り侍れども、今年はかなはぬも心憂(う)ければ、御所の御あたり近く候(さぶら)ひて、よそながらも見参らせんなど候ひしに、
十五日のつとめては、深草の法華堂(ほつけだう)へ参りたるに、御影(みえい)の新しく造られさせおはしますとて、据(す)ゑ参らせたるを拝み参らするにも、いかでか浅くおぼえさせおはしまさん。袖(そで)の涙もつつみあへぬさまなりしを、供僧(ぐそう)などにや、並びたる人々、あやしく思ひけるにや、「近く寄りてみ奉れ」と言ふもうれしくて、参りて拝み参らするにつけても、涙の残りはなほありけりとおぼえて、
露消えしのちの形見の面影にまたあらたまる袖の露かな
十五日の月いとくまなきに、兵衛(ひやうゑ)の佐(すけ)の局(つぼね)に立ち入りて、昔今のこと思ひつづくるも、なほあかぬ心地して、立ち出でて、みやうじやう院殿の方ざまにたたずむほどに、「すでに入らせおはします」などいふを、何ごとぞと思ふほどに、今朝深草の御所にて見参らせつる御影(みえい)、入らせおはしますなりけり。案(あん)とかやいふものに据ゑ参らせて、召次(めしつぎ)めきたるもの四人してかき参らせたり。仏師にや、墨染の衣着たるもの奉行(ぶぎやう)して、二人あり。また預(あづかり)一人、御所侍(さぶらひ)一二人ばかりにて、継(つ)ぎ紙おほひ参らせて、入らせおはしましたるさま、夢の心地して侍りき。
十善万乗(じふぜんばんじよう)のあるじとして、百官にいつかれましましける昔は、おぼえずして過ぎぬ。太上(だいじやう)天皇の尊号をかうぶりましましてのち仕へ奉りし古(いにしへ)を思へば、忍びたる御歩(あり)きと申すにも、御車寄(くるまよせ)の公卿、供奉(ぐぶ)の殿上人などはありしぞかしと思ふにも、まして、いかなる道に一人迷ひおはしますらんなど、思ひやり奉るも、いまはじめたるさまに悲しくおぼえ侍るに、つとめて、万里(まで)の小路の大納言師重(もろしげ)のもとより、「近きほどにこそ、昨夜(よべ)の御あはれいかが聞きし」と申したりし返事に、
虫の音も月も一つに悲しさの残るくまなき夜半(よは)の面影
十六日には御仏事とて、法華の讃嘆(さんだん)とかやとて、釈迦・多宝二仏、一つ蓮台におはします、御堂いしいし御供養(くやう)あり。かねてより院御幸(ごかう)もならせおはしまして、ことにきびしく庭も上も雑人(ざふにん)払はれしかば、墨染の袂(たもと)はことにきらふと、いさめらるるも悲しけれど、とかくうかがひて、雨垂(あまだ)りの石の辺(へん)にて聴聞(ちやうもん)するにも、昔ながらの身ならましかばと、厭ひ捨てし古(いにしへ)さへ恋しきに、御願文(ぐわんもん)終るより、懺法(せんぽふ)すでに終るまで、すべて涙はえとどめ侍らざりしかば、そばにことよろしき僧の侍りしが、「いかなる人にてかくまで嘆き給ふぞ」と申ししも、亡き御影の跡までもはばかりある心地して、「親にて侍りしものにおくれて、このほど忌(いみ)明きて侍るほどに、ことにあはれに思ひ参らせて」など申しなして、立ちのき侍りぬ。
御幸の還御(くわんぎよ)は今宵(こよひ)ならせおはしましぬ。御所さまも御人少なに、しめやかに見えさせおはしまししも、そぞろにもの悲しくおぼえて、帰らん空もおぼえ侍らねば、御所近きほどになほ休みてゐたるに、久我(こが)の前(さき)の大臣(おとど)は、同じ草葉のゆかりなるも忘れがたき心地して、ときどき申し通ひ侍るに、文遣はしたりしついでに、彼より、
都だに秋のけしきは知らるるを幾夜(いくよ)ふしみの有明の月
問ふにつらさのあはれも、忍びがたくおぼえて、
秋を経て過ぎにしみよも伏見山またあはれそふ有明の空
またたち返り、
さぞなげに昔を今と忍ぶらん伏見の里の秋のあはれに
まことや、十五日は、もし僧などに賜(た)びたき御ことやとて、扇を参らせし包紙に、
思ひきや君が三年(みとせ)の秋の露まだ乾(ひ)ぬ袖にかけんものとは  
跋文
深草のみかどは、御かくれののち、かこつべき御ことどもも、あと絶えはてたる心地して侍りしに、去年(こぞ)の三月(やよひ)八日、人丸(ひとまろ)の御影供(みえいぐ)をつとめたりしに、今年の同じ月日、御幸(ごかう)に参りあひたるも不思議に、見しむば玉の御面影もうつつに思ひ合せられて、さても宿願の行く末、いかがなりゆかんとおぼつかなく、年月の心の信も、さすがむなしからずやと思ひつづけて、身の有様をひとり思ひゐたるも、飽かずおぼえ侍るうへ、修行の志も、西行が修行のしき、うらやましく覚えてこそ思ひ立ちしかば、その思ひをむなしくなさじばかりに、とかやうのいたづらごとを続けおき侍るこそ。のちの形見まではおぼえ侍らぬ。
本云 ここよりまた刀して切られて候。おぼつかなう、いかなることにかとおぼえて候
 
 
今昔物語集(巻二)

 

仏ノ御父浄飯王死ニ給フ時ノ語
今昔、仏ノ御父迦毘羅国ノ浄飯大王、老ニ臨テ、病ヲ受テ日来ヲ経ル間、重ク悩乱シ給フ事限リ無シ。身ヲ迫ル事、油ヲ押スガ如シ。今ハ限リト思シテ、御子ノ釈迦仏・難陀・孫ノ羅[ゴ]羅、甥ノ阿難等ヲ見ズシテ死ナム事ヲ歎キ給ヘリ。此ノ由ヲ仏ノ御許ニ告奉ラムト為ルニ、仏ノ在マス所ハ舎衛国也、迦毘羅衛国ヨリ五十由旬ノ間ナレバ、使ノ行カム程ニ浄飯王ハ死給ヌベシ。然レバ后・大臣等、此ノ事ヲ思悩ブ程ニ、仏ハ霊鷲山ニ在シテ、空ニ、父ノ大王ノ病ニ沈テ、諸ノ人此ノ事ヲ歎キ合ヘル事ヲ知給テ、難陀・阿難・羅[ゴ]羅等引将テ、浄飯王ノ宮ニ行キ給フ。而ル程ニ浄飯王ノ宮、俄ニ朝日ノ光ノ差入タルガ如□金ノ光リ隙無ク照耀ク。其ノ時ニ、浄飯王ヲ始テ、若干ノ人驚□怪シム事限リ無シ。大王モ此ノ光ニ照サレテ、病ノ苦ビ忽チニ除テ、身ノ楽ビ限リ無シ。暫ク在テ、仏、虚空ヨリ難陀・阿難・羅[ゴ]羅等ヲ引将テ来リ給ヘリ。先ヅ大王、仏ヲ見奉テ、涙ヲ流シ給フ事雨ノ如シ。合掌シテ喜給フ事限リ無シ。仏、父ノ王ノ御傍ニ在シテ本□経ヲ説給フニ、大王即チ阿那含果ヲ得給ツ。大王、仏ノ御手ヲ取テ我ガ御胸ニ曳寄セ給フ時ニ、阿羅漢果ヲ得給ヌ。其ノ後暫ク有テ、大王ノ御命、絶畢給ヒヌ。其ノ時ニ、城ノ内、上下ノ人、皆哭キ悲ム事限リ無シ。其ノ音、城ヲ響カス。其ノ[悪]後、忽七宝ノ棺ヲ作テ、大王ノ御身ニハ香湯ヲ塗テ錦ノ衣ヲ着セ奉リテ、棺ニ入レ奉レリ。失セ給フ間ニハ御枕上ニ仏・難陀二人在シマス、御跡ノ方ニハ阿難・羅[ゴ]羅二人候ヒ給フ。カクテ葬送ノ時ニ、仏末世ノ衆生ノ父母ノ養育ノ恩ヲ報ハザラム事ヲ誡シメ給ハムガ為メニ、父ノ御棺ヲ荷ハムト為給フ時ニ、大地震動シ、世界安カラズ。然レバ諸ノ衆生皆俄ニ踊リ騒グ。水ノ上ニ有ル船ノ波ニ値ヘルガ如シ。其ノ時ニ、四天王、仏ニ申シ請、棺ヲ荷ヒ奉ル。仏、此レヲ許テ荷ハシメ給フ。仏ハ香炉ヲ取テ大王ノ前ニ歩ミ給フ。其墓所ハ霊鷲山ノ上也。霊鷲山ニ入ムト為ル時ニ、□羅漢来テ海ノ辺リニ流レ寄タル栴檀ノ木ヲ拾ヒ集メテ、大王ノ御身ヲ焼キ奉ル。空ヲ響カス。其ノ時ニ仏、無常ノ文ヲ説給フ。焼キ畢奉リツレバ舎利ヲ拾ヒ集メテ、金ノ箱ニ入レテ塔ヲ立テ置キ奉ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
仏、摩耶夫人ノ為メニ[トウ]利天ニ昇リ給語
今昔、仏ノ御母摩耶夫人ハ、仏ヲ生奉テ後七日ニ失セ□□□□□後、太子、城ヲ出テ山ニ入テ六年、苦行ヲ修シテ仏ニ成リ給ヒヌ。四十余年ノ間、種々ノ法ヲ説テ衆生ヲ教化シ給フニ、摩耶夫人ハ、失セ給テ[トウ]利天ニ生レ給ヌ。然レバ、仏、母ヲ教化セムガ為ニ[トウ]利天ニ昇リ給テ、歓喜園ノ中ニ波利質多羅樹ノ本ニ在シマシテ、文殊ヲ使トシテ、摩耶夫人ノ御許ヘ奉リ給テ宣ハク、「摩耶夫人、願ハ今我ガ所ニ来リ給ヒテ、我ヲ見、法ヲ聞キ、三宝ヲ敬礼シ給ヘ」ト。文殊、仏ノ勅ヲ教受テ摩耶夫人ノ所ニ行キ給テ、仏ノ御言ヲ伝シメ給フニ、摩耶夫人、仏ノ御言ヲ聞キ給フ時ニ、我ガ乳ノ汁、自然ラ出ヅ。摩耶ノ宣ハク、「若シ我ガ閻浮提ニシテ生ゼシ所ノ悉駄ニ御マサバ、此ノ乳ノ汁、其ノ口ニ自然ラ至ルベシ」ト宣テ、二ノ乳ヲ搆リ給フニ、其ノ汁、遥ニ至テ仏ノ御口ノ中ニ入ヌ。摩耶、此ヲ見テ喜ビ給フ事限リ無シ。其ノ時ニ、世界大ニ震動ス。摩耶、文殊ト共ニ仏ノ御許ニ至リ給ヒヌ。仏ノ、母ノ来リ給フヲ見給フテ、又喜ビ給フ事限リ無シ。
母ニ向テ申シ給ハク、「永ク涅槃ヲ修シテ世間ノ楽苦ヲ離レ給ヘ」ト摩耶ノ為メニ法ヲ説キ給フ。摩耶、法ヲ聞テ宿命ヲ悟テ、八十億ノ煩悩ヲ断ジテ、忽ニ須陀[ヲン]果ヲ得給ツ。摩耶、仏ニ白シテ言サク、「我レ既ニ生死ヲ離レテ解脱ヲ得タリ」ト。時ニ其ノ座ノ大衆、此ノ事ヲ聞テ、皆異口同音ニシテ、仏ニ白テ言サク、「願ハ仏、一切衆生ヲ皆此ノ如ク解脱ヲ得シメ給ヘ」ト。
仏又、一切衆生ノ為ニ法ヲ説給フ。此ノ如クシテ三月、[トウ]利天ニ在マス。仏、鳩摩羅ニ告テ宣ハク、「汝ヂ閻浮提ニ下テ語ルベシ、我レハ久シカラズシテ涅槃シナムトス」ト。鳩摩羅、仏ノ教ヘニ随テ閻浮ニ下テ仏ノ御言ヲ語ルニ、衆生皆、此ヲ聞テ愁ヘ歎キ事限リ無シテ云ク、「我等、未ダ□ノ在マス所ヲ知ラザリツ。今[トウ]利天ニ在ト聞ク。喜ビ思フ所ニ、不□□テ涅槃ニ入リ給ヒナムト為ナリ。願ハ衆生ヲ哀ミ給ハムガ為ニ、速ク閻浮提ニ下リ給ヘ」ト。鳩摩羅、[トウ]利天ニ返リ昇テ、衆生ノ言ヲ仏ニ申ス。
仏、此ノ言バヲ聞キ給テ、閻浮提ニ下ナムト思ス。爰ニ天帝釈、仏ノ下リ給ハムト為ヲ空ニ知シテ、鬼神ヲ以テ[トウ]利天ヨリ閻浮提ニ三ノ道ヲ造ラシム。中ノ道ハ閻浮檀金、左ノ道ハ瑠璃、右ノ道ハ馬脳、此等ヲ以テ各厳レリ。其ノ時ニ仏、摩耶ニ申シ給ハク、「生死ハ必ズ別離有リ。我、閻浮提ニ下テ久シカラズシテ涅槃ニ入ルベシ。相ヒ見ミム事、只今許也」ト。摩耶、此ヲ聞テ、涙ヲ流シ給フ事限リ無シ。仏、母ト別レ給テ、此ノ宝ノ階ヲ歩テ若干ノ菩薩、声聞大衆ヲ引将テ下リ給フニ、梵天・帝釈・四大天王、皆左右ニ随ヘリ。其ノ儀式思遣ルベシ。閻浮提ニハ波斯匿王ヲ始テ若干ノ人、仏ノ階ヨリ下リ給フヲ喜テ、階ノ本ニ皆並居タリ。仏ハ階ヨリ下リ給ヌレバ、祇薗精舎ニ返リ給ヒニケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
仏、病ノ比丘ノ恩ニ報イ給ヘル語
今昔、祇薗精舎ニ一人ノ比丘有リ。身ニ重キ病ヲ受テ五六年ガ間、辛苦悩乱ス。悪瘡膿血流レテ、大小便利ノ潤ヒ、臭ク穢タリ。然バ、人、此ヲ[キタ]ナムデ皆近付カズ、居タル所モ悉ク朽チ壊タリ。仏、此ノ人ヲ見テ哀ビ給テ、阿難・舎利弗等ノ五百ノ御弟子等ヲ皆他所ニ遣テ、彼ノ比丘ノ所ニ行テ、五ノ指ヨリ光ヲ放テ遠ク照シ給フテ、比丘ニ宣ハク、「何ゾ汝ニ相ヒ副ヘル人無キ」。比丘答テ云ク、「年来ノ病ニ依テ相ヒ副ヘル人無シ」ト。其ノ時ニ、帝釈、其ノ所ニ来テ、宝瓶ニ水ヲ入□仏□奉ル。仏、紫磨黄金ノ御手ヲ以テ此ヲ受テ、右ノ手ヲ以テ潅キ□テ、左ノ手ヲ以テ身ノ瘡ヲ摩デ給フニ、御手ニ随テ病ヒ皆愈□ヌ。仏ノ宣ハク、「汝ヂ昔シ我レニ恩有キ。今我レ来テ報ズル也」トテ、為ニ法ヲ説給フ。比丘、即チ阿羅漢果ヲ得ツ。其ノ時ニ、帝釈、仏ニ問奉テ云ク、「何ノ故ニ、此ノ病比丘ノ恩ヲ報ジ給フゾ」ト。仏、帝釈ニ告テ宣ハク、「過去ノ無量阿僧祇劫ニ、国王有リキ。財ヲ要スルガ為ニ、無道ニ一ノ人ヲ蜜ニ語テ云ク、「汝ヂ若シ、人有テ公物ヲ犯ス事有ラバ罸スベシ。其ノ財物ヲ□我レト共ニ取ラム」ト契リツ。其ノ人ノ名ヲバ、伍百ト云フ。其ノ時ニ一ノ優婆塞有リ。
聊ニ公物ヲ犯ス。伍百ニ付テ此レヲ罸スルニ、此ノ優婆塞、善ヲ行ズル人ト聞テ、伍百、此レヲ罸セズ。優婆塞免ルヽ事ヲ得テ喜テ去ニキ。
旃陀羅ヲ語テ此ノ事ヲ云フニ、旃陀羅、甚ダ恐ヂ怖レテ用ヰズ。
然リト云ヘドモ、太子猶ヲ孝養ノ心深シテ、旃陀羅ヲ責メテ五百ノ剣ヲ与テ我ガ眼及ビ骨髄ヲ取ラシム。此ヲ取テ和合シテ父ノ王ニ奉ル。此ノ医ヲ以テ病ヲ治スルニ、病ヒ即チ愈ヌ。然リト云ドモ、大王、此ノ事ヲ知リ給□□シテ、其ノ後、「太子我ガ所ニ来レ。久ク来ザル、何ノ故ゾ」ト。一人ノ大臣有テ王ニ申サク、「太子ハ早ク命ヲ失ヒ給テキ。医師有テ、「生ジテ以来、瞋恚ヲ発サザラム人ノ眼、骨髄ヲ以テ大王ノ御病ヲ治スベシ」ト云フ。此レニ依テ太子、「生ジテ以来瞋恚ヲ発サザル者、只我ガ身此レ也。我レ孝養ノ為メニ身ヲ捨ム」ト宣テ、蜜ニ旃陀羅ヲ語ヒ給テ、眼及ビ骨髄ヲ取シメテ大王ニ奉ツリ給フ。此ヲ以テ大王ノ御病ヲ治シテ、既ニ愈給フ事ヲ得タル也」ト。大王、此ヲ聞テ哭キ悲ミ給フ事限リ無シ。暫ク□テ宣ハク、「我レ、昔ハ聞キ、父ヲ殺シテ王位ヲ奪フ事有リキ。未ダ聞カズ、子ノ肉村ヲ[クラヒ]テ命ヲ存セル事ヲバ。悲哉、我レ、此レヲ知ラズシテ病ノ愈タル事ヲ喜ケリ」ト宣テ、忽ニ太子ノ為メニ喩旃陀羅樹下ニ一ノ卒堵婆ヲ立給ヒキ。其ノ時ノ王ハ、我ガ父浄飯王此レ也。其ノ時ノ太子ハ、我ガ身此レ也。我ガ為ニ立テ給ヒシ卒堵婆ナレバ、今来テ礼拝スル也。此ノ卒堵婆ニ依テ、我レ正覚ヲ成ジテ一切ノ衆生ヲ教化スル也」ト説給ヒケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
仏、人家ニ六日宿リシ給ヘル語
今昔、仏、舎衛国ニシテ人ノ家ニ行給テ、六日宿シ給テ供養ヲ受ケ給フ。七日ト云フ朝ニ還リ給ナムト為ルニ、天陰リ風吹キテ、洪水、山河ニ出タリ。
家ノ主、仏ニ白テ言サク、「今日留リ給ヘ。雨風ノ難有リ。亦同クハ七日ト供養シ奉ラム」ト。舎利弗・目連・阿難・迦葉等ノ御弟子達モ「今日ハ留リ給ヘ」ト申シ給フニ、仏説テ宣ハク、「否ヤ、汝等極テ愚也。
一言ノ詞ヲ交ヘ、一宿ノ契ヲ成ス事ハ、皆是レ前世ノ業因也。
家ノ主、善ク聴ケ。汝ヂ先生ニ人ト生タリシニ、人ニ捨ラレテ寒ノ為ニ死ヌベカリキ。
其ノ時ニ、我レ、汝ヲ取テ身ニ付テ六日ガ間、温メテ命ヲ助ケキ。七日ト云フ朝ニ汝ヂ寒ニ堪ヘズシテ遂ニ死ニキ。其故ニ、我レ、今汝ガ家ニ六日宿シテ供養ヲ受ク。此ニ依テ、我レ、今日此ノ家ニ留マルベカラズ」ト宣テ、耆闍崛山ニ還リ給ヒヌ。家ノ主及ビ御弟子達モ、此ノ事ヲ聞テ貴ブ事限リ無シ。然レバ、一言一宿モ皆前世ノ契リ也ト知リヌトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
老母、迦葉ノ教化ニ依テ天ニ生レ恩ヲ報ゼル語
今昔、天竺ニ迦葉尊者、里ニ出デヽ乞食シ給ヒケリ。時ニ尊者思給ク「我レ、福貴ノ家ニハ暫ク行カジ。貧窮ノ所ニ行テ其ノ施ヲ受ムト」 
婢、迦旃延ノ教化ニ依テ天ニ生レ恩ヲ報ゼル語
今昔、天竺ノ阿槃提国ニ一人ノ長者有ケリ。家大ニ富テ財多シ。
而ルニ、其ノ人慳貪深クシテ慈悲無シ。其ノ家ニ一人ノ婢有リ。少ノ過有テ、長者、此レヲ打チ縛バテ、倉ニ籠テ衣ヲ着セシメズ、食ヲ与ヘズシテ、僅ニ少ノ水許ヲ与ヘテ置タリ。婢、悲テ音ヲ挙テ泣ク。其ノ時ニ、迦旃延、其ノ国ニ在シテ、其ノ婢ノ泣ク音ヲ遥ニ聞給テ、其ノ所ニ行キ至テ、婢ニ語テ宣ハク、「汝ガ身貧クハ、何ゾ其レヲ売ラザル」。婢、答テ云ク、「誰カ貧ヲ買フ者有ラム。貧ヲ売ルベクハ、此ヲ売ルベシ。何ニシテ売ルベキゾ」ト。迦旃延ノ宣ク、「汝ヂ若シ貧ヲ売ラムト思ハヾ、我ガ言ニ随テ施ヲ行ズベシ。其レヲ以貧ヲ売ル也」ト。婢、尊者ニ申サク、「我レ今、貧窮ニシテ身ノ上ニ衣食無シ。只此ノ少水有リ。此レ主ノ許セル所也。此レヲ施セムニ何ゾ」ト。尊者ノ宣ハク、「速ニ其レヲ施スベシ」ト。婢、「尊者ノ言フニ随フベシ」トテ、鉢ニ入ル所ノ水ヲ尊者ノ鉢ニ移シ入レツ。尊者、水ヲ受テ婢ノ為ニ呪願シテ、次ニ戒ヲ授ケ給ヒ、後、念仏ヲ勧メ給フ。其ノ後、婢ニ問テ宣ク、「汝ヂ何ナル所ニカ宿スル」ト。婢、答テ云ク、「我レ舂キ炊ク所ニ宿ス。或ハ又糞ノ所ニ有リ」ト。尊者ノ宣ハク、「汝ヂ其ノ主ノ臥タラムヲ伺テ、竊ニ戸ヲ開ケ、其戸ヨリ入テ草ヲ敷テ坐セシメテ、仏ヲ観ジテ悪念ヲ成ス事無カラシメム」ト。婢、夜ニ至テ、尊者ノ教ノ如ク戸ヲ開テ入テ草ニ坐シテ、仏ヲ観ジ悪心ヲ発サズシテ死ヌ。即チ[トウ]利天ニ生レヌ。長者、暁ニ婢ノ死セルヲ見テ、大ニ瞋恚ヲ発シテ、人ヲ遣テ縄ヲ以テ足ニ付テ、寒林ノ中ニ引キ棄ツ。婢、天ニ生テ天眼ヲ以テ我ガ旧キ身ヲ見テ、即チ五百ノ天子ヲ引将、香花ヲ以テ其寒林ノ中ニ下リ至テ、香ヲ焼キ、花ヲ散シテ尸骸ヲ供養ス。
又光明ヲ放テ林ヲ照ス。長者及ビ遠ク近キ人、林ニ至テ此ノ事ヲ見ル。長者語テ云ク、「何ノ故有テ、此ノ婢ノ死セル尸骸ヲバ供養スルゾ」ト。天子答テ云ク、「此ノ尸骸ハ此レ、我ガ旧キ身也」ト云テ、天ニ生レシ本縁ヲ語ル。長者、此ヲ聞テ奇異也ト思フ。天子、其ヨリ迦旃延ノ所ニ至テ、香ヲ焼キ花ヲ散シテ、尊者ヲ供養シテ恩ヲ報ズ。
尊者亦、天ノ為メニ法ヲ説キ給フ。五百ノ天子、此レヲ聞テ皆須陀[ヲン]果ヲ得ツ。果ヲ得テ皆天上ニ返ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
舎衛国ノ金天比丘語
今昔、舎衛国ノ中ニ一人ノ長者有ケリ。家大キニ富テ財宝無量也。一ノ男子ヲ生マシメタリ。其ノ児ノ身、金色ニシテ端生ナル事、世ニ並ビ無シ。父母、此レヲ見テ喜ビ愛スル事限リ無シ。児ノ身、金色ナルニ依テ名ヲ金天ト付タリ。其ノ児ノ生ケル日、家ノ内ニ自然ラ一ノ井出来テ、水出タリ。広サ八尺、深サ八尺也。其ノ水、清浄ニシテ亦、其ノ井ヨリ飲食・衣服・金銀・珍宝出来テ、願ニ随テ此レヲ取リ用ス。児、漸ク長大シテ身ノ才広ク心ノ達レリ。其ノ父ノ思ハク、「我ガ児、端正ニシテ並ビ無シ。此ガ妻ト為スベキ者ヲ求ム」。其ノ時ニ、宿城国ニ大長者有リ。一ノ女子ヲ生マシメタリ。名ヲバ金光明ト云フ。形皃端正ニシテ、身ノ色金色也。
其ノ女ノ生ゼル日、家ニ自然ラ八尺ノ井出来テ、其ノ井ヨリ種種ノ一金ノ銭ヲ見付タリ。妻ノ所ニ持至テ見シムルニ、妻亦、一ノ鏡ヲ持タリ。
亦一ノ瓶ヲ得タリ。然レバ清キ水ヲ瓶ニ盛リ満テヽ、銭ヲ瓶ノ中ニ入レテ、鏡ヲ以テ其ノ上ニ置テ、夫妻、同心ニシテ比丘ノ所ニ行テ、此ヲ施シテ願ヲ発シテ去ニキ。彼ノ時ノ施ヲ行ゼシ夫妻ノ貧人ハ、今ノ金天夫妻此レ也。其ノ施ノ功徳ニ依テ、其レヨリ後九十一劫、悪道ニ堕チズシテ、天上・人中ニ生レテ常ニ夫妻ト成テ、身体金色ニシテ福楽ヲ受ク。今我レニ値テ出家シテ道ヲ得ル也」ト説給ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
舎衛城ノ宝天比丘ノ語
今昔、天竺ノ舎衛城ノ中ニ一人ノ長者有ケリ。家大キニ富テ財無量也。
一人ノ男子ヲ生マシメタリ。其ノ児、形端正ニシテ世ニ並ビ無シ。生レケル時、天ヨリ七宝雨テ家ノ内ニ積ミ満タリ。父母、此レヲ見テ歓喜スル事限リ無シ。此レ□依テ、此ノ児ノ名ヲ宝天ト名付タリ。年漸ク長大シテ仏ニ値□奉テ、出家シテ羅漢果ヲ得タリ。其ノ時ニ、阿難、此レヲ見テ、仏ニ白シテ言サ□、「宝天比丘、前世ニ何ナル福業ヲ修シテ、福貴ノ家ニ生レテ、生ルヽ時天ヨリ七宝ヲ雨ラシ、衣食自然ラ有テ乏キ事無シ。今仏ニ値□奉テ出家シテ道ヲ得ルゾ」ト。仏、阿難ニ告テ宣ハク、「昔シ乃徃過去ノ九十一劫ノ時、仏、世ニ出給ヘリキ、毘婆尸仏ト申シキ。其ノ時ニ、諸ノ比丘有テ聚落ニ遊行セシニ、福貴ノ長者、競テ此ヲ供養シキ。其ノ時ニ、一人ノ貧キ人有リキ。比丘ヲ見テ歓喜ノ心ヲ発スト云ヘドモ、我ガ身貧クシテ供養スベキ物、一塵無シ。思ヒ煩テ一拳ノ白キ沙ヲ取テ祠テ比丘ニ散シテ心ヲ至シテ 礼拝シテ、願ヲ発シテ去ニキ。昔シ沙ヲ拳テ施セシ貧人ハ、今ノ宝天此レ也。此ノ功徳ニ依テ其ヨリ以来九十一劫ノ間、悪趣ニ堕チズシテ、生ルヽ所ニハ天ヨリ七宝ヲ雨ラシ、家ノ内ニ積ミ満テ、衣食自然ラ出来テ乏キ事無シ。今我レニ値テ、出家シテ道ヲ得ル也」ト説給ケリ。此レヲ以テ思フニ、我レ財ヲ持タズト云トモ、草木・瓦石ニテモ、実ノ心ヲ発シテ三宝ニ供養セバ、必ズ善報ヲ得ベシト信ズベキ也トナム語リ伝ヘタルトヤ。 
舎衛城ノ金財比丘ノ語
今昔、天竺ノ舎衛城ノ中ニ一人ノ長者有リ。家大キニ富テ財宝多シ。
一人ノ男子ヲ生マシメタリ。其ノ児、端正ニシテ世ニ並ビ無シ。生ズル時ニ二手ヲ拳テ生レタリ。父母、此レヲ開テ見ルニ、児ノ二ノ手ニ各一ノ金ノ銭有リ。父母、此ノ銭ヲ取ルニ、即チ亦同ク有リ。此ノ如キ取ルト云ドモ、更ニ尽ル事無シ。
須臾ノ間ニ金ノ銭、倉ニ満ヌ。父母、此レヲ歓喜スル事限リ無シ。然レバ、此ノ児ノ名ヲ金財ト付タリ。金財、年漸ク長大シテ出家ノ心有テ、遂□仏ノ御許ニ詣デヽ、出家シテ羅漢果ヲ得タリ。阿難、此ヲ見テ仏ニ白シテ言サク、「金財比丘、前ノ世ニ何ナル福ヲ殖テ、福貴ノ家ニ生レテ、手ニ金ノ銭ヲ拳テ、取ルニ尽ル事無ク、今仏ニ値ヒ奉テ出家シテ疾ク道ヲ得ゾ」ト。仏、阿難ニ告テ宣ハク、「昔シ乃徃過去ノ九十一劫ノ時ニ、仏、世ニ出給ヘリキ。毘婆尸仏ト申ス。其ノ時ニ、一人ノ人有リキ。極テ貧窮ニシテ、世ヲ過サムガ為ニ、常ニ薪ヲ取テ売ルヲ以テ業ト為シニ、其ノ人、薪ヲ売テ二ノ金ノ銭ヲ得タリ。仏及ビ比丘ヲ見テ、此ノ銭ヲ以テ施シ奉テ願ヲ発シテ去ニキ。昔シ銭ヲ供養セシ貧人ト云ハ、今ノ金財此レ也。此ノ功徳ニ依テ、其ヨリ以来九 十一劫ノ間、悪趣ニ堕チズシテ天上・人中ニ生レテ、生ルヽ所ニハ常ニ金ノ銭ヲ拳テ、財宝自然ラ恣ニシテ尽ル事無シ。今、我レニ値テ出家シテ道ヲ得ル也」ト説給ケリ。此ヲ以テ思フニ、人ノ身ニ重キ宝有テ、譬ヒ惜ト思フ事有リトモ、三宝ニ供養シ奉リタラムニ、必ズ将来ニ無量ノ福ヲ得ム事、疑ヒ無シト知ルベシトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
舎衛城宝手比丘語
今昔、天竺ノ舎衛城ノ中ニ一人ノ長者有ケリ。家大キニ富テ財宝無量也。一人ノ男子ヲ生マシメタリ。其ノ児、端正ナル事、世ニ並ビ無シ。其ノ児、二ノ手ニ各金ノ銭ヲ把レリ。父母、此レヲ見テ取レバ、亦同ク有リ。此ノ如ク取ト云ドモ更ニ尽ル事無シ。父母、此レヲ歓喜スル事限リ無シ。此ニ依テ、此ノ児ノ名ヲ宝手ト付タリ。年漸ク長大シテ心ニ慈悲有テ好ムデ布施ヲ行ズ。
人来テ乞フニ随テ、両手ヲ開テ把レル所ノ金ノ銭ヲ出シテ悉ク与フ。敢テ惜ム心無シ。亦父母ニ告テ祇[ヲン]精舎□詣□□、仏ノ相好□見テ心□歓喜ヲ懐テ、仏及ビ比丘僧□礼拝シ奉テ云ク、「願クハ我ガ供養ヲ受給ヘ」ト。阿難、宝手ニ語テ云ク、「汝ヂ供養セムト思ハヾ、正ニ財宝ヲ儲クベシ」ト。其ノ時ニ、宝手、即チ両ノ手ヲ開クルニ、金銭手ヨリ出デヽ、須臾ニ地ニ満ヌ。其ノ時ニ、仏、為ニ法ヲ説キ給フ。宝手、法ヲ聞テ須陀[ヲン]果ヲ得ツ。家ニ帰テ、父母ニ出家ヲ許セト乞フ。父母、此ヲ許シツ。然レバ、仏ノ御許ニ詣デヽ出家シテ羅漢果ヲ得タリ。阿難、此ヲ見テ仏ニ白テ言ク、「宝手比丘、昔シ何ル福ヲ殖テ、福貴ノ家ニ生レテ、手ヨリ金ノ銭ヲ出シテ、取ルニ尽ル事無ク、亦仏ニ値ヒ奉テ出家シテ疾ク道ヲ得ルゾ」ト。仏、阿難ニ告ゲ給ク、「昔シ迦葉仏ノ涅槃ニ入給テ後、迦□王有テ、仏ノ舎利ヲ取テ四宝ノ塔ヲ起テキ。其ノ時ニ一人ノ長者有リキ。王ノ此塔ヲ起ルヲ見テ、心随喜□成シテ、一ノ金ノ銭ヲ以テ塔ノ下ニ置テ願ヲ発シテ去ニキ。其ノ 
王舎城灯指比丘語
今昔、天竺ノ王舎城ノ中ニ一人ノ長者有ケリ。家大キニ富テ財宝量無シ。一人ノ男子ヲ生マシメタリ。形端正ナル事世ニ並ビ無シ。其ノ児ゴ□メテ生ルヽ時ヨリ一ノ指ヨリ光ヲ放テ十里ヲ照ス。父母、此レヲ見テ歓喜スル事限リ無シ。此レニ依テ児ノ名ヲ灯指ト付タリ。而ル間、阿闍世王、此ノ事ヲ聞テ、勅シテ「児ヲ将来レ」ト宣フ。然レバ、長者、児ヲ抱テ王宮ノ門ニ詣ツ。其ノ時ニ児ノ指ノ光、王宮ヲ照ス。此コレニ依テ、宮ノ内ノ諸ノ物、皆金色ト成ヌ。王、此ヲ怪テ、「此ハ何ノ光ゾ、忽ニ我ガ宮ヲ照ス。若シ仏ノ、門ニ来リ給ヘルカ」ト宣テ、人ヲ門ニ出シテ見シムルニ、使、此レヲ見テ、還テ申サク、「此ノ光ハ、王ノ召ス所ノ小児ノ参テ手ノ指ヨリ出ス光也」ト。王、此ヲ聞テ、宮ノ内ニ召シ入テ、自カラ児ノ手ヲ取テ奇異ノ思ヲ成シテ、児ヲ留メテ、夜ニ至テ児ヲ象ニ乗セテ前ニ立テヽ、王、薗ニ入テ見ミ給フニ、児、指ヨリ光ヲ放テ、暗キ夜ヲ照シテ昼ノ如シ。王、此ヲ歓喜シテ多ノ財ヲ給テ家ニ還シ遣シツ。灯指、漸ク長大スル程ニ、 
舎衛城叔離比丘尼語
今昔、天竺ノ舎衛城ノ中ニ一人ノ長者有ケリ。家大キニ富テ財宝豊ナル事限リ無シ。一人ノ女子ヲ生マシメタリ。其ノ形端正ニシテ世ニ並ビ無シ。其ノ女子、初メテ生レケル時、細ナル白畳ニ身ヲ裹テ生レタリ。父母、此ヲ見テ名ヲ立テヽ叔離ト云フ。其ノ女、年漸ク長大スル程ニ、心ニ出家ヲ求テ世ヲ厭フ。遂ニ仏ノ御許ニ詣デヽ出家セムト申ス。仏、「汝ヂ善ク来レリ」ト宣フ時ニ、叔離、頭ノ髪自然ラ落テ、着タル所ノ白畳ハ変ジテ五衣ト成ヌ。仏、叔離ガ為ニ法ヲ説給フ。法ヲ聞テ、即羅漢果ヲ得タリ。阿難、此ヲ見テ仏ニ白シテ言サク、「此ノ比丘尼、宿世ニ何ナル福ヲ殖テ、福貴ノ家ニ生レ、初メテ生ルヽ汝ヂ惜ム心無カレ」ト。夫、妻ノ言ヲ聞テ、其ノ心ヲ感ジテ喜ブ事限リ無クシテ、此レヲ許シツ。然レバ、妻、比丘ニ告テ内ニ呼ビ入テ、畳ヲ脱テ授ケ与フ。
比丘ノ云ク、「何ゾ面ノアタリニ施セズシテ、内ニ呼ビ入レテ蜜ニ施スルゾ」ト。妻ノ云ク、「我等夫妻ノ中ニ、只此ノ畳ノミ有テ、亦、着替フベキ他ノ着物無シ。
女ノ体、穢悪ニシテ醜ニクシ。然バ面脱ガザル也」。比丘、此レヲ受ケ畢テ、為ニ呪願シテ出ヌ。即チ比丘、仏ノ御許ニ此ノ畳ヲ持至テ、手ニ捧テ大衆ニ告テ云ク、「清浄ノ布施、此ノ畳ニ過タルハ無シ」。其ノ時ニ、国王在マシテ、后ト共ニ法ヲ聞ムガ為ニ、仏ノ御許ニ詣デヽ其ノ座ニ有リ。此ノ比丘ノ言ヲ聞テ、后、即チ、瓔珞ト寳ノ衣トヲ脱テ、彼ノ女ノ許ニ送□遣ス。国王亦、衣服ヲ脱テ送リ遣ス。其ノ夫、亦、法ヲ聞ムガ為メニ仏ノ御許ニ詣タリ。仏、為ニ法ヲ説テ聞カシメ給フ。昔シ彼ノ時ノ妻ト云ハ、今ノ叔離比丘尼此レ也。此ノ功徳ニ依テ、其ヨリ以来九十一劫ノ間、悪道ニ堕チズシテ、常ニ天上・人中ニ生レテ福貴ノ報ヲ得タル事、此ノ如シ。亦我レニ値テ道ヲ得ル也」ト説給ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
阿育王ノ女子語
今昔、天竺ニ仏・阿難及ビ諸ノ比丘ト共ニ、前後ニ圍遶セラレテ、王舎城ニ入テ、乞食シ給ケリ。巷ノ中ニ至リ給フニ、二人ノ小児有リ。一人ヲバ徳ト云ヒ、一人ヲバ勝ト云フ。此ノ二人ノ小児、戯レニ土ヲ取テ、家及ビ倉ノ形ヲ造リ、亦土ヲ以テ[ムギコ]ト名付テ、倉ノ中ニ積ミ置ク。此ノ如キ為ル程ニ、仏来リ給フ。此ノ二人ノ小児、仏ノ相好端厳ニシテ、金色ノ光明ヲ此レヲ怪テ奢上座ノ許ニ女子ヲ将行テ問テ云ク、「此ノ女、前身ニ何ナル福ヲ殖テ、掌ノ中ニ金ノ銭有テ、取ルニ尽ル事無キゾ」ト。上座、答テ云ク、「此ノ女ハ、前身ニ王宮ノ婢也。糞ヲ掃ヘシ中ニシテ一ノ銅ノ銭ヲ見付タリキ。心ヲ発シテ衆僧ニ施シタリキ。其ノ善根ニ依テ、今王ノ家ニ生レテ、形端正ニシテ、常ニ手ニ金ノ銭ヲ把テ、取ルニ尽ル事無キ也」ト説キ聞カシメケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
須達長者ノ蘇曼女、十卵ヲ生ゼル語
金昔、天竺ノ舎衛城ノ中ニ一人ノ長者有リ。須達ト云フ。最少ノ女子有リ。名ヲ蘇曼ト云フ。其ノ形端正ニシテ世ニ並ビ無シ。父ノ長者、此ヲ愛スル事限リ無クシテ他ノ子共ニハ勝レタリ。然レバ、父、家ヲ出デヽ行ク時ハ、常ニ此ノ女子ヲ離サズシテ相ヒ具セリ。而ルニ、父ノ長者、祇[ヲン]精舎ニ詣ヅルニ、此ノ女子相ヒ具シテ参レリ。女子、仏ヲ見奉テ歓喜ノ心ヲ成シテ思ハク、「我レ香ヲ以テ仏ノ室ニ塗ラム」ト思テ、家ニ還テ種々ノ香ヲ買テ、祇[ヲン]精舎ニ持詣デヽ、自カラ香ヲ搗キ磨テ室ニ塗ル。其ノ時ニ、叉利国ノ王没シテ、其ノ王子、此ノ国ニ来テ祇薗精舎ニ参レリ。即チ、蘇曼女ノ寺ニシテ自カラ香ヲ搗キ磨ル、其ノ形端正ナルヲ見テ、忽ニ愛ノ心ヲ発シテ婦ト為ムト□テ、波斯匿王ノ許ニ詣デヽ申サク、「蘇曼女ヲ給ハリテ、我レ婦ト為ムト思フ」ト。
波斯匿王ノ云ク、「君自カラ語ルベシ。我レ、此ヲ勧メムニ能ハズ」ト。王子、王ノ言ヲ聞テ、本国ニ還テ思ハク、「我レ謀テ蘇曼女ヲ取ラム」ト。後ニ眷属ヲ発シテ国ニ来テ、蘇曼女ノ祇[ヲン]精舎ニ参レル時ヲ伺テ、王子、祇[ヲン]修治スベシ」トナム語リ伝ヘタルトヤ。 
天竺、焼香ニ依テ口ノ香ヲ得タル語
今昔、天竺ノ辺土ニ住ム人有ケリ。世ニ並ビ無ク端正美麗ナル女ヲ妻トシテ年来ヲ過ス程ニ、其ノ国ノ王、上下ヲ撰バズ、只端正美麗ノ女ヲ求テ后トセムガ為ルニ、国ノ内ニ宣旨ヲ下シテ、東西南北ニ求ムルニ、思ノ如ナル女ヲ求得ル事無シ。然レバ、国王思ヒ歎キ給フ間ニ、一人ノ大臣有テ申サク、「其ノ国其ノ郷ニ、世ニ並ビ無ク端正美麗ナル女有リ。速ニ彼ヲ召テ、后ト立テラレムニ足レリ」ト。国王、此ノ事ヲ聞給テ喜テ宣旨ヲ下シテ、彼ノ女ノ所ニ使ヲ遣ス。使、宣旨ヲ奉テ彼ノ家ニ尋行タルニ、家ノ主有テ、使ヲ見テ驚キ怪テ問テ云ク、「此ノ所ニハ人来ラザル所也。何人ノカク来レルゾ」ト。使、答テ云ク、「我レハ此レ、国王ノ御使也。汝□許ニ端正美麗並ビ無キ女有ナリ。国王此レヲ聞食シテ其レヲ召也。更ニ惜□心無クシテ速ニ奉ルベシ」ト。家ノ主、答テ云ク、「我レ此ノ所ニ棲テ年来ヲ経ツルニ、公ノ御為ニ犯ス事無シ。農業ノ営ヲモ成サズ、財宝ノ貯ヲモ知ラズ。何ノ故有テカ、我ガ妻ヲ召取ルベキ」ト。使ノ云ク、「汝ヂ犯ス所無シト云ヘドモ、既ニ王地ニ居タリ。何ゾ勅宣ヲ背クベキ」ト云テ、女ヲ搦メ取ルガ如シテ将参リヌ。然レバ、夫、泣々ク別レヲ惜ムデ、家ヲ出デヽ去ヌ。使、女ヲ王宮ニ将参ヌレバ、国王、此レヲ見給フニ、実ニ聞シニモ増テ目出タキ事、世ニ並ビ無シ。
然レバ、世ノ政モ知ラズ、終夜終日愛シ寵シ給フ事限リ無シ。即チ、后ト立給ヒツ。但シ、「此ノ后、年来、田夫ノ妻トシテ過ツル心ニ、国王ノ后ト成レリ、定メテ限リ無ク喜ビ思スラム」ト思給フニ、月日ヲ経ト云ヘドモ、更ニ心吉ク思モヒ又此レヲ以テ思フニ、人ノ香ヲ焼タル匂ヲ香テ、一念ウラヤミタル事ソラ既ニ此ノ如シ。何况ヤ、遂ニ仏ニ成ルベシト授記シ給ケリ。自ラ心ヲ至シテ香ヲ焼テ仏ヲ供養シ奉ラム功徳ヲ思遣ルベシトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
迦毘羅城ノ金色長者ノ語
今昔、天竺ノ迦毘羅城ノ中ニ一人ノ長者有リ。其ノ家大キニ富テ財宝無量ニシテ称計フベカラズ。一人ノ男子ヲ生マシメタリ。其ノ児、身体金色ニシテ端正ナル事、世ニ比ヒ無シ。身ニ光明有テ城ノ内ヲ照ス。皆金色ト成レリ。父母、此レヲ見テ歓喜スル事限リ無シ。此レニ依テ、其ノ児ノ名ヲバ金色ト名付タリ。児漸ク長大ニシテ出家ノ心有テ、父母ニ出家ヲ許セト乞フ。父母、此コレヲ許ス。即チ、仏ノ御許ニ詣デヽ出家シテ羅漢果ヲ得タリ。比丘、此レヲ見テ仏ニ白シテ言サク、「金色比丘、前ノ世ニ何ナル福ヲ殖テ、福貴ノ家ニ生レテ、身体金色ニシテ光ヲ放チ、亦仏ニ値ヒ奉テ出家シテ疾ク道ヲ得ルゾ」ト。仏、比丘ニ告テ宣ハク、「昔シ乃徃過去ノ九十一劫ノ時、毘婆尸仏ノ涅槃ニ入給テ後、王有リキ。槃頭末帝ト云ヒキ。仏ノ舎利ヲ取テ、四宝ヲ以テ塔ヲ起タリキ。高サ一由旬也。此レヲ供養スル時、一人ノ人有テ、行テ此レヲ見ニ、塔少シ壊レタル所有リ。此ノ人、此レヲ修治シテ金ノ薄ヲ買テ塔ニ加タリキ。
而モ願ヲ発シテ去ニキ。昔シ、其ノ塔ヲ修治セシ人ハ、今ノ金色此レ也。此ノ功徳ニ依テ、其レヨリ後九十一劫ノ間、悪道ニ堕チズシテ、天上・人中ニ生レテ、常ニ身体金色ニシテ光ヲ放チ、福貴無量ニシテ楽ヲ受ル也。亦我レニ値テ出家シテ道ヲ得ル事、此ノ如シ」ト説給ケリ。
此レヲ以テ思フニ、塔ヲ修治スル功徳、量無シ。然レバ瓶沙王、昔、迦葉仏ノ世ニ、九万三千ノ人ヲ教テ塔ヲ令修治キ。修治シ畢テ願ヲ発シキ、「我等、来世ニ常ニ共ニ同所ニ生レム。命終シテハ[トウ]利天上ニ生レム。
釈迦ノ出世ノ時、天ヨリ下生セム」ト。今、願ノ如ク瓶沙王、九万三千人ト共ニ悉ク同国ニ生レテ共ニ仏所ニ詣ヅ。仏、為ニ法ヲ説給フ。法ヲ聞テ皆須陀[ヲン]果ヲ得タリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
金地国ノ王、仏所ニ詣ヅル語
今昔、天竺ノ南ノ方ニ金地国ト云フ国有リ。其ノ国ニ王有ケリ。
名ヲバ摩訶劫戻那ト云フ。其ノ王、聡明ニシテ智有リ。強力ニシテ心武シ。国ヲ治テ恣ニス。三万六千ノ兵衆、熾盛ニ守テ敵ノ心ヲ成ス者無シテ、敢テ恐ルヽ所無シ。其時ニ、仏、神力ヲ以テ彼ノ王ヲ仏所ニ来ラシメ給フ。王即チ、二万一千ノ小王ヲ引将テ仏所ニ参レリ。
仏、為ニ法ヲ説給フ。王、此レヲ聞テ、皆須陀[ヲン]果ヲ得ツ。其ノ後、出家セムト申ス。仏、此レヲ許シ給ヒツ。既ニ出家シ畢、羅漢果ヲ得ツ。
阿難、此ヲ見テ仏ニ白シテ言サク、「金地国ノ王、宿世ニ何ナル福ヲ殖テ、福貴ノ国ノ王ト生レ、亦功徳巍々トシテ、一万八千ノ小王ト共ニ仏ニ値ヒ奉テ、出家シテ道ヲ得ルゾ」ト。仏、阿難ニ告テ宣ハク、「昔シ迦葉仏ノ涅槃ニ入給テ後、二人ノ長者有リキ。塔ヲ起テ衆僧ヲ供 
阿難那律、天眼ヲ得タル語
今昔、仏ノ御弟子ニ阿那律ト申ス比丘有リ。仏ノ御父方ノ従父也。
此ノ人ハ天眼第一ノ御弟子也。三千大千世界ヲ見ル事、掌ヲ見ルガ如シ。其ノ時ニ、阿難、仏ニ白テ言サク、「阿那律、前世ニ何ナル業有テ、天眼第一ナルゾ」ト。仏ノ宣ハク、「阿那津、昔、過去ノ九十一劫ノ時、毘婆尸仏ノ涅槃後、盗人トシテ身甚ダ貧カリシニ、宝ヲ納置タル一ノ塔有リ。心ノ内ニ思フ様、「夜ル蜜ニ此ノ塔ニ入テ、納置ケル宝ヲ盗取テ、売テ命ヲ継ギ、世ヲ渡ラム」ト思ヒ得テ、夜ル弓箭ヲ持テ彼ノ塔ニ行テ、相構テ戸ヲ開テ入ヌ。見レバ仏ノ御前ニ御灯明有リ、既ニ消ヌベシ。明カニ宝ヲ見テ盗ムガ為ニ、箭ノ筈ヲ以テ灯明ヲ挑グ。時ニ仏ノ御形、金色ニシテ塔ノ内ニ耀キ満タリ。然レバ、迴リ見テ、返テ仏ノ御前ニ居テ掌ヲ合セテ観ズル様、「何ナル人ノ宝ヲ投テ、仏ヲ造リ塔ヲ起ルゾ。我レモ同ジ人也。仏ノ物ヲ盗取ラムヤ。又此ノ報ヲ感ジテ後ノ世ニ貧窮モ増サルベキ也」ト思テ、取ラズシテ返ヌ。其ノ灯明ヲ挑タル故ニ、九十一劫ノ間、善処ニ生レテ、遂ニ我レニ値テ出家シテ果ヲ証シテ天眼ヲ得タル也」ト説給ケリ。カヽレバ、心ヲ発シテ仏ニ灯明ヲ奉ラズト云ヘドモ、盗ヲセムガ為ニ灯明ヲ挑タル功徳、此ノ如シ。况ヤ、心ヲ発シテ奉リタラム功徳、思遣ルベシトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
薄拘羅、善報ヲ得タル語
今昔、天竺ニ仏ノ御弟子、薄拘羅尊者ト云フ人有ケリ。其過去ノ九十一劫ノ時、毘婆尸仏ノ涅槃ニ入給テ後、一人ノ比丘有ケリ。常ニ頭ヲ痛ム。薄拘羅、其ノ時ニ貧キ人トシテ、彼ノ比丘ヲ見テ哀テ、一ノ呵梨勒菓ヲ与フ。比丘、此ヲ服シテ頭ノ病愈ヌ。薄拘羅、病比丘□薬ヲ施セルニ依テ、其ノ後九十一劫ノ間、天上・人中ニ生レテ福ヲ得、楽ヲ受テ身ニ病ヒ有ル事無シ。最後ノ身ニ婆羅門ノ子ト生レタリ。其ノ母死テ、父更ニ妻ヲ嫁ゲリ。薄拘羅、年幼シテ継母ノ餅ヲ作レルヲ見テ、此レヲ乞フ。継母[ニク]ムデ、薄拘羅ヲ取テ[ナベ]ノ上ニ擲置ク。[ナベ]、焼焦タリト云ヘドモ、薄拘羅ガ身、焼ル事無シ。其ノ時ニ、父、外ヨリ来テ薄拘羅ヲ見ルニ、熱[ナベ]ノ上ニ有リ。父、此ヲ見テ驚テ抱キ下シツ。其ノ後、継母弥ヨ嗔恚ヲ増テ、釜ノ煮タル中ニ薄拘羅ヲ投入ルヽニ、薄拘羅ガ身、焼ケ爛ルヽ事無シ。其ノ時ニ、父、薄拘羅ガ見エザルヲ怪ムデ求ルニ、見エネバ、此レヲ喚ブニ、釜ノ中ニシテ答フ。父、此レヲ見テ迷テ抱キ出シツ。薄拘羅ガ身、平復スル事、本ノ如シ。其ノ後亦、継母、大キニ嗔テ深キ河ノ辺ニ薄拘羅ト共ニ行テ、薄拘羅ヲ河ノ中ニ突入レツ。其ノ時ニ、河ノ底ニ大ナル魚有テ、即チ薄拘羅ヲ呑ツ。薄拘羅、福ノ縁有ルガ故ニ、魚ノ腹ノ中ニシテ猶死ナズ。其時ニ、魚捕ル人有テ、此ノ河ニ臨テ魚ヲ釣ル間ニ、此ノ魚ヲ釣得タリ。大ナル魚、鈎得タリト喜テ、即チ市ニ持行テ売ルニ、買人無シテ、暮ニ至テ魚臭ナムトス。其ノ時ニ、薄拘羅ガ父来会テ、此魚ヲ見テ買取テ、妻ノ家ニ持行テ、刀ヲ以テ腹ヲ破ラムト為ルニ、魚ノ腹ノ中ニ有リ、「願ハ父、我レヲ害スル事無カレ」ト。父、此ヲ聞テ驚テ魚ノ腹ヲ開テ見ルニ、薄拘羅有リ。抱キ出シツ。身ニ損無シ。其ノ後、漸ク長大シテ仏ノ御許ニ詣デヽ、出家シテ羅漢果ヲ得テ、三明六通ヲ具セリ。御弟子ト有リ。年百六十ニ至ルニ、身ニ病有ル事無シ。
此レ皆、前生ニ薬ヲ施タル故也トゾ、仏、説給ケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
天人、法ヲ聞キ法眼浄ヲ得タル語
今昔、仏祇[ヲン]精舎ニ在ケル時ニ、一ノ天人来下タリ。仏、此ノ天人ヲ見給テ、四諦ノ法ヲ説テ聞カシメ給フ。天人、此ノ法ヲ聞クニ依テ忽ニ法眼浄ヲ得タリ。其ノ時ニ、阿難、仏ニ白シテ言サク、「何ノ故ノ故有テ、此ノ天人ニ四諦ノ法ヲ説聞カシメ給テ法眼浄ヲ得シメ給フゾ」ト。仏、阿難ニ告テ宣ハク、「此ノ天人ハ、須達長者、此ノ精舎ヲ造リシ間ニ、一人ノ奴婢ヲ以テ寺ノ庭ヲ払ハシメ道路ヲ掃治セシメキ。其ノ善根ニ依テ、奴婢死シテ[トウ]利天ニ生レヌ。此天人ハ、彼ノ奴婢也。此ノ故ニ来下テ我レヲ見ル。法ヲ聞テ法眼浄ヲ得ル也」ト説給ケリ。然レバ、心ヲ発サズシテ人ノ言ニ随テ寺ノ[僧]庭ヲ掃治シタル功徳、既ニ此ノ如シ。何况ヤ、自心ヲ専ニシテ寺ノ庭ヲ掃治シタラム人ノ功徳、思遣ルベシトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
常ニ天蓋ヲ具セル人ノ語
今昔、天竺ニ一人ノ人有リ。其人ノ上ニ常ニ天蓋有リ。諸ノ人、此ヲ見テ奇異□思ヲ成シテ、而モ仏ニ問ヒ奉テ云ク、「此ノ人、何ナル業有テカ、常ニ其ノ上ニ天蓋有ルゾ」ト。仏、説テ宣ハク、「此ノ人ハ前生ニ貧シキ家ニ生レテ、下賤ノ人ト有リキ。世ヲ過シ命ヲ助ケムガ為ニ路辺ニ住シテ有リ□時、雨降シニ、其ノ前ヨリ、人、雨ニ湿テ過ギ行キ。其ノ行ク人ヲ留メテ旧ク破タル笠ヲ与タリキ。其ニ依テ、其ノ人濡レズシテ過ヌ。其ノ功徳ニ依テ、今生ニ常ニ天蓋ヲ具セル果報ヲ得タル也」ト説給ケリ。此ヲ以テ思フニ、善キ笠ヲ以テ僧ニ供養セラム功徳、思遣ルベシトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
樹提伽長者ノ福報ノ語
今昔、天竺ノ国王ノ宮ノ前ニ、大ナル事車輪ノ如ナル花及ビ手巾、自然ラ降ル。国王、此ヲ見テ、諸ノ大臣・公卿ト共ニ喜テ云ク、「此ハ、天ノ、此ノ国ヲ感ジ給テ、天ノ花・天ノ手巾ヲ降シ給也」ト喜ビ合タリ。其ニ、其ノ国ニ一人ノ長者有リ、樹提伽ト云フ。此ノ人、此ノ事ヲ喜バズ。然レバ、国御ノ遅キ事ヲ奏ス。此ニ依テ、国王速ク還給ハムト為ルニ、長者、庫倉ヲ開テ多ノ財宝ヲ取出テ国王ニ与ヘ奉ル。国王、此得テ、宮ニ還テ大臣・公卿ト儀シテ云ク、「樹提伽ハ此レ我ガ国ノ臣也。何ゾ皆悉ク我レニ勝レタルゾ。然レバ長者ヲ罸ツベキ也」ト定テ、四十万人ノ軍ヲ発シテ、長者ノ家ヲ圍ム時ニ、長者ノ家ヲ守ル一ノ力士有。軍ノ来ルヲ見テ忽ニ出来テ、鉄ノ[ホコ]ヲ持テ四十万人ノ官兵罸ツ。軍サ悉ク皆罸伏ラレテ倒レ伏ヌ。其ノ時ニ、樹提伽、宝車ニ乗テ空ヨリ飛来テ軍ニ問テ云ク、「汝等軍ハ、何ノ故ニ我ガ家ニハ来レルゾ」ト。軍等答テ云ク、「我等、大王ノ勅命ニ依テ来レル也」ト。長者、此レ□聞□哀ノ心ヲ成ス。此ニ依テ力士、多ノ軍ヲ皆、本ノ如ク平復セシメシテ、宮ニ返テ大王ニ此ノ由ヲ申ス。其時ニ大王、長者ノ神徳ヲ聞テ、使ヲ遣テ長者ヲ喚テ、其ノ咎ヲ謝シテ云ク、「我レ汝ガ徳ヲ知ラズ□テ愚ニ汝ヲ罸セムトシケリ。願クハ、此ノ咎ヲ免シ給ヘ」ト宣テ、国王、長者ト共ニ宝車ニ乗テ仏ノ御許ニ詣デヽ、大王、仏ニ白テ言サク、「樹提伽、前世ニ何ナル善根ヲ殖テ、此ノ如キノ果報ヲ得タルゾ」ト。仏ノ説テ宣ハク、「前世樹提伽ハ前世ノ布施ノ功徳ニ依テ、此ノ報ヲ得タル也。前世ニ五百ノ商人ト共ニ諸ノ財ヲ以テ山ヲ通リキ。山ノ中ニ一人ノ病人有リキ。此ノ人、此ヲ哀テ忽ニ草ノ菴ヲ造リテ、床ヲ敷キ食ヲ与ヘ灯ヲ明シテ養育シキ。其ノ功徳ニ依テ、今樹提伽、此ノ報ヲ得タリ。其ノ時ノ布施ノ功徳ノ人ハ、今ノ樹提伽長者是也」ト説給ケレバ、国王、此レヲ聞テ貴シト思テ返ニケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
波斯匿王ノ娘善光女ノ語
入レテ、其ノ塔ニ納メ置キ、誓テ云ク、「我レ、此ノ功徳ニ依テ、生レム所ニハ中夭ニ会ハズ、三途八難ヲ離レム」ト。此ニ依テ、昔ノ后ハ、今ノ善光女此レ也。誓ニ依テ、王ノ家ニ生レテ身ニ光リ有リ、王宮ヲ追出シタレドモ福衰ヘザル也。昔ノ盤頭末王ハ、今ノ善光女ガ夫也。先世ノ契リ深クシテ、今妻ト成テ此ノ如キノ報ヲ得タル也」ト。波斯匿王、カク仏ノ説給ヲ聞テ、礼拝恭敬シテ宮ニ返ヌ。王ノ思ハク、「善光女ノ云シ如ニ、実ニ善悪ノ果報、皆先世ノ宿世也」ト知ヌ。然レバ、王、善光女ノ栖カニ行テ見ニ、実ニ王宮ニ異ナラズ。其ノ後ハ互ニ行キ通テ、各目出クテゾ過ギケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
波羅奈国ノ大臣、子ヲ願ヘル語
今昔、天竺ノ波羅奈国ニ一人ノ大臣有リ。家大ニ富テ財宝豊カ也。而ニ此ノ人、子有ル事無シ。此ニ依テ、昼夜朝暮ニ子無キ事ヲ歎キ悲ムト云ヘドモ、子ヲ儲ル事無シ。其ノ国ニ一ノ社有リ。摩尼抜陀天ト云フ。国ノ内ノ人、挙リ詣テ心ニ願フ事ヲ祈リ申ス社也。
大臣、子無キ事ヲ思ヒ悩ビテ、其ノ社ニ詣テ白テ言サク、「我レ、子有ル事無シ。願クハ、天、我ガ願ヲ満給ヘ。若シ子ヲ給ヘラバ、金銀等ノ宝ヲ以テ天ノ宮ヲ荘厳シ、又香キ香薬等ヲ以テ御身ニ塗ルベシ。又、子ヲ給ハズハ、此ノ社ヲ壊チテ廁ノ内ニ投入ム」ト誠ノ心ヲ致シテ礼拝シテ申ス。其ノ時ニ、天神、聞驚テ、此ノ人ノ為ニ子ヲ求ム。此ノ大臣ハ極テ止事無人ノ、家限リ無ク富メリ。其ノ家ニ子ト成テ生ルベキ人ヲ求ムルニ更ニ求得難シ。求メ煩ヒテ、毘沙門天ノ御詠セシガ中ニ、一人ノ高キ音有テ此レニ交フ。王、此ノ音ヲ聞テ大ニ忿テ、此ノ人ヲ捕ヘシメテ使ヲ遣テ此ヲ殺サシメムトス。其ノ時ニ、一人ノ大臣有リ、今、外ヨリ来テ此ノ人ノ捕ヘラレタルヲ見テ云ク、「此レ何ニ依テゾ」ト。諸ノ人、其ノ故ヲ答フ。大臣聞畢テ王ニ申テ申サク、「此ノ人ノ罪犯重カララズ。然レバ、其ノ命ヲ亡ボシ給フ事無カレ」ト。爰ニ王、此ノ人ヲ免シテ命ヲ亡ボス事ヲ止ツ。既ニ大臣ノ為ニ死ヲ遁ルヽ事ヲ得ツ。此レニ依テ其ノ後、大臣ニ仕ヘテ、数ノ年月ヲ経ヌ。其ノ人、自ラ思ハク、「我レ善ク欲ノ心深クシテ、采女ノ音ニ高キ音ヲ加タリ。既ニ□ノ為ニ害セラレヌベカリキ。此レ欲ノ為也」。此ノ由ヲ大臣ニ申テ出家セムト乞フ。大臣答テ云ク、「我レ汝ニ違ハジ。速ニ本意ノ如ク出家シテ、仏道ニ入テ法ヲ学ビヨ。若シ、返リ来ラバ我ヲ見ヨ」ト。即チ、此ノ人、山ニ入テ専ニ妙理ヲ思テ、正法ヲ修習シテ辟支仏ト成、城ニ返リ来テ大臣ニ見ユ。大臣、又、見畢テ大キニ歓喜シテ供養ス。此ノ辟支仏、虚空ニ昇テ十八変ヲ現ズ。大臣、此ヲ見テ誓願シテ云ク、「我ガ恩ニ依ルガ故ニ命ヲ免ル事ヲ得ツ。我レ生々世々ニ福徳長命殊勝ニシテ、世々ニ広ク衆生ヲ度セム事、仏ノ如クナラム」ト誓ヒキ。彼ノ時ノ大臣、一人ノ人ノ命ヲ助ケテ遁ルヽ事ヲ得シメタルハ、今ノ□此レ也。此ノ因縁ニ依テ生ルヽ所ニハ中夭ニ当ラズ、法ヲ学ビテ速ク道ヲ得ル也」ト説キ給フ也ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
前生ニ不殺生戒ヲ持テル人、二国ノ王ニ生ゼル語
今昔、天竺ニ国王有リ。子有ル事無シ。然レバ、仏神ニ祈請シテ子ヲ儲ケム事ヲ願フ程ニ、后懐妊シヌ。月満テ子ヲ生ゼリ。端厳美麗ナル「其レハ定メテ我ガ子ナルラム。河ニ落チ入ケルマヽニ、魚ノ呑テケル也」ト思テ、其ノ王ノ許ニ此ノ由ヲ云テ、乞ニ遣ル。今ノ王、答テ云ク、「此レ、天道ノ給ヘル子也。更ニ遣ルベカラズ」ト。此ノ如ク云ツヽ互ニ諍フ程ニ、隣国ニ止事無キ大王在マス。二ノ国、共ニ此ノ大王ニ随ヘリ。此ニ依テ二国ノ王、共ニ其ノ大王ニ訴ヘテ、「彼ノ御定メニ依ルベシ」ト云フ。大王定テ云ク、「二ノ国ノ王ノ各訴フル所、皆理也。然レバ、一人ノ王得ベシトハ定メ難シ。只、二ノ国ノ境ニ一ノ城ヲ造テ、其ノ城ニ此ノ御子ヲ居ヘテ、二人ノ王、各、国ノ太子トシテ皆祖ニテ養ヒ傅クベシ」ト。二人ノ国王、此ノ事ヲ聞テ、共ニ「然ルベシ」ト喜テ、定ノママニ共ニ我ガ国ノ太子トシテ各傅キ護リケリ。後ニハ二ノ国ニノ王ニ即チ、二国ヲ領知シケリ。仏ケ此事ヲ見給テ説テ宣ハク、「此ノ人、前ノ世ニ人ト生レテ有シ時キ、五戒ヲ持タムト思ヒキ。然而五戒ヲバ持タズシテ只不殺生ノ一戒ヲ持テルニ依テ、今中夭ニ値ハズシテ命ヲ持ツ事ヲ得テ、遂ニ二ノ国ノ王ト成テ、二ノ父ノ財宝ヲ伝ル也」ト。何况ヤ、五戒ヲ持タム人ノ福徳限リ無シトナム説キ給ケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
天竺ノ神、鳩留長者ノ為ニ甘露ヲ降ラセタマヘル語
今昔、天竺ニ一人ノ長者有リ。鳩留ト云フ。五百人ノ商人ヲ引具シテ商ノ為ニ遠キ国ニ行ク間、途中ニシテ粮尽テ皆疲レ臥ヌ。長者思ヒ煩テ見迴スニ、遥ニ人ノ栖カ離タル所也。山辺ニ盛ナル林有リ。若シ人郷カト思ヒテ近ク寄テ見レバ、人郷ニハ非デ神ノ社也。寄テ社ヲ見レバ、神在マス。長者、神ニ申テ云ク、「我レ、五百人ノ人ヲ引具シテ遠キ道ヲ行ク間、粮尽テ既ニ餓死ナムトス。神、慈悲ヲ以テ我レヲ助ケ給」ト。
其ノ時ニ、神、手ヲ指シ延ベテ、指ノ崎ヨリ甘露ヲ降ス。長者、其ノ甘露ヲ受テ服スルニ、忽ニ餓ヘノ苦ビ皆止テ楽シキ心ニ成ヌ。其ノ時ニ、長者、又神ニ申サク、「我レ甘露ヲ服シテ餓ノ心皆止ニタリ。然レドモ此ノ具シタル五百人ノ商人同ジク餓臥シテ皆死ナムトス。彼等ガ苦ビヲ助ケ給ヘ」ト。
神、又、五百人ノ商人等ヲ召テ、手ヨリ甘露ヲ降ラシメテ各皆服セシメ給フ。商人等、甘露ヲ服シテ皆餓ノ心止テ本ノ如ク力付テ、同心ニ神ニ白テ言サク、「神、何ナル果報在マシテ、手ヨリ甘露ヲ降ラシメ給フゾ」ト。
神、答テ宣ハク、「我レ、昔、迦葉仏ノ世ニ、人ト生レテ鏡ヲ磨テ世ヲ過ス人ト有リキ。而ニ乞食ノ沙門、道ニ遇テ何レカ富メル家ト問ヒシニ、我レ手ヲ以テ富人ノ家ヲ、「彼ゾ富メル家」ト指ヲ差テ教タリキ。其ノ果報ニ依テ、今手ヨリ甘露ヲ降ス報ヲ得タル也」ト。鳩留、此ノ事ヲ聞畢テ歓喜シテ家ニ返ヌ。其ノ後、千人ノ僧ヲ請ジテ供養シケリ。此レ、仏在世ノ時ノ事也。仏、此ノ如クナム説給ケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
流離王、釈種ヲ殺セル語
今昔、天竺ノ迦毘羅衛国ハ仏ノ生レ給ヘル国也。仏ノ御類皆ナ其ノ国ニ有リ。此ヲバ釈種ト名ケテ、其ノ国ニ人ニ勝レテ家高キ人ト為ル、此レ也。惣テ五天竺ノ中ニハ、迦毘羅国ノ釈種ヲ以テ止事無キ人トス。其ノ中ニ釈摩男ト云フ人有リ。国ノ長者トシテ智恵明了ナル事限リ無シ。然レバ、此ノ人ヲ以テ国ノ師トシテ、諸ノ人、物ヲ習フ。其ノ時ニ、舎衛国ノ波斯匿王、数ノ后有リト云ヘドモ、迦毘羅衛国ノ釈種ヲ以テ后ト 
舎衛国ノ群賊、迦留陀夷ヲ殺セル語
今昔、天竺ノ舎衛国ニ一人ノ婆羅門有リ。殊ニ道心有テ常ニ迦留陀夷羅漢ヲ供養ス。婆羅門ニ一人ノ子有リ。父ノ婆羅門、死ヌル時ニ臨テ、子ノ婆羅門ニ語テ云、「汝ヂ、我レニ孝養ノ志有ラバ、我ガ死ナム後ニ、我ガ如クニ此ノ大羅漢ヲ供養シ奉テ、努々愚ニ無カレ」ト。其ノ詞終ラザルニ、即チ死ニヌ。其ノ後、子ノ婆羅門、深ク父ノ遺言ヲ信ジテ、寧ニ此羅漢ヲ供養シテ、昼夜ニ帰依スル事限リ無シ。而ル程ニ、婆羅門、要事有テ遠ク行カムト為ルニ、妻ニ語テ云ク、「我ガ外ニ有ラム間、此ノ大羅漢、心ニ入レテ供養シ奉ルベシ。努々乏キ事無カラシメヨ」ト云置テ、遥ニ遠キ所ヘ趣ヌ。其ノ間、此ノ婆羅門ノ妻、形貌端正ニシテ限リ無キ婬女ニテ有ケレバ、国ノ五百ノ群賊ノ中ニ一人有テ、此ノ婆羅門ノ妻ノ美麗ナルヲ見テ愛染ノ心ヲ発シテ、蜜ニ招取テ終ニ其ノ本意ヲ遂ツ。其ノ事ヲ、此ノ大羅漢自然ニ見ツ。妻有テ、此事ヲ羅漢、夫ニ語ラム事ヲ恐レテ、賊人ヲ教ヘテ此ノ羅漢ヲ殺シツ。波斯匿王、此事ヲ聞テ云ク、「我ガ国ノ内ニ[被]貴ク止事無カリツル証果ノ聖人ノ大羅漢、婆羅門ノ妻ノ為ニ殺サレヌ」ト歎キ悲ムデ、大ニ瞋テ五百ノ群賊ヲ捕テ手足ヲ切リ、頸ヲ切テ皆殺シ棄ツ。婆羅門ノ妻ヲモ殺シツ。其家ノ近辺八千余家ヲ悉ク亡シ失ツ。其ノ時ニ、仏ノ御弟子□諸ノ比丘、此レヲ見テ仏ニ白シテ言サク、「迦留陀夷、前世ニ何ナル悪ヲ作テ、婆羅門ノ妻ノ為ニ殺サレテ此ノ如キノ大事ヲ曳出タルゾ」ト。仏、諸ノ比丘ニ告テ宣ハク、「迦留陀夷、乃徃過去無量劫ニ、大自在天ヲ祀ル主ト有リキ。五百ノ養属ト共ニ一ノ羊ヲ捕テ、四足ヲ切テ天ニ祀リキ。其ノ罪ニ依テ、地獄ニ堕テ隙無ク苦ヲ受ク。其ノ時ニ殺レシ羊ハ、今ノ婆羅門ノ妻此也。天ヲ祀リシ人ハ、今ノ迦留陀夷此レ也。昔ノ五百ノ眷属ハ、今ノ五百ノ群賊此レ也。殺生ノ罪、世々ニ朽チズシテ、互ニ殺シ、其ノ報ヲ感ズル事、此ノ如シ。適ニ人ト生レテ今、羅漢果ヲ得タリト云ヘドモ、于今、猶、悪業ノ残レル所ノ罪ヲ感ゼル也」ト説キ給ヒケリトナム語リ伝ヘタリトヤ。 
波斯匿王、毘舎離ノ三十二子ヲ殺セル語
今昔、天竺ノ舎衛国ニ一人長者有リ。名ヲバ梨耆弥ト云フ。
七人ノ子有リ。皆勢長ジテ、各夫妻ヲ相具セリ。其ノ第七ノ女子ヲバ毘舎離ト云フ。其ノ人、心賢ク智リ有リ。其ノ故ヲ聞テ、其国ノ波斯匿王、后ト為ムト思テ、此ノ人ヲ迎ヘテ后トシツ。其ノ後、壊任シヌ。月満テ三十二ノ卵ヲ生ゼリ。其ノ一ノ卵ノ中ヨリ一ノ男子出タリ。各形貌端正ニシテ、勇健ナル事限リ無シ。此人、一人シテ千人ノ力ヲ具セリ。此ノ三十二人、各勢長ジテ、皆、国ノ中ノ家高ク賢キ人ノ娘ニ娶テ妻トセリ。カヽル程ニ、毘故ニ、五百世ノ間、常ニ母ト成テ子ノ殺ルヽヲ見テ悲ビヲ懐ケル也。今、我ニ会ヘル故ニ阿那含果ヲ得タル也」ト。三十二人ノ家ノ親族、仏ノ此ノ如キ説給フヲ聞テ、皆、怨ノ心止テ、各云ク、「一ノ牛ヲ殺シテ其ノ報ヲ受ケム、猶此ノ如シ。何况ヤ、大王、過無クシテ善人共ヲ殺セリ。豈ニ恨ニ非ザラムヤ。然ト云ヘドモ、我等、仏ノ説給□聞テ怨ノ心止ヌ。又、大王ハ此レ我等ガ国ノ主也。然レバ殺害ノ心ヲ止ツ」ト。王、又、其ノ罪ヲ悔テ答ル事無シ。阿難、重テ仏ニ白テ言サク、「毘舎離、前世ニ何ナル福ヲ殖テ、仏ニ遇奉テ道ヲ得ゾ」ト。仏ノ宣ハク、「昔、迦葉仏ノ時ニ、一ノ老女有キ。諸ノ香ヲ以テ油ニ和シテ、行テ塔ニ塗キ。又、路ノ中ニ三十二人有キ。此ヲ勧メテ共ニ行テ塔ニ塗キ。塗畢テ願ヲ発シテ云ク、「生レム所ニハ豪貴ノ人ト生レテ、常ニ母子ト成テ、仏ニ遇奉テ道ヲ得ム」ト。其ノ後、五百世ノ中ニ豪貴ノ人ト生レテ、常ニ母子ト成レル也」。仏ニ遇奉ルニ依テ道ヲ得ル事、此ノ如シトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
微妙比丘尼ノ語
今昔、天竺ニ一人ノ羅漢ノ比丘尼有リ。名ヲバ微妙ト云フ。
諸ノ尼衆ニ向テ、我ガ前世ニ造ル所ノ善悪ノ業ヲ語テ云ク、「乃徃過去ニ一人ノ長者有キ。家大ニ富テ財宝豊也。但子無シ。後ニ小婦ニ娶テ、夫甚ダ愛念スル間ニ、一人ノ子有リ。其ノ妻新ク死テ、夫、日来家ニ有テ恋悲ム程ニ、此ノ女ノ樹ノ下ニ独リ居タルヲ見テ問フニ、有様ヲ答フ。其人、此ノ女ヲ娶テ妻トシツ。数日ヲ経ルニ、其ノ夫、忽ニ死ヌ。其ノ国ノ習トシテ生タル時、夫妻愛念セル者、夫死ヌレバ其ノ妻ヲ生ナガラ埋ム事、定レル例也。然レバ、群賊、妻ヲ埋マムガ為ニ其ノ家ニ来ヌ。賊ノ主、妻ノ形貌端正ナルヲ見テ、計テ娶テ妻ト為リ。数日ヲ経テ、夫、他ノ家ニ行テ家ヲ破ル程ニ、其ノ家ノ主、賊主ヲ殺シツ。然レバ、賊ノ伴、屍ヲ持来テ妻ニ付ツ。国ノ習ナレバ、其ノ妻ヲ生ナガラ共ニ埋ツ。三日ヲ経テ、狐狼、其ノ家ヲ鑿テ自然ニ出事ヲ得タリ。
女ノ思ハク、「我レ何ナル罪ヲ作テ、日来ノ間重キ禍厄ニ遭テ死テ甦ラム。今又何ナル所ヘ行ム」ト思フニ、「余命有ラバ、釈迦仏、祇薗精舎ニ在マスト聞テ詣テ出家ヲ求ム」」。過去ニ辟支仏ニ食ヲ施シテ願ヲ発シ故ニ、今、仏ニ値奉ル事ヲ得テ、出家シテ道ヲ修シテ羅漢ト成ヌ。前世ノ殺生ノ罪ニ依テ地獄ニ堕ヌ。現在ニ呪誓ノ過ニ依テ悪報ヲ受ク。微妙自ラ、「昔ノ本ノ妻ハ、今我ガ身、此レ也。羅漢果ヲ得タリト云ヘドモ、常ニ熱鉄ノ針、頂ノ上ヨリ入テ足ノ下ニ出ヌ。昼夜ニ此苦患堪ヘ難シ」ト語ケリ。然レバ、罪福ノ果報、此ノ如シ。終ニ朽ル事無シトナム伝ヘタルトヤ。 
舎衛国ノ大臣、師質ノ語
今昔、舎利弗尊者、常ニ智恵ノ眼ヲ以テ衆生ノ中ニ得仏、聞畢テ、即チ涅槃ニ入ヌ。王、其ノ所ニ塔ヲ起テ供養シツ。其ノ後、帝ニ其ノ塔ニシテ、此ノ罪ヲ懺悔シテ、終ニ度脱ヲ得タリ。今此ノ沙門ハ、昔ノ達王此レ也。前世ニ辟支仏ノ臂ヲ斬ルニ依テ、今臂ヲ斫ルヽ也。懺悔ヲ致セルニ依テ、地獄ニ堕チズシテ、今道ヲ得タル也」ト説給ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
天竺、女子父ガ財宝ヲ伝ヘザリシ国ノ語
今昔、天竺ニ一ノ国有リ。其国ノ習トシテ、人ニ女子有レドモ、父ガ財宝ヲ伝ズ、男子定マリテ伝フ。若シ男子無キ財宝ヲバ、其ノ人死ヌレバ、皆公ケ納メ取ラル。此レ定レル国ノ例也。其ノ国ニ一人ノ人有リ。家大ニ富テ財宝多カリ。但、女子五人有テ、男子無シ。死ナバ、皆公ケ財ニ成ナムトス。而ニ、此ノ人ノ妻、懐妊セリ。
家ノ人<皆、「男子ニテ生レヨカシ」ト思フ程ニ、其ノ父俄ニ死ヌ。然レバ、公ノ使来テ、>財宝納メ置タル庫倉ニ悉ク封ヲ付ツ。其時ニ、第一ノ女子有テ、王ノ申サシムル様、「此ノ懐妊セル子、若シ男子ニテ生ゼラバ、父ガ財宝ヲ伝フベキ也。而公物ニ成リ畢ナム後ハ、譬ヒ男子也ト云フトモ、返シ給ベキニ非ズ。然レバ、此子ノ生レム程、カク封ヲ付置カレテ、子生レテ後ニ、女子ナラバ公物ト成リ、男子ナラバ父ガ財ヲ伝フベキ也」ト。王ノ云ク、「申ス所、尤モ然ルベシ。子ノ生ゼム程ヲ暫ク待ベシ」ト。然ル程ニ、子生レヌ。其ノ子、男子ニテ有リ。五人ノ女子ヨリ始メ、家ノ人皆喜ヲ成シテ、児ノ顔ヲ見レバ、二ノ目無シ。
二ノ耳無シ。口ノ内ニ舌無シ。此ヲ見テ奇異ノ思成ス。男子ニテ身ト生タリ。又財ノ主ト成ル事ハ、国ノ賢シキ人トシテ国王ヨリ始メテ国ノ人重クセシカバ、徳豊ナル身ニテ人ニ物ヲ施シニ依テ財ヲバ伝ヘ得タル也」ト仏ノ説給ヲ聞テ、第一ノ女ノ夫、貴シト思テ礼拝ヲ成シテ去ニケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
畜生ノ百ノ頭ヲ具セル魚ノ語
今昔、天竺ニ、仏、諸ノ比丘ト共ニ梨越河ノ側ヲ行キ給フ。其ノ河ニ人集テ魚ヲ捕ル。網ニ一魚ヲ得タリ。其ノ魚、駝・驢・牛・馬・猪・羊・犬等ノ百畜生ノ頭ヲ具セリ。五百人シテ引クニ、其ノ魚、水ヲ出デズ。其ノ時ニ、河辺ニ五百人有テ牛ヲ飼フ。各牛ヲ放テ寄テ此ヲ引ク。然レバ、千人、力ヲ合セテ引クニ、魚、水ヲ出ル事ヲ得タリ。諸ノ人、此ノ事ヲ怪ムデ競ムテ見ル。仏、比丘ト共ニ魚ノ所ニ行キ給テ、魚ニ問テ宣ハク、「汝ハ教ヘシ母ハ何ナル所ニカ有ル」ト。魚ノ云ク、「無間地獄ニ堕セリ」ト。阿難、此レヲ見テ、其ノ因縁ヲ仏ニ問奉ル。仏、阿難ニ告テ宣ハク、「昔、迦葉仏ノ時ニ婆羅門有リキ。一ノ男ヲ生ゼリ。名ヲバ迦毘利ト云キ。其ノ児、智恵明了ニシテ聡明第一也。其ノ父死テ後、母、児ニ問テ云ク、「汝ヂ智恵朗カ也。世間ニ汝ニ勝タル者有ヤ否ヤ」ト。児、答テ云ク、「沙門ハ我ニ勝タリ。我レ疑フ事有ラバ、行テ沙門ニ問ハムニ、我ガ為ニ説テ悟ラシメテム。
沙門、若シ我ニ問フ事有ラバ、我レハ答フル事能ハジ」ト。母ノ云、「汝ヂ何ゾ其法ヲバ習ハザルゾ」ト。児ノ云ク、「我レ其ノ法ヲ習ハヾ、沙門ト成ルベシ。
我レハ此レ白衣也。白衣ニハ教ヘザル也」ト。母ノ云ク、「汝ヂ偽テ沙門ト成テ其ノ法ヲ習ヒ得テ、後ニ家ニ返スベシ」ト。児、母ノ教ヘニ随テ、比丘ト成テ沙門ノ許ニ行テ法ヲ問ヒ習テ悟リ得テ家ニ返ヌ。
母、児ニ云ク、「汝ヂ法ヲ習ヒ得タリヤ否ヤ」ト。児ノ云ク、「未ダ習ヒ畢ラズ」ト。
母ノ云ク、「汝ヂ今ヨリ後、習ヒ得ズハ、師ヲ罵辱シメバ勝ルヽ事ヲ得テム」ト。
児、母ノ教ニ随テ師ノ許ニ行テ、罵リ辱メテ云ク、「汝ヂ沙門、愚ニテ識リ無シ。頭ハ獣ノ如シ」ト云テ去ニキ。其ノ罪ニ依テ、母ハ無間地獄ニ堕テ苦ヲ受ル事量リ無シ。子ハ今、魚ノ身ヲ受テ、百ノ畜生ノ頭ヲ具セリ」ト。阿難、重テ仏ニ言サク、「此ノ魚ノ身ヲ脱ルベシヤ」ト。仏ノ宣ハク、「此ノ賢劫ノ千仏ノ世ニ、猶此ノ魚ノ身ヲ脱ガレズ。此ノ故ニ、人、身・口・意ヲ慎ムベシ。若シ人、悪口ヲ以テ罵詈セバ、語ニ随テ其ノ報ヲ受クベシ」ト説給ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
天竺ニ異形ノ天人降レル語
今昔、天竺ニ天ヨリ一人ノ天人降タリ。其ノ身、金色也。但シ、頭ハ猪ノ頭也。諸ノ不浄所生ノ類ヲ求メ食ス。諸ノ人、此ノ天人ヲ見テ奇異ノ思ヲ成シテ、仏ニ白テ言サク、「此ノ天人、前世ニ何ナル業有テカ、身ノ色金色也ト云ヘドモ、頭ハ猪ノ頭也。諸ノ不浄所生ノ類ヲ求メ食スル」ト。
仏、説テ宣ハク、「此ノ天人ハ、過去ノ九十一劫ノ時、毘婆尸仏ト申ス仏、世ニ出デ給ヘリ。其ノ時ニ、此ノ天人、女人ト生レテ人ノ妻ト有リキ。其ノ家ニ沙門来テ乞食シキ。夫、金ヲ施セムト云ヒシニ、妻、慳貪ナルガ故ニ心ヲ誤マリ、面ヲ赤メテ瞋恚ヲ発シテ、夫ノ乞食ニ金施スル事ヲ止テキ。其ノ罪ニ依テ、其ノ妻九十一劫ノ間、此ノ果報ヲ得タル也。又身ノ金色ナル事ハ、其ノ沙門ニ値テ一度腰ヲ曲テ礼拝シキ。其ノ功徳ニ依テ、金色ノ身ヲ得テ光ヲ放ツ也。然レバ、天ニ生タリト云ヘドモ、悪業ノ残レル所、此ノ如キ也」ト説給ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
天竺ノ遮羅長者ノ子、閻婆羅ノ語
今昔、天竺ノ毘舎離城ニ一人ノ長者有リ。名ヲバ遮羅ト云フ。其ノ妻、懐任シテ後、身臭ク穢レテ、惣テ人、近付カズ。十月ニ満テ男子ヲ生ゼリ。其ノ児、痩セ忰ヘテ骨体連レリ。又多ノ糞尿、児ノ身ニ塗テ生ゼリ。然レバ、父母、更ニ此ヲ見ズ。児、漸ク勢長ズル程ニ、家ニ在テ父母ニ随ハム事ヲ欲ハズシテ、只糞穢ヲ嗜ブ。父母及ビ諸ノ親族、此ヲ悪テ見ムト欲ハズ、遠ク遣テ近付ケズ。外ニ在テモ常ニ糞穢ヲ食ス。
世ノ人、此ヲ見テ[ニク]ミ厭フ事限リ無シ。其ノ名ヲ閻婆羅ト云フ。其ノ時ニ外道有リ。道ヲ行ニ、此ノ閻婆羅ニ遇ヌ。「我ガ門徒ニ入レ」ト勧メテ、苦行ヲ教ヘテ修セシム。閻婆羅、外道ノ苦行ヲ修スト云ヘドモ、猶糞穢ヲ食ス。
外道、此ヲ見テ罵リ、打テ追ヒ出シツ。閻婆羅、逃テ河ノ岸・海ノ中ニ至リ住シテ、苦悩シ愁歎ス。其ノ時ニ、仏、此ヲ見給テ、其ノ所ニ行テ此ヲ度シ給フ。閻婆羅、仏ヲ見奉テ歓喜シテ、五体ヲ地ニ投テ出家ヲ求ム。
仏ノ宣ハク、「汝ヂ善ク来レリ」ト。閻婆羅、此ヲ聞クニ、頭ノ髪、自ラ落テ、身ニ法服ヲ着セリ。既ニ沙門ト成レリ。仏、為ニ法ヲ説給フニ、身ノ臭穢ヲ除テ阿羅漢ト成ヌ。比丘、此レヲ見テ仏ニ白テ言サク、「閻婆羅、前世ニ何ナル業ヲ造テ、此ノ罪報ヲ受ケ、又何ナル縁ヲ以テ仏ニ値奉テ道ヲ得ルゾ」ト。仏、比丘ニ告テ宣ハク、「乃徃過去ノ此ノ賢劫ノ中ノ拘留孫仏ト申ス仏、世ニ出給ヘリキ。其ノ時ニ国王有テ、仏及ビ諸ノ比丘ヲ宝殿ニ請ジテ、寺ヲ造テ一ノ比丘ヲ以テ寺ノ主トセリ。諸ノ檀越有テ、衆僧ニ沐浴セシム。衆僧、浴畢テ香油ヲ身ニ塗ル。其ノ中ニ一人ノ阿羅漢ノ比丘有リ。寺主、此ヲ見テ瞋テ罵テ云ク、「汝ヂ出家ノ人、香油ヲ身ニ塗ル、糞ヲ塗ルニ似タリ」ト。羅漢、寺主ヲ愍テ、為ニ神通ヲ現ズ。虚空ニ昇テ十八変ヲ成ズ。寺主、見已テ懺悔シテ、此ノ罪ヲ除カム事ヲ願ヒキト云ヘドモ、終ニ此ノ罪ニ依テ、五百世ノ中ニ、常ニ身、臭穢シテ人近付カズ。又昔シ出家シテ彼ノ羅漢ニ向テ懺悔セシニ依テ、今我レニ値テ出家シテ道ヲ得ル也」ト説給ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
満足尊者、餓鬼界ニ至レル語
今昔、仏ノ御弟子満足尊者、神通ヲ以テ餓鬼界ニ行テ一ノ餓鬼ヲ見ル。其ノ形、極テ恐怖シクシテ、毛竪チ心迷ヒヌベシ。身ヨリ火ヲ出シテ、大ナル事数十丈、或ハ眼・鼻・身体、支節ヨリ焔ヲ放ツ、長サ数十丈。又脣・口垂レテ野猪ノ如シ。身体ノ縦広一由旬也。手ヲ以テ自ラ手ヲ[ツカミ]テ、音ヲ挙テ[ホ]エ叫テ東西ニ馳走ス。尊者、此ヲ見テ、餓鬼ニ問テ云ク、「汝ヂ前世ニ何ナル罪ヲ造テ、今此ノ苦ヲ受タルゾ」ト。餓鬼、答テ云ク、「我レ昔シ、人ト生レテ沙門ト成レリト云ヘドモ、房舎ヲ執着シテ慳貪ヲ捨テザリキ。豪族ヲ恃ムデ悪言ノ事ヲ出シ、若ハ持戒ノ精進ノ比丘ヲ見テハ、輙ク罵リ恥シメテ眼ヲ戻キ。其ノ罪ノ故ニ、此ノ苦ヲ受ク。然レバ、利刀ヲ以テ自ラ其ノ舌ヲ割ラムト思フ。一日モ精進・持戒ノ比丘ヲ罵リ謗ル事無カレ。若シ尊者、閻浮ニ返リ給ハム時キ、我ガ形ヲ以テ諸ノ比丘ニ告テ、善ク口ノ過ヲ助ケテ、妄語ヲ出ス事無カレ。持戒ノ人ヲ見テハ、其ノ徳□敬ヒ思フベシ。我レ此ノ餓鬼ノ形ニ生テ以来タ数千万歳、此ノ苦ヲ受ク。又此ノ命尽テハ地獄ニ堕ベシ」ト云ヒ畢テ後、[ホ]エ叫ムデ身ヲ地ニ投グ。其ノ音、大山ノ崩ルヽガ如トシ。
天振ヒ地動ク。此レ口ノ過ニ依テ受ル所ノ悪業也。尊者、閻浮ニ返テ語リ伝ヘ給フ也ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
天竺ノ祖子二人ノ長者、慳貪ノ語
今昔、天竺ニ二人長者有リ。祖子也。父モ子モ共ニ家大ニ富テ財宝豊也。但シ慳貪深クシテ敢テ施ノ心無シ。自然ラ、乞匂家ニ来レバ、門ノ内ニ入レズシテ、人ヲ以テ追ヒ掃ハス。而ル間、父ノ長者、身ニ病ヲ受テ幾ノ程ヲ経ズシテ死ヌ。其ノ国ノ内ニ、目盲タル乞匂ノ女有リ。此ノ長者、其ノ乞匂ノ腹ニ宿ヌ。月満テ既ニ産セリ。其子、又目盲タリ。
年月ヲ経テ七歳ニ成ヌ。母モ子モ共ニ乞匂ヲシテ命ヲ養フ。子、乞匂ヲシテ行ク程ニ、自然ラ彼ノ長者ノ家ニ至ヌ。其ノ家ノ守門ノ者、白地ニ外ニ行タル間ニテ、追フ人モ無クテ、此ノ乞匂、家ノ内ノ入テ南面ニ立テリ。長者、此レヲ見テ瞋恚ヲ発シテ追ヒ掃ハス。其ノ時ニ、守門ノ者、返来テ、此ノ乞匂ヲ見テ、一ノ手ヲ牽テ遠ク投ゲ遣ル時ニ、地ニ倒レテ一ノ手折レ頭破レヌ。音ヲ挙テ叫ブ時ニ、母ノ乞匂、子ノ叫ブ音ヲ聞テ迷ヒ来テ、子ヲ抱テ哭キ悲ブ事限リ無シ。其ノ時ニ、仏、此ヲ哀テ、其ノ所ニ来リ給テ、乞匂ニ告テ宣ハク、「汝ヂ善ク聴ケ。汝ハ此レ此ノ長者ノ父也。前生ニ慳貪深クシテ人ニ物ヲ施スル心無ク、乞匂ヲ強ニ追シニ依テ、今此ノ報ヲ得タル也。此ノ苦ハ甚ダ軽シ。此ノ後、地獄ニ堕テ無量劫ノ間、苦ヲ受ベシ。哀レナルカナ」ト宣テ、立寄テ頭ヲ撫給フニ、乞匂、二ノ目開ヌ。仏ノ説キ知シメ給フヲ聞テ、「我レハ此ノ長者ノ父ニテ有シ時、慳貪深クシテ施ノ心無ク、乞匂ヲ追ヒシ罪ニ依テ、今子ノ家ニ来テ此ノ苦ニ遇ヘル也ケリ」ト知ヌ。然レバ、此ノ事ヲ悔ヒ悲ムデ、仏ニ向奉テ、礼拝恭敬シテ懺悔セシカバ罪ヲ免ルヽ果報ヲ得タリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
天竺ノ利群史比丘ノ語
今昔、天竺ニ利群史ト云フ比丘有リ。此ノ人、在家ナリシ時モ、衣食ニ乏クシテ得難カリキ。比丘ト成ナレリト云ヘドモ、猶、衣食得難シ。一ノ塔ニ籠テ宿シヌ。僅ニ食ヲ得タリ□云ドモ、食スルニ能ハズ。然バ、七日食セズシテ既ニ餓死ナム事久シカラズ。此ヲ哀テ、仏ノ御弟子、須菩提・目連・阿難等、毎日ニ来テ食ヲ与ヘムト□レドモ、相ヒ違ヒツヽ更ニ得ズ。
既ニ十日ヲ経テ未ダ食セズ。其ノ時ニ、目連、食ヲ入レテ持来タルニ、俄ニ塔ノ戸、固ク閉テ開カズ。目連、神通ノ力ヲ以テ、鉢ヲ抱キナガラ穴ヨリ入テ、飯ヲ比丘ニ与フ。比丘、喜テ鉢ヲ取ルニ、鉢、手ヨリ落テ、地ノ下、五百由旬ニ入ヌ。目連、神通ノ力ヲ以テ臂ヲ申テ鉢ヲ取出テ、又此レヲ与フ。比丘、此レヲ取テ食セムト為スルニ、比丘ノ口、俄ニ閉テ開ク事ヲ得ズ。然レバ、終ニ食スル事無シ。其ノ時ニ、目連、利群史比丘ト共ニ、仏ノ御許ニ詣テ白シテ言サク、「利群史、何ナレバ、此ノ如ク食ヲ得ザルゾ」ト。仏、告テ宣ハク、「汝ヂ当ニ知ベシ。此ノ比丘、前世ニ母有テ沙門ニ物ヲ施スルヲ見テ、子、強ニ財ヲ惜ムガ故ニ、母ヲ土ノ倉ニ籠メテ食ヲ与ヘザリキ。母飢テ死ニキ。其ノ子ハ、今ノ利群史也。此ノ故ニ食ヲ得難キ也。但シ、父母ノ功徳ヲ修セシガ故ニ、今我ガ所ニ来テ我ガ弟子ト成テ果ヲ証セル也」ト説給ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
曇摩美長者ノ奴、富那奇ノ語
今昔、天竺ニ放鉢国ト云フ国有リ。其ノ国ニ一ノ長者有リ。名ヲバ曇摩美ト云フ。家大ニ富テ国ノ中ノ第一ノ人也。二人ノ子有リ。兄ヲバ美那ト云フ。弟ヲバ勝軍ト云フ。又其ノ家ニ一ノ婢有リ。長者ヲ養ヒ、家業ヲ助クル者也。其ノ婢、一ノ男子有リ。名ヲバ富那奇ト云フ。
而ル間、長者死ヌ。其ノ後、此ノ富那奇、二ノ子ノ中ニ、兄ノ美那ニ属セリ。其ノ人、又家大ニ富テ父ノ長者ニ勝レタリ。而ルニ、富那奇、出家ヲ求ルニ心有テ、美那ニ此ノ事ヲ請フ。美那、此ヲ聞テ出家ヲ許シツ。富那奇、既ニ出家シテ道ヲ修シテ、終ニ羅漢果ヲ得タリ。
其ノ後、美那ノ家ニ来テ勧メテ云ク、「仏ノ御為ニ堂ヲ造」ト。美那、勧メニ随テ旃檀ヲ以テ堂ヲ造リツ。富那奇、又勧メテ云ク、「仏ケ及ビ比丘僧ヲ請ジテ供養シ奉レ」ト。美那、問テ云ク、「仏及ビ比丘僧ヲ請ゼムニ、何レノ時ゾ。程遥ニシテ輙ク来リ給ハムニ能ハジ」ト。其ノ時ニ、富那奇、美那ト共ニ高楼ニ昇テ香ヲ焼テ遥ニ仏ノ御方ニ向テ仏ヲ請ジ奉ル。仏、空ニ其ノ心ヲ知リ給テ、諸ノ御弟子等ヲ引具シテ神通ニ乗ジテ来給テ、金ノ床ニ坐シ給ヘリ。然レバ、美那、種々ノ飲食ヲ以テ、仏及ビ比丘僧ヲ供養シ奉ル。食畢後、仏ノ、為ニ法ヲ説給フ。国ノ人民挙リ来テ、家ノ上下ノ男女、皆、法ヲ聞テ道ヲ得ツ。其ノ時ニ、阿難、此ヲ見テ仏ニ白シテ言サク、「此ノ富那奇、昔シ何ナル罪ヲ造テ、今、人ニ随テ奴ト成リ、又何ナル福ヲ殖テ、仏ニ値奉テ道ヲ得ルゾ」ト。仏、阿難ニ告テ宣ハク、「乃徃過去ノ迦葉仏ノ時ニ、一ノ長者有リキ。比丘僧ノ為ニ寺ヲ造テ飲食・衣服・臥具・医薬ノ四事ヲ以供養シテ貧キ事無カラシメキ。而ニ長者死シテ後、其ノ寺破レ荒レテ人住マズ、衆僧皆、散々ニ去ヌ。長者ノ子有リ。出家シテ道ヲ学ビキ。
名ヲバ自在ト云フ。此ノ如ク寺ノ破レ荒タルヲ見テ、諸ノ人ヲ勧メテ寺ヲ修治シキ。其ノ時ニ、僧返リ住シテ本ノ如也キ。其ノ住スル僧ノ中ニ羅漢ノ比丘有テ、寺ノ庭ノ塵ヲ掃ヒ浄ムル間、長者ノ子ノ比丘有テ、此ノ羅漢ノ比丘ヲ故無クシテ罵詈シキ。昔ノ長者ノ子ノ比丘ト云ハ、今ノ富那奇此レ也。羅漢ノ比丘ヲ罵詈セシニ依テ、五百世ノ中ニ常ニ人ニ随テ奴ト成レル也。又、昔シ諸ノ人ヲ勧メテ寺ヲ修治セシガ故ニ、前ノ罪ヲ償ノヒ畢テ後、我レニ値テ道ヲ得ル也。今又、此ノ座ニ有テ道ヲ得タル国ノ人民・家ノ上下ノ人ハ、皆、此レ昔シ勧メヲ得エテ寺ヲ修治セシ人也」ト説給ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
舎衛城ノ婆提長者ノ語
今昔、天竺ノ舎衛城ノ中ニ一人ノ長者有ケリ。名ヲバ婆提ト云フ。家大キニ富テ財宝無量也。飲食・衣服・金銀等ノ珍宝、倉ニ積ミ満タル事、称計フベカラズ。但シ、家富メリト云ヘドモ、長者、慳貪ノ心深シテ、  
 
今昔物語集(巻七)

 

唐ノ玄宗、初メテ大般若経ヲ供養セル語第一
今昔、震旦ノ唐玄宗ノ代ニ、玄弉三蔵、大般若経ヲ翻訳シ給フ。玉花寺ノ都維那ノ沙門、寂照・慶賀等筆受タリ。既ニ訳シ畢ヌルヲ皇帝聞キ給テ、歓喜シテ斎会ヲ設テ供養シ給ハムトス。
龍朔三年冬十月三十日ヲ以テ嘉寿殿ヲ荘厳シテ宝□・幡蓋、種々ノ供具ヲ備フ。皆極テ妙ニシテ美ナル事限リ無シ。此ノ日、大般若経ヲ請ジ迎ヘテ、粛成殿ヨリ嘉寿殿ニ行テ、大キニ齋会ヲ設テ、経ヲ講ジ読テ供養シ給フ。其ノ儀式厳重□事限リ無シ。其ノ時ニ、大般若経、光ヲ放テ遠ク近ク照シ、天ヨリ妙ナル花下テ常ニ非ザル香気有□、皇帝ヨリ始メ大臣・百官、皆此レヲ見テ歓喜シテ、各希有□ト思フ。其ノ時ニ、玄弉三蔵、我ガ門徒ノ人ニ語テ宣ハク、「経ニ説クガ如シ、「四万ニ大乗ヲ願ハム者有テ、国王・大臣・四部ノ徒衆、此ノ経ヲ書写シ誦持シ読誦シ流布セム。皆、天ニ生ズル事得テ究竟解脱セム」ト、既ニ此ノ文有リ。滅失スベカラズ」ト。其ノ後、亦寂照自カラ夢ニ、千仏、空ニ在マシテ、異口同音ニ偈ヲ説テ宣ハク、「般若仏母深妙典、於諸経中最第一、若有一経其耳者、定得無上正等覚、書写受持読誦者、一花一香供養者、是人希有過霊瑞、是人必尽生死際」ト説キ給フト見テ、夢覚ヌ。其ノ後、三蔵ニ此ノ事ヲ申ス。三蔵ノ宣ハク、「此ノ如ク経ノ中ニ千仏現ジ給フ也」ト。此レ、大般若経ヲ供養シ奉ル初メ也。其ノ後、国挙テ此ノ経ヲ恭敬供養シ、受持・読誦シ奉ル、必ズ霊験掲焉ナル事多シテ今ニ絶エズトナム語リ伝ヘタルトヤ。
唐ノ高宗ノ代、書生大般若経ヲ書写セル語第二
今昔、震旦ノ唐ノ高宗ノ代ニ、軋封元年ニ一人ノ書生有リ。身ニ重病ヲ受テ忽ニ死ヌ。一日二夜ヲ経テ活テ語テ云ク、「我死シ時ニ、赤キ衣ヲ着タル冥官来テ、文牒ヲ持テ我レヲ召ス。即チ、此ノ冥官ニ随テ行クニ、大ナル城ノ門ニ至ヌ。使者ノ云ク、「城ノ城内ノ大王ノ玉ハ、此レ息諍ノ玉也。彼ノ文牒ヲ持テ汝ヲ召也」ト。我□ヲ聞クニ、驚キ怖レテ我ガ身ヲ見レバ、右ノ手ニ大光明ヲ放テリ。其ノ光、直ニ王ノ前ニ至ル。此ノ光、日月ノ光ニ過タリ。
王、此レヲ見□驚キ怪ムデ、座ヨリ起テ掌□□□、光ヲ尋テ、此レヲ推シテ門ヲ出デヽ、我レヲ見給テ、問テ宣ハク、「汝ヂ、何ナル功徳ヲ修シテ、右ノ手ヨリ光ヲ放テルゾ」ト。答テ云ク、「我レ、更ニ善根ヲ修セズ。亦光ヲ放テル故ヲ悟ラズ」ト。王、此レヲ聞テ、城ノ内ニ還リ入テ、一巻ノ書ヲ[カムガ]ヘテ、亦門ニ出デヽ、歓喜シテ我レニ語テ宣ハク、「汝ヂ、高宗ノ勅命ニ依テ大般若経十巻ヲ書写セリ。右ノ手□以テ写シニ依テ其ノ手ニ光明有ル也」ト。我レ、此レヲ聞ク時ニ、其ノ事□思ヒ出セリ。王ノ宣ハク、「我レ、汝ヲ放ツ。速ニ還ルベシ」ト。其ノ時ニ、我レ、王ニ申サク、「忽ニ来ツル道ヲ忘レタリ」ト。王ノ宣ハク、「汝ヂ光ヲ尋テ還ルベシ」ト。然レバ、王ノ教ヘニ随テ、光ヲ尋テ還ルニ、旧宅ニ近付ク。
其ノ時ニ、光失セテ、我レ活ル事ヲ得タル也」ト語テ、涙ヲ流シテ泣キ悲ム。其ノ後、所有ノ財宝ヲ棄テヽ大般若経百巻ヲ書写シ奉レリ。此レヲ以テ思フニ、国王ノ仰セニ依テ不意ニ一帙ヲ書ケル人ノ功徳、猶シ此ノ如シ。何况ヤ、心ヲ発シテ一部ヲ書キタラム人ノ功徳思ヒ遣ルベシトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ預洲ノ神母、般若ヲ聞キテ天ニ生ゼル語第三
今昔、震旦ノ預洲ニ一人ノ老母有ケリ。若ヨリ邪見深クシテ、神道ニ仕ヘテ三宝ヲ信ゼズ。世ノ人挙テ此レヲ神母ト云フ。三宝ヲ嫌ムガ故ニ、寺塔ノ辺ニ近付カズ。若シ道ヲ行ク時ニ僧ニ値ヌレバ、目ヲ塞テ還ヌ。而ル間、一ノ黄牛有テ、神母ガ門ノ外ニ立テリ。三日ヲ経ルニ、更ニ牛ノ主ト云フ者無シ。然レバ、神母、「此レ、神ノ□ヘル也」ト思テ、自カラ出デヽ牛ヲ家ニ引キ入レムト為ルニ、牛ノ力強クシテ引キ得ズ。神□、自カラ衣ノ帯ヲ解テ、牛ノ鼻ニ繋グ程ニ、牛ノ鼻ニ繋グ程ニ、牛引テ逃ヌ。神母追テ行クニ、牛、寺ニ入ヌ。
神母、此ノ牛及ビ帯ヲ惜ムガ故ニ、目ヲ塞テ寺ニ入テ、面ヲ背テ立テリ。其ノ時ニ、寺ノ衆僧驚キ出デヽ、神母ガ邪見ナルヲ哀ブガ故ニ、各、「南無大般若波羅密多経」ト称ス。神母、此レヲ聞テ、牛ヲ捨テヽ走リ出デヽ逃ヌ。水ノ辺ニ臨テ耳ヲ洗テ云ク、「我レ、今日、不祥ノ事ヲ聞キツ。所謂ル「南無大般若波羅密多経」也」ト嗔テ、三度此ノ言ヲ称シテ、家ニ還ヌ。牛更ニ不見ズ。其ノ後、神母、身ニ病ヲ受テ死ヌ。其ノ嫡女有テ、母ヲ恋ヒ悲ム程ニ、夢ニ、神母告テ云ク、「我レ、死シテ閻魔王ノ御前ニ至レリ。我ガ身ニ悪業ノミ有テ全□少分ノ善根無シ。而ルニ、王、札ヲ[カムガヘ]テ、咲テ宣ハク、「汝ヂ、般若ノ名ヲ聞キ奉レル善有リ。速ニ人間ニ還テ般若ヲ受持シ奉ルベシ」ト。然リト云ヘドモ、我レ、人業既ニ尽テ活ル事ヲ得ズシテ、[トウ]利天ニ生ゼムトス。汝ヂ強ニ歎キ悲シム事無カレ」ト云フト見テ、夢覚ヌ。
其ノ後、母ノ為ニ心ヲ発シテ般若ヲ写シ奉ル事、三百余巻也。此レヲ以テ思フニ、嫌ムト云ヘドモ、般若ノ名ヲ耳ニ触レタル功徳此ノ如シ。何况ヤ、心ヲ発シテ書写シ受持シ読誦セラム人ノ功徳量リ無シトナム語リ伝ヘタルトヤ。
震旦ノ僧智、諳ニ大般若経二百巻ヲ誦セル語第四
今昔、震旦ノ京ニ一人ノ僧有ケリ。名ヲバ僧智ト云フ。初メ、其ノ母、夢ニ香炉ヲ呑ムト見テ後、懐任シテ僧智ヲ生ゼル也。生レテ後初メテ、般若ノ名ヲ唱フ。人此レヲ聞テ怪ビ思フ。十歳ニ至ル時、大般若経□百巻ヲ諳ニ誦ス。残リヲバ不思□テ誦□ル事無シ。
出家ノ後、毎日ノ所作トシテ一百巻ヲ誦スル事怠ラズ。而ル間、僧智、心ノ内ニ思ハク、「我レ大般若経二百巻ヲ諳ニ誦シテ残リヲ思ハザル、其ノ故ヲ知ラズ。然レバ、祈念シテ此ノ故ヲ知ラム」ト思フ。
其ノ時ニ、僧智、夢ニ一人ノ沙門来テ告テ云ク、「汝ヂ、前世ニ弊キ牛ノ身ヲ受タリキ。其ノ牛ノ主有テ、大般若経二百巻ヲ其ノ牛ニ負セテ寺ヘ持行クニ、深キ泥ヲ踏テ蹶キ行キヽ。此ノ功徳ニ依テ、汝ヂ、人間ニ生レテ沙門ト成テ、大般若経二百巻ヲ諳ニ誦スル事ヲ得タリ。残リハ、結縁セザル故ニ諳ニ思ユル事無シ。
汝ヂ、此ノ身ヨリ雲音仏ノ国ニ生ルベシ」ト告グト見テ、夢覚ヌ。其ノ後、此ノ事ヲ明カニ知テ、前世ノ事ヲ謝シケリ。然レバ、善悪ノ事、皆前世ノ結縁ニ依ル也ケリト、人皆知リケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ并洲ノ道俊、大般若経ヲ写セル語第五
今昔、震旦ノ并洲ニ一人ノ僧有ケリ。名ヲバ道俊ト云フ。出家シテ後、一生ノ間、念仏三昧ヲ修シテ、極楽ニ生ゼム事ヲ願フ。更ニ余ノ行ヲ願ハズ。其ノ時ニ、同洲ニ僧有リ。名ヲ常[ミン]ト云フ、大キニ誓ヒヲ発シテ極楽ニ生ゼムト願フ。所作ノ業広クシテ、其ノ数ヲ計ヘ尽スベカラズ。亦、大般若経ヲ書写スル事、万巻ニ満テリ。而ルニ、常[ミン]、道俊ニ、「専ニ大般若経ヲ書写セヨ」ト教ム。道俊ガ云ク、「我、偏ニ念仏ヲ修シテ全ク余ノ暇無シ。
何カ大般若経ヲ書写セムヤ」ト。常愍ノ云ク、「般若経ハ、此レ菩提直道、徃生ノ要須也。然レバ、汝ヂ、猶此レヲ写スベシ」ト勧ムト云ヘドモ、道俊、惣ベテ此ノ事ヲ受ケズシテ云ク、「□□□□□ヲ不□□ズ云□ドモ、浄土□生レム事、自然□円満シナム」ト。其□夜、道俊、夢ニ、海ノ浜ニ至テ見ルニ、海ノ西ノ岸ノ上ニ微妙ニ荘厳セル宮殿有リ。
亦、六人ノ天童子、船ヲ指テ海ノ渚ニ浮ベリ。道俊、此ノ船ニ乗レル天童子ニ云ク、「我レ、此ノ船ニ乗テ彼ノ西岸ニ渡ラムト思フ」ト。天童子ノ云ク、「汝ヂ、不信也。此ノ船ニ乗ルベカラズ」ト。「何ノ故ヲ以テ乗ルベカラザルゾ」ト。天童子ノ云ク、「汝ヂ、知ラズヤ。船ハ、此レ般若也。若シ、般若在マサズハ、生死ノ海ヲ渡ル事ヲ得ベカラズ。豈ニ彼ノ不退地ニ至ル事ヲ得ムヤ。汝ヂ、亦設ヒ船ニ乗ル事ヲ得タリト云フベシ、船即チ沈ミナム」ト云フト見テ、夢覚ヌ。其ノ後、驚キ悔テ、衣鉢ヲ棄テヽ、大般若経ヲ書写シ奉テ、心ヲ至シテ供養ス。其ノ日、紫雲西ヨリ来タリ、音楽空ラニ聞ユ。道俊、歓喜シテ弥ヨ恭敬スル事限リ無シ。此レヲ以テ思フニ、成仏ノ業、般若ニ離レテハ成リ難シトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ霊運、渡リテ天竺ニ般若ノ在マス所ヲ踏メル語第六
今昔、震旦ニ一人ノ僧有ケリ。名ヲバ霊運ト云フ。本襄洲ノ人也。聖跡ヲ尋テ礼セムガ為ニ、南海ノ浜ヲ越テ天竺ニ渡ル。天竺ニシテハ、名ヲ般若提婆ト云フ。那爛陀寺ニシテ、弥勒ノ尊容・菩提樹ノ像ヲ昼ス。伊爛拏鉢代国ニ至テ、孤山有リ。此レ、既ニ勝地トシテ、霊廟実ニ繁ク、感応甚ダ多シ。人有テ、或ハ七日、或ハ二七日、心ヲ至シテ願フ所ヲ祈請スレバ、像ノ中ヨリ身ヲ現ジテ、其ノ人ノ心ヲ慰メテ其ノ願ヲ満給フ。亦、其ノ傍ニ一ノ鉄塔有リ。大般若経ノ二十万偈ヲ収メ奉リ。□ノ人皆、競ヒ発テ、此ノ像及ビ此ノ経ヲ供養シ奉□事無限□。其ノ時ニ、霊運、一七日食ヲ断テ、心ヲ至シテ願フ所ヲ祈請ス。其ノ願三有リ。「一ニハ、必ズ悪趣ヲ離レム。二ニハ、必ズ本国ニ還テ、心ノ如ク仏法ヲ弘メム。三ニハ、仏法ヲ修行シテ疾ク仏果ヲ得ム」ト。即チ、像ノ中ヨリ光ヲ放テ、観自在菩薩自カラ身ヲ現ジテ、霊運ニ告テ宣ハク、「汝ガ三ノ願皆成就シヌ。汝ヂ速ニ鉄塔ニ入テ大般若経ヲ読誦シ、経ノ在ス地ヲ踏マバ、必ズ三悪趣ヲ免ルヽ事ヲ得ム。
若シ心ヲ至シテ此ノ地ヲ踏ム事有ラム人ハ、歩バムニ随テ罪ヲ滅シテ仏道ヲ得ム。我レ、昔般若ヲ修行シテ不退ノ地ヲ得タリ。若シ人有テ、此ノ経ヲ受持シ書写セム者ハ、必ズ求ムル所満足セシメム」ト。
此ノ如ク説キ聞カセ給テ後、見エ給ズ成ヌ。然レバ、霊運、鉄塔ニ入テ三七日籠居テ、経巻ヲ読誦シ、礼拝恭敬シテ、三七日ヲ過テ出ヌ。其ノ後、年ヲ経テ震旦ニ帰来テ、仏法ヲ弘メ正教ヲ翻訳スル事心ノ如ク也。「此レ、観音ノ助ケ・大般若経ノ力也」ト、霊運帰テ語ルヲ聞テ語リ伝ヘタル也トヤ。  
震旦ノ比丘、大品般若ヲ読誦シテ天ノ供養ヲ得タル語第七
今昔、震旦ノ洲ニ一ノ山寺有リ。一人ノ比丘住シケリ。大品般若ヲ読誦シテ年来ヲ経。而ル間、常ニ夜ニ至テ、天人、比丘ノ所ニ来テ、天甘露ヲ以テ供養ス。比丘、此レヲ受テ、天ニ問テ云ク、「天上ニ般若有リヤ無ヤ」ト。天答テ云ク、「天上ニ般若有リ」。比丘ノ云ク、「然ラバ、般若、天ニ有ルニハ、何ノ故ニ来テ供養スルゾ」ト。天ノ答テ云ク、「法□敬ハムガ故ニ来レル也。亦、天上□般若ハ諸天□□□ル言也。人中ノ般若ハ正ク仏ノ言ヲ□セル也。此ノ故ニ、我レ来テ供養スル也」ト。比丘ノ云ク、「天上ニ般若ヲ受持スル者有リヤ無ヤ」ト。天答テ云ク、「天ニハ楽ニ着セルガ故ニ受持スル者無シ。余洲ニモ亦無シ。但シ、此ノ閻浮提ニハ大乗根熟セルガ故ニ、善ク般若ヲ受持シテ、苦ヲ離ルヽ事ヲ得ル也」ト。比丘、亦問テ云ク、「般若ヲ受持スル人ヲ守護スル天人、只汝ヂ一人ノミ有ルカ否ヤ」ト。
天答テ云ク、「般若ヲ受持スル人ヲ守護スル天人、八十億有リ。皆、人間ニ来下シテ般若ヲ受持スル人ヲ守護ス。乃至、一句ヲモ聞ク人ヲ敬フ事、仏ヲ敬ヒ奉レルガ如シ。然レバ、癈レ退スル事有ルベカラズ」トナム告ゲヽル。此レニ依テ、「人有テ、般若経ヲ受持シ、若ハ読誦シ書写セム所ニハ、必ズ天人来テ守護セル也」ト知ルベシトム語リ伝ヘタルトヤ。 
震旦ノ天水郡ノ志達、般若ニ依リテ命ヲ延ベタル語第八
今昔、震旦ノ洲ノ天水郡ニ一ノ人有ケリ。名ヲバ張ノ志達ト云フ。此ノ人、本ヨリ書籍ヲ憑テ、道士ノ法ヲ讃メテ此レヲ信ズ。敢テ仏法ヲ知ラズ。其ノ時ニ、志達、親キ友ノ家ニ至ル。家ノ主有テ、大品般若ヲ書写ス。志達、此レヲ見テ悟ル事無クシテ、「此レハ老子経也」ト思テ、其ノ書ケル人ニ問テ云ク、「此レ、老子経カ否ヤ」ト。書ケル人、戯レニ答テ云ク、「然也」ト。志達、「老子経也」ト聞テ、経ヲ取テ三行□書写スルニ、更ニ老子経ニ似ズ。然レバ、志達、「此レ、虚言也ケリ」ト思テ、忿テ、棄テヽ起テ去ヌ。志達、其ノ後三年ヲ経テ、身ニ重キ病ヲ受テ忽ニ死ヌ。一宿ヲ経テ活テ涙ヲ流シテ泣キ悲ムデ過ヲ悔テ、彼ノ大品般□書写セシ人□家ニ行テ泣々ク語テ云ク、「君ハ我ガ為ノ大善知識也ケ□。今、我レ、君ノ徳ニ依テ命ヲ延ベテ活ル事ヲ得タリ」。家ノ主、此□聞テ、驚キ怪ムデ其ノ故ヲ問フ。志達答テ云ク、「我レ、死テ閻广王ノ御前ニ参レリキ。王、我ガ至レルヲ見給テ宣ハク、「汝、極テ愚カ也。邪師ノ道ヲ信ジテ仏法ヲ悟ラズ」ト宣テ、即チ一巻ノ書ヲ取テ開テ、我ガ悪業ヲ勘ヘ給フニ、二十余枚既ニ開キ尽ヌ。只半紙許リ有リ。其ノ時ニ、王、書ヲ読給フ事暫ク止テ、我レヲ見テ咲テ宣ハク、「汝ヂ、既ニ大功徳有リ。親キ友ノ家ニ行テ、意ハズ大品般若三行ヲ書写シ奉レリ。此レ、限リ無キ功徳也。我等、昔シ人間ニシテ般若経ヲ修行セシ力ニ依テ、三時ニ苦ヲ受ル事軽ク少シ。汝ガ命既ニ尽ニタリト云ヘドモ、此ノ大品般若三行ヲ意ハズ書写シ奉レル功徳ニ依テ、命ヲ増ス事ヲ得ツ。
然レバ、人中ニ放チ還ス。汝ヂ速ニ人間ニ還テ、専ニ般若経ヲ受持シテ、今日我ガ免ス恩ヲ報フベシ」ト。志達、此達、此ノ事ヲ聞クト思フニ活レリ。然レバ、此レ君ガ恩ニ非ズヤ」ト語ル。親友モ此レヲ聞テ喜ブ事限リ無シ。志達、家ニ還テ所有ノ財ヲ授ケ棄テヽ、大品般若八部ヲ書写シテ、心ヲ至シテ供養シ奉ツ。其ノ後、年八十三ト云フニ、身ニ病無クシテ命終ヌ。其後、志達ガ家ニ留レル人、志達ガ書ヲ記シ置ケルヲ見付タリ。其ノ書ニ云ク、「千仏来テ我レヲ迎ヘ給フ。般若経ヲ以テ翼トシテ浄土ニ徃生ス」ト云ヘリ。此レヲ聞ク人、皆心ヲ至シテ般若ヲ受持シケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ宝室寺ノ法蔵、金剛般若ヲ誦持シテ活ルヲ得タル語第九
今昔、震旦□[リ]洲ニ宝室寺ト云フ寺有リ。其ノ寺ニ一人ノ僧有ケリ。名ヲバ法蔵ト云フ。武徳二年ト云フ年ノ潤三月ニ身ニ重キ病ヲ得タリ。二十余日ヲ経テ即チ忽ニ見ルニ、一人ノ人青衣ヲ着シ、麗シク花ヲ飾テ高楼ノ上ニ在テ、手ニ経巻ヲ取テ法蔵ニ告テ云ク、「汝ヂ、今三宝ノ物ヲ誤用シテ罪ヲ得ル事限リ無シ。
我ガ持テル所ノ経ハ、即チ此レ金剛般若経也。若シ此ノ経ヲ自ラ一巻ヲモ書写シテ心ヲ至シテ受持セバ、一生ノ間ノ三宝ノ物ヲ誤用セル罪ヲ滅スル事ヲ得テム」ト。法蔵、此レヲ聞クニ、罪皆滅スル事ヲ得テ、即チ病愈ヌ。其ノ後、金剛般若経百部ヲ書写シテ、心ヲ至シテ受持・読誦シテ癈ルヽ事無シ。法蔵、遂ニ命終シテ、閻广王ノ御前ニ至ル。王、法蔵ヲ見テ問テ宣ハク、「師、一生ノ間何ナル福業ヲカ造レル」ト。法蔵答テ云ク、「我レ、仏像ヲ造リ、金剛般若経百部ヲ書写シテ諸ノ人ニ転読セシム。亦、一切経八百巻ヲ書写セリ。
昼夜ニ般若経ヲ受持スル事癈闕セズ」ト。王、此ノ言ヲ聞テ宣ハク、「師ノ造レル所ノ功徳、甚ダ大ニシテ不可思議也」ト宣テ、即チ、使ヲ蔵ノ中ニ遣シテ、功徳ノ箱ヲ取テ、王ノ前ニ持来ル。王自カラ開テ此レヲ勘ヘ給フニ、法蔵ノ云フ所ニ違フ事無シ。然レバ、王、法蔵ヲ讃メテ宣ハク、「師ノ功徳不可思議也。速ニ師ヲ放チ還ス」ト。法蔵活テ、寺ニ有テ諸ノ人ヲ化シ、亦諸ノ般若ヲ読誦ス。亦諸ノ功徳ヲ修シテ怠ル事無シ。法蔵、病無クシテ命長シ。遂ニ命終ル時ニ十方ノ浄土ニ生レム。
此レ、法蔵活テ人ニ向フテ語リケルヲ此ノ如ク語リ伝フル也ケリトヤ。  
震旦ノ并洲石壁寺ノ鴿、金剛般若経ヲ聞キテ人ト生レタル語第十
今昔、震旦ノ并洲ニ一ノ寺有リ。名ヲバ石壁寺ト云フ。其ノ寺ニ一人ノ老僧住ケリ。若ヨリ三業ニ犯ス所無クシテ、常ニ法花経及ビ金剛般若経ヲ読誦シテ怠ル事無シ。而ル間、此ノ僧ノ住ム房ノ檐ノ上ニ鴿来テ、巣ヲ喰テ二ノ子ヲ生タリ。僧、此ノ鴿ノ子ヲ哀テ常ニ食物ノ時毎ニ、食ヲ分テ巣ニ持行テ此レヲ養フ。
鴿ノ子、漸ク勢長ジテ、未ダ羽生ヒ定マラザルニ、飛ビ習ハムトシテ巣ヨリ起ツ程ニ、鴿ノ雛飛ビ得ズシテ土ニ落ヌ。即チ二乍ラ死ヌ。僧、此ヲ見テ、哀ビノ心深クシテ泣キ悲テ、忽ニ土ヲ堀テ此レヲ埋ツ。其後、三月許ヲ経テ、僧ノ夢ニ二人ノ児出来テ、僧ニ向テ云ク、「我等、前世ニ少罪ヲ犯セルニ依テ、鴿ノ子ト生レテ聖人ノ房ノ檐ニ有リシ間、聖人ノ養育ヲ得テ、既ニ勢長ジテ巣ヨリ立ツ間、不慮ノ外ニ土ニ落テ死ニキ。而ルニ、聖人ノ常ニ法花経及ビ金剛般若経ヲ転読シ給ヒシヲ聞シ功徳ニ依テ、今人間ニ生ズル事得ベシ。
即チ、此ノ寺ノ辺ヲ十余里ヲ去テ、□方ニ其ノ郷其ノ県其ノ家ニ生レムトス」ト云フト見テ、夢覚ヌ。其ノ後、僧、十月ヲ過テ、実否ヲ知ラムガ為ニ、彼ノ夢ニ見シ所ヲ問テ行テ尋ヌルニ、「有ル一ノ家ニ一人ノ女有テ、同時ニ二人ノ男子ヲ産セリ」ト、人有テ云ヲ聞テ、其ノ家ニ行テ尋ヌルニ、二人ノ男子ヲ見ル。僧、児ニ向テ「汝等ハ此レ、鴿児カ」喚フニ、二人ノ児、共ニ答フ。僧、児ノ答ヘヲ聞キ、亦夢ニ見シ所ニ違フ事無ケレバ、哀レニ悲シキ事限リ無シ。
然レバ、其ノ母ニ向テ、本ノ有様及ビ夢ニ見テ尋来レル由ヲ語ル。母及ビ家ノ諸ノ家ノ人、此ノ事ヲ聞テ、皆涙ヲ流シテ哀ガル事限リ無シ。僧、深キ契ヲ成シテ本ノ寺ニ返ヌ。此レヲ以テ思ニ、諸ノ僧有テ経ヲ読誦セム時ニ、諸ノ鳥獣見エバ、必ズ読テ聞カシムベキ也。鳥獣、分別無シト云ヘドモ、法ヲ耳ニ触レツレバ必ズ利益ヲ蒙ル事此ノ如シ也トナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ唐ノ代、仁王般若ノ力ニ依リテ雨ヲ降ラセタル語第十一
今昔、震旦ノ唐ノ代宗皇帝ノ代ニ、永泰元年ト云フ年ノ秋、天下ニ雨降ラズシテ、諸ノ草木皆枯レ失セテ、大臣・百官ヨリ始メテ人民皆、歎キ悲ム事限リ無シ。其ノ時ニ、代宗皇帝、心ノ内ニ「仏法ノ力ヲ以テ雨ヲ降ラスベキ也」ト思給テ、八月二十三日ヲ以テ詔シテ、資聖・西明ノ二ノ寺ニシテ、百ノ法師ヲ請ジテ新翻ノ仁王般若経ヲ講ゼシム。三蔵法師・不空ヲ以テ惣講師ト為リ。九月一日ニ至ルニ、黒雲空ニ聳キテ甘露ノ雨降ル事、既ニ国内ニ満テリ。然レバ、天下皆潤ヲヒヲ得テ、枯レ失ル草木、悉ク栄エ茂ル事ヲ得タリ。其ノ時ニ、皇帝ヨリ始メ、大臣・百官・人民、喜ブ事限リ無シ。然レバ、仁王般若経ノ威力不可思議也ト信ズ。其ノ後、羌胡冠ノ辺京城亦因皇変ノ内ニ、仁王経二巻ヲ出シテ百座ノ仁王道場ヲ開クニ、皆其ノ験ヲ顕ハサズト云事無カリケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ唐ノ代、大山ノ廟ニ宿リシテ仁王経ヲ誦セル僧ノ語第十二
今昔、震旦ノ唐ノ徳宗皇帝ノ代ニ、貞観十九年ト云フ年、一人ノ僧有リ。其ノ名及ビ住所ヲ知ラズ。大山府君ノ廟堂ニ行キ、宿シテ、新訳ノ仁王経ノ四無常ノ偈ヲ誦ス。夜ニ至テ、僧、夢ニ大山府君来テ示シテ宣ハク、「我レ、昔シ仏前ニ有テ、面リ此ノ経ヲ聞シニ、此レ羅什ノ翻訳ノ詞及ビ義理ニ等クシテ違フ事無シ。我レ、此ノ読誦ノ音ヲ聞クニ、身心清涼ナル事ヲ得タリ。
喜ブ所也。然レドモ、新訳ノ経ハ、猶文詞甚ダ美也ト云ヘドモ、義理淡ク薄シ。然レバ、汝ヂ、猶旧訳ノ経ヲ持ツベシ」ト。亦、毘沙門天、経巻ヲ与ヘ給フト見テ、夢覚ヌ。其ノ後ハ、僧、旧訳ノ経ヲモ並ベテ同ク誦持シケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
恵表比丘、無量義経ヲ震旦ニ渡セル語第十三
今昔、震旦ノ代ニ、武当山ト云フ所ニ、恵表比丘ト云フ比丘住ケリ。懃ニ仏ノ道ヲ求メムガ為ニ、建元三年ト云フ年、嶺南ニ至テ、広洲ノ朝亭寺ニシテ、中天竺ヨリ渡レル沙門、曇摩伽陀耶舎ニ値テ無量義経ヲ伝ヘムト思フ。心ヲ至シテ此レヲ請ルニ、纔ニ一本ヲ得タリ。即チ、武当山ニ此ノ経ヲ持至テ、此ノ経ヲ受持ス。其ノ後、永明三年ト云フ年ノ九月ノ十八日ニ、恵表、此ノ経ヲ頂テ山ヲ出デヽ世ニ弘メムトス。山ノ中ニ宿セルニ、初夜ノ程ニ、忽ニ一ノ天人、恵表ノ所ニ来レリ。百千ノ天衆ヲ随テ眷属トシテ、此ノ無量義経及ビ恵表比丘ヲ供養ス。
恵表、天ニ問テ云ク、「此レ、誰ノ天ノ、何ノ故有テ来レルゾ」ト。天答テ云ク、「我等ハ此レ、武当山ニ有リシ青雀也。集マリ聚テ比丘ノ無量義経ヲ誦シ給ヒシヲ聞シニ依テ、命終シテ[トウ]利天ニ生ゼリ。我等、其ノ恩ヲ報ゼムト思フニ依テ、来テ経及ビ師ヲ供養スル也。我等ガ本身ハ、彼ノ山ノ西南ノ陽ニ有リ。
一所ニ集マリ集テ、皆身ヲ捨タリ」ト。此ノ事ヲ語リ畢テ忽ニ失ヌ。恵表、此ノ事ヲ聞テ、使ヲ彼ノ山ニ遣テ見シムルニ、多ノ青雀、教フル所ニ死テ皆有リ。其ノ後、此ノ経ヲ世ニ弘ム。
而ル間、一人ノ人有テ、此レヲ信ゼズシテ云ク、「此ノ経、何ゾ必ズ法花経ノ序タルベキ」。此ノ如キ思フ程ニ、其ノ人、夢ニ一ノ神有リ。
長大一丈余也。金ノ甲ヲ帯シ利剣ヲ持テリ。甚ダ怖ルベシ。此ノ不信ノ人ヲ呵シテ云ク、「汝ヂ、若シ此ノ経ヲ信ゼズハ、当ニ其ノ頭・頸ヲ斬ルベシ。此ノ経ハ、此レ法花ノ序分也。一度モ耳ニ触ツル人ハ、必ズ菩提心ヲ発シテ退スル事無シ」ト。夢覚テ後、其ノ人、過ヲ悔テ謝シケリトナム語リ伝ヘタリトヤ。  
震旦ノ法花持者、脣舌ヲ現ゼル語第十四
今昔、震旦ノ斉ノ武成ノ代ニ、并洲ノ東ノ看山ノ側ニ、人有テ地ヲ堀ルニ、一ノ所ヲ見ルニ、其ノ色黄白也。人、此レヲ怪テ善ク尋ネ見レバ、其ノ形、人ノ上下ノ脣ノ似タリ。其ノ中ニ舌有リ。
鮮ニシテ紅赤ノ色也。人皆此レヲ見テ怪ムデ、帝王ニ此ノ由ヲ奏ス。帝王、此ノ事ヲ広ク尋ネ問ヒ給フニ、此事ヲ知レリト云フ人無シ。其ノ時ニ、一人ノ沙門有テ、奏シテ云ク。「此レハ、法花経ヲ読誦セル人ノ六根ノ壊レザル事ヲ得タル脣・舌也。法花経ヲ読誦スル事千返ニ満タル、其ノ霊験ヲ顕セル也」ト。帝王、此ノ事ヲ聞テ驚テ貴ビ給フ。其ノ時ニ、法花経ヲ受持セル人、皆、此ノ事ヲ聞テ、其ノ脣・舌ノ所ニ集マリ来テ、脣・舌ヲ囲繞シテ経ヲ誦ス。纔ニ初メテ音ヲ発ス時ニ、此ノ脣・舌一時ニ鳴リ動ズ。此レヲ見聞ク人、毛竪チ希有也ト思フ。此ノ□□亦帝王ニ奏スルニ、詔シテ石ノ箱ヲ遣シテ、其ノ中ニ此ノ脣・舌ヲ納メテ、室ニ移シ置キ給テケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
僧、羅刹女ノ為ニ[ネウ]乱セラレシニ法花ノ力ニ依リテ命ヲ存ヘタル語第十五
今昔、震旦ノ外国ニ一ノ山寺有ケリ。其ノ山寺ニ年若キ一人ノ僧住ケリ。常ニ法花経ヲ読誦ス。或時ノ夕暮ニ臨テ、寺ノ外ニ立出デヽ遊行スル程ニ羅刹女ニ値ヌ。鬼忽ニ変ジテ女ノ形ト成ヌ。其ノ形、甚ダ美麗也。女来リ寄テ僧ト戯ル。僧、忽ニ鬼ニ[ナヤマサ]レテ、既ニ女鬼ト娶ヌ。通ジテ後、僧ノ心[ホ]レテ、更ニ本ノ心ニ非ズ成ヌ。其ノ時ニ、女鬼、僧ヲ本所ニ将行テ[クラハ]ムト思テ掻負テ空ヲ飛テ行クニ、夜ノ始メニ至テ一ノ寺ノ上ヲ飛テ過グ。僧、鬼ニ負ハレテ行ク程ニ、寺ノ内ニ法花経ヲ読誦スル音髣ニ聞ク。其ノ時ニ、僧ノ心少シ悟メテ本ノ心出来ケレバ、心ノ内ニ□花経ヲ諳誦ス。而ル間、女鬼ノ負ヘル所ノ僧、忽ニ重ク成テ、漸ク飛ビ来下リテ地ニ近付ク。遂ニ負ヒ得ズシテ、女鬼、僧ヲ捨テヽ去ヌ。僧、心悟メテ、我レ何レノ所ニ来レリト云フ事ヲ知ラズ。
而ル間、寺ノ鐘ノ音ヲ聞ク。此レヲ尋テ寺ニ至テ門ヲ叩ク、門ヲ開ク。僧、進ミ入テ具ニ事ノ有様ヲ語ル。寺ノ諸僧、此ノ事ヲ聞テ云ク、「此ノ人既ニ犯セル所重シ。我等同ク交坐スベカラズ」ト。其ノ時ニ、一人ノ上座ノ僧有テ云ク、「此ノ人ハ既ニ鬼神ノ為ニ[ナヤマサレ]タル也。更ニ本ノ心ニ非ジ。何况ヤ、法花経ノ威力ヲ顕セル人也。然□速ニ寺ニ留メテ住セシムベキ也」ト云テ、僧ニ女鬼ヲ犯セル失ヲ懺悔セサセケリ。僧、本ノ栖ノ寺ヲ語ルニ、其ノ所ヲ去レル間ヲ計フレバ二千余里也。僧、此ノ寺ニ住スル間ニ、本ノ里ノ人自然ラ来リ会テ、此ノ由ヲ聞テ、僧ヲ本ノ所ヘ帰シ送リテケリ。此レヲ以テ思フニ、法花経ノ霊験不可思議也。女鬼有テ、僧ヲ本所ニ将行テ[クラハ]ムガ□ニ、負テ二千余里ノ間ヲ一時ニ飛テ渡ルト云ヘドモ、僧、法花経ヲ諳誦セルニ依テ、忽ニ重ク成テ棄テヽ去ル事、此レ希有也トナム語リ伝ヘタルトヤ。  
羅刹国 (らせつこく)
玄奘(三蔵法師)の著作『大唐西域記』に言及された羅刹女の国である。後に近世以前の日本人は日本の南方(もしくは東方)に存在すると信じていた。
『大唐西域記』11巻 僧伽羅国(シンガラ)においてセイロン島(現スリランカ)の建国伝説として記述される。500人の羅刹女のいる国に難破して配下の500人の商人とたどりついた僧伽羅は1人命からがら逃げ出すも妻にした羅刹女が追ってきたので、羅刹国と羅刹女のことを国王に説明するも信じてもらえず、国王の他多くの者が食べられてしまう。そこで僧伽羅は逆に羅刹国に攻めこみ羅刹女をたおし、そこの王となり国名にその名がついたという。
日本では東女国(とうじょこく)とも書かれ、後には女護ヶ島伝説とも結びついて、女人島(にょにんじま)・女護国(にょごこく)などとも呼称された。
『今昔物語』巻五に『大唐西域記』と同様の説話がある。天竺の僧伽羅が500人の商人達とともにこの島に漂着したが、この島の住民は全て鬼の姿をした女性であった。500人の商人達は全員女鬼によって殺されたが、伽羅だけは仏の加護によって島を脱出したとされている。
中世の行基式日本図において、日本の東方あるいは南方海上に記されており、人が足を踏み入れば、決して帰ってこられない土地であると信じられるようになった。また、この知識が中国にも伝わり、日本を描いた地図には「東女国」の名で雁道と並んで描かれているものがある。また、1585年のフィレンツェで製作された地図にも日本の南方に羅刹国らしき島が描かれている。
しかし、大航海時代以後には正確な地理知識の普及もあって羅刹国の記述のない地図も出現するようになり、遅くても江戸時代中期には地図から姿を消すことになった。 
震旦ノ定林寺ノ普明、法花経ヲ転読シテ霊ヲ伏セル語第十六
今昔、震旦ノ上定林寺ト云フ寺ニ一人ノ僧住ケリ。名ヲバ普明ト云フ。臨渭ノ人也。幼少ニシテ出家シテ、心清ク誓ヒ弘シ。常ニ懺悔ヲ行ズルヲ以テ業トス。亦、寺ノ外ニ遊行スル事無シ。専ニ法花経ヲ□誦シテ他ノ念無シ。亦、維广経ヲ転読ス。法花経ノ普賢品ヲ読誦スル時ニハ、普賢菩薩、六牙ノ白象ニ乗ジテ光□放テ其ノ所ニ現ジ給フ。維广経ヲ読誦スル時ニハ、妓楽・歌詠、虚空ニ満テ、其ノ音ヲ聞ク。亦、神呪ヲ以テ祈乞フ事、皆其ノ験新タ也。而ル間、王遁ト云フ人有リ。其ノ妻、身ニ重病ヲ受テ苦ビ痛ム事堪ヘ難キニ依テ、忽ニ普明ヲ請ジテ此レヲ祈ラシメムトス。普明、王遁ガ請ニ依テ其ノ家ニ至ル間、既ニ門ヲ入ル時ニ、其ノ妻悶絶シテ、其ノ時ニ、普明、一ノ生□者ヲ見ル程ニ、狸ニ似タリ。長サ数尺許也。犬ノ穴ヨリ出ヌ。
其ノ時ニ、王遁ガ妻ノ病愈ヌ。王遁喜テ普明ヲ礼拝ス。
亦、普明、昔、道ヲ行ケル間、人有テ水ノ辺ニシテ神ヲ祭ル事有ケリ。巫覡其ノ所ニ有テ、普明ヲ見テ云ク、「神、普明ヲ見テ皆走リ逃ヌ」トナム云ヒケル。此レハ神ノ普明ヲ見テ恐レテ逃ケル□ハ。普明遂ニ命終ノ時ニ臨テ、身ニ病有リト云ヘドモ、痛ム所少クシテ座ヲ端クシテ、仏ニ向ヒ奉テ香ヲ焼キ、仏ヲ念ジ奉テナム失ニケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。
震旦ノ会稽山ノ弘明、法花経ヲ転読シテ鬼ヲ縛セル語第十七
今昔、震旦ノ会稽山ト云フ所ニ一人ノ僧住ケリ。名ヲバ弘明ト云フ。幼少ニシテ出家シテ、戒ヲ持チ禅定ヲ修ス。山陰ノ□□寺ト云フ寺ニ住シテ、昼夜ニ法花経□読誦シテ、六時ニ礼懺ヲ行ズル事止マラズ。亦、人有テ入レズト云ヘド□、瓶ノ水毎朝ニ自然ラ満タリ。実ニ此レ、諸天童子ノ給仕セル也。亦、弘明、昔□雲門寺ト云フ寺ニ住シテ、仏ノ御前ニ居テ静ニシテ経ヲ読誦スル間ニ、虎来テ堂ノ内ニ入テ床ノ前ニ臥ス。弘明、此レヲ見ルニ、座ニ居乍ラ敢テ動カズ。虎、経ヲ誦スルヲ聞テ良久ク有テ去ヌ。亦、弘明見レバ、一ノ小児来テ、弘明ガ法花経ヲ誦スルヲ聞ク。弘明、小児ニ問テ云ク、「汝ハ此レ、誰人ゾ」ト。小児答テ云ク、「我レハ、昔シ、此ノ寺ニ有シ沙弥也。我レ、誤テ帳ノ下食ヲ盗メリシ罪ニ依テ、今、[カワヤ]ノ中ニ堕タリ。而ルニ、我レ、聖人ノ行業ヲ聞クニ依テ、来テ法花経ヲ読誦シ給フヲ聞ク。願クハ、聖人、慈悲ヲ垂レ給テ我ガ此ノ苦ヲ救ヒ給ヘ」ト。弘明、即チ、法ヲ説テ小児ヲ教化ス。
小児、法ヲ聞テ悟ヲ開テ隠レ失。又其ノ後、弘明、永興ニ至テ石姥巌ニシテ入定シヌ。亦、其ノ所ニシテ山ノ精ノ鬼来テ弘明ヲ悩マス。弘明、此レヲ捕ヘ得テ、縄ヲ以テ鬼ヲ繋グ。鬼、過ヲ謝シテ脱レム事ヲ乞テ云ク、「我レ、敢ヘテ聖人ノ所ニ亦来ル事有ラジ」ト。弘明、此レヲ聞テ哀ムデ解キ放テ免シツ。其後、鬼、跡ヲ絶テ来ル事無シ。亦、元嘉ノ間ニ、郡守、平生孟[ギ]・重其貞素要。弘明、新安ニ出デヽ道樹精舎ニ止ル。後ニ、済陽江斉、永興邑ニシテ昭玄寺ヲ建テヽ、亦、弘明ヲ請ズ。
其ノ所ニ行テ住ス。亦、大明ノ末ニ至テ、陶里ノ[トウ]氏、亦、弘明ガ為ニ其ノ村ニ栢林寺ヲ建ツ。亦、弘明、其ノ所ニ還リ留テ禅戒ヲ修ス。遂ニ其ノ栢林寺ニシテ命終シ□ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
震旦ノ河東ノ尼、法花経ヲ読誦シテ持経ノ文ヲ改メタル語第十八
今昔、震旦ノ河東ト云フ所ニ懃ニ行フ尼有ケリ。其ノ身清浄ニシテ、常ニ法花経ヲ読誦シテ年来ヲ経タリ。而ル間、亦、法花経ヲ書写セムト思フ心有テ、人ニ誂テ書写セシム。書ク者一人ヲ懃ニ語テ、其ノ功常ヨリモ員ヲ倍シテ与フ。珠ニ浄キ所ヲ造リ儲テ、此ノ経ヲ書ク室ト為リ。書ク者、一度立テ室ノ外ニ出ヌレバ、沐浴シ香ヲ焼テゾ、入テ亦、書写シケル。其ノ室ノ壁ニ穴ヲ開テ、竹ノ筒ヲ通ジテ、書ク者ノ息ヲ出サムト思フ時ニハ其ノ穴ヨリゾ出サセケル。此ノ如ク清浄ニシテ法ノ如ク書写シ奉ル間、八箇年ノ間ニ七巻ヲ書写シ奉リ畢ヌ。其ノ後、誠ノ心ヲ至シテ供養シ奉リツ。供養ノ後ハ懃ニ恭敬礼拝シ奉ル事限リ無シ。而ル間、龍門ト云フ寺ニ法端ト云フ僧有リ。其ノ寺ニシテ大衆ヲ集メテ法花経ヲ講ゼムト為ルニ、彼ノ尼ノ受持シ奉ル所ノ経ヲ借テ講ジ奉ラムト思テ、法端、尼ニ此ノ経ヲ借ルニ、尼強ニ[借]惜テ法端ニ与ヘズ。法端借ルベキ由ヲ懃ニ責メ云フ時ニ、尼[ナマジヒ]ニ借サムト思フ心出来テ、其ノ使ニハ与ヘズシテ自カラ持テ龍門ニ行テ、経ヲ法端ニ与ヘテ本ノ所ニ還ヌ。法端、経ヲ得テ喜テ大衆ヲ集メテ経ヲ講ゼムトス。経巻ヲ開テ見奉ルニ、只黄ナル紙許有テ文字一モ在マサズ。此レヲ見テ怪テ、亦、他ノ巻ヲ開テ見奉ルニ、只前ノ巻ノ如シ。七巻乍ラ同クシテ文字一字在マサズ。法端、奇異ノ思ヒヲ成シテ大衆ニ見シム。大衆此レヲ見ルニ、皆、法端ガ見ルガ如シ。其ノ時ニ、法端并大衆等、怖レ恥テ、経ヲ尼ノ許ニ返シ送リ奉リツ。尼、此レヲ見テ泣キ悲テ、借セル事ヲ悔ヒ思フト云ヘドモ、更ニ益無シ。其ノ時ニ、尼、泣々ク香水ヲ以テ経ノ箱ヲ潅キ、自カラ沐浴シテ経ヲ戴キ奉テ、花ヲ散シ香ヲ焼テ仏ヲ廻リ奉ル事七日七夜、暫クモ息ム事無クシテ、誠ノ心ヲ至シテ此ノ事ヲ祈請ス。其ノ後、経ヲ開テ見奉ルニ、文字、本ノ如ク顕レ給ヘリ。尼、此レヲ見テ泣々ク恭敬供養シ奉リケリ。此レヲ以テ思フニ、僧ナレドモ経ノ文ノ隠給ケルハ、誠ノ心無カリケルニヤ。尼ナレドモ経ノ文ヲ本ノ如ク祈リ顕ハス。誠ノ心ノ深ク有リケルニヤトゾ、其ノ時ノ人云ヒケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ僧、行キテ太山ノ廟ニ宿リシテ法花経ヲ誦シ神ヲ見タル語第十九
今昔、震旦ノ隋ノ大業ノ代ニ、一人ノ僧有テ、仏法ヲ修行ストテ所々ニ遊行スル間、太山ノ廟ニ行キ至ヌ。此ノ所ニ宿セムト為ルニ、廟令ト云フ人出来テ云ク、「此ノ所ニ別ノ屋無シ。然レバ、廟堂ノ廊ノ下ニ宿リスベシ。但シ、前々此ノ廟ニ来リ宿スル人、必ズ死スル也」ト。僧ノ云ク、「死セム事、遂ノ道也。我レ、苦ブ所ニ非ズ」ト。廟令、僧ニ床ヲ与フ。然レバ、僧、廊ノ下ニ宿シヌ。夜ニ至テ、静ニ居テ経ヲ読誦ス。
其ノ時ニ、堂ノ内ニ環ノ音聞ユ。僧、「何ナル事ゾ」ト恐レ思フ程ニ、気高ク止事無キ人出給ヘリ。即チ僧ヲ礼シ給フ。僧ノ云ク、「聞ケバ、「年来、此ノ廟ニ宿スル人多ク死ス」ト。豈ニ、神、人ヲ害シ給ハムヤ。願クハ神、我レヲ守リ給ヘ」ト。神、僧ニ語テ宣ハク、「我レ、更ニ人ヲ害スル事無シ。只、我ガ至ルヲ、人、其ノ音ヲ聞クニ、恐レ□自然ラ死スル也。願クハ、師、我レニ恐ルヽ事無カレ」ト。僧ノ云ク、「然ラバ、神、近ク坐シ給ヘ」ト。神、僧ト近ク坐シ給テ、語ヒ給フ事、人ノ如シ。僧、神ニ問テ申サク、「世間ノ人ノ伝ヘ申スヲ聞ケバ、「太山ハ人ノ魂ヲ納メ給フ神也」ト。此レ、有ル事カ否ヤ」ト。神ノ宣ハク、「然カ有ル事也。汝ヂ若シ前ニ死タル人ノ見ルベキ有リヤ否ヤ」ト。僧ノ申サク、「前ニ死タル、二人ノ同学ナリシ僧有リ。願クハ、我レ彼等ヲ見ムト思フ」ト。神ノ宣ハク、「彼ノ二人ガ姓名何ゾ」ト。僧、具ニ二人ノ姓名ヲ申ス。神ノ宣ハク、「其ノ二人、一人ハ既ニ還テ人間ニ生タリ。一人ハ地獄ニ有リ。極テ罪重クシテ見ルベカラズ。但シ我レニ随テ地獄ニ行テ見ルベシ」ト。僧、喜テ神ト共ニ門ヲ出デヽ行ク事遠カラズシテ、一ノ所ニ至ル。見レバ、火ノ焔甚ダ盛リ也。神、僧ヲ一ノ所ニ将至リ給フ。僧遥ニ見レバ、一人ノ人、火ノ中ニ有リ。云フ事能ハズシテ只叫ブ。其ノ形、其ノ人ト見知ルベカラズ。只血肉ニテノミ有リ。
見ルニ心迷テ怖シキ事限リ無シ。神、僧ニ告テ宣ハク、「此レ、彼ノ一人ノ同学也」ト。僧、此レヲ聞テ哀レビノ心深シト云ヘドモ、神、亦、他ノ所ヲ見廻リ給フ事無クテ返リ給ヒヌレバ、同ク返ヌ。本ノ廟ニ至テ、亦、神ト近ク坐シヌ。僧、神ニ申サク、「我レ、彼ノ同学ノ苦ヲ救ハム」ト。神ノ宣ハク、「速ニ救フベシ。善ク彼レガ為ニ法花経ヲ書写シ奉ルベシ。然ラバ、即チ罪ヲ免ルヽ事ヲ得テム」ト。僧、神ノ御教ヘニ随テ廟堂ヲ出ヌ。朝ニ廟令来テ、僧ヲ見テ、死ナザル事ヲ怪ブ。僧、廟令ニ有ツル事ヲ具ニ語ル。廟令、此レヲ聞テ奇異也ト思テ返ヌ。
其ノ後、僧、本ノ栖ニ返テ忽ニ法花経一部ヲ書写シテ彼ノ同学ノ僧ノ為ニ供養シ畢ヌ。其後、其ノ経ヲ持テ、亦、廟ニ至テ前ノ如ク宿ヌ。其後夜、亦、神出給フ事、前ノ如シ。神、歓喜シ給テ、僧ヲ礼拝シテ、来レル心ヲ問ヒ給フ。僧ノ申サク、「我レ、同学ノ僧ノ苦ヲ救ハムガ為ニ、法花経ヲ書写・供養シ奉レリ」ト。神ノ宣ハク、「汝ヂ、彼ノ同学ノ為ニ始メテ経ノ題目ヲ書シニ、彼レ、既ニ苦ヲ免レニキ。今、生ヲ賛テ久シカラズ」ト。僧、此レヲ聞テ喜ブ事限リ無クシテ申サク、「此ノ経ヲバ廟ニ安置シ奉ルベシ」ト。神ノ宣ハク、「此ノ所、浄キ所ニ非ズ。然レバ、経ヲ安置シ奉ルベカラズ。願クハ、師、本所ニ返テ経ヲ寺ニ送リ奉レ」ト。此ノ如キ久ク語ヒ給テ、神返テ入リ給ヒヌレバ、僧、本所ニ返テ神ノ御言ノ如ク経ヲ寺ニ送リ奉リテケリ。此レヲ以テ思フニ、止事無キ神ト申セドモ僧ヲバ敬ヒ給フ也ケリ。前々此ノ廟ニ行キ至ル人ハ、何ニモ生テ返□事無カリケルニ、此ノ僧ノミナム神ニモ敬ハレ奉リ、同学ノ僧ノ苦ヲモ救テ、貴クテ返タリケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
沙弥、法花経ヲ読ムニ二字ヲ忘レシガ遂ニ悟ルヲ得タル語第二十
今昔、震旦ノ秦郡ノ東寺ニ住スル一人ノ沙弥有ケリ。其ノ姓名未ダ詳カナラズ。其ノ人、法花経ヲ読誦スル事明カ也。但シ、薬草喩品ノ靉靆ノ二字ニ至テ、教フルニ随テ忘レヌ。此ノ如ク忘ルヽ事、既ニ千度ニ至ヌ。其ノ師有テ、苦ニ此レヲ責テ云ク、「汝ヂ、法花経ヲ一部読誦スル事吉ク利シ。而ルニ、靉靆ノ二字ヲ憶エザラムヤ」ト。其ノ時ニ、師、夜ル、夢ニ一人ノ僧来テ告テ□ク、「汝ヂ、此ノ沙弥ニ、靉靆ノ二字ヲ憶エザル事ヲ責ムベカラズ。此ノ沙弥、前生ニ此□寺ノ辺リ、東ノ村ニ有テ、女ノ身ト有リキ。法花経一部ヲ読誦セリキ。但シ、其ノ家ニ御シヽ法花経ノ薬草喩品ノ靉靆ノ二字ヲ、白魚有テ食テ去リニキ。然レバ、其ノ経ノ本ニ此ノ二字在マサズ。此ノ故ニ今、生ヲ改タリト云ヘドモ、法花経ヲ受ケ習フニ、靉靆ノ二字ヲ忘レテ憶エザル也。其ノ人ノ姓名、亦其ノ経、今ニ其ノ所ニ有リ。若シ此ノ事ヲ信ゼズハ、彼ノ所ニ行テ見ルベシ」ト教フト見テ、夢覚ヌ。明ル朝ニ、師、彼ノ村ニ行テ此ノ家ヲ尋テ問テ、主人ニ会テ云ク、「此ノ家ニ供養スベキ所有ヤ否ヤ」ト。主人答テ云ク、「有リ」ト。亦、問テ云ク、「然ラバ、経ヲ書ムガ為也」ト。主人答テ云ク、「法花経一部也」ト。師、此レヲ乞ヒ取テ、開テ薬草喩品ヲ見ルニ、夢ノ教ノ如ク靉靆ノ二字欠タリ。主人ノ云ク、「此ノ経ハ、我ガ大娘有リキ。早ク亡ジ□キ。
其ノ人ノ在生ノ時ニ受持セシ経也」ト。師、此ノ事ヲ聞テ、彼ノ人亡ジテ後ヲ計フルニ十七年也。然レバ、此沙弥ノ生レタル年月ヲ計フルニ違フ事無シ。其□後、此ノ事ヲ明ニ知ル事ヲ得タリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
予洲ノ恵果、法花経ヲ読誦シテ厠ノ鬼ヲ救ヘル語第二十一
今昔、震旦ノ予洲ニ恵果和尚ト申ス聖人在シケリ。慈悲広大ニシテ人ヲ利益スル事、仏ノ如シ。宗ノ代ノ始メニ京師ニ入テ、瓦官寺ト云フ寺ニ留マリ住テ、法花・十地等ノ経ヲ読誦スルヲ業トス。亦、本ヨリ不空三蔵ヲ師トシテ、三蜜ノ大法ヲ受ケ習テ、真言教ヲ世ニ弘メ給フ。而ルニ、此ノ和尚、昔シ、廟厠ノ前ニシテ一ノ鬼ニ値フ。其ノ形甚ダ怖ルベシ。鬼、和尚ヲ見テ敬テ申テ□ク、「我レ、昔シ、前ノ世ニ衆僧ノ為ニ維那ト成レリキ。而ルニ、少コシ誤テリシ事有シニ依テ、今、糞ヲ[ハメ]ル鬼ノ中ニ堕タリ。聖人ハ、徳高クシテ業明カニ、慈悲広大ニシテ利益殊勝ニ在スト聞ク。願クハ、我ガ此ノ苦ヲ助ケ救ヒ給マヘ。
我レ、昔シ、銭三千ヲ持テ、然々ノ所ノ柿ノ下ニ埋メリキ。其ノ銭ヲ堀リ出デヽ我ガ為ニ功徳ヲ修シ給ヘ」ト。和尚、此ノ事ヲ聞テ、哀ビノ心深クシテ、即チ、寺ノ衆ニ告テ、鬼ノ教ヘシ所ニ行テ此ヲ堀ルニ、実ニ云シガ如クニ三千ノ銭ヲ堀リ得タリ。忽ニ法花経一部ヲ書写シテ彼ノ鬼ノ為ニ中会ヲ設テ供養シツ。
其ノ後、和尚、夢ニ彼ノ鬼来テ、和尚ヲ礼拝恭敬シテ申シテ云ク、「我レ、既ニ聖人ノ徳ニ依ルガ故ニ、鬼ノ道ヲ免レテ生ヲ改ル事ヲ得タリ」ト告グト見テ、夢覚ヌ。其ノ後、和尚、弥ヨ法花経ノ威力ノ新タナル事ヲ貴テ、寺ノ衆ニ此ノ事ヲ語リ弘メ給ヒケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
瓦官寺ノ僧恵道、活リテ後法花経ヲ写セル語第二十二
今昔、震旦ノ宗ノ代ニ、瓦官寺ト云フ寺ニ一人ノ僧住ケリ。名ヲバ恵道ト云フ。預洲ノ人也。此レ、恵果和尚ノ同母ノ弟也。此ノ恵道、一生ノ間、功徳ヲ修スル事無シ。只販ヲ好テ世ヲ渡ル、全ク余ノ事ヲ知ラズ。而ル間、恵道、身ニ重キ病ヲ受テ死ヌ。三日ヲ経テ、活テ語テ云ク、「我レ、死シ時、冥官ニ駆ラレテ、闇ク遠キ道ニ向ヘリキ。其ノ時ニ、一人ノ僧出来テ、我レニ語テ云ク、「汝ヂ、王ノ所ニ至レラムニ、王若シ汝ヲ推問スル事有ラバ、此ノ如キ答フベシ。
「我レ、昔シ、法花経八部ヲ書写セムト思フ願有リキ」」ト教ヘ畢テ、忽ニ失ヌ。恵道、即チ、王ノ御前ニ至ルニ、王、恵道ヲ見テ問テ宣ハク、「汝ヂ、何ナル功□ヲカ修セ□」ト。我レ、僧ノ教ノ如ク、「法花経八部ヲ書写セムト思フ願有リキ」ト。王、此レヲ聞テ咲テ宣ハク、「汝ヂ、既ニ願有リト云フ。若シ法花経ヲ書写スル事八部ニ及ナバ、必ズ八ノ地獄ヲ免レナム」ト宣フト思フ程ニ活ヘレリ。我レ、僧ノ一言ノ教ニ依ルガ故ニ、人間ニ返ル事ヲ得タリ」ト。此ノ事ヲ語リ畢テ、泣ク泣ク所有ノ財ヲ捨テヽ、法花経八部ヲ書写シテ心ヲ至シテ供養シ奉レ□トナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ絳洲ノ孤山ノ僧、法花経ヲ写シテ同法ノ苦ヲ救ヘル語第二十三
今昔、震旦ノ宗ノ代ニ瓦官寺ト云フ寺ニ一人ノ僧住ケリ。名ヲバ恵道ト云フ。預州ノ人也。此レ恵果和尚ノ同母ノ弟也。此ノ恵道、一生ノ間功徳ヲ修スル事無シ。只、販ヲ好テ世ヲ渡ル。全ク余ノ事ヲ知ラズ。而ル間、恵道、身ニ病ヲ受テ死ヌ。三日ヲ経テ活テ、語テ云ク、「我レ死シ時、冥官ニ駆ラレテ、闇ク遠キ道ニ向ヘリキ。其ノ時ニ、一人ノ僧出来テ、我レニ語テ云ク、「汝ヂ、王ノ所ニ至レラムニ、王、若シ汝ヲ推問スル事有ラバ、此ノ如キ答フベシ。
「我レ、昔シ、法花経八部ヲ書写セムト思フ願有リキ」」ト教ヘ畢テ忽ニ失ヌ。恵道、即チ、王ノ御前ニ至ルニ、恵道ヲ見テ、問テ宣ハク、「汝ヂ可ナル功徳ヲカ修セル」ト。我レ、僧ノ教ヘノ如ク、「法花経八部ヲ書写セムト思フ願有リキ」ト。王、此レヲ聞テ、咲テ宣ハク、「汝ヂ、既ニ[汝]願有リト云フ。若シ法花経ヲ書写スル事八部ニ及ビナバ、必ズ八ノ地獄ヲ免レナム」ト宣フト思フ程ニ活ヘレリ。我レ、僧ノ一言ノ教ヘニ依ルガ故ニ人間ヘ返ル事ヲ得タリ」ト。此ノ事ヲ語リ畢テ、泣々ク所有ノ□ヲ捨テヽ、□花経八部ヲ書写シテ、心ヲ至シテ供養シ奉リナムト語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ絳洲ノ孤山ノ僧、法花経ヲ写シテ同法ノ苦ヲ救ヘル語第二十三
今昔、震旦ノ絳洲ニ孤山有リ。永徴ノ比、二人ノ僧、彼ノ山ニ有テ同房ニ住ス。一人ノ名ヲバ僧行ト云フ。三階ノ仏法ヲ行フ。一人ノ名ヲバ僧法ト云フ。
法花三昧ヲ行フ。二人共ニ仏法ヲ修行シテ皆出離ノ計ヲ求ム。而ルニ、僧行前ニ死セリ。其ノ後、僧法、観世音菩薩ニ祈請シテ、僧行ガ生所ヲ知ラムト思フ。三年ヲ経テ後、僧法、夢ニ忽ニ地獄ニ至テ見ニ、猛火盛ニシテ近付クベカラズ。鉄ノ網、七重ニ其ノ上ニ覆ヘリ。鉄ノ扉、四面ニ開キ閉テ甚ダ固シ。其ノ中ニ、百千ノ僧ノ、浄戒ヲ犯シ、身心ヲ不調セル、皆堕テ苦ヲ受ル事無量也。其ノ時ニ、僧法、獄率ニ問テ云ク、「此ノ中ニ僧行ト云フ僧有リヤ否ヤ」ト。獄率答テ云ク、「有リ」ト。僧法云ク、「我レ、彼ノ僧行ヲ見ムト思フ」ト。獄率答テ云ク、「彼レ、罪重シ。更ニ見ルベカラズ」ト。僧法云ク、「我等ハ此レ、仏子也。何ゾ固ク此レヲ惜ムゾ」ト。其ノ時ニ、獄率、鋒ヲ以テ黒キ炭ヲ貫テ、「此レ、僧行也」ト云テ、僧法ニ見シム。僧法、此ノ黒キ炭ヲ見テ泣キ悲テ云ク、「沙門僧行、何ゾ仏子トシテ此ノ苦ヲ受ルゾ。願クハ、我レ、昔ノ形ヲ見ムト思フ」ト。
其ノ時ニ、獄率、「活レ」ト云フニ、黒キ炭、忽ニ変ジテ、昔ノ僧行ガ形ト成ヌ。但シ、身体皆焼ケ爛タル事限リ無シ。僧法、此レヲ見テ泣キ悲ム。僧行、僧法ニ語テ云ク、「汝ヂ、当ニ我ガ此ノ苦ヲ救フベシ」ト。僧法ガ云ク、「何カ此□□バ救フベキ」ト。僧行云ク、「我ガ為ニ法花経ヲ書写スベシ」ト。僧法云ク、「何カ書写スベキ」ト。僧行云ク、「一日ノ中ニ一部ヲ書写スベシ」ト。僧法云ク、「我レ貧道ニシテ何□一日ノ中ニ書畢ラムヤ」ト。僧行云ク、「我ガ此ノ苦、堪ヘ難クシテ刹那ノ間モ忍ブベカラズ。然レバ、一日ノ猛利ノ行ニ非ズハ、豈ニ苦ヲ息ム事ヲ得ムヤ」ト云フト見テ、覚ヌ。僧法、即チ、衣鉢ヲ投棄テ、書生四十人ヲ雇テ、一日ノ中ニ法花経一部ヲ書写シ畢テ、心ヲ至シテ僧行ガ為ニ供養シツ。其ノ夜、或人ノ夢ニ、「僧行、忍ニ地獄ノ苦ヲ離レテ[トウ]利天ニ生ゼリ」ト見ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
恵明、七巻ヲ八座ニ分チテ法花経ヲ講ゼル語第二十四
今昔、震旦ニ恵明ト云フ僧有ケリ。何レノ所ノ人ト知ラズ。亦、俗姓ヲ知ラズ。
此ノ人、智恵明了ナル事人ニ勝レタリ。頻ニ仏乗ヲ悟テ、常ニ法花経ヲ講ズ。或ル時ニ、深キ山ニ入テ、石ノ室ニ居テ法花経ヲ講ズルニ、多ノ[ミ]猴、其ノ所ニ来テ法ヲ聞ク。其ノ後、三月ヲ経テ、夜ル、石ノ窟ノ上ニ光明有リ。
漸ク窟ノ前ニ近付ク。光ノ中ニ音有テ、恵明ニ語テ云ク、「我レハ此レ、師ノ法花経ヲ講ゼシヲ聞キシ[ミ]猴ノ中ニ、老テ盲タリシ[ミ]猴也。師ノ法花経ヲ講ゼシヲ聞シ功徳ニ依テ、命終シテ[トウ]利天ニ生ゼリ。本ノ身ハ、此ノ室ノ東南ニ七十余歩ヲ去テ外ニ有リ。師ノ恩ヲ報ゼムト思フガ故ニ、此ノ所ニ来レル也。願クハ、亦法花経ヲ講ジ給ハムヲ聞カムト思フ」ト。恵明云ク、「何カ講ズベキ」ト。天ノ云ク、「我レハ疾ク天ニ返ラムト思フ。然レバ、師、一部ヲ以テ八ニ分テ講ズベシ」ト。恵明云ク、「此ノ経ハ持ツ所七巻也。然レバ、七座ニ分ツベシ。何ゾ八座ニ講ゼムヤ」ト。天ノ云ク、「法花経ハ、本此レ八箇年ノ所説也。若シ八年講ゼバ実ニ久シ。□□ハ、只八座ヲ開テ、八年ノ説トセム」。然レバ、即チ七巻ヲ八軸ニ分テ、天ノ為ニ講ズ。
其ノ時ニ、天、八枚ノ真珠ヲ以テ恵明ニ施シテ、偈ヲ説テ云ク、釈迦如来避世遠、流伝妙法値遇難、雖値解義亦為難、雖解講宣最為難云々、此ノ偈ヲ説キ畢テ、亦云ク、「若シ此ノ法ヲ一句モ須臾ノ間聞ク事有ラム者ハ、三世ノ罪ヲ皆滅シテ、自然ニ仏道ヲ成ゼム事疑ヒ無シ」ト。「我レ、今経ヲ講ズルヲ聞テ、畜生ノ身ヲ棄テヽ、[トウ]利天ニ生ジテ、威光、旧天ニハ勝レタリ。此ノ事語リ尽スベカラズ」ト云テ、[トウ]利天ニ返リ昇ニケリ。恵明、□ニ此ノ事ヲ記シテ石ヲ彫テ納メテケリ。其レ今ニ有リトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ絳洲ノ僧徹、法花経ヲ誦シテ臨終ニ瑞相ヲ現ゼル語第二十五
今昔、震旦ノ絳洲ニ唐ノ高宗ノ代ニ一人ノ僧有ケリ。名ヲバ僧徹ト云フ。幼少ニシテ出家シテ、心ニ慈悲深クシテ、専ニ仏法ヲ修行ス。亦、人ヲ哀ブ事限リ無シ。
而ルニ、孫山ノ西ノ阿ニ堂ヲ造ル。其ノ所、樹木多ク茂テ盛リ也。僧徹ガ栖ト為ルニ皆堪ヘタリ。而ル間、僧徹、栖ヨリ出デヽ、遊行スルニ、其ノ山ノ間ニ一ノ土ノ穴ヲ見ル。
其ノ内ニ一人ノ癩病ノ者有リ。瘡身ニ満テ臭キ事限リ無シ。更ニ近付クベカラズ。而ルニ、此ノ病人、僧徹ガ過ルヲ見テ、呼テ食ヲ乞フ。僧徹、此レヲ哀ムデ、穴ヨリ呼ビ出デヽ食ヲ与ヘテ病人ニ語テ云ク、「汝ヲ我ガ栖ニ将行テ養ハムト思フ。何ニ」ト。病人、此レヲ聞テ喜ブ事限リ無シ。然レバ、僧徹、此ノ病人ヲ本ノ寺ニ将行テ、忽ニ土ノ穴ヲ造テ、病人ヲ居ヘテ衣食ヲ与ヘテ養フ。亦、法花経ヲ教ヘテ読セシ誦ム。病人、文字ヲ識ル事無ク、心□クシテ習ヒ難シト云ヘドモ、僧徹、心ヲ至シテ文々句々ニ教フル事、力ヲ費ヤス、更ニ怠ラズ。然レバ、病人、既ニ法花経ヲ習ヒ得ル事、半部ニ成ヌ。其ノ時ニ、病人、夢ニ、人来テ我レニ此ノ経ヲ教フ。「我レ自カラ悟テ五六ノ巻ヲ読誦ス」ト思フ程ニ、夢悟□。我ガ身ヲ見レバ、瘡皆愈タリ。「此レ、偏ニ法花経ノ威力也」ト信ジテ、実ニ奇異ニ貴ク思フ。其ノ後、皆一部ヲ読畢ヌルニ、髪・眉、皆本ノ如シ生ヌ。其ノ後ハ病人自カラ人ノ病ヲ療スル人ト成テ、僧徹ニ随テ有リ。然□僧徹、此ノ人ヲ以テ、世ニ病有ル人ノ許ニ遣テ祈リ療セサスルニ、必ズ其ノ験有リ。然レバ、此ノ人、昔ハ身ノ病ヲ患ヘキ。今ハ人ノ病ヲ愈ヌ。亦、此ノ僧徹ガ寺ノ辺ニ水無クシテ、常ニ遠ク山ノ下ニ下テ汲ム。然レバ、纔ニ一度ノ食物ヲ備フ許也。而ル程ニ、忽ニ地ニ陥タル所有テ、泉涌キ出タリ。其ノ後ハ此ノ所ニ水乏キ事無シ。其ノ時ニ、房ノ仁裕□云フ人有リ。秦洲ノ刺史ト有リ。
此ノ泉ノ出タル故ヲ以テ、此ノ僧徹ガ寺ヲ改メテ陥泉寺ト付タリ。亦、僧徹、専ニ善事ヲ勧ルヲ以テ常ノ務トス。遠ク近キ人ヲ崇メ敬フ事、父母ノ如シ。而ル間、永徴二年ト云フ年ノ正月ニ、僧徹、弟子等ニ告テ云ク、「自カラハ既ニ死ナムトス」ト云テ、衣服ヲ直クシテ縄床ニ端坐シテ、目ヲ閉テ動カズ。其ノ時ニ、天晴レタリト云ヘドモ花降ル事、雪ノ雨ルガ如シ。香シキ匂ヒ、室ノ内ニ薫ジテ消エズ。亦、其ノ辺二里許ニ樹ノ葉ノ上ニ、皆白キ色出来タリ。軽キ事粉ノ如シ。三日ニ常ノ色ニ尚ヌ。亦、僧徹ガ身冷テ三年、猶端シク坐セル事、生タリシ時ノ如シ。亦、臭キ香無ク身壊ルヽ事無シ。只、目ノ中ヨリ涙出タル許也。此ノ事、増徹ガ弟子等及ビ洲ノ人ノ語ルヲ聞テ語リ伝ヘタル也トヤ。  
震旦ノ魏洲ノ史雀産武、前生ヲ知リテ法花ヲ持セル語第二十六
今昔、震旦ノ隋ノ開皇ノ代ニ、魏洲ノ刺史、博陵雀ノ産武ト云フ人有ケリ。其ノ洲ヲ廻テ見ルニ、一ノ里ニ至テ、産武、俄ニ驚キ喜テ、共ナル一人ノ官人ヲ呼テ語テ云ク、「我レ、昔シ、前ノ世ニ此ノ里ノ中ニ有テ、女ノ身ヲ受テ人ノ妻ト有リキ。我レ、今其ノ家ノ所ヲ思ヒ出タリ」ト云テ、馬ニ乗レル人一人ヲ里ニ入レテ、一ノ家ニ至テ門ヲ叩カシム。家ノ主人有リ。年老タル者也。産武来レル由ヲ云ヒ入レタレバ、家主、産武ヲ家ニ呼ビ入ル。産武、其ノ家ニ入テ、上ニ登テ先ヅ壁ノ上ヲ見□、地ヲ去ル事六七尺許ニ壁ノ上ニ高キ所有リ。産武、此ヲ見テ家主ニ語テ云ク、「我レ、昔シ、読誦シ奉レリシ所ノ法花経及ビ我ガ身ノ具タリシ金ノ釵五隻ヲ、此ノ壁ノ中ノ高キ所ニ隠シ置タリ。其ノ経ノ第七巻ノ終リ一枚、火ニ焼テ文字失セ給ヘリ。我レ、常ニ此ノ経ヲ読誦シ奉リニシモ、其ノ第七巻ノ終リノ焼ケ給ヘル所ヲ書写シ奉ラムト思ヒ乍ラ、常ニ家業ヲ営シ間、忘レテ書ク事無カリキ」ト云テ、忽ニ人ヲ以テ壁ヲ穿テ、経箱ヲ取リ出タリ。実ニ第七巻ノ終リ一枚焼ケ給ヘリ。亦、金ノ釵ヲ見ニ、皆、産武ノ言ニ違フ事無シ。家主、此レヲ聞テ本縁ヲ知ラザルガ故ニ、怪ムデ産武ニ其ノ故ヲ問フ。産武答テ云ク、「汝ヂ知ラズヤ。我レハ此レ、汝ガ妻トシテ此ノ家ニ有リキ。我レ、産ニ依テ死セリシ也」。家主、此ノ事ヲ聞テ、涙ヲ流シテ泣キ悲ムデ云ク、「実ニ、失セニシ我ガ妻、常ニ此ノ経ヲ読誦シ奉リキ。
亦、釵、其ノ人ノ物也。君、昔ノ我ガ妻ニ在シケリ。但シ、其ノ人ノ死シ時、自ノ髪ヲ切テキ。而ルニ、其ノ置ク所ヲ隠シテ我レニ云ハザリキ。君、即チ、其ノ髪置キ給ケム所ヲ教ヘ給ヘ」ト。産武、寄テ、庭ノ前ニ有ル槐ヲ指テ云ク、「我レ産セムト為シ時、自カラノ髪ヲ切テ、此ノ木ノ上ニ穴ノ中ニ置テキ。今ニ有リヤト試ニ人ヲ昇ラシメテ捜サシメヨ」ト。即チ言ニ随テ、人ヲ昇ラシメテ穴ヲ捜サシムニ其ノ髪ヲ取リ出タリ。家主、此レヲ見テ泣キ悲ム事限リ無シ。産武、昔ノ事ヲ家主ニ知ラシメテ後、深キ契ヲ成シテ相ヒ語フ事、昔ノ夫妻ノ時ノ如シ。亦、産武、種々ノ財宝ヲ家主ニ与ヘテ還リ去ヌ。此レヲ以テ思フニ、生ヲ隔テズシテ人界ニ生レタル人ハ、此ノ如キ前世ノ事ヲ知ル也ケリ。此レ偏ニ、法花経ヲ読誦□ル故ニ、二度□人間ニ生レテ宿因ノ厚キ事ヲ顕セル也トナム伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ韋仲珪、法花経ヲ読誦シテ瑞相ヲ現ゼル語第二十七
今昔、震旦ニ韋ノ仲珪ト云フ人有ケリ。心正直ニシテ、父母ニ孝スル心尤モ深シ。亦、兄弟ヲ敬フ心有リ。然レバ、郡里ノ人皆、仲珪ヲ哀ブ事限リ無シ。
仲珪、十七ト云年、郡ノ司ニ成レリ。而ルニ、此人ノ父ハ、資陽郡ト云フ所ノ丞トシテ彼ノ郡ニ有ル間、年老テ忽ニ帰リ来ル事無シ。而ルニ、武徳ノ間ニ、仲珪ガ父、資陽郡ニシテ身ニ病ヲ受タリ。子ノ中珪、帯ヲ解カズシテ父ノ所ニ行テ、懇此レヲ養ヒ繚フ。父久ク悩ム間ニ遂ニ死ヌ。其ノ後、仲珪、妻子ヲ離レテ、彼ノ父ガ墓ノ辺ニ行テ、菴ヲ造テ其レニ居テ、専ニ仏教ヲ信テ法花経ヲ読誦シ奉ル。昼ハ土ヲ負テ墓ヲ築キ、夜ハ専ニ法花経ヲ読誦シ奉テ、父ノ後世ヲ訪フ。更ニ誠ノ心怠ラズシテ、三箇年ヲ経ト云ドモ、家ニ還ラズ。其ノ程、一ノ虎有テ、夜ル菴ノ前ニ来テ蹲踞テ、経ヲ読誦スルヲ聞ク。久ク有テ去ラズ。仲珪、此レヲ見テ心ニ恐ルヽ事無クシテ云ク、「我レ、悪キ獣ニ向ハム事ヲ願ハズ。虎、何ノ故有テ来レルゾヤ」ト。虎、此レヲ聞テ、即チ立テ去ヌ。亦、其ノ明ル朝ニ墓ヲ巡テ見ルニ、蓮花七十二茎生タリ。墓ノ前ニ当テハ、次第ニ直シク生ヒ次ケリ。人ノ態ト殖タルガ如キ也。茎ハ赤クシテ花ハ紫也。花ノ広サ五寸也。色及ビ光リ妙ニシテ例ノ花ニ異也。隣ノ里ノ人、此ノ事ヲ聞テ来テ見テ、遠ク近キ人ニ告グ。刺史辛君、及ビ別駕沈裕ト云フ人等、此ノ事ヲ聞テ、共ニ墓ノ所ニ来テ此レヲ見ル間、忽ニ一ノ鳥出来レリ。
鴨ニ似タリ。其ノ鳥、一尺許ノ二ノ鯉ヲ含テ飛ビ来テ、刺史君昌ノ前ニ来テ魚ヲ地ニ置テ去ヌ。君昌等、此レヲ見テ奇異也ト思フ。此ノ蓮花ヲバ取テ国王ニ奉テ、此ノ由ヲ奏聞シケリ。此レ偏ニ、法花経ノ威力也トナム云テ、見聞ク人皆、讃メ貴ビケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ中書令峯文本、法花ヲ誦シテ難ヲ免カレタル語第二十八
今昔、震旦ニ中書ノ令トシテ峯ノ文本ト云フ人有ケリ。幼少ノ時ヨリ仏法ヲ信ジテ、常ニ法花経ノ普門品ヲ読誦ス。此ノ人、多ノ眷属ト共ニ船ニ乗テ、呉ノ江ノ中流ヲ渡ル間、俄ニ船壊レヌ。然レバ、船ニ乗レル多ノ人皆、水ニ入テ死ヌ。只、文本一人、江ニ浮テ水ノ中ニ有リ。忽ニ死ナム事ヲ悲ブ程、髣ニ聞ケバ、人有テ云ク、「只速ニ仏ヲ念ゼバ、当ニ死ナザル事ヲ得テム」ト。此ノ如キ三度云フト聞クニ、文本、浪ニ随テ涌キ出デヽ、自然ラ北ノ岸ニ付ク事ヲ得タリ。喜テ岸ノ上ニ昇ヌレバ、既ニ此ノ難ヲ免レヌ。此ノ「仏ヲ念ジ奉レ」ト教ヘツル人ヲ尋ヌルニ、更ニ教フル人無シ。然レバ、偏ニ法花経ノ威力・観音ノ助ケ也ト知ヌ。其ノ後、弥ヨ信ヲ発シテ江陵ニシテ斉会ヲ儲ク。衆僧其ノ家ニ集会セル中ニ、一人ノ客僧有リ。斎会畢テ後、独リ残リ留テ、文本ニ語テ云ク、「天下既ニ乱レナムトス。但シ、君、仏法ヲ敬ヘルガ故ニ、其ノ災ニ預カラズシテ、遂ニ大平ニ値テ富貴ニ至ルベキ也」ト云畢テ、走リ出デヽ去ヌ。其ノ後、文本、食物ノ間ニ器ノ中ニ舎利二粒ヲ見付タリ。
「此レ、奇異也」ト思テ、亦、恭敬供養シ奉ル事限リ無シ。亦、実ニ彼ノ僧ノ告ゲシニ違フ事無ク、天下ニ乱出来ルト云ヘドモ、文本、其ノ災ニ預カラズシテ、大平ニ値テ富貴ニ至レリケリ。此レ亦、偏ニ法花経ノ威力・観音ノ助ケ給フ也。前ニハ江ヲ渡ルニ船壊レテ水ニ入ルト云ドモ死ル事無シ。後ニハ天下ニ乱出来ルト云ヘドモ其ノ災ニ預カラズシテ大平ニシテ富貴ヲ得ル也。然レバ、人専ニ仏法ヲ信ズベシトナム語リ□伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ都水ノ使者蘇長妻、法花ヲ持シテ難ヲ免カレタル語第二十九
今昔、震旦ノ□ノ代ニ、都水ノ使者ニ蘇長ト云フ人有ケリ。武徳ノ間ニ、己洲ノ刺史ト為リ。然レバ、蘇長、妻子・眷属ヲ相ヒ具シテ、彼ノ洲ヘ趣クニ、嘉陵ノ江ノ中流ヲ渡ル間、俄ニ風出来テ既ニ船没シヌ。然レバ、船ニ乗レル所ノ男女六十余人、一時ニ溺テ死ヌ。其ノ中ニ、只蘇長ガ妻一人、生テ水ニ浮テ有リ。其ノ妻、常ニ法花経ヲ読誦シ奉ケリ。
船ノ中ニシテ水ニ入ル時ニ、此ノ妻、法花経ヲ入レ奉ル所ノ経箱ヲ相具シ奉レル□、忽ギ取テ首ニ載キ奉テ、誓ヲ発シテ共ニ没シヌ。既ニ船没シヌル時ニ、船ノ中ノ人、蘇長ヲ始テ皆没シヌ。死ヌト云ヘドモ、此ノ妻一人沈マズ。然レバ、浪ニ随テ浮ブ間ニ自然ラ岸ニ付ヌ。亦、其ノ経箱コ浮テ出タリ。其ノ箱ヲ開テ見ルニ、入給ヘル所ノ経、[即]聊ニ湿汗給ヒタル事無シ。遠ク近ク此ノ事ヲ見聞クニ、人、法花経ノ威力ノ空カラザル事ヲ敬ヒ貴ビ奉ケリ。其経、今ニ猶楊洲ニ在マス。彼ノ妻、其ノ後、人ノ妻ト成テ有ケリ。弥ヨ法花経ヲ篤ク信ジ奉テ、読誦シ恭敬礼拝シ奉ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ右監門ノ校尉李山龍、法花ヲ誦シテ活ルヲ得タル語第三十
今昔、震旦ノ□ノ代ニ、右監門ノ校尉トシテ李ノ山龍ト云フ人有ケリ。
本憑洲ノ人也。武徳ノ間ニ暴ニ死ヌ。家ノ人泣キ悲ム事限リ無シ。□山龍ガ胸・掌許リ煖カ也。家ノ人、此レヲ怪ムデ暫ク喪セズ。七日有テ、遂ニ活テ、親キ族ニ語テ云ク、「我レ、死セシ時ニ、冥官ニ捕ヘラレテ一ノ官曹ニ至ル。庁事甚ダ大ナル形也。其ノ庭甚ダ広クシテ、庭ノ中ニ誡メ置タル人極テ多シ。或ハ[チウ]械、或ハ枷鎖ヲ蒙レル者、皆面ヲ北ニ向テ庭ノ中ニ充チ満テリ。其ノ時ニ、使、山龍ヲ庁ニ将至ルニ、山龍見レバ、首タル大官一人在マス。高キ床ニ坐セリ。其ノ眷属数多ニシテ、有様、国王ヲ百官ノ敬ガ如シ。
山龍、使ニ問テ云ク、「此ハ何ナル官ゾ」ト。使ノ云ク、「此レハ王也」ト。山龍進ムデ階ノ本ニ至ル。王ノ宣ハク、「汝ヂ、一生ノ間何ナル善根ヲカ造タル」ト。山龍答テ云ク、「我ガ郷ノ人、講筵ヲ修セシ時、毎度ニ常ニ供養物ヲ施シ事、其ノ人ト同カリキ」ト。王ノ宣ハク、「汝ガ身ニ只何ナル善根ヲカ造レル」ト。山龍答テ云ク、「我レ、法花経二巻ヲ誦セリ」ト。王ノ宣ハク、「甚ダ貴シ。速ニ階ニ登ルベシ」ト。然レバ、山龍、廰ノ上ニ登ヌ。廰ノ東北ニ高キ座有リ。王、彼ノ座ヲ指テ、山龍ヲ進メテ宣ハク、「汝ヂ、彼ノ座ニ登テ経ヲ読誦スベシ」ト。山龍、王ノ命ヲ奉ハリテ、彼ノ座ノ側ニ至ル。王、即チ、起テ宣ハク、「読誦ノ法師、座ニ登レ」ト。山龍、既ニ座ニ登テ、王ニ向テ坐セリ。山龍誦シテ云ク、「妙法蓮華経序品第一」ト読カバ、王ノ宣ハク、「読誦ノ法師速ニ止メ」ト。山龍、王ノ言ニ随テ、即チ止テ座ヲ下ヌ。亦、階ノ本ニテ庭ヲ見ルニ、誡メ置タリツル多ノ罪人忽ニ失セテ見エズ。
其ノ時ニ、王、山龍ニ告テ宣ハク、「君ガ経ヲ誦スル功徳、只自カラノ利益ノミニ非ズ。庭ノ中ノ多ノ苦ノ衆生、皆経ヲ聞クニ依テ、囚ヲ免カルヽ事ヲ得ツ。豈ニ此レ、限リ無キ善根ニ非ズヤ。今、我レ君ヲ放ツ。速ニ人間ニ還リ去ネ」ト。山龍、王ノ言ヲ聞テ、王ヲ礼拝シテ廰ヲ出デヽ還ルニ、数十歩ヲ行ク程ニ、王、亦、山龍ヲ喚シテ、此ノ付ツル使ニ仰□宣ハク、「此ノ人□将行テ、諸ノ地獄ヲ廻リ見シムベシ」ト。使、即チ山龍ヲ将行ク。百余歩ヲ行キ見レバ、一ノ鉄ノ城有リ。甚ダ広ク大キ也。其ノ上ヘニ屋有テ、其ノ城ヲ覆ヘリ。旁ニ多ノ小キ窓有リ。或ハ大ナル事、小キ盆ノ如シ。或ハ鉢ノ如シ。見レバ、諸ノ男女、飛テ窓ノ中ニ入テ、亦出ル事無シ。山龍怪テ使ニ問フ、「此レハ何ナル所」ト。使ノ云ク、「此ハ此レ、大地獄也。獄ノ中ニ多ノ隔有リ。罪ヲ罸セル事各異也。此ノ諸ノ人ハ、本ノ業ニ随テ、地獄ニ趣テ其ノ罪ヲ受クル也」ト。
山龍、此レヲ聞テ、悲ビ懼レテ、「南無仏」ト称ス。使ニ語テ、「出ナム」ト云フニ、亦一ノ城門ニ至テ見レバ、一ノ[カナヘ]ニ湯沸、傍ニ二ノ人有テ睡リ居タリ。山龍、此ノ眠レル人ニ問フ。二人ノ云ク、「我等、此ノ[カナヘ]ノ沸ケル中ニ入レリ。
堪ヘ難キ事限リ無シ。而ルニ、君ノ「南無仏」ト称シ給ヘルヲ聞クニ依テ、地獄ノ中ノ罪人皆、一日、息ム事ヲ得テ、痩レ睡レル也」ト。山龍、亦、「南無仏」ト称ス。
使、山龍ニ告テ云ク、「官府、其ノ数多シ。王、今君ヲ放チ給フ。君去ラムニハ、王ニ免ス書ヲ申スベシ。若シ其ノ書ヲ取ラズハ、恐ラクハ他ノ官ノ者、此ノ由ヲ知ラズシテ、亦君ヲ捕ヘムト為」ト。山龍、還テ王ニ其ノ書ヲ申ス。王、紙ニ一行ノ書ヲ書テ使ニ付テ宣ハク、「五道等ノ暑ヲ取ルベシ」ト。使、此ノ仰セヲ承ハリテ、山龍ヲ将行テ二ノ官曹ヲ歴フ。各廰事有リ。眷属前ノ如シ。皆、其ノ官ノ暑ヲ取ルニ、各一行ヲ書テ山龍ニ付ク。山龍、此レヲ持テ出デ門ニ至ルニ、三人有テ山龍ニ云ク、「王、君ヲ放テ去ラスム。我等留ムベカラズ。
但シ、多クモ有レ、少モ有レ、乞ハム物我等ニ送レ」ト。未ダ言ヒ畢ラザルニ、使、山龍ニ告テ云ク、「王、君ヲ放チ給フ。此ノ三人ヲ知ラズヤ。三人ハ此レ、前ニ君ヲ捕ヘシ使者也。一ヲバ此レ棒主ト云フ。棒ヲ以テ君ガ頭ヲ繋ツ。一ヲバ此レ縄主ト云フ。赤キ縄ヲ以テ君ヲ縛ル。一ヲバ此レ袋主ト云フ。袋ヲ以君ガ気ヲ吸フ者也。君還ル事ヲ得ルガ故ニ、物ヲ乞フ也」ト。山龍、惶懼テ三人ニ謝シテ云ク、「我レ愚ニシテ君ヲ知ラズ。家ニ還テ物ヲ備ヘム。但シ、何レノ所ニカ此ノ物ヲ送ルベキ。其ノ故ヲ知ラズ」ト。三人ノ云ク、「水ノ辺リ、若ハ樹ノ下ニシテ此ヲ焼」ト云テ、山龍ヲ免シテ還ラシム。山龍、家ニ還ヌ思フニ活テ、見レバ、家ノ人泣キ合テ我レヲ葬セムズル具ヲ営ム。山龍、屍ノ傍ニ至ヌレバ、即チ活ヌ。後ノ日、紙ヲ剪テ銭帛ヲ造リ、并ニ酒肉ヲ以テ自カラ水ノ辺ニシテ此ヲ焼ク。忽ニ見レバ三人来テ云ク、「君、信ヲ失ハズシテ、重テ遺愧ノ賀ヲ相ヒ贈クル」ト云ヒ畢テ後、三人見エズ其ノ後、山龍、智恵・徳行ノ僧ニ向テ、此ノ事ヲ語ルヲ聞テ、僧ノ語リ伝ヘタル也トヤ。  
為ニ救ハンガ馬ヲ写シテ法花経ヲ免カレタル難ヲ人ノ語第三十一
今昔、震旦ニ、北斉ノ時、一人ノ人有ケリ。姓ハ梁、家大キニ富テ財宝甚ダ多シ。遂ニ死スル時ニ臨テ、妻子ニ語テ云ク、「我レ、生タリツル間、従者并ニ馬ヲ懃ニ愛シ養ヒツ。然レバ、従者ヲ仕ヒ、馬ゾ乗ル事久クシテ、皆我ガ心ニ叶ヘリツ。今我レ死ナバ、従者ヲモ馬ヲモ皆同ジク殺スベシ。若シ其レヲ殺サズハ、我レ死テ後、何ヲカ乗物トシ、誰ヲカ仕人ト為ム」ト云テ、既ニ死セムト為ル時ニ至テ、家ノ人、遺言ノ如ク、嚢ニ土ヲ入レテ、彼ノ従者ノ奴ノ上ニ壓テ押殺シツ。
馬ヲバ未ダ殺サズ。而ル程ニ、四日ヲ経テ、其従者蘇テ、家ノ人ニ語テ云ク、「我レ、殺サレシ時、思ハザリキ。只、忽ニ官□門ニ至テ、門ニ有ル人、我レヲ留メテ門ニ在シメテ一宿ヲ経タリキ。其ノ明□朝タニ見ルニ、死給ヒニシ主有カリ。其ノ身鎖レテ、厳シキ兵有テ、守リ衛テ官ニ将入ルニ、我レヲ見テ宣ハク、「我レ、死シ時、従者ヲ仕ハムガ為ニ汝ヲ殺セ」ト云置キヽ。家ノ人、遺言ニ随テ汝ヲ殺タレドモ、今自ラ苦ヲノミ受テ、汝ヲ仕フベキ様無カリケリ。然レバ、我レ官ニ申テ、汝ヲ免サムト思フ」ト宣テ、将入ヌ。我レ、屏ノ外ニシテ伺テ事ノ有様ヲ見ルニ、官ノ内ノ人、此ノ主ヲ守リ衛メル人ニ問テ云ク、「昨日油ハ押キヤ」ト。答テ云ク、「八升ヲ押シ得タリ」ト。官ノ云ク、「早ク将還テ一斗六升ヲ押取レ」ト。其ノ時ニ、主ヲ亦、曳キ出シツ。其ノ度ハ、更ニ宣フ事無シテ出ヌ。亦、明ル日来レリ。
其ノ度、主、喜タル気色有テ、我ニ告テ宣ハク、「今、汝ガ事ヲ申ス也」ト云テ、亦伺ヒ見レバ、亦此ノ守衛ノ人ニ問テ云ク、「油ヲ押得タリヤ」ト。答テ云ク、「得ズ」ト。
官、其ノ故ヲ問フ。守衛ノ人ノ云ク、「此ノ人死シテ三日ニ、家ノ人有テ、此ノ人ノ為ニ僧ヲ請ジテ斎会ヲ設ク。経唄ノ声ヲ聞毎ニ、鉄ノ梁輙ク折タルガ故ニ、油ヲ押得ザル也」ト。官ノ云ク、「暫ク将去レ」ト。其ノ時ニ、主、官ニ申ス、「従者ヲ免サム」ト。官、即チ我レヲ召シテ云ク、「汝ヂ、過無ニ依テ免ス。
速ニ還ルベシ」ト。其ノ時ニ、主ト共ニ門ヲ出ツ。主ノ宣ハク、「汝ヂ、速ニ還テ我ガ妻子ニ此ノ由ヲ伝ヘ語ルベシ、「汝等ガ追善ノ力ニ依テ、我レ、堪ヘ難キ苦ヲ免ルヽ事ヲ得タレドモ、未ダ猶免レ畢ハラズ。汝等速ニ心ヲ至シテ法花経ヲ書写シ、仏像ヲ造立シテ我ガ苦ヲ助ケ救ヘ。願クハ免ルヽ事ヲ得ム。今ヨ□後、祭ヲ設ル事無カレ」。其レニ依テ我ガ罪ヲ益也」ト云畢テ別レヌ」ト云テ、具ニ此ノ事ヲ語ル。家ノ人、此ノ事ヲ聞□弥ヨ信ヲ発シテ、其ノ日ヲ以テ齋会ヲ設ク。家ノ財物ヲ傾ケ□功徳ヲ修□門ヲ合セテ専ニ善根ヲ労ケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
清斉寺ノ玄渚、道明ヲ救ハンガ為ニ法花経ヲ写セル語第三十二
今昔、震旦ノ□ノ代ニ、清斉寺ト云フ寺ニ道明・玄渚ト云フ二人ノ僧住ケリ。道明ハ前ニ死ヌ。其後、玄渚、程ヲ経テ、玄渚物ヘ行ケルニ、一ノ伽藍ノ辺ヲ過ルニ、其ノ寺ノ大門ニ、失ニシ同法ノ道明立テリ。玄渚、此ヲ見テ怪ムデ、寄テ道明ニ問テ云ク、「汝ハ、清斉寺ニ住セシ道明ニハ非ズヤ」ト。答テ云ク、「然カ也」ト。玄渚ガ云ク、「其レハ早ウ失ニシ人ゾカシ」。道明ガ云ク、「然也。然レドモ、死テ後、此ノ寺ニ住スル也」ト。玄渚、此レヲ聞テ、「奇異也」ト思フ間ニ、道明、玄渚ヲ倡テ、我ガ栖ヘ将行ク。玄渚、怖レ思フト云ヘドモ、道明ガ云フニ随テ、玄渚、道明ト共ニ寺ノ内ニ入ヌ、諸ノ堂舎有。堂ノ後ノ方ニ僧房共有リ。其ノ一ノ房ニ将入ヌ。年来ノ物語ナド互ニ為ル間ニ、夜ニ入ヌ。而ル間、道明ガ云ク、「我ハ、此ノ前ナル堂ニ毎夜ニ聊ニ勤ル事有也。其ニ出テ暁ニナム返ルベキ。但シ、我ガ堂ニ有ラム間、努々其ノ事ヲ見ルベカラズ」トテ出ヌ。玄渚、道明ハ然カ云ツレドモ、何ナル事ノ有ルニカト不審クテ、其ノ堂ニ行テ、後ノ方ナル壁ノ穴ヨリ□臨ケバ、床□数ノ僧着並タリ。而ル間、長高ク大キナル童ノ形ナル者出来テ、大キナル鍋ニ物ヲ入レテ持来タリ。亦、此ノ僧ノ前毎ニ大キナル器有リ。童、鍋ナル物ヲ汲テ僧ノ器毎ニ入ル。見レバ、銅ノ湯也ケリ。□僧共、此ノ器ニ盛レル湯ヲ取テ、皆飲□合ヘルニ、辛苦悩乱スル事限リ無シ。飲ムニ随テ、身赤ク成テ光リ合タリ。各迷フ事、云ハム□方無シ。玄渚、此レヲ見テ本ノ房ニ返テ居タルニ、暁方ニ、道明、返リ来タリ。実ニ、此レヲ見ルニ、堪ヘ難気ナル様也。玄渚、道明ニ云ク、「見ルベカラヌ由ヲバ聞クト云ヘドモ、不審サニ堂ニ行テ、壁ノ穴ヨリ臨ツルニ、汝達ノ有様、皆見ツルニ堪ヘ難シ。但シ、汝ハ清斉寺ニ住セシ時、戒律ヲ持テ犯ス所無リキ。
何ノ故ニ此許ノ罪ハ有ルベキゾ」ト。道明答ヘテ云ク、「我レハ、汝ガ見ケム様ニ、指ル罪ミ無カリキ。只、人ノ袈裟ヲ染メムトテ、人ノ湯木ヲ一荷借テ、其レヲ返サズシテ死ニキ。其ノ罪ニ依テ、此ノ苦ヲ受ル也。汝ヂ、速ニ返テ、我ガ此ノ苦ヲ救ハムガ為ニ、法花経ヲ書写シテ供養シ奉ルベシ。其ノ故ニ、汝ヲ呼ツル也」ト。然レバ、玄渚、清斉寺ニ返テ、哀レビノ心ヲ発シテ、忽ニ法花経ヲ書写シテ、彼ノ道明ガ為ニ供養シテケリ。其ノ玄渚ガ夢ニ、道明来テ告テ云ク、「汝ガ法花経ヲ書写・供養シ奉レルニ依テ、我ガ此ノ苦既ニ免レヌ。此ノ恩、世々ニモ忘レ難シ」ト云ヒテモ、咲ヲ含テ返ヌト見テ、夢覚ヌ。玄渚、其ノ後、彼ノ道明ガ有シ寺ノ怪ク思エケレバ、其ノ寺ニ行テ尋ネケレドモ、僧一人モ住マズ、本ヨリ荒タル所ニテナム有ケル。其ノ時ニ、玄渚、道明ガ此ノ事ヲ我レニ告ゲムガ為ニ、示シケリ事也ケリト思テ返ニケリ。然許ノ程ノ罪ニ依テ受ケル所ノ報、法花経ノ力ニ依テ免レニケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ仁寿寺ノ僧道[ソン]、涅槃経ヲ講ゼル語第四十一
今昔、震旦ノ蒲洲ト云フ所ニ仁寿寺ト云フ寺有リ。其ノ寺ニ道[ソン]ト云フ僧住ケリ。若ヨリ智リ深ク心弘クシテ、人ヲ憐ブ。然レバ、国郷挙テ道[ソン]ヲ崇メ貴ブ事限リ無シ。此ノ人、生中ニ涅槃経ヲ講ジ奉ル事、八千余返也。其ノ時ニ、崔ノ義真ト云フ人有リ。虞郷ノ令トシテ郷ニ有ルニ、郷ノ人ヲ以テ道[ソン]ヲ請ジテ経ヲ講ゼシム。道[ソン]、高座ニ登テ、始テ題ヲ発セルニ、先ヅ泣キ悲ム事限リ無クシテ、諸ノ人ニ告テ云ク、「仏、世ヲ去給テ遥ニ遠シ。然レバ、妙ナル言隠レ絶ニキ。
愚ナル身ニ伝フル所、善キ言ニ足ラズ。只深キ心ヲ以テ敬ヒ向フ。自ラ悟ルベシ。但シ、師子ノ時ニ至テ、講ジ説キ止ナムトス。日既ニ近付ヌ。願クハ、□各、心ニ存ズベシ」ト説クヲ、人、何事ヲ説クト云フ事ヲ知ラズ。既ニ講ズル事、師子ノ時ニ至テ、道[ソン]痛無クシテ死ヌ。其ノ時ニ、其ノ庭ニ道俗男女、皆、驚キ騒グ事限リ無シ。
義真并ニ眷属等集テ、南山ト云フ所ニ、道[ソン]ガ身ヲ隠シ埋テ各去ヌ。此ノ事、□月ノ事也。其後十一月ニ成テ、地凍タリト云ヘドモ、其ノ道[ソン]ガ死屍、地ヨリ出タリ。其ノ地ニ花生タリ。蓮花ノ如クシテ小シ。頭及ビ手足ニ各一ノ花有リ。
義有リ。義真、此レヲ怪ムデ、人ヲ置テ護ラシムル者、夜ル疲レ睡レル間、人有テ、其ノ頭ノ花ヲ盗ミ折取ツ。其ノ朝ニ、此レヲ見ルニ、亦、身ヲ周テ花生出タリ。
五十余茎也。七日有テ、萎ミ乾レヌ。義真并ニ郷ノ道俗、皆、此レヲ見テ、奇異也ト貴ブ事限リ無クシテ語リ伝ヘタル也ケリトヤ。  
震旦ノ李思一、涅槃経ノ力ニ依リテ活レル語第四十二
今昔、震旦ニ李ノ思一ト云フ人有ケリ。趙郡ノ人也。仕ヘテ大廟ノ丞ト有リ。
貞観二十年ト云フ年ノ正月ノ八日、忽ニ物云フ事無クシテ、[オフシ]ニ成ヌ。同十三日ニ至テ死ス。而ル間、日来ヲ経テ活ヌ。家ノ人ニ語テ云ク、「我レ、死シ時、冥官ノ為ニ搦メラレテ、南ヲ指テ行キシ間、一ノ門ニ入ヌ。見レバ、間ノ内ノ南北ニ大キナル一ノ街有リ。左右狭シ。行々バ、官府ノ門舎有リ。十里許ヲ行クナルベシ。東西ノ街ニ到ルベシ。街ノ弘サ五十歩許也。多ノ史率有テ、多クノ男女ヲ駆リ随ヘテ、街ニ満テ東ヘ行ク。思一問テ云ク、「此レハ何ナル男女ゾ」ト。
答ヘテ云ク、「此レ皆、新ク死タル輩也。其レヲ官ニ将行テ格ト為ル也」ト。
思一、直ニ南ノ方ナル大キナル街ヲ渡テ、一ノ官曹ニ至ヌ。官ノ人、思一ニ問テ云ク、「汝ヂ、昔シ年十九ナリシ時、生命ヲ害セリ」ト。思一、更ニ思ハザル由ヲ答フ。然レバ、即チ、其ノ害セラレタル者ヲ召テ、其ノ殺セル時ノ月日ヲ対問ス。思一、其ノ時ニ悟テ云ク、「其ノ害セリト云フ日ハ、我レ、黄洲ノ恵明[ミン]法師ノ所ニシテ、涅槃経ヲ講ゼシヲ聞奉リキ。何ニ依テカ、彼ノ所ニシテ生命ヲ害スル事有ラムヤ」ト。官ノ人、此レヲ聞テ、恵[ミン]法師ノ所在ヲ問フ。或ル人答テ云ク、「恵[ミン]法師ハ既ニ亡ジテ久ク成ヌ。早ウ金粟世界ニ生レタリ」ト。官ノ云ク、「此レヲ証サシメムガ為ニ、彼ノ恵[ミン]法師ノ生所ヘ遣ラムニ、彼ノ世界遠クシテ忽ニ至リ難カリナム。然レバ、思一ヲ放チ免シテ、暫ク家ニ還」ト云テ、還ス間、思一ガ家、請禅寺ト云フ寺ニ近シ。其ノ寺ノ僧玄通、本ヨリ思一ト親クシテ家ニ通フ人也。思一既ニ死セルニ依テ、家ノ人有テ、玄通ヲ請ジテ経ヲ読マシメテ、思一ガ没後ヲ訪フ。而ル間、俄ニ見レバ、思一活ヌ。即チ、冥途ノ事ヲ語ル。
其ノ時ニ、玄通、思一ニ懺悔ノ法ヲ教ヘ戒ヲ授ク。并ニ、其ノ家ノ人ヲ勧メテ、金剛般若経ヲ転読セシメル事五千遍。其ノ後、日ノ暮方ニ至テ、思一亦ヌ。明ル日、亦活テ語テ云ク、「我レ、重テ追ヒ捕ヘラレテ、前ノ所ニ至ヌ。官、遥ニ我レヲ見テ、大キニ喜テ問テ云ク、「汝ヂ、家ニ還テ何ナル功徳ヲ修セルゾ」ト。思一、受戒・読経ノ事ヲ具ニ答フ。官ノ云ク、「此レ、大キナル善根也」ト。其ノ時ニ、思一、見レバ、一ノ人有テ、一巻ノ経ヲ取テ、思一ニ示シテ云ク、「此レハ此レ、金剛般若経也」ト。思一、此ノ経ヲ乞ヒ取テ、巻ヲ開テ其ノ題目ヲ見ルニ、文字、人間ニ異ナラズ。然レバ、目ヲ閉テ、心ニ願ヲ発ス、「願クハ、経ノ義理ヲ悟テ、衆生ノ為ニ演ベ説カム」ト。其ノ時ニ、人有テ云ク、「君ガ発ス所ノ心、甚ダ大キ也。昔シ、思一ニ害セラレタル所ノ者、自然ラ利益ヲ得ツ」。官ノ云ク、「汝ハ実ニ命尽キタリ。将ニ人道ニ生ヲ受クベシト云ヘドモ、家ノ人有テ汝ガ為ニ福ヲ修ス。此ノ故ニ、未ダ人界ヲ去ラズシテ、遂ニ、思一ヲ誣テ年ヲ延ムト願フ。実ニ狂害ニ非ズ。請ラクハ、罪ニ随ヘムヤ」ト云畢ヌ。其ノ時ニ、忽ニ二人ノ僧ヲ見ル。僧ノ云ク、「恵[ミン]法師ノ使トシテ、我等此ノ所ニ来レル也」ト。官、此レヲ見テ驚キ懼テ、起テ二人ノ僧ニ向フ。僧、官ニ云ク、「思一ハ、昔シ、講法ヲ聞キヽ。亦、他人ノ命ヲ殺サズ。何ニ依テカ、此レヲ妄ニ録セム」。其ノ時ニ、冥官、思一ヲ放チ免シツ。然レバ、思一、二人ノ僧ニ随テ出ヌ。僧、思一ヲ送テ家ニ還ラシメテ、思一ヲ勧メテ云ク、「汝ヂ、浄キ心ヲ以テ善ヲ修セシメヨ」ト云畢テ、失ヌ」。然レバ、思一、遂ニ活ヌ。今見レバ存セリ。
先ニ此ノ事ヲ聞シ大理卿、李ノ道祐、使ヲ以テ玄通ニ問テ、此ノ事ヲ記セリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ陳公ノ夫人豆盧氏、金剛般若ヲ誦セル語第四十三
今昔、震旦ニ陳公ノ夫人有ケリ。豆盧ノ氏也。[ゼイ]公寛ノ姉也。其ノ人、心ニ福ヲ願テ、常ニ金剛般若経ヲ読誦シケリ。此ノ如ク誦シテ年月ヲ経ル間ニ、日暮方ニ及テ経ヲ読ム。未ダ一枚許読ミ畢ラザル程ニ、夫人、俄ニ頭ヲ痛ム事堪ヘ難シ。亦四枝ヲ安カラズシテ、伏シテ弥ヨ煩フ事限リ無シ。此ノ人、自ラ心ノ内ニ思ハク、「我レ、俄ニ身ニ重病ヲ受ケタリ。若シ死ナバ、遂ニ此ノ経ヲ読畢奉ル事有ラジ」ト思テ、起テ経ヲ読マムト為ルニ、前ナル燭既ニ滅ヌ。其ノ時ニ、夫人、自ラ起テ燭ヲ燃ス事能ハズシテ、前ニ有ル女ヲ遣テ火ヲ燃サシムルニ、程無ク其ノ遣ツル女帰リ来テ云ク、「家ノ内ニ火無シ」ト。然レバ、夫人、尚、外ノ人ノ家ニ遣テ火ヲ求ルニ、尚、火無シ。夫人、限リ無ク歎キ思フ程ニ、忽ニ見レバ、庭ノ中ニ燭有リ。其ノ燭、前ナル階ヨリ直ク床ノ前ニ来ヌ。燭、地ヲ離タル事三尺許上タリ。燃セル人見エズ、明キ事昼ノ如シ。夫人、此レヲ見テ驚キ喜ブ事限リ無シ。頭ヲ痛ム事亦止ヌ。即チ、経ヲ取テ読誦スル間、暫ク有ルニ、家ノ人、火ノ消タル事ヲ聞テ、火ヲ鑚テ燃テ堂ニ持来ルニ、本、庭ノ中ニ出来タリツル火ハ、忽ニ見エズ成ヌ。
夫人、経ヲ読奉リ畢テ、心ニ希有也ト思フ。其ノ後、毎日ニ読誦スル事五遍也。然ル間、夫人ノ弟ノ[ゼイ]公、病ヲ受ケテ既ニ死ナムトス。
夫人、[ゼイ]公ノ所ニ行テ見ルニ、[ゼイ]公、夫人ニ語テ云ク、「我レ、夫人ノ読経ノ力ヲ以テ、命百歳有テ、死テ遂ニ善所ニ生レム」ト云フ。夫人ノ歳八十也ケル時ニ  
河東ノ僧道英、法ヲ知レル語第四十四
今昔、河東ニ僧有ケリ。名ヲ道英ト云フ。若ヨリ禅行ヲ修シテ怠ル事無シ。但シ、身ノ有様・衣服ナムドヲ調ヘズ。而ルニ、道英、智リ弘クシテ、経教ノ深キ義理ヲ悟リ思ハズト云フ事無。一度聞クニ随テ、悟ル事並ビ無シ。然レバ、遠キ近キ僧尼等、競ヒ来テ決ヲ乞フ。道英輙ク答ヘテ云ク、「汝等ガ疑フ所、宜ク思惟スベシ」ト云テ、義ヲ教フ。悟リ得ツル者ハ、喜テ帰ヌ。未ダ悟リ得ザル者ハ、重テ来テ義ヲ問フニ、道英、問フニ随テ其ノ要ヲ説テ教フ。然レバ、皆、悟リ得テ喜テ返ヌ。此ノ如クシテ年月ヲ経ルニ、道英、多ノ人ト共ニ船ニ乗テ黄河ト云フ河ヲ渡ル間、河中ニシテ俄ニ船沈テ、人皆、水入テ死ヌ。陸ニ有道俗、道英ガ沈ヲ見テ、河ノ岸ニ臨テ騒ギ合ヘリ。此ノ時、冬ノ季也。河ノ水□テ凍タリ。二ノ岸ハ縦ナルガ如シ。道英、水ノ中□歩ミ行テ、岸ニ至テ、凍ヲ穿テ陸ニ上ヌ。岸ニ有ル人共、此レヲ見テ喜ビ驚テ、争ヒテ衣ヲ脱テ、道英ガ湿タル身ニ覆ハムト為ルニ、道英、此レヲ受ケズシテ云ク、「我ガ身ノ内極テ熱シ。
汝等衣ヲ覆フ事無カレ」ト云テ、漸ク歩テ帰ル。更ニ更ニ寒キ気色無シ。身体ヲ見ルニ、炙タル所ノ如シ。人皆、此レヲ見テ奇異也ト思ヒ合ヘリ。道英、或時ニハ牛ヲ牧テ、人ノ為ニ車ニ駕テ乗セシム。亦、自ラ蒜ヲ食シ、或時ニハ俗ノ衣ヲ着ル。髪ノ長キ事二三寸也。惣テ僧ノ形ニ似ズ。亦、仁寿寺ニ行クニ、其ノ寺ノ僧、道[ソン]、此ノ道英ヲ見テ敬ヒ貴ビテ其ノ寺ニ居タルニ、日暮ニ及テ道英食ヲ求ム。道[ソン]ガ云ク、「聖人ハ食ヲ要シ給フ事無シト云ヘドモ譏嫌ノ為ニ求メ給フカ」ト。道英、此レヲ聞テ、咲テ云ク、「君ハ遂ニ心馳リ驚キテ、暫モ休ム事無クシテ、餓テ自ラ苦シマムトス」ト云フ。道[ソン]、此ノ言ヲ聞テ、歎ク事限リ無クシテ、遂ニ死ニケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ幽洲ノ僧知[ヲン]、石ノ経蔵ヲ造リテ法門ヲ納メタル語第四十五
今昔、震旦ノ幽洲ト云フ所ニ、知[ヲン]ト云フ僧有ケリ。心ニ悟リ有テ、経教ヲ学ブ事専ニ、誓ヒ弘シ。其ノ人、随ノ大業ノ代ニ、心発シテ石ノ経蔵ヲ造ル。
此レ、偏ニ法ノ滅セム時、遥ニ法ヲ世ニ伝ヘムガ為也。幽洲ノ北ノ山ニ巌ヲ穿テ石ノ室トス。四ノ壁ヲ磨テ、其ノ面ニ経ノ文ヲ写ス。亦、方ナル石ヲ磨テ、其ノ面ニ、更ニ経ノ文ヲ写シテ、諸ノ室ノ内ニ納ム。此ノ如ク室毎ニ満テ、石ヲ以テ戸ヲ塞グ。猶シ鉄ヲ以テ塞タラムヨリモ固シ。其ノ時ニ、史ノ侍郎、蕭璃ト云フ人有リ。心ニ仏法ヲ厚ク信ズ。此ノ知[ヲン]ガ石ノ経蔵ヲ造テ経教ヲ納メ置ク事ヲ貴テ、□申シテ絹千返ヲ施サシム。亦銭ヲ施シテ此レヲ助成セシム。亦、蕭璃、絹五百返ヲ施ス。惣テ国王ヨリ始メテ百姓等、皆此ノ事ヲ聞テ、争テ、各物□施ス事雨ノ如シ。然レバ、知[ヲン]、此等ヲ得集メテ、其ノ事ヲ心ノ如ク遂ゲ[ム]ツ。其ノ役ノ工既ニ多シ。其ノ時ニ、道俗集リ来テ、其ノ巌ノ前ニ、木ヲ以テ仏ノ堂并ニ食堂・廊ヲ造ラムト為ルニ、其ノ所ニ木・瓦ノ得難キ事ヲ思ヒ歎ク。軽物ヲ分テ交易スルニ、其ノ費多カリ。然レバ、未ダ造ラザル間ニ、一夜、俄ニ雨降リ雷電シテ、山ヲ振フ事有リ。明ル朝ニ見レバ、山ノ麓ニ、大キナル松栢、千ノ株、水ノ為ニ流レテ道ノ辺ニ積メリ。山ノ東ニ材木少クシテ、松栢、極テ希也。道俗驚キ騒テ、何コ□リ来レリト云フ事ヲ知ラズ。迹ヲ尋ヌルニ、遥ニ西ノ山ヨリ、峯崩レ木倒レテ、此ノ所ニ送リ来レリ。遠ク近キ人、皆、此ノ事ヲ見聞クニ、喜ビ感ズル事限リ無シ。此レ、偏ニ神ノ助ケト知ヌ。知[ヲン]、工ヲ遣テ其ノ木ヲ皆撰ビ取テ、余タルヲバ郡郷ニ分チ与フ。然レバ、郡郷ノ人、皆、喜ビヲ成シテ、相共ニ此ノ堂ヲ助ケ造ル間ニ、皆心ノ如ク造リ得ツ。知[ヲン]ガ造レル所ノ石ノ経、既ニ此ノ七ノ堂ニ満レバ、知[ヲン]、願ノ満ヌル事ヲ喜テ、遂ニ死ヌ。其ノ後ハ、弟子有テ、其ノ功ヲ継テ、猶、勤メ怠ラザリケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
真寂寺ノ恵如、閻魔王ノ請ヲ得タル語第四十六
今昔、震旦ノ京師ニ真寂寺ト云フ寺有リ。其ノ寺ニ恵如禅師ト云フ僧住ケリ。
若ヨリ懃ニ仏法ヲ信ジテ、専ニ道ヲ修スル事怠ラズ。或時ニ、弟子ニ告テ、「努々我レヲ驚カシムル事無カレ」ト云テ、動カズシテ在リ。弟子、今ヤ今ヤ驚クト、待ツ程ニ、七日動カズ。弟子等皆歎キ合ヘルニ、智リ有ル人有テ云ク、「此ノ人ハ三昧ノ定ニ入タル也」ト。而ル間、七日ト云フニ、恵如、目ヲ見開テ哭ク。弟子等及ビ寺ノ僧共、此ノ事ヲ怪テ、其ノ故ヲ問フ。恵如答テ云ク、「汝等、先ヅ我ガ脚ヲ見ルベシ」ト云テ、見シム。見レバ、大キニ焼ケテ赤ミ爛レタリ。痛ム事限リ無シ。見ル人問テ□□何ナル事□本脚ニ恙無シ。而ルニ、俄ニ爛タルゾ」ト。恵如答テ云ク、「我レ、閻魔王□□得テ王ノ許ニ詣タリツ。王ノ命ニ依テ、道ヲ行フ事七日ニ満テ後、王ノ宣ハク、「汝ヂ、死タル父母ノ有様見ムト思フヤ否ヤ」ト。「願クハ見ムト思フ」ト申ス時ニ、王、人ヲ遣テ召スニ、一□亀来タリ。恵如ガ足ノ裏ヲ舐テ、目ヨリ涙ヲ出シテ去ヌ。王ノ宣ハク、「何ゾ、今一人ハ将テ来タラヌゾ」ト。使答テ云ク、「今一人ハ極テ罪重クシテ召スベカラズ」ト。王、恵如ニ宣ハク、「実ニ見ムト思フヤ否ヤ」ト。恵如答テ云ク、「実ニ見ムト思フ」ト。王ノ宣ハク、「然ラバ、使ト共ニ行テ見ルベシ」ト。然レバ、使、恵如ヲ引テ、地獄ニ至ル。獄ノ門固ク閉テ開カズ。
使、獄門ノ外ニシテ、音ヲ挙テ喚フニ、内ニ音有テ答フ。其ノ時ニ、使、恵如ニ教テ云ク、「汝ヂ、道ヲ遠ク去テ、此ノ獄門ニ当テ立ツ事無カレ」ト。恵如、使ノ教ヘニ随テ立去ル間ニ獄門開ヌ。大キナル火、門ヨリ流レ出タリ。其ノ火、鍛治ノ槌ニ打タレテ散ル様ニ星ノ如クニ迸テ、一ノ星、恵如ガ脚ニ着ク。恵如、此レヲ迷ヒ払テ、目ヲ挙テ獄門ヲ見レバ、鉄ノ湯ノ中ニ百ノ頭有リト許見ル程ニ、門既ニ閉ヅ。遂ニ相見ル事得ズ成ニキ」ト語ルヲ、聞ク人皆、奇異ノ思ヒヲ成シテ、貴ビ合ヘル事限リ無シ。亦、恵如ガ云ク、「王、我レニ絹三十疋ヲ与ヘ給フト云ヘドモ、我レ、固ク辞シテ請ケ給ヘズ」ト。帰テ後、房ニシテ見ルニ、此ノ絹、床ノ上ニ有リ。其ノ焼ケタル脚、大ナル事銭ノ如クシテ、百余日有テ愈ニケリ。其ノ真寂寺ヲバ、後ニハ化度寺ト云フ寺、此レ也。此ノ事、其ノ寺ノ記文ニ注セルヲ見テ書キ伝ヘタルトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ邵師弁、活リテ戒ヲ持セル語第四十七
今昔、震旦ノ□代ニ、東宮ノ右監門兵曹参軍ニテ邵ノ師弁ト云フ人有ケリ。
未□弱冠也ケル時、俄ニ病ヲ受テ死ケリ。父母有テ泣キ悲ムト云ヘドモ、更ニ力及バズシテ止ヌ。而ル間、三日ト云フ夜半許ニ活ヌ。父母、此レヲ見テ喜ブ事限リ無シ。
師弁自ラ語テ云ク、「我レ死シ時、多ノ人来テ我レヲ捕ヘテ、将行テ官府□大門ニ入ヌ。見レバ、我ガ如ク捕ヘラレタル者共百余人有リ。皆重リ歩テ、皆北向ニ立リ。凡ソ六行ス。其ノ前ニ行ク者有リ。形チ肥エ白クシテ、吉キ衣服ヲ着シテ、気高クシテ止事無キ人ノ如キ也。其ノ人、亦後ニ、漸ク痩セ弊ク成テ、或ハ枷鎖ヲ蒙リ、或ハ帯ヲ帯シメズ、皆歩テ袖ヲ連タリ。怖シ気ナル兵者、此等ヲ護ル。師弁ハ第三ノ行ニ至リ当テ、東ノ側ニ第三ニ立リ。亦帯ヲ帯セシメズシテ袖ヲ連ヌ。
師弁、怖シキ事限リ無シ。為ベキ方思ハズシテ、只心ヲ至シテ仏ヲ念ジ奉ル。其ノ時ニ、生タリシ時相ヒ知タリシ僧ヲ見付タリ。此ノ僧、兵者ノ囲タル内ニ来リ入ル。兵者、此ノ僧ヲ見テ、止ムル事無クシテ入ヌ。師弁ガ許ニ来テ語テ云ク、「汝ヂ、生タリシ時、功徳ヲ修セズ。今何ゾ」ト。師弁答テ云ク、「願クハ我レヲ憐テ助ケ給ヘ」ト。僧ノ云ク、「我レ、今汝ヲ助ケム。遁ルヽ事ヲ得テハ、心ヲ至シテ専ニ戒ヲ持ツベシ」ト。師弁ガ云ク、「我レ、遁ルヽ事ヲ得テハ、専ニ戒ヲ持ツベシ」ト。而ル間、官人有テ此ノ捕ヘラレタル者共ヲ引テ官ノ内ニ入テ、次第ニ此等ヲ問□。師弁、見レバ、前ニ有ツル僧、尚有テ、官人ニ向テ師弁ガ業ノ福ヲ語ル。官人、此レヲ聞テ、師弁ヲ放チ免ス。然レバ、僧、師弁ヲ引テ出ヌ。門ノ外ニ至テ、僧、師弁ガ為ニ五戒ヲ説キ聞カシメテ、瓶ノ水ヲ以テ師弁ガ額ニ潅テ語テ云ク、「汝ヂ、日、西ニテ当ニ活ルベシ」。亦、黄ナル衣一ヲ持テ、師弁ニ与テ云ク、「汝ヂ、此レヲ着テ家ニ帰テ清カラム所ニ置ケ」ト教ヘテ後、帰ルベキ道ヲ教フ。然レバ、師弁、教ヘノ如ク此ノ衣ヲ着テ家ニ帰リ至ヌ。先ヅ衣ヲ畳ムデ床ノ角ノ上ニ置ツ」。其ノ時ニ、目ヲ開キ身ヲ動ス。父母及ビ家ノ人、此レヲ見テ驚キ騒ギ怖ヂ恐レテ、「此ノ死タル屍起ムトス」ト云ヒ合タリ。但シ、其ノ母、師弁ガ傍ヲ去ラズシテ有リ、問テ云ク、「汝ハ活タルカ」ト。師弁ガ云ク、「日、西ニテ当ニ我レ活ルベシ」ト。師弁ガ心ニ、日午ノ尅ト疑テ母ニ問フ。母ノ云ク、「只今ハ半夜也」ト。然レバ、死テ生□事及ビ昼夜ヲ知ル。其ノ後漸ク心付テ、既□日、西ニ至ルニ、遂ニ飲食シテ例ノ如ク成ヌ。尚、有ツル衣ヲ見ルニ、床ノ端ニ有リ。師弁起□時ニ成テ、有ツル衣漸□失ヌ。但シ、光リ有テ七日ト云フニナム其ノ光リ失畢ケル。其ノ後、師弁、心ヲ至シテ五戒ヲ持テ破ル事無シ。而ルニ、数年ヲ経テ、相ヒ友ナフ人有テ、「猪ヲ完ヲ食セヨ」ト勧ム。
師弁ガ心拙クシテ、一ノ肉村ヲ食シツ。其ノ夜、師弁ガ夢ニ、我ガ身忽ニ変□テ羅刹ト成ヌ。爪・歯長クシテ、生タル猪ヲ捕ヘテ食スト見テ、暁方ニ夢覚ヌ。其後、口ノ中ヨリ腥キ唾ヲ咄キ、血ヲ出ス。忽ニ従者ヲ呼テ此レヲ見シムルニ、口ノ中ニ凝ル血満テ、極テ腥シ。師弁、驚キ恐レテ、其ノ後、亦肉食ヲ断ツ。而ルニ、亦師弁ガ年来ノ妻有テ強ニ肉食ヲ勧ムルニ依テ、亦食シツ。其ノ度ハ久ク其ノ咎無シト云ヘドモ、遂ニ其ノ後五六年ヲ過テ、師弁ガ鼻ニ大キナル瘡出ヌ。日来ヲ経ルニ、大ニ乱レテ、死ヌルニ及ブマデ愈ル事無シ。此レ偏ニ戒ヲ破レル咎也ト知テ、昼夜朝暮ニ恐レ迷フト云ヘドモ、更ニ愈ル事無シ。此レヲ以テ思フニ、後世ノ助ケ有難カラム。不信ナルガ故ニ、拙ク味ニ耽テ、前ノ冥途ノ事ヲモ忘レ、後ノ世□苦ヲモ思ハヌ事、極テ愚也トナム語リ伝ヘタルトヤ。  
震旦ノ華洲ノ張法義、懺悔ニ依リテ活レル語第四十八
今昔、震旦ノ華洲ノ鄭懸ニ張ノ法義ト云フ人有ケリ。若クシテハ身貧クシテ礼法ヲ知ラズ。貞観十年ト云フ年、華洲ニ入テ、山木ヲ伐ル間、過テ見レバ、一ノ僧、巌ノ穴ノ中ニ居タリ。法義、此ノ人ヲ見テ寄テ語フニ、日既ニ暮テ、還ル事能ハズシテ其ノ所ニ宿シヌ。僧、松栢ノ脂ノ末ヲ以テ法義ニ食セシム。僧、法義ニ語テ云ク、「我レ、貧道ニシテ此ノ所ニ住シテ久ク成ヌ。世ノ人ニ知ラレムト思ハズ。然レバ、汝ヂ、里ニ出タラ□ニ、此ニ我レ住ムト云フ事ヲ人ニ語ルベカラズ」ト云ヒ畢テ後、法義ガ為ニ在家ニ罪業有ル事ヲ説キ知ラシム。「人死ヌレバ皆悪道ニ趣ク。然レバ、汝ヂ、誠ノ心ヲ至シテ懺悔シテ罪ヲ滅スベシ」ト云ヒ教テ、湯ヲ浴シテ清浄ニ成サシメテ、僧ノ衣ヲ脱テ着セツ。明ル朝、法義、懺悔シテ別ヌ。法義、家ニ帰テ後、此ノ事ヲ人ニ語ル事無シ。其ノ後、十九年ヲ経テ、法義ガ身ニ病ヲ受テ、忽ニ死ヌ。家ノ人、貧シキニ依テ、棺ヲ儲ケズシテ、法義ガ身ヲ野ノ中ニ埋ツ。[シン]木ヲ以テ此レヲ塞ゲリ。而ル間、法義活テ、自ラ木ヲ押シ開テ、出デヽ家ニ帰ル。家ノ人、法義ヲ見テ、驚キ愕テ審メ問フニ、法義活レル由ヲ答フ。法義ガ辞ヲ聞テ皆喜ブ事限リ無シ。法義語テ云ク、「我レ、初テ死セシ時、二ノ人有テ、我レヲ捕ヘテ空ヨリ行テ、官府ニ至ヌ、大門ヲ入ル。亦、巷ノ南ヲ巡テ十里許行クニ、左右ニ皆官曹有リ。門閣相ヒ対テ其ノ員多シ。我レ、一ノ曹ニ至テ官人ヲ見ル。我レヲ捕ヘタル青キ使者、官人ニ逢テ云ク、「此レ、華洲ノ張ノ法義也」。官人ノ云ク、「本三日ヲ限テ将テ来タルベシ。何ゾ久ク有テ七日ナルゾ」ト。使者ノ云ク、「法義ガ家ノ犬悪シ。亦、呪師有テ呪神ニ打タシム。
甚ダ困ム」ト云テ、袒ギテ背ヲ見シム。背、青ミ腫タリ。官人ノ云ク、「汝ヂ、稽リ、過多シ。然レバ、各杖二十ヲ与フベシ」ト云テ畢ルニ、血流レテ地ニ灑ク。官人ノ云ク、「亦、「此レ、法義ガ過」ト録セヨ。録事ノ署シ文書ヲ発テ送テ判官ニ付ケヨ」。
判官、主典ヲ召テ、法義ガ案ヲ取ル。案ノ簿、甚ダ多クシテ、一床ニ盈テリ。
主典、法義ガ前ニ向テ披テ此レヲ[カムガ]フ。其ノ簿多シ。朱ヲ以テ句シタル有リ。
其ノ句有ルニ此レヲ録シテ云ク、「貞観十一年ニ、法義ガ父ノ使禾ヲ苅ル。
法義、即チ、目ヲ見張テ私ニ罵テ、不孝也。過、杖八十ナルベシ」。始テ一條ヲ録スルニ、法義、昔ノ巌ノ穴ニ居タリシ僧ノ来レルヲ見ル。判官、僧ニ立向テ問ハク、「何事ニ依テ来レルゾ」ト。僧ノ云ク、「張ノ法義ハ、此レ、我ガ弟子也。其ノ罪並ニ懺悔シ畢テ、罪ヲ滅除セリ。六曹ノ案ノ中ニ、一ノ案ノ中ニ已ニ句畢タリ。今行テ追テ来ドモ、殺シ畢ル事無カレ」。主典ノ云ク、「懺悔セシ事ハ、此ノ案ノ上ニ、亦句畢タリ。但シ、目ヲ見張テ父ヲ罵シ事ニ至テハ、此レ懺悔ノ後ノ事也」ト。僧ノ云ク、「此ノ如ク云バ、案ヲ取テ此レヲ[カムガ]ヘム。善有ラバ相ヒ分ツベシ」ト。
判官、主典ヲ以テ、法義ヲ王ノ所ニ将テ詣ラシム。見レバ、王ノ宮殿大キニシテ、侍衛ノ人数千也。僧、亦法義ニ随テ王ノ所ニ至ヌ。王、僧ヲ見テ立向テ宣ハク、「師、直ニ当テ来レルカ」ト。僧答テ云ク、「未ダ直ノ次ニ非ザルニ、弟子張ノ法義ト云フ者有リ。録セラレテ来レリ。其ノ人、宿病有リ。並ニ貧道句畢タリ。未ダ死ニハ合ハズ」ト。主典、亦法義ガ目ヲ見張テ父ヲ罵シ事ヲ王ニ申ス。王ノ宣ハク、「目ヲ見張テ父ヲ詈シ事ハ、懺悔ノ後也。免スベカラズ。然リト云ヘドモ、師来テ七日許ヲ請フ。速ニ免スベシ」ト。其ノ時ニ、法義、僧ニ申テ云ク、「七日既ニ久シカラズ。我レ、後ニ来ラムニハ、師ノ見エ給ザル事ヲ恐ル。願クハ此ニ住シ給ヘ」ト請フ。
僧ノ宣ハク、「七日ト云ハ七年也。汝ヂ早ク還ルベシ」。然レバ、法義、師ニ出デム事ヲ請フ。仍、僧、王ノ筆ヲ請テ法義ガ掌ノ中ニ書シテ一字ヲ成ス。亦、王印ヲ請テ此ヲ印シテ云ク、「早ク去ルベシ。家ニ帰テ専ニ善ヲ修セヨ。若シ後ニ来ラムニ、我見エズハ、直ニ掌ノ中ノ印ヲ以テ此レヲ顕ハセ。我レ、懃ニ汝ヲ哀ブ」ト□□。
義、此ノ事ヲ聞テ、即チ出ヌ。僧、家ヲ教テ入ラシムルニ、法義、暗クテ敢テ不□□。
□者此レヲ推フニ遂ニ活ヌ。心漸ク悟メテ、「我レ土ノ中ニ有ケリ」ト覚ヌ。□□経薄也。手ヲ以テ押シ開テ出デヽ来レル也」語ル。其ノ後、山ニ入テ、□□付テ、専ニ道ヲ修ス。掌ノ中ノ印ノ所見エズシテ皆瘡ト成ヌ。遂ニ愈□□無カリケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。  
 
今昔物語集(抜粋)

 

一角仙人女人を負はれ、山より王城に来たれる語 (今昔物語集巻五第四)
仙人都へ行く
はるかな昔、インドにひとりの仙人がいた。額に角が一本生えていたので、「一角仙人」と呼ばれた。
深山で永年修行を積んで得た通力で、雲に乗り空を飛んだ。高山を動かし、禽獣を従えた。
それほどの仙人であったが、にわかに大雨が降って道が悪くなっていた時、何を思ったか徒歩で出歩いて、険しい山坂で不意に滑って転倒した。
転んだのは齢をとって足腰が弱った自分のせいでもあるのに、ひどく腹を立て、
「そもそも世の中に雨など降るから、道が悪くなって転んだりするのだ。仙人の苔衣も、こう濡れては気持ちが悪い。雨を降らしているのは竜王どもだ。いまいましい奴らめ」
と、ただちに諸々の竜王を捕らえて、水瓶一つに封じ込めた。
小さな水瓶に巨大な竜王たちが押し込められたのだから、身動きもならず、息苦しく情けないこと甚だしい。しかし、いくら嘆き悲しんでも、この仙人の比類ない通力の前には、なすすべなかった。
竜王がみな封じ込められたので、以来十二年間、雨が全く降らなかった。
全インドが旱魃になって、人々の嘆きは計り知れない。統治する十六大国の王が行ったさまざまな雨乞いの祈祷も、まるで効き目がない。
どうしてこんなことになったのか誰にも分からなかったが、ある占い師は、次のように占った。
「ここより東北の方角に、深い深い山がある。そこにおる一人の仙人が、雨を降らす諸々の竜王を捕り籠めたから、世界に雨が降らなくなった。世に格別な験力をそなえた修行者たちに祈らせたとしても、その仙人の通力には及ばないだろう」
これを聞いて諸国の人は、どうしたものかと思案に暮れた。まったく名案が出ないなかで、一人の大臣が発言した。
「たとえ尊い聖人であっても、美しい女の色香に惹かれず、麗しい音色に心奪われない者はありません。昔、鬱頭藍(うつずらん)という仙人がおりまして、一角仙人にまさる修行者だったようですが、女色にふけってたちまち通力を失いました。ですから試しに、十六大国の美人中の美人にして声も美しい女を集めて、かの山中に遣わし、峰高く谷深いところの仙人の住処と思われる場所で、趣深く歌わせてみてはどうでしょう。それを聞いたら、仙人も鼻の下をのばすのではありませんか」
国王はこの意見を取り上げ、
「ただちにそのように取り計らえ」と命じた。
国中から美人で美声の女が、五百人選び出された。
女たちは、栴檀香を塗り沈水香を浴んだ体に美しい衣服を着せられ、綺麗に飾り立てた五百の車に乗って山へ向かった。山に入ると車から降りて、五百人が打ち群れて歩いたが、その様子はなんとも素晴らしかった。
やがて十人ずつ二十人ずつと分かれ、ぞれらしい岩窟をめぐっては、木の下や峯の間などでしみじみと歌った。その声に山も響き谷も騒ぎ、天人も下り竜神もやって来そうであった。
そんななか、一つの奥深い岩屋の傍らに、苔の衣を着た仙人がいた。
やせ衰えて身に肉の一片もなく、骨と皮ばかりで魂の隠しどころもないかのようだった。額に角が一本生えて、たいそう恐ろしげな姿である。
この仙人が、水瓶を提げて杖にすがり、歪んだ笑みを浮かべて、まるで影法師のようによろめき出てきた。
「この深山まで来て結構な歌をうたうのは、いったいどういう人々かな。わしはここに住んで千年になるが、こんなことは一度もなかった。天人が下られたのか、悪魔が近づくのか」
仙人の言葉に一人の女が応えて、
「わたしたちは天人でもないし、悪魔でもないわ。五百人のケカラ女といって、歌い歩くインドの女の仲間なの。この山はとても風情があって、花々が咲きほこり、水の流れが清らかだし、なにより尊い仙人様がおいでになると聞いて、 「そのかたに歌をお聞かせしよう。山中にいらっしゃっては、まだこんな歌をお聞きになったことがないだろう。歌ってお近づきになりたいわ」と思ったから、わざわざやって来たのよ」
と言うと、とろけるような声で歌った。
仙人は、いまだかつて見たことのない艶姿で情感たっぷりに歌うさまに目がくらんだ。胸が激しくときめき、我を失って口走った。
「おまえ、わしの言うことをきいてくれないか」
女が、「しめた、変な気分になったみたい。このまま堕落させちゃおう」と思って、
「ええ、なんでもいうことをきくわ」
と甘く囁くと、仙人はぶっきらぼうに、怒ったような声で言った。
「いや、その……、では、ちょっと触ってみようと思う」
女は、さすがに角の生えた老人に触られるのが気味悪かったが、こんな恐ろしげな人の機嫌を損ねたら危ないと思い、また仙人をたらしこめと国王に命じられてもいたから、ついに恐る恐る言うことに従った。
その瞬間、仙人の呪縛が解けた。
竜王たちは欣喜雀躍して水瓶を食い破り、空に翔け昇った。昇るやいなや空一面がかき曇り、雷鳴とどろき稲妻走って、いつやむとも知れぬ豪雨となった。
雨に降り込められて、女は身の置き所がなく、かといって都へ帰ることもできないので、恐ろしいと思いながらも岩屋で数日を過ごした。その間に、仙人は女に心底惚れ込んでしまった。
五日目に雨がやんで、空が晴れたので、女は別れを告げた。
「いつまでもこうして居れないから、都へ帰るね」
「そうか、ならば帰るがよい」
仙人はこう言ったものの、いかにも別れがたく悲しそうだった。
「でも、どうしよう。こんな岩だらけの山を歩いたことなんてなかった。足がすごく腫れてるの。それに、帰る道もわからないし」
「では、山を下りるまでの道は、わしが案内してやろう」
こうして二人は出発したが、女が前を行く仙人を見れば、頭は雪のような白髪をいただき、深い皺の波に顔をおおわれ、額に角が一本。苔の衣を着て、腰は二重に曲がり、錫杖を杖にしてガクガク震えよろめきながら歩いている。まったく、恐ろしくも馬鹿馬鹿しい姿であった。
やがて、渓谷を渡る掛け橋に至った。
両岸は屏風を立てたような断崖絶壁で、峻険な巌の真下が大滝となり、その滝壺に逆巻く白波から湧き上がる霧が、雲のように漂って深く立ちこめていた。羽が生えているか、竜に乗るかしないと渡れそうにない。
女は立ちすくみ、仙人に頼んだ。
「ここはもう駄目。見ただけで目が回りそうで、渡るなんて考えられない。仙人様はいつも渡ってるんでしょう。わたしを負ぶって行ってよ」
仙人は、もはやこの女に逆らえない。
「わかった。負ぶさるがよい」
そうはいっても、仙人の脛はつまめば千切れそうにか細いから、よけいに谷底に落っこちそうで怖かったが、女は我慢して負われた。そして、掛け橋を渡り終えても、
「もう少し、お願い」
と何度も言って、とうとう国王の都まで負われていった。
この二人を道々初めて見た人は、
「山に住む一角仙人が、ケカラ女を負ぶって王城に入るぞ」
と言い騒ぎ、広いインドの男も女も、身分の高きも低きも、みな集まって見物した。
額に角が一本生えた者が、頭に白髪の雲をいただき、針のごとく細い脛で歩む。錫杖を女の尻に当てがい、垂れ下がれば揺すり上げて行くのを、笑い嘲らぬ人はなかった。
宮殿に入ってきたのを見て、国王も「なんだ、この馬鹿者は」と思ったけれども、じつは比類ない仙人だと聞いて敬い畏まって、
「ご苦労さまでした。早々にお帰りください」
と言葉をかけた。
仙人は空を飛んで行きたい気持ちであったが、通力を失った今それもならず、よろめき倒れながら帰っていった。 
震旦の莫耶、剣を造りて王に献じたるに子の眉間尺を殺されたる語 (今昔物語集巻九第四四) 
眉間尺の仇討
昔、中国に、莫耶(まくや)という名人の鍛冶がいた。
当時の国王の后は、夏の暑さが我慢できなくて、いつも冷たい鉄の柱を抱いて過ごしていた。やがて后が懐妊して出産したが、驚いたことに、産まれたのは鉄の塊であった。
王が怪しんで、
「これは、どういうことなのだ」
と問いただした。
「わたくしは、何の過ちも犯しておりません。ただ、夏の暑さに堪えられず、常に鉄の柱を抱いておりました。もしかして、そのせいでこんなことに……」
王は后の答えで得心して、鍛冶の莫耶を呼ぶと、産まれた鉄塊をもって宝剣を造るよう命じた。
莫耶は剣を二つ造り、一つを王に差し出した。もう一つは手元に隠しておいた。
王が莫耶から受け取った剣を納めておいたところ、その剣は常に音を立てた。不思議に思って、
「この剣が鳴るのは、なにゆえか」
と、大臣に尋ねた。
「必ずわけがあるはずです。この剣は、ほんとうは夫妻二つあるのではないでしょうか。それだから、もう一つを恋い慕って鳴るのです」
大臣がこのように言ったので、王は大いに怒り、ただちに莫耶を召喚して処罰しようとした。
その王の使いがいまだ来ないうちに、莫耶は妻に語った。
「私は今夜、凶相の夢を見た。必ずや王の使いが来て、私は殺されることになるだろう。おまえの懐妊している子がもし男子だったなら、成長の後、「南の山の松の中を見よ 」と告げてくれ」
そして北の門から出て南の山に入り、大きな木のほこらに隠れて死んだ。
妻は男子を産んだ。
その子が十五歳になったとき、眉間の幅が一尺もある異相だったので、名を眉間尺(みけんじゃく)と付けた。そして母親は、父の遺言をつぶさに語った。
母に教えられたとおりに、眉間尺が南の山の松のところに行ってみると、ひと振りの剣があった。その剣を手にすると、父の仇を討とうという気持ちがふつふつと湧き起こった。
同じころ王は、むやみに眉間が広い男が謀反を起こし、自分を殺そうとしている夢を見た。
夢から覚めて大いに恐れ、ただちに四方に命令を下した。
「眉間が一尺ほどある男が、どこかにきっといるはずだ。そいつを捕らえるか首を取ってきた者は、千金を与えて褒賞する」
王の命令のことを聞き及んだ眉間尺は、とりあえず深い山中に逃れた。しかし探索は国土にあまねく及び、ついに刺客の一人が山中で、眉間がたいそう広い者に出会って、喜んで呼びかけた。
「君は、眉間尺という人か」
「そうだ。わたしが眉間尺だ」
「われらは、王の命により、君の首と所持する剣とを求める者だ」
すると、眉間尺は何を思ったか、剣をもって自らの首を切り、刺客に与えた。
刺客はその首を持ち帰り、王に奉った。
王は喜んで褒美を与えた後、首を再び刺客に渡して、こう命じた。
「速やかにこれを煮て、形なきものにしてしまえ」
そこで大釜に放り込んで七日間ぐらぐら煮たが、首はまったく形を失わなかった。
刺客が、眉間尺の首がいっこうに煮崩れないと奏上したので、王は怪しく思ってみずから釜のところに行き、中を覗き込んだ。
と突然、王の首が胴を離れて、釜の中に落下した。
眉間尺と王と、二つの首は、釜の中で猛然と噛み合って戦った。刺客はそれを見て、なんてことだ!と驚いたが、とにかく眉間尺の首のほうを弱らせようと、例の剣を釜の中に投げ込んだ。
剣の霊力で、二つの首は急に煮え爛れた。その様子を覗いて見ているうちに、刺客の首もまた自然に落ちて釜に入った。
その結果、三つの首が交じり合って煮込まれ、どれが誰とも分からない状態になってしまった。それで、一つの墓を造って、三つの頭を一緒に葬った。
その墓は今もなお、宜春県というところにあると語り伝えている。 
霍大将軍死せる妻にあひて打たれて死にたる語 (今昔物語集巻十第十八) 
将軍夜半に死す
昔、中国に霍(かく)大将軍という、武勇にすぐれ思慮深い人がいた。この人は主君の娘を妻としていた。
将軍は妻を深く愛していたが、彼女はふとしたことで亡くなってしまった。
将軍は限りなく悲しんだ。最愛の妻と二度ともう相親しむことはできないのだ。彼は柏(かや)の木を伐って霊殿を建て、妻の死体をその中に葬った。
妻を深く愛していた将軍は、その後も悲しみの心に堪えず、朝に夕に霊殿に赴き、食物を供えて礼拝した。そのようにして一年が経った。
ある日の暮れ方、将軍がいつものように霊殿に入って食物を供えていると、なんてことだろう、亡妻がいきなり生前の姿で出現した。
くどいようだが、将軍は妻を深く愛していた。もう一度逢いたいと願っていた。しかし実際に妻の亡霊に出てこられると、甚だしく恐れて震え上がった。
妻の霊は語りかけた。
「あなた、いつまでもわたしを恋い慕って、このように祀ってくださるのね。わたし、ほんとに嬉しいわ」
この声を聞いて、将軍の恐怖はいよいよつのった。もう夜の闇が深く、あたりに人の気配はない。彼は逃げ出そうとした。ところが妻は衣を掴んで引き留め、
「抱いて!抱いて!」と迫るのだった。
将軍は周章狼狽してもがくばかりだ。妻はその様子に怒ったか、彼の逃げ腰を手刀で一撃した。
打たれながらも将軍はなんとか逃げ延びたが、家に帰って後、打たれたところが激しく痛んで、夜半に死んだ。
やがて帝がこのことを耳にして、かの亡妻の霊力を尊び、五百戸の封地を禄として与えた。その後は国に災いが起こりそうになると、霊殿が雷のごとく鳴動して知らせるようになった。
まあとにかく、死者を恋い慕って悲しむ心がいくら深くても、霍将軍のようなことをすべきではない。死霊になってしまうと生前の人の心は失われる。だから極めて恐ろしいものなのだと語り伝えている。 
(今昔物語集巻十四第四十) 
(部分) その後、大師参り給へるに、天皇のこのことを語らせ給ひて、尊ばせ給ふこと限りなし。大師これを聞きて申し給ふやう、「このこと実に尊し。しかるにおのれ候はむときに、彼を召して煮しめ給ふべし。おのれは隠れて試み候はむ」と、隠れゐぬ。
その後、僧都(そうづ)を召して、例のごとく栗を召して煮しめ給へば、僧都前に置きて加持(かじ)するに、このたびは煮られず。僧都、力を出だして返す返す加持すといへども、前のごとく煮らるるなし。そのときに、僧都、奇異の思ひをなして、これはいかなることぞと思ふほどに、大師そばより出で給へり。僧都これを見て、さはこの人の抑へける故なりと知りて、嫉妬の心たちまちに発りて(おこりて)立ちぬ。
その後、二人の僧都、極めて仲悪しく(なかあしく)なりて、互ひに死ね死ねと呪詛(じゅそ)しけり。この祈りは互ひに止めてむ(とどめてん)とてなむ、延べつつ行ひける。
そのときに、弘法大師(こうぼうだいし=空海)謀りこと(はかりこと)をなして、弟子どもを市に遣はして、「葬送の物の具どもを買ふなり」と言はせむとて買はしむ。「空海僧都は早く失せ給へる(うせたまえる)。葬送の物の具ども買ふなり」と教えて言はしむ。
修円(しゅえん)僧都の弟子これを聞きて、喜びて走り行きて、師の僧都にこの由(よし)を告ぐ。僧都これを聞きて喜びて、「確かに聞きつや」と問ふに、弟子、「確かに承りて告げ申すなり」と答ふ。僧都、これ他にあらず、我が呪詛しつる祈りのかなひぬるなりと思ひて、その祈りの法を結願(けちがん)しつ。
そのときに、弘法大師、人をもちてひそかに修円僧都のもとに、「その祈りの法の結願しつや」と問はす。使(つかい)、帰り来たりて言はく、「僧都、我が呪詛しつる験(しるし)のかなひぬるなりとて、修円は喜びて今朝結願し候ひにけり」と。
そのときに、大師しきりにしきりて、その祈りの法を行ひ給ひければ、修円僧都にはかに失せにけり。 
その後、弘法大師・空海が朝廷に参上した時に、天皇は修円僧都の生の栗を煮る法力について空海にお語りになり、この上なく修円のことを敬っておられた。空海はこの修円の話を聞いて、「その法力は尊敬すべきものですね。それでは、私がここにいる時に修円を召しだして、生の栗をもう一度煮させてみてください。私は隠れて修円の法力を確認しますから」といい、その姿を隠した。
その後、修円を召しだして、いつものように生の栗を煮させようとしたのだが、修円が栗を前に置いて加持祈祷をしても、今度は栗が煮えなかった。修円は法力を搾り出して、何度も加持の祈りを捧げるのだが、前のように栗は煮えない。その時、修円は不思議な思いがして、「これはどうしたことなのか」と思っていると、物陰から空海が姿を現した。修円は空海の姿を見て、この人が自分の法力を押さえ込んだのだと気づいて、空海に対する恨みの思いがふつふつと湧きあがった。
その後、二人の僧侶(空海と修円)はとても仲が悪くなり、お互いに「死ね死ね」と呪いの祈りをぶつけ合った。その呪詛は、お互いに相手の生命を奪おうとして、期間を延ばしながら繰り返し行われた。
その時、弘法大師・空海は謀略を思いついて、弟子達を市場に行かせた。「弘法大師が葬式の道具を買っている」という噂を広めるために、弟子達にそれらの道具を買わせたのである。「空海が亡くなったので、その葬式のための道具を買いに来た」と弟子達に言わせた。
修円の弟子達がこの嘘の噂を聞きつけて、喜び勇んで帰り、師の修円にこの空海死去の噂を話した。修円はこの噂を聞いて喜んで、「確かにそう聞いたのか」と確かめると、弟子達は「確かにそう聞いたので師にお話しているのです」と答えた。修円は「これは間違いない、自分の呪詛が効力を発揮して空海が死んだのだ」と思い込み、その呪詛の祈りを終えてしまった。
このとき、弘法大師は修円のもとに人を遣わして、「そちらでの祈りの儀式は終わったか」と聞かせた。使者が帰ってきて、「修円は自分の呪詛の効力があったことに喜んで、呪いの祈りを終えている(結願している)」と空海に報告した。
その時、空海はしきりに全身全霊を集中して呪詛の祈りを捧げたので、修円僧都は間もなく亡くなってしまった。 
染殿后天宮のために□乱せらるる語 (今昔物語集巻二十第七) 
上人淫鬼と化す
むかし、文徳天皇の御母にあたる染殿后(そめどののきさき)という方がいた。太政大臣藤原良房公の娘で、その容姿は言いようがないほど際立って美しかった。
しかし困ったことに、この后は常に物の怪に悩まされていた。霊験あらたかと評判の僧たちが呼ばれて様々の祈祷を行ったが、まったく効果がなかった。
その頃、大和葛城山系の金剛山というところに、一人の尊い上人が住んでいた。長い年月この山で修行を積み、鉢を飛ばして食べ物を得たり、甕を水汲みに遣ったりしていた。
たゆまぬ修行の結果、上人は比類のない験力を得て、評判は次第に高まった。
天皇と父親の大臣もそれを耳にして、「その僧を呼んで、后の病の祈祷をさせよう」と思い、参内させよとの命が下った。
使者が何度となく赴いたが、上人はその都度辞退した。しかし結局、勅命には背きがたく、ついに参上することとなった。
御前に召して祈祷を行わせると、たちまちしるしが現れた。
后の侍女の一人が、にわかに錯乱したのだ。何かが乗り移って泣き喚きながら走り回るのを、上人がさらに力を込めると、女は縛られたように動けない。そこをさらに激しく祈祷で責めつけた。
すると女のふところから、一匹の老狐が転げ出た。くるくる回ってその場に倒れ伏し、もう逃げ去ることもできない。上人は狐を縛り上げさせ、悪道を去るよう教えを垂れた。
父親の大臣は、これを見て限りなく喜んだ。それから一両日のうちに、后の病はすっかり癒えたのである。
大臣が、「当分の間、ここに居てくれ」と言ったので、上人はしばらく帰らずにいた。
夏のことで、后は単衣物だけを着て几帳の内にいたが、そこに風がさっと吹いて、ひるがえった垂れ布の隙から、たまたま上人は后の姿を垣間見た。
「なんということだろう。こんな美しい人を、いまだかつて見たことがない」。上人はたちどころに目がくらんで心乱れ、胸が張り裂けそうになって、深い愛欲の情の虜となった。
しかし、相手が后ではどうしようもないから、ただ思い悩むばかりだ。
胸は火に焼かれるがごとく苦しく、ちらりと見たばかりの面影が片時も瞼を去らない。ついに思慮も分別もなくして、人のいない隙をうかがって几帳の内に忍び込んだ。
横になっている后の腰にやにわに抱きつくと、后はびっくりして、汗みずくになって逃れようとするが、女の力では抗しきれない。上人はありったけの力で抱き伏せる。だが女房たちが異変に気づいて、大声で騒ぎはじめた。
まもなく、侍医の当麻鴨継(たいまのかもつぐ)がやって来た。この者は勅命で后の病の治療のため宮中に詰めていたのだが、后の御殿の方から大声がするので、驚いて駆けつけたのだ。
鴨継が見ると、几帳の内から上人が出てきた。
ただちに上人を捕らえ、天皇に事の次第を報告すると、天皇は激怒した。上人は縛り上げられ、牢獄に放り込まれた。
獄につながれた上人は、ひと言の弁明もせず黙していたが、あるとき天を仰いで泣く泣く誓いを立てた。
「我は今ただちに死んで鬼となり、后が存命のうちに、必ずや思いを遂げてみせる」
獄吏が聞き留めて父親の大臣に知らせたので、大臣は驚き、天皇に申し上げたうえで、上人を赦免して金剛山へ帰した。
しかし、もとの山に帰っても、后への情欲は我慢できるものではなかった。
なんとか再び近づきたいと、日ごろ頼みとしている三宝に願いを立てたが、結局現世では叶わぬと悟ったか、「やっぱり死んで鬼となろう。鬼となって思いを遂げよう」と決めて、一切の食を断った。
十日あまり経って餓死すると、たちまち鬼になった。
身の丈八尺ばかり、禿髪(かぶろ)にして裸体であった。赤いふんどしをして、小槌を腰に差している。膚は漆を塗ったように黒い。眼は金鉄の碗を入れたようにぎらぎら輝く。剣のような歯が生え並んだ口から、上下の牙を剥き出していた。
鬼は、后の几帳の傍らに忽然と現れた。
これを見た人は、みな動転して逃げまどった。女房などは、ある者は気絶し、ある者は衣を頭からかぶってうずくまった。もっとも、后に近しい人しか入れない場所なので、多くの人が見たわけではない。
人々が恐れる一方で、后はこの鬼に魅入られてしまった。すっかり正気を失って、綺麗に身づくろいした姿でにっこり笑うと、扇で顔を差し隠して几帳の内に入り、鬼と二人抱き合って寝た。
外で聞いていると、
「いつもいつも恋しく思っていた。逢えなくてつらかった」
などと鬼が睦言し、后は嬉しげに嬌声をあげている。あまりのことに、女房らはみな逃げ去った。
しばらく時を経て日暮れになると、鬼が几帳から出て去って行ったので、女房らは「后はどうなさったのだろう」と思って急ぎ戻り、様子を伺った。
后は一見いつもと全く同じで、「何か変なことがあったかも」と不審がる気配すらなく坐っていた。ただ、眼のあたりが少し恐ろしげになったように感じられた。
この事件の報告を受けて天皇は、奇怪さに怖じ恐れるより先に、「后はこれから、どうなってしまうのか」と案じて深く嘆いた。
じっさい鬼は、以後毎日同じように現れた。后はそのたびに心を奪われ、ひたすら鬼をいとしく思って交接した。
宮中の人々はそれを見て、どうしようもなく悲しく、いたずらに嘆くばかりだった。
やがて、鬼はある人に憑いて、「鴨継には恨みがある。きっと思い知らせてやる」と言った。
鴨継はそれを聞いて恐れおののいていたが、まもなく急死してしまった。三四人いた鴨継の息子たちも、みな気が狂って死んだ。
天皇も父親の大臣も、この事態を見て甚だ恐怖し、鬼を取り鎮めるべく、大勢の高僧に懸命の祈祷を行わせた。
祈祷の効果があったのか、鬼は三月ばかり来ず、后の心持も少し治って以前のようになった。
天皇はそれを聞いて喜び、
「一度、様子を見に行こう」
とのことで、后の御殿に行幸の運びとなった。常よりも心のこもった行幸で、文武の百官が残らずお供した。
天皇は御殿に入り、后に対面して涙ながらにしみじみと語りかけた。后も深く感動した様子だった。天皇の目にはそんな后の姿が、かつてと少しも違って見えなかった。
と、その時……。
あの鬼が、部屋の隅から躍り出た。そのまま后の几帳に入っていく。
天皇が驚いて見ているうちに、后は例によって正気を失い、鬼を追っていそいそと几帳に入った。
しばらく間があって、鬼は今度は南面に躍り出た。
大臣・公卿をはじめ百官の者が、真正面に鬼を見て恐れおののき、「とんでもないやつだ」と思っているところへ、后が続いて出てきて、多くの人々の目の前で鬼と一緒に横になった。
后と鬼はその場で、言いようもなく見苦しい痴態を、誰はばかることなく繰り広げた。やがて終わって、鬼が起き上がると、后もまた起きて几帳に入った。
天皇は、どうすることもできないと思い、嘆き悲しみながら帰っていった。
こういうことがあるから、高貴な女性は、怪しい僧に近づかないよう気をつけなければならない。
この話は極めて不都合で、言えば何かと差し障るような内容であるが、後世の人にみだりに僧に近づくのを戒めるため、語り伝えているのである。 
財に耽りて娘を鬼の為に啖ぜられ悔ゆる語 (今昔物語集巻二十第二十) 
謎の求婚者
その昔、山和の国の十市郡に、きわめて裕福な人が住んでいた。
娘が一人いて、これがたいそう美しく、とても山和の田舎者とは思えない。まだ嫁いでいなかったので、近辺のしかるべき身分の者たちが競って求婚したが、両親はけっして承諾しなかった。
そうして何年かが経った。
ここに一人の男が現れて、強引に求婚してきた。例によって断ったところ、男は贈り物として、莫大な宝を車三両に積んできた。それを見た両親は欲心に目がくらんで、ついに娘との結婚を許したのである。
結婚の日と定めた吉日に、男がやって来て、娘と二人で寝室に入り、交接した。
その夜遅く、寝室から、
「痛い、痛い」
という娘の悲鳴が三度ばかり聞こえてきた。しかし両親は、
「初めてだから、ずいぶん痛いのだろう」
などと言いあって、そのまま寝ていた。
夜明け前に男が帰って、やがて夜が明けたが、娘がなかなか起きてこない。
母親が起こそうと声をかけても、いっこうに反応がないので、おかしいと思って近寄って見ると、そこにはおびただしく血が流れて、娘の頭と指だけが残っていた。
両親はこれを見て、泣き悲しむこと限りなかった。
男から贈られた宝を見ると、たくさんの馬や牛の骨であった。そして、宝を積んでいた三両の車は山椒の木だったのである。 
時平の大臣、國經大納言の妻を取る語 (今昔物語集巻二二第八)
今は昔、本院の左大臣と申す人御しけり。御名をば時平とぞ申しける。照宣公と申しける關白の御子なり。本院と云ふ所になむ住み給ひける。年は僅に三十許にして、形美麗に、有樣微妙き事限無し。然れば延喜の天皇、此の大臣を極じき者にぞ思食したりける。
而る間、天皇世間を拈め御しましける時に、此の大臣内に參り給ひたりけるに、制を破りたる裝束を事の外に微妙くして參り給ひたりけるを、天皇小櫛より御覧じて、御氣色糸惡しく成らせ給ひて、忽ちに職事を召して仰せ給ひける樣、「近來世間に過差の制密しき比、左の大臣の一の大臣と云ふながら、美麗の裝束事の外にて參りたる、便無き事なり。速かに罷出づべき由、慥かに仰せよ」と仰せ給ひければ、綸言を奉はる職事は極めて恐り思ひけれども、篩ふ篩ふ、「然々の仰候ふ」と大臣に申しければ、大臣極めて驚き畏まりて、急ぎ出で給ひにけり。随身・雜色など御前に參りければ、制して前も追はしめ給はでぞ出で給ひける。前駈共も此の事を知らずして恠しび思ひけり。其の後一月許本院の御門を閉ぢて、簾の外にも出で給はずして、人參りければ、「勅勘の重ければ」とてぞ會ひ給はざりける。後に程經て、召されてぞ參り給ひける。此れは早う天皇と吉く□合はせて、他人を吉く誡めむが爲に構へさせ給へる事なりけり。
此の大臣は、色めき給へるなむ少し片輪に見え給ひける。其の時に、此の大臣の御伯父にて、國經の大納言と云ふ人有りけり。其の大納言の御妻に在原の□と云ふ人の娘有りけり。大納言は年八十に及びて、北の方は僅に二十に餘る程にて、形端正にして色めきたる人にてなむ有りければ、老いたる人に具したるを頗る心行かぬ事にぞ思ひたりける。甥の大臣色めきたる人にて、伯父の大納言の北の方美麗なる由を聞き給ひて、見ま欲しき心御しけれども、力及ばで過ぐし給ひけるに、其の比の□者にて、兵衞佐平定文と云ふ人有りけり。御子の孫にて賤しからぬ人なり。字をば平中とぞ云ひける。其の比の色好にて、人の妻・娘・宮仕人、見ぬは少くなむ有りける。
其の平中、此の大臣の御許に常に參りければ、大臣、「若し此の伯父の大納言の妻をば、此の人や見たらむ」と思ひ給ひて、冬の月の明かりける夜、平中參りたりけるに、大臣萬の物語などし給ひける程に、夜も深更けにけり。可咲しき事共語りける次に、大臣平中に宣はく、「我れが申さむ事實に思はれば、努隠さずして宣へ。近來女の微妙きは誰れか有る」と。平中が云はく、「御前にて申すは傍痛き事には候へども、 「我れを實に思はば隠さず」と仰せらるれば申し候ふなり。藤大納言の北の方こそ、實に世に似ず微妙き女は御すれ」と。大臣の宣はく、「其れは何で見られしぞ」。平中が云はく、「其こに候ひし人を知りて候ひしが、申し候ひしなり。 「年老いたる人に副ひたるを極じく侘しき事になむ思ひたる」と聞き候ひしかば、破無く構へて云はせて候ひしに、「 からず」となむ思ひたる由を聞き候ひて、意はず忍びて見て候ひしなり。打解けて見る事も候はざりき」と。大臣、「糸惡しき態をも爲られけるかな」とぞなむ、咲ひ給ひける。
然て、心の内に「何で此の人を見む」と思ふ心深く成りにければ、其れより後は此の大納言を、伯父におはすれば、事に觸れて畏まり給ひければ、大納言は有難く忝き事になむ思ひ給ひける。妻取り給はむと爲るをば知らずして、大臣、心の内には可咲しくなむ思ひ給ひける。
此くて正月に成りぬ。前々は然らぬに、大臣、「三日の間に一日參らむ」と大納言の許に云ひ遣り給ひければ、大納言此れを聞きてより家を造りみがき、いみじき御儲をなむ營みけるに、正月の三日に成りて、大臣然るべき上達部・殿上人少々引き具して、大納言の家におはしぬ。大納言物に當りて喜び給ふ事限りなし。御主など儲けたる程、げにことはりと見ゆ。
申の時打下る程に渡り給へれば、御坏など度々參る程に、日も暮れぬ。歌詠ひ遊び給ふに、おもしろくめでたし。其の中にも左の大臣の御形より始め、歌詠ひ給へる有樣世に似ずめでたければ、萬の人目を付けて讃め奉るに、此の大納言の北の方は、大臣の居給へるそばの簾より近くて見るに、大臣の御形・音・氣はひ、薫の香より始めて世に似ずめでたきを見るに、我が身の宿世心疎く思え、「何なる人此かる人に副ひて有るらむ。我れは年老いて旧くさき人に副ひたるが事に觸れて六づかしく」思ゆるに、いよいよ此の大臣を見奉るに、心置所なく侘しく思え、大臣詠ひ遊び給ひても、常に此の簾の方を尻目に見遣り給ふ眼見などの、恥かし氣なる事言はむ方なし。簾の内さへわり無し。大臣のほほゑみて見遣せ給ふも、何に思ひ給ふにか有らむと恥かし。
而る間、夜も漸くふけて皆人痛く酔ひにたり。然れば、皆紐解き袒ぎて、舞ひ戯るる事限り無し。此くて既に返り給ひなむとするに、大納言、大臣に申し給はく、「痛く酔はせ給ひにためり。御車を此こに差し寄せて奉れ」と。大臣宣はく、「糸便無き事なり。何でか然る事は候はむ。痛く酔ひなむ、此の殿に候ひて、酔醒めてこそは罷り出でめ」など有るに、他の上達部達も、「極めて吉き事なり」とて、御車を橋隠の本に只寄せに寄する程に、曳出物にいみじ馬二疋を引きたり。御送物に箏など取り出でたり。
大臣、大納言に宣ふ樣、「此かる酔の次に申す、便無き事なれども、家禮の爲に此く參りたるに、げに喜しと思しめさば、心殊ならむ曳出物を給へ」と。大納言極めて酔ひたる内にも、「我れは伯父なれども大納言の身なるに、一の大臣の來給ひつる事をいみじく喜しく」思ひけるに、此く宣へば、我が身置所無くて、大臣の尻目に懸けて簾の内を常に見遣り給ふを煩はしと思ひて、「此かる者持たりけりと見せ奉らむ」と思ひて、酔ひ狂ひたる心に、「我れは此の副ひたる人をこそはいみじとは思へ。いみじき大臣におはしますとも、此くばかりの者をば、否や持ち給はざらむ。翁の許には此かる者こそ候へ。此れを曳出物に奉る」と云ひて、屏風を押し畳みて、簾より手を指し入れて、北の方の袖を取りて引き寄せて、「此こに候ふ」と云ひければ、大臣、「實に參りたる甲斐有りて、今こそ喜しく候へ」と宣ひて、大臣寄りて引かへて居給ひぬれば、大納言は立ちのきぬ。「他の上達部・殿上人は今は出で給ひね。大臣は世も久しく出で給はじ」と手掻けば、各目を食はせて、或いは出でぬ、或いは立ち隠れて、「何なる事か有る」とて、「見む」とて有る人も有り。
大臣は、「痛く酔ひたり。今は然は車寄せよ。術なし」と宣ひて、車は庭に引き入れたれば、人多く寄りて指し寄せつ。大納言寄りて車の簾持上げつ。大臣此の北の方を掻抱きて車に打入れて、次きて乘り給ひぬ。其の時に大納言術なくて、「耶々嫗共、我れをな忘れそ」とぞ云ひける。大臣は車遣り出ださせて返り給ひぬ。大納言は内に入りて、裝束解きて臥しぬ。いみじく酔ひにければ、目轉き心地惡しくて、物も思えで寢入りにけり。
暁方に酔醒めて、夢の樣に此の事共思えければ、「若し虚言にや有らむ」と思えて、傍なる女房に、「北の方は」と問へば、女房共有りし事共を語るを聞くに、極めて奇異し。「喜しとは思ひながら、物に狂ひけるにこそ有りけれ。酔心とは言ひながら、此かる態爲る人や有りける」、鳴呼にも有り、亦堪へ難くも思ゆ。取り返すべき樣もなければ、女の幸の爲るなりけりと思ふにも、亦我れ老いたりと思ひたりし氣色の見えしも妬く、悔しく、悲しく、戀しく、人目には我が心としたる事の樣に思はせて、心の内にはわり無く戀しくなむ思ひける。  
今は昔、本院の左大臣と申す人がいらした。その名を時平とおっしゃった。照宣公と申した關白の御子である。本院といふ所にお住みになり、年は僅に三十ばかり、見目麗しく、立ち居振る舞いは優雅であった。それ故延喜の天皇はこの大臣を高く評価なさっていらした。
延喜の天皇が世の中を治められていた頃、この大臣は、型破りの装束を事の外派手に着て参内したことがあった。天皇はそれを御覧じて、機嫌を悪くなされ、すぐに職事を召して仰せになられたには、「近頃は奢侈を厳しく諫めているのに、第一の大臣たるものがその制を破って、自ら派手な格好をするのは許しがたい、すぐ退出するよう大臣に申し伝えよ」
職事がかしこまって綸言を大臣に伝えると、大臣は恐れ入って、急いで退出された。先掃いをさせることもないほどの慌てようだったので、前駈共は大いに怪しんだ。その後一月ばかり門を閉じて謹慎され、人が訪ねてくると、「勅勘が重いので」といって、会うこともしなかった。しばらくして、天皇に召されて参内したのであったが、これはもともと天皇と口裏を合わせた行為だということであった。そうすることで、人々に反省を迫ろうとなされたのである。
この大臣は異常なほど好色であった。ときに大臣の伯父に國經の大納言という人がいらして、その奥方に在原の□の娘という方がおられた。大納言は80歳にもなるのに奥方はまだ二十歳をすぎたばかりの若さ、しかも美しい方であったので、老人に添っているのは残念なことに思われた。
好色な大臣は、伯父の奥方が美人であると聞き是非会いたいと思ったが、なかなかその機会がなかった。ところがその頃、兵衞佐平定文という人がいた。身分はいやしからず、みなから平中と呼ばれていたが、大臣同様好色で、人妻、娘、宮仕を問わず、あらゆる女性を我が物にしていた。
その平中はつねづね大臣の家に出入りしていた。そこで大臣はこの好色な男が大納言の奥方も我が物にしたのかどうか、確かめたいと思った。
ある冬の月夜、平中とよろずがたりをするついでに、大臣は平中に尋ねてみた。「自分のいうことをまともに聞いてほしいが、近頃出会った女の中では誰が一番よかったかの」
「それならばいいますが、藤大納言の奥方こそ最上等の女でした」
「なぜそう思ったのじゃ」
「大納言に仕えているものに知り合いがおりまして、そのものから奥方が年寄りに寄り添ってわびしい思いをしていると聞きましたので、そのことに同情する旨を伝えてもらったところ、奥方から苦しからずとの返事が来ましたので、しのんで会いに行った次第です、しかし打ち解けるようなことはございませんでした」
そこで大臣は「もったいないことをしたな」といって笑ったのであった。
大臣は是が非でもこの女をものにしたいと、思いが重なっていった。そこで大納言は伯父でもあり、ことに触れて訪ねては、大納言をおだてたのであった。大納言のほうでは、地位の高い甥にちやほやされて、まんざらな気持ちでもなかったが、大臣の本心が自分の妻を横取りすることであったのとは気づかなかった。
そのうち正月になった。いままでそんなことはなかったのに、大臣は、今年は三が日のうちに伺いますと大納言に知らせてきた。大臣はこれを聞いて大いに喜び、家を磨き、もてなしの用意をして待っていると、三日になって、上達部・殿上人少々引き具してやってきた。大納言は大いに喜んで、迎えたのであった。
黄昏時だったので、さっそく杯を参らすうちに日も暮れた。大臣は歌など歌いながら遊んでいらしたが、とにかくこの大臣は、姿かたちは無論、歌もうまかったので、誰でもほめないものはいない。大納言の奥方も、そばの簾から近々と大臣をみて、惚れ惚れとしたのであった。
いったいどんな女性がこの大臣に愛されているのだろうか、それに比べれば自分は年とって古くさい男に寄り添っている、それを思うと不幸な身だと思わないではいられない。ところがそんな大臣が、時折自分の方に流し目を送ってくる、これはどういうことなのでしょうと、奥方は恥ずかしくもなるのであった。
そのうち夜も更けて、皆たいそう酔った。酔いにまかせて、腰紐を解いて踊り騒ぐ始末。だがそろそろ帰る時間が来た。大納言は大臣に向かって「たいそうお酔いになられましたな」と呼びかけ、車を用意するように雑色に命じた。すると大臣は、「ちょっと待っていただきたい、いたく酔ってしまったので、しばらくここで休み、酔いが醒めたら帰ることにしましょう。」といった。他の上達部達も「それがよいでしょう」といい、車を橋隠のもとに待機させ、馬二匹と箏を贈り物に用意した。
大臣が大納言に向かっていうには、「酔ったついでに申すが、折角家禮の爲に来たのであるから、もしうれしいと思うのであれば、特別な引き出物を戴きたいものじゃ」
こういわれて大納言は、「自分は伯父として大納言の身であるが、第一の大臣に来てもらったのはうれしいことじゃ、ところで簾の内にいる妻のことが気にかかってしようがなかったが、思えばわしの持ち物のうちでもっとも優れたものといえば、ほかならぬこの女じゃ」と思うのだった。
そこで大納言は、酔いに狂った心のまま、大臣に向かっていった、「この女こそわたしの最もすばらしい持ち物です、これほどの女を妻にしているものは、都中他にはありますまい、この女を引き出物に差し上げましょう。」
そういって簾の中から北の方を引き寄せて大臣にさしあげると、大臣は「これはすばらしい」といって、女を受け取ったので、大納言は立ち退いたのであった。そして、「大臣は久しい間、この女とお楽しみになられるであろう、」といったので、何のことかと興味に駆られてわざわざ見に来るものもあった。
そのうち大臣は、「もうよいから、車を用意せよ」といった。車はすぐに用意され、大勢人が寄って来て、出発の準備をした。大納言が車の簾を持ち上げると、大臣は北の方を抱き上げて車に乗せ、その後に自分も乗り込んだ。それを見ていた大納言は、詮方もなく、ただ「わしのことを忘れるなよ」と北の方にいったのだった。大臣たちが行ってしまった後、大納言は内に入って装束を脱ぎ床に臥した。酔いで目が回り、そのまま寝入ってしまった。
明け方酔いから醒めると、昨夜のことが夢のように思われたので、「もしかしたら空事」かと思って、そばにいた女房に確かめると、やはり現実に起きた出来事なのであった。
「大臣が来たことがうれしくて、我ながら狂っていたとしか思えない、それにしても大臣もひどい人だ、こんなことをするなんて」こう大納言は思うのだったが、もはや後の祭りだった。いまさらながら北の方が恋しくなったが、なんともいたし方がない。
大納言はこのことを、自分が自発的に行ったことのようにみせかけた。だが、その実、妬ましく、悔しく、恋しくて、しょうがないのであった。

今昔物語集本朝世俗部は巻二十二から始まる。この巻は大織冠こと藤原鎌足から始まる藤原氏の歴史を物語っている。これに先立つ巻二十一が、もともと天皇家の歴史を書こうとして断念されたらしいことを考え合わせると、日本の世俗の歴史の嚆矢をなす者として、やはり藤原氏が最も相応しいと、この物語集の作者は思ったのであろう。
今昔物語集が書かれたのは平安末期、藤原氏の威光はまだ衰えてはいなかった。そんな中で、藤原氏の歴代の人物を描きながら、そこに時代の移り変わりを見ようとしたのが、本朝世俗部の発端となるこの巻だ。
鎌足から始めて時平に至るまでの藤原氏の氏の長者といわれる人々を物語っている。いずれも伝説上の人々だ。そんななかで最後に描かれた時平は、延喜の世、醍醐天皇時代の宰相であるが、日本史の中では、悪役として有名な人物だ。
というのも、あの菅原道真を迫害して大宰府に流したりなど、悪逆の限りを尽くしたということにされているからだ、その悪業がたたって道真の怨霊に取りつかれ、自分自身がひどい目にあったばかりか、その害が都におよび、無垢の民にまで迷惑をかけたということになっている。
亡霊の恨み、つまり怨霊が疫病の源だとする日本古来の信仰には、時平の悪事が大いにかかわっている。彼は、日本の歴史の上で、もとも早い時期に現れた本格的な悪人なのだ
そんな時平であるから、民衆の受けも悪く、噂話にはろくなものがない。中でも、時平は部類のスケベ人間で、すこしでも色気のある女を見るや、友人の妻であろうが、だれそれの恋人であろうが、ことごとく自分のものにせずにはやまないという話が流布していたらしい。
今昔物語集の中にある、この逸話も、美しい女とあれば、たとえ叔父の思い人であろうと、手に入れずにはおかなかったという、時平のスケベぶりを強調した話である。  
左衞門尉平致經、明尊僧正を導きし語 (今昔者物語集巻二三)
今は昔、宇治殿の盛に御しましける時、三井寺の明尊僧正は御祈の夜居に候ひけるを、御燈油參らざり。暫く許有りて何事すとて遣すとは人知らざりけり。俄かに此の僧正を遣して夜の内に返り參るべき事の有りければ、御厩に、物驚き爲ずして、早り爲ずて慥かならむ御馬に移置きて將て參じて、召して、侍に、「此の道に行くべき者は誰か有る」と尋ねさせ給ひければ、其の時に左衞門尉平致經が候ひけるを、「致經なむ候ふ」と申しければ、殿「糸吉し」と仰せられて、其の時は此の僧正は僧都にて有りければ、仰せ事、「此の僧都、今夜三井寺に行きて、軈て立ち返り、夜の内に此こに返り來たらむずるが樣、其こに慥かに供すべきなり」と仰せ給ひければ、致經其の由を承はりて、常に宿直處に弓・胡録を立て、藁沓と云ふ物を一足畳の下に隠して、賤しの下衆男一人を置きたりければ、此れを見る人、「か細くても有る者かな」と思ひけるに、この由を承はるままに、袴の括高く上げて、喬捜りて、置きたる物なれば、藁沓を取り出だして履きて、胡録掻負ひて、御馬引きたる所に出合ひて立ちたりければ、僧都出でて、「彼れは誰そ」と問ふに、「致經」と答へける。
僧都、「三井寺へ行かむと爲るには、何でか歩より行かむずる樣にては立ちたるぞ、乘る物の無きか」と問ひければ、致經、「歩より參り候ふとも、よもおくれ奉らじ。只疾く御しませ」と云ひければ、僧都、「糸恠しき事かな」と思ひながら、火を前に燈させて、七八町許行く程に、黒ばみたる物の弓箭を帯せる、向樣に歩み來たれば、僧都此れを見て恐れて思ふ程に、此の者共致經を見て突居たり。「御馬候ふ」とて引き出でたれば、夜なれば何毛とも見えず。履かむずる沓提けて有れば、藁沓履きながら沓を履きて馬に乘りぬ。胡録負ひて馬に乘りける者二人打具しぬれば、憑しく思ひて行く程に、亦二町計行きて、傍より、有りつる樣に黒ばみたる者の弓箭帯したる、二人出で來たりて居ぬ。其の度は、致經此も彼も云はぬに、馬を引きて乘りて打副ひぬるを、「此れも其の郎等なりけり」と、「希有に爲る者かな」と見る程に、亦二町計行きて、只同じ樣にて出で來たりて打副ひぬ。此く爲るを致經何とも云ふ事なし。亦此の打副ふ郎等、共に云ふ事なくて、一町餘二町計行きて二人づつ打副ひければ、川原出で畢つるに三十人に成りにけり。僧都此れを見るに、「奇異しきしわざかな」と思ひて、三井寺に行き着きにけり。
仰せ給ひたる事共沙汰して、未だ夜中に成らぬ□參りけるに、後前に此の郎等共打裏みたる樣にて行きければ、糸憑しくて、川原までは行き散る事無かりけり。京に入りて後、致經は此も彼も云はざりけれども、此の郎等共出で來たりし所々に二人づつ留まりければ、殿今一町計に成りにければ、初め出で來たりし郎等二人の限に成りにけり。馬に乘りし所にて馬より下りて、履きたる沓脱ぎて殿より出でし樣に成りて、棄てて歩み去れば、沓を取りて馬を引かせて、此の二人の者も歩み隠れぬ。其の後、只本の賤しの男の限、共に立ちて、藁沓履きながら御門に歩み入りぬ。
僧都此れを見て、馬をも郎等共をも、兼て習はし契りたらむ樣に出で來たる樣の奇異しく思えければ、「何しか此の事を殿に申さむ」と思ひて御前に參りたるに、殿はまたせ給ふとて御寢らざりければ、僧都、仰せ給ひたる事共申し畢てて後、「致經は奇異しく候ひける者かな」と、有りつる事を落さず申して、「極じき者の郎等随へて候ひける樣かな」と申しければ、殿此れを聞食して、委しく問はせ給はむずらむかしと思ふに、何に思食しけるにか、問はせ給ふ事も無くして止みにければ、僧都支度違ひて止みにけり。
此の致經は、平致頼と云ひける兵の子なり。心猛くして、世の人にも似ず殊に大なる箭射ければ、世の人此れを大箭の左衞門尉と云ひけるなりとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、宇治殿が関白としてときめいておられた頃のこと、三井寺の明尊僧正は御祈のお供としてつとめていたが、殿は一向に灯明をともすようにお命じになられなかった。というのも暫くしてから僧正を使いにやるつもりでいたのを、まだ誰も知らなかったのである。
此の僧正に、遣いをして夜の内にまた帰ってくるように命じられ、厩から、物怖じをしない確かな馬を選び出し、それに鞍を置いて、
「伴をするものはおらんか」と尋ねさせると、
左衞門尉平致經(むねつね)というものが、「致經なむ候ふ」と申し出た。
殿は「よいよい」と仰せられると、其の時は此の僧正は僧都であったので、
「此の僧都、今夜三井寺に行って、すぐに立ち返り、夜の内に帰ってくることになっておるので、たしかに伴をせよ」とおっしゃった。
致經は普段から、宿直處に弓・胡録を立て、藁沓と云う物を一足畳の下に隠し、お供の下男を一人ひかえさせるばかりであったので、それを見る人は、「頼りないことよ」と思ったほどであった。
致經は命令を聞くままに、袴の括高く上げて、隠しおいてあった藁沓を取り出して履き、胡録を背負って、馬を引いてある所に立つと、僧都が出てきて、「お前は誰だ」と聞くので、「致經」と答えた。
僧都はその様子をみて、
「三井寺へ行こうというのに、まるで歩いていくような格好ではないか、お前の馬はないのか」といった。すると致經は、
「たとえ歩いてでも、決して遅れはとりませぬ。早くお立ちなされ」と答えた。
僧都は、「ずいぶんおかしなことだ」と思いながら馬に乗り、火を前に燈させて、七八町ばかり行くと、向こうから、弓箭を帯した黒っぽい格好のものがやってきた。僧都はそれを恐れながら見ていると、そのものどもは致經の前に突っ立ったのであった。
「御馬候」といって引き出した馬は、夜のこととて何毛とも見分けがつかない。致經が藁沓を履きながら鐙にまたがって馬を進めると、胡録を負って馬に乘った者が二人ついてきた。不思議に思いながら前へ進むと、亦二町ばかりして、先ほどと同じようなものが二人現れた。
今度は、致經も従者らも何もいわず、馬に乗ったまま進んでいった。僧都は、「此れも郎等たちだ、それにしてもすごい連中だ」と思っているうち、また二町ばかり行ったところで、同じような光景が繰り返された。
致經は何ともいうことなく、郎党たちも無言のまま、同じような光景が更に繰り返された結果、川原を出る頃には三十人にもなった。僧都はこれを見て、不思議に感じているうち、早くも三井寺に着いたのだった。
僧都は仰せつかった用事をすませると、夜のうちに帰ろうとした。するとこの郎等たちは、先ほどの川原まではずっとついてきたのだった。
京に入ってから後は、郎等たちはそれぞれの出現したところで二人づつ止まっていなくなった、そのため帰る頃には最初に出てきた郎等二人だけが残った。
乗馬したところで馬から下り、履いていた沓も脱いで最初の姿になると、残った二人もいなくなり、下男一人だけが付き従って門の中に入った。
僧都はそれをみて、馬も郎等たちも、一糸乱れず行動するのに感心した。
「このことを是非殿に申し上げよう」と思って参上すると、殿はまだ寝ずにおられたので、僧都は、今夜垣間見たことを残さず報告したうえで、
「致經は奇異しく候ひける者かな、「極じき者の郎等随へて候ひける樣かな」と申しあげた。
殿はこれをお聞きになって、興味をお示しになるかと思えば、何のこともなく過ごさせ給うたので、僧都は拍子抜けがしたのであった。
この致經は、平致頼と云う兵の子である。心猛くして、世の人にも似ず、殊に大きな箭でも射るので、世の人はこれを大箭の左衞門尉と云ったそうである。

今昔物語集巻二十三は、別名を強力譚というように、男女をとわず、実力でならした人物たちの物語だ。ことがらからして、当時新興階級として実力を蓄えつつあった武士階級の人間たちが中心になるが、それにとどまらず、女や相撲取りなど、力自慢のものの物語も含まれている。
武士にスポットライトを当てた一連の物語は、巻25にまとめられている。
左衞門尉平致經の武勇を巡るこの物語は、武士の武勇譚ともいうべきもので、その意味では巻25にあってもおかしくないのだが、内容が単なる武勇譚の範疇を超えて、武士というものの不気味な力強さを描いているところが、あえてこの巻に入れられた理由であろうと推測される。
平安末期になると、武士たちが新しい時代の先駆けとして、頭角を現しつつあった。彼らはもともと天皇家や藤原氏の用心棒として登場したのであるが、次第に実力を蓄え、ついには貴族政治を打倒して、武士による政権を樹立するに至る。
そんな武士たちのもたらした文化は、藤原氏を中心とした貴族文化とは、まったく異なっていた。実力だけがものをいう、飾り気のない文化だったといってよい。
そうした新しい文化の在り方を、当時の支配者であった貴族たちは、複雑な目で見ていた。一方ではその野卑なところを軽蔑しながら、他方ではその強さに恐れのような感情を抱いていたと思われる。
今昔物語集には、そんな貴族の立場から武士の有様を感じとったと思われるような説話がほかにもいくつか収められている。
この説話に出てくる平致經は、そうした新しい人物像としての武士の典型のような人物として受け止められていたに違いない。彼は主人の命令を淡々と実行する。そこには無駄な計らいは一切ない。ただ最低限必要なことを行いながら、坊主の護衛を完璧にこなすのみだ。致經も彼の家来たちも、その目的に向かって一糸乱れぬ行動をするが、それは目的の実現にとって、必要最小限のことをしたに過ぎない。
ところが旧来の貴族文化にどっぷりつかってきた坊主にとっては、それがいかにも新鮮なことに思われたのだ。
この説話は、そんな新旧それぞれの文化に生きる人々の間で起きた、感情のすれ違いのようなものを描いているといってよい。  
陸奥前司橘則光、人を切り殺す語 (今昔物語集巻二三第十五)
1
今は昔、陸奥前司橘則光と云ふ人有りけり。兵の家に非ねども、心極めて太くて、思量賢く、身の力なども極めて強かりける。見目なども吉く、世の思えなども有りければ、人に所置かれてぞ有りける。
而るに、其の人未だ若かりける時、前の一条院の天皇の御代に衞府の藏人にて有りけるに、内の宿所より忍びで女の許へ行きけるに、夜漸く深更くる程に、太刀許を提けて、歩みて、小舎人童一人許を具して、御門より出でて大宮を下りに行きければ、大垣の邊に人數た立てる氣色の見えければ、則光極めて恐しと思ひながら過ぐる程に、八日九日計の月の西の山の葉近く成りたれば、西の大垣の邊は景にて人の立てるも慥かにも見えぬに、大垣の方より音計して、「彼の過ぐる人罷止まれ。君達の御しますぞ。否過ぐさじ」と云ひければ、則光、「然ればこそ」と思へど、□返るべき樣も無ければ、疾く歩み過ぐるを、「然ては罷りなむや」と云ひて走り懸かりて來たる者有り。
則光突伏して見るに、弓景は見えず、太刀きらきらとして見えければ、「弓に非ざりけり」と心安く思ひて、掻伏して逃ぐるを、追ひ次きて走り來たれば、「頭打ち破られぬ」と思えて、俄かに傍樣に急ぎて寄りたれば、追ふ者走り早まりて、否止まり敢へずして、我が前に出で來たるを、過ぐし立てて、太刀を抜きて打ちければ、頭を中より打ち破りつれば、仰に倒れぬ。
「吉く打ちつ」と思ふ程に、亦、「彼れは何がはしたる事ぞ」と云ひて、走り懸かりて來たる者有り。然れば、太刀をも否指し敢へず、脇に挾みて逃ぐるを、「けやけき奴かな」と云ひて走り懸かりて來たる者の、初めの者よりは走疾く思えければ、「此れをも有りつる樣には爲られじ」と思ひて、俄かに忿り突居たれば、走り早まりたる者、我れに蹴蹟きて倒れたるに、違へて立ち上りて、起し立てず頭を打ち破りてけり。
「今は此くなめり」と思ふ程に、今一人有りければ、「けやけき奴かな。然てはえ罷らじ」と云ひて、走り懸かりてとく來ければ、「此の度我れは錯たれなむと爲る。佛神助け給へ」と、太刀を鉾の樣に取り成して、走り早まりたる者に俄かに立ち向ひければ、腹を合はせて走り當りぬ。彼れも太刀を持ちて切らむとしけれども、餘り近くて、衣だに切られで、鉾の樣に持ちたる太刀なれば、受けられて中より通しけるを、太刀の を返しければ仰樣に倒れにけるを、太刀を引き抜きて切りければ、彼れが太刀抜きたりける方の肱を、肩より打ち落してけり。
然て、走り去りて、「亦や人や有る」と聞きけれども、音も無かりければ、走り廻りて、中の御門に入りて柱に掻副ひて立ちて、「小舎人童何にしつらむ」と待ちたるに、童、大宮の上を泣く泣く行きけるを呼びければ、走り來たりけり。其れより宿所に遣して、「着替を取りて來」と云ひて遣しつ。本着たりつる表の衣・指貫に血の付きたるを、童に深く隠させて、童が口吉く固めて、太刀の柄に血の付きたりけるなど吉く洗ひ拈めて、表の衣・指貫など着替へて、然氣無くて宿所に入り臥しにけり。
終夜ら、「此の事若し我がしたる事とや聞えむずらむ」と、胸騒ぎ思ふ程に、夜暁けぬれば、云ひ騒ぎける樣、「大宮大炊の御門の邊に、大いなる男三人を、幾程も隔てず切り伏せたる、極めて仕ひたる太刀かな」と、「互に切りて死にたるかと思ひて吉く見れば、同じ刀の仕ひ樣なり。敵のしたる事にや。然れど
盗人と思しき樣にしたるなり」と云ひののしりて、殿上人共、「去來行きて見む」など云ひて、皆行くに、則光をも、「去來々々」と倡ひ將て行けば、「行かじ」と思へども、行かぬも亦心得ぬ樣なれば、澁々にて具して行きぬ。
車に乘り泛れて遣り寄せて見れば、實に未だ何にも爲で置きたりけり。其れを、歳三十計の男の鬘髯なるが、無文の袴に紺の洗曝の襖に、欸冬の衣の糸吉く曝されたるを着て、猪の逆頬の尻鞘したる太刀帯して、鹿の皮の沓履きたる有り。脇を掻き指を差して、此向き彼向きて物を云ふを、「何の男にか有らむ」と思ふ程に、車の共なる雜色共の云はく、「彼の男の、敵を切り殺したるとなむ申す」と云ひければ、則光糸喜しと聞くに、車に乘れる殿上人共、「彼の男召し寄せよ。子細を問はむ」と云ひて呼ばすれば、召し將て來たり。
見れば、頬がちにて頤反りたり。鼻下りて赤髪なり。目は摺り赤めけるにや有らむ、血目に見成して、片膝を突きて、太刀の柄に手を懸けて居たり。「何なりつる事ぞ」と問へば、「夜半ばかりに物へ罷るとて此こを罷過ぎつるに、者三人、 「己れは罷過ぎなむや」と申して走り懸かりて詣で來たるを、盗人なめりと思ひ給へて、相構へて打ち伏せて候ひつるが、今朝見給ふれば、己れを年頃、「便有らば」と思ふ者共にて候ひければ、敵にて仕りたりける事なりけりと思ひ給へて、しや頭取りてむと思ひ給へて候ふなり」とて立ちぬ。指を差しつつ、うつぶきぬ仰ぎぬして語り居れば、君達「あらあら」と云ひて問ひ聞けば、彌よ狂ふ樣にして語り居り。
其の時に、則光心の内に可咲しと思へども、此の奴の此く名乘れば「譲り得て喜し」と思ひて、面持上げられける。其の前は、「此の氣色や若し驗かれらむ」と、人知れず思ひ居たりけるに、我れと名乘る者の出で來たれば、其れに譲りてなむ止みにしと、老の畢に子共に向ひて語りけるを、語り傳へたるなり。此の則光は□と云ふ人の子なり。只今有る駿河前司季通と云ふ人の父なりとなむ、語り傳へたるとや。  
2
(部分) 今は昔、陸奥前司(むつのぜんじ)橘則光(たちばなのりみつ)といふ人ありけり。兵の家にあらねども、心極めて太くて思量(おもばかり)賢く、身の力なども極めて強かりける。見目(みめ)などもよく、世の思え(おぼえ)などもありければ、人に所おかれてぞありける。
然るに、その人未だ若かりける時、前一条院天皇(さきのいちじょういんてんのう)の御代(みよ)に衛府(えふ)の蔵人(くろうど)にてありけるに、内の宿直所(とのいどころ)より偲びて女の許(もと)へ行きけるに、夜漸くふくるほどに、太刀ばかりを提げて(ひさげて)、歩(かち)にて小舎人童(こどねりわらわ)一人ばかり具して、御門より出でて大宮を下りに行きければ、大垣の辺り(ほとり)に人あまた立てる気色の見えければ、則光極めて恐ろしと思ひながら過ぐるほどに、八日九日ばかりの月の西の山の端近くなりたれば、西の大垣の辺りは陰にて人立てるも確かにも見えぬに、大垣の方より声ばかりして、「あの過ぐる人罷り止まれ(まかりとどまれ)。君達(きんだち)のおはしますぞ。え過ぎじ」と言ひければ、則光、さればこそと思へど、――に返るべき様もなければ、疾く(とく)歩みて過ぐるを、「されは罷りなむや」と言ひて、走りかかりて来たる者あり。
則光突き伏して見るに、弓の影は見えず、太刀きらきらとして見えければ、弓にあらざりけりと心安く思ひて、かき伏して逃ぐるを、追ひつづきて走り来たれば、頭打ち破られぬと思えて、にはかにかたはらざまに急ぎて寄りたれば、追ふ者走り早まりて、え止まり(とどまり)あへずして我が前に出で来たるを、過ぐし立てて太刀を抜きて打ちければ、頭(かしら)を中(なから)より打ち破りつれば(うちわりつれば)俯し(うつふし)に倒れぬ。
よく打ちつと思ふほどに、また、「あれはいかがしたることぞ」と言ひて走りかかりて来たる者あり。されば、太刀をもえ差しあへず脇に挟みて逃ぐるを、「けやけき奴かな」と言ひて走りかかりて来たる者の、初めの者よりは走り疾く(とく)おぼえければ、これをば、よもありつるやうにはせられじと思ひて、にはかにいかりついゐたれば、走り早まりたる者、我にけつまづきて倒れたるを、違ひて(たがいて)立ち上がりて起こし立てず、頭を打ち破りてけり。
今はかくなめりと思ふほどに、今一人ありければ、「けやけき奴かな。さてはえ罷らじ」と言ひて走りかかりて疾く来たりければ、「この度(たび)は我はあやまたれなむとする。仏神助け給へ」と、太刀を鉾(ほこ)のやうに取りなして、走り早まりたる者ににはかに立ち向かひければ、腹を合はせて走り当たりぬ。
彼も太刀を持ちて切らむとしけれども、余り近くて衣だに切られで、鉾のやうに持ちたる太刀なれば、受けられて中より通りにけるを、太刀の柄を返しければ仰け様(のけざま)に倒れにけるを、太刀を引き抜きて切りければ、彼が太刀を抜きたりける方のかひなを、肩より打ち落としてけり。
1
今は昔、陸奥の前司橘則光という人がいた。兵の家の出ではなかったが、心が極めて太く、思量が賢く、体力も極めて強かった。見た目などもよく、世の聞こえもよかったので、人から一目置かれていた。
この人が未だ若かった時のこと、前の一条院の天皇の御代に、衞府の藏人としてつとめていたが、その頃、内の宿所より忍び出て女の許へ通うのを常としていた。そんなある夜、太刀ばかりを提げ、小舎人童一人ばかりを具して、御門より出て大宮通りを下っていくと、大垣の邊に人が沢山立っているのが見えた。
則光は恐しと思いながら通り過ぎようとした。折から八日九日ばかりの月が西の山の葉近く傾いていたので、大垣の邊は暗くなって人の様子も確かには見えない。するとそこから人の声がして、
「おい、そこの者止まれ。君達がおわしますぞ。通すわけにはいかぬぞ」といった。
則光は、「そうか」と思ったが、そのまま通り過ぎようとした、すると「さては通さんぞ」と走りかかってくるものがある。
則光が身を臥して見ると、弓は見えず、太刀ばかりが見えたので、「弓でなければ恐れるには及ばぬ」と安心した。そのまま身を臥して逃げようとすると、追っ手は太刀を振りかざして襲ってきた。
そこで急いで身をかがめてやり過ごそうとすると、追うものは勢い余って、こちらのほうに覆いかぶさってきた。そこをこちらも太刀を抜いて打ち返したので、相手は頭を真ん中で打ち破られ、仰向けに倒れたのであった。
「うまくいった」と思っていると、亦、「どうしたんだ」といって、走りかかってくるものがある。今度は太刀を脇に挾んで逃げたが、追っ手は最初の男より足が速く、すぐに追いつかれた。
「今度はそううまくはいくまい」と思って、仁王立ちして待ち構えるところに、追っ手は走る勢いが余って、自分にぶつかって倒れてしまった。そこをすかさず襲い掛かり、頭を打ち破ったのであった。
「やれやれ 」と思っていると、また一人現れて、
「こしゃくな奴だ、逃がさんぞ」といいながら、襲い掛かってきた。
「今度こそはだめかもしれぬ、神仏よ助けたまえ。」といいながら、太刀を鉾のように持って、襲い掛かるものに立ち向かった。
二人は腹をあわせるようにぶつかり合うと、敵は太刀を振りかざして切ろうとするが、接近しすぎてうまく切れぬ。逆にこちらの太刀が相手の腹に突き刺さった。その太刀を引き抜いて、相手の太刀を持っているほうの腕を切り落としたのであった。
「まだ他にもいるか」と、あたりを見回したが、誰もいる様子がないので、御門の中に入って、柱にもたれかかり、「小舎人童はどうしたのだ」と、その来るのを待った。童は通りを泣きながら歩いていたが、呼びかけるとすぐにやってきた。
則光は童に命じて宿所から着替えを持って来させて着替えると、血の着いた着物を隠し、何食わぬ顔で宿所に戻って寝た。
「このことを自分がしたとわかったら、どうしよう」と、則光は心配で寝られなかった。果たして夜が明けると、周囲のものが騒ぎ始めた。
「大宮通りのあたりに、大男が三人も切り捨てられている。さぞ太刀の使い手に切られたのであろう。」とか、「互いに切りあったのではないかと思えば、みな同じ太刀で切られている。盗人と間違えられたのではないか」などと騒いでいるので、仲間の貴族たちは面白がって見に行こうとする。則光も一緒に行こうと誘われた。行くのはいやだったが、断ると不審がられると思い、一緒についていった。
車に乗って現場に行ってみると、男たちの死体は昨夜のまま転がっていた。その傍らに、歳三十ばかりの男が立っている。ひげを生やし、無文の袴に紺の洗曝の襖を着て、鹿皮の沓を履いている。
この男が、手を振りながらあれこれといっているのを聞けば、この男たちを殺したのは自分だといっているようだった。そこで貴族たちはその男をそばに来させて、子細を聞いてみることとした。
男は顎が反り、鼻が垂れ下がって、髪は赤く、目も血走っていた。片膝をついて、太刀の鞘に手をかけつつ、いうには
「夜半頃にここを通りがかりますと、曲者が三人襲い掛かってきて、通さぬぞといいますので、盗賊かと思い、退治した次第でございますが、今よくみれば、日頃わたくしのことを付けねらっていた敵でございます。かかるうえは、敵どもの首をとってやろうと思います。」
これには貴族たちも驚いた次第であった。
それを聞いていた則光は、心のなかでおかしいと思ったが、自分のしたことの身代わりが現れたことゆえ、うれしくなったのだった。
則光はこのことを長い間秘密にしていたが、年をとってから子どもたちに語って聞かせたそうである。この則光は某というひとの子で、駿河前司季通の父とかいうそうである。

この物語の主人公は、もともと武士身分ではないから、武勇を誇りに思ったりはしない。たまたま人と争うこととなり、その際に図らずも勝つことができた。だがそれはもとより自分にとっては自慢すべきものでもなんでもない。
物語の中では、その時の戦いぶりが、偶然の連続であって、主人公の勝利も怪我の功名のように描いている。
そんな折に、ほかの男が主人公の武勇ぶりを自分のこととして横取りにする。その男にとっては、喧嘩に強いことが、いくばくかの価値を持っていたのであろう。
主人公の則光は、その男の嘘に対して、一向に怒りを覚えない。むしろ自分の身代わりになってくれたことを喜んでいる風である。
これは武勇というものが、この物語の背景になっている時代に、どう受け取られていたかを感じさせる事態だといえる。旧来の支配者たる貴族たちの文化にとってみれば、武勇というものは自慢すべきものであるよりは、野蛮さを感じさせるものなのだ。
則光はもとより武士ではないから、自分のしたことを誇りに思うどころか、不都合なことをしでかしたくらいにしか思わなかったのだ。
なお、この橘則光は、一時期、かの清少納言の夫であった男だ。  
2
今となっては昔の話だが、陸奥の前国司・橘則光という男がいた。橘氏は武士の家門ではなかったが、橘則光は剛胆で思慮深く、腕っ節の力も極めて強い人物であった。外見も整っていて世間の評判も良く、周囲の人々から一目置かれる存在だった。
則光がまだ若かった頃、一条天皇の治世では、衛府の蔵人(天皇に仕える武官)の役職を務めていた。夜にこっそりと宮中の宿直所を抜け出して、則光は女のもとへと出かけていた。夜が少しずつ更けていく時間帯に、護身用の太刀一振りだけを携えて、少年ひとりを従え、御門を出て大宮大路を南に下っていった。すると、大垣のあたりで、人が何人も立っているのが見え、則光は(何か危害を加えられるのではないかと)恐ろしく思いながらそこを通り過ぎようとした。ちょうど八日・九日ごろの淡い月が西の山の端近くに沈みかかっていたので、西に見える大垣は月の逆光によって陰になっていて、そこに立っている人影が誰なのかよく見えなかった。
その時、大垣の暗がりから声がかかり、「おい、そこを通る者、止まれ。貴人がお通りになるぞ。ここを通り過ぎることはできない」と言われた。則光はそうなのかと思ったが、今更引き返すこともできず、急いで通り過ぎようとした。すると、「このまま通り過ぎるつもりか」と言って走りかかってきた。
則光は素早く身をかがめて敵の様子を伺ってみると、弓の影は見えず太刀だけがキラキラと光っている。敵は弓は持っていないと安心して、前かがみになって逃げたが、後ろから追いかけてくる。頭を打ち割られると思った瞬間に、体をひねって脇に相手の太刀を逸らしたので、追ってきた敵は、勢いがつきすぎてつんのめることになり、体勢を立て直すこともできない。そのまま、則光の目の前に飛び出してきた。それをそのままやり過ごして、太刀を振りかぶって、頭を真っ二つに打ち割った。敵は仰向けに倒れた。
上手くやったと思う暇もなく、新しい相手が「いったいどうしたんだ」と言いながら走りかかってくる。抜き身の太刀を鞘に収める暇もなく、則光は小脇に太刀を抱えて逃げ始めた。「むかつく奴め」と、叫びながら走ってきた敵は、さっきの相手より足が速そうなので、さっきと同じようにはいかないだろうと思って、瞬時の判断で立ち止まってしゃがみこんだ。走っていて勢い余った敵は則光の体につまずいて転んでしまった。則光はすっと立ち上がると、敵に体勢を立て直す時間を与えずに、太刀を振り下ろして頭を叩き割った。
もうこれで終わりだろうと思って安堵していると、敵はまだ一人残っていた。「むかつく野郎だ。このまま行かせるわけにはいかない」と叫びながら走りかかってきたので、則光は「今度は自分がやられてしまうだろう、神仏よ、私を助けて下さい」と念じた。太刀を鉾のように突き出して身構え、勢いをつけて走りこんできた敵に対して、突然、正面を向いたのである。
敵は体勢を立て直すこともできず、そのまま真正面から太刀に腹をぶつけるようにして突っ込んできた。敵も太刀で切りつけようとしたが、近すぎて切ることができず、着物さえ切り裂くことができない。則光のほうは鉾のように太刀を突き出していたから、その太刀は背中まで相手を突き刺して、太刀の柄を引き抜くと、敵は仰向けにひっくり返ってしまった。そこに更に引き抜いた太刀で切りつけたから、敵の太刀を握っていたほうの腕は付け根から切断されてしまった。
相撲人大井光遠の妹、強力の語 (今昔物語集巻二三第二四)
今は昔、甲斐の國に大井光遠と云ふ左の相撲人有りき。短太にて器量しく力強く足早くて、微妙なりし相撲なり。其れが妹に、年二十七八許にて形・有樣美麗なる女有りけり。其の妹、離れたる屋になむ住みける。
而る間、人に追はれて逃げける男の、刀を抜きて其の妹の居たる家に走り入りにけり。其の妹を質に取りて、刀を差し宛てて抱きて居けり。家の人此れを見て驚き騒ぎ、光遠が居たる家に走り行きて、「姫君は質に取られ給ひにけり」と告げければ、光遠騒がずして云はく、「其の女房をば昔の薩摩氏長許こそは質に取らめ」と云ひて居たりければ、告げたる男、「恠し」と思ひて走り返り來て、不審しさに物の迫より睨きければ、九月許の事なれば、女房は薄綿の衣一つ計を着、片手しては口覆をして、今片手しては、男の、刀を抜きて差し宛てし肱を和ら捕へたる樣にて居たり。
男、大きなる刀の怖し氣なるを逆手に取りて腹の方に差し宛てて、足を以て後よりあぐまへて抱き居たり。此の姫君、右の手して男の刀抜きて差し宛てたる手を和ら捕へたる樣にして、左の手にて顔の塞ぎたるをなでて、其の手を以て、前に箭篠の荒造りしたるが二三十計打散らされたるを、手まさぐりに節の程を指を以て板敷に押し蹉りければ、朽木などの和らかならむを押し砕かむ樣に砕々と成るを、奇異しと見る程に、此れを質に取りたる男も目を付けて見る。
此の睨く男も此れを見て思はく、「兄の主、うべ騒ぎ給はざるは理なりけり。極じからむ兄の主、鐵鎚を以て打ち砕かばこそ此の竹は此くは成らめ、此の姫君は何許なる力にて此くは御するにか有らむ。此の質に取りたる男は、ひしがれなむず」と見る程に、此の質に取りたる男も此れを見て益なく思えて、「譬ひ刀を以て突くとも、よも突かれじ。肱取りひしがれぬべき女房の力にこそ有りけれ。此れ許にてこそ支體も砕かれぬべかめり。由なし。逃げなむ」と思ひて、人目を量りて、棄てて走り出でて、飛ぶが如くに逃げけるを、人末に多く走り合ひて、捕へて打伏せて縛りて、光遠が許に將て行きたれば、光遠、男に、「汝何に思ひて、質に取る許にては棄てて逃げつるぞ」と問ひければ、男の云はく、「爲べき方の候はざりつれば、例の女の樣に思ひて、質に取り奉りて候ひつるに、大きなる箭篠の節の程を、朽木などを砕く樣に、手を以て押し砕き給ひつるを見給へつれば、奇異しくて、此く許の力にては腕折り砕かれぬと思ひ給へて、逃げ候ひつるなり」と。
光遠此れを聞きて疵咲ひて云はく、「其の女房は一度によも突かれじ。突かむとせむ腕を取り、掻捻りて上樣に突かば、肩の骨は上に出でて切られなまし。賢く己れが肱の抜けざりき。宿世の有りて、其の女房はせざりけるなり。光遠だに己れをば手殺しに殺してむ物を。しや肱を取りて打伏せて腹骨を踏みなむには、己れは生きて有りなむや。其れに、女房は光遠二人計が力を持ちたるを。然こそ細やかに女めかしけれども、光遠が手戯れ爲るに、取りたる腕を強く取られたれば、手弘ごりて免しつる物を。哀れ、此れが男にて有らましかば、合ふ敵なくて手なむどにてこそは有らましか。惜しく女にて有りけるこそ」など云ふを聞くに、此の質取の男、中は死ぬる心地して、「例の女ぞと思ひて、極じき質をも取りたるかなと思ひ給へつるに、此く御しましける人を知り奉らずになむ」と、男泣く泣く云ひければ、光遠「須く己れをば殺すべけれども、其の女房の錯たるべくはこそ、己れをば殺さめ、返りて己れが死ぬべかりけるが、賢く疾く逃げて命を存せしは、其れを強ちに殺すべきに非ず。己れ聞け。其の女房、鹿の角の大きなるなどを膝に宛てて、そこら細き肱を以て、枯木など折る樣に打砕く者をぞ。増して己れをば云ふべきにも非ず」と云ひて、男をば追ひ逃がしてけり。
實に事の外の力有りける女なりかしとなむ、語り傳へたるとや。  
1
今は昔、甲斐の國に大井光遠という相撲取りがあった。背は低いが立派な体つきをしており、力が強くて足が早く、うまい相撲をとった。その妹に、年は二十七八ばかり、姿形の美しい女があった。その妹は離れの屋敷に住んでいた。
あるとき、人に追われて逃げていた男が、刀を抜いてその妹の居る屋敷に走り入った。そしてその妹を質に取り、刀を差し宛てて抱きついた。家の人はこれを見て驚き騒ぎ、光遠の家に走り行き、「姫君が質に取られました」と告げた。すると光遠は騒がずしていった、
「その女房を質にとることができたのは、昔の薩摩氏長だけだ。」
告げにいった男が、変だなと思いながら、家に帰って様子を伺い看ると、九月ばかりのこととて、姫は薄綿の衣一つばかりを着た姿で、片手で口を覆い、もう片方の手で、男の刀を持ったほうの肘を、そっとつかんでいた。
男は、大きな刀を逆手に握って姫の腹の方に差し宛て、後から脚を絡ませて姫に抱きついていた。すると姫君は、右の手で男の刀を持った手をそっとつかみ、左手で顔を塞いでいたが、その左手で、前のほうに転がっていた二三十本ばかりの箭篠を次々と掴み取るや、節のところを、指で板敷に押しあてて、遊び始めた。箭篠はまるで柔らかな朽木のように砕けた。それを見た男は大いに驚き、賊の男も目をむいて驚いた。
覗いていた男はこの様子を見て思った、
「兄君が騒がれぬのは理だ。力自慢の兄君でも、鐵鎚を使わなければこの節は砕けまい。それなのにこの姫君は、やすやすと砕いてしまった。あの男もそのうち、ひしがれてしまうだろう。」
姫君を質に取っていた男も、すっかり観念して、
「たとえ刀でついても、無駄だろう。女とはいえ、とんだ力持ちだ。この調子だと、五体をへし折られてしまうぞ。」
こういうと、姫を捨ててひた走りに走って逃げたが、追ってきた人々に捕らえられて、光遠の前に引き出された。
光遠は男に向かって、
「折角質に取ったのに、何故逃がして逃げたのだ」と聞くと、男はこう答えた。
「普通の女と思って質に取りましたが、大きな篠竹の節を手で簡単につぶすところを見て、肝をつぶしました。このままでは自分の腕も折られてしまうだろうと思い、逃げ出したのです。」
光遠はこれを聞くと、あざ笑っていった。
「この女房は簡単にはやられないぞ。やろうとすれば、お前の腕を取り、そのまま突上げて肩の骨を突き破るだろうよ。よく無事ですんだものだ。何かの因縁で、助かったのだろう。この光遠でも、お前なぞは簡単に殺せるぞ。お前の肱を取って打伏せ、腹骨を踏めば、お前は生きてはおれまい。ところがこの女房はこの光遠二人分の力を持っておる。女らしくは見えるが、この光遠でも力ではかなわないのだ。もしも男であったなら、向かうところ敵なしだったろうに、残念なことだ。」
この質取の男は、なかば死ぬ心地がして、
「普通の女と思って、いい質を取ったと思っておりましたが、こんなにすごいお人だとは思いもしませんでした。」と泣く泣くいった。
光遠は
「本来ならお前を殺すところだが、この女房にかかずらうのを早くあきらめ、逃げたことで命が助かったのを、あながちに殺すこともなかろう。よく聞いておけよ、この女房は、鹿の角の大きいのを膝に宛てて、枯木を折るように簡単に折ってしまうのだぞ。お前を殺すなどは、朝飯前だ。」
そういって、男を逃がしてやったのだった。
實に馬鹿力の女もいたことよと、語り傳えたそうだ。

女の力自慢の話は、古来民衆に人気があったようで、徳川時代になっても、大力お万の物語などが、講談で語られた。今昔物語集にあるこの物語は、そうした女力自慢の嚆矢といえる作品だろう。
一方では女らしく、顔を手で覆ったりしているが、他方では大力ぶりを何気なく示す。それを見たものは誰でも、恐れおののかずにはいられない。
なお、大井光遠は平安時代に実在した力士(りきじと呼んだ)、その妹があったかどうかは確かでないが、女の力士(力女といった)は制度としては存在したらしい。というのも、平安朝政府が全国に力女の推薦を命じた記事が、記録に残っているからである。
力士や力女の役目は、相撲を通じて国家安泰、五穀豊穣を祈ることにあった。  
2
今は昔、甲斐国(現在の山梨県)に大井光遠(おおいみつとお)という強力な力士がいた。身長は低いが体格はがっしりとしたアンコ型で、腕力が強く、相撲の足技を得意としている。大井光遠には、年齢が27〜28歳くらいの美人の妹がいて、光遠とは別の家宅に住んでいた。
ある日、逃亡中の強盗が妹の部屋に押し掛けてきて、抜き身の刀を妹に突きつけて人質にしてしまった。その状況を見ていた(光遠の)従者は、慌てて光遠に妹のピンチを報告するのだが、光遠は全く慌てる様子もなく、妹を助けに行こうともしない。その様子を不思議に思った従者は、再び妹の部屋へと戻っていき、戸の隙間から人質にされているはずの妹の様子を覗いてみた。
陰暦九月ころということもあって、姫君は薄い綿入れの着物を一枚着ているだけである。姫君は片方の手で口を覆い、もう一方の手で男が刀を抜いて突きつけている手を、やんわりと掴んでいるようである。
男は恐ろしい威圧感のある大きな刀を逆手に持って、姫君のお腹に突きつけ、両足を組んで後ろから抱きかかえている。
姫君は、右手で男が刀を突きつけている手をやんわりと握るようにして、左の手で自分の顔を隠している。大人しくして泣いている感じだったが、その左手を顔から外して、目の前に散らばっている荒削りの矢竹を二、三十本掴み取って、手慰みに、節のあたりを指で板の間に押し付けてすり潰すようにした。すると、硬い矢竹が、まるで柔らかい枯れ木を押し砕くかのように、簡単にバリバリと砕けてしまい、それを見ていた従者は非常に驚き、妹を人質にしていた強盗も目を見張った。
この状況を見ていた従者は、「兄の光遠様が全く慌てず騒がなかったのは道理である。怪力を誇る兄であっても、鉄鎚で叩いて砕かなければ、あの矢竹はあんな風に粉々にはならない、この姫君はどんなに強い力をお持ちになっているのだろうか。姫君を人質にとった男は、今にひねり潰されてしまうだろう 」と思いながら見ていた。
姫君を人質に取った強盗もこの怪力を見せ付けられて、自分ではどうしようもないと感じ、「たとえ刀で突いたって、突くことはできないだろう。この女の力であれば腕を取られてひねり上げられてしまうし、下手をすれば手足を打ち砕かれてしまうかもしれない。どうしようもない、逃げよう 」と思った。周囲の状況をうかがいながら、人質の姫君を手放して、飛ぶように走って逃げてしまった。しかし、大勢の光遠の家来に追いかけられた強盗は、捕まえられて縛り上げられた。強盗は光遠の元へと連行されていく。
光遠は捕まえた強盗に、どうして人質の妹を捨てて逃げたのかと問い質した。強盗は、普通のか弱い女だと思って人質にしたのだが、矢竹の節の部分を指で押し砕く様子を見て、このままでは自分が殺されてしまうと思って怖くなって逃げたと答えた。その答えを聞いた光遠は大笑いして、妹はお前なんかには殺されることはない、刀で突こうとしても腕をねじり上げられ、無理に突こうとすれば腕を引き抜かれるだけだろうと語る。
お前が殺されなかったのは、前世の因縁のお陰だから感謝したほうが良い、妹は体格は細いがその力は力士である俺の2倍はあるのだから。俺でも妹から本気で腕を掴まれると、腕が痺れて指が広がってしまうほどの怪力だ。女性だから力士になることができないのは残念だがと光遠は言う。
光遠の話を聞いて、強盗は真っ青な顔色になり、死んだ心地がした。恐怖のあまり泣き出してしまう有様である。光遠は、本来であればお前のような強盗は殺してしまうところだが、妹には怪我が無かったし、お前も運が良く元気に生きているのだから、無理に殺してしまうことも無いだろう。妹が本気になれば、あんな細腕でも枯れ木を折るかのように鹿の堅い角をへし折ってしまうのだから、お前なんか簡単にひねり潰されてしまうなどと強盗を散々にからかって恐れさせてから、生きたまま釈放してやった。
(光遠の妹は)本当にとんでもない怪力の女だと語り伝えられているとか。 
3
妹の力
かつて、甲斐の国に大井光遠(おおいのみつとお)という相撲取りがいた。大柄ではないが筋骨逞しく、力が強いうえに動きが機敏で、技にたけた力士であった。
光遠には妹がいて、歳は二十七八。姿形の整った、なかなかの美人である。
あるとき、人に追われた男が逃げ込んできて、光遠の妹に刀を突きつけ、人質にとって立てこもった。
下人たちはこれに驚き、光遠のところに走った。
「大変です。かくかくしかじかで、姫君が人質にとられてしまいました」
しかし、光遠は平気であった。
「あの女を人質にとれるのは、薩摩の氏長ほどの怪力だけだよ」
こう言って動こうとしないので、しかたなく知らせた下人はまた走り戻ったが、光遠の言ったことに納得がいかないので、壁の隙間から中を覗いてみた。
九月のことで、姫君は薄綿の衣を着ている。片方の袖で顔を隠し、もう片方の手は、刀をさし当てている男の腕を弱々しく掴んでいる。男はおそろしげな大刀を逆手に握って姫君の腹のあたりに押し当て、脚で後ろから抱きかかえるようにして坐っている。
姫君は左の袖で顔を覆って泣いているようだが、さらによく見ると、左手の先は、矢の幹にする篠竹が床に散らばっているのを、手まさぐりしている。指で板敷の床に押しにじると、あの固い篠竹の節が、柔らかい朽木を押し潰すように砕けてしまった。
「すごい馬鹿力だ!」と呆れていると、人質に取っている男もそれを見て仰天したようである。
下人は思った。 「兄上の殿が騒がなかったのももっともだ。あの強力の相撲取りでも、金槌で叩いたりしてこそ、篠竹を砕くことができるだろう。姫の力は途方もないものだ。あいつ、ひねり殺されてしまうぞ」
人質にとった男も思った。 「刀で突こうにも、突けるもんじゃない。この女の力なら、おれの腕を握り潰してしまうだろう。それどころか、体ごと打ち砕かれてしまう。いかん、逃げよう」
隙をうかがい、人質を捨てて走り出た。懸命に逃げたが、大勢に追われて、押さえこまれ縛られてしまった。
男は光遠の前に連行された。
「おまえ、なんでまた人質を捨てて逃げたのだ」
光遠の問いに男は応えて、
「追いつめられていたものですから、普通の女のように思って人質にとったのです。ところが、ふと見ると、大きな矢の幹の節を、朽木みたいに砕いておられるじゃありませんか。この力にかかったら腕を折り砕かれてしまうと思って、とにかく逃げ出したのです」
光遠はあざ笑った。
「そうとも。あの女を突くことなどできっこない。突こうとした腕をねじって上に突き上げられたら、肩の骨ごと、もげてしまうぞ。よくもまあ、おまえの腕が抜けずにすんだことだ。なにかの宿縁があって、妹がそうしなかったのかもしれん。この光遠だって、おまえを素手でひねり殺してみせよう。腕をねじって打ち伏せ、背中や腹を踏みつけたなら、おまえは生きていられない。ところがあの女は、光遠二人分の力を持っているんだ。見た目は華奢だが、おれが戯れに触れた腕をちょっと掴まれると、それだけで力が抜けて手を放してしまう。あれが男だったら、向かうところ敵なしなのに、惜しいことに女なんだなあ」
この話を聞くに、男は半分死んだような心地であった。
「普通の女のつもりで、よい人質をとったと思っていました。そんな御方とはつゆ知らず……」
泣く泣く詫びるので、光遠は、
「あんな真似をしたおまえだから、本来なら殺すところだ。しかし考えてみれば、妹が危ない目にあったというより、この場合おまえが命拾いしたのだから、あえて殺すこともあるまい。なあ、よく聞け。あの女はな、鹿の角の大きなのを膝に当てて、あの細腕で枯木を折るようにへし折ってしまう者だぞ。ましておまえなんか、問題にならないのだ」
と言って、男を追い逃がしてやった。
実際とんでもない力をもった女がいたものだと、語り伝えたのである。 
東の小女、狗と咋ひ合ひて互に死ぬる語 (今昔物語集巻二六) 
犬と少女
昔、某国某郡に住む人の家に、年は十二か三ばかりの召使いの少女がいた。
その家の隣では白い犬を飼っていたが、この犬は少女を目の敵にして、つねに噛みつこうとするのだった。一方の少女も犬を見かけると、ひたすら打とうとして向かっていく。人はその様子を見て、どういうわけだろうと不思議がっていた。
そうするうち、少女は病気になった。たちの悪い流行病だったのか、日を追って重患となったので、主人は風習に従って、少女を家の外のどこかに隔離して住まわせることにした。
すると少女は言った。
「わたしを人目のないところに置いたら、あの犬に喰い殺されてしまいます。わたしが元気で、しかも人が見ているときでさえ、かまわず襲ってくるのです。人のいないところに重病で臥していたら、きっと喰い殺されるでしょう。ですから、あの犬には決して分からないところにしてください」
主人は少女の心配をもっともだと思ったから、必要な品々を調えて、遠い場所にこっそり行かせることにした。
「毎日、一度か二度は必ず、だれかを見舞いにやるからな」
となだめすかして、家から出したのであった。
その翌日、隣の犬は家にいた。それで「あいつは知らないのだ」と安心していたところ、次の日、犬は姿を消した。
もしやと思って、少女のところへ人を遣った。使いの者が行って見ると、犬が少女に噛みつき、少女もまた犬に噛みついて、どちらも死んでいた。
知らせを聞いて、少女の主人も犬の主人も現場に駆けつけ、無惨な有様を見て驚きつつ、少女のことを哀れがった。
この両者は現世だけの仇敵だったとは思われないと、人みな不思議がったということだ。 
鎮西の人、双六を打ち敵を殺さむと擬て、下女等に打ち殺さるる語 (今昔物語集巻二六) 
荒武者の最期
昔、鎮西の某国に住んでいる人が、客と双六をしていた。客は弓矢を常に携えた気の荒い武者であり、主人とは互いの妻が姉妹という間柄であった。
双六の勝負は、言い争いから腕力にものをいわせるような始末になりがちである。この二人も、賽の振り方、目の出方のことから喧嘩をはじめた。
荒武者は主人の髻を掴んで押さえつけ、腰にさした短刀を抜こうとするが、刀は鞘についた緒で結びつけてある。緒をほどこうとするに、主人は押さえつけられながらも必死で刀の柄に取りついていて、荒武者の力をもってしても容易なことではない。
そうして争ううち、そばの遣戸に包丁がさしてあるのが荒武者の目に入った。これは好都合と、髻を掴んだまま連れていこうとする。主人は、
「あそこまで行ったら、もうだめだ。突き殺されてしまう」
と思って、懸命に逆らった。
さて、その家の台所では下女たちが多数、杵で粉をつき、にぎやかに酒造りの準備をしていた。
抵抗むなしくずるずると引きずられていく主人が、声を限りに、
「助けてくれ!だれか!」
と叫ぶと、そのとき家に男はほかに一人もいなかったが、下女たちが聞きつけて、手に手に杵をひっ提げて駆けつけた。
「あらヤダ。旦那が殺られちまうよ」
最初の一人が駆け寄って、荒武者の頭にポコンと杵を振り下ろすと、荒武者たまらず昏倒した。そこをみんなで取り囲んでボコボコにしたので、荒武者は死んでしまった。
きっとその後、しかるべき役所の処置があったのだろうが、それは知らない。
荒武者にとって主人は物の数ではない敵だったのに、あろうことか下女たちに打ち殺されてしまったわけで、これを聞く人は、
「あきれた話もあったものだ」
と取り沙汰したと語り伝えている。 
女、醫師の家に行き瘡を治して逃ぐる語 (今昔物語集巻二四第八)
今は昔、典藥頭にて□といふやむごと無き醫師有りけり。世に並無き者なりければ、人皆此の人を用ゐたりけり。
而る間、此の典藥頭に、極じく裝束仕りたる女車の乘りこぼれたる、入る。頭、此れを見て「何くの車ぞ」と問ひぬれども、答もせずして、只やりにやり入れて、車を掻き下して、車の頸木を蔀の木に打懸けて、雜色共は門の下に寄りて居ぬ。
其の時に頭、車のもとに寄りて、「此れは誰がおはしましたるにか。何事を仰せられにおはしましたるぞ」と問へば、車の内に其の人とは答へずして、「然るべからむ所に局して、下し給へ」と、愛敬付き、おかしき氣はひにて云へば、此の典藥頭はもとよりすきずきしく、物目出しける翁にて、内に角の間の人離れたる所を、俄に掃き淨めて屏風立て畳敷きなどして、車の許に寄りて、□たる由を云へば、女、「然らばのき給へ」と云へば、頭のきて立てるに、女、扇を差し隠して居り下りぬ。車に共の人乘りたらむと思ふに、亦人乘らず。女下るるままに、十五六歳許なる□の女の童ぞ車の許に寄り來て、車の内なる蒔繪の櫛の筥取りて持て來ぬれば、車は、雜色共寄りて牛懸けて、飛ぶが如くに□の去りぬ。女房のる□所に居ぬ、女の童は、櫛の筥をつつみて隠して、屏風の後にかがまり居ぬ。其の時、頭寄りて、「此れはいかなる人の□、何事仰せられむずるぞ。疾く仰せられよ」と云へば、女房、「此ち入り給へ。恥聞かすまじ」と云へば、頭簾の内に入りぬ。女房差し向ひたるを見れば、年卅ばかりなる女の、頭付より始めて目・鼻・口、ここは悪しと見ゆる所無く端正なるが、髪いみじく長し、香こうばしくてえならぬ衣共を着たり。恥かしく思ひたる氣色もなくて、年來の妹などの樣に安らかに向ひたり。頭これを見るに、希有に恠しと思ふ。いかさまにてもこれは我が進退に懸けてむずる者なめりと思ふに、齒も無く極めて萎める顔をいみじく笑ひて、近く寄りて問ふ。况や、頭、年來の嫗共失せて三四年に成りにければ、妻も無くて有りける程にて、喜しと思ふに、女の云はく、「人の心の疎かりける事は、命の惜しさには萬の身の恥も思はざりければ、只いかならむわざをしても命をだに生きなばと思えて、參り來つるなり。今は生けむも殺さむも、そこの御心なり。身を任せ聞えつれば」とて、泣く事限り無し。
頭、いみじくこれを哀れと思ひて、「いかなる事の候ふぞ」と問へば、女、袴の股立を引き開けて見すれば、股の雪の樣に白きに、少し面腫れたり。その腫、頗る心得ず見ゆれば、袴の腰を解かしめて前の方を見れば、毛の中にて見えず。然れば、頭、手を以てそこを捜れば、あたりにいと近く はれたる物有り。左右の手を以て毛を掻き別けて見れば、專らに慎むべき物なり。□にこそ有りければ、極じくいとほしく思ひて、「年來の醫師、只この功に、無き手を取り出だすべきなり」と思ひて、其の日より始めて、只、人も寄せず、自ら襷上をして夜晝つくろふ。
七日ばかりつくろひて見るに、吉く癒えぬ。頭、いみじく喜しく思ひて、「今暫くはかくて置きたらむ。其の人と聞きてこそ返さめ」など思ひて、今はひやす事をば止めて、茶椀の器に何藥にてか有らむ摺り入れたる物を、鳥の羽を以て日に五六度付くばかりなり。今は事にも非ずと、頭の氣はひも喜し氣に思ひたり。
女房の云はく、「今あさましき有樣をも見せ奉りつ。偏へに親と頼み奉るべきなり。されば返らむにも御車にて送り給へ。其の時にそれとは聞えむ。亦、ここにも常に詣で來む」など云へば、頭、今四五日ばかりはかくて居らむと思ひて、緩みて有る程に、夕暮方に、女房宿直物の薄綿衣一つばかりを着て、この女の童を具して逃げにけるを、頭かくとも知らで、「夕の食物參らせむ」と云ひて、盤に調へすゑて頭自ら持ちて入りぬるに、人も無し。只今然るべき事構へつる時にこそは有らめと思ひて、食物を持て返りぬ。
さる程に、暮れぬれば、先づ火灯さむと思ひて、火を燈臺にすゑて持て行きて見るに、衣共を脱ぎ散らしたり。櫛の筥も有り。久しく隠れて屏風の後に何態するにか有らむと思ひて、「かく久しくは何態せさせ給ふ」と云ひて、屏風の後を見るに、何しにかは有らむ。女の童も見えず。衣共着重ねたりしも、袴も、然乍ら有り。只、宿直物にて着たりし薄綿の衣一つばかりなむ無き。「無きにや有らむ、此の人はそれを着て逃げにけるなめり」と思ふに、頭、胸塞がりて爲む方も無く思ゆ。
門を差して、人々數た、手毎に火を灯して家の内を□に、何しにかは有らむ、無ければ、頭、女の有りつる顔・有樣面影に思えて、戀しく悲しき事限り無し。忌まずして本意をこそ遂ぐべかりけれ、何しにつくろひて忌みつらむと、悔しく妬くて、然れば「無くて、憚るべき人も無きに、人の妻などにて有らば、妻に爲ずと云ふとも、時々も物云はむにいみじき者儲けつと思ひつる者を」と、つくづくと思ひ居たるに、かく謀られて逃がしつれば、手を打ちて妬がり、足摺をして、いみじげなる顔に貝を作りて泣きければ、弟子の醫師共は、密かにいみじくなむ笑ひける。世の人々もこれを聞きて、笑ひて問ひければ、いみじくいかり諍ひける。思ふに、いみじく賢かりける女かな。遂に誰れとも知られで止みにけりとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、典藥頭にて某という立派な醫師がおった。世に並びなき名医だったので、多くの患者がいた。
あるとき、この典藥頭の家に車が入ってきた、戸の中から女物の派手な装束が覗いている。それを見た頭が「どこの車だ」と聞いても、答えることもなくどんどん入ってきて、車をおろすと、頸木を蔀の木に打懸け、雜色共は門の下にかしこまっていた。
頭は車に近づくと、「どなたがお出でになったかの、どんな用事がござろうかの」と聞いたが、車の中の人はまともに答えず、「どこか適当な部屋を用意して、そこに連れて行って」と、甘えるような声でいった。
頭は好色ものの爺であったので、家の中の隅のほうの、人が普段近づかない部屋を、掃いたり、屏風を立てたり、畳を敷いたりして、そこに案内しましょうといった。すると車の中の女は、扇をかざして出てきたのだった。
頭は車の中にお供のものがいるのではないかと思ったが、誰もいなかった。女が下りると、女の童が車に近寄り、中から櫛の筥を取り出してきた。すると雑色どもが車に牛をつけて、飛ぶように去っていった。
女は部屋の中に入り、女の童は櫛の筥を持って屏風の後ろにかしこまった。
頭は女に近寄って、「これはどなたが、どのような用事でおいでかの」と聞いた。すると「こっちへ入ってきてちょうだいな、他の人に聞かれるのは恥ずかしいから」と女がいうので、頭は簾の中に入ったのだった。
差し向かいになって女をみると、年は三十ばかり、頭付から始めて、目、鼻、口など、どこを見ても申し分のない美しさ、髪は長く、かぐわしい香りのする衣装を着て、恥ずかしがる様子もなく、まるで自分の妹のように打ち解けた様子に見えた。
頭は女をみて、すっかりいかれてしまった。この女は自分の思い通りになるかもしれぬと思うと、歯が抜けて縮んだ顔をくしゃくしゃにして、笑ったりするのだった。なにしろ妻をなくして三四年独身で過ごしたので、うれしいこと限りない。すると女のいうには、「命は何者にも代えがたく、助かるためには何事も恥ではありません、どんなことをしてでも生きたいの、その思いでやって参りました、生かすも殺すもあなた様次第、身をお任せしますから救ってくださいな。」そういうと、さめざめと泣くのだった。
頭はたいそう気の毒に思って、「どうしましたか」と聞いた。すると女は袴の股のあたりを開いて、陰部のところを見せた。雪のように白い肌に少し腫れたところが見える。更によく見ようとして、袴を脱がせたが、陰毛が邪魔をして好く見ることが出来ぬ。そこで左右の手で毛を掻き分けると、大きな腫瘍があるのが見えた。頭はいよいよ気の毒になって、「日頃の技をふるって是非直してさしあげよう」という気になり、その日から人も寄せ付けず、一心に腫瘍の治療にあたったのだった。
七日ばかりたつと、腫瘍はようやく治ってきた。頭は大変喜び、「もう少しこのままここにおいて、素性を聞きただしたうえで帰してやろう」などと思いながら、もう冷やすことはやめ、すり薬を鳥の羽で日に五六度ぬるばかりになった。
「あさましい有様をお見せしたからには、偏に親とも思いましょう、治ったらどうか車で送ってください、素性などはその折、車の中で申し上げましょう、また今後は足しげく通って参りましょう」女がこういうのを聞いて、頭は、あと四五日はおるだろうと油断していたところ、ある夕暮方、女は女童をつれてひそかに逃げてしまったのだった。
頭はそうと知らず、自分で作った夕食を運んできたところ、女の姿がない。今日こそはねんごろにしたいと思っていたのに、宛が外れて、虚しく食事を下げたのだった。
そのうち、日が暮れたので、部屋に灯りをつけようと思い、火を燈臺に据えて持っていくと、部屋の中には、衣服が散らばっており、櫛の筥も転がっていた。頭はもしかして屏風の浦に隠れているのではと、「何故こんなに長く隠れておるのかの」といいながら屏風の裏を覘いた。
だが女も女童も見えない。いままで女が着ていた衣装はそのままに、ただ夜着としていた薄綿の衣が見当たらない。頭は、さて女はこの薄綿の衣を着て逃げたのだと、ようやく気づいたのだった。すると胸がふさがる思いにとらわれるのだった。
門を閉じて、大勢の人々に灯りを持たせて、家中を探させたが、女の出てくるはずもない。頭は、女の顔を思い出すにつけ、恋しく、悲しくて仕方がない。
「病気だからといって遠慮しないで、早いことものにしておけばよかった、なんでまた治療してからなどと考えたのだろう」こう思うと、悔しく、妬ましくもあり、また、「家の中でならはばかるべき人もないのに、また仮に人妻だったとしても、物語のよき相手にはなれただろうに」などと、つくづく思いやられた。
それをこんな風にあっさりと逃がしてしまったので、頭は、手を打って妬み、足摺りをして悔しがり、間抜け面で泣いたので、弟子の医師たちはそれを見て、たいそう笑ったのだった。また世間の人もこのことを面白がって笑ったので、頭は大いに怒った次第であった。
それにしても、利口な女だった。その素性はついに、誰にも知られずに終ったということである。
巻23が武芸譚、つまり人間の身体的な能力にかんする物語を集めているのに対して、巻24は、知恵の功徳に関する物語を集めている。その知恵とは、学問であったり妖術であったり、はたまた相手の弱みに付け込んでだましたりする話である。
この第八話は、色好みの医者と、それをだまして陰部にできた腫瘍を治してもらう賢い女の物語である。

典藥頭とは、典藥寮という役所の長官である。典藥寮とは宮中の医療機関であるが、医療に関するあらゆる事項、つまり実際の医療行為、医療に関する情報の収集、薬品の栽培そして医師の養成といった、幅広い業務を所管していた。園長官とはだから、国立病院の院長と厚生大臣を兼ねたようなものだったといえる。
この物語に出てくる典藥頭はすこぶる好色な老人として書かれているが、それにはわけがある。宮中には、徳川時代の大奥に匹敵するような女性たちの世界が形成されていたが、彼女らが病気になると、典藥寮の医師たちが治療にあたった。典藥頭と宮中の女性たちとは、医師と患者の関係にあったわけで、そこにエロティックな話題が成立する背景があったわけである。
こんな色好みの老人にたいして、女は気を持たせながらも、自分の体をたやすく触らせず、腫瘍が治ると、風のように身を隠してしまう。その辺はみごとなもので、この物語を読み終えたものは、「いみじく賢かりける女」かなと思わずにはいれらまい。
といって女が老人をだましたのかというとそうではない、気を持たせたことはあるが、自分から体を預けましょうなどとはいっていない、老人が勝手に逃げられたと思っているだけである。その意識の落差が面白い。  
蛇に嫁ぐ女を醫師もなほせる語 (今昔物語集巻二四)
今は昔、河内の國、讃良の郡、馬甘の郷に住む者有りけり。下姓の人なりと云へども、大きに富みて家豊かなり。一人の若き女子有り。
四月の比、其の女子、蚕養の爲に大きなる桑の木に登りて桑の葉を摘みけるに、其の桑の、路の邊に有りければ、大路を行く人の、道を過ぐとて見ければ、大きなる蛇出で來て、其の女の登れまとへる由を告ぐ。女これを聞きて驚きて見下したれば、實に大きなる蛇、木の本を纏へり。
その時に、女こがれ迷ひて、木より踊り下るる、蛇、女に纏ひ付きて即ち婚ぐ。然れば女、焦れ迷ひて死にたるが如くして、木の本に臥しぬ。父母これを見て泣き悲しんで、忽ちに醫師を請じてこれを問はむとするに、其の國にやんごとなき醫師有り、これを呼びてこの事を問ふ。其の間、蛇、女と婚ぎて離れず。醫師の云はく、「先づ女と蛇とを同じ床に乘せて、速かに家に將て返りては庭に置くべし」と。然れば、家に將て行きて、庭に置きつ。
其の後、醫師の云ふに随ひて粟の藁三束を燒く。三尺を一束に成して、三束とす。湯に合はせて汁三斗を取りて、此れを煎じて二斗に成して、猪の毛十把をきざみ末して、その汁に合はせて、女の頭に宛てて足を釣り懸けて、其の汁を開の口に入る。一斗を入るるに即ち離れぬ。這ひて行くを打ち殺して棄てつ。その時に、蛇の子凝りて蝦蟆の子の如くにして、其の猪の毛、蛇の子に立ちて、開より五升ばかり出づ。蛇の子皆出ではてぬれば、女悟め驚きて物を云ふ。父母泣く泣く此の事共を問ふに、女の云はく、「我が心更に物思えずして、夢を見るが如くなむ有りつる」と。
然れば、女、藥の力に依りて命を存する事を得て、慎み恐れて有りけるに、其の後三年有りて、亦此の女、蛇に婚ぎて、遂に死にけり。此の度は、此れ前生の宿因なりけりと知りて、治する事無くて止みにけり。但し、醫師の力、藥の驗、不思議なりとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、河内の國、讃良の郡、馬甘の郷に住んでいる人があった。身分は卑しかったが、家は大いに富み栄えていた。そのものに一人娘がいた。
四月の頃、その娘は、養蚕のために桑の木に上って桑の葉を摘んでいた。木は道端に生えていたので、大きな蛇が出てきて木の根元に巻きついている様子が、道を歩いていた人にはよく見えた。そのことを知らされた娘が、驚いて下のほうを見ると、大きな蛇が木の根元に巻きついている。
娘はびっくり仰天して木から転げ落ちた。その拍子に、蛇は娘にまといついて、娘の陰部の中にもぐり込んでしまった。娘は死んだようになって、木の根元に横たわったままになった。
両親はその様子をみて嘆き悲しみ、医師を呼び寄せた。早速、その国に非常に名の知れた医師がやってきたが、蛇はまだ娘の陰部の中にもぐり込んだままだ。そこで医師がいうには、
「まず娘と蛇とを同じ床に乗せて、家に連れて行って、庭に置いてください。」
こういわれて、両親は娘と蛇を家の庭に置いたのだった。
その後、医師にいわれるまま、粟の藁を三束焼き、それを湯につけて汁三斗をとり、その汁を煎じて二斗になし、いのししの毛十把を刻んで粉末にしたものを加えて、あわせ汁にし、娘を逆さづりにしたうえで、上向きになった女陰のなかにその汁を注ぎ込んだのだった。
一斗入れたところで、蛇は離れて外へ出た。這って逃げるところを、打ち殺して捨てた。その際に、おたまじゃくしのような蛇の子が、いのししの毛を立てた姿で、五升ほども、女陰の中から出てきたのだった。娘はやがて目を覚ましたが、このことを語って聞かされると、「夢を見ていたようでした」と答えた。
こんなわけで、娘は薬のおかげで助かったことを、ありがたく思ったのだった。
その三年後、娘は再び蛇に侵入された。だがそのたびは、これも前生の宿因とて、治療することもなく、死んでしまったのだった。
医師の力、薬の効能の不思議さについて、語り伝えられた話である。

人が獣と交わる獣婚の物語は、民間の説話のなかで語られていたのを、今昔物語集の作者が取り上げたのだろうか。現代人の感覚からすると、おどろおどろしい素材をさらりと語っているから、当時の民衆は、獣について今とは異なった感情を持っていたのかもしれない。
だが蛇だけは、あまりプラスには評価されていなかったようだ。この物語では、蛇が人間の娘に横恋慕して、無理やり婿になるのを、人間の側で退治している。
巻24は、もともと人間の知恵の賢さを強調する話を集めているのだから、蛇はそうした獣退治の対象となるような、厭うべき動物と思念されているわけである。
そこで、娘はいったん、薬の効用によって助けられるのだが、二度目には、これも前世の因縁とあきらめて、治療されることなく死んでしまう。なんとも、やるせないような物語だ。
娘の陰部の中から、蛇の子がおびただしく出てきたというところなどは、思わずぎょっとさせられる。  
安倍晴明、忠行に随ひて道を習ふ語 (今昔物語集巻二四第十六)
今は昔、天文博士安倍晴明と云ふ陰陽師有りけり。古にも恥ぢず、やんごと無かりける者なり。幼の時、賀茂忠行と云ひける陰陽師に随ひて、晝夜に此の道を習ひけるに、聊かも心もと無き事無かりける。
而るに、晴明若かりける時、師の忠行が下渡りに夜歩きに行きける共に、歩にして車の後に行きける。忠行、車の内にして吉く寢入りにけるに、晴明見けるに、えもいはず怖しき鬼共、車の前に向ひて來たりけり。晴明此れを見て、驚きて車の後に走り寄りて、忠行を起して告げければ、其の時にぞ忠行驚きて覺めて、鬼の來たるを見て、術法を以て忽ちに我が身をも恐れ無く、共の者共をも隠し、平かに過ぎにける。其の後、忠行、晴明を去り難く思ひて、此の道を教ふる事、瓶の水を写すが如し。然れば終に晴明、此の道に付きて公私に仕はれて、糸やんごと無かりけり。
而る間、忠行失せて後、此の晴明が家は、土御門よりは北、西洞院よりは東なり、其の家に晴明が居たりける時、老いたる僧來たりぬ。共に十餘歳計なる童二人を具したり。晴明此れを見て、「何ぞの僧の何こより來たれるぞ」と問へば、僧、「己れは播磨の國の人に侍り。其れに、陰陽の方をなむ習はむ志侍る。而るに、只今此の道に取りてやんごと無くおはす由を承はりて、小々の事習ひ奉らむと思ひ給へて參り候ひつるなり」と云へば、晴明が思はく、「此の法師は、此の道に賢き奴にこそ有りぬれ。其れが我れを試みむと來たるなり。此の奴に悪く試みられては口惜しかりなむかし。試みに此の法師少し引き陵ぜむ」と思ひて、「此の法師の共なる二人の童は、識神の仕へて來たるなり。若し識神ならば、忽ちに召し隠せ」と心の内に念じて、袖の内に二つの手を引き入れて印を結び、蜜かに咒を讀む。其の後、晴明、法師に答へて云はく、「然か承はりぬ。但し、今日は自ら暇無き事有り。速かに返り給ひて、後に吉日を以ておはせ。習むと有らむ事共は、教へ奉らむ」と。法師、「あなかしこ」と云ひて、手を押し摺りて額に宛て、立ち走りていぬ。
今は一二町は行きぬらむと思ふ程に、此の法師亦來たり。晴明見れば、然るべき所に車宿などをこそ覗き歩くめれ。覗き歩きて後に、前に寄り來て云はく、「此の共に侍りつる童部、二人乍ら忽ちに失せて候ふ。其れ給はり候はむ」と。晴明が云はく、「御房は希有の事云ふ者かな。晴明は何の故にか、人の御共ならむ童部をば取らむずるぞ」と。法師の云はく、「我が君、大きなる理に候ふ。尚免し給はらむ」と侘びければ、其の時に晴明が云はく、「吉し吉し、御房の、人試みむとて識神を仕ひて來たるが、安からず思ひつるなり。然樣には、異人をこそ試みめ、晴明をば此く爲でこそ有らめ」と云ひて、袖に手を引き入れて、物を讀む樣にして暫く有りければ、外の方より此の童部二人乍ら走り入りて、法師の前に出で來たりけり。其の時に法師の云はく、「誠にやんごと無くおはす由を承はりて、試み奉らむと思ひ給へて、參り候ひつるなり。其れに識神は、古より、仕ふ事は安く候ふなり、人の仕ひたるを隠す事は更に有るべくも候はず。あなかしこ、今より偏へに御弟子にて候はむ」と云ひて、忽ちに名符を書きてなむ取らせたりける。
亦、此の晴明、廣澤の寛朝僧正と申しける人の御房に參りて、物申し承はりける間、若き君達・僧共有りて、晴明に物語などして云はく、「其この識神を仕ひ給ふなるは、忽ちに人をば殺し給ふらむや」と。晴明、「道の大事を此く現はにも問ひ給ふかな」と云ひて、「安くはえ殺さじ、少し力だに入れて候へば、必ず殺してむ。蟲などをば、塵ばかりの事せむに必ず殺しつべきに、生く樣を知らねば罪を得ぬべければ、由無きなり」など云ふ程に、庭より蝦蟆の、五つ六つばかり、踊りつつ池の邊樣に行きけるを、君達、「さは、彼れ一つ殺し給へ。試みむ」と云ひければ、晴明、「罪造り給ふ君かな。然るにても、試み給はむと有れば」とて、草の葉を摘み切りて、物を讀む樣にして、蝦蟆の方へ投げ遣りたりければ、其の草の葉、蝦蟆の上に懸かると見ける程に、蝦蟆は眞平に□て死にたりける。僧共此れを見て、色を失ひてなむ恐ぢ怖れける。
此の晴明は、家の内に人無き時は識神を仕ひけるにや有りけむ、人も無きに蔀上げ下す事なむ有りける。亦、門も、差す人も無かりけるに、差されなんどなむ有りける。此く樣に希有の事共多かりとなむ、語り傳ふる。
其の孫、今に公私に仕へてやんごと無くて有り。其の土御門の家も、傳はりの所にて有り。其の孫、近く成るまで識神の声などは聞えけり。然れば晴明、尚只者には非ざりけりとなむ、語り傳へたるとや。  
1
今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師があった。古の人にも恥じず、立派な人であった。若い頃、賀茂忠行という陰陽師のもとで修行し、昼夜をわかたず努力したので、なんでも出来ないことはなかった。
その晴明が若かった頃のこと、師の忠行が夜間下渡りに行ったお供に、車の後について歩いていった。忠行は車の中で寝入ってしまい、晴明が見張りをしていると、恐ろしげな鬼どもが前方からこっちへ向かってくるのが見えた。晴明は驚いて、忠行を起こしてその旨を知らせると、忠行は直ちに術法を以てその場をしのいだのだった。これ以降忠行は、晴明を頼もしく思い、この道のことを詳しく教えたので、瓶の水を移すように、すっかり吸収したのであった。
忠行が死んだ後、晴明は一人立ちをした。家は土御門よりは北、西洞院よりは東にあった。そこに、あるとき、老いた僧が、十餘歳ばかりの童を二人伴なって、訪ねてきた。
「どこからいらしたお坊さんですか」と晴明が訪ねると、僧は次のように言った。
「拙僧は播磨の國のものですが、日頃陰陽の法を覚えたく思っていたところ、あなたさまのお噂を耳にして、是非教えていただきたいと思い、参上した次第です。」
「この法師は、実際にはこの道に詳しいのであろう、ただこの俺を試そうと思ってやってきたのだろう、こんな奴に試されるのは癪に障る、逆にこちらから試してやろう」晴明はこう思いながら、「この童どもは、識神が使えているものに違いない、もしそうなら、呪文で姿を隠してやろう」と心のうちに念じて、袖のうちに両手を突っ込んで印を結び、密かに呪文を唱えた。
そうしたうえで、「お話の趣旨はわかりました、ただ今日は忙しくて時間が取れませんので、後日改めて来て下さい。その折に、教えるべきほどのことは、お教えしましょう」といった。法師は「ありがたいことです」といいおいて、その場は立ち去ったのだった。
もう行ってしまったと思っていると、この法師が戻ってきた。その姿を遠目に見ると、あちこちを覗き込んで、何かを探している様子である。そして晴明の前まで来ると、「供の童が二人ともいなくなってしまいました、どうか返していただきたい」というのだった。
「御房はおかしなことをおっしゃる、何でこのわたしがあなたのお供を隠さねばならんのですか」こう晴明がいうと、「たしかにそうではありますが、是非返していただきたい」と法師は重ねて詫言を言う。そこで晴明は、
「よしよし、あなたが識神など連れてきたので、腹がたったまでのことです、だがこのような技は他のものには通じても、この晴明には通じませんぞ」といいながら、袖に手を入れて、なにか呪文を唱えると、あの童たちが現れて、法師の前に出てきたのだった。
「眞にたいした方だとお伺いして、試してみるつもりで参上したのです。識神は昔から使いやすいものですが、その識神を隠すなどという芸当は、思いもよりませんでした。素晴らしいことです、これよりは是非弟子として、教えていただきたい」法師がこういうと、清明は早速名符を書いて取らせてやったのだった。
この清明が廣澤の寛朝僧正という人の下に参上したとき、傍らにいた君達・僧共が、「識神を自由にお使いになるのだったら、人を殺すことも簡単に出来るでしょうね」といった。清明は「大変なことを簡単にいうものですね」といいながら、「簡単に出来ることではありませんが、力を込めて行えば、必ず殺せます。だが虫を殺すように人を殺すことは、とんでもないことです」と答えた。
そのとき庭にガマカエルが五六匹、踊りながら池辺を歩いているのが見えた。それを「さあさあ、一匹殺してみてください」と、君達がせがむので、清明は「罪作りな方ですね、でもひとつやってみましょう」といいながら、草の葉をむしって、それに呪文をかけ、カエルに投げつけると、カエルは死んでしまった。僧共はそれを見て、色を失って怖じ恐れたのだった。
この清明は、家の中に誰もいないときなどには、識神をよく使ったということだ。人の姿が見えないのに、蔀戸が下ろされたり、門が自然と開け閉めされたという不思議な話が、語り伝えられたことから、そのことがわかる。
清明の子孫も、公私にわたって評判が高かった。その土御門の家も今に伝わっている。また孫の周辺では、最近まで識神の声が聞こえたということだ。こんなところからも、晴明のただならぬ様子がよくわかる。

陰陽道は平安時代にさかえた総合学芸ともいうべきもので、宇宙の万物を陰陽二道の組み合わせで説明する。
七世紀に中国から伝わり、平安時代には、人々の考え方や生活様式に多大な影響を与えた。今日でも、暦の運行や占いなどに取り入れられている。
陰陽道は、世界の動きを説明する原理として、科学的な性格も持っているが、同時に不可思議な力を持つともされた。この物語に出てくるまじないの威力やら、識神を使うということなどは、そうした側面を物語っている。
安倍晴明は平安時代の陰陽師であるが、日本の陰陽道の歴史の中でも最大のスターである。スターとして当然さまざまな逸話に彩られているが、この物語などは、晴明の不思議な能力を示す逸話として、広く信じられていたに違いない。  
2
今は昔、天文博士の安倍晴明(あべのせいめい,921-1005)という陰陽師がいた。昔の英傑・俊才にも恥じることがない、優れた人物である。幼少期から賀茂忠行(かものただゆき)という陰陽師の大家に従って、昼も夜もなく陰陽道を学び続け、その実力には何の不安や問題も無かった。
さて、この晴明がまだ若かった時期に、師匠・忠行が下京の辺りに夜間に外出すると聞いて、そのお供をしていた。晴明は徒歩で師が乗る牛車の後ろに従っていたが、忠行は牛車の中で熟睡していた。
晴明が牛車の前方に視線を向けると、何とも恐ろしい様子の鬼たちが、こちらに向かってやってくる。驚いた晴明はすぐに牛車に走り寄って、忠行を起こして鬼が迫る事態を報告した。
目を覚ました忠行は、鬼のやって来るのを見ると、隠形(おんぎょう)の術を用いて、すぐに我が身も従者の姿も、鬼たちの目から隠してしまった。そのお陰で、無事にその現場をやり過ごすことができたのである。
その後、忠行は晴明の側を離れがたいと思うようになり、まるで瓶(かめ)の中の水を別の容器に移し替えるかのように、陰陽道の奥義をすべて伝授した。その教育・指導によって、晴明は、陰陽道の分野で、公私にわたって重用されるようになったのである。
そして、忠行が亡くなった後のことである。晴明の家は土御門大路からは北、西の洞院大路からは東にあったが、ある日、一人の年老いた僧の装束をした陰陽師が訪ねてきた。お供に、十歳ほどの子どもを二人連れている。晴明が「御坊はどちらさまですか?どちらからやって来ましたか?」と問うと、老僧は「私は播磨の国(現在の兵庫県)の者です。私は陰陽道は志していますが、晴明先生がこの道で特に優れた能力を持っていると聞いて、少々ご指導をして頂きたいと思って参りました」と答えた。
その時、晴明は内心で「この法師は陰陽道でかなりの実力を持っているようだ。きっと私の力を試してみようと思ってやって来たのに違いない。ここで試されて失敗してしまったら恥をかいてしまう。その前にこっちからこの老僧の実力を試してやるか」とつぶやいた。
そこで、「この法師のお供をしている二人の子どもの正体は識神(陰陽師が操作可能な人間ではない霊的存在・紙型などに命を吹き込んで識神にしたりもする)だろう。もし識神ならすぐに隠してしまえ」と念じて、袖の中に両手を入れ、指を組み合わせて法印を結び、ひそかに呪文を唱えた。
そのまま何も知らない風を装って、晴明は法師に「私に教えを受けたいという御用は承知しました。ただ今日は用事があって時間が無いので、このままお引き取り願います。後日、改めて日を選んでここに来てください。習いたいことがあれば、全部教えて差し上げます」と答えた。法師は「おぉ、ありがたいことだ、ありがたいことだ」と手をすり合わせて額に当てて拝んだ。感謝した様子で、立ち上がって走り去っていった。
もう100〜200メートルほど行ったと思われる頃に、この法師がもう一度戻ってきた。晴明が見ていると、人の隠れていそうな所、車庫なんかを覗き込みながら、晴明のいる場所まで戻ってきて言った。「私の供をしていた子どもが、二人とも急に姿を消してしまいました。二人を返して貰えませんか?」と。
「不思議なことをいう御坊ですね。この晴明がどうしてお供の子どもを取り上げなければならないのだ?」と、知らないふりをした。法師が「先生、おっしゃることはごもっともです。どうか許してください」と謝った。すると、晴明は「よしよし分かった。御坊がこの私を試そうとして、識神(しきがみ)を連れてきたのが気に入らなかっただけだ。他の者には通用するかもしれないが、この晴明には通じない」とたしなめて、袖の中に手を入れて何か呪文を唱えるようにしていたが、暫くすると、外から子どもが二人走ってきて、法師の前に立っていた。
それを見た法師は、「実は、先生が非常に優れた陰陽師の権威だとお伺いして、一つ試してみようと思っていたのですが、私の負けですね。しかし、識神を使うのは昔から簡単なことですが、人の使っている識神を隠すことはできません。識神を簡単に隠せるとはやはり素晴らしい。ただ今から、先生の弟子にして頂きたい」とお願いした。すると、法師はその場で弟子が師に贈る名符(みょうぶ)を書いて、晴明に差し出したのである。
ある時、晴明が広沢の寛朝僧正の住居にお邪魔して、いろいろな相談をしていると、側にいた若い貴族や僧侶が晴明に話しかけてきた。「あなたは識神をお使いになるそうですが、その術で即座に人を殺すことができますか?」と質問した。晴明は、「陰陽道の奥義をずいぶんとあけっぴろげに聞くもんですね」と言って、「そう簡単に人は殺せませんが、少し念力を用いれば、必ず殺すことはできるでしょう。虫などであれば、ほんの一瞬の念力によって殺せますが、生き返らせる術は知らないため、殺生の罪を犯すことになります。念力での殺生は無益なことですよ」と答えた。
その時、庭先に5、6匹のカエルがいて、池のほうへと飛び跳ねていった。それを見た貴族の若者が、「では、カエルを一匹殺してみてください。あなたの力を試してみたい」と頼んだ。晴明は、「罪を犯したがる貴族さまですね。どうしても、お試しになりたいのであれば」と言って、草の葉を摘み取り、呪文を唱えてカエルのほうへと投げ遣った。すると、投げた草の葉がカエルの上に乗って、カエルはぺちゃんこに潰れて死んでしまった。これを見た僧侶たちは、顔色を真っ青にして怖がった。
晴明は、家人・従者がいない時には、識神を使用人として使ったのだろうか。人の気配もないのに、雨戸の開閉が勝手(自動的)に行われていた。また、門を閉める人もいないのに、ひとりでに閉まっていることがあった。晴明の周囲では、このような不思議な現象がいろいろと起こったと伝えられている。
晴明の子孫は今も朝廷に仕えて高位高官として重用されている。土御門の屋敷も代々受け継がれて伝えられている。子孫にも、つい最近まで識神を使う晴明の声が聞こえていたという。
そのため、安倍晴明はやはりただものではないと、語り伝えられているのだ。
玄象の琵琶、鬼の爲に取らるる語 (今昔物語集巻二四第二四)
今は昔、村上天皇の御代に、玄象と云ふ琵琶俄かに失せにけり。此れは世の傳はり物にて、いみじき公の財にて有るを、此く失せぬれば、天皇極めて歎かせ給ひて、「かかるやんごと無き傳はり物の、我が代にして失せぬる事」と思ひ歎かせ給ふも理なり。此れは人の盗みたるにや有らむ。但し、人盗み取らば持つべきやう無き事なれば、天皇をよからず思ひ奉る者世に有りて、取りて損じ失ひたるなめりとぞ疑はれける。
而る間、源博雅と云ふ人、殿上人にて有り。此の人、管絃の道極めたる人にて、此の玄象の失せたる事を思ひ歎きける程に、人皆靜かなる後に、博雅、清涼殿にして聞きけるに、南の方に當りて彼の玄象を彈く音有り。極めて恠しく思へば、若し僻耳かと思ひて吉く聞くに、正しく玄象の音なり。博雅此れを聞き誤るべき事に非ねば、返す返す驚き恠しんで、人にも告げずして、宿直姿にて只一人、沓ばかりを履きて、小舎人童一人を具して、衞門の陣を出でて南樣に行くに、尚南に此の音有り。近きにこそ有りけれと思ひて行くに、朱雀門に至りぬ。尚同じ樣に南に聞ゆ。然れば朱雀の大路を南に向ひて行く。心に思はく、「此れは玄象を人の盗みて、□楼觀にして蜜かに彈くにこそ有りぬれ」と思ひて、急ぎ行きて楼觀に至り着きて、聞くに、尚南にいと近く聞ゆ。然れば尚南に行くに、既に羅城門に至りぬ。
門の下に立ちて聞くに、門の上の層に玄象を彈くなりけり。博雅此れを聞くにあさましく思ひて、「此れは人の彈くには非ず。定めて鬼などの彈くにこそは有らめ」と思ふ程に、彈き止みぬ。暫く有りて亦彈く。其の時に博雅の云はく、「此れは誰が彈き給ふぞ。玄象日來失せて、天皇求め尋ねさせ給ふ間、今夜清涼殿にして聞くに、南の方に此の音有り。仍つて尋ね來たれるなり」と。其の時に、彈き止みて、天井より下るる物有り。怖しくて立ち去きて見れば、玄象に繩を付けて下したり。然れば博雅、恐れ乍ら此れを取りて、内に返り參りて此の由を奏して、玄象を奉りたりければ、天皇いみじく感ぜさせ給ひて、「鬼の取りたりけるなり」となむ仰せられける。此れを聞く人、皆博雅をなむ讃めける。其の玄象、今に公の財として、世の傳はり物にて内に有り。此の玄象は、生きたる者のやうにぞ有る。つたなく彈きて彈きおほせざれば、腹立ちて鳴らぬなり。亦、塵すゑて拭はざる時にも、腹立ちて鳴らぬなり。其の氣色現はにぞ見ゆなる。或る時には、内裏に燒亡有るにも、人取り出ださずと云へども、玄象おのづから出でて庭に有り。此れ奇異の事共なりとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、村上天皇の御世に、玄象という琵琶が突然なくなったことがあった。これは天皇家に代々伝わる大事な宝物であったので、天皇はたいそうお嘆きになり、「こんな大切な宝物を自分の代になくしてしまった」と悲しまれたのも、もっともなことであった。これは盗んだからといって、持っていられるようなものではなかったので、天皇に恨みがあるものが、持ち去って壊したのではないかと、思われたのであった。
この玄象を引く音が聞こえてきた。意外なことに思えたので、空耳かとその頃、源博雅という殿上人がいた。管弦の道を究めた人で、この玄象がなくなったことを人一倍嘆いていた。その博雅がある静かな夜、清涼殿にいると、南の方角から、も思ったが、よく聞けばやはり玄象の音である。
博雅はこの音を聞き誤ることもなかったので、怪しいとは思いながら、宿直姿のまま、靴だけを履き小舎人童一人を連れて、衞門の陣を出て南の方ほうへ歩いていった。音のするところはすぐ近くだろうと思いつつ歩き続けるうち、朱雀門に到った。だが音は更にさらに南の方角から聞こえてくる。
そこで朱雀門より更に南のほうへ歩いていきながら、「これは玄象を盗み出したものが、楼觀でひそかに弾いてひいているのであろう」とも思ったりした。だが楼觀についてみると、音は更に南の方ほうから聞こえてくる。そうこうするうち、羅城門にたどり着いた。
門の下にたって耳を傾けると、門の上で誰かが玄象を弾いている。博雅はその様子から、これは人ではなく鬼が弾いているに違いないと思った。音はいったん止んだかと思うと、また鳴りはじめた。
「これは誰が弾いておられるのだか、玄象が消えてしまって天皇は嘆いておられる、今夜清涼殿にいると、南の方角から音が聞こえてきたので、ここまで訪ねてきたのじゃ」
博雅がこういうと、音が止んで、天井から何かが降りてくるのが見えた。恐ろしくて立ち退いてみれば、玄象に縄をつけて下ろしているのだった。博雅は恐る恐るそれを手に取り、宮殿に持ち帰って、天皇に事情を話して献上した。天皇はたいそう関心なされ、「やはり鬼がとったのか」とおっしゃられた。他の人々はみな、博雅の行為を誉めそやした。
この玄象は公の宝として、今いまも尚なお伝えられている。まるで生きているかのようで、弾き方がまずいと、腹をたてて鳴らず、また手入れを怠っても、腹をたてて鳴らないのである。
あるとき内裏が火事で消失したことがあるが、その際誰が運ばずといえども、自分で庭に非難したということだ。まことに怪しいあやしいものだと、語り伝えられている。

源博雅は醍醐天皇の孫であるが、琵琶の名手として知られていた。その伝説上の人間が、玄象という、これもまた伝説上の琵琶の名器を、鬼の手から取り戻すという話である。
この物語の一つ手前に、博雅が琵琶の名人蝉丸から流泉、啄木という曲を習う話が出てくる。三年の間蝉丸の小屋に通って、やっとその曲を聴くことができたという気の長い話で、名人芸の伝承がたやすくないことが、語られている。
能では、蝉丸は延喜の帝つまり醍醐天皇の孫ということになっているが、それは蝉丸伝説が琵琶の名手博雅の伝説と混合した結果かも結果化もしれない。
この説話では、鬼から取り戻したといっておきながら、肝心の鬼の姿は現れない。玄象は何者かの手によって、下へ卸されるのだが、それが鬼の仕業であることが暗黙の了解事項になっている。  
紫式部の父の詩才による出世の話 (今昔物語集巻二四第三十) 
今は昔、藤原為時といふ人ありき。一条院の御時に、式部丞(しきぶのじょう)の労によりて受領(ずりょう)にならむと申しけるに、除目(じもく)の時、闕国(けつこく)なきによりてなされざりけり。
その後、このことを嘆きて、年を隔てて直物(なおしもの)行はれける日、為時、博士にはあらねども極めて文花(ぶんか)ある者にて、申文(もうしぶみ)を内侍(ないし)に付けて奉り上げてけり。その申文にこの句あり。
苦学寒夜。紅涙霑襟。除目後朝。蒼天在眼。(苦学の寒夜。紅涙(こうるい)襟(えり)を霑す(うるおす)。除目の後朝(こうちょう)。蒼天(そうてん)眼(まなこ)に在り。)
と。内侍これを奉り上げむとするに、天皇のその時に御寝(ぎょしん)なりて、御覧ぜずなりにけり。然る間、御堂(みどう)、関白にておはしければ、直物行はせ給はむとて内裏(だいり)に参らせ給ひたりけるに、この為時がことを奏せさせ給ひけるに、天皇、申文を御覧ぜざるによりて、その御返答なかりけり。
然れば関白殿、女房に問はしめ給ひけるに、女房申すやう、「為時が申文を御覧ぜしめむとせし時に、御前御寝(おおんまえぎょしん)なりて御覧ぜずなりにき」
然ればその申文を尋ね出だして、関白殿、天皇に御覧ぜしめ給ひけるに、この句あり。然れば関白殿、この句微妙に感ぜさせ給ひて、殿の御乳母子(おおんめのとご)にてありける藤原国盛といふ人のなるべかりける越前守(えちぜんのかみ)をやめて、にはかにこの為時をなむなされにける。
これひとへに申文の句を感ぜらるる故なりとなむ、世に為時を讃めける(ほめける)となむ語り伝へたるとや。 
今は昔、藤原為時(ふじわらのためとき,947頃〜1029頃)という人がいた。一条天皇(980〜1011)の時代に、式部丞を務めており、その功績によって受領(国司の代理)の地位を望んだが、除目(朝廷の官位の昇進・降格を決める人事考課)では地方の国司・受領に欠員がないという理由で却下された。
為時はがっかりしたが、翌年に、朝廷の官僚人事の修正が行われた日に、内侍(女性の役人)を通じて、受領の任官を申請する文章を天皇に差し上げたのだった。為時は文章博士(漢文・和歌の分野の専門家)ではなかったが、文化・教養・詩才に優れており、申請文章に以下のような漢詩を書き添えていた。
苦学の寒夜。紅涙襟を霑す。除目の後朝。蒼天眼に在り。
(現代語訳:寒い夜に耐えて勉学に励んでいたが、人事異動では希望する官職(受領)に就くことができず、失意と絶望で血の赤い涙が袖を濡らしている。しかし、この人事の修正が朝廷で行われれば、青く晴れ渡った空(天皇の比喩表現)の恩恵に感じ入って、その蒼天に更なる忠勤を誓うだろう。)
内侍はこの漢詩を一条天皇にお見せしようとしたが、既にお休みになっていて見せられなかった。御堂(藤原道長)は当時、関白(史実では摂政)だったから、人事の修正のために朝廷に参上して、天皇に為時の申請についてお伝えした。しかし、天皇は為時の申請文書も漢詩も御覧になっていなかったので、何の返答も頂けなかった。
そこで、藤原道長が内侍に聞くと、「為時の文書を天皇に御覧頂こうと思いましたが、既にお休みだったので、まだ御覧になっていません」と答えた。
すぐに文書を取り寄せて、天皇にお見せしたところ、その秀逸な漢詩に天皇は深く感動されたようである。
そして、この漢詩の詩句に感動した道長公は、自分の乳母子である藤原国盛に与えるはずだった越前の国の国司(受領)のポストを為時に与えたのである。これは、漢詩の詩句の感動によって人事が変更されたということであり、世間では為時の文才を賞讃していたと伝えられている。 
源宛と平良文と合戰ふ語 (今昔物語集巻二五第三)
今は昔、東國に、源宛・平良文と云ふ二人の兵有りけり。宛が字をば蓑田の源二と云ひ、良文が字をば村岳の五郎とぞ云ひける。
此の二人、兵の道を挑みける程に、互に中惡しく成りにけり。二人が云ふ事を互に中言する郎等有りて、云ひ聞かしめけるやう、「宛は良文を、「其の尊は我れに挑むべき事かは。何事に付けても手向へしてむや。穴いと惜し 」となむ云ふ」と良文に告ぐ、「良文此れを聞きて、「我れをばさはえ云はじ物を。手の聞かむ方も、思量も、其の尊の有樣皆知りたり。實にしか思はば、然るべからむ野に出で合へ 」となむ云ふ」と宛に告ぐれば、魂太く心賢き兵なりと云へども、人の云ひ腹立てて合はすれば、共に大きに怒りを成して、「「此く云ひてのみやは有るべき。然らば、日を契りて然るべからむ廣き野に出で合ひて、互に問はむ 」となむ云ふ」と云ひ聞かせければ、「其の日と契りて野に出で合はむ」と消息を通はしつ。其の後は各軍を調へて、戰はむ事を營む。
既に其の契の日に成りぬれば、各、軍を發して、此く云ふ野に巳の時ばかりに打立ちぬ。各五六百人ばかりの軍有り。皆身を棄て命を顧みずして心を励ます間、一町許を隔てて楯を突き渡したり。各兵を出だして牒を通はす。其の兵の返る時に、定まれる事にて、箭を射懸けけるなり。其れに馬をも□ず、見返らずして靜かに返るを以て猛き事にはしけるなり。然て其の後に、各楯を寄せて今は射組みなむと爲る程に、良文が方より宛が方に云はする樣、「今日の合戰は、各、軍を以て射組ませば、其の興侍らず。只君と我れとが各の手品を知らむとなり。然ればいかが思す」と。宛此れを聞きて、「我れも然思ひ給ふる事なり。速かに罷り出でよ」と云はせて、宛、楯を離れて只一騎出で來て、雁股をつがへて立てり。良文も此の返事を聞きて喜びて、郎等を止めて云はく、「只我れ一人手の限り射組まむとするなり。尊達、只任せて見よ。さて我れ射落されなば、其の時に取りて葬るべきなり」と云ひて、楯の内より只一騎歩かし出でぬ。
然て雁胯を番へて走らせ合ひぬ。互に先づ射させつ。次の箭にたしかに射取らむと思ひて、各弓を引きて箭を放つて馳せ違ふ。各走らせ過ぎぬれば、亦各馬を取りて返す。亦弓を引きて箭を放たずして馳せ違ふ。各走らせ過ぎぬれば、亦馬を取りて返す。亦弓を引きて押宛つ。良文、宛が最中に箭を押宛てて射るに、宛、馬より落つる樣にして箭に違へば、太刀の股寄に當りぬ。宛、亦取りて返して良文が最中に押宛てて射るに、良文、箭に違ひて身を□る時に、腰宛に射立てつ。急に亦馬を取りて返して、亦箭を番へて走らせ合ふ時に、良文、宛に云はく、「互に射る所の箭、皆□る箭共に非ず、悉く最中を射る箭なり。然れば、共に手品は皆見えぬ。弊き事無し。而るに、此れ昔よりの傳はり敵にも非ず。今は此くて止みなむ。只挑む計の事なり。互に強ちに殺さむと思ふべきに非ず」と。宛、此れを聞きて云はく、「我れも然なむ思ふ。實に互に手品は見つ。止みなむ吉き事なり。然れば引きて返りなむ」と云ひて、各軍を引きて去りぬ。
互の郎等共、各主共の馳せ組みて射合ひけるを見ては、「今や射落さる、今や射落さる」と、肝を砕きて心を迷はして、中々我れ等が射合ひて生きも死にもせむよりは堪へ難く怖しく思ひけるに、此く射さして返れば、恠しみ思ひけるに、此の事を聞きてぞ皆喜び合へりける。
昔の兵此く有りける。其の後よりは、宛も良文も互になかよくて、露隔つる心無く思ひ通はしてぞ過ぎけるとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、東国に源宛・平良文という二人の武士がおった。宛は字を蓑田の源二といい、良文は村岳の五郎といった。
この二人は、互いに武士道を競い合ううちに、仲が悪くなった。そこへ二人の間に入って告げ口をするものがいて、良文に次のようなことをいった。「宛は良文さまのことを、あんなやつが俺にかなうものか、何につけても俺のほうが上だ、といっています」
良文はこれを聞くと「俺をそんな風に思っていたとはけしからん。技も知恵も、奴は俺には及ばぬのに、そう思っているのだったら、広い野原で決着しようではないか。」といって怒った。
こんな告げ口をされれば、日頃勇敢で心賢い武士でも、怒らざるを得まい。二人とも大いに怒って、「口先では何とでもいえる、日を決めて広い野原で決闘し、どちらが強いか決着をつけよう」ということになった。そこで二人とも、各々戦いの準備をしてその日に備えたのであった。
その日になると、各々軍勢を発して、十時頃に取決めの野原に終結した。どちらも五六百人の兵からなっている。皆身命を省みず勇み立ち、一町ばかり隔てて両軍が勢ぞろいした。
双方から兵士を出して、決闘状を交し合い、その兵が自軍に戻るときに各々矢を仕掛けるというのが礼儀だ。その際、振り向くことなく静に戻る兵こそ、勇敢な兵と評価されるのが例であった。
通常なら、両軍が入り乱れて戦うべきところであったが、良文のほうから宛に、次のような申し入れを行った。「今日の合戦は、総力でぶつかり合うのではなく、大将同士で決着をつけたいと思うが、どうか」
この申し出を聞いた宛は、「俺もそう思っていたところだ、早く前へ出て来い」と答えると、隊列から一人抜け出てて、雁股をつがえて立った。良文もこの返事に喜び、「ここは俺一人で一騎打ちをするから手出しをするな、もし俺が射殺されたら、遺体を葬ってくれ」と兵たちにいって、一人隊列から飛び出て行った。
雁胯の矢を弓につがえたまま馬を走らせ、互いに相手に先に射させ、自分は次の矢で確実に射当てようとして、矢を放っては馳せ違う、馳せ違った後はまた馬をとって引き返す、あるいは弓をひいたまま放たずして馳せ違う、その後は股馬を引き返しては弓を引く、こういうことを繰り返した
そのうち良文が宛の身体を目掛けて矢を放つ、宛は馬から落ちるようにして矢を太刀の股寄で受ける、次に宛が良文の身体目掛けて矢を放つ、良文は腰宛でその矢を受ける、とこうするうち、良文が宛にいった
「互いに射る矢はいいところに命中している、お互い腕のいいところは証明された、ところで俺たちは昔から仇敵だったわけではない、ただ競い合っていただけだ、殺しあおうと思っていたわけではない、そうだろう」
これをきいた宛も、「俺もそう思う、お互いいい勝負だった、この辺でおしまいにしよう」と答え、双方とも軍を引いて帰ったのだった。
双方の郎党たちは、主の戦いぶりを見ては「いまこそ射落とされる」と肝をつぶして見守っていたが、主人たちがこう言い合うのをきいて、安心したということだ。
昔の武士とはこういうものであった。その後は、宛も良文も互に仲良くして、心の隔てなく付き合ったということだ。

巻二十五は、平将門の謀反から始まって、源義家にいたるまで、名高い武将たちをテーマにしている。
この第三話は、東国の武士たちが、つまらぬことがきっかけで決闘をする話だが、その決闘のさまが潔く、武士たる者かくあるべしという、規範を示しているところが興味深い。
勃興期の武士は、自分たちの間に争いが起きたとき、それをさばいてくれるような共通の権威を持っていなかった。それ故彼らは、武力に訴えて、自分の言い分を貫く場合が多かった。
この話では、いさかいの源は、人々の告げ口であり、その意味では他愛ないものだったが、それでも武将たちは、自分の権威を守るためには、力に訴えて、勝負をつけなければならない。そこがつらいところだが、逃げてはいられないのだ。
だがこの物語の主人公たちは、それぞれ、争いの原因が自分たちの個人的な資質にかかわるのだということをわかっているので、兵士たちを巻き込んでの大いくさではなく、二人だけで決着をつけようとする。
こうしてくりひろげられる二人の決闘の様子が、非常に生き生きと描かれており、読んでいて気持ちがよい。  
藤原保昌朝臣、盗人袴垂に値へる語 (今昔物語集巻二五第七)
今は昔、世に袴垂と云ふいみじ盗人の大將軍有りけり。心太く、力強く、足早く、手聞き、思量賢く、世に並無き者になむ有りける。萬人の物をば隙を伺ひて奪ひ取るを以て役とせり。
其れが、十月ばかりに、衣の要有りければ衣少し儲けむと思ひて、さるべき所々を伺ひ行きけるに、夜半ばかりに、人皆寢靜まりはてて、月のおぼろなりけるに、大路にすずろに衣の數た着たりける主の、指貫なめりと見ゆる袴のそば挾みて、衣の狩衣めきてなよよかなるを着て、只獨り笛を吹きて、行きも遣らず練り行く人有りけり。袴垂是れを見て、「哀れ、此れこそ我れに衣得させに出で來たる人なめり」と思ひければ、喜びて走り懸かりて、打ち臥せて衣を剥がむと思ふに、怪しく此の人の物恐ろしく思えければ、副ひて二三町ばかりを行くに、此の人、「我れに人こそ付きにたれ」と思ひたる氣色も無くて、いよいよ靜かに笛を吹きて行けば、袴垂、試みむと思ひて、足音を高くして走り寄りたるに、少しも騒ぎたる氣色も無くて、笛を吹きながら見返りたる氣色、取り懸かるべくも思えざりければ、走りのきぬ。
かやうに、數た度、とざまかうざまにするに、塵ばかり騒ぎたる氣色も無ければ、「此れは希有の人かな」と思ひて、十餘町ばかり具して行きぬ。「さりとて有らむやは」と思ひて、袴垂、刀を抜きて走り懸かりたる時に、其の度、笛を吹き止めて、立ち返りて、「此は何者ぞ」と問ふに、譬ひ何ならむ鬼なりとも神なりとも、かやうにて只獨り有らむ人に走り懸かりたらむ、さまで怖ろしかるべき事にも非ぬに、此はいかなるにか、心も肝も失せて只死ぬばかり怖ろしく思えければ、我れにもあらでついゐられぬ。「いかなる者ぞ」と重ねて問へば、「今は逃ぐとも逃るまじかめり」と思ひて、「引剥に候ふ」と、「名をば袴垂となむ申し候ふ」と答ふれば、此の人、「しか云ふ者世に有りとは聞くぞ。あやふげに希有の奴かな。共に詣で來」とばかり云ひ懸けて、亦同じやうに笛を吹きて行く。
此の人の氣色を見るに、「只人にもあらぬ者なりけり」と恐ぢ怖れて、鬼神に取らると云ふらむやうにて、何も思はで共に行きけるに、此の人、大きなる家の有る門に入りぬ。沓を履きながら延の上に上りぬれば、「此れは家主なりけり」と思ふに、内に入りて即ち返り出でて、袴垂を召して、綿厚き衣一つを給ひて、「今よりもかやうの要有らむ時は、參りて申せ。心も知らざらむ人に取り懸かりては、汝誤たるな」とぞ云ひて、内に入りにける。
其の後、此の家を思へば、號を摂津前司保昌と云ふ人の家なりけり。「此の人もさなりけり」と思ふに、死ぬる心地して、生きたるにもあらでなむ出でにける。
其の後、袴垂捕へられて語りけるに、「あさましく、むくつけく、怖ろしかりし人の有樣かな」と云ひけるなり。 此の保昌朝臣は、家を繼ぎたる兵にもあらず。□と云ふ人の子なり。而るに、つゆ家の兵にも劣らずとして、心太く、手聞き、強力にして、思量の有る事もいみじければ、公も此の人を兵の道に仕はるるに、聊か心もと無き事無かりき。されば世に、なびきて此の人を恐ぢ迷ふ事限り無し。但し子孫の無きを、「家にあらぬ故にや」と人云ひけるとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、世に袴垂という盗賊の大将軍があった。心太く、力強く、足早く、手先が起用で、思慮深かった。万人から隙をうかがって物を奪い取ることを、役目としていた。
十月頃のこと、着る物を手に入れようと、方々を物色するうち、夜中の、人が寝静まって月もおぼろな頃合、衣装を何枚も着こんだ人が、指貫らしく見える袴の裾を手挟み、なよやかな狩衣姿で、大路をただひとり、笛を吹きながら、そろりそろりと歩いていた。
それを見た袴垂は、「これは自分に衣をくれるために現われたに違いない」と、喜んで走りかかり、打ち伏せて衣を剥ぎ取ろうと思った。だがその人はなんとなく恐ろしそうなので、寄り添ったまま二三町ばかり歩いていくと、自分を気にする様子も見られず、いよいよ静かに笛を吹き続けている。袴垂は試しに足音を高くして走り寄ってみたが、なおびくともしない。笛を吹いたままこちらを見返した様子が、毅然としていたので、走りのかざるを得なかった。
こうして何度か驚かそうとしてみたが、一向に動揺する様子もない。袴垂は、「これは大変な奴だ」と思いながら、十数町ついていった。そのうち、「そうとばかりもしておられまい」と思い、刀を抜いて走りかかった。すると相手は笛を吹きやめて「お前は何者だ」といった。
たとえ相手が鬼であっても、一人しかいないのだから、恐ろしいこともないはずなのに、どうしたわけか、心も肝も消え入るばかりに恐ろしい、こう思った袴垂は、我を忘れて立ち尽くしたのだった。
相手は更に自分の名を聞いてくる、そこでもう逃げられまいと観念した袴垂が、「追剥でござる、名を袴垂と申す」と答えると、相手は「そういえば聞いたことのある名だ、珍しい奴だ、一緒について来なさい」といって、また同じように笛を吹きながら歩き始めた。
その人の様子をよく見ると、普通の人ではない。まるで鬼に魅入られているような気持ちでついていくと、大きな家の門の中に入っていった。そして履のままで縁側に上ったので、この家の主人だなと感じるうち、家の中から出てきて、袴垂を召して、綿入れの衣を与えると、「今後も欲しいものがあったら、参って申せ、人のものを奪うのはやめろ」といって、再び中に入った。
家の主を確かめると、摂津前司保昌という人の家であった。あれが音に聞こえた保昌だったのか、と思うと、生きた心地もしないのであった。
その後、捕らえられたとき、袴垂は保昌について、「なんとも気味の悪い、恐ろしい人でした」と語ったそうだ。
この保昌は、代々の武士の家に生まれたのではなく、某という人の子である。しかし本当の武士に劣らず、心太く、手がきき、力も強く、思慮深かったので、お上もこの人を武士として召し使ったのだった。
世の人で、この人を恐れぬものはなかったほどだったが、子孫を残すことはなかった。もともと武門ではなかったせいかもしれぬ。

袴垂は平安時代の伝説的な盗賊で、その名を知らないものがいないほど有名であった。その袴垂をへこますのであるから、この物語の主人公藤原保昌とは、無類の英雄であったことがわかる。
それもそのはず、保昌は源頼光の四天王のひとりとして、大江山の酒呑童子を討つなど、武略に優れていた。
であるから、大盗賊として豪胆であった袴垂でさえ、その迫力の前にはなすすべもなく降参してしまったのである。
この物語は、保昌の武勇を強調するために、わざわざ袴垂を持ってきたのだろう。同じ趣旨の話が宇治拾遺物語の中にも出てくるが、宇治拾遺物語ではなぜか、袴垂は保輔といって、保昌の弟ということにされている。  
藤原親孝、盗人の爲に質に捕られ、頼信の言に依りて免されし語 (今昔物語集巻二五第十一)
今は昔、河内守源頼信朝臣上野守にて其の國に有りける時、其の乳母子にて兵衞尉藤原親孝と云ふ者有りけり。
其れも極めたる兵にて、頼信と共に其の國に有りける間、其の親孝が居たりける家に、盗人を捕へて打ち付けて置きたりけるが、いかがしけむ、枷を抜きて逃げなむとしけるに、逃げ得べき樣や無かりけむ、此の親孝が子の五つ六つばかりなる有りける男子の、形いつくしかりけるが、走り行きけるを、此の盗人質に取りて、壺屋の有りける内に入りて、膝の下にこの児を掻き臥せて、刀を抜きて児の腹に差し宛てて居ぬ。
其の時に親孝は館に有りければ、人走り行きて、「若君をば盗人質に取り奉りつ」と告げければ、親孝驚き騒ぎて走り來たりて見れば、實に盗人、壺屋の内に児の腹に刀を差宛てて居たり。見るに目もくれて、せむ方無く思ゆ。只寄りてや奪ひてましと思へども、大きなる刀のきらめきたるを、げに児の腹に差宛てて、「近くな寄りおはしそ。近くだに寄りおはさば、突き殺し奉らむとす」と云へば、「げに云ふままに突き殺してば、百千に此奴を切り刻みたりとも何の益かは有るべき」と思ひて、郎等共にも、「あなかしこ、近くな寄りそ。只遠外にて守りて有れ」と云ひて、「御館に參りて申さむ」とて、走りて行きぬ。
近き程なれば、守の居たる所にあはてて迷ひたる氣色にて走り出でたれば、守、驚きて、「此は何事の有るぞ」と問へば、親孝が云はく、「只獨り持ちて候ふ子の童を、盗人に質に取られて候ふなり」とて泣けば、守、笑ひて、「理には有れども、ここにて泣くべき事かは。鬼にも神にも取合はむなどこそ思ふべけれ。童泣に泣く事は、いとをこなる事にはあらずや。さばかりの小童一人は突き殺させよかし。さやうの心有りてこそ兵は立ちつれ。身を思ひ妻子を思ひては、おきてつたなかりなむ。物恐ぢせずと云ふは、身を思はず、妻子を思はぬを以て云ふなり。さるにても我行きて見む」と云ひて、太刀ばかりを提げて、守、親孝がすみかへ行きぬ。盗人の有る壺屋の口に立ちて見れば、盗人、守のおはすなりけりと見て、親孝を云ひつる樣にはえ息卷かずして、臥目に成りて、刀をいよいよ差宛てて、少しも寄り來ば突き貫きつべき氣色なり。其の間、児泣く事いみじ。守、盗人に仰せて云はく、「汝は、其の童を質に取りたるは、我が命を生かむと思ふ故か、亦、只童を殺さむと思ふか。慥かに其の思ふらむ所を申せ、彼奴」と。盗人、わびしげなる声を以て曰く、「いかで児を殺し奉らんとは思ひ給へむ。ただ命の惜しく候へば、生かむとこそ思ひ候へば、若しやとて取り奉りたるなり。」と。守、「をい。さるにては其の刀を投げよ。頼信が此くばかり仰せ懸けむには、え投げでは有らじ。汝に童を突かせてなむ、我れみ見まじき。我が心ばへはおのづから音にも聞くらむ。慥かに投げよ、彼奴」と云へば、盗人、暫く思ひ見て、「忝く、いかでか仰せ事をば承はらで候はん。刀投げ候ふ」と云ひて、遠く投げ遣りつ。児をば押起して免したれば、起き走りで逃げて去ぬ。
其の時に、守少し立ちのきて、郎等を召して、「彼の男此方に召し出せ」と云へば、郎等寄りて男の衣の頸を取りて、前の庭に引きゐ出でて居ゑつ。親孝は盗人をきりても棄てむと思ひたれども、守の云はく、「此奴いと哀れに此の質を免したり。身の侘しければ盗みをもし、命や生くとて質をも取るにこそ有れ、 あしかるべき事にも非ず。其れに、我が免せと云ふに随ひて免したる、物に心得たる奴なり。速かに此奴免してよ。何か要なる、申せ」と云へども、盗人、泣きに泣きて云ふ事無し。守、「此奴に粮少し給へ。亦、惡事爲たる奴なれば、末にて人もぞ殺す。厩に有る草苅馬の中に強からむ馬に、賤の鞍置きて將て來」と云ひて、取りに遣りつ。亦賤のやうなる弓胡録取りに遣りつ。各皆持來たれば、盗人に胡録を負はせて、前にて馬に乘せて、十日ばかりの食物ばかりに干飯を袋に入れて、布袋に裹みて腰に結ひ付けて、「此こよりやがて馳せ散らして去ね」と云ひければ、守の云ふに随ひて、馳せ散じて逃げて去にけり。
盗人も、頼信が一言に憚りて質を免してけむ。此れを思ふに、此の頼信が兵の威、いとやんごと無し。彼の質に取られたりける童は、其の後大人に成りて、金峰山に有りて出家して、遂に阿闍梨に成りにけり。名をば明秀とぞ云ひけるとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、河内守源頼信朝臣が上野の守として赴任していたとき、その乳母子に兵衞尉藤原親孝というものがあった。
立派な武士として、頼信のもとで働いていたが、あるとき家に入った盗人を捕らえて拘留した。ところが盗人は足かせを抜いて逃げようとした、その際、とても逃げられないと思ったのか、五六歳になる親孝の息子が遊んでいたところを捕まえて、人質にとった。そして壺屋のあった小屋の中に入ると、子どもを膝の下に掻き臥せ、刀を抜いて子どもの腹に差し当てた。
そのとき親孝は館にいたので、人が走っていって、「若君が盗人に人質に取られました」と伝えた。驚いた親孝が現場に駆けつけると、なるほど盗人が壺屋のうちにいて、子どもの腹に刀を差し当てている。それを見ると親孝は、目のくらむ思いになったが、どうすることもできない。走りかかって子を奪い取ろうとも思ったが、盗人は刀を子の腹に突き立てて、「近づいたら刺し殺すぞ」と脅す。
「子を刺し殺されては、あいつを微塵に切り刻んだところで、何の意味もない」と思い返して、郎党たちにも近づかぬように命じたうえで、頼信のところへ駆けつけていった。
頼信の館は近くにあったので、あわてて走っていくと、頼信は「どういうことだ」と聞いた。親孝は「たった一人の息子を盗人に人質に取られてしまいました。」といって泣くばかり。それを見て頼信は笑いながらいった。
「もっともなことだが、こんなところで泣くようなことではなかろう。武士たるもの、鬼にも神にもとりあうという気概をもつべきもの、それが子どものように泣くのは見苦しい、子どもの一人や二人、突き殺されたからといって、それが何だ、身を思い妻子を心配していては、立派な働きはできぬぞ。」
頼信はこういいながらも、「じゃあ、わしがみてやろう」といって、太刀を下げて現場に赴いた。盗人のいる壺屋の入口に立って中を伺うと、盗人は守がやってきたとみて、親孝相手のようには息巻くこともなく、伏目になったまま、刀をいよいよ差し当てて、一歩でも近づけば刺し殺そうとする様子、子は大声で泣いている。
頼信は盗人にこういった。「お前がその子を人質に取ったのは、自分の命を助かろうと思ったからか、それとも子どもを殺したいと思ったからか、申してみよ」盗人はわびしげな声でこう答える。
「どうして子を殺したいなどと思うでしょう、ただ自分の命が助かりたくて、もしやと思って、人質にしたのです。」
そこで頼信は、「それならば刀を投げ捨てろ、頼信がこういうからには、投げずにはすまんぞ、子どもを刺し殺してはならぬ、わしの気性はおまえにも聞こえておろう、さあ投げろ」といった。すると盗人はしばらく思い悩んでいたが「それでは仰せを聞き入れて、刀を投げ捨てます」といって、遠くへ投げ、子を離した。
頼信は、盗人をここへ召しだせと、郎党に命じた。郎党が盗人の頭をつかんで前の庭に引き立てると、親孝の方は切って捨てたい気持ちになったが、頼信は「こいつはしおらしく人質を放してやった、ひもじくて盗みをし、生きたい思いで人質をとったのであろう、悪いばかりとはいえぬ、それにわしの命令に従って逃してやった、訳のわかる奴だ、すぐに逃がしてやれ」といった。その言葉に盗人は男泣きに泣いたのだった。
頼信は更にこうもいった。「こいつに食い物を少しやれ、また悪事を働いたやつだから、そのうち人に殺されるかもしれん、厩から強そうな馬をより出して、鞍を置いて連れて来い」といって取りにやらせ、また弓胡録も持ってこさせた。そこで盗人に胡録を背負わせ、馬に乗せて、10日分の糒を袋に入れて腰に結わえさせて、「このまますぐ馬に乗って去れ」といったので、盗人は煙を散じて逃げていったのだった。
盗人は頼信の一言に感じて人質を逃がしたのだろう。これを思うに、頼信の益荒男ぶりはたいしたものといわねばならぬ。
かの人質にとられた子どもは、大人になってから金峰山で出家し、阿闍梨にまでなったそうだ。

頼信はいうまでもなく源氏の棟梁として武門の頂点にいた人物である。その頼信が家来の陥った窮状を見事に解決してやる。胸のすくような話である。
この物語では、頼信の人物像が両面的に描かれている。一方では、女子供のことで騒ぎ立てているようでは、武士としての働きができぬと、部下を突き放してしかるところ、つまり冷徹な打算家としての側面である。
他方では、賊を精神的に威圧して、嫌がおうにでも人質を解放させてしまうように、圧倒的な迫力をもった人間として描かれている、そしてその陰には、武士には二言はないというように、自分の言い分に責任を持つ男の生きさまを強調していることがある。
頼信のような生き方は、新しい武士階級の生き方を象徴するものとして、当時の人々に脅威の念を以て見られていただろうと思われる。  
源頼信朝臣の男頼義、射殺馬盗人を射殺せる語 (今昔物語集巻二五第十二)
今は昔、河内前司源頼信朝臣と云ふ兵有りき。東によき馬持ちたりと聞きける者の許に、此の頼信朝臣乞ひに遣りたりければ、馬の主いなび難くて其の馬を奉りけるに、道にして馬盗人有りて、此の馬を見て極めて欲しく思ひければ、構へて盗まむと思ひて、密かに付きて上りけるに、此の馬に付きて上る兵共の緩む事の無かりければ、盗人、道の間にてはえ取らずして、京まで付きて盗人上りにけり。馬はゐて上りにければ、頼信朝臣の厩に立てつ。
而る間、頼信朝臣の子頼義に、「我が親の許に東より今日よき馬ゐて上りにけり」と、人告げければ、頼義が思はく、「其の馬由無からむ人に乞ひ取られなむとす。然らぬ前に我行きて見て、實によき馬ならば我れ乞ひ取りてむ」と思ひて、親の家に行く。雨極じく降りけれども、此の馬の戀しかりければ、雨にも障らず夕方ぞ行きたりけるに、親、子に云はく、「何ど久しくは見えざりつる」など云ひければ、ついでに「此れは、此の馬ゐて來ぬと聞きて、此れ乞はむと思ひて來たるなめり」と思ひければ、頼義が未だ云ひ出でぬ前に、親の云はく、「東より馬ゐて來たりと聞きつるを、我れは未だ見ず。おこせたる者は、よき馬とぞ云ひたる。今夜は暗くて何とも見えじ。朝見て、心に付かば速かに取れ」と云ひければ、頼義、乞はぬ前に此く云へば喜しと思ひて、「然らば今夜は御宿直仕りて、朝見給へむ」と云ひて留りにけり。宵の程は物語などして、夜ふけぬれば、親も寢所に入りて寢にけり。頼義も傍に寄りて寄り臥しけり。
然る間、雨の音止まず降る。夜半ばかりに、雨のまぎれに馬盗人入り來たりて、此の馬を取りて、引き出でて去ぬ。其の時に、厩の方に人、声を擧げて叫びて云はく、「夜前ゐて參りたる御馬を、盗人取りて罷りぬ」と。頼信此の音をほのかに聞きて、頼義が寢たるに、「此かる事云ふは、聞くや」と告げずして、起きけるままに、衣を引き、壺折りて、胡箙を掻き負ひて、厩に走り行きて、自ら馬を引き出だして、賤の鞍の有りけるを置きて、其れに乘りて只獨り關山ざまに追ひて行く心は、「此の盗人は、東の者の、此のよき馬を見て取らむとて付きて來けるが、道の間にてえ取らずして、京に來たりて、此かる雨のまぎれに取りて去ぬるなめり」と思ひて、行くなるべし。亦頼義も、其の音を聞きて、親の思ひけるやうに思ひて、親に此くとも告げずして、未だ裝束も解かで丸寢にて有りければ、起きけるままに、親の如くに胡箙を掻負ひて、厩なる□關山ざまに只獨り追ひて行くなり。親は、「我が子必ず追ひて來たらむ」と思ひけり。子は、「我が親は必ず追ひて前におはしぬらむ」と思ひて、其れに後れじと走らせつつ行きける程に、河原過ぎにければ、雨も止み空も晴れにければ、いよいよ走らせて追ひ行く程に、關山に行き懸かりぬ。
此の盗人は、其の盗みたる馬に乘りて、今は逃げ得ぬと思ひければ、關山のわきに水にて有る所、痛くも走らせずして、水をつぶつぶと歩ばして行きけるに、頼信此れを聞きて、事しも其こ其こに本より契りたらむやうに、暗ければ頼義が有無も知らぬに、頼信、「射よ、彼れや」と云ひける言も未だ畢らぬに、弓音すなり。尻答へぬと聞くに合はせて、馬の走りて行く鐙の、人も乘らぬ音にてからからと聞えければ、亦頼信が云はく、「盗人は既に射落してけり。速かに末に走らせ會ひて、馬を取りて來よ」とばかり云ひ懸けて、取りて來たらむをも待たず其こより返りければ、頼義は末に走らせ會ひて、馬を取りて返りけるに、郎等共は此の事を聞き付けて、一二人づつぞ道に來たり會ひにける。京の家に返り着きければ、二三十人に成りにけり。頼信、家に返り着きて、とや有りつる、かくこそあれ、と云ふ事も更に知らずして、未だ明けぬ程なれば、本のやうに亦這ひ入りて寢にけり。頼義も、取り返したる馬をば郎等に打預けて寢にけり。
其の後、夜明けて、頼信出でて、頼義を呼びて、希有に馬を取られざる、よく射たりつる物かな、と云ふ事、かけても云ひ出でずして、「其の馬引き出でよ」と云ひければ、引き出でたり。頼義見るに、實によき馬にて有りければ、「さは給はりなむ」とて取りてけり。但し、宵にはさも云はざりけるに、よき鞍置きてぞ取らせたりける。夜、盗人を射たりける禄と思ひけるにや。あやしき者共の心ばへなりかし。兵の心ばへは此く有りけるとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、河内前司源頼信朝臣という武士があった、この頼信があるとき、東国にいい馬があると聞いて、もらいにやらせると、馬の主は断りがたくて、その馬を献上した。そこで馬を連れて京へ上る途中、盗人がこれを見て盗もうと思い、ひそかに隙をうかがっていたが、なかなか隙が見つからず、とうとう京までついてきてしまった。馬はそのまま、頼信の厩に入れられた。
そこに、頼信の子頼義がこのことを聞いて、「そんな馬なら誰もが欲しがるだろう、つまらぬものにとられぬうち、自分が貰い受けよう」と思って、親の家にいった。
土砂降りの雨だったが、頼義は馬欲しさに、ものともせず夕方に出向いた。親は子に、「何故久しく来なかったのだ」などといいつつ、「こいつは馬のことを聞き及んで、もらいに来たのだろう」と思ったので、「東国から馬を連れてきたということだが、わしはまだ見ておらぬ、持ち主からはいい馬だと聞いている、今夜は暗くてよく見えぬだろうが、明日見てもし気に入ったら、もっていけ」といった。
頼義はこちらから頼まぬ先にこういわれたので、うれしくなり、「では今夜はこちらに泊り、朝方馬を見ましょう」といって泊ることにした。宵のうちは親子水入らずで話などして、世が更けてから二人より添うようにして寝た。
雨は音をたてて降っていたが、夜中になると、盗人が雨にまぎれて侵入し、この馬を盗んで逃げ去った。
そのとき厩にいたものが、「さっき連れてきた馬を、盗人に取られた」と叫んだ声を、頼信はほのかに聞くと、傍に寝ている頼義には何ともいわずに、起きざまに衣装を着し、胡箙を背負うと、厩に駆けつけ、自分で馬を引き出して、それに鞍をつけ、一人関山を目指してかけていった。
そして道々、「この盗人は、東国で聞きつけてここまで追ってきたのだろうが、隙がなくて盗み取ることができないうち、やっとこの雨にまぎれて盗み去ったのだろう。」と思った。
頼義も、その音を聞くと、親と同じように思いながら、衣装も脱がず寝ていたので、さっと起き上がると、親と同じように、関山をめざして馬を走らせた。そして「我が親は自分より前を走っているに違いない」と思いながら、遅れをとらじといくほどに、川原を過ぎる頃には雨も止んで、空が晴れてきた。
この盗人は、盗んだ馬に乗ったまま、もう逃げおおせたと思ったのか、関山の水溜りのあたりを、走らせることもなく、ゆっくり歩かせながら進んでいた。頼信はその音を聞いて、まるで最初からそう決めておいたかのように、暗くてよく見えぬ頼義のほうに向かって、「さあそこだ、射ろ」と命じた。
その声がやまぬうちに、弓を引く音がして、してやったりという声が聞こえたが、馬は人も乗らぬ様子でからからと音を立てていた故、頼信は、「盗人はしとめた、早く駆けつけて馬を取って来い」と言い放つと、そのまま最後まで見届けずに帰っていった。
頼義は馬を取って帰っていったが、郎党どもがこの騒ぎを聞きつけて、一人二人づつ道に出てきて帰りを迎えた、そして家に着くころには、その数は二三十人にもなった。頼信は家に入ると、そのまま何事もなかったように寝てしまい、頼義も取り返した馬を郎党にあずけて寝たのだった。
夜が明けると、頼信は頼義を呼び出したが、よくやったとも何も言わず、「その馬を引き出して来い」とのみ命じた。頼義はそれを見て実にいい馬だと思い、貰い受けることにした。その際頼信は、わざわざ上等の鞍をつけてやった。夜中に盗賊を退治した褒美にと考えたのだろう。
尋常ならざる心栄えだ、武士というものはこうでなければならぬ。

源氏の棟梁たる頼信・頼義親子が、以心伝心の合力によって馬盗人を殺し、馬を取り戻すという物語である。
物語の中心には、無言でありながら互いに意思疎通を図り、見事敵を打ち据えるという、武士の驚異的な働きぶりを礼賛する気持ちがあると考えられる。その気持ちは、最後に出てくる「あやしき者共の心ばへ」という表現によく表れている。
読みどころは何といっても、闇の中を親子が別々に追跡し、賊を見つけたとたんに、父が子に矢を放つよう命じる場面だろう、父子は一言も言葉を交わさずに、しかも共通の目的をよく理解している。親子関係というより、戦場での主従関係を思わせる迫真さだ。
この物語は教科書にも取り上げられることが多いので、読んだ人は多いだろう。  
東の方へ行く者、蕪を娶ぎて子を生む語 (今昔物語集巻二六第二)
今は昔、京より東の方に下る者有りけり。何れの國郡とは知らで一の郷を通りける程に、俄かに婬欲盛に發りて、女の事の物に狂ふが如くに思えければ、心を靜め難くて思ひわづらひける程に、大路の邊に有りける垣の内に、青菜と云ふ物、いと高く盛に生ひ滋りたり。十月ばかりの事なれば、蕪の根大きにして有りけり。此の男忽ちに馬より下りて、其の垣の内に入りて、蕪の根の大きなるを一つ引きて取りて、其れを彫りて、其の穴を娶ぎて婬を成してけり。さて即ち垣の内に投げ入れて過ぎにけり。
其の後、其の畠の主、青菜を引き取らむが爲に、下女共數た具し、亦幼き女子共など具して、其の畠に行きて青菜を引き取る程に、年十四五ばかりなる女子の未だ男には觸れざりける有りて、其れを青菜引き取る程に、垣の廻を行きて遊びけるに、彼の男の投げ入れたる蕪を見付けて、「ここに穴を彫りたる蕪の有るぞ。此れは何ぞ」など云ひて、しばらく翫びける程に、皺びたりけるを掻き削りて食ひてけり。さて、皆從者共具して家に返りぬ。
其の後、此の女子何と無く惱まし氣にて、物なども食はで、心地例ならず有りければ、父母、「いかなる事ぞ」など云ひ騒ぐ程に、月ごろを經るに、早う懐妊しけり。父母あさましく思ひて、「いかなる業をしたりけるぞ」と責め問ひければ、女子の云はく、「我れ更に男のあたりに寄る事無し。只恠しき事は、然の日、然有りし蕪を見付けてなん食ひたりし。其の日より心地も違ひ、此く成りたるぞ」と云ひけれども、父母心得ぬ事なれば、此れを何なる事とも思はで、尋ね聞きけれども、家の内の從者共も、「男の邊に寄る事も更に見えず」と云ひければ、あさましくて月ごろを經る程に、月既に滿ちて、いといつくしげなる男子を平らかに産みつ。
其の後、云ふ甲斐無き事なれば、父母此れを養ひて過ぐる程に、彼の下りし男、國に年ごろ有りて上りけるに、人數た具して返るとて、其の畠の所を過ぎけるに、此の女子の父母、亦有りしやうに、十月ばかりの事なれば、此の畠の青菜引き取らむとて、從者共具して畠に有りける程に、此の男、其の垣邊を過ぐとて、人と物語しけるに、いと高やかに云ひけるやう、「哀れ、一とせ國に下りし時、此こを過ぎし、術無く開の欲しくて堪へ難かりしかば、此の垣の内に入りて、大きなりし蕪一つを取りて、穴を彫りて、其れを娶ぎてこそ本意を遂げて、垣の内に投げ入れてしか」と云ひけるを、此の母、垣の内にして慥かに聞きて、娘の云ふ事を思ひ出でて、恠しく思えければ、垣の内より出でて、「いかにいかに」と問ふに、男は、蕪盗みたりとて云ふを咎めて云ふなりとて、「戯言に侍り」とて、只迯げに迯ぐるを、母、「いみじき事共の有れば、必ず承はらむと思ふ事の侍るなり。我が君、宣へ」と、泣くばかりに云へば、男、樣有る事にや有るらむと思ひて、「隠し申すべき事にも侍らず。亦自らが爲にも重き犯しにも侍らぬぞ。只凡夫の身に侍れば、然々の侍りしぞ。我と物語の次に申しつるなり」と云ふに、母、此れを聞きて涙を流して、泣く泣く男を引かへて家にゐて行けば、男、心は得ねども、強ちに云へは、家に行きぬ。
其の時に女、「實には然々の事の有れば、其の児をそこに見合はせむと思ふなり」と云ひて、子をゐて出でて見るに、此の男につゆ違ひたる所無く似たり。其の時に男も哀れに思ひて、「然は此かる宿世も有りけり。此はいかがし侍るべき」と云ひければ、女、「今は只いかにも其の御心なり」と、児の母を呼び出でて見すれば、下衆ながらもいと淨氣なり。女の年廿ばかりなるなり。児も五六歳ばかりにていといつくしげなる男子なり。男此れを見て思ふやう、「我京に返り上りて有らんに、させる父母・類親もたのむべきも無し。只かばかり宿世有る事なり。只此れを妻にて此こに留まりなむ」と、深く思ひ取りて、やがて其の女を妻として、そこになむ住みける。
これ希有の事なり。されば、男女娶がずと云へども、身の内に婬入りぬれば、此くなむ子を生みけるとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、京から東へ下っていく者があった。どこの国とも知らぬある里を通りがかったとき、俄かに性欲が高まって、女と何をしたいという欲情が燃え盛り、とても静まるどころではなくなった。たまたま道沿いの垣根のうちに、青菜の畑があって、盛んに生い茂っていたが、十月ばかりのことだったので、青菜の根っこが大きな蕪に成長していた。そこで男は馬から下りて、蕪の大きいのを引っこ抜くと、それに穴をあけ、そこに自分の陽物を突っ込んで射精した。男はようやく性欲が鎮まると、用済みの蕪を垣根の中に投げ捨てて、過ぎ去ったのだった。
その後、畑の主が青菜を収穫しようと、大勢の下女や子息を連れて、畑仕事を始めた。その中に十四五歳ほどの、まだ男を知らない娘がいて、青菜を引き抜いては垣根の中で遊んでいたが、そのうちあの男が投げ入れた蕪を見つけ、「この穴のあいた蕪は何かしら」などといいながら、しばらくもてあそんでいた。やがてしなびたところを削り取って食うと、皆と一緒に家に帰ったのだった。
その後、この娘の様子がおかしくなり、食事もせず気分も優れない様子なので、父母はどうしたことかと心配しているうちに、妊娠していることがわかった。父母は驚いて、いったい何をしたのだ、と責めたが、娘はただ、「男の人と寝たことはありません、ただあの蕪を取った日に、珍しい蕪を見つけて食べたことがあります、それ以来気分が悪くなったのです。」といった。父母は合点がいかず、他のものにも聞いてみたが、娘に男が言い寄った気配はなく、不思議に思い続けているうちに、かわいらしい男の子が生まれたのだった。
その後、父母も仕方なくこれを養っていたが、そのうちあの東へ下っていった男が、数年後にまた京へ上るとて、大勢の手下を連れてその畑を通りがかった。以前のように十月のことでもあり、青菜を収穫しようと、父母は大勢の下女や子息と一緒に働いていた。そこへ通りがかった男は、話のついでに、大きな声でこういったのだった。
「ある年のこと、国へ下る途中ここを通りがかったことがあったが、無性に女とあれをしたくなって困ったことがあった、そこで垣根の内に入り、大きな蕪を引っこ抜いて、それに穴をあけ、女の穴の変わりにしたものだったよ。」
これを聞いていた母親は、娘のいったことが思い出されて、不思議に感じたので、垣根から出てくると、男に話しかけた。男は蕪を盗んだことをとがめられるかと思い、「いや、冗談じゃよ」といって逃げ回った。すると母親は、「大事なことで、是非お聞きしたいことがあります」と、泣き顔で懇願する。そこで男は、さぞ事情があるのだろうと思いながら、こう答えた。
「隠すほどのことでもなく、また身の不名誉になるようなことでもござらぬ、凡夫の身として、ときにはこのようなこともあるものです。」
母親はこれを聞いて涙を流し、泣く泣く男を自分の家に連れて行ったのだった。
女は、「じつはしかじかのことがあったのです、その子を引き合わせしましょう」といってその子を連れてくると、果たして男と露もたがわず似ている。それを見た男は哀れに思った。
「これも宿世の定めかも知れぬ、それにしてもどうしたらよいでしょう」こう男がいうと、女は「あなた次第です」といって、この子の母を呼び出した。身分の低さに係らずなまめいた容貌で、年は二十歳ほどに見える。子どもは五六歳ばかりで、かわいい顔をしている。
そこで男はこう思ったのだった。「このまま京へ上っても、両親もおらず、頼るべき縁者もいない、ここは宿世の定めと思って、この女を妻にして、この地にとどまろう」
こうして男はここに住み着いたのだった。これは珍しい出来事である。男女が肉の交わりをしなくとも、子が生まれることがありうるのだ。

巻二十六は「宿報」という副題が付されている。奇妙な出来事や不思議な巡り合わせを語って、それが前世からの宿縁によるものだと結論透ける体裁の物語を集めている。だが、それがどんな因縁だったか語ることはないので、ただ珍しい話をもっともらしく聞かせるためのものだと、考えてもよい。
第二話のこの物語は、旅の途中で猛烈な淫欲にとらわれ、道端に生えていた株に穴をあけて、それにペニスを突っ込んでマスターベーションをしたという話である。娘がそれを繰って解任したという話は、つけたしで、主眼は男のマスターベーションにおかれている。
この手の話は淫靡になりがちであるが、これはそういうところを感じさせない。あっけらかんとした語り口が、かえってすがすがしいくらいだ。
セックスに対するこのような砕けた態度は、今昔物語のほかの部分にも見られるが、いづれも滑稽を以て、人間の性欲を笑い飛ばす風情のものである。  
土佐國の妹兄、知らぬ島に行きて住む語 (今昔物語集巻二六第十)
今は昔、土佐の國幡多の郡に住みける下衆有りけり。己れが住む浦にはあらで、他の浦に田を作りけるに、己れが住む浦に種を蒔きて、苗代と云ふ事をして、殖うべき程に成りぬれば、其の苗を船に引き入れて、殖人など雇ひ具して、食物より始めて、馬齒・辛鋤・鎌・鍬・斧・たつきなど云ふ物に至るまで、家の具を船に取り入れて渡りけるにや、十四五歳ばかり有る男子、其れが弟に十二三歳ばかり有る女子と、二人の子を船に守り目に置きて、父母は殖女を雇ひ乘せんとて、陸に登りにけり。
あからさまと思ひて、船をば少し引き据ゑて、綱をば棄てて置きたりけるに、此の二人の童部は船底に寄り臥したりけるが、二人ながら寢入りにけり。其の間に鹽滿ちにければ、船は浮きたりけるを、放つ風に少し吹き出だされたりける程に、干潮に引かれて、遙かに南の沖に出でけり。沖に出でにければ、いよいよ風に吹かれて、帆上げたるやうにて行く。其の時に、童部驚きて見るに、かかりたる方にも無き沖に出でにければ、泣き迷へども、すべきやうも無くて、只吹かれて行きけり。父母は、殖女も雇ひ得ずして、船に乘らむとて來て見るに、船もなし。暫くは風隠れに差し隠れたるかと思ひて、と走りかく走り呼べども、誰かは答へむとする。返す返す求め騒げども、跡形も無ければ、云ふ甲斐無くて止みにけり。
然て、其の船をば遙かに南の沖に有りける島に吹き付けけり。童部、恐る恐る陸に下りて、船を繋ぎて見れば、敢へて人無し。返るべきやうも無ければ、二人泣き居たれども甲斐無くて、女子の云はく、「今はすべきやうなし。さりとて命を棄つべきに非ず。此の食物の有らむ限りこそ少しづつも食ひて命を助けめ、此れが失せはてなん後は、いかにしてか命は生くべき。されば、いざ、此の苗の乾かぬ前に殖ゑん」と。男子、「只、いかにも汝が云はんに随はむ。げに然るべき事なり」とて、水の有りける所の、田に作りつべきを求め出だして、鋤、鍬など皆有りければ、苗の有りける限り、皆殖ゑてけり。さて、斧、たつきなど有りければ、木伐りて庵など造りて居たりけるに、生物の木、時に随ひて多かりければ、其れを取り食ひつつ明かし暮らす程に、秋にも成りにけり。さるべきにや有りけん、作りたる田いとよく出で來たりければ、多く苅り置きて、妹兄過ぐす程に、漸く年來に成りぬれば、さりとて有るべき事に非ねば、妹兄夫婦に成りぬ。
然て、年來を經る程に、男子・女子數た産みつづけて、其れを亦夫妻と成しつ。大きなる島なりければ、田多く作り弘げて、其の妹兄が産みつづけたりける孫の、島に餘るばかり成りてぞ、今に有るなる。「土佐の國の南の沖に、妹兄の島とて有り」とぞ、人語りし。
此れを思ふに、前世の宿世に依りてこそは、其の島にも行き住み、妹兄も夫妻とも成りけめとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、土佐の國幡多の郡というところに、ある百姓が住んでいた。その百姓は自分が住んでいる浦ではなく別の浦に田を作っていた。
自分の浦で種まきをして、それを苗代にして田植えできるまで育てると、いよいよ別の浦に植えようとして、苗のほか用具や食べ物など沢山のものを船に乗せて出発した。その途中、十四五歳ばかりの男の子と十二三歳ばかりの女の子の兄妹を船に残して、父母は殖女を雇うために陸に上がった。
ほんのちょっとの間と思い、船体を砂に据えた状態で綱もかけないでおいた。兄妹の子どもたちは船底に臥していたが、二人とも寝てしまった。その間に潮が満ちてきて、船体が浮き上がり、風に吹かれるままに動き出したかと思うと、潮に引かれてはるか南の海に流された。
沖に出ると船は帆を上げたように勢いよく進んでいく。子どもたちは驚いてみていたが、泣けどもその甲斐もなく、船はいよいよ進んでいった。
父母が、殖女を雇えないまま、船に戻ってくると、姿が見当たらない。風に吹かれたのかと、そこらじゅうを走り回り叫んでみたが、答えるものとてない。とうとうあきらめて探すことをやめてしまった。
船ははるか南の沖のある島に吹き流された。子どもたちは、恐る恐る陸に降りて、船をつないであたりを見たが、人がいる気配もない。帰ることも出来ず、二人は泣いていたが、そのうち女子がいった。
「いまとなっては、どうすることもできませぬ。といって、死ぬこともいやです。船の中の食べ物がある間は、それで命をつなぎましょう。なくなってしまえばそれまでなので、この苗が乾かない前に、これを植えておきましょう。」
そこで男子は、「おまえがいうことはもっともだ」といって、水があるところに田んぼを作り、船の中から道具を持ち出して、数の限りの苗をみな植えたのだった。
ほかに斧やたつきなどもあったので、木を切って庵を作り、二人で住んだ。島には木の実などもなっていたので、それをとって食いつなぐうち、秋になった。すると田んぼも豊かに実ったので、刈り取って食料にした。こうして数年を島で過ごすうちに、兄と妹で夫婦になったのだった。
さらに年数がたつうちに、多くの子供を生み、その子どもがまた互いに夫婦となった。大きな島であったが、こうして生まれてきた男女が、島いっぱいに広がった。今も人々が、「土佐の国の南の沖の妹兄島」といっている島のことである。
思うに、前世の因縁によることかもしれぬ。

兄と妹が孤島に流れ着いて、そこで夫婦になり、国の礎を築いたという話は南洋に広く分布しており、日本でも、先島地方に、同じような神話が伝わっているという。古事記にある、イザナギ、イザナミの婚姻神話も、その類型に入るかもしれない。  
參河の國に犬頭糸を始むる語 (今昔物語集巻二六第十一)
今は昔、參河の國□の郡に一人の郡司有りけり。妻を二人持ちて、其れに蚕養をせさせて、糸多く儲けける。而るに、本の妻の蚕養、いかなる事の有りけるにか、蚕皆死にて、養ひ得る事無かりければ、夫もすさまじがりて寄り付かず成りにけり。されば從者共も、主行かず成りにければ、皆行かず成りにければ、家も貧しく成りて、人も無く成りぬ。されば、妻只一人居たるに、從者僅か二人ばかりなん有りける。妻、心細く悲しき事限り無し。
其の家に養ひける蚕は皆死にければ、養蚕絶えて養はざりけるに、蚕一つ桑の葉に付きて咋ひけるを見付けて、此れを取りて養ひけるに、此の蚕、只大きに成れば、桑の葉をこき入れて見れば、只咋ひ失ふ。此れを見るに、哀れに思えければ、掻撫でつつ養ふに、「此れを養ひ立ててもいかがはせむ」と思へども、年來養ひ付けたる事の、此の三四年は絶えて養はざりけるに、此く思はずに養ひ立てたるが哀れに思えければ、撫で養ふ程に、其の家に白き犬を飼ひけるが、前に尾を打振りて居りけるに、其の前にて、此の蚕を物の蓋に入れて桑咋ふを見居る程に、此の犬、立ち走りて寄り來て此の蚕を食ひつ。あさましく、妬く思ゆれども、此の蚕を一つ食ひたらんに依りて、犬を打ち殺すべきに非ず。
然て、犬、蚕を食ひて、呑み入れて向ひ居たれば、「蚕一つをだに養ひ得で、宿世なりけり」と思ふに、哀れに悲しくて、犬に向ひて泣き居たる程に、此の犬鼻をひたるに、鼻の二つの穴より、白き糸二筋、一寸ばかりにて指し出でたり。此れを見るにあやしくて、其の糸を取りて引けば、二筋ながらくるくると長く出で來たれば、わくに卷き付く。其のわくに多く卷き取りつれば、亦、異わくに卷くに、亦口ぬれば、亦このわくを取り出だして卷き取る。此くの如くして、二三百のわくに卷き取るに、尽きもせねば、竹の棹渡して絡り懸く。尚、其れにも尽きせねば、桶共に卷く。四五千兩許卷き取りて後、糸のはて絡り出だされぬれば、犬倒れて死ぬ。其の時に妻、「此れは佛神の犬に成りて助け給ふなりけり」と思ひて、屋の後に有る畠の、桑の木の生ひたる本に、犬をば埋めつ。
さて、此の糸をば細め遣るべき方無くして、わづらふ程に、夫の郡司物へ行くとて、其の門の前を渡りければ、家の極めて□氣にて、人の氣色もなければ、□に哀れと思ひて、「此こに有りし人、いかにして有らん」と、いと惜しく思ひければ、馬より下りて、家に入りたるに、人もなし。只、妻一人、多くの糸を繚ひ居たり。此れを見るに、我が家に蚕を養ひ富みて絡り懸くる糸は、黒し、節有りて悪し。此の糸は雪の如く白くして、光有りてめでたき事限り無し。此の世に類なし。郡司此れを見て大きに驚き、「此はいかなる事ぞ」と問へば、妻、事の有樣を隠さず語る。郡司、此れを聞きて思はく、「佛神の助け給ひける人を、吾愚かに思ひける事」を悔い、やがて留まりて、今の妻の許へも行かずして棲みけり。
其の犬埋みし桑の木に、蚕、ひま無く繭を造りて有り。されば、亦、其れを取りて、糸に引くに、めでたき事限り無し。郡司、此の糸の出で來ける事を、國の司□と云ふ人に語りて出だしたりければ、國の司、公に此の由申し上げて、其れより後、犬頭と云ふ糸をば、彼の國より奉るなりけり。其の郡司が孫なむ傳へて、今其の糸奉る竈戸にては有るなる。此の糸をば、藏人所に納められて、天皇の御服には織らるるなりけり。天皇の御服の料に出で來たりとなん、人語り傳へたる。
亦、今の妻の、本の妻の蚕をば構へて殺したる、と語る人も有り。慥かに知らず。 此れを思ふに、前生の報によりてこそは、夫妻の間も返り合ひ、糸も出で來けれと語り傳へたるとや。  
今は昔、三河の国のある郡司が妻を二人持ち、それぞれに養蚕をさせていた。ところがどうしたことか、本妻のほうの蚕が皆死んで、ものにならなかったため、夫は気味悪がって近づかなくなり、従者たちも近づかなかった。それゆえ家は貧しくなり、妻はただ二人の従者とともに、心細く暮らしていた。
蚕が死んだ後、新しく飼うこともなかったが、一匹だけ残ったやつが、桑の葉に食らいついていた。これを見つけて養っているうち、蚕も大きくなり、桑の葉を投げ与えると、あっという間に食ってしまう。こんなわけで面白く思って養い続けた。「これを養ったからといって、どうなるわけでもあるまい」とは思ったが、ここの三四年の間は養蚕をやめていたこともあり、そのさまが面白くて、引き続き養い続けた。
この家には一匹の白い犬がいて、尻尾を振るなど愛嬌ものであったが、あるとき、蚕が蓋の中で桑を食っているところ、走り寄って、それを食ってしまった。妻はびっくりして、残念に思ったが、まさか蚕を食ったことを理由に犬を殺すわけにもいかぬ。
犬は蚕を食うと、妻の前に座った。妻は「蚕一匹養えないのは宿世だろう」と、哀れに悲しくて、犬に向かって泣いた。すると犬は、くしゃみをし、そのついでに、鼻の穴から二筋の白い糸を吐き出したのだった。
不思議に思ってその糸を引っ張ると、二筋になって次から次へと長く出てきた。それを枠に巻きつけると、すぐにいっぱいになったので、別の枠に巻き取り、ついには二三百の枠に巻き取ったが、まだ尽きることがない。そこで今度は桶に巻いてそれが四五千兩にもなったところで、糸はようやく尽きて、犬も倒れて死んだのだった。それを見て妻は、「これは神仏が犬になって助けてくださるのだ」と思い、家の裏庭の桑の木の下に、犬の死体を埋めた。
この糸をどのようにして紡ごうかと思い煩っていると、夫が物のついでにこの家を通りがかった。門の前を通りながら見れば、家の中はさびしい気配で、人がいる様子もない。「ここにいた人はどうしたのだろう」と思うと、かわいそうになり、馬から下りて家に入ったところ、妻がただ一人で糸を紡いでいた。
これをよく見ると、自分の家の蚕が出す糸は黒くて節があり、質がよくないのに対して、この糸は雪のように白く、しかも光沢があって上等である。夫は大いに驚いてそのわけを問うと、妻はそれまでのことを包まず語った。それを聞いた夫は、「神仏が助けている人を、自分は粗略に扱ったものよ」と後悔した。そんなわけで夫はそのままとどまり、今の妻のもとへは帰らなかった。
犬を生めた桑の木には、蚕がひっきりなしに繭を作った。それをとって糸を引くと、めでたいこと限りない。
郡司はこの糸のことを国司に報告した。国司はそれを公に奏上した。それより後、この糸に犬頭糸と名づけて、天皇に奉った。いまだに天皇の御服はこの糸を材料にして作っているのである。
また一説には、今の妻が嫉妬して本の妻の蚕を殺したという話もあるが、真偽のほどは明らかではない。

殺された女性の死体から穀物が生え出てくるという話は、インドネシアのハイヌウェレ伝説や日本のオオゲツヒメ伝説に見られる。第11話のこの物語は、それを犬に置き換えて、良質な絹糸の起源を、神話風に語ったものだ。
男が二人の妻の間を行ったり来たりしているが、これは、妻訪婚を反映していると考えられる。  
利仁の將軍、若き時京より敦賀へ五位を將て行く語 (今昔物語集巻二六第十七)
今は昔、利仁將軍と云ふ人有りけり。若かりける時は、□と申しける。其の時の一の人の御許に、格勤になん候ひける。越前の國に□の有仁と云ひける勢徳の者の聟にてなん有りければ、常に彼の國にぞ住みける。
而る間、其の主の殿に、正月に大饗行はれけるに、當初は、大饗はてぬれば、取食と云ふ者をば追ひて入れずして、大饗の下しをば、其の殿の侍共なん食ひける。それに、其の殿に年來に成りて所得たる五位の侍有りけり。其の大饗の下し、侍共の食ひける中に、此の五位、其の座にて芋粥をすすりて、舌打をして、「哀れ、いかで芋粥に飽かん」と云ひければ、利仁此れを聞きて、「大夫殿、未だ芋粥に飽かせ給はぬか」と云へば、五位、「未だ飽き侍らず」と答ふ。利仁、「いで飲み飽かせ奉らばや」と云へば、五位、「いかに喜しう侍らん」と云ひて止みぬ。
其の後、四五目ばかりありて、此の五位は殿の内に曹司住みにて有りければ、利仁來たりて、五位に云はく、「いざさせ給へ、大夫殿。東山の邊に湯涌かして候ふ所に」と。五位、「いと嬉しく侍る事かな。今夜、身の痒がりて、え寢入り侍らざりつるに。但し、乘物こそ侍らね」といへば、利仁、「ここに馬は候ふ」と云へば、五位、「あな嬉し」と云ひて、薄綿の衣二つばかりに、青鈍の指貫の裾破れたるに、同じ色の狩衣の肩少し落ちたるを着て、下の袴も着ず、鼻高なる者の、鼻先は赤みて、穴の辺いたくぬればみたるは、洟をいとも巾はぬなめりと見ゆ。狩衣の後は帯に引きゆがめられたるを、引きもつくろはず、ゆがみながらあれば、可咲しけれども、五位を前に立てて、共に馬に乘りて、川原ざまに打出でて行く。五位の共には、賤しの小童だに無し。利仁が共にも、調度がけ一人、舎人男一人ぞ有りける。
さて、川原打過ぎて、粟田口に懸かるに、五位、「いづこぞ」ととへば、利仁、「只ここなり」とて、山科も過ぎぬ。五位、「近き所とて、山科も過ぎぬるは」と云へば、利仁、「只あしこばかなり」とて、關山も過ぎて、三井寺に知りたりける僧の許に行き着きぬ。五位、「さはここに湯涌かしたりけるか」とて、そこをだに「物狂はしく遠かりける」と思ふに、房主の僧、「思ひ懸けず」と云ひて、經營す。然れども、湯ありげも無し。五位、「いづら、湯は」と云へば、利仁、「實には敦賀へ將て奉るなり」と云へば、五位、「いと物狂はしかりける人かな。京にて此く宣はましかば、下人なども具すべかりける者を、無下に人も無くて、さる遠道をば、いかで行かんとするぞ。怖し氣に」と云へば、利仁あざわらひて、「己れ一人が侍るは千人と思せ」と云ふぞ理なるや。かくて物など食ひつれば、急ぎ出でぬ。利仁そこにてぞ、胡録取りて負ひける。
さて行く程に、三津の浜に狐一つ走り出でたり。利仁これを見て、「よき使出で來にたり」と云ひて、狐を押し懸くれば、狐、身を棄てて逃ぐと云へども、只責めに責められて、え逃げ遁れざるを、利仁、馬の腹に落ち下がりて、狐の尻の足を取りて引き上げつ。乘りたる馬、いと賢しと見えねども、いみじき一物にて有りければ、幾ばくも延ばさず。五位、狐を捕へたる所に馳せ着きたれば、利仁、狐を提げて云はく、「汝狐、今夜の内に利仁が敦賀の家に罷りて云はん樣は、 「俄かに客人具し奉りて下るなり。明日の巳の時に高島の邊に、男共、迎へに馬二疋に鞍置きて詣で來たるべし」と。若し此れを云はずは、汝狐、只試みよ。狐は變化有る者なれば、必ず今日の内に行き着きて云へ」とて放てば、五位、「荒涼の御使かな」と云へば、利仁、「今御覧ぜよ。罷らではえ有らじ」と云ふに合はせて、狐、實に見返る見返る前に走り行くと見る程に失せぬ。
さて、其の夜は道に留まりぬ。朝に疾く打出でて行く程に、實に巳の時ばかりに、二三十町ばかり凝りて來る者有り。何にか有らんと見るに、利仁、「昨日の狐の罷り着きて、告げ侍りにけり。男共詣でにたり」と云へば、五位、「不定の事かな」と云ふ程に、只近に近く成りて、はらはらと下るるままに云はく、「これ見よ。實におはしましたりけり」と云へば、利仁頬ゑみて、「何事ぞ」と問へば、大人しき郎等進み來たるに、「馬は有りや」と問へば、「二疋候ふ」とて、食物など調へて持來たれば、其の邊に下り居て食ふ。
其の時に、ありつる大人しき郎等の云はく、「夜前、希有の事こそ候ひしか」と。利仁、「何事ぞ」と問へば、郎等の云はく、「夜前戌の時ばかりに、御前の俄かに胸を切りて病ませ給ひしかば、いかなる事にかと思ひ候ひし程に、御自ら仰せらるる樣、 「己は狐なり。別の事にも候はず。此の晝、三津の浜にて、殿の俄かに京より下らせ給ひけるに會ひ奉りたりつれば、逃げ候ひつれども、え逃げ得で、捕へられ奉りたりつるに、仰せらるる樣、汝、今日の内に我が家に行き着きて、云はむ樣は、客人具し奉りてなん俄かに下るを、明日の巳の時に馬二疋に鞍置きて、男ども高島の邊に參り合へ、と云へ。若し今日の内に行き着きて云はずは、辛き目見せんずるぞ、と仰せられつるなり。男ども速かに出で立ちて參れ。遅く參りては、我れ勘當蒙りなむ 」とて、怖ぢ騒がせ給ひつれば、「事にも候はぬ事なり」とて、男どもに召し仰せ候ひつれば、立ちどころに例の樣に成らせ給ひて、其の後、鳥と共に參りつるなり」と。利仁、此れを聞きて頬ゑみて五位に見合はすれば、五位、「奇異し」と思ひたり。物など食ひはてて、急ぎ立ちて行く程に、暗々にぞ、家に行き着きたる。「此れ見よ、實なりけり」とて、家の内騒ぎののしる。
五位、馬より下りて、家の樣を見るに、にぎははしき事、物に似ず。本着たりし衣二つが上に、利仁が宿直物を着たれども、身の内し透きたりければ、いみじく寒氣なるに、長櫃に火多くおこして畳厚く敷きたるに、菓子・食物など儲けたる樣微妙なり。「道の程寒くおはしますらん」とて、練色の衣の綿厚きを三つ引き重ねて打ち覆ひたれば、樂しと云へば愚かなりや。
食物喰ひなどして靜まりて後、舅の有仁出で來て、「こはいかに、俄かには下らせ給ひて、御使の樣物狂はしき。上俄かに病み給ふ、いと不便の事なり」といへば、利仁打咲みて、「試みむと思ひ給へて、申したりつる事を、實に詣で來たりて、告げ候ひけるにこそ」と云へば、舅も咲みて、「希有の事なり」とて、「そもそも具し奉らせ給ひたなる人とは、此のおはします殿の御事か」と問へば、利仁、「さに候ふ。芋粥に未だ飽かずと仰せらるれば、飽かせ奉らんとて、將て奉りたるなり」と云へば、舅、「安き物にも飽かせ給はざりけるかな」とて戯るれば、五位、「東山に湯涌きたりとて、人を謀り出でて、此く宣ふなり」など云へば、戯れて、夜少し更けぬれば、舅も返り入りぬ。
五位も寢所と思しき所に入りて寢むとするに、そこに綿四五寸ばかりある直垂あり。本の薄きはむづかしく、亦何の有るにや、痒き所も出で來にたれば、皆脱ぎ棄てて、練色の衣三つが上に此の直垂を引き着て、臥したる心地、未だ習はぬに、汗水にて臥したるに、傍に人の入る氣色有り。「誰そ」と問へば、女音にて、「御足參れ、と候へば、參り候ひつる」と云ふ氣はひにくからねば、掻き寄せて、風の入る所に臥せたり。
而る間、「物高く云ふ音は何ぞ」と聞けば、男の叫びて云ふ樣、「此の邊の下人承はれ。明旦の卯の時に、切口三寸、長さ五尺の芋、各一筋づつ持て參れ」と云ふなりけり。「あさましくも云ふかな」と聞きて、寢入りぬ。未だ暁に聞けば、庭に莚敷く音す。「何わざするにか有らむ」と聞くに、夜暁けて蔀上げたるに見れば、長莚をぞ四五枚敷きたる。「何の料にか有らむ」と思ふ程に、下衆男の、木の樣なる物を一筋打ち置きて去りぬ。其の後、打続き持て來つつ置くを見れば、實に口三四寸ばかりの芋の、長さ五六尺ばかりなるを持て來たりて置く。巳の時まで置きければ、居たる屋ばかりに置き積みつ。夜前叫びしは、早う其の邊に有る下人の限りに物云ひ聞かする、人呼の岳とて有る塚の上にして云ふなりけり。只、其の声の及ぶ限りの下人共の持ち來たるだに、さばかり多かり。いかに况や、去りたる從者どもの多さ、思ひ遣るべし。「あさまし」と見居たる程に、五斛納の釜ども五つ六つ程掻き持て來て、俄かに杭どもを打ちて、据ゑ渡しつ。「何の料ぞ」と見る程に、白き布の襖と云ふ物を着て、中帯して、若やかにきたなげ無き下衆女どもの、白く新しき桶に水を入れて持て來たりて、此の釜どもに入る。「何ぞの湯涌かすぞ」と見れば、此の水と見るは味煎なりけり。亦、若き男共十餘人ばかり出で來たりて、袂より手を出だして、薄き刀の長やかなるを以て、此の芋を削りつつ撫切に切る。早う芋粥を煮るなりけり。見るに、食ふべき心地せず、返りては疎ましくなりぬ。さらさらと煮返して、「芋粥出で來にたり」と云へば、「參らせよ」とて、大きなる土器して、銀の提の斗納ばかりなる三つ四つばかりに汲み入れて持て來たりたるに、一盛だにえ食はで、「飽きにたり」と云へば、いみじくわらひて集り居て、「客人の御徳に芋粥食ふ」など云ひ嘲り合へり。
而る間、向ひなる屋の檐に、狐のさしのぞき居たるを、利仁見付けて、「御覧ぜよ。昨日の狐の見參するを」とて、「あれに物食はせよ」と云へば、食はするを、打ち食ひて去りにけり。
かくて五位、一月ばかり有るに、萬樂しき事限り無し。さて上りけるに、けおさめの裝束あまた下り調へて渡しけり。亦、綾・絹・綿など、皮子あまたに入れて取らせたりけり。前の衣直などはさらなり。亦よき馬に鞍置きて、牛など加へて取らせければ、皆得まうけて上りにけり。實に、所に付きて年來になりて免されたる者は、かかる事なむおのづから有りけるとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、利仁將軍という人があった。若い頃は、某という名の関白に仕えていた。越前の國の某の有仁と云う金持ちの聟であったので、いつもは彼の國に住んでいた。
関白の屋敷で正月に大宴会が行われた際、その頃はまだ、宴会の終った後、残り物を乞食どもに与えてやる風習がなかったので、家来の侍たちが残り物を食っていた。そこに、長年仕えていた五位の侍がいて、残り物の芋粥をすすりながら、舌打ちをし、「腹一ぱい食ってみたいものじゃ」といった。
これを聞いた利仁は「五位殿、いままで芋粥をたらふく召されたことがないのですか」と問いかけた。五位がありませんと答えたので、利仁はぜひ召し上がっていただきたいというと、五位は大いに喜んだのだった。
その後、四五目ばかりたって、屋敷に住みこんでいる五位のところに利仁がやってきて、「大夫殿ご一緒しませんか。東山のあたりにお湯をわかして用意してありますぞ。」と誘いをかけた。五位は「それはうれしい、今夜は体中がかゆくて眠れないところでした。だが乗り物がありません。」と答えた。利仁が「馬を用意してあります。」というと、五位は「それはうれしい。」といって、薄い綿衣を二枚と、裾の破れた指貫、よれた狩衣を身につけ、袴もはかずに出発した。
五位は、鼻が高かったが、その先が赤らみ、孔のところが濡れているように見えるのは、ろくろく鼻もかまないからだろうと思われた。狩衣の後ろのほうが、帯に締められてゆがんでいるのがおかしかったが、五位を前に立て、ともに馬に乗って出かけた。川原に沿って進んでいったが、五位には童のお供もないのにたいして、利仁には調度掛けが一人、舎人男が一人つき従った。
川原を過ぎて粟田口にかかる頃、五位はどこですかと聞いたが、利仁はもうすぐですよといって、山科も過ぎた。五位は「近いといいながら、もう山科も過ぎましたよ」といったが、利仁はもうすぐですといいながら、関山も過ぎて、三井寺の知り合いの僧のところに立ち寄った。
五位は、ここに湯がわかしてあるのかな、それにしても随分遠いところまで来たものだと思っていると、主の僧は「よくぞおいでなさった」といいながら、いろいろ準備をしている。だが風呂のありそうな様子はない。そこで「風呂はどこですか」と聞いたところ、利仁は「実は敦賀までおいでいただくつもりなのです。」といった。
五位は「あなたは人の悪い方だ、京でそう聞いていたら、下男を連れてきましたのに、そんなに遠いところまでいくのは心細いではありませんか。」とこぼすと、利仁はあざ笑って、「わたしがついておれば千人力です。」といったが、まさにその通りに思われた。二人は急いで食事をすますと、急いで出発した。利仁は用心のために胡録を背負った。
道中三津の浜で、狐が一匹現れた。利仁はそれを見て「よい使いが来た」といって、狐を捕らえようとすると、狐は必死に逃れようとするが、そうはいかぬ、利仁は馬の腹のほうに身をかがめると、狐の後ろ足を持って引き上げた。乗っていた馬はそう利口ではなかったが、首尾よく狐を追い詰めたからである。
五位が後から追いつくと、利仁は狐をぶら下げていわく、「これ狐、今夜のうちに我が家に駆けつけて、こういえ、客を連れて帰るから、明日の巳の時(午前十時頃)に、高島のあたりまで馬を二匹用意して迎えに参れとな。必ずいうのだぞ、お前は変化の術が使えるから、今日中にいけるはずだ。」
こういって狐を放つと、五位は「あてにならぬ使いじゃ」といい、利仁は「みていて御覧なさい、きっといきますから」といいあううち、狐は見る見る走り去っていった。
その夜は道端に野宿した。次の朝早く起きて進んでいくと、十時頃、二三十町(二三`)先から人の来る気配がした。何者だろうと怪しがると、利仁がいうには、「昨日の狐が家について、報告したのです、それで家のものどもが迎えに来たのです。」
五位は変ったことだと不思議に思ったが、そうするうちにも、下男たちが近づいてきて、馬から下りると、「それみよ、やはりお出でになった。」といい騒いだ。利仁が馬の所在を尋ねると、二匹連れてきましたと返事をし、食べ物を差し出したので、二人はそれを食ったのだった。
そのとき、先ほどの年かさの家来が、「昨夜、変った事態が起こりました。」といった。利仁が何事かと聞くに、家来の曰く、
「昨夜戌の時(午後八時頃)ばかりに、奥方様が俄かに胸が痛むご様子なので、どうしたことかと思いましたところ、奥方様みずから仰せになるには、わたしは狐ですが、折り入ってお話することがあります、今日のお昼ごろ、三津の浜で殿様にお会いしたので、いったんは逃げましたが、つかまってしまったところ、殿様は、こうおっしゃられました、今日中に我が家にいって、わしは客をお連れして帰るところだから、明日の巳の時に、馬を二匹連れて、高島あたりまで迎えに参れ、もし今日中にいわなければ、痛い目にあわせるぞと。それ故早く男どもを迎えにやってください、でないとわたしがひどい目に合わされます。こういって恐れた様子なので、たやすいことですといって、男どもに用意をさせたところ、奥方様は正気になられましたので、その後一番鳥とともに起きて、参った次第です。」
これを聞いた利仁が五位に目配せをすると、五位はあやしいことだと思ったが、用意してきた食べ物を食い、家路を急ぐうちに、黄昏の頃家に着いた。それを看た家人達は、やはり狐のいったことは本当だったと、大声で話し合ったのだった。
五位が馬から下りて、家の樣子を見るに、たいそう賑やかだ。もとから着ていた薄綿の衣二枚の上に利仁の宿直物を借りて重ね着したが、寒さが厳しく感じられる、長櫃に火をおこし、畳を厚く重ねた上に菓子や食べ物を並べ、道中さぞ寒かったことでしょう、といって、練色の厚い綿衣を三枚もかぶせてくれた。五位の満足は限りないものだった。
食事をして一段落した頃、舅の有仁が出てきて、「これは急なお帰りでしたな、それに使いのものがきちがいじみていて、奥方は気分が悪くなるし、とんだ騒ぎでした。」というと、利仁は微笑んで、「狐めを試してやろうと思っていいつけたところが、本当にやってのけたというわけです。」といって笑った。
舅も笑って、「それは面白いことであった、ところでお供の方とは、ここにおられるこの人のことですか。」と訪ねるので、利仁は、「そうです。芋粥を腹いっぱいたべたことがないと申されるので、食べさせてあげようと思って、お連れした次第です。」というと、舅は、「別に高価なものでもないのに、食べ飽きたことがないとは」といって戯れた。五位も、「東山に風呂が沸いているとだまされて、ここまできてしまったのです。」といい戯れる間に、夜も更けたので、舅は自分のところへ戻っていった。
五位も自分の臥所に入ろうとしたが、そこには綿を四五寸ほど重ねた直垂が用意されてあった。五位は、自分の薄衣を脱ぎ捨てて、借り物の衣の上にこの直垂を重ねて着ると、ぽかぽかと暖かく、汗をかくほどであった。
そこに誰かがそばに寄ってくる気配がした。誰かと問えば女の声で、「おみ足をさすってあげなさいと命じられて参りました。」という。その気配がかわいいので、五位は女を抱いて寝たのであった。
そのうち戸外で男の声がして、「このあたりの下人ども、よく聞け、明日の朝卯の時(午前六時頃)に、切口三寸、長さ五尺の芋を一本づつ持って参れ。」というのが聞こえた。五位は「変ったことをいうものだ。」と思いながら、寝たのであった。
明け方になると、庭に筵を敷く音が聞こえた。「どうするつもりだろう」と思いながら、蔀を上げてみると、長い筵が四五枚敷かれてある。何のためかと不思議に思ううち、下男たちが相次いでやってきて、口三四寸、長さ五六尺ばかりの芋をひとつづつ置いていった。
巳の時までには、芋の山が屋根の高さほどになった。昨夜聞こえた声は、周辺の下人に芋を持参するよう命令するために、人が丘の上から叫んでいた声だったのだ。その声が及んだ範囲だけでもこれほど多くの下人がいたわけだから、それより遠いところにどれだけ多くの下人が住んでいるか、見当もつかない。
なおも見ていると、五斗入りの釜を五六個もってきて、それを俄かにうちたてた杭の間に並べて吊るした。何のためかとなおも見ていると、白い袷を着たかわいい娘たちが、桶に水を入れて運んできては、この釜に注いでいる。ところがこの水と見えたものは、粥を煮るためのだし汁なのであった。
ついで若い男たちが10人ほどやってきて、袂から手を出しては、刀で芋をなで斬りにして釜の中に入れている。ははあ、芋を煮ているのだなと、五位はピンときた。そう思うと、すっかり食欲がなくなってしまった。
サラサラと煮立ったところで、「芋粥ができました。」という声がし、殿が「参らせよ」と命じると、銀の食器に盛った芋粥を三四杯持ってきたが、五位は一杯も食いきれないうちに、「腹いっぱい」といったので、皆大笑いをした。下男たちは「客人のおかげで芋粥をお相伴」といって、罵り騒いだのだった。
そのうち、向かいの家の檐から狐が覘いているのが見えた。利仁がこれを見つけ、「見てみろ、昨日の狐がやってきたぞ。あれにも芋粥を食わせてやれ。」といったので、狐は芋粥を食うと、いづかたともなく去っていった。
五位は一月ばかり滞在したが、その間楽しいことばかりだった。京へ帰るときには、お土産に多くの物をもらった、また綾・絹・綿などを沢山の皮子につめて贈られた。最初の晩に着て寝た衣直も、無論のこと貰った。また鞍を置いた馬や、牛までもらって、京へと帰っていった。
眞に同じところに長くつとめて同僚から信頼されたものは、このようなことがらにも出会うことが出来る、とそう伝えられている通りだ。

この物語は芥川の有名な短編小説「芋粥」のもとになったものだ。芥川の小説では、芋粥が煮られる場面を中心に、五位の心の動きが克明に語られているが、この物語は、宮仕えの同僚である利仁と五位との交流を、面白おかしく描いている。
五位は人並み以上の官位をもらっているが、貧しくて芋粥もろくろく食うことができぬ。一方利仁の方は、位は低いが金持ちの婿となって羽振りのいい生活をしている。そのコントラストを浮かび上がらせながら、人間の生きざまを面白おかしく描いている。  
産女、南山科に行きて鬼に値ひて逃げし語 (今昔物語集巻二七第十五)
今は昔、或る所に宮仕しける若き女有りけり。父母類親も無く、聊かに知りたる人も無かりければ、立ち寄る所も無くて、只局にのみ居て、「若し病などせむ時にいかがせむ」と心細く思ひけるに、指せる夫も無くて懐妊しにけり。然ればいよいよ身の宿世押量られて、心一つに歎きけるに、先づ産まむ所を思ふに、爲べき方無く、云ひ合はすべき人も無し。主に申さむと思ふも、恥かしくて申し出でず。
而るに、此の女、心賢しき者にて、思ひ得たりけるやう、「只我其の氣色有らむ時に、只獨り仕ふ女の童を具して、何方とも無く深き山の有らむ方に行きて、いかならむ木の下にても産まむ」と、「若し死なば、人にも知られで止みなむ。若し生きたらば、さりげ無き樣にて返り參らむ」と思ひて、月漸く近く成るままには、悲しき事云はむ方無く思ひけれども、さりげ無く持て成して、密かに構へて、食ふべき物など少し儲けて、此の女の童に此の由を云ひ含めて過ぐしけるに、既に月滿ちぬ。
而る間、暁方に其の氣色思えければ、夜の明けぬ前と思ひて、女の童に物どもしたため持たせて急ぎ出でぬ。「東こそ山は近かめれ」と思ひて、京を出でて東ざまに行かむとするに、川原の程にて夜明けぬ。哀れ、いづち行かむと心細けれども、念じて打休み打休み、粟田山の方ざまに行きて、山深く入りぬ。さるべき所々を見行きけるに、北山科と云ふ所に行きぬ。見れば、山の片沿ひに山荘のやうに造りたる所有り。旧く壞れ損じたる屋有り。見るに、人住みたる氣色無し。「ここにて産して我が身獨りは出でなむ」と思ひて、構へて垣の有りけるを超えて入りぬ。
放出の間に板敷所々に朽ち殘れるに上りて、突居て休む程に、奥の方より人來たる音す。「あな侘し、人の有りける所を」と思ふに、遣戸の有るを開くるを見れば、老いたる女の白髪生ひたる、出で來たり。「定めてはしたなく云はむずらむ」と思ふに、にくからず打ちゑみて、「何人のかくは思ひ懸けずおはしたるぞ」と云へば、女、有りのままに泣く泣く語りければ、嫗、「いと哀れなる事かな。只ここにて産し給へ」と云ひて、内に呼び入るれば、女、嬉しき事限り無し。「佛の助け給ふなりけり」と思ひて、入りぬれば、あやしの畳など敷きて取らせたれば、程も無く平らかに産みつ。嫗來て、「嬉しき事なり。己は年老いてかかる片田舎に侍る身なれば、物忌もし侍らず。七日ばかりはかくておはして返り給へ」と云ひて、湯などこの女の童に涌かさせて浴しなどすれば、女嬉しく思ひて、棄てむと思ひつる子もいといつくしげなる男子にて有れば、え棄てずして、乳打呑ませて臥せたり。
かくて二三日ばかり有る程に、女晝寢をして有りけるに、この子を臥せたるをかの嫗打見て、云ひける樣、「あな甘げ、只一口」と云ふと、ほのかに聞きて後、驚きてこの嫗を見るに、いみじく氣怖しく思ゆ。されば、「これは鬼にこそ有りけれ。我れは必ず食はれなむ」と思ひて、密かに構へて逃げなむと思ふ心付きぬ。
而る間、或る時に嫗の晝寢久しくしたりける程に、密かに子をば女の童に負はせて、我は輕びやかにして、「佛、助け給へ」と念じて、そこを出でて、來し道のままに、走りに走りて逃げければ、程も無く粟田口に出でにけり。そこより川原ざまに行きて、人の小家に立ち入りて、そこにて衣など着直してなむ、日暮して主の許には行きたりける。
心賢しき者なりければ、かくもするぞかし。子をば人に取らせて養はせてけり。 其の後、其の女、嫗の有樣を知らず。亦人にかかる事なむ有りしと語る事も無かりけり。さて、其の女の年など老いて後に語りけるなり。 此れを思ふに、さる旧き所には必ず物の住むにぞ有りける。されば、あの嫗も、子を「あな甘げ、只一口」と云ひけるは、定めて鬼などにてこそは有りけめ。これに依りて、さやうならむ所には、獨りなどは立ち入るまじき事なりとなむ、語り傳へたるとや。  
1
今は昔、ある貴族の家に仕えていた女があった。父母類親もなく、知り合いもいなかったので、訪ねる場所もなく、ただ局にいて、「病気になったらどうしよう」と心細く思っていたが、そのうち決まった夫もいないのに、妊娠してしまった。いよいよ身の不運が嘆かれるのであったが、出産の準備をしようにも、相談できる人もなく、主人にも恥ずかしくて話せないでいた。
ところがこの女は、賢こくもこう思った。「産気づいてきたら、召使の童をつれて、どこへでも奥深い山の中に入って行き、木の下ででも産もう、もし死んでも、人に知られることもないし、生き残ったら、さりげない様子をして帰ろう。」こう思いつつ、産月近くなると、さすがに悲しく覚えたが、さりげない様子を装って、ひそかに身構え、食べ物を少々準備して、童によくいい聞かせて過ごすうちに、いよいよ産月になった。
そのうち、明け方になって産気づいたので、夜が明けぬ前にと思って、童に荷物を持たせて急いで出た。「東のほうが近いだろう」と、京を出て東の方角にいくうち、川原のあたりで夜が明けた。心細い限りではあったが、休み休みしつつ、粟田山のあたりまで行ってから、山深く入っていった。然るべきところを求めて歩くうち、北山科というところについた。見れば、山の斜面にそって、壊れがかった山荘が建っている、人が住んでいる気配はない、「ここで子を産んで、自分ひとりだけ出て行こう」女はこう思って、垣根を越えて中に入っていった。
放出の間(別棟)に上ると板敷きがところどころ腐っている。そこに横になって休んでいると、遠くより人が来る音がする。「ああ、人が住んでいたのか」と思っていると、遣り戸があいて、白髪頭の老婆が現れた。罵られるかと心配したが、やさしげに微笑んで、「どなた様がおいでですか」という。女はありのままに泣く泣く語ったところ、老婆は気の毒がって、「ここで産みなさい」といって、中に入れてくれたので、女はうれしくなり、「仏様が助けてくれるのだ」と思いながら中に入ると、程もなく子供が生まれた。
老婆は「めでたいことです、わたしは年老いてこんな田舎に住んでいますので物忌みもしません。七日ばかりゆっくりしていきなさい。」といって、お湯を沸かして子どもに湯浴みさせてくれたので、女はうれしくなり、捨てようと思った子がかわいくなって、乳を飲ませて寝かせつけたりした。
こうして二三日がたったあるとき、女が昼寝をしていると、老婆が現れ、寝ている子どもをみて、「ああうまそうだ」といった。驚いて老婆を見ると、たいそう恐ろしげな様子、「これは鬼に違いない、わたしも食われてしまう」そう思った女は、ひそかに身構えて逃げようと思ったのだった。
あるとき老婆が昼寝をしているすきに、女は子どもを童に背負わせ、自分は身軽ないでたちで、「仏様、おたすけ」と念じながら、その家を抜け出し、かつて来た道を走りに走って、程もなく粟田口まで戻った。そこからは川原沿いに行き、人家に立ち寄って着替えをし、夕刻主人の家に帰った。
利口な女ゆえ、このようなことをもしたのである。子どもは養子に出したそうだ。その後、この女は、老婆がどうなったか知らず、その老婆との間であったことを人に話すこともなかった。随分と年をとった後に、始めて語ったということだ。
これを思うに、旧いところには必ず物の怪が住んでいるものだ。だからあの老婆も、子どもをうまそうだなどといったのは、恐らく鬼であった証拠といえる。こんな場所に、一人で立ち寄るべきではないと、人びとは語り伝えたということだ。

この物語は、山に住む鬼である山姥に関連があるものだろう。山姥は一方では人を取って食う恐ろしい鬼であると考えられたが、他方では慈愛に満ちた山の神であるという側面を持っている。この物語は、そうした山姥の両義的な性格を、身寄りのない哀れな女の出産と関連付けながら述べていると考えられる。
女は誰ともわからぬ男の子を宿してしまったが、身寄りもなく、里に帰って出産することもかなわない、素性がわからぬ子なので、主人にも恥ずかしくて相談できぬ。そこで山の中に入っていって、そこで産み捨てようと思う。
産気づいてきたところで、童女とともに山中をさまよい歩き、一軒の小屋を見つけそこに入っていく。誰もいないと思っていると、老婆が現れて親切にしてくれる。そこで女は安心して子を産むのだが、その子とともに転寝をしているときに、老婆が子の寝顔をのぞきこんで「ああ、うまそう」とつぶやく。
ここで初めて女は老婆がおそろしい山姥であると気づくのだが、別に山姥によって危害を加えられるわけでもない。童女に子を負ぶわせて無事逃げることができるのだ。
この物語は、人食いの側面が強まる以前の山姥の姿を反映しているといえよう。中世以降の昔話の世界では、山姥はもっと恐ろしい姿で描かれることが多いのである。  
2
山の老婆
京の都のあるところに、宮仕えしている若い女がいた。父母も親類もなく、ちょっとした知人もいなかったので、出かけて立ち寄る先もなかった。いつも自分の居室にいて、 「もし病気などしたら、どうすればいいだろうか」などと心細く思っていた。
この女には定まった夫もいなかった。しかし、気まぐれに通ってくる男などはいたので、ある時ふと懐妊してしまった。
こうなるといよいよ身の不運が思いやられて、ひとりぼっちで嘆きながら、どこで産んだらいいのかと途方にくれた。相談できる人はおらず、主人に打ち明けることも恥ずかしくて出来なかった。
ただ、この女は気丈で才知ある者だったので、思案の末、「いよいよという時になったら、ただ一人召し使っている少女を連れて、どこなりと深い山のある方へ行こう。山の中で、何かの木の下ででも産もう 」と心に決めた。「もし自分がお産で死んでも、山の中なら人に知られずにすむ。死ななかったら、何でもないふりをしてここに戻ってこよう」
産み月が近づくにつれて、心の内は限りなく悲しかったけれども、さりげなく振る舞いつつ、少しずつ準備をした。いささかの食料を用意し、召使いの少女に事情を話しなどするうちに、臨月にいたった。
ある日の暁がた、産気づいたようなので、夜が明ける前にと、少女に荷物を持たせて主人の邸を出た。
「東の方が山に近いかしら」と思って行くと、鴨川のあたりで夜が明けた。「ああ、ここからどっちへ行けばいいの」と不安で泣きたくなったが、それをこらえて、休み休みしながら粟田山の方へ向かい、山深く踏みこんでいった。
適当な場所はないかと探しながら、北山科というところまで行った。見れば、山の斜面に山荘のような家がある。古くて半ば壊れた建物で、人が住んでいる様子はない。 「ここでお産して、産まれた赤子は捨てて帰ろう」と思い、どうにか垣根を乗り越えて中に入った。
板敷きが所々に朽ちて残っている離れの間に上がって、しゃがみ込んで休んでいると、奥の方から人が来る足音がした。「どうしよう。人が住んでいたんだわ」
戸が開いて入ってきたのは、白髪の老婆であった。「きっと冷たくあしらわれるだろう」と思っていると、意外にも老婆はやさしく微笑んで、
「このように思いがけずおいでなのは、いったいどなたじゃ」と尋ねた。
女は泣く泣く、自分の身の上をありのままに語った。すると老婆は、
「それはなんと不憫な。気にすることはない。ここでお産なさるがよい」と、奥に迎え入れてくれた。
女はただただ嬉しかった。「仏さまが救ってくださったのだ」と思って奥に入ると、粗末な畳などを敷いてくれたので、そこで程なく無事に男の子を出産した。
老婆がやって来て、
「よかったのう。わたしは年寄りだし、こんな片田舎に住む者だから、産後の物忌みなど無用のこと。七日ほどここで休んでから、お帰りなされ」
と言い、召使いの少女に湯を沸かさせて、赤ん坊に産湯をつかわせた。女はその親切がありがたく、また、産まれた子を抱いてみればたいそう可愛くて、もはや捨てることなど思いもよらず、乳を含ませて横になっていた。
こうして二三日が過ぎた。
女が昼寝をしているとき、横に寝ている赤ん坊を老婆がのぞき見て、
「おお、うまそうじゃ。ただ一口に……」
と呟くのを、夢うつつに聞いた。
はっと目覚めて見た老婆の顔は、ぞっとするほど不気味なものだった。「あっ、これは鬼にちがいない。このままいれば、私たちはきっと食われてしまう」
女は何とかして逃げようと、ひそかに機会をうかがった。
そうするうち、老婆が昼寝をして、ぐっすり寝込んでいるときがあったので、そっと赤ん坊を少女に負わせ、自分も身軽に支度して、「仏さま、お助けを」と念じながら、その家を抜け出した。
もと来た道をそのまま、走りに走って逃げていくと、やがて粟田口に着いた。そこから鴨川の方へ向かい、人の家を頼んで衣服など着直し、日暮れになってから主人の邸に戻った。
賢い女だったからこそ、このように行動することが出来たのだ。子は人に預けて、養育してもらったそうだ。
その後、女は老婆がどうなったか知らず、また、人にこんな出来事があったと語ることもしなかったが、ずっと年をとってから、はじめて人に話した。
思うに、そうした古い家には、必ず妖怪が棲んでいる。だから、老婆が赤ん坊を見て「うまそうじゃ。ただ一口に」と言ったからには、確かに鬼であったろう。
こんなことがあるから怪しい所に独りで立ち入ってはならないと、語り伝えているのである。 
近江國の生靈、京に來たりて人を殺す語 (今昔物語集巻二七第二十)
今は昔、京より美濃・尾張の程に下らむとする下臈有りけり。京をば暁に出でむと思ひけれども、夜深く起きて行きける程に、□と□との辻にて、大路に青ばみたる衣着たる女房の裾取りたるが、只獨り立ちたりければ、男、「いかなる女の立てるにか有らむ。只今定めてよも獨りは立たじ。男具したらむ」と思ひて、歩み過ぎける程に、此の女、男に云はく、「あのおはする人は、いづちおはする人ぞ」と問へば、男、「美濃・尾張の方へ罷り下るなり」と答ふ。女の云はく、「さては急ぎ給ふらむ。さは有れども、大切に申すべき事の侍るなり。暫し立ち留まり給へ」と。男、「何事にか候ふらむ」と云ひて、立ち留まりたれば、女の云はく、「此の邊に民部大夫の□と云ふ人の家はいづこに侍るぞ。そこへ行かむと思ふに、道を迷ひてえ行かぬを、丸をそこへは將ておはしなむや」と。男、「其の人の家へおはせむには、何の故にここにはおはしつるぞ。其の家はここより七八町ばかり罷りてこそ有れ。但し急ぎて物へ罷るに、其こまで送り奉らば大事にこそは候はめ」と云へば、女、「尚、極めて大切の事なり、只具しておはせ」と云へば、男、なまじひに具して行くに、女、「いと嬉し」と云ひて行きけるが、恠しく、此の女の氣怖しき樣に思えけれども、「只有るにこそは」と思ひて、此く云ふ民部大夫の家の門まで送り付けつれば、男、「これぞ其の人の家の門」と云へば、女、「此く急ぎて物へおはする人の、わざと返りて、ここまで送り付け給へる事、返す返す嬉しくなむ。自らは近江國□郡に、そこそこに有る然々と云ふ人の娘なり。東の方へおはせば、其の道近き所なり、必ず音づれ給へ。極めていぶかしき事の有りつればなむ」と云ひて、前に立ちたりと見つる女の、俄かに掻き消つ樣に失せぬ。
男、「あさましきわざかな、門の開きたらばこそは門の内に入りぬるとも思ふべきに、門は閉されたり。此はいかに」と、頭の毛太りて怖しければ、すくみたるやうにて立てる程に、この家の内に俄かに泣きののしる声有り。いかなる事にかと聞けば、人の死にたる氣はひなり。希有の事かなと思ひて、暫くたちやすらふ程に、夜も更けぬれば、「この事のいぶかしさ尋ねむ」と思ひて、明けはてて後に、其の家の内にほの知りたる人の有りけるに、尋ね會ひて有りさまを問ひければ、其の人の云はく、「近江國におはする女房の生靈に入り給ひたるとて、此の殿の日來例ならず煩ひ給ひつるが、この暁方に、 「其の生靈現はれたる氣色有り」など云ひつる程に、俄かに失せ給ひぬるなり。されば、かく新たに人をば取り殺す物にこそ有りけれ」と語るを聞くに、この男も生頭痛く成りて、「女は喜びつれども、其れが氣の爲るなめり」と思ひて、其の日は留まりて家に返りにけり。
其の後、二日ばかり有りてぞ下りけるに、かの女の教へし程を過ぎけるに、男、「いざ、彼の女の云ひし事尋ねて試みむ」と思ひて尋ねければ、實にさる家有りけり。寄りて、人を以て然々と云ひ入れさせたりければ、「さる事有るらむ」とて、呼び入れて簾超しに會ひて、「有りし夜の喜びは、何れの世にか忘れ聞えむ」など云ひて、物など食はせて、絹・布など取らせたりければ、男、いみじく怖しく思えけれども、物など得て、出でて下りにけり。
これを思ふに、さは生靈と云ふは、只魂の入りてする事かと思ひつるに、早ううつつに我も思ゆる事にて有るにこそこれ此は、彼の民部大夫が妻にしたりけるが、去りにければ、恨を成して生靈に成りて殺してけるなり。されば女の心は怖しき者なりとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、京より美濃・尾張のほうへ下ろうとする下臈があった。京を明け方に出ようと思いながら、夜深く起きて行く程に、□と□との辻にて、大路に青ばみた衣を着た女房が裾を取って、只獨りで立っていた。男は、「どんな女なんだろう、ひとりでいるはずはないから、近くに男がいるのだろう。」と思いつつ、通りすぎようとすると、女が「そこのお方、どこへいかれます。」と聞くので、男は、「美濃・尾張の方へ罷り下るのです」と答えると、「それはお急ぎのことでしょうけど、折り入ってお話がありますので、しばらくお付き合いを」と女がいった。
男が何事かと思って立ち止まっていると、「この辺に民部大夫の某と言う人の家は、どこにあるのでしょう。道に迷ってしまいましたので、そこまで連れて行っては下さらぬか」と女がいった。「その人の家なら、ここから七八町ばかり離れたところです。わたしは先を急いでいますので、そこまでお送りすることは出来かねます」男がこういうと、女は、「大変大切な用向きですので、是非連れて行ってください。」というので、男は仕方なく同行したが、女の様子がどうも恐ろしげに見える。気のせいかも知れぬと、先を行くほどに、民部大夫の家の門へついたので、「ここがその人の家の門です。」というと、女はたいそう喜んで、「お急ぎのところ、わざわざここまで送って下さり、ありがとうございます。わたしは近江國某郡の然々というものの娘です。東のほうへ行かれるのでしたら、ついでですので、お立ち寄りください。きっと不思議なことがあるでしょう。」といってかき消すように消えたのだった。
「不思議なことだ、門を開けて入ったわけでもなく、門は開いたままなのに、あの女は消えてしまった、どういうわけだろう」男はこのように思うと、身の毛がよだって、すくんだように立っていると、家の中から俄かに泣き罵る声が聞こえた。いかなることかと思えば、人が死んだ様子である。そのまま不思議に思いながら立ち休らううち、夜が明けたので、家人に訳を聞くに、このようなことを答えた。「近江の国にいる女の生霊がこの家の主人に取り付き、主人は具合が悪かったが、この明け方になって、生霊が現れた気がするといって、俄かに死んでしまった。恐ろしいことだ。」この話をきいた男は、頭が痛くなるのを覚え、「さてはあの女があんなに喜んでいたのは、このためだったのだ。」と思い至った。男は、その日は東へ下るのをやめて、家に帰ったのだった。
その二日ばかり後、男は東へと向かう途中、あの女のいっていた家の近くまで来たので、「さて、あの女のいっていたことが本当かどうか、試してみよう。」とて、訪ねてみると、確かにその家があった。そこで人を介してしかじかと説明させると、女は「そういうこともあったと思います」といって、男を呼びいれてすだれ越しに話ながら、「あの夜の喜びは、いつまでも忘れることが出来ません。」などといった。男は恐ろしく感じたが、食事に預かり、みやげ物を貰って退出した。
これを思うに、生靈と云うものは、魂が乗り移るばかりではなく、現実の姿をとることもあるのだ。あの女はもともと民部大夫の妻であったが、離婚されたのを恨んで、あのような生霊となったのだ。されば女の心は恐ろしいと、人びとは語り伝えたことである。

平安時代の民衆は悪霊を恐れること甚だしかった。悪霊の中でも恐ろしいのは非業の死を遂げたものの怨霊で、生き残った者に禍をすると信じられていた。そのもっとも代表的なものは菅原道真の怨霊である。
そうした怨霊の大部分は無論死霊であったが、中には生きたまま人にたたる生霊もあった。この物語に出てくるのは生霊である。
生霊として有名なものに、源氏物語の葵の巻に登場する六条御息所の生霊がある。光源氏の愛人である六条御息所が正妻の葵の上に激しい嫉妬心をいだき、それが生霊となって出産間際の葵の上を襲うというものである。
六条御息所は自覚しないうちに生霊となるが、この物語の女は、自分を捨てた男に復讐するために自覚的に生霊になっている。そこが怨念のすさまじさを物語っている。  
猟師の母、鬼と成りて子をくらはむとする語 (今昔物語集巻二七第二二) 
鬼の手
その昔、兄弟の猟師がいて、いつも連れ立って山へ行き、鹿や猪を射ていた。
その猟のやり方は、「待(まち)」といって、高い木のまたに横木を取りつけ、そこに腰を据えて、鹿が木の下に来るのを待って射るのであった。
ある夜、兄弟は五十メートルばかり隔てて、向かい合って木の上にいた。陰暦九月、月末の闇夜できわめて暗く、何ひとつ見えるものはない。ただ鹿の来る音を聞き取ろうと待つうち、しだいに夜は更けたが、鹿はやって来ない。
そうするうち、兄のいる木の上から何者かが手を下ろして、髻をとって上に引っ張り上げようとする。驚いて、髻を掴んでいる手をさぐると、たいそう痩せ枯れて骨ばった人の手であった。
兄は、「鬼がおれを喰おうとして、引っ張り上げているのだな」と察して、弟に知らせようと呼びかけた。
「おーい、聞こえるか」闇の向こうから弟が応える。
「どうした、あにき」
「なあ、もし今、おれの髻を引っ張る怪しいやつがいたとしたら、おまえ、どうするか」
「それなら、見当をつけて射てやろう」
「実はな、今、ほんとに髻を掴んで引っ張っているやつがいるんだ」
「わかった。声を頼りに射よう」
「よし、射ろ!」
弟がただちに雁股の矢を射放つと、兄の頭上をかすめて何者かに射当てた手応えが、確かにあった。
「当たったはずだ」
そう弟が言ったとき、兄が手でさぐると、射切られた手首が髻を掴んだままぶら下がっていた。
「うん、化け物の手を射切ったぞ。今、ここに持っている。やれやれだ。さあ、今夜はもう帰ろう」
「そうだな。そうしよう」
二人は木から下りて、連れ立って家へ向かった。家に帰りついたのは、夜半過ぎである。
さて、この兄弟には、年老いて立居もままならない母親がいて、その母親の部屋をまん中にし、両側に兄弟それぞれが住んでいた。
帰ってみると、母親が部屋でひどく呻くのが聞こえた。
「何をそんなに唸っているんだ」と声をかけたが、返事もない。
兄弟が火をともして、射切った手を見ると、母親の手によく似ている。たいそう怪しく思って、よくよく見るのだが、見れば見るほど母親の手である。
そこで兄弟が、母親の部屋の戸を引き開けると、母親はやにわに起き上がり、
「おのれら、よくも!」
と叫んで飛びかかってきた。兄弟は、
「おふくろ、あんたの手なのか!」
と言いざま、手を部屋に投げ入れて、戸を引き閉じてしまった。
その後まもなく、母親は死んだ。
亡骸の片手は、手首から射切られてなくなっていた。母親は、ひどく老いぼれたあげく鬼となり、子を喰おうとして、あとをつけて山へ行ったのである。
親が年をとってはなはだしく老いてしまうと、きっと鬼になって、このように我が子をも喰おうとするのである。
兄弟は、母親を手厚く葬ったという。 
人妻、死して後に、本の形に成りて旧夫に會ひし語 (今昔物語集巻二七第二四) 
今は昔、京に有りける生侍、年來身貧しくして、世にあつ付く方も無かりける程に、思ひ懸けず□と云ひける人、□國の守に成りにけり。かの侍、年來此の守を相知りたりければ、守の許に行きたりければ、守の云はく、「かくて京にありつく方も無くて有るよりは、我が任國に將て行きて、聊かの事をも顧みむ。年來もいと惜しと思ひつれども、我れも叶はぬ身にて過ぐしつるに、かくて任國に下れば、具せむと思ふはいかに」と。侍、「いと嬉しき事に候ふなり」と云ひて、既に下らむとする程に、侍、年來棲みける妻の有りけるが、不合は堪へ難かりけれども、年も若く、形・有樣も宜しく、心樣などもらうたかりければ、身の貧しさをも顧みずして、互に去り難く思ひ渡りけるに、男、遠き國へ下りなむとするに、この妻を去りて、忽ちに便有る他の妻を儲けてけり。其の妻、萬の事をあつかひて出だし立てければ、其の妻を具して國に下りにけり。
國に有りける間、事に觸れて便付きにけり。かくて、思ふやうにて過ぐしける程に、この京に棄てて下りにし本の妻のわり無く戀しく成りて、俄かに見まほしく思えければ、「疾く上りて彼を見ばや。いかにしてか有らむ」と、肝身を剥ぐ如くなりければ、よろづ心すごくて過ぐしける程に、はかなく月日も過ぎて、任もはてぬれば、守の上りけるともに、侍も上りぬ。「我由無く本の妻を去りけり。京に返り上らむままに、やがて行きて棲まむ」と思ひ取りてければ、上るや遅きと、妻をば家に遣りて、男は旅裝束ながら彼の本の妻の許に行きぬ。
家の門は開きたれば、入りて見れば、有りし樣にも無く、家もあさましく荒れて、人住みたる氣色も無し。これを見るに、いよいよ物哀れにて、心細き事限り無し。九月の中の十日ばかりの事なれば、月もいみじく明し。夜冷にて哀れに心苦しき程なり。家の内に入りて見れば、居たりし所に妻獨り居たり。亦人無し。妻、男を見て恨みたる氣色も無く、嬉しげに思へるやうにて、「これはいかでおはしつるぞ。いつ上り給ひたるぞ」と云へば、男、國にて年來思ひつる事どもを云ひて、「今はかくて棲まむ。國より持て上りたる物どもも、今明日取り寄せむ。從者などをも呼ばむ。今夜は只此の由ばかりを申さむとて來つるなり」と云へば、妻、嬉しと思ひたる氣色にて、年來の物語などして、夜も更けぬれば、「今はいざ寢なむ」とて、南面の方に行きて、二人掻き抱きて臥しぬ。男、「ここには人は無きか」と問へば、女、「わり無き有樣にて過ぐしつれば、仕はるる者も無し」と云ひて、長き夜に終夜語らふ程に、例よりは身に染むやうに哀れに思ゆ。かかる程に暁に成りぬれば、共に寢入りぬ。
夜の明くらむも知らで寢たる程に、夜も明けて日も出でにけり。夜前人も無かりしかば、蔀の本をば立てて、上をば下さざりけるに、日のきらきらと指し入りたるに、男、打驚きて見れば、掻き抱きて寢たる人は、枯々として骨と皮とばかりなる死人なりけり。此はいかにと思ひて、あさましく怖しき事云はむ方無かりければ、衣を掻き抱きて起き走りて、下に踊り下りて、若し僻目かと見れども、實に死人なり。
其の時に急ぎて水干袴を着て走り出でて、隣なる小家に立ち入りて、今始めて尋ぬるやうにて、「この隣なりし人は、いづこに侍るとか聞き給ふ。其の家には人も無きか」と問ひければ、其の家の人の云はく、「其の人は、年來の男の去りて遠國に下りにしかば、其れを思ひ入りて歎きし程に、病付きて有りしを、あつかふ人も無くて、此の夏失せにしを、取りて棄つる人も無ければ、未ださて有るを、恐ぢて寄る人も無くて、家は徒らにて侍るなり」と云ふを聞くに、いよいよ怖しき事限り無し。さて、云ふ甲斐無くて返りにけり。
實にいかに怖しかりけむ。魂の留まりて會ひたりけるにこそはと思ふに、年來の思に堪へずして、必ず嫁ぎてむかし。かかる希有の事なむ有りける。然れば、さやうなる事の有らむをば、尚尋ねて行くべきなりとなむ、語り傳へたるとや。  
今は昔、京に身分の低い侍がおった、長年貧乏暮らしで、便りにすべき縁者もなかったが、某という知り合いのものが、思いがけず某國の守に出世した。そこでこの貧乏侍は、この守のもとへ挨拶にいった。守がいうには、「頼りないまま京にいるより、わしと一緒に来ないか、多少の力にはなれよう、今までも気の毒には思っていたが、自分のことで精一杯で、何ともできなかった、一緒に行こうではないか。」
こういわれた侍は、「それはうれしいことです。」と答えて、一緒に行くことにした。この侍には年頃通いなれた妻があって、貧乏暮らしではあったが、年若く、美しく、又心栄えもよかったので、貧しさをものともせず、互いに愛し合っていた。ところが遠国へ出かける段になって、男はこの妻を捨てて、ほかに羽振りのよい女を妻にした。その妻は、何かと面倒を見てくれたので、男はこの女を一緒に連れて行くことにしたのだった。
国にある間は何事につけ不自由なく暮らしていたが、京に捨ててきた妻のことがたいそう恋しく思えて、すぐにでも会いたくなり、「早く京に帰って、是非会いたいものだ」と、気がせくばかりだった。
こうして悲しい思いをかこっているうちに、月日が過ぎ、任期が果てて、守が帰任するのに従い、侍も京に向かった。
「自分は理由もないのにもとの妻を捨てた、京へ帰ったらすぐに行って、一緒に暮らそう。」侍はそう思いながら、旅装束のままで、もとの妻のもとにいったのだった。
門が開いていたので、中に入ると、家は荒れ果てて、人が住んでいる気配もない。この様子を見た侍は、いよいよ哀れに思ったのだった。折しも九月十日の頃だったので、月がたいそう明るく、また冷気が身にしみた。
家の中に入ると、妻が一人で座っている。侍のほうを振り返ったが、その表情には恨みはなく、かえってうれしそうであった。
「どうなさいました、いつ戻っていらっしゃいました。」と妻がいうので、侍は日頃思っていたことを残さず語ると、
「もう一度一緒に暮らそう、お土産に持ってきたものをすぐにでも取り寄せよう、従者なども呼び寄せよう、今夜はとりあえずこのことが言いたくてやってきたのじゃ。」と付け加えた。
妻がうれしそうな様子を見せ、ともに年来のことを語り合ううち、夜が更けたので、「もう寝よう」といって、南のほうの部屋に行き、二人抱き合って臥したのだった。
「ここには使用人はいないのか」と男が聞くと、「不如意な暮らし向きで、使用人もございません」と女が答える。こうして更に長き夜を語らいあううちに、夜も明け方近くになったので、ともに眠りについたのだった。
夜の明けるのも知らずに寝ているうち、あたりが明るくなった。使用人もいないことゆえ、男が自ら蔀戸の下のほうを持ち上げてみると、日の光がきらきらと差し込んできた。驚いてワキをみると、抱き合って寝ていたはずの人は、枯れ果てて骨と皮ばかりになった死人である。これはどうしたことかと、衣を抱きかかえて明るいところへ走って行き、あらためて見たが、やはり死人である。
水干袴を着て走り出し、隣りの小家に立ち入って、「隣家の人はどこに行ってしまったかご存知ありませぬか、その家には人が住んではいないのですか。」と訪ねたところ、その家の人が言うには
「隣の人は、ご主人が遠国に出かけた後、嘆き悲しんで病に陥りましたが、看病する人もなく、この夏亡くなりました、埋葬するものもいないので、まだそのままになっています、それ故誰もがはばかって近寄らず、家は荒れる一方です。」
侍はこの話を聞いて、いよいよ哀れさがこみ上げてきて、いたし方もなく帰っていったのだった。
さぞ恐ろしかったことであろう。女が死んだ後、その魂がそのまま残って、夫のもとに現れたのであろう。そして年来の思いに耐えず、きっと交わりをなすことができたのに違いない。

男に捨てられた女の執念が、幽鬼の姿となって男の前に現れるという、恐ろしくも哀れな物語だ。
この当時の婚姻形態は、通婚から嫁とり婚への移行期に当たっており、夫婦関係は非常に不安定だったと思われる。
この物語では、男が日頃通っていた女を捨てて、新しい女とともに任地へ出かけるということになっている。古い女とは通い婚、新しい女とは嫁取り婚の関係にあったわけだ。
古い女は何の落ち度もないのに捨てられるのだが、新しい女の方も別に悪意があるわけではない。二人とも男のご都合主義の犠牲者である。
男は古い女と別れた後でもその面影を忘れることができない、任地から京へ戻ると真っ先に駆けつけてよりを戻そうとする。その男の前に古い女が現れて、二人は再会を喜び合うが、男が生きていると思った女は、実は死んだ女のミイラだった。
という具合で、幽鬼をめぐる比較的古い形の説話を踏まえた物語だということができよう。 
女死せる夫の來たるを見る語 (今昔物語集巻二七第二五) 
今は昔、大和國□郡に住む人有りけり。一人の娘有り。形美麗にして心労たかりければ、父母此れを傳きけり。亦、河内國□郡に住む人有りけり。一人の男子有りけり。年若くして、形美しかりければ、京に上りて宮仕して、笛をぞ吉く吹きける。心ばへなども可咲しかりければ、父母此れを愛しけり。
而る間、彼の大和國の人の娘、形・有樣美麗なる由を傳へ聞きて、消息を遣して、懃ろに假借しけれども、暫くは聞き入れざりけるを、強ちに云ひければ、遂に父母此れを會はせてけり。其の後、限無く相思ひて棲みける程に、三年許有りて、此の夫、思ひ懸けず身に病を受けて、日來煩ひける程に、遂に失せにけり。
女、此れを歎き悲しんで戀ひ迷ひける程に、其の國の人、數た消息を遺して假借しけれども、聞きも入れずして、尚死にたる夫をのみ戀ひ泣き、年來を經るに、三年と云ふ秋、女、常よりも涙に溺れて泣き臥したりけるに、夜半許に笛を吹く音の遠く聞えければ、「哀れ、昔の人に似たる物かな」と、彌よ哀れに思ひけるに、漸く近く來て、其の女の居たりける蔀の許に寄り來て、「此れ開けよ」と云ふ音、只昔の夫の音なれば、奇異しく哀れなる物から怖しくて、和ら起きて蔀の迫より臨きければ、男、現はに有りて立てり。打泣きて此く云ふ、
しでの山こえぬる人のわびしきはこひしき人にあはぬなりけり。
とて立てる樣、有りし樣なれど怖しかりけり。紐をぞ解きて有りける。亦身より煙の立ちければ、女怖しくて、物も云はざりければ、男、「理なりや。極じく戀ひ給ふが哀れにあれば、破無き暇を申して參り來たるに、此く恐ぢ給へば罷り返りなむ。日に三度燃ゆる苦をなむ受けたる」と云ひて、掻消つ樣に失せにけり。
然れば、女、此れ夢かと思ひけれども、夢にも非ざりければ、奇異しと思ひて止みにけり。此れを思ふに、人死にたれども、此く現はにも見ゆる者なりけりとなむ、語り傳へたるとや。 
今は昔、大和國某郡に住む人に、一人の娘があった。姿が美しく、心栄えが優しかったので、両親はたいそう可愛がっていた。また河内國某郡に住む人に、一人の息子があった。年若く、凛々しかったので、京で宮仕えをしていた。笛を吹くのがうまく、心も優しかったので、両親はたいそう大事にしていた。
そのうち、息子のほうが、大和國の娘の評判を聞きつけ、手紙を送って、交際を申し込んだが、娘の両親はしばらくはいうことを聞かなかった。それでもたびたび申し入れてくるので、両親もついに二人を合わせた。その後二人は中むつまじく暮らしていたが、三年ばかり立った頃、夫は病を得て、療養の甲斐もなく、ついに死んでしまった。
妻はたいそう悲しんで、亡き夫のことばかり思い慕い、同国の人から再婚の話を申し込まれても聞き入れなかった。
三年ほどたった秋のある夜、女がいつにもまして悲しみにくれていると、遠くから笛を吹く音が聞こえてきた。
「あわれ、あの人の笛によく似ていますこと」と、いよいよ懐かしく思っていると、何者かが近づいて、女の部屋の蔀戸のところから、
「どうか聞いておくれ」という声をかけてきた。その声がまさに昔の夫のものであったので、不思議にも恐ろしくも思われ、やわら起き上がって戸の隙間から見ると、まさしく夫が立っているのが見えた。夫は嘆きつつ、次のように歌った。
シデの山を越えていくべき人が悲しく思うのは
愛する人と一緒にいられないことです
夫の立ち姿は昔のままであったが、恐ろしげであった。紐を解き、身から煙が立ち上っている。女は恐ろしくて、ものもいえない有様だったので、男は、
「無理もない、あなたがたいそう嘆き悲しむ様子に心を動かされ、こうしてやってきましたが、こんなにも怖がるのでは、帰ることにしましょう、日に三度も劫火に焼かれる身ではありますが」
こういって、かき消すようにいなくなってしまった。
女は、夢幻かとも思ったが、そうでもない、それにしても不思議だと思うばかりだった。思うに、人は死んだ後もこの世に戻ってくる事があるらしい、こう人びとは言い伝えてきた。

自分が死んだ後も、妻が恋焦がれていることを哀れに思い、精霊となって戻ってくるという物語だ。
通常、精霊というものはマイナスイメージをまとっているのだが、この物語の中では違う。生き残って自分を恋い慕っている妻を慰めてやろうとする心優しい精霊である。だがその精霊を、妻の方が恐ろしく思うのは精霊というものがこの当時まとっていたイメージを引きずっているのであろう。
日本人の伝統的な死生観においては、人は死ぬと霊魂が身体から遊離するのだが、その霊魂は一定の期間、生き残った人々のもとを離れないで、その周辺にさまよっていると信じられていた。
そうした霊魂は、生き残った者が不届きであると悪霊となって現れ、感心だと思えば庇護者となって現れる。 
雅通中将の家に同じ形の乳母二人在る語 (今昔物語集巻二七第二九) 
乳母が二人
その昔、源雅通という人がいて、丹波の中将と呼ばれていた。その人の屋敷は四条の南、室町の西にあった。
ある日のこと、ふだん人気のない屋敷の南向きの客間で、乳母が中将の二歳になる幼児を遊ばせていた。
中将は北向きの居室にいたが、突然、わが子の泣き叫ぶ声と乳母のあわて騒ぐ大声を聞いた。何事かと、太刀を引っ提げて走っていくと、そこには姿も形もまるで同じ二人の乳母がいて、それぞれ子の左右の手足をつかみ、引っ張りあっていた。
中将は、「ややっ、奇っ怪な」とよくよく見るのだが、いくら見ても二人はまるで同じで、どちらが本当の乳母なのか、まったく分からない。
とにかく二人のうちの一人は狐か何かが化けたのだろうと決めて、太刀をひらめかせて走りかかると、一方の乳母がふっと消え失せ、同時に、幼児も残った乳母も気を失ってその場に倒れた。
人を呼んで介抱させ、僧の祈祷なども行ったところ、しばらくして二人は息を吹き返した。
中将が、いったい何があったのかと尋ねると、乳母はこう応えた。
「ここで若君と遊んでいると、奥の方から見たこともない女が出てきて、「これは私の子だ」と言って奪い取ろうとしたのです。奪われまいと引っ張りあっているところに、殿様がいらして、太刀をひらめかせて向かってこられました。すると、あの女は若君をうち捨てて、また奥の方へ逃げていったのです」
話を聞いて、中将も今さらながらに恐ろしく思った。
こういうことがあるから、人気のない場所で幼児を遊ばせてはならない。
この事件は、狐が化けたのか、物の霊のしわざか、結局分からずじまいになったということだ。 
播磨国印南野にして野猪を殺す語 (今昔物語集巻二七第三六) 
野猪を殺す
その昔、西国から飛脚として京に上る男がいた。ただ一人で道を急いで播磨の国の印南野(いなみの)というところまで来たが、そこで日が暮れた。
泊まれそうなところはないかと周囲を見渡しても、人里離れた野原のただ中だ。わずかに田の番のための仮小屋があるのを見つけて、「しかたがない。今夜はここで夜を明かそう 」と思い、入り込んで腰を下ろした。
この男は、なかなか勇気ある者であった。いたって軽装で、ひと振りの刀を腰に帯びているばかりだった。
このような人の住まない場所では、何が起こるか知れたものではない。夜であっても着物など脱がず、眠らず、物音も立てないように気をつけていた。
夜が更けてきた。
かすかに西の方から、鉦鼓を叩き、念仏して、大勢の人がやって来る音が聞こえる。
男があやしく思って音のする方を見やると、たしかに多くの人が、松明を連ねてこちらに向かって来るようだ。僧たちが鉦鼓を叩いて念仏を唱え、それに連なって多数の人が歩いてくる。
次第に近づいたのを見れば、なんと葬式だったのだ。それが男がいる小屋のほんの近くまで寄ってくるので、なんとも薄気味悪い。
行列は小屋から二三十メートルほどのところまで死人の棺を運んできて、葬送が執り行われた。男はいよいよ息をひそめて、身動きせずにいた。もし人に見つかって咎められたら、ありのままに 「西国から上る者で、日が暮れたのでこの小屋に泊まりました」とわけを話そうと思った。その一方で、「葬送するのなら、前もって準備があるから分かるはずなのに、明るいうちに見た限りでは、そんな様子はどこにもなかった。これはおかしいぞ 」と疑っていた。
そうするうちにも、人々が立ち並んで死者を葬り終わった。続いて鋤や鍬を持った下人たちが数知れず出てきて慌ただしく墓を築き、土盛りの上に卒塔婆を立てた。墓を作り終えると、行列の人々は帰っていった。
一部始終を見た男は、頭の毛が太るほどの恐怖で身を固くしていた。「早く夜が明ければよいのに」と待ち遠しく思いつつ、怖ろしさで目を離せないままに、墓のほうを見つめたままだった。
どうやら墓の上の部分がかすかに動くようだ。錯覚かと思ってよく見たが、確かに動いている。
「どうして動いたりするんだ。奇っ怪な……」と目を疑うとき、動くところからむくむくと出てくるものがあった。人の形をした裸のものが土から這い出た。腕や胴に燐火の燃えるのを吹き払いつつ立ち走り、男のいる小屋に向かってくる。
暗いので何ものとも分からないが、おそろしく大きく見える。男が思うには、「葬送の場所には必ず鬼が現れるという。その鬼が我を襲って喰らおうとするのだ。もうおしまいだ 」。しかし、「同じ死ぬにも死にようがあるぞ。この小屋は狭いから、入って来られては太刀うちできない。ここを出て鬼に突き進み、いちかばちか切りかかろう」と思い直した。
男は刀を抜くと、小屋から躍り出て鬼に走り向かい、ざっくりと切りつけた。鬼は切られて、真っ逆さまにぶっ倒れた。
そのまま男は、人里が近いと思われる方角に一目散に逃げた。どこまでも逃げに逃げて、やっと人里に走り込んだ。とある人家に近寄り、門の傍らにしゃがみこんで、不安に打ち震えながら夜明けを待った。
朝が来て後、男が里の人々に、
「しかじかのことがあって、命からがら逃げてきた」
などと語ると、人々は不思議がって、
「よし、行ってみよう」
ということになり、男は勇み立つ若者たちを連れて昨夜の場所に戻った。
真夜中に葬送のあったはずの場所には、墓も卒塔婆もなかった。火の散った痕跡もなかった。そのかわり、大きな野猪(くさいなぎ)が切り殺されて転がっていた。まことに限りなく怪奇なことであった。
これはおそらく野猪が、男が小屋に泊まろうとするのを見て、脅してやろうと思いついたことだろう。「益体もないことをして命を落としたものだ」と、ひとしきり噂になったそうだ。
こんなことがあるから、人里離れた野中などに少人数で泊まったりしてはならない。
これは、男が京に上って後に語ったのを、人々が語り伝えた話である。 
高陽川の狐女に変じて馬の尻に乗る語 (今昔物語集巻二七第四一) 
馬に乗る狐
仁和寺の東に高陽川という川がある。夕暮れになると、その川のほとりに年若いきれいな娘が立って、馬に乗って京都に向かう人がいると、
「その馬の尻に乗せてよ。わたしも京の方に行きたいから」
と頼む。
馬に乗った人が、
「いいとも」
と乗せてやると、五百メートルばかりも乗っていくのだが、急に飛び降りて逃げていく。追いかけると狐の姿になって、コンコンと鳴きながら逃げ去ってしまう。
こうしたことが幾度もあったと評判になり、ある時、御所の滝口の武士たちもその噂話をしていた。
一人の若い武士で、勇敢で思慮も備えた者が言うことには、
「おれだったら、きっとその小娘を搦め捕ってみせる。今まで騙されたやつが間抜けなんだ」
これを聞いたほかの血気盛んな武士が口々に、
「いやいや、おまえにも無理だよ」
と否定すると、
「では明日の夜に捕まえて、ここに連れてきてみせよう」
と断言し、「捕まえられはしない」と言う者たちと激しい口論になった。
翌日の夜、若い武士はただ独り駿馬にまたがって高陽川に行き、川を渡ったが、小娘の姿はなかった。
それで京都の方へ引き返していくと、そこに娘が立っていた。武士が通り過ぎるのを見て、
「お馬のうしろに乗せてちょうだい」
と、人なつこく微笑んで言う様子が、なんとも可愛らしい。
「早く乗るがよい。おまえは、どこへ行くのかね」
「京まで行くんだけど、日も暮れてきたし、お馬に乗せてもらって行きたいと思うの」
娘が乗るやいなや、武士は用意してきた縄で娘の腰を縛り、馬の鞍にしっかりと結びつけた。
「ひどい。どうしてこんなことするの」
「今宵はおまえを抱いて寝るつもりだ。逃げられたら元も子もないからな」
こうして娘を乗せていくうち、すっかり暗くなった。
一条大路を東に進み、西の大宮を過ぎたところで、向こうからたくさんの火をともし車を何台も連ねた行列が、大声で先払いをしながらやって来るのが見えた。「誰か高貴な方の行列だろう 」と思ったので、そこから引き返して大きく回り道をして土御門(つちみかど)まで行った。従者に「土御門で待て」と命じてあったのである。
「従者ども、いるか」
と声をかけると、
「皆、そろっております」
と、十人ばかりが出てきた。
そこで娘の縄を解いて馬から引き下ろし、腕を掴んで門から入ると、滝口の詰所まで連れて行った。
詰所では皆が居並んで待っていた。
「おう、首尾はどうだった」
「このとおり。捕らえてきたぞ」
小娘が、
「もう許してください。ああ、怖い人が大勢いるわ」
と泣いてわびるのを許さず連れ込むと、皆出てきて周りを取り囲み、火を明々とともした。
「この中に放せ」
「逃げるかもしれぬ。放すわけにはいかない」
しかし皆は弓に矢をつがえ、
「いいから放してみろ。おもしろいぞ。逃げようとしたら腰を射てやろう。これだけの人数だから、射外すことはない」
「それでは」と掴んだ腕を放したところ、娘はたちまち狐になって、コンコンと鳴きながら逃げだした。居並んでいた者たちはかき消え、火も消えて真っ暗闇になった。
武士は慌てふためいて従者を呼んだが、一人もいない。闇をすかして見渡すと、どことも知れぬ野中であった。肝も心も震えあがって恐ろしさ限りなく、まさに生きた心地もない。
しかしながら強いて心を落ち着けて、しばらく見回しているうちに、山の形やあたりの様子から、死者を葬る鳥辺野の中にいるとわかった。
「土御門で馬から下りたはず……」と思い出した。むろんその馬もいない。 「西の大宮から回り道したつもりが、こんなところに来ている。そうか、一条大路で火をともした行列に行き会ったのも、狐に化かされていたのだな」
いつまでもそうしてはいられない。とぼとぼ歩いて夜半にようやく家に帰り着いたが、次の日はことさら気分が悪く、死んだようになって寝込んでしまった。
仲間の滝口の武士たちは前夜ずっと待っていたが、とうとう若い武士がやって来なかったので、
「あいつ、「高陽川の狐を捕まえる」と大口叩いたのに、どうしたのかねえ」
などと笑い合い、使いを遣って呼び出した。
三日目の夕方、大病を患った者のようにやつれ果てて、若い武士が滝口の詰所に姿を現した。
「あの晩は、狐を捕らえるんじゃなかったのか。どうなった」
「いや、耐え難い病気が急に起こって、行くことができなかった。今夜こそ行ってみようと思う」
「そうか、そうか。じゃあ今夜は二匹捕らえてくるんだな」
仲間に冷やかされながら、若い武士は言葉少なだった。
「この前のことがあるから、またあの狐が出てくることはないだろうなあ。もし出てきたら一晩中でも縛りつけて、今度こそ逃がしはしないんだが……。やっぱり出てこなかったら、……そのときはもう詰所に顔を出さず、永久に家に籠もるしかあるまい 」などと思いながら、出かけていった。
この夜は、屈強な従者を多数引き連れて馬に乗っている。「益もない意地を張って、身を滅ぼそうとしているのかも」と思いつつ、自ら言い出したことゆえに、こうして高陽川まで行ったのだった。
川を渡ったが、小娘の姿はなかった。で、引き返すと、川の畔に娘が立っていた。この前の娘とは顔がちがっていた。しかし前と同様、
「馬のうしろに乗せてよ」
と言うので、乗せてやった。
縄で娘をきつく縛り、一条大路を帰っていった。すっかり暗くなったので、多数いる従者のある者には火を持って前を行かせ、ある者は馬の横につかせて、高らかに先払しつつ粛々と進んでいったところ、このたびは途中で誰にも行き会わなかった。
土御門で馬を下り、泣いて嫌がる小娘の髪を掴んで滝口の詰所まで引きずっていった。滝口の者どもが、
「どうした、どうした」
と言うのに対し、
「そら、こいつだ」
と娘を示しながらも、強く縛ったまま押さえつけておいた。
それでもしばらくは人の姿でいたが、ひどく責めつけると、ついに狐の正体を現した。
そこでたいまつの火を何度も押しつけて毛もなくなるほど焼き、矢で何度も射たりしてから、
「おのれ、二度と人を化かすようなまねはするな」
と言って、殺さずに放してやった。狐は歩くこともできないほどであったが、やっとのことで這う這う逃げていった。
そのあと若い武士は皆に、先の夜に狐に化かされて鳥辺野まで行ったことを語ったのであった。
その後十日ほどたって、若い武士は「もう一度やってみよう」と思い、馬に乗って高陽川に行った。
そこには前の小娘が、重病人のような様子で立っていた。
「馬のうしろに乗らないか」
と声をかけると、
「乗りたいけど、乗らない。焼かれるのがつらいの」
と応えて消え失せた。
人を化かそうとしたために随分ひどい目にあった狐の話で、最近の出来事らしい。
思うに、狐が人に化けるのは昔からよくあることだが、この狐は化かし方がいかにも巧みで、武士を鳥辺野まで連れて行ったのだ。それがどうして、二度目のときには車の行列も出さず、道を変えさせることもしなかったのだろう。
狐の化かしようは、人の気構え次第で違ってくるのではないか。そう人々は思ったと語り伝えている。 
尼共、山に入り茸を食ひて舞ふ語 (今昔物語集巻二八) 
踊らずにはいられない
京都の木こり数人が北山に入ったが、なぜか道に迷ってしまい、もうどう行ったらいいかさっぱりわからなくなって、一同ただ山中で嘆いていた。
するとそこへ、山奥のほうから人が大勢やってくる気配がする。「何者だろう」とあやしんでいると、なんと尼さんが四五人、アーソレソレと威勢よく踊りながら出てきたではないか。
木こりたちは恐怖に駆られ、「山奥から踊り出てくる尼さんなんて、どう考えても人間じゃない。天狗かしら、鬼神だろうか」などと思っていた。
そうするうち尼さんたちは、木こりのいるのを見つけて、どんどん近寄ってくる。恐ろしくてたまらなかったけれども、
「これは、どういう尼さんたちが、こんなに踊りながら山の奥から出てきたのですか」
と尋ねてみた。
すると尼さんが言うには、
「わたしたちの様子は、さぞ恐かっでしょうね。でも、あやしい者ではなく、どこそこの寺の尼なんです。花を摘んで仏に供えようと山に入ったのですが、道に迷ってどうしようもなくなっておりましたところ、茸の生えているのを見つけまして、 「毒茸かもしれないなあ」とは思いながら、空腹にまかせて、「飢え死にするよりは、いちかばちか、これをとって食べよう」と、焼いて食べました。とってもおいしくて、「これは素敵だわ 」と夢中で食べるうち、こんなふうに心ならずも体が踊りだしてしまったんです。ほんとにどうしましょう」
聞いた木こりたちは、呆れた話だと思ったが、それはともかく、彼らもずいぶん空腹だったので、「死ぬよりはましだ。その茸を食べようではないか」と、尼さんたちが食べ残して持っていた茸をもらって食べた。
案の定、木こりたちも、食べるはしから、サノヨイヨイと踊りだした。
かくして、尼さんも木こりも一緒に、チョイナチョイナと踊りながら、顔を見合わせてはギャハハと笑った。
しばらくそうしていたが、やがて酔いの醒めたようになって、すると自然に道もわかったので、それぞれ帰っていったという。 
近衞舎人共の稲荷詣に重方女に値ふ語 (今昔物語集巻二八第一) 
今は昔、衣曝の始午の日は、昔より京中に上中下の人、稲荷詣とて參り集ふの日なり。其れに、例よりは人多く詣でける年有りけり。其の日近衞官の舎人共參りけり。□兼時、下野公助、茨田重方、秦武員、茨田爲國、輕部公友など云ふ止事無き舎人共、餌袋・破子・酒など持たせ、列りて參りけるに、中の御社近く成る程に、參る人、返る人、樣々行き違ひけるに、艶ず裝ぞきたる女會ひたり。濃き打ちたる上着に、紅梅、萌黄など重ね着て、生めかしく歩びたり。
此の舎人共の來たれば、女立ち去きて、木の本に立ち隠れて立ちたるを、此の舎人共安からず可咲しき事共を云ひ懸けて、或はして女の顔を見むとして過ぎ持行くに、重方は本より色々しき心有りける者なれば、妻も常に云ひ妬みけるを、然らぬ由を云ひ戰ひてぞ過ぐしける者なれば、重方、中に勝れて立ち留まりて、此の女に目を付けて行く程に、近く寄りて細かに語らふを、女の答ふる樣、「人持ち給へらむ人の、行摺の打付心に宣はむ事、聞かむこそ可咲しけれ」と云ふ音、極めて愛敬付きたり。
重方が云はく、「我が君我が君、賤しの者持ちて侍れども、しや顔は猿の樣にて、心は販婦にて有れば、去りなむと思へども、忽ちに綻縫ふべき人も無からむが惡しければ、心付に見えむ人に見合はば、其れに引き移りなむと深く思ふ事にて、此く聞ゆるなり」と云へば、女、「此は實言を宣ふか、戯言を宣ふか」と問へば、重方、「此の御社の神も聞食せ。年來思ふ事を、此く參る驗有りて、神の給ひたると思へば、極じくなむ喜しき。然て、御前は寡にて御するか。亦何しに御する人ぞ」と問へば、女、「此こにも、指せる男も侍らずして宮仕をなむせしを、人制せしかば參らずなりしに、其の人田舎にて失せにしかば、此の三年は相憑む人もがなと思ひて、此の御社にも參りたるなり。實に思ひ給ふ事ならば、有所をも知らせ奉らむ。いでや、行摺の人の宣はむ事を憑むこそ嗚呼なれ。早く御しね。丸も罷りなむ」と云ひて、只行きに過ぐれば、重方、手を摺りて額に宛てて、女の胸をする許に烏帽子を差し宛てて、「御神助け給へ。此かる侘しき事な聞かせ給ひそ。やがて此れより參りて、宿には亦足踏み入れじ」と云ひて、うつぶして念じ入りたる髻を、烏帽子超に此の女ひたと取りて、重方が頬を山響く許に打つ。
其の時に重方奇異しく思えて、「此は何にし給ふぞ」と云ひて、仰ぎて女の顔を見れば、早う我が妻の奴の謀りたるなりけり。重方奇異しく思えて、「和御許は物に狂ふか」と云へば、女、「己れは何で此く後目た無き心は仕ふぞ。此の主達の、後目た無き奴ぞと來つつ告ぐれば、我れを云ひ腹立てむと云ふなめりと思ひてこそ信ぜざりつるを、實を告ぐるにこそ有りけれ。己れ云ひつる樣に、今日より我が許に來たらば、此の御社の御箭目負ひなむ物ぞ。何で此くは云ふぞ。しや頬打ち欠きて、行來の人に見せて咲はせむと思ふぞ、己れよ」と云へば、重方、「物にな狂ひそ。尤も理なり」と咲ひつつ云へども、露許さず。
而る間、異舎人共、此の事を知らずして、上の岸に登り立ちて、「何ど田府生は送れたるぞ」と云ひて見返りたれば、女と取り組みて立てり。舎人共、「彼れは何に爲る事ぞ」と云ひて、立ち返りて寄りて見れば、妻に打ち□れて立ちけり。其の時、舎人共、「吉くし給へり。然ればこそ年來は申しつれ」と讃め罵る時に、女、此く云はれて、「此の主達の見るに、此く己れがしや心は見顕はす」と云ひて、髻を免したれば、重方、烏帽子の萎えたる、引き疏ひなどして、上樣へ參りぬ。女は重方に、「己れは其の假借しつる女の許に行け。我が許に來ては、必ずしや足打ち折りてむ物ぞ」と云ひて、下樣へ行きにけり。
然て、其の後、然こそ云ひつれども、重方、家に返り來てあやまりければ、妻、腹居にければ、重方が云はく、「己れは尚、重方が妻なれば、此く嚴しき態はしたるなり」と云ひければ、妻、「穴鎌、此の白物。目盲の樣に人の氣色をも否見知らず、音をも否聞き知らで、嗚呼を涼して人に咲はるるは、極じき白事には非ずや」と云ひてぞ、妻にも咲はれける。其の後、此の事世に聞えて、若き君達などに吉く咲はれければ、若き君達の見ゆる所には、重方逃げ隠れなむしける。
其の妻、重方失せける後には、年も長に成りて、人の妻に成りてぞ有りけるとなむ、語り傳へたるとや。 
今は昔、曝衣の月(二月)の初午の日は、京中のあらゆる階層の人が伏見の稲荷神社へお参りした。なかでも例年より多くの人がお参りした年があった。その日に、近衛の舎人たちもお参りをした。
某兼時、下野公助、茨田重方、秦武員、茨田爲國、輕部公友などといった舎人たちが、餌袋・破子・酒などを持たせて、列をなしてお参りするうち、中の社に近づくにつれて、参る人と帰る人とが雑踏するなかに、派手な服装をした女が近づいてきた。濃い色合いの上着に紅梅、萌黄などの着物を重ね着て、なまめかしい様子で歩いている。
女は舎人たちに気づくと、立ち退いて木の陰に身を寄せたが、舎人たちはふざけた言葉を言いかけたり、女の顔を覗き込んだりした。その中に重方は、もとより好色な男で、そのことを妻からとがめられていたほどだが、一人だけ仲間から離れて立ち止まり、女に近づいていい語らったところ、女は「奥方がありながら、いきずりの女を口説くなんて、はしたないことですよ」とたしなめた。その言い方がいかにもなまめかしい。
「わしはある女を妻にしているが、顔はサルのように不細工で、心がけもよろしくないゆえ、分かれたいと思っておるのじゃが、急に一人になっては、衣のほころびもつくろえぬゆえ、いい人が現れたら、その人に乗り移ろうと思っておったのじゃ、」
重方がこういうと、女は
「それは本気ですの、それとも戯れですの」という、そこで重方は
「この神社の神様もお聞きください、年来思っていたとおりの美しい人を、神様が賜れたと思うとうれしくてなりませぬ、さてそなたはまだお一人か、どういう暮らしてなされておられる」といった。
女は「独り身でこのお社にお勤めしていましたところ、夫ができましたのでお勤めをやめましたが、夫が田舎でなくなりましたので、この3年の間、いい再婚の口を求めて、このお社に来るようになりました、ほんとに私を愛してくださるなら、住所をもお知らせしましょう、いいえ、とんだ愚痴をお聞かせしました、どうぞ行ってください、わたしも行くことにします」といって、行き過ぎようとした。
重方は手を摺って額にあて、女の胸に烏帽子を差し宛てて、
「どうかつれないことをいわないでください、このままそなたと一緒になって、妻のところには二度とは参らぬ覚悟」といいながら、顔をうつぶせたところ、女は重方の髻を烏帽子ごしにつかんで、重方の頬をぴしゃりと叩いたのであった。
重方はびっくりして「何をするのじゃ」と叫びながら女の顔を見た。なんとそれはほかならぬ妻の顔ではないか。だまされていたと知った重方は、「お前はものに狂ったのか」と叫んだ。
女は、「あんたは何でこんな後ろめたいことをなさるのじゃ、あんたのお仲間が、あんたのことを浮気ばかりしていると告げ口に来ても、わたしにやきもちを焼かせるためのはかりごとと思って信じませんでしたが、そのとおりだったんですね、よくもいってくれました、これから私のところに現れたら、神様の罰があたるものと思いなさい、なんでこんな馬鹿げたことをいうのですか、えい、ほっぺたを抉り取って物笑いの種にしてやる」とののしった。
重方は、「そお、怒り狂うでない、もっともなことじゃが」と苦笑いをしたが、女が許してくれるものではない。
そのうちほかの舎人たちは、この様子に気づかぬまま上の岸に立って
「どうして茨田君は遅れているのじゃ」といいつつ見返せば、重方は女と取っ組み合いの喧嘩をしている。「いったい何をしているのじゃ」と、舎人たちが近づき見ると、重方は妻に打ちのめされているのだった。
「よくぞおやりなさった、私たちが年来申し上げてきたとおりでしょう、」と舎人たちがいうと、女は
「この人たちが証人です、あんたの浮気心がはっきりとわかりました」といって、重方の髻を離したので、重方はくしゃくしゃになった烏帽子をつくろいながら上のほうへ逃げていった。
妻のほうは「どこでも好きな女の所に行きなさい、私のところに現れたら、足をへし折ってやりますから」といって、下の方へ去っていった。
その後、そうはいっても、重方が謝ったことで、妻の機嫌も直った。重方が
「お前は重方の女房だから、あんな手柄も立てられたのだ」というと、妻は
「ばからしい、人の顔を見ても誰だかわからず、人の声を聞いても誰の声かわからず、馬鹿げた振る舞いをして笑われるのは、とんだ馬鹿者ですよ」と笑ったのだった。その後このことは世に聞こえるところとなり、若い君達の笑いぐさになったので、重方は若い君達を見ると、こそこそと逃げ隠れたのであった。
この妻は重方が死んだ後、かなりの年配で再婚したということである。

今昔物語集巻二十八は副題を「世俗」としているが、中身は各種の機知・滑稽譚であって、柳田国男翁がいうところの「ヲコの文学」のはしりともいうべきものである。
巻頭を飾るこの物語は、初午の縁日に遊びに出かけた近衞舎人の一行の一人が、美しい女をみて言い寄ったところ、その女が実は自分の妻だったという笑い話である。
近衞舎人は宮中警護の武官で、色男の代名詞のように思われていたのであろう。その一人が自分も色男であると自慢し、どんな女もなびくに違いないという自惚れから、美しい女にずうずうしく言い寄る。ところがその女から手痛く打たれるが、それも道理、女は妻だったのだ。
男のヲコぶりと、女の逞しさが対比されて、笑いを呼ぶ。それにしても、自分の妻の顔も識別できぬとは、間抜けも極まれりというべきだろう。 
頼光の郎等共、紫野に物見たる語 (今昔物語集巻二八第二) 
今は昔、摂津守源頼光朝臣の郎等にて有りける、平貞道・平季武・坂田公時と云ふ三人の兵有りけり。皆見目も猛々しく、手聞き、魂太く、思量有りて、愚かなる事無かりけり。然れば東にても度々吉き事共をして、人に恐れられたる兵共なりければ、摂津守も、此れ等を止事無き者にして、後前に立ててぞ仕ひける。
而る間、賀茂祭の返の日、此の三人の兵云ひ合はせて、「何でか今日物は見るべき」と謀りけるに、「馬に乘り次きて紫野へ行かむに、極じく見苦しかるべし。歩より顔を塞ぎて行くべきには非ず。物は極めて見まほし、何が爲べき」と歎きけるに、一人が云はく、「去來、某大徳が車を借りて、其れに乘りて見む」と。亦一人が云はく、「乘り知らぬ車に乘りて、殿原に値ひ奉りて、引き落して蹴られてや、由無き死をやせむずらむ」と。今一人が云はく、「下簾を垂れて女車の樣にて見むは何に」と。今二人の者、「此の義吉かりなむ」と云ひて、此く云ふ大徳の車、既に借り持ちて來ぬ。下簾を垂れて、此の三人の兵、膨しの紺の水干袴などを着ながら乘りて、履物共は皆車に取り入れて、三人袖も出ださずして乘りぬれば、あやしき女車に成りぬ。
然て、紫野樣に遣らせて行く程に、三人ながら、未だ車にも乘らざりける者共にて、物の蓋に物を入れて振らむ樣に、三人振り合はせられて、或いは立板に頭を打ち、或いは己れ等どち頬を打ち合はせて、仰樣に倒れ、うつぶせ樣に轉びて行くに、惣て堪ふべきに非ず。此くの如くして行く程に、三人ながら酔ひぬれば、踏板に物突き散らして、烏帽子をも落してけり。牛の、一物にて、早く引きつつ行けば、横なばりたる音共にて、「痛くな早めそ、早めそ」と云ひ行けば、同じく遣り次けて行く車共も、後なる歩雜色共も、此れを聞きて恠しびて、「此の女房車の何なる人の乘りたるにか有らむ、東の雁の鳴き合ひたる樣にて吉く□たるは、心も得ぬ事かな、東人の娘共の物見るにや有らむ」と思へども、音・氣はひ大きにて、男音なり。惣て心得ずぞ思ひける。此くて、既に紫野に行き着きて、車掻き下して立てば、餘り疾く行きて立つれば、事成るを待つ程に、此の者共、車に酔ひたる心地共なれば、極めて心地惡しく成りて、目轉きて、萬の物逆樣に見ゆ。痛く酔ひにければ、三人ながら尻を逆樣にて寢入りにけり。
而る間に事成りて物共渡るを、死にたる樣に寢入りたる者共なれば、露知らで止みぬ。事畢てて車共懸け騒ぐ時になむ、目悟めて驚きたりける。心地は惡し、寢入りて物は見えず成りぬれば、腹立たしく妬く思ふ事限無きに、「亦返の車飛ばし騒がむに、我れ等は生きては有りなむや。千人の軍の中に馬を走らせて入らむ事は、常に習ひたる事なれば怖れず。只貧窮氣なる牛飼童の奴獨りに身を任せて、此く ぜられては、何の益の有るべきぞ。此の車にて亦返らば、我れ等が命は有りなむや。然れば只暫し此くて有らむ。然て大路を澄して、歩より行くべきなり」と定めて、人澄みて後、三人ながら車より下りぬれば、車は返し遣りつ。其の後、皆靴を履きて、烏帽子を鼻の許に引き入れて、扇を以て顔を塞ぎてぞ、摂津守の一条の家には返りたりける。
季武が後に語りしなり。「猛き兵と申せども、車の戰は不用に候ふなり。其れより後、懲りとも懲りて、車の當には罷寄らず」と。然れば心猛く、思量賢き者共なれども、未だ車に一度も乘らざりける者共にて、此く悲しくして酔ひ死にたりける、嗚呼の事なりとなむ、語り傳へたるとや。 
今は昔、摂津守源頼光朝臣の郎等に、平貞道・平季武・坂田公時という三人の兵があった。皆押し出しが立派で、腕が立ち、勇気があって、思量深く、申し分がなかった。東国にいる頃もたびたび手柄を立て、人々に恐れられていたので、摂津守も、大事にして、召し使っていた。
賀茂祭の次の日に、この三人は行列を見に行く相談をして、「どうやっていこうか」と話し合っていたところ、
「馬に乗っていったのでは、たいそう見苦しいだろう、といって顔を隠して歩いていくのもまずい、行列は見たいものだが、いかがしよう」と一人が嘆いたところ、ほかの一人が
「坊さんから車を借りて、それに乗っていこう」という、するとまたほかの一人が
「乗りなれぬ車になど乗って、高貴の人から引き摺り下ろされ、蹴られて犬死するのはどういうものか」といったので、またほか一人が
「下簾を垂れて女車のようにみせかけたらどうだ」といった。これにはほかの二人も賛成したので、早速坊さんから車を借りてきた。そこで下簾を垂れると、怪しげな紺の水干袴などを着て、車に乗り込んだ。靴などは車の中に入れ、三人とも袖も出さないようにして乗り込んだので、怪しげな女車に見えたのだった。
車は紫野の方向に向かっていった。三人とも今まで車に乗ったことがないので、箱に物を入れて振り回すように振り回され、立て板に頭を打つかと思えば、お互いの顔をぶつけ合ったり、仰向けに倒れたり、うつぶせに転んだりして、耐え難い思いをした。
こうして乗っている間に、三人ともすっかり酔っ払い、踏み板に反吐を吐き散らしたり、烏帽子を落としたりした。牛のほうは元気もので、勢いよく行く。そこで無骨な声を出して「そんなに急ぐな、急ぐでねえ」とわめくと、後ろから付いてくる車や、歩いてくる雑色どもがこれを聞いて,
「この女車にはどんな女が乗っているんだろう、東国の雁のような変な声を出しているぞ、東国の田舎娘が乗っているんだろうか」と不思議に思ったが、聞こえてくるのは男の声のようなので、なんとも心得がたく思われた。
やっと紫野に着くと、牛を車からはずしたが、あまりにも急いできたので、行列が通るのを待つ間にも、この三人は車酔いですっかり気持ちが悪くなり、目ばたきをする目にはすべてが逆さまに見える。こんなわけで三人とも尻を突き出して眠ってしまった。
そのうち行列が通り過ぎたが、三人は死んだように寝ていたので、まったく気が付かなかった。行事が終わって人々が帰り支度をする段になって、やっと目が覚めたが、気持ちは悪くなるし、見物はできなかったりで、腹だたしい限りだった。
「帰り道も車を飛ばしていったら、生きてはいられまいよ、千人の敵軍の中に馬で走り入るのは怖くはないが、貧相な牛飼いに身を任せて、こんなひどい目にあうのは割が合わぬことだ、この車に乗っていけば、また同じ目にあう、しばらくここに潜んでいて、人通りが少なくなるのを見計らって、歩いて行こう」
こういうと三人は、人通りの少なくなった頃に車から降りて、車はそのまま返し、自分たちは靴をはいて、烏帽子を鼻にくっつけ、扇で顔を隠しながら、摂津守の一条の家に歩いて帰ったのだった。
これは季武が後に語ったことだ。
「勇敢な兵といえども、車は苦手なのだ。それ以後は車に近づくことはなかった」と。
いくら勇敢で、思慮があるといっても、一度も乗ったことのない車に乗って、ひどい酔い方に苦しんだとは、おろかなことだったと、語り伝えたということだ。

頼光四天王のうち渡辺綱をのぞく三人が紫野へと競馬見物に出かける物語だ。頼光四天王といえば、勇猛果敢なことで知られる武士の中の武士だ。その勇敢さが売り物の武士が、笑い草になるという物語。
三人は女車に乗って見物にでかけたが、日頃馬に乗ることには慣れていても、女車には慣れていない。そこで揺れる車の中で、船酔いにかかって七転八倒し、競馬見物どころの騒ぎではなくなる。帰りもまたこの車になって言っては、それこそ死んでしまうかもしれないと、顔を隠しながら歩いて帰った次第が語られる。
競馬見物は人気のある催しだったようで、徒然草のなかでも取り上げられている。 
近衞舎人秦武員、物を鳴らす語 (今昔物語集巻二八第十) 
今は昔、左近の將曹にて秦武員と云ふ近衞舎人有りけり。禅林寺の僧正の御壇所に參りたりければ、僧正、壺に召し入れて物語などし給ひけるに、武員、僧正の御前に蹲りて久しく候ひける間に、錯りて糸高く鳴らしてけり。
僧正も此れを聞き給ひ、御前に數た候ひける僧共も此れを皆聞きけれども、物□き事なれば、僧正も物も云はず、僧共も各顔を守り、暫く有りける程に、武員、左右の手を披げて面に覆ひて、「哀れ、死なばや」と云ひければ、其の音に付きてなむ、御前に居たりける僧共、皆咲ひ合ひたりける。其の咲ふ交に、武員は立ち走りて逃げて去にけり。其の後、武員久しく參らざりけり。
然か有らむ事共、尚聞かむままに咲ふべきなり。程經ぬれば、中々□き事にて有るなり。武員なればこそ、物可咲しく云ふ近衞舎人にて、然も「死なばや」とも云へ、然らざらむ人は、極めて苦しくて、此も彼くも否云はで居たらむは、極じく糸惜しからむかしとなむ人云ひけるとなむ、語り傳へたるとや。 
今は昔、左近の將曹にて秦武員という近衞舎人があった。禅林寺の僧正の御壇所に参上し、僧正が説教しているところへいって、久しく話を聞いているうちに、思いかけず屁を一発鳴らしてしまった。
僧正も、御前に沢山いた僧共も、みなこの音を聞いたのだが、はばかりが多いこととて、ものもいわずに顔を見つめ合っていた。そのうち武員は、左右の手で自分の顔を覆って、「ああ、死にたい」と叫んだ。
その声で緊張がゆるんだのか、みないっせいに笑い出した。その騒ぎのすきに、武員は立ち走って逃げた。その後、しばらくは顔を見せることもなかった。
こういうことにはタイミングというものがある。タイミングを逸して時間が過ぎると、こうはいかぬ。武員のような男であったからこそ、笑いに紛らわせ、しかも「死にたい」などと冗談をたたくこともできたが、そうでない人は、屁をしたことで、えらく不名誉な事態に陥ったことだろう。

放屁譚は日本人が昔から愛読してきた物語だが、今昔物語集の中のこの話などは、最も古い部類に属するだろう。屁をひっても悪びれず、笑いで煙に巻くという趣旨は、屁と煙との間の共通性をうまく利用している点で、秀逸な物語になっている。 
祇園の別當戒秀誦經に行はるる語 (今昔物語集巻二八第十一) 
今は昔、或る長受領の家に、祇園の別當に戒秀と云ひける定額、忍びて通ひけり。守、此の事を髴知りたりけれども、知らず顔にて過ぐしける程に、守出でたりける間に、戒秀入り替りて入り居てしたり顔に翔ひける程に、守返り來たりけるに、怪しく主も女房共もすずろひたる氣色見えければ、守、「思ふに、然こそは有らめ」と思ひて、奥の方に入りて見れば、唐櫃の有るに、例ならず錠差したり。「定めて此れに入れて錠を差したるなめり」と心得て、長しき侍一人を呼びて、夫二人を召させて、「此の唐櫃、只今祇園に持て參りて誦經にして來たれ」と云ひて、立文を持たせて唐櫃を掻き出だして侍に取らせつれば、侍、夫に差荷はせて、出でて行きぬ。然れば、主の女も女房共も奇異しき氣色は有れども、□て物も云はず。
而る間、侍、此の唐櫃を祇園に持て參りたれば、僧共出で來て、「此れは止事無き財なめり」と思ひて、「別當に疾く申せ。兼ては否開けじ」と云ひつつ、別當に案内を云はせに遺りて待つに、良久しく、「否尋ね會ひ奉らず」とて、使返り來たる。而る間、誦經の使の侍は、「長々と否待ち候はじ。己れが見候へば不審しかるまじ。且つ只開け給へ。 しく侍るぞ」と云へば、僧共、「何が有るべきや」と云ひ繚ふに、唐櫃の中に、細く侘し氣なる音を以て、「只所司開にせよ」と云ふ音有り。僧共も誦經の使の侍も、此れを聞きて、奇異しく思ひ合へる事限無し。然れども、然て有るべき事に非ねば、恐づ恐づ唐櫃を開けつ。見れば、別當、唐櫃より頭を指し出でたり。僧共此れを見て、目口□て、皆立ち去りにけり。誦經の使も逃げて返りにけり。而る間、別當は唐櫃より出でて、走り隠れにけり。
此れを思ふに、守、「戒秀を引き出だして踏み蹴むも聞耳見苦しかりなむ、只恥を見せむ」と思ひける、糸賢き事なりかし。戒秀、本より極めたる物云にて有りければ、唐櫃の中にて此くも云ふなりけり。世に此の事聞えて、可咲しくしたりとぞ讃めけるとなむ、語り傳へたるとや。 
今は昔、或る国の守の奥方のところに、祇園の別當で戒秀という定額僧が、忍び通いをしていた。守は此の事をうすうす知っていたが、知らないふりをしていた。
守が外出すると入れ替わりに、戒秀が入ってきて、我が物顔に居座った。そこへ守が引き返してみると、奥方も女中たちもあわてた様子だ。守は「やはりそうか」と思いながら、奥の部屋に入っていった。するとそこには唐櫃がおいてあって、珍しく錠をさしてある。
「きっとこの中に男を入れて、錠を差したのだろう」と思いつつ、年長の侍を一人と人夫を二人呼び入れて、「この唐櫃を祇園まで担いでいって、お経を上げてもらえ」と命じた。侍は人夫に唐櫃を担がせて出ていった。奥方たちはあわてたようだったが、何も言わずに見送ったのだった。
侍が唐櫃を祇園に運んでいくと、僧共が出てきて、「これは大事なものに違いないから、別当にお話しろ、勝手にあけてはならぬ」といって、別当を探しにやらせた。しかし使いの者は「お留守です」といいながら戻ってきた。
侍は「いつまでも長々と待っているわけにはいかぬ。俺が見るから、不振がることはない、早く開けろ」といったが、僧共は「どうしたものか」と迷っている。そのうち唐櫃の中からわびしげな声で、「所司に見てもらって開きなさい」というのが聞こえた。
僧共も使の侍も、これを聞いて怪しいとは思ったが、ほかに仕様もなかったので、恐る恐る唐櫃を開けた。すると誰あろう、別当が唐櫃から頭を出した。これをみた僧共はびっくり仰天して、みな逃げ去った。遣いの者もまた逃げて帰った。そのすきに別當は唐櫃から出て、走って隠れたのだった。
これを思うに、守は、戒秀を引きだして殴る蹴るの仕打ちをしてもよかったのだが、そうはせずに、こんな恥をかかせたのだろう。戒秀のほうも機転のきく男だったので、唐櫃の中からこんなことを言ったのだろう。

国司の妻に言い寄る僧侶の物語だ。妻が夫のほかに別の男を寝室に入れられたのは、妻問婚を前提としている。一人の女のもとに、二人の男が入れ替わりに通ってきたわけだ。
僧侶の方は身分上表立てにされるのが困る。そんな僧侶を正当な亭主の立場にある国司のほうは、散々な目に合わせる権利があるわけだが、そうはせずに、さらりと恥をかかせる。
この物語にあるようなことは、この時代にはよくあったことかもしれない。 
池尾の禅珍内供の鼻の語 (今昔物語集巻二八第二十) 
今は昔、池尾と云ふ所に禅珍内供と云ふ僧住みき。身淨くて眞言など吉く習ひて、懃ろに行法を修して有りければ、池尾の堂塔・僧房など露荒れたる所無く、常燈・佛聖なども絶えずして、折節の僧供・寺の講説など滋く行はせければ、寺の内に僧坊 無く住み賑はひけり。湯屋には寺の僧共、湯涌さぬ日無くして、浴み りければ、賑ははしく見ゆ。此く榮ゆる寺なれば、其の邊に住む小家共、員數た出で來て、郷も賑はひけり。
然て、此の内供は、鼻の長かりける、五六寸許なりければ、頷よりも下りてなむ見えける。色は赤く紫色にして、大柑子の皮の樣にして、つぶ立ちてぞ れたりける。其れが極じく痒かりける事限無し。然れば、提に湯を熱く涌して、折敷を其の鼻通る許に窟ちて、火の氣に面の熱く炮らるれば、其の折敷の穴に鼻を指通して、其の提に指入れてぞ茹で、吉く茹でて引き出でたれば、色は紫色に成りたるを、喬樣に臥して、鼻の下に物をかひて、人を以て踏ますれば、黒くつぶ立ちたる穴毎に、煙の樣なる物出づ。其れを責めて踏めば、白き小蟲の穴毎に指出でたるを、鑷子を以て抜けば、四分許の白き蟲を穴毎よりぞ抜き出でける。其の跡は穴にて開きてなむ見えける。其れを亦同じ湯に指入れてさらめき、湯に初の如く茹づれば、鼻糸小さく萎み まりて、例の人の小さき鼻に成りぬ。亦二三日に成りぬれば、痒くて れ延びて、本の如くに腫れて大きに成りぬ。此くの如くにしつつ、腫れたる日員は多くぞ有りける。
然れば、物食ひ粥など食ふ時には、弟子の法師を以て、平らなる板の一尺許なるが廣さ一寸許なるを鼻の下に指入れて、向ひ居て上樣に指上げさせて、物食ひ畢つるまで居て、食ひ畢つれば打下して去りぬ。其れに、異人を以て持上げさする時には、惡しく指上げければ、六借りて物も食はず成りぬ。然れば、此の法師をなむ定めて持上げさせける。其れに、其の法師、心地惡しくして出で來ざりける時に、内供、朝粥食ひけるに、鼻持上ぐる人の無かりければ、「何がせむと爲る」など繚ふ程に、童の有りけるが、「己れはしも吉く持上げ奉りてむかし。更によも其の小院に劣らじ」と云ひけるを、異弟子の法師の聞きて、「此の童は然々なむ申す」と云ひければ、此の童、中童子の見目も穢氣無くて、上にも召し上げて仕ひける者にて、「然らば其の童召せ。然云はば此れ持上げさせむ」と云ひければ、童召し將て來たりぬ。
童、鼻持上の木を取りて、直しく向ひて、吉き程に高く持上げて粥を飲ますれば、内供、「此の童は極じき上手にこそ有りけれ。例の法師には増さりたりけり」と云ひて、粥を飲める程に、童、顔を喬樣に向けて、鼻を高く簸る。其の時に童の手篩ひて、鼻持上の木動きぬれば、鼻を粥の鋺にふたと打入れつれば、粥を内供の顔にも童の顔にも多く懸けぬ。
内供、大きに嗔りて、紙を取りて頭・面に懸かりたる粥を巾ひつつ、「己れは極じかりける心無しの乞 かな。我れに非ぬ止事無き人の御鼻をも持上げむには、此くやせむと爲る。不覺の白者かな。立ちね、己れ」と云ひて追ひ立てければ、重立ちて、隠に行きて、「世に人の此かる鼻つき有る人の御せばこそは、外にては鼻も持上げめ。嗚呼の事仰せらるる御房かな」と云ひければ、弟子共、此れを聞きて、外に逃げ去きてぞ咲ひける。
此れを思ふに、實に何なりける鼻にか有りけむ。糸奇異しかりける鼻なり。童の糸可咲しく云ひたる事をぞ、聞く人讃めけるとなむ、語り傳へたるとや。 
今は昔、池尾という所に禅珍内供という僧が住んでいた。身を淨くして眞言をよく習い、修行怠りなかったので、堂塔・僧房なども荒れたところなく、常燈・佛聖なども絶えなかった。また季節ごとのお供えものやお説教も絶えなかったので、多くの僧が集まってきた。毎夜のように風呂を沸かして浴び、それは賑やかであった。それ故、寺の周りには多くの人が集まり住んだ。
ところで、この内供は鼻が長かった。五六寸ばかりもあって、顎の下まで垂れていた。色は赤紫色で、夏みかんの皮のようにぶつぶつができ、かゆいこと限りがなかった。
そこで、ヒサゲに熱い湯を沸かし、折敷に開けた穴から鼻を通し、湯気にあたらぬよう気をつけながら、ヒサゲの湯で鼻を茹でた。よく茹で上がってから引き上げると、鼻は紫色になった。横になって臥し、鼻の下に宛がいものをして、そこを人に踏んでもらうと、黒っぽいつぶつぶの穴から、煙が出てきた。さらに踏み続けると、四分ばかりの白い虫が穴という穴から出てきたので、それを鑷子を使って抜いた。
そのあとは穴が開いたままになったが、それを再び湯で茹でると、鼻はずいぶんと小さくなって、普通の人の鼻と同じ大きさになった。だが二三日たつとまたもとに戻ってしまうのだった。このようにして、鼻は年中はれ上がっていたのだった。
それ故、食事の時には、弟子の法師に長さ一尺、幅一寸ばかりの平らな板を持たせ、それを鼻の下に当てたまま、物を食った。食い終わると、法師は退出した。この仕事はほかのものでは勤まらなかったので、この法師がいないときには、食事ができないのであった。
あるとき、この法師が病気になり、朝粥を食おうにも、鼻を持ち上げる人がいないので、どうしようかと困っていると、一人の童が、「自分ならあの法師さまに負けないほど、うまく持ち上げられますよ」といった。それを聞いた別の法師が、このことを内供に伝えると、普段から利口なことを知っていたので、「ではその童に持ち上げさせよう」といった。
童は鼻持上げの木を取ると、内供の前に座り、よい角度に持ち上げて粥を飲むのを手助けした。内供は「なかなかうまい童じゃい。あの法師よりも上手だ」と満足した。だがそのとき、童は顔を横に向けると、いきなりくしゃみをしたのだったが、そのはずみに鼻持上げの木が動いたので、鼻を粥の御椀のなかに突っ込んでしまった。粥は内供の顔にも童の顔にも飛び跳ねたのだった。
内供は大いに怒って、頭や顔にかかった粥を紙で拭きながら、「お前はとんだ大ばか者だ。俺であったからこれですむものを、もし偉いお人にこんなことをしたら、ただではすまぬぞ、とっとと消えうせろ」といった。
童は人影のないところに隠れると、「世の中に同じような鼻をした人がどこにいるんだろう、馬鹿なことをおっしゃる御仁だ」といった。それを聞いた人は、みな外に出て笑い転げたということだ。

芥川龍之介の出世作「鼻」のもとになった作品だ。夏目漱石も芥川の「鼻」を絶賛した。おかげで芥川は一夜にして流行作家になれた。
鼻の状態を微に入り細に入り描いているところが、実にリアリスティックで面白い。 
大蔵の大夫紀助延の郎党、唇を亀に食はれし語 (今昔物語集巻二八第三三) 
今は昔、右舎人より大蔵の丞になりて、後には冠給はりて大蔵の大夫とて、紀助延といふ者ありき。若かりける時より、米を人に貸して、本の数に増して返し得ければ、年月を経るままに、その数多く積もりて、四五万石になりてなむありければ、世の人、此の助延を万石の大夫となむ附けたりし。
其の助延が、備後国に行きて、すべき事ありてしばらくありける程に、浜に出でて網を引かせけるに、甲の広さ一尺ばかりある亀を引き上げたりけるを、助延が郎党共の陵じもてあそびけるに、其の郎党の中に年五十ばかりなるありける郎党の、かたしれたるありける。いと見苦しき空言をなむ常に好みける。
其の気にやありけむ、其の男、此の亀を見付くるままに、「かれは己が古き妻の奴の逃げたりしは、ここにこそありけれ」と云ひて、亀の甲の左右のはたを取りて捧ぐれば、亀、足手も甲の下に引き入れつ、頸をもずぶりと引き入れつれば、細き口ばかりわずかに甲の下に見ゆるを、此の男捧げて、幼き児どもに、しわわりといふ事するやうにして、「亀来亀来と川辺にて云ひつるは、など出でまさざるぞ、わ御許は。月ごろ恋しかりつるに、口吸はむ」と云ひて、細く差し出でたる亀の口に、男の口をさしあてて、わずかに見ゆる亀の口を吸はむとする程に、亀にはかに頸をきと差し出でて、男の上下の唇を深く食ひあはせつ。引き放たんとすれども、亀の上下の歯を食ひ違へて食ひたれば、いよいよ食ひ入りにこそ食ひ入れ、ゆるさむやは。
其の時に男、手をひらきて、含り声に叫べども、すべきやうもなくて、目より涙を落してまどふ。然れば、異者ども皆寄りて、刀の峰を以て亀の甲を打てば、亀いよいよ食ひ入りに食ひ入る。然れば男、手かきてまどふ事限りなし。異者どもは、かくまどふを見ていとほしがるに、亦外に向ひて笑ふ者もありけり。
然る間、一人の男ありて、亀の頸をふつと切りつれば、亀の体は落ちぬ。頸は食ひながらとどまりたるを、物に押し当てて、亀の口脇より刀を入れて頸を破りて、其の後に亀の頸頤を引き放ちつれば、錐の先のやうなる亀の歯ども食ひ違はれにければ、それをやはら構へてをこづり抜きに抜く時に、上下の唇より黒血走る事限りなし。走りはてつれば、其の後に蓮の葉を煮て、それを以て茹でければ大きに腫れにけり。其の後膿みかへりつつ、久しくなむ病みける。
これを見聞く人、主より始めて、いとほしとはいはで、悪み笑ひなむしける。本よりかたしれたる男の、虚言を好みければ、かかる痴事をもして病みまどひて、人にも悪み笑はれけるなり。其の後は、虚言も好み云はでなむありければ、同僚のものども、それにつけても笑ひけり。
これを思ふに、亀の頸は四五寸と差し出づるものを、口をさしよせて吸はむとせむには、まさに食はれぬやうはありなむや。これは世の人、上も下も由なからむ虚言して、猿楽にさやうならむ危き戯れ事はやむべし。かかる痴れ事して悪み笑はるる男なむありけるとなむ語り伝へたるとや。 
今は昔、右舎人から大蔵の丞になって、後には冠位を賜って大蔵大夫と呼ばれた紀助延というものがあった。若い頃、米を人に貸して利息を付けて返させたので、それがつもりに積もって四五万石にもなり、世の人はこれを万石の大夫と呼んだ。
その助延が備後国に行き、しばらく用事で滞在しているとき、浜で網をひかせていると、甲の広さ一尺ばかりある亀を引き上げた。助延の郎党共はそれをおもちゃにして遊んでいたが、その郎党の中に年50ばかりで、日頃から奇妙な言動で知られていた男がいた。
いつもの癖が出たのか、男は亀の姿を見ると、「これは、わしの女房が逃げてゐなくなったと思っていたら、こんなところにいたのか」といいつつ、亀の甲の両端を持って差しあげた。
亀は手足を甲の中に引き入れ、首まですっぽりとしまったが、甲の合間から細い口先だけが見えた。男は子供たちが口をすぼめるような仕草をしながら、「亀さんおいで、亀さんおいで、とさんざん川辺で声をかけたのに、何故出てこなかったのじゃ。ずっと恋しかったのじゃよ、いざキスをさせてくれや」というと、細長く突き出た亀の口に自分の唇をあてて亀の口を吸おうとした。
すると亀はやおら首を出して、男の上下の唇にかみついたのであった。男はおどろいて引き離そうとしたが、亀は上下の唇をしっかり噛み合わせているので、とても放れるどころではなかった。
男は手を開いてくぐもり声で叫んだが、なすべきようもない。目から涙を流して苦しむばかり。そのうち他の者どもが寄ってきて、刀の峰で亀の甲を叩いたが、亀はいよいよ食い入るばかり。男はいっそうもがいて、泣き叫んだ。これを見ていたものの中には同情する者もあったが、そっぽを向いて笑っているものもあった。
そのうち、一人の男が出てきて、亀の頭をぶった切った。すると亀の胴体は落ちたが、首はまだ男の唇に食いついたままだった。そこで亀の口の脇の方から刀を差しこんで、首を引きちぎり、男の唇から引きはがしてやった。
唇には錐の先のような亀の歯がまだ残っていたが、それをゆっくりと引きぬき、亀の茹で汁で傷を洗ってやった。だが男の唇は大きくはれ上がり、患部には膿がたまったりして、長い間治らなかった。
このことを見たり聞いたりした人々は、主人をはじめとして、かわいそうとは思わずに、嘲笑ったのだった。もとよりバカなことばかりして、こんな戯言まで犯すのであるから、人に嘲笑われるのも無理はない。その後、男は懲りたとみえて、馬鹿なことを慎むようになったが、それにつけても人々の嘲笑の的となった。
これを思うに、亀の頭は四五寸も飛び出るものを、それに唇を寄せたりしては、かみつかれるのが当たり前。こんなバカなことをしては、人様に馬鹿にされるのも当たり前じゃ。

今昔物語のなかでも、もっとも馬鹿馬鹿しくて、笑える話だ。亀とキッスをしようなどとすれば、とんだ痛い目にあうのだと、警告しているのだろうか。
日本人の男女の間の愛情表現として、接吻が古くからなされていたということを物語る、貴重な話でもある。 
信濃守藤原陳忠御坂より落ち入る語 (今昔物語集巻二八第三八) 
今は昔、信濃守藤原陳忠と云ふ人有りけり。任國に下りて國を治めて、任畢てにければ上りけるに、御坂を越ゆる間に、多くの馬共に荷を懸け、人の乘りたる馬、員知らず次きて行きける程に、多くの人の乘りたる中に、守の乘りたりける馬しも、懸橋の鉉の木を後足を以て踏み折りて、守、逆樣に馬に乘りながら落ち入りぬ。底何ら許とも知らぬ深さなれば、守生きて有るべくも無し。二十尋の檜・椙の木の、下より生ひ出でたる木末、遙かなる底に見遣らるれば、下の遠さは自然ら知られぬ。其れに、守此く落ち入りぬれば、身聊かも全くて有るべき者とも思えず。
然れば、多くの郎等共は皆馬より下りて、懸橋の鉉に居並みて底を見下せども、爲べき方無ければ、更に甲斐無し。「下るべき所の有らばこそは、下りて守の御有樣をも見進らめ。今一日など行きてこそは、淺き方より廻りも尋ねめ。只今は底へ下るべき樣も敢へて無ければ、何がせむと爲る」など、口々にいりめく程に、遙かの底に叫ぶ音、髴かに聞ゆ。「守の殿は御しましけり」など云ひて、待叫爲るに、守の叫びて物云ふ音、遙かに遠く聞ゆれば、「其の、物は宣ふなるは。穴鎌。何事を宣ふぞ、聞け聞け」と云へば、「『旅籠に繩を長く付けて下せ』と宣ふ」など。
然れば、「守は生きて物に留まりて御するなりけり」と知りて、旅籠に多くの人の差繩共を取り集めて結ひて、結ひ繼ぎて、「それそれ」と下しつ。繩の尻も無く下したる程に、繩留まりて引かねば、「今は下し着きにたるなめり」と思ひて有るに、底に、「今は引き上げよ」と云ふ音聞ゆれば、「其は、『引け』と有なるは」と云ひて、絡り上ぐるに、極じく輕くて上れば、「此の旅籠こそ輕けれ。守の殿の乘り給へらば重くこそ有るべければ」と云へば、亦或者は、「木の枝などを取りすがり給ひたれば、輕きにこそ有るめれ」など云ひて、集りて引く程に、旅籠を引き上げたるを見れば、平茸の限一旅籠入りたり。然れば、心も得で、互に顔共を護りて、「此は何に」と云ふ程に、亦聞けば、底に音有りて、「然て亦下せ」と叫ぶなり。此れを聞きて、「然は亦下せ」と云ひて、旅籠を下しつ。亦「引け」と云ふ音有れば、音に随ひて引くに、此の度は極じく重し。數たの人懸かりて絡り上げたるを見れば、守、旅籠に乘りて絡り上げられたり。守、片手には繩を捕へ給へり。今片手には平茸を三總許持ちて上り給へり。
引き上げつれば、懸橋の上に居ゑて、郎等共喜び合ひて、「抑も此は何ぞの平茸にか候ふぞ」と問へば、守答ふる樣、「落ち入りつる時に、馬は疾く底に落ち入りつるに、我れは送れてふめき落ち行きつる程に、木の枝の滋く指し合ひたる上に不意に落ち懸かりつれば、其の木の枝を捕へて下りつるに、下に大きなる木の枝の障へつれば、其れを踏まへて大きなる胯の枝に取り付きて、其れを抱かへて留まりたりつるに、其の木に平茸の多く生ひたりつれば、見棄て難くて、先づ手の及びつる限り取りて、旅籠に入れて上げつるなり。未だ殘や有りつらむ。云はむ方無く多かりつる物かな。極じき損を取りつる物かな。極じき損を取りつる心地こそすれ」と云へば、郎等共、「現はに御損に候ふ」など云ひて、其の時にぞ、集りて散と咲ひにけり。
守、「僻事な云ひそ、汝等よ。宝の山に入りて、手を空しくして返りたらむ心地ぞする。『受領は倒るる所に土を掴め』とこそ云へ」と云へば、長立ちたる御目代、心の内には極じく憎しと思へども、「現はに然候ふ事なり。手便に候はむ物をば、何でか取らせ給はざらむ。誰れに候ふとも、取らで候ふべきに非ず。本より御心賢く御します人は、此かる死ぬべき極にも、御心を騒がさずして、萬の事を皆只なる時の如く用ひ仕はせ給ふ事に候へば、騒がず、此く取らせ給ひたるなり。然れば、國の政をも息へ、物をも吉く納めさせ給ひて、御思の如くにて上らせ給へば、國の人は父母の樣に戀ひ借しみ奉りつるなり。然れば、末にも萬歳千秋御しますべきなり」など云ひてぞ、忍びて己れ等がどち咲ひける。
此れを思ふに、然許の事に値ひて、肝・心を迷はさずして、先づ平茸を取りて上りけむ心こそ、糸むく付けけれ。増して、便宜有らむ物など取りけむ事こそ思ひ遣らるれ。此れを聞きけむ人、爭に み咲ひけむとなむ、語り傳へたるとや。 
今は昔、信濃守藤原陳忠という人があった。任國の務めを終えて帰京する途中御坂に差し掛かった。多くの馬に人や荷を積んで坂を越えていくと、守の乗っていた馬がどうしたわけか、懸橋の端木に後ろ足を踏み外して、守もろとも真っ逆さまに落ちていった。
谷は底知れず深かったので、無事であるべくもない。二十尋もあるヒノキや杉の木が生えていて、その先端がはるか下のほうに見えるほどだったので、深さは想像もできない。そこへ落ちたのだから、死んでしまったに違いないと思われた。
多くの郎等たちは馬から下りて、架け橋の端に立って底をのぞいたが、どうにもすることができぬ。「下へ降りる道があれば、様子を見に降りていくのだが、もう一日歩いて、麓のほうから行ったほうがよいかもしれぬ。今はどうすることもできぬ。」などと互いにいっているうち、はるか底のほうから声が聞こえてきた。「殿は生きておいでだ」などといって返事の声を上げると、たしかに守の声が聞こえる。「なにをしゃべっているのだ、うるさいぞ、殿の声を聞け」という間に、「籠に縄を結わえて下へ下ろせ」という声。
「殿は生きて何かに引っかかっておいでだ。」と納得して、籠に縄を結わえ付けて、「それそれ」と下へおろした。そのうち縄がつきて動かなくなったので、「どうやら底へついたぞ」と思っていると、底から「引き上げろ」という声が聞こえる。そこで縄を手繰るように引き上げると、馬鹿に軽い。
「ずいぶん軽いな、殿が乗っておればもっと重いはずじゃ」と誰かが言うと、「木の枝などをつかみながら上ってくるのじゃろう、それで軽いのじゃ」とほかのものがいう。引き上げてみると殿はおらず、籠の中には平茸がいっぱい詰まっている。
みな心得ず顔を見合わせていると、また底のほうから声がして、「もう一度おろせ」という。籠を下ろすと、「引け」という。それで引き上げてみると、今度はやけに重い。大勢で引き上げてみると、駕籠には守が乗っていて、片手で縄をつかみ、もう片手で平茸を三房ばかり掴んでいたのだった。
懸橋の上で、一同喜びあううち、「そもそもこの平茸はどうしたのでしょうか」と郎党が聞くと、守は「落ちていったときに、馬は先に谷底に落ちたが、わしは遅れて木の枝の茂ったところに落ちたので、その枝をつたって下のほうへ降りていったが、大きな枝が出ているところの股のようなところに取り付き、それを抱きしめていたら、この木に平茸がたくさん生えているのがみえた。そこで見捨てがたくて、手の及ぶ限りとって、籠に入れたのじゃ。まだ沢山残っていることだろう。それを残してきたのは、いかにも残念じゃ、えらく損をしたような気がする」といった。そこで郎党たちも、「それは損でございましたな」といって、大笑いをしたのであった。
守はそれをたしなめて「僻事をいうではない。宝の山に入って手ぶらで帰るのは馬鹿げたことだ。受領は転んでも土を掴めというではないか。」というと、目代役のものが、心の中では憎いやつだと思いながらも、それを隠しておべんちゃらを言った。
「たしかにそのとおりです。手に入るものを、手に入れないのはよくありません。誰でもそのようなときには、手に入れるべきです。もとより賢い人は、死にそうになったときにも、あわてることなく、よろず普段どおりにことを運ぶものです。そうであるからこそ、国の政もうまくおさまり、物事も整うのです。そんな殿なればこそ、国人も父母のように敬愛したのです。」
こうはいったものの、隠れたところでは、守を馬鹿にして笑いあったのだった。
これを思うに、この男は死にそうな目にあいながら、冷静に振舞い、平茸をとってからあがって来た。その心意気は見事である。まして在任中には、機会があれば何でもかすめとったことだろうと思われる。

「転んでもただでは起きない」、あるいは「禍を転じて福となす」の格言を地で行くような役人の話だ。
どんな境遇にあっても利を忘れない役人を、部下の目からも皮肉たっぷりに描いている。これだけちゃっかりした男だからこそ、在任中もさぞかしなんでもとったことであろう。役人に役得はつきものなのだから、それを受け取らない方が馬鹿者なのだ。 
寸白信濃守に任じて解け失する語 (今昔物語集巻二八第三九) 
今は昔、腹の中に寸白持ちたりける女有りけり。□と云ひける人の妻に成りて、懐妊して男子を産みてけり。其の子をば、□とぞ云ひける。漸く長に成りて、冠などして後、官得て、遂に信濃守に成りにけり。
始めて其の國に下りけるに、坂向の饗を爲たりければ、守、其の饗に着きて居たりけるに、守の郎等共も多く着きたり。國の者共も多く集りたりけるに、守、饗に着きて見下すに、守の前の机より始めて畢の机に至るまで、胡桃一種を以て數たに調へ成して、悉く盛りたり。守、此れを見るに、爲む方無く侘しく思ひて、只我が身を る樣にす。然れば思ひ侘びて、守の云はく、「何なれば、此の饗に此く胡桃をば多く盛りたるぞ。此は何なる事ぞ」と問へば、國人の申さく、「此の國には萬の所に胡桃の木多く候ふなり。然れば、守の殿の御菜にも、御館の上下の人にも、只此の胡桃を萬に備へ候ふなり」と答ふれば、守、彌よ爲む方無く侘しく思えて、只身を る樣にす。
然れば、穴□迷ひて、術無氣に思へる氣色を、其の國の介にて有りける者の、年老いて萬の事知りて物思えける、有りけり。此の守の氣色を見て、怪しと思ひて思ひ廻らすに、「若し此の守は寸白の人に成りて産まれたるが、此の國の守と成りて來たるにこそ有るめれ。此の氣色見るに、極じく心得ず。此れ試みむ」と思ひて、旧酒に胡桃を濃く摺り入れて、提に入れて熱く涌して、國の人に持たせて、此の介は盞を折敷に居ゑて、目の上に捧げて畏まりたる樣して、守の御許に持て參れり。然れば、守、盞を取りたるに、介、提を持上げて、守の持ちたる盞に酒を入るるに、酒に胡桃を濃く摺り入れたれば、酒の色白くして濁りたり。
守、此れを見て、糸心地惡し氣に思ひて、酒を盞に一杯入れて、「此の酒の色の例の酒にも似ず白く濁りたるは、何なる事ぞ」と問へば、介答へて云はく、「此の國には事の本として、守の下り給ふ坂向に、三年過ぎたる旧酒に胡桃を濃く摺り入れて、在庁の官人、瓶子を取りて、守の御前に參りて奉れば、守、其の酒を食す事、定まれる例なり」と事々しく云ふ時に、守、此れを聞きて、氣色彌よ只替りに替りて、篩ふ事限無し。然れども、介が「定まりて此れ食す事なり」と責むれば、守、篩ふ篩ふ盞を引き寄するままに、「實には寸白男、更に堪ふべからず」と云ひて、散と水に成りて流れ失せにけり。然れば、其の體も無く成りぬ。
其の時に郎等共此れを見て、驚き騒ぎて、「此は何なる事ぞ」と云ひて、怪しび る事限無し。其の時に此の介が云はく、「其こ達は此の事を知り給はずや。此れは寸白の人に成りて、生まれて御したりけるなり。胡桃の多く盛られたるを見給ひて、極じく堪へ難氣に思ひ給ひたりつる氣色を見給へて、己れは聞き置きたる事の侍れば、試みむと思ひ給へて、此く仕りたりつるに、否堪へ給はずして、解け給ひたるなり」と云ひて、皆國人を具して、棄てて國へ返りぬ。守の共の者共、云ふ甲斐無き事なれば、皆京に返り上りにけり。此の由を語りければ、守の妻子眷屬も皆此れを聞きて、「早う寸白の成りたりける人にこそ有りけれ」とは、其れよりなむ知りける。
此れを思ふに、寸白も、然は人に成りて生まるるなりけり。聞く人は此れを聞きて咲ひけり。希有の事なれば此く語り傳へたるとや。 
今は昔、腹の中にサナダ虫を持っていた女がいた。某という人の妻になり、懐妊して男子を産んだ。その子の名は某といい、成人後出世して、ついに信濃守となった。
そこで任地へ赴くと、国のものが坂迎えの儀式で出迎えた。信濃守が席に着くと、郎等たちもそれぞれ席に着き、国のものどももたくさん集まってきたが、宴の様子を見下ろすに、守の机をはじめとして末端の机まで、胡桃の実を調理したものを食器に盛り付けているのが見えた。
守はこれを見て、気分が悪くなり、「どうしてこの宴の席では胡桃の料理ばかり出すのですか」と聞いた。すると国人は、「この国にはいたるところ胡桃の木がありますので、守様以下あらゆる人々に、このように胡桃の料理を振舞うのです」と応えた。守はいよいよ気分が悪くなるのを感じたのだった。
そこで守はいよいよ切ない気持でもだえ苦しんでいたが、その様子を見た介は、年をとって何でも知っていたことゆえ、怪しいと思いながら、「もしかしたら、この守は寸白の生まれ変わりではあるまいか、様子があまりにもおかしい、どれほんとかどうか確かめてみよう」といって、「酒の中に胡桃をすりつぶしたものを混ぜて、それを提に入れ熱燗にして、国の人に持たせて、守にすすめた。酒の色は白く濁って見えた。
守はそれを見ると気分が悪くなり、「この酒の色が白く濁っているのはどうしたわけか」と聞けば、介が応えていうには「この国にはもともと、守がおいでになったときには、3年たった古酒にくるみの実をすりつぶしたものを混ぜてお出しする風習があります、」
これを聞いた守はいよいよ気分が悪くなったが、「これは決まった定めなのです」と国人に責め立てられ、震えながら杯を口に持っていった。国人は「もし寸白男なら耐えられまい」といったが、そのとおり守は、水のようにとけて消えてしまったのだった。
それを見た郎党たちはみなうろたえることただならなかったが、介がいうには、「皆さんは知っておいででなかったか、これは寸白の生まれ変わりなのです、胡桃を恐れる様子がいかにも尋常でないので、試してみようと思って、このようなことをしましたが、やはり耐え切れずに消えてしまいました」
国の人はみなそろって国に帰り、守の郎党たちもみな京へと帰っていった。
帰ってからこの様子を語ったところ、守の妻子眷屬もみなあきれ果てて、さてこそ寸白が守に生まれ変わることもあるのだと、思い知ったのであった。

寸白とはサナダムシのこと。いまでこそ体の中に寄生虫を飼っている人はいなくなったが、つい一昔まで、そういう人は多くいた。いちばんポピュラーな寄生虫は回虫とべん中だったが、サナダムシを飼っている人も少なくなかった。サナダムシは人間の腸内に住み着き、長いものは数メートルにも達する。
時折子供の尻の穴から頭を出すことがあり、そんなときに大人が注意して引っ張ってやると、ずるずると出てくることもある。だがたいていは、途中でちぎれてしまう。
この物語は、サナダムシが人に生まれ変わったという話だ。そのサナダムシの生まれ変わりはなぜかクルミが大の苦手。人々は新しく赴任してきた長官が、クルミを恐れる様子を見て、これはサナダムシの生まれ変わりだと直感する。
古には、こういうこともあったのかと、感心させられる話である。 
外術を以て瓜を盗み食はるる語 (今昔物語集巻二八第四十) 
今は昔、七月許に、大和國より多くの馬共瓜を負せ列ねて、下衆共多く京へ上りけるに、宇治の北に、成らぬ柿の木と云ふ木有り、其の木の下の木影に、此の下衆共皆留まり居て、瓜の籠共をも皆馬より下しなどして、息み居て冷みける程に、私に此の下衆共の具したりける瓜共の有りけるを、少々取り出でて切り食ひなどしけるに、其の邊に有りける者にや有らむ、年極じく老いたる翁の、帷に中を結ひて、平足駄を履きて、杖を突きて出で來て、此の瓜食ふ下衆共の傍に居て、力弱氣に扇打仕ひて、此の瓜食ふをまもらひ居たり。
暫く許護りて、翁の云はく、「其の瓜一つ我れに食はせ給へ。喉乾きて術無し」と。瓜の下衆共の云はく、「此の瓜は皆己れ等が私物には非ず。糸惜しさに一つをも進るべけれども、人の京に遣す物なれば、否食ふまじきなり」と。翁の云はく、「情座さざりける主達かな。年老いたる者をば『哀れ』と云ふこそ吉きことなれ。然はれ、何に得させ給ふ。然らば翁、瓜を作りて食はむ」と云へば、此の下衆共、戯言を云ふなめりと、可咲しと思ひて咲ひ合ひたるに、翁、傍に木の端の有るを取りて、居たる傍の地を堀りつつ、畠の樣に成しつ。其の後に此の下衆共、「何態を此れは爲るぞ」と見れば、此の食ひ散らしたる瓜の核共を取り集めて、此の習したる地に植ゑつ。其の後、程も無く、其の種、瓜にて二葉にて生ひ出でたり。此の下衆共、此れを見て、奇異しと思ひて見る程、其の二葉の瓜、只生ひに生ひて這ひ絡りぬ。只繁りに繁りて、花榮きて瓜成りぬ。其の瓜、只大きに成りて、皆微妙き瓜に熟しぬ。
其の時に、此の下衆共此れを見て、「此れは神などにや有らむ」と恐ぢて思ふ程に、翁、此の瓜を取りて食ひて、此の下衆共に云はく、「主達の食はせざりつる瓜は、此く瓜作り出だして食ふ」と云ひて、下衆共にも皆食はす。瓜多かりければ、道行く者共をも呼びつつ食はすれば、喜びて食ひけり。食ひ畢つれば、翁、「今は罷りなむ」と云ひて立ち去りぬ。行方を知らず。其の後、下衆共、「馬に瓜を負せて行かむ」とて見るに、籠は有りて、其の内の瓜一つも無し。其の時に、下衆共手を打ちて奇異しがること限無し。「早う、翁の籠の瓜を取り出だしけるを、我れ等が目を暗まして見せざりけるなりけり」と知りて、嫉がりけれども、翁行きけむ方を知らずして、更に甲斐無くて、皆大和に返りてけり。道行きける者共、此れを見て、且は奇しみ、且は咲ひけり。
下衆共、瓜を惜しまずして、二つ三つにても翁に食はせたらましかば、皆は取られざらまし。惜しみけるを翁も みて、此くもしたるなめり。亦、變化の者などにてもや有りけむ。其の後、其の翁を遂に誰人と知らで止みにけりとなむ、語り傳へたるとなり。 
今は昔、七月ばかりに、大和國より多くの馬共に瓜を乗せて、下衆どもが京へ上っていった。宇治の北に、成らぬ柿の木という木があった。下衆どもはその木影にとどまって、瓜の籠を馬から下ろして休みながら、自分用にとっておいた瓜を取り出して食った。
するとその辺に住んでいると思われる老人が現れた。帷を帯で結い、平下駄を履き、杖をついて、瓜を食う下衆どもの傍らに立ち止まり、扇を力弱く仰ぎながら、瓜を食う様子をじっと見つめた。
しばらくして老人は、「俺にもひとつ食わせてくれ、のどが渇いて仕方がない」といった。
だが下衆どもは、「これは自分たちの私物ではないので、ひとつくらい差し上げたいとは思うが、人に頼まれて京に運ばねばならぬ故、やるわけにはいかぬ」と応えた。すると老人は、「つれないお方たちじゃ、老人を哀れと思う気持ちがござらぬのか。どこに持っていくのかは知らぬが、俺は俺でひとつ瓜を作ってみよう」といった。
下衆どもはへんなことを言うやつだと、笑いあっていたが、老人は傍らの木の枝を取って、それで畑を耕した。下衆どもが見ていると更に、老人は食い散らした瓜の種を集めて、地ならしした畑に植えた。すると程もなく、種から芽が出て、双葉が生えてきた。
下衆どもが不思議な気持ちで見守っていると、双葉は瞬く間に大きくなり、葉っぱが茂り、花が咲いて、立派な瓜の実がなった。
下衆どもはその様子を、「これは神様の仕業かな」と恐れながら見ていたが、老人は瓜の実をもぎって食いながら、下衆どもに向かって、「あんたらが食わせてくれぬ故、こうして自分で瓜を作ったのじゃ」といい、下衆どもにもそのおすそ分けをしてやった。また道行く人々にも、振舞ってやった。
瓜を食い終わると老人は、「もう引き上げよう」といって、立ち去り、行方も知れなかった。下衆どもは「馬に瓜を積んで出発しよう」と思ったが、籠の中にはあるべき瓜がひとつもない。手を打って悔しがったが、あとの祭りであった。
下衆どもは、「あの老人はわれらの目をくらませて、籠の中から瓜を取り出したんだ」と後悔したが、いまや行方も知れず、仕方がなくそのまま大和に引き返した。道行く人たちはこの様子を見て、笑わぬものがいなかった。 
下衆どもが瓜を出し惜しみせず、二つ三つでも食わせてやったならば、全部とられることもなかったであろうに。物惜しみしたお怪我で、こんな目にあったのだ。この老人は多分変幻自在なのだろう、その後ついに誰にも行方を知られなかったという。

これは催眠を利用した手品のような話だ。蒔いた種があっという間に実を結ぶというありそうにない話の影には、人を催眠にかけて実物のウリをなったように見せかける仕掛けがあった。実際今昔物語の時代にこのような仕掛けが行われていたのかどうか、筆者にはわからない。 
近江國の篠原の墓穴に入る男の語 (今昔物語集巻二八第四四) 
今は昔、美濃國の方へ行きける下衆男の、近江國の篠原と云ふ所を通りける程に、空暗がりて雨降りければ、「立ち宿りぬべき所や有る」と見廻らしけるに、人氣遠き野中なれば、立ち寄るべき所無かりけるに、墓穴の有りけるを見付けて、其れに這ひ入りて、暫く有りける程に、日も暮れて暗く成りにけり。雨は止まず降りければ、「今夜許は此の墓穴にて夜を明かさむ」と思ひて、奥樣を見るに廣かりければ、糸吉く打息みて寄り居たるに、夜打深更くる程に聞くに、物の入り來たる音す。暗ければ何物とも見えず。只音許なれば、「此れは鬼にこそは有らめ。早う、鬼の住みける墓穴を知らずして立ち入りて、今夜命を亡ひてむずる事」を心に思ひ歎きける程に、此の來たる物、只來たりに入り來たれば、男怖しと思ふ事限無し。然れども、逃ぐべき方無ければ、傍に寄りて、音も爲で曲まり居たれば、此の物近く來たりて、先づ物をはくと下し置くなり。次にさやさやと鳴る物を置く。其の後に居ぬる音す。此れ、人の氣色なり。
此の男、下衆なれども、思量有り心賢かりける奴にて、此れを思ひ廻らすに、「此れは人の物へ行きけるが、雨も降る、日暮る、我が入りつる樣に此の墓穴に入りて、前に置きつるは、持ちたりける物をはくと置きつる音なめり。次には蓑を脱ぎて置く音のさらさらとは聞えつるなめり」と思へども、尚、「此れは此の墓穴に住む鬼なめり」と思へば、只音も爲で、耳を立てて聞き居たるに、此の今來たる者、男にや有らむ、法師にや有らむ、童にや有らむ、知らず、人の音にて云ふ樣、「此の墓穴には、若し住み給ふ神などや御する。然らば此れ食せ。己れは物へ罷りつる者の、此こを通りつる間に、雨は痛う降る、夜は深更けぬれば、今夜許と思ひて、此の墓穴に入りて候ふなり」と云ひて、物を祭る樣にして置けば、本の男、其の時にぞ少し心落ち居て、「□ればこそ」と思ひ合はせける。
然て、其の置きつる物を、近き程なれば、竊かに、「何ぞ」と思ひて手を指し遣りて捜れば、小き餅を三枚置きたり。然れば、本の男、「實の人の、道を行きけるが、持ちたる物を祭るにこそ有りけれ」と心得て、道は行き極じて、物の欲しがりけるままに、此の餅を取りて竊かに食ひつ。
今の者、暫し許有りて、此の置きつる餅を捜りけるに、無し。其の時に、「實に鬼の有りて食ひてけるなめり」と思ひけるにや、男、俄かに立ち走るままに、持ちたりつる物をも取らず、蓑笠をも棄てて走り出でて去りぬ。身の成らむ樣も知らず逃げて去りければ、本の男、「然ればこそ。人の來たりけるが、餅を食ひたるに恐ぢて逃げぬるなりけり、吉く食ひてける」と思ひて、此の棄てて去りぬる物を捜れば、物一物入れたる袋を、鹿の皮を以て裹みたり。亦蓑笠有り。「美濃邊より上りける奴なりけり」と思ひて、「若し伺ひもぞ爲る」と思ひければ、未だ夜の内に、其の袋を掻負ひて、其の蓑笠を打着て、墓穴を出でて行きける程に、「若し有りつる奴や人郷に行き行きて、此の事を語りて、人などを具して來たらむ」と思ひければ、遙かに人離れたる所に、山の中に行きて、暫く有りける程に、夜も明けにけり。
其の時に、其の袋を開きて見ければ、絹・布・綿などを一物入れたりけり。思ひ懸けぬ事なれば、「天の然るべくて給へる」と思ひて、喜びて、其れよりなむ行きける所へは行きにける。思はぬ所得したる奴かな。今の奴は逃ぐる、尤も理なりかし。現はに誰れも逃げなむ。本の男の心、糸蠢付し。此の事は、本の男の老の畢に妻子の前に語るを聞き傳へたるなり。今の奴は遂に誰れとも知らで止みにけり。
然れば心賢き奴は、下衆なれども、此かる時にも萬を心得て、吉く翔ひて、思ひ懸けぬ所得をも爲るなりけり。然るにても、本の男、餅を食ひて、今の奴の逃げにけるを、何に可咲しと思ひけむ。希有の事なれば、此くなむ、語り傳へたるとなり。 
今は昔、美濃の国へ向かっていた下衆の男がいた。近江國の篠原というところをとおりがかった折、空が暗くなって雨が降ってきたので、「どこか雨宿りするところはないか」とあたりを見回したが、人気のない野原の真ん中とて、家らしきものはなかった。だが墓穴がひとつあるのを見つけて、そのなかに入り込んで、潜んでいると、日が暮れて暗くなってきた。
雨の降り止む様子がないので、「今夜はこの墓穴で夜を明かそう」と思い、奥のほうの広いところにいって休んでいると、夜が次第に更けるとともに、何かが入ってくる音が聞こえた。暗いのではっきりとはわからない。ただ音だけが聞こえる。「ははあ、これは鬼に違いない、鬼の住む穴とも知らずに入り込んだおかげで、鬼に食われて命を落とすのだ」と心に思って嘆いていると、そのものはこっちへと近づいてきた。男は怖くてしょうがなかったが、逃げるところがないので、穴の脇のほうへ身を寄せ、音も立てずにじっとしていると、そのものは近づいてきて、何かをパタッと落とした。ついでサラサラという音がして、
座り込むような音が聞こえた。どうやら人の気配である。
この男は下衆ではあったが、思慮が深く賢かったので、推測をめぐらしてみた、そこで「これは旅の途中の人間が、雨が降り日が暮れたので、自分と同様にこの墓穴に入りこんだのだろう。最初にパタンとおいたのは荷物で、次にさらさらと聞こえたのは美濃傘の音だろう」と思えたが、「もしかしたら、この墓穴に住む鬼かもしれない」とも思われ、音を立てずに、聞き耳を立てていた。
今来たこのものは、男だろうか、法師だろうか、子どもだろうか、よくわからないが、人の声で、「この墓穴には、もしかして神様がお住まいでしょうか、そうだとしたら、このお供えをさしあげます、わたしは旅のものですが、ここをとおりがかったところ、雨がいたく降り夜も更けましたので、今夜ばかりと思って、お邪魔しました」といった。そして、お供えの品を差し出したのだった。元からの男は、すこし気分が落ち着いて、「そういうことだったのか」と思ったのだった。
さて元からいた男は、置かれたものをひそかに手にとってみたところ、小さいもちが三枚あった。「さては、道中持参していたものをお供えにしたのだな」と思いながら、男は行き悩んで腹もへっていたこととて、このもちを食ったのだった。
後から来た男は、しばらくして置いたもちを手探りで探したが、見当たらない。「まさに鬼が食ったに違いない」と思ったのだろう、にわかに逃げ去った。そのとき持っていた荷物を残し、美濃傘も捨てていった。
元からいた男は「さればこそ、餅を食ったのが鬼だと思って逃げたのだな」と思いながら、残していった荷物を探ってみると、物を包んだ鹿革の袋と、美濃傘があった。「美濃のほうからやってきたのだな」と思いつつ、「帰ってくるかもしれぬ」と思って、まだ夜のうちにその袋を背負って、墓穴を出て歩いていくと、「もしかして、どこかでこのことを人に語って、一緒に連れてくるかも知れぬ」と心配になって、はるか人里はなれた山の中まで入っていった。そのうち夜も明けたのだった。
山の中で袋を開けてみると、絹・布・綿などが入っていた。思いがけず、「天が恵んでくれたのだろう」と喜びながら、ずっと歩いていった。
思わず得をした男もいたものだ。後から来た男が逃げたのは無理もない話だ。誰だって逃げたくなるだろう。元からいた男は、面憎いやつだ。この話はその男が老後家族に語ったということだ。後から来た男が誰であったか、ついに分からずじまいだった。

墓穴というものは、いまでは存在しないが、今昔物語の時代には珍しいものではなかったようだ。しかしそこは、通常の世界とは全く異なった秩序が支配する世界であって、場合によっては鬼が済むこともあった。鬼と云うのは、基本的には死んだ者がまだこの世に未練を残し、あたりをさまよっている姿なのだと、信じられていたのである。
そこで何かの事情で墓穴の中に入り込んでしまった人間は、そこに鬼がいるのではないかと真剣に恐怖した。その恐怖心が、墓穴に入り込んだ二人の人間の間で、思いもかけぬドラマを生み出させる。 
明法博士義澄、強盗に殺さるる語 (今昔物語集巻二九) 
もどってきた強盗
大学寮で律令と経書学を教授する清原義澄という人がいた。
その学識は当代に並ぶ者なく、昔の博士たちにも決して劣るものではなかった。年齢は七十歳をこえ、世間に重んじられていたが、家はきわめて貧しくて、なにかと不如意な暮らしをしていた。
その義澄の家を強盗団が襲った。
義澄はうまく板敷の下に這い込んだので見つからずにすんが、家の中は好き放題に荒らされた。強盗どもは、少しでも金目のものは盗り、がらくたはたたき壊し、踏みつぶした揚句、どやどやと出ていったのである。
義澄は板敷の下から這い出て、強盗どもが出ていったばかりの門に走った。そして、
「やいやい、おのれら、人相はみんな見届けたぞ。検非違使に言いつけて片端から捕まえてもらうから、覚悟しろ」
と、腹立ちにまかせて、門をドンドン叩きながら喚いた。
「親分、あんなこと言ってますよ」
「なめた野郎だ。ぶち殺せ」
というわけで、強盗どもはどやどや引き返してきた。
義澄は、アレマア!と驚いて、また板敷の下に急いだが、慌てて頭をぶつけたりして入りきらないでいるうちに見つかり、惨殺された。
強盗どもはそのまま立ち去って、事件はそれきりになってしまった。
義澄は、「学才は並外れてすぐれていたけれど、まるで臨機応変の対処を知らない者で、こんな子供じみた行いによって命を落とした」と、話を聞く人ごとに冷たくけなされたのである。  
羅城門ノ上層ニ登リ死人ヲ見タル盗人ノ語 (今昔物語集巻二九第十八) 
今昔、摂津ノ国辺ヨリ盗セムガ為ニ京ニ上ケル男ノ、日ノ未ダ明カリケレバ、羅城門ノ下ニ立隠レテ立テリケルニ、朱雀ノ方ニ人重ク行ケレバ、人ノ静マルマデト思テ、門ノ下ニ待立テリケルニ、山城ノ方ヨリ人共ノ数来タル音ノシケレバ、「其レニ見エジ」ト思テ、門ノ上層ニ和ラ掻ツリ登タリケルニ、見レバ、火髴ニ燃シタリ。盗人、「怪」ト思テ、連子ヨリ臨ケレバ、若キ女ノ死テ臥タル有リ。其ノ枕上ニ火ヲ燃シテ、年極ク老タル嫗ノ白髪白キガ、其ノ死人ノ枕上ニ居テ、死人ノ髪ヲカナグリ抜キ取ル也ケリ。盗人、此レヲ見ルニ、心モ得ネバ、「此レハ若シ鬼ニヤ有ラム」ト思テ怖ケレドモ、「若シ死人ニテモゾ有ル。恐シテ試ム」ト思テ、和ラ戸ヲ開テ、刀ヲ抜テ、「己ハ己ハ」ト云テ走リ寄ケレバ、嫗、手迷ヒヲシテ、手ヲ摺テ迷ヘバ、盗人、「此ハ何ゾノ嫗ノ、此ハシ居タルゾ」ト問ケレバ、嫗、「己ガ主ニテ御マシツル人ノ失給ヘルヲ、繚フ人ノ無ケレバ、此テ置奉タル也。其ノ御髪ノ長ニ 余テ長ケレバ、其ヲ抜取テ鬘ニセムトテ抜ク也。助ケ給ヘ」ト云ケレバ、盗人、死人ノ着タル衣ト、嫗ノ着タル衣ト、抜取テアル髪トヲ奪取テ、下走テ逃テ去ニケリ。然テ其ノ上ノ層ニハ、死人ノ骸骨ゾ多カリケル。死タル人ノ葬ナド否為ヌヲバ、此ノ門ノ上ニゾ置ケル。此ノ事ハ、其ノ盗人ノ人ニ語ケルヲ聞継テ、此ク語リ伝ヘタルトヤ。  
今は昔、摂津の国から盗みを働こうと京に上ってきた男があった。まだ日が高かったので、羅生門の下に立ち隠れしていると、朱雀通りのほうへ多くの人が歩いていく。男は人通りが静まるのを待とうと、門の下に立っていた。すると山城のほうから大勢の人の足音が聞こえてきた。男は見られてはまずいと思い、門の上によじり上った。
門の上では、かすかな灯りがともされている。おかしいと思い、格子戸から覗いてみると、若い女が死んで横たわっている。その枕元には火がともされて、えらく年をとった白髪の老婆が、枕にまたがり、死人の髪を抜き取っているのだった。
盗人は度肝を抜かれ、もしかして鬼かも知れぬと恐怖したが、「いや、ただの人かもしれぬ、確かめてみよう」と思い直し、やおら戸を開き、刀を抜いて、「おのれ」とわめきながら老婆に走りかかった。
老婆がびっくりして、手を合わせて命乞いをすると、男は「この婆め、何をしている」と問い詰めた。すると老婆は「私のご主人であった人がお亡くなりになられ、葬ってくれるお方もないので、ここにお連れしたのです。ご主人は髪が長くてらっしゃるので、それを抜いて鬘にしようと思いました。どうぞ助けてください」といった。
盗人は、死人の装束と、老婆の衣と、抜いてあった髪の毛を奪い取ると、下へ飛び降りて逃げ去ったのだった。
この門の上の階には、死人の骸骨が多いということだ。死んで葬られるあてのない屍骸が、運ばれてくるからだ。この話は、件の盗人が人に話して聞かせたものを、語り継いだものとかや。

羅城門は朱雀大路の南端にあって、京の都への正門として用いられた。この物語が書かれた頃には、正門としての機能は失って、話の中身にあるとおり、死体置き場として用いられていた。やがて京の街並が東に向かって移動するようになると、都市の辺縁に位置するような格好になり、ついには崩壊したまま顧みられなくなった。この話はその過渡的な状態を舞台にしたものだろう。
この話の枠組を用いて、芥川龍之介は短編小説「羅城門」を書いた。黒沢の映画「羅城門」はこの物語とは直接関係はなく、芥川の小説「藪の中」を下敷きにしている。「藪の中」事態も、今昔物語集の一説話に題材をとっている。 
袴垂、関山ニ於テ虚死シテ人ヲ殺ス語 (今昔物語集巻二九第十九) 
今昔、袴垂ト云フ盗人有ケリ。盗ヲ以テ業トシテ有ケレバ捕ヘラレテ獄ニ禁メラレタリケルガ、大赦ニ掃ハレテ出ニケルガ、立寄ルベキ所モ無ク、為ベキ方モ思エザリケレバ、関山ニ行テ、露身ニ懸タル物モ無ク裸ニテ、虚死ヲシテ路辺ニ臥セリケレバ、路チ行キ違フ者共此レヲ見テ、「此ハ何ニシテ死タル者ニカ有ラム。疵モ無キハ」ト、見繚ヒ云ヒ[ノノシリ]ケル程ニ、吉キ馬ニ乗タル兵ノ、調度ヲ負テ数ノ郎等、眷属ヲ具テ、京ノ方ヨリ来タリケルガ、此ク人ノ多ク立約テ物ヲ見ルヲ見テ、馬ヲ急ト留メテ、従者ヲ寄セテ、「彼レハ何ニヲ見ルゾ」ト見セケレバ、従者走リ寄テ見テ、「疵モ無キ死人ノ候フ也」ト云ケレバ、主然カ聞クマヽニ、引組テ弓ヲ取リ直シテ、馬ヲ押去テ、死人ノ有ル方ニ目ヲ懸テ過ケレバ、此レヲ見ル人、手ヲ叩テ咲ヒケリ、「然許郎等、眷属ヲ具シタル兵ノ、死人ニ会テ心地涼スハ極キ武者カナ」ヽド、咲ヒ嘲ケリケル程ニ、武者ハ過テ行ニケリ。其ノ後、人皆行キ散ナドシテ、死人ノ辺ニ人モ無ケル程ニ、亦武者ノ通ル有ケリ。此レハ郎等、眷属モ無シ、只調度ヲ負テ、此ノ死人ニ只打ニ打懸リテ、「哀レナル者カナ。何ニシテ死タルニカ有ラム。疵モ無シ」ナド云テ、弓ヲ以テ差引ナド為ルヲ、此ノ死人、ヤガテ其ノ弓ニ取リ□テ起走テ、馬ヨリ引キ落シテ、「祖ノ敵ヲバ此クゾ為ル」ト云フマヽニ、武者ノ前ニ差タル刀ヲ引抜テ差シ殺シテケリ。然テ、其ノ水旱袴ヲ曳剥テ打着テ、弓・胡録ヲ取テ掻負テ、其ノ馬ニ這乗テ、飛ブガ如クニ東様ニ行ケルニ、同様ニ掃ハレテ裸ナル者 共十二十人許、云契タリケレバ、末ニ来リ会タリケルヲ共人トシテ、道ニ会ト会フ者ノ水旱袴・馬ナドヲ取リ、弓箭・兵杖ヲ多ク奪取テ、其ノ裸ナル者共ニ着セ、兵具ヲ調ヘ馬ニ乗セテ、郎等二三十人具シタル者ニテゾ下ケレバ、会フ敵無キ者ニテゾ有ケル。此ル者ハ少ノ隙モ有レバ、此ル事ヲ為ル也。其レヲ知ラデ、近ク打寄テ、手便ニ有ラムニハ、当ニ取付カヌ様ハ有ナムヤ。初メ心地立テ過シ馬乗ヲ、「誰ニカ有ラム、賢カリシ者カナ」ト思テ問ヒ尋ネケレバ、村岡ノ五郎平ノ貞道ト云ケル者也ケリ。其ノ人ト聞テケレバ、人「理也ケリ」トナム云ケル。然許郎等、眷属有ケレドモ、此レヲ知テ緩マズシテ通ケム、賢キ事也。其レニ、従者モ無キ者ノ、近ク打寄テ殺サルル、墓無キ事也トゾ、聞ク人、讃メモ謗リモ云ヒ繚ケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
今は昔、袴垂という盗人があった。盗みのとがで捕らえられ獄につながれていたところを、大赦にあって出獄したが、行く宛もなく、やることもないので、関山に行って、裸で死んだまねをして横たわった。
道行く人々はこれを見て、「これはどんな死に方をしたものだろう、傷もないぞ」と罵り合った。そこへ立派な馬に乗った武士が、多くの家来を引き連れて、京のほうからやってきた。大勢の人がよりたかっているのを見ると、馬をとめて、家来を招き寄せ、「あれは何を見ているのか見てまいれ」といった。すると家来は、走りよってみて、「傷ひとつない死人であります」と報告した。
武士はそう聞くと、弓に矢をつがえ、馬から下りて、死人のほう注視しながら通り過ぎた。それを見た人は、手を叩いてあざ笑った。「こんなに大勢の家来を連れていながら、死人にびくびくするとはたいした武士だ」と罵ったのだが、武士はかまわず通り過ぎたのだった。
その後、見物人がいなくなった頃に、もう一人の武士が通りがかった。家来を連れておらず、ただ一人で調度を負っていたが、死人をみると近づいて、「哀れなやつだ、何故死んだのか、傷もないのに不思議だ」といいながら、弓の先でつついてみた。すると死人はやおらその弓の先をつかんで立ち上がり、武士を馬から引き摺り下ろして、「親の敵はこうするものだ」といいつつ、武士が腰にさしていた刀を抜き取り、それで武士を刺し殺したのだった。
盗賊は武士の着ていた水旱袴をはがして身につけ、弓・胡録を奪って負い、馬に這い乗って、飛ぶように東へと向かった。道中釈放されて裸で歩いていたものどもが20人ばかりいたのを家来に加え、道々出会った人々から追いはぎをして、家来たちに着せてやった。こうして武装した家来が二三十人にもなったので、向かうところ敵なき盗賊団になった。
こういう悪党は、相手の隙をみて襲い掛かるものだ。それと知らず、近づいたりするからやられるので、相手にせず通り過ぎるのがいいのだ。
最初に通り過ぎたものを誰かと思って名を聞けば、村岡ノ五郎平ノ貞道という名の武士だということだ。この武士は家来を大勢連れていながら、なお用心して通り過ぎて難にあわずに済んだ。後のものは、家来もなく一人で近寄ったおかげで殺されてしまった。この話を聞いたものは、それぞれの賢さおろかさを語り継いだということだ。

袴垂という盗賊の物語、平安時代には有名な盗賊であったらしい袴垂の若い頃の話を描いたものか。
袴垂といえば保輔という名がついて、藤原保昌の弟として語られることもある。藤原保昌は頼光四天王のひとりで、京都に出没して人々を悩ませていた鬼を退治したことで有名だ。その弟が大盗賊として描かれるのも面白い。 
妻ヲ具シテ丹波国ニ行ク男、大江山ニ於テ縛ラルル語 (今昔物語集巻二九第二三) 
今昔、京ニ有ケル男ノ、妻ハ丹波ノ国ノ者ニテ有ケレバ、男、其ノ妻ヲ具シテ、丹波ノ国ヘ行ケルニ、妻ヲバ馬ニ乗テ、夫ハ竹蠶簿ノ箭十許差タルヲ掻負テ、弓打持テ後ニ立テ行ケル程ニ、大江山ノ辺ニ、若キ男ノ大刀許ヲ帯タルガ糸強気ナル、行烈ヌ然レバ、相具シテ行クニ、互ニ物語ナドシテ、「主ハ何ヘゾ」ナド語ヒ行ク程ニ、此ノ今行烈タル大刀帯タル男ノ云ク、「己ガ此ノ帯タル大刀ハ、陸奥ノ国ヨリ伝ヘ得タル高名ノ大刀也。此レ見給ヘ」トテ抜テ見スレバ、実ニ微妙キ大刀ニテ有リ。
本ノ男、此レヲ見テ欲キ事限リ無シ。今ノ男、其ノ気色ヲ見テ、「此ノ大刀要ニ御セバ、其ノ持給ヘル弓ニ替ヘラレヨ」ト云ケレバ、此ノ弓持タル男、持タル弓ハ然マデノ物ニモ非ズ、彼ノ大刀ハ実ニ吉キ大刀ニテ有ケレバ、大刀ノ欲カリケルニ合セテ、「極タル所得シテムズ」ト思テ、左右無ク差替ヘテケリ。
然テ行ク程ニ、此ノ今ノ男ノ云ク、「己ガ弓ノ限リ持タルニ、人目モ可咲シ。山ノ間、其ノ箭二筋借サレヨ。其ノ御為ニモ此ク御共ニ行ケバ、同事ニハ非ズヤ」ト。本ノ男此レヲ聞クニ、「現ニ」ト思フニ合セテ、吉キ大刀ヲ弊キ弓ニ替ツルガ喜サニ、云マヽニ、箭二筋ヲ抜テ取セツ。然レバ、弓打持テ箭二筋ヲ手箭ニ持テ、後リニ立テ行ク。本ノ男ハ、竹蠶簿ノ限ヲ掻負テ大刀引帯テゾ行ケル。
而ル間、昼ノ養セムトテ薮ノ中ニ入ルヲ、今ノ男、「人近ニハ見苦シ。今少シ入テコソ」ト云ケレバ、深ク入ニケリ。然テ、女ヲ馬ヨリ抱キ下シナド為ル程ニ、此ノ弓持ノ男、俄ニ弓ニ箭ヲ番テ、本ノ男ニ差宛テ強ク引テ、「己、動カバ射殺シテム」ト云ヘバ、本ノ男、更ニ此ハ思懸ケザリツル程ニ、此クスレバ、物モ思エデ、只向ヒ居リ。其ノ時ニ、「山ノ奥ヘ罷入レ、入レ」ト恐セバ、命ノ惜キマヽニ、妻ヲモ具シテ、七八町許山ノ奥ヘ入ヌ。然テ、「大刀・刀投ヨ」ト制命ズレバ、皆投テ居ルヲ、寄テ取テ打伏セテ、馬ノ指縄ヲ以テ木ニ強ク縛リ付ケテツ。
然テ、女ノ許ニ寄来テ見ルニ、年二十余許ノ女ノ、下衆ナレドモ愛敬付テ糸清気也。男、此レヲ見ルニ心移ニケレバ、更ニ他ノ事思エデ、女ノ衣ヲ解ケバ、女辞ビ得ベキ様無ケレバ、云フニ随テ衣ヲ解ツ。然レバ、男モ着物ヲ脱テ、女ヲ掻臥セテ二人臥ヌ。女、云フ甲斐無ク、男ノ云フニ随テ、本ノ男縛付ラレテ見ケム□、何許思ケム。
其ノ後、男起上テ、本ノ如ク物打着テ、竹蠶簿掻 負テ、大刀ヲ取テ引帯テ、弓打持テ、其ノ馬ニ這乗テ、女ニ云ク、「糸惜トハ思ヘドモ、為ベキ様無キ事ナレバ、去ヌル也。亦、其ニ男ヲバ免シテ殺サズナリヌルゾ。馬ヲバ、疾ク逃ナムガ為ニ乗テ行ヌルゾ」ト云テ、馳散シテ行ニケレバ、行ニケム方ヲ不知ザリケリ。
其ノ後、女寄テ男ヲバ解免シテケレバ、男、我レニモ非ヌ顔ツキシテ有ケレバ、女、「汝ガ心、云フ甲斐無シ。今日ヨリ後モ、此ノ心ニテハ、更ニ墓々シキ事有ラジ」ト云ケレバ、夫、更ニ云フ事無クシテ、其ヨリナム具シテ丹波ニ行ニケル。
今ノ男ノ心、糸恥カシ。男、女ノ着物ヲ奪取ラザリケル。本ノ男ノ心糸墓無シ。山中ニテ、一目モ知ラヌ男ニ弓箭ヲ取セケム事、実ニ愚也。其ノ男、遂ニ聞エデ止ニケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
今は昔、京に住んでいた男があった。妻が丹波の国のものだったので、あるとき丹波まで妻を連れて行った。妻を馬に乗せ、自分は竹の箙に矢を10本差し、弓を握って馬の背後から歩いていった。大江山に差し掛かった頃、太刀を帯びた若い男と一緒になった。話し合うついでに、若い男が太刀を見せて、「この太刀は陸奥ノ国から伝わる逸品です、どうぞ見て御覧なさい」と太刀を抜いて見せた。見事な太刀であった。
夫はこの太刀を見てすごく欲しくなった。その様子を見た若い男は、「もしこの太刀をお望みならば、あなたが持っている弓と交換しましょう」といった。それを聞いた夫は、「自分の弓はたいしたものでもないのに、この太刀と交換してくれるといっている。これはこの上ないチャンスだ」と是非もなく交換したのだった。
そのうち若い男が、「弓だけ持っているのもおかしなもの、山の中だけでもその矢を二本ばかり貸してくだされ。こうしてお供をしているわけですから、そのほうが都合が良いでしょう」といった。夫はこれを聞いてもっともだと思い、また弓と良い太刀とを交換できたうれしさに、いわれるまま矢を二本手渡した。こうして若い男は弓を負い、矢を手に握って夫の後からつき従い、夫のほうは箙を負い、太刀を帯びて歩いていった。
しばらくして、夫は昼飯のために藪の中に入っていった。すると若い男が、「食事しているところが人目に触れては見苦しい、もう少しなかに入りましょう」といったので、ずっと深く入っていった。そして妻を馬から下ろして支度に取り掛かっているところを、若い男が弓に矢をつがえて、夫に向かって強くひき、「動くと射殺すぞ」と脅した。
若い男はなおも、「もっと奥へ入れ」というので、命が惜しさに、妻を連れて七八丁ほど山の奥に入り込んだ。そこで若い男が、太刀と刀を投げろというので、そのとおりにすると、馬の指縄を用いて、夫を木の幹に縛り付けてしまった。
若い男が妻の近くによって確かめると、年頃二十歳あまり、身分は低いもののなかなかの美貌、若い男はすっかりほれ込んでしまった。そこで夢中になって女の着物を脱がせにかかったが、女は抵抗するまでもなく、自分から裸になった。男も裸になると、女を組み伏せてなにをしにかかったのだった。それを目の前に見ていた夫がどんな風に感じたか、忖度するまでもあるまい。
ことが終わると、男は起き上がって着物を着、箙を負い、太刀を帯び、弓を持って馬にまたがった。そして女に向かって、「名残惜しいが、仕方がないので、行くことにする。お前の夫は殺さずにおいてやろう。馬に乗って早々に立ち去ろう」といって、馬を馳せたので、あっという間に見えなくなった。
女は夫の戒めを解いてやったが、夫のほうは腑抜けたような顔をしている。そこで女は、「お前さんは本当にだらしない。これでは先が思いやられます」といったが、夫は何もいえなかった。とりあえず二人は丹波に向かって先を急いだのだった。

この話は芥川龍之介が小説「藪の中」の中でとりあげ、それをもとに黒沢明が映画「羅城門」を作った。女房を京まち子が演じていた。犯される女を演じる京まち子は怪しいほど美しかった。 
丹波守貞盛、児干を取る語 (今昔物語集巻二九第二五) 
今昔、平ノ貞盛ノ朝臣ト云フ兵有ケリ。丹波ノ守ニテ有ケル時、其ノ国ニ有ケルニ、身ニ悪キ瘡ノ出タリケレバ、□ノ□ト云フ止事無キ医師ヲ迎ヘ下シテ見セケレバ、医師、此レヲ、「極ジク慎シムベキ瘡也。然レバ、児干ト云フ薬ヲ求メ□ 治スベキ也。其レハ人ニ知ラセヌ薬也。日来経バ其レモ聞難カリナム。疾ク求メ給フベキ也」ト云テ、外ナル所ニ出ヌ。
然レバ、守、我ガ子ノ左衛門ノ尉□ト云フヲ呼テ、「我ガ瘡ヲバ、疵ト此ノ医師ハ見テケリ。極キ態カナ。増シテ此ノ薬ヲ求メバ、更ニ世ニ隠レ有ラジ。然レバ、其ノ妻コソ懐任シタナレ。其レ我レニ得サセヨ」ト云フヲ、□聞クニ目モ暗テ、更ニ物思エズ。然リトテ惜ムベキ様無ケレバ、「早ウ疾ク召セ」ト答フレバ、貞盛、「糸喜シ。然ラバ其ハ暫シ外ニ御シテ葬リ儲ケヲセヨ」ト云ヒ固メツ。然テ□此ノ医師ノ許ニ行テ、「此ル事ナム有ル」ト泣々ク語レバ、医師モ此レヲ聞テ泣ヌ。
然テ云フ様、「此ノ事ヲ聞クニ、実ニ奇異シ。己構ヘム」ト云テ、舘ニ行テ、「何ゾ。薬ハ有ヤ」ト守ニ問ヘバ、守、「其レガ糸難クテ無キ也。然レバ左衛門ノ尉ノ妻ノ懐任シタルヲゾ乞得タル」ト答フレバ、医師、「其レヲバ何ニカセム。我ガ胤ハ薬ニ成ラズ。疾ク求替給ヘ」ト云ヘバ、守歎テ、「然ハ何ガ為ベキ。尋ネヨ」ト云フニ、人有テ、「御炊ノ女コソ懐任テ六月ニ成ヌレ」ト云ケレバ、「然ラバ、其レヲ疾ク取セヨ」ト云テ、間テ見ケレバ、女子ニテ有ケレバ棄テケリ。然レバ、外ニ亦求メテ、守、生キニケリ。
然テ、医師ニ吉キ馬・装束・米ナド員知ラズ取セテ返シ上ストテ、子ノ左衛門ノ尉ヲ呼テ蜜ニ云ク、「「我ガ瘡ハ疵ニテ有ケレバ、児干ヲコソ付テケレ」ト、世ニ弘ゴリテ聞エナムトス。公モ我レヲバ憑モシキ者ニ思シ食テ、夷乱レタリトテ、陸奥ノ国ヘモ遣サムトスナリ。其レニ、「其ノ人ニコソ射ラレニケレ」ト聞エムハ、極キ事ニハ非ズヤ。然レバ、此ノ医師ヲ構ヘテ失ナヒテムト思フヲ、今日京ヘ上セムニ、行会テ射殺セ」ト云ケレバ、左衛門ノ尉、「糸安キ事ニ候フ。罷上ラムヲ山ニ罷会テ、強盗ヲ造テ射殺シ候ヒナム。然レバ、夕サリ懸テ出シ立サセ給フベキ也」ト云ヘバ、守、「然ナヽリ」トテ、左衛門ノ尉、「其ノ構ヘ仕ラム」トテ忽ギ出ヌ。
然テ、忍テ左衛門ノ尉、医師ニ会テ、蜜ニ云ク、「然々ノ事ヲナム、守宣フ。其レヲバ何ガ為ベキ」ト云ヘバ、医師、「奇異」ト思テ、「只、何ニモ其ニ量ラヒテ助ケ給フベキ也」ト云ヘバ、左衛門ノ尉□ 云ク、「上給ハムニ、山ニテ、送リニ付ラルル判官代ヲバ馬ニ乗セテ、其ハ歩ニテ山ヲ越給ヘ。一日ノ事ノ、世々ニモ忘レ難ク喜ク候ヘバ、此ク告申ス也」ト。医師、手ヲ摺テ喜ブ。
然ル気無クテ出シ立レバ、酉時許ニ出立ヌ。左衛門ノ尉ガ教ヘツルマヽニ、山ニテ、医師馬ヨリ下テ、従者ノ様ニ成テ行クニ、盗人出来ヌ。盗人、馬ニ乗テ行ク判官代ヲ主ゾト思フ様ニテ構ヘタル事ナレバ、射殺シツ。従者共ハ皆逃テ散ニケレバ、医師、平カニ京ニ上着ニケリ。左衛門ノ尉ハ舘ニ返テ、射殺シツル由ヲ守ニ云ケレバ、守、喜テ有ケル間ニ、医師ハ存シテ京ニ有テ、判官代ヲ射殺シテケレバ、守、「此ハ何ニシタル事ゾ」ト問ケレバ、左衛門ノ尉、「医師歩ニテ従者ノ様ニテ罷ケルヲ知ラズシテ、判官代ガ馬ニ乗タルヲ、主ゾト思テ、錯テ射殺シツル也」ト云ケレバ、守、「現ニ」ト思テ、其ノ後ハ強ニモ云ハデ止ニケリ。然レバ、忽ニコソ左衛門ノ尉、医師ニ恩ヲ酬タリケレ。貞盛ノ朝臣ノ、婦ノ懐任シタル腹ヲ開テ、児干ヲ取ラムト思ケルコソ、奇異ク慚無キ心ナレ。
此レハ、貞盛ガ一ノ郎等、舘ノ諸忠ガ娘ノ語ケルヲ聞継テ、此ク語リ伝ヘタルトヤ。 
今は昔、平ノ貞盛ノ朝臣という兵があった。丹波の守として赴任中に、身に悪性の腫瘍ができたので、某という高名な医師を迎えて診察を請うに、医師は「大変な腫瘍ですが、男の子の胎児の生き胆を煎じて飲めばなおります。めったに処方しませぬが、日時がたてば効き目がなくなりますので、早く求めなさい」といって、退出した。
そこで守は自分の子の左衛門ノ尉というものを呼び寄せ、「俺の腫瘍をこの医師は矢傷だと見抜いた。もしこの薬を求めていると世間に知れたら、大変なことになる。そこでだ、お前の妻が懐妊しているということだが、その胎児をこっそりとわしにくれ」といったので、左衛門ノ尉は目もくらむ思いになった。とはいえ拒みようもなく、「それではお納めください」と答えた。貞盛は「それがよい、お前は葬式の用意をして待っておれ」といった。そこで左衛門ノ尉は医師のもとへいって、泣く泣く事情を話したところ、医師も同情して泣いてくれたのだった。
「それは大変なことだ。わしがひとつ細工をしてやろう」医師はこういうと、貞盛のところへいって、「どうしました、薬はできましたか」と聞いた。守は「それがなかなか見つからなくて、結局息子の嫁の胎児を貰い受けることにしました」というので、「それはなりませぬ。自分の血筋を引いたものは使えないのです」と医師が答えると、守はたいそう落胆したのだった。そのうち家来の一人が、「飯炊き女が懐妊して6ヶ月になります」と教えてくれたので、その女の腹を裂いたところ胎児は女の子であった。女の子の肝では使えぬので捨ててしまったが、そのうち男の子の肝を手に入れて、守は病気を治すことができた。
守は医師に馬、装束、米などを数限りなく与えて京へ返すにあたり、子の左衛門ノ尉を呼んでいった。「わしの腫瘍は矢傷がもとだ。それで生き胆を求めたなどと世間に知られては都合が悪い。朝廷ではわしの勇猛さに感激なされ、恵比寿を退治しに陸奥に派遣されようとするところへ、わしが矢傷を蒙ったなどと聞こえては、はなはだ不都合じゃ。秘密を知っているこの医師を殺してしまおうと思う。これから京へ返すから、お前は追いかけて射殺しろ」
守がこういうと、左衛門ノ尉は「たやすいことです。山の中で待ち伏せし、強盗を装って射殺しましょう。夕べ近くに出発させてください。といった。守は感心し、左衛門ノ尉は支度のために退出した。
ところが左衛門ノ尉は、医師にあってこのことを密かに告げた。そしてどうしたらよいかと訪ねた。医師は、けしからぬとこだと思いながらも、何とかして助けて欲しいといった。すると左衛門ノ尉は、「途中山の中に入ったら、見送りの判官代を馬に乗せ、ご自分はそのあとから歩きなされ。このたびのことでは大変お世話になりましたので、このようにお話しに参りました」といった。医師は手を合わせて感謝したのだった。
医師は酉時(午後6時ころ)に出発した。そして左衛門ノ尉にいわれたとおり、山で馬から下り、従者のふりをして歩いていくと、盗人が出てきて、馬に乗っていた判官代を射殺した。従者どもはみな逃げてしまい、医師一人が京へ戻った。
守のほうは、喜んでいるうちに、医師は無事京にあり、射殺されたのは判官代だったと知り、どうしたことだと左衛門ノ尉を問い詰めた。すると左衛門ノ尉は、「医師は歩いていて従者のように見えましたので気づかず、馬に乗っていた判官代を主人の意思だと勘違いして射殺してしまいました」と答えた。守は変だとは思ったが、それ以上何もいわなかった。
これは左衛門ノ尉が子を救ってもらった恩返しに、医師を助けてやったのである。

平貞盛はあの平将門を滅ぼしたことで歴史上有名な人物だ。だがその割に人気がない。将門が今でも英雄扱いされるのに、貞盛はずるい策略で将門を陥れた陰険な人物と云う評価が定着している。
そんな貞盛の陰険さが良く表れているのがこの物語だ。腫れ物にかかった貞盛が、それを治すのに男の子の肝が効果があると聞き、こともあろうに自分の息子の嫁の孕んだのに目をつけて、其の此の肝をよこせと迫る、自分にとっては孫にあたる子供を殺して、其の此の肝を自分の病気の治療に用いようなどとは、いかにも人倫に反した話だ。
嘘か本当かは脇へ置いて、こんな話が伝わるほど、貞盛は人々から嫌悪されていたのである。 
2
児干を取る
その昔、平貞盛という武将がいた。
貞盛が丹波守として任国にあったとき、悪性の腫れ物を患ったため、京都から極めて名高い医師を呼んで診察させた。
「これは、ほうっておくと命にかかわります。矢傷がもとになった腫れ物ですから、児干(じかん)という薬で治療しなければなりません。児干とは胎児の生胆で、秘薬中の秘薬ですが、日がたってもっと悪化すると、この薬も効かなくなるでしょう。できるだけ早くお求めになりますように」
医師はこう言って、病床から退出した。
貞盛は、わが子の左衛門尉を呼んだ。
「わしの腫れ物を矢傷だと、あの医者は見抜きおった。それだけでも具合が悪いのに、さらに児干を求めれば、わしが傷を受けて患っていることが広く知られてしまう。なんとか世間には隠しておきたいところだ。そこで考えたのだが、おまえの妻は懐妊しておろう。その腹の児を、わしの薬にくれよ」
左衛門尉は、あまりのことに目の前が真っ暗になり、何も考えられなかった。父の命に逆らって拒むことはできず、
「早速、お取りください」
と応えると、貞盛は、
「それはありがたい。では取らせてもらうから、おまえはしばらく場を外して、葬式の準備でもしているがよい」
と念を押した。
左衛門尉は医師のもとに駆けつけた。「かくかくしかじかの次第」と泣く泣く語ると、医師ももらい泣きして、
「それはまた、あんまりひどい。私がなんとか止めるように計らいましょう」
と言って、貞盛の館に出かけて対面した。
「どうですか。薬は手に入りましたか」
と問うと、
「つてがなくて、なかなか難しい。それでな、左衛門尉の妻が懐妊している児を貰うことにしたわい」
と応える。
「それは役に立ちませんぞ。自分の血縁の児は薬にならないのです。早く別のものをお求めなさいませ」
「なんと……。じゃあ、どうすればいいんだ」
貞盛が嘆いて、傍の者に「急いで捜せ」と命じたとき、ある男が、
「飯炊きの下女が懐妊しております。いま六か月です」
と言った。
「おお、すぐにそれを取るのだ」
そこで下女を捕らえて腹を割いたが、胎児が女であったので棄てた。
さらにほかに捜し求めて、ついに児干を手に入れ、貞盛は生き延びることができた。
貞盛は医師に良い馬・装束・米など数知れず褒美を与えて、京都に帰すようはからったが、その一方で、子の左衛門尉を呼んで密かに命じた。
「あの医者を無事に帰せば、「貞盛の腫れ物は矢傷で、児干を用いたそうだ」と世間に知れ渡ってしまうかも知れぬ。いま朝廷では、わしを頼りになる者と思って、蝦夷の反乱を治めるため陸奥国へ遣わす話が進んでいる。こんな大事なときに、わしが取るに足らぬ相手に射られて重傷だったなどと噂が立っては、まことにまずいではないか。だから、あの医者を何としても殺さなくてはならぬと思うのだ。わしは今日、あいつを出立させるから、おまえは途中の道で射殺せ」
「わかりました。容易なことです。途中の山で待ち伏せ、強盗を装って射殺いたしましょう。夕暮れになるころに、医者を出立させてください」
「よかろう」
「では、私は用意をととのえます」
急ぎ館を出た左衛門尉は、こっそり医師のもとを訪れた。「かくのごとく父に命じられたました。どうしましょうか」と告げると、医師は仰天した。
「ここはあなたのお考えで、なんとか命をお助けください」
「お帰りにあたっては、判官代が山までお見送りすることになっています。山では判官代を馬に乗せて、あなたは歩いてください。そうすれば、なんとかなるでしょう。先日のことは世々代々忘れられないご恩と思いますので、このようにお知らせしたのです」
医師は手をすり合わせて喜んだ。
貞盛は何食わぬ顔で、医師を出立させた。午後六時ごろのことであった。
左衛門尉に教えられたとおりに、山で医師は馬を下り、従者のように歩いていくと、強盗が出てきた。
強盗は、馬に乗っている判官代を主人と見誤るふりをして、手はずどおり射殺した。従者どもは皆逃げ散った。
こうして医師は、無事に京都に帰着することができた。
左衛門尉は館に帰り、射殺した旨を報告した。貞盛は喜んでいたが、まもなく医師は京都に生きており、射殺したのは判官代だとわかったので、
「どういうわけだ、これは」
と問いただした。左衛門尉が、
「医者が従者のように歩いているのを知らず、馬に乗った判官代を誤って射殺してしまったのです」
と応えると、
「そうか」
と、やむを得ないと思ったか、その後は強いて追及もしないで終わった。
このように左衛門尉は、医師に受けた恩をただちに報いたわけである。
一方で貞盛の、女の懐妊した腹を割いて児干を取ろうとした心は、呆れ果てるほど残酷無残なものであった。
この話は、貞盛の第一の郎党である館諸忠の娘が語ったのを、人々が聞き継ぎ、語り伝えたのである。 
僧の昼寝のまらをみて呑み、婬を受けて死ぬる語 (今昔物語集巻二九) 
夢から醒めたら
昔、たいそう高貴な僧に仕える若い僧がいた。
その若い僧が主人のお供で三井寺に行ったとき、夏場のことであったが、眠くなって、広い僧坊の隅で長押(なげし)を枕に昼寝した。
起こす人もなく、ぐっすりと眠るうちに見た夢で、美しい若い女が横に寝て、夢中で性交して射精した。
その途端はっと目ざめると、傍らに一メートル半ほどの蛇がいる。蛇は死んで口を開いていた。恐ろしさに身震いしつつ、ふと自分の股間を見れば、陰茎が射精して濡れている。
「わあ、なんてこった。きれいな女とやっているつもりだったのに、じつはこの蛇が相手だったのか」
そう思うと、もう気が狂うほど恐ろしい。
蛇は開いた口から、精液を吐き出している。
「よく寝入った自分の陰茎が勃起していたので、蛇がやって来て呑もうとした。それを女とやっている夢に見たのだ。そのあげく射精したのを蛇が飲んで、死んでしまったのか」
震えながらその場を去って、人目のない場所で陰茎をよくよく洗い、
「だれかに相談しよう」
と思ったけれども、
「こんなことを人に話したら、蛇とやった坊主だ、などと言いはやされてしまう」
と考え直して、秘密にしていた。
しかし、思い出すたびに恐ろしくてならない。ついに堪えきれず、ごく親しい僧に話したところ、聞いた僧もひどく恐ろしがった。
こんなことがあるから、人気のないところで昼寝をするのはよくない。また、「畜生は人の精液を受けると必ず死ぬ」というのは本当なのだ。
かの僧の身には、その後べつに異状はなかったが、しばらくは恐怖と自己嫌悪で病みついたようになっていたという。
このことは、当人から聞いた僧が話したのを、さらに語り伝えたのだという。  
日向守、書生ヲ殺ス語 (今昔物語集巻二九第二六) 
今昔、日向ノ守□ノ□ト云ケル者有ケリ。国ニ有テ任畢ニケレバ、新司ヲ待ケル程、国ノ渡スベキ文書共構ヘ書セケル間ニ、書生ノ中ニ極ク弁ヘ賢クテ、手吉ク書ケル者一人ヲ呼籠テ、旧キ事ヲバ直シナドシテ書ケルニ、此ノ書生ノ思ケル様、「「此ル構ヘタル事共ヲ書セテハ、新司ニヤ語リヤ為ムズラム」ト、守ハ疑ハシカルラムカシ。気シカラヌ心バヘ有メレバ、定メテ悪キ事モコソ有レ」ト思エケレバ、「何カデ逃ナム」ト思フ心付ニケレドモ、強ナル者ヲ四五人付テ、夜ル昼護セケレバ、白地ニ立出ズベキ様モ無カリケリ。此ク書キ居タル間、二十日許ニモ成ニケレバ、文共皆書キ拈テケリ。其ノ時ニ、守ノ云ク、「一人シテ多ノ文ヲ此ク書ツル事、糸喜キ事也。京ニ上ヌトモ、我レヲ憑テ忘レデ有レ」ナド云テ、絹四疋ヲナム禄ニ取セタリケル。
然レドモ、書生禄得ル空モ無ク、心ハ騒ギテゾ有ケル。禄得テ立ムト為ル 程ニ、守、親ク仕ケル郎等ヲ呼テ、私語ヲ久クシケレバ、書生、此レヲ見ルニ、胸□テ静心思エズ。郎等、私語畢テ出デ行クトテ、「彼ノ書生ノ主御セ。忍タル所ニテ物申サム」ト呼放チケレバ、書生、我レニモ非デ寄テ聞カムト為ルニ、忽ニ人二人ヲ以テ書生ヲ引張セツ。郎等ハ、調度ヲ負テ箭ヲ差番テ立レバ、書生、「此ハ何カニセサセ給フゾ」ト問ケレバ、郎等、「極ク糸惜クハ思ヒ進レドモ、主ノ仰セナレバ、辞ビ申シ難クテナム」ト云ヘバ、書生、「然ニコソハ候フナレ。但シ、何コニテカ殺サセ給ハムズル」ト問ヘバ、郎等、「然ルベカラム隠レニ将行テ、忍ヤカニコソハ」ト云ヘバ、書生、「仰セニ依テ此モ彼モシテ給ハムニ、事ハ申スベキ様モ無シ。
但シ、年来見奉リツ、己ガ申サム事ヲバ聞給テムヤ」ト云ケレバ、郎等、「何事ゾ」ト問フニ、書生、「年八十ナル女ナム、家ニ置テ年来養ヒ候ツル。亦十歳許ナル小童一人候フ。彼等ガ顔ヲナム、今一度見ムト思給フルヲ、彼ノ家ノ前ヲバ将渡シ給テムヤ。然ラバ、彼等ヲ呼出テ顔ヲ見候ハム」ト云ヘバ、郎等、「糸安キ事ナヽリ。然許ノ事ハ何ドカ無カラム」ト云テ、其方様ニ将行クニ、書生ヲバ馬ニ乗セテ、人二人シテ馬ノ口ヲ取テ、病人ナド将行ノ様ニ、然ル気無シニテナム将行ケル。郎等ハ、其ノ後ニ調度ヲ負テ馬ニ乗テナム行ケル。
然テ、家ノ前ヲ将渡ル程ニ、書生、人ヲ入レテ、母ニ、「然々」ト云遣タリケレバ、母、人ニ懸リテ門ノ前ニ出来タリ。実ニ見レバ、髪ハ燈心ヲ戴タル様ニテ、ユヽシ気ニ老タル嫗也ケリ。子ノ童ハ十歳許ナルヲ、妻ナム抱テ出来タリケル。馬ヲ留メテ、近ク呼寄セテ母ニ云ク、「露錯タル事モ無ケレドモ、前ノ世ノ宿世ニテ、既ニ命ヲ召シツ。痛ク歎キ給ハデ御マセ。此ノ童ニ至テハ、自然ラ人ノ子ニ成テモ有ナム。嫗共何カニシ給ハムズラムト思フナム、殺サルル堪ヘ難サヨリモ増テ悲キ。今ハ、早ウ入給ヒネ。今一度御顔ヲ見奉ラムトテ参ツル也」ト云ケルヲ、此ノ郎等、聞テ泣ケリ。馬ノ口ニ付タル者共モ泣ニケリ。母ハ、此レヲ聞テ迷ヒケル程ニ、死入タリケリ。
而ル間、郎等、此テ有ルベキ事ニ非ネバ、「永事ナ云ヒソ」ト云テ、引持 行ヌ。然テ、栗林ノ有ケル中ニ将入テ、射殺シテ頸取テ返ニケリ。此レヲ思フニ、日向ノ守、何ナル罪ヲ得ケム。詐テ文ヲ書スルソラ尚シ罪深シ。况ヤ書タル者ヲ咎無クシテ殺サム、思ヒ遣ルベシ。此レ重キ盗犯ニ異ナラズトゾ、聞ク人[ニク]ケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。 
今は昔、日向ノ守に某というものがあった。任期が終わって次の守を待つ間、引継ぎの文書を書かせていたが、書生の中から優秀なのを選んで、そのものに古いことの書き直しをさせた。この書生は、「こんな風に書き直しをさせても、自分の口から本当のことを話されてはまずいと思って私を疑うかも知れぬ。あの男は人柄が良くないようだから、きっとひどい目に合わされるだろう。」と思うと、何とかして逃げたいと思うのだが、強そうなものが四五人、昼夜を分かたず見張っているので、逃げようもなかった。そうこうするうち二十日ばかりが過ぎ、文書は完成した。それを見た守は、「一人でこれだけの量を書いたとは感心だ。京へ上っても、このわしを頼るがいい」といって、褒美に絹を四疋くれた。
だが書生は気もそぞろで、心は騒ぐばかり。褒美の品をもらって立とうとする所を、守は親しい家来を呼んで何かひそひそ話しを始めた。書生はどきどきしてその様子をみていたが、やがてひそひそ話が終わり、家来から「ちょっと話がある、静かなところで話そう」と呼び止められた。書生はわれを忘れて聞こうとすると、たちまち二人の郎党が出てきて両腕を引っ張った。
郎党は弓矢を番えて構えている。書生が「どうするおつもりか」と尋ねると、郎党は「気の毒ではあるが、主人の命令だから致し方ない」という。書生は「そえならどうしようもないですね、でもどこで私を殺すのですか」と尋ねると、「しかるべき忍びところにいって、そこでひっそりと殺す」と郎党が答える。書生は「それならばもはや申し上げることもございません」と観念したのだった。
「今までの付き合いに免じて、ひとつ聴いて欲しいことがあります」こう書生がいうと、何事かと郎党が答えたので、書生は「80歳になる母親を家に養っております、また10歳ばかりの子もいます、その顔をもう一度見たいと思いますので、ぜひ我が家の前を通るように計らってください。そのときに顔を見ようと存じます」と頼んだ。郎党は「たやすいことだ」といって、書生を馬に乗せ、二人して馬の口縄をとりながら、病人の一行のように、しのびやかに進んでいった。
一行がその家の前を通りがかると、書生は人を遣わして母親に事情を伝えた。母親はじきに門まで出てきたが、見れば髪は真っ白で、すっかり老いていた。また10歳ばかりの子どもも母親に抱かれて出てきた。
書生は馬を止めて母親を呼び寄せると、「命を召されることになりましたが、これも前世の定めと思ってください。この子はそのうち誰か養ってくれるものが現れましょう。つけてもあなた方のことが心残りで、殺される以上に耐えがたい気持ちです。もはや中にお入りください。お顔を見られて満足です」といった。それを聞いた郎党たちはみな涙したのだった。老母のほうは、苦しさのあまり、そのまま息絶えてしまった。
そのうち郎党は痺れをきらし、もうこれまでと書生を引き立てていった。そして栗の林の中に入ると、そこで書生を射殺し、しるしに首をとっていった。
これを思うに、いったいこの日向守はどういうつもりなのだろう。偽の文書を作らせること自体大それたことであるのに、罪もないものを殺すなどとはとんでもないことだ。

今昔物語集の中には極悪非道の人物はあまり出てこないのだが、ここには正真正銘の悪人が出てくる。地方の国司である。
この国司は、在任中に散々な悪事を働いて財をなしたのでもあろう。離任するにあたって自分がなした悪事の証拠をすべて消すために、部下に公文書の書き換えを命じる。命じられた部下は、仕事が終わると用済みとばかり殺されてしまう。何とも救いのない話だ。
もっともその部下は、殺される前に、殺し屋の人情に訴えて、自分の母親や妻子と別れの挨拶をかわすことができた。その場面がなんともいじらしい。 
女、乞匂ニ捕ヘラレテ子ヲ棄テテ逃グル語 (今昔物語集巻二九第二九) 
今昔、□ノ国□ノ郡ニ有ル山ヲ、乞匂二人烈テ通ケルニ、前ニ子ヲ負タル若キ女行ケリ。女、此ノ乞匂共ノ後ニ近ク来ルヲ見テ、傍ニ立寄テ過サムトシケルニ、乞匂共立留テ、「只疾ク行ケ」ト云テ、前立タザリケレバ、女尚前ニ行ヲ、一人ノ乞匂走寄テ、女ヲ捕ヘツ。
女、人モ無キ山中ナレバ、辞ブベキ様モ無クテ、「此ハ何ニシ給フゾ」ト云ケレバ、乞匂、「去来彼ヘ。云フベキ事ノ有ル也」ト云テ、山中ヘ只引ニ引入レバ、今一人ノ乞匂ハ、傍ニ見立テリ。女ノ云ク、「此ク半無クナシ給ソ。云ハム事ハ聞ム」ト云ヘバ、乞匂、「吉々シ。然ラバ去来」ト云フニ、女ノ云ク、「山中也トモ、何デカ此ル所ニテハ人ニ物ヲバ云ハム。柴ナドヲ立テヽ、廻ヲ隠セ」ト云ケレバ、乞匂、「現ニ」ト思テ、木ノ枝ノ滋ヲ伐下シナド為ルニ、今一人ノ奴ハ、「女モゾ逃ル」ト思テ、向ヒ立テリ。
女、「ヨモ逃ゲジ。但シ、我レ今朝ヨリ腹ヲ術無ク病テナム有ルヲ、「彼ニ罷テ返テ来ム」ト思フニ、暫ク免シテムヤ」ト云ケレバ、乞匂、「更ニ免サジ」ト云ケレバ、女、「然ハ、此ノ子ヲ質ニ置タラム。此ノ子ハ、我ガ身ニモ増テ思フ者也。世ニ有ル人、上モ下モ、子ノ悲サハ皆知ル事也。然レバ、此ノ子ヲ棄テヨモ逃ゲジ」ト、「只腹ヲ術無ク病テ隙無キ事ノ有レバ、彼ニテモ「留ラム」ト思テ、立留テ過シ申サムトハシツル也」ト云ケレバ、乞匂、其ノ子ヲ抱キ取テ、「然リトモ、ヨモ子ヲ棄テハ逃ゲジ」ト思ケレバ、「然ラバ、疾ク行テ返来」ト云ケレバ、女、「遥ニ行テ、其ノ事構フル様ニ見セテ、ヤガテ子ヲモ知ラズ逃ナム」ト思テ、走ニ走テ逃ケレバ、道ニ走リ出ニケリ。
其ノ時ニ、調度負テ馬ニ乗タル者、四五人打群テ会タリ。女ノ喘タキテ走ルヲ見テ、「彼レハ何ド走ルゾ」ト問ケレバ、女、「然々ノ事ノ侍テ逃ル也」ト云ケレバ、武者共、「イデ、何クニ有ルゾ」ト云テ、女ノ教ヘケルマヽニ、馬ヲ走セテ山ニ打入テ見ケレバ、有ツル所ニ柴ヲ立テ、其ノ子ヲバ二ツ三ツニ引破テナム逃テ去ニケル。然レバ、甲斐無クテ止ニケリ。女ノ、「子ハ悲ケレドモ、乞匂ニハ否近付カジ」ト思テ、子ヲ棄テ逃タル事ヲゾ、此ノ武者共、讃メ感ジケル。然レバ、下衆ノ中ニモ、此ク恥ヲ知ル者ノ有也ケリ。此ナム語リ伝ヘタルトヤ。 
今は昔、某というところの山の中に、乞食が二人歩いていたが、その前を子を負った女が歩いておった。女は乞食どもが後ろから近づいてくるのを見ると、脇に立って乞食どもをやり過ごそうとしたが、乞食どもは、「いいから早く行け」といって、前に出ないので、女が再び歩き始めると、いきなり襲ってきた。
人気のない山中のことゆえ、どうすることもできず、「なにをなさいます」というと、乞食の一人が「あっちへ行け、言うことがある」といって、山の中へ女を連れ込んだ。もう一人の乞食は、脇で見張りをしている。女が「あまり乱暴なさらないでください、申し上げることがあります」というと、乞食が「よし、いってみろ」というので、女は「山中とはいえ、こんなところで何するのは、はばかりがあります、柴をたてて周りを囲んでください」といった。乞食は言うことを聴いて、木の枝などを取り集めて囲いを作った。その間、もう一人の乞食は女に逃げられないよう道を塞いでいた。
女は、「逃げなどいたしません、でもわたしは朝からおなかの具合が悪くて、どこやらで用を足しとう存じます、しばらくお許しください」といったが、乞食はだめだという。そこで、「では、この子を人質に置いていきます、わが身にまして可愛く思っている子です、世の中に子に勝る大切なものはございません、この子を捨てて逃げるようなことはいたしません、ただおなかの具合が悪くてしょうがないのです、先ほどもあなたたちをやり過ごして用を足そうと思ったのです」
こう女が言うと、乞食はその子を抱きかかえて、「早く戻ってくるのだぞ」といった。女は、「ずっと遠ざかってから、用を足すふりをして、そのまま逃げてしまおう」と思いつつ、そのまま走りに走って、道路沿いに出たのだった。
そのとき、武装をして馬に乗った侍が四五人通りかかった。女があえいでいるのを見ると、「何故慌てているのだ?」と聞くに、女はそのわけを話した。侍たちは、「そいつらはどこだ」といって、女に教えられたとおりに馬を走らせ、先ほどのところにやってきた。すると柴をかけて囲いとした一角に、子どもが八つ裂きにされて死んでいた。
この女は、「たとえ子どもの命にかけても、乞食には手篭めにされぬ」と思って、子を捨てて逃れたのである。その心意気に、侍たちも感心したのだった。

山中乞食どもにとらえられた女が、自分の子を人質にして逃げた話である。女は子の命にかえて自分の操を守ったことになっているが、それにしても釈然としない話だ。だいたい、子ども連れの女が独りで山中を行くこと自体、この時代には無謀なことだったはずだ。 
蛇、女陰ヲ見テ欲ヲ発シ、穴ヲ出デテ刀ニ当タリテ死ヌル語 (今昔物語集) 
今昔、若キ女ノ有ケルガ、夏比、近衛ノ大路ヲ西様ニ行ケルガ、小一条ト云フハ宗形也、其ノ北面ヲ行ケル程ニ、小便ノ急也ケルニヤ、築垣ニ向テ南向ニ突居テ尿ヲシケレバ、共ニ有ケル女ノ童ハ大路ニ立テ、「今ヤ為畢テ立、々」ト思ヒ立リケルニ、辰ノ時許ノ事ニテ有ケルガ、漸ク一時許立タザリケレバ、女ノ童、「此ハ何カニ」ト思テ、「ヤヽ」ト云ケレドモ、物モ云ハデ只同ジ様ニテ居タリケルガ、漸ク二時許ニモ成ニケレバ、日モ既ニ午時ニ成ニケリ。女ノ童物云ヘドモ、何ニモ答ヘモ為ザリケレバ、幼キ奴ニテ、只泣立リケリ。
其ノ時ニ、馬ニ乗タル男ノ、従者数具シテ其ヲ過ケルニ、女ノ童ノ泣立リケルヲ見テ、「彼レハ何ド泣ゾ」ト、従者ヲ以テ問セケレバ、「然々ノ事ノ候ヘバト」云ケレバ、男見ルニ、実ニ、女ノ中結テ市女笠着タル、築垣ニ向テ蹲ニ居タリ。「此ハ何ヨリ居タル人ゾ」ト問ケレバ、女ノ童、「今朝ヨリ居サセ給ヘル也。此テ二時ニハ成ヌ」ト云テ泣ケレバ、男、怪ガリテ馬ヨリ下テ、寄テ女ノ顔ヲ見レバ、顔ニ色モ無クテ、死タル者ノ様ニテ有ケレバ、「此ハ何カニ、病ノ付タルカ。例モ此ル事ヤ有ル」ト問ケレバ、主ハ物モ云ハズ。女ノ童、「前々此ル事無シ」ト云ヘバ、男ノ見ルニ、無下ノ下主ニハ非ネバ、糸惜クテ引立ケレドモ、動カザリケリ。
然ル程ニ、男、急ト向ノ築垣ノ方ヲ意ハズ見遣タルニ、築垣ノ穴ノ有ケルヨリ、大ナル 蛇ノ、頭ヲ少シ引入テ、此ノ女ヲ守テ有ケレバ、「然ハ、此ノ蛇ノ、女ノ尿シケル前ヲ見テ、愛欲ヲ発シテ蕩タレバ立タヌ也ケリ」ト心得テ、前ニ指タリケル一トヒノ剣ノ様ナルヲ抜テ、其ノ蛇ノ有ル穴ノ口ニ、奥ノ方ニ刀ノ歯ヲシテ強ク立テケリ。然テ、従者共ヲ以テ女ヲ済上テ、引立テ其ヲ去ケル時ニ、蛇、俄ニ築垣ノ穴ヨリ、鉾ヲ突ク様ニ出ケル程ニ、二ニ割ニケリ。一尺許割ニケレバ否出デズシテ死ケリ。
早ウ、女ヲ守テ蕩シテ有ケルニ、俄ニ去ケルヲ見テ、刀ヲ立タルヲモ知ラデ出ケルニコソハ。然レバ、蛇ノ心ハ奇異ク怖シキ者也カシ。諸ノ行来ノ人集テ見ケルモ理也。男ハ馬ニ打乗テ行ニケリ、従者、刀ヲバ取テケリ。女ヲバ不審ガリテ、従者ヲ付テゾ[タシカ]ニ送リケル。然レバ、吉ク病ヒシタル者ノ様ニ、手ヲ捕ラレテゾ漸ツヽ行ケル。男、哀レ也ケル者ノ心カナ。互ニ誰トモ知ラネドモ、慈悲ノ有ケルニコソハ。其ノ後ノ事ハ知ラズ。然レバ、此レヲ聞カム女ナ、然様ナラム薮ニ向テ、然様ノ事ハ為マジ。此レハ、見ケル者共ノ語ケルヲ聞継テ、此ク語リ伝ヘタルトヤ。 
今は昔、夏の頃のこと、若い女が近衛大路を西に向かって歩いておった。小一条の宗形神社の北側を行くうちに、小便がしたくなり、築垣に向かって腰を下ろして用を足した。供の女の童が通りで見張りをし、「早く終わらないかな」と思っていたが、午前8時頃から10時頃まで、2時間もしゃがんだままだった。
女の童が不思議に思って、「もし」と声をかけても、返事をせずに座ったままである。そのうち4時間が過ぎて正午になったが、いくら話しかけても、返事をしないので、女の童は泣くばかりであった。
その時、馬に乗った男が従者を沢山伴って通りがかった。そして女の童が泣いているのを見て、「どうしたのだ」と従者に問わせたところ、「かくかくしかじか」と答えたので、近寄ってみたところ、確かに女がきりりと帯を結って市女笠をかぶった姿で、築垣に向かって座り込んでいる。
「いつからこうしているのだ?」ときくと、女の童は「今朝からこうなのです。もう4時間にもなります」といって泣いている。男は不思議に思って馬から下り、近寄って女の顔を見れば、色艶もなく、死人のようである。「これはどうしたことか、病がついたのか、以前にもこんなことがあったか」と男が女に問うと、女は依然無言のまま。女の童が代わって「いままでこんなことはございませんでした」と答えたが、よくよく女をみれば、上品な様子なので、引き立てようとしたが、依然動かないままだった。
そのうちに、男が築垣のほうを見ると、そこに穴が開いておって、そこから蛇が首を出して女のことを守っているのが見えた。「さてはこの蛇は、女が小便をしているところを見てスケベ心を起こし、女をたらしこんだのだな」と男は思い、刀を抜くと蛇の穴に入れ、穴の奥に向かって切っ先をつきたてた。そのうえで、従者たちに女を抱えさせ手前に動かすと、蛇は築垣の穴から頭を突き出そうとした。その折に刀の切っ先で頭を切られ、体が二つに裂けて死んでしまった。
女をたぶらかしていたところ、女が急に後ろに下がったため、刀のあることをいとわずに出てきたために、こんな目にあったのであろう。されば、蛇というものは怪しげな生き物ではある。聞きつけて野次馬が集まってきたのも道理だ。
その後男は馬に乗って立ち去り、従者が刀を引き抜いた。また女のことを心配して、送り届けてやった。女は病人のようによろめきながら、手をとられつつ去っていったということだ。

今昔物語集には、女が蛇にたぶらかされる話がいくつか出てくる。これもそのひとつ。小便をしようとしゃがみこんだ女の前に、ちょうどヘビの住むアナがあった。ヘビはその穴から頭を出して、女をたらしこんだのであろう。 
蛇、僧ノ昼寝ノマラヲ見テ呑ミ、婬ヲ受ケテ死ヌル語 (今昔物語集) 
今昔、若キ僧ノ有ケルガ、止事無キ僧ノ許ニ宮仕シケル有ケリ。妻子ナド具シタル僧也ケリ。其レガ、主ノ共ニ三井寺ニ行タリケルニ、夏比昼間ニ眠タカリケレバ、広キ房ニテ有ケレバ、人離タル所ニ寄テ、長押ヲ枕ニシテ寝ニケリ。
吉ク寝入ニケルニ、驚カス人モ無カリケレバ、久ク寝タリケル夢ニ、「美キ女ノ若キガ傍ニ来タルト臥シテ、吉々ク婚テ婬ヲ行ジツ」ト見テ、急ト驚キ覚タルニ、傍ヲ見レバ、五尺許ノ蛇有リ。愕テカサト起テ見レバ、蛇死テ口ヲ開テ有リ。奇異ク恐シクテ、我ガ前ヲ見レバ、婬ヲ行ジテ湿タリ。
「然ハ、我レハ寝タリツルニ美キ女ト婚ト見ツルハ、此ノ蛇ト婚ケルカ」ト思フニ、物モ思エズ恐シクテ、蛇ノ開タル口ヲ見レバ、婬、口ニ有テ吐出シタリ。
此レヲ見ルニ、「早ウ、我ガ吉寝□ニケル、[マラ]ノ発タリケルヲ、蛇ノ見テ寄テ呑ケルガ、女ヲ嫁トハ思エケル也ケリ。然テ、婬ヲ □□時□、蛇□□不□テ死ニケル也ケリ」ト心得ルニ、奇異ク恐シクテ、其ヲ去テ、隠ニテ[マラ]ヲ吉々ク洗テ、「此ノ事人ニヤ語ラマシ」ト思ケレドモ、「由無キ事人ニ語テ聞エナバ、「蛇嫁タリケル僧也」トモゾ云ハルル」ト思ケレバ、語ラザリケルニ、尚此ノ事ノ奇異ク思エケレバ、遂ニ吉ク親カリケル僧ニ語ケレバ、聞ク僧モ極ジク恐ケリ。
然レバ、人離レタラム所ニテ、独リ昼寝ハ為ベカラズ。然レドモ此ノ僧、其ノ後別ノ事無カリケリ。「畜生ハ人ノ婬ヲ受ケツレバ、否堪ヘデ必ズ死ヌ」ト云フハ実也ケリ。僧モ憶病ニ、暫ハ病付タル様ニテゾ有ケル。此ノ事ハ、其ノ語リ聞セケル僧ノ語ケルヲ聞タル者ノ、此ク語リ伝ヘタルトヤ。 
今は昔、若い僧があって、位の高い僧侶のもとに仕えておった。妻子も持っていた。その僧が主人のお供をして三井寺にいった際、夏の昼下がりのこととて、眠気に襲われ、広い部屋の一角で、長押を枕にして寝た。
周りにうるさい人もなく、よく寝入っていると、美しい女がやってきて自分の隣に横たわり、セックスをする夢を見た。驚いて夢から覚めると、傍らに五尺ばかりの蛇が横たわっている。ガッパと起きてよく見れば、蛇は口を開いて死んでいる。不思議に思って自分のペニスを見ると、セックスをした後のように、濡れているではないか。
さては寝ている間に美しい女とセックスをしたと思ったのは、実はこの蛇にペニスをくわえられていたのだった、こう思うと恐ろしくなった。蛇の開いた口からは、自分の精液がもれ出ている。
「自分が寝ている間に、ペニスが立ってきたのを、蛇が見て興奮し、くわえたのだ。それを夢の中では、女とセックスしているように感じたのだ。この蛇は自分の精液に当てられて死んだのだろう」こう思うと、怪しくも恐ろしい気持ちになった。
僧はその場を離れ、人目に立たぬところで自分のペニスを洗うと、このことを誰かに話そうかとも思ったが、つまらぬことをしゃべって、人から馬鹿にされるのが面白くないので、誰にも話さないでいたが、ついに我慢ができなくなって、親しくしていた僧に話したのだった。聞いた僧もたいそうびっくりしたということだ。
こんなわけだから、人気のないところで昼寝などするものではない。
「畜生は人の精液を浴びると、その威力に耐えずに死ぬ」というが、本当にそのとおりだ。

この話は、蛇が男の勃起したペニスに興奮して、銜え込むという話だ。それを男の方は女とセックスしているかのように感じて、その感じを夢に見る。ところが、男の精液を呑み込んだヘビは、毒にあたったように死んでしまうという、訳の分からぬ話だ。 
平定文、本院の侍従に仮借する語 (今昔物語集巻三十) 
色男の蹉跌
兵衛の佐(ひょうえのすけ)の平定文(たいらのさだふみ)、通称は平中という人がいた。上品で、容姿は美しく、立ち居振る舞いや言葉もあか抜けしていて、当時、この平中にまさる色男は世の中にいなかった。
そんな男だから、人妻、娘、いうまでもなく宮仕えする女性たち、だれ一人としてこの平中に言い寄られない者はいないというありさまであった。
同じころ、藤原時平という大臣の家には、侍従の君と呼ばれる若い女性が仕えていた。すばらしく美しいうえに、才気も申し分ない。
平中はこの大臣の家にしょっちゅう出入りしていたので、侍従の君のすばらしさを耳にして夢中になり、我が身にかえてもと思うほど恋着した。しかし、侍従の君は、たびたび送る手紙にまったく返事もくれない。
平中は嘆いて、「ただ<見た>という二文字だけでもいいですから、返事をください」と書き送ったところ、今度ばかりは、使いが返事をたずさえて戻った。喜びに取り乱しつつ開いてみると、自分が書き送った手紙の<見た>の部分を破り取って、薄紙に貼りつけてあるだけであった。
平中はかっとなった。それから、哀しさと情けなさで、ふさぎこんでしまった。
それが陰暦二月末のことである。
「もうよそう。心をつくしてもむだなことだ」と決心して、その後は手紙も送らないで過ごしていたが、五月の二十日過ぎ、間断なく雨の降る真っ暗な夜、ふと考えた。 「こんな夜に訪ねていったら、鬼のように非情な心の持主でも、哀れに思ってくれるのではないか」
そこで、夜更けに宮中を出て、雨が音立てて降りしきり、行く道の見当もつかない闇の中をひた歩き、大臣の家までたどりついた。
その家に仕える女性たちの住む部屋のあたりへ行き、以前より取り次ぎをしていた小娘を呼んで「思いつめた末にやってまいりました」と伝言させると、やがて小娘が帰ってきて、
「今はまだ他の人も寝ていないので、御前を下がるわけにはいきません。しばらく待っていてください」
とのことだったと言う。
これを聞いて平中の胸は高鳴り、「そうだよ。こんな夜に訪ねてくる者を哀れに思わないはずがない。来てよかったなあ」と、暗い戸に寄り添って身を隠して待ったが、その待ちどおしいこと、何年もの歳月を過ごすような心地であった。
二時間ほどして、人々が寝る気配があり、やがて内側に誰か来る音がして、引き戸の掛金をそっと外した。平中が喜んで戸を引くとなんなく開く。もう夢心地で、 「おやどうしたことだ、身震いが止まらない。あまり嬉しい時にも身体が震えるものなんだなあ」
しいて心を静めて部屋に入ると、そこには香のかおりが満ちている。寝床とおぼしいところをさぐると、柔らかい衣ひとかさねを身につけて、女が横たわっている。頭から肩にかけてほっそりと、髪は凍っているように冷ややかである。
嬉しさのあまりぶるぶる震えるばかりで、語りかける言葉も思いつかなかったところ、女が言うには、
「たいへんなことを忘れていました。障子の掛金を掛けていません。行って掛けてきますからね」
平中が、
「それでは、早く行っていらっしゃい」
と言うと、女は起きて、上にはおっていた衣を脱ぎおき、単衣と袴ばかりを着て行った。
平中が服装を解いて待っていると、障子の掛金を掛ける音が聞こえ、「もう来るだろう」と思ったのに、足音は奥の方に去っていき、戻ってくる音もしないまま長い時間がたった。
おかしいぞと思って、起きて障子のところへ行って調べると、掛金が向こう側から掛けられているのがわかった。
平中はまたもや、かっとした。悔しさのあまり地団駄踏んで泣いた。それから、茫然自失して障子に寄り添って立っていたが、とめどなく涙の流れること雨に劣らない。
「ここまで呼び入れておいて騙すなんて、あんまり酷い。こうとわかっていれば、掛金を掛けるというとき、一緒に行ったものを。私を試そうとしたのだろう。なんて間抜けなやつと思っているだろうなあ 」と考えると、女に会えなかったよりもいっそうつらい。
「夜が明けても、ここに居てやろう。侍従の君のところに平中が通ってきたと、みんなに知れわたればいいんだ」とさえ思ってみた。が、夜明け方になって人々が起きる気配がすると、やっぱりそれでは色男がだいなしだという気がして、平中は急いで帰っていったのだった。
その後の平中は、「なんとか彼女の欠点を耳にして、嫌いになってしまおう」と考えたのだが、まったく悪い噂がない。
ひたすら思い焦がれて日を過ごすうち、ふと「あんなにすばらしい女だけれど、便器にするものは我々と同じはず。それを見たら、百年の恋もさめるんじゃないか」と思いついた。
そこで、「便器を洗いに行くところを奪い取って、中身を見てやろう」と、何気ないふりをして女の部屋のあたりをうろついていたところ、十七、八くらいのかわいい娘が、香染の布に便器を包み、赤地に絵のある扇で隠しつつ部屋から出てくるのを見つけた。
これだ!と思って、あとをつけ、人気のないところで走り寄って、便器をひったくった。娘は泣きながら抵抗したけれど、強引に奪い取り、無人の小屋に持ち込んで、内から鍵をかけてしまった。
金漆を塗った便器であった。肝心の中身はともかくとして、包んでいた布といいその便器といい、ありきたりのものとはかけ離れたすばらしさ。開けてげっそりするのが残念で、しばらくはじっと便器を見つめていたが、外ではさっきの娘がピイピイ泣いているし、こうしてはいられないと思い直した。
おそるおそる蓋をとると、たちまち丁子のよい香りが匂う。その意外さに驚いて中を覗きこむと、薄黄色い液体が半分ばかりあって、親指くらいの大きさの黄黒い物体が三切れほど、丸まっている。
「あれがウンコだよなあ」と思って見るのだが、香りがあまりにかぐわしいので、手近にあった木切れで突き刺して鼻にあてて嗅ぐと、黒方(くろぼう)という、数種の香を練り合わせた薫物のかおりであった。
平中は、「ああ、とてもかなわない。彼女は天女かなにかなのだ」と感嘆し、なんとかして女と仲よくなりたいという気持ちに、もう狂ったように取りつかれてしまった。
便器の液体を少し飲んでみたところ、丁子の香りが深くしみている。また、木切れで刺した物体の先をちょっと嘗めてみたら、苦くて甘く、かぐわしいこと限りない。
尿に見せかけた液体は、丁子を煮てその汁を入れたのであり、ウンコのようなのは、野老(トコロ)と黒方にあまづらを混ぜて捏ね、大きな筆の軸に入れて押し出して作ったのだとわかった。
それにつけても思うのは、 「こんな細工自体は、ほかにも思いつく者がいるかもしれない。しかし、便器を奪って覗くやつがいるかもしれないなどと、そもそも誰に予想できるだろうか。彼女は常人の心を超えているのだ。この人間界の人ではない」
それからというもの平中は、「どうしても彼女と仲よくなりたいなあ、まったく天女だよなあ、素敵だなあ、うふふ」などと、ただただ思い惑って、そのあげく病気になり、とうとう死んでしまったという。  
平定文、本院の侍従に懸想せし語 (今昔物語集巻三十第一) 
今は昔、兵衛佐平定文といふ人ありけり。字をば平中となむいひける。品も賤しからず、形・ありさまもうつくしかりけり。気配なむども物言ひもをかしかりければ、そのころ、この平中にすぐれたる者、世になかりけり。かかる者なれば、人の妻・娘、いかにいはむや宮仕え人は、この平中に物言はれぬはなくぞありける。
しかる間、そのときに本院の大臣と申す人おはしけり。その家に侍従の君と言ふ若き女房ありけり。形・ありさまめでたくて、心ばへをかしき宮仕へ人にてなむありける。
平中、かの本院の大臣の御もとに常に行き通ひければ、この侍従がめでたきありさまを聞きて、年ごろえもいはず身にかへて懸想しけるを、侍従、消息の返事をだにせざりければ、平中、嘆きわびて消息を書きてやりたりけるに、「ただ、『見つ』とばかりの二文字をだに見せ給へ」と、くり返し泣く泣くと言ふばかりに書きてやりたりける。
使の返事を持ちてかへり来りければ、平中ものに当たりて出で会ひて、その返事を急ぎ取りて見ければ、我が消息に、「見つといふ二文字をだに見せ給へ」と書きて遣りたりつる,其の見つといふ二文字を破りて、薄様に押しつけて遣せたるなりけり。平中これを見るに、いよいよねたく侘しきこと限りなし。
これは二月の晦のことなりければ、さはれかくてやみなん、心づくしに無益なりと思ひとりて、其の後音もせで過ぎけるに、五月の廿日あまりの程になりて、雨暇なく振りていみじく暗かりける夜、平中さりとも今夜ゆきたらむには、いみじき鬼の心持ちたる者なりとも、あはれと思しなむかしと思ひて、夜ふけて、雨音やまず降りて、目さすとも知らずく暗きに、内よりわりなくして本院に行きて、局にさきざき言ひ継ぐ女の童を呼びて、「思ひわびてかくなん参りたる、」と言はせたりければ、童すなはちかへり来て曰く、「只今は御前に人も未だ寝ねばえ下らず、今暫し待ちたまへ、忍びて自ら聞えむ」と云はせたりければ、平中これを聞くに胸さわぎて、さればこそ、かかる夜来たらん人をあはれと思はざらんや、かしこく来にけりと思ひて、暗き戸の狭間にかきそひて待ちたてる程、多く年を過ごす心地なるべし。
一時ばかりありて、皆人寝ぬる音する程に、内より人の音して来て、遣戸の掛金をみそかに放つ。平中嬉しさに寄りて遣戸を引けば、安らかに開きぬ。夢のやうに思ひて、こはいかにしつる事ぞと思ふに、嬉しきにも身震ふものなりけり。然れども思ひ静めてやはら内へ入れば、空だきの香局に満ちたり。平中歩み寄りて臥所と思しき所をさぐれば、女、なる衣一重を着て、そびき伏したり。頭様肩つきをかき探れば頭様細やかにて、髪を探れば氷を延べたるやうにて冷ややかにて当る。平中嬉しさに物も思えねば、震はれて云ひ出でむことも思えぬに、女の云ふやう、「いみじき物忘れをこそしてけれ。隔ての御障子の掛金をかけで来にける。行きてあれかけて来む。」といへば、平中げにと思ひて、「さは、とくおはしませ」と云へば、女起きて、上に着たる衣をば脱ぎ置きて、単衣袴ばかりを着て行きぬ。
其の後平中、装束を解きて待ち臥したるに、障子の掛金かくる音は聞こえつるに、今は来むと思ふに、足音の奥様に聞えて、来る音もせで、やや久しくなりぬれば、怪しさに起きて、その障子の許に行きて捜れば、障子の掛金はあり。引けば彼方よりかけて入りにけるなり。然れば平中、云はむ方なくねたく思ひて、立ち踊り泣きぬべし。物も思えで障子に副ひ立てるに、何となく涙こぼるること雨に劣らず。かくばかり入れて謀ることは、あさましくねたき事なり。かく知りたらましかば、副ひ行きてこそかけさすべかりけれ、我が心を見むと思ひて、かくはしつるなりけり。いかに痴れ、はかなき者と思ふとすらむと思ふに、会はぬよりもねたく悔しき事云はむ方なし。然れば夜明くとも、かくて局に臥したらむ。さもありけりとも人知れかし、とあながちに思へども、夜明方になりぬれば、皆人驚く音すれば、隠れで出でてもいかにぞや思へて、明けぬ前に急ぎ出でぬ。
さてその後よりは、いかでこの人のけうとからむ事を聞きて思ひうとみなばやと思へども、つゆさやうのことも聞えねばえもいはず、思ひ焦がれて過す程に、思ふやう、この人かくめでたくをかしくとも、箱にし入れらむ物は我等と同じやうにこそあらめ、それをかいすさびなどして見てば、思ひ疎まれなむ、と思ひて、某の箱洗ひに行かむを伺ひ、箱を奪ひ取りて見てしがなと思ひて、さる気なしにて局の辺に伺うふ程に、年十七八ばかりの姿、様態をかしくて、髪は衵丈に二三寸ばかり足らぬ、撫子重の薄物の衵、濃き袴、しどけなげに引き上げて、香染の薄物に箱を包みて、赤き色紙に画書きたる扇をさし隠して、局より出でて行くぞ、いみじく嬉しく思えて、見継ぎ見継ぎに行きつつ、人も見ぬ所にて走りよりて箱を奪ひつ。女の童、泣く泣く惜しめども、情けなく引き奪ひて走り去りて、人もなき屋のうちに入りて内さしつれば、女の童は外に立ちて泣き立てり。
平中、その筥を見れば金の漆を塗りたり。つつみ筥の体を見るに、開けむこともいといとほしく思えて、内は知らず、まづつつみ筥の体の人のにも似ねば、開けて見疎まむこともいとほしくて、暫し開けでまもり居たれども、さりとてあらむやはと思ひて、おづおづ筥の蓋を開けたれば、丁子の香いみじく早うかがゆ。
心も得ず怪しく思ひて、筥の内をのぞけば、薄香の色したる水半ばばかり入りたり。また大指の大きさばかりなる物の黄黒ばみたるが、長さ二、三寸ばかりにて、三切ればかりうち丸がれて入りたり。思ふに、さにこそはあらめと思ひて見るに、香のえもいはずかうばしければ、木の端のあるを取りて、中を突き刺して鼻にあててかげば、えもいはずかうばしき黒方の香にてあり。
すべて心も及ばず、これは世の人にはあらぬ者なりけりと思ひて、これを見るにつけても、いかでこの人に馴れ睦びむと思ふ心、狂ふやうに付きぬ。筥を引き寄せて少しひきすするに、丁子の香に染みかへりたり。またこの木に刺して取り上げたる物を、先を少しなめつれば、苦くして甘し。かうばしきこと限りなし。
平中、心とき者にて、これを心得るやう、尿とて入れたる物は、丁子を煮てその汁を入れたるなりけり。今ひとつの物は、ところ・合わせ薫物をあまづらにひぢくりて、大きなる筆柄に入れて、それより出ださせたるなりけり。
これを思ふに、これは誰もする者はありなむ、但しこれをすさびして見む物ぞと言ふ心はいかでか使はむ。されば、様々に極めたりける者の心ばせかな、世の人にはあらざりけり、いかでかこの人に会はでは止みなむ、と思ひ惑ひけるほどに、平中病み付きにけり。さて悩みけるほどに死にけり。  
今は昔、兵衛佐平定文といふ人があった。あだ名を平中といった。人品賤しからず、容姿も男前であった。その上、立ち居振る舞いも話しぶりも優れていたので、これ以上の男は都にいないといってもよかった。それ故、人妻や娘は言うに及ばず、宮仕え人の中に、この平中に声をかけられたいと思わぬものはなかった。
その当時、本院の大臣と申す人がいらっしゃった。その家に侍従の君と言う若い女房がいた。容姿すぐれ、心映えもなかなかの女性であった。
平中はつねづね、この大臣のもとに出入りしていた。その折々にこの侍従のことを聞き及び懸想した。ところが侍従は手紙の返事も書いてくれぬので、あるとき嘆きわびて、手紙を送ったついでに、「せめてこの手紙を読んだしるしに<見つ>と書いてください」と云い添えた。
使いの者が女の返事を持って帰ってきたが、それを待ちわびた平中は、急ぎ取り上げて中身を見た。すると、自分で書いた「見つといふ二文字をだに見せ給へ」という文章の中から、「見つ」という部分を切り取って、紙に薄く押し付けてあった。
これを見た平中はいよいよねたましく、また侘しく感じたのであった。
これは二月の末のことであったが、もうこんなことはやめよう、馬鹿馬鹿しい限りだと思って、それ以後は何もしないでいた。だが、五月二十日を過ぎて、五月雨が降りしきる頃になった。
雨に込められて真っ暗な闇夜をついて、会いに行ったならば、鬼のような心を持った女でも、哀れと思うに違いない、そう思った平中は、夜が更けて雨が盛んに降る中を、内裏を出て本院まで、女に会いに出かけて行ったのであった。
顔なじみの女の童を呼んで、「思い切ってやってまいりました」と女に言づてをさせたところ、「今はまだ、お人も寝ないでおいでですので下がることがかないません、今しばらくお待ちになって下さい」という返事がかえってきた。
平中はその言葉を聞くと、胸騒ぎがして、こんな夜中に訪ねてきたのを哀れに思われたのであろうと受け取った。そこでやったぞと思いつつ、真っ暗な戸の狭間に身をひそめて待ったのであった。時間が過ぎるのが本当に長く感じられたことであった。
二時間ばかり経って、人が寝静まった頃、部屋の中から女の声がして、遣戸の掛金を外す音が聞こえた。平中が喜び勇んで遣戸を開くと、戸はやすらかに開いた。夢のように思われて、これはどうしたことかと思うにも、嬉しさで身が震えるばかりだった。思いを静めて中に入ると、空炊きの香が局のなかに立ち込めている。
平中が歩み寄って、臥所と思われるところをまさぐると、女は単衣を着たばかりで、横になっていた。首筋から肩にかけて探れば、ほっそりとして、髪は氷を述べたように冷ややかだ。
平中は嬉しさに物も思えず、身震いがしてしゃべることもできずにいると、「大切なことを忘れていました。隔ての障子の掛金をかけ忘れていましたので、かけてこようと思います」と女がいうので、平中もげにと思って、「さあ、早くおすませなさい」というと、女は起きあがって、上着を脱ぎ、単衣袴姿ででて行った。
平中は、着ているものを脱いで、臥して待っていたが、障子の掛金を外す音が聞こえたと思うと、女の足音が遠ざかるように感じられ、その後いくらまっても帰ってこなかった。怪しいと思ってその障子のところに行ってみると、掛金はかかっていたが、それは外側からかけられていたのだった。
平中は、悔しくなって、地団太を踏んだが後の祭り、障子の影に呆然と立って、涙が雨のようにこぼれるにまかせたのだった。こんな風に騙すとは、不届きなことだ、こうとわかっていたら、一緒についていくのだった、自分をからかおうと思ってこんなことをするとは、と平中は心中穏やかでない。
このままここに居座ってやろう、人に見つかっても構うことか、と平中は思った次第だが、さすがに夜明け近くなって人が起きてくる気配がすると、このままでいるのが憚られて、夜が明けぬ前に急いで出ていったのだった。
その後、平中は、この女の欠点を見つけて女を嫌いになってやろうとしたが、そんな欠点はどこにも見当たらない。相変わらず思ひ焦がれていたところ、あるとき、あることに思いあたった。
どんなに美しい女でも、我々と同じように糞便はするものだ。その便を入れた箱を奪い取って、中身を見たらきっと興が覚めるに違いない、こう思った平中は、さりげない様子で局のあたりで待ち伏せをした。
そこへ年十七八ばかりの、小ざっぱりとした姿の、衵丈に二三寸足りぬほどの長い髪の少女が、濃い色の袴の裾を引き揚げ、香染の薄物に箱を包み、赤い色紙で作った扇で顔をかざしながら、局から出てきた。
平中は少女の後をつけ、人目のないところで少女に走り寄って、箱を奪い取った。少女は泣いて騒いだが、平中は走り去り、人気のない家の中に入ると、箱を開けて中を見た。その間中、少女は家の戸の外で、泣き続けていたのだった。
その箱を見ると、金の漆を塗ってある。それを無理にあけるのももったいない気がして、中身はともかく外の細工の並みすぐれているところを、そのまま見とれていたが、そうとばかりもいくまいと、おずおず箱を開けてみると、中から丁子の香がぷうんと匂ってきた。
怪しいと思って箱の中を覗き込むと、薄香の色の水がなかばほど入っている。また親指ほどの太さで、長さ二、三寸ばかりの黄黒ばみたものが三切ればかり沈んでいる。これこそは糞だろうと思ってみれば、さもいえぬ香りが立っている。木の切れ端でつつき、鼻にあてて嗅いでみると、香ばしい香木の香りがする。
何もかも不思議だ。これはこの世の人ならぬ天女の糞に違いない。そう思うと女に対する恋しき思いがいやまさに高まるのだった。
箱を引き寄せて匂いを嗅げば香ばしい匂いがするし、木に串刺しして取り上げ、その先をなめてみれば、ほろ苦く、かつ甘い味がする。しかも香ばしいこと限りがない。
平中もさすがにバカではない。尿だと思ったものは、丁子を煮た汁で、糞だと思ったものは、薫物を用いて作った細工に違いない、と思いあたった。
思えば、これほどのことは誰でも思いつくが、わざわざ人に見られることを予想して細工する人は、そうはあるまい。実に気の付く人だ、誰にも真似のできることではない。
こう思うと平中はますますこの女が愛しくなった。恋しくて恋しくて致し方がない。しかしなかなか思いはとげられぬ。そうこうするうちに、病になって、ついには狂い死んでしまったのだった。

今昔物語集の中でももっとも有名な物語の一つだ。色男と色女の洒落たやり取りをテーマにしている。
同じ内容の話が「宇治拾遺物語」の中にもある。主人公の平中は、平安末期に成立した歌物語の主人公をモデルにしているという。 
北山の狗、人を妻と為す語 (今昔物語集巻三一) 
北山の神
その昔、京都に住む若い男が北山のあたりに遊びに行って、どこともわからない野山に迷いこんでしまった。
まったく見知らぬ道で、引き返そうにも、どう行ったらいいかわからない。もう日が暮れるというのに、一晩泊めてもらえるような人家もない。
途方に暮れていると、谷あいに小さな庵があるのが、遠くかすかに見えた。
男は「よかった。こんなところにも人が住んでいるんだ」と喜んで、草木をかき分けて行ってみると、小さな柴の庵である。
だれかがやって来た気配に、庵の中から、年のころは二十歳あまりの気品のある女が出てきた。これを見て男はいよいよ嬉しくなったが、女のほうは、男を見て呆れた様子で、
「まあ、こんなところに、どういうわけでいらっしゃったのですか」
と問う。
「山を散策しているうちに、道に迷って帰れなくなりました。日も暮れて泊まるところもなく、困っておりましたので、庵を見つけて喜んでやって来たのです」
と説明すると、女は、
「ここは人の来るような場所ではありません。主人はもうすぐ帰ってきます。あなたがいるのを見たら、きっと私といい仲の男だと疑うでしょう。そうなったらどうするのです」
「なんとか取り計らってもらえませんか。いまさら帰ることはできないので、今晩だけはここに泊めていただきたい」
女はしばらく考えていたが、
「では、こうなさいませ。私が「もう何年も会いたくて会えなかった兄が、山歩きで道に迷い、思いがけずここにやって来たのです」と言いますから、あなたもそのつもりでふるまうのです。それと、京都に帰ったら、ここに私たちがいることを決して人に話してはなりません。いいですね」
男は喜んで、
「ありがとうございます。そのとおりにしますとも。人に話したりなんか、絶対にしませんから」
そこで女は男を中に入れ、庵の隅に筵をしいて休ませた。
やがて女が近寄ってきて、こんなことを言った。
「じつは、私は京都の某所に住んでいた人の娘なのです。あるとき異界のものにさらわれ、とりこになって何年も、このように暮らしています。不自由な暮らしではありませんが、でも……。ああ、まもなく、そのものが帰って来るので、ご覧になることでしょう」
言いつつ女はさめざめと泣く。
男が「どんなものなのだろう。鬼だろうか」などと恐ろしく思っているうち、すっかり夜になり、外でたいそう恐ろしい吼え声がした。
その声に、男は身も心も震えあがった。しかし女が戸を開けて、入ってきたものを見ると、大きくて立派な白犬であった。男は「なんだ、犬だったのか。すると、女はこの犬の妻なのだ 」と得心したのである。
犬はすぐに男を見つけて、唸り声をあげたが、女が、
「長年会いたいと思っていた兄が、道に迷って思いがけずここに来たのですよ。もう嬉しくて……」
と言って泣くと、犬は納得した様子で、かまどの前に行って身を伏せた。女は糸をつむぐ仕事を続け、犬はそのかたわらにいるのであった。
やがて女が食事を用意してくれたので、男はそれをおいしく食べて寝た。犬もまた女とともに寝た様子であった。
夜が明けると、女が食物を持ってきて、男に念を押すように言った。
「ここに私たちがいることを、決して、決して人に話してはなりませんよ。また時々いらっしゃい。私が兄だと言ったことは、あのものも承知しています。ですから、頼みごとがあればかなえてくれるでしょう」
「断じて人には話しません。いずれまた参ります」
そう応えて、男は京都に帰っていった。
京都に帰るとすぐ、男は、
「昨日、しかじかのところに行って、こんなことがあった」
と、会う人ごとにしゃべり散らした。聞いた人がおもしろがって、また人に話したから、たちまち巷の大評判になってしまった。
そのうち、恐いもの知らずの若者が集まり、
「北山に、人の女を妻にしている犬がいるそうだ。行って犬を射殺し、女を奪い返そうではないか」
と言って出発した。実際に行ったあの男を先頭に立てて進んだのである。
百人か二百人という者どもが、手に手に弓矢や刀をもって、男の案内する場所に行ってみると、ほんとうに谷あいに小さな庵がある。
「あれだ、あれだ!」
などと皆が大声で騒いだので、犬が驚いて出てきて、以前に来た男の顔を見るやいなや庵に戻った。
しばらく後、犬は女を鼻先で押しつつ庵から出てきて、そのまま山奥に立ち去っていった。取り囲んで大勢が矢を射たけれど一つも当たらず、追いかけると、鳥の飛ぶような速さで、あっという間に山中にまぎれてしまった。
このありさまを見た一同は、
「あれは、この世の尋常なものではないぞ」
と言って、引き返したのであった。
道案内した男は、帰るとすぐ、
「気分が悪い」
と寝込んだが、二三日して死んでしまった。
こういう次第について、教養のある人は、
「その犬は、神かなんかだったのだろう」
と語ったそうだ。
男はまったく、つまらぬことを話したものである。信義のない者は、その背信によって身を滅ぼすのだ。
その後、犬の居場所を知った人はいない。
「近江の国にいた」
などと、人は言い伝えている。また、やはり神などであったのだろうかと、語り伝えたという。  
常陸国の□郡に大きな死人の寄りたる語 (今昔物語集巻三一) 
おおきな死人
その昔、藤原信通という人が常陸守として任国にいたときのことである。
任期の終わる年の四月ごろ、おそろしく風が吹いた嵐の夜、某郡の東西浜というところに死人が打ち寄せられた。
死人の身長およそ十五メートル。半ば砂に埋まって横たわっていたが、騎乗して近寄った人の持つ弓の先端だけが、死体の向こう側にいる人からかろうじて見えた。このことからも、その巨大さがわかる。
死体の首から上は千切れてなくなっていた。また、右手と左足もなかった。鮫などが喰い切ったのであろうか。五体満足な姿だったら、もっとすごかっただろう。
俯せに砂に埋まっているので、男か女かわからない。しかし、身なりや肌つきから女だろうと思われた。
土地の人々はこれを見て、驚き呆れて騒ぐことかぎりなかった。
陸奥の国の海道というところでも、同じようなことがあった。
国司は、巨人が打ち寄せられたと聞いて、部下に見に行かせたという。
やはり死体は砂に埋もれていて、男女いずれとも判別できなかった。女のようだなと思いながら見ていると、教養のある僧なんかは、
「この世にこんな巨人が住むところがあるなどとは、仏の教えにない。だから思うに、これは阿修羅女などではあるまいか。身なりがたいそう清浄な感じだし、もしかしてそうではないか」
などと、もっともらしく推理するのだった。
国司は、
「珍しい事件だから、朝廷に報告しなければなるまい」
と、上申書を作成しようとしたが、国の者たちに、
「上申したら、必ず役人が調査のために下向するでしょう。そうなれば接待が大変です。なんとか隠して済ませるべきですよ」
と反対されて、結局、上申は取りやめた。
騒ぎの中、その国の住人のなんとかという武士が死体を見て、
「もしこんな巨人が来襲したらどうするのか。矢はたつのであろうか。試してみよう」
と射ると、矢は深々と突き刺さった。
この話を聞いて人々は、
「よくぞ試みたものだ」
と誉めそやしたという。
死体は日を経るにつれて腐乱した。
あたり一、二キロ四方は人が住めなくなって、みな逃げ去った。悪臭が堪えがたかったのである。
隠したはずの事件は、やがて国司が帰任すると自ずと世間に洩れ、このように語り伝えたという。  
越後国に打ち寄せられたる小船の語 (今昔物語集巻三一) 
ちいさい人が漕いだ船
その昔、源行任という人が越後の国司として任国にあったときのことだ。
某郡の浜に小船が一艘打ち寄せられた。幅七十五センチ、深さ六センチ、長さは三メートルばかりのものだった。
人々は「これは何だろう。だれかがおもしろ半分に造って、海に投げ込んだのだろうか」などと思い、さらによく見ると、船の舷側には三十センチ間隔でたくさんの櫂の跡があった。久しく櫂をつかったらしく、その跡は十分に擦れ潰れていた。
「おもちゃじゃない。本当に人が乗っていた船だ」
「それにしても、いやに小さい人だぞ。乗っていたのは」
みな不思議がり、
「こいつを大勢で漕ぐときは、まるでムカデの脚みたいだろうな。世にも珍しい代物だ」
と言って役所に持ち込んだところ、国司もたいそう不思議がった。
年とった者の言うことには、
「昔から、こうした小船が寄ることは時々ある」
のだそうだ。とすれば、それに乗るほど小さい人も、どこかにいるのだろう。
このような小船が流れ着いたという話を、ほかの土地では聞かない。越後にのみ度々漂着するのは、小さい人の住むところが越後の海の北にあるからだろう。
このことは、やがて国司が任期を終えて京都に帰り、家来の者たちが話したことから、広く世間に語り伝えられたのだという。  
芥川龍之介が参考にした羅城門の説話 (今昔物語集巻二九第十八) 
今は昔、摂津の国の辺りより盗みせむがために、京に上りける男(おのこ)の、日のいまだ暮れざりければ、羅城門の下に立ち隠れて立てりけるに、朱雀(すざく)の方に人しげく行きければ、人の静まるまでと思ひて、門の下に待ち立てりけるに、山城の方より人どものあまた来たる音のしければ、それに見えじと思ひて、門の上層(うわこし)に、やはらかきつき登りたりけるに、見れば火ほのかにともしたり。
盗人(ぬすびと)、怪しと思ひて、連子(れんじ)よりのぞきければ、若き女の死にて臥したるあり。その枕上(まくらがみ)に火をともして、年いみじく老いたる嫗(おうな)の白髪白きが、その死人の枕上に居て、死人の髪をかなぐり抜き取るなりけり。
盗人これを見るに、心も得ねば、これはもし鬼にやあらむと思ひて恐ろしけれども、もし死人にてもぞある、おどして試みむと思ひて、やはら戸を開けて刀を抜きて、「おのれは、おのれは」と言ひて、走り寄りければ、嫗、手まどひをして、手をすりてまどへば、盗人、「こは何ぞの嫗の、かくはし居たるぞ」と問ひければ、嫗、「おのれが主(あるじ)にておはしましつる人の失せ給へるを、あつかふ人のなければ、かくて置き奉りたるなり。その御髪の丈に余りて長ければ、それを抜き取りて鬘(かづら)にせむとて抜くなり。助け給へ」と言ひければ、盗人、死人の着たる衣(きぬ)と嫗の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪ひ取りて、下り走りて逃げて去(い)にけり。
さて、その上の層には、死人の骸(かばね)ぞ多かりける。死にたる人の葬(ほうむり)などえせざるをば、この門の上にぞ置きける。
このことは、その盗人の人に語りけるを聞き継ぎて、かく語り伝へたるとや。  
今は昔、摂津国(現在の大阪府〜兵庫県)の辺りで、盗みをするために上京してきた男がいた。まだ日が落ちていないので、羅城門の下に隠れていた。羅城門につながる平安京の朱雀大路には、まだ人通りが多い。静かになるまで待とうと思い、門の下で待っていると、南の方角から大勢の人がやって来る声が聞こえた。姿を見られたくないので、門の二階部分によじ登っていくと、かすかな明かりが見えてきた。
不思議に思った盗人が窓から中を覗くと、若い女の死体が横たわっている。その死体の頭のあたりで、ひどく年老いた白髪の老婆が明かりを灯して座っているのである。そして、死体から髪の毛を乱暴に引き抜いているのだ。
男はこれを見て情況が飲み込めずに、もしかしたら鬼だろうかと思って恐ろしかったが、死人が生き返ったのかもしれないので、驚かして試してみようと思った。そっと戸を開けていきなり刀を抜くと、「お前は誰だ、お前は誰だ」と叫んで走り寄っていった。
老婆は突然のことに慌てて、手をすり合わせて狼狽している様子である。盗人は「こら、婆さん、お前は誰だ?何をしているんだ?」と尋問した。老婆は「私の主人だった姫君がお亡くなりになって、葬ってくれる人もいないので、ここに置いているんだ。髪が背丈を越すほどに素晴らしいので、鬘にしようと思ってこうやって抜き取っている。助けて下され」と懇願した。
盗人は死人の着物と老婆の着物とをはぎとって、抜き取っていた髪の毛も奪い取り、門の階段を駆け下りて逃げ去っていった。
羅城門の二階には、死人の骸骨が数多く散乱しており、葬式さえしてもらえない死人が、この二階に投げ捨てられているのである。この羅城門の惨状は、盗人の語った話が世の中に広まっていったと、語り伝えられている。  
 
「今昔物語集」における「冥報記」の位置

 

はじめに
「今昔物語集」(以下省略して「今昔」とする)は日本文学史上最大の説話集である。その成立年次は不明であるが、説話に語られている伝説の年次や登場人物の生存年次及び取材している典籍の成立年次、将来した年代などから推測して、成立年次の上限は保安元年(一一二〇)で、下限は保元の乱より前かと通説となっている。ほかの作品と違って、 「今昔」は欠文、欠話と欠巻などさまざまな問題があるから、未完成の作品といわねばならない。なお、編纂者についても未詳であり、古くから源隆国説、東大寺覚樹説、興福寺蔵俊説などさまざまな説がだされているが、近年、新たな説として、法相宗僧侶の所為という推測が出されている。
「今昔」の三十一巻(そのうち巻八、巻十八と巻二十一は欠巻)の説話は天竺(一〜五)、震旦(六〜十)と本朝(十一〜三十一)の三部から構成され、それは当時の日本人にとって、全世界を意味していたといわれているが、各部の説話は大体仏教説話から始まり、続いて世俗説話を配置する。各巻の構成は整然としており、天竺部はやや独自性が強いが、震旦部と本朝部の構成はよく似ている。編纂者は明確な編纂意識をもって、各部と各巻を配列している。
周知のように、「今昔」は他書と多数の類話を有しているため、「今昔」研究の最初のものは出典を探ることが主であった。その中で、震旦部に関する出典研究は最初から 「今昔」研究の重要な位置を占めていた。「三宝感応要略録」(以下省略して「要略録」とする)、「冥報記」、「孝子伝」など、岡本保孝の「今昔物語出典攷」の時点ですでに探り当てられていた。その後、震旦部の出典研究は進展し、今日、 「要略録」「冥報記」「孝子伝」は主な出典であることはほぼ定説となっている。
「冥報記」は「今昔」説話の重要出典の一つとして、従来研究者たちに重視されて来た。「要略録」、「孝子伝」と違って、「冥報記」は最初から、問題の少ない存在であったが、しかし、 「今昔」震旦部において、一つの出典として、どういう存在であるか、言い換えれば、どういう位置を占めているかという問題を考察することが必要であろうと考えている。以下は先行研究を踏まえて、 「冥報記」に関わる主な問題を提起することを試みたい。  
一、唐臨について / その生涯と思想
唐臨の生卒については、大体初唐の時期と推測されているが、確かな年代は分からない。一九四五年に岑仲勉は唐臨の卒年が遅くても龍朔元年(六六一)に下らないという意見を述べて、それについて、内田道夫が唐臨の生存時間を「ほぼ西紀六〇〇年から六六〇年にかけ」と推測している。また、内山知也が唐臨の生存時間を「六〇〇?―六五九?」と判断している。 「旧唐書」と「新唐書」にその伝記が見られる。「旧唐書」巻八十五「列伝第三十五」において、このような記述が見られる。
唐臨、京兆長安人、周内史瑾孫也。其先自北海徙闗中。伯父令則、開皇末為左庶子、坐謟事太子勇誅死。臨少與兄皎俱有令名。武徳初、隐太子總兵東征、臨詣軍獻平王世充之策、太子引直典書坊、尋授右衞率府鎧曹參軍。宫殿廢、出為萬泉丞。縣有輕囚十數人、会春暮時雨、臨白令請出之、令不許。臨曰、明公若有所疑、臨請自當其罪。令因請假、臨召囚悉令歸家耕種、與之約、令歸撃所、囚等皆感恩貸、至時畢集詣獄、臨因是知名。
再遷侍御史、奉使嶺外、按交州刺史李道彦等申叩寃撃三千餘人。累轉黄門侍郎、加銀青光禄大夫。儉薄寡欲、不治第宅、服用簡素、寛於待物。嘗欲弔喪、令家童自歸家取白衫、家僮誤将餘衣、懼未敢進。臨察知之、使召謂曰、今日氣逆、不宜哀泣、向取白衫、且止之也。又嘗令人煑藥失制、潜知其故、謂曰、隂暗不宜服藥、宜即棄之、竟不揚言其過、其寛恕如此。
宗即位、檢校吏部侍郎。其年、遷大理卿。宗嘗問臨在獄撃囚之數、臨對詔稱旨、帝喜曰、朕昔在東宫、卿已事朕、朕承大位、卿又居近職、以疇昔相委、故授卿此任。然為國之要、在於刑法、法急則人殘、法寛則失罪、務令折中、稱朕意焉。宗又嘗親錄死囚、前卿所斷者號叫稱寃、臨所入者獨無言、帝怪問状、囚曰、罪實自犯、唐卿所斷、既非寃濫、所以絶意耳。帝歎息良久曰、為獄者不當如此耶。
永徽元年、為御史大夫。明年、華州刺史蕭齡之以前任廣州都督贓事發、制付羣官集議。及議奏、帝怒、令於朝堂處置。臨奏曰、
臣聞國家大典、在於賞刑、古先聖王、惟刑是卹。虞書曰、罪疑惟輕、功疑惟重、與其殺弗辜、寧失弗經。周禮、刑平國用中典、刑亂國用重典。天下太平、應用堯舜之典。比來有司多行重法、叙勲必須刻削、論罪務從重科非是憎惡前人、止欲自為身計。今議蕭齡之事、有輕有重、重者流死、輕者請除名、以齡之受委大藩、贓罪狼藉、原情取事、死有餘辜。然既遣詳議、終須近法。竊惟議事羣官、未盡識議刑本意。律有八議、並依周禮舊文、矜其異於衆臣、所以特制議法。禮、王族刑於隐者、所以議親、刑不上大夫、所以議貴。知重其親貴、議欲緩刑、非為嫉其賢能、謀致深法。今既許議、而加重刑、是與堯舜相反、不可為萬代法。
宗從其奏、齡之竟得流於嶺外。
尋遷刑部尚書、加金紫光禄大夫、復歴兵部度支吏部三尚書。顯慶四年、坐事貶為潮州刺史、卒官、年六十。所撰冥報記二卷、大行於世。
「旧唐書」に基づいて、「新唐書」を見ると、卷一百十三「列傳第三十八」は家童の「取白衫」、「煑藥」など唐臨の「寛於待物」の人柄を描くことを省略して、新たな記述が加えられている。
それは、「韋挺責著位不肅」事件に、唐臨は「王亂班」、「大夫亦亂班」と、韋挺に反撥したが、逆に妻子に会うたびに「必正衣冠」としており、唐臨の性格が鮮明に描かれている。唐臨にとって、「著位不肅」、いわゆる列位不整は小さいことで、王と大夫の「乱班」は厳重なことだったようである。ちなみに、妻子に会う際に家長としての身分にふさわしい格好が大事であると唐臨は考えたようである。
唐臨字本徳、京兆長安人。周内史瑾之孫。其先自北海内徙。武徳初、隱太子討王世充、臨以策進説、太子引直典書坊、授右衞率府鎧曹參軍。太子廢、出為萬泉丞。有輕囚久繋、方春、農事興、臨説令可且出囚、使就畎畝、不許。臨曰、有所疑、丞執其罪。令移疾、臨悉縱歸、與之約、囚如期還。
再遷侍御史。大夫韋挺責著位不肅、明日、挺越次與江夏王道宗語、臨進曰、王亂班。道宗曰、與大夫語、何至爾!臨曰、大夫亦亂班。挺失色、衆皆悚伏。俄持節按獄交州、出寃繋三千人。累遷大理卿。高宗嘗錄囚、臨占對無不盡、帝喜曰、為國之要在用法、刻則人殘、寛則失有罪、惟是折中、以稱朕意。他日復訊、餘司斷者輙紛訴不臣、獨臨所訊無一言。帝問故、答曰、唐卿斷囚不寃、所以絶意。帝歎曰、為獄者固當若是。乃自述其考曰、形如死灰、心若鐵石、云。
永徽元年、拜御史大夫。蕭齡之嘗任廣州都督、受賕當死、詔羣臣議、請論如法、詔戮于朝堂。臨建言、羣臣不知天子所以議之之意、在律有八、王族戮于隱、議親也、刑不上大夫、議貴也。今齡之貪贓狼扈、死有餘咎。陛下以異於他囚、故議之有司、又令入死、非堯舜所以用刑者、不可為後世法。帝然之。齡之、齊高帝五世孫、由是免死。
臨累遷吏部尚書。初来濟謫台州、李義府謫普州、臨奏許禕為江南廵察使、張倫劍南廵察使。褘與濟善、而倫與義府有隙。武后常右義府、察知之、謂臨遣所私督其過、坐免官。起為潮州刺史、卒、年六十。
臨儉薄寡欲、不好治第宅。性旁通、專務掩人過、見妻子、必正衣冠。
両唐書の記載をみると、唐臨は、字本コ、京兆長安人で、周内史唐瑾の孫である。武徳初、隠太子李建成が王世充を討伐した時、二十歳になっていない唐臨は李建成に進言した故、直典書坊に任命され、後に建成が太子に立てられ、唐臨は右衞率府鎧曹參軍に任命されたという。太子が廃された後、唐臨は万泉丞に左遷された。その後、侍御史大夫に再遷され、黄門侍郎を歴任したと同時に、銀青光禄大夫の号も授けられた。宗が位についたあと、吏部侍郎に昇進、その年に大理卿に昇遷した。永徽元年御史大夫となり、翌年華州刺史蕭齡之事件後、刑部尚書に命じられたと同時に、金紫光禄大夫を授けられた。また、兵部、度支、吏部の三尚書を歴任した。顯慶四年、連座によって、潮州刺史に落とされた。卒年六十。所撰 「冥報記」二卷が世に大いに流行した。
「冥報記」に収められた説話の大部分は、それぞれの話を唐臨自らが聞きとったという事が注記によってわかる。唐臨は三階教に影響を受けていることが明白で、その影響を遡れば、唐臨の外祖父齊公の高副に及ぶ。それについては序文や釈信行に関わる上巻第一話にみえるように、
開皇初、左僕射齊公聞其(釈信行、筆者注)盛名、奏文帝、徴詣京師、住公所造真寂寺。
高副が建てたこの真寂寺が、当時、三階教運動の中心であり、後に化度寺と改めた。また、上巻第一話の末尾に「老僧及臨舅說云爾」という注記も見られ、唐臨の舅(母の兄弟)から釈信行の話を聞いたことも唐臨母家が三階教の創建者との密接な関係にあったことを裏付ける。
両唐書の唐臨の生涯を通して、彼の思想と信仰を知ることができる。小南一郎氏のいわれる通り、高い官位に昇った唐臨の仏教信仰の実体には「知識階層の哲学的、理念的な信仰ではなく、むしろ心情的な要素が強く、また一方で、日常生活に密着した、生活規範としての信仰であること」が 「冥報記」において十分に見ることができる。
太宗と高宗の朝を経て高い官位についた唐臨は政治思想において、儒家正統観念を守る忠臣で、上下尊卑の秩序を重視し、位に着いて、政を謀り、法度を上手く扱うことによって、しばしば朝廷の信頼と抜擢を獲得した。顯慶二年嵗次丁巳十月丁亥朔十九日乙巳高宗皇帝の 「冊唐臨吏部尚書文」(唐大詔令集卷62)に、
冊唐臨吏部尚書文
維顯慶二年、嵗次丁巳、十月丁亥朔十九日乙巳、皇帝若曰、昔虞舜分司、元凱膺機揆之任、當塗受命、盧毓處銓綜之重、故能翊宣景化、協贊時雍。惟爾度支尚書唐臨、器識沉敏、操履貞潔、譽滿周行、效彰官次。損益機務、爰著循聲、藻鑑流品、是資清識、是用命爾為吏部尚書、爾其懸衡處物、虚心待士、求賢審官、循名責實、祗承朝寵、可不慎歟。
「器識沉敏、操履貞潔、譽滿周行」と唐臨を讃え、また、彼は「懸衡處物、虚心待士、求賢審官、循名責實」の功績によって吏部尚書に命じられた。儒家正統観念の底にはまた仏教信仰に発する博愛と慈しみが感じられる。両唐書ともに「縦囚」と「蕭齢之」事件とを記載したことは、それらは唐臨の生涯において、もっとも重要なことだったに違いない。  
二、「冥報記」の撰述について
1、撰述の動機
「冥報記」の撰録は集中的に唐臨の仏教信仰の姿を呈して、その撰録の動機は序文に書かれているように、邪見を抱いて、因果応報を信じない人々にそれは間違っていることを示すことであった。唐臨によれば、因果の法則を信じない理由は、それは人々が行なう善悪の行為に対して、明確な應報がないこととしている。
心優しい人が幸福な一生を過ごすとは限らず、悪いことをする人たちが、現実には、必ずしも罰を受けてはいない。そういう現象をもとにして、應報など無いのだと思っている人々が少なくない。そうした善悪の行為に対する應報は存在しないとする主張をまとめて、唐臨は、次の三つに分けている。
比見衆人不信因果者、説見雖多、因謂善悪無報、無報之説、略有三種、一者自然、故無因果、唯当任欲待事而已、二者滅盡、言死而身滅、識無所住、身識都盡、誰受苦楽、以無受故、知無因果、三者無報、言見今人有修道徳、貧賎則早死、或凶悪、富貴靈(齢)長、以是事故、知無因果。
普段より因果を信じない多くの人々を見て来たが、その見解はさまざまではあるにしろ、みな善悪の行為に応報がないことをその論拠としているのである。そうした応報がないという主張には、大体三種類のものがある。
その一は、自然に発生することで、因果応報などもなく、自分が欲するままに事物に対処してゆけばよいのだとする説である。その二は滅尽説で、死んだら身体がなくなると同時に、意識が宿る所もなくなる。体も意識もなくなってしまったなら、なにが主体となって、応報としての苦楽を受けるのか。受け手がないことから、因果応報などないことが知られるとする説である。その三は無報説であり、この世の人々を見ていても、正しい道を修めた人々が貧困に苦しみ、若死にしているのに対し、悪人たちが、富貴を極め、長寿を得ていることが多い。こうした世相から、因果応報などないことが知られるとする説である。
以上の諸説に対して、唐臨は、みな正しくないと否定する。まず、唐臨が儒家の典籍から、善い行ないには良い報いが、悪い行ないには悪い報いがあるという思想をとりだして、自分の主張を支持する。さらに、唐臨が史実を引用して、儒家の応報観を説明する。
臨竊謂。儒書。論善惡之報甚多。近者報於當時。中者報於累年之外。遠者。報於子孫之後。當時報者。若楚子吞蛭。痼疾皆愈。宋公不禱。妖星多退。[言*卓]齒凶逆。旋踵伏誅。趙高惑亂。俄而滅族之類。是也。累年報者。如魏顆嫁妾。終以濟師。孫叔埋蛇。竟享多福。漢幽鴆如意。蒼苟成災。齊殺彭生。立豕而崇之類是也。子孫報者。若弗父恭於三命。廣宣尼之道。ケ訓歲活千人。遺和熹之慶。陳平陰計。自知無後。欒黶忲侈。盈被其殃之類。是也。若乃虞舜以孝行登位。周文以仁賢受命。桀紂以殘忍亡國。幽肢ネ婬縱禍終。三代功コ。下祚長久。秦皇驕暴。及子而滅。若斯之比。觸類寔繁。雖復大小有殊。亦皆善惡之驗。
儒家の説では、應報の発現には、当時報、累年報、子孫報の三つのかたちがあるとされており、それぞれの應報の実例が歴史書などにも記録されている。当時報とは、即時にもたらされる報い、累年報は、時間がたったあと、その人が受ける報い、子孫報は、ある人の行ないの善悪が、その人自身ではなく、その子孫の幸不幸として発現するものである。
こうした儒家の應報観に対して、仏教では、現報、生報、後報の三つの報があるとされる。また、仏教では、子孫報といった應報の存在を否定して、輪廻してゆきつつも、必ず自分自身が、みずからの行ないに対する應報を受けるのだとされているのである。
そうした仏教的な三報の中でも、とりわけ、因果應報の存在に懐疑的な人々の心に衝撃をあたえるのは、やはり、善と悪との行動が、即時に、少なくともその人の一生のうちに、善悪の報いを引き起こしたという、現報の実例なのである。唐臨は、次のようにいう。
今俗士尚有或(惑)之、多修因而忘果、疑耳而信目、是以聞説後報、則若存若亡、見有受験、則驚嗟信服。
現在の一般の人々には、その点がまだ十分にわかっていない人がいて、多くの因となる行動を積みながら、それが必ず果をもたらすことを忘れており、人から伝え聞いたことは嘘だと思って、自分で目撃したことだけしか信じない。それゆえ「後報」について聞いても、そうしたことが有るのやら無いのやら決めかねるが、目の前で、応報を受けたという事件があれば、驚嘆して信服するのである。
そうしたことから、三報の中でも特に現報の実例を集めて、人々に因果の法則が厳然と存在していることを知らせようとするのが、唐臨の主観としては、「冥報記」編纂の最も重要な目的なのであった。そのように、仏教的な法則が嚴として存在することを人々に知らしめることを目的として編纂されたのが 「冥報記」なのであるが、編纂者の唐臨は、自分はこうした仏教の真理がよく分かっており、それゆえ人々にその真理を教え伝えるのだという姿勢を取ってはいない。序文には、次のようにいっている。
上智達其本源、知而無見、下愚闇其蹤跡、迷而不返、皆絶言也、中品之人、未能自達、隋縁動見、遂見生疑、疑見多端、各懐異軌、釋典論其分別、凡有六十二見、邪倒於是乎生者也、臨在中人之後、幸而寤萬一。
上智の者は、その根本原理に通達しており、理解をしてはいても我見を持つことがない。下愚の者は、自分のやっていること自体が解っておらず、迷いの道に落ちて、もどって来ることがない。この両者については、ここでの議論の限りではない。両者の中間に位置する人々は、まだ真理に通達できず、それぞれの環境の中で我見を懐き、その我見が疑惑へと成長する。疑惑につながる我見にはさまざまなかたちがあり、人ごとに異なった考えを懐かせることになる。仏教経典は、そうした違いを区分して、全部で六十二の我見があるとしている。仏教に背く間違った考えも、こうした我見の中から生まれて来るのである。わたくし、唐臨は、上智でも下愚でもない、中間の人々の最後尾に位置を占めて、万が一の幸いから、仏教の真理に目覚めることができたのであった。このように、唐臨は、上智でも下愚でもなく、迷いの中にある「中人」の後列にあって、万に一つの好運から、仏教真理に目覚めたのだと、自分自身を位置づけている。そうして、この 「冥報記」は、自分と同じ「中人」たちの中の、まだ迷っている人々が、道理に気づくきっかけになればという意図で編纂されたのだと言う。「上智」の人々であれば、生報や後報を通しても、仏法の真理を理解するであろう。「下愚」の人々は、教えたとしても、その効果がない。ただ、唐臨自身をも含めた「中人」たちに対してこそ、因果の法則の存在を知らしめるために、現報の例を示すことが有効なのだと、唐臨は言うのである。  
2、撰述の態度
小南一郎が指摘したように、唐臨が編纂した「冥報記」は、現実には起こりえなかっただろう架空の事件である。彼が集めた霊異事件は、書物などを通して、広い範囲から探し集められたものではなく、口頭で伝えられたものが大部分で、しかも、撰者の唐臨自身に、確かにそうした事件があったと信じられるものだけが集められている。そのことは、この書物に集められた個々の出来事の記録の最後に、多くの条において、唐臨自身が、その物語を誰から聞いたのかが、丁寧に記されていることからも知られる。彼は主に三種類の人から 「冥報記」説話を聞き取ったのである。
A、唐臨の親属に聞いた話(数字は大蔵経本による順序号)
外祖(34)、舅(1、2、35、36)、嫂(29)、兄太府卿(19)、兄吏部侍郎(21)、
B、僧侶實秦(3)、道直(5)、法端(6)、総持寺主僧(30)
C、官僚
(a)三省尚書崔敦禮(12、52)、尚書閻立徳(52)、刑部侍郎劉燕客(51)、中書侍郎岑文本(19、25、26、32)、給事中韋琨(19)
(b)殿中省殿中丞李玄奘(7)、殿中侍御医孫廻璞(20)、治書侍御史馬周(19)
(c)御史台御史蘆文勵(12、18、42、43)、監察御史鄭余慶(44)、御史裴同節(54)
(d)大理寺大理卿韋適裕(22)、大理少卿辛茂(51)、大理丞采宣明(7、31)、大理丞董雄(24)、大理丞張敬冊(27)、大理主簿蕭孝諧(14)
(e)地方官雍州司馬蘆承業(8)杭州別駕張徳言(13)
唐臨のこの撰録風格は六朝小説に比べて、きわめて独特で、初唐以降も稀有であった。この編撰の態度によって、霊験譚の物語は一層「真実」の印象を得て、読者を信服させる。たとえば、
中巻第十二、李大安の条は、工部尚書の李大亮の兄である、李大安という人物が、旅の途中で召し使いの男に殺された。しかし、大安の妻が大安のために仏像を作っていたため、仏像の力で、大安は蘇生することができた。こうした事件があって以後、李大安は、仏法の存在を信じるようになった、という内容の物語りである。その最後に、次のような注記がある。
大安妻夏侯氏、即朗州刺史絢之妹、先為臨説、後大安兄子道裕為大理卿、亦説云爾。
李大安の妻の夏侯氏は、朗州刺史の夏侯絢の妹であった。その夏侯絢が、かつてわたしにこの事件のことを語ってくれ、のちには、李大安の兄の子の李道裕が大理卿となると、同様に、この事件のことを語った。
また、巻中第一、崔彦武の条は、魏州刺史崔彦武という人が、自分が前生には女性であって、その前生に住んでいた家のことを思い出したという、転生の物語である。その最後に、次のような付記がある。
崔尚書敦禮云然、往年見盧文勵亦同、但言齊州刺史、不得姓名、不如崔具、故依崔録。
尚書の崔敦礼がこのように語ったのである。かつて盧文勵に会ったときにも、同じことを語ってくれた。ただ、盧文勵が話したところは、主人公を齊州刺史だとだけいって、姓名は分からず、崔敦礼ほど詳しいものではなかった。それで、ここには崔敦礼の語ったところによって事件を採録した。
この場合は、二人から同じ事件のことを聞いた唐臨が、二人が語った内容を比較して、より詳しい方の内容を採ったのだと注記している。霊異事件を、確実な傳聞にもとづき、なるべく詳細に記述しようとしているのである。
また、序文には唐臨が「慕其風旨、亦思以勧人、輒録所聞、集為此記、仍具陳所受及聞見由縁」の付記を添えて、自分が謝敷など前代の仏教応験記の撰者たちの意図を好ましいものとして心を寄せており、それに、自分も同様の書物を編纂して、仏教に心を向けるよう人々に勧めたいと考えたことから、自分が耳にした事件を書留め、それらを集めて、この 「冥報記」を作ったのである。そうしたことから、彼はそれぞれの事件のことを誰から聞いたのか、それらを見聞きすることになったのにはどうした背景があったのかについて、詳しく述べたのである。
小南一郎氏が言われたように、こうした注記は、唐臨が読者に向かって、そこに記されている物語が確かに起こった事を保証するとともに、彼自身の信仰の正しさを確かめるためのものでもあった。  
三、「冥報記」の伝本
周知のように、宋代以後、「冥報記」は中国において散逸したので、従来この書物についてはあまり研究されなかった。そして、清末の時に、楊守敬は来日して、多くの散逸した中国の善本書を蒐集していた。その中に、三縁山寺本があって、それを 「日本訪書誌」に解題をしている。その鈔本は楊氏の没した後、中国国民政府に買収され、一時紫禁城内院南殿の東側の部屋に置かれていたが、のちに国民党政府に台湾へ持たされ、いま、台北の故宮博物院に収蔵されている。中国における 「冥報記」の研究情況と反対に、日本では、古くから幾つかの「冥報記」の伝本が伝えられてきたにもかかわらず、かなりの先行研究も行われてきたのである。伝本について、志村良治、川口久雄、鶴島俊一郎、三田明弘等が厳密な書誌学的調査を行っている。志村良治の調査によるところ、日本に存する 「冥報記」の諸本には、約八種のテキストが見られる。
1、高山寺蔵本。
2、前田家尊経閣長治二年写本。
3、智恩院蔵本。
4、三縁山寺本。
5、大日本続蔵経所収本。
6、大正新修大蔵経所収本。
7、涵芬楼秘笈所収本。
8、敦煌発掘残巻本などである。
そのうち、その8の敦煌発掘残巻本は実は「冥報記」ではなくて、顔子推の「還冤志」写本残巻である。そして、5、6、7の三種は高山寺本をテキストとした活字本である。1、2、3、4の四種は日本に伝わった古鈔本であると論じている。近年、三田明弘の 「冥報記」に関する書誌的研究が進んで、伝本の状態をもっと明らかにさせた。氏が「冥報記」のテキスト自体をめぐって3種の鈔本を挙げている。
1、高山寺本(三巻)
旧鈔巻子本、現存最古の鈔本である。霊厳寺の円行が唐から将来したものと伝えられているが、川田剛の調査によると、「本朝高僧伝」円行条の将来した書目の中に記載がない。弘仁年間(八一〇−八二三)の著された 「日本霊異記」は本書に倣ったものであるから、この巻子本は円行が入唐以前に日本に伝えられたと川田剛が推測した。明治二十五年川田剛によってその上巻が木刻印行されたが、その後、明治四十三年、高山寺住持法龍和尚によって、全巻が玻璃版をもって複製され、内藤湖南がその跋を書き残した。川田氏はこの巻子本は唐人の真跡と判断され、後に大正新修大蔵経の底本となった。内容は上巻は前田家本と一致するが、中下両巻の方は順序に異同がみられ、なお、前田家本に比して説話の数も四条少ない。所収の説話は上巻は十一話、中巻は十九話、下巻は二十四話、合わせて五十四話があるが、下巻には蘇長の妾の説話は重出しているので、実は五十三話がある。
2、前田家尊経閣長治二年写本(三巻)
尊経閣蔵の三巻一冊の粘葉装の写本で、長治二年(1105)に日本で書写された本である。高山寺本と別系統の写本に属する。表紙に「冥報記上中下」と題し、巻末に「長治二年八月十五日書了為令法久住往生極楽也□□之」と記す。前田家本の書入は乎古止点、四声点、異本との対校、音訓の傍注があり、乎古止点は全巻に亘り、その点の系統は興福寺で用いられた喜多院点系であるから、本書の朱筆書入れは興福寺関係の僧侶であろうと川口久雄氏が推定している。全書は唐臨の序、上巻十一話、中巻二十話、下巻二十六話を含む。高山寺本に無い四話が見られ、話の配列順序も異なる。
3、知恩院本(三巻)
知恩院蔵、三巻一軸巻子本。書写年代は保元頃といわれている。大正蔵本の対校に用いられた本である。所載説話数は巻上十一、巻中十二、巻下十七で、諸本の中でもっとも少ない。諸本にみられる各説話の末に添えられている唐臨の注記がなく、を採取する始末を小書双記する部分を欠き、「云々」として結ぶか、或いは本文を書き放しにすることである。また、三田明弘の研究によって、この知恩院本はもともと三縁山増上寺の学僧鵜飼徹定所持のもので、明治になって鵜飼徹定とともに知恩院に移動したが、知恩院蔵本と称されるようになっている。また、この蔵本は、幕末頃三縁山増上寺本であった時に東叡山寛永寺によって影写されたことがある。この寛永寺の影写本はのちに森立之の手を経て、楊守敬の収蔵となり、いま台湾台北故宮博物院に収蔵されている。  
四、「今昔物語集」における「冥報記」の受容
1、「今昔物語集」における「冥報記」の出典研究回顧
(1)岡本保孝「今昔物語出典考」
岡本保孝が「今昔物語出典考」において、明白に出典と類話など区分することがなかった。おおまかに「冥報記」出典に関係ある説話が掲げられている。それは、
巻七の四十二、四十三、四十五、四十八、
巻九の二十五、二十七、二十八、三十二、三十四、三十六、四十二、
合わせて十一話、そのうち、巻七に四話で、巻九に七話である。
(2)芳賀矢一「考証今昔物語集」
芳賀矢一が「考証今昔物語集」において、出典、類話、同一説話など三類に分けているが、「冥報記」と関わりのある説話は全部出典だと認定している。それは、
巻六の十三、十四、二十六、
巻七の二十五、二十七、
巻九の十四、十五、二十六、三十五、四十、四十一、
合わせて十一話、そのうち、巻六に三話、巻七に二話、巻九に六話である。とくに、巻七の四十二話には「冥報拾遺記ニ出ヅト云フ未ダ見ルコトヲ得ズ」との注記があり、巻九の三十七話には「冥報記ニ出ヅト云フサレド高山寺本載セズ」との注記があるが、実際に、巻七の四十二話は前田家本 「冥報記」巻中の十六話であり、巻九の三十七話は、前田家本「冥報記」巻中の十七話である。芳賀矢一が高山寺本「冥報記」より、この調査結果を出したことによって、氏は、前田家本 「冥報記」を参考することがなかったとわかる。
(3)岩波古典文学大系「今昔物語集」
岩波大系本「今昔」において、山田孝雄らが芳賀矢一の出典、類話、同一説話の三分類法を継承して、「冥報記」の出典話は一層多く認定されている。それは、
巻六の十三、十四、二十六、
巻七の十八、十九、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、四十一、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、四十七、四十八、
巻九の十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、三十二、三十三、三十四、三十五、三十六、三十七、三十八、三十九、四十、四十一、四十二、合わせて四十九話がある。
そのうち、巻六に三話、巻七に十七話、巻九に二十九話である。
(4)新岩波古典文学大系「今昔物語集」
小峯和明の新岩波古典文学大系「今昔」震旦部において、岩波古典文学大系「今昔」の分類法とほぼ一致しており、出典の認定は以下である。
巻六の十三、十四、二十六、
巻七の十八、十九、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、四十一、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、四十七、四十八、
巻九の十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、三十二、三十三、三十四、三十五、三十六、三十七、三十八、三十九、四十、四十一、四十二、
合わせて四十九話があって、そのうち、巻六に三話、巻七に十七話、巻九に二十九話であり、結果は大系本の調査と同様である。ただ、巻九の十三話に「出典は一部に冥報記巻上・十一」との注記が加えられて、また、巻九の十八話にも「出典は一部に冥報記巻下・二十六」との注記が加えられている。  
2、「今昔物語集」震旦部における「冥報記」説話の配布意図
岩波大系本と新大系本「今昔」の両方とも「冥報記」から四十九話を採用していることは上の出典調査によりわかる。本論は先学の認定された出典成果の上で、それら四十九話の配布とその意図を究明する必要があると考えている。
まず、巻六の「李大安依仏助被害得活語第十三」と「幽洲都督張高値雷依仏助存命語第十四」と「国子祭酒肅m得多宝語第二十六」との三話の配布意図を分析してみたい。
「今昔」震旦部巻六の一話から十話までは、仏教が震旦に伝来したことに関する説話である。その後の十一話と十二話は釈迦仏霊験説話である。十五話から二十話までは弥陀仏霊験説話である。二話の釈迦仏霊験説話と六話の弥陀仏霊験説話の真ん中に挟まれているのは十三と十四話であり、具体的な仏名のない仏霊験説話に属する。それは、十一話と十二話のただ二話の釈迦仏霊験説話の不足に補充することとみてもよければ、また釈迦仏霊験説話から弥陀仏霊験説話へ移行することとみてもよかろう。しかし、 「要略録」上巻の第六は「唐陇西李太安妻為安造釈迦像救死感応」の題に「釈迦像」を冠しているが、説話の内容は釈迦造像と関係無い。おそらく「今昔」の撰者が 「要略録」のことをよく知っていた為に、後者所載同話の題目にヒントを得て、この一話を釈迦霊験説話群に配布した可能性があるではないかと推測したい。当然、巻六の十四話も一緒に釈迦霊験説話群に入れられた意図を窺える。
巻六の第二十六話は「冥報記」に引用した多宝仏霊験話であり、「要略録」から採用した一組諸仏霊験説話群(第二十五の阿閦仏霊験話、第二十七の盧舍那仏霊験話、第二十八の千仏霊験話、第二十九の金剛界曼陀羅諸仏霊験話、第三十の胎蔵界曼陀羅諸仏霊験話)に入れられ、 「今昔」の撰者が「要略録」にない多宝仏霊験話をわざわざ添付して、諸仏霊験話を多種多様なものにした意図が見られる。
「今昔」巻七の場合、「冥報記」から十七話を引用し、すなわち巻七の十八、十九、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、四十一、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、四十七、四十八などである。巻七の第一話から第十話までは、般若経霊験説話で、第十一話と第十二話は仁王経霊験説話、第十三話は無量義経霊験説話、第十四話から第三十二話まで十九話の法華経霊験説話である。その後、第三十三話から第四十話までは八話の欠話となっている。その十九話の法華経霊験説話のなかに、十四、二十二、二十三、二十四の四話は 「要略録」に属するものである。十五、十六、十七、二十、二十一の五話は「弘賛法華伝」に採用したものである。第三十二話は出典未詳である。その他、十八、十九、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一の九話は 「冥報記」から引用したもので、十九話の法華経霊験話のほぼ半分を占めている。そこに「今昔」撰者の法華経への重視と「冥報記」説話に抱く熱愛を窺うことができる。
続いて、「今昔」巻九について、筆者が「「今昔物語集」の孝子説話について――巻九の構成意図を中心に」の中で「今昔」の」撰者が「冥報記」から二十九話を引用したことを触れたが、具体的に、巻九の十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、三十二、三十三、三十四、三十五、三十六、三十七、三十八、三十九、四十、四十一、四十二などである。 「今昔」巻第九は「孝養」と名付けられ、四十六の説話が収められている。四十六話のうちの十七話は「孝子伝」説話と関係があり、あと一話は巻十に配置されている。つまり、 「今昔」に「孝子伝」を原拠とする説話は十八話があるに対して、巻九のほかの二十九話は「冥報記」によるものである。その配布状況をみれば、まず、「今昔」巻第九第一話から第十二話までは普通の孝子伝である。第十三話から話題が変わる。第十三話から第十九話までの話しは 「冥報記」から摂取したものである。十三と十四とは儒教の孝から仏教の孝に転換して、冥報の話を孝養譚に敷衍している。十五話と十六話とは一組で、生前の契りを守って、冥界より親友に善悪応報の実況と官期を告げる話しである。十七、十八、十九の三話は一組で、「償債」応報譚のテーマに属して、とくに十八、十九話はみんな悪報を受けて、畜生に転生する内容となる。この話題と「孝養」の主題との間に明らかにずれが生じているが、重要なのは、結構層でこの三話の介在が二十話へ移行する必要な前兆である。この三話をうけて、二十話も動物に関わりながら、 「冥報記」系話群(とくに悪業により動物に転生する話型)の流れを受けながら新たな話型の始まりとなる。二十一から四十二までは再び「冥報記」から採用された説話群が現れる。この話群は二十話伯奇復讐譚と共鳴して、話題層と結構層両方に関連している。  
五、結び
先述したように、「要略録」、「孝子伝」と違って、「冥報記」は最初から、問題の少ない存在であった。本論はこの部分において、先行研究成果をもとにして、「冥報記 」に関わる基礎的な問題に触れながら、最終的に「冥報記」説話がいかに「今昔」震旦部説話に採用され、組織上でどういう働きを持たされたかについて考察してきた。拙見を述べたように、震旦部の巻六、巻七、巻九の三巻において、 「今昔」の撰者が一定の組織意図を持って「冥報記」説話を配置した。巻六の諸仏霊験話群の構成において、「冥報記」から三話を採用し配置したことを見逃せない。巻七の経霊験話群の構成には十七話を 「冥報記」から採取して、そのうちの九話は法華経霊験説話であり、撰者の法華経重視の態度を示している。巻九の構成意図について、すでに拙論「「今昔物語集」の孝子説話について――巻九の構成意図を中心に」において述べているが、要するに、 「孝子伝」と「冥報記」の両方の説話を混合して「孝養」の主題を廻りながら、巻九を構成したという認識を持っている。
「今昔」における「冥報記」の受容は説話の主題層に関わることだけでなく、結構層にも深く関わっている。その説話の採用と配置はつねに撰者の明確な意図によって行われたようであろうといわねばならない。  
 
「今昔物語集」への招待

 

「今昔物語集」はわが国最大規模の説話集である。
その内容は日本だけにとどまらず、天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部にわかれ、これはすなわち当時の日本人が思い描くことのできた全世界に及ぶ超大作である。
完結していれば三十一巻(現存伝本では二十八巻)、説話総数一千以上という量もさることながら、そこに記録された世界は社会の各層にも及んでおり、歴史学、民俗学、宗教学、地理学、思想史など、研究対象としての価値は単なる一文学作品にとどまらぬはかりしれないものを含んでいる。  
一「今昔物語集」
「今昔物語集」は撰者、成立年等について、表示はもとより、序跋や奥書もなく、現在も未詳のままである。
撰者については、従来源隆国説が流布していたが、現在では否定されている。源隆国説は、「宇治拾遺物語」の序文中に散佚「宇治大納言物語」が引かれたことが発端となり、さらに井澤長秀(蟠龍)が 「考訂今昔物語」の序文において「宇治大納言物語」と「今昔物語集」を同一視し、隆国の系図まで掲げて撰者としたてたことに由来する。南都北嶺の僧侶説、白河院に近侍する僧侶説等考えられているが真の撰者はわかっていない。
成立の上限については、記載された説話の中の実在の登場人物や事件、先行作品との関係等により、保安元(一一二○)年頃と推定されている。下限については未だ確証を得るものがない。
全体の構成は天竺の部が巻一〜五、震旦の部が巻六〜十、本朝の部は巻十一〜三十一の三十一巻から成り、各々その内容は仏教説話といわゆる世俗説話に分けられる。天竺部は仏の生誕から始まり入滅、さらに入滅後譚、世俗譚を、震旦部は仏教伝来から霊験譚、世俗譚を、本朝部も同じく仏教伝来から始まり世俗譚に終る。
収録説話の数は本文の完備しているものだけでも一千二十にも及び、質量ともにスケールの大きな作品であるが、成立当初から未完であったとみられる。巻八、十八、二十一は祖本とされる鈴鹿本をはじめ、他のどの伝写本にも残っていない。また、欠文、欠字の部分のあり様は伝写の過程で欠落したのではなく、もともと空白であったものが転写され、今日に伝えられたと考えられている。
一話はおおむね「今昔」で始まって「トナム語リ伝ヘタルトヤ」で終り、二つあるいは三つの類似した説話が一組となって並べられている。
なお、「今昔物語集」は内包する多様性、迫力ある描写、等々さまざまな魅力をもつ作品であるにもかかわらず、その名が後行現存の文献中に登場するのは室町時代の僧・大乗院経覚の日記 「経覚私要鈔」宝徳元(一四四九)年七月四日の条「四日、霽、夕立、今昔物語七帖返遣貞兼僧正畢、・・・」が初めてである。中世を通して他に現われず、次に出てくるのは近世初期ともいえる 「多聞院日記」の天正一一(一五八三)年十一月八日条「・・・今昔物語十五帖大門ニ在之南井坊ヘ返遣了」となる。古本系といえども伝写本のほとんどが近世以降のものであることを考え合わせると 「今昔物語集」は鈴鹿本が中世初期に書写されてのち長い眠りについていたと考えられる。  
二「今昔物語集」と説話
日本における説話集は、平安時代初期の「日本霊異記」以来、「日本感霊録」、「三宝絵」、「本朝法華験記」、「江談抄」、「注好選」、「打聞集」、「宝物集」、「宇治拾遺物語 」など多数があげられるが、「今昔物語集」はそれらの中でも一つの高い到達点として位置づけられている。説話は口承あるいは書承の上に成り立つものであり、「今昔物語集」も過去からのあるいは同時代の伝承(「今昔物語集」の場合はほとんどが書承資料)と深くかかわるものである。これらは共通した母胎の上に立つものも少なくないため、各々の成立事情を知る上でも相互に研究が進められている。
「今昔物語集」の依拠資料としては中国のものでは唐臨撰「冥報記」、非濁撰「三宝感応要略録」や、「弘賛法華伝」、「孝子伝」などが、我が国のものでは「日本霊異記 」、「三宝絵」、「本朝法華験記」、「地蔵菩薩霊験記」(原撰本)、「俊頼髄脳」等が知られている。
なお、関連資料等はなるべく原本の古態に近いものと考えて古写本の複製、影印資料を中心に展示した。  
三鈴鹿本「今昔物語集」と伴信友
鈴鹿本の存在についてのもっとも古い記録は江戸後期の国学者・小浜藩士・伴信友(一七七三〜一八四六)によるものである。
伴信友は父・小浜藩士山岸惟智、母・同藩士片岡良雄次女サヨの四男として若狭国・的場に生まれた。天明六(一七八六)年同藩士・伴信当の養嗣子となる。養父の江戸詰に伴い江戸滞在中、国学に関心をよせることとなり、荷田春満等先輩国学者の諸書を書写・校読する。植松有信、足代弘訓、平田篤胤等多くの国学者と親交を結び、古典や歴史における緻密な考証学の研究態度で知られる。
彼はこの「今昔物語集」が鈴鹿家の有に帰する以前の天保四(一八三三)年に、「奈良人某ノ蔵テル古本」であった「今昔物語集」の巻十二を校合する機会があった。その十一年後の天保十五(一八四四)年三月、信友は藩主酒井忠義の京都所司代就任に伴う京都滞在中に、親友の国学者・鈴鹿連胤(一七九五〜一八七○)に購入された 「今昔物語集」に再会し、「此の度」は巻二十七、二十九の二巻を校合した。
その二度にわたる信友の奈良本(現在の鈴鹿本)調査の記録が、天保二(一八三一)年にすでに他本から書写しておいた信友手持ちの「今昔物語集」の末尾に「十二巻奈良本批校之間事」として附され、自筆稿は小浜市立図書館酒井家文庫に残されている。この記録は、あまり後人の目にとまることはなかったようで、奈良から購入した連胤翁の曾孫にあたる鈴鹿三七氏(=現在の鈴鹿家当主の父君で、元・当館の職員)が、 「芸文」(京都帝国大学文科大学機関誌)誌上に大正四(一九一五)年十二月から数度にわたり紹介、また連胤翁の没後五十年祭に「異本今昔物語抄」を刊行したことから、近代の研究者が鈴鹿本の存在を知るところとなった。
先の信友の記録は鈴鹿本の存在を告げるだけではなく、その緻密な文献学的態度から得た調査結果は、他の伝写本とこの本との関係をその欠字、欠文の様子からすでに指摘しており、さらに綴じしろの書きとめを発見し、記録している。この発見は後の研究者に書誌学的精査を促すきっかけともなり、成立事情研究に具体的な手掛りを与えることとなった。
信友の自筆稿本、手沢本、校合書等は厖大な数にのぼるが、現在は宮内庁書陵部、国立国会図書館、静嘉堂文庫、大東急記念文庫、小浜市立図書館等に蔵され、当館にも 「日本霊異記」ほか信友手沢の校蔵書七十冊を所蔵する。
現在の鈴鹿本「今昔物語集」は、平成三(一九九一)年十月に当館に寄贈を受けた後、三年をかけて修補の結果、もとの本文料紙よりひとまわり大きな裏打紙が施されたため、ノド奥に隠されていた書き付けも眼前に現われることとなった。  
四「今昔物語集」の諸本
「今昔物語集」の写本系統については、鈴鹿本が現存伝本すべての祖本とみられ、鈴鹿本にならぶ古写本としては大東急記念文庫蔵などの断簡があげられる。他の伝本はすべて近世以降の写本となり、古本系と流布本系の二系統に大別されている。
古本系には実践女子大学蔵本(黒川家旧蔵)、東京大学国語研究室蔵本(紅梅文庫旧蔵)、國學院大學蔵本(水野忠旧蔵)、東北大学狩野文庫蔵本(新宮城旧蔵)などがあり、流布本系には静嘉堂文庫蔵本をはじめ多数が知られる。
近世刊本には享保五、十八(一七二○、一七三三)年、井澤長秀(蟠龍)の「考訂今昔物語」と、幕末期水野忠央の「丹鶴叢書」に収められたものとの二種がある。
近代にいたっては岩波文庫をはじめ多数の活字本出版をみるが、大正二ー十(一九一三〜一九二一)年芳賀矢一纂訂の「攷證今昔物語集」は「今昔物語集」研究の近代的幕開けともいわれる刊行であった。  
五「今昔物語集」から生まれたもの
「今昔物語集」を自らの創作活動の中で享受の産物として残している文学者は少なくない。大正期を代表する作家・芥川龍之介は「今昔物語鑑賞」において 「今昔物語集」は「野生の美しさに充ち満ちている」と述べ、大正三(一九一四)年の「青年と死」に始まって「羅生門」「鼻」「藪の中」など多くの作品を残している。また、これらの短編から黒澤明監督は昭和二十五年に映画 「羅生門」を創りあげ、「今昔」は別の形の芸術となった。
芥川龍之介と同時代の武者小路実篤をはじめとして、堀辰雄、菊池寛、海音寺潮五郎、新田次郎、杉本苑子、田辺聖子など昭和から平成に至るまで、多くの作家に 「今昔物語集」に題材をとった作品がある。昭和四十三年に「今昔物語集」を素材とした長編小説「風のかたみ」を発表した福永武彦は、東京新聞(昭和四十二年六月八日朝刊〜「福永武彦全小説」第九巻所収)に「古典としての 「今昔物語」」という一文を寄せて、愛読した古典一種類として「今昔物語集」を選び、「今昔の面白さは、短い物語が、短いなりに独立していて、その一つずつは確かに必要にして十分なだけ書き込まれてはいるものの、前後に空白を持っている点」であり、「想像力が刺激される」と述べている。
一方、昔話を含む説話集は「宇治拾遺物語」等の説話集がよく知られているが、一千余にのぼる説話を集めた「今昔物語集」の中には昔話の古い形が含まれている。巻五には第十三話 「三獣行菩薩道兎焼身語」として月に兎が住むようになった由来話を、第二十一話「狐借虎威被責發菩提心語」として虎の威を借りた狐の話、第二十五話「亀為猿被謀語」として猿の生肝の話、巻十六には第二十八話 「参長谷男依観音助得富語」としてわらしべ長者の話が収められており、これらは日本独自の昔話というよりアジア各地に伝承された昔話と共通する。  
六「今昔物語集」に見える京の町
「今昔物語集」に登場する人物や舞台は実にさまざまで、貴族社会だけでなく一般庶民の姿をも伝えており、地理的にはとくに日本にあっては北は陸奥から、南は琉球(当時はヤマトからは独立していたが)まで全国におよんでおり、現れない国は三ヶ国だけであるという。この全国をほとんど網羅するような中でも、都を中心とする畿内を舞台にしている話が圧倒的に多い。「法興院」や「法成寺」など今はなくなってしまった寺院や特定できない場所も多いが、「吉田」、「石清水」、「愛宕山」、「清水」、「鞍馬寺」、「出雲路ノ辺」など現在京都に生活する人々にも親しい名が登場し、 「今昔物語集」を読む時、より近い存在としてくれる。  
 
「今昔物語集」に出る人糞を喰う犬 / 慶慈保胤について

 


慶滋保胤[よししげのやすたね]という大内記までやった男がいた(内記は中務省の役職で、詔勅や宣命及び位記を作成する)。出は下級貴族であるが(ただし、父は賀茂忠行、兄は保憲で、いずれも陰陽家として有名)、知識人としては当時第一流の人物である。50歳代なかばの寛和二年(986)に出家して比叡山横川に入り、寂心と称した。世に「内記の聖人」と呼ばれた。
保胤には著作も多いが、「日本往生極楽記」(原漢文。岩波「日本思想体系7」に井上光貞による読み下し文と詳細な注がある)がもっとも後世に大きな影響を与えた。これはわが国の往生伝の流行の先駈けになる作品である。「池亭記」(原漢文。岩波「日本古典文学大系69」所収の「本朝文粋」に入っている。小島憲之による読み下し文と頭注がある)は文人としての保胤がよく表されていると考えられる。平安京の様子や、50歳ちかくにしてはじめて我が邸宅(池亭)を持ち、そこでの閑居の様子を随筆風に書いている。150年ほど後の鴨長明「方丈記」にも影響を与えているとされる。
保胤を考えるのには、「儒学者」と「仏教者」の両面から考えることが重要である。
「今昔物語集」では「巻第十九第三話内記慶滋の保胤、出家せること」に扱われている(岩波「日本古典文学体系25」「今昔物語集四」)。小論では、「今昔物語集」の慶慈保胤を読みながら、この保胤という魅力あふれる人物について調べてみたいと思っている。
というのは、文人として当代一流で、文章家として名をなし、具平親王の文人サロンの指導者格として尊崇されたであろう慶慈保胤は、「今昔物語集」に登場するとき、奇矯でやや滑稽な仏教狂いのじいさんという扱いを受けているのである。
この話「内記慶滋の保胤、出家せること」はかなり長いものだが、その冒頭の経歴紹介のくだりには
出家の後は空也聖人の弟子となりて、ひとへに貴き聖人となりて有りける間(以下略「今昔物語集四」p61)
とある。保胤は出生年不明(上記「日本往生極楽記」の解説に、「承平(931〜938)の初年に生まれ」とある)だが、50歳頃の著作とされる「池亭記」(ちていき天元五年(982))からすると、出家は50歳代半ばであり、没したのは長保四年十月(1002年)、70歳ぐらいと言われる。空也聖人の死没は天禄三年(972)70歳(72歳とも)であるから、保胤は空也の20〜30年後の世代である。空也は阿弥陀仏を唱える念仏聖として有名であるが、保胤が空也聖人の弟子であることは、確認されないようである(例えば幸田露伴 「連環記」は、空也聖人についてまったく触れていない)。
陰陽家として有名な賀茂家の次男として生まれた保胤は、稼業を継がず、菅原文時を師として文章生となり、四書五経を学ぶ当時の学問主流の「文章道」に入る。賀茂姓を改めて「慶慈」としたのは、陰陽道から文章道へ転じたがゆえのことである(それゆえ、 「連環記」は、「慶慈」を「よししげ」と読むのが広まったのは仕方がないが、「慶慈」は「かも」と訓ずるのが本当であると、冒頭で論じている。なお、「連環記」は「青空文庫」でHTLM版が出ている、ただし現代仮名遣い。ここです。わたしは、それの検索機能などの恩恵におおいに浴しています)。
陰陽道をすてて文章道に入った保胤であるが、彼の仏教信仰、ことに阿弥陀信仰の情熱は幼い頃からのものであったと自ら「日本往生極楽記」の序の冒頭で述べている。
序して曰く、われ幼き日より弥陀仏を念じ、行年40よりこのかた、その志しいよいよ劇[いそがわ]し。(岩波思想体系本「往生伝法華験記」p11)
保胤が「日本往生極楽記」を書いたのが、永観元年(983)から寛和元年四月(985)の間であると、前掲書「往生伝法華験記」の井上光貞「文献解題」が述べているので(p712)、「池亭記」がなった直後、保胤の出家する前ということになる。
保胤と仏教方面の関係を知る重要な手がかりとなるのが、「勧学会」と「二十五三昧会」の2つの、いわば、浄土思想運動の結社活動がある。
10世紀半ばの学問・思想の分野での若手のトップ・エリートたちは、儒学方面では大学寮、仏教方面では比叡山に集まっていたと考えられる。大学寮関係の若手文人たちがリーダーシップを取って、比叡山僧によびかけて、「勧学会」という勉強会をはじめたのが康保元年(964)である。これは20年間続き、慶慈保胤はそのリーダーの一人であった。
この勧学会は、朝には法華経を講ずるを聞き、夜は経中の句をとって詩を作る儒仏一体の行事であるばかりでなく、「口を開き声を揚げ、その名号を唱ふ」「極楽の尊を念ずる」(ともに本朝文粋巻十)、「世々生々阿弥陀仏を見」「在々処々法華経を聴く」(天台霞標、三−二)とあるように、念仏結社としての性質をも帯びるものであった。(「往生伝法華験記 」p713)
幼いときから「阿弥陀仏を念じ」てきた保胤は、30歳前後から大学寮で「勧学会」という念仏結社的な運動の中心で活躍した。その思いは40歳頃からますます盛んになり、50歳ごろに「池亭記」の舞台となる邸をもち、そこで「日本往生極楽記」を完成する。
そして、保胤はついに出家して寂心となるのだが、それと歩調を合わせるようにして勧学会は「二十五三昧会」へと発展的に解消すると、井上光貞は述べている。
花山天皇は寛和二年六月、藤原兼家らの陰謀によって退位出家し、兼家一門によって摂関政治の最盛期に入っていくが、このいわばピークを直前にして、永観二年(984)の冬、源為憲は三宝絵を著わし、づついて保胤は日本往生極楽記を草した。また翌年四月、源信は往生要集を完成し、更に花山出家の前々月には、保胤が出家して寂心となのり叡山の横川に入っている(日本紀略)。しかもそれとともに勧学会は解散して、こんどは横川に二十五三昧会が結成された。その五月の発願文や九月の起請によれば、源信と保胤は二十五三昧会の結成の中心であることが明らかであるから、勧学会にはじまった念仏結社は、ここにおいて二十五三昧会へと発展的解消をとげたわけである。(同前p713)
すなわち、保胤は幼い頃から阿弥陀仏への信仰に熱心であったが、文章道に志し大学寮で学ぶ30歳以降、勧学会の中心メンバーとして、念仏結社の先進的運動を行っていた。50歳頃には「日本往生極楽記」を著わし、ついには出家する。そして叡山横川で「二十五三昧会」を組織する。
文章生から内記に進み、その間、具平親王(村上天皇の第7子)の侍読として仕えるという儒学・文章道の分野で官吏として知識人として成功しつつ、同時に、浄土教の熱烈な信者として念仏結社運動を先進的に行っていたのである。  

「今昔物語集」の「巻第十九第三話内記慶滋の保胤、出家せること」では、保胤が出家した後の逸話が3つ紹介される。この節では第1と第2の話を紹介する。第3が「人糞を喰う犬」の話である(これは《5》で扱う)。
【第1】は、仏堂建立のために浄財を募って播磨国に行った際のこと、ある川原を通りかかると、法師が陰陽師の姿をしてお祓いをしていた。法師は「紙冠」[かみかうぶり]をして、「祓戸[はらへど]の神」を祈っていた。
何をしているのです?
祓えをしております。
その紙冠は何のためですか?
祓戸の神たちは法師を忌むので、仮に紙冠をしているのです。(「今昔物語集四」p61より意訳)
寂心はそれを聞くと、大声をあげて法師に掴みかかり、紙冠を取って引きちぎり、破り棄てて、泣きながら法師に言う。
あなたは一体どうして、仏の御弟子のつとめをを疎かにして、祓戸の神たちが忌むといって、如来の禁戒をやぶって、紙冠をするのですか。無限地獄の罪を造っているのじゃないですか。何と悲しいことだ。いっそ私を殺してくれ。(同前意訳)
寂心は陰陽師の袖を掴んで、激しく訴え泣いた。陰陽師の法師は常識的な人物で、常識的なことを言う。
これは実にむずかしいことです。そんなに、泣かないでください。おっしゃることはまったく理屈に合っていますが、わたしは世を過ごすために陰陽道を習って、こんなことをしているのです。そうしないとどうやって妻子を養い、自分の命を助けることができましょうか。
道心を見失ったうえは、世俗を棄てた聖人にもなることができません。わずかに法師の格好はしていますが、ただ俗になずんだ身ですから、後の世のことはどうすべきようもなく、悲しく思うときもありますが、世過ぎの習いとしてこうしているのです。(同前意訳)
常識的なことというのは通俗的なことである。この陰陽師の法師は、自分は通俗的な生き方しかできない人間で、あなた(寂心)のように信仰心を純化させて「身を捨てたる聖人」(p62)になることはできません、という。寂心のような先鋭な思想境地にとうてい到達できない、と言う。それは通俗からの自己卑下であるが、寂心のような思想のエリートは特別のものだ、という言外の批判も含んでいる。
それに対して、寂心はつぎのようにたたみかける。いや、このようにたたみかけるしか、彼の純化した信仰心を救抜する手だてはなかった、とも言える。
そうだといって、どうして三世の諸仏の頭に紙冠をするのです。貧しさのためだというのなら、わたしがここに集めてきた浄財の山をぜんぶさし上げます。一人の菩提を勧める功徳は、塔寺を建立する功徳にけして劣るわけではないのです。(同前p62より意訳)
寂心は弟子たちに命じて、寄進されたものを「この陰陽師の法師」(p62)にすべて与えて、京に帰った。
この「第1話」でいちばん迫力を感じるのは、寂心が陰陽師の法師を批判するのに、激しく泣いて掴みかかりながら大声で批判の言葉をわめくということである。その真剣味、純化された信仰理論、訴えの一途さは、陰陽師の法師の常識的な通俗の立場を崩して後退させ、
後の世の事、何をかは可為はかむ(意不明)と、悲く思ゆる時も侍れども、世の習ひとして此く仕る也(p62)
(後の世のことはどうすべきようもなく、悲しく思うときもありますが、世過ぎの習いとしてこうしているのです。)
という卑下した自己放棄の立場に追いやる。しかし同時にその反作用として、寂心自身は信仰心のエリートでしかないという批判(自己批判)を引き受けて、寄進された財物をすべて陰陽師の法師に与えるのである。
「連環記」はこの逸話を紹介して、次のような面白い評語を与えている。
弟子共をつかわして、材木とらんとて勧進し集めたる物共を皆運び寄せて、此の陰陽師の真似をした僧に与えやり、さて自分は為すべしと思えることも得為さず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。
紙の冠被った僧は其後何様(どう)なったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などの有ることは聞かぬ。後の高尾の文覚だの、黄蘗の鉄眼(てつげん)だのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでも別に悪いことは無い。
寂心の「純化された信仰心のエリート」に対して、露伴は「仕事師」という概念をぶつけている。
なお、「陰陽師の法師」に激しく憤ったのは、寂心=保胤が、いずれも陰陽家の天才といわれた賀茂忠行を父とし保憲を兄としていてその家系から飛びだしたからじゃないか、という感想も浮かぶが、50歳を過ぎて出家した寂心の仏教信仰は、そんな生易しいものではなかったろう。むしろ、仏教原理主義者として、通俗家を自己卑下させずにはおかない臓腑をえぐる真剣味があった、と考えるべきだろうと思う。
【第二】は、寂心が東山の如意岳の辺りに住んでいるときに、六条院に「ただ今、参れ」と言われて、馬を借りて行く時の話。
寂心はただ馬の心に任せて、馬が草を食えばいつまでも草を食うにまかせていた。少しも進まず同じところで時間を過ごすので、馬に付いていた舎人の男が馬の尻を打った。そのとたん馬から飛び降り、舎人の男に掴みかからんばかりにして、言った。
おまえは、どう思ってこんなことをするんだ。この老いたる法師をあなどって、このように打つのか。
この馬は前の世から、繰り返し繰り返し父母となっておられて、今の世に馬になっているのではないだろうか。おまえは、「前世の父母ではない」と思って、このようにあなどったことをするのか。おまえにとっても、繰り返し、父母となっておまえを愛育し、このように獣となり、また幾つかの地獄・餓鬼の道にも墜ち、苦を受けているのではないだろうか。このように獣となるのも、子を愛着することによって、このような身を受けることになったのです。
とても堪えがたく物が欲しくてたまらなくて、青い草が食いよげに生えているのを見過ごせなくて、むしり取ろうとなさるのを、どうして申し訳なくも打ちたてまつるのか。
この老いたる法師にとっても、数知れぬほど父母におなりになっていることは、忝なく思いたてまつるが、年老い起居が心にかなわず、すこし遠い道は速やかに歩けないので、恐れながら乗りたてまつっているのだ。なんで道に草があるので、それを食べるのを妨げてまで行くことができようか。
おまえは、なんと慈悲のない男だ。(同前p62より意訳)
そう言って、寂心は泣き叫んだ。
舎人の男は、内心おかしかったが、老僧が泣くのがかわいそうなので、次のように答えた。
おっしゃることは、まことに理[ことわり]だと思います。物に狂って打ってしまいました。下郎はしかたのないもので、このように生まれましたので、わけもわからず打ったのです。今からは、父母と思いたてまつって、忝なく思いたてまつります。(同前p63より意訳)
寂心は泣きじゃくりながら、「あな貴[たふと]、あな貴」と言って、馬に乗った。
しばらく行くと、道のはたに朽ちた卒塔婆がゆがんで立っていた。それを見つけると寂心はあわてて馬から転がり下りた。舎人の男はそれに気づかなかったので、急いで近寄って馬の口を取り、少し進んだ位置で止まった。舎人の男が振り返ってみると、寂心はススキがまばらの所に平伏していた。
寂心は、馬に乗るので括っていた袴を下ろし、お付きの童に持たせていた袈裟を出させて着て、衣の襟首を引き立て、左右の袖を引き合わせ、腰を深く曲げ、上目使いで卒塔婆を拝しながら、御随身[みずいじん]がふるまうように身をひるがえして卒塔婆の前に至り、卒塔婆に向かって手を合わせ額を土に着けて、何度も礼拝した。そしてそれがすむと、卒塔婆から隠れるようにして馬に乗った。
道の途中で卒塔婆を見かける度にこのようにするので、1時間で着くはずの所、朝6時に出て夕4時頃までかかった。
この舎人の男は、「この聖人のお供は、今後はもう行かない。ひどく心もとなかった」と言ったそうだ。(同前p62より意訳)
ということで、終わっている。
「第1話」と同じ構造だが、「第2話」では舎人の男がその場限りの返事をしたり、その行程限りのがまんをして寂心の言う通りにふるまったので、大幅の延着ということで終わった。いうまでもなく寂心は奇矯なふるまいを態としているのではなく、彼の仏教原理主義がこのようなふるまいを彼に強いていたと言ってよい。「第1話」では寂心の仏教原理主義の相手が「陰陽師の法師」という知識人であったために、陰陽師の法師の自己卑下の無限後退と、その反作用として仏教原理主義が喜捨された財物をも否定して放棄せざるを得ない、というところまで突き進んだのであった。「第2話」では非知識人である「舎人の男」が相手であるために、「第1話」のような思想的ダイナミズムは発動しなかったのである。
ついでに注しておくが、当時、卒塔婆があちこちに見られたことがわかる。土葬して土饅頭ができるとその上に卒塔婆を立てた。「巻第二十七の第三十六話」に、墓を築いて「その上に卒塔婆を持て来たりて起[たて]つ」(四p528)とある。つまり、卒塔婆は墓の目印にもなっていた。
ただし、平泉藤原の清衡は「陸奥外が浜という津軽の果てから白河の関まで、里程を示す笠卒塔婆を建てた」という(水原一「平泉藤原三代の古代の心」(Previewから入って、pdfファイル19頁全文を読めます。水原一の「退職最終講義」))。この場合は墓とは無関係な里程標である。信仰的基盤はあるわけだが。
葬る余裕がなく、死体を放置したままであった例として、有名な羅城門の層上で死体から髪を抜く話(巻第二十九第十八話)から引用しておく。
その上の層[こし]には死人の骸骨ぞ多かりける。死にたる人の葬[はうぶ]りなど、えせぬをば、この門の上にぞ置ける。(五p170)
災害・飢饉などの場合には、京都市内に無数の死体が放置されていたことは、「方丈記」などでよく知られている。  

文人としての慶慈保胤の作品としては、「池亭記」が有名である。(原漢文であるが、前述のように「岩波日本古典文学体系69」に収められた「本朝文粋」に小島憲之の読み下し文と頭注があって、誰にでも読める。小島は「ちていのき」と読んでいる。また、繁田信一 「庶民たちの平安京」(角川選書2008)には、「池亭記」の冒頭の一節をかみ砕いた現代文に訳して掲げており、また、慶慈保胤の経歴も分かりやすく述べていて、参考になる(p120〜124あたり)。ただし、この繁田信一の本の第7章は「小犬丸妻秦吉子解」を扱っていて、わたしは期待して手に取ったのであるが、残念ながら「着ダ」についてわたしと見解が異なるので、別の所で批判するつもりでいる。
ネット上で参照できるものとしては名波弘彰「慶慈保胤「池亭記」試論――社会記録と閑居――」がある。)
「池亭記」は“池に臨んだあずま屋の記”というほどの意味だが、50歳近くなってはじめて平安京六条ふきんにわが邸宅をもった保胤が、平安京の盛衰の様子やわが家の住み心地などを述べた随筆。
保胤の父、賀茂忠行は陰陽道の大家であり安倍晴明の師であったというのだから、当時の平安朝貴族の社会で重きをなしたと思いがちだが、けしてそうではない。陰陽師は貴族社会のなかでは頤使される被使用人の地位にあり、官人としても下級のものであった。忠行は最後に従五位下になっている。後の世の、能楽師などの芸能者と類似の位置づけではなかったか。
知識人としては一流であった保胤も、若い頃からずっと借家住まいであったと「池亭記」で述べている。
われ本より居所なく、上東門の人家に寄居す。常に損益を思ひ、永住をもとめず。たとひ求むとも得べからず。その価値二三畝[ふたせ、みせ]千萬銭のみならむや。
われ六条以北に、初めて荒地を卜[うらな]ひ、四つの垣を築き、一つの門を開く。(「往生伝法華験記」p423)
上東門は、大内裏の東面にあり陽明門の北という。いずれにせよ、大内裏近くの一級地の「人家に奇居」していたのだが、その辺りの地価は非常に高価であった。「六条以北」とは六条大路の北側ということだろう。そこが荒地になっていたのを手に入れ、垣根をし門を造った、と言っている。ただ、文飾誇張がありうるので、この通りであったかどうかは別である。しかし、六条あたりには空地があり、保胤のような下級貴族の手にもはいる程度に、地価が安かったということは信じてよいだろう(「本朝文粋 」に採りあげられるほどの文章が、平安京の現実とはまったく異なる空論を述べているとは考えられないから)。
保胤を師として迎えていた具平親王の千種殿が「六條坊門南西洞院東」にあった(「拾芥抄しゅうがいしょう」)という(「往生伝法華験記」の頭注による)。また、保胤の池亭は千種殿の南に接していたともいうので、あるいは、具平親王の所有していた千種殿の一部の空地を分けてもらったのかもしれない(この推測はいずれかの書物で読んだのだが、いま出典を見失っている)。
具平親王は自身文人として活躍しており、「拾遺和歌集」以下34首選ばれている勅撰歌人であり「和漢朗詠集」「本朝文粋」にも選ばれている。親王の周辺には、文人があつまる“千種殿サロン”とでもいうべきものが形成されていた。保胤はそのグループの師匠格として指導に当たったと考えられる。露伴 「連環記」は次のような面白い挿話を紹介している。
具平親王は文を好ませたまいて、時の文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、紀ノ斉名(まさな)、大江ノ以言(もちとき)などは、いずれも常に伺候したが、中にも保胤は師として遇したもうたのであった。しかし保胤は夙(はや)くより人間の紛紜(ふんうん)にのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思に胸が染みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、訓(おし)えまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一トわたり済むと、おのれはおのれで、眼を少し瞑(ねむ)ったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。想(おもい)を仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに念誦したことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を聖道(しょうどう)に運んでいるのみであるから、咎めるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言綺語即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の是としたところであったには疑無い。
「池亭記」は、平安京の様子を述べ、ついで保胤が造営した池亭について述べ、そこでの閑居の様を述べている。たとえば、名波弘彰「慶慈保胤「池亭記」試論」は
「池亭記」の前半は、10世紀後半の東西両京の社会記録として読まれている。(電子版、第2節冒頭)
と言っている。
「池亭記」の冒頭では、西の京(右京)は、都市としては荒廃してしまい、貧者や農民が住まう。貴族や富有の者は東の京(左京)の4条以北に住む、と要約できるような、平安京が都市空間・住居空間としてけして一様であったわけではなく、かなり偏っていたことを述べている。
自分は20余年このかた、東西の2京をよく見てきたが、西の京は人家は疎らにしかなく、ほとんど幽墟といえるほどである。去る人はあるが来る人はなく、家は崩壊することはあっても造られることはない。移り住むべき先がなく、貧乏生活を恥じることのない者が、ここに居る。幽隠亡命を目的にして、山に入り田に帰るつもりの者は去らない。財貨を蓄えようとし、いそがしく利を求めようとする者は1日と言えども住むことはできない。(日本古典文学大系69「本朝文粋 」「池亭記」p417より意訳)
これが、冒頭の1節である。
つぎに「家は崩壊することはあっても造られることはない」の実例を挙げる。左大臣源高明(たかあきら)が藤原氏の策謀で大宰府に左遷される事件があった(安和の変)。安和二年(969)三月二五日。源高明は源氏といっても醍醐天皇の第10子で、富裕な公卿であり、西の京(右京4条)に豪壮な邸宅をもち「西宮左大臣」と呼ばれた。また、彼の日記は「西宮記」(さいきゅうき)という。つまり高明は、西の京を象徴するような公卿であった。ところが、左遷のわずか6日後に、高明の豪邸が火事によって焼滅した。高明の左遷は4年目に解かれ帰京したのであるが、彼の政界復帰はならず「葛野別屋」(葛野かどのは今の右京区方面)に隠棲した。
「池亭記」は、高明の豪邸が荒れるに任せてしまわれたことを、「天が西の京を亡ぼすのだ」と評している。
かつて一つの貴族の邸宅があった。美しい堂や朱の柱、竹林や庭木や岩や池、まことに俗世間の外にあるすばらしい景色であった。ところがある事件で主人が左遷され、火事があり建物が焼け落ちた。門下の食客たちが、近くに数十軒もあったが、皆申しあわせたように去ってしまった。
その後主人が帰京したのに邸を修理することはなく、子孫は多かったが、だれも住まなかった。イバラが門をふさぎ、狐狸が邸内に住みついた。
この例は、天が西の京を亡ぼしているのであって、人の罪ではないことは明らかである。(「池亭記」p418より意訳)
源高明の場合は、政治的な力学も働いていたと思うが、地形的に見て京都盆地は、北東隅を扇状地の頂点としていて、南西に至るにしたがって低湿地となる。西方、南方は湿地帯として居住条件はより悪かったと考えられる。水の便・洪水の一事を考えても、北東の高みが高級住宅地として先に開けたのにはいわば“天の采配”があった、と言ってもよいだろう。
東の京の北部一帯は、人口密集地であり、富有の者の豪邸・卑賤者のひしめく小家が並んでいたと述べる。
東の京四条以北、ことに東の京の北西・北東の一帯は、人々は貴賤の別なく、おおく集まり住んでいる。豪邸は門を比べ堂を連ねているし、小さい屋は壁をへだて軒を接してならぶ。東隣りが火災になれば西隣りは延焼をまぬがれず、南宅に盗賊が入れば北宅に流れ矢が当たる。(「池亭記」p419より意訳)
初めに紹介した繁田信一「庶民たちの平安京」は、「東京四条以北」は高級住宅地であって、そこの土地はきわめて高価であり、保胤のような下級貴族には手が出なかった、という。その豪邸の所有者の富有者たちは自分の所有する土地の一部を割いて、豪邸周辺にその使用人たち(「雑色」たち)のすむ小屋を設けていたと分析している。もちろん、それだけではなく、「市」などの繁栄する地域には小家・小屋がひしめいていた。
「枕草子」の「関白殿、二月廿一日に」と語りはじめられる一段によれば、左京の二条大路と町尻小路とに面した一角が、ある時期、「小家[こいえ]などというもの多かりける所」だったらしいのである。もしかすると、当時の人々は、 「池亭記」の「小屋」という言葉をも、「こいえ」と訓読していたのかもしれないが、いずれにせよ、ここで清少納言が「小家」と呼んでいるのは、「池亭記」において「小屋」と表現されている類の家屋であろう。したがって、二条大路・町尻小路に隣接して「東京四条以北」の中心に位置する一角は、確かに多くの「小屋」=「小家」で混み合っていたことになる。(繁田信一 「庶民たちの平安京」p131)
繁田は、さらに続けて、「左経記」(さけいき)、「日本紀略」の記録を揚げて、大内裏の東側(一条と二条の間の左京)に「小宅」(こいえ)と呼ばれる省家屋の群が密集する一角が幾つかあったことを示している。そして、長元元年(1028)の火災で、その一帯で500を超える数の「大小宅」が焼失した、という。
こうして明らかになったように、王朝時代の平安京における高級住宅地であった「東京四条以北」は、そのところどころに「小屋」「小家」「小宅」などと呼ばれるような小さな家屋のひしめき合う一角を抱え込んでいたわけだが、そのような家屋を住居としていたのは、やはり、庶民層に属する人々だったのではないだろうか。(繁田信一同前p132)
東の京(左京)の「四条以北」は、このような、人口密集地で高級住宅地であった。左京であっても「五条以南」は空閑地のある地価の低い所だったらしい。また、鴨川沿いであるから、南に下がるほど洪水の被害に遭いやすい。「格文」(きゃくぶん:法律)はあったらしいが、鴨川の川原に勝手に田畑を開く者もあり、毎年のように水害が起こっていた。
毎年出水があり、流れはあふれ堤が切れた。洪水を防ぐ担当官はそれを修めて昨日その功を誉められたとおもうと、今日は水があふれるのに任せている。平安京の人々は、ほとんど魚となるほかないほどだ。(「池亭記」p421より意訳)
保胤が池亭を建てたのは、「六条以北」なのであった。  

50歳近くなって初めて自分の家屋敷をもった保胤は、うれしかったのだろう、「池亭記」は、少しはしゃいでいるところがある。
地形の凹凸を利用して、池や築山を造営した。
高くなっているところは小山とし、窪地には池を掘った。池の西に小堂を建てて弥陀を安置し、東に小閣を造り書籍を収めた。池の北側に妻子の住む低屋を建てた。
屋舎が十分の四、池が九分の三、菜園が八分の二、セリを植えた所が七分の一ほどになる。
その他、松の小島、白砂の渚、錦鯉がおよぎ白鷺が来る。小さな橋があり、小舟を浮かべる。わが邸には自分が日頃好むものがことごとくある。春は東岸の柳が煙ったようにしなやかに垂れる。夏は北の竹林から、清風が吹きおこる。秋は西の窓の月を眺めて、書をひらく。冬は南の軒端の日なたで、背をあぶることができる。(「池亭記」同前p423より意訳)
もちろん、分数の分母十、九、八、七に対し、分子を四、三、二、一としているのは、遊びである(分数の合計は1を超えている)。だが、池が相当の部分を占め、周囲に屋舎や亭を配し、菜園があり、植木もあったことは事実であろう。
セリの田もあったというのだから、水流が邸内を流れ、小さい湿地ができセリを植えたのだろう。その水流は自慢の池を潤して、亭外に去っていくのであったろう。井戸が掘られていたかどうか不明であるが、この水流は平安京の浄化装置としても機能していたはずである(その意味でも、扇状地の上部、北東部が高級住宅地であった)。
勤めと心境。世俗の欲望に執着しないことを述べ、自分の官職について記す。
われ生まれて以来50年になんなんとして、ようやく、小宅をもつこととなった。カタツムリはその家に安住し、シラミはその縫い目に楽しむ(中略)。
家の主人である自分の官職は内記であるのだが、心は世俗を離れた山中にあるようだ。官職や爵位は運命にまかせるのみ、天のみわざは誰に対しても均しいのであるから。寿命は天地にまかせ、出世をことさら願うことはない。士官しないで隠棲を望むのではない。かといって、膝をかがめ腰をおりて、王侯宰相にへつらうことはしない。虚言を避け色欲を避け、しかし、深山幽谷に足跡を消し去ることは望まない。
朝廷に出仕している間は王室に奉仕し、家に戻れば心を仏陀によせる。自分は出仕すれば緑色の朝服を着た官人である(緑の服は六,七位の朝服)。位はひくいのだが、仕事は貴い。(同前p425より意訳)
10世紀の王朝官人も現代のサラリーマンも、それほど違った心境にあったわけじゃないようだな、とわたしは思った。
ついで、帰宅してからの、池亭での快適な知的生活を語る。
家では白い麻の衣服を着る。春の日差しよりあたたかく、雪よりも清潔である。手を洗い口をゆすいでから西堂に参る。阿弥陀仏を拝み法華経を読む。食事の後で東閣に入り、書巻を開いて古の賢人たちと逢う。(中略)われは、賢主に遇[あ]い、賢師に遇い、賢友に遇った。一日三遇を果たした。一生三樂[さんごう論語に「楽節礼楽、楽道入之善、楽多賢友」とある。頭注による]をなした。
近頃の人の世には、少しも恋うべきことは無い。人の師たるべき者は富貴を先にして、文を尊重しない。そんなことなら、師の無い方がましだ。人の友たる者は勢力や利益をめあてとし、淡泊な君子の交わりをしない。そんなことなら、友の無い方がましだ。(同前p425より意訳)
今風に言えば、「男の隠れ家」の“孤独”に類比できるかも知れない。「男の隠れ家」には商業主義が見え隠れし、「池亭記」の孤高には、意識した演出が感じられる。
わたしは、次の一節の末尾を目にして、信じがたくて、何度も読み直した。上の続きである。
われ、門をとざし戸を閉じ、独り吟じ独り詠ず。もしさらに興が湧けば、童と小舟に乗り、ふなばたを叩き棹をあやつる。もし余暇あるときは、従僕を呼んで菜園にいき、あるいは糞[くそ]まり、あるいは灌水する。われ池亭を愛し、そのほかを知らず。(同上p426より意訳)
わたしが驚いたのは、「あるいは糞まり、あるいは灌水する」という所である。原漢文は次のようになっている。
呼僮僕入後園。以糞以灌。我愛吾宅。不知其侘。
小島憲之の読み下し文は
以[あるい]は糞[くそ]まり以は灌[そそ]ぐ。
である。[]は体系本では振り仮名になっていることを示す。
「糞まる」は、大便をする、排便をする、ウンコをする、という意である。それ以外の読み様はないだろう。念のために、「日本国語大辞典」を参照しておく。
くそまる【糞・屎】[自ラ四](「まる」は体外に排泄する意)大便をする。くそひる。
辞典はこのあと、「播磨風土記−神前」からの用例を揚げている。
小島憲之の頭注は、この部分については、「灌」に注をつけて、「水を注ぐ。以・・・以・・・は、・・・したり・・・したりする意。」としている。残念ながら「糞」には注をつけていない。注をつけるまでもなく、語意明瞭であると考えたのであろう。
小島憲之の頭注を考慮して、この部分を現代文に意訳すると、次のようになるであろう。
もし自分に余暇のあるときは、従僕を伴って家の後ろにある菜園へいき、農作業をする。そこで排便をすることもあるし、野菜に水をやったりすることもある。
改めて強調しておきたいことは、この「池亭記」は当代の名文を集めたという「本朝文粋」に掲げられている公開を前提として慶慈保胤が書いた文章である、ということだ。つまり、保胤の十分な推敲が入っている文章であり、「呼僮僕入後園。以糞以灌。」を保胤はなんら疑わず、 「本朝文粋」選者らも異とすることはなかったのである。つまり、家の菜園などで野糞をすることが当時普通の習慣であったと考えられ、しかも当時のインテリ達もそれを表現上隠す必要さえないことだとしていたのである。もちろん、当時も便所の設備はあったが(その実例を次節で扱う)、野糞の習慣もさして異とすることなく行われていた、と考えられるのである。(もっとも 「本朝文粋」には「鉄槌伝」が収められているし、「今昔物語集」には、性器表現や男女性交表現がとても露骨に表されているので、「以糞」に驚くことはないともいえる。むしろ、王朝期の“性タブー”が現代のそれとは大いに異なっていた、という観点から考えるべきなのだろう。)
「以糞以灌」について、「肥えを施し、水を注いだ」と農作業の描写とすることができれば面白いのであるが、無理のようである(下の「補注」を参照のこと)。
拙稿「排泄行為論」では、人糞尿を「下肥」として便所に蓄えることが日本において普及し始めるのは、鎌倉時代以降とされている、と定説を紹介している(「排泄行為論」(4.7):「トイレの考古学」)。ただし、便所施設は古墳時代から存在し、藤原京以降、条里制の都市計画の中に、都市を流れる水流の溝も含まれ、平安京でも当然、貴族邸宅には水流を引きこんで便所設備と結びつけていたであろう。
「補注」
増淵徹「貴族の生活と心情」(「〈都〉の成立」平凡社2002所収)という興味深い論文に、「池亭記」を取りあげてあり、そこでは「以糞以灌」を
あるいは糞[こえ]し、あるいは灌[そそ]ぐ。
と読んでいる。このように述べてあるのを見ると、たしかにこれの方が無理がないな、と思う。もう少し増淵徹を引用しておく。
この糞が人間のものか、それとも牛馬のものか、これだけではどちらかわかりませんが、興味深い記述です。農業史の方面では、人糞尿の使用は中世に一般化するといわれていますので、そこから考えると、これは牛糞・馬糞を撒いているとも考えられます。(以下略、同書p155)
わたしは古典体系本の「糞まる」という読みにひきずられて、野糞の話に入ってしまったのだが、牛糞・馬糞の肥を施していた、という話に持ち込むこともできるわけである。当時、牛車や乗馬で、牛馬が身近であったとすれば、その可能性も大きい。他に資料があるのか、宿題にしておきます。
別の話題だが、増淵の論文で教えられたことがもう一点ある。それは、鴨川の堤防のことである。「年中行事絵巻」から「稲荷祭の神幸の行列」が鴨川を渡る場面を示して、稲荷祭の行列見物は七条大路で行われたという故事から、「七条通りの東には堤防も何もなく、そのまま鴨川を徒渉する」場面になっていることを指摘している。そして、
現在の京都でも、七条付近から鴨川は西に曲がり、もとの平安京の東南の範囲にくい込んできますから、古代の国家が維持の努力を払った鴨川堤防は六条までであったと考えてはどうでしょう。(p164)と、述べている。  

「池亭記」は、内記という官職にあった時代の慶慈保胤の作品である。われわれは、前節・前々節で「池亭記」の8割ほどを意訳して読んだ。その末尾には「記」の結びの形式にしたがって(小島憲之の頭注の教示による)、「天元五載、孟冬十月」と明記されている。982年である。
既述のように、保胤は池亭において「日本往生極楽記」を書き(985,6年ごろ)、「朝散太夫行著作郎慶保胤撰」と唐風に官吏としての署名を述べている(朝散太夫:従五位下、行:官位令が定める相当する官位より保胤本人の位が高いことを示す。低ければ「守」と書く。大内記は正六位上相当、著作郎:中務省の大・小内記、慶保胤:慶慈保胤。以上は前掲井上光貞の頭注による)。阿弥陀信仰がますます押さえがたくなり、ついに出家したのが寛和二年四月(986年)である。寂心と名乗る。それ以降16年間の出家生活があり、長保四年十月(1002年)に70歳前後で示寂した。
第2節とこの節で紹介する「今昔物語集」の「巻第十九第三話内記慶滋の保胤、出家せること」の寂心は、いうまでもなく、出家した以降の保胤=寂心である。
「第3話」
寂心聖人が、石藏[いわくら左京区粟田口]という寺に住んでいたときの話である。
体を冷やして、腹下しをしたことがあった。厠[かわや]に行く際の物音を隣の房の法師が聞いていると、厠で排泄する音は、まるで容器から水をそのままこぼす様だった。年老いた人がそんな様子なので、とても気の毒に思っていると、聖人が物を言っているので、他に人がいるのかと思って、壁の穴からのぞいて見ると、老いたる犬が聖人と向かいあっていた。犬は聖人が立つのを待っているのだろう、それに向かって話しかけているのだった。
この寺には僧侶の房がいくつか並んでおり、厠も近くにあった。下痢をした寂心がひんぱんに厠に行くのを心配した隣の房の法師が様子をうかがっているのである。厠の音が手に取るように聞こえる。穴も開いている粗末な造りである。
図は、拙論「排泄行為論」でも使った「暮帰絵詞」(14世紀)に出てくる便所である。「京都大谷禅室の裏を描いたもの」である。「土を掘って板をわたしている。そしてその上に小屋をたてているのである。僧が法衣を肩にしているのは便所へいったためにぬいだものであろう」(「日本常民生活絵引5p114」)。
寂心とは400年の年代差があり、しかも、「京都大谷禅室」といえば当時の大寺院の一つであろうから、便所の造りもずっと立派になっている可能性がある。板壁で、檜皮葺のように見える。長方形の穴を掘り、その長さの方向へ厚い板を2枚渡しかけ、それに跨って用便をする。右図では、2枚の板を渡す支点になるように穴の縁に置いた板が描かれている。多人数が使用する便所であれば、それだけ、堅牢な造りになっていたであろう。また、鎌倉期以降には、人糞尿の下肥としての利用がはじまったと考えられているが、この大谷禅室がどうであったかは分からないが、一般に下肥利用のためには糞尿を汲み出すための作業が可能なように、広い空間を設けた可能性がある。図で便所が開け放しになっているのも、そういうことに関連しているかもしれない。(そうでない、単に、便所の中を見せるために出入口を描かなかった可能性もないとはいえない。しかし、わざわざ、便所の内部を見せるためと考えるより、便所は開け放しで、汲み取り作業にも都合がよくなっていた、とわたしは考えている。)
そのうちに、厠から話し声がするので、穴からのぞくと、しゃがんでいる寂心が犬と向かいあっていた。寂心はしゃがんだまま、その老いたる犬に話しかけている。犬は、聖人が用便を終わって立ち上がれば、糞便を食べようと思って、待っているのである。その部分の原文は次のようになっている。
聖人の立て待[まつ]なめべし。(「今昔物語集四」p63)
「待なめべし」は「待なるべし」の音便形「待なんべし」を、このように表現したものだろうか、と頭注は言う。「かの犬は聖人の立つを待つなるべし」と推量しているのは、覗き見ている隣の房の法師である。
聖人は老いたる犬に、次のようなことを語っていた。
前世で、人に後ろ暗い心をもってふるまい、人に汚ない物を食わせ、道にはずれた行いで物をむさぼり、我が身を大事にし、人をおとしめ、父母に不孝なふるまいをし、このようなもろもろの悪い心をはたらかせて、善き心を使わなかったことによって、このような獣の身となり、つたなく汚なき物を求めて食べることになったのです。
わたしの父母とも繰り返しなって下さったお身に、このような不浄な物をお食べいただくのは、極めてかたじけないことです。なかんずくこの頃は、はやり風邪を引いて水のよう物をいたしましたので、まったく食べることもできないでしょう。とても残念に存じます。
そこで、明日、おいしい物を準備してご馳走しましょう。それを、思うままにお食べ下さい。
このように言いつつ、聖人は目から涙を流していた。しゃがんだまま語り終わると、それから立ちあがった。
寂心は、六道輪廻の仏教理念をそのとおり実在界の構成理念として信じ、それを非妥協的に周囲の日常世界に適用し強要する。その意味で、仏教原理主義者だといってよいだろう。「第2話」の馬をむちうつ舎人の男に対して展開した論も同じで、舎人の男は辟易して「お説ごもっともです。これからは馬を自分の父母と思って、むちうつことは固くいたしません」とその場限りの後退をして、逃れた。「第1話」の、紙冠をかぶって陰陽師の姿をしている法師にたいする寂心の批判の論法は、相手が法師という知識人であるために、より過激で先鋭であった。陰陽師の法師は通俗的な“身過ぎ世過ぎ”の立場に後退し、自分が理論的にはまったく破綻していることを認める。しかし、敏感な仏教原理主義者である寂心は、仏閣建立の喜捨財物をすべて放棄することで、自分の立場を首尾一貫することが辛うじてできる、というところに自分を追い込んでしまっていた。
「第3話」が理論的にも面白いのは、こんどは相手が犬であるということである。犬は理論的に後退することはないし、感謝もしない。しかし、この犬は「老いたる犬」であって、おそらく、石藏寺の周辺にたむろしている犬の群の中でも弱い立場の犬なのであろう。まだ用便中の寂心がいるうちから便所の中に入りこんでいて、人糞を食べようと待っているのである。可能な限り人間にすり寄って、寄生的に生命をつないでいる、そういう犬であると考えられる。
寂心が犬に対してご馳走を約束した、その当日の話である。
あくる日、「聖人が昨日犬に対して語っていたことの準備は、どうしているのだろう」と、隣の房の法師は事情を他人に語ることなく様子をうかがっていた。
聖人は「お客があるので、そのもてなしをしよう」といって、飯[いい]をたくさん土器[かわらけ]に盛らせた。菜[な]を三、四品ばかり調え、庭にむしろを敷き、その上にこの饌[そなえもの]を据えて、聖人はその前にへりくだって座り、「食べ物の用意ができました。早くいらっしゃい」と声を挙げて呼んでいた。(同前p64より意訳)
寂心は父母をもてなすのと同じ気持ちで、その老いたる犬にご馳走を用意するのである。したがって、「お客があるので、そのもてなしをしよう」(原文は「人の御儲けせむ」)といって準備を、おそらく配下の小僧や雑色に、させたのである。周囲の者たちは「お客」が老いたる犬であるとは思っていない。それを知っているのは、昨日便所をのぞいていた隣の房の法師だけである。
さて、寂心の声を聞きつけて、老いたる犬がやってくる。この犬は、犬の群に入ることができない弱い立場であり、われわれ後世の者が知っている“飼い犬”に近い立場で、つねに、房の周辺に居付いていたと考えられる。
その時に、かの犬がきたりて飯を食う。それを見て寂心は、手を摺って、「なんと嬉しいことだ、準備の甲斐があってお食べになっている」といって、感激して泣いていた。
ところが、そばから若い大きな犬がやって来て、飯を食うのではなく、まず老いたる犬を掻き転がし、追い散らしてしまった。
その時、聖人は手を振りまわして立ち上がり、「そんなに行儀悪くしてはいけません。その食べ物はみなご馳走するためです。まず、仲よくしてお食べなさい。そのような非道なお心をお持ちなら、来世はさらに下等な獣の身を受けることになりますぞ」と言って、止めようとしたが、犬がそんなことを聞くでしょうか、食べ物をみな泥だらけに踏みつけにし、食い散らした。その声を聞きつけて他の犬共も集まって来て、かみつきあい吠えあった。聖人は「こんなお心は、見ない方が良い」と言って、逃げて板敷きの上にのぼってしまった。
隣の房の法師はこれをみて笑った。聖人は、悟りある人ではあるが、犬の心を知らないで、前生[ぜんしょう]のことを思って敬うのだが、犬はそんなこを知っているだろうか。
隣の房の法師の感想は、「第二話」の舎人の男と同じく、通俗的な立場である。原文は次のようになっている。
智[さと]り有る人也と云へども、犬の心不知して、前生の事を思ひて敬に、犬知なむと。
犬は「畜生」であって、六道輪廻の思想を知らないし理解する力もない、という通俗的な理解の立場に立てば、寂心のような犬への施しをしようとするのは笑うべき無駄なことであるし、舎人の男が動かない馬にムチを振るうのは合理的なことだ、ということになる。更に普遍化して、魚介・畜生を使役し食肉をとるのは、人間の身過ぎ世過ぎのために、合理的なことだというのが、通俗的な立場である。
寂心は、その通俗的立場に断固として対決する仏教原理主義を貫こうとしているのである。そのために通俗的立場の日常性に鋭く対立しようとしている。その対立を少しでも妥協すれば、寂心の先鋭な阿弥陀信仰は緊張を失い通俗の世俗仏教に包接されてしまうのである。
「今昔物語集」の編者・作者はかならず一編の最後に教訓めいた「編者の言葉」を残しているが、この「内記慶滋の保胤、出家せること」の最後は次のような言葉で締め括っている。
内記の聖人と云[いひ]て知[さと]り深く道心盛[さか]りにして止[やむ]事無かりけりとなむ語り伝へたるとや。(同前p64)
通俗的な常識の立場からすれば「内記の聖人」は笑うべき行いをした人であるが、悟り深く信仰を求める熱意がとても強い尊敬すべき方だった、という批評は、文飾や形式的なものではなく真面目なものだと思う。
人が排泄し終わるのを待ち構えるようにして犬が人糞を食べてしまうことは、拙稿「排泄行為論」(4.1)野糞・野しっこで、河口慧海の例を示したことがある。この風習は、現代のアジアで広く見られることであり、近頃知ったことだが、世界のトイレという驚嘆すべき情報量の多いサイトに、チベットで野糞をしている男の近くでチベット犬が待ち構えている写真が掲載されている。(上記「世界のトイレ」をクリックすると、画面右半分が「厠」となって多数の写真が並んでいる。それを、ずっと下へ見ていき、最後から3つ目(09年9月現在)の写真が、それです。男が水様便だったがために、チベット犬が不満そうであった、というコメントなども、寂心の場合と似ていて、微笑を禁じ得ない。)
また、江戸期以前は日本でも普通のことであった。それと関連するが、野糞ではなく便所があるところでは、犬と便所との間に関連があるのが普通であった。拙論「排泄行為論」の上と同じ(4.1)で、12世紀末に成立したとされる絵巻物 「病草紙やまいのそうし」から「霍乱かくらん」の場面を引いて、縁先に排便する際に庭に白犬が来ている様子を指摘して「これは犬が人糞を食べるのが普通であったので、画家が描きこんだもの」だろうとしている。  

慶慈保胤と同時代人で、「今昔物語集」で通俗的世界に痛罵を加えた人物としてもっとも名高いのは増賀上人(雑賀とも書く、917〜1003)であろう。
増賀上人は「今昔物語集」で、2回扱われている。「第十二巻の第三十三話」と「第十九巻の第十八話」であるが、いずれも、かなりの長文である。前者は「多武の峰の増賀聖人のこと」と題し、誕生の時の奇瑞から、十歳で比叡に入り、のち多武峰に移り、臨終の際のふるまいまでを記す。極めて「貴き聖人」の評判が高く、天皇の召しが有ったが、「様々の物狂はしき事」をし出して「逃げ去りにけり」とする。後者は「三條の大皇太后宮出家のこと」というもの。「三條の大皇太后宮」というのは円融天皇皇后だった女性で、出家は長徳三年(997)三月十九日のことである。
ちょっと、信じがたい増賀の奇行は、三條の大皇太后宮出家の儀式で起こった。同一内容が「宇治拾遺物語」(143)にも出ているのだが、さすがの露伴も「連環記」で、
三条の大きさいの宮の尼にならせ給わんとして、増賀を戒師とせんとて召させたまいたる時、途轍も無き麁言(そげん)を吐き、悪行をはたらき、殊勝の筵に列(つらな)れる月卿雲客、貴嬪采女(きひんさいじょ)、僧徒等をして、身戦(おのの)き色失い、慙汗憤涙(ざんかんふんるい)、身をおくところ無からしめたのも、うそでは無かったろうと思われる。それを記している宇治拾遺の巻十二の文は、ここに抄出するさえ忌わしいから省くが、(以下略)
と言っているほどである。
わたしは「忌まわしい」ところがはっきり分かるように、大意をまとめる。
三條太皇太后宮に出家の望みがあり、増賀は落飾(髪を切る)の儀式の師として招かれた。几帳の外まで出された皇太后宮の長い髪を切る。そこまでは普通にやったのだが、退出する前にわざと大声をあげ、「なぜ増賀を召したのか、自分のマラが大きい噂をきいてか。実際にひとより大きいが、若いときはともかく、今は練り絹のようにクタクタになってしまった」と言った。しかも、立って行く際に、「自分は年を取って、小便が近くて難儀している。今も、堪えがたいのでこうして急いで退出するのだ」と言いざま、簀の子のうえで、尻を掻き上げて、ジャアジャアとはばかりなく放尿した。その音は太皇太后宮の耳まで達した。(同前四p100より、大意)
わたしが簡単のために「マラ」としたところは、原文では「乱り穢き物」(ひどく汚ない物)と書いている。「今昔物語集」はわたしたちのような性的婉曲とは違う性文化にあったと思え、かまわず「まら」や「つび」と書いている(例えば、巻第十四第二十六話では「まらをつびに入れる」とある)。したがって、ここの原文の「乱り穢き物」は、むしろ八十歳の老僧・増賀が実際に口にした口語的な表現である可能性がある。露伴は上引の続きで、増賀を評して「実に断岸絶壁、近より難い、天台禅ではありながら、祖師禅のような気味のある人であった。」と言っている。
その、増賀とわが寂心=保胤との間柄であるが、増賀の方が15〜20歳の年上であろう。増賀がいまだ比叡山におり保胤出家の後、増賀が叡山で「摩訶止観」の講義をしたことがあり、寂心がそれを聴講した。増賀は十歳で叡山に登り慈恵僧正(良源)の弟子となり、止観を学んできた天台宗学の直系の人である。 「連環記」が面白いので、ふたたび、引用させてもらう。
増賀はおもむろに説きはじめた。
止観明静(めいじょう)、前代未だ聞かず、という最初のところから演(の)べる。其の何様(どう)いうところが寂心の胸に響いたのか、其の意味がか、其の音声(おんじょう)が乎、其の何の章、何の句がか、其の講明が乎演説が乎は、今伝えられて居らぬが、蓋し或箇処、或言句からというのでは無く、全体の其時の気味合からでも有ったろうか、寂心は大いに感激した随喜した。そして堪り兼ねて流涕し、すすり泣いた。
すると増賀は忽ち座を下りて、つかつかと寂心の前へ立つなり、しや、何泣くぞ、と拳を固めて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙を流して謹み聞けるものを打擲するは、と人々も苦りきって、座もしらけて其儘になって終った。さてあるべきではないから、寂心も涙を収め、人々も増賀をなだめすかして、ふたたび講説せしめた。と、又寂心は感動して泣いた。増賀は又拳をもって寂心を打った。是(かく)の如くにして寂心の泣くこと三たびに及び、増賀は遂に寂心の誠意誠心に感じ、流石の増賀も増賀の方が負けて、それから遂に自分の淵底を尽して止観の奥秘を寂心に伝えたということである。
何故に泣いたか、何故に打ったか、それは二人のみが知ったことで、同会の衆僧も知らず、後の我等も知らぬとして宜いことだろう。
「流石の増賀も、寂心の誠意誠心に負けた」というわけである。この話の出典はどれが元なのかよく分からないが、鴨長明「発心集」(二の五、内記入道寂心のこと)に出ている。
もう一人、大江定基・寂照に触れたい。三河守。この人は名文家として知られ、
笙歌[せいが]はるかに聞こゆ孤雲の上
衆生来迎[しゅじょうらいごう]す落日の前
は、衆生来迎の決まり文句のように、よく引用される(「平家物語」「大原御幸」では、中国の清涼寺で詠んだとする)。
文人として高名であった保胤よりだいぶ年少であろうが、知人であったと思われる。下で紹介するいきさつで出家する際、寂心=保胤のもとで出家している(988年)。つまり、寂心の弟子である(大江匡房 「続本朝往生伝」では「寂心をもて師となす」とある)。そののち天台教学を恵心僧都・源信に学ぶ。寂心没後、宋に渡ったが、その際、源信の書簡(南湖の智礼師宛の質問状)を持って行っている。寂照は宋で30年間過ごして、1034年に帰国せず没している。
「今昔物語集」「巻第十九の第二参河守大江の定基出家せること」は、定基の出家するまでの印象深い恋愛を取りあげている。
定基は六位の蔵人であったが、それを六年勤続すると従五位下に昇叙される例であるが、それで三河守に任ぜられた。定基にはもともとの妻があったが、若く美人の女と愛し合うようになった。定基は新しい女にとても深く執着し離れがたかった。そのためもとの妻が強く嫉妬して、夫婦関係を解消してしまった。
定基は、若く新しい妻とともに三河国に下った。(同前四p57より意訳)
多妻制(妻問婚)の当時であるから、二人目の女ができたというだけで異とするには当たらないが、定基は新しい恋人にひどく打ちこみ溺れてしまい、もとの妻の面目をつぶすような状態であった、ということであろう。それで、本の妻の方から愛想を尽かせて離婚したのである。 「源氏物語」などでよく分かるように、幾人もの恋人のもとに通いながら、それら恋人同士のバランスに細心の注意を払うのが当時の男のたしなみであった。定基はそういうたしなみを無視した恋愛に没入したのである。その所の原文は、
本より棲みける妻[め]の上に、若く盛りにして形ち端正[たんじょう]也ける女に思ひ付きて、極めて難去く思ひてありけるを、本の妻あながちに此を嫉妬して、忽ちに夫妻[めをと]の契りを忘れて相ひ離れにけり。
となっている。
なお、この若い妻を「赤坂の遊君力寿」とする伝えがある(例えば「源平盛衰記」巻七「近江石塔寺のこと」)。
せっかく任地にまで連れて行った若い妻であるが、その地で重い病に伏す。定基は心をつくして様々の祈祷などを行うが、よくならない。日を経るにしたがい女の容貌も衰え、ついに、死ぬ。
その後、定基は悲しみの心に堪えず、ひさしく葬送しないで、抱いて寝ていた。日数を経て、口を吸うと、女の口よりあさましく臭いにおいが出てきた。疎ましく思う気持ちが出来てきて、泣く泣く葬儀をおこなった。
その後、定基、「世は疎[う]きもの也けり」と悟って、たちまちに道心をおこした。(同上p57より意訳)
定基は恋愛ないし愛欲の極点にまで行って、道心に至ったというのである。上で紹介した匡房「続本朝往生伝」でも、同じ事情を述べている。
任国において、愛するところの妻[め]逝去[し]せり。ここに恋慕に堪へずして、すみやかに葬斂せず、かの九相を観じて、深く道心を起こし、遂にもて出家したり。(岩波日本思想体系7p248)
匡房の曾祖父・大江匡衡(1012年没)は定基(1034年没)と従弟同士であり、同族の大江氏として匡房(1111年没)はなんらかの信じるにたる伝えを持っていたものと考えられる。「かの九相を観じて」と品よく表現しているが、恋人の肉体への恋着が、堪えがたい死穢臭によって断ち切られた、という極限の体験が周囲に知られていたのであろう。
ところが「参河守大江の定基出家せること」は、三河国の「風祭」の際の鳥獣の“生き作り”の習慣をなまなましく描いて、定基の出家の動機づけに加えている。読むものが眼をそむけたくなるような残酷な描写を定基の若き妻の死穢のあとに置いている。
そうしている間に、この国では風祭をするのに、猪を捕り、生きながら料理しているのを見て、定基ははやくこの国を去ろうと心に思った。(同上p57より意訳)
「風祭」は、風を鎮めるために風の神を祀るお祭り。ここでは秋の収穫祭と重なっているようだ。
生きている雉を持ってきた人がいたのを見て、三河守は「さあ、この鳥を生きながら造って食べよう。今少しおいしく感じるかも知れない」と言った。守に取り入ろうと思って郎等たちは「まったくその通りです。どうして味わいが良くならないことがありましょうか」とへつらって言った。少し物の分かっている者たちは「変なことをするものだ」といぶかしく思っていた。
生きている雉の羽ねをむしるのに、鳥がフタフタとするのを押さえ込んで、むりにむしると、鳥は目から血の涙を垂らしながら、目をしば叩いてかれこれの顔を見ていた。その様子に堪えられず、立ち去る者もあった。「鳥がこんなに泣いてるよ」と笑いながらむしる者もあった。
むしりおわり解体するのに、刀を入れるにしたがって血がツラツラと出てきて、それを打ちぬぐい打ちぬぐいして切っていった。普通じゃない堪えられそうもない声を出してついに死んでしまった。(同上p58より意訳)
「フタフタ」とか「ツラツラ」は原文のままである。「今昔物語集」には、このような擬態語が多数現れている。
雉を炒ったり焼いたりして食べると、死んだのを解体するよりもずっとうまい、などと言いながら食べるのを見ていた定基は、涙を流し、声を放って泣いた。その日のうちに国府をでて上京し、もとどりを切って法師となり、寂照と名乗った。(「今昔物語集」では、寂心が定基の出家の際の師であったことには触れていない。)上京した寂照が、乞食の行の途中でたまたま本の妻にであい、侮辱するような言動を受ける。が、すでに寂照の道心は固く「あな貴[とふと]」と応えるばかりであった。
ここまでで「巻第十九の第二参河守大江の定基出家せること」の半分である。後半は、宋に渡ってからの逸話であるが、それは、省略する。
死せる恋人を抱いて寝ながら口を吸って死穢臭がしたこと、生きながら解体された雉が変な声を出した末に死んだこと。意図して隠喩が並べられている。
恋愛ないし愛欲の極点は、恋人の死であり、恋人が物に解体していくことと向きあうことである、と「参河守大江の定基出家せること」は述べているかのようである。定基の出家は、そういうどろどろの男女の愛欲の果てに行われたのであろう。上品に言えば匡房の「かの九相の観」である。
わが寂心=保胤は、そういう定基の心境を包んで出家の導師たるにふさわしい「誠意誠心」の人と、定基に信頼されていた、と考えることができる。  
 
「今昔物語集」にある「古代」という語

 


しばらく前から、午前中の時間を、岩波の日本古典体系本「今昔物語集」の読書にあてている。これは全5巻あり、量も膨大だが、その緻密な頭注もすごいものである。その頭注を頼りに読んでいけば、院政末期の語法にしたがった読みで、なんとか観賞することができるのである。
「月報65」(1963)に西尾実が「源信僧都のこと」という文章を寄せているが、その冒頭に
(日本古典文学大系)六十六巻の中で最も困難な仕事と考えられていた今昔物語集五巻も、故山田孝雄先生と御一家の容易ならぬ丹精によって、全五巻が完成した。その校注の克明と入念な成果は、読者を感歎させている。
と書いている。わたしは「今昔物語集第五巻」が出た昭和三十八年(1963)頃は理系の学生であって、「故山田孝雄先生と御一家」について何も知らなかった。今になっても、国語学者の山田孝雄の名前は知っているが、その一家が今昔物語集の解読に「丹精」をこめていたことは、この西尾実の文章で初めて知った。改めて 「今昔物語集」の校注者の名前を見ると、たしかに「山田孝雄、山田忠雄、山田英雄、山田俊雄」と書いてある。つまり、この山田一家が膨大・緻密な「今昔物語集」全五巻を完成させたのである(「月報23」が 「今昔物語集第一巻」に付いていたもので、昭和34年3月(1959)であるが、それにこの山田4氏の紹介があり、山田孝雄[よしお]は「本書進行中の昨冬十一月二十日に逝去」とある)。わたしは細字のフリガナや精緻な頭注を虫眼鏡を使って読んでいるが、電子組み版ではなかった当時の活字工の仕事ぶりにも頭が下がる。
関連して思い出したことなので書いておく。源氏物語研究の池田亀鑑について、わたしは個人的な繋がりからいくらかその実生活を知る機会があったが(子供時代に新宿区椎名町?の池田邸の庭先まで伺ったこともある)、能筆であったお父上も動員して古典文献の写本作りをしていたという。いわば、家内工業的な作業として自宅で、池田亀鑑の指揮の下に写本作りが孜々として続けられていた。池田亀鑑は後には東大教授になるのだが、その学問の基盤になるのは、個人的な努力で集積された古典文献が中心を占めていた。
日本語を解するすべての人間を稗益する「今昔物語集」や「源氏物語」の研究が、私的な係累の家内工業的な努力によってなされていたこと、少なくともわたしの学生時代までは(20世紀半ばまでは)、そういうやり方が行われていたことは事実であり、記憶しておく必要がある。山田孝雄の子息たちはいずれも大学教授などの公的職を得ているようだが、池田亀鑑の場合など無名のまま終わっている方々がおられたと思う。
これは、わたしが偶然に知ったわずかの事例である。肉親や係累ではなく、内弟子のような師弟関係によって構成される研究集団もあったであろう。こういう私的な小集団が研究工房とでもいうような形で造られ、日本古典研究の基礎部分を粘り強くなしとげていたことを指摘しておきたい。わたしは、こういう研究のあり方(前近代的なあり方といっても良いだろう)が、“よくない”と考えているわけではない。こういう私的集団でしかなしえない質の高い持続的な研究がありうると思う。また、日本古典研究(“国文学”ではなく)には、私的で秘密結社的なものがあってかまわない。俊成−定家の“御子左家みこひだりけ”というような血脈・家伝に重きを置くような世界の探求なのであるから。  

わたしは、何度か「今昔物語集」を読んでいるが、その度になにがしかのテーマを持って、そのテーマに触れるところに出会うと丁寧に読む、というやり方をしている。つまり、頭からまんべんなく丁寧に読んでいくというやり方では、わたしにはとてもこの膨大で多様な「物語集」を読破することはできない。
今回は、わたしは、まず「放免」という語の出てくるところを再読するのが第一の目的だった。それは小論「〈放免〉と〈着ダ〉」にもう少し手を入れて、ふくらみを持たせたいと考えてである。第二は、「今昔物語」の性行為に関する表現が直截で露骨であること、だが、扇情的ではないことなどに興味があり、性表現に注目しようと意図した。第三は、便所や排便についての題材から興味の持てるものが見付かるだろうか、と考えていた。
ここで取り上げる「古代」という語にまつわる感想は、上で意図していた第一〜三のいずれにも当たらないもので、ハッと心を打たれたところがあったものである。(第一〜三のテーマについて、いずれも面白いものを見つけることができた。この印象が薄くならないうちに、ともかく文章化しておきたいと考えている。遠くないうちに、このサイトにアップします。)
さて、ここから本論に入る。
「古代」という語が登場するのは(わたしが気がついたのは)「巻第二十九」の「第十二話」、題名は「筑後の前司[ぜんじ]源の忠理[ただまさ]の家に入りたる盗人のこと」である。以下、引用の際の文字遣いは、 「今昔物語集」の表記を無視して、読みやすさを第一に考えて書く。[・・]は振り仮名である。また、引用はすべて「今昔物語集五」(p158〜161)からなので、引用元のページの表記は省略した。
この「第十二話」は、主人公の筑後の前司・源忠理について、大和守・藤原親任[ちかとう]の舅であるという紹介の仕方をしている。藤原親任の方が有名であったのか、「今昔物語集」の編者にとってより現代人であったなどの理由があるものと思う。頭注によると、親任は母・室などの情報が判明しており、万寿三年(1026)に伊勢守になっている、という。ただし、大和守になった記録は未見であると。この年の一年後、万寿四年には藤原道長が没している。このことで、大体の時代が分かる。
主人公の源忠理は、それの一世代前の人と考えればよいであろう。「尊卑分脈」で、助理の子・筑後守・従五位下などが分かるが、それ以外の情報はないという。
ある晩、忠理が方違え[かたたがえ]のために、ひとり自分の家を出て近くの小さな家に泊まった。大路に面した桧垣に沿った室が寝所であった。雨がひどく降っていたが、夜中になって止んだ。人の足音がして、自分が寝ている室のすぐ外の桧垣のそばに立ち止まった。忠理はその晩は頼もしい配下の者をだれも連れてきていないので、怖ろしく、耳をそばだてていた。すると、もう一人の人物が登場する。
大路なかばより、また人の足音して過ぎけるを、この元より桧垣の辺[ほとり]に立てる者■吹をしければ、大路のなかばより歩く者、立ち留まりて忍び声にて、「何主[なにぬし]の坐[おは]するか」と云ふ。「然[しか]也」と答ふれば、寄り来たりぬ。(■は欠字をしめす。)
桧垣の傍で佇んでいる者が、大路を来る足音にむけて、口笛のような合図をした、ということなのだろう。大路を来た者は合図に足を止めて、「××さん、居るか」と忍び声を出す。桧垣の傍で「居るよ」と答える。雨の後の暗闇の中での出来事である。
忠理は、賊どもがすぐにでも踏み込んでくるかと身を堅くしていると、どうもそうではなくて、ヒソヒソ話がつづく。どうやら、立ったままで盗みに入る相談をしているようである。どの家に入る相談だろうかと聞き耳を立てていると「筑後の前司」という語が聞こえる。なんと、まさしく自分の家に入る相談をしていたのだ。しかもよく聞いていると、自分の所で心安く使っている侍が手引きをしていることが分かった。
「筑後の前司」など云へば、「すでに我が家に入らむずる盗人にて有り。それに我が許[もと]に心安く思ひて仕[つか]ふ侍の仲する事ぞ」とよく聞きつ。云ひはてて、「然らば明後日[あさて]何主を具して必ず坐[おは]し会へ」など、契りて、歩[あゆ]び別れて去りぬなり。「賢くここに臥してかかる事を聞きつる」と思ひけるに、辛くして明けぬれば、暁に家に返りぬ。
「賢くここに臥して」は、「ちょうど幸運にもここを寝所にして」。「辛くして明けぬれば」は、「やっとのことで夜が明けたので」という表現だが、頭注によると、現在普通に使う「辛うじて」の原形であるという。そして、次のような指摘は、なるほど、と思う。
(「辛くして」は)夜の明けるのと方違えの期の過ぎるのを待つ心理的時間の長さを端的にあらわす語。
自宅のすぐ近くの小家で方違えのために一夜を過ごしていた忠理は、明後日に自分の家に盗人が入ることを知り、じりじりしながら時間が経つのを待っていたのである。方違えのことがなければ、すぐにでも自宅に戻って、対策を打つ事になるであろうから。
つぎに引用する所に、「近来」と対比させて「その比までは」人の心も「古代」であった、という語が登場する。
近来[ちかごろ]の人ならば、明くるや遅きと宿直[とのゐ]をも数[あまた]設け、かの「仲するぞ」と云ひつる侍をも搦めおきて、入り来たらむとせむ盗人をも尋ねて、別当にも検非違使にも触るべきに、その比[ころほひ]までは人の心も古代[こたい]也けるに合わせて、その筑後の前司が心直[うるは]しき者にてしけるにや、この仲する侍を、然[さ]る気[け]なきやうにて白地[あからさま]に外に遣りて、それが無かりける間に、ひそかに家の内の物を吉[よ]きも悪[あし]きも、一つも残さず、外[よそ]に運びてけり。妻[め]・娘などをも兼[かね]てより異事[ことごと]につけて外[よそ]に渡し置てけり。
つまり「古代」と書いているが、今のわれわれの意識する古代とはだいぶ違っていて、「古体」ないし「古態」の気持ちが半分は入っているのである。
近ごろの者なら、自分の家の警護を厚くし、手引きする侍をとらえ、盗人一味の正体を吐かて、検非違使に通報するだろう。それに対して古代の心を持った筑後の前司のやり方は、まるで違っていた。さりげなく手引きする侍に外向きの用事を言いつけ、その侍が居ない間に、家の内の物を残らずすっかり運び出して、別の安全な場所にしまった。妻も娘もほかの用事にかこつけて外にやってしまった。  

一日おいた夕方、空っぽになった家に手引きする侍がやってくる。筑後の前司たちは、その侍に何も気づかせないように巧みにふるまって、その夜、自分らは密かに家を抜け出して近くの人の家に行って寝る。このところは、次のように書かれている。
さてその契りける日の暗〃[くらくら]になる程にぞ、この仲する侍[さぶらひ]来たりければ、気色[けしき]も更に見せず知せずして、我等も有るように持成[もてな]して、夜うち深更[ふく]る程に忍び出でて、近き人の家に入り臥しぬ。
「契りける日」というのは、暗闇の中で盗賊が相談していた「明後日あさて」のことである。この手引きする侍は“住み込み”ではなく、二日目の日は筑後の前司の家に戻ってこなかったようである。さらに“常勤”というのでもなくて、三日目の「契りける日」は夕方暗くなった頃にやって来たのである。この侍は筑後の前司の家に使われているが、仕事があるときに随意に来て働くというような緩いつながりで雇われていると考えるのがよいようである。
あるいは、この後の話の流れからすると、この邸の夜の警護の仕事をしていたと考えてもよいであろう。
夜に入って、盗賊団がやってくる。
その間に盗人ども来たりて、まず門[かど]を叩きけるに、この仲する侍、門を開けて入れたりければ、十廾人[じゅうにじゅうにん]ばかりの盗人立ち入りにけり。心に任せて家の内を探しけれども、露ばかりの物も無かりければ、盗人求めわびて出でて行くとて、この仲する侍を捕らへて、「我等を謀[たばかり]て物も無き所に入れたりける」と云ひて、集まりてよく蹴踏[クエフミ]凌じて、はてには縛りて車宿[くるまやどり]の柱におぼろけにては解免[ときゆるす]べきやうも無く結び付けて、出で去りにけり。
「十廾人ばかり」は、わたしたちには珍しい表現に見えるが、「今昔物語」ではよく使われている。十人ないし二十人ばかり。人数、匹数、長さ「町」などいろいろなものに使っているが、数字の組合せは、実際に現れているのは十と二十だけである。
暁に筑後の前司は自分の家にもどって、ずっと居たように振る舞って、手引きした侍を探し、車宿の柱に縛りつけられているのを見つける。盗人の仲間に痛めつけられたと思っておかしかったが、素知らぬ風で「なんでこんな目にあったのか」と聞く。侍は「盗人が怒って縛りつけて去ったのです」と答える。
筑後の前司、「かく物も無き所と知る知る、その主達の坐[おは]するこそ■なれども止みにけり。その後、物無き所と知りて、盗人も入らで有りぬる。然れば近来[このごろ]の人の心には替[かはり]たりかし。その仲しける侍はその事とも無くて、その所をば出で去りにけり。
筑後の前司は、とぼけて手引きをした侍に対して、「こんなに何もない家だと分かっていながら盗もうとやってくる人たちこそ、妙なものだが」と言って、それだけで言うのを止めにした(本文で、会話の終わりと地の文とが融合して、おかしくなっている。そのため“」”が書かれていない)。そのあとは、物のない家だとわかって盗人も入らなくなった。このごろの人の(この家の)評判に変化があったようだ。手引きした侍は、いつの間にかその所から去ってしまった。
これで話は完結しているが、短い追加の話が加わっている。
その後この家には侍が二人使われることになった。近所に火事があったとき、荷物を運び出すことになった。もともとたいした荷物も置いていないので、二人の侍には空の大唐櫃を運ばせた。筑後の前司がひそかに様子を覗っていると、侍らは唐櫃の錠をねじ切って中を調べ、空っぽであることを知り、「物得べきやうも無き人にこそ有りけれ給料ももらえそうもない人だ」と言って、去っていった。それで、筑後の前司の感想。
筑後の前司の云ひける様[やう]は、「家の物外[よそ]に運び置きて、よき事有り、悪しき事有り。盗人に物取られぬ、これいとよき事也。二人の侍[さぶらひ]逃がしつる、これ極めて悪しき事也」とぞ云ひける。
自宅の物を安全な場所に移しておくと、盗人に物を盗られなくなるのは良いことだが、盗む意図のあった侍二人を逃がしてしまったのは悪いことだ、という何だかぼやけたような感想である。
「今昔物語集」では編者の評がかならず一編ごとの末尾に付くのだが、ここでは次のように言っている。
賢き者なればかかる事どもはしたるぞとは思へども、これいと吉[よ]き事ともおぼえず。物を取りよせつつ使いけむも極めて悪しかりけむものを、古はかかる古代[こたい]の心持[も]たる人ぞ有りけるとなむ語り伝へたるとや。
「賢い人だからこういう事をしたんだろうが、とても良い事とは思えない。必要な物を取り寄せながら使うというのはとても不便で、良くない」。この評は、千年後のわたしもその通りだと思う。だが、とても不便で悪いはずなのに、それを意に介さずに「かかる事ども」をしたのであった。「古はかかる古代の心」を持った人がいたのだ、という最後の言葉がやはり光る。  

「今昔物語集」の頭注は、「古代こたい」に対して、「「古体」と同義。昔風でおおらかであった」としている。
わたしは「昔風でおおらかであった」という解には、違和感を覚えた。「おおらか」というような問題じゃないように思うからである。その点は、以下に述べる。
“時間の流れ”という発想を前提とした「時代」というときの「代」と同様に、「古代」(こだい)という語がいまのわれわれの普通の使い方である。「近代」、「現代」も同様である。
「今昔物語集」の編者の時代は、12世紀前半の院政期、あるいは保元・平治の乱以前と考えられている。編者は「宇治拾遺物語」の源隆国(1004〜77)とする説があるが有力説とは言いがたく、未詳の僧侶説や複数説もあり、分かっていない。ともかく、この編者の時代に、「古はかかる古代の心」を持った人がいた、という表現がなされていたわけである。この表現は、いまのわれわれが使う意味での「古代」とはすこし違った意味を持っていたと考えられている。
古はかかる古代の心持[も]たる人ぞ有りける
の「古代」が今のわれわれが使う意味と同一であるとすると、一種の同義反復になってしまう。そうだとすれば、確かに頭注が言うように、「古はかかる古体の心」を持った人がいた、ないしは、「古はかかる古態の心」を持った人がいた、という意味であったとすれば納得がいく。「古体の心」というのは、いまのわれわれの表現に直せば「今風じゃない心」というぐらいになるだろう。
さて、それなら、頭注が言うように「古体の心」は「おおらかな心」なのであろうか。
筑後の前司が、盗人が入るという企みの情報を自らつかんだときやったことは、盗人たちの侵入に対して(1)検非違使ら公権力に依拠して盗賊団を取り締まる、(2)「宿直とのゐ」を増やして実力を持って対抗するという方法ではなく、“家に盗られるような物を一切置かないこと”によって盗人側の意図を自壊させるようにしむける策略を用いている。“あそこの家は盗むに値するものを持っていない”という評判が盗人の間で立てば、それ以上の堅固な防御法はないわけである。実話としてはやや無理なところもあるが、「古いにしえ」と「近来このごろ」を対比させて、盗賊などの外部からの私的暴力への対処法を問題にしていると考えれば、筑後の前司のやり方は、私的自衛を主たる防御法とした時代の戦術として、非常に「賢い」高等戦術であるといえる。
公的実力(検非違使など)や個的実力(宿直など)によって、外部の私的暴力(盗人など)に対抗するという考え方は、法的秩序が社会全体を覆い始めている段階ではじめて意義を持って来るであろう。ある法的秩序の内部においてのみ〈公−個〉的実力が〈私〉的実力と対抗することに絶対的な区別が可能である。法的秩序がいまだ権力中央の局部に存在するに過ぎない段階(小国家分立段階)では、公的実力と個的実力とは相対的な意味しか持たず、なんら絶対的な意義を持たない。私的暴力(豪族などの)がなんらかの契機によって法的秩序を獲得して〈公−個〉世界を成立せしめることによって、はじめて、私的暴力を差別化することが可能になる。
法的秩序が社会全体を覆い始めている大和国家(関東以西の列島)の内部で、法的秩序がいまだ社会を覆っていない段階を思想的に想起しているのが、ここでいう「古いにしえ」である。つまり、筑後の前司を「古いにしえ」を象徴する人物と考えれば、彼の策略は、公的実力と私的実力の違いが相対的な意味しか持たない時代には、意味を持ったかも知れない策略なのである。
法の網が社会の隅々にまで滲透しつつある段階に、「古いにしえ」を振り返って「おおらか」と評するのは的外れとは言えないが、本質を突いた評ではないというべきだ。
もうひとつ、この物語で面白いのは「侍さぶらひ」のあり方である。筑後の前司は、自分の家で自分の配下として使っていた侍を持っていた。
我が許[もと]に心安く思ひて仕[つか]ふ侍
が、じつは、「仲する事」が判明した。この侍は、たんなる下男(雑色)ではなく、侍という以上、武器などを常に携えている男なのであろう。上で述べたように、この男は警護役などを行っていたと考えられるが、筑後の前司の家司としてその経営内部に通じているというより、ゆるい繋がりで、自由度を持って勤務していたと考えられられる。それで、都合が悪くなれば、知らぬ間に消えてしまう。
追加の挿話に登場して唐櫃を運ぶ二人の侍は、つぎのように、紹介されている。この紹介の仕方にも、この物語に登場する侍の性格が反映している。
その後、また侍[さぶらひ]二人出で来たりて仕[つか]はれけり。
この二人が、唐櫃の錠をねじ切って中身が空っぽであることを知り、去って行くところ。
「物得べきやうも無き人にこそ有りけれ。何を頼みてか有らむ。去来[いざ]去りなむ」と云いて、かきつらなりて、逃げて去りにけり。
彼ら侍は、おそらく何らかの武器を携えている「実力」として期待され、雇われているのであろう。しかし、その出自や所属は問題にならず(その点、後の武士とは異なる)、私的な浪々の者であったように思える。このような「侍」が検非違使の配下や「宿直」にも、また、筑後の前司のような者の家にも雇われていたのであろう。そして、その存在は浮動的であり、彼らのもつ武力がかならずしもその雇い主の為に使われるとはかぎらず、盗賊側に転ずることもあったのである。  

国語辞典で「こたい古体」や「こだい古代」を引くと示されている日本古典の有名な例を、「万葉集」と「源氏物語」から一つずつとりあげておく。
「日本国語大辞典」の「こたい古体」には、
古い時代のものであること、古めかしいこと、また、そのさま。昔のすがた。古風。昔風。
と解があって、「万葉集」巻六(1011)の題詞を例示している。これは「古」という字を意識的にくり返して使った題詞で、その末尾に出てくる。古典体系本「万葉集二 」から、読み下し文を引く(読みやすさを重視して、適宜仮名にした)。
このごろ古舞盛[さか]りに興りて、古歳[ことし]漸[やや]く晩[く]れぬ。理[ことわり]共に古情を盡して、ともに古歌を唱ふべし。故[かれ]にこの趣になぞらへて、すなわち古曲二節を献る。風流意気の士、もしこの集ひの中に在らば、争ひて念[おもひ]をおこし、心心[こころこころ]に古体に和せよ。
わがやどの梅咲きたりと告げやらば来[こ]ちふに似たり散りぬともよし
春さらばををり[成長している]にををり鶯の鳴くわが山斎[しま、庭園]そやまず通わせ
「冬十二月十二日」に歌舞所[うたまひどころ]の者たちが葛井広成の家で宴会をした。その際に、古風な歌2首を示し、みなで唱った、というのである。
雅びな心を持ち意気盛んな人よ、もしこの宴におられるのなら、きそって気持ちを奮い立たせ、心を合わせてこの古風な歌を唱おうじゃないですか。
わが梅が咲いたとお報せしたら、おいでなさいよ、いらっしゃるなら梅が散ってもかまいません
春になったら、よく繁りに繁って鶯が鳴いているわが庭にこそ、どうぞいつでもおいでなさい
辞典によると「古体」という語は、もともとは、漢詩で唐代の律詩・絶句を「近体」というのに対して、それ以前の体をいうのだそうだ。万葉の時代には、すでに知識人たちの間にその語が知られていて、和歌や舞などに対しても広く「古風な、昔風な」という意味で「古体」と言うようになっていたと考えられよう。
「日本国語大辞典」の「こだい古代」には、
古い時代。むかし。いにしえ。
として、「源氏物語」若菜上から、「こたいのひが事どもや侍りつらむ」が例示してある。(かつては「源氏物語」の中から、該当個所を見つけるのは容易ではなかった。現在では、ネット上に日本古典文学の原典の多くが電子化して全文公開されているので、多くの場合、非常に容易に該当個所にたどりつくことができる。たとえば「平成花子の部屋」の源氏物語(原文)の部屋に、pdfファイルがあり、利用できる。「古代」で検索すればよい。ただし、もし検索対象文書に「こたい」と入力してあったらヒットしないので、検索対象文書をある程度見て、その特徴を大まかに知っておく必要はある。)
日本古典文学大系では山岸徳平校注「源氏物語三」に該当個所がある。「明石の上」と光源氏の間にできた娘である「明石の女御」が東宮との間に子をなし無事出産する。明石の上は六条院の「冬の町」に住んでおり、そこに母親である「尼君」も同居している。この尼君は「六十五六のほどなり」という設定である(なお、出産した明石の女御は、十三歳である)。
「おばあちゃんが、いろいろと昔の事柄を持ち出して、とんでもない記憶違いをくどくど話すのは迷惑なことでしょう」というニュアンスで、明石の上が娘である明石の女御に慰め話をするのである。
古体のひが事どもや侍りつらん。よく、この世のほかのやうなる僻[ひが]おぼえどもに、とりまぜつヽ、あやしき昔の事どもも、出でもうで来つらんはや。(p280)
「あやしき昔の事ども不確かな昔の事柄」の中には、十数年前に須磨明石に流されてきた光源氏が、娘(明石の上)と恋仲になり孫娘を生むことに至る事情を見知っている母親(尼君)としての記憶が含まれている。
「古体のひが事」は、“昔風の”ということではなく尼君の記憶にある“古い過去の”瑣末な事柄、という言い方である。つまり、この「古体こたい」は時間の経過を主たる意義に置いて、使われている。十三歳の孫娘から見上げた、六十五六の祖母の持つ時間性を表している。その時間性を、この両世代の中間にいる明石の上が、母(尼君)と娘(明石の女御)の両方の時間性のあり方を見さだめながら、述べている。その時間差が「こたい古体」の主たる意義である。
この「こたい古体」の中には、“昔風の、古くさい”というニュアンスも含まれているが、しかしそれは、“時間がずいぶん経過した”という時間差を主たる意義にした上でのニュアンスである。 「日本国語大辞典」が「こだい古代」の用例として第一に挙げたのは、こういう判断に立っているからであるし、わたしもその判断によく納得できる。
上で引いた「古体のひが事どもや侍りつらん」という表記は、校注者の山岸徳平の判断が込められているわけで、「源氏物語」の原文は「こたい」なのである(この個所の原文は「こたいのひが事どもや侍りつらん」)。しかし、この「こたい」には、ここに述べてきたように、今のわれわれが普通に使っている時間軸を前提とした「古代」という語につながる意義が、はっきりと存在している。
「源氏物語」の完成は11世紀の初めとされるが、すくなくともその頃までに、今のわれわれが使う時間軸を前提とした「古代」に近い意義を持つ「こたい」が成立していたと考えてよいのである。
じつは、わたしは20代の終り頃、「近代」という語が日本において、いつ頃から使いはじめられたのかに関心を持ち、定家の「近代秀歌」を知った(実朝の求めに応じ、承元三年(1209)、四十代後半だった藤原定家が書いて贈った歌論書)。
その頃のわたしは「明治以来の近代」をどのようにしてか相対化できないものかと思想的に格闘していたのだが、定家の視野に「近代」という自覚が結晶していたことを知り、なにがしかの諦念を覚えた。それでわたしは無謀にも 「国歌大観」四冊を古本屋で手に入れ、定家の「初学百首」からノートを取りながら読んでいった。どの辺りまで進んだのか忘れてしまったが、格闘したという記憶は残っている。“本歌取り”などについてある程度の勘が働くようになったのを覚えているので、数年のうちにその程度の初心者のレベルまでは達していたのであろう。
わたしは「明治以来の近代」をどのようにしてか相対化する方途を編み出すということこそ、自分のぶつかった思想的課題の本命であると考えていたので、この数年間の“定家読み”の努力は自分の古典読解力の向上にはなったし、院政期末から鎌倉初の歴史への興味をかきたてられたが、自分に対して本質的な影響をもたらさなかったと思う。今になって思えば、残念なことであったかもしれないが、それも、わしたの生き方であった。
こういういきさつがあったので、この度、30年以上経って出会った「今昔物語集」での「古代」という語に、深く動かされたのだろうと思う。
13世紀初めの定家の時代には、すでにわれわれが使うのと同じような意義を持つ「古代−近代」という時間軸の存在を前提にした語が成立していたと考えられる。  
 
今昔物語集 / 考察

 

はじめに
「今昔物語集」は各説話の冒頭が「今は昔」で始めることを原則としていて三十一巻からなる。平安後期以後間もない頃の成立といわれており、天竺、震旦、本朝の三部に分かち、千二百あまりの説話を収めたわが国最大の古説話集である。
「そこに描き出される舞台は、都から辺境、禁中から街巷、山中、海上、海中、またインド及び中国に広がり、天上、地獄に及ぶ。そこに登場する人物も、帝王から乞食まであらゆる階層と職業にわたり、人間のみならず、餓鬼、畜生、修羅、天人と六道世界の全ての存在をつくし、そこに生起するできごともまことに多様である。こうした多量の説話と描かれてあることの多様性自体を、一つの価値と見なしても良いであろう。」(注一)と評価される 「今昔物語集」の多様な説話の中から女性の物の見方や考え方、周囲の女性に対する見方や考え方が現れているものを取りあげて考察する。
「今昔物語集」が編纂された時代に生きた人々は、現代に生きている私達に比べて大きく異なった環境のなかで過ごしていた。当然私達が行動していく際に基準にしている価値観もまた様々な相違点があるであろう。それらを比較していく為に女性に焦点を当て、女性特有とおもわれる考え方や行動、また男性の側から見た女性像がどういったものであったかを考察する。まず、 「今昔物語集」に登場する女性は何を基準に行動していたのかを、男に対するときには恋愛対象として、また、夫や子に対しては妻や母として、そして社会の中においては独立した一個の人格として考え、その行動を周囲がどのように捉えていたのかを考察していく。つぎに女性に対する見方が 「今昔物語集」の時代からどのように変化しているのかをのかを理想の女性像といった概念をつうじて、現代の価値観とを比較していきたいとも考えている。)  
第一章「今昔物語集」における母子関係
第一節生命の誕生に対する思い
生命の誕生というものは現代においても神秘的であり、また非常に興味深い領域である。「今昔物語集」の作品のなかでは生命の誕生というものがどのようなとらえかたをされているだろうか。
ここでは巻二十六第二語「東の方に行く者、蕪を娶ぎて子を生む語」を中心に考察していきたいと思う。
この説話は、たまたま通りかかった旅人が自らの性欲をもてあまして、ひとつの大きな蕪に穴を穿ち、射精するところから始まる。本文では、
俄ニ婬欲盛リニ発テ、女ノ事ノ物ニ狂ガ如ニ思ケレバ、心ヲ難静メクテ思ヒ綾ケル程ニ、大路辺ニ有ケル垣ノ内ニ、青菜ト云物、糸高ク盛ニ生滋タリ。十月許ノ事ナレバ、蕪ノ根大キニシテ有ケリ。此ノ男、忽ニ馬ヨリ下テ、其ノ垣内ニ入テ、蕪ノ根ノ大ナルヲ一ツ引テ取テ、其ヲ彫テ、其ノ穴ヲ娶テ婬ヲ成シテケリ。
といったように表記されている。男はこの蕪を投げ捨てていったところ、十四、五歳位の女の子がこの蕪を見つけ、食べてしまった。その後、この女の子は懐妊する。両親もその女の子も、身に覚えがなかったので狼狽するが、ついにかわいらしい男の子が生まれて両親がともに養うこととなった。
一年後、旅の男が帰り道にこの場所を通り、伴のものに男が昨年あったことを話している内容を少女の両親が聞きとがめ、男に当時の話を詳しく聞く機会が訪れる。本文では、
「哀レ、一トセ国ニ下シ時、此ヲ過シ、術無ク開ノ欲クテ難堪カリシカバ、此ノ垣ノ内ニ入テ、大キナリシ蕪一ツヲ取テ穴ヲ彫テ、其レヲ娶テコソ、本意ヲ遂テ垣内ニ投入テシカ」ト云ケルヲ、此ノ母、垣内ニシテ慥ニ聞テ、娘ノ云事ヲ思ヒ出テ怪ク思ヘケレバ、垣ノ内ヨリ出テ、「何ニ、何ニ」ト問フニ、男ハ、「蕪盗タリ」トテ、云ヲ咎メテ云ナリトテ、「戯言ニ侍リ」トテ只逃ルヲ、母、「極テ霎霑事共ノ有レバ、必ズ承ラムト思フ事ノ侍ル也。我ガ君宣ヘ」ト、泣ク許ニ云ヘバ、男、様有事ニヤ有ルラムト思テ、「隠シ可申事ニモ不侍ラ。亦、自ラガ為ニモ重キ犯シニモ不侍ゾ。只、凡夫ノ身ニ侍レバ、然々ノ侍シゾ。我ト物語ノ次ニ申ツル也」ト云ニ、母、此レヲ聞テ涙ヲ流シテ、泣々男ヲ引ヘテ家ニ将行ケバ、男、心ハ不得ドモ、強ニ云ヘバ家ニ行ヌ。
この本文の表現を見ていて気づいたことの一つに、自分の行なった行為に対する羞恥心というものがこれといってみられないということである。現代の感覚で言うと、自慰行為というものは禁忌というわけではないが、伴のものに対しての「人ト物語シケルニ、糸高ヤカニ云ヒケル」という表現でもわかるように声高に話題にしていることに加え、少女の母親に対しても「隠シ可申事ニモ不侍ラ」といっており、特に羞恥の心を感じるような表現が見られない。その後で、男はまた「只、凡夫ノ身ニ侍レバ、然々ノ侍シゾ」と、どちらかといえば淡々と、事情説明をしている。このことから、 「今昔物語集」のなかにおいて、「婬欲」というものが「凡夫」にとって、あってあたりまえのものであるという思想が通俗的であったのではないかという考え方が導き出せるように思われる。
説話の内容に戻ると、少女の母が旅の男を家につれかえって見比べてみると、旅人と少女が蕪を食べてできた子供と瓜二つであった。そのときに男が言った言葉が、
「然ハ、此ル宿世モ有リケリ。此ハ何ガシ可侍キ」
といったものである。この言にたいして少女が「あなたの心一つですよ」といったことに対する男の答えもまた、
「我レ、京ニ返上テ有ンニ、指ル父母・類親モ可憑キモ無シ。只、此許宿世有ル事也。只、此レヲ妻ニテ此ニ留ナム」
であり、少女と結婚してその村に住むことになった。科学的に言えばもちろんのこと、当時においても不可思議な出来事であったに違いないこの懐妊について、男は驚くよりも前世からの因縁として事態を見ている。このことからも、 「今昔物語集」のなかで、前世からの因縁というものが不思議なことやどうにもならないことに対しての納得する方法になっているということが認められると思われる。
この説話では最後の部分で、
男女不娶ト云ヘドモ、身ノ内ニ婬入ヌレバ此ナム子ヲ生ケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。
とある。男女が直接性交をしなくても、精液が女性のからだの中に入ればこのように子供ができるということだが、もちろんこれは医学的には正しくないと現代では考えられている。だが、当時の医学というものが多分に経験則的なものであったことを考えると、こういったことが事実であったと受けとられれば新しい仮説として世に流布していく可能性があったということも無理のないことであったであろう。
月経や出産といったものが不浄のものと考えられていた時代がわが国にはたしかにあった。そのことは女性という存在が子を生むための器とでもいうべき存在であり、家の中で子育てだけをしていれば良いという女性蔑視な考え方ももちろん根底にあったであろうが、それ以上に医学が今よりも未発達だった時代、死というものがはるかに身近であり、そのことを彷彿とさせる出血などを伴うこれらの現象を畏れていたのではないかという印象を受けた。
「今昔物語集」の中において、生命の誕生といったものは多分に人知の及ばぬ、宿命的なものとして受けとめられていたと言えることができよう。  
第二節血のつながりと母子の絆
「今昔物語集」の成立は、平安時代後期といわれている。長い藤原摂関家の時代が終わり、院政を経て、平氏、源氏に代表される武士の時代が到来しようとしている時である。人民の頂点たる天皇はもとより、藤原氏を代表とする貴族の中での摂政・関白職や氏の長者に代表される身分・地位は律令で法制化されているほど、血のつながりが重要であった。藤原氏においても、天皇に娘を嫁がせるという外戚政策によって三百年あまりに渡って政治の中枢にあり続けることができたのである。後にくる武士政権でもまた、最終的には長子相続に落ち着いている。このような血縁関係で将来が決定される要因が今日に比べてはるかに大きかった時代、人々にとって、親族の関係というものはどのような意味合いをもっていたのであろうか。
ここでは、巻三十第九語「信濃の国夷母捨山の語」を中心に考察していきたいと思う。
この説話ではある夫婦が、「年老タリケル夷母(夫の叔母もしくは伯母)ヲ家ニ居ヘテ、祖ノ如クシテ養テ、年来相副テ過シ」ていたのであるが、「其ノ心ニ此ノ夷母ヲ糸厭ハシク思エ」て、「此レガ姑如ニテ老屈リテ居タルヲ、極テ懐ク思ケレ」というような心情であったので、夫に対してこの老婆の悪口を言い募っていた。嫁・姑の確執というものはこの時代においてもあったようであることはおもしろいことである。この夫は自分の血縁のことでもあり、妻の悪口を不快には思っていたが、自分の妻に対する立場もあり、不本意ながらもこの老婆に対して粗略な扱いをしてしまうことが多くなってしまいがちであった。
原文では、この嫁と老婆の表記は「婦(よめ)」、「夷母(おば)」とされており、嫁からみた老婆は「姑如ニテ老屈リテ居タル」存在であった。前述のように、現代においても珍しくない嫁・姑の確執は、当時においてもここにもほのめかされているようにあったようであるが、その実態は必ずしも同じであったとは言えないであろう。
現代において、いわゆる嫁・姑の確執というものは夫側の家庭内の問題、つまり夫の家に「嫁に来た」女性と夫の母親の間でおこる確執がほとんどだからである。近年では男女間の差別意識を無くすという観点から、「嫁に行く」というような言葉を用いることをしないようにするという風潮が強まっているが、いかに核家族化が進んだとはいえいまだわが国では女性が男性の家に嫁ぐ習慣というものが根強く残っていることは否定できない。しかし、原文でも、夫の叔母もしくは伯母を「祖(おや)ノ如クシテ養テ」とわざわざ表現されているようにこの一家の中での老婆の位置というのは夫の実の母親でないということに加え、妻問婚という風習があったことを考慮に入れると、夫の親類という存在は血がつながっているとはいえ他家に近いものであり、嫁に比べて立場の小さい、居心地のあまり良くないところであったであろう。それに加えて、自分の甥にも冷たい扱いを受けているというのはやりきれなかったに違いない。
此ノ夷母、糸痛ク老テ腰ハ二重ニテ居タリ。
という表現が雰囲気を醸し出している。このことからもこの老婆の立場がこの家庭内で小さかったことは想像に難くない。
月日が過ぎて、嫁はいよいよこの老婆が疎ましく思われるようになる。思い余って夫に対して発した言葉が、
「此ノ夷母ノ心ノ極テ懐キニ、深キ山ニ将行テ棄テヨ」
というものである。夫はもちろん反対したのだが、妻に責め立てられて、
八月十五夜ノ月ノ糸明カリケル夜、夷母に、「去来給ヘ、嫗共。寺ニ極テ貴キ事為ル、見セ奉ラム」ト云ケレバ、夷母、「糸吉キ事カナ。詣デム」ト云ケレバ、男霙負テ、高キ山ノ麓ニ住ケレバ、其ノ山ニ遥々ト峰ニ登リ立テ、夷母下リ可得クモ非ヌ程ニ成テ打居ヘテ、男逃テ返ヌ。
ということなった。ここまでの展開を見てみるときにまず一つ思うことは、夫の家庭内の権威がとても低いということである。自分の養っている親類の立場を守り抜くこともできず、その上自らがその親類をありがたい法会があるからなどとだまし、背負って山の中に捨ててこなければならないという状況は、ほとんど発言権がないといっても差し支えないような状況といえるのではないだろうか。このことは前述の、妻問婚という慣習にも大きく影響されていることは間違いないであろう。
今日、家庭内の父親の権威低下ということが叫ばれているが、いかに男女機会均等の世の中で女性の社会進出が進んでいるとはいえ、多くの家庭ではやはりいまだ父親が収入の多くをになっていることは現実であろう。封建時代のむかしからわが国に根付いてきた、女性は家の中に閉じ込もり、育児と家事をしていれば良いといった考え方は、女性が男性に比べて能力が劣るという考えのもとに醸成されていたと推察されるが、もちろんそういった側面はあったとはすれ、この説話を読んでいるとそれだけではないのではなかったかと考えさせられることもまた否定できない。つまり男性が家庭や社会で持っていた権威というのは能力的なものだけであったのではなく、社会的に慣習として醸成された差別意識と、一家の収入源として、また家族の精神的な柱石たらんとして自己練磨を繰り返していた父親の自負によるものであったのではないかということである。現在の日本という社会は、平等な人権という、かつての全ての時代において考えられなかったような、みなが幸せになりうる世の中であるのではないだろうか。その反面、自己練磨や自負、責任意識といったものが希薄になっていっているとも言われている。かつて人権、すなわち自己の存在というものが社会的に認められていなかった時代であれば、自己の存在を自分で明確に意識し、それを他人にも伝わるようにアピ−ルしなければならなかった。そうしなければ、自分の存在が世の中に認められないということになりかねない。そう思って生きていた人間と、何も考えたり、努力することなしに生れたときから人権を持っていた私たちとを比べたときに、やはり自我というものを常に自覚しようとあり続けた人々のほうが精神的に充実していたのではないかと考えさせられてしまう。こうした自らを派手に飾り付け、「かぶきもの」「ばさらおとこ」と称してみたり、一般化した武士道という価値観念にそって「こうあれかし」と自分の欲望や感情を殺して生きていくことが美徳であるという考え方ができる前の時代ともいえる 「今昔物語集」の世界では、もちろん人権という考え方すらおそらくまだなく、そういった余裕もまたなかったのではないかと推察される。現代の父親の権威低下と、この説話での夫の発言権のなさというのは、社会的慣習や差別が少ないなかでの実質的な社会における能力、すなわち経済力や社会的身分が小さいということに、現代の権威低下が叫ばれる父親と共通点を見いだせるのではないだろうか。
「今昔物語集」でも、貴族階級における女性の扱いというのは、「垣間見る」という言葉でもわかるように、人前にあまり顔を見せて出る機会もなく、例えば巻二十四第八語「女、医師の家にいきて瘡を治して逃ぐる語」では、第一章でも述べたように、高貴な女性が自分の恥部にできた病を医師に治してもらい、自分が誰であるか分からないように逃げきっていることを「思フニ、極ク賢カリケル女カナ」と評しているし、少し時代は昔になるが、巻二十二第八語「時平の大臣、国経の大納言の妻を取る語」では、藤原時平が好色で平中と呼ばれた平定文に昨今の女性で美人なのは誰がいるかという問いを発して、時平の叔父である国経の妻北の方が美人であると平中が答えた際、時平が「其ハ何デ被見シゾ」といっているくらいになかなか女性の姿を見ることができなく、この噂を聞いてからというものも時平は「何デ此ノ人ヲ見ム」と苦悶していることからも、女性を見たり、あったりすることはなかなか機会のないことであった。庶民階級とはこのように違いが大きかったのである。さて、説話の本筋に戻る。こうして妻の言うとおりに老婆を山に捨ててきた夫ではあったが、激しく後悔を覚えて一晩中眠ることもできずに、
ワガコ丶ロナグサメカネテサラシナヤオバステ山ニテルツキヲミテ
と詠み、老婆を山まで迎えに行ってまたもとのように養ったとある。
この時の老婆の心境、迎えに行ったときの描写や妻に対する態度と行ったものはいっさい描かれていないが、この説話を読んだ人が感じることというのは、この夫が正しい行為を行なった、そして妻は大悪人というものではないだろうか。そして、描かれていない部分を想像するに、この後この家族は夫が精神的な大黒柱として自覚し、自分の血縁である老婆の立場もまたよくなったのではないかと考えられて仕方がない。このことをきっかけに自覚・自負というものが夫の中に生れたのではないかと感じるからである。
この説話の文末には
然レバ、今ノ妻ノ云ハム事ニ付テ、由無キ心ヲ不可発ズ。今モ然ル事ハ有ヌベシ。然テ、其ノ山ヲバ、其ヨリナム、夷母棄山ト云ケル。難霖シト云フ譬ニハ、旧事ニ此レヲ云フニゾ。其ノ前ニハ冠山トゾ云ケル。冠ノ巾子ニ似タリケルトナ(ム)語リ伝ヘタルトヤ。
とある。この物語に出てくる妻が言った「憎い老婆、山へ連れて行って棄ててきて」といったようなことにこたえての軽挙妄動は慎むべきであるということはわかるにしても、その後の今でもこういうことは起こりかねないという表記はいったい何を意図して書かれているのであろうか。単純に同じ時代の人に血縁を大切にせよという教訓を伝えたとも考えられるが、そうだとしてもそうでなかったとしても、妻の言うことすなわち女性の言うことにあまり重きをおいてはいけないという考え方がすでにでき始めていたのではないかということが考えられる。
そして、わざわざ「今モ然ル事ハ有ヌベシ。」ということをいっているのは、この説話の内容が起こった時代と、この説話を書いて「今昔物語集」に掲載させた時代というのがひらいており、その間にも女性に対する見方というものが変わってきたのではないかと考えることができる。
今節の冒頭でも触れたが、「今昔物語集」の編纂された時期というのは平安後期といわれ、貴族の政治から徐々に武士の政治に変わっていく過渡期である。現代もまた世紀末ということでノストラダムスの予言書などに代表される予言や宗教関係の集団が起こした事件でさまざまな社会不安が醸成されていたりしたが、この時代に広くわが国で信じられていた、仏教における末法思想では、釈迦の死後五百年を正法といって正しく釈迦の教えが広まっている時代、次の千年を象法といって釈迦の教えは伝わっているが正しく伝わらずに徐々に人心が荒れてゆく時代、後の一万年を末法として仏法が衰え、天変地異や騒乱が生起する時代とされており、わが国では永承七年、西暦でいえば一〇五二年ごろから末法に入ったとされて、世紀末ということでその頃の社会でも無常観・厭世感が広まっていた。騒乱も多く、時代が動き、権力が移り変わっていくさまを当時の人々もまた不安に感じ、そしてさまざまな価値観や物の見方といったものも変わっていった時代であったという意味合いにおいては現代の我々が生きる社会と共通点があるといえる。そういった世の変化に戸惑いを覚えながら生活をしていたとするならば、こういった考え方もできる。
よく歴史は戦争の繰り返しであるといわれるが、戦乱の時代というのは、時代の革新であり、旧弊を打ち壊して次のステップに飛躍する時ともいえよう。逆に平和で戦乱のない時代というのは、保守的であり、文化や技術を成熟させていく時と捉えることが出来るのではないだろうか。こうして旧きを破壊し、新たなものを造りだすという破壊と再生・飛躍と成熟を繰り返していく人の世の中を、破壊衝動を秘めている男性と、子を生み育てる女性になぞらえて考えるとしたらどうであろうか。平和で成熟した、女性的ともいえる平安期から、荒々しい武の時代、男の時代へと移り変わっていく時という捉えられるかも知れない。
このことが、先に述べた男女という性別の価値の移り変わり、ひいては男性主導の世の中への変化という背景をになっているのではないかと考えられる。  
第三節「今昔物語集」の生命観
この世に生きとし生けるものはすべて、自らの種の存続のために存在しているといっても過言ではない。もしも例外というものを見つけようとするならば、知性や自我というものを備えた人間だけが、そうではないのかもしれない生き物として名があがるであろう。なぜなら、全ての生き物の中で、同族相殺しあう唯一の生き物だからである。
それでもやはり人はその歴史や文化の中で死を忌み、恐れてきた。死を恐れるがゆえに、人は死後の世界を想像し、また死後の幸福を求めた。宗教というものを自ら造り出して信仰し、現世での徳を積み、業を消失させることで来世での生まれ変わり、天国・極楽浄土へ昇天すると行った幸せを望む。
現代では、観念的なものにせよ、「ひとりの人間の命は地球よりも重い」といったことが言われ、生存権というものが国家の法によって保障されている。大国間の代理戦争として頻発する局地戦を茶の間でテレビから覗き、かつての総力戦や唯一の核被爆国の経験も色褪せ忘れられようとしているにせよ、世界の中で「命の値段」が最も高いとされているわが国。それは大戦後、もっとも死という忌みを遠ざけ、避け続けてきた無意識の蓄積であるのかも知れない。 「今昔物語集」に描かれているかつてのわが国の生命に対する人々の姿を私たちが垣間見たとき、いったいどのような感情を抱くのであろうか。
ここでは、巻二十九第二十九語「女、乞匂に捕へられて子を棄てて逃ぐる語」を中心に、自己の生命存続という生き物の本能、子供に対する親の愛情といったどんな時代においても不変といわれる感情が、どのように描かれているのかを考察していきたいと思う。
この説話では、子供を背負った女が山奥で乞食に出会うところから始まる。人気のない山奥のこと、女は乞食をやり過ごそうとするも捕えられ、強姦されそうになってしまう。女は何とか逃れようと、
女ノ云ク、「此ク半無クナシ給ソ。云ハム事ハ聞ム」ト云ヘバ、乞匂、「吉々シ。然ラバ、去来」ト云フニ、女ノ云ク、「山中也トモ、何デカ此ル所ニテハ人ニ物ヲバ云ハム。柴ナドヲ立テ丶廻ヲ隠セ」ト云ケレバ、乞匂、「現ニ」ト思テ、木ノ枝ノ滋ヲ伐下シナド為ルニ、今一人ノ奴ハ、「女モゾ逃ル」ト思テ、向カヒ立テリ。
と、囲いを作らせて隙をつくろうとするも、もう一人が逃げないように警戒に立ち、うまく行かずに結局女はこのような手段に出た。
女、「ヨモ不逃ジ。但シ、我レ、今朝ヨリ腹ヲ術無ク病テナム有ルヲ、彼ニ罷テ返テ来ムト思フニ、暫ク免シテムヤ」ト云ケレバ、乞匂、「更ニ不免サジ」ト云ケレバ、女、「然ハ、此ノ子ヲ質ニ置タラム。此ノ子ハ、我ガ身ニモ増テ思フ者也。世ニ有ル人、上モ下モ、子ノ悲サハ皆知ル事也。然レバ、此ノ子ヲ棄テヨモ不逃ジ」ト、「只腹ヲ術無ク病テ、隙無キ事ノ有レバ、彼ニテモ、留ラムト思テ、立留テ過シ申サムトハシツル也」
この女が言っているように、この世に生きているものは、身分の高い者も低い者も、子供への愛情は皆が知っていることである。そうであれば女や乞食が示した、「(自分の子供を人質にしておいていくのだから、)まさか逃げることはありません。」という感覚は、なんら我々と変わることはないように思う。しかし、その後の女の行動は、
乞匂、其ノ子ヲ抱キ取リテ、「然リトモ、ヨモ子ヲ棄テハ不逃ジ」ト思ケレバ、「然ラバ、疾ク行テ返来」ト云ケレバ、女、遥ニ行テ其ノ事構フル様ニ見セテ、「ヤガテ子ヲモ不知ズ逃ナム」ト思テ、走ニ走テ逃ケレバ、道ニ走リ出ニケリ。
というものであった。この行動というのはいかなる意味を持ち、また「今昔物語集」の世界でいかに捉えられたのであろうか。女が自分でも認めていたように、子供という存在は、身分に関係なくどのような親も愛してやまないものである。そして、乞食たちが判断したように、子供を人質に置いていくのであれば、まさか逃げることはないと。これらの価値基準というのは、こういった会話から現代と変わらないものであったようであると推察される。にもかかわらず、この「女」が取った行動は、人質となっている子供を置いて、自分だけが逃げ出すというものであった。そのうえ、この「子」というのも、「子ヲ負タル若キ女」、「乞匂、其ノ子ヲ抱キ取テ、」といった表現から乳飲み子であるように考えられる。現代と感覚が似通っているとするならば、まだ一人で生きていくことの出来ない、一番母親が守っていかなければいけない時期といえるであろう我が子になぜ、女は自分もが認めている価値基準に背くような行動したのであろうか。
考えられる一つの可能性としては、「とにもかくにも自分一人が逃げ出して、誰かの助けを借りて子供を救い出してもらう」というものである。二つ目として、「子供の命よりも自分の貞操のほうが大切であるので子供を置き去りにした」というものである。ほかに考えるとすれば、「実は自分の子ではない」、「襲われそうになって混乱してしまい、何がなんだかわからずに逃げ出してしまった」というところであろうか。
説話の内容を読み進めると、
其ノ時ニ調度負テ馬ニ乗タル者、四五人打群テ会タリ。女ノ喘タキテ走ルヲ見テ、「彼レハ何ド走ルゾ」ト問ケレバ、女、「然々ノ事ノ侍テ逃ル也」ト云ケレバ、武者共、「イデ、何クニ有ルゾ」ト云テ、女ノ教ヘケルマ丶ニ、馬ヲ走セテ、山ニ打入テ見ケレバ、有ツル所ニ柴ヲ立テ、其ノ子ヲバ二ツ三ツニ引破テナム逃テ去ニケル。然レバ、甲斐無クテ止ニケリ。女ノ、「子ハ悲ケレドモ乞匂ニハ否不近付ジ」ト思テ、子ヲ棄テ逃タル事ヲゾ、此ノ武者共讃メ感ジケル。
とある。武装した武者の一群に会った女は、事情を説明し、武者たちと共に乞食のいる場所へ急ぐが、そこには引き裂かれて見るも無惨な姿となった子供の骸が身を横たえているだけであった。これらの描写の中から、さきほどあげた、女がどうして子供を置き去りにして逃げたのかという可能性を考察してみたいと思う。
まず一つ目の助けを呼びに行ったというものであるが、これであるとするならば、「ヤガテ子ヲモ不知ズ逃ナム」という様な表現が出てくるのはおかしいように思われる。他の可能性としてあげた、自分の子ではないということであったとすれば、前後にそういった表記があってしかるべきであると思われるし、武者たちも子を棄てて逃げたことに対して賞賛の言葉を与えることはないであろう。襲われて混乱していたと言うのも、便意を催したなどという理由をでっち上げて逃げ出す冷静さを持っていることを考えあわせると納得できるものではない。
やはり二つ目の理由、自分の貞操を守るために我が子を犠牲にしたと考えるのが妥当であろう。
そうであったと仮定すると、女自身がいっていたように、身分が上の者も下の者も愛して止まないはずの存在である自分の子供を、自らの貞操を守るためとはいえ見捨てて逃げてきた女に対して、なぜ武者たちは賞賛をおくったのであろうか。
説話の最後に表記されている、
然レバ、下衆ノ中ニモ、此ク恥ヲ知ル者有也ケリ。此ナム語リ伝ヘタルトヤ。
というところから判断すると、武者たちの解釈では、「子供は愛しているが、乞食には身を任せることなど出来ない。身分は低いとはいえ誇りを持って生きている一人の人間として、譲ることの出来ない一線は何があっても守り抜く。」ということなのであろうが、身分上下関係なく我が子を愛するという価値が世間に広まっていたとするならば、まったく相反するものであるのではないだろうか。
それではこの考え方は武士特有の価値なのかと考えると、いわゆる武士道というものが儒教的な思想の影響を受けて確立した時代は五百年以上後の江戸期からであるといわれており、それもまた身を挺してでも弱きを助けるという逆の考えであることからして、当てはまらないことは明白である。自らの意地を張り通すことが美徳というのが 「今昔物語集」での武士の価値観なのであろうか。
この女は、「下衆ノ中ニモ、」という表現、武者たちに対して「侍り」という言葉づかいをしていることなどから、身分の低い出自であることはわかる。説話の最後の一文からもわかるように、この 「今昔物語集」の時代では、生まれつきに与えられたに等しい身分で精神的な貴賤さえも概ね決まっているという考え方が一般的であることを逆説的にではあるが示している。この説話の女がとった行動を考察してみると、どうしてもこの女が理性や信念に乗っ取って行動しているという印象を受けることができない。最大限我が子を助けようという飽くなき努力の結果、それも叶わぬとあらば自分一人でも助かる道を選ぶのは仕方のないことであると考えられる。しかし、この女性の取った行動を見てみるに、我身かわいさで山中に連れ込まれるときも「此ク半無クナシ給ソ。云ハム事ハ聞ム」などといい、いざ、その身を汚されようとしている時にまで、「山中也トモ、何デカ此ル所ニテハ人ニ物ヲバ云ハム。柴ナドヲ立テ丶廻ヲ隠セ」といっており、これでは自分から拒否している様子を伺いしることはできない。油断させるためであるといえるであろうか。そして挙げ句の果てには自ら子を人質に差し出し、「ヤガテ子ヲモ不知ズ逃ナム」とあるように逃走してしまったのである。乞食になされるがままにしたからといって、稚児を惨殺するような輩のこと、自分と子供の身が助かるかどうかはわからないが、なんの成算もないままただ自分の身を「走リニ走リテ」現場から遠ざけ、子供をかえりみることなく助かろうとする行為は、現代の我々の価値観からいっても決して賞賛されるべき性質の行動ではない。
武者たちが賞賛したと思われる、意地を貫くということが重要視されたのは、それほどまでに自分の意志通りになるということが少なかったということでもあろう。さきの第二節でも述べたことだが、自らの存在というものを自分自身が自覚し、表現することなしには認められない世の中ということがおぼろげながらも浮き出ているように思われる。夷母棄山もまたそうであるが、血縁というものを重視する世の中であるがゆえに下衆の家に生まれた子は下衆とされ、自ら自分たちの生命、価値を卑しめざるをえない時代であったのかも知れない。
なお、作者が付け加えたと思われる最後の一文にもまた武者と同じ立場からの見方が付け加えられているということは、作者の加筆している後の世ではこういった考え方が主流になっているか、もしくは作者も武士階級に近い考え方を持っている人間だったのではないかという印象も受ける。  
第二章「今昔物語集」における女性観
第一節「今昔物語集」における性倫理
現代における我々にとってみても、性の禁忌というものは存在している。慣習化され、不文律となってはいるが、確実に存在しているといえよう。例えて言えば、近親相姦や同性愛といったものである。近年、性の開放と個人の精神的な自由が叫ばれ、同性愛者や倒錯した性的な趣味を持つ人々の表面化が社会において増加してはいるものの、絶対数的な問題もあってやはり異端であるという見なされ方がなされているのが一般的な見解であるように思われる。
古来では、わが国においても同性愛という慣習は根付いており、現代とは違った感覚で男性同士の性行為が世に認められていた。戦国期にはその傾向が顕著であり、僧をはじめとした宗教的戒律を持つ集団、女人を戦場に連れていくわけにはいかなかった戦国武将といった人々を代表に、衆道と称して美少年を伽に供させることがしばしばある世が確かにあった。いわゆる戦国大名と呼ばれた階級では、それ以外でも一夫多妻制がほぼ慣習化しており、現代とは違う慣習が存在していたことが顕著であるが、このことについては後に欧米より流入してきた男女平等という思想の影響よりも、下剋上、実力社会の世の中で、裏切る可能性の少ない有能なものは血縁しかないという発想や、江戸期に入ってからは、跡継ぎなきはお家断絶、末期養子の禁止といった時代背景が大きく作用していたのであろうと推察される。
もう一つ例であげた近親相姦であるが、現代のわが国における法律では、従兄弟よりも近い近親とは結婚してはいけないと規定されている。血が近いと、妊娠した際に奇形児や突然変異のごとき子が生れてしまう確率が飛躍的に高まってしまう。それを逆に利用して、血統を重視する競争馬の世界では強豪馬をつくりだそうとしているが、その是非はともかく、人間でその危険は冒すわけにはいかないであろう。
ここでは、巻二十六第十語「土佐の国の妹兄、知らぬ島に行きて住む語」という説話を中心に、近親の結婚・出産というものについて考察していきたいと考える。
この説話は、男女の兄妹が漂流して無人島に流れ着き、そこで結婚して子孫が広がるという話である。冒頭でこの兄妹がどうして漂流することになってしまったのかを明らかにしている所がこの部分である。
今昔、土佐国、幡多郡ニ住ケル下衆有ケリ。己ガ住浦ニハ非デ、他ノ浦ニ田ヲ作ケルニ、己ガ住浦ニ種ヲ蒔テ、苗代ト云事ヲシテ、可殖程ニ成ヌレバ、其苗ヲ船ニ引入テ、殖人ナド雇具シテ、食物ヨリ始テ、馬歯・辛鋤・鎌・鍬・斧・鐇ナド云物ニ至マデ、家ノ具ヲ船ニ取入テ渡ケルニヤ、十四五歳許有男子、其ガ弟ニ十二三歳許有女子ト、二人ノ子ヲ船ニ守リ目ニ置テ、父母ハ殖女雇乗ントテ、陸ニ登リニケリ。白地ト思テ、船ヲバ少シ引居テ、綱ヲバ棄テ置タリケルニ、此二人ノ童部ハ船底ニ寄臥タリケルガ、二人乍ラ寝入ニケリ。其間ニ塩満ニケレバ、船ハ浮タリケルヲ、放ツ風ニ少シ吹被出タリケル程ニ、干満ニ被引テ、遥ニ南ノ澳ニ出ケリ。澳ニ出ニケレバ、弥ヨ風ニ吹カレテ、帆上タル様ニテ行。其時ニ、童部驚テ見ニ、懸タル方ニモ無澳ニ出ニケレバ、泣迷ヘドモ、可為様モ無テ、只被吹テ行ケリ。
このように、両親が兄妹を船に残して陸におりている間に、ともづなを解いたままであった船は風に流されて遥か沖まで流されてしまう。
この部分の本文から、この時代の田植えの方法や使用していた道具がわかるだけでなく、これから兄妹が無人島で暮らしていく為の最低限必要な道具や食料が最初から備わっているという設定が説明されている。
ただ、この兄妹の年齢があきらかにされているが、これがどうも不自然に感じてならない。「童部」と表記されていることから、「大人になりきっていない十歳前後の子供」ということは明らかではあるが、それにしては十四、五歳というのはやや成長しすぎているきらいがないでもないし、現代でいわゆる成人として認められる二十歳という年齢よりも、かつて中古でおこなわれた元服の儀もまた十二から十六歳くらいとかなりはやかったことを考慮に入れると、現代の感覚でいう十八から二十二歳くらいという、ほぼ成人という年齢に達していたはずであるにも関わらず、「童部」と表記され、船の見張りとして残っていたにも関わらず船底で寄りかかって寝てしまうという完全に子供扱いをされてしまうというのはなぜなのであろうか。
また、前述の通り「今昔物語集」の成立は平安時代後期といわれており、長い藤原摂関家の時代が終わり、院政期を経て、平氏・源氏に代表される武士の時代が到来しようとしている時である。ここで平安時代(七九四年〜一一九一年)の第六十代醍醐帝から第八十一代安徳帝がどれくらい生きたのかを見てみると、平均で三十七.八歳ということであった。このことも考えあわせると、やや「童部」の年齢が兄妹ともに高すぎるように感じられる。
このことがどういうことかと考えてみると、無人島に漂着した後にこの兄妹が夫婦となり、子をなし、生活していく為の最低年齢と考えられたからなのではないだろうか。つまり、何者かの意図によって、説話上の不自然さを無くす為に造り出された、もしくは付け加えられたものなのではないかということである。さて、本文に戻ると、
然テ、其船ヲバ、遙ニ南ノ沖ニ有ケル島ニ吹付ケリ。童部、恐々陸ニ下テ、船ヲ繋テ見バ、敢テ人無シ。可返様モナケレバ、二人泣居タレドモ甲斐無テ、女子ノ云ク、「今ハ可為様ナシ。然リトテ、命ヲ可棄ニ非ズ。此食物ノ有ム限コソ、少シヅ丶モ食テ命ヲ助ケメ、此ガ失畢ナン後ハ、何ニシテ命ハ可生。然レバ、去来、此苗ノ不乾前ニ殖ン」ト。男子、「只、何ニモ、汝カ云ンニ隨ム。現ニ可然事也」トテ、水ノ有ケル所ノ田ニ作ツベキヲ求メ出シテ、鋤・鍬ナド皆有ケレバ、苗ノ有ケル限リ皆殖テケリ。
とあり、漂着した無人島で途方に暮れている兄に対して、妹が稲を植えて育てようと提案する。
ここで、先に述べた設定が生きてくるのである。何の道具もなく、種籾や稲の苗が何もないところで、木の実や草の根、狩猟で生き長らえたというはなしよりもずっと説得力があるように思える。ここにも、この物語を合理的に説明しようとする意図のようなものが見え隠れしているように思われる。
ところでこの説話の中で、生命の危機ともいうべき無人島への漂着という出来事からいち早く立ち直り、田植えをしようと言い出すのはやはり女性である妹のほうである。このことは、遺伝子学的に見た際の、いわゆる生命力の強い女性という意味を持っているのみならず、第二章第二節でも述べた、生命の創造、再生を司る女性というイメ−ジにも合致する。こうして田植えを済ませた兄妹は、
然テ、[斧・]鐇ナド有ケレバ、木伐テ菴ナド造テ、居タリケルニ、生物ノ木、時ニ隨テ多カリケレバ、其ヲ取食ツ丶明シ暮ス程ニ、秋ニモ成ニケリ。可然ニヤ有ケン、作タル田、糸能出来タリケレバ、多ク苅置テ、妹兄過ス程ニ、漸ク年来ニ成ヌレバ、然リトテ、可有事ニ非ネバ、妹兄、夫婦ニ成ヌ。然テ、年来ヲ経程ニ、男子・女子数産次ケテ、其レヲ亦夫妻ト成シツ。大ナル島也ケレバ、田多ク作リ弘ゲテ、其妹兄ガ産次ケタリケル孫ノ、島ニ余ル許成テゾ、干今有ナル。土佐ノ国ノ妹兄ノ島トテ有トゾ、人語リシ。
とあるように、小屋を立て、木の実などで飢えをしのいで秋には稲を収穫し、ついには結婚して夫婦となって子供をたくさん産んだ。その子供たちもまた結婚し、どんどんと人数は増えていったという。
ここで着目したいのは、傍線を引いた部分である、「可然ニヤ有ケン」というところである。きちんとした田としての土壌や設備があるわけではなし、自分たちで稲を育てた経験もあまりないはずのこの兄妹の田が、「糸能出来」たのは、そうなる運命だったのであろうということである。そして、「然リトテ、可有事ニ非ネバ」と結婚してしまうのである。このことは、この兄妹が現世では兄妹として生れてきたにもかかわらず、前世からの因縁で結ばれる宿縁であったということであろうか。
それにしても、わざわざ兄妹である必要はあるのだろうか。もちろん、現代とは違ってわが国の創世神話においても天神の命により、わが国の国土や山海、草木を分掌し、諸神を生んだ伊弉諾尊・伊弉冉尊(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)という神もまた兄妹であったとされ、また、同族内での結婚を重ねていた藤原氏を始めとする公家社会が栄えていたときであるので、そういった兄妹婚・近親婚に対する禁忌は今ほどなかったように思われる。だが、やはり兄妹同士が男女として愛し会い、夫婦となるということは自然なこととはいえまい。
第一章第三節でも述べたように、人間を始めとした生物は全て、自らの種を後の世につなぐことを目的として存在しているのであるとするならば、竹林で大きな天変地異が起こる前に、種を残すために花が咲き乱れるといわれるのと同じように、人もまた、一組しか男女のいない隔離された環境において生命の危機を感じたならば、子を残そうという本能が働くのかも知れない。
本文の最後では、
此ヲ思フニ、前生ノ宿世ニ依コソハ、其島ニモ行住、妹兄モ夫妻トモ成ケメトナン語リ伝ヘタルトヤ。
とある。この兄妹がこの島に流れ着いたことも、また夫婦になったことも前世からの因縁ということで解決してしまっている。これは少し安直に感じてしまう結びではあるが、この一文から、やはり兄妹婚というものも無人島に漂流してしまう事と同列の、珍しいことと捉えられているニュアンスがうかがえる。
わが国の創世神話では、「天地初発之時」として三柱の神が成り、その後に伊弉諾尊(もしくは伊耶那岐神)と伊弉冉尊(もしくは伊耶那美神)が成る。創世の神々が天の浮き橋に立ち、下界を天の沼矛(瓊鉾)でかき回して落ちた雫が島となり、伊弉諾尊と伊弉冉尊はここを治めるように命じられる。この二神は下界に下り、結婚する。伊弉諾尊と伊弉冉尊は、互いの体の余分なところと足りないところを差し入れ塞いで、淡路島・四国・隠岐・九州・壱岐・対馬・佐渡・本州と生んでいったということになっている。
この説話を創世神話として捉えたときに、現代の我々の直系の先祖と言われている渡来系の弥生人が日本に上陸してきたときのことを指し示しているようにも思われる。なぜなら、近頃話題となっている三内丸山遺跡や真脇遺跡のような高度な縄文文化を誇っていた遺跡には、稲作の痕跡が認められないからである。「大国主神」と「天照大神」の国譲りが、土着の縄文人から渡来系の弥生人への政権の移行、もしくは侵略であると捉えるのであれば、ここで語られているものもそういった朝鮮半島や大陸から流れてきた、稲作という新しい文化を持ち込んだ人たちの手による国作り神話の一つであるといえよう。
説話というものは、神話・伝説・民話など、民間に語り伝えられた物語の総称である。この説話を、実際にあった珍しい話として捉えるよりも、わが国古来から伝わる創世神話に似た物語の一つとして捉えることが読み方としては一番当を得ているように思われる。ただ、前に述べた何者かの意図が介在していることがあるとするならば、こういうふうに考えることもまた可能ではないだろうか。
「愛しあってしまった兄妹が、結ばれたいがゆえに船出をし、無人島で人目をはばかる事無く幸せに暮らした物語と」  
第二節男性が捉えた女性像
これまでは主に女性の取った行動や結果・社会的立場を考察してきたが、ここでは恋愛対象として男性から見た、理想の女性像といったものを考察していこうと思う。
古来時代は移っても変わらないものの一つとして、男女が互いに恋に落ちるという恋愛感情というものがある。現代のわが国は、ほぼ完全に自由恋愛が出来、結婚もまた成人の男女同士が互いに望むならば法律上結婚できるという権利も認められている。もちろん現代でも人種差別・部落差別問題や経済的、思想的、宗教的なさまざまな障害によって思うにまかせることの出来ない男女もいようが、少なくともわが国の歴史の中で、現代が一人一人の権利というものが最も認められている時代であることは否定しようのない事実であり、現実であろう。そしてほぼ半世紀前、 「今昔物語集」の編纂された時代に比べればつい最近とも言える太平洋戦争以前のわが国においては、恋愛はともかく結婚というものが本人同士の気持ちよりも親に決定権があったということもまたそんなに遡る必要のないわが国の歴史の一部である。この時代では、結婚式の当日まで相手の顔を見たこともないという事態さえ起こっていたという。これはお家存続という名目で長い間過ごしてきた封建時代の名残りともいえる習俗であろうが、この時代よりも現代の欧米風自由恋愛の認められた現代のほうが離婚率が高いという事態は国民性の変化ともいえるが大きな皮肉であることに違いはない。
よくわが国と西欧・アメリカの文化的差異の根本的原因を農耕文化と狩猟文化の違いとし、その特性を保守と革新、守備と攻撃としてわが国の国民は言いたいことを主張することもできない、「長いものには巻かれろ」的な国民であると評価されがちである。確かに日本国民にそういう側面があることは確かであろう。「出る杭は打たれる」という諺がまかり通り、「年功序列」、「事なかれ主義」が格別不自然と感じない国民であることも確かである。しかし、国際的な会合や外交上の交渉でも主張をうまくできないという点に付いては良くない評価がされても仕方がないにせよ、国民性として悪く捉える必要はないのではあるまいか。狭い国土の中で単一民族で暮らし、厳しい自然環境に折り合いをつけながら村ごとの共同体で結束して暮らしてきた時代が千年以上続いた国なのである。地政学的にも島国であり、大陸の文化の影響は受けつつも自治独立が可能という立場が大きな影響を与えているのであろう。事実、かつて小国であったにも関わらず沖縄を除けば本土が直接侵略されたことがないという、珍しい経歴を持っている。朝鮮半島は、日本に地理的にはこんなに近いにもかかわらず、常に大陸の侵略に脅かされてきた歴史を持つことに比すれば何という幸運であろうか。
こうした日本人の、自分の腰を曲げても争いを避けようとする姿勢というのは、かつてと違い、探険しつくされ資源も掘り尽くされようとしている狭くなった地球に住まざるを得ない我々人類にとって、これから必要となるものなのではないかと感じる。侵略や開発にはむいていた西欧的気風が必要な時代は終わり、相手に勝つのではなく自分が負けないことが大切な、今まであるものをより有効に改良して利用していこうとする気風が必要となっていくのではないだろうか。
前置きが長くなってしまったが、こうした耐え忍ぶ国民性をもつことになった歴史上で、恋愛や結婚はどうとらえられていたのだろうか。西欧的な自由恋愛を経験した我々現代人の目から考察してみたいと思う。
ここでは、巻三十第十一語「品賤からぬ人、妻を去りて後返り住む語」を中心に、「今昔物語集」の世界で女性に求められた理想像というものがどのようなものであったのかを探っていきたいと思う。
この物語では、風雅を解する権門の子弟が、妻を棄てて当世風の女性に心移りをしてしまう所から始まる。男は他の女に心移りをしてからというものもとの妻には便り一つよこさなくなっていた。
さてあるときこの男が自分の領国である難波に行き、各地を見て回っているときに、海岸で小振りの蛤の貝殻に海草がふさふさと生えているものを見つけた。男はこれを自分の恋人に送ろうと考えて小舎人童にたくす。この小舎人童は、主人から「これを私の最愛の人の所に届けておくれ」といわれたのを勘違いしてしまい、もとの妻の家に送ってしまう。もとの妻は、久しく便りもなかった夫からいまさらこのような贈り物が送られてきたのでいぶかしく思いながらも情趣深いものとおもい、たらいに水を張って眺めていた。この部分は原文では、
彼ノ本ノ所ニハ、此レヲ見ルニ実ノ興有ル物ナレバ、盥ニ水ヲ入テ、前ニ並テ、此レヲ入レテ興ジ見居タリケリ。
といっている。この「前ニ並テ、此レヲ入レテ興ジ見居タリケリ」という部分は、「前」という言葉が陰部をさす語であることから、本文表記でいう「蛤ノ小ヤカナルニ、海松ノ房ヤカニテ生出タリケル」ものを、女性の陰部に見立てていることがわかる。このことから、「此レ極ク興有物也」「興有ル物ナレバ」「実ノ興有ル物ナレバ」といった表記に出てくる興というものがどのような意味を持つのかが明確となってくる。現代の感覚でいう趣ぶかいものというよりは、もっと直接的におもしろい、珍しいものと取ったほうが良さそうである。
話の続きを見てみると、都に帰ってきた男が思いを寄せる女の所に行き、「この前差し上げたものはまだ持っていますか」と聞いても、「何も届けられていませんよ。何か贈ってくれたのですか」と問いかえされるだけであった。男は当惑しながらも、「小振りの蛤の貝殻にミルがふさふさと生えているというおもしろいものを見つけたので、急いで贈ったのですが」と説明すると、女は、「そんな物は届いていませんよ。惜しいことをした。蛤は焼いて、ミルは酢につけて食べたかったのに」と言った。男はそれを聞いて、さめた気持ちになってしまった。
男は、小舎人童に事情を聞き、件の蛤を取り返してこいと命じる。もとの妻は、やはり思ったとおり間違って贈られてきたのだとわかり、歌を書いた陸奥紙に包んでこの蛤を返した。
男はこの蛤がきちんととってあったこと、また包んだ紙に書いてあった歌のことを思うにつけて、今好きな女性との差を見せつけられ、蛤を持ってもとの妻の所に戻り、暮らした。
説話の最後の部分では、このようにもとの妻の風雅を解する心によって、必ず夫が戻ってきて住むようになるはずであると結んでいる。
原文では、
情有ケル人ノ心ハ、此ナム有ケル。現ニ、今ノ妻ノ云ケム事疎ミテムカシ。本ノ妻ノ情ニハ、必ズ返リ可棲キ事也トナム語リ伝ヘタルトヤ。
と表わされている。
これまでに、この「蛤ノ小ヤカナルニ、海松ノ房ヤカニテ生出タリケル」ものに対しての表記として、「興(きょう)有ル物」「可咲気(をかしげ)ナル」、またこの蛤を大事にとっておき、歌を詠んだもとの妻の心を「情(なさけ)有ケル人ノ心」と表現している。
「興(きょう)」とは、おもしろいこと・楽しいことである。「可咲気(をかしげ)ナル」は、いかにも趣があるさま、また、「情(なさけ)」はもののあわれを知る心である。この三つは、ともに物事の趣深い様を表わす語であるのだが、微妙な意味の差異がある。
平安時代の文学精神を代表する趣深い意を表わす言葉として、「をかし」と「あはれ」があげられる。「をかし」は物を客観的・理知的に興味深く賞美する様を表わす。ここには知性や批判意識が働くため、はなやかな情趣や滑稽な笑いをあらわしている。それに比べて「あはれ」はしみじみとした感動を表わしている。「枕草子」が「をかし」、「源氏物語」は「あはれ」を描きつくした作品といわれていることは有名である。
「興(きょう)」「可咲気(をかしげ)ナル」は「をかし」、「情(なさけ)」は「あはれ」に近い情趣を表わす言葉ということがいえるあろう。
この「興(きょう)」「可咲気(をかしげ)ナル」は直接示されているものが「蛤ノ小ヤカナルニ、海松ノ房ヤカニテ生出タリケル」ものであり、「情(なさけ)有ケル人ノ心」はもちろんもとの妻をさしている。このことから、「蛤ノ小ヤカナルニ、海松ノ房ヤカニテ生出タリケル」ものは情趣があるなかでもおもしろさという要素を持っていること、つまり女性器に例えていることが面白さとして捉えられているといえるであろう。逆に、「情」はこの妻がとった行動、すなわち贈られてきた蛤を食べようとなど考えもせず、たらいに水を張って大切に飾っておき、返却を求められたときも陸奥紙に歌まで詠んで送る心情をもののあわれを知る心と言っているのである。
このことを突き詰めて考えてみると、果たしておもしろいものを大切に飾っておく事がなぜ「情」あるこうどうになるのか疑問に思われる。それまでは面白いものとして捉えられていたものが、なぜ突然ニュアンスの違う表現に変わったのであろうか。このことを解く鍵は、陸奥紙に書かれた歌にあるのではないかと思われる。原文によると、
アマノツトヲモハヌカタニアリケレバミルカイナクモカヘシツルカナ
とある。これは、
海士の苞(苴)思わぬ方にありければ見る甲斐無くも返しつるかな
ということで、
海士の土産は見当違いの海辺の私の方にありましたので、海松のついた貝を見る甲斐も無く返してしまう事だ
という意味である。「アマ(海士)」と「カタ(潟)」、「ミル(海松)」と「カイ(貝)」は縁語であり、「カタ」は「潟」と「方」、「ミル」は「海松」と「見る」を掛けるという技法が用いられた歌である。
この歌を見た男は、
男、此レヲ見ルニ、糸哀レニ悲クテ、今ノ妻ノ、「貝ハ焼テ食テマシ。海松ハ酢ニ入レテ食テマシ」ト云シ事思ヒ被合テ、忽ニ心替テ、本ノ所ニ行ナムト思フ心付ニケレバ、ヤガテ其ノ蛤ヲ打具シテ行ニケリ。
とすぐさま心変わりをしている。
やはり、この歌によって、ただ面白いものであった「蛤ノ小ヤカナルニ、海松ノ房ヤカニテ生出タリケル」ものがしみじみと心の奥底に訴えかける何かを得るきっかけとなったのではないだろうか。
和歌というものが、ただ単に格式ばって技法や技術を競うものなのではなく、やはりその時の心情や素直な気持ちというものを巧みに三十一文字の中に織り込んだ表現の一つであるのだということを再認識させられる。
後の世にでた、江戸後期陸奥白河の主で幕閣老中となり寛政の改革を断行した松平定信が書き留めたもので次のようなものがある。「憎くとも宥すべきは花の風、月の雲、うちつけに争ふ人はゆるすのみかは」と。歌を詠むことはより優しい感情を表面にあらわし、その反対に内面にそれを貯えるものであったといえるであろう。簡潔な和歌という感情表現の形式は、素朴な感情を即興的にうたいあげることに得に適しているといえるであろうし、教育程度や技法の習熟度にかかわらず、和歌を詠み、その愛好者たり得る事が可能なものであるといえるのではないだろうか。
このように考えると、「今昔物語集」の世界、そしてその後の世に至るまで歌というものが精神世界の表現をし、長く直接的な文という形式でない分より一層の心のやりとりといったものを出来る手段の一つとして捉えられていたのではないかと思われる。現代の我々にしてみても、和歌を詠むということこそ習慣としてはあまり残っているとは言い難いが、いわゆる歌謡曲などをつうじて、詞に共感したり、直接相手を前にすると照れくさい気持ちを詞にのせて人に贈ったりする。まして和歌では売名や不特定多数を対象に書いた詞などではなく、本人が相手のために気持ちを詠んだものである。これはもはや意志疎通という手段の一つという枠を超えた、人と人との心を繋げる掛け橋となっていたことは想像に難くない。
そのような高い水準での精神の疎通というものが出来る女性というのは、やはり男性にとって非常に魅力的であるといえよう。それに比べてより本能的であり、精神の世界では当然低次におかれる食欲が最優先した現在の男の思い人は、情趣あるものを愛でる風流心と想像力の欠如した、その場の感情で動く下劣な女と見えたことであろう。
「今の妻」と「もとの妻」を比べるに、やはり「もとの妻」が風流心を解し、歌を詠む知識や機転があり、そしてもとの夫が間違えて贈ってきたものだと知りつつも嫉妬にさいなむことの無い奥ゆかしさを持っている女性として際だっていると評価されているということがわかるであろう。
この姿、わが国で「大和撫子」といわれて評価されてきた女性像というのが、いわゆる理想の女性像として「今昔物語集」の世界でも認識されていたのではないだろうか。風流心を解し、歌を詠む知識や技法を織り込む機転があり、そしてもとの夫が間違えて贈ってきたものだと知りつつも嫉妬にさいなむことの無い奥ゆかしさを持っている女性。
「今昔物語集」の世界でだけでなく、男女の中性化が進んでいるといわれている現代でも十分通用する女性像と言えるのではないだろうか。
現物の蛤を見なかった「今の妻」が「貝と海草をあなたに贈ったのに」と聞いて、「食べたかった・・・」と思う気持ちもわからないではないのだが。  
第三節「今昔物語集」における女性観
わが国には「内助の功」という言葉がある。妻が決して表に立つわけではなく、夫を内から助けるという義である。そこには妻が我が身を犠牲にしてもというニュアンスさえ含まれている。そうすることによって夫は何の憂いもなく自己の忠節や仕事に没頭できるというわけである。しかし、これは女性の男性に対する隷属を表わしているのであろうか。
第一章第二節でも触れたことであるが、現代わが国では、男女平等という概念が当たり前となりつつあり、性別によって評価を不当にしてはならないという考えが浸透してきている。このことは当然女性が認められるべき最低限の権利の一つであり、一刻も早く不当な差別は完全になくすべきであろう。だが、わが国にも女性が男性と区別され、社会的権利を認められていなかった時代が長らくあったというのもまた否定しようの無い事実である。
現代のわが国は、一億総中流とも言われたように貧富の格差がさほど無く、世界にも冠たる富める国として繁栄している。職に就いていればまず餓死するということはなく、最低限の生活は国が保障してくれさえいる。かつて飢えや窮乏、圧政に苦しんだ人々にとってみれば、まさに楽園のような国家であるといえるのかもしれない。女性の社会進出は進み、人間が直接労働力を行使する第一次産業、第二次産業の従事者は年々減少し、サ−ビス業やデスクワ−クといった職に就いている人々が増加している。職種やそれに必要とされる技能も多様化し、ますます複雑になっていると言えるであろう。
かつて、農業国家であった頃のわが国では、今よりもはるかに貧しく、人間こそが安価で重宝する直接的な労働力であった。生活に余裕が無ければ、自分が出来ることを精一杯していくしかない。それでも天候や戦によって生産高が思わしくなければ人は簡単に死んでいった。体が頑健であり、力のある男は野良で仕事をし、手先が器用で細かい作業や忍耐強い作業に向いている女は家事や雑用をする。一家の大黒柱たる家長はそれ相応の経験や知識を身に付けるために自己練磨し、子を生む体を生れもった女が育児を担当する。これがもともと男女を区別し役割が分かたれた経緯なのではないだろうか。
そこには不当な差別意識や女性蔑視の思想など無かったであろう。一人一人が自分の持てる才を精一杯引き出し、自分や自分の愛する家族の生活を少しでも楽にしようと頑張った末の結果ではないだろうか。
「今昔物語集」の世界では、天皇家や貴族といった有閑階級の人々、位は持っていても殿上人には程遠い受領階級の人々、ようやく世間に台頭してきた武士、僧や神主・修験者などの宗教関係者、農業や商業に従事する庶民といろいろな階層の人々が登場している。ここではそれらの人々が女性をどのような存在として捉えられていたのかということを中心に考察したい。
第一章第二節で扱った巻三十第九語「信濃の国夷母棄山の語」では、庶民であった夫は自分の血縁の家庭内の立場さえ守ることが出来ずに、一度は山に見捨ててきていた。
第二章第二節で扱った巻三十第十一語「品賤からぬ人、妻を去りて後返り住む語」では、受領階級の恋愛について描写がされていたが、ここでは女性に主導権はなく、女性は当世風に着飾ったり奥ゆかしげに歌を贈ったりする程度で選択権は男性に握られていた。
巻三十第二語「平定文に会ひたる女、出家する語」では、平中と言われ色を好んだ平定文が、宇田帝の皇后温子の女房武蔵に好意を持ち、心を高く持って今まで男を通わせることなくすごしてきたこの女性を半ば強引に口説き落として思いは通じあえたのであるが、その後平中はこの女性に何の便りもしなかった。武蔵はこの仕打ちをつらく思い、何日も物も食わずに泣き暮らした挙げ句髪を切って尼になってしまう。この物語の中では、かなり身分の高い女性である武蔵も自分の感情を表現し、自己主張を平中に対してしている。自分がやはり平中に重くは思われていなかったということを行動で表わしている。
女性の立場というのは、やはり、既婚者である場合その夫婦の社会的身分が低いと夫と妻の地位が等しくなるような傾向を持っているようである。だが、奇妙なことに身分が高い上流貴族の場合も、結婚ということが自分の意志で出来るかどうかということを除けば、男女の地位上の差異はそれほど著しくないようである。これは主体性を持っていなくとも、女性だからといってないがしろにされることがあまりないということである。このことは、社会的にみて下層階級であったものにとっては一家の労働力確保ということが最優先事項であって、女性を下に見るというよりも、たまたま女性が得意なことが現代ではあまり価値を認められていない家事や雑用であったため現代の我々から見ると女性の立場が低いように見えるのであろう。また、身分の高い上流貴族階級においては、もともと成人後の女性の化粧として行なわれていた御歯黒が中世にいたっては男性もするようになったことなどからもわかるように、男性の中性化が進んで性別差による地位の差をつけるということ自体が男性の手によって成り立ちがたくなっていた為であろうと思われる。
後の世に武士として社会に台頭していく事もあった受領階級の者達は、当然武士道といったものがまだ確立されておらず、支配者層ではあるのだが箍が緩み始めた律令制度の中にそれでも縛られ、位階という観念的なものではなく具体化し、具現し得る実力や富み重きを置いたからではないだろうか。
現代においても、わが国で男女は平等とされているが、これは法律上の権利についての見解であり、男女間の価値を比較しているわけでは決して無いであろう。すなわち、社会的立場や政治的な影響力といった意味での女性の権利は 「今昔物語集」の世界ではあまり認められていなかったように感じられるであろうが、あるときは妻、あるときは母親として社会や男性に尊敬や愛情を受けていたのではないかということである。
「女性」という存在は、当然のごとく人類のほぼ半分を占めているわけであるが、男性から見たときに時には論理的でなく、限りなく矛盾する存在として捉えられることもあろう。これというのも女性の直感的な心の働きは、男性の算数的、合理的な理解力をはるかに超える場合があるからである。だからといって、女性のほうが優れているということではもちろん無く、その逆でもない。感情に流されることなく合理的な解決策を模索することが得意な傾向を持つという男性の特性と、繊細で柔らかな感受性を持ち、細やかな神経を持っているという傾向を持つ女性の特性が異なっているというだけのことである。こうした特性を互いに補完しあい、またそれを求めているからこそ、男女は互いに心引かれるのではないだろうか。
自分の妻を「愚妻」と呼ぶからといって、我が妻を軽く見ているということは決してなく、謙譲の美徳であるということが当然のように理解される国民性を持つわが国において、欧米流の個人主義的男女同権をまったく同じように受け入れようとすれば当然歪みが出るのではないだろうか。一つの比喩として、「アメリカ人の夫は人前で妻に口づけをして、私室で打つ。しかし日本人の夫は人前で妻を打って、私室で口づけをする」というものがある。表面的に出るものが何にせよ、どのように互いの思いあう気持ちを昇華し、相手に伝わるように表現するのかは人それぞれであろう。自らの権利を声高に叫んで離婚を裁判所に持ち込むのが良いか、不満を心の奥底に沈潜させたまま結婚生活を忍耐強く続けるほうがいいのかということまた、国や文化、そして個人にそれぞれの考え方、捉え方があるのは当然のことである。わが国の過去や他の国の文化から最適と思われるものを選択し、抽出してよりよいあり方というものを我々も模索していきたい。  
終わりに
本研究では、「今昔物語集」を考察していくことによって、この膨大な量の説話に登場する人種、貴賎、地域を網羅したともいえるような人々が何を考え、何を感じ、どのような生きざまをしていたのかを見てきた。そしてそこにあらわれる考え方や価値観を我々が生きる現代のものと比較することによって、今の時代に生きていく上での指針となるようなものを探ろうと試みてきたつもりである。
いよいよ新しい世紀が幕を開けようとしており、世の流れも先行きの見通しをつけることが困難な時代になっているといえるであろう。わが国でもさまざまな新興宗教が表面化して社会不安を煽ったりしたが、今昔の時代も末法思想によって民衆は漠然とした不安を感じ、またそれを立証するかのごとく政治は乱れ、災害は相次ぎ、戦乱の気運が徐々にに高まりつつある時代に生きていたという点においては、我々が学ぶべきことも多いのではないだろうか。
時代は変わり、女性の立場もまた変化し続けていくであろう。しかし、男性と女性がいる限り、互いを必要とし、大切に思いあっていくであろう。「今昔物語集」で、現代に比べれば過酷な環境をそれでも溌らつと生きていた女性達。そしてその女性達を愛していた男性達の生きざまを見て、私たちもまた得るものを活かし、これからの激動の時代を乗り越えていけるようにかつてのわが国に生きた人々の残した遺産ともいえる記憶を用いていくことが、わが国に生まれ、古典文学に接する機会を持ったものとしてのあるべき姿であろう。  
 
京鎌倉の王権と美術

 

はじめに
拡大する王権と絵巻 院政期の美術、とりわけ絵画史の分野において、絵巻は、多くの現代人の関心を集める輝かしい存在である。絵巻の歴史において劈頭を飾る院政期は、現存遺品の稀少性、豊かな表現力と創造性があいまって黄金時代とみなされてきた。周知のように四大絵巻と呼ばれる徳川・五島本「源氏物語絵巻」「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」「鳥獣人物戯画(甲巻)」はいずれも十二世紀の作例である。また、文献にのみ名を遺す作品を含め、後白河院の蓮華王院宝蔵に秘蔵された絵巻群は、あまりにも有名である。だが、絵巻愛好・蒐集は、後白河院とその周辺の人々の個人的な関心や好みによる特異な現象として片付けるわけにはいかない。絵巻制作がとりわけ院政期に活発化するのはなぜなのか、絵巻という媒体は院政期の王権の在り方とどのように結び付くのか、といった点について、さらに議論を尽くす余地があるだろう。
ところで、院政期の王権と美術のかかわりは、美術史家による彫刻や絵画作品を中心に据えた研究にとどまらず、造形を含みながら営まれる多様な視覚文化の政治的意味や機能という観点から考察されてきた(五味文彦・一九九三)。院政期の王家は、壮大な宮殿や寺院を次々と造営し、京内住民を熱狂に巻き込む祭礼に介入した。分散しつつある権力に対抗するためには、都に集うさまざまな身分、階層の人々を、視覚的パフォーマンスに引き寄せ、人々の身体的参加・不参加を通じて王権の磁場を創出することが不可欠である。都市空間を改造して創られたモニュメンタルな建築を舞台として、法会や祝賀などの行事が催された。公卿、院近臣から下部にいたる人々は、自らの身分や家格に応じた役割を果たしつつ、院の寵愛を競い富を投入し豪奢を尽くす。一方、都という空間を共有する庶民もまた、それらの行事に見物人として動員される。祇園御霊会においては、庶民が、神輿を担ぎ、田楽を演じて、パフォーマンスの主体となり王都の歳時にかかわった。院政期の治天の君を中心とする文化圏は、内裏を主たる空間として営まれる天皇中心の視覚文化を範例としつつ、それに対抗し、その枠組みを乗り越えるさまざまな視覚文化を創り出し広範に展開することによって、拡大する王権の超越性を演出したのである。
絵画に立ち戻れば、院や女院の周辺では、絵巻や冊子絵などの制作と享受が、平安時代世俗画の枠組みや規範をずらしながら積極的に進められた。本来、平安時代世俗画の枠組みは、障子絵や屏風絵といった大画面絵画を中心に成り立っており、小さな紙(料紙)に描かれる小画面絵画、すなわち当時の文献に見える「紙絵」は周縁的存在であった。ところが、平安中期頃から次第に、周縁的存在であった紙絵の需要が高まっていく。紙絵制作の隆盛は、宮廷社会のジェンダー編成の組換えに連動する。貴族女性による絵画制作や享受に対する社会的評価、位置付けの変化には意味があった。院政期世俗画の政治性に関しては、ジェンダーの視点からの検討が必要である。
幸いにも近年、院政期の絵画制作に関する研究が活発化し、美術史・歴史学・文学を横断する研究成果が相次いだ。また、絵巻の個別作品に顕著な造形上の特色を、注文者や享受者の意図や願望、歴史的状況と関連づけて読み解く作業も進められている。それらの先行研究に拠りながら、紙絵の主題選択や画面構成はどのように行なわれたのか、絵画制作に関与する宮廷人はどのように編成されるのか、宮廷社会は作品をどのように受容し、その意味を迫り上げていくのか、といった観点から、より詳しく、紙絵と王権とのかかわりについて考察していきたい。
平安時代世俗画における「紙絵」の位置
「唐絵」と「やまと絵」 今日では、平安時代の紙絵と言えば、十二世紀以降に制作された現存遺品、すなわち、先にも挙げた絵巻の他、西本願寺「三十六人家集」(挿図1)や四天王寺「扇面法華経冊子」(挿図2)、あるいは厳島神社「平家納経」(挿図3)など、あらゆる技法を駆使して料紙に装飾を施した冊子絵や経典見返し絵などを思い浮かべる。また、絵巻に関しては、従来、装飾性豊かな冊子絵や経典見返し絵に共通した性格を有する「源氏物語絵巻」(挿図4)「寝覚物語絵巻」(挿図5)などの物語絵巻と、料紙を何枚も継ぎ合わせた長大画面に描かれる「信貴山縁起絵巻」(挿図6)「伴大納言絵巻」(挿図7)などの説話絵巻とは、分けて論じられてきた。確かに、段落式絵巻と呼ばれる前者と、連続式絵巻と呼ばれる後者とでは、造形表現の方法や狙いは大きく異なる。だが、平安時代中期に遡れば、文献上に登場する紙絵において、明確な区別は認められない。紙絵という媒体は、平安時代世俗画の枠組みにおいて、未だ周縁に位置付けられていた。この第8巻は、後白河・後鳥羽の院政後期を中心に扱うことになっているが、ここでは、まず、十世紀頃に遡り、世俗絵画における周縁的存在としての紙絵に注目する。それによって、絵巻をはじめとする紙絵が、宮廷文化のどのような場所から立ち現れて分化し、院政期の王権と不可分に結び付く存在へと変貌を遂げていったかを探ることができるであろう。
さて、平安時代世俗画に関する研究史を降り返ると、一九四〇年代に始まる秋山光和・家永三郎による徹底した文献史料の収集と分析が先駆的研究として重要である(秋山光和一九四一・一九四二、家永三郎・一九四二)。秋山は、平安時代の文献に見える「唐絵」と「やまと絵」が、いずれも障子や屏風に描かれた大画面絵画を指し、主題が中国か日本かという差に基づく呼称であることを明らかにした。典拠となる漢籍を探り、勅撰集や私家集に載る膨大な屏風歌、古記録、有職故実書、文学作品における絵画への言及を考察して、「唐絵」「やまと絵」の実態を審らかにした意義は大きい。
その後、一九九〇年代に入り、千野香織が、美術史・建築史の研究蓄積に加え、ジェンダー理論を援用することによって研究を大きく前進させた(千野香織・一九九四・一九九五)。千野は、平安宮内裏の建築内部空間の性格と、そこに置かれた障子絵・屏風絵の主題を併せて検討することによって、視覚表象を媒体とする平安時代の天皇権威の政治学に踏み込んだ。その説は既によく知られるところになっているが、これからの考察の前提となるので、簡単に紹介しておこう。
残念ながら、平安時代の天皇や貴族のための建築で用いられた障子絵や屏風絵は、ほとんどすべて失われてしまった。ただし文献史料に拠って、九世紀後半には平面プランが成立したと考えられる内裏の紫宸殿や清涼殿で用いられた障子絵や屏風絵の主題は、復元的考察が可能である。
ちなみに、平安時代の用語としての障子絵は、敷居の上を滑る今日の襖、柱間に固定された壁貼付、足を付けて立てた衝立を総称するものである。それらは、屏風と同様に通常は絹地に描かれ、パネル状に仕立られたものという共通点を持ち、建築と一体的に使用されるものであった。これに対して屏風絵は、建築内部で用いられる点では障子絵と同じであるが、常時固定的に用いるのではなく、用途に応じて一時的な空間を創り出す調度である。両者を併せてしょうへいが障屏画と呼ぶ。
寝殿造りという様式で建てられた天皇や貴族の住宅建築は、障屏画によって間仕切られて使用される。内裏の建築について言えば、障屏画は、天皇を中心とする権力の在り方を可視化する媒体であった。公的空間には「唐絵」、私的空間には「やまと絵」を立てて、それぞれの空間の機能分担が明示されていたのである。さらに、千野の研究は、「唐絵」と「やまと絵」、そしてそれが立てられる建築空間が、ジェンダー化されていること論じた点において画期的であった。すなわち、「唐絵」は公的であると同時に男性性の、「やまと絵」は私的であると同時に女性性の領域を構築していた。それは、平安時代における周知の二重の文字システム、すなわち漢字とかな文字の使い分けに連動している。
いま少し、具体的に見てみよう。まず、内裏の正殿である紫宸殿では(挿図8)、母屋と北庇の間の柱間に嵌め込まれた「賢聖障子」には、中国の殷から初唐(太宗の時代の宰相達)にいたる三十二人の名臣が描かれた。その画面上部の色紙形には、それぞれの人物を説明する漢詩文が書かれていた。
また、天皇の住居として使用されていた清涼殿では(挿図9)、「ひるのおまし昼の御座」と呼ばれる母屋と東庇南側五間(南北の桁行九間のうち)が公の性格を持っていた。この空間で、叙位や除目などの儀が天皇の御前で行なわれる。他の部分、母屋と東庇の北半分、および西庇は私の性格を持っていた。西庇は、基本的に女官が天皇の日常生活に奉仕する空間であった。女房を交えての歌合などの行事はここで行なわれ、宮廷社交の舞台ともなる。
清凉殿の障子絵は、空間の性格の差異、「公=唐」「私=和」の機能分担を明確に示す。すなわち、昼の御座、母屋五間の西庇と区切る障子には「唐絵」が描かれ、そこに貼られた色紙形には「本文」、すなわち絵の題材となる漢籍から抜粋された詩文が書かれていた。一方、この障子の裏側、台盤所から鬼の間にあたる西庇側の面には、「和絵」が描かれていた。この他、東を正面とする清涼殿の東側に設けられた弘庇(孫庇)の北端に立てられた「あらうのみしょうじ荒海障子」、そこから二間南に下がった所に立つ「こんめいちのしょうじ昆明池障子」も、表(南面)には「唐絵」、裏(北面)には「和絵」と主題を描き分けていたのである。
千野は、天皇の公的な権威を保証するのが、「唐」のイメージであったこと、特に、朝廷の重要な儀式を行なう紫宸殿において、中国の男性の肖像を描いた障子絵を背に、天皇の権威が演出されていることに着目した。唐帝国の滅亡後も、天皇や男性貴族にとって「唐」とは、「本物」の男性性を体現する偉大な国として憧れと同時に畏怖の対象であり、彼らは「唐」のイメージを自らの権力の後ろ盾として用い続けたのである。一方、「やまと絵」すなわち女性性の領域とは、「唐」の脅威から身を退けることの可能な、日本の権力者が十全に支配できる世界であった。
「唐絵」「やまと絵」は、天皇の即位の後に大極殿で催される大嘗会の饗宴の場においても十世紀頃から併用される。それは、新しい天皇を、「唐」の権威を用いて荘厳すると同時に、「和」の世界の支配者であることを可視化する装置であったと考えられよう。
さて、宮廷社会に生きる貴族女性は、権力を持つ天皇や上位の貴族男性が必要とし、基本的には彼らが操作・支配する女性性の領域内の文化的営みに、制限を加えられつつ招き入れられた。例えば、和歌を読むことは、内裏や権門の女房として仕える女達や、権門の妻妾となった女達にとって、公的に評価され、求められる教養であった。しかし、女性が勅撰集の編者に選ばれたり、大嘗会屏風・屏風歌の作者に選ばれることはない。女性性の領域の内部にある文化的営みにおいてもなお、女性にふさわしい関与の仕方が要請される。社会的に構築されるジェンダー(文化的な性差)は、「女手」「女絵」など性との結び付きを特化する媒体を利用して、女を特定の領域に特定のやり方で固定するものであった。ただし、さまざまな媒体と女との結び付き方、その領域の社会的位置付けや意味は、通時的に一貫しているのではなく、摂関政治期から院政期へと変化していったと考えられる。
ジェンダー・システムと絵物語 十世紀には、女性性の領域の内部において、物語は和歌よりもさらに下位に置かれていた。より明確に女性にふさわしいものとされていたのである。ただし、周知のように、物語は、女性ばかりではなく男性によっても創作されている。ジェンダー(文化的性差)において女性性に位置付けられる物語の制作と享受には、積極的な男性の関与・介入があった。
源為憲は、「三宝絵」(九八四年成立)の「序」において、「浜の真砂より多」い物語は、「女の御心をやるもの」で、真実から遠く、信心を妨げるものだと貶めている。皇女に仏教信仰を勧める立場から、物語は否定される。一方で、為憲の批判は、絵と共にあった物語が、女達の心をしっかりと掴んでいたことを逆説的に示している。
また、「源氏物語」(蛍)の物語論において、紫式部は、「日本紀などはただかたそばぞかし。これら(物語)にこそ道々しく詳しきことはあらめ」という源氏の言葉を借りて、物語作家としての自負を表明している。ただし、本文を注意深く読むならば、絵物語に対する男と女の関心の持ち方の違いがはっきりと示されている。源氏は、画中の姫君の身の上をわがことと感じて絵物語に没頭する玉鬘に対し、「いつわりども(でまかせの話)」「はたはかなしごと(たわいもない話)」と否定的な言辞を弄したかと思うと、一転して物語世界の男女に自分達をなぞらえて玉鬘に言い寄るそぶりを見せる。また、明石の姫君のためには、物語の中の軽率な恋が及ぼす姫君への悪影響を配慮して、恋物語を遠ざけるよう紫の上に指示する。その一方で、玉鬘の場合と同様に、紫の上と自らを画中の男女になぞらえてふたりの過去を喚起しようと試みる。
ここに登場する絵物語とは、男女の恋愛・結婚にかかわる主題を描いた紙絵のことである。それはまた、「女絵」と呼ばれる紙絵の存在に重なり合う(池田忍・一九八四・二〇〇一)。「女絵」の言葉は、十世紀末から十一世紀初頭にかけて、「蜻蛉日記」「枕草子」「源氏物語」「紫式部日記」など女性作家の手になる作り物語や日記に登場する。その画面は、「源氏物語」(総角)に「をかしげなる女絵どもの、恋する男の住まひなど描きまぜ、山里のをかしき家居など、心々に世のありさま(男女の中)描きたるを」と記されるように、恋する男女、その住まい、周辺の四季の景物、といったモチーフよって構成されていたと推知される。ただし、女絵が、必ずしも特定の既存の物語とは結び付かず、むしろ享受者自身が画面に物語を自由に重ねて楽しむ簡素な紙絵(料紙一枚に描かれた絵)であるのに対し、絵物語や物語絵は、作品の著名度や流布の範囲は別として、創作された特定の物語に対応して描かれたものを指すという区別があったと考えられる。また、絵物語や物語絵と呼ばれるものは、ストーリーの展開に対応した場面をいくつか組み合わせて描き、冊子・絵巻などに装丁されていた可能性が高い。
さて、文献上の記述に拠れば、絵物語や女絵は、その制作の目的や内容によって三つの異なる機能を有する媒体として存在していた。第一に、女達が自らの体験を重ねたり、未来を予想するなど、人生をシミュレーションしながら個人的に楽しむための媒体。第二に、男女のコミュニケーションの媒体。第三に、まだ幼い権門の姫君を教育する媒体である。
女絵や絵物語は、まぎれもなく「私=女性性」の領域に位置付けられるものだが、男性の介入・関与の程度によって、さらに入れ子状にジェンダー化されていた(池田忍 二〇〇一)。特に三番目の教育的機能を持つ絵物語は、男性が必要とする媒体である。その背景には、摂関政治期の権門男性にとって、入内にふさわしい娘を持つこと、娘には宮廷社交の最前線に位置する後宮の主にふさわしい教養が必須となる状況があった。配慮を重ねて整えた絵物語や歌絵の冊子は、後見の父の権勢・富貴を視覚的に示すと同時に、姫君が身につけている教養の証に他ならない。後宮を通じた男性貴族の権力の卓越化には、女性性の領域に位置付けられた文芸や視覚美術が有効だったのである。
蛍巻において、源氏は、物語の選択に関し意見を述べ指示を与える。本文に拠れば、実母である明石の君も娘のために絵物語を整えるが、源氏によって準備されるものとの性格の違いが暗示されている。絵合巻でも、源氏は、自らが梅壷女御方の物語絵を取捨選択する。絵所絵師や能書の選択、料紙や軸などの装丁を含め、豪華な物語絵巻の制作に采配をふるう源氏の姿が物語には描写されている。
物語の中だけではなく、将来の后候補と期待する姫君のために後見の男性が絵物語を整える例は、「栄華物語」にも見える。藤原道兼は、才能ある女房を集め、未だ生まれぬ娘のために世の中に伝世する絵物語を書き集めさせた。また、新築の粟田山荘には名所絵障子を作らせている。それは、宮廷詩人・歌人に漢詩・和歌をそれぞれ依頼した唐絵とやまと絵であった。権門の姫君には、絵物語のみならず宮廷絵画の規範となる障屏画についての教養は欠かせない。絵画とは、ジェンダーとかかわって構築される宮廷文化の領域・境界を、居住空間の中で女達に教えるものであった。
ところで、文学史の上では、平安中期から後期にかけて、宮廷サロンの女主人や女房達が、物語の鑑賞や批評だけではなく、制作や管理に関与するようになったことが重視されている。定子や彰子の後宮、「物語の司」「和歌の司」という部署が設けられたことで有名な選子内親王の斎院、十一世紀半ばの示某子内親王や祐子内親王のサロンなどにおいて、女房達による活発な文芸活動が繰り広げられていた。特に頼通の時代には、物語が裏の文化から表の文化として認知され、物語の宮廷文学化と呼びうるような状況が生じてきたと指摘されている。宮廷サロンでは、古物語の収集や書写作業が組織的に進められ、なかんずく「源氏物語」の古典化が促され、その影響下に後期物語が生み出された。十世紀後半から十一世紀にかけて、女達は和歌ばかりではなく、物語によって公的な評価を得、宮廷における栄達実現の機会を得ていったのである。内裏の女房、権門の子女の養育を担う乳母や女房、もしくは、権門の北の方や権妻・妾といった身分になって、宮廷文芸の世界に参入する可能性に望みをかける女達が数多く現れる。
だが、絵画の分野では、摂関政治期における冊子や絵巻のように念入りに料紙を整え美麗な装丁を施された紙絵は、公的な場に出すことを前提に作られるので、専門の絵所絵師の手で描かれるのが通常であった。女達の関与は、和歌や物語の制作に比べてもはるかに私的な位置にとどめ置かれていたと考えられる。
宮廷の作画機関である絵所絵師の名は、主として公卿日記などの記録類に伝えられている。先にも述べたように、彼らの制作の中心は宮廷の調度、儀礼の用具としての「唐絵」「やまと絵」、すなわち障屏画であった。ただし、その画域はきわめて広い。宮廷人の尊崇を集める高僧の肖像、仏画(仏伝その他の経典説話画や不動などの礼拝画)、工芸品のデザインなどにも及んでいたことが知られている。冊子や絵巻といった紙絵の制作においても、作画技術と図様(さまざまな絵画モチーフを集積した絵手本)を組織的に継承する職業的画家に、素人が対抗して活躍することは難しかったと考えられる。「栄華物語」によれば、寛弘六年(一〇〇九)、道長の娘彰子が入内に際して持参した歌絵の冊子は、道長の時代に活躍した巨勢弘貴(広高)の作であった。フィクションではあるが「源氏物語」(絵合)は、時代を遡っての活躍が知られる実在の絵師、巨勢相覧、公忠、飛鳥部常則による絵巻を登場させている。それに対して、貴族の作画は男女を問わずあくまでも余技であり、私的な領域での楽しみと認識されていた。付け加えるならば、貴族男性が余技として絵を描く場合にも、やはり大画面ではなく紙絵がふさわしいと考えられていた。しかし、その画題の選択はより自由で、当然ながら恋物語に限定されることはない。大画面絵画に描かれる主題に共通する四季絵や名所絵、戯画、などのバリエーションを文献からうかうことができる。
以上の考察をまとめておこう。摂関政治期の宮廷社会のジェンダーシステムは、女絵や絵物語の私的制作や享受を貴族女性にふさわしいものとし、女性の本質に結び付けることで周縁化していた。その上で、男性貴族は、その制作や享受に介入し、教育的な利用を試みたのである。権門の男性貴族にとって、女性性の領域にある絵物語や女絵は、自らの富貴と権勢を視覚的に示す主要な媒体のひとつであった。それらを豊富に与えられ、その世界に親しみ魅了される姫君は、宮廷社会のジェンダー規範を身につけた理想的女性像に他ならない。男性貴族の卓越化が後宮を通じて行なわれる政治構造は、女性性の文化的領域を不可欠とするのみならず、女絵や絵物語を、女性の本質と結び付く媒体として女性性の領域の深層に位置付け、特化したのである。
院政期における女房の絵画制作・絵画批評
「女絵」・「男絵」 摂関政治期末、十一世紀後半になると、文学史が確認するように宮廷の女房達の活動が表舞台に引き上げられるにつれて、女性の絵画享受・作画活動に変化があらわれ始める。摂関政治期には、女性性の領域の深層に位置付けられ、私的な鑑賞と余技としての作画にとどめられていた絵物語や歌絵などの紙絵が、宮廷社会の文芸にかかわる晴の行事の場で用いられる機会が拡大する。数多くの紙絵作品が宮廷サロンに集められることによって、女房達の絵画に関する知識や批評の能力が高まった。さらに、女院の周辺では、組織的な工房において絵画を制作する女房達が登場する。言い換えるならば、女性の知識や技能は、より専門的なものとして宮廷社会において評価された。ここでは、女房達による絵画制作と享受に、宮廷社会が新たな意味付けを行なう事情を、院政期文化の特徴と関連付けて考察したい。
「栄華物語」に拠れば、治安元年(一〇二一)皇太后妍子の一品経制作においては、結縁した女房達が高価な料紙を整え、下絵を施し、軸などの装丁の趣向を競い合った。それは、「さるべきものの集(和歌集の冊子)などを書きたるように見え」たという。経典の書写供養といういとなみに際して、女性達が関与した造形、なかんずく紙という媒体における装飾のセンスが競われ、しかも後宮を舞台に多くの宮廷人によって享受される機会が生まれたことを示している。三節で見るように、十一世紀の半ば過ぎの歌合行事は、物合的要素を伴い遊宴性を重視しつつも、造り物の風流から、紙を媒体とする冊子や書芸の風流へと関心を移したと指摘されている。美麗経典の結縁は前代から継承されたものであるが、院政期には、和歌や物語といった世俗的文芸を扱い、趣向を凝らした冊子や絵巻の制作が盛んになった。そのような紙絵制作の隆盛が、女性達の絵画制作への関与の深まりを促していったと考えられる。
ここでは、まず、文献上の「女絵」と呼ばれる紙絵の内容の変化に注目して、十一世紀後半における紙絵制作の状況と意味の変化を考察する手がかりを得たい。十一世紀後半になると、歌合の場に提出された和歌を記す料紙の下絵に、「女絵」「男絵」が描かれたという記述が登場する。先にも触れたように、「女絵」は、十世紀末から十一世紀初頭にかけての女性作家による物語や日記において単独で登場し、恋物語と結び付く内容であったことが知られている。これに対し、「男絵」という言葉の用例は僅かで、文献への登場が「女絵」に遅れることから、従来の研究においても、特殊な例とみなされ曖昧な解釈が行なわれてきた(池田忍 一九八四)。
「男絵」の語が用いられる文献中もっとも時代が遡るのは、「栄華物語」(根あはせ)である。藤原教通の娘で後冷泉帝女御の歓子が「男絵など絵師恥づかうかかせ給」うたと、彼女の画技が専門絵師顔負けであったことを記している。これを根拠に、一般には、両者の区別を、表現技法や様式の差と見て、女絵は濃彩の「作り絵」(墨線の下描きの上に、顔料で厚く彩色し、あらためて輪郭や文様を描き起こす)の技法で描かれた「源氏物語絵巻」に、男絵は線描主体で仕上げる「信貴山縁起絵巻」や「鳥獣戯画」に重ね合わせる理解が広まっている。しかし、文献上の用語例を検討するならば、むしろ女絵と専門絵師による絵画の差異は、本来、その画題の特殊性、限定性にあったと考えられる。絵師の画技とは、まずは障屏画、すなわち大画面の絹絵を指していたのである。そのようなジャンルにまで、歓子の画技が及んでいたことが特筆に価したのであろう。これらの用語例と十二世紀の遺品とでは、時代的にも離れ、直接結び付けるのは無理である。
そこで、「女絵」「男絵」が対で用いられる例として、十一世紀後半に催された二回の歌合に用いられた料紙の下絵に関する文献を検討したい。
まず、高陽院で催された嘉保元年(一〇九四)「先関白師実歌合」の料紙に描かれた絵を見よう。この催しは、左方にさまざまな権門から選ばれた女房七人、右方に源俊頼、大江匡房はじめとする男性廷臣が選ばれて和歌の優劣を競うものであった。男女いずれもこの時期の宮廷歌檀の有力メンバーである。仮名日記に拠れば、男女を左右に分かつ方式は、永承五年(一〇五〇)同じ高陽院で頼通が主催した歌合に倣うものである。その席上、左方からは歌の心を「女絵」に描いた絵が、銀製の文箱の中、浮線綾の敷物の上に並べ置かれた。それに対して右方からは、男の歌を提出するのに「男絵五巻」が準備された。
この日の行事については、右大臣藤原宗忠の日記「中右記」も内容を記している。それを参照すると、右方は、二階厨子に文房具を取り合わせる趣向で、銀の甘坏盃(男の髪を梳く時に用いる水を入れる)を載せた紫檀製の甘坏台の左右に筆を立て、五巻の絵をも並べたという。甘坏台を「唐硯」に見立てて筆を取り合わせた。また、この日の歌題であった四季の景物(桜・郭公・月・雪)と祝いという歌題それぞれに一巻をあてたことがわかる。また、軸は瑠璃製で料紙の色もさまざまであった。だが肝心の女絵・男絵の内容については、「下絵左方女絵右方男絵、皆書歌情歟、美麗過差無極」と記すのみで、和歌の意を絵画化した歌絵であったという以上のことはわからない。
ここで注目すべきは、左右の提出する紙絵の形態が、左方(女絵)は「絵ども並べおきて」とあることから装丁されていない一枚絵であり、右方は五巻に装丁されていることである。内容はともあれ、装丁されていない簡素な一枚絵という女絵の形態は、十から十一世紀初頭にかけて文献に登場する女絵のそれに共通する。絵の形態だけではなく、それを提示する飾りの趣向についても差異が演出されており、右方が文房具という趣向を選択し、かつ甘坏台を「唐硯」に見立てているのは、男性本来の文芸としての漢詩を意識し、示唆しているのであろう。このように歌合の趣向には、ジェンダー化された宮廷文化の規範が適用されている。
もうひとつの用語例を検討しよう。それは、天喜四年(一〇五六)の皇后宮寛子春秋歌合の真名日記である。この日の行事については、「栄華物語」(巻三十六 根合はせ)にも、記述がある。この歌合は男女の歌人が混じるもので、双方さまざまに趣向を凝らし飾り立てた風流のさまが記されている。左方は、州浜の前に二艘の銀の屋形舟を置き、それを文台として和歌を書写した「葉紙十帖」を入れた。下絵は歌題の春にちなんだものであった。そこに、女絵も加えられた。真名日記の本文に拠れば、女絵は十帖の冊子とは別に用意された一枚絵である(ただし、「栄華物語」は、冊子絵の下絵が女絵であったように記している)。さらに興味深いことに、女絵を描いた料紙の端に色々の薄様(薄手の鳥の子紙)を交えて、「真名(漢字)の字を用」いて和歌を書写したと言う。
女絵に対して真名の書体で和歌を書した紙を添えるのは、ミスマッチを意図的したアイディアであり、参加者の目を惹いたであろう。言うまでもなく、ジェンダー化された宮廷文化の規範が適切に適用されるならば、女絵には、仮名書きの書体=女手がふさわしい。ジェンダー規範に基づく約束事をひっくり返し、ジェンダー規範をも奇抜な趣向のひとつとする貪欲な風流の精神が伺われる。宮廷の営みごとの中で、特権的に許される逸脱であった。
一方、右方からは、色々の料紙を用いた二巻の書物が出され、歌題の秋にふさわしい下絵が描かれ、その上に和歌が書写されていた。「栄華物語」の記述に拠れば、この二巻の絵には、能書として名高い斉信の北の方(中納言藤原経任の母、佐理の娘)が和歌を書いたという。九十歳になる人の筆跡が、「さばかり塗りかためかきたる絵」の上であるにもかかわらず、墨がかすれず見事であったとあるのは興味深い。こちらの絵は、濃彩の画面であったことが判明する。
さて、以上のように、二回の歌合の記録からは、そこで提出された女絵の形態が、十-十一世紀の用例と同様に一枚の料紙であることが判明する。しかし、画題の選択、画面構成については特に問題にされていない。両者はともに、歌の心ばえを描く「歌絵」とのみ認識されていたことが判明する。男女の恋愛の一場面を描くという女絵に特徴的な主題には言及されず、絵に物語を重ねて楽しむという女絵、絵物語の本来的な享受方法にも注意は払われていない。「先関白師実歌合」の記事を最後に、女絵・男絵という用語が文献から消えた理由はそこにあるだろう。一方で、美麗な装丁が施された物語絵は、女絵や絵物語からは切り離されて成長を遂げ、宮廷社会における特別な需要に応じて制作されるようになっていった。院や女院の主催のもとで、大勢の貴族男女がかかわって絵巻制作が営まれる時代が到来する。摂関政治期の物語絵制作が、特定の男性貴族の卓越化に寄与したのとは異なり、院や女院を中心とする紙絵制作は、視覚表象によって王権を荘厳し、院や女院が主導して宮廷文化の活性化を促す営みであった。
女房の絵画制作 宮廷文化における冊子絵、絵巻制作への関心の高まりは、宮廷女房達の造形・絵画制作への関与の在り方をも変えていった。そこにはふたつの問題がある。第一に、女房達による絵画制作がより本格化したこと。第二には、女房達が、作品や図様の伝来に重要な役割を果たしたことである。ここでは主として第一の問題について考えよう。
院政期になって、一部の女房の作画技術がより高度化し、院や・女院の周辺では、専門的に絵を描く女房が組織的に絵画制作に携わった事例は、既に紹介されている(秋山光和)。十二世紀、白河院・鳥羽院の時代に待賢門院璋子のもとでは「女房絵所」と呼ばれる組織が設けられていた。そこでの活躍が確かめられる女房として、土佐の局は有名である。
土佐の局の事跡については、仁和寺の参河僧正行遍(一一八一-一二六四)の口伝・秘説を記し集めた「参語集」に記載がある(巻一「僧正御坊真俗系図事」)。俗系に拠れば土佐局は行編の祖父の姉妹にあたる。彼女は、大治五年(一一三〇)年に完成した法金剛院御所の障子絵に名所を描いたという。また、名所障子の色紙形の和歌は当時能書の第一人者であった藤原忠通(法性寺殿)が書くものであった。
さらに、この名所障子絵の制作については、法金剛院御所の造立に関する事情を記した「長秋記」の記事を参照することができる。大治五年(一一三〇)年七月に鳥羽院・待賢門院御所であった大炊殿が火事で焼失した際に、絵障子が女院の御方から取り出された。十枚ばかりは難を逃れたものの、憚りがあるので全てをあらためることとなったという。この記事からは、女院の御所の中でこの絵障子が制作されていたということが読み取れる。
法金剛院御所では、「坤元録」「文選」「白氏文集」などから本文を選んで絵画化した、いわゆる本文障子/唐絵を必要とし、「長秋記」の筆者である源師時が行事として本文を選出する儒者と相談しながら準備を進めていた。近年の研究では、女院の御所内で制作された絵障子は、師時が関与した本文屏風とは異なる場所、異なる制作のプロセスを経て準備された(藤原重雄・一九九九)。本文屏風を描いたのは、絵所絵師であったと考えられる。
「長秋記」の九月十七日の記事には、「申刻に院へ参り、女房絵所に向かって絵等を見る」と記されていることから、女院のもとに「女房絵所」が存在し、その絵は女院の指示を直接仰ぎながら制作されたと考えられる。ゆえに、女院御所内にあって罹災したのは、土佐局が制作に携わった名所障子であったと判断されている。また、「女房絵所」とある以上、土佐局以外にも複数の女房達が協力する作画機関であったろう。漢籍を典拠とする本文屏風ではなく、女院は、やまと絵である名所障子に関心を示し、近侍する女房達の中から画技にすぐれた人々を選んで制作にあたらせたのである。
これ以前の宮廷絵画において、女性が大画面絵画の制作に本格的に取り組んだことを明確に示す史料はない。また先に述べたように、摂関政治期には紙絵においも、女性が描くには「女絵」、すなわち恋物語を主題とする一枚絵がふさわしいと認識されていた。専門の絵所絵師、もしくは同じ貴族の余技であっても男性の画技とは区別されてきたのである。
したがって、絵所絵師の第一の表芸ともいうべき障子絵を女房達が描いていることは、注目に値しよう。また、十二世紀の前半になって、女院発願の御堂の初例である法金剛院において使用される絵画の制作に、女房達が直接携わったことは興味深い。
さて、土佐局については、「長秋記」に、待賢門院璋子が保延元年(一一三五)に主催した扇紙合において、女院近習の女房や殿上人が、扇紙をそれぞれに調進して競い合ったという記事の中に、左方の女房として名が上げられている。だがこの記事では、他の人々を含めて誰がどのような絵を描いたのか、あるいは描かせたのかについては審らかにはされていない。宮廷の遊宴の場において、女房達が絵画に関する造形意識を人々の前で披露し、互いのセンスを競う十一世紀後半以来の伝統が継承されている。
同じ時期の女房の絵画制作について、さらに詳細を記す史料として、他に鎌倉時代の「源氏秘儀抄」「源氏絵陳状」がある(稲賀敬二・一九六四、寺本直彦・一九六四、秋山光和・一九七九)。これは十三世紀の半ばに鎌倉の将軍として在任中であった宗尊親王(一二四二-一二七四、在位は一二五二から一二六六)のもとで、将軍御前の調度として源氏絵の屏風を新造したことに関するものである。屏風は、色紙に物語五四帖のそれぞれから選んだ場面を描いて貼ったものであり、中世における源氏絵屏風流行を先取りするものであった。
「源氏絵陳状」は、当時、鎌倉の将軍家に仕える男性貴族と女房たちが、色紙絵の図様の正統性をめぐる論争を伝える。色紙絵制作の奉行であった「兵衛督まさたか」(和歌・蹴鞠の家を形成した飛鳥井教定と考えられている)と絵筆をとった女房の弁の局、長戸局らは、図様が、将軍家に伝来する二十巻本源氏絵を典拠とするものだと主張した。これは、将軍家上臈女房で歌人として名高い小宰相君による訴え、すなわち出来上がった屏風色紙の図様が伝統に則っていないとする批判に答えるものであった。まさたかと女房達は、典拠とした二十巻本絵巻が、詞書を藤原忠通(一〇九七-一一六四)や源有仁(一一〇三-一一四七)らが書き、絵を紀の局、長門の局が描く由緒正しいものだと述べる。小宰相はこれに対し、自らの知っているさまざまな権威ある諸説に則ってさらに論争を挑んだ。別の史料に拠ると、この二十巻本は十二世紀の末に建礼門院の所蔵であった(伊井春樹 一九七四年)。また、ここに名が挙がる紀伊の局については、藤原通憲すなわち入道信西の妻となり、後白河院の乳母を務めた紀伊と同一人物で、物語絵の下絵をつなぎ合わせて写経の料紙とした現存遺品、「目なし経」(挿図10) を後白河院とともに制作した人物に一致するとの見解も提出されている(秋山光和・一九七九)。
院政期の女房による絵画制作の社会的位置付けに関する考察をまとめよう。法金剛院御所の名所障子絵、そして二十巻本源氏物語絵巻の制作には女院周辺の女房達がかかわっていたことは実に興味深い。だが、上記の史料からは、院政期に到って、彼女達の画技が専門絵師の領域にまで及び、組織的に幅広い絵画制作に携わるようになった背景を考察する必要があるだろう。そこには、宮廷文化における院や女院の主導性の強化と古典尊重の気風が、女房達の動員を促した状況が浮かび上がる。作品の伝来や由緒、図様の異同関する細かな知識の蓄積は、新たな作品の権威の源として必要不可欠であった。女院の周辺に集まる女房達は、過去に制作された宮廷絵画や、その写しにアクセスする機会に恵まれた存在であった。
かつて、摂関政治期に輩出した才能ある女房達は、権門男性や彼が後見する后妃の卓越化に寄与する存在として尊重されていた。その一方で、女達の文芸活動や絵画享受は、自己の内面を追求する私的な営みと位置付けられていた。それは活動の範囲、ことに作画の領域が限定されていたことと表裏の関係にある。これに対して、院政期の女房の作画活動は、公的に組織化され、大画面絵画にまで作画の領域は広がっていった。また、彼女たちの知識を披瀝する批評活動にさえも、公的な場所が与えられる。例えば、先に触れた「源氏秘儀抄」に記された鎌倉の地の源氏絵論争は、両陣営の主張のどちらが正しいか決着をつけることが目的ではなく、源氏物語絵巻の由緒や伝来、さまざまな異本に関する知識を陳情というかたちで披瀝すること自体が目的であったとの指摘が行なわれている(三谷邦明・三田村雅子・一九九九)。将軍として鎌倉に下った宗尊親王の文学や芸能を主催する文王としての権威を高め、この地における源氏物語熱を高める効果を期待してのことであった。屏風は、将軍としての宗尊親王の座を荘厳し、より多くの目に同時に触れる。それは、文芸・絵画を主催する宮将軍の権威を顕示する装置であった。権力者の空間を意味付ける絵画が、唐絵でもやまと絵でもなく、物語を描いた色紙(紙絵)を貼った屏風であったのは興味深い。源氏絵は、女房達の知識を動員し、媒体を屏風にまで拡大しながら、鎌倉の武家政権に対抗し、王権が自らを卓越化する道具、宮廷の文化遺産となっていった。
ジェンダーの視点から見るならば、院政期以降の絵画制作からは、「私的」な女達の楽しみという紙絵享受の意味、言い換えるならば周縁的であればこそ許されていた女絵の価値が奪われていく。女絵という言葉が消えた背景には、女性性の領域をどこまでも収奪し、王権の超越性を演出するための資としていった宮廷社会の文化戦略が浮かび上がる。
女房の作画活動と家の形成 次に注目すべき点は、院政期に活性化する冊子絵や絵巻など紙絵制作において、女房の作画活動とその帰属する家の活動が深くかかわり、女房の作画活動が、宮廷社会を構成する中級貴族の家の安定・継続に寄与するものとなったことである。特に、紙という媒体を用いた絵画制作は、本来、女性性の領域に結び付くもの認識され、そこから発展しつつ、王権の視覚表象の一部に回収されていった。このことは、院政期の宮廷文化全般において、中級男性貴族の活動の領域が家ごとに専門化し、家業として子孫に継承される動向に平行した現象であったと考えられる。
この問題について検討するために、藤原定家とその家の女たち、一門周辺の人々の文芸活動や作画活動の在り方を見ていこう。
天福元年(一二二二)三月、藤原定家は、前年十月に退位したばかりの後堀河院とその中宮藻壁門院のもとで企画された大規模な絵巻制作にかかわった。これらの絵巻は、貝合せ(伏せられた貝の中から一対を見つけ出す)の競技に、景品として出すためのものであった。この催しについては、「古今著聞集」(一二五四年成立)に、また一連の絵巻制作の詳細については、定家の日記である「明月紀」に記されている。新に制作された絵巻は、「源氏物語」十巻、「狭衣物語」八巻、「夜の寝覚」「浜松中納言」「心高き春宮房宣旨」をはじめとする十の物語を用いて月次絵巻十二巻。その他、「蜻蛉日記」「紫式部日記」「更級日記」など女性の日記、定家の作と考えられている「松浦宮物語」などの新作物語や説話絵巻などを合わせた雑絵二十巻。併せて五十巻に及ぶものであったという。その準備には、さまざまな人がかかわっており、定家のもとでは物語月次の絵巻、すなわち十の物語から六十の場面を選び出し、各月に一巻をあてた全十二巻の絵巻を企画し準備していた。そこには更に、他のグループの選択との重複を避けて「蜻蛉日記」が加えられ、そこからも十場面を選んだと言う。この計画には、定家の家の人々が加わり制作に協力している。
特に注目したいのは、定家の娘である堀河院民部卿典侍の活躍である。彼女が幼い頃に仕えた式子内親王から拝領した「月次絵巻」二巻は、定家が新たな絵巻を企画する際の発想源であった。内親王の絵巻は、さまざまな歌人の家集や紫式部日記、枕草子などから自由に和歌を選び、月次に配したものである。また、和歌を核として場面を選ぶ点でも両者は共通しており、この家の人々が歌人としての式子内親王を慕う心が込められている。この計画が進められる最中に、式子内親王の絵巻は、藻壁門院に献上された。
民部卿は上皇のもとで既に制作された新作をひそかに借り出して父に見せている。また、定家の甥で、画技によって院の近臣としての活躍を続けてきた藤原信実の息子為継が訪ねてきて、定家、為家と共に借り出した絵を見たと推測される。信実と定家は、情報交換を行なっていたらしく、信実の姉妹(後白河院近臣藤原隆信の娘)で承明門院(鳥羽天皇妃)に仕えていた右京大夫尼が更級日記の墨絵を描いたことを記している。この新作の日記絵もまた、民部卿が持ち出して定家に見せている。
このような絵巻制作のプロセスからは、女房として長年内親王に仕えた娘の存在の大きさが浮かび上がる。院政期には女院や内親王のもとに富が蓄積されるが、そこに女房として仕えた女達は、多くの宮廷人と交わることで、造形作品に関する知識と情報のネットワークを得た。また主の信頼を得た女房は、貴重な作品を拝領する。定家の娘は、彼女自身の和歌や物語に関する知識をも動員して、父のもとに、この企画の詳細や、他のグループの制作動向、詞書を書く能書についての情報などを集めた。定家は、他の作品との重複を避け、かつ企画全体の対比や調和をめざして新作の制作を進めている。また、定家が選び出した本文は、息子の為家が清書し、それをさらに定家が校閲するというように、一家を挙げて念入りに準備された。
ところで、信実に関しては、彼自身がこの時の絵画制作にどのようにかかわったかは不明であるが、姉妹が絵巻を描く以上、造形面での協力を行なったであろう。右京大夫尼の作画は、この家の宮廷社会における位置にかかわって要請された。周知のように、藤原隆信とその子信実は、画技によって院に仕え、画業によって家を形成した廷臣である。さらに、右京大夫尼の父、藤原隆信の妻は、絵所絵師の系譜を形成する家の娘であったことが指摘されている(五味文彦 一九九一)。また、先に触れた後白河院周辺で制作された「目なし経」の画家が信西の妻紀伊であるとすれば、「尊卑文脈」(巻二)に記されるように絵師を輩出した一族の一員であったことが判明する(秋山光和 二〇〇〇)。このことは、画才の根拠を示唆するにとどまらず、院政期の中級貴族の家が、女性の能力を積極的に一門の活動と結び付けて支援した状況を伺わせる。
天福元年の絵巻制作の背景について今少し触れておこう。承久乱の後、後堀河天皇の即位は、後鳥羽院の皇統を避けるかたちで実現した。父後高倉院は、天皇の座についたことはなかった。後堀河と藻壁門院の背後には、西園寺家と九条家という当時の宮廷社会における家格と富貴を誇る貴族の協力関係があったことも知られている。二人の間に生まれた四条天皇は、この行事の前年に即位している。廷臣から献上される絵巻には言祝ぎの意が込められていた。また、新作絵巻の制作に際して、後堀河院自身は、曽祖父に似あたる後白河院の御願寺である蓮華王院から絵巻を取り出して参照した。つまり、この行事は、蓄積された絵巻群に宮廷社会を挙げて言及しつつ、それを超える破格の規模の新作絵巻を作り出す試みであった。それは、皇位継承の不安定さを払拭し、この皇統の永続を祈ると同時に、王権の顕示を目的とするいとなみであったと言えよう。
だが、この皇統は断絶し、後鳥羽院の皇統に復した。「古今著聞集」の記述に拠れば、絵巻群は四条院の死後、藻壁門院の妹に伝えられて、さらに散逸したと言う。「古今著聞集」の著者、橘成季は感慨を込めて、二十年ほどの間に多くの持ち主を経て絵巻が流転をしたことを伝え、持ち主の運命のはかなさに比して、「はかない筆のすさみではあっても、絵はのこる」と記している。
院政期以降、由緒(特に能書について)や伝来にかかわる情報が蓄積され、過去の作品やいとなみごとを新た創造の契機とする事例は増していく。一方で、作品の流転ははなはだしく、宝物の管理の難しさを物語っている。天皇や院、もしくは高位の貴族達にとって、作品そのものに直接触れる機会は少なかったと推測される。むしろ、噂が伝播し、歴史物語や説話に再録される情報が、こうしたものにまつわる神話を作りだし支えていったのではあるまいか。院政期には、摂関末期に始まる宇治の宝蔵(摂関家)、鳥羽院の勝光明院、後白河院の蓮華王院など、経蔵・宝蔵が次々と建てられた。もちろんそれは、宝物の集中、掌握による王権の誇示を意味していたと考えられる。そこにあるさまざまな宝物の一つ一つが関心を呼び、参照されたという以上に、橘成季のような下級の文人貴族が、その由来や消息を記し、宝蔵・宝物の存在を喧伝していることにも注意を払いたい。歴史物語や説話という媒体を通じて、宝物の神話が形成されたと考えられる。宝蔵を建設した個人は亡くなっても、ものにまつわる話が、ものを掌握する王権のトポスを拠り所に、王権の輝きを放ったと言えよう。
最後に、女達を通じて作品が伝来する例が散見すること、それも血縁によらず女院や内親王のもとから女房へと渡される例が見られることの意味についてあらためて考えたい。彼女達の紙絵に関する知識は、宮廷社会において女房が期待される役割と不可分であった。伝来の絵巻を写すという行為は、絵の内容に関する細かな情報の伝達・継承の為にも必要であった。宮廷社会は、女房達に対し、文化の伝達と継承という役割を期待していたのである。女院や内親王の死や、政権交代に伴う没落によって、いったんは宮廷を離れても、女房達はそこで得た知識や作品そのもの、もしくは写しを継承し、再び新たな主に仕える際に、もしくは家の他の女性が仕えるサロンにおいて生かすことができた。同じような分野の技能によって宮廷に仕える一門の男性貴族家の男性達は、そのような女房の活動に期待し、協力を惜しまなかった。女房達は、宮廷社会の一員として自らの家と一体化しながら、王権の在り方を示す宮廷社会の営みごとに参加し、動員されたのである。
宮廷の営みごと ―― 王権に回収される紙絵
宮廷の風流と歌絵の冊子 繰り返し述べてきたように、院政期は、紙という媒体への関心が高まりを見せた時代であった。冊子・絵巻など、掌中におさまる小さな紙絵の世界に、あらゆる富貴な素材が惜しげもなく投じられ、使い果たされる。この節では、まず、多くの宮廷人が参加する宮廷のいとなみごとの中心的造形媒体が変化する過程を文献の中に確認する。次に、分担制作を基本とする冊子・絵巻などの制作と王権とのかかわりについて諷諭の思想という観点から論じてみたい。
文献に確かめられる史上最古の絵合、永承五年(一〇五〇)の「麗景殿女御歌合」を仮名日記に見てみよう(「十巻本類聚歌合」「廿巻本類聚歌合」)。後朱雀天皇の死後に後見の立場にあった藤原頼宗が主催し、その自邸において歌合の方式に則って催されたこの行事は、鎌倉時代中期の説話集「古今著聞集」巻第十一「画図」にも再録されており、宮廷文化史上の規範的行事として長く記憶にとどめられたと考えられる。左右双方からは、「古今集」と「後撰集」から選び出した古歌の歌絵(左方七帖・右方六帖)と新作の歌絵冊子が提出され、その表紙は飾られ、装丁やその入れ物などは贅を尽くしていたことが判明する。重要な点は、歌絵そのものの出来栄えについての議論が記されていることである。「歌絵」とはいかなるものであるべきか、歌絵の価値の判断についての見解が示される。また古歌の歌絵と新作和歌の歌絵について分けて論じていることも興味深い。古歌の冊子においては、題と読み人の名(「古今著聞集」は歌人の姿を描いたと判断しているが、それは歌仙絵が隆盛した時代の説話編者の解釈だと考えられる)を記し、歌絵は、絵の内容から原歌を判じ読ませることだけを目的とするものではなく、「古今集」や「後撰集」を熟知する参加者達をして古歌の情趣へと誘い込むような絵画世界が追求されたと推測される。「詞を採れば歌はかきにくく、歌を選るには詞あらはれず」と言う記述からは、両者を歌絵に求める参加者の心情が表れている。
ところで、歌合行事における風流、贅を尽くし趣向を凝らした歌合の場の演出方法については、以下のような推移が指摘されている。すなわち、文台を兼ねた州浜を中心とする趣向から(九六〇年の「天徳内裏歌合」では、和歌を記した紙を州浜上の金銀の造花に付けたり、造り物の鳥にくわえさせたり船に載せる)、州浜から独立した文台の使用へ(一〇三五年の「賀陽院閣歌合」左方では、文台に銀の透箱を置いてその中に和歌を清書した扇十枚を入れる)へ、そして最終的には文台における和歌清書の書物化という経過をたどった。州浜の風流から書芸の風流へという転換が起こったのである(佐野みどり)。「麗景殿女御歌合」や天喜四年(一〇五六)の皇后宮寛子春秋歌合は、和歌清書の風流へと関心が移る時代のものであったと考えられる。和歌が能書達によって清書され、表紙や軸には工夫が凝らされ、料紙に装飾を施されたり絵が描かれたりした美麗な本への関心は、「源氏物語」に既に認められることではあるが、現実には、十一世紀後半に顕著になっていく。天喜三四年の六条院示某子内親王物語歌合は、新作物語の中の和歌と新作物語について詠んだ和歌を交えて競う行事であったが、物語の冊子そのものが歌合の場に提出されたことは注目に値する。
遊宴的な歌合の流行は必ずしも長くは続かなかった。十一世紀末に度重なる風流過差の禁止例が出されると、歌合の風流における遊宴性が低下して、和歌を論じ合う文芸中心的な催しへと変化したと言われている。院政期の風流は、遊宴的な歌合が終息すると、装飾経や物語絵巻の営み、すなわち料紙装飾・書芸へと、過差奇巧を競い、趣向がを凝らす風流のエネルギーを注ぎこむ舞台が変化した(佐野みどり・ 一九八八・一九九五)。一方で、風流過差は、書芸・絵画・工芸など宮廷社交の場に連なる限られた人々によって享受される文化を超えて、法会や祭礼など空間を拡大して展開する。過差風流の停止は、それを抑えるためというよりも、媒体や担い手を変え、新たないとなみへと人々を駆り立てる原動力となった。院は、たびたび過差の停止を発令する一方で、お気に入りの宮廷貴族・院近臣らを巻き込んで、新たな過差風流を呼び起こすいとなみを仕掛けた。院政期の王権は、その輝き、超越性を演出し続けるため、さまざまな機会を掘り起こし、過差風流を操作・利用したのである。
歌絵については、僅かではあるが院政期の現存遺品が知られているので、紹介しておこう。経典の装飾に使われたものであるが、「観普賢経冊子」(挿図11 五島美術館所蔵)の中には、「古今集」巻六の冬の歌が散らし書きされており、その和歌「冬ごもり思ひかけぬに木の間より花とみるまで雪ぞ降りくる」(紀貫之、他に坂上是則の和歌も記されている)と経文の下絵、冬ごもりの貴族男女が過ごす屋内と、ほころぶ梅の木に雪が降りかかる庭先を配した風俗画は、呼応している。さらに、永治元年(一一四一)頃の成立と考えられている「久能寺経」の「薬草喩品」見返し絵には(挿図12 武藤家蔵)、仏の慈雨が分け隔てなく降り注ぐという経の意を「春雨(貴人のさす傘)は此面彼面(ふたりの貴人の顔)に草も木もわかず(草・木・車輪)みどり(三羽の飛鳥)に(地上に置かれた荷)染むるなりけり」いう歌の判じ絵で表わしている。前者は、和歌の情趣の創出にもっぱら意を用いており、後者は、画中モチーフと歌の詞を重ねた判じ絵的な性格を持つ一方で、慈雨の注ぐ世界を情趣溢れる風俗画として表わしている。文献上では、白河院の近臣として活躍した源俊頼の家集「散木奇歌集」に見える奇抜な歌絵にかかわる和歌は有名である。さらに、「葦手」(葦や鶴、岩といった画中の自然景物のかたちにを文字をそわせた装飾的な書体)が十世紀に遡って行なわれるが、十二世紀の文献・遺品からはその流行をうかがうことができる。「歌絵」や「葦手」は、遊戯的精神を小品画の世界に持ち込み、結縁経・冊子・絵巻を飾る絵画的技巧のひとつである。それはまた、過差・風流を演出する重要な要素でもあった。
「源氏物語絵巻」と諷諭 先に触れた佐野の風流論は、十二世紀前半、院政前期において、歌合の造り物風流に源とする「合わせ挑む競合の美意識」が、院周辺の結縁経や冊子制作においてさらに研ぎ澄まされたと述べる。書芸・絵画・工芸を併せた和歌の冊子、美麗経典、絵巻などの制作には、そのプロセスに多くの宮廷貴族が選ばれて参加した。
十一世紀の遺品としては、先に歌絵との関連で触れた「久能寺経」は、鳥羽院の出家に際して、院や待賢門院璋子、美福門院得子、院の近臣や女房達によって結縁されたものである。また、天永三年(一一一二)白河法皇六十賀の贈り物として調進されたと推定されている「三十六人歌集」は、二十人に及ぶ寄合書であり、あらん限りの種類の料紙を集め使用し、染め、継紙、金銀箔を撒き、雲母を刷り、下絵を施すなど、料紙装飾の技法が可能性の限りが追求されている。
徳川・五島本「源氏物語絵巻」もまた、分担制作によって制作されたと考えられている。その作年代は、絵画の様式・詞書の書風などから十二世紀の前半と判断されているが、それ以上の特定に関しては異論がある。また、遺されている十九の画面と詞書、一葉の絵の断簡、詞書のみの一段、八葉の詞書断簡から、当初の規模をどの程度と復元推測するかについても、文献上の作例との対応関係性も絡んで議論が続いてきた。多くの研究者が一致して指摘するのは、第一に、その制作が「源氏物語」五四帖全体を対象として絵巻にしたと推測されること、第二に、現存画面は面貌の形態感覚や筆法、色彩感覚などによって四種の画風、詞書は五種の書風に分類することの可能性である。また、三点目として、画風と書風の対応は決まっていると判断されることから、詞書筆者(能書)と画家を組み合わせたグループ制作が行なわれたことである。
また、現存遺品の詳細な検討によって、制作が進行のプロセスについては以下の見解が支持されている(秋山光和・一九六四・一九六九、佐野みどり・一九八一・一九九七)。まず、グループごとに制作を統括する貴族(ディレクター)が決められ、それぞれの画家(工房)を選び、能書に詞書の清書が依頼される(あるいは自ら担当)。ディレクターは、自らの物語解釈によって、本文中から絵画化する場面の選択にあたる。ひとつのプロジェクトとして完成する造形作品には、複数の人が互いの趣向を競い合うことで生じる対比や変化が見所ながら、なお全体としての調和が求められる。そのために、料紙の調達は同一の場所で行なわれたと考えられる。一具の作品として、統一された美しさを追求するために、主催者/発案者と相談しながら、分担制作を進めるグループの調整、料紙の手配などを進めるコーディネーターの役割をつとめる人物も必要とされた。
十二世紀前半における源氏絵制作については、「長秋記」元永二年(一一一九) 十一月二七日条に、白河院とその養女璋子(鳥羽天皇の中宮、待賢門院)によって企画されたことを示す記事が知られている。日記の筆者源師時は、この日、白河院の御所に滞在する璋子のもとで、中将君を通じて源氏物語絵を描くための料紙を調進するよう命ぜられた。師時に期待されたのはこのコーディネーターの役割であった可能性は高い。
「長秋記」に見える源氏絵が徳川・五島本を指すとする見解はこれまでにも提出されていたが、近年では、三谷邦明/三田村雅子が、柏木から御法までを担当したグループのディレクターに白河院のライバルであった輔仁親王の子で、この年源氏に臣籍降下した源有仁を想定する説を提出している(三谷邦明/三田村雅子・一九九九)。師時は、有仁の後見人的立場であり、娘が女房として仕えている関係から璋子とも親しかった。また白河院の猶子となっていた有仁と璋子も親しい関係であった。年若い有仁と師時は協力し、璋子と鳥羽天皇との間に生まれたばかりの顕仁親王(崇徳天皇)をめぐるスキャンダル(実父は白河院であるという噂)を、女三宮と柏木の密通、薫の誕生に苦悩する源氏を主題とする画面によってほのめかそうと意図したとの解釈が示されている(挿図13)。さらには、摂関家にも拮抗する「源氏」としての自らの家の始原を明らかにしようという思いも込めて制作を請け負ったのだと言う。師時に源氏絵制作が命じられたこの日の翌日に、皇位継承への可能性を期待し続けていた輔仁親王は亡くなった。さらに、白河院と璋子の側からも源氏絵制作の意図が解釈され、この絵巻制作への参加要請は、皇位から排除された輔仁・有仁への配慮、慰撫であったと主張されている。有仁の担当した巻の絵が、不義=罪を告発する仕掛けを持っていたとしても、院の権力は世俗の道徳に縛られない超越性を持つものと解釈され、王権誇示の文脈に回収されてしまうと言うのである。
実のところ、文献による考証には限界があり、以上のような解釈の妥当性を証明することは困難であが、有仁の関与を前提とする絵巻の新たな画面解釈の試みも行なわれており(稲本万里子 二〇〇〇)、今後の研究の進展が期待される。
ここでは、三谷・三田村の解釈によって示された絵巻制作の構造―企画者と参加者(廷臣)の関係性―が生み出す意味について検討しよう。すなわち、不義の子の誕生による家筋の乱れといったテーマに臣下が焦点を合わせ、現実を告発する装置として絵巻を用いたこと、臣下の批判、自己主張を、院が許し、受け入れる、という構造には意味があり、特定の思想に支えられていたと考えられる。それは、和歌史において錦仁が指摘する院政期の諷諭の思想である(錦仁 一九九六年 )。
錦によれば、和歌という文芸は、上位の者に対しても遠慮なく自由に自己を主張できる合法的な手段として存在していた。院政前期の和歌には、王朝美の規範や知識を逸脱する表現や知識を認める傾向があり、例えば白河院の命により源俊頼が編纂した「金葉集」は、卑俗な和歌を含むあらゆる和歌を取りこんで組織し体系化した世界であったと言う。言い換えるならば、風諭の精神を持つ王が理想とされたのである。
さらに、宮廷社会における諷諭に関する理解の変化についても参照したい。十一世紀はじめには、典拠となる「詩経」など中国儒教の聖帝思想に基づいて、臣下が詩文・和歌を書いて心を示し、王は詩文・和歌の中に人々のありのままの心を読みとりおのれの政治のありかたを考えることだと理解されていた。ところが、院政前期の「中外抄」(藤原忠実の談話を中原師時が筆記したものといわれる)には、晴れの場で第一に話題にすべき「経史文」とは違って、和歌に関することなら自分より目上の人に対しても「驕慢之自讃」をしてもかまわないと記さる。晴の儀式ばった場における教養と詩歌を分け、和歌においてのみ、臣下の逸脱が許された。そこでは、王朝美の規範を逸脱する表現や知識が認められていたと言う。
「源氏物語絵巻」の現存画面が示唆する内容の一部からは、この絵巻が、王の諷諭の思想を前提として制作された可能性を指摘することができるであろう。さらに、後白河院の時代以降にも、絵巻を媒体とする諷諭の思想は受け継がれたと考えられる。
「伴大納言絵巻」と王権の危機 ここでは一例を挙げる余裕しかないが、例えば四大絵巻のひとつ「伴大納言絵巻」について考えてみたい。ここで特に注目したい箇所は、有名な清涼殿の場面である(挿図14)。応天門の火事の後、いったんは伴善男の讒言によって源信を罪とした清和天皇は、真夜中に清涼殿を訪問した藤原良房の進言を聞く。昼の御座に髻をあらわにした姿で描かれる天皇は、王権の危機そのものを可視化している。危機にさらされる王の身体は、風諭の精神によって、臣下の声に耳を傾けることを王/院に促す。過去のさまざまな政局の混乱、戦乱、をテーマにした絵巻群は、現在の王に危機の到来を示し、それが王新に自身に迫っていることを突きつけるものであったと考えられる。王は、善政を強く求める声を、絵巻の中に聞くことで、王の諷諭の精神を発揮するのである。
後白河院の周囲で制作された絵巻の中には、長恨歌絵巻、後三年合戦絵巻など、この外にも危機に直面する王権をテーマにした絵画が含まれていた。もとより、諷諭の思想という観点にすべて還元してそれらの絵画を解釈することは意味がない。だが、一見、段落式と連続式、女絵系と男絵系というように分断されてしまいがちな「源氏物語絵巻」と「伴大納言絵巻」も、このような観点から読みなおしてみるならば、王権の危機を描くことによって、あるいは描かせることによって現実に迫る危機を、コントロール可能な状況に読み替えようとする王権の論理に叶っている。
既に論じたことではあるが、絵巻は、掌中に展開する長大な空間にあらわさされた時間=歴史を、見るものが生きる現在の時間に重ね合わせながら、鑑賞を進める媒体である。鑑賞者は、過去と現在を重ね合わせながら、自らの立場を認識する。絵巻に歴史における危機的状況を描くことは、高位の貴族間の対立・隠謀に端を発する火事や落雷、合戦といった混乱を、一連の意味ある、そして理解しうる「歴史」として書き直すことであった(池田忍・一九九八・一九九九)。その過去に重ね合わせて、院や貴族達は自分達の時代の混乱する政治状況を見つめていたはずである。絵を見ることによって、過去と同様に、混乱する現在の状況にも意味を見出し、自分達の力を確認して、いずれは秩序への回帰が約束されていると信じることが大切であったのだ。
むすび
院政期に、なぜ紙絵という媒体が選ばれて歴史が描かれ、王権の危機が表象されるのかという問いに答えるためには、ジェンダー理論を用いた文化の分析が不可欠である。繰り返し述べてきたように、私/女性性の領域に位置付けられる紙絵は、院政期にその社会的意義を変質させた。女性性の領域は、王権を超越化する戦略に利用・回収されたのである。女性性の領域、すなわち絵巻においては、一時的な力の逆転が可能になり、階級的に下位にある者の自己主張が、上位にある強者によって鷹揚に許容されるという構造が成立する。
同じことを、男性性の領域にある文化の中で行なうことは許されない。なぜならば、それは、権力の転覆に他ならないからである。日本の宮廷文化は、ジェンダーの領域を巧みに操作して、王権そのものの在り方を厳しく批判する諷諭の思想を変容した。和歌や絵巻など女性性の領域を用いた諷諭の思想の実践は、男性性の領域にある王権を危機や批判に晒すことなく保持しつつ、王権の聖性を高める方策であったと言えよう。
女性性の領域に位置付けられた絵巻や冊子絵は、女性の関与という点でも政治的機能を果たしていた。これらの媒体を中心とする女性達の作画活動、絵画への関与は、宮廷絵画のジェンダー化された構造の中で利用されたからである。院政期における女房達の中でも画技に優れた者は、帰属する家の男性達と一体化しながら、宮廷文化の一翼を女性性の領域において担う作画活動を行なった。院政期の王権は、女達の画技や絵画享受の蓄積を、宮廷文化の遺産として繰り込み、回収したのである。院政期の危機に際した王権は、平安時代の宮廷社会、そして文化のジェンダー構造を巧みに操作しながら、自らの卓越化をはかった。その際に利用価値が高かったのは、規範のずらしや新たな意味付けを可能にする女性性の領域だったのである。規範となる男性性の領域にかかわる創造は、一時的には活力が衰えたにせよ以後も連綿と護り継がれていった。
挿図
1 「三十六人家集」 能宣集 西本願寺蔵
2 「扇面法華経冊子」 法華経 巻一扇 (文を読む公卿と童女)四天王寺蔵
3 「平家納経」 厳島神社蔵
4「源氏物語絵巻」 竹河第一段 徳川美術館
5「寝覚物語絵巻」 第一段 大和文華館
6「信貴山縁起絵巻」 延喜加持巻(清涼殿・剣護法飛来の場面)朝護孫子寺
7「伴大納言絵巻」上巻 (応天門火事の場面)出光美術館
8 京都御所紫宸殿 平面図
9 京都御所清涼殿 平面図
10「目なし経」(般若理趣経) 大東急記念文庫蔵
11「観普賢経冊子」(風俗画の頁と対応する紀貫之冬の歌の頁) 五島美術館蔵
12「久能寺経」「薬草喩品」見返し絵 武藤家蔵
13「源氏物語絵巻」柏木第三段 (薫を抱く源氏)徳川美術館
14「伴大納言絵巻」上巻 第十四-十五紙 (清涼殿における清和天皇と良房対面の場面)出光美術館蔵
参考文献/史料
「十巻本類聚歌合」「廿巻本類聚歌合」(「平安朝歌合大成」私家版)一九五七-一九六九年、(一九八六年復刊、同朋社)
「中右記」(「大日本古記録」)岩波書店 一九九三年
「長秋記」(「増補 史料大成」)臨川書店 一九六五年
「明月紀」国書刊行会 一九七〇年
「源氏物語」(「新日本古典文学大系」岩波書店 一九九四年
「栄華物語」(「新編日本古典文学全集」小学館 一九九八年
「古今著聞集」(「新潮日本古典集成」新潮社 一九八七年
参考文献/著書・論文
家永三郎 「上代倭絵年表」(座右宝刊行会 一九四二年(改訂版、墨水書房、一九六六年、改定重版、名著刊行会、一九九八年)
「上代倭絵全史」(高桐書院、一九四六年、改訂版、墨水書房 一九六六年、改定重版、名著刊行会、一九九八年)
秋山光和 「平安時代の「唐絵」と「やまと絵」上下」(「美術研究」一二〇・一二一)一九四一年・一九四二年(「平安時代世俗画の研究」所収 )吉川弘文館、一九六四年
「源氏物語絵巻の情景選択と源氏絵の伝統」(「平安時代世俗画の研究」所収 )吉川弘文館、一九六四年
「王朝絵画の誕生」中央公論社 一九六八年
「院政期における女房の絵画製作」(「家永三郎教授東京教育大学退官記念論集1 古代・中世の社会と思想」)三省堂、一九七九年 (「日本絵巻物の研究」上 中央公論美術出版社 二〇〇〇年に増訂収録)
大河内優子 「麗景殿女御絵合をめぐる二、三の問題」「美術史」一一五冊、一九八三年
佐野みどり 「王朝の美意識と造形」(「岩波講座日本通史第六巻 古代5」岩波書店 一九九九五年)
「院政期の美術」(「国文学 解釈と鑑賞」五三巻三号)至文堂 一九八八年
「名宝日本の美術一〇巻 源氏物語絵巻」小学館 一九八一年
「風流 造形 物語 ―日本美術の構造と様態」スカイドア 一九九七年
千野香織 「建築の内部空間と障壁画―清涼殿の障壁画に関する考察」(「日本美術全集 第十六巻 桂離宮と東照宮」)講談社、一九九一年
「障屏画の意味と機能 ―南北朝・室町時代のやまと絵を中心に」(「日本美術全集 第十三巻 雪舟とやまと絵屏風」)講談社、一九九三年「日本美術のジェンダー」(「美術史」一三六) 一九九四年
「古代文学と絵画」(「岩波講座 日本文学史 第3巻」)一九九六年 岩波書店
「日本の障壁画に見るジェンダーの構造 ――前近代における中国文化圏の中で」(「美術史論壇」第四号)一九九七年、韓国美術研究所
「天皇の母のための絵画 ―南禅寺大方丈の障壁画をめぐって」(「美術とジェンダー 非対称の視線」)一九九七年、ブリュッケ
伊井春樹 「源氏物語注釈」(書陵部蔵)所集の古注逸文の性格について ―建礼門院所持の源氏物語絵巻と光長の古注釈書作成の周辺」(「源氏物語の探求」所収)風間書房 一九七四年
池田忍 「王朝物語の成立をめぐって ―「女絵」系物語絵の伝統を考える」(「史論」三七 東京女子大学読史会)一九八四年三月
「ジェンダーの視点から見る王朝物語絵」(「美術とジェンダー 非対称の視線」)ブリュッケ 一九九七年、「日本絵画の女性像」筑摩書房 一九九八年
「ジェンダーの視点から見る古代・中世の宮廷絵画」(「女?日本?美?」)慶応義塾大学出版会 一九九八年
「絵巻に見る歴史 階級・性差の視点から」(「週刊朝日百科 日本の国宝」110)朝日新聞社 一九九九年
「王朝絵画の制作と享受−表象と主体の構築におけるジェンダー」(「国文学」)学燈社 二〇〇〇年
「絵画言説の位相(序説)―「源氏物語を中心に」」(「史論」東京女子大読史会)二〇〇一年
稲賀敬二 「「源氏絵秘義抄」付載の仮名陳状」―法性寺殿花園左府等筆二十巻本源氏物語絵について」(「国語と国文学」四一の六)一九六四年
稲本万里子 「「源氏物語絵巻」の情景選択に関する一考察」(「美術史」一四九 )二〇〇〇年
鵜沢麻里子 「「紫式部日記絵巻」について」(「恵泉アカデミア」五)二〇〇〇年
五味文彦 「院政と天皇」「日本通史 第7巻 中世1」岩波書店 一九九三年
「中世の言葉と絵」中央公論社 一九九〇年
「藤原定家の時代」岩波書店 一九九一年
後藤祥子 「和歌生活−女歌と物語」「岩波講座日本文学史 第3巻 一一・一二世紀の文学」岩波書店 一九九六年
錦仁 「中世和歌の研究」桜楓社 一九九一年
「和歌の展開−一一世紀」(「岩波講座 日本文学史 第3巻」)一九九六年 岩波書店
寺本直彦 「源氏絵陳状考」(「国語と国文学」四一の九・十一)一九六四年(「源氏物語受容史論考」風間書房に収録 )
藤原重雄 「行事絵・名所絵としての最勝光院御所障子絵 ―法金剛院とのかかわり」(「美術史」一四六)一九九九年
三谷邦明・三田村雅子 「「源氏物語絵巻」の謎を読み解く」角川書店 一九九九年
参考文献/注
注1 世俗画には、宮廷や貴族社会のさまざまな儀礼や行事、生活空間に調度として用いられた障子や屏風などの大画面絵画と、当時「紙絵」と呼ばれた小品画(小画面絵画)とがある。世俗画は、一義的には非宗教的主題を描く絵画を指すが、平安時代の貴族社会においては、寺院で用いられる絵画に世俗的主題が描かれ(平等院鳳凰堂扉絵など)、宮中において仏教絵画が用いられるなど、両者の区分は必ずしも絶対的ではない。ここでは、貴族階級の享受を前提として制作された絵画という意味で用いる。
注2 一九九七年頃までの成果や関連文献、理論書については「関連文献案内」(「美術とジェンダー 非対称の視線」ブリュッケ、一九九七年)を参照。その後の研究動向にしては北原恵「ジェンダー/美術史/視覚表象研究をめぐる現状と課題」(「女性史学」第10号、女性史総合研究会、二〇〇〇年)を参照。
注3 家永三郎「上代倭絵年表」(座右宝刊行会、一九四二年、改訂版、墨水書房、一九六六年、改定重版、名著刊行会、一九九八年)同「上代倭絵全史」(高桐書院、一九四六年、改訂版、墨水書房 一九六六年、改定重版、名著刊行会、一九九八年)秋山光和「平安時代の「唐絵」と「やまと絵」上下」(「美術研究」一二〇・一二一、一九四一年十二月・一九四二年一月、「平安時代世俗画の研究」に増訂収録、吉川弘文館、一九六四年)
注4 注2の秋山論文。「やまと絵」「唐絵」の定義が曖昧であったのは、この言葉が、中世・近世にいたって意味する内容を変化させながら使用され続けたことにかかわる。
注5 やまと絵は、日本の事物(風俗、行事、風景)を題材する絵画に対して用いられた言葉。その文献上の初出は十世紀の最末期(「権記」長保元年十月三十日条)。九世紀半ば頃から障子や屏風と和歌をともに鑑賞することが始まった。一方、「唐絵」は、中国の題材を扱った絵画に対して用いられた。九世紀の前半、天皇や貴族の殿邸の屋内を飾る障子や屏風には、もっぱら中国の典籍に基づく故事や、当時流行していた漢詩に基づく理想の山水を描いていた。九世紀の後半に入ると、日本の風景、風俗や行事などが障子や屏風などに描かれるようになり、中国主題の絵画を「唐絵」と呼んで区別する必要が生じた。唐代絵画には、画中の色紙型に漢詩文を書き入れる形式を持つが、それに倣って、やまと絵の色紙型には、和歌が書き入れられる。秋山氏の研究以前には、「唐絵」「やまと絵」が何を指すものなのか、またその区別が何に由来するものなのかを厳密に検討することはなかった。また、平安中期は「唐絵」と「やまと絵」の交代期と捉えられ、「国風文化」という概念とも相俟って「やまと絵」が隆盛する一方で「唐絵」はしだいに廃れていったとする見方が一般的であった。秋山光和「平安時代の「唐絵」と「やまと絵」」(「美術研究」(「平安時代世俗画の研究」吉川弘文館、一九六四年所収)。
注6 平安時代の障子と屏風に描かれた絵画の総称である。まず、障子は、平安時代貴族が住む寝殿造の建築の内部空間を間仕切りする建具で、の総称が障子である。木枠の表面に布または紙などを貼ったものである。現在の衝立や襖のように可動式の建具のみならず、間仕切壁として固定的に用いられるものも障子と呼ばれていた。現在では、建具の総称として「障壁画」という言葉を用いることが多い。屏風は、必要な際に立て並べて間仕切り、不要になれば折り畳んで撤去することが可能な調度である。
注7 秋山光和「藤原文化」(「岩波講座 日本歴史4 古代W」、岩波書店、一九六二年、「平安時代世俗画の研究」「序章 平安時代世俗画の展開」として増訂収録、吉川弘文館、一九六四年)中国からインドへと遡る仏教説話画の伝統と日本の物語絵画との関係については、梅津次郎氏が考察されている。(「日本の説話画」、 京都国立博物館特別展図録「日本の説話画」、一九六一年、「絵巻物叢考」所収、中央公論美術出版、一九六八年)
注8 注2の秋山論文参照。
注9 秋山光和 「源氏物語の絵画観」(「源氏物語講座 第五巻」、有精堂、一九七一年)
注10 より具体的に言えば、「唐絵」・「やまと絵」の問題は、日本的絵画主題や表現・様式の成立という観点から、平安時代前・中期の「物語絵」は、十二世紀以降に隆盛する絵巻物の源流を辿るという観点から考察されてきた。平安時代絵画史の構築を目指す考究は、いわゆる「国風文化」という文化史の枠組みともかかわり、「日本的」美術の成立を問題とする課題設定に還元される危険性をはらんでいる。この点については、拙稿「物語絵巻を読む ―ジェンダー・ネイションの領域を構築する力に抗って」(「現代思想」vol. 27-1、一九九九年一月 ) を参照されたい。
注11 佐野みどり氏は、(文学研究が)「究極、問題にしてきたことは、さまざまな方法で物語に取り込まれた絵画的想像力の枠組みと表現機能の解析」であったと述べる。「付表 王朝物語に見る造形意識 解題にかえて」「風流 造形 物語 ―日本美術の構造と様態」三二九頁、(スカイドア、一九九七年)。平安文学の絵画性に関する代表的な研究には、玉上琢弥「屏風絵と歌と物語りと」(「国語国文」二二の一、一九五三年一月、「源氏物語研究 別巻」角川書店、一九六六年)、中村義雄「日本文学と絵画の相関性」(笠間書院、一九七五年)、清水好子「源氏物語の文体と方法」(東京大学出版会、一九八〇年)、川口久雄「源氏物語への道―物語文学の世界―」(吉川弘文館、一九九一年)などがある。また、上記の解題において佐野氏も指摘するように、一九八〇年代の後半から新たな関心・方法に基く研究が進展しているが、その成果については、本稿の考察と直接かかわる箇所でその都度言及する。
注12 佐野氏注11前掲書参照。
注13 画題についての記述は、客観性という性という観点から言えば特に注意を要する。家永氏が明らかにされたように、屏風絵の図様を前に、それを四季絵と見るか、名所と見立てるかは、ある程度観賞者の側に委ねられていたと考えられる。家永氏注3前掲書参照。
注14 注2前掲書参照
注15 ジェンダー・アイデンティティの構築にかかわる理論書として、ジュディス・バトラー/竹村和子訳「ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱」(青土社、一九九九年)は、きわめて重要な影響力を持っている。拙稿「王朝絵画の制作と享受―表象と主体の構築におけるジェンダー―」(「国文学」二〇〇〇年十二月号、学燈社)は、バトラーらの理論を導入して、平安時代の絵画制作と観賞の問題を考察した。現在の文化理論における表象の問題の重要性については、竹村和子氏による以下の論文の解題を参照。 セイラ・ベンハビブ/長妻由里子訳「性差と集団的アイデンティティ ―グローバルな新たな配置」(「思想」九一三・二〇〇〇年七月号)
注16 「新日本古典文学大系 源氏物語(二)」四四-四五頁(岩波書店、一九九四年)
注17 秋山光和 「源氏物語の絵画観」(「源氏物語講座 第五巻」有精堂、一九七一年)
注18 絵画の表現技法上の変化について、秋山氏は以下のように説明している。九世紀末から十世紀半ばまで、宮廷絵師たちの間では、いまだ唐の絵画的伝統が強く、それを用いて日本の風景や風俗を描きあらわすことには技術的な抵抗、すなわち「表現と主題との間に横たわった違和感・抵抗感」があった。しかし、それは十世紀を通じてしだいに克服され「日本人の心情に即した新しい様式が創り 上げられていった」。十世紀半ばには、新旧の様式転換があったことが指摘される。そして十世紀末から十一世紀はじめ、紫式部の時代には、日本の風景画、風俗画にさらに洗練が加えられ、古典的な完成をみた。具体的には、「墨隈で深くきざんだ山襞を幾重にもかさね、高く険しい山の姿を描く」十世紀初頭の絵画に対して、約一世紀の後、十一世紀には「なだらかな丘や山稜をいくつか重ねるのみの、広やかな風景に変化した」ことを指摘している。注17前掲論文参照。
注19 「第一章 王朝の美意識と造形」「風流・造形・物語 ―日本美術の構造と様態」(スカイドア、一九九七年)
注20 「韓非子【第三冊】」(金谷治訳注、岩波文庫、一九九四年)の読み下しを記す。「客に斉王の為に画く者有り。斉王問いて曰わく、画くこといずれか最も難き者ぞ。曰わく、犬馬最も難しと。いずれか最も易しと。対えて曰わく、鬼魅最も易しと。夫れ犬馬は人の知る所なり。旦暮に前にみえず、故にこれを易しとするなり。」「源氏物語」のこの箇所の問答が、韓非子の問答の翻案であることについては、南北朝時代の注釈書「河海抄」が指摘している。
注21 秋山氏注17前掲論文、および辻惟夫「平安末・鎌倉前期における唐宋画論の波及」(「美術史」一一九、一九八六年)
注22 「歴代名画記1」(長廣敏夫訳注、東洋文庫三〇五 平凡社 一九七七年)長廣氏による訳注を参照されたい。
注23 長廣敏夫氏の指摘によれば、顧豈子が最も難しい画題を「人」とするのに対し、張彦遠が「鬼神・人物」と主題を広げた理由は、鬼神が一世代前に活躍した唐代最高の画家として評価する呉道玄の得意とする主題であったことをあげておられる。注22参照。
注24 辻惟夫氏の研究によれば、日本の文献史料における絵画言説に「歴代名画記」の画論の影響が見られるのは、十二世紀から十三世紀中頃に入ってからということである。また秋山氏も、紫式部が「後漢書」に触れていた可能性はあるにせよ、むしろここでの絵画観は式部自身の同時代絵画観賞の実感に基づくものとされている。(注17・21前掲論文参照。)ここでは、中国画論との関係にはこれ以上立ち入る準備はないが、紫式部の絵画評価の基準は「歴代名画記」のそれに思いのほか近接していることを指摘しておきたい。
注25 「新日本古典文学大系 源氏物語(一)」一五四-一五六頁(岩波書店、一九九三年)
注26 「須磨絵と旅する男 ―絵合の理路」(鈴木日出男篇「ことばが拓く古代文学史」、笠間書院、一九九九年)
注27 「日本古典文学全集 大鏡」二〇四頁(小学館、一九七四年)
注28 「日本美術のジェンダー」(「美術史」一三六、一九九四年)千野氏は、その後さらに具体的な作例を取り上げながら日本美術に関するジェンダー批評を展開している。「古代文学と絵画」(「岩波講座 日本文学史 第3巻 一一・一二世紀の文学」一九九六年、岩波書店)、「日本の障壁画に見るジェンダーの構造 ――前近代における中国文化圏の中で」(「美術史論壇」第四号、一九九七年、韓国美術研究所)、「天皇の母のための絵画 ―南禅寺大方丈の障壁画をめぐって」(「美術とジェンダー 非対称の視線」一九九七年、ブリュッケ)。また、千野氏議論の枠組みは、平安時代に限定されず、広く日本の支配者が用いた絵画の政治性を捉えるものである。
注29 唐帝国の周縁に成立した平安京の支配者は、現実の唐が滅んでもなお、「唐」文化の権威を自らのものとして卓越化をはかる「男性性」の領域と、「唐/から」の権威に脅かされない「和/やまと」、すなわち「女性性」の領域を必要とした。唐(A)と和(B)を切り離した領域として設け、さらに和(B)の中に「唐」(a)の領域と「和」(b)の領域が改めてつくられる。(「平安文化の二重の二重構造」という概念図によって説明する)そして、「唐/和」の関係には、「公/私」、「男性性/女性性」という関係性が重なり合い、ジェンダー化された文化領域が構築されたと説明している。
注30 平安時代中後期の清涼殿の障壁画について全体を伝える文献としては、十三世紀の前半に順徳院が記した有職故実書である「禁秘抄」が古い。特定の画面についての断片的な情報は、「枕草子」(手長足長)をはじめ、その他の文献に見え、平安時代中期に遡る状況を把握ることができる。千野香織「建築の内部空間と障壁画―清涼殿の障壁画に関する考察」(「日本美術全集 第十六巻 桂離宮と東照宮」講談社、一九九一年)を参照されたい。
注31 表は障子の南面。昼御座と連続する東南の側から見える方が表である。
注32 「大嘗会悠基主基屏風」(「美術研究」一一八号、一九四一年、「平安時代世俗画の研究」第一篇第二章に増訂収録、吉川弘文館、一九六四年)参照。ちなみに秋山氏は、大嘗会の悠基主基には、「ほんもん本文屏風」(唐絵)四帖が立てられたが、四季を一帖ずつにあてた四季絵であった可能性を指摘している。(「兵範記」「長元九年大嘗会御屏風本文」)また、悠基主基屏風の和歌史料によれば、名所絵は当然四季絵でもある。したがって、ここでの「唐絵」と「やまと絵」もまた、人物や建物、自然の景物によってそれぞれの土地を対比的に描いているとも判断され、天皇は、屏風絵という媒体を通じて、和漢の世界を空間的にも時間的も手に入れたことになる。
注33 「障屏画の意味と機能 ―南北朝・室町時代のやまと絵を中心に」(「日本美術全集 第
十三巻 雪舟とやまと絵屏風」講談社、一九九三年)千野氏が主として言及するのは、室町時代の障屏画であるが、遡って大嘗会屏風や、鎌倉時代初期の後鳥羽院によるの最勝四天王院の名所絵障子についても触れている。
注34 「新日本古典文学大系 源氏物語(二)」一八〇-一八一頁(岩波書店、一九九四年)
注35 一回目の絵合に登場する物語絵は、物語が舞台として設定している十世紀中ころの宮廷で活躍した絵師と、それよりひと世代前の絵師で、彼らの活躍はさまざまな文献史料によってたどることが可能である。
注36 ただし、絵合の最後には「絵かく事のみなむ、怪しく、はかなきものから」と、源氏自身の言葉として、絵の限界性が意識的に語られている。(注 秋山論文参照)また、絵は真実にかなわないという見方も、「筆に限りあれば」というフレーズとともに繰り返し示されている。これは「源氏物語」に限ったことではなく、「枕草子」「栄華物語」「更級日記」などにも見られる。
注37 「新日本古典文学大系 源氏物語(二)」一八一頁(岩波書店、一九九四年)
注38 第二回目の絵合に出品された絵としては、朱雀院の命で描かれた一種の年中行事絵があったことも、権力の問題とかかわり重要である。これについてはジョシュア・モストウ「「源氏物語」の絵」(谷岡建彦訳、「源氏研究」第二号、翰林書房、一九九七年四月)を参照されたい。
注39 「新日本古典文学大系 源氏物語(二)」三二頁(岩波書店、一九九四年)
注40 墨画を優位とする見方は、もとより書を画よりも上位に置く価値観に由来する。「源氏物語」若菜上には、勅命で夕霧が設けた源氏のための賀宴に立てられた屏風四帖について記しているが、それは舶載の綾に下絵を描いた上に、帝自らが染筆したものであった。つくり絵の四季の屏風などよりも、宸筆の墨色の輝きは目も眩むばかりであったと言う。ここでも彩色された絵画を絵師の領分とし、墨技を貴顕の領分として分ける見方がはっきりと示されている。
注41 「日本古典文学全集 大鏡」二一六-二一七頁(小学館、一九七四年)
注42 秋山光和「平安時代における「すみがき」の意義」(「平安時代世俗画の研究」一九六四年、吉川弘文館)
注43 「新日本古典文学大系 源氏物語(二)」一八二頁(岩波書店、一九九四年)
注44 この箇所に触れてジョシュア・モストウ氏は、絵の才能は単に個人の趣味の範囲にとどまるものではなく、「世界を望むままに「思い描く」能力の謂いである」と、源氏の絵と権力の結び付きについて言明している。注38前掲論文参照。
注45 高橋亨氏の論考「唐めいたる須磨」(「物語と絵の遠近法」一九九一年、ぺりかん社)は、「源氏物語」に描写される流離先の須磨の寓居が、唐絵のイメージで型どられていることを指摘して示唆的である。
注46 「新日本古典文学大系 源氏物語(二)」一七三頁(岩波書店、一九九四年)
注47 ただし、絵合行事を選ぶ過程において、源氏は須磨・明石の日記絵を紫の上に初めて見せている。それは、紫の上にとって、源氏と別れて過ごした不安な日々を思い出させるものであり、より直接的には明石の君の存在を想起させるものであった。
注48 拙稿注15前掲論文のほか、「王朝物語の成立をめぐって ―「女絵」系物語絵の伝統を考える」(東京女子大学読史会編「史論」三七集、一九八四年三月)、「ジェンダーの視点から見る王朝物語絵」(「美術とジェンダー 非対称の視線」一九九七年、ブリュッケ)、「日本絵画の女性像」(一九九八年、筑摩書房)  
 
『今昔物語集』の地獄・冥界説話に関する考察

 

一、はじめに
「地獄」という概念は仏教東漸に伴って、日本に伝わってきた用語である。元来、「地獄」はサンスクリット語のNaraka(奈落迦)、あるいはNiraya(泥梨耶)の意訳語で、「苦の世界」を意味する。後漢・安世高訳『佛説十八泥梨経』が始終「泥梨」を用いて、「地獄」を使わなかった。
佛言。人生見日少。不見日多。善惡之變。不相類。侮父母。犯天子。死入泥犁。中有深淺。火泥犁有八。寒泥犁有十。入地半以下火泥犁。天地際者寒泥犁。
「地獄」といえば、まず、熱地獄と寒地獄とを想起するが、その場所は諸経によって異なる。地獄の考え方としてもっとも整理されたと言われるのは『大毘婆沙論』であり、その位置は贍部洲(閻浮提ともいう)の下、四万踰繕那(由旬ともいう。由旬はインドの距離単位で、1由旬は7マイル、また9マイルという)の所に無間地獄の上にあるという。無間地獄は最底部にあって、等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、炎熱地獄、大炎熱地獄など七地獄を支えている。その地獄は縦横高さ共に二万踰繕那の立方体である。 そのほか、小地獄と孤地獄が経典でも言及されているが、普通罪業のために堕ちるところは八熱地獄(或は八大地獄)であろう。
古代日本人は死んだ人が黄泉の国へ行って、永久にそこにいると信じていたらしい。「黄泉」という言葉は中国から伝来して、地下世界のイメ―ジを表す。『左伝・隠公元年』に「不及黄泉、無相見也」という表現が見られる。日本における黄泉国を訪れる物語の初例は『古事記』に出ている。伊耶那美神は火の神を産んだため、死んでしまったが、その後、伊耶那岐神が妻の伊耶那美神に会いたいと思って、黄泉国に追って行った。
「地獄」という一つの観念として何時から、また、どういうふうに受け入れられたのか、非常に解明しがたい問題である。日本で仏教が私伝と公伝の二つの経路を経て、徐徐に広がっていった。草堂仏教時期から伽藍仏教時期に入って、僧尼制度を建て、仏教儀礼が行われるようになると、仏教の教理や知識が身につくようになった。奈良時代には、六道思想と共に地獄という言葉がある程度受け入れられ、僧人の著述や願文などに散見した。殊に十一面悔過の行われていた東大寺二月堂には十一面観音像がある。その観音像の光背に地獄変相図が見られることによって、六道輪廻の考えがかなりしっかり植えつけられていた可能性が窺われる。地獄観念に対する理解の成熟はやはり平安時代に入ってからのことであろう。当時の宮中行事仏名会をはじめ、『仏名経』の読誦や多くの地獄屏風と地獄絵の作成など、貴族社会に地獄思想の影響がかなり大きかった。ことに地獄理解の高まりは浄土信仰と深く関わっていて、その観念の定着にもっとも大きく寄与したものは源信の『往生要集』である。
『往生要集』は源信が念仏を勧めたために、極楽往生に係わる種々の問題を整理して書いた書物である。その中で地獄に関する内容が極めて詳しい。八大地獄は次の順番である。
(1)等活地獄――十六別所の付属小地獄がある。
(2)黒縄地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(3)衆合地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(4)叫喚地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(5)大叫喚地獄(別所の小地獄無)
(6)焦熱地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(7)大焦熱地獄――十六別所の小地獄が付属している。
(8)阿鼻地獄――十六別所の小地獄が付属している。
このように一々の地獄について、その位置、大きさ、あるいはその地獄の名の苦相との関連や縁由、さらには地獄での寿命や罪人の生前の罪業といった事柄を明らかにした上で、さらにその地獄とこれに付属する「別所」(小地獄のこと、また隔子ともいう)との苦相に及んでいる。『往生要集』の説く地獄は日本人が最初に整理した地獄観念であり、当時の貴族社会に多大の影響を与えた。
『往生要集』より早く『日本国現報善悪霊異記』(以下『霊異記』と略称する)は仏教の地獄観念からはずれた地獄像を描いている。撰者景戒は個人的意図によってこの本を撰述した。その撰述の意図は上巻に附く序文にはっきり記しているように「昔漢地に冥報記を造り、大唐国に般若験記を作りき。何ぞ、唯他国の伝録に慎みて、自土の奇事を信け恐り弗らむや」といい、また、「忍び寝むこと得不。居て心に思ふに、黙然ること能は不るが故に」あえて『霊異記』を撰述するに至った。
景戒にとって、善悪応報はただ死後に受けることではなく、「影の形に随ふが如く」直ちにその果報を受けるのだ。現報というのは『冥報記』から得た言い方で、善悪の業によって現世にいる間に果報を受けることがあると説く。
当時の現実に対する憤懣を抱いていた景戒が現世の地獄相を書いた。たとえば、『今昔物語集』(以下『今昔』と省略する)の典拠となる『霊異記』中巻「常に鳥の卵を煮て食ひて現に悪死の報を得る縁第十」の話は、現世に地獄の存ずることを書いた。その敷衍は仏典に書かれている地獄より、日本的な社会風俗を如実に描写しょうとして、新たな地獄への理解を見せた。
以上『今昔』成立以前に成り立った地獄への理解であるが、この基盤に立って、『今昔』に説かれた地獄・冥界を考察したいと思う。 
二、『今昔』に見られる地獄・冥界の世界
(一)、『今昔』の地獄・冥界に関わる先行研究
『今昔』に関する広い研究範囲のなかで、その地獄・冥界の様相を一つの考察対像として取り扱う前例はない。ただし、この説話集の編撰意図によって、天竺、震旦、本朝の各部はさまざまな経典や典籍から説話の素材を取得し、また一定の順列にしたがって組み立てられたので、出典の研究は基本的な作業としなければならなかった。出典における研究は早く狩谷棭斎、伴直方と木村正辞等によって行われていたが、のちに岡本保孝が棭斎等三人の研究をまとめて、『今昔物語出典考』を編著して、後に芳賀矢一氏の『考証今昔物語集』の有力な第一資料となった。 昭和十年代後半に片寄正義氏が『今昔物語集の研究』を著して、部分的に補正をしたが、芳賀氏の学統に続いた認識であった。この研究に基づいて、山田孝雄氏等がテキスト『今昔物語集』(岩波古典文学大系本)を校訂して、各説話の出典や同話と類話の拠った書類も明記した。このテキストより岩波新大系『今昔物語集』は出典考証にまた絶大な努力を発揮して、新たな増補と改訂を加えた。特に天竺部説話の出典について、旧大系本のと比べて見れば、その増補や修正が多かった。それは『今昔』説話の出典を見直すべき理由があったからである。今野達氏が新日本古典文学大系『今昔物語集』の「解説」の中でこう指摘している。
「今昔は漢訳仏教経典多数を含む和漢の仏書から、経書、史書、諸子、詩文小説等の漢籍、史伝、歌集、物語、説話集、随筆等の和書に至る、広範にして厖大な文献に取材し、さらに典拠不明の説話の多くは口承説話を採録したもの、とする通念である……しかし戦後新しく出直した出典研究と収載話の伝承史的研究はそれまでの通念を大きく訂正していった。今昔の編集に、従来考えられていたほどの厖大な文献が利用されていないことがはっきりしたもので、それは特に天竺部・震旦部においては決定的であった。」
本論は上記した出典研究の成果を参考して、『今昔』に見られる地獄・冥界説話を検討することにした。その他、『今昔』成立の時代、またその前後の時代にできた地獄思想と関連する説話集や仏書なども見捨てることなく考慮した。たとえば、日本において、地獄思想の展開を論じた石田瑞麿氏の『日本人と地獄』は『往生要集』、『今昔』及び『本朝法華験記』などに反映された地獄・冥界への理解を説いた。また、速水侑氏が歴史的な立場に立って、『往生要集』が貴族社会を通して、地獄観念の広がりが遂げたと論じている。
『今昔』と『三宝感応要略録』(以下『三宝』と省略する)、『冥報記』、『霊異記』との係わりについて片寄正義氏の『今昔物語集の研究』が詳しく論じた。また、『霊異記』に記している地獄・冥界について入部正純が『日本霊異記の思想』によって論説した。 続いて、震旦部に関わる問題として、まず、泰山(大山、太山とも書く)府君に関する研究は従来道教の影響だといわれてきた。この問題についてまず挙げられるのは岡本三郎氏の『泰山府君の由来について』の論である。 沢田瑞穂氏の『地獄変』 が仏教地獄観と道教冥界観はどう結ばれたかを追究した。また、台湾の学者蕭登福氏が仏教経典に取り入れられた道教思想、玄学思想及び儒教思想を検討して、仏教の中国での本土化現象を論じた。 地獄における総合的研究成果について、岩本裕氏の『地獄めぐりの文学』を挙げられる。
(二)、『今昔』の地獄・冥界を検討する意図
今まで『今昔』に書かれた地獄・冥界の世界は問題とされなかった。思うにこのテーマは『霊異記』や『往生要集』等の作品にとって明らかな問題点になるかも分からない。『霊異記』の場合、その各巻の序文に示されたように、景戒は末法時代の変乱に深く悩まされて、殊に僧として、世に多く見られていた様々な貪欲、殺生、仏法や僧侶を謗ることなど、信仰のこころがなく、悪業を積み重ねて生きていた人間の愚かさに憂鬱を感じていたようである。この苛烈な現実に対して、彼は善悪の業に異なる果報を説きながら、自分の強い信仰を主張した。そのゆえ、現報という題目で百十六個説話を綴った。現報とは、善業であれ、悪業であれ、来世で果報を受けるのではなく、この世で直ちにその果報をうけるとの考え方である。まさに上巻の序に示しているように「善悪の報いは影の形に随ふが如し」。とは言え、他界のできごとについても説いていた。悪業の所為に罰を与えた場処として、地獄や閻魔大王の宮殿が描かれる。
しかし、『今昔』の場合は撰者が一つの主題にこだわらず、仏教発展の時間順序に従って、三部を分けて、その構成の中でまた類聚的に説話を分類する。だが、『今昔』において、地獄・冥界に関する説話が三宝霊験譚や善悪応報説話等に潜んでいるもう一つの面影があろうといわねばならない。そもそも、仏教説話の性格の一つは仏教的論理に基づいて、因果応報の実例を語ることである。仏教の世界観には天界と地獄の極端的対立的存在は善悪応報の果てと看做される。善根により功徳を積んだ人間は六道輪廻から脱出することができる。しかし、罪業の深い人は三悪道に堕ちてゆく。三悪道の中で、もっとも恐ろしいのは地獄の世界で、多くの仏典には地獄の存在やその具体的な様子を多彩に示している。
『今昔』の場合は地獄・冥界を語る説話の数はそんなに多くはないと思うかも知れないが、天竺、震旦、本朝三部の配分、また各部に説かれている異質な地獄・冥界説話を無視することはできない。それらの問題は編纂者の編纂意図に大きく関わっていると思う。本論は『今昔』において、その地獄・冥界の世界はどういうふうに説かれていることを考察してみたいと思う。 
三、『今昔』の部立て構成と地獄・冥界説話の配置
『今昔』時代の地獄・冥界観について考える時、『霊異記』や『往生要集』などの書物に依拠すればよいと思う。『往生要集』は「地獄」に関する叙説は極めて詳しくて、当時の社会に強い影響を与えた。それより『今昔』の場合は異なる編纂意識によったものか、集中的に一つの主題に拘らなかった。『霊異記』の如く説教を目的として説話を綴じることでもなかった。その故、地獄・冥界に関する説話は各部の中で異なる様相を呈している。
(一)、三部において地獄・冥界に関わる説話の配分
右の表に示したごとく、各部の巻数と話数を比べてみた結果、震旦部の地獄・冥界説話はその出現頻度が一番高い。第八巻は欠けたので、四巻しかない。そのうえ十巻には一話も出ていない。あわせて震旦部には三十八話が載っている。続いて、二番目は天竺部である。五巻において、二十八話が載っている。その残りの四十一話は本朝部の十巻に分散して説かれている。この配分の状態はあくまで外部的な特徴とみなければならないが、説話集構成の内部的原因と何らかの関係があるかのように思われる。それは次の分析に入って究明したいと思う。
(二)、天竺部の地獄相
天竺部において、「地獄ニ堕ヌ」という表現を基準にして調べた結果、五巻の中で二十九話を収めている。「地獄ニ堕ヌ」という表現を基準にした理由はそれは天竺部説話の中で一番よく見かけた表現である。そのほか、悪道(十二話)、三悪道(十話)、四悪趣(一話)、三悪趣(二話)などの表現も見られるし、餓鬼道、畜生道(四悪趣場合は修羅を加える)も言及しているけど、ここで問題としない。
まず、天竺部において「地獄ニ堕ヌ」という基本的な表現が見られる例話をまとめて見た。
(1)巻一・釈迦如来人界生給語第二 
(釈迦が)「下ニ七歩行テハ、法ノ雨ヲ降シ地獄ノ火ヲ滅シテ彼ノ衆生ニ安穏ノ楽ヲ令受ル事ヲ示ス。」
新日本古典文学大系(以下新大系と略称する)『今昔』巻一の「出典考証」には、この説話の出典について、『過去現在因果経』、『仏本行集経』と指摘した。日本古典文学大系は(以下古典大系と略称する)また『法苑珠林』を加えたのである。ただし、この一話の原典となりうる幾つかの経典にこの文章が見当たらない。具体的に例を見て見ると、
 『過去現在因果経』巻一
「堕蓮花上。自行七歩。擧其右手而師子吼。我於一切天人之中最尊最勝。」
 『佛本行集経』巻三
「佛初生時。両足蹈地。其地処々皆生蓮花。面行七歩。東西南北所踐之処。悉有蓮花。」
 『法苑珠林』巻九・誕孕部第四
「又涅槃經云。菩薩初生之時。於十方面各行七步。摩尼跋陀富那跋陀鬼神大將。執持旛蓋。」
 『法苑珠林』巻九・招福部第五
「如因果經云。太子生時。于時樹下亦生七寶七莖蓮華。大如車輪。菩薩即便墮蓮華上。無扶侍者自行七步(大善權經云。行七步者為應七覺意也)舉其右手而師子吼云。我於一切天人之中最尊最勝。」
おそらく、『今昔』の撰者が「於十方面各行七步」の文脈から旨趣を得て、東西南北、四維及び上下各方面に七歩を踏み出し、殊に「下ニ七歩行テハ」というのは、仏の法力が地下遥かなる地獄までとどけて、地獄の猛火を消して、受苦の衆生を救うという意味まで敷衍したと思う。
次の例は多くの経典の所伝を雑糅して述べた一話である。
(2)巻一・提婆達多奉諍佛第十
「カクテ仏、霊鷲山ニシテ法ヲ説給フ時ニ、提婆達多、仏ノ御許ニ詣テ仏ニ申テ言ク、」「仏ハ御弟子其ノ数多カリ。我レニ少分ヲ可分給シ」ト。仏不許給ハズ。其ノ時ニ提婆達多、新学ノ五百ノ御弟子等ヲ語ヒテ、密ニ提婆達多ノ住所、象頭山ニ移住セシム。此ノ時ニ破僧ノ罪ヲ犯シテ、転法輪ヲ止メテ天上天下嘆キ恋悲ブ。」
さて、その五百の新学の比丘が目連に携えられて、仏のところに帰ったので、
提婆達多、仏ノ御許ニ行テ、三十肘ノ石ヲ投テ仏ヲ打奉ル時ニ、山神石ヲ障ヘテ外ニ落シツ。其ノ石破し散テ仏ノ御足ニ当テ、母指ヨリ血出タリ。此レ第二ノ逆罪也。……又提婆達多、蓮花比丘(又華色トモ云。一人二名)ト云フ羅漢ノ比丘尼ノ頭ヲ打ツ。此レ第三逆罪也。羅漢ノ比丘尼ハ打殺サレヌ。提婆達多ハ大地破裂シテ地獄ニ堕ヌ。
この説話の出典について、古典大系はそれが『法苑珠林』巻第九「千仏篇第五ノ二、遊学部第八、召師部第二」、『経律異相』巻二十一と『増壱阿含経』巻四十七・九に基づいて簡述したものと頭注したのに対して、新大系は「同類話は諸経論に頻出するが、特定の一書で本話全般の原拠たり得るものは見当たらない。第一段は『仏本行集経』・十二に由来し、第二段以降は『増一阿含経』・四十七、北本『大般涅槃経』・十九、『大智度論』・十四などに由来する所伝を混交して、提婆達多のいわゆる三逆罪を構成したものらしい。ただし、こうした創作行為は撰者によるものではなく、既成のものを先出国書を介して採取したのであろう」と新たな論を出したのである。
『増壱阿含経』巻四十七・九は詳しく提婆達多の五逆罪の中の三逆罪、すなわち「僧団の合和を壊す罪」、「仏の身体に傷をつける罪」と「比丘尼を加害する罪」を記している。すると、「提婆達兜適下足在地。爾時地中有大火風起生。遶提婆達兜身。爾時。提婆達兜為火所燒。便發悔心於如來所。正欲稱南無佛。然不究竟。這得稱南無。便入地獄。」(『増壱阿含経』巻四十七・九)
提婆達多が三逆罪を犯した物語は『大智度論』や『法苑珠林』にも見えるが、上の引文と比べて見ればわかるように、『増壱阿含経』巻四十七・九の方はかなり文脈が整えられていて、殊に、末尾の地獄に堕ちるところの相違が著しい。
要するに、『今昔』に書かれた提婆達多が地獄に堕ちた話は以上諸経の所記した内容を混じった上で圧縮したと言えるだろう。このように、巻一・「仏教化難陀令出家給語第十八」と巻四・「恋子至閻魔王宮人語第四十一」の二話を除いて、大体天竺部の地獄様相は簡略な描写が多い。上の配分表を参考して、天竺部に見られる地獄説話とそれらの出典と指摘された経典を比較して、幾つかの特徴を見出すことができる。
(イ)、すでに先行の研究に指摘されたように、天竺部説話の出典と見られる漢訳経典の種類が多い。地獄に関わる内容も経典から摂取したものである。およそ原典の地獄おける記述は詳細を極めるが、本集は大いに圧縮してあり、辞句の如きも必ずしも原典に拘泥しない気味が窺われる。
(ロ)、地獄の出現は観念的、論理的な存在として、物語上の働きが見られない。天竺部説話の場合、素材は各経典から摂取しても、編纂者の意志によって、原文を圧縮したり、潤色したりした部分はよくあって、まさか漢文文献和訳は原典との乖離を感じさせることがある。 天竺部において、その主な物語は仏の誕生から涅槃まで、いわゆる仏教成立時代のできごととなっている。地獄に堕ちる内容について、展開して述べる必要はなかったろう。
また、一方、上記の状況と違う説話の場合も存在する。続いて、その特殊な一話を見てみよう。
 巻四「恋子至閻魔王宮人語第四十一」
天竺のある比丘は羅漢に成りたくて、修業し始めた。六十になって、羅漢に成ることができず、途中で修業をやめた。還俗して、妻を娶った。その後妻が妊娠して、一人の男子を産んだ。しかし、その子が七つの時に突然死んだ。そうすると、
閻魔王はヤマのことで、大河は奈落の河(地獄之河)を想像させる。死んだ男子は閻魔王の所に赴いており、地獄ではない。また、閻魔の七宝宮殿は恐ろしい場所ではなく、園があり、死んだ子供たちはそこで遊んでいた。これはまして地獄の世界ではない。ここの閻魔王の宮が震旦部以後のと大変異なるところは、もともと閻魔の世界が地獄と別の空間になることを物語っている。
そもそも、古代インドで、ヤマは最初に死んだ人間として天国への道を最初に見出した者であり、天国の王者とされた。ヤマの国は緑蔭、酒宴、歌舞、音楽にめぐられた理想の楽土であり,あらゆる肉体的欠陥はなくなり、神々と交わり親しみ、生前に地上で行った祭祀とか布施の徳が果報を受け、甘美な食物と芳醇な飲物を満喫することができ、しかも美女にさえ不自由しないという理想郷であったことが知られる。古代インド初期のヴェーダに死者は風神マルツの涼しい微風にささえられて天国に運び上げられ、冷たい水を浴びて完全にもとの肉体を回復し、最高の天で父祖たちと会い、そこでヤマと一緒に住むという記述がある。
後期のヴェーダ文献の時代(紀元前十世紀以後)に至ってヤマは最初に死んだ人間として死と関係づけられ、死はヤマの使者と信ぜられるに至った。またヤマの前で真理に忠実な者と虚偽を語る者とを区別される。ヤマは他界に到着した人間の善悪の行為を量るという信仰も現れた。叙事詩『マハーバーラタ』に、主宰者ヤマは父祖の主であり、餓鬼の王であり、しかも「法の王」として亡者の罪を裁断する。死んだ人間はすべてヤマの王宮へ行かなければならない。亡者はヤマの意志を執行する使者によって引きずられて行く。ヤマの国は南の果ての地にあって、そこまで通う道は密林のように恐ろしくて、飲む水もなければ、休む場所もない。亡者が生前に物惜しみせず、また苦行をした者には救いがあるという。生前に灯火をあたえた者は途中で灯火が道を照らし、断食を行なった者は乳酪をあたえられるという。地獄について詳しく書かれている。獄卒は棍棒や槍や火壷を持って、罪人を責め苦しめ、また罪人たちは剣の林や熱砂や茨のある木で責めさいなまれて、虫に齧られ、犬に食われ、血の河ヴァイタラニーに放り込まれる。地獄は水気の多いところで、或は湖とも、或は泥土の洞窟であるとも記され、また最下の世界にあるとも記される。そこで、われらは後の仏教経典によく説かれる地獄相との相似するところに気づく。それに、ヤマは使者を遣わして、亡者を召して、地獄へ送るという最高統治者のイメージは後代の閻魔王地獄審判のモデルと言えるだろう。
(三)、震旦部に書かれている地獄と冥界
1、『冥報記』と『三宝』からの影響
さて、震旦部において、天竺部と違って、とりわけ数多漢籍を下敷きにした話がおさめられている。殊に地獄・冥界に関する説話はいちおう集中的に『冥報記』、『三宝』などから摂取したものと言われている。地獄の様相については、天竺部に比べてかなり複雑に現わしている。『冥報記』に比べて、『三宝』の書誌学的研究の余地があると思われる。それは通説に言われる漢籍ではなく、おそらく日本人の撰者に著された可能性が高いと疑われる。これについて他論に譲って置きたい。ここで『三宝』に関する考察は相変わらず、出典の一つにして、客観的にそれと震旦部説話の関連を考えてみたい。
震旦部の地獄・冥界説話は集中的に巻六、巻七と巻九に配分して、主に『冥報記』、『三宝』から摂取したものである。巻六の場合は、11、12、18、19、21、24、29、33、34、35、38、39、41等13話が『三宝』から摂取した。巻六の十一話から仏、法、僧の三宝霊験にテーマが移り、その物語の背景に地獄・冥界が出てくる。また、巻七の2、3、8、9、22、23話も『三宝』の話で、巻七の19、30、31、42、46,47、48、または巻九の14、27、28、29、30、31、32、34の話は『冥報記』に拠ったものである。
『三宝』は通常遼の非濁の撰録といわれているけど、先に言ったように、それは間違っている可能性が高い。それにしても『今昔』は七十話を『三宝』から採用することは芳賀矢一が『考証今昔物語集』によって指摘され、片寄正義は七十二話に数えた。そのうちの六十三話は震旦部に入集して、巻六、巻七の総計九十六話中、六十三話、すなわち六割五分は『三宝』を出典とする。巻六のみについていえば殆ど九割に近い。それこそ地獄・冥界に関する話しは集中的に巻六、巻七に出ている由縁である。
『冥報記』は唐臨の撰録で、成立時間は唐の永徽年中と『法苑珠林』巻119に記されている。『冥報記』の場合は、前田家本五十八話中の四十八話が『今昔』の出典となっていることは片寄正義氏の調べである。この引用頻度は『三宝』に次ぐもので、震旦部はこの両書による話が全体の約七割を収めている。しかも両書と本集間の引用関係は基本的に原文をそのまま和訳するものが多い。もちろん部分的には意訳、省略、増補などの工夫もあるが、それは説話の筋を保ちながら、語りのムードを一致させる必要があったからではないかと思う。また、享受者の生活習慣や心理的要素を考えて、物語の漢文臭い部分を書き換えた細部は十分ある。例をみてみょう。
1巻六・「震旦疑観寺法慶依造釈迦像得活語第十二」
この説話は『三宝』上・「第五造釋迦像死從閻羅王宮被還感應」からの翻案であるが、少し書き換えたところが見える。両書の同話を対照して、右の行は『今昔』で、左の行は『三宝』とする。
[1]、今昔 其ノ日、亦、法昌寺ト云フ寺ニ住ム大智ト云フ僧死ヌ。
三宝 其日又有寶昌寺僧大智。死後經三日。亦便蘇活。
[2]、今昔 法慶、甚ダ愁嘆ノ気色有キ。其ノ時ニ、
三宝 見僧法慶有憂色。少時之間。
[3]、今昔 亦、見レバ止事無キ僧一人、王ノ御前ニ来リ給ヘリ。
三宝 又見像來。王前遽來。下階合掌禮拜此像。
まず、原典の寶昌寺という場所は、なにかのミスで法昌寺に変わった。次に、時間の表現だが、大した書き換えだはないと思うかもしれないが、実に効果はちがう。「其ノ時ニ…」の方がもっと短く、法慶の愁嘆を見たすぐのことと緊迫感を作り出す目的がうかがわれる。最後のところは釈迦の立像を「止事無キ僧一人」に書き換え、よりもっと真実感を求めて、生きる人間の姿に変身させた。
2巻六・「震旦空観寺沙弥観花蔵世界得活語三十四」の話は『三宝』中・「第七空觀寺沙彌定生見紅蓮地獄謬謂實華藏世界感應」によってできた話である
[1]、今昔 今昔、震旦ノ空観寺ト云フ寺ニ一人ノ沙弥有リ。名ヲ定生ト云フ。沙弥也ト云ヘドモ僧法ヲ犯シテ、経教ヲ誦スル事ナシ。
三宝 沙彌定生。師僧法不能誦經戒。
[2]、今昔 僧有テ、華蔵世界ノ相ヲ説ク。
三宝 聞陳說花藏世界相。
[3]、今昔 定生、此レヲ聞テ歓喜シテ、常ニ心ニ懸ヶテ、彼ノ土ヲ願フ。
三宝 情恒慕樂
[4]、今昔 而ル間、定生、恣ニ僧ノ事ヲ犯シテ、遂ニ死シテ紅蓮地獄ニ堕ヌ。
三宝 恣誤僧事。入紅蓮花地獄。
[5]、今昔 定生、此ノ地獄見テ、「此レハ華蔵世界ゾ」ト、観ヲナシテ、
「南無花蔵妙土」ト称ス。
三宝 謬謂花藏世界。歡喜稱花藏妙土。
[6]、今昔 そノ時ニ、地獄、忽ニ変ジテ花蔵世界ト成ヌ。
三宝 其時地獄變為花藏。
[7]、今昔 定生ガ「花藏妙土」ト唱フル音ヲ聞キ及ブ罪人、皆蓮花ニ坐シヌ。
三宝 聞唱受苦之人。皆坐蓮花。
[8]、今昔 其時ニ、獄卒有テ、此ノ希有ノ事ヲ見テ、閻魔王ニ此ノ由ヲ申ス、
三宝 時獄官白閻魔大王。
[9]、今昔 即チ、偈ヲ説テ云ク、帰命華厳不思議 若人題名一四句 
能排地獄 解脱業縛 諸地獄器皆為云云
三宝 即說偈言。歸命花嚴 不思議經 若聞題名 一四句偈 能排地獄  解脫
業縛 諸地獄器 皆為花藏 而皆自見 坐寶蓮花
[10]、今昔 沙弥、地獄皆華蔵ト、罪人悉ク蓮花ニ坐シヌト見テ、
三宝 而皆自見 坐寶蓮花
[11]、今昔 一日一夜ヲ経テ活テ、此ノ事ヲ語ル。
三宝 沙彌一日一夜始蘇。自說此緣。
[12]、今昔 其ノ後、通ヲ得タリ。心ヲ発シテ善ヲ修シケリ。後ニ行キ方ヲ不知ズトナム語リ伝ヘタルトヤ。
三宝 其後有通。集具已後。不知所遊方矣。
両書のこの一話に関する叙述がかなり違っていることは見ればわかる。
[1] の文章だが、『三宝』に「震旦ノ空観寺ト云フ寺」の内容がない。「僧法ヲ犯シテ」という内容も見えない。
[2] の文章は『三宝』に「僧有テ」という部分がない。
[3] の文章には『三宝』に「此レヲ聞テ歓喜シテ」と「彼ノ土ヲ願フ」の内容がない。
[4] の部分は両書には大した相違がない。
[5] の部分は『三宝』に「此ノ地獄見テ」という表現がない。
「観ヲナシテ」の「観」を、「歡喜稱花藏妙土」の最初の「歓」と間違えた可能性があったから、観をなすという意味が理解された。また、『三宝』に「間違えて花藏妙土と称した」という意味が取れていなかった。
[6] の部分は両書の内容が一致する。
[7] の部分も一致する。
[8] の部分は『三宝』に「此ノ希有ノ事ヲ見テ」の内容がない。
[9] の部分は『今昔』の「諸地獄器皆為云云」という表現は意味不明となっている。
[10] これは前句の偈「而皆自見 坐寶蓮花」の内容を和訳したもの。
[11] の部分は両書が一致する。
[12] の部分は『三宝』の「集具已後」と『三宝』の「心ヲ発シテ善ヲ修シケリ」は意味が合わない。
以上の説話をめぐって、『三宝』と『今昔』の二話を対照して、具体的にどれほど原典を材料として利用して新作を作りあげたのか調べた。一方、『冥報記』の各説話の分量は『三宝』より長いので、例を挙げることはしない。だが、全体的に両書の状態はほぼ変わらない。要するに、『今昔』震旦部の説話は両書の翻案と言っても過言ではない。
2、震旦部に書かれている地獄と冥界
上の結論を前提にして、震旦部に説かれている地獄・冥界を見るとき、それらの説話が原典と変わらないことを意識する必要がある。殊にそれらの説話に潜んでいる異質の地獄・冥界観念を見るとき、それは欠けない条件になると思う。なぜなら、それは震旦部に規定されているインドの地獄観と異なる新たな冥界信仰が現れているからであろう。
まず、三宝霊験譚に基づくそれらの説話は、三宝の奇異たる功徳によって、地獄・冥界から罪業ある人間を救える。
その語り方によって、天竺部の混沌とした地獄相と全く違う地獄・冥界の世界が提示されている。巻五の引き続きとして、巻六の第五話は、地獄についての描写は依然として簡単であったが、その以後まったく違う冥界の世界が開かれる。まず、その入冥方式から見てみょう。
(1)多様なる入冥方式
入冥方式、言い換えれば物語の人物はどう言うふうに地獄や冥府に置かれたかということである。天竺部に記されている地獄説話と違って、震旦部において、冥界巡歴の話が多く語られている。仏経の地獄思想を受容しながら、道教や民間の俗信などと結びつけ、新たな地獄・冥界説を生み出した。中国も日本と同じように、最初は仏教にいう「地獄」は無かった。漢代のときに墓券、あるいは買地券を買う習慣があったようである。それは死者を葬るのに、山川土地の霊を犯すことを恐れ、その地の地主神と目せられる神祇との間に一定の土地売買の契約を結ぶことである。 やはり素朴な現実的な冥界観としかいえない。また、地域によって、死霊が泰山に赴いて集まり、泰山の神によって管理されると信じていたこともある。さらに、道教は鄷都というところを冥界の王都と見て、古くから宮殿や官制などの組織は完備されていた。後に仏教の地獄説を摂取して、冥界の主宰者をはじめ、業報と死後審判や牢獄と刑罰などまで具備した。
震旦部にはこういう仏道習合の痕跡がいくらでもみられる。そこに地獄と冥界は一つの空間ではなく、別々の世界と語られているようである。人が死んだら、すぐ地獄に堕ちるわけではなく、冥官、あるいは冥使に縛られ、まず冥界まで連れられて行く。そこに、閻そこに魔王の宮殿があり、閻魔王が高座にいて、亡者生前の善行悪業を記録した生死簿によって審判を下す。そこで亡者がいろんな方法で冥途へ赴いて、冥界を見学したり、何かの善根によって、刑罰を逃れたりして現世に帰らせて蘇生する。その冥界入りのパターンは幾つかが見える。
(イ)冥途蘇生譚のパターン
冥途に赴いてまた生き返るというパターンは震旦部でよく見られる。その一例挙げて見よう。巻六・「震旦唐虞安良兄依造釈迦像得活語第十一」に、震旦唐時代に幽洲漢県というところに虞安良という人がいた。殺生の業を持って、功徳を造ることぜんぜんない。三十七歳の時に野山に出て鹿を狩りする時、図らず馬から転落して死んでしまった。その後、親族の人たちが集まってきて、嘆き合う間に、半日を経て、安良が生き返った。悲しく泣きながら、大地に身を投げて罪を悔しんでいた。親族の人々がその原因を聞いた。そして安良が泣きながら自分の冥界での体験を話した。この説話の中で、主人公安良は殺生の罪業で罰を受けた。死んだ途端に馬頭の鬼と牛頭ノ鬼が地獄の火の車を御して遣ってきた。火の車の中は猛火が燃え上がって、安良の全身を焼いた。非常に熱くて耐えられない。これは典型的な地獄の風景である。閻魔王の所についたばかりで、一人の僧が急に現れ、閻魔王に安良の放免をお願いしたが、閻魔王は安良の罪業が重いことを僧に告げると同時に、僧のお願いに応じた。理由は釈迦像を作るのに銭三十枚を加えたからである。
この種類の蘇生譚は基本的な要素が備わっている。まず、入冥の原因がある。その原因の多くは仏法を信じなくて、悪業をしたこととなる。狩猟の途中で亡くなったり、あるいは病気にかかって、死んでしまったりして、冥使に縛られて冥界まで連れられていく。そして、閻魔王の裁きから逃れるきっかけはさまざまで、そのあたりは原典自体の叙説も恣意的である。右例の如く、因果道理を信じなくても、ただ立像に聊かの金銭を加えたので、功徳を得て、仏が化現して、冥界まで助けに来るという。また、巻六・「震旦汴洲女礼拝金剛界得活語第二十九」の一話に、不信の女はただ一度金剛界大曼陀羅を礼拝することで、冥途から生き返ったことができる。
次に、何の悪業をしたこともなく、ただ病気で死んで、冥界に連れられていった場合もある。その際、帳簿を調べて、冥府のミスだった事がわかってから、罪人を放免することになる(巻六・「震旦夏ノ候均造薬師像得活語第二十四」、巻九・「震旦江都孫宝於冥途済母活語第十四」)。あるいは、親族の人たちが造像や写経などの供養で死者を冥界から救いだす(巻六・「震旦溜洲司馬造薬師仏ヲ得活語第二十一」)。
(ロ)夢による入冥譚
冥界蘇生譚のほか、夢によって、冥界での体験を語る例も少なくない。たとえば巻六・「震旦并洲張ノ元寿造弥陀像生極楽語第十八」と「震旦并洲ノ道如造弥陀ノ像ヲ語第十九」の二話が見える。奇異なできごとを述べるときに夢は一番都合のよいかたちである。この類の説話は中国の六朝時代から「志怪」によく語られていたようであり、その成立について、沢田瑞穂氏がこう指摘した。
この類の説話の成立にはある種の動機なり意図なりが考えられる。特異な経験をした人の話を、ただ奇なる事件としてそのままに記録したもの、ほとんど無目的に近い「志怪」も少ないが、大多数はやはり底に何かの狙いを持っている。その一つは、六朝時代の知識人によって唱えられた無神論・神滅論に対抗して、有鬼論・神不滅論を主張するには、その論拠としての実証が必要であるが、いかにせん、それは超現実の世界のことであるから、自他の体験談・見聞談と称して説得するより、ほかに手段がない。従って、その話はいかにも事実らしく巧妙に語られるのであるが、もともと虚構を語るのだから、どうしても無理な附会となり、叙述に破綻も見えてくる。それが繰り返されているうちに、ほぼ無難な共通の話の型ができるわけである」。
(ハ)奇異なる入冥の話
1 幻覚による入冥の話
巻七・「震旦宝持寺法蔵誦持金剛般若得活語第九」の中で、
2 禅定による入冥の話
巻七・「真寂寺恵如得閻魔王請語第四十六」
3 遊離魂による入冥の話
巻九「侍御史遜逈璞依冥途使従途帰語第三十二」
4 空を飛んで入冥する話
巻七「震旦華洲張法義依懺悔活語第四十八」
5 壁の穴から覗き、地獄の風景を見る話
巻七「清斉寺玄渚為救道明写法花経語第三十二」
6 自由自在に現世と冥界の間で往来する話
巻七・震旦僧、行宿太山廟誦法花経見神語第十九
これらの入冥の方式は人間の想像力を極めるもので、その目指す目標は物語の奇異性を追求するほかないだろう。
(2)閻魔王宮を中心とする冥界の世界
震旦部において、地獄を言及することはかなり少なくなっている。その代わりに閻魔王宮を中心とする冥府の場面が多くなってきている。もっと人の興味を引くのは、地獄と冥府とは別々の空間であり、地獄へ行かせる前に冥府で閻魔王の審判を受けなければならない。震旦部で地獄の存在より冥界の存在が重要であり、その働きも大きい。冥界は特定の空間、場面及び人物等によって構成され、人間社会に似ている亡者審判の世界と想像された。殊に『冥報記』に拠った説話の冥界描写は細かくて、現実的な感じがする。
1 冥界の内と外の風景
亡者が死んだ後すぐ冥使、あるいは冥官に引きずられて官曹に行く。遠くから眺めて、城が見える。近づくと官庁見たいな楼閣があり、その建物は立派で、広い庭が付いている。庭に縛り付けられた人、或は引きすえられた人が大勢いて、罪の勘定を待っている。官庁の中で、国王のような大官一人は玉冠をかぶって、高い床に座る。ある場面では、その大官と並んで玉冠をかぶる衆神の姿も見える。ここは閻魔王の宮殿である。このような描写は繁簡一致せず、基本的に上述したものとよく似ている。たとえば、巻九「震旦刑部侍郎宗行質、行冥途語第三十四」には典型的な描写が見える。
王璹、随テ行ク。亦、一ノ大門ニ入テ庁事ヲ見レバ、甚ダ壮ナル形ニテ、北ニ向テ立リ。亦、庁ノ上ノ西ノ間ニ、一ノ人有テ坐ス。形チ肥テ色黒シ。庁ノ東の間ニ、一ノ僧有テ坐ス。官ト相当レリ。皆、面ヲ北ニ向ヘリ。各、床机・案・褥有リ。亦、侍童子二百人許有リ。或ハ冠服皆吉シ、容貌端吉シ。亦、階ノ本ニ官吏ノ文案有リ。……王璹遥ニ北門ノ外ヲ見るニ、暗クシテ多ノ城有リ。一ヽノ城ノ上ニ、皆小キ垣有リ。此レ皆、悪所ニスタケリ。……吏、王璹ヲ相具シテ、東南ヨリ出デヽ行ク。三重ノ門ヲ渡ル。門毎ニ勘ヘテ臂ノ印ヲ見ル。其ノ後、免シ出シテ第四ノ門ニ至ル。其ノ門ノ状、甚ダ大キニシテ、重楼也。赤ク白シ。門ヲ開ケル事、官城ノ門ノ如シ。
ここで、詳細な描写は閻魔王宮にいるような臨場感を作り出すことができたのである。語り手は方向、門の位置及び施設のことにこだわっていて、それは真実さを強調することをいうまでもない。
2 冥界の官吏たち
前にいったように、古代の中国で、道教は鄷都というところを冥界の王都と見て、古くから宮殿や官制などの組織は完備されていたが、それは震旦部の説話によく窺えることである。冥界の官吏組織はまして州県府役所のそれと同じで、級別や職種が区別される。閻魔王は最高裁判者で、そのほか、東海公(巻九・三十話)や五道将軍、大山府君(太山府君、泰山府君とも)などの人物が出てくる。東海公は東嶽大帝のことと疑う。東海は江蘇、山東面する海域を指していうので、もともと泰山府君と同一神であったと言われる。これらの名称をみると、中国土着の冥界観(例えば泰山信仰)と仏教の地獄観の融合の痕跡が窺える。すでに先行研究に指摘されたように、地獄観念と泰山信仰の結びつけは早くからおこなったことである。呉・康僧会(二五一―二八〇)訳『六度集経』で、その巻一に「布施して、衆を済わば命終りて魂霊は太山地獄に入らん」とあるのを初めとして、巻三より巻八に至る各巻に、それぞれ太山嶽、太山餓鬼畜生、太山の鬼、太山王、太山焼煮の処、太山湯火の毒などノ語が見えている、と澤田瑞穂が指摘したことである。氏はまた多くの早期の漢訳仏典を調べて、太山地獄の用例を見出した。(呉・支謙訳『仏説八吉祥神呪経』、晋・法炬訳『法句譬喩経』、西晋の『仏説鬼子母経』、姚秦・竺仏念訳『出曜経』等)
早期の仏教には「Niraya」、「Naraka」の訳語として「地獄」という名称を使い始めたはずなのに、さらに「太山」を加えたのは、やはり当時の中国人にとって、「地獄」といっても、すぐには理解しにくかったから、便宜上、それにもっとも近い観念を含む太山を借りたのであろう。
古くから泰山の神は人間の魂を召すとか、人間の寿命の長短を知るとか、それについての内容は帳簿に記録されて保管されることを民間で流伝していった。そのために震旦部の説話にその痕跡はまだ見える。たとえば、巻七「震旦僧、行宿太山廟誦法花経見神語第十九」の説話に泰山廟に亡霊の納める場所と地獄を二重のイメージが見える。
もっとも重要なのは閻魔王の存在であり、その成立について、すでに多くの先学の方に論及された。閻魔(ヤマ)から閻魔王までの変化のポイントは『十王経』の影響で、その経の成立でも仏道習合の結果といわざるをえない。この問題について新たな考察に譲るため、深く言及することはしない。
要するに、震旦部に説かれる冥界の世界が仏教の中国本土化の彩りに染められ、『今昔』の中で奇異な境地を成している。天竺部に見られる観念的な地獄の存在と異なって、撰者が漢典籍から説話の素材を探し出し、三宝霊験の殊勝や因果応報の道理を語るために、冥界蘇生譚の話を介して、人物が冥界を臨む時の臨場感と真実感を獲得した。
(四)、本朝部の地獄相
1、 出典と地獄・冥界説話群の形成
本朝部において、地獄・冥界説話は集中的に巻二十以前の部分に収めている。話数は震旦部よりかなり減っている。その中で、出典によって、四つのグループに分けられる。
(1)『法華験記』を出典とする地獄・冥界説話は、巻十二の36、37、また、巻十三の6、13、35、巻十四の7、あわせて六話がある。
(2)『散逸地蔵菩薩霊験記』を出典とする地獄・冥界説話は巻十七の17、18、19、21、22、23、26、27、28、29、31である。あわせて十一話で、最も多い一組である。
(3)『霊異記』を出典とする地獄・冥界説話は巻十四の30、31、また、巻二十の15、16、17、18、19、30、38の九話がある。
(4)『日本往生極楽記』を出典とする地獄・冥界説話は巻十一の2と巻十五の10の二話である。
『法華験記』を出典とする地獄・冥界説話に説かれた地獄・冥界は当然『法華経』の霊験を語る前提として現れた。『散逸地蔵菩薩霊験記』の場合も同様、地蔵菩薩の霊験譚を中心にして、地獄・冥界の空間を築くのである。『霊異記』から採取された説話は冥界蘇生譚の一群となって、内容と語り方は互いによく似ている。後は『日本往生極楽記』の二話と出典不明の数話がある。
本朝部において、地獄や冥界対する理解と描写は基本的に漢籍からの影響を強く受けている。例えば、『霊異記』に拠った冥界説話は『冥報記』に近い話型を持って、閻魔王の審判を話の中心に置く。巻二十『摂津国殺牛人依放生力従冥途還語十五』の話には、ある男が邪神に祟れて、毎年一頭の牛を殺して、その神を祭る。七年の間、七頭の牛を殺した。その後、男が病気にかかって、死んでしまった。九日がたって、また生き返った。男が妻に冥途の経験を話した。
一方、同じ種類の説話は『散逸地蔵菩薩霊験記』を出典とする話群にも見える。巻十七「備中国阿清依地蔵助得活語第十八」はその類話の一つである。
阿清という僧が国中を遊歴して修行した途中で病気で死んだ。一両日を経て生き返った。道を歩いていた人に冥途の出来事を教えた。
この説話の内容構成をまとめて、次のようである。
(イ)主人公が病で死んだか、あるいはなにかの事故で死んだ。
(ロ)すぐ冥官に縛られ冥途に赴く。
(ハ)閻魔の庁は立派なところで、検非違使の官庁と似ている。
(ニ)庭に大勢な罪人がいて、罪の軽重を定めて、罰をうける。
(ホ)小僧が現れ、地獄の中の罪人を救うために東西に走りめぐって、閻魔王や冥官たちと争う。
(ヒ)結局、主人公は地蔵に帰依して、冥界から逃れる。
上の二話を対照して見れば、閻魔王と小僧のそれぞれの中心たる存在に気づくだろう。要するに、漢籍が使い始めた冥界蘇生譚はその叙述の主旨が地獄・冥界の怖さや苦難から徐々に三宝の殊勝を語る絶好の背景と場所となったのだ。『散逸地蔵菩薩霊験記』に至って、地獄・冥界に対する理解や認識などの変化が生じてきた。それらの説話によれば、当時地蔵信仰がいかに高揚していたかが分かるし、また、仏教本土化した後の変容もはっきり見える。その変容について、地獄・冥界説話を通して見てみょう。
2、新たな地獄・冥界への理解
地獄・冥界の世界に対して新たな考え方と語り方に転換したことは早く『日本往生極楽記』に始まったのだ。それは智行が行基菩薩を妬んで誹謗した罪によって死んだ後阿鼻地獄に堕ちて、九日を経て生き返ったことである。『霊異記』巻中・七の話、また、『今昔』本朝部巻十一「行基菩薩学仏法導人語第二」に同話が見える。そこで智光がその堕ちた地獄の状況は以前と違う。この話について石田瑞麿氏がこう指摘した
ここに示された地獄は明らかに地下ではない。それは行基の宮殿と離れてはいるものの、同じ地つづきのようである。死とり蘇生までの九日間を長い生死の間をさまよう夢の体験とすれば、たわいもない夢物語と割り切ってしまうこともできるが、この智光の体験がそれとして是認されたところに、そういってすますことのできない、新しい地獄理解があることは認めるほかあるまい。
このような新しい地獄理解を反映する説話は、本朝部にほか容易に見出すことができる。その主な傾向について例を通して説明してみよう。
(1)地獄の象徴として火の車の出現
本朝部巻十五の第四話には、済源僧都が死ぬ前に他念なく念仏して、極楽からの来迎を待っていたところ、不本意なことに、火の車が現れた。それは地獄の使者たちが迎えに来たのだ。僧都がその原因を聞くと、鬼たちは僧都を地獄へ送る故を教えた。それは何年前に、僧都は寺の米五斗を借りたが、まだ返納していない。その罪によって地獄へ行かなければならない。その後弟子たちに頼んで、速やかにその米を返納したので、火の車が消えた。
同巻の第四十七話には、ある男が地獄のことを信じなくて、生前殺生、放逸など悪行ばかりしていた。死ぬ前に火の車を見た。怖くてどうしょうもないので、高僧を呼んできて、自分が年頃悪行をした事を悔しんでいた。すると、僧が「然レバ、弥陀ノ念仏ヲ唱フレバ必ズ極楽ニ往生スト云フ事ヲ信ゼヨ」と勧めたので、男が僧の教えに従って、掌を合わせて額に当てて、「南無阿弥陀仏」と千遍唱えたら、火ノ車は目の前から消えた。
火の車というのは『大智度論』、『釈門正統』、『浄土十要』、『経律異相』などの経典に見えるが、天竺部と震旦部ではほとんど触れなかった(巻六・十一話一例だけ)。本朝部では、火の車が地獄の象徴として描かれて、その背景には浄土信仰と念仏往生の世態が映っている。
(2)立山地獄に係わる説話
泰山府君信仰と同じように、立山信仰は仏教が日本に伝わって来た前に、すでに存在していたもので、民俗信仰の山中他界と仏教の地獄とが融合して、立山信仰においては地獄に想定された。この地獄は地下の冥界ではなく、地上にあるので、生きる人間はそこを巡歴することができる。
本朝部巻十四「修行僧至越中立山会小女語第七」と巻十四「越中国書生妻死堕立山地獄語第八」の二話に説かれた立山地獄は立山地方の自然環境を見本にして作り上げたもので、その根底には古代日本人の山岳信仰が潜んでいる。実際に立山地獄の名を世に知られるのは『本朝法華験記』、『今昔』、『伊呂波字類抄』、『神道集』など、その他多くの文献であるが、立山は地獄であると同時に修道の霊験所でもある。富士、白山とともに三禅定の一つとされたことも、修行に適した所であったことを知られる。 また巻十七の二十七話は立山地獄の話をしている。
(3)山中他界と地獄
本朝部には、天竺部と震旦部で見かけない新たな地獄説話が収められている、それは山中他界の話である。
本朝部では、山に行く行動は山中他界に行くことを意味する。実際に山に入って迷ってしまったのか、或は夢の中で山中に入ったのか一定しないけど、どちらでも他界を廻る話題となる。巻十九「東大寺僧於山値死僧語第十九」はその類型に属する。
壁より地獄の場面を覗く話は巻七・三十二話にもでているが、そこから影響を受けたと思われる。 一方、巻七・三十二話より、巻十九・十九話の異質の叙述に注意しなければならない。物語全体の虚構性と地獄描写の写実性を相まって、幻の夢語りの空間を作り上げて、巻七・三十二話より一層文学的彩りを獲得した。 
四、結び
『今昔』は仏教説話集であるが、その編纂動機によって、一般の佛教説話と違って、その教訓性が稀薄であることが窺われる。地獄・冥界の世界を語っても、念仏精進のためではない。天竺部説話の大部分は経典から採用したものであるために、地獄はただ説教の概念として取り入れられたことを見逃せない。また、震旦の場合は、その説話の出典は主に漢典籍であるので、地獄を説くより、むしろ冥界への関心が強い。言い換えれば、冥界観は当時中国人の地獄観であったとも言える。最後に本朝の説話に見た地獄の様相には神仏習合によって変質した地獄観がうかがわせる。このように、『今昔』において、地獄はどういうふうに理解され説かれたかをみてきたが、異なる民族や文化の背景において、地獄というひとつの概念が説かれながら変貌しつつであった。それは昔すべての人間にとって、地獄の存在は非常に大事なことであったに違いない。 
 
今昔物語集・解説 3

 

平安時代末期に成立したと見られる説話集である。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。 『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事に由来する便宜的な通称である。
成立
『今昔物語集』の成立年代と作者は現在も不明である。
   年代
11世紀後半に起こった大規模な戦乱である前九年の役、後三年の役に関する説話を収録しようとした形跡が見られる(ただし後者については説話名のみ残されており、本文は伝わっていない)事から、1120年代以降の成立であることが推測されている。一方、『今昔物語集』が他の資料で見られるようになるのは1449年のことである。 成立時期はこの1120年代〜1449年の間ということになるが、保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱など、12世紀半ば以降の年代に生きた人ならば驚天動地の重大事だったはずの歴史的事件を背景とする説話がいっさい収録されていないことから、上限の1120年代からあまり遠くない白河法皇・鳥羽法皇による院政期に成立したものと見られている。
   作者
作者についてはっきり誰が書いたものであるかは分かっていない。
内容
天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部で構成される。各部では先ず因果応報譚などの仏教説話が紹介され、そのあとに諸々の物話が続く体裁をとっている。 いくつかの例外を除いて、それぞれの物語はいずれも「今昔」(「今は昔」=「今となっては昔のことだが、」)という書き出しの句で始まり、「トナム語リ傳へタルトヤ」(「と、なむ語り伝えたるとや」=「〜と、このように語り伝えられているのだという」)という結びの句で終わる。
その他の特徴としては、よく似た物話を二篇(ときには三篇)続けて紹介する「二話一類様式」があげられる。
   原話
『今昔物語集』の話はすべて創作ではなく、他の本からの引き写しであると考えられている。元となった本は『日本霊異記』、『三宝絵』、『本朝法華験記』などが挙げられる。また、平安時代の最初の仮名の物語といわれる『竹取物語』なども取り込まれている。本朝世俗部の話には典拠の明らかでない説話も多く含まれる。
   文体
原文(鈴鹿本)は平易な漢字仮名交じり文(和漢混淆文)(ただし、ひらがなではなくカタカナである)で書かれ、その文体はあまり修辞に凝らないものである。一方、擬態語の多用などにより、臨場感を備える。芥川龍之介は「美しいなまなましさ」「野蛮に輝いている」と評している(「今昔物語鑑賞」)。
極力、どの地域の、何という人の話かということを明記する方針で書かれ、それらが明らかでない場合には意識的な空欄を設け、他日の補充を期す形で文章が構成されている。例えば、典拠となった文献で「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」という書き出しから始まる説話があり、その人名が具体的には伝わっていない場合であっても、その話を『今昔物語集』に収録する際には「今ハ昔、□□□ノ国ニ□□□トイフ人アリケリ」との形で記述され、後日それらの情報が明らかになった場合には直ちに加筆できる仕様になっている。このような編纂意図から発生した意識的な欠落部分が非常に多いのが、本説話集の大きな特徴である。
影響・評価
後の説話文学の代表格といえる『宇治拾遺物語』など中世の説話文学に影響を与えた。『今昔物語集』に想を採った近代作家は多い。中でも大正時代の芥川龍之介による『羅生門』と『鼻』は有名。河合隼雄によると、『今昔物語』の内容は「昔は今」と読みかえたいほどで、ひとつひとつの物語が超近代(ポストモダン)の知恵を含んでおり、その理由としては、当時の日本人の意識が外界と内界、自と他を区別しないまま、それによって把握された現実を忠実に書き止めている点にあるとしている。ポストモダンの問題意識は、それがデカルト的(心身二元論的)切断をいかに超越するかにあり、その点で『今昔物語』は真に有効な素材を提供するとしている。
 
今昔物語集・解説 4

 

物語・説話と説話文学
物語と説話
平安時代末期に成立した『今昔物語集』は三十一巻(うち三巻を欠く)一千数十話の短い話を集めた一大作品であるが、その個々の話を“説話”と称することから、これを“説話集”といっている。ところが、その作品名は『今昔物語集』である。これからみると、この短い話は、もとは“物語”とされていたので、それが多く集められた作品としてこう名づけられたのであろう。このような話を“説話”と呼ぶようになったのは近代以降のことであり、それが多く収載された作品(平安時代から鎌倉時代を通じて次々と成立した、『日本霊異記』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『十訓抄』『古今著聞集』『沙石しやせき集』『三国伝記』『私聚しじゆ百因縁集』等々)を、『竹取物語』(伝奇物語)、『源氏物語』(作り物語・写実物語)、『栄花物語』(歴史物語)、『平家物語』(軍記物語)等の物語類とは異性格のものとして、古典文学ジャンルの上でも“説話集”と呼ぶようになったのである。『伊勢いせ物語』『大和やまと物語』などは歌物語と呼ばれるが、それらは和歌を中心にした短い話を多く集めたものであるから、別称として和歌説話集ともいっている。
さて、前記のように説話はもと物語と呼ばれていた。なぜなら、それは元来〈ものがたる〉ものだからである。“物語”の語源については、すでにすぐれた考察がなされているが、それはさておいて、〈ものがたる〉〈かたる〉は、ある特定の人物の言動やその生き方とか、事物の由来、特殊な出来事などを人々に伝達しようとする言語行為であり、それは日常会話としての言語行為である〈はなす〉と異なる。この〈ものがたる〉〈かたる〉実体が“物語”であるが、一般には、ある作者によるまったくの創作であっても、何かの言い伝えをとらえたものであっても、原則的に人に語る形で叙述された散文体(漢文・和文・和漢混淆こんこう文)の作品を“物語”とする。その物語のうち、実在・仮構を問わず、一人または複数の人物の生涯、またはその一部を主題として語る長編・中編を“物語”と称し、ある人物の一挿話とか、事物の由来、異常な一事件など、原則として伝承または自ら見聞した、過去の事実としての一つの出来事や一つの事態・状況に興味・関心を持って、それを主題として語る作品――それは必然的に短いものとなるが、それを“説話”と称するものと思われる。その内容は多種多様であるが、次に二つの説話集からアトランダムに二話を取り出して例示しよう。
『今昔物語集』巻二十八は笑話(滑稽こつけい談)を集めた巻である。その中に「池尾禅珍内供鼻語第二十」がある。これと同じ話が『宇治拾遺物語』中に「鼻長僧事」(二五)として収められている。これを要約して記してみる。
池の尾という所の寺に禅珍ぜんち(智)という僧がいた。戒律を守り、修行に努める立派な僧であったから、寺は大いに栄えていた。ところが、この僧は異様な鼻の持ち主で、その長さは五、六寸、顎あごの下までとどくほど。色は赤紫で表面はぶつぶつとしてふくれており、まるで蜜柑みかんのよう。これがかゆくてしかたがないので、鍋なべに沸かした熱湯の湯気で鼻をゆでたうえ、横に寝て、用意した板の上に鼻を載せ、それを人に踏ませる。すると鼻の表面から白い小虫のようなものが無数に出てくる。それを毛抜きで取り去ってから、また前のようにゆでると、鼻は普通の人のように小さくなっている。しかし二、三日もするとまたもとのようになるので、またこれを繰り返していた。だがふくれている日のほうが多い。困るのはうまく食事ができないことで、食事時には弟子を前に座らせ、一尺ほどの平らな板を鼻の下にあてがい、鼻を持ち上げさせて食べる。持ち上げ方が悪いと不機嫌になり食事をやめる。そこでこれの上手な弟子を一人決めてやらせていたが、ある日、禅珍が朝粥あさがゆを食べようとしている時、この弟子が折り悪しく出てこなかった。他の弟子たちが困っていると、一人の小坊主が、「わたしだってうまくやれますよ」と言ったので、やらせてみると実に上手にやる。禅珍は喜んで粥をすすっていたが、その小坊主が思わず大きなくしゃみをした。とたんに手もとが狂い、板が鼻からはずれたので、鼻が粥椀の中にぼちゃっと落ちて、粥汁が禅珍の顔や頭に飛び散った。禅珍は怒って、「こいつ、とんでもない奴だ。もしこのわしでなく、貴いお方の御鼻を持ち上げるような時に、こんな失礼をするつもりか。さっさと出て行け」と言って追い出す。出て行った小坊主は物陰に行って、「なにをえらそうに。こんなけったいな鼻を持った人がこの世にほかにおいでになるならば、よそで鼻持ち上げもしように。ばかなことをおっしゃるお坊様だ」と言う。これを聞いた他の弟子たちは、その場から逃げ去って大笑いした。思うに、どんな鼻だったのだろう。何ともあきれた鼻だ。小坊主は実に面白いことを言ったものだと、これを聞いた人は皆ほめた。
この話は、禅珍の異様な鼻をもとに笑いを生じた一出来事に興味を持ち、それを主題として語った笑話であり、その点で“説話”といえる。これを素材にして芥川龍之介が書いた『鼻』は短編ながら小説であり、笑話ではない。禅珍の言動に近代的な心理解釈を施しながら、一抹の哀感をただよわせる人間を描き出している。だからこれは、“説話”ではなく近代小説である。
『古今著聞集』巻十六「興言利口第二十五」の中の極めて短い一話の要約。
前大和守時賢やまとのかみときかたの墓所は長谷はつせという所にあったが、そこの墓守をする男が鹿を捕えようと、葛かずらを用いたわなを仕掛けておいたところ、ある日、大鹿がかかった。わなで捕えたというのもくやしいから、射止めたのだといって自分が弓の達人であることを人に知らせようと思い、わなで捕えたままの鹿を大雁股かりまたの矢で射たところ、矢がそれてわなの葛かずらに当り、射切ってしまった。鹿はそのまま逃げていった。男は頭を掻いたが、どうにもならなかった。
この話は、墓守の男がわなで捕えた鹿をめぐって、自分が弓の達人であることを自慢しようとして失敗した一出来事を主題にした“説話”である。これには、つまらぬ自慢行為に対する戒めの意を伴っている。
古代において自然界・人間界の事象のそれぞれを、各氏族・部族などにとっての神格的存在の作用によるものとして語る「神話」も、ある一族または集団の出自や特定地域の自然物・事件などの由来を語る「伝説」も、〈むかしむかしある所に〉などの言葉で語りはじめ、〈あったとさ〉〈あったげな〉などで結ぶ空想的内容の「昔話」(〈昔〉で始る〈話〉の意の命名)も“物語”であるが、この三者ともまた説話としてとらえられている。『今昔物語集』所収説話のすべては、冒頭に「今昔(今は昔)」の語を置き、末尾を「…となむ語り伝へたるとや」で括くくる。これは「昔話」の語り口を承けているものであり、もと“物語”といわれた“説話”叙述の一典型である。漢文体の『日本霊異記』(平安初期)も収載説話の多くが「昔」を冒頭に置く。また『宇治拾遺物語』(鎌倉初期)も大部分の説話の冒頭が「今は昔」「是も今は昔」である。だが、説話冒頭に「昔」などを置かない説話集も多い。
仏教説話と世俗説話
ところで、説話はその内容から通常二種に分けられる。一は仏教説話、一は世俗説話。前者は仏教信仰を主とするもので、それには、三宝さんぼう(仏・法・僧)霊験談、因果応報談、寺塔縁起談、その他がある。三宝霊験談には、仏宝ぶつぽう霊験談(釈迦しやか仏・薬師仏の諸仏の霊験を語る)、法宝ほうぼう霊験談(『般若はんにや経』『法華ほけ経』等の諸経典の霊験や念仏の利益りやく=往生などを語る)、僧宝そうぼう霊験談(観音・地蔵・弥勒みろく等の諸菩薩や歴史上の高僧たちの霊験やすぐれた行跡を語る)の三つがあり、因果応報談は、善因善果・悪因悪果のありようを語るものであり、寺塔縁起談は諸寺・諸塔の建立由来を語るものである。仏教説話にこれらのほかさまざまのものがあるが、その多くは僧徒が布教用に語るためのもので、これらもみなある事件・事象の興味・関心に寄せて語られる。一方、世俗説話は右以外の世事一般にかかわる説話で、上は皇族・貴族の公的な場、私的生活の中での言動や事件、漢詩文・和歌にかかわる話、下は都鄙とひの一般民衆・僧侶・乞食・盗賊に至るまでの者の日常生活の中での種々さまざまの出来事の一つをとらえて語るものである。そして仏教説話・世俗説話の二種のうちの仏教説話を主として収載した作品を仏教説話集といい、世俗説話のみ、あるいはそれが大多数を占める作品を世俗説話集といっている。
説話はおおむね前記のような特性を持つものであるが、それらを語り、また記述するに当っては、多くの場合、単に人々の興味・関心に訴えるだけでなく、実用的な目的・意図を持っている。仏教説話はそれによって仏教信仰を強め、戒律に添って生活態度を戒めようとする説教性の強いものであり、世俗説話はそれによって日常処世のありよう、心のもちようを教え導こうとする。すなわち説話は仏教説話と世俗説話を問わずこのような目的・意図を具そなえて語り、記述する、換言すれば説示するものである。これによって“説話”という名称が与えられたのかもしれない。これらのことから、説話集はどちらかといえば社会体制の変動期、文化の変異期により多く現れるといえよう。
仏教信仰は奈良時代から平安時代を経て鎌倉時代に至るにつれ、貴賤の間にしだいに深く浸透してゆき、次々に仏教説話集を生むことになった。平安初期に『日本霊異記』が書かれ、次いで平安中期には『日本往生極楽記』『三宝絵詞』『打聞集』などが成立している。平安末期の『今昔物語集』は、三十一巻のうち前半二十巻(うち巻八・十八欠)が仏教説話であり、後半十一巻(うち巻二十一欠)が世俗説話であるから、全体としては仏教説話集とも世俗説話集ともいえない。これが成立する前の平安中期頃から藤原氏を頂点とする貴族権力の衰退傾向に伴い、下級官僚の進出、地方武人勢力の台頭が目立ちはじめ、また中央・地方間の往来が多くなってくる。こういう状勢をうけて、都人たちの間に人間のもつさまざまな個性や能力・欲望に対する興味・関心が強まり、それらにかかわる世俗説話が仏教説話とともに『今昔物語集』の中に多く収められ、『宇治拾遺物語』にも取り上げられた。世俗説話は後世になるにつれ、武人階層・庶民階層の興味・関心をとらえた説話を生み出し、それを収めた説話集が作られてくる。
説話文学と説話
さて、説話に関連して“説話文学”ということがいわれる。これは説話が“文学”であるということなのか。説話も、その多くが人々の感情や情緒に訴える作品であるからには、広い意味で“文学”といえるであろう。しかし前記のように、個々の説話が主として一つの出来事・事態・状況の興味・関心において語られるものであるとともに、日常的な教導・教訓を目的として語られる短小な実用的作品であり、真正面から人間・人生を描き出そうとするものでないからには、その説話が人物をとらえたものであっても、往々にして人物描写・心理描写はおろそかになり、また情景描写などもおざなりになりがちで、その点からいわゆる文学性は希薄なものになっているといわざるをえない。
だが“説話文学”というのは、一般に、個々の説話についていわれるのではなく、それらを一括収集した説話集をとらえての呼称、すなわち同義語とされる。そうであれば、個々の説話の文学性の有無にかかわりなく、全体としてそこに喜怒哀楽さまざまの人間模様や社会の種々相が万華鏡を覗のぞき見るように現れてくる。その面白さをとらえて“説話文学”というのであろう。
説話の断面〜貧困と欲望と
「古典」の乱用
「古典」といい、「文学」という。これらのことばは、も早、聞き飽きた、といってもいいだろうが、しかし正確に捉とらえようとすると、分らなくなる。「古典」が変なところに使われているな、とまず感じたのは、戦後、「古典落語」ということばを見た時である。それまで私は「古典」とは、文机の上に置かれた重厚な書籍、それは巻子でもよいし、冊子でもよいが、人々からあがめられ、敬虔けいけんな心をもってひもとかれるもの、というイメージが強かったからである。「古典落語」とは何たることばか。古ければ何にでも「古典」を冠していいというのは、まさにことばの重みを知らない軽薄の徒の所為である。
「文学」の変質
「文学」ということばも、この頃ではすっかり安っぽくなってしまった。十や二十の、人生経験もまだろくにないような若い女の子が、ちょっと自分の恋愛経験を作文にすると、もうそれを「文学」のジャンルに入れてしまってジャーナリズムでちやほやするという始末である。だいたい、「文学」というものは、日本では古来そんな安価な「作り物語」ではなかったのである。
『古今著聞集ここんちよもんじゆう』(『新潮日本古典集成』による)の巻四の「文学」の序にいう。
伏羲氏の天下に王としてはじめて書契をつくりて、縄をむすびし政にかへ給ひしより、文籍なれり。孔丘の仁義礼智信をひろめしより、この道さかりなり。書に曰く、「玉琢かざれば、器に成らず。人学ばざれば、道を知らず」と。また云はく、「風を弘め俗を導くに、文より尚きは莫く、教へを敷き民を訓ふるに、学より善きは莫し」と。文学の用たる、蓋しかくのごとし。
とあって、文字によって儒教の正道を教えるものということのようである。『古今著聞集』の文学編は、神祇、釈教、政道忠臣、公事の次に位置し、和歌、管絃歌舞の前にあり、当時の識者の意識において、「文学」というものの社会的位置の大体のありようが伺われるのである。その内容をみると、ここに集められた話は、すべて漢詩・漢文にまつわる挿語である。当時の、つまり鎌倉時代初期の文学とは漢文学であったということになる。この風潮は、長く続いて、徳川時代の終り頃までそうであった、といっていいであろう。だからそこには、今でこそ古典文学の代表のようにみられている『源氏物語』も『枕草子』もまったく姿を見せないし、『日本霊異記』『三宝絵』などの、いわゆる説話集もぜんぜん取り上げられていない。日本文学の中心と考えられる和歌も、「文学」の中には入らず、その次に置かれている。
こういった「文学」という語の内容の価値の転換は、いつ、どうして起きたか。これは明治初年の文学活動からであろうが、詳しくはその道の専門家の解明によらねばならない。しかしこうして「古典」「文学」ということばの変化、悪く言えば堕落、を、承知した上で、現在の我々が、「古典文学」といっているものをもう一度見直し、我々がそれを読むのは何故であるかを問い直さねばならないであろう。
生活と心情を知る
端的に言って、私は、日本の古文献(あえて古典文学という語を用いることを避けた)の中で、「文学」を探っていこうという試みは、「文学」の意味する内容にもよるけれども、あまり意味のあることだとは思わない。つまりそれはある基準によって、価値をきめて選別することだからである。たまたま目にした『古今著聞集』の解説(西尾光一氏担当)に、「この『著聞集』七百二十六話の説話のうちで、どれだけのものが文学といえるのか、説話とはどういうものなのだろうか、説話文学というものをどうとらえたらよいのか、といったような、極めて原初的な疑問におち込み、……」という文章があり、いかにも西尾さんらしい正直な発言だと思った。説話文学会では発足当初からこの問題は活発かつぱつに議論された。
私は、日本の古文献(いわゆる古典文学)を読むことは、その時代の人々の生活を知り、そこに生きた人々の生き方、考え方を知ることだと思っている。たとえば、『源氏物語』の世界や、『源氏物語絵巻』を見て、平安時代の女性はみんなあんなきらびやかな派手な衣裳いしようをぞろりと着て、起居も自由にままならぬ生活をしていた、と想像するならば、それはとんでもないまちがいと言えよう。あれは宮廷生活の一部を描いたものに過ぎないのだが、現在の『源氏物語』流行の風潮からみると、どうもそんな錯覚がまかり通っているようである。しかし、真に古人の生活と心情を知るためには、『今昔物語集』などの説話は絶好の材料といえよう。
貧困
本書に収める『今昔物語集』巻十六は観音霊験譚を集めた巻であるが、その観音は人々の困苦を救い給う菩薩である。そして人々の困苦の中で一番多いのは貧困であった。ということは当時の人々は、多くの者が貧困であったということである。庶民の貧困のさまは『源氏物語』には出てこない。
『今昔物語集』巻十六第七話は、父母に死別した一人娘の生き方をうつす。
聊ニ知ル所モ無クシテ世ヲ渡ケルニ、〓(やもめ)ナル娘一人残リ居テ、何デカ吉キ事有ラム、祖ノ物ノ少シモ有ケル限ハ、被仕ルヽ従者モ少々有ケレドモ、其ノ物共畢テ後ハ、被仕ルヽ者一人モ不留ズ成ニケリ。
というありさまで、まったく収入の途が無い。時には食べる物も無いという状態で、父の建てた観音に向って、「我ヲ助ケ給ヘ」と祈るよりしようがなかったが、その信心の甲斐かいあって幸福な結婚にめぐまれる。
巻十六第八話もまったく同じ筋で、こうした非運の女性の話は他にいくらもあるが、みな仏教説話であるから、結局はあつく観音を信仰したがために救われるということになる。その救いのない、最も悲惨なのが、巻十九第五話の「六宮姫君」の話である。話は芥川龍之介の『六の宮の姫君』によって多くの人に知られているであろう。主人公の娘は、「旧キ宮原ノ筋」であるが、
父モ母モ墓無ク打次キテ失ケレバ、姫君ノ心只思ヒ可遣ベシ。哀ニ悲シク置所無ク思ユル事譬ヘム方無シ。月日漸ク過テ服ナドモ脱ツ。父母ノ〓(あけ)暮レ後メタ無キ者ニ宣ヒシカバ、乳母ニモ不被打解ズ。只何トモ無クテ年来ヲ経ル程ニ、可然キ調度共数伝ヘ得タリケルモ、乳母墓無ク漸ク仕ヒ失テケリ。然レバ姫君モ、可有クモ無クテ、心細ク悲シク思ユル事無限シ。
ということになった。当時、乳母というのは本当の母以上に親身になってその子の世話をしたものであるが、ここに出てくる乳母はなかなかのくせ者であったらしく、父母からも「後メタ無キ者」とみられていたようである。芥川がその乳母を普通の親身になって世話をする女として描いているのは物足りない。そういう乳母しか頼れる者の無い姫君としては、天涯孤独で、どうしようもないのである。しかし、ともかく乳母は、いちおうの若者を夫として世話するのである。しかしその男は、父親の陸奥守むつのかみになったのについて奥州へ下ってしまい、父の任が終る年に、父の命で常陸守ひたちのかみの婿むことなり、合計七、八年も京を離れ、六宮を放っておいたことになる。当時の社会、家族構成からいえばやむを得ぬこととなるかもしれないが、それにしてもその男はいかにもだらしない。そして七、八年もたって京に帰った男は六宮姫君を探しに出歩き、やっと探し当てたのは、
莚ノ極テ穢ナルヲ曳キ廻シテ人二人居タリ。一人ハ年老タル尼也、一人ハ若キ女ノ、極テ痩セ枯テ色青ミ影ノ様ナル、賤シキ様ナル莚ノ破ヲ敷テ、其レニ臥シタリ。牛ノ衣ノ様ナル布衣ヲ着テ、破タル莚ヲ腰ニ曳懸テ、手抛シテ臥シタリ。
その女が探している六の宮の姫君であったが、女は、その男が遠くへ行ってしまったその人であると分り、男に抱かれたまま死ぬのである。
女一人でこの世に過していくことがいかに困難であったかは、これらの話によって分るが、芥川の関心はむしろそこには無かったようである。芥川は、専心念仏によって極楽へ救われると信じられていた時代に、極楽も地獄も知らぬという無信仰の女の魂はどうなるか、ということに興味があったようである。それは芥川の読み方であり、我々はなにもそれに従うことはない。前にも言ったごとく、当時の社会相がここには生き生きと書かれており、我々にはそうした社会に独身女性がいかに悲劇的立場に置かれていたものか、ということのほうが理解できればよいのではないか。
欲望
もう一つ当時の人々の思想傾向で気づくことを挙げておこう。それは当時の人々がなぜ観音を信仰したかということである(あるいは観音でなくて他の仏でもよい)。それは多く現世利益ということである。もちろん時代の進むにつれて、人生というもの、無常というものについて思想がしだいに深刻化していくということはありうるが、時代がさかのぼるほど、仏教を信ずるのは現世利益の思想であり、その流れは実は長く深く現代にまで通底しているものである。
『今昔物語集』巻十六第十四話に、御手代東人みてしろのあずまひとという男が観音を念ずる話がある。これは『日本霊異記』に出典があり、聖武天皇しようむてんのうの時のこととしているから、奈良時代の話であるが、この男が観音に祈ったことは、「南無銅〓(せん)万貫 白米万石 好女多得」というのである。つまり金や米をうんともうけ、美女を沢山得たい、という。これではまったくの現世利益のために観音に祈り、その願いのとおりの利益を得た、という話であるから、現今から見れば唖然あぜんとせざるを得ない。しかし、そういう思想は、「観音ノ助ケニ非ズハ、我ガ貧シキ身ニ富ヲ難得ナム」(巻十六第九話)、「願クハ、観音慈悲ヲ垂レ給テ、我レニ聊ノ便ヲ施シ給ヘ」(巻十六第十話)などに現れているが、例の「藁わらしべ長者」の話(巻十六第二十八話)では、京に父母妻子もなく知人もないという青侍が長谷はせ観音に祈っていう。
我レ身貧クシテ一塵ノ便無シ。若シ此ノ世ニ此クテ可止クハ、此ノ御前ニシテ干死ニ死ナム。若シ、自然ラ少ノ便ヲモ可与給クハ、其ノ由ヲ夢ニ示シ給ヘ。不然ラム限リハ更ニ不罷出ジ
とあり、寺の僧どもは、この青侍が、おれを助けないと、ここで餓死してやるぞと観音をおどしているとして、何とかしてやろうとする。観音様にそんな男を助けてやる義理があるのか、と疑問すらいだく。
『今昔物語集』巻十六第二十九話も、京に頼りとするもののない生侍の話である(妻だけはある)。
極テ貧クシテ過ケルニ、「長谷ノ観音コソ難有キ人ノ願ヲバ満給フナレ。我ノミ其ノ利益ニ可漏キニ非ズ」「願クハ、観音大悲ノ利益ヲ以テ、我ニ聊ノ便ヲ給ヘ。難有キ官位ヲ望ミ、無限キ富貴ヲ得ムト申サムコソ難ラメ、只少ノ便ヲ給ヘ。前世ノ宿報拙クシテ、貧キ身ヲ得タリトモ、『観音ハ誓願他ノ仏菩薩ニハ勝レ給ヘリ』ト聞ク。必ズ我ヲ助ケ給ヘ」
と祈る。こちらはよほど遠慮はしているが、やはり観音は貧乏人を助けるのがあたりまえだとしている。
これは清水きよみずの観音に対しても同じである。『今昔物語集』巻十六第三十話は、「京ニ極テ貧キ女ノ清水ニ強ニ参ル有ケリ」として、「『譬ヒ前世ノ宿報拙シト云フトモ、只少シノ便ヲ給ラム』ト、煎リ糙テ申シテ」とあるから、これもかなり強引である。巻十六第三十一話では、「京ニ極テ貧キ女ノ清水ニ懃ニ参ル、有ケリ」というのは、ややおとなしい。
このように、自分の貧困を助けてくれるのは観音様だという考えがさきに立っている。しかし現在でも我々の周囲を見まわすとこういう人々がいるのに気づく。いわゆる善男善女の中に数多くいるのではないか。
橘(たちばな)と柑子(こうじ)の話
『今昔物語集』を読んでいると、時折、他の作品のとある場面が想起されたり、どこかで出会った気がする類似のプロットの展開に驚きをおぼえたりすることがある。そのような時はあれこれ妄想が湧き上り、しばし『今昔物語集』から離れて、とりとめのない連想の渦の中で、探索の糸を紡ぎ出す時間をもつこととなる。ここに取り上げるのも、そのような妄想のひとこまで、時を超えて、古典世界の脇道わきみちを彷徨ほうこうしたものにすぎない。
庵の前の橘の木
『今昔物語集』巻二十第三十九話「清滝河奥聖人成慢悔語」は、清滝川きよたきがわの奥に庵いおりを結んで修行していた僧が験力で水瓶すいびようを飛ばしては水を汲みつつ、自分の験力に慢心していたところ、上流に水瓶を飛ばす有験うげんの僧がいることを知り、妬ねたんでその庵に押しかけ、火界かかいの呪じゆをもって挑んだが、逆に身を焼く苦しみを味わわされ、慢心を悔い改めたという内容の話である。この清滝川の僧が水瓶の行方を追跡し、上流に住む老僧の庵を発見する場面を、『今昔物語集』は次のように描写している。
見みレバ、僅わづかニ奄見いほりみユ。近ちかク寄よりテ見レバ、三間許さむげんばかりノ奄也いほりなり。持仏堂及ぢぶつだうおよビ寝所しむじよナド有あリ。奄いほりノ体極ていきはめテ貴気也たふとげなり。奄いほりノ前まへニ橘木有たちばなのきあリ。其そノ下したニ行道ぎやうだうノ跡踏あとふミ付つケタリ。閼伽棚あかだなノ下したニ、花柄多はながらおほク積つもりタリ。奄いほりノ上うへニモ庭にはニモ苔隙無こけひまなク生おヒテ、年久としひさしク、神かみタル事こと無限かぎりなシ。
庵のたたずまいはいかにも閑寂で、聖の住居にふさわしく、尊い雰囲気が漂っている。庭は苔こけに覆われ、閼伽棚には花が備えられていた形跡がある。庵の前には橘の木が植えられ、その周囲を行道ぎようどうした足跡が残っていたという。どこかで見たような光景である。そう、すぐさま想起されるのは、隠遁聖いんとんひじりの庵のありさまを描いた『徒然草』第十一段である。そこでは次のように記されている。
神無月かみなづきの比ころ、栗栖野くるすのといふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥はるかなる苔こけの細道をふみわけて、心ぼそく住みなしたる庵いほりあり。木この葉はに埋うづもるる懸樋かけひのしづくならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚あかだなに菊きく・紅葉もみぢなど折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に大きなる柑子かうじの木の、枝もたわわになりたるがまはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
この章段は直接体験の回想の助動詞「き」を用いて記されているので、述主である兼好けんこう法師の体験に基づくものと解釈されている。兼好が初冬の十月ごろ、栗栖野を通り過ぎて山里深く分け入った時のことである。遥かに続く苔に覆われた細道のかなたに、いかにももの寂しげに住みなした庵がある。閼伽棚には菊・紅葉が折って散りばめられている。兼好は庵の主の清貧な隠遁生活を偲しのんで感嘆し、このような生活が理想的であると思っていると、向こうの庭に大きな柑子の木があり、枝もたわわに実がなっている。ふと見ると、その木の回りを柵さくが厳重に囲ってあるではないか。それを見た瞬間、庵の主の物欲がほの見えて、少々興ざめしたというのである。
本段は家居のありさまと住人の人柄との関係を説いた第十段を受けて記述されている。体験談の体裁をとっているとはいえ、いささかその構成ができすぎているとの感が深い。『今昔物語集』とでは、橘の木と柑子の木の相違があるものの、両者の庵の光景はあまりによく似た構図である。『今昔物語集』と同文的同話が『宇治拾遺物語』第百七十三話にも見えるので、このような庵のたたずまいが典型的なものとして、兼好の脳裡のうりに刻まれていたのではあるまいか。
ところで、修行者や隠遁者は庵の庭に橘(あるいは柑子)の木を植えるのが常であったのであろうか。そのあたりを少々探ってみよう。『今昔物語集』巻十三第四十二話「六波羅僧講仙聞説法花得益語」は、六波羅蜜寺ろくはらみつじの住僧講仙こうぜんが僧房の前に植えた橘の木が成長し、枝も茂って花が咲き、実を結ぶようになったのを愛惜し、蛇に転生したという話である(出典は『大日本国法華経験記』上巻第三十七話)。また、『発心集』巻八第八話には、ある僧の家に植えられた橘の木がたくさんの実をつけ、美味であったため、隣に住む重病の尼が食べ尽したいと願って死に、虫に転生してしまった話を載せる。ともに僧房の前には食用としての橘の木が植えられている。橘はミカン科の常緑小喬木で、秋に直径二〜三糎センチの黄金色の実をつける。その味は酸味が強く、食用にはあまり適さないが、非常時の食用として、あるいは滋養強壮、薬用のために植樹されたのではなかろうか。
三つなりの橘
橘は古代では「ときじくのかくの木の実」(古事記・中巻・垂仁天皇の条)といわれ、常世とこよの国からもたらされた霊妙な果実、つまり招福、長寿の縁起物として珍重されていたようである。時代は下って、『曾我物語』巻二「時政が女の事」には次のような著名な伝承が見られる。北条政子まさこは妹が見た
たかき峰にのぼり、月日を左右の袂におさめ、橘の三なりたる枝をかざす
という夢を買い取り、その後、源頼朝よりともと結婚して、北条氏の栄華を招いたというのである。また、『八幡宮寺巡拝記』第二十四話「橘奇瑞の事」は、ある入道が石清水いわしみず八幡宮に月参りして三つなりの橘を授かったが、その帰途、ともに詣もうでた男にそれを乞こわれて拒否し、「橘ヲマイラスルゾ」と言葉の上だけで譲ったところ、男は次第に栄えたが、入道は幸運にも恵まれなかったという話である。これらの説話伝承から、橘(とくに三つなりの橘)は招福、致富のシンボルとして信仰されていた事象がうかがい知れる。先述の『今昔物語集』巻二十第三十九話の清滝川の上流に住む聖の庵に植えられていた橘の木の背後には、このような信仰、縁起物としての意味合いが隠れていたのかもしれない。
三つの大柑子
一方、『徒然草』第十一段では橘の木ならぬ、枝もたわわに実のなった柑子の木であった。柑子はコウジミカンで、ミカン科の常緑小喬木、在来ミカンの一種である。果実は偏平で温州うんしゆうミカンより小さく、味は淡白である。古くから栽培され、食用にもなっていたという。柑子といえば、「藁わらしべ長者」の話が思い起されよう。『今昔物語集』巻十六第二十八話「参長谷男依観音助得富語」に見える話がそれである(同話は『古本説話集』下巻第五十八話、『宇治拾遺物語』第九十六話にも所見)。父母も身寄りもいない貧乏な青侍が、長谷寺はせでら観音に救ってくれるようにと祈願して夢告を受け、寺から退出する際に最初に手にした藁しべ一本から、次々に物々交換を重ねて、富裕の身となり、幸福を得たという致富譚である。青侍が藁しべに虻あぶをくくりつけて持っていると、長谷寺に参詣さんけいする女の子供がそれを欲しがり、大柑子三つと交換する。この三つの大柑子は先述した三つなりの橘と同様に、招福、致富のシンボルで、これ以後、青侍はとんとん拍子に有利な交換を繰り返し、富裕な身への道を歩む。すなわち、その後、この三つの大柑子は疲労こんぱいして長谷寺に参詣する高貴なお方の喉のどを潤し、青侍はそのお礼として美しい布三反をちょうだいする。それから以後は、馬、水田と交換して富裕の身となったわけである。ちなみに、この大柑子は具体的には夏ミカンの類をさすかと考えられる。
三つの大柑子に関する話としては、『世継物語』第四十二話に以下のような吉兆の夢合せ譚がある。宇治殿藤原頼通よりみちが大柑子三つの夢を見たところ、夢解きが三頭の牛が現れると解く。これを藤原有国が知り、せっかくの良夢を悪く合せたとして、再び夢合せを試み、三代の天皇の関白になると予見した話である(同話は『雑々集』上巻第十二話にも所見)。ここでの三つの大柑子は吉兆のしるしであり、大いなる立身栄達のシンボルになっている。
また、先述した喉の渇きを潤す柑子については、『撰集抄』巻六第一話に見られる真如しんによ親王渡天説話が浮んでくる。すなわち、平城天皇第三皇子の高岳たかおか親王(法名真如)にまつわる説話である。真如親王は仏法を求めて渡唐するが、唐には優れた師僧がおらず、天竺てんじく(インド)まで行こうと決意する。唐の皇帝は真如の志に感激して、種々の宝物を賜る。その中に三つの大柑子が出てくるのである。
もろこしの御門、渡天の心ざしをあはれみて、さまざまの宝をあたへ給へりけるに、「それよしなし」とて、皆々返しまゐらせて、道の用意とて大柑子三つとヾめ給へりけるぞ、聞くもかなしく侍るめる。
とある。真如は皇帝から賜った宝物をちょうだいできないとして返上し、ただ大柑子三つを道中の非常用の糧として留め置いたという。天竺までの大旅行に大柑子三つを携行して出かけるのは無謀であるとともに、非現実的である。ここでの大柑子は招福のシンボルというより、予想される飢えと渇きを癒いやしてくれる無尽蔵の宝物(宝珠)を意味していよう。なお、この大柑子の具体的イメージとしては、いわゆるコウジミカンではなく、鹿児島をはじめとする南方産の文旦ぶんたんのような柑橘かんきつ類ではなかったかと想像する。水分が多く、表皮まで食用となり、日もちがするからである。
さて、その後、真如親王がいかなる運命をたどったかについては、『閑居友』上巻第一話に詳しい。そこでは次のように記される。
渡り給ひける道の用意に大柑子を三つ持ち給ひたりけるを、飢つかれたる姿したる人出で来て乞ひければ、取り出でて、中にも小さきを与へ給ひけり。この人「おなじくは大きなるを与あづからばや」といひければ、「我はこれにて末もかぎらぬ道を行くべし。汝はこヽのもと人なり。さしあたりたる飢ゑをふせぎては足りぬべし」とありければ、この人、「菩薩の行はさる事なし。汝、心小さし。心小さき人の施すものをば受くべからず」とて、かき消ち失せにけり。親王あやしくて、化人の出で来て、わが心をはかり給ひけるにこそ、とくやしくあぢきなし。
さて、やうやう進み行くほどに、つひに虎に行きあひて、むなしく命おはりぬとなん。
天竺に渡る途中で一人の飢人が現れ、真如に大柑子を乞う。真如は今後の道中の苦難を考えて、惜しんで小さいほうを与える。すると、飢人はその行為を菩薩ぼさつ行に当らぬと非難し、真如を心の狭い人であると罵ののしって消え失せたという。いうまでもなく、この飢人は仏菩薩の化人で、真如の心を試すために現れたのである。真如は自分の心の狭量を恥じ、残念に思う。その後、真如親王は虎に襲われて、尊い命を失ったと伝えられている。
仏菩薩の化人が現れて人の心を試すというモチーフは、玄奘三蔵げんじようさんぞうが瘡病人の膿汁を吸い舐ねぶり、観音から『般若心経』を授かる話をはじめ、聖徳太子の片岡山説話、光明皇后の湯屋の話などが想起されよう。虎に襲われて命を奪われる話は、薩埵さつた太子の捨身飼虎の布施行譚がこれに当ろう。次から次に新たな連想がふくらんできて、脇道にそれて行ってしまう。とりとめのない彷徨はこのあたりで止めておこう。
それにしても、『徒然草』第十一段の枝もたわわになった柑子の木には、はたしてどれほど招福、致富、吉兆、栄達、無尽蔵の宝物、などのシンボルとしての意味がこめられていたであろうか。ただ単に、庵の主の食用として植樹されたにすぎなかったのであろうか。
『今昔物語集』のおもしろさ
『今昔物語集』も巻二十七より最終巻にいたる五巻となるといちだんとおもしろい。多くの近現代の作家たちが、彼らの小説の素材をこれらの巻から取り上げた。それにはそれ相応の理由があった。
まず第一に、これらの巻の話はいわゆる世俗の話であって、巻二十までの仏法にかかわる話でもなく、仏法的世界観をもって包み込もうとする姿勢でもない。かえって仏法よりも力のあるものの存在を肯定しようとする。巻二十七第三話は、桃園ももぞのの柱の穴より幼児の手が出て人を招くという怪異談であるが、その穴の上に経を結びつけたがその怪異はやまなかった。そこでその穴に征箭そやをさし入れたところ、手が出て人を招くことはなくなった。これには『今昔』の編者(たぶん僧侶そうりよであろう)も、「征箭ノ験当ニ仏経ニ増リ奉テ、恐ムヤハ」と所感を述べている。編者にとっては仏・経の力のほうが霊験あらたかであるべきはずであるのに、武のほうがまさっていたというのは心外であろうが、しかし無理な仏教的解釈を施そうとはしない。
第二に、儒教思想もまだ現れていない。『今昔』では巻九を中国の孝養談に当て、巻十を中国の国史に当てているが、巻六・七は中国仏教の話であり、当時の日本にとって中国はどのような存在であったかがよくわかる。日本人の思想にもっとも大きな影響を与えたかと思われる孝子こうし説話にしても、本朝の部には中国孝子譚たんに表れるような、われわれにとってはオーバーと思われる孝子譚の影響は表れていない。巻二十七第十三話に、かたく物忌ものいみをしている家に、その主人と同腹の弟で、母をともなって陸奥みちのくへ行っていた男(じつは鬼の化けた姿)が訪ねてきて泊めろという話がある。兄は弟について行った母のことが気がかりでその話を聞こうとつい門を開けて弟を入れた。そのために兄は弟に化けた鬼のために殺されることになる。つまり兄は母親の消息を知りたいために物忌ものいみの禁を破って門を開けて殺されることになるが、この母親を思う心は自然のものである。
また、巻二十七第三十三話は、病気の母が僧になっている次男にどうしても会いたいと言うので、母を介抱していた兄は闇夜やみよの京の町を弟を迎えに行く。これも親を思う真情から出た行為である。巻三十第九話は、いわゆる姨母捨山おばすてやま説話であるが、親に対しては、姨母以上の愛情を抱いていたはずであり、これは人情の自然であろう。ところが、これらは母親に対する愛情であって、父親に対しては何も言っていない。ただ、巻三十一第二十七話に亡父を思う兄弟の話が出てくるが、これは中国的孝子譚こうしたんの臭みがする。
巻二十七第二十三話では、子を食わんとして鬼になった老母があり、「人ノ祖ノ年痛ウ老タルハ必ズ鬼ニ成テ此ク子ヲモ食ハムト為ル也ケリ」と、とんでもないことを言っている。しかしこれもなんの粉飾もつけないで、話の奇異なるままに書き残してあることに、当時の思想を知るうえには貴重な資料であろう。
その他の中国思想でも、儒教の仁義礼智信などのしかつめらしい徳目は、まだ姿を現していないし、孔子さえもまじめには取り上げていない(巻十)。まして宋儒そうじゆの哲学などは、もちろん時代的に入ってきていない。
こうしてみると、これらの話にはまだ外来思想の影響と見るべきものはほとんどないといえるであろう。つまり、日本人の本来持っている自然的な性情がよく現れているというべきであろう。しかしまた、いわゆる神道的な思想の影もまったく見えない。もちろん、まだ神道がその思想上の論理を形づくる以前だからであるし、本地垂迹説ほんじすいじやくせつも一般的ではない。つまり古代より通底している日本人の姿が見えるのではないだろうか。
第三に、ここに現れてくる人々は、当時のあらゆる階層にわたっていることである。ただし、上流貴族と最下層の人々はあまり取り上げられていない。上流貴族については、欠巻となっている巻二十一に語られていたかもしれないが、天皇についてさえ、ただ奇行をもって世上に話題を提供した、つまり庶民に親しみ深い、花山院かざんいんについて二回、いかがわしい噂うわさのあった陽成院ようぜいいんについて一回出るだけであり、しかもいずれも話の主役は名もなき庶民である。上流貴族についても同様であって、話のテーマは貴族階級についてのものではない。この点は、『源氏物語』などの作り物語といちじるしくちがう点である。『源氏物語』などは、当時の最高の階層の様態と、それに仕えていた女房たちのあこがれをつづったもので、『今昔』とは制作の基盤も目的も全然ちがうのである。つまり、『源氏物語』の世界は閉じられた社会の、狭い発想から作られた物語であるのに対して、『今昔』の世界は広い社会のあらゆる階層の人々の行動を写したものである。どちらが平安時代をよりよく写し出したものであるか、言わずと知れたことである。このことから、じつは『今昔』の情報源がどこにあって、どういう人物がこういうものを編纂へんさんしたか、探り出したいものであるが、これは今後の課題である。
第四に、したがって、そこに扱われているテーマが多種多様であることである。このことは本全集『今昔』第二冊の「古典への招待」で述べたことで、そこではとくに貧困と欲望について述べた。本冊でも貧困と欲望の話はあまた出てくるが、ここでは紙面の関係で省略し、当時の人はどのようにして富を得たかという点と、当時の人々のユーモアについて述べておこう。
どうしたら富を得られるか。まず受領になることである。そのよい例に、巻二十八第四話がある。
(この尾張守になった者は)年来、旧受領ニテ、官モ不成デ沈ミ居タリケル程ニ、辛クシ(テ)尾張ノ守ニ被成タリケレバ、喜ビ乍ラ任国ニ忩ギ下タリケルニ、国皆亡ビテ田畠作ル事モ露無カリケレバ、此ノ守ミ本ヨリ心直クシテ、身ノ弁ヘナドモ有ケレバ、前々ノ国ヲモ吉ク政ケレバ、此ノ国ニ始メテ下テ後、国ノ事ヲ吉ク政ケレバ、国只国ニシ福シテ、隣ノ国ノ百姓雲ノ如クニ集リ来テ、岳山トモ不云、田畠ニ崩シ作ケレバ、二年ガ内ニ吉キ国ニ成ニケリ。
とあるのがよく当時の実情を語っている。まさに『尾張国解文げぶみ』(永延二年〈九八八〉、尾張国の百姓らが、国守の非法を朝廷に訴え、その解任を要求した文書)にあるような国司の横暴は実在したのであろう。本話の主人公はよくその荒廃を立て直し、富裕になったために、五節ごせちの舞姫まいひめを出すほどの名誉を得たのではあったが。
巻二十八第三十八話には信濃守藤原陳忠ふじわらののぶただの話がある。彼は任終って京へ帰る途中、美濃の御坂みさか峠を越える時、乗った馬が懸け橋を踏みはずして谷底へ墜落した。幸い木の枝に引っかかって一命をとり止めたが、谷底から籠かごを降せと叫ぶ。家来どもがさっそく籠を降したところ、はじめの籠には平茸ひらたけがいっぱい入っていて、二度目の籠には国守が平茸を三房ばかり持って引き上げられた。家来どもがどうして平茸なぞ持って上ってきたのか、と聞くと、「受領ハ倒ル所ニ土ヲ爴メ」というではないか、と答えたので、供の者ども、唖然あぜんとして憎み笑った、という。
こういう根性は受領一般であったらしく、讃岐国の国守は満農池まののいけの魚を全部捕ろうとして堤に穴をあけたため、池の水が流れ出し、その国の人の生活に甚大な被害を与えた(巻三十一第二十二話)。肥後守源章家みなもとのあきいえ(巻二十九第二十七話)、能登守藤原通宗みちむね(巻三十一第二十一話)らの横暴・強欲をはじめ、受領やそれについて行くと経済的に豊かになる話(巻二十七第二十五話、巻二十九第六・七話、巻三十第六話)は数多い。しかし、こうした悪政はそのまま中央政府で容認するわけではない。国司・受領交替の時には後任の者に帳簿などの点検を受け事務引き継ぎをしなければならない。それをまともにやったら自分の悪行がばれてしまうことになる。そこで前国守は帳簿の改竄かいざんをしてごまかそうとする。しかもそのことがばれてしまっては身の破滅となるであろう。そこでその帳簿等の改竄をさせた書生を殺してしまって口封じをしようとするような極悪非道の者まで現れることになった(巻二十九第二十六話)。
徳人(金持ち)になるもう一つの方法は地方に行かなくても、京やその付近にいて徳人になる蓄財の方法で、これには大蔵の役人がたけていたらしく、話に出てくるのは皆大蔵の役人である。猫が大嫌いで、猫を脅しに使われて納税の約束書を書かされた藤原清廉きよかど(巻二十八第三十一話)、大蔵の最下の史生ししようのくせに、西の京に広大な邸宅を構え、娘たちに貴族のような生活をさせて華美を誇った宗岡高助むねおかのたかすけ(巻三十一第五話)、それに、紀助延きのすけのぶがいる。彼についての話(巻二十八第三十三話)の冒頭に次のごとくにある。
今昔、内舎人ヨリ大蔵ノ丞ニ成テ、後ニハ冠給リテ、大蔵ノ大夫トテ、紀ノ助延ト云フ者有キ。若カリケル時ヨリ、米ヲ人ニ借シテ、本ノ員ニ増テ返シ得ケレバ、年月ヲ経ルマヽニ、其ノ員多ク積リテ、四五万石ニ成テナム有ケレバ、世ノ人、此ノ助延ヲ万石ノ大夫トナム付タリシ。
要するに、いわゆる高利貸しである。当時は米が交易の具に使われていたから、その米を貸して(おそらく一年契約であろう)、倍にして返させれば、十割の利息ということになる。これはとんでもない高利である。おそらく大蔵の他の役人どもも同様な利殖の方法を行っていたのであろう。もちろん商売によって富裕になることも一部では始っていた(巻二十九第三十六話)。こうした現実的な話は、作り物語などには絶えて出てこないであろうし、日本文学史においても西鶴さいかくの町人物まではあまり見ない話である。
第五に、数々の悪行の横行である。巻二十九はことに悪行談を集めた巻であるから、諸種の悪行の様態が見られる。当時の悪行の筆頭は、盗人の話で四十話中二十二話に及ぶ。これを取り締るために検非違使庁けびいしちようが設けられたが、その検非違使からして盗みをたくらんだという(巻二十九第十五話)し、検非違使庁で使っていた放免ほうめんどもが強盗に入るという(巻二十九第六話)のだからお話にならないが、現代の世相に一脈通じるところがなくもない。要するに『今昔』の話は現代人にもよく理解できるということである。
しかし、現代人と大きく違うのは、超自然的存在への盲信である。科学的にはほとんど解明されたかに思われる現代においても、心霊を信じ因果を信じる人々がいるように、人間というものは自然に対してじつに無力なもので、なにかにすがらなくては生きていけない。この世の中には怪異・奇異なことはいくらでも起る。それに対して平安時代の人々は、その背後に、人智じんちではどうにもはかりしれないものの存在を想像する。まずそれは物の霊である。水の霊(巻二十七第五話)、銅の霊(同第六話)、提ひさげの霊(同第二十八話)であったりする。これらの霊はとくに人に危害を加えることはないが、しだいに人に危害を加えるものが出てきて、いかにも恐ろしい容貌ようぼうをもつ具体的な姿となる。それが鬼である。人々の恐怖心の具象化したものである(巻二十七第七〜九・十三〜十九・二十四)。しかし、人々はそういう怪異現象のあとでよく狐きつねの姿を見かける。狐は人家の近くにいくらでも見られた動物である。そうするとなんだいまの怪異は狐のしわざか、という解釈が出てくる。そこで狐は人を化かすということになる。狸たぬきはこのころまだ出てこないが、野猪くさいなぎというものがその代りをする。
これらの怪異に対抗するために、人々は陰陽師おんみようじや法師に除災を依頼する。陰陽師と法師との除災の力の差異はよくわからないが、陰陽師のほうが庶民的であり、法師は貴族の間で用いられたと思われる。
しかしこれらのなかで注意しておいてよいのは、人々の間で武力に対する信仰が絶大であったことである。巻二十七第十八話に、ある家に夜中に怪異が発生し、油断して刀も持たないで寝ていた五位の侍はとり殺され、刀を持って構えていた二人の若侍はなんともなかったという。巻二十九第五話では、陰陽師から「かたく物忌ものいみをせよ」と言われていた法師が、友人の平貞盛たいらのさだもりのたっての頼みでその夜泊めたところ、十数人の強盗が押し入ったが、見事、貞盛のために全滅させられたという。当時の人々には絶対的と信じられていた物忌みも、武人によって打破されたのである。とかく武人に対する賞賛が目立つが、これも、やがて武家の世になる世相の一端を示すのであろう。
このように、平安時代の人々は内外から危難にさらされていたようであるが、人々は意外に明るい。それは巻二十八に載せられた諸話に表れている。その一は、彼らは好奇心に富み、 いたずら好きであったことである(巻二十八第一・二・四・五・八・十九・二十一・二十二・二十四・二十五・三十・三十一・三十三・四十一・四十三話)。その二は、彼らのなかに「世馴よなれたる物言い」がいたことである(巻二十八第五・六・八〜十七・二十二・三十八話)。これらの話を読むと、案外人々の生活は楽しく、ユーモアがよく理解され、精神的にはのびのびしていたのではないかと思われる。 
 
 
更級日記1

 

平安時代中ごろに書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女。母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母である。作者13歳の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。江戸時代には広く流通して読まれた。
東国・上総の国府に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したので寛仁4年9月京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところから起筆し、源氏物語を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。製作形態としてはまとめて書いたのだろうと言われている。
源氏物語について最も早い時期から言及していたとされ貴重な資料となっている。光源氏物語本事に伝えられる、定家本にはない逸文からは譜と呼ばれる、おそらく注釈書のようなものの存在も知られる。 
菅原孝標女
すがわらのたかすえのむすめ 寛弘五〜没年未詳(1008-?)
常陸守従四位下(上?)菅原孝標の娘。道真の六代孫にあたる。母は藤原倫寧(みちやす)の娘。歌人の長能は母方の伯父、藤原道綱母は母方の伯母である。兄に文章博士定義・安楽寺別当基円がいる。甥に在良がいる。橘俊通との間に仲俊らをもうけた。
後一条天皇の寛仁元年(1017)、十一歳の時、父が上総介となり、任国に同行する。上総国では物語を愛読し、等身の薬師仏を作って、京へのぼりあらゆる物語が読めるように祈ったという。同四年暮、帰京を果すが、以後父は官途に恵まれず、一家は不如意な生活が続いた。治安元年(1021)、十四歳の時、おばから念願の源氏物語全巻をもらい、「后の位も何にかはせむ」と耽読する。万寿元年(1024)、姉が死に、以後二人の遺児を世話する。未婚のまま二十代を過ごし、長暦三年(1039)頃、後朱雀天皇第三皇女祐子内親王家に宮仕えを始める。しばらく後、橘俊通(としみち)の妻となる。長久二年(1041)、夫は下野守となったが、任国に同行せず、再出仕する。同三年、右中弁源資通(すけみち)と春秋の優劣を語る。その後も資通と会う機会をもったが、ほのかな恋に終わったらしい。天喜五年(1057)七月、夫の俊通は信濃守に任ぜられ、任国に赴任。作者は再び京に留まった。翌康平元年(1058)四月、夫は上京したが、同年秋に発病し、十月に亡くなった。この時孝標女は五十一歳。その後、養育した甥なども離散し、孤独のうちに過ごしたらしい。
晩年、生涯を回想した『更級日記』を著す。同書定家自筆本の奥書によれば、『よはの寝覚』『みつのはま松(浜松中納言物語)』などの作者であるという。歌人としての公的な場での活躍は見られない。新古今集初出。勅撰入集は十五首。

祐子内親王藤壺にすみ侍りけるに、女房うへ人などさるべき限り物語りして、春秋のあはれいづれにか心ひくなどあらそひ侍りけるに、人々おほく秋に心をよせ侍りければ
○ 浅みどり花もひとつに霞みつつおぼろにみゆる春の夜の月(新古56)
春と秋とどちらに心が惹かれるかと申しますと、わたくしは薄藍の空も、桜の花も、ひとつの色に霞みながら、朧ろに見える春の夜の月のすばらしさ、それゆえ春と申します。[◇祐子内親王 後朱雀天皇第三皇女、高倉一宮と号す。母は中宮嫄子(もとこ)。◇浅みどり 浅葱色。薄い藍色。夕空の色。]
後朱雀院御時、祐子内親王藤壺にかはらず住み侍りけるに、月くまなき夜、女房むかし思ひ出でてながめ侍りける程、梅壺女御まうのぼり侍りける訪ひをよそに聞き侍りて
○ 天あまのとを雲ゐながらもよそにみて昔の跡をこふる月かな(新勅撰1074)
天上界への扉を、雲の上にいながらも遠くから見て、亡き人の往き来した跡をなつかしがる…今夜は月もそんな風情だし、私たち女房も月を眺めてはそんな思いに耽っている。[◇天のと 天界へ通ずる門。尊貴の人々を暗喩する。ここでは、具体的には後朱雀天皇と梅壺女御を指す。◇梅壺女御 後朱雀天皇の女御、藤原生子。教通の娘。長暦三年(1039)十二月、入内。◇昔の跡をこふる 祐子内親王の亡母で朱雀天皇の中宮であった藤原もと子(げんし)に対する追想を言っている。「故宮のおはします世ならましかば、かやうにのぼらせ給はましなど、人々いひ出づる、げにいとあはれなりかし」(更級日記)。]
甥どもなど、ひと所にて、朝夕見るに、かうあはれに悲しきことののちは、所々になりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎にあたる甥の来たるに、珍しうおぼえて、
○ 月も出いでで闇に暮れたる姨捨をばすてになにとて今宵たづね来つらむ(更級日記)
我が家はまるで、月も出ずに暮れてしまい、闇に包まれた姨捨山のよう。そんな叔母の家に、またどうして今夜訪ねて来てくれたのでしょうね。[◇甥ども 孝標女は姉の遺児の育ての親のようなものであった。◇かうあはれに悲しきこと 康平元年(1058)十月に夫の俊通が亡くなったこと。◇姨捨 信濃国更級の歌枕。月の名所。「叔母」を掛けている。この歌が『更級日記』の名の由来となった。]
浜松中納言物語の歌 藤原定家撰『物語二百番歌合』の『拾遺百番歌合』より
帰朝の後、筑紫にて、送りに詣まで来たる唐人の帰るにつけて、河陽県の妃の女王の君に 中納言
○ 何にかはたとへて言はむ海のはて雲のよそにて思ふ思ひは
何に喩えて言ったらよいだろう。海の遠い彼方、雲の遥か彼方にいて、あなたを思うこの思いを。[◇河陽県の妃の女王の君 唐太宗の子「しんの親王」が来日中に日本人に生ませた子であるが、唐に渡って皇帝の后となった。浜松中納言と恋に落ち、一子をなした。唐から日本に帰国したのち、浜松中納言が恋人の河陽県后を思慕して詠んだ歌。]
唐人の帰るにつけて、一の大臣の五の君のもとに 中納言
○ あはれいかでいづれの世にか巡り逢ひてありし有明の月を見るべき
ああ、どうしたら、いつか転生してあなたに巡り逢い、ともにあの時の有明の月を再び見ることができるだろうか。[◇一の大臣の五の君 「唐の一の大臣」の五女。浜松中納言の父の生まれ変りである三郎の妹にあたる。この歌は続古今集巻十五恋五に題不知・菅原孝標女の作として載る。初句は「あはれまた」。] 
 
更級日記2

 

かどで (寛仁四年)
東路の道のはてよりも、なほ奧つかたに生ひいでたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつゝ、徒然なるひるま、よひゐなどに、姉、繼母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとゞゆかしさまされど、我が思ふまゝに、そらに、いかでか覺え語らむ。いみじく心もとなきまゝに、等身に藥師佛を作りて、手あらひなどしてひとまにみそかに入りつゝ、「京(みやこ)にとくのぼせ給ひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せ給へ」と身を捨てて額(ぬか)をつき、祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月(ながづき)三日門出して、いまたちといふ所にうつる。
年ごろ遊びなれつる所を、あらはに毀ちちらして立ちさわぎて、日の入際のいとすごく霧わたりたるに、車に乘るとてうち見やりたれば、ひとまには參りつゝ額をつきし、藥師佛の立ち給へるを、見捨て奉るかなしくて、人知れずうち泣かれぬ。
門出したる所は、めぐりなどもなくて、かりそめの茅屋の、しとみなどもなし。簾かけ、幕など引きたり。南ははるかに野のかた見やらる。東西は海ちかくていとおもしろし。夕霧たち渡りて、いみじうをかしければ、朝寢などもせず、かたがた見つゝ、こゝを立ちなむ事もあはれに悲しきに、同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、しもつさの國のいかたといふ所に泊まりぬ。庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐しくて寢も寢られず、野中に岡だちたる所に、たゞ木ぞ三つたてる。その日は、雨にぬれたる物ども乾し、國にたちおくれたる人々待つとて、そこに日を暮しつ。
十七日のつとめて、立つ。昔、しもつさの國に、まのの長といふ人住みけり。ひき布を千むら、萬むら織らせ、漂させけるが家の跡とて、深き河を舟にて渡る。昔の門の柱のまだ殘りたるとて、大きなる柱、河のなかに四つたてり。人々歌よむを聞きて、心のうちに朽ちもせぬこの河柱のこらずは昔のあとをいかで知らまし
その夜は、くろとの濱といふ所に泊まる。片つ方はひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原茂りて、月いみじうあかきに、風の音もいみじう心細し。人々をかしがりて歌よみなどするに、
まどろまじこよひならではいつか見むくろどの濱の秋の夜の月
太井川
そのつとめて、そこをたちて、しもつさの國と、武藏との境にてある太井川といふが上の瀬、まつさとのわたりの津に泊まりて、夜ひと夜、舟にてかつがつ物などわたす。
乳母なる人は、男などもなくなして、境にて子産みたりしかば、離れて別にのぼる。いと戀しければ、行かまほしく思ふに、兄(せうと)なる人抱きてゐて行きたり。皆人は、かりそめの假屋などいへど、風すくまじくひきわたしなどしたるに、これは男なども添はねば、いと手はなちに、あらあらしげにて、苫といふものを一重うち葺きたれば、月殘りなくさし入りたるに、紅の衣うへに着て、うちなやみて臥したる、月影さやうの人にはこよなく透きて、いと白く清げにて、珍しと思ひてかき撫でつゝ、うち泣くを、いとあはれに見捨てがたく思へど、いそぎゐて行かるゝ心地、いと飽かずわりなし。面影におぼえて悲しければ、月の興もおぼえず、くんじ臥しぬ。
つとめて、舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひきたてて、送りに來つる人々これより皆かへりぬ。のぼるは止りなどして、行き別るゝ程、行くも止るも、皆泣きなどす。をさな心地にもあはれに見ゆ。
竹芝寺
今は武藏の國になりぬ。ことにをかしき所も見えず。濱も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、むらさき生ふと聞く野も、芦荻のみ高く生ひて、馬に乘りて弓もたる末見えぬまで、高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。はるかに、はゝさうなどといふ所の、廊のあとの礎などあり。いかなる所ぞと問へば、「これは、いにしへ竹芝といふさかなり。國の人のありけるを、火たきやの火たく衞士にさし奉りたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しきめを見るらむ。わが國に七つ三つつくりすゑたる酒壺に、さしわたしたるひたえのひさごの、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見て、かくてあるよ』とひとりごち、つぶやきけるを、その時、帝の御女いみじうかしづかれ給ふ、たゞひとり御簾の際にたち出で給ひて、柱によりかゝりて御覽ずるに、この男のかくひとりごつを、いとあはれに、いかなるひさごの、いかになびくならむと、いみじうゆかしく思されければ、御簾を押しあげて、『あの男、こち寄れ』と召しければ、かしこまりて勾欄のつらにまゐりたりければ、『言ひつること、いま一かへり我にいひて聞かせよ』と仰せられければ、酒壺のことを、いま一かへり申しければ、『我ゐて行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこく恐しと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひ奉りて下るに、論なく人追ひて來らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮をすゑ奉りて、勢多の橋を一間ばかりこぼちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひ奉りて、七日七夜といふに、武藏の國に行き着きにけり。
帝、后、御子失せ給ひぬと思し惑ひ、もとめ給ふに、武藏の國の衞士の男なむ、いと香ばしきものを首にひきかけて、飛ぶやうに逃げけると申し出でて、此男を尋ぬるになかりけり。論なくもとの國にこそ行くらめと、朝廷(おほやけ)より使くだりて追ふに、勢多の橋こぼれて、え行きやらず、三月といふに武藏の國に行き着きて、この男を尋ぬるに、この御子おほやけづかひを召して、『我さるべきにやありけむ、この男の家ゆかしくて、率て行けといひしかば率てきたり。いみじくこゝありよくおぼゆ。この男罪にしれうぜられば、われはいかであれと。これも前の世にこの國にあとをたるべき宿世こそありけめ。はやかへりて朝廷にこのよしを奏せよ』と仰せられければ、いはむ方なくて、上りて、帝に、『かくなむありつる』と奏しければ、いふかひなし。その男を罪しても、今はこの宮をとりかへし、都にかへし奉るべきにもあらず。竹芝の男に、生けらむ世のかぎり、武藏の國を預けとらせて、おほやけごともなさせじ、たゞ宮にその國を預け奉らせ給ふよしの宣旨くだりにければ、この家を内裏のごとくつくりて住ませ奉りける家を、宮など失せ給ひにければ、寺になしたるを、竹芝寺といふなり。その宮のうみ給へる子どもは、やがて武藏といふ姓を得てなむありける。それよりのち、火たき屋に女は居るなり」と語る。
野山、芦荻の中を分くるよりほかのことなくて、武藏と相摸との中にゐてあすだ河といふ。在五中将の「いざこと問はむ」とよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば、相摸の國になりぬ。
にしとみといふ所の山、繪よく書きたらむ屏風をたてならべたらむやうなり。片つ方は海、濱のさまも、寄せかへる浪の景色も、いみじうおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く。「夏はやまとなでしこの濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬ」といふに、なほ所々はうちこぼれつゝ、あはれげに咲きわたれり。もろこしが原に、やまとなでしこも咲きけむこそなど、人々をかしがる。
足柄山
足柄山といふは、四五日かねて、おそろしげに暗がりわたれり。やうやう入りたつ麓のほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂りわたりて、いと恐しげなり。麓に宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女三人、いづくよりともなく出で夾たり。五十ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四五なるとあり。庵のまへにからかさをささせてすゑたり。男ども、火をともして見れば、昔、こはたといひけむが孫といふ。髪いと長く、額いとよくかゝりて、色しろくきたなげなくて、さてもありぬべき下仕へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、聲すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたくうたを歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西國の遊女はえかゝらじ」などいふを聞きて、「難波わたりにくらぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、聲さへ似る物なく歌ひて、さばかり恐しげなる山中にたちて行くを、人々あかず思ひて皆泣くを、をさなき心地には、ましてこのやどりを立たむことさへあかずおぼゆ。
まだ曉より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐しげなる事いはむ方なし。雲は足の下に踏まる。山の中らばかりの、木の下のわづかなるに、葵のたゞ三筋ばかりあるを、世はなれてかゝる山中にしも生ひけむよ、と人々あはれがる。水はその山に三所ぞ流れたる。
からうじて、越えいでて、關山にとゞまりぬ。これよりは駿河なり。横走の關の傍に、岩壺といふ所あり。えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし。
富士の山はこの國なり。わが生ひ出でし國にては、西おもてに見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山のすがたの、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなく積りたれば、色濃き衣に、白き袙(あこめ)着たらむやうに見えて、山の頂のすこし平ぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。
清見が關は、片つ方は海なるに、關屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。煙あふにやあらむ、清見が關の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。
田子浦は浪たかくて、舟にて漕ぎめぐる。
大井川といふ渡あり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり。
富士川
富士河といふは、富士の山より落ちたる水なり。その國の人の出でて語るやう、「一年ごろ物にまかりたりしに、いと暑かりしかば、この水の面に休みつゝ見れば、河上の方より黄なるもの流れ來て、物につきて止まりたるを見れば、反故なり。とりあげて見れば、黄なる紙に、丹して、濃くうるはしく書かれたり。あやしくて見れば、來年なるべき國どもを、除目のごとみな書きて、この國來年あくべきにも、守なして、又添へて二人をなしたり。あやし、あさましと思ひて、とり上げて、乾して、をさめたりしを、かへる年の司召に、この文に書かれたりし、一つたがはず、この國の守とありしまゝなるを、三月のうちになくなりて、又なり代りたるも、このかたはらに書きつけられたりし人なり。かかる事なむありし。、來年の司召などは、今年この山に、そこばくの神々集まりて、ない給ふなりけりと見給へし。めづらかなることにさぶらふ」とかたる。
ぬまじりといふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出でて、遠江にかゝる。さやの中山など越えけむほどもおぼえず。いみじく苦しければ、天ちうといふ河のつらに、假屋つくり設けたりければ、そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ、やうやうおこたる。冬深くなりたれば、河風けはしく吹き上げつゝ、堪へ難くおぼえけり。そのわたりして濱名の橋に着いたり。濱名の橋、下りし時はK木をわたしたりし、この度は、跡だに見えねば、舟にて渡る。入江にわたりし橋なり。外の海はいといみじくあしく浪高くて、入江のいたづらなる洲どもにこと物もなく、松原の茂れる中より、浪の寄せかへるも、いろいろの玉のやうに見え、まことに松の末より浪は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし。
それよりかみは、ゐのはなといふ坂の、えもいはずわびしきを上りぬれば、三河の國の高師の濱といふ。八橋は名のみして、橋のかたもなく、何の見所もなし。二むらの山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木のしたに庵を作りたれば、夜一夜、庵の上に柿の落ちかゝりたるを、人々拾ひなどす。宮路の山といふ所越ゆるほど、十月晦日なるに、紅葉散らで盛りなり。
嵐こそ吹き來ざりけれ宮路山まだもみぢ葉の散らでのこれる
参河と尾張となるしかすがのわたり、げに思ひわづらいぬべくをかし。
尾張國、鳴海浦を過ぐるに、夕汐たゞ満ちに満ちて、今宵宿らむも、中間に汐満ち來なば、こゝをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ。
美濃の國になる境に、すのまたといふ渡りして、野上といふ所につきぬ。そこに遊女ども出で來て、夜ひと夜、歌うたふにも、足柄なりしおもひ出でられてあはれに戀しきことかぎりなし。雪降り荒れまどふに、物の興もなくて、不破の關、あつみの山など越えて、近江國、おきなかといふ人の家に宿りて、四五日あり。
みつさか山の麓に、夜ひる、時雨、あられ降りみだれて、日の光もさやかならず、いみじう物むつかし。そこを立ちて、犬上、神崎、野洲、くるもとなどいふ所々、なにとなく過ぎぬ。湖のおもてはるばるとして、なでしま、竹生島などいふ所の見えたる、いとおもしろし。勢多の橋みなくづれて、わたりわづらふ。
粟津にとゞまりて、師走の二日京に入る。暗くいき着くべくと、申の時ばかりに立ちて行けば、關ちかくなりて、山づらにかりそめなるきりかけといふ物したる上より、丈六の佛のいまだ荒作りにおはするが、顔ばかり見やられたり。あはれに、人離れていづこともなくておはする佛かなと、うち見やりて過ぎぬ。こゝらの國々を過ぎぬるに、駿河の清見が關と、相坂の關とばかりはなかりけり。いと暗くなりて、三條の宮の西なる所に着きぬ。
梅の立枝 (寛仁四年−治安元年)
ひろびろと荒れたる所の、過ぎ來つる山々にもおとらず、大きに恐しげなるみ山木どものやうにて、都の内とも見えぬ所のさまなり。ありもつかず、いみじうものさわがしけれども、いつしかと思ひし事なれば、「物語もとめて見せよ、見せよ」と母をせむれば、三條の宮に、親族なる人の衞門の命婦とてさぶらひけるたづねて、文やりたれば、珍しがりて、喜びて、御前のをおろしたるとて、わざとめでたき草子ども、硯の箱の蓋に入れておこせたり。嬉しくいみじくて、夜晝これを見るよりうち始め、又々も見まほしきに、ありもつかぬ都のほとりに、誰かは物語もとめ見する人のあらむ。
繼母なりし人は、宮仕へせしが下りしなれば、思ひしにあらぬことどもなどありて、世中うらめしげにて、外にわたるとて、五つばかりなる乳兒どもなどして、「あはれなりつる心のほどなむ、忘れむ世あるまじき」などいひて、梅の木の、つま近くて、いと大きなるを、「これが花の咲かむ折は來むよ」といひおきてわたりぬるを、心のうちに戀しくあはれなりと思ひつゝ、しのび音をのみ泣きて、その年もかへりぬ。いつしか梅咲かなむ、來むとありしを、さやあると、目をかけて待ちわたるに、花もみな咲きぬれど、おともせず、思ひわびて、花を折りてやる。
たのめしをなほや待つべき霜枯れし梅をも春はわすれざりけり
といひやりたれば、あはれなることども書きて、
なほたのめ梅の立ち枝はちぎりおかぬ思ひのほかの人も訪ふなり
その春、世の中いみじうさわがしうて、まつさとのわたりの月かげあはれに見し乳母も、三月朔日になくなりぬ。せむ方なく思ひ歎くに、物語のゆかしさもおぼえずなりぬ。いみじく泣きくらして見いだしたれば、夕日のいと花やかにさしたるに、櫻の花残りなく散りみだる。
散る花も又來む春は見もやせむやがて別れし人ぞこひしき
又きけば、侍從の大納言の御むすめなくなり給ひぬなり。殿の中將のおぼし歎くなるさま、わがものの悲しき折なれば、いみじくあはれなりと聞く。上り着きたりし時、「これ手本にせよ」とて、この姫君の御手をとらせたりしを、「さ夜ふけてねざめざりせば」など書きて、 「鳥邊山谷に煙の燃えたゝばはかなく見えし我と知らなむ」と、いひ知らずをかしげに、めでたく書き給へるを見て、いとゞ涙を添へまさる。
物語 (治安元年-同二年)
かくのみ思ひくんじたるを、心も慰めむと、心ぐるしがりて、母、物語などもとめて見せ給ふに、げに、おのづから慰みゆく。紫のゆかりを見て、つゞきの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず。誰もいまだ都なれぬほどにて、え見つけず。いみじく心もとなく、ゆかしくおぼゆるまゝに、「この源氏の物語、一の卷よりしてみな見せ給へ」と心の内に祈る。親の太秦に籠り給へるにも、こと事なく、この事を申して、いでむまゝにこの物語見はてむと思へど、見えず。いと口惜しく思ひ歎かるゝに、をばなる人のゐなかよりのぼりたる所にわたいたれば、「いとうつくしう、生ひなりにけり」など、あはれがり、めづらしがりて、歸るに、「何をか奉らむ、まめまめしき物は、まさなかりなむ、ゆかしくし給ふなる物を奉らむ」とて、源氏の五十餘卷、櫃に入りながら、ざい中將、とほぎみ、せり河、しらゝ、あさうづなどいふ物語ども、一袋とり入れて、得て歸る心地の嬉しさぞいみじきや。はしるはしる、わづかに見つゝ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の卷よりして、人もまじらず、几帳の内にうち臥してひき出でつゝ見る心地、后の位も何にかはせむ。晝は日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、火を近くともして、これを見るよりほかの事なければ、おのづからなどは、空におぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、夢にいと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが來て、「法華經五卷をとくならへ」といふと見れど、人にも語らず、習はむとも思ひかけず、物語の事をのみ心にしめて、われはこの頃わろきぞかし、盛りにならば、容貌もかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ。光るの源氏の夕顔、宇治の大將の浮舟の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まづいとはかなくあさまし。
五月ついたちごろ、つま近き花橘の、いと白く散りたるをながめて、
時ならずふる雪かとぞながめまし花橘のかをらざりせば
足柄といひし山の麓に、暗がりわたりたりし木のやうに、しげれる所なれば、十月ばかりの紅葉、四方の山邊よりもけに、いみじくおもしろく、錦をひけるやうなるに、ほかより夾たる人の、「今、まゐりつる道に紅葉のいとおもしろき所のありつる」といふに、ふと、
いづこにもおとらじものをわが宿の世を秋はつる景色ばかりは
物語の事を、晝はひぐらし思ひつゞけ、夜も目のさめたるかぎりは、これをのみ心にかけたるに、夢に見ゆるやう、「このごろ皇太后宮の一品の宮の御料に、六角堂に遣水をなむ作るといふ人あるを、『そはいかに』と問へば、『天照御神を念じませ』といふ」と見て、人にもかたらず、何とも思はでやみぬる、いといふかひなし。春ごとに、この一品の宮をながめやりつゝ、
咲くと待ち散りぬとなげく春はたゞわが宿がほに花を見るかな
三月つごもりがた、土忌に人のもとに渡りたるに、櫻さかりにおもしろく、今まで散らぬもあり。かへりて又の日、
あかざりし宿の櫻を春くれて散りがたにしも一目見しかな
といひにやる。
大納言殿の姫君 (治安二年−同三年) 
花の咲き散る折ごとに、乳母なくなりし折ぞかしとのみあはれなるに、おなじ折なくなり給ひし侍從大納言の御女の手を見つゝ、すゞろにあはれなるに、五月ばかりに、夜更くるまで、物語をよみて起きゐたれば、來つらむ方も見えぬに、猫のいとなごうないたるを、驚きて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより來つる猫ぞと見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人なれつゝ、傍にうちふしたり。尋ぬる人やあると、これを隱して飼ふに、すべて下衆のあたりにもよらず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかざまに顔をむけて食はず。姉おとゝの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、ものさわがしくて、この猫を北面にのみあらせて呼ばねば、かしがましくなきのゝしれども、なほさるにてこそはと思ひてあるに、煩ふ姉おどろきて、「いづら、猫は。こちゐて夾」とあるを、「など」と問へば、「夢にこの猫の傍に來て、『おのれは、侍從の大納言殿の御女のかくなりたるなり。さるべき縁のいさゝかありて、この中の君のすゞろにあはれと思ひいで給へば、たゞしばしこゝにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしきこと』といひて、いみじうなく様は、あてにをかしげなる人と見えて、うち驚きたれば、この猫の聲にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語り給ふを聞くに、いみじくあはれなり。その後は、この猫を北面にもいださず、思ひかしづく。ただひとりゐたる所に、この猫がむかひゐたれば、かいなでつゝ、「侍從大納言の姫君のおはするな。大納言殿にしらせ奉らばや」といひかくれば、顔をうちまもりつゝ、なごうなくも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔にあはれなり。
世の中に長恨歌といふ文を、物語に書きてある所あんなりと聞くに、いみじくゆかしけれど、えいひよらぬに、さるべきたよりをたづねて、七月七日いひやる。
ちぎけむ昔の今日のゆかしさにあまの河浪うち出でつるかな
返し、
たち出づる天の河邊のゆかしさに常はゆゆしきことも忘れぬ
その十三日の夜、月いみじく隈なくあかきに、皆人も寢たる夜中ばかりに、縁に出でゐて、姉なる人、そらをつくづくと眺めて、「たゞ今ゆくへなく飛び失せなばいかゞ思ふべき」と問ふに、なまおそろしと思へるけしきを見て、こと事にいひなして笑ひなどして聞けば、かたはらなる所に、さき追ふ車とまりて、「荻の葉荻の葉」と呼ばすれど、答へざなり。呼びわづらひて、笛をいとをかしく吹き澄まして、過ぎぬなり。
笛のねのたゞ秋風と聞ゆるになど荻の葉のそよと答へぬ
といひたれば、げにとて、
荻の葉の答ふるまでも吹きよらでたゞに過ぎぬる笛の音ぞ憂き
かやうにあくるまで眺めあかいて、夜あけてぞ皆人寢ぬる。
そのかへる年、四月の夜中ばかりに火の事ありて、大納言殿の姫君と思ひかしづきし猫も燒けぬ。「大納言殿の姫君」と呼びしかば、聞き知り顔になきて、歩み來などせしかば、父なりし人も、「めづらかにあはれなることなり。大納言に申さむ」などありしほどに、いみじうあはれに、くちおしくおぼゆ。
野邊の笹原 (萬壽元年-同二年)
広々と物ふかきみ山のやうにはありながら、花紅葉の折は、四方の山邊も何ならぬを見ならひたるに、たとしへなくせばき所の、庭のほどもなく、木なども無きに、いと心憂きに、むかひなる所に、梅、紅梅など咲きみだれて、風につけて、かかえ來るにつけても、住みなれしふるさとかぎりなく思ひ出でらる。
にほひくる隣の風を身にしめてありし軒端の梅ぞこひしき
その五月の朔日に、姉なる人、子うみてなくなりぬ。よそのことだに、をさなくよりいみじくあはれとおもひわたるに、ましていはむ方なく、あはれかなしと思ひ歎かる。母などはみはなくなりたる方にあるに、形見にとまりたるをさなき人々を左右に臥せたるに、荒れたる板屋の隙より月の洩り來て、ちごの顔にあたりたるが、いとゆゝしくおぼゆれば、袖を打ちおほひて、いま一人をもかき寄せて、思ふぞいみじきや。
そのほど過ぎて、親族なる人のもとより、「昔の人のかならず求めておこせよとありしかば、求めしに、その折はえ見出でずなりにしを、今しも人のおこせたるが、あはれに悲しきこと」とて、かばね尋ぬる宮といふ物語をおこせたり。まことにぞあはれなるや。返りごとに、
うづもれぬかばねを何に尋ねけむ苔のしたには身こそなりけれ
乳母なりし人、「いまは何につけてか」など、泣く泣くもとありける所に歸りわたるに、
「故郷にかくこそ人は歸りけれあはれいかなる別れなりけむ
昔のかたみには、いかでとなむ思ふ」など書きて、「硯の水の氷れば、みなとぢられてとゞめつ」といひたるに、
かき流すあとはつらゝにとぢてけり何を忘れぬ形見とか見む
といひやりたる返りごとに、
なぐさむる方もなぎさの濱千鳥なにか憂き世にあともとゞめむ
この乳母、墓所見て、泣く泣く歸りたりし、
のぼりけむ野べは煙もなかりけむいづこをはかと尋ねてか見し
これを聞きて繼母なりし人、
そこはかと知りてゆかねど先に立つ涙ぞ道のしるべなりける
かばねたづぬる宮おこせたりし人、
すみなれぬ野べの笹原あとはかもなくなくいかに尋ねわびけむ
これを見て、せうとは、その夜おくりに行きたりしかば、
見しまゝに燃えし煙はつきにしをいかゞ尋ねし野べの笹原
雪の日をへて降るころ、吉野山に住む尼君を思ひやる。
雪ふりてまれの人めも絶えぬらむ吉野の山の峯のかけ道
かへる年、睦月の司召に、親のよろこびすべきことありしに、かひなきつとめて、同じ心に思ふべき人のもとより、「さりともと思ひつゝ、あくるを待ちつる心もとなさ」といひて、
あくる待つ鐘のこゑにも夢さめて秋のもゝ夜の心地せしかな
といひたる返りごとに、
暁をなにに待ちけむ思ふ事なるともきかぬ鐘のおとゆゑ
東山なる所 (萬壽二年-同三年)
四月つごもりがた、さるべきゆゑありて、東山なる所へうつろふ。道のほど、田の、苗代水まかせたるも、植ゑたるも、何となく青み、をかしう見えわたりたる。山のかげくらう、前ちかう見えて、心ぼそくあはれなるゆふぐれ、水鷄いみじくなく。
たゝくとも誰かくひなの暮れぬるに山路をふかくたづねては來む
靈山ちかき所なれば、詣でてをがみ奉るに、いと苦しければ、山寺なる石井によりて、手にむすびつゝ飮みて、「この水の飽かずおぼゆるかな」といふ人のあるに、
奥山の石間の水をむすびあげてあかぬものとは今のみやしる
といひたれば、水飮む人、
山の井のしづくに濁る水よりもこはなほあかぬ心地こそすれ
歸りて、夕日けざやかにさしたるに、宮この方も殘りなく見やらるゝに、このしづくに濁る人は、京に歸るとて、心苦しげに思ひて、またつとめて、
山の端に入日のかげは入りはてて心ぼそくぞながめやられし
念佛する僧の曉に額づく音の尊く聞ゆれば、戸をおし開けたれば、ほのぼのあけゆく山ぎは、こぐらき梢どもきりわたりて、花紅葉の盛りよりも、なにとなく、茂りわたれる空のけしき、曇らはしくをかしきに、郭公さへ、いと近き梢にあまた度鳴いたり。
誰に見せ誰に聞かせむ山里のこの曉もをちかへる音も
このつごもりの日、谷の方なる木の上に、郭公、かしがましく鳴いたり。
都には待つらむ物を郭公けふ日ねもすに鳴きくらすかな
などのみ、ながめつゝ、もろともにある人、「ただいま、京にも聞きたらむ人あらむや。かくてながむらむと思ひおこする人あらむや」などいひて、
山深く誰か思ひはおこすべき月見る人は多からめども
といへば、
ふかき夜に月見る折は知らねどもまづ山里ぞ思ひやらるゝ
曉になりやしぬらむと思ふほどに、山の方より人あまた來る音す。驚きて見やりたれば、鹿の縁のもとまで來てうちないたる、ちかうてはなつかしからぬものゝ聲なり。
秋の夜のつま戀ひかぬる鹿のねはとほ山にこそきくべかりけれ
しりたる人の近きほどに來て歸りぬと聞くに、
まだ人め知らぬ山邊の松風もおとしてかへるものとこそ聞け
八月になりて、廿よ日の曉がたの月、いみじくあはれに、山の方はこ暗く、瀧の音も似る物なくのみ眺められて、
思ひ知る人に見せばや山里の秋の夜ふかき有明の月
京にかへり出づるに、わたりし時は水ばかり見えし田どもも、みな刈りはててけり。
苗代の水かげばかり見えし田の刈りはつるまでなが居しにけり
十月つごもりがたに、あからさまに來て見れば、こ暗う繁れし木の葉ども殘りなく散りみだれて、いみじくあはれげに見えわたりて、心ちよげにさゝらぎ流れし水も木の葉に埋もれて、あとばかり見ゆ。
水さへぞすみ絶えにける木の葉ちる嵐の山の心ぼそさに
そこなる尼に、「春まで命あらばかならずこむ。花ざかりはまづ告げよ」などいひて歸りにしを、年かへりて三月十餘日になるまでおともせねば、
契りおきし花の盛りを告げぬかな春やまだ來ぬ花やにほはぬ
旅なる所に來て、月のころ、竹のもと近くて、風の音に目のみ覺めて、うちとけて寢られぬころ、
竹の葉のそよぐ夜ごとに寢ざめしてなにともなきに物ぞ悲しき
秋ごろ、そこをたちて、ほかへうつろひて、そのあるじに、
いづことも露のあはれはわかれじを淺茅が原の秋ぞ戀しき
子忍びの森 (−長元五年)
繼母なりし人、下りし國の名を宮にもいはるゝに、異人通はして後も、なほその名をいはるときゝて、親の今はあいなきよし、いひにやらむ、とあるに、
朝倉や今は雲井に聞く物をなほ木のまろが名のりをやする
かやうに、そこはかとなきことを思ひつゞくるを役にて、物詣をわづかにしても、はかばかしく、人のやうならむとも念ぜられず、このころの世の人は十七八よりこそ經よみ、おこなひもすれ、さること思ひかけられず。からうじて思ひよることは、いみじくやむごとなく、かたちありさま、物語にある光る源氏などのやうにおはせむ人を、年に一たびにても通はし奉りて、浮舟の女君のやうに、山里に隠しすゑられて、花、紅葉、月、雪を眺めて、いと心細げにて、めでたからむ御文などを、時々待ち見などこそせめとばかり思ひつゞけ、あらまし事にもおぼえけり。
おや、となりなば、いみじうやむごとなくわが身もなりなむなど、たゞゆくへなき事をうち思ひ過すに、親、からうじて、はるかにとほきあづまになりて、「年ごろは、いつしか思ふやうに近き所になりたらば、まづ胸あくばかりかしづきたてて、ゐて下りて、海山の景色も見せ、それをばさる物にて、わが身よりも高うもてなしかしづきて見むとこそ思ひつれ、我も人も宿世のつたなかりければ、ありありてかくはるかなる國になりにたり。をさなかりし時、あづまの國にゐて下りてだに、心地もいさゝかあしければ、これをや、この國に見すてて、迷はむとすらむと思ふ。人の國の恐しきにつけても、わが身一つならば、安らかならましを、ところせう引き具して、いはまほしきこともえいはず、せまほしきこともえせずなどあるが、わびしうもあるかなと心を砕きしに、今はまいて大人になりにたるを、ゐて下りて、わが命も知らず、京のうちにてさすらへむは例のこと、あづまの國、田舍人になりて迷はむ、いみじかるべし。京とても、たのもしう迎へとりてむと思ふ類、親族もなし。さりとて、わづかになりたる國を辭し申すべきにもあらねば、京にとゞめて、ながきわかれにてやみぬべきなり。京にも、さるべきさまにもてなしてとゞめむとは思ひよる事にもあらず」と夜晝なげかるゝを聞く心地、花紅葉の思ひもみな忘れて悲しく、いみじく思ひ歎かるれど、いかゞはせむ。
七月十三日にくだる。五日かねては見むもなかなかなべければ、内にも入らず。まいてその日は立ちさわぎて、時なりぬれば、今はとてすだれを引きあげて、うち見合はせて涙をほろほろと落して、やがて出でぬるを見おくる心地、目もくれまどひて、やがて臥されぬるに、とまる男のおくりして歸るに、懷紙に、
思ふ事心にかなふ身なりせば秋の別れを深く知らまし
とばかり書かれたるをも、え見やられず、事よろしき時こそ腰折れかゝりたる事も思ひつゞけけれ、ともかくもいふべき方もおぼえぬまゝに、
かけてこそ思はざりしかこの世にてしばしも君に別るべしとは
とや書かれにけむ。
いとゞ人目も見えず、さびしく心細くうちながめつゝ、いづこばかりと、あけくれ思ひやる。道のほども知りにしかば、はるかに戀しく心細きことかぎりなし。あくるより暮るゝまで、東の山ぎはを眺めて過ぐす。
八月ばかりに太秦にこもるに、一條より詣づる道に、をとこ車ふたつばかりひきたてて、物へ行くに、もろともに夾べき人待つなるべし。過ぎて行くに、隨身だつ者をおこせて、
花見にゆくときみを見るかな
といはせたれば、かかるほどの事はいらへぬも便なしなどあれば、
千ぐさなる心ならひに秋の野の
とばかりいはせて行き過ぎぬ。七日さぶらふほども、たゞ東路のみ思ひやられてよしなし。「こと、からうじて離れて、たひらかにあひ見せ給へ」と申すは、佛もあはれと聞き入れさせ給ひけむかし。
冬になりて、日ぐらし雨降り暮らいたる夜、くもかへる風はげしううちふきて、空晴れて月いみじうあかうなりて、軒ちかき荻のいみじく風に吹かれて、碎けまどふが、いとあはれにて、
秋をいかに思ひ出づらむ冬深み嵐にまどふ荻の枯葉は
あづまより人夾たり。 「神拜といふわざして國の内ありきしに、水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、木むらのある、をかしき所かな、見せでと、まづ思ひいでて、こゝはいづことかいふと問へば、子忍びの森となむ申すと答へたりしが、身によそへられて、いみじく悲しかりしかば、馬より下りて、そこにふた時なむながめられし。
とどめおきてわがごと物や思ひけむ見るに悲しき子忍びの森
となむ覺えし」とあるを、見る心地、いへばさらなり。返り事に、
子忍びを聞くにつけてもとゞめおきしちゝぶの山のつらきあづま路
鏡のかげ (長元六年−同九年)
かうて、つれづれととながむるに、などか物詣もせざりけむ。母いみじかりし古代の人にて、初瀬には、あなおそろし、奈良坂にて人にとられなばいかゞせむ。石山、關山越えていとおそろし。鞍馬はさる山、ゐていでむ、いと恐ろしや。親上りて、ともかくもと、さし放ちたる人のやうに、わづらはしがりて、わづかに清水にゐて籠りたり。それにも、例の癖は、まことしかべい事も思ひ申されず。彼岸のほどにて、いみじうさわがしう恐ろしきまでおぼえて、うちまどろみ入りたるに、御帳の方のいぬふせぎの内に、青き織物の衣を着て、錦を頭にもかづき、足にも履いたる僧の、別當とおぼしきが寄り來て、「行くさきのあはれならむも知らず、さもよしなし事をのみ」と、うちむづかりて、御帳の内に入りぬと見ても、うちおどろきても、かくなむ見えつるとも語らず、心に思ひとゞめでまかでぬ。
母一尺の鏡を鑄させて、えゐてまゐらぬかはりにとて、僧を出だし立てて初瀬に詣でさすめり。「三日さぶらひて、この人のあべからむさま、夢に見せ給へ」などいひて、詣でさするなめり。そのほどは精進せさす。この僧歸りて、「夢をだに見でまかでなむが本意なきこと、いかゞ歸りても申すべきと、いみじう額づきおこなひて寢たりしかば、御帳の方より、いみじう氣高う清げにおはする女の、うるはしく装束き給へるが、奉りし鏡をひきさげて、『この鏡には、文や添ひたりし』と問ひ給へば、かしこまりて、『文もさぶらはざりき。この鏡をなむたてまつれと侍りし』と答へ奉れば、『あやしかりける事かな。文添ふべきものを』とて、『この鏡を、こなたに寫れる影を見よ、これ見ればあはれに悲しきぞ』とて、さめざめとなき給ふを見れば、ふしまろび泣き歎きたる影寫れり。『この影を見れば、いみじう悲しな。これ見よ』とて、いま片つ方に寫れる影を見せ給へば、御簾どもあをやかに、几帳おし出でたる下より、いろいろの衣こぼれ出で、梅櫻咲きたるに、鶯木傳ひ鳴きたるを見せて、『これを見るは嬉しな』と、のたまふとなむ見えし」と語るなり。いかに見えけるぞとだに、耳もとゞめず。物はかなき心にも、「常に天照御神を念じ申せ」といふ人あり、いづこにおはします、神佛にかはなど、さはいへど、やうやう思ひわかれて、人に問へば、「神におはします。伊勢におはします。紀伊の國に、紀の國造と申すは、この御神なり。さては内侍所に、すべら~となむおはします」といふ。「伊勢の國までは思ひかくべきにもあらざなり。内侍所にも、いかでかはまゐりをがみ奉らむ。空の光を念じ申すべきにこそは」など、浮きておぼゆ。
親族なる人、尼になりて、修學院にいりぬるに、冬ごろ、
涙さへふりはへつゝぞ思ひやる嵐吹くらむ冬の山里
返し、
わけて問ふ心のほどの見ゆるかな木蔭をぐらき夏の茂りを
東に下りし親、からうじて上りて、西山なる所に落ちつきたれば、そこに皆渡りて見るに、いみじう嬉しきに、月のあかき夜一夜物語などして、
かかる世もありける物を限りとて君に別れし秋はいかにぞ
といひたれば、いみじく泣きて、
思ふ事かなはずなぞといとひこし命のほども今ぞうれしき
これぞ別れの門出といひ知らせしほどの悲しさよりは、たひらかに待ちつけたるうれしさもかぎりなけれど、「人の上にても見しに、老い衰へて世に出で交らひしは、をこがましく見えしかば、我はかくて閉ぢこもりぬべきぞ」とのみ、殘りなげに世を思ひいふめるに、心細さ堪へず。
東は野のはるばるとあるに、東の山ぎはは、比叡の山よりして、稻荷などいふ山まであらはに見えわたり、南はならびの岡の松風、いと耳近う心細く聞えて、内にはいたゞきのもとまで、田といふものの、ひた引き鳴らす音など、ゐなかの心ちして、いとをかしきに、月のあかき夜などは、いとおもしろきを、ながめ明かし暮らすに、知りたりし人、里とほくなりておともせず。たよりにつけて、「何事かあらむ」と傳ふる人に驚きて、
思ひ出でて人こそとはね山里のまがきの荻に秋風は吹く
といひにやる。
宮仕へ (長元九年−長久三年)
十月になりて京にうつろふ。母、尼になりて、同じ家の内なれど、方異に住み離れてあり。父はたゞ我をおとなにしすゑて、我は世にも出で交らはず、かげに隱れたらむやうにてゐたるを見るも、ョもしげなく心細くおぼゆるに、きこしめすゆかりある所に、「何となくつれづれに心細くてあらむよりは」と召すを、古代の親は、宮仕へ人はいと憂き事なりと思ひて、過ぐさするを、「今の世の人は、さのみこそは、出でたて。さてもおのづからよきためしもあり。さても心見よ」といふ人々ありて、しぶしぶに出だしたてらる。
まづ一夜まゐる。菊のこくうすき八つばかりに、こき掻練をうへに着たり。さこそ物語にのみ心を入れて、それを見るよりほかに行き通ふ類、親族などだにことになく、古代の親どものかげばかりにて、月をも花をも見るよりほかの事はなきならひに、立ち出づるほどの心地、あれかにもあらず、現ともおぼえで、曉にはまかでぬ。
里びたる心地には、なかなか、定まりたる里住よりは、をかしき事をも見聞きて、心も慰みやせむと思ふをりをりありしを、いとはしたなく悲しかるべきことにこそあべかめれと思へど、いかゞせむ。師走になりて又まゐる。局してこの度は日ごろさぶらふ。うへには時々、夜々ものぼりて、しらぬ人の中にうち臥して、つゆまどろまれず。恥づかしう物のつゝましきまゝに、忍びてうち泣かれつゝ、曉には夜深くおりて、日ぐらし、父の老い衰へて、我を子としもョもしからむかげのやうに思ひたのみ、向かひゐたるに、戀しくおぼつかなくのみおぼゆ。母なくなりにし姪どもも、生まれしより一つにて、夜は左右に臥しおきするも、哀れに思ひいでられなどして、心も空に眺めくらさる。たち聞き、かいまむ人のけはひして、いといみじく物つゝまし。
十日ばかりありてまかでたれば、父母、炭櫃に火などおこして待ちゐたりけり。車よりおりたるをうち見て、「おはする時こそ人めも見え、さぶらひなどもありけれ、この日ごろは人聲もせず、前に人影も見えず、いと心細くわびしかりつる。かうてのみも、まろが身をば、いかゞせむとかする」とうち泣くを見るもいと悲し。つとめても、「今日はかくておはすれば、内外人多く、こよなくにぎはゝしくもなりたるかな」とうちいひて向かひゐたるも、いとあはれに、何のにほひのあるにかと涙ぐましう聞ゆ。
ひじりなどすら、前の世のこと夢に見るは、いとかたかなるを、いとかう、あとはかないやうに、はかばかしからぬ心地に、夢に見るやう、清水の禮堂にゐたれば、別當とおぼしき人いで來て、「そこは、前の生に、この御寺の僧にてなむありし。佛師にて、佛をいとおほく造りたてまつりし功徳によりて、ありし素姓まさりて、人と生れたるなり。この御堂の東におはする丈六の佛は、そこの造りたりしなり。箔をおしさしてなくなりしぞ」と。「あないみじ。さは、あれに箔おし奉らむ」といへば、「なくなりにしかば、異人箔おし奉りて、異人供養もしてし」と見て後、清水にねむごろにまゐりつかうまつらましかば、前の世にその御寺に佛念じ申しけむ力に、おのづからようもやあらまし。いといふかひなく、詣でつかうまつることもなくてやみにき。
十二月廿五日、宮の御佛名に召しあれば、その夜ばかりと思ひてまゐりぬ。白き衣どもに、濃き掻練をみな着て、四十餘人ばかり出でゐたり。しるべしいでし人のかげに隱れて、あるが中にうちほのめいて、曉にはまかづ。雪うち散りつゝ、いみじく烈しくさえこほる曉がたの月の、ほのかに濃き掻練の袖にうつれるも、げにぬるゝ顏なり。道すがら、
年はくれ夜はあけがたの月影の袖にうつれるほどぞはかなき
かう立ち出でぬとならば、さても、宮づかへの方にも立ちなれ、世にまぎれたるも、ねぢけがましきおぼえもなきほどは、おのづから人のやうにもおぼしもてなさせ給ふやうもあらまし。親たちもいと心得ず、ほどもなく籠めすゑつ。さりとてそのありさまの、たちまちにきらきらしき勢ひなどあんべいやうもなく、いとよしなかりけるすゞろ心にても、ことのほかにたがいぬるありさまなりかし。
いくちたび水の田芹を摘みしかば思ひしことのつゆもかなはぬ
とばかりひとりごたれてやみぬ。
その後は何となくまぎらはしきに、物語のことも、うち絶え忘られて、物まめやかなるさまに、心もなりはててぞ、などて、多くの年月を、いたづらにて臥しおきしに、おこなひをも物詣をもせざりけむ。このあらましごととても、思ひしことどもは、この世にあんべかりけることどもなりや。 光る源氏ばかりの人は、この世におはしけりやは。薫大將の宇治に隱しすゑ給ふべきもなき世なり。あな物狂ほし、 いかによしなかりける心なりと思ひしみはてて、まめまめしく過ぐすとならば、さてもありはてず、まゐりそめし所にも、かくかき籠りぬるを、まことともおぼしめしたらぬさまに人々も告げ、絶えず召しなどする中にも、わざとめして、若い人まゐらせよと仰せらるれば、えさらず出だし立つるにひかされて、又時々出で立てど、過ぎにし方のやうなるあいなだのみの心おごりをだに、すべきやうもなくて、さすがに若い人に引かれて、をりをりさしいづるにも、なれたる人は、こよなく、何事につけてもありつき顔に、我はいと若人にあるべきにもあらず、又おとなにせらるべきおぼえもなく、時々の客人にさしはなたれて、すゞろなるやうなれど、ひとへにそなたひとつをョむべきならねば、我よりまさる人あるも、うらやましくもあらず、なかなか心やすくおぼえて、さんべき折ふしまゐりて、つれづれなる、さんべき人と物語などして、めでたきことも、をかしくおもしろきをりをりも、わが身はかやうに立ちまじり、いたく人にも見知られむにも、はゞかりあんべければ、たゞ大方の事にのみ聞きつゝ過ぐすに、内の御ともにまゐりたる折、有明の月いとあかきに、我がねむじ申す天照御神は、内にぞおはしますなるかし。かゝる折にまゐりてをがみ奉らむと思ひて、四月ばかりの月のあかきに、いとしのびてまゐりたれば、博士の命婦は知るたよりあれば、燈籠の火のいとほのかなるに、あさましく老い~さびて、さすがにいとよう物などいひゐたるが、人ともおぼえず、~の現はれ給へるかとおぼゆ。
又の夜も、月のいとあかきに、藤壺のひむがしの戸をおしあけて、さべき人々物語しつゝ月をながむるに、梅壺の女御ののぼらせ給ふなるおとなひ、いみじく心にくゝ優なるにも、故宮のおはします世ならましかば、かやうにのぼらせ給はましなど、人々いひ出づる、げにいとあはれなりかし。
天の戸を雲井ながらもよそに見て昔のあとを戀ふる月かな
冬になりて、月なく、雪も降らずながら、星の光に、空さすがに、くまなくさえわたりたる夜のかぎり、殿の御方にさぶらふ人々と物語しあかしつゝ、明くればたちわかれたちわかれしつゝ、まかでしを、思ひ出でければ、
月もなく花も見ざりし冬の夜の心にしみて戀しきやなぞ
我もさ思ふことなるを、同じ心なるも、をかしうて、
さえし夜の氷は袖にまだとけで冬の夜ながらねをこそは泣け
御前に臥して聞けば、池の鳥どもの夜もすがら、聲々窒ヤきさわぐ音のするに、目も覺めて、
わがごとぞ水のうきねにあかしつつ上毛の霜を拂ひわぶなる
とひとりごちたるを、かたはらに臥し給へる人聞きつけて、
まして思へ水のかりねのほどだにぞうはげの霜を拂ひわびける
かたらふ人どち、局のへだてなるやり戸を開けあはせて物語などし暮らす日、又、かたらふ人の、上にものし給ふを度々呼び下すに、「切にことあらば行かむ」とあるに、枯れたる薄のあるにつけて、
冬がれのしのゝをすゝき袖たゆみ招きもよせじ風にまかせむ
春秋のさだめ (長久三年−ェコ二年)
上達部、殿上人などに對面する人は、定まりたるやうなれば、うひうひしき里人は、ありなしをだに知らるべきにもあらぬに、十月ついたちごろの、いと暗き夜、不斷經に、聲よき人々讀むほどなりとて、そなた近き戸口に二人ばかり立ち出でて、聞きつゝ物語して、寄りふしてあるに、まゐりたる人のあるを、「逃げ入りて、局なる人々呼びあげなどせむも見苦し、さはれ、たゞ折からこそ、かくてたゞ」といふいま一人のあれば、かたはらにて聞きゐたるに、おとなしく靜やかなるけはひにて、物などいふ。くちおしからざなり。「いま一人は」など問ひて、世のつねの、うちつけの、けさうびてなどもいひなさず、世の中のあはれなることどもなど、こまやかにいひ出でて、さすがに、きびしう引き入りがたいふしぶしありて、我も人も答へなどするを、まだ知らぬ人のありけるなど珍らしがりて、とみに立つべくもあらぬほど、星の光だに見えず暗きに、うちしぐれつゝ、木の葉にかゝる音のをかしきを、「なかなかに艷にをかしき夜かな。月の隈なくあかゝらむも、はしたなく、まばゆかりぬべかりけり」春秋の事などいひて、「時にしたがひ見ることには、春霞おもしろく、空ものどかにかすみ、月のおもてもいとあかうもあらず、とほう流るゝやうに見えたるに、琵琶の風香調ゆるゝかに彈き鳴らしたる、いといみじく聞ゆるに、又秋になりて、月いみじうあかきに、空は霧りわたりたれど、手に取るばかり、さやかに澄みわたりたるに、風の音、蟲の聲、とり集めたる心地するに、箏の琴かき鳴らされたる、横笛の吹きすまされたるは、何ぞの春とおぼゆかし。又、さかと思へば、冬の夜の、空さへさえわたりいみじきに、雪の降り積り光りあひたるに、篳篥のわなゝき出でたるは春秋もみな忘れぬかし」といひつゞけて、「いづれにか御心とゞまる」と問ふに、秋の夜に心を寄せて答へ給ふを、さのみ同じさまにはいはじとて、
あさ拷ヤもひとつに霞みつゝおぼろに見ゆる春の夜の月
と答へたれば、返す返すうち誦じて、「さは秋の夜は思し捨てつるななりな、
今宵より後の命のもしもあらばさは春の夜をかたみと思はむ」
といふに、秋に心寄せたる人、
人はみな春に心をよせつめり我のみや見む秋の夜の月
とあるに、いみじう興じ、思ひわづらひたる氣色にて、「唐土などにも、昔より春秋のさだめは、えし侍らざなるを、このかう思し分かせ給ひけむ御心ども、思ふにゆゑ侍らむかし。我が心の靡き、そのをりの哀れとも、をかしとも思ふ事のある時、やがてそのをりの空の景色も、月も花も心に染めらるゝにこそあべかめれ。春秋をしらせ給ひけむことのふしなむ、いみじう承らまほしき。冬の夜の月は、昔よりすさまじきもののためしにひかれて侍りけるに、又いと寒くなどしてことに見られざりしを、齋宮の御裳着の勅使にて下りしに、曉に上らむとて、日ごろ降り積みたる雪に月のいとあかきに、旅の空とさへ思へば心細く覺ゆるに、まかり申しにまゐりたれば、よの所にも似ず、思ひなしさへけ恐しきに、さべき所に召して、圓融院の御世よりまゐりたりける人の、いといみじく~さび、古めいたるけはひの、いと由深く、昔の古事どもいひ出で、うち泣きなどして、よう調べたる琵琶の御琴をさし出でられたりしは、この世の事とも覺えず、夜の明けなむもをしう、京のことも思ひ絶えぬばかり覺え侍りしよりなむ、冬の夜の雪ふれる夜は、思ひしられて、火桶などを抱きても、必ず出でゐてなむ見られ侍る。おまへたちも、必ずさ思すゆゑ侍らむかし。さらば今宵よりは、暗き闇の夜の、時雨うちせむは、又心にしみ侍りなむかし。齋宮の雪の夜に劣るべき心地もせずなむ」などいひて別れにし後は、誰としられじと思ひしを、又の年の八月に、内へ入らせ給ふに、夜もすがら殿上にて御遊びありけるに、この人の侍ひけるも知らず、その夜は下にあかして、細殿のやり戸をおしあけて見出したれば、曉方の月の、あるかなきかにをかしきを見るに、履の聲聞えて、讀經などする人もあり。讀經の人はこのやり戸口に立ちとまりて、物などいふに答へたれば、ふと思ひ出でて、「時雨の夜こそ、かた時忘れず戀しく侍れ」といふに、こと長う答ふべきほどならねば、 何さまで思ひいでけむなほざりの木葉にかけし時雨ばかりを
ともいひやらぬを、人々また來あへば、やがてすべり入りて、その夜さり、まかでにしかば、もろともなりし人たづねて、返ししたりしなども、後にぞ聞く。「ありし時雨のやうならむに、いかで琵琶の音のおぼゆるかぎり彈きて聞かせむとなむある」と聞くに、ゆかしくて、我もさるべきをりを待つに、さらになし。春ごろ、のどやかなる夕つかた、まゐりたなりと聞きて、その夜もろともなりし人とゐざり出づるに、外に人々まゐり、内にも例の人々あれば、出でさいて入りぬ。あの人もさや思ひけむ、しめやかなる夕暮をおしはかりてまゐりたりけるに、さわがしかりければまかづめり。
かしまみて鳴戸の浦にこがれいづる心はえきや磯のあま人
とばかりにてやみにけり。あの人がらも、いとすくよかに、世の常ならぬ人にて、その人はかの人はなども、尋ねとはで過ぎぬ。
今は、昔のよしなし心もくやしかりけりとのみ、思ひしりはて、親のものへゐてまゐりなどせでやみにしも、もどかしく思ひ出でらるれば、今はひとへに、豐かなるいきほひになりて、ふたばの人をも、思ふさまにかしづきおほしたて、わが身も、み倉の山に積み餘るばかりにて、後の世までの事をも思はむと思ひはげみて、霜月の廿よ日、石山にまゐる。雪うち降りつゝ、道のほどさへをかしきに、相坂の關を見るにも、昔越えしも冬ぞかしと思ひ出でらるゝに、そのほどしもいと荒う吹いたり。
相坂の關のせき風吹く聲はむかし聞きしにかはらざりけり
關寺のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり。打出の濱のほどなど、見しにも變らず、暮れかゝるほどに詣で着きて、湯屋におりて御堂にのぼるに、人聲もせず、山風おそろしうおぼえて、おこなひさしてうちまどろみたる夢に、中堂より御香給はりぬ。とくかしこへ告げよといふ人あるに、うち驚きたれば、夢なりけりと思ふに、よきことならむかしと思ひて、おこなひ明かす。又の日も、いみじく雪降り荒れて、宮にかたらひ聞ゆる人の具し給へると、物語して心細さを慰む。三日さぶらひてまかでぬ。
初P (永承元年) 
そのかへる年の十月廿五日大嘗會の御禊とのゝしるに、初瀬の精進はじめて、その日京を出づるに、さるべき人々、「一代に一度の見物にてゐなかせかいの人だに見るものを、月日多かり、その日しも京をふり出でて行かむも、いともの狂ほしく、流れての物語ともなりぬべき事なり」など、はらからなる人は、いひ腹立てど、ちごどもの親なる人は、「いかにも、いかにも、心にこそあらめ」とて、いふにしたがひて、出だし立つる心ばへもあはれなり。共に行く人々も、いといみじく物ゆかしげなるは、いとほしけれど、「物見て何にかはせむ、かゝるをりに詣でむ心さじを、さりともおぼしなむ。かならず佛の御驗を見む」と思ひ立ちて、その曉に京を出づるに、二條の大路をしも、わたりて行くに、先に御あかし持たせ、ともの人々淨衣すがたなるを、そこら、棧敷どもにうつるとて、行きちがふ馬も車も、徒歩人も、「あれはなぞ、あれはなぞ」と、やすからず言ひ驚き、あざみわらひ、あざける者どももあり。
良ョの兵衞督と申しし人の家の前を過ぐれば、それ棧敷へわたり給ふなるべし、門廣うおし開けて、人々立てるが、「あれは物詣人なめりな、月日しもこそ世におほかれ」と笑ふなかに、いかなる心ある人にか、「一時が目をこやして何にかはせむ。いみじくおぼし立ちて、佛の御コかならず見給ふべき人にこそあめれ。よしなしかし。物見で、かうこそ思ひたつべかりけれ」とまめやかにいふ人、ひとりぞある。
道顯證ならぬ先にと、夜深う出でしかば、立ち後れたる人々も待ち、いと恐ろしう深き霧をも少しはるけむとて、法性寺の大門に立ちとまりたるに、田舍より物見に上る者ども、水の流るゝやうにぞ見ゆるや。すべて道もさりあへず、物の心知りげもなき怪しの童べまで、ひき避きて行き過ぐるを、車を驚きあざみたること限りなし。これらを見るに、げにいかに出で立ちし道なりともおぼゆれど、ひたぶるに佛を念じ奉りて、宇治の渡りに行き着きぬ。そこにも、なほしもこなたざまに渡りする者ども立ちこみたれば、舟のかぢ取りたる男ども、舟を待つ人の數もしらぬに心おごりしたる氣色にて、袖をかいまくりて、顔にあてて、さをにおしかゝりて、とみに舟も寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじうすみたるさまなり。無期にえ渡らで、つくづくと見るに、紫の物語に、宇治の宮のむすめどもの事あるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむと、ゆかしく思ひし所ぞかし。げにをかしき所かなと思ひつゝ、からうじて渡りて、殿の御領所の宇治殿を入りて見るにも、浮舟の女君の、かゝる所にやありけむなど、まづ思ひ出でらる。
夜深く出でしかば、人々困じて、やひろうちといふ所にとゞまりて、物食ひなどするほどにしも、供なる者ども、「高名の栗駒山にはあらずや。日も暮れ方になりぬめり。主たち調度とりおはさうぜよや」といふを、いと物恐ろしう聞く。
その山越えはてて、贄野の池のほとりへ行き着きたるほど、日は山の端にかかりにたり。「今は宿とれ」とて、人々あかれて、宿もとむる、所はしたにて、「いとあやしげなる下衆の小家なむある」といふに、「いかゞはせむ」とて、そこに宿りぬ。皆人々京にまかりぬとて、あやしのをのこ二人ぞゐたる。その夜もいも寢ず、このをのこ出で入りし歩くを、奧の方なる女ども、「など、かくし歩かるゝぞ」と問ふなれば、「いなや、心も知らぬ人を宿し奉りて、釜ばしも引き拔かれなば、いかにすべきぞと思ひて、え寢でまはり歩くぞかし」と、寢たると思ひていふ。聞くに、いとむくむくしくをかし。
つとめてそこを立ちて、東大寺に寄りてをがみ奉る。石~も、まことにふりにける事、思ひやられて、むげに荒れはてにけり。その夜、山邊といふ所の寺に宿りて、いと苦しけれど、經少し讀み奉りて、うちやすみたる夢に、いみじくやむごとなく清らなる女のおはするにまゐりたれば、風いみじう吹く。見つけて、うち笑みて、「なにしにおはしつるぞ」と問ひ給へば、「いかでかはまゐらざらむ」と申せば、「そこは内にこそあらむとすれ。博士の命婦をこそよくかたらはめ。」とのたまふと思ひて、うれしくョもしくて、いよいよ念じたてまつりて、初P川河などうち過ぎて、その夜御寺に詣で着きぬ。はらへなどして上る。三日さぶらひて、曉まかでむとてうちねぶりたる夜さり、御堂の方より、「すは、稻荷よりたま賜はるしるしの杉よ」とて物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば夢なりけり。
曉夜深く出でて、えとまらねば、奈良坂のこなたなる家をたづねて宿りぬ。これも、いみじげなる小家なり。「こゝはけしきある所なめり。ゆめ寢ぬな。れう外のことあらむに、あなかしこ、おびえさわがせ給ふな。息もせで臥させ給へ」といふを聞くにも、いといみじうわびしく恐ろしうて、夜をあかすほど、千年を過ぐす心地す。からうじて明けたつほどに、「これは盜人の家なり、あるじの女、けしきある事をしてなむありける」などいふ。
いみじう風の吹く日、宇治の渡りをするに、網代いと近う漕ぎ寄りたり。
おとにのみ聞きわたりこし宇治河の網代の浪も今日ぞかぞふる
修行者めきたれど
二三年、四五年へだてたることを、しだいもなく、書きつゞくれば、やがてつゞきだちたる修行者めきたれど、さにはあらず、年月へだゝれる事なり。
春ごろ鞍馬にこもりたり。山ぎはかすみわたり、のどやかなるに、山の方よりわづかに、ところなど掘りもて來るもをかし。出づる道は花もみな散りはてにければ、何ともなきを、十月ばかりにまうづるに、道のほど、山の景色、このごろはいみじうぞまさる物なりける。山の端、錦をひろげたるやうなり。たぎりて流れゆく水、水晶を散らすやうにわきかへるなど、いづれにもすぐれたり。詣で着きて、僧坊にいきつきたるほど、かきしぐれたる紅葉の、類なくぞ見ゆるや。
奥山の紅葉の錦ほかよりもいかにしぐれて深く染めけむ
とぞ見やらるゝ。
二年ばかりありて、又石山にこもりたれば、よもすがら、あめぞいみじく降る。旅居は雨いとむつかしき物と聞きて、しとみをおしあげて見れば、有明の月の、谷のそこさへくもりなく澄みわたり、雨と聞えつるは、木の根より水の流るゝ音なり。
谷河の流れは雨ときこゆれどほかよりけなる有明の月
又初Pに詣づれば、はじめにこよなく物たのもし。所々にまうけなどして、行きもやらず。山城の國はゝその森などに、紅葉いとをかしき程ほどなり。初P河わたるに、
初P河立ち歸りつゝたづぬれば杉のしるしもこの度や見む
と思ふもいとたのもし。
三日さぶらひて、まかでぬれば、例の奈良坂のこなたに、小家などに、このたびは、いと類ひろければ、え宿るまじうて、野中にかりそめに庵作りてすゑたれば、人はたゞ野にゐて夜をあかす。草の上にむかばきなどをうちしきて、上にむしろをしきて、いとはかなくて夜をあかす。かしらもしとゞに露おく。曉がたの月、いといみじく澄みわたりて、世に知らずをかし。
ゆくへなき旅の空にもおくれぬは都にて見し有明の月
なにごとも心にかなはぬこともなきまゝに、かやうにたち離れたる物詣をしても、道のほどを、をかしとも苦しとも見るに、おのづから心もなぐさめ、さりともたのもしう、さしあたりて歎かしなどおぼゆることどもないまゝに、たゞをさなき人々を、いつしか思ふさまにしたてて見むと思ふに、年月の過ぎ行くを、心もとなく、たのむ人だに、人のやうなるよろこびしてばとのみ思ひわたる心地、たのもしかし。
いにしへ、いみじうかたらひ、夜・晝歌など詠みかはしし人の、ありありても、いと昔のやうにこそあらね、絶えずいひわたるが、越前の守の嫁にて下りしが、かきたえおともせぬに、からうじてたより尋ねてこれより、
絶えざりし思ひも今は絶えにけり越のわたりの雪の深さに
といひたる返り事に、
白山の雪の下なるさゞれ石の中の思ひは消えむものかは
三月の朔日ごろに、西山の奧なる所に行きたる、人めも見えず、のどのどとかすみわたりたるに、あはれに心細く、花ばかり咲き亂れたり。
里とほみあまりおくなる山路には花見にとても人來ざりけり
世の中むつかしうおぼゆるころ、太秦に籠りたるに、宮に語らひ聞ゆる人の御もとより文ある、返り事きこゆるほどに、鐘の音の聞ゆれば、
しげかりしうき世のことも忘られず入りあひの鐘の心ぼそさに
と書きてやりつ。
うらうらとのどかなる宮にて、おなじ心なる人、三人ばかり、ものがたりなどして、まかでて又の日、つれづれなるまゝに、こひしう思ひいでらるれば、二人の中に、
袖ぬるゝ荒磯浪としりながらともにかづきをせしぞ戀しき
ときこえたれば、
荒磯はあされど何のかひなくて潮にぬるゝあまの袖かな
いま一人、
見るめおふる浦にあらずは荒磯の浪間かぞふるあまもあらじを
同じ心に、かやうにいひかはし、世の中のうきもつらきもをかしきも、かたみにいひ語らふ人、筑前にくだりて後、月のいみじうあかきに、かやうなりし夜、宮にまゐりてあひては、つゆまどろまず、ながめあかいしものを、こひしく思ひつゝ寢いりにけり。宮にまゐりあひて、現にありしやうにてありと見て、うちおどろきたれば、夢なりけり。月も山の端近うなりにけり。さめざらましをと、いとゞながめられて、
夢さめてねざめの床の浮くばかり戀ひきとつげよ西へゆく月
和泉
さるべきやうありて、秋ごろ和泉に下るに、淀といふよりして、道のほどのをかしうあはれなること、いひつくすべうもあらず。高濱といふ所にとゞまりたる夜、いと暗きに、夜いたうふけて、舟のかぢのおときこゆ。とふなれば、遊女の夾たるなりけり。人々興じて舟にさしつけさせたり。とほき火の光に、ひとへの袖長やかに、扇さしかくして、歌うたひたる、いとあはれに見ゆ。
又の日、山の端に日のかゝるほど、住吉の浦を過ぐ。空も一つにきりわたれる、松の梢も、海の面も浪のよせくる渚のほども、繪にかきてもおよぶべき方なうおもしろし。
いかにいひ何にたとへて語らまし秋のゆふべの住吉の浦
と見つゝ、綱手ひき過ぐるほど、かへりみのみせられて、あかずおぼゆ。冬になりて上るに、大津といふ浦に、舟に乘りたるに、その夜、雨風、岩も動くばかり降りふゞきて、雷さへなりてとどろくに、浪のたちくるおとなひ、風のふきまどひたるさま、恐しげなること、命かぎりつと思ひまどはる。岡の上に舟をひき上げて夜をあかす。雨はやみたれど、風なほふきて舟出ださず。ゆくへもなき岡のうへに、五六日と過ぐす。からうじて風いさゝかやみたるほど、舟のすだれまき上げて見わたせば、夕汐たゞみちにみち夾るさま、とりもあへず、入江の鶴の、聲をしまぬもをかしく見ゆ。國の人々集まり來て、「その夜この浦を出でさせ給ひて、石津に着かせ給へらましかば、やがてこの御舟名殘りなくなりなまし」などいふ。心細う聞ゆ。
荒るゝ海に風よりさきに舟出して石津の浪と消えなましかば
夫の死 (天喜五年−康平元年)
世の中に、とにかくに心のみつくすに、宮仕へとても、もとは一すぢに仕うまつりつがばや、いかゞあらむ、時々立ちいでば何なるべくもなかめり。年はやゝさだすぎ行くに、若々しきやうなるも、つきなうおぼえならるゝうちに、身の病いとおもくなりて、心にまかせて物詣などせしこともえせずなりたれば、わくらばの立ち出でも絶えて、長らふべき心地もせぬまゝに、をさなき人々を、いかにもいかにもわがあらむ世に見おくこともがなと、臥し起き思ひ歎き、ョむ人の喜びのほどを心もとなく待ち歎かるゝに、秋になりて待ちいでたるやうなれど、思ひしにはあらず、いと本意なくくちをし。親のをりより立ち歸りつゝ見し東路よりは近きやうに聞ゆれば、いかゞはせむにて、ほどもなく、下るべきとども急ぐに、門出は女なる人のあたらしくわたりたる所に、八月十餘日にす。後のことは知らず、そのほどのありさまは、物さわがしきまで人多くいきほひたり。
廿七日にくだるに、をとこなるは添ひて下る。紅の打ちたるに、萩のあを、しをんの織物の指貫着て、太刀はきて、しりに立ちて歩み出づるを、それも織物のにびいろの指貫、狩衣きて、廊のほどにて馬にのりぬ。のゝしりみちて下りぬるのち、こよなうつれづれなれど、いといたうとほきほどならずと聞けば、さきざきのやうに、心細くなどはおぼえであるに、おくりの人々、又の日歸りて、いみじうきらきらしうて下りぬなどいひて、この曉に、いみじく大きなる人魂のたちて、京ざまへなむ來ぬると語れど、供の人などのにこそはと思ふ、ゆゝしきさまに思ひだによらむやは。今はいかでこの若き人々おとなびさせむと思ふよりほかの事なきに、かへる年の四月にのぼりきて、夏秋もすぎぬ。
九月廿五日よりわづらひ出でて、十月五日に、夢のやうに見ないておもふ心地、世の中にまたたぐひある事ともおぼえず。初Pに鏡たてまつりしに、ふしまろび、泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、夾し方もなかりき。今ゆくすゑは、あべいやうもなし。廿三日、はかなく雲煙になす夜、こぞの秋、いみじくしたて、かしづかれて、うちそひて下りしを見やりしを、いとKききぬのうへに、ゆゝしげなるものをきて、車のともに、泣く泣くあゆみ出でてゆくを、見出だして思ひ出づる心地、すべてたとへむ方なきまゝに、やがて夢ぢにまどひてぞ思ふに、その人や見にけむかし。
昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜晝思ひて、おこなひをせましかば、いとかゝる夢の世をば見ずもやあらまし。初Pにて、前のたび、稻荷より賜ふしるしの杉よとて、投げいでられしを、出でしまゝに稻荷に詣でたらましかば、かゝらずやあらまし。年ごろ天照御~を念じ奉れと見ゆる夢は、人の御乳母して内わたりにあり、帝きさきの御かげに、隱るべきさまをのみ夢ときも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。たゞ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ、心に物のかなふ方なうてやみぬる人なれば、功コもつくらずなどしてたゞよふ。
後のョみ
さすがに命は憂きにも絶えず、ながらふめれど、のちの世も、思ふにかなはずぞあらむかしとぞ、うしろめたきに、ョむこと一つぞありける。天喜三年十月十三日の夜の夢に、ゐたる所の屋のつまの庭に、阿彌陀佛たち給へり。さだかには見え給はず、霧ひとへ隔たれるやうに、透きて見え給ふを、せめて絶え間に見たてまつれば、蓮花の座の、土をあがりたる高さ三四尺、佛の御丈六尺ばかりにて、金色に光り輝き給ひて、御手かたつかたをばひろげたるやうに、いま片つかたには、印をつくり給ひたるを、異人の目には見つけ奉らず、我一人見たてまつるに、さすがにいみじく、け恐しければ、簾のもと近く寄りても、え見奉らねば、佛、「さは、この度は歸りて、後迎へに來む」とのたまふ聲、わが耳一つに聞えて、人はえ聞きつけずと見るに、うち驚きたれば、十四日なり。この夢ばかりぞ、後のョみとしける。
甥どもなど、ひと所にて、朝夕見るに、かうあはれに悲しきことののちは、所々になりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎にあたる甥の來たるに、珍しうおぼえて、
月もいででやみに暮れたるをばすてになにとてこよひたづねきつらむ
とぞいはれにける。
ねむごろに語らふ人の、かうで後、おとづれぬに、
いまは世にあらじ物とや思ふらむあはれ泣く泣くなほこそはふれ
十月ばかり、月のいみじうあかきを、泣く泣くながめて、
ひまもなき涙にくもる心にもあかしと見ゆる月の影かな
年月は過ぎかはりゆけど、夢のやうなりしほどを思ひいづれば、心地もまどひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどの事は、またさだかにも覺えず。人々はみなほかに住みあかれて、古里にひとり、いみじう心細く悲しくて、ながめあかしわびて、久しうおとづれぬ人に、
しげりゆくよもぎが露にそぼちつゝ人にとはれぬ音をのみぞ泣く
尼なる人なり。
世の常の宿のよもぎを思ひやれそむきはてたる庭の草むら
定家奥書
常陸の守菅原の孝標
のむすめの日記也。母倫寧朝臣女。傳のとのの母上のめひ也。よはのねざめ、みつのはま松、みづからくゆる、あさくらなどは、この日記の人のつくられたる。 
 
更級日記と地理

 

更級日記の東海道の旅で京都まで何日かかったか
ユリウス暦(当時の西暦)で10月4日に出発し12月18日に帰着しているので75日である。実移動日数は、あちこちで逗留しているので、おそらく60日以下である。更級注釈書などでは旧暦で9月3日出発、12月2日帰着ということで3ヶ月の大旅行ということになっているが、なんぼなんでもそんなにはかかってはいない。2ヶ月の旅でも長いが、悪路、大量の荷駄の上に、毎日ほとんどキャンプなのでテントの設営、食料、水の調達、調理などの時間がかかる。更に日の短い季節で一日の稼動時間も短かかった。これは現代でも登山を考えれば体感的に納得が行く。山では夜明けとともに行動を開始し、移動は2〜3時までに終わるのが原則である。ちなみに、東海道の整備が進み宿場、道路事情がある程度良くなった、鎌倉時代の十六夜(いざよい)日記、阿仏尼の旅行では京都から鎌倉までの日数は14日である。荷物は当座の食糧と身の回りのもの以外ほとんどない状態である。
当時の千葉県の人口、日本の総人口
澤田吾一氏の推計によれば、9,10世紀の人口は下総国120600人、上総国122255人とされる。西暦1000年前後の人口は下総、上総とも3割増しと考えても、各16万人位ではなかろうか。日本の総人口は鬼頭の推計によれば約620万人程度といわれる。現在の人口から想像もできないことだが、当時は地方を旅しても途中で住民の姿を見ることは非常に稀だったにちがいない。現代のように登山をしても人ばかりというのとは大違いである。
上総国の国府(国衙)
現在の所、上総国衙の位置は発掘調査では確定されていない。しかし、現在、市原市役所ガある市原台地(国分寺台)にあったことは間違いない。なぜなら国司の官舎である国司の館(たち)が富士山を見ることができる台地上にあったことが日記から分かるからである。国司の館は当然国衙の近くにある。更級日記中、足柄山の項で「富士の山はこの国なり。わが生いいでし国にては西面に見えし山なり。」とある。
「いまたち」の現在地
今のところ、「いまたち」が地名なのか、新館という意味の施設名なのかそれも分かっていない。しかし、その場所の大体の位置は推定可能である。少なくとも旅の準備をするはずであるから、交通便利なところでなくてはならないし、日記の記述から、海岸近くにあったことは間違い無い。とすれば、市原の国府からの大道と海岸沿いの官道(下総ー安房間)が交わる辺りと考えることができる。そこは現在の飯香岡八幡宮のあるあたりである。この辺りは後世、八幡宿という宿場町ができる程の交通の要衝なので可能性は高い。具体的には当時の飯香岡八幡宮に付属する施設がそれであったというのは想像がすぎるだろうか。ちなみに飯香岡社の創建は境内の案内板によれば「白鳳時代といわれる」とある。八幡宮の重要な神事、放生祭は国司臨席で執り行われたというから、当然国司をもてなす建物もあった筈である。
出発日(10月4日)の雨は台風だった
おそらく季節外れの台風だったであろう。この時期の台風は速度が速く最初は雨もひどくないが通過時に猛烈な雨と風に襲われる。しかしあっという間に通り過ぎ、台風一過となる。
10月5、6日に宿泊した「いけだ」の現在地
現在の千葉市寒川町あたりが池田郷と呼ばれていたのでそれでよいのではないだろうか。但し実際の場所は現在の千葉県庁付近(長洲1丁目?)ではないかと思われる。宿泊した場所の近くには『野中に岡立ちたる所に、ただ木ぞ三つ立てる』というから、そのちょっとした岡というのは現在千葉県立中央図書館があるあたりを思わせるが、どうだろうか?
駅制が機能していた時代(平安時代、延喜年間くらいまで?)、このあたりに河曲(かわわ)駅が置かれていたとする説があるが、これは井上(ゐかみ)駅が市川市国府台下であるという可能性が高くなった現在、距離的関係から同時に信憑性が高くなっている。このような重要な場所には駅制が機能しなくなっても渡しは民間業者によって営まれていたはずである。河曲(かわわ)駅の河曲の意味は河が湾曲しているという意味だが都川も現代の地図を見ると左巻きにぐるっと湾曲している。以下の2項とも関係するがこのような川は大雨の時、堤防が整備されていないと水がショートカットして、あふれた水で付近一帯が冠水し易い。
いけだを出て渡った「深き河」
下総、上総の国境である村田川(正確には川より少し千葉市よりが国境)から次の宿泊地と思われる船橋市海老川の間には現在、都川と花見川がある。現在の花見川は小さくはないが、これは江戸時代に着工され、なんと昭和44年に最終的に完成をみた人口河川で、正式には印旛沼放水路という。もちろん原型となる河川はあったに違いないが小さな川であったろう。となると深き川は都川ということになる。
「くろとの浜」
これまでに出された比定地として木更津の近くの畔戸(くろと)海岸や千葉市幕張の黒砂海岸が提案されているがいずれも同意できない。まづ、畔戸海岸は京に向かう方向とは反対であるから論外である。黒砂海岸は前日の宿泊地池田から近すぎるし、翌日の宿泊地、江戸川河畔のまつざとへは遠すぎる。距離的には岩波文庫「更級日記」西下経一の注にあるように現在の船橋市辺りが妥当である。では具体的にどこかというと、筆者は現在の船橋大神宮下の濱であったと推定する。『くろと』の濱の発音は『くろど』であろう。原典中で作者はくろどの濱の位置を『片つかたはひろ山なるところの、砂子はるばると白きに松原茂りて…』と表現している。つまり、片方はひろやまで、もう一方は白砂青松の海岸ということである。昔から問題の『ひろやま』であるが、これを「ひらやか」の誤記とする説があるが、まづは間違っていないものとして考えなければならない。古語辞典によれば「ひろ」は広いという意味と畏れ多いという意味がある。広い山では一説のように頂上部が平坦で広々としている砂丘のような場所が想像されるが、幕張から船橋にかけての官道(現在の国道14号線)の沿線にはそのような場所は無い。では畏れ多い聖なる山ならどうか。聖なる山を神社と考えれば現在の船橋大神宮(意富比神社)がある。この神様は延喜式にもある式内社であるから、作者が通った時にはもちろんあった。この神社は海岸沿いの海老川河口に近い丘陵の端にあり少し小高くなっている場所にある。この神社の境内には明治時代に木造の洋式灯台(現存)があり海老川河口の港の位置を示していたという。「くろ(壟)」は古語辞典によれば盛り上がったという意味がある。つまり、「くろど」は丘のふもとにある船着場「壟戸」と考えれば無理が無い。現在の船橋大神宮は埋め立てにより、海からかなり離れているが、境内の砂は白砂で貝殻をたくさん含み、当時海岸であったことが理解される。また、海老川から流出する砂で河口部には広々とした『砂子はるばると白き』という景観が生まれる。船橋市史によれば海老川河口はかなり古くから船着場として利用されているという。それはこの辺一帯の海岸が遠浅で船を着けにくいのに海老川の澪筋(みおすじ:水が陸から流れ出すため河道が深くなっている線)のため舟が着け易いためであるとされる。こういう場所であれば、小さな集落があっても不思議ではない。
「まつさと」1
「まつさと」の現在地について、すべての更級日記注釈書で現在の松戸市であるとされている。しかし根拠はなく、単に『まつさと』から『さ』が脱落して松戸になったのだろうと考えられているようである。一方、考古学者の間では『まつさと』=市川(国府台下)説がささやかれている(『古代末期の葛飾郡』崙書房p.202)。確かに実証的に考えれば松戸説にはかなりの無理がある。結論を言えば、『まつさと』は現在の市川市市川地区である。「まつさと」の実際の発音は「まつざと」であろうがそれから想像される土地は松里、つまり松原の中の里、集落である。国道14号を船橋市の方から東京に向かって進むと西船橋辺りから沿道にちらりほらり松の大木があるのに気づく。実はこの辺から、江戸川にぶつかるまで国道14号は市川砂洲という少し高くなった砂洲の上を走っており、この道筋は古代から変わらない。砂洲の上には松原があり、少なくとも戦前まで市川市の中心部は松原の中にあった。つまり景観から見ても市川が松里というにふさわしい。ちなみに市川市のシンボルツリーは黒松である。都市化が進んだ現在でも沿道の神社の境内や住宅の間にはかなりの松が残っている。
但し、現在残る松原の起源は確かなところでは、江戸時代に防風林として砂洲の周辺部に植林したものであるという。それ以前に市川砂洲上に松原が存在したかどうかは定かではない。植生的に自然林として松が生えていても不自然な環境ではないが、いま少しこれについては科学的検証が必要である。
さて松里が松戸市であり得ないわけはいくつも上げられる。
1 前泊地くろどの濱(船橋市本町)から松戸市まで時間的に車や荷駄を引き連れた行列が十分余裕をもって松戸の川岸に着くことは難しい。なぜなら、地図4を見て頂くと一目瞭然だが市川から松戸に向かうには下総国府のある国府台の丘に登り、松戸で下らなければならない。直線距離で約7kmの行程だが、今と違って国府台の坂は狭くてかなりきつかったので、かなりの労力が必要である(現在のなだらかで広いバス通りは明治20年頃、国府台が陸軍の駐屯地となったときに崖を開削して作られたものである)。川を渡るだけのために、そんな余計な移動をするとは考えにくい。市川に渡しが無かったとすれば別だが、そんなことはなかった。
2 更級日記に真間の継橋を渡った形跡が無い。国道14号を上ってきて松戸に向かうには市川から北に向かい下総国府のある国府台という丘に登らなければならない。その手前には真間の手子奈が入水したという伝説のある真間の入り江が奈良時代には既に川になっていたが、これを渡らなければならない。そこには真間の継橋がかかっていた。160年後、源頼朝が上総から下総国府にやってきた時にその橋を渡ったことが、源平闘錚録(平家物語の異本)に記されている(講談社学術文庫)。菅原家の一行がやって来たときも当然、継橋があったであろう。もし更級日記の作者がそれを渡ったのなら、この有名な悲しい真間の手子奈伝説にまつわる真間の継橋のことを書かぬ訳はない。つまり作者は市川まで来て下総国府を通らなかったのである。
3 松戸市から東京方面に向かう当時の道が明らかになっていない。松戸市の江戸川の沿岸部は河川の氾濫による湿地帯が多く昭和に至るまで治水対策に苦労している地域である。このため古代には沿岸部に人の集まる渡し場、もしくは市の立つような場所はでき難かったと思われる。平安時代に松戸から東京方面に向かう車が通れるような道はおそらくなかったと考える。
4 「まつさと」あるいは「まつざと」は短縮形となっても「まつど」にはならず、「まさと」または「まざと」となると思われる。素人考えだがどうだろうか。
5 『太井川の上が瀬』は松戸市を意味しない。太井川(現江戸川)の上流の瀬は起点をどこにするかで変わるので松戸市あたりを指すとは限らない。川幅が狭い場所を渡るために上流に回ったのではないかと考える人も居るようだが、徒歩渡りならいざ知らず、舟で渡る場合に川幅が10mや20m狭くても関係ない。むしろ浅瀬があると舟はそれを避けながら渡るのでかえって渡りにくい。その点、下流の方が水深が深く渡り易い。
ちなみに「まつど」の文献初出は嘉吉元年(1441)松戸市本土寺の過去帳に「マツト」として見られるという。同寺過去帳には以後、松戸、末渡、松渡として現われ「と」は「戸」あるい「渡し」を思わせる。ひょっとしたら松戸の意味は「馬の戸」つまり「馬の渡し場」が語源ではないだろうか?このあたりは奈良時代から馬の放牧場があり、その出荷のための渡しがあった、という想像も可能だろう。
「まつさと」2
「まつさと」考
今井福治郎『房総万葉地理の研究』は房総地域の万葉集の舞台となった地名を多くの文献の読み込みと丹念な実地踏査で比定を試みた労作である。これには万葉集のみならず関連文献に関する記述も多い。その中で「まつさと」についても論考しているが、首をひねりながらも結論は「まつさと」=松戸としている。今井の勤務した和洋女子大学は下総国府のある市川市国府台にあり、市川、松戸を熟知する研究者の論として無視し難たいが、結論を言えば間違いだろう。執筆当時、東京低地を横断する北小岩と隅田を結ぶ古代直線道路の存在が明らかになっていたなら、氏も「まつさと」=市川国府台下説に賛同されたのではないかと思う。以下参考のためその部分を転載する。地元を良く知っておられるだけに、却って困惑されている様子が見て取れる。
房総万葉地理の研究
『ふとゐ川の上流のまつさとに宿ったことが記憶違いでないとしたならば、マツサトは今の松戸であろうとする従来の説に従うべきである。だが、作者の父が寛仁元年(1017)上総の介に任ぜられ、(父は45歳作者は10歳)同4年解任、9月3日に国府を出発し、くろとのはま(この地の所在については、君津郡黒戸説と、稲毛の東南方黒砂説とがあるが、前者として上総の国府との関係からいって不自然であるし、日記に、一日でマツサトに到着したともあるので、今暫く黒砂説による)を経由して松戸に向かったことが記されている。そのころはすでに市川市周辺の海水は後退し、太日川には渡船もあったと思われるのにどうして松戸に向かったのであろう。その一理由として、孝標が下総の国府に寄ったことが考えられる。もし寄ったものとすると、クロトからは近道の、今の千葉街道を経たものと思われるが、或は、浜道を通ったかもしれない。この道は、柏井台地と大野台地とを結ぶ道で、かつての海岸線が、この付近まで浸入していたのでこの称がある。しかし、その道を経て国府に行くには遠道となり、松戸に行くには近道となる。いずれにしても、松戸の西方の隅田川を渡ったのは、今の浅草寺付近と思われるので、その点から考えると、松戸を経由しなければならないことになる。』
乳母がお産をして滞在していた仮屋
作者は兄に連れられて乳母を訪れているので渡し場からすぐ近い場所である。市川の明治13年測量の地図(迅速図)を見ると集落は渡し場の付近と千葉街道(現在の国道14号)沿いにあるだけである。つまり市川砂洲の両側(北、南)は水田であった。南側の水田は江戸時代に開発されたものだから、平安時代には海のある南側は湿地帯で人が住むどころか一面の葦のヶ原であった。この点から平安時代に集落があったとすれば、やはり渡し場と国府台(下総国府のある台地)の間の松原内の比較的狭い地域(現在の市川2〜3丁目)に限定される。
蛇足だが、原文の『いと恋しければ、行かまほしく思ふに、せおとなる人、いだきてゐて行きたり』に関し解釈を加えたい。このまま読めば「兄がだっこして(乳母のところに)連れて行った」ということだが、これはおかしい。更級作者は当時、現代でいえば小学6年生か中学1年生である。一番おてんばな時期の女の子が病気でもないのに、何で兄さんに抱っこされて行くのだろう。もしそうだとすると、乳母が滞在していた場所は渡し場から50m以内くらいに限定される。兄の定義が屈強な坂東武士の息子なら、それも考えられなくもないが、公家の息子がそんなことをするとは思えない。御物本では確かに『いたきて』となっているが、やはり、ここは誤写を考えざるを得ない(定家が人に写させたとき間違えたか?)。松太夫は『いできて、率(ゐ)て行きたり』の誤写と考える。つまり、「兄は父と共に川岸での荷物の運搬を見に行っていたが、その川岸の人群れから出てきて、(私を)連れて行った」と解釈するのが無理がない。
太井川(太日川とも書く、現在の江戸川)での渡河地点
江戸時代の市川渡しの位置である。ここには江戸時代の小岩市川関所があり、明治時代に橋ができるまで渡しがあった。現在そこには市川関所の石碑が立っている。対岸の河原には現在江戸川区の運動公園のグラウンドがある。ここから土手に沿って北に少し行くと隅田へ向かう古代直線道路の起点、北小岩がある。もし渡河地点が北小岩の対岸である現在の国府台下の辺り(里見公園裏)だとすると、どうしても真間川の河口を真間の継橋で渡らなければならない。そのような記述がない以上、市川砂洲が太井川にぶつかって尽きるところが渡し場である。それは江戸時代の市川渡しの場所であり、現在は京成線の鉄橋と国道14号が通る市川橋の中間である。
太日川(江戸川)の上が瀬で渡河したと書いてあることから、舟を使わず渡れる上流の浅瀬を渡ったのではないかという論考もある。確かに多数の駄馬を舟で渡すのは大変だから歩いて渡れる浅瀬があれば便利には違いない。しかし当時の太日川が渡良瀬川本流であることを考えれば、歩いて渡れるような瀬はなかったと考える方が自然である。まして数日前に大雨が降っているのである。増水して流れも速かったに違いない。また馬は水を嫌う動物だということも考慮しなければならない。当時の駄馬は馬高120cm程度の小型馬である。そういう馬が恐れずに渡れる水深はせいぜい50cmくらいではなかろうか。
馬の渡河について話は飛ぶが近代の日中戦争にも多数の馬が海を渡り参戦している。その時の馬の多くは欧米から軍馬として導入された大型馬であるが、この馬にしても中国大陸の多くの川やクリーク(水路)を渡るときには、大きな苦労があったことが従軍記に描かれている。軍馬は水に入ることを前提に訓練されてはいるが、それでも馬は耳に水が入るとパニックになるので深い川では博労役の兵が付いて、馬の耳を押さえ、励ましながら渡るのだという。
以上の事から、平安時代に太日川は徒渡りはできなかったと結論しておきたい。水量の減った現代でも松戸から下流で徒渡りできる場所はない。泳いで渡ることはできようが、もし見つかったら警察に通報されるだろう。
平安時代の太井川(現在の江戸川)の源流河川
現在の栃木県、渡良瀬川、思川水系である。現在の利根川は江戸時代初期から数次に渡る河道付け替え工事により、平安時代には隅田川に注いでいたものを、渡良瀬川の流れと合わせ銚子の方に流れていた常陸川に流しこんで東京低地から追い払ってできたものである。平安時代には東京低地は利根川水系(隅田川)、渡良瀬川水系(太井川―江戸川)の二つの暴れ川に挟まれ、年中水害の被害に見舞われる低湿地帯であった。江戸時代の利根川河道付け替え工事の過程で一時期、利根川の水を太井川(江戸川)に落としていた時期があった。このことから、江戸川を、利根川と呼んだことがある。
北小岩から隅田に向かう古代直線道路
古代の道路というと多くの人は、自然発生的にできた曲がりくねった細い道路を思い浮かべるが、実は律令国家日本は全国に幅12mに及ぶ道路網(駅路)を計画的に作っていた。しかも直線で通せるところは直線道路であり、まさに古代の高速道路であった。古代ローマの道路のように石の舗装こそ、なかったが、この駅路、伝路による道路網でも当時の政治経済の発展に大きな影響を与えたことは疑いない。古代直線道路の存在は以前から断片的には知られていたが、この20年新しい発見が相次ぎ、これらが国家事業として計画的に作られていたことが明らかになってきた。東京低地についても古くは吉田東吾により指摘されていたが、佐々木や谷口によりその存在に関する研究が進められている。この道路は古くは大道(おおみち)と呼ばれていたが、現在でも、あちこち分断されながらも使用されている。
東京都葛飾区立石にある立石は道路標識
立石には古くから立石様という石が信仰の対象となっている。現在は石碑状の石の頭が地面からのぞいているだけだが、江戸時代には地上に出ていたという。どうも、ご利益を期待して掻き取られ、小さくなってしまったらしい。この石が何のためにそこにあるのか、江戸時代には全く分からなくなっていた。古代道路研究の第一人者、木下良はこれを道路標識(後世の一里塚のようなもの)と考えている。このような石は他の地方にもあるらしく今後の研究が待たれる。道路標識とした場合、今の立石様は直線道路コースより少し北にずれている。これは、いつの頃かはわからないが中川の蛇行、浸食で倒壊し、流路が安定した後、安全な場所に埋め直されたことを示すものではないだろうか。
東京低地を流れる中川は平安時代にあったのか
なかった。現在のような河道は江戸時代、享保14年(1729)に代官井沢弥惣兵衛により猿ヶ又以下の細流を掘り広げて開鑿されたものであるという(今井/房総万葉地理の研究)。もちろん平安時代にも原形となる小さな流れか沼沢があったことは容易に想像される。
まつざとの次の宿泊地
古代直線道の隅田川沿岸起点は隅田である。 ここで前日同様、荷物をその日のうちに向こう岸に渡し、家族は隅田に宿泊して翌朝、川を渡り次の竹芝寺に向かったと考えるのが自然である。直線道路が隅田川に突き当たる一帯は微高地になっている(現在の墨田川高校の南側一帯)。ここには水神社(現在隅田川神社と改名、位置も南に移転)という祠が古くからあり洪水時にも水没しない場所であった。こういう場所には水運、交通で繁栄する集落ができる。ちなみに160年後、源頼朝もここを通ったが隅田には宿泊せず、市川から太井川、隅田川両河を一日で渡って武蔵に入っている。この場合には空身の頼朝とその側近の軍勢に焦点が当たっており、荷駄の運搬は後を追う形で進行したからだと考えられる。頼朝の乳母が末子を連れて「隅田の宿」に参陣した(吾妻鏡)というから平安末期には宿場的な施設があったようだが、菅原家一行が通った時にはどうだったろうか。
隅田が古くからの渡し場であったことは『北国紀行』(尭恵法師、文明19年1487年)にも記されているという(今井:房総万葉地理の研究p.287)。『二月の初め鳥越のおきな艤して角田川に泛びぬ。東岸は下総、西岸は武蔵に続けリ。利根(現在の古隅田川)入間(現在の荒川)の二河落合る所に彼の古き渡りあり』。それは後世の「橋場の渡し」と言われるが、それは大正2年まで存続し現在の白鬚橋の位置にあたる。明治13年測量の地形図には「橋場の渡し」が記載されている。当時、隅田川の流路は現代のように同じ幅の滑らかなものではなく、狭いところあり、州あり、島も在った。橋場の渡しは川幅が一番狭く川幅約160mの場所であった。ところで平安時代の隅田の渡しが本当にそこだったかというと、少し上流の現在の台東区南千住の石浜神社と隅田川神社を結ぶ線だったという説もある(現地を知らない人には、100mや200mずれてもどうでもいいことだが、現場を知っていると気になる)。これだと川を直角でなく斜めに渡ることになり渡河距離が伸びる。しかし両岸の集落を結ぶということにを考えれば不自然でもない。両岸の集落はいずれも洪水時にも水が来ない微高地にあるからである。
菅原家一行は東京のどの辺りを通って竹芝寺に向かったか
隅田川を橋場で渡河して川沿いに南下すると浅草寺がある。ここは伝承では推古天皇の時代に創建といわれ、多少割り引いても平安時代にはあった。もちろん現在のような大寺院ではなく、駒形橋のたもとにある駒形堂を小さくしたような草堂であったという。きっと菅原家一行もここでお参りしたことだろう。更に南に進み現在の鳥越神社のあたりにさしかかる。江戸以前このあたりは小高い岡で社はその上にあったという(江戸建設の際、岡は崩されて沼や低地の埋め立てに使われた)。その鳥越神社も平安j時代に白鳥明神として存在したというから、そこでも小休止を兼ねて、お参りしていったかもしれない。そこを過ぎ、日比谷のあたりまで来ると、現代のように直進して新橋方面に向かわず、右折しなければならない。地図4を見ていただくと分かるように、日比谷入江のため海にぶつかり行き止まりだからである。入江を迂回するため入江の岸沿いに最短距離で進んだとも考えられるが、車や荷駄の部隊が通るしっかりした道があったかどうか疑わしい。逆方向になるが、570年経った徳川家康の江戸入城の際には海岸沿いではなく丘陵上の道をたどり、大きく迂回してやって来ている。つまり海岸沿いの道はあったにしても多数の人馬の通行に耐える道ではなかったということである。菅原家一行は、家康とは逆方向に現在の皇居の中を通り赤坂から麻布を経て三田の方に抜けたと考えられる。道のりにすると約16kmで、丘陵を登ったり降りたりで結構大変であるが、十分明るいうちに竹芝寺に着ける範囲である。(この経路は1590年徳川家康が江戸に入城したときたどった経路を参考にした(千代田区史旧版、新版にはない)。
但し、日比谷入江沿いに最短距離で南下したという考えも完全には捨て切れない。原典に『濱も砂子白くなどもなく、こひぢのようにて、むらさき生ふと聞く野も、葦荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生い茂りて、中を分け行くに、竹芝という寺あり』という記述からは、黒い泥のような日比谷入江の濱や、葦などが高く生い茂る野を、かなりの時間かけて通過したような印象を受ける。もし、そうであるなら入江の岸辺に沿って(現在の皇居の石垣の裾あたりか)南下し葦の生い茂る湿地帯(現在の西新橋辺り)を通り三田の近くで丘陵に登り、竹芝寺に至ったことになる。この経路なら3kmほど距離は短縮される。家康の万単位の軍勢と、数十人の一行と同じに考える必要はないかもしれない。
経路の問題はさておき、菅原一行はそれまで、東京湾沿いの海岸を通っていないので、この濱の風景描写は明らかに、今は埋められて存在しない平安時代の日比谷入江の様子であり、おそらくこの日記だけが伝える貴重な記録である。日比谷入江には大きな川が流入していないため水が淀み水生植物の腐植で濱が泥状になっていたことを示している。余談だが、家康は江戸建設の際に日比谷入江を埋めさせた。それは敵の軍船の侵入を防ぐためだとか言われているが、それ以前に、水が淀み、夏は蚊の発生など不衛生な、美しくもないこの入江を視界から消してしまいたかったためではないだろうか。
平安時代、日本橋川は存在したか
なかった。徳川家康が江戸にやってきた時、日本橋川はすでにあった(名前は違っただろうが)。しかし、それは水運のため中世に太田道灌により?掘られた運河だということが地下鉄銀座線建設の際、実施された地質調査の結果分かっている。
竹芝寺は現在の港区三田の済海寺
ほとんどの更級注釈書に竹芝寺は現在の済海寺であると書いてある。しかし、その根拠を示したものは無い。竹芝寺の位置はこれから先のコースに大きく影響するから非常に重要である。済海寺説は隣接する亀塚公園(江戸時代に上野(群馬県)沼田城主土岐家の下屋敷があった場所)内にある亀山碑にその場所が『武蔵国荏原郡竹芝郷に属し、更級日記の竹芝寺は隣の済海寺である』と刻まれていることによるらしい。その碑は1750年に土岐頼煕により立てられているが(公園の案内板には頼興とある?)、その出典、根拠は全く不明である。しかし何か有力な根拠がなければ、金をかけてそんなものを建てたりはしないので何かあったはずだが、土岐家の御子孫はご存知ないだろうか。
まったくの想像に過ぎないが、土岐藩邸の建設時、多数の礎石が出土し、それを使用して藩邸の建物を建てたということがあったのではないだろうか。そうなら遺跡を破壊したことの償いに亀山碑を残したことの説明がつく。台地上の遺跡は後代の再利用の際、表面を平らに削られることが多く、現在、公園を発掘調査しても土岐藩邸以前の遺構はない可能性が高い。懸命に調査されている上総、下総国衙遺構がいまだに見つからないのも、同じ理由だろう。
この公園や済海寺の前の道路は現在、聖坂と呼ばれているが、これは家康江戸入府以前の古奥州街道であったという。とすれば、平安時代にも主要道路として使われていた可能性が大きく、この地の有力者が交通の要衝に居を構えていたとしても不思議はない。従って状況的には、ここに竹芝寺があったとしても無理ではない。今しばらくは通説に従っておくことにする。
武蔵国荏原郡の竹芝郷
なかった。『和名抄』に見える荏原郡の郷名は蒲田(かまた)、田本(たもと)、満田(まんた)、荏原(えばら)、覚志(かくし)、美田(みた)、木田(きだ)、桜田(さくらだ)、駅家(やっか)の九郷である。田のつく郷が多いところから水田の多い豊かな郡であったことが想像される。なお、済海寺のある場所は美田郷である(町名整理前の地名三田台町)。
竹芝寺異説 / 津本信博『更級日記の研究』で埼玉県大宮市氷川神社付近と推定している。駿河に行くのにわざわざ北に向かうことについて首をひねる。
竹芝寺から西富に向かう経路
竹芝寺の次に現れる地名は『にしとみ』である。にしとみ比定候補地は二つある。現在の藤沢市の西富と箱根山中とする説である。にしとみの次にもろこしが原を通るので、一応前者と考えておく。これにも異論があるが、あとで言及する。竹芝寺のある、東京都港区三田から相模、西富(藤沢市)にいたる経路は四つ考えられる。
a. 延喜式に見られる平安時代の古代東海道
b. 中世中原街道
c. 近世(江戸時代)東海道
d. 鎌倉街道下ノ道
距離的には駅を結ぶ古代東海道がもっとも道のりが長い。この時代、東国では駅制はほとんど機能していなかったと考えられるので、何のサービスも期待できないのに、距離が長いそのような経路をたどるとは考えられない。常識的に相模に出るだけなら2の中原街道がもっとも可能性が高い。中原街道が平安中期までさかのぼれるかが問題だが、たぶん可能だろう。この道はかなりしっかりした道らしく、徳川家康の江戸入府の際にもこの道をたどっている。ところが困った問題は相模の入り口、西富の位置がまさに近世の藤沢宿であることである。ここに出てくるには近世東海道をたどらなければならない。近世東海道はもちろん平安時代にさかのぼることは出来ない。多摩川デルタは現代より大きく内陸に入り込んでいたから、しっかりした道はなかった。現在のJR川崎駅はまだ海の中である。したがって当時中原街道を通らず相模国に出るには丸子で渡河し現在の上小田中辺りから南下し、新羽、片倉、帷子(かたびら)を経て、太田であすだの渡しで蒔田(当時のあすだ)に渡り、弘明寺にいたるというコースが考えられる(後の鎌倉街道下ノ道)。これは後で述べる武内説である。このコースでは険しくはないが丘陵を二つ越えなければならない。弘明寺から藤沢も相武国境の丘陵の尾根道(七里堀)を越えなければならない。現代は住宅が立ち並ぶ、たいした丘ではないが、当時の道、車の構造を想像すれば車は使えなかったであろう。輸送は馬と人の背によるほかなかった。
具体的には次のような経路を暫定仮説として提示する。
竹芝ー丸子ー弘明寺ー藤沢(西富)
竹芝ー丸子間は中原街道、丸子ー弘明寺は鎌倉街道下ノ道原道
弘明寺ー西富間は大化改新以前から存在したという郷戸道
竹芝寺の次の宿泊地
常識的には延喜式に見える大井駅であろう。勿論、駅の設備や機能はなかったにしろ駅の出来る場所は、交通の要地であり水場もあったからである。大井駅ははっきりしないが、戸越公園、JR大井駅付近、中原街道が目黒川を越える辺り、などの説がある。しかし、いずれにせよ、大井駅では竹芝寺から一日行程としては近すぎる。もう少し先まで進んだと考えるのが適当である。おそらく石瀬川(現在の多摩川)の丸子の渡しまで進んだのではないだろうか。するとその日は渡河する余裕はないから川岸で宿泊することになる。
石瀬川(多摩川)の渡河点
丸子の渡しとしか考えられない。中世でも品川を通る近世東海道ルートは通れなかったという。また、おそらく平安時代には多摩川デルタが大きく広がり丘陵上の道しか通れなかったと思われる。そうすると中原街道が丘陵を下りた所にある渡し場、「丸子の渡し」が唯一の渡しではなかろうか。太井川(江戸川)、隅田川と同様、丸子の対岸(田園調布、浅間神社辺り?)で宿泊し、翌日船で渡河したと思われる。但し渡し場の正確な位置は確定できない。多摩川は時代により大きく流れを変えており、その都度、渡しの位置は変化しているからである。明治の頃まで多摩川は激しく蛇行し現在のようなストレートな流路ではなかった。ちなみに縄文時代には海が丸子辺りまで湾入していたという。その意味で丸子は地盤のしっかりした、洪水でも水没しない渡し場であると言える。
相模国の『にしとみ』
これまで、藤沢市西富、遊行寺付近とする説と、箱根の西土肥の訛りで箱根山系をさすという説がある。まづ原文を見てみよう。実に名文です。
『にしとみというところの山、絵よく描きたらん屏風を立て並べたらむようなり。片つ方は海、浜の様も寄せ返る浪の景色も、いみじうおもしろし。唐(もろこし)が原といふ所も、砂子いみじう白きを二、三日ゆく。夏は、やまと撫子の濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる、これは秋の末なれば見えぬ、というに、なお所々はうちこぼれつつ、あわれげに咲きわたれり。もろこしが原に、やまと撫子も咲きけむこそ、など、人々をかしがる』
箱根の山中であれば、唐が原の位置がおかしいし、浜も見えない。また当時は足柄越えの時代であり、箱根に行く理由もないということで、少なくとも箱根説はありえない。では、藤沢の遊行寺付近の西富は問題ないか?実は西富という地名は明治7年(1874)に西村を西富に改称したものであるという青木家文書が存在する(明治7年御用留)らしい(藤沢市教育委員会「神奈川の古代道」(1997)p.57、p.114)。西富が明治以後の名称ならこれも話にならない。しかし、問題はなぜ明治になって西村を西富に改称したかである。元々西富という村名であったのを、何かの憚りがあって江戸時代、西村と称していたのではないだろうか。維新後、それを元に戻したということは考えられないだろうか?。
※推測 / やはり西富はこの地域の古名であったと思う。それが徳川家康が天下を取って東海道が整備されると、西富という地名はあたかも「西(大坂=豊臣)が富む」といっているようで幕府に対し、憚りがあり西村に改称したのではないだろうか。
実際に遊行寺の境内から海の方、山の方を眺めて見ると、まず、左側は藤沢市街のビル、鉄道etcの建造物のため海は見えない。山も木に邪魔されたり、もやにかすんではっきり見えない(夏に行ったせいか)。このことから仮に更級作者一行が西富に来たとしても、屏風のような山を見たのは現在の遊行寺のある辺り(現在の藤澤市西富)ではないと思われる。屏風のような山は江戸時代の歌川広重の東海道五十三次、藤澤宿に描かれているが、少なくともそのような見え方をする場所はもっと海岸よりである。
藤沢説は浜を歩いた日数からも補強される。西富から海岸を二、三日歩いたというのであるが、仮に中原街道や、延喜式東海道をたどってくると、内陸を通って現在の平塚市に出ると、海岸沿いの道は国府津(こうづ)まで歩いても、せいぜい二日である。藤沢に出たからこそ三日かかる。小総駅(現在の国府津)まで浜に沿って歩きそこから北上して関本に向かう。以上のことから、菅原家一行は近世東海道に近い道筋(厳密には少し南の横浜市弘明寺を経由する鎌倉街道下ノ道)をたどって相模に入ったと推測される。なお、西富の位置は遊行寺近くではあろうが、もう少し広い地域である可能性がある。
隅田川は『あすだ川』と呼ばれた
更級日記に「あすだ川」は伊勢物語にある「隅田川」のことであると書いてあるが、それは妥当であろうか?更級注釈書の中にも「あすだ川」を隅田川の別名としたものがあるが、根拠は明確でない。東京都の隅田川は平安初期の太政官符から現在まで一貫して音では「すみだがわ」と呼ばれている。
もちろん隅田川の名前は地域、時代により、いろいろで古くは「宮古川」「住田河」字も「澄」「墨」「角」などが当てられていた。江戸時代には吾妻橋から下流は時代劇でおなじみの「大川」、浅草近辺は「浅草川」、「隅田川」などと呼ばれていた。
鎌倉時代中期に書かれた『とはずがたり』には主人公の二条が実際に隅田川を訪れ、それが地元の人には「須田川」と呼ばれていることを伝えている。これに接頭語「あ」がつけば「あすだがわ」となる。これが「隅田川」=「あすだ川」説の根拠と思われるが、「すだがわ」ならともかく現地の人が「あすだ川」と呼んでいた証拠にはならない。また鎌倉時代から二百年も前に同じように須田川と呼ばれていた証拠もない。
話は飛ぶが伊勢物語の主人公、在原業平は本当に関東に下向したのかという問題があった。以前は完全な虚構であるという説が有力であったらしいが、現在は元になる事実はあったとする説が有力である。それについては角田文衛博士が詳細に考証されているので(東京堂出版:王朝の映像p.208『業平の東下り』)省くが、そこに登場する「すみだ河」が現在の東京都の隅田川であることは疑いを入れない。
ところで、更級日記に、『野山、芦荻の中を分くるよりほかのことなくて、武藏と相摸との中にゐてあすだ河といふ。在五中将の「いざこと問はむ」とよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば、相摸の國になりぬ。』と注釈めいた言葉があるのは何故だろう?わざわざ、「あすだ河」は「隅田川」のことだと注釈を入れているのは、当時でもそれが都人の間で常識でなかったからだろう。この注釈に関して、後世、書写の段階で挿入されたとする説もあるが、それはない。定家書写になる御物本にも挿入でなく一連の文として何の乱れもなく書かれているからである。もし挿入があったとしたら、犯人は定家の前に書写した人に限られるが、平安末期、鎌倉初頭の人はまだ研究者ではなく一読者であり、そんなことをすることは考えられはない。定家自身の注釈は朱で書き込まれているので、定家でないことは明らか。つまり、この件に関しては更級作者自身がそう書いたと判断される。
おそらく更級作者は自分で書いた当時のメモに、「あすだ川」という地名を見ても記憶がはっきりせず、当時流布していた歌枕に登場する「業平の隅田川」だと錯覚してしまったのだろう。この経緯から「あすだ河」は相武国境付近の別の川に求める以外にない。『あすだ川』と『隅田川』は全く別な川であるというのが本項の結論である。
※「すみだ」川は容易に「すだ」川に転訛する。「すみだ」→「すむだ」→「すんだ」→「すだ」。現在、東京都千代田区に神田須田町がある。それは当時の名残であろう。でも、すだ川に「あ」が着いて「あすだ」川にはならないと思う。
菅原家一行は弘明寺(ぐみょうじ)を通る
『更級日記』には何も記されていないが、現実の物資輸送を考えると、ここを通過することは重要なポイントである。まづ、位置的に横浜市弘明寺は藤沢市、西富に抜ける三浦半島の首根っこにある。もうひとつは輸送効率である。水上輸送と陸上輸送(馬車)の効率は江戸時代でも約80倍の差がある。舟一艘で8百俵運べるところ馬車一台では10俵が限度である。まして、車の構造も未熟で道路の整備されていない平安時代にはこの差はもっと大きくなる。米を初めとする重量物は本来海上輸送が望ましいが、当時太平洋航路が使えるようになっていた証拠はない(鎌倉時代には使えた)。ならば東京湾内ならどうかというとこれは可能であった。市原から対岸の横浜なら当時でも一日の行程である。現在の横浜市繁華街の地形からは想像もできないことだが、当時の大岡川の下流域は深く袋状に湾入していて弘明寺のすぐ下まで舟が入れた可能性がある。(平安時代の地形は明らかでないが、江戸時代初頭までは洲干湊と呼ばれていた。)こういう状況で舟運を利用しないことは到底考えられない。米、海産物など重いものは弘明寺に直接送り、人や貴重品、軽貨は陸送して、ここで合流し相模に向かったと考えるのが合理的である。ついでに三浦半島を回れば相模まで舟で物資輸送できるようにも思えるが、それは現代人の感覚で、当時の舟は構造が原始的で、小型船しかなく、それは考えられないことであった。距離的には近くても冬季、太平洋の荒波にもまれ無事相模に着けるという保証はなかった。
「あすだ川」は現在の大岡川
たぶん違う。横浜市の大岡川であるという説は武内廣吉氏の提唱された貴重な仮説であるが、氏の提案されている武蔵から相模に抜ける経路(弘明寺から相武国境の尾根に上がり小菅ヶ谷を経て鼬川に下る)を受けいれると、矛盾が生じる。大岡川であれば弘明寺に向かうために川、或いは入り江を渡る必要がない。渡ると、もう一度渡り戻って弘明寺側に来なければ、尾根道に上がって相模に向かうことが出来ない。要するに、この場所は舟を使う必要がないところである。現在の横浜市、蒔田の語源が「あすだ」であったことを否定するものではないが、少なくとも更級作者一行が『あすだ川を舟で渡ったら相模になった…』という記述にある「あすだ川」ではない。
「あすだ川」は現在の藤沢市の「境川」である。
「武蔵と相模の中にゐてあすだ川といふ」。つまり武蔵と相模の国境はあすだ川であると言っている。当時の相武国境は実際には横浜市と鎌倉市の中間に位置する丘陵の尾根であった。とはいっても、そこは、一面に大人の背丈を越える程に草の生い茂る野山であった。そういうところを越えてきたら、どこが国境か分かる筈もない。実際に相模に入ったと実感できたのは、川を舟で渡ってからであろう。その意味で実感上は境川が国境の川である。その渡し場はおそらく、鎌倉時代に石上の渡しと呼ばれる微高地であったであろう。そこで一息入れながら今やってきた方角やら周囲を見渡して、西富の現在遊行寺の建つ屏風のような丘や寄せ返る、片瀬海岸の波を見て感動したというわけである。
但し、以上は境川が当時「あすだ川」と呼ばれていた証明にはならない。次項「作者は太日川から国境を数え間違えた」でその理由を述べる。
作者は太日川から国境を数え間違えた / 更級日記の帰京の旅では多くの国境を越えている。上総と下総、下総と武蔵、武蔵と相模という具合である。最初の国境である村田川は地元でもあり間違っていないが、次の下総と武蔵の国境を太日川であると誤解し、そこから混乱が起こった。実際の隅田川を渡ったときはそこが国境だとは思わず通り過ぎ、数十年後に記憶をたどったとき、都人の共通教養である伊勢物語に登場する隅田川に当たる川がなく、首をひねった挙句「在五中将の隅田川は相武国境で渡った、あすだ川だったんだ」と自分を納得させたのである。
下総と武蔵の国境は周知のように、隅田川であり、江戸時代、寛永年間、三代将軍家光のとき、現在の江戸川(昔の太日川)に変更され現代に至っている。しかし更級作者が下総、武蔵国境を現在の江戸川(当時の太日川)であると誤解したのも無理はないのである。昔の国境は日本国内に限らず、多くは自然国境、つまり川や海、高い山で形成され、それを越えるとガラっと景観が変わった。当時の太日川は現在の利根川の水を流す流路であり、東国一の大河であった。そして緑で覆われた丘陵からなる下総の景観が太日川を渡ったとたん一面の葦野ヶ原に変わり荒涼とした景観に変わる。まさに太日川を国境と考えて何の無理もなかった。それは現代でも同じで、松太夫の個人的経験でも同感である。1972年、初めて千葉県にやってきたとき、JR総武線の窓から江戸川の鉄橋を越えたところで、自然に千葉県に入ったことを実感した。びっしりと低層住宅が立ち並ぶ墨田区、江東区、江戸川区の0m地帯を過ぎ、江戸川に差し掛かると、緑に輝く下総丘陵が長く広がる千葉県があった。では、どうして昔の人は江戸川(太日川)を総武国境としなかったのか?
それは、同じような景観の変化は武蔵から隅田川を越え東京低地に入ったときにも起こるからである。要するに平安時代以前、東京低地の大部分は湿地の多い不毛の地で、一応隅田川が国境であったが、このデルタ地帯全体が太い国境線を形成していたのである。
隅田川を国境と意識することなく通り過ぎたら次の大きな川は石瀬河(多摩川)である。この河は現在の東京、神奈川の県境であるが、当時は、この流域は荏原郡として一体の地域であり河の両岸の景観は似たようなもので、おそらく10月過ぎには徒渡りできる場所もあっただろう。そんなわけでこの川は記憶に残らなかった。
次の相武国境は時代によりかなり変動があったようである。更級一行が通ったときは、低い丘陵の尾根が国境であった。ところが当時の山は一面の草木に覆われ、もちろん標識などもなく、そこを歩いても、どこで国境を越えたなど考える余裕もなかった。実際には丘陵を降り、ススキや葦の生い茂る野原を踏分け、やっと開けた海岸に出て相模に着いたと実感できたのである。そこで渡った川は文字通り境川(国境の川)であった。境川という名はいつ頃始まったのだろうか?更級作者が言うように「あすだ川」と呼ばれたことがあったのだろうか?作者がそれを当時のメモに基づいて書いたとしたら、これは重要な同時代証言である。しかしメモが、それこそ弘明寺で見た大岡川のことに関するものをごっちゃにしていたとしたら、間違った結論になる。このあたりは、何とも断言できかねる。
平安時代における武蔵野台地の景観
更級日記には『蘆萩のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生い茂りて、中を分け行くに』というように木が生えぬ、一面、草ぼうぼうの野原であった。また鎌倉時代の『問わず語り』にも『野の中をはるばると分け行くに、萩・女郎花(をみなへし)・萩(をぎ)・薄(すすき)よりほかは、またまじる物もなく、これが高さは馬にのりたる男の見えぬ程なれば、推し量るべし。三日にや分け行けども、尽きもせず。』つまり二百年経っても、景観の変化は見られない。実はこの景観は戦国時代が終わるまで続き、江戸時代になってはじめて、森や林のある豊かな耕地に変貌したといわれる。その原因は、この台地の表層は関東ローム層といわれる火山灰起源の土であることにある。色は茶色で粘土のように見えるが、実に水はけがよい。このような土地では雨が降っても、すぐ地下に吸い込まれ、せいぜい草しか生きることが出来ない。ではこの地方ではどういう場所に集落が出来たかというと、台地の周囲や、谷の部分である。そこには台地に降った雨が地下水となっていたものが、泉となって湧き出している。そこでは水田が開かれ、規模は小さくても意外と収穫の良い美田となっていた。しかし関東地方のかなりの面積は原野のまま放置され、開発されることがなかった。
江戸時代になり巨大な消費都市、江戸が出現し野菜を始め食料生産の要求が強まると、この台地を畑作の耕地とするべく、灌漑水路の整備が行われ、また肥料として人糞(下肥)が江戸から持ち込まれ富栄養化が図られた。作物が作られるようになると、その残滓は土にすき込まれ土中の腐植となる。腐植は土中微生物の住処となり、隙間に水を含むことで、土の保水性が増し、木本が育つようになる。そして森や林が形成される。そこには鳥が住むようになり、地域一帯は、その糞で更に富栄養化される。以上のような好循環で二百年をかけて豊かな農地に変わったのである。戦後はその先祖の苦労を台無しにするような乱開発が行われ、いずれ元の原野に戻ってしまうことが予想される。武蔵野台地は歴史が教えるように、人為が入らねば、耕地とはなりえない脆弱な土地である。
相模・武蔵国境はどこか
相模・武蔵国境について「神奈川の古代道」に下記の記述がある。
「南部が戸塚丘陵を相模・武蔵国境とする点は不確定要素が強いものの特に異見はない。問題は北部が境川を国境としている点である。近時では河野喜映「多摩丘陵南側の武蔵と相模の国界について」(多摩考古26、1996)が詳論するように中世には、境川でなく多摩丘陵が国境となっていたが古代まで遡るかは断定されない。復元図では河野論文に従い、多摩丘陵部を国境別案としてグレーの線で示した。おおよそ現在の東京都町田市、同八王子市境である。
尚、河野論文では多摩丘陵を通る国境が町田市常盤町あたりで丘陵線より下り町田街道上に移るとしているが復元図ではこの部分は従来からの理解である境川に一本化してある。今後の検討に委ねたい。」
屏風を立て並べたような山を見た
屏風のような山とは現在、遊行寺が建つ台地の末端であるという説がある。そして江戸時代、歌川広重もこの遊行寺の丘を『東海道五十三次』の藤澤で描いている。その立地点は砂山観音のある砂丘、と見られる。では更級作者も同じ場所から見たのか?その手がかりは『かたつ方は海、濱のさまも、寄せかえる浪の景色もいみじうおもしろし』という記述にある。彼女は屏風のような山と海岸の両方見える地点にいたのである。では砂山観音の位置はその条件を満たすだろうか?そのためには、海がすぐそばまで湾入していなければならないが、古藤澤湾は平安時代には既に土砂で埋まり海岸線はほぼ現代と同じになっていた(ふじさわの大地、2002年、藤沢市刊行)。砂山観音の位置では海岸線まで約3kmある。そこでは浪の様子までは見えないので、もっと海岸よりでなくてはならない。見晴らすためにはある程度高い場所(砂丘による微高地)であったと想像されるが、そういう場所は洪水時にも水が来ないので渡しの船着場となる。鎌倉時代の渡し場は海岸から約2Km弱の「石上の渡し」であるが、まさにその場所が屏風の山と海が両方見える場所である。現在の地名で言えば藤澤市鵠沼石上2丁目辺り、丁度江ノ電の線路が走っている砂丘上ではなかろうか。「石上の渡し」は境川と柏尾川が合流した下流にあり、川幅が広いため、舟で渡った。これが現在の藤澤橋あたりの境川であれば、必ずしも舟でわたる必要はなかった。このことから菅原孝標一行の藤澤(西富)への経路もおのずと明らかになる。近世東海道のように遊行寺のある台地を下ってきたのではなく、現在の大船方面からやってきたので、舟で川を渡らなくてはならなかった。
もろこしが原は現在の平塚市唐ケ原
現在の平塚市唐ケ原で良いと思うが異論もある。『東海道名所図会』には、『唐ケ原は又諸越ヶ原とも書す。片瀬河の東をいふ、東海道筋大磯と平塚のあいだを唐ケ原といふは謬なり』との記述があるそうである。しかし、西富の場合と同じく時代が下ると呼ばれる地域が狭く限定されてくる為ではなかろうか。
相模国府
おそらく相模国府は当時の余綾(ゆるぎ)郡大磯、現在の神奈川県中郡大磯町国府本郷付近にあった。したがって東海道沿線であり一行は当然、ここを通り、数日、休息を兼ね商売のため逗留した可能性がある。ただ、実際、相模国府の場合、後述するように市などが立つのは小総駅(現在の国府津)であったかもしれないので、その場合は休憩、挨拶程度で通過したかもしれない。現在の所、相模国府については確定されていない。
 
平安時代の富士山噴火と相模国府の変遷考

 

1 相模国府の場所
相模国府のあった場所については、いくつかの候補地があり、しかも移転が行われたといわれてきた。この問題について、平成18年に地元、平塚市で『相模国府を探る』という題でシンポジウムが開かれ、それまでの考古学調査の結果と歴史学的研究をつき合わせ、相模国府の所在を探る討論が行われ問題の整理がなされた。
上記議事録(文献1)に従うと従来、次の3つの説があった。
1 三遷説A:高座郡(海老名、国分寺付近)から大住郡、更に余綾郡に移転
2 三遷説B:小田原千代廃寺付近から大住郡、更に余綾郡大磯
3 二遷説:最初、大住郡(現在の平塚市四之宮周辺)、時期は分からないが1158年以前に余綾郡(大磯町国府本郷付近)に移転
三説のうち12は国分寺は国府と一緒に設けられるという仮定に立った説である。ところが、平塚砂丘上から発掘された遺構(国府である可能性が極めて高い)周辺には国分寺に比定される寺がなく、このことから、国分寺は必ずしも国府と一緒に建立されるわけではないことが示唆された。このことから、国府に関する文献記録がない海老名国分寺や千代廃寺付近は国府所在地である必然性が失われ、他方、大住郡、余綾郡については国府についての文献記載があるため、この二箇所については動かない。更に平塚砂丘上の遺構は8世紀前半から後半にかけてのものであるため、奈良時代に建設された最初の国府である可能性が高いとされた。このことから国府移転については、現在、3の二遷説の可能性が高まった。
2 相模国府が移転しなければならなかった理由
では、国府が大住郡から余綾郡大磯に、一体どういう理由で移転したのであろうか?国府の移転は例がないことではないが、めったにあるものではない。(筑後国府は移転している。)移転する理由としては、自然災害、交通の流れの変化や長期の戦乱による避難などが考えられる。戦乱については奈良時代、平安時代を通じて、この地方で将門の乱以上の戦乱はなかった。比較的短期に片付いたため将門の乱では下総、上総、常陸の国府が移転することはなく、もちろん相模についても移転の必要はなかった。一方、交通事情の変化は考えられなくもない。何らかの理由で交通網、特に官道が変更になれば官道から遠く離れた場所では不便なので、場合によっては移転が考えられる。しかし、相模国の場合、確かに移転後の大磯国府は東海道沿いであるが、最初の大住国府(平塚市、四之宮付近)でも、官道からそう遠く隔たってはいないので交通事情の変化によるとは考えられない。残る要因としては自然災害が考えられる。もしこれだとすると、相当大きな規模の災害であったと考えなくてはならない。本項では相模国府移転は大規模な富士山噴火により引き起こされた長期の災害にかかわる復興事業のために止むに止まれず、行われたと考える。
江戸時代の宝永4年(1707)に富士山が噴火したことは良く知られている(文献3)。江戸時代の噴火はたったこの一回だけであるが、その被害は大きかった。ところが平安時代には富士山は活発に活動し、記録に残るものや地質調査で明らかになった活動だけでもかなりの数に上る。
・781(天応元年)北鑵子山付近熔岩流(南麓)
・800(延暦19年)山頂から青沢溶岩流(南西麓)
・801(延暦20年)二ツ塚噴火(東麓)
・802(延暦21年)富士山(場所?)噴火、東海道足柄路閉鎖、翌年再開
・818(弘仁9年)関東に大地震
・861(貞観6年)長尾山大噴火、青木ヶ原溶岩流(北麓)この時は火山灰少なし
・878(元慶2年)関東に大地震、国分寺に被害
・880(元慶4年)関東に大地震
・937(承平7)焼山溶岩流(東北麓)
・939(天慶2年)相模、武蔵に大地震
・999(長保元年)大淵丸雄溶岩流(南麓)
・1032(長元5年)焼野溶岩流(西麓)
・1083(永保3年)山頂から剣丸尾溶岩流(北麓)
分かっているだけでも、平安時代が始まって300年間、富士山周辺の国々は火山活動の脅威の下にあった(文献2)。溶岩流が流出したとき、どの程度の規模で火山灰、砂礫など降下火砕物の噴出が行われたかは明らかでないが、規模の差こそあれかなりの噴出が見られたはずである。その際、相模国は富士山東方にあり、偏西風より運ばれた火山灰により甚大な被害を受けた可能性がある(文献4)。被害図参照。それは江戸時代、宝永4年の、わずか16日間の噴火で100年にも及ぶ復興事業が必要であったことを思えば容易に想像できる。相模国最大の穀倉地帯である足柄平野は火山性降砂による直接の被害ばかりでなく、河川に堆積した砂により引き起こされる洪水で火山活動が収まった後も、繰り返し長期間被害を受けた可能性がある。このような状況下では江戸時代とは比べようもなかった、平安時代の治水能力をもってしては、ほとんど自然の猛威の前になす術もなかったであろう。それでも当時の日本人は空しい努力となることも覚悟のうえで、少しづつ田地を回復しようとしたのではないか。国府の余綾郡移転は、この自然災害復興に関係していたと考える。 
さて、上の推論を進めると、国府の西方移転は災害復旧の前線基地(今風に言えば災害対策本部)の設置に関係があると思わざるを得ない。仮に災害のために国府移転したとすれば、それ程に被害が大きく失われた富が大きかったことを意味する。このような場合、災害対策本部がどのような場所に置かれるかというと、陣頭指揮が出来るように出来るだけ被災地に近く、そこが直接被害を受けにくく、且つ物資の補給のための交通便利な場所となろう。足柄平野でそのような場所は延喜式に見られる小総駅(現在の小田原市国府津)である。そこは酒匂川デルタの東端にあり、丘陵の裾で標高があり洪水時にも冠水する心配がない。しかも東海道の沿道で水陸交通の要衝である。現代ならここに対策本部が置かれるはずである。また、駅と国府が同地に置かれる例は少なくない。しかし、小総駅(国府津)には後背地がほとんどないという欠点があった。駅家程度であれば問題なくても国府となれば相模国全体の物資の出入り、集積があるのでかなりの面積が必要である。西方の足柄平野を使いたいところだが、何しろそこが、毎年、集中豪雨や台風の度に痛めつけられている被災地であるから、話にならない。このようなことから国府津(こうず)より多少東方6.8kmの現在の大磯町国府本郷付近に国府を置かざるを得なかったと推測される。大磯であればかなり大きな田地を背後に抱えているので、工事にかかる人夫の食糧、賃金にしても国府周辺で迅速に調達できる。災害復興の中で小総駅は単なる駅家というより、主として舟運による物資の供給を担う、いわば国府の前線基地としての機能に変化していったように思う。名称もそのために国府津と変化したのではないだろうか(※国府津という地名の初出については検討を要する)。大磯国府の遺構はまだ発見されていないが、おそらく、国府本郷にある六所神社の周辺に違いないだろう。そこなら相模国東部への交通にも便がよく、葛川河口を利用して舟運もある程度利用できる。
3 足柄平野復興の重要性
江戸時代、宝永の噴火による足柄平野の被害は甚大であった。この地域の石高は約5万石で小田原藩のまさに米蔵であったから藩の死活問題となった。平安時代にはこの収量の一桁下かもしれないが、それでも噴火前には相模川流域をしのぐ穀倉地帯であったに違いない。したがって国府を移転してでもこの地域を復旧させる動機は十分にあった。災害さえなければ、平坦、広大で潤沢な水源に恵まれた豊かな土地である。普通の支配者ならこれほどの富の源泉を放棄するなど到底できなかっただろう。むろん江戸時代のように平野全域の復興開発は望むべくもなかったが、洪水の影響を受けにくい酒匂川本流から隔たった下流、デルタの辺縁地域など場所を選べば、ある程度の対策を施して継続的営農が可能だったはずである。この地域を失えば、相模国は大国としての生産力を保てず大きな国家的損失ともなったから朝廷も直接の援助でなくとも租税の減免という形での支援は行なった可能性がある。
4 国府移転の時期
下限については文献(1)p.50に示されているように、保元3年(1158)である。官宣旨に『旧国府別宮』という記載があるという。旧国府別宮が現在の平塚八幡宮であれば、その時点で平塚の国府が旧国府であることが明らか。少なくともそれ以前に移転している。上限については分からない。9世紀から11世紀までの広い幅がある。しかし噴火災害は781年から起っているわけだから、国府移転は活動の盛んな9〜10世紀の間にあったと想像しておくのが穏当だろう。
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。